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:「青木氏の伝統 7」-「仏舎と仏壇」


[No.324] Re:「青木氏の伝統 7」-「仏舎と仏壇」
投稿者:福管理人 投稿日:2014/10/22(Wed) 09:08:52


> 前回の末尾

>この様に「内仏舎の原型様式」や「外仏舎の原型の石墓様式」も「インド墓」の流れの「円古墳」を汲んでいたのである。
>それが、日本式に「環境や仕来り」(「和魂荒魂」と「古代仏教」)に合して改良した事に成る。
>丁度、「灯篭の形」に成っている。
>そして、はっきりとした記録に観ると、平安期800年過ぎ頃から石墓の「灯篭型外仏舎」に蝋燭を灯して先祖を導く行燈とした。
>「木製外仏舎」には「天武天皇の詔勅」が出た直ぐ後の690年頃から使われた模様である。
>現在の「庭灯篭」はこの「外仏舎型石墓」(灯篭型石墓)が変化したものと考えられている。
>この「庭灯篭」の汎用は1360年頃から絵画にも観られる様に成った。
>実は、この「庭灯篭」が、更に「密教の内仏舎」の上記の”「迎え行燈」の役目”に発展を成していたらしい。

>”灯を点灯して、先祖を迎え入れる”と云う行為は、「古代仏教の概念」としては強いものがあり、「仏舎の時代変化」は、調べると「蝋燭の時代変化」にも合致している。



・「仏舎の時代変化」
「仏舎型の木製墓」は、”684年から790年頃まで”の約100年間は保たれていた事に成る。
仏舎の箱の空間部位に、”「蝋燭と線香」を点灯する仕来り”と成って行った。

注釈
(「線香」は紀元前から使われていた。日本には「仏教伝来」と共に大量に持ち込まれた。
「焼香」として使われていた。「香木」(沈丁花の古木)として「日本古来」にもあった事から、「祭祀や占い等」にも用いられた模様で、これが「線香」に成って行った。
この「線香」と同じく「蝋燭」も良く似た経緯を持つ。日本古来には「蜜蝋」「松蝋」が使われていた。
飛鳥の「和魂荒魂の宗教概念」の時代にも蝋燭や香は使われていた。
香の習慣からの「香・線香の時代経緯」と、「蝋燭」の時代経緯]と、「仏舎の経緯」とは一致する。)

(仏舎木製墓・内仏舎)  「線香と蝋燭」 684年(520年)
   ・・       ・・・
(仏舎型石墓) 「蝋燭」の点灯 石質に   790年頃 
(箱型仏舎石墓)「蝋燭」を箱型の部位に点灯 895年頃
(角柱型仏舎石墓)「持仏堂型仏壇」が出現と共に大量に使用 950年頃
(灯篭型外仏舎)「蝋燭」が国産化に成功して普及  1000年
(角柱型石墓) 「蝋燭立て」が別に設けられて祭祀 1350年

そもそも、この灯篭の蝋は、次ぎの様な歴史を持っている。
・「蝋燭の時代変化」
648年に中国晋にて本格生産、
747年に大和に輸入
894年に国産を検討(量産化・実用化に至らず)
1000年に国産化品成功、(ハゼ実、松脂製で成功 特定階級に出まわる。紀州や奈良で生産されていた。)
1350年に補充(中国製・一般階級でも使用)

747年頃には特定階級の上層部で使われた。
「灯篭型外仏舎」への「蝋燭」は、”894年頃に国産品”と合わせて使われる様に成り,大量使用の引き金に成った.
しかし、「庭灯篭」を始めとして、国産品の量産と輸入品の量で広範囲に使われる様に成るには、蝋は1350年頃から用いられた。
900年頃から、中には、余裕から「蝋燭」で飯を炊く等の事が一部で優雅な遊びとして使われる程度になった。

”810年から850年頃前”には、「持仏堂型仏壇」が上級階層に採用された。
そうすると、この頃の墓所は、「仏舎型」の「天武天皇の詔勅」に示す「木製の墓」であった事は考え難い。
「青木氏の古代和紙」に観られる上記した「7つの変遷」(重複)比較すると良く判る。

A  和紙の良質な生産開始に50年   (730年頃 正倉院 紙屋院 白鳳文化 記録)
B  和紙の殖産を始めて余剰品を作り出すには50年    (770年頃 平城消費文化)
C1 商い態勢に50年   (810年頃 平安初期文化 摂関文化初期)
C2 販売能力に50年   (890年頃 平安中期文化 摂関文化中期 記録)
D  興業として50年   (950年頃 国風文化前期 摂関文化後期 記録)

丁度、「仏舎型石墓」(790年)は、Bの時期か、C1の「商い態勢」の時期に出来上がっていた事に成る。

更に、「持仏堂型仏壇」(810-850年)は、C1の「商い態勢」の時期に出来上がっていた事に成る。

つまり、C1の「商い態勢」期に「仏の祭祀方法」も整えられた事に成る。
Sの時期の頃は、684-690年の「内仏舎」

C1の「初期の頃」は、「外仏舎」の「仏舎型石墓」
C1の「後期の頃」は、「持仏堂型仏壇」

青木氏は、”商いの態勢確立の変遷”で苦労していて、何とかその芽が出て来た時にも、「仏舎の問題の解決」に当たっていた事に成る。
「商いの7つの変遷」「蝋燭の経緯」「古代和紙の経緯」「仏舎の経緯」等と「青木氏の変遷」が不思議に時代性が一致している。
「青木氏」が文化に大きく影響を受けて変遷して居た事を物語る。
何故そうなるかは、発祥期から「古代和紙」と共に生きた事が原因していると考える。
そして、その流れに逆らう事無く、「密教の慣習」に従ったからである。
その「密教の慣習」は「仏舎」と云うものに注ぎ込まれた。
そして、「仏舎」が「商い」ともに形が出来上がって来た「変遷時期」であった事が判る。
つまり、何れにもこの期間には、”「和紙」”が連動していた事が判る。
平安期までの「青木氏」を数式論で表現するならば次ぎの様に成るだろう。

810年>「商い」=「古代和紙」=「仏舎」>684年

そこで、平安初期の上級階層の万葉歌人の墓所を調べると全て何らかの形で「砂岩の墓石」である事が判った。
但し、後付で観光名物化の為に、原型を留めず現在風にアレンジして「平安期の墓石」としているものも多く、これを除くと、810年頃の平安遷都期前後と成る。

「仏舎墓石型」に成った上限は810年頃と成る。

さて、下限はどの位の年代かに成る。
そもそも、「青木氏」は、「国策氏」として、「国政」の最先端を何にしても走らねばならない宿命がある。
従って、他氏の状況を調べて、”「青木氏の事」”を読み込むのは無理に成る事が多い。
苦労する点である。
本論も、全てこの宿命に左右されている。

故に、「天武天皇の詔勅 684年」に率先して、”「氏墓」”として”「仏舎」”を屋内外に作った筈である。
その時は未だ詔勅に従って「木製」であった筈である。
しかし、この「木製墓」の「外仏舎」は、風雨に晒されれば、幾ら良い材質を作ったとしても20年もすれば風化して朽ちる。
とすると、「700年」頃に「石質の仏舎」にする必要に一度迫られた事に成るが、「天武天皇の詔勅」が出て間が無い時期である事から、無理であった事が考えられる。
700年以降と成れば、「天武、持統天皇没後」である事から、この柵は消えている。
しかし、未だ、発案者の施基皇子は存命である事から、716年没期に契機も訪れるし、次ぎの修理期も訪れる。
この期に「石墓」を選んだ可能性がある。
まして、始祖は後付「春日宮天皇陵」、元祖の二代目「白壁王」は「光仁天皇陵」として、石室の墳墓で祭祀されている。
と成れば、つまり「公式墓」は「石質の仏舎型の円墳」と成れば、この「二人の先祖の氏墓」は必然的に「石質」の「仏舎型墓」と成るだろう。
そうしなければ、周りが「石墓」にしているのに、後から遅れて「石墓」とは、その「賜姓氏」や「国策氏」の立場は成り立たない。
あくまでも”率先して範”としなければ成らなかった筈である。
結局は、686年に、叔父の「天武天皇」 698年に妹の「持統天皇」 甥の「文武天皇」の707年期は、未だ「施基皇子」は長生きして存命中である。
その716年、息子の「白壁王」の「光仁天皇」は781年の「年代経緯」を以てして、率先して「石墓」にするには、次ぎの経緯が働く。
つまり、684+木質寿命20年=704年となり、持統天皇の698年を超え、且つ、直ぐに文武天皇の707年以降と成る。
この707年は、「仏教の仕来り」上から「上位の裳」に服する必要から賜姓族としては避けねばならない。
だとすると、上記の経緯年数では710年には裳が明ける。
しかし、この時、未だ、始祖の施基皇子は存命中であるから、石墓にするにはこの716年のみしか無く成る。
「春日宮陵」は「後造り」であるので、問題は無い。
「光仁天皇の781年」は喪主身内であり、これまでに「仏舎石墓」にしている事に成る。

「仏舎型石墓」は、716年が下限域と成る。

仏舎石墓の下限716年ー上限810年と成る。


ここで、再度、上限の810年に付いて検証する。
光仁天皇の子供の桓武天皇は施基皇子の孫に当たる。
しかし、この様な一切の政治的柵を排除する為に、平安遷都をし、「皇親政治族」を排除し、「青木氏の賜姓」を中止し、阿多倍の「平族」を賜姓して、「青木氏」を政治の場から排除した。
「青木氏」は、「賜姓族」でありながらもこの時期に一時著しく衰退した時期でもある。
「国策氏」としての「宿命と義務」は、一時抑えられた時期でもあって、勝手な事は出来なかった。
従って、810年以上の上限はあり得ない。
この後は、「持仏堂型仏壇」に成った為に、一切の古来密教性は低下したので、尚あり得ない。

従って、「施基皇子」の息子「白壁王」の「光仁天皇期」が最高の隆盛域であった。
(桓武天皇は施基皇子の孫)
「白壁王」が皇位継承した770年頃が上限と成り、恐らく、この716年から770年に施基皇子の墓を「仏舎石墓」の墓にした事に成る。
上級階層は「平安遷都」で「墓」どころの話では無い筈で、遷都すれば墓も移す事に成るし、「青木氏」が一切の事を最早、請け負う事は無く成る。

「仏舎石墓」は「770年前」までと決められる。

この年以外には無い。
実は、この裏付けと成る理由がある。
「伊勢青木氏」の始祖「施基皇子」の嫡男の「白壁王」は全くの皇位継承外である。
第四世族内でも無く、「第四位皇子」でもない。
確かに、大化期では、父が「第四世族」で「第六位皇子」ではあったが、「皇位継承権」のある「真人族」でも無く、典型的な継承外の「朝臣族」であった。
しかし、ところが両者共に「天皇」と成った。
「施基皇子」はその勲功から、子供の「光仁天皇」が父を「春日宮天皇」として「後付した」のである。
これは、その前に、奈良期末期には男系継承者が無く、「女系天皇」が四代続いた事から更に皇室には子孫が発生せず、「皇位継承者」が無く成ってしまったのである。
そこで、困ったので、無理やりに請われて「伊勢青木氏」の「二代目の第六子の白壁王 66歳」を引っ張り出し天皇にしたのである。
この為に、天皇家の女系の末孫皇女(井上内親王 36歳)を「白壁王」に嫁がせた。
むしろ、女性の「孝謙天皇」の「女の戦い」から逃れる様に、”逃げた 嫁いだ”と云う事の方が適切であろう。
この皇女に、結局、嫡子が生まれるが(天武天皇系の女系親王の誕生)、それを理由に父の「白壁王」が「光仁天皇」として即位した。
その後、皇后と成った「井上内親王」とその子皇太子は毒殺される。
結局、「阿多倍王(高尊王 平望王)」の孫の「高野笠人の嬪」に子供が生まれて、これが後に「桓武天皇」と成った。
その為に、光仁天皇期は青木氏等の「皇親政治」を敷き絶大な権限を持ち政治を断行した。
ところが、その身内の「桓武天皇」は、反転して、「律令政治の断行」を理由に「皇親族」を排除したのである。
この事に反発して、政治抗争が起こりして、その抗争を制し潰した「嵯峨天皇」は、逆転して、政治を「第二期皇親政治」を断行した。
これが、「賜姓源氏」であり、「嵯峨期詔勅」に至った理由なのである。
しかし、この”賜姓した源氏”には、「賜姓族の身分」と「国策氏の役目」を与えず保護もしなかった。
「青木氏」は、約30年で、ここで再び息を吹き返した事に成る。

この背景から、この「仏舎石墓」等の改革の実行は、”710年から760年”の50年間を於いて行われた事に成る。
この「慣習仕来り掟」を重視する「上級階層」では、この時にしかないと考えられ、裏付けられるのである。

つまり、これが大化期の「簡素な仏壇化」をした最初の「詔勅による仕来り」である。
「簡単な家の形をした仏の舎」を家の中に治めた事に成る。

これは「上級階層の詔勅の仕来り」のみであったが、その階層の程度に依っては、次ぎの現象が更に起こった。
それは、次ぎの内容であった。
「仏舎」の中に安置される「本尊の仏像」より前は、「毘沙門天像」などや「釈迦立像」やその「曼荼羅絵の掛け軸」を「仏舎」の中央奥に掛けたものであった。

ところが、これは、平安期の「三大密教の考え方」に左右した。
特に、この考え方は「天台密教」と「浄土密教」の2宗に限られた。
平安期中期前(900年頃前)には、この”「違い」を殊更に披瀝するのは拙い”と考え、敢えて「上級階層の氏」が「建立した寺院」には、「密教宗派」を限定せず、両派の社殿を建立配置する現象が起こったのである。
この為に、「内部の本尊」の造像では、「仏像」や「三昧耶形」だけでは、その「宗派の特徴」を充分に表現できないと考え、「仏画」でその「密教性」を強く表現しようとした。
この流れで、「本尊」は「仏画」とする現象が上級階層に広く起こった。
中でも、「嵯峨期の嵯峨源氏」の別荘として建立された「平等院」は、その典型的なもので、院内には数多くの殿、堂、塔、蔵、所が建てられたが、これらの中には、「仏画」を以てその「二つの密教性」を競う様に表現している。
これは当時の「和魂荒魂」の「古来の宗教」と「伝来の密教」の融合、或は「習合過程の状況」を物語る現象である。
特に、「古来の宗教」(和魂荒魂)を堅持しながらも、「三つの発祥源」と「国策氏の立場」から「青木氏の密教浄土宗」の「受け入れ状況」は、この傾向が強かった筈である。
それを最も引き継いだのは、後に庶民から判り易いと信頼され台頭して来たその系列の「顕教の浄土真宗」であった。
この「顕教の浄土真宗」は「仕来り」として、「仏画」を「本尊」として、厳しくその「仏画の内容」を定めて、各地に建てられる寺には ”仏画を本山から手渡す仕組み”を採っていた程であった。
この傾向は室町期中期まで長く続き、現在でも地域によっては、この仏画を本尊としているところがある。
一般の「武家階級」には、この「天武天皇の詔勅」による「仕来り・慣習」は未だ無かった。
810年から850年頃に掛けて「持仏堂型仏壇」が一般化してから移行の普及であった。
この平安末期頃までは、公家と上級官吏と上級技能官吏(青木氏)の範囲に留まった。

「青木氏の仏舎」
そこで、上記した様に、「青木氏」は何時頃からこの「仏舎」で祭祀し始めたかと云う問題である。
「青木氏」は、最初に「仏」となった先祖の始祖は、「天智天皇第6位皇子」の「施基皇子」であり、その最初に正式祭祀したのは716年である。
この時に、理屈上では、少なくとも「最初の仏舎」を持った事に成る筈である。
但し、この時前には、賜仏の「大日如来坐像」と「毘沙門天像」と「大蛙像」等のこれに付随する”「三昧耶形」の仏具”があって、祭祀されていた。
しかし、「仏舎」としてのものは、正式にはこの時に設けられた事に成る。
従って、「釈迦立像の本尊」はこの「仏舎設置」の少し前か直前のものと成る。
そして、恐らくは、上記した様には、「天武天皇の詔勅の仕来り」で、「密教浄土宗」では、既に「仏画」が「本尊」としていた事にも成っているので、「青木氏」が持っていた「二つの仏画」がこの時のものであった事に成る。
この「二つの仏画」が、「釈迦立像」と同時期か、その前の「大日如来坐像」「毘沙門天像」の信仰の祭祀時に使用されていたものかである。
この間、長くて50年程度差のものと成る。
何れの祭祀に使われていたかは確定は困難であるが、家内の事であるので検証出来ない事は無い。
要するに、兎も角も、上記の「青木氏」が持つ「二つの仏画」はこの時期50年時のものであった事に成る。
それから押し出せば判る筈である。

丁度、その直前に「古代仏教」が伝来していた。私伝で522年 公伝で552年である。
「青木氏」が発祥したのは647年であるので、最大で100年前と云う事に成る。
「仏舎の天武天皇の詔勅」が出たのは684年で、「皇祖神の伊勢神宮の遷宮」では、「天智天皇」が伊勢に定め、正式に定めたのは、詔勅の1年後の天武期685年である。
そして、初回式年宮は690年の「持統天皇」のその時であった。

