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:「青木氏の伝統 19」-「商業組合と提携商人」(「青木氏と郷士衆との関係」)」 


[No.337] Re:「青木氏の伝統 19」-「商業組合と提携商人」(「青木氏と郷士衆との関係」)」 
投稿者:福管理人 投稿日:2015/12/30(Wed) 08:27:51


>「青木氏の伝統ー18」の末尾

> これから察すると、江戸時代では、“「氏の背景力」”と成ったが、この「荷駄頭」と「物見頭」の繋がりで、その「シンジケートの首魁」に連絡を通して、その首魁から、土地の「領主」に話が通り、組織を必要な様に動かした事に成ったらしい。
> 「伊勢シンジケート」の出自は、多くは、「室町期の豪族」や「土豪族」や「郷士族」が戦いに敗れ、海山に逃亡して「裏の社会」で生き延びた者達であり、これらに「経済的支援」をしてその見返りに警備や運送屋や廻船業や殖産や営業等の手助けを請け負って貰い定期報酬とは別に、その都度の報酬を渡し連携をしていた。
> 次第に血縁関係も結ばれ、何時しか「青木氏族」の一員化して生き延びた者と、その配下や農民やあらゆる職能の人たちで、江戸期には、「ある程度の経済的潤い」と「必要な力」を持ち合わせて「表の社会」の一員の立場も持ち合わせ乍ら「二つの顔」を以っても働くように成った。
> この「組織の範囲」(「松阪組」と「射和組」)は、明治期の初めまでの結果として観てみると、美濃から信濃を経由して、諏訪から甲斐の領域までを範囲としていた事か判る。
>
> これは「和紙」と「神明社」と「青木氏菩提寺」の関係からは元より、各地に起こった「農民一揆」の「経済的支援」をしていた事の記録からも頷ける。
> 取り分け、「宗教絡み」の「甲斐百年一揆」と呼ばれる一揆にも「伊勢シンジケート」を通して「経済的支援」をしていた記録からでも判る。
> 傾向として可成り「中部東域」にそのルートを伸ばしていた事も判る。
>
> 中には、「伊豆勢力」(伊勢信濃青木氏族の末裔集団)と、滅亡した「駿河源氏の末裔族」が編成していた「駿河水軍」との連携を持っていた事も記録から読み取れる。
> これは「伊勢水軍」が、「伊勢シンジケート」の一員であった事からの平安期からの連携が遺ったものと観られる。
> 連携で云えば、多くの「商い記録」が遺る“「瀬戸内の支配権」”の持つ廻船業を中心とした「秀郷流讃岐青木氏」との連携が目立つ。
> 「伊勢シンジケート」を全網羅するには、「別の論文」が充分に成り立つのでここでは、下記に「松阪商人」の「(射和商人) 射和組」に付いて触れて置いてこの程度の範囲とする。


伝統―19

・「商業組合と提携商人」(「青木氏と郷士衆との関係」)
この「商業組合」と「郷士衆との関係」(「射和商人」)に付いては、前段で論じた経緯から観ても、江戸期からの「二つの青木氏」の「生き様」を説くには決して欠かす事の出来ない要素なのである。
(唯、前段までの「伝統シリーズ」をお読み頂く事がより理解を深められ事に成りますので是非先ずはそちらからお読みください。)

取り分け「伊勢域」のみならず、「美濃」を除いて「信濃」、「甲斐」、「摂津(近江系)」(美濃と近江は平安末期滅亡)域に定住する「二つの青木氏」と、「武蔵国域」を始めとする「秀郷流青木氏の主要な15地域の青木氏」に執っては、「欠かす事の出来ない要素」又は「伝統」であった。
江戸初期からこの「射和商人(伝統シリーズ-20)」と同じ立場を持つ「関係商人の集団」が主要な「青木氏定住地」には「青木氏」と連携しながら必ず存在して居たのである。
他にこの事に付いて「青木氏」の何らかの記録に遺る地域では、この記録から観ると、「連携地域」は「15地域」も在った。
その下記する「青木氏」が始めた「商業組合」とその「連携商人」は、次ぎの通りである。

「15地域」
讃岐、伊予、安芸、尾張、駿河、伊豆、相模、越前、若狭、越後、米子、阿波、筑前、肥前、陸奥(伊勢 紀州は除く)

以上の「青木氏」に関わる「15地域(A)」に、「青木氏」が自ら「商人」と成ったものも含めて、この“「提携商人」(関係商人の集団)”が存在して居た。

そもそも、この「15地域」に付いては、”アッそうか“と云う事に成るかも知れないが、それはとんで無い勘違いなのである。
では、「青木氏」を語る上で “どれだけの意味を持つのか”と疑問を持つが、当時としては他を圧倒する“「大変な地域数」”とその“「大変な地域力」”と「地権力」であった。
その“「地域数」と「地域力」「地権力」”と云うものに付いて下記に論じて行くが、「商業組合の提携商人と青木氏」とが「地域に与える影響力」は相当なものであったのだ。
それが、江戸期初期の前後の社会に大きな影響を与えたのであって、これを「青木氏の者」は決して見逃してはならない事なのであり、当に“「江戸期の決定的な伝統」“と云えるのだ。

あくまでも、これ(「15地域」)の設定は、発見された“何らかの資料・記録を遺している”とする事を前提としているので、遺していない地域もあったので、推測では、「青木氏の出自構成」から観て、「20地域程度(B)」には成ると観られる。
更に、他の論文でも論じた“「主要青木氏族 8氏の地域」“として観れば、「提携商人」は、全て「8地域」にも在って、計23地域(A-1)、28地域(B-1) と成る考察である。

そうすると、兎も角も、先ずはこの「15地域」を前提とすると、「特別賜姓族」の「秀郷流青木氏116氏」が大きく定住する“「24地域」“と、「皇族賜姓族五家五流24氏」の”「19地域」“(室町期 最終19地域)とである。
合わせて43地域中、現在、記録に遺る地域として、「約30%-15地域」に、この“「提携商人」(関係商人の集団)”が確実に存在して居た事に成る。

この「30%-15地域」の「提携商人」が、「青木氏」と共に“地域に対して“「経済的背景」”と成っていたのである。
とすると、これを下記に示す通りに、同じ様に地域(21)に対して“「経済的背景」”と成っていた「青木氏」が関わる“「一揆地域」(下記)”と重ねて考察すると、更に「証拠力」が増すだろう。

そこで、詳細は下記に論じるが、明治期までの”「一揆」”と云う観点からで観ると、「21地域」と成る。

何故、この”「一揆」”と云うものが「15地域」と同じ様にパラメータに成り得るのかと云うと、”「一揆」”には、”「一揆」”と云うと「空腹」では無し得ない。
それを実行するには、必ず「経済的背景」が無くては無し得ない。
つまり、従って、この”「一揆」”も「青木氏」が「経済的背景」と成って援護していた環境下にあって、上記の「提携商人」で観ると「15地域」、「一揆」で観ると「21地域」と成る。(下記)

これらも「同じ地域環境」で「何らかの形」で強く“「経済的背景」“と成って”「民の行動」を援護していた“のであるから、”この差は一体どうなのか”と云う事に成る。
依って、これに「青木氏」が関わっていたのであるから、本来であれば数字的には同じ程度である筈である。
然し、同じ様にこの地域に対して「経済的背景」と成って居乍ら、この差の「6地域」(21-15)は、何で起こっているのかである。
本来であるならば同じ程度である筈だ。

結論から云うと、この「6の地域差」は、“「提携商人の定義」の差”であって、つまり、「定義外の形」(下記)で提携していた「商人」が居た事に成る。
所謂、「定義外の形」,これが他氏には観られない「青木氏」だけに関わる「提携商人の特徴」なのであって、「重要な伝統」の「一つの差」なのである。

何はともあれ、この「21地域の一揆」とは、上記の「推測の20地域」≒「一揆の21地域」とほぼ既に一致している。

従って、この「推測とした地域」(定義外の地域)は、上記の通り「5地域」である事に成る。
つまり、「推測していた地域」が含んでいた事に成る。

要するに、「推測5地域≒地域差6地域」の「関係差」と成っている。

恐らくは、この「関係差」が出ていると観られる。

そうすると、次ぎに、この“「推測とした地域 5地域」”とは、“一体何か”という事に成る。

その前に、15地域には、「青木氏定住地、即ち、青木村」がある事を述べて置く必要がある。

然し、この“「青木村」”は、何度も論じているが、そもそも「嵯峨期の詔勅」と、「青木氏」の50程に成る「慣習仕来り掟の使用の禁令」で、この「慣習」の一つと成る「地名」に対して、一般に対して使用を禁じた。
且つ、「氏名」を元とする「地名の使用」も禁じられていた。
そして、共に「青木氏の氏名の使用」も禁じられていて、明治3年までこの原則は護られた。

従って、“「青木村」”があるところには、“「真の青木氏」”が必ず存在し、且つ、この“「商業組合」と「提携商人」”も存在して居たのである。

この「青木村」の詳細は、「地名地形データベース参照」としては次ぎの様に成る。

「古史資料ベース」としては、「青木村」は「75地域」、「現地図の地名ベース」では「109地域」である。

この内訳は次ぎの通りである。

(注意 現在の都道府県名で呼称するので「地名」が分断している事がある。
「数字」は必ずしも大きさを示さない。
「複数」は「青木村」が本家地域と分家地域で「複数の村」があった事を示す。
「1の数」には、複数地域よりも「広さ」では大きい事もある。)

青森 1、岩手 2、宮城 17、福島 2、茨城 2、栃木 1、群馬 1、埼玉 3、千葉 3、
神奈川 1、新潟 5、・富山 1、・長野 8、岐阜 2、静岡 3、愛知 21、滋賀 1、京都 2、
・兵庫 3、和歌山 1、鳥取 1、岡山 1、広島 3、山口 1、徳島 4、香川 2、高知 長崎 1、 福岡 4、熊本 1、・宮崎 1、鹿児島 1 

以上の「101の青木村」が「現在の地名」で在る。

(注意 「三重 6(地名含む)」と「南和歌山 2」は除く。・印は、「皇族賜姓族青木氏」の「伊勢と信濃と近江」の「商人 2」を含む。 計「全109村」)

「秀郷流青木氏の特別賜姓族116氏」に、「皇族賜姓族青木氏の19氏」で、「二つの青木氏」とは、そもそも「135氏」である。
然し、現実には「二つの青木氏」は、室町期末期では最終「121氏」であった事から 現在地名の「全109村」(三重南紀含む)とすると、「青木氏」では「氏=村の関係」があったので、室町期末期では「12の差(121氏-109村)」が出ている。

平安末期から観ると、「26の差(135-109)」、 古地名では「60の差(135-75)」であるので、「嵯峨期の詔勅と禁令」に依り「青木氏」にだけ限られる「氏=村の関係」から「消滅」が「最大 26村」があったと観る事が出来る。
この主原因には、「源平合戦」にて「青木氏氏是」に従わず、二度も「戦い」に参加して「近江と美濃と滋賀と駿河の青木村」が消滅した事に在るだろう。

「青木氏]と云う「特定の氏の共通する村」が全国にこれだけある事の事態が稀を超えて特異である。先ずは無いだろう
それだけに、この「109村、或は、75村」の持つ意味は計り知れなく大きい。

兎も角も、現在地名では「青木村」は、正式に「109村」で、江戸期前の地名では「75村」、現在の地名で、「青木氏族」を含めた形で観ると、上記した様に、計23地域(A-1)、28地域(B-1) に成る。
従って、平安期末期と江戸期初期の両方から観ても、「村の地域」と云う点から少なくとも「26地域」には「青木村」があった事に成る。

計23地域(A-1)<「村 26地域」<28地域(B-1) 

唯、考察での問題は、「永嶋氏」の様に、この「青木氏族の絡み」が、“「109村」、或は、「75村」にどれだけ組み込んでいるのか”は,なかなか判定が難しいのである。
と云うのも、「秀郷流青木氏」の「青木氏族」は、「商業の関係」でも可成り「親密な関係」にあって、分離して判別する事が難しいのである。
中でも、前段でも論じた様に、「伊勢の長嶋氏」、「薩摩の肝付氏系長嶋氏」等では明らかに「青木氏」と「商業の関係」を持っていた事が資料から判っている。
そもそも、他の論文でも論じた様に、「青木氏」が「第二の宗家」で「青木氏族」を取り仕切って居た事にあるからである。
取り分け、筆者が観る処では、「永嶋氏」が最大に「青木氏」と関わっていた事に依ると観ている。

資料にしても「青木氏と永嶋氏の関係資料」が最も多く在り、且つ、「親密度」も互いに出自が同じで「兼行系」であった事から親交が高かった。
又、「青木村」の存在する処には、必ず「永嶋氏」が定住している史実が在る事から、更には、主要5氏の中でも「子孫拡大」でも最大である事からで、本論の「提携商人の関係」にしても「商い」で繋がっていたのである。

(注釈 「永嶋氏」はその意味でも「関東屋形」と呼ばれていた。)

(注釈 事例として前段でも論じた様に、秀吉から攻められた「結城氏(永嶋氏)」の「陸奥の戦い」にも「伊勢秀郷流青木氏」が、「伊勢長嶋氏」と共に参加して、背後から攻め立てて「永嶋氏系白河結城氏」を秀吉から救っている。
この戦いは「秀吉最大の失敗」と呼ばれた。)

前段で論じた様に、その「典型的な証拠」に「伊勢」があり、全ての上記の要素を持っている。
「佐々木氏の資料」を観ても、「青木氏と永嶋氏の関係」に付いても論じている位である。

最南端の鹿児島でも「氏」として「二つの青木氏と永嶋氏の関係」があって、「大蔵氏族肝付氏系永嶋氏」が「薩摩藩の御用商人」としても働いていて、「材木商」や「雑貨関係」としても「二つの青木氏」とは“「横の関係」”で繋がっていた事が判って居る。
関西と中部域で「青木氏との商い関係」でその行動記録がある。
唯、内容から薩摩側では、「御用商人」が大手を振って「商い」をしているのではなく、特別に配置された、所謂、“「永嶋氏の者」(要するに「本論の提携商人」に成り済ました)”が動き、「姓」(長嶌姓)等を変えても「隠密行動の様な商いの仕方」をしていたと観られる。
それだけに事態は掴みにくい記録であった。

(注意 ここでは、兎も角も「青木氏の提携商人」として単独で論じているが、お読み頂く場合は是非に重層してこの“「横の関係」”があったとして幅広く想起しながらご判断頂きたい。)

(注意 依って,現地名「109村」には、「市町村合併」や「歴史的変化」にても「青木村」、或は、「青木の地名」が、残念ながら少なくとも”「12の消滅」”をさしている事が確認できる。
これが、上記の「近江と美濃と滋賀と駿河の青木村の消滅」と成るだろう。)

但し、現在の47度道府県として、この「26地域」(135-109)には、「青木氏」に関わりの無い「青木村」があり、「村」では無い「単なる地名」もあり、明治後の「第三青木氏」の「青木村」もある。
依って,これ以上の結果とは成らず、「26地域-地域差6地域」と成る。

この「三つの要素」を取り除くと、江戸期の「66国」中では「75村」と成るから、これも同じ“「26地域の村」”と成る。
この「26地域」は、「青木氏族」を加味した数字の「28地域」に一致する。
依って、この「青木村の数」は、明らかにこの「28地域」を超えない事が判る。
「一揆の地域差6」を勘案すると、「22地域の村」と成る。

つまり、「26地域から22地域」と成り、この中間として「秀郷流青木氏の定住地」の「青木村」の「24地域」は定まる事に成る。
これに「皇族賜姓族青木氏」の「青木村 6地域」を加算しても「28地域」を超えない事が判る。
このデータの信憑性は極めて高い事に成る。

この「26地域から22地域」の「青木村」には、それぞれの“「青木村の由緒」”があるので、一概には言えない。

然し、但し、次ぎの6県は「15地域」の中でも特別である。

愛知 21、宮城 17、長野 8、新潟 5、福島 2、埼玉 3

以上の6県は、確かに「青木氏の主要地」であることもあって、「複数村/県」で、「多数」あって、大きさも「広大」(地権力)であった。

この「6県」の「青木村」の持つ「地域力」、又は,「地権力」というものが如何に大きかったかが判る。
つまりは、「商業組合」「提携商人」の「存在と活動」が半端では無かった事を意味する。

その「大きさ」の持つ意味を一つの形に表すならば、一種の“「青木氏聖地」の様相を呈していた“と云っても過言では無い模様であった。

そうすると、これだけ大きければ、「正規の藩主」では無いが、軍事的に、経済的に、政治的にも握っていたのである。
この「青木氏」が“「民」を援護した”と成ると、伊勢域の「射和商人」の様な「商業集団」を作り、これが「商業組合」を作ったと成ると、「為政者」にとっては「最大の脅威」であった筈である。

この6県の「江戸初期の藩数」で観て見ると次ぎの様に成る。

6県の江戸初期の藩数
愛知 5(尾張藩)
宮城 2(仙台藩)
長野 18
新潟 18
福島 9
埼玉 20

如何に小藩がひしめいているかが判る。
因みに、御三家の「尾張藩」と、伊達氏の「仙台藩」を除き、6県の「江戸期初期の藩」は以上の様に「小藩」がひしめき合って配置されていた。
これでは、「青木村の青木氏の地域力」、又は、「地権力」を凌ぐ程の藩は無かった事に成る事は明らかである。

そこで問題は、「愛知の尾張藩」と成る。
検証して観ると次ぎの様に成る。

そもそも、御三家の「紀州藩」と対抗したのは「尾張藩」であった事は有名で、「伊勢青木氏」が吉宗に同行して「享保改革の政策」を押し進めたが、これに異議を唱えたのは「尾張藩」で明治維新まで「伝統的な関係」にあった事は有名である。
その関係に在りながらも、それでも「地域力」や「地権力」を示す「青木村」は「5村」も在った。

では、その「5村」とは、1郡に相当し、1郡は1国5郡とすると、「1/5の面積=地権」に「地域力」「地権力」を持っていた事にも成る。
この「地域力」「地権力」は、例え「藩主」であってもこの“「地権」(地主)”を持つ地域に対しては「治外法権的な意味合い」を持ち、この「地権」に対する税を納めれば「自由な差配」できなかった制度であって、現在の「固定資産税」に近いものであった。
多くは「青木氏」の様に江戸初期で観れば、平安期からの歴史を持つ「20弱程度の氏族の郷氏」にあった。
「地権料」を支払う代わりに「土地」に対する「自由権」を補償されていた。
要するに、民から観れば、先ずは「藩主様」より「地主様」であった。

この「地権」の無い所は役所に届けて承認を得なければならない。
そうすると、果たして、この「尾張藩」は、この「1/5の面積=地権」で占められていた事に成る。
例え藩主であっても自由にはならない地域が1/5あったのである。
ここに、「商業」から得られる「莫大な経済力」も持ち得ていると成ると、これでは明らかに「藩主以上」と云う事に成る。
民に執っては、心情的には「経済的」に何だかんだと面倒を看てくれ援助してくれる「地主様」の方が親近感が湧くが、税を採られる「藩主様」では無かった事に成る。
それが「御三家尾張藩」である。(紀州藩と藩政が違う)
「自尊心」と「権勢欲」が強い藩主であれば、夜も眠れない事に成るだろう。
「尾張藩」を除いては最早問題では無い。

「埼玉の20」は、秀郷一門一族の武蔵の地元である。論外であり、当然の結果であり、「地主様」である。

これで、他の9県もどの様な状況であったかは推して知るべしで判る筈である。

では、「紀州藩」が推し進める「商業組合-提携商人策」に対して「藩主側」が反抗し得る立場を持っていたかは疑問である。
とすると、「反抗勢力の吟味」と云うよりは、下記する「家康のお墨付き」「地士制度策」にどの程度の「効き目」があったかの「検証問題」だけは残る。
然し、現実には推し進めたところを観ると、矢張り黙認せざるを得なかった事に成る。
下記する「7年」から推し量ると「最大効果の効き目」があった事に成る。

況して、「尾張地域の周囲」は、他県と異なり「秀郷一族一門」と「片喰族と州浜族の秀郷流青木氏」で固めていたのであって、「家臣の大半」はこの一族であった事から、なかなか難しかったと考えられる。
「尾張藩」としても「金子借料の件」もあって「青木氏の豪商」に文句を附ける事などは難しかったと観られる。

(注釈 「吉宗の経済政策」に尾張藩は異議を唱えたが無謀が過ぎて、結局は「藩主退陣」に追い込まれている。)

因みに、この「6県の範囲」で観て見ると、「尾張藩」を含めて「72の各藩主」が、これを無理に抑え込もうとした場合は次ぎの様な事が起こる。
果たして、この様な事をするであろうか。
それこそ「藩政未了」として幕府から潰されるが落ちであったであろう。

その「典型的な最大事件」が、同じ江戸期初期に讃岐伊予域の「青木氏の定住地」で起こっていたのである。

その「典型的な事件」が、「山内一豊の土佐事件」である。歴史的にも有名である。
「伝統シリーズ」でも論じたが、土佐に平安期の古くから住む「讃岐藤氏の青木氏等」の「郷士や郷氏」が此処に定住している。
その「地権」や「商業」などの「地域力」「地権力」を持つ「郷氏や郷士」を、思うが侭に「支配権」を獲得しようとして藩主と成った「山内氏」は、これらに対して「武力に依る攻撃態勢」を採った。「自尊心と権勢欲」が強くて夜も眠れなかったのであろう。
そこで「激しい抵抗戦」が長く起こり、結局は、「最終談合」と云う形で城に一族を含む「郷士と郷氏」の全員を招き入れて、そして何と閉門して「騙し討ちの殲滅作戦」を採り全滅させた事件が起こった。
これに依り土佐に「抵抗勢力」は無く成ったが,本拠の讃岐域では「讃岐青木氏」は健在であった。
この遺恨は「讃岐青木氏」に遺った。

この様に、「移封藩主」と主に「地権を大きく持つ郷氏」との間は「犬猿の仲」であった。
何処でも例外なくその原因は、藩主に取っては「地権と商業と結びついた地域力や地権力」が邪魔であったのである。
この「15地域」でも例外では無く、上記の「主要6域」(6県)は当に特別であった。
この様な事件は「15地域の青木氏」でも例外では無かった。
むしろ、「地権力と地域力」のみならず、更には、もう一つあった。
それは“「氏の格式」”には「格段の差」があった為に,「移封藩主」にとっては手の出し様が無かったのである。

(注釈 この「格式差」が物語る事としては、前段でも論じたが、「伊勢青木氏の口伝」で伝わっている様に、紀州徳川氏の頼宣さえも面談時は、上段の座)を外した作法を採ったくらいのものであったのである。)

下手をすれば、特に、上記した愛知 21、宮城 17、長野 8、新潟 5、福島 2、埼玉 3の6国では、江戸期初期であっても、藩主側は、未だ「賜姓族」としての「不倫の大権」をかざされて「朝敵の汚名」を被る恐れもあった。

そこで、その「移封藩主の脅威のレベル」では、「秀郷一門」は,前段でも論じたが、家康が一目置くほどに全国規模で展開する「軍事力」を持っていた中で、「秀郷流青木氏」はその「第二の宗家」と呼ばれる様に「一門の指揮権」を備えながら、「二足の草鞋策」としても「商業」にもその「地域力と地権力の勢力」を振り向けていたのである。

これに、平安期から「古氏」であった事から、その「広大な土地利権」をも持っている“「郷氏」”でもあったのである。
そして、それが“「商業組合」”として、“「提携商人」”を作り出して、「軍事力」は元より「経済力」にも「途轍もない幅」を利かせていた事に成る。
「単なる大名」や「豪族」が、例え「為政者」として「藩主」と成ったとしても、これでは到底、力の及ぶところでは無かった。
その「青木氏」が幅を絶大に利かした地域が「15地域」もあったと云う事に成る。
但し、全国の30%程度に、この「勢力」、即ち“「地域力」「地権力」”を誇示して居た事に成る。

中でも「最大の地域力と地権力」を示しているのが下記の県である。

愛知 21、宮城 17、長野 8、新潟 5、福島 2、埼玉 3

その以上の6県は、次ぎの様に成る。

「尾張(三河)」、「 陸奥(陸前)」、・「信濃」、・[越後]、 「下野(岩代)」・「武蔵の国」

以上とは成るが、元よりここは「秀郷流青木氏の主要国」でもある。

如何にこの地域にその“「地域力」「地権力」”が及んでいた事かが判る。

これで、前段の「秀吉-家康の関係」から関東に移封された「家康」が、採った秀郷一門に敷いた施策の妥当性が良く判り、「武力」では無く、「青木氏の提案」の「商業組合の提携商人の創設」を戦略的にも目論んだ事でも判る。
山内氏の様に「武力」に依らず、前段でも論じたが、この“「地域力」「地権力」“を利用する”「懐柔策」“に出たのである。
然し、この“「地域力」「地権力」”に対して、これに対してどんなに大きな「藩主」であっても、公然と軋轢を掛けて潰そうとしても出来ない事であり無理であった。
この事は、“「商業組合」”の基と成る“「提携商人の創設」”は、「伊勢紀州」から「15地域」に「短期間」で広がった理由でもあった。
資料の範囲では、最大で観て見ると何と“「7年間」”である。

この“「7年間」”を吟味すると、先ず「商業組合」を伊勢で始めたのは、「蒲生氏郷」が嵯峨期から禁令で有った地域の松阪に禁令を敢えて破り、先ず「政庁の松阪城」(1588年)を作り、その城下を商業都市化した時に、「青木氏の本領安堵」と共に「屋敷町の3区画」をも与えられた時からである。
先ず、ここで「商業組合の基礎作り」が始まり、この城郭を引き継いだ「家康」が、この「頼宣」(1619年)に「紀州と伊勢」の統治を任せる直前に、「青木氏との談合」を数度重ねている。

前々段でも論じた「青木氏の商業年譜」から観て見ると次ぎの様に成っている

1612年に「合力談合」。
1614年に「伊勢衆談合」。
1615年に「伊勢衆動員」。
1615年に「堺摂津盛況」。
1619年に「松阪会談」。

1612年に「夏冬の陣」で「家康の要請」に応じて「談合」で徳川氏に合力する事を決めている。
既に、「家康」とは既に1603年と1605年にも「談合」があった。
「頼宣」が紀州藩に正式に入城したのは1619年で、その前から既に「浅野氏の紀州の政情」を調査するなどの“「事前行動」”を、家臣を秘密裏に送って数年前から探って採っている。
つまり、この事から、「家康」は「夏冬の陣」の頃から「頼宣」にここを任す事を密かに決めていた事に成る。
勝利したから決めたと云う事では無い事が良く判る。
つまり、「戦略的地域の要衝」であった事に成る。

五大老に成り「征夷大将軍」に成った時点で、「徳川氏盤石の礎」を築く為に、「地理性と環境性」(青木氏等の地域力)から判断して、この「紀州伊勢域」に一族を置く事を企てていて、「事前調査」(政情調査)をした事に成る。

だとすると、この結果から観て、従って、1615年までには「青木氏の提案」を受けている筈である。
この直前(1613年頃)の時前に、この「青木氏の提案」があったと観られる。

その後に「家康」が没する1616年までに,この計画は既に進められていた事が年譜から判っている。

1603年に「伊勢談合」。
1605年に「松阪面談」。
1606年に「伊勢談合」。
1607年に「四家安定」。
1612年に「合力談合」。

依って、「初期計画」は1588年頃に始まり、1603年に「伊勢談合」により、1605年「松坂面談」の頃には「暗黙の了解」が得られ、1606年に「伊勢談合」で、伊勢紀州域の郷士衆や商人や農民や職能者に説得工作を開始して、1607年に「四家安定」で氏内が混乱していたが、説得が効を奏して、上記の1612年の「合力談合」では、「伊勢紀州の態勢」は「商業組合」を暗黙で容認する「徳川氏」に決まり、この結果として、家康没直前の1613年後半期には本格稼働させ、「頼宣入城」の1619年で、15地域に「頒布稼働」させ終わって居た頃に成る。
従って、1612年から1619年の“「7年間」”で大方広め終わっていた事に成る。

つまり、この期間から観て、“「頼宣入城」までには、整えておく”と云う「密談事項」が家康と在ったと観られる。
それが、資料からすると、これ以外には談合は無い所から「1612年の時」の「合力談合」で行われていた事に成る。
「合力」と同時に行われたとすると、「家康」は豊臣側に勝つ事を前提にして事前に打ち合わせていた事に成る。
「青木氏側」にしても、「合力の見返り」が、“何もない”では周囲を説得し押えられなかったと観られる。

だから、「1607年の四家安定」とある事に成るから、四家が急激に安定する事は無い筈で、徐々に1612年に向けて「安定」と云う方向に向かって繋がっていったのではないかと観られる。
これは、明らかに「提案」が、「商いに繋がる事」として、“「合力の見返り」”に在ったと考えられる。

この「初期計画」から観て、その期間は31年で、「中期計画」までは14年とは成るが、この時期では「商業組合の体制」が、”充実した状態で完全に整った”とは云い難く、それはこの「商業組合の提携商人」の「関わり方」に未だ問題があった様な印象である。

つまり、“充分では無かった”と関係する各種の資料、取り分け、「越前からの手紙」からの判読で読み取れる。
“「1619年頼宣入城」までに間に合わす”と云う「大前提」があった事から、「7年」と云う形である程度の上記した様な読みもあったが、それにしても“いざという時の「怪我」”を覚悟で急いだと観られる。
可成り急いでいるが、この時の「青木氏や郷士衆等の生き様」が読み取れる。

其れの決定的な証拠としては,下記に論じる“「江戸初期の一揆の様子」”である。

「江戸初期頃の青木氏」が関わった「一揆」(下記)を抜き出すと次ぎの通りである。
・1603年滝山一揆
・1608年山代一揆
・1614年北山一揆
・1615年紀州一揆
・1677年郡上一揆

先ず、1603年の土佐で起きた「滝山一揆」で、上記した「讃岐藤氏の末裔郷士」と「讃岐青木氏」が関わった「郷氏 郷士連」と伊予讃岐を挟み「土佐の農民の一揆」が在った。
要するにその最終は、上記した「山内一豊の事件」である。
この「一揆」で「讃岐青木氏」は大きな痛手を負った。
そして、後々にまでこの遺恨は遺ったのであり、その後に「小競り合いの問題」も伊予と讃岐で起こしている。

ところが、この後、続いて「讃岐青木氏」に影響を与えたのが年を置かずに起こった1608年の「山代一揆」である。
そもそも、この1608年の「山代一揆」は、安芸国の国境で起こった「農民の一揆」で、毛利氏の農民に対する重税率(73% 本来は40%程度 四公六民)が異常であった事から3年間も起こったもので、「讃岐青木氏の勢力」が安芸に延び,その「末裔の商人」とその関連する「地域の住民」に影響を与えた。
結果として、これが「商業的な地盤」に影響を与えるとして重視して、経済的に背後に居たと云われている。

次ぎには、少し開けて3年後に起こった紀州南紀の1614年の「北山一揆」は,特に「南紀の熊野全域」で起こった「一揆」であり、結局は南紀から南伊勢の全般に拡がった農民を巻き込んだ地域の土豪の「一揆」(乱)であった。
要するに、「秀吉の紀州征伐の反動」である。
この反動は「頼宣入城」の直前の何と1619年頃まで続いたのである。

起こった地域が一般には「南紀」としているが、現実には紀州全域と伊勢全域に影響を及ぼしていた。
それは、この「一揆」を制圧しようとして派遣された「秀長の掃討軍」(紀州領主)が、伊勢紀州の地場産の「材木の販売」に加担して莫大な利益を上げていた事から事件が拡がったのである。
「一揆軍討伐」どころか「商い」をしてしまったのである。
それも最初に派遣された「秀長(秀吉の弟)の討伐軍」、そして、天正の二度目に派遣された秀長家臣の吉川の「紀州征伐の討伐軍」も何と共にである。
この事で結局は「一揆討伐」はひとまず放置された。
この不思議な“「猶予期間」”が起こり、更には後に、秀長から改めて討伐を命じられた家臣で「紀州湊の領主」も同じ事に成ってしまった。

(注釈 この天正末期の行為が「秀吉」に伝わり「弟秀長」は「蟄居」、家臣の吉川は「打ち首」(さらし首)と成って、一揆は一応は挫折した。
この後の慶長期にも燻り続けていて「北山域山岳部」で直ぐに紀州一揆が再発し起こる。天正期からこの一帯で起こり続けた一揆は「北山一揆」と仮称されてはいるが正式な呼称では無く、総じて「紀州一揆」であり各地に継続して飛び火して行ったものである。)

これは、“材木販売等が二度も何度もある”というのは“何かおかしい”。何か策略を感じる。

そこで、この“何かおかしい”を説く為には、前段でも論じたが、次ぎの事を思いだす必要がある。
この一帯は、そもそも「伊勢青木氏の遠祖地」でもあり、「和紙の素材」等を栽培している地域でもあって、且つ、その地の「南勢の郷士衆」は「伊勢青木氏」に大きく関わっていた事からも、又、所謂、「青木氏部の郷」でもあって、「一揆に加担した南勢郷士衆」が「青木氏」に大きく関わっていた事から「伊勢青木氏」は絶対に放置できなかった。

一方では、青木氏は「商業組合の問題」も抱えていて“てんてこ舞い”であったが、「一揆」を“後回し”と云う事には成らない出来事であった。
それだけに、「一揆の経済援助」だけでは済まなかったと考えられる。
先ず足元を固める事が専決事項であった。
「青木氏」は、先ず「伊勢シンジケート」を熊野山岳部に動かし牽制して、この「紀州の一揆」を側面から援護しながら「討伐軍」を牽制して一計を案じたと観られる。

そもそも、これは、最早、紀州で起こった全てこの一連の「一揆」は“「一揆」”と云うレベルでは無かったのである。
最初は秀長や吉川等の重臣等が多く討ち死にすると云う程のもので、「伊勢シンジケート」に依る山岳部や河川域で起こる「ゲリラ戦」も含めて「完全な軍と軍との戦闘」であった。

それが、地域を限定した「反抗の一揆」ならば、「伊勢シンジケート」で牽制してまでは行わないだろう。
要するに、そもそも戦い方が一揆では無い。当に「乱」であった事から、「青木氏」が採るべき事は決まっている。
それは「否戦闘の常套戦術」である。
この「常套戦術」が、この「伊勢紀州の地場産」の「材木の販売」等が「青木氏の戦術」であったと観ている。

当時、記録で観て見ると、「一揆」と時を同じくして、世の中は安定化に向かっていて、材木等の資材が“「大阪堺摂津」“で高騰し始めたのである。
取り分け、不思議に「紀州の檜の材木」が一挙に高騰し始めたのである。
当時では、未だ、武士や市民の住宅建設」までの安定期には至っていない。
にも拘らず「堺摂津域」では高騰している。

これは「信長の伊勢攻め」の「丸山城の焼失作戦」と明らかに同じ手口である。
つまり、前段でも論じたが、「伊勢青木氏の商業記録」に遺る史実であるが、「堺摂津の紙屋」が資材を織田軍に調達する役目を請け負ったが、この時に採った「丸山城築城に伴う資材高騰の作戦」があった。
同じ様に、この時も「信長」の息子の「信雄」が、「信長」に重臣面前で罵倒され蟄居を命じられている。
つまり、「掃討軍」に「商い」に誘い込み「利益」を挙げさせて、遂には「表沙汰」にして「失脚させる戦法」に出たと観られる。
両方は全くそっくりである。

この「青木氏の常套戦術」の其れに依って、起こった「一揆」(乱)に対して「青木氏」としては「短期にして最小限度の被害」に留めようとしたものであったと考えられる。

これは、1603年から始まり長引いた“「天正の紀州討伐」”に続いて、燻り続け「小競り合い」の続く中で、この1614年に再燃した“「北山一揆」”に続き、再び続いて起こった同じ紀州で別の1615年の「北山域」を含む“「紀州全域の一揆」(紀州一揆と呼称)”は,未だ「紀州征伐」の「憤懣の爆発」が解消せず、「各地の郷士から農民全般」に紀州から伊勢の一部に掛けて全土に拡がった「大一揆」(乱であった)であった。

そもそも、この「南紀州域と南伊勢域」は、前段でも論じた様に、「龍神域」から「戸津川域」、そして、「北山域」等の「紀伊山脈山岳部」は、「平家落人の里」として鎌倉期からも「有名な山岳地域」で、ここに“「紀州郷士衆」”が住んでいた処である。
この「地域の農民」と云えども元はれっきとした“「平安鎌倉武士」”である。
寄せ集めで武士に成った「豊臣家の武士」では無い。
戦えば、当時も「一騎当千の力を持つ戦闘集団」であった。
時には常に鍛錬して「傭兵軍団」に成った経歴を持つ。
(現在でも「戸津川郷士の剣道」と云えば全国優勝する程である。)

この「一揆側」には、上記の「郷士集団」が結集し「3千の兵力」で当たり、これに「農兵軍 一千」が加わり、更には「「伊勢シンジケートのゲリラ戦闘員 一千」が加わったとされている。

これは「一揆の戦力」を理解する上で、どれ程の「郷士」が集まったかと云えば、「一人の郷士」に「20人の家人」が居たとして、「150人の郷士」が集まったと云う事に成る。
前段でも論じたが、この「伊勢紀州域」は、奈良期からの悠久の歴史を持ち、「遷宮のお膝元」として「不倫」で保護されていた事もあって、「争い」は少なく、「郷士衆」も少ないのである。
他国の平均が500強と論じたが、それから観ると少ない伊勢紀州域ではほとんどの「郷士衆」が参加した事に成る。

それに、元は「平家家人」であった「元武士の者」等が「農兵」として参加した数が一千とすると、一郷士の下に6人が加勢している事に成る。
「郷士」も「農業の環境下」にあって、「青木氏に依る殖産」に中心と成って従事していたのであるから、「農兵と成る6人」は、「村の農民」の戸主半数が参加した事に成る。
「農兵の村の農民」は「村を護る事」から全員が加勢する事は出来ない。

この「二つの吟味」から、伊勢南域と紀州域とすると、要するに、“「総掛かり」”であった事に成る。
これに、「伊勢シンジケート」が伊勢紀州域から非常事態として集合した「常時戦闘要員の一千戦力」とすると、「伊勢シンジケート」は、信濃域を除いて、「7軍団」居たとされている。
各地に配置している「一軍団」に「200人から250人のプロの戦闘員」(伊賀忍者の様な集団)が居たと成っているので、5軍団/7軍団の相当で集合した事に成る。
「留守居」を置いて「伊勢紀州域の全軍団」がこの時とばかりに集合した事に成る。

恐らくは、最近、「郷士の家」から発見された手紙に依れば、「信濃域」からも合力している事は確実である。

(注釈 これらの「物資補給」や「シンジケートの特別手当」などの「賄い」は「青木氏の資力」からの援護に依る。)

「青木氏」は、片手に「15地域の商業組合の推進」、一方ではこれを覆す程の事が起こったのだが、これを観ると、「500万両と云われる総力」を掛けた事に成る。
「伊勢水軍」と「熊野水軍」が海部域から牽制して動いたと成っている。
何れ「一揆掃討軍」とすれば、山岳域と海部域から挟みこまれれば、補給は陸部だけと成る。
この「陸部の補給」だけでは1万と云われる具の補給は困難で、それを「ゲリラ戦」に持ち込まれれば、「戦費」は嵩み、「掃討」と云う事までは行かないだろう。

況してや、例え、「一万弱の討伐軍」であったとされているが、“「戦力」”としては「平家落人の一騎当千」から“一揆側の方”が遥かに上であったと観られる。
(戦い場所を選ば無くてはならない程に切迫し、「河原の野戦」に持ち込もうとしたと書かれている。)
この事から、秀長の家臣の「湊の住人吉川の戦力」では到底力の及ぶところでは無かったのであって、それだけに出来るだけ「直接的な戦い」を避け,何とか時間を掛けたと観られる。
そこで、秀吉より督促され焦りを見せた秀長が援軍を出し無理押しを強いたのである。
それだけに、記録に遺されている様に、重臣とその家臣が多く討ち死にすると云う「天正末期の一揆」にしては前代未聞の“豊臣側に大きな犠牲”が出した事に成っている。

これを観た「青木氏」は、当然に長期戦になれば遠征側の秀長側に「戦費に対する心配」が必ず起こるとして、この市場で「材木の高騰」を故意的に起こさせて置いて、紙屋が「材木の販売」を持ちかけたと観られる。
「一揆掃討の作戦中」でありながら、その時に何と膨大な”「数万本(2万本)もの材木」”を売れば、罰せられることぐらいは誰でも判る筈なのに、売却したのである。

これはどう見てもおかしいし、「掃討軍の戦費」であって明らかに「青木氏が採った戦略」であった事が判る。
これに載った「秀長と吉川」は、結局は、この件が発覚し秀吉に罰せられたのである。
こうなれば、「一揆処の話」では無い。

そもそも、秀長側は、この仮称「北山一揆」の「上記した様な経歴と背景」は既に知っていた筈で、有名な事である以上知ら無い訳は無い。
何故ならば、上段で論じた様に、この様な事は、既に「秀吉」は「青木氏」との間で「伊勢長嶋の戦い」でも経験しているのであるし、「信雄の丸山城建設の資材暴騰と消失」を目の当たりに経験している事でもある。
未だ、35年前の話でもある。そう忘れる程の昔では無い。

それだけに「持久戦」に成る事は承知して居た事で「戦費」が気に成っていたし、「犠牲」も普通の「一揆の範囲」では無い事ぐらいは判って居た筈である。
秀長は浅野氏の前の紀州領主である。知り過ぎていた筈である。
そして、この地域が「伊勢青木氏の遠祖地」で「関連地域」である事も重々承知していた筈である。
背後には「伊勢青木氏」が居る事ぐらいは知っていた筈である。

同じように「一揆側」にも「戦費の問題」が発生している。
然し、これを誰かが背後で援護している事ぐらいは判る。だから一揆は続く。
又、「相当な財力」を持った者である事も判るし、それを出来るのは「地権者」でもあるし、「伊勢青木氏」である事も当然に判る。
そうすると、ここで“何が起こるか”は予想できた筈で、上記した様に、況して、「青木氏」が持つ「伊勢シンジケート」が動くと「山岳部の補給路」は塞がれる事で犠牲は続出する事ぐらいは判って居た事に成る。
又、「海部域」も「青木氏」は「二つの水軍」を持っている事ぐらいは判っていた筈で、補給路に問題出る事も判る。
だから、「一揆側」を積極的には討伐せずに「九州征伐」に出て一時放置したのであって、秀吉の再三の催促に「三度の遠征」と成り、一時は「首謀者の犠牲」で納まったかの様に観えた。

ところが、放置して「根本的な掃討」としなかった事から、「小競り合い」は永遠と続き、結局は再び大きく成った四度目の1614年と1615年の「紀州一揆」までの「紀州討伐の結果」は長引いて仕舞ったのである。
これは直接戦に成った処か、前哨戦に成った処からの何処からの状況で観るかに依るが、最大で27年 最小で11年と成る。

「青木氏側」から観れば、「小競り合い」が続く範囲で治められていたが、結局は、“長引かせてしまった”と観る方が正しいと観られる。
それは次ぎの年譜でも判る。

「青木氏の商業年譜」では次ぎの様に成っている。

1614年に「伊勢衆談合」。
1615年に「伊勢衆動員」。
1615年に「堺摂津盛況」。
1619年に「松阪会談」。
1620年に「伊勢藤氏談合」。

上記でも論じたが、“1614年に「伊勢衆談合」”でも判る様に、紀州で起こる先の「三つの一揆」でも判る様に、何とか引き伸ばし「一揆不問」の様な形を採ったと思われたが、結局は、又、「一揆」が起こった事に対してどうするかを一堂に集まって「談合」を進めている。
当然に、これは「商業組合と一揆」に付いてどうするかを議論したと観られる。
そして、「一揆の事態」が「小競り合い]から更に拡大した。
そこで、「商業組合」にも直接影響すると観られた事から、1615年に「伊勢衆動員」が行われた。

「天正の一揆」で採った「長引かせる戦略」に対して、1614年の「談合の予想」に反して、「商業組合」と「一揆」に、特に「商業組合」の方に何か「事態悪化」が起こったと観られる。
そこで、兎にも角にも、これらの「一揆」も過激さを増して来た事から、早急に解決する必要に迫られ、「伊勢紀州の伊勢衆の郷士」に「南勢南紀の処置」に、“より援護をする様に”と直接関わる様に督促したのである。
この時に、「一揆」を主導していた首謀者に対し、「伊勢郷士衆」を動かして不満と成っていた検地に依って起こった「環境悪化」に対して、「青木氏」としては「生活環境の改善」などの事を約束しながら「周囲環境」を整えて置いて、「事態の収拾」と「首謀者自首」を説得したと観られる
従って、当然に相手側にも引くように圧力を掛ける為に、奥の手の「伊勢シンジケート」も積極的に強力に動かしたのである。
これで動く事は間違いは無いと観て採った。

それは「南北朝の足利軍に執った2万の飢餓作戦」でも「戦歴史実」が遺っている様に、この「掃討軍」がどう成るかは直ぐに判る。
それを実行したのは当にこの「伊勢シンジケート」である。経験者である。
これで、相手側も、これ(伊勢シンジケート)が動く事は、「補給路」を断たれ、「ゲリラ戦」に持ち込まれるし、事は収拾が着かず「戦費」は莫大に成り、自滅する事は充分に判る。

つまり、“「伊勢は総力」を上げた“と云う事を相手に示したのである。

これに依って、“1615年に「堺摂津盛況」“にもある様に、上記でも論じた様に、それが「青木氏の拠点」の「伊勢松阪」では無く、紀州の下津港等で「物資補給」なども行っていた「水軍」など紀州各地に配置して紀州域を管轄する拠点の「堺摂津」で“「盛況」”が起こった事に成ったのである。
これで「一揆」が終結して、懸念していた「商業組合」にも方向性が戻った事から、再び“「盛況」“を戻した事に成る。

「平家落人の郷士衆(紀伊山脈の山岳部)」の「一揆場所」と、「門徒衆」が中心と成った日高、有田,名草の郡域の平地域での「一揆場所」に参加していた「門徒衆」等と、これを支援していた「北紀州域」と「北伊勢域」をも含む「伊勢と紀州の全郷士衆」が関わった戦いであった。

これで上記で論じた様に、「伊勢の商業組合」の「射和域」で生き延びて行くことが本格的に出来る様に成ったのである。

この間の1603年から1615年まで「上記の戦略」で「紀州の一連の一揆」は何とか下火にさせられたので、「商業組合の推進」は「頼宣入城までの約束」を護る為に進められて行った。

この「紀州一連」の一揆を無理に区切るとすれば、「計五度の一揆」は、天正期から観ると、何と「31年間と云う期間」を経たのである。

これは当に“「青木氏の戦略」”であって、結局は、「1619年の頼宣入城」までの直前まで燻り続けたが、「戦略の目的通り」に結局はぎりぎり解決させて、「地域の民」を護り、「最低限の犠牲」で終わらせて、“「商業組合の推進」に本腰を入れられる結果と成った“のである。

これで「豊臣―徳川の決着」も就き、「家康の目論見」の通りに「筋書き」は動き始めたのである。

(注釈 この31年の間には、最終局面で、一揆側に「利害に違い」の出た「海側の一揆一団」が調略に会い、「裏切り行為」をし、それが「山岳部の一揆一団」に被害が及ばない様に、この事態を納める為に「山岳部側の一揆側の首謀者」が自首する形で処罰され終わる。
この時、「一揆の門徒衆」たちは伊勢松阪に救い出す。この時に海側の集団に参加した漁民らが騙し内に会い大きな犠牲を負った。
然し、「青木氏」の力の及ぶ地域の「全郷士の門徒衆」を保護する為に一時伊勢に移動させて護った。
この護った「門徒衆の一部」は、頑固に1619年直前まで燻り続けたが、結局は「商業組合の効果」と、当に上記した「頼宣の地士制度」で収まったのである。

この様に、既に記録にもある様に、根本的には「戦い方」が普通の「反抗勢力の一揆」とは異なっていたのである。

「伊勢青木氏」は「正式な商業記録」や「郷士家に遺る資料」に遺こされている程に「経済的背景」と成っているのはこの事から来ているのである。

ところが、これから「伊勢青木氏の関わった地域」には、不思議にも「一揆」としては「62年の間」に「一揆・事件」が起こっていないのである。
“何故なのか”である。

それは、「伊勢青木氏」が始めた室町期末期からの「商業組合の効果」が徐々に出始め、「一揆」に関わった「紀州と伊勢の全郷士衆」が、この「商業組合」に参加して、この「商い」に依って潤い始め、これに伴って「殖産」と「興業」が進み、強いては「農民」を始めとして「庶民」までその「潤い」が浸透して行ったのである。
「青木氏」と深い関係を持っている「伊勢郷士衆」が、故郷に戻った「紀州全域の郷士衆」にこの「商業組合」に参加する様に約束通りに働きかけたと観られる。

この事、即ち、「商業組合の効果」を「一揆首謀者」に「伊勢郷士衆」は苦汁を呑んで説得したと観られる。当初は「収拾の提案」が画期的であった事からなかなか納得されず、一部の「門徒衆」は1619年まで燻ったが、他の者が潤い始めたのを観て、「頼宣」も「地士制度」でこれを支援していることを観て、参加し始めたので「一揆」は遂に収束したのである。)

「伊勢郷士の家」に「紀州郷士との手紙のやり取り」の記録が遺されている事から先ず間違いは無い。

「頼宣入城前」の前には、この様に、「青木氏の存続の成否」が掛かる事が直前で起こり、上記の「青木氏の大決断」の「取り組み」で、解決して、この結果として、何とか「7年と云う短期間」で「商業組合」は進み「効果」を出し始めたのである。

前段でも論じたが、取り分け、当時、「国外不出の慣例」のあった「米栽培の新技術」を一族の者を特別に派遣して一族の「信濃青木氏」から学び、それを「伊勢紀州域」に広め,「青木氏の投資」の下で研究して、日本で最初に「新品種」と「早場米」を作り出して、これを「商業組合と提携商人のシステム」を活用して「15地域」に広め、年間を通じて農民は潤う事に成った。

(国外不出の「信濃栽培法の習得」は、その前提に伊勢での「品種改良と早場米の研究」があって、その成果を戻す事で了解が得られたと観られる。)

又、「紙箱」や「紙用紙」等の「紙製品の殖産と興業」を進めた事に依って、家内工業的に副職として農民は元より庶民までも広く潤う事に成った。
例えば、前段でも論じたが、「伊勢青木氏」は同族の「信濃青木氏」から進んだ「養蚕や米栽培の技術」を習得して、これを「商業組合の組織」に結び付けた事に依って「15全域」に広まった原因となったのである。
然し、これを広めるだけでは、この“「潤い」”に繋がらないのは必定で、“「商いの組織」”に結び付ける事があって潤うものである。
更にはこれでもダメであり、これではその「潤い」は偏る。
そこで、この「偏り方」を取り除いてこそ,そこに「真の潤い」と「民の安寧」が生まれるのである。
それがこの「青木氏の目的」とする「商業組合の(イ)(ロ)(ハ)」であって、この目的とする「商業組合の効果」で「民の信頼」が生まれ「底堅い商い」の為に急激に頒布して行ったのである。

その為に、「青木氏の提案」と「頼宣の事前調査」でと、その後の「商業組合」と合わせて行った「頼宣の地士制度」で「一揆」が起こら無く成る策が、この「商業組合」にある事を頼宣はより深く知ったのである。

(注釈 この「頼宣からの伝統」が「育て親の青木氏」から「吉宗」は学び「享保の改革」へと結びつく事に成ったのである。「吉宗」が将軍に成った背景はここに在ったと筆者は観ている。
だから、江戸に同行し、且つ、「紀州藩の勘定方指導の立場」もここに在ったと観ている。)

つまり、「1619年頼宣入城」より「談合」が進められ、これを契機に“「家康の暗黙の了解」”から“「頼宣の周知の了解」”へと変化して行ったのである。

その証拠に、“1615年の「堺摂津盛況」”とする「商業記録の年譜」は、何事に付けても、この時の「経済活動の活況ぶり」を表していると観られる。
因みに、前段でも論じているが、「事前調査」の後、1619年に「頼宣入城」に伴い「伊勢青木氏」は「紀州藩の勘定方指導の役」をも同時に務めたのはこの事から来ている。
「青木氏と紀州藩」は、敢えて、当時の世間で「禁策」として考えられていた「政経分離策」を採らずに、「政経合併策」を敢えて採ったのである。

