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:「青木氏の伝統 17」-「伊勢衆の本音戦略」 

[No.334] Re:「青木氏の伝統 17」-「伊勢衆の本音戦略」 
投稿者:福管理人 投稿日:2015/08/31(Mon) 11:11:14


>「青木氏の伝統ー16」の末尾


> 「比叡山焼き討ち」等に観る様に、「信長」は「武家勢力」を始として、「各地の戦い」には、各地ならではの「条件」を入れ替えて、この[四つの思入れ」に適合するかを確認したのではないかと観られる。
>各地の戦いの「信長の発言」を考察すると、この傾向が読み取れる。

>これは、まさしく、「青木氏の氏是」の意味する処でもある。

>”何時の世も、「青木氏」を世に晒す事無かれ、何れにも一利無し、然れども「青木氏」を世に憚る事無かれ、何れにも一利無し。”

>「信長」は、”「伊勢者」”の当初から出方を警戒(婿養子の策謀失敗)しながらも、元より”「悠久の歴史」を持つ「伊勢者」”の「伊勢の青木氏を攻める意志」は無かった事を意味する。

>「この世」の「何事」も、排除されるのは突き詰めれば、「信長」も、「青木氏」もここに来る事を教えている。


>これ等が、「伝統」を語る上で、「青木氏」に執って忘れてはならない「四家の背景と経緯」である。
>何れにせよ「我々の先祖の青木氏」は、この中で生きて来たのである。
>その「生き様」そのものが”「青木氏の伝統」”であった。



伝統―17


「伊勢衆の本音戦略」
そもそも、“何で「伊勢衆」と「伊勢四衆」が「招かざる北畠氏」のこの「行動」に合力したのか”と云う疑問が湧く。
「青木氏」として、“本気で合力したのか”と云う疑問が湧く。
「不倫の聖地」に「武」に変身した「公家の北畠氏」が入る事は、「聖地の存続」に「危機」を生じさせる事に成る。
この事は「武」を背景とする以上は、「争い」は目に見るより明らかであるのに、むしろ、「伊勢衆」「伊勢四衆」に執っては、「平穏な悠久の歴史」を続けて来ただけであった。

然し、唯単に「悠久の歴史」を続けて来て訳では無い。
「賜姓五役」として、「三つの発祥源」と「国策氏」としての”「伊勢国」”を作り上げて来た。
財源的補足としての「二足の草鞋策」や、伊勢国と民を豊かにする為に「和紙殖産」を作り上げ、抑止力としての「伊勢シンジケート」を構築して護って来た。
「青木氏」に執っては、この苦労を水の泡にする様に、「武」で乱されるのでは、“排除するに値した行為”であった筈ある。
況して、「悠久の氏是」も在った。

確かに、「源氏」と云う縁もあったが、それだけで「合力」はするか疑問である。
「聖地の存続の危機」と云う事に成れば、「縁如何」では解決できない。
況して、北畠氏が”「源氏」”とはいわれているものの、正規の「賜姓源氏」では無い。
何より、「悠久の絆」で結ばれた「伊勢衆」の「土地」とその「生活基盤」を「武」で奪った相手でもある。
「二つの青木氏」は「北畠氏」に対して真当に合力したとは到底思えない。
そんな「愚人の四家福家」はいないであろう。もし、そうであれば、とっくに滅亡している筈である。
そもそも、この現状事を認めて仕舞うと「自らの氏の立場」「子孫の行末」も危うく成るは必定である。
「家訓」もあり、其れ等を「無視する行動」を採るとは到底考えられない。

とすると、「青木氏」に執っては「抑止力」で対抗する方法もあった筈である。
然し、”「抑止力」を使った”とする記録が全く見つからない。
何か変である。「抑止力」を使えない”「何か」”があって、仕方なく”「何か」”が策謀された気配がする。

然し、現実には、「青木氏年譜」や「口伝」や「添書」や「商記録」などからも”「合力」”は明らかである。
この「合力の如何」は別として、疑い無く“「合力」”はしているのである。
ただ、反面、「武による合力」でも無い事も明らかである。
だとすると、考えられるのは、”「北畠氏の出方」に「青木氏の抑止力」を使えない「大義」があった”事に成る。

そこで、”どの様な「大義」であったのか、どの様な「合力」”であったのかを明らかにしたい。
そこから、「二つの青木氏」の「生き様」が観えて来る筈である。

問題は、「北畠氏」の伊勢での短い期間の「生き様の特徴」に在る。

鎌倉末期の「建武中興」にて「親房」が勢力拡大、その末裔の「顕房」は、戦国時代に無防備な伊勢の北畠に武力で進出し勢力拡大、遂には「国司」に成るとあるが、この室町期末期の戦国期に「国司」の意味がどけだけあるかは疑問である。
あるのであれば、室町期は「国守護」であり、「国司」では無い。如何に「天皇家の権威」を利用したかはこれ一つで判る。
況してや、最大時は「南伊勢五郡の勢力」で、「全伊勢」では無かったし、「勢力」だけが裏打ちされたものであった。
この「勢力頼み」を利用する事であった。

然し、「顕房」には、「朝廷との繋がり」は確認できない。
要するに、衰退している「天皇の権威」を利用した「戦国公家大名」である。

それは「北畠氏の態度」が次ぎの様な事にまとめられる。

「特徴 A」- 「御所」と云う館名を盛んに使っている。
「特徴 B」- 「朝廷」との連携を強くしている。

この「特徴 A」は、「御所」、即ち、「天皇の意」を戴して、”「伊勢国」を統治している”と云う「戦略」を採った事に成る。 
次ぎに「特徴 B」は、困窮していた「天皇家」に貢ぎして「パイプ」を作り上げ、「特徴 A」を補完した戦略を採った事に成る。
要するに、「天皇家」を利用して「伊勢」に侵入した「大義」を作り上げた事にある。

果たして、「天皇家」が、その様に「北畠氏」に、 ”「密命を出した」”と云う事もあり得るが、これは確認出来ないところである。
そもそも、「伊勢国」は「皇祖神の聖地」で数少ない「天領地」でもある以上は、その「天領地」から上がる「税」をより高くしようととして「北畠氏」を差し向けたと成る。
「税」だけで「天皇家]が「皇祖神の聖地」を危険に晒すかの無謀をするかの疑問がある。
「青木氏」も「税」は納めているが、これを無視する行為を天皇家がするかの疑問がある。
「巨万の富」で「税」は高く成っている状況の中で、「青木氏」を無視するは自らの首を態々絞める事にも成るがそうするかの疑問がある。
確かに「北畠氏」は、「村上源氏の流れを汲む源氏」で、「朝廷の学問処」の家柄に在ったが、この密命を下すかの疑問がある。

「青木氏」は、「特徴A」と「特徴 B」があった事で、これを「北畠氏の大義戦略」であった事から、直ちに「抑止力」などの手が使えなかった事にあったと観られる。

この為に、青木氏は、次ぎに論じる「青木氏の本音戦略」で対抗した事に成ったのである。

「北畠氏の大義戦略」><「青木氏の本音戦略」

「北畠氏の大義戦略」><「青木氏の本音戦略」であったとすると、「青木氏」は「天皇家」から罰せられていた筈であったが罰せられていない。
とすると、「皇祖神の聖地」を汚す様な「密命」では無かった事に成る事から、後は「合力の有り様」で解明できる。


「合力の有り様」から観た検証
“「ゲリラ」“と云う言葉は当時は無いが、資料にも依るが、「撹乱」「調略」「策謀」「知略」の4文字が出て来る。
そして、「商人の姿」は観えるが、四つも持っていた「四家」の「館城」「寺城」などの表現は「直接的表現」としては無い。
取り分け、「商記録」には、「伊勢シンジケート」からの情報と観られるものとして、「簡潔に要点を書き記した情報」からも総合すると、”「直接交戦歴」”も浮かんで来ない。

何よりも、一揆等の行動に「裏からの経済的支援」をしていた事は判り、記録から「紀州」、「伊勢」、「信濃」、「甲斐」の「四大一揆」の事が記載されている。
中には、この「一揆」に絡んで、「青木氏の密教浄土宗の菩提寺の存亡」に関わっている。
又、「信濃や甲斐」では、「曹洞宗との争い」に、又、「伊勢や美濃」では、「真言宗との宗教争い」の様な事もあった事が記されている。

これはつまり、「伊勢丸山城の戦い」や「名張清蓮寺の戦い」の「戦い方」がはっきりしていて明らかに“「ゲリラ戦」をした”と云う事が判る。
「一揆等の経済的支援」等の戦い方は、一体、”どの様に見るのか”で変わって来る。
唯、”単なる経済的支援”とは、一方に支援をしている以上は、行かないであろう。
問題は、後から来た「武力による支配者」に対して、「青木氏」等は苦々しく思っていた事は、長い間、悠久の歴史を伴にして来た「民」がそう簡単に納得したであろうか。
「悪政」を敷いていたのなら別にして、「悠久の歴史」を共にしていた事は、「悪政」では無かった事に成ろう。
「土地の権利」は「青木氏」が「地主」として持ち得ていたとしても、「政治の支配権」は「後からの支配者」にある。
「郷氏」としての地主で無いところは、支配を受ける事に成る以上、「民」は反発をする事は充分に考えられる。
「経済的支援」をしている事は、「民の生活困窮」では無かった事に成る。
況して、「地主」である事から、「直接の税」は「青木氏」にある。「税問題」であるのなら「青木氏」との問題である。
「政治的反発」であった事に成る。
”「伊勢に武に依る支配がもたらすリスク」”を嫌ったと云う事に成る。
従って、「一揆等の経済的支援」は、この「青木氏の背後からの突き上げ」であったと観ている。

その証拠には、明治9年までの伊勢で起こった一揆を含む一切の動乱には、「青木氏」は「商人の立場」から支援をしている。
北畠氏等は、背後に青木氏が見え隠れしている事は充分に知っていたと考えられる。
然し、”手は出せない”と云う柵に縛られていたのである。(「二面作戦」を採った。)
公然と青木氏として表に出れば又別であろうが、「商人の立場」を利用した事が「商記録」からも判る。
「長兵衛等の四家の名」を夫々に使っていた事が記録に残されている。

上記した様に、「招かざる北畠氏」が「採った行動」に対しては、「伊勢の聖地」を「護る役目」のある「青木氏」は、「武に化した北畠氏」を直ぐに排除出来なかった。
当然に、「武力」を使えない為に「悠久の絆」で結ばれた「土豪や郷士の伊勢衆」を充分に護れなかった。
それだけに「経済的支援」は伊勢には急務であった。

それは、次ぎの理由があった。
(イ)「北畠氏」が南北朝より「朝廷の意」を反映させている事(西の公家政権)
(ロ)「青木氏」が「氏是」に依って「武」を以って「北畠氏」を排除できない事
(ハ)悠久来に「賜姓族と云う立場」があり、「直接交戦」が採れない事
(ニ)「権威の象徴」は崩せない事

しかし、「二つの青木氏」に執っては、時間が掛かっても、何とかして排除するか弱める事が絶対的に必要である。
そうすると、「二つの青木氏」に執って考えられる手段は、「直接手段」は出来ないと成れば、取れる手段は、唯一つ「間接手段」しかない。

ではその「間接手段」と成れば、次ぎの「二つの戦略」に成る。

戦略1 「北畠氏」を煽り「武」に立たせ、悟られない様に「外部勢力」で弱めさせるか潰させる事
戦略2 そこで、室町末期の最大勢力の「信長勢力」を招き入れて、弱めさせるか潰させる事

「第一段階」
それには、「北畠氏」に「商い」などを通じて取りあえずは「経済的な利得」を得させて「勢い」を持たせる事が必要と成る。
「信長を引き込む」の戦略の為には、この「勢い」に依って「権威を惹けら課し、その利得を獲得する形」が出来れば、「信長」は必ず来ると判断した。
この“信長に遣らせる戦略”を第一段階とした。

その「信長」には「天下布武」で「天下号令の野心」があると踏んだ。そうすれば、「京」には「伊勢」は背後に位置すると「北畠氏」を叩く必要が必ず出て来る。
その為の「条件づくり」「環境づくり」をする事にあると見込んだ。
其れには「権威だけを惹けら課す北畠氏」に「経済的潤い」と「軍事的勢い」を付けさせる事が必要である。

「第二段階」
そこで、「元伊勢衆」と「伊勢四衆」が結束して、これに当たる方向性を付ける。
「伊勢青木氏(信定)」は「長野青木氏」等の「全国の青木氏」に呼び掛けて「ゲリラ戦」に応じる様に主に呼びかけると共に、「元伊勢衆」から成る「伊勢シンジケート」と共に、「ゲリラ戦の攪乱消耗戦」を仕掛ける。

「第三段階」
当然に、伊賀氏、伊藤氏、長嶋氏等は、領地を奪われる事から「独自の方法」で「信長」に戦いを挑む事に成る。
そこで“「信長の遣り過ぎ」“を制御する為に、「伊勢青木氏(忠元)」は、「伊勢青木氏(信定)」と共に「ゲリラ戦」を展開しながら、全国の「秀郷一門361氏」に援護を依頼して「信長」に「東の背後圧力」を掛ける事にする。

「第四段階」
「信長」は、この「伊勢青木氏(忠元)の行動」を観て、“「伊勢藤氏」”には手を出せない様に仕向ける。
この事で、「伊勢の戦い」は限定して拡大しない事に成る。

「第五段階」
この戦略で、「北畠氏と伊賀氏」が潰れる事で解決して、「信長」を以って、この二氏を弱めさせ潰させる事が出来る。
この段階で「伊勢シンジケート」の「ゲリラ戦」を引く事とする。
そこで、「伊勢衆の代表」として「信定と忠元の青木氏の二人」は「織田氏との談合」で決着をつける。

「第六段階」
これは、結果として、「本領安堵」を最終目的とする事であり、「元伊勢衆」の「北伊勢の土地」と、「伊賀氏」が支配していた「伊賀の土地」と、「北畠氏」が支配していた「南伊勢の土地」と「東奈良の土地」は帰って来る事に成る。
これで「所期の目的」は「伊勢者」に執って達成させられ、「伊勢の聖域」は護られる。

この「六段階の戦略」が、集めた記録から観ると、「元伊勢衆」と「二つの青木氏」の描いた「基本戦略」であった様だ。

ところが、ここで「戦略の見込み違い」が起こった。

この”「戦略ズレ」”は、何れにも起こるは必定の事であり、これを「臨機応変」で処理するのが「戦いの常套手段」である。
「基本戦略」以上を超える「戦略ずれ」は拙いがこの範囲であれば問題がない。

その「戦略ずれ」とは、「伊藤氏と伊賀氏」の「伊勢藤氏の二氏」が「自らの勢力」を超えて突っ込み過ぎたのである。
(長嶋氏は室町期の新参であった事から「基本戦略の範囲」を護って激しい交戦態度は避けた。)
結果として、「長嶋の戦い」が長引いてしまった。

そこで、止む無く、「二つの青木氏(信定と忠元)」は、”顔を出さない「ゲリラ戦」”で合力する事に成ったのである。
しかし、「戦略ズレ」を無くす事から、「談合」が進められ、結局、この「伊勢藤氏の両者」は、慌てて、子孫を遺す事を目的で、「伊藤氏」は尾鷲に、 「長嶋氏」(州浜族)は「尾張の秀郷一門」の「三勢力」(州浜族、片喰族、沢潟族)に、軍を引かせて早期に戦いを終わらせた。
この事で、「ゲリラ戦」が遺る程度に成った。
この時、「忠元の依頼」もあって、「武蔵の秀郷一門」が「救いの手」を打ったのである。
事を大きくしない為にも、「軍」を送らず、「名策の窮策」を講じた。

それは、「尾張三勢力」と「伊勢青木氏(忠元)」で、「信長の背後」を牽制した。
「信長」に、「信長子飼い」の「伊勢青木氏」と親族である「近江蒲生氏郷」を「伊勢戦域」に就かせる事にあった。

(注釈 上記した様に、「信長と氏郷」は、「京平家の同じ家筋(揚羽蝶紋)」の末裔で在る。
且つ、「信長」が其の優れた才覚を認め、家臣の中で最も信頼していた人物で、幼少期から信長の次女の梅姫を婚約させ嫁がせた関係にあった。
「信長」に執っては、「毛利攻め」の事も有って、「背後」を大きく混乱させ長引かせたく無く、事を穏便に始末したいと考えていた。
そして、現実には、”「策謀」”に依る各個攻撃に出ていた。

そこで、「二つの青木氏」は「背後牽制」をして、“早期から「氏郷」を伊勢に引き出す戦略“には成功した。
そもそも、「忠元の父」と「氏郷の祖父」は兄弟であった事から、この「作戦」は成功して、「伊勢藤氏」の「二勢力」は何とか生き延びたのである。

(注釈 そもそも、「信長」が、「北畠氏と伊賀氏」を潰せば、その目的は達成している事を物語る。
もし「伊勢藤氏」を潰す目的であれば、「信長の戦法」であれば、「同族の蒲生氏郷」を差し向ける事はしない筈である。
「徹底して潰す戦術」を採っている「信長」であれば、「伊勢藤氏の三勢力」を遺さなかった筈である。
これは、むしろ“潰せなくて”、且つ、“潰す目的が無かった事”を物語る。

”「信長の権威への挑戦」”にしても「闇雲の挑戦」では無い事くらいは判るであろう。
そもそも、「伊勢衆」と「伊勢藤氏」や「伊勢青木氏やシンジケート」には、「信長」に「敵対の意志」はそもそも無かった。
「後世の子孫」から観て、「信長の行動」に敵対するに値する根拠は何処を探しても見つからない。
「北畠氏や伊賀氏の行動」に「青木氏の命運」を掛ける程の根拠もなかった筈なのである。
むしろ、「招かざる者」として位置づけられていた。

(注釈 伊賀氏には長い歴史の中で幾つかの出自の異なるルーツが生まれた。
ここで云う「伊賀氏」とは、「藤原北家秀郷一門」の「宗家」で、鎌倉期に「頼朝」より「旧領地の結城の地」を本領安堵され、「結城氏の祖」と成った「朝光」が、その後、鎌倉期に、「伊賀の守護職」を務めた。
この「現地孫の末裔」が「伊賀氏」を名乗って、その後に鎌倉幕府の中枢に位置した。
その勢力を最大に伸ばした「氏族」で在る。
その後に、この末裔が「伊勢伊賀」に住し、伊勢の土豪、郷士を押え勢力を伸ばした。
厳密には、「伊勢藤氏の四氏」の内の一氏ではあるが、「他の三氏」とは、「秀郷一門」とは云えど、その血縁による「血流性」が低く、若干、その「生き様の方向性」に「武力性」が強く異なっていた。
時には、「傭兵軍団」等で生き延び、その氏は二派に分かれた。
その一派が「甲賀族」である。)

(注釈 従って、「伊勢藤氏四氏」と呼ばれるも「伊勢藤氏三氏」と呼ばれる事もあった。
この地の前身は、「伊勢京平氏の祖」の「後漢から帰化した阿多倍王」、又は「高尊王」、「平望王」で、朝廷より「伊勢青木氏の土地」の「伊勢北部伊賀地方」を「半国割譲」を受け定住した。
その子の「国香」と「貞盛」の親子から五代後の「平清盛」に繋がり、その後、清盛は「伊賀の地」を朝廷に返却して「播磨」に移動した。
然し、この時、一部末裔は、「平家滅亡後」にも「伊賀の地」に遺って、「伊勢青木氏」と共に「和紙」等の殖産を引き継ぎ、「伊賀郷士」等と成って生き延びた。
この「伊賀氏」には、この「平家の血」も流れているが、その主血流は「秀郷一門流」である。
主筋は秀郷一門で占められ、「家臣」には、この「平家の血筋」の持つ者、「民」には「後漢の職能部」を祖とする者等から成る。
「青木氏」とは、取り分け、室町期には、「伊賀氏」に成っても、「奈良期からの絆」で、「和紙殖産」を通じて、この「郷士の家臣や民」との繋がりの方が強かった。)

従って、この上記の注釈の経緯があるとすれば、「北畠氏や伊賀氏への合力」と云うよりは、“「流れ」の中で仕掛けられた「謀略」程度“と観える。
そもそも、「青木氏の基本戦略」の範囲では、「北畠氏や伊賀氏への合力」をしたとは云え、上記の「注釈の経緯」もある。
取り分け、この「二氏」とは「生きる方向性」の事もあり、「信長」を「伊勢」に呼び込む為の「誘導煽動策」に過ぎなかった。
(青木氏側からの見解)
そもそも、「伊勢藤氏 四氏」とは云え、鎌倉期の「武力に頼る毛色の違う伊賀氏」、平安期の「武に依る突っ込み過ぎた伊藤氏」、室町期の「武蔵の永嶋氏に頼る長嶋氏」とは違い、同族の「伊勢秀郷流青木氏」とは、血縁はあるにせよ、その「生き様」が根本から異なる。
又、「青木氏」は「賜姓族」である事も踏まえ、「三氏の顕教」では無く、「密教の概念」をも符合させて、「一族性」を完全一致させる事はそもそも難しかったのである。

ただ「北畠氏」(1569年没)だけは、「二つの青木氏」に執っては、「本音」では当に“「招かざる者」”であった。
この「本音」の「招かざる者」との「付き合い」は、結果として、1536年からの「30年間」に及んだ。
しかし、「実質の付き合い」は、「後半の10年程度」に過ぎ無い。
前半は、「悠久の絆」で結ばれた「伊勢衆の混乱」を観て、“「旧来の聖地の伊勢」を引っ掻きまわれた”と云う感覚でしか無く、”「付き合いの範囲」を超えていた”と考えられる。

北畠氏と「後半の10年」は、「過激な戦乱」を呼び込む衰退傾向にあった。
況や、「二つの青木氏」に執っては、当に、「招かざる者」への「基本戦略の範囲の行動」(上記)であった事に成る。

「青木氏年譜」によると、中盤の1549年頃に一度、「伊勢の衆」を集めた事が在って、後半の1559年頃に再び衆合している。
この後に、1560年に「堺支店」に船を廻す記録がある。

この「3つの記録」から、「北畠氏の動向」を観て、先に「伊勢衆との談合」を進めていて、「基本戦略の策」を講じている事が良く判る。

”堺港に船を廻す事”の意味は、恐らくは、“過激化する北畠氏”に悟られぬ様に危険に曝されている「伊勢衆」に「物資の供給」を試みたと観られる。

依って、この関係も勘案すれば、「四家」は、所謂、「伊勢シンジケート」を使った“顔の観えない「ゲリラ戦」”で応戦する「基本戦略の範囲」で事は進んで行った事に成る。
然りせば、“「青木氏」を前面に出して敵対していない“と成れば、「信長側」では、「潰しきれない背景」が生まれる。
且つ、織田側に、”「潰す大義」”も生まれないだろう事が判る。
況して、“「青木氏の商い」”は、「潰し対象」とは成っていないし、むしろ、織田氏の「軍需品調達」の大店とも成っていた。
一見して「商い」では「味方」である。
これが「青木氏の基本戦略の前提」なのである。

仮に、「賜姓族の青木氏」の正体が表に出て潰されるとしても、「商いの青木氏」が存続して居れば、「賜姓族の青木氏」は、当に「不死鳥」であった事に成る。
「商いの青木氏」には、其れだけの力は有り余る程に充分に有った。
況して、“「室町文化の紙文化」”と呼ばれる時代に「巨万の富」を築いていたのである。
この時には、「伊勢シンジケート」を組み入れれば、“「信長以上の総合力」”であったと観ている。
要するに、「表の勢力の信長」か「裏の勢力の青木氏」かの「勝負差」であった。
この「勝負差」では「二つの青木氏」は勝っていた事は明らかである。
その「勝負差」を以って、“顔の観えない「ゲリラ戦」で来る”と成ると、例え、「信長」でも、人より優れた「軍略家」であったればこそ、“「恐怖の対象」”そのものであった筈である。
それだけに、「顔の観えないゲリラ戦」に“「窮地発生」“とも成れば、「恐怖」から「過激」(パニック)に走る可能性は充分にあった事は認められる。
これは「信長」のみならず「青木氏」でも起こり得る「人間の性癖」であり、「上に立つ者の宿命」であろう。

そもそも、これが「不死鳥」と成るその為の「四家制度」(5つの面 20の顔)でもあった筈である。
「過激 パニック」を防ぐ「四家制度」(下記 ABCの態勢)であった。

「北畠氏や伊賀氏への合力」と伝えられる「口伝の戦況」と、「青木氏の商い記録の資料」からでは、次ぎの事が判る。
「北畠氏本家」が潰された後に「北畠氏の分家」が一族を結集し直した事である。
これに依れば、”「果敢に挑戦した」”と云う事に成っている。
勝敗は別として、これは「信長」に挑戦したものであったし、「伊賀氏」も「分家の残存兵力の結集」で最後に果敢に挑んだものであったらしい。
この「戦いの結末」は、“ゲリラ的に長引いた”とされているので、この事から観察すると、「青木氏の基本戦略」は兎も角も戦略ずれ等もあったが「成功裏」には終わっている。

兎に角、「青木氏の行動」は、“「徹底したゲリラ戦」”であった事が口伝や資料からでも判る。

結局は、「青木氏に残される大義」は唯一つである。
それは、奈良期より「不倫の聖地」とされているところに、不徳にも「不毛の騒ぎ」を持ち込んだ「北畠氏の如何」に在った。
この「北畠氏」だけに関わらず、“「不倫の聖地への挑戦」”に対する“「悠久の責務」”からの「最大の抵抗」であった事に成る。
故に、「如何なる場面」や「挑戦の流れ」の中に於いても、「四家制度」と「伊勢シンジケート」を駆使した“「徹底したゲリラ戦」の域を超えなかった”と云う事に成る。
故に、上記に論じる「基本戦略」を採った事に成る。

この事を後世から観ても、上記の前後の「戦略と戦況」から観ても、これを“「青木氏の大義」”として捉える事で納得し得る。
「村上源氏」や「学問処の公家」を標榜する「北畠氏」には、この“「大義」”に欠けていた事を物語る。
「青木氏」から観れば、”戦国”と云えばそれまでだが、無理やりに”「不倫の聖地」”に「武の勢力」を持ち込んで、「国司面」して「大義」を一時作り上げたに過ぎない。
故に、”「信長」を以てして「滅亡の憂き目」を受けた”と解釈できる。
そこで、この「青木氏側の基本戦略」の論調で行けば、“「信長」”は単なる「その使い」であった事に過ぎない事に成る。
依って、後付の「通説化」は論理的に符合しないのである。

「青木氏」の史実から観れば、当に次ぎの様に成る。(口伝でも同評価)

”「権威」を惹けら課し、「権威の利得」を食む「社会の悪弊」の「排除の使」”と捉えられる。

上記した様に、その経緯から「多少の過激さ」はあったにせよ、これは「人」が戦う「戦の如何」であり、“理想通り”には行かないのが「世の常道」である。
その行動に「事の平癒」を急ぐ余り、「若干の過激さ」が伴った事は否めないだろう。
故に、その“「若干の過激さ」“を以ってして、「通説」の様に「信長」を評価するは疑問である。
要するに、「青木氏」は、“「伊勢への挑戦」”の“「流れ」“に組み込まれたのである。
否、”青木氏の基本戦略“に組み込んだのである。

(注釈 この“「流れ」“には、その前に、次ぎの様な事が起こっていたのである。
然し、ここにも「石山本願寺の檄文」に依って火が付いた様に起こった「ゲリラ戦」と「一揆」が、「伊勢の三乱 五戦」にも、「上記の戦略」以上の”「思いがけない荒々しさの殺戮」”が、「信長側」にも「伊勢側」にも呼び込んで仕舞ったのである。
其処に、「秀吉の毛利攻め」にも「信長側」に「焦り」を起こした事が、この「荒々しさの殺戮」へと進んだ事も否めない。
この「檄文の存在」を通説化した歴史家が認知していれば、この「通説化」は作り得なかったと観られる。)

そもそも、実際には、1563年頃には、伊勢に動揺が起こり、実記録から観ると、1565年頃から、平定された「伊勢の北畠氏」の多くの「旗下」や「幕下」が、「信長」のこの「策謀の手」で乗っ取られて行った。
有名な伊勢の「神戸氏の乗っ取り事件」や「工藤氏の乗っ取り事件」等が起こり、次々と「武の伊勢勢力」は「信長」に乗っ取られて「内部崩壊」を起こし始めていたのである。
あくまでも、「信長」も、「伊勢勢力 北畠氏 西の公家政権再興」に対しては、初期には「撹乱戦法」で潰す事が「所期戦略」であった筈である。
その「所期戦略」は、全て内部に「内通者」を置き、「武力の攻め落し」では決して無かった。
上記した「入り婿策」で「乗っ取り」が起こって行ったのである。(青木氏もこの策謀に掛かった。)

そして、1569年頃を最後に、この「北畠家没落の仕上げ」として「信雄」に依って「北畠氏の内部撹乱戦法」の「初期戦」から始まった。
「所期の戦略の目的」よりも、「事の次第」が変化して、「氏郷」が指揮する次ぎの「中期戦」の「伊勢三乱」に突入して行ったのである。
つまり、「青木氏の基本戦略」での範囲ではあったが、「伊藤氏や伊賀氏」等の「伊勢藤氏の武の合力」の「始末戦」に突入したのである。

「伊勢長嶋攻め 伊藤氏」(1573年)
「伊勢北畠氏攻め 北畠氏」(1576年)
「伊勢丸山城攻め 青木氏」(1578年)
「伊勢伊賀氏攻め 伊賀氏」(1578年 1579年/9 1581年/9 1581年/10)
「名張清蓮寺攻め 青木氏」(1579年)
「石山本願寺攻め 顕如」(1578年-1579年-1580年一揆等)
「紀州征伐」(秀吉) (1585年)

この時に乗じて、伊勢外に起こっていた「石山本願寺の乱」が長引き、「伊勢-紀州の農民」の信徒に対して、石山側は「檄文」を飛ばした為に、“「城外でのゲリラ戦」”が「伊勢-紀州の周囲」の各地で起こって行った。

(注釈 この「石山問題」が、「青木氏のゲリラ戦」の「紀州域と東大和域と伊勢域」と重なった為に「青木氏の基本戦略」にも影響を与えて仕舞ったのである。)

「石山本願寺の乱」と称される「顕如の反抗」は、「毛利側の謀略」であったが、毛利軍が「高松城の支援」に失敗して、結局は、「顕如」に「檄文」を飛ばさて「城外戦」に持ち込んで「信長」を牽制した「長期戦」に持ち込む作戦でもあった。
これが「伊勢三乱」と重なった為に「三者」に激しさを助長させたのである。
ただ、「伊勢側」と「毛利側」とには“「連携」”の「実態記録」は発見されていない。

「城外の紀州信徒一揆」を支援する「河内シンジケート」と「伊勢シンシジケート)間の連携はあった事は、「青木氏年譜」の一部に其れらしき「堺港の配船記録」がある。
「青木氏の氏是」が有る事から「直接の連携」は無かった筈である。

「青木氏」は、“「不戦の禁」”を「氏是」としていたが、「上記の婿養子の事件」は、周囲でも「乗っ取り事件」が多発していた様に、実は「青木氏」にも仕掛けられた「記録がある。
「青木氏側」では、「信長の政略的謀略」として判断していたが、謀略の罠に陥ったのである。

この“「流れ」”の中で、そもそも、“「悠久の禁」”を破ったのである。
その意味で、最早、紀伊半島全体が「ゲリラ戦の戦場」と化して仕舞ったのである。

「青木氏側」では、「伊賀氏と伊藤氏の反抗・合力」、「毛利側と本願寺側」では「檄文に依る城外戦化」のこの「二つの事」が、「青木氏の基本戦略」と異なった事で、「予想外の戦場化」と成って仕舞った。
これは同時に「信長の基本戦略の狂い」でもあった。
「青木氏」も「信長」も、「伊賀氏と伊藤氏の反抗」は、「伊勢藤氏」を指揮していた「伊勢秀郷流青木氏」が動かない事から、「伊賀氏と伊藤氏の伊勢藤氏」も動かないだろうとする「読み間違い」がそもそも在った。

「青木氏年譜」(下記)から観ると、詳細は不詳ではあるが、「青木氏側」では北畠氏の前後に盛んに「談合の意味合い」の持つ“「会合、衆合、談合、衆議、不穏」等の文字が出て来る。
又、「青木氏」の「船等の廻船」にも活発な記述とも成っている。
「伊勢シンジケートの情報」で、“何らかの形”で盛んに「談合と準備」が進んでいたと観られる記述が何度も観られる。
しかし、結果としては、「何度の談合」にも拘らず、“動いてしまった”と云う事でないかと推測される。

この“動いてしまった“とする原因は、「伊勢藤氏の出自の差」が結果として出て仕舞ったと観られる。
その「出自の差」とは、「伊藤氏」は「秀郷より九代目基景」が始祖、「伊賀氏」は「秀郷より八代目朝光」が始祖であり、何れも分流族である。
「第二の宗家」と呼ばれる「秀郷流青木氏の直系族」と比べれば、「高い家柄の藤原氏」と云えども「家柄差」が格段に低いし、その”家柄から来る「生き様の柵」“は殆ど無い。
要するに、最早、この二氏は「柵の無い武家」であったとも云える。

恐らくは、何度も「談合」を重ねていた様ではあるが、柵の無い「主戦派・交戦派」と、柵を護ろうとする「保守派・知略派」に意見が分かれた。
結果として、この二氏は“突っ込み過ぎた“のである。
新参であった事もあり、「下総の永嶋宗家」の意向も配慮して「長嶋氏」は中間派を採ったと観られる。
依って、”「信長の権威の象徴への挑戦」”の“「流れ」“の中で、「伊勢四衆」に執っては、最早、避けて通れない事態に陥ったのである。
これが「青木氏の基本戦略の狂い」と成って、それが「青木氏存亡にかかわる事態」と成って仕舞ったと云う処である。

これは何も「青木氏側」だけでは無く、「信長側」に執っても、同じく「城外ゲリラ戦と一揆」が「基本戦略に狂い」を生じさせたのである。
「武」で抗する「北畠氏と伊賀氏」を潰す事で「伊勢の始末」は終わる事と成っていた。
取り分け、「謀略に依る各個攻撃」で「北畠氏の排除」で終わる筈であった。
そこに、「本願寺問題」と「伊賀氏の合力」、果てには「伊藤氏の合力」等が計画を狂わしたのである。

「何れの大義の良悪如何」は、別として、両者に執っては、”「流れ」“の中で、”決着を監る“しか無く成っていたのである。

(注釈 「四家」は、「信長の権威への挑戦」に対しては、「北畠氏」とは違った受け取り方をしていたのではないかと観ていて、元々「信長への敵対性」は低かったと考えられる。
それは、「賜姓族」であるとする“「権威の象徴」”では確かにあるにしても、片方では、「商いと云う立場」と云う、“「権威」”とは「真逆の立場」にも在り、それも、厳然と「悠久の歴史」を持つ「併合の立場」にもあったのである。)

況してや、そもそも、「青木氏の権威」は、「信長が嫌う権威」には無かった。

“「権威」を以って「惹けら課す事」はせず、「権威」を以って「利得」を獲得する概念“すら無い「氏族」であった。
当初より「利得の獲得」は、“「商い」と云う「正当な行為」を以って成す概念”を持っている「氏族」である。
正しく、それが“「賜姓族の権威」”そのものであって、それを構築しているのが「四家制度」で有った。

“「惹けら課す事」”に付いても、その“「惹ける」”と云う本質は、“「主張する」”の拡大語である。
だとすると、「商い」は“「品」を以って主張する行為“であり、”「自己」を以って主張する行為”の「惹けら課す事」に一部では確かに通ずる。

ただ、「氏家制度の社会」、或は、「信長の概念」の中では、”「自己」(権威)を以って主張する行為”の「惹けら課す事」には、強い「抵抗感、強いては罪悪感」があったのであろう。
「信長」のみならず、「二つの絆青木氏」、「二つの血縁青木氏」、「青木氏の職能部」、「伊勢シンジケート」、「御師 氏上」、「商い」の「四家制度」を敷く「青木氏」も全く「同じ概念」の中にあった。
「信長」は、特に、この行為が“社会発展に悪弊を及ぼす“、即ち、その「悪弊」とは”「閉鎖性」を誘発する“と考えていたのであった。

ただ、同時に、「閉鎖性の排除」の姿勢は、”「楽市楽座」“を容認し、推奨する「積極的立場」も採っていた事に通じていて、この姿勢は、「二足の草鞋策」の「青木氏の姿勢、概念」と一致しているのである。

「事の次第」は、「品」と「自己」にあり、間接的に「品」、直接的に「自己」の「主張の差」による事に成り得る。
「青木氏」としては、「商品」を以って間接的に「惹け行為」を「正当な行為の概念」として「悠久の時」の中で育まれていたのである。

「賜姓の権威」については、“「賜姓五役」の実行を熟す事”にあって、「権威」から「利得」を獲得する事には無かった。
それは、“「四家制度」”がそのものが、「惹けら課す事」と「利得の獲得する事」を阻止する機能(合議制度)を果たしていたのである。
「信長」も「楽市楽座」を推奨することは、「青木氏の商い」の「正当な行為の概念」に通ずる。

そもそも、この事から「信長」が標榜する「布武の共和政治」とは、むしろ、「商いの青木氏」とは符号一致する目標でもあったからで、特段に「氏存続に対しての信長への敵対性」は全く無かったと考えられる。
その意味でも、“氏を前面に押し出す敵対”は採らず、故に、“「流れ」“の範囲で有るが故に、下記に示す敢えて「青木氏」の観えない ”「ゲリラ戦」“を敷いたと観られる。

「信長の理解」
では、「招かざる北畠氏」(1569年)が亡びた後に、“「信長」には、何故に、この「青木氏の姿勢」が理解されていなかったのか“と云う率直な疑問が湧く。
筆者の答えは、残念ながら“理解されていなかった“である。

何故ならば、その答えは簡単である。
「商いの青木氏」と「賜姓族の青木氏」とは、悠久の中で結び付けていなかった事が原因であった。

敢えて、「青木氏」自らが,奈良期からの「悠久の時間」の間を、「商い」と「賜姓」は「別物」として、「公然の事実」とし乍らも演じて来ていた事にあった。
それは、朝廷から、”「紙屋院」”として「和紙の殖産」とその「普及の役」を命じられた事に在った。
従って、「商いと云う行為」が分離してのものでは無く、「賜姓五役」に同化して居た事に在った。

「商いと云う概念」の感覚が、「分離した感覚」に成ったのは江戸期に成ってからで、それまでは、「特定階級が行う職業」(武家)の概念が強かった。
取り分け、「青木氏」は、「賜姓五役の紙屋院」であった事から、全く「別感覚」は無かったと考えられる。
「二足の草鞋策」の感覚は、室町期末期までは「氏自体」としては、”薄かった”と考えられる。

幸か不幸か、「信長」は、その「二足草鞋策」を率先した氏の「平家末裔の出自」であるにも関わらず、残念ながら「理解外」であった事に由来する。
要するに、「初期の段階」では、「楽市楽座令」を敷くまでは「無知」で有った事に成る。

(注釈 信長自身は「平家出自の末裔」である事は承知していたと観られる。
それは、同じ「京平家の血筋」を引く家臣の「近江秀郷一門の末裔蒲生氏郷」を、未だ幼い信長の次女を婚約して於いて、嫁がせる等の「特段の扱い」をしたのは、この「京平家の同じ家」の流れの汲んでいた事にあった。)

それは、ただ「天正の時代」にしても、「織田氏分家の信長」には、詳細な“「伝統の継承」が途切れていた事”に在った。
“分家の所以”で有ったのかも知れない。
そもそも、「織田氏」の「出自氏」とされる先祖の「京平家の清盛」は、当に「三権の権威」と「宋貿易」の「二つの利得」を持ち、且つ、その全ての“「権威」”で以って周囲を威圧させた人物でもある。

「信長」自らの「出自の先祖」は、“「惹けら課す事」”の“自らが排除しようとしている考え方”を持った「最大の氏族」であった。
この事すらも放念して居た事に成る。

この時、同じく「賜姓族」として「青木氏」は、隣の伊勢の守護であって、半国割譲した「伊勢北部伊賀」(平氏実家)とは「隣国の付き合い」をしていた間柄でもあった。
「青木氏の商い」の「伊賀和紙の殖産」でも深く繋がっていた。
未だ室町期でも続いていたこの「歴史」さえも忘却していた事に成る。
依って、「以仁王の乱」の時は、「青木氏の跡目」の「京綱」の兄弟の「二名の助命嘆願」にも応じてくれた「氏族」でもある。
その“「家の伝統」“は、「清盛の末孫娘」の「高野新笠」は、「青木氏」の始祖の「施基皇子」の「第三男の白壁王」(光仁天皇)の妻でもあり、縁深き間柄にあった。
そして、「青木氏」と「二足の草鞋策」を採用していた所も同じであり、共に「氏が持つ概念」には極めて「類似性」を持った「縁深き氏族」でもあった。
しかし、「青木氏」には、この「伝統逸話」は「悠久の時」を経ても伝わっているにも関わらず、「織田氏」、取り分け「信長」には「伝統逸話」は伝承されていない知識なのであった。
(分家とはこの様なものであるのかと思い知らされる。)

もしあったとすれば、この様にどの「検証の面」から考えても、「北畠氏壊滅」の為に、「伊勢衆」の「青木氏を攻撃の対象」(内部撹乱)にする根拠はなかったであろう。
結局は、「青木氏」も「信長」も、「北畠氏や伊賀氏や伊藤氏の掃討」に連れては、この“「流れ」”に沿う以外には無かった事に成る。
ここに筆者の“「流れ説」”を採る所以でもある。

しかし、ここでただ一人、「織田側」であった「秀吉」は、伊勢東部に存在した「今宮シンジケート」の一員でもあった「土豪の蜂須賀小六」から、この事を聞いていて承知していたのである。

(注釈 「秀吉」は、若い頃に一時、「山族土豪の蜂須賀小六」の配下で働いた経歴を持つ。
「信長」にも後に「鉄砲入手」と、その「技能傭兵集団の雑賀族」にコンタクトするには、「今宮シンジケートの存在」を教え、この「今宮シンジケート」を通じなければ「鉄砲は入手」は出来ない専売品である事を教えた。
この記録が遺されている。)

この様に、「秀吉」が「信長」に「商い」には「今宮シンジケートの存在」を説明して居る記録がある。
その後に、認知して「楽市楽座令」を発したのであり、初期は、”知らなかった事”に成る。
とすれば、説明して居れば、”「伊勢シンジケートの存在」”をも説明していたとも充分に考えられる。
「秀吉」がもう少しこの事を信長に早く知らしめていれば「伊賀攻め」は変わっていたかも知れない。


「秀吉の青木氏出現」
実は、その証拠と観られる外部記録が在る。
1581年の末当初に「秀吉の紹介」で、「一名の青木氏」なる者が、「信長]に面会している。
1583年に秀吉に合力し、秀吉より1598年に厚遇 この「青木氏」が在る。
これが、この時の「伊勢での経緯」ではないかと推測できる。
これは「青木氏の経緯」(商記録の年譜)とほぼ一致する。

但し、「伊勢青木氏」が、「自らの意志」で、「自らが面談した」とする事では無く、記録も無い。(矛盾1)

これを基に「青木氏側」から検証すると、この”「伊勢攻め」全般に”於いては、“「秀吉執り成し」に依る面談“に依って「本能寺の直前」に解決に向かっていた事に成る。
これが「秀吉-氏郷」の「伊勢の本領安堵」に繋がったのである。
確かにこの時に、「紀州」と「伊賀」等の「旧領地」を受けたが、その後、「徳川氏」(1605年頃)に「青木氏の賜姓五役」(神明社等)などと共に「返納の経緯」を辿った。
この時の談合で、その代わりに、”「家臣扱い」”として「紀州藩初代頼宣」より「扶持米12人分」(1万石弱程度)が付加された事の経緯に成っている。

この”「秀吉執り成し」”とは、「外部記録」では成っているが、これは“「秀吉の搾取偏纂の行為」“であり、「青木氏」には記録はない(矛盾2)。

但し、「青木氏の記録」(下記)では、「伊賀の戦い」後に、「蒲生氏郷」との「数度の談合」によって、”「信長の伊賀査察」“の時に、「蒲生氏郷」と共に面談があった。
ところが、「佐々木氏の別の資料」では、外部記録では「一名」と成ってはいるが、この「二名の青木氏」に成っている(矛盾3)

夫々「越前北庄八万石」(1)と「丸岡四万石」(3)を受けたと成っている。
内一人(1)は「秀吉の家臣」と成るも、これも「1年間の俸禄」(1598年から1600年)と成っている。
この「越前の俸禄」は、1600年に徳川氏(徳川除封禄 巻の一)にて「除封]を受けている。(矛盾4)

この者の身内が家康の側室で後に本多氏の正室に成るとある。(実際は別の丹治氏系青木氏 )(矛盾5)

しかし、「もう一つの青木氏」(3)に付いては、外部記録では触れていない(矛盾6)。


「青木氏の記録」では、この「蒲生氏郷」と共に面談したと成っているのは、この二名(2)(3)である。
これは「佐々木氏記録」(2)(3)と一致する。
外部記録(豊臣家の記録)では、この内の「秀吉の家臣」で「縁者」と記録されている「紀伊守」で「越前北庄の人物の記録」(1)が「青木氏」には全く無い(矛盾7)。

確かに、「没年数」が類似する人物(2)は「青木氏福家」に居た。
これは「豊臣氏のある思惑」を込めた「形式上の内容」ではないかと観られる。
更に、実は、他にも極めてこの「人物(1)」の詐称には矛盾が多い。

何故ならば、「人物(1)」の与えられた「官職」は、確かに「紀伊守」であって、この地は、実際は「伊勢の乱」での「北畠氏の領地」で在る。
つまり、「北畠氏の南紀州」であった。

ここは、現実に明治期まで「青木氏」が「大地主」で有って、後に「紀州徳川氏」からも認知されていた。
確かに、「秀吉」に依って「伊勢の地」を「本領安堵」されたが、この「二つの地」は平安期までは「青木氏の旧領地」でもあり、「青木氏の家人」が「和紙殖産」の為に奈良期から元々代々住み続けていた土地柄でもあった。

この「南伊勢 南紀州」の地は、「青木氏」では、“「遠祖地」”と呼ばれていた土地でもあって、歴史上は、奈良期と平安期と鎌倉期の三期に伊勢を三分割したもので、平安期中期から朝廷から「半国割譲された土地」でもあった。
(日本書紀にも明記)
この「旧領地の遠祖地」も確かに「秀吉」に依って「本領安堵」されたのである。

この「人物(1)」には、この「紀伊守の官職」を与えて、「北庄藩」を与えたとする「豊臣家の記録」にある。

しかし、これには疑問がある。
その与えた時期は、1598年とあるが、この地が「豊臣家の領地」と成った「賤ケ岳の戦い」は1583年である。
与えたとしても少なくとも、1584年には与えている筈で、それも、15年後の豊臣政権の晩年5年前の「混乱時期」でもある。(矛盾8)。

更には、その2年後の1600年には、この「俸禄知行」は、たったまる1年で「徳川氏」に除封されて終わっている。
つまりは、其れも「1年限りの俸禄」であり現実にはあり得ない。(矛盾9)

仮に「人物(2)」が受けたとしても、この「秀吉の家臣」と成ったとされる「青木氏」(佐々木氏記録の1と2)には、「八万石」や「四万石」ものそれを維持する「武力」と「家臣」を元より持ち合わせていない。
無理なことである事ははっきり判る。(矛盾10)

況してや、「豊臣家の記録」には、「何処の青木氏」であるかも記されていない。(矛盾11)

この時期の「青木氏の出自」は明確である。

青木氏は、「悠久の歴史」を持っている「氏族」で、「姓族」の様に急に勃興して来た「姓」ではない。
現に、「伊勢」で戦っていたのである。
“何処の青木氏か判らない“と云う事は絶対に無い。

そこで、この「室町期の時期」では、「秀吉」と関係を持てたとする「青木氏」ともなれば、「伊勢の二氏」の 「二つの青木氏」と「信濃、甲斐、讃岐」の「三氏の青木氏」に限られる。

そこで、上記の「紀伊と伊賀」ともなれば、「紀伊」と「伊賀」に土地を持ち、本領安堵された「伊勢の二氏 青木氏」以外には無い事に成る。

「近江と美濃」は滅亡していて、「近江」は傍系が摂津で農業、美濃は、完全滅亡の体の状況にあったし、「他の秀郷流青木氏の116氏」は、伊勢を除いてはその対象とは成らない。
つまり、「豊臣家」が遺したとされるその地理的範囲を超えていてその対象にはならない。

「丹治氏系青木氏」が確かにあり、「信濃国衆」と成るが、関ヶ原で「徳川氏」に味方して摂津に1万石が与えられている。

「紀伊守」とする「秀吉の家臣」とされる「人物(1)」は、西軍に味方して除封を受けているので、摂津藩と成った「丹治氏系」では無い。
この様にこの「人物(1)」の「青木氏の出自」が明確に成らない。(矛盾12)

何故ならば、秀吉は、「自らの家筋」をよく見せる為に次ぎの様な搾取をしている。

この「紀伊守とする人物(1)」は、「豊臣家の記録」では「養父の竹阿弥」の「遠縁の青木氏」として記録されている。
そして、「従兄弟」であるとしていて”「偽系譜」”を作り上げている事に成る。

(実はこの事は、全くの無根拠ではないのである。下記)

「青木氏」と云う「賜姓族」の“「出自の権威」”を利用したのであろう。

この事を理由に、「豊臣家」が作り出した記録に依れば、次ぎの様に成る。
1578年頃に「秀吉の家臣」と成ったとしている。
1583年頃に勲功を挙げたとしている。
1587年頃に突然に引き揚げて、突然に「従五位上左衛門佐」とした事に成っている。

以上とする3記録が豊臣家に遺されている。

この事もおかしい。この3つに付いて検証する。

そもそも、「出自」も判らない人物に、「朝廷の格式式目」の定めでは、この「官位」は絶対に受けられる「官位」では無い。(矛盾13)

出自格式が良くても、最高でも、「従五位下」が与えられる最高官位であり,官職は「右衛門下尉」が限界と成る。(矛盾14)

「国家的勲功」が在り、その「勲功」を以って次第に「格式」が高められる様に厳しく定められいる。
その「身分」に依って「限界の格式」が定められている。
その「勲功」も「五段階」に定められていて、一足飛びに得られるものでは無い。(矛盾15)

(参考 「青木氏の守護神と神明社-4」と「古書 類聚三代格等参照」)

(注釈 因みに、「徳川家康」は、幕府を開くに必要とした官位官職が足りなく、天皇家に食事も出来ない位に貧させ圧力を掛けてやっと無理やりに「公家身分」より低い「従五位下」と、「武家の棟梁」(「武門之棟梁」)の呼称も与えずに、過去にあった「源氏長者」と云う身分を引用し作り出して「征夷大将軍」に成り得る格式がやっと与えられた経緯があった位である。)

それが、「氏素性」「出自」のはっきりしない「行きずり者」には、先ず「官位官職」はあり得ない。(矛盾16)

しかし、現実に記録されている事から、少なくとも、“「永代の官位官職を持つ青木氏」”でなくては無理な事に成るのである。
だとすると、「伊勢の二つの青木氏」と「信濃青木氏」の三氏に限られる。
「紀州」と「伊賀」と云う事から観ると、明らかに「伊勢の二つの青木氏」と成る。

しかし、「伊勢の二つの青木氏」か「信濃青木氏」には、永代の「浄大一位 正二位左衛門上佐」と「従四位上左衛門上佐」の家柄であり、既に「永代の官位」を持っている。
大きなあり得ない[矛盾」である。

この官位は、そもそも、本来”「宗家筋」”に与えられるもので、「分家筋」の他の地域の青木氏には与えられるものでは無い。
全く突然に受けられる立場には元来ない。
況して、「伊勢の乱」の後ともなれば、“「青木氏」”としては、「伊勢の二つの青木氏」以外には、「豊臣家の記録」を確定するに類する氏は無い。
然し、この事を完全に証明する記録は「二つの青木氏」側にはない。(矛盾17)

この事から、「豊臣家の家筋」を挙げる為に、それに見合う様に、画策した事に成る。
第一には、「形式上の官位官職」を作り上げた事
第二には、「形式上の藩主」とした事
第三には、「形式上の俸禄」として作り上げた事
第四には、「身内に家臣一人を仕立てた事

以上の矛盾だらけの「4つの事」で、「豊臣家」の中で「搾取偏纂の記録」としたものと観られる。

この「4つの事」で先ずは“権威づけた”と観られる。

そして、この「4つの事」に見合う類似する青木氏の「人物(2)」を、“家臣一人に仕立て上げた”事に成る。


「青木氏側の記録」との差は、”「形式上」”に作り上げられた「藩主」と「俸禄」と「竹阿弥」と「官位」と「官職」だけで偽飾したのである。
後は類似し、時期も伊勢の1565年頃から1600年までの事としての5年の範囲にあるに収めたのである。

“「繋ぎ」”による“「竹阿弥」”を除けば、四つ共に「青木氏の記録」に対する“「誇張」の範囲”で記録されている事に成る。
「藩主」は「伊勢衆」、「俸禄」は「大地主」、「官位」は「永代官位」、「官職」は「紀州伊賀の旧領地」から誇張したものである事に成る。


これで、矛盾は解ける。

さて、そこで、“「繋ぎ」の「竹阿弥」”の“「能楽師」”に付いては、ある意味を持っている。
上記した様に、「能楽」「猿楽」等の「楽師」は、古来より「公家」や「賜姓族」の「ステイタス」の趣向であった事から、”「直接の血筋」”とは云わずとも、“「遠縁」”として印象付けたのである。

つまり、“遠からずとも縁筋”に当たる事があったろうとしたのである。(矛盾18)

現実に、“遠からずとも縁筋”に当たると搾取した記録が、「二つの青木氏側」には確かに遺されている。

それは、「秀郷一門の末裔」で、近江の「蒲生左衛門佐大夫高郷」の末男の「青木玄審允梵純」(1548年頃で、母は伊勢青木氏)が居た。
この末裔で、「青木忠左衛門忠英」(松平氏扶助)なる者は、元は「猿楽」の「春藤源七郎」の弟子で、その「技」を学び、それを以って、一派を率いたと記録されている。

(「春藤氏」は「公家衆御馳走能組番」で「公家等の階層」の者に「能楽」を教える「楽師役職番」であった。)

この伝承の一派は、「伊勢秀郷流青木氏の末裔」が代々引き継いで、中には江戸時代の「四代将軍綱吉」に召し出され、「御廊下番」(百五十表)として正式に「徳川幕府の楽師指導方」と成った家柄でもある。

その意味で、「秀吉の養父」の“「楽師の竹阿弥」”が、「青木氏と遠縁」とする根拠は無いではない。
この経緯を利用したのである。

要するに、民衆を信用させる為に必要な信用させられる”「繋ぎ」”を作り上げたのである。


(注釈 伊勢の「青木長兵衛の四家」も「能楽」を古来より「賜姓族」として嗜む伝統があった。)

つまり、二人目の「伊勢秀郷流の青木伊賀守忠元」とする「青木玄審允梵純」の子の人物が、「秀吉家臣説」に利用された根拠は、ここにあるのである。


実は、「伊勢秀郷流青木氏」の「青木忠元」は、「蒲生左衛門佐大夫高郷」の末男の「青木玄審允梵純」(伊勢)の子である。
更に、その「二代後の末裔」で「青木忠左衛門忠英」は、代々青木氏の「楽師の指導方とその才」を以って、遂には「楽師の師匠」として「徳川氏の正式な楽師指導方」に成った経緯を持っていたのである。
この事を利用して、「秀吉」は、“養父の「竹阿弥」“と結び付けたのである。

これで「二人(紀伊守と伊賀守)」を形式上は「家臣」に仕立て、「紀伊守」と「伊賀守」を結び付ける事で「秀吉」が「青木氏との関わり」を搾取偏纂したのである。

この「身内の者」か「家来」か「青木氏」に仕立て上げられた者の一族が、伊予と讃岐と土佐の西国境に「ある村」(匿名)を与えて住まわせていた事が判って居る。
この者の一族は、その後の「徳川氏の除封」作業で、この「青木の土地」が没収されて、「青木の地名」と共にその後、一族は行方は判ら無く成っている。

恐らくは、「北の庄」は豊臣家の所領でダミーとして扱い、この「青木氏」を名乗らせた者には、実際は四国の伊予土佐の国境の西山間部に小さい村を与えて一族を住まわせていた事に成る。

結局は、「秀吉」は、伊勢の「青木氏の本領安堵」の時の状況に合わせて、「誇張」はするも、「類似性」を持っている事から、これをチャンスに乗じて間違いなく「豊臣家の権威付け」をしたと観られる。

以上の様に、“誇張に依る「豊臣家の記録」”である事から、「徳川除封禄」では、正式に関ヶ原の1600年の「除封」と云う形で、「徳川氏の力」で、「1年後」に明確にこの搾取の記録を抹消しているのだ。

そこで、この二人に類するものを「青木氏系譜」から追ってみると、“「紀伊守」”とする者の幾つかの俗名に関する対象者はない。
「俗名」は異なるが、「没年数と月と死因」が大体一致する者が、四家の中に現実に一人存在する。

上記 「青木氏の記録」の模擬にされた人物は、「信秀」、或は「信定」である。

記録の「中心人物」(1)の為に、“「後付」”で出自の無いこの「人物(1)」を正当化させる為に、その良く似た出自を、間違えての搾取偏纂で、後付で“「一矩」“に変えたと観られる。

ところが、ここで、又、「決定的な間違いの矛盾」を起こしたのである。

そもそも、この“「一矩」の名”は、「徳川氏」に味方して「家臣」に成り、その勲功で同時期に「摂津麻田藩」を与えられた「丹治氏系青木氏」の通名である。
本人の有形無形は別として、”豊臣に味方した”として、実際に徳川氏より除封された人物である事から、出自を明確にし良く見せる為に行った「後付」である事が明白である。

名前と出自を偽作する為に、”「豊臣家に味方」”と”「徳川氏に味方」”のとんでも無い間違いを起こしたのである。

注釈 「秀吉」が付けた「元々の俗名」は、別資料から「青木秀以(ひでもち)」である。

「伊勢青木氏」の「信定人物(2)」の最初の俗名「信秀」の「秀」を使って「類似の秀以」としたのではないかと観られる。
「秀吉」の“「秀」“を使ったとする説もある。

しかし、兎も角も、”「秀」“を使われた事から、伊勢の「青木氏側」では、”「秀吉の青木氏」“を否定する形を採る為にも、”「信秀」“から”「信定」“と改めたと観られる。

と云う事は、「秀吉の記録」時には、当初は、この「人物の俗名」が、はっきりとした記載には無かった事にも成る。
10もある名なので、何れが本当か判らなかった事に成る。

(注釈 本当は判っていたが、「一矩」とした通説化を謀った人物が、この「秀以の情報」を持っていなかった。)

依って、「一矩」にして、信憑性を高める為に、「麻田藩の丹治氏系青木氏」の「通名」を「後付」で付けた事に成る。(矛盾19)
 
(注釈 実は、この人物には「後付」と観られ俗名が何と10もある。詳細下記。これこそが搾取偏纂が行われた証拠である。)

そもそも、「嵯峨期詔勅」に依って、一般は「青木氏」を名乗る事は禁じられていた。
然し、この“「秀吉の青木氏」”の名は、出自が明確でなかった事から、この名を使って名乗る事は可能であった。
この事は「江戸寛政期の歴史書」にも記載されている。
各地で家柄身分をよく見せる為に江戸期と明治期に名乗った「第三の青木氏」と云われるものである。

「各地の郷土史」は、これを記載する事で「土地の知名度」と「歴史性」を上げる事と成る。
従って、この“青木氏の子孫だ”とする形で「俗名」が増えたと観られる。

更に、「秀郷流伊勢青木氏」の中に、「伊賀守」とする者の「俗名の類似」と「没年数に近い者」が矢張り一人存在する。

上記の「青木忠元」であるが、上記の“「竹阿弥」”を通じて「青木氏」との「繋ぎの役目」の為に其の侭に使用したと観られる。

この事から読み取れる事は、「伊勢青木氏の本領安堵の条件」に、“「豊臣家のこの搾取偏纂」を容認する事“が付加されていた事を物語る。

つまり、別に本領とする地外に、「南伊勢から南紀州の地」と「伊賀の地」の「旧領の本領安堵」した事を根拠に、「豊臣家」の為に「本領安堵の付加した土地」を「紀伊守」と「伊賀守」として、先ず、誇張して「権威づけた」のである。
ただ、この二名の内の「紀伊守(1)とする「伊勢青木氏の末裔子孫」が、奈良期からの“「福井の青木氏の逃避地」に移動した”とする記録が、後に付加されてある。

現実に、この「青木氏の子孫」が福井に現存し、「商い」を営んだとする記録が確かに青木氏側にもあり、末裔も現存する。

これには、「除封」にて、”福井に逃げ込んだとする説“と、”「氏是」を無視したと云う批判説”とが確かにある。
しかし、更に研究調査を進めた結果、実際には、上記した“「豊臣の記録の範囲」”であり、「青木氏側」では、「豊臣家の知行」を実際に受けていないし、「除封」の5年後にこの本人(信定)は病死にて紀州新宮で没している。(矛盾20)

上記した「室町期の紙文化」で「巨万の富」を得ていて、250万石以上とも云える「商財」を築き、且つ、「伊勢、紀州の大地主」(家人が奈良期から定住)にあって、「豊臣家の記録」が“「誘い」“であったとしても、”「誘い」“に乗る者は「青木氏」には居なかった筈である。
むしろ、この“「誘い」”が「青木氏」に「利得」と働くは、論外であって、「賜姓族」「御師様・氏上様」として「悠久の民からの信頼」を失い、「青木氏の悠久の氏是」がある中で、何れの事からも「全くの不利益」と成ろう。
そんな「愚者」は、そもそも“「四家制度」”の中に存在し得ない。
それが「四家制度の所以」の一つでもある。(矛盾21)

「四家福家の批判説」によると、この者が「福井移動説」の元となった。この元福家が福井に移動して商い(酒造業)をしたと観られる。
この者が「後付」で「出自の明確化」の為に利用されたのである。


故に、「出自」が出せない者で、除封された者の娘を「家康の側室」(蓮華院)にし、後に「本多氏の正妻」にするかの疑問が遺る。(矛盾22)

この様に、矛盾が22にも上り、可成りにして「通説化した説」には無理な無茶が目立つ。

「秀吉」は始めからの「家柄や権威の獲得」の為に、「伊勢青木氏」に関わるかの様な人物を家臣の中に作り出し、それに「伊勢の本領安堵」の時の処理に乗じて、似せて誇張させて「記録」で演じた事に成る。
その「搾取の人物の娘」を、秀吉から家康は政略的に側室として、後に家臣の本多氏に下げ渡したとする説にした事に成るだろう。
しかし、この娘は別ルートの「麻田藩の丹治氏系青木氏の娘」である。人質である。

故に、それに合わせる為に、俗名を「秀以」から丹治氏系の通名の「一矩」に変えたと観られる。(矛盾23)

そもそも、この「秀吉の家臣説」の「類似する人物」は、「二つの伊勢青木氏」には存在はするが、“この人物に似せた青木氏”を作り出した事に成る。
ただ、それが、“搾取偏纂した事に依る「無茶な矛盾」が、余りにも出てしまった”と云う事である。

「秀吉」自信が、初め、“この事に「青木氏」が載ると観ていた”と考える方がおかしく、“「青木氏の権威」“を主張するのであれば、”「青木氏の出自」“が最も大事であり、記録に”不明である事”にした事は、元々、秀吉は、“この事に青木氏は応じる”と観ていなかった事に成る。

「二つの伊勢青木氏」は、「四家の人物」を、“「家臣」とする事“には、「青木氏氏是」で応じなかった事に成る。
従って、「搾取偏纂の結末」として、説明の就かない「大矛盾の結果」が起こった。

故に、「徳川氏」もこの事を事前に充分に承知していて、速やかに1年後に「除封処置」を講じたのである。
そして、“如何にも血縁づけたかの様に見せかけた「娘」”も、その手には載らないとして速やかに本多氏に“下げ渡した”のである。

(注釈 「秀吉信望の歴史家」は、「福井逃避説」(下記 矛盾24)と同じく、「通説化」を是認する様に、別の「娘の偽工作話」を作り上げている。)

ただ、“世に晒す事無かれ、何れ一利無し“の「氏是」から、”前代未聞の事“であった為に、”豊臣家に乗じられた“とする”一族からの批判“が、「青木氏年譜」(商譜)でも、確かに「騒ぎ」が起こっている事でも判るであろう。
「伊勢青木氏」に執っては、この事態は止むを得ない仕儀ではあるが、この始末をした「福家の末裔」(信定)にしてみれば、「一族の非難」から、“福井に追いやられた”として受け取っている可能性は充分にある事も考えられる。
この“「隙」“に乗じられたものである。

これは、現実には、資料より「四家制度」にて、病死にて、制度上、上記した「四家の入れ替わり」が起こった。
この「利用された青木氏の人物 (信定」」は、「福家の人物」であったが、この「福家の家族」が、「福井への営業所に人事異動した事」が起こったのであった。
この人事に関する「添書書きの記録」は特段無いが、一族から“秀吉に乗じられた事への非難”から、遠ざけて「非難」から避けさせる為に配慮した事であったのであろう。(後付説の矛盾24)

この「歴史家の後付」と観られるこの「福井などへの逃避説」は、一部の歴史家の「豊臣家記録」を恣意的に肯定する為に乗じられた事に依る。
且つ、通説化する為に仕掛けられた搾取偏纂のものであると観られる。

(秀吉母の出自も信じられな程の脚色搾取偏纂が目立つ事例と同じ偏纂。)(外説 矛盾25)
これを「逃避説」にすり替える事で、より「家臣説」に深意性を仕立てて正当化しょうとした「後付の論調」と観られる。

(注釈 この説を読んだ「福井の青木氏末裔」、つまりは、「四家の福家の伊勢青木氏の末裔」が、この「後付説」を読んで「口伝」していたと観られる。
「福井定住」のこの末裔子孫は、「避難説の口伝」に成っている事を承知している。)

そもそも、この「福井逃避説」を「後付」するには、この“「福井」”と云う地が、“「青木氏の奈良期からの逃避場所」”であった事を歴史的に知っている者でなければ、作り出せない「後付説」である。(歴史家)

この関ヶ原後の「逃避場所」を、“「福井」”と云う場所に持ち込めば、「秀吉家臣説の人物(1)」をより「真実化」させられる。
“如何にも「伊勢青木氏」であるかの様に見せかけられる”として、「搾取偏纂」し「通説化」を謀ろうとしたと観られる。
「後付説」を脚色した人物は、ある程度の知識の歴史家であった事が云える。

ところが、「青木氏側の記録」では、上記の様に明確に成っている。
この「豊臣家」が記録する人物は、「伊勢青木氏等」に存在しない。
且つ、「避難」では無く、「後付」で「乗じられた人物」の家族に付いては、“「四家人事の移動」”と成っている。

豊臣政権崩壊後(下記 「青木氏年譜」 1619年)に、「紀州徳川氏の頼宣」と「家康」は、「青木氏の役務返納」(全国神明社や密教寺等の私財の返納事 縁籍問題等)に付いて、初期には家康と、後期には“「伊勢松阪での頼宣との交渉」“を行った事が記録されている。
この時に合わせて、「伊勢伊賀の本領の認知(大地主と村主)」と合わせて、上記の「除封分に相当する知行分」として、「特別扶持米12人分」と「南紀州の遠祖地」(計1万石弱相当程度)を付加した記録が遺されている。

(注釈 平安時の「旧領や遠祖地」も含めて「本領安堵」された「青木氏」は、その結果を以って次ぎに「伊勢青木氏」は、「伊勢シンジケート」を構成する「元伊勢衆」の「旧領地の地権」も認めて安堵して「平時の状態」に戻したとある。
もう一人「人物(3)」の「伊勢秀郷流青木氏」(伊賀守 :忠元)の方は、その後、「御家人」と成って、“「立葵紋の青木氏」”として紀州藩に代々仕えた。
この事に付いての詳細は、「青木氏の分布と子孫力の-5、16」等を参照の事。)

もし、豊臣家が記録する“「秀吉の青木氏二氏」“であるとするならば、「除封」も受けている事から、「紀州徳川氏の家臣」には成り得ない。
そして、況して、“「立葵紋の青木氏」”は到底にあり得ない事に成る。

通説化には一般には騙せても、歴史の有知識のある者には隠しても隠せない余りにも無理で多くの「論理矛盾」を起こしている。

(注釈 下記に論じるが、「紀州藩の家臣」は、「伊勢秀郷流青木氏」等を始めとして「伊勢藤氏」と呼ばれる「秀郷一門」をベースにして“「藤氏家臣団」”を「頼宣」は構築した。
そして、この事が「将軍家の嫉妬」に合い「在らぬ謀反説」で大変な事に成った有名な事件に成った位の事である。)

