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先祖と宗教(行為と行動の逆進性)

設問
1「呪いの意」 (般若経の一説:仏教は何故呪うのか)
2「時間の逆行性」 (時間は逆行しないのだから仏教の仏=先祖は疑問)
3「行為と行動の逆進性」 (先祖が成した行為と行動は逆行しないのだから「仏」は疑問)
4「キリスト経の教え」 (仏はキリスト教の教えと異なる)
5「仏教とキリスト経の妥協の余地」 (根本的な違いの考察)

(前回は第2の設問でした)

以上に付いてシリーズで私観を述べたいと思います。

長い論文になりましたので、ゆっくりとお読みください。
尚、人生観と宗教論ですので、硬い話と成りますが、ご興味のある方の論文と成ります。
出来る限り科学的な論所を以って論じていますので、全てが抽象論とは異なります。
解りやすくするために数式論を採用しています。
青木氏を研究する中で、”先祖とは何ぞ”の疑問を解く過程での得た私観です。

では、次をお読みください。

今度の第3の設問は「行為と行動の逆進性」(先祖が成した行為と行動は逆行しないのだから「仏」=先祖は疑問)です。

設問の理由説明
第3の設問のこの[行為と行動と逆進性」、つまり、”先祖が成した「行為と行動の結果」(実績)が変化しない(その影響力は無くなる)。又、時間に対しても逆行しない、又は、変化しない。だから、「先祖」が彼世で「仏」に成って、その「行為と行動の結果」を続けて持ち込んで、その影響力を以って子孫を導くという「力」のその基に成るものは無い筈だ。故に、仏教で説く、「先祖」が「仏」になって子孫を導くと言う事はあり得ない”と言う事に付いてですが、私は次の様に考えています。

結論からしますと、”行為と行動は逆進する”と結論付けたいのです。

但し、この事は、”現世に於いてのみは通常はない。”であります。しかし、他次元的な関連として思考するなら、つまり、宗教的な思考原理からすると、”逆進する”。であります。
そして、この現象は、”現世に於いてある条件下で存在する。”であります。
矛盾している様ですが、実はその立証は困難であるからであります。

恐らく、多くの方はこの現象に一度は必ず出くわしていると思います。そして、それが不思議な事として頭の記憶の中にしまっている事だと思います。

「行為と行動」の現象(流)
その不思議な事を引き起こす「行為と行動」の現象とは、(その逆進性とは、)私は「流」(ながれ)という摩訶不思議な現象だと思うのです。
皆さんは、この「ながれ」「流」と言うものを経験していると思います。特に人生経験を深くして歳をとられた方なら承知していると思います。そして、その受け入れの心得なるものを会得されているのではないでしょうか。
つまり、”この様な「流」の時は、この様にするのだ”と、特に、「古からの言い伝えの教え」では”静かにしているのだ”が一般的ではないかと思います。然しこの「戒め」も今では全く聞かれません。

正しく真剣に「行為や行動」をしても、その「結果」がどうしても「行為や行動」に一致する事の答えに至らない。
すればするほどに、”何か見えない大きなものに流されていて、決められた方向に逆進する。”
そして、”結果は本来あるべきものとして得られないで、何時か、何処か、誰かで決められた方向にたどり着いてしまう。”という現象を経験していると思います。
六十数年の間に私にもこの体験を何度かありました。そして、その体験中はその「ねらいの意識」対して違う答えが頭の隅の方でなんとなく見えているという何れも不思議な経験でした。

「行為と行動」の現象(流)力<「静かなる心根」=悟り(理解)=(1と2の設問の理) (A)

この「流」の強さの力(押し流される力)は、1と2の設問でも記述した「静かなる心根」即ち、「悟り」(理解)を獲得すれば、”その「流」の力に勝り、「ねらいの意識」に対して、その差を理解させて、「神仏」が導く方向の意が見えてくる。”という事であります。

「流」の現象の正体
では、これは一体何なのでしょうか。
私は、これが、「他次元との連携による力が働いての結果」と観ています。
普通は、意識しないでいれば”何の事”と成るでしょう。
しかし、その”何の事”の生きる姿勢ではなく、世の成り立ちを正しく理解すると言う意識が現世に生きている人に生まれれば、見えてくる現象であると云う事です。
つまり、自分の「行為と行動」とは違う「ながれ(流)」の方向になる「他次元性の力」が、この「逆進」の現象を意味し、その「違う結果」の「最終の形」が、「相反する形」になる事から、現世に現れる「逆進の形」であると考えられます。この「逆進の形」が運命的で、神仏がその様に仕向けたとしか考えられない結果になる現象です。
本来、どんなに手を尽くしても「他次元性の力」の力が働き「1+1]=2と成らないこの現象です。

「ながれ(流)」=「逆進の形」 (B)

「数理的不思議」
例えば、論理的数理的であるのに、「1*1」=1と成る様に。「1」は有量です。然りながら、「1」と言う量を持つのに、しかし、結果は基の[1]なのです。この有量の二つのものを掛け合わせれば本来の意識では増量と成る筈です。「2*2」=4の有量のものを掛け合わせれば増量する様に。(数と量の数学定義を無視して観ると)つまり、「1」の次元上で起こる1次元と1次元の積では2次元と成らない何か間尺に合わない現象です。

ここには「固定意識」(固定観念)という「1次元的感覚」が存在する所以から起こる現象で、人間の「錯誤意識」がこの数式を理解できない「破目」に追い込んでいるからです。そのために数学では、この錯誤を防ぐ為に「但し書き」を「定義」として「前置き」をします。

「固定意識」(固定観念)=「錯誤意識」=「1次元的感覚」 (C)

「前置き」の消失
私は、人間は、この「前置き」に付いて、約千年程度の歴史の中で、漸次失われて来た「意識」であると考えています。
即ち、それは「他次元性」又は「現世と彼世」、突き詰めると「彼世の先祖」としての「但し書き」の「前置き意識」ではないかと考えているのです。
この「前置き意識」が無いが為に、「流」に流されていると錯誤しているのだと考えています。
本来は「現世と彼世」が有って、初めて「人の世界」なのだと考えています。
古の「先祖」はまだ「この意識」が多く持っていたのではないかと考えています。
「人の世界」とは、現在では「現世」(+)だけとされている気がします。
故に、+の片方から観た結果の判断と成ってしまっているのだと思うのです。そして、「違う結果」と認識してしまっているけれど、しかし、(+)と(-)の世界から見た結果の判断が本当は正しいのだと思うのです。
ある問題が起こったとします。その時、裁定者は両方の意見を聞き正しい結論の裁定を下す様に導きます。
ところが、「流」のこの他次元性に及ぶ問題が起こると、前置きの消失意識と固定観念がある為に、それを裁定する自分には一次元的感覚の錯誤意識が起こり、「違う結果」と受け取ってしまうのだと考えます。
それは(-)の意識がある事で「当然の結果」と受け取れるのだと思うのです。
故に、「当然の結果」と受け取れるには、「静かなる心根」(設問1と2)にて(-)の消失した意識を取り戻す事が出来るのだと成ります。
だから、「昔からの戒め」として”静かにしているのだ”と成ったのだと考えます。

「行為と行動」+「前置き意識」(消失意識)=「人の世界」=「現世と彼世」 (D)
「違う結果」+「静かなる心根」=「当然の結果」 (E)
「違う結果」-「錯誤意識」=「当然の結果」 (F)

「迷信と混同」
その証拠に私の小さい頃には、この事(現世と彼世との意識)に関わる「行動と行為」は、未だ周囲の年寄りや自分の行動に付いて日常の生活の中に沢山あり、何の疑問も感じないで受け入れていた記憶がまだ有ったと認識しているのです。
ところが、時代と共に付加価値が増えて必然的にその必要性の無さから消えうせて行ったのではないでしょうか。
そして、今や「迷信」と言うものの中に、この意識が取り残されて現在では殆どなく成っている感じがします。
むしろ、真偽は別として、「他次元性の戒め」としての「迷信」と言う言葉さえも聞かなくなり無く成ってしまった感じがします。若い者に「迷信」と言うと”それ何”と言われる始末です。
概して言うと、この「消失した意識」とは「迷信」であった筈です。
この「他次元性の意識」([消失した意識」)として余りに生活や宗教会の中で多く存在させた為に、中には不適当なものも入ってしまった結果、「迷信」とレッテルを貼られてしまったのではないでしょうか。

まだ、山里の田舎に行くと、この「迷信」を他次元性の意識として生活の中で生かしている筈です。
例えば、烏が執拗に鳴くと「不吉」なことが起こるとか、黄色の夕焼けが起こると「自然災害」が起こるとか。夜につめを切ると人が死ぬとか、この様に生活に密着した人の行為と行動に警告(戒め)を他次元性を絡めて発している「迷信」なるものがあります。
先祖が遺した他次元と繋げた「諺」(ことわざ)や「口伝」等の一部もこの「消失意識」ではないでしょうか。
これも「迷信」と共に核家族化で消えてしまったのでしょう。その意味で「先祖」の遺した無形遺産は大きいと認識しているのです。
自分の人生に於いて、より「当然の結果」として理解できる様に「先祖を知る事」をテーマに長年努力を積み重ね試みた一つでもあります
兎も角も、その過程で、私はこの「消失した意識」が「拘った固定観念」を生み出し、強くして、結果として社会の乱れを生み出し、人の思考を歪ませて、根底から(+)の現世からのみの視観となってしまっていると考えたのです。
つまり、「唯物論」が強くなったという事になると思います。

