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日本民族の構成と概容

概容

青木氏が大化期から発祥して概して3つの流に成って現在に至る。しかし、ここまで来るには多くの歴史を持っている。それを、レポートしてきたが、その大元となる民族の基に付いてどの様なものであるかを知って置く必要がある。
そこで、「日本民族」と言うテーマで概容を記したいと思う。
日本民族は俗に「単一民族」と言われているが、これは間違いで、「融合単一民族」が正しい呼称であり、「融合」が取れて伝わったものであろう。
日本人の特長でもあり、「優秀さ」と「温和」であり、何事にも「融合」してしまうと言う「国民性」を保持している。これは7つの民族の雑種である事から来ている。生物は多く交配すると良い生物が出来るという摂理に基づき日本人は出来上がっているのである。
世界には、何処を探しても、これ程の「完全融合」に依って「一つになった民族」の国民はない。
現在、アメリカを始めとして、殆ど完全融合している国はなく、むしろ、分離して民族間闘争をしているのが現状である。
そこで、この完全融合の民族に付いて、掘り下げて検証してみたい。
意外と面白い結果が出て来る。

検証
人類の誕生はアフリカからと言われていて、その類人猿はアフリカの著しい環境の変化とそれに伴う生存競争で、森と原野との境に住んでいたが、住めなくなって大陸を北に求めて移動を始めたとされている。
そして、自然環境の変化と共に、移動と共に進化が起こり、類人猿となり、更により人に近い2つの人類猿が出来あがった。

その一つの人類猿Aは、ヨーロッパ大陸の地域へと移動した。
もう一つ人類猿Bはヨーロッパの南の海岸を経て、ヨーロッパとアジアの境を北に移動してアジア大陸に入りカムチャッカの東岸に達した。
後者のこれがコルボックスという人類猿Bとなった。

このコルボックスは、ここから南に移動路を採った人類(B-1)と、移動路を北に採り、アラスカ、北米、南米へと移動した人類(B-2)と別れる。

ヨーロッパの人類猿Aは、2つの人類(A-1、A-2)とに別れ、極寒の自然環境のために南に移動したグループ(A-1)と、北に移動したグループ(A-2)に分かれる。
主に北に移動したグループ(A-2)が多く生き残った。
この2つの人類猿は4-5つの民族に分かれる。

人類猿A-人類のグループ(A-1) 人類のグループ(A-2)
人類猿B-人類のグループ(B-1) 人類のグループ(B-2)

この中で、コルボックス(人類猿B)の日本民族は次の通りである。
(大化改新などのレポートにも併記している)

大和民族の「構成状況」とその「融合過程の経緯」
日本は「単一融合民族」であり、この結果、民族の優秀性はこの「融合」の結果から来るのである。人類は交配するほど優秀な人類が出来る事は衆知の事実であるが、日本はこの交配の最多の民族で、それも「7つの民族」というものすごい数の融合である。
2つでも難しくて現代でももめている国も多いのに大変な融合を成し遂げたのである。

当時は、「封建社会」であり、大化期前は「原始社会」でもあり、未だ「7つの民族」が混生して「融合単一民族」に向けて「融合化」が進んでいる最中である。

この「7つの民族」は、3世紀から6世紀までの間に、日本の各地に民族移動が起こり上陸してきた。

先ず、国がこの遺伝子的、歴史的に分類した「7つの民族」を列記してみる。

1 中国系の民族(15)。2 朝鮮系の民族(20)。3 太平洋系の民族(10)。4 ロシア系の民族(3)。5 アイヌ系の民族(2)。6 南アジア系の民族(10)。7 北東アジア系の民族(40)

以上の7つの「民族の融合族」である。

これだけの民族が融合して単一の融合民族を構成した例は他に無い。
現代、世界の乱れの原因はこの「否融合民族」間の争いである事から考えるとある面でその優秀さを証明するものになるのではないかと考える。

そこで、その優秀さを理解する為にも、先ずは「アジア系人類」(コルボックス:人類猿B)の歴史的な移動経路に付いて述べる。

民族(人類)の移動経緯
アフリカで生まれた人類猿Bは、地球の地殻変動に伴い気候が変化して、アフリカからヨーロッパ南(イタリヤ付近)に移動して地中海の縁を経て、アジアに入った人類のグループ(B-1)がある。

ここで、2つに分流した。
海岸沿いを経て南アジアに移動して定住したグループ(B-1-1)がある。
更に、南下して海洋に出た太平洋族のグループ(B-1-2)がある。

イタリヤから北側に分流したグループが中央アジアを経てモンゴール経由して東岸に到達した人類のグループ(B-2)がある。

このグループ(B-2)が沿岸を租って南下して朝鮮に到達したグループCがある。

グループ(B-2)の一部が北部に分流してシベリヤの最東岸に到達したグループDがある。

このグループDが半島を経て樺太に入ったグループEがある。

このグループDがアメリカ大陸に到達したグループFがある。

更に、このグループFがアメリカ大陸を横断してパナマを経由して南アメリカに到達したグループGがある。

このグループGの一部が山岳部に移動したグループHがある。

グループGの一部が平野部に移動して定住したグループIがある。

更に、グループIが南下して最南端まで到達したグループKとになる。

所謂、これがコルボックス系の人類の移動経路であり、そこで定住し一つの民族構成を成したのである。

人類のグループ(B-1)-グループ(B-1-1) グループ(B-1-2)
人類のグループ(B-2)-グループ(C) グループ(D)
人類のグループ(B-2)-グループ(D)-グループ(E) グループ(F)
人類のグループ(B-2)-グループ(F)-グループ(G)
人類のグループ(B-2)-グループ(G)-グループ(H) グループ(I)
人類のグループ(B-2)-グループ(I)-グループ(K)

そこで参考として、アジア系人類を比較対照にして理解する上で大切であるので概要を記する。

人類の起源
アフリカで生まれた人類猿Bと人類猿Aとはその類人猿は異なる。(ネアンデルタール、ピネカントロプス)
つまりは、猿の本が違うのである。

ところで、猿系は最も進んだ人間、次にボノボ、次ぎにチンパンジー、次にゴリラ系と分かれる。
ボノボは一時、チンパンジーの一種と見られていたが、大変に人間に近い方の猿である事が最近になって判り、チンパンジーから分離された。
このボノボから人間に変化したのではないかと言う説が通説に成っている。
その特長は、顔もチンパンジーより人間に似ているし、体も人間に近く大きいし、直立性も高いのである。言語の習得も数段にチンパンジーよりも優れているのである。
原人とはこのような顔をしていたのではないかと思われている。

このボノボは人間の感情と殆ど同じ「喜怒哀楽」を持つ事が判っていて、チンパンジーと生活させて言葉の原語を教えて研究したところ、器具類の変化にて得た文明知識を除けば、人間の持っている本質の知能指数は人間に余り代わらない事が判っている。
人とチンパンジーとボノボとの共同生活のテストの結果、チンパンジーに対し人間が猿に対する持つ「優越感」と同じ「優越感」をこのボノボは持っていて、テストの期間中に一所にいることへの不満を表し、チンパンジーに対してボノボは「優越感」を持っている事を原語を使って表現したと言われている事が判っている。
そして、驚く事に、人間に対しては自分ボノボは、何故人間に生まれなかったのかを残念に思っていることが判っているのである。
この感情の持つ意味は大きい。例えば、人族に対して自分ボノボ族はライオンなどのほかの動物と違う同種猿系と認識していることを意味する。

このボノボが移動中に進化して原人と成りつつ移動して人類と変化してきたと見られている。

一方ヨーロッパ系の移動経路は概ね次の通りである。

この人類Aのグループ(A-2)には、ヨーロッパに進出して北岸側に移動してデンマーク付近に移動し、更に付近域の北ロシアに到達したグループLがある。
このグループLの僅か一部が極寒の中に生き残り、東海岸まで到達してカムチャッカ半島を経て北海道と北陸東北一部まで移動して入ったグループMがある。

人類Aの一部が一方海岸線に沿って移動したグループがとイタリヤ付近まで到達移動したグループNとに別れる。

この人類Aの2つのグループL、Nは夫々、地球の地殻変動に伴う激しい気温低下の気候変動で遺伝子と体格と骨格変化を起こした。
この時、北周りのグループ(L、M)は厳寒を避ける為に、食を肉食主体として暖かくして、住居は原野での毛皮のテント生活とした。
骨格の額を前に出し、奥目にして目を保護し、鼻から入る低温の空気を直接体内に入れないように高くし、下向きにし、長くした。そして、全体毛を深くし、血管を体内深くに入れた。だから、体が白く成る。歯茎は肉食から奥行きを大きくして食べやすくしたのである。
所謂、北ヨーロッパ系の人類である。

一方、イタリヤ側に移動したグループNは、体格、骨格は類似するが、草食生活を選び、岩窟に入り、移動を少なくして厳寒に絶えたが、必然的に熱と食料の絶対量が不足して絶滅に瀕した。

この人類は顎とその頭から顎にわたる筋肉が異常に発達し頭骨格が四角になり、草食にて熱が不足したので体毛は多くなった。
これがヨーロッパ系の2つの人類の民族構成の概略である。

人類A グループ(A-2)-グループL
人類A グループ(A-2)-グループL-グループM
人類A グループ(A-2)-グループN

さて、話を戻す。

アジア人類の日本の類元は、次の通りである。
縄文時代(紀元前4000年頃)の骨格のしっかりした四角頭格で、毛深くて目が丸く眉の濃い縄文人(グループB)とがある。
その2000年後に北アジアで進化した人類で、後に入った顔の細く頬骨が突き出ていて、背の高い目の吊りあがった弥生人(グループC)の二つの人類である。
これが原住民となる。

そして、その後の紀元年頃の後の進化した民の3つの民族で概ね構成されている。

この紀元前後の進化した3民族は、次に示す幾つかの地域で進化して日本列島に上陸してきたのである。(B-1-1)(B-2)

それは次ぎの通りであり概要を説明する。

1 中国系民族は、
広大な大陸であるので、南アジアAと中央アジアBと東アジアCのグループから構成されているが、現在に於いても余り融合化は進んでいないのが現実であり、三国志の書籍でも明らかなように民族の戦いの変化で統治者が変わる。

入国の経緯 ①-⑥クループ
この民族は縄文と弥生時代と紀元前までに上陸したグループ①と、日本の国体が出来ていない時代の2世紀から3世紀前半の邪馬台国の卑弥呼の前までに移動して来たグループ②-③と、6世紀中ごろまでの阿多倍らに代表される渡来人より構成されたグループ(④-⑥)とになる。

3世紀後半は博多や下関付近に上陸したグループ③と、漢が滅亡して2つのグループに漢民は分かれて逃亡した。西に逃げた漢民は山を越えてネパールに入り定住し、一部は更に西に進みベトナム付近に入ったがここで戦いが起こり漢民の一部とベトナム民とネパール民の一部もが海に逃げボートピープルなり、インド洋から太平洋に出て黒潮に乗り長崎博多付近に上陸したグループ④と、更に一部は黒潮に乗り薩摩付近に上陸したグループ⑤とである。(580年頃)

