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先祖と宗教(キリスト教の教え 8 主題5)

次は⑧番目の事です。(特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事)

5「仏教とキリスト経の妥協の余地」
⑥ 中間的考え(柔軟性)は無い事。
⑦ 全体が闘争的な発想に成っている事。
⑧ 特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。
⑨ 先祖に対する考えは全体として希薄である事。
⑩ 「民族的」と言う考えを認めていない事

本論の事の始めとなった投稿者のご設問の主要部を引用します。

先ず、”罪と悪は違う”の件”と、次は、”私は:人間は肉体を持った魂である。と解釈しています。肉体は朽ちて死にますが、魂は霊の存在に関わります。霊は人間ではありません。霊魂は様々です。悪霊もあり神様もいます。魂は霊に影響を受けます。聖霊は悪霊を近づけません。
人の魂は聖霊に導かれる時に真理を悟ります。---悟り--すなわち理解と解釈しますかな!”の2件です。

宗教論議は多分答えは出ないと思いますが、信ずる所であればよいと思います。

そこで、この説が、仏教とキリスト教の違いのところと考えます。

先ず、1番目の件では、汝 罪深き悪の子よ、信じよ さらば救われん。より、
”罪と悪は違う”の件”のこの分け方が問題です。
合理的ですね。
多分、日本では、仏教でも、罪は悪の中の一つの性(ごう)です。

仏教では、前レポートでも記述しました仏教の人の性(さが、ごう)即ち「大意の悪」としての「4つのみ」から生まれる「罪」は「悪」の所業の一つの形ですが、仏教では、人が持ち得る「4つのみ」は「罪」とはせず、それは、「性」(ごう、さが)で有るとしています。
キリスト教はこれを「悪」としていると考えます。
仏教では、本来、だれでもが持ち得ている「性」だから、故に罪では無いとしています。
つまり、これは「人としての有りの侭の姿」ではないでしょうか。
これを、仏教では、”殊更に「罪」「罪」とするな”としているのです。
この教えの影響を受けて、日本人は「悪の形」として分けないのではありませんか。私も罪は総意の悪の所業の所以の一つだと思います。
更に、進めると、仏教問答では、”仮に罪なるものがあるとするならば、それは日頃の所業の成す精進で消えうせる”としています。”故に拘るな”で有ります。
真実、実生活では、「ごう」(性)を成し、それを精進で消しているのでは有りませんか。すいません。ごめんなさいとして。そして、日々、仏壇の先祖の前で、正座するのではありませんか。
ただ「正座する」と言う姿は「座る事」の意味だけですかね
この正座と合掌は、「ごう」(性)の姿を「正す基本姿勢」ではありませんか。
神社参り、お寺参り、墓参り、法事、命日、日々の仏壇の前で、「先祖の仏様」に謝意、感謝の心を表現しているのですよね。

一度、我々は、特に還暦を過ぎた者は、先ず率先して、心静かに、日頃の自分の「生活の所作」の意味を見つめてみる必要がありませんかね。その一歩から社会と環境が変わり始めるのではありませんか。

キリスト教徒の彼らもクロスを切るのと同じでは有りませんか。既に、それで「罪」的なものを洗い清めている姿ですよね。
しかし、まだ、キリスト教では罪と悪を分けるとするのでしょう。合理的な教義の所以からですね。
しかし、どちらでも良いと思いますが。「人としての差」を無視するのであれば好みの範囲でしょう。

次には、キリスト教の”人間は、肉体を持った魂”に対して、仏教では”肉体と魂を持った”と成ります。
これも本レポートで記述しています。

”霊魂”の霊の設定ですが、仏教では魂は仏と成りますので、仏教では原則ありません。
これは、仏教では戒めのために霊を悪と聖に分けることがあるとするならば、それは「迷信の世界」の設定でここでは取り上げない別次元の事です。

先ずは、論議はこの「ご利益宗教」と「迷信宗教」とは別にする必要があります。

確かにキリスト教はこの霊を用いての法話をしてよく導く事をしました。若いときは納得でした。
しかし、歳をとり経験が進み世の中が見えるようになると、”変だな?”となります。

次のこの行のところですが、
”他次元に於いて、物質=エネルギーと相対の原理が成り立つ”
”霊は人間ではありません。霊魂は様々です。悪霊もあり神様もいます。”
”魂は霊に影響を受けます。聖霊は悪霊を近づけません。”
”人の魂は聖霊に導かれる時に真理を悟ります。---悟り--すなわち理解と解釈しますか”

では、以上の3つのことですが、「悪と聖」を分ける論法はキリストの説法方式ですが、仏教では「拘り」と成り、「人のなせる業」ですので区別せず同格です。

最後のお話ですが、
”物質=エネルギー”のお話が⑦-1のところにありました。
”相対の原理”に付いては、他次元世界の範囲内では論外であります。物理学は未確定の論域までの定理と定義ではありません。
「相対の原理」の範囲は「現世と彼世」との範囲では成立するものですが、現世の世界では論理的確認は出来ますが、一方の彼世の世界の中では、更に、この「相対の原理」は未確定の領域ゆえに誰もそれを論理的に証明する事は出来ません。ここまでの域まで「相対の原理」を持ち込んでの説法は飛躍があり理解が出来ません。

多分、論理性を教義に強める手段として、これの論法をキリスト教が説話する際に用いたことだと思います。確か、私も聞いた事があります。物理系の学生であったので、宣教師と大議論になった事です。

しかし、「相対の原理」は+と-の両極の原理を説いたもので、+の質があればその表裏一体として-の質があり、その質の当量は等しいとする定理です。(例 オス、メス)
「相対の原理」では、キリスト教が言う消滅は、物質を+とすると相対の-は消滅するところまでを意味しません。
ただ、しかし、論理的、物理的には、「エネルギー保存の法則」に従うと言う前提では-側をエネルギーに変換とすると消滅します。
つまり、-側をエネルギーとすると「物質=エネルギー」での式が成り立ち、逆に「相対の原理」は成り立ちません。

つまり、エネルギーとするならば、「相対の原理」ではなく、エネルギーは「エネルギー保存の法則」の定理によります。
この場合、この定理は「位置に関するエネルギー」と「運動に関するエネルギー」の2つの定理で成立し、この二つは等しいと成ります。この時、そのものの質の「質量」が「介在物」と成ると言う前提になります。

つまり、この「エネルギー保存の法則」の定理をキリスト教の教義では何処から見出すとするのでしょうか。
多分、「相対の原理」と「エネルギー保存の法則」と混在していたのではと考えます。この説法手段を用いたときには、まだこの定理が存在することが解明されていなかったと見られます。故に、この「時代錯誤の矛盾」が現在でも残っているのです。
(「時代錯誤の矛盾」とは、以下「時代変化による教義の矛盾」とします)

お説の「物質が消滅」する時、最終の形では、現代の物理学では、「エネルギー」では無く、全ての物質は「固有の波長」を出します。「波長」は「介在物」が存在しない限りエネルギーを出しません。
多分、この事も解明されていなかったところでしょう。
ここでも説法手段として「時代錯誤の矛盾」が遺されたままに成っている事に成ります。

無形のところから発した「波長」とは、太陽の表面の6000ケルビン以上の燃焼爆発で核分裂(物質の消滅)が起こり、その時に発する核の振動(波長)であり、これがこの地球上に届いているのです。
その時の波長が、物質に依って固有の波長を持ちます。(前論で記述)
人間に見える範囲では、色で見える範囲の可視光線であります。(400-700n)
「自然現象の無味無形の不思議さ」を以って説法手段としている事も「波長」として既に解明されています。これも「時代錯誤の矛盾」です。

仮に、更に進めて、この可視光線が空気中の浮遊物質と衝突の時に出す熱量をエネルギーとするとしているのでしょうか。
しかし、もし、そうだとするとこのエネルギーは「-の質」では有りません。
波長は振動です。故に質量を持ちません。この仮設も無理と成ります。

ただ、人間と言う物質が死したときに何らかのエネルギーを出すのかはまだ解りませんが、波長をフラッシュバックとして「波長」を出す事は前レポートに書きました。(センサーとしての「2つの器官」と波長としての「2つの脳波」)
しかし、この「波長」がエネルギーとするかは今後の解析に期待する以外にありませんね。多分ないと論理的に考えられます。多くの物理的定理は変更を余儀なくされるでしょう。

論理的に無い事ですが、ただし、波長、即ち、振動が、エネルギーを持つ事とすると、他の物体を「介在」しての条件で持つという定理になります。(他の物体とは例えば、質の質量です。つまり、波長に質量をもたすという事に成ります。)
簡単に言えば、波長がものに衝突するときには質量があるが為にエネルギーに変換するという論理に成ります。
しかし、これも(F=NCV)という定理があり、解明されており、他に二つの要素(CとV)が関係しての事です。
この仮設も含めてどの仮設から検討してもキリスト教のこの種の説法手段は「時代錯誤の矛盾」からは逃げられません。

もし、キリスト教が、物質=振動のエネルギー説とするならば、この「介在物」(質量)は何なのかという事に成ります。
これが第1の疑問の点です。
ここで注意する事は、+のエネルギーを持つものは上記の定理で消滅するという事です。
第2は「消滅する」の疑問の点です。

キリスト教の教義ではこの二つの疑問の仮設を解明しなければなりませんね。

では論理的に科学的に解明してみます。
人間という+の物質が死するとき、介在物が無いとしても、仮に-のエネルギーが霊(魂)とすると、介在物には永久エネルギー(エンタルピーとエントロピーの定理)はありませんので、霊は消滅する事に成ります。よってこの自然の摂理の事実からもキリスト教の霊は存在しないと言う説に成ります。
これも又、「永久エネルギー」の「時代錯誤の矛盾」で物理的解明が成されていない時に教義を裏付けて信用させたものであろう事が想像できます。

仏教では、エネルギー論は兎も角も、前レポート論でも私の不思議なエピソードとして記述しましたように、この魂の存在期間は7日としています。(初七日の法事です。)
現世での-のエネルギーがあるとして、消滅期間、即ち、エネルギー保存の定理は7日という論に成りますね。

この事は次ぎの論処に成ります
私は人間にはフラッシュバックとしては存在するのではと考えます。(前論で述べている)
センサーとしての「2つの器官」の解明もすすんでいると聞きますし、最近の脳波の研究も更に進んで、言葉の如く出る脳波の強弱と波種で、コンピーターとメカとを連動させると、人間の意思に添って脳から出る脳波を利用して物を自由自在に動かす事が出来る様に既に成っていますからね。つまり、これは現世のーエネルギーの存在が解明されつつあると言う事です。
前論の仏説の「2つの器官」と「2つの脳波」の解明では近い将来答えが出ると思います。