(現世と彼世との意識)=「迷信(混同)」=「他次元性の戒め」=「昔からの戒め」 (G)

「相対の原理」(現世と彼世)
もし、「相対の原理」がこの意識問題に適用されて真理とすると、「現世」を「+の世界」で、「彼世」は「-の世界」として考える事が出来る姿が、人本来の基本思考である筈です。この世のものが全てこの「相対の原理」で成り立っていると言う事実から考えると、この思考が時代と共に消滅した代表的な思考ではと考えます。
つまり、「思考に偏りが出来た人々」の我々が「-の世界」に関わる事が起こると、これを摩訶不思議と観てしまっているのではないでしょうか。
そして、そこに他次元性の意識消失の結果に依って生まれた「拘りの意識」が多すぎると、それが余計に「摩訶不思議」となり「違う結果」と観てしまうのでしょう。
つまり、我々現代人は残念ながら「悟り」(理解)が小さいと成ります。
この事から「相対の原理」が真理である限り、バランスある思考を保つ為にも、「彼世」の「-の世界」の意識を持つのが普通ではないでしょうか。

「違う結果」+「拘りの意識」<=「摩訶不思議」 (H)
「現世」の「+の世界」=「相対の原理」=「彼世」の「-の世界」 (I)

以上このことを念頭にして、本論を展開したいと思います。

そこで、次の様に解りやすく数式論を伴い更にこの観念論を進めてみます。

本論
(A)から(I)の数式定義を念頭にご理解ください。

まず、定義を数式で現すと次のように成ります。
 「流」=「行為と行動の逆進」を仮定する  0
              
 「行為と行動の力」の結果<「他次元性の力」の結果  1
 「行為と行動」の形<>「他次元性の逆進」の形  2
と言う事に成ります。

「逆進の信憑性」
「呪い」や「時間の逆行」でも記述しましたが、明らかに現代の医学では解明がされていない現象の「2つの器官」と「2つの脳波」の存在でも判る様に、「何かの力」=「他次元性の力」が働いていることは明らかで、それを成す器官が人間に持っているという事実を鑑みると、この「行為と行動の逆進性」も完全否定は出来ないものと考えます。

数式で現すと次のように成ります。
「流」=「行為と行動の逆進」=「2つの器官」と「2つの脳波」の働き  3

「何かの力」=「2つの器官」と「2つの脳波」の働き=「流」の力=「他次元性の力」 4

ただ、それは、現代医学では完全に解明されていない範囲である事だけの否定でしか有りません。
そして、むしろこの不可思議な現象が、「2つの器官」「2つの脳波」の医学的証明と、古代史実からも「状況証拠」として認められて居り、むしろ、「否定方向」ではなく「証明される方向」にあると言うことです。

だとすると、必ずしも、現世に於いては、”「原則進行性」の前提ではあるが、「他次元性逆進」もあり得る”という考えに我々の思考として(A)から(I)のことも踏まえて、現代人として到達させて置く必要があるのではないでしょうか。
ところが、現代人は「時代の付加価値の増加」に伴い、必然的に、この「拘り」の心を多く強くせざるを得ず、「多元性の意識」と「静かなる心根」を維持するに難しい情況と成っているものと考えられます。

「拘り」説法の意
そこで、必要なのは”「原則進行性」の前提ではあるが、「他次元性逆進」も有りうる”とするこれが、仏教でいう現世に生きる人としての「思考姿」、つまり、”「色不異空、空不異色」「色即是空、空即是色」”の「否拘りの説法」(設問1前説)であると考えます。

(参考 設問1から転写)
では、この一節をどの様に理解したら良いかと言うことですが、私は次の様に理解しています。
「色」即ち、この世のあらゆる物質は全て色(いろ)を有します。故に、その「色」(いろ)のある環境、つまり総意としての「現世」であると理解出来ます。
数式で現せば、「色」=「現世」(うつせ)だとします。
「空」即ち、物質として存在しない空(から)の世界とし、色(いろ)を有さない世界だから、つまり総意としての「彼世」(かのせ)であると理解できます。
数式で現せば、「空」=「彼世」(かのせ)だとします。
そこで、「色は空と異ならない 空は色と異ならない」、故に「色は空であり、空は色である」と説いています。
つまり、言い換えると「現世は彼世と異ならない 彼世は現世とは異ならない」、故に「現世は彼世であり、彼世は現世である」と成ります。
究極の大意の数式で現せば、「現世=彼世」であるとします。
つまり、、「現世=彼世」法の「理」は、”物事に色があるから無いからとどうのこうのと言い立てるな、空だから無いからと騒ぎ立てるな”と言っていると思います。
言い換えれば、究極は”「物事に拘りすぎるな」”となるのではないでしょうか。

つまり、以上の参考での般若経一節の私説の通り、換言すれば、”静かなる心根(悟り:理解)を得る事、”即ち、”「他次元性の失われた意識」を取り戻せ”と成るのではないでしょうか。
ところが、上記した「他次元性の失われた意識」が易々と戻らない為に、かなり強い力で、「拘りという意識」のバリヤーを取り除かなければ、「流」が見えないものと成ってしまうと解釈できるのではないでしょうか。
仏教でのこの「説法の意」としては、漸次消失して行った何時の世も、現世の人の「意識の消失」の経緯から、「人の道」(心の経:みち)として説いている「般若心経」一節は強調しているし、この上のニ行を意味していると思うのです。

「流の正体の解明」
このことでは、”何のこと”となると思います。この「流の正体」が解らなければ”如何に”と成りますので、その「流」(ながれ)を具現的に説明したいと思いますが、人それぞれの種々「流」の経験は異なると考えますので、「流」の内容に付いては(異文ともなるので、)読者の経験談に委ねたいと思います。その上で次の一般論でご理解ください。

「逆進の現象」
この様に、”兎も角も、先ず、①本人の意思や周囲の意思に反して、その方向とは次第の結果は別の方向に進んで行く。
次に、②あがくと更に進むと言う現象が起こる。
更に、③「環境」が整うと今度は、逆に境遇も本人の意思に関係なくどんどんとよくなる。
そして、④最後に、被者があれば、(天罰が降るが如く、)本人外の周囲の「環境」はそれなりに悪くなる等の現象が起こる。”
この「4つ現象」の変化が一般的なものとなると思います。そして、この「4つの変化」には人の特長から「強弱」が起こります。
この「強弱」が人の「流の差」と成るのだと思います。

数式で表現すれば、人の「強弱」=「4つの現象」=「流の差」 4-1

これが「行為と行動」に付いて人それぞれの「流の結果」が異なってしまう「逆進現象」と考えます。

「逆進の起源とメカ」
この様に、何か附合一致して、これだけの「行為と行動」に対する「環境」を相対的に変える事や、整えることがバランスよく出来るのは、この現世の出来事ではない事と思われ、且つ、確かに何らかの力が他次元から引き起こされいるとしか考えられません。

この場合は、「流」では良い方向(幸せ)に向かう場合もあれば、この逆の例の「戒めを受ける事」(苦労)も世の中には沢山あるだろうと思います。

さて、上記の事で、この「差」は、どこかで繰られているのかと言う疑問が湧きます。

私は結論から言うと、”当事者のこの世に対する「理解」の差で異なる”と云う感じがするのです。

数式で表現すれば、「流の差」(4-1)={当事者のこの世に対する「理解」の差}で異なる。 4-2

しかしながら、どんな場合でも、「神仏」との「連携」が成されるとは限らないのではと思います。

それは「仏」が言う「ある理解」、又は[悟り]の状態を得ている時に起こると考えられます。
そして、それをキャッチする器官は、「2つの器官」であり、その「理解」の差は「2つの器官」の”センサーレベル”によると見られます。

この「ある理解」(悟りの状態)とは、次の過程(イからホ)を経て得られると思います。

イ 「心」を「拘り」から「脱却した差」による時に起こります。

数式で表現すれば、「ある理解の差」(悟りの状態)=「脱却した差」(拘りの心)=センサーレベル 5

ロ そして、本人の「無我」の「心」の「よどみ」が失せた事による時に起こります。

数式で表現すれば、「ある理解」(悟りの状態)=「無我」の「心」の「よどみ」=0 6

ハ この2つ状態(5、6)の何れかに成った時、静寂にして最高の感度を得え高まります。

数式で表現すれば、(5、6)=MAX(センサー) 6-1

ニ この「2つの器官」の本人のセンサーに、先祖が送り届ける波長が合致します。

ホ これ(イからニ)を経て、得て、この時に「神仏」(「先祖」)は、手を差し伸べてくるのではないかと考えます。

数式で表現すれば、「2つの器官」(センサー)=先祖の波長=神仏の加護 7


次に、脳医学的な過程の検証として次の様になります。

「論理的検証」
人間には、脳幹という電池の芯に相当するものがあり、これには地球をマイナスとしてその上に存在する物質はその高さのレベルに相当して電位がかかり、その電位は脳の中心にある脳幹のレベルを変動させる事が出来る仕組みになっていて、これに依って電流が流れて、脳神経細胞を経由してキャリパー(Naイオン)の液に到達して、電子が液イオンに乗って継電してその反対方向に電流が目的の所まで流れて脳が働く仕組みと成っている。