その後、中国の東に逃げて光武帝が遼東半島と朝鮮半島を征圧して「後漢」を樹立したが、21代後の献帝の時に唐に滅ぼされた。
この時、石秋王の子供の阿智使王とその孫の阿多倍王は、九州北部に上陸し九州全土を無戦の状態で制圧、その後、下関から関西に入り中国地方も征圧して30/66の国を制したが、引き連れていた17県の漢民は帰化した。その後、中部地方の開墾に廻された。
この17県民の200万人もの帰化集団のグループ⑥とがある。(620-660年頃)

その後、朝鮮半島より下関、博多付近に難民が度々に上陸してきたが、朝廷は国情を配慮して阿多倍の末裔の「太宰大監」がこれを取り締まらせた。(1050年頃)

この中国系の民族は遺伝子的に区分けした結果、全体の15%程度を占めている。

2 朝鮮系の民族は、
この民族の移動経路の人類は主にグループC、D、(E)で構成されているのある。所謂、これ等が融合進化して後の弥生人と成ったのである。

その後2世紀の当時の朝鮮半島は3つ民族で構成されていて、古来、「馬韓」、「弁韓」、「辰韓」の三韓で構成されていた。
現在も地区は同じ分け方である。
その後、中国東部と朝鮮北部に出来た高句麗、朝鮮の中央部東に出来た新羅、中央部西に出来た百済での3つの国であるが、「倭人」として下関と博多と朝鮮半島の南部に交易諸点を割譲して設けた倭人(倭国の交易人を特別に呼んだ)が常駐した「任那」とがあり、この倭人の民は南部半島沿岸部に住み分けていた。

ところが、この朝鮮半島が2度に渡り混乱し、この時の難民が下関や博多に上陸して来た。

未だ、日本全土には統治機構は無く主に4つの域で独立国的国家体制であったので、上陸は統制されていなかった。
「倭人」が活躍している頃の3C末期4C前半頃に、この下関、博多域に入国してくる難民を任那の交易民の倭人の統治機構で海峡管理され始めたのが最初である。

先ず、その前に紀元前に北朝鮮系の民の弥生人が、この日本列島に2つのルートで上陸してきた。一つは下関、博多ルートで上陸してきたグループ①と、新潟、佐渡付近に上陸してきたグループ②とある。これが第1期である。

その後、上記3韓が乱れて、4世紀後半ごろ瀬戸内海を経由して堺港に入り、上陸してきた応仁(応神)王の大船団のグループ③がある。これが第2期である。

この応仁王は、当時、大和国は4つの部族の豪族から構成されており、この関西地方を連合統治していた。
その4つの部族とは、「巨勢族」、「紀族」、「葛城族」、「平群族」、等に依って首長を交代で統治していた。
上陸時、この連合軍との戦いで苦戦、その後、戦略を変更して各個攻撃に変更して、先ず、紀族を制覇した。
その後、紀伊半島を南下して、新宮から奈良盆地に入り、各族を制圧しようとしたが抵抗持久戦となり、結局、和睦した。
そして、この「応仁王」が率いる朝鮮族を加えた5つの族で大和国の域を「連合統治」したのであり、この初代の王と成ったのが、この「応仁王」(応神王)で「応仁大王」となった。所謂、「河内王朝」である。
この「応仁大王」で「初代天皇」として7C頃に定められた。
この時に上陸した「蘇我氏」や「物部氏」らがあり、後には上記関西域の豪族に「蘇我氏」と「物部氏」が加わったのである。

次に、7世紀初期から中期にかけて中国後漢に征圧されていた民の朝鮮族が、「阿多倍」に引き入れられて下関、博多に上陸して来たグループ④がある。これが第3期である。

以上、朝鮮系の民族は大量にはこの3期の民の上陸があつた。
この朝鮮系の民族は遺伝子的区分けした結果、全体の20%程度を占めている。

3 太平洋系の民族は、
所謂、アモイ族である。海洋族と言われる民族で、グループAが更に南下して海洋に出たグループÅ-1である。
ハワイなどの太平洋にある群島に定住した太平洋系の民族が黒潮に乗って2世紀前半ごろに更に流れ着いたところが南九州であった。これがグループ①である。

このグループ①と基からいた北アジア系民族(縄文人)との融合が起こった。

この後に、580年頃に南九州には、別に、漢が滅亡して民族が西側に逃げ海洋に出た一部がインド洋から太平洋の黒潮に乗って長崎、博多付近(中国クループ④)と南九州(中国グループ⑤)に上陸したが、この中国グループ⑤のグループ②がある。
この南九州に上陸した漢民と先に入ったこの太平洋族と基から居た北アジア系民族の3つの民族が争い無く融合したのである。
このグループ①とグループ②(中国グループ⑤)との融合民族は大変に強く、しかし、争いをあまり好まない民族であったとされている。

2世紀中頃は北九州地方に「倭国大乱」が起こり乱れていたが、グループ①と②この間に融合が起こり、その後3世紀中ごろの「邪馬台国」の「卑弥呼」が死んだ後に、グループ①と北アジア系民族(縄文人)の融合民はこの北九州に攻め上がってきて全土を制圧した。

しかし、この「融合民族」は不思議に北九州の土地(狗奴国と邪馬台国)を統治せずに南九州に戻った。これで「邪馬台国」は滅亡したのである。
ところで、征服される前はこの「狗奴国」は熊を守護神として崇め、国を閉ざし、戦う事を嫌う閉鎖的民族が定住していて「邪馬台国」と争っていた。
これが、周囲と融合を図らなかった元から居た北アジア系民族の(縄文人)の狗奴国(アイヌ系)民族である。

この民族は征服されてからは北九州から門司を渡り、中国地方を通過するときこの地を支配していた出雲国に追われて、名古屋地方に出て、元から居た北アジア系民族(弥生人)にも追われて、最後、滅亡寸前で蝦夷地に入り、元から居たコルボックスの東岸に到達したグループBと融合し定住したのである。

4 ロシア系の民族は、
この民族は2つのグループから成り立っている。
そのグループはグループBとヨーロッパ人類の北ロシアに到達した人類が東岸に移動したグループの2つから構成されている。

この民族は蝦夷地と北陸地方までの地域に定住した。
この民は2つの民族から構成されていたが、その一つは白系人(グループL)であり、もうひとつは黄系人(グループB)である。

現在でも、東北北陸地方の人の中には白色の肌をした人は多いがこれは寒いと言うことから起こる遺伝子的現象のみならず、この白系人の遺伝子をも引き継いでいる事からなのである。

北海道では良く”大楽さん”(だいらく:ダイラック)という氏名等のロシア人の名に似た人を見つける事が出来るが、これはこの白系人の遺伝子を持った氏なのである。私の埼玉の友人にいるが明らかにロシア系である。

清和源氏の「源義家」が「征夷大将軍」となり、この東北北陸以北を征圧統治し勢力圏としていた首魁人物「アテルイ」を藤原氏の力を借りて騙まし討ちしてこの蝦夷域を征圧して鎮圧した。この「アテルイ」はこの系統の人物である。
この人物らの一団は体格が良く背が高く毛深く色白で異人的様相であったと記されている。

5 アイヌ系の民族。
この民族は上記した邪馬台国と対峙していた「狗奴国」の民が南九州の融合民に追われてこの地に逃げついた「縄文系民族」である。
この民族は熊を主神として崇め閉鎖的で他民族との融合を全く図らなかった。
この地に移動しても同じであり、一部グループBとの融合を図った。この二つは元を正せばグループBの縄文系であり、何れも融合を図らなかった事によりコルボックス系の原種とも言われている。現在までも行っていない事から殆ど絶えたに等しい。

ここで、グループBがアラスカを経て南アメリカに到達し山岳地域に移動したインカ帝国を築いたインカ人と、このグループBの遺伝子を色濃く持つ上記の狗奴国とグループBの融合縄文系アイヌ民族とは、国の調査の結果、遺伝子的にこのインカ帝国王の末裔と全く遺伝子が一致したのである。

つまり、閉鎖的な民族のアイヌ民族と、インカ帝国王の末裔も純血を護って王として子孫を遺したので、ともにどちらもグループBの遺伝子的純血を保っていた事になる。
つまり、東岸に到達した時に、そこの地点で日本に上陸したグループと、アラスカを経て南アメリカ山岳部に入ったグループとは親子兄弟であったことを意味する。
この大陸のアジア東海岸のここで親子兄弟が左右に分かれたことを意味するのである。ともに純血を守った事による結果なのである。

この”アイヌ系民族が日本民族の原住民である”という運動が25年前頃(1980年頃)から長く学者を中心に起こった。
困った国はこの問題の研究に取り組んだ。
そして、判った結果が上記した「7つの民族」説と「単一融合民族説」と「アイヌ原住民説」を遺伝子的に最近に解明し証明したのである。そしてその民族割合を遺伝子的に出したのである。

この時、このアイヌ原住民説を上記の通り「インカ帝国」の末裔と一致する事を証明した。つまり、「グループBの子孫」と「狗奴国の民」(現代の熊本 狗奴=熊)とする事が解明出来て、「アイヌ原住民説」の左傾学者運動は解明されて消えたである。

(注 最近、再びアイヌ原住民説が唱えられる様になったが、7つの民族の融合を起こさなかった民族としては原住民と言えるが、外国にある「原住民」では無い。アイヌを原住民とすれば、7つの民族の内の3つも原住民と言える。むしろ、「否融合民族」とするのが正しい)

6 南アジア系の民族。
上記した人類分類のグループAとグループÅ-1の人類が南アジアに到達して定住したが、この民族が更に移動して来た。
上記した西に逃亡した漢民により追い出されたベトナム民族やネパールなどの山岳民族がインド洋に逃げ黒潮に乗って南九州の薩摩と北九州の博多長崎付近に580年以降の頃に到達した難民である。

7 北アジア系の民族。
紀元前4000年に縄文人(人類グループB)と、その後、紀元前2000年頃の弥生人(人類グループC)が九州と中国、関西、中部地方に分布し各地に定住していた。この二つの民族は体格、骨格、頭格、性格など異なる民族で紀元前頃まで融合が進んでいた。
この2つの「原住民族」と2世紀-7世紀半までに6つの地域から移動してきた民族と融合をしながら「単一民族」化を進めた。

 以上である。

この「7つの民族」が構成されて奈良時代の大化期には5-7世紀半の民族を「渡来人」と呼び、同化には桓武天皇期まで掛かった事が書物による「渡来人」の言葉で判る。
しかし、この実態は、言葉としては残るが、「天皇家」との血縁等や朝廷の官職などの重要職域に成っていた史実から既に同化、融合は完了していたと見る。

このような「7つの民族」の構成中の対立を出来るだけ避けて「同化融合」の方向に向けて進んだ時代背景の中で、「良民と奴婢」の関係がどのような意味を持つかを考えた上で、この「男女の法」を評価すべきであって、安易に現代風に決して「失政、失敗」の説を唱えるべきではない。

