伊勢青木氏 家訓7
伊勢青木家 家訓7
投稿者:福管理人 投稿日:2010/05/01(Sat) 16:58:55
家訓7
伊勢青木氏の家訓10訓
以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。
家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。
家訓1は「夫婦の戒め」
家訓2は「親子の戒め」
家訓3は「行動の戒め」
家訓4は「性(さが)の戒め」
家訓5は「対人の戒め」
家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
「品格の戒め」である。
この家訓7は「執着」つまり「こだわり」であると考えている。
「執着」は兎角悪く考えられがちであろうが、そうでも無い事もある。
人生に於いて苦難が多く立ち向かう。この様な時に「執着」無しでは生きていられない事もあり、それに依って苦難から幸せの扉を開く事も出来る場合もある。むしろこの場合の方が多いのかもしれない。だから、最近では、世間ではこれをむしろ煽っている向きもある。その例えの言葉として「拘りの一品」とか「拘りの・・」とかの流行言葉も出ている。
しかし、ここで云う家訓7は「こだわり」は「拘り」ではない。敢えてその違いが有るから分けて論じることとする。
人間は物事を考える場合、脳は「拘り」を持つと幅広く思考範囲を広げてその上で適切な判断を下せ無くなる「性」を持っている。狭い範囲で思考する事で正しい対処が出来なくなり人生の難業苦難に引き込まれる場合が多い。そして、狭い範囲の思考から抜け出す事が出来ず、そのような「悪のスパイラル」に陥るのである。
まして、昨今の様な科学文明が起こり「合理的な判断」無しでは正しくものが成せ得ない事に成る時代である。
科学は「合理」で成りたっているからだ。この様な時代に「主観的な拘り」を持つ事はそれだけに逆行に成り思考範囲が針の様に狭くなるだろう。
特に「感情主観」の強い傾向の持つ範囲ではこれが起こりやすい。
特に、前の家訓のところで述べた脳の一部の「性」(さが)を司る「脳陵帯」で管理されている「女性の深層思考の原理」(感情主観:感情-勘定-妥協)から観るとこの傾向が強く成るだろう。
男性に於いても「論理思考の原理」では論理的に間違うとそれを正しいとして過剰な「拘り」を強く持ちすぎる傾向があり、むしろ「女性の拘り」よりも厄介であり危険である。
女性の場合は元々揺れ動く「感情主観」であるので「環境」が変わると「他の感情」に移る事も起こり得て「拘り」は消えうせるであろうし「性(さが)」の定めに依ってその様に神は仕組んでいる。
しかし、男性は「論理の錯誤」を起している事から「環境」が変化してもその「錯誤」に気が付かない限りは「拘り」から抜け出させない「質癖」を持っている。
勿論、男性も「性(さが)」の定めに依ってその様に神は仕組んでいる。厄介な宿命の「性(さが)」の定めであろう。
むしろ女性の「拘り」に比べて個人の範囲に留まらず周囲にその「悪の影響」を及ぼしてしまう危険性を持っている。あらゆる「争い」の主因とも成っている。
この「男性の拘り」にはここが問題なのである。この家訓7はこの点を指摘しているのである。
この家訓7が説く意味は次ぎのことによるだろう。
一つは「こだわり」と「目標(目的、狙い)」とは違う事。
二つは「こだわり」は「頭の使い方」如何である事。
三つは「こだわり」と「拘り」を区別している事。
四つは「こだわり」は「長」としての「戒め」である事。
先ず、一つ目の”「拘り」(こだわり)と目標(目的、狙い)とは違う事”付いて考えてみる。
心に固く決めた揺るぎ難い「目標」はその進める過程には長期的で「論理的な戦略と仔細な戦術」を保持しているものである。
一見すると、「こだわり」と「目標」は何れもこの”心に決めた揺るぎ難いもの”を持っている様に観える。しかし、良く観察して見ると何か違う。
それは「戦略と戦術の有無の差」(1)が起こる。しかし「こだわり」はこれが「殆どゼロ」であり特に戦略は観られない。
そして、それは達成されるとその目標は「解消」はされる(2)。しかし「こだわり」は解消する事はすくない。
更には、過程では揺るぎ難い「目標」は「臨機応変」に変化させる事がある(3)。しかし「こだわり」は周辺と進行過程の変化に対して頑なに盲目である。
目標は衆議に対して「賛同」が得られる(4)。しかし、「こだわり」は個人性が強く衆議に弱い。
揺るぎ難い「目標」は周囲に「弊害」を生まない(5)。しかし「こだわり」は兎角に「弊害」を生む。
この「5つの違い」がある。
この家訓7は揺るぎ難い「目標」を持つ事を否定していない。むしろ、「こだわり」を否定する事で人生に於いて揺るぎ難い「目標」を持つ事を求めているのである。
「戦略と戦術の有無の差」(1)「解消」(2)「臨機応変」(3)「賛同」(4)「弊害」(5)
この「5つの違い」が「目標」と「こだわり」と区別されている。
これは「青木氏」の歴史的な背景から観ると、「賜姓族侍」の一面と「商人」の面も持ち得ている内容である。どちらかと云うと「商家」に成るのではないだろうか。
伊勢青木氏は「不入不倫の権」で護られながらも、室町末期からは少なくともこの「権」が弱く成っていた事は明らかであり、同じ東伊勢の村上源氏の末裔の北畠氏が信長に騙まし討ちされ織田信雄が城に養子婿として入る等の「乗っ取り事件」も起こっている。
「武力による戦い」とは別に北畠氏のような事が起こる可能性が”伊勢松阪青木氏にとっても無い”とは云えず、この時を含めて「極めて冷静な判断力」を求められていた筈である。
伊勢に限らず賜姓族の青木氏は上記の「5つの違い」の柔軟な「こだわりの無い判断力」が求められていた事が、隣で起こった深い付き合いのあったこの北畠氏で充分に認識していた筈である。
現に、大きく時間を置かずして「丸山城の戦い」が伊勢青木氏との間で起こったのである。
この時の戦いは信長の只一つの「負戦で有名な戦い」で、信長が家臣の面前で指揮官の次男の信雄を罵倒し蟄居されると言う事が起こった。この勝利したのは真にこの家訓7の「こだわり」を捨てた戦略戦術であった。
商人の顔の紙屋長兵衛が全面に出て城構築の材料の買占めから初めて経済的に締め付けて弱らせ、最後は出来上がったばかりの城を伊勢シンジケートを使って城を爆破させてしまうという実に見事で冷静巧妙沈着な戦略戦術を長兵衛は使ったのである。目に見えない相手と戦って信雄は負けたのである。商人として城構築の莫大な材料利益を生み出し、賜姓族としては邪魔な城を潰しその上青木氏は安泰と成っている。
賜姓族とか青木氏とか武士とかの必要以上の「こだわり」だけで有ればこれ程の戦略戦術は浮かばないし成功も無かっただろう。
他にもこの後の同じ「伊賀攻め」でも今度は武士の顔の長兵衛は名張の青蓮寺城と3つの城から中立を装い、商人の顔の長兵衛が伊勢シンジケートを使ってゲリラ作戦で食料調達を困難とさせた上で疲れさせて置き、この伊賀氏の伊賀城が陥落寸前に信雄の軍を側面から突き敗走させると云う戦いを実行した。これでは信長は立場は無いし怒るのも無理が無い。
この後の秀吉はこの事を学習して最後の松阪青木氏等の「伊勢松阪攻め」ではこの「こだわりの無い戦略戦術」を防ぐそれに勝るとも劣らない戦い方をした。そして、戦略家で学者であり青木氏とは繋がりの有った蒲生氏郷を派遣して青木氏を温存したのである。その経済力を潰さずに信長が好んだ西洋風の楽市楽座の出来る日本初の「伊勢松阪の街づくり」を実行したのである。この時青木氏は西洋風の街づくりの「侍屋敷町」の2区画(9番と19番)を与えられて生残ったのである。
普通に「武士のこだわり 執着」で戦っていた場合は今の青木氏は無く、これ程の扱いは氏郷も採れなかった筈であり、救済する大義名分の根拠も言い出せなかった筈である。
この「こだわり 執着」が、戦いながらも勝利し秀吉を学習させて、無傷で生残る事を成し遂げたのである。もとよりこれは「武士商人」の「こだわり」も無かった事を意味するだろう。
「組織の長」の採るべき「精神的な格」(こだわり)を心得ていた結果の勝利なのである。
この戦い方を分析すると「5つの違い」が浮き彫りになる。
兎も角も賜姓族でありながらも、「5つの違い」は左様に「商家」に課せられた立場にあると考えられる。どちらかと云うと「紙屋長兵衛の顔」の方の家訓であろう。
侍的な「難くなさ」が無く添書にも然程に詳しくはない所を観るとこれも(1)から(5)は「商家の家訓」である傾向が強いだろう。
昔、筆者は「こだわり」に対する判断力が無い若い時に、”お前は間違っている”と親父と話す時によく誡められたが、これは「青木氏の伝統」(こだわり 執着)とも云うべき家訓7であった。
何故、間違っているかは大分長い間判らなかった。”間違っている”とはっきり云うのだから”親父には何か明確な根拠が有るのだろう”。それは何か何時も意識していた。
その理解できたきっかけは結婚して「男女の性(さが)」に”「根本的に違う思考原理」が働いている”と云う事が経験を通しても判り、書物による脳科学的にも納得し判った時である。
つまり、そうすると男女の「こだわり」と「拘り」にも”論理的に違いがある事”と云う理解であった。「男の論理主観」と「女の感情主観」から考察すれば「男のこだわり」と「女のこだわり」は本質的に違う事に成る。
そこである時に「家訓添書」に書いていた「仏教の教え」と云う字句に気が留まった。
日々の務めとして「般若心経」を何時も仏壇で何気なしに唱えているが、”どんな内容で唱えているのだろう。”心の経(みち)”の悟りを得た仏を前にして、悟りを開いてもいない生きている者が”「心の経(みち)」を唱えるのはおこがましいのではないか”、”それが何でお経なのか”と次から次へと疑問を抱いた。
筆者の「こだわり」とも云うべき質癖が又もや働いたのである。
「般若心経」の書いている意味を元来持つ字句語意一つ一つを調べてその「字句の総意」を考えたのである。そして、その「傾向分析」を行った。真にその手法も「技術屋の質癖」である
私の結論は次ぎの通りであった。
”この現世の何気ない意思一つ一つが「拘り こだわり」の発露であり、その「拘り こだわり」の保持する「強さ」と保持する「時間」の差異に依って無意識に判別しているものである”と考えた。
”その究極は「有無の定義」であるとし、「有る」とすれば「有る」であり、「無い」とするば「無い」。「有る」を「有る」とする事がそもそもが「拘り こだわり」であり、「無い」を「無い」とするも「拘り こだわり」である。「現世」と「彼世」の差異もこの「仏法の定義」に当て填る。
「般若心経」の全ての行の共通する真意は、その真意には強弱はあるが、この”「拘り こだわり」に捉われるな”であると考えた。その”「拘り こだわり」の誡めの最大の語意の行は「色即是空 空即是色」である”と考えに達した。そして「色不異空 空不異色」との2つの語句が「拘り こだわり」の強い戒めで有ると。
その場、その時で色々な解釈は出来るが、”「色」は「現世」、「空」は「彼世」”と定義する事で
全ての行の一節語句はその意味するところが読み取れる事が判った。
この定義そのものが「拘り こだわり」ではあるが、仏の前で唱える「般若心経」を通じて、”私は不必要な「拘り こだわり」を無くす事を誓い努力します。 ご先祖の仏様ご安心ください。”と。
「色不異空 空不異色」(こだわり)であるのだから、「色」有る世界から色の無い「空」の世界へ「心」を媒体として念じ発している事となるだろう。唱えるはその姿を云う事に成る。
人の現世の生きる目的は「喜怒哀楽」に必ずしもあらず、子孫を遺す事にその一義があり、その一義の為に悪行と成す「こだわり」を捨てる事を誓っている事と成る。
即ち、上記の青木氏存続に関わった史実に観てもその秘訣は、「こだわり」を悟れば「5つの違い」の柔軟な「こだわりの無い冷静な判断力」を培える事にあるのだと考えた訳である。
そこで、此処の世の意志は全て「拘り こだわり」であるとするならば、「拘り」は感情的主観のものとし、「こだわり」は論理的主観のものとして、その思考を狭める「拘り」と「こだわり」は「色」のある現世の中では「人格形成」の一つとして習得せねば成らない「必須条件」としての事柄である。依って、この青木氏の家訓7はこの事を誡めているのだと考えている。
「拘り」も時には子孫存続に間接的に関わることもあるが、「こだわり」は特に誡めておかなくては成らないものと考えている。勿論、「揺ぎ無い目標」とは異なるが。
この「目標」と「夢、希望、願い」は仏法からすると感情主観の「拘り」であるが、その上記「5つの違いの強さ」に起因すると考えられる。依って、仏法の考え方からすると、この「弱い拘り」はむしろ「良質の拘り」であり、「現世で生きる糧」とも成ると説いている。
「5つの違いの強さ」<「目標」
「夢、希望、願い」=「弱い拘り」=「良質の拘り」=「現世で生きる糧」
標記した”「拘り」には全て悪いものではない”としたのはこの仏説に有る。
二つは「こだわり」は頭の使い方が違う事である。
即ち、頭(脳)の使う(働いている)所が違うと云う事である。
それはどう違うのか、以前の家訓でも述べたが、「感情主観の拘り」と「論理主観のこだわり」は本質的に異なる。
「感情主観の拘り」は脳の「前頭葉」の部分に於いて起こり、その「強さと時間」を保有する「拘り」は脳の神経伝達機能網シナプスのスイッチング時間が長く入っている感情の保持状態を云う。
本来の感情保持の時間は0.2-0.5s程度であるのに対してその「拘り」を持ち続ける時間だけスイッチングが保持状態になる。
電気回路で云えば「自己保持状態」である。「自己保持状態」である事から外からの信号に依ってスイッチングを切る以外にはない事に成る。例えば「うつ病」はこのスイッチングが入ったままの状態であり長く入っている事によりエネルギーを多く使い脳のシナプスは疲労しシナプスに被害を受ける状態を指す。
「拘り」はこの状態と類似し「うつ病」より「強さ」の点で弱い事に成る。
これは「自己保持状態」である事から、「外からの環境の変化」を与える事でスイッチングは切れることを意味する。つまり、「拘り」は消えるか弱くなる事に成る。
従って、感情主観に左右される女性の場合はこの「拘り」は消える事が起こる。
論理主観で左右されている男性の場合に於いてもこの感情による「拘り」が起リ得る。
そもそも深層思考が「論理主観」で有る事から、女性特有のこの「拘り」の現象が男性に起こった場合には、「論理性の矛盾」に気付けば、元々感情による「拘り」であるのだから直ぐ霧散する。
元来、男女差の性(さが)は「脳陵帯」で管理されているので「前頭葉」で起こる「感情の強さ」の部分で低いレベルで異なっている為に「拘り」の問題は少ない。
つまり、「拘り」は女性に起こりやすい事は否めないが誰にでも通常に起こっていることを意味する。この「拘り」の範囲は現世の「イザコザ」の範囲であろう。
そうなると、次ぎは「こだわり」である。
「こだわり」は「論理主観」により「錯誤」にて起こっている状況である。
だから、「論理性」を構築する「左脳のデータ」とそれをシナプスで繋いだ「右脳の働きの思考原理」を働かせて「中紀帯」で一つの思考を取りまとめ想像し構築する仕組みの中で論理主観は生まれるである。
この時、蓄積されていたデータに偏りがあった場合には、「右脳の働き」と「中紀帯の働き」とに「間違いの思考」が生まれ、これを「良し」として「こだわり」が「深層思考」として起こる事に成る。
即ち、その保有する「左脳データの信頼度」(1)や、その大脳でシナプスを繋いで「綜合判断をするデータ量」(2)や、その保管されていたデータはそれまでの構築されてきた環境に依って左右される事になるので、その「質の良悪、偏り、偏差値」(3)に依って、直接にその「こだわり」の良悪が左右される事に成る。これはその本人の「質癖の錯誤」と呼べるだろう。
「左脳データの信頼度」(1)「綜合判断をするデータ量」(2)「質の良悪、偏り、偏差値」(3)
この「質癖の錯誤」の「こだわり」が起こるとこれを解消するには(1)(2)(3)を変える以外に無い。
では”この3つを変える事が出来るのか”と云う疑問が湧く。
先ず、”難しい”と云う答えになるだろう。この3つを自ら自覚して直ぐに変える事は出来ない筈である。
なぜならば「左脳データの信頼度」では長年培って来たそのデータ量を急激に変える事は時系列に無理である。
まして、その信頼度はその者の環境とその者の賢明さにもよるだろうから殆ど無理である。
「綜合判断をするデータ量」ではデータ量を急激に増やす事は有り得ないし、その様に人間の脳の記憶を仕分けする「海馬の仕組み」はその様に出来ていない。間違い無く無理である。
「質の良悪、偏り、偏差値」は(1)(2)に左右される事からこれだけを良くする事は論理的に無理である。
これは、その「こだわり」を持った者の人生に大きく関わる問題である。その生きて来た環境に左右される問題である。余程の「左脳のデータを消滅させられるだけの衝撃」が無くては困難である事は容易に判る。その衝撃に「人間の精神」は持つとは思えない。
まして、この上記3つは個人の保有する「先天的資質」に左右されるもので誰でもが「確実で良質」な「こだわり」を持つ事の可能性は低いだろう。
多くはこの「こだわり」は終局は(3)の影響を大きく受ける事に成るだろう。
故に、仏法では「縁無き衆生動し難し」として説いている。
”無理な者は元々無理なんだ。 理想にかまけて「こだわり」を起してはならない。それこそが「こだわり」なんだ、錯誤なんだ”。と。
又、仏法では”「人を見て法を説け」”とまで云っている。
だとすれば、”どうすればよいのだ、「こだわる」な。人を観てその人なりに合わせて其れなりに説けばよいのだ。”と。”肩を張って考えるのはそれこそが「こだわり」なんだ。「こだわり」の持った者が説くことに意味は無いのだ。”と説いている。
だから衆生が「般若心経」を仏前で唱えるのはここにある。
”先ずは無心に唱える事から始まるのだ、「こだわるな」「こだわるな」”と自問自答自責して仏の前で懺悔している姿なのである。
皆、衆生が「確実で良質」な「こだわり」を持ち得ているのであれば仏前で唱える必要も無く仏も心配はないだろう。「般若心経」の様な「心の路」のお経を作る事は無かった筈であろう。
だから、この現世は「こだわり」の世界にして「こだわり」を抑える事の戒めを解いている事になるであろう。
論理主観のこの「こだわり」はその「深層思考の性の定め」により主に男性によるものであろうが、女性にはこの「こだわり」はその「性の目的」(産み育てる本能)から先ず有り得ない。もし、仮にあるとすると「こだわり」の錯誤が起これば子孫は育たない事になる。
「神」は矛盾するその様な「性(さが)」を作る筈が無い。
男女ともに”人はどんなに優れていたとしてもこの「神」から受けた性(さが)から抜け出せる者はこの現世にはいない”という事である。居るとすればその者は「現世の神」である。
この様に「人生」は「拘りとこだわり」であるとしても過言ではあるまい。
況や、殆ど「拘りとこだわり」の間に垣間見れる「喜楽」の中に生きていて、「怒哀」はこの「拘りとこだわり」の産物と成るのではないか。
その「拘りとこだわり」の大小が「怒哀」の大小と成り得ているのであろう。
だとすれば、この「拘りとこだわり」を小さくする事で「喜楽」が増え、「怒哀」は小さくなる。この「拘りとこだわり」のこれを「抑える努力を試みる事」が「現世の幸せ」を大きく享受する事になるであろう。
それを「般若心経」は現世に於いて色々な人間の性(さが)が持つ「五感」との「五体の機能」を使って表現して判りやすく誡めているのであろう。
そして、仏教では「拘りとこだわり」(執着)は「108つの煩悩」として具体的に細かく分けているのである。