さて、そこで視点を変えてみる事にする。
これは、「商業組合」を押し通すと、必ず、「為政者」との対立は生まれる事は必定で、地域救済策として、「危険を承知して採った策」で有る以上は、この「政経合併策」は「合理的手法」であった事に成る。
「デフレーション策」と「インフレーション策」の中間の一種の「リフレーション策」に近い策を採った事に成る。
多分、「商業システム」としては、「イノベーション策」と成るだろう。

(注釈 その後も紀州藩では代々この手法を取り続けた。「青木氏」は幕末の「紀州藩の財政立て直し」にも「伊勢郷氏」として「勘定方指導役」を務めた。)

この時、前段でも論じたが、「伊勢域と紀州域の秀郷流青木氏」とそれに関わる「伊勢郷士衆」「伊賀郷士衆」から「紀州郷士衆」までを含めて家臣に「丸抱え」(幕府から謀反の嫌疑)したのもこの時である。
この新しい「リフレーション策」を実行する為に大きく観れば「青木氏」に関わる一族を「丸抱え」したともとれる。筆者はそう見ている。

この様に「伝統シリーズ」の前段等で論じた「個々の要素」に付いての「事柄の関係性」を一つにしてまとめるのは「至難の業」ではあるが、ここに全て通じているのである。

筆者は、上記したが、そこで「1615年までの伊勢―紀州域で起こった一揆」の裏には、先ず最初の「一揆掃討」が「掃討軍の賄賂問題」で潰れたのは、「二つの伊勢青木氏の裏工作」では無かったかと観ていると論じた。

前段で論じた様に、これは当に「信長の伊勢攻め」の「信雄の丸山城消失の事件」と同じ手口であるが、「信長の織田―秀吉の豊臣」とは、何と二度に渡り、“「青木氏」の「商い」“に依る同じ手口」に載せられていた事に成る。これは先ず間違いは無いだろう。

そこで、当然に、下記に論じる様に「商業組合」を推し進め、それと「提携商人を作る事」に対して、これは「リフレーション策」の「イノベーション」と成る(イ)(ロ)(ハ)に繋がる事を述べていた事に成る。

これを事前に説明をした上で、1603年頃から“「影の要請」(暗黙の了解)”が、「家康」から受けていたとする事は、影で「15地域の各藩主」は、この「噂の情報」は耳に入っていた事である。
「15地域の藩主」は“「手の出し様」が無かった“が「本音」であったと観られる。
結局は長く続いていた「一揆」が納まり、「納まった要因」が、この「商業組合」に在ったと「15地域の藩主」は周知した上で、「1619年頼宣入城」で「暗黙」から少し進んで“「商業組合衆知」”と成ったのである。
全国に先駆けて紀州藩は、これらの事に関連した藩政の“「地士制度」(下記)”と云うものを敷いた事でも証明は充分である。
これを遣られては、「青木氏の地権力と地域力と不倫権」に、この「商業組合と提携商人策」が加われば、最早、「手の出し様のレベル」では無く、黙認以外には無い筈である。

この様に、「商業組合を創設した経済力」では、例えば、「伊勢青木氏」は「500万両以上」と云われていた事から考えると、「為政者の勢力」は、たった1/100にも過ぎない事に成る。
それに度々効果を挙げる「伊勢と信濃のシンジケート」を独自に持っているのであるし、「15地域」の「同族の結束」があり、「青木氏族との横の関係」が密であるとすると、歯を剥いて戦う馬鹿はいないであろう。
故に、7年と云う“「短期間」“で創設されたのである。

況して、「室町期末期の戦乱」で「経済的な余裕」は豪族大名には無かったし、むしろ、「重税」で「農民」や地域の「郷士衆」を苦しめていた。
下手をすると、「一揆」である。
「一揆」が頻繁に起これば「治政の責任」を幕府から問われる。
つまり、更には、{藩の財政}を維持するには「青木氏の様な豪商」に借金をせねばならない「絶対的環境」にあって、文句を附ける等の事は到底出来なかった筈である。
どちらかと云うと、“体制にそぐわないとか、どうのこう“のではなく、兎も角も、何でも好いから「商業組合」で潤って貰って「地域の安定」と「地権から来る税の収入増」を期待するのが「当面の策」であった筈である。

(注釈 結局は、「権勢」を無理に押し出せば「山内氏の様な事件」に成り、「治政」に怨念が遺る結果と成る。)

では、“この「15地域」ではどうなっていたのか”と云うと、話しを戻して、そこで、特記すべき地域がある。
それは先ず、「青木村」の「福岡 4」には、この「要素」が多分に在った。
領民には、取り分け「商業組合」「提携商人」には深い理解を示し、安定した治政を施した代表的な地域である。
所謂、「模範的要素」を持っていたのである。
筑前黒田藩は「如水の軍師」の家筋で、「質素倹約策」「柔軟対応策」を「治政の根幹」に置いていた事、況して、前段でも論じている様に、「近江佐々木氏の支流末裔」で「近江青木氏」とは縁籍関係にあって、更には「黒田氏」は、伊勢神宮の「神職の御師の立場」にもあって「伊勢青木氏」とも「浅からぬ関係」を保持していた。

(注釈 如水の父の一族末裔は、「二足の草鞋策」を敷いた家柄であったし、「伊勢シンジケート」とも繋がっていた。)

その事から「摂津店」とも繋がりを持っていて、遠からず“「青木氏族」とも云える縁籍関係”にあった。
況して、この縁籍関係から「日向青木氏」は、「黒田藩の傭兵軍団(陸海に渡る旗本に近い黒田藩常用傭兵軍団)」を務めていた。

(注釈 「日向青木氏」は「日向肝付氏」の血筋を持つ「伊勢青木氏京綱」の兄弟末裔である。)

然し乍ら、「定住地名」が、「江戸期初期の氏姓令の禁令」により、これに従った「筑前」には「青木氏外」の「姓族の青木姓」には、「青城や青樹」(「商業組合から関係族」と観られる。)などに名乗り変える事を命じた事から多いのである。
従って、筑前には必ずしも「青木村」を使っていない村もある。
然し又、明治3年と8年の苗字令でも「青木村」(青木氏の「職能の関係族」と観られる。)を付けた「村 3」も存在していた。

正規には、本来は無いが、「日向青木氏の傭兵軍団」が、江戸時代には「黒田藩の常用傭兵軍団」として働いた事から、その「事務所的な土地、又は館屋敷」に「青木村 1」を付けた事が判って居る。
この黒田藩は「商業組合 提携商人」には「積極的な治政」を実施した。
この様に、「黒田氏」は「山内氏」とは「真逆の施政」を敷いた事でも特記に値するのである。

従って、「遠い九州の頒布」には、7年の間に「商業組合の頒布」が難しい筈であるが、上記の様な事から、本来は「準村扱い」としては、「福岡 1」と成る状況にあったのである。

この様に、この「109村」の中には、その“「歴史的な由緒」”を充分に検証して判断する必要があって、この様な判別が難しい「青木村」もあるが、結論としては明確に次の事が云える。

“上記の「推測の20地域」≒「一揆の21地域」とほぼ一致する“に対して、この「青木村 23地域の村」を考察すると、上記の関係式は、次ぎの様に成る。

「推測の20地域」≒「一揆の21地域」≒「青木村の23地域」

以上の関係式が成立する。

以上で、ほぼ一致する事が云え、これで上記の「5地域」と「6地域差」は論じる事は出来る。

つまり、従って、「青木村」=「青木氏」=「提携商人」と云う完全定義の上に成り立っていた事が出来る。
そこで、この“「青木村」”を定義の一つとして据えて本論を研究していた。

然し、その“「青木村」”には、下記に示す様に、重要な「二つの定義外域」があるのである。
「定義外」としても、「青木氏」に執っては“「氏の特徴を示す伝統」”であるからで、これを度外視出来ないのである。

定義外域-A

そもそも、「伝統シリーズ」や「他のテーマ」の論文でも論じている様に、「青木氏の定住地」の基と成る“「青木村」”が在りながら、然し、その「青木村」に「青木氏」が正規に定住しない地域があるのである。
所謂、この「青木村」に永住定住せずに、「青木村」=「青木氏」=「提携商人」と云う定義の下に、「本領に戻る制度」を持っていた地域に住した「青木氏」が居て、そこに「商人の青木氏」か「提携商人」が在ると云うことである。
つまり、「準定住地」と云える地域での「別の商人」が在ると云う事である。

例えば、これに相当する地域とすれば、「肥前-筑前」、「阿波-淡路」、「広域陸奥」、(「紀州」-「伊勢」)の「3地域」などがある。

但し、「紀州北部の有田区域の「青木村」には、この「青木氏」は最終的に南北朝後に戻らなかった。
前段で論じた「近江秀郷流脩行系青木氏」で、「南北朝の戦い」で、「青木氏氏是」に従わずにこの「青木氏」は意見が「交戦主戦派」と「消極的派」の二派に分かれ、「青木氏氏是」を破った「主戦派」が敗退して、「讃岐藤氏秀郷流青木氏」を頼って四国に逃避すると云う事が起こった経歴があって、「紀州伊勢の青木村」の一村内でありながらも、「有田の青木村」を捨てたのである。
然し、一方、「紀州南部域」の「青木村」は、旧来より「青木氏の遠祖地」としてあった事から、「伊勢域」として定義している。

定義外域-B

もう一つは、「青木氏」と何らかの関係を持った“「縁者関係」”で、正規の制度に則って「青木氏」を名乗って、後に「準定住地の青木村」の外側の「外郭域」に村を形成して永住した「商人の青木氏」が多く在る。
これは「否定住地」ではあるが、「職能集団の制度」で「青木氏」を名乗ることを許された「商人の青木氏」が在る。(第三青木氏とは別)
これは「伝統シリーズ」等でも論じて来た「神明社等の各種の職能集団の差配頭」や、土地の「郷士衆を差配する郷士頭」や、「各地域に出店している商人の差配頭」等は「青木氏」を名乗る事を許可する事を定めていた。
この中には許可だけでは無く「女系で繋ぐ事」もあって「青木氏組織」を固めていた。
これらの「差配頭の青木氏」が、その「職能の立場」で「各種の商人」と成っていて、これが「商業組合」を編成してこれらが「経済的背景」と成っていた。

例えば、これも相当地域とすれば、「安芸-蝦夷」、「讃岐-伊予」、「筑前-筑後」,(「紀州-伊勢」)などの「3地域」がある。

但し、「紀州と伊勢域」は、上記の「定義と定義外」の2つの何れにも存在して居るので定義の範囲で論じる。
それだけにこの「紀州と伊勢域」は一つに成って「全ての面」で体制が固まっていた。

以上の二つの定義外域のAとBは、合わせて結局は「地域差の6域」と成る。

この定義外域ABの「6域」が、「推測5地域≒地域差6地域」と成っているのである。

つまりは、「推測の20地域」≒「一揆の21地域」≒「青木村の23地域」
以上の関係式が成り立つ。

「推測の20地域」≒「一揆の21地域」)とほぼ一致するとして、故に、上記の「提携商人」で観ると「15地域」、「一揆」で観ると「21地域」と成るとすると、間違いなく「青木氏」は、「提携商人」と共に「経済的背景」として「民の側」に立ち動いていた事を示す事に成る。
「青木氏」が「二足の草鞋策」を敷いた平安期初期から明治期まで一貫して護り通した「定型の生き様」であり、“「定型の伝統」”なのである。

この「民」を中心とする”「定型の生き様」と「定型の伝統」”があったからこそ、稀に見る「大きな氏」として、「大きな伝統」を持つ「特異な氏」として、一千有余年を生き遺れたのである。

これは、そもそも「一種の青木氏が存在し得た定型パターン」と云って良いものであった。
況や、この「定型パターン」は、「二つの青木氏」がより力を発揮出来る態勢でもあった。
ここでは、この様な要素の“「商人」”に焦点を当ている。

「15地域」の「全ての地域」のこの「定型パタンの商人集団」との関係を論じるのは難しいので、「江戸期に観られる定型パターン」の「伊勢の射和商人」を例に次段の下記に取り上げて論じるが、上記の地域でも同じ様に働いていたのである。(何時か詳しく論じる事とする。)

恐らくは、前段でも論じたが、「伊勢の二つの青木氏」が、江戸初期に「徳川氏との関係」から伊勢で始めた「伊勢松阪の商人組合」(会合衆から新組織を発展)を「原点」として、上記の各地域の「青木氏」にもこの「新しい組織形態」を作り上げた。

「推測の20地域」≒「一揆の21地域」≒「青木村の23地域」の関係式で、”「7年の短期間」”で広めたと観られる。

前段で論じた様に、むしろ“広めた”と云うよりは、(「青木氏の形態維持」と云うよりは)、「新しい経済機構の形態維持発展」の為として、「青木氏発案」に依るものではあるが、“「徳川氏の指導要請」(協力要請)”が基盤にあったと観られる。
その様に、資料から読み取れる。

この“「徳川氏の指導要請」(協力要請)があった“とした事に付いては、下記で論じるが、これは考えられない程の「画期的な事」であって、「青木氏」に遺されている資料から読み取ると、この資料は、「紀州徳川氏からの手紙」である事から考えると、「紀州藩との内談」で進めたと考えられる。
つまり,「内談」とは云え、「家臣と成った伊勢秀郷流青木氏等」と「商業組合」を松阪で推進する「賜姓族青木氏」の“一族内々の打ち合わせの形”に成ったと観られる。
この「1619年の入城予定」の「頼宣」は、事が事だけに「家康からの内諾」を得ていた筈である。
故に、数年も前の早くから「事前調査」や「地域査定等」を行い、入城後は直ちにこれに関連した「藩政の地士制度」の構築に掛かっている。
「家康の了解」無くしてこれだけの事は到底無理である。

と云うのは、何故ならば、この事は「幕府の施政の根本方針」から観て、「公的に指導要請」を出し難い内容であった。
然し、江戸期初期から暫くして紀州藩が管轄した「伊勢紀州」は、上段でも論じたが、「室町期末期からの「著しい混乱地域」であった。
(伊勢の多くの地域は「天皇家天領地」であった。)
取り分け、その理由から「伊勢松阪」は、「紀州藩飛び地領」と成った。
「地権力と地域力と提携商人」の「郷士郷氏の状況」と、「信長-秀吉の圧政」があった事から、又,「山内氏の事例」もある事から、「事前調査」を綿密に、「頼宣」は紀州と伊勢に対して行っていた。
普通であるならば、これを解決するには、上記した様に、「信長秀吉の武力に依る強硬策」や「山内氏の様な対抗策」に頼らねば出来ない事と成る。

この態々「事前調査」をすると云う事は、「反抗の連鎖の繰り返し」と成ると判断した事に成る。

この「事前調査」は、「青木氏の商業年譜」から観て、「1615年の伊勢談合」があって、その後の1年後の1616年家康没があり、それから「頼宣入城1619年」があって、この1619年に、「1615年の提案」を下に行った「事前調査」を踏まえて、1619年の「松阪会談」として最終的に会談が行われているので、この1年前の1618年の間である事に成る。
結果として「1617年」と成り、最低、“頼宣入城 「2年前」”と成る。
この“「2年前」”に、この問題の「事前調査」が行われた事に成る。

恐らくは、「青木氏の商業年譜」の「伊勢衆動員」(上記の一揆処置や事前調査の協力の事もあって総動員を掛けて事に当った。)はこの事も示しているのではないかと考えられる。

1615年に「伊勢衆動員」。
改めて、上記の「二つの事」で「事態の急激な変化」に対応して、改めて事に当たる為に「郷士衆の役割」や「日程や調査」の「家臣団との調整」「作戦調整」等などを綿密に決め計画を進めたと観られる。

1615年に「堺摂津盛況」。
前段で論じた様に、「紀州討伐」での「堺摂津の行動」は元より、「討伐軍の賄賂事件」で紀州産の材木などの売買利益の不当獲得(二度の討伐軍の指揮官の秀吉弟秀長と家臣の吉川氏の二人の指揮官が不正利得)で、取引は繁盛した事は盛況原因でもあるが、下記に論じる「商業組合」が動き出した事でも盛況と成った。
既に進められていた「青木氏の提案」に対して「事前調査」に依って「最終的な紀州藩の協力体制」(1619年に「松阪会談」に向けて)などを打ち合わせたと観られる。

つまり、「青木氏商業年譜」の年代から観て、「青木氏}から事前に知らされ提案されていた状況を、再確認する事も含めて、「紀州藩」としてそれを解決する方法が無いかとして、「事前調査」を行った。
ところがこの直前で、紀州域全域に思わぬ「激しい一揆」が再燃し拡大した。
この事も含めて、事前に改めて「調整談合」を行ったのではある。

この時、既に「家康との談合」で進めていた「新しい商業組合」を「青木氏の提案」で、先ずはこの「伊勢紀州域」に模索したと観られる。

そこで、2年前の事前に伊勢紀州の一揆等の混乱状況を調査する家臣は、これを目前に観たと考えられる。
それが、「頼宣の事前調査」の結果で、「全域の郷士衆」を引き込んで、上記の「(イ)(ロ)(ハ)の商業組合」と組み合わせて、これと連動させる「施策」として導き出したとされるのが、紀州藩の“「地士制度」“と云うものであると考えられる。

一つは、この紀州藩の“「地士制度」“には、他にも幾つかの施策が組み込まれていて、”「地士制度」“として前段でも論じたもので、一つは「伊勢の青木氏」等を含む全ての「郷士や郷氏」を家臣にして「官僚の中心」に据えた事であり、これを以って「紀州討伐」まであった「武士の不満問題」は解消させたのである。

二つは、論理的には「庶民の中にあった不満問題」を解決するものとして、これに関わる「本論の青木氏の提案」(商業組合)があった事に成る。

前段でも論じたこの”「地士制度と商業組合」”は、「武士と庶民の相互間に潜む問題」も補完する「優れもの」であって、「紀州伊勢の混乱」を見事に鎮めた「頼宣の最大の功績」と呼ばれていた。

「伊勢紀州の秀郷流青木氏等の郷士衆」は、「紀州藩家臣」に殆ど全員据えられたが、「郷氏の賜姓族伊勢青木氏」は、「紀州藩勘定方の指導役」として「地士制度と商業組合」を推進する為に内政面から支えたのである。

「青木氏の定住地」として資料から確認できる「15地域」、即ち、「推測の20地域」≒「一揆の21地域」≒「青木村の23地域」の関係式には、必ず、この「定型パターン」の「提携商人」の存在が観られる。

下記に論じる“「独特の関係」(射和商人)”が出来ていた事からも充分にこの事は考えられる。

この事は、上記の主だった「15地域」の「青木氏の定住地」に在るとすると、この「青木氏の提案」が、伊勢で効果があるとして、江戸初期の混乱期の後の施策として“「地域安定策」”を狙って、各地に「商業組合の頒布」を“暗黙(下記(イ)(ロ)(ハ)が在って公認はできない)”で容認された事に成る。

下記に示す「江戸期初期の一揆」からも多発していた事が判り、これを「武力」で抑圧させるのでは無く、「青木氏提案に依る奇策」の「安定策」で乗り越えようとした事が良く判る。
「紀州徳川氏」からの「伊勢青木氏の福家」に出された「数通の手紙」からそれが読み取れるが、それで無ければ、当時としては、各地にこの「商業組合の組織」が拡がる事は、体制上からはこの下記説明の(イ)(ロ)(ハ)“は全く好ましくない事”に成る。

況して、幕府の御家人や旗本に据えられて、官僚の中心と全国各地に豪族として定住する「秀郷流青木氏」の「二つの青木氏」の地域に対して“頒布”と成ると、誰が考えても余計に危険であった事に成る。

この時の事を物語るものとして先に例を述べて置く。
この「複数の手紙」の中には、この“「青木氏の貢献」”に対して「天皇家」に対して紀州藩より「伊勢青木氏」に対して「格式授与の提案」をしていて、これを「青木氏」が「青木氏の氏是」に依って体よく断っている。
その紀州徳川氏一通目の手紙には、「青木氏の貢献」に付いて、前段で論じた「射和商人」などを例に挙げて“「地域貢献」(前段の殖産と興業)“に付いて書かれている。
そして、その後の手紙で、朝廷の「賜姓族の役処」の「紙屋院の青木氏」の管轄下にあった「絵師処」としても、自らが描いた「和歌浦と那智熊野を描いた墨絵の南画の絵」を献上する事で解決して献上している。

天皇家に献上すると云う事はそもそも「素人の絵」は献上する事は無い。
従って、この事から「紙屋院の紙屋」であった事から、その和紙を扱う関係上で、本職では無かったが、本職に類する程の絵師(土佐派)でもあった事を物語っている。
口伝では、代々、「紙屋」としての義務資質に相当する「伝統的な役処」であった。

前段でも論じたが、後に、江戸期末期に土佐に移動した「脩行系青木氏の末裔」でもあった「朝廷絵師の土佐光信」(公家系の青木氏族)に師事して江戸末期には正式に本職とした。
この頃、「墨絵の南画」は、衰退し朝廷の中でのみ存続していた。

この事は、「紙屋院の管轄下」としての「絵師処の朝廷絵師」に直接に「青木氏」が務めていた事が判る。
この「近江脩行系青木氏」は「紀州有田の青木村」にその祖は住していた。

(注釈 「南北朝の乱」に参加して敗退して移動、「末裔の光信」は、土佐村の「土佐氏の養子」として入った。)

この為の「天皇家からの返礼」(大臣の内右大臣代書)が紀州徳川氏経由で届いている。
この時の「複製画」と共に、この「箱入りの返礼書 二通」と「賜品の藤白墨と紫硯石」が遺されている。

恐らくは、この「絵の献上」の意味する処は、「国策氏の賜姓族」である事の上に、“「青木氏の貢献」”を、“「朝廷」”と云う「権威の象徴」を重ねて使う事で更に権威化させて、「幕府の保守勢力」を抑え込んだと観られる。
故に、「近江脩行系青木氏」の「土佐光信」の様に「伊勢青木氏」が「絵師処」では無いにしても、「国策氏」としての「紙屋院の伊勢青木氏」が献上する事が出来たのである。

そこで、先ず、この「商業組合」と「提携商人」と云うものが、“幕府体制上好ましくない“としているのはどの様な事であるかを明確にする。

本論を理解するには欠かす事の出来ない大変重要な予備知識である。

「商業組合の内容」
従って、この「射和商人の背景」と成っている“「伊勢衆の郷士」と「松阪商人」の関係”に付いては、他の「定住地地域の状況」を理解する上でも、是非、ここで明確にしておく必要がある。

そもそも、その大元は、前段でも論じた様に、「1619年の頼宣入城」の前から「紀州伊勢域の門徒衆」に対して、「青木氏の説得」に応じた者等とを救済し政権から保護した。
然し、そして、この「救済保護した門徒衆」と「伊勢郷士衆」との「連携や連帯」を興し、これで以てこの「二つの関係」(商業組合と連携商人のシステム)を発展させたものであった。

そして、その上で彼等(反抗勢力の門徒衆)を“「政権側の圧力」(1619年まで)“から保護する為にも「青木氏」が主導して国内で初めての全く「新しい形態」の”「商業組合」“が構築された事から来ている。

勿論、「室町期の戦乱期」から「江戸期の安定期」に入る時代に即応した態勢であった事は云うまでも無い。

要するに、下記で詳細に論じる「一揆」(孟子論の中の漢語:ある勢力から互いに「政治的結社」をして、ある条件の下に一つに成り、我が身を護る集団の事)、即ち、要するに、本来の意味の「鎌倉期に存在した一揆」であり、これを室町期末期から江戸期初期に掛けて新たに改善を加えて創設したものである。
この「商業組合」は、即ち、この「反抗勢力」を意味しない“「本来の一揆」”の一つの形である。
これが出来たのは、「青木氏」ならではの事であり、「青木氏」で無ければ出来なかった事である。
その根拠は下記で瑠々論じるが、「鎌倉期の一揆」と、「江戸初期の一揆」(商業組合)とには、そもそも大きな違いがあった。

それは下記でも論じるが、“「鎌倉期の一揆」“は、”「階級と身分」“を股が無い「武士だけの軍事的結社」であって、この結社は、「軍事勢力と政治勢力」に対抗したものであった。

それに比べ、「青木氏」の「江戸初期の一揆」の「青木氏の結社」(商業組合)は、この「階級」や「身分」や「氏」や「姓」や「職業」や「宗教」などの一切の「出自格」(イ)を一切取り除いた事であって、それを“「商業」(ロ)”と云う「経済的結社の自由勢力」(ハ)を使って、「軍事勢力と政治勢力」に対抗したところにあった。

この“(イ)、(ロ)、(ハ)”が後の「徳川幕府態勢」(氏家制度と封建制度の社会)に執っては“「真逆の体制」“であった。

「鎌倉期の一揆」には、未だこの(イ)、(ロ)、(ハ)の概念は無かった。
「諸法度」を定めて、それまでの平安期からの“「氏家制度」”を完成させ、徹底した「身分格式」による“「封建制度」”を敷いた「格式社会」の江戸期としては、この“「商業組合の組織」“は、当に”「逆行する体制」の組織“であって、到底、江戸期としては考える事が出来ないほどの「画期的な事」であった。

逆に「幕府」に執っては絶対に許す事が出来ない「危険極まりない組織体制」に成る。
この組織が「力」を持つと、丁度、「明治期の維新勢力」と同じ様相を呈する事に成り得る。
ところが、これが、江戸期初期に何と「15地域」まで広がったのである。(根拠-1)

本来なら、これでは放置できない事で、保守派に執っては「幕末の新選組の行動」とも成る事でもあったし、丁度、「反動の象徴」の「一向一揆」が「15地域」に一機に拡がった事にも成り得るので「初期の幕府」は慌てた筈である。
田舎の一地域の「一向一揆」でも放置しなかった幕府は、体制に影響する(イ)、(ロ)、(ハ)の「商業組合組織」が「15地域」に拡がったと成ると、絶対に放置していなかった事に成る。
然し、黙認したのである。

然し乍ら、この「立役者の家康」は、上記した様に、何とこれを、況や「(イ)、(ロ)、(ハ)の「商業組合」を「青木氏」に「暗黙の内」で認めたと云う事なのである。(根拠-2)
普通で考えればあり得ない事である。

その頃、未だ、1600年頃からの“「会合衆」”は、20年程度しか経っていない組織で、「大店の商人」(A)に限定していて、「政治勢力」(B)と結託していた組織であった。
だが、「青木氏の商業組合」(イ)、(ロ),(ハ)は、“結社する商業組合の関係する職能者”までも含めたもので、「青木氏部の職能集団」や「末端の殖産者」(農民や庶民)までも囲い込んだのであった。(根拠-3)

唯、違う処が実は一つあった。
それは、「青木氏」が持つ“「シンジケート」”であった。(根拠-4)
前段でも論じたが、この「シンジケート」は、記録から読み取ると、江戸期では「青木氏部の職能集団」に組していた。(前段の「伊賀の郷士衆」にも話が通ずる事)
従って、「表向き」は、その主務は、「荷駄護送の職能集団」と「保守勢力」から「青木氏」を初めとして「全組合員」を護る「組合組織の警護役」であった。
「商業組合」と成った事から「広範囲の職能部」に対する「商品の流通」と「荷駄の搬送」は活発化する。
これ、即ち、「組合組織の警護役」無くして成り立たないであろう。

故に、何人も持ち得ない“「シンジケート」”を持つ「青木氏以外」には無し得ない“「商業組合」”であった事も明白である。
この「職能集団」は、仮に武力で攻撃された場合には、これを「排除する力」を組織的に充分に持ち得ていたのである。

前段で論じた内容の様に、極めて恐れられていた。
狙撃以外には武力で対抗してくる組織は無かった筈である。例え幕府でもある。
その意味で、幕府と保守勢力の体制側は、“「政治的な力」”で阻止する以外には無かった。
その為には、この遺された手段の“「政治的な力」“を阻害させる為には、推進側(頼宣と青木氏)は、上記した様に”「権威」(絵の献上などに依る「朝廷権威」と上記した様な「家康のお墨付き」)“を使ったと観られる。(根拠-5)

周囲は、上記した様に、この「新しい商業組合」に対して、「保守的な抵抗勢力」の存在は当然に否定できない。
ところが世の中の事は一筋縄では行かない。
例え、「家康や紀州藩」の「暗黙の了解と要請」があったとしても、この「保守的な抵抗勢力」には公然と対処は出来ないであろう。
先ず、聞く耳を持たないであろう。
「商業組合の良し悪しの問題」では無く,あくまでも「目的」は「出る杭は討つの保守」なのである。
事件等が起こって「公の問題」と成った時には、「青木氏」が勝手にやった事だと処理されるが結末だろう。
それには、何事にも何時の世も初期には、“自らを護る強力な抑止力を持つ警護集団”が必要である。

況して、大阪では、依然として「会合衆と云う組織」が存在して居るのである。
この「会合衆」に執ってみれば、明らかにのこの「保守的な抵抗勢力」と云えるし、保守的な周囲も、体制に大きく違っていない「会合衆」の方が容認するであろうし、「幕府の官僚」も政治勢力と組する「会合衆」の方が何かと利得があって都合は良い筈である。
これは、「(イ)、(ロ),(ハ)の要素」を持っている限りは、絶対に「青木氏」に執っては「公の問題」とは仕難い事に成る。

丁度、平安期初期の「賜姓五役の国策氏」として“「紙屋院」”をしながら、暗にこれを認めていた「朝廷」と同じであり、況や「青木氏」の「二足の草鞋策」と同じあり、江戸期も「伊勢郷氏」で在って「二足の草鞋策」を続けていた事から起こった「類似現象」と云う事に成る。
それだけにそれまでの「難しい伝統」は生きて来ている筈である。
当に、「平安期の紙屋院」と、この「江戸期の商業組合」とは、「新しい事」、即ち、「改革」(イノベーション)に通じて同じである。
「青木氏の本質」の「伝統」は、ここに在って、依然として遺されていた事に成る。。(根拠-6)

とすれば、平安期にも在った様に、況や、「幕府官僚」も「保守的な抵抗勢力」と云える。
ただ違う処は、「天皇の発言の絶対性」と「和紙と云う未開の産物の開発」に携わった事から、官僚に於ける「保守勢力の抵抗勢力の強弱」は比較すれば在った筈である。
況してや、官僚より数段上位の立場と格式にあった「賜姓五役の国策氏」であった事から大義が青木氏側に在り、当然の事として官僚は黙る事しか無かった事に成る。
「違う処」とすれば、それは「平安期の社会性の強弱の差」にあった。(根拠-7)

江戸期は、「会合衆と幕府官僚」が最大の「保守的な抵抗勢力」であった筈である。
唯、「幕府官僚」に付いては、前段でも論じた様に、官僚の中は「秀郷流青木氏」等が「御家人と上位の旗本衆」で占めていた。
中々、他の官僚や大名は、大拡げに問題視する事は出来なかったであろう。
この「歯止め」は効いていたかも知れない。(根拠-9)

少なくとも、「紀州藩」に於いては、前段の通り、「藩主頼宣」は「伊勢紀州の秀郷流青木氏と伊賀の郷士衆」と、「青木氏が導いた門徒衆」(「仕官」と「商い」に別れた)を「まる抱え」で家臣にして、それを公の形の“「地士制度」”に採用しているのであるから、これが「謀反」と疑われ位であった事から、「紀州藩の官僚」からの「抵抗勢力」は無かったと観られる。
むしろ、「紀州藩の官僚」は、別の「二つの青木氏の同族同門」の一族が行っている事である以上は、裏で「推進していた行動」を採っていた事は間違いは無い筈である。(根拠-8)
況して、“「紀州藩勘定方指導」”と云う立場にあったとすれば、「抵抗」どころの話では無く「謀反」と観られるのが落ちであった。

その証拠に、“「地士制度」”と関連付けた「吉宗の伊勢親代わり」、「紀州藩の勘定方指導役」、「享保改革の立役者」であったのであるから、とすると、ただ一人“「光国の抵抗勢力」と「江戸商人」”であったと考えられる。
「頼宣謀反の嫌疑」は、「秀郷流青木氏の家臣丸抱え」だけでは無く、筆者は、この各地の「青木氏の定住地」に広がる“「商業組合」”にも確実にあったと観ている。

然し、「家康の内示」と「頼宣の要請」が陰にあって、これを理由に「直接の攻撃」は出来なかったのであったと観ている。
これでは「青木氏」も公的に、“「家康」や「紀州藩のお墨付き」がある”とは言い難い事に成る。
従って、上記した地域には、少なくとも室町期末期からの各地で起こった「顕如の煽動」による「門徒衆の動乱」から来る“「門徒衆」”の事とか、「青木氏と連携を図っていた郷士衆」の事とかの同じ様な“「事件」と「連携関係」“が、各地(「15地域」)の「青木氏定住地」で江戸初期にはあった事が認められる。

後は、「地域環境に持つ抵抗勢力」であった。
「商業組合」を浸透させるには、その土壌と成る「地域環境の整備」が必要であって、その先ずやらねばならないのは、「地域の混乱の平癒」であった筈である。
「伊勢紀州」は、上記の通り、「地域の混乱」は極めていた。
それ(「地域の混乱」)が、取り分け、“伊勢紀州人は独自性が強い”と云われている原因となっていた“「門徒衆」”であると論じている。

つまり、判り易く云い切れば、先ずは「青木氏の採った采配」は、「反動性の強い門徒衆」をこの「商業組合」に抱え込んだと云う事なのである。
明らかに紀州藩に執っては、この事は「体制の弊害処の話」では無く、“「地士制度」”に伴う重要な施策であった筈である。
場合に依っては、「青木氏の商業組合の(イ)(ロ)(ハ)の反体制性」については、確証は発見されないが、この“「地士制度」の中の「一環政策」”と云う事にして、「幕府の追求」を「頼宣謀反の範囲」で留めてこれを逃れたとも考えられる。

この「門徒衆」を抱え込んで「地域の混乱を治めた策」としての「商業組合」を創設した形を採り追求をかわしたともとれる。

唯、一つこの“「地士制度」”に付いて、それら上記で論じた様な事を証明する、或は、物語る「意味合い」がこの呼称に持っている事が判る。

それは、「地」と「士」と[制度」の字句の意味である。
先ず、紀州藩の官僚は、“「制度」”と云う風に言葉を選んだことである。
普通は「策」であろう。
「制度」と成れば、可成り広域の範囲での複数の政策から成り立つ組織制度で、その体制の根幹を指し示す言葉と成る。
例えば、「封建制度」と云う風に、然し、「武家諸法度」とかに成れば「策」であり、つまり、政策の範囲である。
この“「地士制度」”は、そもそも紀州藩での位置づけは「政策」であって、「制度」での定義では必ずしも無い。
然し、あくまでも“「制度」“と呼称しているのである。
何かこれに「特別な思惑」が介在している事は明明白白である。

次に、もっと不思議な事は、「地」と「士」の言葉の使い方である。
「地」は「地域」「土地」を意味する「環境域の言葉」である。
「士」は「武士階級」を指し示す「身分域の言葉」である。
つまり、この「地士」は、“環境域と身分域に付いての制度だ”と云っている事に成る。
然し、紀州藩は、この「環境域と身分域の事」に付いて全く触れていない。
“触れてない“と云うよりは、そもそも限定して確定してはっきりとさせていないのである。
なんの説明も何もない。
あるのは「地士制度」と云う政策の「言葉の存在」だけである。

ところがそれには、この「地士制度」には「大きな矛盾」が潜んでいた。
「環境域と身分域」に付いては、江戸幕府(1600年 征夷大将軍)に「士農工商」の制度(1603年)があって、その詳細を「武家諸法度」(1615年)等で決めている。
これでは、頼宣(1619年)ははっきりとさせられないであろう。
況して、この「地士制度」には(イ)(ロ)(ハ)が在る。

筆者は、上記の論より、これは、先ず「地」は「紀州藩領」、そして「士」は「その紀州藩の環境」の中にいる「定住する武士」、即ち、「郷士、郷氏」を指していると観ている。
そうすると、この「地士制度」の「士」が、幕府では、そもそも“「士」”は、孔子論に沿って、本来は“定義上は「官僚」”を意味している。(孔子論の定義である。)
ここには、「郷士 郷氏」と「官僚」との「格式差」、「言葉」の定義の異議が起こっていた。
ところが、正しくは「士]は、元来、”「領地を持つ大夫」の下で働く職能者”と云う定義であって、そこで、日本の慣習に充てると、この「中国の周時代の大夫階級」に相当するのが「地域の地権」を有していた「郷氏」に当たる。
そして、この「郷氏」のその下で働く「家人階級」を「士」と云う事に成る。

そもそも、「士」が「武士域」を指し示す様に成ったのは、「江戸期の前半」(1630年~1640年頃)であって、未だ、この時期までは”「官僚」に従事する者”だけを指し示していたのである。

(注釈 この定義は孔子論に基づいているが、日本では平安時代にこの職能の職域の者を「部人」と呼んでいた。)

(注釈 決して、「幕府]が云うのは、定義上の「地権」を持つ土地の「郷士や郷氏」を差し示すものでは無かった。下剋上で「氏族を含む対象族」が激減した事に依っている。
中国の周では、「小領主の大夫階級]が「官僚]と成り、その下に「士」が所属して位置していたが、これを無視して「士」が「官僚」と無理に位置付けたのである。)

そもそも、江戸期では定義を「官僚」としなければ成らない理由があった。
「姓族」の「士」クラスが台頭して武人(具人)に成り、逆に「氏族の郷氏」が衰退して激減したので、この「士族」(姓族)と呼ばれる者が大半を占めた事から起こったのである。

(注釈 日本の最初の姓族は室町期初期の安芸の海部姓が最初と観られている。海産物等を作る職能人であった。)

それを「士」を幕府が定めていない階級の「郷士郷氏の領域」まで、「紀州藩の地士制度」で定めようとしたのであるから、四角四面の「保守派」は黙って居られないであろう。
「保守派の抵抗」は、この「商業組合(イ)(ロ)(ハ)と、「地士制度」の「士」に付いても追及に及んだのは間違いは無い事である。
この事からも「謀反の嫌疑」も充分に掛けられたと考えられる。

前段で論じた「紀州藩の家臣」は、「伊勢紀州の郷士衆」を全て殆ど家臣に仕立てた経緯を説明した。
ところがここに問題があったのである。

その問題と云うのは、幕府では「士」は「官僚の定義」と成っている。
云い換えれば、この「官僚」は元々は「士」である事に成るのに、紀州藩は「士」を家臣にせずに幕府が定める「士」の範囲では未だ定めていない「郷士や郷氏」を大量に家臣にして「官僚」にした事からも「矛盾の問題」が起こったのである。
況して、その「郷士や郷氏」が「(イ)(ロ)(ハ)の商業組合」を創設し、尚の事、「携帯商人」を仕立てて連携したと成ると看過できないとして「幕府の保守勢力」は騒いだのである。

ところが、幕府は、1615年に「武家諸法度」を定めた際の数年後に「士農工商」に入らない「郷士郷氏」をどうするのかと云う「矛盾問題」が矢張り勃発してしまった。

そもそも、「郷士郷氏」は、「悠久の歴史」を持ち「格式、家柄、身分」は奈良期と平安期に定めた身分制度に依って、「士」より遥かに高いと成っていて、朝廷が認証する”「公家」”の“氏を構成する「家」”と共に、本来の”「武家」”は「公家」と「同格の家」であって、平安期より「士」(姓族)では無く“「侍」”の「呼称と格付け」の「身分で氏族」であると成っていた。
そして、この「侍」は“「天皇にさぶろう者」”として位置づけられ「付き従う=さぶろう」の身分階級として位置付けられていた。

そもそも、上段で論じたが、「宮廷警護」と共に、「天皇を警護する皇族の賜姓族」が専属で務める権威ある「北面武士の立場」にもあった。
そもそも、この「士」は、奈良期の「八色制度の階級」や、「表彰や俸給や官位」を与える制度や平安期の「官位格式制度」の範囲には全くは入って来なかった階級であった。

「侍」は「従五位下」(即ち武家)の身分に最低でもあった。
「士」には、「官位官職の授与」のみならず「天皇にさぶろう位置」には全く遥かに無かったのである。
そして、そもそも「士」とは,「侍」(さぶろう者)の下で手足と成って働く”「戦闘員」”の意味を持っていた。
「侍」(さむらい)が「天皇」に「武」を以って”さぶろう事”から”武の家”であって、”「武家」”と成り得て、「士」には「家」を作る事を認めていなかった。
「士」はあくまでも”侍の武の代行者”の位置づけに在った。

「士」とは、そもそも、「阿多倍」が引き連れて来た200万人の「後漢の職能集団」が奈良期に帰化し、その”「職能」”を務めたが、この時に、”朝廷の中で「職能士」”としての”「士」の位置づけ”を行ったものであった。
故に、「朝廷に詰める士」を以って「孔子論の官僚」と位置づけ、皇族出自の多い「侍」は、そもそも「官僚」では無く、「身分格式の位置づけ 氏家」であった。

その後、平安初期に阿多倍の「長男の坂上田村麿」が、「桓武天皇の背景」を下に「征夷大将軍」と成った事に依って、「士」が「職能士」だけでは無く、”「武家」にも成り得る者”としての概念が広まったのである。
その後に、室町期初期に成って「下剋上」が起こり、「士」が「武」に執って代る事を世間に示した事から来ている。
この時から、「武の立場」と「士の立場」の二つからなる造語の”「武士」”という言葉が生まれた。
次第に「武」と「士」の融合の階級が起こった結果、「氏族」の「武を持つ武」と、「姓族」の「具を持つ士」との「役務の統一化」が起こったのである。

ところが、江戸期に「武家諸法度」を決めた際に、“そもそもの「武家」”の持つ意味が、「公家」に准ずる階級であって、「士」が対象とは成り得ていないものであった。
つまり、正しくは「幕府]が云う”「士」”では無いと云う矛盾で問題視された。

結局は、この「矛盾」を解決する為に、数年後に「郷士郷氏の武家」を含む「士」をも以って“「武家」”と呼ぶと云う事に成り、“「士」”も“「侍」(さむらい)”とも成ったのである。
要するに、「武の家」と「士の家」の「身分の区切り」を取り除く「融合策」を採った。
結果として、「氏族」と「姓族」の融合も起こった。
つまり、況や「朝廷が認定した氏族」(武家)と、「幕府が黒印状で認定した姓族」(士家)を区分けせずに統一化したのである。

其処から、江戸期で呼称される「士」の通称の“サムライ”はこの時(1630年代)から呼称される事に成った。
これは「頼宣入城1619年」の後に見直された事に成って、結局は「整合性]がとれた事に成ったのである。

「天皇」と「公家」の「公家諸法度」(1615年)を定めるに当たって、この「融合策」を採るしか無かった事に成る。
そして、これらの「矛盾」もを更に見直して新しい矛盾や問題を抱えていた「公家諸法度」(1632年)と、上記の「武家諸法度の整合性」も含めて密かに見直して制定した。
これ以後、「整合性」が取れた事から「保守派の抵抗の根拠」の一つは無く成った。

従って、この間に、この「幕府の保守派」から問題視され警戒された「地士制度」は、従って、燻って議論に成っていた期間を含めて約6年間程度以上(最長12年間)の間に文句を言い続けられた事に成った。
つまり、この時期を経て「商業組合の頒布」が佳境を呈した時期にあった。

これが、この見直しによる「融合策」が確立した時期の頃から「保守派の抵抗」に大義が消滅して、「15地域」の「商業組合」も佳境に入ったのである。
そこで、結局は、「士」は家臣に成った「郷士衆の連」を含む「伊勢紀州の全域」の「郷士衆」を指している事に成って「整合性」が採れて進んだと考えられる。

「紀州藩の地士制度」の方が正しいと成って,その「妥当性」が認められる事に成った事に対して「士」に対する嫌疑も無く成った。

然し、未だ保守派は完全に「無駄な抵抗」を諦めなかったのである。
この時の「抵抗」は,遺された資料では特定はしていないが、青木氏の手紙関係に遺されている文面から読み取ると明らかに関西域では無い事は判るが、これは「幕府の官僚」では無く成り,「江戸域の商業関係の商人」であった様である。
そもそも、前段で論じた様に、「幕府官僚」の多くは、一族の「関東の秀郷流青木氏」である事から、この「執拗な抵抗」を続けるのは、それ以外の利害に関する官僚族であって、それに「関連する関東域の商人」である事は,「手紙の絡み(抵抗しているとは書いていない)」の中に出て来る「商人名」から判る。
要するに、関東域の「抵抗の目的」は、「地士制度に基づく関西発祥の新しい商業組合」が関東域の各地に拡大すると、「関東域の商いの商慣習」に「悪い影響」を与えるとする「懸念と嫉妬」に近いものであった。

これに依って、「士」は、当然に「紀州藩の家臣(官僚)」に成った者も含む事に成り、「地士制度」はある程度の大義を獲得するに至ったのである。
然し、(イ)(ロ)(ハ)の事があって「商業組合との連動」では完全に疑念は拭えなかった。

そうすると、その「郷士衆」が持っているあらゆる問題を政策的に解決する上記で説明した様な「総括的な制度」として敷いた事に依る策と成り得た。
然し、「地士制度の正当性」は、(イ)(ロ)(ハ)の事は除いて明確にしていない以上は「士の定義上」では意味を持った事に成った。

そして、この「地士制度」は,「限定した形」の採れない「個々の問題の政策」では無い、融通の利く、その都度、追加で定める「政策の手段」であった事から、より抵抗する方向性を変えて来たと考えられる。

この「地士制度」は、「頼宣の事前調査」や「青木氏の提案等」で「混乱する伊勢紀州と云う環境域」を、何らかの制度、或は、条令に依る「決まり」や、新たな「掟や仕来りや慣習」を以って安定させるシステムを敷くとしたもので、試行して効果あるとした時には、都度、決まり次第に、この「地士制度」の中に組み込んでいった制度として行ったものであったと考えられる。

これで、「幕府の追求」を逃れたと云うよりは、「余計な口出し」を出させなかったと云う事の方が正しいと考えられる。

上記に論じた様に、場合に依っては効果的であれば、「商業組合」の様に「幕府体制に反する事」も出て来る事もある筈で、一々紀州藩のする事に“「口出し」”されては伊勢紀州は納まらない筈である。
全てこの“「地士制度」の中の事である“としておけば、これでこの「地士制度」は”「家康の了解」“を得ていたとして突き跳ねれば、引き下がる事に成る。
要するに、俗に云えば、“無礼者 下がれ。これが目に入らぬか。”の“「水戸黄門の印籠」”である。
“権現様の成せる事に口出しするのか”と一括すれば引き下がるのである。
「家康」に特段で可愛がられた「頼宣」であったからこそ、このゼスチャーで納められたのである。
其れには、関連する確立した政策が必要で、それを“「地士制度」(印籠)”と名付けて示唆したと考えられる。

さて、話を戻して、然りながらも、”完全に安定していたか”と云うと、そうでは無く、ある一定期間を経て、下記に記する様に、この「紀州藩」にも例外なく「反抗一揆」はある時期より多発した。
この“「地士制度」”で、江戸期初期から何とか57年間(1603年からすると73年間)は納められたが、再び、半世紀後に再発したのである。
では、「地士制度」で「色々の決まり」を作り上げたが、「印籠の効き目」が無く成って来たのかと云う事に成るがそうでは無かった。

この「地士制度」の効果を発揮している「商業組合」があり、「提携商人」がある「15地域」には、1680年以降では、「7つの一揆」と、関連性の高い一揆が「9つの一揆」が発生した。
これには、「共通する特徴」があった。
その特徴が、「時代の変化」で、”ある事”に依って「効き目」が阻害され低く成った事だと観られる。
果たして、“それは何なのかである。”
答えから先に云えば、それは、「宗教」である。

「青木氏」が、「商業組合」を「15地域」に浸透させ、効果を挙げ、約半世紀以上は確かに民に潤いを与えた。
然し、此処で、如何なることをしてもこの「商業組合の潤い」では解決できない事がある。
それは”「民の心」”である。
この「民の心」を「経済的な潤い」で一時的に平癒させても、”「宗教力」”と云うものが強く成れば、”「民の心」”は変化を興す。
これは「世の常」である。
”「宗教力」は強く成った”のである。

それは、マンネリから来る「支配側の施政の悪さ」からも来ている。
社会が戦乱から安定すると、支配側には、「利に対する欲」が、「政に対する慣れ」が出てそれが「庶民の生活環境」に圧迫を加える。
これに対して、「民の心の支えと不満」を「宗教」に求め、「宗教側」もこれに乗じてこれを扇動する環境が起こる。
「宗教側」は民を救うとしての大義で以て「支配側の悪政」を云い募る。
結局、この煽動で民は「反抗」と云う形で集団で訴える。
これが、上記で論じた「一向宗」(浄土真宗系)が大きく動いた事なのである。

「下級武士」も伴って「民の心」が叶えられるとして「一向宗」は爆発的に拡大した。
それが、「頼宣入城後」から約60年後の所謂、江戸期の1680年頃からの現象と成って現れたのである。

そこで、これらの事を理解するには、先ず“「一揆」”と云うものにより理解を深める必要がある。

そもそも、“「一揆」”とは、現在、一般的に「言葉の意味」として云われているものとは根本的に異なっていたのである。
それは下記に論じる「一揆」の事からも判る。
元より、「伊勢と紀州」では、特別に“「門徒衆」”と呼ばれ、この宗徒が恐れられる位に多いところであった。
それ故に、特別に「門徒勢力」の強かった地域でもあったが、上記した「15地域」の「浄土真宗の布教の強い地域」では、強弱はあるにしてもこの現象(“「事件」と「連携関係」“)が必ず認められる。
特に、「加賀一揆、越前一揆、鯖江一揆」等の有名な「大小の反抗」は、数えれば限りがないが、全て「青木氏の定住地」の域で起こっている事である。
「15地域」とは、云い換えれば、「門徒衆の何らかの強い行動」が認められる地域でもある。

「信長」から引き継いで「秀吉の時代」も、有名な「鯖江の誠照寺の事件」を初め、下記の「紀州勢力」のこの組織化された「門徒衆の勢力」を「根絶やし」にしようとしたものであった。
取り分け、紀州の北部域では、“「紀州討伐」”と云う形で“「門徒衆」の背景”と成っていた「雑賀衆」と、これと連携していた“「根来衆」”にも攻撃を加えて、歴史上に遺る庶民を巻込んだ「熾烈な作戦」を展開した。
この「雑賀衆と根来衆と高野山真言宗」とは、下記に論じる一種の「二期の一揆」で結ばれていた。(高野山は僧兵を初め早々と脱退した。)

この様な事が主要な「青木氏定住地」で起こっていて、「二つの青木氏」の様に、「密教系浄土宗の家」では、反抗勢力の「門徒衆」に陰陽に「経済的な背景」を与えながらも、敢えて、“「密教」”と云う事を表に出さない様にして“憚っていた事”が伝えられている。
信長後の「門徒衆の勢い」は依然として強く、これを徹底的に削ぐために採った「秀吉の数度の紀州討伐」はあったにせよ、要するに“「門徒衆の反抗」“は、その後(1620年頃まで)も続いていた事を物語っている。

結局は「門徒衆の反抗」が納まったのは、それまでの政権が採って来た「武力」では無く、「青木氏の提案」、つまり、「飛散した門徒衆」に徒党を組まさずに「商業組合」に囲い込んで「射和商人」と云う「独り立ちの商人」に仕立て上げた事に依って納まり、末端の社会も「徒党の争い」を排除する社会へと変化した事に在った。

(注釈 「15地域の青木氏定住地」でも、「門徒衆 浄土真宗」と「一向衆の一向宗」の強い反抗があった。)

伊勢紀州は、「高野山の真言宗」と「伊勢神宮」のお膝元でありながら、又、「根来寺の宗教僧兵」の地域でありながらも、「紀州と伊勢と奈良の土豪集団」は、殆どが「門徒衆」であって、それほどに“「門徒衆」“は強かった「不思議な地域」なのである。

そもそも、“何が強かったか“と云うと、それは「揉め事などの事件」が起こると、この「門徒衆」の性癖は、”「集団」“で事に当たった事にあってそれが怖かったのである。
それは、「浄土真宗の最大の教義」にあった事に依る。

「青木氏」は、「御師様」や「氏上様」と慕われて呼ばれ、「信長-秀吉」から「門徒衆」を保護したりするなど「地域の民」の為に貢献して居た事もあって、“先ずは攻撃はされない”とは観ていた様であったが、それでもその“「集団」“で仕掛けられる事に、「権威を重視する象徴族」であった事から「必要以上の摩擦」を避けていた事がこれでよく判る。

