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「青木氏の伝統 20」-「商業組合」の発展 


[No.338] Re:「青木氏の伝統 20」-「商業組合」の発展 
投稿者:福管理人 投稿日:2016/02/09(Tue) 09:17:21


:「青木氏の伝統 19」の末尾


> 他には「武力的な援護」、「政治的な援護」と成るのだが、「青木氏の氏是」に依って「歯止め」が掛かっていて、直接の「武力的な援護」は無く、「経済的援護」の他に、「青木氏」が持つ「シンジケートに関わる援護」が多い傾向である。
> この「シンジケートの援護」であるが、「直接的な武力衝突」では無く、平穏時は「家族の身辺警護や食料の安全輸送」等に関わっていた模様である。
> 「一揆」を先ず根絶やしするには、為政者側の採る最初の作戦は、先ずは、「補給食料の断絶」や「家族への脅迫」や「調略作戦」から始まり、「武力に依る掃討作戦」は最後の手段であった。
> その前のこの作戦に「援護の対応していた役目」は、「郷士頭の家に遺る手紙」の資料から読み取ると、「青木氏」からの指示に基づき、その役目が危険であった事からこの「シンジケート」が手足と成って大いに働いていた様である。
>
> 「政治的な援護」の関りでは、「シンジケート」と関係していて、“「一揆後の立て直し援護」”と云った「援護の関り具合」に徹していた事が判る。
> 特に、「江戸期末期のシンジケート」は、時代と共に変化して「抑止力」と云うよりは「職能集団」と云った様変わりした「重要な役目柄」を演じていた事が判って居て、支配下に置いていた「伊勢水軍」の「職能集団」は、「海上輸送」で働き、各地域に配置していた武装集団は、「陸送輸送と警備担当」で働き、「大工等の職能部」は、神明社等を江戸幕府に引き渡した後は幕府から「関連企業」として受注を受けてこれを修理管理する事に働いていた。
>
> そして、明治期中期には、伊勢に於ける「青木氏のシンジケート」は、これら全てを解散して「企業」として独立させる手段を採った。
> 伊勢以外にも、例えば、「讃岐青木氏」の様に、本体は「商い部門」を瀬戸内に遺しながらも、「廻船業」として「新規航路」を作り、最終、蝦夷地にも支店を置いて大いに栄え、昭和20年まで続いていた。
>
> この様な例の様に、時代と共に体質変化させて生き延びていて、「青木氏の15地域」では、「伊勢、信濃,讃岐」は、勿論の事、有名な処では「新潟」や「富山」や「鳥取」等、多くは少なくとも昭和の初め頃まで「商業組合と提携商人」と共に存続した事が判っている。
>
> 要するに、江戸期末期に成っても依然として「賜姓族」として頑なに「地域の住民」を「賜姓五役」の「殖産や興業」に導いて、「商業組合と提携商人」は「本来の一揆の意味合い」としての貢献をしている。
>
> これらは前段の「伝統シリーズ」でも「関わり具合」を論じてはいるが、本論は「商業組合と提携商人」としての「15地域の青木氏の生き様」を「伊勢の例」を下に焦点を当てて論じた。
> これらの事は、決して、伊勢域だけの事では無く、「15地域」では、「商業組合と提携商人の組織」を形成する以上は、ほぼ同じ様な事が起こっていたのである。
> それを前提にご理解頂きたい。
>
> 次段は、矢張り、伊勢を以って、この「提携型商人」の「射和商人」に付いて例として詳しく論じる。




「伝統シリーズ-20」


そこで、江戸初期からの関係として、前段から論じている「青木氏と郷士衆と門徒衆との関係」で成立したのは「松阪商人と射和商人の商業組合」の経緯である。
この様な関係の経緯が時代毎に形を変えて上記の「一揆」には背後に必ずあった。

つまり、そこには上記の「関り具合」とは「別の媒体」としては、「青木氏の定住地」から発祥した有名な地域の「・・・商人」があった。
そもそも、「射和」(いわ)とは、現在では、「伊勢松阪の南域」に位置し、「玉城地域」との川を隔てた北側の処にある「古い町並みの地域」の事である。
この地域は、従って、この“「力の背景」”を得て「歴史の荒波」を得ても消失する事も無く、江戸期を経ても何と現存しているのである。
(当初の「古い街並み」そのものも遺っている。)
改めて、その「商業組合の拠点」となった「伊勢松阪」は、奈良期の古来よりの「伊勢青木氏の定住地」であった。
然し、戦乱後の室町期末期には、「秀吉の許可」を得て「蒲生氏郷の本領安堵策」で旧領も含めて認められた為に幸いに「安堵の経過」を経た。
これが「青木氏が関わる地域」の「伝統」を維持出来た大きな要素の一つであった。

「郷士衆や民」との「心のつながり」が悠久の時からのものとして維持出来たのである。
それは、前段で論じた「紀州伊勢で起こった一揆の関係」で証明できる。
この「心のつながり」が霧消して居れば、「青木氏」に「経済的背景と成る力」が在ったとしても、「一揆」までの援護をしていたかは大いに疑問である。
恐らくは、この事(本領安堵)が無ければ心は霧消していたと観られる。
その“「遺った心」”が此れから論じる“「商業組合と御師制度」”を結び付けて維持する事に成功したと考えられる。
唯、「松阪の氏郷の商業策」として「城郭整備」の為に移動し、「伊勢松阪の屋敷町」の9番地から11番地の「広大な3地域」を与えられ、そこを「青木氏の商業拠点」としたと伝えられている。

「蒲生氏郷」は、この1588年に飯高郡矢川庄四五百森(よいほのもり)で松阪城建築に伴い特別な「楽市楽座」と呼ばれる概念で「町の縄張り」も行った。
この時、「氏郷」は、寺社などの商業に関わらないものは町の外側に配置した。
そこで、戦乱を前提に町筋を直線ではなく“町角”を要所に造り“道幅”を変えて一度に多くの“敵兵”が攻め込めないようにした。
そして、「伊勢郷氏」や「伊勢郷士衆」や「伊勢商人」を強制的に移住させて「特殊な城下町」(湊町)を作り上げた。

(注釈 近江より「近江商人 日野町」を呼び寄せてまで「商人の町造り」をした。これが下記に論じる問題を起こした.)

そもそも、「伊勢松阪」は「伊勢神宮のお膝元」である事から、古来より「不入不倫の権」で護られ、城等を建築する事を「朝廷政権」、所謂、「西の政権」が室町期まで禁じていたが、「信長」に依ってこの慣例は破られていた。
現在で云う“「商業テナント」”を「街の中心」に据え、その周囲に近江より呼び寄せた「家臣集団」や伊勢の「主だった郷氏や郷士衆」や「主だった町衆」に敷地を与え「商業都市域の住宅街」を築き、当時としては画期的な“「特殊な城下町」”の基礎を構築したのである。

(注釈 唯、江戸期に入り「紀州藩の飛び地領」と成った事から、この「庶民の町屋構造」(西十町東九町)が不便と成り廃棄し廃藩をした。
その後、条理性のある「紀州藩武士の屋敷町構造」(殿町)に造り換えられた。この「屋敷町」には紀州藩支藩の田辺藩の家臣が赴任した。)

「青木氏」には、この「特殊な城下町」に与えられた3区画も、依然として紀州藩より安堵とされた。
そこで引き続き、与えられた区画のここを「商業組合の拠点」としても使われる様に成ったのである。
「紀州藩の安堵目的」には、事前の「談合の結果」(2度)として、「荒廃した伊勢の発展」の為に、「状況証拠と商業記録」だけで確定した記録が遺されてはいないが、「商業拠点」(青木氏提案)とする事があったと観られる。
そして、その「提案」に基づき、そこを、主に「伊賀和紙を扱う総合商社の紙屋」の下屋敷(拠点)にしたと考えられる。

注釈として、この時、「紀州藩」は不便な角部のある「幅狭の街並み」を態々と変えている。
この意味する処は何であったのかが問題である。
「何らかの目的」があってこそ「改善」をしたのである。
「金銭」をつぎ込んでここに新たに別に「西棟10戸 東棟9戸の家臣、即ち、紀州藩家老田所氏の家臣の武家屋敷町 一戸 間口5間 奥行5間」に編成し直した。
「青木氏の一区画300坪」とされているが、何と武士屋敷比35倍 「福家の一部住居」にも成っていた。

これは、明らかに「青木氏の提案」、即ち「商業組合の実現」を企画しての変更であったと観られる。
それでなくては、こんな「家臣の武家屋敷町」の真ん中に「強大な敷地の屋敷」を幾ら「旧来の郷氏」であったとしても与える事は無いであろう。

前段でも論じたが、「二足の草鞋策」で、「伊賀和紙」(伊勢和紙とも云う)を奈良期から殖産し興業化して作り始め、正式には925年頃に「商い」を営み、更に1025年頃には「総合商社の豪商」となり、歴史にも出て来る位の「商い」を松阪で営んでいた。(前段で論じた。)
そして、江戸期には、「紀州徳川藩」の「勘定方」を指導し、「吉宗」に同行して「享保の改革」(青木六兵衛)にも参加して、その「商法」を活かしていた。
江戸時代には、従って、地元の“「伊勢」“は「紀州藩飛び地領」として、特に力を入れ「松阪商人と射和商人などの伊勢商人」を多く輩出させた地域でもある。

ここまで「紀州徳川氏との関係」を成すには、根本に「何らかの特別な話し合い」が無くては無し得る事では無い。
この関係が「家康との談合時」の「商業組合の提案」にあったと観ている。
「西の大阪」に対して、「家康」と「青木氏」の両者は、「荒廃する伊勢」を立て直すには、「伊勢」には「試験的な自由な商業都市の実現」を目指したと観られる。
この事が次ぎに明らかに成る。

実は、前段の「商業組合」と共に、“「御師制度」”と云う「職能集団の組織制度」を「江戸幕府組織」に「吉宗」は持ち込み採用したが、この事に付いて特段で論じる必要がある。
そもそも、この“「御師制度」”とは、元は奈良期からの「伊勢神宮の職能集団の制度」であった。
そして、「伊勢神宮の皇祖神」の「子神の祖先神」(青木氏の守護神)の「神明社の神職」(青木氏族と佐々木氏族)などがこの「御師」(おし)に選ばれていた。
ところが、「御師の首魁の青木氏」は、この「御師制度」を「青木氏」の中にも持ち込んで、「二足の草鞋策」の維持に活用していたのである。
当然に、この「商業組合」の組織等にもこの「御師制度」を適用したのである。

前段で論じた(イ)(ロ)(ハ)の{身分・格式・職種」等の不必要な垣根を取り除いた”「自由な組織体」”にこの「御師制度」を適用したのである。
一見して矛盾する制度であるが、然し、その矛盾すると観られていた「御師制度」は、この「商業組合」に生きたのである。

では、”これは何故なのか”である。
それは、”「自由」”であるが故に、”完全に放置すれば飛散する”はこの世の条理である。
何処かで“飛散を止める仕組み”が必要であって、それは「内部の飛散」では無く、外側、況や、“「外郭の飛散」を留める仕組み”が必要であった。
「職能別」にまとめて放置すると、初期の段階では纏まるが、暫くすると“喉元過ぎれば熱さ知らず”の例えの通り、ある一つの職能別集団に何時かは「独立の機運」が蔓延して他の職能別集団との連携が上手く採れなくなる。
こうなると「全体の商業組合の効果」は半減低下し、何時かは離散するが条理であり、これが「自由を前提とする組織の欠点」でもある。
だとすると、“外に離散する事”を先ずは防げばよいと云う事に成る。
そうすれば、「外郭の範囲」の中で多少の「自由」は阻害されたとしても纏まる事が出来る。これがこの世の習いの条理である。
つまり、突き詰めれば、その「疎外のリスク」が「全体の享受メリット」に比して極小であれば組織は成り立つ。

「離散防止の役目」=「疎外のリスク」<「全体の享受メリット」=「御師制度」

この世は以上の数式論が成り立つ。

この「離散防止の役目」を果たしたのが「御師制度」であった。

この「単なる御師制度」では駄目であった様である工夫が成されている。
そもそも、この「商業組合」に持ち込んだ「御師制度」は、資料から読み取るに、可成り初期段階に持ち込まれていたと観られる。

幾ら「自由」の「商業組合」とは云え、「社会の自由」は「封建制度と氏家制度」とで出来ている限りふ「個人の概念」”は制限される範囲に在ったし、現在の様にそもそも体質的にそう「自由な発想の概念」を持ち合わせていなかった筈で、「社会全般の概念」がそうであった筈である。
むしろ、どちらかと云うと、「古式豊かな概念」の中に、他の者達より「新しい自由な概念」をより多く持ち合わせていたと云う事であろう。
この「新しい自由な概念」なるものは、現在の発想する「自由な概念」と云うものでは無く、「商業」と云うものから発展した概念であったと観られる。

伊勢には、昔から、”「近江泥棒に伊勢乞食」”と言う言葉が遺されている。
つまり、「近江商人」は“「がめつい商法」”、に対して「伊勢商人」は、「質素倹約の商法」の意味で呼ばれていた。
元より、この「質素倹約の商法」の“「商い」”をより豊かにするには、「質素倹約」の「固定概念」に捉われていては「商い」は成り立たない。
“「商い」”と云うものは、そもそもその「自由の原点」から発想されているものである。
この「質素倹約の商法」の「商いの概念」の中で発育した範囲からの“「自由概念」”であったと観られる。

当に、奈良期から行われていた「外国との貿易」はこの概念の範囲からのものであった筈である。

「質素倹約商法」+「自由」=「伊勢商法」+「商業組合」

以上の関係式が成り立つ商法であった。

遺された手紙の中の一節を読み取ると、「質素倹約の商法」の中での「商業組合」は、丁度、現在で云えば、”「産業別と職能別の共同連合会」の形式”に似ていると考えられる。
これに適合させた「御師制度」が、「単なる御師制度」では無かったと云う事の“もう一つの策”で有ったと観られる。

「質素倹約の商法」+「自由」=「伊勢商法」+「商業組合」+「御師制度」

この会、即ち、「御師制度」が「自由」から起こる“外郭の飛散を留める仕組み”を果たしていたと云う事に成る。

では、“一体、「商業組合と御師制度の関係」がどの様な仕組みに成っていたのか“と云う事である。
これが、”「単なる御師制度」では無かった“とする他の”もう一つの策“とは、「産業別と職能別の共同の連合会の様な類似形式の上に、この「個々の組織の頭」に”伊勢紀州の「郷士衆」を置いた”と云う事であった。

「質素倹約商法」+「自由」+「郷士衆」=「伊勢商法」+「商業組合」+「御師制度」

「個々の職能の組織の職人」をその「共同連合会の様な形式」と成っていた会の「会頭」に置くのでは無く、その「職能の責任者(差配頭)」としてその「地域の郷士」を置いて、その「組織」を纏めさせ「全体の生産工程」をも差配させていた模様である。

そしてこの「郷士の家人」がこの「事務的な実務」を担っていた事が判って居る。
この「郷士家人」とは、その「職能者の家筋の者」であった様である。
そして、身分格式を問わず「職能者全員」は「下級武士を含む農工の民」の広い範囲で構成されていたのである。
ここで「職能集団がまとまる糸筋」なるものを作り上げていた事に成る。

この「伊勢紀州の郷士」には、前段で論じた様に、“「郷士頭」”があって、「商業組合」とは別に、「青木氏との関係」で繋がっていた。
この事から、この“「郷士頭」”は、「青木氏四家との関係」と「職能集団の差配頭の郷士との関係」と「20近くあった青木氏部の頭」と「門徒衆との関係の頭」としての“「五つの責任」”を負っていた事に成る。

この様に前段でも論じたが、この「下部組織の長」と観られる“「郷士頭」”は実に重責な位置を維持していた事に成る。
この「郷士頭」は、資料の中では“「郷士頭」”と書かれているが、普通の呼称は、単に“「・・の長」等”と氏名を着けて「敬愛の意味」を込めて呼ばれていた模様である。
故に、現存する幾つかの「郷士頭の家筋」には、現在までも「青木氏の生き様」を証明し得る重要な手紙などの資料と成るものが保存されていたのである。

(注釈 筆者幼少の頃には南勢と南紀のこの何軒かの「郷士頭の家:縁者」に何日も泊まる旅をした事を覚えている。
中には現在でも南紀の老舗大旅館を営んでいる。)

これらの資料によると、年に「二度の全体会議(戦略会議)」と成る集会があり、上記の「五つの責任」の「組織」のそれぞれの部門集会は「四度の会議(営業会議)」が催され、それぞれの「職能部門の会議(工程会議)」は「毎月」に行われていた事に成っている。

ところが年に一度、秋の頃に「祭りの様な集会」が、「伊勢松阪青木氏の福家の屋敷と菩提寺」であって、「土産物」を貰って帰る等の催しの祭事で、職能者の作業者全員(組合員)が参加した様で、「遠祖地のある南紀」からも「伊勢松阪」までも二日掛けても参加している。
要するに、「伊勢運動会」であり、「二つある菩提寺」は「てんてこ舞い」であったと記されている。

この事は,「五つの責任」に加えて次ぎの「六つの組織」で構成されていた。
「青木氏の四家組織」(A)
「商業組合の組織」(B)
「御師制度の組織」(C)
「紀州伊勢郷士衆の組織」(D)と、
「郷士頭」が世話をしていた「門徒衆との組織」(E)

更には、次ぎの組織が加えられる。
「神明社の連携」と「伊勢信濃シンジケート組織」(F)

以上が有機的に関係を維持し動いていたと云う事を示している。

これが「商業組合」を効果的に存続させていた事の大きな要因であった。

当然に、この「六つの組織」で「15地域との関係」にも連携が取れ易かったのである。
「15地域」にもこれとほぼ似た組織形態を採っていた事が「越後青木氏」や「越前青木氏」の資料からも判っている。
この「15地域との関係」は「伊勢青木氏四家」が責任を持って維持していたのである。
「伊勢青木氏四家」が持つ組織を更に活用した「重層的な組織」を作り上げていた。
この「情報のやり取り」は「神明社」が行い、「連絡と搬送と護衛」は「伊勢信濃シンジケート」が行っていたのである。

そこで、「江戸幕府の組織」にこの“「御師制度」”を敷いたのには、次ぎの複雑な経緯の事があった。
若い時に伊勢で見聞きして経験していた「吉宗」が持ち込んだのには、ただ単に官僚が管轄する「職能集団の統括」と云う事の目的だけでは無く、「インフレ策」と「デフレ策」の中間とする「リフレーション」を目標とする「享保改革」には、“欠かせない制度“であったのだ。

そもそも、既に、開幕後100年近くも経っていて、官僚が管轄する幕府の職能集団の統括手段は前からもあって、遜色なくそれなりに機能していた。
それなのに新たに、この「御師制度」を態々、採用しているのには、「改革」である以上はそれを押しのけて“採用しなければならない必然性”があった事に成る。
むしろ、上記した様に、“「鷹司信子や天英院等の期待」“を背負って、“「商業組合の功績」を背景に世の中を変えられる”と云う事で「将軍」に成った以上は、“是が非でも”実行せねばならない「施策の一つ」でもあった。

それは概して、次ぎの関係式が成り立っていた。

「質素倹約商法」+「自由」+「郷士衆」=「伊勢商法」+「商業組合」+「御師制度」

以上の基本関係式の上に次ぎの数式論を展開させたのである。

「リフレーション策」=「享保改革」=「商業組合」=「御師制度の関係」

以上の「完全な二つの数式」と云っても過言では無かった。

それは「吉宗」に同行した「青木氏」が、前段で論じた「15地域」に採用している「商業組合」なる「改革的組織」を幕府の中に持ち込んで、“「リフレーション」で改革を進めようとする”には、上記した様に是非に必要とする「政策手段」であったのである。
要するに、伊勢紀州から始めて「15地域」に広めて成功した「商業組合と御師制度」を持ち込み、それを「リフレーション政策の基軸」に据えたのである。

その証拠には、「将軍」に成る為に行列をして江戸に向けて移動する隊とは別に、記録によると“「青木氏の別動隊」”として同行した中に、「御師制度の郷士頭」が数名参加している。
そこで疑問は、”何で「御師制度の郷士頭」が参加しているのか”である。

本来なら必要無い筈であるが、初めからその心算であった事を物語っている。
つまり、「上記の関係式」を描いての事であった事に成る。

況や、「将軍」に成る前提(鷹司信子や天英院等の期待)として据えていた事に成る。
確かに説得に納得した「鷹司信子や天英院等の期待」もあったが、筆者は、“宗家外からの将軍”と云う事に捉われて反対する「幕閣」を、ある理屈で「抑え込む手段」でもあったとも観ている。

(注釈 この内の「郷士頭」の1名が「隅切り角桔梗紋の職能青木氏」(「青木氏部」)を名乗って江戸に子孫を遺している。
明らかに「伊勢の職能集団」が同行していた証拠である。)

江戸初期1600年頃に松阪に「商業組合の拠点」を構え、「商業組合と提携商人の改革」を始めて、頼宣入城(1619年)を経て「商業組合」が「15地域」で成功しての成長期から、1716年までには約100年の「改革の熟成期間」があって、既に、この「システム」は確立して「15地域」を結ぶ「一つの商業圏」を構成して隆盛期に入っていた時期でもあった。
(1603年に家康は「征夷大将軍」に成る。)
ところが、この時期の享保期の前の「元禄期から宝永期」までは、「天変地異の飢饉」などが異常なまでに多発し、この為に経済が疲弊し庶民は飢餓していた。
合わせて、政治は次ぎの様に「失政」を重ねていた。

そこで「享保の前までの幕府」は,成熟していない”「三貨制度」”の下で「貨幣の鋳造比率」を変える等で逃げようとした。
然し、ところがこれが「逆効果]と成り、「15地域の経済圏」を除く他の地域の経済は、極めて疲弊し最悪の状況下であった。
むしろ、「幕府]はどうしていいか判らないと云う状況下に陥っていた。
ところが、「15地域」は違っていた。
従って、この「15地域の経済圏」は、隆盛を極め周囲から「譫妄の的」であって、周囲は「一揆」とは成らずとも「騒動」が各地で多発していた。
当然に、御三家の紀州藩は「吉宗」を盛り立てて「青木氏の勘定方指導」で経済も然ること乍ら「民の心」も平癒に成っていたのであった。

(注釈 どの程度の紀州藩の「善政」かと云うと、何と前政の「幕府からの借財10万両の返済」を一挙に成し遂げたのである。)

前段で論じた様に、「1619年頼宣入城」までは「紀州」は周囲と異なり「錯乱に近い状況」であったのに、この「商業組合の改革」で「殖産事業」が進み「豊潤な改革」で発展を遂げていたのである。
(前段で論じた下記の「一揆年譜」参照)

幕府の一部(鷹司信子と天英院)には、これを観て、「解決し得る次ぎの為政者]と成る「将軍」には、この「善政を成している伊勢紀州」から、又、「15地域を改革して成功裏に収めていた青木氏」が「親代わり」に成っている「吉宗」を適任として「周囲の反対」を押し切ってでも「将軍」に押し出したと思われる。

注釈として、公説の一説では、「家康との世代的近さ」や「綱吉の家系被弱」により「将軍」に成ったとされているが、真因は決まっていない。
社会はそんな説の様な生易しい状況では無かった。

市場では「後継者の決め方」では「幕府」は潰れるとさえ思われていて、ある「東西の二つの大大名」が「不穏な動き」を現実にしていたのである。
確かに「綱吉から綱継」まで続いて「三代急逝」が続いて偶然に起こったのであるが、そうであるとしたら、「御三家」と云う範囲の事では無くても他の「近親の松平氏」でも成り得る。
(筆者は[不穏な動き]を察知した幕閣による暗殺と観ている。)

そもそも、渦中の「尾張藩」は、元々は「紀州藩」と「水戸藩」を差し置いて「御三家の筆頭格」と位置付けられていた家柄で正式に格式も上位であった。
且つ、「将軍宗家」より次々と「養子」を入れて、「宗家血縁の筆頭家柄」として存続されていたものである。
尚又、「尾張藩」はこの務めを果たすべく“「御連枝族」”という特別の「分家族」を置き、「尾張藩の宗家」に「世継ぎ」が欠けた場合は、この「御連枝族」から充足する仕組みに成っていた。
且つ、「将軍家]から「庸氏族]が次ぎつから次へと「養子」が入る慣習に従っていた事から、その後に「将軍家」に戻すと云う組織が出来上がっていたのである。
絶対に「将軍家宗家の血筋」を男系女系に関わらず引き継ぐ事の出来る体制にあったのである。

これでは、「御三家」と云えども「水戸藩」と「紀州藩」は、実質は一種の「飾りの様な立場」にあった。
その為に、取り分け、「水戸藩」は事前に「初代遺訓」として、初めから「御意見番の立場」を護る事を云い伝えられていたのである。
又、その「尾張藩」では、「水戸藩」と同じ様に、「初代遺訓(「一族秘訓)」があって、“「王命に依って催さるる事」”とされていた。
これを護っていた「家臣団」には、“初代の家系からは将軍をだせない”と云う不満が強く、「維新の戦い」の際は官軍側に付いた「謂れの結果」となったのである。
「紀州藩」にしても、前段で論じた様に、「将軍家」から「紀州藩初代頼宣」が「謀反人の家」と云うレッテルを張られてしまった経緯があって、“尾張藩の様に将軍家との血縁のつながり”を持つ事が出来なかった。
「尾張藩の家臣団の不満」と同じ様に、「紀州藩の家臣団」と成った「藤原秀郷一門(伊勢藤氏等)」から成る伊勢紀州の「郷士衆の家臣団」にも只ならぬ警戒心が強かったのである。

この事から、この「掟」とも成っていた「慣習の基元」にある「尾張藩」を跳ね除けて「紀州藩」と成ったのである。
「尾張藩の継友」や家系には「将軍」に成るに決定的な欠陥があった訳でも何でもない。
むしろ、「三代急逝の偶然」があった後であり、この時にこそ「家康の遺訓」に従い“存在する藩”であって「成るべくして成れる立場」にあった。
ところが、これらの条件を覆して「古い慣習掟」を崩してまでも、「紀州藩」に「将軍が廻る事等の要素」は上記する以外にはこの段階では全くは無かったのである。
どちらかと云うと、「当然に成るべき立場」にあって、「尾張藩」に執っては当に「晴天の霹靂」と云える出来事ではあった。

これでは、普通に考えても、藩主側は兎も角も、元からの「家臣団」には更に「強い遺恨」が残るのは必定で、遺らない方が氏家制度の中では無気力と批判されても仕方がない諸行であろう。
現実には、「尾張藩」には幕末まで将軍を出す事は無かった。

「吉宗」が行う「享保の改革」に、上記した様に真っ向から反対した「尾張藩の姿勢」は、この「経緯の事」から来ていると考えられる。
従って、この「二つの説」では、この「幕府」としても、況して、“「宗家」”と云う意味を持つ「家系の形式」を採っている「徳川氏」である限りは、この上記する「重要な慣習・掟」をも完全に無視した説にも成っている。
況して、「家康の遺訓」では、それまでは嫡子は子供の誰でも選んで据えても良い事に成っていて、要するに、原則、“「宗家」で「嫡男」は「長男」と云う慣習“を決めたのは家康そのものであった。

「お万の方」がこの「家康]に「世継ぎ」で”「争い」になっている事“を相談した時に「家康」がこの原則を始めて作った人物である。
それ以後、これに従って、大名格を始として「武士の家」の「世継ぎ争い」を避ける為にこの「原則の慣習」を護り始めた事に成ったのである。
従って、「徳川宗家」は「尾張藩」に「純然とした初代の尾張藩血筋」を継承するのでは無く、「将軍家の血筋」を「養子」として事前に何度も入れて、万が一の場合に「将軍家に戻す仕来り」を作って置いたのである。

(注釈 「伊勢青木氏」と1600年の初め頃に二度に渡り「家康と談合」を重ねたが、この時に「青木氏」の「四家制度」を知って「御三家の制度」にして模擬したと観ている。
その「将軍家」が「福家」とし、「御三家」が残りの「三家」とし、「尾張藩」には「将軍家血筋の養子家」、即ち、前段で論じた様に、「青木氏」の「孫域」までを「福家の世継ぎ」の「“子供”の仕来り」を類似させて、「徳川氏の仕来り」を作り上げたと観ている。)

この経緯から,「長男」であるかは別として、“「宗家」”と云う「本血筋を護り通す本家の家筋」を定めたのであるから、「徳川氏」が絶対に護らなければならない「家康遺訓」にも反する事に成っているのである。
この事からこの「二つの説」は実に付け焼刃の具体性に欠ける説と成る。
もっと云い換えれば、これらの「二つの説」では“誰でも良かった”と云う事に成り得る。
そんな生易しい世継ぎの事では無かった。

あるとすれば、「綱吉(五代)」が行う当時の「幕府の政治状況」、取り分け、「経済状況」と「幕府の財政状況」は「瀕死の床」に在った。

(注釈 四代綱家は、多くの学者を登用して「政治的には多くの令制」を敷いて安定したが経済は全く疲弊していた。
「五代目の綱吉」は人物が良すぎて周囲に左右されてこの「政治」さえも低下させてしまった。)

そもそも、「吉宗」が、“「幕府中興の祖」”と云われている限りは、この「二つの説の論説」とは一致せず、この「将軍擁立説」は兎も角もおかしい。
唯、共通する事としては、「二つの説」は、「吉宗」が”紀州藩財政を立て直した“と云う事には否定はしていない。

上記する様に、「吉宗」は伊勢に育ち「青木氏と加納氏」が「親代わり」に成って22歳まで育てられて、「青木氏の商業活動」などの事に関わって見聞して経験を拡げて来た。
大変真面目で、論理性が強く、「経済の成り立ち」や「社会構造の成り立ち」や「歴史」などにも強く興味を持った「堅実な人物]で、「頭の回転の速い機敏な性格」であったと「青木氏」には伝えられている。
ところが、この「紀州藩」でも藩主と成るべき者が、これまた父、兄、次兄と不思議に三代続いて急逝して、成るべき立場に無かった身分の低い「吉宗」(嫡子外)に「藩主の座」が廻って来る運命にあって、「時代」が「吉宗」を「将軍」まで押し上げるべく動いた事では事実である。
この為に、他の兄弟と共に、態々、紀州の膝元に置かず、殆ど付き人となった下級家臣の実家先の「伊勢加納氏(祖先は伊勢秀郷一門の郷士衆)」と「二つの伊勢青木氏」に隠す様に預けた経緯を持っていたのである。
確かにこんな「二度の急逝の偶然」は考え難い。
設えたにしても起こり得ない“「偶然」”でもある。(今回は真因説は不問)
幾ら何でもこの“「二つの偶然」”が、“「将軍」にする”と云う事だけでは現実の世の中では起こらない。
この“「二つの偶然」”を利用して、それなりの「根拠」と「財力」とを以って「人」が動けば成し得るものである。
決してこの“「単なる偶然」”だけでは成し得ない。

この図式には、古来より次ぎの数式が成り立つ。

「偶然(運)」+「根拠(実績)」+「財力(背景)」+「地域力(基盤)」+「人(知力)」=「目的」(将軍)

以上の数式論が必ず働いている。例外はない。

但し、この“「二つの偶然」”を「動かす力」が必要なのである。
「動かす力」には上記の「六つの要素」が働く。

この「六つの要素」が大きければ大きい程に「目的」を「叶える力」は大きく成り成就する。
要するに、「吉宗」にはこの「六つの要素」が極めて高かった事を示している。

要素-1 「偶然(運)」=「二度の急逝」
要素-2 「根拠(実績)」=「15地域の商業組合策」
要素-3 「財力(背景)」=「青木氏の500万両の経済力」
要素-4 「地域力(基盤)」=「御三家」
要素-5 「人(知力)」=「郷士衆と御師制度」
要素-6 「目的」(将軍)=「改革の理想」

「全国の青木氏」はこの「二つの偶然」等の「六つ要素」の高さを観て、「総力」を挙げて“「吉宗」を「将軍」に”と「尾張藩の慣習・掟のある事の経緯」を知りながらも、現実には八方手を尽くして押し出した。
この時、“紀州藩から将軍に“と云う事があったのかと云う事で持つ意味が違うが、この記録は未だ見つからない。

筆者は、「頼宣謀反の経緯」があって、未だ、「紀州藩主四代の吉宗」(三代四代は急逝で実質三代 年数では100年間 実質は頼宣1671年-光貞1705年 10年間程度の経過期間)までである。
従って、この「遺恨」は全く消えていないと観ていて、「水戸藩」と同じく、この段階では「尾張藩の慣習・掟のある事の経緯」を知っていれば、“紀州藩から将軍を”と云う発想は、先ずは官僚からは普通では起こらないだろうと観ている。

「吉宗の意志」では、「将軍」に成ろうとするは「意志と行動」は,「吉宗の発言や行状の記録」から無かった様である。

「吉宗と官僚」からは無かったとすると、“「周囲の人」”と成って来る。
そうすると、「青木氏等の郷士衆」と「伊勢藤氏の青木氏を含む秀郷一門」であった事に成る。

依って、上記の数式論から、「要素-2345」と成り、この「4/6の事」は「周囲の要素」で占めている事に成る。

「紀州藩の家臣団の官僚」が、「4/6の事」から “将軍に押し出すと云う事”は無理と云う判断と成り得て先ず無い事は判る。

「吉宗が持つ要素」は、「要素-1と6」と成る。

ところが、次ぎの様に働く筈である。

「要素-4」では、「地域力(基盤)」=「御三家」では、次ぎの様に成る。
「家臣団の賛同」が得られない事(基盤)
「尾張藩の慣習・掟のある事の経緯」の事(御三家)、

「要素-6」では、次ぎの様に成る。
「目的と成る改革」を実行するには、これを「支える周囲」を含む「地域の力」(青木氏)の事

以上の「三つの事」から、「吉宗自身」には幾らかのものはあったと考えられるが充分には備わっていない。

結局は、「要素-6」が「決めて」と成るが、この「要素-6」はそもそも「個人」でそもそも成し得ない。
「家臣団、青木氏、郷士衆」、も含めて、“「周囲の力」”で「具体的」に作り上げられるものである。
とすると、「吉宗の持つ要素」は「要素-1」だけと成るが、実際はそうでは無かった。

確かに、「吉宗」には、記録によると、上記の通りの「器」としての資質では、人より「行動的」で、「判断力」が良く、「調整力」を持ち、「理解力」は特段優れ、「公平性」のある「持ち主」で、「人の話をよく聞く事」にあったと成る。
つまり、「人」を動かす「大きな組織集団の頭目資質」があったと云う事に成る。

故に、「要素-1」の「偶然」と、この「持って生まれた性格」が一致したのではないかと観られる。
ところが、唯、この「継友」にもこの「要素-1」の「偶然」が「吉宗」と同じく尾張藩に起こっているのである。

矢張り、兄の四代、甥の五代がこれも不思議に急逝していて、「部屋住み」であった「継友」に廻って来て第六代藩主と成った経緯を持っている。

「違っている点」が決定的に在った。
それは、混乱期に「将軍として成り得るの資質」にあった。
「継友」は異常なまでも「ケチで短慮」あって、尾張でも”「切干大根」”のあだ名があって有名な事であった。
この事があって、その質にあらずとして不満を持つ「在来の家臣団と重臣」は「遺訓」を理由にして、上記した様に「筆頭の将軍継承藩」であり乍ら、就任運動を全くしなかった。

何と「不文律な行動]も多く在り、その「資質」から家臣と庶民から信望が無かったのであり、その為に母方は公家で在りながらも「官位の申請(大納言)」もしなかった為に「将軍に成り得る資格」を失って仕舞ったのである。
家臣と重臣から全く反抗されていたのである。
つまり、「要素-6」は無かったとされている。

しかし、反面、一部擁立派はこの批判に抗する為に、「綱吉の放漫財政」を質す事無く、尾張藩では逆にこれを補う為に家臣の俸給と強引な人員整理を実行し出費を抑えて黒字を残した。
しかし、家臣からは完全に賛同と支持を失った。

「家人」や「家臣」が犠牲に成るこの強引な「財政立直し」であって、「市場の経済的改革」を経て市場から得た税の獲得では無かった。
ただ一人(異母弟)の「将軍擁立派」が誉めそやした「名古屋と云う局部的で一時的な実績」であって、況や「ケチと短気」から来る単なる「緊縮財政」を採っただけであった。
これで、「市場の力」を温存した為に、名古屋だけには緊縮財政での金が落ちて確かに名古屋は発展し人口も増えたし、「吉宗の享保の改革」で圧迫を受けた「江戸商人」の「三井家の越後屋」も後に名古屋で「インフレ策」を採る「継友」に協力をした。
ここは、「江戸商人」の「三井家の越後屋」で一見して「要素-3」には成るが、あくまでも、「経済的利益での結び付き」であり、決して「親代わりの立場」と「吉宗の資質」と「家臣の賛同と支持」を得てでの「強い結びつき」では無かった。


その「資質」を「周囲の者」(「要素-6」 青木氏等)が見抜いて、先ずは押し出したと成る。
この「性格的な資質」は、「吉宗」の「生みの親の母(湯殿女)」からのものであった。
先天的には母親の郷の「紀州巨勢氏」と、後天的には伊勢の「育ての親」の「青木氏と加納氏」から形成されたものであろう。

(注釈 「秀郷一門の伊勢郷士」であった「付人の加納氏」も「二足の草鞋策」で「加納屋」を営む。)

そこで、「継友」と「吉宗」には、「尾張藩」と「紀州藩」とには、“一体何が違ったのか”と云う疑問が出る。
上記の「六つの要素」で比較して観ると、結局はその違いは次ぎの結果と成り得る。

要素-1 「偶然(運)」=「二度の急逝」
要素-2 「根拠(実績)」=「15地域の商業組合策」
要素-3 「財力(背景)」=「青木氏の500万両の経済力」
要素-4 「地域力(基盤)」=「御三家」
要素-5 「人(知力)」=「郷士衆と御師制度」
要素-6 「目的」(将軍)=「改革の理想」

「吉宗」  「継友」
要素-1 「吉宗」<「継友」
要素-2 「吉宗」>「継友」
要素-3 「吉宗」>「継友」
要素-4 「吉宗」<「継友」
要素-5 「吉宗」>「継友」
要素-6 「吉宗」=「継友」

そこで、「吉宗側」では「要素-5」、「継友側」では「要素-4」は比べ物にならない程に相互に差違がある。
確かに、「要素-1」の「偶然(運)」では、吉宗には「紀州藩での三代急逝」があったが、これは吉宗が藩主に成れたと云う事に外ならない。(継友にもあった。)

従って、この「六つの要素」の比較に入れたと云う事であって「将軍」に直接的な要因とはならない。

吉宗自身としては別として、「吉宗側の周囲(要素-6)」に執っては「要素-1」は大きく働くと観た筈である。
そうすると、「継友側」に「要素-4」の上記した経緯がある事に依り、「要素-1」は「継友側」に有利に働く事に成る。
結局、「吉宗側」に「要素-2」と「要素-3」が有利と成る。

但し、「要素-5」は「要素-2」と「要素-3」に連動している。
従って、「要素-5」と「要素-4」の差違は、「要素-5」の「吉宗側」に有利に働く事に成る。
これは「吉宗の周囲要素」と成る事から、「要素-6」に連動する事に成る。

(「要素-2」+「要素-3」)←(「要素-5」+「要素-6」)

以上の数式論が起こって、「鷹司信子と天英院」は「説得」に応じたのであろう。
「幕閣」は「要素-4」だけでは「ごり押し」は無理と考え、「抵抗」をこの数式論から緩め、遂には、「鷹司信子と天英院の説得劇」で、「将来の事」から不利と観て、最終的に“黙った”と云う事に成る。

その「押し出す根拠」は、「青木氏等が行う経済改革」を経験していて「親代わり」に成って紀州藩(勘定方指導)を,そして、周囲も、遂には“幕府を”と成って、世間や経済に弱い筈の「鷹司信子や天英院」の幕政から遠く離れた女性陣に、この現状の世間の最悪の経済状況を説き知らしめ、改善し改革するには、「上記の実績」を説き「経済説論」を強力に陰から訴えたのであろう。

故に、そうで無ければ、常に「保守性の強い宗家論」に引きずられる幕府を変える事等は先ず考え難い。
両説の二説であるなら、「綱吉の後の処」でも良かった筈である。

偶然にも、五、六、七代と宗家には三代続いて不思議に急逝すると云う事が起こった。
一時的には幕府には決定する嗣子が無く成り、「世継ぎの決定者」は「遺族の女性陣と幕閣」と云う事に成る。
そうすると「幕閣」は、持論の「宗家論」が難しいと云う事に成れば、必然的に「将軍継承者」は、上記した様に遺訓に依り「ご意見番」に徹する「水戸家」は兎も角も「尾張家」から持ってこようとするは必然である。
決して「謀反の嫌疑」を掛けられた「紀州藩」と成る事は無い。

この時に、「幕閣」は、「尾張藩(継友)」を押し出す以上は、上記の「偶然(運)」+「根拠(実績)」+「財力(背景)」+「地域力(基盤)」+「人(知力)」=「目的」(将軍)の図式の比較が必然的に行われる事に成る。
然し、「吉宗」が持つこれに優越する「継承対象者」が尾張藩に無ければ、「要素-4」の「家康の遺訓」と成る“「御三家論」の展開”では、最早、難しく成ったのである。

その前に、この侭では「世間の不満」を背景に「北と南の雄藩」が動き「戦乱」に戻り、“「江戸幕府」が危ない”とも観たのではないかと思われる。(現実に動きが在った。)

結局、それには「幕府」や「幕閣」も、“現状を打破し脱し改革に至るまでの道筋の状態”に出来る事が「最大の対策」と成る。
果たして、「幕府」や「幕閣」の持論の「御三家論・宗家論」では「世継ぎ」が叶ったとしても“現状を打破し脱し改革に至るまでの道筋の状態”にするには誰が考えても無理である事は明明白白の状況と成っていた。
況して、「継友」には「将軍」としての“資質・器に欠けると云う批判”が高ぶる以上は、これを無理押しする事には、「北と南の雄藩」を抑えきれないと観たのであろう。

上記の図式から観て、「吉宗の優れる処」と「吉宗の背後の力」を認めて「宗家外の吉宗」を敢えて「将軍」にする事を渋々認めたのである。
結果としては、「御三家論(継友)」<「周囲論(吉宗)」が、“現状を打破し脱し改革に至るまでの道筋の状態”にする事が出来ると観たのである。

「次の課題」は、「世間に疎い女性の遺族」をどの様に説くかの難題で、それを誰がするかの問題もあった。
取り分け、「御三家論(継友)」には確固たる現状を打破し得る「経済政策論」が無かった。
確かに、「吉宗のリフレーション策」に対抗して、「継友」は「インフレーション策」を展開して「享保の改革」を批判した。
然し、「15地域の様な実績」は無かったし、「信長秀吉」が招いた「伊勢紀州の混乱」(門徒衆)を鎮めただけでは無く、他藩では出来ていなかった難題を事も無げに「青木氏の勘定方指導」で「紀州藩の財政の立て直し」にも成功させ、「商業組合と提携商人」で「15地域の地域経済」までも発展させると云う「離れ業」をも成し遂げた。

これを観ていた「北と南の雄藩」も矛先を納めるしか無かった。
当然に、「北と南の雄藩」は納まるとしたら、最後は“「次の課題」”と成る。
この手順を間違わずに踏めば納まり、“現状を打破し脱し改革に至るまでの道筋の状態”を論じられる「吉宗論」に傾く。
「紀州藩の重臣」と「全国の青木氏」がこれを担う事に成るだろう。

これを支えるのが拠点と成っている「商業組合と提携商人」と殖産を推し進める職能の「御師制度の伊勢紀州の郷士衆」である。
上段でも論じたが、これを担ったのが実績をベースに「財力と説得力」を持つ「二つの伊勢青木氏」にしかない。
何と「二つの伊勢青木氏」は押し出した。
そして、“世間や経済に弱い筈の「鷹司信子や天英院」の「幕政から遠く離れた大奥女性陣」”の説得に成功させたのである。
これで、「抵抗勢力」は「継友」だけと成り得て、「将軍資質」に欠け「家臣の信頼」を失っている藩主は「ただの人」に成り得る。

