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:「青木氏の伝統 22」-「江戸の伊勢屋」 

[No.340] Re:「青木氏の伝統 22」-「江戸の伊勢屋」 
投稿者:福管理人 投稿日:2016/04/29(Fri) 11:12:33


>伝統シリーズ21の末尾


>兎も角も、「伊勢」では、「祖父の話」では、詳しくした「先祖伝来の由来書」成るものが「福家の青木氏」に在って、累代で「追い書」されていた事が判って居るので、「伊豆」と「越後」と「越前」にも在る筈であるから、「青木氏の歴史観」は更に広がる筈である。(伊勢は松阪大火で消失)
>然し、これも「時間と時代との競争」であろう。

>(注釈 「近江佐々木氏」の「青木氏に関する研究論文」が大いに役立っている。)

>取り分け、「勘定方指導」と「江戸の伊勢屋」で動いた「享保の改革」の詳細については、「青木氏族」にしかわからないの“「誉れ」”には成るが、「伊豆、越前、越後」にも在るとは思われるが、「伊勢信濃側」から兎も角も判る範囲でまとめて続けて投稿して置く。


以下「伝統シリーズー22」


さて、「質流れ」の「令」は、当初、「青木氏」に関わらず「新しい商業組合の商法」と「古来からの商法」の混在する江戸での“「争い」”を避ける為に対策されたものであった。
然し、皮肉にも「青木氏」に対しては、「江戸の名物」とされる「伊勢屋の金融業の質屋」が多かった事から、「質流れ」に関する要領を示した「令」を発した。
(改革中期以降は主に市民の土地の地権や家屋の物的担保が多かった。)
これは「享保の改革の活況化」が始まった中では、「阻害要因」に成らない様に、「不必要な混乱」を避ける為にも当初特段に発せられたものであった。

ところが、享保期前の政権の失政で、主に「15地域の各地」でも同様な事が起こり始め、取り分け、「経済の疲弊」により「広大な土地の地権」が「質担保」と成っていたのである。
この事により、この事から「商業組合」で成功していた「15地域の商人」の多くがこの「質流れ」に成った「地権の担保買い取り人」と成って居た事もあって、「社会の混乱」を避ける為にも、要するに「農地の地権」に対する「質流地禁止令」と成って仕舞ったのである。

これが、「当初の発令の目的」に対する理解が幸いに得られ、結局は、「改革」に影響しない程度に収束して行き、「地権の令」は1年後に廃止と成ったのである。
然し、幕府は、改めて「問題点の部分の要領」(下記)を決め直して、「元令の修正」を5年後に図り、更に「令」を緩和した事に依って何れの「質流れ問題」も実体経済に納まったのである。

そこで、「質流れ問題」の基と成った「伊豆と相模」側にも、誰にも主張する事が出来ないもう一つの「人生の悲哀」を感じる「役目」が課せられていたのである。

・「伊豆と相模」の「伊豆」には、前段や上記した様に「伊勢―信濃の関係」と同じく、“「伊豆-相模」の関係”に在ったのである。
筆者は、「伊豆」を語る時には、特別に論じて置かなければ成らない“「青木氏だけの歴史観」”があって、これ無くして「真意」が伝わらないし、「正しい青木氏の歴史観」が構築され得ないと考える。

「伊豆」は「信濃」と同じく、「もう一つの目的」があったと観ている。
それは、未だ江戸期初期の事である。
上記で論じた「密教論の概念」の6か7の位置に居たとすると、“「血縁と云う概念」”も未だ強かった時期でもあった。
それ故に、「信濃」も「伊豆」も、“この「概念を護る役目」を果たした”と観るのが妥当であろう。
「江戸」に出て「新しい商法」が「江戸」で成功するかは、「新しい商業組合の商法」と「古来からの商法」の混在する「江戸」ではそもそも「完全な未知数」であった。
「完全な未知数」と云うよりは、江戸では、吸収する土壌はあったにせよ、“「庶民金融」の「銭屋」”が発達していたとすると,むしろ、“「危険」“と云った方が適切な事であった。
そんな中その事から、「信濃と伊豆の同族」(笹竜胆紋族)は、この「江戸の事」に於いても密かに“「この役目(人生の悲哀」を感じる「役目)”を懸命に果たそうとしたと考えられる。

要するに成果を求める事が出来ない「賜姓五役」の“「子孫存続の務め」”である。
これは人間に課せられた逃れ得ない「諸行無常の務め」である。
尚更に、「青木氏」には「無常の役」と成ろう。
他氏には「理解され得ない役」、或は「古式豊かな概念」であろう。

現実に、その証拠と成る「笹竜胆紋」は、「伊豆と信濃の青木村」には、明治期33年の頃でも「青木村の村全体」で遺されているのである。

(注釈 家筋・墓所・神社・菩提寺が笹竜胆紋である。「賜姓五役」の“「子孫存続の務め」”)

そもそも、“「青木村の村全体」”と云う事は、この“「賜姓族」”と云う「存続概念」が無ければ、「1100年間の継続」と云う事は絶対に起こらない事である。

“「将軍擁立と商業組合」を江戸で起こす”と云う事は、「一種の大賭け」であって、下手をすると「子孫滅亡の憂き目」も受ける事にも成り得る。

(注釈 最悪の場合の「青木氏」を出さないその為の“「伊勢屋」”の屋号でもあった。
先祖が営々と築いてきた「1千年の歴史の青木氏」に汚名を着せる事は絶対に避けなければならない宿命であった。)

その中での事として、「信濃と伊豆の役目」の事は、決して見逃してはならない「青木氏の生き様の姿」を示しているものである。
(相模は武蔵宗家の一端)

「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」の「屋号」しか出ずに様々な「公に成る記録」に遺されないのは、「皇親族・賜姓族」と云う“「格式」“を護ろうとする、且つ、“日本で一つしかない氏族”と云う「古式概念」からの事であった。
依って、「本領や旧領地」を除いて、“「青木氏」”と云う「氏の名」を「公に晒す事」は「氏是」で憚られたのである。

(注釈 「青木氏の氏是」 “日本で一つしかない氏族”と云う事で、「青木氏以外」には、最早、“理解はされ得ない概念”と成っている。
否、「伝統」が、希薄に成って忘却し消えて、“何を無駄な事を”と「青木氏」でも理解され得ない事とも成っている事もあり得る。
現在では、「身分とか格式」とか云うものでは無く、「単なる伝統の継承(ロマン)」を期待しているのだが。
明治期中頃までは単なる「ロマン」では無かった。「生きる為の概念」の一つであった。)