ところが、こんな中で在りながらも、「伊勢青木氏の四家」の中でも、「四日市殿の末裔」は、何故か特に気にしていた事が伝わっていて、筆者の「福家の家」のみならず「四日市殿」の最近までの口伝にもはっきりと遺っている。
“密教と発言や慣習を表には出して成らない”とする「口伝」とでも云うか、要するに「戒め」であって、両家や「郷士衆」の家筋にまで伝わっているところを観て見ると、何か激しい「宗教的な揉め事」が江戸中期頃にあったと観られる。(下記)
不思議にこの「口伝や戒め」の多くは、「員弁殿」や「桑名殿」の伊勢北部域には無く、「名張殿」の西部域と紀州域を含む南部域に観られる現象である。

ある大きな「二つの事件」から考察して、“これは何か変である。”
そこで、確実に確証とれるものとしては判ってはいないが、江戸初期からこの期を通じて長い間に“何かの事件”が発生し、つまり、気にしなければ成らないほどの事が起こっていた。
「門徒衆」を救った側からすると、主に“「四日市殿」の南部域にあった”と観られる。
ただ「門徒衆側」の方では、「浄土真宗の宗教教義」に没頭している事からすると、当たり前の事であったかも知れない。
この“没頭する事“、これが「門徒衆」の「最大の教義」であったからである。

そもそも、この「四日市地域」というのは、この「射和商人」の「家族が住む集合住宅」が集まっていた地域(青木氏の地権地域)でもあった事から、共に同じ所で生活し仕事をする事に成った「門徒衆の商人」も住む事に成った地域でもあった。
彼等を刺激しない様に、「伊勢郷士衆」から密かに言い渡されていたのではないかとも観られる。
この口伝が必要以上に明治期まで遺されていると云う事は、その「配慮不足」で、“拗れて折角囲い込んだ「門徒衆」が、再び離散して反動に出るのではないか“と云う懸念が初期の頃に充満していたと観られる。
そもそも、それは「浄土宗」の「伊勢青木氏」に関わった「20程度の浄土宗徒」の「伊勢郷士衆」からすると、「浄土真宗」は「異教徒」と云う事に成るが、それだけに昔からの「伝説的な事」もあって気にしていたのであろう。

室町期中期から江戸期初期頃までは、少なくとも「異教徒」は,「身分格式家柄の差」で判別されるので、現在感覚の「異教徒」では無かった。
この「異教徒」では、歴史観として必要な知識では、本来は、「宗教的な慣習差」で「不必要な争い」を避ける為にある程度の「棲み分け」をしていた。
正規の慣習の“「棲み分け」”をしていたと云うよりは、一地域にその宗派の布教が広範囲に頒布する事に成る事から、況して、一族で固まる「棲み分け」から、結果として、「宗派の棲み分け」が起こった形に成ったと云う事に成る。


要するに、民は領主に所属するものとしての概念が確立していて、「国抜け」と云って[自由移住」は認められていなかった事から起こる現象である。
そこで、この「異教徒」(門徒衆)が玉城地域中心に川を隔てて“「混在する事」”になった事態そのものが江戸初期には「新しい事」であった事からそれだけに気を配っていたのである。
これは“「混在する事」”が無ければ、「商業組合の(イ)(ロ)(ハ)」と云う組織を成し得ない「商業組合の原則」でもある。
これは、「異教徒」に対して「青木氏の氏家制度の慣習仕来り」に従わず、この「棲み分けの概念」を無くし、「商業組合」として「同じ域」に囲い込んだ事から起こる「慣習仕来りの摩擦」であったと観られる。

「一人前の商人」に仕立てようとすれば「異なる域」に住しては、その域や氏や姓の持つ慣習や仕来りや掟に縛られて、自由にその知識やノウハウを教える事は不可能である。
「青木氏と伊勢郷士衆」に執っては、絶対に乗り越えなければならない「最大の課題」であった事に成る。
それだけに“「苦しみの口伝」”として長く遺されて来たのであろう。
当にこれは「青木氏の生き様」の所以が伝わるものである。
それが「門徒衆の性癖」が、せめて「穏健」であったならば問題も無かったのであろうが、彼らは「最大教義」でもあった「一念一途」から来る「集団抗議」であった事から収まりが着かない事に成っていた事なのである。

確証は得られないが、調査から観て見ると、更に「浄土真宗」には、下記に示す「浄土宗」との間には、“歴史的なある謂れ”があったと観られる。
恐らくは、この事も大きく影響していたのではないかと読み取れる。

それは、そもそも「浄土真宗」には、江戸初期に当時世間を騒がせていた「一向俊聖」が率いる「一向宗」と云う別派が在って、この「一向宗」は、その「教義の所以」から「反抗性」と云うか、世の「理不尽性」に対する姿勢が強くて、各地で集団で「一向一揆」を多発さしていた。
この門徒は、「浄土宗徒」でありながら、「浄土真宗」の「親鸞の教義」を慕う“「一向衆」”と呼ばれる別派の一派があって、この信徒は「下級武士と農民」に広まり、それ故に本来の「浄土宗信徒」とは違う行動を採っていた。
この“「一向衆」”に対しては、本来の「門徒衆」とは、この“ある謂れ”があって区別されていた。
どちらかと云うと、ドラマ的に捉えると、「門徒衆」から云えば、この親鸞を慕う「一向衆」は「異端児」と云う関係にあった。
「浄土宗徒」からすると「裏切者」であった。
ところが、この上記の“ある謂れ“を説くには、先に次ぎの事を述べて置かねばならない事に成る。


そもそも、この「一向宗」には、「二つの流れ」があって、「浄土宗」を発祥源とした「一向宗」と、上記した「浄土真宗」から出自した「一向宗」とがあった。
この“ある謂れ“には、この経緯が影響したと読み取れる。
この「一向宗」の本元は、「浄土宗の別派時宗の一向宗」ではあるが、この「一向宗の門徒」には「法然の浄土宗」でありながら、“ある教義”を信じて「親鸞」を慕う「門徒衆」(一向衆)が多く、そこで「浄土宗」からは、この「親鸞信仰」の「浄土宗一向門徒」とは区別して“「一向衆」”と呼ばれ差別していた。
この呼称を嫌う親鸞の「浄土真宗側」からは、“「一向」”と云う言葉さえも使わず、これを禁句として当初は相手にしなかった。
この「浄土真宗側」では、“使うと破門する”とまで書かれた文章が遺されているのである。
この「一向宗」を、「浄土真宗側」の一派は、「信徒」に入れると“「親鸞の教義」を歪める”として嫌ったのである。
「浄土真宗側」からすると、教義布教の「浄土宗の浸食作戦」であると疑って観て採ったのであろう。
この思いが手紙としての記録に遺されている。

元々、「浄土真宗」と、この「浄土宗教義」の「本宗争い」が長く在って、江戸期初期に「家康」は、「密教浄土宗の顕教令」を発する際に、この問題があっては困るので、この「争い」に裁定を下し、この「一向宗」を全体像からは正式な宗派とは認めずに“「浄土真宗一派」”と定めた。
「顕教令」の為には、「親鸞崇拝の一向衆の信徒」を「浄土宗の信徒」とは認めなかったのである。

ところが、この「家康裁定」でも、「浄土真宗派の一部」(門徒衆派と一向衆派の両派)は、納得しなかったので明治期までこの「争い」は燻っていたのである。
この「顕教令」と共に出された「家康裁定」で両方の宗派では一応は騒ぎは収めたが、ところが、「浄土真宗側」の「一向衆」は、浄土真宗の一派の「一向宗」としては認めて貰えなかった事から納得せずに、信徒の下級武士も含んで各地での「農民に対する税に対する圧政」も重なる事にも成って、反発して、要するに、「反抗」を意味する“「一揆」”を各地で起こす様に成ったのである。
この頃から、“「一揆」”と云う意味合いは、「反抗を意味する一揆」へと変わって行ったのである。

そこで歴史的に注意しなければ成らないのは、この“「一揆」”が元々の「浄土真宗」の「門徒衆」と、「浄土真宗系」の「一向衆」の二つによる「一揆」が起こっていた事である。
上記の“何か変だ”とするのはここに在った。
つまりは、伊勢を始めとする「15地域の青木氏」は、“一体,「どちらの衆の一揆」を援護していたのか”と云う事である。

江戸期初期の「家康裁定」では、「浄土真宗の信徒」であるが、室町期末期頃からはこの信徒に依る「農民一揆」が各地で起こっていた。
その為に長く引きずったこの問題に対して、今度は「明治政府」は、この「一向宗」を宥める為に、この「一向衆の浄土真宗」を単なる“「真宗」”としての呼称で認めて、妥協案の「真宗」と呼称する様に裁定を下した。

要するに、「密教」を含む「法然の教え」を護る「浄土宗」と、「親鸞の教え」に傾注する「浄土真宗」との「宗教派閥の争い」であって、そこにはその「教えの差」の違いがあった。
法然の「浄土宗」からすると、親鸞の「浄土真宗側」に走った信徒に憤懣があって圧力を掛ける為に、差別した事にも成る。
況して、その信徒が全国で“「反抗の一揆」”を起こしたのである。

この様な行動に出る教義では無い「浄土宗派の密教」は、この「一向宗の行為」を許される事では無かった。
「浄土宗派側」からすると、“親鸞に傾く裏切り行為”の上に、且つ、“反抗の一揆”までを起こすと云う信じられない事が起こったのである。
そもそも、「浄土宗」は、江戸初期の家康の「浄土宗の密教」を改宗して誰でもが信心できる「顕教令」を発した事から、爆発的に不満が噴出して起こった事からの事件である。
その所属には基本的には「江戸期の以前」は、若干の動きはあったが、未だ「浄土宗派の一向宗」であった。
ところが「浄土真宗」の信徒の一部が、「浄土宗の信徒」に不満を爆発させて「布教戦争」を仕掛けた事から起こったのである。
そこで、上記した様に、家康の一向宗を「浄土真宗」と裁定をした経緯に発展したのである。
その事は“「教えの差」”にあるとして、これを嫌う「浄土宗」からは、「浄土真宗」に対する「差別待遇の呼称」として扱った事にあった。

つまり、そもそも、この“「教えの差」”の“「一向」”とは、一体、“何か”である。
この“「一向」”と云う言葉には、”一筋に、一途に、一念に“の意味があり、これを「主たる教義」としていたことから起こった事ではある。

(注釈 教組の「一向俊聖」は、「越後国の草野氏」の末裔の「草野俊聖」の事であり、後に、「一向俊聖」と名乗った。)


これは、浄土真宗の「一念発起の教義」にある様に、“「集団」「一途」“で事に当たる「浄土真宗の最大教義」に一致していた事から起こったのである。
「親鸞の教え」の「阿弥陀経」の一節の“「南無阿弥陀仏」と一途に念ずれば、汝は救われる。”の所以である。
「浄土宗の一向宗の教え」と、「浄土真宗の親鸞の教え」が一致している事から来ているので、「一向衆と云う信徒」が興った事に成ったのである。
「江戸初期の顕教令」に依って、「密教」から「顕教」に成った事から、この「一向」「一途」「一筋」「一念」が、「庶民の信心の心」を掴んだ事から起こったのである。

ところが、「浄土宗」は、“全ては「自らの悟り」に通じる“としていて、「顕教」に成って新たに「浄土宗信徒」と成ったが、農兵(半農下級武士)や農民には、この教義は、その生活環境からは現実には生活環境に直結せず、且つ「悟りの教え」は難しいことでもあった。
然し、そこで、“唯、念仏を一念に念ずる事で幸せが来て極楽浄土に行ける“とするとこんな楽は無いし判り易い。

元を質せば、前段でも論じたが、「密教」は「大日如来仏」を「宇宙仏」とし、直接、如来が下界に降りて来て民に「教え」を伝え悟らせると云うもので、「顕教」は「盧舎那仏」を「宇宙仏」として、直接下界には降りず、「下界仏の釈迦」を通じて直接、言葉で教えを伝え導くとするものである。
先ずは上記するここに大きな“「教義の原理の差」”があった。
「顕教」で「浄土宗信徒」になったものの、結局は「民衆」は、「判り易さ」とこの「安易さ」に引かれた「浄土宗」から離れて行ったと云う処であったと観られる。
この事から、「浄土宗」は、「顕教」に成ったものの「新しい信徒」は完全に離れて行って衰退の一途と成って、寺は荒れ果てた。
幕府は寺の修理令を出すが進まなかった。
残るは、青木氏等の密教を続ける寺のみの現状と成った。
そこで、高級武士階級に入信を進めて浄土宗は何とか生き残れたのである。

ところが、その「青木氏の密教」では、「般若心経」を前提として、その「青木氏氏是」や「青木氏家訓10訓」にもその考え方を反映さしている。
「色即是空 空即是色」「色不異空 空不異色」は、「密教の主教義(概説:「拘りの否定」と「悟りの前提))」として従っている事から、「浄土真宗」と「一向宗」は、到底相容れるものでは無かったのである。
「時宗派の一向宗」は、「浄土宗系」とするも浄土宗の中では異端扱いと成っていた。

この為に、江戸期には「顕教」に成っても続けていた「密教派」の「浄土宗の青木氏」には、「浄土真宗」の元来の「門徒衆」からは、「浄土宗」である事と「密教」である事に付いて敵視されたのである。
当然に、この様な考え方の持たない「密教の青木氏」は、「一向衆」からも「密教」の有り様が「一向宗派の敵」として逆に敵視されたのである。
各地の「二つの青木氏」は、室町期から「浄土宗派の一向宗の一揆」には「経済的支援」をし、室町末期からの「門徒衆の一揆」や明治期の「一向衆の一揆」(民としての前提)にも「経済的支援」をしながらも、“「密教」”と云う事では、「一向、一途、一筋、一念」で苦しめられたものと考えられる。

果たして、”「浄土宗派の一向宗の一揆」には「経済的支援」”と「ある手紙の資料」では成っているが、疑問である。
要するに、”「支援の仕方」”に大きな違いがあったのではないかと考えられる。
その「支援の違い」が未だ判って居ない。
「警戒していた宗派」であった事から、「積極性援助」は先ずは考え難いとすると、依頼されるが侭に「周囲との関係上」から「寄付的行為の範囲」で留まったと観られる。

唯、この「強い懸念」が、「四日市殿の末裔」に強く伝えられていたと観られる。
つまり、「四日市殿」は、立場上から「一向衆」にしても「門徒衆」にしても「反抗する宗教勢力」には「反対姿勢」を鮮明にしていた事も考えられる。
どう考えても、確かに「青木氏」に執っては、実に、“間尺に合わない事”ではあった。

前段でも、又、上記した様に、「地域の民」からは“「氏上様」”と呼称され敬われ、「郷士衆や職能部の人」からは“「御師様」”と呼称され敬われていたが、江戸初期から明治期まで地域や宗派を超えて“「近い存在」”と成ったにも関わらず“「門徒衆」”からは、この「敬いの呼称」は無かったのである。
本来であれば、有ったと考えられるが、口伝から観て無かった事は、相当に“「密教」”と云う事に対する「懸念の心」や上記した「歴史的な拘り」が「門徒衆」にあった事に成る。

昭和の初め頃までは、結局、「地域の指導者の所以」として、この「門徒衆」に対しては「密教の発言と慣習や仕来り」には気を使い、出来るだけはその様に振舞ったと「伊勢青木氏の口伝」では伝わっている。

江戸期に於いては伊勢紀州では門徒衆に対しては明確であったが、「一向衆」に対してはどうであったかは定かでは無い。
唯、伊勢紀州では前段でも論じた様に「一向衆」が出る土地柄では本来は無く少ない。

「宗教的な経緯」が経緯だけに幾ら「青木氏」でも「民の為」としても資料を残す程の事は出来なかったと考えられ、依って「資料口伝の類」は見つからないのであろう。
その前に、上段でも論じた様に、「青木氏」は「郷氏」であり、「地域の地権者」であって、且つ、唯一「氏の青木村」を形成出来る立場にあった事から、独自に「浄土宗の菩提寺」を持つ「氏村」には、「青木氏に関わる郷士衆」やその「職能部の民」は、この菩提寺の下で導かれる事に成っていて、「一向宗の布教」は起こる事は必然的に無かった。

(注釈 前段に論じた様に「僧侶」は「青木氏」で、祭祀は福家を中心に「達親方式」に依る「青木氏形式」を以って行われていたので、入る余地そのものが無かった。)

従って、宗徒に関する資料や口伝は勿論の事として無い事に成る。
「門徒衆」の事に付いては、上記の「特段の経緯」から起こった事であるから、「青木氏」も間尺に合わないとしても大変に気を使った事に成ったのである。

唯、他に考えられる事として、「江戸初期の顕教令」に従わずに「密教の慣習と伝統」を維持して居た事への配慮に付いては、「紀州徳川氏との親交」から配慮しなければならないが、特段で意識している資料は見つからないのである。
依って、「門徒衆への配慮」だけと云う事に成る。

実は、この事に付いて、「江戸初期の浄土宗の顕教令」では、結局は,「浄土宗」は誰でも信心できるとしたが、実際は、“「誰でも」”は、確かに“「誰でも」”ではあったが、「氏族」に限らず「姓族」にも門徒を開いて「特定された高級武士」に限定して入信出来る宗派と結果として成ったのである。
従って、この「特定される高級武士」の間では、完全とは云わずとも“ある程度の密教性のある浄土宗の教義”が維持された事に成っていたのである。(「達親方式」等)
この事が、「青木氏の密教の慣習仕来り掟の伝統」に付いては、特段で問題視されなかった事に成った。
況してや、紀州藩とは上記する「商業組合」や「勘定方指導」や「地士制度」などの連携した関係からも問題視されなかったと考えられる。

ところが、「四日市殿の末裔の青木氏」には、この事に付いての事が多く伝わっている事から考えると、江戸期初期前後からの出来事では、“何か事件性があったのではないか”と考えられる。
江戸期初期前後では、「四日市殿」が、前段でも論じた様に、「立葵紋の使用」や「勝姫との血縁」などでも判る様に、「紀州徳川氏との親交」も取り分け深かった事もあって、出来るだけ「密教性」を表に出さない様に「摩擦」を避けていたと観られる。
取り分け、「門徒衆との事」で「諍い」が起こると、“集団性で動かれる事”があるので、それが表に出て仕舞う結果と成る事に気にしていたのである。
ここでは、四日市殿に関しては「紀州徳川氏への配慮」は否定できない。
況して、一筋縄では行かない「門徒衆」の集まった地域の「四日市地域」であるから、他の四家とはこの面では、上記の通り異なった事に成っていたのであろう。

そもそも、それが、「信長と秀吉の締め付け」で「顕如」が例の如く裏切った事から、「門徒衆」は背景を失い、結局は「青木氏」と「郷士衆」に縋って来た事にあっても、然りながら、伊勢紀州に多い「生粋の門徒衆」には、唯一つ気に入らない事では無かったかと観られる。

この「口伝の伝わり方」(宗教行事から密教性を覆する態度)から観て、「青木氏」の下に共に仕事をする中で、この“「立場の差」”が表に出て揉め事に成って、“集団で抗議された事”が原因していたかと観られる。
恐らくは、記録が見つからない程度の事件性であった事で、場合に依っては遺さなかった事も考える。
実は、この「四日市殿の末裔」のお二人の女性の方が信濃に定住していて、その方の情報では「事件性の事」が家に伝えられていたと聞いているので、筆者は、敢えて“遺さなかった”と観ている。(ルーツ掲示板にもお便りがある。)

“何も斟酌せずに毅然として「伝統の密教」を表に出して行動すれば“とする考え方もあるが、これは地域住民をリードする「青木氏の立場の所以」とも観られる。
これも、「色即是空 空即是色」「色不異空 空不異色」、即ち「密教の主教義(概説:拘りの否定)」に繋がったことでもあった事から、「伝統の密教」を必要以上に出さなかった事にあったと観られる。

(注釈 筆者の家には、この様な事に関する事を書いた鎌倉期末期の「古い長文の漢詩の掛け軸」が遺されている。)

江戸期には、時代も異なり「500にも上る守護神の神明社」も幕府に引き渡した等もあって、「賜姓族としての立場の緩み」が出ていたのであろう。
“「緩み」”と云うよりは、“時代性に即した行動“と云う事であったと考えられ、「正しい判断」であったと筆者は考える。
それが「青木氏の生き様」の一つとして「潜在的な意識」に成っていたのであろう。(今も調べている。)
しかし、この後も、この「門徒衆の慣習」は、江戸期を通して大正期まで引き継がれていた。
それだけに、逆に云えば、この「門徒衆と郷士衆」から成る「商業組合」は栄えたのである。
結局は、上記した様に、この「商業組合」に依って江戸期の初期前後頃には、「一揆の反動」は、一時は80年間近く低下したが、「門徒衆」の「商人化」で「門徒衆の勢い」は戻し、この「勢い」からその「門徒の慣習」も維持されたものと観られる。
この「門徒衆の商人化」に関わった「青木氏」や「郷士衆」でさえも、“「密教」である事”を憚った模様で手紙と口伝の記録に遺されている。

そこで、上記した様に、“何か変だ“に付いてであるが、室町期末期に起こった「一向一揆」、明治初期に起こった「一向一揆」に付いて、果たして、全国で起こった「全国の青木氏」が経済的に援護したのは、”どちらの「一向信徒の一揆」であったのか“である。
要するに検証する上で「三種の一向衆」がある事に成る。
この何れなのかである。解明して置かないとそうしないと「矛盾」が生まれる。

その前に、先ず、「一揆」と云う言葉は、中国の孟子論の中に使われている言葉から、平安期に入り、これを鎌倉期に使われた言葉であった。

第一期
その言葉は、本来は、武士の小土豪が政治的に結集して[政治連合体]を作って契約した上で互いに護り合う「連合結社」に使われるものであった。
これを「士一揆」や「徳政一揆」と呼ばれた。
これには「出雲大社の下に纏まった亀甲集団」などがある。

第二期
ところが、室町期に入ると、「戦乱」で「下剋上」が起こり、この「結社の内容」が変化して行って、言葉の内容は,下級武士の政治体制に対する「契約した上での反抗勢力」の言葉として使われる様に成った。
この時期は「国一揆」や「荘家一揆」と呼ばれた。
有名な処で「1465年の額田郡一揆」がある。

第三期
室町期末期に成ると、下級武士の不満や農民の不満を訴える不契約の烏合集団化した「不満勢力」の言葉として使われた。
この時期は「百姓一揆」と呼ばれた
有名な処で、「加賀一向一揆」が在る。

第四期
そして、江戸初期になると、更に、この結社が、社会が安定して「武士の結社」の必要性が無く成り、上記した様に、ある「影の大勢力」が背景と成って、「農民や宗徒」に関わる不満から集団化した「不満勢力」の言葉として使われる様に成った。
この時期は主に「百姓一揆」や「一向一揆」と呼ばれた。
要するに、上記で論じている一揆である。

第五期
最後に、「明治維新の政治体制」が変わり、「社会体制の変化」も起こり、これを嫌う「保守勢力」として結集して、ある「政治的主張」を実現させようとして、士族を失った者や農民らの重租税の改善の集団化したものに使われた。
「伊勢騒動」などがある。
この時期は、「地租一揆」や「世直一揆」と呼ばれた。

この「五つ期の一揆」に付いては、殆ど各地に定住する「二つの青木氏」が関わっている。
そこで、「青木氏」に何らかの関係で関わった各地の主な一揆を下記すると次ぎの様に成る。

鎌倉期
青木氏が関わった主な一揆
1368年武蔵平一揆、相模平一揆、白旗一揆

室町期前半期(徳政一揆)
青木氏が関わった主な一揆
・1418年上総本一揆・1465年額田郡一揆・1485年山城国一揆

その他の一揆
1428年正長の土一揆・1441年嘉吉の徳政一揆・1462年寛正の土一揆
1400年大文字一揆・1429年播磨国一揆

室町期後半期
青木氏が関わった主な一揆
・加賀一向一揆・法華一揆・雑賀一揆・伊賀惣国一揆
・1563年三河一向一揆・1587年肥後国人一揆・1585年祖谷山一揆・1586年北山一揆

その他の一揆
・1589年天草国人一揆・1589年葛西大崎一揆
・1590年和賀一揆・1590年仙北一揆・1592年梅北一揆・1600年岩崎一揆
・1600年浦戸一揆

江戸期
青木氏が関わった主な一揆
・1603年滝山一揆・1608年山代一揆・1614年北山一揆・1615年紀州一揆
・1677年郡上一揆・1722年越後騒動・1761年上田騒動・1768年新潟騒動
・1836年天保騒動(郡内騒動、甲斐一国騒動)・1814年北越騒動
・1842年近江天保一揆

関わった可能性のある一揆
(殆どは重税による農民一揆)
・1652年小浜一揆・1686年加助騒動・1690年坪谷一揆
・1726年津山暴動・1729年岩代農民暴動・1761年伝馬騒動
・1781年絹一揆・・1786年宿毛一揆
・1842年山城谷一揆

その他の一揆
・1739年元文一揆・1753年摺騒動
・1771年虹の松原一揆・1771年虹の松原一揆
・1771年大原騒動1793年武左衛門一揆
・1804年牛久助郷一揆・1825年赤蓑騒動・1831年長州藩天保一揆
・1838年佐渡一国一揆・1847年三閉伊一揆・1856年渋染一揆

明治期
青木氏が関わった主な一揆
・1869年ばんどり騒動(富山県)
・1872年悌輔騒動(新潟県)
・1876年伊勢暴動(三重県)

その他の一揆
・1873年筑前竹槍一揆

この「五期の一揆」から、「青木氏が関わった一揆」は、次ぎの通りである。
鎌倉期は第一期である。
室町期前半では第二期である。
室町期後半では原則は第三期である。
但し、室町期後半の前期では、第三期で、後期の第四期に移行する時期と成る。
江戸期では原則は第四期である。
但し、江戸期の前期では、第四期で、後期から第五期に移行する時期と成る。
明治期では初期の第五期である。

つまり、“何か変だ”とした疑問は、「青木氏」が「経済的背景」として援護したのは、果たしてどの「信徒」であったのかである。

「浄土真宗の門徒衆」・・・・・・・・鎌倉期・・・・・・・・・・・・・・・・・主に武士階級
「浄土宗の一向宗の信徒」・・・・室町期前半 室町期後半・・主に武士階級
「浄土真宗の一向宗の信徒」・・室町期後半・・・・・・・・・・・・・農民階級
「浄土真宗の門徒衆」・・・・・・・・室町期後半 江戸期前期・・武士階級と農民階級
「真宗の一向衆」・・・・・・・・・・・・江戸期後半 明治期・・・・・・農民階級

この記録から完全に判別する事は困難だが、「関わり方」には多く在って、地域に依って異なっているが、“「経済的援護」”としては大方は以上と成っている。

唯、「江戸期の一揆」に付いては、「家康の顕教令」もあって、「家康裁定」もあって、「商業組合」があって、紀州藩から「商業組合」と共に「15地域の青木氏の定住地」に広がりを見せた「地士制度」などもあった事から、「宗派」に関係なく、“「地域の民衆」を支える為の「経済的行動」”であった事に成る。
“「地域の民衆」を支える為の「経済的行動」”とは、上記で論じた様に“「商業組合」「提携商人」の考え方”に一致し、この「考え方」が「根底にある理念」であった事に成る。
これが、長い歴史を持つ継続された「青木氏の理念」であって、継続された「生き様」であった。
それを顕著に表しているのが,「青木氏」(伊勢青木氏と信濃青木氏)がそれまでの関わり方と違い公然と直接的に関わった明治初期から長く続いて起こった、最後の「1869年ばんどり騒動(富山県)」と「1876年の伊勢暴動」の二つの一揆が大いに物語っていると云える。
「越後の秀郷流青木氏」が関わった「1872年の悌輔騒動(新潟県)」も同様である。

他には「武力的な援護」、「政治的な援護」と成るのだが、「青木氏の氏是」に依って「歯止め」が掛かっていて、直接の「武力的な援護」は無く、「経済的援護」の他に、「青木氏」が持つ「シンジケートに関わる援護」が多い傾向である。
この「シンジケートの援護」であるが、「直接的な武力衝突」では無く、平穏時は「家族の身辺警護や食料の安全輸送」等に関わっていた模様である。
「一揆」を先ず根絶やしするには、為政者側の採る最初の作戦は、先ずは、「補給食料の断絶」や「家族への脅迫」や「調略作戦」から始まり、「武力に依る掃討作戦」は最後の手段であった。
その前のこの作戦に「援護の対応していた役目」は、「郷士頭の家に遺る手紙」の資料から読み取ると、「青木氏」からの指示に基づき、その役目が危険であった事からこの「シンジケート」が手足と成って大いに働いていた様である。

「政治的な援護」の関りでは、「シンジケート」と関係していて、“「一揆後の立て直し援護」”と云った「援護の関り具合」に徹していた事が判る。
特に、「江戸期末期のシンジケート」は、時代と共に変化して「抑止力」と云うよりは「職能集団」と云った様変わりした「重要な役目柄」を演じていた事が判って居て、支配下に置いていた「伊勢水軍」の「職能集団」は、「海上輸送」で働き、各地域に配置していた武装集団は、「陸送輸送と警備担当」で働き、「大工等の職能部」は、神明社等を江戸幕府に引き渡した後は幕府から「関連企業」として受注を受けてこれを修理管理する事に働いていた。

そして、明治期中期には、伊勢に於ける「青木氏のシンジケート」は、これら全てを解散して「企業」として独立させる手段を採った。
伊勢以外にも、例えば、「讃岐青木氏」の様に、本体は「商い部門」を瀬戸内に遺しながらも、「廻船業」として「新規航路」を作り、最終、蝦夷地にも支店を置いて大いに栄え、昭和20年まで続いていた。

この様な例の様に、時代と共に体質変化させて生き延びていて、「青木氏の15地域」では、「伊勢、信濃,讃岐」は、勿論の事、有名な処では「新潟」や「富山」や「鳥取」等、多くは少なくとも昭和の初め頃まで「商業組合と提携商人」と共に存続した事が判っている。

要するに、江戸期末期に成っても依然として「賜姓族」として頑なに「地域の住民」を「賜姓五役」の「殖産や興業」に導いて、「商業組合と提携商人」は「本来の一揆の意味合い」としての貢献をしている。

これらは前段の「伝統シリーズ」でも「関わり具合」を論じてはいるが、本論は「商業組合と提携商人」としての「15地域の青木氏の生き様」を「伊勢の例」を下に焦点を当てて論じた。
これらの事は、決して、伊勢域だけの事では無く、「15地域」では、「商業組合と提携商人の組織」を形成する以上は、ほぼ同じ様な事が起こっていたのである。
それを前提にご理解頂きたい。

次段は、矢張り、伊勢を以って、この「提携型商人」の「射和商人」に付いて例として詳しく論じる。


「伝統シリーズ-20」に続く。
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名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒

:「青木氏の伝統 18」-「青木氏の逸話」 


[No.336] Re:「青木氏の伝統 18」-「青木氏の逸話」 
投稿者:福管理人 投稿日:2015/10/25(Sun) 07:33:56


> >「青木氏の伝統ー17」の末尾

> (注釈 各地の「青木氏の伝統」に関する資料関係が、青木氏と娘の血縁関係も含めて関係した20程度の「郷士の家」からももっと多く見つかれば、より詳細に「青木氏の広域の生き様」が描ける。
> 然し、、残念ながら、「伝統」どころか、他氏と異なり多くの「習慣仕来り掟」を持っていたにも関わらず全く消えて仕舞っている状況の様に見受けられる。
> 各地の神明社にある資料なども探究したが、残念ながら、今は阻まれた次第であった。
> 然し乍ら、「射和商人」と成った「郷士の家」からの資料、四家からの娘の嫁ぎ先の親族関係と成った郷士の家からの資料、伊藤氏等の「伊勢国衆」の家からの資料等からの情報が論文作成に大きく影響した。
> 更に、未、「手紙」や「報告書」の形でも遺されていると観られる。)
>
> これは、「商い」には、「事件の前後」の「雰囲気・小競り合い」からの「事前情報」が必要であって、それによって、“「商いを動かしていると云う戦略」”も在って、その事を主目として情報を獲得していたのである。
> その為にも、かなり前から、“伊勢で起こった騒動”に対して「伊勢衆」で前後に“「打ち合わせ 談合」”なども頻繁にしていた事が判る。
> (明治の終わり頃まで、年に2度の全ての関係する人々が大集合して親睦(運動会)を図っていた事が口伝で伝えられている。)
> 「商い」に大きく影響する事から、「伊勢シンジケート」や、各地の500にも上る「神明社」からの「情勢分析」の記録として情報が扱われていた事が判る。
> 何度と「談合」が重ねられている処から「他の伊勢衆」にもこの情報共有が行われていた事も判る。
> 特に、「伊賀の乱」は「青木氏」も「影の力」として「物資の供給」や「側面攻撃」や「夜間ゲリラ戦」などで合力したが、相当に「事前分析」も施され、長引いた「伊賀の乱」の収束前に紀州に一時避難などもしている。
> これも「事前情報の結果」であろう。
>
> (注釈 「青木氏の口伝」では、この100年間の間に二度に渡り「紀州新宮」に避難している。
> この「伊賀の乱」後の「新宮避難」は、「基本戦略」上から事前に引いた事は判り確認できるが、もう一つの「新宮避難」が何で避難したかは判らず記録が正確に読み取れなかった。)
>
> ただ、この時の「口伝」には「一つの逸話」が伝わっている。重要な判断要素の事に成るので次ぎの段で述べる。
>

「伝統-18」

「青木氏の逸話」
この避難した人物は、『福家の者』(1)で、“『鉄砲を巧みに熟し』(2)”、“『名人”と村民から呼ばれていた』(3)。
ある時、家臣を連れた人物が、『領地視察とタカ狩りを兼ねた形で巡視をした』(4)。
この時、この「福家の者」が猟をして道端で休んでいた。
そこに、この一行が来て、『福家の者に土下座する様に促した』(5)。
しかし、家臣の者が、『何度も往来を繰り返したが余りの往来であった事』(6)から、『福家は土下座を中止した』(7)。
そこで、この『家臣が鉄砲で威嚇した』(8)。
ところが、「福家の者」が、遠くの場所に居た『主君」の上に実っている「柿の実」を打ち落とした』(9)。
怒った家臣が『「無礼討」しようとした』(10)。
ところが、『「福家の従者」と「家臣」との間で「争い」が起こった』(11)。
これを観ていた「主君らしき者」が、止めて、難なく視察団は引き下がった。
『三日後に呼び出しが在り』(12)、福家の者は『「家紋付きの乗馬白装束」で出仕した』(13)。
ところが、門のところで、又、「白装束」を理由に「無礼者」として『「家臣の騒ぎ」と成った』(14)。
その「騒ぎ」を主君に伝えた。結末は、「主君の者」が門まで出て来て、この騒ぎの事態は逆転してしまった。
『主君が慌てて下座礼の姿勢を採った』(15)ので、家臣がひっくり変えて驚き、取り敢えず、『主君の姿勢に従って片膝下座の姿勢をした』(16)。
福家は、この後、『主君の案内で館内に導かれて行った。』(17)、 この様子を家臣の一人の者が、主君から『故事に付いて教えられて』(18)、周囲の家臣に伝えて、「福家の者」が誰であるかを知ったと云う事であった。
そこで、始めて事態を飲み込めた家臣等は、福家を『客間に通し、主君が座る上座に案内して、その上で改めて「挨拶の礼」を先に執った』(19)。
その原因は、『「白装束」に「家紋の笹竜胆紋」にあった』(20)。
ところが、「福家」は上座に座る事を儀礼で辞退したので、押し問答が主君との間で起こった。(21)。
そこで、共に上座で対面する事に成ったが、下座に控える家臣等は未だ頭を上げなかった。(22)。
それは、「福家]が敷物を使わなかった事にあった為に、家臣等は挨拶を戻さなかった。(23)。
「福家」は「儀礼作法」を治めて結局は敷物を用いて落ち着いた。
この後に「対談」は続いて、今後の多くの事が決められた。(24)。・・・・・。

この後も、この「逸話」は更に続くが、この後に“「付き合い」は続いたとされる「行りの逸話」”と成っているのである。

「逸話」はこの後も続く。
この「逸話」には、そもそも、『・・・』とする部分に意味が持たせて在って、“「青木氏の有り様」等の子孫に伝えるべき「伝統」”がまとめられて読み込まれているのである。
「逸話」には、子や孫に面白可笑しくして話し聞かせて、「家筋」などを判らせて伝える「重要な手段」で慣習でもあった。

因みには、“「白装束」”は、皇族位に準ずる「上位の者」が執る「最高礼意の朝廷衣装」での作法であるし、それに「紋付」を付ける事が出来る「家紋」は、「伊勢青木氏」しか使えない「禁紋の笹竜胆紋」であったとして、“そんな家なのだ”とする子孫に識らせる慣習であった。
この様な事を織り込んでの「過去の青木氏」にだけにある「伝統」を読み込んで伝えているのが、この室町期末期から江戸期初期頃に作られた「口伝に依る逸話」なのである。
この「逸話」は作られた時期は、確定は出来ないのではっきりと云えないが、「話の前後の内容」から「天正期から江戸初期」に作られたものでは間違いはないかと考えられる。
実は、「信濃青木氏」でも、これに似た「信濃の逸話」が伝えられている事から、少なくとも「本能寺の変」の後である事が判る。
この「信濃の逸話」では、良く似た事が「事件の記録」として「外部史実」にも成っている。
以前にも、記載したが、「信長」が武田氏を滅ぼした後の信濃甲斐巡察の際に起こった事件と類似する。
それは、重複するが、土豪で郷氏の清和源氏支流末裔が、この時、道端で「信長」を迎えた際に「白装束に乗馬姿」で最高礼に比する「朝廷作法」に則ったもので迎えたのであった。
それに気が付いき比例無礼として、勘違いした信長は烈火の如く怒り、自ら馬から引き釣り降ろし、叩きのめした。
朝廷作法に熟した家臣が止めに入り先ずは納まった。
これに良く似た「信濃の逸話」にもあり、「伊勢の逸話」とある意味で同じ事を伝えようとする「青木氏の意図」ではあったと判断され内容は類似する。
「信濃」でも何か「儀礼作法の問題」を起こしていたのではないかとも思われる程の事件である。

この他にも、幾つかの「逸話」があるが、この「逸話」が江戸初期に作られたとすると、この「逸話」には大きな意味を持っている事に成る。
そもそも、「逸話」がつくられると云うのは、その「逸話の内容」が、その「氏家」に執って極めて重要であるからこそ作られる「氏家社会の重要な慣習」であった。
これらは、”「青木氏の重要な事」を伝えようとするもの”には、それぞれの「内容の目的」は異なるが、「氏是」「家訓」「口伝」「逸話」「由来書」「等の方法で「全青木氏の仕来り」としてある。
この「逸話」が作られるくらいである事から、「青木氏」に執っては、この「逸話」に込められた事が如何に大きな事に「青木氏」の中で成っていたかと云う事に成る。
この「逸話の内容」が、“時事に合わせて「青木氏に執ってシンボル的な事」“ばかりを読み込んでいる。

つまり、その時期に「青木氏」の中に「シンボル的な出来事」が起こった事を示している事に成る。
これは、「青木氏氏是」の影響によると観られる。
前段でも何度も論じたが、「青木氏氏是」を護ろうとすると、「青木氏の行動」を誇示して強く遺す事は難しい。
「青木氏の事」を”世に晒す事”、「青木氏の事」で、”世に憚る事”を強く戒めている。
こう成ると、何もしないと云う訳には行かず「逸話」ででも「名誉や権威や格式}等を遺して置く事に成る。

「悠久の歴史」の中でも、平安初期に桓武天皇に「皇親族」としての存在は、“「律令政治の邪魔」“として圧力を掛けられて起こった「青木氏衰退期」に遺された「氏是」ではあるが、この時に匹敵する程の、「心機一転」を期した青木氏で『総代わり』する程の事がこの天正期に起こったと云う事を物語っている。
その為に、「青木氏氏是」を護ろうとして「青木氏の子孫」に是非に改めて言い遺そうとして「四家の福家」は作ったのではないかと思われる。
この人物は「当事者であった信定」であると観ている。
前段で詳しく論じた「伊勢三乱五戦」の時の扱いに依っては、平安初期に訪れた滅亡に匹敵する程の事が、又、「青木氏に訪れた危機」を感じ採った事の後に作られた「逸話」であったと解釈される。
この危機から何とか脱した時期の「1600年前後の逸話事」であろう事が判る。
と云う事は、この時期に、上記の様に、「信長―秀吉―家康」と変化して行く中で、“青木氏の存亡が危うく成る程の事が起こっていた“と云う事に成る。
「信長―秀吉―家康」は、「存亡の非常事態」が起こり、次第に危険度が低下して、遂には安定し発展の兆しを観たとする経緯を示している。
この「逸話」は、「安定」に入る時期の直前期の事を伝えているのである。
遂には、既に時代の社会状況は意味の無い程に著しく変化したが、この事の事を筆者が「解説する役目」を果たした事に成る。

(注釈 「桓武天皇」は、「伊勢王の施基皇子」の「第六子の白壁王」の「光仁天皇」の子供で、伊賀の「高尊王」の孫娘の「高野新笠」との間に生まれた子供で、「皇位継承者」の少なかった時に天皇に成った。
「伊勢青木氏」は第一子の「湯原王」の子孫で従兄弟の縁者関係にあった。
聖武天皇期に男系の皇位継承者が居なくなり、女系天皇が続いた結果、正規に皇位継承者が無く成り、それに「準ずる者」として「施基皇子の子供達」に順番は廻って来た。
継承者は皇奈良期末期の「皇親政治」の一員であった。)

この「逸話」から、この天正期に会った事に対して読み取れる事としては、先ず“「福家の人物」”と会ったのは、口伝では「徳川家康」と伝えられているが、「頼宣」(1602年-1671年)が紀州藩主に成ったのは正式には1619年頃に成るが、既に、この前に、「逸話」から観て、「主君」と成っている人物は「家康」であって、「家康」が駿府から「松阪」に来ていたのではないかと思われる。
この時に、新宮から尾鷲に掛けて紀州を下検分していた可能性があり、その時に、「四家福家の信定」との「逸話の行り」に成って会い、逸話の“「呼び出し」”が松阪であった。
そこで「談合の予備交渉」が家康と行われたと考えられる。
この時が1603年と成ると観られる。
1605年に「伊勢面談」とあるので、「伊勢青木氏」と「徳川氏」の間で「話し合い」をしていた史実(神明社等を徳川氏に譲り渡した)が有るので、この「逸話]の“「福家の者」“は、”1605年に新宮に引いて没した“とする史実から、「青木信定」の「伊勢の戦い」に当たった当事者と云う事に成る。
この”「松阪での面談」”の終わった後に、新宮で没したと云う事に成る。
依って、新宮に引いた年数は1603年と成る。
そうすると、この1619年に新宮に居る「福家」は無いので、「後継者の福家」は、この時は「松阪」に居る事に成る。
そうすると、紀州藩は1600年に先ず「関ヶ原の勲功」で「浅野氏」に与えられた。
そして、その後の1619年に「頼宣」に引き継いだ事に成っているので、「福家」が「新宮」に引いた時期は、「伊勢の状況」が安定した時期に成る筈である。
だから、依って、1601年に「青木氏内の騒ぎ」が安定し、「商い」もそれに合わせて盛り返したのは1602年以降と成る。

そうすると、前段の「青木氏年譜」の”「伊勢談合」”とある1603年に、「事の始末」を「伊勢衆」等と共に付けた「後始末」の後に成る。
つまり、1603年の「後始末」の後に「新宮」に隠居した事に成る。
1603年と成れば、その人物は、伊勢解決後の「秀吉の青木氏家臣説」で“「騒ぎとなった問題の責任」“を採って「四家の人事異動」をした。
そして、その後に引退していた「信定」と云う事に成る。
この「信定」は「新宮」に引きさがって2年後の1605年に没している。
とすると、1605年の「松阪面談」は、「青木氏の守護神と神明社-5」にも論じた「別の寺記録」から“「徳川氏との秘密会談」”を指していると思われるので、この会談が終わった直ぐ後に、「引退した事」に成る。
その年の内に「新宮」に戻り年末に没した事に成る。
そうする、この「逸話」に遺された「福家の人物」と「時期」と「場所」は、人物は「信定」で、時期は1603年で、場所は当然に「新宮」と成り、1605年の中頃(逸話の柿の行り)に新宮で家康と会い、その後の直ぐの“「呼び出し」”で、1605年に一度松阪に戻った事に成る。
その時に家康に面談した後に「四家の継承などの始末」をつけて「新宮」に再び帰って、その年の末の11月末に没した事に成る。

この「逸話」の内容を分析すると、上記の様に色々な「青木氏の行動の事」が詳細に判って来る。

この「逸話」の分析を続けると、次ぎの様に更に詳細が観えて来る。
先ず、「逸話」内の”「馬に紋付き袴の白装束」“には、特別な「皇位の慣習」であり、それには意味があって、先ず一つは「青木氏の家柄」を顕著に伝えている事に成る。
更に、この「逸話の行り」は、「青木氏の決定的将来」を決めた“「青木氏と徳川氏が面談した事」“を意味しているのであって、”「呼び出し」“とは成っている行りは、「新宮」から「松阪」に出て来るように表現した意味である。
この「逸話」には漢文的に”「三日」“の行りは、”「直ぐ後」“の事を意味する。
”「門前と書院の出来事」(伊勢館)“の行りの意味は、「面談の内容」を指し示す事に成る。
両氏の「氏と家の事」に付いて、話し合った事を意味している。
“「鉄砲と柿」”の行りは、手広い商いの「総合商社」と成っていた「二足草鞋策」を意味する。
これは明確に「青木氏の状況」を伝えている。
“「猟と民」”の行りは、南伊勢や南紀州が「旧領地や遠祖地」であった事を意味する。
“領地視察と鷹狩りを兼ねた形で巡視した”とする行りは、次ぎの様な事を意味していたと考えられる。
それは、「青木氏」が「悠久の歴史」を積み上げた“「賜姓五役のお役御免」”と、その“「社寺一切の財の権利移管」”、“「青木氏が建立した浄土宗寺の密教性の解除と寺引き渡し」”、「伊勢大和紀州域の土地権利の保全安堵」、等々の事に付いて面談した事が判る。
その後に、「事務的な話し合い」を続けた事が前段の「青木氏年譜」からも判る。
「寺記録」では、この時に「青木氏との血縁」に関する「秘密裏の話し合い」も持たれた事が表現されている。
恐らくは、これが「立葵紋の青木氏の事」に成った「話し合いの基」であったと観られる。
この時に、“「直近に決着を就け様としている問題(夏冬の陣)」“があるのに、「先の事ばかりを話し合う」”と云うのも可笑しなことで、「合力要請の話」は出ていた事は間違いはない。
“家臣が脅しをかけた道端“の行りは、「青木氏の氏是の姿勢」を物語っていて、何事にも動じず、媚びず、阿ず、晒さず、憚らず、の姿勢を毅然と持つ事を諭している。
「信定」没後の1年後の、1606年には“「伊勢談合」”とあるが、1605年の「松阪談合」の後続けられていた「話し合いの結果」が出たところを観て、「向後の事」に付いて、新旧合わせた「伊勢の一切の勢力」が集まって話し合ったと考えられる。
それが“「伊勢」“と云う表現に成ったと観られる。

筆者は、1605年の「松阪面談」には、伊勢を纏める事に付いても1年間を通じて事務方で話し合っていたと観られ、それが「伊勢談合」となったと考えられる。
その結果、「伊勢」を始として、「四家」も合わせて安定したと考えられ、「新四家福家体制」で「青木氏」は進んだと観える。
其れが、「1607年の表現」と成っていると考えられる。

「一つの逸話」は、その「氏家の事柄」を「物語風」にして「口伝」で伝える「古来の手段」として観れば、そこにその「氏の前後の歴史観」を加えて解釈すれば、この様に、紐解く事が出来る重要な手段と成り得るのである。

注釈 そもそも、「青木氏」は、“家康と伊勢松阪で会った事“は、初めてではない。
「夏の陣」の名古屋で、秀忠を待機中に、「青木氏に対して合力の打診」をしている。
この事は「青木氏年譜」にもあり、「伊勢衆」と談合して、「合力」とその「内容」を決めて、その答を「次の福家」は「家康」と名古屋城で直接面談して伝えている。
この事に付いての外部記録もある。
「家康との面談」が二度もあると云う事は、夏の陣で、書状で「合力要請」が在ったと云う事は、その前に「面識」が在って、“それなりの誼を通じていた事”を意味し、「二度目の書状」で済ませる事が出来たと考えられる。
「向後の青木氏の立場」のみならず、“直近に起こる決戦の合力”に付いても打ち合わされた事が読み取れる。

筆者は、全ての「口伝」は、その意味で、“その氏が自らの「氏家の事」の為に自らが証明する事が出来るもの”として重視している。
しかし、この「逸話」などの「口伝」等は、現代社会では兎角消えがちである。

この「江戸期の逸話」には、未だ続きがあって、これを紐解けば、更に、「青木氏の伝統」や「先祖の生き様」が未だ浮かび上がって来るのである。
“「昔の伝統」”を適格に伝える手段で見逃してはならない「四家の伝統」であったのだ。
この「逸話」は、「青木氏の守護神と神明社」等の論文にも記したが、敢えて、「四家の伝統」として「重要な史実」を掘り起こせる事としてここに記した。
「本逸話」の『24までの行り』ももっと掘り起こせば、先祖が「逸話に託した事」が読み起こせるかも知れない。

上記した戦略上では、「北畠氏」にしろ「伊賀氏」にしろ「青木氏」や「伊勢衆」に執ってしてみれば、あくまでも、「伊勢の混乱」を誘引した「招かざる北畠氏」「旧領を奪われた氏」とすると、仮に多少の「付き合い」は合ったにせよ、「命」を賭してまでの「相手」では無く、“「義理立て」の範囲”程度であった。
あるところでは引くべきが「本道」の「基本戦略」であった事から、「当初の戦略上」に則り、「紀州の遠祖地」に引いた事なのである。

この「青木氏」に遺されている幾つかの「青木氏逸話」と「青木氏年譜]と「青木氏遺資料」を組み合わせる観ると、「逸話」は「逸話」で無く成る。
これは明らかな「青木氏史実」である。
つまり、この「逸話」のある処には、年譜は兎も角も、それを物語る何らかの「青木氏遺資料」も不思議にあり、「青木氏の生き様」が観えて来るのだ。
「青木氏」も例外では無かった。
当初、この事に気が付かなかった。”ただある所に在る”と云うものでは無く、「青木氏」の場合だと、「二つの伊勢青木氏」に関係の深かった「郷士衆の家」に在る事が多かった。
これは、「氏家制度」或は「四家制度」と「郷士制度」と「部による職能制度」云う組織形態が確立していた証拠であろう。
長い間には災難があって概要は何とか遺せてもそれを証明する資料となると難しい。
それを”互いに組織を通じて都度やり取りする事”があるから遺資料などとして遺せたのであろう。
「青木氏には職能の独特の家紋制度」を採っていたので判るのだが、手付かずの職能集団の「部人の家筋」には未だ『重要な遺資料」が眠っていると観られる。
「職人集団の独特の逸話や口伝」があると観られる。
これを研究すれば、まだまだ「青木氏」を掘り起こせるだろう。
取り分け、「横の関係」が詳しく観えて来るかも知れない。
現在では、これらの「逸話」から”他の地域の青木氏の生き様”も予測する事には成るが、これを具現化出来るかも知れない。
他の地域の「逸話」も集めてはいるが、「史実の年数」が掴めなくてなかなか難しくて具現化までに至っていない。

同じく、この直前と観られる“「伊勢衆合」”とあるのは、「青木氏」等を含む「伊勢者」を集めて密かに「氏郷」が「伊賀の乱収束後の戦略」を打ち合わせていた事を物語るのではないと観られる。
当初の戦略上に則り、「本領安堵」に向けた「お膳立てとその内容」を打ち合わせたと観られる。
其れが、一度目の“「新宮避難」”(二度目は逸話の行り)と云う形に成ったと考えられるが、ところが「本能寺の変」が起こって、度重ねた「談合」“の「戦略の狂い」がここで狂ったのではないかと観られる。
それが「秀吉との絡み」で「青木氏の内部」で問題と成って騒ぎが起こった事も読み取れる。