この事でも、「二名の青木氏」(紀州守と伊賀守)が記載されているにも関わらず、「豊臣家の記録」では、「紀伊守の人物」(1 :一矩)だけと成っている。
上記の様な「徳川氏の紀州藩の処置」から観ても、「秀吉家臣説」であればあり得ない事である。

現実には、二名で在り、[豊臣家の記録]に矛盾する。 
もう一人(3)の家臣説から観ても矛盾である。(矛盾25)

明らかに、“「伊勢の本領安堵」の時に、二名が乗じられた事である。
その経緯は次ぎの様に成るだろう。

「搾取偏纂の経緯」 
「秀吉」は、「二名」を家臣化して置いて、内一名(1)を縁籍化した形で家臣の中にその人物を作り上げた。
この「人物の出自」を「伊勢青木氏」から得られず、「出自不明の架空の青木氏」を、それに見合う「権威の誇張」を付帯して作り上げた上で記録化した。
ここまでは「秀吉の功罪」である。(矛盾23まで)

そこで、この「豊臣方の青木氏の人物(1)の娘」とする者を「徳川氏の側室」にした。
この側室は「梅殿」と呼ばれ、「蓮華院」と称したが、この「娘の出自」は、「丹治氏系青木氏」が、人質として差し出した「麻田藩丹治氏系青木氏の娘」である記録がある。
全く違う氏の「徳川方の青木氏」である。

ここからが、通説化為の秀吉信望の歴史家の「後付の説」の矛盾に成る。

ここで、「豊臣家の記録」に“「説明の就かない後付大矛盾」”が生まれたのである。

(A)この人物は「豊臣家の家臣」で、「越前北庄八万石大名」で、「徳川氏から除封」とされている。
(B)この「丹治氏系青木氏」は、逆に、「徳川氏の家臣」で「摂津麻田藩一万石大名」で「徳川氏から俸禄」と成っている。

明らかに史実が混同している。この「矛盾」は、最早、秀吉には問題はない。
明らかに「後付の通説化」を謀った時の「歴史家の矛盾」であり、「福井逃避説」と共に、「故意的な矛盾」と観られる。

この「人物の疑義」には、他に、上記した様に、“「俗名」”が沢山使われている事である。(矛盾26)

本名 -「秀以」、

麻田ルーツの偽名類  ー (一矩、一興、重治、重正)、
通名ルーツの偽名類  ー (勘兵衛、源右衛門)、
俗称ルーツの偽名類  ー (平輔、磨太)、

以上等がある。

前者の「秀以」がこの人物の本当の「俗名」で秀吉の搾取偏纂の結果である人名である。

先ず、次ぎの様に成る。
麻田ルーツの二つ目から五つ目までの四つは、「丹治氏系青木氏」(麻田藩)が使っている「通名」の「混同名」
その後の通名ルーツの二つは、「搾取名」と呼ばれるものである。
その後俗称ルーツの二つは、「騙名」(かたりな)と呼ばれるものである。

以上に分けられるのである。

後ろ四つは、「家柄」をよく見せようとして、非常に良く使われた「江戸初期」か「明治初期」の「騙りの名」の部類で論外である。

この二つの時期には、公然と「搾取偏纂」が行われた。

むしろ、幕府は黙認するどころか、武士と成った者は「権威」を持たない「立身出世の姓氏」である事から、「武士の権威付け」の為に、「知行俸禄」を定める「黒印状」を出す事を前提として、この「偏纂」を半強制した経緯があった。

従って、他にもこの「人物」に群がる様に「騙名」や「偽系譜等」が使われている。

この人物として見せかけて使ったのであるが、少なくとも「自らの出自」を「丹治系青木氏」と、この「秀吉の青木氏」に搾取した事は明らかである。

(注釈 江戸期の寛政、寛永期に書かれた「二つの資料」に記載されている「第三青木氏」と呼ばれる「青木氏」は、この「秀吉の青木氏」と、「麻田藩の藩主」と成った「丹治氏系青木氏」の「二つの出自」が多い。
中に酷いのが有って、この二つに、更に「秀郷流青木氏」と「藤原氏」と「皇族賜姓族青木氏」(二家分)に「江戸期の官位官職」を付けてのやりたい放題の「4つを組み合わせた青木氏」が「地方史書」(下記)に観られる。
その「地方史書」も流石、気が引けたか「注意の特記」をしているものもある。
これらの多くは、室町期以降には、取り分け江戸初期には「神社や寺社の秘密の副業」であった。)

「歴史観のある人」でも、判別が就かないほどに極めて多く酷似するのが、この「騙名」で、これも何れかに矛盾が出る。
この様に「秀吉の青木氏」には「搾取偏纂の俗名」も然ること乍ら“「騙名」”まで使われている。(外 矛盾27)

その「矛盾」の代表は宗派である。
宗派は長い慣習と仕来りと掟があり、「密教と顕教の違い」があり、「密教」でも「古代密教」と「平安密教」の違いがあり、顕教でも大乗仏教との違いもある事からその出自で判る。
「氏族」と「姓族」からでも、判別が可能で有る。
この宗派だけは明治以前では絶対に搾取出来ない。

この「二つの青木氏」であれば、確実に「古代密教」の「浄土宗密教」である。
しかし、一名(人物 1)の者は「浄土真宗」としている。
明らかに「後付の矛盾」である。(矛盾 28)

実は、室町期までは、未だ、「浄土宗」に入信するには、ある「特定の氏」しか入信出来なかった。
「出自分け」していた事から、認めて貰えない「仕来り」であった。
要するに、そもそも、「密教」を前提とし、その氏で寺を独自に自主運営していたのである。

従って、部外者や氏の宗家本家の「認定保障」の無い者には、自らの宗派と出来ない仕組みであった。
この「仕来り」が、江戸初期に密教の禁止令があって、全て「顕教」と成ったが、表向きは別として、依然として「氏族」と「高級武家」は、この慣習を護った。
従って、況して、「出自」もはっきりしないし、「青木氏の保障」が無ければ信徒には成れない仕組みであった。

従って、この氏(「人物 (1)」)が「浄土宗」を宗派とする事は出来なかったのである。
“出来なかったと云う事“は、「伊勢青木氏の出自」と出来なかった事を意味するのである。
つまり、「伊勢青木氏の出自」と認められれば、当時の「宗教社会」は、それを基に「浄土宗」に入信出来る仕組みであった。
つまり、「氏家制度の本家」の「意向の仕来りの所以」である。
平安期-鎌倉期-室町期から江戸期まで「氏家制度中心の社会」であった。

この事は、況や、「伊勢青木氏」は認めなかった事を意味する事に成るのである。

「二つの青木氏」の「361氏」に繋がる者として保障されれば、「浄土宗」に入信できる仕組み、況や「密教」であった。
これが、「氏家制度の所以」なのである。

新しく独立して家を興す末裔は、都度出るが、「宗家本家筋」に認めて貰えれば、その氏の一族一門が運営する菩提寺の「達親」と認められる仕組みであった。
認めて貰えなければ「宗派」のみならず「家紋」も「定住地」も定まらない事になる仕組みである。

この「二つの青木氏」には、奈良期から「青木氏が定住する地域」には「ある菩提寺名」で「青木氏の専用の寺」が建立されていた。(寺名は秘匿とする)
「寺名」が正規に伝承されていて達親族であれば「青木氏」を証明される事に成る。

(注釈 しかし、この仕組みの「密教の浄土宗」は、家康に依って江戸初期に解除され、「密教性の排除」を目的として禁令を発した。
但し、表向きは完全に解除したが、実態は、秀郷一門等の御家人や高級家臣団の事もあって、「高級武家」等が任意に入信出来る「顕教」で「檀家方式で運営する浄土宗」とした。
「一つの寺」に「幾つもの氏姓の檀家」が入る方式としたのである。)

これ以外は、「顕教の浄土真宗」に入信するか、庶民が自由に入信し得る日蓮宗などの宗派に入る事に成るのである。
従って、殆どの武士は真宗に入信しているのであり、下級武士は日蓮宗に、大きな末裔を持たない公家などは、結局、「顕教的密教」を標榜する「天台宗」か「真言宗」に入信する事に成ったのである。(前段の「伝統10」を参照)

この事からも、この「宗派の事」だけは変えられない事から「矛盾」は露出しているのである。

後は、その「偽名」が使われている経緯から、本人外が行った完全な「搾取偏纂の騙名」であると観られるので論外に成るのである。

この「人物(1)」に、これだけの「騙り」が起こる事は、この「人物の出自」が無い事の「架空」から起こっているものであり、全体としても「豊臣家の搾取偏纂」である事を物語る事でもある。

ここでも、この「人物の名」でも“(A)と(B)を強引に結び付けた「後付け矛盾」”が生まれているのである。

(注釈 「丹治氏系青木氏」は、「徳川方」に着き、その功で、「摂津麻田藩1万石」を受けていて、「別系の青木氏」である。
この「青木氏」は、武蔵の土豪集団の連合体の「武蔵七党」の「丹党」から出た「丹治氏」が、平安期に罪を得て朝廷より関東に配流された「丹治彦王」が、「現地の土豪」との間に生まれた「配流孫」だとしている。
「嵯峨期の詔勅」に従い、遅れて「室町期」に名乗りを上げた者で、立身出世を夢見て、一時、「信濃の国衆」と成り、その後、甲斐、美濃を経て、関ヶ原の戦いに参戦、関東武蔵を里としている為に、「徳川方」に味方して「摂津麻田」に「領地1万石」を家康より受ける。
弟に4000石を分けて「武蔵丹治氏系青木氏」と共に「三流の流れ」を作る。
この「磨田藩支流の弟系」には、上記した「秀吉の青木氏」の「伊予土佐の国境」の「青木の村」をこの磨田藩支流に後に下げ渡された。
この「丹治氏系青木氏」が「通名」として、「重、一、矩」が使われている。)

然し乍ら、「搾取人物策」を用いた「豊臣家」は、斯くの如しで「権威」を作り上げようとして、後勘から観ると、矛盾(28)だらけだ。

然し、ところが、反面、同じ「権威の持たない土豪」であった「松平氏・徳川氏」はその対応が異なった。
下記の「青木氏の年譜」にもある様に、既に1605年頃から、数度に渡り「青木氏」と談合していた様で在る。
1620年頃の後には、正式な「勝姫との政略血縁」(立葵紋青木氏)を以って「吊り合いの取れた縁続き」とした。
「正式な権威の獲得」を「青木氏」と成し得たものである。

この後、「伊勢の青木氏」(青木長兵衛 福家)は、この「知行付加」(家臣外の知行)を以って、「紙屋長兵衛の商いのノウハウ」を「紀州藩」と「将軍吉宗」に提供した。
そして、江戸初期から末期まで家臣では無かったが、「紀州藩の勘定指導方の役目」を務めた。
「初代頼宣の時」、「吉宗の時」、「江戸末期の時」の三期には、直接に人を送り出し、実務の「勘定方」を務めた。
「吉宗将軍時」には、「吉宗育親」として、「福家の長男六兵衛」は共に育った経緯から、江戸にも向行して「布衣着用の立場」(直接将軍に面談出来る「大名扱い」)で「享保の改革」を主導した。
この事からも、「徳川氏」は、この“「青木氏との向後の付き合い」“から観て、上記の「秀吉の搾取偏纂」を充分に承知していた事を物語るものである。


では、何故この様な「流れ」に成ったかと云う事であるが、それは次ぎの様な重大な事象が起こったからである。

(注釈 実は、上記の“「今宮神社」“には、「大きな意味」を持っていて、平安初期に「疫病平癒祈願の神社」として各地に創建されたが、「室町期の戦乱」に巻き込まれ衰退し荒廃した。
その為に生き延びる糧として、「全国の社の組織」を使って「シンジケート」を構築して生き延びた。
この事を知っていて政権獲得の時に、この「今宮シンジケート」の世話になった秀吉は、豊臣政権下に、この全国の「今宮神社の再建」を果たし、京に再び「総社本殿」を創建し保護した事は有名である。
そして、その更には「末社」としても、更に、”「若宮神社」“を全国の「天皇家の所縁の地」に創建して、”「皇族者の下族の保護地」“を名目に構築し強化した経緯を持っている。
この時の「今宮神社」は、「秀吉の権勢」を背景に相当な「社勢」を誇った事は有名である。)

(注釈 中部以西で、社勢を示す様に「今宮神社と若宮神社」は有名である。)

これは、「青木氏」の「500社に近い神明社組織」を使った「伊勢シンジケート」の「諜報活動」等に習って、秀吉は「今宮神社-若宮神社の組織」を構築して「諜報活動」の拠点ともしたのである。
この事は、「シンジケートの力」がどれだけのものであるかを「秀吉」は、「青木氏の事」でも「今宮シンジケート」の事でも、承知していた事を示すものである。
その「伊勢シンジケート」を「青木氏」が持ち、有効活用して「自分以上の陰の勢力」をも持っている事を承知して居た事を示すものである。
この事からも、この「秀吉の家臣云々の記録」は、“「矛盾の塊」の様であり、勝手なもので有る事を、秀吉自身が充分に承知していた事“を物語るものであるが判る。

参考として、 実は、「信長-秀吉」の「家臣」と「美濃・尾張」と云うキーワードから研究すると、次ぎの様な資料が「新編美濃志」の記録にある。
真偽は別として、この記録によると、美濃に「青木刑部卿法印浄憲」、或は、 「加賀右衛門尉藤原直重」なる人物が居て、「美濃安八郡青木村」に住し、土岐氏―斉藤氏―信長―秀吉に仕え、大阪城にて戦死したとある。
しかし、 この系譜には、“「出自」が混在し、「時代性」の矛盾がある”としているので、「江戸期の史書の青木氏」とは「異流の青木氏」と記されている。

これから観ると、「官位官職の持てない僧侶」や、「賜姓族の村」や、滅亡した「美濃土岐氏系青木氏」や、あり得ない「美濃の秀郷流青木氏」の末裔や、「北家筋の京藤原氏」や、室町期と江戸期にはあり得ない「二つの官位官職」等、を混合して組み合わせた「青木氏」を作り上げたと観られる。
「秀吉の青木氏の人物」に似せてはいるが別である。
この記録の真偽は「美濃志」そのものが云う様に“疑問”である。
混在が起こる「時代性経緯」から、この郷土史は江戸期初期に偏纂されたもので、この上記した所謂、「秀吉の青木氏」に類似させて家柄をよく見せる為に「偽書と系譜」を作り上げたものである。

上記した様に、各地の郷土史には、この様な「騙名」の様に「系譜」にも「偽譜」が起こっているのである。
「美濃志」が、これだけの「矛盾」が在るのに、“良く載せたものだ”と「地方史書」そのものにも驚くがこれが現実なのである。
それだけに地方に「歴史の所縁」を作りたかったのであろう。

この地方史や郷土史の編集期の江戸末期にも、これは”「氏家の家柄搾取」”から”「地域の地柄搾取」”も起こって居た事を示す事例である。

(注釈 「青木氏」と「同族血縁族の近江佐々木氏」の「傍系末裔の黒田氏」も、元は「近江佐々木氏の傍系末孫」で、「青木氏」の「祖先神の神明社」の「御師役の立場」にあった。
この「神明社」をベースとする「伊勢シンジケートの組織」を使って「独自の諜報活動」をした事も有名である。
その「黒田氏」を家臣としていた「秀吉」であれば尚更の事で、「青木氏と伊勢シンジケート」の事は充分に承知していた事に成る。 
更には、事前知識として、「南北朝の戦い」(赤坂千早村の山城戦い)で「多勢の幕府軍」が「伊勢河内シンジケートゲリラ戦」で餓死し敗走した事は、直前の歴史として、「秀吉」のみならず「信長」も事前に「歴史的な史実」として知っていた筈でもある。)

(注釈 「赤坂楠木氏」は「伊勢河内シンジケート」の一員で、「河内-伊勢-今宮」までの「三シンジケートの連合体」を構成して対抗した戦歴を持っている。)

その為に、「秀吉」は全て承知していたとすれば、「不承知の信長」生存中は、強力な連合組織から成る「伊勢シンジケート」を持つ「青木氏」の事は知っていたと考えるのが普通ではないか考えられる。
この「伊勢三乱 五戦」には、全て「合力」し、全て、「伊勢シンジケート」を前面に押し出しての「ゲリラ戦」で応じていたこの事に付いては、この「戦況」の成り行きに付いては、秀吉は、“非常に懸念していた事”であったと考えられる。


話しを元に戻して、

”1581年の末当初に「秀吉の紹介」で、「一名の青木氏」なる者が、「信長]に面会している。”

以上を論じた。

この結論として、上記した”「信長との面談の青木氏」”の人物は、誰かと云う事に成る。

上記した「秀吉の青木氏」論から、”逆説的”に検証すると、「人物(1)」は、「人物(2)」の「信定」であった事に成る。

何故、この様な「秀吉配慮」をしたのかと云う問題である。

そうなると、“「二つのシンジケートの連合組織」の「協力体制」”を得ていた時期があった。
その、「本能寺直前」の時期に「秀吉」は、この事を知らしめて、何とか「信長」にこの「伊勢青木氏」の「人物(2)」と合わせて、速やかに“「事態収拾」“を図ろうとした行為と先ずは考えられる。
即ち、「高松攻め」の「膠着状態」の時に「秀吉」は、再三に「信長」の元を訪れている。
つまり、通説では、「信長」に依る武田氏滅亡の直後に、「毛利討伐」に出陣依頼しているのである。
もし、この通説通りとして、この為にも 伊勢域での“「ゲリラ戦の長期化の伊勢」”を何とか解決しなくてはならない。
背後が危険と成るし、二兎は到底負えない現状であった。
依って、この時に「信長-青木氏面談」(1581年末頃 「青木氏の記録」では、1582年初と成る)を図ったと観られる。

そもそも、「青木氏」に降りかかった”「秀吉の青木氏」の事件”は、「伊勢国の事(紀州討伐)」が一段落して、その後の「豊臣政権樹立」に際し、この時の「所縁」を通じて「人物(1)」を用いて「秀吉の青木氏」を発祥させようとした事に依る。

この時の「秀吉紹介」に依る「信長面談」(信長-青木氏面談)には、次ぎの説が浮かぶ。
第1説の「人物(1)」で応じたのか、
第2説の「人物(2)」(信定)で応じたのか

第1説か第2説かは何れにしても”信長を納得させられる「面談理由」”が必要である。

この時は未だ、「秀吉の青木氏」は無い。
従って、実態は、「人物(1)」=「人物(2)」であるのだが、「青木氏」の”「信長面談」”には、”「何らかの工作」”をした事が「状況証拠」から充分に考察される。
その”何にか”が判らない。”判らない”と云うよりは、”確定できない”と云う事である。

考えられる事として、”信長の印象”を和らげる為に、”「秀吉の遠縁仕立て」の「人物(1)」で会した”と云うものである。

実は、「青木氏年譜(下記)」から次ぎの様な事が読み取れる事が出来る。
それは、”この時から、秀吉は「秀吉の青木氏」”を考えていた節が有る。
そもそも、秀吉は、「青木氏の存在」を「蜂須賀小六の配下」であった頃に「今宮シンジケート」の組織の中でいた事から、「シンジケートの横の繫がり」から接触が在った。
何故ならば、「今宮シンジケート」と「伊勢シンジケート」が連携していた時期がこの時期であった。
その為に「青木氏の存在」とその詳細を知り得た筈である。
当然に、それに合わせて「神明社との関係」もそれを通じて知っていた事は充分に考えられる。

「伊勢シンジケート」と「神明社組織」の「二つの組織の頭]、つまり、「御師」の「二つの伊勢青木氏」と「信濃青木氏」が背後にいる事は充分に知っていたと考えられる。
知っていたからこそ、「鉄砲入手」の為には、「信長」に「今宮シンジケート」を紹介した記録があるのである。

この「シンジケートの存在」の「紹介記録」そのものが、「秀吉」の「青木氏の存在」」をも認知して居た事を証明するものである。

立身出世して行く秀吉に執っては、この時から”「出自誇張」”が必要である事は痛感していた筈である。
その「最高のシナリオ」は、この「シンジケートの青木氏」であった筈で、「出自の誇張」に選んだと観られる。

「青木氏」が持つ「悠久の伝統」と「家柄格式」と「民からの信頼」に繋がる事は、周囲に対して「武の権威」では得られない”「温厚な権威」”を獲得する事に成り得る。
「天皇家や公家や藤原氏」が持つ”「優雅で気高い権威」”とは異なる”「温厚な権威」”をこの時期の秀吉には好んだと観られる。
現実に、「天皇の落胤」「公家の姻戚」「藤原氏の末裔」の三出自は、後に「偽系譜」で搾取している事は有名である。
故に、太閤官位を奪取出来た所以でもある。
従って、何も青木氏との血縁関係を持つ必要は何も無く、要は「青木氏の氏名」を使えれば良い筈であった。
その”「青木氏の出自」が何処であるか”は系譜上に記載する等の必要性も関係が無い事に成る。
それが、上記した「長嶋の戦い」から始まって6度に渡る「青木氏との親交」の中から、「定信の青木氏」をモデルに自らが名乗るのではなく、一族の中に「ダミー青木氏」を創り上げられれば「出自誇張の目的」は達成されるのである。

(注釈 現実に、この”「ダミー青木氏」(遠縁の家臣)”を作り上げて、表向きには「北の庄8万石と紀伊守」を与えて置いて、「伊予今治南部」(青木の里)に小さな所領(寺二つ分程度の敷地)を与えている。1600年の「徳川除封処置」で「里」共々飛散した。)

これは、”「出自誇張」”のみならず、下記した様に、”「シンジケート確保の魅力」”にも「大きな興味」を持っていた筈である。

故に、「豊臣政権樹立」後に、「自らの守護神」として先ず「今宮神社」を全国に再興して「自らの守護神」であるかの様に保護した事は有名である。
そして、その「シンジケート」をも保護し、その「下部組織」として全国に「若宮神社組織」までを作り上げた。
「青木氏の神明社」の様に、「情報収集源」として大いに利用した事は「誰もが知る歴史記録」の示すところである。
中でも、この”「若宮神社」”には、多くの貴族を取り込み抱え込み保護して、如何にもルーツであるかの様に「見せ掛けの出自誇張」にも利用した。

明らかに、この時の「信長面談時頃」から「伊勢シンジケート連携」と「出自誇張の氏」として近づいていたと考えられる。

「青木氏」の「信長面談」に至るまでの「事前工作」では、どの様にして「青木氏と接触」を果たしたのかの疑問がある。

これは、実は「蒲生氏郷の記録」にある。
「蒲生氏郷」は、「伊勢の乱の指揮官」であった事から「伊勢の乱」に付いての「秀吉とのやり取り」が遺されている。
恐らくは、この時に、同族である「蒲生氏郷」から「青木氏」にコンタクトがあった事が伺える。
では、”「蒲生氏郷からのお膳立て」かとする”発想も考えられない事は無い。
然し、絶対に「信長面談のお膳立て」は出来ない。
それは指揮官と同族と云う立場が邪魔をして、「信長」に良い印象を与える事は無い。
「怠惰、身贔屓」と受け取られる事は間違いは無い。口を避けても云えない。
そうすると、「楽市楽座」を「引き合い」に出して、「秀吉」が考えて紹介した事に成る。


この時は、未だ無かった。「秀吉と青木氏の直接接触」は、1573年「第二次長嶋の戦い 9/26」が最初である。
「青木氏側」は、この「戦い」で出城建築の為に必要とする「材木」を「買い占め」した事で「掛け合い」に成った事があったが、これが最初である。
「青木氏の材木買い占め」に対抗して、「秀吉」は窮地に陥り、結局、兵が吉野より材木切り出して吉野谷から流して対抗した記録が遺っている。

(注釈 「青木氏の記録」にも在り、敵対はしたが既に認知している関係にはあった。)

以後7年間の「秀吉との接触関係」に付いては「商記録の資料」に次ぎの様な事が書かれている。
1580年頃に「紀州討伐」と「備中廻船」の2件記述が確実に発見出来る。
明らかに「接触があった事」を物語る。
(参考 他に2件関係あるのではと観られる「不明な記述」も在る。)
ところで、この2件はどの様な接触であったのかを調べた。

「紀州討伐」では、「伊勢-紀州」の最後の「始末掃討戦」であった。
「南紀州」には、「青木氏の遠祖地」(和紙楮生産地)が多くあり、「秀吉」と決着を就けた事が「別の資料」に詳細に記録されている。

(参考 「別の資料」とは、「伊勢青木氏」と関係の深かった「伊勢衆」の主家に「青木氏の手紙」が遺されていた。
この中の一節に書かれている内容である。「伊勢衆」と談合している事は「青木氏年譜」でも判るが、この時の結果を連絡して合意を求めている手紙である。)

「備中廻船」(1581年)は、直接表現は無いが「商記録の記述」から「備中攻め」の「資材搬送」であった。

1568年の「第二次長嶋戦い」では、「商いの形」では「伊勢国衆」に対し「合力の約束」を果たした。
「青木氏」として「表向き」には、織田勢とは敵対はしていないが、明らかに「商いの形」では敵対はしている。
堺店から長兵衛が、織田軍から資材調達を請け負い、伊勢に戦いが続いていた事を背景に高騰を理由に圧力を掛け続けた事が記録されている。
当然に「秀吉」ならば「青木氏の二つの顔」は経験者で知っている。

然し、その後に和解している。何故、和解に成ったのか不思議である。
「二つの顔」は知っている「秀吉」が、”何故に和解に応じたか”は解決しておかねばならない疑問である。
明らかに、秀吉側に何らかの「メリット」があった事に成る。
つまり、その「メリット」が判れば「和解の疑問」は解ける。

それは、上記した様に、”「出自誇張」”のみならず”「シンジケート確保の魅力」”に有ったからで在る。
其れを物語る事は下記に示す”「紀州討伐」”でも明らかに成っている。
「青木氏」としても、「秀吉の出自誇張」は、この時から感じ執っていた事を物語る。
直接、間接に関わらず、「何らか縁組」などの話があったのかの詳細は未だ判らない。
記録の資料が出るとすれば、恐らくは、「伊勢郷士」か「伊勢衆」からであるが資料がまだ見つからない。

この「秀吉側から観た和解」は、「青木氏の四家問題」となった数年後に発生した”「秀吉の青木氏」”以外には無い。

両者から観ると、次ぎの事が「和解の主因」であろう。
この「紀州討伐」は、1577年から1585年までの間に行われた三期に分かれたが、主に”「門徒衆の一揆掃討作戦」”であった。
相当に色々な複雑な勢力が入り組んでの反抗であって、その「掃討作戦」であった。
概して、一般には当時は、「門徒衆一揆の掃討作戦」と位置付けられた。

(注釈 伊勢紀州域では少なくともその様に観られていたのである。「紀州」では,これを「門徒一揆」と呼ばれていた。
その後、昭和20年頃までの浄土真宗の家筋を普通は、「真宗」と呼称される事が多いが、紀州では「特別な意味合い」を込めた呼称で”「門徒」”と呼ばれる様になった。)

この反抗は、「石山本願寺の影響」を受けた事が原因で、昔からある「独特の紀州気質」が表に出て来たとされている。
それは、「伊勢気質」と同様に、”「独立性」が強い気質”に有った。

この「門徒衆」の主の「石山本願寺の顕如」は、「自らが始めた戦い」から早々に勝手に身の危険から引いてしまった。
足元をすくわれた「門徒の紀州人」は怒って、この「紀州気質」を出して「反抗姿勢」を採った事が原因していた。
依って、その立場立場で”反抗”は複雑を極めたのである。

この「反抗した勢力」は「門徒衆に関係する反抗」であった事から”「門徒一揆」”と地元ではそう呼ばれていた。
これを整理すると、次ぎの様に整理される。

この「反抗地域」では、「北紀州」と「南紀州」に分けられる。
この「反抗内容」では、「織田氏への反抗勢力」と「門徒衆の生活不満勢力」に分けられる。
この「反抗勢力」では、更に「宗教武装集団」と「国人の武装集団」に分けられる。
この「国人武装勢集団」は「領国化」と「独立覇権」を狙った勢力に分けられる。
ところが、「反抗集団の指導者」を除き、全て「隠れ門徒」も含めて「門徒衆」が主で動いた。


「北紀州の掃討作戦」は次の通りである。
雑賀衆を中心とする反抗勢力、
畠山氏の領国化勢力、
高野山衆の反抗勢力、
根来衆と雑賀衆の傭兵軍団の反抗勢力、

「南紀州の掃討作戦」は次の通りである。
南紀州の農民の門徒衆一揆

これらは複雑に入り組んでいて、各勢力の反抗明文も多様であったが、「根底の共通点」は、矢張り、「門徒衆」であった。
ところが、「反抗集団の指導者の思惑」は、別にあり、要するに、”門徒”を利用して「反抗の勢力」を大きくしたのである。

「武装反抗勢力」の「雑賀衆,根来衆、畠山衆、高野山衆」は、当初は「信長」に傭兵軍団(鉄砲)として雇われ、「信長」の「天下の路」に大きく貢献した程のものであった。
然し、「石山の戦い」から波及しての「門徒衆」であった事から、1576年末頃から内部分裂で反抗し始めた。
(第一段階)

この混乱(1584年頃)を利用して「国衆」の「畠山氏」は、「独立性気質の意識」を表に出して混乱に乗じて紀州を「領国化」し始めた事が発端で、「家臣の門徒衆」もこれを利用して反抗した。
(第三段階)

第二段階となった「南紀州」は、「青木氏の遠祖地」であり、「和紙楮生産地」の南紀で散発する「門徒衆の最終掃討作戦」であった。
この為に、「青木氏」は民の一揆の「経済的な支援」をしていた事から、責任者の立場上、”ある条件”を下に、この何れにも利益の無い一揆を収束させる目的から「秀吉」と話し合った。
この事から、早期に一揆を収束させたが、この時(1580年)から「秀吉」と親交を深めた事に成っている。
この時は「伊勢青木氏の顔(信定)」と「紙屋長兵衛の顔」の「二つの顔」での面談であった。
この事が確かにより「秀吉と親交」を高めた事が「郷士の内資料」から伺える。
又、その後の「伊勢での青木氏に対する厚遇」でも充分に判る。

この第二段階の「青木氏との収束策(”ある条件”)」が、第三段階までの「全門徒衆」の一揆に大きく影響を与え収束した。

(注釈 「紙屋長兵衛」は、全力を挙げてこの「全門徒衆の経済的不満”「ある条件」”」を解決する策を講じたことが「郷士衆と国衆」の「家に遺された手紙」に遺されている。)

この時の「門徒衆との約束」として、多くの事(”「ある条件」”)が実行された事が記録されている。

主にその”「ある条件」”とは、次ぎの「四事業」と成っている。

その「約束一つ」として、”「家内生産」”が出来る様にと、”「各種の紙箱や紙袋」等の殖産”を進めた事が「青木氏の記録」や「郷土史」にも地域貢献した事が記載されている。
昭和20年代まで、「北伊勢の特産品」であった。

その「約束二つ」として、この室町期末期の時から、新たに、どの立場の門徒衆も家内工業的に出来る「櫨の実(ナナカマド・ハゼ科)」から作る「ローソク」の生産にも入った事が「商記録」を辿ると記述されているし、「口伝」にも「他記録」にもある。

その「約束三つ」として、「信濃青木氏」から「養蚕技術」を四家の者が留学して学び、その「養蚕と布衣品の生産」も伊勢紀州域に広めたと「伊勢の郷土史」と「商記録」にも口伝にも記されている。

”「ある条件」”の極めつけは、「約束四つ」として、室町期には、未だ「早場米」は無かった。
ところが、「門徒衆の農民」の為に、「青木氏の莫大な私財」を投入して研究して何とか「早場米」を作り上げる事に日本で最初に成功した。
この事に付いては、「郷土史」には詳細に記載されている。
この「早場米」は、「早稲光」、或は、「光稲」と呼ばれていて、「青木氏四家」の「光三郎」の「先祖名」が付けられて呼ばれいて、その後、全国的にこの、「早稲光」、或は、「光稲」は「全国の青木氏」を通じて広まった事が郷土史にも記録されている。
この事で、「伊勢紀州の門徒衆」のみならず「伊勢紀州の農民」からも大いに尊敬され、昭和初期まで「尊農家」としても郷土史にも記録されていた。

以上、「第二段階の約束」として、「和紙楮殖産の拡大」は元より、上記の「四事業」を私財を投じて実行した。
旧来より「御師様」「氏上様」と崇められていたが、更に「門徒衆」からも神の様に崇められ、不満は一掃されて納まったと記述されている。

(注釈 昭和30年頃まで「蝋燭の生産」は「紀州特産品」であった。
衰退した現在も紀伊山脈の山にはこの樹木が多く遺っていて、秋山は当に赤黄で一色である。)

(注釈 現在でも「北紀州域(奈良域から堺や若山までの地域)」には、「紙箱などの紙製品の特産品地域」として遺っている。
その中には、この時に最初に商人に転身した「門徒武士」の家筋の500年以上にもなる「紙箱の老舗」が現在も顕在して生産している。)

この流れに沿って、遂には、これを観た多くの「門徒武士」からも、雪崩を切る様に積極的に”「商人の路」”へと「転身」をした。
これの「受け皿」と成って彼等を導いたのである。
そして、「青木氏」は、彼らに「商いのイロハ」から教え、独立させて、この「四事業」を専門に扱う多くの「射和商人」に育って上げたのである。
そして、育った彼等の「四事業」に携わった人々を「商業組合」に入れて保護したのである。

そこで、筆者は、この「四事業」を成功裏に導く為に、前段で論じた様に、「伊勢松阪」にその「自由な商業組合」を主に創設した、と観ている。
「四事業の事業種」も然ること乍ら、「武士、民、農民」等の各層からの人々、「自由な立場」での参画、「生産から販売」までの「仕事の内容」を様々にも持つ事から、”「自由」”をモットーに組合を構成する必要に迫られたと観られる。
更には、恐らくは、「秀吉」手引きの「信長面談」での「楽市楽座の約束」でもあった事と考え合わせていて、”「伊勢復興の策」”としてこの新しい形の「商業組合組織」を構築したと判断している。

この「趣旨の事」を書いた「青木氏四家」から”「郷士頭」”に宛てた手紙も発見されている。

当初は、「会合衆」の組合として、伊勢松阪で発足させた形跡(青木氏の資料)があった。
ところが、「紀州討伐での影響」で、この「四事業」が思わぬ方向へと発展した事から、「伊勢の会合衆」の考え方から「伊勢の自由商業組合」へと舵を切ったと考えられる。
何れも「大商人だけの会の会合衆」の組織では、最早、成り立たなく成り、そこで「発想の転換」から、彼等を救う為にも上記の云う「全階層」の「自由商いの組合」の組織に変更したのである。
兎にも角にも、何れも「日本で最初である組織」と成ったのである。

実は、上記で、”「門徒衆論」”の中で、”「郷士頭」”と書いたが、この「郷士衆」(郷士頭)が、この「紀州討伐」と「四事業の推進」に大いに関わっていたのである。
決して、本論を解くときに見逃してはならない一点である。
唯、「伊勢紀州域」の「門徒衆論」に、「郷士衆論」の「絡み」を解くのが難しいのである。
(実は、当初、試みたが失敗した。整理して挑戦した。)

この組織以外にも、「青木氏」は、「青木氏」と共に「悠久の歴史」を労苦を共にして築いてきた「伊勢域と紀州域と奈良域」に存在した「20の郷士衆」との「連合組織」も新たに”結成している”のである。
”結成している”と云うよりは、「時代の変化」とこの「状況の変化」に合わせて、”結成し直した”と云う方が正しいだろう。

この組織は、遺された記録には、”「伊勢郷士衆」(「18郷士衆」)”と記載されていて、その原型は、「和紙殖産商い」を始めた925年頃の平安期から始まっている。
鎌倉期を経由して室町期の「紙文化」と成った頃からは、以前の「助合組織の郷士衆」から、「運命共同体組織の郷士衆」へと変身しているのである。
資料からは、前段でも論じたが、平安期から「20の郷士衆」から伊勢紀州域は成り立っていたが、前段でも論じた様に、「伊賀の乱」で「二郷士」が「裏切り行為」をした事から「18郷士衆」と成った。
この「18郷士衆」(中には「18人衆」と記録した資料もある)に「郷士頭」を置いて、一切を取りまとめていた事に成っている。
この「郷士頭」は、「持ち回り制」を採用していた様で、「郷士頭名」が資料年代で異なっている。

資料から観ると、この「郷士頭」と「青木氏」が互いに「縦の連絡」を取り合っていた様である。
然し、かと云って、時々、「頭外の郷士」との「やり取り」も観られるので、ある程度の「専門担当」を決めていたと観られる。
それを「郷士頭」が全般を取り仕切っていた組織に成る。

その前に、この「18郷士衆」と「青木氏四家」との関係に付いてもう一度論じて置く。
「青木氏四家制度」は、「三つの発祥源」と「賜姓五役」と「国策氏」と{皇族賜姓族}の家筋を護る為に、「純血性」を前提として、この「四家制度」を平安期初期の直前に敷いた。
この時、「四家の福家」から観て「孫域」までを「子供」として扱い、娘の嫁ぎ先の子供(孫)を「正式な跡目権利」を与えて、幼少期から引き取って育てると云う制度を敷いていた。
この「娘の嫁ぎ先」が、元々は、「伊勢紀州の20の郷士衆」であった。

従って、この「四家制度」が続く限りは、「「伊勢紀州の20の郷士衆」には、時代毎に「古い縁籍筋」から「新しい縁籍筋」の関係が出来上がる事に成る。
「古い縁籍筋」が「新しい縁籍筋」に成り得る事は、{四家制度}が「代替わり」する度に当然に起こり得る。
「伊勢紀州の20の郷士衆」の限られた範囲の中では、この縁籍関係は繰り返される事に成る。

この時、「超大地主の青木氏四家」から「20の四家」から嫁ぐ娘に対して「地権」を持たして嫁がせる事に成る。
逆に、「嫁ぎ先の孫」が「20の四家の跡目」に成る事も起こる事から、これを繰り返す事に依って、この「郷士衆の地権」は「重層化した地権」が起こる事に成る。
この「郷士衆の地権」では、その「地の殖産」を「仕事」として担う事に成る。

「青木氏四家」には、”「20の四家」”が生まれるが、「四家の地権」の範囲で、それには「四家に与えられた仕事」を直接担う事に成る。
この「下部組織」として「20の郷士衆」の与えられた「郷士の地権」の範囲で、「仕事」が熟される。
この「地権の範囲での仕事」は、その「仕事」に従事する「民までの差配」に「責任」を負う事に成る。

つまり、「青木氏四家」には、結局、「40の仕事」が、「四家地権」と「郷士地権」で動く事に成る。
但し、「20の郷士衆」の家筋範囲の事は、「青木氏四家」は関知しない。
その「郷士地権の範囲」の経済力で「子孫」は拡大する事に成る。

この自由を持つ「20の郷士衆」の「20系譜」から、「青木氏四家」に「新しい血筋」が入る事で「純血の弊害」を無くしていたのである。
従って、「時代の変化」と「四家の変化」で、「20の郷士衆」の「地権」には差が出て来る事に成る。
従って、この「20の郷士衆」に執っては、「青木氏四家との関わり具合」の如何は「男女の子孫」を如何に増やすかに関わって居た事に成る。
且つ、その発展は「四家からの娘嫁」にも大いに関わる事に成っていた。

この背景にある「20の郷士衆」は、その為には当然に、「紀州伊勢域」の「他家の家臣」と成っている「門徒衆武士」との血縁関係も大いに持つ事に成る。

前段で論じた様に、「20の郷士衆」が、「伊賀の乱」で合力したのは、主にこの「伊賀氏との血縁関係」が深かった事にあった事を物語る。
故に、「伊賀氏」が窮地に陥った時に、青木氏は約禁を破ってでも、「織田氏攻撃」に対してはそれまでは「中立姿勢」を保っていたが、「名張の清蓮寺城」から突然に「側面攻撃」で虚を突き一時を稼ぎ、この合力した「18の郷士衆」を”深夜に救い出す”と云う「離れ危険技」を遣ってのけたのである。
然し、織田軍は、この「二つの青木氏」に対しても、「18の郷士衆」に対しても、一切の「報復処置」は採らなかったのである。
「一切お構いなし」と成っている。

更には、「各地に離散した伊賀者追討」と「1年後に伊賀帰参者討伐」も「不問処置」としたのである。
「一切お構いなし」も「不問処置」になる理由は何も無い。
あるとすれば、つまり、これは上記した様に、「秀吉手引きによる信長面談」の「約束事にあった事」を物語るものである。

前段でも論じた「18の郷士衆の救い出し作戦」の根底には、「青木氏との深い繋がり」の所以があったのである。
この「18の郷士衆」の「伊賀合力」に対しては、上記した様に、「二つの青木氏」とは「運命共同体、一心同体の関係」にあった事から放置出来なかったのである。

従って、上記した「門徒衆の裏工作での説得」が、「20の個々の郷士」で、その「伊賀合力」に観られる様に、その「広い血縁関係」を利用して「懸命な説得」が行われたのであるし、この説得が効を奏した事に成ったのである。
そして、今度は、救出された2年後には「18の郷士衆」は、「青木氏援護」の下に立ち直り、何と「門徒衆救出」に出たのである。

この「門徒衆救出作戦」には、この「門徒衆の武家」と違って、「20郷士衆の武家」側には、「青木氏からの地権基盤」(経済的基盤)を持っていた事から、この「説得」には、暫定処置を講じて一時保護して説得を行い易い力が備わっていた事に成る。
そこに、「青木氏四家」からの「四事業の裏付け」があれば、「門徒衆武士」としても納得に応じ易い事に成る。
其の侭では、「秀吉」に殲滅される宿命があったとすれば、「20の郷士衆」との関係を持つ「門徒衆武士」は全て応じた様に記録から読み取れる。


これを観た血縁の持たない関係の無い「門徒衆武士」も説得に応じて来て、救助した事が判って居る。

この「紀州討伐」では、実は「門徒衆」と裏で折衝していたのは、この「18の郷士衆」(20から2氏脱退で正式には18に変化)であった。
この「紀州討伐」の時の「青木氏」が、この時、この「郷士頭」(前田氏)との「手紙のやり取り」(他一通)をしていて、これが詳細に遺っているのである。

(注釈 「2氏脱退」は「伊賀の乱の裏切り行為」、つまり、「織田軍道案内」からであるが、脱退は青木氏として容認した。
然し、その「2氏の地権」は青木氏に戻る事から、「青木氏の娘嫁先」のその子孫を保護して続けさせた事に成っている。
この「脱退2氏の跡目」は外したが、跡目が育つまでの間4年間は不籍にして維持させた事に成っている。
この「離反行為の2氏」には、「娘嫁関係」が暫く途絶えていて不満があった事が記されている。
昔は「郷士頭」も務めた家筋であったが、「地権」も小さく成り織田側に付いて「一挙逆転」を狙った事に成っている。)

この時、要するに、”「門徒衆組織」”を影で収めたのは、この”「18の郷士衆組織」”なのである。
実は、ここで、前段の補足として、論じて置く事が在って、それは「二つの青木氏」の”「御師制度」”である。

この「青木氏に関わる職能集団」の「御師制度」には、次ぎの「二つの組織」があった。
A 青木氏の内部に持つ職能集団-「内御師制度」
B 青木氏の外部に持つ職能集団-「外御師制度」

実は、全青木氏は、この二つの制度で構成されていたのである。今までは主に「内御師制度」の中味に付いて論じていたが、「外御師制度」もあったのである。
前段で、「青木氏の総陣容」は、「88700人」としてその規模を数値にして見て論じて来たが、これには、「外御師制度」を加えての論では無かった。
何故、論じなかったのかと云うと、下記で論じるが「外御師制度」は、この”「20の郷士衆」”に「差配」を委ねていた事による為で「別枠の論」として敢えてここで論じる。
「娘嫁先」と「地権」と「郷士頭」と「職能」と「民の集団」と云う「特別の論点」が別にあった事から、外の関係性が強く影響する事から、論が複雑に成る事を避けて、「郷士関係」の処で論じる事としていた。

(現実には、論じたが、モニターの方から”複雑すぎる”と云うNGが出て失敗した。”複雑”も然ること乍ら”詳細”過ぎる事もあって相当割愛した。ここから次ぎの「18の論」へと分別して随時に論じる事とする。)

さて、上記Aに付いては前々段で瑠々に論じた「神明社」などを始めとする「四家」が受け持つ”「内御師」”である。
そこで、問題なのは、このBの「外御師」の「御師制度」は何であったのかは敢えて論じなかった。

この「外御師制度」とは、実は、この「20の郷士衆」の事である。

「20の郷士衆」は上記した様に、「郷士頭」を置いて、その「20の郷士衆」の「地権の範囲」で行う仕事に従事する「民の職能集団」を差配していた。
この職能には、和紙に生産する漉職人、楮を生産する楮職人、紙製品を生産する紙職人、材木を生産する木職人、木製品を作る工職人、農製品を作る農職人等、資料から観ると、凡そ32の職人の集団から構成していた。
これらを差配するのが、要するに、地権の範囲で担当するのが「20の郷士衆」であったのである。
つまり、「20郷士衆」=「外御師」であった。
「地権の範囲」で耕作する農民も商人も含めて「民の職能集団」の「外御師」の中に全て置かれていた。

それぞれの職能には「外御師」の「御師頭」が置かれていて、その「御師頭」がこの「20郷士衆」が務めていた。
「御師頭」=「20の各郷士衆」で、この「御師頭」達を「郷士頭」が差配していたのである。

要するに、この組織は、「各職人のまとめ役」=「御師頭」=「職能集団の組合長」=「各郷士衆」 「各郷士衆の理事長」=「郷士頭」と云う構図に成っていた。

そして、この「郷士頭」は、「娘嫁先の20の郷士衆」の中で、次ぎの条件で選ばれていた様である。

最も青木氏との血縁度が高い事
最近の娘嫁の郷士の家筋である事
地権範囲と職能種を多く持つ家筋の事

以上のこの「三つの条件」に適う「郷士の家」から選ばれていた様である。

「外御師の職能種」が32程度にも及んでいた事から、「20の郷士衆」の範囲では、複数の職能を持つ家筋も起こっていた。
ここに、上記の「四事業種」の職能が加算されたのである。
この「四事業」から「職能種」は10程度は増える事に成り、1郷士は平均で2つの職能種を持つ事に成ったと観られる。

当然に、「外御師制度」を拡充して、この「20の郷士衆」で管理差配して行くことに成る。
従って、これに見合う「地権」が必要と成り、それを上記した様に、「本領安堵策」を用いて「青木氏の旧領地」が「秀吉」に依って加算加増された所以なのである。


この様に、伊勢に遺る資料から観ると、この「門徒衆」等が集まる新しい商いの組織の”「自由な商業組合」”の結成に付いては、この「18の郷士衆」と「青木氏」を中心に連携を採っていた事に成る。
この「門徒衆」などで構成された「自由な商業組合」は、「20の四家」(内御師制度)と「20の郷士衆」(外御師制度)に依って支えられ続けたのである。
故に、明治期 大正期に成っても遺ったのである。

「伊勢商人」の中に「新しい商業組合」が構築され、その下にこれらの「青木氏」が始めた”「四事業」”を専門に扱う”「射和商人」”を専門に育てたのである。
要するに、「計画(四家)から生産(郷士衆)そして販売(門徒衆)までの組織」を一連にして確立したのである。

「門徒衆」の多い「南紀州」には、「紙文化と云われる室町文化」と相まって、「北紀州地域の紙製品の殖産化」で、「紙文化」が一挙に進んだ事から「和紙の原料」と成る「南紀州での楮の増産」をも大いに進んだ事が記載されていて、我家の口伝にも伝わっている。

(参考 筆者幼少の頃、父に連れられて、南紀州の「和紙楮殖産」を営む「門徒衆の伊藤分家」に長く滞在宿泊した事があり、その生活雰囲気は今でも脳裏に蘇るし、又、「北紀州の紙製品」の「老舗の岡氏」等を始めとして、「古参門徒衆の家」や「古参郷士衆の家」の様子も、現在は代替わりで親交が途切れている「幼少期の記憶」がある。)

この為に殆どの「門徒武士」を含む「一般の民」の一揆は早期に収束した。
つまり、背後に「18の郷士衆」が存在していた事から収まりが着いたのではと考えている。
だから、盛んに”「郷士頭との手紙のやり取り」”をしていたと考えられる。
これは、取り分け、農民や民は兎も角も、「武装集団」と絡んでいる「門徒武士の説得」に苦労した事を物語る事に成る。
これには、日頃から「伊勢紀州武士」として行動する立場と絡から、「郷士衆の説得」がこの問題の解決に絶対的に必要であった事に成る。
故に、「説得」が、「彼らの矛を収める」だけでは無く、「転身」と云うところにまで突き進んだ事に動いたと云う事であろう。

「武力集団」側も、流石、この「門徒の家臣」の離反に驚いたは勿論の事、制裁をも加えられなかったのであろう。
本来なら、命に関わる離反転身である。勿論、説得する郷士側も危ない。
「門徒衆の家族」や「郷士衆の家族」も護らねばならない。
何せ相手は「プロの傭兵軍団」「忍者軍団」である。
相当に用意周到にして、”「手出し」は無いだろう”とする事を承知確認の上で、「説得」に掛かった事が記述されている。

この「制裁」に出られなかったのは、「戦域」を拡げると背後に「青木氏と18郷士衆」が持つ「伊勢シンジケート」の「同質同格の勢力」が控えていた事にあったからである。
この時、既に伊賀は滅亡し、浪人と成って各地に離散していた伊賀者は、「20の郷士衆」の手引きで、1年程度で伊賀に戻り、「伊勢シンジケート」の組織の中に加えられて保護されていたのである。
ところが、歴史では、”「離散した伊賀者」は再び集まって反抗を続けた”と成っているが、個々に集まって来たとしても、「生活の糧の補償」が無ければ、反抗など成し得ない筈である。
その「補償の裏付け」が、「20の郷士衆」が手引きして、「外御師集団の警護役」として補償としたと記録されているので、間違いは無い。

筆者は、この資料から、”「20の郷士衆」”の「郷士頭」が中心に成って下記の理由で呼び寄せたと観ている。

「青木氏の関係族」から見つかった「二つの資料」では、上記の「絡み」から「20の郷士衆」の「御師集団」に夫々組み込まれ、「職人を警護する職能」として働き、いざと云う時には、「伊勢シンジケート」の中でも働いて「糧」を得ると云う形式を採っていた模様である事が判る。
”「警護」”と云う「一つの職能集団」を、「青木氏]の中で形成していた様で、「軍」とは別の意味で、あくまでも「外御師組織」の一種の自治的な「警察機構的な組織体」を作っていたと観られる。
この「伊賀衆」等から成る”「警護職能集団」”が、「門徒衆の家族」や「郷士衆の家族」等を護っていた事が記述されいる。

「伊賀衆」を助けて保護し、その直ぐ3年後には、今度は「門徒衆救護」に出たのである。
「青木氏」が出した「郷士頭」の手紙の中には、「門徒衆救護」の為に、早急な手配方を「郷士頭」に依頼している事も書き込まれている。
如何に緊迫した中で、行われていたかが判る。

「郷士頭」は、「伊賀衆」と「門徒衆」と立て続けに救護したのであるから、如何に大変な仕事であったかは判る。
「伊賀衆」は、同じ助けられた者として「門徒衆救護」には大いに力を発揮したと観られる。
その意味でも、「武力集団側」は当然に知っている事であるので、”「伊賀衆」が背後にある事の「危険性」を大きく感じていた”と考えられる。
むしろ、”逆にゲリラ戦を仕掛けられる恐怖があった”と観られる。
その「伊賀者の底力」には、「背後の青木氏」が観えているのである。
「青木氏の経済力」は前段でも論じた通りで衆知であった。
「他の勢力族」とは、体質的に異なる当時としては「異質の絶大な勢力」であったからこそ、「武装集団側」には余計に警戒されたと観られる。
警戒しない方がおかしい事に成る。

この様に強力に動く「20の郷士衆」が、構成する「外御師」のこの「郷士頭の存在」は、「青木氏」の「外のまとめ役」として無くてはならないものであった事が判る。
「二足の草鞋策を採る青木氏」は、「外の事」は、この「20の郷士衆」の”「郷士頭」”に「伝言一つ」で済むと云う関係にあった事が判る。
最早、「20の郷士衆」=「青木氏四家」であった。


話しを戻して。
「秀吉」は、この「一連の統治組織」の中での事を観て、この「青木氏に対する信望」を更に高めたと考えられる。

「室町期の戦乱」の中で、「武力集団」の「大名や豪族」の上に立つ”「三つの発祥源」”であるなら、本来なら「武の威力」を「優先する立場」にあり、それを率先してでも祖の立場を護った筈である。
然し乍ら、「武」の上位に立ち、「武」を持ちながらも、「武」を使わない稀有な「高い統治組織の青木氏の存在」を改めて知った「秀吉」は、この「秀吉の青木氏発祥」へと突き進む「決定的要因」となったと観られる。

この事も含めて、後に「秀吉」に依る「旧領地の本領安堵」の決定要因とも成ったと観られる。
多くの「旧領の本領」を安堵しても、「武」に依らない高い「統治能力」を有する「青木氏」であれば、問題は無く、むしろ、「紀州伊勢域」により「大きな地権」を与えて「地域の繁栄」に貢献させるべきと考えた筈である。
然し、敢えて「旧領の範囲での本領安堵」だけを受けたのである。
仮に、「旧領地外に地権」を得たとして、その得た「地権」を前提として「事業」を拡大しても、それに伴う「より良い組織」と「統括統治能力」が育成しなければ、結局はこれを護ろうとして無理に「武」に頼る結果と成り得る。
これでは「青木氏氏是」に反する繁栄と成り得る。
「氏是の諭し」に従うは、序に記している「氏是」が求める”「抑止力」にあるとする考え方”にあったからである。

実際に、資料から観ると、摂津西域、近江一部、名張西域、伊賀北域、南紀西域に、旧領地外の新規領地の安堵の話があった事が読み取れる。
この「5地域」は、「旧領地のほぼ隣接地域」であるが、然し、現実は受けていない。
何故なのかは、確定した理由は判らないが、次ぎの事では無かったかと考えられる。

(イ) 「氏是」を護り「旧領地外の地権」を受ける意志が無かった事。
(ロ) 「20の郷士衆」の外域と成る事から避けた事。
(ハ) 「秀吉の思惑」が「旧領地から離れた隣接域(伊勢大和紀州の全域 約1.5倍/旧領地)」にも事業を拡大させて繁栄を図る事にあった事。

以上にあるとして、内々に断ったとする見方が出来る。

何れにしても、(ハ)を受けたとしても、(ロ)が届かない事に成ると、「新規の家人」を新たに差し向けねばなら無く成り、「内御師」の中で運営と成る。
結局、これは「外御師制度」では難しく成り、組織運営に無理と混乱が伴う事が、(イ)の氏是に関わって仕舞う。
「保守的な思考」が左右したのであろう。
「商記録の青木氏年譜」に、”1582年末に「伊勢安堵」”。”1584年の「伊勢解決」”。等の記述がある事から観ると、この結論は「青木氏」と「全関係者」で「伊勢の福家」で話し合った結果であろうと思われる。
その結果を観ると、”更に拡大させる「意志」”と云うよりは、”旧領安堵以上の「欲」”が無かった事に成る。
「難しい判断」であったと観られる。

”何故、「欲」が無かったのか”と云う素朴な疑問が浮かぶ。
その事で調べたのが、この加増される「地権範囲」が、3倍も4倍も拡大するのには確かに抵抗と成る。当然に「無理と混乱」が伴うし、「旧領地外」の加増される「地権の領民」との間には共有する「歴史と伝統」は無い。
その地権が「約1.5倍/旧領地 の地権が増える」は、筆者の感覚では、「無理と混乱」の「許容の範囲」であると考えられる。
その「旧領地外の加増地権」の範囲は、「隣接域」に相当し、「飛び地領]でも無い。
”「欲が無い」”は、「青木氏」「家人頭」「内御師衆」のみならず「20の郷士衆」や「外御師衆」や「職人衆」や「シンジケート頭」や「神明社権禰宜頭」にも無かった事に成る。
この「多くの関係衆」に執って、果たして「地権がより広まる」は、「生活が高まるの条件」なのかにある。
「衆合しての話し合い」は、結局は、「共通する議題」は、必然的に「地権拡大」=「生活向上」に関わる事に成るだろう。
と云う事は、取り分けこの談合は「二つの立場」に判れる。
「青木氏」や「内御師衆」や「20郷士衆」の立場と、「外御師衆」や「職人衆」の「長」の立場に成る。
この「二つの立場」が集まったのであるから、この「二つの立場の考え方」が、”それ以上の飛躍した生活を望まなかったまでに豊かであった”と云う事にも成る。
つまり、議論の末は、「地権拡大=生活向上」と云う結論に至らなかった事に成る。

「旧領地までの拡大」は、”妥当な豊かさである”として否定せずに、必要以上の欲を出さなかった事に成る。
「旧領地」は、共に1000年以上に生きて来た伝統を遺して来た土地でもあり、当然に否定する者は居ないであろう。
「旧領地」には、夫々立場で例外の無く「縁者や親籍の一族」が、帰属を希望して200年以上も我慢をして来て、これを否定する者はいない。
その「旧領地」には、「新たな四事業」が敷かれて、”「近隣の門徒衆」と共に、「旧領地の親族の生活」が潤うのであれば、充分だ”とする考えが支配したのであろう事が判る。
これは”「欲」が無い”と云うよりは、”「親族の帰属」への満足” 即ち「一族愛」であった。

その証拠と成ることが一つある。
それは、「四事業」の一つ未知の「早場米の開発」(早稲光)にある。
仮に、「旧領地の地権」が回復しても、そこには「青木氏地権全域」に及ぼす「豊かさ」を保つには「主食料の確保」(米の増産)を成し得なければならない必須の条件である。
それは、新たに必要と成る「門徒衆の食糧分」と、事業拡大に伴う他の地域からの「新たな人員の確保分」も賄ねばならない。
其の侭では、絶対量は不足する。互いに分けあえば苦しく成るは必定である。然し、「地権範囲」は限定されている。
と成れば、「二毛作が可能な稲の開発」と云う「未知の難題」に「衆議の議論」は陥ったと観られる。
そこで、宗家の「青木氏福家の責任」として、「和紙殖産」から未経験のこの開発に取り組んだのである。
現在の様な「農業試験所」がある訳でも無く、当時としては発想そのものが特異であったし、その様な経験者も無かった。
「稲の開発」だけでは済まない。「気候や土壌の解明」など全て「未知の世界」である。「青木氏」だけが未知である訳では無い。日本全国未知なのである。
況して、「戦乱期の中での開発」である。
「並外れた気力」と「莫大な財力」が無ければ成し得ない。
「青木氏の衆議」は、この「厳しい未知の選択」を選んだのである。

「旧領地外の地権拡大」は、「旧領地」と異なり、更にこの問題が伴う事に成り、その意味でも議題は進まなかったのであろう。
そもそも、「1000年の歴史と伝統」を共にしなかった人を動かす自由度が異なる。
「成功裏の裏付け」は取れないし、「独立性癖の強い風土癖」も重なって「反発」も覚悟をしなければ成らない。
「衆議の議論」が紛糾したと観られる。
「旧領地外の地権拡大」には、この「未知の難題」に議論が傾いたと云う事は、”「欲」が無い”では無く、”「余裕」が無い”と衆議は決まった事に成る。
それよりは、この”「早場米の開発」”に衆議が決まった事は、”「親族の帰属への満足」「一族愛」を優先するべき”と決まった事にも成る。
「青木氏福家の責任」を果たす「最大の課題」で「未知の難題」であったことが、「光三郎の家の資料」からも発見されているし、「青木氏の最大の誉れ」としての口伝が伝わっている。


さて、この様な経緯の中で、多くの「門徒衆」を救ったが、この「青木氏の誘い」に乗らなかった勢力がいた。
これが、「武装勢力」の「指導者衆」であった。

然し、唯、雑賀氏と根来氏と畠山氏の「国衆」の「武力集団」だけは完全には解決しなかった。
この領域の問題は、「青木氏」には無関係であった事から、この「武力集団」だけが浮き上がった形に成った。

然し、この配下にあった「門徒衆の家臣」等の多くは、「武力集団との争い」から身を引いたのである。
勇気の要った事であったと観られ、この浪人と成った「門徒衆の家臣集団」を「上記の四事業」へと導いたのである。
そして、独立させて「専属の商人」(射和商人)として教育して「店」を持たせたのである。

従って、「秀吉」は、この不満の異なる一揆では無い「武力の反抗集団」に対しては、あくまでも”「戦い」”で臨んだ。
その事があって「殲滅作戦の方針」で「根絶やし」を図った為に2年程度かかったのである。
結果は下記の状況で完全解決と成った。

「青木氏の勧誘」に乗らなかった全ての人々は、家臣を無くし、遂には窮地に陥り、内部で勢力争いが起った。
最後には「根来寺」に全て逃げ込んだのである。
そこでも依然と抵抗を緩めなかったのである。
そこで、「秀吉」は、この「根来寺」に対して民衆を解放する様に再三要求したが抵抗を緩めなかった。
挙句は、民衆を楯に立て籠ったのである。
結局、秀吉に依る「根来攻め」が起こり、歴史に遺る「殲滅作戦」が展開され、「反抗勢力」は紀州から完全に霧消した。

結局は、この「殲滅作戦」を観て恐れを成した高野山の「真言宗騒動」だけは、一時「浮き彫り」には成ったが、これを期に矛を収めた。


「豊臣政権樹立後」に「伊勢青木氏」に対して、「旧来の伊勢の土地」に加え追加の本領安堵された。
この地域の全て、奈良期に朝廷の命で半国割譲した土地柄である。日本書紀にも記述がある地域である。


「伊賀一部」
「南紀州の遠祖地」 
「北紀州一部」
「名張域一部」
「摂津堺地区一部」
「伊勢北部地域一部」

以上等が旧領地の本領安堵された地域で上記の「四事業地域」に匹敵する。

恐らくは、これは、「秀吉」が、上記の解決の発端は「青木氏」にあるとして、「二つの青木氏」に対して「特段の恩義」を感じて、「南紀州域」は、勿論の事として、「伊勢域」を始めとして「北紀州全域」の「門徒衆の不満」を更に解消する為に、「伊勢青木氏」を政治的に保護した。
「伊勢青木氏」に依って民衆に「職」を与えさせて、その「経済的安定」を図らせる為の素地を確定させる為にも、「秀吉からの旧来地の本領安堵策」であった事が書かれている。

「会合衆」から更に発展した日本で最初の「伊勢の自由な商業組合」は、上記したこの「四事業の経緯」からより、”自由さを持つ商業組合”と成って、この「自由商業組合」が発展したのである。
これが、象徴する”「射和商人」”と呼ばれるものである。

この為に、「秀吉」は、”「民の門徒騒ぎ」は「一切不問」”として、この「事業の推進」を政治的に図った事が「青木氏の資料」に書かれている。
前段でも論じたが、「徳川氏」もこの「本領安堵策」を踏襲した為に「伊勢商人」と「射和商人」は江戸末期まで遺ったのである。
(「徳川氏との談合」は、「500社に及ぶ神明社」と「その領地の返却」で決着した。)


「備中廻船」では、その結果、「高松攻め」では、「資材調達」を一手に引き受けた事が判る。
「二つの顔」を持つ「青木氏」は、「秀吉」に執っては、戦略上、極めて都合が良かったと観られる。
「紀州討伐」では、その[反乱の根本」に成っていた「門徒衆の説得」で事態が大きく進展した事で、個人的にも相当に意気投合していたと観られる。
「人たらしの秀吉」ならではの事である。
”「出自誇張」の腹積もり”は、これをきっかけに「秀吉本気モード」に成ったのはこの時期(「紀州討伐」「備中廻船」「信長面談」)からであろう。
「第二次長嶋の戦い」後には、未だ無かったが、この直後あたりから意識し出した感じがする。

そもそも、この為に瀬戸内海と中国道での「毛利氏による補給路断絶作戦」の動きが在った。
「商記録」(1581年に「摂津会合」。松阪記)によると、「神明社の御師組織」から「摂津の店」が、「毛利氏の動き」としてこの「重要情報(商情報)」を既に把握していた模様である。
この「事前情報」は「摂津水軍」と「伊勢水軍」にも伝えられていた様で、この為に、「補給の商い」を受けた時に、「摂津の店」で関係者が集まって「事前協議」していた事に成る。
「秀吉軍の補給」も然ること乍ら、瀬戸内が混乱する中で「商の運搬」も含めて「二つの水軍」が「海路の確保」の為に「抑え込み」に入っていたと観られる。
名目は「青木氏の商船保護」の「誇示行動」であったらしい。
この商記録の”「廻船」”の「言葉の意味合い」は、意味が深くこの事から来ていると観られる。
(「商記録」の「細かい取引内容」を更に詳細に分析すれば、よりはっきりとした「行動の答え」が出て来ると観られる。)

「秀吉」に執っては歴史上、「毛利進出」は「最大の命題」で「信長の督促」があった状況下で焦っていた。
然し、「高松攻め」に付いて「秀吉」に執っては、最大の課題は「軍事力」では無かった。
その危険で弱点であったのは、「中国域の毛利勢」に依る「補給路の断絶作戦」であった。
この「命題の補給」を「請け負える豪商」はそうは無い。

その為には、「秀吉」のみならず補給の「豪商」自らも「毛利に対抗できる抑止力」を持ち得ていなければならない。
又、敵対する「毛利氏」も”「伊勢青木氏と紙屋長兵衛」”を知り得ていなければ「抑止力の効果」は低い。
と成れば、「摂津や堺にも大店」と「海のシンジケート」と「陸のシンジケート」を持ち、「瀬戸内の讃岐青木氏」との関係を持ち得ていなければならない。
そうすると、「秀吉の弱点の補給路の弱み」を狙っている周囲勢力を押えられるのは「伊勢青木氏」しかない。
「毛利氏」が「紙屋長兵衛の実態」を知る得るには、取り分け「讃岐青木氏の存在」が大きく影響した。

何故ならば、「毛利氏」は強力な「瀬戸内水軍(「平家水軍」からの「陶水軍」を元にした「毛利水軍」、後の「村上水軍」)を保有している。
この事から、「毛利氏」は「讃岐水軍」(讃岐)も「伊勢水軍」(伊勢 摂津水軍)も古い歴史を持つ水軍である事から、「存在]は勿論の事、その「勢力や位置関係」は充分に承知していた。
この事からも、「伊勢青木氏、紙屋長兵衛、伊勢シンジケートの存在と実力」も充分に承知していたと考えられる。
この「二つの青木氏の水軍」がタッグを組まれる事は毛利水軍には辛い事に成る。
何故ならば、過去に一度戦っている様に、下記の「義経の敗戦の経験」を持っているからだ。

この「毛利勢を抑え込む目的」で、「戦略上の安全」から”摂津港から海送した”と記されている。
上記した様に、「瀬戸内の示威行動に依る事前準備」が働いたと考えられる。
この事は、「伊勢」からでは無く、瀬戸内海の「摂津」から出る事で、「毛利側」に敢えて「補給船団」の「出船」を知らしめる事で牽制する目的があった事に成る。
そして、「補給」が順調に出来ている事を認識させて、”「毛利の戦意」を低下させる狙い”があったと考えられる。

仮に、この「補給」を止めようすると、「讃岐青木氏」と「伊勢青木氏」を敵に廻す事に成り、結果として全国にその子孫を拡げ展開している「藤原秀郷軍団」を呼び込んで仕舞う事に成る。
これは、結果としては戦域が広まる事から「高松攻め」は成功させる事に成る。
従って、「毛利側」には「戦域拡大」は絶対に得策では無かった。

従って、この事を意味する事として、「毛利氏側」は「和解条件」として、安国恵瓊が「五国割譲案」を提示した位である。
「戦域拡大」は戦域拡大は絶対不利と考えていての和解条件であり、出来なかった。

その為には、「伊勢水軍の護衛船団」(摂津水軍は同族で弱小の商船団)は誇張する意味でも絶対に必要であった。
これは「水軍力」のみならず「水軍の背景」を誇示しているのである。

何故ならば、そもそも、「水軍」とは、元来、「横の組織」で出来ているのだ。
つまり、「伊勢水軍」は、「駿河水軍、熊野水軍、紀伊水軍、摂津水軍」の「横の組織」で構成されている。
血縁関係も「縦横」に結んでいて、海の上での互いに護り合う「連合軍団」をも構成しているのである。

(注釈 毛利水軍の前身の平家水軍と戦った義経は、この「五水軍の軍団」を使っての「独自の水軍編成」で戦った事で勝利した。
この時、義経に反抗的に出ていた「北条氏の相模水軍」を当てにしなかった。)