ここまで進むと「後の課題」は、「将軍にする為の吉宗側の段取り」に在った。
「経済改革の基幹」と成る「商業組合と提携商人」は「15地域」で「100年の実績」で出来ている。
後は、「御師制度の職能部門」を“「幕政仕様」”にどう仕立てるかその“「下準備」”に在った。

そこで、“「幕政仕様」”にする為の理解として「御師制度の職能制度」に付いてもう一度論じて置く。
そもそも、これは全国に配置された500社にも成る「神明社」に関わるあらゆる職能で成り立つ「大職能組織」は、この「職能」を「円滑に運営する方法」として古来から次ぎの(a)と(b)と(c)と(d)が採用されていた。

「指揮命令系統」(a)
「職能者養育」(b)
「情報伝達」(c)
「資材調達」(d)

以上を明確にした制度であった。

然し、室町期にはこれに付随させて次ぎの事(e)(f)を制度に組み込んだ。

「情報獲得源の組織」(e)
「シンジケートとの連携」(f)

以上としても活躍させていた。

「青木氏」は「伊勢神宮」を始めとする「神明社系」のその「御師の首魁」の位置にあった。
前段で論じた様に、自らも次ぎの「六つの組織」を奈良期から持っていた。
“「五家五流の青木氏の連携」(イ)“には、“「神明社等」(ロ)“を建設する“「青木氏部」(ハ)“と云う“「職能集団」(ニ)”、これらを保護すると「シンジケート(ホ)」との以上の「五つの組織」が存在していた。

ところが、「二足の草鞋策」を本格的に稼働させた時期の925年頃からの平安期には、次ぎの事が加えられた。
“「和紙殖産」を担う「職能集団」(ヘ)“もこの「青木氏部」に加わった。
そして、江戸期には本論の“「商業組合の組織」(ト)”に「御師制度」(チ)が加えられた。

「五家五流の青木氏の連携」(イ)
「神明社等」(ロ)
「青木氏部」(ハ)
「職能集団」(ニ)、
「シンジケート(ホ)」
「和紙殖産」を担う「職能集団」(ヘ)
「商業組合の組織」(ト)
「御師制度」(チ)

ところが(イ)に付いて平安中期には「近江と美濃」の「青木氏部」が「地域の抗争」が激化して、これに影響を受けて内部でも抗争が起こり衰退を興したのである。
唯、これを観た朝廷は、「朝廷の政治と経済」に大きく関わっていた「皇親族」としてのこの「青木氏の組織」を補完する事から、「皇親族青木氏の母方」であった事から「藤原秀郷一門」に青木氏と官位官職の一切を同格として名乗る事を命じたのである。
結局、残る勢力は「伊勢」と「信濃」と「甲斐」と成ったが、室町期に入ると、複雑な内部抗争が起こり、「甲斐の御師制度と殖産」は弱体して「伊勢と信濃の二流」と成ってしまった。

「青木氏の御師制度」には、次ぎの様な三つの御師があった。

「伊勢神宮の御師」(A)
「青木氏部の御師」(B)
「商業組合の御師」(C)

以上を務めていた事に成る。

この“「3つの御師の組織」“を「江戸幕府の職能集団」(1)に適用して「享保の改革の組織改革」(2)を実行したのである。

「江戸幕府の職能集団」にこの制度を必要だからと云う事で持ち込むにはそれなりの理由があった。

それは、「江戸幕府の職能集団」には「江戸商人との関係」を大きく維持していた。
ところが、この江戸組織は、前段でも論じた様に、(イ)(ロ)(ハ)をベースとする「商業組合の商人」では無かった。
むしろ、「保守的抵抗勢力」であった。

この「江戸幕府の官僚集団」がこの「江戸幕府の職能集団」の組織と繋がっている事は、「(イ)(ロ)(ハ)をベースとする商業組合」の「政策的な効果」は出る事は先ず無い。

この事から、先ず潰される事は必定で、況してや、「御師制度」と成れば尚の事である。
そうすると、「保守的抵抗勢力」の「職能部の官僚機構」と「江戸商人」を潰す事は経済には効果的では無く、混乱を招くだけで、むしろ今以上に「強烈な抵抗勢力」と成り得る。
それには、「懐柔策」を採る必要が戦略的には必要であって、何にしても「保守的抵抗勢力」の「江戸商人」を変える事は直接的に換える事は難しい。
従って、これは別にして、先ずは「職能部の官僚機構」を変える事で、必然的に問題と成る「江戸職人との関係」を軽減させて行くことが出来る。
そして、この過程で、伊勢紀州からこの専門家を呼び寄せて人事で入れて、その官僚の「職能部門を管理する長に据えて掛からせれば、次第に問題の「官僚機構」は変化を起こし、結果として職人との仲介役と成っている“「江戸商人」”は換わらざるを得ない結果と成り得る。
(三井家の越後屋名古屋に出店等)

では、“職能管理部門の長だけを変えれば換わるか“と云うとそんな簡単な事では無い。
当然にこの「長」は、“職能に熟知している事”は勿論の事として、その下に働く者も熟知し、上記する「御師制度」は勿論の事、「商業組合の経済機構の組織」の事も合わせて熟知している者ではならない。
だとすると、必然的に、「紀州藩の職能部門の家臣」と、これと連携して働いていた「郷士衆か郷士頭」を呼び寄せて「陪臣」にして、要所々に配置して働かせる事が必要である事に成る。

上記した様に、先ず「青木氏の別動隊」に「郷士頭」が同行していたのは、この為の先行隊であった事に成り、「吉宗の政治の履歴」を観ると、途中で「大量の紀州家臣団200人」を呼び寄せている。
この事で、元からいた「幕臣の反対(抵抗)運動」が起こっていて、それを押し切る形で大量に呼び寄せている。
彼の有名な大岡越前守等はその典型的な人事であった。

当然に、この「組織改革」には“「反抗勢力」”があり、その形の表れとして“「訴訟」”が起こるであろう。
現実に、記録を観ると、民間では無く「紀州藩」を相手に「幕府」が訴訟を多く起こしている。

それも、「御三家の紀州藩」に対してである。
その多くは、「寺社の領地」、「紀州藩の領地]、「紀州藩重臣の領地」や「伊勢紀州の郷氏の地権」や、挙句は紀州藩が管理する「天領地」の「地権争い」で主に争われている。

伊勢紀州は古来より「不入不倫の権」で護られていた事から、「遷宮地」でもあり旧来からの「天領地」や「青木氏や伊勢藤氏」等の「郷氏領地の地権」や「天皇家に由来する神社仏閣の領地」「熊野神社等の広大な社領」が戦乱に巻き込まれずに存続し、それが「紀州藩の管理」の下に置かれていた。
実質は「藩領」としては大きくなかったが、逆にこの事からこれらに対する管理費を投入せずとも「莫大な地権料」は紀州藩に固定的に安定して入る仕組みに成っていた。
「幕府」はこれを崩す事で“紀州藩を根底から弱める事が出来る”として抵抗して来たのであろう。

その一角の訴訟を「大岡」は、下記する様に、“「一切松阪有利の慣例」”の慣例を破ってでも、幕府側に裁定を下したのである。
有名な事である。
恐らくは、この「抵抗勢力」を弱めるために採った策であったと観られる。

“「一切松阪有利の慣例」”の慣例に従えば、上記の「訴訟の対象」と成った「地権問題」は紀州藩側に下る事に成り、益々、「幕府の抵抗勢力」は「反抗」を示す事に成り得る。
ところが、「吉宗」は、この「才知の効いた裁き」を”「大岡裁定」”を高く評価した。

「人」は変化に対して「不安」を持つ。
この「不安」を乗り越えてこそ進歩とその後に「改革」は起こる。
然し、不安其の侭では進歩は無いが、その不安を除こうとして「人」は「訴え」を起こす。
その「不安」を払拭させる事で乗り越えられるが、それには、「不安の訴えの声」を裁くには、この“「才知」”が事態を変化させて「改革」には「必須の必要条件」であるとして「大岡」を見込んだと観られる。
この事は、「大岡等の紀州家臣団」は、“「一切松阪有利の慣例」”の「裏側の実態」を熟知しているからこそ成し得た裁定である事に成る。

その証拠に、この“「一切松阪有利の慣例」”に従わず「見事な裁定」を下した殆どは、「天領地」や「青木氏」や「伊勢藤氏」等の平安期の古からの「郷氏領地の地権」や「天皇家に由来する神社仏閣の領地」と「遷宮地領」の四領地に対してであり、全て減額している。
明らかに、多くは「二つの青木氏が関わる地権の減額」とその「管理代行地」に成っている。

「幕府の抵抗勢力」の「反抗」を弱める手段として、「青木氏等の了解」の下で裁定を下したと観られる。
この事の詳細は、「青木氏」の全ての経緯を書いた「忘備録」は消失して無く成っている為に、残るのは「商業記録」であるが故に詳細は判らないが、不思議に極めて単純に記されているだけである。
これらの「地権消失」は「青木氏の経済と商業」に大きく左右する事でもあって、当然に「殖産地」と成っている「地領」である事から「商業組合」にも大きく影響を及ぼすものであった。
然し、この“「単純」”と云うのは「了解した」からこそ「単純」に書き記したと考えられる。

注釈として 唯、「青木氏の口伝」では、「明治期の地租改正」と共に「2度の地権放棄」で半分に成ったと伝えられているが、これは明らかに“「不満」”であったと観られる。
そもそも「二つの青木氏」を含む「伊勢紀州の郷氏郷士衆団(家臣含み)」等が主導する新しい商業の「吉宗の改革」である以上は我慢したと観られる。
この時には「氏郷」や「家康」の{本領安堵策の南紀南勢」の「本領の地権」は殆ど手放したと伝えられている。
結局は、「二つの青木氏」は北勢域領と成った。

明治期には「地租改正」でこの残された「北勢域領の地権」も半減した。
この時、「郷士衆の地権」もその「所有の権利範囲」を限定して、聞くところでは最大で「一畝内=300坪=990m.m」と定められた模様であった。
一般の「郷士で家臣」であった者の地権範囲は、5間・5間=81m.m=「3LDKに小庭付き」と成った。

この「幕府の激しさ」を物語るものとしては、紀州藩の筆頭家老の田辺藩の田所氏の藩領と所領にも手を伸ばし,その激しさは尋常では無かった。
この時の根拠では、伊勢と紀州は「伊勢神宮の膝元」で全国でも「遷宮地」で「遷宮寺社」が最も多いし、従って、「天皇家の天領地」が多く、松阪も代表的な天領地であったが、江戸初期に紀州藩に吸収させて「飛び地領」とした。
ところが「幕府」はこれらの「遷宮寺社」の全てを「幕府資産」として「幕領」として接収し様とした。
これに「関連する地領」は当然に幕領と成るとして、「紀州藩領の田辺域」も「天領地」として扱われるとする言い分で訴訟の対象とされた。
これに依って伊勢紀州に「幕領」を増やす事で「紀州藩」を弱めようとしたのである。
田辺域は相当量が接収され「大きな犠牲」を負った事は事実であった。

要するに「大岡裁き」はこれに導き実行したのである。
然し、「大岡裁きの才知」は、上記の様に、この「地権」を”「細分化」して「均一化」した事”で「幕領分」に接収される範囲を小さく抑えたのである。

注釈の通り、“「一切松阪有利の慣例」”を崩し、且つ、「幕領の言い分」にも配慮し、「郷士衆の地権」にも配慮したこの「才知」と「調整力」が優れていると観たのである。
この上で、この様に「大岡才知」の様に、更に、これを“「改革」“に向けて熟知する者が裁いて行く事が必要で、それでなくては”「改革の的」“が外れる。
つまり、改革の戦略上、“「最大のまとめ役」”と成り得るのである。
それだけに、「大岡裁きの才知」で、“歴史上に出て来る人物”と成り得たのである。
(結果は、吉宗が将軍と成った事で紀州藩領とする範囲は回復した。)

上記する才知無く、唯「法」を以ってして実直に裁くのであれば、「幕臣の官僚」でも無し得る。
(後に「公事方御定書」の「判例集」を作って「訴訟と審判」の「改革」へと進む「方向性」を定めた。)

前段でも論じた様に、「伊勢紀州の郷士衆」を紀州藩の「家臣の大半」に据えている「紀州藩士」の熟知する「大岡忠相」が必要であったのだ。

注釈として、因みに、「大岡忠助」は江戸に生まれる。
旗本無役(1702年)から出世、元禄地震の「復旧奉行」に、1708年には合わせて「目付」にも成る。
この後、実家先(祖先は「伊勢藤氏の伊勢郷士衆」)の紀州の「伊勢奉行」に任地就任、1714年まで紀州伊勢の職能部に最も関係する「寺社奉行」も経験している。
前段と上記でも論じたが、この時期には、“「紀州藩と幕府との間で係争(幕領の故意的な係争)」”が非常に多発しこれを裁く。
この時まで、奈良期の古来より「不入不倫の権」で「伊勢松阪」は護られていたが、その為にその詔勅令に従って古来より“「一切松阪有利の慣例」”があった。

ところが、この「慣例」を覆して裁定を下したので、「松阪」で育った「吉宗」は驚き、むしろ、その「心魂と才知」を信じて改革に必要として逆に「吉宗」に見出される。
この「裁定」で、「伊勢の二つの青木氏」は「大きく本領地権の影響」を受けた事の「商記録」が遺されている。
「吉宗」が「将軍」と成るに従って江戸に同行。
江戸赴任後、当に、「職能の長」として“「普請奉行」”と成る。
「寺社や武家屋敷の職能部門」を専門に指揮し「経済改革」を進めた。

江戸期には、「寺社」に関する事が現在のゼネコンに当たり、全ての職能に関わるメイン事業であった。
其れだけに、「普請奉行、寺社奉行」は国土交通省大臣の責に当たる。
「江戸の三代奉行の筆頭格」で「将軍直属の奉行」として改革をした。
「大岡」の「普請奉行、寺社奉行」と、「青木氏の布衣着用」の「勘定方指導役」を担っている事は「改革の双頭」を担っている事に成る。
これらの人事を観ると、「享保の改革」は、1716年から1746年(実質 院政は1751年 改革は1788年まで)とすると、約20人が担当し、「大岡」は第16番目で1739年から1751年と最も「改革の成果」が質される重要な期間の中ほどから担当し、何と「享保の改革」を6年も超えて勤めたのである。

更には、恐らくは、本来は「大名格の奏者番」を務めた上で「三大奉行」と成るが、ただ一人、例外的に「政治の柵」に左右されない様に「奏者番(現在の官房長官」」を勤めさせず、最終は「1万石の大名格」にし「破格の官位」も与え、「改革」を継続させる意味で吉宗隠居後も「寺社奉行」を務めさせたのである。
そして、「大岡}を除き19人は最大でも9年、平均でも2年間と云うのが多い中、15年と云う段突の期間を勤めたのである。

これらの事を観ても、「大岡」を以って周囲に「改革の模範」として見せつけた「政治的配慮」であったと観られる。
ただ、この為に「裁定」に偏りが起こらない様に「改革の後期」には「改革の方向性」を示す為に「公事方御定書」(現在の判例書)を定めて「改革の統一性」を図った。

江戸初期に「青木氏」は談合にて、「神明社」は、「伊勢神宮の皇祖神の子神」である事から「500社」に上る「全国の神明社」とその「社領及び資産」を幕府に引き渡した。
主要な「遷宮」に伴う各地に配置した「公的な神社の社領と資産」、並びに「公的な寺に関する寺領と資産」も幕府は接収したのである。

ところが、接収したものの江戸初期には全国的に天変地変が多発し、この為に経済が疲弊し、且つ、政治が稚政であった事からも、「伝統」の拠点とも成る「ゼネコンの基」と成る「寺社」は荒廃した。
この為に慌てた「幕府」は、各藩に「修理令」を出すが、各藩もこれを修理する能力は全く無く荒廃の一途を辿ったのである。
そこで、政権を引き継いだ「吉宗」は、要するに「ゼネコンの基」と成る「寺社」を復興させ、「商業組合」との連動政策を図った。
これを維持させる為に、これらの「寺社」には「様々な特権」を与える政策を採った。

それの一つが、”「寺請制度」”であって、”「商業組合」”の基と成る政策を実行した。

それには、先ず、この「社寺」を“民衆管理に任せる令”を作り、この「寺社」には“民間の檀家筆頭の補償”を要求した。
この事を「届制」にして義務化したのである。
そして、これを「寺社奉行の管轄下」に置いた。
その上で、この「寺社奉行」には、更には「幕領」を超えて「他藩の領内」までの「訴訟」までも担当させて「改革の障害と成る火種」を消す「大権限」を与えたのである。

従って、それまでは幕閣下にあった「寺社奉行」は、他藩の不満を押える意味で、「将軍直轄制」にしたのである。
「寺社領」以外にも、この「制度の効果」を観て、「関東域の民間の領地」までの「訴訟と審判と施工管理の確認」の末端行政までを任せたのである。

要するに、広大な権限を与えて「訴訟審判の行方」を「施工管理の確認」で徹底的に調べて疎かにしない様に監視したのである。

この事に依って、「藩領」と「幕領」と「民間域の地権」に広げる事で、「寺社関係の勢い]は再び息を吹き返して、「商業」は活発化して「商業組合の組織」は進んだのである。
要するに、「幕領と藩領」は当然の事として、「広大な寺社領の管理と運営と維持」を民間化させる事で「寺社」から出る修理や建設などの職能仕事は格段に増え続け、この事でそれを受けて「民間の商業の連合化」を促したのである。

これだけでは「商業組合の改革」は充分では無く、遂には、加速させる為に「民間の富豪町民」、「寺社富豪領民」、その他の「宗教団体の地権」までに「寺社奉行の権限」を拡げさせたのである。

しかし、この「見返り」として、「寺社」には、“民間の檀家筆頭の補償”に依って運営させて、「庶民の戸籍管理(人別帳)」と「訴訟と審判の権限」を一部与えて、これに依る「訴訟手数料」などの「金銭報酬力」を持たせたのである。
これに依って高まった「寺社の管理維持力」で「修理費などの経済的な捻出力」を持たせて、この「修理捻出力」から職能部門を活発化させたのである。

これを活発化させる為にも、これらを納めていた「名主制度の権限」が分散していたが、この内の「町名主制度」だけを廃止して、“民間の檀家筆頭らに依って「庶民の戸籍管理(人別帳)」と「訴訟と審判の権限」を「寺社」の中に置いて集中させる仕組み(況や、「寺請制度」)を組み立てたのである。

この事で、「幕府」が行うべき「司法」と「通産」の業務の莫大な事務費を省く事も出来たのである。
世間には「質素倹約」等を呼びかけ、「税」を「六公四民」を「五公五民」と増税する代わりに「幕府財政の健全化」もこの様に促した。
挙句は、「結婚、離婚の届け出」や「搬入搬出の届け出制」や「建設修理の届け出制」やこれに伴う「訴訟や審判や施工管理の確認」なども任せて「寺社の持久力」を高めさせて、そこから生まれる「職能の商業」を活発化させたのである。
これを「寺社奉行が見守る体制(監視体制)」を採ったのである。

(注釈 大訴訟や難審や長期の訴訟等は奉行が引き取って行った。)

この事に依って、全ての「民間の民」は、戸籍に関わる事から、他の地に移動するとか旅するとか婚姻で他の地に移動するなどの庶民生活の一切の繁多事務を寺社は担ったのである。
一種の現在の「簡易裁判所の役」「調停裁判所の役」を担わしたのである。
この事で全ての庶民は、必ず、何処かの寺社の管理下に入る必要が出て、要するに“「檀家方式」「氏子方式」が生まれたのである。
この時から、「武士」を除く「庶民」には今までになかった「墓などの慣習」がこの時から起こり、職能は比較に成らない程に拡大した。

今までは、「1割程度の武士階級の慣習(400万人)」が、結局は全体の残りの9割(3600万人)の慣習と成ったのである。
全ての民がこの”「慣習」”を持ったことに成るのであるから、「寺の収入」と此れから起こる「職能の産業と商業」は9倍と成った事に成る。
「慣習」を「特定の武士階級]のものにするのでは無く、平等にして自由に持たせると云う商業組合の概念に合わせたのである。
この事で、市場は反応して活性化したのである。

恐らくはこの慣習が、封建社会と云う考え方に拘泥して「武士階級」のものだけのものとしていた場合は、「市場」の中にこの「商業組合]の持つ「自由とする原理」が馴染まなかったであろう。
全て民が「同じ慣習」とする事に依って活性化したとのである。
「賢明な吉宗」は「伊勢」での生活の中で経験し、この事を見抜いていたのである。
故に、この「皆同じ慣習」にする為に、「奉行と寺社と檀家]の改革を手掛けたのである。
これは全て「リフレーション政策」を敷く為の「商業組合と云う概念」に従っての事であった。

これに関連して、「享保の幕府」には「経費の節減」と「地権料」と「税としての手数料」の「莫大な収入」が入った。
この「収入」を「寺社や河川」などの「維持管理費」や「新規や修理工事費用」に捻出した。
「一公の負荷税分」では、普通では一揆や騒動が起こる程度であった。
然し、次第に「周囲の環境」が良く成る方向に変化して行く事に納得して、「農民・庶民」は大きく反発を起こさなかった。
取り分け、これを不満の大きく成る筈の「紀州藩」の様に「武士階級」にも「地権の細分化と均一化」を起こしたのであるから、「姓の枝葉化(分家化)」が起こり、「400万人」は990/81でこの10倍の「職能の産業と商業」が新たに興した事に成る。
この事で納まったのである。

この「商業組合」と共に”「経済の復興」”は目覚ましいものがあって、「上級の武士階級」には「地権の減少」で多少の不満があったが懐事情は等しい結果と成って納まった。
「紀州藩家臣団」の大半は、元は「伊勢紀州の郷士衆」と「伊勢藤氏の郷氏衆」で構成されていた事からも収まったのである。

この「享保の改革」に結び付けた「驚くべき才知」等を、「吉宗」はこれを他藩にも全国的に見せて「行政指導」で行わせたのである。
資料の記録では、疲弊していた藩は、「幕府への借財]で何とか急場を凌いでいたが、行政指導に素直に載らない藩には厳しくあった事が判っている。

各藩は当に疲弊して“窮鼠猫を噛む“の状況下に於いて、”この様にすれば改善するよ”と見本を示した戦略であった。
現実に「賢臣の居る各藩」は模倣して改善を果たしたが、そうで無い藩は一揆が多発し、遂には、「廃藩や主君廃嫡の憂き目」を受けた。

この”「寺請制度」”などの”「寺社制度」”で起こる10倍近い全ての職能に関わる事業は、爆発的に活発化した。
然し、この効果を保ち安定させるには、「一つの職能」の“「まとめ役の制度」”が必要と成る。

上記した様に、「享保の改革のリフレーション政策」には、「偏り」、即ち「格差」が生まれては成り立たない。

「リフレーション」は「デフレ」と「インフレ」の中間政策である以上は、全てに「平均化を促す政策」が必要に成る。
そこで、採ったのが、内郭部は「商業組合」で、外郭部は「御師制度」で纏めようとしたのである。

全ての“職能に関わる集団”ごとに「組合」を作り、その「組合」に「取りまとめ役」として「御師」を置いて外郭にはみ出て「偏り」「格差」を生み出す行為の無い様に監視し調整し懲罰する役目を各段階(「御師 「寺社」に相当」)を置いた。
最終は、“「御師頭」(「寺社奉行」に相当)”で纏めさせる制度であった。

上記した「寺社の組織」と全く同じ事で、「寺社」のこの組織(”「寺請制度」”などの”「寺社制度」”)は、況や、この「御師制度」をそっくりと真似ての制度であった。

「ゼネコンの寺社組織(基幹部)」→「商業組合(内郭部)」+「御師制度組織(外郭部)」←「幕府内の御師制度」

「寺社組織」から生まれる「商業」は、「(イ)(ロ)(ハ)の商業組合」で、その「経済活動」から起こる「殖産の職能活動」は「御師制度の組織」であった。
(下記の「越後騒動」で「殖産商人」として出て来る。)
そして、これらを更に「幕府内の職能部の御師制度」で「監視する組織」を確立して“「偏りのない格式の産まない改革」“を押し進めたのである。

概要としてはまとめると、次の「四つの改革」が推し進められたのである。

「幕府の職能部」から建設と修理の職能の「公共事業」が出て来る事
「寺社」から建設と修理の職能の「半民間事業」が出て来る事
「商業組合」から建設と修理の職能の「完全民間事業」が出て来る事
上記三つから生まれる職能の「殖産企業」から「職能者の雇用」が出て来る事

注目するべきは、「四番目の殖産企業」であった。
これも前段で論じた様に、「商業組合」とは別に、「青木氏からの提案」(御師制度)に依るものであった。

「享保の改革」では、先ずは疲弊していた「既存産業」を“拡大させる事”のみならず、「新規産業」の「殖産」に関わる「興業」が重要な事であった。
これが、下記する「越後騒動」に「騒ぎ」として出て来たのである。

特に、江戸時代には、この「伊勢松阪」は「吉宗」が育った土地であり、「青木氏」と「加納氏」が「吉宗のバック」と成って幼子の時から養育し「将軍」に育て上げた。
江戸時代には、「青木氏の紙屋」と「加納氏の加納屋等」の豪商がより大きく成長し、その元下に育てられた「松阪商人」を多く排出した。

この「松阪商人」は「江戸幕府」とはその意味で無縁では無かった。
それは、実は、この「御師制度」と「松阪商人」の「商業組合」と云う「二つのキーワード」で繋がっていたのである。
これは別個に存在して居た組織では無かった。
先ず、「商業組合」は前段で論じた様に、(イ)(ロ)(ハ)を前提として“「あらゆる職種」“で構成されていた。
この“「あらゆる職種」“をまとめあげるには、「何かの制御の組織制度」が無ければ、幾ら「自由」としても「組合」としては成立は出来ない。
唯、そこには「ある要領(秘訣)」が在って、“無制限に制御すればよい”と云う事では無く、その「ある要領(秘訣)」は“「外郭部」を制御する事”に在る。
この「範囲」で制御すれば、“「人」が納得する自由”は保たれる。
これは、「密教の浄土宗」が説くこの世の条理である。
むしろ「自由」であるからこそ「外郭部」を覆って外には飛び出さない様にしなければ成らない。
その中での「自由の原則」である。
“「人」が納得する「自由」”とは、「人時場所の三相」に依って保たれる。

「人の相」は、江戸時代の人の持つ概念

「封建社会」では、「身分格式」のある「社会」を当たり前としていた中での“「人の自由」”は左右されて、その「自由の制限度」は大きい。
「青木氏」の「般若心経の密教論」で判り易く論じると、「人の自由」と「人の不満」の関係は「相対の関係」にあると説いている。
依って、仮に「完全自由」があるとすると、それを10とし、この「自由」に対する不満を爆発させるポイント(一揆-5>暴動-4>騒動-3>騒ぎ-2>事件-1)を5とし、全く自由がない社会を0ポイントとする。

そうすると、この「享保初期」は「騒動 -4」は、「起こるか起こらないかの位置」に在り、「自由の制限度」は6でもぎりぎり納得する「自由の概念」を持っていたと云う事に成る。。 

「時の相」は、戦乱から安定期に入ったその時期

享保期は、「人の相」では「6の位置」にあるとすると、「時の相」としては、戦乱期は上記の相関論から「一揆」より激しい「人の生存」に直接に関わる期であった事に成り、だから、3であった事に成る。
「3の戦乱」が終わる事で4と成り、それが、未だやや弱い「5の一揆」が多発する時期であった事に成る。
これが、「享保の改革」で前期の後始末の政策を打ち出した「初期の段階」では、上記した様に「5の一揆」が納まり、「5の位置」から「6の位置」に格上げされた時期であった事に成る。

「場所の相」は、疲弊から繁栄に向かおうとする場所

「各藩の配置」が目まぐるしく変化して、当然に、その「藩主・藩政」も変化して、その「地の領民」に執っては未だ安心した安定した地域では無く、「15地域」の様に、「大きな地域差」が生まれていた時期でもあった。
取り分け、「幕府」も含めて「各藩の悪政稚政」が目立っていた。
「人と時の相」と共に、「悪政」で「一揆」の起こっている場所=5、「圧政」で飢餓に苦しむ場所=4(騒動-3)、「稚政」で喘ぐ領民の場所=6(暴動-4)である事から、4~6の位置に在った。

これを「享保の改革」で 「前期の後始末の政策」を打ち出した「初期の段階」では、「商業改革と御師制度と幕府改革(寺社奉行等)」で乗り切ろうとした。
上記した様に、「越後騒動」の様に「各藩政」は「政治の的」を得て、これを真似て改善に向かう事と成った。
要するに、「場所」としての藩は4~6から6~7に向かったのである。

この様に、「自由の制限範囲」は、6~7のポイントを維持すれば「民の不満」も無く、「外郭部位」を「抑制する政策」を採れば成り立つ事が判る。
即ち、その“「あらゆる職種」“に、ある意味で「自由の抑制策」とも成る”「御師制度」“を持ち込めば、「社会と組織」の「まとまり」が着くと云うことが判る。

その個々の「まとまり」を「御師衆(御師頭)」でまとめて行けば、「郷士衆」(郷士頭)等の調整が出来る事に成る。
むしろ、「人間社会」では人の「意志」「発露」「尊厳」「思考」「能力」等の「差違」、即ち、況や、「エゴイズム」が在る限りは「完全自由10」はあり得ない。
当に「争いの世界」か「極楽の世界」に成る。
依って、現実には「9までの自由」とすると、現実の「6~7のポイント」で“「御師制度」“を敷く原理には無理は無い事に成る。
むしろ「必然性」に当たる。

筆者は「8の自由」はあると考えるが、「諸行無常」の世の中で「9の自由」は現実にはあり得るだろうか。
「般若心経の解釈」を基本とした「青木氏の密教の浄土宗」の「家訓10訓」などに反映している解説にあるこの論法からすると、“「無い」“と考える。

その「纏める情報」は、「御師衆の情報源」で採れ、この事で「組合員」が「高い高度な情報」で行動が執れる。
販売に対する「質・量の調整」、「競争相手への手立て」等もこの「二つの関係」で組み立てられる。

そもそも「享保改革」とは、在任期間の1716年から1745年の年号に由来するが、宗家以外の「御三家」の「紀州徳川家」から「将軍」に就任した「吉宗」は、先ず、「“先例格式”に捉われない改革」 を実行したのである。

前段で論じた「商業組合」を「頼宣入城1619年」の安定期から観ると、丁度100年、初期施行期から観ると、120年と成る。
上記で、丁度、67年間は社会は安定したと論じた。
その後、“「宗教」”が介在して難題の「一揆」が多発したと論じた。
この「一揆」の援護が出来る程に「商業組合と提携商人でのシステム」は維持されていた事に成る。

ところが、「享保の改革」以降は、下記の通り「青木氏」が関わった「一揆」は「天保騒動」まで100年間近くに発生していないのである。
「青木氏」が関わった可能性のある「一揆」では、80年間、関係の無い「一揆」では45年間は間違いなく起こっていない。
明らかにこれは「リフレーション政策」を誘導する「商業組合に依る改革」の「享保の改革の成果」が全国的に出た事を示している。

さて、ところが、唯一、問題と思える事があった。
唯、これは、「享保期前の社会的経済的な疲弊の影響」で起こった事か、「商業組合の改革」の」金融面での施策」の遅れなのかは判らないが、初期の段階で「農民」たちは「農地」を「質」に入れて凌いだ。
然し、質に入れるは何時の世の事でもあるが、この状況の問題は「質流れの農地」が多発した事にあった。

これは当時の武家社会や封建社会の根幹を揺るがす問題であったので困る事になった。
この「質流れ」が「他藩」や“「商人」”に移る事は、「江戸の社会構造」が崩れる原因と成り、好ましくないとして「農民」を保護する為に「質流れの移動」を禁止した。
つまり、”「緊急策」としての「質流地禁止令」”(詳細下記)を発行したのである。

そもそも、この「令」は吉宗の江戸幕府が1721年に発布した法令である。(享保の改革開始は1716年)
元禄期(1688~1704)以降、経済が著しく低迷し衰退し「農地」は放棄され荒廃したが,この時、幕府は一定の条件下で「田畑の質流れ」を公認していた。

そもそも、この施策は、元々は、“「江戸町方の屋敷地」”についての「質地の令」であった。
にも拘らず、これを享保期には「田畑」にまで適用したものであった。

ところが,越後などの米どころの地域では、この「令」に付いて誤解で「大騒動」が起こり、批判が高まり1年後に撤回したものである。
以後、兎も角も、「農地の荒廃」を防止する為に「田畑の質流れ」をも一切禁止するが、その場合は「質地取扱いの方針」を次ぎの様に定めた。

その内容は参考として概要は次ぎの通りであった。

(A)「質流れ禁止の方針」に基づき「質地手形」の書き直しを行っう事。
(B)「質地の小作料」の上限を「貸金」の一割半の「利積り」とし、超過分は「損金」とする事。

「滞納時の小作料」は、滞納額を一割半の「利積り」で「元金」に加え、「無利子の済崩」の形とし、「元利金の返済」の次第で「質地」を戻させる事。

(C)1717年以後の「質流の土地」は、先ず「元金」を返済し、「請戻願書」を提出すると、「質流の土地」が「質屋の手元」にある場合に限り請け戻させる事。
(D)今後、「田畑」を「質入れ」しての「借用金額」は、「田畑値段の2割引」とする事。

この法令の様に法令規準を変えて厳しくして抑え込もうとした。

然し乍ら、この「法令」は、昔の幕府の「田畑永代売買禁止令」(1695年)が元に成っていたのである。
ここに問題があって、基本的に目的とするところは、“「江戸町方の屋敷地」”の「質流れ禁止令」であった。
これを「農地」にも適用したのが誤りであり、「農地」と「町方」の「土地の価値や慣習」が異なる事から法令に「無理の問題」が起こった。

そもそも、経済が疲弊して農地が荒廃した中で、生活を護ろうとしても「令」により「農地の売買」が出来ないと成ると、遺される「苦肉の策」は「質」に入れる事しか無く成っていたのが享保期前の現状であった。
ところが、この「経済」が回復しない享保前は「質流れ」が多発して収拾が着かない事が起こる様に成って仕舞ったのである。
「農地」に関わらず「町方の土地」さえも連動して同じ現象が起こっていたのである。

そこで「享保の改革」では,「根幹の土地」に関わる事である為に”「前の失政」”を懸命に防ごうとした。

「吉宗の幕府」に執っては、とりあえず、この「質流れ」によって有名無実化するのを防ごうとするものであった。
ところが各地で起こる「1722年の越後騒動」等の混乱が生じたため1723年に直ぐに問題がある事に気付き撤回された。

ところが、「享保の改革」が進み「改善状況」を観て、今度は幕府は、改めて打つ手を変えて1741年に「質流れの売買禁止令」を基から緩和したのである。

何故ならば、この時の「商人」には、”「殖産を興す商人」”が多く介在をしていた。
「経済理論に賢い吉宗」は”「本来の解決策」”はここにあるとしてここに目を付けたのである。

何故ならば、「15地域の主要地の越後」では、「商業組合」と「提携商人」による「経済発展」から、「殖産」を興そうとする「既存の商人」には、その「殖産」を興す為には「新たな土地(「新地))」が必要であった。
そこで、「質流地禁止令」が出た以上は、そうするとところが、この「殖産商人」は「天領(藩領 天領)の農地」には手を付けられない。

この為に「幕府勘定方指導を務める青木氏」は、越後の「商業組合と御師制度の組織」を活用して「幕府策」として「前政の悪政の解消」の為に動いた。

これを納める為に、「農地」を利用する「越後」の「商業組合」の「殖産商人(越後青木氏と諏訪青木氏)」に「質流れの土地」を買い取る様に進めた。
ところが、越後の住民の1/3に当たる「理解力」の無くした「過激な農民」が誤解して暴動を起こして仕舞ったのである。
越後の「殖産商人(青木氏)」も説得に掛かったが、勢いづいた収拾の着かなくなった「一揆」は、捕縛を恐れて周囲の「他藩]に逃げ込んだのである。
周囲の各藩では、“同じ事の一揆が起こると拙い”として、遂には幕府の指示もあり捕縛をしてしまった。

所謂、「殖産商人」が「質地」を買い取る事で、「殖産農地」と成って「農民」も」土地」も現状を図られ生きて行ける事に成る筈であった。
然し、その様に受け取らなかった農民が居て民衆に向かって煽ったのである。

つまり、貧しさから「農地」を手放し放棄した「無宿者」と成る「農民」も「殖産農民」としてで生きられるとした「幕府の苦肉の対策」であった。
「地権者」であった「越後青木氏等」は、懸命に「地権主では無い土地の農民」を救おうとして幕府と協力して動いたのである。
ところが、これを充分な説明を「藩」そのものがしなかった事や、「現地に派遣されていた幕僚」が「過剰な説明(殖産農地の理解が低かった。)」をした事から、その「解釈」を間違えた「農民衆」が暴動を起こし、何と”「質屋」”を襲撃したのである。

結局は130日目に、再度、「幕府」が直接に「江戸の幕僚」が出向いて充分な説明が成され納まった事件であつた。
この事から、本来目的の「殖産商人の介在」でほぼ1年後(1623年)にこの令を直ちに廃止した。

この事でも判る様に、「享保の改革」の初期は、先ずは「前政の影響の始末政治」であって、基盤と成る「農民の保護」を主体として政治を進めた事が良く判る事例の特殊な「一揆」であった。

この事からより一層に”「農民保護」”の為に、上記の通り、”「寺社政治」”を実行して「組織固め」をした事が判る事例で有って、「税負荷」から来るものでは決して無かった。

「15地域の主要青木氏定住地」で起こった最も関係のあったこの“「越後騒動」”であるが、「享保の改革」を善く物語る典型的な事例である。
これは「農民の社会的、政治的、経済的な不満」からのものでは決して無かった。

「他藩の稚政の悪影響」で起こったものでは、「・1726年津山暴動」や「・1729年岩代農民暴動」や「・1739年元文一揆」の三件があった。
これも「享保の改革」の「前政治の影響(綱吉)」で起こったものであり、「藩内事情」での「藩政政治の低さからくる失敗」に依る事件であった。

この“「前政権のツケ」”である「四つの事件」を除けば、何れも1800年代までとして観れば、矢張り100年以上は納まっていると観る事が出来る。

前段でも論じた「一揆の年譜」から観ても次ぎの様に成っている。

関わった一揆
・1677年郡上一揆
・1722年越後騒動
・1761年上田騒動・1768年新潟騒動
・1836年天保騒動(郡内騒動、甲斐一国騒動)・1814年北越騒動
・1842年近江天保一揆

関わった可能性のある一揆
(殆どは重税による農民一揆)
・1652年小浜一揆・1686年加助騒動・1690年坪谷一揆
・1726年津山暴動・1729年岩代農民暴動
・1761年伝馬騒動
・1781年絹一揆・・1786年宿毛一揆
・1842年山城谷一揆

その他の一揆
・1739年元文一揆
・1753年摺騒動
・1771年虹の松原一揆・1771年虹の松原一揆
・1771年大原騒動1793年武左衛門一揆
・1804年牛久助郷一揆・1825年赤蓑騒動・1831年長州藩天保一揆
・1838年佐渡一国一揆・1847年三閉伊一揆・1856年渋染一揆

つまり、この100年の期間を維持させられたのは、この「御師制度」がこの「商業組合」に組み込んだ事からなのである。

一方で、「紀州藩」では、「青木氏」が手掛ける「伊勢和紙」だけでは無く、前段で論じた様に、「伊勢青木氏」の指導の下で、伊勢松阪地区から玉城地区に掛けて「伊勢の土地柄」を生かした「殖産」と「興業」を強力に押し進めた。
そもそも、注釈として、「享保の改革時」は、紀州の“「地元の藩政」”が上手く行かないのでは「改革の名分」が着かず、立場は無く成る。
これは最も大事な戦略で、上記に論じた様に「15地域の商業組合の実績」など説得材料として「将軍」に成り得たが、「紀州藩財政の立て直し」の為にも「殖産・興業」で「紀州藩勘定方」を懸命に指導した。

実は、この時には、奈良期から納めていた「先祖伝来の本領とその地権」を自ら放出すると云う「激痛」もあったし、「不入不倫の権」も実質は破棄されてしまった事にも成った。
実質は何の利益も無かった完全に足元を掬われた形であった。

この時の「四家の福家」は苦しい立場であった事は判るし、南勢の遠縁の縁家に遺された資料によれば、矢張り意見が分かれた事が書かれている。
ところが、唯、多くの資料が遺されていた「郷士頭の家の資料」では、“意気込みさえ感じる事”が読み取れる内容であった。

“これは一体何なのか”を、この時の関係者の末孫に「関係する口伝等」が在るかも知れないとして意見を聞いて観た。
まぁ、口伝等を含めて総合すると、伊勢紀州の「旧領地の郷士衆」に執ってみれば、紀州藩の家臣、将又、江戸向行に伴って、“世に出て働ける”と云う武士の気概もあった。
確かに、「郷士の地権」は減らされた家筋もあるが、「御師制度の頭」と[郷士頭」が調整(金銭に依る地権差額調整)した事が原因していると云う事であった。
「訴訟の差配」が「標準平均化の前提」に成っていたと観られ、殆どは現状より増えた家筋の方が多いと云う事もあって、結局は「損益の差」は「旧領地の郷士」の中でも“青木氏と血縁を結んだ縁者関係に多く出ていた”と云う事の結論に成った。

と云う事は、「訴訟の差配」の裏では、表は“「一切松阪有利の慣例」”を破った事にして大義を世間に示し、「金銭に依る地権の差額調整」をして収めたと云う事に成る。
では、“その財源は何処から出たのか”と云う事に成るが、口伝と資料から読み取ると、“「御師様」と「氏上様」”と云う言葉が出て来る事や、「損益の差」は“青木氏と血縁を結んだ縁者関係に出た。”と云う事なので、これも「青木氏」が負担した事に成る。
「自らの土地の地権」を放棄した上で、「調整金」も自ら拠出した事に成る。

しかし、上記した様に、「青木氏の遠縁関係」でも江戸中期から明治初期に掛けて「旅館」を営んだり、「松阪商人」「射和商人」と呼ばれたり、与えられた「農地」を生かした「殖産の商人(前段で論じた養蚕・紙加工・米加工等)」に成る等と云う事があって、“却って豊かに成った”とする結論に落ち着いた。
確かに「本論の射和商人」はその「典型的な現象」である事は事実である。
「紀州藩の藩財政」が立ち直ったのも多くは、この「伊勢紀州の郷士衆」の「射和商人」に語られる様に、「郷士衆の不満」は確かに無かった事は頷ける。

それでなくては、「享保の改革の基盤」と成った位であるから“「藩財政」が立ち直った”とは云わないであろう。

ところが、筆者は唯一部納得出来ない事があった。
1716年に「吉宗江戸向行」と成ると、約1年前の1714年にこの「松阪裁定」が下されたとすると、1715年では「将軍擁立運動」は既に行われていた事に成る。
「青木氏と紀州藩」では、その為の「準備計画」が成されている筈である事から、「郷士衆の江戸同行」(「紀州藩の同行組」と「青木氏の同行組」)に付いて検討されていた事に成る。
「紀州藩士」は藩命である事から問題ないとして、「青木氏の同行組(別働隊)」の「御師制度の郷士衆」の賛同を得ておく必要がある。
この為の「納得」を容易にする「下準備の手立て」であった事と考えられる。

だとすると、上記の通りに「地元の郷士衆や農民」は、兎も角も、「江戸同行組の郷士」は、“その後にどうなったのか”である。
調べた結果では、「郷士の家」では「郷士家族の家」の全体で江戸に移動した訳ではない事は判って居る。
「一族の者」を差し向けた事は判っていて、その子孫が江戸に遺って子孫を拡大している事も判って居る。
判る範囲では、7割近くが地元に戻っている。
「残りの3割」は、「紀州藩の江戸詰め」で残った事に成っている。
結局は、「青木氏の別動隊(18の郷士衆と青木氏部)」は伊勢に戻った事に成っている。