この点から見ても、仏教のこの種の教義が、「時代錯誤の矛盾」だらけのキリスト教より、比較にならない古い宗教の教義でありながら、「自然摂理」に叶っていることを意味するのです。
言い換えれば、仏教のその優秀さが科学的面からも証明されている事を意味します。

次ぎにエネルギーで空間を歪ませることが出来るというキリスト教の説法論のお話ですが、

確かに、歪ませることが出来ます。だから、キリスト教では、この歪ませるのが霊であるとして、その存在を信じさせるトリックとしていると思いますが。
しかしながら、但し、この場合の理論は、電位現象です。既に物理学では解明されている理論です。

そこで、再び、科学論です。

空間に存在する「チリや水分」などの遊離物質が存在する時に起こります。真空では起こりません。
つまり、エネルギーの+物質とその空間の間に存在する-の遊離物質との間で超電位が発生すると、この時、波長(電磁波)を発生させ、その波長の「周期差」で歪むのです。

地球の上空は3つの成層圏(0-95、95-500、500-1000)に分けられていますが、95キロ内の成層圏に存在する「チリや水分」には地球の-の電位(電圧の差)に対して、その上にある全ての物質には電圧がかかります。
この時、地球に対して個々の電圧が異なります。この時の生まれる電圧の差を電位と言います。
この物質「チリや水分」の集合体に対して、このエネルギー源が大きければ大きいほど電位差が出来て、結論として大きな歪みの電位帯が出ます。

この歪みはバランスを取ろうとして動き、プラスからマイナス方向の左方向に渦が出来始めます。
電位帯があるので当然に浮遊物質の渦が出来ると、回転方向に電流が流れ、回転方向の反対側には電子が流れ、そしてその時、電子が他のものを引き付けるために、回転体の中央に磁場がうまれ、その磁場の束として垂直方向に磁力線が出来ます。この時、この流れる電気の周波数を高めればより高い磁力線が生まれます。この磁力線に対して、この磁力線に抗して、物質を入れますと入れまいとして抵抗が生じてその物質に起電流が流れてエネルギーが高まります。つまり、電流電子の運動により衝突が発生し熱に変わることを意味します。簡単には台所のIH器機ですね。
(参考 V=AR W=VA J=0.24Wから力と熱量を計算できる:ジュールの法則)
大きくは宇宙のブラックボックスも概してこの現象ですね。(IH現象)
他の宇宙の星の物質が核分裂の末に死滅し、フラッシュバックが起こり周囲にその星の死滅物質が飛散します。
そのチリと飛散物質が上記の現象を起こしてブラックボックスが出来ます。そして、再びこのエネルギーで遊離物質が解けて物体と成り新しい新星が出来る事に成ります。

太陽から飛んでくる核分裂の固有振動が地球に届くのは、この空間に遊離物質が無い事から起こっています。遊離物質(チリと水分と空気)があると、遮られて弱くなり、衝突と歪みのエネルギーが発生して消滅してしまいます。

例えば、遠く他の宇宙から飛んできているフラッシュバックの時の振動のニュートリノは、地球などを貫く超波のこの現象で飛んできています。
地中深くにピュア-ウオーターの池に超感度光センサーを取り付けて、ここをニュートリノが通ると水分子(H)と衝突して歪みが出ると同時に、衝突するときに衝突の運動エネルギーが発生して蛍のような光が出ます。可視光線でも空中では同じ原理で色として見えています。

空間を歪ますのは「霊」のエネルギーの仕業であるとする証拠説のキリスト教説は、上記の「2つの疑問」と、第3の「振動であるか」の説明がつかなければ(尽く事は論理的に既に現在では無い)、昔はこれで騙し得たが、既に上記の物理的に解明されている現象ですので、これも時代遅れの説法(「時代錯誤の矛盾」)と成ります。
全てこの現象は科学的には証明されているのですから。今だ家庭の中にその原理を使ったものが入り込んでいる時代なのに、この事を知らない人は兎も角も、昔の未解明のままの論理で人を説得する事は騙した行為と等しくなり無理と成ります。

ここまでが、科学的根拠に基づく答えです。

ところで、これは私の論文の次の⑧のところで論じるテーマでしたが、いみじくも真さにこのキリスト教の設論の方法です。

以降、⑧番目の設問の説明とします。
(特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。)

キリスト教ではこの様な全体として比例式のように論理的です。わかりやすい説き方です。
若者には、論理的に受け入れやすい人には、好まれるものと思います。
仏教では、「色即是空、空即是色」ですから、何のことと成ります。
キリスト教では、悪と聖(善)とに分けると言う数理的合理的な説法です。
仏教では、「悪善」と分けずに、これも人の成し得た性(ごう、さが)として「拘るな」としています。

人間は、知恵を出し、社会に付加価値を大きく生み出しました。この結果、付加価値の少ない時代の事と較べて、物事の始末と結末が、合理的、数理的、論理的に判断できない環境と成ってしまったのではないでしようか。それだけに世の中は考える様には行かずに行き詰まり、うつ病やこれ等に絡む犯罪が増えているのだと思います。
多分、原始社会やローマ時代まで当りの社会では殆どの物事はこの定理で納まったと考えます。しかし、産業革命から以後、付加価値が増え続け現代に至って定理だけでは納まらない社会になったと考えます。勿論、自然の物理現象も解明が進み、人間が自然に考える思考の殆ど、80%程度はこの通常の社会定理(通念)が納まらない社会成っているのであると見ています。そして、社会通念はこの辺のところまでとし、次ぎは未経験の宇宙通念成るものが生まれて来る事もそろそろ始まる時代へと進むのではないでしょうか。
多分、化石資源を中心とするエネルギー源の枯渇と、中国、インド、ロシアなどの経済成長により鉱物資源の枯渇等の現象から、ソーラーやレザーによる衛星からの太陽熱源の活用と、月世界の鉱物資源の活用対策となる事は明らかですので、これからもどんどんと宇宙社会の新しい定理が生まれて、観念論だけの思考では生きていけないほどになると見ています。
既に現在のソフト科学に付いていけない人が多く成っているのではありませんか。

そこで、その完成社会は特にその中でも女性に影響を与える事になると考えられます。それは女性の生まれながらの「性」(さが、ごう)に大きく影響すると考えます。
前論でも書きました様に、女性は無意識下の深層思考(感情、勘定、妥協)に大きく影響してくると予想しています。
時代進歩の付加価値が増えれば増える程に、「感情」で処理できない現象が増え、「勘定」で数式的に評価が出来ない事態が出来て、「妥協」で処理し切れない始末が出て来ると思えるのです。
つまり、本来のあるべき自然の人間の姿(性善説的)ではない否人間的(性悪説)に近い思考が増えると思えるのです。
言い換えれば、「時代の進歩の付加価値」はある面でこの性善説を壊す事を求められるという事です。
男性にしても、社会の数理、合理、論理の社会の思考が先鋭化して、本来の性(さが:理想、合理、現実)であるにしても究極の思考原理が要求される事から脱落者も増える事と成ろうと考られます。

そして、どの様な社会が生まれるかと言うと、例えば、付加価値に依って”正しい事は正しい”と出来る社会は益々と低下してしまうと思うのです。
むしろ、”正しい事は正しくない事、又は最悪の場合は悪い事”の現象がその社会情勢の変化が先鋭化して評価基準が変わる時代となると考えます。
現代でも、、”正しい事は正しくない事、で処理した方が上手く行く”と言うそれが多く成っているのではありませんか。
少なくとも、精神面の思考では「正しい事は正しくない事」が起こり、「善と悪」の中間的な思考の”正しい事は必ずしも正しくない”という数理性、合理性、論理性の少ない評価基準の社会が出来上がるのではないでしょうか。

このことから、男女の若い者はこの状況に悩み、求めるものとしてキリスト教的な教義に向かうことが考えられ、中年者は思い悩み、老年者は上記した教義の特長から仏教に向かうと考えられます。
つまり、その社会現象に対して、「抗する派」と「同調する派」とに2分化する事になるでしょう。そして、それは「若年齢者」と「高年齢者」の2分化の観念の面に於ける社会が出来ると見ています。
観念以外は全て先鋭化した究極の「数理、合理、論理」の社会となると考えられます。既に高年齢者はPCや電子化の波に乗れなくなっている現実です。
更に、ICがソフトチップの量子チップかカーボンチップのハードチップのダイヤモンドチップが完成すれば、先鋭化の科学社会が出来あがるでしょう。つまり、そのチップで宇宙社会の科学が出来る事になり、この付加価値が増大して、高年齢者の脳の能力をはるかに超える社会環境が生まれると見られます。
それはコンピーターが人間の脳の能力と等しくなる程度かそれ以上になる事を意味するのです。同サイズと同量での量子チップの記憶量は人間の脳細胞と同じ記憶量だからです。
これは予想の域を超えて、日本では太陽熱を衛星で集めてレーザーでピンポイントで地球に送り、数年前までは永久エネルギーがないという定理だった事も、今では定理を打ち壊し太陽がある限りの前提で、永久エネルギーを作りだす事も既にプラントテスト域に入っているのです。

上記の社会進化の中では、キリスト教の⑧番目の設問とする”特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。”で、この方向に向かうと一般的に思われます。
しかし、本論の説でもある様に、日本人には、比較対比して来た内容のようにキリスト教の「時代錯誤の矛盾」などの多くの矛盾から、合理的な教義ではなく、仏教の教義に理解を示す方向に向かうべき方向ではないかと考えています。

だから、少なくとも日本人にはアメリカナイズされた数理的、合理的思考の現状社会から、野性的な感性から日本人は静かな心を呼び戻し、最近、山地水明の自然に戻ろうとしているのだと思います。
そして、それは今や、田舎にしか残らない上記の日々の謝意と感謝の社会へと帰ろうとし、今意識せずに国民全体が徐々に動き始めているのではありませんか。
況や、あのキリスト教全盛のアメリカでも仏教とその文化が見直されている皮肉な華頂現象が起こっています。信徒も増えていると聞きます。
同じ程度の科学の時代進歩を共有している日本では仏教の国である事から、ややその影響は鈍ることが予想できますが、大事なキーポイントは仏教のキーポイントを忘れない事であると考えます。
これさえ持ち得ていれば、何とか非常時代は避けられると考えます。ではそれは何なのかです。
言うまでもなく、私はキリスト教に少ない「先祖意識」がキーポイントであると考えているのです。
これが、科学進歩による数理的、合理的、論理的な要求に対抗できる概念であると信じています。