この仕組みはその「神経(心経)の集中力の差」にて脳幹温度は高まると電位は高まり比例的に電流値は変化する。
この高まった電流が流れた時、「2つの器官」のセンサーレベルもこの「集中力」によりこの差に比例して高まる。
これに添って同レベルで「2つの脳波」も動作する。
この「2つの器官」と「2つの脳波」とは連動連携しているのではないかと予測する。(設問2記述)

そして、その「心」への信号は、高レベルの前記の「2つの器官」を使って、本人や周囲の関係者に作用を及ぼす事に成る。
この及ぼす力はこの時の関係者の「理解」と物事の「拘り」の如何に関わるのでは無いかと考えます。
そして、そのセンサーレベルに達していない場合には”届かない”となるのではないかと考えます

数式で表現すれば、集中力の差=電流値の差=センサーレベルの差 A 8
数式で表現すれば、Aの差=「2つの脳波」の差 B 9
数式で表現すれば、Bが高い(HIGH)とき=他次元との連動 C 10

上記の数式の場合のCのLOWでは、「行為と行動」に対する「環境」」と「2つの器官」のセンサーレベルが合致に至っていないから「他次元との連動」を起さないと考えます。
これは、”「親、先祖、仏、神」を敬い養護する姿勢の有無の如何の差”に依ってセンサーレベルが定まるのだろうし、又、、「行為と行動」に対する「環境」」に合致し、このセンサーレベルが受けられる関係者が居た場合は違う展開が起こっていただろうと観られます。

ところが、その展開に付いて、普通、現世に生きる者は「勧善懲悪」と期待するが、前提として、必ずしも神仏は「勧善懲悪」ではないと私は考えています。

「勧善懲悪」の3つの式(11、12、13)
この事に付いて仏教でも、次の様に説いています。

”正しいものは常に正しいという事ではない””悪いものは常に悪いとは限らない”はと説いています。
むしろ、禅宗などは、更に、突っ込んで、問答では”悪いものは正しいと云う事もある””正しいものは悪いと言う事にもなる”と云っています。
そして、それは”「三相」(人、時、場所)の如何に関わる”と説いています。

参考 この事は上記した”結果は本来あるべきものとして得られないで、何時か、何処か、誰かで決められた方向にたどり着いてしまう”を裏付けています。

そして、更にこの状況(良悪、正否の判定)は”社会の付加価値の変化にて進む”と説いています。

数式で表現すれば、 正しいもの=悪い 悪いもの=正しい 11

数式で表現すれば、 正しい=<「三相」(人、時、場所)>=悪い 12

数式で表現すれば、(良悪、正否の判定)の変化(進化)=社会の付加価値の変化(進化) 13

判りやすく云うと、現代のように、社会が近代的(科学的)になり、付加価値が増え、原始の社会の「原理原則」が成り立つ易い「環境」と比して、社会構造が複雑になり正しさが異なることが起こるから、仏教では”正しいから正しいと拘るな”とする一つの理由になります。
”何時の世も「良悪、正否」とする社会環境は変化する”ということであります。

「勧善懲悪」の「3つの説」(abc:141516)
この「勧善懲悪」を仏説で考えると、次の様になると考えます。
先ず、(a)”全て正しい者は「神仏」からの常に正しい適切な処遇を受ける”とは思われないのです。
そして、(b)”「先祖」が考える多くの要素を踏まえ未来過去の要素を配慮した形に持ち込む”と考えます。
更に、それは、(c)”「4つのみ」から脱却した「仏」の成せる業技である”と思います。

上記「勧善懲悪」の「3つの説」(abc)が成り立たなくては、それでなくては、人間であり、仏ではありません。

つまり、「仏」が「4つのみ」を脱却するとはこのことを意味すると考えます。

数式で表現すれば、「勧善懲悪」の「3つの説」+「3つの式」=「仏」(「4つのみ」を脱却) 13-1

「脱却の意」の4原則
数式で表現すれば、仏(先祖)の判断<>正しい適切な判断 14
数式で表現すれば、仏(先祖)の判断=未来過去の要素を配慮した形 15
数式で表現すれば、仏(先祖)の判断=仏」の成せる業技-「4つのみ」 16
数式で表現すれば、仏(先祖)の判断>人間の領域 17


では、「脱却の意」の4原則で行われない「勧善懲悪」とは、その辛い「しがらみ」の中で、人間が考えた切なる願望であるに過ぎないし、それを仏、神が成してくれるものとして勝手に考えている事です。
つまり、仏教が否定する「ご利益信仰」に過ぎないからです。
「ご利益信仰」を宗教と考えている人が大方であるが、「ご利益信仰」は「宗教」ではありません。単なる「人間のエゴ」に過ぎないと考えています。

「ご利益」とは「静かなる心根」を得て、結果として「間接的に得られる幸せ」です。

それでなくては、仏前に手を合わせて、打算(妥算)を願い出れば、簡単に得られれば、全て誰でも何処でもいつでも得られるという事に成ります。

数式で表現すれば、ご利益=「静かなる心根」=間接的な結果幸せ 17-1

もし、それが叶うのであれば、悩みなどは直ぐに仏前で手を合わせれば叶う事に成り、このするところの意味は、結果として宗教はいらないと成りますし、宗教は当初より存在しません。当然仏壇も寺も神社も生まれなかった筈です。

数式で表現すれば、「勧善懲悪」=「ご利益信仰」=「人間のエゴ」>「宗教」 18

神仏のそれは、そんな人間が考える次元の範囲であるとは思わないのです。
もしそうであるとすると、それは「神仏」では有りません。人間そのものであります。つまり、人間の「4つのみ」を持っている「神仏」となってしまう。そんな事は有り得ない事です。
もし、この「4つのみ」から脱却した「仏」であり、「仏」から遊離したの「神」であるなら、「神」が考える最も良いとする形に持ち込む筈です。

その形の「良悪、正否」の事は、現世に居る我々には理解できない範囲にあり、「三相」に関わるとしか判らないのであります。
「神仏のみが知る」であります。

数式で表現すれば、「良悪、正否」の事=「神仏のみが知る」=社会の付加価値の進化 19

だから、人は長い人生の中で、日々より多く悟り理解して、「神仏のみが知る」の範囲の僅かでも読み取ろうとするのであります。

従って、上記する「流」は多くのステップで構成されています。そして、人間が考える「流れ」の一ステップを捉えて「良悪、正否」を評価しても、全体を見た中で判断しなければ、「神仏」が決めることは、人間の範囲を超えている故に、正しい答えは出ないと考えます。

故に、(A、B、C、D、E、F、G、H、I)の前提下に於いて、「行為と行動の逆進性」は、現世に於いては通常の「流」の中では無いとし、しかし、「神仏」又は「先祖」が看た他次元的現象(0から19)が起こった場合に於いて、「2つの器官」「2つの脳波」を媒体として「神仏」加護の下で「逆進性」は起こると成ります。

以上、論理的に数式論にすると、人間には、消失した意識が多く起こり、遂には多くの思い込みが出来て、結局は拘りが強くなり、究極は絶え難いエゴが出たとする局面が私には見えてきます。
皆さんは如何でしょうか、現在、何かが消失して居ると感じていないでしょうか。
一度、この「行為と行動」の論で振り返ることも必要ではありませんか。

参考(行為と行動の逆進性の数式論の記述)

「行為と行動」の現象(流)=「静かなる心根」=悟り(理解) (A)

「ながれ(流)」=「逆進の形」 (B)

「固定意識」(固定観念)=「錯誤意識」=「1次元的感覚」 (C)

「行為と行動」+「前置き意識」=「人の世界」=「現世と彼世」 (D)

「違う結果」+「静かなる心根」=「当然の結果」 (E)

「違う結果」-「錯誤意識」=「当然の結果」 (F)

(現世と彼世との意識)=「迷信(混同)」=「他次元性の戒め」=「昔からの戒め」 (G)

「違う結果」+「拘りの意識」<=「摩訶不思議」 (H)

「現世」の「+の世界」=「相対の原理」=「彼世」の「-の世界」 (I)