人である限りに於いてこの「108つの煩悩」を無くす事は不可能であるが、幾つかでもより多く抑える努力は可能である筈。それが「人格形成」と言う事に成る。
この「108つの煩悩」は感情主観による「拘り」の産物であるが、この家訓7の戒めは上記する論理主観の「左脳データの信頼度」(1)「綜合判断をするデータ量」(2)「質の良悪、偏り、偏差値」(3)から起こる「錯誤のこだわり」を誡めている。
当然に、この「108つの煩悩」(執着 拘り)の中で生きているのであるから、全く無縁であるとは云えない。「幾つかでもより多く抑える努力」が高いレベルで成し得ている事、即ち「人格形成」が成し得ている事がその前提にはなるだろう。
この現世では「108つの煩悩」(執着 拘り)の何割で「人格形成」が成し得ていると云われるかは判らないが、多い方が良いに越している。それでなくてはこの「論理主観のこだわり」を[抑える力」は出て来ないであろう。
この”「108つの煩悩」(執着 拘り)の「抑える力」と「論理主観のこだわり」は逆比例する。”と考えている。
「108つの煩悩」(現世 執着1 拘り 感情主観)<=「人格形成」
「左脳データの信頼度」(1)
「綜合判断をするデータ量」(2)
「質の良悪、偏り、偏差」(3)
(1)+(2)+(3)=「錯誤」(現世 執着2 こだわり 論理主観)
「錯誤」の抑止=「人格形成」(人間形成)
「拘り」(感情主観)<「こだわり」(論理主観)
平易に云えば、脳医学では「統一・一貫性の抑止」と云うらしいのだが、「拘りの抑止」(人間形成 人格形成)は「こだわりの抑止」の基盤になると考えられる。そして、仮にこれが成し得られたとすると、一段上の「人格形成」を得た人物と成り得るのであろう。この時、それが「品格の形成」を成し遂げた事を意味する。
この家訓7は家訓6と類似するが、敢えて家訓6で「人間形成」が成し得られたとしても、更にその”「品格の形成」を成すには家訓7を会得(悟り)しなくてはならない”としたのであろう。
青木氏の「長」としての条件として、”「人間形成」だけでは「品格」は得られない。「悟り」で「品格」を得よ”とより厳しく求めたものであろう。
故に、此処に「伊勢青木氏が置かれていた立場の長」としてのこの「家訓7の会得」を子孫に求めている事であると考える。
添書では仏教的な事柄が書かれているこの家訓7ではあるが、上記する数式論になるであろう。
それを顕著に表すのが、上記する信長との「天正の3つの戦い」に現れていると思われる。故にこの家訓の説明では何度も引用記述しているが、この有名な史実の事を判りやすくする為に「標語の形」として子孫に明確に言伝えているのであろう。これを子孫に悟らす為に。
三つは「こだわり」と「拘り」を区別している事。
この「長」に求めた2つの戒め「拘りとこだわり」の事に違いを敢えて求めているのは、”「拘り」の範囲に留める場合は上記する一段上とされる「品格の形成」は無い”と観ていたからに違いない。
恐らくは、この厳しさは「長い青木氏の歴史の所以」であろう。
だから1365年以上も生き延びられたのである。
「信長との戦い」の口伝があるのは”見事勝った”だけの意味では無く、”織田氏の様に急に興きて急に滅びる所以”も伝える意味をあったのであろう。
つまり、室町期の青木氏の先祖は、織田氏には「家訓6、7」に値するものが無かったからに過ぎないとして観ていた。故に、青木氏としての「家訓心得」を以って全身全霊で戦えば、飛ぶ鳥を落とす勢いのある信長と云えども”潰す事は出来なくても勝てると見抜いていた”事になる。
ただ、「皇族賜姓族の誉れ」に安住しての青木氏であればたちどころに滅びたであろう。
ところが、伊勢青木氏を始めとして一族親交の深かった信濃青木氏までも子孫を遺し得ているのは、この家訓の「人間形成」と「品格形成」に依って沈着冷静な判断が可能となり生き延びたことを意味するのである。
四つは「こだわり」は「長」としての「戒め」である事。
それは、この家訓6と家訓7の戒めは、伊勢、美濃、信濃の青木一族を束ねていた長の「紙屋長兵衛」に有る。
「2足の草鞋策」の「商い」が、「皇族賜姓族の誉れに安住」させなかったのである。
家訓6よりも更に家訓7を求め、更に「拘りとこだわり」の戒めを「長」に求めていた事にある。
仮に、史実から信長と長兵衛を比較すると次ぎの様に成る。
経済力からの考察からすると、家康も名古屋城で秀忠の本軍の遅れを待つとして一時徳川軍を留めて、それを理由に伊勢路の確保の為に伊勢青木氏の合力を求めてきた程の伊勢の豪商紙屋長兵衛である。経済力の大きさは堺の貿易と松阪の商いから信長とほぼ互角で有ったであろう。
信長も「楽市楽座」の制度を推し進めた人物である。そうすると直ぐ近所の伊勢松阪の紙屋長兵衛の事は知っていた筈である。当然、伊勢攻めを命じたのであるから、賜姓族青木氏の事も名張の青蓮寺城を始めとした3つの城持ちである青木民部上尉信忠の事も知っていた筈である。
ただこの「2つの顔持ち」である事は判っていたかは疑問である。
長兵衛が仲介者を通じて材木の商談を持ち込んだのに対して知っていれば警戒する筈であるが結果としてしなかった事に成る。織田信雄も家臣の滝川一益も知らなかったのであるから。
つまり、紙屋長兵衛と青木長兵衛は同じである事を知っていたとするとこの戦略戦術はもとより成り立たない事に成る。青木氏側も知らないだろうと予測し、現実に織田氏側も知らなかった事に成る。
知っていて騙される馬鹿は戦国の時代には居ないであろう。彼の有名な知者の滝川一益も補佐しての戦いでもある。「商人の顔」の長兵衛の経済力だけと観ていただけにその経済力効果がより大きい事に成る。
次ぎは軍事力の検証である。
兵力は資料から江戸初期前には250程度と記録されている。
この戦いに”「不入不倫の権」で護られている賜姓族だから静かにしているだろう”と踏んでいた事に成る。「伊賀の戦い」、「永嶋の戦い」によもや参戦するとは考えも無かった事に成る。
しかし、「商人の顔」の長兵衛が裏で暗躍していたのである。そうすると目に見えない「伊勢シンジケート」の戦力が既に戦い前に暗躍していた事に成る。信長のお膝元の岐阜の「信濃シンジケート」も伊勢青木氏とは連携を採っていたとされるので事前に動いていた事にも成る。当然に信濃の動きも情報として伊勢には入っている。
堺には大店を構えているし、信長の膝元には「楽市楽座」で仲間の豪商が入り込み信長軍との取引上から詳細な動向は掴んでいた事にも成る。
つまり、「情報戦」と「ゲリラ戦」で青木氏の方が先んじていた事に成る。
だから、海辺に面した丸山城構築の情報が入り、逸早くそれにシンジケートの大工や人夫を忍び込ませる事が出来ていたから天守閣から爆破されたのである。これは充分に「情報戦」に勝っていた事に成る。当然に事前に材木等の戦需品の買占めも出来た事からも判る。
後は「直接戦」の兵力は1/50となるが「戦わないで勝つ方法」を編み出していたのであるから問題は無く成る。当時からすると全く新しい戦法で「近代戦法」を敷いた事なのである。
つまり、「経済力」を全面に押し出した「戦い方」である。
シンジケートも「武力」で繋がるのではなく、「闇の元締め」を元に小さい小豪族や戦いで敗れた一族などを「経済的な裏付」で組織化して、お互いに一族や組織を護り合うシステムなのである。
豪商はそのシステムを利用して商品運搬の護衛や取引の安全等を担保に経済的な支援も行う互助組織である。山陸海にその組織を構築していたのである。
この組織を通じてすれば「ゲリラ戦」「情報戦」は山陸海をくもの巣の様に実行できる。
そして、そのシンジケートと他のシンジケートとが結ぶと領主どころの「武力や経済力の勢力」ではない。到底及ばない「広域の力」と成る。そして、相手が「闇の組織」であり見えない為に攻撃が出来ないのである。
しかし、秀吉だけはこの事を蜂須賀小六の子分の時に学んだ「ゲリラ戦」と「堺の商人」との付き合いから「経済力を使った情報戦」の事は良く知っていたのである。
(この小六等も今宮神社のシンジケートのこの一員であった。)
その証拠に、史実では信長には秀吉から、鉄砲入手の時に「今宮神社」の「闇の元締め」のシンジケートの有る事を教えられていた。そのお陰で紀州の「雑賀衆」から3000丁の鉄砲とその戦法を獲得でき武田軍に勝てたのである。とすると、信長はこの「近代戦法」を採用しながら、青木氏との戦いでは、この事の「ゲリラ戦」と「情報戦」の警戒はしていたと観るのが普通であろう、
しかし、「天正の乱」(3乱)は何故なのか疑問である。
恐らくは、信長は、後にこの戦法を使う事を得意とする「職業武力集団」雑賀衆と敵対するが、これが何かを物語っている。逆に家康はこの時に直様この「雑賀軍団」と手を組んだのである。
家康は何故組んだのかも疑問である。
この2つの疑問の鍵が答えに成るだろう。
そして、対比して家康は、青木氏との戦い方も観ており、且つ、豊臣との戦いの時には名古屋城でこの「伊勢路の確保」とその「青木氏の経済力とシンジケート」を味方に取り入れる事を合作し「ゲリラ戦」と「情報戦」を「戦いの本質」(前哨戦)と捉えていた事に成る。
つまり、”豪商の「影の戦い」で8割は決まる。”と家康は判断していたことに成る。
此処に信長と家康の違いが出たのは両者の「生い立ち」による「こだわりの悟り」の差が出た事を意味する。経緯からする偶然にそうなったのではない。信長の行動を観て直ぐに「雑賀衆の取り込み」に家康は行動した事でも「こだわり」を無くして冷静に判断していた事に成る。
信長が本能寺で明智光秀に打たれた時、家康は堺の商人の家に居たことからも判る。このゲリラ戦と「情報戦」の近代戦法の重要さを知って豪商に下工作をしていたのである。
信長と光秀の戦いは「情報戦」から既に家康は承知して予測しての下工作であったと考える。
そうなると、だから家康は、この戦法を得意として駆使した「戦わずして勝つ」の秀吉の死ぬのを待ったのである。
つまり、「こだわり」を捨てていた「冷静沈着な判断」「長の心得」を家康も秀吉も悟っていた事に成る。問題は信長である。
つまり、学習していたが、信長はこの「ゲリラ戦」と「情報戦」が嫌いであった。”性分に合わない”と排除していた事になる。
これは信長の生い立ちと性格から、又、「比叡山の焼き討ち」から観ても上記する環境(5つの間違い)が左右し、明智光秀の扱いにしても判るが「品格形成」更には「人間形成」のところに歪みが生まれていたのである。此処が、「長のこだわり」なのである。つまり、信長はこの「こだわり」を捨てなかった事に成る。むしろ、「こだわり」に「こだわった」のではないか。
長兵衛は千石船3隻を保有しているし、伊勢湾の丸山地区の海辺の城は海を抑えれば城の効果は半減する。では何故海辺の側に城を築こうとしたのか疑問と成る。
欠点は陸から攻められれば背後は無い。利点は補給路を確保出来る。
この当時の城は戦術上「山と川」を前提としていた。「山は護り、川は補給」である。
この考えからすると、「川」の代わりを「海」としたのではないか。
この当時には伊勢には11の城があった。真ん中から入ると周囲から囲まれ補給が困難と成る。
つまり、伊勢シンジケートと信濃シンジケートのゲリラ戦で挟撃されて補給路を立たれるし、11の城から囲まれる可能性が高い。これを打ち破るには10万の大軍が必要である。
信長には各地で戦線を広げていた事からその兵力を伊勢攻めに割く余裕は無かった。
何故10万なのかと云う事である。
実はこの例と同じ事が「南北朝」時代に起こっているのである。
新田義貞軍と足利軍の鎌倉幕府10万の兵を用いて天皇側に味方した楠木正成の3千の軍と対峙した戦いがあった。それも伊勢の横である。
そしてその戦いは正成の「情報戦」と「ゲリラ戦」であったし、その「ゲリラ戦」と「情報戦」は伊勢シンジケートに依るものであった事と、正成はその伊勢シンジケートの田舎の小豪族の一員であった事は有名な史実である。
恐らくはこの時、そのシンジケートの元締めの当時の青木長兵衛の配下と成り経済的支援を受けていた事に成る。そして、結果は10万の軍はシンジケートの「ゲリラ戦」で水と食料路を断たれて確保出来ずに餓死して敗退したのである。周囲を山に囲まれた地形である。そして、山の上で谷川を持つ城を背景に篭城戦を繰り返した。山城にはシンジケートが武器と食料を補給する。10万の軍は水と食料で飢える。この敗退した史実の学習は承知していた筈である。
この歴史的な史実を知っていた為に、伊勢シンジケートを警戒していた事に成る。だから海辺に構築しようとしたのであろう。城作りの常識を破り海から補強しながら中に戦線を広げながら攻め入る戦略であったのであろう。
これでも判る様に、信長は有る程度の戦略的な戦い方の事はこの海辺の城作りから観ても知っていた事を物語る。
これに対して青木氏側は自らも船を持ちながら海の支配を商人として持っている。陸の豪族の信長にはこの海の支配権は無かった。仮に信長に広域に補給路を抑えられたとしても海からのシンジケートを使って補給できる。また逆に織田軍の補給を抑える事も出来る。
この様に検証すると、何よりも計り知れないのは「伊勢シンジケート」と「信濃シンジケート」との連携ではほぼ互角に近かったのでは無いか。
だから、豊臣氏との戦いで家康は上記する様に伊勢青木氏に合力を求めてきたのである。
そうなると信長と青木氏との戦いは後は「戦い方」に成る。
当然に、「商いの経済力」で締め上げ、「シンジケート」で周囲から「ゲリラ戦」を駆使すれば勝てる。最も愚昧戦なのは「直接戦」である。
これでは仮に勝てたとしても被害も大きい。史実は明らかのように「ゲリラ戦」であり被害は殆どなしである。
だから信長は知っていての悔しさの余り自分に腹を立て、その腹いせに家臣の面前で次男を叩き罵倒し蟄居させてしまったのである。信長は「自分の至らなさ」に気がついたのであろう。
しかし、最早遅い。歴史的に観ればこの事が皮肉にも疎んじられた次男の織田信雄だけが生き延びて子孫を遺したのである。(子孫はスケートの織田信成)秀吉の茶友で家康の茶友として生き延びたのである。信長に取って観れば、「不幸中の幸い」であった。
つまり、言い換えれば信雄は青木氏の御蔭で生き延びた事が云える。
信長は結局、この「天正の戦い」で3つの失敗を起した事に成る。
「長」として求められる「人間形成」はもとより「品格形成」に欠けていた。
生い立ちに打つ勝つ事が出来ずに「こだわり」に「こだわった」事にある。
1 「直接戦」を好み「シンジケート力」の「ゲリラ戦」「情報戦」の力を見誤った。
2 「武力戦」に過信し「商人の力」「経済戦」を軽視した。
ここで、「シンジケート」の史実を述べ立てたが、真にこの「シンジケート」を維持出来る事は経済的な繋がりはあるとしても、全て「人」である。ここにそれだけでは成り立たない一つの要素がある。それが「長」として「こだわり」を抑えた事によって「品格を得た者」に成し得る要素なのである。そして、その組織が「大きな力」を発揮し得るのである。
ここが「信長」に成し得なかった事なのであり、強い「こだわり」により「深い思考を巡らす能力」を会得できずに「軽視」していた事を意味するのである。
比較する家康も、この史実は信長の面前で観ていたので知っているから、学習して伊勢青木氏の力の有り様を知り青木氏との連携に力を注いだのである。
同じ学習した秀吉も只一度「直接戦」をして陸奥の豪族を叩くために「ゲリラ戦」にしびれを切らし、その時の指揮官は「蒲生氏郷」であるが直命して「直接戦」で失敗して3千の兵に惨敗している。
その反省として「小田原城攻め」が物語っている。
だから、更に学習した秀吉は松阪を攻略する時にこの氏郷を廻した理由の一つなのである。
その証拠に、徳川氏の天下に成って、家康の子の頼宣を紀州の藩主として差し向けた時も先ず松阪の青木氏との面談を行った。この時の様子も口伝で伝えられていて「上座」を青木長兵衛に譲ったと伝えられている。
紀州藩三代目の妾子出(巨勢氏)で後の将軍8代目吉宗が部屋住みの時、伊勢の加納家に預け親族関係にあった伊勢青木の後見として育った。将軍に成った時、伊勢青木氏で豪商紙屋長兵衛の子供を江戸に引き連れて「享保の改革」を実行させ、更には紀州藩にも長兵衛の子供を配置させて藩財政を立て直させた経緯を江戸幕府に見せ付けて、幕府の「享保の改革」を断行したのである。
筆者祖父の時代まで大正14年まで親交があった。絵画、書道、茶道、漢詩、禅道、商道などを藩主と藩士に代々教授した事が伝えられ、その徳川氏からの返礼として豪商青木長兵衛に紀州藩より十二人扶持米(1年間12人が食べてゆける石高)を与えられていたことが記録に残っている。
つまり、青木氏の「皇族賜姓族の誉れに安住」だけでは、最早、藤原秀郷の末裔で人格者で学者で歌人で戦略家であった蒲生氏郷も、徳川時代に成って紀州徳川氏も、代々これ程までに扱わなかったであろう。
これは誉れだけではない。家訓の教えに従い「こだわり」を押さえ「品格」を獲得し「見えない力」を会得したからこその所以である。
結論
この様に、”「人間形成」とその上の「品格形成」は「人を呼ぶ」事で「発展」するが、「こだわりの力」と「権力、力の形成」は「人を遠ざける」で「衰退」する。決して間違っては成らない。現世はこの条理で動いている。”況や、!成蹊の人たれ”即ち”「こだわり」を捨てた人たれ”である。これが添書の言い分である。
上記の史実が殊更に青木氏に口伝化されているのはここにあり、家訓6と家訓7の「長の戒め」が判断を間違えずに歴史上に無かった新しい戦い方で、冷静に処理し「長」としての「戒め」の勤めを果たした事を意味する。又、その後の徳川時代にも上記の素晴らしい生き延び方を図った事を物語っている。
これ全て家訓6と家訓7が伊勢青木氏を形成していた事の所以になる。
伊勢に築づいた城(館城、廓城、櫓城、寺城、山城を含む)
伊勢青木氏の城
(・は伊勢青木氏の城)
・柏原城(奈良)、・名張城(奈良)、・青蓮寺城(奈良)、・桜町城(摂津)、
・桜町中将城(奈良)、・四日市羽津城(三重)、・四日市蒔田城(三重)、・浜田城(愛知)、
・福地城(三重桑名)、・脇出城(三重松阪)、・青木山城(三重松阪)、
・松阪館城(三重松阪)
・柏野城(三重伊賀)、・阿山城(三重伊賀)、
藤原秀郷流青木氏(伊勢)
滝川城、須賀川城、
丸山城(三重 織田氏)、
次ぎは家訓8に続く。
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投稿者:福管理人 投稿日:2010/05/01(Sat) 16:58:55
家訓7
伊勢青木氏の家訓10訓
以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。
家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。
家訓1は「夫婦の戒め」
家訓2は「親子の戒め」
家訓3は「行動の戒め」
家訓4は「性(さが)の戒め」
家訓5は「対人の戒め」
家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
「品格の戒め」である。
この家訓7は「執着」つまり「こだわり」であると考えている。
「執着」は兎角悪く考えられがちであろうが、そうでも無い事もある。
人生に於いて苦難が多く立ち向かう。この様な時に「執着」無しでは生きていられない事もあり、それに依って苦難から幸せの扉を開く事も出来る場合もある。むしろこの場合の方が多いのかもしれない。だから、最近では、世間ではこれをむしろ煽っている向きもある。その例えの言葉として「拘りの一品」とか「拘りの・・」とかの流行言葉も出ている。
しかし、ここで云う家訓7は「こだわり」は「拘り」ではない。敢えてその違いが有るから分けて論じることとする。
人間は物事を考える場合、脳は「拘り」を持つと幅広く思考範囲を広げてその上で適切な判断を下せ無くなる「性」を持っている。狭い範囲で思考する事で正しい対処が出来なくなり人生の難業苦難に引き込まれる場合が多い。そして、狭い範囲の思考から抜け出す事が出来ず、そのような「悪のスパイラル」に陥るのである。