(注釈 中でも「紀伊水軍」は、全国の水軍仲間からも恐れられていて、その「尖鋭さ」は有名であって、通常の水軍戦闘方式を取らない事が恐れられ、「ゲリラ戦法」であった。
この「紀伊水軍」を引き出すと他の水軍は戦力を無くすとまで恐れられていた。)

”「伊勢水軍」”を見せる事で、「背後の連合軍団」を想起させる目的があり、更には、「讃岐青木氏」が率いる海部氏等から成る「瀬戸内の讃岐水軍」をも想起しなくてはならない事に成る。
「伊勢水軍」は、当然に「伊勢青木氏」を想起しているから、先ず「毛利側の補給路攻撃」は控えて来る。

そして、この「備中の戦い」の時、「伊勢水軍のシンジケート」が「船団の護衛団」として動いた事が書かれている。
当然に「讃岐青木氏との談合」も読み取れる。
恐らくは、これでは「毛利軍の得意とする瀬戸内水軍」の「海からの戦略」は容易に手が出せなかったと観られる。

話題性があって「高松城水攻め」に現在は焦点が当たっているが、現実の作戦上の問題は「秀吉の背後」は弱かったのである。
「裏切り」が起これば、「秀吉軍]は陸に於いても「内部崩壊」を起こす。
それは、取り分け、「秀吉軍2万の軍勢」に物資補給するには、「陸路」は「背後の政情不安と勢力」から危険であった。
一応は敵か味方か判らない「宇喜多氏」は「戦況形成上」では抑えた形で「1万の軍勢」を動かす事に成ってはいたが、何時裏切りが起こるかは判らなかった状況にあった。
「陸路補給」を採っていたとしたら「秀吉軍弱点」を見せた事に成って、「秀吉軍弱点」を突けば勝てるとして「裏切り」は起こったと考えられる。


そこで、「独自の水軍」を持たない「秀吉軍」(織田軍)は、「毛利軍」が抑える瀬戸内での「水路による補給路確保」が「最大の弱点」であった。
この「弱点」を悟られると、各地で「裏切り」が起こり、「東の背後補給路」を断たれて、それこそ「水攻め」どころか、逆に「枯渇攻め」(兵糧攻め)で滅亡する。

現に、この「高松攻め」の前には、秀吉は「枯渇攻めの鳥取城」「日干し攻めで三木城」で勝利して西に進軍したのである。
そこで、戦略上、この”「補給路の弱点」が無い”と云うところを敢えて絶対的に誇示する必要があった。
それは「水路の安全確保」であった。
ところが、逆に「毛利氏」は「瀬戸内水路の西半分」を押えて得意とする戦法でもあった。
そこで。本来なら、水軍を味方に付けて、軍略上のバランスを採って、誇示する必要に迫られていた。
然し、「毛利水軍」に対抗できる味方に出来る水軍は「秀吉」には無かった。
従って、最低限でもこの”「水路の補給路」”だけでも「毛利水軍に対抗できる勢力」を味方に付けて「物資輸送路の確保」をする絶対的な必要に迫られていた。
「秀吉」に執っては、軍略以上に余計に誇示する必要に迫られていたのである。
そんな「商人」がどこに居るのかである。
”そんな「商人」”が居たのである。「秀吉」の「紀州討伐の経験の記憶」の中にいたのである。
それが、「伊勢の青木氏」であった。
絶対的に上記の「紙屋長兵衛と讃岐青木氏」の「速やかな協力」を得る事に在ったのである。

筆者は、「信長面談」には、この「問題の解決」には「秀吉」に執っては「信長の前での談合」もあったと考えている。
その為に、事前に「紙屋長兵衛 伊勢青木氏」の協力を得る必要があるが、「伊勢の問題」を早期に解決しなくては到底に協力は得られない。
つまり、督促されている「高松攻め」は無し得ないというジレンマに陥ち至ってい事に成る。

それは、少なくとも、「紙屋長兵衛」と「信定と忠元の伊勢青木氏」とその「配下の郷士衆」に”不必要な危害”を加えない様に進言しなくてはならない状況に陥ち至っていたのである。
(「水路の補給路確保」のみならず、上記した様に「戦略上の水軍」の「示威行動」にも成り得る特典があった。)
1581年の「紀州征伐の恩義」や、この「補給路の事」にも成功して、恩に感じた「秀吉」は、自ら進んで”知古に成った”のではないかと考えられる。
これが、最終的には「信長面談」に繋がって行ったと観ている。

「青木氏」が求める「悠久の時代」に戻す”「伊勢平穏」”を助け、「秀吉を助ける事」は、「信長」には絶対に不足は無かった筈である。

然し、独自行動を採る「伊勢衆」(伊賀氏、伊藤氏、長嶋氏、畠山氏等)までの話は出来なかった筈である。

この「信長面談」が「1581年の高松攻め」の直前である。
この準備も兼ねて、先ず「長兵衛と談合」し、「氏郷と談合」をし、その結果から、「信長面談の運び」と成ったと観ている。
「話された議題」は上記の通りである筈である。

そもそも、「秀吉の青木氏」に付いては、正式には「本能寺の変」後の「伊勢国と紀伊の国の始末後」から正式に出て来た問題であった。
「1581年の佳境である時期」に「武田氏を滅ぼした後の信長」に会わせるのであるとすると、次ぎの様に成るだろう。

「秀吉の遠縁仕立て」の「人物(1)」では、「人物(2)」の「信定」ではあるが、其れと判る様に敢えて伏せて、「佳境の意味合い」を悟らせる様に工作した。
そして、「秀吉配慮」の「ゲリラ戦の長期化の伊勢」の「事態収拾」を信長に間接的に促した。


第2説の直接に「伊勢の青木氏」として「人物(2)」で会した。
とすると、何かの面会の理由が必要である。
それも、”穏便に”である。

(上記に論じた事を複写)
”1581年の末当初に「秀吉の紹介」で、「一名の青木氏」なる者が、「信長」に面会している。”

この場合は、直接面会の議題の「ゲリラ戦の長期化の伊勢」の「事態収拾」に行き成り入る事に成る。
この場合、「秀吉の行為」は「信長」に対して”烏滸がましい事”に成る。
この時期、通説でも判る様に「信長の精神」は過敏に成っていた。
これを和らげる何かの”「表向きの議題」”が秀吉には必要であった。
況して、「高松攻めの遅れ」もあった。
簡単には行かない。それでも面会は断行されたのである。

上記の様に、裏には思っていても、決して表には出せない「高松攻め問題」もあり、「伊勢の問題の絡み」だけでは無く、”それなりの絶対的な理由”が必要であった筈である。
そこで、「信長」が1568年に美濃や近江に「楽市楽座の令」を発している事に「秀吉」は着目していた。
「信長」は、「形や慣習」に捉われずに「新しい形の経済改革」等に積極的考え方を持っていた事を考え合わせた。
従って、「伊勢」にも「伊勢平定後」には、「楽市楽座の令」を発する為にも、”「ゲリラ戦の長期化の伊勢」に付いて、早期に「事態収拾」を成さしめ、「混乱の後」を豪商「伊勢青木氏」を以って遣らしめる事”を提案したのではないかと考えられる。
この事で、「伊勢青木氏」を混乱から解放させて、「高松攻めの戦略」に巻き込む事が出来ると考え、その事を「敏い信長」に「悟らせる戦法」を採ったのである。

「青木氏の資料」と「公的に成っている記録」から総合的に「状況判断」すると、”青木氏に委ねた”と考えられる。
当然に、悠久の「歴史を持つ伊勢での立場」や旧来からの「郷士」や「伊勢衆」を束ねている事や、「二足の草鞋策」から生まれるその「巨万の富の経済力」を基にして、納めさせれば「不入不倫」で保護されていた「旧来の環境」に戻す事が出来ると見込んでの談合である。

これは「信長」に執っても「反意のない話」であるし、充分に説得できる「表向きの議題」が出来るし、「関連付けられる議題」でもあった。
平定後に「徹底した殲滅作戦」を行った「北畠」「伊賀」「長嶋」「伊勢」「紀州」「雑賀」「畠山」「根来」である。
何れが正しいか悪いかは別として、「皆殺しの殲滅作戦」には、伊勢と紀州には「敵意」を抱いていた事は間違いは無い。
抱くなと云う方が無理であろう。
従って、”武力では無い誰か”を以って安定させて居なければ、又、「一揆や反乱」でも起こる事は避けられない。
これは、後の統一戦略の「九州討伐」を控えて背後が好ましくない。

「青木氏」と共に「20の郷士衆」を中心に、救出した「門徒衆」「伊賀衆」と共に、「武力集団であった末裔」を「和」を以って接し、「生活の糧」を補償させる事で、「乱世での空しい敵意」は次第に霧消に向かうであろう。
「一族の氏郷」と「秀吉と信長」は考えたのである。
この為に、「秀吉」のみならず「本領安堵」は、推測の域を超えないが、「信長」も”「伊勢収拾」後には”と考えていたのではないかと観られる。

「信長」は「秀吉の案」に全く反意無く完全に同意したと観られる。
その証拠に、現実に、「伊勢平定」の直後に「秀吉と氏郷」は、松阪に「城郭」を創り、「ヨーロッパ式の商業都市」を構築した。

(皇祖神の神聖な地を護る為に「城郭」等は禁令で有ったが、敢えて「西洋式の城郭」を創建した。)

これは、その時の結果を如実に反映させた事に外ならない。

前段で論じた様に、「青木氏」は「約束通り」に新しく出来た「侍屋敷町(殿町)」の三区画を特別に譲り受けた。
そして、ここにそれまでの「座」では無く、日本で初めて「解放された自由な商業組合」を構築したのである。
(現在でもその組合であった「四日市商人」や「射和商人」として遺っている。)

この「伊勢の後の始末」から鑑みても、明らかに「楽市楽座の令」を議題に、”「ゲリラ戦の長期化の伊勢」の「事態収拾」”を信長に暗示させたと考えられる。

そこで、「経緯の網羅」は出来たが、次ぎは「青木氏」に執っては、後勘から、この時の「面談に応じた人物」を確定しておかねばならない。

第1説も「信定」であり、第2説も「信定」ではあるが、間接的か直接的かの何れかである。
確定は出来ないが、「平定後の伊勢の状況」から鑑みると、筆者は第2説の「人物(2)」の「信定」と談合したと考えている。
然し、下記の点から第1説の間接的に”「人物(1)」の信定”で面談した可能性が高い。

そこで、この談合が成立すれば、当然に、この第1説も第2説も「人物(3)」の「忠元」に繋げねば何もならない事には成る。
然し、この時は、「秀吉」は、「信定」だけを呼んだのであった。

そもそも、一挙に解決させたいのであれば、両方で会せるのが先ずは”「常道の戦略」”と云うものでは無いか。
況して、「北畠氏の後始末」より当面は「伊賀の始末問題」と「長嶋の当面問題」に移っている。
1581年末と成れば、「伊賀の始末問題」と「長嶋の当面問題」の二つを解決させるには、どちらかと云うと、「人物(3)」の「忠元」である筈であった。
然し、「秀吉の判断」は全く違った。”「信定」”を面談の相手として指定した。
恐らくは、これは「伊勢の乱の責任者」の「氏郷との談合」の末である事は間違いは無い。
とすると、「氏郷」も「秀吉」と同じ判断をしていた事を物語る事に成る。
「常套手段」では無くて、”「何か」”があってこの判断に落ち着いたと云う事である。

では、その”「何か」”とは、この「何か」を解く必要がある。
その「解明の糸口」は「人物(1)」の「信定」であれば解ける。
それは、”「伊賀と長嶋を解決する」”と云う事だけでは無く、”「伊勢全体を解決する」”と云う事に焦点が最早移っていたのであろう。
”「伊賀と長嶋を解決する」”と云う事に成れば、その「伊賀長嶋の解決」の「責任者」は「氏郷」である。
とすると、「秀吉」では無く、「氏郷」がお膳立てしなくてはならない問題で在る。
「秀吉]が出て来る問題では決して無い。

況して、”「伊賀長嶋の解決の問題」”を「信長」に直接に「氏郷」が訴える事は、「責任逃避」と成って「信長の叱責」を受ける事にも成りかねない事は明らかである。
最早、既に、「伊賀散発の騒動」は解決に至るは必定で、「長嶋問題」も第三次で解決する方向に戦略は出来ている。
敢えて、騒ぎ立てる事は好ましくない。まして、「秀吉」がである。
その上で、「伊勢をどの様にするかの議題」として面談する事に成ったと考えられる。
それ以外には唯一つを除いて無い。その唯一つは何かである。

唯、この為には、「伊賀散発の抵抗」と「長嶋の後始末」は、何れも一族の長の「忠元に責任」がある。
その為には、「信定」で先ず「伊勢全体の有り様」を討議した上で、この時に、細部に「伊賀と長嶋の最終始末問題」には、「忠元」との面談も必要であった事から後日に必ずセットする面談と成り得る。
そうで無ければ、この「面談の目的」は達成され得ない。
その証拠に、「細部の始末問題」として”「紀州討伐」”をも計画されていたのである。

故に、1581年末の面談は「信定」で「人物(1)」としてお膳立てされたのである。
つまりは、「唯一の何か」は、「人物(1)」は、”「伊勢紙屋長兵衛」と「青木信定」”であった事に成る。
故に、「人物(2)」の「青木信定」では無かった。
それでなくてはこの面談は成立しないし、「信長」から”要領が得ない”として大叱責を受ける事に成るだろう。

「青木氏の年譜」にも、「信長との面談前後」に「伊勢衆」が集まって数度に談合している事からも判る。
「事前打ち合わせ」と「事後の報告」であった事に成る。


その要領の一つとして、「秀吉」がお膳立て手配した「信長との談合」の中では、「忠元との談合」は必ずセットされる要領事には成るだろう。
「秀吉の高松攻め」の「裏の目的」からすると、「忠元」は秀吉には関係が薄い事に成る。
然し、「信定」を「高松攻め」に引き出すには、「伊勢安定」が必要と成れば、必須条件で、当事者の「忠元」とも合わせて「伊勢収拾」に向けての談合を「信長」ともセットして置く必要がある。
”付帯する必須の条件”としてあった。
これを”誰がお膳立てしたか”の調査では確定する資料が出ないが、「青木氏の商記録による年譜」からは、「秀吉」がお膳立て手配した「信長との談合」の時に、「伊勢収拾策」の「必須条件」として決まった事と観られる。
「秀吉」や「信定」や「氏郷」等が、この話が上手く行けばと、”「事前腹積もり」”はしていた事と考えられる。
と云う事は、この「忠元との面談」の「話を出せる環境」とは、”「聡明な信長」が「秀吉提案の伊勢収拾策」を暗に納得して居た環境”であった事を示す事と成る。

その証拠は次ぎの事であきらかである。
「人物(3)」の「忠元との面談」は、間違いなく下記の通りに実行されている。

それも”4度”もである。
この”4度と云う回数”に重要な事態を物語る意味を持っている。
「聡明な信長」は、「秀吉お膳立て手配の談合」の「裏の暗示の意味」を完璧に理解して居た事を意味する。
前段でも論じたが、後勘から観れば、その「面談のタイミング」が戦略上、適示適切で申し分ない。
更に云えば、「面談場所」も戦況から観ても実に効果的であり申し分ない。
「信長」は、「秀吉の暗示」で動いた事は動いたが、明らかに本気である。
その「信長本気」が、「高松攻め」でなのか「伊勢収拾策」でなのかは、「高松攻め」の前に「光秀謀反」で判ら無く成っているが、「信長」が「青木氏等に採った平穏な伊勢状況」から観て、「伊勢収拾に主眼」にあったと考えられる。
”「伊勢収拾策」”を確定して押える事で、”「高松攻め」”は「青木氏」に依って「水路補給」が可能に成れば勝負は決まったものであり、「流れ」の中で解決する。
つまり、「九州討伐」に向けて”背後を安定させる事”に「主戦略」があったと観られる。
「高松攻め」は、その「経過の戦い」であって、「主戦」では無い。
この「高松攻め」を取りあえず収めて置けば、「毛利勢」と「日和見勢」は時間の問題で収まりが着く。

「讃岐青木氏」と「伊勢青木氏」で「瀬戸内の制海権」を、「織田軍」が「中国地方の2/3の覇権」を押えた事に成り、「九州討伐への道筋」は着く。
「讃岐青木氏」の「水陸の勢力」とその「商いの経済力」と、「伊勢青木氏」の「水軍力とシンジケート抑止力」と「商いの経済力」とは、「秀吉」のみならず「信長」には「魅力」であった筈である。
「味方」でも無いし、「合力」でも無い勢力の存在が、”勢力範疇”にある事に、「信長の考え方」と合致したと観られる。
それは、「信長の楽市楽座の令」の「考え方」が「伊勢収拾策」の全てを証明する。
この”「面談 4度」”は全てを物語っているのである。

「人物(3)」の「忠元」は、前段でも論じた様に、「信長との面談」は次ぎの通りであった。
「伊賀の乱」の第一次と第二次の途中の2期  (第一次は氏郷か、第二次は秀吉か 「忠元の信長面談 1」 )
「敗残兵の散発乱」の末期             (第三次は、「忠元の信長面談 2」 1581年)
以上の2度が先ずセットされた。

「伊勢長嶋収束直前」の時の2度         (「忠元の氏郷面談 3」 1581年-「忠元の信長面談 4」 1582年) 

下記に記載しているが、この期間の商記録の「青木氏年譜」から観ると、この時の状況が次ぎの様に読み取れる。

1581年に「摂津会合」。 「瀬戸内海路確保」などの件で関係者を集めて情報交換と今後の打ち合わせをしている。
1581年に「伊勢衆合」。 「信定の信長面談」を控えて郷士衆等の関係者を集めて打ち合わをせしている。
1581年に「伊賀騒乱(ホ)」。 この時前後に「氏郷立合い」で「忠元の信長面談 3」をしている。
1581年に「員弁桑名騒動」。 岐阜に近い伊勢北域で騒ぎが、「忠元本家」の中で意見の違いか。
1581年に「紀州避難」。  「福家の信定」が一時新宮に引いている。意見集約を図る為か。
1581年に「本寺修復」。  「面談場所」の為に修復か 「菩提寺」が門徒衆等の逃げ込みで一部災禍あり。
1582年に「伊賀収束」。  この時前後に「氏郷立合い」で「忠元の信長面談 4」をしている。
1582年初に「長嶋衆合」。 この時前後に「忠元の信長面談(代理人か) 5」をしている。

(注釈 「忠元の面談」には、「公的に成っている記録」は兎も角も、「青木氏の資料」のみならず、「佐々木氏の青木氏関連資料」にも、「時期ズレ」「場所ズレ」「内容ズレ」はあるにしても詳細な記載がある。)

以上の確実には計4度に、確定できない「小面談」もあるが、兎も角は「面談の大小」は別として、公的な資料とが合致する明確なものとしては、「信長」と「岐阜の館」と「伊勢の寺」で談合している事は判っている。

「伊勢収拾の方向」に向けて進んではいるが、「面談の前後」に「信定の福家」と「忠元の本所」で、”何か騒ぎの様な事”が起こっている事が判る。
面談には「直接の信長面談」と、「信長の意を伝える氏郷との面談」と、「信長の意を代理人との面談」と、「織田事務方との面談」があった事が判る。

(注釈 前段でも論じた。「小面談」とは、”この資料は正式にではないが会っているな”と判別出来るもの。
この「小面談」には、全て「氏郷との面談」が絡んでいて、”「信長」もこの場に居たな”と想起させられるものが多い。
同じ事が、「信定の場合」もあって、美濃に近い「青木氏の伊勢北域の分寺」と、「伊勢北域の神明社」での面談があったのではと観られるものがある。
恐らくは、「氏郷」と同席して、岐阜から出かけて来た「代理の者」ではないかと観られるものを含めると、「青木氏や佐々木氏の資料」と合わせると8度に成る。
これらから観ると、「事務方」と裏で盛んに「伊勢収拾策」に向けて談合している事に成る。)

この記録は、「忠元の家の実記録資料」は見つからないので含まず、「信定が獲得した情報収集」である。
「佐々木氏の忠元の記録」は、「近江の佐々木氏系青木氏の家」から見つかった資料と観られる。
この事は、「青木氏の資料」でも「上記の面談要領説」を証明している事に成る。

これらは「信長」が「伊勢収拾策」に、”どれだけ本腰を入れていたか”が証明できるものである。

「ゲリラ戦の長期化の伊勢」の「事態収拾」を成さしめ、且つ、「混乱の後」を「豪商伊勢青木氏」を以って「伊勢平癒策」を遣らしめる事を提案したのである。
兎に角、先ずは、「楽市楽座の令」”を議題に、”「ゲリラ戦の長期化の伊勢」の「事態収拾」”を信長に暗示させたと考えられる。
その結果として、「事前打ち合わせ」の「高松攻め」の「備中廻船」が成し得ると考えて面談を実行したのである。
結果から観て、「聡い信長」であれば、「暗示の委細」を充分に承知していた事に成る。

(この後に「本能寺の変」が起こるのだが、「青木氏の後勘」から観て、「光秀の愚劣さ」を痛感する。)


「人物(1)」の「信定と長兵衛」と、「人物(3)」の「忠元」が、「信長」に会い、「今後の伊勢の事」に合意したとすれば、この「談合」は一挙に成立する事と成る。
実際、その様に成った。


この様に、「青木氏側」から観れば、「信長の評価」は、「秀吉家康と性格の違う者」との比較から「荒くれ指導者」と考えられる傾向があるが、決してそうでは無いと観られる。
「青木氏の本音部分を教える密教浄土宗」で云う”「人を観て法を説け」”で行けば、この「信長」も「普通の人」である。
「秀吉家康の時代」も同じ事で、「人を観て法を説け」の「本音の生き方」をする事で生き残れた。

一見して、「人を観て法を説く」は、差別意識があって卑怯とも思えるかも知れないが、果たしてこの「差別意識」が生きる事の真理であろうか。
青木氏は上記した様に、この「人を観て法を説く」での「本音の生き方」をしたが、むしろ、民を救い共に生きたではないか。
悠久の中で、民と共に生きなかった事は無かった。
「氏是」を護り、「家訓」を護り、「人を観て法」を説き、「民の側」に立ち助け、「本音の生き方」をしたからである。

結果として、後勘から観れば、「紆余曲折」はあったにせよ、「二つの青木氏」に執っては、全てその様な「本音の思惑」に沿って運んだ。
「室町期の混乱期」から、「秀吉-氏郷」の「安定期」を経て、「家康-頼宣-吉宗」と引き継がれて成長期に移り、「伊勢」は「元の平穏」を取り戻した。
そして、江戸中期以降はより「悠久の歴史]の中で最も発展と繁栄を更に遂げる事と成ったのである。
これは、「本音の生き方」に所以していた事に成る。
当に、「和紙と楮の殖産」は勿論の事、上記の「四事業」の事などは、この「本音の生き様」を如実に物語るものである。



この「経緯の解明」には、主に「商記録」による「青木氏年譜」の分析と関係資料の調査が、高い成果を上げた。
[前段」と合わせて、「二つの青木氏」の「本音の部分」の「室町期末期の生き様」を解明出来た。


実は、筆者は裏資料として、「商い記録」をベースとし、他の遺資料と組み合わせて、約100年間のこの伊勢に関わる関係の事柄を抜粋してまとめあげたものを「青木氏年譜」として作り上げてその年譜に込められいる「意味合い」を読み取り、それを検証して常に論文にしている。
「商い記録」をベースにしての事だけに余計な事が記載されていて、取捨選択してまとめる作業をして作ったものである。
必ず毎回100年程度に区切って偏纂しているものである。

この遺資料は「青木氏」に関係する「広域の地域」からの情報を書き印したものである。
恐らくは、「500社の神明社」や「支店」や「伊勢シンジケート」からの「情報源」で、その目的は“商いに資する事“が目的とされていて、その表現が簡略化して多少暗号化した様な書き方に成っている。
恐らくは、”観る者が観れば判る範囲の事“として、恣意的に作成し続けられて来たものであろう。
それを何とか投稿する以上は判り易くするために租借した「裏資料」である。

実は、「伊勢青木氏」には、この「商い記録」では無い「青木氏」としての”「四家の事」”を詳細に書き遺した本来の「青木氏年譜」が在った。
「青木氏由来書」と呼ばれていたが、祖父の代の明治35年の「松阪の大火」で消失した。
「松阪の青木氏菩提寺」(主寺)も消失したが、菩提寺(分寺)は玉城域と津域の二地域にあった為にある程度の資料は遺されている。
「商記録」は、店が別の地域にあった事から遺ったものである。

これ以外に、現在も残っている「伊勢衆の末裔」(20家程度)の家からも関係する手紙などの興味深い資料が時々出て来る。
残念ながら、相当に「消失の憂き目」を受けている。
筆者も、研究で関係する資料の有無が無いかを問い合わせたりしている。
本論も数度お願いをして効果を上げた。
唯、「個人情報」である事から迷惑が掛かる事と成り、理解と賛同を得て「青木氏の範囲」に留める事を約束して公表は避けている。

これらの資料等からも「青木氏年譜」を作り上げている。
下記の「青木氏年譜」には、約束を順守する事から全てが書き込まれてはいない。

「青木氏年譜」(1520年-1625年)

(注釈 「青木氏の資料」)
1525年に「丹波会向」。1532年に「摂津会合」。1536年に「南伊勢地」。1538年に「伊勢港」。
1541年に「摂津廻船」。1549年に「伊勢衆談」。1553年に「南紀衆騒」。1559年に「伊勢衆議」。
1560年に「堺廻船」。1562年に「伊勢不穏」。1563年から「南伊紀不穏」。1564年に「伊賀騒乱(イ)」。
1565年に「北畠不穏」。1569年に「北畠騒動」。1573年に「堺不穏」。1573年に「長嶋騒乱」。
1575年に「伊賀騒乱(ロ)」。1576年に「北畠混乱」。1578年に「丸山騒動」。1578年に「伊賀騒乱(ハ)」。
1578年に「紀州騒動」。1579年中頃に「堺平穏」。1579年に「伊賀騒乱(ニ)」。1579年に「名張騒動」。
1579年に「脇坂騒動」。1580年に「清蓮寺騒動」。1580年中に「伊勢紀州一揆」。1580年に「備中廻船」。
1581年に「摂津会合」。1581年に「伊勢衆合」。1581年に「伊賀騒乱(ホ)」。1581年に「員弁桑名騒動」。
1581年に「紀州避難」。1581年に「本寺修復」。1582年に「伊賀収束」。1582年初に「長嶋衆合」。
1582年に「伊勢和合」。1582年中に「松阪修復」。1582年に・「美濃騒動」。1582年末に「伊勢安堵」。
1583年に「北部談異変」。1583年に「四日市談」。1584年に「伊勢解決」。1588年に「青木混乱」。
1590年に[青木不定]。1592年に「青木騒動」。1598年に「伊勢騒乱」。1600年に「家内騒動」。
1600年に「近江騒動」。1601年に「青木安定」。 1602年に「商い盛況」。1603年に「伊勢談合」。
1605年に「松阪面談」。1606年に「伊勢談合」 1607年に「四家安定」。1612年に「合力談合」。
1614年に「伊勢衆談合」。1615年に「伊勢衆動員」。1615年に「堺摂津盛況」。1619年に「松阪会談」。
1620年に「伊勢藤氏談合」。1620年に「旧領安堵合議」。 1621年に「紀州藩方」。
1622年に「紀州藩縁籍」。・・・・・

(参考 以上の「青木氏年譜」は「研究室の論文」などを書く時に、その「内容の必要性」に応じて、「青木氏」に遺された「商資料」や」遺産諸書」から編集して使うものであり、本来は記述しない「裏資料」である。
又、「青木氏の氏是」もあり、投稿するに抵抗があるが、要約しての内容であれば容認できるのではと考えて投稿した。
「青木氏の中の事」(商いの事も含めて)として、江戸初期までの“「伝統」“としての資料を取りまとめると、この事から「外部史実」と照らし合わせれば、未だ「青木氏の多くの生き様」が蘇るが、先ずは、以上の事と次ぎの事が読み取れる。
この他にも、この「青木氏年譜」には、“他にも商業の事”が多くの事が書かれていて、本論にまとめて抜粋したが、更に、詳しく内容毎に整理してまとめると、更に「細かい生き様」が読み取れる筈である。)

(参考 今回の様に、その都度の「必要な年譜」を「・・年譜」として編集しているが、これを一つに整理すると完全な「青木氏年譜」が出来て蘇るが、整理してまとめる年数が足りない。
今後の研究課題であり、多くは「商い」から観ているので、編集するには、「青木氏」に関する「歴史観に伴った租借」がより可成りの高情報が必要である。
故意的に「代名詞」が使われず、「間接表現」であり、「現代語」では無いのも進捗の妨げに成る。
これは当時は「商い情報」の「情報源の秘匿」を護っていたと観られる。)

ただ、「外部記録資料」を全面的に使った内容は筆者は採らない。
「青木氏」から観れば、ほぼ「内容」は可成り一致するが、「人ずれ」も「時期ズレ」も「場所ずれ」も観られる。
これは殆どは、「伊勢シンジケート」からの“「事前情報」”や”「裏情報」”を得ての結果であろう。
「外部記録」よりも先に騒動が起こっていて、後も、伊勢で起こった何らかの「騒動」が完全に収束状態では無かったことも判る。
「内容のレベル」も違って、「ゲリラ戦の様相」も違っている。
「外部資料」に依っては、「ゲリラ戦」は、“遠からずとも縁筋”に当たる事も匂わせる表現をも採っている説も観られる。

(注釈 各地の「青木氏の伝統」に関する資料関係が、青木氏と娘の血縁関係も含めて関係した20程度の「郷士の家」からももっと多く見つかれば、より詳細に「青木氏の広域の生き様」が描ける。
然し、、残念ながら、「伝統」どころか、他氏と異なり多くの「習慣仕来り掟」を持っていたにも関わらず全く消えて仕舞っている状況の様に見受けられる。
各地の神明社にある資料なども探究したが、残念ながら、今は阻まれた次第であった。
然し乍ら、「射和商人」と成った「郷士の家」からの資料、四家からの娘の嫁ぎ先の親族関係と成った郷士の家からの資料、伊藤氏等の「伊勢国衆」の家からの資料等からの情報が論文作成に大きく影響した。
更に、未、「手紙」や「報告書」の形でも遺されていると観られる。)

これは、「商い」には、「事件の前後」の「雰囲気・小競り合い」からの「事前情報」が必要であって、それによって、“「商いを動かしていると云う戦略」”も在って、その事を主目として情報を獲得していたのである。
その為にも、かなり前から、“伊勢で起こった騒動”に対して「伊勢衆」で前後に“「打ち合わせ 談合」”なども頻繁にしていた事が判る。
(明治の終わり頃まで、年に2度の全ての関係する人々が大集合して親睦(運動会)を図っていた事が口伝で伝えられている。)
「商い」に大きく影響する事から、「伊勢シンジケート」や、各地の500にも上る「神明社」からの「情勢分析」の記録として情報が扱われていた事が判る。
何度と「談合」が重ねられている処から「他の伊勢衆」にもこの情報共有が行われていた事も判る。
特に、「伊賀の乱」は「青木氏」も「影の力」として「物資の供給」や「側面攻撃」や「夜間ゲリラ戦」などで合力したが、相当に「事前分析」も施され、長引いた「伊賀の乱」の収束前に紀州に一時避難などもしている。
これも「事前情報の結果」であろう。

(注釈 「青木氏の口伝」では、この100年間の間に二度に渡り「紀州新宮」に避難している。
この「伊賀の乱」後の「新宮避難」は、「基本戦略」上から事前に引いた事は判り確認できるが、もう一つの「新宮避難」が何で避難したかは判らず記録が正確に読み取れなかった。)

ただ、この時の「口伝」には「一つの逸話」が伝わっている。重要な判断要素の事に成るので次ぎの段で述べる。

「伝統―18」に続く。



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:「青木氏の伝統 16」-「「四家の背景と経緯」 

[No.333] Re:「青木氏の伝統 16」-「「四家の背景と経緯」 
投稿者:福管理人 投稿日:2015/07/15(Wed) 10:20:03


>「青木氏の伝統ー15」の末尾

>仮にあったとして、「円融天皇期」には、「目論見策の実行中」である事から、この期間は「天皇に対して不敬不遜の不作法な行為」と成り、あり得ない行為である。
>依って、984年以後の事に成る。そうすると、両者の関係からあり得る合致点は、「貞盛と嫡子四男維衡の前半期」(998年前頃)までの事に成る。
>ただ、これ以後の「貞盛-維衡」とその族は、「同族争い」と「配流」を何度も繰り返し血縁は不可能である。

>(注釈 以後の末裔にも年数的、経歴的にも無い。この14年の間の前半行為であり、上記の矛盾を打消し、且つ、「受領家側の経緯の関係」と考え合わせると、その前半期984年から988年に絞られて来る。)


>「たいら族」と「ひら族」の「混同説の策」も含めて、「歴史的な矛盾」が多い説(後付説:1180年代頃)が生まれる事と同様である。
>この事の結果を「後付説(氏姓の隆盛期に家系を作り上げる作業を行う)」で補おうとしたのである。

>(注釈 当時は、この様な「後付説」は、通常化していて、特に江戸期には武家の命に値する”「黒印状」”を獲得する為に公然と行われ、幕府もこれを黙認した。
>この事を放念してこれらの資料を「是」とした説が多い為に起こる「矛盾」なのである。
>返して云えば、この「後付説」を「是]として「青木氏]を論ずると,「青木氏」は存在し得ない事に成り得る。)

>故に、この説の様に「年数の矛盾」等の多説が生まれる所以なのである。
>本論の様に、事実に即して「青木氏」では、これを無くすべく日々研鑚し「歴史観」を高めて検証している。

> 「青木氏の伝統ー16」の「四家の背景と経緯」に続く 




「四家の背景と経緯」

前段で、「1の天智期の青木氏」との絡みを観乍ら、「2の円融期の青木氏」の「青木氏の発祥」の経緯を室町期末期まで論じた。
(1と2の青木氏を、以後、「二つの青木氏」又は「二つの血縁青木氏」と表現する。)

この室町期の時期は、「二つの青木氏」は「商い」のみならず、「賜姓族としての役目」、取り分け「神明社建立」も活動期でもあった。
しかし、反面では、この社会は、同時に、「下剋上」と、生存競争の激しい「戦乱」の時代でもあった。
必然的にも、この「激動期」に対応するには、上記した様に、「青木氏」の「四家制度」による「5つの面 20の顔」には「人材」が不足してくる。
しかし、かと云って、「同族による血縁性の概念」は崩す訳には行かない。
そうなれば、終局は“「婿養子」”の手立てしか「青木氏」には無く成る。
ここに所謂、前段で述べた「四家制度」の“「弱みの隙」“が生まれたのである。

「二つの青木氏」に執っては、実に悩ましい時期であった。
「二つの青木氏」では、「本所」(伊勢松阪)では、「自由な商いの商業組合」を結成して「巨万の富」を築いていた時期でもあった。
「相互の血縁」を積極的に進めるにも、そこに「隙間」なるものがが起こり、そこから「四家制度の崩壊」に関わる「菌」が蔓延して仕舞う危険があり、其れには限度があった。
その対策として採った「四日市の融合青木氏」が発祥している。
その中でも、未どうしても「四家制度」の「5つの面と20の顔」を護りながらも、何とか「子孫力」を増大し確保しなければならないジレンマに陥っていた。
「本所の伊勢秀郷流青木氏」は,「四家制度」を「伊勢の秀郷流青木氏の氏内」に採用して側面から「本所役」として支える様にした。
それにしても、「武蔵の本家」との兼ね合いもあって、「難しい立場」に置かれていた。

(注釈 「本所」(伊勢 松阪)、「本家」(武蔵 入間)は,その「賜姓五役の役務」の「分けあい」をして、平安期からこの様に呼ばれていた。)

(注釈 平安時代の同時期から開かれ始めていた「公家や寺や神社や荘園等」で開かれた市の「特権の座」も後には「本所」(ほんじょ)と呼ばれた。
「青木氏」は自ら殖産と興業を興して、この「座」には組しなかった。)

(注釈 恐らくは、「伊勢青木氏の本所(ほんどころ)」の呼称は、「秀郷一門の青木氏」が、「武蔵」にでは無く「賜姓五役の役務柄」だけを「伊勢」に「根拠地」を置いた事から呼ばれる様に成った。
室町期には、この事からこれを真似て、この「特権の座」を”「本所」”と呼ぶように成ったと観られる。)

(注釈 当初の頃は、「・・・座」と単に呼ばれていたが、後に、室町期には「職能集団の組合」も「座」と呼ばれるものを創った事から「座の数」と「座の種」が拡がった。
その為に、その事務所等を置く「根拠地」を”「本所」”と呼ばれる様に成ったと観られる。)

(注釈 ”「本所」”と呼ばせる事やその印象を持たす事に依って「他の勢力」を旧来からの「本所の持つ権威」で排除しようとした。)

(注釈 「伊勢青木氏の本所」は、「伊勢不入不倫の権」で保護されていた特権を持ち、「国の為に働く五役」を果たす名誉の地域を”「本所」”と呼ばれていた事を物語る。
各地に「本所」の地名が大変多いが、元来、この「意味合い」を持っていたが、この「本所」も「青木氏の伝統」の形である。)

(注釈 本来は、「嵯峨期詔勅」に伴う禁令の中に「青木氏の慣習仕来り掟」を真似てはならないとする禁令があり、この禁令に反する事ではあったが、「呼称方法」を変えて護られなかった事に成る。)

(注釈 「公家や寺や神社や荘園」=「青木氏」と置き、 「楽市の特権の座」=「賜姓五役の役務」と位置付けて、”「本所」”と云う呼称を使った事に成る。
つまり、「座」は、「本所の呼称」を使う以上は、「公家や寺や神社や荘園」の”「本来の役務」”であると云う事を主張していた事に成る。)

(注釈 信長の自由な経済活動を奨励する「楽市楽座の令」やそれを推し進めた「秀吉の楽市令」により、旧来の「座の禁令」は実行されたが、「下記に論じる信長が嫌った社会風土」これに対する反発であったと観られる。
所謂、「座の勢力」は、”「権威の惹けらかし」”と”「その利得を食む勢力」”と映ったのである。
況や、”「平安時代の荘園制の再来」”と見做されて「禁令」が出たのである。)


ところが、同じ「自由な商業組合」を追い求めていた「青木氏」のこの“「隙」”に上手く就き行ったのが、“「権威への挑戦」”を標榜するもの「信長」であった。
これは、そもそも、「武」には「武」を以って応じ、「智」には「知略」を以って抗らう室町期の「信長の謀略」であった。

古来より伊勢の「二つの青木氏」は、「青木氏の氏是」に依って、“「武」には応じない姿勢”を採ってはいた。
そこで、「青木氏」は「知略のある武」や「絶大な抑止力」を持ちながらも、絶対に「武」に応じない姿勢を採っていた。
この応じて来ない相手(青木氏)に対して、「信長」側には「武」で応じる事は、「戦いの大義」が立たない事から、出来ない。
然し、、そこで、恐らくは、「信長」としては、「知略」を使ったのである。

この初期の段階(1550年頃)では、「伊勢」を「武」と「知」に依って支配下に入れようとし、未だ「北畠氏側」にあると疑われていたと考えられる。

先ず、“「婿養子」“で「間接的な撹乱戦法」の「初期戦」を「伊勢域の土豪」を使って味方に引き入れて仕掛けたと観られる。
その初戦として、「南伊賀」に入り込んだ「武」を用いた「貴族武家の北畠氏」を潰す事から始めた。

(注釈 青木氏には、周囲の土豪を取り込んで、前段で論じた”「婿養子の策謀」”で仕掛けて来た。
結果は「青木氏」が直前で見抜き事無きを得た。)

(注釈 「貴族武家」と成って室町期初期から京から伊勢に浸食して来た「北畠氏」がこの謀略に載せられた。)

本来、”「武」を禁令とする「貴族・公家」”が、その格式の立場で「武家」と成った[北畠氏」でありながらも、「武を標榜した氏族の弱点」を逆に突いたと云う事であろう。
その「伸長族の領域」と成って仕舞った「聖なる伊勢域」に対して、「信長」には、「伊勢の二つの青木氏」までもを果たして「潰す気持ち」があっての戦略であったのか興味の湧くところである。

この「信長の戦略上の深意」に付いて、そこで、それにいち早く、“「青木氏側」は気が付いた”と云う事であろう。

「青木氏側」にとっては、「子孫存続」の為にも、この「隙に付きいる障害」を早期にこの芽を摘んで置くことが必要であった筈である。

筆者は、「信長」は、「武には武、知には知の基本戦略」を採っている事から、「伊勢の二つの青木氏」を「潰す事」は考えていなかったと観ている。
それは、次ぎの事で証明できる。

「本所の青木氏」には、上記した様に、「信長」は「伊賀守」を「忠元」に任官して家臣にして取り込みを図ったのである。
「武より知を用いる青木氏」であれば「信長の天下布武の戦略」に害は無い。
むしろ、「楽市楽座」を敷く「信長」であるとすると、むしろ、既に、組織的に「殖産と興業」を以って「巨万の富」を持つ「二つの青木氏」には、生きて貰わねばならない「政治戦略」があった事に成る。
それでこそ、「天下布武の戦略」が生きて来る。
つまり、「信長」にとっては、そもそも、「楽市楽座」は、「天下布武」の”「車の両輪」”の様に”「相対の位置」”にあったのである。

「信長]の考えの中には、”「天下布武」(武)>=「楽市楽座」(知)の数式論”が成り立っていたと観られる。

この「忠元」は、「青木氏の氏是」を破ってでも、「二つの青木氏」を体して、この「信長の深意」に逸早く応じたと云う事であった。
そもそも、”「臣官に就く」”は、「三つの発祥源」と「国策氏」と「賜姓五役」の「役務柄」から護らねばならない宿命の「青木氏の氏是の禁令」である。
奈良期より「伊勢の郷氏 国人 地主」で有り続ける事が「賜姓五役の遂行の根幹」であった。
然し、「忠元」は、この”「信長の臣官」”に応じた。それは「禁令」を破ってでも応じなければ成らない「子孫存続の最大の危機」であったからだ。
「忠元」には、この”「危機感」”は完全に「信長の場合」(天下布武)にはあった。
然し、忠元は、”「危機感」”と云うよりは、「天下布武」と相対の位置にあった”「楽市楽座」の方に掛けた”のではないかと観ている。
それが、「二つの青木氏」のむしろ「氏是」であるからだ。況や、「生き残れる道」であったからだ。
何故ならば、「家訓」にも成っている”「知略」”に関わる事だからである。

「戦い」に依って起こる「氏のリスク」>「臣官」に成って起こる「氏のリスク」

以上の数式論をここでは考えた事に成る。

それは「信長」の上を行く「青木氏の知略」であったと観られる。
「信長」の”「相対の知略」”に載ったと云う事である。

何故、上記の数式論の思考をここで敢えて用いたかと云う事は、”「武」と「知」の両方の思考を持つ「信長」”を見抜いていたのである。

それは、どう云う事かと云えば、そもそも、「青木氏家訓10訓」が教える様に、次ぎの様に成る。

「武」は”「敵対」”に通じ、「知」は”「共合」”に通ずる。

以上と悠久の歴史を持つ「青木氏の家訓10の意」は教えている。

「武」は「武の差」によって相互に「敵対の心」を必然的に産む。
この「敵対」は、「命の危機」に繋がり、「不幸」に結びつく。

「知」は「利の差」によって相互に「利対の心」を必然的に産む。
この「利対」は、「生活の利得」に繋がり、「幸せ」に結びつく。

依って、「人」はこの「利]を求めようとしては”共に合する事”へと集約に至る。

然し、「知」は追い求める過ぎると、「武」を使って「大利」を得ようとして「武」に帰する。

「武と地」は、況や、「善悪」に依らず、「相対の位置」にある。

所謂、「人の世」は、「知」は「武」の上に立つ。

以上の事を「青木氏の家訓」は教えている。

これは、古来からの「青木氏の密教浄土宗の教義」に基づいているのである。

(注釈 「三つの発祥源」「賜姓五役」「国策氏」に対して、”「二足の草鞋策」の「商いを営む根拠」”に成っている。)

「二つの青木氏」は、この「青木氏の密教教義」に従って思考し、「信長」を考察したと観られる。

そこで、「信長の深意、或は翻意」は、「武家社会」であることから「基本戦略」は、「天下布武」としているが、むしろ、この”「知の共合」の考え方に重きを置いている”と見抜いたのである。

(注釈 通説の「信長評価」は、この「青木氏の様な密教教義」を持ち得ていない事から起こったものと観られる。)

そもそも、何れの時代にも、”「民族」”と云う単位で「国家や社会」を維持するには、”「武」の「敵対」に通じる社会”を先ず創る。
その上で、”「知の共合」の社会をより豊かに作り上げるか”に関わる。
これは”「民族」で構成される社会”である限りは、「人の性」から来る「生存への敵対本能」からは逃れる事は出来ないからである。
あくまでも、「理想社会」は、所詮、「りそう」なのである。
”「理想」”と云う「言葉」があるからこそ、その元には「敵対」があって生まれる言葉である。
この逆の事も云える。

つまり、「人の社会」に於いては、より良い、”「知の共合」の社会”を大きくするかに関わっているのであって、「理想の社会」では構成出来得無い。
”「理想」”は、あくまでも「良し悪しの判断の基準」とするに留まり、「良し悪しだけで決まる人の社会」では決して無い。
あくまでも「理想の範囲」で終わる。
より「「理想に近い社会」と感じるのは、「知の共合の社会」をより豊かに作り上げるかに関わり「理想の程度」では決して無い。

”「人の生きる社会」の「組織の主たる者」に成る者には、この「概念」を持ち得ている事が必要である”と説いている。


つまりは、「忠元」を含む「二つの青木氏」の「長」は、”「信長」も「長」としてのこの「基本的な概念」を持ち得ている”と観て採ったと云う事である。

(注釈 記録に遺されている「信長の発言」の中に、要約すると、”国が収まれば、世界に旅する”と発言している。
これは、「世界」の進んだ国には、”「武」<「知」の社会”がある事を知って居た事を意味していると観ている。)

注釈 
1576年 北畠氏は滅亡
1576年 伊勢国を信長支配
1577年 忠元伊賀守任官
1577年 伊賀一揆

前段で論じた様に、「伊賀」に侵入した「足利系の外部勢力」の三氏は、1576年を境に「信長」に依って放逐され滅亡した。
その後に「伊勢」を支配した時に、「信長」は「実質支配」していた上記の「伊勢秀郷流青木氏の忠元」に「伊賀守」を任官させて家臣として取り込んだ。

然し、その後に、「伊賀衆」は「伊賀の郷士11衆」と「伊賀住人衆」を巻き込んだ一揆で「ゲリラ戦」(第一次と二次)で反旗を翻した。
この時、「伊勢」の中では、特に「伊賀の国人衆」が「連合体」を結成して「伊賀域」を治めていた。
民や僧侶を巻き込んだ「伊賀一揆」が「第一次」で収まったとして「忠元」を任官させたが、「信長」が「燻り抵抗を見せる伊賀者」に見せしめとして激しい「第二次掃討作戦」を展開した。
この時は「忠元」は苦しい立場に陥った。

上記する、「武」より「知」に掛けた「忠元」を始めとした「伊勢衆」は、思いもよらぬ方向に流れが進展した”「伊賀」”では窮地に陥っていた。
「伊勢衆」は「伊賀衆」を説得に掛かったと観られる。
然し、「事の次第」は、感情的に進み収まりが着かなく成って仕舞った。
それは、この「伊賀衆」が起こした「感情論の原因」は、地獄の修羅戦と成った「石山本願寺の門徒衆」が、何とこの”「伊賀域」”には多かった事が云える。
紀伊半島と紀州全体も殆どこの”「門徒衆」”であって、現在でも「門徒衆が多くその慣習の強い地域」でもある。

この時、「伊勢皇族賜姓青木氏」が「伊勢の抑止力」を使って「援護」に入ったのである。
これが「丸山城の攪乱作戦」や「比自山城」や「上野城」の「伊勢衆が行った救出作戦」であった。

恐らくは、「信長」は「伊賀」に「支配権」を持っている「忠元」を「伊賀守」にして収めようとしたが、ところが、[忠元の翻意」に反して、”「忠元」が「織田方」に付いた”と受け取られて、逆に”「裏切り」”と捉えられたと観られる。
そこで、「門徒の事」もあり、それに煽られて”「伊賀者」”が収まりが着かなく成り、「燻り抵抗」を尚示す様に成ったと観られる。

(注釈 ”「門徒の事」”とは、「石山本願寺の事変」の3年程度前から起こっていた紀伊半島全域で「門徒衆の信長への抵抗」があった。)

その為に、其の侭に放置すると、全国で「門徒衆」が尚騒ぐ事と成ると観た「信長」は、見せしめの為に「第二次の殲滅作戦」に「信長」は出たと考えられる。
実際は、第一次、第二次共に、「伊賀衆」から「裏切者」が出て「織田軍道案内」等を申し出ている。

(注釈 当時、”「道案内」”とは、「裏切り」の「武士」が使う「換え言葉」であった。
ある意味で、当時の室町期は戦乱期であって、「裏切りと云う行為」は必ずしも「悪徳の見本」では無く、「生き残り」の為には「最低限の必要不可欠な手段」と認められていた。
然し、この「裏切りの悪の概念」は、主に「江戸期の安定期」に入ってからは、「武士魂」の「発露の規準」となったものである。)

これは、「伊勢衆」と「伊賀守」と成った”「忠元の説得」”から動いた事ではないかと観られる。
この事で場合に依っては、”「伊賀者滅亡」”と云うシナリオも描いていたとも考えられる。
現実には、第二次は其れに近い「修羅の状態」と成った。
あらゆる「門徒衆」の「抗した村民」やこれらを「庇護した僧侶」をも殲滅し、「伊賀」だけには収まらず「紀州全域」に及び、更には「堺」から「伊勢松阪」の「伊勢神宮手前」までにその「火の粉」は飛んで来た。
(寺等の記録あり)
その「殲滅の被害範囲」と「門徒の勢力域」とがラップする事から、矢張り、”「門徒勢力」”と観ての行為に及んだ事に成っている。

この事に付いて検証して置く。
通称、”「門徒勢力」”と現在まで云うが、この「宗教武装勢力」との争いは、1567年頃から1582年頃まで続いたのである。
もっと云えば、「秀吉の紀州攻め」の「掃討作戦」までの事と成る。

(参考 「伊賀の戦い」は、第一次は1578年-1579年 第二次は1580年-1581年)

「石山本願寺の戦い」は、あくまでもその「一本戦」であって、その期間は1570年から1580年と成ってはいるが、そうでは無い。
然し、比叡山を含む「宗教武装勢力」との戦いの一端であった。
多説の様には、「一戦い」では無かったのである。
つまり、上記した様に、「信長」が目指す「天下布武」にせよ、「天下布知」にせよ、この「宗教武装勢力」が二つを実行するには「大障害」と成っていたのである。
その戦いの中での「伊賀の戦い」と成った。
疑う事無く、「伊賀者」は、全て「下級武士の宗教」の「門徒信者」である。
これは、「民の門徒の宗徒」では無く、「忍者と云う武力の専門の勢力の宗徒」である。
「石山本願寺」の”「宗教武装勢力」”と云うよりは、「伊賀衆」は、一種の「宗教の武装の専門勢力」であった。

現実に紀州半島の「雑賀傭兵軍団」「根来傭兵軍団」「十津川傭兵軍団」「柳生傭兵軍団」と同じく、伊勢の「伊賀傭兵軍団」と呼称されたものであった。
「比叡山の僧兵」などと違い、プロ中のプロである。

「信長の目線」はここにあった。
依って、このプロ中のプロの「伊賀門徒勢力」への「象徴的戦い」なのである。
ここを叩いておかないと、「石山本願寺の比」では無いと観たのである。
「紀州の傭兵軍団」が「伊賀」と結びつけば、不得意な『ゲリラ戦の長期戦」は覚悟しなければなら無く成る。
「長期戦」は、「宗教との戦い」と成っている以上は、”評判の悪い信長”に執っては極めて不利である。

唯、「信長」は、この「プロ中プロの伊賀衆軍団」を「感情的敵視」をしていなかったのである。
「門徒勢力の撲滅」の「象徴的集団」と戦略的立場から観ていただけの事であった。
その証拠には、その「特殊技能の軍団」の「存在価値」を認めていた。
何故ならは、「第二次の殲滅作戦」後に、この「伊賀の特殊技能」を「織田軍団」に取り入れる為に、多くを「家臣」として仕官させているのである。
普通なら、徹底した「掃討作戦」で殲滅させている筈である。
況して、全国に散った「伊賀者の掃討作戦」もしていないのである。
1年後に徐々に「伊賀者」が戻ってきたが、これも掃討していない。
むしろ、戦後に「諜報役の家臣」として重用している。

何と、「信長」が直接家臣としたのは数名で、この一名が「伊賀の青木氏の五代目」が入っているのである。
家臣と成った者の殆どは、秀吉などの重臣に家臣として仕官させている。
中でも「秀吉」や「蒲生氏」とその配下の家臣に特に目立つ。

普通は「人」であれば、「修羅の戦い」と成って「恨みも憎みも骨髄に達する」に成った筈である。
にも関わらず、「信長側」は元より、「伊賀者」側も家臣に成ったとする現象には、”戦国時代の何かが働いていた”事を物語る。

(注釈 明らかに、上記の事は、”信長の伊賀に対する考え方”が現れている現象である。
以下に論ずる事もこの「歴史観」を以って「青木氏」の方だけはお読み頂きたい。)

ところが、この「注釈の歴史観」を「伊勢衆と忠元」は読み取っていたかは別として、この「事の流れ」に依っては、異なる方向に走ると観ていたと観られる。
これは「密教浄土宗」の「伊勢衆」のみならず、「伊賀」を治める「忠元」に執っては、単なる「伊賀の戦い」とは捉えていなかったのである。
場合に依っては、”「伊賀滅亡」”と云うシナリオも考えたのも当然であった。

(注釈 後の「青木氏の記録」から「信長の評価」が世間と違っていた事からすると、この段階では,注釈の事は考えていなかった事に成る。
後刻、戦後に「信長の態度」を観て、この事を理解したと観られる。)

筆者は、もっと「厳しい心構え」をしていたと考えている。
そうなった場合、「事の流れ」に抗して「青木氏の氏是の範囲」では収まらない事に成ると観ていたのである。
「二つの青木氏」と「伊勢衆全体」が、奈良期からの「青木氏の氏是の禁令」を破って、「500万石の勢力」と「伊勢の抑止力」のみならず、「関東の秀郷一門」と「秀郷流青木氏116氏」を巻き込んだ戦いをも覚悟していたと観ている。
上記した「忠元の伊賀守任官」も{伊賀の戦い」の際中の事である。
この「氏是」を破ってでも「伊賀守任官」を受けて、「最悪の流れ」(伊勢の伝統の崩壊と伊勢者の滅亡)に成る事を止めようとしたと考えられる。
逆に、「信長」も同じ事で起こる「最悪事態」を避けようとして、「忠元」を「臣官」させたと云う事も云える。
この事を考えると、少なくとも、「事の流れ」は[伊賀守任官」だけでは止められず、むしろ、逆に「第二次戦」に成った時に、「信長出方と解決具合」では、「本戦」も覚悟していたと観られる。

現実に、戦えば全国的な勢力の結集では上回る。
戦略上では確実に劣るところは無い。むしろ有利であった。
要は、「戦い方の如何」に関わる事に成る。
「ゲリラ戦」を駆使する事に成ろう。
当時の「信長の勢力範囲」は関西に限定され、その拠点は美濃に集中している。
周囲から「物資の供給」を止め、拠点に「ゲリラ戦」を掛ければ落ちる。
「信長の弱点」は水軍にある。「海と陸の供給」を止めれば攻略できる。
「水軍」は「伊勢衆の古来から所縁」から「三つの水軍」(伊勢水軍 駿河水軍 摂津水軍)を擁している。
従って、「水陸」の補給路をこれで押えれば、物資は「伊勢衆の商いの強み」でもある。

現に、「丸山の戦い」では、「信長六万の軍事力」では無く、この「物資」を止めて「物資高騰」を高め軍資金を枯渇させ上で、拠点を「ゲリラ戦」で抑えて勝った。

(注釈 「足利氏との戦い」も「伊勢シンジケート」が「ゲリラ戦」を展開して、10万の軍を枯渇させ2万と云う餓死者を出した。
この有名な戦史を信長は知っていた筈である。)

全国的に、これをすれば「信長の軍」は「内部崩壊」を起こす。
元より「信長軍」は「内部分裂の要因」を潜んだ「軍事力」であった。
現に、依って、「信長」は、「長期戦」と成り、「物資供給路」は絶たれる事に成る。
「伊勢シンジケート」は[美濃信濃の範囲」までを「連携の勢力圏」としていた。
依って、未だ弱かった関西以西から背後を突かれる恐れがある。
この事があって、「戦域」を関東に拡げる事は出来無い。
これは「信長」が、「秀郷一門の勢力」の強い関東以東には、実戦に依る手を出さなかった所以でもある。

恐らくは、「信長」もこの事を考えての範囲の「ギリギリの線」を選んだと観られる。
最後には、調停工作に応じて停戦したし、各地に散った「伊賀者の掃討作戦」もしなかった。
終戦後、これらの「伊賀者」は帰ったが、掃討はしなかった。
手っ取り早く言えば、その火元に成る「伊勢」には手を”出さなかった” 出したくなかったのである。
伊勢には、煩わしい「不入不倫の権」もあり、「戦いの大義」が採れず手を”出せなかった”のである。
故に、「伊賀と云う特異な門徒拠点」とも云うべきところだけを突いたのである。
然し、「伊勢」では、青木氏等が「影」で色々としていた事は其れなりに充分に情報活動で知っていた筈である。
況して「伊勢衆」は、「北畠氏」(1576年)の時には、明確に「合力」を表明している。
明らかに「準に抗する勢力」と観えていた筈である。

従って、「ギリギリの線」の「忠元」も含む「伊勢衆」(青木氏等)には決して手を出していない。
依って、「ギリギリの線」を護る「信長」に対して、「忠元」も「伊勢衆]も、「ギリギリの線」で直接交戦する姿勢は採らなかったのである。
明らかに、「信長」は、「忠元と伊勢衆」を除いた全て「抗する者の範囲」に留めたのは、「門徒衆の撲滅」と「伊勢衆の影の抑止力勢力」のこの二つの事から来ていると観られる。

そこで、それを証明する「伊賀の内情」は次ぎの通りであった。

第一次は、20郷士の内、18氏参戦 2氏が道案内 下山氏、他1氏
第二次は、18郷士の内、11氏参戦 4氏が道案内 福地氏、耳須氏、他1氏、滝野氏
調停役は、「猿楽師」(嶋崎殿の青木氏との関係)の仲介、大倉氏 他介添え役2氏

(1氏が不明 「調停役」に参加と観られる。)

この記録から観ると、少なくとも「忠元の言い分」を理解した者は、少なくとも当初9氏はあった事に成る。
自発的にこの9氏が戦いの裏付けと成る軍資金や物資の補償が無いのに動いたとは到底思えない。
全体の半分は「忠元の説得」に応じた事に成る。
結局は、記録にある様に、感情的に成って走り「籠城餓死寸前」と成って、「忠元」と「伊勢衆」が救いに入ったのである。
その後、「伊勢衆の援護」に伴って「忠元」に味方する者が殆どと成った事で「仲介の段階」に至った事が良く判る。

ところで、前段で論じた様に、矢張り、ここで「伊賀の青木氏」の”「猿楽師」”がこの記録に出て来るのである。
これは「青木氏」に執っては極めて重要な事である。
歴史上の有名な事(「猿楽師の調整役])として、記載されている史実に繋がっているのである。

実は、この「猿楽」に付いて調べると、そもそも,中国から入り遂には大和で広がり、「大和猿楽」と「近江猿楽」と成った。
この「大和猿楽」から有名な「観阿弥 世阿弥の時代」と成るが、「大和猿楽」には四座があった。
ここで、「嶋崎殿の青木氏 伊賀の青木氏」の「五代目」が最初に学んだ事が添書に書かれている。
「七代目」がこれを高めて「猿楽師範」と成って、「徳川氏の諜報役」として働いた。
しかし、この「五代目」が同座で「猿楽師の某氏(大倉氏)女系の血縁先」と学んでいた事が添書に記載が在って、後にこの者は「織田氏」に仕官している。
時を同じくする事から、この「某氏」が「この時の状況」に関わったと観られる。

前段でも記述したが、この「五代目」もこの少し後の1581年に「織田氏」に仕官している。

この「五代目」が「信長」に仕官した事にも大きな意味を持っている。
明らかに上記の事を物語っている。

「信長」に抗した「伊賀者」を家臣にしているのである。

この様に、これで明らかに、「伊勢衆」と「忠元」が動いた事が証明できる。


「嶋崎殿の青木氏」の「猿楽師の調停役」は、この様に「猿楽師の面識」を利用して「信長」に近づいたと観られる。

(注釈 その後は仕官したが、直接に「信長」に調停を申し出る事は無理であろう。
この間に「所縁の者」が関わっていたのである。)

以上の事から、この経緯の事に成っている処を観ると、「忠元」が「仕掛けた戦略」であった事は間違いはないと考えられる。

実は、この「調停役」と成った背景を更に調べると次ぎの様に成っている。

この「伊賀」の「嶋崎殿の青木氏(猿楽師範)」を通じて、直接に「信長」に面接してはいない。
確かに、奈良に住していた「猿楽師(大倉氏)の面識」で「信長への仲介役」を演じた。
然し、ここで、次ぎの人物が「大倉氏の仲介の意」を受けて「信長」に直接仲介した人物が何とあったのである。

前々段で論じた「秀吉と信長」に信任の厚かった二人の内の一人である。

その「仲介者」は、「青木紀伊守一矩」(従五位左衛門佐 越前北庄八万石 1598年)に列せられた者と成っている。

秀郷一門の伊勢の「青木忠元」は、全く同時期に「伊賀守」(1577年)に任じられていて、「越前坂井郡丸岡四万六千石」に列せられている。

「青木伊賀守忠元」と「青木紀伊守一矩」は共に「信長」に仕えた。

重要
実は、この後、「伊賀の青木氏」の主家の「五代目」の子供の娘(次女)が、この「紀伊守の嗣子の政寿の妻」と成っている。
更に、この100年後位宝暦九年にも両家は「伊賀青木氏」から「娘女の縁組」をしている。
然し、この時期は「紀伊守の一族」が、既に,福井に逃避し、「伊賀の青木氏」は江戸に移動していている事に成っている。

これはどの様な意味を成すのであろうか。

つまり、「前の血縁」で観ると、添書内容から考察するに、1581年に「伊賀青木氏の五代目」が「織田家」に仕官した後の事である様である。
この事から、「織田家仕官執り成し」は、この「紀伊守一矩」であった事が判る。
「信長の仲介役」もこの事で裏付けと成る。

然し、「後の血縁」で観ると、「伊賀の青木氏」の「主家の系譜枝葉」では、再び江戸(御家人)と越前(商人)との間の取り持ちとも考えられる。
唯、「奈良の六郷」に[青木一矩の一族子孫」が残留していて、その一族と、故郷の「伊賀の跡目」を再興した「戻り組」とが血縁したのかは詳細は判らない。

現実に、「主家」であるし、「伊賀の青木氏」は江戸期にも伊賀に定住している事、「大番役」でもある事からも江戸だけでは留まらない。
恐らくは、添書には”六郷に嫁す”あるところから、江戸からの支持の下で「大和と伊賀の地での縁組」が交わされたと観られる。

とすると、「伊賀」は,前段で論じた様に、「三氏」と成っていて江戸に移動している事に成っている。
然し、「伊賀本領」にも留守居役として一家を設けていた事を示す事に成る。
これで、現実には、現在も「伊賀の青木氏」が現存する事から、この事で証明できる。

唯、家紋が、前段で論じた様に、「伊賀の青木氏」の主紋の”「一文字紋」である。
果たして、「伊賀の青木氏の枝葉」の「伊賀」に定住した”「青木氏の立場」”はどの様に成っていたのかは不明である。
現実的には、”全て「三氏」を江戸に移してしまう”と云う「戦略」は採れないであろう。
況してや、「大番役」と云う役務から観ても、「本領の役務」も「伊賀」にもそのままに成っている事から、一族を遺すのが筋である。

とすると、この「系譜」は、「三氏の主家の系譜」から観ているのであるから、確かに「主家の一人」を遺したと考えられる。
唯、この「伊賀の主家枝葉の格式」には、「伊賀青木氏の格式」は江戸に集中していた事から、再度、格式を高める手段に出たと考えられる。
恐らくは、この「格式を高めた手段」として、この「主家の系譜」には分析未了であるが、この一つが「女系の嫁」で再び繋いだと観られる。

そうすると、越前に移動したと観られる「一矩系統(久矩)の一族」のこの”「六郷」”は、普通は「現地残留孫」と考えられる。
「大和と伊賀の地での縁組」との縁組と成るが、確定はし切れていない。

と云うのも、そもそも、この”「六郷」”とは、元々、”「一矩一族の呼称」であった”のではないかとも考えられる。
実際に、この「系譜」には、この”「六郷」”の使用が「三か所」に出て来る。
何れも、「六郷の十左衛門・・矩」と云う様に代名詞が付いている。
この事から、「一矩一族(久矩)」が「越前」に移動その後も残留して居た事も考えられる。

現在、この名張域の「大和 六郷」には、「一矩一族の青木氏の痕跡」は、その後に絶えたと観られて確認できない。

(注釈 「奈良の六郷地区」は、R25沿いの「名張」の直ぐ左横の地区である。
「名張」は「皇族賜姓族伊勢青木氏の拠点」であった。
ここに「清連寺城」の館城があった。「伊賀衆救出作戦の拠点」であった。
この一帯は「青木氏所縁地域」である。)

ただ、「大和の六郷」には”絶えた”としても、「六郷」に「一矩の子孫」が居た事は「青木氏の記録」の”「近江青木氏」を庇護した”と云う事が、「青木氏の記録」に明確に有る。
”絶えた”の説では無く、”庇護”の説であると考えている。
つまり、この二つの意味の選択は、「青木氏の商記録」と、「佐々木氏の研究記録」に”「庇護」”と記した意味にあると考えられる。

元々、この「大和 六郷」の地の持つ意味が大きく左右している筈である。

そうすると、この「庇護の経路」を検証して観ると次ぎの様な事が云える。

「庇護の経緯」は、先ず、「本流」は越前に庇護した。
そして、「残留組」は、「三河 額田」より集め、「大和 六郷」より集めて、最後に「摂津」に庇護した事に成る。

この「摂津庇護」は次ぎの様に成る。
先ず、「源平合戦時」に「美濃の富士川の戦い」で、「近江の戦い」で敗れて「美濃の地」に決戦を求めて移動した。
この「近江青木氏」は、結局、「美濃青木氏 土岐青木氏」と共に滅亡したが、この「生き残り」は「三河 額田」に逃避した。
この「子孫の家族」等は、「伊勢青木氏」は近江より摂津に庇護した。
その後、「三河 額田」に逃避した「一矩」が信長に仕官し、出世し「大和 六郷」に子孫を定住させた。
その後、「北の庄」の「八万石の大名」に成り移動した。
「関ヶ原の戦い」から続く「冬夏の大阪の陣の敗退」で、「一矩の孫の久矩」等は越前に逃避した。
その一部末裔を「大和 六郷」に遺した。
これらの「大和 六郷」に遺された子孫を「摂津」にそっくり「庇護」した事に成る。

そこで、「近江青木氏」は「源平近江の戦い」の時に敗退したが、一時、「伊勢青木氏」が、ここ「名張の勢力域」の「大和六郷」にその家族を匿った事も考えられる。
従って、「一矩」は、後に「三河 額田」より仕官後に「大和 六郷」に「三河 額田」で出来た子孫をここに移したと観られる。

その根拠として、「青木氏の記録」(商記録)では、”「近江青木氏庇護」”と簡単に記載されているだけである。
「伊勢の商記録」である事から、何も地名も書かずに”「庇護」”とだけ記する以上は「伊勢青木氏の勢力域」に「庇護した事」に成ろう。

尚、「近江佐々木氏の研究記録」に依れば、「同族縁者の近江青木氏」に付いては、共に戦った。
この近江での「源平合戦敗退時の庇護」には、”伊勢並びに越前に庇護した”と記されている。
恐らくは、この「二つの記録」の”「伊勢」”は「名張域」の「大和 六郷」であった事に成ろう。
故に、その関連から越前までの一連の”「一矩の行動」”に繋がったのである。

元々、この「大和 六郷」は「近江青木氏」に執っては、あくまでも”「逃避地」”であった事に成る。
「近江青木氏の定住地」では無かったのである。
「伊勢青木氏」が採り計らった「逃避地」であった。
近江は最早、他の勢力圏と成り、無理で「摂津の勢力圏内」に庇護した事に成る。
従って、”絶えた”のでは無く、全て”そっくり移して庇護”した事に成る。

