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:「青木氏の伝統 14」- 「青木氏の四家」


[No.331] Re:「青木氏の伝統 14」- 「青木氏の四家」
投稿者:福管理人 投稿日:2015/05/16(Sat) 10:29:15


:「青木氏の伝統 14」- 「青木氏の四家」




前回の末尾
>つまり、この「仕来り」より外れた場合は、”「曾孫」”からは、”「子供の定義」の「仕来り」”を外れるので、男女に関係なく”「養子・養女」としての扱いに成る。
>特に、女子の「養女」とする場合は、取り分け、”直系から外れた支流族や縁者族や遠縁族からの迎え入れ”には、明らかに「子供の定義」から外れる事に成るので、”「養女」”と成る。
>この「養女方法」が青木氏では積極的に行われたのである。
>この場合、”迎え入れた「養女」”から成った「嫁」は、”[嫁」”としてでは無く、「実娘」に相当する「娘」として組み入れられる。

>この”「養女」の「嫁」”は、元は「養女」で迎え入れての事なので、上記した「慣習仕来り掟」から、長い間には、「養親と養女」の両者共には、心情的にも繋がり、”「実子の子供」の扱い”に成る。
>そこで、この”「娘の定義」”から考えて、上記の「青木氏の子供定義」が成り立つのである。

>しかし、「養子」に付いては、積極的では無かった様で、これにはある「青木氏としての特別な事情」があった。
>それは、「青木氏」には、「悠久の歴史」を持つ、(ア)「賜姓族の権威」と、(イ)「二足の草鞋策」としての「商い」の「経済的な魅力」とが在った。



「四家の発祥源」
ここで、上記のアとイの事を理解するには、この“「四家」”とは、一体どの様な下で生まれたのかを説明して置く必要がある。
そもそも、奈良期の「天智天皇」の皇子で、「第四世族内の第六位皇子」が「天皇の命」に従い「皇族」から外れて「臣下族」(侍)に成り、「賜姓」を受けて「氏と家」を創設して独立し、「賜姓五役」を担う一つの「一族の在り方」を歴史上で「最初に構築した形」を云う。


・「賜姓の背景」
この「賜姓」が実行されるには、次ぎの様な背景が在った。
「大化改新」を実行した際に、概ね次ぎの様な事の問題を抱えていた事から「四家青木氏」は興ったのである。
(958年頃、特別に賜姓を受けた「秀郷流青木氏」が加わる。)
奈良期には「天皇家の財政」が、「皇位継承」に必要とする人数に対して、余りにも「皇子数」が多すぎて、「皇子家を維持する負担」で、内蔵を大きく圧迫していた事。この事に依って天皇家を弱体化させていた事があった。
更には、「皇位継承者」に成り得る資格が、それまでは「第六世族」までの出自と母方の身分に依る「皇位順」に沿っていたが、この事に依って「皇位継承争い」などの問題が多発する等の事があり、それが更に拍車を掛けて「天皇家の弱体化」を招き、それを防止し明確にする為の「身分制度」が決まっていなかった事。
「天皇家の防備」と「朝廷の軍の有り様」に問題があって、「武力」を持つ者等に依ってその「天皇の地位」が度々脅かされる事が起こった。
「自らの族」が「自らを守る」事の「本来の目的」が出来ていなかった事に反省して、身内に依る独自の「近衛軍の創設」と「朝廷軍の創設」を実行する必要性が増していた事。
「施政実行」に際して、それを主務として担当する「皇族の者」が無く、官僚に大きく委ね切っていた為に、「皇親政治の基盤」が作り上げられなかった。
「官僚基盤の勢力」が強過ぎて朝廷内にこれらの「勢力争い」が起こり、「施政」を敷くには大きな欠陥と成っていた事。
「国策」を定めてもそれを強力に推進実行する役目を豪族方等に任され、時には阻止されて、「国策効果」が低迷し低下していた。
依って、民に不満が噴出していた。
況や、「国策の主導者」、所謂、「天皇の意」を介する「国策氏」とその「執政者」が専門に無かった事から、「改新」が進み難かった事。
「朝廷と天皇家」の「財政の根幹」を成す「天領地の開発と経営」と、更には、その「安全保護」に問題があって、そこを豪族に付け入られて弱体化していた事。
それまでは、「第六世族」まで全てを「皇子身分」にし「皇子家」とする仕組みであって、「皇子家」には「特段の役目」が無かった。
その為に「皇子能力」に問題が起こり、「退廃的な環境」が皇族内に蔓延し起こり、そこを豪族に付け入られて「勢力争い」の基にも成っていた事。
等々があった。

(詳細は「大化改新」の論文参照)

上記のこれらの「欠点」を「大火改新」に依って換えて、夫々の「皇子に役目」を与え、それに見合った「身分」と「家柄」と「官位」と「官職」の対策を講じたのである。
そこで、改新に関わる中で、「四家」に関わる事として、先ず、上記の問題を「総合的に解決し得る対策手段」としての「最も意味の持つ対策」が打ち出された。
それが「皇族」の中で「第四世族内 朝臣族 第六位皇子」に当たる者が、この「役目の主務」に任ずると定めた事であった。
これが“「四家の賜姓族」”である。
この「賜姓族」が、「上記の事柄」を「主務」として、「身分と権威」(「三つの発祥源」 「国策氏」)を与えられて、その職務を“「賜姓五役」”と定めて、これに当たる事に成ったのである。

・「三つの発祥源と五つの役務」
そこで、「大化期の皇子順位」の「第六位皇子」には問題があって、「第七位皇子」であったが「第六位皇子」に位置していた「施基皇子」が、先ず、これに当たる事に成った。
そして、「皇族」から「朝臣族」にして、「臣下 (侍 1)」させてこれに当たらせた。

そして、その者に「天智天皇」は、「賜姓を授ける仕組み」を作り「青木氏」と賜姓した。
更に「主要な守護地の五国」を定め、その「皇位継承から外れた真人族と朝臣族の皇子」を配置し、夫々に「青木氏」を賜姓して「皇族系賜姓族」の「五家五流の青木氏」を発祥させる事に成った。
この「賜姓族」には、[公家]に習って「武家 (氏家 2)」を始めて創設させた。

「累代の天皇」が「この仕来り」に則り、「青木氏」を賜姓する事を定めて「主要守護地の五国(4)」に配置して護らせる事と成った。

更に、「改新」が進むに連れて起こる「反対勢力からの攻撃」に対処する為に、安全を期して「皇宮の三門守備と天皇警備(5)」を申し渡した。

これが後の平安期には「北面武士」と呼ばれたものである。
しかし、この時から、「賜姓族青木氏の四家の苦境」は始まったのである。

・「青木氏の象徴と権威」(1-5)(イ-ホ)(a-q)
更に、「改新の態勢」が整えられた上で、「天皇の政治補佐」を任じて、「近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐」の夫々の「主要守護国」には、信頼する「国司」や「守護代」を送り、これらの「賜姓族」を傍に置いて、天皇自らは「天皇補佐役の政治体制」の所謂、「皇親政治」を実行した。
この時、この「政治補佐」として、その主務を「賜姓五役(国策氏 3)」と定めたのである。

その「賜姓族」には、国策実行の為には“「権威」“が必要であり、「権威の象徴」として「三つの発祥源」(1と2と3)その「役務(4と5)」の位置にある事を宣下した。

その「宣下の証」として、次ぎのものを下げ渡し「権威の象徴」とした。

その「象徴物」として、次ぎのものを定めた。
「象徴の密教権威」として、「大日如来坐像(イ)」
「象徴の神木」として、「あおきの樹(ロ)」
「象徴の文様」として、「笹竜胆文様(ハ)」
「象徴の三宝神」として、「毘沙門天像(ニ)」
「象徴の守護神」として、「祖先神(ホ)」

以上を賜姓に伴って授けた。

これが「青木氏」では、“「賜姓五物」”と呼ばれるものである。

そして、その「五主要守護国」には、「皇祖神の子神」を「祖先神 (a)」と定め、その「祖先神の神明社(b)」を創建し、「賜姓族青木氏の守護神(c)」にする事を定めた。
これらを全国の大和朝廷が統治する地域に「創建して行く事(d)」を命じた。

(注釈 この奈良期から平安期に掛けては、この様な「国家的な創建事業」は、朝廷自らが行うと云うよりは、「豪族が担う事」に成っていて、それを受ける事がその「氏の名誉」と成すもので、それを実行したときは、それの「勲功」に見合って「官位・官職・領地」が授けられると云う名誉が在った。
その為に「寺や神社の創建修理」や「河川工事の改修」を命じられて行った。)

「賜姓青木氏」は「神明社の創建」を、「賜姓源氏や賜姓平家や藤原氏」が「寺社の修理」や「河川工事の改修」を命じられ請け負っている記録等がある。
特に、「賜姓源氏の宗家頼光系四家」は度重なる工事で悲鳴を上げていて、「播磨の寺の修理」を命じられたが財政難で暫く放置していたが督促されて渋々修理をした事が書かれている。
この様に、朝廷に執っては「主要豪族」に対しては「荘園制から得る利益」を吐かせて「ぎりぎりの状態」を保たせる狙いがあった。
その意味で、「五家五流賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」は「二足の草鞋策」を執り、これを「賜姓五役の一つの務め」として処理していたのである。

「賜姓平家」は、「宋貿易」と「荘園制」と「武力による領土の獲得」から上がる利益を確保して対応したが、「商い」をせず「賜姓源氏」の殆どは「荘園制」に頼る以外にこの対応力が無かった。
それ故に、「武力」で「弱小豪族」を潰して「領地」を確保して荘園に注ぎ込み「財力」を高めるしかなかったのである。

「伊勢」には、「天智天皇」は、その「皇祖神の伊勢大社」を遷宮して安置したが、そこを護る「主役(e)」を「伊勢王」の「施基皇子の青木氏」に任じた。
代々発生する「皇位継承外」と成った「第四世族内の真人族と朝臣族の皇子」は、この「主要五守護国」の「青木氏の跡目(f)」を継承する事を定めた.
且つ、その中でも「第六位皇子」は、優先的に「青木氏」の「主家の跡目(g)」を継承する事を定めた。
尚、代々「皇位継承外」と成って発生する「第六世族以上」は、全て「坂東の地」に配置して開拓させて臣下することを定めた。

(但し、付帯して、「第五世族」は、“何れの位置にも属する”として、「皇子数の数」により処置を換えるとした。)

但し、この時、「天智天皇」は、「第四世族内の第八位皇子(実質 「第七位皇子」)」であった「執政補佐役」の「川島皇子」には、「近江佐々木」の地名を採り、「佐々木氏」を特別に賜姓して「朝臣族」で臣下させた。
そして、「施基皇子の補佐(h)」を務めさせた上で、「青木氏」と同じく代々皇族外(第五世族)と成った皇子が「跡目(i)に入る事」を定めた。
その「身分と家柄」は「青木氏と同位(j)」として配置した。
又、「王位」はそれまでの「第六位皇子族」までとしていた「仕組み」から、大化期からは「第四世族(k)」までとして、それ以降の皇子は除籍して「王位」を外し、各地に臣下させて配置した。
しかし、この全ての「臣下族」は「三つ発祥源(123)の青木氏」の「配下(l)」に従うと定めた。
この時、「遷宮地伊勢」と「伊勢青木氏」には、「不入不倫の権(m)」の「絶対権」を永代に与え保護した。
そして、他の「四主要守護国の青木氏」にもこれに准ずる扱いとすると定められた。
そこで、「施基皇子」は「伊勢王(n)」として、国司「三宅連岩床」を伊勢に配置した。
晩年には「伊勢」に戻り、「七人の子供」を設けた。

即ち、次ぎの通りである。

「湯原王」、「榎井王」、「春日王」、[白壁王]、「海上女王」、「坂合部女王」、「難波女王」

以上の「四王子、三王女」を設けた。

彼らは「有名な万葉歌人」として才能を発揮した。

この「王女」には「伊勢神宮の斎王(o)」として、期間を定めて永代にその任に準じる事を定めた。
本来、「朝臣族で第四世族内の第六位皇子」ではあるが、「臣下族」である事から、「王位継承の権利」は「伊勢青木氏」には本来は無い。
しかし、「施基皇子」は「天地、天武、持統の三天皇」に「執政(浄大一位)」として務めた事から、その「家柄」から特別視されていて、その末裔には「王位(p)」を特別に名乗る事が許されていた。

(注釈 「青木氏の口伝」に依ると、「四家発祥期」には王位を叙位任官しなかったと成っている。
しかし、「白壁王」が即位してから孫まで叙位されたが、男子二人[湯原、榎井]は「政争」に巻き込まれ「四家」が潰れる事を恐れて「叙位」を拒んだ。
しかし、「形上の記録」では叙位した事に成っている。
他男子二人[春日、白壁]は、その血流から叙位を拒む事が出来なかった。)

奈良期末期の時、「女系天皇」が続き、「皇位継承族」の中に女系も含め「男系の継承者」が全く無く成って仕舞った。(「孝謙天皇期」)
そこで、「天皇家」に無ければ、“次ぎに準ずる継承者(q)”と定められていた事に従い、「川島皇子」([浄大三位])の「近江佐々木氏」を含む「五家五流青木氏」に焦点が当てられた。
その中でも、「三代の天皇」に仕え最も近親者であった「第四世族内第六位皇子」であった「施基皇子」([浄大一位] :天皇に継ぐ最高身分 「草壁皇太子」より二階級上)の「臣下族末裔」の「青木氏族の王」に「白羽の矢」が立った。

そこで、「第六子の白壁王」が、その血流から「天皇位」に即位して「光仁天皇」とは成ったが、この直前には、「四人の王」(四家)は、次ぎの様な態度を採った。
奈良末期は、「天皇家の皇位継承」で大荒れに荒れていて、「施基皇子」の「伊勢青木氏」は「臣下族」でありながらも「王位」も名乗る事が特別に出来きて、「皇位に準ずる位置」の「微妙な「特別の位」にあった。

(「特別位」とは、上記する(a)から(q)の位の事)

この事から、「皇位継承問題」に巻き込まれる事を恐れて、「青木氏の七人の王」は、「歌人」として振る舞い「愚人」を装ったと「青木氏口伝」ではされている。

(資料から観て明らかに装っている。)

この時の事が、「青木氏の四家の氏是」の基と成ったとする説も言い伝えられている。

「青木氏の氏是」の一節 
「世に晒す事無かれ、何れ一利無し。然れども、世に憚る事無かれ 何れ一利無し。」

この時の時代状況が良く物語っている。
自らが表に出る事に成って「天皇」に成っても何も氏にとっては好い事など無く、「賜姓族」であっても、むしろ「臣下族」だとして苦々しい事ばかり、かと云って、卑屈に成っても好い事などは無い。
最早、政争の明け暮れの始末である。
故に、決して、自ら進んで「猪突」に「利」を求めて「氏」を世に晒してはならない。
しかし、かと云って、縮み込んで「卑屈」に成っても良い事も無いから、毅然として、「誇り」を以って「賜姓族」(賜姓五役)と「臣下族」(三つの発祥源)の「立場」を「知略」で以って護り通さなくてはならない。
其れが「氏」に執って最も好い「利」に繋がる。

“「特別の位(a)-(q)」にある事の難しさ“を、以上として諭しているのである。

・「氏是の背景」
ところが、これを「四家の青木氏の氏是」として遺した人物は、“誰なのか”と云う事に成る。
それは次ぎの三人の誰かである。

その三人は、「施基皇子」か、「湯原王」か、「白壁王」かであるが、いまだ研究中であるが判らない。
「施基皇子」が「三人の天皇」に仕え「有能な執政」として「政争」の中で生きた。
その人物がその経験の中から「氏のあるべき姿」を書き記したとも考えられる。
又は、長兄であった有能な「湯原王」が、「王位継承問題」で揺れる中で、「四家青木氏」を護る中で、“「天皇家」と云うものに関わる事への懸念“が、「臣下族」であるとしても、この時に受けた「青木氏の氏存続」の「危険性の問題」に子孫に「戒め」として遺そうとしたとも取れる。

「賜姓族」であると云う事には変わらないのであるから、何時か、利用され引き出されて渦中の中に引き込まれる危険性があるのだから、“常に戒めよ“と諭したと観られる。

更には、結局は、「白壁王」が天皇に引き出され、「醜い政争」に明け暮れする経験の中で、殆どの子供を「政争の犠牲」にしてしまった。
その反省から「実家の青木氏」の者に「云い添えたもの」とも考えられる。

(注釈 「白壁王」の「9人の子供」は、父が天皇に即位した時に、「政争」に巻き込まれる事を恐れて「皇子」と成る「立太子」の儀式を拒んだが、無理であった。)

しかし、結局は、“「事の次第の流れ」“に巻き込まれ、「臣下族の青木氏」の「施基皇子の七人の子」が、「政情の場」に止む無く引き出され、“天皇家を男系に戻す事の目的”から、「男子末子」の「第六子の白壁王」が引き出されて天皇に成った。
成る時にも大変な醜い周囲の「政争の経緯」が在った。
この時までは、「皇位継承外と成った皇子族」は、本来は「門跡」に入る仕組みであったが、「伊勢の青木氏」は、「三つの発祥源」と「賜姓五役」の「臣下族」と「国策氏」であった事から、この「仕来り」を採らず、次ぎの「仕来り」を敷いた。

それが、上記する「特別の位(a)-(q)」持つ「生きる難しさ」から敷いた制度、況や、ここで論じる“「四家制度」”なのである。

「四家の創設者」
「施基皇子」の「四人の男子」は、750年頃以降 次ぎの「四家」を敷いた。

長男の松坂の「湯原王の家」 (松阪殿)- 3人の子
次男の名張の「榎井王の家」、(名張殿)- 2人の子
三男の員弁の「春日王の家」、(員弁殿)- 3人の子
四男の桑名の「白壁王の家」、(桑名殿)- 9人の子

以上の「四家」を創設して安定した「子孫拡大(約60年間)」を図っていた。

しかし、ここで予想外の事が青木氏に降りかかって来たのである。

・「白壁王即位の影響(空家)」
「施基皇子(716年没)」が没して、ほぼ10年後に「嗣子の四人の子供たち」が育ち、「青木氏の四家」(726年頃-734年頃)を夫々が興したとある。
この間 25年間程度は「四家」を継承していたが、突然、「桑名殿」の「白壁王」が54歳で即位した770年以降は「桑名殿」は「空家」と成って仕舞ったのである。
この事に付いて、青木氏では、次ぎの二つの説がある。
暫く「桑名殿」を除く「三家」が続いたとする説、所謂、“「空家説」”である。
「桑名殿」の「白壁王」が即位して、その「9人の王」が「天皇家の「継承外親王」と成った。

「白壁王」の子の「山部王」「早良王」と「稗田王」(31歳没)が、譲位後の781年に「桑名殿の再跡目」に戻ったとする説、所謂、「再興説」がある。

(注釈 「山部王」(母 高野新笠)は、781年に「桓武天皇」に成る。「早良王」(750年生 母 高野新笠)は、その後に早死の「政争没785年」と成る。)

平安中期には、“「四家」”は「四日市殿」を加えて「四家」が構成されていた事は確実なので、「空家説」が正しいとする考え方もある。
しかし、「継承外親王」に成った「白壁王」の「三人の王」(山部王 早良王 稗田王)は、「光仁天皇崩御後」は、「仕来り」に依って、「第五世族王」外は臣下する事には成るので、再び「青木氏」に戻れる事に成る事から、「再興説」も納得出来る。