「15地域」の「地域の商業組合」と云う「自由を前提」とするものから進んで、上記で論じている「江戸」での「幕府の享保の改革」に用いられた「公的な商業組合」に成った状況下でも、「違和感」を感じる程に「賜姓族の氏の古式概念」が護られていたのである。
この“「賜姓族の氏の古式概念」が護られていた“とするのは、江戸の当時としても、明らかに「二律相反」であった事に成る。

(注釈 この事は「佐々木氏の資料」にも論じられている。
この資料から観れば「幕閣の三役」の「累代家柄」でありながらも、“奈良期からの氏族を遺す”と云う「古式概念」とにも社会との間に「乖離」が生まれていた事を示す証拠である。
「氏が持つ古式概念」と「社会が持つ概念」とには明確な「乖離」が生まれ始めていたのである。
「近江佐々木氏」も同じ「乖離」に対する疑念を持っていた事を意味する。
「自由を前提とする商業組合」を改革の中心に据えて「江戸の経済」を変えようとしている「青木氏」なのである。
「完全な概念の矛盾」が佐々木氏以上に青木氏にはあった事が頷ける。)

当然に、「江戸の社会」では、「古式概念」を護ろうとする「保守の概念」が一方でより無意識に働く事は云うまでも無い。
況してや、「賜姓族」であると云う「氏族存続を役目」として生まれて来ている族であるとすると尚更であろう。

これは、同じ同族である「秀郷流青木氏」との「二つの青木氏」の持つ宿命の「二律相反の掟」であった。
最早、この享保期では、現実に日本には「二律相反の掟」を持っているのは「二つの青木氏」しか存続していなかったのである。
関東の「賜姓族秀郷流青木氏」や「賜姓族近江佐々木氏」等は、逸早く「家臣の路」を選んだが、「皇族賜姓族青木氏」は「賜姓族の路」を外さず「郷氏の路」を選んだ。
そして、「徳川家の家臣」では無いのに「商業組合」と「享保の改革」に突き進んだ。
「二律相反」処の話では無い。これは「完全矛盾」そのものであろう。

そもそも、室町期初期では「40の氏族」、室町期末期には「20の氏族」が、江戸初期には急激に「12の氏族」を切り,200年が経った享保期には無理に考えても、「血縁性」を維持していると云う事では「4の氏族」に成っていたのである。
最大時は鎌倉期の200が何時しかその内の「賜姓族」は「二つの青木氏」だけと成り得ていた。

調べた範囲では、他の「氏族」では、「氏族」としての「格式の慣習」は一応は保たれていたが、“「氏族」のあり得る「慣習仕来り掟」を維持せず”の名ばかりの「姓化した氏族」であった。
取り分け、「家紋(象徴紋は変紋しない)」は、確実に変化していて、「氏族」としての最低条件の「血流」と「家紋」と「氏名」と「古式習慣」では無かった。

この様な「数少ない氏族]と成った中で、「古式概念と伝統」を維持していた「信濃」と「伊豆と相模」が、前段で論じた「四家制度」で「伊勢と武蔵」の「伝統」をも護っていたのである。
周囲の氏族が衰退、滅亡、断絶、姓化して行く中で、持ち堪えようと懸命に護ろうとしていたと観られる。
そんな苦しい環境の中で、「享保の改革」の[商業組合」が江戸に来ると云う事である。
最早、「伊豆と相模と武蔵」の関東勢は「終わりか」と考えたかもしれない。
その「攻め手」の「伊勢側の勢い」では同じ意識を持つ同族では処置の仕様がない。

恐らくは、この事は「伊勢側」では知っていた筈で、[護ろうとする戦略」が異なっていたと云う事であろう。
「攻めて護ろうとする戦略」と、「固めて護ろうとする戦略」の違い差であったのである。

従って、「攻めて護ろうとする戦略」を採る「伊勢側」に執っては、「自由を前提とする商業組合」の「中心の位置」にありながらも「世間」には、決して「青木氏」を表には“出さなかった”のである。
“出せなかった”と云う事が真実であろう。
出せば「江戸の商業組合」と「江戸での享保の改革」は、「庶民性の強かった江戸」では、「強い反発」を招き崩れていたと考えられるし、「青木氏」も「唯一つの氏族」では無く成っていたとも観られる。
「固めて護ろうとする戦略」とする「同族」が江戸にいる限りは、醜い「同族争い」が起こり「青木氏の氏是」は護れなかった事に成っていた筈である。

それだけに、「伊勢側の信濃と武蔵側の相模」と、「何れにも属する伊豆」の三者は、「共倒れの同族争い」を避ける様に必死で「影の役処」を護り通したのである。

(注釈 「伊勢-信濃-伊豆」は完全な同一ルートの完全な一族であり、相模とも血縁を持つ。 その「相模」は四日市殿と同じで青木氏同士の融合族でもある。)

それだけでも「伊豆と相模」は、取り分け、「武蔵」は、「自由な商業組合」には参加する事は概念的にもあり得ない事と成る。
これは“「伝統の生き様」”の一つからでもあった。

当然に、これは前段でも論じた事ではあるが、要は「商業組合」が推進している中でも、絶対に「青木氏の氏是」に固く縛られていたのである。
それが、「伊豆、相模、武蔵」との、「共倒れの同族争い」を避ける要でもあった。
当然にして、直接触れる「江戸庶民」にもであり、それは”「江戸の伊勢屋」”が精一杯の線で、「伊勢の紙屋」や「勘定方指導の青木氏」は論外であった。
(現実には、「佐々木氏の資料」や「公の記録」に遺されているので洩れていた事に成る。)

そもそも、当時の江戸の「享保の改革前の商法」は、「商業組合」とは{真逆の商法」であった。
主に“「縁故」”を頼りに「営業」を拡げ、大名や御家人・旗本の家等に出向いての「店開き」をして注文を取り、年に「二回の付払いの商法」が主流であった。
概して云えば、「伊豆相模の商法」は「商業組合」を一方で組ながらも、一面では一族(361氏)の大縁故を頼りにした「古式商法」にも頼っていたのである。