つまり、「伊勢」に執って、“「秀吉に対する協力体制の如何」“で「意見の違い」が「四家」の中で起こったと観られる。
この「青木氏年譜」から「青木氏」には「明智光秀の賛否」は当初からなかった事を物語っている。
結局は、「伊勢収束」後に、「本領安堵」によって、上記する様な「秀吉」に依る「青木氏家臣騒動」が起こって、「青木氏内部」でも混乱していた。
丁度、その時に、「氏郷」が「奥州転封」(1590年)にて「青木内部」がより不安が広がった事に成っている様子が観える。
この様に「同族の氏郷の存在」が、「二つの青木氏」の“「内部の重石」”に成っていた事が観える。
結果、「関ヶ原」(1600年)で「青木氏内部の混乱」が収束し、逆に、「関ヶ原」や「冬夏の陣」で、“軍需に依る「商い」”が繁盛し上向いた事も判る。
それと共に、その時の「福家」(信定)が病没(1605年)して、「四家方式」で「組織の入れ替え」が起こった。
この為か、「新しい態勢」で「四家内部の結束」が戻った事が判る。

「近江の混乱」と書かれているが、これは「蒲生氏の氏郷の跡目の問題」(1600年)で近江が混乱状態(忠元の親の里)に陥っていた事が、「二つの青木氏」にも計り知れない「大きな影響」を与えていた事が判る。
既に、この時は、縁者でもあり、“「青木氏」を救ってもらったとする感謝の念”と共に、「氏郷」が「奥州に転封後」であったが、「近江伊勢の商い」(摂津店)での影響等も含めて、「商業関係のつながり」にもそれが「大きな憂い」と成って居た事を示している。

(注釈 秀吉が「蒲生氏郷の才覚」に嫉妬して遠ざけたとする説もあり、これを見抜かれない様に伊勢より知行を倍増、実態は約4倍にして転封したとする説もある。
この事は充分にあり得る事で、「二つの青木氏」ではこれで騒いだ事も考えられる。
「氏郷の恩義」だけでは、この「青木氏年譜」に描かないであろうし、「談合」と云う手段を重ねないであろう。
これは「家臣説」も含めて「秀吉に対する憤懣」が、「伊勢シンジケート」の内部も含めて起こっていた事を示すものであろう。)

これには、「豊臣-徳川の勢力図」が一挙に変わり、先の起こり得る「夏冬の陣」の混乱も見据えて、可成りに「青木氏の混乱」があった事が判る。
親睦な「伊勢シンジケート」などからの「突き上げ」が在って、“「北部談」”とあって「談合」を重ねていた様子があり、未だ混乱して居た事が読み取れる。
現実に、散会していた「伊賀のゲリラ衆」が城を一時的に奪還した記録が外部の別の記録で記録されている。
この事から、「青木氏」の「伊賀一部の本領安堵を受けた北部域」では、未だ騒がしく成って居た事から、「伊賀北部の郷士」等と談合を成されていた事が判る。
こんな中で、結局、「氏郷の恩義」に従って、「豊臣側に陣するかの問題」が提起されていた事も判り、「冬夏の陣」の前に、結局、「徳川氏に合力する談合」が成されている。
「外部記録」では、上記した様に、「家康」が名古屋にて「伊勢衆」に「合力の打診」が成され、この為に、三か月も答えをしなかった事が記録されている。
「青木氏年譜」の“「四日市談」”の意味が、何を意味しているのかは良くは分からないが、恐らくは、「南域の北畠」と「北域の伊賀」と「東域の長嶋」には、「外部記録」には観られない“不穏な「ゲリラ戦」”が未だ多く各地で散発していたのではないと考えられる。
それを「伊勢四衆」が集まって”どうするかの談合”をしていた事を意味していると考えられる。
ここには、“「紙屋」”とだけ「添え書き」されている。

この事から、「四家」の「四日市殿」が「仲介」で、「紙屋長兵衛」と「秀郷流青木氏の忠元」と「徳川氏との談合」が密かに事前に成されていた事も考えられる。
「徳川氏合力」に向けて未だ「不安定な伊勢域」の事も踏まえて答えの出せない「伊勢域」では、「合力」そのものも合わせて、“どの様な形の合力”をするかを苦慮して「談合」が行われたとも観られる。
「四日市談」と云う事は、「四日市殿」とは江戸期直前に新しく加えられた「四家」の一つであり、「忠元家の青木氏」と「信定家の青木氏」との「融合族」ではある。
この「四日市殿」が「談」と有るので、“何か話を持ち込んで来た事”を意味するとして、「忠元の青木氏」から「四日市殿」に「仲介の話」と成ろう。
その話は、「武蔵入間宗家の青木氏」からの話と成れば、当然に「関東の徳川氏」からの話を仲介した事に成る。
この「四日市殿の仲介話」は、当然に、「冬夏の決着」に向けての合力を「二つの青木氏」に通した事であり、「伊勢域の郷士」、つまり、「伊勢シンジケートの合力」を調略して来た事に成る。
この時期にも、散発的に「ゲリラ戦」が伊勢-紀州-河内域でまだ続いていたと成れば、「伊勢シンジケート」は、未だ、納得していなかった事に成る。

1583年に「北部談異変」。1583年に「四日市談」。1584年に「伊勢解決」。と「青木氏年譜」の記録にあるのは、「伊勢シンジケート」を最終的に納得させて、それを纏めて「合力」は定まった事を物語る。
現実に、それ以後、散発していた「ゲリラ戦」は「外部記録」では出て来ない事から収束している事に成る。
「冬夏の陣」に向けて、「北畠氏、伊賀氏、伊藤氏」の三氏傘下にあった郷士等は、「伊勢の一連の戦い」で各地に散会していたが、再び結集して、「伊勢シンジケート」の保護下に加わり、”再構築した”事を物語る事に成る。
この為に「ゲリラ戦」が収まった事のみならず、「統制のとれた環境」が伊勢に生まれた事に成る。
つまり、この談合は、詰まり処は、この「結集」と「合力」の話であった事に成る。
従って、「青木氏年譜」に“「伊勢解決」”とあるのはこの事を意味しているのであろう。
この解決に要した期間は、”「北部談異変」”から”「伊勢解決」”までに凡そ10か月程度、「話し合い」に入ってから三か月以上が掛かった事に成る。
結局、「夏の陣」には、本譜でも、「伊勢シンジケートを動かす談合」をしていて、「伊勢青木氏」の「別のある書」には、「伊勢路」と「大阪と伊勢間」の「沿道の警備」と、「食糧の準備」と、「傭員250人」で合力する事を決定している。
この「決定事項」に付いて、「松阪」で家康代理人と面談していて、それを代理人が家康に伝えた事が外部記録に記述されている。
そして、その後に、「四家の福家」と「伊勢秀郷流青木氏の者」(名は不明)が、上記した様に、この「決定事項」を以って「家康と二度目の面談」を「名古屋の館」(城とは書いていない)でした事に成っている。

注釈として、 「城」では、「家康の勢力図の武の傘下」に入った事に成るし、「青木氏氏是」に依って「武の戦い」は表向き出来ないし、「家柄官位官職」などは「徳川氏より上位」で、衆目上は「権威の象徴」である事から「徳川氏の段取り」として、配慮として「城」では無く『館』を選んだ事に成る。
記載されている「合力内容」も、見事に「戦いの範囲」を超えていない事が判る。
そもそも、道理から観てこの様な「合力の差配」は「談合」以外には上手く収まらないであろう。
この「青木氏」に対して、「二度の面談の徳川氏の配慮」が際立って観える。
この辺から、“「松坂面談」“を期に、「青木氏側」は、「徳川氏」に対して心底から傾注して行く様子が伺える様に観える。
「松阪面談」と、この上記の「天正期逸話」には、“江戸期に入る青木氏の立ち位置”が、明確に物語っている。

筆者は、「1605年の松坂面談」には、上記した事だけでは無く、可成り「人間的な信頼感」が相互に生まれたと観ている。
「青木氏」に執っては、“「第二期の皇親政治の到来」”とまで心勇んだのではないかと考えている。
現実に直接的に政治に関わる事は無くしても経済的な関わりを含めて間接的に大いに関わった。
中には「享保の改革」や「紀州藩の勘定方を指導」するなど「吉宗の親代わり」で育てた等その様に成って行くのである。

この「紀州藩への関り」に付いては、「逸話や口伝」が多くある。
「逸話や口伝」を、”敢えて恣意的に遺したものではない”と思われる。
恐らくは、「四家の福家」が恣意的に遺したのではなく、「四家の周囲や家人や郷士衆や部人衆」の間に「話の話題」として上り、”それが何時しか「物語風」に伝えられ始めた”とするのが「話の本道」と観られる。
それは、「四家に遺る逸話口伝」と、「家人の家に遺る逸話口伝」と、「郷士衆の家に遺る口伝逸話」と「部人の家」に遺されたものが、その意味するところが不思議に余り違わない事がそれを証明している。
作り上げられたものと云うよりは、何時しか家に伝わる「話の話題」が、「四家」や「家人」や「郷士衆」や「部人衆」の「家伝や家柄」を示すものとして自然に出来上がっていったと観られる。
普通はこの家柄などを誇張する手段とする場合は、[誇張や虚偽」が「逸話口伝」に兎角、目立つ。
これが目立たないのは、「四家、家人、郷士衆、^部人衆」との間柄が大正期まではっきりとしていた事から誇張や虚偽は出来なかったと観られる。
むしろ、「郷士衆の逸話口伝の話題」には、「射和商人の事」を始めとして「青木氏との関わり」を遺している事が目立つ。
上記した様に、「郷士衆の家」から発見された史実には、上記した様に「紙産業の殖産拡大」や「農業の改革」や「養蚕業の育成」の事が四家の逸話口伝を証明するかのように多く遺されていた。

「逸話口伝」と関わりのある事を更に分析を続ける。
そこで何はともあれ、この「関わりの決定的な証拠」は、“「立葵紋の青木氏の発祥」”が、これを大きく物語っている。
この事一つで、“「青木氏の全ての立ち位置」”を大きく換えたとも云える。

(前段の「伝統」で「立葵紋の青木氏の事」を論じているので詳しくは参照)

ただ、この様に「文章表現」にも、「外部記録」とは相違も観られるが、何も「外部記録」だけで「青木氏」を証明する必要は無く、「青木氏」に其れなりのものを持ち合わせていれば、「青木氏」に執っては意味を持つ。
大方は、「伊勢」と「青木氏」から観た表現と成ってはいるが、「青木氏の歴史観」をもっと伴わせれば、更なる「逸話の様な事」も持ち込んで、検証すれば史実を掘り起こせる事が出来ると感じられる。
「無形の伝統」を論じる場合、「青木氏」は「密教」であった事もあり、ただ一つ遺された「賜姓族」であった事もあり、ただ一つの「古代浄土宗」であった事もあり、そこに「生まれた伝統」には、「青木氏」自らが証明しなければならない「宿命」を持っている。
他氏にはない絶対に無い事のみならず理解されにくい事の”「青木氏だけの伝統」”でもある。
そこで、少し戻って、「青木氏年譜」から、更にこの”「青木氏だけの伝統」”を甦らせて試る。

「織田信長」との「面談による話し合い」と観られるのは、“「伊勢和合」”の表現と成っている。
“「伊勢」”と表現しているのは、「二つの青木氏」(信定と忠元)が、「伊勢衆」を含む「郷士集団」を代表しての事と観られる。
この時、「信長」と直接会ったか、その場所等は外部記録では不明記である。
しかし、場所は、“「寺修復」”の事で裏付けられる様に、”「伊勢菩提寺」”で会った事までは、この「青木氏年譜」でも、「寺資料」からも辿れるが、「信長本人」が出て来たかは今は辿れないので判らない。

もう一つは、「松阪の菩提寺」であろうとは思うが、「津市の分寺」の寺かは今は判らない。
状況からは、”「修理」”は両方であろうが、「信長面談の場所」は「松阪の菩提寺」であった事が頷ける。
この“「寺修復」”は、「信長の伊勢三乱」で“ある程度に焼き討ち等で攻撃された事”を意味している。
然し、筆者は、「有名な激しい殺戮戦」を受けた”「攻撃された避難民」”が、この「二つの寺」に「救い]を求めて逃げ込んだと観ている。
ある程度の「ゲリラの背後関係」が疑われていた事が読み取れるが、外部記録を参考にして、“「村人3000人が殺戮された」“とする記録もある事から、織田軍の激しい追跡で「ゲリラ」や「村人」が、遂には、「青木氏菩提寺」に逃げ込んだ事もあったと観られる。
それは、「青木氏の菩提寺」には、「蒲生氏郷」もいる事でもあるし、その「親族の伊勢青木」もいる事でもあるし、「信長」はある程度は「他の寺」よりも、”危害を加えないだろう”と云う「不入不倫の権」の「古来からの風聞」もあった事が影響して、追われた民は逃げ込んだのであろう。
「信長の激しい殺戮」は、「村人3000人」とすると、「6村」に値し、「1郡」に相当する。

そもそも、国は「5郡」程度と成っているから、事実とすると、例え様も無い凄い殺戮であった事に成る。
織田軍も不意を突かれて6000人が死んだと記録されている。
「総大将の信雄」も討ち死に仕掛けたと記録されている。
悉く「寺」は焼かれ、記録では僧侶は700人死んだと成っている。
この数字からは、「伊勢の殆どの寺」が焼かれた事に成る。
「生き残った村人や兵士の者」が、この「青木氏の菩提氏の寺」に逃げ込んだことを意味していて、そこを焼き払い、燻し出して出て来るものは悉く討ち取られた事に成る。

僧侶700人と成れば、古来の村郡国は4から5の構成から成り立っていた事から、最大で125村に成り、そこに寺が1村2寺とすると250寺、そこに僧侶が平均4人とすると、7割は殺戮された事に成り、「青木氏菩提寺」に逃げ込んで来る可能性は当然の事として10割と成るだろう。
「伊勢の寺」の「殆どの寺」は焼かれた事に成る。
この事から、奈良期から「不倫の権」で護られていた「青木氏菩提寺」を知っていた民衆や兵士は逃げ惑い乍らも護られると観て逃げ込んで来た事は間違いはない。
「青木氏菩提寺」は、上記した様に悠久の「不倫の権」にあった為に、「信長」でも手は出さないだろうとする「安心感」があったし、「ゲリラ戦」であった事から外に出ない「青木氏」には手を出さないだろうとする信頼も在った。
唯、「攻める事」はしなくても、“火を放って炙りだそうと脅しをかけた”事は否めない。
幸い記録から、「寺内の殺戮」は無かった事が寺資料から判る。

「伊勢の五戦」での「伊勢側での犠牲者」は、「村人3000人、寺関係者等700人」程度等となる。
これは、当時の村単位500人を前提とすると、何と伊勢北部人口の一割以上に相当するとすると、どれだけ「村人」は逃げ迷ったかは良く判る。
因みに織田側で、全体で兵士6500人程度の戦死者を出している。
最早、これは「ゲリラ戦」と云えども、両者は「戦い」から「殺戮修羅」に成っていた事を物語る。
つまり、「青木氏」が我慢しきれないで「表」に出る可能性のある“際どい戦い”に成っていた事を「青木氏年譜」からでも物語る。
普通なら表に出て仕舞っていただろう。
然し、「青木氏の氏是」がこれを押し込んだ。

「四家」にしても、「織田側」にしても、“何処かで終止符を打つべき時を見つけねばならない“とする考えはあって、「四家」でも議論に成っていた事が「青木氏年譜」でも判る。
結局は、「四家」では、そこで、強硬派を押えて「秀吉-氏郷の斡旋仲介」を試みたと考えられる。
その時期が、「北畠氏-伊藤氏-伊賀氏」と続いた「伊勢の最後の態勢」が決まる「伊賀の戦い」(1581年)のその時と観ていた事が判る。
兎に角iも、会う所の「場所設定」をした事に成るだろう。
その為にも「青木氏部」で「自ら修復した事」が判るし、“「寺修復」すると云う事”は、どんな形にしろ「信長」が来ると云う事も物語っている。
この事は、研究中であるが、「影のゲリラ戦」で応戦した「青木氏」であり、「直接敵対した相手」では無い事から、「第三次」と云われる「伊賀の乱」の終了後の1581年10月9日に、「信長」は現実に伊勢に入国して視察している。
この時に、「秀郷」と共に今後の「伊勢平定」で会っている可能性が充分に有る。
その意味では、“顔を出す程度”であった可能性が有る。
戦略的にはこれで良かったのであってそれ以外には無いだろう。
「伊勢の戦い」で「二つの青木氏」が直接会う大義が「ゲリラ戦」である以上は無い。
従って、「青木氏年譜」から観て、前後に何らかの「伊勢の談合」を繰り返している事から、「代理の可能性」が高く、「蒲生氏郷」に任して代理と成った可能性が読み取れる。
「ゲリラ戦」であった事は明明白白なので、その事から考えてそれ以上は、「信長の主戦者」はいない事に成ろう。

そこで、”「伊勢衆」”で主に構成している「伊勢シンジケート」に発言力を持つ「二つの青木氏」と会って、「会合と云う形」で間接的に話を着けようとした事が「青木氏年譜」の談合の様子で判る。
「事の次第」を治める為に談じる事を「談合」とすると、「談合」では無く「会合」であった筈である。
「信長」気に入りの同族の「蒲生氏郷」が全て自然に取り計らっていた事は云うまでも無いからだ。
当然に従って、「蒲生氏郷」に「青木氏の結論話し」を廻す事が必要と成る事からも、この時期、事前事後に、度々、「伊勢シンジケート」と談合している。

「伊賀の乱」は、外部資料では、「三次の乱」(伊賀城、比自山城、柏原城)であるが、最後の1581年末の「柏原城攻め」では、「伊勢域全体のゲリラ戦力」で「蒲生氏郷」は虚を突かれて苦戦するも、滝川氏に助けられ、何とか一応は形の上で解決した事が記録されている。
しかし、これを以って「伊勢周辺の戦い」は兎に角は収束に向かうが、その後も「ゲリラ戦の混乱」が散発的に続いていた事が「青木氏年譜」からも判る。
外部記録では第三次では終わっているが、更に戦いは続いている事も判る。
「ゲリラ戦」による「外部記録の柏原奪還戦」からも一致している事が判るので、この事からも、「信長の徹底戦法」とは異なる故に、「蒲生氏郷」であった事が伺える。
この時に、この「伊勢の指揮官」であったのは「近江蒲生氏郷」であって、「毛利攻め」の為にも、“「伊勢」“を兎も角も安定させる意味でも、「ゲリラ戦」を指揮していた「二つの青木氏」が仕掛ける「信長の影の背後脅威」をも取り除く意味でも、「二つの青木氏」の「縁籍族」の「蒲生氏郷」が最も“談合に最適な人物”として代理したと観られる。
「信長」除いてこの「氏郷」以外には代理は務まらない。
「外部記録」に載っていない事、“「四日市談」”や“「伊勢談合」”等が記録されていて、当時の「伊勢の状況」が読み取れる。

(注釈 「外部記録」が全て正しいとしての推理で理解される方もおられるが、筆者は、「外部記録」の論説は、「我田引水の論調説」が多いと観ていて、それを恣意的に通説化して正当化している傾向が強いと感じている。)

本論の様に、「内部資料」から観てみると、「外部記録」には矛盾が目立つ事が云える。
特に、室町期末期から江戸中期までの資料は、幕府が容認する姿勢を見せている様に、権威確立の政治上の配慮から“「搾取偏纂」”が殆どであり、歴間で突き詰めると矛盾が浮き出る。
通常は、その「外部記録」や「資料」の「信頼性」を100としての論調が殆どだが、まじめな論説者は“「後勘に問う」”としている。

(注釈 一方の「外部資料」による第三次とする「伊賀攻め」には、一方では、“信長は、「伊賀氏の大将」を「武にある者」は斯くあるべしとして務めたものを誉めそやし許した”として、自説に肯定的に都合よく偏纂している。
しかし、全く同じ場面を、他方の「外部記録」は、“信長は、村人を含む数千人を皆殺しにした”として、「伊賀氏」を全滅にしたと否定している。
伊賀氏のみならず「長嶋の戦い」も同じ偏纂が起こっている。)

(注釈 そもそも、「本願寺石山城外のゲリラ戦」との区別がつかなかった事からの、「伊勢の悲惨な戦い」と成ったと観られる。)
(注釈 敵対した「三氏殲滅」の「信長の戦い方」は、“誰が敵で味方か判らない「二つのゲリラ戦」の混合であった”為に、敵味方共に全滅に期した事は確かで、後者は正しいのだが、この様に、歴史家の自説を通説化する為の偏纂が目立つ。)
(注釈 幸い、「青木氏」には、他氏と異なり、何とか搔き集めた「自己資料」も何とか遺されているので、「外部資料との差異」を具に発見できる。依って、「恣意的、故意的な通説化」が見抜けるが、況や、これらの「青木氏年譜」をも踏まえての「本論の論調」と成っている。)
(注釈 信長自身が「毛利攻め直前」で「武田氏」を滅ぼしたが、未だ「伊勢の事」を放置して「高松攻め」には移動しなかった筈で、この時を境に「当面の打開策」は見出せたと観られる。 しかし、「本能寺の変」(“・「美濃騒動」”)が起こって一時中断し、その後に「氏郷」に「伊勢の収集整理」を任したと成る。「青木氏年譜」の“「美濃騒動」”の表現としたのは、「氏郷の父」が「美濃の守備隊」であった事から間接表現としたと観られる。)

その後の変の後に、この「面談事」が下で、「権威」のみならず、その「絶大な影の力」をも、「秀吉自信」が取り込み、“ 青木氏と関係ある豊臣家”として誇張して、実のところは、“青木氏族の形で取り込もうとした行為“であって、遂のところは、「本領安堵」を根拠に「秀吉の青木氏家臣説と親族説」の元と成ったと考えられる。

(注釈 それを、後刻、“「秀吉」“を信望する歴史家が、「青木氏」が反対しない事を知った上で、所謂、上記した矛盾を多く含む「福井逃避説」等を編み出して、「自説」を正当化する為に歪曲して、世間に「通説化」を成し遂げたものであろう。
「青木氏」からすると、明らかに「歪曲の搾取偏纂」である。)

そこで、話を戻して、これらに反論する意味でも、「青木氏の立場」をもう少し検証して観る。

「青木氏の立場の検証」
つまり、これらの長期戦化した“「ゲリラ戦」”では、四家の”「5つの面 20の顔」”がある事に依って、相手から観れば、”誰が敵かが判らない”と云う事が起こっていた。
「信長側」では、「本願寺城外のゲリラ戦」か、影で図らう「青木氏のゲリラ戦」のどちらの敵であるのかは判らなかった筈であり、この「周囲の影響」を受けて長期戦に落ち至っていた。
「信長側」では、1580年に「顕如」が和睦を認めたにも関わらず、納まる筈の「ゲリラ戦」が続く事に疑問を持っていた事に成る。

(「外部記録」は一つにして論じている。ここにも「人時場所)の「矛盾」が出ている。)

この時、丁度、「石山本願寺との戦い」が城外戦化して起こっていて、周囲では、「一揆」も頻発して、「石山一揆」(1580年-1581年)なのか、「伊勢衆の反撃」なのか、「紀州衆の反抗」なのか混在して、まさしく”誰が敵なのか”は、「信長側」では判らなくなっていたと観られる。

(注釈 外部記録から観ると、何れ「ゲリラ」なのかは判別が就かない証拠として、織田側は、「寺僧侶の皆殺し」や「ゲリラ村の村民を皆殺し」にする等の殺戮を繰り返している。
1562年から1584年までの12年間、特に後半には焦りから激しさを増した。本願寺の顕如が抵抗を止めた結果、これらの全ての「ゲリラ戦」がぴったと止んだかの様に記載されているが、青木氏等の多くの記録では、実際は散発して長く続いていたのである。)

「青木氏」の「伊勢シンジケート」は、然りとても、「ゲリラ戦」を有効的にする為に、多くの資料から「紀州-伊勢の石山一揆」と連動させていたと考えられ、内部で内通していたと考えられる。

(注釈 歴史上では、“石山から「檄文」が紀州の「農民信徒集団」に発せられている史実”が見つかっていて、この存在も無視した「外部記録」となっている。紀州の「三つの傭兵軍団」はこの「檄文」に参応して動いている。
「外部記録の編者の歴史家」が、この「檄文の存在」を知っていれば、「外部記録の様な通説化」の論説には絶対に成らない事に成る。)

その証拠と成るものを探索した結果、偶然に遺された「商業記録」の一部には、この時期の「堺店」での「船の動き」があって、それが少し状況から観て変である。
そこで、当時の事の背景を検証して観ると、「青木氏」としては、「河内のシンジケート」と「ゲリラ戦」で連携しょうとすれば、陸では「信長軍の独断上」であり、そうすると、当然に「山間部」を「ゲリラ戦」では使う事に成る。
そうすると、「織田軍の秀吉」はこの「山間部のゲリラ戦」を突破して「物資の供給」をしなくては成り立たない。
そうすると、南北朝の足利軍と楠木正成の戦いで、足利軍の10万の中で、この山間部のゲリラ戦で食糧不足に陥り2万の軍勢が餓死寸前と成った戦歴もある。
「織田軍」は、この戦歴を知っていて油断は出来ない。
其れには、「陸」は無理であるとすれば、「船」を使う以外には無い。

中部の「今宮シンジケート」は「陸のシンシンジケート」、「河内シンジケート」も「陸のシンジケート」、そこで、唯一、「港と船」を重要拠点に持つのは「伊勢シンジケート」と成る。
この「堺港の不思議な船の動き」は、この事から来ていると観られる。
寄港していた「紀州中部の漁港」は、未だ信長の勢力外で、「伊勢青木氏」の「家人の定住地」にも成る。
「秀吉の紀州征伐」が1584年に行われて形式上は一応収拾がついているが、伊賀では残存兵が集まり未だ遺っていた。
この深い下津港のリアス式港に大船は入れられる。
現在は石油コンビナートの港にも成っている位である。
ここは、紀州北部の中間地の沿岸道からの「熊野古道の入り口」でもある。
ここから紀伊山脈の山岳部に入れる。(高野山にも入山可能な港)
上記した様に、「石山本願寺城外」の「ゲリラ戦」に「浄土真宗の座主の顕如」は、紀州伊勢領域の農民信徒に“「檄文」“を飛ばしているが、この事から、「信長」に対抗する「河内の土豪集団」の「河内シンジケート」は、ここからであれば、この紀州河内一揆に援護が出来る。

(最初、「河内シンジケート」は、取り分け「傭兵鉄砲集団で雑賀忍者族」等は、上記した様に、「秀吉の仲介」で信長と仲が良かったが、「石山本願寺攻め」等の事からの「路線の違い」から、反抗した。その後最終戦を行い討伐される。)

これが、「伊勢青木氏」が「堺支店」のここで連携を採っていたと観られる資料である。

しかし、そもそも「今宮シンジケート」は、戦略上、「秀吉」を強力に援護している事から、情報が漏れる恐れがある。
「伊勢青木氏」は、「今宮シンジケート」との連携には、秀吉が絡んでいる事は承知していたので、その「動き」には注意を払わなくてはならない筈であり、現実には難しく、連携には、それを示す証拠類は全く見つかっていないし、「青木氏年譜」にも出て来ない。
「今宮シンジケート」は、郷士土豪などの「武の集団」を使っての行動する集団では無く、「神社系の組織」を主に使って、「土地の氏子集団」と関連の縁故から、「情報」や「斡旋」を裏ルートで行う「シンジケート」である。
一方、「青木氏」に執っては、全国レベルの500社にもなる日本最大の「神明社と云う直接集団」のみならず、直接的な連携の「武の土豪や郷士との連携」を持っていて、「経済的な連携」も直接に持つ総合的な「シンジケート」であった。
又、更に広域的にも、「信濃青木氏」と連携する「伊勢シンジケート」であった事や、「甲斐青木氏との繋がり」を持っていた事から、紀州を通して伊勢から東域の横にその「シンジケート網の勢力図」を構築していた。
従って、「今宮シンジケートの情報と斡旋」は全く必要としていなかったのである。
むしろ、一部に食い込んでいた範囲であった。

この様な「背景」の事から、連携はしていなかったと観られる。
見つからないのは、そもそも、「シンジケートのゲリラ戦」は「秘匿」を前提としているので見つかり難い。
「今宮シンジケート」は、紀州の「鉄砲製造族で傭兵軍団の雑賀族」や「山岳ゲリラ戦の傭兵軍団の根来族」や「柳生傭兵集団」や「甲賀傭兵軍団」等の傭兵軍団とは、「情報提供」や「斡旋」等の連携を採って居た事は資料から見つかっている。
だとすると、「伊勢青木氏」が背後から「ゲリラ戦」で「山間部」より攻撃を行うには、どうするか問題である。

それには極めて効果的な方法がある。
それは、「伊勢秀郷流青木氏」(忠元)を通じて、「州浜紋、片喰紋、沢潟紋」の中部の「三つの秀郷一門」との連携を採る事が出来る。
「信長」が最も恐れていた「背後」の“「尾張三勢力」”である。
(織田軍の美濃守備隊」は「蒲生氏郷の父」)
“毛利討伐に遠征する信長”の“手薄と成った背後”を、この「尾張三勢力」で突けば簡単に落とされる事を懸念していた。

(注釈 現実に、織田側で議論している記録がある。
「美濃岐阜」は、「蒲生氏郷の父親」(賢秀)が護っていた。
それだけに「伊勢の指揮官の氏郷」に執っては「気に成る勢力」で、その勢力は「秀郷一門の同門の有力三氏」である。
もし、背後を突かれた場合は、「一族争いの悲惨な戦い」と成る。
その意味で、親族の「伊勢の忠元」の出方が気に成る。
先ずは、絶対に刺激しない方が得策である。「信長」も同じ意見であった。)

幸い「今宮シンジケート」は、“「神社系統」を使ったシンジケート”で、「シンジケート」を維持するには、先ずは「経済力」である。
その連携に必要とする「経済力」は「今宮シンジケート」には元より無かった。
依って、その「シンジケートの主力」は直接、「武の土豪集団」を配下にしていない為に、「ゲリラ戦での影の武力」を使う事より、各地の「土豪や傭兵集団」への「諜報活動を主力」としていたのである。
一種の「裏の斡旋業」であった。
「河内」と「今宮」は、「裏の斡旋業」のその意味で、「直接的な連携」は「武」で無い事とすれば、「青木氏」に執っては、これは下式の関係構築には都合は良かった。

「河内シンジケート」←「伊勢シンジケート」→「尾張の三勢力」

依って、「青木氏面談」に応じたのは、「信長」が、「伊勢-河内のゲリラ戦」を操る「伊勢青木氏」(「伊勢青木信定」)は元より、下記した様に、「伊勢秀郷流青木氏」を直接攻めなかった。
なのに、「伊勢青木忠元」との“「両者の面談」”に応じたのは、「信長の背後」で、「青木忠元」が「中部の三氏」を操るこの事に在った。
故に、「秀吉斡旋」(蒲生氏郷が仕切る)の「二名の面談」が起こったのであった。
「商業取引」からの記録としては、この事に付いての行動は「紀州の中部の漁港」に数度に寄港している事にあった。
「伊勢青木氏の商い」は、「海鮮業」は営んでいない事から、「紙問屋」を主力とする「総合商社」としては、何でこの港に出向いたのか不思議である。
それが「伊勢の港」ではない「紀州水軍」のお膝元の紀州下津の極めて馴染みの無い無い港である。
そもそも、「伊勢」では、その動きは織田側に知られる。
「今宮シンジケート」から秀吉に情報が洩れ通じる事が起こる。
元より「シンジケート」に依る「ゲリラ戦」は、その「秘匿性」が主戦術である。
「伊勢」から離れた地元の「常港の堺」では、その「秘匿行為」を起こしてもそうは目立たない。
しかし、もし「堺」で「戦いの作戦上の事」は出来ない事があるとすると、後は、一揆への“「物資補給」”と成る。
それは、「紀州中部の漁港」とする事でも判る。
紀州の山隣の「河内シンジケート」との連携として考えれば、この「不思議な行動」は納得出来る。

問題は、秀吉と通じている「今宮シンジケート」との連携である。
同時期に「石山本願寺城外一揆」や「紀州伊勢の信徒動乱」が起こっている事から、「河内と伊勢のシンジケート」との連動が充分に在ったと観ている。
「秀吉」は「毛利攻め」の準備で忙しいが、この「戦況の情報」を「今宮シンジケート」から具に入手していたと観られる。

(注釈 信長を「毛利攻め」に引き出すには、伊勢と大阪と紀州一帯で起こっている背後を脅かされる「ゲリラ戦の解決」が必要であるが、「信長の過激な有岡城の問題」もあった。
況してや「武田氏」を掃討した直後(1582年3月)でもある。
「伊勢」も、否、社会も信長に批判的に成っていた筈である。
下手をすれば、「尾張三勢力」の「藤氏」に間違いなく背後を突かれる。そう簡単では無い事は充分に判る。)

その「シンジケート」との「内通の目的」は、「青木氏」に執っては、「四家」の「5つの面 20の顔」を使って、「織田軍の軍事品や食料品の調達」に関わり、「調達費の高騰」や「調達品の遅配」や「雑務夫の差配」などで撹乱して、長期戦に持ち込んで「織田軍の枯渇」を狙っていたのである。

(注釈 上記の五戦の内で、「丸山城の戦い」が、最も完全に「織田軍の枯渇」に成功したが、「長嶋の戦い」では「調達費の高騰」、「清蓮寺城戦い」では「雑務夫の差配」、「伊賀の戦い」では織田軍から「城の兵糧攻め」を受けた為に、「調達品の遅配」で応戦した。
然し、「影の戦い」は其れなりに成功している。従って「織田軍枯渇の状況」は当に進んでいた。)

(注釈 「織田軍」へは、「伊勢シンジケート」は「山岳部のゲリラ戦」や「夜間のゲリラ戦」で「疲労戦」を展開した。
結果として、何れも北畠、伊賀、長嶋も「長期戦」に持ち込み、何れもが「第一次、二次、三次の戦い」と成って長引かせた。
「織田軍」を苦しめ、「作戦の計画」が狂い、その影響で、「秀吉」が指揮する「毛利攻め」では「著しい狂い」が出て来た。
秀吉は焦った。何とか「武田氏」は解決したが、「伊勢域」が問題に成っていた。
以上の事柄が上記の「商い情報資料」からも読み取れる。)

「青木氏年譜」では、1582年中に「松阪修復」とあるが、その後に1582年に・「美濃騒動」とある。
「本能寺の変」の直前であり、一体何を意味しているのか疑問である。
年譜の「伊勢談合」の後である。
そもそも、「青木氏年譜」が「松阪の事」、つまり、「四家の事」に直接触れているのは珍しい。
年譜の「伊勢談合」の前に、「ゲリラ戦」も収束の方向にあり、シンジケート内部も納まりも付いて来た時期にあり、「話し合い」も就いた。
特筆する問題は表向きには見当たらない。
何か「伊勢シンジケート」からの「極秘の情報」が「松阪」に在って、「四家の福家」が対応策について考えていて、この時、丁度、「シンジケート」から「毛利の高松城支援の失敗(1582年5月/21日)情報」で、その「毛利勢力」に陰りが観えて、“「織田天下の様相」”が明確に成った事の「極秘情報」であったと観られる。
その直前には「伊勢談合」もあった事も合わせて考えると、“「反織田の方向」”に付いて修復、つまり、“「反織田」は中止する“を「伊勢衆と伊勢シンジケート」にも図った事が成功したと考えるとこの事は納得出来る。
この検証の問題は、高松城の状況を、逸早くどの様にして「情報」として入手したかの問題である。
放っておけば1ケ月くらいで入る情報であるが、後勘でみると、年譜からそんな時間は無かった筈で、急いで入手している。

これは、恐らくは、黒田氏からの情報であったと観ている。
黒田氏は青木氏守護神の近江神明社の住職の家柄で、近江佐々木氏の支流末裔であり、佐々木とは近江佐々木氏系青木氏があり、元を質せば兄弟の同族であった。故に神明社の親族であったのだが、この黒田氏も「御師」と云う立場から「諜報活動」をしていた事は黒田氏の記録史実から明らかである。
依って、「神明社」を通じて、「松坂の四家の福家」と「伊勢シンジケート」に、この「毛利の後退」で、“「信長天下の情報」”が逸早く入ったと観ている。
場合に依っては、「黒田氏」が「伊勢の懸念」が「毛利攻めの信長出陣」の妨げに成っている事を憂慮して、敢えて、「伊勢衆」との和解に動かす為に青木氏側に送った情報ではないかとも考えられる。
とすれば、「同じ情報」が信長側に届いていなければならない事に成る。“届いていた”と観る。
故に、「毛利攻め出陣」に対して「信長」が腰を上げた事に成る。
それで、総指揮官の「織田信雄」が討死に成りかけ、「蒲生氏郷」も全滅の直前に滝川一益に助けられると云う程に、双方に1万人の多くの死者を出す無理押しの「伊賀の激戦」と成ったと観ている。
そこで、残るは「背後の憂い」を無くする事を目的として、“「伊勢衆との面談」”と成ったと観ている。

(注釈 ところが、1ケ月後に光秀謀反の異常事態が発生した。
その前にも石山本願寺は毛利の支援の撹乱戦法化で反抗していたが、その「本願寺」そのものは、紀州域でゲリラ戦が散発していたが、ほぼ1年前に顕如と正式には1580年に敗戦講和していた。
つまり、大方の「勝負の方向性」が就いた事を意味する。)

この「ゲリラ戦の伊勢情報」を「秀吉」は、逸早く「今宮シンジケート」から入手していて、“戦況に危機感“を抱いていて、この侭では”「毛利攻め」“の発端を掴めないとして、「青木氏のゲリラ戦の深意」も「今宮シンジケートの情報」から掴めたところで、「伊勢の指揮官の蒲生氏郷」を通じて「青木氏との面談」の合策を先ずは果たし、遂には「信長面談」に持ち込む事に成功したものであると観られる。
恐らくは、この事で、「伊勢攻めの大将」の「蒲生氏郷との連携」を採った事が読み取れる。

(注釈 「蒲生氏郷」の「伊勢」は、1568年、1569年、1571年、1574年、1575年、1578年、1579年、1581年、1582年の「伊勢攻め」全てを任されている。
1583年の「賤ケ岳戦」後に、改めて「秀吉」より「伊勢」を任され、1588年には「松阪城完成」させるも、1590年に陸奥転封に成る。
1582信長没後に「蒲生氏郷」は「秀吉の配下」に入り「伊勢」を続けて任される。)

「秀吉の毛利攻め」と「氏郷の伊勢攻め」は、織田氏に執って戦略上は、「最大の相関関係」にあって、「秀吉」は「氏郷」と「交渉」を重ねていた。
その為に、「氏郷」は第三次の最後の「伊賀問題」の解決直前に、苦肉にも、敵としているも「相互血縁関係」(「氏郷の祖父」と「忠元の父」は兄弟の親族関係」)にあった「伊勢衆との談合」を何度も重ねていた事が「青木氏の年譜」からも判る。

この資料の解析から観て、丁度、この「四家制度」は、この様に、「ゲリラ撹乱戦法」と「伊勢シンジケート」と云う「特殊な抑止力の組織力」は元より、「青木氏」に“「網を被せた様な役目」”を果たしていた事に成っていた。
この為に「伊勢三乱の五戦」の戦いの「表の記録」には、「青木氏」は一切出て来ないのはこの事に依る。
しかし、マニアや小説家を含む「歴史家」の中には、この「裏記録」を持っていて、「青木氏」は出て来る。
これを調べると、伊勢域の土豪や郷士集団から成る「伊勢シンジケート」を通じての「手紙類」が遺されて、それが、所謂、「歴史家」の手に渡っている事から出て来ている。

(注釈 現在の「ネット社会」や「歴史マニア」なども含めて、この様な「裏記録」が「表記録」として研究材料に一際広がっている傾向があり、特に、戦国時代と江戸期中期までの資料が出て来る。
興味深い事で、取り分け、“搾取偏纂で通説化を謀った記録“には、「裏記録の真偽」を確認した上でのその「矛盾」が露出し始めている。
上記の「本願寺檄文」などは当にそれであろう。
「古の歴史家」が遺した資料には、この「恣意的な通説化」は行わず、必ず、“後勘に問う。“とする”正しい態度の発言“が徐々に動き始めた気がする。
ただ、この”「裏記録」が「表記録」に成らなければならない“とする「杓子定規な考え方」は残念ながら筆者は持たない。
それは本論であれば、”「青木氏の範囲」で留めればよい“し、それは、”「ロマンの範囲」で遺せれば良い“と考えている。
”より「歴史観」に富んだもの“で有って欲しいとするもので有る。
尚且つ、この事に付いて論じられる立場は、「青木氏」にだけしかない。
「青木氏」にしか出来ないであろう。
「青木氏」が黙ればその範囲で終わるが、それだけに幸いに「自らが持ち合わせている資料」との「突き合せ」にて、より真実に近い「先祖の生き様と伝統」を遺す事に意味を持っている。)

ところが「秀吉」だけは、「今宮シンジケート」から、「二つの青木氏の事」を情報入手して知っていた。
つまり、「織田軍」に執っては、そもそも、「青木氏」が前面に出て戦っている様には観えていなかったのである。
この様に「青木氏の戦い方」は、“「丸山城の戦い」”の例に観る様に、「四家の20の顔」と「伊勢シンジケート」を使っての徹底した「ゲリラ戦」であった事から、「織田側」では、見分ける事は全く出来なかった筈である。
何れにしても「織田側」では「不毛の敵」であった。

(注釈 「青木氏のゲリラ戦法」は、「青木氏の記録」から観ると、「僧侶・神職」、「楽師」、「郷士」、「商人」、「村主・豪農」、「職人・大工」で「織田側」と何らかの形で接している。
「青木氏の顔」は一切出て来ない。
「外部資料」では、「北畠氏、伊賀氏、伊藤氏、永嶋氏」の「伊勢四氏」に関わる「伊勢攻め」に出て来る人物は、「僧侶・神職」は二人、「楽師」は一人、「郷士」は三人、「村主」は一人、「豪農」は一人、「職人大工」は二集団、「四氏の家臣」は二人、以上の10人と二集団である。詳細は別途)

これらの内容は、外部資料から観ると、次ぎの三つに成る。

(イ)「談合、裏切り、仲介」
(ロ)「伝言、案内、敗戦処理」
(ハ)「商談、道案内、城修築」

以上の三つ内容に関わっている。

これらの人物は、「青木氏の資料」からは、次ぎの関係種に成る。

青木氏の「内部」の「20の顔の仮装人物」(A)
青木氏の「意向」で動いた「関係人物」(B)
青木氏の「関係」で働いた「郷氏・郷士」(C)

以上の三パターンに分けられる。

(A)は、「四家人物」
(B)は、「四家家人」
(C)は、「伊勢シンジケート」

以上で役割を演じていた事が判る。

外部資料には、次ぎの様に成っている。

「戦況」 (イ)  に関わった人物は、(C)の「伊勢シンジケート」
「準戦況」(ロ) に関わった人物は、(B)の「四家家人」
「戦備」 (ハ) に関わった人物は、(A)の「四家人物」

以上で、突き合せて観ると完全とはいかないが、以上の傾向であった事が読み取れる。

外部記録に出て来る(A)(B)(C)の人名は、内部記録にある「伊勢シンジケートの郷士」や「四家の人物」である事が酷似し確認できるので、明らかに「ゲリラ戦」を展開していた事が判る。
取り分け、「織田軍の軍需品等の調達」には、明確に「伊勢豪商紙屋長兵衛」や「堺の紙屋」の固有名詞が出て来る。
これらを「駆使してのゲリラ戦」であった事から、結局は、「秀吉-氏郷の青木氏の仲介面談」に繋がったのだが、しかし、「ゲリラ戦」で、戦局は長引いた結果、結局、面談後の直ぐ後の1582年に「本能寺の変」が起こった。
その後を引き継いだ「秀吉-氏郷」に依って「伊勢の戦い」は打ち切られ、「青木氏」と「一部伊藤氏」は「本領安堵」されて伊勢松阪に戻ったのである。

(注釈 続けていれば、[殺戮のゲリラ戦]と成るし、「氏郷」としては、縁者関係族である事からも打ち切りたい事の意向と内情の説明をして秀吉を説得したと観られる。)

現に、1583年から1584年の間の「賤ケ岳戦」と「小牧の戦い」「北の庄戦い」には静かにしていた。
ゲリラ側がやろうと思えば、秀吉の背後を突けるし、「戦況不利」に成っていたが、そうでは無かった。
光秀は期待していたかも知れないが、「伊勢衆」は動かなかった事の意味は極めて大きかった。
「氏郷の説得」にも、事前の「青木氏等処置」も効果的に働いて、それを「伊勢衆の深意」として秀吉は租借し、「殺戮」をも避ける事としてもより大きい「本領安堵の形」へと進んだと観られる。)


行動としては、「青木氏」と「一部伊藤氏」等は、先ずは南伊勢に近接する紀州新宮に引いていたが、その後に“本領安堵された“と云う事は、秀吉は、”「五戦のゲリラ戦の正体」”を、秀吉に協力した「唯一の情報パイプ」であった「今宮シンジケート」からも知っていた事に成る。
そして「新宮」に引いていた事そのものが、「秀吉」に執って「本領安堵」し易かったことに成った。
恐らくは、「近江秀郷一門」の「蒲生氏郷」(「秀郷流伊勢青木氏」の同門縁籍)の意見も入れての行動を採った可能性が高い。

(注釈 「伊勢秀郷流青木氏」は、「蒲生高郷」の子の「梵純」が「伊勢青木氏の跡目」に入り、その子の「忠元」が引き継ぐ。
「蒲生氏郷」は、「蒲生高郷」の曾孫に当たる。)

つまり、「高郷」から観れば、「孫の忠元」と「曾孫の氏郷」の関係で、全くの親類であり、「氏郷の祖父(定秀)」と「忠元の父(梵純」」は兄弟の関係にあった。
この事が、「伊勢の収拾」に全ての面で大きく関わったのである。
この関係が無ければ、「二つの青木氏」も「伊勢の戦い」に巻き込まれてどうなっていたかは判らない。
恐らくは、「伊勢シンジケート」を巻き込んで上記の双方に影響の出る「ゲリラ戦に依る殺戮戦」に成っていたとも考えられる。
全国に配置されている秀郷一門を巻き込んだ歴史上に遺る最大の戦いと成った可能性がある。
唯、必ずしも、”青木氏は潰れていた”とは思わない。
筆者は、勝っていたと観ている。
”勝っていた”とすると、”歴史は変わった”と普通は考えられるが、勝は勝が、唯、”天下を差配していた”とは思わない。
それは「青木氏氏是」にある。
青木氏は、向かってくる敵を排除するが、結果として「織田氏」を排除する事には成るが、「天下の考え」は全く無かった事から、「織田氏」は負ける事で衰退し、結局は「他の反対勢力」に潰されていた事が考えられる。
筆者は、その勝者は「徳川氏」であったと観ている。

結局は、「二つの青木氏」の描いていた絵図通りに成ったのであるが、この程度の絵図の事は覚悟していたと観られる。
それだけに、上記した様に、「本論の徳川氏との関係」に惑わずに走ったのである。

つまり、この絵図の為にも、逸話の意味の通り「新宮避難」を実行したのである。
この絵図の違いは、間に「秀吉」と云う人物が入った事に成るだけである。
この絵図の塗り替えに「新宮避難」の「絵図の修復」で書き換えたのである。
その程度のことであったと観られる。
故に、「青木氏の親族の氏郷」と共謀して「高松城攻めの食糧調達」に合力したのである。
何も、”秀吉政権に胡麻をすった”と云う事では無かった。
又、「松阪城の変革」にも「経済的な改革」で協力したのであるが、「伊勢の発展」に尽くす事のいみがあった事に依るだろう。
「商業組合の結成」に進んだのである。
何一つ、「秀吉の為」には成っていない。
むしろ前段でも論じたが、余計な事に多少は振り回された事は否めない。
何も無かったと云う事は無かろう。

一時、「青木氏」等は、「北畠氏と伊賀氏の戦乱」を避けて先ずは”新宮に避難した”と見せかけて、「秀吉」に、“「青木氏等」を救う「絶好の口実」を与えた“と観るのが正しい。
「遠祖地の新宮」に避難したとするのは、あくまでも「四家の福家」の行為であって、「青木氏全体」の事の為では無い事がこれを証明している。
この「新宮」は「悠久の青木氏の遠祖地」でもある。
「長嶋攻め」の「伊藤氏」の末裔は、必要以上に「戦い」を避け同調して「青木氏」と共に南伊勢の縁籍地の「尾鷲」に避難した。
この「避難地」でも「戦い」を避ける「口実の地」である事が判る。

(注釈 「青木氏年譜」では「伊藤氏」は「青木氏」と打ち合わせている。)

「蒲生氏郷」が伊勢松阪で採った「武と商の融合城郭都市構想」に「青木氏四家」を救う理由を見出させる事が出来る。
「避難地」から戻った「四家の福家」は「青木氏年譜」からもこの構想に邁進している。
これで、「秀吉政権」に対しても一応の対応は出来た事に成り、「避難の口実」は成り立ったのである。
其処には秀吉に対して「氏郷の調整」が充分に働いていたと観られる。
「避難」だけの戦略効果だけでは無く、「氏郷の調整」が相伴って効果を発揮したと観られる。

「四家制度の強み」
その効果かを発揮したところで、何故、「青木氏」がこの強みを発揮したのかは、その基礎的な無形の要素を見つけるには、逸話や口伝とそれに伴う資料の発覚と分析に在る。
資料の発覚と分析では、この「無形の事」を描きたせる事は難しい。
其れには、本論の「逸話と口伝」との照合は「青木氏だけの史実」を浮き彫りにするには「必要不可欠な資料」である事に在る。

そこで、考察して置く必要があるのは、「ゲリラ戦の長期戦」が続いていた場合、果たして、「伊勢衆」はどうなっていたのか疑問を持つところである。
つまりは、「四家制度」で持ち堪えていたであろうか。
結果としては、上記でも論じたが、この“「四家制度」”は、1000年の中で、「二度目の存亡危機」の「青木氏」を救った事に成るのだが、実はその答が明確に出ているのだ。

それは次ぎの事にある。
「青木氏」の「逸話や口伝」を照合の為に全て書き出す事は難しい。
「元禄の時の紙屋の行動」や「室町期末期の豊臣家との夏冬の戦い」や「源平時の青木氏の取り組み具合」等多くある。
「逸話や口伝」を遺す上で重要である事は承知しているが、如何せん「個人情報」も中には含んでいて公的にする事は憚られる事もある。
結果として、「逸話口伝」と照合していると云う事でお読み頂きたい。
取り分け次に論じる、「丸山城の戦い」には二つの小説の様な逸話が遺されている。
「一つは、「四家の家」と、もう一つは、「郷士衆の家」に伝わる。何故か内容の物語の筋は良く似ている。
「郷士の家の逸話」は最早小説である。
この「郷士の家」の誰かが、この「逸話」を「逸話形式」を超えて「小説風」に仕立て直したのではないかと観られる。

(註釈 この「徳川氏の合力」に際して、「沿道警備」と「沿道食糧準備」に付いて「郷士の家」には「逸話」が遺されていたが、どの様に伝えられていたかは判らない。)


・「忠元の行末」
その後の「秀郷流青木氏」の行く末を決める大事な事が起こっていたのであり、ここで特記しておく必要がある。
唯、ここで、先に述べておくとすれば、この“「伊勢衆」”の中に、“「不思議な現象」”が起こっていたのである。
それは、伊勢の「特別賜姓族の秀郷流青木氏」も、“「権威の象徴」の「氏族」”であり、その最も色濃いところに居た。
にも関わらず、「信長」には、”手厳しい扱い”を受けていないのである。
「伊勢賜姓青木氏」と「同じ行動」を採っていた。何故なのかである。
「信長」は、この「伊勢秀郷一族」を攻めた場合、東から「尾張の秀郷一門の州浜族等の三勢力」が背後から襲い掛かられ、南から「紀州の州浜族」が動き、伊勢の「結城長嶋族」も、更には、関東からも秀郷一門の本隊が、西の関西の近江滋賀域からも別働隊が襲い掛かって来る事は必定である。
もし、この行動が起これば「織田軍」に執っては苦戦していた「伊勢の戦い」と「石山の戦い」を抱えていては、幾ら何でも「織田軍」は耐えられない事は判る。
まして、何れも、戦績のはっきりとしない「消耗戦のゲリラ戦」であった。