(注釈 「継承外内親王」(能登王女752年生 母 高野新笠)も、崩御後に「四家」から「近江佐々木氏」の「市原王」に嫁している事から考察すると、「三人の親王」は明らかに戻っている事に成る。)

つまり、従って、後に四家の「四日市殿」と呼ばれていた。この事からすると五家に成る。これをどの様に考えるかに関わっている。
筆者は「再興説」を採っていて、その根拠は、“平安末期の先祖が「四家」の”「主役」“と、”「副役」“の違いに間違いを起こしていた”とも考える事が出来る。
つまり、「主役の位置」(四家)では、「四家」が継承されていて、下部の「副役の位置」(16家)で「松阪殿」の別れが「四日市殿」を創設した。その「四日市殿」が「秀郷流青木氏との融合族」であり、その「繋がり」もあり、「政治的に大きな働き」をした事に依り、“「四家並」”に扱われていた事に依るのではと考えている。

(注釈 奈良期781年までの12年間と、平安初期(806年)までの24年間の計37年間後には“「空家」”は収まっていたが、そこを間違って、“平安中期まで空家の侭”(200年間)であったとして、「鎌倉期初期の伊勢青木氏」の「四家の先祖(A)」が観ていた。
その理由は、ここに「四日市殿」が、“「有能で青木氏に大きく貢献していた」“処を観て、間違えて「主役の四家」として“「四日市殿」”を当て嵌めて“「四家」“として「由来書添書」に書き添えて仕舞ったと云う事に成る。
その「副役の四家」である事の間違いに気付いた「四代後の先祖(B」」が、鎌倉期の末期に”「由来書添書」を訂正したと云う事“ではないかと観られる。
つまり、「主役と副役の取り違え」が起こった事に成る。)

筆者は、先祖(A)の「取り違え」では無く、その「四家に対する勲功の大きさ」を伝えたかった事の表現方法に問題があって、其れに気づいた先祖(B)が「添書」を訂正したと云う事であった事と考えている。 
ただ、「桑名殿」は、確かに「皇族の仕来り」に縛られて、「光仁天皇崩御」の781年までの約12年間は「仕来り」により確かに「空家」であった事があり、崩御後は、「継承外親王」は「臣下する仕組み」であり、「青木氏」に入る「仕来り」である事から、間違いなく放って置いても「青木氏」に戻る事が出来る。
これが「12年間の空家説」と成ったと観ている。

現実には、「山部王」は、「桓武天皇(在位781年-806年)」に成っているので、「山部王」を除き、二人は、一度、「仕来り」に従い「桑名殿の青木氏」に戻ったものの、直後に「政争の犠牲」に成って没している。
しかし、「青木氏の口伝」では、「稗田王」(751年-782年)は「政争」から何とか生き残って、2年間、「早良王」は「政争没」に成る間の5年間は、一時的に「青木氏四家」を継承したと伝えられている。

「外部記録」では、更に、その後の2年後に「原因不詳」で没している「稗田王」は、2年後に「政争没」、「早良王」は、5年後に罪を着せられて「徳島の配流先」で「政争没」と成り、結局は、“「桑名殿」の「空家」(37年間)“は明らかに考えられる。
ただ、ここで、「青木氏口伝」からとの差が起こっている。筆者は次ぎの様に観ている。

「四家」の中で、「四家の仕来り」に従い「空家」を補ったと考えられる。他の「三家からの配置」か、或は、「四家四流青木氏からの配置」かの「何がしかの動き」が先ずはあったと考えられる。
しかし、何れの「青木氏からの配置」も、激しい「政争」に巻き込まれている最中であり、公的にするには難しかった筈である。
依って、「賜姓時の仕来り」に従い、2年後の「政争没の稗田王没」後の「空家」、又は、5年後の「早良王」の「空家」も、直ちには、「四家の仕来り」により伊勢外の“「四家四流青木氏から配置」が在ったのではないか“と普通は考えられる。
しかし、筆者は無かったと観ている。
”無かった“と云うよりは、”結局は取りやめた“とした方が適切な処置ではなかったかと考えている。

その根拠は、次ぎの様に成る
「青木氏」をルーツの実家とする「山部王」が、「桓武天皇」に成って、「五家五流全体」の「皇親族の青木氏」に圧力を掛けた事-(1)

「桑名殿の空家」を補う権利は、「四家の福家」にあるとしても、「政争没」で潰されんばかりの激しい軋轢」を掛けられている。
当に「火の油」と成る事-(2)

その[張本人]の「山部王の本人の意向」を聞く事は、「潰されようとしている四家の立場」としては先ずは不可能である事-(3)

「山部王の本人」は、“「天皇としての権威の低下」“が起こる事の懸念から軋轢を掛けている実家先を興す事の意志は無い事(-4)


以上「4つの事情」から鑑みて、「伊勢青木氏側」は、敢えて「四家の仕来り」を選ばずに、「稗田王の政争没(2年後)」の状況の展開を観て、暫くして「青木氏」を護る為に“「空家策」”を故意的に選んだ事に成ったと考えられる。
それでも、未だ、「早良王」が罪を着せられて「政争没(3年後 3年後に徳島配流処置後 正味5年後)」にされている。

“青木氏を潰す事“を目的に徹底していた事が明らかに判る。
「他の伊勢の三家」も罪を着せられない様に慎重にしていた事が判る。
信濃を始めとする「四家四流の賜姓族青木氏」も同じ状況であった事が判る。

(注釈 「商い」で常時移動するなどで身を隠したと観られる。)

「桓武天皇」は、806年没であるが、「阿多倍王」の長子の「征夷大将軍」の「坂上田村麿」(母は伊賀「阿多倍王」の孫「高野新笠」の父)とは、叔父に当たり兄弟の様にしていた事が記録にある。
陸奥域を制圧(805年)して、その地に「桓武天皇」が自ら指揮して「神明社」を25年の間に「20社」も「青木氏」に代わって建立している。
この事から、「神明社建立」は[青木氏の専業」であり、資材調達やその職能部は「青木氏」に委ねられている。
故に「商いの領域」で生活する分には、政治には無関係と成る事から軋轢を加えなかった事に成る。
「万葉歌人の愚人説」も外部記録にはあるが、「歌人」では同じで逃れる術には成らない。
生き残った「四家の二人」は、この「商人」に徹したと観られる。
この時期に集中してこの「陸奥域」に「20社-25年」も建立出来ているのは、この事(青木氏商人説)から来ていると判断できる。
むしろ、「四家の二人」を潰せば「神明社建立は不可能」に成るし、「叙位を拒んだ事」、「商人に成り切った事」などから、この「二人の叔父」を潰せなかったと観られる。
これが“「青木氏の商人説」”の「伝来の根拠」である。
これが上記した“「青木氏の氏是」”を護る為の“「知略を使う事」”に従ったと云う事である。
そうで無ければ、この「四家の二人」は、“「青木氏の氏是」を護らなかった事“に成る。

(注釈 とすると、口伝等で「遺された商人説」から鑑みれば、この「青木氏の氏是」は、“「施基皇子」が遺した言葉”であった事に成る。符合一致する。)

(注釈 「桓武天皇」{737年-806年 即位781年}も、「祖父の施基皇子{716没}」の「青木氏の氏是」は承知していた筈である。
この範囲であれば、幾らか「律令政治」に邪魔で有ったとしても、潰す事は出来なかった筈である。
要するに、“「政治」に「青木氏」が絡まなければ良い訳である“から、先祖の云う「商人説」は納得出る。
”「神明社建立」で25年間耐えた“と云う事であろう。
現実に、この「四家の二人」は長寿で直前まで生きている。)

依って、「四家の青木氏」では、一時(37年間)の「空家説」に成ったと考えられる。
つまり、「770年-781年間の在位中の12年間」は、「白壁王の桑名殿」は、敢えて、「実家先」であるとしても、“天皇に成った以上は「郷を創る事」は好ましくない“として、恣意的にその「天皇の権威」を護る事から「空家扱い」としたと考えられる。
更には、「山部王」の「桓武天皇期の軋轢期間25年間」は、「実家先」に軋轢を掛けられている以上は逆らう事は出来ず、合わせて「37年間」は「空家扱い」とせざるを得なかった事に成る。
この事から“「37年の空家説」”が生まれたと考えられる。

「山部王」の「桓武天皇」期では、未だ「皇族方」から「四家の青木氏」へ送り込む程の「継承外者」の「跡目」は無かった。
確かに「9人の皇子皇女と妾子」が在ったが、「伊勢青木氏の実家先」の「空家の跡目」を補うほどの「皇子皇女族」は無かった。
しかし、「嵯峨天皇期」からは、「詔勅」で、その「仕来り」は一変した。

・「嵯峨期詔勅の影響」
「桓武天皇期の軋轢」と、「嵯峨期の詔勅禁令」で、賜姓の無い“「皇族青木氏」”が別に発祥した為に、「青木氏への跡目継承」はないものと考えられるが、現実には行われている。
むしろ、「嵯峨天皇」から「花山天皇」までの「累代の天皇」は、「皇位継承外者」の「青木氏跡目への送り込み」を政治的に目論んでいた。

そもそも、「嵯峨天皇」は、”何で,「賜姓を青木氏」から突然に「賜姓族の源氏」に変更したのか、そして、態々、「詔勅」迄を発したのか。”疑問が残る。
これは、結論から云えば、上記で論じた”「軋轢と政争」”とから「青木氏」を護る事にあった事による”と考えられる。
それは、この「詔勅」に合わせて、其れも態々と「青木氏」に関する「賜姓族」としての「慣習仕来り掟」の「使用禁令の令」にある。
「青木氏の弱体化」に依って、そこに付け入り「他の皇族系氏族」がこれを真似て、この「賜姓族らしき族」が生まれる事に危惧を感じたからであろう。
それは、皇族の者の「跡目先」の「格式の低下」と「血縁性の低下」を身内として認める訳には行かなかったし、皇親政治を構築する上で好ましく無かった事によると考えられる。

現実に、その「政争の渦中」から救う為に「賜姓」を「源氏」にした事で、その代わり、「青木氏」を「正規に認定した皇族出自者」の「下族時の氏名」とした事でも判る。
そして、この「賜姓の源氏」には、「賜姓族の青木氏」と同じ[財産と権利と格式と特権」を一切与えなかった事でも判る。
それを態々、詔勅に書いた事でも判る。
何も書かなくてもその様にすれば良いだけの事でもあるのに、書いたのである。
この”書いた事に意味”を持たしたのである。
その証拠に、賜姓源氏から青木氏に跡目に入っているが、「賜姓青木氏」から賜姓源氏には入っていない。
況してや、「下族者の青木氏」からは何れも入っていないのである。
現実に、この「青木氏」は、男女合わせて「25人の対象者」が正規に居たが、「青木氏」として名乗ったのは記録から確認できる「青木氏]は二人で,記録の保障が無い「疑義の青木氏」は二氏に終わって居る。
「源氏」から[青木氏」を名乗ったのは正規に確認できるただ一氏である。
この事から、これは、「形式上の賜姓」である事に成る。要するに「賜姓青木氏」を護る為てある。


(注釈 取り分け、「嵯峨天皇」は、上記(a)から(q)の「役目の難しさ」からと、「桓武天皇の軋轢」からも、考え合わせて、五代続いた「天智期の仕来り」を敢えて換えたと観られる。)

故に、「詔勅」では、「第六位皇子の賜姓」には、「源氏」としても、この「源氏賜姓」には、「朝臣族」を認めるも「無位無官」と「一切の官位」と「財の贈与」と「不入不倫の権」等の特典は与えなかったし、「皇族還俗者」に「青木氏」を名乗る事を認めても「一切の特典権」も与えなかった。
“成りたければ成れ、しかし、一切は面倒を看ない。自分で切り開け。責任は採らない。”
簡単に云えば、この通りであった。

その上に、“「皇族者下族の祖を持つ」“とする「皇族者」を証明する「認知状書」だけで済ませたが、現実には、この「認知状書」は「有名無実の状況」で搾取が横行した。
其れだけでは無く、「搾取横行」の原因も関係して、「天智期」からの「賜姓族青木氏」が持つ「慣習仕来り掟の一切使用」と「青木氏呼称の使用」をも禁令で禁じて仕舞った。

(注釈 「五家五流青木氏」の「搾取偏纂」では、「青木氏」とは異なる「別姓の4つの姓」が子孫であると主張している。
しかし、「賜姓族青木氏」は「嵯峨期禁令」の通り「青木氏外の姓名」の「仕来り」は禁じていた為に採用していない。)

そもそも、「氏族」であって「姓族」では無い。
これらの「4つの姓」は、平安期の朝廷に届けられている「氏族」には無い。
又、これらの「4つの姓」は「浄土宗」では無い。
まして「密教」でも無い。
この「仕来り」の知らない甚だしい「搾取偏纂」である。
「四家制度」の「二つの絆青木氏」からも発祥させていない。

これでは、「何の身分保障」も「経済的裏付け」も「皇子の権威」も無いのでは、“独立して賜姓を受けて臣籍降下する者”は無く成る。
そうすれば、「五家五流青木氏」か「佐々木氏」の「受け入れ口」に事は流れ、「皇族の経済的負担」と「皇族者を利用した悪行の社会不安」は無く成るし安心である。
そして、”「賜姓リスク」は解消して、「天皇家、並びに朝廷」の「権威」は保たれる”と目論んだ。

・「嵯峨天皇の目論見の狂い」
ただ、この「目論見」は、次ぎの事で「多少の狂い」が起こったのである。

(注釈 経緯、ところが、「天皇の思惑」より外れて、「賜姓祖族の源氏」と「賜姓族でない源氏」に「成る者」が続々と出てしまった。その原因は「荘園制」にあった。
この「読み違え」をしていたのである。)

各地で「力の持った豪族」などが山などを切り開き「土地開拓」が始まっていた。
ところがこの「開拓の土地」に「税金」が掛かる。
「荘園主」は、これを軽減する方法として、「皇族者」、或は、「公家族」「源氏や平氏の賜姓族」から「名義」を借りる事で「税」が免れる。
そして、その「名義貸し料」を支払って利益を挙げた。
ところが次第に、「名義貸し」だけでは無く、荘園で力を得た「荘園主」は、次ぎには「名義主の氏名」の使用までも許可を得て獲得し、「名義使用料」を支払って「荘園防御の抑止力」も獲得した。
この為に「嵯峨期詔勅の賜姓族」は自立する事が可能に成った。
その財を以って「禁じ手」の「武力」をも獲得した。
その「武力」で各地の「弱小荘園」や「豪族の土地」を奪い取ったのである。
これが肥大化して「清和源氏」が生まれたのである。
その「清和源氏の分家の頼宣系」がこの方式を使って拡大した。
政界にも発言力を持った。
その結果、潰した豪族の「敗残兵」等を「奴隷」にし、「名義先の荘園」に送り込むなどして働き手にする等の社会問題が起こった。
(陸奥の安倍氏等はこの大きな犠牲に成った。)
この「伸長」を嫌った天皇は、「清和源氏の頼宣系の武家集団」を潰しに掛かった。
そして、最後に、「摂関家の藤原氏」をルーツに持たない「後三条天皇」から「後白河院政」まで、身の危険性を跳ね除けてこの「荘園制」そのものを「禁止」し、「源氏全体」の「武家集団」を弱体化させて、結局、「嵯峨天皇の思惑」まで戻す事が出来たのである。

(イ)「賜姓青木氏の跡目」がこれで一挙に埋まった事で、皇族からの「跡目の受け入れ」が過飽和と成って仕舞った事、
(ロ)皇子皇女は増える割合よりは、「四階制度」から生まれる「正規の継承者」よりも、「皇族の妾子制度」の「無位無官の嗣子」が多く発生して仕舞った事、
(ハ)一時、男系の「皇位継承者の激減」の反動が起こり、逆に、「継承者の純血性の低下」が起こって、「皇位継承者」の不足が起こって仕舞った事、

以上の(イ)(ロ)(ハ)の事から、当然に、「血流の保全」から「青木氏への跡目」の対象者も無く成ったのである。

・「詔勅禁令の目的」
では、果たして、“「嵯峨天皇」は何を目的としてこの「詔勅禁令」を発したか”云う事である。
「嵯峨天皇」は、以後の「賜姓」に関しては、“一切関知せずの立場”を採っていた事が、その「目的の翻意」であった。つまり、「天智天皇」から五代続いた「賜姓族青木氏」と「賜姓族佐々木氏」に、「皇族者の下族者」が「跡目」に入る事の[天智期からのシステム]を、「皇族」に執っては“「良いシステム」”として認識していて保護したのである。
これからも増える「皇族者」が、“「嵯峨期の青木氏」を名乗る事を選ぶ事“ よりは、”「天智期の賜姓族青木氏の跡目」に入る事“ の方が何もかも保証されているのであるから、「生きる術も知らない皇族者」が、なんの保障も無い”「嵯峨期の青木氏」を誰も名乗る事“は先ず無い筈と観ていたのである。

(注釈 結局は無かった。全て真偽の程は別として、“「配流孫」の「現地末裔」である”と主張しての四氏である。)

それは奈良期から、「青木氏を含む皇族者」が「何かあった時の事」として、「越前の逃避地」に「避難するシステム」が、「賜姓青木氏」に依って構築されていた。
この「青木氏」に依って運営されている事を承知していた「嵯峨天皇」は、これを“「皇位継承者の受け入れ先」としても使える”と読んでいたからである。
それは父の「桓武天皇の山部王の実家先 33年間在籍」でもあり、「自分のルーツ実家先」でもあった事により、その効能を充分知り得ていたからである。
「桓武天皇の律令政治」対「嵯峨天皇の皇親政治」の「政争」で勝ち取った以上は、「律令政治の持つリスク」を解決してこそ、その「天皇の主義」の「立場と権威」は保たれる。
依って、是非にも達成しなければならない「重要な政治課題」であった。
依って、「五家五流の賜姓青木氏」を護る事で、“今後の事態はより良好に成る”と読み込んでいたのである。更に、仮に「賜姓源氏」を名乗ったとしても、その「生計や権威や財力や武力」が無ければ、たとえ“「賜姓」“だけが有っても、「生きて行く事」は「権威」だけでは無理である。
故に、源氏族の生き様は何時かは崩壊する。
その時には、「皇族朝臣族」である事を最低限に認知しているだろうから、この事を「青木氏」に入る事を理由にするであろう。
(現実に源氏から青木氏に多く入っている。)

“「賜姓源氏」は「同位」であるから“として、「天智期からの五家五流の賜姓青木氏」の「跡目」に、「立場家柄の問題」が無い事から、簡単に入るであろうと「嵯峨天皇」は考えた。
その為には、「受け入れの経済的基盤」の「二足の草鞋策」を、「青木氏」に対して、“暗黙の内で容認して置く事”が必要であった筈である。

・「和紙の商いの意味」
其れには、中国から輸入していた「悪質の紙」を、「国産化」して、「量産化」する「良質の和紙」にして、これを社会に遍く行き渡らせる事で、“「国内の経済」は潤う事が出来る”と目論んでいたのである。
この事は「実家先の事」であるからその実情は承知の上であった。

(注釈 この時、「和紙」のみならず、「墨と硯」の「開発と殖産」も指示した模様である。「嵯峨天皇」自らが、信濃方面に足を運んで探究すると云う積極ぶりで有った。「後漢帰化人の職能部」の「墨作部と硯部」を自ら指揮して送り込んで、「大和、福井、丹波、越前、信濃」に出向いたりした記録がある。
そして、暫くは、この時に大和で採れる国産開発した「松根油」から取った「質の悪い墨」(粗目で墨色悪く掠れる)の侭で続いて放置されていた。