「大和 六郷」に”痕跡”が無いのは、「伊勢青木氏」が、江戸期に成って「時勢」が落ち着いたところで、”一族郎党を摂津に移した”と云う事に成る。

そもそも、「青木氏商記録」や「佐々木氏の研究記録」にこの事が記されている。

では、この”「摂津」”とは、”どう云う処なのか”と云うと、改めて述べて置く。
元々、この”「摂津」”とは、「伊勢青木氏」の「大店の二店舗と屋敷」と「伊勢青木氏所有の三隻の千石船」の「堺港」と共に「主係留地」である。
且つ、「平安期からの遠祖地」で「大地主」である。
この”「摂津」”には、当然の事として「伊勢青木氏」が平安期から駐留していた。

「越前の逃避地」と同じく、この”「摂津」”は古来より水軍(伊勢水軍の第二係留地)も備えた”「青木氏の防御の拠点」”でもあった。

この意味からも「近江」に近い旧来の”「摂津」”に庇護したのである。

(注釈 歴史的に参考に成る記録によると、この「摂津(伊勢)の青木氏(駿河水軍と伊勢水軍)」と、近江北部から降りて来た「残存の佐々木氏」等が、摂津西の「渡辺水軍」と共に「摂津水軍」を形成して、「義経の壇ノ浦戦い」の時に側面から平家水軍を突いて「戦況」を変えたと記されている。
味方の「北条軍(梶原氏)の恣意的な邪魔(妬み 嫉み)」を受けて「不利な戦況」と成り得ていた矢先に、この「摂津水軍の側面攻撃」で義経側に形勢が傾いたとする有名な戦史である。
戦い前の「軍略会議」で義経と梶原氏等が切り合い寸前の激論を交わした。
この事から、事前に梶原氏等の邪魔が入る事で戦況が悪化する事を予想した義経は、戦略を変えて、「身内の摂津水軍」にこの作戦を命じていたのである。
これを契機に、義経専属自前の「熊野水軍 紀伊水軍 伊勢水軍 駿河水軍」が「ゲリラ戦の攻撃」に転じて勝利した。
その後、この「摂津水軍」はこの役目を終了後に戦場から直ちに引いたとされている。

その様な重要な「青木氏の商業拠点」であって「陸海の防御の拠点」でもあったのである。
常時は、貿易の「商船団の護衛船」として伊勢と摂津を拠点に働いていた専属の水軍である。

(注釈 この「ゲリラ戦」とは,「軍船と軍船の弓火矢の戦い」では無く、直接に「軍船」に横付けして「船上」で戦う当に虚を突いた「海賊戦の戦法」の事を云う。
この「海賊戦」を提案したのが、当時、蛮勇で有名な「紀伊灘の海賊」の「紀伊水軍」であった。
「義経」は「圧倒的な平家水軍の優勢]から観て、この「紀伊水軍」を味方にするかは「勝敗の決めて」と考えていて何度も説得を試みた事が記されている。
この「ゲリラ戦」が「紀伊水軍の条件」として味方する事に同意した経緯が記録されている。)

(注釈 「水軍船団の弱点」の”「側面攻撃」”が「予想外の戦略的な目的」であったと観られる。
そもそも、逆に船は後退できない為に一度側面攻撃で攻めた後は、自らが的中に突っ込む為に逆に「側面攻撃」を受ける事に成る為に危険度も大きい。)

(注釈 清和源氏の全青木氏と繋がりを持つ「頼光系四家」もこの「摂津」を拠点としていた。)

(注釈 「近江佐々木氏」も「源平近江の戦いの敗戦」で、「伊勢青木氏」は家族を近江から救い出して「摂津」に保護している。近江佐々木氏の軍は美濃に移動転戦し滅亡した。
この経緯が「佐々木氏の研究記録の資料」では詳しく研究されている。)

(注釈 一矩の長男の「俊矩」は東軍に味方した「前田氏の人質」になった。 越前に逃避した「一矩」は2月後に没する。)


恐らくは、「近江青木氏の出自」である事から、この”「摂津」”は元より「額田」にても、その後に、添書から読み取るところでは、未だ僅かに「一族残留組」が居て定住していたのではないかと観られる。

「氏家制度」の中で、「五家五流の宗家の役目」としては、「青木氏の記録 近江氏の庇護(近江,越前、摂津、額田)」の記録にある様に、これには明らかに「伊勢青木氏の仲介」があった。

(注釈 「大和 六郷」の事に付いては、「豊臣家の淀君に関する資料」の中に、”大和(六郷)よりいずる青木氏なる者(一矩-俊矩-久矩)・・”として面会して、大坂方に味方する事を約している。)

この事から、「一矩一族」は、この「大和 六郷」にも子孫を遺していた事が判る。

(注釈 この「大和」は、「家康」が「淀君」に対して「片桐案三案」の,「大阪城退去」を条件に「大和国55万石」を与えるので、そこで「豊臣家」を改に興す様に説得した経緯がある。)


ここで、この「系譜」に記されているこの事に関する「決定的な事」を記すると、次ぎの様に成る。

この「一矩一族」に嫁した「伊賀の青木氏」の「主家の子女(娘B)」の母は、「六郷 十左衛門正明の女」と成っている。
「主家の系譜」では、その夫は「政長」と成っている。つまり、五代目である。


その夫(政長)は、 十三歳で跡目に成っている。
その後、江戸初期に、前段で論じた通り、「小姓組」 「西ノ丸勤仕」等と大出世している。
この「系列の以後」には、他氏からの養子縁組で何代か跡目が継承されている。

その最初の「婿養子の政行」(六代目か)は、特記すべきは、この者は最高官位は「従五位下 豊前守」叙任と記されている。

つまり、上記の通り、「伊賀の青木氏」の「主家の子女」(娘B 伊賀の戦い後)が「一矩の一族の嗣子(久矩の子)」に嫁している。

ところが、その前に、この「娘Bの母親」は、何と「一矩の一族」(久矩かは判らない)から「伊賀の青木氏の主家」に入っているのである。

「一矩の嗣子」の「娘A」(伊賀の戦い前)が、「伊賀の青木氏の主家」に嫁し、その「娘A」の子の「娘B 次女」を「一矩の嗣子一族の妻」に嫁している事に成る。
要するに、「相互間に同族血縁」をしていた事に成る。

次ぎの驚きは、この「娘A」の子供と成った「婿養子の政行」は、「一矩の出自」の「近江青木氏」の「永代官位」を引き継ぎ、「従五位下 豊前守」の「叙任の栄」を受けている。
これは、”一体、どう云う事なのか”である。


そこで、この「近江青木氏の永代官位」を「伊賀の青木氏」は、「一矩一族」から、”何故、受け継いだのか”である。
普通は受け継げない家柄である。
この者は「六代目」と成るので、当に、江戸初期と成る。

「一矩一族」は、次ぎの様に判断したのではないかと考えられる。

越前に逃避した事
除封を受けた事
商人に成った事
五代目で「深い縁続き」に成った事

以上の事が起こり、”最早、奈良期からの「永代官位」を引き継ぐ格式の意味が消滅した”と考えたのではないかと観られる。

そこで、「五代目の努力」で「縁続き」と成った事から、この名誉ある「徳川氏の御家人」と成った「伊賀の青木氏」の将来の発展を期して永代官位を移したと考えられる。

何れも、「近江青木氏」も「四家制度」を敷く家柄、「伊賀青木氏」も秀郷一門下に成り「四家制度」を敷く家柄に成った事から、「青木氏跡目方式」は、男女孫域までの嗣子は差別無く「跡目」と成り得る仕来りである。
従って、「親子の女系」で「相互血縁」をした事で、「伊賀の青木氏」が「近江青木氏」に成り得る。

(注釈 婿養子の「政行」は「山角藤兵衛親詮の六男 義父政長の「娘C 長女」を妻としている。
「娘B]と[娘C」は姉妹である。)

この「四家制度」で、「娘C」の子は、「近江の青木氏」のみならず「伊賀の青木氏」の正当な「主家の跡目」と成り得る。

依って、この「青木氏の四家制度の仕来り」から「伊賀の青木氏」は「永代官位」を引き継ぐ事に成った事を意味する。

(注釈 「豊前守」は名誉官位であった。「永代官位」であるが、その後には「二代」で終わっていて、その後の系譜には官位は不思議に書かれていない。
恐らく、「大番役」で通した事から、”役柄にその官位そのものの必要性が無い”と末裔は判断して返還したと観られる。むしろ「大番役旗本」には邪魔と考えたのではないかと観られる。)

この「永代官位移行」で「近江の青木氏」=「伊賀の青木氏」の深い関係が生まれたのである。
その血縁の「象徴的な手段」としたと考えられる。

(注釈 「伊賀の青木氏」は、前段で論じた様に、「たいら族」の「貞盛の宗家の跡目」から出自した形を採っているが、[天皇への不敬不遜の至り」から作法的に採った繁盛ルーツである。
依って、その官位は正式には無い。)

この二人は「伝統シリーズ]等の論文で何度も論じている「青木氏の話題の人物」である。
この「青木紀伊守一矩」(従五位左衛門佐 越前北庄八万石)の「青木氏の出自」は確定していないが、近江青木氏である事は上記した様に「青木氏の資料」からは明らかである。

(注釈 この一族には他説が多く、上手く歴史の事柄を繋ぎ合わせた搾取説が殆どで矛盾だらけであり信用できない。
「青木氏の資料」から論じている。)

然し、「官位」や「官職」や「家紋」などから総合的に考察する処では、「1の天智期の近江青木氏」であると観られる。

この「青木氏」は、「源平合戦」の「美濃の富士川の戦い」の際に滅亡した「近江の皇族賜姓族青木氏」ではないかと考えられている。
この「青木氏」は、滅亡後、[伊勢の皇族賜姓族青木氏」の末裔とその血縁族が住む「三河国額田郡青木村」に逃避した。
現地近江に遺された一族の末裔の一部は、一度、近江で過ごし、その後に、摂津に移動して「伊勢青木氏の庇護」の下に入って生き延びた。

「源平合戦」で各地の「青木氏の庇護」の下に散った残党を「額田の青木氏」が呼び集めて、「信長」に若い頃に仕官(1559年頃)した事に成る。
その後、上記した様に、「奈良の六郷」と云う処に住まいを構えていたと観られる。

その時、「1598年前頃の青木氏の中での呼称」は「六郷の紀伊守殿」と上記した様に呼ばれていた模様である。(伊賀の青木氏の系譜)

(注釈 額田での「若い頃]の信長の「遊び友達」では無かったかと観られる。)

史実としても、確かに「信長」や「秀吉」にもに重用されて勲功を挙げている。

この「青木紀伊守一矩」と「青木伊賀守忠元」の二人は、その後、信長死後、「秀吉」にも仕えた。

ただ、この「青木紀伊守一矩とその子孫(俊矩-久矩)」は、「秀吉の家柄作り」に利用されて、「秀吉の青木氏」の発祥の元に使われた。
「秀吉」に「我が従兄弟」とも発言される等して、取り込まれ、その「母方末裔」と称して二代目(実質四代目)を秀吉の母方親族と観られる者に継承させて「秀吉の青木氏」を作った。
この「秀吉の青木氏」のその所領は、豊臣政権中は「伊予」や「土佐」の二郡を所領した。

然し、「豊臣政権滅亡」にて、この「青木紀伊守一矩」は、徳川氏に依り除封(「徳川除封禄」)され、「青木忠元」と異なり、その結果、その一族(久矩)は福井越前の「青木氏の庇護地」に逃げ込んで商いをして生き延びた事が「青木氏の資料」で判っている。
(現存している。)
「忠元」の様に「遠祖地の持ち主」であったならば、除封されたとしても、何らかの「遠祖地の支配権(地権持ち)」に戻されている筈である。
然し、福井越前に主流が逃避しているところから、「近江青木氏系」の「額田郡」に住していた「遠祖地」を失した「青木氏」である事が判る。

(注釈 他説は矛盾が多い。「従五位左衛門佐」のこの官位は、「賜姓五役」に役する「皇族賜姓族青木氏」にしか与えられない最高官位で永代官位である。
そもそも、一地方の土豪の「丹治氏系」には与えられる資格は無いし、「丹治氏系青木氏の説」ならば、越前に逃避する必要が無く、徳川方に味方した勲功で「摂津麻田藩」を家康から与えられている事から逃げる必要も無い。
そもそも、豊臣方に味方している。
他の説は,何れにせよ「宗派,家紋、官位、官職」の全てに完全矛盾する。
そもそも、この「永代官位」は勿論の事、丹治氏はその家柄では無い。)

(注釈 況して、「丹治氏」ならば麻田藩に加わる事が出来、「除封」は受けず、追われる事は無い。
他説は後付説で論外)

この青木氏に執っては忌まわしい「伊賀の戦い」は、結局は、「約3年の戦い」と成るが、「忠元」はこの様に懸命に説得工作に出たと考えられる。


「本所役の忠元」は、「皇族賜姓族の伊勢青木氏・信濃青木氏」に沿う以上は、「伊勢国人」として、「伊勢郷氏」として生きねばならない宿命に縛られている。
従って、この「仕来り」から、何れの家臣にも成れない柵があった。
しかし、「信長」に「抗う事」は「青木の氏是」に反して、”「戦い」”を仕掛けなければならない填めに成る。

第一次の「丸山の戦い」(1578年-1579年)では、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」の「青木氏の顔」を隠しての「ゲリラ戦」で応じて勝利した。
然し、何時までもこの姿勢を保つ事は出来ない。
「伊勢三乱」に発展する事の前に、そこで、「本所の宗家忠元」は、「皇族賜姓族の伊勢青木氏・信濃青木氏」に代わって止む無くこれを受けた。

つまり、出来る限り「伊勢の青木氏への衝撃」を押えたのである。

「名張戦、伊賀戦」では、「青木氏の記録」では、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」側は、名張城から「窮地に陥って伊賀者18郷士」を救い出す事に限定して「救出戦」(1581年)で応戦して救出した。
(この伊賀衆を青木氏の定住する地域の「神明社組織」で保護した事が判っている。)

「本所役の忠元」は、上記した様に”「紀伊守の仲介」”で何とか難を逃れた経緯があった。

この様な事もあって、江戸期に成って「家康」から「忠元」は”「除封」”は受けたが、「遠祖地の支配権」は安堵された。
この時、「伊勢の紙屋の青木氏」の「家康への執り成し」であったと観られ、共に「伊賀と伊勢と紀州と堺と摂津」の一部を「本領安堵」されたのである。
(前段等で論じた 参照)

(注釈 「紀伊守」は、平安期に「遠祖地」を失っている事と、”「秀吉との関り具合」”から”敵対した”と観られて許されなかった。
この「紀伊守の動向」を考察すると、特段に「徳川氏に対しての功罪」は無い。
「除封の憂き目」を受けるものとして唯一つあった。
それは、上記の”「秀吉の関り具合」”とは、”「秀吉の青木氏」の事”だが、それが”「豊臣家一族」”と見做されて許されなかったのである。)

そこで、この様な「秀吉の青木氏」に観られる様な典型的な「家柄格式の引き上げ」の為に利用された”「婿養子」”に類する縁組が「二つの青木氏」にあった。
これは、「姓族」をはじめとして、他氏の場合は、”「権力」”に裏付けされた”「家柄の吊り合い」”の「引き上げの為の縁組」は、常である。
然し、「二つの青木氏」の場合は違った。
それは、”「権威」”に基づく悠久の「歴史と伝統」を持つ”「格式の獲得」”にあった。

そこで、従って、「伊勢青木氏」を始めとして、他の「二つの青木氏」の調べられる範囲での「系譜添書の内容」から、果たして、どの様に成っていたのかを調べた。


ここで、その一つの例として、先に一つ疑問があるので、検証して観る。
それは、上記の様に「近江青木氏と伊賀の青木氏」との血縁は進んだ。
然し、”「近江青木氏」と「忠元一族」との血縁が何故起こらなかったのか”である。
実際は、「血縁」が起こっていない。
普通なら、上記の様に成っているのであれば、「忠元一族との関係」もあったと考えるのが普通であろう。
確かに、「織田側の重臣」に対し、一方は敵対する「伊賀側の支配者で指揮官」である。
大見栄きって出来ない事は判る。然し、「伊賀青木氏」とは出来ている。

何か出来ない理由があって出来なかったのか。「100年後の末裔」にも起こっていない。
その理由が調べるが記録に出て来ない。

唯一つ考えられる経緯の事が次ぎの経緯に在る。
「青木氏の柵具合」が判る出来事であると観られる。

上記に経緯として、「近江青木氏」の一部を論じたが、「近江の源平合戦」「美濃の源平合戦」の何れにも敗退して滅亡した。
辛うじて、「一矩の先祖の一族」は「伊勢青木氏」等に依って「額田の青木村」に救出された。
この時、「近江青木氏」の「滅亡の憂き目」の原因は、「秀郷流青木氏」が、”「近江や美濃」で助けに入らなかった事”が敗退したと受け取っていたと考えられる。
何れの地にも「秀郷流一族」は存在した。
況して、「賜姓五役補完」としての役目もある。

つまり、”「近江青木氏」が「存亡の危機」の時に、その役目を、何故、果たさなかったのか”と云う不満である。

確かに、その事は云える。
平家もこの事(出て来ないと云う事)を知った上での「戦い」であった筈である。
何故ならば、「二つの青木氏」には、「青木氏の氏是」がある事を知っていたからである。
主導役の「伊勢の皇族賜姓青木氏」が動かなければ、「特別賜姓族の青木氏」も動かないであろう事は誰が考えても判る。
況して、「近江青木氏系一族」と「美濃青木氏系一族」は「青木氏の氏是」の「奈良期からの禁令」を破った事でもある。
同族と云いながらも、「氏族」の生きる前提は、「嵯峨期の詔勅」に依って決まっている。
「賜姓五役」や「三つの発祥源」や「国策氏」等の「生きる目的の為の役務」は与えられていない「氏族」である。
この「異なる生き方をする源氏」に対して、「同族の賜姓源氏」に引きずられて禁令を破っている。
後勘の者として観ると、「近江青木氏等」は「氏の歴史的な事柄」を鑑みても、「思考原理」が短慮であり、根本的に間違っている。
「先祖の伊勢側」もこの様に受け取っていたと観られる。

これだけでも、当然に同じ考えに立つ「特別賜姓族秀郷流青木氏」も参戦する事は先ず無い事は判る。

然し、「近江青木氏側」は、”「五家五流]の内の「三家」(甲斐も行動を途中まで行動した)が動いたのだから助けるのは当然であろう”と考えた事に成る。
つまり、この事は、「近江青木氏」が、「二つの伊勢青木氏」に対して、奈良期から務めて来た”「主導役」”を素直に認めていなかった事に成る。
そもそも、「四家制度」に依っては、確かに「五家五流」は「平等の格式家柄」にある事は史実である。
何か特別に「二つの伊勢青木氏側」に「朝廷の賜姓のお墨付き」が在った訳では無い。
それは「647年の発祥時の経緯」の差だけであり、伊勢の「皇祖神の地の守護の経緯」の違いだけである。
後は同じである事も事実である。

「近江」にして見れば、”朝廷との直接の繋がりの場にいた自負”もあった事も事実であろう。
「青木氏の氏是」にしても、”「危機存亡」の折に「氏是」に拘るのか”と云う考え方もあった様でもある。
況してや、この”「青木氏の氏是」は、「施基皇子(伊勢青木氏)の遺言」でもあるだけではないか”と考えた事も事実である。
そもそも、「川島皇子の血筋(近江佐々木氏始祖)」も持つ「近江青木氏」に執っては、「青木氏の氏是」がある事は認めるも、「伊勢青木氏」が思うほどの「絶対性]は無かった事も否めない。
(資料にもそれと読み取れる一文もある。)
この点から考察した場合は、末裔としての「後勘の判断」としては、納得はしないにしても「近江青木氏の言い分」は排除でき得ない。
「二つの伊勢青木氏」もその分での配慮もあったと考えられる。

然し、雌雄を決して、最悪全ての「青木氏」が「滅亡の憂き目」を受ける事は避けなければならない。
役務である以上は、「近江青木氏」等の様に、”一か八か”は成り立たないと考えた筈である。
これは、”「青木氏の問題だけでは無い。事は朝廷まで及ぶ」”と租借していたと考えられる。
従って、「伊勢側」は、”「知略」を使って遣るだけの事はしよう”と考えた筈である。
現実に、上記した様に「知略」の限りの「援護と庇護」を行った。


現実に、記録にある様に、「平家軍」も「信濃域」に転戦していた「軍勢」をこの「美濃の戦い」に呼び寄せての戦いであった。
これで、場合に依っては「秀郷一門」が出て来る事も予測して「平家軍」も準備はしていた事が判る。
近江には、「近江の蒲生氏」(後の「伊賀の戦い」の指揮官 西の公家政権の監視役)、「美濃」には、「州浜紋類]と「片喰紋類」の「秀郷流青木氏」が定住地である。
この「秀郷軍(主軍は青木氏)」が動けば、「平家軍」は明らかに「挟み撃ち」に合う。
「持久戦」に持ち込まれれば、「平家軍の全軍餓死全滅」である事は間違いは無い。
故に、そこに至る前に慌てて「富士川合戦」に持ち込んだのである。
そして、形勢が決まると直ぐに軍を引いたのである。
当時の「三大組織的軍事力」は、「源氏力、平家力、秀郷流青木氏力」であった。

「近江青木氏」が考える事とすれば、”何故、「合力」は別としても、「滅亡」までに至らなくても手前での「援護なり救援」が無かったのかである。
”あれば、「滅亡」までには至らなかった”と考えていたのではないか。

況してや、歴史を通してみれば、「伊賀の件」でも、又しても、同僚の秀郷流「蒲生氏郷」が指揮官であった。
この釈然としないものが代々あったのではないかと考えられる。
然し、「伊勢側」から観れば、”何を勝手な事を”と成る。

「関ヶ原戦い」、「大阪の陣」共に助けは無かった事から、又しても「裏切られた感」を持っていたと観られる。
[富士川の戦い」の時にせよ、「伊賀の戦い]の時にせよ、「大阪三戦」の時にせよ、「徳川除封」の時にせよ、”「賜姓五役」で繋がる青木氏同族”でありながらも、何れも「秀郷一門の合力」は一切無かった。
「同族青木氏」と観れば、普通は合力程度はある。
現に、「伊勢の皇族賜姓族の青木氏」の賢明な側面からの「救援と庇護」はあった。
「人心」としては比較されるは常道である筈である。

(注釈 「青木氏の氏是」は、「賜姓五役と三つの発祥源と国策氏」の「役務」から、”「他氏への仕官」”は「最も厳しい禁じ手」である。
あくまでも、”朝廷が認める「永代地権」を持つ「郷士、国人の範囲]で留めなくてはならない。”
故に、「五家五流青木氏」は、永代の「不入不倫の権」に護られていたのである。 
この「掟」も「近江青木氏」は「信長秀吉の家臣」と成って破っている。
「伊勢青木側」から観れば、”何をか況や”である。
実際も、矢張り、「援護 支援 庇護」はするも、その範囲では一応の「付き合い」はするも、「血縁の範囲」では、出所進退ははっきりしている。
然し、室町期から江戸期には至っても何も無い事もあり、付き合い難ったのではないだろうか。)

「史実」として、この様に成るが、調査研究を進めているが、的確な資料は「青木氏」の中では「直接の血縁」と成るものは出て来ない。
恐らくは、筆者の観方は、「伊勢側」が後に末裔がこれらの歴史を恣意的に”隠した”のではないかと観ている。
当時の慣習としては、何らかのものがあるのが普通なのであるが無い。

唯、「忠元側」にして見れば、「賜姓五役の補完」としての「青木氏の氏是」に縛られていた事が在る。
非常に難しい立場であった事も判る。
然し、”「伊勢の皇族賜姓族の青木氏」の賢明な側面からの「救援と庇護」(知略)はあった” 程度の事は出来た筈と観られた事も考えられる。
逆に、この「救援と庇護」が目立った事も考えられる。


そこで、別の方向で次ぎの研究をした。
「皇族賜姓族」では、「伊勢青木氏」、「信濃青木氏」、「近江・摂津青木氏」の三氏と、「特別賜姓族」では、「伊勢秀郷流青木氏」、「関東秀郷流入間青木氏」、「讃岐秀郷流青木氏」の三氏に付いて調べた。
その結果、その「家柄格式」からして、一寸、”「不思議な血縁」”と観られるものがあった。

それは「本家、分家、支流」の如何に関わらず各所に存在していた。
特に、その傾向として、秀郷一門一族の中でも、「関東の秀郷流青木氏」に多く存在していたのである。

むしろ、「秀郷一門宗家」よりも「第二の宗家」と呼ばれていた「青木氏」に起こっている。
これは、「秀郷一門宗家の血流」を護る為に、防護していたと観られる。

唯、その中でも”「青木氏の分家筋」”が「青木氏宗家」に代って「他氏との血縁関係」を結び、その「政略的な働き」をしていたと云う事に成っている。
つまり、「他氏の血流」を入れていると云う事である。
その「血流の入れ方」には色々な方法があるが、特徴的な方法は、”「婿養子」”が断然に多い。
この”婿養子”は、「秀郷一門の主要八氏」までが採用している「類似の四家制度」を超えている。
「四家制度の範囲」に無いところからの”「婿養子」”に成っている。
添書に書かれている内容からではあるが、ただ、「氏名」からの判断で観ると、「藤原氏北家筋9氏」からは超えていない。


唯、「類似の四家制度」を厳格に採用している「秀郷一門主要五氏」も、”ある面”で「他氏との血縁関係」の血流を護りながらも適度に行っていた模様である。
しかし、それには、無規則に行われているのでは無く、ある歯止めの様なものがあった。
その中でも、その”「婿養子の血縁」”には、”「主要五氏の調整役の進藤氏」”が頻繁に関わっている事が判る。

この「秀郷一門の主要五氏」の「文行系の進藤氏」は、“他氏との血流を広く入れる役割”を果たしていたと考えられる。

ところが、その割には、「文行系の進藤氏の本家筋」が、目立って「跡目」に苦労している系譜に成っている。
矛盾している。これが「不思議の一つ」であるのだ。
ここには、”何か婿養子の血縁に隠された何があった事””が云える。

その”隠された何かあった”と云う事が判れば、重要な青木氏の生き様の判断要素に成り、当時の「青木氏が持つ歴史観」と成り得る。

”何か不思議”で、先天的に”「女系族」”なのかもしれないが、そもそも、この”「婿養子の跡目」”が頻発している。

するとこの結果、他氏から入る事に依って”「一族の血流性」”(純血性)が低下して、結果、「子孫力と組織力」が低下していたのであろう事が判る。

「女系性」が進藤氏の一族枝葉全般に起こる現象でも無い筈である。
依って、問題は「女系性」では無く、「一族枝葉全般に起こる確定的な現象」と成る。

それは、そもそも、「四家制度」の様には行かずに、「嗣子のやり繰り」が一族内で効かなくなる傾向があった事に成る。
その結果、挙句の果てには、「血流性」が三代内で低下する事に成って、「他人性」が増して、”「一族争い」”が起こる事に成った。
そして、益々、”「跡目継承者が少なく成る現象」“を起こす傾向が頻発して、それが常態化して仕舞った。

恐らくは、この現象が起こっていた事が判る。

この傾向は、「文行系の一族」にも観られる現象ではないかと判断できる。
添書には、娘の嫁子、他氏養子、婿養子、跡目養子、養女、養子等の形であるが、婿養子の血縁が多い事が云える。
「一族存続の在り方」に付いて一つの「文行系の考え方」が在ったと観られる。
それが、「文行系進藤氏」の様に、はっきりとして「秀郷一族一門の中での役目」であったかは判らない。

重要 これが”「婿養子の最大の欠点」”とされていた。

「調整役」を務めいた「進藤氏一族」が典型的な見本である。「青木氏」はこの「進藤氏」を観てこの事を
充分に承知していたと観られる。
その為にも、「主要八氏」内で採用した「伊勢の四家制度」に類似した「秀郷流青木氏の四家制度」の理由の一つと成ったと観られる。

(注釈 この「進藤氏」に付いては、前段でも「円融期の青木氏発祥」に大きく貢献を受けた事を書いた。)

そこで、この「秀郷一門」の「調整役の進藤氏」が、この「近江の青木氏」の事に関わっていないか調査した。

そうすると、この「近江青木氏の血筋」を受けた”「脩行系青木氏」の存在”が出て来たのである。

実は、この「脩行系青木氏」は、「秀郷一門の4代目文行の流れ」の「文行系の青木氏」である。
「伊賀の青木氏」と同じく「特別の青木氏」である。
「秀郷流青木氏」は「4代目兼行系の青木氏」である。
前段で論じた様に、本来は「青木氏」が出ない仕来りに成っている。
然し、出ている。
実は、この「脩行系青木氏」は、ある背景があった。
京に在し”「公家青木氏」”と云われ「公家の血筋」を引く「青木氏」である。
この「脩行系青木氏」は、「文行系の進藤氏」の系列に入る系である。
この「脩行系青木氏」は、「近江青木氏との血筋」を持つ事から、特別に「青木氏」を名乗ったとされる。

この「公家青木氏の脩行系青木氏」は、南北朝末期まで「紀州北部の大掾位」を務め、「若山3000町歩」を所有していた。
ところが、南朝に加担した事から「紀州掾の除役」と成った。

一部は「讃岐秀郷流青木氏」を頼り「伊予土佐域」に逃避、主流は本領の美濃に戻った。
美濃と三河域を勢域とする主要の「秀郷一門の州浜紋族」である。
現在も、「和歌山県有田市」にこの「青木村」の地名は残っている。
ここには「脩行系青木氏」の末裔子孫はある僧侶の一族末裔を除いて定住していない。
唯、紀州には女系で繋がる傍系土豪の玉置氏等が現存する。
室町期に在住した「藤原族青木明恵僧侶」が開いた「明恵温泉」で有名な地域である。
この「青木明恵上人」は、紀州の「藤原族の頭目」として地元の民から慕われ、後に剃髪して上人と成った紀州、伊勢、奈良域では有名な人物である。

これが、「調整役の進藤氏」の採った「仲介」ではないかと考えている。

唯、この「近江青木氏の血筋」の受けた「紀州の脩行系青木氏」の「明恵青木氏の発祥期」が「室町期の何時」であるかは確定する資料が無いので現在は判らない。
「脩行系青木氏」は平安末期である。
若干、時代性にズレの疑問もあるが、然し、「明恵上人」として存在し、その末裔は有田近隣に遺しているので、この時期の事である事には間違いは無い。

考えられる事は、この「明恵上人一族」と「忠元の一族」が女系で繋がったかは不明なのである。
この事が確定されれば、「近江青木氏」と「忠元の青木氏」との関係があった事が証明できる。
然し、、現在は判らない。

(注釈 近江青木氏の一矩」が「紀伊守」に任じられたのも、この上記する紀州との所縁から来ている。)

筆者は、資料有無は別としても,或は消去にしても、「両氏の何らかの血縁」は無かったと観ている。
上記した様な意識の違いの事も長い歴史の中ではあり得る。
「進藤氏の仲介」があったとしても近江側が「拘り続けた事」もあり得る。
何せ「商記録」に出て来ないと云う事は、「伊賀の事件」以後にしても、「一矩末裔一族」は「伊勢青木氏の庇護」の下に「商い」をしているのである。
共に「商い」をしている立場でもあり、何かがあって当然である。
ここまでの”「消去」”は無いであろうから、”無い”と云う事は無いのであろう。

それは、「伊勢青木氏と信濃青木氏」は血縁を繰り返し、「和紙や商い」は元より明治35年まで深い親族付き合いをしていた。
この事を鑑みると、「近江青木氏」とも”ある”のが当たり前であるが、これは無いのである。

不思議に、「青木氏の商記録」には「近江青木氏」の事は出て来ない。

上記に記した様に、「越前」で「商い」を紹介し庇護しているし、直ぐ近くの「商いと防御の拠点の摂津域」にも庇護している。
何も出て来ないのは「不思議な事」なのである。普通は何かしら出て来る。

(注釈 史実としては、平安期末期には、滋賀で伊勢の上田郷から出て来た「荒くれ者」が滋賀に残留した「近江青木氏の跡目」の途絶えた「老婆とその娘」の家を襲い、その家を奪い滋賀青木氏を名乗った。
この近江に帰った本筋の「近江青木氏」が、この搾取の「滋賀青木氏」と「[青木氏奪還戦」を繰り広げ敗退した。
更に、秀吉の時代に再び、秀吉立ち合いの下で、この「滋賀青木氏」と青木氏奪還戦」を展開し勝利した。
この時の「近江青木氏」とは、「近江の青木一矩」であった可能性がある。この二件がある。)

解き明かせない疑問なのである。何か変である。
越前で「神明社」を通じて「商い」を指導し、紹介して江戸期中期には「大店」を営むまでに成った事も判って居る。
「近江の青木氏の血筋」を受けている「仲介役の進藤氏系」の「脩行系青木氏」が伊勢近くに居たにも関わらず無いのは不思議なのである。


上記の様に、「一族一門の血縁」に関しては、その「氏の存続」に大きく関わっている事は判る。
然し、血縁で解決できない何かも働いている事も「青木氏」の中で起こっていたのである。
これらの事は、「自然の成り行き」で起こる事は先ず無い。

一族一門の誰かが、一族一門を繁栄させる為に、仲よく護り合う体制を作り上げる為にも、その役目を演じているのである。

それが、下記に論じる「秀郷流文行系進藤氏」がこの役目を演じていたのである。

依って、この「進藤氏の動き」を調べれば、何かが判って来るのである。
現に、「九州の永嶋氏等」この事から判った事でもある。
従って、ルーツを調べる時には「進藤氏の動きや系譜」などを調べるのが通例である。

現に、上記の「脩行系青木氏」はこの「進藤氏系の一族」である。
このことから多くの事が判るのである。
「青木氏のルーツ」を調べる時には、この「進藤氏の検証」は欠かせない。
それにこの「進藤氏の系譜」には,特徴があって、「系譜」よりも「添書」の方が大きいのである。
従って、一見「系譜」では無く「歴史本」と観える。
読み込むには漢文の技量も必要として大変である。
読むだけでも大変なのに、その上にその文章に持つ意味合いなども読み取らねばならないのである。
「秀郷一門の歴史」を知るには、「古い時代の歴史観」なども会得するには、「佐々木氏の研究資料」と共に「青木氏の参考書」なのである。
避けて通れない「進藤氏」なのである。


この「進藤氏の系譜」は、この典型的なパターンを起こしていて、結局、「進藤氏の本家」が二つもある様な現象が起こっている。
そもそも、血縁を進めるこの”「婿養子」や「嫁子女」“には、この問題が「潜在的」にあり、「四家制度」では、「婿養子」を他氏から積極的には採らない仕来りに成っていた。
この理由には、更に、”「本家割れ」”のこの事も懸念していたのである。

「信濃足利氏系青木氏」でも、「信濃足利氏」でも、「甲斐青木氏」でも、「甲斐武田氏系青木氏」でも、「美濃土岐系青木氏」でも起こっている。
「青木氏族の関係族」にはこの様に起こっているのであるから、一族を上手く取りまとめる役割の族が必要に成っていたのである。
これが進藤氏と云う事である。

この「調整役の進藤氏」が強い影響の受けたこの“「婿養子の弱点」”とも云うべき現象を無くす目的から、次ぎの様な手立てを講じていた。

前段で論じた「円融天皇の目論見策」から、「秀郷一門」の「青木氏宗家」には、“「秀郷一門宗家」の「第三子」を優先的に跡目に入れる事” を、朝廷から「賜姓時」に命じられていた。
その「跡目」は、“宗家並に守られる仕組み”の中にあったのである。
この「仕組み」が、「第二の宗家」と呼ばれる所以でもある。
これで、「婿養子の弱点」を防ぐ事をしていたのである。
と云う事は、当時の時代の皇位族でも起こっていた事を物語るものであり、「天皇」も知って居た事に成る。

この様に「氏家が割れる現象」が出れば、「宗家」から強引に跡目廃嫡をしても「跡目」を入れる事で、「氏族の筋目」は又基に戻る事に成る訳である。

(注釈 「秀郷宗家の出自」と成っている「佐野氏」から跡目を受けていた。佐野氏は秀郷出自氏であり、一門の中でも主要五氏の中でも最高位の位置にいた。)

「秀郷流青木氏」の「始祖の千国」は、「千常」を嫡子として「秀郷の嗣子の第三子」である。
この系譜で、四代目の「兼行系の青木氏」に限って、殆ど、「婿養子の跡目」は無い。
その為に、「116氏」からの「嗣子の跡目」で繋いできている。
その中に、「秀郷一門宗家筋」から平安期から江戸初期までに「4回程度の跡目」が入っている。

これは、恐らくは、次ぎの様に成る。

「母方」で繋がる「賜姓族の補完と云う立場」を護ろうとする意志が働いていた事。
「第三子の掟」もあり、“「四家」“と同じ様な”「何らかの仕組み」“を採って居た事。

以上で判る。

「家紋分析]で観ると、「116氏」と云っても「本家筋」を中心に「跡目」に据えている。
中には、一度、「本家筋の嗣子」にした上で「青木氏の跡目」に成っている。
この場合は、「跡目」は「青木氏の本家筋の跡目」に成っている。

この様に、「秀郷流青木氏の四家方式」は、次ぎの様に成っている。
「秀郷流青木氏の宗家(本家)」は、「伊勢」の「四家方式の二段方式」に類似していた。
「伊勢秀郷流青木氏(本所)」は、「本所役」として、「賜姓五役の補完遂行の役目」がある事から、「五家子流の皇族賜姓族青木氏」と同じ「四家方式」に従っていた。


先ず、「主役の四家」(宗家 主要五氏)がある事。
その下に繋がる「副役の四家」(本家 主要八氏)がある事。
以上の「13氏の役柄」は「主役と副役」から構成されている事
「副役」は「16家」(本来32家 本家筋)から構成される事。
「主役の四家」と合わせると「計20家」(45家)の範囲で構成される事。

以上として「四家制度」に「類似する方式」であった事が判る。
唯、五番目の「計20家」(45家)は実際は厳密に護られていない。

「秀郷流青木氏」は、この「類似の四家制度」に伊勢以外は一般の氏族と同じく「本家分家制度」を採用していた。
これが全体で116氏に成る。
秀郷一門宗家の赴任地に護衛団として同行する事から、赴任地の24地域には現地孫などの枝葉末裔が発祥する。
この事から、「末裔の枝葉」は拡大するので、「本家-分家-支流-傍系」が必然的に生まれる。
「45家」が厳密に護られていなかった理由は、「現地孫の枝葉末孫」が原因していた。
要するに、「現地孫」は「現地の土豪勢力」が主体であった。
この「現地孫」は、前段で論じた様に、朝廷の「青木氏賜姓の暗黙の条件」であった事から、避けて通れない仕来りであった。
その為には、必然的に護れないシステムであった事に成る。
「赴任地」の「土豪の影響」を強く受ける「現地孫」である事から、論理的にも現実に護る事が無理であった事が判る。

この、現地の役務上から発祥する「末裔枝葉」には「四家制度」は一切採用されていない。

類似制の「四家制度」は、武蔵入間の「総宗本家-宗家-本家」の範囲までで引き継がれていた。


この部分を綿密に調べると、類似制の「四家制度」が護れる範囲に於いては、明らかに“不釣り合いな「政略上の血縁」だな“と云う縁組が出て来る。

「総宗本家-宗家-本家」までは入間に定住する事に成るので、長い期間の「慣習仕来り掟」は護れる。
然し、これ「以下の枝葉」は現実には上記した様に難しく、この様な、「不釣り合い」の婚姻が生まれたと観られる。
既に、調べた範囲では、「45家の範囲の末端位」までは影響を受けていた事が判る。
家紋分析と主要八氏の系譜の添書からはっきりと分析できる。
恐らくは、時代が進めば、更に「45家」を超えて、「32家」、更には「13家」と進む可能性が有ったと観られる。
現実に「家紋や系譜」では、最早、辿れない処の江戸末期では、起こっていたのではないかと考えられる。

故に、116氏もありながら「あらゆる伝統」が不思議に遺されていないのはこの事から来ていると考えられる。
「ルーツ掲示板のお便り」にもよくこの事が現れている。
最早、殆どである。

比較対象として、「四家制度の伝統」を頑なに遺した「伊勢青木氏」と「信濃青木氏(諏訪族含)」と「近江佐々木」には、その”「伝統」”は比較的遺されているのはこの事から来ていると観ている。

(注釈 「甲斐青木氏」は僅かに子孫を遺したが、「甲斐賜姓族青木氏」は僅かに遺しているが、兎も角も、「武田氏系青木氏」は、「武蔵の鉢形」に家康に集団移住させられた事もあって遺されていない。)
この「四家制度」が「伝統のパラメータ」と成り得ている。
依って、この「上記三氏」も恐らくは同じと観られるが、伊勢は、最早、筆者の代で間違いなく「終わり」である。
「四家の背景」と成る「慣習仕来り掟」と相対の位置にある。
「伝統の価値観」が全く異なる。個人では支えきれない「事の流れ」の中では仕儀無き事と考える。

「秀郷流青木氏の系譜の状況」に話しを戻す。

例えば、この中には、「時の政権」の「京平家」との「直接血縁」に関わる「縁組」らしきものが、五代の内に四代も続けて起こっている事が読み取れる。

「平家一門からの婿養子の縁組」
一つは、「関東の京平家筋」(平氏の岡田氏 武蔵青木氏に)
二つは、「関西の伊勢域筋」(平氏の嶋崎氏 武蔵青木氏に)
三つは、「京平家の近江域筋」(平氏の本家 蒲生氏経由、伊勢青木氏に)
四つは、「武蔵の京平家筋」(平氏の本家 千常の宗家経由、武蔵青木氏に)


以上の四ルーツである。

ここで、興味深いのは、「三つ目の京平家」から秀郷一門の「近江蒲生氏」に入り、その末裔の一人が「秀郷流伊勢青木氏」に入ったとしている事である。
そうすると、この人物は下記する「青木玄審梵純」である事に成る。

先ず、その第一点が、その子孫が前段と上記で論じ、下記でも論じる”「青木忠元」”である事に成る。

次に、その第二点は、下記するが、「京平氏の支流末裔」の「信長」は、この「京平氏の血筋」を引く「蒲生氏郷」を特段に可愛がった理由がここで一つ観えた事に成る。
「京平家」の中の「同じ家筋の血筋」を引いていた事である。
信長の家紋は、総紋を「揚羽蝶紋」にして、美濃の地域に分布する「たいら族」の「織田木瓜紋」である事からも判る。
この二点が大きく働いていた事に成るのではないかと観られる。


とすると、この「忠元」は、次ぎの様な関係に成る。
「京平家A(女系)」-「青木玄審梵純」-「青木忠元」
「青木玄審梵純」-「蒲生氏郷」
「京平家A」-「織田信長」

この三つの式から、次ぎの関係式が生まれる。

「青木忠元」=「蒲生氏郷」=「織田信長」

以上の関係式が生まれる。

以上の系譜から観ると、「伊賀の戦い」の根底が読み取れる。

前段で論じた「信長」の「青木忠元の扱い方」と「伊賀の戦い方」が明確に読み取れる。

合わせてこの事で、上記で”「疑問」”と成った「近江青木一矩一族と青木忠元の一族との血縁」が難しかった事がこれで判る。

(注釈 これは、「調査資料の有無如何」にも左右されているので、四件に関わらず、他にも多く観られる筈である。)

この「血縁の現象」は、矢張り、主には、「鎌倉期末期から室町期初期」と、「室町期末期から江戸初期」の二期に集中している。

何れ二期ともに、例外なく”「勃興氏の発祥期」”である。
「青木氏側」では、「24地域」に定住した「青木氏の跡目」を護る必要から、より“隙間の出る時期”でもあった。
この事からも符合一致している。

実は、「青木氏の歴史観」から観て、この4つの”「不思議な血縁」”と観られるものは、次ぎの様に成る。

鎌倉期末期の「太平記」(1318-1368年)には三か所
平安末期の「東鑑」(1180-1266年)には二か所
平安期中期の「承久記」(1221年)には二か所

以上の事が、「青木氏の事」(生き様)に付いて書かれていて「何かの縁組」があった事が読み取れる。

他に、「地方の古書」(東作志 因幡志 伊川津志 額田志など)にも”何等かな形”での「青木氏の生き様」が描かれている。

特に、「伊川津志」や「額田志」は「青木氏の定住地」でもあり、且つ、歴史的にも「額田」は、「青木氏の生き様」の大きく有った処で、「有名な史実」が遺された地域でもある。

この事が「古書」に態々書かれていると云う事は、それだけに、“青木氏の血縁に掛かる関心”が、「氏家制度」であった為に一般社会にも強かった事を意味している。
つまり、周囲からは「青木氏」と血縁する事が、“将来を約束された様な「羨望の目」”で見られていた事に成る。

これらの読み取れる「生き様」から観ても、他氏は、“「青木氏」に何らかの形で取り入った血縁関係に関わるもの”である事が記録されている。

その多くは、「遠縁」と目される立場の要するに“「縁籍筋」”からである。
要するに「四家方式」、又は、「本家方式」の”「縁籍筋婿養子」”で入ったと観られる縁組で興った「青木氏」である。

つまり、「純血性の血縁」と「吊り合いの取れた血縁」を基本にして「縁籍筋の血縁筋」で子孫を繋いでいた事が判る。
そして、時々、「政略上の婿養子」を“他氏から入れる”と云う「仕来り」で運営されていた事に成る。

そもそも、「四家制度」とは、ただ恣意的に“「政略的な婿養子」‘を排除したところが異なるだけある。
そこで、「秀郷流青木氏」の本家筋までは、ほぼ同じ「子孫存続の方式」、況や、「慣習仕来り掟」で「氏」を運営していた事に成る。

実は、この「四家制度」を敷く「伊勢青木氏」でも、上記した様に、当に、この“サンプル”とも云うべき出来事が現実には系譜を調べると起こっているのである。

伊勢が混乱に巻き込まれた天正期に、「青木氏の遠縁」が持つ縁籍筋から、この“「政略的な婿養子」”が入っている。
つまり、「家紋分析」でも判るのだが、完全に「血縁性の無い他氏」で「東隣国の豪族」からである。
普通、本来は、「四家方式」では、明らかに「縁外」である。対象外の血縁と成り得る。

ただ、上記の様な「20の顔の問題」があって、この「縁籍外」の形で入ったこの“「婿養子」”は、「放蕩三昧」にて問題を起こした。
そして、「四家の福家」からの注意も聞かずに、遂には、「四家主役の福家」から「養子縁組」を早期に外されて「追放の処置」を受けている。
この者は、「青木氏部」を統括する「四家の5の面 20の顔」の一つに組み込まれていた。
どの「部の者」かは不明であるが、「青木氏部」は、そもそも「技能技術の必要性」から「長年の経験」を必要とし、「欠員」が起こる可能性が高かった事がある。
そこで、「遠縁」を通してここに付けいられた事に成る。

恐らくは、調べた範囲では、”「神明社建築」に関わる「絵画の部」”に問題が起こったものと考えられる。
この者は「職人」で「高い仕事知識を持つ者」が、「他氏]に居て、それが「遠縁筋の配下」に潜入した。
そして、主家に取り入り、その後に優秀であった事から「四家」に最初は「弟子入りの形」で入った。
後に“「婿養子の形」“で廻された事に成るらしい。
この者が放蕩三昧で外された後も、この「養子縁組の青木氏」は、「明治3年の苗字令」で、その末裔は引き続き「青木氏」を名乗っていて「子孫」を拡げている。
現在も、関西の和歌山南部と大阪のある地域で「伊勢青木氏の末裔」と名乗っている。(元は藤田姓)

矢張り、これは「自らの家の名声」を高めようとする行為であって、“除名追放された汚名”が在るにも関わらず、「姓名」を基に戻さなかった事が証明されていて、現在でも“末裔だ”とも吹聴している位である。
「当時の内容」から観て、「福家」も驚くほどの非常に才覚の訊く有能な人物であったらしく、“撹乱して跡目を乗っ取る手順”であったが、上記する“「四家制度」”の「チェック機能」が「四家の青木氏」に働いた。
そして、この時期に伊勢周囲の他氏の乗っ取り成功例の様には行かなかったと云う事であろう。

(注釈 9件も伊勢域で興っている。 主に「信長」が郷士や土豪に仕掛けた「伊勢謀略」の「北畠氏関係」で、 歴史上で有名な事件になったのが2件も起こっている。
この内の1件であった。)

これは、恐らくは、失敗に終わったのは、“「四家制度の中味」”が充分に理解されていなかった事に成る。
これは、史実でも明確に成っているが、“「信長の伊勢策謀」”の一つであった事ではあった。
しかし、失敗したにも関わらず、この除名追放の後、「青木氏」を「姓名」として名乗り続けたのは、その者が「信長の威光」を恐れて、その後も「最低限の策謀」を続けていたと観られる。
この「四家」に対して、この「策謀」を潰し続けていた事が、「南伊勢」」と、「桑名」と「脇坂」と「上田」の「青木氏」の「三つの出城のある地域等」で、「青木氏の土地の混乱」が同時期に起こされている。

「南伊勢地域」を含む土地(地主)には、「青木氏の和紙の楮の殖産地」が在った地域である。
この記録から観ると、「出城・寺城への直接攻撃」が記録の中には無い事から、「伊勢シンジケートの反撃」を恐れての事であった。
その「攻撃対象」は、「殖産地の畑地の破壊工作」などに向けられての「撹乱」が連発して起こされている。
「信長」からその様な指示を受けていたと観られる。

この様に、“「四家方式」”では成り立たない縁籍が、「東隣国」(家紋から信長の影響を受けた土豪)から組まれていてた。
この排除後も「小さい混乱」が続いているところから、明らかに何らかの「政略的な謀略」が働いていたと観られる。

「青木氏の四家制度」の中では、「婿養子の策謀失敗」でも判る様に、「乗っ取りに依る内部撹乱戦法」は通用しない事が判って、「乗っ取り」を止め、「家臣を含む北畠氏関係族」に仕向けた様に、「周囲の攪乱戦法」に出て来たと観られる。

(注釈 実は、先祖は、「信長」には理解を示しながらも、取り分け「秀吉」に対して余り良くない人物評価をしていた様である。
これが口伝にて良く伝わっている。)

(注釈 役無き事とは思うが、末裔の筆者の「織田信長」評は、「青木氏由来書」の再現を担った事から「様々な歴史観」が生まれてか、先祖とは異なっている。)

そもそも、「猪突猛進 直実激情型 無悲無情」と評価され通説化されているが、決してそうでは無意。
筆者は、元より口伝に依る先祖も、これほどでは無く、“極めて戦略家”であったと観ている。
その「信長が描く戦略」が、「人の数倍」もの領域までの“「読み計算」”が、頭の中に“絵に観る様”にまとめ描かれていて、これを「凡人」から観れば、それが「異常の領域」と映っていた事であろう。
「偉人賢人の信長」からすると、 “何でこんな程度の事が判らないか”と観ていた事の、その”「落差の行動」“が通説化したものと観ている。
「秀吉」はそれを理解していたのであろう。

通説化した「猪突猛進 直実激情型 無悲無情」の程度の人格を持つ人物が、室町期の戦国の中で、人を動かす事が出来なければ、一土豪の支流から天下を取るまでの者に成る事は不可能である。
これは現世においても同じである。“「社会の通説化」に論理矛盾”が生まれている。
その論理から観ると、「明智光秀の堅物」は、通説では逆に「賢者」の様に云われているが、「伊勢青木氏の論理」では”「愚者」“と成る。

(注釈 関西の言葉で、一々の事は”賢い”のだが、常に結果として良い結果が生み出されない人物の事を、”かしこあっぽ”と云う言葉で呼ばれる。)
 
故に、「信長」を理解していた”秀吉は天下が採れた“とする論調である。
確かに、「伊勢の信長仕儀」を具に観れば、通説では成し得ない事が良く判る。
「信長」に最も信頼された“「蒲生氏郷の治世」”からでも「信長」の考えていた事が良く判る。(下記)
依って、「二つの伊勢青木氏」は、この“「信長の仕掛け」”に早めに気が付いて手を打った事で難なく終わった。

この事は、先祖が「信長評」に対して、「稀にみる戦略家」と観ていた事を物語る。
それだけに「婿養子」を含め「伊勢衆の周囲に起こる事」に付いては、“警戒をしていた”と云う事であろう。
其れが「早目」と云う処置に出られたと観ている。
そもそも、「四家制度」から選ばれて、「伊勢シンジケート」から「信頼された福家」である。
それほどの「愚人」では無かった筈である。
「通説化の様な人物」ではなかった事を意味するし、もし「通説化の様な人物」であれば、“婿養子”は採らない程度の才覚は充分に持ち得ていた筈である。

然し、その後は、この「乗っ取り」に依る「撹乱戦法」の「初期戦」から、「名張の清蓮寺城」の「中期戦」に持ち込まれて、最早、手を引く事は出来ずにいた。
そして、この“「流れ」”に委ねる事以外には無く、「悠久の禁」を破ったのである。

(注釈 「伊勢シンジケート」を使った「ゲリラ撹乱戦法」を採った。)

この“「ゲリラ戦法」を採った“と云う事に大きな意味を持つ。
「通説化の様な人物」であるとすれば、「ゲリラ戦法」は、最早、適応する事は出来ないし通用しない。
もし、「通説化の様な人物」とすれば、「子孫存続」を前提とすれば、「商いの部」や「青木氏部」を遺したままで、一時、新宮に早急に、”「青木氏」“だけは引く以外には適用する方法は無かった。

そもそも、「二つの青木氏」は「賜姓族」として、「子孫存続」が「絶対命題での氏是」でもある。
確かに「三つの発祥源」ではあるが、「武士」の様な「武の仕儀」は採れない立場にある。
「ゲリラ戦」を採らずに必ず引いた筈である。
然し、「ゲリラ戦」を採った事は、「通説化の様な人物」ではないと観ていて、先祖は“「戦略家の評価」“を持っていた事に成る。

「戦略」、即ち、「知略」である。
「知略」には「知略」を以って応じるが「戦いの常道」である。
この「ゲリラ戦」には、この様な意味が含まれているのだ。

実は、この全く同時期に、「村上源氏」(「具平親王」の「公家源氏流」の支流末裔)の「伊勢北畠氏」に「織田信長」の次男の「信雄」が「跡目養子」(1569年)に入った。
然し、「北畠氏」の内部(1575年)を撹乱して、北畠氏(1576年)を潰している。
当に「武」では無く「知略」を以ってして応じている。
この事で、「通説化の人物」では無く、「戦略家」である事に間違いはない。
つまり、「先祖の判断」は正しかったと観ている。

そもそも、この「北畠氏の村上源氏」には、他に「致平親王」の正規の「賜姓村上源氏」がある。
つまり、「嵯峨期詔勅」による「第六位皇子による賜姓族」ではない「公家源氏」で「武家源氏」では無い。
「公家源氏」である。
この”「公家源氏」”には、そもそも大きな性質上の意味を持っているのだ。

この事の意味が、後に「大きな意味」を持つ事に成る。

「青木氏」はこの事を読み込んでいたと観られる。(下記)

その後、この「信雄」は「織田氏」に戻している「撹乱の戦法」の有名な事件である。
室町期末期には、「信長」の“「京の権威」に対する挑戦”、即ち、「比叡山焼き討ち」「石山本願寺攻め」等があった。
しかし、その前に、この「公家の北畠氏」は、「建武中興」にて伊勢が「不倫の権」で護られている「伊勢」に恣意的に移動した経緯があった。
そして、「他の土豪勢力」を排除して、遂には「南伊勢国司」(1555年以降 具房)として勢力を張っていた。

(注釈 当時、鎌倉期から室町期中期までは、西東に「政権」があり、西には「公家政権」、東には「武家政権」と云うものがあった。
夫々役割を決めて政権を維持していた。然し、実質は「東の武家政権」から人を廻し、監視していた。
江戸期まで現実にはあったが、「有名無実の状態」であって、上記した「名誉官位の授与」だけのもので、「武家諸法度」で縛られて無力と成った。)

この「西の公家政権」から「国司」に任じられた「北畠氏」は、この「政権力回復」を狙う「裏工作」と観られていた。

(注釈 他にも四国なども「武装勢力化した公家」が50年程度の間支配した期間があった。)

(注釈 鎌倉期から戦国に成って、益々、「天領地」が奪われ減少して行く中で、「聖地の伊勢」は唯一の「天領地」であった。

そこで、何とかこの「天領地」を護る事の為に、「朝廷の意向」を受けての伊勢移動であった可能性が高い。

この時期、全国各地で、「公家勢力」に依るこの様な「領地略奪の行動」が起こっていた。
殆どは、室町期に成って、平安末期に禁止された「荘園制度の名義貸し制度」を利用した「公家側」の無茶な「背任行為」であった。
室町期の末期に成って、「名義を貸した地方の荘園」であった土地は、「名義貸人」のものだとする一種の「略奪横領」であった。
この現象が「有力な公家族」によって「朝廷の権威と威光の力」を背景に全国各地で起こった。
多くは、平安期には天皇や公家等の「名義貸しの土地」も含む、所謂、“「天領地」”が殆どであった。

本来、「公家」は「武力を持つ事」は「天智期からの禁令」であるが、“室町幕府の統治力の低下“でこの様な現象が起こった。

そこで、「伊勢神宮の遷宮地」の「伊勢の聖地」は、「伊勢四衆」に依って護られていたが、朝廷は「最後の砦」の伊勢を護る為に、早々と鎌倉期末期に「公家源氏」(北畠氏と呼称)を差し向けた。

この様に「伊勢」に限らず、「武家社会」に成り、全国各地で「天領地」や「公家地」が益々奪われて行く中で、「天皇の権威」だけでも護れなく成った事から「天皇の意向」を受けた公家自らが武力化して「実質支配」を図ったのである。

(注釈 この時の潰された伊勢の土豪や郷士等の多くが、「青木氏」の「伊勢シンジケート」に入った。下記)

ところが、この「伊勢」には、この「北畠氏」とは「生き様」が異なり、且つ、「信長」が嫌うこの“「権威の象徴」”とされる数少ない「氏族」があった。
即ち、“「伊勢四衆」”が、古来より定住して「聖地」を護る為に集中して居た。
従って、「後口の衆」と成った「公家で武家を演じる北畠氏」が居る事で、伊勢域は、「紫の色」から「紅の色」に成った。
この現象を「信長」にも周囲の社会からも観られる事に成って仕舞った可能性が有る。

「紫の色」は、そもそも「最高権威を指し示す色」で、伊勢は奈良期より”「紫の聖地」”と定められていた。
その「紫の聖地」が「紅」に変化したと万葉歌にも詠まれ云われていた。
当時の様子を端的に物語る「色言葉」である。

其処に、室町末期には、この「特定の権威社会」を潰しに掛かった「信長」が、「伊勢の勢力」北畠氏や六角氏等の排除に掛かったのである。
その「標的」と見做されたのは、上記の背景で伊勢に入った「北畠氏」であった。

(注釈 「特定の権威社会」に付いて、“「布武」”を唱える「信長」は、そもそも、“「権威」”そのものを全面否定するのでは無かった。

それは「権威の支配」の中の“「絶対制」”だけを除き、“「武」を背景とする「共和制に近い支配体制」”を確立させたかったと観ている。

「朝廷」や「天皇」や「宗教階層」の“「権威」”そのものは認めるも、その「権威」が持つ“「絶対制」”の「排除」を狙ったものである。

況や、如何なる「共和制」も、結局は、“「上に立つ者の力の権威」”を少なくとも前提としているからで、“全く「権威」の無い処には「国家」は生まれない”が、「現世の条理」であるからだ。
「人の性:さが」はその様に出来ている。
この時代までの「社会の権威」は、「人の社会」、況してや「氏家制度」の中では、そもそも必要であっても良い。
しかし、その「権威」を以ってして “惹けらかし”、“「自らの利得の対象」“とする処に問題があった。

天正期までは、これを「当たり前の事としての概念」が社会にあった。
その「当たり前の概念」を良い事の様に利用する階層があった。
それが、“社会の発展に害を及ぼしている”と「信長」は受け取っていたのであろう。
(現在社会にも形は変わってはいるが未だ存在する。)

「信長」は、この事を嫌って、その対象を排除して、その代わりを以って“「布武の権威」”で統制して正しい社会構造を確立しようとしたのである。

結局は、「明治維新」には、この“「絶対制の権威」”を排除して、“天皇制に観る「形式上の権威」”は妥協として認めるも、上記する“「権威の弊害」”を排除した“「民主の共和制」”が敷かれた。
後勘からの事として、「信長の目指す社会体制」は正しかったと考えられる。

「信長」は、更に、これに「楽市楽座」の様に、“「交易社会」”を築こうとしたことが資料からも判る。
これは、まさしく「天正の300年後」に、“「信長の考え」”に近いもの“が出来上がったとは云える。
それだけに「300年前」の「凡人愚者」には、当に、“変人奇人の云う事“と受け取られものであって、”「理解の外」“であった事から起こった事であった。
その現象を短絡的に捉えて”間違った通説化“が起こったものであると考えられる。

そもそも、「伊勢」は、主に「奈良期からの氏族」である「伊勢青木氏」、「伊勢伊藤氏」、「伊勢秀郷流青木氏」の「伊勢三衆」にて収められていた。
そして、そこに平安期の「伊勢北畠氏」(天皇家の学問処の家柄)と、鎌倉期の「伊勢伊賀氏」(北条執権と血縁)と、新参の「伊勢長嶋氏」(室町期の「関東屋形」)が参入した構図であった。

そして、この「六つの氏」から「北畠氏」を除き、「五氏」は江戸期には“「伊勢藤氏」”と呼ばれた。
しかし、「伊賀氏」の前身を加えて、“「伊勢四衆」”とも云われた時期があった。
この「伊勢勢力」は、“「伊勢藤氏」”と“「伊勢四衆」”、そして、その配下に生きる「郷士や土豪」の“「伊勢衆」”が存在して居た。
しかし、この「北畠氏」は,そもそも「朝廷の学問処」でありながら、“「村上源氏の末裔」(実際の「源氏族」では無い)である事”を理由に、“「公家」”が事もあろうに「公家大名」を標榜した。
そして、あろうことか、「武」を以って伊勢の周囲の他の勢力(伊勢衆)を次々に排除して行ったのである。

ところが、その「勢いを背景」に、室町期末期には、この「村上源氏の傍系末裔」のこの「公家源氏」は、「伊勢」では「信長の伸長」に対し「武力」を更に伸ばし、それを背景に益々身を護ったのであった。
そこで、上記する考え方を持つ「武」には「武」で応じる「信長」は、これらの「伊勢藤氏」「伊勢四衆」と「伊勢衆」の「氏姓族」を潰しに掛かった。
これが有名な「天正の伊勢三乱 五戦」である。

「信長」の「所期の目的」は、この「武」に方より、「権威の悪弊」を生み出している「象徴たる北畠氏」を排除する事にあった。
ところが、この「権威の悪弊の北畠氏」に「伊勢四衆」の内の「伊賀氏と伊藤氏」が合力し「信長」に抗したのである。
そこで、「信長」はこの「伊勢四衆」に初期戦として、「撹乱戦法」で「圧力」を掛けたが、思いも寄らず「伊賀氏と伊藤氏」は引き下がらず「武力戦の激しい戦い」と成ったのである。
他の「伊勢四衆」の「二つの青木氏」と「新参長嶋氏」は、上記した「青木氏の基本戦略」に基づき徹して“表に顔を出さなかった”のである。

当に、奈良期からの「悠久の歴史」を持ち、「権威の象徴」の「氏族」であった「二つの青木氏」や、「伊勢藤氏」の過激に成った「伊藤氏」や「伊賀氏」等があった。
この事で、鎌倉期から伊勢は、「不倫の聖地」で有るにもかかわらず、下記する「招かざる者」の「武の北畠氏参入」に依って、“「策謀の渦」”の中に巻き込まれて行ったのである。

そもそも、「呼称北畠氏」は、京から移動して“伊勢の北畠に隠居所を設ける”と云う大義で、「不倫の伊勢」に移動して来た事から、「村上源氏の公家支流族」は、「公家」を標榜するも「武家の北畠氏」を名乗った。

「不倫の伊勢」にあって、乱世にあっても“「太平の地」”を築いて来た。
この「太平の地 伊勢」を「武」で以って「武家の勢力」を拡大させる事は、赤子の手を捩じるが如しで、極めて容易であると観た。
そして、ここに“「権威の公家」”から転身して“「富の武家」”の「氏」を興そうとした事が本音なのである。
そして、南北朝期に乗じて「伊勢全域」、特に、「青木氏」等の「伊勢四衆」か定住する「北伊勢」を極力避け、「南伊勢域」と「大和東域」に渡り「無戦」に近い形で平定して仕舞ったのである。


 「青木氏の本音」
この時に、多くの「土豪」と「郷士」等は排除された。
この時に「僧侶」や「修験道師」や「忍者」に身を変えて「伊勢シンジケート」に入り、「経済的背景」を確保して「生活の糧」を得て生き延びた。
後の「信長の伊勢三乱 五戦」でも生き残った「土豪」や「郷士」までも、又、土地を奪われた「農民や庶民」等までも、二度も「憂き目」を受けて「伊勢-紀州-奈良域」では「壊滅」に近い状態と成った。
「二つの青木氏」は、その立場から「元伊勢衆」と「悠久の長い付き合い」の「絆関係」にあったことから、「裏ルート」で「経済的支援」を行った。
そして“「伊勢シンジケート」”で“「元伊勢衆」“を保護した。
元々、「和紙や殖産」などでも繋がっていて、最早、「青木氏家人と青木氏部」との「血縁関係」でも繋がる”「徒ならぬ絆」“の関係にあった。
更に、「青木氏」に執っても、これらの「元伊勢衆」が消滅させられる事は「青木氏の衰退」を意味する事に成り、耐えられる事では決して無かった。

「信長と北畠氏」は、「聖地に住む伊勢衆」全てに執っては絶対に“「招かざる者」”と見做されていた。
「伊勢シンジケート」の「ゲリラ戦」で応じた「大きな背景」はここにもあった。(下記)
そして、室町期に成ると、事もあろうか、「招かざる者 北畠氏」は、「不入不倫の権」に守られた「伊勢の聖地」に、何と、ここに「京」に似せて、“「北畠三御所」”と呼称させて「館城」を建築した。
その結果、「南部の権勢」を誇っていて、遂には、その「財」を朝廷に注ぎ、その朝廷から「南伊勢の郡と大和二郡の五郡の半国司」に任じられる等したのである。
当に「公家族」が野心の侭に「戦国大名」化したのである。

ところが、全く「同じ時期」に、全く「同じ方法」で、「同じ理由」で、「同じ事」が、「讃岐秀郷流青木氏」が定住する「伊予、讃岐、土佐地域」にも起こっていた。
そこで、「京藤原氏」の「公家西園寺氏」が、平安末期から鎌倉期までの間、「伊予の名義荘園主」であったが、それを理由に伊予に乗り込み、強引に「讃岐藤氏」や「郷士」等の土地を押領し、挙句は「武力」を以って「土地」を奪い取って、遂には「伊予の戦国大名」と成った。
「北畠氏」と寸分違わずそっくりである。

(注釈 この時代の「京の公家族の背景」であった。西園寺氏、一条氏、二条氏等の「公家族」が各地でこのあらゆる形のこの行動を採った。
「朝廷」やこの「公家族」から云えば、「天領地とその関連地の奪還」と主張する筈で、室町幕府弱体の「武による権威の低下」で、この主張が表に行動として吹き出して来た現象と捉える事が出来る。
平安期の状況から観てみれば、その「主張と行動」にはある範囲では理解できる。
本論は“青木氏から観たもの”として論じている。)

(注釈 上記した様に、鎌倉時代の中頃から東に「武家政権」、西は「公家政権」が所轄する政治体制が採られた。
しかし、実際は、「武家」に、「公家族が支配する土地」が奪われる事が多発していた。
室町期に成っては、京都に置いた「幕府の守護職」や「土地の土豪」等によって、最早、「西域の公家政権」は「有名無実」の事と成った
それらに依って、公然と「荘園や天領地」とその「管理権」は次々と奪われて行った。)

室町期末期には、この事を理由にして「公家の力を持つ者」等は各地で「奪還作戦」が展開された。
「北畠氏」は、この鎌倉末期の変化に対して敏感に反応して、「伊勢地には持つ荘園を護る為に移動した。
そこに館城を建てて護ろうとし、それが結局は、管理地以外の伊勢域に勢力拡大としたものであった。
そこに「朝廷の意向:西域の公家政権」を反映する“「御所」”と呼称する「館城:政庁」を三か所も建設したのである。