そうすると、「青木氏」が、最初に「仏舎」を持ったのは、論理的には式年宮後の26年後の716年と成る。
この時は、未だ、現在で”「仏壇」”と云われるものは、古来の「和魂荒魂の祭祀方法」であって、「天武天皇の詔勅」に基づく「仏舎」であった事に成る。
当然に、この「仏舎」には、既に「密教」は伝来していた事に成るので、その影響を強く受けていた事に成る。
この時の「密教の青木氏」には、「大日如来坐像」、「毘沙門天像」、「大蛙像」、「釈迦立像」と「三昧耶形の仏具」や「仏画」等の一切の「密教具」はあった事に成る。

つまり、後に、”「仏壇」(持仏堂型仏壇)”と成るが、この時は、「仏舎」の「中央の本尊」には、「釈迦立像」が安置されていた事に成る。

さて、そこで「施基皇子没716年」に正式な「仏舎」が設けられたとする年以前には、既には、「青木氏」には上記の「密教仏具」一切は備わっていた可能性がないのかと云う疑問である。
普通は仏があって「仏舎」があると云う慣習に成る事は高い。
しかし、”当時の慣習仕来りはそうであったのか”と云う疑問が先に来る。
筆者は、”「仏の有無」如何に関わらず「仏舎」と云うものを備えた”と考えている。

例えば、この当時の円墳等を観ると、”死後の円墳建立”では無く、事前工事に入っていて前もって作って置くと云う形式を採っていた事が判っている。
天武天皇の「仏舎の詔勅文」から観ても、”死後に作れ”とは勅令していない。
下記でも詳しく論じるが、次ぎの様な概念であった。
平安期に出て来た「持仏堂型の仏壇」は、”「衆生の意志を繋ぐ場」”が概念である。
奈良期の詔勅の「仏舎」は、”「先祖と会する場」”が概念である。
「仏壇」は「仏の墳」であるの比して、「仏舎]は「仏の家」であった。
この概念から、我々は”人が没しての仏壇”の感覚に支配されているが、当時の平安期までの「仏舎」に対する感覚は、”「先祖と会する場」”としての感覚が強かった。
そもそも、現在感覚に引き継がれている”没してからの「仏壇」”でなく、且つ、”「先祖の意志繋ぐ場」”ではなかった事に成る。

依って、「仏の有無」如何に関わらず、”先祖を祭祀する場、” ”先祖の尊厳を伝える場”であった事に成る。

従って、この考え方から、「天武天皇の詔勅」が発せられた時に、直ちに「仏舎」を建立した事が判る。

(「施基皇子墓」は「高円山」の東に「後附け」の「春日宮天皇陵」がある)

つまり、「天武天皇の詔勅期684年の詔勅」に合わせて先に準備していたと観られる。

何故ならば、「大日如来坐像」や「毘沙門天像」などの「密教具等」を祭祀する前から用意され、「和魂荒魂信仰」と「神明社信仰」をしていたのである。
依って、敢えて”準備せよ”と命令が出ているのに、”仏が無いから”として、”「仏舎」だけは別にする”と云うことは「賜姓族の慣習」としては考え難い。

そもそも、この詔勅の「政策発案者」は、最も信頼されていた「施基皇子」本人である。

(注釈 仏舎への保釈: それまでの中国の律令の模擬では無く、”独自の律令を作る事”を目途として、天皇に代って全国を飛び回った経験から、全国の実情に合った事柄を規範に、勅命に従い全国にある善い「習慣仕来り掟」等を取りまとめ集めて「善事撰集」を偏纂して「持統天皇」に報告奏上した。これが「仏舎」や後の平安期の「律令政治」の根幹と成った。)

「草壁皇太子」に代わって施政を採っていたのは、「日本書紀」にも書かれている「青木氏始祖」である事を忘れてはいけない。
”詔勅を発する”と云う事は、その前に「仏教の影響」を受けて、王族の円墳墓等には、一部でこの「仏舎方式」の基礎的な方法で祭祀が行われていた。
この事から、全体にこの祭祀を早く及ぼす為に、「仏舎の命令」を詔勅を使って発した事に成る。
その一部とは、王族とは別に、「上級階層」では、「仏教伝来 522年」に応じて、いち早く取り入れたのは「青木氏」であった筈である。
何故ならば、「青木氏」はそもそも「三つの発祥源」で「国策氏」である。
民によりも、務めとして最も早く率先して採用する必要に迫られていた筈である。
上記した様に、率先して「神仏」を習合させて、「密教」も取り入れたのも「賜姓青木氏」である。
其れなのに「仏舎」だけは”「別だ」”と云うのはどう考えてもおかしい。
「仏」や「先祖」の有無に関わらず、先ず、国政上、「青木氏」が範を示さねばならない立場にあった。
位の一番に、大化期の賜姓時の当初は,まだ「菩提寺形式の慣習仕来り」は、未だ社会の中(720年頃建立完成)には無かった。
依って、居宅に安置されていた「大日如来坐像」と「毘沙門天像」の横の部屋に「内仏舎」を設けた筈である。

(菩提寺完成後に「大日如来坐像」は菩提寺に安置された。「毘沙門天像」と「大蛙像」は居宅の「内仏舎」に安置する形式を採った。 下記の「釈迦立像」で論じる。)

果たして、「青木氏」が「内仏舎」「外仏舎」の両方を同時に設けたかの疑問であるが、「天武期の詔勅」は、先ずは「外仏舎」から念頭に於いて述べている事から、「外仏舎」と「内仏舎」を同時に設けたと観ている。
「外仏舎」は、「墓」と変化して、終局、その「墓」を祭祀する「菩提寺」へと「一対の形式」に発展したが、この時点での「外仏舎」は「寺形式の建立と完成」までに至っていなかった。
この時点では、「天武天皇の詔勅」に従った「簡素な仏舎」で、その周囲にはこの「外仏舎」を保護する様に「仮屋社」の様なものを建設して、周囲を樹木で覆う「墳丘」の様なものにしていたと観られる。
その後、「施基皇子」没後(716年)頃には、「外仏舎墳丘形式」から「墓所」(下記)に合わせた「菩提寺形式」に仕上げ直したと考えられる。
これも「外仏舎」の”見本的な最終的な完成行為”であったと考えられる。
恐らくは、「内仏舎」も「釈迦立像」を本尊に、左右には「脇侍」の造像を安置し、側面には「密教仏画」を配置した「一連の造形」(下記)を作り上げて見本的なものとしたと考えられる。

あくまでも、「賜姓族」である為に、この時点では、「内仏舎」も「外仏舎」も青木氏がその見本的なのを示しす事に目的があった。

「外仏舎」では、「仏舎形ー墓ー菩提寺」
「内仏舎」では、「仏舎形ー本尊ー脇侍造像ー仏画」
以上の一連の形式と作法の見本を示したのである。

それは上記の青木氏の「二つの仏像の祭祀」が既にあり、「釈迦立像」と「二つの仏画」がある処を考え合わせると、同時でなければならない事に成る。

そもそも、「内仏舎」と成っているが、この形は ”庇を持つ小さい家の形”であった。
これを「大日如来坐像」と「毘沙門天像」の右隣に設けると成ると、”付け足しの建て増し”と云う事には成り、”周囲の目線”からも「模範」とするには無理であったと考えられる。
建てる以上は、目立つ様にもする為にも、”専用の「大きな仏間殿」(仏舎殿)を設える事に成った”と考えられる。
何しろ、周囲に追随して建てるのでは無く、”恣意的にも大々的にも目立つ様に、”これぞ青木氏の仏舎殿”を建設したと考えられる。
明治期の消失の家と現在の古家の仏間内容からも、小規模成れど「仏舎殿」の形を遺しているので、これ以上の形式を持っていたと考えられる。
当に、伊勢の松阪町の9番から11番までの「侍屋敷」(後に本領安堵で蒲生氏郷より与えられた。)に、平等院の様な「仏舎殿」(菩提寺の原型)を建設したと考えられる。
この頃(850年頃まで)の「仏舎」は、「持仏堂型仏壇」(下記)の様に量産されて定型的なものでは無く、都度、”依頼主の意向で外形と内部の装飾まで建設する仕様”であった事が記録から読み取れる。(その証拠が二つ遺っている。 下記)
「青木氏」に類じて上級階層は、競争する様に、”誇示する意向”も大いに働いたと考えられる。
その様に仕向けた事が考えられる。
それ故に、その「氏の密教性」も働き、より普及させる為にも、「内外の仏舎」は「自由仕様型」であった事に成る。

「持仏堂型仏壇」
それに比して、現在の「仏壇」となるものは、寺の中の「持仏堂」をそっくり模擬したもので、この手本と成った「持仏堂」が現れたのは嵯峨期頃である。
その後、少なくとも850年頃前後に、現在の「仏壇化」がうまれ、1000年に向けて次第に中流階級にも一般化したものである。それまでは、上記の「庇付きの仏舎」であった。

その前に、念の為に「仏・舎」が「仏・壇」と成ったには、一つの経緯があった。
仏教の発祥地の「インドの記録」では、次ぎの様に書かれている。
上記の事は ”インドの仏の壇の経緯”をみると頷ける。

”土の上に枠を組み、丸く盛土して、そこに仏を埋め、その上に仏具を載せて祭祀した。とあり、
その後、この土が雨風で流される事から、上に”「箱」”を被せたとある。
円墳の原型と成ったのであるが、”土の上に枠を組み”は「仏舎」の形に発展し、”仏具を載せ・・箱を被せた”は「寺社」と「杜」に発展した考えられている。

この事から、平安期以後の「持仏堂型仏壇」には、土辺の「壇」と云う字を用いる様に成った。
「仏・舎」から「仏・壇」となった所以である。
これが、上記した日本の「円古墳の原型」であるとされている。

「仏舎」と「仏壇」の違いが出ている事は、”「舎」と「壇」の違い”と成る。
そもそも、「舎」は”木の「家」”、「壇」は”土の「墳」”と云う事に成る。
「家」は ”人の居る場”、「墳」は ”死者の埋する場” と云う事に成る。

故に、「青木氏」は、「和魂荒魂の概念」と「密教の概念」の「神仏習合」から ”先祖と会する場”の概念が強いのである。 
つまり、「持仏堂型仏壇」の”死者の埋する場”と云う概念は無いのである。
この点が大きく違うのである。
これが「青木氏の伝統」の「根幹」なのである。

・「釈迦立像」と「二つの仏画」
そこで、「仏壇」には「仏像」は、本来は必要無い訳であるから、この遺された「釈迦立像」は、上記の事から ”「仏舎」”の中央に安置されていた「本尊」であった事が判った。
しかし、上記した様に、「曼荼羅絵等」を含めて、「釈迦天女像」などもあった事が記録に遺されている。上記した「二つの仏画」である。

では、”この「二つの仏画」が、何故、「持仏堂型仏壇」に掲げられていたのか”
この疑問を解く鍵がある。
最早、”平等院の持仏堂”の中をそっくり模擬しているから、一切の仏教が説く仏具は小型にして揃っていて、敢えて他に飾り立てる必要性が無い事に成る。
況して、”死者の埋する場”には必要が無い。
なのに、”何故、「二つの仏画」を飾り立てたのか”である。
当然に、ある「宗教的意味」があるから敢えて飾った事に成る。
特に、「密教浄土宗」と「顕教浄土真宗」が拘ったのかである。
拘らなくてはならない「大きな理由」があったからである。

それは、上記に論じた「壇」に関する「意味合い」である。
イ 一つは、「死者の埋する場」の意味(墳の意味)
ロ 二つは、「量産仕様」の仏壇の意味(持仏堂模擬型)

宗派に関係なく量産的に「持仏堂型仏壇」が出来て仕舞えば、宗派が主張する「宗教概念」は薄らぐ事に成り拙い。
宗派を表現しなかった「平等院の持仏堂」を模擬したのであれば尚更である。
古くからあった「公家衆」を信者とした「天台宗密教」や、古代密教仏教をベースとして上級階層の武家宗を信者とした「浄土宗密教」にとってみれば、「持仏堂型仏壇」は更に一般化して信者を増やす事に繋がるとして歓迎された。
しかし、反面、「量産仕様」は、「宗派概念」や「独自の密教性」が、強く仏壇に表せない事には問題があった。
そこで、再び脚光を浴びたのは、「仏舎」に使われた上記の「仏画本尊」であった。
この「仏舎」の「仏画本尊」を「持仏堂型仏壇」に掲げる事であった。
これで、先ず上記の二つ目(ロ)の問題は解決した。

ところが、もう一つの問題であった。
「死者を埋する場」或は、「死者を祭祀する場」に対する考え方である。
「先祖と会する場」とは異なる。

「仏壇の概念」
「持仏堂型仏壇」には、「墳」とする問題があった。
この「仏壇」には、「密教性の基本概念」である仏舎の”先祖と会する場”は無く、単に、”「仏先祖」との間を取り持つ「道具=仏具」”とする考え方が強かった。
つまり、「インド仏教」の「外来的な原型概念」が「壇」と成って、「持仏堂型仏壇の構え」と成っている。
そもそも、この「仏壇」には中央に釈迦像があり、その左右にその弟子たちが居並び、その前には天上を表現する「仏具」(三昧耶形)が揃えられている。
つまり、「天上」にいる「仏」に対して、その「現世にいる導師」が”「衆生の意志」を繋ぐ”と云う、洗練され簡素化された”新しい仏教概念”が構築されていたのであった。

「衆生の意志を繋ぐ場」≠「先祖と会する場」
「仏の墳」≠「仏の家」

「仏舎の概念」として「仏舎」の字が表す様に、「仏の家」とは根底から違っていた。
「仏壇」: ”先祖が天上でお釈迦様に導かれて成仏して、「仏」と成り現世と彼世を往来する。”
「仏舎」: ”現世に、その来世の為の空間を造り、そこに「本尊」を置き、その本尊に仏の先祖が下りて来て会話する。”
と云う二つの概念の差である。

上記で論じた様に、「仏舎」と云う「密教概念」は覆される事に成ったのである。

この二つは根底から異なる概念である。

そこで、困った「浄土宗密教」は、「密教概念」を表す事が出来る「仏画」を描き記して、「持仏堂型仏壇」の左右に掲げた。
その事で、”概念の中和が起こる”と考えたのである。
鎌倉期初期には、この対策を更に強く主張したのが「親鸞の浄土真宗」(親鸞の孫覚如)であった。
最早、「真宗」は「持仏堂型仏壇」そのものを取り除き「本来の仏舎」の形に近い形に戻したのである。
(この為に、路線争いからこの浄土真宗は三派に分離する事に成った。)

結局、そこで、鎌倉時代初期からこの「持仏堂型仏壇」は、宗派毎に「仏壇」そのものの「形式」を変える様に成った。
特に、「密教浄土宗」は”「浄土宗仏壇」”と呼ばれる「仏舎」を表現した融合型の「持仏堂形式の仏壇」を作った。
従って、「青木氏」には、この「浄土宗仏壇」をどの様な形で保有しているかが5家5流で違っていた。

主に採った方法は次ぎの方法であった。
1 位牌の形を「庇付き仏舎型」にする。
2 別台座を設けて「本尊の釈迦如来の仏像」を中央に据える。
3 仏壇の上部を「庇付き仏舎型」にする。

以上三つの方法を組した方法や単独で用いた方法等様々であるが、地域によってほぼ統一されている。
恐らくは、「時代の変化」に左右され、「伝統の継承性」の低下が起こり、「密教性の強弱」が異なる、「持仏堂型仏壇」に対する拒絶度の差違等によるものと考えられる。
筆者の家は、この「三つの複合型」であった。立場上の所以ではないかと考えられる。
(この様な伝統を一つでも維持して行くことはなかなか簡単な様で難しいのだ。)

一方、「法然浄土宗系」の「親鸞の浄土真宗」は、先ず「密教の概念」を外し、更に「本造像」は使わず、「三昧耶形」として”「仏画」”を特に厳格に用いた。

「衆生の意志を繋ぐ場」≠「先祖と会する場」
「仏の墳」≠「仏の家」

上記の”「持仏堂型仏壇」の概念”が根底から違うとして徹底的に排除したのである。
更に、密教も排除したのである。

その為に、民衆や下級武士等は、「密教の独特な概念」や「面倒な作法」に縛られる事なく、高価な「持仏堂型仏壇」を持たなくても入信出来るとして真宗は信者を多く獲得した。

(親鸞は、この「3つの差違」が起こり、この事で「師匠 法然」を裏切るとして悩んで、「浄土宗」を憚って名乗らず”真宗”と呼称した。
しかし、法然に疎遠の親鸞の弟子たちは、それでも強硬に「浄土真宗」と呼称した。)

結局、浄土宗は「法然派」と「親鸞派」の二つに分かれ、更に、この二つは法然派は、密教派と顕教派の浄土宗に、親鸞派は顕教として三派に分離してしまったのである。

以上の事が記録から判っているが、現在でも、この「伝統」を頑なに護っている宗派と地域があるのは、上記の”「仏舎」と「仏壇」の違い”がこの現象に成って表れたのである。

「皇族賜姓青木氏5家5流」は、「古来宗教ー古代密教ー密教浄土宗」とし、「仏舎」を維持して来てこの「作法」を堅持して来た。
ここに「伝統の差」が維持されて来たのである。