しかし、遂には、1320年頃に“「嵯峨天皇の意志」(政治方針)“を引き継いだ「後醍醐天皇」は、「熊野野詣」を理由に33回も調査を行うなどした。
この結果、「紀州熊野道」の「熊野神社の社領」の「第一神社」「藤白神社」の周辺域で、「墨の原材料」と成る「姥目樫の木から良質の墨の煤」が採れる事を自らが発見した事が記録されている。
この地域は、“奈良期からの「炭の生産地(墨屋谷」」(後の備長炭)”で有った。
其れに、“目を付けた”と云う事で、試行錯誤したとある。
この時、中国より「方氏と云う職能部」の「専門職人」の五人呼び寄せたと記録されている。

(注釈 この「墨の成功」での事で、宿泊先の「藤白神社」の「神職日高氏」より、「紀州」の紀北の「浜の宮」から紀南の「日高地方」には、古来より「良質で高級な砥石(紫石)」が採れると聞かされた。
それを「硯」にする事で「硯部」を紀州に呼び返して生産させたと記録されている。

更に、平安初期には「伊勢北部伊賀地方域から紀州南域の紀伊山脈」には、「良質な和紙の原材料」に適すると観られる“「紀州楮」”があることを発見した。
そして、平安中期には「賜姓青木氏の紙屋院」に依って「開発と殖産」にも入っていた。
「伊勢青木氏」と「信濃青木氏]が持つ「青木氏部」を配置した。

そこで、 「後醍醐天皇」は、「嵯峨天皇後の470年間」も放置されていたものを、わざわざ、“何故、これほどまでに「墨と硯」に拘ったのか”と云う疑問である。

「楮に依る和紙」は、開発されて「良質な和紙」として、既に生産し殖産し販売され、市場は「紙文化の始まりの直前期」であった。

恐らくは、「紙文化」への「需要の高まり」が顕著に成って来て、近くでも「良質な楮」の生産に適する地域を発見しようとしていた。
近隣で「青木氏の遠祖地の地」にその「良質和紙の楮」が発見され、これで “「青木氏を助ける事(「嵯峨天皇の目論見」)」が出来る“と考えていたとの推測が出来る。
其れと共に、この時期は「墨と硯」がこの「紙文化」に火が着いて、消費が伸びれば「開発途上の段階」では、「輸入品」である事には「財政的な問題」が出る。
この事から政策的に適切では無かった事から、これを「和紙」と共に「青木氏」に殖産させ「国内産」にして、「紙文化の前兆期」を利用して ”「青木氏」に売り捌かせようとした“と考えられる。
1320年頃の鎌倉期末期頃である。
その証拠に、奈良期から鎌倉期末期までは「和紙と墨と硯」は、“「西の公家政権」の「朝廷の専売品」”で、「部の市場制度」に依って、一度朝廷に納入しその上で、必要な物を確保した上で、市場に放出すると云う経済方式を採用していた。
「墨と紫石硯」も明治初期まで「専売品」であった。
室町期から「室町幕府と江戸幕府の専売品」に変わった。

重要な注釈
(”「西の公家政権」”とは、鎌倉期から室町期まで「正式な行政区画」は、「東の鎌倉政権」に対して「京の公家政権」としてその政権を一部を委ね、これに対して「東の武士政権」から「行政監」が派遣されていた。
この状態は室町幕府迄続いたが、実質は無力化して「有名無実」の状態と成っていた。
江戸幕府も正式には、この状態を認めていたが、要するに「公家諸法度」などを作り無力化させていた。
この「西の公家政権下」での管理品であった。
最終、江戸期初期には「徳川氏の専売品」と成って「朝廷の力」、況や、「西の公家政権」の力を削いだ。)

(注釈 「専売品」にする事がそれだけに「利益」が大きいと云う事である。)

鎌倉期は、「需要な注釈」の通り、「紙と墨と硯」の殖産は、“「西の公家政権」の財源”で有ったし、一部は室町期末期まで「西の公家政権」の「専売品」ともなっていた。
「武家政権」に成った鎌倉期には、この為に「二足の草鞋策」を敷く「皇族の受け入れ先の青木氏等」に、これらの「殖産」を認可して援護する目的もあったと観られる。
つまり、「後醍醐天皇」は、「西の公家政権の財源」と「皇族受け入れ先強化」を狙ったと観られる。
上記した様に、鎌倉期以降は、関東に「武家政権」が樹立した際には、西には「公家政権」を一応は置いて関西域を任した「二元体制の形」を採った。
しかし、丹波に「幕府支所」を置き「関東の西への発言権」を増して、「有名無実の状況」と成っていて、後の江戸幕府までも「公家諸法度」で縛ってこの状態が続いた。
この為に、鎌倉末期までは、「西の公家政権」は、「公家を含む皇族方」等の「財源確保」や「安定化策」の為に躍起と成っていた。
「関西の伊勢青木氏」の「二足の草鞋策」からの「税と援助」がその財源の一つの基と成っていた経緯から来ている。

この「後醍醐天皇の底入れの御蔭」で、「青木氏の二足の草鞋策」は、室町期は「紙文化の花」が咲き、「巨万の富」を得た。
この「青木氏」から上がる「専売品の税」が、所謂、「西の公家政権」と呼ばれた「強力な財源」に成っていたと観られる。
1025年頃から「本格商社」に成り、この時を契機に、益々、1320年頃に「総合商社化」へと進んだと観られる。

「賜姓族の五家五流青木氏」に執って関わった天皇は次ぎの様に成る。
1 「賜姓族の発祥」は、「天智天皇」  「賜姓族」で「皇親政治」を確立
2 「賜姓族の発展」は、「天武天皇」  甥の「施基皇子」を「執政」として重用
3 「賜姓族の拡大」は、「持統天皇」  兄を重用し「武家の青木氏」を確立
4 「青木氏の四家発展」は、「光仁天皇」 「実家先の青木氏の基盤(和紙)」の強化
5 「二足草鞋策の青木氏」は、「桓武天皇」  律令体制で軋轢衰退 「糧に二足の草鞋策」
6 「和紙商化の完成」は、「嵯峨天皇」  「青木氏の重用」と「二足の草鞋策の強化」
7 「青木氏の補強」は、「円融天皇」  「賜姓五役」拡大で「青木氏 補完策」(特別賜姓族)
8 「総合商社化の完成」は、「後醍醐天皇」  「商い策」の強化で「皇室安定と財源確保」

以上が主に「青木氏の発展」に大きな影響を与えたと観ている。

”「青木氏の商い」”に大きく関わった後半の「恩人の二人の天皇」は、“「嵯峨天皇」と「後醍醐天皇」”と「青木氏の口伝」で伝えられている。
筆者の家には、この時の「和紙と墨と紫硯」が、大事に「悠久の時」を経て「重要な遺産」として遺されている。
(HP左メニュー写真掲示板に一部掲載)
後には、この様に、“「後醍醐天皇の青木氏に関わる事」“が在ったが、その為にも、先ずは、「平安初期の嵯峨天皇」は、「朝廷内部」に、「使用販路」を広げて、丹波域に「紙屋院」等の「和紙の試験所」を設置し、「木簡から和紙への変換」に対して「朝廷内部の改革」を実行したのである。
「公家貴族」や「官僚族」や「社寺社会」から、その利害関係から「猛烈な抵抗」を受ける中、「青木氏」を側面から援護した。

この経緯は、詳細は 「青木氏の伝統 4と8」 参照の事として、次の様に成る。

(注釈 記録では、「興業」としての「商い」は、「青木氏の記録」では「古代和紙の販売」は、950年頃と成っている。
(正規の生産開始は730年頃)

とすると、「殖産」を始めてから”300年”と成っているが、「青木氏の基盤」を造ったのは、次ぎの「経過」を辿ったと考えられる。

・「和紙の経過」
A 「和紙の良質な生産開始」に50年  (730年頃 正倉院 紙屋院 白鳳文化 記録)
B 「和紙殖産」を始めて余剰品までを作り出すには50年  (770年頃 平城消費文化)
C1「商い態勢」に50年   810年頃 平安初期文化 摂関文化初期 記録)
C2「和紙販売能力」に50年  (890年頃 平安中期文化 摂関文化中期 記録)
D 「和紙興業能力」に50年  (850年頃 国風文化前期 摂関文化後期 記録)

E 「本格商い開始」- 50年- 「950年」
F 「完成期の総合商社」として75年 (1025年 国風文化後期」 記録)

以上として観れば成り立つ。

「初期の段階」では「原材料の調査」、「生産する農民」の養成、適切な「耕作面積の獲得」、
それを「和紙」にする「技量の習得」と「職人の養成」等で、思考錯誤しながら基盤を作った。
とすると、次ぎの様に成る。
以上には、“一期毎に50年程度の相当な期間が掛かった”と考えられる。

(註釈 この期間に関しては、「紙」は「文化のパラメ-タ」である。

以上の様に、この「古代和紙」の「紙」を日本最初に作る事に挑戦したのが、「5家5流皇族賜姓青木氏」なのである。
日本のこの「紙文化」には必ず「宗教文化」が伴っている。
従って、青木氏の一面の”「紙屋」の歴史の変遷”は、この「紙文化」に左右されている事に成るのである。
そして、その紙の多くを消費していた「宗教文化」にも左右されていたのである。
下記に詳しく論じるその「宗教文化」の「仏舎」の「仏画」の歴史も、この「青木氏の紙の変遷」が大きく関わっているのである。
当然に、次ぎに論じる「節会」もこの「宗教文化」と「紙文化」に左右されているのである。

「宗教文化」→「節会」←「紙文化」

その「文化のパラメ-タ」の「紙の使用」が、Aの様に、「東大寺の写経会」に観られる。
この様に、初期の「紙文化」として遺されている「文化資産」は、「経典」と「仏画」の類が殆どである。

しかし、「後期の紙文化」としては、「鎌倉文化と室町文化」は、初期の「経典仏画」類に関わらず、全ての書籍等の「紙材」に利用されている。

中には、Bの様に、未だ一般に「紙市場」が無かったにも関わらず、「平城京」で起こった「消費経済」で「紙」が初めて大きく「消費される現象」が起こったのである。
一般の市場にも「余剰品」が消費される環境が出来て来たのである。

そして、遂に、遷都に依って、[紙の使用」は庶民の中にも浸透し始めた初期の現象が起こった。
要するに、上記した[西の公家文化」と「東の武家文化」の開始で「紙」が盛んに使われ始めた。
特に、世に“「摂関家の文化」“とも云われる文化であった

最早、「余剰品の販売」の領域を超え始めたのである。

本格的な「販売体制」に入らなくてはならなくなった。(C1)

結局、「初期の販売体制」は、区切る事無く続き、本格的な全国的な販売体制が必要に成った。
そして、「輸送」と「安全」に関わる「全国的な組織体制の確立」の必要性に迫られた。

「輸送」には、大量に運ぶには「船」「陸送」が使われるが、これらを安全に輸送できる全国的な「護衛組織の確立」(シンジケ-ト)が要求された。(C2)

「C1+C2=D」の数式が完成した事から、今度はこの組織を使って「紙屋の商い」の組織と「賜姓族」の組織とを分離した。

そして、本格的な「二足の草鞋策」が始まった。

・上記した様に、「嵯峨天皇期」には、C1からC2に移行する時期、つまり、「商い態勢」に到達していた。

100年の「抵抗期間」からやっと脱出し、「木簡から和紙」への「最終の移行期間」に入っていた時期であった。
どうしても、「律令体制」が完成した時期でもあり、到底に木簡では間に合わず、是非にも「和紙」に切り換えなければならなくなった時期でもあった。

更には、つまり、「一般市場」に「和紙」を浸透させる為にも、先導して「朝廷内の和紙の使用量」を一層に高める手段に入るべき重要な時期でもあった。

「嵯峨天皇」は、「青木氏」のこの“「和紙」の「商い態勢」”が進むように、「朝廷内の改革」(和紙の使用)を始めたのである。
其れが、当然に「目論見の根幹」を成していたからである。

この為には、「律令の官僚政治」に任すより、「皇親による国策氏」(青木氏)を作り上げ事が必要であった。
そうする事で、「皇族方の継承や生計の安定」が図られ、「子孫存続」は保障される。
つまり、上記した天智期に反省した「皇族の欠点」の解決、況や、“「大火改新の目的」”は、確実に果たす事が出来ると見込んだのである。

「律令体制の改革」だけでは、「政治課題解決」と「更なる皇族の発展が成されなければ、「真の改革」には成らないとする「父桓武天皇との政争」でもあった。
其れには、矢張り、“天智期に敷いた「皇親政治(大化改新)」に戻さなくてはならない。”とし、“抵抗が少なく信頼でき「皇親政治」を敷かなければならない。”とする戦略で有った。
況や、「三つの発祥源 賜姓五役 国策氏」である。
尚且つ、「ルーツ実家先」(曾祖父 始祖 施基皇子没90年)では、“「四家制度」”を敷いていた絶好の「皇親族の賜姓族青木氏」がある。
この環境を政治的に使わない手は無い。
況して、「25年間と云う衰退期」を経ていて政争に巻き込まれていた「ルーツ実家先」(青木氏)を当然にも引き上げて戻さなければならない。

「政治」「経済」「軍事」、「親族」、「皇族」等の如何なる面から観ても、何れに執っても、「青木氏」を使わなくてはならない。
「政争」に打ち勝つだけの「有能な嵯峨天皇」なのである。先ず使わない手は無いだろう。

この事を読み込んだ上での「嵯峨期詔勅であり附則禁令」であったのである。

・「臣籍降下の証明」
その証拠は次ぎの事で証明できる。
これ以後、「嵯峨天皇」は、「6人の皇子と3人の皇女」、 その後の累代に、「17人の皇子と15人の皇女」が「朝臣族」で「臣籍降下」している。
合わせて、「23人の皇子」と「18人の皇女」には賜姓なく臣籍降下させている。

しかし、現実には、「嵯峨期詔勅」の賜姓の無い「皇族青木氏」の「名乗り」は僅か「4氏」である。
内訳は「皇族から二人」 「賜姓源氏から二人」である。

「賜姓源氏」は、「嵯峨天皇期」から「花山天皇期」まで「11家11流」が発祥した。
しかし、この「11家11流」から「賜姓」の「五家五流青木氏と佐々木氏」には、合わせて13人が跡目に入っている。
この「賜姓源氏」からの13人と、残りの「23人の皇子」と「18人の皇女」は、奈良期の「天智天皇の仕来り」に従い、「賜姓青木氏の五家五流青木氏」の「四家(20家×5)」の何れかの「空籍」に「跡目」として入った事に成っている。

この間の「高位の門跡僧」、或は、「低位の僧籍者」は、「比叡山」か「善光寺」か「平等院」等に入籍する「仕来り」もあった。
しかし、「僧籍数の確認」ができない為に、「佐々木氏」も含めて、全て何れかの「青木氏の四家跡目」等(平安期末期からでは確認できる)に入ったものと考えられる。
恐らくは記録に載らない「僧籍からの還俗者」を加えると、殆ど、「臣籍下族者」は男女合わせて「男50人,女25人」程度は受け入れている事に成る。

「青木氏」は、「四家制度」を敷いている為に、上記した様に、「女25人」は同族である事から、縁者として「女子」も上記した「養女の形」で入るか、「嫁」として直接入るかの形式を採ったと観られる。

しかし、この苦境から考え出された「青木氏」の”「四家制度」”に依って、殆どは、この“「嫁」”も、一度は「四家制度」の“「養女の形」”を採った上で、「跡目」を「四家一族」から迎え入れて一族化している事に成る。

“「直接の嫁」”は、相当上位の「皇族者」、つまり、「天皇の皇女」「内親王」と成るので、結局は“「直接の嫁」“は無かったと考えられる。
この「四家制度」は、「直接の嫁」は原則は採らない。
従って、下記に論じている様に、「継承外」の「内親王」(三人)と成った場合は、記録からの例で観ると、一度、除籍した上で、「佐々木氏」や「青木氏」に養女に成った上で嫁している。
又は、「斎王」と成った上でも、その後に役目が終わり次第、「還俗」して「養女」で入る場合が多く観られる。
「斎王」の「還俗」は、位階が無い為に「政争」に巻き込まれないからで、現実には「青木氏の入籍」には、この「二つの方式」が採られているのである。
この「二つの方式」は世の中の事を知らない「皇位継承外者」に「養女の過程」を課した上で嫁す事には、「賜姓臣下族の青木氏」に先ず馴染ませ「現実の生活」を知らしめる事の義務を課した事にあった。
しかし、[継承者]の「内親王」の場合は、「血流と継承権」を保持している為に、「還俗」できずに、そのままで嫁す「仕来り」を採っている。
仮に、継承権のある「内親王」を「養女化」すると、「天皇家」より「青木氏」の方が「上位」にある事に成り出来ない。
そこで、この場合は、「政争」に巻き込まれる事に成り得て、「青木氏の氏是」に反する事に成り、充分に警戒が必要と成る。
従って、「青木氏」は極力避けた事が系譜からも判る。
どうしても「政治的圧力」に抗する事は出来ない場合は、「四家の養女方式」は採用できず、其の侭で嫁しさせた上で、正式に「青木氏の福家からの処置」として、その「子供」には、“「王位」を申請せずに「無位無官」にして「叙位任官」を受けない”とする様に計らっている。
恐らくは、これが「跡目」を受入れる際の“「暗黙の条件」“であったと観られる。
「青木氏」自らが、「内親王」を「嫁」にと懇願する事は、「青木氏の氏是」から無い訳であるから、「天皇家側」からの「受け入れの臣籍降下」が前提であるので、この「嫁の権威」、即ち、「天皇家の権威」を護りつつも、「青木氏の氏是」を護ると云う「両立の仕組み」を考え出した事に成る。
現実に、天智期から江戸期までに、「四度の実績」がある。

因みに、「施基皇子」の子供の「春日王の母」は、「天武天皇の皇女」で「多紀皇女」である。
この皇女は一度、「伊勢神宮の斎王」に成った上で、還俗して「施基皇子」に嫁している。
「斎王」に成る事で「臣籍降下」して「下位の青木氏」に嫁した事に成る。
これで「天皇家との仕来り」は保たれた事に成っている。
従って、あくまでも「血流」としての「皇位継承権」を女系で持っている「多紀皇女」の子供の「春日王」と、その「三人の孫」には「皇位に準ずる継承権」を持っていた事に成る。
他にも、「聖武天皇」から「井上内親王」、「光仁天皇」から「能登内親王 弥努摩内親王」 等ある。
南北朝の時にも、「時代状況」を反映してか「五家五流青木氏」に二人が入っている。
「湯原王と榎井王の母」も皇族系の「内親王」であった模様である。

注釈として、 しかし、「叙位任官」の申請をしていない。現実には「王位」も除籍申請しているが「政争」から逃れる事に目的があった。
「春日王」も同じ行動を採ったが、「白壁王の即位」で、許されなかった。
「四家の誰」も「叙位任官」をしないと成れば、「白壁王の光仁天皇」に傷がつく事を問題視された。
然し、結果として、止む無く「施基皇子の孫」の全てに「王位の叙位」と「親王の任官」が義務付けられた。

口伝に依れば、「氏是」から「770年の即位」までは、「特別の位」にあった事から、「王位叙任の立場」にあったが「王位」は付けていなかったと伝えられている。
結果として、「白壁王と春日王の2人」と「皇孫王の全員17人」が叙位任官した事に成る。

更に注釈として、 「安貴王 高田王 香久王」には、その「祖母の位階」から「準ずる継承権」が成立していた。
依って、「春日王」本人と、子供の「三人の王」は政争に巻き込まれ、次男の「高田王」を遺して「早死」の「政争没」に成っている。