数式で表現すれば、「流」=「行為と行動の逆進」を仮定する 0
              
数式で表現すれば、「行為と行動の力」の結果<「他次元性の力」の結果 1

数式で表現すれば、「行為と行動」の形<>「他次元性の逆進」の形 2

数式で表現すれば、「流」=「行為と行動の逆進」=「2つの器官」と「2つの脳波」の働き 3

数式で表現すれば、「何かの力」=「2つの器官」と「2つの脳波」の働き=「流」の力=「他次元性の力」 4

数式で表現すれば、人の強弱=4つの現象=「流の差」 4-1

数式で表現すれば、「流の差」(4-1)={当事者のこの世に対する「理解」の差} 4-2 

数式で表現すれば、「ある理解」(悟りの状態)=「脱却した差」(拘りの心)=センサーレベル 5

数式で表現すれば、「ある理解」(悟りの状態)=「無我」の「心」の「よどみ」=0 6

数式で表現すれば、(5、6)=MAX(センサー) 6-1

数式で表現すれば、「2つの器官」(センサー)=先祖の波長=神仏の加護 7

数式で表現すれば、集中力の差=電流値の差=センサーレベルの差 A 8

数式で表現すれば、Aの差=「2つの脳波」の差 B 9

数式で表現すれば、Bが高い(HIGH)とき=他次元との連動 C 10

数式で表現すれば、正しいもの=悪い 悪いもの=正しい 11

数式で表現すれば、正しい=<「三相」(人、時、場所)>=悪い 12

数式で表現すれば、(良悪、正否の判定)の変化(進化)=社会の付加価値の変化(進化) 13

数式で表現すれば、「勧善懲悪」の「3つの説」+「3つの式」=、「仏」(「4つのみ」を脱却) 13-1

「脱却の意」の4原則
数式で表現すれば、仏(先祖)の判断<>正しい適切な判断 14

数式で表現すれば、仏(先祖)の判断=未来過去の要素を配慮した形 15

数式で表現すれば、仏(先祖)の判断=仏」の成せる業技-「4つのみ」 16

数式で表現すれば、仏(先祖)の判断>人間の領域 17

数式で表現すれば、ご利益=「静かなる心根」=間接的な結果幸せ 17-1

数式で表現すれば、「勧善懲悪」=「ご利益信仰」=「人間のエゴ」>「宗教」 18

数式で表現すれば、「良悪、正否」の事=「神仏のみが知る」=社会の付加価値の進化 19

一般的「4つ現象」の変化
①本人の意思や周囲の意思に反して、その方向とは次第の結果は別の方向に進んで行く。
②あがくと更に進むと言う現象が起こる。
③「環境」が整うと今度は、逆に境遇も本人の意思に関係なくどんどんとよくなる。
④最後に、被者があれば、(天罰が降るが如く、)本人外の周囲の「環境」はそれなりに悪くなる等の現象が起こる。”

「ある理解」(悟りの状態)過程(イからホ)
イ 「心」を「拘り」から「脱却した差」による時に起こります。

数式で表現すれば、「ある理解の差」(悟りの状態)=「脱却した差」(拘りの心)=センサーレベル 5

ロ そして、本人の「無我」の「心」の「よどみ」が失せた事による時に起こります。

数式で表現すれば、「ある理解」(悟りの状態)=「無我」の「心」の「よどみ」=0 6

ハ この2つ状態(5、6)の何れかに成った時、静寂にして最高の感度を得え高まります。

数式で表現すれば、(5、6)=MAX(センサー) 6-1

ニ この「2つの器官」の本人のセンサーに、先祖が送り届ける波長が合致します。

ホ これ(イからニ)を経て、得て、この時に「神仏」(「先祖」)は、手を差し伸べてくるのではないかと考えます。

数式で表現すれば、「2つの器官」(センサー)=先祖の波長=神仏の加護 7


以上が私の逆進性の結論であります。
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先祖と宗教(「時間の逆行性」)

設問
1「呪いの意」 (般若経の一説:仏教は何故呪うのか)
2「時間の逆行性」 (時間は逆行しないのだから仏教の仏=先祖は疑問)
3「行為と行動の逆進性」 (先祖が成した行為と行動は逆行しないのだから「仏」は疑問)
4「キリスト経の教え」 (仏はキリスト教の教えと異なる)
5「仏教とキリスト経の妥協の余地」 (根本的な違いの考察)

以上に付いて私観を述べたいと思います。
では、「呪いの意」 (般若経の一説:仏教は何故呪うのか)に続いて次の2番目の設問に入ります。

2「時間の逆行性」 (時間は逆行しないのだから仏教の仏=先祖は疑問)

普通、時間は逆行しません。
しかし、宗教では逆行はすると言う説法が多くあります。

前問の「呪い」のところで、「4つのみ」から開放された躯体の持たない魂の「仏」は、死後1週間は「魂」として現世に残るとされています。
そして、この魂は「躯体」を持つ現世の者に語りかけると説いています。

実体験
実は、私の両親と親族の3度の葬儀の後に、この現象に遭遇したのです。
この事の話は、現実にも近隣でも良く聞く話で、叔父も同じ経験をしていると聞いていましたので、まさかという感じでした。確か叔父も周りの人には信じてもらえなかったといっていた事を覚えていて、実は私も経験して驚いたものでした。

葬儀の後に、親が住んでいた仏壇の母屋に入ると、かなり大きい声で話し掛けられるようになんとなく語りかけて来る話し声が耳に入って来たのです。その語意ははっきりとはわかりません。この現象は長い時間で暫くすると止まります。その現象は矢張り1週間続きました。
話していることは確実なのです。周囲は明るい部屋です。方向もなんとなく判るという程度です。その声は父親であり、又母親であり、兄弟であるとする事もはっきりと判りました。
側には家族がいましたが、聞こえないと言いますが、周囲を見渡しても音のするものは有りませんし、家族は静かだと言います。外に飛び出してみても何もありません。理解し難い現象です。
この親族の葬儀の後の経験は3度もありましたので、2回目の時は、”あっ又だ。確かにある。”として、今度は慎重に、静かにして、何を云って居るのかを確かめようとしてみましたが、矢張りわかりません。しかし、印象として、家の事を託すようなことを話しているという直感が起こりました。
これは多分、自分の置かれている立場を自分が知っていて、それを直感として浮かんだのだ、或いは浮かび上がらしたと後で思いました。
それで、私の職業柄であり性格でもあるので、不明快な事では居てもたっても居られません。この現象に付いての調査を始めたのです。宗教的、脳医学的に起こる原因があるのかとの調査です。
そして、双方の点に確かにありました。
この時の現象では、先ず、「直感」に付いては、「仏」が超元的な方法で、私に「直観」を起させ訴えるという方法を採ったという結論に至りました。

仏教でも、脳医学でも、直接「言葉として話し掛ける」と言う連携ではなく、「直感」に訴えると言う方法が起こる事もわかりました。

この現象に付いては、「時間の逆行」の体現がないので、どのような体現として得られるかは判りませんでした。
私は現世に居ます。従って、時間は逆行することはありえません。しかし、躯体をなくした魂の「仏」は他次元(4次元)の世界に居ます。よって、この制限は有りません。
起こるとすれば、「仏」の方からの現象である事は理解できます。
「魂」のみとなった「仏」が話し掛けるとする事は、次元を現世に戻している事に成ります。そして、その現象を「直感」という方法にて出現したのです。
故に、他次元から現世に戻しているのですから、これは明らかに、「仏」の「時間の逆行」を示す現象です。


しかし、この「直感」に訴えると言う体現反応は、脳医学的に論理的に証明出来得る可能性があることが解りました。
(この事に付いては下記に記述します。)

論理的な可能性の理論
つまり、死んで躯体をなくし「魂」のみの「仏」となった者が、「過去の自分」を「現世に戻した」とする現象です。時間は戻っています。

ところがこの不思議な現象を「脳医学」で理解できるものがあるのです。

人間には、「野生本能」というものが存在し、その「本能」を司っていたのではないかとする未解明な不思議な「脳器官」が2つあるのです。

現在でも、あまり、進んでいない野生動物の一部に、この2つの器官が存在して作用している事が解っています。
それは、次の通りです。

「2つの器官」の説明
一つは、「第3の目」といわれるものです。

動物には主に二つの目があります。然し、元はどの動物にも「副眼」というものがあったとされていますが、その必要性が環境の変化で退化してしまったのです。
その「第3の目」的働きをする器官は、現在では、人間では、脳の中心の最下部のところにうずくまるように小指の先くらいの大きさで存在します(前松帯)。これは本来は「前頭葉」の額の上部に存在していたと考えられていて、これが、人間のように脳が進化した為に下に押しやられて、その目的が少なくなり、低下して退化したとされています。

人は、何かを真剣に考えるとき、全思考勢力を額の中央付近(目圏)に集中させて考えるという仕種をしませんか。多分、この時に次に記述する部位が働いているのだと思います。
古い奈良時代の仏像には額の上部に複眼を持った仏像がありますが、これはインダス文明の古来から人間にはこの複眼的機能がまだ比較的強く働いていたことを示すものではないでしょうか。

では、そこで、その事に付いて述べて、論理的にこの現象を解いて見ます。

論理的現象
この「第3の目」は現代では、感情的な予知や未来に対する予測の補助として使われている事までは解っています。
これ等の働きは、人間では左脳の学習的記憶データーから読み取り、無意識の深層思考原理の働きとして使われているために補助的な働き程度にしか使われていないのです。
特に、この「第3の目」のこの現象は、特に顕著に女性に観察さられる現象とされていて、感情的なインスピレーションの働きとして出て来ます。
女性の本来の「性の役目」に基づき「深層思考原理」の「3思考パターン」の「感情、勘定、妥協」により、この最初の脳の無意識の動作の「計画思考」の段階での「感情の補助」として動作されていると研究はされています。
女性の「性の役目」からその必要性は頷けます。

(女性の思考パターン:「感情的」に思考を計画して、「勘定的」に思考基準を取りまとめ、「妥協的」な判断で実行を動作させる。この働きを無意識のうちで瞬時に回想する脳の仕組みで、これを脳幹の後ろの左側の餃子程度の大きさの「脳陵帯」と云う所で管理されている)、

しかし、この器官の詳細は未知や将来の「予知能力的」、又は、「透視力的」な器官であると考えられており、猿人期の原始の時代に確実に強く動作していたのではないかとされています。