(注釈 「丸山城の戦い」も然ること乍ら、「南北朝の足利氏との戦い」も「10万の軍」の二万の軍勢に餓死に近い状況を経験させる等させる程の「ゲリラ戦の消耗戦」でも、歴史上は有名であり、その「ゲリラ戦歴の恐ろしさ」は例え「信長」でも充分に知っていた筈である。)

「第二の宗家」とする「秀郷一門の護衛軍団の青木氏」の「秀郷流大軍団」を相手にするのではなく、「伊勢の戦い」は、要するに、「各個攻撃」と「謀略」で攻め落としたかったのであろう。
その為にも、「伊勢の特別賜姓族青木氏」と同族と成っている「皇族賜姓族の青木氏」を含めて敢えて攻める事はしなかった。
その証拠に、信長没後に、秀吉は、“伊勢の長嶋の始末”は一応は就けたものの、親族縁者関係にあった秀郷一門の「近江の蒲生氏郷」を続けて差し向けて、伊勢は“お構いなし”として「本領安堵」したのである。
「蒲生氏郷」も「伊勢の指揮官」とは云え、敵対する相手の主力は、縁者親族一族といった「本来の味方」そのものであった。
その意味で、「同族の殺戮」を苦汁を呑みながらも攻めなければ成らなかった事からすると、「秀吉」に味方する事の意味は大きく、続けての「伊勢守護」(27万石/55万石)として、新型の城郭建設などの「伊勢建設」には、「伊勢衆の力」を結集する事に成功したのである。
ところが、実は、「秀吉自身」に執っては逆であって、この「伊勢衆」の「秀郷一門の恐ろしさ」を良く知っていた。
それは、この直後(1590年)に、「秀郷一門の勢力」を弱める為に、陸奥勢力(結城一門白河氏)から攻め落としにかかったが、「秀吉の戦歴上」で、慌てて「無理押し」して「最悪の戦死者」を出しても潰した。
しかし、「背後から白河援護」に迫り来る関東の「結城の秀郷一門」を横目にしながら大阪に慌てて逃げ帰った戦歴を持っていた。
この時(1590年)、「伊勢の秀郷流青木氏」の「青木玄審允梵純」(忠元の父)成る者が、伊勢から「陸奥応援」に駆け付けていて、「下総結城」からの援軍も近づいた事から、背後を突かれた豊臣軍が、これを察知して軍を本道では無く「北陸道の商道」を使って大阪に慌てて引いた。
この事を知って、「伊勢青木玄審允」(忠元の父)は「結城」に立ち寄り「伊勢」に戻っている。

(注釈 「青木玄審允梵純」には、「正没不詳」(1530年―1598年頃)で、「近江蒲生高郷」の子で、「近江一族の跡目争い」から敗れ、遂には「母方の伊勢青木氏」の氏名を名乗って、「伊勢秀郷流青木氏の跡目」を継いだ。
この子供が上記の跡目の「青木忠元」である。
「氏郷」とは「高郷」の「孫の忠元 曾孫の氏郷」の「親族」である。
この事は「二つの伊勢青木氏」に執っては「生き様」から最も重要な要件であった。)

この事でも、「伊勢秀郷一門」を攻め落とす事は、難しいと観て避け、改めて同門の「近江秀郷一門」(蒲生氏)を差し向けて“「取り込みの作戦」”に出たのである。
つまり、この「経緯の事」もあって、「伊勢」は、“「お構いなし」”として処理したのである。

(注釈 “「青木氏」を前面に押し出した戦い方”をしていれば、局面は、放置する事は出来ず、恐らくは間違いなく違った形には成っていただろう。
しかし、“顔の観えない「商い」を利用した「ゲリラ戦の攪乱消耗戦」”であった為に、且つ、「青木氏氏是」に依って、「権威」を必要以上に利用して、“「時の勢力」に抗する態度“は採らなかった事により、政権側に「本領安堵の機」を与えた可能性が有った。)

それは、この事に付いて詳しく口伝されていて、且つ、其れらしき諸書があって、これ等の総合的な遺記録から観ると、大きくは”「蒲生氏郷の進言」“にあった事が察せられる。
「蒲生氏郷」は、「伊勢松阪」に「ヨーロッパ型の商業都市」と「武家を集めた官僚都市」の「融合城郭都市」(1588年)を構築した。
これは記録から観ると、「経済学者」で「歌人」で「軍略家」で「豪傑」であって、その人柄は「律儀」で、依って、「人望」も極めて高く、誰一人否定するものはいなかったと云わている。
且つ、家臣の中でも若い頃から最も「難しい信長」に信頼され、婚約して娘を嫁がせた程の「秀才氏郷」も、“没した信長の思想”と一致していたのであった。


(注釈 「信長自身」が「経済学者」の“「氏郷の考え方」の影響”を受けていたと観られる。
「青木氏口伝」にも「氏郷の人柄成」は遺されている。)

その勲功から「知行倍増の目的」からの「1590年奥州転封」の影響は図り得ないほどであった事を物語っている。
その意味で、“「青木氏の恩人」”とする言葉が遺されているが、「二つの青木氏」は、「本領安堵」のみならず、「青木氏の四家制度」を積極的に容認した人物としても評価していた。
そして、「伊勢秀郷流青木氏の土台」をも築いた人物としても評価していた。
それは、後に「頼宣」によって「紀州藩の主要家臣団」に採用される等の“「青木氏拡大の恩人」”としても評価していた。
「頼宣」も「最高の政治力」を発揮したが、「家康のお膝元に置いて徹底教育を受け信頼されていた「10男の頼宣」は、「青木氏の官僚団」を活用し、その才を発揮した。
しかし、これが元で「将軍から妬嫉」で謀反の疑いが掛かる程であった。

「紙屋長兵衛」も「頼宣」よりの依頼で、「紀州藩勘定方指導の役目」を引き受けて、「主要家臣団の秀郷流青木氏」を助けた。

(注釈 「二つの青木氏」に執っては、この「蒲生氏郷」と「徳川頼宣」は、「青木氏の恩人」とする口伝が遺されている。)

「不倫の地の伊勢神宮」のお膝元に、この前例のない聖地に「新しい形の城郭都市」の建築を提案し、それだけに「秀吉」はそれを容認した。
この事は、「信長」も、それなりに「青木氏」に対して容認していた事を示す事にも成り、その為にも、”「商業と武家」の両面を持ち、“「惹け」し「利得」を主張しない「権威の象徴」”としての「青木氏」(「二足の草鞋策」の「伊勢賜姓青木氏」)”を是非にも安堵する事が最適として利用した事を意味するものである。
勿論、「氏郷」にしてみれば、「親族の伊勢の秀郷流青木氏」と、遠縁に当たる一族の「伊藤氏」と「長嶋の戦い」で敵対はした。
しかし、本領安堵する事は当然の事として、彼らも「城郭都市構築」に導いた。
「伊勢の青木氏」は、この「城郭都市」の中心部の三区画(9番から11番区画)をも与えられ、且つ、「南紀州の旧領地」と「北と南伊勢の管財」を含む全ての「本領安堵」の「破格の扱い」を受けたのであった。
「伊勢秀郷流青木氏」も改めて「東伊勢の本領安堵」(郷氏)を受け「氏郷の配下」に入った。
つまり、「青木氏の四家制度」(商と武を併せ持つ氏の制度)は、「信長の岐阜城郭都市」に匹敵する「氏郷の伊勢の城郭都市構築」に向けて是非に必要とされ、「四家制度」は「氏郷」に容認され維持されたのである。

この「氏郷と二つの青木氏」との関係を観ていた「家康」は、開幕時、逆手に取って、「伊勢の秀郷流青木氏」を“「紀州藩の骨格」”に据え、関東では「御家人」「旗本」「幕府官僚」に積極的に取り立てて、自らも「藤原朝臣の姓」を名乗って、“「権威」”を獲得して“取り込んでしまった”くらいでもある。

(注釈 「伊勢青木氏」は、初代頼宣より「二足の草鞋策」を更に進める事の容認と共に、改めて、臣下ではないが、頼宣より「紀州藩勘定方指導役」を請けた。)

(注釈 「秀吉」は、「伊勢秀郷流青木氏」をその恐れから家康の様には積極的には無く「取り込み方」が異なった。
この間、一時期「秀郷流青木氏」は「氏郷配下」に成り得たが「伊勢郷氏」として生きた。)

秀吉の権勢中は、「関東の青木氏」を含む「秀郷一門」も出来る限り関東より東に追いやった。
それと同時に、「秀吉」の「徳川氏の関東へ転封」では、この「秀郷一門との調和」が取れないだろうとの「秀吉の見込み」から「徳川氏の衰退」を狙った。
しかし、「家康」はその逆手を使って「秀郷一門一族」の「取り込み」に成功したのである。
開幕後は、紀州藩は、「家康の意向」から「伊勢秀郷流青木氏」を従って「紀州藩骨格」に据えたのである。
これは非常に「重要な事柄」で、これで「伊勢の秀郷流青木氏」は生き延びられて「氏の安穏」は約束されたのであり、歴史上の最大の良好な事件であった。

この様に、“「伊勢衆」“は護られたのだが、長引いたとしても、戦略上、”「伊勢衆」“を取り込む以外には結果的には無かったと観られる。
誰にも抗らう事の出来ない“「世の流れ」“はその方に向いたと観られる。
「北畠氏」の様に、朝廷と繋がり「武力」で「織田勢力」に立ち向かう者が元より居ない「権威の伊勢四衆」であったが、同じ“「権威」”であっても、「比叡山」や「石山本願寺」の様に“「権威」”を楯にその「利権」を護ろうとして抗した者でもあった。
「織田側」にしてみれば、「北畠氏」と「伊賀氏」と「伊藤氏」は、兎も角も、伊勢には“「嫌う権威」”はあるにせよ“「抵抗勢力」”とは成らなかった。
且つ、「氏族」を前面に押し出して戦うのではなく、「シンジケート」を使って「ゲリラ戦」の「消耗戦」を仕掛ける戦法であったことから、「雌雄を決する必要性」は織田側にはむしろ無かった事に成る。
依って、「武力」を前面に押し出した「北畠氏」と「伊賀氏」と「伊藤氏」のみを抑え込み、或は、潰せば、「織田勢」としては、「初期の目的」は達し得て居た事に成る。
この“「青木氏面談」”と云う行為が「伊勢の方向性の流れ」を決めた事に成る。
その意味で、「秀吉-氏郷」の“「青木氏面談」“は「伊勢」に於いては大きな意味を持っている。
「秀吉家臣説」は、その「単なる過程の事」に過ぎないし、利用された“「青木氏四家」”には上記の「青木氏年譜」で観る様に、確かに「騒ぎの種」には成っているが、大きな被害の結果は無かった。

(注釈 「伊勢の戦い」は、“「青木氏四家」”に執っては、「時の流れ」に引き込まれ、止む無く「時の流れ」に身を任せながらも、“「信長」に依って発奮し強く成り、「秀吉」に依って「流れ」を止める土台を築き、そして、幸いにも「氏郷」に出会った事が、この「流れ」から這い出せる事が出来た。
そして、「家康」に依って息を吹き返した” と云っても過言では無い。
江戸期は、更に「紀州藩」に依って、保護の下での「四家制度」では、更に、「商い」を基に250万石以上と云われた財を築き、永遠のパートナーと成った「伊勢シンジケート」と共に大きな成長を遂げた。)

・「立葵紋の青木氏の意味」
この事から、この時の「四家制度」は、次ぎの「三つの機能」を以って、次ぎの様に成って護られたのである。
(A)「子孫存続」の「安定システム」
(B)「賜姓五役」の「実行システム」
(C)「氏の存続」の「防護システム」

本来の目的(A、B)の外にも、上記の様に、「時代の変化」にも対応する(C)の機能も働いていたのであり、“「流れ」を引き寄せる働き“をしていた事が良く判る。
但し、上記する「青木氏の氏是」(「権威」を「武器と利得の対象」とはしない)を前提とする事に在った事も見逃せない。

(“世に晒す事無かれ、何れ一利無し、世に憚る事無かれ、何れ一利無し。”)

先ずは、(A)の「子孫存続」の「安定システム」では、「子の定義」に依って即座に「跡目」に成ると云う事では無く、「婿養子」と云う形で入る等の「外部からの侵攻」を「防ぐ能力」を保持していた事が判る。
江戸時代までの社会構造の「氏家制度」の中では、この頻繁に行われていた社会現象の“「婿養子」(婿入り)”は、「青木氏」では「社会の傾向」とは一致せず“「取捨選択される仕組み」”ではあった。
ただ、必ずしも「青木氏」に執っては排他的なものでは無かったが、上記した“「四家方式」”の中で「純血性」を護りながら、「嗣子」を作り上げ、それを「5つの面 20の顔」の継承者としていた。
その為に、結果として、下記の注釈の「入り婿:婿養子」制度は、採用されていなかったのである。
況や、社会とは異なった制度を、“「賜姓族」と云う「権威の象徴」の立場”を護る為に採用して居た事に成る。

(注釈 室町期では多くは、「嫡子外」は、「部屋住み」か多くは「僧侶」に成る等の風習であったが、下剋上や戦乱に依って、武家社会では、“「横の関係」“が重視され、「縁籍関係」を縦横に組んで、「氏」を護ろうとする「社会構造」に変化して行った時代でもあった。
云い換えれば、「氏家制度」の成長期とも云える時代でもあって、その為には、「縦横の縁籍関係」を構築する手段として、「嫡子外」の嗣子を“「入り婿制度」:「婿養子」”と呼ばれるもので生かして、社会の中に構築されたのである。)

前段までにも論じたが、ただ、「四家方式」の内の「子の定義」に関わる「嗣子」は、全てが”「跡目の前提」である”と云う事では無かったが、“「特殊な立場」”にあって、“「四家制度の弱点」”であると云う判断もあった様で、この為に、「一定の距離」を置いてのものとして扱われていた。
「跡目養子」も「婿養子」も「子の定義」に晒されて、「四家主役の福家」に取捨選択されて、「家」を任される事に成る仕組みで、「現在の人事制度」に類似するものでもあった。
そして、江戸時代には、この「四家制度」は、むしろ“成長遂げる源”と成って行った。
明治期の激しい社会構造の中でも、他氏とは異なり成長を遂げた。
要するに、弱点とする「婿養子の縁組」は、上記の様な「世間の荒波」に晒され、「青木氏氏是」を犯す事にも成りかねない事が起こりやすい事から、避けていたのであった。
依って、「青木氏氏是」を護る事では、ここで、要するに、“「世間の謀略」”に晒される事は無く成る事に成った。
「江戸時代の250年」の「安定した存続」はこの事を物語っている。

逆に云えば、「四家制度の弱点」とも云えたが、「青木氏」を一切断絶させる事も無く、「笹竜胆紋の家紋変更」の事態に成る様な事も一切興らなかった事は、「1440年間の純血性」を護れた事を意味し、“稀に見る氏族”を護った事に成る。
(明治35年を以ってこの任を解いた。)

次ぎは、(C)の「氏の存続」の「防護システム」では、「四家方式」の「子の定義」で、先ずは「婿養子」として入ったとしても、その「人物評価」が先に成される等のシステムが働き、上記に論じた事態が起こっても微動だにしなかった。
況して、これは、「世間の慣習」とは異なり、「四家方式」が在る為に、直接に、”四家を牛耳る”と云う事にはも成らなかったし、周囲とは異なり絶対的な“「本家制度」”を採らない“「青木氏の四家の合議制」”が「防護の根幹」に成っていたのである。
現在に観る「社会システム」が、「二つの青木氏」に於いては、「奈良期からのシステム」であって、そのシステムが「古い氏家制度」の「封建社会」の中でも、大いに働いていた事を示している。
恐らくは、「四家制度」に示す“「青木氏の伝統」”は、他に類を見ない「賜姓族」としての「古めかしい氏」であって、「密教」と云う「50程の慣習仕来り掟」に「縛られた概念」を持ち、それを実行し維持して来た「唯一の氏」である。
然しながら、この様な「新旧を併せ持つ氏」は、“日本広しと云えど無い”と考えられる。
これは、「封建性の高い氏家制度」の中で、且つ、「密教性の高い概念」を持ちながら、“「四家の合議制」“を採用して居た事は、異質にはなるが、これを“融合していた処”にその強みがあったと観られる。
一見して論理矛盾とも観られるが、現実には、ここに生き延びている「青木氏」である。

(注意 1565年から1569年までの「伊勢の織田氏の調略」では、資料では“「入り婿」”と表現されている。
「戦乱の中」では、「子孫存続」の為には、周囲は「跡目」が不足する状況からこの“「入り婿」“に総力を注いでいた事が読み取れる。
しかし、「青木氏」では逆に避けていたのである。
恐らくは、「婿養子」を取り込んでいた場合は、上記する荒波に呑まれて「滅亡の憂き目」を受けていた事は間違いはないだろう。
その理由は、「青木氏氏是」が壊れ、「シンジケート」が崩壊し、「権威」が低下して、遂には”「四家制度の根幹が崩壊する」”と云う「自然瓦解」が起こった事に成ったと観られる。)

「青木氏」は、世の「武家社会」とは反対に、“「婿養子」”に頼らず、これを「子の定義での制度」(四家制度)で達成しようとしていたのである。

最後は、(B)の「賜姓五役」では、「頼宣との松坂の会談」で、全て江戸幕府に引き継がれたが、「徳川氏」に無かった“「権威の象徴」“を作り上げる上でも、「二つの青木氏」を始めとする「伊勢衆二氏」は、国体上で必要であった。
「徳川氏」は、前段でも論じたが、この「二つの青木氏の権威」を下記の「立葵紋の青木氏」や「勝姫との血縁」等で大いに利用した。
その証拠に、その後の江戸初期には、伊勢には「立葵紋の青木氏の発祥 二氏」も興り護られた。

(注釈 「伊勢三乱 五戦」で、“「権威」”を護ったのは、結局は「二つの青木氏」と成った。
「伊藤氏」の一部が「長嶋の乱」で子孫を遺す目的から一部を尾鷲に引かせて遺した。
「長嶋氏」も一部を「尾張三勢力」に逃げ込み、それと共に子孫の一部を遺したが、「伊勢四衆」の「伊勢の権威」からは遠ざかった。
結局は、“「伊勢藤氏」“は「秀郷流青木氏」のみと成った。
その意味で、「権威の象徴」は、より社会全体から”重きを置かれる結果“と成った。)

この“重きを置かれる様に成った”上に、更に、“「立葵紋」”と云う「新しい力の権威」が着け備わったのである。
実は、この“「立葵紋の青木氏」”には、“大変な意味”を持っていたのである。
江戸初期に発した「葵紋の禁令」では、徳川氏一門以外では、“「立葵紋の使用」は、「伊勢青木氏(四日市殿)」”のみに限られており、「笹竜胆紋」と「下り藤紋」の「二つ権威紋」を「総紋」とする「氏族」でなければ、許されなかったのである。
“「葵紋」、取り分け「立葵紋」の使用に関しては、例え、「徳川一門」でも使用を禁じる「類似家紋の法度」を発していた。
それほどの”「徳川氏の権威」“の「家紋文様(格式紋・式紋)」であった。
「青木氏」がこの格式紋の「立ち葵紋」を使用できるにはそれなりの理由があった。
それは「立葵紋の経緯」にあった。
そもそも、この“「立葵紋」”とは、「徳川氏」の最高の「権威象徴紋」(格式紋・式紋類)として位置づけられて作られていて、「笹竜胆紋」(嵯峨期詔勅)と「下がり藤紋」(力の制圧)と同様に同格としての意味合いを持たす事にあった。
この使用を「全ての姓氏」に対してのみならず、「徳川氏」「松平氏」にも「類似家紋」を含めて一切を禁じた。
「御三家」にも禁じた文様であった。
仮に、「徳川本家」から嫁入りをした場合に於いてでさえ、「立葵紋」は一切使えず、特例許可得ても「1年の限度」を以って、「葵紋紋類」さえ使用を禁じた。

元より、「伊勢衆の二つの伊勢青木氏」との繋がりをも重視して、幕府に秀郷一門を含む「青木氏」の多くの重臣を抱えた「徳川氏」は、「紀州徳川氏との関わり」を“「立葵血縁族」”としても重視させていたのである。
この「立葵紋の使用」を「伊勢秀郷流青木氏」に特別に許し、「葵紋」と「立葵紋」の「青木氏二氏」を伊勢と云う聖域に発祥させたのである。
「紀州藩」さえ使えない女系血縁族として「立葵紋の青木氏」が発祥しているのである。

「立葵紋の伊勢青木氏」は、この様に“徳川氏の青木氏に対する姿勢”が読み取れる行為なのである。
この為に、「世間の謀略」が在ったとしても、「青木氏の四家制度」では、次ぎの様に扱われていた。

(イ)「ろ過装置の様な役目」を果たす事に成ってはいた。

しかし、江戸期に入っては、一層に上記する「徳川氏の保護の背景」もあって、最早、その「四家制度の確実性」は高まったのである。
この“「立葵紋の青木氏」“の存在する「伊勢衆」と「伊勢域」は、朝廷より、永代で「不入不倫の権」で護られてはいたが、「徳川幕府」に依っても、「不可侵の権」が、これ(立葵紋)に依って与えられた。
そして、この事は引き続き「安寧の聖域」として定められたことに成った事を意味したのである。

上記した様に、室町期末期までは、「5の面 20の顔」を持つ「ゲリラ戦」を展開する為に、誰が敵味方かわからなくする方法が採られた。

(ロ)「網を被せた様な役目」の果たす事にも成った。

この「(イ)(ロ)の効能」がより働き、「四家制度」と云う「青木氏独特の防御システム」は構築されていたのである。
そして、この(A)と(C)が次ぎの様な数式で相乗的に働いて、江戸期にも続けて「生き残り効果」は発揮された。

「青木氏防御システム」=(イ)「ろ過装置の様な役目」+(ロ)「網を被せた様な役目」=(C)
「生き残り効果」=(A)+(C)=「四家制度」

この「三つの目的」(ABC)は、「悠久の歴史」を通して、この”「伊勢シンジケート」の存在”が、相互に働き、「(A)+(B)+(C)」の「接着剤の働き」をしていた事に成る。

(注釈 「伊勢シンジケート」の“「伊勢衆との関係」を持つ事の意味“は、現在感覚で理解しきれないところがあろう。
現在では「血縁関係」を以ってしても、そこで起こる「親近感」とは比べものには成らないし、恐らくは「理解の外」の事であろう。)

恐らくは、その感覚の範囲は、「助け合う事」=「知り合いに成る事」であろう。

しかし、江戸期以前の社会の、つまり、”「氏家制度」“の深意は、何らかの「血縁関係」か、或は、深い「経済関係」を持つ事で繋がる「社会構造」に付いては、時には、”「氏」や「家」や「命」を投げ出しても合力する概念“であって、その上での「相互に助け合う構造」であった。

つまり、次ぎの様な関係にあった。

”「助け合う事」”=“「氏家命の契約」“であった。

全く異なっている上で、”「伊勢シンジケートの持つ意味」“を昔の「歴史観」として理解が必要である。

本来の目的(A、B)の外にも、次ぎの様な数式が働いていた。

”「助け合う事」”=“「氏家命の契約」“

所謂、(C)の事も江戸期を通して有機的に上手く働いていたのである。

要するに、奈良期から江戸期末期まで、この“「四家制度」”には、”「助け合う事」”=“「氏家命の契約」“の”「伊勢シンジケート」“が、「絶対条件」として無くてはならない「防御システム」であった事に成る。

突き詰めると、「四家制度」とは次の様な数式論と成る。

「四家制度」=「伊勢シンジケート」+「立葵紋の青木氏」=「氏の背景力」

以上とも云える。

この数式論では、「立葵紋の青木氏の勃興」が前提に成っている。

そもそも、「徳川氏」と「青木氏」には、これに依って“「権威の相互関係」”が生まれていたのである。
「二つの青木氏」自らが持っていた、江戸期まで “「賜姓族」であったとする名誉“が、氏の“「悠久の権威の象徴」”であった。
これは、少なくとも「紀州、大和、伊勢の域」では、「氏上さま」「御師様」等と呼ばれ敬われ親しまれて、自他共に認められている事であった。
その“「権威」”を「徳川氏」に上手く利用され乍ら、逆に、“「徳川氏の武の権威」”を受けながら、「青木氏の権威の象徴」も成り立つと云う “「呉越同舟 一蓮托生の構図」”が出来上がって居た事に成る。
この構図は、「徳宗家の紙屋」と呼ばれていた様で、地場産業」の育成に私財を投げ出していて、「農業の発展」にでも「早場米の研究」に取り組み、「絹の織物産業」を信濃から持ち込み「地場産業」を大いに発展させて成功させた。
これは既に江戸期を過ぎて大正末期頃まで続いていた記録が多く遺されている。
この事で、最近の青木氏の研究で、「天皇家」を通じて「徳川氏」を経由して「感謝状の手紙」が遺されている事が判った。
恐らくは、何故に「天皇家の感謝状」と云う事に成るのかと云うと、文章から「伊勢の発展」と云う事であった事が判った。
これに関係する手紙の記録は、三通見付かった。
一つ目は、「筆者の家」、二つ目は、「青木氏と関係する郷士の家」、三つ目は、「紀州徳川家」からの事前連絡文である。

因みに、余談であるが、中ても、「筆者の家」の「感謝状の記録」は、在る事は口伝で知っていたが、当初は発見できなかった。
ところが、引っ越しに際して、仏壇を解体したが、その仏壇の奥の過去帳等を仕舞う物の中から出て来た。
とても見つかる所では無い。可成り几帳面な性質を持つ家柄であるが、何故か、ここにあったのかは判らない。

「郷士の家」の記録では、この時の状況と地場産業育成に貢献した事柄が詳しく記載された手紙などを含む資料が廃棄されずに保存されていた。
この「郷士の家」は、「射和の商家」で、恐らくは、「郷士頭の差配家」であったらしく、地元からの推薦に動いた家であった模様である。
元々は、「青木氏に関する資料」が多く出て来た家柄であった。

「紀州徳川氏」とは、前段でも論じているが江戸初期から大正14年(徳川頼倫)まで親交があった。

「青木氏」の内には、この様に、”「助け合う事」”=“「氏家命の契約」“が働き、外には、徳川氏との “「呉越同舟 一蓮托生の構図」”が働いていたのである。

“「悠久の青木氏の権威の象徴」”+ “「徳川氏の武の権威」”=「社会の最高権威」

「天皇の絶対的権威」と「徳川氏の武の権威」との「相互権威」には、一つの「初期の恐れ」が「徳川氏」にあって、「権勢を握った」と云う事で、「社会の反発」が起こり、施政上で「徳川氏の権威」が下位に来て低下を招く恐れがあると懸念された。
そこで、敢えて、「天皇家の絶対的権威」に変えて、“「悠久の青木氏の権威の象徴」”を緩やかに据えて、そこに同類とする「立葵紋」を加える事で“「徳川氏の権威の仕組み」”を構築しようとしたのである。

「秀吉」が採った「権威の構築」は、「天皇の絶対的権威」を「豊臣家」と云う背景に押し当てて、その背景で、次ぎの様な数式論に様な「政治体制」を構築した。

「為政」=「天皇の絶対的権威」+「豊臣家の力の権威」=「権威の構築」

補足として、「天皇家の末孫氏」や「藤原氏末孫」と搾取して、更には「青木氏」の「伝統の権威」をも利用しようとして闇雲に持とうとしたが、上記した様に、強引に搾取偏纂して失敗したのである。

しかし、これでは、その「為政=0」の形、況や、「為政者の力」が没すると「長期政権」を望めないとしていたが、「徳川氏」には、「力の権威」は同じ様に持つ事が出来たが、“「伝統の権威」”は未だ無かった。

「笹竜胆紋」(青木氏)+「立葵紋」(青木氏 藤原氏)=「伝統の権威」

この数式論の構図を作り上げたのである。

(注釈 そもそも、「家紋」では、そもそも、“「立」”は、“「たつ」”の意味から、「家紋文様」の上に位置する物として使われ、「立・・・紋」は、その「家紋の権威性」や「発展の縁起性」を着ける時に使われる。 
この慣習は、葵紋 沢潟紋 梶紋 銀杏紋 杜若紋 枡紋 杉紋 鶴紋 柊紋等の枝葉を拡げた「大きい氏姓の家紋」に多く観られ、主に”「氏姓族の総紋扱い」“として利用された。)

江戸時代には、上記の数式論に観られる様に、「青木氏側」にしてみれば、「伊勢シンジケート」が無ければ、「立葵紋の青木氏」が無ければ、この「四家制度」は成り立たない構図に成っていたのである。
故に、その重要な位置にあったからこそ、積極的に「嗣子の余人」を敢えて「家人」として継承させ、「伊勢シンジケート」と血縁させて、「一族性」を確保していたのである。

(注釈 「伊勢シンジケート」を構成する「伊勢郷士」等を含む各職能部等の「伊勢衆」の多くには、影の「経済的な繋がり」のみならず、「青木氏の血」が流れていて、上記した「伊勢の戦い 三乱五戦」の時には、「姿名」を変えて「敵側」との折衝の「水際の夫」を演じたのである。)

「四家制度」の中に、「青木氏融合族」の「四日市殿」を組み入れていたのもこの強みに起因する。

江戸期には、既に、次ぎの様な数式論の」青木氏」が成り立っていた事を示す。
これは最早、「二つの青木氏」の「完全融合化」が起こって居た事に成る。

「四家制度」=「伊勢シンジケート」+「立葵紋の青木氏」=「伊勢青木氏」

「立葵紋の青木氏」=「四日市殿青木氏」=「秀郷流青木氏」

「二つの青木氏」=「伊勢青木氏」+「秀郷流青木氏」=「融合青木氏」=「四日市殿青木氏」

(注釈 筆者は、この数式論から観て、むしろ、選抜して「伊勢シンジケート」に成り得る人材を「四家の嗣子」の中から積極的に配置していたと観ている。)

つまり、最も変化した「伊勢シンジケート」の意味が、江戸期には、「他氏に対する防御の抑止力」から、上記の数式論を維持させる“「氏の背景力」”というものに変化して行ったと観る。

「防御の抑止力」<「氏の背景力」=「伊勢シンジケート」 

だからこそ、「徳川氏」に対しては、「損得の利害」は別にして、「吉宗育親」を演じ、裏方で巨額の金銭を使い「将軍」に仕立て、「紀州藩」と「幕府の勘定方」を「250年の間」を主導する等の“「青木氏総力」を挙げての取り組み”に成ったと「累代の四家福家」は考え続けていた事に成る。
それほどに、「紀州藩初代頼宣」に対する「青木氏の尊敬の念」は大きかった事を意味しているのである。

(注釈 口伝でも詳しく伝えられていて、筆者の祖父の代の大正14年までの親交であった。多くの親書が遺されている。)

奈良期初期の「皇親制度」、奈良期末期の「皇親制度」、平安初期の「皇親制度」の三期の経験を経て、その江戸期には、再び花が咲き、姿形は変えたにしても、「政治経済の骨格」を直接的に支えた事に成るだろう。
この後も、この“「四家制度」“は、「上記のABCシステム」に依って、「室町期の状況」-「江戸期の状況」をも耐え抜けたのである。

「二つの青木氏」=「青木氏」=「四家制度」と云って過言では無い。

(注釈 江戸初期以降は、「伊勢シンジケート」は、夫々、「土地柄や生き様」を活かして、「商いの企業」と「海陸の運送・警護業」と「殖産業・農業(和紙」」の“「パートナー」”に当たった事が記録されている。この“「パートナー」”と成り得た“「伊勢シンジケート」”を以ってして、江戸初期には「総合商社」の形が出来上がっていたのである。
恐らくは、「日本初代の総合商社」であったと観られる。)


これも、「事の流れ」では、事と次第では、危険視されて潰されていた事も考えられるが、「立葵紋の青木氏の存在」がこれを押し留め、且つ、成長させたと観られる。

(注釈 「立葵紋と葵紋の青木氏」は、千葉と三重に現存し、「本サイト」を支えて頂いている。)

何故ならば、平安期から江戸期までの「他の豪族や豪商」には、そもそも、この「血縁族」とも云える“「シンジケート」”を持ち得ていなかったからである。
「青木氏密教概念」の中にあり乍らも、「商いの概念」が「青木氏の生き様」を大きく左右させ支えた。
つまりは、時代に即応して“「四家制度」”をより確立させて行ったのである。
現在から観て、「子の定義」を社員に置き換えて考えれば、「現在の企業」でも成り立つシステムと観られる。
それだけに「氏家制度」の中では、「最も古い氏」であり乍らも「最も新しい生き方」で有ったと観られる。

その意味でも、「信長の考え方の概念」には、「流れ」の中では、“敵対はしたが理解していた”と観ているのである。
江戸の歴史上には、中でも、「元禄の浅野家取潰し」の際には、この「パートナー」の「伊勢シンジケート」が、「四家福家の指示と援護」を得て、多くは「海運業」と成った。
「世間の目」を気にしていた幕府に代って、難しい「開城と管財の一切の始末」に対して、その「総合商社の特徴」を活かして、混乱の中で瀬戸内の中を配送して、更には、「陸送業」をも運営して「管財の処分」に当たり、穏便に事を運んだ事は、特に有名な事で記録にも遺されている事でもある。
現在でも通ずる「四家制度の差配」であったろう。

そこで、“幕府が何故に「伊勢青木氏」にこの「始末」を委託したのか”と云う疑問が起こるだろう。
「商い記録」では、「紀州徳川氏」からの「紙屋長兵衛」に対しての「委託」であった事が判っている。
この幕府の最大の事件は、難しい難問であった。
扱い方に依れば非難が幕府に集中する。
それを総合的に解決できるのは、「紙屋長兵衛」しかないと観た事に依る。

その信頼は、江戸初期からの付き合いによるが、何よりも、紀州藩の「立葵紋の青木氏」を全面的に押し出して、幕府であるが、幕府では無いとして、成功裏には、“どうだ 「立葵紋」が解決したのだ” “幕府が解決したのだ“と威勢を張る事に成る。
それを“総合的に成し得る能力”を持っているのが、唯一日本の中で「立葵紋を持つ伊勢青木氏」なのだ。
(「信濃善光氏」が「立葵紋」である。)
「紀州藩の官僚族」の指揮者と成っていた「立葵紋の青木氏」と「四家の四日市殿」と「八代将軍吉宗の育親」で「享保の改革」の主導者であった「四家の紙屋長兵衛」は動いた。
全ての「取り仕切り」は成功した。
「世の批判」は起こらず、「幕府の威厳」は“さすが”と持て囃されたのである。

(注釈 大船 荷台 家人 要員 日数 金銭等の「商い」が記帳されていて、「伊勢シンジケート」の構成員が、転身した「海陸の運送業」、現在の「警備保障業」、「警護・警備業」等の事も兼ねていた事が記されていて、江戸時代でも、「商いの輸送」には未だ大きな危険が伴っていた事が判る。
そして、家財処理の事、骨董品の取り扱いの事、江戸時代でもリサイクル品の中古転売の事も盛んであった事、金銭交渉等の事件のつながりの末の始末でも興味深い事が記載されている。
{青木氏}に委託した記録は遺されていないのは、この{商業記録}によるもので、[青木氏の福家}に送られた記録であった事から、「松阪大火」の「消失」で遺されていない。)

その意味でも、その勲功を成した「伊勢シンジケート」が、形を変えて、“「商いのパートナー」“として働きながらも、江戸時代も更に「四家制度」を支える”「防御システム」(背景力)”として、“「情報活動の面」”でもまだ働いていた事が判るのである。
「伊勢シンジケート」を構成している「郷士や農民や庶民の集団」、要するに“「伊勢衆」”と呼ばれる集団は、共に潤ったと記録されていて、「物語風の口伝」が遺されていて興味深い。

(参考 因みに、「商品輸送」に対して、面白い事が書かれていて、多くは大船での搬送であったらしく、止む無く「陸送」の時、例えば、越後に搬送する時、「商品の安全」を図る意味から、別のシンジケートに連絡を取って、陸送の安全を依頼する。
この時、他の「シンジケート」との打ち合わせは、「陸送する頭目」が「旅の旅館」で密かに「打ち合わせ」金銭授受などの契約をして、搬送時は、別のシンジケートの者が、忍者の様に陸送の周囲に寄り添って見張りを続ける仕組みで、終わるとその影の様に付き目立たない様に従った「忍者の物見」が、いつの間にか消えると云う仕組みであった様である。
その姿が、色々な姿に身を変えての保護であったらしい。
イザと云う時には、一斉に何処からか出て来て荷駄を護り、相手を攻撃すると云う当に“「忍者」”であったらしい。
土地の暴力集団(やくざ)や山賊もあって、実際は危険であったらしい事が書かれている。
確かに、シンジケートの存在する地域には、必ず「山岳の忍者集団」か「山岳の郷士集団」が存在する。
伊勢や河内であれば、「伊賀忍者」や「雑賀忍者」や「十津川郷士」や「龍神郷士」の様にである。
実際には、「荷駄頭」が打ち合わせた「シンジケート」の指揮する「物見頭」の顔しか知らなかったらしい。
この「物見頭」の周囲には、観えない「十数人の梃子組」がいて護っていたらしい。
「シンジケート」の中でも、同じ仕組みであったらしく、このシステムで繋いで行く方式を採っていたのである。)

(注釈 「伊勢シンジケート」の「内部組織」が、状況に応じて、この様なパートナーに合わせて編成され直された様で、これが「輸送業」や「警備業」や「殖産業」や「金融業」や「廻船業」などの「伊勢紙屋長兵衛商店」と「二つの青木氏」の「企業パートナー」(「射和商人」 「射和組」)にも成ったのである。)

これから察すると、江戸時代では、“「氏の背景力」”と成ったが、この「荷駄頭」と「物見頭」の繋がりで、その「シンジケートの首魁」に連絡を通して、その首魁から、土地の「領主」に話が通り、組織を必要な様に動かした事に成ったらしい。
「伊勢シンジケート」の出自は、多くは、「室町期の豪族」や「土豪族」や「郷士族」が戦いに敗れ、海山に逃亡して「裏の社会」で生き延びた者達であり、これらに「経済的支援」をしてその見返りに警備や運送屋や廻船業や殖産や営業等の手助けを請け負って貰い定期報酬とは別に、その都度の報酬を渡し連携をしていた。
次第に血縁関係も結ばれ、何時しか「青木氏族」の一員化して生き延びた者と、その配下や農民やあらゆる職能の人たちで、江戸期には、「ある程度の経済的潤い」と「必要な力」を持ち合わせて「表の社会」の一員の立場も持ち合わせ乍ら「二つの顔」を以っても働くように成った。
この「組織の範囲」(「松阪組」と「射和組」)は、明治期の初めまでの結果として観てみると、美濃から信濃を経由して、諏訪から甲斐の領域までを範囲としていた事か判る。

これは「和紙」と「神明社」と「青木氏菩提寺」の関係からは元より、各地に起こった「農民一揆」の「経済的支援」をしていた事の記録からも頷ける。
取り分け、「宗教絡み」の「甲斐百年一揆」と呼ばれる一揆にも「伊勢シンジケート」を通して「経済的支援」をしていた記録からでも判る。
傾向として可成り「中部東域」にそのルートを伸ばしていた事も判る。

中には、「伊豆勢力」(伊勢信濃青木氏族の末裔集団)と、滅亡した「駿河源氏の末裔族」が編成していた「駿河水軍」との連携を持っていた事も記録から読み取れる。
これは「伊勢水軍」が、「伊勢シンジケート」の一員であった事からの平安期からの連携が遺ったものと観られる。
連携で云えば、多くの「商い記録」が遺る“「瀬戸内の支配権」”の持つ廻船業を中心とした「秀郷流讃岐青木氏」との連携が目立つ。
「伊勢シンジケート」を全網羅するには、「別の論文」が充分に成り立つのでここでは、下記に「松阪商人」の「(射和商人) 射和組」に付いて触れて置いてこの程度の範囲とする。



> 「伝統―19」に続く。
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名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒

:「青木氏の伝統 17」-「伊勢衆の本音戦略」 

[No.334] Re:「青木氏の伝統 17」-「伊勢衆の本音戦略」 
投稿者:福管理人 投稿日:2015/08/31(Mon) 11:11:14


>「青木氏の伝統ー16」の末尾


> 「比叡山焼き討ち」等に観る様に、「信長」は「武家勢力」を始として、「各地の戦い」には、各地ならではの「条件」を入れ替えて、この[四つの思入れ」に適合するかを確認したのではないかと観られる。
>各地の戦いの「信長の発言」を考察すると、この傾向が読み取れる。

>これは、まさしく、「青木氏の氏是」の意味する処でもある。

>”何時の世も、「青木氏」を世に晒す事無かれ、何れにも一利無し、然れども「青木氏」を世に憚る事無かれ、何れにも一利無し。”

>「信長」は、”「伊勢者」”の当初から出方を警戒(婿養子の策謀失敗)しながらも、元より”「悠久の歴史」を持つ「伊勢者」”の「伊勢の青木氏を攻める意志」は無かった事を意味する。

>「この世」の「何事」も、排除されるのは突き詰めれば、「信長」も、「青木氏」もここに来る事を教えている。


>これ等が、「伝統」を語る上で、「青木氏」に執って忘れてはならない「四家の背景と経緯」である。
>何れにせよ「我々の先祖の青木氏」は、この中で生きて来たのである。
>その「生き様」そのものが”「青木氏の伝統」”であった。



伝統―17


「伊勢衆の本音戦略」
そもそも、“何で「伊勢衆」と「伊勢四衆」が「招かざる北畠氏」のこの「行動」に合力したのか”と云う疑問が湧く。
「青木氏」として、“本気で合力したのか”と云う疑問が湧く。
「不倫の聖地」に「武」に変身した「公家の北畠氏」が入る事は、「聖地の存続」に「危機」を生じさせる事に成る。
この事は「武」を背景とする以上は、「争い」は目に見るより明らかであるのに、むしろ、「伊勢衆」「伊勢四衆」に執っては、「平穏な悠久の歴史」を続けて来ただけであった。

然し、唯単に「悠久の歴史」を続けて来て訳では無い。
「賜姓五役」として、「三つの発祥源」と「国策氏」としての”「伊勢国」”を作り上げて来た。
財源的補足としての「二足の草鞋策」や、伊勢国と民を豊かにする為に「和紙殖産」を作り上げ、抑止力としての「伊勢シンジケート」を構築して護って来た。
「青木氏」に執っては、この苦労を水の泡にする様に、「武」で乱されるのでは、“排除するに値した行為”であった筈ある。
況して、「悠久の氏是」も在った。

確かに、「源氏」と云う縁もあったが、それだけで「合力」はするか疑問である。
「聖地の存続の危機」と云う事に成れば、「縁如何」では解決できない。
況して、北畠氏が”「源氏」”とはいわれているものの、正規の「賜姓源氏」では無い。
何より、「悠久の絆」で結ばれた「伊勢衆」の「土地」とその「生活基盤」を「武」で奪った相手でもある。
「二つの青木氏」は「北畠氏」に対して真当に合力したとは到底思えない。
そんな「愚人の四家福家」はいないであろう。もし、そうであれば、とっくに滅亡している筈である。
そもそも、この現状事を認めて仕舞うと「自らの氏の立場」「子孫の行末」も危うく成るは必定である。
「家訓」もあり、其れ等を「無視する行動」を採るとは到底考えられない。

とすると、「青木氏」に執っては「抑止力」で対抗する方法もあった筈である。
然し、”「抑止力」を使った”とする記録が全く見つからない。
何か変である。「抑止力」を使えない”「何か」”があって、仕方なく”「何か」”が策謀された気配がする。

然し、現実には、「青木氏年譜」や「口伝」や「添書」や「商記録」などからも”「合力」”は明らかである。
この「合力の如何」は別として、疑い無く“「合力」”はしているのである。
ただ、反面、「武による合力」でも無い事も明らかである。
だとすると、考えられるのは、”「北畠氏の出方」に「青木氏の抑止力」を使えない「大義」があった”事に成る。

そこで、”どの様な「大義」であったのか、どの様な「合力」”であったのかを明らかにしたい。
そこから、「二つの青木氏」の「生き様」が観えて来る筈である。

問題は、「北畠氏」の伊勢での短い期間の「生き様の特徴」に在る。

鎌倉末期の「建武中興」にて「親房」が勢力拡大、その末裔の「顕房」は、戦国時代に無防備な伊勢の北畠に武力で進出し勢力拡大、遂には「国司」に成るとあるが、この室町期末期の戦国期に「国司」の意味がどけだけあるかは疑問である。
あるのであれば、室町期は「国守護」であり、「国司」では無い。如何に「天皇家の権威」を利用したかはこれ一つで判る。
況してや、最大時は「南伊勢五郡の勢力」で、「全伊勢」では無かったし、「勢力」だけが裏打ちされたものであった。
この「勢力頼み」を利用する事であった。

然し、「顕房」には、「朝廷との繋がり」は確認できない。
要するに、衰退している「天皇の権威」を利用した「戦国公家大名」である。

それは「北畠氏の態度」が次ぎの様な事にまとめられる。

「特徴 A」- 「御所」と云う館名を盛んに使っている。
「特徴 B」- 「朝廷」との連携を強くしている。

この「特徴 A」は、「御所」、即ち、「天皇の意」を戴して、”「伊勢国」を統治している”と云う「戦略」を採った事に成る。 
次ぎに「特徴 B」は、困窮していた「天皇家」に貢ぎして「パイプ」を作り上げ、「特徴 A」を補完した戦略を採った事に成る。
要するに、「天皇家」を利用して「伊勢」に侵入した「大義」を作り上げた事にある。

果たして、「天皇家」が、その様に「北畠氏」に、 ”「密命を出した」”と云う事もあり得るが、これは確認出来ないところである。
そもそも、「伊勢国」は「皇祖神の聖地」で数少ない「天領地」でもある以上は、その「天領地」から上がる「税」をより高くしようととして「北畠氏」を差し向けたと成る。
「税」だけで「天皇家]が「皇祖神の聖地」を危険に晒すかの無謀をするかの疑問がある。
「青木氏」も「税」は納めているが、これを無視する行為を天皇家がするかの疑問がある。
「巨万の富」で「税」は高く成っている状況の中で、「青木氏」を無視するは自らの首を態々絞める事にも成るがそうするかの疑問がある。
確かに「北畠氏」は、「村上源氏の流れを汲む源氏」で、「朝廷の学問処」の家柄に在ったが、この密命を下すかの疑問がある。

「青木氏」は、「特徴A」と「特徴 B」があった事で、これを「北畠氏の大義戦略」であった事から、直ちに「抑止力」などの手が使えなかった事にあったと観られる。

この為に、青木氏は、次ぎに論じる「青木氏の本音戦略」で対抗した事に成ったのである。

「北畠氏の大義戦略」><「青木氏の本音戦略」

「北畠氏の大義戦略」><「青木氏の本音戦略」であったとすると、「青木氏」は「天皇家」から罰せられていた筈であったが罰せられていない。
とすると、「皇祖神の聖地」を汚す様な「密命」では無かった事に成る事から、後は「合力の有り様」で解明できる。


「合力の有り様」から観た検証
“「ゲリラ」“と云う言葉は当時は無いが、資料にも依るが、「撹乱」「調略」「策謀」「知略」の4文字が出て来る。
そして、「商人の姿」は観えるが、四つも持っていた「四家」の「館城」「寺城」などの表現は「直接的表現」としては無い。
取り分け、「商記録」には、「伊勢シンジケート」からの情報と観られるものとして、「簡潔に要点を書き記した情報」からも総合すると、”「直接交戦歴」”も浮かんで来ない。

何よりも、一揆等の行動に「裏からの経済的支援」をしていた事は判り、記録から「紀州」、「伊勢」、「信濃」、「甲斐」の「四大一揆」の事が記載されている。
中には、この「一揆」に絡んで、「青木氏の密教浄土宗の菩提寺の存亡」に関わっている。
又、「信濃や甲斐」では、「曹洞宗との争い」に、又、「伊勢や美濃」では、「真言宗との宗教争い」の様な事もあった事が記されている。

これはつまり、「伊勢丸山城の戦い」や「名張清蓮寺の戦い」の「戦い方」がはっきりしていて明らかに“「ゲリラ戦」をした”と云う事が判る。
「一揆等の経済的支援」等の戦い方は、一体、”どの様に見るのか”で変わって来る。
唯、”単なる経済的支援”とは、一方に支援をしている以上は、行かないであろう。
問題は、後から来た「武力による支配者」に対して、「青木氏」等は苦々しく思っていた事は、長い間、悠久の歴史を伴にして来た「民」がそう簡単に納得したであろうか。
「悪政」を敷いていたのなら別にして、「悠久の歴史」を共にしていた事は、「悪政」では無かった事に成ろう。
「土地の権利」は「青木氏」が「地主」として持ち得ていたとしても、「政治の支配権」は「後からの支配者」にある。
「郷氏」としての地主で無いところは、支配を受ける事に成る以上、「民」は反発をする事は充分に考えられる。
「経済的支援」をしている事は、「民の生活困窮」では無かった事に成る。
況して、「地主」である事から、「直接の税」は「青木氏」にある。「税問題」であるのなら「青木氏」との問題である。
「政治的反発」であった事に成る。
”「伊勢に武に依る支配がもたらすリスク」”を嫌ったと云う事に成る。
従って、「一揆等の経済的支援」は、この「青木氏の背後からの突き上げ」であったと観ている。

その証拠には、明治9年までの伊勢で起こった一揆を含む一切の動乱には、「青木氏」は「商人の立場」から支援をしている。
北畠氏等は、背後に青木氏が見え隠れしている事は充分に知っていたと考えられる。
然し、”手は出せない”と云う柵に縛られていたのである。(「二面作戦」を採った。)
公然と青木氏として表に出れば又別であろうが、「商人の立場」を利用した事が「商記録」からも判る。
「長兵衛等の四家の名」を夫々に使っていた事が記録に残されている。

上記した様に、「招かざる北畠氏」が「採った行動」に対しては、「伊勢の聖地」を「護る役目」のある「青木氏」は、「武に化した北畠氏」を直ぐに排除出来なかった。
当然に、「武力」を使えない為に「悠久の絆」で結ばれた「土豪や郷士の伊勢衆」を充分に護れなかった。
それだけに「経済的支援」は伊勢には急務であった。

それは、次ぎの理由があった。
(イ)「北畠氏」が南北朝より「朝廷の意」を反映させている事(西の公家政権)
(ロ)「青木氏」が「氏是」に依って「武」を以って「北畠氏」を排除できない事
(ハ)悠久来に「賜姓族と云う立場」があり、「直接交戦」が採れない事
(ニ)「権威の象徴」は崩せない事

しかし、「二つの青木氏」に執っては、時間が掛かっても、何とかして排除するか弱める事が絶対的に必要である。
そうすると、「二つの青木氏」に執って考えられる手段は、「直接手段」は出来ないと成れば、取れる手段は、唯一つ「間接手段」しかない。

ではその「間接手段」と成れば、次ぎの「二つの戦略」に成る。

戦略1 「北畠氏」を煽り「武」に立たせ、悟られない様に「外部勢力」で弱めさせるか潰させる事
戦略2 そこで、室町末期の最大勢力の「信長勢力」を招き入れて、弱めさせるか潰させる事

「第一段階」
それには、「北畠氏」に「商い」などを通じて取りあえずは「経済的な利得」を得させて「勢い」を持たせる事が必要と成る。
「信長を引き込む」の戦略の為には、この「勢い」に依って「権威を惹けら課し、その利得を獲得する形」が出来れば、「信長」は必ず来ると判断した。
この“信長に遣らせる戦略”を第一段階とした。

その「信長」には「天下布武」で「天下号令の野心」があると踏んだ。そうすれば、「京」には「伊勢」は背後に位置すると「北畠氏」を叩く必要が必ず出て来る。
その為の「条件づくり」「環境づくり」をする事にあると見込んだ。
其れには「権威だけを惹けら課す北畠氏」に「経済的潤い」と「軍事的勢い」を付けさせる事が必要である。

「第二段階」
そこで、「元伊勢衆」と「伊勢四衆」が結束して、これに当たる方向性を付ける。
「伊勢青木氏(信定)」は「長野青木氏」等の「全国の青木氏」に呼び掛けて「ゲリラ戦」に応じる様に主に呼びかけると共に、「元伊勢衆」から成る「伊勢シンジケート」と共に、「ゲリラ戦の攪乱消耗戦」を仕掛ける。