そこで、この「享保の改革」に貢献した「7割の郷士達の帰還組」は果たしてどう成ったのかであって、ところがこの部分に於いては、「紀州藩士」では無かった事から「完全な資料」と成るものが無く良く判っていない。
(青木氏側では記録消失)
唯、「郷士家の口伝と一部の資料」に依ると、「紀州藩の家臣」と成って、「熊野、田辺、名張、伊勢三領(松坂・田丸・白子)」の“「六地域」“に配置された事が読み取れる。

これが事実とすると、伊勢紀州と江戸での“豊富な政治経験を有する者”である事から、“何故、ここに配置したか”の理由がある筈である。

この「六地域」には一つ共通点がある。
恐らくはこの「共通点」が原因していると観られる。

・「熊野」は、江戸期には日本一有名な「熊野檜の名産地」で「港町」で貿易港
・「田辺」は、江戸期には「日本最大の遠洋漁業」の拠点で「港町」で貿易港
・「名張」は、大和国と伊勢の国境域の位置しで「青木氏の旧領地」で、古来より伊勢和紙(伊賀和紙)の名産地であった。
次ぎの「松阪や白子域」を更に発展させるべき「和紙生産の拠点」であった。
・「松阪」は、本論の「商業の町」で港町で貿易港
・「田丸」は、玉城地区で「射和商人」が住む「商業組合」の元と成る「殖産と商い」の拠点で、「河川と港」を有する便利な地域である。「軍略的要衝地」でもあった。
・「白子」は、鈴鹿の南東部に位置し、「伊勢湾の港町」であり、且つ、「伊勢和紙」を利用した「伊勢型紙」で「有名な殖産地域」で、「松阪と田丸」と共に、特別に「藩の保護」を受けて発展した「伝統工芸の町」と「紡績の町」でもあった。

この「比較対象」として、そこで、何故、紀州の最も大きな良好な大港町である「下津港」と、本城のある「若山港」に配置しなかったのかと云う疑問が湧く。
この「疑問の答え」が、「江戸戻りの郷士」の「配置された理由」と成る。

それは、次の通りである。
・「下津」は、「港」としては大きいが、此処は「蜜柑の里」で、直ぐに三方が山岳地で周囲は山に囲まれる山岳部で、平地が少ない事に成っていて、それが「地形の所以」で「段々畑の蜜柑の郷」と成っている所以なのである。
一つ山を越えた隣には、「有田川の大洲域」があるが、浅瀬で湾口としては向かない。
「殖産と商業」の経済を発展させ得る地形では無い。

・「若山」は、港、地形、経済圏、何れも遜色ない要衝地で、紀川大洲の広大な平地を持ち、古来より伊勢に決まる前は「遷宮地」でもあった位に「歴史」にしても寺社仏閣等の数にしても何れの点に執っても伊勢松阪に匹敵する全てに類似の地である。
依って、古来より製鉄所を有し、鉄砲などの工業生産も盛んで、且つ、堺に隣接し、殖産と商業の経済を発展させ得る最大の地形地域でもある。
恐らくは、ここに配置しなかった理由は、既に、ここは発展している地域であって、藩のお膝元である事から「人材は豊富」であって、江戸での「彼らの知識と経験」を活かしての「発展」を期待するには既に充分地域であった。

“「更なる発展」”は、“「紀州藩飛地領」を開発する事が必要“であった事を、この「二つの地域」から比較対象として浮き上がる事が「答え」であった筈である。
故に、「上記の六領」に配置した事に成ったと観られる。

この結果を示すデータが在る。
当初、蒲生氏郷前は「8万石」、蒲生氏期は「12万石」、徳川氏吉宗期は「18万石」、その後の「江戸戻り組」が配置された宝暦から明和期は「22万石」と成っている。
この「8-12-18-22」/150の「変化の数字}は、伊勢の「紀州藩飛地領」の前段から論じている「商業組合」に依る“「商業と殖産」“に依る”「成果の変化」“を指し示している事に成る。

何と150年程度で、「紀州藩飛地領(六地域)」では、“「14万石の改革」”が起こったのである。

では、因みに、この「飛地領の14万石差」とは、“どの程度のものであるか“と云うと次ぎの様に成る。
「江戸期の大名石高」と比較して観ると、全国186国中の27番目に相当し、伊勢域の大名の石高では、長島は2万石、亀山は6万石、桑名は11万石、津は32.3万石であるから、「飛地領の14万石差」は「驚くべき発展」である。
伊勢全体の石高は、約55万石と云われていて、(14/55)・100≒25%と成る。

「飛地領の14万石差 25%」の「商業組合とその殖産」と、これを「まとめる事」の「御師制度の総合効果」はどんなものであったかは、最早、説明を必要としない。
何と27番目/186の国が一国出来た事に成るのである。

「享保の改革」の時期中にしても「10万石」(100年)も増やしている事は、前期した様に「他藩の手本」と充分に成り得ていた事に成る。
これを他藩が観ていたとして、「15地域外」の「真似しない藩」がもし居たとしたら、それは当に“「稚政藩」”であって、この“「稚政藩」(幕閣の抵抗勢力の藩)”を観ると確かに「真似」をしていない。

この事から、「江戸戻り組」は、その「享保の知識と経験」を活かして、「商業と殖産の地」を更に生かして発展させるには、“「貿易の出来る地域」”を選び、そこで“「海外貿易」”をさせる事の為に明らかに配置したと観られる。
「飛地領の14万石差」の“「貿易の出来る地域」”は、「販売する商業」とその「商品を生産する殖産」の二つがあるからこそ成し得る手段である。
そして、その“「貿易」”は「安定した生産」を要求されるが、これは“「御師制度」”で管理して行くことで成り立つ。

この事から、むしろ、「江戸戻り組の郷士」は、「自発的意思」では無く、「紀州藩」として、紀州藩士に関係する「郷士衆」は、兎も角も、「青木氏の別動隊」の「御師制度の郷士衆」には、是非に、「探しても紀州藩には必要な人材」であった。
「帰還」は喉から手の出る程の者であって、依って、江戸に掛け合ってでも命じて返したと判断するのが正しいと考えられる。
故に、「吉宗一族」が「徳川氏の宗家」となる「保科氏」として継承する以上は、10割は難しく、交渉の結果の7割であると観られる。


その結果、前記の殖産の養蚕や米改良に加え、新たに「和紙に依る紙箱などの紙製品」や「伊勢焼きの陶器」や「白粉等の産物」や「伊勢木綿の生産」を作り出し、「青木氏の紙問屋(総合商社)」からこれらを全国展開して販売し、初代頼宣から第四代藩主と成った「吉宗の頃」には、危機に陥っていた「紀州藩の財政」の立て直しに成功したのである。

特に「初代頼宣」から引き継いだ「吉宗」は、前期した様に、「青木氏」と共にこの「殖産事業と興業」に力を注ぎ、この育てた「松坂商人(射和商人等)」を江戸に店を構えさせるなどの便宜を図り育て上げたのである。

因みに、「伊勢の店」以外に、この時の結果として、“「江戸店」”として、主な商人は、「江戸の伊勢屋」(伊勢青木氏の「伊勢の紙屋」)、後に殖産による「松阪木綿」の「越後屋」(近江の人 1679年)、近江から「丹波屋」(近江の人)、「小津屋」(近江の人)の「伊勢商人」が有名である。
前段と上記した様に、「吉宗」が「商業組合」を江戸に持ち込んだ結果から、歴史に残る大豪商が生まれた。

そもそも、注釈として、 この“「江戸の伊勢屋」”は、“江戸の名物 犬の糞と伊勢屋” と呼ばれていた程に、江戸時代中期前後の日本で一番多い「商人の屋号」であった。
享保期初期の「江戸の伊勢屋」は、「伊勢青木氏」(「伊勢の紙屋」)で明和期までの商業記録が完全に遺る。
「忠臣蔵伝」にも登場する「商人」であった。
その後の安永期以降には、一度に全国的にこの「屋号」が更に拡がるが「青木氏」とは無関係である。

しかし、この様に“「江戸の伊勢屋」の屋号”が一番に拡がると云う事は、如何に享保期の「青木氏の商い」が、「15地域」にも広がりを見せ、且つ、“「疲弊」”から脱しさせた「享保の改革」を認めていた事を示す事に成る。
つまり、これを目の当たりに見た庶民は、“「江戸の伊勢屋」”をその代名詞の様に扱っていたと云う事にも成る。
「幕府の職能部の御師制度」と「青木氏の御師制度」と「商業組合の発達での御師制度」、「寺社関係の御師制度」等の広範囲に社会に広がった“「商業組合と御師制度」”が、「江戸」のみならず全国の「庶民」にどれだけのインパクトを与えていたかが判るパラメータの「屋号」である。

この「伊勢屋の屋号」の中には、伊勢紀州域と同じ様に「吉宗」の呼びかけで「15地域」から「江戸店」を出した「青木氏」の判る範囲では4店もあった。

「伊勢、信濃(総合商・貿易商)」は別として次ぎの4店である。

「越前、若狭」(皇親族賜姓青木氏)
「越後、駿河」(秀郷流賜姓青木氏)

以上の2氏―4地域店の「商業組合」が参加した。

この「伊勢屋」が、後に子孫に依って次ぎの様に広げられた。
「越前屋」(酒屋・呉服屋)
「若狭屋」(海産物屋・小間物屋)
「越後屋」(穀物屋・小物屋)
「駿河屋」(粉屋・菓子屋)

以上の「屋号」と「職種」も拡げたのである。

ここから「江戸の豪商」が出ているが、この豪商の単独の出店では無く、「原材料の生産」は別として、この「加工職種に関わる職能者」も江戸に同行して「一種のコンビナート」を形成しての「江戸店の出店」であった。

この「江戸出店」が「商業組合(コンビナート)」であったからこそ未だ成り立つ「商い」であった。

そもそも、「運輸手段」も発達していないし、社会も疲弊し運送に危険性も大きく、この享保初期の時期に一切を「商品」(加工品)にして遠方から搬送して売り捌くには「経費と危険」が伴い、「大商い」は到底困難であった。
故に、“「商業組合」“としての行動でなくては成り立たない「商い」であった。

この結果が江戸に多くのあらゆる職種の職人が集まる社会が構築されたのであって、下記に論じる「庶民経済」の「銭屋と質屋の金融業」が発達した所以でもある。

(注釈 「江戸の職人」と呼ばれる中には「伊勢紀州の出自の姓名」が多い。「享保の改革」の「商業組合の影響」と観られる。)

ここには、是非に追記しておかなければならない歴史的に表に出て来ない「影と成っている職能集団」が在った。

それは、”「運輸の安全」を担う「職能集団」”であった。
これ無くして絶対に「江戸出店」は無し得ない事であった。

それは、「シンジケート」であった。
この「シンジケート」を独自に持ち得ない「大商い」は決して成り立たなかったのである。
前段でも論じた事ではあるが、「荷駄を護る武力集団」である。
搬送中は「荷駄と搬送人」を周囲を取り囲むように「旅人」を装って護り、少し離れた場所からも移動しながらも「擁護する形体」を採っていて,国境(シンジケートの勢力圏境)では、「隣のシンジケート」との「渡り交渉」(金銭授受)を着けての搬送であった。
恐らくは、この「シンジケート」を持っていない「15地域の中の商業組合」は「江戸出店」は不可能であったと考えられる。

(注釈 従って、地域的な形で「京出店の原因」の一つとも成ったが、つまり、「江戸の伊勢屋」が、この「護衛集団を補完させられる地域」までは「江戸出店」は可能であったと観られる。
然し、「関西以西」は現実的に不可能であったと観られる。
伊勢は「摂津堺店」があって「伊勢水軍」を管轄していたし、「讃岐 伊予」や「安芸 米子」も「廻船問屋」を主体としていて「水運」は強く、「淀川」や「日本海」を経しての運搬が可能で有ったが、「陸運」は無理であった事も、京に動いた原因でもあった。)

以上の「2氏―4地域」の店の「商業組合」の主催者(青木氏)は、「有名なシンジケート」を古来より確かにこれを持ち得ていたのである。
唯、筆者の観る処では、最大は「伊勢 信濃」の明治期までその機能が遺った「二つのシンジケート」ではあったが、それと同じ様に「2氏―4地域」の「シンジケート」が,「江戸まで護衛力」を成し得る程に充分では無かった。

この事から、「伊勢 信濃」の「二つのシンジケート」が連携してこれを補完していたと観ている。

何故ならば、「伊勢 信濃」は「本職としてのシンジケート」としての働きが「地元の商業組合」でも有ったことから、この「シンジケート」を勢力拡大させて「専門の護衛集団」(職能集団)を形成していたのである。

(注釈 「総合商 貿易商 金融商の伊勢屋」が成し得る護衛集団であった。)

(注釈 江戸の1760年代後半の頃には、「護衛」のみならず「荷駄の搬送全体」を受け持つ「一種の運送集団」として「商業組合」の中で本格的に位置づけられる様に変化して行った。)

「江戸の伊勢屋」がこの「裏方の護衛」を差配していた事が判って居る。
資料では、この「護衛」の事を、未だ「享保期初期の頃」であった事から、「古い概念」が残っていて「裏の影の職能集団」を表に出す事の「弊害」を懸念してか“「護衛」”と云う表現を採っていなかった模様である。
資料の中には,「去る人(サル 忍者)」と隠語を使って表現されている。


話しを戻して、ところが、そして、享保後の「宝暦明和期頃」からの後期の「伊勢屋」では、「江戸の伊勢屋」では無く「庶民の屋号(質屋)」と成っている。
明和期に享保の改革が成功して伊勢より江戸出店して豪商と成った数人の者等が、「利益を追求する金融業」を始めた「質屋の伊勢屋」であった。(次段で詳細に論じる。)

これは、(イ)(ロ)(ハ)の「商業組合」の所以であって、“「組合」“と云う中での「同屋号の広がり」を見せたものとして解釈できる。

その意味からしても、この「4店の職種」から観ても、「伊勢屋の総合商」は「質屋の金融業」の様に、全て「元の職種」の「発展先の職種」で店を出している傾向にある。
「発展先の職種の店」に付いては、その「何らかの子孫」か「関係者の出店・暖簾分け」であるかまでは充分な“確認”が取れていない。
然し、「享保の改革」で江戸に拡がった「商業組合」としては、享保期から宝暦明和期までの間の「江戸店」の「同屋号の出店」は、「青木氏の子孫の出店」(「暖簾分け制度」である。)では無い。

それは、(イ)(ロ)(ハ)の「商業組合」とすると“「子孫の出店」”は、「自由」とする「発想外の事」と成り得て、兎も角も、全てとは言い難いが、「出店」として可能な「時代期間」と「江戸地区」を限定して考察すれば、「関係者の出店・暖簾分け」であった可能性が強く、現在で云う“「チェーンストア」”であった可能性が強い。

(注釈 現実に「青木氏として氏名に関わる事」は、「享保の改革」を主導している理由から表に出せなかった。
江戸に同行した「江戸の青木六兵衛」とその子供二代に渡りが「吉宗」に仕えたが、この「佐々木氏の資料」からこの事の注意が読み取れる。)

特に「総合商社」から発展した”「伊勢屋の質屋」”が多いと云う事は、“「江戸の名物」”と云われた位に多いのはこの事を証明する。
上記した「越後騒動の原因」と成ったのには、「質流地禁止令」が「江戸の金融問題」で出したのではあるが、「商業組合」として多く「江戸店」を出している越後国にも波及して、この「所以の事」から来ているものとも観ている。
「伊勢屋の質屋」は[享保の改革」を「商いや利益」と云うよりは金融面から支えた「金融システムの構築]に目的があった。


「青木氏の伝統 21に続く。 
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:「青木氏の伝統 19」-「商業組合と提携商人」(「青木氏と郷士衆との関係」)」 


[No.337] Re:「青木氏の伝統 19」-「商業組合と提携商人」(「青木氏と郷士衆との関係」)」 
投稿者:福管理人 投稿日:2015/12/30(Wed) 08:27:51


>「青木氏の伝統ー18」の末尾

> これから察すると、江戸時代では、“「氏の背景力」”と成ったが、この「荷駄頭」と「物見頭」の繋がりで、その「シンジケートの首魁」に連絡を通して、その首魁から、土地の「領主」に話が通り、組織を必要な様に動かした事に成ったらしい。
> 「伊勢シンジケート」の出自は、多くは、「室町期の豪族」や「土豪族」や「郷士族」が戦いに敗れ、海山に逃亡して「裏の社会」で生き延びた者達であり、これらに「経済的支援」をしてその見返りに警備や運送屋や廻船業や殖産や営業等の手助けを請け負って貰い定期報酬とは別に、その都度の報酬を渡し連携をしていた。
> 次第に血縁関係も結ばれ、何時しか「青木氏族」の一員化して生き延びた者と、その配下や農民やあらゆる職能の人たちで、江戸期には、「ある程度の経済的潤い」と「必要な力」を持ち合わせて「表の社会」の一員の立場も持ち合わせ乍ら「二つの顔」を以っても働くように成った。
> この「組織の範囲」(「松阪組」と「射和組」)は、明治期の初めまでの結果として観てみると、美濃から信濃を経由して、諏訪から甲斐の領域までを範囲としていた事か判る。
>
> これは「和紙」と「神明社」と「青木氏菩提寺」の関係からは元より、各地に起こった「農民一揆」の「経済的支援」をしていた事の記録からも頷ける。
> 取り分け、「宗教絡み」の「甲斐百年一揆」と呼ばれる一揆にも「伊勢シンジケート」を通して「経済的支援」をしていた記録からでも判る。
> 傾向として可成り「中部東域」にそのルートを伸ばしていた事も判る。
>
> 中には、「伊豆勢力」(伊勢信濃青木氏族の末裔集団)と、滅亡した「駿河源氏の末裔族」が編成していた「駿河水軍」との連携を持っていた事も記録から読み取れる。
> これは「伊勢水軍」が、「伊勢シンジケート」の一員であった事からの平安期からの連携が遺ったものと観られる。
> 連携で云えば、多くの「商い記録」が遺る“「瀬戸内の支配権」”の持つ廻船業を中心とした「秀郷流讃岐青木氏」との連携が目立つ。
> 「伊勢シンジケート」を全網羅するには、「別の論文」が充分に成り立つのでここでは、下記に「松阪商人」の「(射和商人) 射和組」に付いて触れて置いてこの程度の範囲とする。


伝統―19

・「商業組合と提携商人」(「青木氏と郷士衆との関係」)
この「商業組合」と「郷士衆との関係」(「射和商人」)に付いては、前段で論じた経緯から観ても、江戸期からの「二つの青木氏」の「生き様」を説くには決して欠かす事の出来ない要素なのである。
(唯、前段までの「伝統シリーズ」をお読み頂く事がより理解を深められ事に成りますので是非先ずはそちらからお読みください。)

取り分け「伊勢域」のみならず、「美濃」を除いて「信濃」、「甲斐」、「摂津(近江系)」(美濃と近江は平安末期滅亡)域に定住する「二つの青木氏」と、「武蔵国域」を始めとする「秀郷流青木氏の主要な15地域の青木氏」に執っては、「欠かす事の出来ない要素」又は「伝統」であった。
江戸初期からこの「射和商人(伝統シリーズ-20)」と同じ立場を持つ「関係商人の集団」が主要な「青木氏定住地」には「青木氏」と連携しながら必ず存在して居たのである。
他にこの事に付いて「青木氏」の何らかの記録に遺る地域では、この記録から観ると、「連携地域」は「15地域」も在った。
その下記する「青木氏」が始めた「商業組合」とその「連携商人」は、次ぎの通りである。

「15地域」
讃岐、伊予、安芸、尾張、駿河、伊豆、相模、越前、若狭、越後、米子、阿波、筑前、肥前、陸奥(伊勢 紀州は除く)

以上の「青木氏」に関わる「15地域(A)」に、「青木氏」が自ら「商人」と成ったものも含めて、この“「提携商人」(関係商人の集団)”が存在して居た。

そもそも、この「15地域」に付いては、”アッそうか“と云う事に成るかも知れないが、それはとんで無い勘違いなのである。
では、「青木氏」を語る上で “どれだけの意味を持つのか”と疑問を持つが、当時としては他を圧倒する“「大変な地域数」”とその“「大変な地域力」”と「地権力」であった。
その“「地域数」と「地域力」「地権力」”と云うものに付いて下記に論じて行くが、「商業組合の提携商人と青木氏」とが「地域に与える影響力」は相当なものであったのだ。
それが、江戸期初期の前後の社会に大きな影響を与えたのであって、これを「青木氏の者」は決して見逃してはならない事なのであり、当に“「江戸期の決定的な伝統」“と云えるのだ。

あくまでも、これ(「15地域」)の設定は、発見された“何らかの資料・記録を遺している”とする事を前提としているので、遺していない地域もあったので、推測では、「青木氏の出自構成」から観て、「20地域程度(B)」には成ると観られる。
更に、他の論文でも論じた“「主要青木氏族 8氏の地域」“として観れば、「提携商人」は、全て「8地域」にも在って、計23地域(A-1)、28地域(B-1) と成る考察である。

そうすると、兎も角も、先ずはこの「15地域」を前提とすると、「特別賜姓族」の「秀郷流青木氏116氏」が大きく定住する“「24地域」“と、「皇族賜姓族五家五流24氏」の”「19地域」“(室町期 最終19地域)とである。
合わせて43地域中、現在、記録に遺る地域として、「約30%-15地域」に、この“「提携商人」(関係商人の集団)”が確実に存在して居た事に成る。

この「30%-15地域」の「提携商人」が、「青木氏」と共に“地域に対して“「経済的背景」”と成っていたのである。
とすると、これを下記に示す通りに、同じ様に地域(21)に対して“「経済的背景」”と成っていた「青木氏」が関わる“「一揆地域」(下記)”と重ねて考察すると、更に「証拠力」が増すだろう。

そこで、詳細は下記に論じるが、明治期までの”「一揆」”と云う観点からで観ると、「21地域」と成る。

何故、この”「一揆」”と云うものが「15地域」と同じ様にパラメータに成り得るのかと云うと、”「一揆」”には、”「一揆」”と云うと「空腹」では無し得ない。
それを実行するには、必ず「経済的背景」が無くては無し得ない。
つまり、従って、この”「一揆」”も「青木氏」が「経済的背景」と成って援護していた環境下にあって、上記の「提携商人」で観ると「15地域」、「一揆」で観ると「21地域」と成る。(下記)

これらも「同じ地域環境」で「何らかの形」で強く“「経済的背景」“と成って”「民の行動」を援護していた“のであるから、”この差は一体どうなのか”と云う事に成る。
依って、これに「青木氏」が関わっていたのであるから、本来であれば数字的には同じ程度である筈である。
然し、同じ様にこの地域に対して「経済的背景」と成って居乍ら、この差の「6地域」(21-15)は、何で起こっているのかである。
本来であるならば同じ程度である筈だ。

結論から云うと、この「6の地域差」は、“「提携商人の定義」の差”であって、つまり、「定義外の形」(下記)で提携していた「商人」が居た事に成る。
所謂、「定義外の形」,これが他氏には観られない「青木氏」だけに関わる「提携商人の特徴」なのであって、「重要な伝統」の「一つの差」なのである。

何はともあれ、この「21地域の一揆」とは、上記の「推測の20地域」≒「一揆の21地域」とほぼ既に一致している。

従って、この「推測とした地域」(定義外の地域)は、上記の通り「5地域」である事に成る。
つまり、「推測していた地域」が含んでいた事に成る。

要するに、「推測5地域≒地域差6地域」の「関係差」と成っている。

恐らくは、この「関係差」が出ていると観られる。

そうすると、次ぎに、この“「推測とした地域 5地域」”とは、“一体何か”という事に成る。

その前に、15地域には、「青木氏定住地、即ち、青木村」がある事を述べて置く必要がある。

然し、この“「青木村」”は、何度も論じているが、そもそも「嵯峨期の詔勅」と、「青木氏」の50程に成る「慣習仕来り掟の使用の禁令」で、この「慣習」の一つと成る「地名」に対して、一般に対して使用を禁じた。
且つ、「氏名」を元とする「地名の使用」も禁じられていた。
そして、共に「青木氏の氏名の使用」も禁じられていて、明治3年までこの原則は護られた。

従って、“「青木村」”があるところには、“「真の青木氏」”が必ず存在し、且つ、この“「商業組合」と「提携商人」”も存在して居たのである。

この「青木村」の詳細は、「地名地形データベース参照」としては次ぎの様に成る。

「古史資料ベース」としては、「青木村」は「75地域」、「現地図の地名ベース」では「109地域」である。

この内訳は次ぎの通りである。

(注意 現在の都道府県名で呼称するので「地名」が分断している事がある。
「数字」は必ずしも大きさを示さない。
「複数」は「青木村」が本家地域と分家地域で「複数の村」があった事を示す。
「1の数」には、複数地域よりも「広さ」では大きい事もある。)

青森 1、岩手 2、宮城 17、福島 2、茨城 2、栃木 1、群馬 1、埼玉 3、千葉 3、
神奈川 1、新潟 5、・富山 1、・長野 8、岐阜 2、静岡 3、愛知 21、滋賀 1、京都 2、
・兵庫 3、和歌山 1、鳥取 1、岡山 1、広島 3、山口 1、徳島 4、香川 2、高知 長崎 1、 福岡 4、熊本 1、・宮崎 1、鹿児島 1 

以上の「101の青木村」が「現在の地名」で在る。

(注意 「三重 6(地名含む)」と「南和歌山 2」は除く。・印は、「皇族賜姓族青木氏」の「伊勢と信濃と近江」の「商人 2」を含む。 計「全109村」)

「秀郷流青木氏の特別賜姓族116氏」に、「皇族賜姓族青木氏の19氏」で、「二つの青木氏」とは、そもそも「135氏」である。
然し、現実には「二つの青木氏」は、室町期末期では最終「121氏」であった事から 現在地名の「全109村」(三重南紀含む)とすると、「青木氏」では「氏=村の関係」があったので、室町期末期では「12の差(121氏-109村)」が出ている。

平安末期から観ると、「26の差(135-109)」、 古地名では「60の差(135-75)」であるので、「嵯峨期の詔勅と禁令」に依り「青木氏」にだけ限られる「氏=村の関係」から「消滅」が「最大 26村」があったと観る事が出来る。
この主原因には、「源平合戦」にて「青木氏氏是」に従わず、二度も「戦い」に参加して「近江と美濃と滋賀と駿河の青木村」が消滅した事に在るだろう。

「青木氏]と云う「特定の氏の共通する村」が全国にこれだけある事の事態が稀を超えて特異である。先ずは無いだろう
それだけに、この「109村、或は、75村」の持つ意味は計り知れなく大きい。

兎も角も、現在地名では「青木村」は、正式に「109村」で、江戸期前の地名では「75村」、現在の地名で、「青木氏族」を含めた形で観ると、上記した様に、計23地域(A-1)、28地域(B-1) に成る。
従って、平安期末期と江戸期初期の両方から観ても、「村の地域」と云う点から少なくとも「26地域」には「青木村」があった事に成る。

計23地域(A-1)<「村 26地域」<28地域(B-1) 

唯、考察での問題は、「永嶋氏」の様に、この「青木氏族の絡み」が、“「109村」、或は、「75村」にどれだけ組み込んでいるのか”は,なかなか判定が難しいのである。
と云うのも、「秀郷流青木氏」の「青木氏族」は、「商業の関係」でも可成り「親密な関係」にあって、分離して判別する事が難しいのである。
中でも、前段でも論じた様に、「伊勢の長嶋氏」、「薩摩の肝付氏系長嶋氏」等では明らかに「青木氏」と「商業の関係」を持っていた事が資料から判っている。
そもそも、他の論文でも論じた様に、「青木氏」が「第二の宗家」で「青木氏族」を取り仕切って居た事にあるからである。
取り分け、筆者が観る処では、「永嶋氏」が最大に「青木氏」と関わっていた事に依ると観ている。

資料にしても「青木氏と永嶋氏の関係資料」が最も多く在り、且つ、「親密度」も互いに出自が同じで「兼行系」であった事から親交が高かった。
又、「青木村」の存在する処には、必ず「永嶋氏」が定住している史実が在る事から、更には、主要5氏の中でも「子孫拡大」でも最大である事からで、本論の「提携商人の関係」にしても「商い」で繋がっていたのである。

(注釈 「永嶋氏」はその意味でも「関東屋形」と呼ばれていた。)

(注釈 事例として前段でも論じた様に、秀吉から攻められた「結城氏(永嶋氏)」の「陸奥の戦い」にも「伊勢秀郷流青木氏」が、「伊勢長嶋氏」と共に参加して、背後から攻め立てて「永嶋氏系白河結城氏」を秀吉から救っている。
この戦いは「秀吉最大の失敗」と呼ばれた。)

前段で論じた様に、その「典型的な証拠」に「伊勢」があり、全ての上記の要素を持っている。
「佐々木氏の資料」を観ても、「青木氏と永嶋氏の関係」に付いても論じている位である。

最南端の鹿児島でも「氏」として「二つの青木氏と永嶋氏の関係」があって、「大蔵氏族肝付氏系永嶋氏」が「薩摩藩の御用商人」としても働いていて、「材木商」や「雑貨関係」としても「二つの青木氏」とは“「横の関係」”で繋がっていた事が判って居る。
関西と中部域で「青木氏との商い関係」でその行動記録がある。
唯、内容から薩摩側では、「御用商人」が大手を振って「商い」をしているのではなく、特別に配置された、所謂、“「永嶋氏の者」(要するに「本論の提携商人」に成り済ました)”が動き、「姓」(長嶌姓)等を変えても「隠密行動の様な商いの仕方」をしていたと観られる。
それだけに事態は掴みにくい記録であった。

(注意 ここでは、兎も角も「青木氏の提携商人」として単独で論じているが、お読み頂く場合は是非に重層してこの“「横の関係」”があったとして幅広く想起しながらご判断頂きたい。)

(注意 依って,現地名「109村」には、「市町村合併」や「歴史的変化」にても「青木村」、或は、「青木の地名」が、残念ながら少なくとも”「12の消滅」”をさしている事が確認できる。
これが、上記の「近江と美濃と滋賀と駿河の青木村の消滅」と成るだろう。)

但し、現在の47度道府県として、この「26地域」(135-109)には、「青木氏」に関わりの無い「青木村」があり、「村」では無い「単なる地名」もあり、明治後の「第三青木氏」の「青木村」もある。
依って,これ以上の結果とは成らず、「26地域-地域差6地域」と成る。

この「三つの要素」を取り除くと、江戸期の「66国」中では「75村」と成るから、これも同じ“「26地域の村」”と成る。
この「26地域」は、「青木氏族」を加味した数字の「28地域」に一致する。
依って、この「青木村の数」は、明らかにこの「28地域」を超えない事が判る。
「一揆の地域差6」を勘案すると、「22地域の村」と成る。

つまり、「26地域から22地域」と成り、この中間として「秀郷流青木氏の定住地」の「青木村」の「24地域」は定まる事に成る。
これに「皇族賜姓族青木氏」の「青木村 6地域」を加算しても「28地域」を超えない事が判る。
このデータの信憑性は極めて高い事に成る。

この「26地域から22地域」の「青木村」には、それぞれの“「青木村の由緒」”があるので、一概には言えない。

然し、但し、次ぎの6県は「15地域」の中でも特別である。

愛知 21、宮城 17、長野 8、新潟 5、福島 2、埼玉 3

以上の6県は、確かに「青木氏の主要地」であることもあって、「複数村/県」で、「多数」あって、大きさも「広大」(地権力)であった。

この「6県」の「青木村」の持つ「地域力」、又は,「地権力」というものが如何に大きかったかが判る。
つまりは、「商業組合」「提携商人」の「存在と活動」が半端では無かった事を意味する。

その「大きさ」の持つ意味を一つの形に表すならば、一種の“「青木氏聖地」の様相を呈していた“と云っても過言では無い模様であった。

そうすると、これだけ大きければ、「正規の藩主」では無いが、軍事的に、経済的に、政治的にも握っていたのである。
この「青木氏」が“「民」を援護した”と成ると、伊勢域の「射和商人」の様な「商業集団」を作り、これが「商業組合」を作ったと成ると、「為政者」にとっては「最大の脅威」であった筈である。

この6県の「江戸初期の藩数」で観て見ると次ぎの様に成る。

6県の江戸初期の藩数
愛知 5(尾張藩)
宮城 2(仙台藩)
長野 18
新潟 18
福島 9
埼玉 20

如何に小藩がひしめいているかが判る。
因みに、御三家の「尾張藩」と、伊達氏の「仙台藩」を除き、6県の「江戸期初期の藩」は以上の様に「小藩」がひしめき合って配置されていた。
これでは、「青木村の青木氏の地域力」、又は、「地権力」を凌ぐ程の藩は無かった事に成る事は明らかである。

そこで問題は、「愛知の尾張藩」と成る。
検証して観ると次ぎの様に成る。

そもそも、御三家の「紀州藩」と対抗したのは「尾張藩」であった事は有名で、「伊勢青木氏」が吉宗に同行して「享保改革の政策」を押し進めたが、これに異議を唱えたのは「尾張藩」で明治維新まで「伝統的な関係」にあった事は有名である。
その関係に在りながらも、それでも「地域力」や「地権力」を示す「青木村」は「5村」も在った。

では、その「5村」とは、1郡に相当し、1郡は1国5郡とすると、「1/5の面積=地権」に「地域力」「地権力」を持っていた事にも成る。
この「地域力」「地権力」は、例え「藩主」であってもこの“「地権」(地主)”を持つ地域に対しては「治外法権的な意味合い」を持ち、この「地権」に対する税を納めれば「自由な差配」できなかった制度であって、現在の「固定資産税」に近いものであった。
多くは「青木氏」の様に江戸初期で観れば、平安期からの歴史を持つ「20弱程度の氏族の郷氏」にあった。
「地権料」を支払う代わりに「土地」に対する「自由権」を補償されていた。
要するに、民から観れば、先ずは「藩主様」より「地主様」であった。

この「地権」の無い所は役所に届けて承認を得なければならない。
そうすると、果たして、この「尾張藩」は、この「1/5の面積=地権」で占められていた事に成る。
例え藩主であっても自由にはならない地域が1/5あったのである。
ここに、「商業」から得られる「莫大な経済力」も持ち得ていると成ると、これでは明らかに「藩主以上」と云う事に成る。
民に執っては、心情的には「経済的」に何だかんだと面倒を看てくれ援助してくれる「地主様」の方が親近感が湧くが、税を採られる「藩主様」では無かった事に成る。
それが「御三家尾張藩」である。(紀州藩と藩政が違う)
「自尊心」と「権勢欲」が強い藩主であれば、夜も眠れない事に成るだろう。
「尾張藩」を除いては最早問題では無い。

「埼玉の20」は、秀郷一門一族の武蔵の地元である。論外であり、当然の結果であり、「地主様」である。

これで、他の9県もどの様な状況であったかは推して知るべしで判る筈である。

では、「紀州藩」が推し進める「商業組合-提携商人策」に対して「藩主側」が反抗し得る立場を持っていたかは疑問である。
とすると、「反抗勢力の吟味」と云うよりは、下記する「家康のお墨付き」「地士制度策」にどの程度の「効き目」があったかの「検証問題」だけは残る。
然し、現実には推し進めたところを観ると、矢張り黙認せざるを得なかった事に成る。
下記する「7年」から推し量ると「最大効果の効き目」があった事に成る。

況して、「尾張地域の周囲」は、他県と異なり「秀郷一族一門」と「片喰族と州浜族の秀郷流青木氏」で固めていたのであって、「家臣の大半」はこの一族であった事から、なかなか難しかったと考えられる。
「尾張藩」としても「金子借料の件」もあって「青木氏の豪商」に文句を附ける事などは難しかったと観られる。

(注釈 「吉宗の経済政策」に尾張藩は異議を唱えたが無謀が過ぎて、結局は「藩主退陣」に追い込まれている。)

因みに、この「6県の範囲」で観て見ると、「尾張藩」を含めて「72の各藩主」が、これを無理に抑え込もうとした場合は次ぎの様な事が起こる。
果たして、この様な事をするであろうか。
それこそ「藩政未了」として幕府から潰されるが落ちであったであろう。

その「典型的な最大事件」が、同じ江戸期初期に讃岐伊予域の「青木氏の定住地」で起こっていたのである。

その「典型的な事件」が、「山内一豊の土佐事件」である。歴史的にも有名である。
「伝統シリーズ」でも論じたが、土佐に平安期の古くから住む「讃岐藤氏の青木氏等」の「郷士や郷氏」が此処に定住している。
その「地権」や「商業」などの「地域力」「地権力」を持つ「郷氏や郷士」を、思うが侭に「支配権」を獲得しようとして藩主と成った「山内氏」は、これらに対して「武力に依る攻撃態勢」を採った。「自尊心と権勢欲」が強くて夜も眠れなかったのであろう。
そこで「激しい抵抗戦」が長く起こり、結局は、「最終談合」と云う形で城に一族を含む「郷士と郷氏」の全員を招き入れて、そして何と閉門して「騙し討ちの殲滅作戦」を採り全滅させた事件が起こった。
これに依り土佐に「抵抗勢力」は無く成ったが,本拠の讃岐域では「讃岐青木氏」は健在であった。
この遺恨は「讃岐青木氏」に遺った。

この様に、「移封藩主」と主に「地権を大きく持つ郷氏」との間は「犬猿の仲」であった。
何処でも例外なくその原因は、藩主に取っては「地権と商業と結びついた地域力や地権力」が邪魔であったのである。
この「15地域」でも例外では無く、上記の「主要6域」(6県)は当に特別であった。
この様な事件は「15地域の青木氏」でも例外では無かった。
むしろ、「地権力と地域力」のみならず、更には、もう一つあった。
それは“「氏の格式」”には「格段の差」があった為に,「移封藩主」にとっては手の出し様が無かったのである。

(注釈 この「格式差」が物語る事としては、前段でも論じたが、「伊勢青木氏の口伝」で伝わっている様に、紀州徳川氏の頼宣さえも面談時は、上段の座)を外した作法を採ったくらいのものであったのである。)

下手をすれば、特に、上記した愛知 21、宮城 17、長野 8、新潟 5、福島 2、埼玉 3の6国では、江戸期初期であっても、藩主側は、未だ「賜姓族」としての「不倫の大権」をかざされて「朝敵の汚名」を被る恐れもあった。

そこで、その「移封藩主の脅威のレベル」では、「秀郷一門」は,前段でも論じたが、家康が一目置くほどに全国規模で展開する「軍事力」を持っていた中で、「秀郷流青木氏」はその「第二の宗家」と呼ばれる様に「一門の指揮権」を備えながら、「二足の草鞋策」としても「商業」にもその「地域力と地権力の勢力」を振り向けていたのである。

これに、平安期から「古氏」であった事から、その「広大な土地利権」をも持っている“「郷氏」”でもあったのである。
そして、それが“「商業組合」”として、“「提携商人」”を作り出して、「軍事力」は元より「経済力」にも「途轍もない幅」を利かせていた事に成る。
「単なる大名」や「豪族」が、例え「為政者」として「藩主」と成ったとしても、これでは到底、力の及ぶところでは無かった。
その「青木氏」が幅を絶大に利かした地域が「15地域」もあったと云う事に成る。
但し、全国の30%程度に、この「勢力」、即ち“「地域力」「地権力」”を誇示して居た事に成る。

中でも「最大の地域力と地権力」を示しているのが下記の県である。

愛知 21、宮城 17、長野 8、新潟 5、福島 2、埼玉 3

その以上の6県は、次ぎの様に成る。

「尾張(三河)」、「 陸奥(陸前)」、・「信濃」、・[越後]、 「下野(岩代)」・「武蔵の国」

以上とは成るが、元よりここは「秀郷流青木氏の主要国」でもある。

如何にこの地域にその“「地域力」「地権力」”が及んでいた事かが判る。

これで、前段の「秀吉-家康の関係」から関東に移封された「家康」が、採った秀郷一門に敷いた施策の妥当性が良く判り、「武力」では無く、「青木氏の提案」の「商業組合の提携商人の創設」を戦略的にも目論んだ事でも判る。
山内氏の様に「武力」に依らず、前段でも論じたが、この“「地域力」「地権力」“を利用する”「懐柔策」“に出たのである。
然し、この“「地域力」「地権力」”に対して、これに対してどんなに大きな「藩主」であっても、公然と軋轢を掛けて潰そうとしても出来ない事であり無理であった。
この事は、“「商業組合」”の基と成る“「提携商人の創設」”は、「伊勢紀州」から「15地域」に「短期間」で広がった理由でもあった。
資料の範囲では、最大で観て見ると何と“「7年間」”である。

この“「7年間」”を吟味すると、先ず「商業組合」を伊勢で始めたのは、「蒲生氏郷」が嵯峨期から禁令で有った地域の松阪に禁令を敢えて破り、先ず「政庁の松阪城」(1588年)を作り、その城下を商業都市化した時に、「青木氏の本領安堵」と共に「屋敷町の3区画」をも与えられた時からである。
先ず、ここで「商業組合の基礎作り」が始まり、この城郭を引き継いだ「家康」が、この「頼宣」(1619年)に「紀州と伊勢」の統治を任せる直前に、「青木氏との談合」を数度重ねている。

前々段でも論じた「青木氏の商業年譜」から観て見ると次ぎの様に成っている

1612年に「合力談合」。
1614年に「伊勢衆談合」。
1615年に「伊勢衆動員」。
1615年に「堺摂津盛況」。
1619年に「松阪会談」。

1612年に「夏冬の陣」で「家康の要請」に応じて「談合」で徳川氏に合力する事を決めている。
既に、「家康」とは既に1603年と1605年にも「談合」があった。
「頼宣」が紀州藩に正式に入城したのは1619年で、その前から既に「浅野氏の紀州の政情」を調査するなどの“「事前行動」”を、家臣を秘密裏に送って数年前から探って採っている。
つまり、この事から、「家康」は「夏冬の陣」の頃から「頼宣」にここを任す事を密かに決めていた事に成る。
勝利したから決めたと云う事では無い事が良く判る。
つまり、「戦略的地域の要衝」であった事に成る。

五大老に成り「征夷大将軍」に成った時点で、「徳川氏盤石の礎」を築く為に、「地理性と環境性」(青木氏等の地域力)から判断して、この「紀州伊勢域」に一族を置く事を企てていて、「事前調査」(政情調査)をした事に成る。

だとすると、この結果から観て、従って、1615年までには「青木氏の提案」を受けている筈である。
この直前(1613年頃)の時前に、この「青木氏の提案」があったと観られる。

その後に「家康」が没する1616年までに,この計画は既に進められていた事が年譜から判っている。

1603年に「伊勢談合」。
1605年に「松阪面談」。
1606年に「伊勢談合」。
1607年に「四家安定」。
1612年に「合力談合」。

依って、「初期計画」は1588年頃に始まり、1603年に「伊勢談合」により、1605年「松坂面談」の頃には「暗黙の了解」が得られ、1606年に「伊勢談合」で、伊勢紀州域の郷士衆や商人や農民や職能者に説得工作を開始して、1607年に「四家安定」で氏内が混乱していたが、説得が効を奏して、上記の1612年の「合力談合」では、「伊勢紀州の態勢」は「商業組合」を暗黙で容認する「徳川氏」に決まり、この結果として、家康没直前の1613年後半期には本格稼働させ、「頼宣入城」の1619年で、15地域に「頒布稼働」させ終わって居た頃に成る。
従って、1612年から1619年の“「7年間」”で大方広め終わっていた事に成る。

つまり、この期間から観て、“「頼宣入城」までには、整えておく”と云う「密談事項」が家康と在ったと観られる。
それが、資料からすると、これ以外には談合は無い所から「1612年の時」の「合力談合」で行われていた事に成る。
「合力」と同時に行われたとすると、「家康」は豊臣側に勝つ事を前提にして事前に打ち合わせていた事に成る。
「青木氏側」にしても、「合力の見返り」が、“何もない”では周囲を説得し押えられなかったと観られる。

だから、「1607年の四家安定」とある事に成るから、四家が急激に安定する事は無い筈で、徐々に1612年に向けて「安定」と云う方向に向かって繋がっていったのではないかと観られる。
これは、明らかに「提案」が、「商いに繋がる事」として、“「合力の見返り」”に在ったと考えられる。

この「初期計画」から観て、その期間は31年で、「中期計画」までは14年とは成るが、この時期では「商業組合の体制」が、”充実した状態で完全に整った”とは云い難く、それはこの「商業組合の提携商人」の「関わり方」に未だ問題があった様な印象である。