「衆生の意志を繋ぐ場」≠「先祖と会する場」
「仏の墳」≠「仏の家」

しかし、「特別賜姓族秀郷流青木氏」は、960年平安期の発祥とする為に、「持仏堂型仏壇」の時代の作法に従った。主に顕教浄土宗に成った。
しかし、「仏壇」は然ることながら、立場上は「密教浄土宗の概念」を職務としていた「藤原秀郷流青木氏」の地方に定住した「末孫の青木氏」等は、密教概念を堅持した事から、この「仏画の伝統」を護った事が判っている。
その根拠に成ったのは、そこで、「秀郷宗家」が地方に赴任する「青木氏」に対し、「浄土宗」が無い地域が殆どであった事から、秀郷宗家の場合は、その都度、「赴任者」に「仏画」を渡した事が記録されている。
この宗家から渡された「仏画」を以て「本尊」として、仏舎を建て一時的にも「浄土宗の信心」を続けさせる事を考えて渡したのである。
恐らくは、これをしなかった場合は一門の宗派の統一が出来ないと判断した事に依るものと考えられる。一門の「宗派統一」が成され無い事は、”一門の統一は乱れる”と考えたからに過ぎない。
特に、秀郷一門は、「第二の宗家」と呼ばれる「青木氏」を中心に厳しくこの辺を取り締まった氏である。
中でも「皇族賜姓族」と同格として補佐する立場にあった事から、「秀郷流青木氏」は、「密教性概念」を強く求められた事が所以している。
そこで「仏像」であれば、大量に生産して一門に渡す事の困難さや、搬送には嵩張る事や損傷の危険が高かったので、「仏画」を渡したのである。その上で、真宗を仮宗派とする事を認めたのである。
ところが、上記した様に、一方で、「浄土真宗」もこの「仏画」を「本尊」とする事を「宗派概念を判り易く表現できる事の本願」として推し進めていた。
この「両者の考え方」が一致した事で、相互に「協力体制」を採った。
「秀郷流青木氏116氏」の中で、赴任し地元に残った「青木氏」が「浄土真宗」を宗派としている家筋があるのは、この事に依る。
従って、この「一族の青木氏」には、「古い仏画の掛け軸」が遺されている事に成る。
確かに、「仏画」としてそれまで「本尊」として使われていたが、「持仏堂型仏壇」が、上級階層に使わられる様に成った嵯峨期頃(810年頃)に採用される様に成って、「伊勢青木氏」には、「持仏堂型仏壇」の側面に飾られて遺されてたと考えられる。

「ステイタスの絵」
そもそも、”何故、「仏画」に成って行ったのか”その経緯が問題で解明しなければならない。

「皇族伊勢青木氏」は、その後に損傷の激しくなった仏画を保存したとあるが、これは、その後の「復画」である可能性があり、現在の「仏画」も「三度目の復画」であるとの口伝がある。
その口伝から、古来よりの「密教から来る作法」として、代々 ”絵を描く”と云う事は、その”賜姓氏のステイタスでもあった”と伝えられている。
(累代の全ての先祖は、「技術官吏」で「紙屋」でもあった事から、「絵の心得」をステイタスとして会得していた。)
これも、上記の「仏舎の本尊」として「仏画」を用いた事から来ているのである。
むしろ、この「賜姓族の教養」として求められたものが、先ずは「ステイタス」と成り、その「ステイタス」が、結局は「密教の作法」と成り、それが更に ”「仏舎」の「本尊の仏画」へと発展した”と考えられる。
恐らくは、「天武期の詔勅」に依って作った「仏舎」の初期に、先祖がこの「ステイタス」を以って仏画を描いた。
そして、それを「仏舎」に掲げたところ「上級階層」から”絶大な賛美”を受け、それが、率先して「仏舎」を普及させる立場にあった為に、遂には、”周囲はこの「仏画」をも「詔勅の仏舎」の「取り決め」と解釈されたのではないか”と考えている。
そして、それが平安初期には、遂には”密教である事の影響”を強く受けて、「仏像の本尊」より上記した真宗の動きが重なり、「仏画の本尊」へと考え方が発展して行ったと考えられる。
それは、終局は、一寸した青木氏のステイタスを用いた発想が、より”その「密教性」をより表現できる”としたところと一致した事に繋がった事に意味があった事に依る。
況して、「浄土宗系宗派」だけが、この影響が強かったのも、”「賜姓族青木氏」が「密教浄土宗」であった事に依る”と考えていて、故に、「天台宗」と「真言宗」は、「仏舎の仏画」にあまり反応しなかった所以と判断している。
ただ、後発の密教真言宗は、この「仏画」には、特定の反応を示した。
それは、「両界曼荼羅絵」を信者に積極的に与えたのは、この後発の「密教真言宗」であるからだ。
現在も、積極的に「真言宗信者」のみならず「浄土宗信者」にも与えている。
ただ、「天台宗」は、「独特の立場」と「独特の密教性」と、その「世界観」を築いた為に、信者も特定者が多く、結局、”独自で仏画を与えている”と観られるし、”本尊化”は無かったのもこの事に依る。
これも「天台宗密教の作法」であったらしい。

そもそも、何故、「伊勢青木氏」の先祖代々のその「福家」の全ての長は、”絵を描く事”の教養を持っていた事の不思議さがあった。
それは、当初は、広域の伊勢国で、伊勢古代和紙(伊賀和紙)の殖産を地元に求め、税として集め、それを販売していた。
ところが、平安期初期から徐々に殖産を強め、「税の換金」の為に販売強化し、1025年頃には、「余剰品」を正式に「二足の草鞋策」として「本格的な商い」に発展させた。
この事により、「紙」に関わっていたから、”「仏画」を描いていた”と考えていた。
それでは「趣味の範囲」で留まり”代々必ず”と云う事には成らない筈である。
ところが、趣味では無く違ったのである。

平安初期以前の相当以前にも、先祖は絵を描いていた証拠が一族一門の資料から数多く発見された。突き詰めると、「天武期の詔勅(684年)」後の700年から750年までの「絵画の遺品」と、それを物語る遺品の仏具や絵具が発見されたのである。
更に、「青木氏菩提寺」に、消失する以前のものが、遺されていて、菩提寺の青木氏住職を含めて類型的に整理してみると、代々の青木氏に洩れなく、矢張り、「何らかの絵」を相当な能力で描いていた事が判ったのである。
明らかに”「教養」”として、”「ステイタス」”として「絵を描く事」を長や住職は求められていた事を物語り、間違いなく”趣味の領域の事”では無い事が判った。
当時としては、”「絵を描くこと」”が、”最大の賜姓族としてのステイタスを表す手段”であった事が判る。

実は、江戸期に成って、先祖代々が「賜姓族ステイタス」として「絵の才」を会得したのは、”「朝廷画派」であった「土佐派」(大和絵)に師事していた事”による事が判ったのである。
そして、筆者の直前まで「曾祖父」と「祖父」と「父」は、「賜姓族」であった過去からの関係で、続けて「朝廷絵師」の「土佐光信」に師事して、遂には、二人は本職として独立して一世を風靡した。
更には、遡って、調べ上げて判った範囲では、”12代前までの累代の先祖”が、”「巨勢派」の「大和絵」”の「藤原氏朝」等の「朝廷絵師」から代々師事していた事が判った。
この室町期まで「累代の先祖」が、描いた「先祖の絵」が一族一門の中に何らかの形で遺されている。

「土佐派大和絵」
そもそも、上記の師事した師匠は、次ぎの通りである。
A 平安期には、「巨勢派」の「巨勢公望」に師事したとある。
B 鎌倉期には、「巨勢派」の門人「春日基光」に師事したとある。
C 室町期初期には「巨勢派」の「大和絵」”の「朝廷絵師」の「藤原氏朝」等に師事したとある。
D 南北朝時代の頃には、「巨勢派」の「師匠」として、「朝廷絵師」として「藤原行光」に師事し  たとある。
E 江戸期には、「巨勢派」の別派の「土佐派」が「大和絵」を復興させるのに貢献し師事したとあ  る。
F 江戸末期には、大和絵の「土佐光信」に師事したとある。

この「巨勢派」は「大和絵」として「朝廷の絵」を専門に描いた流派である。
この関係から「青木氏」は代々この派に師事した。
「青木氏」等が、この「流派の画家」を後援し、この関係から「朝廷」からも強く支持された。
「大和絵の巨勢派」は、室町時代から200年間を、正式な「朝廷の絵所」(朝廷絵師)を世襲した。しかし、室町時代末期には、一時、朝廷の「絵所領職」を失った。
その理由は、室町幕府衰退と、一時、戦乱期で朝廷も衰退した為に、更には、この流派の後継者が次々と戦乱で死するなどして「大和絵の流派」は全く途絶えたのである。
この後に、この「巨勢派」は、別流派として江戸期に成って、「土佐派」」を創設して、純日本的な「大和絵の伝法」を再び樹立した。
江戸末期には、「末裔の土佐光信」は、宮廷や将軍家と密接な関係を再び持ち、再び最盛期を築いた。
「伊勢青木氏」は、続けてこの「土佐光信」にも、「曾祖父」、「祖父」、「父」と師事した。

我が家の遺品から観れば、一族一門、更には、「信濃青木氏」や「近江青木氏等」や「近江佐々木氏」までを調べれば、又、更には、それらの家や菩提寺までのものも調べれば、その繋がりから、”奈良期までの遺品”に辿り着けると考えられる。
既に、「近江佐々木氏」の研究論文からも読み取れる様に、書画から「賜姓青木氏」の事にもかなり辿り着けると考えられるが、現在は最早難しい。
この事から、”「ステイタス」”であった事は確かであるので、上記の奈良期での「仏画の推論」は上記した様に、「大和絵の巨勢派」に師事していた事が、何よりの証拠であり、当たっていると考えている。
平安期以降からの「仏画の状況」は遺品から充分に説明出来る。
「平安期の状況」と「奈良期の状況」が全く違うと云うシナリオは考え難い。
平安初期の「桓武天皇期」には、確かに状況変化を一時的に起こした。
しかし、「嵯峨天皇期」で、又元の「皇親族」の状態に戻した。
確かに「仏舎」は、「仏壇」に成ったが、逆に上記した様に、「仏画の本尊化」は逆に進んでいるので、一時に低迷はしたが、平安期後にも仏画に関して盛り返したと考えるのが、相当と考えられる。

奈良期のものとして遺されている「二つの仏画」の検証では、次ぎの様な違いが出て来る。
「古さ」  日光の紫外線や風化で材質の劣化レベルでの判断
「絵構図」 密教の初期の為に、筆運が異なる。
「絵具」  岩絵具は中国製の良質で劣化具合が異なる。
「表具」  表具は中国の影響が顕著に出て異なる。
「糊」   表具糊が悪いと茶色く変化して絵は観えなくなる。

専門的に「絵の下地」は「特殊な糊」を使う。絵の保存関係はこの表具の下地に使う「糊」の如何によって決まる。
この「糊」は何年も掛けて醸したものでなくては、絵具の下地になる為に最終絵が剥がれ朽ちて遺す事は出来なくなるのである。又、絵が「茶化」して観えなくなるのである。
専門的には絵構図以外は専門性の判断力が左右するが、他は、材質論に左右する。
平安期直前の絵と室町期後期の絵には、「材質の差」が出る。
以上から遺されている「二つの仏画」は「原図」であろうと観ている。

しかし、確認できるのは、筆者が観て「復画」らしい遺品は、祖父の「2つ目の復画」である。
祖父は35歳までは「伊勢の紙問屋」の後継として働いていたが、「松阪大火」で紙問屋は倒産し、その時の「絵の能力」を以てそれまでの師匠に改めて弟子入りして本職とした事が判っている。
この時に、保存していた傷んだ原画を”「復画した」”と考えられる。
それともう一つ「現在の仏画」と観る復画は、「2つ目の復画」は「父の復画」である。
この違いは、絵具には膠を使うがこれには問題はない。
問題は、「表具」取り分け「表具の糊」による。これで「時代の見分け」が就く。
この見分けの方法には別の方法がある。

「氏の象徴印」
奈良期からの上級階層には、その「氏の印」が定められていた。
「家紋」と成る「氏」を示す象徴文様がこの階層にあった。
殆ど食器の類から牛車の類までにこの象徴文様を記した。
当然に、書類や絵画や書にも、この現在では「実印」に当たる「氏の印」の「烙印」や「落款」があった。
当然に、これらの「仏画」等には、「青木氏」が”書いた、或は、発行した”とする「烙印」や「落款」が押印している事に成る。其れを確認すれば証明できる事に成る。

これは「青木氏」が代々使っていた ”先祖の落款”(「5Cm角の黄玉」で出来ている落款。)は保有していて判っている。
当時の「上級階層の落款」は、”氏を象徴するもの”であるので、その印は、”「黄玉」”と云う超宝石と云われる中国でしか出土が無く、稀に出土されるのでダイヤモンドより遥かに高価な宝石である。
掘り尽くされて現在では稀である。
この「黄玉」を使う仕来りであった。
江戸時代でも、大名でも、超大名か将軍家位の身分の者が持てる「黄玉印」である。
高価で持てる持てないでは無く、持つ事を禁じられていた「黄玉印」であった。
印を押す押さないとは関係なく見せるだけでその立場が判るものであった。
「伊勢青木氏」の「福家」はこれを持っていた。

この事からも、この事を少なくとも物語っている。
「原図」の「落款」は、この「黄玉の落款」を使っている筈であるが、かなり古く成っていて判りにくいが、まず間違いない。
落款から検証すると、”奈良期の先祖の仏画”である事に成る。
この落款で一族一門の家の遺品、守護神神明社や菩提寺の遺品、を調査する際にはこの落款での検証と成った。
この結果、殆ど、「青木氏の落款」を押印していた。
”何らかのシステム”を作って、「福家」に持って来て押印していた事に成る。
この事は、平安初期の「仏画や書」には、上記した事を物語るもので、「上級階層の依頼」に対して、丁寧に対応していた事を示すものである。

平安期前では ”「賜姓族青木氏」”と云うものを証明していた事を示している事。
”福家”が受けた「依頼」に対して、”福家”から手渡すと云う契約を護った事になる事。

数は少ないが、もう一つ落款があった。
この落款は何なのかは何時のものなのかは判らない。

そもそも、筆者の家には、古来から「紙に関わる家」であった事から、昔から全国のあらゆる画家が家に逗留していた事が在って、多くの「画家の絵」が遺されている。
「画家」のみならずあらゆる芸術家や僧侶達が、宿屋の様に無償で長く逗留して居た事が判っている。その様な別宅があった程で、中には、生活苦で長逗留して勉強する芸術家もいて、生活支援しながら画家を育てていたらしい。
江戸時代の有名な美人画の画家が長逗留して居た事も判っている。
その為に、室町期からの凄い量の絵画が遺されている。
中には有名に成った芸術家の若い頃の絵が遺されている。
これらは全て「逗留者」が謝礼として遺して行った絵との事である。
絵は表具されずに原図の侭に一か所に保管されていた。
口伝では、この画家を育てる事は、”大昔からの当たり前の事 ”であった事らしい。
その大昔とは、”何時の時代を指すのか”を本論に大きく関わる事であるので調べると、鎌倉期末期の頃の「僧侶の絵」が多くあった。
「書」に関しては、平安期末期の矢張り有名な「寺の僧侶」の書がある。
何とか奈良期か平安期初期までに到達しないかを調べたが、この頃に成ると画家や書家の氏名が著名な人しか先ず判らない事、専門的に「落款の相関」が判らなく成る事、落款資料が無い事等で確定が難しく成る。
平安期初期は、画家は僧侶や神職が多く、治外法権的な領域に入るので菩提寺か守護神の領域しか判らない。

「支援と技量の習得」
この調査で「奈良期」にまで到達すれば、上記で論じた様に、「上級階層の賛美」で依頼を受けて、「青木氏の神職や住職」が「神格像や仏画」を描いたと判っている。
では、”その絵の技量は何処で習得したのか”と云う事を判明させる必要がある。
「平安期の巨勢派」から「江戸期の土佐派」までの「大和絵の一派」を「朝廷絵師」であった事から「朝廷」に代って「賜姓族」として、「紙問屋」として幅広く「生活支援」をし、且つ、絵に付いても師事していた。
上記した様に、遺された数多くの絵や書、それに伴う一族一門資料や菩提寺守護神の遺された資料から、この事に深く「福家」が関わっていた事は明確に判っている。
恐らくは、この「青木氏の神職住職」等は、この「大和絵の一派」に「福家」と共に師事していた事は間違いはないと考えられる。
「室町期の書画」が「福家」以外にも多く遺されている事から、「平安期前」も同様であったと考えられる。
「福家」の「絵」に関わる「紙問屋」としての「生活支援」のみならず、各地の多くの「青木氏の神職や住職」も「大和絵」を習う事でも「巨勢派の画家」の「生活支援」をしていたと考えられる。
そもそも、鎌倉期以降は、朝廷も彼等を「朝廷絵師」としての ”「絵所領職」”だけでは一派を維持させられる事は絶対に出来なかった筈で、況してや、「朝廷」自らの生活も侭ならなかった時期に、無理であった。
従って、”「大和絵」”を遺す上でも、この立場上、「賜姓族」としても「青木氏」は、「福家と神職住職」共に「生活支援」を積極的にしていた事が判る。
それは、上記で論じた様に、多くの画家を逗留させて「絵の修業」をさせていた事、「紙問屋」でありながら「総合商社」でもあった事から、”大和絵の画家の絵”を上級階層に積極的に斡旋して居た事も判る。
上記した様に、遺された”「画家の表具されない多くの絵」”が保存されている中には、「大和絵師」の絵も多く遺されている。