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天智、天武天皇の皇子皇女の系譜

天智天皇、天武天皇の皇子皇女の系譜

皇族賜姓青木氏5家5流24氏の始祖と成り、初代の伊勢青木氏の発祥の環境史料にも成る。

その始祖となる天智天皇、天武天皇の皇子皇女の血縁一族を次に示す。

この系譜から、多くの史実が読み取れる。特に、当時の「大化改新」の模様の一つが読み取れる。
又、この系譜から日本書紀を始めとして多くの資料と付き合わせることで、その当時のドラマが見えてくる。
その意味で、この史料を単独に提供する。(研究室レポート中にも記述)


A 中大兄皇子(天智天皇)の子孫

系譜元     妻 娘    子供      順       備考
石川麻呂大臣ー遠智娘 ー大日皇女  1  蘇我氏分家 石川麻呂は大化改新で中臣鎌足の説得を受けて味方となる。 
石川麻呂大臣ー遠智娘 ー宇野皇女  2 
石川麻呂大臣ー遠智娘 ー建皇子    3  8歳で死亡
             
石川麻呂大臣ー芽淳娘 ー太田皇女  4
石川麻呂大臣ー芽淳娘 ー沙羅皇女  5

石川麻呂大臣ー姪娘  ー御名部皇女 6
石川麻呂大臣ー姪娘  ー阿倍皇女   7
                                         
阿倍倉悌麻呂ー橘娘  ー飛鳥皇女   8  阿倍麻呂は中大兄皇子の補佐役を演じる。阿多倍の裔の阿倍氏                                        
阿倍倉悌麻呂ー橘娘  ー新田部皇女 9  天武天皇の皇后になる。
             
蘇我赤兄  ー常陸娘 ー山辺皇女   10  中大兄皇子に味方、政敵の有間皇子を熊野古道の藤白で暗殺
                                          
地方豪族  ー後宮女官ー 男 2     11  地方豪族の娘 人質奴隷の妥女(女官)4階級の妻外
地方豪族  ー後宮女官           12
地方豪族  ー後宮女官ー 女 2     13                 
地方豪族  ー後宮女官           14                         

忍海造小竜 ー色夫古娘ー大江皇女  15  地方豪族の娘 人質奴隷の妥女(女官)4階級の妻外

忍海造小竜 ー色夫古娘ー川島皇子  16  第3皇子 近江王 近江国の佐々木氏を賜姓 ?ー692没
忍海造小竜 ー色夫古娘ー泉皇女    17
                            
栗隅首徳万 ー黒媛娘 ー水主皇女   18  第5世王
                   
栗隅首徳万 ー黒媛娘 ー ?        19
                         
越道君   ー伊羅都女ー施基皇子    20  越後越前の地方豪族の娘 人質で奴隷の妥女(女官) 4階級の妻外 第2皇子 伊勢王 伊勢国の青木氏賜姓 643?ー689没              

伊賀君   ー宅子娘 ー伊賀皇子     21  地方豪族の娘 人質奴隷の妥女(女官)4階級の妻外  第1皇子 皇位継承者大友皇子 648ー672没 

以上 中大兄皇子(天智天皇)の子供である。                        




大海人皇子(天武天皇)の子供
NO   子供    順位    出生順     備考
1   草壁皇子  1      3   皇太子  668ー689

2   大津皇子  2      2         ? ー684

3   舎人皇子  3      7   日本書紀の偏纂  歌人 多くの皇子に信頼された。
  
4   長皇子   4      5         ? ー693

5   弓削皇子  5      6         ? ー693

6   新田部皇子 6      8

7   穂積皇子  7      9

8   高市皇子  8      1        653ー696 武勇に優れる

9   忍壁皇子  9      4

10   磯城皇子  10      10

11   大来皇女

12   新田部皇女

13   但馬皇女

14   紀皇女

15   田形皇女

16   十市皇女

17   泊瀬部皇女

18   話基皇女

19   阿閉皇女

以上が大海人皇子(天武天皇)の子孫である。


皇子の各国の守護として確認出来る王

伊勢王、近江王、甲斐王、山部王、石川王、高坂王、雅狭王、美濃王、栗隅王、三野王(信濃王)、武家王、
広瀬王、竹田王、桑田王、春日王、(難波王、宮処王、泊瀬王、弥努王) 以上19人/66国

以上が皇子で配置されていた。

注釈
これ等の施基皇子を始めとして皇子と王は「日本書紀」によく出て来る。

皇子順位は直系順位ではなく、天皇家一族の天皇に対して純血順を主とし母身分と合わせて順位を決める。

古人、有馬、軽、大海人、建、伊賀、施基、川島、草壁、...と続き24人等が居たとされるが、大海人皇子を遺し、皇位争いで上位3人と不明2人(孝徳天皇の皇子2人同日病死)と建皇子は病死で19人となり、大海人皇子と伊賀皇子との争いで18人となる。

天智天皇の後は大海人皇子が順位1位であるが、天智天皇は慣例を破り、直系の伊賀皇子(大友皇子)を大海人皇子の了解を得て後継者と定めた。しかし、天智天皇の死後皇位争い(高市皇子が中心になった)が起こる。
施基皇子と川島皇子は中間の立場を採った。戦い後、施基皇子と川島皇子が中心になって天武天皇に代わって政務の実務をこなした。(後日レポートする)
施基皇子は天武天皇死後も持統天皇に依頼されて葬儀を含めて皇太子の草壁皇子に代わって政務を代行した。

当時は、天皇家の純血を守る為に、同族血族結婚を主体としていた。

中大兄皇子(天智天皇)の多くの皇女(新田部皇女など)は大海人皇子(天武天皇)の妻となる。

天智天武天皇の不詳不明の皇子皇女をあわせると40人となり、確実な所は34人と言われているが、皇子皇女の不明があるので確認記録は30人である。

中大兄皇子と大海人皇子の皇子達は別々に記しているが、当時は、皇族合わせての皇位順である。
慣例で行くと、天智天皇の施基皇子(伊勢青木氏)と川島皇子(近江佐々木氏)は全体からみると第6位と第7位皇子と成る。後に、宇多天皇の滋賀の佐々木氏が発祥した。
これ等の3氏の象徴紋(後の綜紋)は笹竜胆紋である。

天智天皇はこの時、第4位皇子までを皇位継承権を与え、第4世まで王位を与え、第6位皇子には賜姓して親衛隊の任務を与え臣下させる方式に変更した。
第6世以降はひら族にし、坂東に配置した。後の坂東八平氏である。
第5位皇子と第5世皇子はその中間として、皇子が少なくなった場合は上位に上がる方式である。

光仁天皇まで女性の天皇が続いて起こるくらいに皇子が少なくなり、光仁天皇は施基皇子の子供である。
(伊勢青木氏の勢力が強くなる。次ぎの桓武天皇はこれを嫌い母方の阿多倍一族のたいら族を賜姓する。5代後の平氏:このため青木氏勢力が低下)

この反省から、嵯峨天皇(桓武天皇の子供 光仁天皇の孫)期から上記の方式を緩めた。
4世を6世に変更した。

嵯峨天皇は、第6位皇子の賜姓臣下は継続し、青木氏より再び源氏と変名し同族を強化し、平氏に対抗した。皇親政治の基礎を築いた。
第6位の施基皇子(伊勢王 賜姓青木氏)と、特別に、川島皇子の第7位皇子も賜姓(近江王 近江の地名を採り佐々木氏)を受けた。
(施基皇子は芝基皇子 川島皇子は河島皇子とも書く)

この他に、第4(5)世皇子(王)まで(親族の有間皇子、軽皇子、古人皇子等)を加えると50人程度と成る。5世王を入れると65人程度と見られる。
大化の改新の実施理由の一つの皇子皇女への財政的負担が逼迫する程度に、内蔵大蔵に大きく担っていたことが確かに明白である。

この当時の政治体制は3蔵制 大蔵:朝廷の財政で阿多倍の次男担当 内蔵:天皇家の財政で阿多倍の三男担当 斎蔵:政事を含む祭祀で藤原氏担当、これが後に摂関家となる。)
阿多倍は敏達天皇の曾孫の芽淳王の娘を娶り、准大臣に任じられる。
九州大隈国を半分割し、更に、伊勢青木氏の守護地の伊勢伊賀地方北部を分割して阿多倍に「不入不倫の権」をつけて与える。

皇位順は出世順ではなく母の身分(4階級:皇后、后、妃、賓と妥女)と父の皇位順の身分で異なる。(賓:みめ 妥女:うねめ) 
皇后、后程度までは身内であり、子供は避けている。政の立場である。
多くは大豪族の大臣や、中豪族の連や、小豪族の臣の娘で、妃か賓からである。
妥女は階級外で、地方の豪族の娘で、扱いは人質に近く女官奴隷であった。
妥女の子供が多いのは近親婚の弊害を避けていた。
この時代は妥女が多い。
「妥女」(うねめ)とは全ての地方豪族から人質をとり、後宮の女官として入り、一種の奴隷扱いである。(現在の奴隷感の意味ではない)

当時の皇位は子供ではなく血族結婚である為に、血縁純血順の兄弟順の組み合わせとなる。
叔父叔母兄弟と従兄弟の関係は親近婚の血族結婚であるので、判別がつかない。故に上記の皇位順の方式が用いられた。

参考、天武天皇の末の皇子の磯城皇子(しきのみこ)は別人である。

この時代の唯一の史書の日本書紀との組み合わせて検証するとドラマが見えてくる。

「大化改新」のレポートを参照して見るとその活躍が浮き出て来る。
皇子皇女名は地名から来ている故に、その土地の子孫の存在も読み取れる。地方の豪族も判る。

以上の史料を参考にして頂きたい。
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伊勢青木氏 家訓3

家訓1と2に続いて家訓3に入る。

青木氏の家訓10訓
家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導く為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

家訓3 主は正しき行為を導く為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)

関連訓
「三相の論」
「衆生の論」
「万物の輪廻」
「女子と小人養い難し」
摂理「5つの変化」(上限変化 微分変化 変曲点 積分変化 上限変化)
摂理[S字パターン」「N字パターン」(回帰法)

この家訓を理解する上で、伊勢青木氏の歴史的な経緯が大きく左右しているので、先ずそれを先に述べる。

歴史経緯
伊勢青木氏は大化改新で発祥し、1315ー20年頃から「2足の草鞋」で商いを営み明治35年まで「紙屋」として続き、男系継承は耐える事なく現在に至っている。
ステイタスも笹竜胆紋と生仏像様を維持している。又、後150年は孫の時代であるので確実に継承する事が約束されている。
この間には多くの波乱万丈の歴史を保持しているが、この過程では、伊勢青木氏の子孫繁栄の秘訣を家訓10訓として何時しか遺されている。此処まで来られたのはこの家訓のお陰げであり、これを先祖は人生の最大目的軌範として護り続けたものであろう。現代も護る軌範としている。