現在でもこの「第3の目」の器官をもつ生物や動物は沢山認められています。例えばトンボ等の複眼類や鯨類や原始猿です。
この「第3の目」が、人の脳の最下部には今でも存在することから、女性のインスピレーションの鋭さは透視的なものとして、この器官が理性と感情を司る「前頭葉」と連動して作用していると考えられています。


二つ目は、「未来予測脳」とするものです。

人の記憶機能を司る左脳内側の真ん中の付近の所に「線状帯」と云うところがあります。このところの真ん中あたりに「中紀帯」というところがあります。これも小指の先程度の脳器官です。
この器官は、男性にしか反応しません。
この器官は左脳にあるあらゆる学習的記憶データを駆使して推理し未来を予測予知する超能力部です。

男性は上記の「深層思考原理」は、無意識下に於いて、「3思考パターン」の働きとして、「理想、合理、現実」として、脳は無意識のうちで、連鎖的に瞬時に動作して、諸事に対処します。そして、行動の有意識の中でここれに基づき働きます。

これは原始の時代に、その「性」の定めにて周囲の環境に適応して生存競争の敵から身を守る為に、無意識のうちのこの深層原理のパターンに成っている訳ですが、この為には、周囲の環境の「予知」を働かさねばなりません。
現代に於いても同様ですので、男性にのみ「脳陵帯」に保護されて、この「中紀帯」は働きます。
しかし、まだこの部分の働きの具合は良く判ってはいません。
「現世」と「仏」の他次元との連携的働きをしていたのではとも考えられています。現代でも退化せずせに人の強弱あるにしても男性に働いています。

つまり、この「二つの器官」が、「現世」と「仏」との何らかの働きがあるのではと考えられています。
原始の時代では、人はこの器官が盛んに多次元的に働いていたと予測されています。
しかし、次第に社会の付加価値の増加とこの器官の働きを補助する科学進歩で退化していったと考えられます。

歴史史実
邪馬台国の卑弥呼は、「仏」「神」即ち、他次元との連携を司る体現者であり、他次元からの「神のお告げ」として、この前器官を強く反応させ持つ能力のある人であったと見られます。
その様な説を説く学者も多くいます。
多分、未だ3世紀前後の時代には、現代と違い、この感覚を退化させずに、強く働かせる能力を持ちえていたのではないかと見られているのです。その中でも卑弥呼は特に優れていたと考えられています。
というのも、当時、この邪馬台国では、指導者が会い立たず潰れていて、その乱れた騒乱の中、卑弥呼の巫女としての他次元からのお告げの能力が、周囲を圧倒するだけのものを持ちえていたからこそ、周囲は納得し、巫女の立場から、一躍、邪馬台国の王としての立場までになり得たのではないかとみられます。
ただ、でたらめに予言するのでは、この立場までにはならない筈で、直ぐにボロは出る筈です。
故に、この第3器官が大きく働いていたと考えられています。

多くのインカやマヤを始めとする大古代文明の全てには、この他次元との連携者や預言者が居て、大きな他次元との連携建造物を造り、そのお告げにて政治を納めていた事は学問的に定説ですから、この器官の働きは古代までは強く働いていたと考えられます。
むしろ、万事万象がこのお告げ(この器官を使った直感)であった事から、むしろ、退化させず、特に進化させていて、先鋭化していたと考えられます。
時代事の変化に合わせて、この器官の退化進化は変動していた事も考えられるのです。

自然を追い求める心の強さから、この「2つ脳器官」も、現代では、退化の中でも、やや進化のゆり戻しの時代に入っているのではないかと考えられます。
脳器官全般に於いて使わない器官は、退化が進み、使う器官は進化が起こるのは学説経験上の定説ですから、ゆり戻しはありうる事であります。
そして、当然に、個々の人には、この現象の強弱がある事も判っています。

経験の検証
多分、私の3度の経験は、この器官の動作が起こったとも考えられます。
それは、人の死を経験した直後の脳の働きが顕著に鋭敏になり、少し違っていたとも考えられます。よって他次元との連携が起こったと見られます。
当然に、この現象は他次元からも「魂」のみとなった「仏」から発せられた信号との連携であったのであろうと考えます。
だから、電波の如く周波数が一致しないと聞こえることは出来ないものとして、丁度、家の世話をしていた私との連携となったと理解しています。
当然、この「中紀帯」が人一倍に強いのかも知れません。その様な感覚がします。自分のことで客観性がないので恐縮ですが、記憶力や推測力は強い気がしています。(これが私の人生に良い結果を生むのではよいのですが)

人の脳には、他次元との連携の可能性を秘めたこの「二つの器官」が存在することは確かであり、動作している事も事実であります。

伝達手段
2つの器官が働いたとしても、この伝達手段が脳の中に無ければ、役には立ちません。
実は、更に、これを裏付ける他次元と繋げる脳機能があるのです。
つまり、「二つの器官」の動作を伝達する「情報伝達器官」と言うべきものです。

「2つの脳波」
人には、脳から発せられる「2つの脳波」があります。
それは、アルファ波とベータ-波であります。
ベータ-波は特異なときに発せられますが、このアルファ波が、上記の器官の高まり(精神的な集中力に影響)に依って強く顕著に発せられる事になり、他次元との連携が可能になるものとして考えられていますが、アルファ波、特にベータ-波は未だ充分な解明が進んでいないのが現状です。

脳死は、この脳波を捉えて停止状態になった時のパラメータとしています。
つまり、生きているときに何らかの経緯で一時に著しく強くなり(フラッシュバック)、他次元との連携が可能になり、上記の現象が起こると考えられているのです。

同時に、推測の域は出ないのですが、この躯体をなくした「魂」の「仏」からもこの死と共に発していて、それが、この「2つの器官」を鋭敏にして脳波とのセンサーの役目をして、この現象を起しているとも考えられてます。

実は、推論として、私は、この「魂」とは、この死の直後に発する顕著な末路の「脳波」が「魂」の本質ではないかと推測しています。
(仏教では、魂説は定義しているが、(初七日として葬儀行事として定めているが、)長期間では彼岸の入りとしての祭祀行事までで、それ以上はこの「魂」が存在し続けるとははっきりと定義していない。)

「論理的な科学例」
故に、物理学では、万事万物万象の末路には「フラッシュバック現象」が起こり莫大なエネルギーと振動波を発します。
この事は、この核がなくなるとき物質の基となる「核の分裂」(核分裂:物質の消滅:死)のエネルギーの大きさを証明する事になるし、 同時に、特有周波も発する事実と符合します。

例えば、太陽の核分裂の爆発により、太陽から発する7つの可視光線は、この物質の核分裂のときに発した波長であります。
黄はNa、赤はFe、青はCuのように400n(赤)-700n(紫)の波長を発します。そのすごいエネルギーで振動波としてこの地球まで届いているのです。
その波長は空気中の微細な物質との衝突で色を発します。虹や夕焼けの色の変わる現象はこの空気中の水分やチリなどで色が出て、透過する波長が変化して色が変わるのです。

この現象は、科学では「炎色反応」として確認出来るのです。
物質の微粉末が燃え尽きるとき核の破壊が起こり振動波を発して周囲の物質と衝突して特有の色を発する試験方法です。

この様に人を含むこの世の物質は上記の現象を起します。
つまり、人の場合、このフラッシュバック時の脳波と、上記の敏感になった「2つの器官」の連鎖反応が、他次元的な働きをして、即ち、「魂」と「人」の連携反応を起すのではないかと考えます。(私の「魂」の本質説)
ところが、この現象がはっきりしないと言うのが現実です。何故なのでしょうか。(この事の推論は下記に説明します)

「2つの脳波」の存在理由
その前に、ここで、「2つの脳波」というけれど、一体この脳波が人間の機能にどの様な直接的な働きをもっているのか、何故振動波を発し、そして、存在するのか、と言う疑問が湧きます。
人間の機能には無駄は無い筈です。だとすると、機能はあるのだろうか。

「脳波の機能」
確かに人間は地球の電位体に対して、ほぼ身長に応じた(+)の電位を有します。電位を有することは起電流が流れます。
これで脳の神経を通じて神経のつなぎ目(継電部)に、キャリパー(Naイオンのアルカリ液体)を媒体として、電流が流れて脳が働き、体の各所に信号指令を送る仕組みに成っています。
しかし、この2つの脳波で動かしている機能は無いのです。
脳波が出ると言うことは、脳が常時振動波を発している事になるので、脳がわざわざ意味の無い振動を起こし無駄なエネルギーを使ってする事は無い筈です。。

とすると、何か、元は目的があってして、それが何かの発達でこの目的が退化したと考えられます。
普通は、人間の機能は使わないと退化するのが普通であるので、ではその退化をさせた「何かの発達」は何なのかという疑問が湧きます。
振動波であるのだから、先ず最初に浮かぶものは「情報伝達」の媒体と成ります。

「媒体の推測」
野生猿から人間に変化して変わった情報媒体では、関連する内容としては「脳機能の拡大」と「言葉の使用」と成ります。
「脳機能の拡大」では、「左脳の拡大」(学習記憶情報量の変化)と「前頭葉の拡大」(付加価値増大の感情量の変化)となります。
「言葉」では、「意思伝達の拡大」が起こりましたが、これは、言葉の伝達で「記憶量」が増大し、言葉の伝達で「感情量」が増大します。
結局は、この事で、言葉は「脳機能の拡大」を助長させた手段と言うことに成ります。