この「西域の公家政権」は、江戸期には「幕府の公家諸法度」を作られて、無力化した。
その上で、形式上だけは江戸時代まで続けられた。
室町期には、この「有名無実」と成っていた「西域の公家政権」(京)を、「北畠氏の勢力拡大による武力」に依って、“「伊勢」にもう一度、再現復興しようと企てたものである。
そして、そこに”御所“なるものを造り、ここから”西域に勢力を伸ばそうとした“のである。
この為に、「北畠氏」は朝廷と連携を図った。
確定するに必要とする資料が見つからない為に出来ないが、鎌倉期にこの「西域の公家政権」の「監視役」として派遣されたのが秀郷一門の蒲生氏の祖であったことは間違いは無いと観られる。
「秀郷一門宗家」の「朝光]は、「頼朝」に合力して本領安堵(1192年)され、奈良期からの「遠祖地の結城」の地も戻る等し、自らも前段で『論じた様に「伊賀守」としても務めた。
この時に一門の者が「京の公家政権の監視役」(初代は脩行 近江掾)としてに配置されたのである。
(注釈 これが期に後に「秀郷流近江蒲生氏」の祖と成り、その役務柄から更に室町期に足利氏に仕え勢力を伸ばし蒲生[貞秀]氏を名乗る。)

しかし、そもそも、この「伊勢域」は、ここは奈良期から「皇祖神の聖地」であって、「政治や権力の場」には出来ない。
この事は、「伊勢の聖地」を護ろうとする「二つの青木氏」に執っては、到底、容認する事は出来なかった。
当然に、「布武」を標榜する「信長」も、上記する様に、“「権威を惹けら課す者」で「権威の利得を食む者」”としても認めなかった。

そして、この傾向は、四国にも起こったと云う事なのである。
この「西域の公家政権」の管轄域の特に四国には、「公家族」のこの「荘園や公領、天領地」が大変多くあった。
殆どは「土地の武家勢力」によって奪われていた。
そこで、公家の「一条氏」や「西園寺氏」等が奪還を図ったのである。
更には、これに便乗した「秀郷一門」の分家筋の“「関東屋形」”と呼ばれた「宇都宮氏」も、同族一門の「讃岐藤氏の讃岐青木氏」が支配する「讃岐」に入った。
「西園寺氏」と「宇都宮氏」は結託したが、その後に地元の豪族の「長曾我部氏」と「讃岐秀郷流青木氏」の抵抗にあい、攻められて排除され衰退した。
1584年には、「秀吉の四国攻め」で、何れも最後は掃討され潰される事が起こって50年程度で失敗した。

尚更、伊勢の「二つの青木氏」は、「信長の深意」がどうあろうと『布武』を唱える限りは警戒をしなくてはならないし、素直に容認する事は出来なかった。
「北畠氏の目的」は容易に判って居たが、この「聖地」を「政権の場」に引き込まれる事には容認できなかった。
では何れに味方するかにある。「青木氏]は悩んだ。
既に、「北畠氏」に関わらず伊勢は「新勢力の三氏」で浸食されている現実がある。
そもそも、「青木氏の役務と氏是」がある中でどうするかに関わる。

結局は、追い込まれて表向きは”「北畠氏に合力」(1569年)”と云う形を採ったのである。
かと云って、この「合力の形」に問題があった。
本来であれば、「軍」を所定の部署に廻し、「指揮官」が本陣に控える事に成る。
然し、記録では何れも処置していない。
然し、「商記録」には「合力した内容」となる事が書かれている。
「商記録」なので、「戦い準備」に関する「商いの内容」から記述されているとも考えられる。
この時の商記録の別の記録には、「福家」(指揮官)が新宮(1574年)に移動している事に成っている。
とすると、「指揮官」が本陣に詰めて控えていない事に成る。
つまり、「合力」が成り立っていない。

直前に「信雄の北畠氏の跡目入りの策謀」(1575年)が起こり敢えて控えた事も考えられるが、それにしてもおかしい。

「北畠氏」と「信長」との「戦いの初期」は、「具房との小競り合い」から観ると、1567年頃から始まっているので、福家が新宮に引く事は「信雄策謀」で引いた事には成らない。

そもそも、青木氏に執ってみれば、”「合力」”として仕舞えば、「近江青木氏」と同じに成る。
従って、「青木氏の氏是」に反する。
そこで、「反しない合力」の姿形を模索する必要があった。

然し、「抗する者」が、”如何なる者も容赦しない”とする「信長」に対し、どの様に対処するかに「氏是の知略」が当に必要とした。
”攻め滅ぼされる”と云う恐怖では無く、「整域」をどの様に護るかに心はあった。
戦えば、長期戦に持ち込めば先ず負ける事は無いし、この事は過去に「織田軍」に痛いほど示している。
後は「抑止力」を前面に見せつけた上で、幸いに「信長」が差し向けた「指揮官」が幸いに「青木氏」で繋がる「蒲生氏」であった事から、戦略は決まった。
「蒲生氏」を差し向けた「信長の翻意」を察した「二つの伊勢青木氏」は、「反しない合力」の姿の「戦略」は決まった。

それは、「合力」としながらも、一時、「遠祖地の紀伊」の「新宮の地」に「宗家の福家」だけ引く事にして、後は全てを残し、「敗退の体」を作り上げて時期を待つ事にした戦略であった。
この時に、戦いが本格化したした時(1576年頃)を見計らって「蒲生氏」との間で「裏話」が出来ていた。
そして、”数年後(1年後)に戻して、本領を安堵する”と云う「取り決め」であった事に成る。

(注釈 この経緯で考察すると、「商記録」は商上からのものである為に、年数に付いては公表されている「史実の年数」と比べると「緩やか」で記載されている傾向があるが、ほぼ一致して来る。)

指揮官の「蒲生氏」に執っても事が大事に成らなくて済み「伊勢での役務」は円満に片づけられる。

(注釈 「信長の思惑」以外に「蒲生氏郷の個人的な思惑」も働いていた。)

結局、その約束はそっくり護られ、且つ、それ以上に、松阪に城郭を築いた後には、「侍屋敷町(9町12町)」の上位武士が住む一画(9から11区画)を与えられた。

(注釈 可成り広大な土地に成る。「侍屋敷町(殿町)」である事から、ここには「店」は構えられないことから「屋敷」である。「屋敷」にしては大き過ぎる。)

「松阪城郭」は、「楽市楽座」に似せて「商業区画」も設けて、ここ松阪に巨万の富を持つ「青木氏の商い場」をも設けて、周囲の「青木氏の配下」の「旧来の商人の拠点 (伊勢商人と射和商人と伊勢伊賀の郷士衆」)とさせたのである。
ここに、後の「青木氏の動き」(射和商人などの事)を観ていると、「伊勢の商業組合」(「伊勢会合衆」)の様なものを最初に造ったのではないかと観ている。
これで、「青木氏と蒲生氏」は、経済で「伊勢の復興」を狙ったのである。

(注釈 「伊勢の商業組合」(「伊勢会合衆」)の歴史的な「創始者説」を証明する資料の発掘に取り組んでいるが、「状況証拠」だけの範囲に留まっている。
時代背景から考えても、「確定するキーワード」は「大豪商」に成る。
そうすると、これ以前にこの様な「商業組合的な組織」を「創設し得る古豪商」は数える程も無い。
この事から、歴史的に「会合衆」は伊勢から始まった事は確定している事も踏まえて、先ず間違いは無いと考えられる。
その前身と成る”「商業組合の組織作り」”は「蒲生氏郷の手配」で「侍屋敷町」を与えられ事務所を開設した事も青木氏の資料では証明出来ている事も合わせて、「青木氏」と成り得る。)
上記した様に「伊勢三乱の氏郷との裏工作」でも、松阪発展の為ににて「本領安堵」が約されていた事も証明されている事からも、間違いは無いと考えられる。)

平安期からの「摂津、堺」に大店を構えていた事から、安土桃山期からの「摂津堺の会合衆」にも参加している事から考えると、ここ「伊勢」に「青木氏」が最初に「伊勢会合衆」を創ったと観られる。

この「初期の商業組合の組織」は、前段でも論じたが、「伊勢の御師制度」から発想されたものである。

(注釈 平安期から起こった荘園内の商いの「座」があったが、寺や神社等で営業権を認めてもらって「本所」と云う場所を構築しそこで営む「限定された商い」があった。
然し、室町期にはこの「座」はあったが、「本所内での統制」を取る為の「組合」であった。
”「自由な商業組合 会合衆」”の記録は他に発見されない事から、「伊勢」が最初であると観られる。)

(註釈 実は、この時、秀吉に依って、実質の廃止令に成る「楽座令 1685年」が出された。
つまり、寺や神社や荘園を太らすだけの、即ち、「本所」による特権を持った「座」は禁止された。
この為に「自由な商業組合 会合衆」が見直され発展した。
この時に秀吉-氏郷の下に松阪でこの「新しい組合」を「青木氏」に依って始めさせたと観られる。)

その後に、桃山期には、「伊勢会合衆」は、地域を、「商人の出身地別」に二つに分けて、「山田会合衆」と「大湊会合衆(近江商人)」に分離したと観られる。
つまり、「松坂侍屋敷の三区画を与えられた史実」は、この「伊勢会合衆」を最初に創ったのは「青木氏」であった事を証明する。
「氏郷」は積極的に「楽市楽座」を築く為に、出身地の近江からも商人を大湊にも集めた。

その後、この「伊勢の商業組合」は次ぎの様に変化発展した。

イ 室町期末期(1578年頃)には、「松阪」に「青木氏」を中心とした地元の大小の「松阪商人」を集めて「松阪地区」には、初期に「松坂商人組合」を構築した。
ロ その後(1582年頃)には、松坂に「商人」に依る自治組織の「会合衆」を最初に構築した。
ハ 室町期末期(1583年頃)には、玉城の東横の内陸部の「山田地区」には、「青木氏部」から成る地元の「職人等の年寄り」による「自治組織」の「山田会合衆」が構築した。
ニ その後(1613年頃)には、「松坂会合衆」は、「玉城域」と「射和域」にも「射和商人」を養成して「商人」に依るによる「射和会合衆」を構築した。
ホ 安土桃山期には、玉城の東横の沿岸部の「大湊地区」には、この「元近江商人」に依る「自治組織」の「大湊会合衆」を構築した。
ヘ 安土桃山期には、「摂津堺域」にも「商人」による二つの「堺会合衆」を発展させた。

これらが発展して「伊勢商人」を始めとして、鎌倉期から興した「近江商人」「博多商人」「酒田商人」「伊予商人」「讃岐商人」「越前商人」「阿波商人」「米子商人」「松江商人」「摂津堺商人」等に依る多くの「会合衆」等が出来た。
これらは、江戸初期には、歴史的に「・・・商人」と呼称される地域には、全て「青木氏の定住地」と成っているのである。

この特徴には、戦略上の重要な意味があった。
「秀郷流青木氏の定住地24地域」には、例外なく「・・・商人」(豪商)と呼称されていた事実がある。
これは「赴任地の定住地」は、「重要域」でもあり、そこから「豪商」が出ていると云う事もあるが、そうでもないのである。
何故ならば、この「豪商」は全て出自が「武士」である事、多くは「二足の草鞋策」で「商い」を営んでいた。
室町期から、「豪商」に成るには、その背景を絶対的に必要とする。

一発勝負で「豪商」とも成り得るが、これは江戸期の安定期の話であり例外として、「商人」は別として[豪商」と成り得るには、この「室町期の戦乱期」では、殆どはその「資本力」や「商品力」や「調達力」や「運送力」や「安全力」等を必要とした。
これらを担保し得る「バック・背景力」を持っている事が「絶対条件」である。
それを獲得している事が必要があって、これ無しには「豪商」とは決して成り得なかった。
取り分け、「戦乱期」では、「運送の安全確保」が必須で、これなしには手広く「商い]は無し得ない社会状況であった。
「青木氏」は、その「安全確保手段」として、”「伊勢シンジケート」と「神明社組織」”の二つの手段を持ち得ていた。
これを有機的に使って「輸送の安全確保」を図っていた。

そもそも、「広域範囲」で「商品」を調達してそれを輸送しなければ「商い」は拡大しない。
即ち、「商人」には成り得ても”「豪商」”とは成り得ない。
故に、「安全確保手段」を広域に持ち得ているのは、特に室町期の「商人」の殆どは、「武家の氏族」の「二足の草鞋策」であった。
但し、「武家」であって、「武士」では無い。

「シンジケート」では、各地域にある”「シンジケートとの相互連携」”で「安全確保」をして行き、500社に上る「神明社」では、その「安全確保の情報確保」や「神明社間やシンジケート間の調整役」を演じた。
当然に、この「組織」を使って「商品の情報」も確保していたのである。

これは「陸送手段」であるが、「海上輸送」の場合の「安全輸送の手段」は、「伊勢水軍」が配下にあり、「青木氏」自らも「千石船の大船三艘」を以って海運し、この「護衛船役」として働いていた事が判っている。
記録には、”「駿河水軍」”の名が出て来るが、互いに連携して、「伊勢水軍の護衛船」で間に合わない場合は、「駿河水軍」が「護衛船」に入った事が書かれている。
時には、「荷駄運送」も務めていた模様である。
江戸期の初期の商記録の中に、「讃岐青木氏が営む廻船業との連携」もあった模様である。
この事から考えると、独自の「伊勢水軍の護衛船兼輸送船の必要性」が良く判る。

「青木氏の資料」には、この「輸送中の安全確保の手段(要領)」が実例として詳細に書かれた記録が遺されていて、この組織が有機的に活躍して居た事が判る。

「護衛役の人数」やその「役目柄の種目と配置」、「金銭のやり取り」の「取り決めや場所柄」まで実に詳細に書かれている。
「二つの青木氏の二つの組織」を有機的に動かせば「豪商」等何でも出来ると読み取れる。
本論で論じて来た事が、明らかに、大名ごときでは無いことが良く判る。
論を待たずとも遥かに超えている。
況や、「青木氏の実力の如何」が良く判る。
極論すれば、「佐々木氏」や「青木氏」や「秀郷一門」以外には無いのではないかとも思われる程である。
「豪商の出自」を調べれば、これを確定できるが、現在ある程度までは調査は進んでいるが論文には仕切れない。

(注釈 例えば、この輸送の大変さを物語る資料が「伊勢の青木氏の家人」であった家に遺されいる。
資料には、関東(江戸)に向けて荷駄搬送中、この荷駄には11人の警護の者が付き、6人が「警護頭役」を先頭に「荷駄警護」、5人が各役目を持ち「周辺警護」に関わっていた。
ところが、駿河山中で盗賊集団に襲われた。10人が戦闘に入り、1人が連携する警戒中のシンジケートに連絡、戦闘の結果、3人が負傷したが殲滅した。
その後このシンジケートは、この盗賊団根拠地を掃討したのだが、丁度、「シンジケート」と「シンジケート」の境目の地域で襲われたと成っている。
旅館一室で支払を済ました。とある。
この荷駄の「警護頭の家人」が「献務禄(報告書)」として書き記したものが遺されている。
良く、この状況を物語っている。
この「荷駄頭の名前」が普通では無く、”「俗称」(特別呼称名)”で書かれている。
この資料を遺した「伊賀武士」の家人は「伊賀青木氏」の配下の「伊賀者」ではないかと予想され、「青木氏家人」であった。
つまり、これは「伊賀青木氏」が「警護役」を一族として担っていた事を意味する。
この”「献務禄」”には、当時の事を物語る興味深い事が多く書かれている。
これ等を使って「室町期の伊勢商人の青木氏」の「豪商の程度」が読み取れる。)

(参考 豪商程度の概算
伊勢青木氏とそれに関わった関係族に遺された資料より算出
(  )内は各資料からの最大値を表す。
「商い」の関係部門を「四部門」にして限定して算出。

四家   20部門(青木氏の役数)
家人   数百人(最大 250人 直接の家人)
配下   数十名(最大 22人 支配の家人)
      小計a  最大 5500人

護衛役  数十組(最大 23組)
一組人  数十名(最大 20人)
      小計b  最大 4300人

他の役  19役(護衛役×19)
      小計A  最大 81700人

青木氏部 数十部(最大 12部)
一部人数 数百人(最大 250人)
      小計B  最大 3000人

水軍    3+数十隻(最大 24艘)  
      小計C  最大 1500人

神明社  488社(最大 500社)
      小計D  最大 2500人

「伊勢青木氏の豪商」=小計A+小計B+小計C+小計D=88700人

室町期の「青木氏の紙屋長兵衛」の「豪商」と云われる所以は、次ぎの「通りと成る。

「直接人容」から観ると、結局、最大で「88700人態勢」であった事に成る。

但し、これ以外に次ぎの部門も加算されるが、算出は出来ない。
イ 「伊勢シンジケートとの契約」
ロ 「秀郷流青木氏116氏」からの「本所の役柄の補完援護」
ハ 「菩提寺関係の人容」
ニ 「遠祖地の人容」
ホ 「殖産と興業の人容」

取り分け、イとロは計り知れない「人容と人様」と成り得る。

(注釈 何とか論じる事が出来ないかイからホに付いて研究したが、論じるだけの資料が出ない。)

唯、中でも最高と観られるロの「讃岐青木氏」の「瀬戸内の経済力」(主は廻船業)は比較的に資料が遺されている。
恐らくは概算では、1/5程度はあったと観られる。

ロの「関わり具合」を資料から物語るものとして、次ぎの様に成る。
「商い警護」と「商い情報」に「役目」として関わっていた事が記録されている。
つまり、「本所補完の範囲」を超えず、「商いの範囲」にも「補完」を上手く適用して運用していた事を示している。
「ロの青木氏の商人」の場合でも、この範囲を超えていない模様であった。
恐らくは、この事は資料から読み取るに、各地の「赴任地の護衛役」と云う”「威力」”を周囲に誇示させ、”「危険集団」”に対して「強い抑止力」を働かせていたと観られる。
その手段として、伊勢との「関連シンジケートの勢力」が届かない範囲では、敢えて何らかの形の「軍事行為」の”「デモンストレーション」”をしていたのであろう。
これが「資料の書かれていた内容」ではないかと考えると、文章表現と符号一致する。

(註釈 現在と違い「古文系の文章」は、「直接表現」は良しとせず「間接表現」によってその「文章の持つ意」を知らしめる文章方式であるだけに慣れないと難しい。)

故に、これが「豪商が生まれる地域=二つの青木氏定住地」と云う数式論が生まれた所以であろう。

”「豪商」 「500万石超」”と記されている事から、強ち、誇張では無い事が云える。

「88700人態勢」と「イからロ」を維持管理するには、逆に「500万石」は必要であろう。

「88700人態勢」=「500万石」と基準に観て、「研究室の論文」の「青木氏」を論じている。
(研究室論文の各所に記述 参照)


因みに、同時期の比較対象として、次ぎの事を参照。

全国の石高 「3000万石」
徳川氏の石高 「幕府直轄領 400万石]+「旗本領 400万石」=「800万石」

最裕福な「加賀藩」の石高 「102万石」(届出高)
「伊勢国」の石高 「55万石」

(米石高と産物を加算した石高)


(注釈 例えば、調査中の中で、「佐々木氏」の出自を持つ「豪商」には、全国的に不思議に「酒造業」が多い。
何故なのかは確定は出来ないが、恐らくは、”「灘酒」「近江酒」”の歴史(日本書紀等)を辿れば判る。
これは奈良期から「定住地の米」に関わる「租役と庸役と調役」の賦役を、「佐々木氏」が「守護」としてこれを「活用する役目」から生まれた「酒造」であったと考えられる。
それが末には「摂津商人」「近江商人」と成って行った。
これが「青木氏の和紙の経緯」のその「二足の草鞋策」から来ていて、古くから「佐々木氏の氏の組織力」を使って全国展開していたのではと観られる。

(注釈 そもそも「佐々木氏の研究」に「青木氏の部分」が、多く研究されているのは「同族である事」は元より、古来よりこの様な”「繋がり関係」”を深く持っていた証拠である。)

この様に、一発勝負や一朝一夜では無し得ない「これらを持ち動かし得る商人」を”「豪商」”と云う。

(注釈 前段の「伝統シリーズ]と「青木氏の分布と子孫力」の論文にも一端を論じた。)

これが、更には「赴任地の定住地」に”「豪商」”が生まれる所以なのであった。
つまり、其れ等は後に組織化されて連携して、「伊勢商人の青木氏」が「担保し得るバック・背景力」と成って行ったのである。

前段でも何度も論じている「博多商人」「越前商人」等を始として、上記に記述した「地域の商人」は、この「担保し得るバック・背景力」を持った「典型的な豪商」で当に「青木氏」である。
「商記録」に記載されている地域である。

つまり、伊勢の「二つの青木氏」が互いに連携しながら、「伊勢の本所」を中心にして、各地の「青木氏定住地の安定化」を謀る事を目的として、戦略的に「二足の草鞋策」を採用して安定化させたのである。
そして、この「24の商い組織」を使って、「相互間の商い」を発展させ、「青木氏の経済面」での「底上げ」と「氏力強化」を図った事に成る。

然し、かと云ってすべてが”「豪商」”とは成り得ていず、夫々、記録を観るに各地赴任地の「商人規模」には、大小がある。
この「商人規模の大小の原因」は、「特段の要因」は確認できない事から、矢張り、この様に「豪商に成り得る条件」が備わっていたとしても「商い力の如何」が影響してい事が観られる。

この「商い力の如何」とは、「商いに必要とする確固たる考え方」とか「横との繋がり」(立地条件)が必要とする。
所謂、「伊勢青木氏の和紙に関する殖産と興業」がそれを大きく物語っている。
これには,「讃岐青木氏」も”「瀬戸内”と云う海産物に関する同じ条件」を確立していた事が云える。
これらの「商い大小」には、上記する様に、「近江や越前や越後等の豪商」と成り得た「青木氏の共通する条件」であった。

前段でも論じたが、代表して特筆するは、当時の最大の経済拠点であった「瀬戸内」を中心とした「讃岐青木氏の松山・松江商人」は、「廻船業」等の総合商社を営んでいた。
それは「蝦夷地域の貿易」や「日本海の内回り船」に加え「太平洋の外回り船」をも始めて許可された江戸期最大の「総合商社」であった。

上記で論じた「近江青木氏」の「青木一矩と久矩」の子孫も「酒造業」等を手広く商ったこの「豪商」であり、”「越前商人」”と呼ばれる「豪商」と成った一人でもある。
恐らくは、上記した「近江佐々木氏の酒造業」に観られる様に、この同族の「近江佐々木氏ルーツの背景」を通じて営んだと観られる。

「青木氏の博多商人」も「ルーツ掲示板」にも論じている「大豪商」である。
「越後商人」でも歴史的に「秀郷流青木氏の豪商」が有名である。
中には、港では無い「内陸部の商人」として異色の「諏訪商人の青木氏」がある。
例を挙げれば、限が無いが、「長崎商人」として「長崎青木氏」からも「豪商」が出ている。
これ等は、決して自然の形で「豪商」に成ったのではない。
上記の「室町期からの豪商」等の研究でも判る事ではあるが、明らかに「室町期から江戸期の青木氏の戦略」として敷かれたものである。

そもそも、歴史を遡れば、「日本書紀」と「二つの歴史書」に次ぎの様な事が記載されている。
それは、奈良期に「信濃青木氏と諏訪族」は「租」を兌換する為に、「信濃の産物」を駿河の海側に運び、「海側の海産物」と物々交換して、「信濃に持ち帰る商い」をしていた事が書かれている。
この時に、「信濃側(諏訪)」は「馬部の職能集団」と、海側(駿河)の「磯部等の職能集団」がこれに関わったと記されている。(諏訪商人)
この奈良期から交易を始めていた事が「日本書紀」等の「歴史書」に書かれている。


今後、詳細に研究を進めて歴史的に観た「商人シリーズ」で論じられる位の興味深い充分なテーマでもある。

(注釈 そもそも、この様な「青木氏に関わる史実事」は、「史実」として「歴史上の表」には出て来ない。
依って、これらの情報を全ての「青木氏に知らしめる術」は生まれない。
「商業組合や会合衆」の「創始者としての青木氏の貢献」等の重要な事も、「青木氏」自らが研究して子孫に云い伝えなければならない。
「近江佐々木氏」も「膨大な氏の研究」を成しているが、「歴史上の表」(ネット)には出ていない。
ただ、「伊勢青木氏や紙屋院」の事で、研究されて脚本家で歴史研究家の某氏等が、「NHK大河ドラマ」の三つのドラマに「青木氏の商人の事」を表している。
「歴史研究の専門者向け単行本」でも5刊発表されてはいる。
又、「青木氏」とはルーツでは無縁の「5人の歴史研究家小説家」も「青木氏の研究論文」で公的にしている。

(注釈 全てこの5刊は、別の研究の過程で、この「青木氏に関わる事」が在って、その時の「青木氏に関わる研究」を別刊で「非買限定版」として「関係者」に有償で発刊したもの。
「佐々木氏の研究論文」の本体も同様の発刊である。「佐々木氏の青木氏に関する本」も別刊扱い。)

但し、「ネットに出る事」が「公的」とは決して思わない。
それは「ネットの根拠」の多くは、「江戸初期頃の搾取偏纂の資料」をベースにして「断定」している為に、「青木氏側」から観れば立ち位置が異なる為に信じ難い。
その意味で、「歴史研究家の単行本や発刊本」は、その説の論処を明確にした上で論じていて信じられる。
結局は、「単行本と発刊本」(非売品)は、「青木氏」に執っては極めて貴重である。
「ネット社会」とも成れば、真の「青木氏の伝統」に関して、そんなに簡単に発表される事はこれからは無いと考えられる。
依って、”「青木氏の伝統」”が霧消し資料が消失する中で、「青木氏」自らが研究して「青木氏用」に論じること以外には無く、これは宿命である。)


これ等の「経緯と背景」に依って、そして、この室町期からの「商業」が発展するに従って、江戸期に成って”「信長の楽市楽座」”が組織化され著しく変化したのである。
そして、「伊勢」を始めとして、全国各地に”「青木氏]が始めた「商業組合」”から発展して、遂には、「職人」や「商人」や「郷士」等のあらゆる階層から成る「自治組織の会合衆」が出来上がった。
この「自治組織」は、前段でも論じたが、「武家社会」にも発展した。

この「武家社会の組合的要素」は、「職能別」にその組織の中で発生する問題は組織内で解決させる”と云う制度が徳川幕府に創設された。
これが”「御師制度」”と云われるものであり、「武士階級」から成る「自治組織」が出来上がったのである。
これは「伊勢」から持ち込んだ「吉宗」によって「享保の改革」で制度化されたものである
(注釈 筆者は、むしろ、この奈良期からある「青木氏の御師制度」が、「伊勢」に関わりの深い「徳川吉宗」によって「幕府の武家」に採用された。
この事がきっかけで、「武家出自の商人域」に浸透して行ったと観ている。)

(注釈 「伊勢青木氏」は、「幼少期の伊勢での吉宗の育ての親」で、「家臣」では無いが「享保改革や紀州藩の財政改革」に「布衣着用の身分」(主大名格)で大きく関わった。)

これ等が、当に「信長」の「天下布武」<「楽市楽座」、所謂、「布武」<「布知」で目指した「理想に近い社会」であった。
その「信長の思い」を最初に実現させ発展させたのは、何と「蒲生氏郷と二つの青木氏」であった事に成る。
これを更に発展させたのは「安土桃山期の秀吉-江戸期の家康」と云う事に成る。

「信長の理想」は、初期の構築段階は、皮肉にも、伊勢混乱の苦労の末に「二つの青木氏」に依って進められた事に成る。
これは、「信長の理想」を理解し、「青木氏の本音」がこれに一致していた事を物語るものである。

「会合衆までの経緯」ここに至るこの「生き残り戦略」が、当に”「青木氏の本音」”であった。

歴史は幸いにも当にその様に成った。

上記する”「室町期の苦しいトンネル」”を突き出て、「江戸期の青木氏の将来」をここで構築したのである。
これが、「苦境」を「青木氏の知略」で乗り越える事、況や、これが「二つの青木氏の本音」であった。

筆者が考察する”「青木氏の本音」”はなかなか言い尽くせないが、上の経緯も含めての事と成る。

纏めれば、”「武]では無く、 ”「知略」”を使った”「戦略」”に云い尽くせる。
「武」はあくまでも「抑止力」に留め、「知略」を「補完するツール」とした事にある。
これが、無傷で「生き残り」を果たした「本音」であったと考えている。

そもそも、「人時場所」が変われば「本音」も異なるが、変化する何時の世もこの一点だけは「普遍」であり変わらない事を示している。

然し乍ら、唯、別次元で「或る条件」が働けば、この「戦略の本音」も永代では無い。
その「或る条件」とは、”「伝統」”が消えると無く成る。
つまり、”「伝統」と云う土台の上に成り立っている事”に成る。
そして、この「伝統の内容」も時代毎に代わる。
従って、「青木氏の本音」を維持するには、”時代毎に代わる事”に対応しなければならない事に成る。
この「対応」とは、時代に対応した”「体質改善」”である。
この”「体質改善」”が、”「青木氏の本音」”に従う事に成る。
これが、上記した様に、「室町期の混乱期」に対応した「二つの青木氏の行動」であった。

然し、この「対応の変化」も「仕儀無きこと」であって、「変化する」としても少なくともその「伝統の基本」は変えてはならず是が非でも護らなければ、「生き残りの本音」は霧消し得る。

(注釈 現在の「青木氏の基本伝統」は、最早、護り切れていない。依って、明治期まで先祖が護って来た「青木氏の本音の概念」は霧消している。「伝統シリーズの記録」に遺すのみと成っている。)

上記で論じた「青木氏に関わった氏族」の「生き様」も、それは其れなりの「生き様」で「良し悪しの前提」とは成り得ない。
然し、”子孫を如何に遺せたか”は論じられても良い筈である。
「伊勢の二つの青木氏族」(伊賀の青木氏を含む)は「青木氏の氏是」を頑なに護った「生き様」を示した事は云える。
これに依って、与えられた「氏の役柄」を果たした事は、”「青木氏の誇り」”であり、”「誇れる伝統」”である。

そこで、この「時期の伝統」はどんなものであったろうかと云う事に成る。
それが、「上記の論」である。

そこで論じたのが「青木氏の経緯と背景」と成るが、続けて、「伝統-17」でも論じる事に成る。


次ぎに続ける事としても、「伝統-17」を論じる前に、先に述べておかねばならない事が在る。
そもそも、この時期は、「南北朝の影響」を受けて、「京公家族」の間に、次ぎの様な事が起こっていた。
この問題を解決しなければ「武」で抑えて掃討をしても何れにも解決には成らない。

「武による富の獲得の機運」
「朝廷の天領地の奪還と確保」
「西域公家政権の復興」

この時期には以上の反動が起こっていた事を物語るものである。

上記した様に、況や、「聖地伊勢」も「北畠氏」に依って “撹乱されていた”と観る事が出来るのである。
「信長」は、この「悪い機運」が広がると社会は、更に乱れるとして潰しに掛かり、その代表者を手厳しく潰す事で、社会に“見せしめ”として抑え込もうとしたとも判断できる。
況して、「信長」は「天下布武」を標榜していたが、「公家勢力の復興」は「信長」の目指すところと「真逆の行為」であった。

この“「権威を惹けら課す者」で、「権威の利得を食む者」”とは、「無力化した京の公家政権」と「結託した勢力」の事だと名指していた。
それだけに「信長の事の次第」は、“厳しく当たった”と云う事に成るたろう。


「信長の心の中」には、「青木氏の心の中」には、資料を通して具に鑑みるには、次ぎの様な「信念」があったと考えられる。
これは、何時の世も「天下を治める者」、或は「大きい組織を動かす者」、「指導者たる者」、「上に立つ者」の「孤独の苦しみ」であろう。

つまり、伊勢の「北畠氏等の横暴」を「信長」が観ていて、これは、当に”「権威の惹けらかし」”と”「その利得の食む勢力」”の何物でもないとした。
その「北畠氏等の伊勢三氏」(北畠氏と伊賀氏、伊藤氏)が「象徴族」として苦々しく観られていた事を物語るものであった。

(注釈 但し、「伊勢者C」は、他地域から伸長して来た勢力で”「伊勢者」”では正式には無い。資料には使い分けされず「伊勢者」として扱うものもある。)

但し、”「伊勢者」”と呼ばれた氏は、時代別に三つに分けられる。
「伊勢者A」の「青木氏」から観れば、資料から読み取ると「伊勢者BとC」は「別者の意識」があった。

「伊勢者A」は、「伊賀青木氏を含む二つの青木氏」     江戸初期まで 950年-650年間程度 
「伊勢者B」は、「北畠氏」「伊藤氏」「伊賀氏」「長嶋氏」   江戸初期まで 150年-100年間程度
「伊勢者C」は、「仁木氏」「六角氏」「山名氏」         江戸初期まで 100年-50年間程度 

(注釈 「伊勢者」 「伊勢衆」 「伊勢国人」 「伊勢郷氏」は「歴史的な呼称」(者、衆、人、氏)としてその「範囲差と格式差」により使い分けがされている。)
 

況して、その勢力が”「聖地の伊勢」”にいると成れば,「信長」は放置する訳には行かないとなった。

(注釈 筆者の考察では、 ”「信長」は「伊勢者BとC」を”「伊勢者」”としては観ていなかった” と考えている。
自分と同じ「室町期の伸長勢力」だが、「信長」には「たいら族」の「末裔の自負」があった。
故に、「名籍の桔梗紋の明智光秀」に対して「織田家の格式」は「上位」と観ていた事から起こる「家柄の確執葛藤」があったと観られる。)
況してや、この「伊賀域」は、元は祖先の「たいら族の故郷」であったし、「伊勢和紙の殖産」に従事する「残留族]もいる地域でもあった。
ここを、”「伸長族」に犯されたくなかった”と云う意識も内心あったと観られる。

「信長」は、上記の鎌倉期からの経緯を観て、当に、この「北畠氏」が、”「権威を惹けらかし利得を食む勢力」”(西域公家政権の復活)と映っていて、“その勢力を先ず潰しに掛かった“と云う所であった。

しかし、これに対して、”「権威を惹けらかし利得を食む勢力」”(西域公家政権の復活)であるにも関わらず、この事を理解せずに、これに対して、意外にも無暗に「武」で合力し、敵対して来た北伊勢の「伊賀氏」「伊藤氏」等があった。
「信長」に執っては、これは驚きであって、”間尺が合わない”と感じとったのである。
況して、世間では、「賢者 智者」としての”「伊勢者」”と云われながらも、何でこの事が判らないのかと悔しがっただろう。
結局は、恐らくは、”縁無き衆生動し難し”として、討伐に踏み切った。

結局は、「信長」は、彼等を”「抗する者」”として扱い、討伐する事に成り、拡大して”「伊勢四衆」“を纏めて排除するに掛かったのである。

然し、同じ”「伊勢者」”でありながらも、「伊勢の二つの青木氏」だけは動かなかったのである。
”それは何故なのか”である。
それは、後から侵入してきた彼等は、”「権威を惹けらかし利得を食む勢力」”(西域公家政権の復活)である事を承知して居た事を意味するものである。
それは古くから”「伊勢者」”として生きて来た「二つの青木氏」は、「青木氏の氏是」に基づきこの態度を取る事は無かったからである。

唯、「信長」が行う「抗する者への挑戦」には、一定の限度があった。
それは、”「無暗に挑戦」”では無く、その「前提」は次ぎの事にあったのだ。
それは「限度=前提」である。
「信長」の目指す「天下布武」には、この「前提」(限度)があったのだ。

 ”「権威の惹けらかし」”と”「その利得を食む勢力」”

唯、「単に抗する者としての討伐」をし続ければ、この世の人間は半減する。

何故ならば、「善悪の理」に関わらず、「賛同の結果」はこの理に従っていないのも又この世の条理である。
「善」であるからと云って、「万民全人」が「賛同すると云う条理」には、「仏教の説法」に云う様に、従ってはいない。
「人」には、仏説「四つのみ」が「人の性」としてあり、そして、この「人の性」はこの仏説「四つのみ」に惑わされる。
依って、「善」は必ずしも「賛」を得られる前提では無い。
それが、「人の世」では「仏説 四の理」に従うと成っている。
つまり、四割程度は何がしかの形で「善」は、「悪」としては兎も角も、「善」として扱わない条理の中にあるとしている。

それでは、「善」は「善」としてより多く扱われる世の中にするには、それは「人の悟り」にある。
それを得られるのは「仏教」だとしている。

その得られる「手段とされる仏教界」が、何のこの世の因果か、”「権威の惹けらかし」”と”「その利得を食む勢力」”の世界と成り果てている。
況してや、「宗教武装勢力」と成り果てている。

そもそも、「抗する者は全て討伐」とそんな事を考える人間はこの世にいない。
そもそも、不可能であろう事は誰でも判る。
然し、遣らねばならないと成れば、何処かに「規準」なり、「限界」なりを設けての事に成る。

従って、その「討伐」をしなければ成らない「細目の規準」は、「信長」に執っては、、”「権威を惹けらかし利得を食む勢力」”に規準を置いていたと云う事であろう。
それは、「人時場所」の「三相の理」によって異なるは、必然の事だが、この「必然と成る規準」は、「何時の世」もこれが「最低限の条理」であると考えられる。
この「三相」は、”「戦国」”と云うキーで括れる。
「人」は「過激]に成り、「時」は「短絡」に走り、「場」は「戦場」に成る。
其処から導き出される「規準」或は「限度」は、”「権威の惹けらかし」”と”「その利得を食む勢力」”と成り、「其れを阻む者」と成る。

それに、この「勢力」が”「事の解決に”武力”を以って立ち向かう」”と成ると、尋常では無い。
「国を治める志を持つ者」としては「信長」でなくても放置は出来ない。
この「勢力」が社会に蔓延れば当に「修羅」であろう。
何の信念も持たない「愚能な将軍」が頂点に立ちながらも「治世」するこの「修羅社会」を放置したのが「足利幕府の四代目以後の有様」であったのだ。

(注釈 幕府とは、本来は「将軍-御家人-守護」から成り立つが、鎌倉幕府は将軍と御家人の主従関係組織で難く維持されたが、ところが、室町幕府は当初この組織を敷いた。
然し次第に統制が効かなくなり、この「将軍-守護-御家人の関係式」が出来上がって仕舞った。
この為に内覧が多発して統制が効かなくなり「治政」は乱れ始めた。
この時期が4代目から顕著に成る。
鎌倉期の組織では、本来であれば、「御家人-家臣-守護-豪族」と成っていた。
然し、室町期は4代目五代目以降から乱れ、「直臣の御家人」を飛ばして「将軍と守護が主従関係」を結んでしまった。)

その「修羅」を救う「宗教]が、況してや「武家」にも勝るとも劣らない「絶大な宗教勢力」と成れば、最早、論外である。
云えばきりがない。その「宗教」が「城郭]を持つと云うのである。

「戦乱の社会」の中で、「盗賊や山族等の脅威」が散在する中では、”「宗教]が非暴力であれ”と云う事までは云わないにしても、「最低限の自己防衛の範囲」に留めるべきであろうことは疑う余地は無い。
超えれば、出る釘も打たれるは必定である。
況してや、その「信徒」を先導してその道具に使うは論外中の論外である。

(注釈 「青木氏]はそもそも戦乱で「糧を失った者」を「経済的範囲」に於いて救い、その「自発的行為」に依る歯止めの効いた「伊勢シンジケートの抑止力」に留めた「最低限の自己防衛の範囲」を越えなかった。)

「信長」は、他の国の討伐の如何は別として、”「伊勢」”に対しては、この「規準の考え方」を前提とした。

つまり、”「伊勢」”に対してである。この”「伊勢」”に意味があった。
況や、”「伊勢」”には、”「信長成りの思い入れ」”があった事を物語る。
その「信長の思い入れ」とは、どんなものかと云えば、次ぎの規準に持つ意味であろう。

(伊勢の事を含む「信長に付いて」を書いた信頼できる資料から物語るものは次ぎの事と観た。)

纏めると次ぎの様に成るだろう。

限度=前提

”「権威の惹けらかし」”と”「その利得を食む勢力」”

「伊勢」は、「万民の聖なる場所」である。その「聖なる場所」には”「権威」”が求められる。
その「権威の地に住する者」は、「権威」に溺れず、「謙虚」でなくてはならない。
その「権威]に託けて「利」を食んではならない。
「権威の利に縋る者」には「万民の信頼の範」と成れない。

「信長」に関する資料から読み取るに、”「信長思い入れ」”はこの様なものであった。

「比叡山焼き討ち」等に観る様に、「信長」は「武家勢力」を始として、「各地の戦い」には、各地ならではの「条件」を入れ替えて、この[四つの思入れ」に適合するかを確認したのではないかと観られる。
各地の戦いの「信長の発言」を考察すると、この傾向が読み取れる。

これは、まさしく、「青木氏の氏是」の意味する処でもある。

”何時の世も、「青木氏」を世に晒す事無かれ、何れにも一利無し、然しども「青木氏」を世に憚る事無かれ、何れにも一利無し。”

「信長」は、”「伊勢者」”の当初から出方を警戒(婿養子の策謀失敗)しながらも、元より”「悠久の歴史」を持つ「伊勢者」”の「伊勢の青木氏を攻める意志」は無かった事を意味する。

「この世」の「何事」も、排除されるのは突き詰めれば、「信長」も、「青木氏」もここに来る事を教えている。


これ等が、「伝統」を語る上で、「青木氏」に執って忘れてはならない「四家の背景と経緯」である。
何れにせよ「我々の先祖の青木氏」は、この中で生きて来たのである。
その「生き様」そのものが”「青木氏の伝統」”であった。

「近江佐々木氏」がした様に、「青木氏」も子孫にこの「伝統の如何」(先祖の生き様)を遺しておきたい。

> 「青木氏の伝統ー17」の「」に続く 
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:「青木氏の伝統 15」-「秀郷流青木氏」と「融合族の発祥」 

[No.332] Re:「青木氏の伝統 15」-「秀郷流青木氏」と「融合族の発祥」 
投稿者:福管理人 投稿日:2015/06/13(Sat) 16:19:13


>「青木氏の伝統-14」の末尾

>この時、この「賜姓方式」は、「賜姓名」を改めて「源氏」とし、「皇族の臣下族」、又は、「下族する皇子族」に対しても「青木氏」を名乗る方式に変えたのである。
>但し、この「賜姓源氏」と、賜姓ではない「皇族系青木氏」に対しては、「光仁天皇まで続いた賜姓青木氏」が持つ様な一切の同じ「利権」、「財産」、「主務」、「官位官職」、「権威」等を全く与えないとする「嵯峨期詔勅」を発した。
>合わせて「賜姓青木氏の慣習仕来り掟」の一般の「使用の禁令」を発したのである。
>(明治3年まで護られた。)
>「五家五流青木氏」以外に、「百姓の民」が「青木氏」を名乗る事と、その「習慣仕来り掟の使用」を禁止して、「賜姓青木氏」を特別保護したのである。

>(この「百姓」とは、元来、公家と武家を除く全ての民の事を表現した言葉で、室町期まで使われていたが、江戸期に成って、「士農工商」の身分制度に依り、「百姓」とは、「農民」を指す言葉に変化した。)




>「青木氏の伝統-14」の続き

この「四家」は、つまり、「四つの家」に用いられている制度には、「朝廷の仕来り」(高い純血性を護る為)により、“「四、或は五」を超える家を構成できない仕来り事”に成っていた。
「近江、美濃、信濃、甲斐」の「賜姓青木氏」にも同様の「四家制度」を敷く事に定められていた。
「皇族賜姓族の近江佐々木氏」もこれに準じた。
(下記に論ずる「嶋崎殿の青木氏」と呼ばれていた「伊賀の青木氏」も用いていた。)

しかし、「平安末期の源平戦」で、「近江」と「美濃」は、「発祥時の禁令」を破り、結局は滅亡した。
「甲斐」は「内部騒動」と「武田氏の台頭」で「四家」は衰退し弱体化して仕舞った。
結局、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、「和紙の殖産と商い」を通じて、その力で「福井の逃避地」で何とか生き残った「傍系の末裔」を保護して「三地域の復興」を試みた。
しかし、大きく子孫拡大には至らず、「近江と甲斐」では、「青木氏守護神」の「祖先神の神明社」を通じて「シンジケート」の中で何とか江戸期まで生き延びられた。
特に、「近江」では「佐々木氏系青木氏」が発祥したものの生き延びは出来たが、室町期中期からは、「播磨と摂津」に移動して子孫を何とか伸ばした。
しかし、同族の「近江佐々木氏」そのものが「源平の戦乱」に巻き込まれて、一時、衰退して子孫を大きくする事は出来なかった。

「甲斐」も「武田氏系青木氏」が発祥して勢力を盛り返したものの、「内部分裂」と「武田氏滅亡」とで室町期末期には衰退して仕舞った。
「武田氏系青木氏」と「武田氏」に組み込まれた「諏訪族青木氏」は、逃亡して各地で「秀郷流青木氏」に保護されて武士として生き延びる事は何とか出来た。
しかし、何れも「三氏の四家制度」と、それに伴う「権威と富」も維持させる事は無く、「青木氏の四家の伝統」は殆ど消滅して仕舞ったのである。
結局は、この三氏は「四家制度」を構築する事は出来なかった。

従って、上記する「四家制度」は、「二足の草鞋策」を以って「巨万の富」との獲得と、「権威の象徴」を継承して、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」とは成長した。
そこで、少なく成った「皇族賜姓族]は、「賜姓五役」を維持する事が苦しく成っていた。
これに対して平安中期に、この「四家の青木氏」を補佐させる目的で、朝廷から特別に「皇族外の賜姓」を受けた「秀郷流青木氏」(伊勢 皇族母方族)の三氏に依って護られたのである。
(「二つの絆青木氏」含む 。「伝統」と云う意味で、この「発祥に関わった伝統である経緯」を本論で論じる。)

参考
 「光仁天皇」の妻 :

 「皇后 井上内親王」
 「妃 藤原産子 藤原曹司」
 「嬪 高野新笠 紀宮子」
 「後宮(后」 尾張女王」
 「妾 県犬養男耳」

「施基皇子」の二代目は、「白壁王」に観る様に、未だ、上記した「四家制度」の「血縁システム」は完全には敷かれていなかった。
そこで、周囲の「高位の族」から迎えて「子孫拡大の体制」を整えようとしているところであった。

(注釈 「白壁王」は天皇に成った事で公に成っているが、他の「四家の王」の妻の内容は不記載にする。)


「紀州」から「紀宮子」、
「公家」から「藤原産子と藤原曹司」
「伊賀」から「高野新笠」
「四家」から「後宮 尾張王女」(姪)
「天皇家」から「井上内親王」

以上と云う風に、「高位族」から「賜姓臣下族の青木氏」に「母方」として嫁している。

(注釈 「白壁王の母」は「紀橡姫」で、飛鳥期の「ヤマト政権」の主要五氏の一つの「紀氏」の豪族である。
「伊勢」に居て「紀橡姫」と「紀宮子」の存在は,「紀州」が当時、如何に「重要な位置」にあったかが判る。)

その中でも、作り上げたばかりの「四家」から「後宮」として、姪の「尾張王女」が入っているのは「四家制度」の「血縁システム」の「コンセンサス」が一族の中で出来ていた事を物語る。
そして、“朝廷の「公家」”、“周囲の「豪族」”と云う風に「血縁の態勢」を「賜姓族」として固め始めていることが判る。

更に、「氏家制度」が機能し始めたが、「妾子」には「王位」を与えていない事も「血縁システムの純血性」を定めていた事をも物語る。
既に、「血縁システム維持」の「四段階の妻制度」(皇后、后、妃、嬪 :妾)も採用されていた事がこれで良く判る。

「第六子の白壁王」が、天皇に成る前に、この内容である事から、次ぎの三人は「白壁王」と同じ立場に成った。
(”成った”と云うよりは、”された”と云う方が事実である。)

「湯原王」
「榎井王」
「春日王」

「白壁王」の他にこの三人も「同等の位置」に置かれ「同等の扱い」であった事が云える。
(「白壁王」含めて急遽訪れたこの事件から愚者を装って避けようとしていた記録が遺されている。)

この事から云うと、「青木氏」から観ると、積極的を論処とする中の ”「春日王」に子供が居なかった”としている説の前提には、疑問が残る。
これだけの「男系継承者」が無く成り互いに「政権の発言力」を獲得しようとしての「政争の渦中」にあった事から”「何らかの事情」”があったと考えられる。
(「青木氏」に執ってはこの事は重要 検証下記 詳細は他の論文を参照)

(注釈 「口伝」とは、明治35年の松阪大火失火消失により、「青木氏の由来書原本」が無く成った。
しかし、「曾祖父と祖父」が、「忘備録」と「記憶の範囲と遺産物と寺社の記録」を基に、「重要な範囲」の処の事を「青木氏の史実」として遺した。
それを、更に筆者が「寺関係の書籍」や「佐々木氏の史書」なども解析して駆使し、「外部記録との照合」も添え、「父からも断片的な口伝」も混えて「口伝」としてまとめあげたものである。
この時代の記録そのものが、「日本書紀」以外に信頼できる「青木氏」に関するものは少ない。
その後に表された記録、つまり、「三大史書」[累代類聚三代格]なども参考にしている。
「青木氏」には900年代頃からの「商業記録」が遺る。
これを「青木氏]では「青木氏年譜」と称している。)

以上の背景から、前段の「四家制度」では、世間にとっては、この(ア)と(イ)の二つは「大きな魅力(憧れ)」であった。

前段で論じた内容
「越前の逃避システム」(ア)
「皇族の継承外者の受入先システム」(イ)

その為に、「勃興の姓氏族」等は、”「自らの家の名声」”を高める為に、積極的に利用しようとした。

つまり、あの手この手を使って何らかの形で、この高い格式を持つ「四家青木氏」の中に入り込もうとしたのである。
それには、最適な方法は、周囲に執っては、所謂、“何らかの血縁関係を結ぶ事”にあった。
それは「上記の青木氏」に入り込むには、明らかに”「婿養子」”と云う手段であった。
記録で観ると、周囲は積極的に動いた事が判る。 

(注釈 この「動いたとする根拠」は、「青木氏の末裔」と主張する「姓族」が、伊勢と信濃と摂津と紀州南部地域には多い。
しかし、これらは家紋分析から明らかに全て「未勘氏族」である。
前段と重複するが、「皇族賜姓族の青木氏」には、奈良期より「笹竜胆文様」の「象徴紋」以外には、「家紋とする概念の仕来り」はそもそも現在まで無いのである。
「四家制度」に依って、「本家分家と云う区分けの概念」が無く、「族」の区別をする「家紋の概念」を持たなかったのである。
「皇族賜姓族の青木氏」は、この「未勘氏族」と成る[荘園制」等には全く関わっていない事から、後は「商いに依る関係」からか、「青木氏の関連族」と主張したと観られる。
「家紋」を使わない事を承知の上で、当初は、この「未勘氏族」は「商い関係だけの青木氏との繋がり」である事を示す為に、「故意に使わない家紋」を付けて、「青木氏に商いで関連する姓族」として恣意的に独立し呼称していた模様であった。
この現象は地域的に限定している事が云える。
然し、後に、この事をこの「未勘氏族の末裔」は、この事等の「伝統」を忘却して、「青木氏末裔」と名乗ったと観られる。
従って、「皇族賜姓族の青木氏」には、「四家制度」がある為に、「青木氏外の跡目継承」に依る「他の氏名」は元より「姓名」も生まれない仕組みに成っている。
当然に「家紋」も同じ事に成るのである。
この様な事象が多発した模様で、この事象を防ぐ目的で、「青木氏部」の「家人と職能集団」に対して正式に「絆青木氏制度」(職能紋授与)を採用していた。
と云う事は、この「未勘氏族」が多く出て「権威失墜の問題」が出た事を認識して対策を打っていた事を物語る。
従って、これらの「姓族」との「婿養子の記録」は「青木氏側」には観られないのである。)

しかし、「皇族賜姓族の青木氏」は、「賜姓族としての立場」を保つ為に、同じ「同族系の氏族」との血縁を進める”「純血性の概念」”を頑なに「氏是」として持っていた。
つまり、「賜姓五役」を護る為には”「吊り合いの取れた血縁」”であった。
この”「釣り合いのとれた血縁」”と云っても、実質、「血縁出来得る氏族」は、多くてもこの時代は周囲には50氏にも満たないの状況であった。
(高級武士の姓族との血縁は江戸期に入ってからである。)
この「氏族」の最大発生期は鎌倉期末期の200氏である。室町期初期の下剋上で激減した。

この「賜姓族」としての「権威の象徴」を護ろうとすれば、結果的には、”「同族血縁」”と云う事にも成って仕舞う。
この防御策が「四家制度」であった。
必然的に、ここで好む好まざるに関わらず”「純血性の概念」”が生まれるのだ。
その「隙間」を狙って、”「勃興の姓氏族」等は、上記の様に「血縁」を積極的に進めようとして来るのである。
その“「隙間」”とは、”「四家制度」”を敷き、50にも及ぶ「慣習仕来り掟」で護られたところには、普通では生まれない。
生まれるのは、「青木氏の弱点」の“「政略上の事」“に成る。
従って、対策として採った事は、この「政略上の事」に関わるが、その事を「青木氏の氏是」(家訓)で厳しく戒めてはいる。
然し、流石に、「謀計謀略」ともなれば、この世には”「事の流れ」”と云う物が在ってなかなか「皇族賜姓族の青木氏」に執っても防ぎ様がない。

その内容としては、確かに”「養女」”と云う形も在ろうが、「氏家制度の男系社会」である限り ”「養子の存在力」”が、「養女の存在力」に比べて格段に高く、「自らの家の名声」を飛躍的に高め様とする。
従って、「下心」があれば「養子の社会」であった。

その「家の後継」としての”「跡目養子」”もあるが、“「吊り合いの取れた血縁」”(純血性の血縁)からすれば、先ずは「継承如何」は問わない”「婿養子」”以外には無い。
「跡目」「婿」の何れにせよ、その「目的」は、“血縁したと云う結果”であって、彼らに取っては先ずは、「自らの家の名声」を獲得する事では「婿養子」でも充分なのである。

(青木氏は「四家制度」を採っているので「婿養子=跡目養子」の図式とは成らない。)

一度、「男系」で繋がれば、その「名声」を使って「血縁関係」を高めて行く事に成り得て、「氏族の関係族」として”「姓族の家譜」”に反映させられる事が出来る。
その為には、「自らの家の名声」を高めようとする者は、先ずは“何らかの関係”を作り上げねばならない。
これは「勃興姓氏」にとっては「生き残る手立て」としては「最大の命題」でもある。

(注釈 青木氏の「最高の格式と権威」、「絶大な抑止力」、「莫大な経済力」の「三つの陰」の下に入る事の命題)

「手取り早い」のは、先ずは、「四家制度」外の「女系縁者ルーツ(妾子系)」の”「青木氏の遠縁」”との関係を持とうとする事であった。
其の上で、この「遠縁の関係」を使って、次ぎには、「青木氏の婿養子」の中に食い込もさせ様としたのである。
(南紀州に個人記録あり)
現実に、そこに、“隙間”が生まれた。

何故ならば、それは「四家制度」を構成する上記した”「5つの面 20の顔」”の事である。(前段記載)

この”「5つの面 20の顔」”に、人材を潤滑に送り込もうとすれば、時には、長い間には,不足する可能性を生み出す事も考えられる。
この時、ここに、所謂、“「隙間」”と云う物を生み出す。

(注釈 現実に室町期初期頃には既に起こっている。後に、「青木氏家人」と「青木氏部の職能集団」の「二つの絆青木氏」で対応した。前段記載)

この室町期は“「紙文化」”とも云われ、「青木氏」に執っては、有史来、「巨万の富」を得た時期でもあった。
「青木氏の組織力」も一段と大きく成り、「賜姓五役」を実行するこの”「5つの面 20の顔」”の役割は、其れに伴って大きく成り、“「隙間」“を生み出す結果と成った。

その為には、先ずは、”「青木氏の遠縁」”との関係を持ち、其の上で、この「遠縁の関係」を使って、次ぎには、「青木氏の婿養子」の中に食い込もうとしたのである。

この「隙間」の出る状況と成るに至って、「賜姓五役」を潤滑に務めさせるにはいよいよ問題が出始めた。
それは「財政的問題」」では無く、「四家制度」を護る為の”「人様」を整える事”にあった。

上記した様に積極的に近寄って血縁の関係を持とうとして来る他氏と血縁をすれば、”「人様の問題」”は容易に解決する。
然し、「純血性の宿命」があって、それは絶対に出来ない。

ここに下記に論じる本論の種々の問題が出て来るのである。

そもそも、格式的には、これに比する同族は「皇位族」の中には最早、男系が切れた事で全く無かった。

(注釈 「光仁天皇期」以降は、「一族の皇族方」としては存在するが、「桓武天皇から円融天皇期」までは、未だ天皇家の中に「光仁天皇」から引き継いだ「青木氏のルーツ意識」があった模様である。
然し、直系外と成った平安末期からは資料としては無く成る。
何とか観るとすれば「後三条天皇期」が限界と観られる。)

しかし、「皇族賜姓族の青木氏」の「賜姓五役」を担ってもらえる一族の「皇族方」は、「男系不足」のみならず、その「意志や能力」を持った皇族方は無かった。
勿論、下記にも論じるが同族と見做される「賜姓源氏」(意志と能力)にも無かったのである。

これは、恐らくは「皇族賜姓族の青木氏の賜姓」から変わった「ルーツ意識」の低い「賜姓源氏11家の台頭」が原因している。
現実に、「円融天皇」の後の「花山天皇期」でこの「賜姓源氏」は正式に中止と成っている事でも判る。

最早、「賜姓臣下族」の「皇親政治的感覚」は無く成り、皮肉にも一族の「桓武天皇」が始めた「律令政治の感覚」が軌道に乗った事から「意識の低下」が起こったと観られる。
これだけの皮肉では無い。「桓武平氏の台頭」も影響したのである。

「皇族賜姓族の青木氏」の資料から観ると、一族であった「桓武天皇の評価」は低い所以でもある。
しかし、一族の「嵯峨天皇」はこの「賜姓源氏」を発祥させたのに評価は高いのである。
これは、主題として下記に論じる「円融天皇の目論見策の所以」ではないかと観ている。

又、ここで「格式的な繋がり」を無理に作り出そうとすれば、「嵯峨期の詔勅と禁令」が障害と成っていたのである。
且つ、それは「朝廷の政治と財政」を大きく揺さぶる結果とも成り得策では無かった。

(注釈 前段記載 念の為に記載するが、 「嵯峨期の詔勅」では、次ぎの様な概要であった。
「皇子族」を減らす為に、臣下させるが、財政的、軍事的、政治的な特権を与えない。
ただ、「朝臣族」にするだけである。後は自らが切り開けとして賜姓した。
「皇族者」としての[朝臣族の格式の身分」を与えるだけとしたのである。
嫌であれば比叡山僧侶に成れとした。
この為に「源氏」はその基盤が弱い事から各地に散ったが衰退を余儀なくされた。
ところが、「清和源氏の満仲-頼宣系」は[荘園制」に目を付け、「地方の土豪」が「開墾した土地」に対して策略を講じた。
「源氏の名義貸し」と「武力に依る保護」を与える代わりに莫大な「名義貸し料」と「保護料」を要求し獲得した。 
「皇族の名義貸し」では、「源氏の権威」を周囲に誇示させ、その皇族系では「荘園の税」も軽減される事に目を着けての事であった。
この「莫大な財力」を獲得できる様子を観た「全ての源氏」のみならず「摂関家」もこれに乗じたのである。
この事が行き過ぎて、「荘園から入る財」を大きくする為に、「武力」で他の荘園を奪い取ると云う現象が頻発した。
これが更に行き過ぎ、奪い取った豪族の荘園の人間を捕虜として連れて来て、「奴隷」として「荘園の人力」に使うまでに成って仕舞った。
「清和源氏の義家」は、この「戦闘の大義」を「朝廷からの勅命」を偽装して、攻め落として捕虜を獲得して荘園は益々大きく成った。
然し、「天皇」は見兼ねて「義家の行為」を「私闘」として罰し、「清和源氏頼信系」を悉く罰した。
結局は、「花山天皇」で、この「存在意味」が低く、「社会の弊害」と成った「源氏賜姓制度」を正式に中止した。
そして、遂に、摂関家外の「後三条天皇」はこの「荘園制」を禁止して解決した。
この問題を解決すべく最初に動き出した天皇が下記に論じる「円融天皇」であった。
この「円融天皇」の後が「花山天皇」で、その三代後が「後三条天皇」である。
ここに「上記の立場」に居て活躍した「青木氏」が出て来るのである。

この「青木氏の活躍の背景根拠」と成ったのが、上記の論として記載している事である。
「嵯峨期の詔勅」が「賜姓源氏」の「青木氏に対するルーツ意識」も低下させた原因でもある。

そもそも、皮肉にも、「青木氏」から「源氏]にその「氏名」を変えただけの「同族賜姓族」であるのだから、「皇族賜姓族の青木氏」に執っては「味方」を増やした事に成る筈であった。
「嵯峨天皇の賜姓制度の翻意」はそれが目的であった筈である。
しかし、この「翻意」とは真逆に「11代源氏」は全て逆転したのである。
安易な「荘園制」に走ったのである。
「荘園制」にのめり込んで「社会的な弊害」を出している多くの「賜姓源氏」には,「賜姓五役の補完」は,逆の事をしているのであるから最早、頼む事は絶対に出来ない。

そもそも、「青木氏」に代わって賜姓された「11代の源氏」は、「嵯峨期の詔勅」の歯止めが有って、その「財力」は殆どの源氏は無かった。
在ったとしても、「賜姓族」「臣下族」「朝臣族」の「掟」(格式慣習)が有って、自由には出来なかったのである。
結果として、彼等には暗黙の内で「荘園制」を悪用して勢力を高め財力を得るしかなかった。
これを形振り構わずに顕著に犯したのが、「清和源氏頼信系」である。
時には、朝廷も騙して突っ走ったのである。 

(唯、清和源氏の宗家の摂津の「頼光系」の「四家一族」は限度を超えたこれを避けた。「五家五流の地の守護代」を務めた。故に、「五家五流の青木氏跡目」に入る事が出来たのである。)

そもそも、注釈で述べた様に、この「荘園制」は、「奴隷制度」などを誘発して社会問題に成っていた。
しかし、天皇家は「摂関家」に丸め込まれて、周知の事実として「摂関家」自らもこの「荘園制」に手を染めていた。
そして、政治は「勢力争い」に走り大いに乱れていた。

そこで、嵯峨天皇の賜姓源氏に「皇族賜姓族の青木氏の補完の役目」(賜姓五役)を期待していた。
然し、上記の通りで、期待は裏切られた。
そこで、次ぎに論じる「円融天皇」は、この問題に命を掛けて取り組みだしたのである。
そして、「荘園制の弊害」(奴隷制)を無くす事の為に、この「荘園制」をも禁止しようとした。
先ずは、戦略的には「禁止する為の背景]を強化しようとしたのである。
つまり、「身の回り」をまず固める「朝廷の強化策」であった。

この事に付いて、本論は、前段や上記の様な「青木氏が持つ背景や経緯」が大きく影響するので、それを充分に理解した上で無くては納得が成されないテーマであるので次ぎに詳細に論じる事にした。


以下 「青木氏の伝統―15」

・「秀郷流青木氏」と「融合族の発祥」

この前に、「青木氏」には、「発祥期別」に分けると次ぎの様に成る。

(1) 「天智期の青木氏」
(2) 「円融期の青木氏」
(3) 「嵯峨期の青木氏」

この事を先に判り易くする為に記述する。

上記注釈の直前に次ぎの様な事が起こっていたのである。
奈良末期の社会変動の激しかったところに、伊勢の「四家桑名殿」の「白壁王の家」が「天皇家」と成った為に、“「四家」“は一時「空家 37年間」と成っていた.
しかし、平安中期には、下記に論じる伊勢の「秀郷流青木氏」との「融合族」が発祥した。
この青木氏同士の「融合族青木氏」が、「副役の空家」に入り、「四日市殿」と呼称されていた。
それによって,より一層、「伊勢青木氏四家の主役と副役」が再び強化されて構成されたのである。

この強化された「青木氏の四家制度」は、「嵯峨天皇の意」を汲んで、平安中期には「秀郷流青木氏」が「特別賜姓族」として「補完する役目」を「円融天皇の命」(968年頃)により負った。
この事に依り、更に、強化されて拡大したのである。
「賜姓」をした「円融天皇」が、「三つの発祥源、賜姓五役、国策氏」の主役と、「福井逃避地」「下族者受け入れ役」等の[副役」を、今後、安定して続けて行かねばならなかった。
それには、次から次へと朝廷から無秩序に与えられる「臣下族としての役務」に対し、その「財力」と「遂行力」が、上記した様に、最早、明らかに不足していた。
天皇は、当面の「政治的課題」を解決させる為には、「信頼できる青木氏」に「財力」は兎も角も、先ずは別の信頼できる氏族に「賜姓」を与えて補完させる以外には無かった。
その「役務遂行の財力」を天皇家が保障してやるだけの余力はこの時期には無かったのである。
「賜姓臣下族」は、「直接的な武力の保持」は兎も角としても、公家と並んで「商いに通じる直接的な財力」を持つ事は慣例としては禁じられていた。
これは、「二足草鞋策」を「青木氏」に”「紙屋院」”として新たな「特別な朝廷の役目」を与えて暗黙に承認して構築しさせて居た。
然し乍らも、この事は「強い財力的手段」での「遂行力」に対してだけの「役務の遂行力」に強い「不安感」を抱いていた事を物語るものである。

未だ、この時期にも、上記した様に、皇族には、「荘園制から来る弊害」が蔓延し、それを解決しなければならない課題が強く遺されていた。
最早、「賜姓族臣下族の青木氏」だけの「受け入れ能力」に限界があって、それを解決しなければならない問題があった事をも示すものである。
「公家」や「他の臣下族(連族)」は,その「財力」をこの「荘園制から上がる利益」に頼っていた。
然し、「1の天智期の青木氏」は、この弊害の産んでいる「荘園制から来る力」に頼る事は「賜姓臣下族」としては「賜姓源氏」の様に立場上出来なかった。
従って、この「青木氏」の「朝廷からの役目」(賜姓五役)を滞りなく果たす為の「受け入れ能力」に問題が出て来ていた。
これを拡大させるには、最早、「青木氏の四家制度」では限界にあった。

そこで、この「円融天皇」は、暗黙の内に認めていた「二足の草鞋策」(925年頃本格営業)では繁栄したが、次から次へと与えられるその役を遂行する為の「財力(総合的な遂行力)」を捻出するものとして認めていた。
しかし、それだけでは、最早、無理と観ていたのである。
つまり、それは「財力の問題」だけでは無かった。

そもそも、「朝廷官僚族」と違い「賜姓族」として「臣下族」として役務を忠実に果たす信頼できる「身内の氏族(朝臣族)」がいよいよ出現した。
それに乗じて次から次へと調子に載って役務を与えられる事が出来る事への便利さがあって、”その「財力」のみならず「遂行力全般」への配慮なしの勅命”が発せられていた。
それでは当然の結果として、「1の天智期の青木氏の能力」に限界が起こる事は必定であった。

(注釈 この円融期の少し前の時期の「清和源氏の摂津系」の資料には、朝廷からの「社殿修理の勅命」を受けた事に対し、不満を述べなかなか実行に移さなかった処、催促を受けて止む無く一つの「社殿の修理」を実行して一時を凌いだ事が書かれている資料等がある。)

(注釈 「朝廷統治」が成された地域に対する「皇祖神の子神の神明社建立」と云う「莫大な財力と実行力」を必要とする役務、それ一つ執っても「1の天智期の青木氏」には大きく圧し掛かっていた。)

そこで、最早、「皇族賜姓青木氏」だけに頼る事は無理であると「天皇」自らも考えていて、これを加速させるには、他に「補完する役目を担う氏族」が必要であると考え始めていた事に成る。
然し、それを請け負わせられる「信頼できる適当な氏族」を見つけ出し、それを命じるチャンスをなかなか見いだせなかった。

(注釈 上記した様に、嵯峨期から発祥した「賜姓源氏」に請け負わせる「11代の天皇翻意」であったが、上記した様に「荘園制」に走って仕舞った。)

丁度、その時前に、「平将門の乱」等の事件が多く起こり、時代は”「著しい混乱期」”に入っていた。
「社会の混乱期」だけでは無く、「朝廷内部、天皇家の存在意義」も問われる乱れ様であった。
この中で、誰一人積極的に進んでこの複雑な様相を呈する「乱」を鎮められ、且つ、「引き受けられる者」はいなかった。
「天皇」自らの身も危ない程に、「補完する氏の選出」が出来るその様な簡単な社会情勢ではそもそも無かった。

そこで、乱直前には、渋々、「関東の治安の責任者」でもあった「藤原秀郷」と「平貞盛」の二人が、”「条件付き」”で乱鎮圧に名乗り出たのである。

有史来、そもそも「天皇」に「与えられた役目」に対して、「条件」を付けるなどの事は「不敬不遜の極まり」として「臣下の不作法」と捉えられる行為であった。
しかし、この二人はやって仕舞ったのである。「前代未聞の出来事」であった。
それだけ乱れていた事を示す証拠である。
(飛鳥期の蘇我氏の上記の様と類似していた。)
むしろ、それまでは、”「役目を与えられる事」”が名誉な時代であって、その様な「社会体制」でもあった筈であった。
然し、この時期は、そうでは無かった。その「社会体制」を背景に、二人は”何と条件を付けた”のである。
それだけ「天皇家の政治と権威」は失墜し窮地に陥っていて乱れに乱れていたのである。