まして、昨今の様な科学文明が起こり「合理的な判断」無しでは正しくものが成せ得ない事に成る時代である。
科学は「合理」で成りたっているからだ。この様な時代に「主観的な拘り」を持つ事はそれだけに逆行に成り思考範囲が針の様に狭くなるだろう。
特に「感情主観」の強い傾向の持つ範囲ではこれが起こりやすい。
特に、前の家訓のところで述べた脳の一部の「性」(さが)を司る「脳陵帯」で管理されている「女性の深層思考の原理」(感情主観:感情-勘定-妥協)から観るとこの傾向が強く成るだろう。
男性に於いても「論理思考の原理」では論理的に間違うとそれを正しいとして過剰な「拘り」を強く持ちすぎる傾向があり、むしろ「女性の拘り」よりも厄介であり危険である。
女性の場合は元々揺れ動く「感情主観」であるので「環境」が変わると「他の感情」に移る事も起こり得て「拘り」は消えうせるであろうし「性(さが)」の定めに依ってその様に神は仕組んでいる。
しかし、男性は「論理の錯誤」を起している事から「環境」が変化してもその「錯誤」に気が付かない限りは「拘り」から抜け出させない「質癖」を持っている。
勿論、男性も「性(さが)」の定めに依ってその様に神は仕組んでいる。厄介な宿命の「性(さが)」の定めであろう。
むしろ女性の「拘り」に比べて個人の範囲に留まらず周囲にその「悪の影響」を及ぼしてしまう危険性を持っている。あらゆる「争い」の主因とも成っている。
この「男性の拘り」にはここが問題なのである。この家訓7はこの点を指摘しているのである。
この家訓7が説く意味は次ぎのことによるだろう。
一つは「こだわり」と「目標(目的、狙い)」とは違う事。
二つは「こだわり」は「頭の使い方」如何である事。
三つは「こだわり」と「拘り」を区別している事。
四つは「こだわり」は「長」としての「戒め」である事。
先ず、一つ目の”「拘り」(こだわり)と目標(目的、狙い)とは違う事”付いて考えてみる。
心に固く決めた揺るぎ難い「目標」はその進める過程には長期的で「論理的な戦略と仔細な戦術」を保持しているものである。
一見すると、「こだわり」と「目標」は何れもこの”心に決めた揺るぎ難いもの”を持っている様に観える。しかし、良く観察して見ると何か違う。
それは「戦略と戦術の有無の差」(1)が起こる。しかし「こだわり」はこれが「殆どゼロ」であり特に戦略は観られない。
そして、それは達成されるとその目標は「解消」はされる(2)。しかし「こだわり」は解消する事はすくない。
更には、過程では揺るぎ難い「目標」は「臨機応変」に変化させる事がある(3)。しかし「こだわり」は周辺と進行過程の変化に対して頑なに盲目である。
目標は衆議に対して「賛同」が得られる(4)。しかし、「こだわり」は個人性が強く衆議に弱い。
揺るぎ難い「目標」は周囲に「弊害」を生まない(5)。しかし「こだわり」は兎角に「弊害」を生む。
この「5つの違い」がある。
この家訓7は揺るぎ難い「目標」を持つ事を否定していない。むしろ、「こだわり」を否定する事で人生に於いて揺るぎ難い「目標」を持つ事を求めているのである。
「戦略と戦術の有無の差」(1)「解消」(2)「臨機応変」(3)「賛同」(4)「弊害」(5)
この「5つの違い」が「目標」と「こだわり」と区別されている。
これは「青木氏」の歴史的な背景から観ると、「賜姓族侍」の一面と「商人」の面も持ち得ている内容である。どちらかと云うと「商家」に成るのではないだろうか。
伊勢青木氏は「不入不倫の権」で護られながらも、室町末期からは少なくともこの「権」が弱く成っていた事は明らかであり、同じ東伊勢の村上源氏の末裔の北畠氏が信長に騙まし討ちされ織田信雄が城に養子婿として入る等の「乗っ取り事件」も起こっている。
「武力による戦い」とは別に北畠氏のような事が起こる可能性が”伊勢松阪青木氏にとっても無い”とは云えず、この時を含めて「極めて冷静な判断力」を求められていた筈である。
伊勢に限らず賜姓族の青木氏は上記の「5つの違い」の柔軟な「こだわりの無い判断力」が求められていた事が、隣で起こった深い付き合いのあったこの北畠氏で充分に認識していた筈である。
現に、大きく時間を置かずして「丸山城の戦い」が伊勢青木氏との間で起こったのである。
この時の戦いは信長の只一つの「負戦で有名な戦い」で、信長が家臣の面前で指揮官の次男の信雄を罵倒し蟄居されると言う事が起こった。この勝利したのは真にこの家訓7の「こだわり」を捨てた戦略戦術であった。
商人の顔の紙屋長兵衛が全面に出て城構築の材料の買占めから初めて経済的に締め付けて弱らせ、最後は出来上がったばかりの城を伊勢シンジケートを使って城を爆破させてしまうという実に見事で冷静巧妙沈着な戦略戦術を長兵衛は使ったのである。目に見えない相手と戦って信雄は負けたのである。商人として城構築の莫大な材料利益を生み出し、賜姓族としては邪魔な城を潰しその上青木氏は安泰と成っている。
賜姓族とか青木氏とか武士とかの必要以上の「こだわり」だけで有ればこれ程の戦略戦術は浮かばないし成功も無かっただろう。
他にもこの後の同じ「伊賀攻め」でも今度は武士の顔の長兵衛は名張の青蓮寺城と3つの城から中立を装い、商人の顔の長兵衛が伊勢シンジケートを使ってゲリラ作戦で食料調達を困難とさせた上で疲れさせて置き、この伊賀氏の伊賀城が陥落寸前に信雄の軍を側面から突き敗走させると云う戦いを実行した。これでは信長は立場は無いし怒るのも無理が無い。
この後の秀吉はこの事を学習して最後の松阪青木氏等の「伊勢松阪攻め」ではこの「こだわりの無い戦略戦術」を防ぐそれに勝るとも劣らない戦い方をした。そして、戦略家で学者であり青木氏とは繋がりの有った蒲生氏郷を派遣して青木氏を温存したのである。その経済力を潰さずに信長が好んだ西洋風の楽市楽座の出来る日本初の「伊勢松阪の街づくり」を実行したのである。この時青木氏は西洋風の街づくりの「侍屋敷町」の2区画(9番と19番)を与えられて生残ったのである。
普通に「武士のこだわり 執着」で戦っていた場合は今の青木氏は無く、これ程の扱いは氏郷も採れなかった筈であり、救済する大義名分の根拠も言い出せなかった筈である。
この「こだわり 執着」が、戦いながらも勝利し秀吉を学習させて、無傷で生残る事を成し遂げたのである。もとよりこれは「武士商人」の「こだわり」も無かった事を意味するだろう。
「組織の長」の採るべき「精神的な格」(こだわり)を心得ていた結果の勝利なのである。
この戦い方を分析すると「5つの違い」が浮き彫りになる。
兎も角も賜姓族でありながらも、「5つの違い」は左様に「商家」に課せられた立場にあると考えられる。どちらかと云うと「紙屋長兵衛の顔」の方の家訓であろう。
侍的な「難くなさ」が無く添書にも然程に詳しくはない所を観るとこれも(1)から(5)は「商家の家訓」である傾向が強いだろう。
昔、筆者は「こだわり」に対する判断力が無い若い時に、”お前は間違っている”と親父と話す時によく誡められたが、これは「青木氏の伝統」(こだわり 執着)とも云うべき家訓7であった。
何故、間違っているかは大分長い間判らなかった。”間違っている”とはっきり云うのだから”親父には何か明確な根拠が有るのだろう”。それは何か何時も意識していた。
その理解できたきっかけは結婚して「男女の性(さが)」に”「根本的に違う思考原理」が働いている”と云う事が経験を通しても判り、書物による脳科学的にも納得し判った時である。
つまり、そうすると男女の「こだわり」と「拘り」にも”論理的に違いがある事”と云う理解であった。「男の論理主観」と「女の感情主観」から考察すれば「男のこだわり」と「女のこだわり」は本質的に違う事に成る。
そこである時に「家訓添書」に書いていた「仏教の教え」と云う字句に気が留まった。
日々の務めとして「般若心経」を何時も仏壇で何気なしに唱えているが、”どんな内容で唱えているのだろう。”心の経(みち)”の悟りを得た仏を前にして、悟りを開いてもいない生きている者が”「心の経(みち)」を唱えるのはおこがましいのではないか”、”それが何でお経なのか”と次から次へと疑問を抱いた。
筆者の「こだわり」とも云うべき質癖が又もや働いたのである。
「般若心経」の書いている意味を元来持つ字句語意一つ一つを調べてその「字句の総意」を考えたのである。そして、その「傾向分析」を行った。真にその手法も「技術屋の質癖」である
私の結論は次ぎの通りであった。
”この現世の何気ない意思一つ一つが「拘り こだわり」の発露であり、その「拘り こだわり」の保持する「強さ」と保持する「時間」の差異に依って無意識に判別しているものである”と考えた。
”その究極は「有無の定義」であるとし、「有る」とすれば「有る」であり、「無い」とするば「無い」。「有る」を「有る」とする事がそもそもが「拘り こだわり」であり、「無い」を「無い」とするも「拘り こだわり」である。「現世」と「彼世」の差異もこの「仏法の定義」に当て填る。
「般若心経」の全ての行の共通する真意は、その真意には強弱はあるが、この”「拘り こだわり」に捉われるな”であると考えた。その”「拘り こだわり」の誡めの最大の語意の行は「色即是空 空即是色」である”と考えに達した。そして「色不異空 空不異色」との2つの語句が「拘り こだわり」の強い戒めで有ると。
その場、その時で色々な解釈は出来るが、”「色」は「現世」、「空」は「彼世」”と定義する事で
全ての行の一節語句はその意味するところが読み取れる事が判った。
この定義そのものが「拘り こだわり」ではあるが、仏の前で唱える「般若心経」を通じて、”私は不必要な「拘り こだわり」を無くす事を誓い努力します。 ご先祖の仏様ご安心ください。”と。
「色不異空 空不異色」(こだわり)であるのだから、「色」有る世界から色の無い「空」の世界へ「心」を媒体として念じ発している事となるだろう。唱えるはその姿を云う事に成る。
人の現世の生きる目的は「喜怒哀楽」に必ずしもあらず、子孫を遺す事にその一義があり、その一義の為に悪行と成す「こだわり」を捨てる事を誓っている事と成る。
即ち、上記の青木氏存続に関わった史実に観てもその秘訣は、「こだわり」を悟れば「5つの違い」の柔軟な「こだわりの無い冷静な判断力」を培える事にあるのだと考えた訳である。
そこで、此処の世の意志は全て「拘り こだわり」であるとするならば、「拘り」は感情的主観のものとし、「こだわり」は論理的主観のものとして、その思考を狭める「拘り」と「こだわり」は「色」のある現世の中では「人格形成」の一つとして習得せねば成らない「必須条件」としての事柄である。依って、この青木氏の家訓7はこの事を誡めているのだと考えている。
「拘り」も時には子孫存続に間接的に関わることもあるが、「こだわり」は特に誡めておかなくては成らないものと考えている。勿論、「揺ぎ無い目標」とは異なるが。
この「目標」と「夢、希望、願い」は仏法からすると感情主観の「拘り」であるが、その上記「5つの違いの強さ」に起因すると考えられる。依って、仏法の考え方からすると、この「弱い拘り」はむしろ「良質の拘り」であり、「現世で生きる糧」とも成ると説いている。
「5つの違いの強さ」<「目標」
「夢、希望、願い」=「弱い拘り」=「良質の拘り」=「現世で生きる糧」
標記した”「拘り」には全て悪いものではない”としたのはこの仏説に有る。
二つは「こだわり」は頭の使い方が違う事である。
即ち、頭(脳)の使う(働いている)所が違うと云う事である。
それはどう違うのか、以前の家訓でも述べたが、「感情主観の拘り」と「論理主観のこだわり」は本質的に異なる。
「感情主観の拘り」は脳の「前頭葉」の部分に於いて起こり、その「強さと時間」を保有する「拘り」は脳の神経伝達機能網シナプスのスイッチング時間が長く入っている感情の保持状態を云う。
本来の感情保持の時間は0.2-0.5s程度であるのに対してその「拘り」を持ち続ける時間だけスイッチングが保持状態になる。
電気回路で云えば「自己保持状態」である。「自己保持状態」である事から外からの信号に依ってスイッチングを切る以外にはない事に成る。例えば「うつ病」はこのスイッチングが入ったままの状態であり長く入っている事によりエネルギーを多く使い脳のシナプスは疲労しシナプスに被害を受ける状態を指す。
「拘り」はこの状態と類似し「うつ病」より「強さ」の点で弱い事に成る。
これは「自己保持状態」である事から、「外からの環境の変化」を与える事でスイッチングは切れることを意味する。つまり、「拘り」は消えるか弱くなる事に成る。
従って、感情主観に左右される女性の場合はこの「拘り」は消える事が起こる。
論理主観で左右されている男性の場合に於いてもこの感情による「拘り」が起リ得る。
そもそも深層思考が「論理主観」で有る事から、女性特有のこの「拘り」の現象が男性に起こった場合には、「論理性の矛盾」に気付けば、元々感情による「拘り」であるのだから直ぐ霧散する。
元来、男女差の性(さが)は「脳陵帯」で管理されているので「前頭葉」で起こる「感情の強さ」の部分で低いレベルで異なっている為に「拘り」の問題は少ない。
つまり、「拘り」は女性に起こりやすい事は否めないが誰にでも通常に起こっていることを意味する。この「拘り」の範囲は現世の「イザコザ」の範囲であろう。
そうなると、次ぎは「こだわり」である。
「こだわり」は「論理主観」により「錯誤」にて起こっている状況である。
だから、「論理性」を構築する「左脳のデータ」とそれをシナプスで繋いだ「右脳の働きの思考原理」を働かせて「中紀帯」で一つの思考を取りまとめ想像し構築する仕組みの中で論理主観は生まれるである。
この時、蓄積されていたデータに偏りがあった場合には、「右脳の働き」と「中紀帯の働き」とに「間違いの思考」が生まれ、これを「良し」として「こだわり」が「深層思考」として起こる事に成る。
即ち、その保有する「左脳データの信頼度」(1)や、その大脳でシナプスを繋いで「綜合判断をするデータ量」(2)や、その保管されていたデータはそれまでの構築されてきた環境に依って左右される事になるので、その「質の良悪、偏り、偏差値」(3)に依って、直接にその「こだわり」の良悪が左右される事に成る。これはその本人の「質癖の錯誤」と呼べるだろう。
「左脳データの信頼度」(1)「綜合判断をするデータ量」(2)「質の良悪、偏り、偏差値」(3)
この「質癖の錯誤」の「こだわり」が起こるとこれを解消するには(1)(2)(3)を変える以外に無い。
では”この3つを変える事が出来るのか”と云う疑問が湧く。
先ず、”難しい”と云う答えになるだろう。この3つを自ら自覚して直ぐに変える事は出来ない筈である。
なぜならば「左脳データの信頼度」では長年培って来たそのデータ量を急激に変える事は時系列に無理である。
まして、その信頼度はその者の環境とその者の賢明さにもよるだろうから殆ど無理である。
「綜合判断をするデータ量」ではデータ量を急激に増やす事は有り得ないし、その様に人間の脳の記憶を仕分けする「海馬の仕組み」はその様に出来ていない。間違い無く無理である。
「質の良悪、偏り、偏差値」は(1)(2)に左右される事からこれだけを良くする事は論理的に無理である。
これは、その「こだわり」を持った者の人生に大きく関わる問題である。その生きて来た環境に左右される問題である。余程の「左脳のデータを消滅させられるだけの衝撃」が無くては困難である事は容易に判る。その衝撃に「人間の精神」は持つとは思えない。
まして、この上記3つは個人の保有する「先天的資質」に左右されるもので誰でもが「確実で良質」な「こだわり」を持つ事の可能性は低いだろう。
多くはこの「こだわり」は終局は(3)の影響を大きく受ける事に成るだろう。
故に、仏法では「縁無き衆生動し難し」として説いている。
”無理な者は元々無理なんだ。 理想にかまけて「こだわり」を起してはならない。それこそが「こだわり」なんだ、錯誤なんだ”。と。
又、仏法では”「人を見て法を説け」”とまで云っている。
だとすれば、”どうすればよいのだ、「こだわる」な。人を観てその人なりに合わせて其れなりに説けばよいのだ。”と。”肩を張って考えるのはそれこそが「こだわり」なんだ。「こだわり」の持った者が説くことに意味は無いのだ。”と説いている。
だから衆生が「般若心経」を仏前で唱えるのはここにある。
”先ずは無心に唱える事から始まるのだ、「こだわるな」「こだわるな」”と自問自答自責して仏の前で懺悔している姿なのである。
皆、衆生が「確実で良質」な「こだわり」を持ち得ているのであれば仏前で唱える必要も無く仏も心配はないだろう。「般若心経」の様な「心の路」のお経を作る事は無かった筈であろう。
だから、この現世は「こだわり」の世界にして「こだわり」を抑える事の戒めを解いている事になるであろう。
論理主観のこの「こだわり」はその「深層思考の性の定め」により主に男性によるものであろうが、女性にはこの「こだわり」はその「性の目的」(産み育てる本能)から先ず有り得ない。もし、仮にあるとすると「こだわり」の錯誤が起これば子孫は育たない事になる。
「神」は矛盾するその様な「性(さが)」を作る筈が無い。
男女ともに”人はどんなに優れていたとしてもこの「神」から受けた性(さが)から抜け出せる者はこの現世にはいない”という事である。居るとすればその者は「現世の神」である。
この様に「人生」は「拘りとこだわり」であるとしても過言ではあるまい。
況や、殆ど「拘りとこだわり」の間に垣間見れる「喜楽」の中に生きていて、「怒哀」はこの「拘りとこだわり」の産物と成るのではないか。
その「拘りとこだわり」の大小が「怒哀」の大小と成り得ているのであろう。
だとすれば、この「拘りとこだわり」を小さくする事で「喜楽」が増え、「怒哀」は小さくなる。この「拘りとこだわり」のこれを「抑える努力を試みる事」が「現世の幸せ」を大きく享受する事になるであろう。
それを「般若心経」は現世に於いて色々な人間の性(さが)が持つ「五感」との「五体の機能」を使って表現して判りやすく誡めているのであろう。
そして、仏教では「拘りとこだわり」(執着)は「108つの煩悩」として具体的に細かく分けているのである。
人である限りに於いてこの「108つの煩悩」を無くす事は不可能であるが、幾つかでもより多く抑える努力は可能である筈。それが「人格形成」と言う事に成る。
この「108つの煩悩」は感情主観による「拘り」の産物であるが、この家訓7の戒めは上記する論理主観の「左脳データの信頼度」(1)「綜合判断をするデータ量」(2)「質の良悪、偏り、偏差値」(3)から起こる「錯誤のこだわり」を誡めている。
当然に、この「108つの煩悩」(執着 拘り)の中で生きているのであるから、全く無縁であるとは云えない。「幾つかでもより多く抑える努力」が高いレベルで成し得ている事、即ち「人格形成」が成し得ている事がその前提にはなるだろう。
この現世では「108つの煩悩」(執着 拘り)の何割で「人格形成」が成し得ていると云われるかは判らないが、多い方が良いに越している。それでなくてはこの「論理主観のこだわり」を[抑える力」は出て来ないであろう。
この”「108つの煩悩」(執着 拘り)の「抑える力」と「論理主観のこだわり」は逆比例する。”と考えている。
「108つの煩悩」(現世 執着1 拘り 感情主観)<=「人格形成」
「左脳データの信頼度」(1)
「綜合判断をするデータ量」(2)
「質の良悪、偏り、偏差」(3)
(1)+(2)+(3)=「錯誤」(現世 執着2 こだわり 論理主観)
「錯誤」の抑止=「人格形成」(人間形成)
「拘り」(感情主観)<「こだわり」(論理主観)
平易に云えば、脳医学では「統一・一貫性の抑止」と云うらしいのだが、「拘りの抑止」(人間形成 人格形成)は「こだわりの抑止」の基盤になると考えられる。そして、仮にこれが成し得られたとすると、一段上の「人格形成」を得た人物と成り得るのであろう。この時、それが「品格の形成」を成し遂げた事を意味する。