つまり、“充分では無かった”と関係する各種の資料、取り分け、「越前からの手紙」からの判読で読み取れる。
“「1619年頼宣入城」までに間に合わす”と云う「大前提」があった事から、「7年」と云う形である程度の上記した様な読みもあったが、それにしても“いざという時の「怪我」”を覚悟で急いだと観られる。
可成り急いでいるが、この時の「青木氏や郷士衆等の生き様」が読み取れる。

其れの決定的な証拠としては,下記に論じる“「江戸初期の一揆の様子」”である。

「江戸初期頃の青木氏」が関わった「一揆」(下記)を抜き出すと次ぎの通りである。
・1603年滝山一揆
・1608年山代一揆
・1614年北山一揆
・1615年紀州一揆
・1677年郡上一揆

先ず、1603年の土佐で起きた「滝山一揆」で、上記した「讃岐藤氏の末裔郷士」と「讃岐青木氏」が関わった「郷氏 郷士連」と伊予讃岐を挟み「土佐の農民の一揆」が在った。
要するにその最終は、上記した「山内一豊の事件」である。
この「一揆」で「讃岐青木氏」は大きな痛手を負った。
そして、後々にまでこの遺恨は遺ったのであり、その後に「小競り合いの問題」も伊予と讃岐で起こしている。

ところが、この後、続いて「讃岐青木氏」に影響を与えたのが年を置かずに起こった1608年の「山代一揆」である。
そもそも、この1608年の「山代一揆」は、安芸国の国境で起こった「農民の一揆」で、毛利氏の農民に対する重税率(73% 本来は40%程度 四公六民)が異常であった事から3年間も起こったもので、「讃岐青木氏の勢力」が安芸に延び,その「末裔の商人」とその関連する「地域の住民」に影響を与えた。
結果として、これが「商業的な地盤」に影響を与えるとして重視して、経済的に背後に居たと云われている。

次ぎには、少し開けて3年後に起こった紀州南紀の1614年の「北山一揆」は,特に「南紀の熊野全域」で起こった「一揆」であり、結局は南紀から南伊勢の全般に拡がった農民を巻き込んだ地域の土豪の「一揆」(乱)であった。
要するに、「秀吉の紀州征伐の反動」である。
この反動は「頼宣入城」の直前の何と1619年頃まで続いたのである。

起こった地域が一般には「南紀」としているが、現実には紀州全域と伊勢全域に影響を及ぼしていた。
それは、この「一揆」を制圧しようとして派遣された「秀長の掃討軍」(紀州領主)が、伊勢紀州の地場産の「材木の販売」に加担して莫大な利益を上げていた事から事件が拡がったのである。
「一揆軍討伐」どころか「商い」をしてしまったのである。
それも最初に派遣された「秀長(秀吉の弟)の討伐軍」、そして、天正の二度目に派遣された秀長家臣の吉川の「紀州征伐の討伐軍」も何と共にである。
この事で結局は「一揆討伐」はひとまず放置された。
この不思議な“「猶予期間」”が起こり、更には後に、秀長から改めて討伐を命じられた家臣で「紀州湊の領主」も同じ事に成ってしまった。

(注釈 この天正末期の行為が「秀吉」に伝わり「弟秀長」は「蟄居」、家臣の吉川は「打ち首」(さらし首)と成って、一揆は一応は挫折した。
この後の慶長期にも燻り続けていて「北山域山岳部」で直ぐに紀州一揆が再発し起こる。天正期からこの一帯で起こり続けた一揆は「北山一揆」と仮称されてはいるが正式な呼称では無く、総じて「紀州一揆」であり各地に継続して飛び火して行ったものである。)

これは、“材木販売等が二度も何度もある”というのは“何かおかしい”。何か策略を感じる。

そこで、この“何かおかしい”を説く為には、前段でも論じたが、次ぎの事を思いだす必要がある。
この一帯は、そもそも「伊勢青木氏の遠祖地」でもあり、「和紙の素材」等を栽培している地域でもあって、且つ、その地の「南勢の郷士衆」は「伊勢青木氏」に大きく関わっていた事からも、又、所謂、「青木氏部の郷」でもあって、「一揆に加担した南勢郷士衆」が「青木氏」に大きく関わっていた事から「伊勢青木氏」は絶対に放置できなかった。

一方では、青木氏は「商業組合の問題」も抱えていて“てんてこ舞い”であったが、「一揆」を“後回し”と云う事には成らない出来事であった。
それだけに、「一揆の経済援助」だけでは済まなかったと考えられる。
先ず足元を固める事が専決事項であった。
「青木氏」は、先ず「伊勢シンジケート」を熊野山岳部に動かし牽制して、この「紀州の一揆」を側面から援護しながら「討伐軍」を牽制して一計を案じたと観られる。

そもそも、これは、最早、紀州で起こった全てこの一連の「一揆」は“「一揆」”と云うレベルでは無かったのである。
最初は秀長や吉川等の重臣等が多く討ち死にすると云う程のもので、「伊勢シンジケート」に依る山岳部や河川域で起こる「ゲリラ戦」も含めて「完全な軍と軍との戦闘」であった。

それが、地域を限定した「反抗の一揆」ならば、「伊勢シンジケート」で牽制してまでは行わないだろう。
要するに、そもそも戦い方が一揆では無い。当に「乱」であった事から、「青木氏」が採るべき事は決まっている。
それは「否戦闘の常套戦術」である。
この「常套戦術」が、この「伊勢紀州の地場産」の「材木の販売」等が「青木氏の戦術」であったと観ている。

当時、記録で観て見ると、「一揆」と時を同じくして、世の中は安定化に向かっていて、材木等の資材が“「大阪堺摂津」“で高騰し始めたのである。
取り分け、不思議に「紀州の檜の材木」が一挙に高騰し始めたのである。
当時では、未だ、武士や市民の住宅建設」までの安定期には至っていない。
にも拘らず「堺摂津域」では高騰している。

これは「信長の伊勢攻め」の「丸山城の焼失作戦」と明らかに同じ手口である。
つまり、前段でも論じたが、「伊勢青木氏の商業記録」に遺る史実であるが、「堺摂津の紙屋」が資材を織田軍に調達する役目を請け負ったが、この時に採った「丸山城築城に伴う資材高騰の作戦」があった。
同じ様に、この時も「信長」の息子の「信雄」が、「信長」に重臣面前で罵倒され蟄居を命じられている。
つまり、「掃討軍」に「商い」に誘い込み「利益」を挙げさせて、遂には「表沙汰」にして「失脚させる戦法」に出たと観られる。
両方は全くそっくりである。

この「青木氏の常套戦術」の其れに依って、起こった「一揆」(乱)に対して「青木氏」としては「短期にして最小限度の被害」に留めようとしたものであったと考えられる。

これは、1603年から始まり長引いた“「天正の紀州討伐」”に続いて、燻り続け「小競り合い」の続く中で、この1614年に再燃した“「北山一揆」”に続き、再び続いて起こった同じ紀州で別の1615年の「北山域」を含む“「紀州全域の一揆」(紀州一揆と呼称)”は,未だ「紀州征伐」の「憤懣の爆発」が解消せず、「各地の郷士から農民全般」に紀州から伊勢の一部に掛けて全土に拡がった「大一揆」(乱であった)であった。

そもそも、この「南紀州域と南伊勢域」は、前段でも論じた様に、「龍神域」から「戸津川域」、そして、「北山域」等の「紀伊山脈山岳部」は、「平家落人の里」として鎌倉期からも「有名な山岳地域」で、ここに“「紀州郷士衆」”が住んでいた処である。
この「地域の農民」と云えども元はれっきとした“「平安鎌倉武士」”である。
寄せ集めで武士に成った「豊臣家の武士」では無い。
戦えば、当時も「一騎当千の力を持つ戦闘集団」であった。
時には常に鍛錬して「傭兵軍団」に成った経歴を持つ。
(現在でも「戸津川郷士の剣道」と云えば全国優勝する程である。)

この「一揆側」には、上記の「郷士集団」が結集し「3千の兵力」で当たり、これに「農兵軍 一千」が加わり、更には「「伊勢シンジケートのゲリラ戦闘員 一千」が加わったとされている。

これは「一揆の戦力」を理解する上で、どれ程の「郷士」が集まったかと云えば、「一人の郷士」に「20人の家人」が居たとして、「150人の郷士」が集まったと云う事に成る。
前段でも論じたが、この「伊勢紀州域」は、奈良期からの悠久の歴史を持ち、「遷宮のお膝元」として「不倫」で保護されていた事もあって、「争い」は少なく、「郷士衆」も少ないのである。
他国の平均が500強と論じたが、それから観ると少ない伊勢紀州域ではほとんどの「郷士衆」が参加した事に成る。

それに、元は「平家家人」であった「元武士の者」等が「農兵」として参加した数が一千とすると、一郷士の下に6人が加勢している事に成る。
「郷士」も「農業の環境下」にあって、「青木氏に依る殖産」に中心と成って従事していたのであるから、「農兵と成る6人」は、「村の農民」の戸主半数が参加した事に成る。
「農兵の村の農民」は「村を護る事」から全員が加勢する事は出来ない。

この「二つの吟味」から、伊勢南域と紀州域とすると、要するに、“「総掛かり」”であった事に成る。
これに、「伊勢シンジケート」が伊勢紀州域から非常事態として集合した「常時戦闘要員の一千戦力」とすると、「伊勢シンジケート」は、信濃域を除いて、「7軍団」居たとされている。
各地に配置している「一軍団」に「200人から250人のプロの戦闘員」(伊賀忍者の様な集団)が居たと成っているので、5軍団/7軍団の相当で集合した事に成る。
「留守居」を置いて「伊勢紀州域の全軍団」がこの時とばかりに集合した事に成る。

恐らくは、最近、「郷士の家」から発見された手紙に依れば、「信濃域」からも合力している事は確実である。

(注釈 これらの「物資補給」や「シンジケートの特別手当」などの「賄い」は「青木氏の資力」からの援護に依る。)

「青木氏」は、片手に「15地域の商業組合の推進」、一方ではこれを覆す程の事が起こったのだが、これを観ると、「500万両と云われる総力」を掛けた事に成る。
「伊勢水軍」と「熊野水軍」が海部域から牽制して動いたと成っている。
何れ「一揆掃討軍」とすれば、山岳域と海部域から挟みこまれれば、補給は陸部だけと成る。
この「陸部の補給」だけでは1万と云われる具の補給は困難で、それを「ゲリラ戦」に持ち込まれれば、「戦費」は嵩み、「掃討」と云う事までは行かないだろう。

況してや、例え、「一万弱の討伐軍」であったとされているが、“「戦力」”としては「平家落人の一騎当千」から“一揆側の方”が遥かに上であったと観られる。
(戦い場所を選ば無くてはならない程に切迫し、「河原の野戦」に持ち込もうとしたと書かれている。)
この事から、秀長の家臣の「湊の住人吉川の戦力」では到底力の及ぶところでは無かったのであって、それだけに出来るだけ「直接的な戦い」を避け,何とか時間を掛けたと観られる。
そこで、秀吉より督促され焦りを見せた秀長が援軍を出し無理押しを強いたのである。
それだけに、記録に遺されている様に、重臣とその家臣が多く討ち死にすると云う「天正末期の一揆」にしては前代未聞の“豊臣側に大きな犠牲”が出した事に成っている。

これを観た「青木氏」は、当然に長期戦になれば遠征側の秀長側に「戦費に対する心配」が必ず起こるとして、この市場で「材木の高騰」を故意的に起こさせて置いて、紙屋が「材木の販売」を持ちかけたと観られる。
「一揆掃討の作戦中」でありながら、その時に何と膨大な”「数万本(2万本)もの材木」”を売れば、罰せられることぐらいは誰でも判る筈なのに、売却したのである。

これはどう見てもおかしいし、「掃討軍の戦費」であって明らかに「青木氏が採った戦略」であった事が判る。
これに載った「秀長と吉川」は、結局は、この件が発覚し秀吉に罰せられたのである。
こうなれば、「一揆処の話」では無い。

そもそも、秀長側は、この仮称「北山一揆」の「上記した様な経歴と背景」は既に知っていた筈で、有名な事である以上知ら無い訳は無い。
何故ならば、上段で論じた様に、この様な事は、既に「秀吉」は「青木氏」との間で「伊勢長嶋の戦い」でも経験しているのであるし、「信雄の丸山城建設の資材暴騰と消失」を目の当たりに経験している事でもある。
未だ、35年前の話でもある。そう忘れる程の昔では無い。

それだけに「持久戦」に成る事は承知して居た事で「戦費」が気に成っていたし、「犠牲」も普通の「一揆の範囲」では無い事ぐらいは判って居た筈である。
秀長は浅野氏の前の紀州領主である。知り過ぎていた筈である。
そして、この地域が「伊勢青木氏の遠祖地」で「関連地域」である事も重々承知していた筈である。
背後には「伊勢青木氏」が居る事ぐらいは知っていた筈である。

同じように「一揆側」にも「戦費の問題」が発生している。
然し、これを誰かが背後で援護している事ぐらいは判る。だから一揆は続く。
又、「相当な財力」を持った者である事も判るし、それを出来るのは「地権者」でもあるし、「伊勢青木氏」である事も当然に判る。
そうすると、ここで“何が起こるか”は予想できた筈で、上記した様に、況して、「青木氏」が持つ「伊勢シンジケート」が動くと「山岳部の補給路」は塞がれる事で犠牲は続出する事ぐらいは判って居た事に成る。
又、「海部域」も「青木氏」は「二つの水軍」を持っている事ぐらいは判っていた筈で、補給路に問題出る事も判る。
だから、「一揆側」を積極的には討伐せずに「九州征伐」に出て一時放置したのであって、秀吉の再三の催促に「三度の遠征」と成り、一時は「首謀者の犠牲」で納まったかの様に観えた。

ところが、放置して「根本的な掃討」としなかった事から、「小競り合い」は永遠と続き、結局は再び大きく成った四度目の1614年と1615年の「紀州一揆」までの「紀州討伐の結果」は長引いて仕舞ったのである。
これは直接戦に成った処か、前哨戦に成った処からの何処からの状況で観るかに依るが、最大で27年 最小で11年と成る。

「青木氏側」から観れば、「小競り合い」が続く範囲で治められていたが、結局は、“長引かせてしまった”と観る方が正しいと観られる。
それは次ぎの年譜でも判る。

「青木氏の商業年譜」では次ぎの様に成っている。

1614年に「伊勢衆談合」。
1615年に「伊勢衆動員」。
1615年に「堺摂津盛況」。
1619年に「松阪会談」。
1620年に「伊勢藤氏談合」。

上記でも論じたが、“1614年に「伊勢衆談合」”でも判る様に、紀州で起こる先の「三つの一揆」でも判る様に、何とか引き伸ばし「一揆不問」の様な形を採ったと思われたが、結局は、又、「一揆」が起こった事に対してどうするかを一堂に集まって「談合」を進めている。
当然に、これは「商業組合と一揆」に付いてどうするかを議論したと観られる。
そして、「一揆の事態」が「小競り合い]から更に拡大した。
そこで、「商業組合」にも直接影響すると観られた事から、1615年に「伊勢衆動員」が行われた。

「天正の一揆」で採った「長引かせる戦略」に対して、1614年の「談合の予想」に反して、「商業組合」と「一揆」に、特に「商業組合」の方に何か「事態悪化」が起こったと観られる。
そこで、兎にも角にも、これらの「一揆」も過激さを増して来た事から、早急に解決する必要に迫られ、「伊勢紀州の伊勢衆の郷士」に「南勢南紀の処置」に、“より援護をする様に”と直接関わる様に督促したのである。
この時に、「一揆」を主導していた首謀者に対し、「伊勢郷士衆」を動かして不満と成っていた検地に依って起こった「環境悪化」に対して、「青木氏」としては「生活環境の改善」などの事を約束しながら「周囲環境」を整えて置いて、「事態の収拾」と「首謀者自首」を説得したと観られる
従って、当然に相手側にも引くように圧力を掛ける為に、奥の手の「伊勢シンジケート」も積極的に強力に動かしたのである。
これで動く事は間違いは無いと観て採った。

それは「南北朝の足利軍に執った2万の飢餓作戦」でも「戦歴史実」が遺っている様に、この「掃討軍」がどう成るかは直ぐに判る。
それを実行したのは当にこの「伊勢シンジケート」である。経験者である。
これで、相手側も、これ(伊勢シンジケート)が動く事は、「補給路」を断たれ、「ゲリラ戦」に持ち込まれるし、事は収拾が着かず「戦費」は莫大に成り、自滅する事は充分に判る。

つまり、“「伊勢は総力」を上げた“と云う事を相手に示したのである。

これに依って、“1615年に「堺摂津盛況」“にもある様に、上記でも論じた様に、それが「青木氏の拠点」の「伊勢松阪」では無く、紀州の下津港等で「物資補給」なども行っていた「水軍」など紀州各地に配置して紀州域を管轄する拠点の「堺摂津」で“「盛況」”が起こった事に成ったのである。
これで「一揆」が終結して、懸念していた「商業組合」にも方向性が戻った事から、再び“「盛況」“を戻した事に成る。

「平家落人の郷士衆(紀伊山脈の山岳部)」の「一揆場所」と、「門徒衆」が中心と成った日高、有田,名草の郡域の平地域での「一揆場所」に参加していた「門徒衆」等と、これを支援していた「北紀州域」と「北伊勢域」をも含む「伊勢と紀州の全郷士衆」が関わった戦いであった。

これで上記で論じた様に、「伊勢の商業組合」の「射和域」で生き延びて行くことが本格的に出来る様に成ったのである。

この間の1603年から1615年まで「上記の戦略」で「紀州の一連の一揆」は何とか下火にさせられたので、「商業組合の推進」は「頼宣入城までの約束」を護る為に進められて行った。

この「紀州一連」の一揆を無理に区切るとすれば、「計五度の一揆」は、天正期から観ると、何と「31年間と云う期間」を経たのである。

これは当に“「青木氏の戦略」”であって、結局は、「1619年の頼宣入城」までの直前まで燻り続けたが、「戦略の目的通り」に結局はぎりぎり解決させて、「地域の民」を護り、「最低限の犠牲」で終わらせて、“「商業組合の推進」に本腰を入れられる結果と成った“のである。

これで「豊臣―徳川の決着」も就き、「家康の目論見」の通りに「筋書き」は動き始めたのである。

(注釈 この31年の間には、最終局面で、一揆側に「利害に違い」の出た「海側の一揆一団」が調略に会い、「裏切り行為」をし、それが「山岳部の一揆一団」に被害が及ばない様に、この事態を納める為に「山岳部側の一揆側の首謀者」が自首する形で処罰され終わる。
この時、「一揆の門徒衆」たちは伊勢松阪に救い出す。この時に海側の集団に参加した漁民らが騙し内に会い大きな犠牲を負った。
然し、「青木氏」の力の及ぶ地域の「全郷士の門徒衆」を保護する為に一時伊勢に移動させて護った。
この護った「門徒衆の一部」は、頑固に1619年直前まで燻り続けたが、結局は「商業組合の効果」と、当に上記した「頼宣の地士制度」で収まったのである。

この様に、既に記録にもある様に、根本的には「戦い方」が普通の「反抗勢力の一揆」とは異なっていたのである。

「伊勢青木氏」は「正式な商業記録」や「郷士家に遺る資料」に遺こされている程に「経済的背景」と成っているのはこの事から来ているのである。

ところが、これから「伊勢青木氏の関わった地域」には、不思議にも「一揆」としては「62年の間」に「一揆・事件」が起こっていないのである。
“何故なのか”である。

それは、「伊勢青木氏」が始めた室町期末期からの「商業組合の効果」が徐々に出始め、「一揆」に関わった「紀州と伊勢の全郷士衆」が、この「商業組合」に参加して、この「商い」に依って潤い始め、これに伴って「殖産」と「興業」が進み、強いては「農民」を始めとして「庶民」までその「潤い」が浸透して行ったのである。
「青木氏」と深い関係を持っている「伊勢郷士衆」が、故郷に戻った「紀州全域の郷士衆」にこの「商業組合」に参加する様に約束通りに働きかけたと観られる。

この事、即ち、「商業組合の効果」を「一揆首謀者」に「伊勢郷士衆」は苦汁を呑んで説得したと観られる。当初は「収拾の提案」が画期的であった事からなかなか納得されず、一部の「門徒衆」は1619年まで燻ったが、他の者が潤い始めたのを観て、「頼宣」も「地士制度」でこれを支援していることを観て、参加し始めたので「一揆」は遂に収束したのである。)

「伊勢郷士の家」に「紀州郷士との手紙のやり取り」の記録が遺されている事から先ず間違いは無い。

「頼宣入城前」の前には、この様に、「青木氏の存続の成否」が掛かる事が直前で起こり、上記の「青木氏の大決断」の「取り組み」で、解決して、この結果として、何とか「7年と云う短期間」で「商業組合」は進み「効果」を出し始めたのである。

前段でも論じたが、取り分け、当時、「国外不出の慣例」のあった「米栽培の新技術」を一族の者を特別に派遣して一族の「信濃青木氏」から学び、それを「伊勢紀州域」に広め,「青木氏の投資」の下で研究して、日本で最初に「新品種」と「早場米」を作り出して、これを「商業組合と提携商人のシステム」を活用して「15地域」に広め、年間を通じて農民は潤う事に成った。

(国外不出の「信濃栽培法の習得」は、その前提に伊勢での「品種改良と早場米の研究」があって、その成果を戻す事で了解が得られたと観られる。)

又、「紙箱」や「紙用紙」等の「紙製品の殖産と興業」を進めた事に依って、家内工業的に副職として農民は元より庶民までも広く潤う事に成った。
例えば、前段でも論じたが、「伊勢青木氏」は同族の「信濃青木氏」から進んだ「養蚕や米栽培の技術」を習得して、これを「商業組合の組織」に結び付けた事に依って「15全域」に広まった原因となったのである。
然し、これを広めるだけでは、この“「潤い」”に繋がらないのは必定で、“「商いの組織」”に結び付ける事があって潤うものである。
更にはこれでもダメであり、これではその「潤い」は偏る。
そこで、この「偏り方」を取り除いてこそ,そこに「真の潤い」と「民の安寧」が生まれるのである。
それがこの「青木氏の目的」とする「商業組合の(イ)(ロ)(ハ)」であって、この目的とする「商業組合の効果」で「民の信頼」が生まれ「底堅い商い」の為に急激に頒布して行ったのである。

その為に、「青木氏の提案」と「頼宣の事前調査」でと、その後の「商業組合」と合わせて行った「頼宣の地士制度」で「一揆」が起こら無く成る策が、この「商業組合」にある事を頼宣はより深く知ったのである。

(注釈 この「頼宣からの伝統」が「育て親の青木氏」から「吉宗」は学び「享保の改革」へと結びつく事に成ったのである。「吉宗」が将軍に成った背景はここに在ったと筆者は観ている。
だから、江戸に同行し、且つ、「紀州藩の勘定方指導の立場」もここに在ったと観ている。)

つまり、「1619年頼宣入城」より「談合」が進められ、これを契機に“「家康の暗黙の了解」”から“「頼宣の周知の了解」”へと変化して行ったのである。

その証拠に、“1615年の「堺摂津盛況」”とする「商業記録の年譜」は、何事に付けても、この時の「経済活動の活況ぶり」を表していると観られる。
因みに、前段でも論じているが、「事前調査」の後、1619年に「頼宣入城」に伴い「伊勢青木氏」は「紀州藩の勘定方指導の役」をも同時に務めたのはこの事から来ている。
「青木氏と紀州藩」は、敢えて、当時の世間で「禁策」として考えられていた「政経分離策」を採らずに、「政経合併策」を敢えて採ったのである。

さて、そこで視点を変えてみる事にする。
これは、「商業組合」を押し通すと、必ず、「為政者」との対立は生まれる事は必定で、地域救済策として、「危険を承知して採った策」で有る以上は、この「政経合併策」は「合理的手法」であった事に成る。
「デフレーション策」と「インフレーション策」の中間の一種の「リフレーション策」に近い策を採った事に成る。
多分、「商業システム」としては、「イノベーション策」と成るだろう。

(注釈 その後も紀州藩では代々この手法を取り続けた。「青木氏」は幕末の「紀州藩の財政立て直し」にも「伊勢郷氏」として「勘定方指導役」を務めた。)

この時、前段でも論じたが、「伊勢域と紀州域の秀郷流青木氏」とそれに関わる「伊勢郷士衆」「伊賀郷士衆」から「紀州郷士衆」までを含めて家臣に「丸抱え」(幕府から謀反の嫌疑)したのもこの時である。
この新しい「リフレーション策」を実行する為に大きく観れば「青木氏」に関わる一族を「丸抱え」したともとれる。筆者はそう見ている。

この様に「伝統シリーズ」の前段等で論じた「個々の要素」に付いての「事柄の関係性」を一つにしてまとめるのは「至難の業」ではあるが、ここに全て通じているのである。

筆者は、上記したが、そこで「1615年までの伊勢―紀州域で起こった一揆」の裏には、先ず最初の「一揆掃討」が「掃討軍の賄賂問題」で潰れたのは、「二つの伊勢青木氏の裏工作」では無かったかと観ていると論じた。

前段で論じた様に、これは当に「信長の伊勢攻め」の「信雄の丸山城消失の事件」と同じ手口であるが、「信長の織田―秀吉の豊臣」とは、何と二度に渡り、“「青木氏」の「商い」“に依る同じ手口」に載せられていた事に成る。これは先ず間違いは無いだろう。

そこで、当然に、下記に論じる様に「商業組合」を推し進め、それと「提携商人を作る事」に対して、これは「リフレーション策」の「イノベーション」と成る(イ)(ロ)(ハ)に繋がる事を述べていた事に成る。

これを事前に説明をした上で、1603年頃から“「影の要請」(暗黙の了解)”が、「家康」から受けていたとする事は、影で「15地域の各藩主」は、この「噂の情報」は耳に入っていた事である。
「15地域の藩主」は“「手の出し様」が無かった“が「本音」であったと観られる。
結局は長く続いていた「一揆」が納まり、「納まった要因」が、この「商業組合」に在ったと「15地域の藩主」は周知した上で、「1619年頼宣入城」で「暗黙」から少し進んで“「商業組合衆知」”と成ったのである。
全国に先駆けて紀州藩は、これらの事に関連した藩政の“「地士制度」(下記)”と云うものを敷いた事でも証明は充分である。
これを遣られては、「青木氏の地権力と地域力と不倫権」に、この「商業組合と提携商人策」が加われば、最早、「手の出し様のレベル」では無く、黙認以外には無い筈である。

この様に、「商業組合を創設した経済力」では、例えば、「伊勢青木氏」は「500万両以上」と云われていた事から考えると、「為政者の勢力」は、たった1/100にも過ぎない事に成る。
それに度々効果を挙げる「伊勢と信濃のシンジケート」を独自に持っているのであるし、「15地域」の「同族の結束」があり、「青木氏族との横の関係」が密であるとすると、歯を剥いて戦う馬鹿はいないであろう。
故に、7年と云う“「短期間」“で創設されたのである。

況して、「室町期末期の戦乱」で「経済的な余裕」は豪族大名には無かったし、むしろ、「重税」で「農民」や地域の「郷士衆」を苦しめていた。
下手をすると、「一揆」である。
「一揆」が頻繁に起これば「治政の責任」を幕府から問われる。
つまり、更には、{藩の財政}を維持するには「青木氏の様な豪商」に借金をせねばならない「絶対的環境」にあって、文句を附ける等の事は到底出来なかった筈である。
どちらかと云うと、“体制にそぐわないとか、どうのこう“のではなく、兎も角も、何でも好いから「商業組合」で潤って貰って「地域の安定」と「地権から来る税の収入増」を期待するのが「当面の策」であった筈である。

(注釈 結局は、「権勢」を無理に押し出せば「山内氏の様な事件」に成り、「治政」に怨念が遺る結果と成る。)

では、“この「15地域」ではどうなっていたのか”と云うと、話しを戻して、そこで、特記すべき地域がある。
それは先ず、「青木村」の「福岡 4」には、この「要素」が多分に在った。
領民には、取り分け「商業組合」「提携商人」には深い理解を示し、安定した治政を施した代表的な地域である。
所謂、「模範的要素」を持っていたのである。
筑前黒田藩は「如水の軍師」の家筋で、「質素倹約策」「柔軟対応策」を「治政の根幹」に置いていた事、況して、前段でも論じている様に、「近江佐々木氏の支流末裔」で「近江青木氏」とは縁籍関係にあって、更には「黒田氏」は、伊勢神宮の「神職の御師の立場」にもあって「伊勢青木氏」とも「浅からぬ関係」を保持していた。

(注釈 如水の父の一族末裔は、「二足の草鞋策」を敷いた家柄であったし、「伊勢シンジケート」とも繋がっていた。)

その事から「摂津店」とも繋がりを持っていて、遠からず“「青木氏族」とも云える縁籍関係”にあった。
況して、この縁籍関係から「日向青木氏」は、「黒田藩の傭兵軍団(陸海に渡る旗本に近い黒田藩常用傭兵軍団)」を務めていた。

(注釈 「日向青木氏」は「日向肝付氏」の血筋を持つ「伊勢青木氏京綱」の兄弟末裔である。)

然し乍ら、「定住地名」が、「江戸期初期の氏姓令の禁令」により、これに従った「筑前」には「青木氏外」の「姓族の青木姓」には、「青城や青樹」(「商業組合から関係族」と観られる。)などに名乗り変える事を命じた事から多いのである。
従って、筑前には必ずしも「青木村」を使っていない村もある。
然し又、明治3年と8年の苗字令でも「青木村」(青木氏の「職能の関係族」と観られる。)を付けた「村 3」も存在していた。

正規には、本来は無いが、「日向青木氏の傭兵軍団」が、江戸時代には「黒田藩の常用傭兵軍団」として働いた事から、その「事務所的な土地、又は館屋敷」に「青木村 1」を付けた事が判って居る。
この黒田藩は「商業組合 提携商人」には「積極的な治政」を実施した。
この様に、「黒田氏」は「山内氏」とは「真逆の施政」を敷いた事でも特記に値するのである。

従って、「遠い九州の頒布」には、7年の間に「商業組合の頒布」が難しい筈であるが、上記の様な事から、本来は「準村扱い」としては、「福岡 1」と成る状況にあったのである。

この様に、この「109村」の中には、その“「歴史的な由緒」”を充分に検証して判断する必要があって、この様な判別が難しい「青木村」もあるが、結論としては明確に次の事が云える。

“上記の「推測の20地域」≒「一揆の21地域」とほぼ一致する“に対して、この「青木村 23地域の村」を考察すると、上記の関係式は、次ぎの様に成る。

「推測の20地域」≒「一揆の21地域」≒「青木村の23地域」

以上の関係式が成立する。

以上で、ほぼ一致する事が云え、これで上記の「5地域」と「6地域差」は論じる事は出来る。

つまり、従って、「青木村」=「青木氏」=「提携商人」と云う完全定義の上に成り立っていた事が出来る。
そこで、この“「青木村」”を定義の一つとして据えて本論を研究していた。

然し、その“「青木村」”には、下記に示す様に、重要な「二つの定義外域」があるのである。
「定義外」としても、「青木氏」に執っては“「氏の特徴を示す伝統」”であるからで、これを度外視出来ないのである。

定義外域-A

そもそも、「伝統シリーズ」や「他のテーマ」の論文でも論じている様に、「青木氏の定住地」の基と成る“「青木村」”が在りながら、然し、その「青木村」に「青木氏」が正規に定住しない地域があるのである。
所謂、この「青木村」に永住定住せずに、「青木村」=「青木氏」=「提携商人」と云う定義の下に、「本領に戻る制度」を持っていた地域に住した「青木氏」が居て、そこに「商人の青木氏」か「提携商人」が在ると云うことである。
つまり、「準定住地」と云える地域での「別の商人」が在ると云う事である。

例えば、これに相当する地域とすれば、「肥前-筑前」、「阿波-淡路」、「広域陸奥」、(「紀州」-「伊勢」)の「3地域」などがある。

但し、「紀州北部の有田区域の「青木村」には、この「青木氏」は最終的に南北朝後に戻らなかった。
前段で論じた「近江秀郷流脩行系青木氏」で、「南北朝の戦い」で、「青木氏氏是」に従わずにこの「青木氏」は意見が「交戦主戦派」と「消極的派」の二派に分かれ、「青木氏氏是」を破った「主戦派」が敗退して、「讃岐藤氏秀郷流青木氏」を頼って四国に逃避すると云う事が起こった経歴があって、「紀州伊勢の青木村」の一村内でありながらも、「有田の青木村」を捨てたのである。
然し、一方、「紀州南部域」の「青木村」は、旧来より「青木氏の遠祖地」としてあった事から、「伊勢域」として定義している。

定義外域-B

もう一つは、「青木氏」と何らかの関係を持った“「縁者関係」”で、正規の制度に則って「青木氏」を名乗って、後に「準定住地の青木村」の外側の「外郭域」に村を形成して永住した「商人の青木氏」が多く在る。
これは「否定住地」ではあるが、「職能集団の制度」で「青木氏」を名乗ることを許された「商人の青木氏」が在る。(第三青木氏とは別)
これは「伝統シリーズ」等でも論じて来た「神明社等の各種の職能集団の差配頭」や、土地の「郷士衆を差配する郷士頭」や、「各地域に出店している商人の差配頭」等は「青木氏」を名乗る事を許可する事を定めていた。
この中には許可だけでは無く「女系で繋ぐ事」もあって「青木氏組織」を固めていた。
これらの「差配頭の青木氏」が、その「職能の立場」で「各種の商人」と成っていて、これが「商業組合」を編成してこれらが「経済的背景」と成っていた。

例えば、これも相当地域とすれば、「安芸-蝦夷」、「讃岐-伊予」、「筑前-筑後」,(「紀州-伊勢」)などの「3地域」がある。

但し、「紀州と伊勢域」は、上記の「定義と定義外」の2つの何れにも存在して居るので定義の範囲で論じる。
それだけにこの「紀州と伊勢域」は一つに成って「全ての面」で体制が固まっていた。

以上の二つの定義外域のAとBは、合わせて結局は「地域差の6域」と成る。

この定義外域ABの「6域」が、「推測5地域≒地域差6地域」と成っているのである。

つまりは、「推測の20地域」≒「一揆の21地域」≒「青木村の23地域」
以上の関係式が成り立つ。

「推測の20地域」≒「一揆の21地域」)とほぼ一致するとして、故に、上記の「提携商人」で観ると「15地域」、「一揆」で観ると「21地域」と成るとすると、間違いなく「青木氏」は、「提携商人」と共に「経済的背景」として「民の側」に立ち動いていた事を示す事に成る。
「青木氏」が「二足の草鞋策」を敷いた平安期初期から明治期まで一貫して護り通した「定型の生き様」であり、“「定型の伝統」”なのである。

この「民」を中心とする”「定型の生き様」と「定型の伝統」”があったからこそ、稀に見る「大きな氏」として、「大きな伝統」を持つ「特異な氏」として、一千有余年を生き遺れたのである。

これは、そもそも「一種の青木氏が存在し得た定型パターン」と云って良いものであった。
況や、この「定型パターン」は、「二つの青木氏」がより力を発揮出来る態勢でもあった。
ここでは、この様な要素の“「商人」”に焦点を当ている。

「15地域」の「全ての地域」のこの「定型パタンの商人集団」との関係を論じるのは難しいので、「江戸期に観られる定型パターン」の「伊勢の射和商人」を例に次段の下記に取り上げて論じるが、上記の地域でも同じ様に働いていたのである。(何時か詳しく論じる事とする。)

恐らくは、前段でも論じたが、「伊勢の二つの青木氏」が、江戸初期に「徳川氏との関係」から伊勢で始めた「伊勢松阪の商人組合」(会合衆から新組織を発展)を「原点」として、上記の各地域の「青木氏」にもこの「新しい組織形態」を作り上げた。

「推測の20地域」≒「一揆の21地域」≒「青木村の23地域」の関係式で、”「7年の短期間」”で広めたと観られる。

前段で論じた様に、むしろ“広めた”と云うよりは、(「青木氏の形態維持」と云うよりは)、「新しい経済機構の形態維持発展」の為として、「青木氏発案」に依るものではあるが、“「徳川氏の指導要請」(協力要請)”が基盤にあったと観られる。
その様に、資料から読み取れる。

この“「徳川氏の指導要請」(協力要請)があった“とした事に付いては、下記で論じるが、これは考えられない程の「画期的な事」であって、「青木氏」に遺されている資料から読み取ると、この資料は、「紀州徳川氏からの手紙」である事から考えると、「紀州藩との内談」で進めたと考えられる。
つまり,「内談」とは云え、「家臣と成った伊勢秀郷流青木氏等」と「商業組合」を松阪で推進する「賜姓族青木氏」の“一族内々の打ち合わせの形”に成ったと観られる。
この「1619年の入城予定」の「頼宣」は、事が事だけに「家康からの内諾」を得ていた筈である。
故に、数年も前の早くから「事前調査」や「地域査定等」を行い、入城後は直ちにこれに関連した「藩政の地士制度」の構築に掛かっている。
「家康の了解」無くしてこれだけの事は到底無理である。

と云うのは、何故ならば、この事は「幕府の施政の根本方針」から観て、「公的に指導要請」を出し難い内容であった。
然し、江戸期初期から暫くして紀州藩が管轄した「伊勢紀州」は、上段でも論じたが、「室町期末期からの「著しい混乱地域」であった。
(伊勢の多くの地域は「天皇家天領地」であった。)
取り分け、その理由から「伊勢松阪」は、「紀州藩飛び地領」と成った。
「地権力と地域力と提携商人」の「郷士郷氏の状況」と、「信長-秀吉の圧政」があった事から、又,「山内氏の事例」もある事から、「事前調査」を綿密に、「頼宣」は紀州と伊勢に対して行っていた。
普通であるならば、これを解決するには、上記した様に、「信長秀吉の武力に依る強硬策」や「山内氏の様な対抗策」に頼らねば出来ない事と成る。

この態々「事前調査」をすると云う事は、「反抗の連鎖の繰り返し」と成ると判断した事に成る。

この「事前調査」は、「青木氏の商業年譜」から観て、「1615年の伊勢談合」があって、その後の1年後の1616年家康没があり、それから「頼宣入城1619年」があって、この1619年に、「1615年の提案」を下に行った「事前調査」を踏まえて、1619年の「松阪会談」として最終的に会談が行われているので、この1年前の1618年の間である事に成る。
結果として「1617年」と成り、最低、“頼宣入城 「2年前」”と成る。
この“「2年前」”に、この問題の「事前調査」が行われた事に成る。

恐らくは、「青木氏の商業年譜」の「伊勢衆動員」(上記の一揆処置や事前調査の協力の事もあって総動員を掛けて事に当った。)はこの事も示しているのではないかと考えられる。

1615年に「伊勢衆動員」。
改めて、上記の「二つの事」で「事態の急激な変化」に対応して、改めて事に当たる為に「郷士衆の役割」や「日程や調査」の「家臣団との調整」「作戦調整」等などを綿密に決め計画を進めたと観られる。

1615年に「堺摂津盛況」。
前段で論じた様に、「紀州討伐」での「堺摂津の行動」は元より、「討伐軍の賄賂事件」で紀州産の材木などの売買利益の不当獲得(二度の討伐軍の指揮官の秀吉弟秀長と家臣の吉川氏の二人の指揮官が不正利得)で、取引は繁盛した事は盛況原因でもあるが、下記に論じる「商業組合」が動き出した事でも盛況と成った。
既に進められていた「青木氏の提案」に対して「事前調査」に依って「最終的な紀州藩の協力体制」(1619年に「松阪会談」に向けて)などを打ち合わせたと観られる。

つまり、「青木氏商業年譜」の年代から観て、「青木氏}から事前に知らされ提案されていた状況を、再確認する事も含めて、「紀州藩」としてそれを解決する方法が無いかとして、「事前調査」を行った。
ところがこの直前で、紀州域全域に思わぬ「激しい一揆」が再燃し拡大した。
この事も含めて、事前に改めて「調整談合」を行ったのではある。

この時、既に「家康との談合」で進めていた「新しい商業組合」を「青木氏の提案」で、先ずはこの「伊勢紀州域」に模索したと観られる。

そこで、2年前の事前に伊勢紀州の一揆等の混乱状況を調査する家臣は、これを目前に観たと考えられる。
それが、「頼宣の事前調査」の結果で、「全域の郷士衆」を引き込んで、上記の「(イ)(ロ)(ハ)の商業組合」と組み合わせて、これと連動させる「施策」として導き出したとされるのが、紀州藩の“「地士制度」“と云うものであると考えられる。

一つは、この紀州藩の“「地士制度」“には、他にも幾つかの施策が組み込まれていて、”「地士制度」“として前段でも論じたもので、一つは「伊勢の青木氏」等を含む全ての「郷士や郷氏」を家臣にして「官僚の中心」に据えた事であり、これを以って「紀州討伐」まであった「武士の不満問題」は解消させたのである。

二つは、論理的には「庶民の中にあった不満問題」を解決するものとして、これに関わる「本論の青木氏の提案」(商業組合)があった事に成る。

前段でも論じたこの”「地士制度と商業組合」”は、「武士と庶民の相互間に潜む問題」も補完する「優れもの」であって、「紀州伊勢の混乱」を見事に鎮めた「頼宣の最大の功績」と呼ばれていた。

「伊勢紀州の秀郷流青木氏等の郷士衆」は、「紀州藩家臣」に殆ど全員据えられたが、「郷氏の賜姓族伊勢青木氏」は、「紀州藩勘定方の指導役」として「地士制度と商業組合」を推進する為に内政面から支えたのである。

「青木氏の定住地」として資料から確認できる「15地域」、即ち、「推測の20地域」≒「一揆の21地域」≒「青木村の23地域」の関係式には、必ず、この「定型パターン」の「提携商人」の存在が観られる。

下記に論じる“「独特の関係」(射和商人)”が出来ていた事からも充分にこの事は考えられる。

この事は、上記の主だった「15地域」の「青木氏の定住地」に在るとすると、この「青木氏の提案」が、伊勢で効果があるとして、江戸初期の混乱期の後の施策として“「地域安定策」”を狙って、各地に「商業組合の頒布」を“暗黙(下記(イ)(ロ)(ハ)が在って公認はできない)”で容認された事に成る。

下記に示す「江戸期初期の一揆」からも多発していた事が判り、これを「武力」で抑圧させるのでは無く、「青木氏提案に依る奇策」の「安定策」で乗り越えようとした事が良く判る。
「紀州徳川氏」からの「伊勢青木氏の福家」に出された「数通の手紙」からそれが読み取れるが、それで無ければ、当時としては、各地にこの「商業組合の組織」が拡がる事は、体制上からはこの下記説明の(イ)(ロ)(ハ)“は全く好ましくない事”に成る。

況して、幕府の御家人や旗本に据えられて、官僚の中心と全国各地に豪族として定住する「秀郷流青木氏」の「二つの青木氏」の地域に対して“頒布”と成ると、誰が考えても余計に危険であった事に成る。

この時の事を物語るものとして先に例を述べて置く。
この「複数の手紙」の中には、この“「青木氏の貢献」”に対して「天皇家」に対して紀州藩より「伊勢青木氏」に対して「格式授与の提案」をしていて、これを「青木氏」が「青木氏の氏是」に依って体よく断っている。
その紀州徳川氏一通目の手紙には、「青木氏の貢献」に付いて、前段で論じた「射和商人」などを例に挙げて“「地域貢献」(前段の殖産と興業)“に付いて書かれている。
そして、その後の手紙で、朝廷の「賜姓族の役処」の「紙屋院の青木氏」の管轄下にあった「絵師処」としても、自らが描いた「和歌浦と那智熊野を描いた墨絵の南画の絵」を献上する事で解決して献上している。

天皇家に献上すると云う事はそもそも「素人の絵」は献上する事は無い。
従って、この事から「紙屋院の紙屋」であった事から、その和紙を扱う関係上で、本職では無かったが、本職に類する程の絵師(土佐派)でもあった事を物語っている。
口伝では、代々、「紙屋」としての義務資質に相当する「伝統的な役処」であった。