(この「朝廷内の構造」と「社会情勢」には”ある原因”があった。下記)

然し、ここで何もしなかった弱体と成っていた「村上天皇」-「冷泉天皇」の後を引き継いだ「円融天皇」は、「平の将門の独立国の乱」後の解決も然ること乍ら、ここで、”「上記の課題」を一挙に解決させられるチャンスでもある”と観て採った。
(この時を得て密かに「献策」があった。下記)
先ずは、この「前代未聞の条件」等から起こる「政治課題」を解決する為には、一時この条件を認める事にして、「円融天皇」は、”「密かな献策」”に応じて勇断してある方向に舵を切ったのである。
然し、ここで上記の”ある原因”に「対抗し得る勢力(決断するに必要とする背景)」が必要であった筈である。
これは”闇雲に出来る話”では無い。「献策する者」が居た以上は、その者がこの”ある原因”に「対抗する勢力」を当然に充分に保持して居なければならない。
もし、そうで無ければ、「天皇の命」は愚か「朝廷は崩壊」に等しい大混乱に陥る。

その背景がある事を信じて、この「決断」と同時に、転んでもただでは起きて来ない判断を更にしたのである。下記

結局、この「鎮圧」に成功し、「勲功」のあった関東の「押領使の藤原秀郷」には、この「青木氏の補完作業の役目」も付け加える「白羽の矢」を当てたのである。

「藤原秀郷」は、北家筋でありながらも摂関家筋では無かった事から、「下野武蔵の押領使」(警察と軍隊)と云う低い役目柄で長い間「冷飯」を食って居た。
其れが理由か歴史的に有名な事件の「受領家の乱行」を重ねていた。

この時の「下野押領使説」には、幾つかの他説があった。

乱の直前に任じたとする「乱直前説」
乱の直後に任じたとする「乱直後説」
乱の30年後に任じたとする「乱事後説」

以上の3説がある。
筆者は、「青木氏」の資料から観ると、「種々の考証」の結果に矛盾なく合致するのは、「30年後の乱事後説」と成りこの説を採っている。
つまり、「本論の経緯」に基づく「円融期説」である。
この説で無ければ、「円融期説」に矛盾が生まれ成立しない。
当然に、2の「円融期の青木氏」は生まれて来ない事に成る。
然し、現実にはこの時期に発祥しているのである。

何もしなければ、これだけの116氏にも「成った青木氏」が自然発生の様に発祥する事は無い。
「氏族」である限りは「朝廷の認可」を得て発祥した氏である事は明明白白である。
況して、「嵯峨期の詔勅の禁令」で他の者が青木氏を名乗ってはならないとする禁令を発しているのである。
従って、「乱事後説」]の「円融期説」が立証される。

又、記録より史実である「30説や46説等の根拠」と成っている事から「乱事後説」は立証される。

これを「円融期説」とすると、その背景にあった「秀郷」は、先ず「武蔵の領国化」と「貴族の位階」の「二つの要求」が「乱鎮圧の条件」として提示していた。
この時に、「下野国の云々の事」は何も無かった。記録的にも無い。
ただ事前は「乱行」の激しい罪人の「下野の受領家」(掾)であった事は史実である。
この事を捉えて「年数の根拠」なしに推論に近い「事前説」が出来たと観られる。
然し、正式には「乱後の朝廷」が行う「勲功」の為の「国の再配置」後に正式に決まるものである事に付いての「国の仕来り」には何も論じていない。
単なる乱前の「下野の受領家」(官僚家)に過ぎなかつたのである。
下野国を領化するものでは決して無かった。
そうすると、明らかに領化したのは「30年後の乱事後説」と成る。
正式には「乱事後」に「武蔵守」と「下野守」に任じられている。

然し、この結果に対しては、「守護守」に成るまでの30年後までは、史実として朝廷はこの「約束」を護らなかった事に成るのである。
そして、30年後には、「守護職」の「国司」では無く「武蔵国」は領国と定められたのである。
この事からも疑う事無く、「30年後の事後説」に成り得て、2の「円融期の青木氏」の発祥と成り得た事を証明している。

(注釈 依って、正式には約30年程度は恣意的に勲功を放置した。 46年と云う説もあるが考証的に若干これは合わない。)
恐らくは、「天皇」としては、前代未聞の「不敬不遜の至りの不作法」に対して、どんな愚者であっても「天皇」である以上黙っている事は無い。
そもそも、「天皇」とはこの「権威と尊厳」の上に依って成り立っている「立場」である。
それを犯され、不満を述べられ騒がれて駄々を捏ねられる事は「許容の範囲外の事」である。)

唯、乱後には、確かに貴族に成り得る”「従四位下」”に任じられただけであった。

(注釈 ところが「貞盛」は「従五位上」であった。そもそも、秀郷より一ランク下である。
この意味は大きい。そもそも、この「官位」は「公家身分]の最低クラスの格式である。
然し、「秀郷」は最低の公家の官職に付ける位で、且つ、四つから成る名誉ある「各種の勲功や幇助」を受けられる立場である。
大きく「勲功」が違った事を意味する。
つまり、「乱鎮圧の評価」が違った事に成る。
それは、「乱の首謀者」の「一門の将門」を「宗家」として統率できなかったとする「責め」と「乱鎮圧の不手際」の「責め」を受けた事にある。
故に、差を付けられた「貞盛」は敢えて「不満」を露骨にしなかった理由でもあるし、「不敬不遜の至りの不作法」を知っていた事を意味する。)

その事の「不満」も重なっての理由と成って、「秀郷」は「乱行」を繰り返していたのではないかと観られる。
然し、ある時期(970年前後頃以降)を境に、この「秀郷]に「落ち着き」が起こったのである。

(注釈 この時期を境に「乱行の事件性の記録」があらゆる資料からも不思議に消える。)

それは、上記の様に、事後評価の「上記の勲功差」のみならず、下記に論じる「円融天皇の目論見策の結果」と観られる。


その「目論見策」とは、一体どの様なものであったのかを最も「青木氏」に関わる「基本的な歴史史実」の事なので下記に詳細に論じる。

そこで、「円融天皇」は、出されていた「提示条件」を全て容認するだけでは無く、この”「貴族の位階授与」”に託けて、その上に課せて、次ぎの「付帯条件」を付けたのである。
それは、一ランク上の「条件の貴族」と成った以上は、”この「賜姓五役の役目」も受けなければならない”としたのである。
つまり、「賜姓五役」を務めている「青木氏」の「特別の賜姓族」に成ると云う事に成る。
遅れはしたが、これは「最高の勲功」と成る事を意味する。
「従四位下」と低いが、この官位とは裏腹に「1の天智期の青木氏」と「同格の格式」を持つと云う事に成る。
「破格の扱い」と成る事を意味する。
つまり、格式としては、「従四位下」ではあるが、「賜姓五役を補完する立場」に成ったのであるから、最高位の「浄大一位に匹敵する立場」を暗に獲得した事を意味する。
恐らくは、摂関家や外戚は、「政治、経済、軍事の三権」では、秀郷一門が突然に上位に位置する事に成って、驚愕した事は間違いは無い。

(注釈 後に「賜姓五役」のみならず、全66中の24の守護職、最終28職も獲得するに至るのである。)

そして、この「条件の立場」を認める事として、更に次ぎの「勅命」を下したのである。

後刻に上記の経緯を経て、「武蔵」を「領国」とし、「押領使であった下野」の「支配権」をも与えられる事に成った。(詳細下記)

以上として円融天皇は、先ずは「当面の事態」を解決したのである。譲位前には「戦略的な基礎固め」が出来た事に成る。

(注釈 「秀郷」には全く問題はないどころか、下野の「田舎の受領家」からとんでもない「破格の家柄」と成った事で、「摂関家」にも勝るとも劣らずの格式を持ったことに成ったのである。
況してや、「無役」では無く、「財」は掛かるかも知れないが、「最高格式」の「賜姓五役の役務」を与えられたのであるから、これ以上のものは無い。

「円融天皇の目論見策」に執ってみれば、これで先ずは「第一段階の念願」の「青木氏の補完の役務の問題」は解決する事になったのである。
後は、この勢力を使って朝廷内を「一発逆転の改革」に入る事であった。下記

現実に、この時期を境に「秀郷の乱行期」は完全に霧消して行った。

(注釈 重要 資料からは、「960年頃以降」は、「秀郷個人の記載した記録」や「事件性の記録」は見つからない事から、「落ち着き」を取り戻して来たと観られる。

乱後の「勲功」は、「二条件」の内の「貴族の条件」の「従四位下」の官位のみで済まされていた事に成る。
しかし、記録を辿ると、「約30年後の円融天皇期」には「他の条件」も大筋で認め、最終的には、983年までに処置している。
その代わりに、この時に、「秀郷」には「円融天皇の目論見策」に載ることを命じたと観られる。

(注釈 乱後の余りの「勲功の大きさ」の為に、秀郷死後に「贈正二位」に列せられている。
明らかに,その後の天皇は[1の天智期の青木氏」の「賜姓子役の補完役」を見事に熟し、将又、[朝廷」を改革した「2の円融期の青木氏」の「働き」を評価して居た事が判る。)

それは、次ぎの事からも判る。(「円融天皇の目論見策」に載ることを命じた事)

・ 「青木氏の商業記録」によると、「971年 津殿伊勢入る」と記載されている。
・ 「佐々木氏の資料」の「青木氏の処書」を読み解くと、「下野受領家の系譜添書」に「秀郷流青木氏」の発祥とされる記載が「970年頃」と成る。
・ 「藤原氏諸氏略系図」を観ると、「秀郷の第三子出自の青木氏」は、計算から「969年頃」と成る。
・ 「藤原秀郷流進藤氏の系譜」を観ると、「青木氏発祥」と成り得る「千国の烏帽子期」は添書より読み解くと、「969年頃」と成る。

この記録から、「円融天皇の目論見策」の「千国系青木氏の発祥期」は「970年」である事に成る。

つまり、正規に「二足草鞋策」を採った「925年頃からの記録」である「伊勢の記録」では、「青木氏の着任期」に成る。


この時の「勲功の有り様」に付いては、「秀郷」だけでは無く同じ事が「繁盛」にも起こっていた。

「貞盛」の弟の「繁盛の勲功」にも朝廷は全く同じ仕打ちをしたのである。
この「繁盛」の場合は、この「不満」に対して採った行動が、資料で多く遺っている。
「朝廷」に対して、「明確な不満行動」を採っていて疑われた事が記録として遺されている。
この時、「繁盛」は、それを打ち消す為に「写経」して「恭順の姿勢」を採ったのである。(記録)

ところが、「秀郷」の場合は、結局、この「不満」に対して、「朝廷」に直接訴える行動では無かった。
「乱行と云う不満行為」で多くの事件を起こして、度々、朝廷より罰せられ、遂には下野に引き籠ったのである。

「不満の繁盛」の場合には、下記に論じる様に、「世間」も揶揄して”「岡田殿」”から”「嶋崎殿」”に格下げして呼ばれたのである。

実は、この「不満の繁盛」の場合は、30年後の後に、上記した”「嶋崎殿の青木氏」”と呼ばれる処置で解決したのである。下記

そして、「不満の秀郷」の場合は、30年後の後に、”「武蔵殿の青木氏」”と呼ばれる処置で解決したのである。下記

何と、何れも「賜姓 青木氏」であった。

その前に、この「勲功の時期の遅れ」は、何で遅らしたのかの疑問を説いて置く。
そもそも、これは「故意的」に朝廷が遅らした事である。

(注釈 この「故意的遅延策」は、「二足の草鞋策」を始めた頃の事である事から、未だ摂関家等の「外戚の勢力」を抑え込む「抑止力」は充分に醸成されていなかった。
この事から、「青木氏の氏是の知略」から鑑みて「青木氏の献策」では無かった筈である。)

では、そもそも、この「故意的な遅延策」は、”何故、起こったか”と云えば、次ぎの事から起こったのである。

そもそも、”「天皇に対して前代未聞の条件提示」”をした「臣下の不敬不遜な行為」に対して、「天皇の威厳と権威」を護る為にも直ぐに応じない「対抗処置」であった。

それは、「臣下族」が絶対に採ってはいけない前代未聞の「最大の不敬不遜の行為」であったからで有る。
これが「有史来の事」である事から、「乱」が起こり世間がこの「乱の始末」を観ている時に、「天皇」からすると「立場」と「権威と尊厳」を著しく傷つけられて、煮え返る程に「腹立たしい行為」であった筈である。

(注釈 実はこの事を証明する記録が遺されている。

「繁盛」が「不満の発言と行動」を採った事に対して、約30年前後に、「繁盛」は反省して何度も朝廷の外戚に頼み込んで執り成しを得ようとした。
ところが、「天皇」に無視される始末で、遂に思い余って「嘆願書」まで出した。
然し、その後、「周囲の執り成し」にて、一度は形式的に許されるが、結局は天皇の強い反対で無効と成っている。
その後は、”一族の印象を落としている”と云う事で、一族から邪魔をする者も出て来る始末であった。
何度も「執り成し」を「却下」される等の「仕打ち」を受けていた。) 

「秀郷」も「繁盛」とほぼ同様であった。
ところが「貞盛」は左程の不満の態度を示さずにいた。
そこで調べると、この時期を利用して密かに本領の九州と堺で「港の整備」をして、中国との”「商い」”に邁進していたのである。
つまり、「隣人の青木氏」に感化されて、「荘園」では無く「商いに依る財の獲得」に重点を置いていた事に成る。

(注釈 五代後の清盛は、遂にこれを引き継ぎ、「禁令の慣習」を破り正式に宋貿易まで発展させた。
「1の天智期の青木氏」は、925年から「二足の草鞋策」で「[商い化」して、この「商い」を「総合商社化」した時期でもあった。
恐らくは、「先祖の生き様」と「隣人の生き様」を観ていた事の結果と観ている。
「生き残る」には、「武力」では無く「商い」であることを感じていたと観ている。
その証拠に「源の義経」に「清盛」は何と「商いの必要性」を解いている「記録」が遺されている。) 

兎も角も、しかし、天皇家は弱体化している現状ではやむ得ず、心を何とか治めて我慢しての対抗処置であった事に成る。
朝廷は、この「貞盛の行為」に対して、敢えて”観て見ぬ形振り”をしたと観られる。
何故ならば、この事を大きくする事は、「禁令の商い」を営む隣の「青木氏」に対しても罰する事にも成る。
況してや、その「商材」は主に「和紙」である。
伊賀の「たいら氏」と伊勢の「青木氏」らが中心と成って「国産化に成功したばかりの「和紙」である。
両氏は「伊勢和紙(伊賀和紙)」で一緒に殖産している隣人である。
両氏を「罰する事」は、「天皇」に執っては、折角、「補完の役務」を「秀郷」に負わせようとしているし、「繁盛」には、「青木氏」を与えて、「秀郷の補完の役務」の補佐の「特別の役務」(実務役 下記)を与えて何とか「目論見策」を実現しようとしている時でもある。
こんな時期にそんな事は絶対に出来ない。全てぶち壊しと成り得る。

その状況を鑑みて「一発逆転の策」に出たのは、そもそも、「円融天皇」(下記)であった。

そこで、「前天皇」には、二年程度で外戚から退位させられた事からもその能力は全く無かった。
そこで、引き継いだ「円融天皇」は、「30年後のチャンス」として捉えてこれを利用したのである。

然し、「円融天皇の優秀さ」は、「一発逆転策の目論見策」だけでは無く、「事の流れ」を創出する能力に長けていた事に在った。

(注釈 これが「秀郷」にしても「貞盛」や「繁盛」にしても「繁栄の基礎」と成る様に仕向けた処にあったのである。)


この”「事の流れ」”を創出する為に、その後、この状況を観たこの「円融天皇」は其れだけでは済まなかった。

この時の「円融天皇の政治手腕」は、「外戚」に「政治の場」を奪われていながら、若かったがその資質は極めて優れていた。
取り分け、「外戚」が多いと云う事は、「外戚の発言」が多いと云う事にも成り、その中でも、それを聞きわける「判断力」に優れていた。

先ず、この時、“「貴族は武力を持つ事が出来ない」”とする「朝廷(奈良期大化期)の仕来り」があった。
それに絡めて、「武力を持つ護衛団」を別に作る様に「秀郷」に要求したのである。

然し、更には、これにも「勲功のあった秀郷」に持たすのではなく、又、その子供の跡目嫡子の「千常」にも渡すのでもなく、何と「部屋住み身分」の「第三子」(「千国」)に代々継がせることを命じたのである。
当時の「慣習仕来り掟」からして、この処置はこれも「前代未聞」であった。
臣下の採った「前代未聞」は、天皇の採った「前代未聞」で返したのである。

恐らくは、当時としては、これは世間があっと騒ぐほどの「仰天覚知」であったであろう。
30年と云う期間を得て流石に大人しく成り始めていた「秀郷」は、この事に対して「若い円融天皇の能力」を見直すだけの驚きを示した筈である。

そして、この「仰天覚知」はこれだけでは済まなかったである。
何とその「氏名」を「藤原氏」では無く、大化期からの「由緒ある氏名」の「青木氏」を名乗らせる事にしたのである。
これは「嵯峨期の禁令」に反している。
最早、「仰天覚知」を通り越していた筈で、「煩い外戚」に囲まれていながら、「円融天皇の能力の優秀さ」を感じ採っていた筈である。

この「賜姓臣下族の青木氏」が、「朝臣族」と成って、間接的に秀郷一門の貴族を護衛する一団の「氏族」としたのである。
つまり、「青木氏と朝臣族の名誉」だけを与えるのでは無く、これまた、「仰天覚知」であった。
「円融天皇」自らが、”例外中の例外の「武力」”を公然と持つ事を「貴族の家柄」に命じたのである。

この「円融天皇」が採った根拠は、「補完する役目」を負う以上は「賜姓五役の天皇の護衛団」の考え方を発展させたのである。
この「賜姓五役の護衛団」を使って、「従四位下の貴族」と成った「秀郷一門宗家」を護る役目も負わしたのである。

この「護衛団」を使って、「外戚」を先ず威圧して「天皇の権威」を取り戻そうとしたのである。
これで、現実にこれで「煩い外戚」は黙り始めたのである。

普通は、むしろ、「武力は禁じ手」として命じる事が、「天皇本来の仕来り」であるにも関わらず、「逆の事」を命じたのである。
むしろ、この段階で、「秀郷」は、”「円融天皇」を恐れ慄いた”と観られる。
これは、例外中の例外を飛び越えたそれほどの「勅命」であった。

ところが、未だ、この「円融天皇」は、これだけでは済まなかった。

その為に、”特別に「皇族外の臣下族(朝臣族)」を作り、永代に「賜姓族」にする”と云う策に「円融天皇」は出たのである。
本来は、「あり得ない勅命」であった。
これだけ「例外中の例外の勅命」を、「煩い外戚連中の意見」を入れずに、「勅命]を下したのである。

(注釈 この時の「外戚」は、一人や二人の外戚では無く、何と「40人」と云う「外戚」が政治に関わっており、余りに多い為に「外戚に依る勢力争い」の時代と云って良い程の状況であった。
この為に「政治腐敗」と「天皇の権威」は極度に衰退していたのである。下記)

恐らくは、朝廷内は「蜂の巣」を突いた様に騒いだであろうことが良く判る。
むしろ、「身の危険」さえも感じる程であった事は充分に想像できる。
先ず、普通であれば、阻止されていた事が当然で、病気か何かを理由に託けて即座に退位させられていた筈である。
現実に、「円融天皇」の前後の二代の天皇は、「外戚」に逆らう事も無かったのに「外戚」から退位を迫られ極めて短期間で譲位していて、その史実が遺されている。
これだけの事をした「円融天皇]である。

普通は即座に退位させられていた筈であったが、次から次へと策を講じて「勅命」を発したのである。
これには、それを阻止できる何かが働いていたからこそ出来た事である事は上記した様に容易に想像できる。
何せ「摂関家」の40にも成る「藤原氏等の外戚」にも打ち勝つだけの「相当な力」「影の何かの勢力」が働いていた事は間違いは無い。

我々「青木氏」から観れば、大変興味の湧く処であって、「影の何かの勢力」、況や、”それは何なのか誰なのか”である。

(先に経緯を記述して観れば判る故に下記に論じる。)

そして、次ぎには、貴族に列せられた「秀郷一門」は、「宗家の第三子」を、この「青木氏の跡目」に必ず入れる事が定められた。
この策の「永代の継続性」を保証する為に、「青木氏」に跡目が切れた場合に限り、「秀郷一門の宗家」から「青木氏跡目」に入れる事を条件にした。
早速、「秀郷の第三子の千国」にこの役を任じて提示した。
所謂、「第三子跡目の制」と云われたものである。
「皇族賜姓族青木氏」に適用されている「第六位皇子の賜姓の制」に準えた制度である。

(注釈 最初は、一門一族筆頭の宗家筋と成る「佐野氏」(秀郷の出自地)から多く跡目に入っている。下記)

この時、未だ「円融天皇」のこの処置は終わらなかった。
続けて、矢継ぎ早に次ぎの策を講じたのである。

「藤原秀郷」と「平貞盛」の二人が、この鎮圧に関わったが、ここで、「円融天皇」は、何と「将来の事」までを予測していた。
それは、この「平の貞盛」の台頭(たいら族の始祖 清盛の5代前)であった。
この関東に「大掾」や「押領使」として配置赴任させられていた。
然し、「平貞盛」等の「現地末裔子孫」の「嶋崎」に住んでいたとされる”「たいら族」の「嶋崎殿」”と呼ばれた家から、この何と「千国」に嫁がせたのである。

(当初は「貞盛」は、「京の佐馬允」の役務であった。「不満の態度」を取らず,密かに「商い」に向かったところを見抜いたと観られる。)

そこで、この”「嶋崎殿」”とは、”一体誰なのか”である。
この”「嶋崎殿」”を解明する事で、大きく「青木氏」との関係が観えて来る筈である。
”単なる血縁妃の「たいら族の事」”とは云え、長年の歴史観の感ではこれは避けて通れないテーマである事を感じる。

「円融天皇の目論見策の経緯」を先に述べてからこれを下記に論じる。

当に、”「影の何かの勢力」は誰か”と共に、この疑問の答えも、”世は輪廻”で動く事である。

つまり、将来台頭してくるであろう「京平氏」の「たいら族」を、「特別賜姓族」とする限りは、この「秀郷流青木氏」の血筋に「たいら族の血筋」を入れて血縁関係を構築させる手立てまで講じたのである。
この事で、「特別賜姓族の立場」を将来に渡って確実にして安定化させる手立てをしたのである。

(注釈 現実に、「桓武天皇」の「賜姓族のたいら族(桓武平氏、京平氏)」は、後の「太政大臣平清盛」である。
この「桓武天皇」の母は、「伊勢青木氏の始祖施基皇子」の子供の「白壁王 光仁天皇」の妃「高野新笠」である。
この「高野新笠」は、「伊勢北部伊賀地方」の「阿多倍王」(高尊王 平望王 渡来人後漢の王)の孫娘に当たる。

(注釈  念の為に註釈する。「桓武平氏又は京平氏」の「たいら族」とし、累代天皇から発する「第七世族」を臣下させて「ひら族(平氏)」として坂東に配置した。
これが所謂、「坂東八平氏」である。
これに区別して「桓武天皇」は、「母方族」を賜姓する「賜姓時の根拠」として、「過去の賜姓族」の「第七世族」の「ひら族」に準えて「たいら族」と呼称させて賜姓した。
この「ひら族(平氏)」と、区別する為に通称、「桓武平氏(京平氏)と呼称されている。
この「桓武平氏」は、「後漢21代目献帝」の子で、「後漢渡来系族の阿多倍王」とその父親の「阿知使王」を始祖とする。
618年に後漢が亡び数度に渡り渡来して来たが、その主隊の「後漢17県-200万人の職能集団」は「孝徳天皇期」を中心に渡来して来た。
主に九州北部に上陸し、無戦の状態で瞬く間に九州全土を制圧し、その根拠地を薩摩の大隅隼人に置いた。
鹿児島の阿多地域と隼人地域に拠点を置いていた族である。
その後、中国地方に移動させ、66国中32国の関西圏直前までを無戦制圧した。
「無銭制圧」の理由は、「17県民200万人の職能集団」が土地の者と同化する事を前提に技能享受をした事に依る。
そして、「在来民」の全ては生活向上を果たし、「後漢の渡来人」に従った事に依る。
現在の関西以西の「第一次産業」は、これらの享受の結果であり、「・・・部」とする呼称はこの「渡来人技能集団」の呼称である。
これを捉えて、朝廷は経済方式には「部制度」を敷いた。
平安中期頃には、書物から「渡来人」と云う字句は出て来ないところから、帰化後に完全に同化した事を意味する。
多くは、その進んだ学問から「朝廷の官僚族」にも成り朝廷を主導した。
「阿多倍王」は、又の名を「高尊王」と「平望王]と呼ばれていて、「桓武天皇」は後に伊賀に定住したこの「阿多倍王」の死後に「平望王」として「たいら族」への王位を「大和王式の仕来り」で授与した。
この事から大変多く公的資料は混同している。
最近では、この「高尊王」と、「桓武天皇の記録」にある後に授与されたとする”「平望王」”とを結合させた上で、室町期の家柄誇張の搾取偏纂の資料説を持ち出した”「高望王」なる王命説”で論じられている。)


この事一つ捉えても、これだけの事は、「藤原氏摂関家外の勢力」に依るものである事は容易に判る。
「円融天皇」が、この差配に対して直接発言して主導して仕掛けたかは別として、「京平家への処置」は、何らかのルートを使って仕向けた事は疑う余地は無い。
何故ならば、「摂関家」には、「藤原氏]としての高い格式もあり、「官僚族」としての激しいライバル関係にもあった事から「秀郷の北家筋」から絶対に採り得ない差配である事は判る。

そこで、では、上記の疑問の一つを論じる。
この「平氏の嶋崎殿」(氏名)について検証して観ると観えて来るものが多くある。

この通称、この”「嶋崎殿」”は、元は別に「姓名」としては”岡田”と号していた。

この”岡田”は、常陸国(茨城県)にあり、昔、「岡田郡」と云う郡があって、ここに「嶋崎」と云う地名が存在した。
つまり、常陸の岡田の住人と云う事に成る。
「常陸」は、「貞盛」が赴任していた土地で、「常陸の大掾」(国司の次ぎの官職)と成っていた。
明らかに、「貞盛本人」では無い事は判るが、子供か従兄弟等のその関係者である事はこれで判る。

ところが、その後に、先ず「氏名」を「藤原氏」とし、そこで「氏名」を今度は直ぐに「青木氏」に名乗り変えた事に成っている。
従って、この通称、この”「嶋崎殿の青木氏」”は、これを証明する事として次ぎの様なものがある。

先ず、家紋は「揚羽蝶紋」を「主紋」としている。
次に、「丸に一文字」「稲丸の内一文字」の「二つの副紋」としている。

以上の氏を物語るものを持っている。

この家紋分析より、「特別賜姓族」と成った「千国」に自然の形でライバル関係にあった「京平氏との縁組」が起こったとは考えられ無い。
一度、先ずは、慣習上、「藤原氏」に「氏族」を改めた上で、「娘の嫁ぎ先」の「氏名」の「青木氏」を名乗っている。
と云う事は、先ず慣習上からは普通ではない。

ここに間違いなく”何かの大きな力”が働いた事に成る。

「家紋」から観れば、当時の慣習は、先ず、「主紋」を持つ事は、朝廷が認めた「格式高く大きい氏族」であれば「総紋」を持つ事は許されている。
果たして、この段階で「桓武平氏」は「総紋」(主紋)を持ち得ていたであろうか。
累代天皇から出自する「皇族第七世族」の臣下族の「ひら族」は「皇族系」である事から、「総紋と家紋」を持ち得ている。
然し、「たいら族」は、あくまでも「賜姓族」であるが直系列の「朝臣族」では無い。

(注釈 後に、「芽純王」の娘を娶る事で「朝臣族」に列せられた。)

取り敢えず、格式的には「桓武平氏」で「賜姓族」であるので問題はない。

血縁的としても、奈良末期には「敏達天皇」の孫の「芽純王」の実娘を娶って「准大臣」の称号を獲得している事からも問題はない。

「官僚族トツプの氏族」で「官僚の6割」を占めていた事を、「日本書紀」に「天武天皇の質問」に対して「施基皇子」が答えている。

(注釈 「倭人の官僚」を教育して増やす様に命じている。平安初期の時期まで未だ”「渡来人」”として呼称され扱われていた事が記録にある。)

奈良期の末期頃以降から平安中期までは、「朝廷官僚族(伴氏等の五大官僚族)」を押えて、「6割の勢力」を持ち得ていた事を物語る記述である。

この事からは、その「勢力」を素早く見分ける為にも「総紋」(揚羽蝶紋)を持ち得ていて、個々の家紋を「各枝葉の氏族」(25枝葉程度の氏族であった)に持たしていた事に成る事は充分に判る。

「副紋」としている家紋では、そもそも、この”「一文字文様」”とは、平安期初期頃には、一は事の始や根本と捉えられ、鎌倉期から室町期には武士の間では「勝(かつ)」と読んでいた事から「無敵の意」があった。
この事から、「尚武的なもの」として家紋として用いられた。
取り分け、武士でも”「たいら族一門」”に用いられた家紋である。
最も広く用いられ始めたのは、室町期初期前後である。
現在は、「伊勢北部」を含み「中部以東」に多く分布する家紋群である。
取り分け、「南北朝期」に多く活躍した「家紋群」であり、その地域には分布が観られる文様である。

この意味からも、この「岡田」、或は「嶋崎殿」が、平安期の中期前後頃には用いていた事が判る。
可成り、「たいら族」の「初期の段階の末裔族」であった事が判る。
「国香-貞盛」は主筋であるが、この「嶋崎殿の呼称」がある事から、「貞盛」等に続く「主筋の末裔」であった事がこの家紋で判る。
現在も、この「嶋崎殿」を始祖とした「青木氏を名乗る末裔」は、三氏ある。
その子孫は珍しく関東に於いて広げている。
この「一文字文様の氏族」は、「秀郷流青木氏」116氏の中でも、「異色のルーツ」を持っている事に成る。
この事は「搾取の多い揚羽蝶族」の中でも「家紋」に対しても全く矛盾は無い。
「一文字紋」は「時代性」も全く同時期である事に成る。
この事からも、「貞盛」に極めて近い筋の者であった事が判る。

仮に、この「円融天皇の目論見策」が、「貞盛」とした場合は、余りにも直接的と云うか、わざとらしいと云うか、疑問である。
恐らくは、一門の周囲が「ライバルの家」に”「本筋」が取り込まれた”として黙っている事は先ず無かろう。
とすると、「貞盛」に近い者とすると、兄弟かせいぜい従兄弟の範囲では無いだろうか。

この”「一文字文様」”が鍵に成る。
この文様の物語る範囲とすれば、この範囲は超えないであろう。
そして、「たいら族」が滅亡した後の南北朝期までこの文様を高めている。
これも「重要な判断要素」に成り得る。
つまり、「たいら族」は関西以西で滅亡し、各地に逃亡して支流末孫が生き延びた。
然し、「南北朝期」にも亡びずに「末孫]を拡げていると云う事は、「南北朝期」の「紀伊半島地域」に存在した「たいら族」である事に成る。

そうなると判別も比較的容易である。
この「一文字紋のたいら氏」が、亡びる事が無かったのは、「揚羽蝶紋」を「総紋」としながらも、「藤原氏」-「青木氏」の範囲の中に居た事からである筈と考えられる。
そこで、この紀伊半島にて生き延びた「たいら族の里」は明確に「六か所」ある。
現在では何れも有名な観光名所でもあるし、古くからの保養温泉地でもある。
歴史的にも”「平家郷士集団」”と呼ばれ、室町期の戦乱期には「傭兵集団]として活躍した。
見逃してはならないのは、現在でも、その「平家郷士」としての「伝統(慣習仕来り掟)」を護り続けている地域・集団でもある。

紀伊半島の「平家郷士集団」

一つ目の地域は、長嶋域
二つ目の地域は、伊賀域
三つ目の地域は、吉野域
四つ目の地域は、北山域
五つ目の地域は、高野域と龍神域
六つ目の地域は、十津川域

以上の六地域となる。

この「郷士の六地域」は、現在でも”「平氏郷士集団」”と呼ばれているが、普通は「平家落人」と成っているが、ここはしっかりと生き延びた。
特に、中でも”「十津川郷士」”は、現在でもその「伝統」が護られ、その精神の一端は,全国剣道大会で常時連覇優勝する程のものである。
この紀伊山脈の山深い頂上付近にあるこの村は、紀州では”「十津川郷士」”の言葉で遺されていて有名である。

(注釈 「紀伊半島の歴史」は、この”「郷士」”のキーワートで調べれば殆どは判る。奈良期からその歴史性が遺されている事に依るが、「古代言葉」を調べるには「紀州言葉」を調べれば判ると云うほどである。
紀伊半島は俳諧人には「万葉の地」と云われる所以である。)

この「六地域」は、江戸期までの「歴史上の舞台」でも何れも忘れられない地域でもある。
それだけに、確かに「落人」ではあるが「落人」としての「生き様」を見せなかったのであり、故に、「主紋・副紋」の家紋も遺し得た事に成る。
この「主紋と副紋の家紋」が遺されていると云う事が、その「たいら族の生き様」が、所謂、「落人」では無かった事を意味しているのである。
当然に、伝統も遺し得ている事に成る。
検証するには、最も熱の上がる「環境テーマ」である。


その検証として、更に,その「子孫を拡大する能力」を持ち得たのは、「秀郷宗家一門」か、「秀郷流青木氏」に関わっている地域と云う事に成る。
そうすると、その地域は、前二つの「長嶋地域」か「伊賀地域」かである。
後はこの条件に関わっていないし、「一文字紋の家紋分布」は全く無い。

従って、「長嶋地域」と「伊賀地域」と成り、何れも家紋分布は僅かであるが認められる。
(多くはないが一部甲賀地域にも観られる。)
「家紋分析」から、大きく分布が伸びたとされるこの”「南北朝域の地域」”としては、この「家紋分布の限界範囲域」にある。

ただ、この「伊賀地域」は、平安末期に「貞盛」の子供の「四男維衡」が、この伊勢域を引き継ぎ、「平清盛」が、奈良期に伊勢割譲に依って得たこの「伊賀地域」を返上した。
そして、「播磨の国」に移動した事実がある。

(重要な注釈  「日本書紀」に、700年前半に「薩摩」の「隼人地域」と「阿多地域」を初期に半国割譲を正式に受け、その後、朝廷より呼び出されて伊賀北部の半国割譲を受けた事が書かれている。
この時、後漢「阿多倍王」とその配下は、飛鳥の湖の銀杏の木の下で天皇に「相撲」を朝覧してみせたと書かれている。
薩摩の半国割譲は、その前に「朝廷軍の船団」が、この「後漢の阿多倍軍団」が朝廷の威光を無視した事に依る懲罰として二度に渡り攻めたが失敗に終わり、結局は「半国割譲の懐柔策」に出て成功し、更に飛鳥に呼び出す口実として「伊勢の半国割譲」で「奈良朝の威光」の中に入れた事が書かれている。
これが、「伊勢北部伊賀地方」の始まりであり、その後には、「伊勢青木氏の出自」の「山部王」の「桓武天皇」は、「母方の郷」を理由に「伊勢北部伊賀地方」に「阿多倍王の見舞い」と理由で出向き、その場で「平望王の称号」を与えたとする記録がある。
この記録は、「阿多倍王の年齢」が「92歳位の高齢」に成るが、「後付の記録」ではないかと云う説もある。
母方の阿多倍王には「准大臣の称号」もあるが、「大和の王位」は無かった事から、死後の直ぐ後に、「平望王の称号」を与えたと成っている。
この「王位獲得」に依って、兎も角も、「皇族第四世族」を獲得した事を意味する。
つまり、「桓武天皇」は、母方を皇族方に加えて、「天皇の権威」を強化した事の目的であった。
この「山部王]は、「天智天皇の第六位皇子」で「賜姓臣下族で朝臣族」であった事から、本来は「皇位継承権」は正統系では無かった。
しかし、「男系皇位継承者」が全く無かった事から、止む無く、”それに準ずる者”として「施基皇子」の家系゛を指定された。
「施基皇子」の子供で「白壁王」に「白羽の矢」が当たり、「光仁天皇」と成り、その「皇位の跡目」を「施基皇子」の孫の「山部王」が継承した経緯である。
この時、「光仁天皇の妃」が「高野新笠」で、この「伊賀北部」に住んだ「阿多倍王の孫娘」に当たる。
兎も角も、この「伊勢北部伊賀地域」は、この由緒を持っていて、「青木氏」とは、奈良期から「徒ならぬ関係」にあった事が云えるのである。
記録から、播磨に郷を移して、その「伊勢伊賀北部地域」を「5代後の清盛」が返却した事に成る。ほぼ正規の使用期間は460年の期間と成る。)

この事から、ところが、この時に、移動を拒否してこの地域に居遺ったグループが居た。
このグループが、後の室町期から江戸期の「伊賀忍者傭兵集団」である。
このグループには、当然の様に「生き延びる為の路線争い」が勃発した。
それが、次ぎの様に成る。

「氏本体の播磨移動組」
「居残り組本体の伊賀の組」
「甲賀に移動分裂した組」
「長嶋山岳部に移動した組」

以上の四組に成る。

「氏本体の播磨移動組」を除いた三組は、何れも「忍者傭兵集団」と成って室町期と江戸期には活躍した。
この残留組の中に、「伊賀青木氏」が組み込まれていた。

(本体の「播磨移動組」は、平家滅亡後は四国に落ち延びた。)

そうすると、この「嶋崎殿の青木氏末裔」は、最も、「たいら族の郷」であって、奈良期からの「伊賀地域」である事に成る。
つまり、「貞盛の子供の兄弟」か「従兄弟の三親等の親族」であった事に成る。
常陸岡田郡で ”「嶋崎殿」”と呼ばれていた人物は、年代的、年数的には養子を含む”「貞盛子供7人と兄弟の2人」”の誰かである事は確実である。

そうすると、兄弟と子供でも、四男までの範囲と成る。

貞盛の兄弟
繁盛
兼任

貞盛の子供
維叙、長男 藤原済時の子
維将、
維敏,
維衡、四男 嫡男 伊賀継承
維幹、
維茂、弟繁盛の子
維時


しかし、岡田郡で”「嶋崎殿」”として呼ばれていて、”「南北朝の一文字文様」”を持ち得る可能性が有る人物と成る。
先ずは、「四男の維衡」が伊勢伊賀を引き継いだ事から、伊賀地域に遺し得る人物と成る。
然し、この時期は、「青木氏の四家制度」と同じ考え方で、「従兄弟の範囲」でも「養子」が盛んに行われた。
現実にこの伊賀でも行われている。

「貞盛」の兄弟の「繁盛」からも、「貞盛の子供」が5人もいるのに、”「伊賀養子」”が入っている。
「青木氏の四家制度」と同じで、「子供の範囲」は区別せず「子供・従兄弟・孫」までとしていて、この中で、「優秀な者」を主家に据える考え方である。
ところが、「繁盛の養子」(維茂)が入って居乍ら、結局は「四男の維衡」が継いでいる。

筆者は、この「繁盛の子供」を「貞盛養子の扱い」にした事そのものの「行為」が、この”「嶋崎殿の子供」”に「白羽の矢を立てた恣意的な行為」であったと観ている。
揶揄的に呼ばれた”「嶋崎殿」”は、記録から、貞盛の弟の「繁盛」である事は明白である。
では、この「繁盛」が「円融天皇の目論見策の人物」と成り得たのかと云う問題が伴う。
何故ならば、天皇家からの「賜姓」ともなれば、「不敬不遜な行為」は避けなければならない「仕来り」が有り、分家とか支流とか「氏の権威を損なう不作法」が在ってはならない。

この場合は、「不敬不遜の至りの不作法」は次ぎの点にある。

「天皇」に不満をぶちまけた「繁盛」は「問題の人物」である。
「平繁盛」は「伊賀の分家」である。
「藤原氏」は最高の「名籍の公家族」である。
「青木氏」は「朝臣族」「賜姓族]「臣下族]で「浄大一位」の「権威族」である.
「京平族」は「従四位下」の二氏の「格式下族」である。

以上、この四つの事柄を「不敬不遜の至り」の不作法に成らない様に「仕来り」として仕切らねばならない。

この為には、つまり、「殿上人」の尊い「円融天皇の目論見策」であるが故に、「粗相や祖誤」の無い様に「最高の仕来り」で臨まねばならなかった。
それには、次ぎの「仕来り」を取らねばならない。

「主家」に「主家の跡目」を壊さず、「繁盛」をより権威付ける為に「繁盛の嗣子」を「分家」からでは無く、先ず「主家の養子」に仕立てる。
その上で、この養子(維茂)を「主家」からの出自させる「最高の慣習」を護ったのである。

そして、その上で、「天皇家」とも繋がる「大氏族の藤原氏」にしては、次ぎの「仕来り」を採らねばならない。
それは、その跡目先を先ずは「藤原氏」にした上で、直に名誉の「青木氏の出自事」にした事にある。

こうする事で、「天皇に対する最高の儀礼的手続き」が先ずは整う事に成る。

この事で、仮に「貞盛嫡子」をこれに立てたとすると、「貞盛の宗家の跡目の問題」に支障が生まれる。
その「支障の執念」が「天皇」に注がれる仕儀と成り得る。
これでは、「円融天皇の目論見策」に対して、「恩を痣で返す結果」として、「不敬不遜の至り」に成り得る。
この「目論見策」には、「一連の継続性」のある「幾つかの策」が有って、その中の一つに、この「貞盛の厚遇」に対する「繁盛の不遇」に配慮してやる「円融天皇の深い心遣い」があった。
それだけに、「繁盛」に対して「秀郷」や「貞盛」と同じく「家柄、格式、官位、官職」を与えてやらねばならない。
「貞盛」と同じく同じ「恩賞と勲功」を与えれば、簡単である。
然し、「主家の貞盛の立場」は保てない。
「秀郷」も片手落ちとして「不満」を言い立てる事に成る。「不敬不遜の至りの不作法」と成る。
そもそも「前代未聞の条件付き役目」を演じた位の人物である。何を言い出すかは判らない。
大いに「献策者」はこの事柄に注意を払った筈である。

これらの事を上手く納めるには、「秀郷に採った勲功」の一つとして採った「青木氏の格式」を「繁盛の子供」にも与える事で丸く納まる。
主家の「貞盛の養子」として「繁盛の子供」の「維茂」を入れて「主家からの出自」とする。

ただ、これには「直接的血縁」では無いが、次ぎに、「娘嫁」させて、「繁盛」にも「藤原氏」と「青木氏」を一時的にも名乗らせ、それを息子に「別流の青木氏の跡目」とさせる事で万事納まる。

後は、「二代目の維茂」と末裔の採る「出方次第」である。
その「扱い方」では、「秀郷」に与えた「勲功」と「同じ結果」を生み出す事に成り得る。
そこまでは、最早、「円融天皇や周囲の献策者の範疇では無い。
生かすも殺すも、当時の慣習の「吊りあいの作法」が整う事が必要である。
ここからは、先ずは「纏めの作法」と成る。
形式的な形として、初代「繁盛」と二代目「維茂」の形を先ず採った。
これは、両氏の「人間的な能力」に関わることに依る。

先ず、「受けた側の藤原氏」と「出した側の平氏」との間の「吊りあい」の「纏めの作法」である。

ここで、この「吊り合いの慣習」から、この「円融天皇の目論見策」の「お返しの養子」と観られる事が起こっている。

「藤原氏(済時)からの養子」が伊賀に「跡目の形」で出した。
「貞盛の長男」として命名された「維叙」を出し、先ず「嫡男」として通名を名乗らせた。
そして、元の長男を次男として受け入れた。
「維茂」を「藤原氏]に形式上でも入れた代わりに、形式上、この「貞盛の養子」に入れたのである。
これで「不作法と成る仕儀」は無く成る。
これで「互いの氏族」としては「不作法」に成らない様に「バランス(つり合い制度)」を採った事に成る。

注釈
(恐らくは、「貞盛」(20歳)で、「受領家(秀郷側)」から、上記の始末後の後刻に、娘(秀郷の姉)を上記の経緯を踏まえて嫁したと観られる。
ところが、上記の経緯前に、血縁していたとする説がある。
然し、この「事前血縁説」には疑問が多い。
この「事前婚姻説」を前提とすると、そもそも本論が下記に示す様に歴史的矛盾や論理的矛盾が生まれ成り立たなくなる。
従ってこの検証を充分にしなくてはなら無く成った。
例え゛例として次ぎの様な事が挙げられる。

(イ) 先ず、下記に示す様に、[年数的」に15-20年程度の無理が在る事。
(ロ) 更に、「地理性」が京都域と下野域の地域差がある事。
(ハ) 両氏のこの910-930年頃代の「家勢」は未だ極めて低く、互いの関係は希薄で未だ無かった事。
(ニ) 両氏の「役柄関係」にも差があり、秀郷の受領側は紛争を幾つも起こしていて、又、嫡子秀郷も乱行があり再三罪を受けるなど極めていて婚姻どころ環境では無かった事。
(ホ) 上記の「円融天皇の経緯」のこの政治環境中で、且つ、未だ乱も起こっていない時期に、「両氏の血縁」は無し得ない環境下であった事。
(ヘ) 両氏には、軍勢は低く、兵を集めるにも「周囲の軍団」に条件を付けて頼み込んでまとめる程度のもので、「事前説」の様に「自力勢力」は無かった事。

参考
当時の多くの資料から観ると、「平安期の戦闘」は、そもそも「殺戮」そのものの結果では無く、如何に大義を上手く唱え、賛同得て「他氏兵力」を集めるかにあった。
当時は「5千の兵力」がその戦いのパラメータと成っていた。
従って、如何に「諜報戦」をするかに掛かり、この結果、急に戦局が一挙に変化する等の事が起こる戦場であった。
当に、この「将門の乱」は、この「典型的な戦い」として有名である。
この意味でも「貞盛事前説」には「事後説」でなくては無理が在るのである。
(「貞盛派歴史家」の「後付」の誇張偏纂説の所以)

年代検証
「貞盛」は、生は不詳 没は989年 佐馬允935年 役職は最低15歳 生は920年 将門乱鎮圧940年-20歳 没69歳 )
「秀郷」は、生没不詳 流罪916年 乱行罰929年 刑罰は最低15歳 生は901年 将門乱鎮圧940年-29歳 没82歳 )

結論
将門乱前、つまり、「乱の混乱期初期」の「事前の婚姻説」は、最低930年頃には、貞盛は受領家側から嫁取は年齢的に出来ない。
将門乱後、つまり、[乱の混乱期後期」の「以後の婚姻説」の最低942年頃以降でなくては、歴史上の史実から観ても成り立たない。
又、「受領家側の妹娘」の低年齢からも成り立たない。

これは当時の慣習年齢(婚姻や役職)などの「最低の条件」から算出しても、この条件以上の範囲では、{事前婚姻説(親族説)}等は成り立たない。


この様に、上記した様に「円融天皇期の混乱期の政治情勢」や、その環境を一発逆転しようとして「一連の目論見」が働いている中での検証としては、当時の「氏家制度の慣習仕来り掟」は洩れなく護られている。
明らかに,「目論見の中での仕来り」が好く動いている事に成り、よくある「氏家制度の慣習仕来り掟」の「矛盾」は無い。

(「事前婚姻説」があったとすれば、上記の「目論見の経緯」は決して起こり得ていなかった可能性が有る。しかし、「歴史の史実」は起こっているし、「青木氏」で云えば現存するに至っている。)

岡田での”「嶋崎殿」”の年齢的にも納得出来る人物としてでは、「繁盛養子」がこの為のものであった事に成るのである。
この様に「弟繁盛の息子等」が「貞盛の養子」と成っており、そうすると、この”「嶋崎殿の養子と成った子供」”は次ぎの人物と成る。

それは、彼の有名な逸話の「戸隠の鬼女紅葉退治」の伝承で名高い”「余五将軍平維茂」”ではないかと観ている。

ここで注目すべき事が、歴史的史実として「貞盛と繁盛」の間で起こっていた。
「将門の乱」後の「繁盛」には、兄に続いて「常陸大掾」に成るが、上記した様に、「貞盛」に比べて恩賞はこれだけであって、「不遇の人」として見られていた。
その為に、”「大掾繁盛殿」”等と境遇を揶揄的な形で扱われた。
多くに、特別呼称されていて、その中の一つで、「厚遇の貞盛」に対して、「不遇繁盛」を揶揄する意も込めての”「嶋崎殿」”と呼ばれていた。
この”「嶋崎殿」”の「揶揄の意」には、”兄に比べて常陸国の岡田郡の誰も知らない様な「片田舎の嶋崎」の豪者”と、「都人の揶揄の呼称」で噂されていた。
当初資料では、”岡田を号していた”としている事から、事件前は普通に、岡田郡の人と云う意味で、”岡田殿”と呼ばれていた事は、その意味で判る。
然し、事件後の結果から、更に、”小さい片田舎の嶋崎殿”に替えられた事は、明らかに揶揄であろう。普通は小さくは成らない。
その”揶揄”の中には、更には、兄に比べられて「繁盛の性格」が朝廷に疑われた可能性もあった。
その為に、「繁盛の事」に付いての資料には,”寺に籠り写経をする”等の様な事の内容が多い。
一族の中にこの繁盛の不満行動に対して、一族の恥として反発をする者が多く出事が記録されている。
この反発した一族の者等が、揶揄的に大きい国の「岡田殿」から、”小さい田舎の住人”とする揶揄で、呼称を”「嶋崎殿」”と呼ぶようになったと観られる。
その事もあったか、後日に、「不遇の親」として「子供の事」を思い、別に子供を上記の様に貞盛等の親族の家等に「養子」に出すなどの処置が起こっている。


参考(重要)
この「繁盛」の”「嶋崎殿の呼称」”に付いては、「二つの青木氏の記録」と「佐々木氏の記録」と、この「三氏の末裔の家記録」に見えている。
中でも注目するのは、「佐々木氏の資料」にある。
この「佐々木氏の資料」には、同族である「近江佐々木氏」は、全国的に子孫を展開していて特に、「神職と住職」に大きく関わる「氏族」である。
「神職と住職」は当時の時代に於いては、「農民の庶民」から「皇位に至るのまでの高位族」迄実に深く関わっている「氏族」である。
それは、返して、「末端の情報」から、「天皇に至るまでの情報」を詳細に獲得できる位置に居た。
むしろ、当時は、「神社仏閣]は、「軍事,政治,経済の拠点」とも成って、その役柄を果たしていた時代でもあった。
「神仏に努める者」とは必ずしも成って居なかった。
そもそも、この傾向は室町期に成ってその役割は増した位であった。
その意味で、この「佐々木氏」は、全国ネットのその「佐々木シンジケート」を使って「時代を左右」させたのである。
「川島皇子」を始祖とするこの「近江の賜姓族佐々木氏」は、同じ同族の「賜姓族青木氏」も「神明社組織」を使って良く似た役割を果たしていた。
そして、その「氏族の組織体制」や「慣習仕来り掟」や「伝統」も「酷似の範囲」にあった。
従って、唯、違う処は、「佐々木氏の全国ネットの差」にあった。
筆者は、殆ど「佐々木氏資料」は「青木氏資料」と観ていて、補えるところはこの範疇にある。

本論も、参考にしていて、取り分け、この「嶋崎殿の検証」の考証には大いに参考に成った。
「佐々木」には、もう一つ「青木氏」と違うところがある。
それは、宗家の地理的な関係もあってか、「藤原氏北家筋」との「親交の深い繋がり」や「血縁の絆」を持っていた事にある。

その「資料」には、”何気なく書かれている事柄”が、「歴史的検証」には非常に役に立ち、当時の「慣習仕来り掟等事」や[時事評論」が記載されての資料である事であった。
その事から、この広域から得なければならないこの”「嶋崎殿」”の事も、最初はこの「佐々木氏の資料」から習得した事であった。

あらゆる「検証」に絶対的に必要とする「歴史観の参考書」とも云えるものとして評価していて、これは他氏には絶対に及ぶことが無い「青木氏」ならではのものである。
故に、「青木氏の由来・伝統の解明」は、搾取偏纂説や誇張説」に惑わされる事が無く、正当に引きずられる様に進んだ。


さて、その資料をベースにして次ぎの事を更に論じる。
「円融天皇の朝廷」に、この事で「繁盛」はこの不遇に対して何度も朝廷に具申するも無視された。
その事も有って、「献策者」等の周囲が見兼ねたか、この「円融天皇の目論見策」に「白羽の矢」が当てられた。
つまり、「貞盛」に匹敵する「家柄」を与え「格式」を高める手立てに出た。

(京平族の中には、逆に、繁盛の遣り過ぎに京平族の権威を落とし天皇から信頼を落とすとして反対者も多く出た。記録にある。)

異常とも考えられる「40にも上る外戚」の中では、この扱い方では「議論百出の結果」と成った。
繁盛擁護の「外戚の働きかけ」は少なかったと観られる。
そのような様子は資料には、一部が「執り成し」をしたとする記録があるが、一族からは出て来ない。

形式上の慣習として、上記の様に、当時の「仕来り」に依る「藤原氏ー青木氏の名乗り」は、当時の「高位の氏族」の良く採る「慣習仕来り掟」から「嫁ぎ先の氏名」を実家先が先ず名乗った事に成る。
しかし、この「実娘」(不詳)が、「千国の妃」に入って、”「青木氏」”を名乗って、その子供が「秀郷流青木氏の始祖」と成ったと観られる。

この「妃の実家先の青木氏」を、三代目(繁盛-維茂の子)から正式に継続的に引き継いで名乗ったのである。

これは、当時の「高位の氏族」が頻繁に執る「重要な仕来り」である。
この時、「初代の嶋崎殿」と呼ばれた「初代の繁盛」の「青木氏」は、子孫が出来得れば、或は、出来なくても親族より上記の様に、「養子」を取り、その者にこの「青木氏」の「二代目跡目」を先ず継承させる。
この場合は、二代目は「維茂」と成る。
そして、「初代の繁盛」は、自ら隠居して「元の平氏」に戻ると云う「仕来り」を敷く事に成る。
次いで、「二代目の維茂」が、暫くして子供(三代目)に引き継いだ事で、適時に「元の平氏」に戻す事に成る。
結局、この「二代目(維茂)」までは「形式上の継承者」として取り仕切りられる。
そして、「三代目」から継続して正式に青木氏を継承して行く事に成る。

(注釈 二代目までは、その出自は現存した「他氏の者」であった事から、其の侭では「不作法」と成る。
そこで、正式に「藤原族の青木氏」と成って誕生した「三代目」が「正規の跡目者」として「青木氏」を興した事を意味する。

(注釈 「二代目までの仕来り」は、「円融天皇の目論見策」であった事を物語ります。)

これは「賜姓族」等が必ず採らねばならない「仕来り」であり、”「賜姓」はしたが「跡目」が無く引き継げなかった”と云う風な「失礼な事(「不作法」 「不敬不遜の至り」)」が起こらない様にする「仕来り」である。
その為に、「二代後」から正規に継承するか、「三代目」から継承するかで、”明らかに継承した”としての形を、「天皇」に対して「儀礼上の仕来り」を採る事に成る。
この場合は、「二代目」までは「平氏」で、「純粋な藤原族の青木氏」と成り得ていないので、「三代目」から正式継承で答える事と成る。

この時の「正規の初代(三代目)」は、正規に「藤原姓」を名乗る事を許され「兵右衛門利澄」の姓を受けていて、直ちに「青木氏」に改めている。

この、この「兵右衛門利澄」は、三代目以降に引き継がれて、正式に「藤原族の青木兵右衛門利澄」と成る。
これが、この「嶋崎殿の青木氏」の「藤原族青木氏」の今後の「通名」となるのである。

この「嫡子四代目」は、”「兵右衛門利備」”と云う様に、「利」又は「澄」が引き継がれて行っている。

(注釈 検証 この「受領家の藤原氏」を引き継いだのであるから、「藤原族青木利澄」には、「何かの根拠」が有ったと考えられる。

そこで、この「藤原氏の系譜」を調べて観た。
そうすると、丁度、全く同時期頃に「秀郷流」の「藤原公澄」なる人物が居た。
この「人物」には、問題があったか正式な形で「跡目」が継承されず、「公澄」より三代を経てやっと継承されている。
つまり、故意的に「空籍]にされている部分がある。

(注釈 [不敬不遜の至り」に成らない様に「故意的に空籍」にしたと観られる。)

この事に付いては、確証は得られていないが、恐らくは、この「空籍」の「公澄の跡目」の形で”「澄の通名」”を「嶋崎度の青木氏の三代目」に与えたと観られる。
その「空籍の跡目」の形で”「利澄]”が与えられた可能性が高い。
その結果、「添書」には不詳で、理由が判らないが、何故か、この「公澄の三代後」には「跡目」が正規に引き継がれている。

(注釈 その引き継がれた人物が、”与えた”とする事を証明している。下記注釈)

この「空籍の系譜」と、「二代目維茂」の後の「三代目」が正式に「藤原族の青木氏」が引き継がれたのであるから、この事から”「三代後」”が符号一致している。

(注釈 この「藤原族の青木利澄」のこの「分家族」には、この「公澄の系列」に就かれている「秀の通名」と同じで「忠秀」(・秀)で継承されている事でも証拠だてられる。)

(注釈 この「藤原公澄」は、秀郷の七代目正没不詳であるが、計算から1030年前後頃の人物である。
この「公澄」は、同時に二代目後の「伊勢伊藤氏の始祖」の「基景の祖父」に当たる。
これは同時期に「伊藤氏]が発祥した事に成る。
この「伊藤氏」は伊勢を室町期に支配した北畠氏の家老の「尾藤氏族」でもあり、この事でも繋がる。)

(注釈 実は、この「公澄」の子の「知基」は、「秀郷流文行系長谷川氏」に跡目が切れたために跡目に入り継承している。
この時、丁度、「文行系の跡目」が”「空籍」と成った事”から、この「跡目」を「繁盛-維茂」の後の「三代目」に継承させたと観られる。
これを「利澄」としたと観られる。)

そもそも、この”空籍と成った事”に付いて、故意的に、「長谷川氏の跡目」にしたかは不詳であるが、可能性は否定できない。
その可能性の根拠は、そもそも、その「空籍の状況」そのものがおかしい。
故に、この間の「公澄」の次ぎの二代は「空籍」として「系譜」を扱っている。
先ず、”二代”と云う事が疑問である。普通なら一代で充分である。
その後の実質の「跡目系譜」を観て見ると、元の「公澄の曾孫の知廣」に継承させて纏めている。

これが”空籍と成った事”の”「故意的か」の事”に付いては、わざとらしいので、”「曾孫の知廣」”が継承している事から観て、”「故意的」”と観られる。
何も、”二代”にする必要は跡目が居たのであるから無い。
例え、嫡男が「長谷川氏」に跡目に入ったとしても、直ぐに「孫か曾孫」が居たのであるから跡目を継承させれば良い筈である。
「空籍」にする必要性は全く無い。況してや、”「二代の空籍」”の必要性は尚更に無い。
何故ならば、普通ならば、「公澄」の跡目に「知基」を据え、「長谷川氏に跡目」が欠けたとすれば、「通常の慣習」の通りで「孫の知昌」か「曾孫の知廣」に「長谷川氏」を継がせれば良い事であって、何も「系譜」を態々「空籍」にしなくても良い事に成る。
何も無ければ「空籍の根拠」の必要性は全く無い。

これは系譜を、”態々「空籍」にしなければ成らない”「相当な理由」”の何かがあったからこそ「空籍」とした”のである。
それを、「一代空籍」としても良い事に成る。
然し、「二代空籍の系譜」としなければ成らない”「絶対制のある抜き差しならない相当な理由」”があった事に成る。
そして、その「二代空籍の系譜」とする以上は、普通ならば「知基」の子供(孫)」で済ませられる筈である。
然し、「曾孫(知廣)」として「系譜」を作り上げている。
つまり、「孫」では無く「曾孫」として置くことで「二代空籍の系譜」を作り上げた事に成る。

では、その「孫」は一体誰かと成る。
「系譜」は「公澄」-「知基」-「・?・」-「知廣」となるが、「・?・」は不明で出て来ない。
年数的にも、”「曾孫までの時間的間隔」”はこの場合は生まれない。
つまり、そもそも、「公澄」-「知基」-「知廣」であって、「二代空籍の系譜」を形式的にも絶対的に作らねばならない理由があった事に成る。
「知廣」は「曾孫」では無く「孫」なのである。(「知昌」も孫である。)
あくまでも、形式上の理由で、「藤原秀郷流諸氏略系譜」では「曾孫」として整えた事に成る。

後は、そこで、「知基の跡目」を受けた「長谷川氏の系譜」では、知基-知昌-知忠-知宗-秀康・・・と続く。

(注釈 重要 「伊勢伊藤氏」は、この公澄-知基-基景と成っている。)

この「長谷川氏の系譜」の「知基-知昌-知忠」の横に「別系」として「曾孫の位置」に「知廣」を繋げているが略系譜の譜には無い。
この「長谷川氏の系譜」で「略系譜の辻褄」を合わした事で、上記の事が証明される。

(注釈 伊勢の「伊藤氏の始祖」と成った「基景」とは、「利澄」と全く同時期である。大きな意味がある。)

では、その相当な理由とは何なのかであるが、明らかに、「不敬不遜の至りの不作法」に成らない様に「略系譜」では仕上げたのである。
それには、次ぎの二つの方法(作法)がある。

「公澄の系譜」に「二代空籍の作法」とした跡目

(ア)「藤原氏の籍」を形式的にも継承した「一代目繁盛-二代目維茂」の「二代分」を入れる事で空籍とした。
(イ)「実質的に「嶋崎殿の青木氏」の「三代目利澄-四代目利備の譜」を仕立て上げて「二代分」の空籍とした。

以上の二つの何れかの作法で「ルーツが完全に繋がった形の作法」で臨んだ事が云える。

では、この(ア)(イ)のどちらにしたのかと云う事に成る。
つまり、(ア)の形式的か、(イ)の実質的かと成る。

ここで、この判別はこの「略系譜」の表現にある。

「空籍」とせずに何も書き込めば良い事で済む筈に成る。
然し、この「略系譜」は「空籍」の形を採っている。
そして、「添書」としては次ぎの様に成っている。
「空籍」にしながら、”「この間に二代の継承有・・」”と記述している。
「公澄より三代後の継承者」として、「知廣と知宗」の継承と成っている。
然し、「公澄」より「四代目の継承者」の後の跡目は「知」の「通名」を使っていない。

これで、はっきりしている。

答えは、(イ)の「実質の継承者」であった事に成る。
(ア)では、「知」の通名は使えないからである。

恐らくは、「2の円融期の青木氏宗家」が持つ「藤原族の略系譜」の原本には、(ア)が書かれている筈である。
何故ならば、(ア)(イ)とは「青木氏の系譜」の上では上記の様に明確に成っているからである。
然し、筆者が持つ「藤原氏の略系譜」には「添書」で外している。
それは、”「この間に二代の継承有・・」”と云う事は、この系譜作成に関わった藤原氏の者等は、この「継承者の事」を知っている事に成る。
そうで無ければ、「不詳」で済ます筈である。知って居なけれは「・・二代の継承有・・」とは書かない。

”「藤原氏の略系譜」”である事からこそ、この「氏外の継承者」を不記載として、「添書」にその旨を表記して済ました事に成る。

(注釈 むしろ、研究ではこの方が「当時の経緯」がより詳細に追及出来たとして良かった。「添書」にはその間の「経緯」が潜んでいてその意味で重視している。
尚、「青木氏宗家」が持つ筈の青木氏に関わる”「藤原族の略系譜」”は、「個々の系譜」は出ているが、「全体の系譜」としては出て来ない。
入間に現存する宗家筋が、「青木氏の氏是」に沿って出さないのかも知れない。筆者も出さない様に。)



そもそも、ここで更に重要な事が在る。
「千常」と「千国」のルーツを含めて「公澄の系譜」も、累代は、”「左衛門尉」(宮廷警護役)”の”「永代の家柄」”である。
特に、「秀郷一門」の中でも、この「公澄ルーツ」は、累代は「左衛門尉」(宮廷警護役)の家柄であった事から、”「嶋崎殿の青木氏」”の「出自の系譜」(役職)となったのである。

その事から、「三代目の利澄の氏家の役柄」は、永代で「宮廷警護」の「左衛門尉」の配下の”「大番役」の「実務役」”を担った根拠に成るのである。

(注釈 この「利澄系譜」の三氏はこの「大番役」を主務としている。下記)

つまり、これはどういう事かと云うと、”「同時期」”に次ぎの様な事が起こった。

1  藤原氏の「秀郷」の「二代目」の「千国の青木氏」を武蔵で発祥させた。
2  平氏の「繁盛-維茂」の後の「三代目」の「利澄」は「伊賀の青木氏」を正式に発祥させた。
3  藤原氏の「公澄」の「三代目」の「基景」の「伊勢の伊藤氏」を正式に発祥させた。
4  藤原氏の「千国の二代目」(成行)が伊勢で「秀郷流青木氏」の任に付き「伊勢の青木氏」を正規に発祥させた。

4の「伊勢ルーツ」の検証 
・ ・-・成行-・家綱-・有綱-・景綱-・基網-・国綱-宗綱-宗行-行春-為行-行久-行兼-右近-行信-行勝-行春・-・・・と続く。

個々の系譜を観ると、次ぎの様に成る。(「2の円融期の伊勢青木氏」の生き様が良く観える。)

先ず、「初期の頃」は、各地に「派遣される護衛団」としての人員不足から「秀郷出自先の佐野氏」より原則として跡目が入っている。(円融期の取り決めどおりである。)

然し、「跡目の入れ替え」が興って居て、「6代目位」頃からは「同族長沼氏」、「12代目」頃からは「同族永嶋氏」からも跡目を受けている。

更に、「公澄の頃」には「調整役の進藤氏」(文行系)からも「青木氏の跡目」を受けている。

然し、この現象は、上記の「国綱の頃」まで興している。粗方の体制は整った頃と成る。

これは「宗家の赴任地」が増えるに従い「護衛団」を派遣しなくてはならない事も重なって起った現象である。

その為に、一度入った「跡目」から抜けて「別の赴任地」の「青木氏の跡目」に入る等のやり繰りを繰り返している。

「24地域の護衛団」、「500社の神明社建立管理団」、「宮廷親衛隊」、「五地域天領地護衛団」等に「跡目」を送り込む必要があったからである。

その為に「子孫拡大策」が「行久の頃」まで「最大の課題」であった模様で有る。

従って、「四妻制」から嫡子嗣子妾子に関わらず15歳になると同時に配置されて、「早婚制度」が興った。

何れの嗣子にもこの為に差別なしに「四家制度」で孫域までを子供として扱い動員した。

この為に「跡目の入れ替え」が盛んに起ったのであり、「同名の跡目」が地域のルーツに起こるのはこの事から来ている。

そこで、「本所」の「伊勢ルーツ」と、「本家」の「武蔵ルーツ」とを比較すると、「同名の跡目」が最も多く観られる。
この事は、この「跡目の入れ替え」が盛んに起こっていた事を示す。

従って、与えられた「賜姓五役」の「役務上の本所」は、「伊勢」が「本所」であった事に依る。

秀郷一門の「護衛団の役目柄」は、「本家」であった事に依る。

その意味で、伊勢は「本所」と、武蔵は「本家」と呼ばれていた。これは「本所=本家の関係」にあった事を示す。

中には、「西の本所」,「東の本家」と書いたものがある。この意味は「本所=本家の関係」の中で、「役務]を「東西]である程度分けていた事を示す。

「長沼氏にある跡目名」が「本所と本家の青木氏」にも同時代にあり、「永嶋氏にある跡目名」が「本所と本家の青木氏」にも同時代にあると云う現象も起こっている。

同名でなくても「通名」から観ても、「長沼氏、永嶋氏」から「本所と本家の跡目」に入っている現象も興っている。

「本所」と「本家」の程ではないが、「主要の地域ルーツ」にも「跡目名の移動」は余り観られないが、「通名」や「添書の記載」で「跡目」が入っている事が判る。

これ等が116氏に拡がった所以の一つでもある。

(注釈 「青木氏116氏」に及ぶ事で、”「固定的な跡目の概念の制度」”を敷くと、互いのルーツとテリトリーを護ろうとして「青木氏同士での勢力争い」が起こる事は必定である。
この事も避ける目的もあって、「跡目」には「ある程度の移動性」を持たせた事も考えられる。
更には、「赴任期間」が完了すると、「現地末孫」は別として、「本家に戻すと云う方式」も採っていた事も、「固定的な跡目概念」を排除する目的があったからである。
「116氏」と成ると「枝葉末孫」の「夫々の本家筋」が生まれ、その「本家元」に返す事に成っていた。
「本家筋の更に本家」を「宗家」と呼称し、「宗家筋の更に宗家」を「総宗本家」(大元 武蔵入間)と呼称した。
従って、「赴任地」には「家族同伴は禁令」であった。)