注釈
(「特別な絵箪笥」があって、その箪笥は「絵箪笥」として専用に何段にも作られ、「油紙」を敷いた「桐の子引出し」があって、それに扉が付いて、それを全体の引き出しで保存する様に成っている。更に、この引き出しの外側に二重に扉があって、外側は黒檀で出来ている。実に密閉度が良く、扉と引き出しを開くとオルガンの様に音がする「絵箪笥」で、代々大事に使われて来たものであることが判る。・・小さい頃はこのオルガンの様に音がするので開いて閉めての繰り返しで音楽を引くようにして遊んでは叱られた思い出がある。・・
実に密閉度が良く、湿度は桐の材質で吸収され調節されて、中のものは全く傷んでいないし、変色も無い。ここには、表具されたものは別の絵箪笥があって入っていない。)

この様な”原図そのものの「専用の絵箪笥」”があると云う事は、「販売目的」では無く、「生活支援」の為に、”引き取った絵”も多くあった事を示すものである。
上記した様に、「逗留画家の謝礼」としての「絵」もこの中に入っていた。
室町期から江戸幕末までには、何としても、「日本古来の大和絵」を絶やさない為にも、「若い画家」を無償で受け入れ育て、世に出し、生活が成り立つ様に、「原図」を買い取り保存し、何時しか「表具」して、「販売斡旋」して、「紙問屋」として「生活支援」していたのである。

上記した様に、これは、上記検証の通り、平安期前には、「賜姓族青木氏」として「初期の朝廷絵師」(「絵所領職」)を務めた事を縁に、「大和絵巨勢派」から、その流れを継承した幕末の「大和絵土佐派」への「青木氏の支援」であった。


その前に青木氏は、平安初期には「桓武天皇」から「皇親族として排除」をうけて30年の衰退期があった事、中期以降は「源平の争い」が起こって受け入れ態勢が出来なかった事から、この期間の絵画や書などは、「先祖の絵」(一族一門と関係族で調べられた)を除いて少なかった。
少なくとも、”賜姓族としての青木氏の経済力”は、「二足の草鞋策」を営みだした950年頃前後以降の事に成る筈で、その意味で、鎌倉期から再び出て来るのは妥当であろう。
鎌倉期から室町期は、戦乱期でありながらも、徐々に「紙文化」と呼ばれる文化が進み、遂には、有名な「室町文化」が起こって、これを機に、再び「巨万の富」を得たので、ここからは書画骨董は多く成っているのは納得出来る。

筆者は、平安期前は、福井の逃避地で賜姓族を保護する事に精一杯で余裕は無く、”画家などを逗留させる”と云う事は、未だ客人的な範囲に留まり少なかったと考える。
室町期の様に「別宅」を構えて支援する体制までには至っていなかった。
その「組織的な態勢」が、「賜姓青木氏」には、上記した様に「巨勢派」に対する「支援体制」に総力を注ぎ、未だ「全般的な支援体制」は出来ていなかったと考えられる。
それよりも、「5家5流賜姓族」の菩提寺や、全国の「神明社の守護神」で、多くの「青木氏住職」の「仏画」、多くの「青木氏の神職」の「神格像画」が主に描かれた事と考える。
筆者の家も「賜姓族の役」からの「ステイタス」として描いていた事は、当然ではあるが、これだけでは「仏画の本尊化」は、センセーションの的には成ったにしても、起こせなかったと考えられる。

「上級階層の賛美」が起こっても、”では誰に描いてもらうか”は問題と成る。
「賜姓族の青木氏」の「福家の役」は「上層階級の賛美」だけで良かった筈である。
「賜姓族の青木氏」の「福家の長」が「頼み」に応じて全てを書くと云う事には成らないだろう。

そもそも、その当時は、古代仏教の伝来時の「密教」であった事から、未だ描ける者は、阿多倍の渡来人職能集団の「舎人部」か「史部」以外には少ない筈で、「密教画」として知識を持ち、それを正しく描ける者は、未だこの時期には無い筈である。
「賜姓族青木氏」の「職能集団の民部(かきべ)・曲部(まがり部)」の中に、「青木部」と称する仏画を描く「絵師の部集団」を構築しようとして、先ずは、「密教の知識」を持つ「青木氏の神職住職」が、既に持つ「書の才」をベースに、その「仏画の能力」を付させようとした。
その為には、その基礎力を「巨勢派」に求め、上記の様に、「大和絵の巨勢派」を引き出して育成にも総力を注いでいた事に成る。
「神職や住職の描く仏画」は、最終的には、これらの「青木部の絵師」が指示に従い分担作業で書き上げたと観ている。
何故ならば、「青木氏の守護神の神明社」でも論じたが、神明社や菩提寺の建立と共にここに安置する像もこれらの「青木部」が行っていた。
「天武天皇の詔勅」の「仏舎の建立」では、筆者は問題は無かったと観ている。
何故ならば、「青木部」の「大舎人部」(詔勅の仏舎等を建築する職能集団)がその技量を充分に持ち得ていた。
従って、「神職や住職の者」が、先ず、「青木氏の密教」のその「仏画の技量」を獲得して、「青木部」にも「仏画の作成能力」も整えようと働いた筈である。

「賜姓青木氏」の「職能集団」を総称して、氏名を採って「青木部」と称した。
この「仏画」は、単なる仏画では無い。「青木氏の密教の仏画」である。
その「青木氏の密教」は、「和魂荒魂の古来宗教概念」と「古代伝来仏教」との「神仏習合の密教」である。
従って、根本的にこの「青木氏の密教概念」と「青木氏の守護神と菩提寺の様な組織」と「青木部を有する職能集団」を持たない他氏では到底描けるものではそもそも無かった。

そもそも、上記した様に、「密教」は何事にも初代は「青木氏」なのであるから、「青木氏」に頼るしか無かった筈である。
又、その「国策氏」と「賜姓族」と云う立場もあり、他に進んで受ける氏は無かった事に成る。
周囲の上級階層もこの事に付いては成す術がない”と云った処であったと観られる。
筆者は、周囲の上級階層は、「天武天皇の詔勅」の「仏舎」等に関する「勅令」にも、「勅令」が出たものの充分に対応出来なかったと観ている。
だとすると、頼まれたものを断る事は立場上、出来なかったと成れば、況して、金銭に糸目をつけない力だけは持っていた「上級階層」(下記)である。

当時の上級階層の氏族に付いて書いた記録がある。
それには、次ぎの様に書かれている。要約する。
・・・殆どの「氏族」は、多数の「部民」を「隷属民」として支配していた。・・この「部民」は農村に家を成し、農耕の傍ら主家の氏族の要求に応じて、世襲的に同一の産業的労務やその他の労働に従事させた。・・「氏族」とは別に住み、血縁関係は一切無く、部民間にも血縁関係は持たなかった。
”個々に浮浪する民”を集めて編成したものが殆どであった。
・・「農耕」にのみ従事させる隷民であった。
(朝廷の直属の農民以外は原則私有民は認めていなかった)
その「氏族の氏名」を「部の名称」とする「特技の技能」を持った「部組織」を持つ「氏族」は少なかった。・・・その殆どは政策上、「特定の氏族」を除き、主に朝廷に所属させた。・・
と記録されている。

以上の記録の通り、「上級階層」は、「青木氏」の様に「青木部」を持つ事を許されていなかった事に成る。この「特定の氏族」とは、「三つの発祥源」と「国策氏」の立場を持つ「5家5流の賜姓青木氏」に許された「特権の事」であって、後は、”朝廷の管轄下に置かれていた”事を示す。

依って、「天武天皇の詔勅」が出た以上は、これを断れば反発を招くし、「密教の詔勅」の「仏舎の翻意」は果たせない事に成る。
そもそも、その「詔勅の案件」は「施基皇子」が奏上したものである。
奏上する以上は責任を果たさねば成らなくなる。

「賜姓族青木氏」には、残す手立ては、一族の青木氏の神職(500社)と住職(15寺)に指示する事に成った筈であり、可成り、「仏画構築」に急いでいたと考えられる。
この能力を以てすれば十分に対応できたと考えられる。しかし、ここで問題が生まれた。
それは、元々、「神職 住職」は「書」への高い技量を持っていた。
しかし、「絵画への技量」は無い。
そこで、「賜姓族の青木氏」は、その「絵画の技量の基礎」を会得しなければならない。
「仏画」と成れば、「中国画」が主体を占めていたが、「青木氏の密教仏画」を表現すると成れば、古来からあった”「大和絵」”から”「青木氏の密教仏画」”を新たに創造する必要性に迫られた事に成る。



以下は伝統 8に続く


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「毘沙門天の影響 2」


No.323] Re:「青木氏の伝統 6」-「毘沙門天の影響 2」
投稿者:福管理人 投稿日:2014/09/26(Fri) 09:22:05


> 前回の末尾

>因みに、その盛大さは、「超大地主」であったことから、奈良や紀州や伊勢の各地の農民等の代表者等が泊りがけで集まったと伝えられている。
>その為の宿泊の準備では、「菩提寺と関係寺の解放」、「各地神明社の解放」と「全ての居宅や旅館」を確保したとされる。
>「土産物」「引き出物」などは、地元の家々の分も大八車に載せて列を組んで運んだと聞かされている。
>明治35年以降は、「端午、雛の節会」は、形式的に終わらせ、「盆彼岸の節会」は普通に内家で行った。
>現在は、「盆彼岸の節会」「暮正の節会」は「毘沙門天荒神節会」と合わせて家内で形式的に消えない範囲で行っている程度である。実際のところ”文書に遺せる範囲の維持”と成っている。




> 伝統-6


・「注釈6」
ヘに付いて、「仏壇の作法」は「密教作法」に関わっている。
ただ、現在は「密教浄土宗」は何処にも無く、伊勢菩提寺も知恩院系の顕教と成っている。
(江戸期の禁止令)
従って、「密教部分」は、「青木氏」に伝えられている「密教作法」のみと成っている模様である。
「青木氏」には、これに「三宝荒神信仰」と「毘沙門天信仰」の部分の「伝承範囲」が習合と成っている。
ただ、「仏壇祭祀の飾り立て」は、他の浄土宗の祭祀とは違っていて盛大と云えば盛大である。
(筆者が他の葬儀に参列した時の作法でその違い差が出て来る)
「仏壇供え物」は、専用の高瓶盆、専用の器類、専用の机、専用の台、専用の経机、・・等、古来からの「武家の慣習」に従った「歴史的な専用の物」に備えて祭る。
全て、「漆金」と「漆朱」を中心としてと一部「漆黒」で出来ている。
これを仏壇前の一畳の中に治めて先ず供る。
例えば、盆類は、公家は低盆で庇は少ないし漆黒であるが、「武家」は高く庇は大きく朱色である。
盆以外にも「武家」の専用具には全て象徴紋が大きく金色で書き込まれている。

「密教」の「両界曼荼羅絵」を仏壇の左右壁に並べて下げる。(古来慣習 下記)
「釈迦天女像」が仏壇上正面壁に飾られる。(古来慣習 下記)
「青木氏の三象徴物」の「笹竜胆紋」「神木のあおきの絵」が仏間正面に掲げられる。(古来慣習)
本来、「大日如来坐像」と「毘沙門天像」が、仏壇の左側の間に、仏壇と同じ作法で鎮座して別に祀られていた。

(ところが、ある時期から、盗難の危険が迫った事と成った事から、現在は、或ところに依頼して別に祭祀している。毘沙門天像は消失)
それに代わって、左間側に「大日如来坐像絵」と「毘沙門天像絵」が祀られている。(古来慣習)
ここに、節会の毎の像・器・具(義経ー弁慶像 雛人形、・・・)が飾られる。
(筆者は、大変なので始めから隣の一つの部屋に「飾り部屋」としてこれらを飾っている。)
祭祀の間は、左右に二畳ずつの間、その二つの前には六畳仏間があり、合わせて十畳の間と成っている。ここの仏間の両脇に「廻り灯篭」の一対の「行燈」と、「武家・侍」としての「印」の「密教の三昧耶形」が飾られる経机を設置する。

「達親の論文」でも論じたが、仏壇の内容には「細かい作法」で「密教性」が出ている。
「線香、蝋燭の用い方」、「木魚・鐘鈴の用い方」、「座り方」、「仏壇御簾の使い方」等が、「浄土宗作法」と違っている。「密教性」が出ている。
確かに、「違い差」がある事が、「月節会」の知恩院系住職との会話から判った事であるが、「密教性」と云うよりは、「古代性」である様である。
典型的な違いのあった例事は、「座り方」であった。全てこの考え方に尽きる。
男性は「胡坐」、女性は「立膝座り」である。(室町期ー江戸期の武士の座り方作法である。)
「月節会」では、住職の後ろには座らず左右に別れて座る。(中央は「仏の道」との考え方にある。)
家長と姑 嫡男と嫁は左側、その他は右側に座る。
この様に上記の違い差は全て「古代仏教の仕来り」に習っている作法が遺されている。
これは、古来より「三宝荒神信仰と毘沙門信仰」の「古い信仰体の作法」が引き継がれて祭祀して来ていた事が、これが「作法の違い差」に成って出ている事に成る。
つまりは、「古来作法」が介在していた為に ”俗化されなかった事”に成る。
この「古い信仰体の作法」がある事が、千三百年以上の長い間、「新しい信仰体」の作法が入る余地は無かった事に成る。
これは当然の事でもある。”先祖との会する場”の「密教概念」が、実際にはもっと遺されていたのではと考えられる。
「江戸期の密教が禁令」と成る前の室町期前には、当たり前の形で遺っていたと観ている。
例えば、
「仏の道」「仏の座」を作る事     「道座」
「仏壇の開閉」はせず「御簾」を使う事 「御簾」
「住職」は「専用の椅子」に座る事   「椅座」

(「道座」は仏教にもあるが、「神道」にも”神が通る道”と云うものがあって、「本殿に通ずる参道」なる道がある。つまり、”「憚られる道」と云う概念”が「神道」にもある。)

以上等は、「道座作法」「御簾作法」「椅座作法」と呼ばれる。
その部屋に仏が通る道を設けたり座る場所を設けたり、仏壇を開閉せずに仏が居るので神道で使う御簾を設けて常に仏壇を開けて置いたり、住職が座る椅子を準備して仏が動座して和する様にしたりする所作は、これらは、当に、そこに ”仏が居る”とする前提にある所作である。
奈良期の頃は板の間であって、上級階級の「生活の場」や「政治の場」や「祭祀儀式の場」では、人が集まって輪座する時は、「床几」と呼ばれる椅子の様なものを使った。
「神道」では、現在でも ”「神が坐処」”としてこの「三つの所作」が遺されているが、「御簾」と「椅座」は、「神道」のみならず「天皇家の儀式」にもはっきりと遺されている。
然りながら、現在の仏教に遺されていないで、「神道」等の所作に遺されている事は、それは元は、古来の「和魂荒魂の宗教」(自然神)の「仕来り所作」から来ている事を示すものである。
つまり ”先祖との会する場”と云う事で生まれた作法である。
これらは、江戸期の禁令に対して「明確な排他的密教作法」とする前提に無い事から、 ”他に弊害が無い”として遺された作法であろう。

参考
古来の宗教の「邪馬台国の卑弥呼」の「自然神の占術」は、祈祷する事に依って、この”先祖との会する場””神・仏が居る”を作り出し、その”先祖の知恵と経験”を聞き出して、”神のお告げ”として「占い」をした事を意味する。


”先祖との会する場””仏が居る”の「密教概念」に付いて、上記の様に、追求すると「古来宗教の仕来り所作」が基本になっているのである。
仏教伝来後に「密教概念の作法」に成っていた事には間違いはないが、ただ、注釈3の「伝家作法」、注釈4の「賜姓五役」、注釈5の「白幔幕、青幔幕」、本注釈6の「道座」「御簾」「椅座」等は、全て「神道の所作」に通ずる事であって、必ずしも「密教仏教作法」だけではない。
多くは「神道の所作」が「密教仏教作法」の中に組み込まれたものとして一体化したものである。
それだけに、「古来仏教の勢い」が「古来神道の勢い」(和魂・荒魂)より大きかったことを物語る。

これらの「一部の所作」が、現在の「神道の祭祀」や「天皇家の儀式」の中に観られる所作ではあるが、”「個人としての伝承」”では、奈良期からの「賜姓族の青木氏」だけであった。
これは「賜姓五役の所以」であった。
つまり、注釈2の古来宗教の「和魂 荒魂」から来た所作であって、これが「神仏習合の所作」である。従って、”「古来の宗教所作」の伝承”と云えるのである。
言い換えれば、当に、”「三宝荒神信仰と毘沙門信仰」の合体”が、「青木氏の所作」と云える。