ただ、しかし、この合理主義は完全否定するわけではありません。その根拠を得る為に、生活の糧を得る為に仕事する上で、この部分に於いては、数理的、合理的、論理的な定理の思考を必要とされている傾向が、強く成っていると考えます。又、科学の進歩でこの世の幸せが増幅するわけである事は否めませんから必要ですね。
その様な環境(都会)の中では付加価値が強くなった為に、絶対的に必要です。
然し、これでは人はその様に出来ていませんので疲労して続きませんね。
又、この定理に弱い人(女性)も居るでしょう。そして、うつ病と犯罪が必然的に増えるでしょう。しかし、皮肉にもこれを救う手段は宗教理念のキーポイント「先祖意識」全本論のタイトルだと思うのです。

結局、{思考}と{生活面}共に、「2極化」しなければならなく成っている生活環境と考えます。
「合理と非合理」の思考、「都会と田舎」(仕事と癒し)の場所の二つに益々増える社会の付加価値のために、昔の社会と較べて、2極化しなければならなくなっていると考えます。
そして、この傾向は益々強くなるでしょう。

しかしながら、それだけに、宗教が介在する生活面、特にその精神面では、世の中、現代の世の中は、論理的に始末できれば苦労はしないですよね。出来ないから宗教があるのに。ではその宗教を何に求めるかです。
私は上記の拙論からこれから来る社会の対して、日本人には仏教だと訴えているのです。一見の見えるキリスト教では無いと訴えています。

多分、これは、上記の現象から来る、”論理的に判りやすくあって欲しい”とする人間の願望でしょう。
裏を返せば、願望とすると、世の中は精神面では最近、数理的、合理的、論理的ではなく成っているいと云う事ではないでしょうか。無いから願望するのですよね。
この点で、逆に、キリスト教は排除され、キリスト教圏の中でも、他教、特に仏教が見直されている傾向があるわけですね。そして、この定理が、世界から、紛争地から警戒されている原因の一つだと思います。

仏教の「拘るな」は反意として、精神面では”数理的、合理的、論理的であるな”としている事に成ります。
数理的、合理的、論理的は、”考えるとこうである筈だ”とする人間の判りやすい思考(願望)ですね。ところが、そうでないからな悩むのだと思いますがね。悩んで救いを宗教に頼るのでしょう。
それが、一度ではなく茶飯事だから宗教に頼るのでしょう。
では、宗教は何で存在するのですかね。

つまり、これは人間の「拘り」の典型的な思考ですよね。
「拘り」があるから悩むのではないでしょうか。そして、宗教を頼るのでは。その宗教が数理的、合理的、論理的では、変ですよね。

この理解の方法は、多分にして、民族の持ち得ている遺伝子の違いでしょう。
ネアンデルタールとピネカントロプスの違いでしょうか。

私は何れにも帰依していませんが、年をとるに従い、このキリスト教説法には?です。

それと、理解は年数では有りません。むしろ、短くして如何に要点を突くかにあり、長くはそのとりこに取られて自分を見失う事に成りがちです。何事もそうではありませんか。これは人間のもつ性(ごう、さが)でしょう。我々凡人は。

そもそも、宗教とは良し悪しは別として元々洗脳的行為の目的をもっています。長くすればこのペースにはまるのも人間です。

私の4年は研究の4年です。青木氏の研究をテーマに、そのサブテーマの「先祖」を知るには民族に関する事を知ることにあり、その民族を知るにはその基盤と成っている宗教を調べる事にあると結論付けての事でした。
そして、仏教と他民族の代表キリスト教との対比研究課題としたのでした。
宗教の布教手段としての洗脳から逃れる為に警戒をし、又、頼ろうとする者に対する落ち込みやすい数理的、合理的、論理的な教義に疑義をもつ事として(理解が容易であるが故に)、避ける為に、そして、この「捉われ」を避ける為にも信仰という手段をとりませんでした。その後も英会話習得という名目で長い間付き合いは行いました。

そこで、次ぎに、”キリスト教の布教には植民地政策と連動していた。”と言うところで、”日本も第2次大戦をしたではないか”のご意見でした。

これに付いて、次に異論を提示します。
日本の第2次大戦は仏教国に攻め入ったのですから、宗教を前提とした戦いではありませんでした。念のために。勝てば官軍と言いますが、この世の大儀的な慣習ですが、この言葉には疑問です。

両方が悪いのです。又は両方にも大儀があるのです。

戦いに入る前の状況を無視すれば、それこそ、仏説の「悪も善のときがあり、善も悪のときがある」ですね。
例えば、猛烈な言葉の暴力を浴びせた。相手は殴った。どちらも方法は違えど暴力では有りませんか。何もなしに急に殴るは狂気の沙汰でこれは犯罪です。別の話ですね。
殴った方を悪いとする現在の一方的な慣習には疑問です。悪いのは両方であり、因果関係からすると暴力的暴言を先に吐いた方に6の悪、行動の暴力は4悪位に感じるのですかね。先に言葉の暴力を吐かなければ、行動の暴力は無い筈です。

もし、この理屈を通せば、第2次大戦は、4の悪となると思うのです。
”何もなしに急に殴るは狂気の沙汰”でしたでしょう。
その経緯は狂気の沙汰ではなかったのです。

「勝てば官軍」で、非難の材料にするは疑問です。
キリスト教では、数理的、合理的、論理的では「勝てば官軍」が成り立つのでしょうが。
アメリカ軍が日本を統治したときにも、このはっきりとした東京裁判という態度をとりましたよね。戦い前のアメリカの態度を批判せずに。

何故なのかです。それは、彼らのキリスト教でもある様に合理思考だからです。
確かに、私の研究中ではこの議論が大きかったのです。
彼らは、「自分達の正しさ」を絶対に譲ることはありませんでした。それは宗教思考と同じくその合理思考から、この「猛烈な言葉の暴力を浴びせた。相手は殴った」の「戦い前の状況・経緯」(植民地政策の両国のアジアでの衝突)を無視と排除したのです。
日本が経済力を上げてきた結果、植民地政策の両国のアジアでの衝突が起こり、その大作として米国をはじめとした国々は日本の成長を押さえるために経済封鎖してきたのです。そして、負けたのです。そして、その後20年後くらいで矢張り再び第2位に成り盛り返しましたよね。

この”「盛り返した」”という「行為と行動」はどのような意味を持つのでしょうか。「善と悪」として。

私は、その「成長」は「善」であったと確信しているのです。
世界の中にアジアの日本民族の優秀さを世界に、特に白色人の国に対して示したことは彼らの優越感を砕いたことでもあり、それが無かったらもっと横暴な植民地戦略をアジアで採り続けたことが間違いなく予想できます。

ところが、そして、彼らは「勝てば官軍」の大儀を全面に押し出したのです。現実に、現在でも、彼らは認めていませんよね。
日本人には「喧嘩両成敗」には理解出来るこのことも。永久にないと思いますが、「価値観」とは異なる「思考原理の違い」です。

例えば、丁度良い例として、技術者とし勤めている時の事で、製品にクレームが出ます。相手に伝えます。そうすると、交渉の彼らの答えは決まって、”それはその程度の製品を貴方は金額を払って買ったのだから、貴方に責任がある”として認めません。
”ここは日本である。それは貴方の国で言え””貴方の製品は日本に売ったのだ。自分の国に売ったのではない””共通の理論で言え””共通の理論とは技術理論である”と反論。

万国共通の技術理論を持つ技術者から見て明らかに設計ミスであるがこの発言です。
設計ミスはその言い分外であると議論するが、一体彼らの責任はどのようなときにあるのか判らなくなってしまう合理主義です。
日本ではこの理屈を述べると「袋たたき」です。これ程に彼らの思考の裏づけとなる宗教に於いても違うのです。外国製エレベータの時も最初の言い分はこの理屈でしたね。

彼らのこの言下には上記の優越感が今だ潜んでいるのである。万国共通の技術でもこれである。まして、宗教では言うまでも無く、押して知るべしである。つまり、上記の矛盾を潜みながらも今だキリスト教には続いていると言うことである。
さすが、現状では、本場のアメリカでGMに打ち勝ったトヨタの実績が、上記の反論と、大きく言えば、第2次大戦の」盛り返しの意味」の答えが出ていると思うのです。

この様な思考の違いを取り除く為にも、そして、肝心なことは、その戦い(宗教)をどの様に捉えれば良いかは「俗説通説」を排除して偏りをなくすべきと心得ます。

何れも、良し悪しの問題ではなく、違いが有るとしても、自分が良しとすれば、先ずは、それでよいと思います。自己責任の範囲として。

大事な事として、思考を偏らせない人としての差を、今に求めないのであれば、今の自分にあったものを、自分のものとして、会得する事だと思います。

今に求めるのであれば、数理的、合理的、論理的過ぎる思考に注意して、「拘り」をより少なくして「人としての差」を縮じめるべきです。

これを⑧番目の設問としますので、了解ください。

まだ、論文⑨⑩と続きますので、又、ご意見をお寄せください。
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先祖と宗教(キリストの教え 6ー7 主題5)

5「仏教とキリスト経の妥協の余地」

設問①-⑩は主題4に関わりますが、⑥からは主題5にも関わります。

では、キリスト教の設問として、⑤番の続き、⑥の問題の説明に入ります。
設問
① 他宗を少なくとも先ずは強く排他している事。
② 教えがかなり強引である事。
③ キリスト個人を神扱いにしている事。
④ 兎に角にも、”先ずは信じよ”である事。
⑤ 人は全て悪の子供であると否定する事。

5「仏教とキリスト経の妥協の余地」
⑥ 中間的考え(柔軟性)は無い事。
⑦ 全体が闘争的な発想に成っている事。
⑧ 特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。
⑨ 先祖に対する考えは全体として希薄である事。
⑩ 「民族的」と言う考えを認めていない事。

5「仏教とキリスト経の妥協の余地」を検証するため、設問(⑥-⑩)に入ります。

第⑥番目の事です。(中間的考え(柔軟性)は無い事)
①から⑤までの設問に対する考えが、共通することで大半を説明していますが、「柔軟性」はキリスト教には少ないと考えます。
むしろ、本来、(日本のように融合民族であるが)、融合していない他民族の集合体の自由の国であれば、その考え方に幅を持たせて、柔軟に教義が出来ていると考えられるのが普通であると思うのですが。
しかし、ヨーロッパも日本と違い周囲に他民族が多く存在しますので、当然に、民族の重複部分地域は、キリスト教の教義についてはこの柔軟性はあると考えられます。
しかし、矢張り「信じよ」ですから、この教義からはこの柔軟性は考えられません。これは言葉の性質からも来るのでしょうが、仏教は、般若心経の教義一つを観ても代表的な言葉として、(何度も書きますが、)「色不異空、空不異色」「色即是空、空即是色」を始めとして、「不生不滅、不垢不浄、不増不減、是故空中無色」等は、”この語意は一体何を意味するのだろうか”と思える位に、柔軟であります。