この家訓7は家訓6と類似するが、敢えて家訓6で「人間形成」が成し得られたとしても、更にその”「品格の形成」を成すには家訓7を会得(悟り)しなくてはならない”としたのであろう。
青木氏の「長」としての条件として、”「人間形成」だけでは「品格」は得られない。「悟り」で「品格」を得よ”とより厳しく求めたものであろう。
故に、此処に「伊勢青木氏が置かれていた立場の長」としてのこの「家訓7の会得」を子孫に求めている事であると考える。
添書では仏教的な事柄が書かれているこの家訓7ではあるが、上記する数式論になるであろう。
それを顕著に表すのが、上記する信長との「天正の3つの戦い」に現れていると思われる。故にこの家訓の説明では何度も引用記述しているが、この有名な史実の事を判りやすくする為に「標語の形」として子孫に明確に言伝えているのであろう。これを子孫に悟らす為に。
三つは「こだわり」と「拘り」を区別している事。
この「長」に求めた2つの戒め「拘りとこだわり」の事に違いを敢えて求めているのは、”「拘り」の範囲に留める場合は上記する一段上とされる「品格の形成」は無い”と観ていたからに違いない。
恐らくは、この厳しさは「長い青木氏の歴史の所以」であろう。
だから1365年以上も生き延びられたのである。
「信長との戦い」の口伝があるのは”見事勝った”だけの意味では無く、”織田氏の様に急に興きて急に滅びる所以”も伝える意味をあったのであろう。
つまり、室町期の青木氏の先祖は、織田氏には「家訓6、7」に値するものが無かったからに過ぎないとして観ていた。故に、青木氏としての「家訓心得」を以って全身全霊で戦えば、飛ぶ鳥を落とす勢いのある信長と云えども”潰す事は出来なくても勝てると見抜いていた”事になる。
ただ、「皇族賜姓族の誉れ」に安住しての青木氏であればたちどころに滅びたであろう。
ところが、伊勢青木氏を始めとして一族親交の深かった信濃青木氏までも子孫を遺し得ているのは、この家訓の「人間形成」と「品格形成」に依って沈着冷静な判断が可能となり生き延びたことを意味するのである。
四つは「こだわり」は「長」としての「戒め」である事。
それは、この家訓6と家訓7の戒めは、伊勢、美濃、信濃の青木一族を束ねていた長の「紙屋長兵衛」に有る。
「2足の草鞋策」の「商い」が、「皇族賜姓族の誉れに安住」させなかったのである。
家訓6よりも更に家訓7を求め、更に「拘りとこだわり」の戒めを「長」に求めていた事にある。
仮に、史実から信長と長兵衛を比較すると次ぎの様に成る。
経済力からの考察からすると、家康も名古屋城で秀忠の本軍の遅れを待つとして一時徳川軍を留めて、それを理由に伊勢路の確保の為に伊勢青木氏の合力を求めてきた程の伊勢の豪商紙屋長兵衛である。経済力の大きさは堺の貿易と松阪の商いから信長とほぼ互角で有ったであろう。
信長も「楽市楽座」の制度を推し進めた人物である。そうすると直ぐ近所の伊勢松阪の紙屋長兵衛の事は知っていた筈である。当然、伊勢攻めを命じたのであるから、賜姓族青木氏の事も名張の青蓮寺城を始めとした3つの城持ちである青木民部上尉信忠の事も知っていた筈である。
ただこの「2つの顔持ち」である事は判っていたかは疑問である。
長兵衛が仲介者を通じて材木の商談を持ち込んだのに対して知っていれば警戒する筈であるが結果としてしなかった事に成る。織田信雄も家臣の滝川一益も知らなかったのであるから。
つまり、紙屋長兵衛と青木長兵衛は同じである事を知っていたとするとこの戦略戦術はもとより成り立たない事に成る。青木氏側も知らないだろうと予測し、現実に織田氏側も知らなかった事に成る。
知っていて騙される馬鹿は戦国の時代には居ないであろう。彼の有名な知者の滝川一益も補佐しての戦いでもある。「商人の顔」の長兵衛の経済力だけと観ていただけにその経済力効果がより大きい事に成る。
次ぎは軍事力の検証である。
兵力は資料から江戸初期前には250程度と記録されている。
この戦いに”「不入不倫の権」で護られている賜姓族だから静かにしているだろう”と踏んでいた事に成る。「伊賀の戦い」、「永嶋の戦い」によもや参戦するとは考えも無かった事に成る。
しかし、「商人の顔」の長兵衛が裏で暗躍していたのである。そうすると目に見えない「伊勢シンジケート」の戦力が既に戦い前に暗躍していた事に成る。信長のお膝元の岐阜の「信濃シンジケート」も伊勢青木氏とは連携を採っていたとされるので事前に動いていた事にも成る。当然に信濃の動きも情報として伊勢には入っている。
堺には大店を構えているし、信長の膝元には「楽市楽座」で仲間の豪商が入り込み信長軍との取引上から詳細な動向は掴んでいた事にも成る。
つまり、「情報戦」と「ゲリラ戦」で青木氏の方が先んじていた事に成る。
だから、海辺に面した丸山城構築の情報が入り、逸早くそれにシンジケートの大工や人夫を忍び込ませる事が出来ていたから天守閣から爆破されたのである。これは充分に「情報戦」に勝っていた事に成る。当然に事前に材木等の戦需品の買占めも出来た事からも判る。
後は「直接戦」の兵力は1/50となるが「戦わないで勝つ方法」を編み出していたのであるから問題は無く成る。当時からすると全く新しい戦法で「近代戦法」を敷いた事なのである。
つまり、「経済力」を全面に押し出した「戦い方」である。
シンジケートも「武力」で繋がるのではなく、「闇の元締め」を元に小さい小豪族や戦いで敗れた一族などを「経済的な裏付」で組織化して、お互いに一族や組織を護り合うシステムなのである。
豪商はそのシステムを利用して商品運搬の護衛や取引の安全等を担保に経済的な支援も行う互助組織である。山陸海にその組織を構築していたのである。
この組織を通じてすれば「ゲリラ戦」「情報戦」は山陸海をくもの巣の様に実行できる。
そして、そのシンジケートと他のシンジケートとが結ぶと領主どころの「武力や経済力の勢力」ではない。到底及ばない「広域の力」と成る。そして、相手が「闇の組織」であり見えない為に攻撃が出来ないのである。
しかし、秀吉だけはこの事を蜂須賀小六の子分の時に学んだ「ゲリラ戦」と「堺の商人」との付き合いから「経済力を使った情報戦」の事は良く知っていたのである。
(この小六等も今宮神社のシンジケートのこの一員であった。)
その証拠に、史実では信長には秀吉から、鉄砲入手の時に「今宮神社」の「闇の元締め」のシンジケートの有る事を教えられていた。そのお陰で紀州の「雑賀衆」から3000丁の鉄砲とその戦法を獲得でき武田軍に勝てたのである。とすると、信長はこの「近代戦法」を採用しながら、青木氏との戦いでは、この事の「ゲリラ戦」と「情報戦」の警戒はしていたと観るのが普通であろう、
しかし、「天正の乱」(3乱)は何故なのか疑問である。
恐らくは、信長は、後にこの戦法を使う事を得意とする「職業武力集団」雑賀衆と敵対するが、これが何かを物語っている。逆に家康はこの時に直様この「雑賀軍団」と手を組んだのである。
家康は何故組んだのかも疑問である。
この2つの疑問の鍵が答えに成るだろう。
そして、対比して家康は、青木氏との戦い方も観ており、且つ、豊臣との戦いの時には名古屋城でこの「伊勢路の確保」とその「青木氏の経済力とシンジケート」を味方に取り入れる事を合作し「ゲリラ戦」と「情報戦」を「戦いの本質」(前哨戦)と捉えていた事に成る。
つまり、”豪商の「影の戦い」で8割は決まる。”と家康は判断していたことに成る。
此処に信長と家康の違いが出たのは両者の「生い立ち」による「こだわりの悟り」の差が出た事を意味する。経緯からする偶然にそうなったのではない。信長の行動を観て直ぐに「雑賀衆の取り込み」に家康は行動した事でも「こだわり」を無くして冷静に判断していた事に成る。
信長が本能寺で明智光秀に打たれた時、家康は堺の商人の家に居たことからも判る。このゲリラ戦と「情報戦」の近代戦法の重要さを知って豪商に下工作をしていたのである。
信長と光秀の戦いは「情報戦」から既に家康は承知して予測しての下工作であったと考える。
そうなると、だから家康は、この戦法を得意として駆使した「戦わずして勝つ」の秀吉の死ぬのを待ったのである。
つまり、「こだわり」を捨てていた「冷静沈着な判断」「長の心得」を家康も秀吉も悟っていた事に成る。問題は信長である。
つまり、学習していたが、信長はこの「ゲリラ戦」と「情報戦」が嫌いであった。”性分に合わない”と排除していた事になる。
これは信長の生い立ちと性格から、又、「比叡山の焼き討ち」から観ても上記する環境(5つの間違い)が左右し、明智光秀の扱いにしても判るが「品格形成」更には「人間形成」のところに歪みが生まれていたのである。此処が、「長のこだわり」なのである。つまり、信長はこの「こだわり」を捨てなかった事に成る。むしろ、「こだわり」に「こだわった」のではないか。
長兵衛は千石船3隻を保有しているし、伊勢湾の丸山地区の海辺の城は海を抑えれば城の効果は半減する。では何故海辺の側に城を築こうとしたのか疑問と成る。
欠点は陸から攻められれば背後は無い。利点は補給路を確保出来る。
この当時の城は戦術上「山と川」を前提としていた。「山は護り、川は補給」である。
この考えからすると、「川」の代わりを「海」としたのではないか。
この当時には伊勢には11の城があった。真ん中から入ると周囲から囲まれ補給が困難と成る。
つまり、伊勢シンジケートと信濃シンジケートのゲリラ戦で挟撃されて補給路を立たれるし、11の城から囲まれる可能性が高い。これを打ち破るには10万の大軍が必要である。
信長には各地で戦線を広げていた事からその兵力を伊勢攻めに割く余裕は無かった。
何故10万なのかと云う事である。
実はこの例と同じ事が「南北朝」時代に起こっているのである。
新田義貞軍と足利軍の鎌倉幕府10万の兵を用いて天皇側に味方した楠木正成の3千の軍と対峙した戦いがあった。それも伊勢の横である。
そしてその戦いは正成の「情報戦」と「ゲリラ戦」であったし、その「ゲリラ戦」と「情報戦」は伊勢シンジケートに依るものであった事と、正成はその伊勢シンジケートの田舎の小豪族の一員であった事は有名な史実である。
恐らくはこの時、そのシンジケートの元締めの当時の青木長兵衛の配下と成り経済的支援を受けていた事に成る。そして、結果は10万の軍はシンジケートの「ゲリラ戦」で水と食料路を断たれて確保出来ずに餓死して敗退したのである。周囲を山に囲まれた地形である。そして、山の上で谷川を持つ城を背景に篭城戦を繰り返した。山城にはシンジケートが武器と食料を補給する。10万の軍は水と食料で飢える。この敗退した史実の学習は承知していた筈である。
この歴史的な史実を知っていた為に、伊勢シンジケートを警戒していた事に成る。だから海辺に構築しようとしたのであろう。城作りの常識を破り海から補強しながら中に戦線を広げながら攻め入る戦略であったのであろう。
これでも判る様に、信長は有る程度の戦略的な戦い方の事はこの海辺の城作りから観ても知っていた事を物語る。
これに対して青木氏側は自らも船を持ちながら海の支配を商人として持っている。陸の豪族の信長にはこの海の支配権は無かった。仮に信長に広域に補給路を抑えられたとしても海からのシンジケートを使って補給できる。また逆に織田軍の補給を抑える事も出来る。
この様に検証すると、何よりも計り知れないのは「伊勢シンジケート」と「信濃シンジケート」との連携ではほぼ互角に近かったのでは無いか。
だから、豊臣氏との戦いで家康は上記する様に伊勢青木氏に合力を求めてきたのである。
そうなると信長と青木氏との戦いは後は「戦い方」に成る。
当然に、「商いの経済力」で締め上げ、「シンジケート」で周囲から「ゲリラ戦」を駆使すれば勝てる。最も愚昧戦なのは「直接戦」である。
これでは仮に勝てたとしても被害も大きい。史実は明らかのように「ゲリラ戦」であり被害は殆どなしである。
だから信長は知っていての悔しさの余り自分に腹を立て、その腹いせに家臣の面前で次男を叩き罵倒し蟄居させてしまったのである。信長は「自分の至らなさ」に気がついたのであろう。
しかし、最早遅い。歴史的に観ればこの事が皮肉にも疎んじられた次男の織田信雄だけが生き延びて子孫を遺したのである。(子孫はスケートの織田信成)秀吉の茶友で家康の茶友として生き延びたのである。信長に取って観れば、「不幸中の幸い」であった。
つまり、言い換えれば信雄は青木氏の御蔭で生き延びた事が云える。
信長は結局、この「天正の戦い」で3つの失敗を起した事に成る。
「長」として求められる「人間形成」はもとより「品格形成」に欠けていた。
生い立ちに打つ勝つ事が出来ずに「こだわり」に「こだわった」事にある。
1 「直接戦」を好み「シンジケート力」の「ゲリラ戦」「情報戦」の力を見誤った。
2 「武力戦」に過信し「商人の力」「経済戦」を軽視した。
ここで、「シンジケート」の史実を述べ立てたが、真にこの「シンジケート」を維持出来る事は経済的な繋がりはあるとしても、全て「人」である。ここにそれだけでは成り立たない一つの要素がある。それが「長」として「こだわり」を抑えた事によって「品格を得た者」に成し得る要素なのである。そして、その組織が「大きな力」を発揮し得るのである。
ここが「信長」に成し得なかった事なのであり、強い「こだわり」により「深い思考を巡らす能力」を会得できずに「軽視」していた事を意味するのである。
比較する家康も、この史実は信長の面前で観ていたので知っているから、学習して伊勢青木氏の力の有り様を知り青木氏との連携に力を注いだのである。
同じ学習した秀吉も只一度「直接戦」をして陸奥の豪族を叩くために「ゲリラ戦」にしびれを切らし、その時の指揮官は「蒲生氏郷」であるが直命して「直接戦」で失敗して3千の兵に惨敗している。
その反省として「小田原城攻め」が物語っている。
だから、更に学習した秀吉は松阪を攻略する時にこの氏郷を廻した理由の一つなのである。
その証拠に、徳川氏の天下に成って、家康の子の頼宣を紀州の藩主として差し向けた時も先ず松阪の青木氏との面談を行った。この時の様子も口伝で伝えられていて「上座」を青木長兵衛に譲ったと伝えられている。
紀州藩三代目の妾子出(巨勢氏)で後の将軍8代目吉宗が部屋住みの時、伊勢の加納家に預け親族関係にあった伊勢青木の後見として育った。将軍に成った時、伊勢青木氏で豪商紙屋長兵衛の子供を江戸に引き連れて「享保の改革」を実行させ、更には紀州藩にも長兵衛の子供を配置させて藩財政を立て直させた経緯を江戸幕府に見せ付けて、幕府の「享保の改革」を断行したのである。
筆者祖父の時代まで大正14年まで親交があった。絵画、書道、茶道、漢詩、禅道、商道などを藩主と藩士に代々教授した事が伝えられ、その徳川氏からの返礼として豪商青木長兵衛に紀州藩より十二人扶持米(1年間12人が食べてゆける石高)を与えられていたことが記録に残っている。
つまり、青木氏の「皇族賜姓族の誉れに安住」だけでは、最早、藤原秀郷の末裔で人格者で学者で歌人で戦略家であった蒲生氏郷も、徳川時代に成って紀州徳川氏も、代々これ程までに扱わなかったであろう。
これは誉れだけではない。家訓の教えに従い「こだわり」を押さえ「品格」を獲得し「見えない力」を会得したからこその所以である。
結論
この様に、”「人間形成」とその上の「品格形成」は「人を呼ぶ」事で「発展」するが、「こだわりの力」と「権力、力の形成」は「人を遠ざける」で「衰退」する。決して間違っては成らない。現世はこの条理で動いている。”況や、!成蹊の人たれ”即ち”「こだわり」を捨てた人たれ”である。これが添書の言い分である。
上記の史実が殊更に青木氏に口伝化されているのはここにあり、家訓6と家訓7の「長の戒め」が判断を間違えずに歴史上に無かった新しい戦い方で、冷静に処理し「長」としての「戒め」の勤めを果たした事を意味する。又、その後の徳川時代にも上記の素晴らしい生き延び方を図った事を物語っている。
これ全て家訓6と家訓7が伊勢青木氏を形成していた事の所以になる。
伊勢に築づいた城(館城、廓城、櫓城、寺城、山城を含む)
伊勢青木氏の城
(・は伊勢青木氏の城)
・柏原城(奈良)、・名張城(奈良)、・青蓮寺城(奈良)、・桜町城(摂津)、
・桜町中将城(奈良)、・四日市羽津城(三重)、・四日市蒔田城(三重)、・浜田城(愛知)、
・福地城(三重桑名)、・脇出城(三重松阪)、・青木山城(三重松阪)、
・松阪館城(三重松阪)
・柏野城(三重伊賀)、・阿山城(三重伊賀)、
藤原秀郷流青木氏(伊勢)
滝川城、須賀川城、
丸山城(三重 織田氏)、
次ぎは家訓8に続く。
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藤白墨と藤白の紫硯石の研究(墨部の存在)
藤白墨と藤白の紫硯石の研究
墨部の存在
先ず藤白とは熊野古道の第1番目の鳥居のあるところが和歌山県海南市藤白でありますが、鳥居の有った所の北域を鳥居地区と呼びます。その南側の山手が古い藤白地区であります。
紀州南紀に行くには先ずこの地域を通る事に成ります。
奈良の古都或いは京都の平安京から熊野に向かうとするとほぼ此処までは平坦な街道を通って来ます。
そして、海南市の鳥居から山の手に入ります。つまり、熊野神社の社領(神社の領地)の入り口であります。此処からが熊野古道と言う事に成ります。
この熊野古道入り口からその最初の緩やかな藤白坂を登ると1千猶予年の歴史を持つ一番目の藤白神社があります。弁慶の親族の日高氏が宮司を務めた神社です。
この1180年頃の日高氏には子供が居なく、後醍醐天皇から賜姓を受けて鈴木氏を拝命したのですが、近隣の氏子の農家の子供の3番目の子供を養子に貰い受けて鈴木氏を継承しました。
此処が鈴木氏の発祥地です。この鈴木の三郎は、源義経と弁慶が熊野神社に平家から追われていたので熊野神社の庇護を求めに行く途中この親類の神社に立ち寄りました。
そこで義経を預けて紀伊半島の端の熊野神社まで弁慶は旅を続けました。
この時、この鈴木三郎は弟の九郎と共に世話をしました。
義経の人柄を慕い2人は2番目の家来になったのです。
鈴木三郎重家を名乗りました。これが始祖であります。
弟の九郎は神社の「紫の井」の青石の蓋の形が亀の形をしていたところから亀井氏を名乗ったのであります。これが亀井氏の始祖であります。
この2人が全国に移動して行き各地に子孫を残したのが鈴木氏や亀井氏の子孫が多くなった原因です。
そんな環境ですがこの環境の付近には日本最古の藤白墨が生産されていました。
さて、この付近には姥目樫から作る備長炭の炭焼きが古来よりありました。
今でも土を掘ると炭の欠片や昔の生活の廃品などが出てきますが、この炭から採れる煤を固めたのが日本最古の姥目樫から採れる「藤白墨」です。
当時は優れた技能もなく良い煤も見つかりませんでしたので中国からの輸入に頼っていました。
奈良期には何とか炭を生産しようと試み奈良の和束付近で松の煤から作る墨が何とか取れるように成っていました。しかし、到底中国墨より優れたものは出来なかったのです。
松の煤は粒にばらつきが多く荒いし墨の色や光沢も良くありませんでした。
朝廷や宮中ではもっぱら中国の高価な墨を使っていました。
この時、何とか自国で良い墨を作れないかと考えていた後醍醐天皇は全国に日本で墨を生産できるように調査を命じていました。そして、この調査に携わったのが高い技能を持った渡来人の技能師の「方氏」で、わざわざ中国から招き入れました。
熊野参詣の途中、案じていた後醍醐天皇がこの付近で採れる炭の煤の細かさと均一な品質から墨に適するのではと考えて全国を調査していたこの「方氏」にここで墨造りを命じました。
ここで、本レポートの研究テーマであります。
当時は物の生産は全て朝廷が命じて生産する方式を採っていました。
これが「部制度」であり、この職に従事する職人を仕事名の後ろに「部」を付けて墨であれば「墨部」と呼ぶ事に成っていました。