・「注釈7」
トに付いて、”「三昧耶形」”として祀られているが、つまり、密教の「三宝荒神信仰」と「毘沙門天信仰」に使われる仏具と云う事である。
筆者には、この”「三昧耶形」として祀る事”は ”少し変だ”と観ている。
何故ならば、確かに「二つの信仰体の仏具」である事は事実ではあるが、それならば、敢えて”改めて何故祀るのか”疑問がある。

「三昧耶形」を指し示す事は「密教」であり、「賜姓族」で「武家」である事の証である。
しかし、それならば何も「三昧耶形」の仏具でなくても証明は出来ている。
取り分けに「仏具」をわざわざ誇示する必要は無い筈である。
筆者は、この「三昧耶形の仏具」は、「毘沙門天像」が「明治の出火」で消失したが、この「毘沙門天像」が燃えた後に遺された「鉄製の装飾品」、つまり、像に飾られていた「三昧耶形」の「装飾仏具」であったと観ている。
何故ならば、古来にこれらが作られた時に鉄製であった事から、錆びない様に”黒染め”と云う処理を施していた。
他の古い仏像の金具には必ずこの”黒染め処理”が施されていて、既に、この技術は大化期の初期の古来からあった。
それは「後漢」からの「職能集団の鍛治部」が持ち込んだ技術である。  

つまり、鉄を350度くらいで熱すると、表面が空気と触れて酸化する。
この酸化は、錆びの酸化とは異なり、錆びない酸化膜なのである。
鉄には、温度を上げて行くと4段階で4種類の酸化膜が出来る。
第2段階のこの酸化膜はその中を拡大すると、空気が入り込めないほどに緻密に成っていて逆に錆びなくなるのである。

「毘沙門天像」が燻り燃えた時、この鉄の仏具もある程度の温度になり、黒染めに成っている処に、更に黒染めが働いて更に強く成って錆びなかった。この為に遺されたのである。
つまり、明治35年消失の「毘沙門天像の遺品」と云う事に成る。
これが”錆びない”とすると、この「毘沙門天像」は、「青木氏の発祥期647年頃」のものである事に成る。

つまり、天智天皇から命じられて「大日如来坐像のお仏像様」を作った「司馬達等」かその孫の「鞍作部止利」の仏師の作と成る。
そこで、この「三昧耶形の仏具装飾品」の大きさから像の大きさを算出した。
その結果、菩提寺から室町期末期に居宅に運び込まれたとされていることから、一間以下であった筈で、台座を入れて室内で祭祀するには、1500Cm以下であった筈である。
「金剛棒の長さ」からみて、宝棒や宝塔等の大きさから、台座の高さを少なくとも30Cmとすると、像は1200Cmと成る。
金剛棒(1000Cm程度)が、これを超えない範囲で製作されている筈であるから、「毘沙門天像」は1200Cm程度であった事に成り、この像のものであった事が判る。
他の「三昧耶形」もこのサイズに対して一致する。
「像木」が管理された環境の中に無いにも関わらず、ここまで朽ちないで遺っていた事から、「楠の巨木」からの像であった観ている。別の三昧耶形の仏具の中に鉄製では無い「木製仏具」は「楠製」で出来ていて黒光りしている。

これらの仏具は、「毘沙門天像」に付随する「三昧耶形」として整えられたものであろう。
一つは50Cm位の「大蛙の彫り物」(現存)、二つ目は12Cm程度の太さで65Cm程度の「釈迦立像」(現存)も楠で彫られている。

(古来には「大蛙」は「神仏の使い」として扱われていた。この事から「毘沙門天像」の「三昧耶形の仏具」として扱われていた可能性が高い。)

この「釈迦立像」(下記)は、口伝では元々から菩提寺では無く居宅に安置されていた仏像であったらしい。
室町期の大火で「大日如来坐像」と「毘沙門天像」が居宅に安置されてから、この「釈迦立像」とはどの様な形で安置し祭祀されていたかは不明である。(下記)
明らかに、容像は、「浄土宗仏像」形式で、「天上天下唯我独尊」の構えの像である。
この容像から観て、この崇拝偶像は、「本仏壇(平安中期頃の持仏堂型仏壇形式)」の前に用いられていた仏間で中央に祭祀されていた「本尊の仏像」の一つではないかと考えられる。
この「釈迦立像」は、元々何かの台座の上に据えられていた事が像の底の形から判る。
「雲の形」をした台座の上に据えられていたらしいが、この「台座」は、端部が朽ちていて中央は角型に抜けている。サイズバランスからして適切なものである。
しかし、楠の材質では無く檜で、楠の様な樹液による”黒くすみ”は無く赤白い。
推定だが、この台座の上に金糸絹布が載せられていた可能性がある。
現在は大花瓶の台座に成っている。

お恐らくは、この事は、奈良期の「大日如来坐像」と「毘沙門天像(三宝荒神信仰)」への「偶像への祭祀」と、「先祖を祭祀する仏壇」の「偶像の祭祀(釈迦立像)」とは、「別の信仰体」として祭祀されていた事を意味する。(奈良期から室町期末期での祭祀は異なっていた。下記)
「賜姓五役」を達成し維持出来る様にする為の祭祀と、「先祖への祭祀」とは概念として区別して祭祀していた事に成る。

そもそも、「毘沙門天像」は、足元に多くの「三昧耶形の仏具」が多く添えられている仏具で有名で、その足元には、鬼を踏みつける容像等、足元にその特徴があって、その密教に依っても異なる。
「青木氏の毘沙門天像」は、「鬼相台座」の横に、「神仏の使い」として「大蛙」を引き連れた容像であった事に成る。
この事は、「青木氏の密教」の概念を物語る。
その概念とは次の様に成る。

「青木氏の密教概念」
古来宗教の「和魂荒魂」から、「荒魂の荒神」の「悪神」として時には荒れると見做されていた「鬼」を、「毘沙門天」は足で押し潰し、「悪」を祓い守護される。

(「鬼」は、この時期、未だ「悪」とは必ずしも考えられておらず、「神の使い」としての扱いであった。ただ、「神の使い」として、時には、奢り、豊満、怠惰、強情、遍情等の「戒め」の為に「世」を懲らしめるとしたが、人間の勝手な理屈で嫌われた。
9世紀半頃の何時しか鬼は「悪神」と成った。下記の「方相氏」の論を参照)

「和魂の和神」の「仏神の使い」としての「大蛙」に依って「和魂」の「大日如来」の「ご利益」に導かれる。

以上の様な「青木氏独自」の「密教概念」を持っていた事に成る。
この「密教概念」は次ぎの様にまとめられる。

青木氏の「守護神の密教数式論」
A 「和魂の和神」=「大日如来坐像」+「大蛙の仏神の使い」
B 「荒魂の荒神」=「毘沙門天像」+「三宝荒神」
C 「仏教の守護神」+「神道の守護神」=「青木氏の守護神」

これで、「青木氏の密教概念」の論理性は成り立っている。

しかし、「青木氏の密教概念」だけでは、「仏教」だけの守護となり、「青木氏の賜姓五役」は成り立たない。(仏教の守護神 神仏習合神)
その為に、「神道」の「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の守護があってこそ、「青木氏の賜姓五役」は成り立つ。(神道の守護神)

(研究室「青木氏の守護神の神明社」の論文参照)

結局は、上記の”「守護神の密教数式論」”が「賜姓青木氏」に成り立っていた事に成る。
本来、如何なる他氏でもこの様な「守護神の密教数式論」が成り立つ事は無かった。
それは「賜姓五役」と云うべき”「氏」に課せられたもの”が無かったからで、同じ「朝臣族」であった「賜姓源氏」にはこの務めは無かった。
如何に大変な宿命を負っていた事かが判る。
しかし、それだけに、「氏の行動」は「慎重な行動」に成らざるを得ず、「賜姓源氏」の様に「自由な行動」に出て、結局は11氏もありながら全て「滅亡の憂き目」を受けてしまった事を鑑みると、「賜姓青木氏」は幸せであった事に成る。
当に、”世に晒す事無かれ 何れに一利無し”である。

言い換えれば、この「守護神の密教数式論」の御蔭である。


そこで、この「青木氏」の「慎重な行動」は、上記で執拗に論じた「密教節会所作」と云う行動を作り出し、そこからはみ出さぬ様に、「自らの概念」に、”箍を填めて作り出していた”事に成る。

(何故、二月に一回程度に「節会所作」を繰り返していたかは、「氏の者の思考」の中に徹底して浸み込ませていた事でも判る。)

「青木氏の慎重な行動」=「密教節会所作」=”世に晒す事無かれ 何れにも一利無し。”


ところが、青木氏の「密教数式論」はこれだけでは終わらなかった。

それは上記した「釈迦立像」の「仏壇の本尊」があった事である。
更に進めた調査で次の事が判った。

本来の他の氏であれば、この「仏壇の本尊」への「祈願とその所作」の範囲で留まる。
「賜姓青木氏」は、この「仏壇の本尊」も偶像化して、その所作を上記の「守護神の所作」と重ねていたのである。
上記の「九度節会所作」にもある様に「賜姓五役」の「守護神の密教数式論」に伴う「節会所作」と連動させていた事に成る。
では、どの様に、連動させていたのかである。

普通は、「浄土宗仏壇形式」の「持仏堂型仏壇の様式」で諸々の仏具を整えての祭祀となるであろう。
しかし、ここでも「賜姓青木氏」は他と違っていた。
恐らくは、奈良期647年に賜姓を受けてからの「古来の奈良期の仏壇」と成った筈である。
その頃は、未だ、時代的に「持仏堂型仏壇」は無かった。
「持仏堂型仏壇」は、仏教伝来後、寺の中に「持仏堂」と云う建物を建てた事から、この”仏を祭祀していた堂”の形をそっくり真似て、小型化したものが現在の「持仏堂型仏壇」の元となった。
従って、その「持仏堂」の初期の代表的なものは、平安期の「平等院鳳凰堂」の「持仏堂」であり、これが”「仏壇の起源」”であると云われている。
この「持仏堂型仏壇形式」の前までの祭祀方法は、上記した古来宗教の”「和魂荒魂」の「祭祀の方法」”に従っていた事に成る。
この”「和魂荒魂」の「祭祀の方法」”では、”何時頃からのものになるか”と云うと、これには記録があった。
最も古い記録から、この古来の「和魂 荒魂」の「祭祀の方法」として、何と、当にこの事に付いて、684年3月に「天武天皇の詔勅」を発している。

この「詔勅」から、未だ当時、「仏の祭祀方法」に定まったものが無く、新たにその祭祀そのものを命じ、且つ、その祭祀方法等をも禁令で命じた事に成る。
この「天武天皇の詔勅」では、次ぎの様に命じている。

”「諸国の家毎に「仏舎」を作り、「仏像」及び「経」を置きて、以て「礼拝」し「供養」せよ」”

以上と明記している。

この”「仏舎」”とは、上記した平安期の「持仏堂型仏壇形式」に相当するもので、古来の「和魂荒魂の祭祀の方法」である。
その”「仏舎」”(現在の仏壇に相当)の作り方も明記している。
その内容を現在文に要約すると次ぎの通りである。

そもそも、「仏の祭祀」は、その都度、四隅には、「木又は竹の支柱」を建て、これに板を渡した「舎」を造り、その中央に「本尊(仏像)」を造り安置し、その「葬儀」には、ここに「仏」を安置する方法として祭祀する。
この「舎」の形状は、箱型にした上部には、斜めに「板」を渡し、「庇」を設け、側面の一方を開いて正面とし、内部の底には「台」を設けて、そこに「本尊なる物」を設けて「仏舎」とすべし。

以上としていて、更に記録を観ると、この”「仏舎」”の形では、「天武天皇の詔勅」に基づいた「仕来り」に従った事を、更に発展させた事を明示している。
それは、次ぎの発展内容の通りである。

しかし、この「仏舎」で祭祀するに従って、その頻度が高く成り、「上級階層の祭祀」では、これを繰り返したが、遂には、それを定型化して「台」と「仏像」を安置する「仏舎型」なるものを作り上げた。(「台」と記されている遺品は遺っている。下記)
そして、それを「小型化」して、「家屋」の中に治めた。と記録にある。

これらの経緯としては、最初は外にあった「仏舎」を屋内に治めたのか、外と中にも設ける仕来りにしたのかはこれでは判らないが、しかし、”両方に設けた仕来り”であったと判断できる。
そして、外の「仏舎」は「墓」と進化したと考えられる。
「墓」は何時しか「仏舎」の形造る板が朽ちる事から「砂岩」で表現したと観られる。
墓石の「砂岩」に付いては、平安期の仏教の記録資料があって、”風雨で自然に朽ち果て自然に戻る事”を「仏説作法」で求めている。
と云う事は、この資料から「外の仏舎」が「墓」に変化した時期は、奈良末期から平安期初期の頃と成る。(「外仏舎」と呼称されていた模様)

古墳時代の末期に位置していて、この時期の墓としては次ぎの様なものがある。
(「仏舎」の形に影響を与えた「古代インドの墓」の形に相似させた古墳時代の円墳丘)

持統天皇陵の奈良県高市郡明日香村の野口王墓、(686年 697年)
文武天皇陵の明日香村の中尾山古墳、(707年)
天智天皇陵の御廟野古墳 (672年)
[施基皇子の陵墓」(「春日宮天皇陵」)高円山東古墳:「後付墳墓」(716年)
「光仁天皇の陵墓」の奈良県奈良市日笠町の田原東古墳 (781年)
などが墳丘を持っている。

日本では、初めて以上の皇族王の「固有型式の陵墓」が出現した。
この事から、684年に「天武天皇の詔勅」が出て、王族では無く、上級階層の「仏舎」は、「施基皇子の墓」(高円山東の「春日宮天皇陵」)として「後付墳墓」があるので、後716年以降と云う事に成る。
近くには、「子供の光仁天皇の陵墓」があるが、「伊勢青木氏の菩提寺」には「施基皇子」「白壁王」までを祭祀している。
「春日宮天皇陵墓」と「光仁天皇陵墓」は、「公式の墓所」として祭祀されていたので、別として、「賜姓氏」の「個人の墓所」は「青木氏菩提寺(」匿名)にあったが、「墓形式」は「仏舎型」で、当初は「木仏舎」から、平安期直前(716年頃-810年頃)に墓石に変え、この墓石は当初は「砂岩」であった事が判っていて、その証拠に隣の「女墓」の一部の墓石は未だ「砂岩」のものが遺されている。
始祖「施基皇子王」と元祖「白壁王」の「氏墓」も青木氏菩提寺に祭祀されていた。
(松阪大火で菩提寺消失 明治初期に大理石の墓石に変えた。)

この事で、次ぎの事が判る。
”790年頃以降”に「青木氏」がその「賜姓族立場」の頂点にあった事から率先して見本を示し、「上級階層」から「仏舎型石墓」を採用したと考えられる。
この「石墓」に成るには、上記した「後漢の職能集団の石作部」が「大和川流域」に住んでいた渡来人にて可能に成った。
「木製内仏舎」や「木製外仏舎」は「玉作部」が、後の「石墓」は「石作部」が作っていた。
この「玉作部」や「石作部」等職能に関する後漢から渡来した「部民」は、直接、朝廷の管理下に置かれていて、官吏「伴造」が仕切っていた。
この官吏「伴造」は殆どは「氏上」の中から選ばれた。しかし、「人」がいない時は「部民」の中から選ばれる事もあった。
「伴造」は「民部省の配下」にあったが、「始祖施基皇子」の「青木氏」は、この”「大和川流域の部民」(技能集団)”(「青木部」と呼称 名張拠点)を「氏上」(伴造として選出)として直接統括していたのである。

注釈
(「青木氏」が ”氏上様”と呼ばれていた所以であり、”御師様”とも呼ばれていた所以である。
「御師」は職能集団の総括者の事、 江戸時代には「徳川吉宗」に依って幕府にもこの「御師制度」を伊勢から持ち込んだ。以後幕末まで維持された。)

注釈
(「青木部」:民部 かきべ 後漢渡来人の職能集団の総称 後に「守護神神明社建立」や「菩提寺建立」等に関わり「賜姓族青木氏」の「2つの絆青木氏」に成る。「三つ発祥源」「国策氏」「神明社建立」の為に、永代の「民部大輔」にも成っている。この役職には、実質、下記の”「民部四権」”と云う国策に直接関わる大権を持っていた為に、「正四位下」以上の上位の位官級の者で中納言か上位公家等が任官した。「命令権者」であった。実務者は「民部大丞」と「民部少丞」(秀郷一門の役)であった。大蔵省よりも権限は強く、その為に「太政官府」の譜と併用して発給していた超重要な朝廷の機関であった。「民部部門」を実質制する者は、”朝廷の真の権力者”であった。「皇親政治の根幹部」であった為に「光仁天皇期」(施基皇子第六子)まで維持された。桓武期の「律令政治」に成った事から「民部四権」の大権は律令に取って代わったが、「青木部」は遺された。この段階から、「二つの絆青木氏」は発祥した。「嵯峨期」では「民部大輔」は「永代官位」と認定された。)

注釈
(民部省:「税政権」を主幹とし、その「具納組織の管理権」と、それに伴う一切の「問題解決権」と、その「管理内の警察権」(「民部四権」と呼ばれるもので、「私有荘園内」にも認めた。)