つまり、結局は、「記憶量と感情量」は「左脳の拡大」と「前頭葉の拡大」としての「脳機能の拡大」が大きく変化した事に成ります。

そこで、「左脳の拡大」と「前頭葉の拡大」は、上記の説の通り、次のようになるのではないかということです。

「2つの器官」の「左脳の拡大」では、上記した様に、左脳の中央部にある中紀体の「未来予測脳」であり、「前頭葉の拡大」では、前頭葉の額の上部(現代では脳中央部下部)の「第3の目」の複眼となるのでは無いでしょうか。

この「2つの器官」の退化で、「2つの脳波」の目的が無くなり退化したと考えられます。

この事は上記の「2つの器官」の論所と「2つの脳波」の論処とは、符合一致しますので、論理的に無理はないと考えます。

当然、「情報伝達」には、「発信受信媒体」と、「伝達媒体」が必要です。
人間には、この「発信受信媒体」として「2つの器官」、「伝達媒体」として「2つの脳波」と成るのではないかと推測しているのです。

この二つの媒体(「2つの器官」と「2つの脳波」)が、ある条件下で他次元までの伝達と成っていたと考えているのです。
ただ、これが全ての人間に保有していた機能とは思えないのです。それが「ある条件下」です。

極度に心を沈めることが出来て、非常に集中力を高められる能力を保持する者にしか働かないと思うのです。

インカやマヤなどの祈祷師や預言者、邪馬台国の卑弥呼などの者がこれを保持していたと推測しているのです。
より高い能力を持つ者は、他次元との連携をこの器官を使って出来ていたのではないかと考えているのです。
普通の者は、私の体現程度か、それ以下の伝達程度に成っていたと考えます。

この「脳機能」は4世紀ごろのまでの人間の社会にまだ少し存在していたのではないかと考えられます。

とするのは、例えば卑弥呼が予言した事柄を周囲の者が信じる現象は、ヤマト勢力と覇権を争っていた九州勢力を押さえていたこの者達全般にも、この脳機能の能力をある程度まだ維持していたから、卑弥呼の「予言」と言う不確定なものを信じた前提なのではないでしょうか。
又、上記した5-6世紀頃の仏教の仏像の複眼等もこれを裏付けるものとなるのではないでしょうか。
だから、仏教がインドで誕生時期から観て、人の死後の「初七日」の行事とか、「魂」説とか、「仏」=「先祖」説とかもただの説ではなかったのではないでしょうか。

この「第3の目」に関しても、平安期前期の仏像に額の真ん中に「複眼」をつけた仏像がありますが、これは、多分、仏教ではこの事を過去からの伝えで使用していた事を意味します。
つまり、仏教でもこの現象を認めている事を意味します。

以上、この論処事が私の体現の論理的説明となると考えています。

そうする推論で考えると、多くの世間で話されている死の直後の有り得る他次元との他の特異現象は、このことで説明がつくのではと考えています。

無と有の思考の効果
事程左様に、広範囲の科学論理的根拠や学識から調べるとそれ程に「無根拠」ではない事が判ります。
「無」と「有」と決め付けない「反意」で、思考すれば、この様に真実の根拠は見えてくるものであると考えます。

他次元の世界を「無」として決め付ければ(拘れば)、この様に、見えるものも見えなくなり、「有」と理解すれば「二つの器官」の存在も観え、そして、最後には、「時間の逆行」もあるという判断が出来るように成ります。

さすれば、より高く、より正しく、より冷静に、根拠に基づく上記の「理解」が得られる事につながると考えます。
言い換えれば、”「無」であるから「無」と拘るな””「有」であるから「有」だと拘るな”さすれば、般若経が云う「悟り」即ち、根拠ある「理解」のところにたどり着くとしています。(呪いの設問の解読説)
禅宗の座禅は、この様な基となる「静かなる心根」を高め得ようとする修行では有りませんか。
そして、その禅問答はその「静かなる心根」で「悟り」即ち「理解」を修練する行為では有りませんか。

確かに、技術の仕事していたときには、頭から湯気が出るほどに、一つの事に拘っていたときは「見えなくて」、その「拘り」から開放されたときの一瞬には「見えた」という事が沢山あり、何かあの世から知恵を授かった、貰ったというような気になって、技術的に解決したという経験は多くありました。
多分、この時に、この器官が動作していた可能性がありますね。皆さんはいかがですか。

学説では、頂点に達すると、この時にベータ-波が出て、脳は切り替わり、拘りは消滅し、脳の能力最大限に働くと言われています。
スポーツなどでもこの極限に達すると、その極意を得ると言われていますので、優秀な選手はこの域に達しようとして訓練を行うのであります。

「心頭滅却すれば、火も又涼し」であります。事実真実です。

私は、この現象は、「宗教的」な感覚ではなく、医学的にも、人間に本来に備わった「野性的本能」がまだあると観て、それがある条件下で働いていると考えています。

故に、「無」即ち、”ない”と限定し舞わないで、[有」もあわせて考える姿勢と思考が大切と考えます。

つまり、この経験の「有無」が上記した「差」として、積み重なるものと考えます。

私は、論理追求として働く物理技術者でしたが、一面、この様な現世に於いて論理外の思考もするところがあります。
しかし、つぶさに見てみると、上記のように、その否論理的なことを論理的に捉える習性が存在する不思議な性格かも知れません。

結論として、上記の「2つの器官」と「2つの脳波」の働きから、「呪い」の設問の(1)から(22)の数式の結論下で、故に、「時間は逆行する」であります。この世の相対の原理から云っても、あり得る事です。

その事から観ても、「先祖」「仏」の「連携」はある条件下で成り立つと定義できます。

だから、連携の不可思議、その事も含めて、「先祖」を知る事、「先祖」を敬う事は、現代の遺伝子学での結論の「過去の90%の自分」を敬う事にも相成ります。

故に、先ずは、「先祖を知る」事から始めるべきと考えます。
先祖を知れば自ずと先祖を敬い、先祖を祭る行為は生まれ、自身の心は上記の「拘り」の少ない心へと進みます。これが仏教の説くところでしょう。

実は、私は、「宗教」というものを「信仰」はしていません。仏教の説でも正しいとされるものを信じているだけです。

次の設問の徐として。
如何せん、兎角、「宗教」は「ご利益信仰」が主体と成っている事に疑問なのです。
”信仰すれば、こうしてくれる”は信仰とは云わないのではないでしょうか。
次の設問のキリスト教は、この傾向が説話の中で多すぎると感じています。
”信じよ、されば救われん。”には納得できません。信じなくても救われる筈です。この世の中でキリスト教を信じていない人は救われないと言う事でしょうか。そんなことはありませんね。
仏教は、”信じよ”とは云っていません。”理解せよ。”です。理解すれば静かな心根が生まれ、良い方向とへと進むとしています。
キリストは、”人は罪多き悪の子供”と設定していますが、仏教では”悪の子供であるも普通であり悪と拘るな”であります。それが「人」だと説いています。

次は、「行為と行動の進行性」への設問です。
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先祖と宗教(般若経の呪いの意)

先ずはじめに、青木さんから雑談掲示板に投稿されていました事に付いて、本サイトの一つの目的である「先祖」と言うキーワードに関連する事なので、特に広く論じて理解を得る必要があるとして投稿しました。

その経緯は、キリスト教徒の方から見て、仏教の教義に疑問が提起されました。それにお答えした論文でした。
その掲示板の内容は次の1-5の設問でありました。
そこで、青木さん以外の全国の皆さんにも広く観て頂きたく改めて仏教の説法を受ける側からの私観(キリスト教対比関係で)をまとめ直して投稿しました。

最近、日本人には、特にその「先祖」という言葉の意味、又は意義が薄らいでいると感じています。
「先祖」と言う言葉が我々の日常の生活の中に遺伝子的に無意識の中で浸透しているのですが、これを改めて認識してもらい本当の日本人に戻ってもらいたいと常々思っていました。
そこで、その方法として、何とか解りやすくする為に、その「先祖」を仏教とキリスト教とを対比させる事で明確に成るのではと考えました。
この対比事項としては、雑談掲示板に設問された次の内容5つが「先祖」を説く上で適切と見て限定して論じてみました。

そこで、早速ですが、本題に入りたいと思います。

投稿
先ず、掲示板の御意見を拝聴しましたが、私は少し違う考えを持っていますので、ご披露したいと思っています。
ご意見には突き詰めると「先祖」に関わりのある事が大いに認められ、それ故「先祖」という定義からその思考を述べる事でお答え出来ると思います。

ただし、僧から説く説法ではなく、説かれる方からの私観の理解説とします。
ご意見の内で、抜粋した次の設問に対する内容(問題)として、(...)を大意として示しています。

設問
1「呪いの意」 (般若経の一説:仏教は何故呪うのか)
2「時間の逆行性」 (時間は逆行しないのだから仏教の仏=先祖は疑問)
3「行為と行動の逆進性」 (先祖が成した行為と行動は逆行しないのだから「仏」は疑問)
4「キリスト経の教え」 (仏はキリスト教の教えと異なる)
5「仏教とキリスト経の妥協の余地」 (根本的な違いの考察)