この歴史事から、侍として、商家としての長い歴史の経験から「戒め」としてのものが出来上がっているが、特に、この家訓3となった経緯が大きく左右している。

従って、最大の理解を得る為にその経緯を先ず優先して次に示す。

歴史的事件に直接関与
その由来を調べると、日本の歴史上の大きな出来事に直接的に殆ど大きく関わっていることが判る。

例えば、① 647ー780年頃の大化期の大化改新で発祥(647)し、勢力拡大して皇親政治の主役となった

② その後、150年後の桓武天皇の母方の阿多倍一族の引き上げ事件とその一族との軋轢(781ー806頃)

③ その阿多倍一族の末裔の京平氏と嵯峨期から発祥した同族の源氏の勢力争いの戦い「保元平治の乱」(1153--59頃)

④ 青木氏と源氏が衰退する中での青木氏の遠祖の源頼政の「以仁王の乱」で合力(1178-80頃)

⑤ それ④を引き継いだ「治承寿永の乱」での一族一門の同族としての戦い(1180-85頃)

⑥ 頼朝の旗揚げと「伊勢青木氏の本領安堵」、鎌倉幕府樹立後の北条氏との軋轢と「2足の草鞋策」の自立(1195-1235頃)

⑦ 室町幕府の伊勢の国の半国割譲(伊勢北部伊賀と伊勢南部長島)での衰退(1465-73頃)

⑧ 紙屋長兵衛が後ろで糸を引く伊勢の一向一揆から始まった信長の「伊勢長島攻め」(伊勢大河内城)での北畠氏への合力(1569-75頃)

⑨ 台頭著しい信長の伊勢攻め「伊賀天正の乱」で名張城、度会の山城青木城での敵対(1573-77年頃)

⑩ 蒲生氏郷(秀吉命)の伊勢青木氏(本拠地五日森の松阪城:平城松ヶ島城)の「松阪攻め」(1578ー82頃)

⑪ 戦いでは最後となった家康の「大阪の役」の参戦(1614-15年頃)

⑫ 明治の初期に「地租改正」が起こり三重から各地に伝播した「三重大一揆」(1870-72頃)

⑬ 明治35年の(出火元)松阪の大火と600年以上続いた紙屋の倒産と賠償(この時期数年立て続けに悲劇が起こる)

これ等の主だった歴史上の大きな事件と戦いに直接的に巻き込まれた。

647年から1620年までの他の政治軍事の権力闘争の戦いではいくらかの関与はあったと見られるが、上記のこれ等が史実として明確に成っている青木氏の存亡としての大きな分かれ目の戦いであった。
この様な戦いの中でありながらも無事生き残れた。
(参考 1185-1300は安定期:1315-1325は「2足の草鞋策」期:1330-1573は下克上戦国で苦難期)

「2足の草鞋策」と「不入不倫の権」での生き残り
それは、商家として手広くしていた「2足の草鞋」と、古来奈良期よりお墨付き「不入不倫の権」で護られていて救われた青木氏始祖の「伊勢青木氏」があったからこそ、この二つ事で生き延びる事が出来たのである。
当然に、この様な経緯からその家訓は必然的にその影響を色濃く繁栄する事となろう。
この全家訓は、この事の背景を理解した上で、とりわけ家訓3にはその深意を汲み取る事が出来る。

「商家と武家」
家訓が出来る経緯の中で、ここには、”何故に商家なのか、何故に「2足の草鞋策」なのか”という疑問が残る。これを示す事件があるので特筆して紹介する。

天正の直接事件
この事件は信長と直接伊勢青木氏とが戦った有名な事件である。
900年間も護られてきた天皇家の本宮の伊勢には、天武期と嵯峨期に定められた「不入不倫の権」があった。
しかし、室町期の混乱期でありながらも護られてきた。然し、信長の「天下布武」の方針の下で、これ等の神社仏閣の既存権威は破壊された。
その護られてきた「比叡山焼き討ち」を始めとする一連の信長の禁断を押し切った「伊勢攻め」で、信長の一の家来の滝川三郎一益と信長の息子信雄を特別にこの伊勢攻めに差し向けた。
この時代では、周囲では信長の一斉討伐が行われていた。都に向かう掃討作戦の一環としてである。
先ず、この伊勢に於いては、それは信長が安心して京に進むには、最大の戦略課題であるこの伊勢路を確保する必要があったからである。
ここは青木氏の勢力圏と紙屋青木長兵衛の伊勢シンジケートのテリトリーである。
南北朝時代の楠木正成の10万の兵を打破した歴史的善戦でも知られるように、この域は伊勢シンジケートの膝元である。
この為に、伊賀に差し向けられたこの二人はこの為の拠点として伊賀の入り口の丘の上に山城を築こうとした。
しかし、材木が極端に不自然に高騰し入手できない。築城は全く進まない。
当然である。この域は伊勢青木氏で伊勢の豪商のテリトリーである。
紙屋長兵衛は、伊勢一帯を海の伊勢水軍と共に、戦乱で敗退した豪族を集め組織化し養いしたシンジケートで押さえている。それでなくては大きい商売は不可能である。
政治的、軍事的、経済的には、主に3つの護り城郭等を持ち、名張から桑田、員弁まで押さえている。
名張城と度会の山城青木城と松阪郭館で伊勢青木氏が押さえている。まして、大船を数隻を擁して海外を相手とする堺町にでも大店を出している。材木どころか搬送の船、人夫さえも確保できる筈は無い。
1年2年と全くと云って進まない。滝川氏は痺れを切らして紙屋長兵衛が密かに差し向けた人を頼りに、長兵衛と材木と人夫調達を頼む為に会う事となった。
商人としての顔も持つ長兵衛は誘いに入ったと見て、了解した。密かに、シンジケートに指令を出す。
材木は調達できた。城は長兵衛の意を汲んだ人夫達はゆっくりと建て始めたが、長期間の末に、やっと出来て天守閣がもう少しで建つというところで、念願の滝川氏と信雄はその城を見にきた。ところが、その時、爆発と共に城から火の手が上がったのである。長兵衛の伊勢ルートのシンジケートが仕組んだ作戦であった。
苦労の末に経済的に底をつく様なところで出来たが、水の泡と化した。一方、長兵衛とそのシンジケートは大もうけであり無傷の戦勝である。
再び元の状態に戻り、伊勢攻めは始まらない。この間、もう一方の武家の顔を持つ青木民部尉長兵衛信定と伊賀氏側では、名張城と青木本山城と伊賀城とで、次ぎの本戦に向けての作戦が着々と進められていたのである。この猶予期間を作りだす戦略であった。この二つの顔を持つ長兵衛であった。

これが滝川氏と織田信雄が「蟄居謹慎」に会った彼の有名な「信長烈怒」の史実である。
信長唯一の完敗である。それも影の商人に負けたものである。この後、信長は方針を変えて確固攻撃で無理押しの「伊賀攻め」に入った。
矢張り、本戦が出来ない伊賀特異のゲリラ作戦に入った。青木氏は、その信長の陣地を側面から崩す作戦に出た。つまり、2面の陽動作戦である。信長側は夜昼は無い。シンジケートの邪魔で食料は届かない。皆疲れ果てる。戦意は落ちる。
真に南北朝のこの地域で起こった十万の兵を手玉に取った「楠木正成の戦い」に類似する。
同じ紙屋長兵衛が指揮する伊勢のシンジケートが動いているのである。当然である。またもや長期戦である。
しかし、伊賀側でも消耗戦でありジリ貧である。最後は、青木氏の名張城から青木氏の本軍が伊賀城(柏原城)に入って共同決戦となった。
多勢に無勢である。結果は長期戦で伊賀城は落ちた。しかし、城は落ちたが伊勢青木氏は無傷である。
ところが信長は此処までが精一杯の戦いであった。伊勢青木氏の本拠地の伊勢松阪までは入る事は出来なかった。
その後、この前も秀吉をも同じ手で矢張り「伊勢長島攻め」で苦労するのである。そして、最後には秀吉の命を受けた蒲生氏郷の「松阪攻め」の青木氏の敗戦で終わる。

その後では、新宮に避けていた青木長兵衛は1年後に同族の血を引く氏郷の招きで紙屋長兵衛として再び松阪に戻る。
その後、秀忠を待つ為に名古屋に留まった「大阪夏冬の陣」の家康の要求に合力して、紙屋を中心とする全伊勢シンジケートを結集して伊勢路沿道警備として250人で参戦した。
徳川時代に入り、紀州徳川の松阪飛地領として青木氏と親交を続け、紙屋長兵衛では吉宗の「享保の改革」に依頼されて一族の者を同行させ勘定方として貢献する。親交は大正14年まで続いた。

「伊勢で起こった2つの大一揆」
他に、伊勢国に長く関わり確固たる経済的基盤と権威を築いてきた1365年の歴史をこの地で持つ伊勢青木氏は、確たる証拠は松阪大火で失い無いが、1570の長島一向一揆に続き、1876年の2度目に起こった明治の「地租改正」に反対する住民の有名な大暴動の「三重大一揆」にも、立場上(伊勢国玉城町の面積の8割が長兵衛の蔵群であった事と、東西10町の重要な人物をすまわせた松阪侍屋敷町の2区画を与えられた事)その経済力から考えると、充分に裏で関与していたのではないかとも思われる。
実は、10年前の徳川時代に、この三重の豪族で紀州徳川氏の重臣で、伊勢を治めていた加納一族(吉宗の育親)との血縁がこの時期に伊勢の青木長兵衛の家とあった。
この加納家も青木氏と同じく「2足の草鞋策」で加納屋として大商いも営み地元の地主として君臨していたのである。
伊勢でこの二つの両氏が「地租改正」で土地を奪われるという事は氏の存亡に関わる一大事であり、伊勢で一ニを争う両者の経済力で、「伊賀天正の乱」の様に、この騒ぎの紐を操るとしても不思議は無い。又、一揆としても人間の成す事に変わりは無い。一時的な感情で動いたとしても続かないのが常である。経済的な裏づけがなければ長続きできない。当然、全国的な一揆としは繋がらない筈である。だとすると、証拠は遺さないであろうがこの推論は考えられるのではないか。

以上の1635年間で数多くの事件の三重付近で起こったこれらの史実事は、我が家の「口伝」内容を考察すると、上記の史実とがほぼ一致して伝わっている。

これは真に、「2足の草鞋」でなくては成し得ない生き残り策であり、この方策を先祖が時代の「三相」を見据えた深い判断で採った策であった事が判る。まぐれの1度や2度での事件の繰り抜けではない。「政治、経済、軍事」の3権を保持する事の明断であった事は疑う余地は無い。
それには欠けていたものとして、何度も繰り返される事件に対して、「武家としての権威による経済」では無く、実効の行動基盤の整った「商家としての実質の経済の力」の保持であった。その必要性を痛感し、自前であった「武家としての権威による経済」を活かし発展させて1315ー25年頃にこの策を判断したものであろう。

そこで、この事例でも見られる様に、この家訓3は「商家」と「武家」との両方での時の「生き抜く術」(人、時、場処に適時適切に動いた術)の結論であったものと見なされる。
故に、時の武力と政治の権威の信長を打ち負かす程の「力」を持ち得ていたのである。