「第三段階」
当然に、伊賀氏、伊藤氏、長嶋氏等は、領地を奪われる事から「独自の方法」で「信長」に戦いを挑む事に成る。
そこで“「信長の遣り過ぎ」“を制御する為に、「伊勢青木氏(忠元)」は、「伊勢青木氏(信定)」と共に「ゲリラ戦」を展開しながら、全国の「秀郷一門361氏」に援護を依頼して「信長」に「東の背後圧力」を掛ける事にする。

「第四段階」
「信長」は、この「伊勢青木氏(忠元)の行動」を観て、“「伊勢藤氏」”には手を出せない様に仕向ける。
この事で、「伊勢の戦い」は限定して拡大しない事に成る。

「第五段階」
この戦略で、「北畠氏と伊賀氏」が潰れる事で解決して、「信長」を以って、この二氏を弱めさせ潰させる事が出来る。
この段階で「伊勢シンジケート」の「ゲリラ戦」を引く事とする。
そこで、「伊勢衆の代表」として「信定と忠元の青木氏の二人」は「織田氏との談合」で決着をつける。

「第六段階」
これは、結果として、「本領安堵」を最終目的とする事であり、「元伊勢衆」の「北伊勢の土地」と、「伊賀氏」が支配していた「伊賀の土地」と、「北畠氏」が支配していた「南伊勢の土地」と「東奈良の土地」は帰って来る事に成る。
これで「所期の目的」は「伊勢者」に執って達成させられ、「伊勢の聖域」は護られる。

この「六段階の戦略」が、集めた記録から観ると、「元伊勢衆」と「二つの青木氏」の描いた「基本戦略」であった様だ。

ところが、ここで「戦略の見込み違い」が起こった。

この”「戦略ズレ」”は、何れにも起こるは必定の事であり、これを「臨機応変」で処理するのが「戦いの常套手段」である。
「基本戦略」以上を超える「戦略ずれ」は拙いがこの範囲であれば問題がない。

その「戦略ずれ」とは、「伊藤氏と伊賀氏」の「伊勢藤氏の二氏」が「自らの勢力」を超えて突っ込み過ぎたのである。
(長嶋氏は室町期の新参であった事から「基本戦略の範囲」を護って激しい交戦態度は避けた。)
結果として、「長嶋の戦い」が長引いてしまった。

そこで、止む無く、「二つの青木氏(信定と忠元)」は、”顔を出さない「ゲリラ戦」”で合力する事に成ったのである。
しかし、「戦略ズレ」を無くす事から、「談合」が進められ、結局、この「伊勢藤氏の両者」は、慌てて、子孫を遺す事を目的で、「伊藤氏」は尾鷲に、 「長嶋氏」(州浜族)は「尾張の秀郷一門」の「三勢力」(州浜族、片喰族、沢潟族)に、軍を引かせて早期に戦いを終わらせた。
この事で、「ゲリラ戦」が遺る程度に成った。
この時、「忠元の依頼」もあって、「武蔵の秀郷一門」が「救いの手」を打ったのである。
事を大きくしない為にも、「軍」を送らず、「名策の窮策」を講じた。

それは、「尾張三勢力」と「伊勢青木氏(忠元)」で、「信長の背後」を牽制した。
「信長」に、「信長子飼い」の「伊勢青木氏」と親族である「近江蒲生氏郷」を「伊勢戦域」に就かせる事にあった。

(注釈 上記した様に、「信長と氏郷」は、「京平家の同じ家筋(揚羽蝶紋)」の末裔で在る。
且つ、「信長」が其の優れた才覚を認め、家臣の中で最も信頼していた人物で、幼少期から信長の次女の梅姫を婚約させ嫁がせた関係にあった。
「信長」に執っては、「毛利攻め」の事も有って、「背後」を大きく混乱させ長引かせたく無く、事を穏便に始末したいと考えていた。
そして、現実には、”「策謀」”に依る各個攻撃に出ていた。

そこで、「二つの青木氏」は「背後牽制」をして、“早期から「氏郷」を伊勢に引き出す戦略“には成功した。
そもそも、「忠元の父」と「氏郷の祖父」は兄弟であった事から、この「作戦」は成功して、「伊勢藤氏」の「二勢力」は何とか生き延びたのである。

(注釈 そもそも、「信長」が、「北畠氏と伊賀氏」を潰せば、その目的は達成している事を物語る。
もし「伊勢藤氏」を潰す目的であれば、「信長の戦法」であれば、「同族の蒲生氏郷」を差し向ける事はしない筈である。
「徹底して潰す戦術」を採っている「信長」であれば、「伊勢藤氏の三勢力」を遺さなかった筈である。
これは、むしろ“潰せなくて”、且つ、“潰す目的が無かった事”を物語る。

”「信長の権威への挑戦」”にしても「闇雲の挑戦」では無い事くらいは判るであろう。
そもそも、「伊勢衆」と「伊勢藤氏」や「伊勢青木氏やシンジケート」には、「信長」に「敵対の意志」はそもそも無かった。
「後世の子孫」から観て、「信長の行動」に敵対するに値する根拠は何処を探しても見つからない。
「北畠氏や伊賀氏の行動」に「青木氏の命運」を掛ける程の根拠もなかった筈なのである。
むしろ、「招かざる者」として位置づけられていた。

(注釈 伊賀氏には長い歴史の中で幾つかの出自の異なるルーツが生まれた。
ここで云う「伊賀氏」とは、「藤原北家秀郷一門」の「宗家」で、鎌倉期に「頼朝」より「旧領地の結城の地」を本領安堵され、「結城氏の祖」と成った「朝光」が、その後、鎌倉期に、「伊賀の守護職」を務めた。
この「現地孫の末裔」が「伊賀氏」を名乗って、その後に鎌倉幕府の中枢に位置した。
その勢力を最大に伸ばした「氏族」で在る。
その後に、この末裔が「伊勢伊賀」に住し、伊勢の土豪、郷士を押え勢力を伸ばした。
厳密には、「伊勢藤氏の四氏」の内の一氏ではあるが、「他の三氏」とは、「秀郷一門」とは云えど、その血縁による「血流性」が低く、若干、その「生き様の方向性」に「武力性」が強く異なっていた。
時には、「傭兵軍団」等で生き延び、その氏は二派に分かれた。
その一派が「甲賀族」である。)

(注釈 従って、「伊勢藤氏四氏」と呼ばれるも「伊勢藤氏三氏」と呼ばれる事もあった。
この地の前身は、「伊勢京平氏の祖」の「後漢から帰化した阿多倍王」、又は「高尊王」、「平望王」で、朝廷より「伊勢青木氏の土地」の「伊勢北部伊賀地方」を「半国割譲」を受け定住した。
その子の「国香」と「貞盛」の親子から五代後の「平清盛」に繋がり、その後、清盛は「伊賀の地」を朝廷に返却して「播磨」に移動した。
然し、この時、一部末裔は、「平家滅亡後」にも「伊賀の地」に遺って、「伊勢青木氏」と共に「和紙」等の殖産を引き継ぎ、「伊賀郷士」等と成って生き延びた。
この「伊賀氏」には、この「平家の血」も流れているが、その主血流は「秀郷一門流」である。
主筋は秀郷一門で占められ、「家臣」には、この「平家の血筋」の持つ者、「民」には「後漢の職能部」を祖とする者等から成る。
「青木氏」とは、取り分け、室町期には、「伊賀氏」に成っても、「奈良期からの絆」で、「和紙殖産」を通じて、この「郷士の家臣や民」との繋がりの方が強かった。)

従って、この上記の注釈の経緯があるとすれば、「北畠氏や伊賀氏への合力」と云うよりは、“「流れ」の中で仕掛けられた「謀略」程度“と観える。
そもそも、「青木氏の基本戦略」の範囲では、「北畠氏や伊賀氏への合力」をしたとは云え、上記の「注釈の経緯」もある。
取り分け、この「二氏」とは「生きる方向性」の事もあり、「信長」を「伊勢」に呼び込む為の「誘導煽動策」に過ぎなかった。
(青木氏側からの見解)
そもそも、「伊勢藤氏 四氏」とは云え、鎌倉期の「武力に頼る毛色の違う伊賀氏」、平安期の「武に依る突っ込み過ぎた伊藤氏」、室町期の「武蔵の永嶋氏に頼る長嶋氏」とは違い、同族の「伊勢秀郷流青木氏」とは、血縁はあるにせよ、その「生き様」が根本から異なる。
又、「青木氏」は「賜姓族」である事も踏まえ、「三氏の顕教」では無く、「密教の概念」をも符合させて、「一族性」を完全一致させる事はそもそも難しかったのである。

ただ「北畠氏」(1569年没)だけは、「二つの青木氏」に執っては、「本音」では当に“「招かざる者」”であった。
この「本音」の「招かざる者」との「付き合い」は、結果として、1536年からの「30年間」に及んだ。
しかし、「実質の付き合い」は、「後半の10年程度」に過ぎ無い。
前半は、「悠久の絆」で結ばれた「伊勢衆の混乱」を観て、“「旧来の聖地の伊勢」を引っ掻きまわれた”と云う感覚でしか無く、”「付き合いの範囲」を超えていた”と考えられる。

北畠氏と「後半の10年」は、「過激な戦乱」を呼び込む衰退傾向にあった。
況や、「二つの青木氏」に執っては、当に、「招かざる者」への「基本戦略の範囲の行動」(上記)であった事に成る。

「青木氏年譜」によると、中盤の1549年頃に一度、「伊勢の衆」を集めた事が在って、後半の1559年頃に再び衆合している。
この後に、1560年に「堺支店」に船を廻す記録がある。

この「3つの記録」から、「北畠氏の動向」を観て、先に「伊勢衆との談合」を進めていて、「基本戦略の策」を講じている事が良く判る。

”堺港に船を廻す事”の意味は、恐らくは、“過激化する北畠氏”に悟られぬ様に危険に曝されている「伊勢衆」に「物資の供給」を試みたと観られる。

依って、この関係も勘案すれば、「四家」は、所謂、「伊勢シンジケート」を使った“顔の観えない「ゲリラ戦」”で応戦する「基本戦略の範囲」で事は進んで行った事に成る。
然りせば、“「青木氏」を前面に出して敵対していない“と成れば、「信長側」では、「潰しきれない背景」が生まれる。
且つ、織田側に、”「潰す大義」”も生まれないだろう事が判る。
況して、“「青木氏の商い」”は、「潰し対象」とは成っていないし、むしろ、織田氏の「軍需品調達」の大店とも成っていた。
一見して「商い」では「味方」である。
これが「青木氏の基本戦略の前提」なのである。

仮に、「賜姓族の青木氏」の正体が表に出て潰されるとしても、「商いの青木氏」が存続して居れば、「賜姓族の青木氏」は、当に「不死鳥」であった事に成る。
「商いの青木氏」には、其れだけの力は有り余る程に充分に有った。
況して、“「室町文化の紙文化」”と呼ばれる時代に「巨万の富」を築いていたのである。
この時には、「伊勢シンジケート」を組み入れれば、“「信長以上の総合力」”であったと観ている。
要するに、「表の勢力の信長」か「裏の勢力の青木氏」かの「勝負差」であった。
この「勝負差」では「二つの青木氏」は勝っていた事は明らかである。
その「勝負差」を以って、“顔の観えない「ゲリラ戦」で来る”と成ると、例え、「信長」でも、人より優れた「軍略家」であったればこそ、“「恐怖の対象」”そのものであった筈である。
それだけに、「顔の観えないゲリラ戦」に“「窮地発生」“とも成れば、「恐怖」から「過激」(パニック)に走る可能性は充分にあった事は認められる。
これは「信長」のみならず「青木氏」でも起こり得る「人間の性癖」であり、「上に立つ者の宿命」であろう。

そもそも、これが「不死鳥」と成るその為の「四家制度」(5つの面 20の顔)でもあった筈である。
「過激 パニック」を防ぐ「四家制度」(下記 ABCの態勢)であった。

「北畠氏や伊賀氏への合力」と伝えられる「口伝の戦況」と、「青木氏の商い記録の資料」からでは、次ぎの事が判る。
「北畠氏本家」が潰された後に「北畠氏の分家」が一族を結集し直した事である。
これに依れば、”「果敢に挑戦した」”と云う事に成っている。
勝敗は別として、これは「信長」に挑戦したものであったし、「伊賀氏」も「分家の残存兵力の結集」で最後に果敢に挑んだものであったらしい。
この「戦いの結末」は、“ゲリラ的に長引いた”とされているので、この事から観察すると、「青木氏の基本戦略」は兎も角も戦略ずれ等もあったが「成功裏」には終わっている。

兎に角、「青木氏の行動」は、“「徹底したゲリラ戦」”であった事が口伝や資料からでも判る。

結局は、「青木氏に残される大義」は唯一つである。
それは、奈良期より「不倫の聖地」とされているところに、不徳にも「不毛の騒ぎ」を持ち込んだ「北畠氏の如何」に在った。
この「北畠氏」だけに関わらず、“「不倫の聖地への挑戦」”に対する“「悠久の責務」”からの「最大の抵抗」であった事に成る。
故に、「如何なる場面」や「挑戦の流れ」の中に於いても、「四家制度」と「伊勢シンジケート」を駆使した“「徹底したゲリラ戦」の域を超えなかった”と云う事に成る。
故に、上記に論じる「基本戦略」を採った事に成る。

この事を後世から観ても、上記の前後の「戦略と戦況」から観ても、これを“「青木氏の大義」”として捉える事で納得し得る。
「村上源氏」や「学問処の公家」を標榜する「北畠氏」には、この“「大義」”に欠けていた事を物語る。
「青木氏」から観れば、”戦国”と云えばそれまでだが、無理やりに”「不倫の聖地」”に「武の勢力」を持ち込んで、「国司面」して「大義」を一時作り上げたに過ぎない。
故に、”「信長」を以てして「滅亡の憂き目」を受けた”と解釈できる。
そこで、この「青木氏側の基本戦略」の論調で行けば、“「信長」”は単なる「その使い」であった事に過ぎない事に成る。
依って、後付の「通説化」は論理的に符合しないのである。

「青木氏」の史実から観れば、当に次ぎの様に成る。(口伝でも同評価)

”「権威」を惹けら課し、「権威の利得」を食む「社会の悪弊」の「排除の使」”と捉えられる。

上記した様に、その経緯から「多少の過激さ」はあったにせよ、これは「人」が戦う「戦の如何」であり、“理想通り”には行かないのが「世の常道」である。
その行動に「事の平癒」を急ぐ余り、「若干の過激さ」が伴った事は否めないだろう。
故に、その“「若干の過激さ」“を以ってして、「通説」の様に「信長」を評価するは疑問である。
要するに、「青木氏」は、“「伊勢への挑戦」”の“「流れ」“に組み込まれたのである。
否、”青木氏の基本戦略“に組み込んだのである。

(注釈 この“「流れ」“には、その前に、次ぎの様な事が起こっていたのである。
然し、ここにも「石山本願寺の檄文」に依って火が付いた様に起こった「ゲリラ戦」と「一揆」が、「伊勢の三乱 五戦」にも、「上記の戦略」以上の”「思いがけない荒々しさの殺戮」”が、「信長側」にも「伊勢側」にも呼び込んで仕舞ったのである。
其処に、「秀吉の毛利攻め」にも「信長側」に「焦り」を起こした事が、この「荒々しさの殺戮」へと進んだ事も否めない。
この「檄文の存在」を通説化した歴史家が認知していれば、この「通説化」は作り得なかったと観られる。)

そもそも、実際には、1563年頃には、伊勢に動揺が起こり、実記録から観ると、1565年頃から、平定された「伊勢の北畠氏」の多くの「旗下」や「幕下」が、「信長」のこの「策謀の手」で乗っ取られて行った。
有名な伊勢の「神戸氏の乗っ取り事件」や「工藤氏の乗っ取り事件」等が起こり、次々と「武の伊勢勢力」は「信長」に乗っ取られて「内部崩壊」を起こし始めていたのである。
あくまでも、「信長」も、「伊勢勢力 北畠氏 西の公家政権再興」に対しては、初期には「撹乱戦法」で潰す事が「所期戦略」であった筈である。
その「所期戦略」は、全て内部に「内通者」を置き、「武力の攻め落し」では決して無かった。
上記した「入り婿策」で「乗っ取り」が起こって行ったのである。(青木氏もこの策謀に掛かった。)

そして、1569年頃を最後に、この「北畠家没落の仕上げ」として「信雄」に依って「北畠氏の内部撹乱戦法」の「初期戦」から始まった。
「所期の戦略の目的」よりも、「事の次第」が変化して、「氏郷」が指揮する次ぎの「中期戦」の「伊勢三乱」に突入して行ったのである。
つまり、「青木氏の基本戦略」での範囲ではあったが、「伊藤氏や伊賀氏」等の「伊勢藤氏の武の合力」の「始末戦」に突入したのである。

「伊勢長嶋攻め 伊藤氏」(1573年)
「伊勢北畠氏攻め 北畠氏」(1576年)
「伊勢丸山城攻め 青木氏」(1578年)
「伊勢伊賀氏攻め 伊賀氏」(1578年 1579年/9 1581年/9 1581年/10)
「名張清蓮寺攻め 青木氏」(1579年)
「石山本願寺攻め 顕如」(1578年-1579年-1580年一揆等)
「紀州征伐」(秀吉) (1585年)

この時に乗じて、伊勢外に起こっていた「石山本願寺の乱」が長引き、「伊勢-紀州の農民」の信徒に対して、石山側は「檄文」を飛ばした為に、“「城外でのゲリラ戦」”が「伊勢-紀州の周囲」の各地で起こって行った。

(注釈 この「石山問題」が、「青木氏のゲリラ戦」の「紀州域と東大和域と伊勢域」と重なった為に「青木氏の基本戦略」にも影響を与えて仕舞ったのである。)

「石山本願寺の乱」と称される「顕如の反抗」は、「毛利側の謀略」であったが、毛利軍が「高松城の支援」に失敗して、結局は、「顕如」に「檄文」を飛ばさて「城外戦」に持ち込んで「信長」を牽制した「長期戦」に持ち込む作戦でもあった。
これが「伊勢三乱」と重なった為に「三者」に激しさを助長させたのである。
ただ、「伊勢側」と「毛利側」とには“「連携」”の「実態記録」は発見されていない。

「城外の紀州信徒一揆」を支援する「河内シンジケート」と「伊勢シンシジケート)間の連携はあった事は、「青木氏年譜」の一部に其れらしき「堺港の配船記録」がある。
「青木氏の氏是」が有る事から「直接の連携」は無かった筈である。

「青木氏」は、“「不戦の禁」”を「氏是」としていたが、「上記の婿養子の事件」は、周囲でも「乗っ取り事件」が多発していた様に、実は「青木氏」にも仕掛けられた「記録がある。
「青木氏側」では、「信長の政略的謀略」として判断していたが、謀略の罠に陥ったのである。

この“「流れ」”の中で、そもそも、“「悠久の禁」”を破ったのである。
その意味で、最早、紀伊半島全体が「ゲリラ戦の戦場」と化して仕舞ったのである。

「青木氏側」では、「伊賀氏と伊藤氏の反抗・合力」、「毛利側と本願寺側」では「檄文に依る城外戦化」のこの「二つの事」が、「青木氏の基本戦略」と異なった事で、「予想外の戦場化」と成って仕舞った。
これは同時に「信長の基本戦略の狂い」でもあった。
「青木氏」も「信長」も、「伊賀氏と伊藤氏の反抗」は、「伊勢藤氏」を指揮していた「伊勢秀郷流青木氏」が動かない事から、「伊賀氏と伊藤氏の伊勢藤氏」も動かないだろうとする「読み間違い」がそもそも在った。

「青木氏年譜」(下記)から観ると、詳細は不詳ではあるが、「青木氏側」では北畠氏の前後に盛んに「談合の意味合い」の持つ“「会合、衆合、談合、衆議、不穏」等の文字が出て来る。
又、「青木氏」の「船等の廻船」にも活発な記述とも成っている。
「伊勢シンジケートの情報」で、“何らかの形”で盛んに「談合と準備」が進んでいたと観られる記述が何度も観られる。
しかし、結果としては、「何度の談合」にも拘らず、“動いてしまった”と云う事でないかと推測される。

この“動いてしまった“とする原因は、「伊勢藤氏の出自の差」が結果として出て仕舞ったと観られる。
その「出自の差」とは、「伊藤氏」は「秀郷より九代目基景」が始祖、「伊賀氏」は「秀郷より八代目朝光」が始祖であり、何れも分流族である。
「第二の宗家」と呼ばれる「秀郷流青木氏の直系族」と比べれば、「高い家柄の藤原氏」と云えども「家柄差」が格段に低いし、その”家柄から来る「生き様の柵」“は殆ど無い。
要するに、最早、この二氏は「柵の無い武家」であったとも云える。

恐らくは、何度も「談合」を重ねていた様ではあるが、柵の無い「主戦派・交戦派」と、柵を護ろうとする「保守派・知略派」に意見が分かれた。
結果として、この二氏は“突っ込み過ぎた“のである。
新参であった事もあり、「下総の永嶋宗家」の意向も配慮して「長嶋氏」は中間派を採ったと観られる。
依って、”「信長の権威の象徴への挑戦」”の“「流れ」“の中で、「伊勢四衆」に執っては、最早、避けて通れない事態に陥ったのである。
これが「青木氏の基本戦略の狂い」と成って、それが「青木氏存亡にかかわる事態」と成って仕舞ったと云う処である。

これは何も「青木氏側」だけでは無く、「信長側」に執っても、同じく「城外ゲリラ戦と一揆」が「基本戦略に狂い」を生じさせたのである。
「武」で抗する「北畠氏と伊賀氏」を潰す事で「伊勢の始末」は終わる事と成っていた。
取り分け、「謀略に依る各個攻撃」で「北畠氏の排除」で終わる筈であった。
そこに、「本願寺問題」と「伊賀氏の合力」、果てには「伊藤氏の合力」等が計画を狂わしたのである。

「何れの大義の良悪如何」は、別として、両者に執っては、”「流れ」“の中で、”決着を監る“しか無く成っていたのである。

(注釈 「四家」は、「信長の権威への挑戦」に対しては、「北畠氏」とは違った受け取り方をしていたのではないかと観ていて、元々「信長への敵対性」は低かったと考えられる。
それは、「賜姓族」であるとする“「権威の象徴」”では確かにあるにしても、片方では、「商いと云う立場」と云う、“「権威」”とは「真逆の立場」にも在り、それも、厳然と「悠久の歴史」を持つ「併合の立場」にもあったのである。)

況してや、そもそも、「青木氏の権威」は、「信長が嫌う権威」には無かった。

“「権威」を以って「惹けら課す事」はせず、「権威」を以って「利得」を獲得する概念“すら無い「氏族」であった。
当初より「利得の獲得」は、“「商い」と云う「正当な行為」を以って成す概念”を持っている「氏族」である。
正しく、それが“「賜姓族の権威」”そのものであって、それを構築しているのが「四家制度」で有った。

“「惹けら課す事」”に付いても、その“「惹ける」”と云う本質は、“「主張する」”の拡大語である。
だとすると、「商い」は“「品」を以って主張する行為“であり、”「自己」を以って主張する行為”の「惹けら課す事」に一部では確かに通ずる。

ただ、「氏家制度の社会」、或は、「信長の概念」の中では、”「自己」(権威)を以って主張する行為”の「惹けら課す事」には、強い「抵抗感、強いては罪悪感」があったのであろう。
「信長」のみならず、「二つの絆青木氏」、「二つの血縁青木氏」、「青木氏の職能部」、「伊勢シンジケート」、「御師 氏上」、「商い」の「四家制度」を敷く「青木氏」も全く「同じ概念」の中にあった。
「信長」は、特に、この行為が“社会発展に悪弊を及ぼす“、即ち、その「悪弊」とは”「閉鎖性」を誘発する“と考えていたのであった。

ただ、同時に、「閉鎖性の排除」の姿勢は、”「楽市楽座」“を容認し、推奨する「積極的立場」も採っていた事に通じていて、この姿勢は、「二足の草鞋策」の「青木氏の姿勢、概念」と一致しているのである。

「事の次第」は、「品」と「自己」にあり、間接的に「品」、直接的に「自己」の「主張の差」による事に成り得る。
「青木氏」としては、「商品」を以って間接的に「惹け行為」を「正当な行為の概念」として「悠久の時」の中で育まれていたのである。

「賜姓の権威」については、“「賜姓五役」の実行を熟す事”にあって、「権威」から「利得」を獲得する事には無かった。
それは、“「四家制度」”がそのものが、「惹けら課す事」と「利得の獲得する事」を阻止する機能(合議制度)を果たしていたのである。
「信長」も「楽市楽座」を推奨することは、「青木氏の商い」の「正当な行為の概念」に通ずる。

そもそも、この事から「信長」が標榜する「布武の共和政治」とは、むしろ、「商いの青木氏」とは符号一致する目標でもあったからで、特段に「氏存続に対しての信長への敵対性」は全く無かったと考えられる。
その意味でも、“氏を前面に押し出す敵対”は採らず、故に、“「流れ」“の範囲で有るが故に、下記に示す敢えて「青木氏」の観えない ”「ゲリラ戦」“を敷いたと観られる。

「信長の理解」
では、「招かざる北畠氏」(1569年)が亡びた後に、“「信長」には、何故に、この「青木氏の姿勢」が理解されていなかったのか“と云う率直な疑問が湧く。
筆者の答えは、残念ながら“理解されていなかった“である。

何故ならば、その答えは簡単である。
「商いの青木氏」と「賜姓族の青木氏」とは、悠久の中で結び付けていなかった事が原因であった。

敢えて、「青木氏」自らが,奈良期からの「悠久の時間」の間を、「商い」と「賜姓」は「別物」として、「公然の事実」とし乍らも演じて来ていた事にあった。
それは、朝廷から、”「紙屋院」”として「和紙の殖産」とその「普及の役」を命じられた事に在った。
従って、「商いと云う行為」が分離してのものでは無く、「賜姓五役」に同化して居た事に在った。

「商いと云う概念」の感覚が、「分離した感覚」に成ったのは江戸期に成ってからで、それまでは、「特定階級が行う職業」(武家)の概念が強かった。
取り分け、「青木氏」は、「賜姓五役の紙屋院」であった事から、全く「別感覚」は無かったと考えられる。
「二足の草鞋策」の感覚は、室町期末期までは「氏自体」としては、”薄かった”と考えられる。

幸か不幸か、「信長」は、その「二足草鞋策」を率先した氏の「平家末裔の出自」であるにも関わらず、残念ながら「理解外」であった事に由来する。
要するに、「初期の段階」では、「楽市楽座令」を敷くまでは「無知」で有った事に成る。

(注釈 信長自身は「平家出自の末裔」である事は承知していたと観られる。
それは、同じ「京平家の血筋」を引く家臣の「近江秀郷一門の末裔蒲生氏郷」を、未だ幼い信長の次女を婚約して於いて、嫁がせる等の「特段の扱い」をしたのは、この「京平家の同じ家」の流れの汲んでいた事にあった。)

それは、ただ「天正の時代」にしても、「織田氏分家の信長」には、詳細な“「伝統の継承」が途切れていた事”に在った。
“分家の所以”で有ったのかも知れない。
そもそも、「織田氏」の「出自氏」とされる先祖の「京平家の清盛」は、当に「三権の権威」と「宋貿易」の「二つの利得」を持ち、且つ、その全ての“「権威」”で以って周囲を威圧させた人物でもある。

「信長」自らの「出自の先祖」は、“「惹けら課す事」”の“自らが排除しようとしている考え方”を持った「最大の氏族」であった。
この事すらも放念して居た事に成る。

この時、同じく「賜姓族」として「青木氏」は、隣の伊勢の守護であって、半国割譲した「伊勢北部伊賀」(平氏実家)とは「隣国の付き合い」をしていた間柄でもあった。
「青木氏の商い」の「伊賀和紙の殖産」でも深く繋がっていた。
未だ室町期でも続いていたこの「歴史」さえも忘却していた事に成る。
依って、「以仁王の乱」の時は、「青木氏の跡目」の「京綱」の兄弟の「二名の助命嘆願」にも応じてくれた「氏族」でもある。
その“「家の伝統」“は、「清盛の末孫娘」の「高野新笠」は、「青木氏」の始祖の「施基皇子」の「第三男の白壁王」(光仁天皇)の妻でもあり、縁深き間柄にあった。
そして、「青木氏」と「二足の草鞋策」を採用していた所も同じであり、共に「氏が持つ概念」には極めて「類似性」を持った「縁深き氏族」でもあった。
しかし、「青木氏」には、この「伝統逸話」は「悠久の時」を経ても伝わっているにも関わらず、「織田氏」、取り分け「信長」には「伝統逸話」は伝承されていない知識なのであった。
(分家とはこの様なものであるのかと思い知らされる。)

もしあったとすれば、この様にどの「検証の面」から考えても、「北畠氏壊滅」の為に、「伊勢衆」の「青木氏を攻撃の対象」(内部撹乱)にする根拠はなかったであろう。
結局は、「青木氏」も「信長」も、「北畠氏や伊賀氏や伊藤氏の掃討」に連れては、この“「流れ」”に沿う以外には無かった事に成る。
ここに筆者の“「流れ説」”を採る所以でもある。

しかし、ここでただ一人、「織田側」であった「秀吉」は、伊勢東部に存在した「今宮シンジケート」の一員でもあった「土豪の蜂須賀小六」から、この事を聞いていて承知していたのである。

(注釈 「秀吉」は、若い頃に一時、「山族土豪の蜂須賀小六」の配下で働いた経歴を持つ。
「信長」にも後に「鉄砲入手」と、その「技能傭兵集団の雑賀族」にコンタクトするには、「今宮シンジケートの存在」を教え、この「今宮シンジケート」を通じなければ「鉄砲は入手」は出来ない専売品である事を教えた。
この記録が遺されている。)

この様に、「秀吉」が「信長」に「商い」には「今宮シンジケートの存在」を説明して居る記録がある。
その後に、認知して「楽市楽座令」を発したのであり、初期は、”知らなかった事”に成る。
とすれば、説明して居れば、”「伊勢シンジケートの存在」”をも説明していたとも充分に考えられる。
「秀吉」がもう少しこの事を信長に早く知らしめていれば「伊賀攻め」は変わっていたかも知れない。


「秀吉の青木氏出現」
実は、その証拠と観られる外部記録が在る。
1581年の末当初に「秀吉の紹介」で、「一名の青木氏」なる者が、「信長]に面会している。
1583年に秀吉に合力し、秀吉より1598年に厚遇 この「青木氏」が在る。
これが、この時の「伊勢での経緯」ではないかと推測できる。
これは「青木氏の経緯」(商記録の年譜)とほぼ一致する。

但し、「伊勢青木氏」が、「自らの意志」で、「自らが面談した」とする事では無く、記録も無い。(矛盾1)

これを基に「青木氏側」から検証すると、この”「伊勢攻め」全般に”於いては、“「秀吉執り成し」に依る面談“に依って「本能寺の直前」に解決に向かっていた事に成る。
これが「秀吉-氏郷」の「伊勢の本領安堵」に繋がったのである。
確かにこの時に、「紀州」と「伊賀」等の「旧領地」を受けたが、その後、「徳川氏」(1605年頃)に「青木氏の賜姓五役」(神明社等)などと共に「返納の経緯」を辿った。
この時の談合で、その代わりに、”「家臣扱い」”として「紀州藩初代頼宣」より「扶持米12人分」(1万石弱程度)が付加された事の経緯に成っている。

この”「秀吉執り成し」”とは、「外部記録」では成っているが、これは“「秀吉の搾取偏纂の行為」“であり、「青木氏」には記録はない(矛盾2)。

但し、「青木氏の記録」(下記)では、「伊賀の戦い」後に、「蒲生氏郷」との「数度の談合」によって、”「信長の伊賀査察」“の時に、「蒲生氏郷」と共に面談があった。
ところが、「佐々木氏の別の資料」では、外部記録では「一名」と成ってはいるが、この「二名の青木氏」に成っている(矛盾3)

夫々「越前北庄八万石」(1)と「丸岡四万石」(3)を受けたと成っている。
内一人(1)は「秀吉の家臣」と成るも、これも「1年間の俸禄」(1598年から1600年)と成っている。
この「越前の俸禄」は、1600年に徳川氏(徳川除封禄 巻の一)にて「除封]を受けている。(矛盾4)

この者の身内が家康の側室で後に本多氏の正室に成るとある。(実際は別の丹治氏系青木氏 )(矛盾5)

しかし、「もう一つの青木氏」(3)に付いては、外部記録では触れていない(矛盾6)。


「青木氏の記録」では、この「蒲生氏郷」と共に面談したと成っているのは、この二名(2)(3)である。
これは「佐々木氏記録」(2)(3)と一致する。
外部記録(豊臣家の記録)では、この内の「秀吉の家臣」で「縁者」と記録されている「紀伊守」で「越前北庄の人物の記録」(1)が「青木氏」には全く無い(矛盾7)。

確かに、「没年数」が類似する人物(2)は「青木氏福家」に居た。
これは「豊臣氏のある思惑」を込めた「形式上の内容」ではないかと観られる。
更に、実は、他にも極めてこの「人物(1)」の詐称には矛盾が多い。

何故ならば、「人物(1)」の与えられた「官職」は、確かに「紀伊守」であって、この地は、実際は「伊勢の乱」での「北畠氏の領地」で在る。
つまり、「北畠氏の南紀州」であった。

ここは、現実に明治期まで「青木氏」が「大地主」で有って、後に「紀州徳川氏」からも認知されていた。
確かに、「秀吉」に依って「伊勢の地」を「本領安堵」されたが、この「二つの地」は平安期までは「青木氏の旧領地」でもあり、「青木氏の家人」が「和紙殖産」の為に奈良期から元々代々住み続けていた土地柄でもあった。

この「南伊勢 南紀州」の地は、「青木氏」では、“「遠祖地」”と呼ばれていた土地でもあって、歴史上は、奈良期と平安期と鎌倉期の三期に伊勢を三分割したもので、平安期中期から朝廷から「半国割譲された土地」でもあった。
(日本書紀にも明記)
この「旧領地の遠祖地」も確かに「秀吉」に依って「本領安堵」されたのである。

この「人物(1)」には、この「紀伊守の官職」を与えて、「北庄藩」を与えたとする「豊臣家の記録」にある。

しかし、これには疑問がある。
その与えた時期は、1598年とあるが、この地が「豊臣家の領地」と成った「賤ケ岳の戦い」は1583年である。
与えたとしても少なくとも、1584年には与えている筈で、それも、15年後の豊臣政権の晩年5年前の「混乱時期」でもある。(矛盾8)。

更には、その2年後の1600年には、この「俸禄知行」は、たったまる1年で「徳川氏」に除封されて終わっている。
つまりは、其れも「1年限りの俸禄」であり現実にはあり得ない。(矛盾9)

仮に「人物(2)」が受けたとしても、この「秀吉の家臣」と成ったとされる「青木氏」(佐々木氏記録の1と2)には、「八万石」や「四万石」ものそれを維持する「武力」と「家臣」を元より持ち合わせていない。
無理なことである事ははっきり判る。(矛盾10)

況してや、「豊臣家の記録」には、「何処の青木氏」であるかも記されていない。(矛盾11)

この時期の「青木氏の出自」は明確である。

青木氏は、「悠久の歴史」を持っている「氏族」で、「姓族」の様に急に勃興して来た「姓」ではない。
現に、「伊勢」で戦っていたのである。
“何処の青木氏か判らない“と云う事は絶対に無い。

そこで、この「室町期の時期」では、「秀吉」と関係を持てたとする「青木氏」ともなれば、「伊勢の二氏」の 「二つの青木氏」と「信濃、甲斐、讃岐」の「三氏の青木氏」に限られる。

そこで、上記の「紀伊と伊賀」ともなれば、「紀伊」と「伊賀」に土地を持ち、本領安堵された「伊勢の二氏 青木氏」以外には無い事に成る。

「近江と美濃」は滅亡していて、「近江」は傍系が摂津で農業、美濃は、完全滅亡の体の状況にあったし、「他の秀郷流青木氏の116氏」は、伊勢を除いてはその対象とは成らない。
つまり、「豊臣家」が遺したとされるその地理的範囲を超えていてその対象にはならない。

「丹治氏系青木氏」が確かにあり、「信濃国衆」と成るが、関ヶ原で「徳川氏」に味方して摂津に1万石が与えられている。

「紀伊守」とする「秀吉の家臣」とされる「人物(1)」は、西軍に味方して除封を受けているので、摂津藩と成った「丹治氏系」では無い。
この様にこの「人物(1)」の「青木氏の出自」が明確に成らない。(矛盾12)

何故ならば、秀吉は、「自らの家筋」をよく見せる為に次ぎの様な搾取をしている。

この「紀伊守とする人物(1)」は、「豊臣家の記録」では「養父の竹阿弥」の「遠縁の青木氏」として記録されている。
そして、「従兄弟」であるとしていて”「偽系譜」”を作り上げている事に成る。

(実はこの事は、全くの無根拠ではないのである。下記)

「青木氏」と云う「賜姓族」の“「出自の権威」”を利用したのであろう。

この事を理由に、「豊臣家」が作り出した記録に依れば、次ぎの様に成る。
1578年頃に「秀吉の家臣」と成ったとしている。
1583年頃に勲功を挙げたとしている。
1587年頃に突然に引き揚げて、突然に「従五位上左衛門佐」とした事に成っている。

以上とする3記録が豊臣家に遺されている。

この事もおかしい。この3つに付いて検証する。

そもそも、「出自」も判らない人物に、「朝廷の格式式目」の定めでは、この「官位」は絶対に受けられる「官位」では無い。(矛盾13)

出自格式が良くても、最高でも、「従五位下」が与えられる最高官位であり,官職は「右衛門下尉」が限界と成る。(矛盾14)

「国家的勲功」が在り、その「勲功」を以って次第に「格式」が高められる様に厳しく定められいる。
その「身分」に依って「限界の格式」が定められている。
その「勲功」も「五段階」に定められていて、一足飛びに得られるものでは無い。(矛盾15)

(参考 「青木氏の守護神と神明社-4」と「古書 類聚三代格等参照」)

(注釈 因みに、「徳川家康」は、幕府を開くに必要とした官位官職が足りなく、天皇家に食事も出来ない位に貧させ圧力を掛けてやっと無理やりに「公家身分」より低い「従五位下」と、「武家の棟梁」(「武門之棟梁」)の呼称も与えずに、過去にあった「源氏長者」と云う身分を引用し作り出して「征夷大将軍」に成り得る格式がやっと与えられた経緯があった位である。)

それが、「氏素性」「出自」のはっきりしない「行きずり者」には、先ず「官位官職」はあり得ない。(矛盾16)

しかし、現実に記録されている事から、少なくとも、“「永代の官位官職を持つ青木氏」”でなくては無理な事に成るのである。
だとすると、「伊勢の二つの青木氏」と「信濃青木氏」の三氏に限られる。
「紀州」と「伊賀」と云う事から観ると、明らかに「伊勢の二つの青木氏」と成る。

しかし、「伊勢の二つの青木氏」か「信濃青木氏」には、永代の「浄大一位 正二位左衛門上佐」と「従四位上左衛門上佐」の家柄であり、既に「永代の官位」を持っている。
大きなあり得ない[矛盾」である。

この官位は、そもそも、本来”「宗家筋」”に与えられるもので、「分家筋」の他の地域の青木氏には与えられるものでは無い。
全く突然に受けられる立場には元来ない。
況して、「伊勢の乱」の後ともなれば、“「青木氏」”としては、「伊勢の二つの青木氏」以外には、「豊臣家の記録」を確定するに類する氏は無い。
然し、この事を完全に証明する記録は「二つの青木氏」側にはない。(矛盾17)

この事から、「豊臣家の家筋」を挙げる為に、それに見合う様に、画策した事に成る。
第一には、「形式上の官位官職」を作り上げた事
第二には、「形式上の藩主」とした事
第三には、「形式上の俸禄」として作り上げた事
第四には、「身内に家臣一人を仕立てた事

以上の矛盾だらけの「4つの事」で、「豊臣家」の中で「搾取偏纂の記録」としたものと観られる。

この「4つの事」で先ずは“権威づけた”と観られる。

そして、この「4つの事」に見合う類似する青木氏の「人物(2)」を、“家臣一人に仕立て上げた”事に成る。


「青木氏側の記録」との差は、”「形式上」”に作り上げられた「藩主」と「俸禄」と「竹阿弥」と「官位」と「官職」だけで偽飾したのである。
後は類似し、時期も伊勢の1565年頃から1600年までの事としての5年の範囲にあるに収めたのである。

“「繋ぎ」”による“「竹阿弥」”を除けば、四つ共に「青木氏の記録」に対する“「誇張」の範囲”で記録されている事に成る。
「藩主」は「伊勢衆」、「俸禄」は「大地主」、「官位」は「永代官位」、「官職」は「紀州伊賀の旧領地」から誇張したものである事に成る。


これで、矛盾は解ける。

さて、そこで、“「繋ぎ」の「竹阿弥」”の“「能楽師」”に付いては、ある意味を持っている。
上記した様に、「能楽」「猿楽」等の「楽師」は、古来より「公家」や「賜姓族」の「ステイタス」の趣向であった事から、”「直接の血筋」”とは云わずとも、“「遠縁」”として印象付けたのである。

つまり、“遠からずとも縁筋”に当たる事があったろうとしたのである。(矛盾18)

現実に、“遠からずとも縁筋”に当たると搾取した記録が、「二つの青木氏側」には確かに遺されている。

それは、「秀郷一門の末裔」で、近江の「蒲生左衛門佐大夫高郷」の末男の「青木玄審允梵純」(1548年頃で、母は伊勢青木氏)が居た。
この末裔で、「青木忠左衛門忠英」(松平氏扶助)なる者は、元は「猿楽」の「春藤源七郎」の弟子で、その「技」を学び、それを以って、一派を率いたと記録されている。

(「春藤氏」は「公家衆御馳走能組番」で「公家等の階層」の者に「能楽」を教える「楽師役職番」であった。)

この伝承の一派は、「伊勢秀郷流青木氏の末裔」が代々引き継いで、中には江戸時代の「四代将軍綱吉」に召し出され、「御廊下番」(百五十表)として正式に「徳川幕府の楽師指導方」と成った家柄でもある。

その意味で、「秀吉の養父」の“「楽師の竹阿弥」”が、「青木氏と遠縁」とする根拠は無いではない。
この経緯を利用したのである。

要するに、民衆を信用させる為に必要な信用させられる”「繋ぎ」”を作り上げたのである。


(注釈 伊勢の「青木長兵衛の四家」も「能楽」を古来より「賜姓族」として嗜む伝統があった。)

つまり、二人目の「伊勢秀郷流の青木伊賀守忠元」とする「青木玄審允梵純」の子の人物が、「秀吉家臣説」に利用された根拠は、ここにあるのである。


実は、「伊勢秀郷流青木氏」の「青木忠元」は、「蒲生左衛門佐大夫高郷」の末男の「青木玄審允梵純」(伊勢)の子である。
更に、その「二代後の末裔」で「青木忠左衛門忠英」は、代々青木氏の「楽師の指導方とその才」を以って、遂には「楽師の師匠」として「徳川氏の正式な楽師指導方」に成った経緯を持っていたのである。
この事を利用して、「秀吉」は、“養父の「竹阿弥」“と結び付けたのである。

これで「二人(紀伊守と伊賀守)」を形式上は「家臣」に仕立て、「紀伊守」と「伊賀守」を結び付ける事で「秀吉」が「青木氏との関わり」を搾取偏纂したのである。

この「身内の者」か「家来」か「青木氏」に仕立て上げられた者の一族が、伊予と讃岐と土佐の西国境に「ある村」(匿名)を与えて住まわせていた事が判って居る。
この者の一族は、その後の「徳川氏の除封」作業で、この「青木の土地」が没収されて、「青木の地名」と共にその後、一族は行方は判ら無く成っている。

恐らくは、「北の庄」は豊臣家の所領でダミーとして扱い、この「青木氏」を名乗らせた者には、実際は四国の伊予土佐の国境の西山間部に小さい村を与えて一族を住まわせていた事に成る。

結局は、「秀吉」は、伊勢の「青木氏の本領安堵」の時の状況に合わせて、「誇張」はするも、「類似性」を持っている事から、これをチャンスに乗じて間違いなく「豊臣家の権威付け」をしたと観られる。

以上の様に、“誇張に依る「豊臣家の記録」”である事から、「徳川除封禄」では、正式に関ヶ原の1600年の「除封」と云う形で、「徳川氏の力」で、「1年後」に明確にこの搾取の記録を抹消しているのだ。

そこで、この二人に類するものを「青木氏系譜」から追ってみると、“「紀伊守」”とする者の幾つかの俗名に関する対象者はない。
「俗名」は異なるが、「没年数と月と死因」が大体一致する者が、四家の中に現実に一人存在する。

上記 「青木氏の記録」の模擬にされた人物は、「信秀」、或は「信定」である。

記録の「中心人物」(1)の為に、“「後付」”で出自の無いこの「人物(1)」を正当化させる為に、その良く似た出自を、間違えての搾取偏纂で、後付で“「一矩」“に変えたと観られる。

ところが、ここで、又、「決定的な間違いの矛盾」を起こしたのである。

そもそも、この“「一矩」の名”は、「徳川氏」に味方して「家臣」に成り、その勲功で同時期に「摂津麻田藩」を与えられた「丹治氏系青木氏」の通名である。
本人の有形無形は別として、”豊臣に味方した”として、実際に徳川氏より除封された人物である事から、出自を明確にし良く見せる為に行った「後付」である事が明白である。

名前と出自を偽作する為に、”「豊臣家に味方」”と”「徳川氏に味方」”のとんでも無い間違いを起こしたのである。

注釈 「秀吉」が付けた「元々の俗名」は、別資料から「青木秀以(ひでもち)」である。

「伊勢青木氏」の「信定人物(2)」の最初の俗名「信秀」の「秀」を使って「類似の秀以」としたのではないかと観られる。
「秀吉」の“「秀」“を使ったとする説もある。

しかし、兎も角も、”「秀」“を使われた事から、伊勢の「青木氏側」では、”「秀吉の青木氏」“を否定する形を採る為にも、”「信秀」“から”「信定」“と改めたと観られる。

と云う事は、「秀吉の記録」時には、当初は、この「人物の俗名」が、はっきりとした記載には無かった事にも成る。
10もある名なので、何れが本当か判らなかった事に成る。

(注釈 本当は判っていたが、「一矩」とした通説化を謀った人物が、この「秀以の情報」を持っていなかった。)

依って、「一矩」にして、信憑性を高める為に、「麻田藩の丹治氏系青木氏」の「通名」を「後付」で付けた事に成る。(矛盾19)
 
(注釈 実は、この人物には「後付」と観られ俗名が何と10もある。詳細下記。これこそが搾取偏纂が行われた証拠である。)

そもそも、「嵯峨期詔勅」に依って、一般は「青木氏」を名乗る事は禁じられていた。
然し、この“「秀吉の青木氏」”の名は、出自が明確でなかった事から、この名を使って名乗る事は可能であった。
この事は「江戸寛政期の歴史書」にも記載されている。
各地で家柄身分をよく見せる為に江戸期と明治期に名乗った「第三の青木氏」と云われるものである。

「各地の郷土史」は、これを記載する事で「土地の知名度」と「歴史性」を上げる事と成る。
従って、この“青木氏の子孫だ”とする形で「俗名」が増えたと観られる。

更に、「秀郷流伊勢青木氏」の中に、「伊賀守」とする者の「俗名の類似」と「没年数に近い者」が矢張り一人存在する。

上記の「青木忠元」であるが、上記の“「竹阿弥」”を通じて「青木氏」との「繋ぎの役目」の為に其の侭に使用したと観られる。

この事から読み取れる事は、「伊勢青木氏の本領安堵の条件」に、“「豊臣家のこの搾取偏纂」を容認する事“が付加されていた事を物語る。

つまり、別に本領とする地外に、「南伊勢から南紀州の地」と「伊賀の地」の「旧領の本領安堵」した事を根拠に、「豊臣家」の為に「本領安堵の付加した土地」を「紀伊守」と「伊賀守」として、先ず、誇張して「権威づけた」のである。
ただ、この二名の内の「紀伊守(1)とする「伊勢青木氏の末裔子孫」が、奈良期からの“「福井の青木氏の逃避地」に移動した”とする記録が、後に付加されてある。

現実に、この「青木氏の子孫」が福井に現存し、「商い」を営んだとする記録が確かに青木氏側にもあり、末裔も現存する。

これには、「除封」にて、”福井に逃げ込んだとする説“と、”「氏是」を無視したと云う批判説”とが確かにある。
しかし、更に研究調査を進めた結果、実際には、上記した“「豊臣の記録の範囲」”であり、「青木氏側」では、「豊臣家の知行」を実際に受けていないし、「除封」の5年後にこの本人(信定)は病死にて紀州新宮で没している。(矛盾20)

上記した「室町期の紙文化」で「巨万の富」を得ていて、250万石以上とも云える「商財」を築き、且つ、「伊勢、紀州の大地主」(家人が奈良期から定住)にあって、「豊臣家の記録」が“「誘い」“であったとしても、”「誘い」“に乗る者は「青木氏」には居なかった筈である。
むしろ、この“「誘い」”が「青木氏」に「利得」と働くは、論外であって、「賜姓族」「御師様・氏上様」として「悠久の民からの信頼」を失い、「青木氏の悠久の氏是」がある中で、何れの事からも「全くの不利益」と成ろう。
そんな「愚者」は、そもそも“「四家制度」”の中に存在し得ない。
それが「四家制度の所以」の一つでもある。(矛盾21)

「四家福家の批判説」によると、この者が「福井移動説」の元となった。この元福家が福井に移動して商い(酒造業)をしたと観られる。
この者が「後付」で「出自の明確化」の為に利用されたのである。


故に、「出自」が出せない者で、除封された者の娘を「家康の側室」(蓮華院)にし、後に「本多氏の正妻」にするかの疑問が遺る。(矛盾22)

この様に、矛盾が22にも上り、可成りにして「通説化した説」には無理な無茶が目立つ。

「秀吉」は始めからの「家柄や権威の獲得」の為に、「伊勢青木氏」に関わるかの様な人物を家臣の中に作り出し、それに「伊勢の本領安堵」の時の処理に乗じて、似せて誇張させて「記録」で演じた事に成る。
その「搾取の人物の娘」を、秀吉から家康は政略的に側室として、後に家臣の本多氏に下げ渡したとする説にした事に成るだろう。
しかし、この娘は別ルートの「麻田藩の丹治氏系青木氏の娘」である。人質である。

故に、それに合わせる為に、俗名を「秀以」から丹治氏系の通名の「一矩」に変えたと観られる。(矛盾23)

そもそも、この「秀吉の家臣説」の「類似する人物」は、「二つの伊勢青木氏」には存在はするが、“この人物に似せた青木氏”を作り出した事に成る。
ただ、それが、“搾取偏纂した事に依る「無茶な矛盾」が、余りにも出てしまった”と云う事である。

「秀吉」自信が、初め、“この事に「青木氏」が載ると観ていた”と考える方がおかしく、“「青木氏の権威」“を主張するのであれば、”「青木氏の出自」“が最も大事であり、記録に”不明である事”にした事は、元々、秀吉は、“この事に青木氏は応じる”と観ていなかった事に成る。

「二つの伊勢青木氏」は、「四家の人物」を、“「家臣」とする事“には、「青木氏氏是」で応じなかった事に成る。
従って、「搾取偏纂の結末」として、説明の就かない「大矛盾の結果」が起こった。

故に、「徳川氏」もこの事を事前に充分に承知していて、速やかに1年後に「除封処置」を講じたのである。
そして、“如何にも血縁づけたかの様に見せかけた「娘」”も、その手には載らないとして速やかに本多氏に“下げ渡した”のである。

(注釈 「秀吉信望の歴史家」は、「福井逃避説」(下記 矛盾24)と同じく、「通説化」を是認する様に、別の「娘の偽工作話」を作り上げている。)

ただ、“世に晒す事無かれ、何れ一利無し“の「氏是」から、”前代未聞の事“であった為に、”豊臣家に乗じられた“とする”一族からの批判“が、「青木氏年譜」(商譜)でも、確かに「騒ぎ」が起こっている事でも判るであろう。
「伊勢青木氏」に執っては、この事態は止むを得ない仕儀ではあるが、この始末をした「福家の末裔」(信定)にしてみれば、「一族の非難」から、“福井に追いやられた”として受け取っている可能性は充分にある事も考えられる。
この“「隙」“に乗じられたものである。