注釈 「白壁王」の時に「井上内親王」の侭で嫁している。
その後に、政争から逃れる為に嫁した「井上内親王の思惑」と違って、「天皇家」に「聖武天皇の血流直系者」として引き出されて、「元の皇后」と成った。
そして、それに伴い「白壁王」も天皇に祭り上げられて、政争の末に「皇后 井上内親王」は「政争没」している。

「皇族者」が「僧籍」に入る傾向は、現実には少なく、「僧籍」に入っても殆どは「還俗」し、「全国行脚」等をした後に、結局は、「青木氏」に「跡目入籍する傾向」が在った。

この「僧籍」-「還俗」-「跡目」の方法は、“「政争」から逃れられる一つの方法”として「皇族者」に良く用いられた。

この背景は、「青木氏に入籍する事」は、その「皇子に等しい立場の保全」と「経済的な裏付け」があり、この傾向は下記にも論じるが長く続けられた。

「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」や「甲斐青木氏」や、平安中期からの母方族の「伊勢秀郷流青木氏」等には、かなりの数が皇子皇女に限らず室町期まで入っている。
一度、「賜姓の無い源氏」を名乗り、その後に「青木氏」を名乗って跡目に入っている「源氏系青木氏」も確認できるところでも「4氏」もある。
「戦乱や政争」などで「皇族系の者」が逃避する際の保護地があった。

即ち、次ぎのシステムであった。
前段で論じた「越前の逃避システム」(ア)
上記する「皇族の継承外者の受入先システム」(イ)

以上の二つとしても、「賜姓五役」の“「青木氏の四家」“は働いていたのである。

「嵯峨天皇」は、上記の(ア)(イ)を認めていたからこそ、「律令制度」の中でも、「第二期の皇親政治の制度」を採用した事は有名なのである。

況や、「避難システム」(ア)と「受入システム」(イ)が、「青木氏四家」を強く頑丈に構築させて行ったのである。

従って、それが故に、「白壁王期-光仁天皇期」の25年間には、「五家五流の青木氏四家」は一時、「皇族内部」の激しい「政争の殺戮」に巻き込まれて、「五家五流の青木一族」は、命を落とし「氏存亡の危機」に晒され続けた。
そして、更に、「桓武天皇期」の「青木氏軋轢の25年間」と合わせての「50年間」を除き、以上の「青木氏保護政策」で「嵯峨期」から、再び、「四家」は拡大して行く事に成ったのである。

・「四家の詳細」
青木氏内部の詳細は次ぎの通りである。

先ず、「施基皇子の生誕」は不詳と成っているが、これを明確にしておく必要がある。
「青木氏の資料」から演算すると、83歳位の高齢であったと成っている。
従って、生誕は632年頃 没年は716年と成る。

(余談 「伊勢青木氏の過去帳」を観ると、不思議に先祖は、「82歳前後2歳」の中で没している。
筆者の直前の先祖の享年を観てもこの条件の中にある。「遺伝的な特徴」があると観られる。
判る範囲で親族を調べると、「突然変異のAB型」で、中に隔世遺伝から0型が2代前に居た事から、AB型から分離したBとA型が出ている。)

傾向として、上記の余談から観て、この様に「伊勢青木氏」は、「過去帳」より観ると、多くの先祖が[高齢長寿]である。
その確率は高く、81歳から84歳で没している。
(当時の平均寿命50歳から観て極めて長寿である)
これは「伊勢青木氏」の中では「伝統的な事」として云われている。
恐らくは、これは「施基皇子」からの遺伝であろうか。
遺伝の傾向が高いとすれば、長い歴史の間、三つの発祥源として、その役目柄から”「純血性」”を護って来た事から確率高く、この評価は出来る。

・「湯原王」(松阪殿)の「福家」には、「二人の王と一人の王女」があり、「壱志濃王」と「市志王」は家を構成した。
王女の「尾張王女」は叔父の「光仁天皇後宮」と成る。
「推定生没」は「青木氏の資料・口伝」から読み取れば、「推定の最低生年」は706年頃とされる。
万葉集には、成人として扱われて、730年に「歌の記載」があり、その第1子の「壱志濃王」は733年に生まれている。
この事から、「推定の最低生年」は706年頃に成る。
「推定の最高没年」は789年頃とされる。
依って、この事から「資料・口伝」は、相当と見做される。

・「榎井王」(名張殿)には、「二人の王」があり、「神王」と「榎本王」は家を構成した。
「推定生没」は「青木氏の資料・口伝」から読み取れば、「推定の最低生年」は707年頃とされる。
737年に「万葉の歌会」で集まったとする記録があり、第1子の「神王」は737年に生まれている。
この事から、成年は、母は不明であるが、「湯原王」との母は違っている事から、次男とされる事から707年頃と成る。
そうすると「推定の最高没年」は790年頃とされる。

「外部記録」から、この「湯原王と榎井王」の二人は、「不詳 770年前没」と成っているが、これは政争没」があった事で推定したと観られる。
しかし、「伊勢青木氏」では、「光仁天皇の782年」から観れば、「施基皇子の始祖長寿」と合わせて、「推定の最高没年」は「789年」と「790年」は相当である。

・「春日王」(員弁殿)には、「三人の王」があり、「青木氏の口伝」では、「桑名殿」の「白壁王」の王より「員弁殿の跡目」に「開成王」が入ったとされている。
「春日王の母」は「皇位継承者」の「多紀皇女」である。
「推定生没」は「青木氏の資料・口伝」から読み取れば、「推定の最低生年」は706年頃とされる。
723年に叙位を受けている事から、第二子の「高岡王」は735年没であり、父「春日王」も「没年」は745年で早死である。
母が皇位継承権を持っている事から、「女系の皇位継承権」を持つ「春日王」と成る。
「他の皇位継承外」の「皇孫王」と成った者の殆どは「政争没」である。
この事から間違いなく「政争没」の可能性が極めて高い。
「春日王」の「政争没」によって、「跡目に問題」が出て、依って、王位の無い「開成」が跡目に入って「政争」から逃れて「四家」を護ったとされている。

(注釈 「開成王」は王位を得られていないとする説もある。その原因は「母方の身分」と観られる。
「湯原王」の「尾張王女」、つまり、「光仁天皇の後宮の子」とする説もある。

筆者は口伝を信じてこの二つ説を採っている。
故に、「後宮」と成るも、実家先の「春日王の四家」(員弁殿)に、「子の定義の仕来り」に従って入れたと観られる。
「政争」から逃れる為に子の「王位」を外して、実家の「員弁殿」の中に入れて子の命を護る為に敢えて「尾張王女」は除籍の方法を採った。
「安貴王」「高田王」「香久王」と、「開成王」は「副役の四家」を興した。

・「白壁王」(桑名殿 709-782 770年に即位 781年に譲位)には、「四人の王と二人の王女」がある。
その「光仁天皇」と成った事から、結局、一時、四家は「空家」となる。
「白壁王の母」は「紀氏の紀橡姫」 紀州の豪族 王女に「紀宮子」がある。
子供の「開成王」は、「春日王」の「員弁殿の跡目」に直に入った。
「桑名殿の白壁王」は、後に、再び、「稗田王」(751年生 母 高野新人、或は、「尾張内親王」は「四家の桑名殿の青木家」を再興した。
しかし、770年には、この「早良王」と「山部王」稗田王」の「三人」は、一応は「継承外親王」と成り、形式上は「青木氏」より外れる。

しかし、「天皇譲位後」(781年)は、「仕来り」に従い、再び、臣下して「稗田王」(31歳没)は「青木氏」に戻るが、2年後に「政争没」に成る。

(注釈 この三人は、譲位後に「青木氏」に戻ったと考えられ、その後にも、依然と「政争」に巻き込まれる。
遂に「早良王」は罪を着せられて配流先で「政争没 785年」と成った。)

ただ、「山部王」は、「青木氏」の「継承外親王」であったが、政争に勝利して依って「桓武天皇」に成った。
純然として「皇位継承者」の「他戸王」(771年生)と「酒人王女」(761年生)は、「皇后の井上内親王」(政争没)の子である。
依って、「聖武天皇家の血流」を持ち、唯一の「男系皇位継承者」と成り、正式に「青木氏」より完全に外れる。

その後に、「他戸親王」は「男系皇位継承者」であった事から「政争没」、 「酒人内親王」は「女系皇位継承者」と成るが、矢張り「政争没」と成る。

(注釈 「能登王女」(752年生 母 高野新笠)は、「継承外内親王」と成り、除籍を願い出て「市原王」(近江川島皇子の曾孫)に嫁し、政争から逃れられて「親族結婚」と成る。 )

他に、「弥努摩内親王」(母 「井上内親王」)は「皇位継承者」であったが 崩御後、除籍して「伊勢青木氏」に戻り、叔父の「榎井王」(名張殿)の子の従兄弟「神王」に嫁した。
この事から、政争から逃れられ、「四家の仕来り」に従い「同族結婚」と成り、「名張殿の子孫」を拡げる。

(注釈 「白壁王」の時、「采女」(県犬養男耳)との子で、「王位」は無く、「妾子」として生きる者が居た。
即位後、この「王位の無い者」であった事から「広根氏」の賜姓を「光仁天皇」から態々受けた。
これが”「広根諸勝」”とされるが詳細は不詳である。その後に、「広根氏」として子孫を遺した事が判っている。
この「広根氏」から上記の4氏の内の3氏は、この末裔ではないかと観られているが不詳である。)

夫々、「四家」は「松阪殿、名張殿、員弁殿、桑名殿 (四日市殿)」と呼ばれていて、「三つの発祥源の役」と「賜姓五役の任」を担当分けして任されていた。
「松阪殿」が“「福家」”と呼ばれて「氏全体の統率役」を任されて運営していた。
この「仕組み」を“「四家」”と呼ばれていた。

しかし、この「主役(賜姓五役等)」を実行する何れの「四家」にも、その「経済的裏付け」が「守護地の知行」では不足していた。
そこに、「平安初期の桓武天皇」の「律令政治の国家体制の確立」から、一時身を置いた「出自先・実家先」の「皇親族の青木氏の存在」が弊害と成り、「政治的な圧力」を掛けられて衰退した。
この時、「桓武天皇派」と、後の子供の「嵯峨天皇派」の間で、激しい「意見対立の政治的闘争」が起こった。
結局は、「嵯峨天皇側」が勝利を治め、再び、「青木氏」は「皇親族」の「国策氏」として命じられた。
(上記)
そこで、「国の経済立直し」をも含めて、「和紙生産とその殖産事業」を“「裏の副務」”として「松阪殿」を中心に「四家の青木氏」が、その「開発」(紙屋院)を手掛ける事に成った。
そして、「平安期の中頃」には、正式には「二足の草鞋策」の態勢(925年)までに持ち込んだのである。
これに依って、「三つの発祥源、賜姓五役、国策氏」と「福井逃避地」「下族者受け入れ役」の役務を遂行するに必要とする力が付居た。
この「四家」を護る「シンジケート態勢」も充実して、“「四家」”は何とか持ち堪えられ、且つ、ここに“「四家制度」”は確立を観たのである。

他の「主要守護地」の「四家四流の青木氏」も「同じ仕来り」に従って、「四家制度」を敷いていたが、矢張り同じ問題を抱えて苦しんでいた。
これを救う為に「伊勢青木氏」が「先導役」として他の「四家四流青木氏」にも、この「和紙の生産と殖産」に関わりさせて、再び、引っ張り上げた。

(上記した「嵯峨天皇の目論見」の後押しもあった。)

「奈良期末期の直前」では、この“「四家」”には、代々「皇位継承外」と成った「真人族、朝臣族の皇子」が、「他の四守護地青木氏」と共に「跡目」に入る仕組みに成っていた。
しかし、この時期には、上記の様に、「天皇家」そのものに「皇位継承の跡目」による「存亡の危機」が起こっていたのである。
然し、「五家五流青木氏」への「跡目継承者」は無かった。
それどころか「逆の現象」と成っていたのである。

(注釈 然りながら、「臣下族の施基皇子」の「第六子」の「光仁天皇」の子の「桓武天皇」(四家桑名殿の山部王)は、上記の様に、「天智天皇」が定めた「第四世族内第六位皇子」の「賜姓の仕来り」を全く破棄して、「四家制度」をも否定し、母方(伊賀住人の「高尊王の末裔」 「高野新笠」 「京平家の祖」)の氏族に「たいら氏 京平家」を賜姓した。
そして、「伊勢青木氏」が領する「伊勢北部伊賀地方」を「半国割譲」して与えて引き上げた。
依って、「五家五流青木氏」は平安初期の26年間程度は衰退した。)

(注釈 その後、「皇親族」を無視するこの「政治体制」に反発した「嵯峨天皇」が、再び、「天智天皇」が決めた「賜姓方式」とその「賜姓族の四家制度」を復活させた。)

この時、この「賜姓方式」は、「賜姓名」を改めて「源氏」とし、「皇族の臣下族」、又は、「下族する皇子族」に対しても「青木氏」を名乗る方式に変えたのである。
但し、この「賜姓源氏」と、賜姓ではない「皇族系青木氏」に対しては、「光仁天皇まで続いた賜姓青木氏」が持つ様な一切の同じ「利権」、「財産」、「主務」、「官位官職」、「権威」等を全く与えないとする「嵯峨期詔勅」を発した。
合わせて「賜姓青木氏の慣習仕来り掟」の一般の「使用の禁令」を発したのである。
(明治3年まで護られた。)
「五家五流青木氏」以外に、「百姓の民」が「青木氏」を名乗る事と、その「習慣仕来り掟の使用」を禁止して、「賜姓青木氏」を特別保護したのである。

(この「百姓」とは、元来、公家と武家を除く全ての民の事を表現した言葉で、室町期まで使われていたが、江戸期に成って、「士農工商」の身分制度に依り、「百姓」とは、「農民」を指す言葉に変化した。)






> 「伝統 15」に続く。

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:「青木氏の伝統 13」- 「青木氏の四家訓戒 2」


[No.330] Re:「青木氏の伝統 13」- 「青木氏の四家訓戒 2」
投稿者:福管理人 投稿日:2015/04/16(Thu) 05:37:57


「伝統 13」


>前回の末尾
>
> しかし、ここで大きな”「救い」”が一つあった。
> この事を戦前に察知し熟知していた「摂津頼光系四家の福家の頼政」は、「以仁王の乱」の直前に、「子孫の一人(京綱)」を「伊勢青木氏の跡目」に入れて最悪を避けるべく策を講じていた。
> これは、「同族である青木氏」が、「不入不倫の権」に護られながらも、「賜姓族の氏是」を頑なに護り、それに基づき、且つ、「四家方式」に依って、「源平の戦い」でも、”必ず「子孫」を累代まで遺す”と理解しての配慮の事であった。
> 故に、”「跡目」”であった為に、「源氏」が「青木氏」の中に流れている事に成る。
> 「信濃青木氏」にも、”戦い”の直前に、「跡目」か「跡目」に類する形で「青木氏」に入れている。
>
> 「信濃青木氏」には「源光国-血縁」と「源実国-跡目」を、滅亡した「土岐青木氏」には、「源光国」の子の「源光信-跡目」を、「甲斐青木氏」には、「源源光-跡目」を跡目等に入れている。
> 甲斐武田氏系青木氏には、「源源光」の兄の「源時光」が跡目に入っている。
>
> 故に、”源氏11家”は、完全な「滅亡の憂き目」を辿ったのであるが、「清和源氏宗家の四家」からだけ、「血筋」としては、「青木氏」の中に遺した事に成る。
>
> 取り分け、”滅亡した源氏”そのものは、当然に滅亡する”宿命のシステム”を敷いていた事に成る。


「嵯峨期の詔勅・禁令の影響」
筆者は、この”「訓戒」”は、”「嵯峨天皇の嵯峨期の詔勅」”に表れていると観ている。

「嵯峨期の詔勅」を全体の当時の状況や環境を加味して要約すると、次ぎの様に成る。

「賜姓族青木氏」の様に、今後、天皇が保護し、役柄を付与し、領地を与え、税を免除する事はしない。ただ、「臣下」しても「朝臣族」だけの身分を与える。
後は”自らの粛清”に依って子孫を確保し、「賜姓族」としての名誉を保て。
これは、天皇家の財政が万民に負担を掛けない様にするための配慮である。

以上の様な意味合いの「詔勅」を態々発した上で、更には次ぎの発言を追加している。

この「賜姓」に依って、”「民の負担」”を軽減させる為にも、決して ”「一切の民」は、この”「賜姓族の慣習仕来り掟」”を不必要に真似てはならない。”

以上の意を込めて、この事を付随して、”「賜姓族」”としての「慣習仕来り掟」等の細かい「禁令」を発布したのである。

「嵯峨天皇」は、この「詔勅」に依って、それまでの「天智期」から進めて5代続いた”賜姓する氏名”の”「青木氏」”を、「別の皇族身分の賜姓」の氏名にし、上記の「詔勅と禁令」の内容の様に、”「賜姓の扱い」”を下げて、”賜姓する事”に改めた。
そこで、これを”「源氏」”と変名させたのである。
その代わり、「青木氏」は、「別の皇族身分の者(門跡僧を含む全ての皇族系出身者)」が、”何らかの理由で下族、還俗する場合に於いて、名乗る氏名”と定めた「嵯峨期禁令」を発して万民の使用を禁じたのである。

(注釈 ”経済的背景のない「賜姓源氏」”は、「荘園制」を利用して「名義貸し制度」を作って、「経済的背景」を構築した。”「皇族の権威」”を各地の豪族が成っている「荘園主」に与えて、”「荘園権威付け」”をさせた上で、「税の軽減」を発生させて、その見返りに「莫大な対価」を獲得した。
更に、”「源氏名」”までをその「姓氏」に貸し与えて、”「疑似同族」として名乗る事”を認めて、更に「名義料」として「莫大な対価」を獲得した。
これが原因で、全国に朝廷の許可を得ずに ”「源氏」”と勝手に名乗るの疑似の「姓族の源氏」が出た。
これを「未勘氏族」と云うが、結局は「賜姓族の権威」が低下した。
朝廷は、これに強烈に反発して、この「荘園手法」を盛んに行った頼宣系義家らの一族を、”朝廷の云う事を聞かず勝手な事をした事”を理由に、蟄居させて厳罰に罰して衰退させた。
この為、朝廷に執って”権威低下”を招く不都合な”「社会的弊害悪外」”が出た事を理由に、遂に、「後三条天皇」が発案し「白河天皇」「堀河天皇」「鳥羽天皇」まで四代続いて行い、「院政政治」と云われる時代まで、この「荘園制」を1068年頃から始まって、遂に、凡そ100年かけて廃止して弊害を無くしたのである。


これで、”「賜姓族」は、”「規律」”を失い、且つ、その”「立場」”を低下させて失い、更には ”「経済的背景を失った源氏」”は滅亡へと急速に走ったのである。)

この禁令も、全て、「詔勅の趣旨」の範囲で、「源氏と青木氏」の「二つの方法の賜姓」には、”民への経済的負担の軽減”を前提にしている。
従って、一切、”天智期からの「第六位皇子の賜姓」時の「不入不倫の権」を授与して保護する事”はせずに、あくまでも、「二つの賜姓」には、”保障の無い身分の「朝臣」を与える”のみで、”臣下させる”としたのである。

この[嵯峨天皇の心]を護ったのが、「嵯峨源氏」、「村上源氏」、「宇多源氏」、「多田源氏」で在ったが、「清和源氏の暴走」で引き込まれて結局は滅亡した。
この4氏は、「賜姓族青木氏」を模範として、同じ規律を作り、室町期まで生き延びる事が出来た。