従って、「青木氏」がこの立場を利用して、この身内の官吏「伴造」を通じて命じて、全体を動かし、「青木部」をして、「仏舎や石墓」等を率先して作り、見本的にも ”作り易い環境”に成っていたと観られる。
その「青木氏」が作ったので「上級階層」は、”我先に競って作った”と云う事が起こったと考えられる。
何故ならば、「日本人の国民性」で、”自分が先んじると周囲の批判を受ける”と云う懸念する習性が働いたと考えられる。
実行するのは「上層階級」なので、批判は「公家や天皇」から直接受ける事に成る。
ところが、そもそも、「上層階層」は、自ら「民部(品部)」を持っていなかった為に、「青木氏」に頼む事に成り「批判の心配」もなく見習ったと考えられる。
元より「賜姓族氏」として「見習れる立場」にあった。

その「石墓の原型」は、「砂岩石」の高さ1M程度幅40Cm程度の四支柱板を組み立て箱にし、その上に石板の「屋根型の箱蓋」をした形であった事が伝わっている。
(仏舎型石墓)
その後に、下の四支柱板を設けそれの一方を開いた箱型を立てた形にし、「仏舎型の屋根」を載せた形にした。
(箱型仏舎石墓)
更に、この箱型が1角柱に変化して、その上に小さく仏舎型を載せた形となった事に成っている。(角柱型仏舎石墓)
角柱に変化してから、ここで、更に次ぎの様な差別化が起こった。
この様に、三段階の「外仏舎の石墓」”(灯篭型仏舎石墓)”の変化を来した事が判っている。
(灯篭型外仏舎)
江戸期には下級武士も墓所を持つ様に成って汎用化して、より安く簡単にした形が好まれて屋根部が省かれ始めた。
(角柱型石墓)

明治期の苗字令で、庶民も墓を持つ様に成った事から、「角柱型」のものと成って行った。
この時期を境に「材質」も汎用で長持ちさせる為に変えられた。(花崗岩)
「角柱型石墓」の多くは室町期末期から江戸期に入って起こった形である。

その身分さ家柄さを表現する為に、次ぎの様な工夫が凝らされた。
角柱の上に元の様に、「五輪の塔」の様なものをした石物を載せた様にしたが、これも差別化と当時に、「仏教の教え」を表現する仕来りが出て来た。
多宝塔、層塔等の物が石墓の横に添えられた。
50年経つと、この「五輪の塔」を設ける者が現れ、何時しかそれが「仕来り」と成った。
しかし、これも上級階層の誰しもが設ける様に成ってからは、「先祖の仏」が50年経過毎にこの塔に移す仕来りに代ったのであった。要するに「50年祭」である。

「現在の石墓」はこの角柱の上に置かれた屋根型のものを省いたものと成った。
しかし、「平安初期の古石墓」は何れも「仏舎型の石墓」の形を呈している。
調査したところによれば、比叡山や高野山や知恩院の浄土寺の古い寺や墓所からこの様子が観て取れる。

現在でも、地方の古来の歴史的遍歴を持っている墓所の「墓の形」には、未だ、初期の平安期の石墓の形を遺している地域がある。
この様に「内仏舎の原型様式」や「外仏舎の原型の石墓様式」も「インド墓」の流れの「円古墳」を汲んでいたのである。
それが、日本式に「環境や仕来り」(「和魂荒魂」と「古代仏教」)に合して改良した事に成る。
丁度、「灯篭の形」に成っている。
そして、はっきりとした記録に観ると、平安期800年過ぎ頃から石墓の「灯篭型外仏舎」に蝋燭を灯して先祖を導く行燈とした。
「木製外仏舎」には「天武天皇の詔勅」が出た直ぐ後の690年頃から使われた模様である。
現在の「庭灯篭」はこの「外仏舎型石墓」(灯篭型石墓)が変化したものと考えられている。
この「庭灯篭」の汎用は1360年頃から絵画にも観られる様に成った。
実は、この「庭灯篭」が、更に「密教の内仏舎」の上記の”「迎え行燈」の役目”に発展を成していたらしい。

”灯を点灯して、先祖を迎え入れる”と云う行為は、「古代仏教の概念」としては強いものがあり、「仏舎の時代変化」は、調べると「蝋燭の時代変化」にも合致している。



> 終わり。

「伝統」-7に続く。
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「青木氏の伝統 5」-「毘沙門天の影響 1」


[No.322] Re:「青木氏の伝統 5」-「毘沙門天の影響 1」
投稿者:福管理人 投稿日:2014/08/29(Fri) 15:14:16


前回の末尾

>事ほど左様に、他の四節句も、”休ませる事”に重点が置かれ、「人日の節句」の通りに考え方が、上巳、端午、七夕、重陽にしても、全てこの”休ませる事”の解釈であった。(別記)

>”何故、この様に成ったか”と云う論調には、上記の「稲荷信仰体」と同じく、次ぎの「庶民信仰体」の影響が左右されていたのである。


伝統-5


「毘沙門天の影響」
この「庶民の五節句」の「祝日祭りの影響」は、江戸期からの”民衆化した「3つの毘沙門天の神格化」(「戎神」「勝負神」「無病息災神」)”に大きく影響された事もあったと観られる。(下記)

何故、この特定階級の中でも、「上級階層の密教」そのものの「毘沙門信仰」が浸透したかと云う疑問がある。

それは、江戸期250年の間に、何と全国的に起こる「気候変動の大飢饉」が8回も起こっているのである。30年に1回である。
地方の小さい飢饉にすると数えられない位で、「小さい飢饉」は殆どが「河川反乱」であった。
この為に「土木事業」が盛んであった。
「薩摩藩」や「紀州藩」は、その「最先端の技術」を持っていて、幕府に請われて他藩に主張して「河川改修」を命を掛けて盛んに行った記録がある。

江戸期の庶民は、これは「日本古来の和魂と荒魂」の考え方が蘇り、「荒魂の悪神の悪神」が暴れていて、これを鎮める「毘沙門天」や「荒神」が働かず、「庶民の無信心」で勝手気儘に暴れているのだと考えたのである。

それまでは、当に、「密教範囲の信仰体」であったのに、民衆は藁をも掴む思いで、この信仰体に再び飛びついた。
「古来の荒神信仰」が「武士」の間で信仰されていた事を知ったのである。
其れが元は「庶民信仰の地荒神信仰」(道祖神や産土神)であった事を知ったのである。

そこで「神社仏閣」は、いち早く、民衆を呼び止める為に、「毘沙門天像」や「不動明王」や「荒神像」を祭祀した。

ところが、毘沙門天像と不動王像の神格に対して、新たに「戎神」「勝負神」「無病息災神」を求めたが、「武神」「守護神」「財神」の「3神格」は求めなかったのである。

その代わりに、「地荒神」を発展させて「万能神の様」にしてまったのである。
この「地荒神」と「毘沙門天の神格」の「無病息災」等に”願いを込める休む日”とする節句をつくりだしたのである。

この様な経緯から、「節会」が「節句」に変わった事も、庶民の「毘沙門天の神格」が「戎」「勝」「無」の「現世の生活観」に特化した為に、「会」に持つ”彼世の仏の意味”が消え失せて、「句」の”現世の人の息遣いの意味”に変化したものである事が判る。
庶民の中では、最早、”「武」「守」「財」の3神格”は影形も全くなく成ったのである。
(武士階級の中で護られた)
ところが、その後に、「本来の3神格」を維持して来た「伊勢青木氏」にも、これを維持することが難しくなった時期が発生したのである。
室町期末期に戦乱と大火で、「菩提寺」が消失して、「本来の密教作法」に依る祭祀が充分に行えなく成った。
そこで、「大日如来坐像」も居宅に安置されて「毘沙門天像」と共に祭祀を何とか維持していたにも関わらず、今度も「明治の大火」に依って「毘沙門天像」そのものの偶像を消失しまった。
完全な意気消沈状態であった事か伝わっている。
暫くは、祭祀そのものが危ぶまれた時期があったとされる。

当然に、この時期から、青木氏には、「本来の目的」(「武神」「守護神」「財福神」)の概念が低下して行ったと観られる。
大正期に入り何とか祭祀は盛り返されたが、この時、「護り本尊」の「毘沙門天像」の代わりに「節句」に使っていた「義経ー弁慶像」を使う事で「密教作法」は何とか遺されたのである。

従って、「青木氏」のこの「義経ー弁慶像」(二代目)は、江戸期の庶民が用いた偶像の「義経ー弁慶像」では無かったのである。
「毘沙門天像の身代わり像」であった事に成る。
”消失による概念の低下”を防ぐ目的の為に、むしろ「庶民文化の偶像」を上手く利用した事に成る。
奈良の発祥期から観ると、「伊勢青木氏」には、「氏存続」に関わったものとして、「一度の衰退」「3度の戦禍」「2度の災難」が起こった。

毘沙門天像等の遍歴(三昧耶形仏具)
大化期初期ー居宅 ー・・・  賜像「毘沙門天像」・「大日如来座像」
平安期初期ー菩提寺ー150年 桓武天皇 皇親族排除
平安期中期ー居宅 ー50年  秀郷流青木氏賜姓 商い開始
鎌倉期初期ー菩提寺ー125年 源平合戦 以仁王の乱 孫京綱跡目
室町期初期ー居宅 ー175年 紙文化 室町文化開始 巨万の富 「大日如来座像の移転」
室町期末期ー新宮 ー350年 信長の伊勢三乱 商い中断 「大日如来座像の移転」
江戸期初期ー松阪 ー10年  本領安堵 商い再開 「大日如来座像の移転」
明治期初期ー鎌倉 ー275年 伊勢動乱 一揆支援 家勢再興 「大日如来座像の移転」
明治期中期ー松阪 ー25年  松阪大火・毘沙門天像消失 商い倒産 「大日如来座像の移転」
大正期初期ー松阪 ー20年  家勢再興 仏具整理


その事から「縁起」を担ぐ事で一族の中にその意識が遠退いたのであろう。
その証拠として、幸いにも遺された「お仏像様」にも、この「縁起」を担ぐ事が在って、”その「お仏像様」を祭祀するに、それに「見合う人物」でないと、その人物に「不祥事」が起こる”と云われていて、厳しく戒められていた。
現実に、筆者もその人物で無い為にあるところに安置して頂き祭祀している。
二度とこの様な事が起こらない様にする「訓戒」であろう。
事ほど左様に、この「毘沙門天像」(「護り本尊様」)にも同じ事の戒めが課せられていたが、「松坂大火」で消失して仕舞う仕儀と成った。
この為に、”この「戒めの咎目」を受けた”として祖父は、そけを祭祀する人物でないと自若し「毘沙門天の事件」で「祭祀」には口を固く閉ざしたものと観られる。
(祖父は当時、伊勢ー紀州ー奈良ー大阪ー京都圏域では誰でも知る有名な人物で、紀州徳川家や天皇家との付き合いもあった。しかし、「咎目」を受けた。)
結局は、900年以上続いた「伊勢の紙屋長兵衛」を倒産さした事への祖父の痛恨の反省なのであった。
しかし、晩年、再び祖父は、何とかこの「毘沙門天の祭祀」を甦らせ、父を経由して筆者の代まで引き継いで来た。
筆者以後は、先ずこの継承事全ては、文章にして遺す以外に最早、完全に無理な状況と成って居るのである。子孫は多く遺したが、何れの者も持って生まれた意識がそれを成し得る意識に到達していないのでは致し方無しである。仏説の当に”縁無き衆生 動し難し”である。
恐らくは,”[伝統]”と云うものはこの様にして消え去って行くものである事が判る。
消したくなくても「自然の力」はそれを超えていて、古来から伝わる「密教」の様々な「伝統」は完全に消える。何とか文章にまとめて記録して、全国の青木氏の末裔が「ロマン追求」の役に立つ為に出来るだけ詳しくして遺そうとしている。
恐らくは、全国の青木さんも殆どは伝統があるにしてもこの様な事で消えて仕舞ったと観ている。
最早、伝統そのものよりも「ルーツ探究」も侭ならない状況に成っている筈である。

事ほど左様に、以下に遺すべき歴史の史実をより詳しく解析して論じ続ける。

さて、この「義経ー弁慶像」(二代目)は、「人形」と云うよりは、”彫刻に彩色粉飾を施した木仏像”のものであたと伝えられている。
この事は、”何とか「毘沙門天像」に似せてのものに”と考えてのことであったらしい。
祖父の意識感覚が伝わって来る。
新たに「毘沙門天像」を作る財力は、「紙屋」は倒産したとは云え、未だ充分にあったと考えられるが、何故なのかは判らない。恐らくは、毘沙門天像に似せようとしたと考えられる。
当初は「毘沙門天像」は、上記した様に平安初期には「菩提寺」に保存されていたと聞かされている事から、その後、「室町末期の戦乱・大火」から「お仏像様」と共に居宅に移した。
しかし、この「毘沙門天像」(護り本尊様)は、上記の配慮から ”古く成った”との理由づけになってはいるが、正しくは「明治期の松阪大火」で消失したのである。
「毘沙門天像(護り本尊様)」の代わりかは不明であるが、上記した様に、一般文化を取り入れてか「義経ー弁慶像」(二代目)に変わった模様なのか、「毘沙門天像」に何故しなかったのか、調査したが、「菩提寺の消失」で「建立する力 維持する力」に総力を上げようとした事があって、「毘沙門天像の復元」には至らず、結局、「義経ー弁慶像」(二代目)で我慢したと云う事であったらしい。
つまりは、「偶像」は変わったが、”「祭祀の密教所作」は遺こす事で治めた”と云うことであった。

(「2度の大火の災難」から”「縁起」を担いではっきりさせていないの”が原因で、恐らくは「消失」である。ところが、この「消失の過失」を認めると、未来に「祖父の名誉の禍根」を遺すと判断したと観られる。この消失は「類焼」では無く「出火元」であった事から余計に意識したと観られる。)

現在の「義経ー弁慶像」(二代目)の人形は、明治35年(2度目の松阪大火 出火元)で「毘沙門天像」と共に「義経ー弁慶像(一代目)は消失して、その以後のものである。
後世には、悠久の歴史を持つ伝来の「毘沙門天像」であった事を明確にせず、「義経ー弁慶像」で繋ごうとしたのである。
昔は、この人形に色々な装飾物があった様であるが、現在は無いが、何とか「毘沙門天像」に近づける努力はした様である。
消失するまでの居宅での「毘沙門天像(護り本尊)」と「お仏像様」の祭祀では、色々な「仏法作法」があった。
以下の所作が伴う「密教所作」は、「義経ー弁慶像」(二代目)であるにしても、「江戸の節句行事」では無かった事が良く判る。

「密教所作 (九度作法・節会所作)」
遺されているのは「道標行燈の作法」と「茶釜の作法」の他に次ぎの「作法事」がある。
この祭祀には、次の様な作法が遺されている。
イ 「家伝の宝刀」を幼児に背負わす作法が遺されている。  (武家訓魂)
ロ 「武神」と云う事からの「武の基本所作」が遺されている。(軍配挙手、馬杯酒飲、刀剣手掛)
ハ 「紅白の角餅」を供る作法が行われいる。        (白は賜姓族の象徴色)
ニ 「幔幕」(家紋入り)を張る作法が行われている。    (福家象徴)
ホ 「方位」は北に向けての物であり、その祭祀には「方位の障害物」等を清浄する。(邪気払い)
ヘ 「回り行燈一対」を左右に据えて「仏壇」を飾り立てる作法が行われる。    (法華経典)
ト 「仏壇」は「古来の武具」の合わせた「小型金具の黒武具」の仏具が添えられる。(三昧耶形)

この様に、「青木氏の節会」は ”先祖との会する場”ではあるが、この”会する事”は「賜姓族(3つの発祥源)」を頑なに護る事の意を持っていたのである。
其処には、「護る意」のみならず「歴史的な意味」が語りつくせないほどにあった。
恐らくは、これらの「密教所作や仏具」は、仏法の「戟」「宝塔」「法棒」等の「三昧耶形の一式」であり、「九度作法」(節会作法)と呼ばれ、れぞれの「節会所作」にはそれなりの意味があった。
それを次ぎに注釈として論じて置く。
兎に角、「道標行燈」にしろ、「毘沙門天信仰」にしろ、「茶釜の作法」にしろその理解の前提と成る予備知識がないと「青木氏の密教所作」は充分な理解が得られないであろう。

・「注釈1」
ハに付いて、「紅白の配色」には、通説は「源平合戦の色分け」とされているが、元より「賜姓族青木氏の象徴色」として、且つ、奈良期から「3つの発祥源」として「色の源元」の「白」が用いられた。要するに ”「青木氏の賜姓色」”である。
他に”「あおき木の賜姓木」””「象徴紋の笹竜胆の賜姓紋」””「大日如来坐像の賜姓像」””「毘沙門天像の賜姓像」”等と共に「白色」は「青木氏の氏色」であった。
これに対して、同じ「賜姓族源氏」が、「源平の戦い」に際して、「賜姓青木氏の賜姓白」を用いた。それに対応して「賜姓平氏」は、「紅」を用いたものである。
本来であれば、「賜姓平氏」は対象色は「赤」と成るが、「中国の故事」に習い「紅」を用いたものである。
「青木氏の象徴紋の笹竜胆紋」も源氏がこれに習って使用したものであるが、そもそも、「嵯峨期の詔勅と禁令」には、「源氏」には「象徴紋や白」などの「賜物の規定」は元より何もない。
むしろ、「嵯峨天皇の詔勅」には、反対の意味合いの内容(”「朝臣族の身分」のみを与えるが、「民への負担」を考えると何事も自ら切り開け”)が記されている。
従って、「賜姓源氏」は「同族の賜姓青木氏の賜物」を用いたのである。
昭和の終わりころまで「紅白角餅」と「紅白饅頭」を配った。