彼らは殆どは、中国の後漢国が滅んで全国17県の200万人の民が、その首魁の阿智使王とその子供の阿多倍に引き入れられて、日本に亡命して来た一族です。
奈良時代初期から平安末期まで続きました。この技能の民が朝廷の命で各地に配置しました。
従って、墨を生産していたのですから当然にこの専売品の藤白墨には墨部の姓を持つ一族がこの付近に定住している筈ですが全く発見されません。不思議です。
そこで、何度も研究しても出てきませんでしたが、この墨に付属する硯に着目したのです。
実はこの藤白では特産の紫石が採れるのですが、朝廷に納める紫石から作られる高級硯石が生産されていたのです。この「硯」から研究を進めました。
この地域には朝廷で使われる高級な「紫石硯」は、この地域で産出する紫石で作る特産品でしたし、紫の石で作る仕上げ高級砥石も奈良時代から昭和の始めまで生産されていました。
この砥石と合わせて紫石の硯石も生産されていたのです。殆どは朝廷の専売品でした。
飛鳥奈良時代にはこの地域はこの当時の5大豪族の連合体(平群、巨勢、葛城、物部、紀)で政治が行われていました。その一つ紀氏の勢力下にありました。この紀氏は平群氏や蘇我氏等の様に武内宿禰から出た一族の者でありますが、この子孫が多く住むこの地域では炭や砥石や硯なども特産品として生産されて紀氏の財源とも成っていました。そして、それを朝廷に納めていました。
この様な歴史的な背景を持つ伝統的な硯石には、この「藤白墨」の「墨部」の背景が潜んでいると研究していました。
事実、この「硯」の姓と地域の研究から、この地域には「硯氏」の姓を持つ大変に多く子孫が定住している事が解明出来たのです。
そこが、和歌山県海南市下津町「方」と云う所で、そこに「硯村」が存在している事が判明したのです。そしてこの海南地方には「硯」と名乗る姓の人がこの地域に今も住んでいる事が判りました。
そこが何と中国の墨の技能師の「方氏」と同じ「方」(かた)と言う地名です。
この下津湯浅地方には姥目樫から採れる墨が最も多く採れていましたし、今も備長炭の名で有名な炭の名産地の場所です。この藤白から下津、湯浅の地域までこの炭と墨の生産が行われていました。
現在、この下津町の「方」(かた)と言う地名のところの「硯村(すずりむら)」と言うところがあるのですが、海南市を始めとしてこの村には今でも硯氏の姓の人が多いのです。
つまり、「硯村」は、技能職人を一つにまとめた「部制度」のあった平安時代には、朝廷に納めるこの「紫硯石」を作る「硯部」が住んでいたところであります。
この「紫硯石」には「硯部」が存在し、今も下津町方「硯村」が存在するし、そしてこの村は「硯氏」が定住しているのに、どうしても「藤白墨」には「墨部」が発見されず、地名や村や氏も発見されていないのが不思議であります。
ただ、上記した「墨屋谷」の地名が僅かに残るだけで今は忘れられた地名です。
何故存在しないのか研究を続けていたのですが、未だ発見されていないのであります。
そもそもこの藤白墨は明治の始めまで生産されていたのです。その地名や村や氏が見つからないのは何故なのか大いに疑問であります。
そこで紀州に関係する「部」では、数多くありますが、例えば鍛冶部(鉄製造 鉄砲の生産に従事していた雑賀族)の鍛冶氏なども姓として紀州には多く確実に存在するのです。この有名な長い期間生産されていた藤白墨の墨部の姓の持つ末裔だけが見つかりません。
「硯部」が「墨部」を兼ねていたのではないとも考えられるのですが資料などは発見されないのです。その一つとして、日本の古文書や中国でのものにはこの墨を作っていた中国の氏は「方氏」と書かれています。日本全国墨に適した土地の調査をしたのが「方氏」である事も判っています。
調査した結果、「方」の地名での「方氏」でその子孫が住んでいた地域と観られる地名があり、現在もそこには上記した「硯部」の「硯氏」が定住している事が判りました。
この「方氏」が帰化して後に藤白墨の生産を天皇に命じられてここに移り住んだのですから、その移り住んだ土地が、そこが藤白ではなく海南市の下津町の「方(かた)」地域として最終残ったのではないかと考えられます。
奈良時代の後期、奈良和束の「松煙墨」が最古とされますが、粒が粗くよいものでなかった事から廃れて殆どは中国からの輸入で賄われていました。
しかし、有名な姥樫から採れる後の「備長炭」はこの藤白から下津、湯浅地域で採れるのです。
熊野参詣の途中に、炭から煤を求めて全国を調査していた墨部(渡来人の方氏)に命じてこの墨を作らせたところ良いものが出来た。そこで、後醍醐天皇が生産を命じた事から日本初の墨が量産される事に成った事は確認されています。
これだけの経緯があり徳川時代まで続いたのでありますから、遺されていても不思議ではない筈です。
調査から、どうも「墨生産」には作業を2つに分けていたと考えられます。
そうすると、この「墨部」は方地方に定住した「方氏」ではないかとも観られるます。
元からある炭のその煤を作る仕事を「墨部」、墨の形にする仕事を「方氏」と成っていたことも考えられます。
この墨の原料は元からこの地域の姥目樫から此処で作った炭の煤を集める事で出来ますので、墨部の氏は発祥しなかった事が理解できます。
そして、その煤を集めて練り膠(にかわ 牛の皮を煮詰めた物 古代の接着材)で固める作業は「方氏」が行っていた事に成ります。
そうすると渡来人の墨を作る技能職人「方氏」を「方部」と呼ばなかった理由があると観られます。
つまり、それは「墨の位置付けか後の移動」ではないと考えられます。今回の研究からでは「移動」と観ています。
「方部」として呼んでいた事も考えられますが実は主に次ぎの理由で変化した経緯があります。
この墨職人の「方氏」(方部)が後に朝廷に納める「紫硯石」も生産するようになって重点を硯に変わり「硯部」となり「硯氏」となったと考えられます。
その原因は油から採る煤で作った「油煙墨」の出現です。粒が細かく黒く品質は一定で量産に適していますので、この炭から採る墨に高級品の藤白墨は押されたのです。
この事がはっきりとした事が書かれているのは室町文化の頃からです。
この庶民文化に押されて油煙墨が伸び、姥目樫の墨は長い期間の生産が裏目に出て、この時期から姥目樫の木が藤白から下津湯浅地域に生息が少なく成ったと記されています。
そこで、硯石の生産に振り向けたのではないかと考えられます。時期と状況が一致していますので先ず間違いはないと観られます。
現在もこの地域から日高地方には未だ炭も当然の如く一部で硯や砥石をも作っています。
そして、その「方氏」の一部は廃れた墨を作る為に再び奈良に移り、松の多い奈良和束の松煙墨が再び続けられたのではないか言う事が判ってきました。
室町時代に庶民の室町文化が隆盛が起こり庶民も墨を使う習慣が生まれて需要が増えて庶民が使える松煙墨の墨造りに「方氏」の移動が起こったのだと観られます。だから墨部の存在が確認出来ないのです。
藤白墨は最終は徳川末期まで専売品として続きましたが、姥目樫が藤白に少なくなりこの生産は硯村のある下津、湯浅地方にのみ移動しています。紫硯石も同様です。
この藤白墨の墨屋谷の地域には今でもこの「紫石硯」の片辺が見つかっています。これが墨作りと同じく硯石の生産も方地方に移動した証拠で、方氏の墨と硯は同じ氏にて生産されていた事を意味します。
そして、この藤白墨は姥目樫が無く成ると同時に硯石に生産を向けた事に成ります。
その理由で藤白墨の墨部は藤白から下津、湯浅に無い事になったと観られます。
奈良地域にこの「方氏」の姓の着く氏または地名がないか調査研究しているところです。
これが確証されればこの研究は確実になります。
因みに、他に部の付く氏は思いつくままに、
朝廷に属する部は山部、海部、鵜飼部、鍛冶部、鍛師部、金作部、鏡作部、石作部、玉作部、工部、土師部、陶部、弓削部、矢作部、服部部、綾部、錦織部、倭文部、麻積部、依縫部、赤染部、茜部、舎人部、膳部、靭負部、佐伯部、来米部、織部、磯部、馬部、鞍造部、司馬部、秦部、漢部、物部、硯部、墨部 方部等
氏の発祥は次ぎの7つに分けられる。
地名などの自然形成の血縁的同族が形成して付けた氏名
大和朝廷の上記の部制度による氏名
朝廷の名田制度から起こった名字による氏名
皇族から臣籍に降下し賜姓をうけた氏名
賜姓族と官職役名を一部加えた氏名
自分の知行する土地の名称を加えた氏名
これ等から分家した惣領家と別にした氏名
これ等は「藤白墨」や「紫硯石」の詳細は「鈴木氏発祥とその環境」や他のレポートでも記述していますが、墨に関することもレポートで写真つきで紹介しています。
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
墨部の存在
先ず藤白とは熊野古道の第1番目の鳥居のあるところが和歌山県海南市藤白でありますが、鳥居の有った所の北域を鳥居地区と呼びます。その南側の山手が古い藤白地区であります。
紀州南紀に行くには先ずこの地域を通る事に成ります。
奈良の古都或いは京都の平安京から熊野に向かうとするとほぼ此処までは平坦な街道を通って来ます。
そして、海南市の鳥居から山の手に入ります。つまり、熊野神社の社領(神社の領地)の入り口であります。此処からが熊野古道と言う事に成ります。
この熊野古道入り口からその最初の緩やかな藤白坂を登ると1千猶予年の歴史を持つ一番目の藤白神社があります。弁慶の親族の日高氏が宮司を務めた神社です。
この1180年頃の日高氏には子供が居なく、後醍醐天皇から賜姓を受けて鈴木氏を拝命したのですが、近隣の氏子の農家の子供の3番目の子供を養子に貰い受けて鈴木氏を継承しました。
此処が鈴木氏の発祥地です。この鈴木の三郎は、源義経と弁慶が熊野神社に平家から追われていたので熊野神社の庇護を求めに行く途中この親類の神社に立ち寄りました。
そこで義経を預けて紀伊半島の端の熊野神社まで弁慶は旅を続けました。
この時、この鈴木三郎は弟の九郎と共に世話をしました。
義経の人柄を慕い2人は2番目の家来になったのです。
鈴木三郎重家を名乗りました。これが始祖であります。
弟の九郎は神社の「紫の井」の青石の蓋の形が亀の形をしていたところから亀井氏を名乗ったのであります。これが亀井氏の始祖であります。
この2人が全国に移動して行き各地に子孫を残したのが鈴木氏や亀井氏の子孫が多くなった原因です。
そんな環境ですがこの環境の付近には日本最古の藤白墨が生産されていました。
さて、この付近には姥目樫から作る備長炭の炭焼きが古来よりありました。
今でも土を掘ると炭の欠片や昔の生活の廃品などが出てきますが、この炭から採れる煤を固めたのが日本最古の姥目樫から採れる「藤白墨」です。
当時は優れた技能もなく良い煤も見つかりませんでしたので中国からの輸入に頼っていました。
奈良期には何とか炭を生産しようと試み奈良の和束付近で松の煤から作る墨が何とか取れるように成っていました。しかし、到底中国墨より優れたものは出来なかったのです。
松の煤は粒にばらつきが多く荒いし墨の色や光沢も良くありませんでした。
朝廷や宮中ではもっぱら中国の高価な墨を使っていました。
この時、何とか自国で良い墨を作れないかと考えていた後醍醐天皇は全国に日本で墨を生産できるように調査を命じていました。そして、この調査に携わったのが高い技能を持った渡来人の技能師の「方氏」で、わざわざ中国から招き入れました。
熊野参詣の途中、案じていた後醍醐天皇がこの付近で採れる炭の煤の細かさと均一な品質から墨に適するのではと考えて全国を調査していたこの「方氏」にここで墨造りを命じました。
ここで、本レポートの研究テーマであります。
当時は物の生産は全て朝廷が命じて生産する方式を採っていました。
これが「部制度」であり、この職に従事する職人を仕事名の後ろに「部」を付けて墨であれば「墨部」と呼ぶ事に成っていました。
彼らは殆どは、中国の後漢国が滅んで全国17県の200万人の民が、その首魁の阿智使王とその子供の阿多倍に引き入れられて、日本に亡命して来た一族です。
奈良時代初期から平安末期まで続きました。この技能の民が朝廷の命で各地に配置しました。
従って、墨を生産していたのですから当然にこの専売品の藤白墨には墨部の姓を持つ一族がこの付近に定住している筈ですが全く発見されません。不思議です。
そこで、何度も研究しても出てきませんでしたが、この墨に付属する硯に着目したのです。
実はこの藤白では特産の紫石が採れるのですが、朝廷に納める紫石から作られる高級硯石が生産されていたのです。この「硯」から研究を進めました。
この地域には朝廷で使われる高級な「紫石硯」は、この地域で産出する紫石で作る特産品でしたし、紫の石で作る仕上げ高級砥石も奈良時代から昭和の始めまで生産されていました。
この砥石と合わせて紫石の硯石も生産されていたのです。殆どは朝廷の専売品でした。
飛鳥奈良時代にはこの地域はこの当時の5大豪族の連合体(平群、巨勢、葛城、物部、紀)で政治が行われていました。その一つ紀氏の勢力下にありました。この紀氏は平群氏や蘇我氏等の様に武内宿禰から出た一族の者でありますが、この子孫が多く住むこの地域では炭や砥石や硯なども特産品として生産されて紀氏の財源とも成っていました。そして、それを朝廷に納めていました。
この様な歴史的な背景を持つ伝統的な硯石には、この「藤白墨」の「墨部」の背景が潜んでいると研究していました。
事実、この「硯」の姓と地域の研究から、この地域には「硯氏」の姓を持つ大変に多く子孫が定住している事が解明出来たのです。
そこが、和歌山県海南市下津町「方」と云う所で、そこに「硯村」が存在している事が判明したのです。そしてこの海南地方には「硯」と名乗る姓の人がこの地域に今も住んでいる事が判りました。
そこが何と中国の墨の技能師の「方氏」と同じ「方」(かた)と言う地名です。
この下津湯浅地方には姥目樫から採れる墨が最も多く採れていましたし、今も備長炭の名で有名な炭の名産地の場所です。この藤白から下津、湯浅の地域までこの炭と墨の生産が行われていました。
現在、この下津町の「方」(かた)と言う地名のところの「硯村(すずりむら)」と言うところがあるのですが、海南市を始めとしてこの村には今でも硯氏の姓の人が多いのです。
つまり、「硯村」は、技能職人を一つにまとめた「部制度」のあった平安時代には、朝廷に納めるこの「紫硯石」を作る「硯部」が住んでいたところであります。
この「紫硯石」には「硯部」が存在し、今も下津町方「硯村」が存在するし、そしてこの村は「硯氏」が定住しているのに、どうしても「藤白墨」には「墨部」が発見されず、地名や村や氏も発見されていないのが不思議であります。
ただ、上記した「墨屋谷」の地名が僅かに残るだけで今は忘れられた地名です。
何故存在しないのか研究を続けていたのですが、未だ発見されていないのであります。
そもそもこの藤白墨は明治の始めまで生産されていたのです。その地名や村や氏が見つからないのは何故なのか大いに疑問であります。
そこで紀州に関係する「部」では、数多くありますが、例えば鍛冶部(鉄製造 鉄砲の生産に従事していた雑賀族)の鍛冶氏なども姓として紀州には多く確実に存在するのです。この有名な長い期間生産されていた藤白墨の墨部の姓の持つ末裔だけが見つかりません。
「硯部」が「墨部」を兼ねていたのではないとも考えられるのですが資料などは発見されないのです。その一つとして、日本の古文書や中国でのものにはこの墨を作っていた中国の氏は「方氏」と書かれています。日本全国墨に適した土地の調査をしたのが「方氏」である事も判っています。
調査した結果、「方」の地名での「方氏」でその子孫が住んでいた地域と観られる地名があり、現在もそこには上記した「硯部」の「硯氏」が定住している事が判りました。
この「方氏」が帰化して後に藤白墨の生産を天皇に命じられてここに移り住んだのですから、その移り住んだ土地が、そこが藤白ではなく海南市の下津町の「方(かた)」地域として最終残ったのではないかと考えられます。
奈良時代の後期、奈良和束の「松煙墨」が最古とされますが、粒が粗くよいものでなかった事から廃れて殆どは中国からの輸入で賄われていました。
しかし、有名な姥樫から採れる後の「備長炭」はこの藤白から下津、湯浅地域で採れるのです。
熊野参詣の途中に、炭から煤を求めて全国を調査していた墨部(渡来人の方氏)に命じてこの墨を作らせたところ良いものが出来た。そこで、後醍醐天皇が生産を命じた事から日本初の墨が量産される事に成った事は確認されています。
これだけの経緯があり徳川時代まで続いたのでありますから、遺されていても不思議ではない筈です。
調査から、どうも「墨生産」には作業を2つに分けていたと考えられます。
そうすると、この「墨部」は方地方に定住した「方氏」ではないかとも観られるます。
元からある炭のその煤を作る仕事を「墨部」、墨の形にする仕事を「方氏」と成っていたことも考えられます。
この墨の原料は元からこの地域の姥目樫から此処で作った炭の煤を集める事で出来ますので、墨部の氏は発祥しなかった事が理解できます。
そして、その煤を集めて練り膠(にかわ 牛の皮を煮詰めた物 古代の接着材)で固める作業は「方氏」が行っていた事に成ります。
そうすると渡来人の墨を作る技能職人「方氏」を「方部」と呼ばなかった理由があると観られます。
つまり、それは「墨の位置付けか後の移動」ではないと考えられます。今回の研究からでは「移動」と観ています。
「方部」として呼んでいた事も考えられますが実は主に次ぎの理由で変化した経緯があります。
この墨職人の「方氏」(方部)が後に朝廷に納める「紫硯石」も生産するようになって重点を硯に変わり「硯部」となり「硯氏」となったと考えられます。
その原因は油から採る煤で作った「油煙墨」の出現です。粒が細かく黒く品質は一定で量産に適していますので、この炭から採る墨に高級品の藤白墨は押されたのです。
この事がはっきりとした事が書かれているのは室町文化の頃からです。
この庶民文化に押されて油煙墨が伸び、姥目樫の墨は長い期間の生産が裏目に出て、この時期から姥目樫の木が藤白から下津湯浅地域に生息が少なく成ったと記されています。
そこで、硯石の生産に振り向けたのではないかと考えられます。時期と状況が一致していますので先ず間違いはないと観られます。
現在もこの地域から日高地方には未だ炭も当然の如く一部で硯や砥石をも作っています。
そして、その「方氏」の一部は廃れた墨を作る為に再び奈良に移り、松の多い奈良和束の松煙墨が再び続けられたのではないか言う事が判ってきました。
室町時代に庶民の室町文化が隆盛が起こり庶民も墨を使う習慣が生まれて需要が増えて庶民が使える松煙墨の墨造りに「方氏」の移動が起こったのだと観られます。だから墨部の存在が確認出来ないのです。
藤白墨は最終は徳川末期まで専売品として続きましたが、姥目樫が藤白に少なくなりこの生産は硯村のある下津、湯浅地方にのみ移動しています。紫硯石も同様です。
この藤白墨の墨屋谷の地域には今でもこの「紫石硯」の片辺が見つかっています。これが墨作りと同じく硯石の生産も方地方に移動した証拠で、方氏の墨と硯は同じ氏にて生産されていた事を意味します。
そして、この藤白墨は姥目樫が無く成ると同時に硯石に生産を向けた事に成ります。
その理由で藤白墨の墨部は藤白から下津、湯浅に無い事になったと観られます。
奈良地域にこの「方氏」の姓の着く氏または地名がないか調査研究しているところです。
これが確証されればこの研究は確実になります。
因みに、他に部の付く氏は思いつくままに、
朝廷に属する部は山部、海部、鵜飼部、鍛冶部、鍛師部、金作部、鏡作部、石作部、玉作部、工部、土師部、陶部、弓削部、矢作部、服部部、綾部、錦織部、倭文部、麻積部、依縫部、赤染部、茜部、舎人部、膳部、靭負部、佐伯部、来米部、織部、磯部、馬部、鞍造部、司馬部、秦部、漢部、物部、硯部、墨部 方部等
氏の発祥は次ぎの7つに分けられる。
地名などの自然形成の血縁的同族が形成して付けた氏名