仏教は以前、その「反意や深意や真意や裏意」が大きく働く教義であると書きましたが、上記の語意は、判断の経験を大きく左右するものである事は、多くを調べていると理解出来ると思います。
ここに書いている”「色」とは、「空」とは、何ぞや”から理解する必要があります。(前説に記述)
この理解で全体の解釈も充分に異なるであろうと思います。それでよいとしています。

仏教では、”その人その人の受け取り方はそれはそれで良いのだ”という。宗教関連者では、職業柄、定説的なもを主張しますが、一般の者の理解としては、”その人が、経験もしないのに、その人も立場や環境もあろうことなのに、そのことを解いても、それは「悟り」(理解)とは言わないのである。そして、経験を通じてその理解が深まれば、それはそれなりの「悟り」(理解)と言うのだし、それは「真の悟り」へとに近ずく”としています。

「三つの法意」
上記の事を意味する仏教の教えの一つとして、次の様な仏教言葉があります。
①「人を以って法を説け」という言葉があります。
②「説法は三相を得よ」(人、時、場処)と説きます。
更に、次のその言葉として、代表的なものがあります。
③説法の効は「縁無き衆生動し難し」という言葉があります。
この3つの言葉を組合わすと上記の理解事を物語る言葉となります。
況や、その真意、深意は、この意味が柔軟性を物語る先ずひとつであります。

この「三つの法意」(3つの言葉①②③)がその「柔軟性」を物語るものです。

①は”人は夫々立場、性格、職業、男女、家柄、生立ちなどでその理解は異なる。説法だからと言って仏教の教義をそのものをずばりを以って伝えても意味がない。その立場などに応じて噛み砕いて伝えよ”としているのです。

②は”①が成し得たとしても、人、時、場処にあわして説法をしなくては法意は伝わらない。伝え得るには①と②の術を身につけるべし。何事もそうである”としているのです。

③は”①と②を経たとしても、理解できない者はある。全て者を理解させようとするはその心根は「拘り」である。理解できない者はそれはそれで縁無き常の者として動かし難いものとして扱いを別にするべし”としているのです。

この仏教の「3つの法意」は一言で言えば、”柔軟に対処せよ”としている事に成ります。

つまり、”それはその人の今の[悟り](理解)である。””「悟り」は、この様で、この如くでなくては成らないと限定するものではない。人の世では、次第にその「悟り」が増せば良い”としています。

これに較べて、キリスト教の「悪の子」は「悪」と最初から決め付けていることからも、「柔軟性」が無いと見えます。

ただし、私が言うこの「柔軟性の有無」が教義の「良悪」の事を説明しているのではありません。
それはそれで彼らが納得するのであれば関知するところでないと考えます。
当然に、国民性や常識は違うのだから、「良悪」の問題ではありません。差違や適応性の問題です。
ただ、キリスト教は、その語意は、(「悟り」理解が難しい」が、)経験が共にするので「判断は容易」であると思います。
しかし、逆には、「反意や深意や真意や裏意」があるので、、(「悟り」理解が易しい」が、)「判断は難」の仏教だと思います。
故に、キリスト教は個人の悟りに差が余りに無く(個人受け取り方)これが一つの特徴であり、中間的考え(柔軟性)は無い事に成ります。仏教は様々と成ります。第一、キリスト教には「悟り」という概念が乏しいのではと考えます。

次は⑦番の事に続きます。


5「仏教とキリスト経の妥協の余地」
設問①-⑩は主題4に関わりますが、⑥からは主題5にも関わります。

では、キリスト教の設問として、⑥番の続き、⑦の問題の説明に入ります。
設問
① 他宗を少なくとも先ずは強く排他している事。
② 教えがかなり強引である事。
③ キリスト個人を神扱いにしている事。
④ 兎に角にも、”先ずは信じよ”である事。
⑤ 人は全て悪の子供であると否定する事。

5「仏教とキリスト経の妥協の余地」
⑥ 中間的考え(柔軟性)は無い事。
⑦ 全体が闘争的な発想に成っている事。
⑧ 特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。
⑨ 先祖に対する考えは全体として希薄である事。
⑩ 「民族的」と言う考えを認めていない事



⑦番目の事です。(全体が闘争的な発想に成っている事)
この設問を説くには、仏教と対比しながら、教義より現代のキリスト教の行動を検証する事の方が明確に成ると考えます。

キリスト教の様に、他教の聖域に入り、積極的に布教をすると言う事は仏教には少ないと考えます。
むしろ、インド(ブッタガヤ)から中国を経由して日本に伝教してくるまでの東中国(後漢)過程には、多くの弾圧があった事は史実であります。キリスト教には、初期の宗派誕生期にはあったとしても、伝導過程では余り聞かない事であります。
そして、日本仏教の最初の伝導は、司馬氏の始祖(馬の鞍等の武具を製作する鞍作部の技能職人である)司馬達等が日本に帰化してきた時に、私伝として広げたのが最初(535-550年頃)であるとしています。その中国後漢(618年)が滅びて、阿多倍に率いられた17県民200万(帰化人)に依って爆発的に広がったとされています。

(参考 阿多倍:後漢光武帝から末帝21代の献帝の子石秋王の子供阿智使王と孫阿多倍の二人が引き連れた200万の中国の民が九州へ上陸し全土を平定し、関西手前までの32/66国で征圧し帰化する。)

これが次第に周囲の中国(後漢)の渡来人の部技能職人以外に、彼らから技能を教わって恩恵を大きく受けている日本人にも自然の形で瞬く間に爆発的に(国32/66の範囲)伝わったものであります。
書籍的には、552年(538)百済から経典が入ったとされています。585年の物部氏と蘇我氏との戦いだけで伝導は決定します。594年の三法の詔に始まります。(後に神道と融合する)

この日本仏教の伝播の勢いは、この技能集団の部制度の影響が最も大きいとされます。
又、民族の融合もスムースに進んだ原因は、仏教がただ伝わったと言うだけでは無く、技能集団の彼らがもたらした仏教の影響が大きかったのではと考えています。
現在、世界の民族の融合を観察するに、中東では民族戦争が多く起こっていて絶え間なく1000年経ったいまでも融合は余り進んでいないのが現状であります。
まして、日本は7つの民族が全て分離することなく、それも300年程度(史料的には阿多倍の孫娘を母に持つ桓武天皇期以降には出て来なく成る。この原因の詳細は研究室の阿多倍関係のレポートで参照)で一つになるには何か特別な要素がなければ出来るものではないと思います。
その短期間の要素とは、「天神文化」の「神道との融合」と、この「技能集団と仏教」の結びつきがもたらした結果であると考えています。
つまり、そして、その伝播の経緯は、「神道的仏教伝播」と「民族融合」が相互に関連して平行して進んだと観ています。
日本仏教、特に奈良期から鎌倉期までの「顕密仏教」では、この背景があったことを念頭に留意して比較評価して観るべきだと考えます。
これは「顕蜜仏教」と「新鎌倉仏教」とに日本仏教の違いを区分けされている一つの要因でもあります。
その仏教の姿や役割がこの境の時期を以って異なっている所以であろう事ははっきりしています。
民族と仏教の2つの融合過程はこの域を境に一度に変化した時でもある事が言えます。
これらの事が欠けての評価は判断に間違いを起すとも考えます。

そこで、先ず、上記の事を留意して、キリスト教では、この様な仏教の自然に近い伝来と言うよりは、歴史的には植民地侵略をベースとして政治的施策を施して爆発的に伝播して行ったものであり、これは近代に於いての基本伝導の姿であろうと考えます。
この時、伝導や教義はその植民地の民族的背景を配慮してのものでは無かったであろうし(価値観の配慮と伝統の無視)、
むしろ、それを行うと、世界各地に異なる教義のキリスト教が出来てしまう事になります。
この事は、その民族間のキリスト教の争いともなり、キリスト教の存亡にも成りかねないことを意味するであろうと考えます。
故に、主題4の所で記述したキリスト教の教義の矛盾がある事を論理的に充分に知りえながら、価値観の配慮と伝統の無視して、一つの教義を押し通す事を実行したのであろう事が覗えます。これが強引で闘争的であるとする所以であります。

日本の仏教は主題4で記述した様に、「天神文化」と言う「神道と仏教との融合」と言う手段と「民族融合」も備わって伝導を成し得たのです。自然に近い伝導と認められます。

仏教もキリスト教も同じ政治性を含む伝導ではあったが、仏教は「融合」と言う形でその対立を避けたのであるから、キリスト教とはその体質は異なります。
又、仏教伝来のほぼ直ぐ後に儒教が伝導しているが、この儒教も何処にその教義の考えがあるのか判らない程に同化し融合しています。
しかし、儒教は大きく伝播せずに単独の形でのものは無ったのであります。
儒教は江戸時代にその社会情勢から突然に学問として世に出されたが、直ぐに江戸幕府の禁令で更に突然に消えました。
しかし、社会慣習の中には、儒教の慣習や作法や思考姿等の生活の慣習の中などに気づかずに多く遺されています。
例えば、葬儀のときは儒教では「正座や豪泣」、仏教では「胡座、不泣と宴」の様に遺されているのです。つまり、これも小さい「融合」であります。

融合でもそのレベルがありますが、「融合」の面白さですが、参考に、僧侶がいる仏前の前では、皆さんは正座するのでは有りませんか。あれは儒教の作法ですね。本来は胡座です。食事の作法でも細かいところでは沢山ありますよ。一度、見渡してください。一番はっきりするのは韓国との作法の違いを見るとよく判ります。
日本に於いての宗教はそれ程に無意識下の一般化した融合なのです。
同じ宗教でも、キリスト教には、伝道した地のところにこれ程の「融合」が認められるでしょうか。
この「融合」が本節の「(全体が闘争的な発想に成っている事)」キーワードと思うのです。
「(全体が闘争的な発想に成っている事)」があるが故に「自然の形の融合」は起こらないのです。

さて、キリスト教の比較に戻して、現在に於いても、世界各地で紛争が起こっています。
その紛争を「武力とキリスト教」で「世界平和」を大儀にして解決しようとしている様に見えます。
キリスト教の彼らにしてみれば、この二つの事で扮装は収まると真剣に思っているであろうと思いますが、しかし、そう簡単ではありません。ここに、「民族」(価値観の配慮と伝統の無視)という遺伝子に絡む大問題を無視している「強引さ」が彼らキリスト教にはあります。
各民族には、その特異な妥協し得ない「事情や環境」がある事は否めません。当然に、必然的に、その特異性からそこには心の悩みを解決する為に独特の宗教が存在する筈であります。