以上に付いて私観を述べたいと思います。

注釈 
4-5の設問に付いては、本論はキリスト教との対比を特にします。
但し、このことは決してキリスト教を非難するものではなく、日本人には無意識の中で脳に対して染みこんでいる宗教に対する遺伝子的なものが存在し、それにキリスト教の教えがマッチングしないのではと考えているので、その差違を現したものです。
前置きとして、文内の表現の差違は、仏教とキリスト教との間にこれだけの違いがあるのかと言う程度にご理解ください。

注意
そこで、超論文に成りますので、シリーズで記述する事にしますのでご理解ください。
シリーズの途中から読まれる場合は、継続性がある為に理解が出来ないということも起こりえます。従って、この設問から講読下さい。
念の為、本論は観念論であるが為に、理解し難いことです。従って、文中で、多少の問題はありますが、各所で使用する数式は結論を何とか解りやすくする為に用いています。


本文

1「呪いの意」(般若経の一説:仏教は何故呪うのか)
では先ず、文面で般若経にある「呪い」と言う事に対する「嫌悪感」に対する疑問の件です。

般若経の一説 「是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等々呪 能除一切苦 真実不虚」

現代の言葉で「呪い」とは如何にも恐ろしげな行為であると観られますが、般若経で言う「呪い」とはいったいどう言うもので、どう言う事かと言う設問に入り、且つ、それを解明すれば我々の凡人は全体像の理解が出来ると思いますので以下に進めます。

では、それは一体何なのでしょうか。二元体の人の世界に起こる「呪い]です。よって、その人間の「心の動き」である筈です。
その「心の動き」の「呪い」として出て来るものは、私は次の「4つのみ」であると思います。
それは、仏教で云う、人として ”最も無くさなくては、或いは、少なくしなければならない「人間の性(さが)」”であると思います。そして、それは説法で言う「4つのみ」だと思います。
つまり、この性の「呪い」を構成しているものは「4つのみ」と言うことです。

数式で現せば、「呪い」=「心の動き」=「4つのみ」と成ります。 (1)

では、その「4つのみ」とはどのような「性」なのかと言う事ですが、それは次のものだと思います。

数式で現せば、「4つのみ」の構成要素 =「うらみ」+「つらみ」+「ねたみ」+「そのみ」だと考えます。 (2)

この人の「4つのみ」から誘引して「心の乱れ」を引き起こす結果、その映像として「呪い」が生まれるのです。
そして、この「心の動き」の一つの「心の乱れ」は「人の拘り」へと変わります。

数式で現せば、「心の動き」=<「心の乱れ」=<「人の拘り」=<[呪い」に繋がります。 (3)

数式で現せば、「4つのみ」=「心の乱れ」=「人の拘り」=「呪い」=「性」(さが)と成ります。 (4)

では、この「性」、即ち「心の乱れ」、「人の拘り」を人は無くせるのかという疑問です。
結論から私は出来ないと考えます。”それは何故なのか。”です。

もし、無くせたとしたら、この世に「宗教」というものが存在しません。
この「4つのみ」があるからこそ、世の中は乱れるのです。だからそれを少しでも救おうとして、人は「宗教」というものを考え出し頼ったのです。
ましてや、この「4つのみ」を無くせば、それは、「現世の人」では有りません。
この「4つのみ」をなくした者が、「仏」であります。ゆわんや「先祖」であります。

数式で現せば、「4つのみ」=「現世の人」  つまり、「仏」=「現世の人」-「4つのみ」 (5)

(5)式が成立するのであれば、本サイトの目的の一つとして主張している「先祖を理解する事」は、即ち、「4つのみ」が原因した「先祖の生き様を知る事」ともなります。

数式で現せば、「先祖を理解する事」=「先祖の生き様を知る事」+「4つのみ」 (6)

そして、それは「4つのみ」から少しでも軽減し、同じ苦しみを味わってきた「先祖」、即ち、「90%程度の同じ遺伝子を引き継いだ自分」を見つめる事が出来る唯一の手段なのです。

現代医学では血液型を同じとすると85-95%の遺伝子が同じであります。これは殆ど「自分」という事になります。

数式で現せば、「先祖」=「90%程度の同じ遺伝子を引き継いだ自分」 (7)

つまり、「先祖の自分」に対して、そこに起こる「自分への尊厳」と「先祖への感謝の念」が、人の心を豊かにし、開放させられます。
そして、その心が「4つのみ」への「拘り」を理解する事が出来て、軽減さしてくれるのだと考えます。
何もしないで、「4つのみに拘るな」と云っても、拘わらない事すら難しいのに、「4つのみ」所の話ではありません。
それこそ「負担」であり、[苦」に成ります。

その「拘り」の救いは、先ずは「先祖」を知ることであり、強いては「4つのみ」から開放された「先祖」即ち、「90%の過去の自分」即ち「仏」を知る事になるのだと考えます。

それは(先祖とは)、「4つのみ」から発祥した育枝種にして分離した「108つの煩悩」から解き放たれた「魂」のみの「仏」なのです。

数式で現せば、「108つの煩悩」=「4つのみ」*N=A  「仏」=「魂」-A (8)


但し、ところが仏教では、この「4つのみ」を”無くせ”とは云ってはいません。
むしろ「無くせない」と説いています。

仏教では、「無」(無くす事)を主張するのではなく、「有」(ある事)を認めていて、「有りのままに生きよ」と説いているのだと思います。

ただ、これだけでは「宗教の教え」にはなりません。

この「4つのみ」の「処し方」として、「拘るな」(気にするな)と説いています。
「拘るな」(気にするな)は、人として可能な行為であります。
そして、「拘り」を「捨てる」、或いは、「軽減する」ところから、”人の生きる世界から、又は、「性」(さが)から解き放たれる”と説いているのだと思います。

この事は、即ち、般若経の「色不異空、空不異色」と「色即是空、空即是色」であると思います。

この1節の理解の如何に関わるものだと考えます。
では、どの様に理解したら良いかと言うことですが、私は次の様に理解しています。

「色」即ち、この世のあらゆる物質は全て色(いろ)を有します。故に、その「色」(いろ)のある環境、つまり総意としての「現世」であると理解出来ます。

数式で現せば、「色」=「現世」(うつせ)だとします。 (9)

「空」即ち、物質として存在しない空(から)の世界とし、色(いろ)を有さない世界だから、つまり総意としての「彼世」(かのせ)であると理解できます。

数式で現せば、「空」=「彼世」(かのせ)だとします。 (10)

そこで、「色は空と異ならない 空は色と異ならない」、故に「色は空であり、空は色である」と説いています。

つまり、言い換えると「現世は彼世と異ならない 彼世は現世とは異ならない」、故に「現世は彼世であり、彼世は現世である」と成ります。

究極の大意の数式で現せば、「現世=彼世」であるとします。 (11)

つまり、、「現世=彼世」法の「理」は、”物事に色があるから無いからとどうのこうのと言い立てるな、空だから無いからと騒ぎ立てるな”と言っていると思います。

言い換えれば、究極は”「物事に拘りすぎるな」”となるのではないでしょうか。

では、何故この数式が成り立つのかと言う疑問が出ます。

それは、「現世」と「彼世」の間には「仏」が存在し、その「仏」は「4つのみ」から離脱した「先祖」であるとしているのです。

数式で現せば、「現世=仏=彼世」or「現世=先祖=彼世」の数式が出来ます。 (12)

上記の数式では、「先祖」=「90%程度の同じ遺伝子を引き継いだ自分」、故に、「現世=自分=彼世」 (13)

数式で現せば。「現世=仏=彼世」or「現世=先祖=彼世」or「現世=自分=彼世」・・(B) (14)

故に、(9)から(14)までを合わせて解釈すると、その大意はいずれにしても「自分如何の世界」だから「拘るな」と成ります。

これでは合点し難い所があります。そこで「俗意」としては、次の様になると考えます。
[拘るな」とは、”「現世」「彼世」は自分が関わる世界であるのだから、地獄極楽も「現世」の仕業、だからこの「現世」の所業になんだかんだと理屈を立てて言い張るな。決め付けるな、考えし過ぎるな。気にし過ぎるな。そして、それより、先ずはこの「理」を悟れ、つまり、理解せよ”と成るのだと考えます。

数式で現せば、(B)数式の理を解する事は、「悟り」=「理を解する行為:理解する」=「拘りすぎるな」=「気にしすぎるな」  (15)

そして、これを理解すれば、この「呪い」の般若経の2行のくだりの最後には、「能徐一切苦」「真実不虚」と説いています。つまり、”一切の苦しみを除く事が出来て真実は虚にはならないから”と言う事だと思います。
仏教では。「一切の苦しみ」とは、「108つの煩悩」とされます。

つまり、そうする事(15)で、「4つのみ」で発展した「108つの煩悩」が「呪い」をが引き起こします。その「呪い」が起す[心の動き」の拗れた「心の乱れ」が納まり、”「静かな心根」が得られ、その結果、「現世」の自分に「真実」(誠)が近づき、自然と「苦しみ」から逃れられる”としているのだと考えます。