(この三氏の末裔としている「氏」があるが、室町期中期からの全て歴史的な矛盾の多い「未勘氏」であると考えられる。)

以上が、「賜姓源氏」が、「子孫存続の規律」を失い、それに依って、”「賜姓族としての伝統」”を消失したその背景の経緯である。
つまり、”「伝統」”を作り上げられる「組織体制」を確立したかの如何である事が、上記の「賜姓源氏」の経緯で判る。

話を戻して、従って、「子」「孫」「曾孫」「遠縁」の「同族血縁」の「上記する弊害」は、この「賜姓源氏」等が採用した「四段階の妻」のシステムからでは”「妻方の血」”がより多く入り、つまり、「同じ血縁」と云う事の範囲では、実質上は、”「同族血縁の弊害」”は生まれ難い事に成る。
しかし、「四段階の妻方式」では、確かに子孫は増え、その子孫の「血縁障害」は興しにくく成るが、「組織間の心絆」、「組織間の繋がり」は低下し、「慣習仕来り掟」の「規律」も護られなくなり、「氏是」は希薄に成り、猪突猛進型の氏が出来上がって仕舞うのである。

鎌倉期から室町期までは、「四家方式」と共に、「二段階の妻(嫁)」(正妻 側室)としていた。
(実質は、平安期から継承していた事が判る。)
特に、”戦い”をしない事を”「氏是」(前提)”とした事から、”戦いに依る子の減少問題”は軽減して、「平安期の方式」は採用されていなかったのである。

(注釈 むしろ、「四段階」の場合は、逆に、「四段階]には当然に「身分格式」が起こり、その立場から、「順位の感覚」が強く成った。
その結果、”不必要な争い”が起こり、”良質な子孫”を遺す事の弊害と成って、”一族全ての「孫域」までを平等に「子」とする”とする範囲の定義は成り立たなかったと観られる。
その意味で、「賜姓族の立場」としては、「純潔保全の目的]から、形式上は朝廷より公的に認められてはいたが、実質は採用されていなかったと考えられる。)

話を戻して、そして、成人後には 今度は”嫁”として変身し、「氏の家」の”「我家の嗣子」”に嫁がせる手段を採る為に、”実娘”の子と同じ感情、感覚が親側に生まれるので、結果として、実娘に成り得るのである。
ここに、この考え方の「慣習仕来り掟」に対して無理は生まれなく成っている。
従って、この「考え方」は、早ければ早い程に良い事に成る。
”生まれた時点で、養女は決まる”と云うよりは、”生まれる前からその宿命は決まっている事”に成る。この仕組みとして臣下の中から選ばれて「母親代わり」の「乳母制度」が敷かれる。

つまり、”孫域までの子供”の「男子」の場合は、”区別のない「嗣子」”と成り得る。
合わせて、”孫域までの子供”の「女子」の場合は、”娘”として他氏に嫁がせる事に成る。
この場合は、”同族間での血縁”も「一族の結束」を固める為にあるが、”純血性の弊害”を無くす為に、”家柄、身分のつり合いの取れた他氏に嫁がせる事”が優先して多用される。
この場合は、「適時適切」を旨とされる。

この場合、上記した要領で、”「嫁ぎ先」で生まれた子供”は、”「実家先」の「嗣子」”と成り得て、”「跡目」”が可能に成る。
この場合は、”嫁ぎ先の跡目の事情”を考慮して、”嗣子の嫡子の位”を決めて、実行される場合が起こる。
「青木氏」では、”承認を得た氏”の「武家の立場」として、朝廷に届けて「権威付け」して ”「第三子」を原則とする”と定められている。
この事から、この「血縁のシステム」そのものが、「賜姓族の権威」を裏付ける為に、公的に認められたシステムと成っている事を物語る。
それだけに、「第三子跡目継承の定義」は、”「純血性を保全する宿命」”を作り上げて、その”厳しい責務”を負っている事に成る。

但し、「他氏の血筋」を入れる場合に於いては、「下位の家柄」との血縁と成り得る事から、「第一子」と成り得る事も起こる。
「下位の家柄」に執っては、”「上位の嫁の実家先」”の家を継承する事に成り、自らの勢力圏を拡げる事に成り得る事から、つまり、”血縁による利得”と成り得るからである。
”「下位の家筋」”は、その流れの中で、積極的に、この”「第一子の決まり」”を実行しようと働きかけれる事に成る。
又、要するに上記した一族の範囲内に於いてでも、どうしても「跡目の嗣子」が無い場合は、「孫娘」までの嫁ぎ先の範囲での”「遠縁の他氏」”から「養子」を迎える事に成る。
要するに、この”「孫娘]”と”「実娘」”は、”子の定義”の中にある為に、区別はなく、”他氏からの養子(遠縁)”は、正規の”娘の養子”として扱われる。
従って、「跡目」は、「養子」の”男子の子供(孫娘と実娘が生んだ子)”も「正規の跡目」としての「嗣子」に扱われる。
”本家分家”に関わらず、”氏”の中に生まれた”「子」”は、「氏の全体の子」として捉えられ、分家の”「子」”も、”「本家の跡目」を継承する”と云う事にも成るのである。
又、当然に逆の事も起こる。


この”「跡目の継承」”としては、”「嫡子」”は、この”「子」”の中から、その任に見合った者を選ぶ仕組みである。上記する「子の範囲」の中では順位の差は本来は無い。
これを宗家筋が、その順位をその能力を見定めて決定し、行う仕組みなのである。
結局、「孫」に位置する者が、「子」に位置する者を飛び越えて、「嫡子」に選ばれる事が起こるのである。
つまり、「賜姓族の氏」を絶対条件として維持して行く為に、”より良い嫡子”を遺す為に採られる仕組みである。
時には、この事に依って、必然的に人間の性から、其処に”「争いの種」”が必ず起こる。
これを乗り越えてこその”「氏家制度」の「嫡子」”であり、”一族一門の「頭領」”と成り得るのである。
「嫡子」としての「絶対条件」として、乗り越えなければ、それは「嫡子]では無い事に成る。
それには、「嗣子」と「嫡子」の”「子」”は、お付きの良い家臣を持つ事が必要に成るのである。

何故、この様な「慣習仕来り掟」に成るかと云うと、これは”「賜姓族」とする特別な立場”にあったのである。
”「賜姓族」”である限りは、「賜姓族」を護り続ける為には、”「純血」”を保ち、如何なる事が在っても、永代に「氏の保全(象徴紋の維持)」を保つ責務、宿命を負っていたのである。
況や、”「子孫」無くして伝統は護れず、「伝統」無くして子孫は護れず”の例えより、故に、「青木氏」では、本論の”「伝統」”を護っていたのである。

この”「争い」”を無くす為に、家康は、江戸初期に、”長男を嫡子”とする様に改めて、”争い”の無い様に決めた。
「一般武士」もこれに従ったが、しかし、現実には、「高位の武家」では、”「伝統」”と云う物を消してまでも、”「長男は嫡子」の制定”にはあまり護られなかった。
それは、「悠久の歴史」の持つ”「伝統」”の”「賜姓族」と云う「氏の存続」”そのものをも危うくして仕舞う恐れが高かったからである。
(江戸幕府は黙認した為に、数少ない”「武家とする氏族」”は、”「存続」”が可能と成り、少なくとも対面を維持出来る範囲で、江戸幕府末期まで「武家とする氏族」を遺し生きる事が出来た。)

しかし、この上記する「武家とする氏族」の跡目の継承の「慣習仕来り掟」は、「一般武士様」に形を簡素化して、伝承される事に成った。
それは、”「純血の血縁」”を前提とする歯止めを排除して、むしろ”「混血の血縁」”を重視する方向へと進んだ。
「純血の血縁」には、そもそも、「凡庸愚子武烈の危険性」(弊害)があり、「優劣の差」が極端に表れる。
これを取捨選択して「嫡子嗣子」を定める事でより子孫を遺せて、「悪しき癖質」の血を排除できる。
反面、「混血の血縁」には、「雑種融合の利点」の「優劣の差」が無く成る特質が生まれるが、「悪しき壁質」の混入(障害)で、「子孫」にその「壁質」を永遠に引き継いで仕舞うとする問題は排除出来ない。
前者は、戦乱期の「氏存続の危険性」の高い時代には、特段に優秀な子孫を取捨選択して、”存続の為の有利性”を求められる。平安期から室町期には求められる血縁方式であった。
一方、後者は、安定期の時代には、「氏存続の危険性」は低下するも、「優秀性」は兎も角も、平均化した子孫で、より「安定安全な子孫存続」は図れる有利性が求められる。
江戸期から明治期に求められた血縁方式であったと云える。
その意味で、両者ともに”適時適切な血縁方式”であって、何れにしても、「弊害と障害との問題」を持つが、ただ、本論の”「伝統」”とする点では、前者が、”より良く高質な伝統”を継承できるとする利点があったし、”「伝統の継承」の可能性”は高まる事も利点としてある。

これは、この「純血血縁の弊害」を排除し、「混血血縁の障害」を収得して、”「跡目」に於いて血縁を進める時代”と成り、「一般武士の時代」と成った事に所以由来する。
つまり、「子供の範囲」は排除され、「子は子、孫は孫」として定め、「本家分家の格式差」を明確にし、「養子養女」は”「子」”の範囲外として扱い、「血縁の有無]は問わずして積極的に迎えた。

この時より、”「一般武士」の家”では、僅かに伝播された慣習も含めて、上記する「慣習仕来り掟」に依る感覚は、必然的に薄れ、又は無く成った。
この結果、”「青木氏」等の世間からの「賜姓族の名跡」”の”言葉と認識”は、庶民の口から少しずつ消えて行った。

(参考 明治20年頃位を境に、「賜姓族の存在」も余り知られなくなった。
これに連れて、明治31年頃を最後に、「青木氏」としても、「同族血縁の慣習」は全く無く成った。
例えば、筆者の祖母(京都の公家の末裔の叶氏)までを最後と成る。
しかし、「賜姓族の家柄」としての「高位との付き合い」では、大正14年で終わっている。
「財産的」には、明治35年から始まり、昭和十年頃を境に極端に低下した。
「伝統の遺品」の関係では、未だ何とか保全しているが、先は短い可能性が有る。)





武家の跡目継承の良い例がある。
例えば、徳川吉宗は、地元郷士の「紀州巨勢氏」の娘の子で,「湯殿女」の身分の子供である。
「妾子」より更に、下の身分の子供で、本来は継承権は無かった。
継承に問題と成る特段の子である事から、他の嗣子からの”抹殺の憂き目の危険”もあってその命さえも危なかった。
そこで、藩主は伊勢の青木氏に養育依頼して家臣を付けて隠した。
しかし、吉宗はその素質を発揮してその頭領としての器に育てた事から、他の公家の子供らの「嗣子」を押しのけて紀州藩主になり、遂には将軍に成ったのである。
この吉宗を密かに育て、政治や経済の専門教育を施して器にしたのは、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「伊勢加納氏」である。
(紀州藩下級家臣でお付き家臣 後に「二足の草鞋策」を「青木氏」から受けて「加納屋を営み経済力をつけて嗣子に対抗できる様に勢力を蓄えた。歴史的に有名な「伊勢の加納屋」である。)
何れも「二足草鞋の豪商」でした。この二つの財力で藩主ー将軍に押し上げたのです。
「伊勢青木氏」は「伊勢加納家」と共に江戸に出て、「青木氏」は幕府勘定方に、「加納氏」は将軍側用人と成って吉宗を支えた。
この様な妾子外の更に妾子の例がある様に、この「跡目の継承手段」の領域の中では、江戸期の武家には、血縁の有無如何に関わらず、拘らず、「賜姓族の決まり」とは違って、「大きな手段」として有効的に「養子,養女」は、「最大の手段」として扱われたのである。

特に、違いとしては、「賜姓族」では、「女子」の場合は、他氏に嫁いだ「実娘」の「子」 つまり「外孫」までは「子供」として扱われる事に成る。
「江戸期の上級武家」では、相当な困窮な場合を除いてはこの概念は原則無かった。
女子の外孫までを引き取り「子」として育て、後に「養子」を縁者から採って「跡目」とする概念は無かった。
この様に、”嫁ぎ先での子供”までを「跡目」とするには、「男子」だけでは、「四家方式の範囲」では、「平均寿命」と「跡目争い」などによって継承しきれない事が起こるからである。
(互いに「跡目争い」の「戦い」も起こり、命を落とす事も多発した。)
それと、次ぎの”「浄土宗の密教概念」”に従っている事に依る影響が大きい。
それは、本来、”「人]は「女性」によって引き継がれる”とする「密教概念」から来ている。

(現実に「人遺伝子」は「女性」に依って引き継がれているが、奈良期から「家」=[子孫存続の為の生理的能力」と云う範囲に於いて、この生理学的な「女性の本質能力」を見抜いての「概念の形成」であった。 この概念は「家訓」に明確に伝えられている。)

この「二つの理由」から、”本来は「娘の子」が「実子」である”とする考え方を、「意識の根底」に”「氏の概念」”として強く持っていたのである。
これが室町期から「武家社会の生存に関する闘争意識」(子孫存続)が強く成った事から、「男性化」にますます成っただけの事なのである。

(因みに余計ではあるが、筆者もこの範囲での合理的な概念としては賛成している。「青木氏の家訓」は「世の理」を得ていると信じている。「青木氏の家訓10訓」参照)

つまり、実家一門に「男子の跡目」が無く成った時、「外孫]の[孫息子」と[孫娘」までを「氏の子供」として跡目を継げる事に成る。
今で云えば、従兄弟は、「氏の子供」で「嗣子」に成り得て、「分家本家」を問わず「跡目」にする事が出来るのである。
故に、「曾孫」は、従って「対象外]で、仮に迎える場合は、仕来り上は「養女形式」を採る以外にないのである。
この場合は、”従兄弟の範囲”では、”「養女」”としての扱いでは形式上は採用しない事に成る。
これは、”「孫」”までを”「氏の子供」”としているからである。
この何とか”血筋のある者”としての”「曾孫」”の”「養女」”ですあるから、”「養子]”を他氏から迎える事に成るのが殆どで有る。
しかし、中には、上記の従兄弟までの「嗣子」に、この”「養女」”を嫁がせる事にも成る。
「他氏の血筋」を入れて、”「同族血縁の弊害」”を無くしたのである。
態々この様な事をしてでも、幼少の頃から先に積極的に家にこの「養女」を採る事をしたのである。
全く、血縁関係の無い家筋からは、一般武士と異なり、養女として採る事はまずはありません。
これは「純潔」を守る事を前提にしていて、紋が変わる事を極力避けたのです。

(特に青木氏や秀郷一門は「賜姓族」と云う立場であった事から、この立場を止める事は氏の最大の命題として出来なかった。)

「縁者・遠縁の養子」は、「三世内の濃い血縁」と成るので、出来る限りは「他氏の血」を入れる事が必要であるが、この場合は、逆に[家紋」が、「氏の系列」が変わると云う懸念を持つ事に成る。

この様に、「家保全の安全策」として、「嗣子」に幼女のころから他家から”「養女」”として、先ず入れて、後に嫁(娘)にすると云う事も盛んに行われた。
そうする事で、[家紋・系列の懸念」を何とか外そうとしたのである。

但し、この関係は、”上位の家筋からの発想”に従う事に成る。

(注釈 江戸初期からは、「一般武士の家」では、異なる「慣習仕来り掟」の「青木氏」と違う事から、「子」は「子」であり、「孫」は「孫」であり、「養子養女」は、”血縁性の無い考え方”となった。「賜姓族」としての柵が無い事から、”純血性を画する血縁”では無く、”より異なる血筋を画する血縁”とする考え方を採用したのである。)

この「仕来り」より外れた場合は、”「曾孫」”からは、”「子供の定義」の「仕来り」”を外れるので、男女に関係なく”「養子・養女」としての扱いに成ります。
特に、女子の「養女」とする場合は、取り分け、”直系から外れた支流族や縁者族や遠縁族からの迎え入れ”には、明らかに「子供の定義」から外れる事に成るので、”「養女」”と成る。
この「養女方法」が青木氏では積極的に行われたのである。
この場合、”迎え入れた「養女」”の「嫁」は、[嫁」としてでは無く、「実娘」に相当する「娘」として組み入れられる。

この”「養女」の「嫁」”は、元は「養女」で迎え入れての事なので、上記した「慣習仕来り掟」から、長い間には両者ともに心情的にも繋がり、”「実子の子供」の扱い”に成る。
そこで、この”「娘の定義」”から考えて、上記の「青木氏の子供定義」が成り立つのである。


つまり、この「仕来り」より外れた場合は、”「曾孫」”からは、”「子供の定義」の「仕来り」”を外れるので、男女に関係なく”「養子・養女」としての扱いに成る。
特に、女子の「養女」とする場合は、取り分け、”直系から外れた支流族や縁者族や遠縁族からの迎え入れ”には、明らかに「子供の定義」から外れる事に成るので、”「養女」”と成る。
この「養女方法」が青木氏では積極的に行われたのである。
この場合、”迎え入れた「養女」”から成った「嫁」は、”[嫁」”としてでは無く、「実娘」に相当する「娘」として組み入れられる。

この”「養女」の「嫁」”は、元は「養女」で迎え入れての事なので、上記した「慣習仕来り掟」から、長い間には、「養親と養女」の両者共には、心情的にも繋がり、”「実子の子供」の扱い”に成る。
そこで、この”「娘の定義」”から考えて、上記の「青木氏の子供定義」が成り立つのである。

しかし、「養子」に付いては、積極的では無かった様で、これにはある「青木氏としての特別な事情」があった。
それは、「青木氏」には、「悠久の歴史」を持つ、(ア)「賜姓族の権威」と、(イ)「二足の草鞋策」としての「商い」の「経済的な魅力」とが在った。


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「伝統 14」に続く。

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:「青木氏の伝統 12」- 「青木氏の四家訓戒 1」


[No.329] Re:「青木氏の伝統 12」- 「青木氏の四家訓戒 1」
投稿者:福管理人 投稿日:2015/03/13(Fri) 05:55:43


「伝統 12」

> >前回の末尾

> 故に、(g)(h)から(i)
> (i) 「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」
>
> 故に、(a)(g)から(j)
> (a)「伝統」≒「理」」+「利」
>
> (j)「伝統の本質」≒{「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」}≒「理に叶う事」≒「利に叶う事」
>
> 故に、(a)(e)(f)(g)(h)(i)(j)から(k)
> (k)「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」≒「賜姓の氏族」≒「商いの氏族]≒「伝統の本質」
>
> 結果として、以上の論理が働くからだ。
>
> そもそも、即ち、この「数式論の関係式」は、普通の武家社会では起こらない事を示している。
> それは,「賜姓の氏族」(理)と「商いの氏族」(利)であると云う[特質な環境」を保有していた事に成るからこそ成り立っていた事であり、且つ、上記の”「伝統の原理]”が成り立つ”「不思議な環境」”を持ち合わせた「青木氏」”で在ったからこそ、”「伝統」は保障され維持されて来たのである。
>
> 故に、上記の数式論は、”「青木氏]”のみであり、「平安期-鎌倉期の48氏ある氏族」でも成り立たず、況してや「一般武家」では、決して成り立たない。
>
> 何れにしても、この「世の事」が、将又、「青木氏」にも、数式論通りに、”論理的に全てが働く”とは言い難いが、凡そ、その「流れ」は、この数式論での様に、確保出来ている事は証明出来る。
> 個々の末梢事は、兎も角も、”「流れ」の確保”がこの世に於いて重要な事なのである。
> ”「流れの確保」”のその「前提」は、少なくとも、最低限にも、”論理的に状況の骨組みを作り上げて置く事”にある。
> 「青木氏」のみならず、この世の全ての「事の流れ」には、この「前提」が必要なのである。