(注釈 従って、「赴任」は長期間を避け原則は朝廷の命に沿って、4年或は5年を限度とした。
その代わりに、「現地末孫」を義務付け、時には跡目が無く成る等の事が起こると「現地末孫」を本家に連れ戻ると云う現象が観られた。
これも、「本家筋」が採っていた「四家制度の概念」に在った。
要するに「跡目の人員確保」である。)

例えば、「伊勢ルーツ」は「伊勢ルーツ」で終わると云う「固定的な跡目の概念」を必ずしも持ち得ていなかった事を意味する。

その地域に対する「護衛上の能力」と「子孫力の強弱」から観て、柔軟に対処して「跡目の入れ替え」をして図ったものと観られる。

その子孫をどの様に扱うかは「四家制度の概念」に従った。

(注釈 この「跡目の入れ替え」が「24地域の116氏」の全てに及んでいたかは調べ切れない。)

この制度は、「役務上と護衛上の重要地域の範囲」と観られる。
その証拠に、「讃岐秀郷流青木氏等」は「自己能力」が高かった事から「上記の仕来り」は当初から無かった。


(注釈 特徴的な事は、「秀郷一門の調整役」であった別系の「文行系の進藤氏」から跡目が入っている事は大きな意味を持っている。
「進藤氏系青木氏」(阿波北)であるが、又は、「秀郷流近江蒲生氏」と繋がる「秀郷流近江脩行系州浜紋の青木氏」(紀州 伊予 土佐、美濃)である。
他に、「利仁流青木氏」もあるが、「阿波南以外」には無いので「跡目の入れ替え」は無かった。)

上記の事は、如何に「跡目の人員確保」が大変であったかを物語る。


以上の事が殆ど同時期に興った事を意味している。
当に、この「四氏族」を発祥させた「円融天皇の目論見策」は、「一発逆転の策」で有る事が良く判る。

伊勢では、あっと驚いたのではないかと想像できる。
伊勢では、今後、”何かが起こる”と人々は観たと思われる。
それが、”これで朝廷の内部が変わる”と「百姓の人」は明らかに想像したと考えられる。

(注釈 一部の資料に、朝廷内部の「外戚の勢力争いの弊害」が将来に危惧する表現が遺っている。
特に、多くの人と多くの立場の人と接する寺関係者の表現に観られる。
この事から、朝廷を左右させている外戚の摂関家を除いた「全ての百姓の思い」があった事が判る。)

では、伊勢では、今後、”何かが起こる”と人々は観たが、それは何故なのか、である。
それは取り分け「伊勢」に於いてでは、その前に「皇族賜姓青木氏」が、「二足の草鞋策」で「民を巻き込んだ殖産」を興し、「伊勢の民の生活」を良い方向に変えたからである。
この事が「円融天皇を動かした所以」でもあり、「青木氏の献策奏上」の「根源の元]と成った事が読み取れる。

だから、「(1)の天智期の青木氏」(「皇族賜姓青木氏」)等は、遂に「優秀であると観た円融天皇」を動かし、「目論見策」を献策して奏上する事を決めたのである。

そして、行動は興された。
この「青木氏」と同じ格式、権威、官位、官職、の「青木氏系氏族」が四つも一度に伊勢に発祥したのである。
「伊勢の百姓」の民は、この事、”何かが起こる”を思わない方がおかしい。

(注釈 現実にはこの後には”何かが起こった”のである。
約80年間の間に徐々にではあるが改善されて行った。
三代後の「後三条天皇」は、この外戚の外の天皇である。
40もの外戚は排除され、その40もの外戚が巣を食う「荘園制」は禁止された。
この弊害は排除され、その結果、[百姓の民」から「政治の天皇権威」は取り戻された。)

以上の検証の事も含めて(注釈内容からも含めて)、「嶋崎殿の青木氏」の継承にも、「受領家の藤原氏の系譜」とも比較しても、何らかの「政治的作為」(搾取偏纂)が経緯の中に無かった事が判る。

故に、この「2の円融期の青木氏」の「二つの流れの末裔」は、「伊勢]にて生き延びられて、伊賀より後に移動して、所謂、「嶋崎殿の青木氏」が,関東で「公澄の家柄と役柄」を引き継ぎ、その「大番役」で働き続け、現存するに至るのである。
(「二つの流れの末裔」:「嶋崎殿の青木氏」と「受領家の青木氏」 下記)


ここで、これらの事を更に確実に裏付けられる事として,この「嶋崎殿の青木氏の事」に付いて、上記の事も配慮して、更に別の面から検証を続けて論じて置く。

この「三代目以降」の「嶋崎殿の青木氏」の「末裔」と観られる「氏族」は、現在では「三氏系列」があり、何れも東関東(茨城域)に現存するのである。

この「三氏族」には、先ず一つの系列には、次ぎの事が成されいる。

A系列(主家筋)
秀郷一門の「近江族の蒲生左衛門太夫高郷」の末子(玄蕃允梵純)が、室町中期頃に母方の「伊勢秀郷流青木氏」を引き継いだが、この血筋を入れた事の系譜に成っている。
この系列が、「主筋」と観られる。

何故ならば、この「主筋」と観られる家の「系譜と伝統」には、それを証明するものを持っている。
この”「嶋崎殿の青木氏」”は、当初は直接的には秀郷一門の「秀郷流青木氏の血筋」を持っていない事に成る。
そこで、この「主筋」とする一族は、「伊勢秀郷流青木氏」の血筋を入れて、直接、間接に関わらず、一門の中に入る手段を選んだ事に成る。
現実に、他の一系列は、この手段を講じて居ない。
この「主筋」には、先ず、「主筋としての伝統」を持っている。
それは、この「主筋の三代目」の始祖と成る者(本家 「左衛門利澄」 分家 「左衛門忠秀」)の分家(利澄の弟)は、「猿楽で有名な春藤源七郎」の弟子と成り、その技を磨き、「徳川幕府の猿楽師範処」を務めている。
結局、紀州藩士であったが、江戸に召し出され「御廊下番」として「150俵」で召抱えられている。
この「主筋」と観られる家紋は、当初は「一文字紋]であったが、後に二代続きに男系跡目に恵まれず、「主紋]は「揚羽蝶紋」とし、「副紋」は「養子先の家紋(二葉蔓柏紋)」と成っている。

唯、この「二葉蔓柏紋」の家紋には、実は「青木氏」として重要な見逃せない謂れがあるのだ。
ただ「養子」と云う事で済ませられない「秀郷流青木氏」に関わる「謂れ」なのである。
この「二葉文様」は、特別に「青木葉文様」と云われ、「秀郷一門」の中でも「秀郷流青木氏」だけが使っていた「特別の文様(役紋)」である。
つまり、「秀郷一門の第二の宗家」としての「役割」を示す文様なのである。
正式には、「青木葉二葉文様」と云う。

(注釈 この「青木葉二葉文様」は、上記する様に、「賜姓五役の立場」であるからこそ使える「権威紋」であり、他氏は絶対に使えない。)

つまり、この「二葉蔓柏紋」は、「秀郷流青木氏」の本家筋(下り藤紋)の「枝葉末孫」で、本家筋ではあるが、「下がり藤紋」を直接使えない等の家筋の者が使った、謂わば、”「便宜的文様」”でもある。

(注釈 この様な「役紋 便宜的文様」を使えるのは、特別な事であって、「天皇家の式紋や役紋(権威紋)」と匹敵する朝廷から容認された「仕来り」である。
「徳川氏」は、これを真似て、「立葵紋」を「権威紋]として用いた。
「伊勢秀郷流青木氏」の「立葵紋の青木氏」が千葉と四日市に現存する。
「立葵紋の青木氏」も然ること乍ら、「青木葉二葉紋の青木氏」を観る事で、どの様な役務と権威のある家柄であるかを即座に判る様にしていた。)

更に、この系列下にある「青木氏を含む秀郷一門の蔓柏紋」を家紋とした家との血縁族であることを示している事に成る。

この「嶋崎殿の青木氏」が伊勢で「伊勢秀郷流青木氏」と先ず血縁して、更に、江戸に出て、その家は、この「二葉蔓柏紋の家」と養子縁組をした。
そして、この系列下に入った事を示している事に成る。
伊勢と江戸の二度に渡り、「秀郷流青木氏の血流」を入れた事に成る。

特に、この「二葉蔓柏紋」は、通称、家紋分析では、「青木葉文様」と呼ばれる文様で、実際には「秀郷流青木氏の家紋群」には無く、上記した様に「秀郷流青木氏の特別別流紋」としての「別扱い」で用いられた文様である。

「何かの特別な事情」のあった「青木氏本家筋」の「下り藤紋」を敢えて使わない者が使った文様を意味する。
この「何か特別な事情」に当たる事が、この「一文字紋」の「直接に青木氏の血筋を受けていない青木氏」を意味して居た事に成る。
その為に、この「青木葉文様の二葉紋」を使用して血縁した「蔓柏紋系の家筋」とあらわした事に成る。

従って、この様な使い方を本家筋の一門の中で良く使われた「青木葉紋」と云われるものである。
これは「完全な証拠」である。

この「青木葉文様」がここまで遺し得ている事に「青木氏」として驚きを感じる。
「青木氏の伝統」を「子孫」と共に「家紋などの仕来り」を遺し得ていた事である。
この一族は、「猿楽師範」として江戸に出向した時に一族ともども江戸に定住した事に成っている。

実は、この「青木葉文様」の「青木葉二枚葉紋」の「秀郷流青木氏」が他に関東に存在する。
この家は[揚羽蝶紋の総紋」では無い。
「下り藤紋」を総紋とする「蔦紋系の秀郷流青木氏」である。
江戸期には、「小十人組頭」となり「御家人」である。

つまり、上記主筋が伊勢で、「伊勢秀郷流青木氏の血筋」を入れた事で、上記した様に、家紋の「一文字紋」から、後に「青木葉二枚葉紋」の「二葉蔓柏紋」に変紋した。
しかし、この末裔が、正式に「秀郷流青木氏」に組み入れられる事に成った事から、矛盾の起こる「たいら族」の「揚羽蝶紋」を総紋(主紋)としないで、「下がり藤紋」を「総紋」とする「正規の青木葉文様」の「青木葉二枚紋」を改に興して継承した事に成る。
関東に来て、「二葉蔓柏紋の青木氏]と成った家が、その「末裔の者」の別の者に「秀郷流青木氏の本流としての青木氏」を「宗家の許可」を得て継承させた事に成る。

それを、更に、深める為にも、母方より一門の「蔦紋の血筋」のある事を理由に、「丸付き紋」(分家分派分流等が用いる印紋)を用いて「蔦紋」を「副紋」としたのである。
返して云えば、「二つの流れ」を敢えて興したのである。
この「二つの流れの家紋の存在」が、この「主筋である事とその存在」をも証明するものである。


「伊賀系(一文字系)の青木氏」は総紋を、「揚羽蝶紋系」と、「下り藤紋系」の「二つの流れ」を恣意的に興した事に成る。

B系列
次に、他の二系列の一つ(B)は、確かに[伊勢秀郷流青木氏」と血縁している。
しかし、この前に、紀州藩の前藩の「紀州浅野家の家臣」と成っていて、「浅野氏の分家筋」と血縁した系譜と成っている。
「浅野藩の和泉領域」は、紀州までの領域として、「伊賀の左横」に位置する地域である。
そこで、その分家筋と血縁したと観られる。
そして、この家紋は「違い鷹羽下一文字紋」である。
つまり、「浅野家の系列」に連なる「嶋崎殿の青木氏」(一文字紋)の一族である事を示している。
従って、この系列は、元は「浅野氏分家」の「根村」を号していてた。
後に、末裔の一人を元の所謂、「嶋崎殿の青木氏」を継承させている。
そして、「浅野家移封」と成って、「徳川頼宣の紀州藩」と成った時に、安芸に移動せずに、「紀州藩」に仕官している。
家康の次男「初代頼宣の紀州藩」は、この時に「仕官募集」(謀反を疑われた)を大々的に行った。
然し、その「仕官募集」が大がかりであった事から、家康死後、妬みもあって「頼宣謀反の嫌疑」を江戸から掛けられた位のものであった。
つまり、「伊勢の秀郷流青木氏」の”「一族一門丸抱えの策」”に出たのである。
依って、この「一文字紋の嶋崎殿の青木氏」は、この時、「伊勢秀郷流青木氏」に組み込まれて仕官が叶っている。
恐らくは、「一文字紋」では、「円融天皇の目論見策」から発祥し、「直接の血筋」を引いていない事から、更に、確実にする為に、この為の「伊勢秀郷流青木氏との縁組」をこの時に興したと観られる。
従って、「伊勢秀郷流青木氏」に組み込まれて「紀州藩]に仕官できた事に成った。
「紀州藩」に仕官できた事が、男系女系に関わらず「伊勢秀郷流青木氏」と血縁した事を物語るものである。

紀州藩の頼宣が、この「一文字紋の青木氏」を単なる家臣として仕官させたとは思えない。
恐らくは、「紀州藩の役柄」として江戸初期の未だ不安定な社会状況の中で、この「大番役」の果たせる氏族に極めて魅力を持ち、全国各藩の動向を探る上で欠かせない役柄と観て仕官させた事であると観ている。
その証拠に、250俵と云う高い石高で雇っているし、後に旗本で組頭にしている。

この時、どの「秀郷流青木氏」の組に組み込まれたかは、この家の「系譜と添書」から読み取ると、「伊賀組」とされたのではないかと観られる。
それは、伊勢にはこの伊賀氏に関わった「伊勢郷士」は20(天正の乱で18に成る。)は、この「伊賀組]に入った事に成っている。
「伊勢」は、「紀州徳川氏の飛び地領」として特別に扱われ、「伊勢組」の中の「伊賀組」に組み込まれたのである。
その後、吉宗に同行し、一族は紀州から江戸に移動定住している。
この「一文字系列」は、幕府では、最終は「旗本大番組 組頭」(250俵)に列している。
この一族は多能であった様で、系譜と添書から、次ぎの役柄を務めている。

勘定方、御書院番与力、御勘定方無役、小普請方、納戸方、大番組頭

(江戸時代の大番役に類する役柄 :小姓組、書院番、新番、大番、小十人組)

以上「6つの役柄」を務めている。

「1の天智期の青木氏」の「伊勢青木氏」は、「吉宗の育ての親」であり、嫡男六兵衛が家臣では無いが、将軍と成った時に江戸に同行している。
そして、「二足の草鞋策」の商いを利用して、「布衣着用の立場(大名扱いで謁見できる)」で「勘定方」と「納戸役」を務め、「享保の改革」を主導した。
この時、このB系列の「伊賀青木氏の一部」が、「勘定方」「納戸役」に入って「実務役」として共に働いたと観られる。

「御書院番与力」は、「将軍の秘書役で警護役」であるが、これも、「大名扱いの六兵衛」の下で「秘書役の実務」を担った事を意味している。

「大番組」は、「伊勢青木氏」は「伊勢神宮の職能集団「(「青木氏部」)」の「御師頭」であったが、この「御師制度」を吉宗は江戸幕府の組織の中に導入した。
この事から、「職能集団の普請方」と「本領の大番役」と成って「伊勢青木氏の配下」で「実務の初期の組織作り」で働いたのである。

B系列は、この「六つの役柄」では、「青木六兵衛」と共に「吉宗の意」を継嗣して全て江戸幕府の「役務の新規立ち上げ」(組織作り)に関わったと考えられる。

C系列
三系列のもう一つ系列(C)は、何故か家紋が変化していない。
由緒を示す「一文字紋」のままである。
然し、「伊勢秀郷流青木氏」との血縁も系譜から無い。
独自路線を「伊賀者」で貫いたと観られるが、しかし、吉宗に従い江戸に移動定住している。
もう一つの特徴は、系譜の一部が、他の系列と異なり一部で途切れて不思議に明確では無い。
どうも「伊賀忍者」の務めから来ているらしい。
添書から読み取る事が出来るのは、「近隣の土豪」であった「傭兵集団の柳生氏」等の配下に入っていた模様である。
そして「諜報活動」に従事したと観られる。それ故に系譜が確実に成っていないのであろう。
役務の恨みから里を擁護する為に隠した可能性が有る。
系譜などから確たる記録は見つからない。
この系譜は、確かに普通の下級武士ではあるが、添書には他の系列の格式は全く無い。
ただ、もう一つ不思議な事は、何とB系列と同じく「250俵」を知行し、上記の系列と同じく、代々、江戸幕府の「大番役」や[大番頭等」を務めている。
石高としては、普通の下級藩士であるが、やや上位に位置して居た事が判る。
この事から、この「Cの系列」は、上記の系列(B)の様にでは無く、「柳生氏配下」に入り多くの役務を果たした事に成っている。
然し、この「Cの系列」は、代々末裔は欠ける事無く「伊賀の諜報役の大番役」を引き継いだ系列に成っている。
「柳生氏の配下」でも上位の位置に居た事が判る。
このBとCの系列は、Aの系列の「御廊下番役」と異なり、一時、系譜から同じ「大番組」に位置して共に働いていた事が判る。


この事で、この三系列は「伊賀者」として、「親族の意識」を持ちながら、共に「旗本」を務めていた「青木氏」である事が証明できる。
特に、BとCの系列は吉宗に同行しての「旗本」である。
この事から、系列Aは、「猿楽師範の御廊下番」は「綱吉の時」の事である事。
従って、先ず「主家」が先導して、初期の「江戸入り」を役務を果たしていた事に成る。
その後に、BとCの系列が吉宗に同行して江戸入りを果たしていた事に成る。


更に、このAの系列を探ってみると、次ぎの様に成っている。
この「三系列]、つまり、初期末裔の一族の行動の採った最初の行動が良く判る。

この「三代目以降の嫡子」は次ぎの様に成る。
これに依って、「伊賀の青木氏の生き方の慣習」(伝統の一端)が良く読み取れる。

三代目は、鎌倉期末期頃、「伊勢伊賀の土着郷士(「伊勢秀郷流青木氏の保護下」)(-1354年)
四代目は、室町期初期頃、不詳 藤原氏仕官 「伊勢秀郷流青木氏」に従う。(-1520年)
五代目は、室町期中期頃、「織田家の配下」。(1596年-)
六代目は、室町期末期頃、「山内一豊」に従う。(-1660年)
七代目は、江戸期初期頃、初代山内家の「松平土佐守に扶助」(猿楽師)。(1701年-)
八代目は、「松平和泉守の家臣」(信輝)と成る。(1725年-)
九代目は、「丹波近江守(織田氏)に仕官。(1733年-)
十代目は、「幕府の猿楽師範」として出仕。(1771年-)

(特徴) 長命一族 平均寿命76歳 跡目17歳 父子仕官 嗣子継承

この「嗣子継承」とは、三代目と四代目の間には「年数のズレ」があるが、これは系譜から「兄弟間の跡目」で繋いできている事から起こっている現象である。
「系譜の跡目代」は、普通の「嫡子方式」に成っていて、原則としては記載されているが、11代まではこの「嗣子継承方式」と成っている。
ところが、必ずしも、この「嫡子」が「系譜」を継承したと云う風には不思議に成っていなのである。
特に、その八代目では、その「特徴」が顕著で、「父子兄弟嗣子」の五人が別個に重複仕官している。
これは「小十人組」と「大番組」と[御廊下番」の特徴ある「三つの役柄」から来ている。
この状況が何と幕末まで続いている。

要するに、この系譜の「跡目」は、本来は武士では原則は「嫡子」であるが、世代交代は「父子の一世代方式」では無く、「兄弟従兄弟の範囲」で次々と継承する「嗣子継承方式」を採っている。
つまりは、嫡子外が「部屋住み」と云う「一般武家の慣習」では無い事を意味する。
例えば、「三代目の嫡子」が職に就くが、その「兄弟の嗣子」も同じ様に職に就く。
「三代目嫡子」が仮に没すると、その「兄弟の嗣子」の一人が「三代目跡目」として引き継ぐ。
「三代目の嫡子嗣子」が全て没して、初めて「四代目嫡子」が跡目を引き継ぐ。
この「原理の繰り返し」で「世代の跡目」は引き継がれている。

これは、「大番役と云う職務」が「諜報と警備警護」を主務とする事から来ているものである。
その根本は「職務の秘匿性と継続性」を重視しなければならない「重要な職務」であった事に所以する。
「嫡子方式」だけでは、次ぎの世代の嫡子に引き継ぐときには、その熟練度が必ず低下する。
この事で、この「秘匿性と継続性」が切れる事が起こることは、戦国期には「危機存亡の事態」を招く事に成る。
これを防ぐ為の手段として、「親の兄弟-子の兄弟-孫の兄弟」の「世代交代」で行う方式を採った。

その為には、世代交代を成し得る為の継続性の「ある兄弟の職の補償」が必要と成った事から敷かれた”「大番役の仕来り」”である。
つまり、「訓練に依る熟練度」とその「適正度」が左右される職であった事から取られた方式である。
故に、上記の「主家筋の六の役柄」に関わった所以である。
恐らくは、”「何らかの関係」”があって、「勘定方」や「猿楽師」の様な「職」も生まれたのであろう。
むしろ、「諜報」と云う職務からも必要とした事も云える。
そもそも、この「六つの役職」は全てこの「諜報・護衛」に関わる仕事である。


この系譜から読み取れる事は、上記の「仕来り」に「一族間の仕来り」も従っているのである。

「主家」が先ず仕官して主導して、「一族三系列」に「枝葉末裔」を拡げている事が判る。
その為に、「父子」ともども、「嫡子」のみならず他の「嗣子」も「部屋住み」に成らず各地に仕官して、「一族存続」を懸命に広げている事がこの系譜から読み取れる。
明らかに「氏家制度」の”「嫡子の慣習」”は採用していない事が判る。
四代目の頃には、「伊勢藤原氏」の「秀郷流青木氏」は、「紀州藩」に「一族一門」が仕官を遂げている。
この事から、この時には、この「伊勢の秀郷流青木氏」の配下に入っているので、「江戸城の大番役」にも一部派遣されている事が予想できる。
江戸前から、有名な事として、家康が「軍編成改革」をしたが,この時にこの”「大番役」”を改に採用して、「武家様に概要」を作ったとされている。
この一族は、”「家康の身辺警護」の「親衛隊」”として「秀郷流青木氏」の配下で関西で務めていた。
この時に、主家の四代目か五代目がこの任に当っていた事に成る。
そして、江戸幕府を江戸城に開幕した時に次ぎの様な事をしている。
家康は、この”「大番役」”を上記の様に「5つの組織」に改革した。
然し、この時に、この「主家の一部」が”「江戸城詰め」”として赴任した。

そして、更に、猿楽は、四代当たりから習得が始まり、七代目あたりから、「宗家の一部」が、”「猿楽師の家」”として仕官(綱吉)に繋げている。
そもそも、この「猿楽」は、江戸期では「大名の嗜み」として扱われた事から、「大名の動向」を直接に探る目的からも用いられた「役柄」と観られる。
この事から、その「芸で身を立てる家」としても、父子、嫡子、嗣子が同時期に広く他藩にも仕官している。
「主家」では、「芸」では身を立てない者は、「伊賀者」として、「大番組」や「小十人組」に列して仕官を遂げている。
この形で、他の二系列に子孫を拡げさせている。
この「BとCの系列」は、基本的には、「小十人組」か「大番組」で仕官を遂げている。


(注釈 「小十人組」とは、江戸幕府の「警備・軍事の役職」で将軍等を護衛する護衛隊を云う。
「軍先衛隊」、「先遣警備隊」、「城中警備隊」の三役として働く役目である。
先見役、先衛役で「事前に情報収集」して於いて「現実の警備や掃討]に役立てる。
又、状況を把握して常時の警備に役立て働く役目で諜報と警備を果たした。
当に、この「三系列」が、「伊賀者」の”「伊賀の青木氏」”と呼称される所以である。)

(注釈 そもそも、この”「大番役」”とは、本来は、奈良期末期を経て平安時代から正式に敷かれていた「宮廷警護の役柄」であった。
「大番組」とは、江戸時代には、これを「旗本」で編制し、本陣を 固める精兵であったが、その元は「大番役」と云う平安期の「朝廷の宮廷の役柄」から来ているものであった。
「武士の江戸幕府」が、これを踏襲したが、当初は「江戸城および大坂城・京都二条城の警固」をする役務に利用したものであった。
然し、これは、もとは大化期の「青木氏の賜姓五役」の一つで、「賜姓臣下族」として「天皇を警護する役柄」から発展した役務で、「左衛門上佐」の官位の通り「青木氏」はこの指揮官であった。
この下に、「大番役」を置いて、「実際の宮廷内の警備警護」の実務を行うの事を主務として呼称された。
これが奈良期を経て平安期から室町期末期まで宮廷で続けられたものである。)

(注釈 「伊勢神宮」も、「皇祖神」である事、「皇族方の参詣」が多くあった事からも、この「大番役」を「青木氏の職能集団(青木氏部)」で果たした。
江戸期には、「青木氏と家康と関係」(前段の論文記載)から承知して、この「青木氏の役柄」を参考にして「武家政権」の内部に「徳川氏様仕様」として踏襲し直したものである。)


ここで、先に、「伊賀守」の呼称は、「一体誰なのか、どの流れなのか」の疑問が起こるので、先にこれを説く。
この事は、「伊賀地域」が、”どの様な位置関係に民衆から思われていたのか”をはっきりさせられる。
その事で、「伊賀の青木氏」の当時の社会の中での「立ち位置」を物語れる。

そもそも、この「伊賀守」が、「朝廷」、或は、「時の幕府」の「正式な官位官職」とするならば、それは、この”「伊賀の青木氏」”がどれだけ「当時の社会」に認められたものであったかが判るパラメータと成り得る。
又、その「伊賀守」と成った”「流れ」”が掴めれば、どれだけの「職業的な立場」を得られていたかも判る。
つまり、「地位の認知度]と「職業の立場」を推し量れる。

ところが、実はこの「伊賀守」とは特別なものであったのである。
そもそも、鎌倉期以降の「青木氏」に関わる「伊賀守」(伊賀域の定住者)の正式な官位を得た人物で実質支配権を持った人物は「三人」いる。
後は、「青木氏」に関わらずとも、殆ど”「官位」のみの呼称”であり、「現地の支配」と「現地子孫」は遺していない。


唯、ここで、述べて置かなければならない「歴史観」がある。
平安期から江戸期まで、この”「伊賀守」を名乗った人物”は、次ぎの様に成っている。

A 「朝廷」より「正式認可」された実質支配権を持つ伊賀守」
B 「朝廷」より「正式認可」されても実質支配権の無い「名誉官位の伊賀守」
C 「朝廷」の認可を得ても1年限り、或は一代限りに実質支配権の無い「限定された伊賀守」
D 「搾取の名乗り」の「伊賀守」
E 「室町末期」から起こった「幕府推薦で朝廷認可」の「一代限り金品」にて獲得した支配権の無い「伊賀守」

以上で獲得したものも含めて、江戸期初期までに何と18人にも居る。実に多い官位である。
この内訳は次ぎの通りである。

朝廷の「正式な官位認可」では、AとBの6人である。
この18人の内で、実質支配権を獲得しているのは、Aの3人である。
正式認可の6人の内で、実質支配権の全く無い名だけの「名誉官位は、Cの3人である。
18人の内の、12人の内で、Dに位置するのは、9人である。
12人の内の、3人の内で、1人は職能を称えた「名誉官位]で別枠である。
12人の内の、3人の内の2人は、Eで「金品官位」で、「重複で日替わり官位」である。


如何にこの「伊賀守」の「官位官職」が「政治的」に使われ「家柄誇張」等に使われたかが伺える。

中には、同時期に名乗っている者も居る。この様な「守]は他には少ない。
つまり、この様に多いと云う事は、この「伊賀守の立場」と云うものが、「如何に重要な格式のある立場」として利用できるとして信じられていたかは判る。
同時に、それを「授与していた朝廷]や「推薦した時の幕府」も「格式のある立場」として上手く政治的に利用して用いていた事が判る。

この「伊賀守」には、「伊賀」に全く何の繋がりや絆や関係ない者、伊賀に赴任していない者、などが殆どである。
そもそも、本来なら、「伊賀守」に成り得るには、それに「相当する格式と立場と家柄」を持っていなければ成らない。
然し、全く無い者までも含んでいる。むしろ多い。
流石、平安期には無い。室町期末期から江戸期全般に掛けて多い。
この現象は「下剋上」の始まる室町期からと成る。
つまり、「下剋上]と「搾取」と「金品」によって名乗った「伊賀守」が殆どと云う事に成る。

中には、明治期に成って、分析から元は農民であったのに、「個人の系譜」に書き込まれたものまである。
これは、恐らくは、後に末孫が歴史的史実や慣習を忘却していて、判断するに必要とする「歴史観の学識」は無いと観て、敢えて子孫に信じさせて家柄を将来まで搾取して誇張させようとしたものである。
異常にして搾取して家柄を誇張させようとした「虚栄心の異常な人物」も居たのである。
勿論、この検証では「第三氏」である事は確認は出来ているが,実はこの件では「青木氏」を名乗っている。
他に良く似た類似のものは他に二件があった。

つまり、この事は、これらを含めて少なくとも「青木氏の伊賀守」は、「世間の社会」の中でや「青木関係族」の中では、「重要な位置づけ」であったかを物語っている。
比較的に容易に反発の出ないそれを表現する手段が「伊賀守」であった事に成る。

「青木氏」が歴史上で、「守護職」に正式に任官した官職は、これも18である。
(「伝統シリーズ前段」か「青木氏の子孫力と分布」を参照)
然し、この中でも「伊賀守」と「紀伊守」は高かった事が判る。

「紀伊守」も同じ様な手口で用いられた。伊勢域の範囲と見做されていた事に成る。
伊勢神宮遷宮の時に紀伊がその遷宮地が最も多いのもこの事から来ている。
つまり、「準聖域的な国」としてみられていたのである。
要するに、これは、「伊勢」と云う「地域的なもの」が左右していたのである。

「伊勢国」は、古来から普通の国は4から5郡制であるが、特別に「2郡制」を採って来た。
然し、680年に後漢の阿多倍王に半国割譲して与えた。
この為に、伊勢国は「4郡制」に編成した。

北二郡
「阿拝郡」
「山田郡」

南二郡
「伊賀郡」
「名張郡」

以上の4郡にした。

伊勢北部域の「阿拝郡」は「阿多倍王」から通称の「あばい」から来ている。
(南九州には「阿多」と云う地名も遺している。)
「伊勢北部の二郡」は、奈良期の古来より「神の宿る地域」の「特別な神聖域」として扱われて来た。
そこに、伊勢から割譲した「伊賀」は、その意味から”「名誉域」”として利用され考えられた。
これが「名誉官位」の生まれる所以と成ったのである。
特に、江戸期には,この[伊賀」には「実質支配」は、”「伊勢秀郷流青木氏(忠元とその末裔)」に任す”として、官位そのものは別にして、幕府は「名誉官位」として政治的に利用した。
この「名誉官位」は6人中一人を除き「幕府推薦と朝廷承認」に利用された。

(注釈 「秀郷流伊勢青木氏の宗家(忠元)」は、「室町期末期(1570年頃)」から「実質支配」も持ち合わせ乍らこの「伊賀守」に任じられていた。

依って、本論では、「Aの3人」を論じる事に成る。

従って、果たして、「2の円融期の青木氏」の「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」が、この「何れの青木氏」と成り得るのか検証した。
しかし、大方の検証は可能であるが、完全にf資料不足で確定できない。

その前に「青木氏」に関わる”「伊賀守」”は、次ぎの通りである。

(あ)
「藤原秀郷流宗家の朝光」(結城氏の祖の祖でもあるが、鎌倉期に頼朝に認められて「伊賀守」を務めた。
この「朝光の末裔」が鎌倉幕府の北条氏と血縁して後に、この絡みからこの末裔は「伊賀氏」を名乗り、、晩年、伊賀に住み着いた。
但し、ただ定住しただけで国主では無く正式には「伊賀守」は名乗っていない。
ここに後に、この「末裔」が「伊賀守」を名乗る結果と成ったと観られる。

(い)
「青木伊賀守」(任官1577年 忠元)は、室町期に信長に味方して、後に徳川氏から除封を受けた。
「藤原族の青木伊賀守忠元」の「伊賀守」がある。
この「忠元」は信長より推薦され正式に任官している。「秀郷流伊勢青木氏」で「宗家の嫡子」である。
「伊勢三乱」の時に活躍した有名な人物である。
(あ)も(い)も元を質せば、「秀郷流青木氏」である事に成る。
「結城の秀郷流一門宗家筋」か、「第二の宗家筋の伊勢の秀郷流青木氏」かの違いではあるが、「宗家」としての格式は何れも劣らずである。
江戸初期は、この(い)の「忠元」が、信頼されて「家康」から伊賀を任され、官位は外されるも紀州藩の「頼宣」からも伊賀も「実質支配」を任される。

(う)
平安期に清盛の租の国香-貞盛の二代目から清盛まで「伊賀守の半国守護」と成っている。
「青木氏の伊勢国647年」から「半国割譲680年」に伊賀国(4郡)に成っている。
「平安末期」に清盛はこれを朝廷に返している。
鎌倉期初期のその後に(あ)が入った。
然し、「清盛残留組」が「伊賀」に「伊賀衆郷士20氏」(青木氏が擁護)として遺る。
「伊賀の青木氏」もこの「残留組」に入った。
(い)と(う)の何れの流れも持つ複雑な立場であった。
つまり、この伊賀地域は、(あ)と(い)と(う)の末裔が混在した地域と成った。


(あ)の「鎌倉期の伊賀守」と、(い)の「室町期の伊賀守」と成る。

唯、次ぎの伊勢の経緯に付いて、「青木氏の歴史]を知る上で,知っておく必要がある。

そもそも、この(あ)と(い)の間には、ただ一人、「伊賀守」の官位だけでは無く、「実質支配」も目論んで乗り込んで来た人物が居た。
この時、概ねは、室町期中期の一定の短期間は、この「三河の仁木氏」と云う者が「伊賀守」と成った。
この「概ね」に意味があって、然し、伊賀に乗り込んだは良いが、殆ど、”「形式上の官位」”であって,全く「実質の支配力」は得られず殆ど皆無であった。
それも、「伊賀全域」では無く、「伊賀の阿拝の一部」であったと記録されている。
この「伊賀の仁木氏」の存在史実はあるが、実はその「ルーツの継承」ははっきりしていないのである。

この「伊賀仁木氏」の事では判る範囲で、「史実」として云えられているところでは、次ぎの様に成る。
この「足利氏系仁木氏(頼章)」は、「足利尊氏」に認められたが、この時、官位で「伊賀守」に任じられた。
然し、この「仁木一族」は「尊氏没後」(1358年)には衰退し滅亡している。(第一説)

ところが、この「仁木氏」は、尊氏死後の乱世で追われ、[丹波伊勢伊賀」等の9地域の任官先に居た一族は各地に散った。
この時、室町期中期頃の1400年前頃に「三河国額田郡仁木」に居た者等が、「足利氏傍系族(二引き両紋)」と名乗り、元の「任官先」であった[伊勢伊賀」の「一部」に入ったと記録されている。
然し、この「仁木氏」の人物は詳細不明で、入国後(1410年頃)、間も無く単に”「戦死」(1429年没)”と記されている。
この時点で「正当な仁木氏」は完全に絶えた事に成る。(第二説)

そして、その後、この伊賀の一部に「仁木氏外」の「山名氏」と名乗る者の出自不明成る者が、「伊賀守」を継いだとされる。
然し、その後、”「伊賀不穏」(1433年)” を理由に自ら「官位」のみの「伊賀守」を辞退した事に成っている。(第三説)

ここで、「山名氏」の後に、「第四説」の「仁木氏」と称する「出所不明な者」が現れ、1440年前頃にこれも完全に滅亡した。(第四説)

以上の記録では、入国したが、ところが、次ぎの様に成っている。
先ず、1429年頃には、「南二郡」が「国人郷士軍団」「(あ)から(う)の元勢力」に奪還され支配された。
1440年前頃には、「北二郡」も完全取り戻し支配したとある。

故に、衰退していた「足利幕府の伊賀守任官」に付いても、且つ、「実質支配」の無かった「一期間の勢力」に付いては「仁木氏」に関しては論外とする。

この「第二説の不詳の仁木氏」は、足利幕府の開幕後の入国後に、間も無く”戦死”と成っている記録もある。
然し、その後の「仁木氏の確証」の「末裔記録」は全く無い。
「仁木氏の系譜」とするものには、この「第二説以降のルーツの系譜」は載っていない。
つまり、「第一説の仁木氏」の三氏が「衰退した段階]で、この「伊賀」に関わった「仁木氏」は断絶したした事を物語る。
この”「断絶した原因」”には、「伊勢国人の勢力」に潰されたのか、跡目が絶えたのか、は不明である。
「伊賀の一部」と云う地域での「生きて行ける勢力範囲」は極めて小さい。
況して、殆ど「実質支配権」の無い中での小さい「勢力範囲の子孫力」である。
この「判断の最大の要素」は、「伊勢国人の勢力」との「付き合い関係の在り方」に関わる。
記録では「南部二郡」と「北部二郡」共に「伊勢国人の勢力」に排除されたと成っている。
それに古来からのある面で閉鎖的な「伊勢と云う国柄」と合わせて租借すると、「潰された関係」であった事に成る。
この”「潰された関係」”とすると、”「武力的子孫力」”に対する”「限定的な排除」”であったと観られる。
”「伊勢の国柄」”には、古来より”「武力アレルギー」”成るものがある。
「青木氏の氏是」も突き詰めれば「武力による警戒」である。
返して云えば、「武力」を除けば「迎え入れる事」に成る。
故に、「第二説」は「戦死」の記録で済ました事に成るのだ。
”「潰された関係」”とは、「武力的子孫力」を排除した上で、「伊賀地域」の中に溶け込ましたと観られる。
この”「武力的子孫力の排除範囲」”がどの程度であったかは、上記した様に、「伊勢戦史」の中には出て来ない事から、”「事件性」”の範囲で留まった事が判る。

注釈として 室町期末期の1500年以降にも、この滅亡している筈のこの「仁木氏」には、上記した「正当な滅亡記録」がありながらも、「活躍説」もあって他説が多くて信用できない。
然し乍ら、何れも「実質支配権の説」には至っていない。
この「1500「年代の不明な勢力」も「伊勢国人勢力」に依って排除されている。
間違いなく、後付の「江戸期の搾取偏纂説」と観られる。(第五説)



何せ、室町期は「下剋上」の世の中であった事から、この「第五説」は、その後、傍系末裔や家臣等の一部が、この「仁木氏」を名乗った可能性が高い。
記録では、上記の様に「4郡の国人の集団:青木氏の郷氏を含む伊勢集団」が取り戻している。
そもそも、この「第五説」の「仁木氏の伊賀説」は搾取偏纂である事が判る。
何故ならば、伊賀守に成り得る格式は全く無く、「伊賀の一部」の「出自の判らない小勢力]に過ぎない。
「後付の家柄誇張説」に過ぎない。
そもそも、この時期は、既に、「伊勢秀郷流青木氏の忠元」の「官位と実質支配」の「伊賀守の時代」である。


依って、そもそも、これ等の史実があれば、少なくとも次の二氏の記録には出て来なければならない。

「仁木氏」に付いては、「1の天智期の伊勢青木氏」のこの期間の「商業記録」には出て来ない事。
「仁木氏」に付いては、「2の円融期の青木氏」の伊勢の記録にも無い事。

以上、然し、不思議に無い。
同時期、「伊勢南域」を一時、「勢力圏」に置いた「北畠氏の事」は記録にありながら、「仁木氏の事」は無い。

(注釈 筆者は上記の「第二説」で、「伊賀守」は別として、「入国」は1429年までの「短期間10年程度」で終わったと観ている。
一種の「騒ぎか事件程度の範囲」であったと観ていて、多くの説は「江戸期の誇張説」である。)

これには、記録に遺らない”何かが起こった事”が云える。

「伊賀」の一部の小地域で「事件らしきもの」が起こったと云える。
そもそも、伊勢の「1と2の二つの青木氏」は、「青木氏の氏是」により、「破格の武力」を持ち得ていても侵入者に対して「直接武力」では排除出来ない。
入国しても、平穏に暮らす事には問題はない。
しかし、「武力」を使って周囲を圧迫し「勢力圏」を拡大すれば「支配権」を持つ者としては放置は出来ない。
「武力」を使ったと成れば、「青木氏の抑止力」を使って「圧迫を加えて抑え込む手段」に出る事に成る。
それでも納まらなければ、「抑止力の実力行使」で「最少限にして最高効果策」で解決する事に成る。
要は、「抑止力」で「仁木氏の主格筋」を潰す事に成る。
これが、「第二説の戦死」とした事にあると観られる。

この「仁木氏の主格」を処罰する代わりに、「子孫の定住と保護」を認めるとして解決したと観られる。
これには、資料の「10年程度とする表現」が、この処置に至るまでに所要した年数であると観られる。
一族郎党を潰そうとすれば1日で済む。
平穏に暮らす分には定住させ保護が「氏是の前提]である。

恐らく、「額田郡の仁木氏」と名乗る者が、態々「三河国」から一族郎党を連れて入国したが、この「青木氏の保護」の中に入ろうとしたと観られる。
然し、その”「対応上に過激さがあった事 (「伊賀守の利権」を主張した)”から伊賀の周囲から不満が出たと観られる。

そもそも、この「三河国額田郡」のこの「関東足利氏系の実国の末裔」を名乗る「仁木氏」成る者は、何故、実国が築いた三河額田郡の仁木の土地を離れて「伊賀の小地域」に新たに来たのかが疑問である。
”「青木氏」とどの様関係があったのか”を検証する。

そうすると、この説から観ると、普通は、例え、「第一説の伊賀の関係」があったとしても、「過去の伊賀」である。
その過去も、実質支配はしていない。
その証拠に、「1355年から1400年」の間、つまり、「第一説から第二説」の間には、「伊勢や伊賀」周辺には「仁木氏の郷氏」はいなかった。
その事から考えると、「殴り込み説」に成る。
果たして、「殴り込み説」が可能かどうかは,既に判っていた筈である。
「伊勢」には、有史来、「実質支配力」の持った「強力な国人集団」が居たのである。
況して、足利氏である。普通の氏族では無い。
「仁木氏」が主張する事が正しいとすれば、由緒ある下野の「足利源氏の末裔」である。
「第一説の滅亡」を打ち消して、「末裔」とするならば、そんな強引な事はしないだろう。
そもそも、過去に於いて、「官位」と共に「実質支配」した「伊賀守」はいない。
それを知った上での「殴り込む」のか疑問である。
況してや、「長年の実国からの所縁の故郷」を放り出して、”態々、何故、「伊賀」に来るか”の疑問がある。


ところが、更に検証すると、そもそも、実は、この”「額田郡の美濃源氏」”と云うのは、奈良期の古来から「1の天智期の青木氏」の縁者(嫁ぎ先)でもあった。
「額田郡の仁木氏」が「下野足利氏末裔(足利源氏)」であるとするならば、無縁では無かった筈である。

この三河地域には、次ぎの青木村があった。

「額田郡の青木村」(伊勢の皇族賜姓族青木氏  摂津源氏)
「渥美郡の青木村」(美濃の藤原秀郷流青木氏  美濃源氏)

以上の二つの青木村が住み分けてあった。
何れも、「源氏の血筋」を受けている。

同じ「額田郡の住人」であるとするならば、知ら無い訳は無いだろう。


この様な経緯から、この様な何らかの「絆や繋りや紹介」があって「伊賀」に入った事も充分に考えられる。
とすると、”戦国で追いやられて伊賀に入った”と云う事が濃厚である。
この事から、「第二説の仁木氏」は大して大きい集団では無かった事が云える。
入国後に事件を起こして、主格は潰された。

その後に、この末裔子孫か家臣が、「仁木氏」を旗印に名乗り再び「伊賀守」を名乗ろうとしたが、今度は主格では済まず滅ぼされた事に成ろう。
これが「第四説」と云う事に成ろう。
その前に、「第三説」の「山名氏」が「伊賀守」として振舞ったが、”「伊賀不穏」”の理由の通り、「強い国人」が居て「実質支配の無い」ところでの「君臨の難しさ」を物語る理由と成っている。


それは、そもそも、「伊勢全域」が「2郡制」であった事による。
この”「2郡制」”に意味があった。何故、敢えて「2郡制」にしていたのかである。
普通は一国は「4乃至5郡制」である。
この「伊勢4郡」は、上記で論じている様に、「国人の勢力」の強い地域で、「実質支配」は到底無理であった。
ここはつまり、奈良期からの歴史の持つ一種の”「聖域」”と見做されていたのである。

上記の序盤で論じた様に、「伊勢域」が「伊勢郷士数」が他の国に比べて1/20と歴史的に少ないのもこの事はから来ているのである。

そもそも、「伊勢」は”「不入不倫の権」”で「伊勢神宮の聖域」として、元々長い間の「安定」を期す事を旨として「2郡制」を採っていたのである。
そして、より「支配権」を安定させる為に、「伊勢国」の「土地の使役権」(地役権 地主権)を「伊勢国人郷氏」に与える”「不入権」”を設定していたのである。
その為に、この「不入権」を以って「支配権安定策」として「北部南部の2郡」にしていたのである。

例え、「守護職」が伊勢域に入ったとしても、「国人」の「土地の使役権」(地役権 地主権)がある為に、全域に対して実質に税を採りたてる事は出来ないのである。
従って、伊賀守の「管理権」や「支配権(命令権)」も全域には及ばない事に成る。
この「管理権と支配権」を確保しようとすると、「国人」を攻め落とす事に成る。
これは”「不倫の権」”に触れて「朝敵」と成る為に出来ないのである。
そして、この「国人」の下に「朝廷」より「氏族」として認められた「伊勢郷士集団20氏」が組織されていたのである。
結局、強引に「支配権」を獲得しようとすれば、「伊勢全域」を相手にする事に成り、謀略さえも仕えず出来ないのである。

「伊賀守」は、「伊勢のシステム」上では、”「名誉官位」”と好むと好まざると必然的に成り得るのである。

これが、所謂、”「2郡制」”なのであった。
この事から観ても、例え、「4郡制」にして「南北域」を分けた処で、「人の絆やつながり」(実質支配権)等は変わらない。
「郡域」を増やせば、その「支配の圏域」は散在する為に、圏域集中を目的として「郡数」を二つにしたのである。


これを覆そうとして、伊勢に入ったのが、「仁木氏」であり、「北畠氏」であり、「六角氏」であった。
つまり、「室町期初期の足利勢力」である。

当然に、「名誉官位」に留まらずに、この「支配力」を強めようとすれば、「国人との戦い」、つまり、「伊勢勢力との戦い」と成るのである。
上記した「第二説」の”「仁木氏の戦死」”の記録は、恐らくはこの事から起こったと観られる。
何れ三氏ともこの「影の勢力」で短期間で滅亡したと云う事である。
(ゲリラ戦に近い形で掃討した。)

室町期は、「伊勢国人青木氏」は、「二足の草鞋策」で「巨万の富」と「影の勢力」を持っていた。
この事を配慮すれば、「武力だけを頼りにする三氏」が挑戦しても「青木氏の総合戦力」と「戦いの大義」の「極端の差」がある。
故に短期間で排除できた所以でもある。

(注釈 彼の信長も秀吉も知略を使って実質的に排除したのである。)

室町期から脱した江戸期の「伊勢の伊賀官位」は全て”「名誉官位」”と成り得た所以である。
「家康」や「頼宣」等との「青木氏との連携」があって、元から「官位のみの任官」と成ったのである。

況してや、下記の通り、(あ)から(お)の勢力があった処に「三河の額田郡」から入ったとしても、恐らく、この「5つの勢力」を排除出来ない筈である。
これは「伊勢の国人勢力」が「有史来の絆」により「一致団結」して強い事から来ているのである。
「入国後戦死」の記録は当然である。

何かが起こったとする事は次ぎの事が云える。
「国人の長」としての「青木氏」等の「二足の草鞋策」や「シンジケートの抑止力」や「古来からの朝廷との繋がり」があれば、「仁木氏」であろうが誰であろうが、「500万石以上の影陰の力」を持っていれば「蠅の範囲の事」であった。
故に、この組織で固められた地域である限りは、絶対に「実質支配」は起こらないのである。
依って、「仁木氏入国後戦死」の記録が正しいと観られる。

この「記録の有り様」では、「五つの勢力」の「国人とする在伊勢勢力」で潰されたとしても、「不入不倫の権」で保護されている。
「仁木
「仁木氏」が攻め入ったとすると、「大権」を犯したのである事から、「攻め入った」と形作るとすると、足利氏と仁木氏は「朝敵」と見做される。
記録上は「別の理由」とする必要がある。
そもそも、彼の狂暴と見做されていた「信長」の「伊勢三乱」でも、この「大権」は犯さなかったのである。
間違いなく、「伊勢シンジケート」で影で潰されたと観られる。
後の「北二郡の奪還」とする記録は、この「下剋上家臣の残存の掃討」であったと観られる。


依って、「仁木氏の事」も含めて各の如しで、「弱体化した幕府や朝廷」の「官位」を得たとしても、「実質支配」は「地元の勢力」にあった。
「伊勢4郡」の「国人の地元勢力の支配無し」では、”「伊賀守」”とは成り得ず「守護」とは云えない。
「形式」であろうが、「形式」で無かろうが、「金品」であろうが、「名誉」であろうが、「どんな形」であろうが、遣ろうとすれば「官位だけの形」に成って仕舞うのである。

歴史上の「正式の任官者」の「六人」の内の「五人」は全て「官位」だけで「伊賀」は扱われたのである。
その様に「名誉の官職」としてに長い間を扱われ”「生きた聖域」”であった。

故に、実質の支配は、上記の(い)でなのである。


果たして、「2の円融期の青木氏」の「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」が、上記の様に、「(う)の絆」はあるとしても、(い)の「伊賀守」に繋がる論処が見つからない。

(あ)は確かに「伊賀氏」を名乗ったが、必ずしも「青木氏」を名乗ってはいない。
秀郷一門の宗家の結城の「朝光の末裔」と成れば「青木氏」であった可能性は否定できない。
伊勢の「1と2の二つの青木氏」との「歴史的な親密な関係」があった事は否定できない。

つまり、(い)が(あ)に繋がっているのか、(う)に繋がっているのかによって決まる。

この確定するものが出て来ない。
然し、筆者は、(い)は、「2の円融期の青木氏」の中の(お)の「本流の本家秀郷流青木氏」であって、(え)の「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」では無いと観ている。
但し、(え)の「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」は、既に、室町期中期以降の事であるので、最早、その秀郷一族一門の中での「位置づけ」は、無く成っていたと観ている。

「本流の秀郷流青木氏」と「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」は、伊勢に於いては「本家分家の差」があるにしても、「流の筋差」は無く成って居た事を示している。
依って、「青木伊賀守」は、本家分家の「宗家の跡目者の官位]と成っていたと見做される。

「実質支配」は、以後、「(い)の忠元(1577年任官)の末裔の支配下」にあった。
その中でも、、(え)の「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」が取り仕切っていたと観られる。

(注釈 「皇族賜姓族青木氏」も伊勢伊賀国の一部の地権を保持して、「和紙殖産の土地」としていた。)

この結果、1440年頃から、1577年までの間(137年間)は、この「伊賀」には「伊賀守」は存在しなかった事に成る。
(い)の実質支配の下に(え)が仕切っていた事に成る。

上記する「官位」だけで扱われた「伊賀守」には、室町期から江戸期全期に掛けて重複する事もあって「歴史上の意味合い」が無く青木氏に執っては論外である。

伊賀に関わる者としては、次ぎの様に成る。

(う)の「残存者」
(あ)の「移住者」
(え)の「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」
(お)の「本流の本家秀郷流青木氏」

依って、「伊賀守の疑問」は、この様に成る。
この疑問を解いた歴史観を以て下記を論じる。

重要
”「伊賀者」と「伊賀の青木氏」”が、この「役柄」を仕事とした根拠は、ここから来ている。
つまり、「2の円融期の青木氏」の「秀郷流青木氏」が「1の天智期の青木氏」の補完役として役務が与えられた。
この役務には、「1の天智期の青木氏」と同じく「賜姓五役と護衛役」が与えられた。
しかし、この「2の円融期の青木氏」のもう一つの「嶋崎殿の青木氏」(「伊賀の青木氏」)には役務が無ければこの「氏存続」は成り立たない。
その「役務」を、”「公澄の左衛門尉」”を踏襲させて「護衛役の実務」を担う事に成ったのである。
その「実務]とは、上記した様に、この”「大番役」”であった。

初期の「伊賀の青木氏」(嶋崎殿の青木氏 三代目以降)の役務として「円融天皇の目論見策」で与えられた。
唯、「特別賜姓族」として「千国の妃の実家先」に、態々「青木氏」を名乗らせる目的には、上記した様に、確かに「目論見策の意」はあった。
上記で検証した様に、これらの事から、疑う余地は無い。

然し、かと言って、「伊勢神宮の大番役の実務」を、”本流の「秀郷流青木氏」に務めさせるのか”と云う疑問がある。
確かに、「(1)の天智期の青木氏の職務」は過多であって、「秀郷流青木氏」を「特別賜姓」して”「補完させる」”と云う「本来の策の目的」があった事は否めない。
だからと云って、この「役目の大番実務」も、「(2)の円融期の青木氏」に負担させるのかと云う率直な疑問も起こる。

「指揮官としての実務」も、「伊勢神宮」も然ること乍ら、「都の宮廷」などの警護などもあり明らかに繁多である。

「五家五流の地の天領地の警備」
「祖先神の神明社の建立とその500社に及ぶ管理保全」
「天皇警護を含む賜姓五役の務め」
「伊勢域と神宮警護」

以上の様に、指揮はするも、到底、「大番実務」(上記)までは無理である事が判る。
「家人」等が負担するのも「大番実務」までは無理である。
つまり、「手足で働く家人」では無く、「指揮の専門青木氏」と「大番の専門青木氏」が必要なのである。
そうすると、「青木氏」に執っては、「伊勢神宮」だけでも「大番実務」をさせる族も決めなくては「絵に描いた餅」である。
その意味でも、「伊賀の青木氏」(「嶋崎殿の青木氏」)の「諜報役の大番役」が「神宮の傍」に置く必要があったのであった。
そして、偶然に伊賀に「伊賀の青木氏」(「嶋崎殿の青木氏」)が生まれた訳では無いのである。

これを「2の円融期の青木氏」の中にして「嶋崎殿の青木氏」(「伊賀の青木氏」)に負わせる事で解決する。
然し、「繁盛」と「維茂」には、「たいら族」としての体面があり直接に負わせる事は出来ない。
上記した様に、「仕来り」から、一度は「藤原族の秀郷流青木氏」を継承するも「元のたいら族」に戻る慣習と成る。
だとして、「三代目」にこれを負わせる事で、「たいら族側」には異論は無く成り、血筋はあるとしても、最早、「氏族」が異なる事から口は出せなくなる。
従って、「伊勢神宮の大番役」は、三代目から負わせた筈である事は判る。
それは、三代目(四代目)が「伊勢秀郷流青木氏の支配下」に入って生きている事からも理解できる。


これが、(1)の天智期と(2)の円融期の「青木氏の主務」として、A系列(BとCの系列)に最初に勧めた事から「伊賀忍者」が「生まれた所以」である。
そもそも、主家の「猿楽師」は、その後の「嗜み」から「役柄」としたもので、「本来の仕事」は、この「大番役」から「小十人役」へと繋ぎ「伊賀の青木氏の役柄」に成ったのであった。

(注釈 平安期から江戸期に掛けて「高位の家柄筋の嗜み」として求められた。江戸期には茶道に変化した。)

所謂、この”「大番役」”は、大化期からの「賜姓五役」から発展した全ての「本来の青木氏の役柄」であって、その「実務」であったのである。

(注釈 この事を敢えて、”「青木氏の伝統」”として、その「大きな経緯」もあった事から、「円融天皇の目論見策」の一つとして論じる必要があった。

この「大番役と小十人役」の”「青木氏の伝統」”には、その元は”「青木氏の伝統」”から来ているのである。

そもそも、上記の「三系列の系譜」の列記は、これを良く表しているので記載である。

平たく云えば、「伊賀忍者の発祥元」は、「青木氏の大番役の実務」から来ているのである。


この事を念頭にして、次ぎの事をお読み願いたい。

以上で、この「貞盛の養子」と成った「繁盛の子」の”「平維茂」”を二代目の始祖とした「嶋崎氏の青木氏」は、秀郷一門の「秀郷流青木氏」の中でも異流ではあった。
しかし、この様に、平安末期から室町期末期頃までには、「賜姓五役」の一つとして、「大番役」として「秀郷一門の青木氏」に確実に組み込まれた事が判る。

これほどに検証は複雑であったが、完全に紐解けたと観られる。
この「嶋崎殿の青木氏の検証」は矛盾なく成り立つ事が判る。
これは「青木氏」ならではの検証で有って、他氏には100年経っても決して論じる事さえも、無し得ない「検証結果」なのである。
況や、これは「青木氏の伝統」なのである。
依って、「青木氏」が知っておかなければならない「伝統」であるのだ。


さて、更に次ぎの「テーマの検証」に入るとして、次ぎの事からも充分に考えられる”「献策による青木氏差配」”であった事が判る。

「伊勢青木氏」も「信濃青木氏」も、「隣の伊賀」に対して、”「知古の範囲」”での”「青木氏の献策差配」”をした事に成る。
如何に、「伊賀」とは親交を図っていたかは上記の事でも充分に理解できる。


(注釈 筆者は、上記した「繁盛等の処遇」も含めて、「伊賀のたいら族」も「伊勢秀郷流青木氏」も「献策の青木氏差配」の事は,この時の関係者は,この時、充分に承知していたと考えている。
当時の政治状況の解決の為の「総合的解決策」としての「円融天皇の目論見策」として進めたと観られる。
「青木氏からの献策」に付いて、”この事を必要だ”と適格に判断した若い「円融天皇」は、周囲が四面楚歌の中で、且つ、天皇と云えども命さえも危ぶまれる中で、良く出来たと観られる。
「普通の能力」では、「青木氏の献策」が必要だと思う事が、「天皇と云う環境」から充分な社会情報が与えられていず、且つ、得られていなかった事が普通である。
そんな中で、普通ならばこの様な「目論見策」は無理であろう事が明確に判る。)

(注釈 況してや、外戚が40もいれば,「自分たちの利益」の為に思う様に操ろうとして、「不都合な社会情報」等は遮断される筈である。
然し、現実に、”判断で出来た”と云う事は、矢張り、”「裏ルートからの情報」を得ていた”としか考えられない。
その「裏ルート源」とは、それを成し得るには、上記で論じた「献策」と同様に、「献策者青木氏」しか無かったと観られる。
後に、「後三条天皇期」には、”北面武士”と呼ばれた「賜姓五役」の一つであった「天皇護衛の役目」(「身辺警護の役目」)の時を利用したものであったと考えられる。)

表向きは、「円融天皇]は”愚者常人を装った事”もあって、「歴史上の評価」は低くかったが、実際は事の次第を判断してこの事態を改善したのである。
故に、青木氏では”優れていた”と判断している。

その優れていたとする証拠に、「円融天皇」系列の遺伝を引き継ぐ「一条天皇」と「三条天皇」と「後三条天皇」の末裔三天皇は、自己の意志で「歴史上の実績」を遺した”「優秀な天皇」”として評価されている。
そうであるとするならば、「先祖の円融天皇」も評価されるべきである。
この「三天皇」は、「円融天皇の目論見策」の意志を継ぎ次ぎの様な「役務」を天皇として担った。

最初の「一条天皇」から「下準備]を進めた。
中間の「三条天皇」では「外戚の反対勢力」を弱めた。
最後に、「後三条天皇」は、何と「40もの煩い外戚」を完全に外して、「藤原氏に外戚」を持たない「外籍天皇」として「荘園制を廃止」を敢行した。

以上の「政治的な課題」を果たしたのである。
最終的には、誰しも怖くて成し得なかった「荘園制」をタッグを組んで廃止した天皇達である。

(注釈 これには、筆者は、「円融天皇の後継者」の「花山天皇」をも評価している。
実は、「花山天皇」は、この「荘園制」に、”病魔の様に巣喰う虫”の「賜姓源氏制度」を最終として廃止した天皇である。。
この事に依って、「他の虫の外戚勢力」も「花山天皇」が「廃止の勅命」を下した以上、その意志を無視して続ける事は「不敬不遜の至り」と成り「朝敵」と見做される。
次第にその「収入」が無く成り、「財力」が低下して「発言力」が無く成り、衰退して子孫を遺せない様な「外戚」が出た。
これで「公家の藤原氏」や「11家の源氏]や「橘氏」等は結局は衰退したのであるが、中には、形振り構わず「公家武家」が現れる始末であった。
後の「一条天皇の為の環境整備」をした事に成った。

(注釈 「源氏16代とする説」は、「正式な賜姓の源氏(11流)」では無く、徳川氏等の家柄搾取(4家)の所以である。
この「源氏」には、「賜姓」で無い「源氏」は、実は多いのである。
判る範囲でも「公家源氏4家」もある。
この他に、数えきれない程の「源氏」では無い荘園制から来た荘園制源氏とも云うべき”「未勘氏源氏」”がある。)


平安末期のこの時には、”「北面武士」”と呼ばれた「宮廷警護制度」と「身辺警護」を正式に採用したのである。
(上記の「実務の大番役」)
「宮廷の三門」を警護すると共に、天皇の寝食の隣室に「警護室」を設け、天下に武勇に優れた「豪傑を常設待機」、交代で「24時間警護」、外出時は「即座警護」に当たったほどの態勢を執った。
天智期に新設した「天皇家を護る青木氏の親衛隊」は,平安期末期には、更に細かく成り、大番役等の上記のシステムが追加されたのである。
この時、平安期では、「1の天智期の青木氏」は「左衛門上佐・右衛門上佐」を始め、「源氏」や「藤原氏」(左衛門尉)がこれを務めた。

後に「平家(清盛時代)」も務める事に成ったが、この時は、出自が異なる事から、後に改めて”「西面武士」”と呼称された。

「円融期の平安期」の頃には、「賜姓五役としての青木氏」が務めていた事から、この「献策」と「情報提供」が「裏ルート」として可能と成っていたのである。

(注釈 「青木氏」は、「賜姓族」「臣下族」としての顔もあって、「表向き」は”「抑止力」”を前提としていたが、「臣下族」としては「軍事力」を保持出来た。
その軍の一部は、伊豆の国に配置されていた。
「清和源氏」「四家の宗家頼政」の「孫京綱」が、「伊勢青木氏跡目」に入った事から、この軍を伊豆領国に配置していたのである。
「青木氏の跡目と成った京綱」は「源氏との同族の融合」である。)

この「円融天皇の目論見策」に付いては、「貞盛、繁盛、秀郷」等の関係者等は、暗に周知の「献策の青木氏差配」と承知していた事であったと観られる。
これを周知だとすると、平安期末期の「源平の雌雄」を決した後に、この「伊賀地域」と「一部紀州南部域」は、「鎌倉幕府の頼朝」より北条氏等の反対を押し切って「奈良期からの青木氏遠祖地」として本領安堵されたのである。
この事後の事から鑑みても、この”「嶋崎殿の子孫末裔」”を「伊賀地域」で護る事が出来た。
且つ、「不入不倫の大権」で護られていた事もあって、少しでも浸食すれば「朝敵]と見做されてしまう結果と成った。
故に、「嶋崎殿の子孫末裔」を護る事が出来たのである。
依って、「他の勢力」が浸食出来ない事に成るし、「伊勢シンジケート」に組み込まれる為に、浸食すれば、「伊勢シンジケート」に逆襲される事と成って生き延びられたのである。

幾ら「円融天皇の目論見策」の「嶋崎殿の子孫末裔」だとしても、上記の様に、”「背後の抑止力」”が無ければ簡単には生き延びられる時代では決して無かった。
それこそ「絵に描いた餅」で「無駄骨」である。
そんな事は、「献策者の責任」に於いても、「青木氏の氏是」に沿っても絶対に「青木氏」はしない。
「知略」を「氏是」としている位である。

(注釈 前段の「伊勢商人の射和商人」や「天正三乱」の事でも、”「共に生きた事」”からも判る。)

この「青木氏の庇護」だけでは無く、「伊勢青木氏末裔」にも「嶋崎殿の末裔」にも、この事の「口伝」があったからこそ、明治期までその関係は続いたと観ている。
「一時期の歴史」は「一時期の歴史」で終わるかは、その中に「感謝と尊厳が存在するか」に関わる。
この様な「青木氏の献策差配」等の経緯が、平安期からあって、「周知の口伝」があったからこそ、江戸期までも互いに護り合った事に成る。

江戸期に限らず,明治期に成っても「商い」でも「伊勢商人」と「射和商人」と云う関係を互いに築き、共に「20郷士集団」で結束したのである。


話しを戻してより詳細に別の面から検証する。
そうする事で、「青木氏の伝統」と云うものがより浮かび上がらせる事が出来るだろう。

上記の論に続き、依って、そもそも、この伊賀の”「たいら族」”としては、この時期には、上記の様に「主紋と副紋」を持ち得ていた事は理解できる。
然し、普通であれば、「総紋」をも持ち得ていたとすると、「桓武平氏」の侭であっても良い筈である。
況して、「娘嫁ぎ先」の事である事も含めて、何も「実家先」が「藤原氏」を名乗り、更には、況して、「円融天皇」の肝いりの「特別賜姓族の青木氏」を名乗る事などあり得ない事である。
明らかに、この時の現状では、未だ他氏を抑え込めるだけのものは充分に無かった事が云える。
所謂、未だ、「官僚族の範囲の事」であった「桓武平氏」である事を歴史的(記録)にも認められている。
然しながらも、態々、先ず、その「慣習」を改めさ、覚悟をきめさせた上で、矢継ぎ早に、「氏名」を「藤原氏」にする事で、「吊り合い」を取らせた。
そして、巨大な「藤原一門」に組み込ませたのである。

つまり、より一段と勢力を持つ為には、現状の「官僚族の範囲から脱皮する機会」であったのだ。
その上で、直後に「円融天皇の差配」と成る「特別賜姓族の青木氏」を何と名乗らせた事に同意した事に成る。
何はともあれ、これは「娘の実家先」に対しての出来事である事なのだ。

これだけの事は、相当な覚悟が無ければ成らない。簡単にあっそうですかと云う事では済まない。
況してや、「氏家制度」の真ん中である。
下手をすると、「官僚族の範囲」も神威失墜で落とし兼ねない「賭け」とも成り得るのだ。
先ずは、「当時の慣習」としては、この「賭け」は考え難いが、然し、現実には興っている。

これは、「円融天皇の差配」であった事からこそ興った事であれ、これは「思い付きの事」では無い。
事前に相当周囲で調整した事で無ければ成し得ない。
つまり、「円融天皇の特別賜姓族」と云う「格式」を護るための「掟」を確実に踏んだ事を示す事に成る。
明らかに、この「血縁差配」は、「背後での献策の差配」であった事を示している。
「天皇」自らが、一氏族の中に入って、「仲人の様な血縁」を勅命する事は、到底に適わない事は明明白白である。
依って、「前代未聞の事」と成り得る為に、この「陰影の血縁差配」を以って、「円融天皇」は「特別の計らい」をした事が判る。

(注釈 「特別賜姓族」と呼ばれていた所以であろう。)

然し、そもそも、この「歴史的な事」として観られる「陰影の血縁差配」は、”誰が献策したか”が「青木氏」に執っては最も重要である。
従って、それは、上記した様に言わずもがなこれを解明するのは「青木氏」以外には無いのである。

「青木氏」が、この「円融天皇の一連の差配事」を、「歴史的事実」として解き明かさねば誰も解き明かしてはくれない。
恐らくは、当たり前の様に自然に起こったかの様な形で済まされて、関連する歴史的史実(伝統)は消滅していた筈である。
「青木氏」が、真面な形で生き残らせてもらった代わりに、これは、「献策期」から「射和商人」迄の明治期まで続いた「深い関係」である以上、「将来の子孫」に「青木氏全体の伝統」と云う形で遺しておかねばならないで事であろう。

「青木氏」には、「伊勢領国」を奈良期に半国割譲した地域の同じ「伊勢伊賀北部」に住んでいる「京平氏の実家先」とは、極めて深い親交のある”「隣人」”であった。
「隣人以上」に、「伊勢和紙(伊賀和紙)殖産」の「企業相手」でもあった。
後に、この「殖産」を通じてそれに関係する「物品の生産」の「興業」(1025年頃 二次産業 紙箱など 大正期まで続いた。)を共に興した相手でもある。