そこで、これらの事を背景に生まれたこの家訓3を紐解いてみる。
簡単な文章の単語の全てに大きな意味を持っている事が判る。

「主の思考」
例えば、先ず、主語の「主」(あるじ)である。
「主」(あるじ)商家であろうと、武家であろうと、上に立つ者としての裁量の如何に依って氏や家の浮沈は決まる。
だから、「主」がしっかりとしていればこそ、1365年の間の上記の様な歴史を生き抜いてくる事が出来た。そして、何事もそのキーワードは”「主」に成る者の如何である”と結論付けたのは頷ける。
その重厚な経験から「主如何」と言えるからではないか。

私は、昨今では、それが全ての事件に欠けている様に思う。
もう少し、上に立つ者の「主」が、しっかりと「自覚」し、事細かに「目配」りをし、「厳しさ」を示し、「事の理」をわきまえて居れば防げた事件が多い。
確かに、世の中は一昔と較べて物事全てが「煩雑化」し「緊迫化」し「科学化」し「スピード化」している。
故に「主」の負担が大きい事が頷けるが、それで、適格者ではないと思えることが多いことも言える。

そこで、例えば、10の力で経済成長が進み、更に経済成長させようとすると10以上の力でなくては進まないのが道理である。
車に例えると判りやすい。車が40キロで走るとする。更に速度を上げようとすると、40キロ出力のパワーでは40キロ以上のスピードは出ない。当然に、出力をそれ以上に上げる必要がある。80キロで走るとすると一見倍の力だと思うだろう。
現代の日本はその域にあるから、我々の時代と異なり、その負担はより大きい。従って、組織を動かす者にとっては動力と思考の負担は格段に違っているだろう。だから指揮不足、不適格者とも思える事象が多く成っているのかも知れない。

と考えるのが普通であろうが、そうではない。私は少し違っているのではと思っている。
何故ならば、この思考には上限の「絶対値」というこの世の中に存在する生物、或いは動体には存在する思考が欠けているからだと考えているのである。
つまり、当然に、その社会になれば、指揮する者に課せられるそれなりの思考が存在するという事である。
それがこの家訓3にこめられた訓であると言うのである。

上記した先祖が遭遇した事件の「時代性」は、丁度、現代の社会の「時代性」と共通するものがあるからである。
その「時代性」とは、下記に述べる「5つの変化」のうちの「積分社会」の「上限域の変化」に遭遇していた事による。
当時の時代の基盤では成長の上限に到達していて、それに対する改革が成されなかった結果、上限に持つ特性の破壊、即ち、「下克上や戦国時代」と言う谷底に陥った「時代性」であったという事である。
故に、それを解決すべく長い期間の人間の葛藤が起こってしまったと云う事である。

現代もその谷底に落ちる手前に来て居ると観ている。化石燃料の枯渇や温暖化や世界の国格差などで、騒乱が起こる手前の時代性と一致する。(破壊に繋がるのは、私は論理的に矛盾を多く持った中国の結果次第が引き金と観ている)

この手前の社会の思考には、”無限に高一定率(「微分変化」)で伸び続ける動体は無い”と言う肝心な「自然摂理」の思考に欠けている事である。
現に、一般界、マスコミなどで、比較的、或いは殆どの「衆生」の判断には、この思考(微分変化だけではなく「5つの変化」域に限界値がある事)に欠けたのものが多い。
まだその認識に意識が至っていないことを意味する。安易な「衆生の論」に終始している。

此処で、時事放談をする。
先刻の選挙で民主党が大勝ちした。民主党は当初”「永田町 民意民意と せみが無く」”であった。
果たして、この「民意」は”「せみの声 正しい民意 民民ぜみ」(正しいせみの声)だろうか。
”「寒空に 民意ねじれて せみが死ぬ」”である。
”「せみの声 民(ミン)が悪くて 自民負け」”(ジーミン)でないのか。
”「せみ騒ぐ 感にさわるは 民(ミ-ン)の声」”
”「民意鳴く 好きと嫌いと せみの声」”(ミーンィ)
”「一つ鳴く 孤独の民意 せみの主」 
「民意」と言うが、国政が滞り適時適切に施策が実効されなくては本来の国会の目的はない。
この「民意」は「衆生の論」でなかったか。果たして「民意」を何でもかんでも政治には「民意」では無い。
もし、「民意」が何時も「真の民意」であれば政治家は要らない。アンケートすればよい。それを官僚が実行すればよい。
「民意」はとかく「衆生の論」である事が多い。「三相の論」と「5つの変化」(下記)から導かれた論でなくては世界を相手に打ち勝てない。そのために、「主」としての「政治家」を送っているのではないのか。
ただ、この「主」の政治家が「衆生の論」の見本の様な「おてて繋いで」「仲良しクラブ」に「主」に値しない資質の者を用いてしまったトップの「主」が居た事に寄るのではないか。
この様な人事をするトップの「主」の思考(資質)の低さ(三相の論)があったのではないか。
又、何も、「民主」が良くて「民意」が民主に傾いたという事ではあるまい。(どの世界にもこの様な人物が居る)
時に、「民意」に反して、「三相の論」と「5つの変化」から「主」の者は、一人孤独で思考を巡らして、国を導かなくては成らないのではないか。だから、国を委ねる大事な立場なのだ。「民意」(衆生の論)で出来れば苦労はしない。
真に西郷隆盛の「女子と小人養い難し」ではないか。「感情」で政治が出来れば政治家が要らない。
「民意」は兎角「感情」が主体と成っている事に、「主」たる者が知る事の「主」の資質なのだ。
政治は「歴史と現実」を背景とした読み取り論理である。これは、況や、「5つの変化」から「三相」を読み取る資質なのである。
即ち、下記の「色の理論」「波の原理」とする世情の「流」を読み取る資質である。
この見識なくして「正しい民意」を「衆生」が出来るというのか。

では、その「正しい」ものを導く思考(主の思考)とは、一体何なのかを次ぎに示す。

万事万物万象には摂理「5つの変化」なるものがある。


自然摂理「5つの変化」[万物の輪廻(りんね)]

「上限の限界値」
ものには、先ずその一つその主力の絶対値、つまり、「能力の限界」(出力限界:上限の限界値)があるからだ。その出力限界に近くなれば、エンジン過熱や、燃料の燃焼、各部品の体力、環境条件、空気水分、等の条件が限界値に到達して比例的に出力は上がらないのである。

S字の上の曲線部の末端部である。(末端の短い部位は若干下向き線が多い)
この時の直前の変化は、「積分的変化」を起すのである。
この世の全てのものはこの変化を保持している。例外は無い。
従って、その出来事の評価、判断はこの摂理に従って行わなくてはならないのであるが、ところが、マスコミなどで示される評価、判断は殆ど「微分変化」だけの思考で、無限の「微分変化」は無い事を知らず、「積分変化」の有無も知るか知らずか、殊更に自慢げに自身を持って述べている。特に解説者やコメンテーターなどは100%である。
この上限の末端の特性はその物質を構成する分子の「破壊」の現象が起こる。

「積分変化」
つまり、上限の手前のその変化を曲線で現せば「積分曲線」(双曲線)と成る。
1のものに対して2乗分の1とか3乗分の1とかの変化しか起さない事を意味し、急激に出力は低下する。最後には、殆ど確認出来ない程度のものとなる。これが「積分変化」と言う。(1/Kの乗数:積分率)

S字の上の曲線部である。(この曲線部の末端前は上向き線が多い)
この域では変化率が低いので一定域が広い。その為その万物万象の特長を時系列的に明確に良く示す。
変化率が低い、その「時系列」が判り易い、下限から観て位置は高い、比較的に「微分変化」より「積分変化」の域が長いことも特長である、変曲点の右だから変曲点の特長に類似する等、特長を万物万象に適用して当て填めて思考する事で対処法が見出せる。

「微分変化」
比例的に変化する領域を「微分曲線」(直線)と云う。
僅かな曲線(変化)を示すが殆ど直線で出力した分だけ期待通りの比例的にほぼ変化する。人間であれば青年期の若い時の勢いである。自動車であれば80キロ程度以下のパワーとなる。この様なときに示す変化率が「微分変化」と言う。
この「微分変化」域(変曲点まで)では1に対して増加率が一定(K)で変化する。(1/K:微分係数)
S字の斜めの直線部である。(この斜めは実際は右上の逆斜めになる)
この域は比例的である、比例値が明確である、比較的この域は小さい、変曲点の左であるので特長を造り出す域である等で、特長の構成質が観える等万物万象に適用して当て填めて思考する事で対処法が見出せる。

「変曲点変化」(上)
ところが、この二つの変化の間には、必ず全てのこの世の物体には、このどちらとも云えない変化を示すところが生まれる。
S字の上の繋ぎ目(角部)のR部である。(このR部は笹波の短波線が多い 下側のR部は基本的に少ない)
これを「変曲点変化」と呼び、その曲線の変わり目の変化点を「変曲点」と呼ぶ。
この変曲点には、万事万物より、その呼び方は変わるが一般的にはこの呼び方となる。
この変曲点を確認出来ると、その万物万象の特長が大まかに把握できるポイントであり、その特質を調べるデーター採りをする際はこのポイントを見つけ出す事に重点を置く。ところがこの「変曲点」を見つけ出すのが難しいのである。
この点は全体の65ー70%に相当する所にある。
この世の万物万象のこの点を感覚的に把握するのが難しいのと同じである。
それは何故かと言うと、この点を以ってその以下の所(微分変化)で「行為と行動」をすれば、その全ての面で問題が起こらず都合が良い域事になる。
材力設計をする等場合にはこの以下の所で行うのもこの理由からである。
殆どデータを拡大しないと瞬間的でこの点が無いと言うものもある。
この点には、一定の短期間横ばいの波線を示すのが普通である。
(万事万物には本来、主に「5つの変化」を示すが、後一つは下記に述べる。)

この様に、夫々「5のつの変化」の曲線の特長を見つけ出し、それを万物万象に適用する事で思考する。

そこで、元に戻して、10の力で進めれば、現状維持となるだろう。この繰り返しが続けば続く程に、その10の努力は積分的に増加する事になる筈である。同様にその指揮者の能力も積分的に伸びなければ成長と指揮力とに差が出て来る。
同然、積分的に伸びるだけの力を、猿から進化した者にそんな力を神仏は与えず備わってはいない。
故に、その差のはけ口が事件となる事は必定である。

事程左様に、この世の成長では、例えを戻して、現在の経済成長も、中国の成長率と、日本の進んだ経済の成長率とを同じに比較することがよく発表されるが、あれは比例、即ち積分ではなく「微分比較」となる。
これは技術系の者としてはおかしいと何時も思う。文科系の数理論であろう。もし、技術屋がデーター採りでこの様なことを言うと相手にされないおかしな事である。