「藤原氏と青木氏と佐々木氏の一族一門」をコネにして「古式商法」で、「商業組合」にせずとも充分に成り立つ社会の中に居た。
これが、「享保の改革の商業組合」で庶民を巻き込んで「自由性」が高まった事から、この「縁故商法」は影を潜め始めたのである。
一時、江戸は「混在する状況」が続き、明和期の頃の1765年頃から「菓子商」などの“「個別商法」”でなくては出来ない“「自由な商い」“が拡がりを見せた。
逆に、この「古式商法」の“「縁故商法」”は無く成って行ったのである。

つまり、「自由店舗」の「店舗先販売」(「個別商法」)が一般的に主流に成った事で、それも原因して「青木氏」を隠して「同屋号の支店」を拡げて「営業力」を高めたと考えられる事も出来る。
(しかし、これが「成功要因」の一つに成った。)
これに依って、「越後屋の商法」であった“「縁故商法」”では出来ない「自由店舗」の「店舗先販売」(「個別商法」)の“「バーゲセール商法」”と“「チェーンストア商法」”が当たり、京都や名古屋や大阪などにも出店する「別の形の大豪商」が出現したのである。
(現在のコンビニ商法に類似の勢いに近い。)
これは、即ち、「自由性」の高い「商業組合の発展」がもたらした結果であって、「江戸」は「画期的な発展」と成った。
然し、この様に“「商業の改革」”が、「享保の改革」の中で「将軍擁立時の約束」の通り達成されたのである。

(注釈 「大きな賭け」であった。失敗すれば必ず叩かれ、「青木氏」そのものが存続は難しく成っていた。「青木氏の歴史観」はここで消えていた筈である。)

筆者は、「伊豆と相模武蔵の問題」を解決できたのには、この“「質流れ禁止令」”が、両者が生き残れたその“「象徴」”であったと観ている。

つまり、“「江戸の名物」”と呼ばれた“「伊勢屋の質屋」”が多かったと云う事が“「享保の象徴」“を物語っていると観ている。

そもそも、注釈としてこの“「質流れ禁止令」”の発端と成った「伊勢屋の質屋」に付いて特に先に詳しく論じて置く必要がある。

この「令」の出す以前は、“「質業の商いの屋」”は、通称は“「土倉」(「石倉」)”と呼ばれていたのである。
この事から、態々、「土倉」(「石倉」)と云う呼称が在りながらも、「土倉」の呼称が無く成り、“「質屋」”と呼ぶ様に成った経緯の意味が良く判る。
そして、この「令の持つ意味」や「質屋の仕事内容」も変わっていた事も良く判る。

この様に“「土倉」(「石倉」)”から“「質屋」”に成った経緯の事からも、“多かった”と云うよりは、正しくは“多くした”とする方が適切であった。(理由は下記)
“「土倉」(「石倉」)”に無い“「異なった新しい内容」”を持っていたからこそ、それを認めて“違う”と認識して、江戸の庶民は、別に“「質屋」”と表現したと云う事に成る。

(注釈 結果として、江戸の庶民は「質屋」と呼称する事には成ったが、「呼称の元」に成ったのは”「質屋」”では無く”「伊勢屋」”である。故に呼称は”「伊勢屋の質屋」”なのである。下記)

当時の感覚では、“「違う」“は「質屋」を意味していた事に成る。
その“「違う」“の内容は何なのかである。「青木氏の歴史観」に執っては実に重要な事なのである。

それは「違うの根拠」を下記に詳細を論じるが、つまり、ベースには次ぎの関係が働いていたのである。

「金融」→「土倉」≠「違う」≠「質屋」
「江戸の商業組合」=「伊勢屋の質屋」=「質流れ禁止令」=「享保の象徴」

以上の数式論が働いたのである。

何故ならば、この「令」は「短期間の単なる令」ではあったが、享保期前には「土倉」で、未だ未開発部門の“「質屋」”(金融業)であって、「常套手段」としての「庶民の経済的手段」では未だなかった。

注釈として、そもそも、この「土倉」とは、「担保」を預けて「金銭」を借りると云う「単なる金融業」で「銭屋」とは「一種の共同体」であった。

そのシステムは、「質受」を得る時には「担保受け」と「利子を支払う仕組み」で、「担保」の保管期間を過ぎると「質流」として他に「売却」する仕組みであった。
その「担保」を保管する「倉庫」が「土の倉」、或は「石の倉」であったことから鎌倉期末期からこの呼称と成った。
この「一時的な短期金融」の「単なる当座の金融の仕組み」であった。
(現在の質屋と類似する)

ところが、享保の「伊勢屋の行った質屋」は、
「土倉」の上(A)に、
「組合業」(B)と、
「銀行業」(C)と、
「相談業」(D)と、
「教育業」(E)と、
「保険業」(F)と
以上を組み込んだものであった。

しかし、「享保の改革」が進み、「自由な商業組合」を形成した以上は、必然的に当然の事として、「自由の概念」の下に「新しい形の投資」が起こった。
そして、この形の「金融の流れ」(A-B-C-D-E-F)が活発に成り始めた。

(注釈 “「新しい形の投資」が起こり“と表現したが、”興した“が適切である。理由は下記)

これを観た「享保の改革」を「市中町方」で進める”「江戸の伊勢屋」”は、これを支える為に「次ぎの手」を打った。

「商い」に対する“「総合的なノウハウ」“を持つ「総合商・貿易商・金融業の伊勢屋」(指令は「伊勢の紙屋」)は、”「担保を取って融資する金融業」“から”「融資し担保を取る金融業」“に変換したのである。

所謂、「商いを広める経済」を活発化させる「融資業の伊勢屋の質屋」を当然の事として江戸に広めようとした。
これは当に妥当な「経済的な理屈」であった。

この「総合商・貿易商・金融業」の「江戸の伊勢屋」が行う目的には、未だ「江戸人」に執って“「不慣れな自由」”を前提とする“「商業組合」の「商い」”を拡げる為でもあった。
元々、その商業組合が根付く土壌が無い江戸市中に、「根付かせる」にはその「組合人」に対する“「商法の伝授」”が必要でそれが主目的であった。

先ず、これ、即ち、「教育手段」が主体(「商法の伝授」)であって,この「商い」を興す場合、それに伴う当然に必要と成る“「貸付融資」”に主体が在った。

つまり、“「担保」”で利益を挙げる事は、「商い」としてはその後の話であった。
未だ、「両替商」も存在する事の中であり、況して、「金銭の預け借り貸し」を前提とする「銀行的発想」(明治期)だけでも無かった。