大和朝廷の上記の部制度による氏名
朝廷の名田制度から起こった名字による氏名
皇族から臣籍に降下し賜姓をうけた氏名
賜姓族と官職役名を一部加えた氏名
自分の知行する土地の名称を加えた氏名
これ等から分家した惣領家と別にした氏名
これ等は「藤白墨」や「紫硯石」の詳細は「鈴木氏発祥とその環境」や他のレポートでも記述していますが、墨に関することもレポートで写真つきで紹介しています。
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伊勢青木氏 家訓6
タイトル : 伊勢青木家 家訓6
投稿日 : 12/29-06:48
投稿者 : 福管理人
伊勢青木氏家訓10訓
家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓6までの戒めは次ぎの通りである。
家訓1は「夫婦の戒め」
家訓2は「親子の戒め」
家訓3は「行動の戒め」
家訓4は「性(さが)の戒め」
家訓5は「対人の戒め」
以上であった。
家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)である。
この教訓6はそもそも「教育」と「教養」とは違うという事を意味し、その区別を受けて培えと云う事として伝えられている。
この事が両親から子供の頃から最も頻繁に教えられた事である。
それは何故なのかと云う事である。この事は人を無意味な差別化を無意識にさせてしまう思考を培ってしまう事を誡めているのである。
この家訓の持つ意味に付いて、成人して結婚に至った時に初めてこの家訓の意味を知ったのだが、家族を持った事で”子孫存続に大きく関わる事だからである”と判ったのである。
それに付いてこの家訓6には添書で細かく解説されている。
それには、まとめるとまず最初に次ぎの様な事柄が書いている。
「教養」「教育」は社会を維持する時に必要とする「上下関係の差違」を意味するものではない事は明らかである。「社会」は「組織に類するもの」と「家庭に類するもの」とに分類出来る。
そこで、その「社会」の中での「組織」や「家庭」で必要とする差違、例えば、上下の関係は「契約」であり、元より「差別」では無く「差違」であり、「組織」又は「家庭」を円満で効果的に維持する上で必要とする「相互の了解」の上での「契約」である。
組織は「命令する者」と「命令される者」の契約を伴なう事であるが、この「命令」が上下の感覚を生み出してしまうのである。
家庭はもとより親と子の関係はあるが上下ではなく、家訓1又は家訓2にある様に「導く者」と「導びかれる者」の差異が主流となり契約が成立する。
「組織」=「命令する者」、「命令される者」=「契約」
「家庭」=「導く者」、「導かれる者」=「契約」
更に、進めて、そもそも、人は「人間的な程度」(人間力)を上げることを目的として「教育」を受けさせる。しかし、この「教育」は「知識」の習得を前提として「人間的な程度」(人間力)を上げる事に第一義があり、決して「心の持ち様」を上げての「人間的な程度」(人間力)の向上を成し得るものではない。
その「人間的な程度」(人間力)とは2つの要素に依って構成される。
それは、ここで云う「教養」であり、「教育}である。
この世に於いて「諸事」を解決するに必要とする「人間力」は様々なところで発揮される。それに依ってその「人の力量」が試される。この「力量」を「人間力」と言うが、「解決成し得る力」のその程度に依ってその「人間力」は測られる。
それは、「心の豊かさ」を培った「教養」だけでは成し得ない。人間は他の動物と違う所は「知恵」に依って得た「知識」で「人間」としての存在がある。
従って、その本来の「知恵」の根拠とする処の「知識」を得て初めてこの世の諸事に対することが出来る。その「諸事の解決」の「成果」を高めるのはこの「心の豊かさ」を培う「教養」である。
この「諸事の解決」には仏教で云う「三相」(人、時、場所)を必要としている。
この「三相」のこの「3つの相」に卓越する事が「人間力」を高める事に成るのである。
その「卓越」は、例えば、「人」を捉えた場合「人」を動するには「知識」と「心の豊かさ」の量が試される。決して、「知識」だけでは成し得ない。
人は「心の動物」と云われる様に、其処には「心の豊かさ」の「教養」が無ければ人を動する事は出来ない。
況や、”人とは何ぞや”と成った場合には、「人の如何」を知る必要がある。これは「先人の知恵」に学ぶ以外には無い。それは「知恵」即ち「知識」である。
つまり、この「2つの知識」と「心の豊かさ」の量の大小の如何に関わることを意味する。
当然に、「知識」を会得する場合にそれに伴ない幾らかの「心の豊かさ」も会得できるであろうし、「心の豊かさ」を会得するにも幾らかの「知識」も会得する事に成るだろう。
しかし、その比は同率では無い。故に、2つの「低い所」を補ってこそ「諸事を成し得る力量」が会得できるのである。
この家訓6では「人の力量」をより他に比して高めるにはこの低い部分を補うことであり、且つ”「教養」と「教育」とは異なる”としているのであり、故に本家訓6ではこの”二つの事を培え”としているのである。
「力量」=「教養」+「教育」=「人間力」=「三相の獲得(人、時、場所)」
「教養」=「心」=「心の豊かさ」
「教育」=「知識」=「知恵」=「先人の知恵」
ところで、この家訓が生まれた頃は氏家制度の盛重期であり、家柄身分が社会を構成する基準と成っていた。その中で、青木氏の家訓では上下の身分は「社会を構成する為の契約」であるとしている。決して本来存在する階級では無いとしているのである。当時としては、口外できる考え方ではなかったのであろうが、それを家訓6としてその意味合い(社会を構成する契約)を遺したものと考えられる。それが、青木氏一族一門の「長」としての「秘たる心根」「人間的な戒め」としていたのであろう。これらは添書から覗える事である。
家柄身分が低いから高いからとして「長」として、差配すれば恐らくは「人」は充分に動かず子孫を遺し得なかったのではないだろか。その良い例がある。
そもそも伊勢青木氏はそれまで日本書紀にも記述されている様に伊勢王施基皇子から発祥し、その活動では皇親政治の中心に居た青木氏は、桓武天皇の律令国家の完成期から始まり、1125年頃から[律令による国家運営」と「皇親政治による国家運営」とに矛盾を生じた為に皇親政治側に居た青木氏は阻害された。
この桓武天皇は母方(高野新笠 阿多倍の孫娘)子孫の賜姓族の「たいら族」(「京平氏」「桓武平氏」「伊勢平氏」)と呼ばれる一族をして青木氏を阻害させたものである。況や、彼の有名な後漢の阿多倍王の末裔帰化人、5代目末裔「平清盛」の全盛時代の始まりの中である。
桓武天皇は、第5位までに皇位継承者が無く次ぎの第6位皇子の身分(浄大1位)の伊勢王施基皇子の一族の長男が天皇と成ったが、その光仁天皇のその子供である。
要するに伊勢青木氏とは親族同族であると云う事だが、その親族同族の伊勢青木氏を圧迫し、300年程度後にはその引き上げた「平族」(たいら族)の台頭に依って、賜姓青木氏は一族の源氏と同様に一族存亡に関わる事態にまで落ち至ったのである。
その衰退の立場に於いて、同じ第6位皇子の末裔子孫の賜姓源氏も11家11流存在していたが衰退滅亡して3家3流に成り清和源氏主流と成った。
賜姓源氏は賜姓青木氏と同様に身の振り方を変えればそれなりの存亡もあったであろうが、この時、伊勢青木氏がわざわざ「2足の草鞋策」を採った。そして生残れた。
賜姓清和源氏の頼信(分家)子孫の頼朝は義経の提言にも関わらず無視弾圧して、皇族としての立場を依然として維持し、「坂東八平氏」の北条氏を「武力的背景」として「政治的存立」に掛けたが、結局70年後には滅ぶ結果と成った。
この事を考えると、賜姓5家5流の青木氏も源氏の滅亡を考えると如何にその立場が窮していたかがよく判る。
70年後の1195年頃には同族5家5流の賜姓青木氏だけが生き残り、賜姓源氏11家11流が全て滅亡したのはこの「2足の草鞋策」から生まれた家訓6を守った事によるものと評価するべき点である。それはどう云う事かと云うと次ぎの様に成るだろう。
つまり、桓武天皇は先ず800年頃にこの青木氏の勢力を殺ぐことを目的として伊勢の国守護等の実権を藤原氏北家筋(藤成 秀郷の曾祖父、平安末期には基景)の国司に委ねた。
それにより賜姓青木氏は次第に衰退し、続いて平氏の台頭が起きた事から生きる為に過去の実力を使い、「経済的安定」を一族一門の目標として、1125年頃(この時は基景が国司)に「2足の草鞋策」を展開したのである。
この時から、一面では摂津港にも店を持つ豪商の松阪商人として、一面では土地の松阪、名張、員弁、桑名、四日市一帯の3つの城を持つ豪族として一族の生き残りを図ったのである。
(美濃、信濃の青木氏と連携をしていた事が口伝や信濃伊勢町などの地名などから判断出来る)
恐らくは、この時から伊勢青木氏は一族一門を束ねて行かねば成らない苦しい試練と経験が起こり、それを通して生まれたのがこの家訓6では無いかと考えられる。
それまでは、皇族賜姓族として、「皇親政治」の主流一族としての立場からそれはそれなりに維持出来ていたのであろう。しかし、この立場を失した状況下では止む無き事となり、一族一門一統を束ねるべき「資質」が大いに求められたのではないかと想像出来る。
何処でも起こる事だが、当然の様に「路線争い」で内部でも内紛の様な事が起こったであろう事からこの家訓が生まれたのであろう。
その時の苦悩の結論からその一族の「長」としての「資質」がこの家訓6と成って代々遺されたものであろう。
この家訓6は賜姓族の侍の家の家訓と言うよりは、むしろ「商家的な色合い」が強く感じる。
「賜姓侍」としては「氏家制度」の中では生まれながらにして「家柄身分」が決められていればこの様な家訓は必要がない筈である。むしろ「武運長久」の家訓らしきものが主と成り得る筈であろう。
しかし、標記の家訓10訓は全て「人」の本質を求めている。
これは伊勢松阪青木氏は伊勢神宮の膝元で「不入不倫の権」で守られていた事から、外から侵害し攻められる脅威が低かった事にもよる。だから「武運長久」の家訓らしきものが無かったからにも依るだろう。
しかし、1130年代頃からその脅威は次第に増したのである。それは「武力的の脅威」と云うよりは衰退に依る「経済的な脅威」が増していたのであろう。
しかし、鎌倉時代に同じ立場に居た全ての同族賜姓源氏が滅んだことから「武力的な脅威」が増し始めたと考えられる。続いて、室町時代には「下克上、戦国時代」が起こり「不入不倫の権」で守られる保証は無く成ったのであろう。そして、遂には、「武力的な脅威」は”「天下布武」を標榜し比叡山等の古代社会権威を破壊すべし”とする信長の登場で現実の問題と成り、遂にはこの伊勢にも「天正の乱」の「3つ戦い」が起こった。
この様に歴史の経緯を観ると、賜姓源氏はこの「経済的な脅威」に対処していなかった為に滅んだと云える。
この時、この「2つの脅威」に対処していた青木氏はこの家訓を遺したのであろう。
しかし、それだけに一層に難しい存続の運営を任された一族一門一統の「長」としての「資質」、「力量」のあるべき姿の根本を問われていた事に成る。
関西以西32/66国を従え、技能集団を抱えての「宋貿易」を自ら行うなど「武力と経済力」を持っていたこの大勢力を誇る「平氏の脅威」に対しては、たった5国だけの5家5流の青木氏は一致団結と成って対処しなければ少なくとも存続が危ぶまれる状況下であった筈である。
5家5流は「経済力での繋がり」と「5つの小さい武力」の一族同盟の終結で対処した事に成る。
そこで、「小さい武力」しか持たない青木氏にとっては、平氏と同様に「経済的な力」を持つ事を考えたのは当然であろう。
むしろ、平氏の”「一門の経営を真似た」”のではないだろうか。それがこの「2足の草鞋策」であったと考えている。
平氏はもとより後漢の技能集団を率いていて「経済的な力」は帰化当時の始めから持っていたものである。恐らくは氏家制度の中で、阿多倍よりその5-7代で政権に上り詰めた「その実力」を観ていたのではないか。
その真因が「武力」では無く「経済力」に真因があると理解していたのであろう。
その証拠に、朝廷は奈良期末にはその始祖の大隈の首魁の阿多倍に、伊勢青木氏の守護地であった伊勢北部伊賀地方を割譲したのである。(薩摩の国の大隈も割譲した)
そして、伊勢青木氏は「経済力」を高める為に、その隣の阿多倍一門(京平氏、伊勢平氏)の和紙を作る技能に目を付けていたのであろう。これを販売する職業を最初に営んだ点である。
”商をする”をすると云っても並大抵の事ではない。まして、天領地の皇族である。
”血を吐く”思いで営んだと観られる。部門であれば組織であるから上記した様に「命令」で動くが「商」と成れば「命令」では動かない。それだけにこの「家訓6の重み」が血の滲む思いにあったのであろう。その「商」を保証する武力は他の四家の青木氏を束ねて一つの力として発揮するのであるから、その「束ねる力」も「命令」では動かないであろう。
当時の「商」は治安が悪く「武力」を背景としなくては販売と運搬は侭成らなかったのである。
当然、台頭する勢力の種を潰すのが上に立つ平家の戦略でありその妨害や脅威もあった筈であろう。
故に「商」にしても「武力」にしてもこの家訓6が大きく左右する事になった筈である。
同じく、信濃青木氏も日本書紀にも出て来る程に、阿多倍らが引き連れて来た「馬部」が信濃のこの地を開墾して信濃王の賜姓青木氏と血縁関係(諏訪族系青木氏)が起こっている。
美濃には小さい氏の「伊川津青木氏」があるが、未確認で証拠は無いが、この氏が細々と生き残った美濃賜姓青木氏の末裔(土岐氏系青木氏がある)ではと見ていて、それもこの「商」の経済的な裏打ちがあったからであろう。その先祖はこの付近の海幸を扱う技能集団の末裔の磯部氏等の血縁の末裔ではと考える。この様に何れもが阿多倍の技能集団との関係が其れなりに出来ている。
これ等の事が存続に大きく作用したと観ているが、反面では「平氏の圧迫や妨害や脅威」もあった不思議な関係にあった筈である。
歴史上は伊勢と信濃での繋がりは明確であるのだが、伊勢青木氏や信濃青木氏もこの阿多倍一門との関わりを持っていたのである。
この様に「経済的な形」ではシンジケートを形成して繋がっていた事に成るが、その阿多倍末裔の一門に「政治的な圧力」を加えられたのであるから不思議な因果関係である。
しかし、次ぎの様な助けられた経緯の事もあるのだ。
衰退した賜姓源氏の中で清和源氏の宗家頼光の末裔の頼政がただ一人平家の中で生き残り朝廷の中で苦労して三位まで上り詰めたのは、私はこの同族賜姓伊勢青木氏と隣の阿多倍一門との付き合いがあった事から生残れたと観ている。
この頼政が遺した「辞世の句」があるので紹介する。
うもれ木の 花は咲く事も 無かりしに 身のなる果てど かなしかりける
源氏を潰さない為にも何とかして平家に迎合して歯を食いしばって生き残りを図り、なかなか源氏を蘇がえさせられなく、出世の出来ない平家の中で生きる辛さを辞世の句として遺したのである。
その心情が良く判る。源氏の衰退に対してそのキツカケを作ろうとした「真情」が良く出ている。
実は確証は無いが、この家訓6を遺したのは頼政の孫の伊勢青木氏の跡目京綱では無いかと考えている。当然、父の仲綱と共に果てた祖父の頼政のこの句は「子孫存続」と云う意味合いを強く表していることから、京綱はこの句を理解して1125年頃から1180年の「以仁王の乱」までの60年程の青木氏の苦しみを承知している筈である。それ以後、身を以って乱を起した事で、伊勢青木氏には更に圧迫が加えられ苦しみ抜いたと考えられる事から、子孫を遺す戒めとして、考えた末にこの家訓6の意味合いを遺したのでは無いかと観ている。
兎も角も、1180年にこの頼政は源氏再興を狙って立ち上がったのであるが、敗戦後頼政の孫の3人の内、清盛の母や一族の執り成しで惨罪にならず、許されてこの2人だけは生残れて日向廻村に配流(日向青木氏)と成った。恐らくは、伊勢北部伊賀地方に定住する彼等の子孫との繋がりや伊賀和紙の商いでの深い付き合いから、京綱の伊勢青木氏は「除名嘆願の運動」を伊賀を通して起したのではないだろうか。幾ら一族の執り成しでもこの様な特別な理由が無い限り謀反の張本人の孫の依頼でも無理であっただろう。
(後にこの2人は平氏に対して廻氏と共に再び反乱を起し失敗する 子孫は逃亡し薩摩大口で青木氏を名乗り子孫を遺す 廻氏系青木氏は現存する)
また、上記したように末の孫京綱が伊勢青木氏の跡目に入っている事から許されて難を逃れたのである。
これは伊勢青木氏と伊賀の伊勢平氏(阿多倍子孫)との和紙の商いによる付き合い関係からであろう。
更に、例を付け加えると、後の「天正の乱」3乱の内の「伊賀の乱」の時、伊勢青木氏の紙屋青木長兵衛が伊勢シンジケートを使って食料や物資運搬などの妨害活動などをして時間を稼ぎ、伊賀氏はゲリラ作戦に出た。しかし、落城寸前で青木氏の軍は突然に名張城から織田軍の側面を突き出て後退させ伊賀一族を救い守った。これ等は、過去の恩義によるものであろう。それでなくては時の織田氏に敵対する事はないであろう。
これ等の「人間的心情」に悖る「歴史的経緯」は、この「2足の草鞋策」を基にした家訓6からの所以で、この様な「生き残りの経緯」を辿れたのではと観ている。
それは一族の「家訓6による人間形成」が平氏らの信頼を得た事からの結果であろう。本来なら完全に滅亡の憂き目を受けている筈である。
これらの家訓6が「賜姓源氏の滅亡」との「分れ目」であったと観ている。
現に、清和源氏主家の源三位頼政が「以仁王の乱」(1187年)を起こす時、頼政の嫡男仲綱の子供で三男の京綱を、子孫を遺す為に同族の伊勢青木氏に跡目として入れた後に、源氏再興の平氏討伐に立ち上がったのであるが、この伊勢青木氏に跡目を入れると云う事は、恐らくはまだ源氏は”平氏に勝てない”と判断したことを意味するが、源氏立ち上がりの「契機」に成ると信じての行動であった。この時、この「不入不倫の権」に護られた伊勢松阪に向けての逃亡を起し再起を待つ事を目論だが、遂には「宇治の平等院」で自害したのであろう。
この時、伊勢青木氏は「2足の草鞋策」を採って60年くらいは経っていた筈で経済的なその裏打ちも有って、源の頼政は源氏宗家の生き残りが果たせると考えて伊勢青木氏の跡目に入れたと想像出来る。源氏の中でもただ一人平氏に妥協して朝廷に残った遠謀術策の人物でもある。
この様に、「2足の草鞋策」が家訓を遺し、それが子孫を遺せたのである。
この後にも、この家訓で生残れた同じ事が起こっているが、この「2足の草鞋策」の家訓6で培われた末裔は、判断を間違えずに子孫を遺した。
それは、信長の「天正の乱」の伊勢3乱の伊勢丸山城の戦いである。(3戦に全て合力)
名張に城を構える青木民部尉信定、即ち、伊勢松阪の豪商紙屋青木長兵衛がこの信長の次男信雄に丸山城構築で攻められた。伊勢青木氏は商人として伊勢シンジケートを使い、築城の木材の買占めとシンジケートの築城大工の派遣とシンジケートの妨害策で食料などの調達不能を裏工作で実行した。
名張城からの牽制で時間を稼ぎ、長い年月の末に出来た丸山城が、大工が”火をつける”という作戦で消失し打ち勝った有名な乱である。信長のただ一つの敗戦である。
そして、後に伊賀一族等も助けたのである。
後に、この時の将の織田信雄と滝川一益は家臣面前で罵倒叱責され遂には蟄居を命じられて疎まれた事件は歴史上有名である。
これも、その差配する青木長兵衛の家訓6の得た「力量、資質」が、恐ろしい信長に反発してでも、配下とシンジケートを動かしたのであり、この家訓6が左右して生残れたのである。
この家訓6の「教養」とそれを裏付ける「知識」の如何が、人を動かし大群を相手に戦いの戦略の成功に結び付けたのである。
この知識は天正の乱では物価高騰の「経済学」の原理知識と諸葛孔明如きの「権謀術策」の知識と築城学の知識が事を運ばせ、それの手足と成る人を「教養」で信望を集めた結果の所以である。