上記した様に、この世の中には「絶対値:臨界値:限界値」なるものがあり、これを考慮に不思議に入れていない。
考慮に入れると判らない人が殆どだからか、説明している人が苦手だからかであろうか。否。
本当は、この世の万事万物の変化の「摂理」で、「微分的」から「積分的」に事態は変化する。(間に変曲点が入る)

例えば、現在、日本と中国は経済的に約8-10倍の力の差がある。1の中国の経済成長18%と10の日本の経済成長3.8%は、同じではない。
普通の人の評価は、これでは日本は中国並に頑張っていない事を言うだろう。日本の経済力は落ちたと言うだろう。
普通は中国の経済成長の方が5倍で伸びたと判断するだろう。
これは「間違いの判断」である。況やこれが「衆生の論」の判断である。「三相の論」に準じていない。

日本は高度な経済成長を遂げ、高度な社会を維持している事に成るから、これは「積分社会」に到達していることを意味する。しかし、此処にこの「積分」の摂理を用いて正しく判断すると、多分、中国を日本のレベルで評価すると、概して4-5%程度に過ぎないのではないか。
つまり、日本が4%で中国は5%になる筈である。つまり、ほぼ同じ程度で伸びたとなる筈だ。
逆に、中国に合わせれば日本は17%程度と言う事に成る。(%計算には比と率がある)

判りやすく簡単に例をあげると、若い普通の野球選手の打率(比)が、若い経験の少ない普通投手から警戒されていないので、4割を維持した。卓越したイチローの様な選手が一流投手をあてがわれ警戒されて4割を維持したとする。
この二人の同じ4割は同じではない。
普通選手はイチローの環境で対したとすると1割、イチローが無警戒で普通選手の環境では10割と成るだろう。
イチローはその優れた資質を持ち「積分域」か「上限域」の人物(秀才)で、普通選手は「微分域」の初期であるからだ。
これが、先ずは普通は正しい判断となる。より「正しい判断」となる。「三相の論」は「人」と「時」と「場」を論じている。「衆生の論」では無く成っている。

ところが、又、違うのである。

というのは、これでは、厳しい社会を切り抜けていく事には、途中で問題が出て、「主」としての充分な指揮力ではないのである。

「下限の限界値の存在」
此処で、更に、上記した「上限の限界値」に対して、上記の5つ目の変化の「下限の限界値」なるものがある。

殆ど「外資」に頼る中国経済が、特に中国の日本からの「外資」に頼る経済は、その国(日本)以上の能力を示す事は物理的に、数理的にある事は無い。「下駄」を履いているのである。
つまり、判りやすく云うと「底力」と言うべきものが無いのである。(ファンダメンタルパワー)
「微分曲線」は、上の「変曲点」に入る手前までは、この「下限の限界値」が大きく左右し、次に、上「変曲点」を過ぎた時には、「積分曲線」に大きく左右する特長を持つのである。基になる影響点となる。

例を挙げて、判りやすく云うと、自動車でもエンジン出力の大きい方が小さいものより100キロ以上の能力は明らかに違ってくるだろう。この「下限」の品質程度が「積分変化」の時にも左右するという事なのである。

S字の左の末端部位で極めて緩い右上の短曲線を示す。
(微分変化の始まり点と下限線との接合部の変曲点(下)を示すものは少ない)
この「下限」で示される変化は、殆どのものをデーター化すると、直線に近い極めて小さい変化率の「積分変化」を示す。上向き曲線は小さい(ー)の放物線で、上限は下向き曲線で(+)の双曲線である。
この下限域の末端はその物体を構成している分子の停止現象が起こる。(上限の末端は破壊)

説明を戻す。
判り難いと思うので、例にあげると、次の様な事である。
自然界のものとして観ると、太陽から来る光(YMC)は可視光線としての波長のこの「下限変化」の色は、最初は太陽光に近い目にまぶしい白色域の色を呈する。
次に、次第に「ハーフトーン」と云い、人間の肌なのに現されるピンク色等の淡い「中間色」の域の色と成って行くのである。
そして、次に「微分変化」を起して、混合色はうす黒いグレー色に近づき、「変曲点変化」付近では短い平行線を示し標準グレー(18%K)となる。全色の中間の色である。この時点で全ての原色(BGR)は一点に集中する。
次に、「変曲点」(18%K)グレーから離れる頃には、紫色のグレー色に変化する(原色が影響してくる域)。
原色(BGR)は次第に夫々離れて行き、この離れ巾で原色の個性が出て来る。グレーからくっきりはっきりの原色の混合色と成り始める。
この付近から、次第に「積分変化」を起して、ゆっくり(双曲線)と成り、3原色のRGBはより離れ、1に対して複数分の一の影響で、3つのけばけばしい混合色に変化して行く。
そして、最後付近(上限の限界値)では、3色大きく分離した混合色は、ほぼ平行線に近い変化を占めし黒色と成って行くのである。(中には色以外には下向きのものもある)
これを「CCカーブ」という。

参考に、カラーフェリャー論の一例
ところがこの「5つの変化」にはカラーフェリャ-現象と言うものが起こる。
それが次ぎの通りである。

光の3原色=Y:イエロウ M:マゼンタ C:シアン  
色の3原色=B:ブルー G:グリーン R:レッド 
光と色は補色関係にある。
つまり、Yの補色(反色):B Mの補色(反色):G Cの補色(反色):R の関係にある。
Yの光は人間の可視光線の見える眼にはBの色に変化して観える。M、Cも同じ理屈である。
これでどう言うことが起こるかと言うと、黄色(Y)の光を放つ服を着ているとする。そうするとその光(Y)でその周りの色は、その元の色にBが引き込まれて、B傾向の色が出る。例えば顔にはBが入り顔らしい中間色の色と成らないのである。他のM、Cも同様である。
この様な理屈が摂理として起こる。
この原理の下限域末端の白は全てのYMC、BGRを含有しているので、この原理で「微分域」から「上限域」まで影響する理屈事に成るのである。

事程左様に、下限域から微分域までの間には、”Yと見えていたもの実はBであった”(逆も言える)と成る事が起こる。
これを万事万物万象に当てはめると、この下限域から微分域の変化を起す域では、よく洞察しないと実は全く違ったとする現象がよく起こると言う事である。
これが一つの「5つの変化」の特質を踏まえた応用思考である。

この下限の白色には沢山の白(ミルキーホワイト等)がある。この白に依って「微分域」から「上限域」までの混合色は変わるだろう。これが、全てに影響すると言う下限特有の資質なのである。
これが、自然界で起す「5つの変化」の典型的な現象である。
この「5つの変化」の夫々の変化には、万物万象に示すものと同じそれぞれの特徴を持っている。
(これを「カラーフェリャ-論」と言う。時間があれば詳しく別にレポートする)

これが理解できれば、4子(孔子孟子荘子老子)の論の書物の様に、この世の万物万象の出来事に少なくとも正しく対応する事が出来る。
仏法の「般若経」は「色即是空 空即是色」と「色」で人生訓を説いているが、真にこれである。何千年も前にこの理論の概容を感覚的に把握していたとは驚きの限りである。

この世の中の万事万物万象はこの摂理に従っていて例外はない。もし、例外があると思う事はその万事万物万象の洞察が甘い事を裏付けている。つまり、この思考は積分域に達していないと言うことである。まだ更に、悟らねば成らないと言う事である。
仏法の「般若経」の概意はこの事を説いているのではないか。
私は、特に、「見えない」は、その事を観る「方向性」にあると考えている。
事例のように人生は真にこの「5つの変化」を起す。

更に、例を上げると幾らでもあるが、鉄の強度も、この摂理に従う。
最初の「下限域」は短平行線で、直ぐに高い変化率で「微分変化」を直線的に示し、「変曲点」で「降伏点」(YP)という短小波の変化を示し、ここを過ぎると「積分変化」を起して、最後に「下限域」の平行線域を呈して、「上限域」で短い下向きのラインで急速破断(BP)する。

この「5つの変化」は夫々次ぎの変化に影響を与え特長を以って与えるのである。
これが、万事万物万象の摂理(自然法則)であり、これに従う。
これも、夫々の域でその域の特徴を持ち、その特徴は万物万象の事例と一致する。
(その特長を現す此処にも理論があり「FC状態図」と言う)

話を元に戻すと、経済科学の面に於いて、若い中国のファンダメンタルと、老練な日本のファンダメンタルとは明らかに違う。
中国のファンダメンタルには、「2律背反」の政治経済、他民族、自己資本力の不足、五行思想、多発暴動、低い民度等の危険性を多く孕んだ下限域のファンダメンタルを持っている。
この下限域の環境条件を考えずしての思考はきわめて危険で、将来の正しい判断と結果を導くには余りにも危険である。つまり、「白の色合い」如何である。

若い普通の選手とイチローとはファンダメンタルは異なる。
このファンダメンタルを考慮に入れての結果は、日本4%は12ー14%で、イチローの10は15と成る。

全ての万事万物万象には、この下限の「下限値」が「5つの変化」のどの域にも大きく影響する要素を保持しているのである。
「下限域の変化」はこの様な特質を持っている。

これ(「三相の論」)は、基となる「下限値」を考慮に入れた事になり、正しい判断と成る
これで、「衆生の論」から脱皮した「主」としての思考であり判断となる。この判断を以って指揮する事になる。これを「速やか」に判断出来る「思考訓練」が必要に成る。「主」としての孤独な厳しい務めである。


「摂理のS:N字パターン」(回帰法)
もし、これ等の変化が、繰り返したとした場合、S字は「上限域」での限界に達して破壊が起こり、急激に元の「下限域」に到達し繋がり、周期性を示し、N字パターンと成る。
この原理を法則にまとめて数式化したのが、統計や科学分析に用いる「回帰分析法」である。
つまり、全ての万事万物万象はS字パターンを起し、元に戻り、このサイクルを繰り返すと言う摂理を統計的に積分法により理論化したものである。「カラーフェリァ-論」や「FC状態図」と同じである。

このS字パターン(5つの変化)は歴史的に見れば大きい期間でも観られるが、決してそれだけでは無くスポット的に観てもこのS字パターン(5つの変化)は起こっているのである。
(下記の波理論)
上記の例を判りやすくする為に、複数の変化の比較による思考であったが、一つの変化の中でも、この摂理は適用する事も可能である。
この現象は摂理である。

「波」の原理と「5つの変化」の摂理
SとNのパターンに付いての大事な特質がある。
それは、例えば「波」に例えられる。
「波」は動いているとお考えであると思うが、実は「波」は動いていないのである。
「波」は3つの波で構成されている。
先ず、最初は外力で「波」が上側に凸に成る。そうするとこの凸の重みが引力で下に押しやられる。押しやられると隣りには凹になる。次ぎにその凹に成ったその勢いで上に押し上げられ、隣りに又凸が出来る。この繰り返しが「波」になる。
本来、一つの凸は重力で隣りに伝播するだけで、移動してはいないのが原理である。
海の波が移動しているのは潮の流れと月の引力に依って移動している。所謂、外力で移動しているのである。
宇宙から来る波は障害が少ないのでこの本来の原理で地球まで届いている。

