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「青木氏の伝統 5」-「毘沙門天の影響 1」


[No.322] Re:「青木氏の伝統 5」-「毘沙門天の影響 1」
投稿者:福管理人 投稿日:2014/08/29(Fri) 15:14:16


前回の末尾

>事ほど左様に、他の四節句も、”休ませる事”に重点が置かれ、「人日の節句」の通りに考え方が、上巳、端午、七夕、重陽にしても、全てこの”休ませる事”の解釈であった。(別記)

>”何故、この様に成ったか”と云う論調には、上記の「稲荷信仰体」と同じく、次ぎの「庶民信仰体」の影響が左右されていたのである。


伝統-5


「毘沙門天の影響」
この「庶民の五節句」の「祝日祭りの影響」は、江戸期からの”民衆化した「3つの毘沙門天の神格化」(「戎神」「勝負神」「無病息災神」)”に大きく影響された事もあったと観られる。(下記)

何故、この特定階級の中でも、「上級階層の密教」そのものの「毘沙門信仰」が浸透したかと云う疑問がある。

それは、江戸期250年の間に、何と全国的に起こる「気候変動の大飢饉」が8回も起こっているのである。30年に1回である。
地方の小さい飢饉にすると数えられない位で、「小さい飢饉」は殆どが「河川反乱」であった。
この為に「土木事業」が盛んであった。
「薩摩藩」や「紀州藩」は、その「最先端の技術」を持っていて、幕府に請われて他藩に主張して「河川改修」を命を掛けて盛んに行った記録がある。

江戸期の庶民は、これは「日本古来の和魂と荒魂」の考え方が蘇り、「荒魂の悪神の悪神」が暴れていて、これを鎮める「毘沙門天」や「荒神」が働かず、「庶民の無信心」で勝手気儘に暴れているのだと考えたのである。

それまでは、当に、「密教範囲の信仰体」であったのに、民衆は藁をも掴む思いで、この信仰体に再び飛びついた。
「古来の荒神信仰」が「武士」の間で信仰されていた事を知ったのである。
其れが元は「庶民信仰の地荒神信仰」(道祖神や産土神)であった事を知ったのである。

そこで「神社仏閣」は、いち早く、民衆を呼び止める為に、「毘沙門天像」や「不動明王」や「荒神像」を祭祀した。

ところが、毘沙門天像と不動王像の神格に対して、新たに「戎神」「勝負神」「無病息災神」を求めたが、「武神」「守護神」「財神」の「3神格」は求めなかったのである。

その代わりに、「地荒神」を発展させて「万能神の様」にしてまったのである。
この「地荒神」と「毘沙門天の神格」の「無病息災」等に”願いを込める休む日”とする節句をつくりだしたのである。

この様な経緯から、「節会」が「節句」に変わった事も、庶民の「毘沙門天の神格」が「戎」「勝」「無」の「現世の生活観」に特化した為に、「会」に持つ”彼世の仏の意味”が消え失せて、「句」の”現世の人の息遣いの意味”に変化したものである事が判る。
庶民の中では、最早、”「武」「守」「財」の3神格”は影形も全くなく成ったのである。
(武士階級の中で護られた)
ところが、その後に、「本来の3神格」を維持して来た「伊勢青木氏」にも、これを維持することが難しくなった時期が発生したのである。
室町期末期に戦乱と大火で、「菩提寺」が消失して、「本来の密教作法」に依る祭祀が充分に行えなく成った。
そこで、「大日如来坐像」も居宅に安置されて「毘沙門天像」と共に祭祀を何とか維持していたにも関わらず、今度も「明治の大火」に依って「毘沙門天像」そのものの偶像を消失しまった。
完全な意気消沈状態であった事か伝わっている。
暫くは、祭祀そのものが危ぶまれた時期があったとされる。

当然に、この時期から、青木氏には、「本来の目的」(「武神」「守護神」「財福神」)の概念が低下して行ったと観られる。
大正期に入り何とか祭祀は盛り返されたが、この時、「護り本尊」の「毘沙門天像」の代わりに「節句」に使っていた「義経ー弁慶像」を使う事で「密教作法」は何とか遺されたのである。

従って、「青木氏」のこの「義経ー弁慶像」(二代目)は、江戸期の庶民が用いた偶像の「義経ー弁慶像」では無かったのである。
「毘沙門天像の身代わり像」であった事に成る。
”消失による概念の低下”を防ぐ目的の為に、むしろ「庶民文化の偶像」を上手く利用した事に成る。
奈良の発祥期から観ると、「伊勢青木氏」には、「氏存続」に関わったものとして、「一度の衰退」「3度の戦禍」「2度の災難」が起こった。

毘沙門天像等の遍歴(三昧耶形仏具)
大化期初期ー居宅 ー・・・  賜像「毘沙門天像」・「大日如来座像」
平安期初期ー菩提寺ー150年 桓武天皇 皇親族排除
平安期中期ー居宅 ー50年  秀郷流青木氏賜姓 商い開始
鎌倉期初期ー菩提寺ー125年 源平合戦 以仁王の乱 孫京綱跡目
室町期初期ー居宅 ー175年 紙文化 室町文化開始 巨万の富 「大日如来座像の移転」
室町期末期ー新宮 ー350年 信長の伊勢三乱 商い中断 「大日如来座像の移転」
江戸期初期ー松阪 ー10年  本領安堵 商い再開 「大日如来座像の移転」
明治期初期ー鎌倉 ー275年 伊勢動乱 一揆支援 家勢再興 「大日如来座像の移転」
明治期中期ー松阪 ー25年  松阪大火・毘沙門天像消失 商い倒産 「大日如来座像の移転」
大正期初期ー松阪 ー20年  家勢再興 仏具整理


その事から「縁起」を担ぐ事で一族の中にその意識が遠退いたのであろう。
その証拠として、幸いにも遺された「お仏像様」にも、この「縁起」を担ぐ事が在って、”その「お仏像様」を祭祀するに、それに「見合う人物」でないと、その人物に「不祥事」が起こる”と云われていて、厳しく戒められていた。
現実に、筆者もその人物で無い為にあるところに安置して頂き祭祀している。
二度とこの様な事が起こらない様にする「訓戒」であろう。
事ほど左様に、この「毘沙門天像」(「護り本尊様」)にも同じ事の戒めが課せられていたが、「松坂大火」で消失して仕舞う仕儀と成った。
この為に、”この「戒めの咎目」を受けた”として祖父は、そけを祭祀する人物でないと自若し「毘沙門天の事件」で「祭祀」には口を固く閉ざしたものと観られる。
(祖父は当時、伊勢ー紀州ー奈良ー大阪ー京都圏域では誰でも知る有名な人物で、紀州徳川家や天皇家との付き合いもあった。しかし、「咎目」を受けた。)
結局は、900年以上続いた「伊勢の紙屋長兵衛」を倒産さした事への祖父の痛恨の反省なのであった。
しかし、晩年、再び祖父は、何とかこの「毘沙門天の祭祀」を甦らせ、父を経由して筆者の代まで引き継いで来た。
筆者以後は、先ずこの継承事全ては、文章にして遺す以外に最早、完全に無理な状況と成って居るのである。子孫は多く遺したが、何れの者も持って生まれた意識がそれを成し得る意識に到達していないのでは致し方無しである。仏説の当に”縁無き衆生 動し難し”である。
恐らくは,”[伝統]”と云うものはこの様にして消え去って行くものである事が判る。
消したくなくても「自然の力」はそれを超えていて、古来から伝わる「密教」の様々な「伝統」は完全に消える。何とか文章にまとめて記録して、全国の青木氏の末裔が「ロマン追求」の役に立つ為に出来るだけ詳しくして遺そうとしている。
恐らくは、全国の青木さんも殆どは伝統があるにしてもこの様な事で消えて仕舞ったと観ている。
最早、伝統そのものよりも「ルーツ探究」も侭ならない状況に成っている筈である。

事ほど左様に、以下に遺すべき歴史の史実をより詳しく解析して論じ続ける。

さて、この「義経ー弁慶像」(二代目)は、「人形」と云うよりは、”彫刻に彩色粉飾を施した木仏像”のものであたと伝えられている。
この事は、”何とか「毘沙門天像」に似せてのものに”と考えてのことであったらしい。
祖父の意識感覚が伝わって来る。
新たに「毘沙門天像」を作る財力は、「紙屋」は倒産したとは云え、未だ充分にあったと考えられるが、何故なのかは判らない。恐らくは、毘沙門天像に似せようとしたと考えられる。
当初は「毘沙門天像」は、上記した様に平安初期には「菩提寺」に保存されていたと聞かされている事から、その後、「室町末期の戦乱・大火」から「お仏像様」と共に居宅に移した。
しかし、この「毘沙門天像」(護り本尊様)は、上記の配慮から ”古く成った”との理由づけになってはいるが、正しくは「明治期の松阪大火」で消失したのである。
「毘沙門天像(護り本尊様)」の代わりかは不明であるが、上記した様に、一般文化を取り入れてか「義経ー弁慶像」(二代目)に変わった模様なのか、「毘沙門天像」に何故しなかったのか、調査したが、「菩提寺の消失」で「建立する力 維持する力」に総力を上げようとした事があって、「毘沙門天像の復元」には至らず、結局、「義経ー弁慶像」(二代目)で我慢したと云う事であったらしい。
つまりは、「偶像」は変わったが、”「祭祀の密教所作」は遺こす事で治めた”と云うことであった。

(「2度の大火の災難」から”「縁起」を担いではっきりさせていないの”が原因で、恐らくは「消失」である。ところが、この「消失の過失」を認めると、未来に「祖父の名誉の禍根」を遺すと判断したと観られる。この消失は「類焼」では無く「出火元」であった事から余計に意識したと観られる。)

現在の「義経ー弁慶像」(二代目)の人形は、明治35年(2度目の松阪大火 出火元)で「毘沙門天像」と共に「義経ー弁慶像(一代目)は消失して、その以後のものである。
後世には、悠久の歴史を持つ伝来の「毘沙門天像」であった事を明確にせず、「義経ー弁慶像」で繋ごうとしたのである。
昔は、この人形に色々な装飾物があった様であるが、現在は無いが、何とか「毘沙門天像」に近づける努力はした様である。
消失するまでの居宅での「毘沙門天像(護り本尊)」と「お仏像様」の祭祀では、色々な「仏法作法」があった。
以下の所作が伴う「密教所作」は、「義経ー弁慶像」(二代目)であるにしても、「江戸の節句行事」では無かった事が良く判る。

「密教所作 (九度作法・節会所作)」
遺されているのは「道標行燈の作法」と「茶釜の作法」の他に次ぎの「作法事」がある。
この祭祀には、次の様な作法が遺されている。
イ 「家伝の宝刀」を幼児に背負わす作法が遺されている。  (武家訓魂)
ロ 「武神」と云う事からの「武の基本所作」が遺されている。(軍配挙手、馬杯酒飲、刀剣手掛)
ハ 「紅白の角餅」を供る作法が行われいる。        (白は賜姓族の象徴色)
ニ 「幔幕」(家紋入り)を張る作法が行われている。    (福家象徴)
ホ 「方位」は北に向けての物であり、その祭祀には「方位の障害物」等を清浄する。(邪気払い)
ヘ 「回り行燈一対」を左右に据えて「仏壇」を飾り立てる作法が行われる。    (法華経典)
ト 「仏壇」は「古来の武具」の合わせた「小型金具の黒武具」の仏具が添えられる。(三昧耶形)

この様に、「青木氏の節会」は ”先祖との会する場”ではあるが、この”会する事”は「賜姓族(3つの発祥源)」を頑なに護る事の意を持っていたのである。
其処には、「護る意」のみならず「歴史的な意味」が語りつくせないほどにあった。
恐らくは、これらの「密教所作や仏具」は、仏法の「戟」「宝塔」「法棒」等の「三昧耶形の一式」であり、「九度作法」(節会作法)と呼ばれ、れぞれの「節会所作」にはそれなりの意味があった。
それを次ぎに注釈として論じて置く。
兎に角、「道標行燈」にしろ、「毘沙門天信仰」にしろ、「茶釜の作法」にしろその理解の前提と成る予備知識がないと「青木氏の密教所作」は充分な理解が得られないであろう。

・「注釈1」
ハに付いて、「紅白の配色」には、通説は「源平合戦の色分け」とされているが、元より「賜姓族青木氏の象徴色」として、且つ、奈良期から「3つの発祥源」として「色の源元」の「白」が用いられた。要するに ”「青木氏の賜姓色」”である。
他に”「あおき木の賜姓木」””「象徴紋の笹竜胆の賜姓紋」””「大日如来坐像の賜姓像」””「毘沙門天像の賜姓像」”等と共に「白色」は「青木氏の氏色」であった。
これに対して、同じ「賜姓族源氏」が、「源平の戦い」に際して、「賜姓青木氏の賜姓白」を用いた。それに対応して「賜姓平氏」は、「紅」を用いたものである。
本来であれば、「賜姓平氏」は対象色は「赤」と成るが、「中国の故事」に習い「紅」を用いたものである。
「青木氏の象徴紋の笹竜胆紋」も源氏がこれに習って使用したものであるが、そもそも、「嵯峨期の詔勅と禁令」には、「源氏」には「象徴紋や白」などの「賜物の規定」は元より何もない。
むしろ、「嵯峨天皇の詔勅」には、反対の意味合いの内容(”「朝臣族の身分」のみを与えるが、「民への負担」を考えると何事も自ら切り開け”)が記されている。
従って、「賜姓源氏」は「同族の賜姓青木氏の賜物」を用いたのである。
昭和の終わりころまで「紅白角餅」と「紅白饅頭」を配った。


・「注釈2」
ホに付いて、家の中の南北の位置に「護り神棚」があり、これを清浄にして、且つ、南北の屋敷内に不浄なものがが無いかの清掃を行う。
この「護り神棚」は「荒神様」と呼称されて、古来より毎日一族がお神酒を捧げて祭る慣習が続けられた。
そもそも、「仏教」が伝来する前は、日本古来には、信仰するものを分けると、「和魂 にぎみたま」と「荒魂 あらみたま」とがあった。
特に、「民間の伝承」としては「和魂」が信仰された。
ところが「荒魂」は悪外を成すとして民衆は祀る事はしなかった。
ところが、「賜姓青木氏」は、民衆とは異なり、発祥時より、この「和魂」と「荒魂」を祭祀していたのである。
ところが、そこに「仏教伝来」があった。
古来より「荒魂」に当たる「荒神」なるものがあったが、ところが、この「荒神」の「悪神」を、逆に祀り、この「荒神」の「神通力」を利用して「守護神」にすると云う考え方を持っていた。
ところが、ここに「仏教の密教」が持ち込まれたのである。
そもそも、上記した様に、インド伝来の「密教の神格」には「毘沙門天」や「不動明王」などもこの「荒神」であった。
そこで、この「密教」では、その「荒魂」の「荒神」の「悪神」の「神通力」を使って「守護神」とする考え方があると説かれたのである。
元よりの考え方にこの密教説が一致し、「日本の風土」にもこの考え方が根付いたである。
つまり、どう云う説かと云うと、古来からいう「荒魂」を祀って、それを「荒神」として祀ることで「悪神」の部分を取り除くことが出来ると説いたのである。
言い換えれば、”祀らないと「荒魂」の「荒神の悪神部分」は消えず悪さを起こす。”と「陰陽師」や「占師」は説いた。祀る事で逆に「荒神」と成るとしたのである。
そして、その「荒神」は、ある特定の「荒魂」に宿るとしたのである。
「荒の魂」には「武の魂」「守護の魂」「財福の魂」があり、この「荒魂」に「荒の神」が宿り、「荒神」はその「荒の神通力」を発揮して「魂」を護ると説いた。
この「守護神」が「荒神様」なのであって、神格化した「毘沙門天」や「不動明王」なのである。
「青木氏」は、元来からあった「神道の和魂と荒魂」の中に融合して、この考え方を「青木氏密教」として取り入れたのである。
要するに、「神仏習合」を「仏教伝来」と共に古来に成し得たのである。

上記した様に、「密教の神格」の「毘沙門天」は、北方十二域を守護すると云う「密教説」に従い「毘沙門天」の神を、南北の「家の中」の位置に「青木氏」は古来から祭っていたのである。
これが「荒神信仰」と云うものに発展した。
しかし、この「荒神信仰」には大別すると「二通りの系統」があった。

「屋内」の「三宝荒神」 「守護神」を持つ青木氏等が祭祀する「荒神信仰」の事
「屋外」の「地荒神」  庶民等が祭祀する「自然物」を祭祀する「荒神信仰」の事
以上とがある。

・「屋内の荒神」は、「中世の神仏習合」に依って「神社や修験者等の関与」により、「火神」「竈神」の「荒神信仰」に、「密教仏教」や「修験道」等が伝道した「三宝信仰」(下記)が結びついたものである。
これらの「屋内荒神」は、密教を宗派としている青木氏等の「特定階級の荒神信仰」であった。

・「屋外の地荒神」は、山神、屋敷神、氏神、村落神の「神格」があり、「樹木や塚」の様な自然物をも「地荒神」と呼んだ。「自然=地」から「地荒神」と呼んだ。
中には飛躍させて、民は「牛馬の守護神」として「荒神信仰」も創出した。
これらの「地荒神」は全て「庶民の荒神信仰」であった。

有名な祭神には次の様なものがある。
「道祖神」「産土神」がある。火神系を「荒神」として祀っている。
「神道系」にもこれら「火神系」と「竈神系」の「荒神信仰」がある。
「密教」「道教」「陰陽道」等が習合した独特の「スサノオ信仰」がある。
「祇園社」(八坂神社)でも、「三宝荒神」を祭祀している。

「三宝」
さて、この「三宝」とは何なのかである。
その前に、次ぎの注意事を知っておく必要がある。
平安中期頃に密教側の中で、屋内の「三宝荒神」には次の様なものがあるとされていた。
如来荒神(にょらいこうじん)
麁乱荒神(そらんこうじん)
忿怒荒神(ふんぬこうじん)
の三神を指す。
ところがこれらは「偽経」とされる説でもあった。
(「偽経」とは中国で作成されたお経の事。)
「仏教の如来」の扱いは、日本古来宗教側から観れば、「和魂」である。
其れなのに「荒魂」とは矛盾している。
この事から、大和には根付かない「妥協の産物」として排除された。
後の二つの荒神は、至るところに”「乱怒の諍い」を起こす”と批判され、当に、荒れ狂う「荒の神」の「悪神」である。
この「悪神」を「仏教の三宝の力」で沈められるとしながらも、「悪神」も「神」としてそのものが存在すると云う偽経の説は大和には受け入れられなかった。
それは、この「悪神」そのものを「沈め治める力」は、最早、「人」には無いとして「偽経の神」と扱われた。
インドの「釈迦仏教」では無く、「中国仏教の説」で、中国の「最古の道教」の影響を受けた「中国仏教」と観られ「虚偽の荒神」として大和では排除された。
中国の”石も薬”から来る思考原理で ”矛盾も又真成り”の論調の中国宗教であった。

「伝承解決者」
では、この様な国家的問題を一体誰が解決したのであろうか。
放って置いて解決する問題でも無く、国家的問題を古来の占者が、時代考証的にも平安期の陰陽師でも無い事は判る。果たして誰なのか。
この様に、文学は兎も角も、中国宗教に関しては、「中国儒教」と共に、不思議に日本には古来より根付かない歴史を持っていた。
”矛盾も又真成り”の「中国特有の論調」が「大和の人民」には素直に受け入れられない歴史を持っているのである。ここが、決定的な ”漢人と倭人との違い”である。
丁度、この「和魂」「荒魂」の古来宗教の奈良期の頃に、後漢の阿多倍王が率いる「200万人の職能集団の帰化」と「古代仏教」が持ち込まれたのである。
恐らくは、”漢人と倭人との違い”大きく出て、大変な騒ぎと成った事が容易に判る。
そこで、考えられたのが、両者の繋がりの「妥協の産物」として、「和魂」は兎も角も、「荒魂」に「三宝」を結び附ける事で、「荒魂」の「悪神」は消え、荒々しい「武魂」は、「武神」に成るとした仏説を創造した。
そして、その「武魂」が「神」と成った事で、「武魂の守護」も「神」と成り、「武魂」に依って得られる「財」も「福神」に代わるのだとする密教説を造出した。
そこで、この「武神」を密教仏教の「毘沙門天像」に偶像として求めた。
この「荒魂」に類する密教の「武神」と成った「毘沙門天像」と、古来の「荒魂」の「荒神の偶像」とを結び付けたのである。
この時に、上記する様に、幾つかの結び付け方が現れたが、取捨選別されて、「武神と成った毘沙門天」と「荒神と成った悪神の荒神」が結びついたのである。

さて、この時、最初に新しい「密教仏教説」を受け入れ、且つ、「和魂と荒魂」を護っていたのは、他でも無い「賜姓族青木氏」であって、「三つの発祥源」として、「国策氏」としてその役を担わされたのである。
当に、寸分も違わない同時期である。
これは偶然でも無く、朝廷はあらゆることを鑑みて、「国策氏」としてこの問題の解決に取り組む様に役付されたのである。
その為には、これらの問題に直面していた「天智天皇」と「天武天皇」は、「自らの子孫」をその役務に付ける事が必要に成り、最も信頼していた「施基皇子」と「川島皇子」にその役目を与えたのである。
その為には、「天皇」に継ぐ「家柄と身分官位官職」などの一切の「高位公職」を皇太子を超えて与える必要があった。それを、「第四世族内の朝臣族」にして「第六位皇子」にして「賜姓」したのが、この所以なのであった。
(補佐として第七位皇子の「川島皇子」にした。後には、「藤原秀郷」に対して特別に「青木氏」を賜姓して更に補佐させた。)
つまり、「国策氏」として、最初にこの問題に取り組んだのが「5家5流賜姓青木氏」であった。
言い換えれば、上記の様に「違い差」が出ていた「和魂ー荒魂の古来宗教」+「密教仏説」の”結びつきの解決”を図ったのが、歴史的にこの「2つの青木氏」であった事になるのである。
この「2つの賜姓青木氏」以外に、この時期に両者に関わっていて、古代密教を継承して、解決に必要とする「特権」を持ち得ていたのは、「青木氏」に於いて有史来他に無い。
これが、「毘沙門天信仰」と「三宝荒神信仰」とを悠久の歴史を以て継承して来た所以なのであった。