・「注釈2」
ホに付いて、家の中の南北の位置に「護り神棚」があり、これを清浄にして、且つ、南北の屋敷内に不浄なものがが無いかの清掃を行う。
この「護り神棚」は「荒神様」と呼称されて、古来より毎日一族がお神酒を捧げて祭る慣習が続けられた。
そもそも、「仏教」が伝来する前は、日本古来には、信仰するものを分けると、「和魂 にぎみたま」と「荒魂 あらみたま」とがあった。
特に、「民間の伝承」としては「和魂」が信仰された。
ところが「荒魂」は悪外を成すとして民衆は祀る事はしなかった。
ところが、「賜姓青木氏」は、民衆とは異なり、発祥時より、この「和魂」と「荒魂」を祭祀していたのである。
ところが、そこに「仏教伝来」があった。
古来より「荒魂」に当たる「荒神」なるものがあったが、ところが、この「荒神」の「悪神」を、逆に祀り、この「荒神」の「神通力」を利用して「守護神」にすると云う考え方を持っていた。
ところが、ここに「仏教の密教」が持ち込まれたのである。
そもそも、上記した様に、インド伝来の「密教の神格」には「毘沙門天」や「不動明王」などもこの「荒神」であった。
そこで、この「密教」では、その「荒魂」の「荒神」の「悪神」の「神通力」を使って「守護神」とする考え方があると説かれたのである。
元よりの考え方にこの密教説が一致し、「日本の風土」にもこの考え方が根付いたである。
つまり、どう云う説かと云うと、古来からいう「荒魂」を祀って、それを「荒神」として祀ることで「悪神」の部分を取り除くことが出来ると説いたのである。
言い換えれば、”祀らないと「荒魂」の「荒神の悪神部分」は消えず悪さを起こす。”と「陰陽師」や「占師」は説いた。祀る事で逆に「荒神」と成るとしたのである。
そして、その「荒神」は、ある特定の「荒魂」に宿るとしたのである。
「荒の魂」には「武の魂」「守護の魂」「財福の魂」があり、この「荒魂」に「荒の神」が宿り、「荒神」はその「荒の神通力」を発揮して「魂」を護ると説いた。
この「守護神」が「荒神様」なのであって、神格化した「毘沙門天」や「不動明王」なのである。
「青木氏」は、元来からあった「神道の和魂と荒魂」の中に融合して、この考え方を「青木氏密教」として取り入れたのである。
要するに、「神仏習合」を「仏教伝来」と共に古来に成し得たのである。

上記した様に、「密教の神格」の「毘沙門天」は、北方十二域を守護すると云う「密教説」に従い「毘沙門天」の神を、南北の「家の中」の位置に「青木氏」は古来から祭っていたのである。
これが「荒神信仰」と云うものに発展した。
しかし、この「荒神信仰」には大別すると「二通りの系統」があった。

「屋内」の「三宝荒神」 「守護神」を持つ青木氏等が祭祀する「荒神信仰」の事
「屋外」の「地荒神」  庶民等が祭祀する「自然物」を祭祀する「荒神信仰」の事
以上とがある。

・「屋内の荒神」は、「中世の神仏習合」に依って「神社や修験者等の関与」により、「火神」「竈神」の「荒神信仰」に、「密教仏教」や「修験道」等が伝道した「三宝信仰」(下記)が結びついたものである。
これらの「屋内荒神」は、密教を宗派としている青木氏等の「特定階級の荒神信仰」であった。

・「屋外の地荒神」は、山神、屋敷神、氏神、村落神の「神格」があり、「樹木や塚」の様な自然物をも「地荒神」と呼んだ。「自然=地」から「地荒神」と呼んだ。
中には飛躍させて、民は「牛馬の守護神」として「荒神信仰」も創出した。
これらの「地荒神」は全て「庶民の荒神信仰」であった。

有名な祭神には次の様なものがある。
「道祖神」「産土神」がある。火神系を「荒神」として祀っている。
「神道系」にもこれら「火神系」と「竈神系」の「荒神信仰」がある。
「密教」「道教」「陰陽道」等が習合した独特の「スサノオ信仰」がある。
「祇園社」(八坂神社)でも、「三宝荒神」を祭祀している。

「三宝」
さて、この「三宝」とは何なのかである。
その前に、次ぎの注意事を知っておく必要がある。
平安中期頃に密教側の中で、屋内の「三宝荒神」には次の様なものがあるとされていた。
如来荒神(にょらいこうじん)
麁乱荒神(そらんこうじん)
忿怒荒神(ふんぬこうじん)
の三神を指す。
ところがこれらは「偽経」とされる説でもあった。
(「偽経」とは中国で作成されたお経の事。)
「仏教の如来」の扱いは、日本古来宗教側から観れば、「和魂」である。
其れなのに「荒魂」とは矛盾している。
この事から、大和には根付かない「妥協の産物」として排除された。
後の二つの荒神は、至るところに”「乱怒の諍い」を起こす”と批判され、当に、荒れ狂う「荒の神」の「悪神」である。
この「悪神」を「仏教の三宝の力」で沈められるとしながらも、「悪神」も「神」としてそのものが存在すると云う偽経の説は大和には受け入れられなかった。
それは、この「悪神」そのものを「沈め治める力」は、最早、「人」には無いとして「偽経の神」と扱われた。
インドの「釈迦仏教」では無く、「中国仏教の説」で、中国の「最古の道教」の影響を受けた「中国仏教」と観られ「虚偽の荒神」として大和では排除された。
中国の”石も薬”から来る思考原理で ”矛盾も又真成り”の論調の中国宗教であった。

「伝承解決者」
では、この様な国家的問題を一体誰が解決したのであろうか。
放って置いて解決する問題でも無く、国家的問題を古来の占者が、時代考証的にも平安期の陰陽師でも無い事は判る。果たして誰なのか。
この様に、文学は兎も角も、中国宗教に関しては、「中国儒教」と共に、不思議に日本には古来より根付かない歴史を持っていた。
”矛盾も又真成り”の「中国特有の論調」が「大和の人民」には素直に受け入れられない歴史を持っているのである。ここが、決定的な ”漢人と倭人との違い”である。
丁度、この「和魂」「荒魂」の古来宗教の奈良期の頃に、後漢の阿多倍王が率いる「200万人の職能集団の帰化」と「古代仏教」が持ち込まれたのである。
恐らくは、”漢人と倭人との違い”大きく出て、大変な騒ぎと成った事が容易に判る。
そこで、考えられたのが、両者の繋がりの「妥協の産物」として、「和魂」は兎も角も、「荒魂」に「三宝」を結び附ける事で、「荒魂」の「悪神」は消え、荒々しい「武魂」は、「武神」に成るとした仏説を創造した。
そして、その「武魂」が「神」と成った事で、「武魂の守護」も「神」と成り、「武魂」に依って得られる「財」も「福神」に代わるのだとする密教説を造出した。
そこで、この「武神」を密教仏教の「毘沙門天像」に偶像として求めた。
この「荒魂」に類する密教の「武神」と成った「毘沙門天像」と、古来の「荒魂」の「荒神の偶像」とを結び付けたのである。
この時に、上記する様に、幾つかの結び付け方が現れたが、取捨選別されて、「武神と成った毘沙門天」と「荒神と成った悪神の荒神」が結びついたのである。

さて、この時、最初に新しい「密教仏教説」を受け入れ、且つ、「和魂と荒魂」を護っていたのは、他でも無い「賜姓族青木氏」であって、「三つの発祥源」として、「国策氏」としてその役を担わされたのである。
当に、寸分も違わない同時期である。
これは偶然でも無く、朝廷はあらゆることを鑑みて、「国策氏」としてこの問題の解決に取り組む様に役付されたのである。
その為には、これらの問題に直面していた「天智天皇」と「天武天皇」は、「自らの子孫」をその役務に付ける事が必要に成り、最も信頼していた「施基皇子」と「川島皇子」にその役目を与えたのである。
その為には、「天皇」に継ぐ「家柄と身分官位官職」などの一切の「高位公職」を皇太子を超えて与える必要があった。それを、「第四世族内の朝臣族」にして「第六位皇子」にして「賜姓」したのが、この所以なのであった。
(補佐として第七位皇子の「川島皇子」にした。後には、「藤原秀郷」に対して特別に「青木氏」を賜姓して更に補佐させた。)
つまり、「国策氏」として、最初にこの問題に取り組んだのが「5家5流賜姓青木氏」であった。
言い換えれば、上記の様に「違い差」が出ていた「和魂ー荒魂の古来宗教」+「密教仏説」の”結びつきの解決”を図ったのが、歴史的にこの「2つの青木氏」であった事になるのである。
この「2つの賜姓青木氏」以外に、この時期に両者に関わっていて、古代密教を継承して、解決に必要とする「特権」を持ち得ていたのは、「青木氏」に於いて有史来他に無い。
これが、「毘沙門天信仰」と「三宝荒神信仰」とを悠久の歴史を以て継承して来た所以なのであった。


この「三宝荒神」の三神は、後世、「僧や陰陽師や占師」の「生活援助」の為に、この「三宝荒神」を信仰(帰依)するよう考え出されて説いた稚拙仏法のものであって、陰陽師が政治に絡んだ時期を境に平安期中頃には消え去った。
これらの「荒神」は、結局は「インド由来の仏教尊像」では無かったのである。
結局は、この論調を採る「密教の氏」は出ず排除されたのである。
本来の「三宝荒神」は、日本古来から存在する宗教(「和魂」「荒魂」)に、「古代密教仏教の信仰」が加わって独自に「習合発展した尊像」である。
本来の「三宝荒神」はその代表的な物である。

「仏・法・僧」の「三宝」”
では、その「三宝」とは、そもそも「仏教」を維持する上で、最も「大事な宝」とするものであり、それは「仏・法・僧」であるとした。
”密教仏教での「仏・法・僧」の「三宝」”とは、”日本古来宗教の「荒魂の荒神」を沈める”との「神仏習合」を成し得た「仏説」の「密教具」とされる。
ところが、この「三宝荒神」には三神があるとされるが、ここで云う「三宝」とは何れのもの何なのか。
1「同体三宝」の説
2「別体三宝」の説
3「連携三宝」の説
以上があるが、通説の「三宝」とは、3の”仏教を維持し伝えて行く上の「三宝」で、「仏像」と「経巻」と「出家僧」の三つを言う説”が一般である。

つまり、次ぎの密教説である。
a「仏」=悟った仏
b「法」=仏説真理
c「僧」=釈迦伝道師
と説かれていた。
ところが、この「abc」の「同体説」と「別体説」の「二つの三宝」は、大和には馴染まなかった。
この「abc」の「3つの連携」で以って、”ここに特徴を生かしてその力を発揮して「大和古来の荒魂」の「荒神の悪神の神通力」を沈め治める”としたものである。
この事に依って、「荒神の悪神」は鎮まるとしたのである。
これらの「三宝荒神信仰」は、「荒魂」の「武神」や「守護神」を神格としている事から、「密教」を宗派とする「武家の氏」(青木氏)の「信仰体」として大きく発展した。
この「三宝荒神信仰体」は、江戸期に入っては、「三代密教」のみならず「密教系を基とした顕教の宗派」(真宗や曹洞宗)の武士にも一部信仰される様になった。

(江戸初期には「密教作法」は禁止されたし、全て宗教は顕教とした。「密教作法」が禁止された事に依って「三宝荒神の作法」は一部無く成った。)

この様にして、江戸期に成って、上記した「上級武家屋敷」には、「荒神の神棚」が設けられ、これを「荒神棚」と云った。
結局、江戸期に成って「密教作法」が無く成った事に依って、「青木氏」が行う「密教の毘沙門天信仰」との連動は、「上級武家屋敷」では無く成り、「上級武士屋敷」の”「年暮節会」の「荒神祓い」”のみに成ってしまった。
この「荒神棚」は、南北の位置に配置し、毎月には「晦日(みそか)の祭り」を行い、「荒神祓(はらい)」と云う祭祀を行った。
「伊勢青木氏」は、兎も角も、他の数少ない「密教氏」であった家でも、「毘沙門天の節会作法」(九度作法 )との連動は殆ど無く成り、”先祖との会する場”の「概念の伝達」は残念ながら消え去り、「荒神祓い」のみの祭祀になったのである。
従って、今や、頑なにもその立場を守り通して来た「伊勢青木氏」にしか「三宝荒神信仰」と「毘沙門天信仰」の「密教作法」は遺されなかった。

「地荒神信仰」としても、民衆の中には「大きな伝道」を興したが、矢張り、元々、何れも古来よりの「密教所作」である事から、「伝道の力」は極めて弱かったものであろう。

去りとて一方、”「不浄や災難」を除去する神(荒神力)”とされることから、逆に、江戸中期には庶民には見直され、「火と竈の神」として信仰され、台所の”「かまど神」”として祭られた。
日本では、”「台所やかまど」が最も清浄なる場所である”とする事から、庶民の「地荒神信仰」と共に、密教氏の「三宝荒神信仰」でも、江戸期に成って、次第に庶民の間でも、「密教の三宝」とは関わらず、単なる信仰として ”「限定された場所」”で信仰される様になった。

因みに、その良い例が、次ぎの事で証明される。
現在は ”かまど”は全く無く成ったが、現在でもその習慣が一部遺されている。
この「竈荒神」によると、「幼児の額」に「荒神墨」を塗る習慣が江戸中期から起こった。
それは、「竈墨」を”額の中央に塗る”と、”「荒神様の神通力」に依って「子供の難」を逃れられる”と云う習慣である。
庶民は「墨」の×印、武士は「朱」の丸印を点けた。
これは、京都から以西に広く広がった”「あやつこ」”と呼ばれる習慣で、現在でも、「祖先神の神明社」等の神明系神社では盛んに引き継がれている。
これは「青木氏」の「皇祖神ー子神の祖先神の神明社」の500社程の建立に明治期初めまで携わった事から江戸期に成ってもすたれずに遺されて引き継がれて来ているものと観られる。

平安期の「古文献」によると、この「あやつこ(綾子)」は”元は「紅」で書いた”とある。
だが「紅」は、上流階級でのみ使われたことから、一般の庶民は「すみ」、それも「なべずみ」で書くのが決まりであった。
この庶民の「なべずみ」を額に付けることは、「家の神」としての「荒神の庇護」を受けていることの印であった。
東北地方でも、この印を書く事を”「やすこ」”を呼ばれていた。
関東以北にも、この「荒神信仰」の「かまど信仰」は伝わった事を物語る。
ここには「一切の密教性」が無く、「仏教性」さえも無く成っている。
「密教性」、「仏教性」が無く成れば、最早、それは、元の「和魂」「荒魂」の「古来の宗教」に戻っている筈である。
然り乍ら、「荒魂」の「荒神」の「悪神」は消えているのである。
「庶民の消化力」は、”時には「仏教力」を超え、時にはその「仏教力」に頼る。”と云う能力を発揮する。
ここが、「密教力に頼った氏」青木氏とは、その柔軟性には大差がある。

一方、全国的に「御宮参り」のみではなく、一切の「神事」に参列する「稚児(ちご)」が、同様の「朱印」を付ける慣習が関西には未だあるが、これらは上記した「武家の習慣」(あやつこ)が逆に庶民に同化したものである。
庶民は、”自らに利あり”とすると、”貪欲に余計なものを取り除いて、「自らの神」として同化させる。”のである。
古来より、「武家」の「朱印」の「あやつこ(綾子)」を付けたものは、「神の保護」を受けたものであることを明示し、それに触れることを禁じたのであった。
これが庶民に一部同化した「三宝荒神信仰」の名残である。

遺された「古来の絵」には、「奈良時代の宮女」には、「あやつこ(綾子)」の影響を受けたと思われる「化粧の絵」と、又、「象徴する物品」にもこの「朱印」を付ける習慣もあった「絵」が遺されている。
これらは「古来」の「伝統的」な「宗教」の「荒神祭り」の所以である。

参考
「あやつこ」とは、その語源は、”あや”は「言葉の綾」と云う風に、言葉と言葉の間の微妙な意味合いを指す。つまり、現世と彼世の間を取り持つ事を指し、「荒神」や「毘沙門天神」がその働きをすることから ”あや”成る言葉が使われた。
”つこ”の語源は、”やっこ”の「奴」に通じ、その「綾」を伝える物体を指す。
関西の一部では”やっこ”と呼称する地域もある。
つまり、「綾奴」の意味を成す。
東北の ”やすこ”は、”やっこ”(奴:荒神や毘沙門天)が訛った形で変化したものである。
「奴の顔」が「毘沙門天像」に似せて描くのもこの事から来ている。