前段でも論じたが、後に、江戸期末期に土佐に移動した「脩行系青木氏の末裔」でもあった「朝廷絵師の土佐光信」(公家系の青木氏族)に師事して江戸末期には正式に本職とした。
この頃、「墨絵の南画」は、衰退し朝廷の中でのみ存続していた。

この事は、「紙屋院の管轄下」としての「絵師処の朝廷絵師」に直接に「青木氏」が務めていた事が判る。
この「近江脩行系青木氏」は「紀州有田の青木村」にその祖は住していた。

(注釈 「南北朝の乱」に参加して敗退して移動、「末裔の光信」は、土佐村の「土佐氏の養子」として入った。)

この為の「天皇家からの返礼」(大臣の内右大臣代書)が紀州徳川氏経由で届いている。
この時の「複製画」と共に、この「箱入りの返礼書 二通」と「賜品の藤白墨と紫硯石」が遺されている。

恐らくは、この「絵の献上」の意味する処は、「国策氏の賜姓族」である事の上に、“「青木氏の貢献」”を、“「朝廷」”と云う「権威の象徴」を重ねて使う事で更に権威化させて、「幕府の保守勢力」を抑え込んだと観られる。
故に、「近江脩行系青木氏」の「土佐光信」の様に「伊勢青木氏」が「絵師処」では無いにしても、「国策氏」としての「紙屋院の伊勢青木氏」が献上する事が出来たのである。

そこで、先ず、この「商業組合」と「提携商人」と云うものが、“幕府体制上好ましくない“としているのはどの様な事であるかを明確にする。

本論を理解するには欠かす事の出来ない大変重要な予備知識である。

「商業組合の内容」
従って、この「射和商人の背景」と成っている“「伊勢衆の郷士」と「松阪商人」の関係”に付いては、他の「定住地地域の状況」を理解する上でも、是非、ここで明確にしておく必要がある。

そもそも、その大元は、前段でも論じた様に、「1619年の頼宣入城」の前から「紀州伊勢域の門徒衆」に対して、「青木氏の説得」に応じた者等とを救済し政権から保護した。
然し、そして、この「救済保護した門徒衆」と「伊勢郷士衆」との「連携や連帯」を興し、これで以てこの「二つの関係」(商業組合と連携商人のシステム)を発展させたものであった。

そして、その上で彼等(反抗勢力の門徒衆)を“「政権側の圧力」(1619年まで)“から保護する為にも「青木氏」が主導して国内で初めての全く「新しい形態」の”「商業組合」“が構築された事から来ている。

勿論、「室町期の戦乱期」から「江戸期の安定期」に入る時代に即応した態勢であった事は云うまでも無い。

要するに、下記で詳細に論じる「一揆」(孟子論の中の漢語:ある勢力から互いに「政治的結社」をして、ある条件の下に一つに成り、我が身を護る集団の事)、即ち、要するに、本来の意味の「鎌倉期に存在した一揆」であり、これを室町期末期から江戸期初期に掛けて新たに改善を加えて創設したものである。
この「商業組合」は、即ち、この「反抗勢力」を意味しない“「本来の一揆」”の一つの形である。
これが出来たのは、「青木氏」ならではの事であり、「青木氏」で無ければ出来なかった事である。
その根拠は下記で瑠々論じるが、「鎌倉期の一揆」と、「江戸初期の一揆」(商業組合)とには、そもそも大きな違いがあった。

それは下記でも論じるが、“「鎌倉期の一揆」“は、”「階級と身分」“を股が無い「武士だけの軍事的結社」であって、この結社は、「軍事勢力と政治勢力」に対抗したものであった。

それに比べ、「青木氏」の「江戸初期の一揆」の「青木氏の結社」(商業組合)は、この「階級」や「身分」や「氏」や「姓」や「職業」や「宗教」などの一切の「出自格」(イ)を一切取り除いた事であって、それを“「商業」(ロ)”と云う「経済的結社の自由勢力」(ハ)を使って、「軍事勢力と政治勢力」に対抗したところにあった。

この“(イ)、(ロ)、(ハ)”が後の「徳川幕府態勢」(氏家制度と封建制度の社会)に執っては“「真逆の体制」“であった。

「鎌倉期の一揆」には、未だこの(イ)、(ロ)、(ハ)の概念は無かった。
「諸法度」を定めて、それまでの平安期からの“「氏家制度」”を完成させ、徹底した「身分格式」による“「封建制度」”を敷いた「格式社会」の江戸期としては、この“「商業組合の組織」“は、当に”「逆行する体制」の組織“であって、到底、江戸期としては考える事が出来ないほどの「画期的な事」であった。

逆に「幕府」に執っては絶対に許す事が出来ない「危険極まりない組織体制」に成る。
この組織が「力」を持つと、丁度、「明治期の維新勢力」と同じ様相を呈する事に成り得る。
ところが、これが、江戸期初期に何と「15地域」まで広がったのである。(根拠-1)

本来なら、これでは放置できない事で、保守派に執っては「幕末の新選組の行動」とも成る事でもあったし、丁度、「反動の象徴」の「一向一揆」が「15地域」に一機に拡がった事にも成り得るので「初期の幕府」は慌てた筈である。
田舎の一地域の「一向一揆」でも放置しなかった幕府は、体制に影響する(イ)、(ロ)、(ハ)の「商業組合組織」が「15地域」に拡がったと成ると、絶対に放置していなかった事に成る。
然し、黙認したのである。

然し乍ら、この「立役者の家康」は、上記した様に、何とこれを、況や「(イ)、(ロ)、(ハ)の「商業組合」を「青木氏」に「暗黙の内」で認めたと云う事なのである。(根拠-2)
普通で考えればあり得ない事である。

その頃、未だ、1600年頃からの“「会合衆」”は、20年程度しか経っていない組織で、「大店の商人」(A)に限定していて、「政治勢力」(B)と結託していた組織であった。
だが、「青木氏の商業組合」(イ)、(ロ),(ハ)は、“結社する商業組合の関係する職能者”までも含めたもので、「青木氏部の職能集団」や「末端の殖産者」(農民や庶民)までも囲い込んだのであった。(根拠-3)

唯、違う処が実は一つあった。
それは、「青木氏」が持つ“「シンジケート」”であった。(根拠-4)
前段でも論じたが、この「シンジケート」は、記録から読み取ると、江戸期では「青木氏部の職能集団」に組していた。(前段の「伊賀の郷士衆」にも話が通ずる事)
従って、「表向き」は、その主務は、「荷駄護送の職能集団」と「保守勢力」から「青木氏」を初めとして「全組合員」を護る「組合組織の警護役」であった。
「商業組合」と成った事から「広範囲の職能部」に対する「商品の流通」と「荷駄の搬送」は活発化する。
これ、即ち、「組合組織の警護役」無くして成り立たないであろう。

故に、何人も持ち得ない“「シンジケート」”を持つ「青木氏以外」には無し得ない“「商業組合」”であった事も明白である。
この「職能集団」は、仮に武力で攻撃された場合には、これを「排除する力」を組織的に充分に持ち得ていたのである。

前段で論じた内容の様に、極めて恐れられていた。
狙撃以外には武力で対抗してくる組織は無かった筈である。例え幕府でもある。
その意味で、幕府と保守勢力の体制側は、“「政治的な力」”で阻止する以外には無かった。
その為には、この遺された手段の“「政治的な力」“を阻害させる為には、推進側(頼宣と青木氏)は、上記した様に”「権威」(絵の献上などに依る「朝廷権威」と上記した様な「家康のお墨付き」)“を使ったと観られる。(根拠-5)

周囲は、上記した様に、この「新しい商業組合」に対して、「保守的な抵抗勢力」の存在は当然に否定できない。
ところが世の中の事は一筋縄では行かない。
例え、「家康や紀州藩」の「暗黙の了解と要請」があったとしても、この「保守的な抵抗勢力」には公然と対処は出来ないであろう。
先ず、聞く耳を持たないであろう。
「商業組合の良し悪しの問題」では無く,あくまでも「目的」は「出る杭は討つの保守」なのである。
事件等が起こって「公の問題」と成った時には、「青木氏」が勝手にやった事だと処理されるが結末だろう。
それには、何事にも何時の世も初期には、“自らを護る強力な抑止力を持つ警護集団”が必要である。

況して、大阪では、依然として「会合衆と云う組織」が存在して居るのである。
この「会合衆」に執ってみれば、明らかにのこの「保守的な抵抗勢力」と云えるし、保守的な周囲も、体制に大きく違っていない「会合衆」の方が容認するであろうし、「幕府の官僚」も政治勢力と組する「会合衆」の方が何かと利得があって都合は良い筈である。
これは、「(イ)、(ロ),(ハ)の要素」を持っている限りは、絶対に「青木氏」に執っては「公の問題」とは仕難い事に成る。

丁度、平安期初期の「賜姓五役の国策氏」として“「紙屋院」”をしながら、暗にこれを認めていた「朝廷」と同じであり、況や「青木氏」の「二足の草鞋策」と同じあり、江戸期も「伊勢郷氏」で在って「二足の草鞋策」を続けていた事から起こった「類似現象」と云う事に成る。
それだけにそれまでの「難しい伝統」は生きて来ている筈である。
当に、「平安期の紙屋院」と、この「江戸期の商業組合」とは、「新しい事」、即ち、「改革」(イノベーション)に通じて同じである。
「青木氏の本質」の「伝統」は、ここに在って、依然として遺されていた事に成る。。(根拠-6)

とすれば、平安期にも在った様に、況や、「幕府官僚」も「保守的な抵抗勢力」と云える。
ただ違う処は、「天皇の発言の絶対性」と「和紙と云う未開の産物の開発」に携わった事から、官僚に於ける「保守勢力の抵抗勢力の強弱」は比較すれば在った筈である。
況してや、官僚より数段上位の立場と格式にあった「賜姓五役の国策氏」であった事から大義が青木氏側に在り、当然の事として官僚は黙る事しか無かった事に成る。
「違う処」とすれば、それは「平安期の社会性の強弱の差」にあった。(根拠-7)

江戸期は、「会合衆と幕府官僚」が最大の「保守的な抵抗勢力」であった筈である。
唯、「幕府官僚」に付いては、前段でも論じた様に、官僚の中は「秀郷流青木氏」等が「御家人と上位の旗本衆」で占めていた。
中々、他の官僚や大名は、大拡げに問題視する事は出来なかったであろう。
この「歯止め」は効いていたかも知れない。(根拠-9)

少なくとも、「紀州藩」に於いては、前段の通り、「藩主頼宣」は「伊勢紀州の秀郷流青木氏と伊賀の郷士衆」と、「青木氏が導いた門徒衆」(「仕官」と「商い」に別れた)を「まる抱え」で家臣にして、それを公の形の“「地士制度」”に採用しているのであるから、これが「謀反」と疑われ位であった事から、「紀州藩の官僚」からの「抵抗勢力」は無かったと観られる。
むしろ、「紀州藩の官僚」は、別の「二つの青木氏の同族同門」の一族が行っている事である以上は、裏で「推進していた行動」を採っていた事は間違いは無い筈である。(根拠-8)
況して、“「紀州藩勘定方指導」”と云う立場にあったとすれば、「抵抗」どころの話では無く「謀反」と観られるのが落ちであった。

その証拠に、“「地士制度」”と関連付けた「吉宗の伊勢親代わり」、「紀州藩の勘定方指導役」、「享保改革の立役者」であったのであるから、とすると、ただ一人“「光国の抵抗勢力」と「江戸商人」”であったと考えられる。
「頼宣謀反の嫌疑」は、「秀郷流青木氏の家臣丸抱え」だけでは無く、筆者は、この各地の「青木氏の定住地」に広がる“「商業組合」”にも確実にあったと観ている。

然し、「家康の内示」と「頼宣の要請」が陰にあって、これを理由に「直接の攻撃」は出来なかったのであったと観ている。
これでは「青木氏」も公的に、“「家康」や「紀州藩のお墨付き」がある”とは言い難い事に成る。
従って、上記した地域には、少なくとも室町期末期からの各地で起こった「顕如の煽動」による「門徒衆の動乱」から来る“「門徒衆」”の事とか、「青木氏と連携を図っていた郷士衆」の事とかの同じ様な“「事件」と「連携関係」“が、各地(「15地域」)の「青木氏定住地」で江戸初期にはあった事が認められる。

後は、「地域環境に持つ抵抗勢力」であった。
「商業組合」を浸透させるには、その土壌と成る「地域環境の整備」が必要であって、その先ずやらねばならないのは、「地域の混乱の平癒」であった筈である。
「伊勢紀州」は、上記の通り、「地域の混乱」は極めていた。
それ(「地域の混乱」)が、取り分け、“伊勢紀州人は独自性が強い”と云われている原因となっていた“「門徒衆」”であると論じている。

つまり、判り易く云い切れば、先ずは「青木氏の採った采配」は、「反動性の強い門徒衆」をこの「商業組合」に抱え込んだと云う事なのである。
明らかに紀州藩に執っては、この事は「体制の弊害処の話」では無く、“「地士制度」”に伴う重要な施策であった筈である。
場合に依っては、「青木氏の商業組合の(イ)(ロ)(ハ)の反体制性」については、確証は発見されないが、この“「地士制度」の中の「一環政策」”と云う事にして、「幕府の追求」を「頼宣謀反の範囲」で留めてこれを逃れたとも考えられる。

この「門徒衆」を抱え込んで「地域の混乱を治めた策」としての「商業組合」を創設した形を採り追求をかわしたともとれる。

唯、一つこの“「地士制度」”に付いて、それら上記で論じた様な事を証明する、或は、物語る「意味合い」がこの呼称に持っている事が判る。

それは、「地」と「士」と[制度」の字句の意味である。
先ず、紀州藩の官僚は、“「制度」”と云う風に言葉を選んだことである。
普通は「策」であろう。
「制度」と成れば、可成り広域の範囲での複数の政策から成り立つ組織制度で、その体制の根幹を指し示す言葉と成る。
例えば、「封建制度」と云う風に、然し、「武家諸法度」とかに成れば「策」であり、つまり、政策の範囲である。
この“「地士制度」”は、そもそも紀州藩での位置づけは「政策」であって、「制度」での定義では必ずしも無い。
然し、あくまでも“「制度」“と呼称しているのである。
何かこれに「特別な思惑」が介在している事は明明白白である。

次に、もっと不思議な事は、「地」と「士」の言葉の使い方である。
「地」は「地域」「土地」を意味する「環境域の言葉」である。
「士」は「武士階級」を指し示す「身分域の言葉」である。
つまり、この「地士」は、“環境域と身分域に付いての制度だ”と云っている事に成る。
然し、紀州藩は、この「環境域と身分域の事」に付いて全く触れていない。
“触れてない“と云うよりは、そもそも限定して確定してはっきりとさせていないのである。
なんの説明も何もない。
あるのは「地士制度」と云う政策の「言葉の存在」だけである。

ところがそれには、この「地士制度」には「大きな矛盾」が潜んでいた。
「環境域と身分域」に付いては、江戸幕府(1600年 征夷大将軍)に「士農工商」の制度(1603年)があって、その詳細を「武家諸法度」(1615年)等で決めている。
これでは、頼宣(1619年)ははっきりとさせられないであろう。
況して、この「地士制度」には(イ)(ロ)(ハ)が在る。

筆者は、上記の論より、これは、先ず「地」は「紀州藩領」、そして「士」は「その紀州藩の環境」の中にいる「定住する武士」、即ち、「郷士、郷氏」を指していると観ている。
そうすると、この「地士制度」の「士」が、幕府では、そもそも“「士」”は、孔子論に沿って、本来は“定義上は「官僚」”を意味している。(孔子論の定義である。)
ここには、「郷士 郷氏」と「官僚」との「格式差」、「言葉」の定義の異議が起こっていた。
ところが、正しくは「士]は、元来、”「領地を持つ大夫」の下で働く職能者”と云う定義であって、そこで、日本の慣習に充てると、この「中国の周時代の大夫階級」に相当するのが「地域の地権」を有していた「郷氏」に当たる。
そして、この「郷氏」のその下で働く「家人階級」を「士」と云う事に成る。

そもそも、「士」が「武士域」を指し示す様に成ったのは、「江戸期の前半」(1630年~1640年頃)であって、未だ、この時期までは”「官僚」に従事する者”だけを指し示していたのである。

(注釈 この定義は孔子論に基づいているが、日本では平安時代にこの職能の職域の者を「部人」と呼んでいた。)

(注釈 決して、「幕府]が云うのは、定義上の「地権」を持つ土地の「郷士や郷氏」を差し示すものでは無かった。下剋上で「氏族を含む対象族」が激減した事に依っている。
中国の周では、「小領主の大夫階級]が「官僚]と成り、その下に「士」が所属して位置していたが、これを無視して「士」が「官僚」と無理に位置付けたのである。)

そもそも、江戸期では定義を「官僚」としなければ成らない理由があった。
「姓族」の「士」クラスが台頭して武人(具人)に成り、逆に「氏族の郷氏」が衰退して激減したので、この「士族」(姓族)と呼ばれる者が大半を占めた事から起こったのである。

(注釈 日本の最初の姓族は室町期初期の安芸の海部姓が最初と観られている。海産物等を作る職能人であった。)

それを「士」を幕府が定めていない階級の「郷士郷氏の領域」まで、「紀州藩の地士制度」で定めようとしたのであるから、四角四面の「保守派」は黙って居られないであろう。
「保守派の抵抗」は、この「商業組合(イ)(ロ)(ハ)と、「地士制度」の「士」に付いても追及に及んだのは間違いは無い事である。
この事からも「謀反の嫌疑」も充分に掛けられたと考えられる。

前段で論じた「紀州藩の家臣」は、「伊勢紀州の郷士衆」を全て殆ど家臣に仕立てた経緯を説明した。
ところがここに問題があったのである。

その問題と云うのは、幕府では「士」は「官僚の定義」と成っている。
云い換えれば、この「官僚」は元々は「士」である事に成るのに、紀州藩は「士」を家臣にせずに幕府が定める「士」の範囲では未だ定めていない「郷士や郷氏」を大量に家臣にして「官僚」にした事からも「矛盾の問題」が起こったのである。
況して、その「郷士や郷氏」が「(イ)(ロ)(ハ)の商業組合」を創設し、尚の事、「携帯商人」を仕立てて連携したと成ると看過できないとして「幕府の保守勢力」は騒いだのである。

ところが、幕府は、1615年に「武家諸法度」を定めた際の数年後に「士農工商」に入らない「郷士郷氏」をどうするのかと云う「矛盾問題」が矢張り勃発してしまった。

そもそも、「郷士郷氏」は、「悠久の歴史」を持ち「格式、家柄、身分」は奈良期と平安期に定めた身分制度に依って、「士」より遥かに高いと成っていて、朝廷が認証する”「公家」”の“氏を構成する「家」”と共に、本来の”「武家」”は「公家」と「同格の家」であって、平安期より「士」(姓族)では無く“「侍」”の「呼称と格付け」の「身分で氏族」であると成っていた。
そして、この「侍」は“「天皇にさぶろう者」”として位置づけられ「付き従う=さぶろう」の身分階級として位置付けられていた。

そもそも、上段で論じたが、「宮廷警護」と共に、「天皇を警護する皇族の賜姓族」が専属で務める権威ある「北面武士の立場」にもあった。
そもそも、この「士」は、奈良期の「八色制度の階級」や、「表彰や俸給や官位」を与える制度や平安期の「官位格式制度」の範囲には全くは入って来なかった階級であった。

「侍」は「従五位下」(即ち武家)の身分に最低でもあった。
「士」には、「官位官職の授与」のみならず「天皇にさぶろう位置」には全く遥かに無かったのである。
そして、そもそも「士」とは,「侍」(さぶろう者)の下で手足と成って働く”「戦闘員」”の意味を持っていた。
「侍」(さむらい)が「天皇」に「武」を以って”さぶろう事”から”武の家”であって、”「武家」”と成り得て、「士」には「家」を作る事を認めていなかった。
「士」はあくまでも”侍の武の代行者”の位置づけに在った。

「士」とは、そもそも、「阿多倍」が引き連れて来た200万人の「後漢の職能集団」が奈良期に帰化し、その”「職能」”を務めたが、この時に、”朝廷の中で「職能士」”としての”「士」の位置づけ”を行ったものであった。
故に、「朝廷に詰める士」を以って「孔子論の官僚」と位置づけ、皇族出自の多い「侍」は、そもそも「官僚」では無く、「身分格式の位置づけ 氏家」であった。

その後、平安初期に阿多倍の「長男の坂上田村麿」が、「桓武天皇の背景」を下に「征夷大将軍」と成った事に依って、「士」が「職能士」だけでは無く、”「武家」にも成り得る者”としての概念が広まったのである。
その後に、室町期初期に成って「下剋上」が起こり、「士」が「武」に執って代る事を世間に示した事から来ている。
この時から、「武の立場」と「士の立場」の二つからなる造語の”「武士」”という言葉が生まれた。
次第に「武」と「士」の融合の階級が起こった結果、「氏族」の「武を持つ武」と、「姓族」の「具を持つ士」との「役務の統一化」が起こったのである。

ところが、江戸期に「武家諸法度」を決めた際に、“そもそもの「武家」”の持つ意味が、「公家」に准ずる階級であって、「士」が対象とは成り得ていないものであった。
つまり、正しくは「幕府]が云う”「士」”では無いと云う矛盾で問題視された。

結局は、この「矛盾」を解決する為に、数年後に「郷士郷氏の武家」を含む「士」をも以って“「武家」”と呼ぶと云う事に成り、“「士」”も“「侍」(さむらい)”とも成ったのである。
要するに、「武の家」と「士の家」の「身分の区切り」を取り除く「融合策」を採った。
結果として、「氏族」と「姓族」の融合も起こった。
つまり、況や「朝廷が認定した氏族」(武家)と、「幕府が黒印状で認定した姓族」(士家)を区分けせずに統一化したのである。

其処から、江戸期で呼称される「士」の通称の“サムライ”はこの時(1630年代)から呼称される事に成った。
これは「頼宣入城1619年」の後に見直された事に成って、結局は「整合性]がとれた事に成ったのである。

「天皇」と「公家」の「公家諸法度」(1615年)を定めるに当たって、この「融合策」を採るしか無かった事に成る。
そして、これらの「矛盾」もを更に見直して新しい矛盾や問題を抱えていた「公家諸法度」(1632年)と、上記の「武家諸法度の整合性」も含めて密かに見直して制定した。
これ以後、「整合性」が取れた事から「保守派の抵抗の根拠」の一つは無く成った。

従って、この間に、この「幕府の保守派」から問題視され警戒された「地士制度」は、従って、燻って議論に成っていた期間を含めて約6年間程度以上(最長12年間)の間に文句を言い続けられた事に成った。
つまり、この時期を経て「商業組合の頒布」が佳境を呈した時期にあった。

これが、この見直しによる「融合策」が確立した時期の頃から「保守派の抵抗」に大義が消滅して、「15地域」の「商業組合」も佳境に入ったのである。
そこで、結局は、「士」は家臣に成った「郷士衆の連」を含む「伊勢紀州の全域」の「郷士衆」を指している事に成って「整合性」が採れて進んだと考えられる。

「紀州藩の地士制度」の方が正しいと成って,その「妥当性」が認められる事に成った事に対して「士」に対する嫌疑も無く成った。

然し、未だ保守派は完全に「無駄な抵抗」を諦めなかったのである。
この時の「抵抗」は,遺された資料では特定はしていないが、青木氏の手紙関係に遺されている文面から読み取ると明らかに関西域では無い事は判るが、これは「幕府の官僚」では無く成り,「江戸域の商業関係の商人」であった様である。
そもそも、前段で論じた様に、「幕府官僚」の多くは、一族の「関東の秀郷流青木氏」である事から、この「執拗な抵抗」を続けるのは、それ以外の利害に関する官僚族であって、それに「関連する関東域の商人」である事は,「手紙の絡み(抵抗しているとは書いていない)」の中に出て来る「商人名」から判る。
要するに、関東域の「抵抗の目的」は、「地士制度に基づく関西発祥の新しい商業組合」が関東域の各地に拡大すると、「関東域の商いの商慣習」に「悪い影響」を与えるとする「懸念と嫉妬」に近いものであった。

これに依って、「士」は、当然に「紀州藩の家臣(官僚)」に成った者も含む事に成り、「地士制度」はある程度の大義を獲得するに至ったのである。
然し、(イ)(ロ)(ハ)の事があって「商業組合との連動」では完全に疑念は拭えなかった。

そうすると、その「郷士衆」が持っているあらゆる問題を政策的に解決する上記で説明した様な「総括的な制度」として敷いた事に依る策と成り得た。
然し、「地士制度の正当性」は、(イ)(ロ)(ハ)の事は除いて明確にしていない以上は「士の定義上」では意味を持った事に成った。

そして、この「地士制度」は,「限定した形」の採れない「個々の問題の政策」では無い、融通の利く、その都度、追加で定める「政策の手段」であった事から、より抵抗する方向性を変えて来たと考えられる。

この「地士制度」は、「頼宣の事前調査」や「青木氏の提案等」で「混乱する伊勢紀州と云う環境域」を、何らかの制度、或は、条令に依る「決まり」や、新たな「掟や仕来りや慣習」を以って安定させるシステムを敷くとしたもので、試行して効果あるとした時には、都度、決まり次第に、この「地士制度」の中に組み込んでいった制度として行ったものであったと考えられる。

これで、「幕府の追求」を逃れたと云うよりは、「余計な口出し」を出させなかったと云う事の方が正しいと考えられる。

上記に論じた様に、場合に依っては効果的であれば、「商業組合」の様に「幕府体制に反する事」も出て来る事もある筈で、一々紀州藩のする事に“「口出し」”されては伊勢紀州は納まらない筈である。
全てこの“「地士制度」の中の事である“としておけば、これでこの「地士制度」は”「家康の了解」“を得ていたとして突き跳ねれば、引き下がる事に成る。
要するに、俗に云えば、“無礼者 下がれ。これが目に入らぬか。”の“「水戸黄門の印籠」”である。
“権現様の成せる事に口出しするのか”と一括すれば引き下がるのである。
「家康」に特段で可愛がられた「頼宣」であったからこそ、このゼスチャーで納められたのである。
其れには、関連する確立した政策が必要で、それを“「地士制度」(印籠)”と名付けて示唆したと考えられる。

さて、話を戻して、然りながらも、”完全に安定していたか”と云うと、そうでは無く、ある一定期間を経て、下記に記する様に、この「紀州藩」にも例外なく「反抗一揆」はある時期より多発した。
この“「地士制度」”で、江戸期初期から何とか57年間(1603年からすると73年間)は納められたが、再び、半世紀後に再発したのである。
では、「地士制度」で「色々の決まり」を作り上げたが、「印籠の効き目」が無く成って来たのかと云う事に成るがそうでは無かった。

この「地士制度」の効果を発揮している「商業組合」があり、「提携商人」がある「15地域」には、1680年以降では、「7つの一揆」と、関連性の高い一揆が「9つの一揆」が発生した。
これには、「共通する特徴」があった。
その特徴が、「時代の変化」で、”ある事”に依って「効き目」が阻害され低く成った事だと観られる。
果たして、“それは何なのかである。”
答えから先に云えば、それは、「宗教」である。

「青木氏」が、「商業組合」を「15地域」に浸透させ、効果を挙げ、約半世紀以上は確かに民に潤いを与えた。
然し、此処で、如何なることをしてもこの「商業組合の潤い」では解決できない事がある。
それは”「民の心」”である。
この「民の心」を「経済的な潤い」で一時的に平癒させても、”「宗教力」”と云うものが強く成れば、”「民の心」”は変化を興す。
これは「世の常」である。
”「宗教力」は強く成った”のである。

それは、マンネリから来る「支配側の施政の悪さ」からも来ている。
社会が戦乱から安定すると、支配側には、「利に対する欲」が、「政に対する慣れ」が出てそれが「庶民の生活環境」に圧迫を加える。
これに対して、「民の心の支えと不満」を「宗教」に求め、「宗教側」もこれに乗じてこれを扇動する環境が起こる。
「宗教側」は民を救うとしての大義で以て「支配側の悪政」を云い募る。
結局、この煽動で民は「反抗」と云う形で集団で訴える。
これが、上記で論じた「一向宗」(浄土真宗系)が大きく動いた事なのである。

「下級武士」も伴って「民の心」が叶えられるとして「一向宗」は爆発的に拡大した。
それが、「頼宣入城後」から約60年後の所謂、江戸期の1680年頃からの現象と成って現れたのである。

そこで、これらの事を理解するには、先ず“「一揆」”と云うものにより理解を深める必要がある。

そもそも、“「一揆」”とは、現在、一般的に「言葉の意味」として云われているものとは根本的に異なっていたのである。
それは下記に論じる「一揆」の事からも判る。
元より、「伊勢と紀州」では、特別に“「門徒衆」”と呼ばれ、この宗徒が恐れられる位に多いところであった。
それ故に、特別に「門徒勢力」の強かった地域でもあったが、上記した「15地域」の「浄土真宗の布教の強い地域」では、強弱はあるにしてもこの現象(“「事件」と「連携関係」“)が必ず認められる。
特に、「加賀一揆、越前一揆、鯖江一揆」等の有名な「大小の反抗」は、数えれば限りがないが、全て「青木氏の定住地」の域で起こっている事である。
「15地域」とは、云い換えれば、「門徒衆の何らかの強い行動」が認められる地域でもある。

「信長」から引き継いで「秀吉の時代」も、有名な「鯖江の誠照寺の事件」を初め、下記の「紀州勢力」のこの組織化された「門徒衆の勢力」を「根絶やし」にしようとしたものであった。
取り分け、紀州の北部域では、“「紀州討伐」”と云う形で“「門徒衆」の背景”と成っていた「雑賀衆」と、これと連携していた“「根来衆」”にも攻撃を加えて、歴史上に遺る庶民を巻込んだ「熾烈な作戦」を展開した。
この「雑賀衆と根来衆と高野山真言宗」とは、下記に論じる一種の「二期の一揆」で結ばれていた。(高野山は僧兵を初め早々と脱退した。)

この様な事が主要な「青木氏定住地」で起こっていて、「二つの青木氏」の様に、「密教系浄土宗の家」では、反抗勢力の「門徒衆」に陰陽に「経済的な背景」を与えながらも、敢えて、“「密教」”と云う事を表に出さない様にして“憚っていた事”が伝えられている。
信長後の「門徒衆の勢い」は依然として強く、これを徹底的に削ぐために採った「秀吉の数度の紀州討伐」はあったにせよ、要するに“「門徒衆の反抗」“は、その後(1620年頃まで)も続いていた事を物語っている。

結局は「門徒衆の反抗」が納まったのは、それまでの政権が採って来た「武力」では無く、「青木氏の提案」、つまり、「飛散した門徒衆」に徒党を組まさずに「商業組合」に囲い込んで「射和商人」と云う「独り立ちの商人」に仕立て上げた事に依って納まり、末端の社会も「徒党の争い」を排除する社会へと変化した事に在った。

(注釈 「15地域の青木氏定住地」でも、「門徒衆 浄土真宗」と「一向衆の一向宗」の強い反抗があった。)

伊勢紀州は、「高野山の真言宗」と「伊勢神宮」のお膝元でありながら、又、「根来寺の宗教僧兵」の地域でありながらも、「紀州と伊勢と奈良の土豪集団」は、殆どが「門徒衆」であって、それほどに“「門徒衆」“は強かった「不思議な地域」なのである。

そもそも、“何が強かったか“と云うと、それは「揉め事などの事件」が起こると、この「門徒衆」の性癖は、”「集団」“で事に当たった事にあってそれが怖かったのである。
それは、「浄土真宗の最大の教義」にあった事に依る。

「青木氏」は、「御師様」や「氏上様」と慕われて呼ばれ、「信長-秀吉」から「門徒衆」を保護したりするなど「地域の民」の為に貢献して居た事もあって、“先ずは攻撃はされない”とは観ていた様であったが、それでもその“「集団」“で仕掛けられる事に、「権威を重視する象徴族」であった事から「必要以上の摩擦」を避けていた事がこれでよく判る。

ところが、こんな中で在りながらも、「伊勢青木氏の四家」の中でも、「四日市殿の末裔」は、何故か特に気にしていた事が伝わっていて、筆者の「福家の家」のみならず「四日市殿」の最近までの口伝にもはっきりと遺っている。
“密教と発言や慣習を表には出して成らない”とする「口伝」とでも云うか、要するに「戒め」であって、両家や「郷士衆」の家筋にまで伝わっているところを観て見ると、何か激しい「宗教的な揉め事」が江戸中期頃にあったと観られる。(下記)
不思議にこの「口伝や戒め」の多くは、「員弁殿」や「桑名殿」の伊勢北部域には無く、「名張殿」の西部域と紀州域を含む南部域に観られる現象である。

ある大きな「二つの事件」から考察して、“これは何か変である。”
そこで、確実に確証とれるものとしては判ってはいないが、江戸初期からこの期を通じて長い間に“何かの事件”が発生し、つまり、気にしなければ成らないほどの事が起こっていた。
「門徒衆」を救った側からすると、主に“「四日市殿」の南部域にあった”と観られる。
ただ「門徒衆側」の方では、「浄土真宗の宗教教義」に没頭している事からすると、当たり前の事であったかも知れない。
この“没頭する事“、これが「門徒衆」の「最大の教義」であったからである。

そもそも、この「四日市地域」というのは、この「射和商人」の「家族が住む集合住宅」が集まっていた地域(青木氏の地権地域)でもあった事から、共に同じ所で生活し仕事をする事に成った「門徒衆の商人」も住む事に成った地域でもあった。
彼等を刺激しない様に、「伊勢郷士衆」から密かに言い渡されていたのではないかとも観られる。
この口伝が必要以上に明治期まで遺されていると云う事は、その「配慮不足」で、“拗れて折角囲い込んだ「門徒衆」が、再び離散して反動に出るのではないか“と云う懸念が初期の頃に充満していたと観られる。
そもそも、それは「浄土宗」の「伊勢青木氏」に関わった「20程度の浄土宗徒」の「伊勢郷士衆」からすると、「浄土真宗」は「異教徒」と云う事に成るが、それだけに昔からの「伝説的な事」もあって気にしていたのであろう。

室町期中期から江戸期初期頃までは、少なくとも「異教徒」は,「身分格式家柄の差」で判別されるので、現在感覚の「異教徒」では無かった。
この「異教徒」では、歴史観として必要な知識では、本来は、「宗教的な慣習差」で「不必要な争い」を避ける為にある程度の「棲み分け」をしていた。
正規の慣習の“「棲み分け」”をしていたと云うよりは、一地域にその宗派の布教が広範囲に頒布する事に成る事から、況して、一族で固まる「棲み分け」から、結果として、「宗派の棲み分け」が起こった形に成ったと云う事に成る。


要するに、民は領主に所属するものとしての概念が確立していて、「国抜け」と云って[自由移住」は認められていなかった事から起こる現象である。
そこで、この「異教徒」(門徒衆)が玉城地域中心に川を隔てて“「混在する事」”になった事態そのものが江戸初期には「新しい事」であった事からそれだけに気を配っていたのである。
これは“「混在する事」”が無ければ、「商業組合の(イ)(ロ)(ハ)」と云う組織を成し得ない「商業組合の原則」でもある。
これは、「異教徒」に対して「青木氏の氏家制度の慣習仕来り」に従わず、この「棲み分けの概念」を無くし、「商業組合」として「同じ域」に囲い込んだ事から起こる「慣習仕来りの摩擦」であったと観られる。

「一人前の商人」に仕立てようとすれば「異なる域」に住しては、その域や氏や姓の持つ慣習や仕来りや掟に縛られて、自由にその知識やノウハウを教える事は不可能である。
「青木氏と伊勢郷士衆」に執っては、絶対に乗り越えなければならない「最大の課題」であった事に成る。
それだけに“「苦しみの口伝」”として長く遺されて来たのであろう。
当にこれは「青木氏の生き様」の所以が伝わるものである。
それが「門徒衆の性癖」が、せめて「穏健」であったならば問題も無かったのであろうが、彼らは「最大教義」でもあった「一念一途」から来る「集団抗議」であった事から収まりが着かない事に成っていた事なのである。

確証は得られないが、調査から観て見ると、更に「浄土真宗」には、下記に示す「浄土宗」との間には、“歴史的なある謂れ”があったと観られる。
恐らくは、この事も大きく影響していたのではないかと読み取れる。

それは、そもそも「浄土真宗」には、江戸初期に当時世間を騒がせていた「一向俊聖」が率いる「一向宗」と云う別派が在って、この「一向宗」は、その「教義の所以」から「反抗性」と云うか、世の「理不尽性」に対する姿勢が強くて、各地で集団で「一向一揆」を多発さしていた。
この門徒は、「浄土宗徒」でありながら、「浄土真宗」の「親鸞の教義」を慕う“「一向衆」”と呼ばれる別派の一派があって、この信徒は「下級武士と農民」に広まり、それ故に本来の「浄土宗信徒」とは違う行動を採っていた。
この“「一向衆」”に対しては、本来の「門徒衆」とは、この“ある謂れ”があって区別されていた。
どちらかと云うと、ドラマ的に捉えると、「門徒衆」から云えば、この親鸞を慕う「一向衆」は「異端児」と云う関係にあった。
「浄土宗徒」からすると「裏切者」であった。
ところが、この上記の“ある謂れ“を説くには、先に次ぎの事を述べて置かねばならない事に成る。


そもそも、この「一向宗」には、「二つの流れ」があって、「浄土宗」を発祥源とした「一向宗」と、上記した「浄土真宗」から出自した「一向宗」とがあった。
この“ある謂れ“には、この経緯が影響したと読み取れる。
この「一向宗」の本元は、「浄土宗の別派時宗の一向宗」ではあるが、この「一向宗の門徒」には「法然の浄土宗」でありながら、“ある教義”を信じて「親鸞」を慕う「門徒衆」(一向衆)が多く、そこで「浄土宗」からは、この「親鸞信仰」の「浄土宗一向門徒」とは区別して“「一向衆」”と呼ばれ差別していた。
この呼称を嫌う親鸞の「浄土真宗側」からは、“「一向」”と云う言葉さえも使わず、これを禁句として当初は相手にしなかった。
この「浄土真宗側」では、“使うと破門する”とまで書かれた文章が遺されているのである。
この「一向宗」を、「浄土真宗側」の一派は、「信徒」に入れると“「親鸞の教義」を歪める”として嫌ったのである。
「浄土真宗側」からすると、教義布教の「浄土宗の浸食作戦」であると疑って観て採ったのであろう。
この思いが手紙としての記録に遺されている。

元々、「浄土真宗」と、この「浄土宗教義」の「本宗争い」が長く在って、江戸期初期に「家康」は、「密教浄土宗の顕教令」を発する際に、この問題があっては困るので、この「争い」に裁定を下し、この「一向宗」を全体像からは正式な宗派とは認めずに“「浄土真宗一派」”と定めた。
「顕教令」の為には、「親鸞崇拝の一向衆の信徒」を「浄土宗の信徒」とは認めなかったのである。

ところが、この「家康裁定」でも、「浄土真宗派の一部」(門徒衆派と一向衆派の両派)は、納得しなかったので明治期までこの「争い」は燻っていたのである。
この「顕教令」と共に出された「家康裁定」で両方の宗派では一応は騒ぎは収めたが、ところが、「浄土真宗側」の「一向衆」は、浄土真宗の一派の「一向宗」としては認めて貰えなかった事から納得せずに、信徒の下級武士も含んで各地での「農民に対する税に対する圧政」も重なる事にも成って、反発して、要するに、「反抗」を意味する“「一揆」”を各地で起こす様に成ったのである。
この頃から、“「一揆」”と云う意味合いは、「反抗を意味する一揆」へと変わって行ったのである。

そこで歴史的に注意しなければ成らないのは、この“「一揆」”が元々の「浄土真宗」の「門徒衆」と、「浄土真宗系」の「一向衆」の二つによる「一揆」が起こっていた事である。
上記の“何か変だ”とするのはここに在った。
つまりは、伊勢を始めとする「15地域の青木氏」は、“一体,「どちらの衆の一揆」を援護していたのか”と云う事である。

江戸期初期の「家康裁定」では、「浄土真宗の信徒」であるが、室町期末期頃からはこの信徒に依る「農民一揆」が各地で起こっていた。
その為に長く引きずったこの問題に対して、今度は「明治政府」は、この「一向宗」を宥める為に、この「一向衆の浄土真宗」を単なる“「真宗」”としての呼称で認めて、妥協案の「真宗」と呼称する様に裁定を下した。

要するに、「密教」を含む「法然の教え」を護る「浄土宗」と、「親鸞の教え」に傾注する「浄土真宗」との「宗教派閥の争い」であって、そこにはその「教えの差」の違いがあった。
法然の「浄土宗」からすると、親鸞の「浄土真宗側」に走った信徒に憤懣があって圧力を掛ける為に、差別した事にも成る。
況して、その信徒が全国で“「反抗の一揆」”を起こしたのである。

この様な行動に出る教義では無い「浄土宗派の密教」は、この「一向宗の行為」を許される事では無かった。
「浄土宗派側」からすると、“親鸞に傾く裏切り行為”の上に、且つ、“反抗の一揆”までを起こすと云う信じられない事が起こったのである。
そもそも、「浄土宗」は、江戸初期の家康の「浄土宗の密教」を改宗して誰でもが信心できる「顕教令」を発した事から、爆発的に不満が噴出して起こった事からの事件である。
その所属には基本的には「江戸期の以前」は、若干の動きはあったが、未だ「浄土宗派の一向宗」であった。
ところが「浄土真宗」の信徒の一部が、「浄土宗の信徒」に不満を爆発させて「布教戦争」を仕掛けた事から起こったのである。
そこで、上記した様に、家康の一向宗を「浄土真宗」と裁定をした経緯に発展したのである。
その事は“「教えの差」”にあるとして、これを嫌う「浄土宗」からは、「浄土真宗」に対する「差別待遇の呼称」として扱った事にあった。

つまり、そもそも、この“「教えの差」”の“「一向」”とは、一体、“何か”である。
この“「一向」”と云う言葉には、”一筋に、一途に、一念に“の意味があり、これを「主たる教義」としていたことから起こった事ではある。

(注釈 教組の「一向俊聖」は、「越後国の草野氏」の末裔の「草野俊聖」の事であり、後に、「一向俊聖」と名乗った。)


これは、浄土真宗の「一念発起の教義」にある様に、“「集団」「一途」“で事に当たる「浄土真宗の最大教義」に一致していた事から起こったのである。
「親鸞の教え」の「阿弥陀経」の一節の“「南無阿弥陀仏」と一途に念ずれば、汝は救われる。”の所以である。
「浄土宗の一向宗の教え」と、「浄土真宗の親鸞の教え」が一致している事から来ているので、「一向衆と云う信徒」が興った事に成ったのである。
「江戸初期の顕教令」に依って、「密教」から「顕教」に成った事から、この「一向」「一途」「一筋」「一念」が、「庶民の信心の心」を掴んだ事から起こったのである。

ところが、「浄土宗」は、“全ては「自らの悟り」に通じる“としていて、「顕教」に成って新たに「浄土宗信徒」と成ったが、農兵(半農下級武士)や農民には、この教義は、その生活環境からは現実には生活環境に直結せず、且つ「悟りの教え」は難しいことでもあった。
然し、そこで、“唯、念仏を一念に念ずる事で幸せが来て極楽浄土に行ける“とするとこんな楽は無いし判り易い。

元を質せば、前段でも論じたが、「密教」は「大日如来仏」を「宇宙仏」とし、直接、如来が下界に降りて来て民に「教え」を伝え悟らせると云うもので、「顕教」は「盧舎那仏」を「宇宙仏」として、直接下界には降りず、「下界仏の釈迦」を通じて直接、言葉で教えを伝え導くとするものである。
先ずは上記するここに大きな“「教義の原理の差」”があった。
「顕教」で「浄土宗信徒」になったものの、結局は「民衆」は、「判り易さ」とこの「安易さ」に引かれた「浄土宗」から離れて行ったと云う処であったと観られる。
この事から、「浄土宗」は、「顕教」に成ったものの「新しい信徒」は完全に離れて行って衰退の一途と成って、寺は荒れ果てた。
幕府は寺の修理令を出すが進まなかった。
残るは、青木氏等の密教を続ける寺のみの現状と成った。
そこで、高級武士階級に入信を進めて浄土宗は何とか生き残れたのである。