「江戸の伊勢屋」が営む「伊勢屋の質屋」は、その為に、初期は“「信用貸付」”が主体であって、「育てる事」が目的であって、「教育手段」=「商法の伝授」でもあった。
この「伊勢屋の質屋の影響」が江戸にどう出るかは、“「商業組合の経済」”に及ぼす「良悪の内容の事」から考えると、「未知数」で「未経験の部分」が多かった。
「伊勢以上」の「全く新しい経験」であった筈で、「江戸の伊勢屋」は、勿論の事、「享保の改革」を主導する「吉宗と青木氏」にとっても、あくまでも「経済理論上の領域」でしか無かった。
資料は見つかっていないが、「吉宗と六兵衛と伊勢屋」は何度も集まって非公式に「充分な検討」を加えたと考えられる。
(「佐々木氏の資料」からも読み取れる。)
それは況して、「銭屋を基本とする既存経済」がある中での理論であった事が原因していたのである。
「銭屋の如何」で「江戸の経済」は大混乱に陥る事も充分に考えられた。
「江戸の伊勢屋」と「勘定方指導としての青木氏」に執っては、「既存の銭屋」を活かしての「質屋の金融」である事が大前提であった。

これは極めて難しい経済理論であった事が判る。
当に「未知数」で「未経験の部分」である。
そこでこの「三者」は考えた挙句に「ある事」をこの「伊勢屋の質屋の仕組み」(上記BからF)に付け加えたのである。
これが「画期的な手段」であった。現在でも画期的である。
それは、要するに判り易く言えば、”「組合式コンサルタント金融」”であった。
この”「組合式コンサルタント金融」”の初期には、“「信用貸付」”であった事から“「商い」”を育てる事に主眼が置かれていた。(詳細下記)
これは、この「享保時代の経済の有様」を物語る「重要な金融要素」であって「パラメータ」であった。

この事から考えると、結果として、「享保期」は、「町方」に喜ばれる「良質の経済手段」であった事に成るのだ。

もし「良質の経済手段」であったとするならば、それはどの程度であったかを検証すると次ぎの様に成る。

それを顕著に物語る事がある。“「江戸の伊勢屋の質屋」と「犬の糞」”は”「江戸名物」“と庶民から呼ばれ、「江戸川柳」にも出て来る程であった。
ここで、この事に付いて更に検証して観ると次ぎの様に成る。

遺された記録から、その「質屋の数」も全体で「2800軒弱」であって、「江戸の伊勢屋」が経営する「伊勢屋の質屋」は、その7割程度以上であったとしている事から、「約1950軒」と成る。
残りは、江戸の伊勢屋の質屋では無い質屋であった事に成る。
実は、この残りの質屋に付いては訳があって下記に別に論じる。
江戸には、「江戸の民100万人」と俗に呼ばれている。
恐らくは、無宿者を除けば「80万人弱」であったとしているので、80万/2800 ≒286 80万/1950≒410 と成る。
そうすると、「江戸の質屋一軒」に対して庶民286人から410人の範囲を対象にする程の驚くべき「質屋の数」であった事に成る。
つまり、云い換えれば、「一町」に対して「3から4軒」があった事に成る。

これでは普通の経済状況ではどう考えても多すぎて経営は無理であろうが、存在したのは事実である。
とすると、その無理を成し得る程に経済収支が極めて盛んであった事に成る。
当に、パラメータであった。

そこで、「全国の人口」は「4000万人」と云われていた事から、「主要国66国」と観て、平均で「一国に55万人」、そうすると、江戸は25万人以上が単純平均より多い事に成る。(支藩小藩含まず)
然し、大小の国の「国の石高差」から観ると、平均で32万石から33万石が平均であった。

江戸期は「1石-1年-1人の原則」に従っていたので、当時は「バイアス最大10万」があったとされていて、「人口比」(55万人)と「石高比」(33万石)が一致せずに「平均通り」には成っていない。
平均比では22万石、或は、22万人の差額が生まれる。

ところが、「江戸」は80万人(無宿 100万人)に対して、「実質の石高」は102万石であった。
「1石-1年-1人の原則」に合致するので、平均比で「+25万人分」多いのに無理な都市では無かった事が判る。

(注釈 「幕府」は、直轄領を含めて450万石(享保期)で、武蔵、伊豆,相模、上野、下野、上総、下総の7国から成り立っていて、250万石であった。
「家康」が実際に支配していたのは、当初は全体で100万石で、後に200万石に、綱吉時は400万石、吉宗時は450万石、最終は463万石に成った。
後の213万石分は家臣に分け与えた。
その「江戸」の範囲では「102万石」であった。)

(注釈 分布は、関東103万石、畿内68万石、東海道73万石、北陸28万、東北37万石、中国41万、 四国九州12万石と成っている。
これに御家人と旗本領が存在し、300万石、大名領貸地と奉行支配領とで、概して合算石領は800万石であった。)

従って、(無宿100万人・80万人-102石 「1石-1年-1人の原則」に合致)の「江戸」には石高では、平均差での人口では、「最大47万人」は多い事に成る。
然し、「単純平均差25万人」にすると、「バイアス最大10万(人・石)」で「35万人目安」と定められる。

そうすると「江戸の質屋 1軒」に対して、286人から410人の範囲では、「35万人-47万人」として、最大で「35万/286人」と「47万/410人」では、「1250軒から1150軒」分である筈である。
これに対して、「江戸の質屋」(2800軒 伊勢屋の質屋1980軒)は、全国平均より明らかに多い事に成る。

「江戸の質屋 1軒比」は、「多い事を前提」としている数字なので、恐らくは「平均」に対して1150軒/国の程度以下と見做され、2800軒/1150軒=2.5倍と成る。
「人口比」=「石高比」であった事からでは、80万人/33万人=2.5倍と成る。

従って、「質屋比」=「人口比」=「石高比」=2.5倍であった事に成り、検証は2.5倍で一致する。

「質屋」としては、全国平均は、上記した様に、関西と関東の経済機構が異なっていたので、実際は、「関西<関東」と成る。
この差が「バイアス10万」(人・石)とされていたので、関西では、550軒程度、関東では、900軒程度(土倉含む)であったと観られる。

(注釈 関西では主に「土倉」が主体であった。地方に依って、「石倉」と呼んでいる地域もある。)