「青木氏の四家訓戒」

この「前提」の無いところには決して「河の流れ」は生まれない。
「河の流れ」が無いところには、「事の成就」(田畑の恵み)は生まれないのが、この「自然摂理」であり、「人の世」も例外なく「世の常理」である。

要は、”奈良期から進めて来た「二足の草鞋策」”が全てを物語る事である。
「青木氏密教の三相の理」の「時人場」(流れの確保)の何れもが大きく働いたと考えられるが、中でも、「流れの要」は、「時」ではなかったかと観ている。
奈良期から室町期までの「生存競争の激しい乱世」で「時の云々」が大きく左右した。
この「時の云々」を「機を観て敏」に導き働く「指導者と氏族」であってこそ生き延びられたのであり、「伝統」を護り通せたのである。
その「対照的存在」が、「青木氏」と比較対象に成る「源平橘」であった事に成る。
つまり、「源平橘」は、「上記の数式論」の「流れ」を無視した事に成り、依って、「伝統」が成し得なかったのである。特に、源氏は、上記した様に、「嵯峨期の詔勅」を無視して、「武」の身を押し通した事に「伝統」の破滅は勿論に滅亡の原因があった。
然りながら、「亡びた平家」は「宋貿易」を行い「二足の草鞋策」を採っていたが、伊賀本家を中心とする「宗家筋」は亡びた。その原因は、上記の数式論が成り立っていなかった事に在り、「青木氏」の「四家」に相当する「一族の統制システム」が上手く採れていなく、ただ一人の「個人の能力」に委ねていた事が原因していた。
しかし、大蔵氏等の同門一族は、上記の数式論が成り立ち、博多を中心に貿易を盛んにして「大蔵氏」を遺し得た。
一時、「同族の清盛」にその富を奪われて抑え込まれたが、その後、「九州自治」を前提に「子孫拡大性」を採り「九州全土」を網の目の様な「血縁の筋」で固めた。
秀郷一門とも血縁する等をし、「武」に頼らず、”広く薄く固める戦略”を採ったし、「後漢の末裔」「遠の朝廷」「錦の御旗」等の”「権威と象徴」”を保ち、「皇族の血縁」をも護った。
更には「博多貿易」とは別に、国内の「瀬戸内の富の権利」をも獲得して生き延びた。
同族の「平家」との違いは、「青木氏」と同じ「布位共生」を重んじ、「平家や源氏」の「布武」に頼らなかった事にある。
上記の「青木氏の数式論」に当てはめても、「四家方式」とは異なる「統制方式」を採用していて合致するのである。
「青木氏」の「祖先神 神明社」に対しても、北九州の「宗像神社」や「阿蘇神社」や「霧島神社」等ほとんどの「主要な神社」との関係を持ち「神社系氏族」を作り上げ、「神職」を入れて「一族一門」を固めた。現実に大蔵氏は「神職系氏族」が、幅を利かした。
更には、「後漢」からの「強力な職能集団の大蔵部」を従え、「大蔵種材」の様な「民の憧れの的」(「毘沙門天」のモデルにも成ったとされる”「民の味方」”の「豪傑の首魁」が出る等、「青木氏の御師」に相当する立場も持った。全く何れの面を捉えても「青木氏」との大きな違いは、「純潔性の維持」を除いては無かった。
むしろ、この点では氏子の領域までを血縁の範囲にする等全く「逆」であった。
元々、後漢から帰化した経緯が、「無戦」と民との「供生共存・技能供与」で「共生族の立場」を採っていた。
「平安期の氏族」の「48氏」の中で「子孫」を大きく遺したのは、「大蔵氏」だけである。

況や、上記の他氏との比較評価に於いても、”「伝統」”の無い処に”「子孫存続」”は成し得ないの条理であった。

その「共生共存」を旨とする「子孫存続」「伝統」を示す「上記の数式論」が「前提」と成り得ている。
この”「二足の草鞋策」”が成り立たなかった場合は、「青木氏」に執っては、この「数式論の環境」は「水泡]と成り得ていたのである。

この「数式論の流れの立場」を確保したからこそ、「商いの顔」と、「三つの発祥源の顔」と「賜姓五役の顔」を務めて来た「賜姓族の顔」(「五つの面」 「20の顔」)として「二流の顔」から ”「青木氏の伝統」”が生まれ護られて来た。

明らかに、”「二足の草鞋策」”が、”「伝統」”を生み出したものであり、その”「二足の草鞋策」”を実行するに必要と成る”「子孫存続」”を維持し護った。この為に、”「四家制度」”が敷かれたのである。
況や、「二足の草鞋策」=[四家制度」=「子孫存続」=「伝統」とも云える。

これは、古来より「青木氏」の中で容認されて来た「根本の概念」である以上、就中、現代でもこの数式論が成り立つ事が出来得れば”「伝統」”は保たれるとも考えられる。
但し、あくまでも、この”「子孫存続」=「伝統」”の上記の「数式論の環境」が維持されていればの事である。

(注釈 「青木氏」を調べている中で、”何で「青木氏」にだけこの”「古来の伝統」”が継承され続けて来たのか”に大いなる疑問を持った。
何かある筈で、 それを「紐解け」ば、”青木氏は判る”と考えた。
当然に、「血縁関係」を保持していた「布位共生」の「佐々木氏等の氏族」と「布武」の「源平藤橘」等の比較対象があって、この「生き様の差」を研究した。
その過程である”方程式の様なもの”がある事に気が付いた。
その研究の経緯を経て、生き残るに必要なこの方程式の数式論を導き出した。
つまり、「青木氏」とは、「多少の違い」はあるにしても、「佐々木氏」や「大蔵氏」や「藤原秀郷流一門」等、生き残った「氏族」の「共通項」があると考えた。
この「共通項」を調べるのに大変に苦労をした。この結果上記の様な数式論に辿り着いた。
例えば、”「商い」”とする場合、この「商い」そのものの「確証」探しや、それに類する”何かの糧類”などを見つけ出す事の「資料探し」が大変であった。
この様な研究は現在では「個人情報保護」や「著作権」等で縛りが出来て無理であろう。
現在、各地域の宗家筋の「青木氏の現状」を全て把握している訳ではないが、筆者のルーツも明治35年の松阪大火の出火元で950年以上続いた「福家の商家」も「倒産の憂き目」を受けた。
しかし、他の「四家の子孫」は、この「商家」と「家」を各地で引き継いでいるし、筆者の親族も「商い」をしている。
しかし、”「子孫拡大」”は果たされていて、ある程度の数式論の環境は保全されているが、”「伝統」”は、「時代の変化要素」の方が大きく、上記する”「合理性」=「継続」=「信念」=2”を失い「縮小する見込み」である。他氏も同じであろう事が調査の過程で判った。
果たして、「伊勢の秀郷流青木氏」は、兎も角も、「入間の秀郷流青木氏」も、この「伝統」を継承し得ているかは、一時は把握していたが、残念ながら、最早、判らなくなった。
「信濃青木氏の福家筋」は、未だこの”「伝統」”を何とか維持しているらしい事が確認できている。)

・「青木氏の四家訓戒」(氏是)
さて、そこで,「伝統の本質」の「合理性の血の質」と成り得た「四家方式」の上記の「子の定義」を護るには、”「氏の根本的な概念」”が必要であった事が判る。
況や、それが、”「氏是」とも云える概念” 況や、「血の質」である。
即ち、「氏是」=「血の質」である。
そもそも、”「お仏像様」の掌で育てよ”の「氏是」と成っている「訓戒」が、「大化期の発祥期」の頃から言い伝えられていたのである。
「氏是」の”世に晒す事無かれ、何れ一利無し”の「青木氏の訓戒 氏是」と共に、長く「子孫」に伝えられて来たこの「訓戒」もあったのである。
この「お仏像様」は「青木氏の護り本尊」である。
この「訓戒の意味」は極めて深いが、ここで、この”「青木氏の四家訓戒」”が、”お釈迦様の掌で・・云々”の言葉が世間でも云われている。
 ”何故にこの「氏是の言葉」が世間に出たのか”と云う一つの疑問がある。
そもそも、「青木氏密教の訓戒」で「氏是」と成っているものが、”世間に出たのか”には何か意味を、或は、”「青木氏の生き様」に関わる事が起こったいたのではないか”と云う疑問である。
「密教」なので外に出ると云う事がどうしても考え難い。
そもそも、「顕教」の”「宇宙仏の盧舎那仏」からの「教え」を、「お釈迦様」が伝える”とする”「顕教」の「お釈迦様の説」”である事から、”お釈迦様の掌で”の言葉は、「密教」では無く、「顕教」である。
明らかに「顕教」である以上は、「時代性」から観て、もっと後の「鎌倉期の時代」に最初に広まったと考えられる。
そうすると、伝えられる手段には、次ぎの事が考えられる。
”鎌倉時代の「浄土真宗」”に依って,「仏説」を「庶民」に判り易く伝える為に、”一般化して世間で使われた言葉”である筈である。
この「時代性」と、世間に伝わる「伝達手段」から観て間違いはないだろう。
「法然-親鸞の関係」と「親鸞の苦悩」の「歴史観」から観て、「民の領域」まで伝わるには、「浄土真宗」しか無い筈である。

(注釈 浄土真宗はその路線の考え方の違いから、四派に分裂した。しかし、この部分に於いては、「共通の仏説の説法手段」であり、路線には関係が無い。だとすると、鎌倉初期前後であり、親鸞そのものが伝えた可能性が考えられる。
だとすれば、「青木氏の浄土密教」-「密教浄土宗の法然」-「法然弟子 浄土真宗の親鸞」の流れの中での関係から伝わったものと考えれば、「密教の門外不出の掟」は開ける。
「奈良期」から「平安期」に掛けて、そもそも、「僧侶」は、「国家機関と朝廷が認める者」以外には成れなかったし、「僧侶」から自由に「仏教の教え」が「民」に伝われば、「国家の安寧」が脅かされるとして、「仏教の民への布教」を禁じていたのである。
況や、「密教」のみとした経緯がある。
然し乍ら、基本的には、この禁令の傾向は社会の中では、平安期末期まで続いたが、これに対して「民への布教」を実行したのは「行基」-「親鸞」であった。
ここで、「法然との軋轢」が生まれて、「真宗の宗派」を構築した。
従って、「法然と親鸞の軋轢」が起こらない前とすれば、この「言葉の伝承」は起こる。
ただ、「行基」(660-749)はこれを破って布教を続け、遂には、「行基」と「民の賛同」を得なければ一切の社会の工事も進まない状況と成った事から、「聖武天皇」は「行基」を許して大僧正の最高位の位を与え、「興福寺建立」等の責任者に指定し、これを成し遂げた経緯が在って、禁令の中でも「仏教」は民の中に浸透して行った経緯を持っている。
伝わった時期とすれば、730年頃の行基か、1180年頃の親鸞かに依る。
この環境の中で、「禁じられた仏説」の「青木氏密教」が民の中に浸透した事は異例なのである。
その意味で、”何かが青木氏との間であった”から伝わったのである。
”「青木氏と親鸞の親交関係」が在ったか”は、資料不足で不明であるが、「古来の和魂荒魂の宗教」と「古来仏教」とを融合させた「青木氏密教」と、後に、「浄土宗密教」をも取り込んだ「青木氏」とは、「法然」は深い関係があった筈である。
前段で論じた平安期に「仏舎や仏画や三昧耶形や毘沙門天像の関係」での事でも親交がない方がおかしいと考える。)

(注釈 宗教論争時に伊勢に移動している経緯がある事から、青木菩提寺で親交している筈である。
「親鸞の布教」にも伊勢にも旅している事からも、仏説に付いての議論もあったのではないかと推測できる。
何れ、「二人の逗留」の証拠は、残念ながら「菩提寺の消失」で資料は見つからない。
しかし、奈良期から平安期まで間に「伊勢の菩提寺」に「高僧の行基」を始として「複数の高僧の逗留」はあった事は判っている。
それは、「青木氏の口伝」でも、「紀州徳川氏の資料」の中からも認められるので、充分に考えられる。
「紀州徳川氏」の資料の中に「青木氏菩提寺建立」に「行基」が関わった事が書かれている。
筆者は、「本尊仏像」を根本的に嫌い、「釈迦如来像」や「大日如来像」や「毘沙門天像」の「本尊仏画」を採用した「親鸞の伝達説」を採っている。上段で論じた様に、この時の仏画は多くは「青木氏の僧侶」が多く書いていた関係から、”伝わり方が平準である事”から伝わったと観ている。
「青木氏」は「布位共生」を旨としての氏であった事から行基にしても親鸞にしても平易に親交があった可能性が観られる。)

「青木氏の密教浄土宗」の中で使われていたこの「四家三様の言葉」が、何らかの事から、この”「訓戒」”が「親鸞」に伝わり、そこで、布教の中で、顕教であるが故に ”「仏説」を判り易く伝える言葉”として用いられたと観ている。
その証拠は、特に「親鸞」は、その特定の階級に布教した「密教であった浄土宗」の「難しい説法」を、「顕教」として「庶民」に判り易い言葉で多くの事を云い換えて伝えている。
この「氏是」も、”「青木氏の「お仏像様」(密教)”が、”「お釈迦様」(顕教)”に変えて伝えられたと観られる。

その前に、既に、「青木氏」では、「密教」の「大日如来のお仏像様」は、”奈良期の賜姓時の賜物”であった事から、その時より”「お仏像様」(鞍作部止利の作)”を祭祀していて、「密教の考え方」を基本とした「平安期の家訓」までの間には、この”「訓戒の言葉」”は既にあった事が判る。
そもそも、「青木氏」で、この”訓戒として使われていた言葉”が、”浄土宗が「密教」から「顕教」に成った時点(鎌倉期初期)”で、「浄土真宗」から庶民に”「仏教の教え」”を判り易く布教する為の一つの「説法手段」に使われて伝わったものと観られる。
「密教浄土宗」が、正式に「顕教浄土宗」となり「密教」を解除したのは、家康に依る「江戸初期の浄土宗督奨令」からである。
しかし、この時も、”上級武士の宗派”として定められた為に、庶民に一般化したのは、矢張り、鎌倉期の「真宗」であると考えられる。
「浄土宗」は、「密教」であった事から、”何かと説法は判りにくい漢文の言葉”で伝えられている。
しかし、他宗、特に「真宗」は、この言葉以外にも、”多くの訓戒”を、庶民に”「仏説」を布教伝道する「云い換えの判り易い言葉」”を多く作り上げていた。
又、”「本尊とする仏像」も持たない戒律”の「浄土真宗」では、当然に、「判り易い言葉」を使ったと観ている。
有名な「真宗の教え」の”唯念仏をただ唱え信じよ。然れば汝は救われる。”は、当に、この”お釈迦様の掌の中で”の ”「換え言葉」”であった。

この事から、従って、「密教の訓戒]であったものが、”「お仏像様(大日如来)」”が、「顕教の訓戒」として ”「釈迦如来」の「お釈迦様」”に変えられて伝わったと筆者は観ている。
”「密教の訓戒」”が、”「顕教の訓戒」”に成った例は、”浄土宗系の宗派”には他にも多いのである。

話を戻して。「四家の嫁」は この”お仏像様の掌で育てよ”以下の通り育てるのである。
従って、「四家方式」の”「嫁」(養女)”は、「自分の子供」と、更に、「夫に成った息子」の「子」を育てる訳であるから、「祖父の親」から観れば、この、”「嫁」(養女)”は、最早、”「嫁」”では無く、「実娘」に相当する”「娘」”としての位置づけが必然的に起こる。
つまり、その「娘」と成った、”「嫁」(養女)”は、”「実娘」の扱い”と成った時点で、”「息子の親」に育てられる”とする考え方を採る事に成る。

この前提には、”「嫁」(養女)”は、「基本的な処置」として、”「女子の曾孫域」以上の縁籍の者”を幼少期より「氏の家」に迎えて”「養女」”として育てる。
この事から、”他氏から来た嫁”、”曾孫域(遠縁)から来た嫁(養女)”の二通り”「嫁」”が生まれる。
しかし、そもそも、”他氏から来た嫁”は、「青木氏」は「純血主義」(同族血縁)を前提とする為に、無理に「養女の形式」を採ら無い限り、原則はあり得ない事に成る。

「四階妻の制」と「四家妻の制度」
従って、「他氏の血」を入れる為に、次ぎの方式を採用した。
それは、「妻の定義(嫁)」に関わる。
この場合は、「一夫多妻の形式」を本来は採用している事に成る。
しかし、”「多妻」”と云っても、「賜姓族の範囲」では、ハーレムを作る程のイメージでは無く、「妾」を置く事の前提と成る。
上記するこのシステムを健全に進め維持する為に、奈良期から平安期に掛けて、「賜姓族」には「三つの発祥源」の「象徴氏」の責務宿命が在った。
「責務宿命」である事から、「象徴氏」を消滅させる事は国策上好ましくないとする政治上の判断理由があった。
そこで、それを護る為に、”絶対的子孫存続の使命”が課せられていた。
その事から、青木氏には、本来、「四階妻」(后、妃、嬪、妾)」の制」として認められていた。

(注釈 現実には、「青木氏」の「系譜添書の資料」から観ると、一人の先祖に対して、子の母の名前が、四人としては出て来ない。確かに「妾子」の記載はあるが、記録からは”四人”は無いので、「賜姓族」としては、現実は、実質は採用されていなかった事が云える。)

この注釈から観て、ではどの様にして、”「子孫」”を生み出していたのかが重大な疑問である。
この事に付いて次ぎに検証する。

・「四家の原則」と[福家方式」
それは、「四家の原則」にあったと観られる。
特に、「藤原秀郷流青木氏」の「特別賜姓族青木氏」は116氏に及んでいる。
従って、系譜から観て「伊勢の特別賜姓族青木氏」を除いては、この「四家の原則」は採用していなかった事が判る。
つまり、「皇族賜姓族青木氏」の場合は、この「四家の原則」を採用していた事に成る。
つまり、「青木氏」は「本家分家方式」を採用せず、上記に述べた様に「福家方式」を採用していた。

(注釈 「嵯峨期の詔勅」で、「皇族の配流孫」であるとして名乗った「青木氏」も在ったが、この氏は全く、「皇族配流孫」としての名跡を利用しての出自であった事から、一般の姓氏の国衆の武士として生き延びた。依って、本論の”「伝統」”と云うものとは違い、「武士の家の伝統」と成っている。 )

この「福家方式」は「四家制度」で構成していた。
そもそも、”「純血性」”を確保するには、”「本家分家方式」”では、事の次第に依っては、無制限に広がる「拡大性」を持っている。
しかし、この「拡大性」には、「純血の度合い」が薄く成ると云う欠点を持っている。
それでも、「吊り合いの取れた血縁」に依っては、”ある程度の純血”を保てれば、「賜姓族」としての対面は保てる。
依って、関東の「特別賜姓族青木氏」は、止む無く”「純血」より「拡大性」”を重視していた事に成る。
その「役務の大きさ」と「24地域」と「116氏」から観て、これを維持するには、「四家方式(20家)」では、論理的(下記)に無理であろう。
この”「特別賜姓族」の考え方の概念”は、歴史的に観て、その「行動の発想基準」は、総じて、次ぎの様であった。