キリスト教側では、その教義で民の安寧を計ろうとするでしょうが、結果は火を見るより明らかであります。
”宗教戦争”に変化して行き、中東の様に国と民を巻き込んでのイスラム教とキリスト教との益々の争いと発展して行く事は必定です。
イスラエル、イラン、イラク、アフガン、インドネシア、フィリピンの様に国をあげての宗教戦争に成っている事が証明しています。この全て裏にはキリスト教の浸透策が潜在しています。
先日の韓国のアフガン拉致問題は⑦の設問のその象徴的出来事です。

弱り目に祟り目でありますが、日本も例外では無く、大戦の敗戦後は、この危険性はあったのです。
しかし、神道仏教の融合教義の完成度が高い事により、明治初期の「廃仏毀釈」だけで、戦後の内乱は避けられたのであります。
確かに、我々から観ると、イスラム教にも強引とも攻撃的とも思われる「聖戦」や考え難い「宗教作法」などもあります。
しかし、キリスト教やイスラム教などにしても、それはその国の民が良し悪しに関わらず「良し」とするのであれば、それはそれで良い事であります。
「悪い」とするも、当然に、何処に於いてもその「攻撃的強引さ」は「宗教の代理戦」の形として現われて来る事になるでしょう。
この問題には、その特異な妥協し得ない「事情や環境」がある事は否めないし、解決出来ないからであります。
国民の一致団結(融合)を成し得なければ、その民の選択と決断に関わる事に成ります。

この様に、宗教だけを見るのではなく、政治の裏には必ず、現実には、この様な体質を持つキリスト教の動きが存在しているのです。(そもそも、”信じよ”には反意として攻撃的の語意を持ちます)

仮に、キリスト教の伝播と浸透のそれを成し得るには、日本の仏教と民族の融合過程のように、先ずは少なくとも「キリスト教と仏教の融合過程」が必要であります。
この論理で言うと、この論理の証拠に、宗教界では、現在そのような教義を前提とする宗教団体(生長の家)があり、徐々に日本の国に浸透しています。

この宗教教義の姿や前提が「伝播過程」の通るべき道(融合)として正しいのではないかと推理しています。
しかし、私はキリスト教にとっては「無理」と考えています。
この手法ではローマ法庁のようなキリスト教の全体の形は採れずに、本体はいつかキリスト教の一括統治が働かなくなり出来ずに崩れることを意味します。従って現実には無理なのです。

「無理」という事は伝導先では、依然として「紛争」が伴なうという事に成ります。

必然的に「紛争」が伴なう「宗教」と何を意味するのでしょうか。疑問が残ります。

しかし、この様に比較対照すると、私には、体質的に出来ることならば、避けたい「キリスト教義」とその「否融合の手法」と観ますが、少なくとも積極的にはなりません。これは「拘り]なのでしょうか。皆さんは如何ですか。
では、そうであるのか無いのかを次に検証を進めます。

次は⑧に続きます。
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先祖と宗教(キリスト教の教え 1-5 主題4)

ご意見の内で、次の文意に対する問題として、
1「呪いの意」
2「時間の逆行性」
3「行為と行動の進行性」
4「キリスト経の教え」
5「仏教とキリスト経の妥協の余地」

以上に付いて私観を述べたいと思います。
超論文に成りますので、シリーズで記述する事にしますのでご理解ください。

4「キリスト経の教え」
さて、4の主題の「キリスト教の教え」に付いて。
下記の設問(①-⑩)です。

そこで、前々回の設問の末尾に次のようなことを書きました。

”信仰すれば、こうしてくれる”は信仰とは云わないのではないかと言うことを書きました。
兎に角、私は「宗教」に対して「ご利益信仰」が主体と成っている事に疑問なのです。
つまり、”こうすれば、こうしてくれる”と言う見返りを求める信仰はここでは論じないでおきます。

次の設問の「キリスト教」は、この傾向が説話の中で多すぎると感じています。
”信じよ、されば救われん。”には納得できません。信じなくても救われる筈です。信じたら神のご利益があると言うことは真さに、この事です。
仏教は、”信じよ”とは云っていません。”理解せよ。”です。
つまり、”理解すれば「静かなる心根」を得て、必然的で、間接的に救われる道に自ずと向かい成るだろう”と言うのです。そして、”その理解を日々増やせ。さすれば、より「深い心根」が得られるであろう”と説いています。

更に、キリスト教は、”人は悪の子供”(罪深き子)と設定していますが、仏教では”悪の子供(罪の子)であるも普通であり悪(罪)と拘るな”であります。それが「人」だと説いています。

これが私の若い頃にキリスト教の説法を4年間聞きに行って知ったポイントでした。

多少の自分勝手な歪みもありますが、なんとなく心の底から納得できないところがありました。そして、説話の解読が”何か攻撃的である”と印象を持ったのです。
これは多分、”民族的な遺伝子の違い゛では無いかと思いました。

そこで、質問をしました所、帰ってくる答えは、何か頭に引っかかるもので、”日本民族のレベル(民主主義のレベル)が低い”のであるかのニュアンスの答えと感じ取りました。
これは当然の答えでもあるかも知れません。当時は、まだ日本は戦後15年程度しか経っていませんし、復興途中ですのでアメリカ人から低く観られていたと考えます。我々のほうがそう云う風に受け取っていたとも考えられますが、やや、彼らの心中にその様な心を一部に宿していた事も事実でしよう。
しかし、中に仏教を勉強していた牧師というか宣教師が居て、仏教との違いを認めていたのも事実でした。その違いは「蛮な宗教」として排除していた言葉を説話の中で聞き及んでいました。同席していた友人たちと牧師との間で、議論になったことを覚えています。

しかしながら、後に仏教も含めて正しく勉強し直した結果は、次の様な事柄でかなり近い調査結果でした。
確かに、その調査結果の違いは、次のような事でした。

① 他宗を少なくとも先ずは強く排他している事。
② 教えがかなり強引である事。
③ キリスト個人を神扱いにしている事。
④ 兎に角にも、”先ずは信じよ”である事。
⑤ 人は全て悪の子供であると否定する事。
⑥ 中間的考え(柔軟性)は無い事。
⑦ 全体が闘争的な発想に成っている事。
⑧ 特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。
⑨ 先祖に対する考えは全体として希薄である事。
⑩ 「民族的」と言う考えを認めていない事。

本来、仏教では、”宗教は「万教帰一」である”と説いています。少し違い過ぎているという感じがしました。
そこで、上記の事に付いて、その違い際を出す目的で論じてみたいと思います。
そうする事でその違いの全体の論所が見えてくるのではないかと思います。

①番目の事です。(他宗を少なくとも先ずは強く排他している事)

どの宗教の教義も、良く似た傾向がありますが、仏教では、他宗を強く否定することは有りません。
「万教帰一」と説いているくらいですから、少なくとも、仏教のどの宗派もほぼ同じ教義です。
しかし、はっきりとキリスト教は仏教(他教)を否定しています。世界の宗教はキリスト教しか存在し得ないとも云っていますから、ここの排他的なことが明確な違いの一つです。
最近はトーンを落としていると聞きますが、紛争地での世界のキリスト教の布教の行動を観ると変わっていないと思えます。
本来、宗教は少なくとも「人」を救う事を目的として存在しています。これはどの宗教も同じ筈です。
その救う手段(教義)が異なると言うことだけですが、然し、突き詰めれば人を「救う理由」は、どの民族でも「悩み」としては同じである筈です。だから”キリスト教以外には存在しない”は疑問です。

確かに、夫々の宗教は、その「民族の発祥をベース」に成っていることは確かですので、そこで起こる「民族の生活程度」や「遺伝子的な民族の悩み」のそれから来る悩みの大小はあっても、「救う理由」は同じです。
当然、その「理由」に対する「教え」は突き詰めると、同じ程度のものになると考えられます。
しかし、ここが「違いの原点」になるのでしょう。その理由の大小に対して、何処の部分に重点を加えた教義にするかで異なってくる事は否めません。
しかし、否定する理由としては問題です。

現に、キリスト教、ヒンズー教、イスラム教、ユダヤ教、仏教、儒教、等の宗教で、例えば、キリスト教はローマ時代の乱れた民衆の不満をベースになっています。ユダヤ教は「ジプシー民族」をベースに出来ていますし、イスラム教はその定住する位置と多民族の構成でその置かれている立場(アジア民族とヨーロッパ民族の混血族)から生まれたものです。
従って、「戦い」をベースとして居るために、宗教として最も「戦い」を排除しなければならないのに唯一教義として「聖戦」を認めています。
宗教ではどう考えても「聖戦」は疑問です。民衆の手段としては考えられるが。
この様に、夫々の発祥をベースとしています。

しかし、仏教は、インダス文明として多くの宗教が生まれた中で、小さく拡がりながら中国より日本に司馬氏の始祖の仏師の司馬達等が最初に私伝したものであり、古来より居た神道の物部氏と、百済から渡来した仏教の蘇我氏との戦いの結果、国政として仏教を導入したものであります。正式には後の594年の「仏教興隆の詔」(仏、法、僧)であります。

仏教は、日本以外での成り立ちがどうであろうと、日本での伝承は、奈良時代の「天神文化」として一つの国政上の理由から発達したものであります。
つまり、神道と仏教との「融合文化」で仏教は成育したものであります。
これが奈良期の「天神文化」であります。

「天神文化」、つまり、「人の悩み」を基とした教義というよりは、人間としての有るべき姿、即ち、「信義、道義、徳義」を求めて、そこから人としての悩みを排除しようとした教義であります。

「般若心経」は真さにこの「心経(こころのみち)」であります。従って、その目途して、必然的に他教の教義を否定する必要性は考えられないし、人の有るべき姿、即ち、生きる「道」を説いている宗教であります。
布教に際する教義の説法は、他国のビルマやタイの仏教との違う点は、神道と仏教の融合文化(天神文化)の末に生まれた教義でありますから、独自の宗教といえます。
「武士道」もこの融合文化の仏教と神道の融合教義から生まれた「教道」であります。
事程左様に、融合であるが為に他宗を否定するに至りません。
しかし、キリスト教等はその発祥の基が異なることに成りますので、その布教は必然的に他教を肯定する訳には行きません。ここが、教義の前提の大きく違う点に成ります。

次は②番の事、即ち、教えがかなり強引である事。に続きます。

4「キリスト経の教え」

 キリスト教の設問として、①番の続き、②の問題の説明に入ります。

① 他宗を少なくとも先ずは強く排他している事。
② 教えがかなり強引である事。
③ キリスト個人を神扱いにしている事。
④ 兎に角にも、”先ずは信じよ”である事。
⑤ 人は全て悪の子供であると否定する事。
⑥ 中間的考え(柔軟性)は無い事。
⑦ 全体が闘争的な発想に成っている事。
⑧ 特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。
⑨ 先祖に対する考えは全体として希薄である事。
⑩ 「民族的」と言う考えを認めていない事。