この「三宝荒神」の三神は、後世、「僧や陰陽師や占師」の「生活援助」の為に、この「三宝荒神」を信仰(帰依)するよう考え出されて説いた稚拙仏法のものであって、陰陽師が政治に絡んだ時期を境に平安期中頃には消え去った。
これらの「荒神」は、結局は「インド由来の仏教尊像」では無かったのである。
結局は、この論調を採る「密教の氏」は出ず排除されたのである。
本来の「三宝荒神」は、日本古来から存在する宗教(「和魂」「荒魂」)に、「古代密教仏教の信仰」が加わって独自に「習合発展した尊像」である。
本来の「三宝荒神」はその代表的な物である。

「仏・法・僧」の「三宝」”
では、その「三宝」とは、そもそも「仏教」を維持する上で、最も「大事な宝」とするものであり、それは「仏・法・僧」であるとした。
”密教仏教での「仏・法・僧」の「三宝」”とは、”日本古来宗教の「荒魂の荒神」を沈める”との「神仏習合」を成し得た「仏説」の「密教具」とされる。
ところが、この「三宝荒神」には三神があるとされるが、ここで云う「三宝」とは何れのもの何なのか。
1「同体三宝」の説
2「別体三宝」の説
3「連携三宝」の説
以上があるが、通説の「三宝」とは、3の”仏教を維持し伝えて行く上の「三宝」で、「仏像」と「経巻」と「出家僧」の三つを言う説”が一般である。

つまり、次ぎの密教説である。
a「仏」=悟った仏
b「法」=仏説真理
c「僧」=釈迦伝道師
と説かれていた。
ところが、この「abc」の「同体説」と「別体説」の「二つの三宝」は、大和には馴染まなかった。
この「abc」の「3つの連携」で以って、”ここに特徴を生かしてその力を発揮して「大和古来の荒魂」の「荒神の悪神の神通力」を沈め治める”としたものである。
この事に依って、「荒神の悪神」は鎮まるとしたのである。
これらの「三宝荒神信仰」は、「荒魂」の「武神」や「守護神」を神格としている事から、「密教」を宗派とする「武家の氏」(青木氏)の「信仰体」として大きく発展した。
この「三宝荒神信仰体」は、江戸期に入っては、「三代密教」のみならず「密教系を基とした顕教の宗派」(真宗や曹洞宗)の武士にも一部信仰される様になった。

(江戸初期には「密教作法」は禁止されたし、全て宗教は顕教とした。「密教作法」が禁止された事に依って「三宝荒神の作法」は一部無く成った。)

この様にして、江戸期に成って、上記した「上級武家屋敷」には、「荒神の神棚」が設けられ、これを「荒神棚」と云った。
結局、江戸期に成って「密教作法」が無く成った事に依って、「青木氏」が行う「密教の毘沙門天信仰」との連動は、「上級武家屋敷」では無く成り、「上級武士屋敷」の”「年暮節会」の「荒神祓い」”のみに成ってしまった。
この「荒神棚」は、南北の位置に配置し、毎月には「晦日(みそか)の祭り」を行い、「荒神祓(はらい)」と云う祭祀を行った。
「伊勢青木氏」は、兎も角も、他の数少ない「密教氏」であった家でも、「毘沙門天の節会作法」(九度作法 )との連動は殆ど無く成り、”先祖との会する場”の「概念の伝達」は残念ながら消え去り、「荒神祓い」のみの祭祀になったのである。
従って、今や、頑なにもその立場を守り通して来た「伊勢青木氏」にしか「三宝荒神信仰」と「毘沙門天信仰」の「密教作法」は遺されなかった。

「地荒神信仰」としても、民衆の中には「大きな伝道」を興したが、矢張り、元々、何れも古来よりの「密教所作」である事から、「伝道の力」は極めて弱かったものであろう。

去りとて一方、”「不浄や災難」を除去する神(荒神力)”とされることから、逆に、江戸中期には庶民には見直され、「火と竈の神」として信仰され、台所の”「かまど神」”として祭られた。
日本では、”「台所やかまど」が最も清浄なる場所である”とする事から、庶民の「地荒神信仰」と共に、密教氏の「三宝荒神信仰」でも、江戸期に成って、次第に庶民の間でも、「密教の三宝」とは関わらず、単なる信仰として ”「限定された場所」”で信仰される様になった。

因みに、その良い例が、次ぎの事で証明される。
現在は ”かまど”は全く無く成ったが、現在でもその習慣が一部遺されている。
この「竈荒神」によると、「幼児の額」に「荒神墨」を塗る習慣が江戸中期から起こった。
それは、「竈墨」を”額の中央に塗る”と、”「荒神様の神通力」に依って「子供の難」を逃れられる”と云う習慣である。
庶民は「墨」の×印、武士は「朱」の丸印を点けた。
これは、京都から以西に広く広がった”「あやつこ」”と呼ばれる習慣で、現在でも、「祖先神の神明社」等の神明系神社では盛んに引き継がれている。
これは「青木氏」の「皇祖神ー子神の祖先神の神明社」の500社程の建立に明治期初めまで携わった事から江戸期に成ってもすたれずに遺されて引き継がれて来ているものと観られる。

平安期の「古文献」によると、この「あやつこ(綾子)」は”元は「紅」で書いた”とある。
だが「紅」は、上流階級でのみ使われたことから、一般の庶民は「すみ」、それも「なべずみ」で書くのが決まりであった。
この庶民の「なべずみ」を額に付けることは、「家の神」としての「荒神の庇護」を受けていることの印であった。
東北地方でも、この印を書く事を”「やすこ」”を呼ばれていた。
関東以北にも、この「荒神信仰」の「かまど信仰」は伝わった事を物語る。
ここには「一切の密教性」が無く、「仏教性」さえも無く成っている。
「密教性」、「仏教性」が無く成れば、最早、それは、元の「和魂」「荒魂」の「古来の宗教」に戻っている筈である。
然り乍ら、「荒魂」の「荒神」の「悪神」は消えているのである。
「庶民の消化力」は、”時には「仏教力」を超え、時にはその「仏教力」に頼る。”と云う能力を発揮する。
ここが、「密教力に頼った氏」青木氏とは、その柔軟性には大差がある。

一方、全国的に「御宮参り」のみではなく、一切の「神事」に参列する「稚児(ちご)」が、同様の「朱印」を付ける慣習が関西には未だあるが、これらは上記した「武家の習慣」(あやつこ)が逆に庶民に同化したものである。
庶民は、”自らに利あり”とすると、”貪欲に余計なものを取り除いて、「自らの神」として同化させる。”のである。
古来より、「武家」の「朱印」の「あやつこ(綾子)」を付けたものは、「神の保護」を受けたものであることを明示し、それに触れることを禁じたのであった。
これが庶民に一部同化した「三宝荒神信仰」の名残である。

遺された「古来の絵」には、「奈良時代の宮女」には、「あやつこ(綾子)」の影響を受けたと思われる「化粧の絵」と、又、「象徴する物品」にもこの「朱印」を付ける習慣もあった「絵」が遺されている。
これらは「古来」の「伝統的」な「宗教」の「荒神祭り」の所以である。

参考
「あやつこ」とは、その語源は、”あや”は「言葉の綾」と云う風に、言葉と言葉の間の微妙な意味合いを指す。つまり、現世と彼世の間を取り持つ事を指し、「荒神」や「毘沙門天神」がその働きをすることから ”あや”成る言葉が使われた。
”つこ”の語源は、”やっこ”の「奴」に通じ、その「綾」を伝える物体を指す。
関西の一部では”やっこ”と呼称する地域もある。
つまり、「綾奴」の意味を成す。
東北の ”やすこ”は、”やっこ”(奴:荒神や毘沙門天)が訛った形で変化したものである。
「奴の顔」が「毘沙門天像」に似せて描くのもこの事から来ている。

参考
逆に、「地荒神」では、江戸期に入って「庄屋、名主、豪農、村主、豪商 郷士 郷氏 元武士」の屋外に、”「屋敷神」「同族神」”等として祀る「荒神」があった。
各地方で大きく祭祀の方法が異なるので、一概には言えないが、「名主や庄屋や豪農や郷士や郷氏」などの「旧家武家」では、「屋敷」かその周辺に「屋敷荒神」を祀る例があった
庶民の「地荒神」も、密教系の武家階級の「三宝荒神」と同様に、上記した様に、節句には、「荒神祭り」を、「稲作の収穫祭」のような感じを以って行われた。
これらは「頭屋制(とうや)」で、「同族や集落の家々」が「輪番」で祭を主宰する古い祭りの形式を伝えている。
これらは、”古来より土地に根付いた武士達”が、古来の「和魂」「荒魂」の概念を受け継ぎ、「密教の影響」をあまり受けなかった「郷士や郷氏」に受け継がれて来た。
逆の現象として「地荒神」が遺された。
未だ、地方の田舎に行けばこの慣習は細々と維持されている。


そもそも、この「荒神」の「像」は、「毘沙門天」や「不動明王」に通じた「怒りの形相」である。
「持ち物」は、一般には 右手…独鈷・蓮華・宝塔(五鈷杵・金剛剣・矢)。左手…金剛鈴・宝珠・羯磨(金剛鈴・弓・戟または槍)のような形がとられている。
これは上記した様に「毘沙門天像」と全く同じである。

つまり、「日本古来の荒魂の荒神」と「密教仏教伝来の神」とが融合して「荒神」=「毘沙門天」と成った事を意味しているのである。
古来の奈良期に起こった「初期の神仏習合現象」であって、「賜姓青木氏」はいち早くこの現象を捉えた事を意味するのである。
「毘沙門天信仰」=「三宝荒神信仰」であった。
それが、現在まで「伊勢青木氏」の「個人の家間」の中で、「古来の伝統」として頑なに維持されて来た事を物語る「密教作法」(節会作法)なのである。

(正直な処、もう少し早く筆者が「伝統の研究」に気が付けば、更に貴重な復元が成されていたとも感じられる作法である。何か違うなとは思ってはいたが、残念ながら、「有形の物品」では無く、「無形の作法」であったところが落とし穴であった。)


・「注釈3]
イに付いて、「家伝宝刀」は、現在は法律にて所持出来ないので、模型が使われているが、昭和25年までは、「伝家の名刀」(大小10振り)であった。
「武神」である事から、先ず「刀類」は祭祀には欠かせない。
「3つの発祥源」の「第四世族 第6位皇子」から「皇族」を臣下して初めて「公家」とは異なる生き方をする「武家」を発祥させた。
そして、この「武家」が「公家」とは異なり、初めて天皇を護衛する「武力」を持った身分の「侍」を発祥させた。
それまでは、”天皇を直接護衛する「親衛隊」”と云う組織は無かった。
「天皇」に四六時中、着きつ離れずに「さぶらう役」から”さむらい”(侍)と呼称される様に成った。平安期には”「武家」の「さむらい」”が護る事から、「武士」と呼ばれた。
この「武士」が宮廷の北門を護ることから「北面武士」と呼ばれた。

この最も有名な侍としての歴史上の人物は「源の頼光」であろう。
「藤原道長」に終身仕えこの「武家」ー「侍」としてその「典型的な役」を全うした人物である。
この「武家ー侍」は、下記に述べる「武人」「防人」「鎮兵」の「兵士」とは別であった。

因みに、この「武家出自の侍」の位置づけがどの様な所にあったのかを論じて置く。
それまでには、次ぎの「3つの武装集団」が奈良期から室町期末期まであった。
1 中央の豪族や地方豪族が「従者と隷者」に武器を持たせた軍があった。これを「国造軍」と呼ばれた。評や郡の地方組織が独自に編成していた。
2 阿多倍王に率いられた後漢からの「職能軍団」が存在した。「漢氏」と「東漢氏」と呼ばれ蘇我氏等がこの職能軍団を雇っていた。
3 奈良期の「大宝期」に「国家統一」の為と、沿岸部が他国から侵略される事が多く成った為に、国による軍団が編成された。
税に対する目的から初めて戸籍(庚午年籍)が天智天皇に依って編成された事を踏まえて「徴兵制」が敷かれた。これを兵では「防人」や「鎮兵」と呼ばれ、将では「武人」と呼ばれた。

これらは「武装集団」であって、個人としては「一般人」であって、「個人」がある「特定の人物」等を「武」を以って護りさぶらう役目の「武士」即ち「侍」は、「武家の賜姓青木氏」が初めてである。
この”「武家」”は、江戸期に「一般武士」を以って”「武家=武士」”を呼称されたものとはその意味が異なる。
この「武家」は「公家」に対する呼称で、氏家制度の中で「氏」を大きく構成する家筋の「身分家柄」を意味するのであって、「立場」のみを意味しない。

上記123は、3に集約されて平安期は朝廷軍、鎌倉期は幕府軍に成り、この軍団の編成は、指揮する上位5階級までは「侍」の「武士」が全てを担う様に成った。
その5階級の「武士」の配下にそれぞれの従者や隷者(家来、家臣と呼称した)が編成して軍団を編成する様に変わったのである。

その軍団の指揮に当たるのは上位5階級の軍階級であった。
大毅(だいき) 大軍団 小毅2名 
小毅(しょうき)小軍団 500人
校尉(こうい) 200人
旅帥(ろそち) 100人
隊長(たいちょう)50人(一騎 最低単位の指揮官)

以上が兵士を統率した。
軍団は百人単位の編制である。

主帳(さかん)主計局
火長 炊事斑 10人

奈良期からの一騎の隊長は、自ら50人の兵士を何らかの形で集めなくてはならない。
この兵士には、上記2の傭兵も含めて、常時、家臣として確保しておく事が義務づけられる必要があった。
実際は、平時はこの6割程度の範囲で治めていた。
この常時の一代限りの傭兵の俸禄は家臣の約半分120石程度が相場であった。
武器具は、原則手弁であった。大型具などは軍団の指定支給であった。
鎧兜等の特殊具はその軍団の経済力に左右した。
戦いの時は4割の兵を「鑑札をもった者」(仲介人)に頼んで近隣の村から農兵等を集めて貰う。
「上記2の末裔」は、地方で細分化した「傭兵軍団」を編成し「・・党」を形成して、各地に”「国衆」”として転戦してはその勢力を拡大させて行った。
勢力と転戦の経験に依ってその「傭兵の契約金」が変わる仕組みであった。
この制度は、室町期末期まで続いた。

以上の軍人に対比して、「賜姓青木氏」は「3つの発祥源」の立場にあった。
「軍人」≠「侍」で、「侍」は「武家」を構成した。
奈良期から、「技能官人」と呼ばれ、その官人は二つに分類されていて異なった世界を持っていた。「武術の技能官人」
「単なる技能官人」
とがあった。
前者は、「侍」として「武家を構成する高級官人」で、公家の上級官僚の「侍」を務める。
後者は、「武人」として、「家柄、身分、位階等を有しない下級官人」で軍団に所属する。
大化期前までは、後者の「武人」と徴兵制で集めた「防人」に依って編成されていた。
「武人」は従者や隷者を集めて兵士を構成した。

大化期後は、「青木氏」の様に、特定の賜姓により「武家」を新たに構築して、「特定の人」をその技能を以て護衛する官人を新たに作り上げた。これをその役職から「侍」と呼称した。
そもそも「侍」とは、”天皇を含む上級の特定の人にさぶらう事”で、この”「特定の上級の人」”は、「仏教の作法」で、生きている時から、「法名」としての戒名の”「寺・院」”を持っていた。
この「寺院の人」に”「さぶらう人」”で、この「寺と人」の造語として「侍」として、これを”さむらい”と呼称する様に成った。
(天皇等の人が位階在位を退いた時に、この自分の”「門跡寺院」”に入る。)
これが、最初に「賜姓」を受けて成ったのが、当に ”「青木氏」”であった。
この「武家、侍」の「二つの発祥源」に続き、「天皇」は「万民の象徴」として「民族の頂点の人」として位置づけられ、これに従って、その子は「真人族、朝臣族」として、賜姓して下族臣下すれば、「民の発祥子の元」として位置づけられた。
”「民は天皇の子」(朝臣子)”であるとする「万民一計の図」から、況や、”その「子の発祥源」と成り、その「子」の範たる位置を成す”とされた。
この”「賜姓五役」”を与える代わりに「不入、不倫の権」の大権を与えた。

参考
(平安末期には、「源氏」の様に「武家」を構成しても、必ずしも「侍」に成れるかは保証は無かった。特に分家筋には「侍」に成る為の就職活動や縁故が必要であった。嵯峨期詔勅で、”朝臣の身分を与えるから自ら切り開け”と明記。 強いて”幾つもの難しく重要な役目”を与えられた「青木氏の賜姓」とは異なった。嵯峨天皇は、”これは民に負担を掛けない事による”と明記した。従って、天智天皇から光仁天皇までの「青木氏の賜姓」と、嵯峨天皇から花山天皇までの「源氏の賜姓」とは意味が異なっていた。「青木氏の賜姓」は「役を与える賜姓」、「源氏の賜姓」は上記の「朝臣子のみの賜姓」であった。 況や、「皇室の負担減らし」であった。これが、社会に「戦乱の前兆」と「荘園制の弊害」を生んだ。)

・「注釈4」
ロに付いて、「武の基本所作」の「軍配挙手」では「伝来の扇軍配」を持ち、伝来の馬杯に酒を注ぎ、「馬杯酒飲」を行い、「刀剣手掛」では鹿の角で出来た「伝来刀掛け」に刀を掛ける所作の3つを行う。
結局、次ぎの所作が成される。
一 「武家」には「伝家の宝刀」
二 「侍」には「将騎」として「伝家の軍杯」
三 「朝臣子」には「伝家の馬杯」
四 「国策氏」には、「永代正二位青木朝臣左衛門上佐」として「伝家の家紋刀掛け」
五 「融合氏」には 「陣笠」と「黒瓢箪」(江戸期は鎧兜着用)
以上は、「賜姓五役」と呼ばれた
紋付袴の正装でこの儀式を嫡子が行う。
(「鎧兜具足類一式装」は明治35年に消失した。)
「三つの発祥源」の「三つの役目」には、夫々の「伝統の武具」があって、それを使って、「武の所作」を指し示す事に成っていた。
ところが、江戸時代中期までは、この「所作」にも”正式なもの”があった様で、現在では伝わっていない。
一族一門が集まっての「盛大な儀式」であったらしく、「一族一門の者」から次ぎの時代を担う若者が選ばれていた。
青木氏は、慣習仕来りから一族の者は全て子供であり、「福家」のみの子供とは限らない。
15歳程度の若者が複数選ばれてこの役目を果たしたとある。

参考
一人とは限らず、主な5人がこの「5つの役割」に分けて務めたとある。選ばれる事に誇りを持っていたとされ、何時しか、「青木氏」をリードする役目を担わされる事が約束された儀式でもあった。
世間への”お目見え儀式、お披露目の儀式”の”意味合いも兼ねていた”とされている。
古来よりこの「賜姓五役」には、細分化すると「多くの役」を持っていた事があって、「守護神」、「神明社」、「菩提寺」、「絆青木氏」、「殖産事業」、「二足の草鞋策」、「伊勢藤原秀郷流青木氏」・・等に分けて、その「若者の長所」を見抜いて若い時から指定して、「部の長」等が彼等を教育し指導する体制であった。その為に、一門化する為に女系の「2つの絆青木氏」(「部の長」)を広く構成した。「武家」の「賜姓五役」と「二足の草鞋策」(殖産・総合商社)であった事から、現在の会社組織に類似していた。
若者が足りない時は、「信濃」から「甲斐」から一族の若者を養子として子供の時から養育していた。
この「賜姓五役」の達成の為の「神格偶像」を求めて、「五つの儀式の所作」には、「三宝荒神信仰」と「毘沙門天信仰」が組み込まれていた。


・「注釈5」
ニに付いて、これらの「所作伝統」は「福家」が行うが、「笹竜胆紋入りの幔幕」がその「象徴物」として用いられた。
然し、現実には、現在では「幕」の家紋部の一部を見せるだけで「幕」としての事はしない。
「幔幕」を張る事への世間への余りにも違和感が、現在ではあって実行しない。
大正の終わりまで行われていた。むしろ、明治期までは、「嵯峨期の詔勅と禁令」が明治期まで護られた事もあって、「賜姓族」として誇示をしていた傾向があった。
大組織を維持する「青木一族と長の判断」だけでは無く、組織そのものが、その様に押し上げる傾向があったらしく、「幔幕」は、その「誇示する象徴物」で「家紋」と同じ意味を持っていた。
むしろ、「家紋」そのものを”誇張する道具”でもあった。
「伊勢青木氏」は、「四家」と呼ばれる家が伊勢の各地にあって、松坂を中心に、員弁、桑名、名張、四日市に「一つの流れ」を持っている。
しかし、家の優先順位は無い。ただ、全体のリード役としての家を「福家」と呼称し、「・・殿」と着けて呼称する。「松阪殿」が「福家」である。
武士で云えば「本家ー分家」の組織に成るが、氏家制度の「絶対的権利」を持っていない。
従って、「本家ー分家」の家紋では無く、「氏の象徴紋」である。
従って、「家紋」では無い為に「副紋」や「丸付き紋」は使用しない。