「子孫存続」=「純血性」<「拡大性」
以上の数式に従っていたのであった。

上記の「四階妻の制」を捉えて地道で行けば、確かに、この「拡大性」は担保できる。
これには、「経済性の保障」が前提と成るが、この条件をクリヤー出来得れば、戦乱期の室町期までは”「子孫存続」”の点では合理的である。
”「特別賜姓族青木氏」”の場合は、”宗家の護衛団の役目柄”で各地に子孫を送り、役目を果たさなくては成らなかった為に、”「子孫」”を確保する必要が絶対的にあった。
又、「祖先神 神明社」の建立の補完義務もあった。
従って、この「四階妻の制」を積極的に採用したと観られる。
(その意味では、「特別賜姓族の秀郷流伊勢青木氏」は入間宗家とは異なっていた。)
更には、「特別賜姓族」が「補佐役」としても、その責務(神明社建立)を果たさなくては成らなかった為にも、「子孫確保」は、”無制限”とも云っていい程に必要であった。
又、赴任先の現地に、政治的な戦略からも、”「現地末裔」”を発祥させている事からも、この「116氏」にも及んだ事にも成る。
しかし、ここで、「四階妻の制」には、「高位の氏」として注意しなければならない問題があった。
この為に、この事を認知していた為に、「四階妻の制度」を朝廷は、恣意的にも容認して、”反乱等の疑い”を取り除く為にも公認したのである。
「天皇家」が率先して、この制度を奈良期から敷いていた。
これらの事もあって、「拡大性」を含んだ「四階妻の制」は、「賜姓族」などの”国策実行の「認証氏」”に躊躇なく公認したのである。

ところが、「皇族賜姓族」でのこの”「四家」”では、「特別賜姓族」の様に、「四階妻の制」は敢えて採らなかったのである。
それは、当然の事として、”「子孫存続」=「純血性」>「拡大性]の概念”が在ったからである。
ここが、同じ身分、家柄、官位、官職を持つ「特別賜姓族」との”大きな概念の違い”として出て来る。
但し、”伊勢の「秀郷流青木氏の特別賜姓族」には、どの資料から観ても、この傾向を強く見られない。
この原因は、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」との血縁関係を強く持った所以であると考えられる。
何故ならば、親交血縁を進めば、”「子孫存続」=「純血性」>「拡大性]の概念”に関わって仕舞うからである。
「同地域」に於いて、「同一行動」を採り、深く「親族関係」を保っている立場に於いては、「子孫存続」=「純血性」<「拡大性」の概念は、極めて取り難いからであった。
この”取り難い”の範囲からは、時と場合に依っては”争い”の範囲にも成り得る。
現実には難しい差である。
「地域外」であれば、この「概念の差」は、”調整、仲介”と云う手段も取れるが、「地域内」では無理である。
それを象徴するのが、「伊勢四日市の融合青木氏」である。
「皇族賜姓族の伊勢青木氏」と「特別賜姓族の伊勢青木氏」の”「融合青木氏」”が存在する事である。
「跡目養子」、「婿養子」の何れにも「血縁混合」して「融合」を成し遂げた「青木氏」である。
又、一方で、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」と「特別賜姓族の伊勢青木氏」は、平安期よりの「女系での濃厚な血縁族」が存在するのである。
しかし、この”「融合青木氏」”は、「女系」のみならず「男系」の「血縁族」でもあって、両方の血筋を等しく持ち、尚且つ、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」の”「四家」”の一つに位置づけられているのである。
本論の”「跡目の子の定義」”が両方に働くと云う極めて有利な「氏族」が発祥していたのであった。
この「融合青木氏」と、「伊勢の血縁青木氏」(秀郷流伊勢青木氏)とが、「皇族賜姓青木氏の五家五流」と「入間の武蔵青木氏の宗家」との間での問題で、この「調整仲介の役目」を果たしていたのである。
取り分け、この「融合青木氏」が”「四家」”に位置する事は、この重要な「調整仲介役」の為に発祥させたと考えられる。
そして、「女系での濃厚な血縁族」の「秀郷流伊勢青木氏」(特別賜姓族伊勢青木氏)と共に、「武蔵の入間の秀郷流青木氏」の「宗家との調整」を図ったと観られる。

(「神明社建立の問題」や「同族血縁の仲介」等で数多くの問題があり、この調整仲介して進める大きな役目があった。)

この事で”「概念差の問題」”は解決した。

・「四家」「福家」「家人」
「四家制度」のシステムでは、[福家]の当主は、「子供」(息子域)の領域では、「四つの家」を構築出来る。
これ以上の家は構築出来ない。
仮に「子の嗣子」が、四人以上と成った場合は、「余人」(選抜された四人以外の子)は、”「家人」”と成るが、「新たな家」を興す事は出来ない。
「余人」の「家人」に成った「嗣子」であった「子」は、「家」をお興す事が出来た者の下の四家に配属される。

「嗣子の余人」が「家人」と成った以上は、「他氏」との血縁は自由に可能と成り、ここで「他氏の血」が入る事に成る。
この「嗣子の余人]であった家人と成った「家人の男子(息子)」が、四家に嗣子が不足する場合は、「四家副役の養子」と成り得る。
ここで、初めて四家の中に他氏の血筋が入る事に成る。
ここで云う「他氏」とは、「シンジケート」の事で、「家人の男子(息子)」は「伊勢シンジケートとの連携の血縁」に良く使われた。

この「嗣子の余人」の「家人(家臣に相当)」に成った者は、「家族」を持つ事は出来るが、この一族は永代で「家人の立場」で終わる。
そもそも、「家人」には、この「血縁のある家人」と「血縁の無い家人」(普通の家臣)とに分けられる。
この「血縁のある家人」は、「血縁の無い家人」の「格式下の跡目養子」として入る事が出来る。
この「格式下への養子縁組」は、最早、”「養子」”とは「賜姓族」である為に認めない。
「賜姓族」では、その”「純血性」が低下する”と云う事を前提に、”「賜姓族」より格式下への家柄”に男子が入る場合の縁組は、「賜姓族側」では”養子”としての呼称は採らず、”「家人」に成った”として呼称として扱われる。
つまり、「親族の範囲」から外れ、「他人の範囲」に入る事に成る。
しかし、この「格下の跡目」に入った[血縁の無い家人」の家は、この事に依って次ぎの氏を発祥させる事に成る。

”「絆青木氏」(1 男系)”
として発祥する事に成り得る。

この”「絆青木氏」”には、「五家五流の賜姓族青木氏」から「娘」が嫁いで、血縁氏を発祥させる。
”「絆青木氏」(2 女系)”
以上の2氏が発祥する事に成り得る。

以上の「二流の絆青木氏 A」(「絆青木氏 1」 「絆青木氏 2」)
”「血縁のある筋目」の氏”が在る。

更に、この「絆青木氏」には、”「家臣」に相当する「家人の氏」(侍)”がある。
「武士部」の「絆青木氏」(3)

「青木部の職能集団」(商人含む)「部人」に相当する「家人の氏」(部)がある。
「青木部」の「絆青木氏」(4)

以上の「二流の絆青木氏 B」(「絆青木氏 3」 「絆青木氏 4」)
”(血縁の無い筋目)が氏”が在る。

このAとBの「二つの絆青木氏」の「四流」は、「格下の跡目養子」を認めていない以上は、差別なく格式は同じとして扱われる。
「格下の跡目養子」として入る「4つの絆青木氏」は、「四流」の何れを問わない。

これを「賜姓族側」では、”「格下養子」”と呼称するが、元は「嗣子」であった者が、「格下の家人」と成る事に対する「一族の位置づけ」である。
「四家方式」の組織の運営上は極めて重要ではある。

しかし、ここで「青木氏」の「氏内の子供」と定義される者の意識の中には、ある程度の”自由意識”があって、次ぎの様に成っていた。
つまり、口伝とかでも判るのだが、「福家」がガチガチに命令で決めていた様では無かった模様であった。。

”「侍」として生きたい者(「氏人」)”と、”「家人」「職人]として生きたい者”の「嗣子」があって、多様であって、この何れにも”「特別の傾向」”は無かった模様で在った。
当然に、この「嗣子の意識」から、”「四家」に成る事”を敢えて断る者、「家人」や「職人」に臨んで成る事を好む者、があった模様で、比較的に自由意識が伝統的には認められていた。
恐らくは、好きこそものの上手成れ”の通り、「適材適所」を認めていた。
この事は、家訓にも述べられているので、積極的に認められた制度でもあった事に成る。
家訓にあると云う事は、”本人に才能が有る”からとして強制的に配置すると、本人にその「気概」がないと、”「四家の統制」が取れず良い結果を産まない”とした考え方を採用して居た事に成る。

最終は、”「福家」と「四家」の「最終判断」”で決められて ”「適材適所」”に配置されていた。
上記した「5つ面」「20の顔」があり、上記する「4つの絆青木氏」もあり、配置先としては多種多様があり、問題は無かった模様であった。
そもそも、「伊勢青木氏」の範囲で観ると、特に、”青木氏の遺伝による特質”か、むしろ、積極的に「職人」「商人」に成りたがる傾向を持っていた。
その「青木氏の遺伝傾向」は、「技術関係の者」と「商業関係の者」の特質に分けられる。
現在も伊勢ではこの傾向を持っている。
青木氏始祖を始めとして、奈良期では「軍略氏の血筋の家柄」ではあったが、不思議に政治家は出ていない。

(余談ではあるが、筆者は、兄弟親族の中でも、「技術者系の血筋」を引いているらしい。技術者の「先祖の逸話」が多く遺されている。
「機械」などを良く作り、「鉄砲」などを上手く操る名人が居て、紀州藩に依頼されて家臣に指導した事も伝わっている。現代の機械家電の大メーカーの初代の工場長を請け負った人物もいた。)
これらは口伝逸話でも多く伝えられている。)

「四つの環境」
そもそも、歴史的に次ぎの環境が物語る。

(1) 奈良期から「三つの発祥源」(武家、侍、氏)として位置づけられるも、”「猛猛しい武士の環境」”には無かった事
(2) 平安中期からの「二足の草鞋策」の長い間の「商いの環境」があった事
(3) 奈良期からの「国策氏」としての「青木部の職能集団」を独自に持った「技能の環境」があった事
(4) 奈良期から明治期まで「武家の環境」にはあったが、「戦い」を是としなかった「氏の環境」があった事

以上の「四つの環境」が、1300年程度の間に、「氏内の遺伝的傾向」が生まれていたと考えられる。

因みに、筆者は「技術系」の遺伝であるが、兄弟を含む親族には、「商業系」に分けられるが、「商才」を強く持つ「商業系の者」が一族には実に多いし、長く続けられた”950年続いた「伊勢紙屋長兵衛」”がそれを強く物語っている。
上記の数式論から、「二つの青木氏」には、この傾向が強かった事が判る。
「秀郷流青木氏」は、一族の「護衛団の役目」を担っていたが、各地24地域で殆どと云って良いほどに”「豪商」”が実に多く出ているのもこの事を物語っている。
(青木氏の守護神 神明社」の論文でも論じている)
深く同族血縁関係を持ち、明治35年までその関係を持ち続けた「信濃青木氏」に付いても同じ事が云える。
この事から、「甲斐青木氏」や「摂津青木氏」にも相当の血縁を始めとする親族関係を維持して来た事、当然に、少なくとも「伊勢秀郷流青木氏」との関係は、「融合青木氏」が発祥している事から観ても、”親族以上であった事からも”同じ傾向の伝統”を持ち得ていた事が云えるのである。

ここには、明治期まで続いた”「神明社建立や一族の菩提寺建立」”等の「職能集団の青木部」の「技能の遺伝」も見逃せない。
一族にこの「遺伝的潜在能力」を持ち得ていないと、”950年”は無理であろう。
これは何の保証もないが、「始祖の施基皇子」の「日本書紀」に記載されている活動から観る極めて”高い能力”が基礎と成って”遺伝している”と観られる。
況や、これは、最早、”「伝統」”の一つと成り得ているのである。
これらは、本論で論じている事を総括的に証明している。

・「主役(しゅえき)と副役(ふくえき)」
更に「四家方式」に付いて続ける。
「子の定義」が「孫域」までとしているので、「四家」は、”「家」を興した者”の下に、その子(孫)にも四家までを認める。
従って、「子域の四家」(嫡子四人 主役)と、「孫域の四家」(嫡子四人 副役)が生まれる。
結局は、最大「16の家」が興る。この範囲を超えない。
この「16の家」で、「5つの面」「20の顔」を熟す事に成る。

「福家」の「当主の親」(A)が没するか、病気や老化等の何らかの理由でその能力が低下すると退役すると、「子域の四家」から「四家の合議」によって「福家の当主」(B)を決める。
この時、「孫域の四家(副役)」が、「子域の四家(主役)」に昇格する。
所謂、「世代交代」が積極的に行われる。
「当主の親」(A)であった他の四家の三人は、一族の「子の定義」の域の中から選択されて「跡目継承」が可能に成り次第に主役を退役する。
代々これを繰り返す。

この様に、「福家」が何らかの理由で潰れても、一族は衰退しない事に成る。
このシステムを採用する事で、「拡大性」は制御され、「子孫数」も一定に保たれる。
又、「血縁の度合い」も一定に保たれる。
この「四家方式」では、当時の時代の寿命や医療環境から観て、「子孫数」を無理なく保てる事が出来る方式と成っていた。
「氏」の一族で「孫域」までを「子」として、男の「子域」を最低二人にし、女子を最低二人とし、その嫁ぎ先の子域までを二人とするとして、そこに平均25年経過後の「孫域の子」を加えた子孫数を「16人」と見込めば確保できる事に成る。

・「妻+妾」の前提
男子2 女子2の子
±2の許容範囲
男子15、女子10を出産最低限度
以上を前提にして「系統図」を作れば、次ぎの結果と成る。

最速20年、最遅32年で、平均26年の結果が得られる。

つまり、「福家の当主」と成った時点で、妻子で、25年後(最低20年-最高32年)には、最低でも16人(MAX24)以上の「子の定義」の子孫が生まれる事に成る。
これに「妾子」を同じ条件で加えれば、平均13年後(最低10年-最高16年)には、最低16人以上の「子の定義」の子孫が生まれる事に成り、無理なく確保出来得る。

この数式論は、次ぎの様に成る。

{(男子2±2)×4+(女子2±2)×4}+{(孫2×4)}>16

この「四家方式」で行けば、当時の「子の生存率」を考慮しても、16は、最低で「8の範囲(50%)」で確保できる事に成る。
これに、「養女方式」と「家人方式」から補完される事に成るので、上記の数式論は「8の範囲」は「2の範囲」で確保できる事に成る。
そこで、「±2」の「+2の範囲」で数式論が働けば、「2の範囲」は消えて、100%問題は無い事に成る。

注釈
資料から平均的に「高位の氏の生存率」を考察しても、最悪であった室町期の生存率(30%-35%)から観ても、確実に”安全領域”である。
しかし、「青木氏」は、そもそも”「氏是」”としても、「室町期の戦い」には”激しい戦乱の状況”はしなかった。
記録での”戦い”の全てを観ると、「シンジケートのゲリラ戦(撹乱戦法)」を展開した事が判っている。

この「四家方式」は、この「計算の前提」で敷かれたシステムである事がよく判る。
論理的に、逆説的には、「武家」では成り立たない事に成る。
そして、この「四家方式」が継続して始まったとすれば、最初の10年は削除されて、「15年の軌道」に乗る事に成るので、「妾子」無くしても、「妻の範囲」で、この「四家方式」は成立し続ける事に成る。
しかし、実際は、「継続中での継承」と成るので、「15年の軌道」は、殆ど、「0年の軌道」と成る。つまり、見習い中だった「四家副役の後継者」が代替わりして引き継ぐ事に成るので、「0年の軌道」は保障される。
更には、この安全率として、「四家方式」の継続中は、「妾子」に「子の定義」の範囲を拡げれば、「跡目継承の問題」は完全に霧消する。

(「妾子」を設けるかどうかは、四家のみならず、家人の跡目の問題も考え合わせて、状況に応じて判断する事に成る。)

これで、仮に、「氏是」外の範囲で、室町末期の「戦い」の様な事が起こったとしても、問題は無い事が判る。

要するに、この「四家方式」では、”「子孫存続」=「純血性」>「拡大性]の概念 ”は安定して保たれる事に成る。

逆に、「秀郷流青木氏」や「11流の源氏」では、”「氏是」”が違っていた事も含めて、「四家方式」は無理である事が判る。
「秀郷流青木氏」の存続は、「特別賜姓族」である事から、「源氏」の様に「戦いの氏是」は採らなかったし、「賜姓族」であった事から、上記する「子の定義」も含めて ”「青木氏」と類似する行動を採った事”に所以する。
故に、”「子孫」”を確実に現在までも遺し得たのである。


・「源氏の衰退理由」
では、”何故、全く「皇族系の同族」である「賜姓源氏」が、「滅亡の憂き目」を受けたのか”対比する意味で考察して観る。

(但し、ここでは「賜姓族でない源氏」、「同族でない源氏」もあるので、同族の”「賜姓源氏」”と表記して論じる。)

”「源氏」”と称するものには、そもそも次ぎの三つがある。
(イ)「嵯峨期詔勅」を受けて、「賜姓」を受けないで、「源氏」を名乗った「皇族」
(ロ)「荘園名義貸し」で名乗った、皇族でない地方豪族の「未勘氏の名義源氏族」
(ハ)「荘園制」で「遠縁の女系」と血縁して勝手に「源氏を名乗った地方豪族」

(ニ)正規の賜姓の手続きから外れて、特別に「賜姓の源氏」を強引に受けた「清和源氏」

但し、最も勢力を持ち、滅亡の引き金を引いた”「清和源氏」”も厳密に云えば「賜姓源氏」とは云い難い。

その理由を論じる。
「清和源氏」を名乗った「経基王」は、「清和天皇」の「第六位皇子」では無く、次ぎの陽成天皇の皇子である。この「陽成天皇」は、同族血縁の障害で、性格が破綻していて、皇子順位も低く、正規の「陽成源氏」が賜姓がされていて、既に、その「賜姓資格」が「経基王」には現実に無かった。
そこで、「経基王」は、先代の清和院の第六位皇子の貞純皇子の系列に入って、特別に賜姓を懇願した。この時、既に、清和天皇の正規の皇子の「賜姓源氏」が賜姓されていた。(二流)
祖父の位に当たる「清和院」は賜姓を嫌がった。
そこで、「武蔵介の役人」として終わる事を嫌って、何とか「賜姓の権威」を受けて、この”権威”を持ち伸し上がろうとして”野心”を掻き立てた。
そこで、手柄を立てる事で認めさせる様にして、「将門の乱」と「純友の乱」に対して、2度も讒言で事件を起こし、清和天皇に直訴して事件として取り上げさせて、手柄を作り上げた。
そこで、止む無く清和院は、渋々に「嵯峨期詔勅の意」を述べて、「賜姓」をした。
この時、既に、清和天皇の第六位皇子が賜姓を受けて源氏に成っていた。
しかし、「経基王」が清和天皇の第六位皇子として賜姓を受けて仕舞っていたので、結局、実皇子は、”賜姓の無い源氏”を名乗る事と成った。「清和天皇」の実皇子のこの二人は、結局、「賜姓の無い源氏」を名乗った。この二人には防御の背景が全くなかったことから、この「経基王」の勢力の圧迫を受けて衰退して滅亡する事に成った。

・「清和源氏の内情」
「大化期の詔勅」の「皇位継承の改革」で、「天智天皇」が定めた「賜姓族の規定」に外れた「清和源氏」は、この様な特異な経緯を持っていた。
「賜姓を受けられる定め」としては、次ぎの規定が在った。
a「第六位皇子」である事。
b「当代の天皇の皇子」である事
c「皇子」として「品行方正な人格」を有する事
d「皇子」は嬪までの者とし「妾子」の皇子でない事