②番目の事です。(教えがかなり強引である事)
①の事がある故に、キリスト教は自説を教委するは当然の事でしょう。
「信じよ」を先ずはじめに来て居ます。信じなければ救われないと言う事に成ります。そんな不公平な神は存在しません。神は万民に公平ですから、信じなければ救われないとすると、それは神ではなく普通の人間のする事です。神を前提としている神が、人間と同じレベルであるとすると矛盾しています。
かなり、矛盾をはらんだ強引さを感じます。

仏教では、「信じよ」とは云っていません。般若心経でも、「悟れ」(理解)と説いています。
突き詰めると仏教の教えは「色不異空、空不異色」「色即是空、空即是色」であろうと考えます。
ここから全ての教義の発端が理解され解読出来ます。
つまり、この世はこの一つの教義であり、その「理解」から”人としての「行為と行動」が生まれ、強いては、人としての悩みは解毒するで有ろう”と説いています。

これは、信じなくても、この”理解が成せば成るほどに人としての悩みから救われる”としている訳です。
つまり、誰でも、仏教に帰依しなくても救われると言うことです。
この「理解」が得られた場合に於いて、”人は冷静で、正しい「心根」が得られ、それに依って、人の本来の正しいあるべき「道」が開かれる”と説いています。

これを学問として、仏教から「禅宗」(禅問答)と言う教義が生まれたのですから、「宗教」とするよりは「宗教学」(人生学)とする方が適切ではとも思います。このことからも、つまり、「教えが強引」からは程遠いものと成ります。
ここに、他教との違いが大きくあると考えます。「学問的宗教」とも云えます。
但し、ご利益信仰とは別にします。

日本人の仏教への「信心の姿」は、他教の姿とは違うのはこの点にあり、個々の人の「自由な姿」に委ねているところです。つまり、「色即是空、空即是色」の教えどおり、決められた「信心の姿」を自由にしている所です。イスラム教やキリスト教のように、”信心はこう云う姿ではなくてはならない”とする仏教の教義は何処にも有りません。好む範囲でやればよいという事でしょう。
この様に「教え」に対して、”信じよ、されば救われん。”の拘束としての強引さは有りません。「強引さ」は「色即是空、空即是色」の先ず第一教義の意に合致しません。

この背景は、物部氏と蘇我氏の戦いの後の結末と始末に関わる歴史的処理から来ています。
つまり、先ず、最初は朝廷が主体としていた「神道」を、「仏教」への宗派変えでは、一応は取り入れたものの朝廷の存続をも否定する結果とも成りかねず、過半数以上のそれまでの多くの「神道の民」の不満と反発を招きます。そこで生まれたのが、「神道と仏教」との「融合文化」の天智天皇による「天神文化」であります。(研究室の大化改新の新説への反論を参照)

(仏教導入の直ぐ後の天智天皇は、伊勢に国の守護神として伊勢神宮を建立し、「天神文化」を発展させた事で証明となり、各主要な氏は、氏神を建立し「神道」を誇示し、氏独自の先祖を祭る菩提寺をも建立して「仏道」とし2つの融合を図った事も証明)

つまり、宗教の「神」と民の間には、「仏」とするものを存在させて融合を計ったのです。そして、その「仏」は先祖であるとして身近な宗教としたのです。
これが「天神文化」です。この「天神文化」は現在までに引き継がれているのです。

この「天神文化の融合」が「仏教の教義」を緩やかにして、上記の[強引さ」を排除した所以でありますし、「仏教学的扱い」と成った所以もここから来ています。
又、他国の仏教国の教義とは違う点でもあります。

要は、「信じようが、信じなくても」、その「理解」の「行為と行動」の中で、「人としての道」(冷静で正しい)が生まれれば、「万民は救われる」と説いているのです。
そして、それは、”自ずと、「神」「仏」に自然に導かれる”としているのです。
さすれば、”死する時は、「4つのみ」から発生する煩悩を脱却した「仏」として、他次元で存在する”と説いているのです。仏教では基本的に故に強引さは有りません。

次は③番の事に続きます。


4「キリスト経の教え」

キリスト教の設問として、②番の続き、③と④の問題の説明に入ります。

① 他宗を少なくとも先ずは強く排他している事。
② 教えがかなり強引である事。
③ キリスト個人を神扱いにしている事。
④ 兎に角にも、”先ずは信じよ”である事。
⑤ 人は全て悪の子供であると否定する事。
⑥ 中間的考え(柔軟性)は無い事。
⑦ 全体が闘争的な発想に成っている事。
⑧ 特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。
⑨ 先祖に対する考えは全体として希薄である事。
⑩ 「民族的」と言う考えを認めていない事。


③番目の事です。(キリスト個人を神扱いにしている事)
キリストと云う現存した個人を崇拝する宗教は、ある意味で、創り上げた教義であります。その教義の良し悪しの如何を論議しているのでは無く、それはそれで宗教とするは、信じる人が納得できるのであれば、特に問題ではありません。
現存した個人を万能の神扱いにすると言う事は、仏教国の民としては何か納得出来ません。

キリスト教の教義を以って、それを人格形成の絆とするは、特に問題ではなく、この事は仏教でも同じであります。
キリスト教徒に言わせれば、この反論として、生きていた者が死んで、生きている民を導く「仏」となる事に対して疑問を感じるとの反論意見もあります。
結局は、死んだ後のキリストと同じではないかと言う論理です。
確かに、その通りですが、日本の仏教では、更に、その上に万能の「神」が存在し、「仏」はこの「神の裏打ち」を受けている論理に成っていますので、違うと云う事に成る訳です。
そして、「神」は「仏」が精進する事で神と成り得るとする教義です。
「仏」とは、”死して民から全ての煩悩を取り除けた時に成り得るものである”とする論理設定です。
仏教では多くの神が存在し、「武勇の神」とする「神」は、その元は現存した人物を元と成っているのもこのことから来ています。
仏教では、この様に、現存した人物の「仏」が「神」となったものには、民の全ての生活職種に対して「神」が存在し、その中でも万能の全種の神が存在するとしています。
(例えば、渡来人の阿多倍子孫の大蔵種材という武勇に優れて人物が居ましたが、この「武勇の神」の「真利四天王」等の様に成った。)

キリスト教でも、釈迦の弟子が神と成っている様に、キリストの弟子が神扱いとしているのも現実ですが、日本の仏教の様に、全ての種の神が存在する事はありません。
又、キリスト教の祖師のキリストと同じ位置にある、仏教の祖師のお釈迦様を直接拝する行為は日本の仏教徒では少ないでしょう(日本では一部にはあるが直接ではない。アジアの他国の仏教では直接崇拝がある)。
ここが「天神文化」から来る差で、違う所だと思います。

つまり、お釈迦様を特別のものとして扱い特別崇拝するは、「神道」の神との融合から、「神道」の神を引き下げてしまう結果が起こり、且つ、避ける結果とも成ってしまう事にもなり、日本では出来ない設定となります。
況や、「一軍の将、ニ将合い立たず」「一国の神、二神合い立たず」で有ります。
日本の仏教には経緯として2つあるとされている。この2つの仏教(顕密仏教と鎌倉新仏教)には、この個人を神扱いする崇拝の傾向が少なくなったのです。
故に、キリスト教に対しては、万能とする個人の「個人崇拝」的イメージを我々は持つのだと思いますし、「万能」とするところにキリスト教には疑問が残るのでしょう。
しかし、これは、キリスト教徒がそれで納得すれば当り前と成り、故に問題は無く、仏教徒にしてみれば疑問点と成るのだけと考えます。
「個人崇拝」は「人、時、場所」の三相にて正否の如何は異なりますので、世界的に観て、「個人崇拝」の起こり難い土壌の所謂「天神文化」を持つほどに、「融合民族」の「融合文化」を持つ日本人の方がおかしいのかもしれません。
但し、融合は進化を及ぼしますから、この「おかしさ」は愚劣のものではなく、優秀の「おかしさ」と考えます。
故に、日本仏教は禅宗などの「仏教学」が生まれたものであると観ます。

④番目のことです。(兎に角にも、”先ずは信じよ”である事)
②でも述べていますが、この言葉の前提には、「個人の考え」を先ず排除して、教義を信じさせる事から始まっています。これは受け取り方では”信用していない”と言う事に成ります。
仏教では、個人の考え方の差違は問いません。
その考え方の中で、「悟りなさい」としていて、その「悟り」の障害は「拘り」であるとしています。
そして、”今の自分を是として、あるが侭に、受け入れなさい”としています。
人は、”今の自分を是”とする仏教と、”悪の子供”とするキリスト教の「教義」とは、全く反対ですし、”「信じよ」”と”「悟りなさい」(理解)”では大きく違います。

ただ、もう一つ疑問になる点があります。
アメリカを始めとするキリスト教徒は、主に自由の国にあります。自由な考えの中での宗教では、その個人の考え方を認めたうえで、教義が起こる筈です。
しかし、”先ず信じよ、信ずれば救われる”とするは、個人の考えの前提になっていないのではないかという事です。
これでは、仏教では”今の自分を是”とする”としていますが、この様に、仏教の個人の現在の考え方を是としたところから始まる導きの方が、アメリカのキリスト教的では無いかと思えるのです。何か逆であると感じます。

仮に、アメリカとすると、他民族の集合体であり、必然的に自由な考え方を認めなければならず、結果、あり過ぎる事から、否定で入らないと教義の伝播は困難である事から来ているのであるのでしょうか。
収拾が取れないので、”全てを捨てて”としている事はこのことを物語っている証拠となり得るだろうとは思います。
この逆に、同じ他民族の集合体では有るけれど(日本は7民族の融合単一民族で有るので)、融合という優れた手段で考え方が殆ど統一されている故に、その考え方に左程に差違はないとして、「是」としている事と成ろうと思うのです。
この理屈が適切とすると、大きな問題が出て来ます。

それは、アメリカでは、”全てを捨てて”は適切な事として納得できるが、この理屈を変化させずに、直接、単一民族の考え方の少ない「是」する日本人に、キリスト教のこの”全てを捨てて”の手段(教義)は、間違っている事に成るのでは無いだろうかと思います。

私を含む多くの日本人に、安土桃山時代からこれ程キリスト教が伝導した歴史がありながら、その比率が少ないのは、上記の疑問のこの点が大きく影響していると考えられます。

この設問の提起された方の疑問の 「”全てを捨てて”」は、私も含めて、個々に問題があると思うのです。

そして、キリスト教にはもう一つ矛盾があるのです。
それは、”全てを捨てて”とありますが、全てを捨てられれば、既に”何も宗教は要らないのではないか”と言う事です。
捨てられないから、宗教に頼るのではあれませんか。又、”全てを”とありますが、全てどころの話では無く、一つさえも捨てること自体が出来ないから、宗教に頼るのではありませんか。