これは、現実には、資料より「四家制度」にて、病死にて、制度上、上記した「四家の入れ替わり」が起こった。
この「利用された青木氏の人物 (信定」」は、「福家の人物」であったが、この「福家の家族」が、「福井への営業所に人事異動した事」が起こったのであった。
この人事に関する「添書書きの記録」は特段無いが、一族から“秀吉に乗じられた事への非難”から、遠ざけて「非難」から避けさせる為に配慮した事であったのであろう。(後付説の矛盾24)

この「歴史家の後付」と観られるこの「福井などへの逃避説」は、一部の歴史家の「豊臣家記録」を恣意的に肯定する為に乗じられた事に依る。
且つ、通説化する為に仕掛けられた搾取偏纂のものであると観られる。

(秀吉母の出自も信じられな程の脚色搾取偏纂が目立つ事例と同じ偏纂。)(外説 矛盾25)
これを「逃避説」にすり替える事で、より「家臣説」に深意性を仕立てて正当化しょうとした「後付の論調」と観られる。

(注釈 この説を読んだ「福井の青木氏末裔」、つまりは、「四家の福家の伊勢青木氏の末裔」が、この「後付説」を読んで「口伝」していたと観られる。
「福井定住」のこの末裔子孫は、「避難説の口伝」に成っている事を承知している。)

そもそも、この「福井逃避説」を「後付」するには、この“「福井」”と云う地が、“「青木氏の奈良期からの逃避場所」”であった事を歴史的に知っている者でなければ、作り出せない「後付説」である。(歴史家)

この関ヶ原後の「逃避場所」を、“「福井」”と云う場所に持ち込めば、「秀吉家臣説の人物(1)」をより「真実化」させられる。
“如何にも「伊勢青木氏」であるかの様に見せかけられる”として、「搾取偏纂」し「通説化」を謀ろうとしたと観られる。
「後付説」を脚色した人物は、ある程度の知識の歴史家であった事が云える。

ところが、「青木氏側の記録」では、上記の様に明確に成っている。
この「豊臣家」が記録する人物は、「伊勢青木氏等」に存在しない。
且つ、「避難」では無く、「後付」で「乗じられた人物」の家族に付いては、“「四家人事の移動」”と成っている。

豊臣政権崩壊後(下記 「青木氏年譜」 1619年)に、「紀州徳川氏の頼宣」と「家康」は、「青木氏の役務返納」(全国神明社や密教寺等の私財の返納事 縁籍問題等)に付いて、初期には家康と、後期には“「伊勢松阪での頼宣との交渉」“を行った事が記録されている。
この時に合わせて、「伊勢伊賀の本領の認知(大地主と村主)」と合わせて、上記の「除封分に相当する知行分」として、「特別扶持米12人分」と「南紀州の遠祖地」(計1万石弱相当程度)を付加した記録が遺されている。

(注釈 平安時の「旧領や遠祖地」も含めて「本領安堵」された「青木氏」は、その結果を以って次ぎに「伊勢青木氏」は、「伊勢シンジケート」を構成する「元伊勢衆」の「旧領地の地権」も認めて安堵して「平時の状態」に戻したとある。
もう一人「人物(3)」の「伊勢秀郷流青木氏」(伊賀守 :忠元)の方は、その後、「御家人」と成って、“「立葵紋の青木氏」”として紀州藩に代々仕えた。
この事に付いての詳細は、「青木氏の分布と子孫力の-5、16」等を参照の事。)

もし、豊臣家が記録する“「秀吉の青木氏二氏」“であるとするならば、「除封」も受けている事から、「紀州徳川氏の家臣」には成り得ない。
そして、況して、“「立葵紋の青木氏」”は到底にあり得ない事に成る。

通説化には一般には騙せても、歴史の有知識のある者には隠しても隠せない余りにも無理で多くの「論理矛盾」を起こしている。

(注釈 下記に論じるが、「紀州藩の家臣」は、「伊勢秀郷流青木氏」等を始めとして「伊勢藤氏」と呼ばれる「秀郷一門」をベースにして“「藤氏家臣団」”を「頼宣」は構築した。
そして、この事が「将軍家の嫉妬」に合い「在らぬ謀反説」で大変な事に成った有名な事件に成った位の事である。)

この事でも、「二名の青木氏」(紀州守と伊賀守)が記載されているにも関わらず、「豊臣家の記録」では、「紀伊守の人物」(1 :一矩)だけと成っている。
上記の様な「徳川氏の紀州藩の処置」から観ても、「秀吉家臣説」であればあり得ない事である。

現実には、二名で在り、[豊臣家の記録]に矛盾する。 
もう一人(3)の家臣説から観ても矛盾である。(矛盾25)

明らかに、“「伊勢の本領安堵」の時に、二名が乗じられた事である。
その経緯は次ぎの様に成るだろう。

「搾取偏纂の経緯」 
「秀吉」は、「二名」を家臣化して置いて、内一名(1)を縁籍化した形で家臣の中にその人物を作り上げた。
この「人物の出自」を「伊勢青木氏」から得られず、「出自不明の架空の青木氏」を、それに見合う「権威の誇張」を付帯して作り上げた上で記録化した。
ここまでは「秀吉の功罪」である。(矛盾23まで)

そこで、この「豊臣方の青木氏の人物(1)の娘」とする者を「徳川氏の側室」にした。
この側室は「梅殿」と呼ばれ、「蓮華院」と称したが、この「娘の出自」は、「丹治氏系青木氏」が、人質として差し出した「麻田藩丹治氏系青木氏の娘」である記録がある。
全く違う氏の「徳川方の青木氏」である。

ここからが、通説化為の秀吉信望の歴史家の「後付の説」の矛盾に成る。

ここで、「豊臣家の記録」に“「説明の就かない後付大矛盾」”が生まれたのである。

(A)この人物は「豊臣家の家臣」で、「越前北庄八万石大名」で、「徳川氏から除封」とされている。
(B)この「丹治氏系青木氏」は、逆に、「徳川氏の家臣」で「摂津麻田藩一万石大名」で「徳川氏から俸禄」と成っている。

明らかに史実が混同している。この「矛盾」は、最早、秀吉には問題はない。
明らかに「後付の通説化」を謀った時の「歴史家の矛盾」であり、「福井逃避説」と共に、「故意的な矛盾」と観られる。

この「人物の疑義」には、他に、上記した様に、“「俗名」”が沢山使われている事である。(矛盾26)

本名 -「秀以」、

麻田ルーツの偽名類  ー (一矩、一興、重治、重正)、
通名ルーツの偽名類  ー (勘兵衛、源右衛門)、
俗称ルーツの偽名類  ー (平輔、磨太)、

以上等がある。

前者の「秀以」がこの人物の本当の「俗名」で秀吉の搾取偏纂の結果である人名である。

先ず、次ぎの様に成る。
麻田ルーツの二つ目から五つ目までの四つは、「丹治氏系青木氏」(麻田藩)が使っている「通名」の「混同名」
その後の通名ルーツの二つは、「搾取名」と呼ばれるものである。
その後俗称ルーツの二つは、「騙名」(かたりな)と呼ばれるものである。

以上に分けられるのである。

後ろ四つは、「家柄」をよく見せようとして、非常に良く使われた「江戸初期」か「明治初期」の「騙りの名」の部類で論外である。

この二つの時期には、公然と「搾取偏纂」が行われた。

むしろ、幕府は黙認するどころか、武士と成った者は「権威」を持たない「立身出世の姓氏」である事から、「武士の権威付け」の為に、「知行俸禄」を定める「黒印状」を出す事を前提として、この「偏纂」を半強制した経緯があった。

従って、他にもこの「人物」に群がる様に「騙名」や「偽系譜等」が使われている。

この人物として見せかけて使ったのであるが、少なくとも「自らの出自」を「丹治系青木氏」と、この「秀吉の青木氏」に搾取した事は明らかである。

(注釈 江戸期の寛政、寛永期に書かれた「二つの資料」に記載されている「第三青木氏」と呼ばれる「青木氏」は、この「秀吉の青木氏」と、「麻田藩の藩主」と成った「丹治氏系青木氏」の「二つの出自」が多い。
中に酷いのが有って、この二つに、更に「秀郷流青木氏」と「藤原氏」と「皇族賜姓族青木氏」(二家分)に「江戸期の官位官職」を付けてのやりたい放題の「4つを組み合わせた青木氏」が「地方史書」(下記)に観られる。
その「地方史書」も流石、気が引けたか「注意の特記」をしているものもある。
これらの多くは、室町期以降には、取り分け江戸初期には「神社や寺社の秘密の副業」であった。)

「歴史観のある人」でも、判別が就かないほどに極めて多く酷似するのが、この「騙名」で、これも何れかに矛盾が出る。
この様に「秀吉の青木氏」には「搾取偏纂の俗名」も然ること乍ら“「騙名」”まで使われている。(外 矛盾27)

その「矛盾」の代表は宗派である。
宗派は長い慣習と仕来りと掟があり、「密教と顕教の違い」があり、「密教」でも「古代密教」と「平安密教」の違いがあり、顕教でも大乗仏教との違いもある事からその出自で判る。
「氏族」と「姓族」からでも、判別が可能で有る。
この宗派だけは明治以前では絶対に搾取出来ない。

この「二つの青木氏」であれば、確実に「古代密教」の「浄土宗密教」である。
しかし、一名(人物 1)の者は「浄土真宗」としている。
明らかに「後付の矛盾」である。(矛盾 28)

実は、室町期までは、未だ、「浄土宗」に入信するには、ある「特定の氏」しか入信出来なかった。
「出自分け」していた事から、認めて貰えない「仕来り」であった。
要するに、そもそも、「密教」を前提とし、その氏で寺を独自に自主運営していたのである。

従って、部外者や氏の宗家本家の「認定保障」の無い者には、自らの宗派と出来ない仕組みであった。
この「仕来り」が、江戸初期に密教の禁止令があって、全て「顕教」と成ったが、表向きは別として、依然として「氏族」と「高級武家」は、この慣習を護った。
従って、況して、「出自」もはっきりしないし、「青木氏の保障」が無ければ信徒には成れない仕組みであった。

従って、この氏(「人物 (1)」)が「浄土宗」を宗派とする事は出来なかったのである。
“出来なかったと云う事“は、「伊勢青木氏の出自」と出来なかった事を意味するのである。
つまり、「伊勢青木氏の出自」と認められれば、当時の「宗教社会」は、それを基に「浄土宗」に入信出来る仕組みであった。
つまり、「氏家制度の本家」の「意向の仕来りの所以」である。
平安期-鎌倉期-室町期から江戸期まで「氏家制度中心の社会」であった。

この事は、況や、「伊勢青木氏」は認めなかった事を意味する事に成るのである。

「二つの青木氏」の「361氏」に繋がる者として保障されれば、「浄土宗」に入信できる仕組み、況や「密教」であった。
これが、「氏家制度の所以」なのである。

新しく独立して家を興す末裔は、都度出るが、「宗家本家筋」に認めて貰えれば、その氏の一族一門が運営する菩提寺の「達親」と認められる仕組みであった。
認めて貰えなければ「宗派」のみならず「家紋」も「定住地」も定まらない事になる仕組みである。

この「二つの青木氏」には、奈良期から「青木氏が定住する地域」には「ある菩提寺名」で「青木氏の専用の寺」が建立されていた。(寺名は秘匿とする)
「寺名」が正規に伝承されていて達親族であれば「青木氏」を証明される事に成る。

(注釈 しかし、この仕組みの「密教の浄土宗」は、家康に依って江戸初期に解除され、「密教性の排除」を目的として禁令を発した。
但し、表向きは完全に解除したが、実態は、秀郷一門等の御家人や高級家臣団の事もあって、「高級武家」等が任意に入信出来る「顕教」で「檀家方式で運営する浄土宗」とした。
「一つの寺」に「幾つもの氏姓の檀家」が入る方式としたのである。)

これ以外は、「顕教の浄土真宗」に入信するか、庶民が自由に入信し得る日蓮宗などの宗派に入る事に成るのである。
従って、殆どの武士は真宗に入信しているのであり、下級武士は日蓮宗に、大きな末裔を持たない公家などは、結局、「顕教的密教」を標榜する「天台宗」か「真言宗」に入信する事に成ったのである。(前段の「伝統10」を参照)

この事からも、この「宗派の事」だけは変えられない事から「矛盾」は露出しているのである。

後は、その「偽名」が使われている経緯から、本人外が行った完全な「搾取偏纂の騙名」であると観られるので論外に成るのである。

この「人物(1)」に、これだけの「騙り」が起こる事は、この「人物の出自」が無い事の「架空」から起こっているものであり、全体としても「豊臣家の搾取偏纂」である事を物語る事でもある。

ここでも、この「人物の名」でも“(A)と(B)を強引に結び付けた「後付け矛盾」”が生まれているのである。

(注釈 「丹治氏系青木氏」は、「徳川方」に着き、その功で、「摂津麻田藩1万石」を受けていて、「別系の青木氏」である。
この「青木氏」は、武蔵の土豪集団の連合体の「武蔵七党」の「丹党」から出た「丹治氏」が、平安期に罪を得て朝廷より関東に配流された「丹治彦王」が、「現地の土豪」との間に生まれた「配流孫」だとしている。
「嵯峨期の詔勅」に従い、遅れて「室町期」に名乗りを上げた者で、立身出世を夢見て、一時、「信濃の国衆」と成り、その後、甲斐、美濃を経て、関ヶ原の戦いに参戦、関東武蔵を里としている為に、「徳川方」に味方して「摂津麻田」に「領地1万石」を家康より受ける。
弟に4000石を分けて「武蔵丹治氏系青木氏」と共に「三流の流れ」を作る。
この「磨田藩支流の弟系」には、上記した「秀吉の青木氏」の「伊予土佐の国境」の「青木の村」をこの磨田藩支流に後に下げ渡された。
この「丹治氏系青木氏」が「通名」として、「重、一、矩」が使われている。)

然し乍ら、「搾取人物策」を用いた「豊臣家」は、斯くの如しで「権威」を作り上げようとして、後勘から観ると、矛盾(28)だらけだ。

然し、ところが、反面、同じ「権威の持たない土豪」であった「松平氏・徳川氏」はその対応が異なった。
下記の「青木氏の年譜」にもある様に、既に1605年頃から、数度に渡り「青木氏」と談合していた様で在る。
1620年頃の後には、正式な「勝姫との政略血縁」(立葵紋青木氏)を以って「吊り合いの取れた縁続き」とした。
「正式な権威の獲得」を「青木氏」と成し得たものである。

この後、「伊勢の青木氏」(青木長兵衛 福家)は、この「知行付加」(家臣外の知行)を以って、「紙屋長兵衛の商いのノウハウ」を「紀州藩」と「将軍吉宗」に提供した。
そして、江戸初期から末期まで家臣では無かったが、「紀州藩の勘定指導方の役目」を務めた。
「初代頼宣の時」、「吉宗の時」、「江戸末期の時」の三期には、直接に人を送り出し、実務の「勘定方」を務めた。
「吉宗将軍時」には、「吉宗育親」として、「福家の長男六兵衛」は共に育った経緯から、江戸にも向行して「布衣着用の立場」(直接将軍に面談出来る「大名扱い」)で「享保の改革」を主導した。
この事からも、「徳川氏」は、この“「青木氏との向後の付き合い」“から観て、上記の「秀吉の搾取偏纂」を充分に承知していた事を物語るものである。


では、何故この様な「流れ」に成ったかと云う事であるが、それは次ぎの様な重大な事象が起こったからである。

(注釈 実は、上記の“「今宮神社」“には、「大きな意味」を持っていて、平安初期に「疫病平癒祈願の神社」として各地に創建されたが、「室町期の戦乱」に巻き込まれ衰退し荒廃した。
その為に生き延びる糧として、「全国の社の組織」を使って「シンジケート」を構築して生き延びた。
この事を知っていて政権獲得の時に、この「今宮シンジケート」の世話になった秀吉は、豊臣政権下に、この全国の「今宮神社の再建」を果たし、京に再び「総社本殿」を創建し保護した事は有名である。
そして、その更には「末社」としても、更に、”「若宮神社」“を全国の「天皇家の所縁の地」に創建して、”「皇族者の下族の保護地」“を名目に構築し強化した経緯を持っている。
この時の「今宮神社」は、「秀吉の権勢」を背景に相当な「社勢」を誇った事は有名である。)

(注釈 中部以西で、社勢を示す様に「今宮神社と若宮神社」は有名である。)

これは、「青木氏」の「500社に近い神明社組織」を使った「伊勢シンジケート」の「諜報活動」等に習って、秀吉は「今宮神社-若宮神社の組織」を構築して「諜報活動」の拠点ともしたのである。
この事は、「シンジケートの力」がどれだけのものであるかを「秀吉」は、「青木氏の事」でも「今宮シンジケート」の事でも、承知していた事を示すものである。
その「伊勢シンジケート」を「青木氏」が持ち、有効活用して「自分以上の陰の勢力」をも持っている事を承知して居た事を示すものである。
この事からも、この「秀吉の家臣云々の記録」は、“「矛盾の塊」の様であり、勝手なもので有る事を、秀吉自身が充分に承知していた事“を物語るものであるが判る。

参考として、 実は、「信長-秀吉」の「家臣」と「美濃・尾張」と云うキーワードから研究すると、次ぎの様な資料が「新編美濃志」の記録にある。
真偽は別として、この記録によると、美濃に「青木刑部卿法印浄憲」、或は、 「加賀右衛門尉藤原直重」なる人物が居て、「美濃安八郡青木村」に住し、土岐氏―斉藤氏―信長―秀吉に仕え、大阪城にて戦死したとある。
しかし、 この系譜には、“「出自」が混在し、「時代性」の矛盾がある”としているので、「江戸期の史書の青木氏」とは「異流の青木氏」と記されている。

これから観ると、「官位官職の持てない僧侶」や、「賜姓族の村」や、滅亡した「美濃土岐氏系青木氏」や、あり得ない「美濃の秀郷流青木氏」の末裔や、「北家筋の京藤原氏」や、室町期と江戸期にはあり得ない「二つの官位官職」等、を混合して組み合わせた「青木氏」を作り上げたと観られる。
「秀吉の青木氏の人物」に似せてはいるが別である。
この記録の真偽は「美濃志」そのものが云う様に“疑問”である。
混在が起こる「時代性経緯」から、この郷土史は江戸期初期に偏纂されたもので、この上記した所謂、「秀吉の青木氏」に類似させて家柄をよく見せる為に「偽書と系譜」を作り上げたものである。

上記した様に、各地の郷土史には、この様な「騙名」の様に「系譜」にも「偽譜」が起こっているのである。
「美濃志」が、これだけの「矛盾」が在るのに、“良く載せたものだ”と「地方史書」そのものにも驚くがこれが現実なのである。
それだけに地方に「歴史の所縁」を作りたかったのであろう。

この地方史や郷土史の編集期の江戸末期にも、これは”「氏家の家柄搾取」”から”「地域の地柄搾取」”も起こって居た事を示す事例である。

(注釈 「青木氏」と「同族血縁族の近江佐々木氏」の「傍系末裔の黒田氏」も、元は「近江佐々木氏の傍系末孫」で、「青木氏」の「祖先神の神明社」の「御師役の立場」にあった。
この「神明社」をベースとする「伊勢シンジケートの組織」を使って「独自の諜報活動」をした事も有名である。
その「黒田氏」を家臣としていた「秀吉」であれば尚更の事で、「青木氏と伊勢シンジケート」の事は充分に承知していた事に成る。 
更には、事前知識として、「南北朝の戦い」(赤坂千早村の山城戦い)で「多勢の幕府軍」が「伊勢河内シンジケートゲリラ戦」で餓死し敗走した事は、直前の歴史として、「秀吉」のみならず「信長」も事前に「歴史的な史実」として知っていた筈でもある。)

(注釈 「赤坂楠木氏」は「伊勢河内シンジケート」の一員で、「河内-伊勢-今宮」までの「三シンジケートの連合体」を構成して対抗した戦歴を持っている。)

その為に、「秀吉」は全て承知していたとすれば、「不承知の信長」生存中は、強力な連合組織から成る「伊勢シンジケート」を持つ「青木氏」の事は知っていたと考えるのが普通ではないか考えられる。
この「伊勢三乱 五戦」には、全て「合力」し、全て、「伊勢シンジケート」を前面に押し出しての「ゲリラ戦」で応じていたこの事に付いては、この「戦況」の成り行きに付いては、秀吉は、“非常に懸念していた事”であったと考えられる。


話しを元に戻して、

”1581年の末当初に「秀吉の紹介」で、「一名の青木氏」なる者が、「信長]に面会している。”

以上を論じた。

この結論として、上記した”「信長との面談の青木氏」”の人物は、誰かと云う事に成る。

上記した「秀吉の青木氏」論から、”逆説的”に検証すると、「人物(1)」は、「人物(2)」の「信定」であった事に成る。

何故、この様な「秀吉配慮」をしたのかと云う問題である。

そうなると、“「二つのシンジケートの連合組織」の「協力体制」”を得ていた時期があった。
その、「本能寺直前」の時期に「秀吉」は、この事を知らしめて、何とか「信長」にこの「伊勢青木氏」の「人物(2)」と合わせて、速やかに“「事態収拾」“を図ろうとした行為と先ずは考えられる。
即ち、「高松攻め」の「膠着状態」の時に「秀吉」は、再三に「信長」の元を訪れている。
つまり、通説では、「信長」に依る武田氏滅亡の直後に、「毛利討伐」に出陣依頼しているのである。
もし、この通説通りとして、この為にも 伊勢域での“「ゲリラ戦の長期化の伊勢」”を何とか解決しなくてはならない。
背後が危険と成るし、二兎は到底負えない現状であった。
依って、この時に「信長-青木氏面談」(1581年末頃 「青木氏の記録」では、1582年初と成る)を図ったと観られる。

そもそも、「青木氏」に降りかかった”「秀吉の青木氏」の事件”は、「伊勢国の事(紀州討伐)」が一段落して、その後の「豊臣政権樹立」に際し、この時の「所縁」を通じて「人物(1)」を用いて「秀吉の青木氏」を発祥させようとした事に依る。

この時の「秀吉紹介」に依る「信長面談」(信長-青木氏面談)には、次ぎの説が浮かぶ。
第1説の「人物(1)」で応じたのか、
第2説の「人物(2)」(信定)で応じたのか

第1説か第2説かは何れにしても”信長を納得させられる「面談理由」”が必要である。

この時は未だ、「秀吉の青木氏」は無い。
従って、実態は、「人物(1)」=「人物(2)」であるのだが、「青木氏」の”「信長面談」”には、”「何らかの工作」”をした事が「状況証拠」から充分に考察される。
その”何にか”が判らない。”判らない”と云うよりは、”確定できない”と云う事である。

考えられる事として、”信長の印象”を和らげる為に、”「秀吉の遠縁仕立て」の「人物(1)」で会した”と云うものである。

実は、「青木氏年譜(下記)」から次ぎの様な事が読み取れる事が出来る。
それは、”この時から、秀吉は「秀吉の青木氏」”を考えていた節が有る。
そもそも、秀吉は、「青木氏の存在」を「蜂須賀小六の配下」であった頃に「今宮シンジケート」の組織の中でいた事から、「シンジケートの横の繫がり」から接触が在った。
何故ならば、「今宮シンジケート」と「伊勢シンジケート」が連携していた時期がこの時期であった。
その為に「青木氏の存在」とその詳細を知り得た筈である。
当然に、それに合わせて「神明社との関係」もそれを通じて知っていた事は充分に考えられる。

「伊勢シンジケート」と「神明社組織」の「二つの組織の頭]、つまり、「御師」の「二つの伊勢青木氏」と「信濃青木氏」が背後にいる事は充分に知っていたと考えられる。
知っていたからこそ、「鉄砲入手」の為には、「信長」に「今宮シンジケート」を紹介した記録があるのである。

この「シンジケートの存在」の「紹介記録」そのものが、「秀吉」の「青木氏の存在」」をも認知して居た事を証明するものである。

立身出世して行く秀吉に執っては、この時から”「出自誇張」”が必要である事は痛感していた筈である。
その「最高のシナリオ」は、この「シンジケートの青木氏」であった筈で、「出自の誇張」に選んだと観られる。

「青木氏」が持つ「悠久の伝統」と「家柄格式」と「民からの信頼」に繋がる事は、周囲に対して「武の権威」では得られない”「温厚な権威」”を獲得する事に成り得る。
「天皇家や公家や藤原氏」が持つ”「優雅で気高い権威」”とは異なる”「温厚な権威」”をこの時期の秀吉には好んだと観られる。
現実に、「天皇の落胤」「公家の姻戚」「藤原氏の末裔」の三出自は、後に「偽系譜」で搾取している事は有名である。
故に、太閤官位を奪取出来た所以でもある。
従って、何も青木氏との血縁関係を持つ必要は何も無く、要は「青木氏の氏名」を使えれば良い筈であった。
その”「青木氏の出自」が何処であるか”は系譜上に記載する等の必要性も関係が無い事に成る。
それが、上記した「長嶋の戦い」から始まって6度に渡る「青木氏との親交」の中から、「定信の青木氏」をモデルに自らが名乗るのではなく、一族の中に「ダミー青木氏」を創り上げられれば「出自誇張の目的」は達成されるのである。

(注釈 現実に、この”「ダミー青木氏」(遠縁の家臣)”を作り上げて、表向きには「北の庄8万石と紀伊守」を与えて置いて、「伊予今治南部」(青木の里)に小さな所領(寺二つ分程度の敷地)を与えている。1600年の「徳川除封処置」で「里」共々飛散した。)

これは、”「出自誇張」”のみならず、下記した様に、”「シンジケート確保の魅力」”にも「大きな興味」を持っていた筈である。

故に、「豊臣政権樹立」後に、「自らの守護神」として先ず「今宮神社」を全国に再興して「自らの守護神」であるかの様に保護した事は有名である。
そして、その「シンジケート」をも保護し、その「下部組織」として全国に「若宮神社組織」までを作り上げた。
「青木氏の神明社」の様に、「情報収集源」として大いに利用した事は「誰もが知る歴史記録」の示すところである。
中でも、この”「若宮神社」”には、多くの貴族を取り込み抱え込み保護して、如何にもルーツであるかの様に「見せ掛けの出自誇張」にも利用した。

明らかに、この時の「信長面談時頃」から「伊勢シンジケート連携」と「出自誇張の氏」として近づいていたと考えられる。

「青木氏」の「信長面談」に至るまでの「事前工作」では、どの様にして「青木氏と接触」を果たしたのかの疑問がある。

これは、実は「蒲生氏郷の記録」にある。
「蒲生氏郷」は、「伊勢の乱の指揮官」であった事から「伊勢の乱」に付いての「秀吉とのやり取り」が遺されている。
恐らくは、この時に、同族である「蒲生氏郷」から「青木氏」にコンタクトがあった事が伺える。
では、”「蒲生氏郷からのお膳立て」かとする”発想も考えられない事は無い。
然し、絶対に「信長面談のお膳立て」は出来ない。
それは指揮官と同族と云う立場が邪魔をして、「信長」に良い印象を与える事は無い。
「怠惰、身贔屓」と受け取られる事は間違いは無い。口を避けても云えない。
そうすると、「楽市楽座」を「引き合い」に出して、「秀吉」が考えて紹介した事に成る。


この時は、未だ無かった。「秀吉と青木氏の直接接触」は、1573年「第二次長嶋の戦い 9/26」が最初である。
「青木氏側」は、この「戦い」で出城建築の為に必要とする「材木」を「買い占め」した事で「掛け合い」に成った事があったが、これが最初である。
「青木氏の材木買い占め」に対抗して、「秀吉」は窮地に陥り、結局、兵が吉野より材木切り出して吉野谷から流して対抗した記録が遺っている。

(注釈 「青木氏の記録」にも在り、敵対はしたが既に認知している関係にはあった。)

以後7年間の「秀吉との接触関係」に付いては「商記録の資料」に次ぎの様な事が書かれている。
1580年頃に「紀州討伐」と「備中廻船」の2件記述が確実に発見出来る。
明らかに「接触があった事」を物語る。
(参考 他に2件関係あるのではと観られる「不明な記述」も在る。)
ところで、この2件はどの様な接触であったのかを調べた。

「紀州討伐」では、「伊勢-紀州」の最後の「始末掃討戦」であった。
「南紀州」には、「青木氏の遠祖地」(和紙楮生産地)が多くあり、「秀吉」と決着を就けた事が「別の資料」に詳細に記録されている。

(参考 「別の資料」とは、「伊勢青木氏」と関係の深かった「伊勢衆」の主家に「青木氏の手紙」が遺されていた。
この中の一節に書かれている内容である。「伊勢衆」と談合している事は「青木氏年譜」でも判るが、この時の結果を連絡して合意を求めている手紙である。)

「備中廻船」(1581年)は、直接表現は無いが「商記録の記述」から「備中攻め」の「資材搬送」であった。

1568年の「第二次長嶋戦い」では、「商いの形」では「伊勢国衆」に対し「合力の約束」を果たした。
「青木氏」として「表向き」には、織田勢とは敵対はしていないが、明らかに「商いの形」では敵対はしている。
堺店から長兵衛が、織田軍から資材調達を請け負い、伊勢に戦いが続いていた事を背景に高騰を理由に圧力を掛け続けた事が記録されている。
当然に「秀吉」ならば「青木氏の二つの顔」は経験者で知っている。

然し、その後に和解している。何故、和解に成ったのか不思議である。
「二つの顔」は知っている「秀吉」が、”何故に和解に応じたか”は解決しておかねばならない疑問である。
明らかに、秀吉側に何らかの「メリット」があった事に成る。
つまり、その「メリット」が判れば「和解の疑問」は解ける。

それは、上記した様に、”「出自誇張」”のみならず”「シンジケート確保の魅力」”に有ったからで在る。
其れを物語る事は下記に示す”「紀州討伐」”でも明らかに成っている。
「青木氏」としても、「秀吉の出自誇張」は、この時から感じ執っていた事を物語る。
直接、間接に関わらず、「何らか縁組」などの話があったのかの詳細は未だ判らない。
記録の資料が出るとすれば、恐らくは、「伊勢郷士」か「伊勢衆」からであるが資料がまだ見つからない。

この「秀吉側から観た和解」は、「青木氏の四家問題」となった数年後に発生した”「秀吉の青木氏」”以外には無い。

両者から観ると、次ぎの事が「和解の主因」であろう。
この「紀州討伐」は、1577年から1585年までの間に行われた三期に分かれたが、主に”「門徒衆の一揆掃討作戦」”であった。
相当に色々な複雑な勢力が入り組んでの反抗であって、その「掃討作戦」であった。
概して、一般には当時は、「門徒衆一揆の掃討作戦」と位置付けられた。

(注釈 伊勢紀州域では少なくともその様に観られていたのである。「紀州」では,これを「門徒一揆」と呼ばれていた。
その後、昭和20年頃までの浄土真宗の家筋を普通は、「真宗」と呼称される事が多いが、紀州では「特別な意味合い」を込めた呼称で”「門徒」”と呼ばれる様になった。)

この反抗は、「石山本願寺の影響」を受けた事が原因で、昔からある「独特の紀州気質」が表に出て来たとされている。
それは、「伊勢気質」と同様に、”「独立性」が強い気質”に有った。

この「門徒衆」の主の「石山本願寺の顕如」は、「自らが始めた戦い」から早々に勝手に身の危険から引いてしまった。
足元をすくわれた「門徒の紀州人」は怒って、この「紀州気質」を出して「反抗姿勢」を採った事が原因していた。
依って、その立場立場で”反抗”は複雑を極めたのである。

この「反抗した勢力」は「門徒衆に関係する反抗」であった事から”「門徒一揆」”と地元ではそう呼ばれていた。
これを整理すると、次ぎの様に整理される。

この「反抗地域」では、「北紀州」と「南紀州」に分けられる。
この「反抗内容」では、「織田氏への反抗勢力」と「門徒衆の生活不満勢力」に分けられる。
この「反抗勢力」では、更に「宗教武装集団」と「国人の武装集団」に分けられる。
この「国人武装勢集団」は「領国化」と「独立覇権」を狙った勢力に分けられる。
ところが、「反抗集団の指導者」を除き、全て「隠れ門徒」も含めて「門徒衆」が主で動いた。


「北紀州の掃討作戦」は次の通りである。
雑賀衆を中心とする反抗勢力、
畠山氏の領国化勢力、
高野山衆の反抗勢力、
根来衆と雑賀衆の傭兵軍団の反抗勢力、

「南紀州の掃討作戦」は次の通りである。
南紀州の農民の門徒衆一揆

これらは複雑に入り組んでいて、各勢力の反抗明文も多様であったが、「根底の共通点」は、矢張り、「門徒衆」であった。
ところが、「反抗集団の指導者の思惑」は、別にあり、要するに、”門徒”を利用して「反抗の勢力」を大きくしたのである。

「武装反抗勢力」の「雑賀衆,根来衆、畠山衆、高野山衆」は、当初は「信長」に傭兵軍団(鉄砲)として雇われ、「信長」の「天下の路」に大きく貢献した程のものであった。
然し、「石山の戦い」から波及しての「門徒衆」であった事から、1576年末頃から内部分裂で反抗し始めた。
(第一段階)

この混乱(1584年頃)を利用して「国衆」の「畠山氏」は、「独立性気質の意識」を表に出して混乱に乗じて紀州を「領国化」し始めた事が発端で、「家臣の門徒衆」もこれを利用して反抗した。
(第三段階)

第二段階となった「南紀州」は、「青木氏の遠祖地」であり、「和紙楮生産地」の南紀で散発する「門徒衆の最終掃討作戦」であった。
この為に、「青木氏」は民の一揆の「経済的な支援」をしていた事から、責任者の立場上、”ある条件”を下に、この何れにも利益の無い一揆を収束させる目的から「秀吉」と話し合った。
この事から、早期に一揆を収束させたが、この時(1580年)から「秀吉」と親交を深めた事に成っている。
この時は「伊勢青木氏の顔(信定)」と「紙屋長兵衛の顔」の「二つの顔」での面談であった。
この事が確かにより「秀吉と親交」を高めた事が「郷士の内資料」から伺える。
又、その後の「伊勢での青木氏に対する厚遇」でも充分に判る。

この第二段階の「青木氏との収束策(”ある条件”)」が、第三段階までの「全門徒衆」の一揆に大きく影響を与え収束した。

(注釈 「紙屋長兵衛」は、全力を挙げてこの「全門徒衆の経済的不満”「ある条件」”」を解決する策を講じたことが「郷士衆と国衆」の「家に遺された手紙」に遺されている。)

この時の「門徒衆との約束」として、多くの事(”「ある条件」”)が実行された事が記録されている。

主にその”「ある条件」”とは、次ぎの「四事業」と成っている。

その「約束一つ」として、”「家内生産」”が出来る様にと、”「各種の紙箱や紙袋」等の殖産”を進めた事が「青木氏の記録」や「郷土史」にも地域貢献した事が記載されている。
昭和20年代まで、「北伊勢の特産品」であった。

その「約束二つ」として、この室町期末期の時から、新たに、どの立場の門徒衆も家内工業的に出来る「櫨の実(ナナカマド・ハゼ科)」から作る「ローソク」の生産にも入った事が「商記録」を辿ると記述されているし、「口伝」にも「他記録」にもある。

その「約束三つ」として、「信濃青木氏」から「養蚕技術」を四家の者が留学して学び、その「養蚕と布衣品の生産」も伊勢紀州域に広めたと「伊勢の郷土史」と「商記録」にも口伝にも記されている。

”「ある条件」”の極めつけは、「約束四つ」として、室町期には、未だ「早場米」は無かった。
ところが、「門徒衆の農民」の為に、「青木氏の莫大な私財」を投入して研究して何とか「早場米」を作り上げる事に日本で最初に成功した。
この事に付いては、「郷土史」には詳細に記載されている。
この「早場米」は、「早稲光」、或は、「光稲」と呼ばれていて、「青木氏四家」の「光三郎」の「先祖名」が付けられて呼ばれいて、その後、全国的にこの、「早稲光」、或は、「光稲」は「全国の青木氏」を通じて広まった事が郷土史にも記録されている。
この事で、「伊勢紀州の門徒衆」のみならず「伊勢紀州の農民」からも大いに尊敬され、昭和初期まで「尊農家」としても郷土史にも記録されていた。

以上、「第二段階の約束」として、「和紙楮殖産の拡大」は元より、上記の「四事業」を私財を投じて実行した。
旧来より「御師様」「氏上様」と崇められていたが、更に「門徒衆」からも神の様に崇められ、不満は一掃されて納まったと記述されている。

(注釈 昭和30年頃まで「蝋燭の生産」は「紀州特産品」であった。
衰退した現在も紀伊山脈の山にはこの樹木が多く遺っていて、秋山は当に赤黄で一色である。)

(注釈 現在でも「北紀州域(奈良域から堺や若山までの地域)」には、「紙箱などの紙製品の特産品地域」として遺っている。
その中には、この時に最初に商人に転身した「門徒武士」の家筋の500年以上にもなる「紙箱の老舗」が現在も顕在して生産している。)

この流れに沿って、遂には、これを観た多くの「門徒武士」からも、雪崩を切る様に積極的に”「商人の路」”へと「転身」をした。
これの「受け皿」と成って彼等を導いたのである。
そして、「青木氏」は、彼らに「商いのイロハ」から教え、独立させて、この「四事業」を専門に扱う多くの「射和商人」に育って上げたのである。
そして、育った彼等の「四事業」に携わった人々を「商業組合」に入れて保護したのである。

そこで、筆者は、この「四事業」を成功裏に導く為に、前段で論じた様に、「伊勢松阪」にその「自由な商業組合」を主に創設した、と観ている。
「四事業の事業種」も然ること乍ら、「武士、民、農民」等の各層からの人々、「自由な立場」での参画、「生産から販売」までの「仕事の内容」を様々にも持つ事から、”「自由」”をモットーに組合を構成する必要に迫られたと観られる。
更には、恐らくは、「秀吉」手引きの「信長面談」での「楽市楽座の約束」でもあった事と考え合わせていて、”「伊勢復興の策」”としてこの新しい形の「商業組合組織」を構築したと判断している。

この「趣旨の事」を書いた「青木氏四家」から”「郷士頭」”に宛てた手紙も発見されている。

当初は、「会合衆」の組合として、伊勢松阪で発足させた形跡(青木氏の資料)があった。
ところが、「紀州討伐での影響」で、この「四事業」が思わぬ方向へと発展した事から、「伊勢の会合衆」の考え方から「伊勢の自由商業組合」へと舵を切ったと考えられる。
何れも「大商人だけの会の会合衆」の組織では、最早、成り立たなく成り、そこで「発想の転換」から、彼等を救う為にも上記の云う「全階層」の「自由商いの組合」の組織に変更したのである。
兎にも角にも、何れも「日本で最初である組織」と成ったのである。

実は、上記で、”「門徒衆論」”の中で、”「郷士頭」”と書いたが、この「郷士衆」(郷士頭)が、この「紀州討伐」と「四事業の推進」に大いに関わっていたのである。
決して、本論を解くときに見逃してはならない一点である。
唯、「伊勢紀州域」の「門徒衆論」に、「郷士衆論」の「絡み」を解くのが難しいのである。
(実は、当初、試みたが失敗した。整理して挑戦した。)

この組織以外にも、「青木氏」は、「青木氏」と共に「悠久の歴史」を労苦を共にして築いてきた「伊勢域と紀州域と奈良域」に存在した「20の郷士衆」との「連合組織」も新たに”結成している”のである。
”結成している”と云うよりは、「時代の変化」とこの「状況の変化」に合わせて、”結成し直した”と云う方が正しいだろう。

この組織は、遺された記録には、”「伊勢郷士衆」(「18郷士衆」)”と記載されていて、その原型は、「和紙殖産商い」を始めた925年頃の平安期から始まっている。
鎌倉期を経由して室町期の「紙文化」と成った頃からは、以前の「助合組織の郷士衆」から、「運命共同体組織の郷士衆」へと変身しているのである。
資料からは、前段でも論じたが、平安期から「20の郷士衆」から伊勢紀州域は成り立っていたが、前段でも論じた様に、「伊賀の乱」で「二郷士」が「裏切り行為」をした事から「18郷士衆」と成った。
この「18郷士衆」(中には「18人衆」と記録した資料もある)に「郷士頭」を置いて、一切を取りまとめていた事に成っている。
この「郷士頭」は、「持ち回り制」を採用していた様で、「郷士頭名」が資料年代で異なっている。

資料から観ると、この「郷士頭」と「青木氏」が互いに「縦の連絡」を取り合っていた様である。
然し、かと云って、時々、「頭外の郷士」との「やり取り」も観られるので、ある程度の「専門担当」を決めていたと観られる。
それを「郷士頭」が全般を取り仕切っていた組織に成る。

その前に、この「18郷士衆」と「青木氏四家」との関係に付いてもう一度論じて置く。
「青木氏四家制度」は、「三つの発祥源」と「賜姓五役」と「国策氏」と{皇族賜姓族}の家筋を護る為に、「純血性」を前提として、この「四家制度」を平安期初期の直前に敷いた。
この時、「四家の福家」から観て「孫域」までを「子供」として扱い、娘の嫁ぎ先の子供(孫)を「正式な跡目権利」を与えて、幼少期から引き取って育てると云う制度を敷いていた。
この「娘の嫁ぎ先」が、元々は、「伊勢紀州の20の郷士衆」であった。

従って、この「四家制度」が続く限りは、「「伊勢紀州の20の郷士衆」には、時代毎に「古い縁籍筋」から「新しい縁籍筋」の関係が出来上がる事に成る。
「古い縁籍筋」が「新しい縁籍筋」に成り得る事は、{四家制度}が「代替わり」する度に当然に起こり得る。
「伊勢紀州の20の郷士衆」の限られた範囲の中では、この縁籍関係は繰り返される事に成る。

この時、「超大地主の青木氏四家」から「20の四家」から嫁ぐ娘に対して「地権」を持たして嫁がせる事に成る。
逆に、「嫁ぎ先の孫」が「20の四家の跡目」に成る事も起こる事から、これを繰り返す事に依って、この「郷士衆の地権」は「重層化した地権」が起こる事に成る。
この「郷士衆の地権」では、その「地の殖産」を「仕事」として担う事に成る。

「青木氏四家」には、”「20の四家」”が生まれるが、「四家の地権」の範囲で、それには「四家に与えられた仕事」を直接担う事に成る。
この「下部組織」として「20の郷士衆」の与えられた「郷士の地権」の範囲で、「仕事」が熟される。
この「地権の範囲での仕事」は、その「仕事」に従事する「民までの差配」に「責任」を負う事に成る。

つまり、「青木氏四家」には、結局、「40の仕事」が、「四家地権」と「郷士地権」で動く事に成る。
但し、「20の郷士衆」の家筋範囲の事は、「青木氏四家」は関知しない。
その「郷士地権の範囲」の経済力で「子孫」は拡大する事に成る。

この自由を持つ「20の郷士衆」の「20系譜」から、「青木氏四家」に「新しい血筋」が入る事で「純血の弊害」を無くしていたのである。
従って、「時代の変化」と「四家の変化」で、「20の郷士衆」の「地権」には差が出て来る事に成る。
従って、この「20の郷士衆」に執っては、「青木氏四家との関わり具合」の如何は「男女の子孫」を如何に増やすかに関わって居た事に成る。
且つ、その発展は「四家からの娘嫁」にも大いに関わる事に成っていた。

この背景にある「20の郷士衆」は、その為には当然に、「紀州伊勢域」の「他家の家臣」と成っている「門徒衆武士」との血縁関係も大いに持つ事に成る。

前段で論じた様に、「20の郷士衆」が、「伊賀の乱」で合力したのは、主にこの「伊賀氏との血縁関係」が深かった事にあった事を物語る。
故に、「伊賀氏」が窮地に陥った時に、青木氏は約禁を破ってでも、「織田氏攻撃」に対してはそれまでは「中立姿勢」を保っていたが、「名張の清蓮寺城」から突然に「側面攻撃」で虚を突き一時を稼ぎ、この合力した「18の郷士衆」を”深夜に救い出す”と云う「離れ危険技」を遣ってのけたのである。
然し、織田軍は、この「二つの青木氏」に対しても、「18の郷士衆」に対しても、一切の「報復処置」は採らなかったのである。
「一切お構いなし」と成っている。

更には、「各地に離散した伊賀者追討」と「1年後に伊賀帰参者討伐」も「不問処置」としたのである。
「一切お構いなし」も「不問処置」になる理由は何も無い。
あるとすれば、つまり、これは上記した様に、「秀吉手引きによる信長面談」の「約束事にあった事」を物語るものである。

前段でも論じた「18の郷士衆の救い出し作戦」の根底には、「青木氏との深い繋がり」の所以があったのである。
この「18の郷士衆」の「伊賀合力」に対しては、上記した様に、「二つの青木氏」とは「運命共同体、一心同体の関係」にあった事から放置出来なかったのである。

従って、上記した「門徒衆の裏工作での説得」が、「20の個々の郷士」で、その「伊賀合力」に観られる様に、その「広い血縁関係」を利用して「懸命な説得」が行われたのであるし、この説得が効を奏した事に成ったのである。
そして、今度は、救出された2年後には「18の郷士衆」は、「青木氏援護」の下に立ち直り、何と「門徒衆救出」に出たのである。

この「門徒衆救出作戦」には、この「門徒衆の武家」と違って、「20郷士衆の武家」側には、「青木氏からの地権基盤」(経済的基盤)を持っていた事から、この「説得」には、暫定処置を講じて一時保護して説得を行い易い力が備わっていた事に成る。
そこに、「青木氏四家」からの「四事業の裏付け」があれば、「門徒衆武士」としても納得に応じ易い事に成る。
其の侭では、「秀吉」に殲滅される宿命があったとすれば、「20の郷士衆」との関係を持つ「門徒衆武士」は全て応じた様に記録から読み取れる。


これを観た血縁の持たない関係の無い「門徒衆武士」も説得に応じて来て、救助した事が判って居る。

この「紀州討伐」では、実は「門徒衆」と裏で折衝していたのは、この「18の郷士衆」(20から2氏脱退で正式には18に変化)であった。
この「紀州討伐」の時の「青木氏」が、この時、この「郷士頭」(前田氏)との「手紙のやり取り」(他一通)をしていて、これが詳細に遺っているのである。

(注釈 「2氏脱退」は「伊賀の乱の裏切り行為」、つまり、「織田軍道案内」からであるが、脱退は青木氏として容認した。
然し、その「2氏の地権」は青木氏に戻る事から、「青木氏の娘嫁先」のその子孫を保護して続けさせた事に成っている。
この「脱退2氏の跡目」は外したが、跡目が育つまでの間4年間は不籍にして維持させた事に成っている。
この「離反行為の2氏」には、「娘嫁関係」が暫く途絶えていて不満があった事が記されている。
昔は「郷士頭」も務めた家筋であったが、「地権」も小さく成り織田側に付いて「一挙逆転」を狙った事に成っている。)

この時、要するに、”「門徒衆組織」”を影で収めたのは、この”「18の郷士衆組織」”なのである。
実は、ここで、前段の補足として、論じて置く事が在って、それは「二つの青木氏」の”「御師制度」”である。

この「青木氏に関わる職能集団」の「御師制度」には、次ぎの「二つの組織」があった。
A 青木氏の内部に持つ職能集団-「内御師制度」
B 青木氏の外部に持つ職能集団-「外御師制度」

実は、全青木氏は、この二つの制度で構成されていたのである。今までは主に「内御師制度」の中味に付いて論じていたが、「外御師制度」もあったのである。
前段で、「青木氏の総陣容」は、「88700人」としてその規模を数値にして見て論じて来たが、これには、「外御師制度」を加えての論では無かった。
何故、論じなかったのかと云うと、下記で論じるが「外御師制度」は、この”「20の郷士衆」”に「差配」を委ねていた事による為で「別枠の論」として敢えてここで論じる。
「娘嫁先」と「地権」と「郷士頭」と「職能」と「民の集団」と云う「特別の論点」が別にあった事から、外の関係性が強く影響する事から、論が複雑に成る事を避けて、「郷士関係」の処で論じる事としていた。

(現実には、論じたが、モニターの方から”複雑すぎる”と云うNGが出て失敗した。”複雑”も然ること乍ら”詳細”過ぎる事もあって相当割愛した。ここから次ぎの「18の論」へと分別して随時に論じる事とする。)

さて、上記Aに付いては前々段で瑠々に論じた「神明社」などを始めとする「四家」が受け持つ”「内御師」”である。
そこで、問題なのは、このBの「外御師」の「御師制度」は何であったのかは敢えて論じなかった。

この「外御師制度」とは、実は、この「20の郷士衆」の事である。

「20の郷士衆」は上記した様に、「郷士頭」を置いて、その「20の郷士衆」の「地権の範囲」で行う仕事に従事する「民の職能集団」を差配していた。
この職能には、和紙に生産する漉職人、楮を生産する楮職人、紙製品を生産する紙職人、材木を生産する木職人、木製品を作る工職人、農製品を作る農職人等、資料から観ると、凡そ32の職人の集団から構成していた。
これらを差配するのが、要するに、地権の範囲で担当するのが「20の郷士衆」であったのである。
つまり、「20郷士衆」=「外御師」であった。
「地権の範囲」で耕作する農民も商人も含めて「民の職能集団」の「外御師」の中に全て置かれていた。

それぞれの職能には「外御師」の「御師頭」が置かれていて、その「御師頭」がこの「20郷士衆」が務めていた。
「御師頭」=「20の各郷士衆」で、この「御師頭」達を「郷士頭」が差配していたのである。

要するに、この組織は、「各職人のまとめ役」=「御師頭」=「職能集団の組合長」=「各郷士衆」 「各郷士衆の理事長」=「郷士頭」と云う構図に成っていた。

そして、この「郷士頭」は、「娘嫁先の20の郷士衆」の中で、次ぎの条件で選ばれていた様である。

最も青木氏との血縁度が高い事
最近の娘嫁の郷士の家筋である事
地権範囲と職能種を多く持つ家筋の事

以上のこの「三つの条件」に適う「郷士の家」から選ばれていた様である。

「外御師の職能種」が32程度にも及んでいた事から、「20の郷士衆」の範囲では、複数の職能を持つ家筋も起こっていた。
ここに、上記の「四事業種」の職能が加算されたのである。
この「四事業」から「職能種」は10程度は増える事に成り、1郷士は平均で2つの職能種を持つ事に成ったと観られる。

当然に、「外御師制度」を拡充して、この「20の郷士衆」で管理差配して行くことに成る。
従って、これに見合う「地権」が必要と成り、それを上記した様に、「本領安堵策」を用いて「青木氏の旧領地」が「秀吉」に依って加算加増された所以なのである。


この様に、伊勢に遺る資料から観ると、この「門徒衆」等が集まる新しい商いの組織の”「自由な商業組合」”の結成に付いては、この「18の郷士衆」と「青木氏」を中心に連携を採っていた事に成る。
この「門徒衆」などで構成された「自由な商業組合」は、「20の四家」(内御師制度)と「20の郷士衆」(外御師制度)に依って支えられ続けたのである。
故に、明治期 大正期に成っても遺ったのである。

「伊勢商人」の中に「新しい商業組合」が構築され、その下にこれらの「青木氏」が始めた”「四事業」”を専門に扱う”「射和商人」”を専門に育てたのである。
要するに、「計画(四家)から生産(郷士衆)そして販売(門徒衆)までの組織」を一連にして確立したのである。

「門徒衆」の多い「南紀州」には、「紙文化と云われる室町文化」と相まって、「北紀州地域の紙製品の殖産化」で、「紙文化」が一挙に進んだ事から「和紙の原料」と成る「南紀州での楮の増産」をも大いに進んだ事が記載されていて、我家の口伝にも伝わっている。

(参考 筆者幼少の頃、父に連れられて、南紀州の「和紙楮殖産」を営む「門徒衆の伊藤分家」に長く滞在宿泊した事があり、その生活雰囲気は今でも脳裏に蘇るし、又、「北紀州の紙製品」の「老舗の岡氏」等を始めとして、「古参門徒衆の家」や「古参郷士衆の家」の様子も、現在は代替わりで親交が途切れている「幼少期の記憶」がある。)