では、この家訓6を深く考察すると、この「教養」とは”一体何を以って得たのであろうか”という疑問が湧く。
そこで、調べたところ、代々主に共通するものは「絵」と「漢詩」であった。
「絵」は「南画」である。所謂「墨絵」である。「漢詩」は「書道」に通ずるものである。
二つを通して考察するに、「紙屋長兵衛」即ち「伊賀和紙」を扱う問屋である。つまり、「紙」である。「南画」、「漢詩」は紙が必需品であるから大いに納得できるもので、ではそのレベルはどの程度のものなのかを更に調べた所、プロでは無いが、江戸時代の歴史を観ると、紀州徳川氏の代々藩主にこの「南画」と「漢詩」を指導していたと言う記録が残っている。これ以外にも短歌や和歌等でも相手をしたと記録されている。
これは、初代紀州藩主で家康の子供の徳川頼宣が伊勢松阪の「飛び地領」の視察での面会の時からの経緯であり、大正14年まで続いたと記録されている。私の祖父の代までである。
これ以外には、「知識」として「経済学」を指導していたとある。
特筆するには「松阪商人」としての知識を藩主と家臣に経理指導していたと記録されていて、その証拠に8代将軍吉宗は若き頃に家老職の伊勢加納氏に長く預けられていたが、この時、伊勢青木氏と加納氏とは代々深い血縁関係にあり、吉宗にも指導していたとされる。このことが縁で、請われて江戸に付き従い、伊勢の松阪商人の知識を「享保改革」で実行し推し進めたと記録されている。
将軍に直接発言できる「布衣着用を許される権限:大名格」を与えられていたとある。初代は江戸に付き従ったのは伊勢の分家の青木六左衛門とある。その後、紀州徳川家にも代々「納戸役」(経理)として奉仕したと記録されている。
この記録の様に、「時の指導者」徳川氏を「教養」で指導し、「教育」の「知識」で導いたのである。
本来であれば、家康に潰されていてもおかしくない。秀吉に潰されかけ新宮に逃げ延びたが、伊勢を任された武勇と学問で有名な蒲生氏郷との「教養」での付き合いが働いて、1年後に伊勢松阪に戻されて侍屋敷(9、19番地)の2区画も与えられる立場を得たのである。つまり、生残れたのである。
これ等は青木氏一族一門の存続に「青木氏の長」としての「教養と教育」の形を変えた貢献でもある。平安の時代より家訓として護られてきた家訓6(教養)の所以であろう。
この家訓6には特に添書に長く解説なるものがありそれを解釈すると次ぎの様になるであろう。
家訓6ではこの事が理解されていないとその「教養」と「教育」の諸事への効果なるものは出ない、又は意味しないとまで断じている。
当時の背景から考えると次ぎの様に成るであろう。
学校と言う形式のものは無かった。従って、「知識」は自らの範囲で書物に依ってのみ得られる事が通常で、学校らしきものは江戸の中期頃からの事であろう。それも「基本的な知識」であり、その専門的な事は「個人の努力」の如何に関わっていたと成る。
まして、其処では、「教養」となると尚更であっただろう。
古来の「教養」を会得する場合はその師匠となる人に付き学び、多くは「盗観」によるものであった事から、その「盗観の会得」する能力が無ければ成し得ないだろう。又、その「極意の会得」は尚更個人の能力の如何に関わるものである。
従って、この「2つの能力」(盗観 極意の会得の能力)を獲得出来るとするには誰でもと云う事では無くなる。能力の無い者は挑戦しないであろうし、してもその会得する極意のレベルは低く「人力」を高めるに足りないであろう。丁度、伝えられる茶道の秀吉如きのものであったであろう。
対比して古来の「教育」を会得する場合はその師匠とする人が少なく「知識」を前提としている為に「盗観」の会得は出来ないし、「極意」の会得は「盗観」が出来ない事から成し得ない。
これは「書籍」による「個人の理解能力」による何物でもない。当然に「教養」以上の会得の困難さを物語るであろう。まして、その書籍からより進めて「知識」を会得出来る事は少ないし困難である。
この様な事から「教養、教育」の会得はある「経済的な力」を獲得している人が得られるチャンスとなる。
と成ると、添書の書いている意味合いは次ぎの様に成る。
「教養」の本質を分析すると、「質的な探求」であり、数を多くした「量的な探求」ではその「極意」は得られないであろう。しかし、「教育」の本質は「量的な探求」であり、「知識」の会得である事からその「会得の数」を繋ぎ合わせての応用であり、「質的な探求」はその研究的なものと成るのでその研究的な知識を以って諸事を成し得るものではないであろう。
「教育」に依って得られる多くの「知識」はそれを繋ぎ活用する事で一つの「知恵」が生まれる。
これは「人間本来の姿」であり、それを多く探求し極める事がより高い「人間形成」の一端と成り得るのである。その「人間形成」の成し得た「知識」から得られたものが「教育」から得られる「教養」と成ると説いている。そして、教養も同じだと説いている。
「教養」もその高い「質的探求」に依って「心の豊かさ」が生まれ其処に「人間形成の姿」が出来てそれを極める事でも「教養」から得られる「知識」が会得出来るのだと諭している。
「教養」で得られる「心の豊かさ」は「心」で、「教育」の「知識と知恵」は「頭」で会得する。
そして、この二つは「心」と「頭」で安定に連動してこそ「効果」を発揮するものだと諭している。
これを現代風に云えば、俗ではあるが、「教養」は「前頭葉」で、「教育」は「左脳」で、そしてそれを連動させるのは「右脳」だと成る。
真に、古代に書かれたこの「説諭論」は論理的にも科学的にも間違ってはいない。驚きである。
「教養」=「質的な探求」=「心」
「教育」=「量的な探求」=「頭」
「教養」=「心の豊かさ」=「人間形成」
「教育」=「知識の応用」=「知恵」=「人間形成」
故に「教養」(心の知識)+「教育」(頭の知識)=「人間形成」
「心の豊かさ」=「心の知識」
更に、次ぎの様にも書かれている。
「教養」は「人」を成し得るものであり、「教育」は「時」を成し得るものであると断じている。
つまり、「教養」の「質的な探求」に依って獲得した「極意」はこの世の「時」の関わる諸事には作用せず、「人」の心を通じ「質的に動じさせるもの」であるとしている。
反面、「教育」即ち「知識」は「時」の関わる諸事に作用しより効果的に動くものであるとしている。それはより多くの「知識量」がもたらす効果であるとするのある。
「教養」=「人に動じる」 「教育」=「時に作用する」
そして、「教養」の「質=人」と「教育」の「量=時」を会得した時に一族一門の長と成り得るものであるとしているのである。
ただ、ここで特筆する事は「教養」は「心」で会得するもので、その「質」が問われる以上その「質」を上げた事で「人」である限り「慢心」が起こるだろう。この「慢心」はその「教養」の効能を無くす事に成ると警告している。
対比して「教育」は「記憶」で会得するもので、その「量」が問われるが「人」にあらず「時」にあるので「慢心」はあったとしてもそれは「得意」とするものであり、むしろ「量を高める源」であるとして、その「知識」の効能は無く成るとはならないとしている。
では、誰しもその人の「性」(さが)として起こる「慢心」をどの様にするべきなのかに付いての方法は「自覚」以外に無いとしている。しかし、常にその「慢心」を抑えようとする努力が「質を高める源」であると説いていて「一体」であると説いている。
そして、その基となるその「自覚」は「仏教の教えの悟り」で成し得ると銘記している。
「仏教の教えの悟り」とは特記されていないが、筆者独自の考えだが「色即是空 空即是色」「色不異空」「空不異色」の解釈では無いかと思う。
「教養」=「心」=「極意」=「質」=「人」=「慢心の抑制」(-の方向)=「質を高める源」
「教育」=「知識」=「記憶」=「量」=「時」=「慢心ー得意」(+の方向)=「量を高める源」
以上が添え書きの解釈とするべきでは無いかと考えている。
この家訓は時代が異なり「教養」も「教育」も講座や学校とする学ぶ機関が存在する故に、若干「教養」は「教育」と等しいと判断されるが、そこで得られる領域では上記した様に、それは「教育」の「知識」の末端のところで得られる「教養」の範囲であろう。つまり、「知識的教養」と定義づける。
ここで云う「教養」とは「個人の努力」による「高い修練」の「結果」を意味していると考える。
当然に、現在では、「知識的な教養」の上に「個人の努力=高い修練」が成されれば、「心的な教養」は会得出来るだろう。
依って「教養」には「個人の努力」による「心的な教養」と「講座」による「知識的な教養」があることを意味する。
この家訓は”「個人の努力」が「心を鍛え質を高める」”としているのである。
筆者はこの家訓6の「教養」には届かないが、この教えを守り物理系技術者として「教育」の知識の方からの貢献を社会にして来たものであり、それを補う形で「知識的な教養」として「写真」や「竹細工」や「庭造り」なるものに傾注している。
幸い家訓6をそれなりに守りしている為か何かしら「心爽やか」である。
意外に、家訓6の先祖の言い分は、「教養」の極意はこの「心爽やか」の辺に合ったのではと勝手に思うのである。
近代科学的に分析すると、”「心爽やか」が事に処する時、脳を開放し、「拘泥」や「拘り」から開放されて、豊かな判断力が高まり、諸事を正しい方向に向ける力と成り得る”としているのかも知れないと、最近は思えている。
この「教養」は、上記した様に、仏教の般若経の一節「色即是空 空即是色」「空不異色 色不異空」を理解し会得する「糸口」になる事を先祖は暗示しているのではないだろうか。
この事に付いては大事と見て次ぎの家訓7で更に追求している。
兎も角も、この家訓6を筆者は次ぎの様に解している。
「教養」=「心爽やか」=「仏教の極意」>「入り口、糸口」<「長の心得」=「諸事万端良」=「資質、力量」=「教育(知識)」
なかなか難解な家訓6ではあるが、「人間形成」の基となる家訓であると考える。
家訓6=「人間形成の戒め」
次ぎの家訓7はこの家訓6を更に強調したものであるので”続く”としたい。
次ぎは家訓7に続く。
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
投稿日 : 12/29-06:48
投稿者 : 福管理人
伊勢青木氏家訓10訓
家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓6までの戒めは次ぎの通りである。
家訓1は「夫婦の戒め」
家訓2は「親子の戒め」
家訓3は「行動の戒め」
家訓4は「性(さが)の戒め」
家訓5は「対人の戒め」
以上であった。
家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)である。
この教訓6はそもそも「教育」と「教養」とは違うという事を意味し、その区別を受けて培えと云う事として伝えられている。
この事が両親から子供の頃から最も頻繁に教えられた事である。
それは何故なのかと云う事である。この事は人を無意味な差別化を無意識にさせてしまう思考を培ってしまう事を誡めているのである。
この家訓の持つ意味に付いて、成人して結婚に至った時に初めてこの家訓の意味を知ったのだが、家族を持った事で”子孫存続に大きく関わる事だからである”と判ったのである。
それに付いてこの家訓6には添書で細かく解説されている。
それには、まとめるとまず最初に次ぎの様な事柄が書いている。
「教養」「教育」は社会を維持する時に必要とする「上下関係の差違」を意味するものではない事は明らかである。「社会」は「組織に類するもの」と「家庭に類するもの」とに分類出来る。
そこで、その「社会」の中での「組織」や「家庭」で必要とする差違、例えば、上下の関係は「契約」であり、元より「差別」では無く「差違」であり、「組織」又は「家庭」を円満で効果的に維持する上で必要とする「相互の了解」の上での「契約」である。
組織は「命令する者」と「命令される者」の契約を伴なう事であるが、この「命令」が上下の感覚を生み出してしまうのである。
家庭はもとより親と子の関係はあるが上下ではなく、家訓1又は家訓2にある様に「導く者」と「導びかれる者」の差異が主流となり契約が成立する。
「組織」=「命令する者」、「命令される者」=「契約」
「家庭」=「導く者」、「導かれる者」=「契約」
更に、進めて、そもそも、人は「人間的な程度」(人間力)を上げることを目的として「教育」を受けさせる。しかし、この「教育」は「知識」の習得を前提として「人間的な程度」(人間力)を上げる事に第一義があり、決して「心の持ち様」を上げての「人間的な程度」(人間力)の向上を成し得るものではない。
その「人間的な程度」(人間力)とは2つの要素に依って構成される。
それは、ここで云う「教養」であり、「教育}である。
この世に於いて「諸事」を解決するに必要とする「人間力」は様々なところで発揮される。それに依ってその「人の力量」が試される。この「力量」を「人間力」と言うが、「解決成し得る力」のその程度に依ってその「人間力」は測られる。
それは、「心の豊かさ」を培った「教養」だけでは成し得ない。人間は他の動物と違う所は「知恵」に依って得た「知識」で「人間」としての存在がある。
従って、その本来の「知恵」の根拠とする処の「知識」を得て初めてこの世の諸事に対することが出来る。その「諸事の解決」の「成果」を高めるのはこの「心の豊かさ」を培う「教養」である。
この「諸事の解決」には仏教で云う「三相」(人、時、場所)を必要としている。
この「三相」のこの「3つの相」に卓越する事が「人間力」を高める事に成るのである。
その「卓越」は、例えば、「人」を捉えた場合「人」を動するには「知識」と「心の豊かさ」の量が試される。決して、「知識」だけでは成し得ない。
人は「心の動物」と云われる様に、其処には「心の豊かさ」の「教養」が無ければ人を動する事は出来ない。
況や、”人とは何ぞや”と成った場合には、「人の如何」を知る必要がある。これは「先人の知恵」に学ぶ以外には無い。それは「知恵」即ち「知識」である。
つまり、この「2つの知識」と「心の豊かさ」の量の大小の如何に関わることを意味する。
当然に、「知識」を会得する場合にそれに伴ない幾らかの「心の豊かさ」も会得できるであろうし、「心の豊かさ」を会得するにも幾らかの「知識」も会得する事に成るだろう。
しかし、その比は同率では無い。故に、2つの「低い所」を補ってこそ「諸事を成し得る力量」が会得できるのである。
この家訓6では「人の力量」をより他に比して高めるにはこの低い部分を補うことであり、且つ”「教養」と「教育」とは異なる”としているのであり、故に本家訓6ではこの”二つの事を培え”としているのである。
「力量」=「教養」+「教育」=「人間力」=「三相の獲得(人、時、場所)」
「教養」=「心」=「心の豊かさ」
「教育」=「知識」=「知恵」=「先人の知恵」
ところで、この家訓が生まれた頃は氏家制度の盛重期であり、家柄身分が社会を構成する基準と成っていた。その中で、青木氏の家訓では上下の身分は「社会を構成する為の契約」であるとしている。決して本来存在する階級では無いとしているのである。当時としては、口外できる考え方ではなかったのであろうが、それを家訓6としてその意味合い(社会を構成する契約)を遺したものと考えられる。それが、青木氏一族一門の「長」としての「秘たる心根」「人間的な戒め」としていたのであろう。これらは添書から覗える事である。
家柄身分が低いから高いからとして「長」として、差配すれば恐らくは「人」は充分に動かず子孫を遺し得なかったのではないだろか。その良い例がある。
そもそも伊勢青木氏はそれまで日本書紀にも記述されている様に伊勢王施基皇子から発祥し、その活動では皇親政治の中心に居た青木氏は、桓武天皇の律令国家の完成期から始まり、1125年頃から[律令による国家運営」と「皇親政治による国家運営」とに矛盾を生じた為に皇親政治側に居た青木氏は阻害された。
この桓武天皇は母方(高野新笠 阿多倍の孫娘)子孫の賜姓族の「たいら族」(「京平氏」「桓武平氏」「伊勢平氏」)と呼ばれる一族をして青木氏を阻害させたものである。況や、彼の有名な後漢の阿多倍王の末裔帰化人、5代目末裔「平清盛」の全盛時代の始まりの中である。
桓武天皇は、第5位までに皇位継承者が無く次ぎの第6位皇子の身分(浄大1位)の伊勢王施基皇子の一族の長男が天皇と成ったが、その光仁天皇のその子供である。
要するに伊勢青木氏とは親族同族であると云う事だが、その親族同族の伊勢青木氏を圧迫し、300年程度後にはその引き上げた「平族」(たいら族)の台頭に依って、賜姓青木氏は一族の源氏と同様に一族存亡に関わる事態にまで落ち至ったのである。
その衰退の立場に於いて、同じ第6位皇子の末裔子孫の賜姓源氏も11家11流存在していたが衰退滅亡して3家3流に成り清和源氏主流と成った。
賜姓源氏は賜姓青木氏と同様に身の振り方を変えればそれなりの存亡もあったであろうが、この時、伊勢青木氏がわざわざ「2足の草鞋策」を採った。そして生残れた。
賜姓清和源氏の頼信(分家)子孫の頼朝は義経の提言にも関わらず無視弾圧して、皇族としての立場を依然として維持し、「坂東八平氏」の北条氏を「武力的背景」として「政治的存立」に掛けたが、結局70年後には滅ぶ結果と成った。
この事を考えると、賜姓5家5流の青木氏も源氏の滅亡を考えると如何にその立場が窮していたかがよく判る。
70年後の1195年頃には同族5家5流の賜姓青木氏だけが生き残り、賜姓源氏11家11流が全て滅亡したのはこの「2足の草鞋策」から生まれた家訓6を守った事によるものと評価するべき点である。それはどう云う事かと云うと次ぎの様に成るだろう。
つまり、桓武天皇は先ず800年頃にこの青木氏の勢力を殺ぐことを目的として伊勢の国守護等の実権を藤原氏北家筋(藤成 秀郷の曾祖父、平安末期には基景)の国司に委ねた。
それにより賜姓青木氏は次第に衰退し、続いて平氏の台頭が起きた事から生きる為に過去の実力を使い、「経済的安定」を一族一門の目標として、1125年頃(この時は基景が国司)に「2足の草鞋策」を展開したのである。
この時から、一面では摂津港にも店を持つ豪商の松阪商人として、一面では土地の松阪、名張、員弁、桑名、四日市一帯の3つの城を持つ豪族として一族の生き残りを図ったのである。
(美濃、信濃の青木氏と連携をしていた事が口伝や信濃伊勢町などの地名などから判断出来る)
恐らくは、この時から伊勢青木氏は一族一門を束ねて行かねば成らない苦しい試練と経験が起こり、それを通して生まれたのがこの家訓6では無いかと考えられる。
それまでは、皇族賜姓族として、「皇親政治」の主流一族としての立場からそれはそれなりに維持出来ていたのであろう。しかし、この立場を失した状況下では止む無き事となり、一族一門一統を束ねるべき「資質」が大いに求められたのではないかと想像出来る。
何処でも起こる事だが、当然の様に「路線争い」で内部でも内紛の様な事が起こったであろう事からこの家訓が生まれたのであろう。
その時の苦悩の結論からその一族の「長」としての「資質」がこの家訓6と成って代々遺されたものであろう。
この家訓6は賜姓族の侍の家の家訓と言うよりは、むしろ「商家的な色合い」が強く感じる。
「賜姓侍」としては「氏家制度」の中では生まれながらにして「家柄身分」が決められていればこの様な家訓は必要がない筈である。むしろ「武運長久」の家訓らしきものが主と成り得る筈であろう。
しかし、標記の家訓10訓は全て「人」の本質を求めている。
これは伊勢松阪青木氏は伊勢神宮の膝元で「不入不倫の権」で守られていた事から、外から侵害し攻められる脅威が低かった事にもよる。だから「武運長久」の家訓らしきものが無かったからにも依るだろう。