仏教では、ここは”ありのままでよい”と説いています。
そして、”それが人間なんだ”と説いています。
捨てられればそれは、人間ではなくなるではありませんか。理屈では有りません。
つまり、人間の性(さが)なんです。人間の性(さが)を全て捨てられれば、それは、仏教では「仏」です。生きている人間が「仏」になる事はおかしいのではありませんか。
仏教では、”ありのまま”即ち、「拘るな」と説いています。
「悟れ」即ち、「理解せよ」としています。
これなら、”捨てる”という「行為や行動」より、人間として成し得るものです。そして、それは更に可能な「心の道」として、”冷静に正しい心根”と説いています。これならば、この程度の事を成し得ないとするは、それは人間ではなく、獣と変わりません。
よって、その努力は可能です。そして、”1度にではなく、日々積み重ねよ”としています。
更に、続けて、”その行為は五感を通して”としています。
つまり、”聞く(耳)、観る(目)、嗅ぐ(鼻)、触る(皮膚)、味わう(舌)で日々精進せよ”としています。

ここで、問題に成るのは、”「拘り」を少なくする事が出来るのか”という事です。
そこで、”出来る”という論所を脳医学的に説きます。
このことを知る事で仏教の上記した証明の例と成りますので特記します。

医学的「否拘り」の可能性の証明
人間の「感情」の主体は、「前頭葉」(側頭葉含む)と言う所で管理されています。
この「前頭葉」の動作反応は次の様なメカニズムで働きます。

人の脳は、頭の中心(渦)の所に「脳幹」と言う部分があります。
この部分は電極の役目をしています。
地球がマイナスの電極体ですので、人間はプラスの電位が掛かり、ほぼその身長に等しい値と成ります。
この電位をもって脳の中を小電流が流れます。
この電流は脳神経を通じて流れ、脳神経と脳神経の継目には、キャリパーと言うNaアルカリイオンが継目に流れます。
このキャリパーが流れている間だけ電流が流れて目的の脳の部分に流れて行きます。
この場合に、「前頭葉」に繋がります。
この部分は「感情」を司るところですので、この「感情」はこの「キャリパー(Na)」の液体が流れている間は、この「感情」が維持されます。

例えば、最も顕著な感情として、女性の「母性本能」です。
全ての女性が例外なく、子供が生まれたと当時にこの感情が出て長く続きます。これはこの電流が前頭葉に繋がったままで流れている事に成ります。
これは無意識のうちです。
では、そこで、この物事に対する「拘り」の心は、この「前頭葉」のこの部分に脳神経の継目が繋がった状態を意味します。
つまり、このキャリパーが流れているのです。
大体は普通は0.2秒間程度ですが、特に女性はこの時間が長く持ち続ける傾向があります。
だから、物事が感情的に捉えてなかなか外れないと言う現象が起こりやすいのです。

ところが、男性は、その性の目的から、この部分の繋がっている時間は短く出来ています。又、意識的に切ることさえ出来る様になっています。原始の時代に生活の糧を得る為に生存競争の中に飛び込み戦い殺戮の中で勝てを得る必要があります。従って、殺戮のこの感情を押さえて敵と生死を賭けて戦わなくては成らない為に、脳はこの感情を押さえる能力を保持しています。それで、この電気信号の継電部をきりキャリパーを止めることが出来る様に成っているのです。
この場面に備える為に武士は「武士道」を創り上げて「静かなる心根」を保てるように訓練するのです。

例えば、その切る事の感情は、側頭葉のところで感情の管理を行っていますが、この側頭葉への信号を自発的に切れる様にして管理されているのです。
戦場では相対して殺戮します。もし、女性の様に、感情を維持し続けると、この事はパニックと成って思考が停止して出来ません。しかし、男性は戦場とする場では、正統な行動して思考を固め、側頭葉の感情を押さえることが出来る仕組みに成っています。思考が停止しパニックには成り難いのです。

この様に[拘り」即ち、脳医学の「キャリパー保持」は訓練でコントロール出来る事を証明できます。
「拘り」と言う点では、当然に、この理屈から女性の方が強く成りますし、「感情」を主体とした深層思考原理(無意識の脳の中での思考する原理)ですので、長く続く事に成ります。
つまり、女性は本能的に「拘り」が強いと言う事に成ります。

兎も角も、男女は別として、この「拘りの感情」を短くする事、又は、外す事には、この液体のキャリパーの流れを止めればよいわけです。

では、どうして止めるかです。
それは、その「環境」から先ず外に出る事、つまり、その「感情」を持ち得ている「環境」を変える事に成ります。
簡単な事は、「環境」を変えることで直ぐに変わりキャリパーは止まります。そうすれば電流は切れますので「感情」は停止します。
ひどく「拘り」が強くなった脳が「うつ状態」の現象ですが、この治療は静かな都会を離れた環境が良いとするはこの理由からです。ただ、この時、上記の五感の一つでは効果は少ない事に成ります。
仏教が言う「拘り」とすれば、静かにして正しくする時間を長くする事で次第に流れは変化して停止します。
これが一つの方法として、周囲の「環境」を整えて「念仏」を唱え「一心無我」になる、又は、上記の「五感」を通して冷静になる事です。僧が行う座禅はこの事によります。(医学的に最も効果的手段)
大きい「拘り」はこの訓練を続けることで、「停止」し、「拘り」の「感情」を外す事が出来るのです。
つまり、この理解で大きく「静かなる心根」を得られれば、必然的に医学的に[脳機能」の通電は止まり、「拘りの心」は無くなるのです。

だから、この脳医学の原理と同じく、仏教では、上記した「冷静に正しく理解する姿勢」(悟り)と解いているのです。
そして、その”「今の侭の自分を是」として、「理解」し、「次第」に、この「理解」を深めて行け”としているのです。

明らかに1000年昔の仏教の教えは、現代の脳医学の対処法と完全合致しています。

これは、明らかに、仏教を信じようが、又、信じなくても、万人が成し得ることに成ります。

ただ、仏教は、最適のこの場(環境)の提供をしていて「助け」と成っているだけなのです。
重ねて、当然、このことの「拘り」を無くする修行を成した経験者、即ち伝道者、修験者や先達人(僧侶)がそこには居る事にも成り助けとも成ります。これが本来の仏教の導く姿です。
キリスト教の”信じよ”と較べても明らかに間接的です。

これが、脳医学から見た仏教であります。矛盾はありません。

近代医学では、この様な宗教の本質の所を解明されつつあるのです。
だから、宗教もこの時代の進歩、つまり、「科学的進歩での付加価値の増加」を加味して、教義を修正しなくては、現代との間に”ずれ”が出るのです。

現代病の「うつ」は、この「科学的進歩での付加価値の増加」に起因する「拘り」の結果から来る病気ですが、この処方箋は、上記の脳医学のメカと対処法の所以と成ります。

この様に、医学的で「拘り」を捨てることを証明出来るのです。

実は、私は、この様な事から、現代の「付加価値の進歩拡大」の為に、「五感」に加えて、ここに「考える(頭)」を追加したいのです。

これが、仏教の「心経」、即ち、(頭「考える」は)「こころの道」であると説いています。

この「五感」(考える追加)を正しくし、敏感にして冷静にすれば、「悟れる」とし、”自ずと理解できる方向にと近づく”としています。
これであれば、仏教の、誰でもが、宗教に帰依する有無に関わらず、「救われる」とする事は、理解し納得できます。
「信じる者」だけではないのです。これが「万能の神」が成す所以ですから。

例えば、都会から離れて、自然に親しみ、生活する事でも、より「悟り」に近づいている事の実感を得ます。
私も、この様なキリスト教の矛盾と、この点の疑問も大きく伸し上がって来て”合わない”との結論を出したのです。

次は⑤番の事に続きます。


4「キリスト経の教え」

キリスト教の設問として、④番の続き、⑤の問題の説明に入ります。

① 他宗を少なくとも先ずは強く排他している事。
② 教えがかなり強引である事。
③ キリスト個人を神扱いにしている事。
④ 兎に角にも、”先ずは信じよ”である事。
⑤ 人は全て悪の子供であると否定する事。
⑥ 中間的考え(柔軟性)は無い事。
⑦ 全体が闘争的な発想に成っている事。
⑧ 特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。
⑨ 先祖に対する考えは全体として希薄である事。
⑩ 「民族的」と言う考えを認めていない事。


⑤番目の事です。人は全て「悪の子供」であると否定する事

先ずは、上記の④の脳医学の証明でも、人は「悪の子」ではない事はわかります。
ただ、その「悩み」(拘り)はキャリパーの流れが続いていることから、悩み(拘り)が起こっているに過ぎないのです。
切れば、「悩み」(拘り)から脱出できるのです。「善の子」であるかは別として、「悪の子」等では到底有りません。
仮に、「悪の子」としても、切れば、「悪の子」から脱する事が出来るという事は、生まれながらに、本質は「悪の子」でないことを意味します。
その前に、このことを注釈しておきたいと思います。それで次の事もお考え下さい。

「悪の子供」であるとする教義から、”この悪を全て捨てよ”として”「悪」の無い人として出直せ”と成るのであろう事は想像出来ます。
このことは④番目の事にも繋がる事に成るのでありますが、本当に「悪」なのであろうか。実に疑問と思うのです。
と言うのも、子供が生まれた時のことを考えても、子供そのものは「悪」は持っていないでは有りませんか。
子供は持っているのですか。子供の心にどのような悪を持ち得ているのでしょうか。人は、子供の心に「悪」を持ち得ていないから、子供は可愛いと思うのではありませんか。
可愛いという「心根」の本質は、「善」の全ての姿であるが故の発露ではありませんか。
そして、又、持ち得ていないから、「善」成るが故に、子供を産もうとするのではありませんか。「悪」を産もうとしているのでしょうか。
「産む」という「行為と行動」は真さに、人として、人生の最高の「善」ではありませんか。

まして、人の生誕のその「行為と行動」は、1/250兆の確率で「善」を作り出そうとしているのですよ。
1/250兆のすごい確率の「善」です。これだけの確率で生まれてくる人なのです。悪である筈が有りません。
悪と考える方が異常というべき「ひねくれ思考」です。