この為に殆どの「門徒武士」を含む「一般の民」の一揆は早期に収束した。
つまり、背後に「18の郷士衆」が存在していた事から収まりが着いたのではと考えている。
だから、盛んに”「郷士頭との手紙のやり取り」”をしていたと考えられる。
これは、取り分け、農民や民は兎も角も、「武装集団」と絡んでいる「門徒武士の説得」に苦労した事を物語る事に成る。
これには、日頃から「伊勢紀州武士」として行動する立場と絡から、「郷士衆の説得」がこの問題の解決に絶対的に必要であった事に成る。
故に、「説得」が、「彼らの矛を収める」だけでは無く、「転身」と云うところにまで突き進んだ事に動いたと云う事であろう。

「武力集団」側も、流石、この「門徒の家臣」の離反に驚いたは勿論の事、制裁をも加えられなかったのであろう。
本来なら、命に関わる離反転身である。勿論、説得する郷士側も危ない。
「門徒衆の家族」や「郷士衆の家族」も護らねばならない。
何せ相手は「プロの傭兵軍団」「忍者軍団」である。
相当に用意周到にして、”「手出し」は無いだろう”とする事を承知確認の上で、「説得」に掛かった事が記述されている。

この「制裁」に出られなかったのは、「戦域」を拡げると背後に「青木氏と18郷士衆」が持つ「伊勢シンジケート」の「同質同格の勢力」が控えていた事にあったからである。
この時、既に伊賀は滅亡し、浪人と成って各地に離散していた伊賀者は、「20の郷士衆」の手引きで、1年程度で伊賀に戻り、「伊勢シンジケート」の組織の中に加えられて保護されていたのである。
ところが、歴史では、”「離散した伊賀者」は再び集まって反抗を続けた”と成っているが、個々に集まって来たとしても、「生活の糧の補償」が無ければ、反抗など成し得ない筈である。
その「補償の裏付け」が、「20の郷士衆」が手引きして、「外御師集団の警護役」として補償としたと記録されているので、間違いは無い。

筆者は、この資料から、”「20の郷士衆」”の「郷士頭」が中心に成って下記の理由で呼び寄せたと観ている。

「青木氏の関係族」から見つかった「二つの資料」では、上記の「絡み」から「20の郷士衆」の「御師集団」に夫々組み込まれ、「職人を警護する職能」として働き、いざと云う時には、「伊勢シンジケート」の中でも働いて「糧」を得ると云う形式を採っていた模様である事が判る。
”「警護」”と云う「一つの職能集団」を、「青木氏]の中で形成していた様で、「軍」とは別の意味で、あくまでも「外御師組織」の一種の自治的な「警察機構的な組織体」を作っていたと観られる。
この「伊賀衆」等から成る”「警護職能集団」”が、「門徒衆の家族」や「郷士衆の家族」等を護っていた事が記述されいる。

「伊賀衆」を助けて保護し、その直ぐ3年後には、今度は「門徒衆救護」に出たのである。
「青木氏」が出した「郷士頭」の手紙の中には、「門徒衆救護」の為に、早急な手配方を「郷士頭」に依頼している事も書き込まれている。
如何に緊迫した中で、行われていたかが判る。

「郷士頭」は、「伊賀衆」と「門徒衆」と立て続けに救護したのであるから、如何に大変な仕事であったかは判る。
「伊賀衆」は、同じ助けられた者として「門徒衆救護」には大いに力を発揮したと観られる。
その意味でも、「武力集団側」は当然に知っている事であるので、”「伊賀衆」が背後にある事の「危険性」を大きく感じていた”と考えられる。
むしろ、”逆にゲリラ戦を仕掛けられる恐怖があった”と観られる。
その「伊賀者の底力」には、「背後の青木氏」が観えているのである。
「青木氏の経済力」は前段でも論じた通りで衆知であった。
「他の勢力族」とは、体質的に異なる当時としては「異質の絶大な勢力」であったからこそ、「武装集団側」には余計に警戒されたと観られる。
警戒しない方がおかしい事に成る。

この様に強力に動く「20の郷士衆」が、構成する「外御師」のこの「郷士頭の存在」は、「青木氏」の「外のまとめ役」として無くてはならないものであった事が判る。
「二足の草鞋策を採る青木氏」は、「外の事」は、この「20の郷士衆」の”「郷士頭」”に「伝言一つ」で済むと云う関係にあった事が判る。
最早、「20の郷士衆」=「青木氏四家」であった。


話しを戻して。
「秀吉」は、この「一連の統治組織」の中での事を観て、この「青木氏に対する信望」を更に高めたと考えられる。

「室町期の戦乱」の中で、「武力集団」の「大名や豪族」の上に立つ”「三つの発祥源」”であるなら、本来なら「武の威力」を「優先する立場」にあり、それを率先してでも祖の立場を護った筈である。
然し乍ら、「武」の上位に立ち、「武」を持ちながらも、「武」を使わない稀有な「高い統治組織の青木氏の存在」を改めて知った「秀吉」は、この「秀吉の青木氏発祥」へと突き進む「決定的要因」となったと観られる。

この事も含めて、後に「秀吉」に依る「旧領地の本領安堵」の決定要因とも成ったと観られる。
多くの「旧領の本領」を安堵しても、「武」に依らない高い「統治能力」を有する「青木氏」であれば、問題は無く、むしろ、「紀州伊勢域」により「大きな地権」を与えて「地域の繁栄」に貢献させるべきと考えた筈である。
然し、敢えて「旧領の範囲での本領安堵」だけを受けたのである。
仮に、「旧領地外に地権」を得たとして、その得た「地権」を前提として「事業」を拡大しても、それに伴う「より良い組織」と「統括統治能力」が育成しなければ、結局はこれを護ろうとして無理に「武」に頼る結果と成り得る。
これでは「青木氏氏是」に反する繁栄と成り得る。
「氏是の諭し」に従うは、序に記している「氏是」が求める”「抑止力」にあるとする考え方”にあったからである。

実際に、資料から観ると、摂津西域、近江一部、名張西域、伊賀北域、南紀西域に、旧領地外の新規領地の安堵の話があった事が読み取れる。
この「5地域」は、「旧領地のほぼ隣接地域」であるが、然し、現実は受けていない。
何故なのかは、確定した理由は判らないが、次ぎの事では無かったかと考えられる。

(イ) 「氏是」を護り「旧領地外の地権」を受ける意志が無かった事。
(ロ) 「20の郷士衆」の外域と成る事から避けた事。
(ハ) 「秀吉の思惑」が「旧領地から離れた隣接域(伊勢大和紀州の全域 約1.5倍/旧領地)」にも事業を拡大させて繁栄を図る事にあった事。

以上にあるとして、内々に断ったとする見方が出来る。

何れにしても、(ハ)を受けたとしても、(ロ)が届かない事に成ると、「新規の家人」を新たに差し向けねばなら無く成り、「内御師」の中で運営と成る。
結局、これは「外御師制度」では難しく成り、組織運営に無理と混乱が伴う事が、(イ)の氏是に関わって仕舞う。
「保守的な思考」が左右したのであろう。
「商記録の青木氏年譜」に、”1582年末に「伊勢安堵」”。”1584年の「伊勢解決」”。等の記述がある事から観ると、この結論は「青木氏」と「全関係者」で「伊勢の福家」で話し合った結果であろうと思われる。
その結果を観ると、”更に拡大させる「意志」”と云うよりは、”旧領安堵以上の「欲」”が無かった事に成る。
「難しい判断」であったと観られる。

”何故、「欲」が無かったのか”と云う素朴な疑問が浮かぶ。
その事で調べたのが、この加増される「地権範囲」が、3倍も4倍も拡大するのには確かに抵抗と成る。当然に「無理と混乱」が伴うし、「旧領地外」の加増される「地権の領民」との間には共有する「歴史と伝統」は無い。
その地権が「約1.5倍/旧領地 の地権が増える」は、筆者の感覚では、「無理と混乱」の「許容の範囲」であると考えられる。
その「旧領地外の加増地権」の範囲は、「隣接域」に相当し、「飛び地領]でも無い。
”「欲が無い」”は、「青木氏」「家人頭」「内御師衆」のみならず「20の郷士衆」や「外御師衆」や「職人衆」や「シンジケート頭」や「神明社権禰宜頭」にも無かった事に成る。
この「多くの関係衆」に執って、果たして「地権がより広まる」は、「生活が高まるの条件」なのかにある。
「衆合しての話し合い」は、結局は、「共通する議題」は、必然的に「地権拡大」=「生活向上」に関わる事に成るだろう。
と云う事は、取り分けこの談合は「二つの立場」に判れる。
「青木氏」や「内御師衆」や「20郷士衆」の立場と、「外御師衆」や「職人衆」の「長」の立場に成る。
この「二つの立場」が集まったのであるから、この「二つの立場の考え方」が、”それ以上の飛躍した生活を望まなかったまでに豊かであった”と云う事にも成る。
つまり、議論の末は、「地権拡大=生活向上」と云う結論に至らなかった事に成る。

「旧領地までの拡大」は、”妥当な豊かさである”として否定せずに、必要以上の欲を出さなかった事に成る。
「旧領地」は、共に1000年以上に生きて来た伝統を遺して来た土地でもあり、当然に否定する者は居ないであろう。
「旧領地」には、夫々立場で例外の無く「縁者や親籍の一族」が、帰属を希望して200年以上も我慢をして来て、これを否定する者はいない。
その「旧領地」には、「新たな四事業」が敷かれて、”「近隣の門徒衆」と共に、「旧領地の親族の生活」が潤うのであれば、充分だ”とする考えが支配したのであろう事が判る。
これは”「欲」が無い”と云うよりは、”「親族の帰属」への満足” 即ち「一族愛」であった。

その証拠と成ることが一つある。
それは、「四事業」の一つ未知の「早場米の開発」(早稲光)にある。
仮に、「旧領地の地権」が回復しても、そこには「青木氏地権全域」に及ぼす「豊かさ」を保つには「主食料の確保」(米の増産)を成し得なければならない必須の条件である。
それは、新たに必要と成る「門徒衆の食糧分」と、事業拡大に伴う他の地域からの「新たな人員の確保分」も賄ねばならない。
其の侭では、絶対量は不足する。互いに分けあえば苦しく成るは必定である。然し、「地権範囲」は限定されている。
と成れば、「二毛作が可能な稲の開発」と云う「未知の難題」に「衆議の議論」は陥ったと観られる。
そこで、宗家の「青木氏福家の責任」として、「和紙殖産」から未経験のこの開発に取り組んだのである。
現在の様な「農業試験所」がある訳でも無く、当時としては発想そのものが特異であったし、その様な経験者も無かった。
「稲の開発」だけでは済まない。「気候や土壌の解明」など全て「未知の世界」である。「青木氏」だけが未知である訳では無い。日本全国未知なのである。
況して、「戦乱期の中での開発」である。
「並外れた気力」と「莫大な財力」が無ければ成し得ない。
「青木氏の衆議」は、この「厳しい未知の選択」を選んだのである。

「旧領地外の地権拡大」は、「旧領地」と異なり、更にこの問題が伴う事に成り、その意味でも議題は進まなかったのであろう。
そもそも、「1000年の歴史と伝統」を共にしなかった人を動かす自由度が異なる。
「成功裏の裏付け」は取れないし、「独立性癖の強い風土癖」も重なって「反発」も覚悟をしなければ成らない。
「衆議の議論」が紛糾したと観られる。
「旧領地外の地権拡大」には、この「未知の難題」に議論が傾いたと云う事は、”「欲」が無い”では無く、”「余裕」が無い”と衆議は決まった事に成る。
それよりは、この”「早場米の開発」”に衆議が決まった事は、”「親族の帰属への満足」「一族愛」を優先するべき”と決まった事にも成る。
「青木氏福家の責任」を果たす「最大の課題」で「未知の難題」であったことが、「光三郎の家の資料」からも発見されているし、「青木氏の最大の誉れ」としての口伝が伝わっている。


さて、この様な経緯の中で、多くの「門徒衆」を救ったが、この「青木氏の誘い」に乗らなかった勢力がいた。
これが、「武装勢力」の「指導者衆」であった。

然し、唯、雑賀氏と根来氏と畠山氏の「国衆」の「武力集団」だけは完全には解決しなかった。
この領域の問題は、「青木氏」には無関係であった事から、この「武力集団」だけが浮き上がった形に成った。

然し、この配下にあった「門徒衆の家臣」等の多くは、「武力集団との争い」から身を引いたのである。
勇気の要った事であったと観られ、この浪人と成った「門徒衆の家臣集団」を「上記の四事業」へと導いたのである。
そして、独立させて「専属の商人」(射和商人)として教育して「店」を持たせたのである。

従って、「秀吉」は、この不満の異なる一揆では無い「武力の反抗集団」に対しては、あくまでも”「戦い」”で臨んだ。
その事があって「殲滅作戦の方針」で「根絶やし」を図った為に2年程度かかったのである。
結果は下記の状況で完全解決と成った。

「青木氏の勧誘」に乗らなかった全ての人々は、家臣を無くし、遂には窮地に陥り、内部で勢力争いが起った。
最後には「根来寺」に全て逃げ込んだのである。
そこでも依然と抵抗を緩めなかったのである。
そこで、「秀吉」は、この「根来寺」に対して民衆を解放する様に再三要求したが抵抗を緩めなかった。
挙句は、民衆を楯に立て籠ったのである。
結局、秀吉に依る「根来攻め」が起こり、歴史に遺る「殲滅作戦」が展開され、「反抗勢力」は紀州から完全に霧消した。

結局は、この「殲滅作戦」を観て恐れを成した高野山の「真言宗騒動」だけは、一時「浮き彫り」には成ったが、これを期に矛を収めた。


「豊臣政権樹立後」に「伊勢青木氏」に対して、「旧来の伊勢の土地」に加え追加の本領安堵された。
この地域の全て、奈良期に朝廷の命で半国割譲した土地柄である。日本書紀にも記述がある地域である。


「伊賀一部」
「南紀州の遠祖地」 
「北紀州一部」
「名張域一部」
「摂津堺地区一部」
「伊勢北部地域一部」

以上等が旧領地の本領安堵された地域で上記の「四事業地域」に匹敵する。

恐らくは、これは、「秀吉」が、上記の解決の発端は「青木氏」にあるとして、「二つの青木氏」に対して「特段の恩義」を感じて、「南紀州域」は、勿論の事として、「伊勢域」を始めとして「北紀州全域」の「門徒衆の不満」を更に解消する為に、「伊勢青木氏」を政治的に保護した。
「伊勢青木氏」に依って民衆に「職」を与えさせて、その「経済的安定」を図らせる為の素地を確定させる為にも、「秀吉からの旧来地の本領安堵策」であった事が書かれている。

「会合衆」から更に発展した日本で最初の「伊勢の自由な商業組合」は、上記したこの「四事業の経緯」からより、”自由さを持つ商業組合”と成って、この「自由商業組合」が発展したのである。
これが、象徴する”「射和商人」”と呼ばれるものである。

この為に、「秀吉」は、”「民の門徒騒ぎ」は「一切不問」”として、この「事業の推進」を政治的に図った事が「青木氏の資料」に書かれている。
前段でも論じたが、「徳川氏」もこの「本領安堵策」を踏襲した為に「伊勢商人」と「射和商人」は江戸末期まで遺ったのである。
(「徳川氏との談合」は、「500社に及ぶ神明社」と「その領地の返却」で決着した。)


「備中廻船」では、その結果、「高松攻め」では、「資材調達」を一手に引き受けた事が判る。
「二つの顔」を持つ「青木氏」は、「秀吉」に執っては、戦略上、極めて都合が良かったと観られる。
「紀州討伐」では、その[反乱の根本」に成っていた「門徒衆の説得」で事態が大きく進展した事で、個人的にも相当に意気投合していたと観られる。
「人たらしの秀吉」ならではの事である。
”「出自誇張」の腹積もり”は、これをきっかけに「秀吉本気モード」に成ったのはこの時期(「紀州討伐」「備中廻船」「信長面談」)からであろう。
「第二次長嶋の戦い」後には、未だ無かったが、この直後あたりから意識し出した感じがする。

そもそも、この為に瀬戸内海と中国道での「毛利氏による補給路断絶作戦」の動きが在った。
「商記録」(1581年に「摂津会合」。松阪記)によると、「神明社の御師組織」から「摂津の店」が、「毛利氏の動き」としてこの「重要情報(商情報)」を既に把握していた模様である。
この「事前情報」は「摂津水軍」と「伊勢水軍」にも伝えられていた様で、この為に、「補給の商い」を受けた時に、「摂津の店」で関係者が集まって「事前協議」していた事に成る。
「秀吉軍の補給」も然ること乍ら、瀬戸内が混乱する中で「商の運搬」も含めて「二つの水軍」が「海路の確保」の為に「抑え込み」に入っていたと観られる。
名目は「青木氏の商船保護」の「誇示行動」であったらしい。
この商記録の”「廻船」”の「言葉の意味合い」は、意味が深くこの事から来ていると観られる。
(「商記録」の「細かい取引内容」を更に詳細に分析すれば、よりはっきりとした「行動の答え」が出て来ると観られる。)

「秀吉」に執っては歴史上、「毛利進出」は「最大の命題」で「信長の督促」があった状況下で焦っていた。
然し、「高松攻め」に付いて「秀吉」に執っては、最大の課題は「軍事力」では無かった。
その危険で弱点であったのは、「中国域の毛利勢」に依る「補給路の断絶作戦」であった。
この「命題の補給」を「請け負える豪商」はそうは無い。

その為には、「秀吉」のみならず補給の「豪商」自らも「毛利に対抗できる抑止力」を持ち得ていなければならない。
又、敵対する「毛利氏」も”「伊勢青木氏と紙屋長兵衛」”を知り得ていなければ「抑止力の効果」は低い。
と成れば、「摂津や堺にも大店」と「海のシンジケート」と「陸のシンジケート」を持ち、「瀬戸内の讃岐青木氏」との関係を持ち得ていなければならない。
そうすると、「秀吉の弱点の補給路の弱み」を狙っている周囲勢力を押えられるのは「伊勢青木氏」しかない。
「毛利氏」が「紙屋長兵衛の実態」を知る得るには、取り分け「讃岐青木氏の存在」が大きく影響した。

何故ならば、「毛利氏」は強力な「瀬戸内水軍(「平家水軍」からの「陶水軍」を元にした「毛利水軍」、後の「村上水軍」)を保有している。
この事から、「毛利氏」は「讃岐水軍」(讃岐)も「伊勢水軍」(伊勢 摂津水軍)も古い歴史を持つ水軍である事から、「存在]は勿論の事、その「勢力や位置関係」は充分に承知していた。
この事からも、「伊勢青木氏、紙屋長兵衛、伊勢シンジケートの存在と実力」も充分に承知していたと考えられる。
この「二つの青木氏の水軍」がタッグを組まれる事は毛利水軍には辛い事に成る。
何故ならば、過去に一度戦っている様に、下記の「義経の敗戦の経験」を持っているからだ。

この「毛利勢を抑え込む目的」で、「戦略上の安全」から”摂津港から海送した”と記されている。
上記した様に、「瀬戸内の示威行動に依る事前準備」が働いたと考えられる。
この事は、「伊勢」からでは無く、瀬戸内海の「摂津」から出る事で、「毛利側」に敢えて「補給船団」の「出船」を知らしめる事で牽制する目的があった事に成る。
そして、「補給」が順調に出来ている事を認識させて、”「毛利の戦意」を低下させる狙い”があったと考えられる。

仮に、この「補給」を止めようすると、「讃岐青木氏」と「伊勢青木氏」を敵に廻す事に成り、結果として全国にその子孫を拡げ展開している「藤原秀郷軍団」を呼び込んで仕舞う事に成る。
これは、結果としては戦域が広まる事から「高松攻め」は成功させる事に成る。
従って、「毛利側」には「戦域拡大」は絶対に得策では無かった。

従って、この事を意味する事として、「毛利氏側」は「和解条件」として、安国恵瓊が「五国割譲案」を提示した位である。
「戦域拡大」は戦域拡大は絶対不利と考えていての和解条件であり、出来なかった。

その為には、「伊勢水軍の護衛船団」(摂津水軍は同族で弱小の商船団)は誇張する意味でも絶対に必要であった。
これは「水軍力」のみならず「水軍の背景」を誇示しているのである。

何故ならば、そもそも、「水軍」とは、元来、「横の組織」で出来ているのだ。
つまり、「伊勢水軍」は、「駿河水軍、熊野水軍、紀伊水軍、摂津水軍」の「横の組織」で構成されている。
血縁関係も「縦横」に結んでいて、海の上での互いに護り合う「連合軍団」をも構成しているのである。

(注釈 毛利水軍の前身の平家水軍と戦った義経は、この「五水軍の軍団」を使っての「独自の水軍編成」で戦った事で勝利した。
この時、義経に反抗的に出ていた「北条氏の相模水軍」を当てにしなかった。)


(注釈 中でも「紀伊水軍」は、全国の水軍仲間からも恐れられていて、その「尖鋭さ」は有名であって、通常の水軍戦闘方式を取らない事が恐れられ、「ゲリラ戦法」であった。
この「紀伊水軍」を引き出すと他の水軍は戦力を無くすとまで恐れられていた。)

”「伊勢水軍」”を見せる事で、「背後の連合軍団」を想起させる目的があり、更には、「讃岐青木氏」が率いる海部氏等から成る「瀬戸内の讃岐水軍」をも想起しなくてはならない事に成る。
「伊勢水軍」は、当然に「伊勢青木氏」を想起しているから、先ず「毛利側の補給路攻撃」は控えて来る。

そして、この「備中の戦い」の時、「伊勢水軍のシンジケート」が「船団の護衛団」として動いた事が書かれている。
当然に「讃岐青木氏との談合」も読み取れる。
恐らくは、これでは「毛利軍の得意とする瀬戸内水軍」の「海からの戦略」は容易に手が出せなかったと観られる。

話題性があって「高松城水攻め」に現在は焦点が当たっているが、現実の作戦上の問題は「秀吉の背後」は弱かったのである。
「裏切り」が起これば、「秀吉軍]は陸に於いても「内部崩壊」を起こす。
それは、取り分け、「秀吉軍2万の軍勢」に物資補給するには、「陸路」は「背後の政情不安と勢力」から危険であった。
一応は敵か味方か判らない「宇喜多氏」は「戦況形成上」では抑えた形で「1万の軍勢」を動かす事に成ってはいたが、何時裏切りが起こるかは判らなかった状況にあった。
「陸路補給」を採っていたとしたら「秀吉軍弱点」を見せた事に成って、「秀吉軍弱点」を突けば勝てるとして「裏切り」は起こったと考えられる。


そこで、「独自の水軍」を持たない「秀吉軍」(織田軍)は、「毛利軍」が抑える瀬戸内での「水路による補給路確保」が「最大の弱点」であった。
この「弱点」を悟られると、各地で「裏切り」が起こり、「東の背後補給路」を断たれて、それこそ「水攻め」どころか、逆に「枯渇攻め」(兵糧攻め)で滅亡する。

現に、この「高松攻め」の前には、秀吉は「枯渇攻めの鳥取城」「日干し攻めで三木城」で勝利して西に進軍したのである。
そこで、戦略上、この”「補給路の弱点」が無い”と云うところを敢えて絶対的に誇示する必要があった。
それは「水路の安全確保」であった。
ところが、逆に「毛利氏」は「瀬戸内水路の西半分」を押えて得意とする戦法でもあった。
そこで。本来なら、水軍を味方に付けて、軍略上のバランスを採って、誇示する必要に迫られていた。
然し、「毛利水軍」に対抗できる味方に出来る水軍は「秀吉」には無かった。
従って、最低限でもこの”「水路の補給路」”だけでも「毛利水軍に対抗できる勢力」を味方に付けて「物資輸送路の確保」をする絶対的な必要に迫られていた。
「秀吉」に執っては、軍略以上に余計に誇示する必要に迫られていたのである。
そんな「商人」がどこに居るのかである。
”そんな「商人」”が居たのである。「秀吉」の「紀州討伐の経験の記憶」の中にいたのである。
それが、「伊勢の青木氏」であった。
絶対的に上記の「紙屋長兵衛と讃岐青木氏」の「速やかな協力」を得る事に在ったのである。

筆者は、「信長面談」には、この「問題の解決」には「秀吉」に執っては「信長の前での談合」もあったと考えている。
その為に、事前に「紙屋長兵衛 伊勢青木氏」の協力を得る必要があるが、「伊勢の問題」を早期に解決しなくては到底に協力は得られない。
つまり、督促されている「高松攻め」は無し得ないというジレンマに陥ち至ってい事に成る。

それは、少なくとも、「紙屋長兵衛」と「信定と忠元の伊勢青木氏」とその「配下の郷士衆」に”不必要な危害”を加えない様に進言しなくてはならない状況に陥ち至っていたのである。
(「水路の補給路確保」のみならず、上記した様に「戦略上の水軍」の「示威行動」にも成り得る特典があった。)
1581年の「紀州征伐の恩義」や、この「補給路の事」にも成功して、恩に感じた「秀吉」は、自ら進んで”知古に成った”のではないかと考えられる。
これが、最終的には「信長面談」に繋がって行ったと観ている。

「青木氏」が求める「悠久の時代」に戻す”「伊勢平穏」”を助け、「秀吉を助ける事」は、「信長」には絶対に不足は無かった筈である。

然し、独自行動を採る「伊勢衆」(伊賀氏、伊藤氏、長嶋氏、畠山氏等)までの話は出来なかった筈である。

この「信長面談」が「1581年の高松攻め」の直前である。
この準備も兼ねて、先ず「長兵衛と談合」し、「氏郷と談合」をし、その結果から、「信長面談の運び」と成ったと観ている。
「話された議題」は上記の通りである筈である。

そもそも、「秀吉の青木氏」に付いては、正式には「本能寺の変」後の「伊勢国と紀伊の国の始末後」から正式に出て来た問題であった。
「1581年の佳境である時期」に「武田氏を滅ぼした後の信長」に会わせるのであるとすると、次ぎの様に成るだろう。

「秀吉の遠縁仕立て」の「人物(1)」では、「人物(2)」の「信定」ではあるが、其れと判る様に敢えて伏せて、「佳境の意味合い」を悟らせる様に工作した。
そして、「秀吉配慮」の「ゲリラ戦の長期化の伊勢」の「事態収拾」を信長に間接的に促した。


第2説の直接に「伊勢の青木氏」として「人物(2)」で会した。
とすると、何かの面会の理由が必要である。
それも、”穏便に”である。

(上記に論じた事を複写)
”1581年の末当初に「秀吉の紹介」で、「一名の青木氏」なる者が、「信長」に面会している。”

この場合は、直接面会の議題の「ゲリラ戦の長期化の伊勢」の「事態収拾」に行き成り入る事に成る。
この場合、「秀吉の行為」は「信長」に対して”烏滸がましい事”に成る。
この時期、通説でも判る様に「信長の精神」は過敏に成っていた。
これを和らげる何かの”「表向きの議題」”が秀吉には必要であった。
況して、「高松攻めの遅れ」もあった。
簡単には行かない。それでも面会は断行されたのである。

上記の様に、裏には思っていても、決して表には出せない「高松攻め問題」もあり、「伊勢の問題の絡み」だけでは無く、”それなりの絶対的な理由”が必要であった筈である。
そこで、「信長」が1568年に美濃や近江に「楽市楽座の令」を発している事に「秀吉」は着目していた。
「信長」は、「形や慣習」に捉われずに「新しい形の経済改革」等に積極的考え方を持っていた事を考え合わせた。
従って、「伊勢」にも「伊勢平定後」には、「楽市楽座の令」を発する為にも、”「ゲリラ戦の長期化の伊勢」に付いて、早期に「事態収拾」を成さしめ、「混乱の後」を豪商「伊勢青木氏」を以って遣らしめる事”を提案したのではないかと考えられる。
この事で、「伊勢青木氏」を混乱から解放させて、「高松攻めの戦略」に巻き込む事が出来ると考え、その事を「敏い信長」に「悟らせる戦法」を採ったのである。

「青木氏の資料」と「公的に成っている記録」から総合的に「状況判断」すると、”青木氏に委ねた”と考えられる。
当然に、悠久の「歴史を持つ伊勢での立場」や旧来からの「郷士」や「伊勢衆」を束ねている事や、「二足の草鞋策」から生まれるその「巨万の富の経済力」を基にして、納めさせれば「不入不倫」で保護されていた「旧来の環境」に戻す事が出来ると見込んでの談合である。

これは「信長」に執っても「反意のない話」であるし、充分に説得できる「表向きの議題」が出来るし、「関連付けられる議題」でもあった。
平定後に「徹底した殲滅作戦」を行った「北畠」「伊賀」「長嶋」「伊勢」「紀州」「雑賀」「畠山」「根来」である。
何れが正しいか悪いかは別として、「皆殺しの殲滅作戦」には、伊勢と紀州には「敵意」を抱いていた事は間違いは無い。
抱くなと云う方が無理であろう。
従って、”武力では無い誰か”を以って安定させて居なければ、又、「一揆や反乱」でも起こる事は避けられない。
これは、後の統一戦略の「九州討伐」を控えて背後が好ましくない。

「青木氏」と共に「20の郷士衆」を中心に、救出した「門徒衆」「伊賀衆」と共に、「武力集団であった末裔」を「和」を以って接し、「生活の糧」を補償させる事で、「乱世での空しい敵意」は次第に霧消に向かうであろう。
「一族の氏郷」と「秀吉と信長」は考えたのである。
この為に、「秀吉」のみならず「本領安堵」は、推測の域を超えないが、「信長」も”「伊勢収拾」後には”と考えていたのではないかと観られる。

「信長」は「秀吉の案」に全く反意無く完全に同意したと観られる。
その証拠に、現実に、「伊勢平定」の直後に「秀吉と氏郷」は、松阪に「城郭」を創り、「ヨーロッパ式の商業都市」を構築した。

(皇祖神の神聖な地を護る為に「城郭」等は禁令で有ったが、敢えて「西洋式の城郭」を創建した。)

これは、その時の結果を如実に反映させた事に外ならない。

前段で論じた様に、「青木氏」は「約束通り」に新しく出来た「侍屋敷町(殿町)」の三区画を特別に譲り受けた。
そして、ここにそれまでの「座」では無く、日本で初めて「解放された自由な商業組合」を構築したのである。
(現在でもその組合であった「四日市商人」や「射和商人」として遺っている。)

この「伊勢の後の始末」から鑑みても、明らかに「楽市楽座の令」を議題に、”「ゲリラ戦の長期化の伊勢」の「事態収拾」”を信長に暗示させたと考えられる。

そこで、「経緯の網羅」は出来たが、次ぎは「青木氏」に執っては、後勘から、この時の「面談に応じた人物」を確定しておかねばならない。

第1説も「信定」であり、第2説も「信定」ではあるが、間接的か直接的かの何れかである。
確定は出来ないが、「平定後の伊勢の状況」から鑑みると、筆者は第2説の「人物(2)」の「信定」と談合したと考えている。
然し、下記の点から第1説の間接的に”「人物(1)」の信定”で面談した可能性が高い。

そこで、この談合が成立すれば、当然に、この第1説も第2説も「人物(3)」の「忠元」に繋げねば何もならない事には成る。
然し、この時は、「秀吉」は、「信定」だけを呼んだのであった。

そもそも、一挙に解決させたいのであれば、両方で会せるのが先ずは”「常道の戦略」”と云うものでは無いか。
況して、「北畠氏の後始末」より当面は「伊賀の始末問題」と「長嶋の当面問題」に移っている。
1581年末と成れば、「伊賀の始末問題」と「長嶋の当面問題」の二つを解決させるには、どちらかと云うと、「人物(3)」の「忠元」である筈であった。
然し、「秀吉の判断」は全く違った。”「信定」”を面談の相手として指定した。
恐らくは、これは「伊勢の乱の責任者」の「氏郷との談合」の末である事は間違いは無い。
とすると、「氏郷」も「秀吉」と同じ判断をしていた事を物語る事に成る。
「常套手段」では無くて、”「何か」”があってこの判断に落ち着いたと云う事である。

では、その”「何か」”とは、この「何か」を解く必要がある。
その「解明の糸口」は「人物(1)」の「信定」であれば解ける。
それは、”「伊賀と長嶋を解決する」”と云う事だけでは無く、”「伊勢全体を解決する」”と云う事に焦点が最早移っていたのであろう。
”「伊賀と長嶋を解決する」”と云う事に成れば、その「伊賀長嶋の解決」の「責任者」は「氏郷」である。
とすると、「秀吉」では無く、「氏郷」がお膳立てしなくてはならない問題で在る。
「秀吉]が出て来る問題では決して無い。

況して、”「伊賀長嶋の解決の問題」”を「信長」に直接に「氏郷」が訴える事は、「責任逃避」と成って「信長の叱責」を受ける事にも成りかねない事は明らかである。
最早、既に、「伊賀散発の騒動」は解決に至るは必定で、「長嶋問題」も第三次で解決する方向に戦略は出来ている。
敢えて、騒ぎ立てる事は好ましくない。まして、「秀吉」がである。
その上で、「伊勢をどの様にするかの議題」として面談する事に成ったと考えられる。
それ以外には唯一つを除いて無い。その唯一つは何かである。

唯、この為には、「伊賀散発の抵抗」と「長嶋の後始末」は、何れも一族の長の「忠元に責任」がある。
その為には、「信定」で先ず「伊勢全体の有り様」を討議した上で、この時に、細部に「伊賀と長嶋の最終始末問題」には、「忠元」との面談も必要であった事から後日に必ずセットする面談と成り得る。
そうで無ければ、この「面談の目的」は達成され得ない。
その証拠に、「細部の始末問題」として”「紀州討伐」”をも計画されていたのである。

故に、1581年末の面談は「信定」で「人物(1)」としてお膳立てされたのである。
つまりは、「唯一の何か」は、「人物(1)」は、”「伊勢紙屋長兵衛」と「青木信定」”であった事に成る。
故に、「人物(2)」の「青木信定」では無かった。
それでなくてはこの面談は成立しないし、「信長」から”要領が得ない”として大叱責を受ける事に成るだろう。

「青木氏の年譜」にも、「信長との面談前後」に「伊勢衆」が集まって数度に談合している事からも判る。
「事前打ち合わせ」と「事後の報告」であった事に成る。


その要領の一つとして、「秀吉」がお膳立て手配した「信長との談合」の中では、「忠元との談合」は必ずセットされる要領事には成るだろう。
「秀吉の高松攻め」の「裏の目的」からすると、「忠元」は秀吉には関係が薄い事に成る。
然し、「信定」を「高松攻め」に引き出すには、「伊勢安定」が必要と成れば、必須条件で、当事者の「忠元」とも合わせて「伊勢収拾」に向けての談合を「信長」ともセットして置く必要がある。
”付帯する必須の条件”としてあった。
これを”誰がお膳立てしたか”の調査では確定する資料が出ないが、「青木氏の商記録による年譜」からは、「秀吉」がお膳立て手配した「信長との談合」の時に、「伊勢収拾策」の「必須条件」として決まった事と観られる。
「秀吉」や「信定」や「氏郷」等が、この話が上手く行けばと、”「事前腹積もり」”はしていた事と考えられる。
と云う事は、この「忠元との面談」の「話を出せる環境」とは、”「聡明な信長」が「秀吉提案の伊勢収拾策」を暗に納得して居た環境”であった事を示す事と成る。

その証拠は次ぎの事であきらかである。
「人物(3)」の「忠元との面談」は、間違いなく下記の通りに実行されている。

それも”4度”もである。
この”4度と云う回数”に重要な事態を物語る意味を持っている。
「聡明な信長」は、「秀吉お膳立て手配の談合」の「裏の暗示の意味」を完璧に理解して居た事を意味する。
前段でも論じたが、後勘から観れば、その「面談のタイミング」が戦略上、適示適切で申し分ない。
更に云えば、「面談場所」も戦況から観ても実に効果的であり申し分ない。
「信長」は、「秀吉の暗示」で動いた事は動いたが、明らかに本気である。
その「信長本気」が、「高松攻め」でなのか「伊勢収拾策」でなのかは、「高松攻め」の前に「光秀謀反」で判ら無く成っているが、「信長」が「青木氏等に採った平穏な伊勢状況」から観て、「伊勢収拾に主眼」にあったと考えられる。
”「伊勢収拾策」”を確定して押える事で、”「高松攻め」”は「青木氏」に依って「水路補給」が可能に成れば勝負は決まったものであり、「流れ」の中で解決する。
つまり、「九州討伐」に向けて”背後を安定させる事”に「主戦略」があったと観られる。
「高松攻め」は、その「経過の戦い」であって、「主戦」では無い。
この「高松攻め」を取りあえず収めて置けば、「毛利勢」と「日和見勢」は時間の問題で収まりが着く。

「讃岐青木氏」と「伊勢青木氏」で「瀬戸内の制海権」を、「織田軍」が「中国地方の2/3の覇権」を押えた事に成り、「九州討伐への道筋」は着く。
「讃岐青木氏」の「水陸の勢力」とその「商いの経済力」と、「伊勢青木氏」の「水軍力とシンジケート抑止力」と「商いの経済力」とは、「秀吉」のみならず「信長」には「魅力」であった筈である。
「味方」でも無いし、「合力」でも無い勢力の存在が、”勢力範疇”にある事に、「信長の考え方」と合致したと観られる。
それは、「信長の楽市楽座の令」の「考え方」が「伊勢収拾策」の全てを証明する。
この”「面談 4度」”は全てを物語っているのである。

「人物(3)」の「忠元」は、前段でも論じた様に、「信長との面談」は次ぎの通りであった。
「伊賀の乱」の第一次と第二次の途中の2期  (第一次は氏郷か、第二次は秀吉か 「忠元の信長面談 1」 )
「敗残兵の散発乱」の末期             (第三次は、「忠元の信長面談 2」 1581年)
以上の2度が先ずセットされた。

「伊勢長嶋収束直前」の時の2度         (「忠元の氏郷面談 3」 1581年-「忠元の信長面談 4」 1582年) 

下記に記載しているが、この期間の商記録の「青木氏年譜」から観ると、この時の状況が次ぎの様に読み取れる。

1581年に「摂津会合」。 「瀬戸内海路確保」などの件で関係者を集めて情報交換と今後の打ち合わせをしている。
1581年に「伊勢衆合」。 「信定の信長面談」を控えて郷士衆等の関係者を集めて打ち合わをせしている。
1581年に「伊賀騒乱(ホ)」。 この時前後に「氏郷立合い」で「忠元の信長面談 3」をしている。
1581年に「員弁桑名騒動」。 岐阜に近い伊勢北域で騒ぎが、「忠元本家」の中で意見の違いか。
1581年に「紀州避難」。  「福家の信定」が一時新宮に引いている。意見集約を図る為か。
1581年に「本寺修復」。  「面談場所」の為に修復か 「菩提寺」が門徒衆等の逃げ込みで一部災禍あり。
1582年に「伊賀収束」。  この時前後に「氏郷立合い」で「忠元の信長面談 4」をしている。
1582年初に「長嶋衆合」。 この時前後に「忠元の信長面談(代理人か) 5」をしている。

(注釈 「忠元の面談」には、「公的に成っている記録」は兎も角も、「青木氏の資料」のみならず、「佐々木氏の青木氏関連資料」にも、「時期ズレ」「場所ズレ」「内容ズレ」はあるにしても詳細な記載がある。)

以上の確実には計4度に、確定できない「小面談」もあるが、兎も角は「面談の大小」は別として、公的な資料とが合致する明確なものとしては、「信長」と「岐阜の館」と「伊勢の寺」で談合している事は判っている。

「伊勢収拾の方向」に向けて進んではいるが、「面談の前後」に「信定の福家」と「忠元の本所」で、”何か騒ぎの様な事”が起こっている事が判る。
面談には「直接の信長面談」と、「信長の意を伝える氏郷との面談」と、「信長の意を代理人との面談」と、「織田事務方との面談」があった事が判る。

(注釈 前段でも論じた。「小面談」とは、”この資料は正式にではないが会っているな”と判別出来るもの。
この「小面談」には、全て「氏郷との面談」が絡んでいて、”「信長」もこの場に居たな”と想起させられるものが多い。
同じ事が、「信定の場合」もあって、美濃に近い「青木氏の伊勢北域の分寺」と、「伊勢北域の神明社」での面談があったのではと観られるものがある。
恐らくは、「氏郷」と同席して、岐阜から出かけて来た「代理の者」ではないかと観られるものを含めると、「青木氏や佐々木氏の資料」と合わせると8度に成る。
これらから観ると、「事務方」と裏で盛んに「伊勢収拾策」に向けて談合している事に成る。)

この記録は、「忠元の家の実記録資料」は見つからないので含まず、「信定が獲得した情報収集」である。
「佐々木氏の忠元の記録」は、「近江の佐々木氏系青木氏の家」から見つかった資料と観られる。
この事は、「青木氏の資料」でも「上記の面談要領説」を証明している事に成る。

これらは「信長」が「伊勢収拾策」に、”どれだけ本腰を入れていたか”が証明できるものである。

「ゲリラ戦の長期化の伊勢」の「事態収拾」を成さしめ、且つ、「混乱の後」を「豪商伊勢青木氏」を以って「伊勢平癒策」を遣らしめる事を提案したのである。
兎に角、先ずは、「楽市楽座の令」”を議題に、”「ゲリラ戦の長期化の伊勢」の「事態収拾」”を信長に暗示させたと考えられる。
その結果として、「事前打ち合わせ」の「高松攻め」の「備中廻船」が成し得ると考えて面談を実行したのである。
結果から観て、「聡い信長」であれば、「暗示の委細」を充分に承知していた事に成る。

(この後に「本能寺の変」が起こるのだが、「青木氏の後勘」から観て、「光秀の愚劣さ」を痛感する。)


「人物(1)」の「信定と長兵衛」と、「人物(3)」の「忠元」が、「信長」に会い、「今後の伊勢の事」に合意したとすれば、この「談合」は一挙に成立する事と成る。
実際、その様に成った。


この様に、「青木氏側」から観れば、「信長の評価」は、「秀吉家康と性格の違う者」との比較から「荒くれ指導者」と考えられる傾向があるが、決してそうでは無いと観られる。
「青木氏の本音部分を教える密教浄土宗」で云う”「人を観て法を説け」”で行けば、この「信長」も「普通の人」である。
「秀吉家康の時代」も同じ事で、「人を観て法を説け」の「本音の生き方」をする事で生き残れた。

一見して、「人を観て法を説く」は、差別意識があって卑怯とも思えるかも知れないが、果たしてこの「差別意識」が生きる事の真理であろうか。
青木氏は上記した様に、この「人を観て法を説く」での「本音の生き方」をしたが、むしろ、民を救い共に生きたではないか。
悠久の中で、民と共に生きなかった事は無かった。
「氏是」を護り、「家訓」を護り、「人を観て法」を説き、「民の側」に立ち助け、「本音の生き方」をしたからである。

結果として、後勘から観れば、「紆余曲折」はあったにせよ、「二つの青木氏」に執っては、全てその様な「本音の思惑」に沿って運んだ。
「室町期の混乱期」から、「秀吉-氏郷」の「安定期」を経て、「家康-頼宣-吉宗」と引き継がれて成長期に移り、「伊勢」は「元の平穏」を取り戻した。
そして、江戸中期以降はより「悠久の歴史]の中で最も発展と繁栄を更に遂げる事と成ったのである。
これは、「本音の生き方」に所以していた事に成る。
当に、「和紙と楮の殖産」は勿論の事、上記の「四事業」の事などは、この「本音の生き様」を如実に物語るものである。



この「経緯の解明」には、主に「商記録」による「青木氏年譜」の分析と関係資料の調査が、高い成果を上げた。
[前段」と合わせて、「二つの青木氏」の「本音の部分」の「室町期末期の生き様」を解明出来た。


実は、筆者は裏資料として、「商い記録」をベースとし、他の遺資料と組み合わせて、約100年間のこの伊勢に関わる関係の事柄を抜粋してまとめあげたものを「青木氏年譜」として作り上げてその年譜に込められいる「意味合い」を読み取り、それを検証して常に論文にしている。
「商い記録」をベースにしての事だけに余計な事が記載されていて、取捨選択してまとめる作業をして作ったものである。
必ず毎回100年程度に区切って偏纂しているものである。

この遺資料は「青木氏」に関係する「広域の地域」からの情報を書き印したものである。
恐らくは、「500社の神明社」や「支店」や「伊勢シンジケート」からの「情報源」で、その目的は“商いに資する事“が目的とされていて、その表現が簡略化して多少暗号化した様な書き方に成っている。
恐らくは、”観る者が観れば判る範囲の事“として、恣意的に作成し続けられて来たものであろう。
それを何とか投稿する以上は判り易くするために租借した「裏資料」である。

実は、「伊勢青木氏」には、この「商い記録」では無い「青木氏」としての”「四家の事」”を詳細に書き遺した本来の「青木氏年譜」が在った。
「青木氏由来書」と呼ばれていたが、祖父の代の明治35年の「松阪の大火」で消失した。
「松阪の青木氏菩提寺」(主寺)も消失したが、菩提寺(分寺)は玉城域と津域の二地域にあった為にある程度の資料は遺されている。
「商記録」は、店が別の地域にあった事から遺ったものである。

これ以外に、現在も残っている「伊勢衆の末裔」(20家程度)の家からも関係する手紙などの興味深い資料が時々出て来る。
残念ながら、相当に「消失の憂き目」を受けている。
筆者も、研究で関係する資料の有無が無いかを問い合わせたりしている。
本論も数度お願いをして効果を上げた。
唯、「個人情報」である事から迷惑が掛かる事と成り、理解と賛同を得て「青木氏の範囲」に留める事を約束して公表は避けている。

これらの資料等からも「青木氏年譜」を作り上げている。
下記の「青木氏年譜」には、約束を順守する事から全てが書き込まれてはいない。

「青木氏年譜」(1520年-1625年)

(注釈 「青木氏の資料」)
1525年に「丹波会向」。1532年に「摂津会合」。1536年に「南伊勢地」。1538年に「伊勢港」。
1541年に「摂津廻船」。1549年に「伊勢衆談」。1553年に「南紀衆騒」。1559年に「伊勢衆議」。
1560年に「堺廻船」。1562年に「伊勢不穏」。1563年から「南伊紀不穏」。1564年に「伊賀騒乱(イ)」。
1565年に「北畠不穏」。1569年に「北畠騒動」。1573年に「堺不穏」。1573年に「長嶋騒乱」。
1575年に「伊賀騒乱(ロ)」。1576年に「北畠混乱」。1578年に「丸山騒動」。1578年に「伊賀騒乱(ハ)」。
1578年に「紀州騒動」。1579年中頃に「堺平穏」。1579年に「伊賀騒乱(ニ)」。1579年に「名張騒動」。
1579年に「脇坂騒動」。1580年に「清蓮寺騒動」。1580年中に「伊勢紀州一揆」。1580年に「備中廻船」。
1581年に「摂津会合」。1581年に「伊勢衆合」。1581年に「伊賀騒乱(ホ)」。1581年に「員弁桑名騒動」。
1581年に「紀州避難」。1581年に「本寺修復」。1582年に「伊賀収束」。1582年初に「長嶋衆合」。
1582年に「伊勢和合」。1582年中に「松阪修復」。1582年に・「美濃騒動」。1582年末に「伊勢安堵」。
1583年に「北部談異変」。1583年に「四日市談」。1584年に「伊勢解決」。1588年に「青木混乱」。
1590年に[青木不定]。1592年に「青木騒動」。1598年に「伊勢騒乱」。1600年に「家内騒動」。
1600年に「近江騒動」。1601年に「青木安定」。 1602年に「商い盛況」。1603年に「伊勢談合」。
1605年に「松阪面談」。1606年に「伊勢談合」 1607年に「四家安定」。1612年に「合力談合」。
1614年に「伊勢衆談合」。1615年に「伊勢衆動員」。1615年に「堺摂津盛況」。1619年に「松阪会談」。
1620年に「伊勢藤氏談合」。1620年に「旧領安堵合議」。 1621年に「紀州藩方」。
1622年に「紀州藩縁籍」。・・・・・

(参考 以上の「青木氏年譜」は「研究室の論文」などを書く時に、その「内容の必要性」に応じて、「青木氏」に遺された「商資料」や」遺産諸書」から編集して使うものであり、本来は記述しない「裏資料」である。
又、「青木氏の氏是」もあり、投稿するに抵抗があるが、要約しての内容であれば容認できるのではと考えて投稿した。
「青木氏の中の事」(商いの事も含めて)として、江戸初期までの“「伝統」“としての資料を取りまとめると、この事から「外部史実」と照らし合わせれば、未だ「青木氏の多くの生き様」が蘇るが、先ずは、以上の事と次ぎの事が読み取れる。
この他にも、この「青木氏年譜」には、“他にも商業の事”が多くの事が書かれていて、本論にまとめて抜粋したが、更に、詳しく内容毎に整理してまとめると、更に「細かい生き様」が読み取れる筈である。)

(参考 今回の様に、その都度の「必要な年譜」を「・・年譜」として編集しているが、これを一つに整理すると完全な「青木氏年譜」が出来て蘇るが、整理してまとめる年数が足りない。
今後の研究課題であり、多くは「商い」から観ているので、編集するには、「青木氏」に関する「歴史観に伴った租借」がより可成りの高情報が必要である。
故意的に「代名詞」が使われず、「間接表現」であり、「現代語」では無いのも進捗の妨げに成る。
これは当時は「商い情報」の「情報源の秘匿」を護っていたと観られる。)

ただ、「外部記録資料」を全面的に使った内容は筆者は採らない。
「青木氏」から観れば、ほぼ「内容」は可成り一致するが、「人ずれ」も「時期ズレ」も「場所ずれ」も観られる。
これは殆どは、「伊勢シンジケート」からの“「事前情報」”や”「裏情報」”を得ての結果であろう。
「外部記録」よりも先に騒動が起こっていて、後も、伊勢で起こった何らかの「騒動」が完全に収束状態では無かったことも判る。
「内容のレベル」も違って、「ゲリラ戦の様相」も違っている。
「外部資料」に依っては、「ゲリラ戦」は、“遠からずとも縁筋”に当たる事も匂わせる表現をも採っている説も観られる。

(注釈 各地の「青木氏の伝統」に関する資料関係が、青木氏と娘の血縁関係も含めて関係した20程度の「郷士の家」からももっと多く見つかれば、より詳細に「青木氏の広域の生き様」が描ける。
然し、、残念ながら、「伝統」どころか、他氏と異なり多くの「習慣仕来り掟」を持っていたにも関わらず全く消えて仕舞っている状況の様に見受けられる。
各地の神明社にある資料なども探究したが、残念ながら、今は阻まれた次第であった。
然し乍ら、「射和商人」と成った「郷士の家」からの資料、四家からの娘の嫁ぎ先の親族関係と成った郷士の家からの資料、伊藤氏等の「伊勢国衆」の家からの資料等からの情報が論文作成に大きく影響した。
更に、未、「手紙」や「報告書」の形でも遺されていると観られる。)

これは、「商い」には、「事件の前後」の「雰囲気・小競り合い」からの「事前情報」が必要であって、それによって、“「商いを動かしていると云う戦略」”も在って、その事を主目として情報を獲得していたのである。
その為にも、かなり前から、“伊勢で起こった騒動”に対して「伊勢衆」で前後に“「打ち合わせ 談合」”なども頻繁にしていた事が判る。
(明治の終わり頃まで、年に2度の全ての関係する人々が大集合して親睦(運動会)を図っていた事が口伝で伝えられている。)
「商い」に大きく影響する事から、「伊勢シンジケート」や、各地の500にも上る「神明社」からの「情勢分析」の記録として情報が扱われていた事が判る。
何度と「談合」が重ねられている処から「他の伊勢衆」にもこの情報共有が行われていた事も判る。
特に、「伊賀の乱」は「青木氏」も「影の力」として「物資の供給」や「側面攻撃」や「夜間ゲリラ戦」などで合力したが、相当に「事前分析」も施され、長引いた「伊賀の乱」の収束前に紀州に一時避難などもしている。
これも「事前情報の結果」であろう。

(注釈 「青木氏の口伝」では、この100年間の間に二度に渡り「紀州新宮」に避難している。
この「伊賀の乱」後の「新宮避難」は、「基本戦略」上から事前に引いた事は判り確認できるが、もう一つの「新宮避難」が何で避難したかは判らず記録が正確に読み取れなかった。)

ただ、この時の「口伝」には「一つの逸話」が伝わっている。重要な判断要素の事に成るので次ぎの段で述べる。

「伝統―18」に続く。



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