この「幔幕」の中央より左右に大きな「笹竜胆紋」の文様が染め込まれていた。
一族一門とそれに連なる関係者(氏関係者と商業関係者)が羽織袴で挙って集まり祝いする。
この「主な儀式」(四大節会)には次ぎのものがあった。
「氏に関係する儀式」は「端午節会」
「女系の氏に関係する儀式」は「雛節会」
「伊勢族に関係する儀式」は「盆節会・彼岸節会」
「伊勢四家族に関係する儀式」は「暮節会・正節会」、
後は、「親族の内家」で、「荒神毘沙門信仰」として「月節会」が簡単に行われた。
(実は、「稲荷信仰」も、「古来の和魂宗教」と「祖先神の神明社守護神」の「伊勢神宮 豊受大御神」の関係から、「賜姓五役」の副役として細々と行われていた。)
以上が盛大に行われた。

参考
相当の経済力が無いとこの節会は行えず、「信濃青木氏」は、「伊勢青木氏」との親交が深かった為にいざ知らず、「甲斐青木氏」は、その「二足の草鞋策」への取り組みがあまり積極的に無かったことから、独自に以上の様な「密教の儀式」を行えたかどうか、将又、「節会の作法」等を遺し得たかは疑問である。
室町期中期頃からは「甲斐青木氏」には家勢から無理であったと観られるし、何がしかの記録に突き当たらない。
普通の江戸期の「五節句」程度の事の祝事は営まれていた事は考えられるが、「密教性作法」のものは考え難い。

中でも「端午節会」は、信濃、甲斐、近江、美濃一族と関係者を集めての儀式であった。
菩提寺と居宅に幔幕を張って行われた。
幔幕には「賜姓族」を表す「白幕」と「青幕」があった。
「白幕」は、「嵯峨期の禁令」にて「賜姓族青木氏」以外には一般には使えない事に成っていた。
この禁令も明治期まで護られていた。
「笹竜胆の家紋入白幕」は青木氏に関わる上記の「四節会」には使われた。
一般では「黒幕か濃紺幕」であるが、「青木氏」は、葬儀、法事でも「白幕」を使った事が判っている。
これは、その「使用する目的」によって分けるのでは無く、上記した様に「紅白角餅」等と同じく、「白」は「氏色」であった為に用いた。この事はよく聞かされていた。
「白色」の中に、「黒色の笹竜胆紋」が染め込まれている。
「青幕」(緑系青)は、「氏木」の「あおきの木」の色であった事から、独自の「副氏色」として使用していた模様で、婚姻、祝事等の「密教性作法」に関わらない諸事に用いられた。
何事にも「白幕」ばかりを使う事には、朝廷や他の賜姓族(秀郷流青木氏一門)に憚られたと考える。
青の幕の中に「対の白の笹竜胆紋」が染め抜かれている。
(現在も伝来品が遺されている。筆者の息子の結婚式に使ったところ質問攻めにあった。)

参考
因みに、その盛大さは、「超大地主」であったことから、奈良や紀州や伊勢の各地の農民等の代表者等が泊りがけで集まったと伝えられている。
その為の宿泊の準備では、「菩提寺と関係寺の解放」、「各地神明社の解放」と「全ての居宅や旅館」を確保したとされる。
「土産物」「引き出物」などは、地元の家々の分も大八車に載せて列を組んで運んだと聞かされている。
明治35年以降は、「端午、雛の節会」は、形式的に終わらせ、「盆彼岸の節会」は普通に内家で行った。
現在は、「盆彼岸の節会」「暮正の節会」は「毘沙門天荒神節会」と合わせて家内で形式的に消えない範囲で行っている程度である。実際のところ”文書に遺せる範囲の維持”と成っている。



> 終わり。
>
> 「伝統」-6に続く。

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:「青木氏の伝統 4」-「道標行燈」


[No.321] Re:「青木氏の伝統 4」-「道標行燈」
投稿者:福管理人 投稿日:2014/07/29(Tue) 11:15:23


伝統-4

「道標行燈」



青木氏には何気なく行っている作法がある。
それを良く調べると、奥が深く膨大な歴史を持っている事が判り、他氏とは異なっている事がある。
今回は、祭祀の際に置く「行燈」等の作法に付いて論じる。
この行燈作法には計り知れないほどに意味を持ち、歴史をもっている。
この「行燈」は、普通より大きめで、真ん丸で直径70センチ位あり、高さが1メートルはある。
この「行燈」は、華やかに蓮や桔梗の花などが書かれている。
真ん中に氏の象徴の「笹竜胆紋」が書かれている。
行燈の中には、周り灯篭が仕組まれている。
先祖代々が引き継いできた物である事は一目瞭然で判る。
修理手直ししながら使い込んできている事が判る代物で、筆者も何度も手直しをした。
金銭的な節約事で「古い物」を使っているのではなく、”「先祖伝来物」”と云う感覚が強いし、手直しの跡が愛おしくその様にさせている。
この「古い行燈」そのものには現在のものと同じで何の意味もない。
”その行燈を使う作法”に異質の歴史が浸み込んでいるのである。
この歴史が浸み込んだ「行燈」は、”「迎え行燈」”と呼ばれていて、「仏壇」に添えるものでは無い。
家の祝い事、不幸事、法事などの所謂、”祭祀”に使う。
その為に、青木氏の多くの「喜怒哀楽の歴史」を観て来た行燈なのである。
果たしてどのような歴史を持っていて、無言で我々に何かを語っている様な気がする。
それだけに、この無言の歴史を解明したいと云う気がするのである。
そこで、又、筆者の癖が出た。

「迎え行燈の意味」
この「迎え行燈」のその目的は、”先祖の仏を家の中に迎え入れる道標”であるとされている。
これが、”最大の異質の歴史”である。
”先祖の仏を家の中に迎え入れる”と云う事自体がおかしい。”「仏」を擬人化している。”
この概念が先ず最初に大きく違っている。
「仏」をただ単純に「仏」として迎え入れるのであれば、何処でもお盆にはしている作法である。
しかし、ここが違っている。”「仏」を「人」として迎え入れる”と云う概念なのである。
それは、「道標」としての「行燈」を設けて”ある作法”で迎えるのである。
「仏」ならば、「道標」はいらないし、「ある迎える作法」もいらない。
「人」として迎えるから「道標」が必要であって、”お帰りなさい”と「迎える作法」が必要に成る。
つまり、「人」から「仏」に代った「彼世の仏」を「現世の人」としてこの世に迎えると云う作法である。
つまり、「有形の人」が「無形の人」に成って、現世に戻って来ると云う事に成る。
其処には、”「有」から「無」に代っただけ”で、”「人は人」”と云う概念である。
彼世にいる「無の人」を「仏」と呼んでいるに過ぎない。
依って、結局は、「有」と「無」の持つ意味の差によるだけの事に成る。
この概念でこの作法は構成されている。

夜に成ると、「周囲の灯り」を消して、この「迎え行燈」を窓際に据える。
この時、一通りの「仏法作法」がある。
この「行燈」の前に、「机経台」を据えて花を生ける。
「燭台」と「香炉」を据える。
夜7時に成ると「迎え行燈」の灯りで、「般若心経」の経典を読む。
この時、経典は三代前までのご先祖の数だけ経典を諷誦する。
家族全員が集まり、その家の女主(妻)が導師と成る。
この「仏法作法」によって”仏の人”を家の中に導いたとされる。
これにて、「現世の者」と「彼世の者」が集う事で「一切の祭祀」が行われる考え方である。
祭祀が終わると、「送り行燈」として同じ作法で送りだす。
お盆の時は、「迎え火」「送り火」も併せて行うが、この務めは家長が行う。

この「作法のポイント」は、”現世と彼世の者が集う”と云う事にある。
”祭祀は「現世の者」だけが行うのではなく、「彼世の者」も共に行う”と云う概念である。
これが、「密教」であり、「青木氏」が、「古代宗教」と「古代仏教」の中で作り上げた概念である。

「密教の考え方」
「密教浄土宗」では、要約すれば、「現世と彼世」とは、「有の世界」と「無の世界」とにのみ「差」があるとする考え方で、それ以外には、”特段無い”とする考え方である。
「人の死」とは、”その「有無の境界」を単に超える事”に外ならないとしている。
「般若心経」の密教仏説の文言を忠実に守っている。

そして、その「現世と彼世」との間には、何がしかの「接着剤」か「橋渡し」の役目のものが必要に成る。
これは「自然の摂理」である。
この世の万物には、必ずあるものとあるものを繋ぐ”「つなぎ」”と云うものが必要で、これなくして、「有の物質」は成り立たない。
「原子分子の世界」にも、この”「つなぎ」”とする「中間子」や「中性子」なるものが存在する。
宇宙もこの原理に従っている。もっと平たく言えば料理でも「つなぎ」が左右する。
要するに、論文的表現としては”「媒体」”である。
それが、「伝統2」でも論じた様に、”「香」を額に当てて香炉に焼香する事で繋がる”としているものである。
現在的に、「科学的な根拠」で云えば、「右脳」から発する「ベータ波」による「媒体」で「複眼」からそれを発して、彼世の人に通ずるとしているのである。
何度も他の論文で論じた様に、これは一概に無根拠では無い。
また平たく云えば、「母性本能」は、当に、この「ベーター波」を無意識の範囲で使って子供を育てる本能を遺している。
”心頭滅却すれば火もまた涼し。”の通り、”人は心頭を鍛え雑念を除く事さえできれば、「有の世界」にあっても、「有の世界」から「無の世界」に移行出来得るのだ。”としている。
要するに、「無の世界」は、「有の世界」と”乖離された世界では無いのだ。”としている。
(科学的根拠の無い作法では必ずしもない)
”これを強調する教派が、況や、「密教」である。”としている。
その”無に到達する手段(作法)”が、「三大密教の教義」の差に成って表れている。
中には、その「到達手段」に主眼を置いた「禅宗」というのもある。

この「古代仏教の概念」に依れば、「有の人」「現世の人」の「有」とは、”「雑念」”と云う事に成る。
「有」=「雑念」と云う事に成り、「雑念の世界」「雑念の人」と云う考え方である。
従って、その「雑念」を一時的に取り外せば「無」に成るのであるから、「現世の人」は、「無の人」に成り得て「彼世の人」と同じ位置にいる事に成る。
同じ位置に居る事に成れば、”話は通ずる”と云う概念と成る。

さて、ここまで、「有と無の媒体」と「無の到達手段」があれば、後は、「有の世界」に欠けていて必要なものがある。

「偶像の神格化」
それは、「有の世界」の「有の人」は、その「雑念」を取り除いたとしても、「虚空」に向かって、「無」に成って話しかけても、広すぎて通じない。
これも例外の無い「自然の摂理」である。
それには、”「有の世界」と「無の世界」からも一か所に集中させて、それに向かって「べーター波」で話し合えば通ずる”とする概念が生まれる。
つまり、それには、何事も ”一か所に集中させる物”が必要である。
それが、世にいう ”「偶像」”である。
そして、その「偶像」を神格化して祭祀しすれば、”「有と無の世界の連携」”は成り立つとしている。
従って、その「祭祀」は、その「有の世界」にある「偶像」にまきわり着く「有の雑念」を常に取り除いて置く事である。
その事で”偶像は神格化する”とした「仏教の密教概念」である。

実は、このこの「仏教の密教概念」(下記)には、ただ単に「仏教の密教概念」だけでは無く、「日本古来の宗教概念」(下記)が習合しているのである。

それが、本論下記の「毘沙門天」の「神格化の偶像」と成る。
(伝統-5で論じる。)

さて、「無の世界」から迎え入れた「先祖(仏)の居所」は、「仏間の仏壇」(仏舎)にあるとして、祭祀では、必ず「仏壇」(仏舎)は飾り立てる。そして、迎える。
しかし、この”「仏壇」”(「仏舎」 ここでは「仏壇」と云う呼称を使う)に、上記の「神格化の偶像」が無ければ成らない。
特段に、「仏舎」には無くてはならないと云う事ではない。
この考え方は、奈良期の大化期前には未だ無かった概念である。(下記)
「仏教思想」が伝来して起こった概念である。
その前の「日本古来の宗教概念」では、「自然神」に依る概念が全体を占めていた。

「日本古来の宗教概念」とは、「和魂荒魂」の「宗教概念」であり、”「人」は自然の一物 依って「人」は自然に帰る”と云う事が主要な概念であった。(下記)
全ての思考原理は、この主要な概念の基に従う。
”「付加価値」”の就かない「原子思考の原理」である。
現在の「日本人の思考原理」には、多くの「付加価値思考」が付加されて、”現在思考の原理”が出来上がっている。
しかし、それを”玉葱”の様に、その”付加価値の思考原理”の皮を外して行くと、最終、この「原子思考原理」に辿り着く。
それが、この、”「人」は自然の一物 依って「人」は自然に帰る”に成るのである。

取り分け、日本人は、「古代仏教の影響」を強く受けたが、「純粋な仏教」では無いものを造上げている。
それは、我々は、”「仏教」”と思っている「仏教」は、これも”玉葱”の様に、紐解けば ”「神仏習合の仏教」”というものである。
この「付加価値」が付いて、結局は”「神仏習合仏教」”というものに出来上がっている事に成る。

では、”「神仏習合」のその片方の「神」(和魂荒魂)とは、一体どの様なものであったか”は余り知られていない。
それは「日本古来」からある「日本の土壌」から生まれた「宗教概念」で、”「和魂荒魂の概念」”と云う「聞きなれない概念」で構成されている。
要するに、これが「玉葱の芯」ともいうべきものである。
その「玉葱の芯」とも云うべき概念が発展して、「自然神」が確立化されて遍歴して、遂には「古代神道」と云う概念を作り上げた。
この「古代神道」が「仏教」と習合したのである。
従って、「日本人」は、「和魂荒魂の宗教概念」から出来た「自然神」に通ずる思考原理が、「他の民族」よりも強いのである。
つまり、”「人」は自然の一物 依って「人」は自然に帰る”の「原子思考」が、「無意識の根底」にあって、「他の民族」よりも強いのである。
これが、「国民性」と成って遺されているのである。
依って、根底であるが為に、”グローバル化”に成る為として、強い「国民性」となっている「仏教原理」を外しても、この「原子思考」は外せない事に成る。

つまり、本論は、この影響を同じ「日本人」でも、”「青木氏」は最も強く影響を受けた氏である”と云う事を論じる事と成っている。
我々「青木氏」は、その「遺産」を強く「伝統」と云う形で持っていた事に成る。
何故ならば、「賜姓族」と云う立場の柵(賜姓五役)があって ”それを引き継ぐ立場に置かれていた”からである。
その引き継いだ「原子思考」と成っている概念が、況や「密教」と云う形で引き継いで来たのである。
「原子思考原理の概念」=「青木氏の密教」
簡単に云えば、”「人」は自然の一物 依って「人」は自然に帰る”の考え方が一番強い氏と云う事に成る。
では、その「青木氏の密教論」を下記に論じ事に成る。

注釈
(余談であるが、筆者は、何故か子供の頃から、「自然物理」が大好きで、その道に入った。
しかし、そうなれば、”理屈を唱える者”に成っていた筈である。
ところが、一面では理屈の根本と成る「宗教の様な概念」も好きで、子供のころから”歴史大好き”の若者であった。
取り分け、筆者の頭の中には、「物理」+「歴史」=「自然」の考え方が構築されていた。
何れも共通項は”「自然」”に通じている。
これは、無意識の生活の中で、この「青木氏の密教概念」で育った為か、或は、”遺伝子的”に継承されて来たものかも判らない。
然し、親からは、”不思議な子”と云われ、”先祖の誰々によく似ている”と云われていた。
先祖の中に4代目や7代目位前にもそのような人物がいたらしく、「青木氏」に良く出る隔世遺伝らしいことは判っている。
故に、「青木氏の由来の復元」が出来るのではないかとも考えていて、親も故に私に「復元」を依頼したと考えている。
それは「理屈と歴史と自然」の性格を持っている事を見抜いたからで、親は「家の伝統」の事を、私だけに口伝し資料や記録でも渡されていた。
この「家の伝統」の一つで「密教所作」から論じる。)


「密教作法」
そこで、「道標行燈」の「密教所作」では、「普通の日」は、据えないが「祭祀の日」には「一対の周り灯篭」を”「仏壇」”(仏舎)の左右に据える。
次ぎに、「客間に据えられた囲炉裏」に大きな黒い「南部鉄瓶の茶釜」が据えられて湯煙を上げる。
普通は、作法として「密教」を主教派とする家には、南向けた客間の右隅下に必ずこの囲炉裏があった。
昔は、この「茶道用」の「囲炉裏端」には、それなりの家筋に行けば必ず据えられて居り、直ぐに作法が出来る様に、それなりの「諸道具一式」が治められた「茶箪笥」なるものがあった。
(現在も筆者の家にはこの伝来の竹で出来た物と黒檀で出来た茶箪笥が遺されている。「囲炉裏端」もある。)
「密教寺」の「浄土宗寺」には、現在でもセットになって本殿仏間にこの様式のものがある。
この「湯煙」は、”部屋の空気を清める”と云う作法が先ずあって、その「清める内容」としては、「空気と雑音」である。
「空気」は「湯煙」で浄化させ、「雑音」は「余韻」にとする。
これは、上記の”「雑念」を取り除く為のよりよい環境(空気と音)”を作り出そうとする決められた「密教作法」である。

先ずは、その「韻」は次の様にして起こす。
筆者の家では「茶釜の作法」と呼んでいた。
先ず、水の入った「南部黒鉄茶釜」が沸騰すると、茶釜の中で「二つの韻」が起こる。
一つは”キンキンと鳴る韻”と、この”キンキン音”が先ず出始めると、部屋を静かにして置くと空気の揺らぎが無く成る。
そうすると、部屋の湿度がある一定に保たれ、茶釜の中の水分量があるところまで減少すると、この事から起こる茶釜の中で共鳴音が出る。
「湯の沸騰」による振動が、茶釜の中で響いて、膨張した茶釜の中の空気が振動して共鳴音が起こるのである。
締め切った部屋の中が加湿されてより音は伝わる事に成る。
蓋を僅かに開くと、この為に茶釜の中が片方が開いた状況と成り、「閉管」と云う「笛の原理」が成り立ち、 ”ブオーン ブオーン””キンキン”と茶釜の中で不思議な音が鳴り始める。
成り始めると、この茶釜の鉄蓋の外して、桐箱の様な形状の物を代わりに置くと、”共鳴音”は更に大きく部屋のなかで大きく共鳴する。
これで仏を ”迎える部屋の態勢”が出来上がった事になる。
つまり、”迎える環境”の中に、「雑念」が取り除かれた事に成る。
「仏間」にこの環境を作り出す事に成る。

参考
これにはある一定の広さが必要で、あまり小さすぎても加湿と室温が高く成りすぎても良くなく、広すぎてもその環境を作り出す調整が難しく出来ない。 
筆者も物理屋として試みたが、常温で常湿の範囲で周囲が板壁か土壁の部屋が良い事が判った。
これは”部屋の環境調節”が良く出来ると云う事である。

そう考えれば、室町期から江戸期に流行した「千利久の茶道」としての「茶室の造」が最適である事が判る。
恐らくは、「千利休の茶道」は、この「環境」を部屋の中に作り出す様に作られていたと考える。
つまり、「千の利休」は、恐らく、この”「古来からの密教の作法」”を知っていたと考えられる。
「千利久」の地元は堺であり、上記の大和川の湿地流域で興った「古来稲荷信仰」の地元でもある。
実は、「大和川流域系」の「古代稲荷信仰体」はこの「茶釜作法」を奈良期の古来より継承しているのである。
そこで、この「信仰の作法」から伝わった事か、或は、「伊勢青木氏」の「二束草鞋の商人」を通じて「密教浄土宗」から伝わった事かも知れない。
何れにしても、「千利休」の「茶道」は、間違いなくこの青木氏に伝わっていた「密教作法」の「茶釜の作法(環境と作法)」を採用したと考えられる。
「茶道」の「外の環境」も、周囲は樹木で囲み、湿度と酸素で温度を一定に保ち、中は上記の「茶釜の環境」を作り出した部屋にしたと観られる。
「堺商人」も小西行長の様に「二束の草鞋の商人」で「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」とも接触はあった。
この”「茶釜作法」の環境”は、人間が最も心癒される静寂、且つ、次元が異なる様な「不思議な心根」になる「環境」である。
恐らく、室町期末期から江戸期に発展して「茶道」は、この「茶釜作法の環境」をそっくり真似たものであると考えられる。
この「青木氏」や「稲荷信仰体」に伝わる「茶道の原理」は、「千利休の茶道」よりも、遥かに前から「青木氏」は、奈良期から延々と祭祀に用いて来た作法である。

「茶釜作法の謂れ」
さて、では ”何故、この作法が行われるか”の疑問ではある。
そこで、「無の世界への環境」が整えられて、「余韻と共鳴音」は、”無の世界への連絡”を意味しているのではないかと考えられる。
そして、”空気の揺らぎの無い加湿された静かな空間”が「無の世界の先祖」が居られる”「有の世界」の環境”としていると考えられる。
これが古来から伝わる「茶釜作法」が作り出す環境なのである。

恐らくは、「古来の人」は、「無の世界」の先祖は、この様な”「静かで良質な空間」にこそ存在し得る”と考えられていたのであろう。
従って、儀式毎には、この作法(「茶釜の作法」)を用いていたのである。
では、この「茶釜の作法」が「古代仏教」から来た作法なのか、古来の「和魂荒魂」から来る「古代神道」の作法なのか疑問が湧く。
「神仏習合」している環境であるが、敢えてこの歴史を調べた。(下記)