「経基王」は、「嵯峨期の詔勅・禁令」に鑑みて、更に、この「四つの定」に適合していなかった為に「清和院の賜姓」を一時、拒まれた。

(「経基王」には、「賜姓の権威」を獲得して、この「権威」で「荘園制度」を利用して、「莫大な財力」を獲得を狙った思惑や野心が在った。暴君の悪名高い「陽成天皇」の皇子では、せいぜい「国司下」の「介の役柄」で終わる事を嫌う思いがあった。)

つまり、「四つの定」に対して、外れた「特別な賜姓」であった。(普通では賜姓は先ず無い。)
この事があって、野心旺盛な「経基王」も、その子の「満仲」も、賜姓後は、河内で色々「争い事」を起こしたり、他国の「土地を奪う」などの「過激な行動」を起こし、更には「民事の問題」を起こしたりして、「嵯峨期の詔勅・禁令」に反して、”「賜姓族」にあるまじき振舞い”として、「天皇の怒り」を受けて蟄居を命じられたりした。

(恐らくは、”「賜姓族の伝統」”を重んじ、”「三つの発祥源」の立場”を護り、”「民の模範」”としている”「皇族賜姓青木氏」”との比較をされたと観られる。同じ「清和源氏」ながらも「皇族賜姓青木氏」と同じ行動を採る「宗家頼光系摂津清和源氏四家」との比較もあったと充分に観られる。)

その後も、全く逆の行動を採った「義家」を始めとする「子孫」(頼宣系河内清和源氏系列)も、矢張り、”強引な行動(私闘)”を起こして、遂には、「源氏の幕府」を樹立したものの「頼朝」のところで、結局は、短期間で裏切られて、利用された「坂東の北条氏等」に依って滅亡に至たらされた。

(この「坂東八平氏」とは、桓武天皇が母方の一族に賜姓して発祥させた「桓武平氏:たいら族 阿多倍一門」である。 天皇家より出る代々の「第七世族」の「臣下族」で、同じ関東に配置された「皇族系第七世族のひら族」とは出自は全く異なる。
この「桓武平氏:伊勢平氏と京平氏の支流族」には、「千葉,上総,三浦,土肥,秩父,大庭,梶原,長尾」の八豪族があり、幕府樹立に貢献した「北条氏」や「熊谷氏」はこの支流族である。
「国衙官僚,荘園開発主,荘園官」として坂東西域の在地を支配した。)

結局は、通説では小説的に構成されて描かれて、”「源氏」が勢力を盛り返し幕府を開いた”の様に観えているが、結局は、百々の詰まりは、同じ同族の「清盛の京平氏の支流族」に、”5年後に奪い返された形”に成っているのである。

(筆者は、「清和源氏」が開いたとは観ていない。何故ならば、この”開幕”で、”他の源氏は潤ってはいない。「源平の決戦の場」では、この「坂東八平氏」は、「合戦」では”軍監として”として動いただけである。
当然の事として、同族として「坂東の支流」が、直接に「本流の一族」に”戦い”を挑む事はしない。「事前承知の戦略」で在った。だから、「5年後」の「平氏政権の蘇り」なのである。
結局、「義経」が全国からかき集めた「源氏の未勘氏族」らの集団と、伊勢、熊野、紀州、摂津の「水軍の合力」と、「大島源氏の水軍」とに依って主に合戦に勝っている。)

・「源氏の流れ」
矢張り、取り分け、上記の様に、「清和源氏」の「人時場の要素」を配慮して「行動パターン」を考え合わせると、「四段階の妻方式」を採りながら、”無制限に子孫を増やす事”が明らかに必要であった事が判る。
「11流11家」も在り1流がこの四段階の妻方式を採ったとすれば、11流ともなれば相当な子孫数に成る筈である。
しかし、源氏全て滅亡に至ったともなれば11流全てがこの方式を採っていなかった事が判る。
調べた範囲では、確実に「6流」は、「嵯峨期の詔勅禁令の趣旨」を確実に護っていた事が判り、やや疑問の状態が「3流]あった。

平安末期から鎌倉期までの状況から考察すると、この5流の中には、次ぎの様な流れで在った。
「農業」をしながら民と共に生活をした「村主」(すぐり)の源氏の流れ(A)
「山伏や神職」などをして「郷氏の生活」をしていた源氏の流れ(B)
「皇族賜姓青木氏」(5流)と関連して生活を営んでいた源氏の流れ(C)
「漁業関連の長役」をしていた源氏の流れ(D)、
「治承・保元の乱」以降の源平の戦いで衰退した源氏の流れ(E)

後の3流は、強弱はあるが、次ぎの様な流れで在った。
(B)の傾向を持った「荘園制」(神社系荘園)に絡む生き方をしていた源氏の流れ(F)

結局は、「11流の源氏」の殆どは、「嵯峨期の詔勅・禁令の趣旨」を護った[賜姓族」で、「清和源氏」の様な過激な動きをしていなかった。
この「清和源氏」の中でも、各地に飛散した源氏は、上記の(E)で、その生活の状況は(B)(D)であった。
これから観ると、”「源平の戦い」”と云っても、”「11流の総合の力」”と云うよりは、「2流の戦力」が中心と成って動いたと事が判る。
その「初期の主戦力」は、「義経」が全国から集めた「荘園制」に伴う「源氏の未勘氏族」と、「義経の説得」に応じた「各地の水軍」(5水軍)と、家臣と成った豪族の「関連氏族」で主に構成されていたのである。
そして、僅かであるが全国に飛散していた源氏(E)が率いて来た「合力の戦力」が加えられた状況であった。義経が頼朝と坂東八平氏に排斥されてからは、この義経が構成した軍団は、坂東八平氏のを警戒して飛散した。
結局、最終決戦時の頼朝が集めた戦力は、日和見的な各地の豪族の烏合集団で在った。

この様にあるインターバルで観ると、源氏には、上記した「青木氏」の様に、細部までも”「氏を纏める為のルール」”を定めて子孫を遺そうとする”「氏間の調整」”が採れていなかった事が判る。
況や、「嵯峨期の詔勅・禁令の趣旨」は、「青木氏」の様に積極的には護られていなかった事に成る。
「清和源氏」の「河内の頼宣系」の末裔が、結局は、「朝廷の調略」に載せられて、”走り過ぎた結果”であって、更には、これを承知で動いた「たいら族」の「桓武平氏」の「関西以西の本流族」と「坂東の支流族」の「タッグでの謀略」でもあった事に成る。
ただ、桓武平氏の「本流族」には大きな計算違いが、3つ興った事に成る。
一つは、「義経の能力」の読み違いで初戦をおとした事
二つは、「支流族の裏切り」とその「戦力の読み違い」が起こった事
三つは、「清盛」を失って「統率」を失った事

この三つの内、後二つは、「伝統」を基盤とする「氏是」から来る「慣習仕来り掟の規則」の有無の如何に依っている事に成る。
源氏も平家も、子孫存続の氏是の弱さにあった事が物語っている。
その根本は「戦い」に対する氏是の違いにあった。
その”「戦い」”は、朝廷が”「社会規律の弊害」を起こす”として嫌う「荘園制」に起因していた事である。

(注釈 一方で、この「荘園制の弊害」と、「源平藤橘の氏の勢力」を削ごうとして、最初に手掛けた「後三条天皇」は、この「荘園制から来る権力基盤」を護ろうとした藤原氏や源氏族の子孫ではなかったのである。それだけ、「命の危険」が極めて迫っていたにも関わらず、1068年に果敢にもこの策謀に取り掛かったのであって、その後、5代の天皇に依って成し遂げられた。
この事で、「経済的基盤の低下」で焦った「清和源氏頼光系一族」は、基盤獲得の為に、益々、「戦い」へと突き進むここと成り、20年後には、「源平の合戦(1185年)」へと突き進んだのである。
この為、「後鳥羽上皇の策謀の院政政治」が始まるが,「朝廷-京平家-坂東平氏-源氏-藤原氏」の何れ五者共に、その「思惑」は外れ、遂には「策謀合戦」が始まったのである。)

この様な、”策謀渦巻く周囲”の真直中にあっても、「二つの賜姓族青木氏」は、「氏是」を前提に一族を固め、この環境に加担しなかったのである。
これは、なかなか難しい事である。
単なる「氏是の信念」だけでは決して成し得ない。現世には、”「流れ」”と云う不可思議なものがあって,この”流れに抗する事”が出来るものは誰一人いない。「神仏」のみである。
況してや、「賜姓族青木氏」には、「悠久の歴史」を持ち、且つ、”「賜姓族」と云う稀なる権威”を持ち続けて来た「氏族」である。
況して、「二足の草鞋策」で”絶大なる経済的な財力”を持っている。

「戦う側」にとっては、この”「賜姓族青木氏の権威」”を獲得する事に依って、これは「戦いの大義」が絶対的に獲得できる。これは”流れを作る最大の要素”でもある。
最早、源氏は(A)から(E)の立場に既に追いやられている中で、「賜姓族」で在っても、その「権威」は明らかに低下している。
だとすると、「賜姓族青木氏の権威」を利用しようとして策謀する筈である。
しかし、「二つの賜姓族青木氏」は、この「策謀」に、加担しなかった。
”「策謀の流れ」”から逃れられたのは何故なのか疑問である。
それは、次ぎの条件にあった。
(a)”「四家と云う小範囲」”
(b)”「純血の濃い血縁範囲」”
(c)”「絆青木氏で家人末端まで組織化」
以上で、成し得た「一族の一致団結」にあったと考えられる。

”小さい組織”にして「意思の疎通」を徹底し、”濃い血縁度”で「離散」を防ぎ、それを”絆”で「結束」させたのである。
”千の石垣も一つの石から”の例えの通り、”一つの離反や裏切り”は、全てを壊す。
「二つの賜姓青木氏の権威」を獲得するには、並大抵の事では無理であり、そこには「策略、謀略、調略」が渦巻いて働いていたのである。
これには、”「一人の軽薄」が全てを壊す”は、この「世の定め」であり、現代も過去の世界も同じである。
これには、上記した様に「青木氏の氏是」(イ)とそれを実行する「システムの充実度」(ロ)に関わる。
筆者は、上記に論じた”「賜姓族」の「シンジケートの存在」”がこの二つ(イとロ)を基盤として支えて大きくこれに関わっていたと観ている。
つまり、”「情報と抑止力」の要素”が上手く働いたのである。

当時、未だ、”「シンジケート」(情報と抑止力)”を維持出来得る程の能力を持っていた「氏」はいなかったし,組織を維持させる為の確固とした確立化した概念も無かった筈である。
何故ならば,鎌倉期までとして、「朝廷が認可した歴史を持つ80氏程度」の氏”には「二足の草鞋策」は「禁じ手」であった事から、この「経済力」を必要とする「影の力」の「シンジケート」は持ち得ない。又、当時としては、”「忍者」程度の様なもの”はあった事が、資料から伺える範囲では確認できない。
奈良期から活躍していた「青木氏のシンジケート」は、「組織的な総合力」を持った「新しい考え方」であった。

注釈
(そもそも、「影の力」の「シンジケート」が,”「伝統」”に関わっていないと考えるのが、普通であるが、[青木氏」に取ってはそうでは無いのだ。”「青木氏の伝統」”は、この”「シンジケート」”に依って支えられたのだ。それは”「青木氏の役目柄」”にあった。
この「役目=賜姓五役」が、なければ、シンジケートは「二足の草鞋策」の為には必要であったが、しかし、”「成熟」はしなかった”と考えられる。
「賜姓五役」と「二足の草鞋策」が進むに連れて、時代と共に進化して、その「役目」も増え、それを構成する「組織体制」も整備された。
それは、先ず、「奈良期」から始まった「青木氏の二足の草鞋策」が、平安初期には大きく発展し、「和紙」に依り「他の賜姓族青木氏」にも広がり、それと共に平安中期には、「特別賜姓族青木氏の補完」もあって、「守護神の神明社建立」もが進むに連れて、これを利用して確固とした「組織体制」が確立して広範囲に広がったのである。「5家5流賜姓族」の「独自のシンジケート」が互いに連携して大きく成ったが、「源平の戦い」で、結局は、衰退した「3つのシンジケート」は「伊勢-信濃シンジケート」に吸収された。
この「影の力」の「伊勢-信濃シンジケート=神明社シンジケート」の存在と「青木氏との関連」は、室町期末期の頃で、「伊賀丸山城の戦い」から、社会的に知られる様に成った。
(第一次丸山城の前線基地の築城は失敗に終わり信雄らは敗退)
これは「信長逆鱗-信雄蟄居(蟄居は二回 信長逆鱗と秀吉不仲)」で「有名な事件」で、公に成った。
その時、秀吉が、世の中に、”「シンジケートの存在」”を信長に強く進言した事は有名で、次ぎの「長嶋攻め」を命じられた秀吉は、この失敗は繰り返さなかった。
この時、この「シンジケートの存在」と「高位の氏族」の関連の事を知った「信長」は、”鉄砲獲得”の為には、”「今宮神社シンジケート 皇族系神職 愛知」”を通さなくては確保できない事をも知り「秀吉-蜂須賀氏の斡旋:今宮シンジケート一員の山族土豪 河並衆」で、ここから入手した経緯の史実がある。

注釈 
(資料から垣間見れるはっきりとした「本格的なシンジケート」は、鎌倉中期頃から「姓族」が出て来た室町期中期頃である。
最初は,「青木氏」が、国策として極秘裏に、「神明社建設」を通じて、奈良期からの「皇族逃避地」を構築する為に、現在の福井との間にこの組織を作り上げた事が最初であると観られる。)
「小さい姓族」が乱世で各地に発祥して、この「姓族」が浮沈を繰り返し、生き延びる為に、青木氏等が作り上げたこの組織の中に入って互いに連携して生き延びた。「姓族」はこれを機に成長を遂げ、遂には、「姓武士集団」を構築したのである。南北朝には大きな「影の力」として働いた。
その例として、有名な「南北朝の楠正成」は、河内千早赤坂村に住んでいて、「10万の軍」に「シンジケートの影の戦力」で挑んだ事は、歴史的に有名で、「ゲリラ作戦」で餓死させる直前までに痛めつけて勝利したのである。
この地域には、「伊勢青木氏のシンジケート」があった事から、この組織に入っていたと観られる。
江戸期初期には、これらの武士は「氏族」からこの「姓族」に取って代わられ、「旗本」「御家人]や「各地の豪族」や「大名」に伸し上がって世の中を席巻してしまった。
その各地に発祥した「姓族」と「青木氏」は繋がっていて、江戸期には情報を獲得していた事が判っている。)

しかし、この様な「青木氏」に比べて、「源氏一族」は、総じて、同じ「宗家の頼光系」の様に、「青木氏」と同じ方式を採用して、子孫を「四家」に定めて身を固めたのでは無かった。

”「賜姓族」で在りながら「万民の範」”とする「賜姓族」で無かった事が、「累代の天皇」の反発を招いた結果である。
「他の源氏」は、この”「戦う源氏の流れ」”に引き込まれて滅亡した。
それだけに、「他の源氏」には、本論の様な「青木氏の様な備え」(伝統 家訓 慣習仕来り掟)が無かったことに所以する。
要するに、歴史上では”「戦う賜姓族」(戦う源氏)”を演じた事に成る。
「青木氏の氏是」にある様に、”世に晒す事無かれ、何れ一利無し、世に憚る事無かれ、何れ一利無し。”の「不戦の賜姓族」(伝統重視)では無かったのである。

”「戦う」”は、”「氏の伝統」”と、それを護ろうとする”「氏のルール」”を壊すが、”「不戦」”は、”「氏の伝統」と「氏のルール」”を維持させる事が出来る。
”「戦う」”は、一時的には「氏の発展」を示すが、その程度では、”「氏の伝統」”は生まれないし、”「子孫」”と云う長い「見方」では、「衰退の道」を進む。
ただ、「青木氏」だけが「不戦」を「氏是」として唱えたとしても、周囲が「不戦」でなければ成り立たない。
「自らの長い努力の積み重ね」があったとしても、「棚の上の牡丹餅、絵に描いた餅」に成る。
そこで、「青木氏」には、「不入不倫の権」が認められていた事も大いにあったが、それを有効的に働かせたのは、「影の力」の「シンジケートの抑止力」にあった。
表に観えない、彼の権威に対して抵抗した「織田信長」でも潰せなかった「影の力」(政治経済軍事の力)である。
この「影の力」=「シンジケート抑止力」を支えたのが、奈良期から殖産を進めて「民の力」と共に生きた「青木氏」で在ったからこそ、成し得た「氏是の戦略」であった。
「源氏の生き方」として選んだ「戦いの発展」は、「人間の最大の目的の子孫存続」としては不要で危険なのである。
その「民と共に生きた組織」には、”「氏の伝統」”と云う”「氏のルール」”が絶対条件として必要であるのだ。
「氏の存続」の為の”「必要不可欠な抑止力」”を構築するのは、先ずは ”「氏の伝統」”である事が云える。

その意味から考えると、つまり、”「氏の命題」の「子孫存続」”と云う事から考えると、その「生き様」は明らかに間違っていた事に成る。
結局は、”「賜姓族」”としての”「氏の伝統」”を護っていた”「摂津の頼光系四家」”も、「四代目の頼政」が「異端行動」を採った事から、「不入不倫の権」が無い「賜姓族」は、引き込まれて「潰れる憂き目」を受けた。
その意味で一族の中に、”「大きな流れ」”を作られては、”飲み込まれる事”に成る。これは「世の習い」として必定である。
一時は、「河内源氏頼信系の頼朝」と共に成功したかの様に観えて、”各地の源氏の同族の勢力争い”を起こさせて、結局は、たった”5年の短期間”で「源氏」は、「四段階の妻方式」で作られた「数多い子孫」をも”「戦い」”で少なくして、遂には、毒殺や暗殺などの策謀で滅亡した。
その”11家の源氏”の最終は、僅かに4氏に成った「末裔」までも、室町期末期に信長に依って、完全抹殺されてしまった。(一部に1氏の「傍系の配流孫の現地末孫」が生き延びている。)

しかし、ここで大きな”「救い」”が一つあった。
この事を戦前に察知し熟知していた「摂津頼光系四家の福家の頼政」は、「以仁王の乱」の直前に、「子孫の一人(京綱)」を「伊勢青木氏の跡目」に入れて最悪を避けるべく策を講じていた。
これは、「同族である青木氏」が、「不入不倫の権」に護られながらも、「賜姓族の氏是」を頑なに護り、それに基づき、且つ、「四家方式」に依って、「源平の戦い」でも、”必ず「子孫」を累代まで遺す”と理解しての配慮の事であった。
故に、”「跡目」”であった為に、「源氏」が「青木氏」の中に流れている事に成る。
「信濃青木氏」にも、”戦い”の直前に、「跡目」か「跡目」に類する形で「青木氏」に入れている。

「信濃青木氏」には「源光国-血縁」と「源実国-跡目」を、滅亡した「土岐青木氏」には、「源光国」の子の「源光信-跡目」を、「甲斐青木氏」には、「源源光-跡目」を跡目等に入れている。
甲斐武田氏系青木氏には、「源源光」の兄の「源時光」が跡目に入っている。

故に、”源氏11家”は、完全な「滅亡の憂き目」を辿ったのであるが、「清和源氏宗家の四家」からだけ、「血筋」としては、「青木氏」の中に遺した事に成る。

取り分け、”滅亡した源氏”そのものは、当然に滅亡する”宿命のシステム”を敷いていた事に成る。



「伝統 13」に続く。



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