人生の「喜怒哀楽」以上の「善」の「最大の善」です。これに勝るもの無しです。
「最大の善」から「悪の子」が生まれると言うのですか。どう言う根拠で「悪の子」と成ってしまうのですか。
この人の世は、「善」から「善」が生まれるのです。生まれながらに「悪」であるならば先天的ですから「悪」から「善」に変わる事はありません。
だから人生の中での一過性の「悪」を「善」にするとキリスト教は言っているのであれば理解は出来ます。
基が悪から何にしようとしているのですか。
仮に、「善」に変わったとして、千差万別の「善」が出来てしまうのでは有りませんか。
キリスト教の宗教を信じない人は信じる人より多いはずです。そうすると世の中、悪ばかりですね。少し独善的ではありませんか。
もし、人がキリスト教国外に出ると、「善の国」に戻り、中に居ると「悪の子」ばかりですから「悪の国」に成るのですか。
これは、「善」即ち「是」である事を認めている証拠です。

子供と人は「悪」で有るとすると、もし、、「悪」であれば、究極、その世は殺し合いの末路となり結果は絶滅となり、存在する事は不可能ですね。そうでは無いとするならば、何処までを「悪」とするのですか。そんな「悪」の限界を決められるのですか。
だから、キリスト教は”この世は何年後かに滅亡する”と予言しているのですかね。確かに予言していましたですよね。(Y2006でしたか、起こりませんでした。)
しかし、人は益々と増え存在しているのですから、滅亡しないで存在しているのだから、その後の大人の人生では「善」の人も居るとなりますよね。その人々は宗教を信じる事なしに「変化」したという事になりますよね。
そうすると、宗教を信じる事や頼らなくても、先天性の潜在的な「悪」が変化して、後天性の「善」に「悪」は変化したという事に理屈は成りますね。
先天性は変化するのですか。しないから先天性であるのでしょう。
もし、そうだとすると、つまり、突き詰めると、”宗教は要らない”となりませんか。

では、更に、キリスト教を信じていない人々の方が多い世界の世の中で、救われない「悪」の人の方が多く成ってしまいますよね。そんな「悪」の世の中は成り立ちますか。無理ですよね。自分も含めて周囲が全て悪魔とは到底考えられません。
しかし、全て尽く人は「悪」を持つのですか。そんなことは無いでしょう。
もし、生まれた時から「悪」を持って生まれたとしたら、その子孫を遺そうとする行為と行動は「悪」という事になるではありませんか。子孫を残す「行為と行動」は「悪」と言う事に成りますね。
つまり、「悪」の定義は、人そのものを「否定」していることに等しいのではありませんか。

この矛盾を繰り返していても仕方が有りませんから、そこで、「動物学」か何かで、証明しましょう。

では、他の動物はどうなのでしょうか。人間は最終に偶然に知恵を持った事により、より他の動物との差違が生まれたに過ぎません。
動物は動物で特別に変わった所はありません。人は高い知恵を取り除けば他の動物と変わりません。
変わる所はありますか。だとすると、他の動物も悪の動物なのでしょうか。
他の動物だけは違うとする根拠がありますか。有りませんよね。

猿の進化から、人はチンパンジーからボノボに変化して類人猿となっただけですよね。その知恵の存在となった直立人の差だけですね。

学問的に検証してみますと、猿とチンパンジーとボノボと人間が、人間が住むような同じ環境の部屋に入れて共同生活させた実験結果がアメリカでありました。
その結果として、ボノボだけは不満をあらわにしたとする結果が出ています。
それは、チンパンジーと自分ボノボとは、猿類としての身分、又は、優越感が違う事に対して、同じところに扱ったとして怒り不満を持ったと言うものです。
人間が持つ猿に対する感情と同じものを持っていたのです。
そして、自分ボノボは、”何故、人間と言う優れた猿に成らなかったのか悲しくて寂しく残念である”という感情を表現したと記録されています。
この様に、ボノボの感情を示す様に、猿類からも人間を同じ(なかま)サル類として観ていたのです。
故に、人間は猿の一つなのです。つまり、動物なのです。キリスト教が言うように、特別なものではないのです。科学的な付加価値のある高い知恵を持ったただの猿なのです。実験結果の様に持っている基本的な感情は全く同じなのです。

この様に、学問的には、チンパンジーやボノボの研究で、彼らもほぼ人類と同じ程度の感情と科学的な進歩の知恵を除く、基本的な知恵を持っている事も証明されていますから、彼ら動物も「悪の子」なのでしょうかね。
でも、「悪」とするとしても、子孫を遺すという動物の本来のこの世の目的として「善の行為と行動」をしていますよね。
何処から考えても「悪の子」であるとする根拠は出てきません。有るとしても余りにも無さ過ぎるのでは有りませんか。有ったとしても少なくてこれでは「悪」とする根拠は希薄となりますね。

私は、この矛盾は、次ぎの4つの理由から出ていると考えます。

その宗教の出所①と、祖師の過去の位置付け②と、時代の変化に対する教義の修正の不足③と、民族の土地柄の修正が出来ていない結果④から、教義に対してこの矛盾が起こっているのだと考えます。

では何故に、修正を加えないのでしょうか。
それは、キリスト教の排他性から来ている事に成ります。
その排他性の根拠は、キリスト教の出所地域の先進性から来ているもので、上記したボノボの「優越感」に相当しているからでしょう。
しかし、最近、その優越感が揺らいでいるのです。

その一つには、日本人がその優越感を変えさせたのです。
経済成長に伴い日本の仏教文化の優越性と、その国民の先進性がキリスト教国をはるかに凌ぐ結果を彼らは確認した事によります。”アジアの野蛮国が先ず有り得ないこと”と観て居た筈です。そう云う発言も公式に戦前にはありましたよね。

第2次大戦の発端は、この有り得ないことが起こりつつある事から、アジアの野蛮国に圧力が掛かり、その圧力に対抗した結果の所以でしたですね。この傾向の最初は大国ロシアに勝った日露戦争の勝利が彼らに衝撃を与えたのです。
その大きな勝利は突き詰めると、3つの要素が浮かびます。秋山兄弟の頭脳働きと、軍艦の大砲の改良と、火薬弾の開発でした。
これを観た英国とフランスと米国とロシアの白色国は日本の底力を恐れ始めたのです。
(7つの融合単一民族なのです。遺伝学的に動物は融合すると進化して優秀な人間を作ります。アジアの中で日本人は異質の融合民族で違うのです。)
そして、大戦より50年以上経ったところで、戦後の占領下15年頃の発言に対して、今の発言は、同等の発言となっています。
私は、まだ若い頃、技術者としてヨーロッパ系の技術者との会話したことが幾度もありましたが、軽蔑とまではいかなくても、見下げた言葉尻で、”又か。”という経験が何度もありました。
技術的には、日本の冶金学は世界一段突であるのだが。

そして、どの宗教も、その矛盾を大きく社会に露出している時代なのだと考えています。
特に、キリスト教での争いが目立ちます。

ただ、仏教では、上記した様に、1000年もその教義に矛盾がありません。
特に、日本仏教では、”その矛盾の事が余り起こっていない”という事でも同等間を持ったのでしょう。
だから、仏教と他宗教との間の差違の矛盾が露見しているのだと考えています。特にキリスト教との差違が目立っているのだと考えます。
その理由の一つは、上記の優越感のあらわな表現もあり、世界に対して、余りにもキリスト教は嫌われて問題を起しているという事です。
特に、中東の社会に於いてです。それはこのキリスト教の教義の強引さから来ているものと推測しています。

では、何故に日本仏教は、その差違が出ないのかと言う点です。
それは次の点になると考えます。
先ずは、①「色不異空、空不異色」、「色即是空、空即是色」の教義の考え方です。
次は②「天神文化の融合」です。
更に、③日本民族の゜単一融合民族」の特質です。
最後に、④その教義を「宗教学」としての学問の発展です。
つまり、④は”信じよ”では無く、「悟れ」(理解)、「拘り」を第一の教義にしている事です。

この結果、次の設問の事にも関わることですが、「時代性」という点で、キリスト教の「悪の子」を始めとする時代性の矛盾と較べて、仏教は時代との教義のそのズレが無く仕上がっていると考えています。
それの仕上がりは、「人間の本質」を、「有るがままに見つめた教義」としている事だと考えています。
つまり、「人間の本質」が時代(時、人、場所)に対して特別に大きく変化しない限りは、その教義は生きている事に成ります。
(この科学の世が発展し別質の「宇宙人間」なる者が誕生しない限り、本質は変わらないから本質である)

余談ですが、奈良期から平安末期までの「顕密仏教」を経て、この「融合教義」を作った日本仏教の比叡山天台宗と、それを大きく広めた次の「鎌倉新仏教」の法然の浄土宗が優秀であったことを意味します。
そして、その時代をリードした為政者の天智、天武の両天皇の荒波を乗り越えた「大化改新」の政治統治の基盤を成した偉大さが如何に大きかったかを物語っています。

その時の「天神文化」の融合の判断も適時適切を突いていて、現代までも大きく矛盾なく持ちこたえて来たのも偉大という以外にありません。多分、天神文化の融合政策がなければ、日本仏教は安土期から江戸期に掛けてキリスト教に取って代わられていた事は間違い有りません。アジアの諸国の現状がその証拠です。
そして、1650年程度と続いた現在の日本文化は、上記した考え方の違いで、異教に破壊されて無く成っていた事をも意味します。
私は更に、多分、文化どころでは無く、当然に異教の思考原理の浸透で、日本人に肌身に合わないし適合しない事から政治情勢も混乱し続けていたと思っています。

この様に、日本の融合を基盤とする仏教文化は「すごい文化」であったかと考えます。この様な文化はこれ以後出ていません。
その「教義」は、大した矛盾もなく日本人の民族の遺伝子と生活環境と成って引き継がれて来ているのです。
その、最も優れた思考は、「仏=先祖」の思考であったと評価しているのです。

私は、この「仏=先祖」の数式が維持され、「歴史感覚」が保全保持されれば、日本の国体は安泰であると信じています。
しかし、現在、経済発展に伴い合理思考が伸び、アメリカナイズされて、この「歴史感覚」が希薄に成っていると危惧しています。
故に、全国の人、兎も角も、青木氏に対して、先祖の如何を述べています。

しかし、何はともあれ、現在に於いてまでは、何をか況や、これは真さに、日本仏教の起源を成した「大化改新」であり、上記した基盤がそれを成し遂げたもので、施基皇子を中心とする「皇親政治」を実行した第6位皇子の子孫の5家5流の「青木氏一族」が、奈良期の「基盤政治」をリードし、7つの民族の「融合政策」を牽引して、「優秀な民族」を創造し、「天神文化」を築いた我が「先祖」の成せる技であります。
これは、前説のわが先祖の「行為と行動の逆進性」の「流」の条件が整っていたことを意味します。

次は⑥番の事に続きます。
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