ところが、この線状「単波」だけではこの原理は起こらないのである。
この「波」の中を分析すると、この「波」の中にもう一つの「小波」がある。
つまり「波」の曲線の線上の中に同じ原理で「波」が起こっている。だから伝播が起こる。
巾の持たない線のそのままであれば、宇宙の磁場磁力や宇宙風や宇宙塵で歪み、伝播は引っ張られて壊されてしまう。この子の小波がある事で波の曲線が、太く成るだけではなく、生きた波巾を持つことに成る。
だから障害に左右されずに地球まで届くのである。
中にはこの子の小波が2つある事もある。そして、これ等の「波」は幾つか続くと周期的に「大波」が発生する。この原因は周期の微妙なズレが集積されて一つになり「大波」が生まれる。
この「大波」が又、波の伝播の動力源となるのである。
この周期のズレは障害に対する影響度で「大波」には差異が発生する。宇宙からの波はこの大波は殆ど無い。
これが「波の原理」である。

この世の万事万物万象も波に表される事が出来、この原理(摂理)に例外なく従っている。
S字からN字にパターンが移動していく過程はこの「波の原理」に従う。

この様に、ミクロ的に、局部的(スポット)にも、この5つの変化(S字パターン)は起こっているのである。
長い歴史の複数の「5つの変化」の繰り返しはこのN字パターンの摂理に依って起こっている。
つまり、俗に言う「歴史は繰り返す」と云う言葉がある。
この「繰り返す」はこの波のN字パターンであり、色の「波の原理」で起こっているのである。
ある大きな歴史事件の「積分域」の変化が起こり、遂にはその果ての「上限域」では戦いなどの破壊が起こる。そうするとその破壊のエネルギーで再び元の下限域の変化が起こり、その持ち得ていた力で「微分域」「変曲点域」「積分域」の変化へと進んで行く。
これは「波の原理」又は「色の原理」と同じである。
大宇宙のビックバーン(上限域末端)とブラックボックス(下限域末端)はこの現象(5つの変化)である。

ある出来事の短い期間の出来事に対しても、”今はどの域にあるのか”よく洞察して、その域の特質を駆使して対処する必要があるが、そこでこの「5つの変化」での「三相の論」は適用できるのである。

「流」と「5つの変化」(S字パターン)
更に、俗に言う「ものの流れ」とは、このS字パターン(5つの変化)であると考えている。
この「5つの変化」(下限変化ー微分変化-変曲点変化ー積分変化ー上限変化)として世の万事万物万象は動いている。この「流」を分析すると「5つの変化」が起こっているのである。
しかし、残念ながら、その「流の力」に打ち勝つだけの力を人間には神は与えていない。
だから、”「流」に逆らうと良くない”と言うのは、”逆らわず「流」を理解し適応せよ”との「戒め」である。
その「理解」とは、”「5つの変化」のどの位置にあるかを見据えて、その域にあった動きをせよ”と言う事である。
そして、その変化の特徴の把握にはより確率を高くする「訓練」が必要であるとしている。

このS字パターン(流)は真実摂理であるが故に、消滅する事無く、今まで言伝えられているのである。

「仏法 万物の輪廻」
余り一般の人には知られては居ないが、自然界に存在する「万事万物」はこの法則に従っているのである。
人間の指紋と同じく、その万事万物の特徴や個性を現す手段として、Sパターン(Nパターン)のデーターを採れば現されるのである。特に、この中間点の変曲点を見つける事が、大変難しいのだが、そのものの特長を掴む事が出来るのである。
仏教では、これ程には詳しくは論理的ではないが、この摂理を説いている。これが「万物の輪廻」であろう。
または、統計学で言う回帰法であろう。

「先祖の力:評価の応用例」
余談だが、イチローなどの野球選手などのトップクラスの談話を聞くと、この「匠」と言うか「真のプロ」と言うか、その域(積分変化域)に達した者の発言は、この摂理に従った思考をしている事に驚く。これが簡単に言えば、「プロの思考」条件と言うものであろう。
「5つの変化」の特質を把握すれば、選手が「微分変化」域の者か「積分変化」域の者か「変曲点」域かは判別できる。
素人域の者は「下限の変化」域で見極めることが出来る。「上限の変化」域は破壊であるので、無いか異質者(天才)であると観える。
何でもそうだと思う。テレビの解説者やコメンテーターや政治家や企業家や小説家の言を聞けば、その人物の到達域がどの程度のものかは判断が着くし、信用に値するかは判断が出来る。
私は常にこの「5つの変化」の思考で聞いて判断している。この者がどの域の者であるのかが見極める事が出来ると思っている。
この家訓3に従い余り間違っていない。

「経験則と自然の摂理」
先祖は、「経験則」でこの思考を獲得していた事が頷ける。
昔の先祖は此処までの科学根拠は知り得ていなかったであろうが、イチローと同じく「経験則」から習得した心得であったのであろう。
実は、私はこの家訓3は、現在では科学が進み知識として習得が容易に出来て、自分が納得できれば、自らのもの「思考原理」として用いて訓練(技術屋として)し、人生の生きる術として使う事が出来たが、別の意味で、先祖がこの「自然の法則」を知り得ていたことに驚いている。
家訓として遺している以上、この思考を駆使していたのであろう。
だから、一族家臣を統一させ、事に遭った結果、此処まで青木氏を生き遺させる事が出来たと見ている。この家訓3の理解が無ければ1365年も子孫繁栄は成されず、先ず他の氏のように消滅したのではと考える。
そして、その理解は「経験側」と「仏法の輪廻」の知恵から成したものであろう。上記する自然の摂理に叶っていたのである。つまり、我等青木氏の先祖はこの積分域に到達していたからこそ「主」としての孤独な思考が出来て、「衆生」を導いてき来たのであろう。

「思考評価例」
話を戻すが、この知識を下にせずに、中国の経済成長と単純比較して、”中国は将来日本を追い越すだろう”とする経済学者や政治家がいるが、この摂理の理論で見れば間違いとなる。
その者等の思考域は積分域ではないと言える。
中国のファンダメンタルは外資を頼りに伸びた故に日本より低い。又科学的にもない。
下限の限界能力での評価は、充分な分析史料はないが先ずは3-4%程度であろう。

中国はこの「変曲点」を越え、「積分社会」に入った時点で、その能力は明確になると観られる。それは4ー5年先の範囲であろう。現在は「微分変化」の社会である事には間違いはないだろう。

比例、即ち、「微分社会」が未来永劫続く事は物理的にあり得ない。必ず、歪み(オーバーヒート)が起こり破壊(バブル)する。
その内に、上手く行けば、必ず「変曲点社会」と「積分社会」が起こるが、まして、外資と共産国と他民族国家である。この2つの社会に移れるだろうかハンディはあり過ぎる。
このハンディを乗り越えられるかは、その「微分社会」の比例値の如何に関わる。
現在の「微分社会」は低い値の下限値に影響を受けている事からすると、何か大きな外部からの変革(産業革命のような)を受けないと可能性は低いと観ている。
もし、その影響を起す国があるとすると、多分、日米の何れかであろう。私は、日本であると考えている。
然し、日本も「積分社会」に突入している。苦しいが大きな鍵を日本が握っている事になる。
薬物やガス田などで逆らう中国はこのことを理解しているだろうか。

「積分社会の脱皮改革」

「下限の限界値ー微分曲線ー変曲点ー積分曲線ー上限の限界値」
この世の全てのもののパラメーターを曲線に現すと、「下限の限界値ー微分曲線ー変曲点ー積分曲線ー上限の限界値」に現す事が出来る。(応用物理学ではこれを「Sカーブ」と云う)
否、これ以外のものはこの世にはない。
あるとすると、大変な「世紀の大発見」である。ノーベル賞ものである。現在の物理理論ではエントロピー、エンタルピーの摂理理論に従っているが書き変えなければならなくなる。
つまり、言い換えると、この世の全てのものは、万事万物万象の何事に於いても、「下限の限界値」と「上限の限界値」とを持っていると言う事である。
従って、本来は正しく処理するには、本命である「微分思考」、「積分思考」が要求されるのである。特に、現代のこの様に社会の成長が進めば、むしろこの思考が必要である事になる。
しかし、その思考は遅れているか、時代性で欠けてしまったか、忘れられてしまったかのどちらかであろうが、私は歴史史実から遅れていると考えている。
何故ならば変化率の低い積分域の変化に入っているからである。
それは大きな歴史的事件(戦争の歪み)と、余りにも人間の進歩に対して、万事万物の摂理の変化よりも、相対的に科学的付加価値だけが増大した事に依ると見ている。
思考の意識がそこまで到達しないのであろう。つまり、余裕が無く成っていることを示すのであろう。
これは悪い事ではないと見ている。何故ならば、2000年代の産業革命的な変化の兆しを意味しているからである。
200年前の1800年代の産業革命時代も科学の進歩(科学的付加価値)だけが、同様に増大してたからである。

この様に、もし、人間の能力をこの理屈に当てはめると、成長が進み、変曲点以降、後になる程に「主」は負担が大きい理屈になる。指揮する者だけではない。される者も同じ理屈が適合される。
昔のサラリーマンより今のサラリーマンの方がこの摂理、理屈からしてハードであろう。
更に将来のサラリーマンはもっとハードと成る。例外ではない。
ただ指揮する者とされる者との負担の違いの差がある。イーブンでは無い筈で、だから指揮する者と呼ぶのだろう。同じであれば指揮する者と呼ぶことは同じだからない筈である。

「積分延命策の産業革命」
つまり、此処に来てその指揮能力が行き届かない事件が多発しているとすると、この辺が成長に対して、人間としての能力即ち、「上限の限界値」の限界に来ているのではないだろうか。
「人間社会の発展」に対して人間としての限界に来ている。自然環境も「温暖化」という事から見て地球が駄目になる所まで来ているとする例に示される。
そこで、何かこの「積分曲線」を「比例曲線」(微分曲線)に変える変化が故意的に起こさない限りに、この摂理は変わらない。それは温暖化の行く末に似て暗示している。

例えば、人間の知恵を最大限に伸ばして生き延びた「産業革命」のような出来事が、この世に再び起こらない限りに於いて「積分変化」に入り、延長は無くなる事を意味する。
一部に、医学界のES細胞や量子集積回路(CP)や宇宙産業の分野にその片鱗が見えてはいるが。さて、これが彼の産業革命のようなものに繋がるものか疑問点もある。
というのも、温暖化の「地球の存続」の問題や、上記の「科学進歩の片鱗」の偏り(日本アメリカに限定されている)はそのけん引役の「日本の積分変化」の社会に打ち勝つ事が出来るかに掛かっている。
そして、それは、この家訓3の意味するところの思考に、昔にあった思考の社会(微分社会)の蘇りが起こり、日本社会が入れるかにあると観ている。
しかし、兎も角は、時代は続く限りに、組織の「主」は依然として務めなくては成らない。
限界の「主」として務めなくては成らないのだから、この家訓3の昔の「主」と違い、更に上記する思考の革命に戻れるかにあり、その多くは「主」としての適格性を問われる事になると観ている。
この「限界社会」での指揮する「主」に課せられる思考(微分積分思考)はこの家訓3の意味する所となる。