確かに、筆者から観てもこの作法の科学的論理には「論理的矛盾」はない。
人間が作り出し奏でた音では無い。「自然の原理」によって奏でられた音である。
古代にこの様な「自然の原理」を把握していたとは驚きである。
故に、”進んだインドー中国の文化の影響”を受けていたとも思える。
しかし、実は、この「密教作法」のところを調査研究していると、4世紀頃の古来より既に発祥した全く同じ作法を強調する信仰体がある事が判った。
それが、大和川流域に発祥した「稲荷信仰体」である。

「稲荷信仰体」
この「稲荷信仰体」は、自然の生活の中から生まれて来たもので、仏教の様に、概念の論理化された中での作法ものではない。
依って、「3世紀の卑弥呼の時代」から既に存在して居たと筆者はみている。
出雲から出た「弥生信仰の作法」では無く、「縄文信仰に近い作法」であるからだ。
つまり、土壌から這い出て来た「庶民信仰」と云うか「農民信仰」があった。
それは、「古代仏教」より少し前の古来より受け継がれて来た「古い信仰体」で、後に「伊勢神宮の外宮」の「豊受大御神」からの影響をも受け継がれてきた「民の信仰体」である。
むしろ、この「古い信仰体」は時代性から観て、「豊受大御神」よりやや早い時期に発祥している。
実は、この事に付いて書かれた「豊受大御神の定説」によれば、次ぎの様に成っている。

「雄略天皇」の時に、天皇の夢に「天照大御神(内宮祭神)」が現れ、”「自分一人では食事が安らかにできない。”
その夢の中で、”丹波国の「等由気大神(とようけのおおかみ)」を近くに呼び寄せるように”と神託した”とある。
そこで、同年、”内宮に近い山田の地に「豊受大御神」を迎えた。”とある。

そもそも、この説は”神代の時代の話”で「後付」の話である。
ここで、矛盾が一つある。
そもそも、伏見の神社系「稲荷信仰」は、「豊宇気毘売命(とようけびめ)」等の五主神格としている。
この「稲荷の豊宇気毘売命」と「稲荷の等由気大神」とは同神である。
「等由気大神」を勧請したのであるから、「稲荷神」の方が先と成る。

そもそも、信用できるのは、歴史論では「継体大王」からの話である。(現在の定説)
「伊勢神宮」ともなれば「天智天皇」と「天武天皇」と「持統天皇」の事である。
正式に「伊勢神宮の正式な体制」が出来上がったのは、「天武天皇期」の685年である。
全てが正式に動き出したのは「持統天皇」の690年である。
そもそも、元の「内宮」に対して「外宮」を設けての「祭祀の形」は685年と成る。
一方「稲荷信仰」は、地形上から観ると、大和川流域に広がった信仰体とすれば、「ヤマト王権」期の初期には既に、この流域の湿地帯には稲作をする民が定住していた事が判っている。
そして、堺付近の港に大船団で韓から来て上陸し、大和川の流域を制圧後、更に南の「紀族」を制圧して紀伊半島の南端から大和盆地に攻め入ったとある。
しかし、食糧調達が困難と成り、この地域を統治していた「五族」と和平して、この「五族」と共に「政治連合体」をつくった。
これが「ヤマト王権の樹立」である。
「継体大王」(507年から531年)として君臨した。
この時には、既に古来の「民の信仰体」は大和川流域には出来ていた。
何故ならば、「継体王」が、先ず最初にこの「穀倉地帯の重要な流域」を戦略的に制圧したからこそ、「連合体の大王」と成り得たのである。
つまり、この時期には、既に「民の信仰体」(少し後に「稲荷」と呼称)が出来ていた事に成る。
とすると、「稲荷信仰体の原型」は、480年頃から500年までの事に成る。
そうすると、185年から200年前の事である。
「稲荷信仰体」として、流域に「飛鳥期の石塚」が多く見つかった時から考えても、「天智天皇期」の「豊受大御神」を考えても、どんなに考えても100年程度以上前と成る。

更に「日本書紀」では次のように書かれている。
要約すると、次ぎの様に成る。
「稲荷大神」は、「欽明天皇」が即位(539年)する前に、”渡来人の「秦の大津父」という者を登用すれば「天下」をうまく治めることができる”とお告げがあった。
結局711年に、”「秦伊呂巨」が、この「稲荷大神」を「氏神」として納めて国を治めた”とある。
(この頃には、丹波の淀川流域にも「稲荷信仰体」は広がりを見せていた。)

既に、「稲荷信仰」は、539年には、正式には「神道の伏見稲荷」があった事に成る。
この事から、上記の”「稲荷信仰体」が外宮より先だ”とする説は成り立つ。

依って、「豊受大御神」は、この”民の原型の様な「稲荷信仰体」の影響” を受けてのものであると観ていて、通説の逆の経緯を辿ったと観られる。

”民のこの信仰体”が余りにも大きく、且つ、「五穀豊穣」を民から願う信仰体であった。
この事から、”追随して遷宮したばかりの「伊勢神宮」に「外宮」を設けて、「五穀豊穣の神」の「豊受大御神」として受け入れて、「民の信仰体」を追認する形を採った”と考えられる。

その「稲荷信仰体」は、「東大阪の淀川沿いの南域の湿地帯付近」に発祥した全ての「民の古代信仰体」である。
(この湿地帯は3世紀頃は「大和川沿いの奈良域西域の広域」にも広がっていた。)
これは「五穀豊穣」を「民の願い」として発展した自然発生的に広がった”「稲荷信仰」”である。
後の「秦氏の氏神 伏見稲荷大社」の「稲荷信仰体の原型」と成った「古代信仰体」である。
(この事は「青木氏の守護神と神明社」で詳細に論じている)
この「民の稲荷信仰」は、節句毎にこの上記した様な儀式を行っていたと記録されている。
現在も”お稲荷さん”として行われている事が判っている。
この「稲荷信仰の発祥地域」の近くでは、有名な「仁徳天皇陵」等の「古墳群地域」でもある
又、古くからこの近隣には「遷宮の社殿」が多くあった地域帯でもある。
更には、記録にもある様に、「飛鳥の桜井」の地域まで広がる「稲作の環境」であった。
「稲荷」、又は「稲成」と云う字を使ったものも多い通り、”「稲」が成る”の意味を持っていたのである。
この”稲が成る”の”民が集まっていた地域帯”にこの「信仰体の遺跡」が多く分布している。

一般的には、「古代密教」にも、この「儀式の作法」も頻繁に行われているので、それが「庶民の稲荷信仰」にも受け継がれたと考えられるが、その逆なのである。
何故ならば、更には、大和に私伝として最初に普及させた地域は、鞍作部の「司馬達等」が「古代仏教」を伝えたのも、この「河内岸和田域」から「奈良高市郡」に掛けての作業場庵等があった地域である。
この地域には、 ”渡来人の「部民」の在った地域”でもある。
古来より、この「湿地帯の付近」に集まって生活し、そこで自然発生的に生まれた「稲の恵みの神」の信仰体のある地域に何と異教の「私伝仏教」が広まったのである。
兎も角も、この環境からこの「密教作法」が受け継がれて来たと考えられる。

実は、この「稲荷信仰体」には「仏教の稲荷信仰体」もあるのだ。
その有名な信仰体が、実は大阪の「豊川稲荷」なのである。
上記の「伏見の稲荷信仰体」と異なるのである。
つまり、この「豊川の稲荷信仰体」は「神仏習合の信仰体」である。

元々、日本古来の「民の信仰体」の「稲荷信仰体」が、大和川流域に広がりを見せていた中に、司馬達等らの渡来人の技能集団が住み着居た。
ここに、この「司馬達等」の私伝の「古代仏教」が、自然発生的に広がり、ここで、「民の稲荷信仰体」との「習合」が起こったのである。
これが、「豊川稲荷寺院」なのである。

この「茶釜作法」は「民の古来信仰体」の「稲荷信仰」が生み出したものではある。
然し、「神仏習合」の結果から、伝来の「古代仏教」にもこの「茶釜作法」が伝わったのである。

この現象は次ぎの様にまとめられる。

ア 「上位の古来信仰体」の「和魂荒魂の信仰体」 ー公伝の古代仏教との習合 552年頃
イ 「民の古来信仰体」の「稲荷信仰体」       ー私伝の古代仏教との習合 522年頃

奈良期にはこの「二分化の流れ」が起こっていた事に成る。

この「上位の古来信仰体」(「和魂荒魂の信仰体」:天照大神の内宮)は、「豊受大御神」として、この「民の古来信仰体」の「稲荷信仰体の概念]を「外宮」として取り込んだ事に成るのである。
依って、「伊勢神宮」の中の行事でも、この「茶釜作法」に近いものが、現在も引き継がれているのではないだろうか。

(伊勢神宮の守護も任されていた奈良期の「伊勢青木氏」にも引き継がれ、奈良期末期からもこの「茶釜作法」は引き継がれている事から考えると、必ず近い形で遺されている筈である。)


「伊勢青木氏」が「古代密教」として細々とここまで引き継いできている事を考えると、「神仏習合」から、「伊勢神宮」にも何らかの祭事の中に引き継がれていると考えられる。
そもそも、朝廷では古来より「八節会の祭祀」が行われていた。現在も行われている。
従って、その中にこの作法として近いものが遺されている筈である。

さて、そこで「青木氏」は、普通に考えれば、当然に「ア」と云う事に成る。
ア 「上位の古来信仰体」の「和魂荒魂の信仰体」 ー公伝の古代仏教との習合 552年頃

果たして、そうであろうか。確かに、「イ」からでは無い事は判る。
しかし、「朝廷」とすると、上記の「豊受大御神」の源説により、「ア」と「イ」の両方からと云う事に成る。
「朝廷」は「ア」と「イ」の両方と成ると、「賜姓青木氏」が「ア」だけと云うシナリオは成り立つのか”と云う疑問が起こる。
これは検証してみる必要がある。
検証
そもそも、「天皇の夢」だけでその様にする事は先ずない。
朝廷が「イ」を「豊受大御神」として「外宮」で祭祀する様に成った経緯(上記説論)から考えて、それを”その様に仕向けたのは一体誰か”、或は、”発案したのは一体誰か”と云う事に成る。
この時の「執政」は、草壁皇太子に代って「施基皇子」が執っていた。
「伊勢神宮の遷宮」に関わった「天智、天武、持統に仕えた人物」と成れば、「施基皇子」だけである。
全国の政治に必要とする事柄を調査して、「善選言集」(善事撰集)にまとめて具申奏上した人物となれば、「施基皇子」だけである。
「伊勢国」と「伊勢神宮」を国司「三宅岩床連」に守護させていた人物は「施基皇子」である。
何れを採っても「施基皇子」だけである。
ここで、疑問が解ける。

「施基皇子」がこれだけの立場にありながら、他の者が執ったとは考え難いし、先ず立場上は取れないであろう。
然すれば、施基皇子が提案し実行したのに、地元の自分の「賜姓青木氏」が、”「イ」との関係を持たない”と云う事はむしろ矛盾である。
決して、”「ア」だけであった”とは考えられない。
結論は、「朝廷」と同じく「ア」と「イ」であった筈である。

故に、両方に持つ作法の「茶釜作法」であったのであって、「ア」と「イ」の両方の持つ「神仏習合の作法」であったのである。

実は、別の面からここにも証明する事柄があるのである。
そもそも、「稲荷信仰体」は、元より「五穀豊穣」である。
しかし、これをより進める為には、「殖産興業」も必要と成り、「商業」も必要に成る。
「稲荷信仰体」は、実は、この「二つの神格」も持っているのである。
この「二つの神格」は、「秦氏の氏神」として祭祀された頃(711年頃)から、この「二つの神格」を持った事が記録から判っている。

「施基皇子」の没年716年とすると、「日本書紀」を引用すれば、次ぎの様に成る。
妹の「持統天皇」から依頼されて「律令の根幹」にする為にと、全国を天皇に代って飛び廻った経験からも、終年「善選言集」の編集に取り組んだ時期714年頃と一致する。
恐らくは、「農業」を主体としての「五穀豊穣」に加えて、この「稲荷信仰体」に対して、「殖産興業・商業」を推進する様に上奏した。
それを神格化して、”「伊勢神宮」の「外宮の豊受大御神」の「ご加護」として進めようとした”と観られる。
その「青木氏の証拠」に、「伊勢青木氏」には、古くから「伏見稲荷神社の祠」と「朱鳥居」を持っていた事が伝えられていた。
そして、その「仕来り」では、現在まで「稲荷朱鳥居」を建立して祭祀していた。
口伝では、鎌倉期末には松阪の居宅には、「初代の稲荷朱鳥居」は未だあった様である。

「皇族賜姓族5家5流の青木氏」は、日本の「五大古代和紙」を「伊勢青木氏の奨励」で殖産した。
この「古代和紙」としての時期は、6世紀後半から7世紀前半と何れの五地域の記録にも遺されている。
「伊勢和紙」は「伊賀和紙」が主体と成っている事から、それを「他の賜姓族」に奨励した。

年代的には次ぎの様に成る。
この事から、そうすると、「賜姓」を受けた直後647年頃から地元の殖産を強化する為に始めた事に成る。
「大化改新」645年直後と云う事に成る。
外宮の「豊受大御神」は685年・690年の50年前に成る。
「伏見稲荷大社」711年の前に成る。
「古代仏教」の私伝522年と公伝552年の後に成る。

「五穀豊穣」は「当初発祥の神格」としては判る。
しかし、「殖産興業・商業の神格化」は、かなり早い時期であり、「古代仏教」の伝来後に成る。
そうすると、「大化期の直前」と成ると、古来の「稲荷信仰体」が、「古代仏教」の「伝来の影響」を受けた。
そして、「後漢の職能集団」の進んだ技量で、”「古代和紙を殖産態勢」にすること”を習得した事に成る。
当然に、その「殖産」のみならず「興業」には「財源等の基盤作り」が絶対に必要に成る。
その基盤には、「伊勢の守護の青木氏」が関わった事に成り、そうすると、早くて650年頃と成る。
それを「施基皇子」は、その「和紙殖産」への取り組みの経験を通じて、「殖産の奨励」を天皇に奏上した事に成る。
そして、自らも積極的に進め、子孫は950年頃には「余剰販売」まで漕ぎ着けた事に成る。
1025年には「大商いの総合商社」に発展させたのである。

(伊勢北部伊賀を実家とする「平清盛」がこの殖産に共同体として大いに関わった。清盛も「宋貿易」に関わった。)


結局は、「青木氏」は、朝廷と同じく「ア」と「イ」の両方の影響を以てして、「稲荷信仰との関係」もあった事に成る。
故に、伝わる「茶釜作法」は両方からのものである事に成る。
それだけに、この「茶釜作法」は、”単なる作法では無く”、”青木氏の歴史を物語る作法”であったからこそ、ここまで引き継がれて来た事に成る。
「単なる儀礼上の作法」ではここまで伝わらない。
当に、「茶釜作法」は「青木氏作法」であった。

「民の稲荷信仰」=「茶釜作法」=「青木氏作法」=「密教作法」

同時に、「民の稲荷信仰」は「青木氏の稲荷信仰」とも云えるのである。
「賜姓族と国策氏の立場」にある「伊勢青木氏」に取って不相応に見える「稲荷信仰体」は、ただ単に、「二足の草鞋策」の為の「ご利益の稲荷信仰」では無く、そのもの「青木氏の稲荷信仰」でもあった。

この背景には、「古代和紙の殖産能力」を高める為に、その殖産を「近江、美濃、信濃、甲斐」の「5家5流の青木氏」に奨励した事が上記関係式が広域に出来上がったのである。
その朝廷には、「豊受大御神の加護」を誓願して、「民の稲荷信仰体」を大きくする為にも、古来からの「五穀豊穣の神格」のみならず、そこに加えて「殖産・興業・販売の神格」を付加させる様に「民と朝廷」に働きかけたのである。

この為には、その「殖産・興業・販売」を成し遂げる「財力と技量と政治力と販売力」が必要であった。

(上申に依って、朝廷は「紙屋院」と云う役所を創設した。これが伊勢青木氏の「紙屋」の称号の元と成った。)

そもそもこの計画は、急に出来るものではない。
「財力」と「政治力」は「青木氏」が受け持ち支える事で可能である。
問題は、その「古代和紙の生産」の「技量」を高めなくては成り立たない。
そこで、この大和川流域には、「後漢の職能集団」が庵を構えて住んでいた。
そこで、彼らの高い進んだ「製紙の技量」を持ち込みむ事で成り立つし、「殖産」も彼らの知識を受け入れば可能に成る。
問題は、「販売力」である。
しかし、この時代は、未だ完全な「自由市場」では無く、「半市場の部経済」を敷いたばかりであった。
つまり、全ての「職能集団」から、その物を先ずは一度朝廷に治め、必要な分を税として取得し、その他を市場に放出する制度を取っていた。
結局は、「古代和紙」に関しては、「和紙の余剰」の販売は、「青木氏」が自らその市場を獲得して、売り捌く事に成る。
「半市場経済」とは云え、”売り捌く事 そのものの行為”を確立する事の難しさがあった。
更には、この時代は未だ「紙」では無く、「記録材」としては「木簡」が全てであった。
そこに、この「古代和紙」を生産し、殖産し、販売して、興業しようとしているのである。
当時としては、今までに無い ”全く新しい産業” を興そうとしている事に成る。
現在で云えば、パソコンか携帯電話に等しい革命である。
それも現在では無い、当に「大化期」である。
この時から「青木氏」は、”相当な覚悟を以てして奏上した”だろう事が判る。
奏上だけでは済まない。
「伊勢神宮の豊受大御神の加護」として「伊勢神宮」にも協力を仰がねばならない。
「民の稲荷信仰体」の庶民にも、その必要性を解き、生産してもらわなくてはならない。
彼らにしても初めての未だ経験もした事のない仕事である。
何れもなかなか納得はしなかったと考えられる。
しかし、”「氏」を掛けての挑戦”であった事が判る。
ここから「青木氏の商いの基礎」が敷かれて行った事に成る。

結局は、記録では、興業としての「商い」は、青木氏の記録では「古代和紙の販売」は950年頃と成っている。(正規の生産開始は730頃)
とすると、「殖産」を始めてから”300年”と成っているが、次ぎの経過を辿ったと考えられる。

A  和紙の良質な生産開始に50年   (730年頃 正倉院 紙屋院 白鳳文化 記録)
B  和紙の殖産を始めて余剰品を作り出すには50年    (770年頃 平城消費文化)
C1 商い態勢に50年            (810年頃 平安初期文化 摂関文化初期 記録)
C2 販売能力に50年            (890年頃 平安中期文化 摂関文化中期 記録)
D  興業として50年             (950年頃 国風文化前期 摂関文化後期 記録)
以上として観れば成り立つ。

S(初期)
初期の段階では「原材料の調査」、「生産する農民」の養成、適切な「耕作面積の獲得」、
それを和紙にする「技量の習得」と「職人の養成」等で、思考錯誤しながら基盤を作った。
とすると、次ぎの様に成る。
以上には、一期毎に50年程度の相当な期間が掛かったと考えられると、納得出来る。
「本格商い開始- 50年- 「950年」

E(完成)
「総合商社」として75年           (1025年 国風文化後期」 記録)

この期間に関しては、「紙」は「文化のパラメータ」である。
以上の様に、この「古代和紙」の「紙」を日本最初に作る事に挑戦したのが、「5家5流皇族賜姓青木氏」なのである。
日本のこの「紙文化」には必ず「宗教文化」が伴っている。
従って、青木氏の一面の”「紙屋」の歴史の変遷”は、この「紙文化」に左右されている事に成るのである。
そして、その紙の多くを消費していた「宗教文化」にも左右されていたのである。
下記に詳しく論じるその「宗教文化」の「仏舎」の「仏画」の歴史も、この「青木氏の紙の変遷」が大きく関わっているのである。
当然に、次ぎに論じる「節会」もこの「宗教文化」と「紙文化」に左右されているのである。
「宗教文化」→「節会」←「紙文化」
その「文化のパラメータ」の「紙の使用」が、Aの様に、「東大寺の写経会」に観られる。
この様に、初期の「紙文化」として遺されている「文化資産」は、「経典」と「仏画」の類が殆どである。

しかし、「後期の紙文化」としては、「鎌倉文化と室町文化」は、初期の「経典仏画」類に関わらず、全ての書籍等の「紙材」に利用されている。

中には、Bの様に、未だ一般に「紙市場」が無かったにも関わらず、「平城京」で起こった「消費経済」で「紙」が初めて大きく「消費される現象」が起こったのである。
余剰品が消費される環境が出来て来た。

そして、遂に、遷都に依って、紙の使用は庶民の中にも浸透し始めた初期の現象が起こった。
要するに、「公家文化」と「武家文化」の開始で「紙」が盛んに使われ始めた。
特に、世に「摂関家の文化」とも云われる文化であった
最早、余剰品の販売の領域を超え始めたのである。
本格的な「販売体制」に入らなくてはならなくなった。(C1)

結局、「初期の販売体制」は、区切る事無く続き、本格的な全国的な販売体制が必要に成った。
そして、「輸送」「安全」「全国的な組織体制の確立」の必要性に迫られた。
「輸送」には、大量に運ぶには「船」「陸送」が使われるが、これらを安全に輸送できる全国的な「護衛組織の確立」(シンジケート)が要求された。(C2)