ところが、その「青木氏の密教」では、「般若心経」を前提として、その「青木氏氏是」や「青木氏家訓10訓」にもその考え方を反映さしている。
「色即是空 空即是色」「色不異空 空不異色」は、「密教の主教義(概説:「拘りの否定」と「悟りの前提))」として従っている事から、「浄土真宗」と「一向宗」は、到底相容れるものでは無かったのである。
「時宗派の一向宗」は、「浄土宗系」とするも浄土宗の中では異端扱いと成っていた。

この為に、江戸期には「顕教」に成っても続けていた「密教派」の「浄土宗の青木氏」には、「浄土真宗」の元来の「門徒衆」からは、「浄土宗」である事と「密教」である事に付いて敵視されたのである。
当然に、この様な考え方の持たない「密教の青木氏」は、「一向衆」からも「密教」の有り様が「一向宗派の敵」として逆に敵視されたのである。
各地の「二つの青木氏」は、室町期から「浄土宗派の一向宗の一揆」には「経済的支援」をし、室町末期からの「門徒衆の一揆」や明治期の「一向衆の一揆」(民としての前提)にも「経済的支援」をしながらも、“「密教」”と云う事では、「一向、一途、一筋、一念」で苦しめられたものと考えられる。

果たして、”「浄土宗派の一向宗の一揆」には「経済的支援」”と「ある手紙の資料」では成っているが、疑問である。
要するに、”「支援の仕方」”に大きな違いがあったのではないかと考えられる。
その「支援の違い」が未だ判って居ない。
「警戒していた宗派」であった事から、「積極性援助」は先ずは考え難いとすると、依頼されるが侭に「周囲との関係上」から「寄付的行為の範囲」で留まったと観られる。

唯、この「強い懸念」が、「四日市殿の末裔」に強く伝えられていたと観られる。
つまり、「四日市殿」は、立場上から「一向衆」にしても「門徒衆」にしても「反抗する宗教勢力」には「反対姿勢」を鮮明にしていた事も考えられる。
どう考えても、確かに「青木氏」に執っては、実に、“間尺に合わない事”ではあった。

前段でも、又、上記した様に、「地域の民」からは“「氏上様」”と呼称され敬われ、「郷士衆や職能部の人」からは“「御師様」”と呼称され敬われていたが、江戸初期から明治期まで地域や宗派を超えて“「近い存在」”と成ったにも関わらず“「門徒衆」”からは、この「敬いの呼称」は無かったのである。
本来であれば、有ったと考えられるが、口伝から観て無かった事は、相当に“「密教」”と云う事に対する「懸念の心」や上記した「歴史的な拘り」が「門徒衆」にあった事に成る。

昭和の初め頃までは、結局、「地域の指導者の所以」として、この「門徒衆」に対しては「密教の発言と慣習や仕来り」には気を使い、出来るだけはその様に振舞ったと「伊勢青木氏の口伝」では伝わっている。

江戸期に於いては伊勢紀州では門徒衆に対しては明確であったが、「一向衆」に対してはどうであったかは定かでは無い。
唯、伊勢紀州では前段でも論じた様に「一向衆」が出る土地柄では本来は無く少ない。

「宗教的な経緯」が経緯だけに幾ら「青木氏」でも「民の為」としても資料を残す程の事は出来なかったと考えられ、依って「資料口伝の類」は見つからないのであろう。
その前に、上段でも論じた様に、「青木氏」は「郷氏」であり、「地域の地権者」であって、且つ、唯一「氏の青木村」を形成出来る立場にあった事から、独自に「浄土宗の菩提寺」を持つ「氏村」には、「青木氏に関わる郷士衆」やその「職能部の民」は、この菩提寺の下で導かれる事に成っていて、「一向宗の布教」は起こる事は必然的に無かった。

(注釈 前段に論じた様に「僧侶」は「青木氏」で、祭祀は福家を中心に「達親方式」に依る「青木氏形式」を以って行われていたので、入る余地そのものが無かった。)

従って、宗徒に関する資料や口伝は勿論の事として無い事に成る。
「門徒衆」の事に付いては、上記の「特段の経緯」から起こった事であるから、「青木氏」も間尺に合わないとしても大変に気を使った事に成ったのである。

唯、他に考えられる事として、「江戸初期の顕教令」に従わずに「密教の慣習と伝統」を維持して居た事への配慮に付いては、「紀州徳川氏との親交」から配慮しなければならないが、特段で意識している資料は見つからないのである。
依って、「門徒衆への配慮」だけと云う事に成る。

実は、この事に付いて、「江戸初期の浄土宗の顕教令」では、結局は,「浄土宗」は誰でも信心できるとしたが、実際は、“「誰でも」”は、確かに“「誰でも」”ではあったが、「氏族」に限らず「姓族」にも門徒を開いて「特定された高級武士」に限定して入信出来る宗派と結果として成ったのである。
従って、この「特定される高級武士」の間では、完全とは云わずとも“ある程度の密教性のある浄土宗の教義”が維持された事に成っていたのである。(「達親方式」等)
この事が、「青木氏の密教の慣習仕来り掟の伝統」に付いては、特段で問題視されなかった事に成った。
況してや、紀州藩とは上記する「商業組合」や「勘定方指導」や「地士制度」などの連携した関係からも問題視されなかったと考えられる。

ところが、「四日市殿の末裔の青木氏」には、この事に付いての事が多く伝わっている事から考えると、江戸期初期前後からの出来事では、“何か事件性があったのではないか”と考えられる。
江戸期初期前後では、「四日市殿」が、前段でも論じた様に、「立葵紋の使用」や「勝姫との血縁」などでも判る様に、「紀州徳川氏との親交」も取り分け深かった事もあって、出来るだけ「密教性」を表に出さない様に「摩擦」を避けていたと観られる。
取り分け、「門徒衆との事」で「諍い」が起こると、“集団性で動かれる事”があるので、それが表に出て仕舞う結果と成る事に気にしていたのである。
ここでは、四日市殿に関しては「紀州徳川氏への配慮」は否定できない。
況して、一筋縄では行かない「門徒衆」の集まった地域の「四日市地域」であるから、他の四家とはこの面では、上記の通り異なった事に成っていたのであろう。

そもそも、それが、「信長と秀吉の締め付け」で「顕如」が例の如く裏切った事から、「門徒衆」は背景を失い、結局は「青木氏」と「郷士衆」に縋って来た事にあっても、然りながら、伊勢紀州に多い「生粋の門徒衆」には、唯一つ気に入らない事では無かったかと観られる。

この「口伝の伝わり方」(宗教行事から密教性を覆する態度)から観て、「青木氏」の下に共に仕事をする中で、この“「立場の差」”が表に出て揉め事に成って、“集団で抗議された事”が原因していたかと観られる。
恐らくは、記録が見つからない程度の事件性であった事で、場合に依っては遺さなかった事も考える。
実は、この「四日市殿の末裔」のお二人の女性の方が信濃に定住していて、その方の情報では「事件性の事」が家に伝えられていたと聞いているので、筆者は、敢えて“遺さなかった”と観ている。(ルーツ掲示板にもお便りがある。)

“何も斟酌せずに毅然として「伝統の密教」を表に出して行動すれば“とする考え方もあるが、これは地域住民をリードする「青木氏の立場の所以」とも観られる。
これも、「色即是空 空即是色」「色不異空 空不異色」、即ち「密教の主教義(概説:拘りの否定)」に繋がったことでもあった事から、「伝統の密教」を必要以上に出さなかった事にあったと観られる。

(注釈 筆者の家には、この様な事に関する事を書いた鎌倉期末期の「古い長文の漢詩の掛け軸」が遺されている。)

江戸期には、時代も異なり「500にも上る守護神の神明社」も幕府に引き渡した等もあって、「賜姓族としての立場の緩み」が出ていたのであろう。
“「緩み」”と云うよりは、“時代性に即した行動“と云う事であったと考えられ、「正しい判断」であったと筆者は考える。
それが「青木氏の生き様」の一つとして「潜在的な意識」に成っていたのであろう。(今も調べている。)
しかし、この後も、この「門徒衆の慣習」は、江戸期を通して大正期まで引き継がれていた。
それだけに、逆に云えば、この「門徒衆と郷士衆」から成る「商業組合」は栄えたのである。
結局は、上記した様に、この「商業組合」に依って江戸期の初期前後頃には、「一揆の反動」は、一時は80年間近く低下したが、「門徒衆」の「商人化」で「門徒衆の勢い」は戻し、この「勢い」からその「門徒の慣習」も維持されたものと観られる。
この「門徒衆の商人化」に関わった「青木氏」や「郷士衆」でさえも、“「密教」である事”を憚った模様で手紙と口伝の記録に遺されている。

そこで、上記した様に、“何か変だ“に付いてであるが、室町期末期に起こった「一向一揆」、明治初期に起こった「一向一揆」に付いて、果たして、全国で起こった「全国の青木氏」が経済的に援護したのは、”どちらの「一向信徒の一揆」であったのか“である。
要するに検証する上で「三種の一向衆」がある事に成る。
この何れなのかである。解明して置かないとそうしないと「矛盾」が生まれる。

その前に、先ず、「一揆」と云う言葉は、中国の孟子論の中に使われている言葉から、平安期に入り、これを鎌倉期に使われた言葉であった。

第一期
その言葉は、本来は、武士の小土豪が政治的に結集して[政治連合体]を作って契約した上で互いに護り合う「連合結社」に使われるものであった。
これを「士一揆」や「徳政一揆」と呼ばれた。
これには「出雲大社の下に纏まった亀甲集団」などがある。

第二期
ところが、室町期に入ると、「戦乱」で「下剋上」が起こり、この「結社の内容」が変化して行って、言葉の内容は,下級武士の政治体制に対する「契約した上での反抗勢力」の言葉として使われる様に成った。
この時期は「国一揆」や「荘家一揆」と呼ばれた。
有名な処で「1465年の額田郡一揆」がある。

第三期
室町期末期に成ると、下級武士の不満や農民の不満を訴える不契約の烏合集団化した「不満勢力」の言葉として使われた。
この時期は「百姓一揆」と呼ばれた
有名な処で、「加賀一向一揆」が在る。

第四期
そして、江戸初期になると、更に、この結社が、社会が安定して「武士の結社」の必要性が無く成り、上記した様に、ある「影の大勢力」が背景と成って、「農民や宗徒」に関わる不満から集団化した「不満勢力」の言葉として使われる様に成った。
この時期は主に「百姓一揆」や「一向一揆」と呼ばれた。
要するに、上記で論じている一揆である。

第五期
最後に、「明治維新の政治体制」が変わり、「社会体制の変化」も起こり、これを嫌う「保守勢力」として結集して、ある「政治的主張」を実現させようとして、士族を失った者や農民らの重租税の改善の集団化したものに使われた。
「伊勢騒動」などがある。
この時期は、「地租一揆」や「世直一揆」と呼ばれた。

この「五つ期の一揆」に付いては、殆ど各地に定住する「二つの青木氏」が関わっている。
そこで、「青木氏」に何らかの関係で関わった各地の主な一揆を下記すると次ぎの様に成る。

鎌倉期
青木氏が関わった主な一揆
1368年武蔵平一揆、相模平一揆、白旗一揆

室町期前半期(徳政一揆)
青木氏が関わった主な一揆
・1418年上総本一揆・1465年額田郡一揆・1485年山城国一揆

その他の一揆
1428年正長の土一揆・1441年嘉吉の徳政一揆・1462年寛正の土一揆
1400年大文字一揆・1429年播磨国一揆

室町期後半期
青木氏が関わった主な一揆
・加賀一向一揆・法華一揆・雑賀一揆・伊賀惣国一揆
・1563年三河一向一揆・1587年肥後国人一揆・1585年祖谷山一揆・1586年北山一揆

その他の一揆
・1589年天草国人一揆・1589年葛西大崎一揆
・1590年和賀一揆・1590年仙北一揆・1592年梅北一揆・1600年岩崎一揆
・1600年浦戸一揆

江戸期
青木氏が関わった主な一揆
・1603年滝山一揆・1608年山代一揆・1614年北山一揆・1615年紀州一揆
・1677年郡上一揆・1722年越後騒動・1761年上田騒動・1768年新潟騒動
・1836年天保騒動(郡内騒動、甲斐一国騒動)・1814年北越騒動
・1842年近江天保一揆

関わった可能性のある一揆
(殆どは重税による農民一揆)
・1652年小浜一揆・1686年加助騒動・1690年坪谷一揆
・1726年津山暴動・1729年岩代農民暴動・1761年伝馬騒動
・1781年絹一揆・・1786年宿毛一揆
・1842年山城谷一揆

その他の一揆
・1739年元文一揆・1753年摺騒動
・1771年虹の松原一揆・1771年虹の松原一揆
・1771年大原騒動1793年武左衛門一揆
・1804年牛久助郷一揆・1825年赤蓑騒動・1831年長州藩天保一揆
・1838年佐渡一国一揆・1847年三閉伊一揆・1856年渋染一揆

明治期
青木氏が関わった主な一揆
・1869年ばんどり騒動(富山県)
・1872年悌輔騒動(新潟県)
・1876年伊勢暴動(三重県)

その他の一揆
・1873年筑前竹槍一揆

この「五期の一揆」から、「青木氏が関わった一揆」は、次ぎの通りである。
鎌倉期は第一期である。
室町期前半では第二期である。
室町期後半では原則は第三期である。
但し、室町期後半の前期では、第三期で、後期の第四期に移行する時期と成る。
江戸期では原則は第四期である。
但し、江戸期の前期では、第四期で、後期から第五期に移行する時期と成る。
明治期では初期の第五期である。

つまり、“何か変だ”とした疑問は、「青木氏」が「経済的背景」として援護したのは、果たしてどの「信徒」であったのかである。

「浄土真宗の門徒衆」・・・・・・・・鎌倉期・・・・・・・・・・・・・・・・・主に武士階級
「浄土宗の一向宗の信徒」・・・・室町期前半 室町期後半・・主に武士階級
「浄土真宗の一向宗の信徒」・・室町期後半・・・・・・・・・・・・・農民階級
「浄土真宗の門徒衆」・・・・・・・・室町期後半 江戸期前期・・武士階級と農民階級
「真宗の一向衆」・・・・・・・・・・・・江戸期後半 明治期・・・・・・農民階級

この記録から完全に判別する事は困難だが、「関わり方」には多く在って、地域に依って異なっているが、“「経済的援護」”としては大方は以上と成っている。

唯、「江戸期の一揆」に付いては、「家康の顕教令」もあって、「家康裁定」もあって、「商業組合」があって、紀州藩から「商業組合」と共に「15地域の青木氏の定住地」に広がりを見せた「地士制度」などもあった事から、「宗派」に関係なく、“「地域の民衆」を支える為の「経済的行動」”であった事に成る。
“「地域の民衆」を支える為の「経済的行動」”とは、上記で論じた様に“「商業組合」「提携商人」の考え方”に一致し、この「考え方」が「根底にある理念」であった事に成る。
これが、長い歴史を持つ継続された「青木氏の理念」であって、継続された「生き様」であった。
それを顕著に表しているのが,「青木氏」(伊勢青木氏と信濃青木氏)がそれまでの関わり方と違い公然と直接的に関わった明治初期から長く続いて起こった、最後の「1869年ばんどり騒動(富山県)」と「1876年の伊勢暴動」の二つの一揆が大いに物語っていると云える。
「越後の秀郷流青木氏」が関わった「1872年の悌輔騒動(新潟県)」も同様である。

他には「武力的な援護」、「政治的な援護」と成るのだが、「青木氏の氏是」に依って「歯止め」が掛かっていて、直接の「武力的な援護」は無く、「経済的援護」の他に、「青木氏」が持つ「シンジケートに関わる援護」が多い傾向である。
この「シンジケートの援護」であるが、「直接的な武力衝突」では無く、平穏時は「家族の身辺警護や食料の安全輸送」等に関わっていた模様である。
「一揆」を先ず根絶やしするには、為政者側の採る最初の作戦は、先ずは、「補給食料の断絶」や「家族への脅迫」や「調略作戦」から始まり、「武力に依る掃討作戦」は最後の手段であった。
その前のこの作戦に「援護の対応していた役目」は、「郷士頭の家に遺る手紙」の資料から読み取ると、「青木氏」からの指示に基づき、その役目が危険であった事からこの「シンジケート」が手足と成って大いに働いていた様である。

「政治的な援護」の関りでは、「シンジケート」と関係していて、“「一揆後の立て直し援護」”と云った「援護の関り具合」に徹していた事が判る。
特に、「江戸期末期のシンジケート」は、時代と共に変化して「抑止力」と云うよりは「職能集団」と云った様変わりした「重要な役目柄」を演じていた事が判って居て、支配下に置いていた「伊勢水軍」の「職能集団」は、「海上輸送」で働き、各地域に配置していた武装集団は、「陸送輸送と警備担当」で働き、「大工等の職能部」は、神明社等を江戸幕府に引き渡した後は幕府から「関連企業」として受注を受けてこれを修理管理する事に働いていた。

そして、明治期中期には、伊勢に於ける「青木氏のシンジケート」は、これら全てを解散して「企業」として独立させる手段を採った。
伊勢以外にも、例えば、「讃岐青木氏」の様に、本体は「商い部門」を瀬戸内に遺しながらも、「廻船業」として「新規航路」を作り、最終、蝦夷地にも支店を置いて大いに栄え、昭和20年まで続いていた。

この様な例の様に、時代と共に体質変化させて生き延びていて、「青木氏の15地域」では、「伊勢、信濃,讃岐」は、勿論の事、有名な処では「新潟」や「富山」や「鳥取」等、多くは少なくとも昭和の初め頃まで「商業組合と提携商人」と共に存続した事が判っている。

要するに、江戸期末期に成っても依然として「賜姓族」として頑なに「地域の住民」を「賜姓五役」の「殖産や興業」に導いて、「商業組合と提携商人」は「本来の一揆の意味合い」としての貢献をしている。

これらは前段の「伝統シリーズ」でも「関わり具合」を論じてはいるが、本論は「商業組合と提携商人」としての「15地域の青木氏の生き様」を「伊勢の例」を下に焦点を当てて論じた。
これらの事は、決して、伊勢域だけの事では無く、「15地域」では、「商業組合と提携商人の組織」を形成する以上は、ほぼ同じ様な事が起こっていたのである。
それを前提にご理解頂きたい。

次段は、矢張り、伊勢を以って、この「提携型商人」の「射和商人」に付いて例として詳しく論じる。


「伝統シリーズ-20」に続く。
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:「青木氏の伝統 18」-「青木氏の逸話」 


[No.336] Re:「青木氏の伝統 18」-「青木氏の逸話」 
投稿者:福管理人 投稿日:2015/10/25(Sun) 07:33:56


> >「青木氏の伝統ー17」の末尾

> (注釈 各地の「青木氏の伝統」に関する資料関係が、青木氏と娘の血縁関係も含めて関係した20程度の「郷士の家」からももっと多く見つかれば、より詳細に「青木氏の広域の生き様」が描ける。
> 然し、、残念ながら、「伝統」どころか、他氏と異なり多くの「習慣仕来り掟」を持っていたにも関わらず全く消えて仕舞っている状況の様に見受けられる。
> 各地の神明社にある資料なども探究したが、残念ながら、今は阻まれた次第であった。
> 然し乍ら、「射和商人」と成った「郷士の家」からの資料、四家からの娘の嫁ぎ先の親族関係と成った郷士の家からの資料、伊藤氏等の「伊勢国衆」の家からの資料等からの情報が論文作成に大きく影響した。
> 更に、未、「手紙」や「報告書」の形でも遺されていると観られる。)
>
> これは、「商い」には、「事件の前後」の「雰囲気・小競り合い」からの「事前情報」が必要であって、それによって、“「商いを動かしていると云う戦略」”も在って、その事を主目として情報を獲得していたのである。
> その為にも、かなり前から、“伊勢で起こった騒動”に対して「伊勢衆」で前後に“「打ち合わせ 談合」”なども頻繁にしていた事が判る。
> (明治の終わり頃まで、年に2度の全ての関係する人々が大集合して親睦(運動会)を図っていた事が口伝で伝えられている。)
> 「商い」に大きく影響する事から、「伊勢シンジケート」や、各地の500にも上る「神明社」からの「情勢分析」の記録として情報が扱われていた事が判る。
> 何度と「談合」が重ねられている処から「他の伊勢衆」にもこの情報共有が行われていた事も判る。
> 特に、「伊賀の乱」は「青木氏」も「影の力」として「物資の供給」や「側面攻撃」や「夜間ゲリラ戦」などで合力したが、相当に「事前分析」も施され、長引いた「伊賀の乱」の収束前に紀州に一時避難などもしている。
> これも「事前情報の結果」であろう。
>
> (注釈 「青木氏の口伝」では、この100年間の間に二度に渡り「紀州新宮」に避難している。
> この「伊賀の乱」後の「新宮避難」は、「基本戦略」上から事前に引いた事は判り確認できるが、もう一つの「新宮避難」が何で避難したかは判らず記録が正確に読み取れなかった。)
>
> ただ、この時の「口伝」には「一つの逸話」が伝わっている。重要な判断要素の事に成るので次ぎの段で述べる。
>

「伝統-18」

「青木氏の逸話」
この避難した人物は、『福家の者』(1)で、“『鉄砲を巧みに熟し』(2)”、“『名人”と村民から呼ばれていた』(3)。
ある時、家臣を連れた人物が、『領地視察とタカ狩りを兼ねた形で巡視をした』(4)。
この時、この「福家の者」が猟をして道端で休んでいた。
そこに、この一行が来て、『福家の者に土下座する様に促した』(5)。
しかし、家臣の者が、『何度も往来を繰り返したが余りの往来であった事』(6)から、『福家は土下座を中止した』(7)。
そこで、この『家臣が鉄砲で威嚇した』(8)。
ところが、「福家の者」が、遠くの場所に居た『主君」の上に実っている「柿の実」を打ち落とした』(9)。
怒った家臣が『「無礼討」しようとした』(10)。
ところが、『「福家の従者」と「家臣」との間で「争い」が起こった』(11)。
これを観ていた「主君らしき者」が、止めて、難なく視察団は引き下がった。
『三日後に呼び出しが在り』(12)、福家の者は『「家紋付きの乗馬白装束」で出仕した』(13)。
ところが、門のところで、又、「白装束」を理由に「無礼者」として『「家臣の騒ぎ」と成った』(14)。
その「騒ぎ」を主君に伝えた。結末は、「主君の者」が門まで出て来て、この騒ぎの事態は逆転してしまった。
『主君が慌てて下座礼の姿勢を採った』(15)ので、家臣がひっくり変えて驚き、取り敢えず、『主君の姿勢に従って片膝下座の姿勢をした』(16)。
福家は、この後、『主君の案内で館内に導かれて行った。』(17)、 この様子を家臣の一人の者が、主君から『故事に付いて教えられて』(18)、周囲の家臣に伝えて、「福家の者」が誰であるかを知ったと云う事であった。
そこで、始めて事態を飲み込めた家臣等は、福家を『客間に通し、主君が座る上座に案内して、その上で改めて「挨拶の礼」を先に執った』(19)。
その原因は、『「白装束」に「家紋の笹竜胆紋」にあった』(20)。
ところが、「福家」は上座に座る事を儀礼で辞退したので、押し問答が主君との間で起こった。(21)。
そこで、共に上座で対面する事に成ったが、下座に控える家臣等は未だ頭を上げなかった。(22)。
それは、「福家]が敷物を使わなかった事にあった為に、家臣等は挨拶を戻さなかった。(23)。
「福家」は「儀礼作法」を治めて結局は敷物を用いて落ち着いた。
この後に「対談」は続いて、今後の多くの事が決められた。(24)。・・・・・。

この後も、この「逸話」は更に続くが、この後に“「付き合い」は続いたとされる「行りの逸話」”と成っているのである。

「逸話」はこの後も続く。
この「逸話」には、そもそも、『・・・』とする部分に意味が持たせて在って、“「青木氏の有り様」等の子孫に伝えるべき「伝統」”がまとめられて読み込まれているのである。
「逸話」には、子や孫に面白可笑しくして話し聞かせて、「家筋」などを判らせて伝える「重要な手段」で慣習でもあった。

因みには、“「白装束」”は、皇族位に準ずる「上位の者」が執る「最高礼意の朝廷衣装」での作法であるし、それに「紋付」を付ける事が出来る「家紋」は、「伊勢青木氏」しか使えない「禁紋の笹竜胆紋」であったとして、“そんな家なのだ”とする子孫に識らせる慣習であった。
この様な事を織り込んでの「過去の青木氏」にだけにある「伝統」を読み込んで伝えているのが、この室町期末期から江戸期初期頃に作られた「口伝に依る逸話」なのである。
この「逸話」は作られた時期は、確定は出来ないのではっきりと云えないが、「話の前後の内容」から「天正期から江戸初期」に作られたものでは間違いはないかと考えられる。
実は、「信濃青木氏」でも、これに似た「信濃の逸話」が伝えられている事から、少なくとも「本能寺の変」の後である事が判る。
この「信濃の逸話」では、良く似た事が「事件の記録」として「外部史実」にも成っている。
以前にも、記載したが、「信長」が武田氏を滅ぼした後の信濃甲斐巡察の際に起こった事件と類似する。
それは、重複するが、土豪で郷氏の清和源氏支流末裔が、この時、道端で「信長」を迎えた際に「白装束に乗馬姿」で最高礼に比する「朝廷作法」に則ったもので迎えたのであった。
それに気が付いき比例無礼として、勘違いした信長は烈火の如く怒り、自ら馬から引き釣り降ろし、叩きのめした。
朝廷作法に熟した家臣が止めに入り先ずは納まった。
これに良く似た「信濃の逸話」にもあり、「伊勢の逸話」とある意味で同じ事を伝えようとする「青木氏の意図」ではあったと判断され内容は類似する。
「信濃」でも何か「儀礼作法の問題」を起こしていたのではないかとも思われる程の事件である。

この他にも、幾つかの「逸話」があるが、この「逸話」が江戸初期に作られたとすると、この「逸話」には大きな意味を持っている事に成る。
そもそも、「逸話」がつくられると云うのは、その「逸話の内容」が、その「氏家」に執って極めて重要であるからこそ作られる「氏家社会の重要な慣習」であった。
これらは、”「青木氏の重要な事」を伝えようとするもの”には、それぞれの「内容の目的」は異なるが、「氏是」「家訓」「口伝」「逸話」「由来書」「等の方法で「全青木氏の仕来り」としてある。
この「逸話」が作られるくらいである事から、「青木氏」に執っては、この「逸話」に込められた事が如何に大きな事に「青木氏」の中で成っていたかと云う事に成る。
この「逸話の内容」が、“時事に合わせて「青木氏に執ってシンボル的な事」“ばかりを読み込んでいる。

つまり、その時期に「青木氏」の中に「シンボル的な出来事」が起こった事を示している事に成る。
これは、「青木氏氏是」の影響によると観られる。
前段でも何度も論じたが、「青木氏氏是」を護ろうとすると、「青木氏の行動」を誇示して強く遺す事は難しい。
「青木氏の事」を”世に晒す事”、「青木氏の事」で、”世に憚る事”を強く戒めている。
こう成ると、何もしないと云う訳には行かず「逸話」ででも「名誉や権威や格式}等を遺して置く事に成る。

「悠久の歴史」の中でも、平安初期に桓武天皇に「皇親族」としての存在は、“「律令政治の邪魔」“として圧力を掛けられて起こった「青木氏衰退期」に遺された「氏是」ではあるが、この時に匹敵する程の、「心機一転」を期した青木氏で『総代わり』する程の事がこの天正期に起こったと云う事を物語っている。
その為に、「青木氏氏是」を護ろうとして「青木氏の子孫」に是非に改めて言い遺そうとして「四家の福家」は作ったのではないかと思われる。
この人物は「当事者であった信定」であると観ている。
前段で詳しく論じた「伊勢三乱五戦」の時の扱いに依っては、平安初期に訪れた滅亡に匹敵する程の事が、又、「青木氏に訪れた危機」を感じ採った事の後に作られた「逸話」であったと解釈される。
この危機から何とか脱した時期の「1600年前後の逸話事」であろう事が判る。
と云う事は、この時期に、上記の様に、「信長―秀吉―家康」と変化して行く中で、“青木氏の存亡が危うく成る程の事が起こっていた“と云う事に成る。
「信長―秀吉―家康」は、「存亡の非常事態」が起こり、次第に危険度が低下して、遂には安定し発展の兆しを観たとする経緯を示している。
この「逸話」は、「安定」に入る時期の直前期の事を伝えているのである。
遂には、既に時代の社会状況は意味の無い程に著しく変化したが、この事の事を筆者が「解説する役目」を果たした事に成る。

(注釈 「桓武天皇」は、「伊勢王の施基皇子」の「第六子の白壁王」の「光仁天皇」の子供で、伊賀の「高尊王」の孫娘の「高野新笠」との間に生まれた子供で、「皇位継承者」の少なかった時に天皇に成った。
「伊勢青木氏」は第一子の「湯原王」の子孫で従兄弟の縁者関係にあった。
聖武天皇期に男系の皇位継承者が居なくなり、女系天皇が続いた結果、正規に皇位継承者が無く成り、それに「準ずる者」として「施基皇子の子供達」に順番は廻って来た。
継承者は皇奈良期末期の「皇親政治」の一員であった。)

この「逸話」から、この天正期に会った事に対して読み取れる事としては、先ず“「福家の人物」”と会ったのは、口伝では「徳川家康」と伝えられているが、「頼宣」(1602年-1671年)が紀州藩主に成ったのは正式には1619年頃に成るが、既に、この前に、「逸話」から観て、「主君」と成っている人物は「家康」であって、「家康」が駿府から「松阪」に来ていたのではないかと思われる。
この時に、新宮から尾鷲に掛けて紀州を下検分していた可能性があり、その時に、「四家福家の信定」との「逸話の行り」に成って会い、逸話の“「呼び出し」”が松阪であった。
そこで「談合の予備交渉」が家康と行われたと考えられる。
この時が1603年と成ると観られる。
1605年に「伊勢面談」とあるので、「伊勢青木氏」と「徳川氏」の間で「話し合い」をしていた史実(神明社等を徳川氏に譲り渡した)が有るので、この「逸話]の“「福家の者」“は、”1605年に新宮に引いて没した“とする史実から、「青木信定」の「伊勢の戦い」に当たった当事者と云う事に成る。
この”「松阪での面談」”の終わった後に、新宮で没したと云う事に成る。
依って、新宮に引いた年数は1603年と成る。
そうすると、この1619年に新宮に居る「福家」は無いので、「後継者の福家」は、この時は「松阪」に居る事に成る。
そうすると、紀州藩は1600年に先ず「関ヶ原の勲功」で「浅野氏」に与えられた。
そして、その後の1619年に「頼宣」に引き継いだ事に成っているので、「福家」が「新宮」に引いた時期は、「伊勢の状況」が安定した時期に成る筈である。
だから、依って、1601年に「青木氏内の騒ぎ」が安定し、「商い」もそれに合わせて盛り返したのは1602年以降と成る。

そうすると、前段の「青木氏年譜」の”「伊勢談合」”とある1603年に、「事の始末」を「伊勢衆」等と共に付けた「後始末」の後に成る。
つまり、1603年の「後始末」の後に「新宮」に隠居した事に成る。
1603年と成れば、その人物は、伊勢解決後の「秀吉の青木氏家臣説」で“「騒ぎとなった問題の責任」“を採って「四家の人事異動」をした。
そして、その後に引退していた「信定」と云う事に成る。
この「信定」は「新宮」に引きさがって2年後の1605年に没している。
とすると、1605年の「松阪面談」は、「青木氏の守護神と神明社-5」にも論じた「別の寺記録」から“「徳川氏との秘密会談」”を指していると思われるので、この会談が終わった直ぐ後に、「引退した事」に成る。
その年の内に「新宮」に戻り年末に没した事に成る。
そうする、この「逸話」に遺された「福家の人物」と「時期」と「場所」は、人物は「信定」で、時期は1603年で、場所は当然に「新宮」と成り、1605年の中頃(逸話の柿の行り)に新宮で家康と会い、その後の直ぐの“「呼び出し」”で、1605年に一度松阪に戻った事に成る。
その時に家康に面談した後に「四家の継承などの始末」をつけて「新宮」に再び帰って、その年の末の11月末に没した事に成る。

この「逸話」の内容を分析すると、上記の様に色々な「青木氏の行動の事」が詳細に判って来る。

この「逸話」の分析を続けると、次ぎの様に更に詳細が観えて来る。
先ず、「逸話」内の”「馬に紋付き袴の白装束」“には、特別な「皇位の慣習」であり、それには意味があって、先ず一つは「青木氏の家柄」を顕著に伝えている事に成る。
更に、この「逸話の行り」は、「青木氏の決定的将来」を決めた“「青木氏と徳川氏が面談した事」“を意味しているのであって、”「呼び出し」“とは成っている行りは、「新宮」から「松阪」に出て来るように表現した意味である。
この「逸話」には漢文的に”「三日」“の行りは、”「直ぐ後」“の事を意味する。
”「門前と書院の出来事」(伊勢館)“の行りの意味は、「面談の内容」を指し示す事に成る。
両氏の「氏と家の事」に付いて、話し合った事を意味している。
“「鉄砲と柿」”の行りは、手広い商いの「総合商社」と成っていた「二足草鞋策」を意味する。
これは明確に「青木氏の状況」を伝えている。
“「猟と民」”の行りは、南伊勢や南紀州が「旧領地や遠祖地」であった事を意味する。
“領地視察と鷹狩りを兼ねた形で巡視した”とする行りは、次ぎの様な事を意味していたと考えられる。
それは、「青木氏」が「悠久の歴史」を積み上げた“「賜姓五役のお役御免」”と、その“「社寺一切の財の権利移管」”、“「青木氏が建立した浄土宗寺の密教性の解除と寺引き渡し」”、「伊勢大和紀州域の土地権利の保全安堵」、等々の事に付いて面談した事が判る。
その後に、「事務的な話し合い」を続けた事が前段の「青木氏年譜」からも判る。
「寺記録」では、この時に「青木氏との血縁」に関する「秘密裏の話し合い」も持たれた事が表現されている。
恐らくは、これが「立葵紋の青木氏の事」に成った「話し合いの基」であったと観られる。
この時に、“「直近に決着を就け様としている問題(夏冬の陣)」“があるのに、「先の事ばかりを話し合う」”と云うのも可笑しなことで、「合力要請の話」は出ていた事は間違いはない。
“家臣が脅しをかけた道端“の行りは、「青木氏の氏是の姿勢」を物語っていて、何事にも動じず、媚びず、阿ず、晒さず、憚らず、の姿勢を毅然と持つ事を諭している。
「信定」没後の1年後の、1606年には“「伊勢談合」”とあるが、1605年の「松阪談合」の後続けられていた「話し合いの結果」が出たところを観て、「向後の事」に付いて、新旧合わせた「伊勢の一切の勢力」が集まって話し合ったと考えられる。
それが“「伊勢」“と云う表現に成ったと観られる。

筆者は、1605年の「松阪面談」には、伊勢を纏める事に付いても1年間を通じて事務方で話し合っていたと観られ、それが「伊勢談合」となったと考えられる。
その結果、「伊勢」を始として、「四家」も合わせて安定したと考えられ、「新四家福家体制」で「青木氏」は進んだと観える。
其れが、「1607年の表現」と成っていると考えられる。

「一つの逸話」は、その「氏家の事柄」を「物語風」にして「口伝」で伝える「古来の手段」として観れば、そこにその「氏の前後の歴史観」を加えて解釈すれば、この様に、紐解く事が出来る重要な手段と成り得るのである。

注釈 そもそも、「青木氏」は、“家康と伊勢松阪で会った事“は、初めてではない。
「夏の陣」の名古屋で、秀忠を待機中に、「青木氏に対して合力の打診」をしている。
この事は「青木氏年譜」にもあり、「伊勢衆」と談合して、「合力」とその「内容」を決めて、その答を「次の福家」は「家康」と名古屋城で直接面談して伝えている。
この事に付いての外部記録もある。
「家康との面談」が二度もあると云う事は、夏の陣で、書状で「合力要請」が在ったと云う事は、その前に「面識」が在って、“それなりの誼を通じていた事”を意味し、「二度目の書状」で済ませる事が出来たと考えられる。
「向後の青木氏の立場」のみならず、“直近に起こる決戦の合力”に付いても打ち合わされた事が読み取れる。

筆者は、全ての「口伝」は、その意味で、“その氏が自らの「氏家の事」の為に自らが証明する事が出来るもの”として重視している。
しかし、この「逸話」などの「口伝」等は、現代社会では兎角消えがちである。

この「江戸期の逸話」には、未だ続きがあって、これを紐解けば、更に、「青木氏の伝統」や「先祖の生き様」が未だ浮かび上がって来るのである。
“「昔の伝統」”を適格に伝える手段で見逃してはならない「四家の伝統」であったのだ。
この「逸話」は、「青木氏の守護神と神明社」等の論文にも記したが、敢えて、「四家の伝統」として「重要な史実」を掘り起こせる事としてここに記した。
「本逸話」の『24までの行り』ももっと掘り起こせば、先祖が「逸話に託した事」が読み起こせるかも知れない。

上記した戦略上では、「北畠氏」にしろ「伊賀氏」にしろ「青木氏」や「伊勢衆」に執ってしてみれば、あくまでも、「伊勢の混乱」を誘引した「招かざる北畠氏」「旧領を奪われた氏」とすると、仮に多少の「付き合い」は合ったにせよ、「命」を賭してまでの「相手」では無く、“「義理立て」の範囲”程度であった。
あるところでは引くべきが「本道」の「基本戦略」であった事から、「当初の戦略上」に則り、「紀州の遠祖地」に引いた事なのである。

この「青木氏」に遺されている幾つかの「青木氏逸話」と「青木氏年譜]と「青木氏遺資料」を組み合わせる観ると、「逸話」は「逸話」で無く成る。
これは明らかな「青木氏史実」である。
つまり、この「逸話」のある処には、年譜は兎も角も、それを物語る何らかの「青木氏遺資料」も不思議にあり、「青木氏の生き様」が観えて来るのだ。
「青木氏」も例外では無かった。
当初、この事に気が付かなかった。”ただある所に在る”と云うものでは無く、「青木氏」の場合だと、「二つの伊勢青木氏」に関係の深かった「郷士衆の家」に在る事が多かった。
これは、「氏家制度」或は「四家制度」と「郷士制度」と「部による職能制度」云う組織形態が確立していた証拠であろう。
長い間には災難があって概要は何とか遺せてもそれを証明する資料となると難しい。
それを”互いに組織を通じて都度やり取りする事”があるから遺資料などとして遺せたのであろう。
「青木氏には職能の独特の家紋制度」を採っていたので判るのだが、手付かずの職能集団の「部人の家筋」には未だ『重要な遺資料」が眠っていると観られる。
「職人集団の独特の逸話や口伝」があると観られる。
これを研究すれば、まだまだ「青木氏」を掘り起こせるだろう。
取り分け、「横の関係」が詳しく観えて来るかも知れない。
現在では、これらの「逸話」から”他の地域の青木氏の生き様”も予測する事には成るが、これを具現化出来るかも知れない。
他の地域の「逸話」も集めてはいるが、「史実の年数」が掴めなくてなかなか難しくて具現化までに至っていない。

同じく、この直前と観られる“「伊勢衆合」”とあるのは、「青木氏」等を含む「伊勢者」を集めて密かに「氏郷」が「伊賀の乱収束後の戦略」を打ち合わせていた事を物語るのではないと観られる。
当初の戦略上に則り、「本領安堵」に向けた「お膳立てとその内容」を打ち合わせたと観られる。
其れが、一度目の“「新宮避難」”(二度目は逸話の行り)と云う形に成ったと考えられるが、ところが「本能寺の変」が起こって、度重ねた「談合」“の「戦略の狂い」がここで狂ったのではないかと観られる。
それが「秀吉との絡み」で「青木氏の内部」で問題と成って騒ぎが起こった事も読み取れる。

つまり、「伊勢」に執って、“「秀吉に対する協力体制の如何」“で「意見の違い」が「四家」の中で起こったと観られる。
この「青木氏年譜」から「青木氏」には「明智光秀の賛否」は当初からなかった事を物語っている。
結局は、「伊勢収束」後に、「本領安堵」によって、上記する様な「秀吉」に依る「青木氏家臣騒動」が起こって、「青木氏内部」でも混乱していた。
丁度、その時に、「氏郷」が「奥州転封」(1590年)にて「青木内部」がより不安が広がった事に成っている様子が観える。
この様に「同族の氏郷の存在」が、「二つの青木氏」の“「内部の重石」”に成っていた事が観える。
結果、「関ヶ原」(1600年)で「青木氏内部の混乱」が収束し、逆に、「関ヶ原」や「冬夏の陣」で、“軍需に依る「商い」”が繁盛し上向いた事も判る。
それと共に、その時の「福家」(信定)が病没(1605年)して、「四家方式」で「組織の入れ替え」が起こった。
この為か、「新しい態勢」で「四家内部の結束」が戻った事が判る。

「近江の混乱」と書かれているが、これは「蒲生氏の氏郷の跡目の問題」(1600年)で近江が混乱状態(忠元の親の里)に陥っていた事が、「二つの青木氏」にも計り知れない「大きな影響」を与えていた事が判る。
既に、この時は、縁者でもあり、“「青木氏」を救ってもらったとする感謝の念”と共に、「氏郷」が「奥州に転封後」であったが、「近江伊勢の商い」(摂津店)での影響等も含めて、「商業関係のつながり」にもそれが「大きな憂い」と成って居た事を示している。

(注釈 秀吉が「蒲生氏郷の才覚」に嫉妬して遠ざけたとする説もあり、これを見抜かれない様に伊勢より知行を倍増、実態は約4倍にして転封したとする説もある。
この事は充分にあり得る事で、「二つの青木氏」ではこれで騒いだ事も考えられる。
「氏郷の恩義」だけでは、この「青木氏年譜」に描かないであろうし、「談合」と云う手段を重ねないであろう。
これは「家臣説」も含めて「秀吉に対する憤懣」が、「伊勢シンジケート」の内部も含めて起こっていた事を示すものであろう。)

これには、「豊臣-徳川の勢力図」が一挙に変わり、先の起こり得る「夏冬の陣」の混乱も見据えて、可成りに「青木氏の混乱」があった事が判る。
親睦な「伊勢シンジケート」などからの「突き上げ」が在って、“「北部談」”とあって「談合」を重ねていた様子があり、未だ混乱して居た事が読み取れる。
現実に、散会していた「伊賀のゲリラ衆」が城を一時的に奪還した記録が外部の別の記録で記録されている。
この事から、「青木氏」の「伊賀一部の本領安堵を受けた北部域」では、未だ騒がしく成って居た事から、「伊賀北部の郷士」等と談合を成されていた事が判る。
こんな中で、結局、「氏郷の恩義」に従って、「豊臣側に陣するかの問題」が提起されていた事も判り、「冬夏の陣」の前に、結局、「徳川氏に合力する談合」が成されている。
「外部記録」では、上記した様に、「家康」が名古屋にて「伊勢衆」に「合力の打診」が成され、この為に、三か月も答えをしなかった事が記録されている。
「青木氏年譜」の“「四日市談」”の意味が、何を意味しているのかは良くは分からないが、恐らくは、「南域の北畠」と「北域の伊賀」と「東域の長嶋」には、「外部記録」には観られない“不穏な「ゲリラ戦」”が未だ多く各地で散発していたのではないと考えられる。
それを「伊勢四衆」が集まって”どうするかの談合”をしていた事を意味していると考えられる。
ここには、“「紙屋」”とだけ「添え書き」されている。