「衆生の論」と「三相の論」(積分思考)
昔であれば、「微分社会」の緩やかに「人、時、場処」を思考していた指揮する姿は、「積分社会」の限界の時には、「人、時、場処」を思考し綿密に指揮しなければならなく成る事を、この家訓3は示すものである。
それだけにこの「三相」の重要性が増す事を意味する。
そうすると、当然に、この「三相」の理解の仕方如何に関わる事になる。
昔であれば、一次一局の単純明快な勧善懲悪で考える「三相」が、複雑極まる善悪で「三相」を考えなくては成らない。
況や、「微分思考」と「積分思考」(下限の限界値と上限の限界値)、更に「変曲点思考」の考察が要求される。

この様に、今はマスコミなどでは、単純思考(微分思考:二次元思考)即ち、「衆生の論」でものを評価思考しているが、今の社会では、正しく、且つ、間違いなく処理するには、「変曲点思考」や「積分思考」でものを判断する力が必要になると、平易な表現ではあるが、口伝や遺蹟文面から解釈すると説いている。

西郷隆盛は「女子と小人は養い難し」(衆生の論)と同じ事を言い遺している。
明治初期から観ると、江戸期3百年の安定期は積分変化の社会であったと観られ、その後に上限域末端期に入って日進日露から始まり第2次大戦等の戦争状態となったと見られる。
その直前の西郷隆盛は、この明治初期の時代(積分社会の特徴)の「衆生の論」に遭遇したと観られ、時代の「主」として苦しい孤独の立場に追い込まれてこの発言となったと見られる。
この言葉で通ずる様に、この時の西郷隆盛は「三相」(三相の論)をベースとする「5つの変化」の変化毎の「三相の思考」で判断していたのである。

この事は此処で言う家訓3が今にも通ずるものであると考える。

「正しさ」の理解
そこで、この上記の思考原理で行くと、問題に成るのは「正しき行為」とは何ぞやとなる。この理解に関わる。
普通の家庭として観た場合に、「衆生の論」である一次一局の感情的「勧善懲悪」だけを意味する「正しさ」では無く、子孫を遺し、滅亡を避け、「生き抜く」という目的に向かって、それが達成されたとき、その行為は「正しい」とする事を意味しているのではないか。

現代社会に於いて、「社会の付加価値」が進み、人の成す「行為と行動」は変化して、一次一局の「正しさ」は必ずしも、誰でも、何時でも、何処でも「正しい」と言うことでは無く成っている。
その事が社会の物事に増えているのではないか。

”「悪さ」がむしろ「正しい」という事の方が結果として良い。”と云う事象が多く成っている気がする。
「衆生の論」の一次一局の「正しさ」は「間違い」とは云わないが、「悪い」と云うことが多く成っていると考える。
この判断力は「積分社会」に入れば、その変化率の低さ(一つの事に敏感)から益々増大する筈である。
(微分社会では変化率が大きいので、少々のことも吸収して増大する勢いがある)
簡単に云えば、「積分社会」においては、その吸収力のキャパシティー(上限の限界値がある為)が小さいので、”「主」が思考する「正しさ」とは、「一次一局の感情的正しさ」であっては成らなず、摂理「5つの変化」の見極めの思考と「三相の論」であるべきだと”という事であろう。

(仏法「三相の論」は、「衆生の論」を対比させてのものであるので、この摂理「5つの変化」見極めの思考を含んでいる事にも成る)

これは、情報メディア-が取るどんなアンケートにも現れている。”どちらともいえない”と云う回答が30%以上を常に占めていることである。これは”「一次一局の正しさ」では判断できない”と応えているパラメーター(証拠)であろう。
この様に、「衆生の心理思考」が知らずがともに、「積分変化」の社会にある事を無意識の中で変化して来ている事であろう。
この傾向の増える事が、”衆生の多くは積分思考に入った”と認識するパラメータと観るべきであろう。
私は、誰でもが同じ方向を向いている「微分社会」よりは、「摂理理論」でみれば、この方が良い傾向に日本の衆生意識は傾いていると見ている。

上記のような列記した歴史的死闘事件や戦乱や、はたまた「伊勢一向一揆」や「三重大一揆」の紙屋青木長兵衛の背後での関わりを、勧善懲悪論で「悪行」とするのか「正行」とするのかは、その思考の如何であり、「衆生の論」の一次一局の思考の表面的な評価より、「三相の論」(摂理5つの変化含む)の人の営みから観た綜合的(多次多極)な評価が要求される事を意味しているのである。

その時が良くても、結果として、弊害になるという事はそれは正しくなかった事を意味する。「三相の論」を元にした「判断力」とは、この事が大事であるとしている。
これが直接的に戦い生き抜いてきた者が成し得る思考であろう。

究極の全ての「良悪の評価」は「子孫を遺す」と云う人間の目的を成し得て初めて意味を成すものである。
子孫が滅亡しては良し悪しどころの話ではない。人が居てこその「良悪」である。
それでなくてはこの長い年月を子孫を遺して生き抜いてくる事は不可能である。
判りやすく云えば、若干の誤幣があるが、「机上の論」や「学者論」、砕いて云えば「お手繋いで幼稚園の論」や「ホームルーム論」や「耳ざわりの良い論」であっては成し得ない事を意味しているだろう。
(現在のマスコミはこの傾向が強い:「衆生の論」)
従って、この「主」の意味する所の指揮能力、即ち、換言すれば重厚な判断力を保持する者でなくては成らないのである。
しかし、この場合はこの思考が下の者にも共通する思考ではないことを心得るべきとしている。

つまり、当然に「主」として此処に含まれるものは、「孤独な思考」であり、それに耐えられる「精神力」が要求される。
そして、衆生は安易なその場だけの「勧善懲悪論」である。最終的で複合的な目的の「良悪」論では決して無いことを知るべきであるとしている。
決して、「衆生の論」ではないことを意味している。そして、これを成しうる事が出来る者が「主」であるとしている。

「主」の質は「三相」の訓練
そこで、何故に、「衆生の論」では「主」ではないのかと言う疑問が出る。
それは、思考の中に「三相」の有無が左右していると云うのである。
つまり、「衆生」は兎角、「人間の性」、即ちその場の「感情的思考」に左右されての論であるからだ。感情論では瞬時的なもので、上記の混乱の中から生き延びてくる事は不可能である。
「感情的思考」はその感情を越えることが起こると人間の脳の思考は止まる。況やパニックである。これでは子孫を遺す事は出来ない。
そこで、”「主」とする者は、「人、時、場処」を総合的分析して、その事に対して瞬時に思考できる能力を着けよ”としている。しかし、”その「主」の質は直ちには得られず、「主」としての「訓練」に委ねよ”としている。

例えば、上記の様な「5つの変化」の中の戦乱の中で、”「人」は適切なのか、「時」は適切なのか、「場処」は適切なのかの3つの要素を考え合わせて、結論を出せ”としている。そして、”その思考を常とせよ”としていて”訓練せよ”としているのである。
これが「主」としての資格であり、この訓練のできる資質の有無があるので、出来ない者は「主」と成ってはならないとしている。つまり、資質のない者が「衆生」であるとしている。

そして、「三相思考」を、それは「衆生の思考」(感情的思考)ではなく、上記の「孤独な思考」を導き出す”「正しき行為」の基準とせよ”としているのである。
これを獲得できる「主」は「人としての目的」を達成し続ける事の出来る者であるとしているのである。

「積分変化の現代」
現在の世の中は、上記した「積分社会」の中で、この「主」としての資格を保持していない者が組織の上に立っている事から、物事に行き届かない社会現象が生まれているのであると観ている。
これが、「微分社会」であれば、その「成長出力」が強いことから、これでも「主」の資質の無い者でも何とか成る程度の社会である。
私は、現代は、「積分社会」と観ていて、人としての「資質の限界」に来ていると観ている。
それは「積分」に「相当する進歩」と「科学的付加価値の急速な増大」で起こっていると観ている。それを越える者が少ない事を露見している。
故に、この様な環境の中では、無意識的に起す人間の性(さが)で、無難にこなそうとして、人は、組織の「主」として選ぶ方法を自らの仲間うちの「仲良しクラブ」的選択から選ぼうと走る傾向が強くなるのが自然である。それが現代社会の歪みでもある。
「主」としての資質のある者を選ぼうとしていない社会となっていて、頻繁に倫理に欠ける事件を起しているのであろう。
「微分社会」では、社会の中に主としての「潜在的資質」を保有する者の量で、充分にこれに対応できていたが、しかしながら、「積分社会」では、、「主」条件の”その思考を常とせよ”としていて”訓練せよ”の事のより強い「訓練」をより要求される社会と成っていると見ている。
現在の日本は、その「微分社会」と「積分社会」と混在し、「積分社会」にやや入って変化して行く基点域(変曲点域)かやや入ったところに来ていると観ている。

故に、この家訓3の意味する所が大事となる社会と成っていると考えられる。
これは、企業の中や社会の中での指揮する立場の者に要求される資質であるとしている。

家訓3は青木氏の家訓として遺されているので、その生活環境と子孫の存続の範囲としての維持訓に過ぎなくなっているが、現在社会にも適応される大切な思考ではないかと考えている。

「結論」
纏めると、何はともあれ、家訓3は、”「主」としての「資質の確保と訓練」を怠らず、その基点となる「正しさ」は「衆生の論」に左右されず、多次多極での実質的正しさを極め、その思考は「5つの変化」の夫々の特質に対応して「人、時、場処」を以って事に当り処理せよ。”と説いている。
さすれば、”本来のあるべき適時適切の正しさが求められて、人本来の人生の目的の幸せは確保できる”としている。
そこで、”その思考の原点を「自然摂理」に基づき、「下限限界ー微分思考ー編曲思考ー積分思考ー上限限界」(5つの変化)に求めよ。”としている。
”衆生の所以でないが為に、「主」は孤独である。故に、この思考と共に「訓練せよ」”としている。
”その質に在らず場合は、「主」に留まらず速やかに辞せよ”としている。

家訓3に付いては、「結論」に示す通り、「事の処理」に対する思考原理で、重心を下げた「自己形成」の基盤となると考える。

注釈
伊勢青木氏家訓10訓は、祖先の時代に交流があり、同じ境遇にあったと観られるところから、共通する5家5流の家訓とも考えられる。
この家訓は伊勢青木家の口伝と先祖の忘備禄なるものに伝え書かれた説明をもとに解釈し、筆者が現代の自然物理学の摂理とその経験で習得した同様の論理を加えてより判りやすく説明したものである。

この「思考を獲得」して「自己形成」により「時局」を違えず、「人の幸せは一定で絶対値があるの論」(青木氏の幸せの論)から「幸せ」を減少させる事は少なくなる。即ち、「幸せ」多く確保する=「子孫繁栄」の理屈が生まれる。
この「幸せ論」は別の家訓10で説明する。

以上 次は家訓 4である。
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