注釈として、この「吉宗時の250万石」は、土地面積が同じであるのに、綱吉時より「+50万石」の「幕府財政力」が20%も増加していることが判る。

「享保の改革」で「市場の力の活性化」を成しただけではなく、「幕府の財政力」も増やしたのである。
「家康の時期」からすると、これも2.5倍に成る。

これで異常なほどに如何に「江戸の質屋」(伊勢屋の質屋 AからF)が多かったかが判る。
更に云えば、経済が活性化していた証拠でもある。
最早、「享保のリフレーション経済」は「伊勢屋の質屋経済」と云っても過言では無かった。

注釈として、1765年以降には、3割弱程度の内には「伊勢屋の質屋」ではない「質屋 A 土倉」が再生したとあるが、この3割の店舗と云うのは「町方の衣服」などが「質担保が主流」であった事から、当に「町方金融」であった筈である。
公的記録説は「土倉と質」との判別が付いていない様で、これは元から存在した「土倉」ではないかと観られる。

多くは「屋号」を「伊勢屋の質屋」に肖って先ずは何らかの理由があって「伊勢屋」に変更したと観られる。(下記)

結局は、BからFでは無い「一般金融の町方金融」は、「850軒程度-950人/軒」であった事に成る。

これでは、逆に間違いなく「過当競争」と成り得る筈で、倒産して淘汰される数になった筈であるが、淘汰の結果がこの数字であるのだ。
この数字が保たれたと云う事は、享保時代には如何に経済が活性化していたかは判る。

享保期前の疲弊した経済の中では、「土倉」の「質入れ」で事を凌いだにしても「質流れ禁止令」があれば「買戻し」が無い限りは「質業」は成り立たない話である。
従って、現実に成り立たなかったが、これは「享保期の活況化」の中でこそ成り立ったのである。

上記した様に、江戸期には三度全国の全国石高調査をしているが、1633年、1644年、1702年では、「最大100万石差-70年間」と成っていて、この差は主に生産高の増大では無く、
絵図面による「申告調査の査定差」に依るものであった。
ところが、享保期の改革期間40年とすると、実質の「+50万石」も生産増加させている。
何と一国以上の石高(平均32万石)を増やしたのである。
この様に「享保期前の石高」では全く変化していない事から、“経済が疲弊し続けていた事”が判る。

上記の数字は、「商業組合方式」に依る「享保の経済」が如何に「活況」を末端まで取り戻したかの「パラメータ」と成る。
つまり、如何に「良質の経済手段」であったかを物語る事の証明と成り得る。

故に、「初期の信用貸付」で「損失」を興しても経済を活況させ得れば、後期は「地権などの物的担保」で「損失」は取り戻せる理屈と成っていたのである。

ところが、「青木氏の伊勢屋の質屋」は、「本来の目的」から「損失覚悟」で市場に金銭を放出したのである。
この「金銭・金融」は「指令所の伊勢の財産放出」(伊勢の紙屋)であった事に成る。

これだけの「財貨」を市場に放出出来る者は、享保前の不況から居なかった筈で、15地域に「商業組合」を構築した「伊勢の青木氏・伊勢の紙屋」しか無かった筈である。

これは、「伊勢屋の質屋」が行った事は、一見して「初期の段階」では明らかに「インフレ政策」である。
「リフレーション策」では無い様に観える。

ところが、これには一つだけ違っていた。
それは、”「質屋」(AからF)”である。

単純に「市場活性化」の為に、元より「金銭」を放出するだけでは無く、「質屋」と云う「金融-担保」の“「質草」”を取る事に在った。
この「土倉」に無い“「ある種の質草」“に意味があったのである。
「初期の段階」では、確かに「信用貸付」で放出したが、これには実は「ある手立て」を講じて居た事が判って居る。
それは、一件毎に“「商い指導」”をしていたと云う事であった。
「本拠の本店の伊勢屋」が行っていた事が資料より判って居る。

つまりは、本拠本店の“「伊勢屋」”の“「AからFの質屋」”なのであって、故に、根本的に「土倉(A)」と違うところから、“「伊勢屋の質屋」”と呼ばれた所以なのである。
「伊勢屋の質屋」「質屋の伊勢屋」と態々呼ばれる確固たる理由があったのである。

これには「単なる屋号」だけでは無かったのであり、「伊勢屋が経営する質屋 (AからF)」に意味があって、1765年以降の「質屋の伊勢屋」の意味では決して無かったのである。

この意味から、「信用貸付」の対象は、「生活に困った事からの質屋」では無く、新たに「商い」をする、或は、「拡張すると云う商い」や「生産を増大する」や「人を雇う」等に対して「融資」をし、その「信用貸付」の代償として「商業組合の組合人に成る事」を前提としていた事が判っている。

融資しこの「組合人」に成る以上は、放漫経営で倒産と云う事は防がねばならない。
当然に、「未知の江戸商業組合」である以上は、その「商法を教えて導くと云う手段」を採っていたのである。
その「訓練」として「教材」として、全ての「職能集団を含む商業組合」である限りは、その「商い」に関わる「仕入れ」から「販売」等までは、この「組合の中」で保障される事になり、「商い」は安定する事に成る。

その「教育と訓練と指導」を受けて頑張りに依って“「商い」”が安定すれば「利益」が出て、「利息分」は当然に支払える事に成る。
又、「教育と訓練と指導」の成績が良い場合に依っては、「融資」を放免して「暖簾分け」と云う手段で「グループ企業の伊勢屋ホールディング」を形成する一員にも成れる仕組みでもあった。

これは、「販売の商い」だけではなく、その元に成る「商品」を作る「職能集団」にも適用される仕組みであって、「販売の商い」だけが先行しても「商品」を作る職能の工程も同じように成らなければ成り立つ話では無い。
「職人を育てる」と云う事でも同じなのであった。
その「組合人」に成った彼らに“金融をするというシステム”を広く構築したのである。
その為に、江戸は「匠の町」と呼ばれる様に成った。
念の為にこの「匠の職人」の「姓名」(家紋)を調べると、「伊勢紀州の姓名や家紋」が多いのは、この「享保の時の職能集団」の所以なのである。(下記に列記)

この様に、「単なる金融業」では無く、「コンサルタントも行う金融業」で、「商業組合の組合員」として扱われ、「商い」を裏で支える「教育機関と補償機関」の役目も「伊勢屋の本店」は担っていたのである。
だから、“「土倉」「石倉」”では無く、“「質屋」”なのであって、本来は「伊勢屋が営む質屋」には先ずこの意味を成していた。