「現世の理」を「理解する事」で、「自分」に”「静かな心根」”が生まれると言う事が大切であるのだと考えます。
そして、”その判断が回りの茨の道に踏み出さない結果になる”のだと説いていると思います。

数式で現せば、「悟り」=「拘りを無くす事」=「現世の理」を「理解する事」=”「静かな心根」”  (16)

そして、次の「苦しみ」から少しでも逃れられるのだと考えられるのではないでしょうか。

数式で現せば、「呪い」=「108つの煩悩」=「4つのみ」*N=苦しみ 「仏」=「魂」-(苦しみ)  (17)


次に、前節の「是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等々呪」では、私は次の様に解釈します。

この行のくだりのお経を理解する事の大切なことは、般若経の「大神」と「大明」の意をどのように理解し解釈するかの如何だと思います。私は次の事と解釈しています。

数式で現せば、「大神」=「神」 「大明」=「仏」 (18)

そして、”その「呪い」とは、「神」や「仏」の「呪い」であり、それ以上の「呪い」は無く、それは、神仏の「戒め」であり、この上記の「理」を理解すれば、「呪い」は無くなるのである。”としているのだと思います。
そして、”一切の苦しみを除く事が出来て真実は虚にはならない”とし、つまり、そうする事で、”静かな心根”が得られ、「真実」が近づき、自然と「苦しみ」から逃れられる”と説いていると解釈します。

「神」とは仏の中の得心した「仏」であるのだから、次のような考えとなると思います。

数式で現せば、「呪い」=「神」、「仏」の「戒め」=先祖の「戒め」=自分からの「戒め」 (19)

仏教では、「呪い」即ち、自分からの「戒め」を知ることは、それは「悟り」と説いています。
その「”悟れ”の本質」は”静かな心根”で「理解せよ」”としています。

数式で現せば、「”悟れ”の本質」=”「理解せよ」”と成ります。  (20)

そして、本設問の「呪い」に対する「嫌悪感」の結論は、以上(19)、(20)の様になると思います。

そこで、”「理解せよ」”とは、他の一節「所業無常」(諸行無常)の反意では、”業と行は常(恒)ではない。だから所業(行)の全てを一度に理解するのではなく、日々の所業(行)の中で、所業の「理」を知り、積み重ねよ、そうすれば究極は悟れる”としています。つまり、”何時の時か「即身成仏」と成るであろう。それに近いものに成るであろう”であります。

”無常のない行と業の中での”「急ぎの理解」は「拘り」の所以である”ともしています。

数式で現せば、「急ぎの理解」=「拘り」  (21)


決して仏教では、キリスト教のように、”先ずは、「信じよ」(キリスト教)”とはいきなりに説いてはいません。
それは、ただ「信じる」ことだけでは、「根拠なし」のものとなるからです。

仏教の「理解」(悟り)は、日々の精進の理解を経て、この「根拠」を得て初めて「理解」と成ります。

これが、ご指摘のキリスト経と仏教の決定的な差であります。


般若経では、その字句のそのものの意味ではなく、その字句の持つ「反意、真意、深意」を如何に知るかに関わると思います。
私の経験では字句の意味だけではどうしても理解ができませんでした。

ここに書いている事は、この「3つの意」(「反意、真意、深意」)から得たものです。

「人」は「仏」では有りませんので、「呪い」から現世では逃れることは出来ません。
それを無理に排除しようとする所に無理(拘り)が生まれ、現代社会の問題の露出と成っているのだと思います。これは「仏」でなくては出来る事ではないではありませんか。

だから、仏教では万能の「神」との間に、人間社会の「4つのみ」から生きてきた躯体をなくした「御魂」となった「仏」を置き、理解しやすくしているのだと思います。
そして、この精進した「仏」から「神」へと進むのだと説いています。
突き詰めれば、「仏」は「神」であり、「仏」は「先祖」であり、「先祖」は「90%の自分」であるとしているのです。
そして、三段論法では、終局、「仏」は「90%の自分」、「90%の自分」は「神」の元であり、この世とあの世の間には、「躯体」と「4つのみ」の有無の差であると説いているのだと思います。

この論理の結果から、「神」の居る「極楽」は、「この世」という事になります。そして、それは
「4つのみ」の「理解」という行為のことから、自分の目前には「極楽」は作られると考えます。
その「不理解」の行為は、「地獄」という事になります。

数式で現せば、「4つのみ」の「理解」=「極楽」 「不理解」の行為=「地獄」  (22)

つまり、「4つのみ」の「理解の如何」の差が、「極楽」と「地獄」の差となって現れると般若経は説いていると思います。
そして、未だ「仏」でない躯体を持った人のこの「理解の差」に対して、仏教は「縁無き衆生 動し難し」と説いています。
即ち、「極楽地獄」は本人次第としています。”無理に導くな”と説いています。
その差は「仏」となった時に、次に「神」になれない「仏」であるとしています。

「般若心経」は、この「4つのみ」(色)と「躯体」(舎利子)の事のと取り扱いの考え方に付いて述べ、”「万事所業」は、この世では「無」ではなく「有」として「理解」して生きよ”と説いているのだと思います。
しかし、”「有」だから、「有」と主張するな”と説いています。それは結局は論理的には、”「拘り」の元となる”と説いている事にも成ります。

そして、その「心の持ち様」の秘訣は”あの世とこの世との差の「先祖」にある”のだと暗示していると考えます。

私は、故に「青木氏の先祖の研究」と言うものに取り組んだひとつのきっかけでした。
この「4つのみ」から起こる先祖の生き様が、良く判ったと思っていますし、今の「心経」の糧となったと信じています。

人それぞれにいろいろな考えがあろうと思いますが、「呪」の意は、以上の22の数式で表現した様な事だと思いますので、当然のこの世の事として、それ程に疑問を持っていません。

この22の数式は全て等号(=)で繋がると言う「呪い」の意であると思います。

故に、当然の起こりうる「結果」として受け取っています。むしろ、人間社会を維持して行く限りに置いてありうるべき「事柄」かなとも考えます。
ただ、それを出来る限り、避ける「理解」の修行を怠らないようにしています。
その修行とは、”「22法の理」”を知り、”先祖を敬い”と”心静かに”の「心根」(拘りのない平常心)を保つ事であろうと思っています。

現世では「4つのみ」から起こる「呪」は、別には「社会の悪」と対峙し炙り出すテストペーパーでもあり、悪い事ばかりでも有りませんよね。

数式の整理
数式で現せば、「呪い」=「心の動き」=「4つのみ」と成ります。 (1)

数式で現せば、「4つのみ」の構成要素 =「うらみ」+「つらみ」+「ねたみ」+「そのみ」だと考えます。 (2)

数式で現せば、「心の動き」=<「心の乱れ」=<「人の拘り」=<[呪い」に繋がります。 (3)

数式で現せば、「4つのみ」=「心の乱れ」=「人の拘り」=「呪い」=「性」(さが)と成ります。 (4)

数式で現せば、「4つのみ」=「現世の人」  つまり、「仏」=「現世の人」-「4つのみ」 (5)

数式で現せば、「先祖を理解する事」=「先祖の生き様を知る事」+「4つのみ」 (6)

数式で現せば、「先祖」=「90%程度の同じ遺伝子を引き継いだ自分」 (7)

数式で現せば、「108つの煩悩」=「4つのみ」*N=A  「仏」=「魂」-A (8)

数式で現せば、「色」=「現世」(うつせ)だとします。 (9)

数式で現せば、「空」=「彼世」(かのせ)だとします。 (10)

究極の大意の数式で現せば、「現世=彼世」であると成ります。 (11)

数式で現せば、「現世=仏=彼世」or「現世=先祖=彼世」の数式が出来ます。 (12)

上記の数式では、「先祖」=「90%程度の同じ遺伝子を引き継いだ自分」、故に、「現世=自分=彼世」 (13)

数式で現せば、「現世=仏=彼世」or「現世=先祖=彼世」or「現世=自分=彼世」・・・(B) (14)

数式で現せば、(B)数式の理を解する事は、「悟り」=「理を解する行為:理解する」=「拘りすぎるな」  (15)

数式で現せば、「悟り」=「拘りを無くす事」=「現世の理」を「理解する事」=”「静かな心根」”  (16)

数式で現せば、「呪い」=「108つの煩悩」=「4つのみ」*N=苦しみ 「仏」=「魂」-(苦しみ)  (17)

数式で現せば、「大神」=「神」 「大明」=「仏」 (18)

数式で現せば、「呪い」=「神」・「仏」の「戒め」=先祖の「戒め」=自分からの「戒め」 (19)

数式で現せば、「悟れの本質」=”「理解せよ」”と成ります。  (20)

数式で現せば、「急ぎの理解」=「拘り」  (21)

数式で現せば、「4つのみ」の「理解」=「極楽」 「不理解」の行為=「地獄」  (22)


本論は観念論ですので、できる限り論理的な証拠と数式的手法も取り入れて進めたいと思っています。

私は、元の職業柄か性格的な事からも、常々、観念的なものに「理」を求め、それを医学的や動物学的な「論理的証拠」で証明したいと常に思って取り組んできました。以降の論調はこの手法に基づいて論じています。そのつもりでご理解ください。

次回は、堅い話にはなりますが、本来無い筈の「時間の逆行」の私観を述べてみたいと思います。

上記の事にも関わりますので、ご留念下さい。

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