この事から、恐らくは、逆に歴史を遡ったとしても、「伊勢と信濃の青木氏」が調整して根回しをして献策した事は先ず間違いは無い事に成るだろう。
これで、「伊賀殿と伊勢殿の付き合い関係」がどの様なものであったかは想像しなくても判る。

「実家先の宗家貞盛」に「繁盛から養子維茂」を出したが、「嫡子」とはせずに「四男の維盛」が、結局、「伊賀」を継承して「五代後の清盛」に繋がった。
従って、当初よりこの「養子維茂」が直接に「跡目」として入った訳ではない。
つまり、「養子の目的」が別にあった事を物語る事である。
本来であれば、「養子の目的」は「跡目」を前提とする。
後の「貞盛の実子(4人)」には「跡目」に相応しくない何かの理由があった時に行われる「跡目の仕来り」である。
然し、この「4人の実子」にはその様な事は特段に無かった。
むしろ、「実子の維盛」は歴史上に名を遺す程に優れていた。
従って、「円融天皇の目論見策」に対する「形式上の仕来り」を採ったに過ぎない事に成る。
「長男とされる維叙」も「藤原氏の済時」からの養子である。
「養子」を採って跡目を良くした訳でも何でもない。

明らかに、「繁盛に対する差配」としての「伊勢信濃青木氏の調整と根回し」に依る「円融天皇への献策」であった事が読み取れる。
この事からも、「献策者は伊勢信濃の青木氏」であった事が判る。
又、後の「清盛の生誕の経緯」(下記)や「有綱宗綱助命嘆願」からも、”「献策者は伊勢信濃青木氏であった事」”が裏付けられる。


(注釈 「伊賀検証」  この後に、「京平家」は「清盛」に依って「巨大な勢力」を張り、終局、1185年(以仁王の乱1180年)に「摂津源氏の源頼政」が、この「京平氏」と雌雄を決する事に成った。
然し、この時、敗退した「頼政の孫」の「宗綱と有綱」と「弟の高綱」の「助命嘆願」を、この「京平家」の「伊賀の実家先」に頼み込みこんだ。
「清盛」は一変してこの三名に限り「日向廻村」に配流処置で済ませた。
これは、「頼政の孫」の三兄弟の「三男京綱」は事前に「伊勢青木氏の跡目」に入って居た事から、「兄の助命嘆願」を実家先の”「清盛の実母」”(下記検証)に願い出た事から特別に許された事であるとされている。)

(注釈 ”「清盛の実母」”には多説あり、「祇園女御」(又は妹説で養子説)、実父は白河院、「育て親」は忠盛の妻「池禅尼」である。
「清盛」は「伊勢の津」に生まれた。
「祇園女御」は立場上、祇園に住んでいたので「伊賀の里」には住んでいない。
従って、「白河院」から寵愛を受けた「舞子」の「女御」である立場から、「津」に宿下がりしてでの出産と成った。
然し、それが「津」とするとあり得ず、結局は”「女御妹説」”にと成る。)

(注釈 何れも育てる事は、侭ならない事から,「忠盛」に預け、この「伊賀の里」で(「池禅尼」は池と云う地名に住居)が育てた事に成る。
この時の「青木氏の記録」では「清盛の実母」と成っている。
然し、果たして、「育親」のこの「池禅尼」であった事に成るのか。
「池禅尼」は、「忠盛没後の1153年」に尼僧となるが、「頼朝の助命嘆願」に奔走した事は有名である。
「池禅尼」は、正妻で、「忠盛の妻」は多くいたが、1164年没前頃の時に、この伊賀に「池禅尼」が住する事があったのかである。
「1153年忠盛死後」に尼僧に成り、「六波羅の池の地」に住した事から「池禅尼」と呼称された事を是とすると、可能性としては低い。
結局は、ここで実はこの「忠盛の妻」には上記の「祇園女御の妹」が居た事は事実である。
とすると、つまり、「祇園女御」そのものが「一切不詳」である事から、「妹」は尚不詳と成っている。
従って、「忠盛の妾妃」の「妹の実母説」(つまり、「祇園女御の猶子の記録説」)が残る。
とすると、「清盛実母」、「津」、「忠盛妻説」、「伊賀居説」、「1180年宗綱助命嘆願説」、「青木氏記録の実母説」などでは符合一致する。
又、「伊勢津」には、「二つの青木氏の勢力域」で、「青木氏の菩提寺の分寺」(本寺は松坂)があった。
この事からも、「清盛津誕生説」は、この「分寺」(本寺共に現存)にて生誕した可能性が高い。)

(注釈 何故ならば、当時、「伊勢の津域」を「差配統治」して居た事から、「氏家制度の慣習」から観て、商いの関係から「相談」を受け、ここに「産屋」を提供し手配したのではないかと想像できる。
「伊賀での生誕」は、多くの忠盛妻が居た事から産屋は難しい。
この時は、既に、「青木氏」は「紙屋院」として「和紙の殖産」と「二足の草鞋策」の「商い」していた年代である事から、[伊賀殿」との「隣人親交」は「和紙企業の関係」からも深かった事に成る。
宗綱等の「助命嘆願」を受けて貰える関係は、充分に有った。
その関係にあった”「青木氏が云う実母」”とは、「池禅尼の没年の晩年説」か「祇園女御妹説」かのどちらかであった事に成る。
然し、上記の「注釈の検証」から、「祇園女御妹説」の可能性が極めて高い。)

(注釈 「1180年の助命嘆願」を受けた「人」は、「祇園女御と妹」の生没不詳から「女御妹の晩年の事」と成る。
「1181年清盛没の直前の嘆願」の直前と成り、「妹説74歳」は妥当と成り、何とか成り立つ。)

(注釈 更には、「桓武天皇の京平氏」の母は、「光仁天皇(伊勢青木氏始祖 施基皇子の子供白壁王)の妃の「高野新笠」である事、
つまり、「伊勢青木氏」とは「女系の縁者関係」にもあった事からも、この「献策の血縁差配」の検証は納得出来る。)

この注釈の検証等の様に、それが、「嵯峨期の詔勅禁令」の例外を次から次へと実施し、「天智期からの青木氏の賜姓」を上手く適用したのである。
では、「円融天皇」に献策が出来て、40もの外戚から成る煩い「摂関家を抑え込める勢力」は、果たして「何処の氏族」かと云う事に成る。
最早、一目瞭然で、導き出せる事は疑う余地は無く成る。

それには、「天皇に朝見」が出来て、且つ、「献策出来る格式を持つ氏族」は、数える程も無い。
先ず、「朝見]できるのは、「正三位」以上の永代格式を持つ事が必要で、「献策」か出来得るのは「浄高二位以上」である事が必要である。
この「浄高二位」は皇太子格に相当する。
「源氏族11家」は、「朝見の永代権」は持ち得ず、「嵯峨期詔勅」で「大権と土地を持たない朝臣族授与」を前提とした為に「従四位下」を限度としたので、朝見できない事に成る。

そこで、「皇太子以上の家筋」は、永代に持ち得ているのはたった二家しかない。
それは、「伊勢青木氏(浄大一位)」と「近江佐々木氏(浄大二位 後に一位に成る)」の二氏である。
つまり、”永代に天皇にこっそりと検索できる権利”を天智期から与えられている「二つの氏族」なのである。
例え、「斎蔵の藤原氏摂関家」に於いてでさえも、「摂関家の宗家」を引き継いだ「太政大臣と左大臣」成る者しかいない。
他の摂関家の者は「朝見」は出来ても「献策」は出来ないのである。
とすると、上記から記述して来た通りである。

「状況を変え得る能力」としては次ぎの条件が成り立たねばならない。

「献策」を裏付けられる「権利」としての事、
それを「実行し得る財力」としての事、
「40もの外戚」を問答無用で押えられる「勢力」の事、

以上の事からも、「五家五流賜姓族青木氏」しか無い事に成る。

中でも、「賜姓五役」を主導し実行している「伊勢と信濃の青木氏」と成る。

但し、政治に関する「実質の斎蔵権」を持っていない事から、あくまでも「陰からの献策権」と云う事に成る。
それは「賜姓五役」の「国策氏」とされている「青木氏」であれば、それは成り立つ。
つまり、この「陰からの献策権を公に認められている立場」(国策氏)であればこそ周囲から文句は出ることはない。
「斎蔵権を持つ藤原氏」(摂関家)に執って、「煩い存在」であったと観られる。
「立場」があるからと云って、そう頻繁にこの手は使えないだろう。
使いすぎれば、「影」では無く「表」の論理と成る。
それは、「争いの下」に成る。
「青木氏の氏是」が、”必要以上に表に出る事”をこれを固く禁じている。

そもそも、「1の天智期の青木氏」は、「親衛隊」の最高位の「左衛門上佐」でもあり、摂関家の「左衛門尉」とは、「摂関家」は「天皇の傍に常時居ると云う立場」に於いては、「四段階下の格式」とは違う。
故に、「青木氏」は格段にして、常に「天皇の傍」に居て身を護っている「青木氏」にしかできない「献策」と成る。


ここで、次ぎの内容を論じる前に、この「青木氏」は次ぎの様に成る事を改めて述べて置く。

この「青木氏」が、次ぎに「究極の策」に出たのである。
それは、今度は上記する「円融天皇の目論見策」から、これを確定させる為の「青木氏の策」である。
この下記に示す(1)と(2)の「青木氏」を最終的に「一つにする事(融合策)」で、その「円融天皇の目論見策」の「威力」は未来永劫に確定させ得る事が出来る。その手段に出たのである。


つまり、ここに、所謂、基本的には、本来の「賜姓族」としては、次ぎの様に成る。
(1) 「天智期の青木氏」
(2) 「円融期の青木氏」
(3) 「嵯峨期の青木氏」

以上の「三つの青木氏」が生まれる結果と成ったのである。

然し、(3)の「第三番目の青木氏」には、現実に「賜姓」は伴わなかったのであり、「賜姓族」である事、つまりは、その「皇族系」であるとする「出自の証明」があれば、「賜姓」を受ける事無く、「賜姓」を受けたと同じくして「青木氏」を名乗る事を許されたのである。

これが(3)では、「源氏系出自の青木氏」(3氏 「日向青木氏」等)と、「第四世王族系出自の青木氏」(丹治彦王:丹治氏系青木氏 1氏)の発祥と成ったのである。
然し、(3)の子孫を現実に遺し得たのはこの4氏の二氏に限られる。

最も、「子孫拡大」として果たしたのは、(2)の24地域の116氏に成った「円融期の青木氏」である。
次ぎに、(1)の10地域の10氏に成った「天智期の青木氏」と成る。
厳密には、両方に跨がっている所謂、この「融合族青木氏」を「天智期の青木氏」に加えるとすると、次ぎの地域と成る。

伊勢、信濃、甲斐、近江、越後、伊豆、相模、下野、因幡、土佐

以上で、20氏と成る。

(但し、近江の「佐々木氏系青木氏」は「天智期の青木氏」に加える。)

ここで、重要なのは、この”「融合青木氏」”である。

上記した様に、「円融天皇に依る一発逆転策」で、以上の「三つの青木氏」が発祥する事と成った。
夫々が独立して働けば、「嵯峨天皇」や「円融天皇」が目論んでいた「賜姓五役等の役務柄の仕事」は確実なものに成る事は間違いは無い。
ただ、より「大蔵氏」や[藤原摂関家」に匹敵して、”「青木氏としての役目柄」”を確実に未来永劫に果たすには、もう「一つの段階」を踏む必要があると考えられた。
当然に、「大蔵氏]や「摂関家」とは、「賜姓族」で「臣下族」であり「朝臣族」であると云う事は同じでも、「青木氏としての役目柄」、即ち、「賜姓五役」の果たし方だけは異なる。
「青木氏の生き方」も、その「賜姓五役」や「三つの発祥源」としての「役務」に必要とする護らねばならない「立場」、「生き方」ある。
そして、他の「青木氏の二つ氏族」に求められていない厳しい「慣習仕来り掟」に厳しく縛られている。
従って、「活躍の仕方」は決して「表立てる事」は出来ない。(これも「果たし方」の違いである。)
取り分け、”「氏族の純血性」”だけは「他氏の二つの氏族」とは決定的に異なる。
況や、”「氏族の純血性」”を護り通す徹底した”「四家制度」”である。(四家制度の「徹底の仕方」が異なる。)

この為には、(1)の「天智期の青木氏」と、(2)の「円融期の青木氏」の「母方」は同じにしても、「未来永劫の存続」はこれだけでは充分では無い。
この基本的に出自の異なる二つが、別々の路を歩む事は、「亀裂の基」にも成り得るし、「氏族の弱点」にも成り得て、そこを突かれる事は充分に考えられる。

では、どうするかである。人が考える事は同じである。難しい判断では無い。
「自然の流れ」の中で起こる事をすれば良いだけの事で有って、それは”一つにすれば良い事”である。
「円融天皇」は、格式、家柄、官位、官職、等の「氏家制度」の中で「生きて行くための条件」は同じにした。
そうすると、後は、(1)と(2)の「血縁融合」のみである。

その目的を果たしたのは、先ずは、「五家五流の地」で興った。
然し、その結果は、「近江と美濃」は、「青木氏の氏是の禁令」を破って、「源平合戦」に参加して近江で敗れ、美濃で敗れ、終局は「富士川の合戦」で「源氏」と共に滅亡した。
この時に、「近江と美濃」の「融合氏族」も滅亡した。
「氏是の禁令」を破る事さえしなければ存続は保障されていた筈である。

「伊勢」は、伊勢には、2の「円融期の秀郷流青木氏」が、発祥の初期の段階から定住していた事から「四日市」地域にて「融合族」は定住して子孫を拡げた。
そして、江戸期には「歴史的働き」をするに至る。

「信濃」は、元より2の「円融期の秀郷流青木氏」は定住していなかった。

しかし、秀郷一門は「足利氏の本家争い事件」などに関与して「主導権」を握ろうとしていて、初期より護衛団として「秀郷流青木氏」をここに派遣していた。
この駐屯していた2の「円融期の秀郷流青木氏」との間に「融合氏族」を発祥させた。
この「融合氏族」は、定住していない為に、その末裔は「信濃、三河、美濃の国境」に退いて「融合子孫」を拡大させている。

「甲斐」は、秀郷一門が定住していない。従って2の「円融期の秀郷流青木氏」も定住はしていない。
しかし、一門の本領の武蔵、上野との国境を広く持つ事から、武蔵と上野の国境に「融合氏族」は発祥させた。
ところが、この甲斐も室町末期の武田氏との戦いで敗退し、衰退した。
そして、結局、「甲斐青木氏」と共に「徳川氏の支配下」に入り、「武蔵鉢形」に移植させられて後に、武蔵下野の国境に定住した。
この国境には、2の「円融期の秀郷流青木氏」は、元よりの領国と、武田氏滅亡により逃避して来た「諏訪族青木氏」も定住したこともあって、この「三者の融合族」がこの地域に発祥した。
現在では「自然融合」が進み、判別が困難な状況と成っている。

「近江」には、僅かに生き延びた「抹消子孫」が戻り何とか「摂津域」に定住した。
1の「天智期の伊勢青木氏」が、摂津に大店を構えていた事もあって、この抹消子孫は保護され、ここに「融合族」も存在して居る。
しかし、現在では判別はつかない。

又、「美濃」には、生き残りと観られる「伊川津七党」と云う「郷士集団」があるが、ここに「美濃の伊川津青木氏」の「融合族」が存在する。
恐らくは、三河尾張の「州浜族」か「片喰族」の2の「円融期の秀郷流青木氏」との「融合族」と観られる。

ただ、「甲斐と近江と美濃の三融合族」は、室町期中期以降の戦乱の結果と成る。
この「三つの地域の融合族」は「恣意的融合」か「自然融合」かは判らない。
時期的には室町期末期から江戸期に掛けての事であるので、社会体制から、特別な「子孫安寧の融合目的」では無い。
互いに同族で理解し合え、「習慣仕来り掟」等の事が同じであると云う意味合いからの「多少の恣意的性」が合った事は認められる。
従って、室町中期までの「本来の目論見策」の結果に依る「融合血縁」では無い。

ところが、”1の「天智期の伊豆青木氏」”には、1の「皇族賜姓族」の「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」が、「清和源氏四家摂津源頼光」から「源三位源頼政」まで「源氏の領国」であった。
この事から、ここに「青木氏大護衛団」として赴任していた。
この当然の結果として、この「伊勢-信濃青木氏の融合族」が同族で先ずは発祥し、更に、隣の相模には大きく2の「円融期「秀郷流青木氏」が定住して居た事から、伊豆相模国境には2の「円融期の秀郷流青木氏」との「総合融合血縁族」が平安期から極めて大きく発祥した。
従って、現在には「青木氏分布」としての「最大地域」に至っている。
その証拠に村全体が洩れなく「総紋の笹竜胆紋」である。

(注釈 1の「天智期の青木氏」は、「四家制度」に依って本家分家は無い事から奈良期から「象徴紋」であって家紋は無い。
これは前段で論じた様に「四家制度」に依って起こる。
当然にこの地域の「融合族」も2の「円融期の秀郷流青木氏」の「下り藤紋」の「総紋」をも合わせて持つ。
但し、2の「円融期の秀郷流青木氏」が持つ家紋は、「融合族」と成った時点で消える。
従って、「融合青木氏」は、何れの「総紋」も「総紋」とする事に成り、「使い分けの仕来り」が生まれる。
「ルーツ掲示板お便り」にこの「お便り」があったが、今でもこの使い分けは続いている模様である。)


この1と2の「青木氏」のみに関わる「究極の融合策」は、「平安期の本来」の「最高の目論見策の結果」であった。
そして、江戸期までその「目論見策」は大きく続いた。
関西で興った「伊勢信濃の融合青木氏」も、然ること乍ら、この関東の伊豆相模域で興った「総合融合青木氏」がある。

「中部以西」では、「伊勢-信濃域」の伊勢の「秀郷一門の定住地」の「四日市-松阪」に存在した。
「中部以東」では、「秀郷一門の定住地」でもある「伊豆-相模」に存在した。

以上の古来からの2の「円融期の秀郷流青木氏の定住地」の二地域に興った事に成る。

むしろ、「青木氏」に執っては、関西に拠点を大きく置く(1)の「天智期の青木氏」だけでの「一極集中型」に依らず、(1)と(2)の「二極分散型」で、”「総合融合族青木氏」”が関東に存在した事に成る。

これは「恣意的」であるのか、「自然の成り行き」なのは別として、この方が却って「江戸期までの目論見策」は、確実に伸ばし得たと観られる。
これは「恣意的な行為」であったかは、残念ながら資料が見つからないので確定し判別し得ないが、「自然の成り行き」も考えられるが、この「二地域」には、”「伊勢と信濃」”が何れにも関わっている事から「恣意的な差配」の方が強かったと観られる。

「1の天智期の伊勢青木氏」の「商業記録」には、この「中部以東の青木氏」とのやり取りが遺されている。
この事から完全な証明とは成らないが、「恣意的な融合」のその結果であると観られる。

何れも、この「二つの地域の拠点化した融合族」は、歴史的には江戸幕府に対して「青木氏」に執って「大きな役割」を果たしたのである。
(この事は前段でも各所で論じている。)
「関西での四日市]の「立葵紋の融合族青木氏」は、室町期末期1605年前後頃に「徳川氏との橋渡し」をした。
この時、「伊豆-相模の笹竜胆紋の融合族青木氏」は、「徳川幕府の主要官僚族の御家人」と成って、一族全てが「丸抱えの策」(御家人)で江戸幕府を支え動かした。

この「歴史的な事象」から鑑みても、「自然の融合」とは考え難い。
何はともあれ、この拠点と成った「二つの融合地域」には、何れも”「伊勢-信濃」”が関わっている。
この事からも”「自然の融合」”とは言い難い。

前段でも論じたが、室町期末期前後の「家康との話し合い」には、この「二つの融合拠点」が互いに連絡を取り合って、話し合いに臨んだ事が関東の個人の所有書面が遺っている。
この事から、この「融合策」は、「円融天皇の目論見策」を有効的に活かす為に採った、「青木氏生き残り策」の為の「恣意的な結果」と観ている。

この「円融天皇の目論見策」は、「伊勢信濃青木氏の献策」で、「秀郷流青木氏」が発祥したのであるから、両者に執っては、自然放置する事無くより確実にするための方策を講じる事は必然であったであろう。

上記した様に、人の採るべき本能的行為であり、「青木氏」を一つにする動きそもものは、「自然な行為」である。
唯、「一極集中型」にするか、「二極型」にするかは、本能では無く、判断の分かれるところであった筈である。

其れには、例え「融合」で有っても、「一極型」か「二極型」にしても、「極点」は一つにしておかねば繋がりは無く成る。
それが、1の「天智期の伊勢信濃青木氏」が「極点の元」にして、この「融合」が成されている事にあって、これには意味を持っていると観られる。

「極点は1の「天智期の伊勢信濃青木氏」と云う事は、都合よく図って遣ろうとしてもやれるものでは無い。
歴史的に、「両極」にその「子孫力」と云える「勢力」を「(1)の天智期の青木氏」が保持していた事が重要である。
そこに、(2)の「円融期の青木氏」が生まれたとすると、この「目論見策の主導」は、「献策者」でもある事も含めて、(1)側にあった事に成る。

とすると、この検証の論調からすると、この”「融合時期が問題」”に成る。

次ぎの融合の時期が考えられる。
イ 平安期の(2)の「発祥期」の「直前期」なのか。
ロ 鎌倉期の(2)の「子孫力」の「拡大期」なのか。
ハ 室町期の(1)と(2)の「成熟期」なのか。
ニ 江戸期の(1)と(2)の「安定期」なのか。

そうすると、「円融天皇の目論見策」をより効果的に働かせると云う前提では、「ハとニ」は意味を成さない。
そうすると、「イとロ」と成るが、果たして、「室町期の戦乱期」の入る前でなくては「目論見策の効果」は低減する。

唯、ロの「子孫力の拡大」が無ければ、成し得る事が出来るかの疑問もある。
(1)は兎も角として、(2)の「子孫力」は、概して「980年」を境にして増えて行くことに成る。

平安末期は1185年とすると、凡そ、「200年間」ある。
この間に(2)の「子孫力」は、”どの程度増やしたか”の問題に移る事に成る。

当時は,「人生50年」として、子孫を15歳-20歳で「世継ぎ」したとして、200年は、「10倍の枝葉」で「最低2の倍数」で拡大する事を前提とする。
そうすると、最低で「子孫力」は「1000人」と成る。
当時の婚姻制度は、「四妻制」であるので、最低である事は無く,最高でこの4倍と成る。
つまり、「4000人の子孫力]を作り上げている事に成る。
これを各地に配置するとすれば、充分に成し得る。

当時の「平安末期の戦いの記録」で観てみると、「秀郷一門の動員力」で観ると、「戦力」を「一族からの人集め」をしたとして、「最小1000人 最大5000人が限度」と成っている。
現実に「将門の乱」では、この5000人であった。
この事から、妥当と観て、「子孫力」から「融合族」を発祥させ得る事が出来得る。
現実に「秀郷一門」と「秀郷流青木氏」は、平安末期には「24地域」に赴任して「現地末孫」までを遺し得ている。
「現地末孫」までを加えると、「四妻制」以上と成るので、「4000人の子孫力」は充分にあった事を示す。

依って、答えは、”「イの時期」の「少し後」”と成る。

「源頼光」が「伊豆の領国」に1の「天智期の伊勢信濃青木氏」を配置した。
そして、平安末期の「四代目の源頼政」が1180年頃にこの護衛軍を動かした。
既に、この時には、伊豆には「青木村」が幾つも存在して居た。
領国であった「伊豆の国」は、「5郡制」であった事から、この全域に「五郡の指揮統制」を採る為に「村」を置いていた。
当時、この伊豆は「本領村」であったので、最大500人とすると、仮に1郡5村とすると、この内、200人を青木氏で、後は家人と村人として計算すると、5000人の「青木氏の子孫力」はあった事に成る。
この「伊豆の子孫力」と「相模の子孫力」のバランスは取れる。
充分な「融合族を興し得る土壌」があった事に成る。

依って、平安末期前に、1の「天智期の伊勢信濃青木氏」が主導して、既に「二極に融合族」を発祥させていた事が判る。


さて、領国から離れた「越後」には、2の「円融期の郷流青木氏」を頼って、1の「天智期の信濃の諏訪族青木氏」と1の「天智期の甲斐の諏訪族系青木氏」が逃避して「融合族」を形成した。
ここは「二つの相互の関係」に依る「自然の成り行きの融合」である。
先ず、「逃避保護と云う立場」から、両者に執っては「融合族」を必然的に興さなければ生きて行くことは不可能であった筈である。
その「融合族の分布」がその事を物語っている。
これらを判別する最も良い手段の「家紋分析」から観ると、2の「円融期の秀郷流青木氏」が定住する方向に沿って、「旧北陸山道沿い(商道)」に各一定間隔で「融合族」が均等に分布している。
この「越後」の2の「円融期の秀郷流青木氏」は、その地理的要素と近隣に進藤氏等の一門が分布する処から安定した「子孫力」を勝ち得ていた。
この地域の「経済的な勢力」もあって、2の「円融期の秀郷流青木氏一門の勢力」は、武蔵-相模-讃岐に継ぐ勢力を持っていた。
その事も有って、逃亡を受け入れたのである。
従って、多くの一族郎党を受け入れて貰って生活の庇護を受けているとすれば、”「族は族」”として突っ張ると云う事は許されない。
最も好い方法は、男系女系の如何を問わず血縁をする事と成ろう。
労働や戦い等の労力や戦力の応援等はあるにしても、血縁する事が「確実な絆」を醸成する。
従って、この地域は、「生きて行くための必然の融合」であった。

但し、ここで、別格とした事が在る。
そもそも、「越前」には、「皇族賜姓族の逃避地」として、朝廷が認めた奈良期から活躍した地域であった。
ここには、奈良期より「五家五流青木氏」と、平安末期の近江滋賀に定住した秀郷一門と共に、「秀郷流青木氏」も定住した。
しかし、ここは「何れの青木氏」の「歴史的な混在地域」であった。
依って、この「混在の青木融合族」がここにも発祥している。
然し、ここは「本来の目論見策」とは、別に起こった(1)と(2)の奈良期からの「全ての青木氏融合族」の発祥が興った地域であった。
「青木氏」に執っては、「地域的な目的」からの融合結果である。

これには、特徴的には”「祖先神の神明社」”が大きく関わっていた。
恐らくは、その様に、この「地域の目的」から「青木氏の神明社住職」が、全てを「商人」にして「融合」を恣意的に取り計らったと観られる。
後に、この事からこの「混在の青木融合族」は「越前商人」と呼ばれた。
この「神明社」を全総括していた「伊勢青木氏」は、「逃避地」と云う「苦しい状況」の中で、武力的庇護も無い中で、「互いに助け合う血縁族」としたと観られる。
ただ、全くの無防備と云う事には成らず、500社にも上る「神明社」を通じて「神明社シンジケート」が彼等を庇護していた。
「商い」も、この「神明社シンジケート」を通じて行っていた模様で、「神明社の記録」の中に、「彼らの商い」の為に社を定宿として宿泊をしていた事が読み取れる。
筆者は、「定宿」そのものだけでは無く、「商い」そのものに[神明社の社務」は関わっていたと観ている。
取り分け、この「越前の神明社」は、最も「全国分布の比率」の高い地域であった。
(1)の皇族賜姓族の「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の「二足の草鞋策」で、安定した「経済的支援」を背景に、網の目の様に配置された「多い神明社」は「社務」として安心して総合的な庇護に関われたと観られる。
端的に云うと、「青木氏」の”「村役場的寄合場所」”として活躍していたのである。

この様に、「青木氏」と云うよりは、「武士」から「商い」に変えて細く長く変えて生きて行かねばならない。
その為の”「人本来の融合」を求めた地域”でもあったと観られる。

上記する各地域での違う形の融合を成し遂げた氏家制度の中で、「商い人」と云う形でこの”「特色ある伝統」”の中で生き延びた「融合族の越前青木氏」である。


「因幡と土佐」の融合は、他の地域と比べ、又、共に違っていた。
共に、「因幡」は「信濃の足利氏」と「秀郷一門宗家」の「主導権争い」で逃亡した花房氏系の足利氏本家に一部同行した青木氏である。
この「信濃足利氏系青木氏」が米子と八頭に定住した地域である。
これに西域の宍道湖地域で、「秀郷流讃岐青木氏との血縁族」が発祥した地域である。
この「因幡の地域」には、ある「特異性」が有った。
それは、東西域に分けられていた。越前と違う生き方をした事が判る。

「西域」は、「商人域」、東域は「武士域」として「棲み分け]をしていた地域である。

これは、この「商人地域の商人」は、「二足の草鞋策」を採る武士で、「西域は商い地」、「東域は居住地」として「棲み分け」をしていた事から起こっている。
これには、「足利氏系青木氏」と「瀬戸内の讃岐秀郷流青木氏」との関係から生まれた模様である。
「讃岐秀郷流青木氏」は宍道湖より西域に進出した。
この因幡の足利系青木氏は宍道湖より東域に進出した。
この事から、互いに争いを避ける事を前提に、境界と成る因幡西域(宍道湖東域)はに線引きをした。
この東よりを「商人域」として定めた事から来ていると観られている。
つまり、「因幡」の「足利氏系青木氏」の古来からの「名誉ある武士」としての家柄を頑なに護った事から考え出されたものと観られている。
通常、多くは、商人化して仕舞うが、ここは所謂、”「米子商人」”として「厳格な商人」で有名である。
その「武士としての心」は捨てなかった事から来ている。

「土佐」は、「甲斐武田氏の滅亡」により、「甲斐青木氏」の末裔の「武田氏系青木氏」が「讃岐秀郷流青木氏」を頼って定住した地域である。
ここには「讃岐秀郷流青木氏」との「融合血縁族]が先ずは発祥している。
これらは、「生きる為の結果としての融合族」であり、「本来の目論見策」からのものでは無かった。
ただ、この「二つの地域」は、「青木氏」として、結果として融合する事で生き延びられた所以でもある。
ルーツ掲示板にも多くお便りが寄せられているが、恐らくは、この「融合」が無ければ生き延びられてはいないであろう。
戦国時代はそれほどに甘い時代ではなかった。
個々の伊予、讃岐、土佐、阿波の四地域には、「秀郷流青木氏116氏」にも成る中で、「秀郷流青木氏だけ」とこの[融合族」も含めると7氏に上る。
「目論見策の効果」は別として、「生き延びる」と云う基本の処は成し得ていた事に成ろう。
確かに、武田氏系青木氏と讃岐秀郷流青木氏との融合族が土佐では発祥したが、「秀郷流青木氏」でも「流れの異なる青木氏」が在った。

(1) 讃岐藤氏系の京公家族と讃岐秀郷流青木氏との「同族融合青木氏」
(2) 土佐に定着した花菱紋の「武田氏系青木氏」との「秀郷流融合族青木氏」
(3) 紀州から逃避し伊予土佐に分布した州浜紋の「近江脩行系青木氏」
(4) 阿波に赴任分布した下り藤紋の「利仁流青木氏」
(5) 讃岐に一期間(50年程度)定住した関東屋形系の「結城氏系秀郷流青木氏」
(6) 讃岐に一期間(50年程度)定住した関東屋形系の「宇都宮氏系秀郷流青木氏」
(7) 阿波南域に分布した「片喰紋の秀郷流青木氏」
(8) 阿波北域に小分布した「摂津近江青木氏融合族」
(9) 伊予に一期間定住し小分布した現地末孫の「豊臣氏族系青木氏」
(10) 伊予に一期間定住し小分布した現地末孫の「丹治氏系青木氏」

四国には、「讃岐秀郷流青木氏」をベースに、以上の青木氏が一時期を含めて定住した。
ここに、基本的には、「藤原氏」、又は、「秀郷流青木氏」との「同族青木氏融合族」が発祥している。
この「発祥の仕方」が特に「地域性」が強く、”どの青木氏と血縁”と云う事では無く、「棲み分けの境界での小融合」である。
従って、「家紋分析」でもなかなか判別が付かない。
全て「讃岐秀郷流青木氏の庇護」の下に生き延び、その結果の地理的な融合である。
唯、(4)は基本的には「本領」や「先祖の定住地」や「新たな赴任地」に戻ると云う現象を起こしていて、この「融合族」は、何らかの形で遺された土地の者の[現地の末孫」との血縁である。
あらゆる「融合の形の坩堝」と云える。

結局、土佐には(2)と(3)と「讃岐秀郷流青木の融合族」が観られる。
(4)と(7)は、現地末孫を遺す事は「一門の掟」ではあるが「現地定住」を原則とせず、「一門の掟」として交代制の「本領に帰省する形」を採っていた。
(5)からは勢力関係(移封と滅亡)から消滅した地域である。
(8)は「商業関係」と「摂津水運」による「支店の定住地」である。


これ等は「青木氏」に執っては、”「賜姓族」「臣下族」「朝臣族」「氏族」”であると云う事からの結果である。
そもそも、”「融合」”と云うキーワードは、他氏には決して生まれるものでは無く、無いものである。
つまり、”「青木氏の伝統」”の一つとして扱われるものであろう。
これは決して見逃してはならない事で、「円融天皇の青木氏目論見策」の「歴史的な所以」が誘引して興った事である。
決して、歴史的に見ても無関係では無く、故に、「青木氏」は生き延びられたと云える。

この様に、正しく言えているかは別として、「円融天皇の一発逆転の政策」で起こった事件は、当時の「氏家制度」の社会の中では、「融合」と云う事は、”「究極の象徴的な青木氏」”なのである。

そもそも、「天皇が行う政治」とは、一義的には ”「事の流れ」”を創り出す事にある。
「事の流れ」とは、「事象」の一つ一つを敢えて解決するものでは無く、この「事象」が起こす「事柄の結果」を、「目的の方向」に導く事にある。
”「目的」そのものを解決する事」”ではなく、”「解決出来得る方向性を決める事」にある。
「事象」の一つが良くても「事柄の結果」が良くないと云う事は、この「世の条理」である。
この世に、「善き流れ」を作り出すと云う事は、なかなか難しい事である。

だとすると、「円融天皇の目論見策」は、各の如しで、当に、江戸期にまでも、その「目論見の影響」を「好ましい方向」に及ぼした。
「青木氏」に執ってみれば、”「円融天皇」が優秀であった”とするは、この点にある。


ここで再び、検証を続ける。
「五家五流の賜姓青木氏」と「同位の叙位任官」を与え、「青木氏と同じ役目と立場」を与えて、「特別賜姓青木氏」を実施する事に成功したのである。
これは、「天智天皇と嵯峨天皇の意」を汲んだ「円融天皇」の「臨機応変、適時適切」の処置であった。
「秀郷」にしてみれば、母方で繋がる「青木氏」である事から、これを断る事は出来ない環境下でもあった。
然し、究極は「秀郷」にとってみれば,「貴族の立場」を獲得するのみならず、「青木氏と同格」の官位官職の「最高の格式]のある貴族に永代で成り得るのである。
且つ、「名誉ある役目」を与えられる事に成る訳である事から、「付加された役目」に対しては異論は無かった筈である。
この事で、結局は、「藤原氏の北家筋」の中でも、むしろ「摂関家」を遥かに凌ぐ「格式と勢力」を勝ち得て行くことに成った。
この事で領国も[武蔵」のみならず「下野」も「上野」も[下総]も[上総」も「陸奥」も獲得する事に成った。

この「円融天皇の目論見策」は、この「武力と権力と格式」を持たせた「秀郷」を利用する事で「摂関家の権勢」を牽制させる事が出来た。
且つ、「賜姓五役の国策」を実行する「国策氏」を拡大させて政治を安定させられる事が出来た。
そして、奈良期の蘇我氏の様にこれに勝る勢力を永代に排除できる事になった。

其れが「将門の乱」を利用して、「一局好転(一発逆転)策」で「当面の最大の政治課題」、のみならず、「先々の政治問題」もを解決して仕舞ったのである。

歴史的には、この時の「円融天皇」の採った「政治的戦略」は、余りこの時の事が評価されていない。
残念ながら、「歴史上の事」としては、しっかりと研究しないと出て来ない事に成っている。
それは、その「判断力」を評価される事よりは、”若い”と云う事や周囲の”「外戚の勢力争い」”が余りにも大きく多かった事が原因している。
故に、その事から、「低い評価」を受けたと観られる。
その為に、更には、結果として「天皇家の権威」は低下した事もあった事から、更に低く評価され、観る処を観られず仕舞に成った経緯であろう。
又、現在でも歴史家の間では、理解され得なかったのである。

(注釈 「青木氏」を研究した「歴史研究家、歴史小説家、歴史脚本家、歴史評論家」の筆者が知る範囲の8人は評価している。)

然し、「青木氏」が調べて観ると、「円融天皇本人の責任」では無く、その前の「冷泉天皇の政治」が、取り分け、「皇位継承の問題」で「藤原氏の外戚の勢力争い」が起こって居た事に依るものである事がよく判る。
因みに、その証拠として、在任期間15年の間に、その「外戚の入れ替え」は、何と40回に上り、その「外戚の人員」は何と41人にも上るのである。
この数字は、急に起こったものでは無く、前からの煩い「外戚の勢力争い」が持ち込まれた事に依る。
これでは真面な「継続性のある政治」等は出来ない。
この様な「人の入れ替え」と「外戚の人員」では、”共通ある政治”は保てない事は直ぐに判る。

現実に、結局は、この「政治腐敗の状況」から,意味の無い「荘園制から来る弊害」を生み出す原因を作り出した”「源氏の賜姓」”を終わらせ、「藤原氏の外戚力」を排除し始めた「花山天皇の政治結果」と成った。
その後の「三条天皇」からは徐々に「藤原氏摂関家の政治」は少なく成り変化して行った。
遂には、四代目後の「後三条天皇」からは、藤原摂関家を外戚に持つ天皇では無く成るのである。
遂に、「藤原氏の外戚争い」は「政治の場」では終わり、ここから、「天皇の身の安全」も侭ならない程に「藤原氏の強烈な抵抗」を受けた。
然し、「荘園制の禁令」を発する事が出来て、「政治腐敗」や「社会腐敗」の原因と成っていた「荘園制の弊害」も取り除く事ができたのである。

この時に、「天皇の身」と宮廷を直接に護ったのが、「賜姓五役」から「二つの青木氏」であって、これが”「北面武士」”と呼ばれた所以である。
それが、「左衛門上佐」、「右衛門上佐」の最高の位階を以って呼ばれた所以なのである。
(後に、室町期中期から一般化した「左衛門・・」、「右衛門・・」の「呼称の所以」なのである。)

この事は、明らかに「円融天皇」に「一発逆転の献策」を奏上した事を証明するものであって、これは、この「円融天皇」の「一発逆転の策」が働いて起こった結果である。
当に、これが「政治の所以たる所以」なのである。
「円融天皇」の「在位期間」の[権威衰退の原因」と成ったこの事をこれを取り除けば、”「適格に状況を正しく判断して答を出す素晴らしい能力」”を持っていた事が認められる。
「青木氏の献策」の必要性を適格に判断して、「身の危険」も顧みずに、「煩い外戚」の多い中で実行に移した事に依るものである。

そもそも、「摂関家外戚」はこの「青木氏の献策」を実行されれば、「摂関家の存続」は明らかに危惧される。
その結果、恐らくは激しい武力で抵抗した筈である。現実にはあった。
当然に、「青木氏」にも攻撃はあった事が容易に理解できる。
この証拠と成る資料と記録がないかを調べたが、確実な表現でのものは見つからない。
むしろ遺さないだろう。但し、「青木氏の菩提寺」には「小災禍の記録」がある。
恐らくは、「直接的な攻撃」は、「摂関家」も出来ずにいて、明らかに「伊勢松阪の青木氏」に対しては、「不倫の権」で護られていた事が判る。
況してや、「隠密裏に献策されていた事」に依る事からも、「表だっての攻撃」は採り得なかった筈である。
「表だっての攻撃」は、「青木氏のシンジケートの逆襲」を受ける事にも成り、むしろ危険であった筈であり躊躇した事が判る。
然し、あくまでも、「臣下族]である。「賜姓族」として表だって[武力」を使う事は「青木氏の氏是」で出来ないが、「五家五流の地域」の「天領地警護」以外にも、「宮廷警護」「伊勢警護」「伊豆警護」としての大軍事力を持っている。
それに、「500社もの神明社」を通じての「大伊勢信濃シンジケート」を影で持っている。
それを裏打ちする「二足の草鞋策の経済力」を持っている。
これを知っていれば、誰も手出しは出来なかった筈である。
この段階で「手出しする愚者」は現実にいないであろう。
其処に、「不入不倫の大権」で護られているともなれば、黙るしか無い筈である。
況して、そこに「円融天皇の目論見策の「(2)の円融期の青木氏」の発祥である。

(注釈 故に、青木氏はこの背景を敢えて誇示しなかった処に生き延びられた所以がある。
「青木氏の氏是」と成っている、”必要以上に「誇示」しなくても周囲は黙るだけでそれで良い。”
敢えて「恐怖」を与える事には意味が無い。” ”知略を使え”である。故に「円融天皇の目論見策」である。
「源氏」は、悉くにこの「概念の事」を間違えたから亡びたのである。 「花山天皇の意」である。
要するに、「嵯峨期の詔勅の意」の解釈を違えたのである。)

恐らくは、この程度の「事件性」しか無かったのではないかと考えられる。
恐らくは、何処にでも何時でもある「嫌がらせの範囲」に終わった筈である。

これが、「青木氏の氏是」の影響もあるが、「歴史性」に上って来ない事の理由にも成る。
何故ならば、「多くの外戚」が居ると云う事は、各外戚が、「政治勢力」や発言力」を高めようとして、色々な圧力を掛けて来た筈である。
しかし、「青木氏」は「政治の場」には、奈良期からの「賜姓族の氏是」(「臣下族」は政治には口は出せない掟)に依って「直接政界に出ない氏族」でもあったからである。
本来なら「皇親族」であり、「朝臣族]であり、「国策氏」である事から、”政治に発言力は持つ”と理解される。
然し、ここに”「臣下族」”と云う縛りがあったのである。

この「臣下族」とは、そもそも,「皇位の者」が「天皇の族の者」では無く成り、「臣」に成ったものなのである。
だから、「天皇が行う政治」の下の事を行う「臣族」であって、故に「朝臣族」と呼称される所以である。
その「朝臣族」とは、「皇位継承族の真人族」の次ぎに準じ位置する立場の者である。
故に、決して完全に「政治の場」から完全に排除された立場では無かった。
要するに”準ずる者”である。

(注釈 重複して論じているが、「聖武天皇」の後の「孝謙天皇期」では、女系天皇が続き「男系皇位継承者」は無かった。この時、この”準ずる者の仕来り”の考えが適用された。
「伊勢の施基皇子」の「子の白壁王」(光仁天皇)が継承し、その「孫の山部王」(桓武天皇)-「曾孫の嵯峨天皇」と続いた謂れの「準ずる者」である。)

「朝臣族」を獲得し「征夷大将軍」に成り得れば、「政治の場」、或は、「政治権力」は用いる事が出来る事に成るのはここから来ている。
これが鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の所以でもある。
「朝臣族」でも、「藤原氏」(摂関家)の様に「実質武力 (軍)」を持たない族もあり、更に「臣下族」となって「武力の持つ族」もある事にも成る。

「青木氏」は、次ぎの立場を得ていた。
(い)「皇親族」
(ろ)「朝臣族」

(は)「皇族賜姓族」
(に)「国策族」

(ほ)「臣下族」

(い)(ろ)の前者二つは「政治に準ずる立場」
(は)(に)の後者二つは「政治を補佐する立場」
(ほ)の「政治を護る立場」

以上、「三つの発祥源」と「賜姓五役」の内訳は、「五族」と「三立場」を保有している事に成る。

つまり、国家の政治体制の「四権の内」、「斎蔵権」を持ち得ない事から、(い)の「皇親族」と云えど「政治」を直接実行できない。
しかし、「他の三権を持つ族」である事に成る。
従って、「斎蔵権」を持つ「摂関家」からしてみれば、、「五族」と「三立場」であるので、時には自分の上にくる事もあり得る「煩い相手」と観えていた筈である。
「政治」に対して、陰影で、口を出しても誰も文句は言えない事に成るし、むしろ,陰影で積極的に口を出す義務のある立場でもあった。
それに上乗せて、「臣下族」として武力を持って好い事にも成っている。
これほど「煩くて厄介な氏族」は無いだろう。

唯、、「五族」と「三立場」の大権を、”どう云う使い方をするか”に関わる事に成る。
積極的に使うのか、消極的に使うのか、これが、大権であるが故に,「青木氏の氏是」でこの使い方を規制したのである。

逆に云えば、「天智天皇」は、「斎蔵権の藤原氏」を牽制する目的で、この任務を青木氏にして背負わしたと観られる。
「藤原氏の摂関家」が、政治で具申する事の善悪や正当性を見極める為に、「別ルートの情報」を獲得しようとしての思惑であった事に成る。

この為にも、この「要と成る氏族」を護る為にも、「賜姓族」を理由に最高の「権威と格式と官位と官職」を、時には「軍事力]も与えたのである。
それだけでは無かった。暗黙の内で禁じ手の「経済力」も与えた事に成る。
「周囲の氏族」から観れば、「半政治力、経済力、軍事力」の「基本的三権」を保有する「煩い氏族」である。
これに「(2)の円融期の青木氏」が加わったのである。
そして、「融合」したのである。
其れも「藤原氏北家族」である。

これで、無手勝流的に「最大の抵抗勢力の摂関家」も抑え込めて、「献策]は充分に出来る背景はあった事に成る。

(然し、「氏」を誇張する様な、「威圧的で積極的な使い方」はしなかった。かと言って、消極的であったかは疑問であって、「二足の草鞋策」に観る様に、「考え方」に依ってはこれほどの積極策は無い。
要は、「氏是」に基づく「家訓」にもある様に「知略」にあった。”挟みと刀は使い方如何”である。)

従って、「円融天皇の目論見策の結果]は、これは、「二つの青木氏」から観れば、「大きな論評」に値する「歴史的な転換期」であった筈である。

そもそも、この「円融天皇」は、10歳で即位(969年)し、譲位(984年)までの在任期間15年の間に、何と凡そ「40件の政変劇」が起こっている。
つまり、「藤原摂関家の中での勢力争い」が起こっていたのであり、歴代では政変劇は最多である。
この為に、「天皇家」は衰退していて、「外戚の争い」であった為に政治的には「権威失墜の状況下」にあった。

その結果から、「将門の乱」や「純友の乱」や「経基王の讒言」や「大蔵氏の九州独立騒ぎ」等乱れに乱れていた。

この時、本論序盤に論じた様に、「青木氏」は、925年頃から「和紙に依る二足の和草鞋策」が軌道に載った。
そして、遂には「最上格の格式」に加えて「巨万の富」と「影の抑止力」を獲得していた。
そして、1025年には「総合商社」を構えるまでに成っていた。
「氏族」では、「総合商社」として「宋貿易」まで発展させたのは「平氏」と「青木氏」だけである。
「桓武平氏」は1133年に貿易を本格化させていて、1158年には清盛は「博多」と「摂津」に港を整備し「宋貿易」を正式に開始している。
「将門の乱」を鎮めた一人「平貞盛」は、これを契機に勢いを増し、渡来人である事を強みに、密かに博多で中国との交易を始めていた形跡(記録)があって、この頃には既に「商い」はあった。

(注釈 繁盛りの様に不満を露骨にしなかったのは、「隣人」を見習ってこの「商い」に重点を置いていた可能性がある。)

その980年代前後では、丁度、その中間期であった。
「青木氏」は他氏には観られない「商いの富」を築いていた。
それだけに「円融天皇」には陰で充分な働きかけが出来た事は間違いない。
むしろ、それは「賜姓族の役目」であって、「表立っての事」は、”「青木氏の氏是の禁令」”でもあり、無かったと観られる。
然し、「賜姓五役」としての「国策氏」としての役柄から、裏から「藤原氏の外戚の勢力争い」を横目に見乍ら、「円融天皇」に”「献策」”を講じて居た事は間違いは無い。

そこで、そもそも筆者は、大化期か嵯峨期かに匹敵する「歴史的転換期」であり乍ら、”これだけの事が評価されていないのは何か変である”と観ている。
ここに”何か評価され得ないもの”があって、それが理由で、この「歴史的な転換期」を敢えて抑え込んだ節が観られると読んだ。

”それが何なのか”である。
この”何なのか”は上記する「青木氏」で無ければ解明は永久にされ得ないであろう。
この事に付いて下記で論じる。

”歴史上に遺されない事”、或は、”他氏に興味が注がれない事”があった事であろう。
そう云う、”何かが、この「将門の乱」の前後に働いていた”と観られる。
それは、ほぼ同時に起こった瀬戸内で起こった「純友の乱」も「一つの環境」として関わっていたと観られる。
この時の”「環境下」”を出来る限り掘り下げれば、”何か”が一つの「青木氏に関わる出来事」が出て来る筈である。
それは、「純友の乱」で観れば、「氏名]では、それは「大蔵氏」と成るであろう。
この大氏族には、「遠の朝廷」と呼ばれ、「錦の御旗」を与えられた。
そして、遂には”「九州自治」の「独立国騒ぎ」”等が、大きく関わっていた「氏族」である。

他には、この「二つの乱」に関わっていた人物には、後に、「清和天皇の孫」でありながら「賜姓」を無理やり受けた「経基王の讒言事件」があった。

この「環境下」の中で、「賜姓五役」を必死に務める上記する「青木氏」に執っては、何か試みようとする場合は、この時期やチャンスを利用する筈である。
それは「氏是の知略」である。
この「知略」は「人時場」に長じる事が「基本の領」(六稲三略の基)とされている。
「氏是」としている以上は、この「基本」に沿った筈である。
そして、”「ある戦略」”を献策したと観られる。
この頃の「青木氏」は、「青木氏始祖」の「施基皇子の曾孫」の「嵯峨天皇」の「第二期皇親政治」に引き上げられていた。
そして、「賜姓五役」は勿論の事、「朝廷の役職」の「紙屋院」等を務めると共に、それを「商い」にした「二足の草鞋策」も軌道に乗り始めた時期でもあった。

この事から、それは、”ある目的を以って「円融天皇」に「母方の藤原氏」の引き上げを献策していた”のではないかと観ている。
そして、この「献策」が、”上記する大蔵氏や九州の事の難題も解決し得る”と奏上していたと観ている。

つまり、「大蔵氏」や「内蔵氏」や[坂上氏」や「安倍氏」等の「六割を占める帰化人の官僚族」に仕切られる「朝廷」では無く、「天皇」と云うものを「身内で擁護する勢力」を絶大に大きくする事で解決すると云う事を裏で奏上したのである。
そうしなければ、結局は大化期の「蘇我氏の二の舞」に成ると観ていたのである。
そもそも、「青木氏」はこの「大化期の政変劇」によって発祥した氏族である。
この「氏族」として「大化期の根源の基」に戻る様な事は絶対に認められなかった筈である。
同じ「渡来系の豪族」の「蘇我氏」が「大蔵氏」に執って代った事だけに過ぎない事が起こってしまう。
「賜姓五役」の務めがあるとしても,これでは堪えられないであろうことが判る。

と観れば、では、それを解決する「献策」を奏上し、献策した以上はそれを実行に移すに値するか天皇が考えた場合、”それに対抗し得る万来の信頼を於ける勢力”と成り得るのは、矢張り上記した様に、その条件が整っているのは「青木氏」しか無い事に成る。
何故ならば、それは上記の事のみならず、「1の天智期の青木氏の末裔」の「嵯峨天皇」の子孫「円融天皇」であるからだ。

(注釈 筆者は、「円融天皇」は、「上記の立場」のみならず、若干、「ルーツ的感覚]を青木氏に抱いていたのではないかと観ている。)

改めて、何度も重複させるが、そもそも、「嵯峨天皇」は、「青木氏の始祖」の「施基皇子」(白壁王・光仁天皇ー山部王・桓武天皇)の曾孫である。
「円融天皇」が最も信頼のおける身内は「青木氏」だけと云う事に成る。
この「青木氏」が、序盤で論じた様に、「紙屋院」から発展した「二足の草鞋策」で蘇り「巨万の財力」を蓄えているし、「格式」は天皇家以外にはどんなにひっくり返っても何れの他氏も「浄大一位」の家筋には絶対に及ばない。
況してや、一臣下族に「不入不倫の権」の大権を与えた事は歴史上は無い。
「朝廷の組織」の「三蔵」の内の「斎蔵」で「摂関家」の「藤原北家」をも遥かに凌ぎ、「大蔵」と「内蔵」の「二役」を受け持つ「最大の勢力」を誇り、「錦の御旗」を賜り、「遠の朝廷」と呼ばれた「大蔵氏」でさえも、この「大権」は授けられていない。

この「三蔵」は、あくまでも「政治上の範囲」の事であって、「青木氏」が持つ「総合的な格式の範囲」では無い。

そうすると、「円融天皇」が「天皇の権威」を取り戻し、一発逆転で「天皇家」を安泰に先ずするには、後は、「軍事力と政治力」の持った別に「青木氏」を作り出せばよい事に成る。
この「献策」を、政治的に権威が失墜し苦しんでいる「身内系の円融天皇」に「一発逆転の策」を疑う事無く奏上した筈である。
献策奏上しなければならなかったし、献策したいと念じていた筈である。
この「献策」が、「上記の策」であり、これを「青木氏」により近い母方の秀郷一門に負わせる事で、「賜姓族の立場上」では、「格式と財力」による「影の抑止力」しか使えない「1の天智期の青木氏」が永代に持ち得ない「政治力」と、「より絶大な武力」を大見栄きって獲得できる事に成り得る。

(注釈 使うか使わないかは又別である。要は「氏是]の云う「知略」である。何れの「反抗勢力」に対して動きの採れない様な[抑止力」に成り得れば良いだけで充分である。)

そうなると、現実に、この時期では、「献策」を密かに奏上できる「氏族」は、上記(い)から(ほ)のあらゆる面から観ても「浄大一位の青木氏」しかなかった筈である。

そもそも、それでなければ、「秀郷宗家一門」と、その「青木氏護衛団」には、「全国66地域」の内で「24の地域」(36%)に赴任させる程の事はさせなかったと観ている。
「秀郷一門」に「青木氏」を作り出し、「大蔵氏」に匹敵する勢力を「血筋の分けた朝臣族」に仕上げる事で成り立つと成れば、「大蔵氏」とほぼ同じ赴任地数を与える事で簡単に解決する事が可能である。
故に、「24地域の赴任地」に上乗せて、「子孫力」をより拡大させ得る「現地末孫の定住策」をこの「青木氏」に義務付けたのである。

この時、「大蔵氏」は、「九州全域」を基盤として「中国域以西」と「奥域の一部」の「32国の勢力」にほぼ匹敵する事に成っていた。
其の「大蔵氏の聖域」に”「楔」”を打ち込む様に、「長崎域」と「陸奥域」(青森)を秀郷一門に任す事で、「円融天皇の目論見策」は成功する筈である。
そこで、「楔」に依ってこの「大蔵氏」に騒がれては元も子もない。
そこで、「大蔵氏」が騒がない様に、「秀郷一門の讃岐藤氏」が支配していた「瀬戸内域」を与える事で、収まりが着く。(純友の乱)
そして、その上で強化させる「秀郷一門」には、関東以北を聖域とさせ、そこをこの「献策」の「秀郷流青木氏」に護らせる事で、これまた「円融天皇の目論見策」、所謂、「青木氏の献策」は成立する。

(案の定、この直ぐ後に「大蔵氏」は、九州全土を支配下にして「独立」を目論んだ動きを示した。)

現実に、「内蔵氏系」の「北陸域の内蔵氏・阿倍一族」と「安倍氏の支配地域」の「広域陸奥」は、「征夷大将軍」として秀郷一門にその役柄を与えて「秀郷流青木氏」に護らせた。
一時、「安倍氏と阿倍氏の抵抗」はあったものの結果として問題は排除したのである。
そして、この代わりに、「独立騒ぎ」も含めて、収まりを漬ける為に「一族の大蔵氏」には、九州域の「鎮西大将軍」の称号(形式的な「自治権」 「遠の朝廷」と「錦の御旗」の権威授与)を与えて収めたのである。
(兄の「坂上氏」は平安初期には「征夷大将軍」であった。)

この結果として、これらの「一連の差配」は、この「献策の結果」を証明している。

然し、「大蔵氏系側」は32域国から28域と瀬戸内域(あらぬ嫌疑を掛けられた「純友の乱」の発端)を与える事で収めたのである。

「将門の乱」「純友の乱」の結果からの”前後の通常はあり得ない急激な差配”を検証すると、この”「青木氏の献策」”が裏で働いていた事が充分に考えられる。

(「瀬戸内」を制する者は国を制すると云われた経済地域、一方、同じ経済地域の佐渡金山を秀郷一門が支配させた。)

更には、その「赴任地の国」には、必ず、「秀郷宗家一門」と「護衛団青木氏」には「現地末孫」を置く事を義務付ける事をしなかった。
この他氏に認めていない事を朝廷は認める事は無かった筈であると観られる。

その証拠には、「他氏の赴任先」には、朝廷から認められた「正式な現地末孫」は見られない。
全て、「42地域」に赴任したの他氏の場合は、家紋分析から観ても”「遺したとされる族」”は殆ど例外ない。
有るとすると全て例外なく、所謂、”「未勘氏族」”である。

依って、「秀郷一門」の「特別賜姓族の青木氏」のこの”「正式な現地末孫」”は、一体、何を意味するかである。

それは、先ずは”「領国化した事」”を意味していて、ただ「単なる土豪」では無かった事を意味する。
つまり、「特別賜姓族青木氏」としては、「土地の利権」を持つ「郷氏」と成り得た事を意味する。
普通の赴任は、「土地の利権」では無く、「土地の管理権]である。
赴任が終わればこの管理権は無く成る。

平安期から「土地の利権を持つ氏族」の”「郷氏」”は、この「二つの青木氏」を除いて「佐々木氏」や「藤原氏」以外には遺っていない。
「橘氏族系氏族」にしても、「平氏族系氏族」にしても、この”遺されたとする氏族”は、「支流傍系族」であって、武力に依って勝ち得た土地であって、「平安期の正規の利権」を持ち得ていたものでは無い。

後に、”「郷氏」”と呼ばれた多くの所謂、「室町期の姓族」には元よりこの歴史性は無い。
つまり、何れの政権下にしても「本領安堵される立場」には無かった。
更には、「円融期の青木氏」である「秀郷流青木氏」は、秀郷一門より「青木氏」として独立した「臣下族」であり、「特別賜姓族」であるとして、朝廷からその様に扱われていた。
然しながら、室町期まで秀郷一門の”「第二の宗家」”とも呼ばれていた。

([藤原秀郷流青木氏」には、この[郷氏」が多いのはこの事から来ている。)

この事は、当に、”「何らかの力」”が”「側面から働いていた事」”を示すものと考えられる。
この「何らかの力」が、”「皇族賜姓族青木氏」では無かったか”と観ているのである。


その証拠として、ここで上記した様に、この”「青木氏融合族の発祥」”が挙げられるのである。

「五家五流皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族116氏の定住地」の関係した地域には、この「融合青木氏」が存在するのである。
この「二つの血縁青木氏」から発祥した「同族系」で有って、且つ、この「融合青木氏」が発祥している事は、上記の説を証明している。

何故ならば、当時の血縁は、「単なる結婚」では無く、「吊り合い」の取れた「氏家制度」の上での「氏族の存続の象徴の慣習」であったからである。
”「同族系」”と云う範囲に留まらず、「氏族」が一つに成る事の ”「究極の象徴的な出来事」” であったのである。

取り分け、その”「融合青木氏」”がはっきりと遺っているのは、伊勢の”「四日市の青木氏」”である。

そもそも、伊勢は、「五家五流賜姓族の伊勢青木氏」と、「秀郷」の「曾祖父の藤成」の赴任地でもあり、、後には、「秀郷一門宗家」の[基景の赴任地」であって、「伊勢の藤原氏」、つまり、「伊藤氏の発祥地」でもある。
室町期には、近江系の秀郷一門の「蒲生氏」(玄蕃允梵純)が「現地末孫」として定住していた母方の「秀郷流青木氏」の「伊勢青木氏跡目」を引き継いだ。

その「特別賜姓族」の「秀郷流伊勢青木氏」と「皇族賜姓族伊勢青木氏」とが血縁して発祥した「四日市融合青木氏」が現存している地域でもある。
この「伊勢四日市青木氏」には、後に「大きな歴史的役割」を「徳川氏」と結ぶが、「二つの血縁青木氏」に執っては、「融合族の発祥」は、”「究極の象徴的な青木氏」”であるのである。

この「大きな歴史的な役割」とは、「家康の徳川氏」が、この「融合青木氏」との血縁族(「立葵紋の青木氏」 「伝統シリーズ」等の研究室論文を参照)を発祥させたのは、この「象徴的青木氏」であった事に依るだろう。
そうする事で、(1)と(2)の全ての「血縁族」を血縁を結ぶ事無く、「伊勢の融合族青木氏」と血縁する事で、「青木氏の格式と権威」を獲得できる事に成るからである。

この事は、「融合族」の持つ意味は、単なる融合では無かった事を証明している。

これに依って、「五家五流青木氏」の能力は、「特別賜姓族」の強力な勢力も合わせて倍加して、「賜姓五役の役」は進んだのである。
この力を活かして、1025年には「総合商社」化して、「伊勢の秀郷流青木氏の特別賜姓族」と共に「宋貿易」にまで広げた事が書かれている。
「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の建設が、「二つの青木氏」に依って進められ、500社に上る「神明社」を建立した。

この事で、下記にも論じる「伊勢シンジケート」も確立して、「影の力の抑止力」は絶大のものと成った。
この事に依って、「神明社と青木氏」が、「御師様、氏上様」と民から慕われ信心されて、「朝廷の権威」も高まり、「三人の天皇の意」は果たされた。
「伊勢神宮」の「子神の神明社」、つまり、「神宮支社」が各地に建立されたのである。

(注釈 「青木氏の氏是」により、「武力」に偏ることなく、民に接した事が、慕われて「生き残り」に繋がったのである。)

室町期には、「戦乱」が続く中でも、「室町文化の紙文化」が起こり、「紙問屋と殖産」と共に「250万石以上の巨万の富」を築いたと記録されている。
ここに「貿易分」が加えられれば、500万石以上はあったと観られる。
この力は民と共に「殖産」をしていた事から「土地に資力」を全て注いだと観られる。

注釈 伊勢の資力域 

松坂域、
津域
玉城域 四日市域、
名張清蓮寺城域、
脇田域 上田域、
員弁域、
桑名域、
南紀州域、
南伊勢域、
伊賀一部域、
摂津域
堺域、
難波生駒域、
伊豆域

以上の地域が、「殖産」を基にした超大地主であった事が商業記録に記されている。

江戸初期に「徳川氏」に譲渡した「全国500社の神明社」も入れるとした場合の「室町期の財力」は想像は就かないレベルであった。
遂に、室町期末期では、「嵯峨天皇の目論見策」は、成功し安定化したのである。
下記にも続けて論じるが、「徳川氏との関係」からこれより以上のものと成った。

明治初期まで、この「血縁の仕来り」は、筆者祖母が「京公家の支流叶氏」である事から、続いたことが記録に書かれている事から判る。

この「四家の状態」は、江戸期からでも285年間続いたことに成る。
これが、況や、「四家の発祥源」である。

この様に、「円融天皇の目論見策」から、「嶋崎殿の青木氏の経緯」も含めて、江戸期まで遺った「融合族の経緯」まで、途切れることなく、縁は繋がっているのである。

これは「青木氏」で無ければ、「先祖の生き様」を強く感じ取る事が出来ない経緯である。
そして、所謂、これも極めて重要な”「伝統」”なのである。


さて、ここで注釈として下記の事に付いて追記して置く。

「貞盛と秀郷の経歴」には、そもそも信頼に値するかは別として、他説が実に多い。

先ず、「貞盛]から論じると、父は「国香」 母は「藤原村雄の娘」とある。
この「村雄」は「秀郷の父」であるが、そうすると「娘」は「秀郷の姉妹」と成る。
「村雄」の年齢は不詳であるが、記録から915年の「受領闘争の事件」を起こしている。
そうすると、当時の生活の慣習から、差配に立ち入れるのは15歳以上と成るので、「村雄」の生誕は最低でも895年と成る。
そこで、この娘を産むには、920年頃 娘を嫁すには935年頃と成る。

「貞盛」の父「国香」が「将門の事件」で没したのは935年である。
この時、既に「貞盛」は京で「左馬允の役職]に就いていた。
役職は15歳以上に成らないと任官できない。
この説で云えば、この「役職」どころか「貞盛」を産む事さえも論理的に無理である事に成る。
最低でも、「約20年程度以上の矛盾差」がある。

この論調では、「秀郷」は「貞盛」の母方の叔父に成る。
「将門の乱(独立国宣言の事件)」の終焉は940年である。
とすると、「秀郷」は、この時、「貞盛」の母方の叔父に年数的には成り得ない。
然し、現実には「秀郷と貞盛」が上記の経緯でこの乱を鎮めた。
つまり、そもそも「村雄説」には無理がある事に成る。
最低でも、この「娘嫁説」か「時期説」に問題を持っている事に成る。
この時期、925年頃から「秀郷」は、数々の記録から、この乱の直前まで「盗賊」と書かれ記録される位の「秀郷乱行期」に入っている。
「秀郷」は、960年代頃にやっと落ち着いている事が記録から読み取れる。
故に、「秀郷落着期」に入った事で、「円融天皇の目論見策」が滞りなく演じられたのであろう。
この事からも「村雄説」は「搾取説」か「後付説」に成る。

この「円融天皇の目論見策」により、整える為にも、「秀郷の実家」は”「下野受領家扱い」”であった事から、慌てて、後に「年代合わせの後付説」を採ったのであろう事は間違いは無い。
「年数的」にも無理である事のみならず、「慣習的」にも「当時の仕来り」を完全無視した形であり、且つ、この様な「時期的」にもあり得ない「血縁行為」である。
「後付説」である事は否めない。
(主に「後付説」は「江戸初期頃」の「後付」が多いのである。)

そもそも、「歴史記録の検証」では、「高位の氏族」では、「家柄」をよく見せる為に、当時は半ば周囲がそうであった様に、”正当化して行われた慣習事”で、歴史的にはよく見られた行為である。
取り分け、氏家制度の中の「常識的な慣習」では、むしろ、”「悪弊」”とは必ずしも考えられてはいなかった傾向があり、その様な記録が実に多いのである。殆どと云って良い程でもある。
故に、「周囲の出来事」との間に、この様に「年数の矛盾」等が生まれるのである。
当時は、年数の多少の矛盾が在っても「是」とした事が、一種の常識とも成り得ていた。
左程の厳格性が無かったのである。

恐らくは、乱後に、次々と打ち出される「円融天皇の目論見策」の影響を受け、「嶋崎殿の青木氏」の様な血縁策に習って、後刻の落ち着いた時期に両氏は「血筋を纏める策」に出た事が考えられる。
そこに、思いも寄らず「伝統ある青木氏」が発祥すると云う事が起こった事から、「藤原氏一門」と「たいら族」の「二つの勢力」の間でも、これを何とか整える為にも、「何らかの形で血縁を結んだ事」が云える。

仮にあったとして、「円融天皇期」には、「目論見策の実行中」である事から、この期間は「天皇に対して不敬不遜の不作法な行為」と成り、あり得ない行為である。
依って、984年以後の事に成る。そうすると、両者の関係からあり得る合致点は、「貞盛と嫡子四男維衡の前半期」(998年前頃)までの事に成る。
ただ、これ以後の「貞盛-維衡」とその族は、「同族争い」と「配流」を何度も繰り返し血縁は不可能である。

(注釈 以後の末裔にも年数的、経歴的にも無い。この14年の間の前半行為であり、上記の矛盾を打消し、且つ、「受領家側の経緯の関係」と考え合わせると、その前半期984年から988年に絞られて来る。)


「たいら族」と「ひら族」の「混同説の策」も含めて、「歴史的な矛盾」が多い説(後付説:1180年代頃)が生まれる事と同様である。
この事の結果を「後付説(氏姓の隆盛期に家系を作り上げる作業を行う)」で補おうとしたのである。

(注釈 当時は、この様な「後付説」は、通常化していて、特に江戸期には武家の命に値する”「黒印状」”を獲得する為に公然と行われ、幕府もこれを黙認した。
この事を放念してこれらの資料を「是」とした説が多い為に起こる「矛盾」なのである。
返して云えば、この「後付説」を「是]として「青木氏]を論ずると,「青木氏」は存在し得ない事に成り得る。)

故に、この説の様に「年数の矛盾」等の多説が生まれる所以なのである。
本論の様に、事実に即して「青木氏」では、これを無くすべく日々研鑚し「歴史観」を高めて検証している。

> :「青木氏の伝統ー16」の「四家の背景と経緯」に続く 

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