ここで、上記の事もそうであるが、もう一つこれに関連して「青木氏の歴史観」として知っておくべき重要な事がある。
前段の「達親の論」の処でも、一部を論じたが、これに繋がっている「重要な歴史観」なのである。

本来、この「質の語源」は、中国の五世紀初めに仏教寺が行った「仏事」から来ている。
その「仏事の事柄」から、“「形あるもの」”という行為の語源から発していて、その仏事行為を”「質」”と呼んだとされている。
その”「質と云う仏事行為」”が、後に大和では「物」とか「本元」とか「内容」とかに広域に広がって行った言葉である。
その元は全てこの”「形ある物」”の言葉から来ているのである。
そこで「仏教伝来」によって、「五世紀の大和」でも、この「仏事行為」が「青木氏」等の「氏族の主宰する密教」に依って行われる様に成った。

この「寺が行う密教の仏事」とは、「貧困の民」を集めてに食事を与え、職を与え、心を癒し導き、「人」として自立さる事であった。
これを「質」と「奈良期の仏教界」では呼ばれていた。
つまり、“「人」”として“「形あるもの」”に導く事、所謂、“「人」として本来あるべき姿にする事“と云う意味の事で、「人の質」を作り上げると云う事から、この「仏事行為」を「質」と呼ばれる事と成った所以なのである。

これは「密教の古代浄土の教え」であり、「仏教行為」を行うに当たり、「密教の富裕者」(福家)から「浄財」を得て続けられた「質」であった。
この「質の考え方」を「皇族賜姓族の青木氏」の「密教の教え」の中に継承されていたのである。
この「浄財」を「青木氏の達親」(「青木氏の密教浄土宗」)が行っていた。

(注釈 「青木氏」は一族から「仏教僧侶」を出し、その「青木氏の僧侶達」で「古代浄土の教え(浄土宗の原型)」を解釈して「青木氏密教論」を作り出し、一族一門を導く役目を負っていて、その「密教の仏事」の「とりまとめ役」の「達親」(一族総代)を務めるのが「福家・宗家」であった。

「青木氏の記録」では、この「質に依る仏事行為」は、鎌倉期後期まで続けられていた事が判って居て、公的に成っている仏教の「密教の達親」に依る「仏事行為の質」の記録も鎌倉期末期と成っている。
然し、「青木氏の密教」の中では「青木氏の慣習」としては生きていたが、他氏の密教では「下剋上と戦乱」にて「質の仏事行為」は衰退したと記録されている。

そもそも、依って、元来は、この”「質」”とは「金融手段」そのものを意味するものでは無く、室町期末期まではほぼ消えていた言葉の意味であった。
江戸期初期に入り、「密教」を廃止させる「顕教令」で、世間にはこの「密教の仏事行為と達親」は無く成った事に成った。
然し、「青木氏」の中では「密教」は密かに維持され、「質による仏事行為」と「達親の慣習」は維持されていた。
中でも「伊勢の二つの青木氏」の中では、取り分け、維持され「伊勢紀州域の本領域」には、この慣習が江戸末期まで敷かれていた事が判っている。

「伊勢の商業組合」の根源は、この「密教の達親」に依る”「質による仏事行為」”であったと考えている。

(注釈 前段でも論じたが、年に一度、伊勢紀州の全本領から松阪の菩提寺と福家に集まって運動会の様な大集会を行った事は判っているが、この「質の行為」によるものから「密教慣習」として維持されていたものであった。
それには、「中国の寺」が「質の仏事行為」として行った慣習の中に、記録に依れば、寺に民が大勢一度に何度も集まって慈善行為をしたと記録されているので一致している。
この荷車に積む程の「土産物」を持たすなどの事をした「松阪での大運動会」が「質に依る仏事行為の祭事」であった事に成る。)

「伊勢屋の質屋」の“「AからFの行為」“が、即ち、”「形あるもの」“にして行く「工程の行為」であって、これが「質・しち」が持つ「正しい意味の事」であって、「5世紀頃の密教浄土宗寺」が「氏の民」に行っていた「救済事業」(質と呼んでいた)から来た言葉であることは間違いは無い。

これを「商業組合」と共に「伊勢」から「江戸」にも持ち込み、「商業組合」と組み合わせた施策として江戸市中に敷いたのである。
それには、「銭屋」と「土倉」と云う既存の「金融構造」を壊さない様に考えた挙句の施策であって、故に、上記で論じた様に、異常なほどの数(2800)の「伊勢屋の質屋」が江戸市中に50年の間に急激に拡げたのである。

筆者は、ところで、店舗数は、当初は「店開き」での「2800店舗」では無かったと観ている。
つまり、「江戸の伊勢屋」そのものが、各地でこの「仏事行為の質」を開催した事から始まったと観ていて、その内に、「質効果が高い地域」から「伊勢屋の店舗」を出して行く形に変えたからこそ“「伊勢屋の質」”と呼称される様に成ったと考えられる。
各地に拡販した「伊勢屋店舗に依る質」が“「伊勢屋の質屋」”の呼称に変わったと考えられる。
「単なる仏事行為の質」と「商業組合」との「組み合わせ」の結果として「質・屋」としての表現に変わったと成る。

「伊勢の紙屋」等の「青木氏密教の質」は、奈良期から長い間の土地に根付いた「共通の慣習」として、又、「伊勢郷氏の役」として果たして来たものであって、その「質の結果」として強い“「伊勢絆」”が生まれ、「郷士衆や本領民の賛同」も得られて「商業組合」なども成す事が出来た。
然し、“「商業組合」”を押し出した“「江戸」”には根幹と成るこの“「絆」”が無かった。
「江戸の伊勢屋」との間には全く“「江戸絆」“が無かった。
異質の「江戸」に「商業組合」を敷いて「享保の改革」を成すには、“「江戸絆造り」”が必要であった。
「江戸の伊勢屋」は、先ず「仏事行為の質」の“「伊勢概念」”で「江戸の民」に合った“「江戸絆造り」”を試みようとした。
「商業組合」を通じて、上記のAからFに依る事で“「質」”を敷いて溶け込んで“「質の絆」”を試みたのである。
上記した様に、「青木氏経済論」のみならず「青木氏概念論」としても「異質の江戸の民」に於いても“「伊勢概念」”は浸透し、最早、“「伊勢概念」”は“「江戸概念」”と成り得て、難しいと観られた「享保の改革」でも“「江戸絆」”が構築されたのである。
これは“「伊勢の質」”では、「伊勢」の表は「青木氏」で、裏は「紙屋」であった。
ところが“「江戸の質」”では、「江戸」の表は「伊勢屋」で、裏は「青木氏」であった。