この事から、「四家」の「四日市殿」が「仲介」で、「紙屋長兵衛」と「秀郷流青木氏の忠元」と「徳川氏との談合」が密かに事前に成されていた事も考えられる。
「徳川氏合力」に向けて未だ「不安定な伊勢域」の事も踏まえて答えの出せない「伊勢域」では、「合力」そのものも合わせて、“どの様な形の合力”をするかを苦慮して「談合」が行われたとも観られる。
「四日市談」と云う事は、「四日市殿」とは江戸期直前に新しく加えられた「四家」の一つであり、「忠元家の青木氏」と「信定家の青木氏」との「融合族」ではある。
この「四日市殿」が「談」と有るので、“何か話を持ち込んで来た事”を意味するとして、「忠元の青木氏」から「四日市殿」に「仲介の話」と成ろう。
その話は、「武蔵入間宗家の青木氏」からの話と成れば、当然に「関東の徳川氏」からの話を仲介した事に成る。
この「四日市殿の仲介話」は、当然に、「冬夏の決着」に向けての合力を「二つの青木氏」に通した事であり、「伊勢域の郷士」、つまり、「伊勢シンジケートの合力」を調略して来た事に成る。
この時期にも、散発的に「ゲリラ戦」が伊勢-紀州-河内域でまだ続いていたと成れば、「伊勢シンジケート」は、未だ、納得していなかった事に成る。

1583年に「北部談異変」。1583年に「四日市談」。1584年に「伊勢解決」。と「青木氏年譜」の記録にあるのは、「伊勢シンジケート」を最終的に納得させて、それを纏めて「合力」は定まった事を物語る。
現実に、それ以後、散発していた「ゲリラ戦」は「外部記録」では出て来ない事から収束している事に成る。
「冬夏の陣」に向けて、「北畠氏、伊賀氏、伊藤氏」の三氏傘下にあった郷士等は、「伊勢の一連の戦い」で各地に散会していたが、再び結集して、「伊勢シンジケート」の保護下に加わり、”再構築した”事を物語る事に成る。
この為に「ゲリラ戦」が収まった事のみならず、「統制のとれた環境」が伊勢に生まれた事に成る。
つまり、この談合は、詰まり処は、この「結集」と「合力」の話であった事に成る。
従って、「青木氏年譜」に“「伊勢解決」”とあるのはこの事を意味しているのであろう。
この解決に要した期間は、”「北部談異変」”から”「伊勢解決」”までに凡そ10か月程度、「話し合い」に入ってから三か月以上が掛かった事に成る。
結局、「夏の陣」には、本譜でも、「伊勢シンジケートを動かす談合」をしていて、「伊勢青木氏」の「別のある書」には、「伊勢路」と「大阪と伊勢間」の「沿道の警備」と、「食糧の準備」と、「傭員250人」で合力する事を決定している。
この「決定事項」に付いて、「松阪」で家康代理人と面談していて、それを代理人が家康に伝えた事が外部記録に記述されている。
そして、その後に、「四家の福家」と「伊勢秀郷流青木氏の者」(名は不明)が、上記した様に、この「決定事項」を以って「家康と二度目の面談」を「名古屋の館」(城とは書いていない)でした事に成っている。

注釈として、 「城」では、「家康の勢力図の武の傘下」に入った事に成るし、「青木氏氏是」に依って「武の戦い」は表向き出来ないし、「家柄官位官職」などは「徳川氏より上位」で、衆目上は「権威の象徴」である事から「徳川氏の段取り」として、配慮として「城」では無く『館』を選んだ事に成る。
記載されている「合力内容」も、見事に「戦いの範囲」を超えていない事が判る。
そもそも、道理から観てこの様な「合力の差配」は「談合」以外には上手く収まらないであろう。
この「青木氏」に対して、「二度の面談の徳川氏の配慮」が際立って観える。
この辺から、“「松坂面談」“を期に、「青木氏側」は、「徳川氏」に対して心底から傾注して行く様子が伺える様に観える。
「松阪面談」と、この上記の「天正期逸話」には、“江戸期に入る青木氏の立ち位置”が、明確に物語っている。

筆者は、「1605年の松坂面談」には、上記した事だけでは無く、可成り「人間的な信頼感」が相互に生まれたと観ている。
「青木氏」に執っては、“「第二期の皇親政治の到来」”とまで心勇んだのではないかと考えている。
現実に直接的に政治に関わる事は無くしても経済的な関わりを含めて間接的に大いに関わった。
中には「享保の改革」や「紀州藩の勘定方を指導」するなど「吉宗の親代わり」で育てた等その様に成って行くのである。

この「紀州藩への関り」に付いては、「逸話や口伝」が多くある。
「逸話や口伝」を、”敢えて恣意的に遺したものではない”と思われる。
恐らくは、「四家の福家」が恣意的に遺したのではなく、「四家の周囲や家人や郷士衆や部人衆」の間に「話の話題」として上り、”それが何時しか「物語風」に伝えられ始めた”とするのが「話の本道」と観られる。
それは、「四家に遺る逸話口伝」と、「家人の家に遺る逸話口伝」と、「郷士衆の家に遺る口伝逸話」と「部人の家」に遺されたものが、その意味するところが不思議に余り違わない事がそれを証明している。
作り上げられたものと云うよりは、何時しか家に伝わる「話の話題」が、「四家」や「家人」や「郷士衆」や「部人衆」の「家伝や家柄」を示すものとして自然に出来上がっていったと観られる。
普通はこの家柄などを誇張する手段とする場合は、[誇張や虚偽」が「逸話口伝」に兎角、目立つ。
これが目立たないのは、「四家、家人、郷士衆、^部人衆」との間柄が大正期まではっきりとしていた事から誇張や虚偽は出来なかったと観られる。
むしろ、「郷士衆の逸話口伝の話題」には、「射和商人の事」を始めとして「青木氏との関わり」を遺している事が目立つ。
上記した様に、「郷士衆の家」から発見された史実には、上記した様に「紙産業の殖産拡大」や「農業の改革」や「養蚕業の育成」の事が四家の逸話口伝を証明するかのように多く遺されていた。

「逸話口伝」と関わりのある事を更に分析を続ける。
そこで何はともあれ、この「関わりの決定的な証拠」は、“「立葵紋の青木氏の発祥」”が、これを大きく物語っている。
この事一つで、“「青木氏の全ての立ち位置」”を大きく換えたとも云える。

(前段の「伝統」で「立葵紋の青木氏の事」を論じているので詳しくは参照)

ただ、この様に「文章表現」にも、「外部記録」とは相違も観られるが、何も「外部記録」だけで「青木氏」を証明する必要は無く、「青木氏」に其れなりのものを持ち合わせていれば、「青木氏」に執っては意味を持つ。
大方は、「伊勢」と「青木氏」から観た表現と成ってはいるが、「青木氏の歴史観」をもっと伴わせれば、更なる「逸話の様な事」も持ち込んで、検証すれば史実を掘り起こせる事が出来ると感じられる。
「無形の伝統」を論じる場合、「青木氏」は「密教」であった事もあり、ただ一つ遺された「賜姓族」であった事もあり、ただ一つの「古代浄土宗」であった事もあり、そこに「生まれた伝統」には、「青木氏」自らが証明しなければならない「宿命」を持っている。
他氏にはない絶対に無い事のみならず理解されにくい事の”「青木氏だけの伝統」”でもある。
そこで、少し戻って、「青木氏年譜」から、更にこの”「青木氏だけの伝統」”を甦らせて試る。

「織田信長」との「面談による話し合い」と観られるのは、“「伊勢和合」”の表現と成っている。
“「伊勢」”と表現しているのは、「二つの青木氏」(信定と忠元)が、「伊勢衆」を含む「郷士集団」を代表しての事と観られる。
この時、「信長」と直接会ったか、その場所等は外部記録では不明記である。
しかし、場所は、“「寺修復」”の事で裏付けられる様に、”「伊勢菩提寺」”で会った事までは、この「青木氏年譜」でも、「寺資料」からも辿れるが、「信長本人」が出て来たかは今は辿れないので判らない。

もう一つは、「松阪の菩提寺」であろうとは思うが、「津市の分寺」の寺かは今は判らない。
状況からは、”「修理」”は両方であろうが、「信長面談の場所」は「松阪の菩提寺」であった事が頷ける。
この“「寺修復」”は、「信長の伊勢三乱」で“ある程度に焼き討ち等で攻撃された事”を意味している。
然し、筆者は、「有名な激しい殺戮戦」を受けた”「攻撃された避難民」”が、この「二つの寺」に「救い]を求めて逃げ込んだと観ている。
ある程度の「ゲリラの背後関係」が疑われていた事が読み取れるが、外部記録を参考にして、“「村人3000人が殺戮された」“とする記録もある事から、織田軍の激しい追跡で「ゲリラ」や「村人」が、遂には、「青木氏菩提寺」に逃げ込んだ事もあったと観られる。
それは、「青木氏の菩提寺」には、「蒲生氏郷」もいる事でもあるし、その「親族の伊勢青木」もいる事でもあるし、「信長」はある程度は「他の寺」よりも、”危害を加えないだろう”と云う「不入不倫の権」の「古来からの風聞」もあった事が影響して、追われた民は逃げ込んだのであろう。
「信長の激しい殺戮」は、「村人3000人」とすると、「6村」に値し、「1郡」に相当する。

そもそも、国は「5郡」程度と成っているから、事実とすると、例え様も無い凄い殺戮であった事に成る。
織田軍も不意を突かれて6000人が死んだと記録されている。
「総大将の信雄」も討ち死に仕掛けたと記録されている。
悉く「寺」は焼かれ、記録では僧侶は700人死んだと成っている。
この数字からは、「伊勢の殆どの寺」が焼かれた事に成る。
「生き残った村人や兵士の者」が、この「青木氏の菩提氏の寺」に逃げ込んだことを意味していて、そこを焼き払い、燻し出して出て来るものは悉く討ち取られた事に成る。

僧侶700人と成れば、古来の村郡国は4から5の構成から成り立っていた事から、最大で125村に成り、そこに寺が1村2寺とすると250寺、そこに僧侶が平均4人とすると、7割は殺戮された事に成り、「青木氏菩提寺」に逃げ込んで来る可能性は当然の事として10割と成るだろう。
「伊勢の寺」の「殆どの寺」は焼かれた事に成る。
この事から、奈良期から「不倫の権」で護られていた「青木氏菩提寺」を知っていた民衆や兵士は逃げ惑い乍らも護られると観て逃げ込んで来た事は間違いはない。
「青木氏菩提寺」は、上記した様に悠久の「不倫の権」にあった為に、「信長」でも手は出さないだろうとする「安心感」があったし、「ゲリラ戦」であった事から外に出ない「青木氏」には手を出さないだろうとする信頼も在った。
唯、「攻める事」はしなくても、“火を放って炙りだそうと脅しをかけた”事は否めない。
幸い記録から、「寺内の殺戮」は無かった事が寺資料から判る。

「伊勢の五戦」での「伊勢側での犠牲者」は、「村人3000人、寺関係者等700人」程度等となる。
これは、当時の村単位500人を前提とすると、何と伊勢北部人口の一割以上に相当するとすると、どれだけ「村人」は逃げ迷ったかは良く判る。
因みに織田側で、全体で兵士6500人程度の戦死者を出している。
最早、これは「ゲリラ戦」と云えども、両者は「戦い」から「殺戮修羅」に成っていた事を物語る。
つまり、「青木氏」が我慢しきれないで「表」に出る可能性のある“際どい戦い”に成っていた事を「青木氏年譜」からでも物語る。
普通なら表に出て仕舞っていただろう。
然し、「青木氏の氏是」がこれを押し込んだ。

「四家」にしても、「織田側」にしても、“何処かで終止符を打つべき時を見つけねばならない“とする考えはあって、「四家」でも議論に成っていた事が「青木氏年譜」でも判る。
結局は、「四家」では、そこで、強硬派を押えて「秀吉-氏郷の斡旋仲介」を試みたと考えられる。
その時期が、「北畠氏-伊藤氏-伊賀氏」と続いた「伊勢の最後の態勢」が決まる「伊賀の戦い」(1581年)のその時と観ていた事が判る。
兎に角iも、会う所の「場所設定」をした事に成るだろう。
その為にも「青木氏部」で「自ら修復した事」が判るし、“「寺修復」すると云う事”は、どんな形にしろ「信長」が来ると云う事も物語っている。
この事は、研究中であるが、「影のゲリラ戦」で応戦した「青木氏」であり、「直接敵対した相手」では無い事から、「第三次」と云われる「伊賀の乱」の終了後の1581年10月9日に、「信長」は現実に伊勢に入国して視察している。
この時に、「秀郷」と共に今後の「伊勢平定」で会っている可能性が充分に有る。
その意味では、“顔を出す程度”であった可能性が有る。
戦略的にはこれで良かったのであってそれ以外には無いだろう。
「伊勢の戦い」で「二つの青木氏」が直接会う大義が「ゲリラ戦」である以上は無い。
従って、「青木氏年譜」から観て、前後に何らかの「伊勢の談合」を繰り返している事から、「代理の可能性」が高く、「蒲生氏郷」に任して代理と成った可能性が読み取れる。
「ゲリラ戦」であった事は明明白白なので、その事から考えてそれ以上は、「信長の主戦者」はいない事に成ろう。

そこで、”「伊勢衆」”で主に構成している「伊勢シンジケート」に発言力を持つ「二つの青木氏」と会って、「会合と云う形」で間接的に話を着けようとした事が「青木氏年譜」の談合の様子で判る。
「事の次第」を治める為に談じる事を「談合」とすると、「談合」では無く「会合」であった筈である。
「信長」気に入りの同族の「蒲生氏郷」が全て自然に取り計らっていた事は云うまでも無いからだ。
当然に従って、「蒲生氏郷」に「青木氏の結論話し」を廻す事が必要と成る事からも、この時期、事前事後に、度々、「伊勢シンジケート」と談合している。

「伊賀の乱」は、外部資料では、「三次の乱」(伊賀城、比自山城、柏原城)であるが、最後の1581年末の「柏原城攻め」では、「伊勢域全体のゲリラ戦力」で「蒲生氏郷」は虚を突かれて苦戦するも、滝川氏に助けられ、何とか一応は形の上で解決した事が記録されている。
しかし、これを以って「伊勢周辺の戦い」は兎に角は収束に向かうが、その後も「ゲリラ戦の混乱」が散発的に続いていた事が「青木氏年譜」からも判る。
外部記録では第三次では終わっているが、更に戦いは続いている事も判る。
「ゲリラ戦」による「外部記録の柏原奪還戦」からも一致している事が判るので、この事からも、「信長の徹底戦法」とは異なる故に、「蒲生氏郷」であった事が伺える。
この時に、この「伊勢の指揮官」であったのは「近江蒲生氏郷」であって、「毛利攻め」の為にも、“「伊勢」“を兎も角も安定させる意味でも、「ゲリラ戦」を指揮していた「二つの青木氏」が仕掛ける「信長の影の背後脅威」をも取り除く意味でも、「二つの青木氏」の「縁籍族」の「蒲生氏郷」が最も“談合に最適な人物”として代理したと観られる。
「信長」除いてこの「氏郷」以外には代理は務まらない。
「外部記録」に載っていない事、“「四日市談」”や“「伊勢談合」”等が記録されていて、当時の「伊勢の状況」が読み取れる。

(注釈 「外部記録」が全て正しいとしての推理で理解される方もおられるが、筆者は、「外部記録」の論説は、「我田引水の論調説」が多いと観ていて、それを恣意的に通説化して正当化している傾向が強いと感じている。)

本論の様に、「内部資料」から観てみると、「外部記録」には矛盾が目立つ事が云える。
特に、室町期末期から江戸中期までの資料は、幕府が容認する姿勢を見せている様に、権威確立の政治上の配慮から“「搾取偏纂」”が殆どであり、歴間で突き詰めると矛盾が浮き出る。
通常は、その「外部記録」や「資料」の「信頼性」を100としての論調が殆どだが、まじめな論説者は“「後勘に問う」”としている。

(注釈 一方の「外部資料」による第三次とする「伊賀攻め」には、一方では、“信長は、「伊賀氏の大将」を「武にある者」は斯くあるべしとして務めたものを誉めそやし許した”として、自説に肯定的に都合よく偏纂している。
しかし、全く同じ場面を、他方の「外部記録」は、“信長は、村人を含む数千人を皆殺しにした”として、「伊賀氏」を全滅にしたと否定している。
伊賀氏のみならず「長嶋の戦い」も同じ偏纂が起こっている。)

(注釈 そもそも、「本願寺石山城外のゲリラ戦」との区別がつかなかった事からの、「伊勢の悲惨な戦い」と成ったと観られる。)
(注釈 敵対した「三氏殲滅」の「信長の戦い方」は、“誰が敵で味方か判らない「二つのゲリラ戦」の混合であった”為に、敵味方共に全滅に期した事は確かで、後者は正しいのだが、この様に、歴史家の自説を通説化する為の偏纂が目立つ。)
(注釈 幸い、「青木氏」には、他氏と異なり、何とか搔き集めた「自己資料」も何とか遺されているので、「外部資料との差異」を具に発見できる。依って、「恣意的、故意的な通説化」が見抜けるが、況や、これらの「青木氏年譜」をも踏まえての「本論の論調」と成っている。)
(注釈 信長自身が「毛利攻め直前」で「武田氏」を滅ぼしたが、未だ「伊勢の事」を放置して「高松攻め」には移動しなかった筈で、この時を境に「当面の打開策」は見出せたと観られる。 しかし、「本能寺の変」(“・「美濃騒動」”)が起こって一時中断し、その後に「氏郷」に「伊勢の収集整理」を任したと成る。「青木氏年譜」の“「美濃騒動」”の表現としたのは、「氏郷の父」が「美濃の守備隊」であった事から間接表現としたと観られる。)

その後の変の後に、この「面談事」が下で、「権威」のみならず、その「絶大な影の力」をも、「秀吉自信」が取り込み、“ 青木氏と関係ある豊臣家”として誇張して、実のところは、“青木氏族の形で取り込もうとした行為“であって、遂のところは、「本領安堵」を根拠に「秀吉の青木氏家臣説と親族説」の元と成ったと考えられる。

(注釈 それを、後刻、“「秀吉」“を信望する歴史家が、「青木氏」が反対しない事を知った上で、所謂、上記した矛盾を多く含む「福井逃避説」等を編み出して、「自説」を正当化する為に歪曲して、世間に「通説化」を成し遂げたものであろう。
「青木氏」からすると、明らかに「歪曲の搾取偏纂」である。)

そこで、話を戻して、これらに反論する意味でも、「青木氏の立場」をもう少し検証して観る。

「青木氏の立場の検証」
つまり、これらの長期戦化した“「ゲリラ戦」”では、四家の”「5つの面 20の顔」”がある事に依って、相手から観れば、”誰が敵かが判らない”と云う事が起こっていた。
「信長側」では、「本願寺城外のゲリラ戦」か、影で図らう「青木氏のゲリラ戦」のどちらの敵であるのかは判らなかった筈であり、この「周囲の影響」を受けて長期戦に落ち至っていた。
「信長側」では、1580年に「顕如」が和睦を認めたにも関わらず、納まる筈の「ゲリラ戦」が続く事に疑問を持っていた事に成る。

(「外部記録」は一つにして論じている。ここにも「人時場所)の「矛盾」が出ている。)

この時、丁度、「石山本願寺との戦い」が城外戦化して起こっていて、周囲では、「一揆」も頻発して、「石山一揆」(1580年-1581年)なのか、「伊勢衆の反撃」なのか、「紀州衆の反抗」なのか混在して、まさしく”誰が敵なのか”は、「信長側」では判らなくなっていたと観られる。

(注釈 外部記録から観ると、何れ「ゲリラ」なのかは判別が就かない証拠として、織田側は、「寺僧侶の皆殺し」や「ゲリラ村の村民を皆殺し」にする等の殺戮を繰り返している。
1562年から1584年までの12年間、特に後半には焦りから激しさを増した。本願寺の顕如が抵抗を止めた結果、これらの全ての「ゲリラ戦」がぴったと止んだかの様に記載されているが、青木氏等の多くの記録では、実際は散発して長く続いていたのである。)

「青木氏」の「伊勢シンジケート」は、然りとても、「ゲリラ戦」を有効的にする為に、多くの資料から「紀州-伊勢の石山一揆」と連動させていたと考えられ、内部で内通していたと考えられる。

(注釈 歴史上では、“石山から「檄文」が紀州の「農民信徒集団」に発せられている史実”が見つかっていて、この存在も無視した「外部記録」となっている。紀州の「三つの傭兵軍団」はこの「檄文」に参応して動いている。
「外部記録の編者の歴史家」が、この「檄文の存在」を知っていれば、「外部記録の様な通説化」の論説には絶対に成らない事に成る。)

その証拠と成るものを探索した結果、偶然に遺された「商業記録」の一部には、この時期の「堺店」での「船の動き」があって、それが少し状況から観て変である。
そこで、当時の事の背景を検証して観ると、「青木氏」としては、「河内のシンジケート」と「ゲリラ戦」で連携しょうとすれば、陸では「信長軍の独断上」であり、そうすると、当然に「山間部」を「ゲリラ戦」では使う事に成る。
そうすると、「織田軍の秀吉」はこの「山間部のゲリラ戦」を突破して「物資の供給」をしなくては成り立たない。
そうすると、南北朝の足利軍と楠木正成の戦いで、足利軍の10万の中で、この山間部のゲリラ戦で食糧不足に陥り2万の軍勢が餓死寸前と成った戦歴もある。
「織田軍」は、この戦歴を知っていて油断は出来ない。
其れには、「陸」は無理であるとすれば、「船」を使う以外には無い。

中部の「今宮シンジケート」は「陸のシンシンジケート」、「河内シンジケート」も「陸のシンジケート」、そこで、唯一、「港と船」を重要拠点に持つのは「伊勢シンジケート」と成る。
この「堺港の不思議な船の動き」は、この事から来ていると観られる。
寄港していた「紀州中部の漁港」は、未だ信長の勢力外で、「伊勢青木氏」の「家人の定住地」にも成る。
「秀吉の紀州征伐」が1584年に行われて形式上は一応収拾がついているが、伊賀では残存兵が集まり未だ遺っていた。
この深い下津港のリアス式港に大船は入れられる。
現在は石油コンビナートの港にも成っている位である。
ここは、紀州北部の中間地の沿岸道からの「熊野古道の入り口」でもある。
ここから紀伊山脈の山岳部に入れる。(高野山にも入山可能な港)
上記した様に、「石山本願寺城外」の「ゲリラ戦」に「浄土真宗の座主の顕如」は、紀州伊勢領域の農民信徒に“「檄文」“を飛ばしているが、この事から、「信長」に対抗する「河内の土豪集団」の「河内シンジケート」は、ここからであれば、この紀州河内一揆に援護が出来る。

(最初、「河内シンジケート」は、取り分け「傭兵鉄砲集団で雑賀忍者族」等は、上記した様に、「秀吉の仲介」で信長と仲が良かったが、「石山本願寺攻め」等の事からの「路線の違い」から、反抗した。その後最終戦を行い討伐される。)

これが、「伊勢青木氏」が「堺支店」のここで連携を採っていたと観られる資料である。

しかし、そもそも「今宮シンジケート」は、戦略上、「秀吉」を強力に援護している事から、情報が漏れる恐れがある。
「伊勢青木氏」は、「今宮シンジケート」との連携には、秀吉が絡んでいる事は承知していたので、その「動き」には注意を払わなくてはならない筈であり、現実には難しく、連携には、それを示す証拠類は全く見つかっていないし、「青木氏年譜」にも出て来ない。
「今宮シンジケート」は、郷士土豪などの「武の集団」を使っての行動する集団では無く、「神社系の組織」を主に使って、「土地の氏子集団」と関連の縁故から、「情報」や「斡旋」を裏ルートで行う「シンジケート」である。
一方、「青木氏」に執っては、全国レベルの500社にもなる日本最大の「神明社と云う直接集団」のみならず、直接的な連携の「武の土豪や郷士との連携」を持っていて、「経済的な連携」も直接に持つ総合的な「シンジケート」であった。
又、更に広域的にも、「信濃青木氏」と連携する「伊勢シンジケート」であった事や、「甲斐青木氏との繋がり」を持っていた事から、紀州を通して伊勢から東域の横にその「シンジケート網の勢力図」を構築していた。
従って、「今宮シンジケートの情報と斡旋」は全く必要としていなかったのである。
むしろ、一部に食い込んでいた範囲であった。

この様な「背景」の事から、連携はしていなかったと観られる。
見つからないのは、そもそも、「シンジケートのゲリラ戦」は「秘匿」を前提としているので見つかり難い。
「今宮シンジケート」は、紀州の「鉄砲製造族で傭兵軍団の雑賀族」や「山岳ゲリラ戦の傭兵軍団の根来族」や「柳生傭兵集団」や「甲賀傭兵軍団」等の傭兵軍団とは、「情報提供」や「斡旋」等の連携を採って居た事は資料から見つかっている。
だとすると、「伊勢青木氏」が背後から「ゲリラ戦」で「山間部」より攻撃を行うには、どうするか問題である。

それには極めて効果的な方法がある。
それは、「伊勢秀郷流青木氏」(忠元)を通じて、「州浜紋、片喰紋、沢潟紋」の中部の「三つの秀郷一門」との連携を採る事が出来る。
「信長」が最も恐れていた「背後」の“「尾張三勢力」”である。
(織田軍の美濃守備隊」は「蒲生氏郷の父」)
“毛利討伐に遠征する信長”の“手薄と成った背後”を、この「尾張三勢力」で突けば簡単に落とされる事を懸念していた。

(注釈 現実に、織田側で議論している記録がある。
「美濃岐阜」は、「蒲生氏郷の父親」(賢秀)が護っていた。
それだけに「伊勢の指揮官の氏郷」に執っては「気に成る勢力」で、その勢力は「秀郷一門の同門の有力三氏」である。
もし、背後を突かれた場合は、「一族争いの悲惨な戦い」と成る。
その意味で、親族の「伊勢の忠元」の出方が気に成る。
先ずは、絶対に刺激しない方が得策である。「信長」も同じ意見であった。)

幸い「今宮シンジケート」は、“「神社系統」を使ったシンジケート”で、「シンジケート」を維持するには、先ずは「経済力」である。
その連携に必要とする「経済力」は「今宮シンジケート」には元より無かった。
依って、その「シンジケートの主力」は直接、「武の土豪集団」を配下にしていない為に、「ゲリラ戦での影の武力」を使う事より、各地の「土豪や傭兵集団」への「諜報活動を主力」としていたのである。
一種の「裏の斡旋業」であった。
「河内」と「今宮」は、「裏の斡旋業」のその意味で、「直接的な連携」は「武」で無い事とすれば、「青木氏」に執っては、これは下式の関係構築には都合は良かった。

「河内シンジケート」←「伊勢シンジケート」→「尾張の三勢力」

依って、「青木氏面談」に応じたのは、「信長」が、「伊勢-河内のゲリラ戦」を操る「伊勢青木氏」(「伊勢青木信定」)は元より、下記した様に、「伊勢秀郷流青木氏」を直接攻めなかった。
なのに、「伊勢青木忠元」との“「両者の面談」”に応じたのは、「信長の背後」で、「青木忠元」が「中部の三氏」を操るこの事に在った。
故に、「秀吉斡旋」(蒲生氏郷が仕切る)の「二名の面談」が起こったのであった。
「商業取引」からの記録としては、この事に付いての行動は「紀州の中部の漁港」に数度に寄港している事にあった。
「伊勢青木氏の商い」は、「海鮮業」は営んでいない事から、「紙問屋」を主力とする「総合商社」としては、何でこの港に出向いたのか不思議である。
それが「伊勢の港」ではない「紀州水軍」のお膝元の紀州下津の極めて馴染みの無い無い港である。
そもそも、「伊勢」では、その動きは織田側に知られる。
「今宮シンジケート」から秀吉に情報が洩れ通じる事が起こる。
元より「シンジケート」に依る「ゲリラ戦」は、その「秘匿性」が主戦術である。
「伊勢」から離れた地元の「常港の堺」では、その「秘匿行為」を起こしてもそうは目立たない。
しかし、もし「堺」で「戦いの作戦上の事」は出来ない事があるとすると、後は、一揆への“「物資補給」”と成る。
それは、「紀州中部の漁港」とする事でも判る。
紀州の山隣の「河内シンジケート」との連携として考えれば、この「不思議な行動」は納得出来る。

問題は、秀吉と通じている「今宮シンジケート」との連携である。
同時期に「石山本願寺城外一揆」や「紀州伊勢の信徒動乱」が起こっている事から、「河内と伊勢のシンジケート」との連動が充分に在ったと観ている。
「秀吉」は「毛利攻め」の準備で忙しいが、この「戦況の情報」を「今宮シンジケート」から具に入手していたと観られる。

(注釈 信長を「毛利攻め」に引き出すには、伊勢と大阪と紀州一帯で起こっている背後を脅かされる「ゲリラ戦の解決」が必要であるが、「信長の過激な有岡城の問題」もあった。
況してや「武田氏」を掃討した直後(1582年3月)でもある。
「伊勢」も、否、社会も信長に批判的に成っていた筈である。
下手をすれば、「尾張三勢力」の「藤氏」に間違いなく背後を突かれる。そう簡単では無い事は充分に判る。)

その「シンジケート」との「内通の目的」は、「青木氏」に執っては、「四家」の「5つの面 20の顔」を使って、「織田軍の軍事品や食料品の調達」に関わり、「調達費の高騰」や「調達品の遅配」や「雑務夫の差配」などで撹乱して、長期戦に持ち込んで「織田軍の枯渇」を狙っていたのである。

(注釈 上記の五戦の内で、「丸山城の戦い」が、最も完全に「織田軍の枯渇」に成功したが、「長嶋の戦い」では「調達費の高騰」、「清蓮寺城戦い」では「雑務夫の差配」、「伊賀の戦い」では織田軍から「城の兵糧攻め」を受けた為に、「調達品の遅配」で応戦した。
然し、「影の戦い」は其れなりに成功している。従って「織田軍枯渇の状況」は当に進んでいた。)

(注釈 「織田軍」へは、「伊勢シンジケート」は「山岳部のゲリラ戦」や「夜間のゲリラ戦」で「疲労戦」を展開した。
結果として、何れも北畠、伊賀、長嶋も「長期戦」に持ち込み、何れもが「第一次、二次、三次の戦い」と成って長引かせた。
「織田軍」を苦しめ、「作戦の計画」が狂い、その影響で、「秀吉」が指揮する「毛利攻め」では「著しい狂い」が出て来た。
秀吉は焦った。何とか「武田氏」は解決したが、「伊勢域」が問題に成っていた。
以上の事柄が上記の「商い情報資料」からも読み取れる。)

「青木氏年譜」では、1582年中に「松阪修復」とあるが、その後に1582年に・「美濃騒動」とある。
「本能寺の変」の直前であり、一体何を意味しているのか疑問である。
年譜の「伊勢談合」の後である。
そもそも、「青木氏年譜」が「松阪の事」、つまり、「四家の事」に直接触れているのは珍しい。
年譜の「伊勢談合」の前に、「ゲリラ戦」も収束の方向にあり、シンジケート内部も納まりも付いて来た時期にあり、「話し合い」も就いた。
特筆する問題は表向きには見当たらない。
何か「伊勢シンジケート」からの「極秘の情報」が「松阪」に在って、「四家の福家」が対応策について考えていて、この時、丁度、「シンジケート」から「毛利の高松城支援の失敗(1582年5月/21日)情報」で、その「毛利勢力」に陰りが観えて、“「織田天下の様相」”が明確に成った事の「極秘情報」であったと観られる。
その直前には「伊勢談合」もあった事も合わせて考えると、“「反織田の方向」”に付いて修復、つまり、“「反織田」は中止する“を「伊勢衆と伊勢シンジケート」にも図った事が成功したと考えるとこの事は納得出来る。
この検証の問題は、高松城の状況を、逸早くどの様にして「情報」として入手したかの問題である。
放っておけば1ケ月くらいで入る情報であるが、後勘でみると、年譜からそんな時間は無かった筈で、急いで入手している。

これは、恐らくは、黒田氏からの情報であったと観ている。
黒田氏は青木氏守護神の近江神明社の住職の家柄で、近江佐々木氏の支流末裔であり、佐々木とは近江佐々木氏系青木氏があり、元を質せば兄弟の同族であった。故に神明社の親族であったのだが、この黒田氏も「御師」と云う立場から「諜報活動」をしていた事は黒田氏の記録史実から明らかである。
依って、「神明社」を通じて、「松坂の四家の福家」と「伊勢シンジケート」に、この「毛利の後退」で、“「信長天下の情報」”が逸早く入ったと観ている。
場合に依っては、「黒田氏」が「伊勢の懸念」が「毛利攻めの信長出陣」の妨げに成っている事を憂慮して、敢えて、「伊勢衆」との和解に動かす為に青木氏側に送った情報ではないかとも考えられる。
とすれば、「同じ情報」が信長側に届いていなければならない事に成る。“届いていた”と観る。
故に、「毛利攻め出陣」に対して「信長」が腰を上げた事に成る。
それで、総指揮官の「織田信雄」が討死に成りかけ、「蒲生氏郷」も全滅の直前に滝川一益に助けられると云う程に、双方に1万人の多くの死者を出す無理押しの「伊賀の激戦」と成ったと観ている。
そこで、残るは「背後の憂い」を無くする事を目的として、“「伊勢衆との面談」”と成ったと観ている。

(注釈 ところが、1ケ月後に光秀謀反の異常事態が発生した。
その前にも石山本願寺は毛利の支援の撹乱戦法化で反抗していたが、その「本願寺」そのものは、紀州域でゲリラ戦が散発していたが、ほぼ1年前に顕如と正式には1580年に敗戦講和していた。
つまり、大方の「勝負の方向性」が就いた事を意味する。)

この「ゲリラ戦の伊勢情報」を「秀吉」は、逸早く「今宮シンジケート」から入手していて、“戦況に危機感“を抱いていて、この侭では”「毛利攻め」“の発端を掴めないとして、「青木氏のゲリラ戦の深意」も「今宮シンジケートの情報」から掴めたところで、「伊勢の指揮官の蒲生氏郷」を通じて「青木氏との面談」の合策を先ずは果たし、遂には「信長面談」に持ち込む事に成功したものであると観られる。
恐らくは、この事で、「伊勢攻めの大将」の「蒲生氏郷との連携」を採った事が読み取れる。

(注釈 「蒲生氏郷」の「伊勢」は、1568年、1569年、1571年、1574年、1575年、1578年、1579年、1581年、1582年の「伊勢攻め」全てを任されている。
1583年の「賤ケ岳戦」後に、改めて「秀吉」より「伊勢」を任され、1588年には「松阪城完成」させるも、1590年に陸奥転封に成る。
1582信長没後に「蒲生氏郷」は「秀吉の配下」に入り「伊勢」を続けて任される。)

「秀吉の毛利攻め」と「氏郷の伊勢攻め」は、織田氏に執って戦略上は、「最大の相関関係」にあって、「秀吉」は「氏郷」と「交渉」を重ねていた。
その為に、「氏郷」は第三次の最後の「伊賀問題」の解決直前に、苦肉にも、敵としているも「相互血縁関係」(「氏郷の祖父」と「忠元の父」は兄弟の親族関係」)にあった「伊勢衆との談合」を何度も重ねていた事が「青木氏の年譜」からも判る。

この資料の解析から観て、丁度、この「四家制度」は、この様に、「ゲリラ撹乱戦法」と「伊勢シンジケート」と云う「特殊な抑止力の組織力」は元より、「青木氏」に“「網を被せた様な役目」”を果たしていた事に成っていた。
この為に「伊勢三乱の五戦」の戦いの「表の記録」には、「青木氏」は一切出て来ないのはこの事に依る。
しかし、マニアや小説家を含む「歴史家」の中には、この「裏記録」を持っていて、「青木氏」は出て来る。
これを調べると、伊勢域の土豪や郷士集団から成る「伊勢シンジケート」を通じての「手紙類」が遺されて、それが、所謂、「歴史家」の手に渡っている事から出て来ている。

(注釈 現在の「ネット社会」や「歴史マニア」なども含めて、この様な「裏記録」が「表記録」として研究材料に一際広がっている傾向があり、特に、戦国時代と江戸期中期までの資料が出て来る。
興味深い事で、取り分け、“搾取偏纂で通説化を謀った記録“には、「裏記録の真偽」を確認した上でのその「矛盾」が露出し始めている。
上記の「本願寺檄文」などは当にそれであろう。
「古の歴史家」が遺した資料には、この「恣意的な通説化」は行わず、必ず、“後勘に問う。“とする”正しい態度の発言“が徐々に動き始めた気がする。
ただ、この”「裏記録」が「表記録」に成らなければならない“とする「杓子定規な考え方」は残念ながら筆者は持たない。
それは本論であれば、”「青木氏の範囲」で留めればよい“し、それは、”「ロマンの範囲」で遺せれば良い“と考えている。
”より「歴史観」に富んだもの“で有って欲しいとするもので有る。
尚且つ、この事に付いて論じられる立場は、「青木氏」にだけしかない。
「青木氏」にしか出来ないであろう。
「青木氏」が黙ればその範囲で終わるが、それだけに幸いに「自らが持ち合わせている資料」との「突き合せ」にて、より真実に近い「先祖の生き様と伝統」を遺す事に意味を持っている。)

ところが「秀吉」だけは、「今宮シンジケート」から、「二つの青木氏の事」を情報入手して知っていた。
つまり、「織田軍」に執っては、そもそも、「青木氏」が前面に出て戦っている様には観えていなかったのである。
この様に「青木氏の戦い方」は、“「丸山城の戦い」”の例に観る様に、「四家の20の顔」と「伊勢シンジケート」を使っての徹底した「ゲリラ戦」であった事から、「織田側」では、見分ける事は全く出来なかった筈である。
何れにしても「織田側」では「不毛の敵」であった。

(注釈 「青木氏のゲリラ戦法」は、「青木氏の記録」から観ると、「僧侶・神職」、「楽師」、「郷士」、「商人」、「村主・豪農」、「職人・大工」で「織田側」と何らかの形で接している。
「青木氏の顔」は一切出て来ない。
「外部資料」では、「北畠氏、伊賀氏、伊藤氏、永嶋氏」の「伊勢四氏」に関わる「伊勢攻め」に出て来る人物は、「僧侶・神職」は二人、「楽師」は一人、「郷士」は三人、「村主」は一人、「豪農」は一人、「職人大工」は二集団、「四氏の家臣」は二人、以上の10人と二集団である。詳細は別途)

これらの内容は、外部資料から観ると、次ぎの三つに成る。

(イ)「談合、裏切り、仲介」
(ロ)「伝言、案内、敗戦処理」
(ハ)「商談、道案内、城修築」

以上の三つ内容に関わっている。

これらの人物は、「青木氏の資料」からは、次ぎの関係種に成る。

青木氏の「内部」の「20の顔の仮装人物」(A)
青木氏の「意向」で動いた「関係人物」(B)
青木氏の「関係」で働いた「郷氏・郷士」(C)

以上の三パターンに分けられる。

(A)は、「四家人物」
(B)は、「四家家人」
(C)は、「伊勢シンジケート」

以上で役割を演じていた事が判る。

外部資料には、次ぎの様に成っている。

「戦況」 (イ)  に関わった人物は、(C)の「伊勢シンジケート」
「準戦況」(ロ) に関わった人物は、(B)の「四家家人」
「戦備」 (ハ) に関わった人物は、(A)の「四家人物」

以上で、突き合せて観ると完全とはいかないが、以上の傾向であった事が読み取れる。

外部記録に出て来る(A)(B)(C)の人名は、内部記録にある「伊勢シンジケートの郷士」や「四家の人物」である事が酷似し確認できるので、明らかに「ゲリラ戦」を展開していた事が判る。
取り分け、「織田軍の軍需品等の調達」には、明確に「伊勢豪商紙屋長兵衛」や「堺の紙屋」の固有名詞が出て来る。
これらを「駆使してのゲリラ戦」であった事から、結局は、「秀吉-氏郷の青木氏の仲介面談」に繋がったのだが、しかし、「ゲリラ戦」で、戦局は長引いた結果、結局、面談後の直ぐ後の1582年に「本能寺の変」が起こった。
その後を引き継いだ「秀吉-氏郷」に依って「伊勢の戦い」は打ち切られ、「青木氏」と「一部伊藤氏」は「本領安堵」されて伊勢松阪に戻ったのである。

(注釈 続けていれば、[殺戮のゲリラ戦]と成るし、「氏郷」としては、縁者関係族である事からも打ち切りたい事の意向と内情の説明をして秀吉を説得したと観られる。)

現に、1583年から1584年の間の「賤ケ岳戦」と「小牧の戦い」「北の庄戦い」には静かにしていた。
ゲリラ側がやろうと思えば、秀吉の背後を突けるし、「戦況不利」に成っていたが、そうでは無かった。
光秀は期待していたかも知れないが、「伊勢衆」は動かなかった事の意味は極めて大きかった。
「氏郷の説得」にも、事前の「青木氏等処置」も効果的に働いて、それを「伊勢衆の深意」として秀吉は租借し、「殺戮」をも避ける事としてもより大きい「本領安堵の形」へと進んだと観られる。)


行動としては、「青木氏」と「一部伊藤氏」等は、先ずは南伊勢に近接する紀州新宮に引いていたが、その後に“本領安堵された“と云う事は、秀吉は、”「五戦のゲリラ戦の正体」”を、秀吉に協力した「唯一の情報パイプ」であった「今宮シンジケート」からも知っていた事に成る。
そして「新宮」に引いていた事そのものが、「秀吉」に執って「本領安堵」し易かったことに成った。
恐らくは、「近江秀郷一門」の「蒲生氏郷」(「秀郷流伊勢青木氏」の同門縁籍)の意見も入れての行動を採った可能性が高い。

(注釈 「伊勢秀郷流青木氏」は、「蒲生高郷」の子の「梵純」が「伊勢青木氏の跡目」に入り、その子の「忠元」が引き継ぐ。
「蒲生氏郷」は、「蒲生高郷」の曾孫に当たる。)

つまり、「高郷」から観れば、「孫の忠元」と「曾孫の氏郷」の関係で、全くの親類であり、「氏郷の祖父(定秀)」と「忠元の父(梵純」」は兄弟の関係にあった。
この事が、「伊勢の収拾」に全ての面で大きく関わったのである。
この関係が無ければ、「二つの青木氏」も「伊勢の戦い」に巻き込まれてどうなっていたかは判らない。
恐らくは、「伊勢シンジケート」を巻き込んで上記の双方に影響の出る「ゲリラ戦に依る殺戮戦」に成っていたとも考えられる。
全国に配置されている秀郷一門を巻き込んだ歴史上に遺る最大の戦いと成った可能性がある。
唯、必ずしも、”青木氏は潰れていた”とは思わない。
筆者は、勝っていたと観ている。
”勝っていた”とすると、”歴史は変わった”と普通は考えられるが、勝は勝が、唯、”天下を差配していた”とは思わない。
それは「青木氏氏是」にある。
青木氏は、向かってくる敵を排除するが、結果として「織田氏」を排除する事には成るが、「天下の考え」は全く無かった事から、「織田氏」は負ける事で衰退し、結局は「他の反対勢力」に潰されていた事が考えられる。
筆者は、その勝者は「徳川氏」であったと観ている。

結局は、「二つの青木氏」の描いていた絵図通りに成ったのであるが、この程度の絵図の事は覚悟していたと観られる。
それだけに、上記した様に、「本論の徳川氏との関係」に惑わずに走ったのである。

つまり、この絵図の為にも、逸話の意味の通り「新宮避難」を実行したのである。
この絵図の違いは、間に「秀吉」と云う人物が入った事に成るだけである。
この絵図の塗り替えに「新宮避難」の「絵図の修復」で書き換えたのである。
その程度のことであったと観られる。
故に、「青木氏の親族の氏郷」と共謀して「高松城攻めの食糧調達」に合力したのである。
何も、”秀吉政権に胡麻をすった”と云う事では無かった。
又、「松阪城の変革」にも「経済的な改革」で協力したのであるが、「伊勢の発展」に尽くす事のいみがあった事に依るだろう。
「商業組合の結成」に進んだのである。
何一つ、「秀吉の為」には成っていない。
むしろ前段でも論じたが、余計な事に多少は振り回された事は否めない。
何も無かったと云う事は無かろう。