C1+C2=Dの数式が完成した事から、今度はこの組織を使って「紙屋の商い」の組織と「賜姓族」の組織とを分離した。
そして、本格的な「二足の草鞋策」が始まった。
現在で云う「興業組織」の「紙屋」に成長したのであった。
各地に「守護神の神明社」などを使って「支店」などを設けた。
「紙屋」と「青木氏」との関係が世間では判らない状況となった。
恐らくは、当初は殆ど「紙」は「伝来紙」で賄われ、「朝廷や上級階級」が使う超高価品であったことから、朝廷に治めるものでいっぱいで、市場に出まわるまでにはなかなか至らなかったと考えられる。
当然に、ここまで到達するには、この期間が相当長かったと考えられる。
「紙の変遷」として、「何らかの文化」が起こらない限りは、より多く作り続ける前に、「限定生産」の状況であった筈であろう。
しかし、「日本の文化」は違っていた。
上記の様に、ほぼ、40年から50年程度で、「日本文化の変遷」が起こっているのである。
従って、「紙の文化」もこれに連動していたのであり、「青木氏の変遷」もこれに左右されていたのである。

「日本文化の変遷」=「紙の文化の変遷」=「青木氏の変遷」=「7期の変遷」

記録によれば、その大きな先鞭になったのは、矢張り「天平文化」である。
記録では「写経」「絵画」「仏画」「記録」に使われたとある。
そして、何れもの変遷は、”夫々特徴の持った進化のある上記の「7期の変遷」”を持っていた事になる。
云い換えれば、「青木氏の変遷」も、”夫々特徴の持った進化のある上記の「7期の変遷」”と云う事に成る。

記録
日本に、最初に「紙」が伝来したのは、296年と成っている。(「写経本」で西山本願寺蔵)
初めて日本で「伝来紙」で使われたのが、513年であった。(日本書紀に記載)
初めて、日本に「紙生産技術」が「後漢」から入ったのは、610年であった。(僧侶兼職能者)
「古代和紙」を使って書かれたものとして遺されているのは、739年である。(正倉院蔵)

この年代から判断して、650年から初めたとすると、上記のEからAに達していた事に成る。
何とか739年には既に「伊勢和紙の生産開始」できる態勢に入っていた事を意味する。

この739年(施基皇子没年716年の23年後)の直前に、「伊勢青木氏」は、「古代和紙の生産」に取り掛かった事を踏まえて本腰を入れる為に敢えて”「紙屋」”の商号を名乗った。
それを以て支援していた朝廷では、その仕事をし得る「役所」を定め”「紙屋院」”としたと考えられる。
これが「二足草鞋策」の「青木氏の紙屋」の始まりである。

この「正倉院の紙」は、「日本初の紙」として「伊勢青木氏」が朝廷に献納したものである可能性が高い。この時期に「古代和紙」を生産していたのは青木氏だけである。
故に青木氏の商号「紙屋」である所以である。
「仏画」にしても同様に、「青木氏」以外に上記の通りのSからEを成し得る氏は無かった筈である。
750年に行われた「東大寺写経」のものを調査した結果では、使われた紙は「伊賀和紙」の「楮和紙」である事が判っている。
つまり、「生産開始」から10年経っていることから、既に、「楮和紙」が普通に成っていた。
従って、敢えて使う事が無い筈で、況して、恒例の「写経会」で本格的に使う事は無いだろう。

その中の「写経紙」の中に「異質の紙」の粗目で「茶褐色の紙」が混入している事が判っているが、この事で多くの説があって定まっていない。

「延喜式格」に記載されている説としては、この「粗目紙」は「マメ科の紙」と記載されているが、この和紙は普及しなかった事が判っている。
筆者は、739年の後の750年である事から、「楮の紙」で生産開始の成功した時期から観れば、「テスト中の紙」も「日本古代和紙の歴史」の記録を遺す意味で敢えて使った事では無いかと観ている。
(「マメ科の古代和紙」は結局は「紙質不良」で直ぐに消えた。)

後漢の僧侶で職能者でもあった者が、自ら「民」の前で紙を作る程の器用さを持ち合わせ何でも作った僧侶であったと記録されている。

当時の記録を辿れば、大和川流域には、「古代和紙」に使える材料は、次ぎの四つであった。
1 麻    美濃産  中部  美濃古代和紙
2 楮    伊勢産  関西  伊賀古代和紙   信濃古代和紙
3 雁皮  近江産   中国  近江古代和紙  鳥の子紙 782年
4 三椏  甲斐産   関東  甲斐古代和紙  和紙としては 1600年に伐採 家康許可

恐らく、この「古代和紙」に使える原材料を見つけるだけでも、相当な時間を要したと考えられる。
夫々に紙質には特徴があり、使用に値するものにするには、「相当な技量」を要し、「研究の期間」もかかったと考えられる。
記録では、何とか「紙」にしたものの、紙質そのものが悪かったとされ、「滲み解消」等の研究に相当な時間を要した事が書かれている。
上記の様に、真面に使え遺し得る紙に成るまでには100年かかっている事に成る。
「伝来紙」は「粗悪」で大和での「紙の普及」には繋がらなかったとされている。
聖徳太子が挑戦したと云われる「福井の和紙」も市場や記録には結局は出て来なかったことがその大変さを物語っている。
研究室に「藤白墨の論文」を掲載しているが、全く同じ経緯を持っていた事に成る。

a 「伊勢青木氏」が、先ずこの「後漢の僧侶」に「紙の生産の仕方」を学んだ事
b 時代の変化と共に「改新の火種」にするには、「紙」だと認識した事
c 地元の「民の協力」を「大和川流域」に求めた事、「稲荷信仰体」に求めた事
d 良質な紙にする為に「稲荷信仰体の協力」を得て発見した事
e 紙質の改善や開発に「住民の協力」が主体に成っていた事
f 楮の土壌として、大和川流域の湿地帯の適地に求めた事
以上の事が良く判る。

特に上記のSの事が証明されている。
全てを細かく説明は出来ないが、「紙の材料」を発見する為に、面白い事が書かれている。
これだけを紹介する。
先ず最初に手に付けたのが麻であった。その麻は民が着ていた衣服を脱いで、煮沸したり、他の植物を混ぜたり、不要になった漁網を細かく切って混ぜたりして試行錯誤した。
然し、上手く行かず、最後に辿り着いたのは、それを”石臼”で細かくして試みたとある。
出来た事は出来たが、それでも色が悪く、厚すぎたり、書き難くかったり、墨を弾いたり、滲んだりして、普及しなかった。
そこで、粘土なども使ったが上手く行かなかった。
ある時、間違えて窯の「灰」の着いた材料を入れて仕舞った。
ところが、これが、「色」と「書き難さ」と「弾き」と「滲み」を無くしたのである。
「灰」はアルカリ性で色を還元して白くし、不純物を溶かし、表面を溶かして滑らかにし、紙の間に灰の粉が入り「弾き」と「滲み」を無くしたのである。
当時としては画期的な科学的な発見であった。
後は、問題は「厚み」と「平均化」であったらしい。
良く煮沸して、柔らかくして、最後は”臼”で細かくして、漉く温度を保ち、後は出来るだけ薄くする道具を考え出したとある。
”臼”が決定的な革新であったらしい。
未だ大和には、”「臼」”そのものの概念は無かった。
更に、この”臼”を「川の水」で「水車」を使って廻すと云う「機械概念」は全く無く、その伝来の後漢の技術が画期的に紙の発展に寄与したのである。

この「紙の文化の変遷」は、”「臼に依る技術革新」”が無ければ、量産を伴う殖産は、更に、200年は確実に遅れていただろう。
「紙」は「文化のバラメータ」ではあるが、この「紙の臼の技術革新」は紙以外にも画期的な革新をもたらした。
最後はまとめあげる為の全ての「経験」であった事が筆者の家の資料によると詳しく書かれている。
他の外部文献にも同じような事が書かれている。
その結果を以て「楮」や「雁皮」や「三椏」を試した事に成り、この四つが紙に成った。
中でも、”2の「楮」”が最も生産や紙質に適していた事に成った。
「雁皮」は「鳥の子」と呼ばれ、「近江産の古代和紙」として有名で「画紙」として良質である。
事ほど左様に、Sが解決すれば、AからDの改革に取り組む事に成る。


上記した様に、「紙の文化」の「7つの変遷」と共に、「宗教文化」も下記に論じる「節会作法」も同じ経緯を持っている。
これら「紙文化」が「宗教文化」(節会文化)に強く影響を与えたが、「青木氏の変遷」も、”夫々特徴の持った進化のある「7期の変遷」”の大きな基盤に成長して行ったのである。
この「青木氏の変遷」が「青木氏の密教文化」を支えたのである。

当に、この「青木氏の変遷」=「紙文化」=「密教文化」=「宗教文化」=「節会文化」であった。

以上の数式論が成り立つ相互関係を維持していたのである。
その為には、「密教作法」に繋がるこの「節会」に付いて更に深く論じて置く必要がある。

「節会と節句」(「青木氏の変遷」)
例えば、兎も角も、3月の「節句」の「雛祭り」や5月の「節句」や「彼岸」などには、祭祀の内容が、”夫々特徴の持った進化”の為に、世間とは違っている。

「三月の節句の雛祭り」には、伝来の大きな80センチの「一対の雛人形」を居宅に飾る。
しかし、筆者の家では「雛段」は無い。
明確な意味合いは不明ではあるが、これはそもそも「雛祭り」と云う意味合いでは無かったのではないかと判断できる。
「平安時代」の「遊び雛」や「厄除け雛」、「江戸時代」の「祭り」を主体とした「雛祭り」のもので無い事は明らかで有る。
恐らくは、「青木氏の子孫繁栄」を願っての正に「祭祀」であったと考えられ雛人形と云うよりは「像」に当たる。
それは平安期の「遊び」や「厄除け」、江戸時代の飾り立てた「祭り性」は全く感じられない。
そもそも、青木氏には、「遊び、厄除け、祭り」の様な「伝統的な性格性」は無い。
要するに「堅物」であろう。
(この「雛人形像」なるものは、後に桐箱に入れられて居た。更に、明治期には像をガラス箱に収められて保存性を高めた。依って「雛人形」の様に観えるのであろう。)

「賜姓族」として、室町期末期より菩提寺から居宅に移されているが、自然の生物が芽吹く時期の三月にこの「一対人形」を持ち出して祭祀したところから「子孫繁栄」を祈願したと観られる。
これは、「大日如来像」や「毘沙門天像」と同じ祭祀の意味合いを持っていたと考えられる。


確かに「五月の節句 端午の節句」にも、明治期以前の江戸初期頃には、大きな「毘沙門天像(人形)」(120センチ程度)を”祭っていた”と伝えられている。
否、”飾った”では無かった筈である。
この祭祀は「居宅」では無く、当初は直ぐ近隣にあった「菩提寺」での祭祀であったと聞かされていた。(平安期初期頃)
「三月の節句」「五月の節句」の祭祀も、世間の”子供の節句”と云う意味合いの祭祀では無かった。
「菩提寺」で行う以上は ”別の意味”があったと観られる。
仮に、「雛祭りや端午の節句」等の「子供の節句」であれば、その意味合いから「居宅」で行われる筈である。
「菩提寺」では無い筈である。つまり、「仏教行事」では無い事に成る。
然し、「青木氏の菩提寺」であった事は、「古来宗教の概念」を持った何らかの「密教的行事」であった事に成る。
つまり、「節句」では無い事に成る。
世間と異なる”夫々特徴の持った進化”が、「青木氏の変遷」の中で、この様に起こっているのである。

と云うのは、この時、つまり、鎌倉期頃から「菩提寺」では、「大日如来坐像」の「お仏像様」と合わせて「護り本尊」と呼ばれていた「毘沙門天像」(下記)の一対で祭祀していた事が判っている。

毘沙門天像の出現
この頃の経緯としては次ぎの様に成る。
平安期初期に桓武天皇から「皇親族」としての「青木氏」を排除した。
この為に一時衰退したので、菩提寺に移した事が考えられる。
その後に、子供の「嵯峨天皇」は、再び「皇親族」で行う「皇親政治」を敷いた。
この為に、「青木氏」は再び勢力を盛り返した。
この間、約50年程度、「毘沙門天像」等の祭祀は菩提寺に移した。
ところが、鎌倉期から室町期には「紙文化」が徐々に起こる。
遂には「室町文化」で華が咲いた。
その結果を受けて、平安中期頃(殖産950年頃)から「5家5流青木氏」の「殖産・量産・販売の興業」に成功した。
「二足の草鞋策」(商い1025年)で「紙問屋と総合商社」(「二束草鞋策」)を全国的に営む氏として復興した。
この直ぐ後の10年後に、「特別賜姓族の藤原秀郷流青木氏」が発祥し、「賜姓族青木氏」を補完する態勢が出来た。
再び、これを受けて「950年頃」に菩提寺に預けていた「毘沙門天像等」を居宅に引き上げて祭祀したとある。
150年間 「青木氏菩提寺」で「毘沙門天像」と「雛人形等」は祭祀していた事に成る。
ところが、当初は「菩提寺」での”正式な祭祀”(150年)であった。
上記した様に、再び、室町末期の戦乱と大火(信長ー秀吉の伊勢攻め 1567-1574年)で避難して「紀州新宮の居宅」に移した。
この頃から、その”祭祀の意味合い”が若干俗化して異なって来たのではないかとも観られる。
新宮の居宅での祭祀は10年程度で松阪の居宅に戻した。
秀吉家臣の蒲生氏郷から「本領の安堵」と、松坂に居宅(「侍屋敷」9から11番付与)を与えられる。
(超大地主250万石以上の有資産があった。)

古来より、季節の節々に、「伊勢神宮」は兎も角も「宮廷」においては、”「節会」(せつえ せちえ)”と呼ばれる宴会が奈良期より恒例で開かれていた。
これを江戸時代には、”「節句」”として称し、「祝日行事」と定めたことから、”「節句」”と云う行事と世間では成った。

様々な異変に左右されながら以上の経緯を経ている。

そもそも、奈良期から、宮廷では「節会」(せつえ・せちえ)として「皇族一族」が介して「宴会」を催した。
然し、この「節会」では、”奈良期からの「神仏習合の影響」”を受けて、「現世の者」ばかりが集う場だけでは無く”、先祖との会する場”として設けられた行事であった。
故に、言葉が「節の会」と「節の句」とに分けられているのである。
「伊勢青木氏」も”「節会」(せちえ)”と呼称されていた事から考えると、「宮廷」も「密教」と「古来宗教」の影響を受けて、”先祖との会する場”の概念が継承されていた事を物語る。
元々は、「古代密教の仏教」では、この場を「仏教用語」として「節会」(宮廷は”せつえ” 青木氏は”せちえ”)としていたものであり、”先祖との会する場”としての「迎える古代密教作法」があった。
(古来は”せちえ”の「節会」と呼称されていた。)

これが上記した「道標行燈」と「茶釜所作」の関連する「密教作法」であった。

九度所作(節会所作)
この「仕来り」は、江戸時代の様に、庶民化して「祝日」としての「節句行事」では元来なかった。
「居宅」で行われていた「雛人形像」などの祭祀は、この様に「祝日行事」としてでは無かった。
この「節句:せっく」と「節会:せちえ」の言葉の違いでも判る。 
「伊勢青木氏」に引き継がれて来た「密教作法の節会」は、この「古代密教の作法」にて ”先祖との会する場”であったのである。
年を経て繰り返す神仏を祭祀・行事を意味する”「節」”に、仏に会う事の意味として”「会」”と合成語の言葉の所以である。
「青木氏節会」は、「先祖との”会”する場」の密教作法であるのだ。
従って、「伊勢青木氏」では、「お盆の節会」と「彼岸の節会」が、その最も ”先祖との会する場”が重要な場であった。
この為に、他の節会よりも「道標行燈」と「茶釜所作」の「密教作法」以外にも、”「仏壇」”(仏舎)などの「迎え所作」が徹底していた。
(「青木氏」は、顕教の「仏壇」では無く、密教である為に「仏舎」と呼称していた。)
故に、上記した様な、「密教作法」が採られた上で、下記の”「九度所作」(節会所作)”と呼ばれるものが伴ったのである。

江戸時代には、民間には年間にわたり様々な「節句」が存在しており、その内の5つを江戸時代に幕府が公的な行事・祝日として定めた。
しかし、”、先祖との会する場”とするものでは無かった事から、「お盆」と「お彼岸」と「年暮」は「節会」である。
次ぎの様に庶民では「節句」では無かった。

それが次ぎの”「五節句」”(庶民の節句)である。
1 人日の節句 おせち料理 七草粥
2 上巳の節句 雛祭 菱餅 白酒
3 端午の節句 菖蒲酒 関東は柏餅、関西はちまき 菖蒲湯
4 七夕の節句 素麺
5 重陽の節句 菊酒

以上が江戸期に定められ「祝日」の「五節句」である。

次ぎは「密教青木氏」の”「三節会」”である。
A 「入盆」
B 「彼岸」
C 「暮年」

以上の”「五節句」”は、何れもその元は「重陽の節句」にしろ、「七夕の節句」にしろ、”先祖に思いを馳せた祭り”であった。
「端午の節句」、「雛祭りの節句」にしても、”「子供の成長」を一族が集まって喜ぶ祭り”である。
要するに「先祖への子孫繁栄」を伝えるものである。

「正月の節句」は、年の始めを祝詞する他の四つを纏めた様な ”総合節句の意味合い”が古来よりあった。
しかし、時代と共に「民の文化」の方は変化を来したのである。
この様に元を質せば、「青木氏の密教作法の節会」は「先祖」とは切り離せない祭り事であった。

「道標行燈」と「茶釜所作」はこの「青木氏の密教作法の節会」の中の一つの作法で在った。

系統概念の有無
伝統を継承するには、系統的概念が必要と成る。
然し、そもそも、江戸時代には、庶民には、”ルーツを系統的に遺す概念”そのものが無かった。
上級武士を除き、依って、”系統的に祭祀する墓、” そのものが未だ無く、当然に、無墓では「節会」では無く成る。
(その「伝統」や「系統性」に関わる「墓の起源」は下記に論じる。)
仮に、「毘沙門天信仰」が、庶民の中に発展したとしても、「戎神」、「勝負神」、「無病息災神」の範囲に留まった。
この「三つの神格」、即ち「庶民の神格化」が示す様に、”特段の概念の無さ”を顕示しているのである。
ところが、江戸期も含めて、近年次第に、より益々 ”「先祖」の意味合い”が低下して、単なる「祝日」「祭り」に更に成りつつある。
むしろ、「先祖の概念」は、論外として認識されていない状況であろう。
明治以降、「先祖の概念」は、「先祖の概念」として ”「別扱いとする合理的判断」”に依ったものと考えられる。

”先祖との会する場”と云う「密教概念」が無い事を示している江戸初期の「五節句」では、250年も経過すれば、民衆からは必然的に「先祖を尊ぶ概念」は無く成るであろう。
しかし、そんな中で、”先祖との会する場”の「青木氏の密教の概念」が、「青木氏の生活の作法」として1500年も遺し得ていた。
だからこそ、又、「先祖の概念」が系統的に『維持されて来たからこそ、「伝統」として強く遺されて来たのである。
ここに「根本的な大きな違い」がある。

何故ならば、全ての庶民は、明治3年を境にして、一挙にして「姓」を特定する「苗字」を持つ事に成った。
”「系統性」を持ったと云う事”である。”「伝統」を維持する事が出来る様に成ったと云う事である。
その結果として、”未だ、系統化された「ルーツ」の無いまま”に、”漠然とした先祖への思い”として「墓所」を持ち始めたのである。
況して、その「墓所」は、それまでの「仏教の慣習」の「砂岩の墓」(下記)では無く、「花崗岩の墓」を設け、それまで無かった「家紋」まで仕立てての墓所と成った。
「苗字」も8年間もなかなか進まなかった中、「系統性の持つ苗字」が出来ると成ると、今度は一夜にして「前の概念」を捨て、新たに「先祖の概念」を持つ”変わり身の早さ”に至ったのである。
これは、幕府が定める恒例の「江戸期の5節句」として250年続いた祭祀の中である。
上記した様に、「5節句」は、元を質せば、”先祖への思いを馳せていた事”が、「休日・祝日」の中で、意識の何れかに遺されていたのであろう。
それが、「苗字取得」に依って ”今後、先祖を特定できる” として「一挙の行動」に出たと観られる。
庶民には「休日・祝日」であった「五節句」を祝う中で、且つ、「ルーツの探究」が出来ない慣習の中でも、”根底の意識”の何処かに「先祖の概念」の思いと要求があった事を示す現象である。

これには、調べると、面白い事が出て来る。
「幕府の5節句の休日・祝日・祭日」とした「指導の仕方」にあったのである。
例えば、幕府自らが 、”「働く日」に休む馬鹿 「休みの日」に休まぬ馬鹿”等の狂歌や川柳を多くを出して、「社会のムード」を作り上げて、苦労して初めての「国家的祝日」を作り上げた事が判っている。
従って、この「5節句」は、到底、”先祖へ思いを馳せる祭り”とする事などは到底に無理であったのである。
あくまでも、「休日、祝日、祭日」の節句であった。
それも、”有史来の画期的な行政策”である。
その職場職場で適時適切に決めていた「慣習の休み」で、”暗黙の内にこの日は「休み」”と云う社会体制であった。
それを全国統一して、何が何でも”休め”としたのである。
それが、朝廷が祭祀として行っていた「八節会の儀」の中から ”民衆が休みやすい節会”を五つ選んだのである。
しかし、それの根拠が、”先祖との会する場” 又は、少し緩めて、”先祖へ思いを馳せる祭り”にしてでも、上記した様に、”未だ系統化された「ルーツ概念」”の無いままであった。
庶民にしてみればこれは、 ”ピントボケの施策”と成る。