要するに「青木氏の位置」を逆転させていた。
これは、まさしく上記の「青木氏の氏是」にもよるが、「異質の江戸の民」には「江戸絆」としては「青木氏」は馴染まないし、馴染む所縁は「青木氏」には全く無い。
当然に、「江戸の反対勢力」は、この辺の“馴染まないし、馴染む所縁は全く無い”を信じて、“何時かは失敗するだろう”と観ていた。
これは、「青木氏」のみならず「吉宗」にも向けられていた事が反対勢力と観られる商家に記録として遺されている。
「江戸の反対勢力」は「異質の江戸」には「商業組合」は「経済論」のみならず「概念論」としても“「絆の概念」として浸透しない“と観て多寡を括っていたのである。

ところが、「反対勢力側」からすると、“「思いがけない秘策」が持ち込まれた”と云う事であったろう。
それが、「仏事行為の密教の質行為」であった事は、彼等にとっては概念外で理解外の「未知の事」であった。
既に「氏族の密教」の中であって、「姓族の顕教」には無い事でもあり、且つ、「質の慣習」としても遺されているものであれば別だが、既に鎌倉期には消えている「特定の慣習」であった。
然し、「15地域の密教の青木氏」に執っては、極めて氏の中では当たり前の「古来からの絆構築の慣習」であったが、「江戸の反対勢力」にとっては思いも依らない「発想行為」であったのだ。
唯、この事は、「伊豆と相模と武蔵の青木氏」は「氏の慣習」としては知り得ていた。
然し、「銭屋と土倉」の中での「既存経済」として発展してきていて、上記した様に参画していない立場では黙秘する以外に無かった筈である。
「伊豆と相模と武蔵の青木氏」に執ってもまさか「生活の一部」に成っているこの「仏事行為の質」までを敷いて来るとまでは思わなかった筈である。
これを敷かれた時には、「伊豆と相模と武蔵の青木氏」のみならず「江戸反対勢力」も“勝負は決まった”と考えた筈である。

この“「江戸絆造り」”は、これより進み、“「伊勢絆」”とは違った“「江戸絆」”が一挙に進み始め、1740年頃までには「江戸庶民」の間には、完全に“「江戸気質」”と云う形で“「独自の絆」”が「江戸文化」として“「江戸概念」”として確立していたのである。
約25年程で大急激に広がった事を示し、まさしく「すごい事」であって「江戸市中町方」に大賛同を如何に得ていたかが解る。
それが、この頃に詠まれた「江戸川柳」にまでにも遺されて読まれる程に成っていたし、流行語としても庶民の中に浸透した“江戸の名物 「伊勢屋の質屋」と「犬の糞」”である。

ところが、吉宗没後の1788年以降は、「江戸の伊勢屋」から離れた処で、一般が「伊勢屋を真似た金融業」を出したのだが、この上記の「意味合い」が全て削除されている「単なる質屋」(Aの土倉に誤解した)に変わって行った事が遺された資料から判っている。
その為に、「リフレーション」に必要な「経済サイクル」が無く成り、安定を崩し、「リフレーション」から「インフレーションへ」と変化して行ったのである。
これが、吉宗没後(1761年)は、「享保の改革」(1751年)の「路線の勢い」は1781年頃まで続いた。
然し、ところがこの時期から伊勢から来た「青木氏や郷士衆や一部家臣団」が伊勢紀州に引き上げ始め約7割が帰省して仕舞ったのである。

(注釈 1781年頃から1788年頃までに7割もの「改革」に携わって来た者等の民間と家臣が一斉に帰省して仕舞うと云う現象はどうみてもおかしい。
取り分け、「吉宗」が見込んだ「孫の家治」が晩年に政治を放り出し田沼に任した事に疑問が残る。
普通なら残る筈であろうし、不思議な事は「紀州藩」も「紀州改革」に成る様に正式にこれらの者の帰国後の専門職を生かした「適切な職場」を用意していた。
何かがあった筈である。)

吉宗没後、「吉宗の改革意志」を引き継いだ「家重(1760年)-家治(1786年)」と二代続いたが、取り分け、「家治」は「吉宗」に直接に経済の教育を受けた。
然し、晩年に成って「田沼意次」に政治を任せ、「株権」で出来ている「商業組合から冥加金」を取るなどして「折角の商業」を低迷させ、経済状況は更に悪化させ失政した。
結局は「意志薄弱な家治」は「改革意志」を体現しない「一橋家」より養子を迎えて「家斉」(1787-1837)に任した結果、遂には、1788年以降には「経済不況」に陥ったのである。

それは「吉宗の後」を引き継いだ「幕府」には、「享保の改革」の「商業組合の根底」にはこの「伊勢概念の伊勢絆の質」から変化した「江戸概念の江戸絆の質」が存在していた事を充分に理解できていなかったのである。(記録に遺されている。)
故に、この記録から租借すると、一見して「伊勢屋の質」の策は、「吉宗以降の為政者」には“市場に金銭を放出するだけなら「インフレーション政策」だけ“と観られていた様で、執政の田沼は「冥加金」を採って「商業組合の動き」を抑え込んだし、続けて執政の水野(1841年)はインフレに成るのは「商業組合の独占」に依る原因として「商業組合の解散」を命じたのである。

然し、「吉宗の享保の改革」では、「AからFのコンサルタント等も行う金融業」で、「商業組合の組合員」を育てて、「販売と消費」の「バランス」を重視する「リフレへション政策」であって、それを強化される結果と成っていたのが「江戸絆の構築策」であった。
然し、この事が、「商業組合方式」は、未だ、矢張り、治政の後継者には「思考外の事」であって、「能力外の事」でもあり、「理解外の経済理論」であった事から理解されていなかったのである。
当然に、この理論を見落とせば、堰を切った様に「インフレーション」に走るは必定であって、現実に間違いなく不況に陥ったのである。
享保期前の1640年から1670年頃は、「楽市楽座の組合」の株権に依る経済が幕府の脅威に成るとして「願株」に対して統制する様に動き遂には「株権の禁令」を発していたのである。
ところが、享保期は逆転して、禁止されていた「願株」(届出の民間株)に加えて、「低い冥加金」を納める「御免株」(幕府の承認株)も認めて奨励した歴史を持っていたのである。