一時、「青木氏」等は、「北畠氏と伊賀氏の戦乱」を避けて先ずは”新宮に避難した”と見せかけて、「秀吉」に、“「青木氏等」を救う「絶好の口実」を与えた“と観るのが正しい。
「遠祖地の新宮」に避難したとするのは、あくまでも「四家の福家」の行為であって、「青木氏全体」の事の為では無い事がこれを証明している。
この「新宮」は「悠久の青木氏の遠祖地」でもある。
「長嶋攻め」の「伊藤氏」の末裔は、必要以上に「戦い」を避け同調して「青木氏」と共に南伊勢の縁籍地の「尾鷲」に避難した。
この「避難地」でも「戦い」を避ける「口実の地」である事が判る。

(注釈 「青木氏年譜」では「伊藤氏」は「青木氏」と打ち合わせている。)

「蒲生氏郷」が伊勢松阪で採った「武と商の融合城郭都市構想」に「青木氏四家」を救う理由を見出させる事が出来る。
「避難地」から戻った「四家の福家」は「青木氏年譜」からもこの構想に邁進している。
これで、「秀吉政権」に対しても一応の対応は出来た事に成り、「避難の口実」は成り立ったのである。
其処には秀吉に対して「氏郷の調整」が充分に働いていたと観られる。
「避難」だけの戦略効果だけでは無く、「氏郷の調整」が相伴って効果を発揮したと観られる。

「四家制度の強み」
その効果かを発揮したところで、何故、「青木氏」がこの強みを発揮したのかは、その基礎的な無形の要素を見つけるには、逸話や口伝とそれに伴う資料の発覚と分析に在る。
資料の発覚と分析では、この「無形の事」を描きたせる事は難しい。
其れには、本論の「逸話と口伝」との照合は「青木氏だけの史実」を浮き彫りにするには「必要不可欠な資料」である事に在る。

そこで、考察して置く必要があるのは、「ゲリラ戦の長期戦」が続いていた場合、果たして、「伊勢衆」はどうなっていたのか疑問を持つところである。
つまりは、「四家制度」で持ち堪えていたであろうか。
結果としては、上記でも論じたが、この“「四家制度」”は、1000年の中で、「二度目の存亡危機」の「青木氏」を救った事に成るのだが、実はその答が明確に出ているのだ。

それは次ぎの事にある。
「青木氏」の「逸話や口伝」を照合の為に全て書き出す事は難しい。
「元禄の時の紙屋の行動」や「室町期末期の豊臣家との夏冬の戦い」や「源平時の青木氏の取り組み具合」等多くある。
「逸話や口伝」を遺す上で重要である事は承知しているが、如何せん「個人情報」も中には含んでいて公的にする事は憚られる事もある。
結果として、「逸話口伝」と照合していると云う事でお読み頂きたい。
取り分け次に論じる、「丸山城の戦い」には二つの小説の様な逸話が遺されている。
「一つは、「四家の家」と、もう一つは、「郷士衆の家」に伝わる。何故か内容の物語の筋は良く似ている。
「郷士の家の逸話」は最早小説である。
この「郷士の家」の誰かが、この「逸話」を「逸話形式」を超えて「小説風」に仕立て直したのではないかと観られる。

(註釈 この「徳川氏の合力」に際して、「沿道警備」と「沿道食糧準備」に付いて「郷士の家」には「逸話」が遺されていたが、どの様に伝えられていたかは判らない。)


・「忠元の行末」
その後の「秀郷流青木氏」の行く末を決める大事な事が起こっていたのであり、ここで特記しておく必要がある。
唯、ここで、先に述べておくとすれば、この“「伊勢衆」”の中に、“「不思議な現象」”が起こっていたのである。
それは、伊勢の「特別賜姓族の秀郷流青木氏」も、“「権威の象徴」の「氏族」”であり、その最も色濃いところに居た。
にも関わらず、「信長」には、”手厳しい扱い”を受けていないのである。
「伊勢賜姓青木氏」と「同じ行動」を採っていた。何故なのかである。
「信長」は、この「伊勢秀郷一族」を攻めた場合、東から「尾張の秀郷一門の州浜族等の三勢力」が背後から襲い掛かられ、南から「紀州の州浜族」が動き、伊勢の「結城長嶋族」も、更には、関東からも秀郷一門の本隊が、西の関西の近江滋賀域からも別働隊が襲い掛かって来る事は必定である。
もし、この行動が起これば「織田軍」に執っては苦戦していた「伊勢の戦い」と「石山の戦い」を抱えていては、幾ら何でも「織田軍」は耐えられない事は判る。
まして、何れも、戦績のはっきりとしない「消耗戦のゲリラ戦」であった。

(注釈 「丸山城の戦い」も然ること乍ら、「南北朝の足利氏との戦い」も「10万の軍」の二万の軍勢に餓死に近い状況を経験させる等させる程の「ゲリラ戦の消耗戦」でも、歴史上は有名であり、その「ゲリラ戦歴の恐ろしさ」は例え「信長」でも充分に知っていた筈である。)

「第二の宗家」とする「秀郷一門の護衛軍団の青木氏」の「秀郷流大軍団」を相手にするのではなく、「伊勢の戦い」は、要するに、「各個攻撃」と「謀略」で攻め落としたかったのであろう。
その為にも、「伊勢の特別賜姓族青木氏」と同族と成っている「皇族賜姓族の青木氏」を含めて敢えて攻める事はしなかった。
その証拠に、信長没後に、秀吉は、“伊勢の長嶋の始末”は一応は就けたものの、親族縁者関係にあった秀郷一門の「近江の蒲生氏郷」を続けて差し向けて、伊勢は“お構いなし”として「本領安堵」したのである。
「蒲生氏郷」も「伊勢の指揮官」とは云え、敵対する相手の主力は、縁者親族一族といった「本来の味方」そのものであった。
その意味で、「同族の殺戮」を苦汁を呑みながらも攻めなければ成らなかった事からすると、「秀吉」に味方する事の意味は大きく、続けての「伊勢守護」(27万石/55万石)として、新型の城郭建設などの「伊勢建設」には、「伊勢衆の力」を結集する事に成功したのである。
ところが、実は、「秀吉自身」に執っては逆であって、この「伊勢衆」の「秀郷一門の恐ろしさ」を良く知っていた。
それは、この直後(1590年)に、「秀郷一門の勢力」を弱める為に、陸奥勢力(結城一門白河氏)から攻め落としにかかったが、「秀吉の戦歴上」で、慌てて「無理押し」して「最悪の戦死者」を出しても潰した。
しかし、「背後から白河援護」に迫り来る関東の「結城の秀郷一門」を横目にしながら大阪に慌てて逃げ帰った戦歴を持っていた。
この時(1590年)、「伊勢の秀郷流青木氏」の「青木玄審允梵純」(忠元の父)成る者が、伊勢から「陸奥応援」に駆け付けていて、「下総結城」からの援軍も近づいた事から、背後を突かれた豊臣軍が、これを察知して軍を本道では無く「北陸道の商道」を使って大阪に慌てて引いた。
この事を知って、「伊勢青木玄審允」(忠元の父)は「結城」に立ち寄り「伊勢」に戻っている。

(注釈 「青木玄審允梵純」には、「正没不詳」(1530年―1598年頃)で、「近江蒲生高郷」の子で、「近江一族の跡目争い」から敗れ、遂には「母方の伊勢青木氏」の氏名を名乗って、「伊勢秀郷流青木氏の跡目」を継いだ。
この子供が上記の跡目の「青木忠元」である。
「氏郷」とは「高郷」の「孫の忠元 曾孫の氏郷」の「親族」である。
この事は「二つの伊勢青木氏」に執っては「生き様」から最も重要な要件であった。)

この事でも、「伊勢秀郷一門」を攻め落とす事は、難しいと観て避け、改めて同門の「近江秀郷一門」(蒲生氏)を差し向けて“「取り込みの作戦」”に出たのである。
つまり、この「経緯の事」もあって、「伊勢」は、“「お構いなし」”として処理したのである。

(注釈 “「青木氏」を前面に押し出した戦い方”をしていれば、局面は、放置する事は出来ず、恐らくは間違いなく違った形には成っていただろう。
しかし、“顔の観えない「商い」を利用した「ゲリラ戦の攪乱消耗戦」”であった為に、且つ、「青木氏氏是」に依って、「権威」を必要以上に利用して、“「時の勢力」に抗する態度“は採らなかった事により、政権側に「本領安堵の機」を与えた可能性が有った。)

それは、この事に付いて詳しく口伝されていて、且つ、其れらしき諸書があって、これ等の総合的な遺記録から観ると、大きくは”「蒲生氏郷の進言」“にあった事が察せられる。
「蒲生氏郷」は、「伊勢松阪」に「ヨーロッパ型の商業都市」と「武家を集めた官僚都市」の「融合城郭都市」(1588年)を構築した。
これは記録から観ると、「経済学者」で「歌人」で「軍略家」で「豪傑」であって、その人柄は「律儀」で、依って、「人望」も極めて高く、誰一人否定するものはいなかったと云わている。
且つ、家臣の中でも若い頃から最も「難しい信長」に信頼され、婚約して娘を嫁がせた程の「秀才氏郷」も、“没した信長の思想”と一致していたのであった。


(注釈 「信長自身」が「経済学者」の“「氏郷の考え方」の影響”を受けていたと観られる。
「青木氏口伝」にも「氏郷の人柄成」は遺されている。)

その勲功から「知行倍増の目的」からの「1590年奥州転封」の影響は図り得ないほどであった事を物語っている。
その意味で、“「青木氏の恩人」”とする言葉が遺されているが、「二つの青木氏」は、「本領安堵」のみならず、「青木氏の四家制度」を積極的に容認した人物としても評価していた。
そして、「伊勢秀郷流青木氏の土台」をも築いた人物としても評価していた。
それは、後に「頼宣」によって「紀州藩の主要家臣団」に採用される等の“「青木氏拡大の恩人」”としても評価していた。
「頼宣」も「最高の政治力」を発揮したが、「家康のお膝元に置いて徹底教育を受け信頼されていた「10男の頼宣」は、「青木氏の官僚団」を活用し、その才を発揮した。
しかし、これが元で「将軍から妬嫉」で謀反の疑いが掛かる程であった。

「紙屋長兵衛」も「頼宣」よりの依頼で、「紀州藩勘定方指導の役目」を引き受けて、「主要家臣団の秀郷流青木氏」を助けた。

(注釈 「二つの青木氏」に執っては、この「蒲生氏郷」と「徳川頼宣」は、「青木氏の恩人」とする口伝が遺されている。)

「不倫の地の伊勢神宮」のお膝元に、この前例のない聖地に「新しい形の城郭都市」の建築を提案し、それだけに「秀吉」はそれを容認した。
この事は、「信長」も、それなりに「青木氏」に対して容認していた事を示す事にも成り、その為にも、”「商業と武家」の両面を持ち、“「惹け」し「利得」を主張しない「権威の象徴」”としての「青木氏」(「二足の草鞋策」の「伊勢賜姓青木氏」)”を是非にも安堵する事が最適として利用した事を意味するものである。
勿論、「氏郷」にしてみれば、「親族の伊勢の秀郷流青木氏」と、遠縁に当たる一族の「伊藤氏」と「長嶋の戦い」で敵対はした。
しかし、本領安堵する事は当然の事として、彼らも「城郭都市構築」に導いた。
「伊勢の青木氏」は、この「城郭都市」の中心部の三区画(9番から11番区画)をも与えられ、且つ、「南紀州の旧領地」と「北と南伊勢の管財」を含む全ての「本領安堵」の「破格の扱い」を受けたのであった。
「伊勢秀郷流青木氏」も改めて「東伊勢の本領安堵」(郷氏)を受け「氏郷の配下」に入った。
つまり、「青木氏の四家制度」(商と武を併せ持つ氏の制度)は、「信長の岐阜城郭都市」に匹敵する「氏郷の伊勢の城郭都市構築」に向けて是非に必要とされ、「四家制度」は「氏郷」に容認され維持されたのである。

この「氏郷と二つの青木氏」との関係を観ていた「家康」は、開幕時、逆手に取って、「伊勢の秀郷流青木氏」を“「紀州藩の骨格」”に据え、関東では「御家人」「旗本」「幕府官僚」に積極的に取り立てて、自らも「藤原朝臣の姓」を名乗って、“「権威」”を獲得して“取り込んでしまった”くらいでもある。

(注釈 「伊勢青木氏」は、初代頼宣より「二足の草鞋策」を更に進める事の容認と共に、改めて、臣下ではないが、頼宣より「紀州藩勘定方指導役」を請けた。)

(注釈 「秀吉」は、「伊勢秀郷流青木氏」をその恐れから家康の様には積極的には無く「取り込み方」が異なった。
この間、一時期「秀郷流青木氏」は「氏郷配下」に成り得たが「伊勢郷氏」として生きた。)

秀吉の権勢中は、「関東の青木氏」を含む「秀郷一門」も出来る限り関東より東に追いやった。
それと同時に、「秀吉」の「徳川氏の関東へ転封」では、この「秀郷一門との調和」が取れないだろうとの「秀吉の見込み」から「徳川氏の衰退」を狙った。
しかし、「家康」はその逆手を使って「秀郷一門一族」の「取り込み」に成功したのである。
開幕後は、紀州藩は、「家康の意向」から「伊勢秀郷流青木氏」を従って「紀州藩骨格」に据えたのである。
これは非常に「重要な事柄」で、これで「伊勢の秀郷流青木氏」は生き延びられて「氏の安穏」は約束されたのであり、歴史上の最大の良好な事件であった。

この様に、“「伊勢衆」“は護られたのだが、長引いたとしても、戦略上、”「伊勢衆」“を取り込む以外には結果的には無かったと観られる。
誰にも抗らう事の出来ない“「世の流れ」“はその方に向いたと観られる。
「北畠氏」の様に、朝廷と繋がり「武力」で「織田勢力」に立ち向かう者が元より居ない「権威の伊勢四衆」であったが、同じ“「権威」”であっても、「比叡山」や「石山本願寺」の様に“「権威」”を楯にその「利権」を護ろうとして抗した者でもあった。
「織田側」にしてみれば、「北畠氏」と「伊賀氏」と「伊藤氏」は、兎も角も、伊勢には“「嫌う権威」”はあるにせよ“「抵抗勢力」”とは成らなかった。
且つ、「氏族」を前面に押し出して戦うのではなく、「シンジケート」を使って「ゲリラ戦」の「消耗戦」を仕掛ける戦法であったことから、「雌雄を決する必要性」は織田側にはむしろ無かった事に成る。
依って、「武力」を前面に押し出した「北畠氏」と「伊賀氏」と「伊藤氏」のみを抑え込み、或は、潰せば、「織田勢」としては、「初期の目的」は達し得て居た事に成る。
この“「青木氏面談」”と云う行為が「伊勢の方向性の流れ」を決めた事に成る。
その意味で、「秀吉-氏郷」の“「青木氏面談」“は「伊勢」に於いては大きな意味を持っている。
「秀吉家臣説」は、その「単なる過程の事」に過ぎないし、利用された“「青木氏四家」”には上記の「青木氏年譜」で観る様に、確かに「騒ぎの種」には成っているが、大きな被害の結果は無かった。

(注釈 「伊勢の戦い」は、“「青木氏四家」”に執っては、「時の流れ」に引き込まれ、止む無く「時の流れ」に身を任せながらも、“「信長」に依って発奮し強く成り、「秀吉」に依って「流れ」を止める土台を築き、そして、幸いにも「氏郷」に出会った事が、この「流れ」から這い出せる事が出来た。
そして、「家康」に依って息を吹き返した” と云っても過言では無い。
江戸期は、更に「紀州藩」に依って、保護の下での「四家制度」では、更に、「商い」を基に250万石以上と云われた財を築き、永遠のパートナーと成った「伊勢シンジケート」と共に大きな成長を遂げた。)

・「立葵紋の青木氏の意味」
この事から、この時の「四家制度」は、次ぎの「三つの機能」を以って、次ぎの様に成って護られたのである。
(A)「子孫存続」の「安定システム」
(B)「賜姓五役」の「実行システム」
(C)「氏の存続」の「防護システム」

本来の目的(A、B)の外にも、上記の様に、「時代の変化」にも対応する(C)の機能も働いていたのであり、“「流れ」を引き寄せる働き“をしていた事が良く判る。
但し、上記する「青木氏の氏是」(「権威」を「武器と利得の対象」とはしない)を前提とする事に在った事も見逃せない。

(“世に晒す事無かれ、何れ一利無し、世に憚る事無かれ、何れ一利無し。”)

先ずは、(A)の「子孫存続」の「安定システム」では、「子の定義」に依って即座に「跡目」に成ると云う事では無く、「婿養子」と云う形で入る等の「外部からの侵攻」を「防ぐ能力」を保持していた事が判る。
江戸時代までの社会構造の「氏家制度」の中では、この頻繁に行われていた社会現象の“「婿養子」(婿入り)”は、「青木氏」では「社会の傾向」とは一致せず“「取捨選択される仕組み」”ではあった。
ただ、必ずしも「青木氏」に執っては排他的なものでは無かったが、上記した“「四家方式」”の中で「純血性」を護りながら、「嗣子」を作り上げ、それを「5つの面 20の顔」の継承者としていた。
その為に、結果として、下記の注釈の「入り婿:婿養子」制度は、採用されていなかったのである。
況や、社会とは異なった制度を、“「賜姓族」と云う「権威の象徴」の立場”を護る為に採用して居た事に成る。

(注釈 室町期では多くは、「嫡子外」は、「部屋住み」か多くは「僧侶」に成る等の風習であったが、下剋上や戦乱に依って、武家社会では、“「横の関係」“が重視され、「縁籍関係」を縦横に組んで、「氏」を護ろうとする「社会構造」に変化して行った時代でもあった。
云い換えれば、「氏家制度」の成長期とも云える時代でもあって、その為には、「縦横の縁籍関係」を構築する手段として、「嫡子外」の嗣子を“「入り婿制度」:「婿養子」”と呼ばれるもので生かして、社会の中に構築されたのである。)

前段までにも論じたが、ただ、「四家方式」の内の「子の定義」に関わる「嗣子」は、全てが”「跡目の前提」である”と云う事では無かったが、“「特殊な立場」”にあって、“「四家制度の弱点」”であると云う判断もあった様で、この為に、「一定の距離」を置いてのものとして扱われていた。
「跡目養子」も「婿養子」も「子の定義」に晒されて、「四家主役の福家」に取捨選択されて、「家」を任される事に成る仕組みで、「現在の人事制度」に類似するものでもあった。
そして、江戸時代には、この「四家制度」は、むしろ“成長遂げる源”と成って行った。
明治期の激しい社会構造の中でも、他氏とは異なり成長を遂げた。
要するに、弱点とする「婿養子の縁組」は、上記の様な「世間の荒波」に晒され、「青木氏氏是」を犯す事にも成りかねない事が起こりやすい事から、避けていたのであった。
依って、「青木氏氏是」を護る事では、ここで、要するに、“「世間の謀略」”に晒される事は無く成る事に成った。
「江戸時代の250年」の「安定した存続」はこの事を物語っている。

逆に云えば、「四家制度の弱点」とも云えたが、「青木氏」を一切断絶させる事も無く、「笹竜胆紋の家紋変更」の事態に成る様な事も一切興らなかった事は、「1440年間の純血性」を護れた事を意味し、“稀に見る氏族”を護った事に成る。
(明治35年を以ってこの任を解いた。)

次ぎは、(C)の「氏の存続」の「防護システム」では、「四家方式」の「子の定義」で、先ずは「婿養子」として入ったとしても、その「人物評価」が先に成される等のシステムが働き、上記に論じた事態が起こっても微動だにしなかった。
況して、これは、「世間の慣習」とは異なり、「四家方式」が在る為に、直接に、”四家を牛耳る”と云う事にはも成らなかったし、周囲とは異なり絶対的な“「本家制度」”を採らない“「青木氏の四家の合議制」”が「防護の根幹」に成っていたのである。
現在に観る「社会システム」が、「二つの青木氏」に於いては、「奈良期からのシステム」であって、そのシステムが「古い氏家制度」の「封建社会」の中でも、大いに働いていた事を示している。
恐らくは、「四家制度」に示す“「青木氏の伝統」”は、他に類を見ない「賜姓族」としての「古めかしい氏」であって、「密教」と云う「50程の慣習仕来り掟」に「縛られた概念」を持ち、それを実行し維持して来た「唯一の氏」である。
然しながら、この様な「新旧を併せ持つ氏」は、“日本広しと云えど無い”と考えられる。
これは、「封建性の高い氏家制度」の中で、且つ、「密教性の高い概念」を持ちながら、“「四家の合議制」“を採用して居た事は、異質にはなるが、これを“融合していた処”にその強みがあったと観られる。
一見して論理矛盾とも観られるが、現実には、ここに生き延びている「青木氏」である。

(注意 1565年から1569年までの「伊勢の織田氏の調略」では、資料では“「入り婿」”と表現されている。
「戦乱の中」では、「子孫存続」の為には、周囲は「跡目」が不足する状況からこの“「入り婿」“に総力を注いでいた事が読み取れる。
しかし、「青木氏」では逆に避けていたのである。
恐らくは、「婿養子」を取り込んでいた場合は、上記する荒波に呑まれて「滅亡の憂き目」を受けていた事は間違いはないだろう。
その理由は、「青木氏氏是」が壊れ、「シンジケート」が崩壊し、「権威」が低下して、遂には”「四家制度の根幹が崩壊する」”と云う「自然瓦解」が起こった事に成ったと観られる。)

「青木氏」は、世の「武家社会」とは反対に、“「婿養子」”に頼らず、これを「子の定義での制度」(四家制度)で達成しようとしていたのである。

最後は、(B)の「賜姓五役」では、「頼宣との松坂の会談」で、全て江戸幕府に引き継がれたが、「徳川氏」に無かった“「権威の象徴」“を作り上げる上でも、「二つの青木氏」を始めとする「伊勢衆二氏」は、国体上で必要であった。
「徳川氏」は、前段でも論じたが、この「二つの青木氏の権威」を下記の「立葵紋の青木氏」や「勝姫との血縁」等で大いに利用した。
その証拠に、その後の江戸初期には、伊勢には「立葵紋の青木氏の発祥 二氏」も興り護られた。

(注釈 「伊勢三乱 五戦」で、“「権威」”を護ったのは、結局は「二つの青木氏」と成った。
「伊藤氏」の一部が「長嶋の乱」で子孫を遺す目的から一部を尾鷲に引かせて遺した。
「長嶋氏」も一部を「尾張三勢力」に逃げ込み、それと共に子孫の一部を遺したが、「伊勢四衆」の「伊勢の権威」からは遠ざかった。
結局は、“「伊勢藤氏」“は「秀郷流青木氏」のみと成った。
その意味で、「権威の象徴」は、より社会全体から”重きを置かれる結果“と成った。)

この“重きを置かれる様に成った”上に、更に、“「立葵紋」”と云う「新しい力の権威」が着け備わったのである。
実は、この“「立葵紋の青木氏」”には、“大変な意味”を持っていたのである。
江戸初期に発した「葵紋の禁令」では、徳川氏一門以外では、“「立葵紋の使用」は、「伊勢青木氏(四日市殿)」”のみに限られており、「笹竜胆紋」と「下り藤紋」の「二つ権威紋」を「総紋」とする「氏族」でなければ、許されなかったのである。
“「葵紋」、取り分け「立葵紋」の使用に関しては、例え、「徳川一門」でも使用を禁じる「類似家紋の法度」を発していた。
それほどの”「徳川氏の権威」“の「家紋文様(格式紋・式紋)」であった。
「青木氏」がこの格式紋の「立ち葵紋」を使用できるにはそれなりの理由があった。
それは「立葵紋の経緯」にあった。
そもそも、この“「立葵紋」”とは、「徳川氏」の最高の「権威象徴紋」(格式紋・式紋類)として位置づけられて作られていて、「笹竜胆紋」(嵯峨期詔勅)と「下がり藤紋」(力の制圧)と同様に同格としての意味合いを持たす事にあった。
この使用を「全ての姓氏」に対してのみならず、「徳川氏」「松平氏」にも「類似家紋」を含めて一切を禁じた。
「御三家」にも禁じた文様であった。
仮に、「徳川本家」から嫁入りをした場合に於いてでさえ、「立葵紋」は一切使えず、特例許可得ても「1年の限度」を以って、「葵紋紋類」さえ使用を禁じた。

元より、「伊勢衆の二つの伊勢青木氏」との繋がりをも重視して、幕府に秀郷一門を含む「青木氏」の多くの重臣を抱えた「徳川氏」は、「紀州徳川氏との関わり」を“「立葵血縁族」”としても重視させていたのである。
この「立葵紋の使用」を「伊勢秀郷流青木氏」に特別に許し、「葵紋」と「立葵紋」の「青木氏二氏」を伊勢と云う聖域に発祥させたのである。
「紀州藩」さえ使えない女系血縁族として「立葵紋の青木氏」が発祥しているのである。

「立葵紋の伊勢青木氏」は、この様に“徳川氏の青木氏に対する姿勢”が読み取れる行為なのである。
この為に、「世間の謀略」が在ったとしても、「青木氏の四家制度」では、次ぎの様に扱われていた。

(イ)「ろ過装置の様な役目」を果たす事に成ってはいた。

しかし、江戸期に入っては、一層に上記する「徳川氏の保護の背景」もあって、最早、その「四家制度の確実性」は高まったのである。
この“「立葵紋の青木氏」“の存在する「伊勢衆」と「伊勢域」は、朝廷より、永代で「不入不倫の権」で護られてはいたが、「徳川幕府」に依っても、「不可侵の権」が、これ(立葵紋)に依って与えられた。
そして、この事は引き続き「安寧の聖域」として定められたことに成った事を意味したのである。

上記した様に、室町期末期までは、「5の面 20の顔」を持つ「ゲリラ戦」を展開する為に、誰が敵味方かわからなくする方法が採られた。

(ロ)「網を被せた様な役目」の果たす事にも成った。

この「(イ)(ロ)の効能」がより働き、「四家制度」と云う「青木氏独特の防御システム」は構築されていたのである。
そして、この(A)と(C)が次ぎの様な数式で相乗的に働いて、江戸期にも続けて「生き残り効果」は発揮された。

「青木氏防御システム」=(イ)「ろ過装置の様な役目」+(ロ)「網を被せた様な役目」=(C)
「生き残り効果」=(A)+(C)=「四家制度」

この「三つの目的」(ABC)は、「悠久の歴史」を通して、この”「伊勢シンジケート」の存在”が、相互に働き、「(A)+(B)+(C)」の「接着剤の働き」をしていた事に成る。

(注釈 「伊勢シンジケート」の“「伊勢衆との関係」を持つ事の意味“は、現在感覚で理解しきれないところがあろう。
現在では「血縁関係」を以ってしても、そこで起こる「親近感」とは比べものには成らないし、恐らくは「理解の外」の事であろう。)

恐らくは、その感覚の範囲は、「助け合う事」=「知り合いに成る事」であろう。

しかし、江戸期以前の社会の、つまり、”「氏家制度」“の深意は、何らかの「血縁関係」か、或は、深い「経済関係」を持つ事で繋がる「社会構造」に付いては、時には、”「氏」や「家」や「命」を投げ出しても合力する概念“であって、その上での「相互に助け合う構造」であった。

つまり、次ぎの様な関係にあった。

”「助け合う事」”=“「氏家命の契約」“であった。

全く異なっている上で、”「伊勢シンジケートの持つ意味」“を昔の「歴史観」として理解が必要である。

本来の目的(A、B)の外にも、次ぎの様な数式が働いていた。

”「助け合う事」”=“「氏家命の契約」“

所謂、(C)の事も江戸期を通して有機的に上手く働いていたのである。

要するに、奈良期から江戸期末期まで、この“「四家制度」”には、”「助け合う事」”=“「氏家命の契約」“の”「伊勢シンジケート」“が、「絶対条件」として無くてはならない「防御システム」であった事に成る。

突き詰めると、「四家制度」とは次の様な数式論と成る。

「四家制度」=「伊勢シンジケート」+「立葵紋の青木氏」=「氏の背景力」

以上とも云える。

この数式論では、「立葵紋の青木氏の勃興」が前提に成っている。

そもそも、「徳川氏」と「青木氏」には、これに依って“「権威の相互関係」”が生まれていたのである。
「二つの青木氏」自らが持っていた、江戸期まで “「賜姓族」であったとする名誉“が、氏の“「悠久の権威の象徴」”であった。
これは、少なくとも「紀州、大和、伊勢の域」では、「氏上さま」「御師様」等と呼ばれ敬われ親しまれて、自他共に認められている事であった。
その“「権威」”を「徳川氏」に上手く利用され乍ら、逆に、“「徳川氏の武の権威」”を受けながら、「青木氏の権威の象徴」も成り立つと云う “「呉越同舟 一蓮托生の構図」”が出来上がって居た事に成る。
この構図は、「徳宗家の紙屋」と呼ばれていた様で、地場産業」の育成に私財を投げ出していて、「農業の発展」にでも「早場米の研究」に取り組み、「絹の織物産業」を信濃から持ち込み「地場産業」を大いに発展させて成功させた。
これは既に江戸期を過ぎて大正末期頃まで続いていた記録が多く遺されている。
この事で、最近の青木氏の研究で、「天皇家」を通じて「徳川氏」を経由して「感謝状の手紙」が遺されている事が判った。
恐らくは、何故に「天皇家の感謝状」と云う事に成るのかと云うと、文章から「伊勢の発展」と云う事であった事が判った。
これに関係する手紙の記録は、三通見付かった。
一つ目は、「筆者の家」、二つ目は、「青木氏と関係する郷士の家」、三つ目は、「紀州徳川家」からの事前連絡文である。

因みに、余談であるが、中ても、「筆者の家」の「感謝状の記録」は、在る事は口伝で知っていたが、当初は発見できなかった。
ところが、引っ越しに際して、仏壇を解体したが、その仏壇の奥の過去帳等を仕舞う物の中から出て来た。
とても見つかる所では無い。可成り几帳面な性質を持つ家柄であるが、何故か、ここにあったのかは判らない。

「郷士の家」の記録では、この時の状況と地場産業育成に貢献した事柄が詳しく記載された手紙などを含む資料が廃棄されずに保存されていた。
この「郷士の家」は、「射和の商家」で、恐らくは、「郷士頭の差配家」であったらしく、地元からの推薦に動いた家であった模様である。
元々は、「青木氏に関する資料」が多く出て来た家柄であった。

「紀州徳川氏」とは、前段でも論じているが江戸初期から大正14年(徳川頼倫)まで親交があった。

「青木氏」の内には、この様に、”「助け合う事」”=“「氏家命の契約」“が働き、外には、徳川氏との “「呉越同舟 一蓮托生の構図」”が働いていたのである。

“「悠久の青木氏の権威の象徴」”+ “「徳川氏の武の権威」”=「社会の最高権威」

「天皇の絶対的権威」と「徳川氏の武の権威」との「相互権威」には、一つの「初期の恐れ」が「徳川氏」にあって、「権勢を握った」と云う事で、「社会の反発」が起こり、施政上で「徳川氏の権威」が下位に来て低下を招く恐れがあると懸念された。
そこで、敢えて、「天皇家の絶対的権威」に変えて、“「悠久の青木氏の権威の象徴」”を緩やかに据えて、そこに同類とする「立葵紋」を加える事で“「徳川氏の権威の仕組み」”を構築しようとしたのである。

「秀吉」が採った「権威の構築」は、「天皇の絶対的権威」を「豊臣家」と云う背景に押し当てて、その背景で、次ぎの様な数式論に様な「政治体制」を構築した。

「為政」=「天皇の絶対的権威」+「豊臣家の力の権威」=「権威の構築」

補足として、「天皇家の末孫氏」や「藤原氏末孫」と搾取して、更には「青木氏」の「伝統の権威」をも利用しようとして闇雲に持とうとしたが、上記した様に、強引に搾取偏纂して失敗したのである。

しかし、これでは、その「為政=0」の形、況や、「為政者の力」が没すると「長期政権」を望めないとしていたが、「徳川氏」には、「力の権威」は同じ様に持つ事が出来たが、“「伝統の権威」”は未だ無かった。

「笹竜胆紋」(青木氏)+「立葵紋」(青木氏 藤原氏)=「伝統の権威」

この数式論の構図を作り上げたのである。

(注釈 そもそも、「家紋」では、そもそも、“「立」”は、“「たつ」”の意味から、「家紋文様」の上に位置する物として使われ、「立・・・紋」は、その「家紋の権威性」や「発展の縁起性」を着ける時に使われる。 
この慣習は、葵紋 沢潟紋 梶紋 銀杏紋 杜若紋 枡紋 杉紋 鶴紋 柊紋等の枝葉を拡げた「大きい氏姓の家紋」に多く観られ、主に”「氏姓族の総紋扱い」“として利用された。)

江戸時代には、上記の数式論に観られる様に、「青木氏側」にしてみれば、「伊勢シンジケート」が無ければ、「立葵紋の青木氏」が無ければ、この「四家制度」は成り立たない構図に成っていたのである。
故に、その重要な位置にあったからこそ、積極的に「嗣子の余人」を敢えて「家人」として継承させ、「伊勢シンジケート」と血縁させて、「一族性」を確保していたのである。

(注釈 「伊勢シンジケート」を構成する「伊勢郷士」等を含む各職能部等の「伊勢衆」の多くには、影の「経済的な繋がり」のみならず、「青木氏の血」が流れていて、上記した「伊勢の戦い 三乱五戦」の時には、「姿名」を変えて「敵側」との折衝の「水際の夫」を演じたのである。)

「四家制度」の中に、「青木氏融合族」の「四日市殿」を組み入れていたのもこの強みに起因する。

江戸期には、既に、次ぎの様な数式論の」青木氏」が成り立っていた事を示す。
これは最早、「二つの青木氏」の「完全融合化」が起こって居た事に成る。

「四家制度」=「伊勢シンジケート」+「立葵紋の青木氏」=「伊勢青木氏」

「立葵紋の青木氏」=「四日市殿青木氏」=「秀郷流青木氏」

「二つの青木氏」=「伊勢青木氏」+「秀郷流青木氏」=「融合青木氏」=「四日市殿青木氏」

(注釈 筆者は、この数式論から観て、むしろ、選抜して「伊勢シンジケート」に成り得る人材を「四家の嗣子」の中から積極的に配置していたと観ている。)

つまり、最も変化した「伊勢シンジケート」の意味が、江戸期には、「他氏に対する防御の抑止力」から、上記の数式論を維持させる“「氏の背景力」”というものに変化して行ったと観る。

「防御の抑止力」<「氏の背景力」=「伊勢シンジケート」 

だからこそ、「徳川氏」に対しては、「損得の利害」は別にして、「吉宗育親」を演じ、裏方で巨額の金銭を使い「将軍」に仕立て、「紀州藩」と「幕府の勘定方」を「250年の間」を主導する等の“「青木氏総力」を挙げての取り組み”に成ったと「累代の四家福家」は考え続けていた事に成る。
それほどに、「紀州藩初代頼宣」に対する「青木氏の尊敬の念」は大きかった事を意味しているのである。

(注釈 口伝でも詳しく伝えられていて、筆者の祖父の代の大正14年までの親交であった。多くの親書が遺されている。)

奈良期初期の「皇親制度」、奈良期末期の「皇親制度」、平安初期の「皇親制度」の三期の経験を経て、その江戸期には、再び花が咲き、姿形は変えたにしても、「政治経済の骨格」を直接的に支えた事に成るだろう。
この後も、この“「四家制度」“は、「上記のABCシステム」に依って、「室町期の状況」-「江戸期の状況」をも耐え抜けたのである。

「二つの青木氏」=「青木氏」=「四家制度」と云って過言では無い。

(注釈 江戸初期以降は、「伊勢シンジケート」は、夫々、「土地柄や生き様」を活かして、「商いの企業」と「海陸の運送・警護業」と「殖産業・農業(和紙」」の“「パートナー」”に当たった事が記録されている。この“「パートナー」”と成り得た“「伊勢シンジケート」”を以ってして、江戸初期には「総合商社」の形が出来上がっていたのである。
恐らくは、「日本初代の総合商社」であったと観られる。)


これも、「事の流れ」では、事と次第では、危険視されて潰されていた事も考えられるが、「立葵紋の青木氏の存在」がこれを押し留め、且つ、成長させたと観られる。

(注釈 「立葵紋と葵紋の青木氏」は、千葉と三重に現存し、「本サイト」を支えて頂いている。)

何故ならば、平安期から江戸期までの「他の豪族や豪商」には、そもそも、この「血縁族」とも云える“「シンジケート」”を持ち得ていなかったからである。
「青木氏密教概念」の中にあり乍らも、「商いの概念」が「青木氏の生き様」を大きく左右させ支えた。
つまりは、時代に即応して“「四家制度」”をより確立させて行ったのである。
現在から観て、「子の定義」を社員に置き換えて考えれば、「現在の企業」でも成り立つシステムと観られる。
それだけに「氏家制度」の中では、「最も古い氏」であり乍らも「最も新しい生き方」で有ったと観られる。

その意味でも、「信長の考え方の概念」には、「流れ」の中では、“敵対はしたが理解していた”と観ているのである。
江戸の歴史上には、中でも、「元禄の浅野家取潰し」の際には、この「パートナー」の「伊勢シンジケート」が、「四家福家の指示と援護」を得て、多くは「海運業」と成った。
「世間の目」を気にしていた幕府に代って、難しい「開城と管財の一切の始末」に対して、その「総合商社の特徴」を活かして、混乱の中で瀬戸内の中を配送して、更には、「陸送業」をも運営して「管財の処分」に当たり、穏便に事を運んだ事は、特に有名な事で記録にも遺されている事でもある。
現在でも通ずる「四家制度の差配」であったろう。

そこで、“幕府が何故に「伊勢青木氏」にこの「始末」を委託したのか”と云う疑問が起こるだろう。
「商い記録」では、「紀州徳川氏」からの「紙屋長兵衛」に対しての「委託」であった事が判っている。
この幕府の最大の事件は、難しい難問であった。
扱い方に依れば非難が幕府に集中する。
それを総合的に解決できるのは、「紙屋長兵衛」しかないと観た事に依る。

その信頼は、江戸初期からの付き合いによるが、何よりも、紀州藩の「立葵紋の青木氏」を全面的に押し出して、幕府であるが、幕府では無いとして、成功裏には、“どうだ 「立葵紋」が解決したのだ” “幕府が解決したのだ“と威勢を張る事に成る。
それを“総合的に成し得る能力”を持っているのが、唯一日本の中で「立葵紋を持つ伊勢青木氏」なのだ。
(「信濃善光氏」が「立葵紋」である。)
「紀州藩の官僚族」の指揮者と成っていた「立葵紋の青木氏」と「四家の四日市殿」と「八代将軍吉宗の育親」で「享保の改革」の主導者であった「四家の紙屋長兵衛」は動いた。
全ての「取り仕切り」は成功した。
「世の批判」は起こらず、「幕府の威厳」は“さすが”と持て囃されたのである。

(注釈 大船 荷台 家人 要員 日数 金銭等の「商い」が記帳されていて、「伊勢シンジケート」の構成員が、転身した「海陸の運送業」、現在の「警備保障業」、「警護・警備業」等の事も兼ねていた事が記されていて、江戸時代でも、「商いの輸送」には未だ大きな危険が伴っていた事が判る。
そして、家財処理の事、骨董品の取り扱いの事、江戸時代でもリサイクル品の中古転売の事も盛んであった事、金銭交渉等の事件のつながりの末の始末でも興味深い事が記載されている。
{青木氏}に委託した記録は遺されていないのは、この{商業記録}によるもので、[青木氏の福家}に送られた記録であった事から、「松阪大火」の「消失」で遺されていない。)

その意味でも、その勲功を成した「伊勢シンジケート」が、形を変えて、“「商いのパートナー」“として働きながらも、江戸時代も更に「四家制度」を支える”「防御システム」(背景力)”として、“「情報活動の面」”でもまだ働いていた事が判るのである。
「伊勢シンジケート」を構成している「郷士や農民や庶民の集団」、要するに“「伊勢衆」”と呼ばれる集団は、共に潤ったと記録されていて、「物語風の口伝」が遺されていて興味深い。

(参考 因みに、「商品輸送」に対して、面白い事が書かれていて、多くは大船での搬送であったらしく、止む無く「陸送」の時、例えば、越後に搬送する時、「商品の安全」を図る意味から、別のシンジケートに連絡を取って、陸送の安全を依頼する。
この時、他の「シンジケート」との打ち合わせは、「陸送する頭目」が「旅の旅館」で密かに「打ち合わせ」金銭授受などの契約をして、搬送時は、別のシンジケートの者が、忍者の様に陸送の周囲に寄り添って見張りを続ける仕組みで、終わるとその影の様に付き目立たない様に従った「忍者の物見」が、いつの間にか消えると云う仕組みであった様である。
その姿が、色々な姿に身を変えての保護であったらしい。
イザと云う時には、一斉に何処からか出て来て荷駄を護り、相手を攻撃すると云う当に“「忍者」”であったらしい。
土地の暴力集団(やくざ)や山賊もあって、実際は危険であったらしい事が書かれている。
確かに、シンジケートの存在する地域には、必ず「山岳の忍者集団」か「山岳の郷士集団」が存在する。
伊勢や河内であれば、「伊賀忍者」や「雑賀忍者」や「十津川郷士」や「龍神郷士」の様にである。
実際には、「荷駄頭」が打ち合わせた「シンジケート」の指揮する「物見頭」の顔しか知らなかったらしい。
この「物見頭」の周囲には、観えない「十数人の梃子組」がいて護っていたらしい。
「シンジケート」の中でも、同じ仕組みであったらしく、このシステムで繋いで行く方式を採っていたのである。)

(注釈 「伊勢シンジケート」の「内部組織」が、状況に応じて、この様なパートナーに合わせて編成され直された様で、これが「輸送業」や「警備業」や「殖産業」や「金融業」や「廻船業」などの「伊勢紙屋長兵衛商店」と「二つの青木氏」の「企業パートナー」(「射和商人」 「射和組」)にも成ったのである。)

これから察すると、江戸時代では、“「氏の背景力」”と成ったが、この「荷駄頭」と「物見頭」の繋がりで、その「シンジケートの首魁」に連絡を通して、その首魁から、土地の「領主」に話が通り、組織を必要な様に動かした事に成ったらしい。
「伊勢シンジケート」の出自は、多くは、「室町期の豪族」や「土豪族」や「郷士族」が戦いに敗れ、海山に逃亡して「裏の社会」で生き延びた者達であり、これらに「経済的支援」をしてその見返りに警備や運送屋や廻船業や殖産や営業等の手助けを請け負って貰い定期報酬とは別に、その都度の報酬を渡し連携をしていた。
次第に血縁関係も結ばれ、何時しか「青木氏族」の一員化して生き延びた者と、その配下や農民やあらゆる職能の人たちで、江戸期には、「ある程度の経済的潤い」と「必要な力」を持ち合わせて「表の社会」の一員の立場も持ち合わせ乍ら「二つの顔」を以っても働くように成った。
この「組織の範囲」(「松阪組」と「射和組」)は、明治期の初めまでの結果として観てみると、美濃から信濃を経由して、諏訪から甲斐の領域までを範囲としていた事か判る。

これは「和紙」と「神明社」と「青木氏菩提寺」の関係からは元より、各地に起こった「農民一揆」の「経済的支援」をしていた事の記録からも頷ける。
取り分け、「宗教絡み」の「甲斐百年一揆」と呼ばれる一揆にも「伊勢シンジケート」を通して「経済的支援」をしていた記録からでも判る。
傾向として可成り「中部東域」にそのルートを伸ばしていた事も判る。

中には、「伊豆勢力」(伊勢信濃青木氏族の末裔集団)と、滅亡した「駿河源氏の末裔族」が編成していた「駿河水軍」との連携を持っていた事も記録から読み取れる。
これは「伊勢水軍」が、「伊勢シンジケート」の一員であった事からの平安期からの連携が遺ったものと観られる。
連携で云えば、多くの「商い記録」が遺る“「瀬戸内の支配権」”の持つ廻船業を中心とした「秀郷流讃岐青木氏」との連携が目立つ。
「伊勢シンジケート」を全網羅するには、「別の論文」が充分に成り立つのでここでは、下記に「松阪商人」の「(射和商人) 射和組」に付いて触れて置いてこの程度の範囲とする。



> 「伝統―19」に続く。
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