しかし、1130年代頃からその脅威は次第に増したのである。それは「武力的の脅威」と云うよりは衰退に依る「経済的な脅威」が増していたのであろう。
しかし、鎌倉時代に同じ立場に居た全ての同族賜姓源氏が滅んだことから「武力的な脅威」が増し始めたと考えられる。続いて、室町時代には「下克上、戦国時代」が起こり「不入不倫の権」で守られる保証は無く成ったのであろう。そして、遂には、「武力的な脅威」は”「天下布武」を標榜し比叡山等の古代社会権威を破壊すべし”とする信長の登場で現実の問題と成り、遂にはこの伊勢にも「天正の乱」の「3つ戦い」が起こった。
この様に歴史の経緯を観ると、賜姓源氏はこの「経済的な脅威」に対処していなかった為に滅んだと云える。
この時、この「2つの脅威」に対処していた青木氏はこの家訓を遺したのであろう。
しかし、それだけに一層に難しい存続の運営を任された一族一門一統の「長」としての「資質」、「力量」のあるべき姿の根本を問われていた事に成る。
関西以西32/66国を従え、技能集団を抱えての「宋貿易」を自ら行うなど「武力と経済力」を持っていたこの大勢力を誇る「平氏の脅威」に対しては、たった5国だけの5家5流の青木氏は一致団結と成って対処しなければ少なくとも存続が危ぶまれる状況下であった筈である。
5家5流は「経済力での繋がり」と「5つの小さい武力」の一族同盟の終結で対処した事に成る。
そこで、「小さい武力」しか持たない青木氏にとっては、平氏と同様に「経済的な力」を持つ事を考えたのは当然であろう。
むしろ、平氏の”「一門の経営を真似た」”のではないだろうか。それがこの「2足の草鞋策」であったと考えている。
平氏はもとより後漢の技能集団を率いていて「経済的な力」は帰化当時の始めから持っていたものである。恐らくは氏家制度の中で、阿多倍よりその5-7代で政権に上り詰めた「その実力」を観ていたのではないか。
その真因が「武力」では無く「経済力」に真因があると理解していたのであろう。
その証拠に、朝廷は奈良期末にはその始祖の大隈の首魁の阿多倍に、伊勢青木氏の守護地であった伊勢北部伊賀地方を割譲したのである。(薩摩の国の大隈も割譲した)
そして、伊勢青木氏は「経済力」を高める為に、その隣の阿多倍一門(京平氏、伊勢平氏)の和紙を作る技能に目を付けていたのであろう。これを販売する職業を最初に営んだ点である。
”商をする”をすると云っても並大抵の事ではない。まして、天領地の皇族である。
”血を吐く”思いで営んだと観られる。部門であれば組織であるから上記した様に「命令」で動くが「商」と成れば「命令」では動かない。それだけにこの「家訓6の重み」が血の滲む思いにあったのであろう。その「商」を保証する武力は他の四家の青木氏を束ねて一つの力として発揮するのであるから、その「束ねる力」も「命令」では動かないであろう。
当時の「商」は治安が悪く「武力」を背景としなくては販売と運搬は侭成らなかったのである。
当然、台頭する勢力の種を潰すのが上に立つ平家の戦略でありその妨害や脅威もあった筈であろう。
故に「商」にしても「武力」にしてもこの家訓6が大きく左右する事になった筈である。
同じく、信濃青木氏も日本書紀にも出て来る程に、阿多倍らが引き連れて来た「馬部」が信濃のこの地を開墾して信濃王の賜姓青木氏と血縁関係(諏訪族系青木氏)が起こっている。
美濃には小さい氏の「伊川津青木氏」があるが、未確認で証拠は無いが、この氏が細々と生き残った美濃賜姓青木氏の末裔(土岐氏系青木氏がある)ではと見ていて、それもこの「商」の経済的な裏打ちがあったからであろう。その先祖はこの付近の海幸を扱う技能集団の末裔の磯部氏等の血縁の末裔ではと考える。この様に何れもが阿多倍の技能集団との関係が其れなりに出来ている。
これ等の事が存続に大きく作用したと観ているが、反面では「平氏の圧迫や妨害や脅威」もあった不思議な関係にあった筈である。
歴史上は伊勢と信濃での繋がりは明確であるのだが、伊勢青木氏や信濃青木氏もこの阿多倍一門との関わりを持っていたのである。
この様に「経済的な形」ではシンジケートを形成して繋がっていた事に成るが、その阿多倍末裔の一門に「政治的な圧力」を加えられたのであるから不思議な因果関係である。
しかし、次ぎの様な助けられた経緯の事もあるのだ。
衰退した賜姓源氏の中で清和源氏の宗家頼光の末裔の頼政がただ一人平家の中で生き残り朝廷の中で苦労して三位まで上り詰めたのは、私はこの同族賜姓伊勢青木氏と隣の阿多倍一門との付き合いがあった事から生残れたと観ている。
この頼政が遺した「辞世の句」があるので紹介する。
うもれ木の 花は咲く事も 無かりしに 身のなる果てど かなしかりける
源氏を潰さない為にも何とかして平家に迎合して歯を食いしばって生き残りを図り、なかなか源氏を蘇がえさせられなく、出世の出来ない平家の中で生きる辛さを辞世の句として遺したのである。
その心情が良く判る。源氏の衰退に対してそのキツカケを作ろうとした「真情」が良く出ている。
実は確証は無いが、この家訓6を遺したのは頼政の孫の伊勢青木氏の跡目京綱では無いかと考えている。当然、父の仲綱と共に果てた祖父の頼政のこの句は「子孫存続」と云う意味合いを強く表していることから、京綱はこの句を理解して1125年頃から1180年の「以仁王の乱」までの60年程の青木氏の苦しみを承知している筈である。それ以後、身を以って乱を起した事で、伊勢青木氏には更に圧迫が加えられ苦しみ抜いたと考えられる事から、子孫を遺す戒めとして、考えた末にこの家訓6の意味合いを遺したのでは無いかと観ている。
兎も角も、1180年にこの頼政は源氏再興を狙って立ち上がったのであるが、敗戦後頼政の孫の3人の内、清盛の母や一族の執り成しで惨罪にならず、許されてこの2人だけは生残れて日向廻村に配流(日向青木氏)と成った。恐らくは、伊勢北部伊賀地方に定住する彼等の子孫との繋がりや伊賀和紙の商いでの深い付き合いから、京綱の伊勢青木氏は「除名嘆願の運動」を伊賀を通して起したのではないだろうか。幾ら一族の執り成しでもこの様な特別な理由が無い限り謀反の張本人の孫の依頼でも無理であっただろう。
(後にこの2人は平氏に対して廻氏と共に再び反乱を起し失敗する 子孫は逃亡し薩摩大口で青木氏を名乗り子孫を遺す 廻氏系青木氏は現存する)
また、上記したように末の孫京綱が伊勢青木氏の跡目に入っている事から許されて難を逃れたのである。
これは伊勢青木氏と伊賀の伊勢平氏(阿多倍子孫)との和紙の商いによる付き合い関係からであろう。
更に、例を付け加えると、後の「天正の乱」3乱の内の「伊賀の乱」の時、伊勢青木氏の紙屋青木長兵衛が伊勢シンジケートを使って食料や物資運搬などの妨害活動などをして時間を稼ぎ、伊賀氏はゲリラ作戦に出た。しかし、落城寸前で青木氏の軍は突然に名張城から織田軍の側面を突き出て後退させ伊賀一族を救い守った。これ等は、過去の恩義によるものであろう。それでなくては時の織田氏に敵対する事はないであろう。
これ等の「人間的心情」に悖る「歴史的経緯」は、この「2足の草鞋策」を基にした家訓6からの所以で、この様な「生き残りの経緯」を辿れたのではと観ている。
それは一族の「家訓6による人間形成」が平氏らの信頼を得た事からの結果であろう。本来なら完全に滅亡の憂き目を受けている筈である。
これらの家訓6が「賜姓源氏の滅亡」との「分れ目」であったと観ている。
現に、清和源氏主家の源三位頼政が「以仁王の乱」(1187年)を起こす時、頼政の嫡男仲綱の子供で三男の京綱を、子孫を遺す為に同族の伊勢青木氏に跡目として入れた後に、源氏再興の平氏討伐に立ち上がったのであるが、この伊勢青木氏に跡目を入れると云う事は、恐らくはまだ源氏は”平氏に勝てない”と判断したことを意味するが、源氏立ち上がりの「契機」に成ると信じての行動であった。この時、この「不入不倫の権」に護られた伊勢松阪に向けての逃亡を起し再起を待つ事を目論だが、遂には「宇治の平等院」で自害したのであろう。
この時、伊勢青木氏は「2足の草鞋策」を採って60年くらいは経っていた筈で経済的なその裏打ちも有って、源の頼政は源氏宗家の生き残りが果たせると考えて伊勢青木氏の跡目に入れたと想像出来る。源氏の中でもただ一人平氏に妥協して朝廷に残った遠謀術策の人物でもある。
この様に、「2足の草鞋策」が家訓を遺し、それが子孫を遺せたのである。
この後にも、この家訓で生残れた同じ事が起こっているが、この「2足の草鞋策」の家訓6で培われた末裔は、判断を間違えずに子孫を遺した。
それは、信長の「天正の乱」の伊勢3乱の伊勢丸山城の戦いである。(3戦に全て合力)
名張に城を構える青木民部尉信定、即ち、伊勢松阪の豪商紙屋青木長兵衛がこの信長の次男信雄に丸山城構築で攻められた。伊勢青木氏は商人として伊勢シンジケートを使い、築城の木材の買占めとシンジケートの築城大工の派遣とシンジケートの妨害策で食料などの調達不能を裏工作で実行した。
名張城からの牽制で時間を稼ぎ、長い年月の末に出来た丸山城が、大工が”火をつける”という作戦で消失し打ち勝った有名な乱である。信長のただ一つの敗戦である。
そして、後に伊賀一族等も助けたのである。
後に、この時の将の織田信雄と滝川一益は家臣面前で罵倒叱責され遂には蟄居を命じられて疎まれた事件は歴史上有名である。
これも、その差配する青木長兵衛の家訓6の得た「力量、資質」が、恐ろしい信長に反発してでも、配下とシンジケートを動かしたのであり、この家訓6が左右して生残れたのである。
この家訓6の「教養」とそれを裏付ける「知識」の如何が、人を動かし大群を相手に戦いの戦略の成功に結び付けたのである。
この知識は天正の乱では物価高騰の「経済学」の原理知識と諸葛孔明如きの「権謀術策」の知識と築城学の知識が事を運ばせ、それの手足と成る人を「教養」で信望を集めた結果の所以である。
では、この家訓6を深く考察すると、この「教養」とは”一体何を以って得たのであろうか”という疑問が湧く。
そこで、調べたところ、代々主に共通するものは「絵」と「漢詩」であった。
「絵」は「南画」である。所謂「墨絵」である。「漢詩」は「書道」に通ずるものである。
二つを通して考察するに、「紙屋長兵衛」即ち「伊賀和紙」を扱う問屋である。つまり、「紙」である。「南画」、「漢詩」は紙が必需品であるから大いに納得できるもので、ではそのレベルはどの程度のものなのかを更に調べた所、プロでは無いが、江戸時代の歴史を観ると、紀州徳川氏の代々藩主にこの「南画」と「漢詩」を指導していたと言う記録が残っている。これ以外にも短歌や和歌等でも相手をしたと記録されている。
これは、初代紀州藩主で家康の子供の徳川頼宣が伊勢松阪の「飛び地領」の視察での面会の時からの経緯であり、大正14年まで続いたと記録されている。私の祖父の代までである。
これ以外には、「知識」として「経済学」を指導していたとある。
特筆するには「松阪商人」としての知識を藩主と家臣に経理指導していたと記録されていて、その証拠に8代将軍吉宗は若き頃に家老職の伊勢加納氏に長く預けられていたが、この時、伊勢青木氏と加納氏とは代々深い血縁関係にあり、吉宗にも指導していたとされる。このことが縁で、請われて江戸に付き従い、伊勢の松阪商人の知識を「享保改革」で実行し推し進めたと記録されている。
将軍に直接発言できる「布衣着用を許される権限:大名格」を与えられていたとある。初代は江戸に付き従ったのは伊勢の分家の青木六左衛門とある。その後、紀州徳川家にも代々「納戸役」(経理)として奉仕したと記録されている。
この記録の様に、「時の指導者」徳川氏を「教養」で指導し、「教育」の「知識」で導いたのである。
本来であれば、家康に潰されていてもおかしくない。秀吉に潰されかけ新宮に逃げ延びたが、伊勢を任された武勇と学問で有名な蒲生氏郷との「教養」での付き合いが働いて、1年後に伊勢松阪に戻されて侍屋敷(9、19番地)の2区画も与えられる立場を得たのである。つまり、生残れたのである。
これ等は青木氏一族一門の存続に「青木氏の長」としての「教養と教育」の形を変えた貢献でもある。平安の時代より家訓として護られてきた家訓6(教養)の所以であろう。
この家訓6には特に添書に長く解説なるものがありそれを解釈すると次ぎの様になるであろう。
家訓6ではこの事が理解されていないとその「教養」と「教育」の諸事への効果なるものは出ない、又は意味しないとまで断じている。
当時の背景から考えると次ぎの様に成るであろう。
学校と言う形式のものは無かった。従って、「知識」は自らの範囲で書物に依ってのみ得られる事が通常で、学校らしきものは江戸の中期頃からの事であろう。それも「基本的な知識」であり、その専門的な事は「個人の努力」の如何に関わっていたと成る。
まして、其処では、「教養」となると尚更であっただろう。
古来の「教養」を会得する場合はその師匠となる人に付き学び、多くは「盗観」によるものであった事から、その「盗観の会得」する能力が無ければ成し得ないだろう。又、その「極意の会得」は尚更個人の能力の如何に関わるものである。
従って、この「2つの能力」(盗観 極意の会得の能力)を獲得出来るとするには誰でもと云う事では無くなる。能力の無い者は挑戦しないであろうし、してもその会得する極意のレベルは低く「人力」を高めるに足りないであろう。丁度、伝えられる茶道の秀吉如きのものであったであろう。
対比して古来の「教育」を会得する場合はその師匠とする人が少なく「知識」を前提としている為に「盗観」の会得は出来ないし、「極意」の会得は「盗観」が出来ない事から成し得ない。
これは「書籍」による「個人の理解能力」による何物でもない。当然に「教養」以上の会得の困難さを物語るであろう。まして、その書籍からより進めて「知識」を会得出来る事は少ないし困難である。
この様な事から「教養、教育」の会得はある「経済的な力」を獲得している人が得られるチャンスとなる。
と成ると、添書の書いている意味合いは次ぎの様に成る。
「教養」の本質を分析すると、「質的な探求」であり、数を多くした「量的な探求」ではその「極意」は得られないであろう。しかし、「教育」の本質は「量的な探求」であり、「知識」の会得である事からその「会得の数」を繋ぎ合わせての応用であり、「質的な探求」はその研究的なものと成るのでその研究的な知識を以って諸事を成し得るものではないであろう。
「教育」に依って得られる多くの「知識」はそれを繋ぎ活用する事で一つの「知恵」が生まれる。
これは「人間本来の姿」であり、それを多く探求し極める事がより高い「人間形成」の一端と成り得るのである。その「人間形成」の成し得た「知識」から得られたものが「教育」から得られる「教養」と成ると説いている。そして、教養も同じだと説いている。
「教養」もその高い「質的探求」に依って「心の豊かさ」が生まれ其処に「人間形成の姿」が出来てそれを極める事でも「教養」から得られる「知識」が会得出来るのだと諭している。
「教養」で得られる「心の豊かさ」は「心」で、「教育」の「知識と知恵」は「頭」で会得する。
そして、この二つは「心」と「頭」で安定に連動してこそ「効果」を発揮するものだと諭している。
これを現代風に云えば、俗ではあるが、「教養」は「前頭葉」で、「教育」は「左脳」で、そしてそれを連動させるのは「右脳」だと成る。
真に、古代に書かれたこの「説諭論」は論理的にも科学的にも間違ってはいない。驚きである。
「教養」=「質的な探求」=「心」
「教育」=「量的な探求」=「頭」
「教養」=「心の豊かさ」=「人間形成」
「教育」=「知識の応用」=「知恵」=「人間形成」
故に「教養」(心の知識)+「教育」(頭の知識)=「人間形成」
「心の豊かさ」=「心の知識」
更に、次ぎの様にも書かれている。
「教養」は「人」を成し得るものであり、「教育」は「時」を成し得るものであると断じている。
つまり、「教養」の「質的な探求」に依って獲得した「極意」はこの世の「時」の関わる諸事には作用せず、「人」の心を通じ「質的に動じさせるもの」であるとしている。
反面、「教育」即ち「知識」は「時」の関わる諸事に作用しより効果的に動くものであるとしている。それはより多くの「知識量」がもたらす効果であるとするのある。
「教養」=「人に動じる」 「教育」=「時に作用する」
そして、「教養」の「質=人」と「教育」の「量=時」を会得した時に一族一門の長と成り得るものであるとしているのである。
ただ、ここで特筆する事は「教養」は「心」で会得するもので、その「質」が問われる以上その「質」を上げた事で「人」である限り「慢心」が起こるだろう。この「慢心」はその「教養」の効能を無くす事に成ると警告している。
対比して「教育」は「記憶」で会得するもので、その「量」が問われるが「人」にあらず「時」にあるので「慢心」はあったとしてもそれは「得意」とするものであり、むしろ「量を高める源」であるとして、その「知識」の効能は無く成るとはならないとしている。
では、誰しもその人の「性」(さが)として起こる「慢心」をどの様にするべきなのかに付いての方法は「自覚」以外に無いとしている。しかし、常にその「慢心」を抑えようとする努力が「質を高める源」であると説いていて「一体」であると説いている。
そして、その基となるその「自覚」は「仏教の教えの悟り」で成し得ると銘記している。
「仏教の教えの悟り」とは特記されていないが、筆者独自の考えだが「色即是空 空即是色」「色不異空」「空不異色」の解釈では無いかと思う。
「教養」=「心」=「極意」=「質」=「人」=「慢心の抑制」(-の方向)=「質を高める源」
「教育」=「知識」=「記憶」=「量」=「時」=「慢心ー得意」(+の方向)=「量を高める源」
以上が添え書きの解釈とするべきでは無いかと考えている。
この家訓は時代が異なり「教養」も「教育」も講座や学校とする学ぶ機関が存在する故に、若干「教養」は「教育」と等しいと判断されるが、そこで得られる領域では上記した様に、それは「教育」の「知識」の末端のところで得られる「教養」の範囲であろう。つまり、「知識的教養」と定義づける。
ここで云う「教養」とは「個人の努力」による「高い修練」の「結果」を意味していると考える。
当然に、現在では、「知識的な教養」の上に「個人の努力=高い修練」が成されれば、「心的な教養」は会得出来るだろう。
依って「教養」には「個人の努力」による「心的な教養」と「講座」による「知識的な教養」があることを意味する。
この家訓は”「個人の努力」が「心を鍛え質を高める」”としているのである。
筆者はこの家訓6の「教養」には届かないが、この教えを守り物理系技術者として「教育」の知識の方からの貢献を社会にして来たものであり、それを補う形で「知識的な教養」として「写真」や「竹細工」や「庭造り」なるものに傾注している。
幸い家訓6をそれなりに守りしている為か何かしら「心爽やか」である。
意外に、家訓6の先祖の言い分は、「教養」の極意はこの「心爽やか」の辺に合ったのではと勝手に思うのである。
近代科学的に分析すると、”「心爽やか」が事に処する時、脳を開放し、「拘泥」や「拘り」から開放されて、豊かな判断力が高まり、諸事を正しい方向に向ける力と成り得る”としているのかも知れないと、最近は思えている。
この「教養」は、上記した様に、仏教の般若経の一節「色即是空 空即是色」「空不異色 色不異空」を理解し会得する「糸口」になる事を先祖は暗示しているのではないだろうか。
この事に付いては大事と見て次ぎの家訓7で更に追求している。
兎も角も、この家訓6を筆者は次ぎの様に解している。
「教養」=「心爽やか」=「仏教の極意」>「入り口、糸口」<「長の心得」=「諸事万端良」=「資質、力量」=「教育(知識)」
なかなか難解な家訓6ではあるが、「人間形成」の基となる家訓であると考える。
家訓6=「人間形成の戒め」
次ぎの家訓7はこの家訓6を更に強調したものであるので”続く”としたい。
次ぎは家訓7に続く。
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