「青木氏の三節会」のABCは、江戸期の記録から観ると、「朝廷の八節会」が行われていて、それに合わせて、”「系統化されたルーツ」を持つ上級武士を含む上級階層の間”でも、それなりに祭祀として行われていた。
「青木氏」の様に、「密教」であるかは別として、「顕教の慣習」でも兎も角も行われていた。
「朝廷の八節会」は、「伝統を護る為の行事」であり、「先祖を敬う行事」でもあった。
この事から、それなりの有る階層では、「八節会」はこの「二つの事」を護る「社会的ムード」が在った。
そこで、それに関わる家人や下僕や出入りする職人・商人・農民にも、その祭祀に順応して「主家の祭祀」に従ってお参りした。
その上で「義理」を表すために無理にでも「休日」として”1日を念じる姿勢”を示した慣習であった。
(江戸期は「義を重んじる社会」であったから成り立つ慣習であった。)
恐らく、この事もあって、幕府は敢えてこのABCは外したと観られる。

然しながら、筆者の家では、代々「人日の節会」(正月:人の日)の言葉通り、「年暮の節会」から一族が一堂に集い ”「人」に思い馳せる場”としての「節会」であった。
決して「休日、祝日、祭日の節会」では無かった。
上記した様に、「密教の青木氏」は、「年暮」から「道標行燈」を設け、「仏壇」(仏舎)には、吸い物や精進料理を伝来の「高瓶朱盆」に載せて祭祀し、一夜通しで「人日(正月)の節会」に入る作法が引き継がれる。
この「人日節会」(正月 人の日)には、「朝昼晩」には夫々決められた精進料理が供えられる。
二日目にも、「昼晩」には同じ所作が繰り返される。
三日目には「晩の所作」のみで「道標行燈」の「送り行燈」を灯明し、一族うち揃って「般若心経」を「女主」が中心に三代前までの先祖の数だけ唱えて終わる仕来りである。
これが「青木氏密教の作法」であり、元々正月は、むしろ「不作法の日」とする「民衆作法」と成っていて大きく異なる。
民衆の「人の日の節句」は、江戸幕府の川柳などの宣伝もあって、結局は”休ませる事”に重点が置かれ、”人を休ませる日の節句”と解釈されたのである。

事ほど左様に、他の四節句も、”休ませる事”に重点が置かれ、「人日の節句」の通りに考え方が、上巳、端午、七夕、重陽にしても、全てこの”休ませる事”の解釈であった。(別記)

”何故、この様に成ったか”と云う論調には、上記の「稲荷信仰体」と同じく、次ぎの「庶民信仰体」の影響が左右されていたのである。

終わり。

「伝統」-5に続く。

「毘沙門天の影響」



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:「青木氏の伝統」-「女紋」

[No.320] Re:「青木氏の伝統」-「女紋」
投稿者:福管理人 投稿日:2014/07/29(Tue) 11:11:00



「青木氏の分布と子孫力」-12に関連投稿済



「伝統 3」

「女紋」

さて、「家の家紋」には、一般に使われない「女紋」「女墓」等の”女系に関する「慣習や仕来り」”があって、「青木氏」は、この「女紋」や「女墓」等の「女系のステイタス」も継承する慣習を持っていて、それに多くの「慣習仕来りや掟」が付随していた。
この「女紋」や「女墓」の事を知識として持ち配慮して検証しないと、ルーツなどには判明しない事が度々に起こるし、間違える事が出る。
そこで、今回の「摂津青木氏の検証」には、次ぎの「女紋」として家紋が大きく左右した。
以下は、この情報提供を受けて、「摂津青木氏の判定」がより確実となった。
なかなか、現在では、この「女紋」「女墓」等の習慣を継承している青木氏でさえ少なくなった。
「青木氏の慣習」に習って、勃興した上級武家もこの慣習に習って継承した経緯がある。
この「女の慣習」と云うべき「慣習仕来りや掟」は、主に江戸初期まで維持されたもので、江戸期に入って「女性の立場」は社会の中で抑え込まれた様な環境に成って行った。
その為に、これらの慣習は、「特定な家柄筋」の中で維持されてきた。
特に、青木氏には、「女紋」は主に「儀式祭祀」の中で昭和の中頃まで遺されていた。

そもそも、「皇族賜姓青木氏」は、家紋は「象徴紋」の扱いである事から、支流傍系等の事を表す手段として「丸付き紋」は一切使用していない。
但し、「象徴紋=総紋=家紋」となるが、この為に、「副紋」は使わず「女紋」を慣習として用いた。
他氏には観られない「女墓」も同じ考え方である。
この事は本論の上記でも論じたが、「特別賜姓族青木氏」は次ぎの様なこの慣習を家紋に直接反映させる方法採っていた。
特別賜姓族は「副紋」を使う代わりに、原則として、「丸付き紋」は使用しない仕来りと成っていた。
文様が元より「丸付き」の文様として出来た家紋の場合は例外とした。

先ず、大別すると次の様に成る。
A 氏一族一門全体を示す「総紋」がある。
B 家のルーツを個々に示す「家紋」がある。
C 家の副ルーツを示す「副紋」がある。
D 家の女系ルーツを示す「女紋」がある。
F CとDを兼ねた「副紋」=「女紋」がある。

Aは、「下がり藤紋」となるが、「総紋」をそのものを「家紋」とする事は、「総宗本家」と、それぞれの「流れ」の「宗家」「本家」までが「家紋」として継承する仕来りである。
従って、「総紋」を「分家」は家紋とは出来ない。同様に同じ目的の「藤原氏の氏名」もこの「仕来りの内容」に従っている。

Bは、「総紋」だけではその子細なルーツを示す事が出来ない為に、先ず「家紋」を用いて判別させる仕組みで「流れ」を示す仕来りである。
この場合は「総紋」の中に文様として組み込んで使う手法と別に分けて使う場合がある。
特に、枝葉から観て、判別要領は次ぎの様に成る。
イ ”「幹部」に位置する独立性の高い「流れ」の「青木氏」の場合”は、「組み込み方式」を採用する仕来りである。(本家筋)
ロ 逆に、”「抹枝」に位置する流れの青木氏の場合”は、別に分けて使う「分離併用方式」を採用する仕来りである。「併用紋」である。

特に、イの「組み込み方式」の家紋は、”独立性の高い「宗家筋」(本家筋)の流れの家柄”を示す。
例えば、「組み込み方式」では
「讃岐藤氏の青木氏」の「下り藤紋に雁金紋」
「武蔵藤氏の加藤氏」の「下り藤紋に巴紋」
「尾張藤氏の柴田氏」の「下り藤紋に一文字紋」
「結城藤氏の結城氏」の「下り藤紋に左三巴紋」
等がある。
「分離併用方式」では、
「下り藤紋 違鷹羽紋」がある。
「下り藤紋 州浜紋」
等がある。

Cは、藤原氏の様に全体で361氏にも枝葉末孫が拡大している場合、その青木氏が116氏にも拡大している場合は、B方式では未だ子細は充分でない。
そこで、更に、この「流れ」を更に判別する方法として、Cの「副紋」を用いた。

例えば、次ぎの様なものがある。
秀郷一門の「主要家紋8氏」の中の家紋で「家紋主要8氏」が用いたものである
「違鷹羽紋に一文字と開き蛤紋」の様に、「一文字紋」と「開き蛤紋」を「副紋」として用いた。
これは、「分離併用方式」の”併用する方法”とは違い、これは、別の「第二家紋」扱いで使用した。
「左三巴紋に釘抜紋」「左三巴紋に三角藤」
「左三巴紋に上藤丸紋」「左三巴紋に蛇目紋」
「檜扇紋に隻雁と五三の桐と丸に三引紋」
以上等が「第二家紋」扱いの副紋である。

依って、「一般の氏」には、この「Cの副紋」(第二家紋)は原則的に用いられていない。

a 「北家藤原秀郷一門一族」の361氏に成る様な「子孫力・子孫拡大」を起こしていない事
b 「高い格式」と「同族血縁」が無い事
c 「青木村」の様な「権威村」を構築出来ない事
以上等が原因して「Cの副紋」は用いていないし、用いられない。

(「氏族」では無理に誇示する為に用いたものもあるが、「姓族」そもそもない。)

このBの「分離方式併用方式」の「副紋」は、「家紋掟」に依って、「跡目継承の問題」で「変紋」を余儀なくされた”本家筋が用いた手法”である。
従って、”分家、支流、傍系”には、この「Bの副紋」の「分離併用方式」の「副紋」は原則ない。
そもそも、重要な事は、”「副紋」を持つと云う事”は、その「流れ」の”「本家筋」以上の格式の家筋を示す事”を意味する事に成る。
要するに、「Cの副紋」は「第二家紋扱い」の家紋である。
AとBとCの家紋方式を以って秀郷流青木氏の家筋は解明できるのである。

Dは、AとBとCの家紋に対しての「男系ルーツ」に対して、「女系ルーツ」を明示して、その「ルーツの正統性」を誇示する慣習である。
一見して、「Cの副紋」と間違いやすいが、違う所は、この家紋は「女が使う家紋」で、跡目と成る嫡子嗣子は用いない。
この「女系のルーツ」を誇示する為に、「女系側の家紋」を用いる。
しかし、これにはある「一定の仕来り」があって、”どの段階の女系のルーツの家紋”を「女紋」にするかの要領がある。

「女紋要領」を下記に説明する。
「女紋」は先ず、その家の跡目の「嫁のルーツ」の家紋を、その嫁が「実家先の家紋」を用いる。
跡目を譲った後のその家の姑には、下記の「2通りの慣習」がある。
要するに「女紋掟」と呼ばれるものである。

「女紋掟」
1の方法は、その姑の実家先の家紋を用い続ける。
2の方法は、その姑は夫の家紋に戻る。この場合は、孫の跡目が出来た事が条件と成る。

「2の方法」
これには、重要な「青木氏族の賜姓族の役の考え方」が存在する。
それは、”子孫を遺す”と云う定義が、”「孫」の跡目が出来た事”を以って、”子孫を遺した”とされる。
「息子の段階」では、”子孫を遺した”と云う考え方を採らないのである。
息子の跡目の段階では、まだ ”子孫を遺した”とは云わない考え方である。
何故ならば、これは、”子孫を遺した”とする「考え方の根拠」は、「分身説」を採っているからである。
これは、「古代密教浄土宗」の考え方にあり、「過去ー現在ー未来」の「3世」を「一つの世界」として捉えている。
この「三世の考え方」では、この「3つの完成」を成し得て、初めて”分身を遺した”とする考え方なのである。
つまり、子供が出来た段階で、「自分の位置」は、「現在の位置」に居て、子供は「未来の位置」にいる事に成り、「現在ー未来」のプロセスが完成する。
しかし、更にその子供に「孫」が出来たとすると、「自分の位置」は、「過去の位置」に移動して、子供は「現在の位置」に、孫が「未来の位置」になり、遂に「過去ー現在ー未来」の「三世の形」が出来上がる事に成る。
この時、初めて、”子孫を遺した”、”分身を遺した”、とする考え方である。
「三世慣習」と呼ばれるもので、「青木氏」に於いては全て、この「世の事」はこの「三世慣習」に沿って考えられる。

この「三世慣習」の根拠は次ぎの様に成る。
例えば、「自分の子供」が結婚して、「孫」が出来たとすると、「自分の子供」は「嫁」に引き渡して、「子供」を引き続き ”次ぎの段階の養育の役”をこの「嫁」に任す事を意味する。
息子の「第一段階の養育」は終わり、次ぎの「第二段階の養育」に移る。
この息子の「第二段階の養育」を「嫁」が引き継ぐ。
「孫」が出来れば、「未来の子供」(孫)と「現在の子供」(息子)の”二つの子供”を「嫁」に育ててもらうと云う考え方をする。
従って、「孫」は「嫁の者」では無く、未だ「姑の者」として考えて、”「育てて貰う」”と云う考え方をする。
従って、「嫁」の位置づけは、「嫁」では無く、「娘」の考え方に位置する。
これは、上記した様に、「同族血縁の仕来り」から来る考え方に成る。
「家の子供」は「氏の子供」であって、「同族」であるが為に、取り分け、「嫁の位置」づけは「外者の感覚」より「内者の感覚」「同族の感覚」「縁者の感覚」の方が強かった事に依る。
「娘の感覚」の方が強かった事になるのである。
結局は、つまり、「子供の養育」の「バトンタッチ方式」である。
「親の姑」から「娘の嫁」へのバトンタッチである。
当然に、故に、この「バトンタッチ」は”「段階の変化」を来した事”だけを意味する。
「自分の子供」の段階では、「子供」の「基礎養育段階」(第一段階)であり、「嫁」に引き渡した「子供の養育」は、子供を遺す為の「成長養育段階」(第二段階)と考える。
この時、「孫」が出来れば、その「孫」と子供(息子)とは、「嫁」に依って「家の子供」として育てられる。
そして、その「孫」に子供が出来れば、「嫁」は「人の目的」、即ち、「2つの養育段階」の目的は、”果たした”と云われる事に成る。
この時、祖祖母に成った自分は、”「人生の目的」を果たした”と云われることに成る。
「家」の取り仕切りは、「姑」から「嫁」に一切引き渡されるのである。
「嫁」は、「人の目的、」「2つの養育段階」の達成を以って、「家の人」と成った事に成り、「氏の家紋」を引き継ぐ事に成る。
この時、「姑の自分」と「嫁」は「氏の家紋」を使う。
その前は「嫁の段階」では、未だ「実家の家紋」なのである。
「嫁」は「過去の位置」に成った時、「2つの養育段階の役目」を果たした事を以って、「氏の人」と成ったと評価される。故に「氏の家紋」の使用を許される。

これは、「孫」もその「家の子供」とする考え方であり、「嫁」もその「家の娘」に成ったとする考え方である。従って、「青木氏」には、「嫁」という概念が低いのである。
この「嫁の概念」の低さは、「同族血縁」を主体としていた為である。
他氏から来た「嫁」でないからで、その差から来て来るのである。
子供は、同族の「氏の子供」の感覚であるから、「嫁」も「氏の一族一門や縁者」から来ているので、「姑」にとっては「嫁」と云うよりは「子供」の域の感覚にある。
「嫁」は、”「家の娘」化の感覚”が起こるのである。
「青木氏」では、「子供」(現在の子供)も「孫」(未来の子供)も含めた「子供の定義」の中にあり、要するに「子供」と成る。
「孫」の位置は、あるにしても「子供」の概念の中にある。
従って、「青木氏」では、「跡目」や「嫡子」は、この孫も含めた「子供」の中から選ばれる事に成る。
更には、「青木氏の賜姓族」は、子供は「家の子供」では無く、「氏の子供」として考える。
「各家の跡目」は、「各家の子供」を直接に「跡目」とする考え方では無く、「氏の跡目」として「跡目」が無い家には、「氏」の「他の子供」を「別の家」に廻して「跡目を継承する方式」を採用する考え方である。
「氏の子供」は、「自分の家の子供」であるとする考え方を採る。
これは「血筋の純血度」を一定に高めて、それを広域な範囲にして置く「血縁戦略」である。
こうする事で、「家の断絶」や「氏の衰退」は無くなるとしたのである。
この様にして、如何なる事由が在ろうとも、絶対に、「氏の継承」と、「氏の純血の血筋」と、「氏の名の継承」と、「氏の役の継承」とを守り通す為に、「古代密教浄土宗の考え方」を「青木氏子孫存続」の「システムの考え方」に取り入れたのである。
これには、「3つの発祥源の立場」を守り通さなければならない「絶対的な役の戒律」があった事に由来する。
この「跡目となる子供」は、上記の「三世慣習」の考え方に従ったのである。
この「三世慣習」から、氏の「家間の差」が無く成り、「分家、支流、傍流」の感覚は無く成ったのである。
当然、その「家間の差」が無い為に「家紋」は無く、「家紋」の元と成った「象徴紋」の侭にあるのである。
ここには、その「システムの維持」に絶対的に不可欠な事は、「女系の血縁維持」も同じ様に保つことが必要と成る。「男系」だけでは成し得ない。
この「三世慣習」は、むしろ「女系システム」と云っても良い。
「青木氏の家訓10訓」の「家訓1」と「家訓2」にある様に、これを重視している。
「女系」が「三世慣習」を作り出しているから「女紋」が生まれているのである。
「三世慣習」からすると、つまり「家訓1」「家訓2」からすると、「男系」はあくまでも「あらゆる面に使われる一種の道具」である。
それを使っているのは「姑ー嫁ー娘」の「女系」であり、「2つの養育段階」は「女系」によって左右される。
「氏の発展如何」は「三世慣習」の「女系」によって決まる。
故に、「女」への考え方も異なるが、「女紋の存在」そのものが他氏とは違って存在する。

もう一つの「女紋の存在」を決定付ける慣習がある。

「家紋の存在」の慣習
「娘」が藤原氏等の同族の他氏に嫁ぐが、「同族血縁」で嫁ぐかの如何に関わらず、その娘の「第一嫡子」は、「実家の跡目継承の資格」を有している。
これは、天皇家や皇族の継承の仕来りと同じである。
「女系天皇」があるのはこの「仕来り」に従っている。
つまり、これは当時の「血縁の概念」は、”「娘」は男子と同様に「半分の血筋」を有している”と考えられていたからである。

そもそも、現在では、「遺伝学」が発達して、父と血液型を同じくする場合は、その父の遺伝子の85%も子供は維持している事になる。明らかに殆ど”分身”である。
「青木氏」は、上記する様に、早くからこの「分身説」を採用している。
但し、「女子」である事から、父の「男子の遺伝部分」は無いので、80%前後には下がるが、血液型を同じくとする場合は、「息子の血液型」が「母型」に成っていた時よりも、遺伝部分は多く遺伝している事になる。
古来は、半分と考えられていて、男女同じと考えられていた。
そして、血筋として、特に娘の「第一嫡子」が高い継承率を持っていると考えられていた。
この為に、この嫁ぎ先の娘の「第一嫡子」は「実家の跡目継承の資格」を持っていると考えられていた。これは「遺伝学的には合理性」を持っていた慣習である。
この場合、正当な男子の「実家の跡目継承」が成立出来ないとした場合に、「嫁ぎ先の娘の第一嫡子」を「実家の跡目」に入れる事は可能としていたのである。
この場合には、「第一嫡子」は「嫁ぎ先の跡目」でもある。
これでは、「嫁ぎ先」の方でも「跡目の問題」も生まれる。
そこで、室町期までは、嗣子の中から跡目にするには、「優秀な嗣子」を選んで継がせる事が優先されていた。

しかし、江戸期では、「血筋」と云うよりは、「跡目騒動」を無くす目的から「長男が跡目」を優先する事に成る事が決められていた。
これを「家康」が「家光の跡目騒動」で決めたことである。その後、これに習って社会は長男が跡目を継ぐ仕来りと成った。
「嗣子」の中から、優秀な者を「嫡子」にする制度は次第に消えて行った。
これは、
1 江戸期の安定した社会変化で、「同族血縁」を制度として取り入れている氏が少なく成った事。
2 戦乱の世に嗣子が戦いなどで減少する中、嫡子を長男とすると跡目が無く成り騒動の下になる   が、この必要性が無く成った事。
3 戦乱で家を維持する為には、嗣子の中から沈着冷静、勇猛果敢、剛勇豪胆な人物を選ぶ必要が   あったが、安定社会ではその必要性は無く成った事。
4 安定した社会では寿命が延びて嗣子を多く設ける必要性が低下した事。
5 特定階級を除き「妾」による嗣子の必要性が低下し一夫多妻の制度は衰退した事。
6 俸禄制度に代わって、嗣子を多く設ける事の負担が増した事。
7 30年に一度の大飢饉多発発生で経済が疲弊し、嗣子を多くする事が出来なくなった。

ところが、「青木氏」は、「二足の草鞋策」で経済的に潤い、この「江戸慣習」に従わずに、上記の「独自の伝承」をまだ護っていた。
それは、むしろ、「商いと殖産」を手広くし、前段に論じた様に、江戸幕府に貢献し、交易を盛んにした為に、むしろ、嗣子を多く必要としていたのである。
前段-5、6で論じた「青木氏」の「2つの新しい氏の発祥」もこの辺の事も影響していたのではとも考えられる。
これらを維持する為には、氏の家間の差をより無くし、跡目を確実に家間に振り分けて、「氏の跡目」を確実にしなくてはならない状況と成っていた。
つまり、江戸期に於いても、社会とは「逆の現象」が起こっていたのである。
上記の様な、「同族血縁」や「慣習仕来り掟」をより厳しく護る必要が出ていたのである。

「青木氏」は、「男系」のみならず「女系」に於いても、可能な限りに「同族内の血縁」を「従兄弟の段階」まで優先させていた。
依って、”他氏に嫁ぐ”と云うよりは”「遠縁に嫁ぐ」”を優先していた。
その意味では、娘の「第一嫡子」には、抵抗感は少なく、「同族血縁の範囲」として「氏の子供」を前提として、盛んに用いられていた。