参考
逆に、「地荒神」では、江戸期に入って「庄屋、名主、豪農、村主、豪商 郷士 郷氏 元武士」の屋外に、”「屋敷神」「同族神」”等として祀る「荒神」があった。
各地方で大きく祭祀の方法が異なるので、一概には言えないが、「名主や庄屋や豪農や郷士や郷氏」などの「旧家武家」では、「屋敷」かその周辺に「屋敷荒神」を祀る例があった
庶民の「地荒神」も、密教系の武家階級の「三宝荒神」と同様に、上記した様に、節句には、「荒神祭り」を、「稲作の収穫祭」のような感じを以って行われた。
これらは「頭屋制(とうや)」で、「同族や集落の家々」が「輪番」で祭を主宰する古い祭りの形式を伝えている。
これらは、”古来より土地に根付いた武士達”が、古来の「和魂」「荒魂」の概念を受け継ぎ、「密教の影響」をあまり受けなかった「郷士や郷氏」に受け継がれて来た。
逆の現象として「地荒神」が遺された。
未だ、地方の田舎に行けばこの慣習は細々と維持されている。


そもそも、この「荒神」の「像」は、「毘沙門天」や「不動明王」に通じた「怒りの形相」である。
「持ち物」は、一般には 右手…独鈷・蓮華・宝塔(五鈷杵・金剛剣・矢)。左手…金剛鈴・宝珠・羯磨(金剛鈴・弓・戟または槍)のような形がとられている。
これは上記した様に「毘沙門天像」と全く同じである。

つまり、「日本古来の荒魂の荒神」と「密教仏教伝来の神」とが融合して「荒神」=「毘沙門天」と成った事を意味しているのである。
古来の奈良期に起こった「初期の神仏習合現象」であって、「賜姓青木氏」はいち早くこの現象を捉えた事を意味するのである。
「毘沙門天信仰」=「三宝荒神信仰」であった。
それが、現在まで「伊勢青木氏」の「個人の家間」の中で、「古来の伝統」として頑なに維持されて来た事を物語る「密教作法」(節会作法)なのである。

(正直な処、もう少し早く筆者が「伝統の研究」に気が付けば、更に貴重な復元が成されていたとも感じられる作法である。何か違うなとは思ってはいたが、残念ながら、「有形の物品」では無く、「無形の作法」であったところが落とし穴であった。)


・「注釈3]
イに付いて、「家伝宝刀」は、現在は法律にて所持出来ないので、模型が使われているが、昭和25年までは、「伝家の名刀」(大小10振り)であった。
「武神」である事から、先ず「刀類」は祭祀には欠かせない。
「3つの発祥源」の「第四世族 第6位皇子」から「皇族」を臣下して初めて「公家」とは異なる生き方をする「武家」を発祥させた。
そして、この「武家」が「公家」とは異なり、初めて天皇を護衛する「武力」を持った身分の「侍」を発祥させた。
それまでは、”天皇を直接護衛する「親衛隊」”と云う組織は無かった。
「天皇」に四六時中、着きつ離れずに「さぶらう役」から”さむらい”(侍)と呼称される様に成った。平安期には”「武家」の「さむらい」”が護る事から、「武士」と呼ばれた。
この「武士」が宮廷の北門を護ることから「北面武士」と呼ばれた。

この最も有名な侍としての歴史上の人物は「源の頼光」であろう。
「藤原道長」に終身仕えこの「武家」ー「侍」としてその「典型的な役」を全うした人物である。
この「武家ー侍」は、下記に述べる「武人」「防人」「鎮兵」の「兵士」とは別であった。

因みに、この「武家出自の侍」の位置づけがどの様な所にあったのかを論じて置く。
それまでには、次ぎの「3つの武装集団」が奈良期から室町期末期まであった。
1 中央の豪族や地方豪族が「従者と隷者」に武器を持たせた軍があった。これを「国造軍」と呼ばれた。評や郡の地方組織が独自に編成していた。
2 阿多倍王に率いられた後漢からの「職能軍団」が存在した。「漢氏」と「東漢氏」と呼ばれ蘇我氏等がこの職能軍団を雇っていた。
3 奈良期の「大宝期」に「国家統一」の為と、沿岸部が他国から侵略される事が多く成った為に、国による軍団が編成された。
税に対する目的から初めて戸籍(庚午年籍)が天智天皇に依って編成された事を踏まえて「徴兵制」が敷かれた。これを兵では「防人」や「鎮兵」と呼ばれ、将では「武人」と呼ばれた。

これらは「武装集団」であって、個人としては「一般人」であって、「個人」がある「特定の人物」等を「武」を以って護りさぶらう役目の「武士」即ち「侍」は、「武家の賜姓青木氏」が初めてである。
この”「武家」”は、江戸期に「一般武士」を以って”「武家=武士」”を呼称されたものとはその意味が異なる。
この「武家」は「公家」に対する呼称で、氏家制度の中で「氏」を大きく構成する家筋の「身分家柄」を意味するのであって、「立場」のみを意味しない。

上記123は、3に集約されて平安期は朝廷軍、鎌倉期は幕府軍に成り、この軍団の編成は、指揮する上位5階級までは「侍」の「武士」が全てを担う様に成った。
その5階級の「武士」の配下にそれぞれの従者や隷者(家来、家臣と呼称した)が編成して軍団を編成する様に変わったのである。

その軍団の指揮に当たるのは上位5階級の軍階級であった。
大毅(だいき) 大軍団 小毅2名 
小毅(しょうき)小軍団 500人
校尉(こうい) 200人
旅帥(ろそち) 100人
隊長(たいちょう)50人(一騎 最低単位の指揮官)

以上が兵士を統率した。
軍団は百人単位の編制である。

主帳(さかん)主計局
火長 炊事斑 10人

奈良期からの一騎の隊長は、自ら50人の兵士を何らかの形で集めなくてはならない。
この兵士には、上記2の傭兵も含めて、常時、家臣として確保しておく事が義務づけられる必要があった。
実際は、平時はこの6割程度の範囲で治めていた。
この常時の一代限りの傭兵の俸禄は家臣の約半分120石程度が相場であった。
武器具は、原則手弁であった。大型具などは軍団の指定支給であった。
鎧兜等の特殊具はその軍団の経済力に左右した。
戦いの時は4割の兵を「鑑札をもった者」(仲介人)に頼んで近隣の村から農兵等を集めて貰う。
「上記2の末裔」は、地方で細分化した「傭兵軍団」を編成し「・・党」を形成して、各地に”「国衆」”として転戦してはその勢力を拡大させて行った。
勢力と転戦の経験に依ってその「傭兵の契約金」が変わる仕組みであった。
この制度は、室町期末期まで続いた。

以上の軍人に対比して、「賜姓青木氏」は「3つの発祥源」の立場にあった。
「軍人」≠「侍」で、「侍」は「武家」を構成した。
奈良期から、「技能官人」と呼ばれ、その官人は二つに分類されていて異なった世界を持っていた。「武術の技能官人」
「単なる技能官人」
とがあった。
前者は、「侍」として「武家を構成する高級官人」で、公家の上級官僚の「侍」を務める。
後者は、「武人」として、「家柄、身分、位階等を有しない下級官人」で軍団に所属する。
大化期前までは、後者の「武人」と徴兵制で集めた「防人」に依って編成されていた。
「武人」は従者や隷者を集めて兵士を構成した。

大化期後は、「青木氏」の様に、特定の賜姓により「武家」を新たに構築して、「特定の人」をその技能を以て護衛する官人を新たに作り上げた。これをその役職から「侍」と呼称した。
そもそも「侍」とは、”天皇を含む上級の特定の人にさぶらう事”で、この”「特定の上級の人」”は、「仏教の作法」で、生きている時から、「法名」としての戒名の”「寺・院」”を持っていた。
この「寺院の人」に”「さぶらう人」”で、この「寺と人」の造語として「侍」として、これを”さむらい”と呼称する様に成った。
(天皇等の人が位階在位を退いた時に、この自分の”「門跡寺院」”に入る。)
これが、最初に「賜姓」を受けて成ったのが、当に ”「青木氏」”であった。
この「武家、侍」の「二つの発祥源」に続き、「天皇」は「万民の象徴」として「民族の頂点の人」として位置づけられ、これに従って、その子は「真人族、朝臣族」として、賜姓して下族臣下すれば、「民の発祥子の元」として位置づけられた。
”「民は天皇の子」(朝臣子)”であるとする「万民一計の図」から、況や、”その「子の発祥源」と成り、その「子」の範たる位置を成す”とされた。
この”「賜姓五役」”を与える代わりに「不入、不倫の権」の大権を与えた。

参考
(平安末期には、「源氏」の様に「武家」を構成しても、必ずしも「侍」に成れるかは保証は無かった。特に分家筋には「侍」に成る為の就職活動や縁故が必要であった。嵯峨期詔勅で、”朝臣の身分を与えるから自ら切り開け”と明記。 強いて”幾つもの難しく重要な役目”を与えられた「青木氏の賜姓」とは異なった。嵯峨天皇は、”これは民に負担を掛けない事による”と明記した。従って、天智天皇から光仁天皇までの「青木氏の賜姓」と、嵯峨天皇から花山天皇までの「源氏の賜姓」とは意味が異なっていた。「青木氏の賜姓」は「役を与える賜姓」、「源氏の賜姓」は上記の「朝臣子のみの賜姓」であった。 況や、「皇室の負担減らし」であった。これが、社会に「戦乱の前兆」と「荘園制の弊害」を生んだ。)

・「注釈4」
ロに付いて、「武の基本所作」の「軍配挙手」では「伝来の扇軍配」を持ち、伝来の馬杯に酒を注ぎ、「馬杯酒飲」を行い、「刀剣手掛」では鹿の角で出来た「伝来刀掛け」に刀を掛ける所作の3つを行う。
結局、次ぎの所作が成される。
一 「武家」には「伝家の宝刀」
二 「侍」には「将騎」として「伝家の軍杯」
三 「朝臣子」には「伝家の馬杯」
四 「国策氏」には、「永代正二位青木朝臣左衛門上佐」として「伝家の家紋刀掛け」
五 「融合氏」には 「陣笠」と「黒瓢箪」(江戸期は鎧兜着用)
以上は、「賜姓五役」と呼ばれた
紋付袴の正装でこの儀式を嫡子が行う。
(「鎧兜具足類一式装」は明治35年に消失した。)
「三つの発祥源」の「三つの役目」には、夫々の「伝統の武具」があって、それを使って、「武の所作」を指し示す事に成っていた。
ところが、江戸時代中期までは、この「所作」にも”正式なもの”があった様で、現在では伝わっていない。
一族一門が集まっての「盛大な儀式」であったらしく、「一族一門の者」から次ぎの時代を担う若者が選ばれていた。
青木氏は、慣習仕来りから一族の者は全て子供であり、「福家」のみの子供とは限らない。
15歳程度の若者が複数選ばれてこの役目を果たしたとある。

参考
一人とは限らず、主な5人がこの「5つの役割」に分けて務めたとある。選ばれる事に誇りを持っていたとされ、何時しか、「青木氏」をリードする役目を担わされる事が約束された儀式でもあった。
世間への”お目見え儀式、お披露目の儀式”の”意味合いも兼ねていた”とされている。
古来よりこの「賜姓五役」には、細分化すると「多くの役」を持っていた事があって、「守護神」、「神明社」、「菩提寺」、「絆青木氏」、「殖産事業」、「二足の草鞋策」、「伊勢藤原秀郷流青木氏」・・等に分けて、その「若者の長所」を見抜いて若い時から指定して、「部の長」等が彼等を教育し指導する体制であった。その為に、一門化する為に女系の「2つの絆青木氏」(「部の長」)を広く構成した。「武家」の「賜姓五役」と「二足の草鞋策」(殖産・総合商社)であった事から、現在の会社組織に類似していた。
若者が足りない時は、「信濃」から「甲斐」から一族の若者を養子として子供の時から養育していた。
この「賜姓五役」の達成の為の「神格偶像」を求めて、「五つの儀式の所作」には、「三宝荒神信仰」と「毘沙門天信仰」が組み込まれていた。


・「注釈5」
ニに付いて、これらの「所作伝統」は「福家」が行うが、「笹竜胆紋入りの幔幕」がその「象徴物」として用いられた。
然し、現実には、現在では「幕」の家紋部の一部を見せるだけで「幕」としての事はしない。
「幔幕」を張る事への世間への余りにも違和感が、現在ではあって実行しない。
大正の終わりまで行われていた。むしろ、明治期までは、「嵯峨期の詔勅と禁令」が明治期まで護られた事もあって、「賜姓族」として誇示をしていた傾向があった。
大組織を維持する「青木一族と長の判断」だけでは無く、組織そのものが、その様に押し上げる傾向があったらしく、「幔幕」は、その「誇示する象徴物」で「家紋」と同じ意味を持っていた。
むしろ、「家紋」そのものを”誇張する道具”でもあった。
「伊勢青木氏」は、「四家」と呼ばれる家が伊勢の各地にあって、松坂を中心に、員弁、桑名、名張、四日市に「一つの流れ」を持っている。
しかし、家の優先順位は無い。ただ、全体のリード役としての家を「福家」と呼称し、「・・殿」と着けて呼称する。「松阪殿」が「福家」である。
武士で云えば「本家ー分家」の組織に成るが、氏家制度の「絶対的権利」を持っていない。
従って、「本家ー分家」の家紋では無く、「氏の象徴紋」である。
従って、「家紋」では無い為に「副紋」や「丸付き紋」は使用しない。

この「幔幕」の中央より左右に大きな「笹竜胆紋」の文様が染め込まれていた。
一族一門とそれに連なる関係者(氏関係者と商業関係者)が羽織袴で挙って集まり祝いする。
この「主な儀式」(四大節会)には次ぎのものがあった。
「氏に関係する儀式」は「端午節会」
「女系の氏に関係する儀式」は「雛節会」
「伊勢族に関係する儀式」は「盆節会・彼岸節会」
「伊勢四家族に関係する儀式」は「暮節会・正節会」、
後は、「親族の内家」で、「荒神毘沙門信仰」として「月節会」が簡単に行われた。
(実は、「稲荷信仰」も、「古来の和魂宗教」と「祖先神の神明社守護神」の「伊勢神宮 豊受大御神」の関係から、「賜姓五役」の副役として細々と行われていた。)
以上が盛大に行われた。

参考
相当の経済力が無いとこの節会は行えず、「信濃青木氏」は、「伊勢青木氏」との親交が深かった為にいざ知らず、「甲斐青木氏」は、その「二足の草鞋策」への取り組みがあまり積極的に無かったことから、独自に以上の様な「密教の儀式」を行えたかどうか、将又、「節会の作法」等を遺し得たかは疑問である。
室町期中期頃からは「甲斐青木氏」には家勢から無理であったと観られるし、何がしかの記録に突き当たらない。
普通の江戸期の「五節句」程度の事の祝事は営まれていた事は考えられるが、「密教性作法」のものは考え難い。

中でも「端午節会」は、信濃、甲斐、近江、美濃一族と関係者を集めての儀式であった。
菩提寺と居宅に幔幕を張って行われた。
幔幕には「賜姓族」を表す「白幕」と「青幕」があった。
「白幕」は、「嵯峨期の禁令」にて「賜姓族青木氏」以外には一般には使えない事に成っていた。
この禁令も明治期まで護られていた。
「笹竜胆の家紋入白幕」は青木氏に関わる上記の「四節会」には使われた。
一般では「黒幕か濃紺幕」であるが、「青木氏」は、葬儀、法事でも「白幕」を使った事が判っている。
これは、その「使用する目的」によって分けるのでは無く、上記した様に「紅白角餅」等と同じく、「白」は「氏色」であった為に用いた。この事はよく聞かされていた。
「白色」の中に、「黒色の笹竜胆紋」が染め込まれている。
「青幕」(緑系青)は、「氏木」の「あおきの木」の色であった事から、独自の「副氏色」として使用していた模様で、婚姻、祝事等の「密教性作法」に関わらない諸事に用いられた。
何事にも「白幕」ばかりを使う事には、朝廷や他の賜姓族(秀郷流青木氏一門)に憚られたと考える。
青の幕の中に「対の白の笹竜胆紋」が染め抜かれている。
(現在も伝来品が遺されている。筆者の息子の結婚式に使ったところ質問攻めにあった。)

参考
因みに、その盛大さは、「超大地主」であったことから、奈良や紀州や伊勢の各地の農民等の代表者等が泊りがけで集まったと伝えられている。
その為の宿泊の準備では、「菩提寺と関係寺の解放」、「各地神明社の解放」と「全ての居宅や旅館」を確保したとされる。
「土産物」「引き出物」などは、地元の家々の分も大八車に載せて列を組んで運んだと聞かされている。
明治35年以降は、「端午、雛の節会」は、形式的に終わらせ、「盆彼岸の節会」は普通に内家で行った。
現在は、「盆彼岸の節会」「暮正の節会」は「毘沙門天荒神節会」と合わせて家内で形式的に消えない範囲で行っている程度である。実際のところ”文書に遺せる範囲の維持”と成っている。



> 終わり。
>
> 「伝統」-6に続く。

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Author:aokicc
青木のルーツを研究しています。世界中の青木さん、ご連絡ください。
監修 : 副管理人 青木研究員さん

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