そもそも、現代の生物学では、人間の元は、「男女の一対」が存在した訳では無く、「ミトコンドリヤ」から、4回の進化を遂げたが、元は「雌」であった。
「4回目の進化」の最終は、「雌の機能」の中の「雄の機能」を分離して、「雌の存続」を優先して図る為に、天敵から身を護る役割として「雄機能」を分離させた進化を遂げた。
より多くの「雌」を遺す事に依って、「雄」が仮に1でも子孫は繁殖してより多く遺せるのである。
しかし、この逆は成り立たない。
(この事も「雌」であった事を示す証拠である。「雄雌一対論」では同じ「生存能力」を持たした筈である。)
この方式が最も子孫を多く遺せる事と成って、「人族」が最も繁殖したのである。
当然に、故に「人遺伝情報」はオスには無くメスに持っているのである。
そのオスが元メスであったとする「名残」がオスには、4か所遺されている。
それは「乳首」と「へそ」である。
この二つは在っても全く機能していない。(後二つは不適切用語になるのでここで論じない。)
当然に、逆にメスにはあるが、オスには無いものが多くある。
ところが、逆に、オスには有るが、メスには無いとするものは無い。
オスだけには確かに有る様に見えるが、それは「雌の生理機能具」が全て「オスの能力」を充分に発揮させる為に、「オス様」に変化させたものなのである。
元の原型は全て「雌の機能」なのである。

因みに、「雄」が「雌」から分離したとする典型的な例を敢えて述べるとして、子孫を遺そうとする「人間族の性欲・生理機能」がある。
「雄の性欲」は、”元の「雌」の母体に戻ろうとする本能の変化”であると云われていて、その「性欲の行動」の全ては、この元の雌の体の中に戻ろうとする行動パターンに分類される表現である。
ところが、「雌の性欲」は、あくまでも、”子孫を遺そうとする本能の変化”であると云われ、分離させた雄機能を雌の中に戻そうとする本能の変化である。
この「行動パターン」の全ては分類される表現であって、この原理から外れる行為は一切無い。
つまり、この「性欲の原理機能」からも、元は「雌」なのであって、「雄」は、雌のその”分身”で、「子孫存続の道具」である事にすぎない事に成る。
これは「体の機能」のみならず「脳の機能」に於いても云える事である。
因みに、「人族」に必要とする同時に二つの事を考えられる能力の「女性の連想能力」(子孫存続に必要とする母性本能に由来する)は男性には無い。元は雌であった事を物語る機能である。
右脳を積極的に使う機能を持ち、「ベータ波」を高めて察知する機能は雌に持っているが、雄は低い。これも元は「雌」であった事を物語る機能である。
又、「複眼機能」は女子には遺されているが、訓練すればこの機能を復元できる状況にある。
しかし、男子には僅かに遺されてはいるが、最早、乳首やへそに類していて訓練如何に関わらず働かない。
これも元は「雌」であった事を物語る機能である。
他にも多く説明できるものがある。ただ、これでは人族の男子は生き残れない。そこで、これらの女子が持つ機能に匹敵する様な「脳」を”脳の一部””を変化させて進化させたのである。
例えば、「左脳の情報脳」の一部を進化させて、複眼機能と連想機能に匹敵する様に、「左脳の情報」を基に「予知する能力」の脳を作り上げたのである。これを左耳の上に「中紀帯」と云う「進化脳」を作り上げたのである。

ここでも、「青木氏」の「子供の分身説」「三世慣習説」は合理性を持っている。

とするとなれば、「雄の機能」と「雌の機能」を保全した形の上で、”「雌」が跡目を継承して行く事”が道理であろう。
その意味で、上記した様に、「女系の第一嫡子」が”実家の跡目の有資格”は、実に合理性が高い事に成る。
「人族」の発祥地の「アフリカの民族」には、「女系家族」を主体とした民族が未だ多く存在するのは、上記した原理に従っている。自然摂理に従った合理形態とも云える。
しかし、余り近代化の進んでいない社会の中で成り立つ制度である事は間違いない。
「人の社会」が進むにつれて、「雌」から分離した「雄の機能」を使わなくては「子孫存続」が難しくなった。
「雄の力」「雄の知恵」でなくては維持されない社会構造と成ってしまった。
必然的に「雄」が主体と成る社会が出来上がったのである。
故に、人間社会の中では、「男系の跡目」として引き継がなければ成らない社会構造が出来上がったのである。
これはあくまで「社会構造維持の範疇」であり、事「子孫存続の世界」とも成れば、「力」「知恵」は無用で「女系の範疇」と成る。(「戦乱の社会」ともなれば尚更の事である。)

「子孫存続の世界」の「跡目」ともなれば、況して、「青木氏」の様に「3つの発祥源」の役目を「賜姓族」として守り通そうとすれば、「純血性を維持する同族血縁」は「古代の条理」とは云え、必然的に絶対的に「必要な条理」と成る。
「屯」(みやけ)を形成した時代からの「古代の条理」ではあっても、古来の一部の社会の中では全てこの「青木氏の慣習仕来り掟」に類していたと考えれる。
それを「古代密教と云う概念」の中で維持されて来たものであると観られる。

そうすると、そこで問題が生まれる。
「同族血縁の弊害」である。
血縁すると成れば、先ずは「第一段階」として「跡目の家紋」でそのルーツを判別し、更に重ねて詳しく判別する為に、当代の「女系」の家紋、即ち、「嫁の実家先」の家紋を知る必要がある。
その為に、「嫁の実家先の家紋」を「嫁ぎ先の慣習」に出過ぎない範囲で何らかの形で表示する必要が出て来る。
これが、「女紋」で、祭祀などの正式行事には羽織の袖や背中や、箪笥や長持ち高級食器などの正式な諸具には表示したのである。
この「二つの家紋」で、「同族血縁の濃さの度合い」を判断する術とした。
この「類似の慣習」として、「祭祀」などに先祖の墓所には参るが、ここに「累代の女系」を碑にして連ねて「俗名、戒名」と共に「出自」を表記して「女墓」として用いた。
この「女紋の表示の仕方」が、上記した要領に基づいたのである。
この「二つの家紋」をみて「同族血縁」を進めた。
基本は、「3親等」(従兄弟等)からであった。
奈良期から平安期頃までは2親等の範囲(叔父、叔母等)でも積極的に行われていた。

一般の他氏は、本家筋は兎も角も、分家筋は大いに「他族血縁」を積極的にすすめた為に、むしろそのルーツの確認が必要無く成ったので、「女紋」「女墓」等の習慣は必然的に生まれなかった。
本家筋は、この混血の分家筋から抹消の同族血縁をした事で、「新しい血」が入って行った。
依って、この慣習は一切生まれなかったのである。
ただ、この場合は、「本家ー分家の関係」では、その「習慣や仕来りや掟」の縛りは大きな差があった。
従って、「自分の家」が、 ”「本家筋の末梢」に当たるのか”、”「分家筋に当たるのか”で、判定は大いに異なってくるのである。
しかし、「皇族賜姓族青木氏5家5流」のみは、上記した様に、この「本家ー分家の関係」を「同族血縁」を「仕来り」としていた為に採らなかった。
(ただ、「3つの発祥源の役」を護る為に「厳しい戒律」が伴った。)
その見極めとして、上記したAからFの「家紋システム」を採用して表示したのである。
これは、「格式の誇示」と「血筋の如何」に関わっていたのである。

さて、果たして、この「3つの発祥源の役」が無ければ、どうなったのか疑問である。
何故、上記の「家紋の要領」を採らなかったのか、何故、「本家ー分家等の方法」を採らなかったのか、と云う点は、これらの要領は「古代密教浄土宗」の影響であった事が大きく、必ずしも「3つの発祥源の役」だけでは無かったと考えられる。

1の方法
1の方法は、その「姑」の実家先の家紋を用い続ける方法である。
通常は「2の方法」を採用する。
しかし、この「仕来り」は「地域」によって異なる。
その異なる理由は、「地域の環境」にあり、大まかに分けるとすると、「田舎」か「都会」の環境下によって分けられる。
何故ならば、「都会」であれば血縁関係が多様化しているが、「田舎」は縁者関係で繋がっているし多くは面識がある。
「都会」は、従って、この「面識」が薄らいでいるから「2の方法」で「確実性」を求めて判別する。
都会は何れにしても、”多様化している”から、「家の誇示」も強くなるが、「田舎」ではよく似た家柄である事から必要以上の誇示は無く成る。
結局は、「1の方法」と「2の方法」は、この差に従って使用された。
元々は「仕来り」としては、「1の方法」であったが、「多様化」が進むに連れて「2の方法」に成ったのである。
基本的には、「都会」であろうが「田舎」であろうが「2の方法」であれば確実性は高まる。
「1の方法」は、”「封建制」が強い仕来り”である。
これは”「田舎」”と云う事から来ている。
後は、その使用の選択は ”時代性が働く”と云う事に成る。
”時代性が働く”ことは、「多様化」が進む条理に従う訳であるから「2の方法」に収斂されて行く。
では、どの様な方法かを説明する。
「家」は「家族制度」があって、「家長」が存在する。
その「家長」は「伝統の家」の「ステイタス」を「家紋」として引き継ぐ事に成る。
この「家紋」は、上記した「家紋制度」の中で保たれる。
しかし、ここに「格式」と云うものが働くと、”よりステイタスを強調する事”に成る。
そうすると、「2の方法」の様に、その「家長の妻」の「実家先の家紋」をも用いる事に成る。
つまり、これが「女紋」である。
さて、そうすると、「家長」は、「家族制度」の中で、”どの位置の者が成るか”の問題で、「祖祖父ー祖父ー父ー子ー孫」であるとすると、「祖父」が成っているとすれば、「姑」の「実家先の家紋」を「女紋」として用いられる事に成る。
当然に、この「女紋」を使うのは、「祭祀と儀式」の時等に用いられる。
当然に、そうなると、「家」の「姑」が「家内の実権」を握っている事に成る。
その「姑」も「夫の家長」が亡く成れば、「家長」は「息子」に移る事に成り、「家の実権」は「息子の妻」の「嫁」に移る。
この時に、「姑の女紋」は消え、「嫁の実家先の家紋」が用いられる事に成る。
従って、「姑」が用いる「紋」は「家長の家紋」と成る。
これを「世代交代」、「跡目相続」毎に変化して繰り返される。
しかし、血縁対象は「娘子」であるから、相手側からすると、「娘子」の「母親の女紋」は判らない事に成る。
これでは、「同族血縁の度合い」の判断は低くなる。
しかし、ここがポイントで、「田舎」と云う環境であるのだから、「母親ー嫁」の出自は、未だ人の面識の中で知り得ている。
依って、「人の記憶」に薄らいだ「姑の実家先の家紋」、即ち「女紋」で判断しても問題は無く成る。
ここに、”1の方法と2の方法の「仕来り」の違い”が、「面識」と云う点で生まれているし、「家長制度」に従っている。
結局、「1の方法」か「2の方法」かの使い方で、その「氏」のその「女紋」を観れば、出自は凡そ判る事に成り、更には「女紋」で完全に判別する事が出来るのである。

ただ、「賜姓族の青木氏」は、「同族血縁」を主体としている事から、「女紋の範囲」も限られて来るので、判別は「家紋」と「女紋」で充分に判るが、「家紋」は「象徴紋」である為に変わらない事になる傾向が強いので、「女紋」の判別の意味合いは強くなる。

ただ、同じ格式の範囲で行われる「母方の血縁」では、「家紋」も重要な意味を持って来る事に成る。
例えば、「母方」で繋がる「特別賜姓族の秀郷流青木氏」とは全く格式は同じである。
「116氏」にも成ると、家紋は116もの数に成ると、当然に判別は困難であるので、「家紋」と「女紋」とで判別が必要と成る。
ここに「秀郷宗家361氏」との血縁ともなれば、「格式」は多少の変化を来す。
益々、「家紋と女紋」の重要性は高まるし、「家紋」だけでは不足と成り、「副紋」も用いての判別と成るので必要と成る。
他氏では、「同族血縁」が成されない事から、結局は、「家柄」と「家のステイタス」の「誇示」に利用される。
「より低い氏姓」は「より高い氏姓」との血縁を望む事に成り、「家紋」一つに「判断の重要性」は高まる事に成る。
依って、「青木氏」は、「皇族賜姓族」にしろ、「特別賜姓族」にしろ、「同族血縁」をする為に「氏の地域性」は明確に成って居るし、「地方性(田舎)」は「青木村」を構成する事を許されている為に「1の方法」が主体と成る。
しかし、「夫々の賜姓族内」では、「1の方法」で、「賜姓族」が跨げば「2の方法」に従う事と成る。

この「慣習仕来り掟」の範囲で同族は護られる事に成る。
兎も角も、以上の事全ては、”「氏家制度」”の中での「慣習仕来り掟」である。
なので、この様な「血縁関係」は「氏全体」で管理されている事に成る。
つまり、その作業が「密教の菩提寺」に求められ、その「菩提寺」の「過去帳」に記される事に成るのである。
これが、何度も論じている「菩提寺と過去帳」の位置づけなのである。
上記に論じた「青木氏の家紋に関する事」や「青木氏の考え方の如何」は、この「密教の菩提寺」と「過去帳」の所に繋がる事に成るのである。


上記の事を承知した上で、情報提供のあった下記の例を検証してみる。

そこで、「福岡の第3氏」を入れた「7組の青木氏」が、入り組んだこの「特殊な地域」で、且つ、「青木氏」を判別する場合は、次の様な事に成る。
「特殊性」が出て来て、この「青木氏」が持つ「家紋」などを含む全ての「慣習仕来り掟」の「熟知の度合い」が大きく左右する事に成る。
情報提供の下記の例は次ぎの様に成る。


先ず、「女紋」は「五瓜に唐花紋」である。
そもそも、この「家紋」には次の様な情報を持っているのである。
「家紋」には、全国8000の家紋があるが、その内で豪族として大きなルーツを持つ”「主要家紋200選」”と云うものがあり、この家紋はその中の一つである。
歴史的に日本の「主要氏の家紋」と云う事に成る。
この「家紋の文様」は、元は、「唐の官僚の階級」を示す袖に記した「官僚階級紋」である。
これを「大和朝廷の官僚」の「象徴の印」としたのである。
専門家ではこれを「官僚紋」と通称は云う。
そして、この「官僚紋」の「文様紋」を使えるのが、「大和朝廷」の当時の「五大官僚」と云われる「氏」が独占したのである。
「瓜の切口」とか「ボケの花の断面」とも言われているが、これは大きな間違いである。

注釈
この辺のところが「郷土史」では間違いを起こす。
「俗説」を用いてしまった事からこの説が全国に広まった。間違いの大きな事例である。

この「五大官僚」の「高級官僚」は、「唐花の文様」を少しつずつ変えたものを「象徴紋」とし、誇示する為に牛車などの道具に使用した。
室町期末期から江戸初期の後に多くの「姓」が使ったこの文様の「類似家紋」は190程度もある。

そこで、何故この家紋が「九州福岡」と云う地域にあるのかと云う疑問を考えると、ここには「明確な根拠」がある。
ここには、奈良期には、その「五大官僚」の一つの「伴氏」が、この「九州地域一帯」を任されていた。
その「伴氏の職務」は、主に「弁済使」であった。
つまり、この「伴氏」は「税務監」を主務としていたのである。
そうすれば、「税」であるので多くの豪族などとの親交が生まれる。
この結果、「九州一帯」の殆どの「豪族」はこの「血縁関係の血筋」を受けている。
「北九州の豪族」では例外は殆どない。
最も大きい氏で、殆ど「大蔵氏」に依って制圧されるまでは、九州全土を支配下にしていた有名な「肝付氏」がある。
後に「大隅の肝付氏」は、薩摩藩の勢いに押されて敗戦して薩摩藩の家老と成った。
ところが、この「伴氏と肝付氏」の勢力の中に「大蔵氏」と云う別の大勢力が入って来た。

そこで、その「大蔵氏」の事に付いて少し説明して置く。(研究室などに何度も論じている。)
大化期に中国の「後漢国」が亡び、その国の17県民の200万人の「職能集団」が、福岡に難民として上陸してきて、瞬く間に九州全土を無戦で制圧してしまった。
日本の第一次産業の基礎は、この「技能集団」の進んだ技能によってもたらされ築かれたものである。
在来民も挙ってその配下に入って生活程度をあげた。
この時、この集団を首魁として率いていたのが「光武帝」より21代献帝の孫子の「阿智使王」とその子の「阿多倍王」であった。
(”阿多”の地名は鹿児島にある。大隅の隼人に居を構えた。)
更に、この集団は中国地方も無戦制圧し、”いざ都の制圧”と云う所で立ち止まり、朝廷と和睦を選び争いを避けて帰化する。大化期である。
この中国地方には、首魁の「阿多倍王」が引き連れて来た多くの部の職能集団が定住して在来民の生活を豊かにした。
その「部の職能集団」の中で、「陶器を作る技能集団」が勢力を持ち、室町末期まで中国地方の全土を制圧して勢力下に治めた。
その中には多くの「部の職能集団」がこの同じ部の勢力を持った「陶族」に従ったのである。

そして、首魁の「阿多倍王」は「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王」の娘を娶り、准大臣に任じられ、3人の子供を作った。
そして、この「部の職能集団」は、「大和朝廷の官僚組織」の6割を占めて大勢力を握った。
上記の「五大官僚」もこの勢力に飲み込まれた。
この「部の職能集団」が進んだ中国の政治手法を大和朝廷の中に導入した。
この職能集団を「・・・部」と呼び、例えば「服部」や「織部」等180程度の「部」から成り立つ組織を作り上げた。
依って、大和朝廷から政治と経済システムとしてこの「部制度」を採用しました。
この政治機構の改善を主導したのが、首魁の阿多倍王の父の「阿智使王」であった。
「史部」と呼ばれた。
この時に作り上げた「政治機構」の「官僚の象徴紋」として、この「五瓜に唐花紋」を使用したのである。
この3人の子供の長男は「坂上氏」の賜姓を受け朝廷軍を担う。
次男は、当時の政治機構は「三蔵」と云われ、朝廷の財政を担う「大蔵」を担当し、「大蔵氏」の賜姓を受ける。
三男は天皇家の財政を担当する「内蔵」を担当し、「内蔵氏」の賜姓を受る。
この次男の「大蔵氏」が九州全土の自治を任されたである。900年から940年頃の事である。
「遠の朝廷」と呼ばれ「錦の御旗」を与えられ「太宰府の大監」と成る。
首魁「阿多倍王」は、大隅国にも半国割譲を受け、更には伊勢北部伊賀地方の国を半国割譲を受けて実家はここに住み着いたのである。
この時、半国割譲したのは伊勢守護王の伊勢青木氏である。
この隣の伊賀の阿多倍(高尊王 平望王)の実家は「たいら族」の賜姓を受ける。
この「たいら族」の「伊勢平氏」が五代後の「平清盛」である。
この支流の血筋を受けたのが「織田氏」である。
この織田信長の家紋も「五瓜に唐花紋」の「織田木瓜紋」である。
つまり、「伊勢平氏」と「大蔵氏」、「内蔵氏」、「坂上氏」の「3氏」の同族で「官僚の6割」を占める事から、この傍系末裔と観られる織田氏(可能性がある)も、この末裔だとして由緒ある「官僚紋」を採用したのである。
これが、有名な類似家紋として、「織田木瓜紋」である。
この「伴氏」と「大蔵氏」は血縁して、「2つの官僚氏」が九州全土を血縁の輪で固めたのである。
従って、「九州の大蔵氏系豪族」と「九州の鎮守神の神官族」はこの家紋を使用しているのである。

さて、「福岡の青木氏」の1氏が、この家紋である事から、「大蔵氏」の血筋を持つ「伴氏系の姓族」である事になる。
恐らくは、早くて室町中期、遅くて室町期末期に、「姓の家」を福岡筑前のこの地域で興している事に成る。
これを「女紋」としている事は、このルーツから出自した”歴史性の持った家柄”である事を示す。
当然に、この「五瓜に唐花紋」を上記した末裔と成る「家柄筋」が保持しているとすると、この「家筋との血縁相手」は、「家柄と格式」を重んじた社会の中では、必然と決まってくる。
この「五瓜に唐花文様」が「女紋」である事から、「嫁ぎ先の家柄格式」は、「同位」かわずかに「上位の家柄筋」に成る。
そうなると、この地域に、それに相当する氏ともなれば、歴史上から確認できる「青木氏」は、次ぎの様に成る。
平安期から鎌倉期までに筑前に遺した青木氏の末裔氏は、「筑前では2氏」と成り、江戸初期には「筑前の1氏」の青木氏と成る。
先ずは、この「3氏」で、他の要素を組み入れて検証を進めれば、その青木氏は判別できる事に成る。
「検証の櫛田神社」
ここで、「検証の要素」として、筑前にある”「櫛田神社」”が出て来る。
この「神社の由来」を調べれば、この「五瓜に唐花紋」に絡んで来る事に成る筈である。
そこで、更に検証を続けると、次ぎの様に成る。
そもそも、「櫛田神社」は「鎮守系の神社」(大蔵氏の守護神)であるから、「九州神官族の家紋」の「五瓜に唐花紋」となる。先ずここで繋がる。

その家紋の分布は、神社のある地元(内原)でよく使われている。
その背景から、この「神官族の末裔」が、後に地名を採って「内原姓」と名乗った。
この「鎮守系の櫛田神社」の元の「神官族名」は、何であったかが判れば更にはっきりする。

そこで、櫛田神社の由来を調査する。
そもそも、この「櫛田神社」の「大幡大神(大幡主命)」は、「伊勢国松坂」の「櫛田神社」から霊位を勧請した事は有名である。
この事から、この「鎮守系神社」と云っても、その「祭神」は、「皇祖神」の子神の「神明社系神社」とは同じ事に成る。
つまり”兄弟社の様な社格”を持っている事に成る。
実際にも祭祀している「大幡大神」はその格式にある。
櫛田神社がどんな理由で移したのかが問題に成る。
「伊勢松阪」の「櫛田神社」から「大蔵氏」が、”ある事情”で「霊位」を移している事から、初代は松坂の「伊勢青木氏の神官」であった可能性極めて高い。
しかし、あくまでも「筑前の櫛田神社」は「大蔵氏の鎮守神」であるので、「神明社の青木氏」を移したからと云って其の儘に続ける事は出来ない筈である。
何時か変更しなければならない筈であるし、この時の「伊勢青木氏の神官」が筑前に末裔を遺した可能性も否定できない。
しかし、遺したとすると、この場合は、「笹竜胆紋」を維持している「青木氏」と成る。
「源為朝の配流孫の笹竜胆紋」は別として、この「笹竜胆の家紋の青木氏」は1氏が江戸期に移動定住している事が確認できる。
即ち、黒田氏の家臣と成った「摂津青木氏」である。
ところで、「神社の格式」には、”「霊位の有無」”が大きな意味を持つ事に成る。
要するに、「神明社」は「青木氏の守護神」であるから櫛田神社は、所謂「兄弟社」と成る。
故に、祭祀する櫛田神社の「大幡大神」は、「伊勢神宮」の「天照大御神」に仕える「一族神」と成る。

従って、この「博多の櫛田神社」だけは、「大蔵氏の鎮守神」と云いながらも、全国にある「櫛田神社」とは、その「祭神の格式」のレベルが元々違うのである。
それは「筑前の櫛田神社の由来」に関わる。

その「由来、ある事情」とは、次ぎの様に成る。
平安末期に「瀬戸内」で起こった「讃岐藤氏」の「藤原純友の乱」を鎮めるために「伊勢松阪の伊勢神宮」の「皇祖神」の子神の「櫛田神社」と「京都八坂神社」に「乱の鎮静」を命じられた。
朝廷より鎮圧を命じられたのは九州最大豪族の大蔵氏である。大蔵氏はこの二つの神社に祈願をした。
そして、鎮静のその結果を以って、その時に祈願した大蔵氏が、その礼に応じて、筑前に”松阪の櫛田神社の霊位”を遷移して「筑前櫛田神社」を建立したのである。
要するに「分霊」をしたのである。
そして、この「純友の乱」を鎮圧したのは、「阿多倍王」より10代目の「九州太宰府大監」の「大蔵春実」である。
「分霊の筑前櫛田神社」と「本霊の伊勢櫛田神社」も「伊勢青木氏」とこの様に思いがけないところで繋がっている。
更に「青木氏」と繋がった事から、最早、筑前には「青木氏の存在」は否定できない。

そうすると、「櫛田神社」の要素から次の「2つの青木氏」が浮かび上がる。
この「櫛田神社」の位置する地域性から、次ぎの事が判る。
(イ) 黒田氏の家臣と成って移動定住した「摂津青木氏」の末裔
(ロ) 櫛田神社の初代の神官の「伊勢青木氏」の末裔

そうすると、この「女紋側」の「五瓜に唐花紋」を「女紋」として使っているとすると、九州地域では、この文様は「鎮守神の神官族」が使用している文様である事から、この「地域性」が出ている。
この「神官」が、”地域の地名を名乗った”と成る訳であるから、「女紋側」(神官側)に地名の「内原姓」の要素があるので、(イ)の「摂津青木氏」の説に成る。

「五瓜に唐花紋」(女紋)を持つ「鎮守神の神官」の末裔(内原姓)が(イ)の「摂津青木氏」に嫁いだ事に成る。

何故ならば、(ロ)の「初代神官の伊勢青木氏」は、そもそも「笹竜胆紋」で、「神官」であっても「五瓜に唐花紋」では無い。
そして、尚更、神社在所の地名の「内原姓」を、「青木氏」であるにも関わらず、態々と名乗る事が無い訳で、そもそも「青木氏の戒律」から不可能である。
依って「伊勢青木氏」の説は消えるので、「摂津青木氏の説」と成る。

これで、「九州の鎮守神の神官族」の「五瓜に唐花紋」を「女紋」としている筑前の内原地域に定住している「青木氏」は、結局、「黒田藩家臣の摂津青木氏」であった事に成る。

さても、問題は、この「黒田藩家臣の摂津青木氏」の家紋が、「笹竜胆紋」を維持出来ていたかは検証しなければならない疑問である。
そもそも、「摂津青木氏」は、「源平の争い」で、近江で、滋賀で、美濃で滅亡している。

福井に逃避して庇護され僅かに遺した支流の末裔が、摂津に移り「伊勢青木氏」の大店に庇護されて再興を遂げた賜姓族の一族である。
元々、「近江青木氏」の一団の「摂津水軍」の名残を持つ事から、「伊勢青木氏」等の大船に従事して糧を得て来て生き延びて来た。
従って、「笹竜胆紋」を維持するだけの「血縁力」「子孫力」は持ち得ていなかった筈で、「家紋掟」に依り「変紋」を余儀なく成って居た可能性が高い事が充分に考えられる。
実際に、現在の「摂津域の青木氏」には「笹竜胆紋」は1家しか確認できない。
しかし、調査でこの1家は、「伊勢青木氏」の大店を維持した「絆青木氏」(養子縁組制度)ではないかと考えられる。
「黒田藩家臣の摂津青木氏」の家紋が、情報提供によると ”何であったか”は「現在の末裔」は掴み切れていないのが現状である。

情報提供の内容
「黒田藩家臣の摂津青木氏」の再興後、筑前の祖は「青木氏理兵衛」である事。
この家に別のルーツの「青木市左衛門」が跡目に入った事。
この「青木市左衛門」は「日向青木氏」で遠祖は「伊勢青木氏」である事。
「摂津青木氏の近江青木氏」と「伊勢青木氏」は「皇族賜姓族5家5流青木氏」の「同族血縁族」と成る。

そこで、「青木市左衛門」のルーツに関する検証は必要となる。
その内容を下記に記述する。
つまり、この血縁の意味する事は、「青木理兵衛側」は、「青木市左衛門の青木氏」とは、”「同族の青木氏」である”と認識していた事に成る。
「青木氏の慣習仕来り掟」に従い、且つ、当時の「氏家制度」の中で、「同族血縁」を戒律とする「跡目継承」には、「青木理兵衛側」が、「青木市左衛門側」から「跡目養子」を求め入れて、「青木氏」を守ろうとした事が判る。

尚、「青木氏」には、「藤原秀郷流青木氏の特別賜姓族の青木氏」が、隣の長崎に「青木村」を形成して住んでいた。

(「氏名」を「村名」にして村を構築する事は、正式には「嵯峨期の詔勅」で禁じられていて、許可なく構築できない。依って、正式な「村名」があると云う事はそれなりに意味が大きいのである。
「日向青木氏」には、「正式な青木村」を鹿児島の大口市に構築しているし、筑前南国境にも青木字が構築されている。)

「5家5流の賜姓族青木氏」と母方で繋がる「特別賜姓族の秀郷流青木氏」とは「純血性」を守る為に盛んに「同族血縁」を主体としていた。
当時は、この「二つの賜姓族青木氏」にはこの「厳しい戒律」があった。
どんな事があろうとも、跡目は絶対に守ると云う「絶対的な氏の戒律」があった。
それには、「11家11流」の「賜姓源氏一族」を含む「皇族系一族一門29氏」と「特別賜姓族の秀郷流青木氏116氏」と、その「女系の縁者一門」のどこからでも持って来てでも継承すると云う「青木氏」を継ぐべき厳しい「同族血縁の戒律」があった。

つまり、「近江青木氏ー摂津青木氏」の「青木理兵衛」はこの戒律を守ったという事である。

念の為に、「摂津青木氏」は「総紋」は、「笹竜胆紋」(変紋している可能性が高い)、「日向青木氏」は「五七の桐紋」と、配流孫の為に「丸に笹竜胆紋」が家紋と成る。
ところが下記に記する事があって「日向青木氏」は「五七の桐紋」を使用している。

次ぎは「女紋」の事で検証する。
さて、「青木市左衛門」ルーツの「女紋」は「三連鎧揚羽蝶紋」である。
この家紋は、信長に贈られた「池田氏の家紋」で有名である。
この「池田氏」は「岡山ー鳥取」地域と、「福岡ー豊後」地域に分布する「氏の家紋」である。
同時に、この文様は、「平家末裔の織田氏」も上記するCの「副紋」(第二家紋)として使っていた家紋である。
これを織田氏が同じ「平氏末裔族」の「池田氏」に送った家紋である。(一部を変更した)
結局、「青木市左衛門」の家の「女系」の方に「九州池田氏」の流れを持っている事を示している事に成る。

「黒田藩の家臣」で「摂津青木氏」の「女系」(「鎮守神の神官職」)の内原姓は「五瓜に唐花紋」、更にその女系には「三連鎧揚羽蝶紋」、この何れもが「平氏系の主要家紋群」である。
「黒田藩の摂津青木氏」の「女系側」には、何れも「平家一門の血筋」で維持されて来た事が判る。
上記した様に九州の「大蔵氏」も平氏とは同族である。
「平家一門の血筋の中」に、「黒田藩の摂津青木氏」が存在して居た事を物語る。
そうなると、「黒田藩の摂津青木氏」は、「同族血縁の戒律」もある事も含めて、「平家一門の女系血筋」に対抗して、何とかして九州にある「青木氏一門との血縁」を求めようとしていた事が判る。
それを物語るのが、つまり「青木市左衛門」である。
この「青木市左衛門」は、周囲の「筑前近隣の青木氏」か、「筑前外の周囲の青木氏3氏」かの何れかから血縁を求めた事に成る。
後は、「青木理兵衛」の「青木氏の家紋」と、「青木市左衛門の青木氏の家紋」が、”何であるか”が判ればルーツは明確になるが、この検証には答えは出る。

その前に、「上記の平家一門の血筋」の「女系側」に付いて検証をする。
何かが観えて来る筈である。

平安末期、「大蔵氏」に代わって、一時、同族の「伊勢平氏の清盛」が「太宰府大監尉」(大監の上司)に成ります。
ここに「平清盛の所領」が、この「肥前国神埼」にあり、そして、上記の「櫛田神社」を、「日宋貿易の拠点」とした事は有名である。
一時、「平清盛」がこの「太宰大監」の上司にも成った事がある。
従って、同族の大蔵氏の居る所に、ここにも平氏は「九州護衛平氏軍団」を送った。
この平氏で九州域を守っていた「平氏軍団」である。
故に、「青木氏の女系側」には、この「平氏の血筋」が流れていて、その「九州池田氏」の流れを持っている事に成る。


この「平氏軍団」が北九州の地域の氏構成に大きな影響を与えた。
「日向廻氏」に守られた「日向青木氏」と成った「宗綱ー有綱」の”清和源氏の配流軍”と、この九州の「平氏軍団」とが再興を期して戦いました。
平氏に配流された「宗綱ー有綱」等が、周囲の小豪族を集めて、再びこの「平氏軍団」と戦ったのである。
結局は、再び敗退して薩摩大口村まで南下して落ち延びて、最後は追撃に窮して大口村の寺で「伊勢の青木氏」を名乗ったのです。(寺の住職の勧めにて名乗る。)
何故ならば、「宗綱と有綱と京綱」は3兄弟で、その「三男の京綱」は「伊勢青木氏の跡目」に入り戦いで一族が亡びる事の無い様に「摂津源氏の安泰」を「伊勢青木氏」の中に図ったのである。
「伊勢青木氏」は、「不入不倫の大権」で護られていた為に、この「京綱の伊勢青木氏」を名乗ったのである。

「日向青木氏」は、況して、「以仁王の乱」の敗退で「助命嘆願」をしたのが、この「伊勢青木氏の京綱」ですので、「日向青木氏」と成って生き延びる為にも、その「伊勢青木氏」を名乗ったのである。
「伊勢青木氏」は、上記する様に、朝廷より特別に「不入不倫の権」で護られ、且つ、隣の伊賀に住む「清盛の実家」とは、「伊勢和紙の殖産と販売」で共に利を得ていた深い付き合いの関係もあり、討ち滅ぼす事が「九州の平氏軍団」は出来なかったのである。
それが「日向青木氏」の発祥の由来なのである。
それが「黒田藩の家臣の摂津青木氏の「青木市左衛門」のルーツに成る。(市左衛門の棲み分け地域から判別)
ここでも、「青木市左衛門」も「伊勢青木氏」と思いがけないところで繋がっているのです。
そもそも、この「青木市左衛門」の出所は、「筑後と筑前の国境」に住していた事が判っている。
上記に記した様に、「7つの青木氏」の内、「第3の青木氏」を除いて、「近隣の青木氏」も含めて「6つの青木氏」は、上記した青木氏の慣習から「棲み分け」をする慣習があった。
従って、その「棲み分け」でどの「青木氏」であるかは判るのである。
依って、「青木市左衛門」は「日向青木氏」と判定できるのである。
「黒田藩の家臣の摂津青木氏」は、「日向青木氏」の「養子跡目」に入った事を物語る。

そこで、「家紋掟」から、「摂津青木氏」は、上記した様に、「家紋の変紋」は起こっている筈である。
更には、「日向青木氏」は、本来は「笹竜胆紋」ですが、「配流孫」であるので、「丸に笹竜胆紋」と成る。
しかし、この「日向青木氏」も「丸に笹竜胆紋」では無く、長い間の「半農と傭兵の生活」から家紋を失った。
「黒田藩の傭兵」の下記の勲功で与えられた「家紋使用の特別許可」で、「五七の桐紋」を使用していた。
「青木市左衛門」の段階では、「五七の桐紋」が使われていた事が判断できる。
問題は、「同族血縁」をこの九州域で続けられたかは疑問である。
そもそも、「跡目養子の事」が2度続けば家紋は変紋する。
但し、この「五七の桐紋」は「跡目継承」に依って起こった家紋では無い事から、この勲功の「五七の桐紋」は江戸初期前から永続的に継承されていた事に成る。
「大口郷の青木村」の家紋は、従って、「五七の桐紋」を継承している。
(一族の明治初期の墓所の紋と形式で判明する。)
幕末から現在までの間の150年に市民化して、”伝統不継承の状態”が起こっていない限りは、「五七の桐紋」と「丸に笹竜胆紋」の「2つの家紋継承」が可能に成って居た筈であるが、現在までこの「二つの伝統」は明確に継承されている事が確認された。
この「青木市左衛門」の時までは、家紋から観て、前回の「跡目継承の原則」が守られていた事を物語る。

では、次ぎに、”何時頃からこの正式な伝統を継承し始めたのか”を確認する必要がある。
それには ”何で、この「養子跡目の縁組」が出来たか”の疑問を先に検証する必要がある。

そもそも、実は、この「青木市左衛門」ルーツの「日向青木氏」は、「黒田藩」に「傭兵」として働いていた。
「傭兵」であって家臣ではないながら、黒田藩から特別に「苗字帯刀、家紋、登城権、布衣着用等」を許可され上級家臣(郷氏)なみの資格を与えられていた。
従って、「日向青木氏」は黒田藩から特別に使用を許された「五七の桐紋」を使用していた。

注釈
そもそも、この元「桐紋」は、「天皇家の式紋」で「五三の桐紋」が元紋に成る。
天皇家は、室町期からの極度の財政難から、秀吉にこの由緒ある「五三の桐紋」の使用と変紋の「五七の桐紋」を使わせて財政を賄いました。
秀吉は、今度は勲功のあった大名に対して、変紋してこの「五七の桐紋」にしたこの家紋の使用を「権威紋」として認めました。
出自に対して格式の無かった秀吉には、この「権威」が必要であった。
朝廷に対して、その格式の一つの天皇家で使う祭祀や儀式に使用する「式紋」を金銭を対価にして「五三の桐紋」の使用を要求して得た文様であった。
これをベースに家臣に対して与える「権威を示す褒美」として「五七の桐紋」を与える様にしたのである。
この「特別な勲功」で「権威紋」の「五七の桐紋」の使用を許された大名は、今度は家臣などにもこの「五七の桐紋」の使用を同じ目的で許可したのである。
その与えられた代表的な大名が「黒田藩」なのです。
「黒田藩」は、「傭兵」として「黒田藩に合力した事」を理由に、上記した特権と共に、この「名誉の式紋の桐紋」を永代使用として「日向青木氏」に与えたのである。
「青木理兵衛」が居る黒田藩では、「傭兵」の「日向青木氏」の事は知っていた筈ですし、一族の「青木市左衛門」の事も知っていた筈である。

実は、繋がりはこれだけではないである。
この「日向青木氏」は、平常時は農業や漁業をしながら、「戦い」となると「日向灘での操船戦術」と「陸の山岳戦闘術」の2面から「傭兵」として黒田藩に合力していたのである。
この「青木理兵衛」は、「摂津水軍」時に「操船術」を任務としていたと観られ事から、”仕事”の上でも「青木市左衛門」との付き合いは充分にあったと考えらる。
その上での同族としての認識の上で、「跡目継承」に「青木市左衛門のルーツ」と繋がったと考えられる。

実は、「青木理兵衛」の青木氏は「黒田藩の家臣」、「青木市左衛門」の「日向青木氏」も「黒田藩の家臣扱い」であったのである。
つまり、「青木理兵衛ルーツ」は、この認識に立っていた事と、何れの青木氏も「伊勢青木氏」に繋がった同族であると云う事の認識にあった事を物語っているのである。
この為に、”黒田藩の働き”の中で互いに親睦を深めていた事を充分に物語る。

従って、「青木理兵衛ルーツ」の「摂津青木氏」と「摂津」に大店と大船をもっていた「伊勢青木氏」とには、何かの記録が遺されているのではないかと観ている。調査中。

以上の三つの事を合わせると、このルーツに関係する状況は次の様に成る。
A 黒田氏ー近江佐々木氏系末裔ー摂津青木氏(理兵衛)ー近江青木氏ー伊勢青木氏ー日向青木  氏(市左衛門)
B 九州博多の櫛田神社ー伊勢松阪の櫛田神社ー皇祖神子神の神明社ー伊勢青木氏の守護神
C 鎮守系神社(大蔵氏と平氏の守護神)ー神明社系神社(青木氏の守護神)
D 櫛田神社の神紋(五瓜に唐花紋)ー内原氏の家紋(五瓜に唐花紋)ー伊勢平氏の家紋(織田木瓜  紋)
E 青木氏女系の家紋ー「三連鎧揚羽蝶紋」ー伊勢平氏紋ー九州池田氏

以上の様に関係が不思議に繋がっている。
これは、格式を重んじて「九州の2つの青木氏」は縁組を構築していた事が判る。

移動定住した九州でも「青木氏」を継承する上で、”血縁上で採った考え方”をしていた事が観えて来る。

「独特の慣習」の”「女紋」”を使っているところを観ると、「男紋」も含めて、「紋」即ち、「青木氏ルーツ」と云うものに”拘り”を持っていた事を物語っている。

そもそも、「女紋」を使われている慣習を続けていた事であるのなら、「女墓」の慣習も続けられていたと観られる。
「女墓」も女紋と同様に、「青木氏等の賜姓族」が継承してきた慣習である。
代々の女御の俗名と戒名を記載した大きな墓碑で、系統的に維持し、単独に先祖墓の横に別の墓所を設けているものである。

この事は、「男側の継承」にも「賜姓族青木氏」として、「女側の継承」にも「賜姓族平氏」として、”拘り”があった事を想像出来る。
これらの情報の詳細な事は研究室に全て網羅している。

そうすると、日向青木氏が、”何時頃からこの正式な伝統を継承し始めたのか”の検証であるが、少なくとも、「日向青木氏の青木市左衛門」と「黒田家臣の青木理兵衛」の「跡目の血縁」が成された時期より少なくとも前に成る。
つまり、既に、「青木氏の跡目の伝統」と「女紋」などの慣習を持っていた事に成るのであるから、その前に成る。
と云う事は、「黒田藩の傭兵」と成って、青木市左衛門が黒田藩に関わり、黒田藩の青木理兵衛が博多に来て両者が知り合った時の前に成る。
黒田藩から、”勲功として「特権」を与えられ、「郷氏」に成った時”と云う事に成る。
最終的な勲功と成れば、1615年から1618年の間と成る。
この時に、改めて正式に「家筋の伊勢青木氏系」の「氏族としての条件」を整えた事に成る。
黒田藩から「五七の桐紋」、伊勢青木氏の配流孫としての「丸に笹竜胆」を一族に示した事に成る。
無冠の「土着の民」から、始祖の青木氏の格式を持つ「郷氏」に成った時に、世間に対して「家筋の正統性」を誇示したのである。


参考
「三連鎧揚羽蝶紋」は「揚羽蝶紋」を調べて、その羽の右上の二つの尾びれの様なところが鳥の羽の様に成っている家紋で、羽の筋文様が黒線になり、その上の文様が黒点に成った文様である。
この文様の羽が三つ連なっているところから「三連鎧揚羽蝶紋」と云う。

最後に、画して、「福岡の分布と子孫力」に付いては、上記した様に、複雑な経緯を持っている。
それが故に、これを紐解く為に、かなりの調査と検証が必要と成り研究には時間が掛かった。
この「福岡の青木氏」を論じる場合は、他の定住地の事や歴史性などの知識も考慮に入れて読み込まなくてはならない。
それでなくては、正しい理解は進まない。重要な「情報提供」を得て、事例を用いた。
故に、敢えて、最後に論じたものである。
未だ、多くの歴史マニア等にお願いしての「情報提供」を待っている状況でもある。それだけに時間が掛かる。判り次第追記する。

本論を読まれる際には、ルーツ掲示板と研究室などの論文も是非にお読み頂けると、筆者の論じる翻意は誤解なく通ずるのではないかと考える。是非お読み頂く事をお願いしたい。

更に、続けて、「伝統シリーズ」を仕上げる為に、現在、「論文の見直し」を続けている。
ご期待頂きたい。


伝統-4に続く。

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