そうして、上記の組合の禁令政策の傾向の事から、「政治の方向」は1788年以降は、幕府は「家斉」を擁して「水戸藩の影響力」(インフレ策派)に入れ替わった事が、「帰省派」が起こった最大の原因と観られる。
この事に依って、「江戸の景気」は1781年、「全国の景気」は1788年を境に急激に低下したのである。
従って、上記の疑問の答えは、「リフレーション策派」が「田沼政治」の時から一掃されると云う力が働いたと観られる。
上記した様に、この時の「紀州藩の対応」も不思議であるが、この時には未だ「吉宗の血縁を持つ藩主」であった事から、「インフレーション派」の水戸藩の一橋家が「将軍家」と成った時点で「紀州藩」は態度を明確に決めたと云う事であった。
結局、江戸執行組の者は、“「家臣の引き上げ」”の帰省を正式に実行したと云う事に成った。

この「家臣団の引き上げ」が起こる前に、「勘定方指導」の「青木氏一団」も引き上げに伴って、「江戸の伊勢屋」の一団と「郷士衆の一団」も引き上げる事と成った。
江戸に残ったとされる3割は、「吉宗の田保家と保科家の家臣」として残留した「若い末裔」であった。
又、「伊勢屋を任せた家人」としての「若い末裔」であった。
更に、「職能集団の差配頭の郷士衆」として「若い末裔」であった様である。
「江戸の伊勢屋」では、終局、「江戸末期の1840年後半」(株権に依る商業組合の禁止)に規模を縮小して、「125年間の江戸の歴史」を閉じている。(幕末1866年)

この事から考えると、「江戸の伊勢屋」の「商業組合」は「商いとしての主店」では無かった事に成る。
そうするとあくまでも、「伊勢の紙屋」が存在する限りは、“「享保の改革で江戸で日本を救った」“と云う事に成るだろう。

この様に成ると、現在の「日本銀行的な役目」以上の「政経的な事」も「民間の商家」の「伊勢の紙屋」と「青木氏の伊勢屋」と「伊勢屋の質屋」が“「幕府」に代わって果たしていた”と云う事に成る。
とすると、「青木氏の伊勢屋」を引けば、つまり“「日本銀行」”が無く成った経済は成り立たなく成るのは必定である。
それが「家斉後の幕末までの政治と経済の衰退」に繋がった事に成る。

もう少し話しを戻して、これに追随し、「京」や「難波」等もこれに見習って発展する様に成って、「1740年-1766年前後」には、遂に時期は今として、“「京の出店」の「6地域-3組」”が本格的に動いたのである。
記録を観ると、この時期から様子が変わり“「本格的出店攻勢」“に出たのである。
取り分け、「讃岐青木氏」には顕著であった。

つまり、上記の“「伊勢屋の質」”に依って“「江戸絆」”が確立した時期に動いた事に成る。
この様に、この「京の出店の時期」で観て見ると、少しずれていて享保期の1741年頃から1766年頃の出店が多い。

ここで「京の老舗名店」の由来を調べると、次ぎの様に成っている。
「6地域-3組」に関わる老舗はこの時期前半に集中している。
これは間違いなく「江戸の様子」を観ていた事に成る。
「讃岐青木氏」は、直接に「伊勢の紙屋」との「専用廻船」を借りての「江戸輸送」をしている事から、「100%の生情報」を持っていたのである。
逆に云えば、15年程度遅れている事から観ると、「江戸の反対勢力」と同じ理由で「江戸の成功」を当然とは考えられるが若干疑っていた事にも成る。

これは、「教育手段」=「商法伝授」が浸透して整い一段落して、次ぎの段階の「活用手段」(手形貸付)へと移行期に入った時期でもあった。

移行期
「教育手段」(信用貸付)=「商法伝授」→「活用手段」(手形貸付)=「商法実地」

つまり、「伊勢屋の質」が効果を発揮し始めた時期でもあった。
「組合員の教育」が整い「暖簾分け制度」も軌道に乗り始めた時期でもあった。

これは全国的な改革の波及が進み、その成果が「京」にも「難波」にも少し出始めたと観たと云う事にも成る。

因みに、江戸で「伊勢屋の質」が効果を発揮して大きく影響を受けたのが、「6地域-3組」であったが、この現象を顕著に表した「讃岐青木氏」を例にしてその影響具合を論じて観る。

唯、「讃岐青木氏の京出店」には、論じて置かねばならない不思議な事があった。

それは、「商業組合の単独の京主店」である事は前記で述べたが、「出店の商売種」が違っていた。

普通は、“「瀬戸内三白」や「瀬戸内三品」を活かしての出店”と先ずは考えるが違っている。

それは、「和菓子」等の今まで云う、所謂、「チェーン店」(商業組合の連携店)である。
(個人情報 詳細不記載)

これは“「瀬戸内三白」や「瀬戸内三品」”からは予想が着かない。

これは、“何故なのかである。“
「瀬戸内三白」や「瀬戸内三品」は上記した様に、「需要と供給の関係」からこれ以上に「商い」する事には意味が無いし無理が伴う。
何故ならば、既に、江戸期に起こった「地域別出荷」に沿って「需要>供給」に成っていた事から、「出荷出店」は「商業組合」に無理な生産を強いる事に成るである。
従って、「出店の商品種」を調べて観ると、「京出店」が「瀬戸内三白」や「瀬戸内三品」そのものでも無く、又、これを完全に生かしたものからも「京出店」されてはいないのである。

この「京出店」した“「チェーン店」(商業組合の「関連店舗の連携店」)”の「菓子本舗」の大元(老舗元 296年)に成った店舗は、何と、”瀬戸内の「海産物の加工品」(天草 寒天商品)”からであった。

そして、「老舗の年数」を追う毎に、それ(寒天)を多く使う「菓子製品」に店舗拡大が拡がった様である。

これらの店舗は、「屋号」を同じにして、その「関連店舗の連携店」を「商業組合員」(主に讃岐と安芸 伊予は一店舗)が受け持つシステムに成っていた様である。

(注釈 「関連店舗の連携店」とは、「ある品」を基にそれを使った関連する「各種の商品」を開発して連携付けて出店した店舗群の事)

確かに「同屋号」ではあるが、「扱い品」も関連はするが異なっているし、何より「関連店舗の連携店」の店主が「讃岐青木氏一族」(寒天店の最老舗296年から和菓子店舗265年)だけでは占めてはいない事である。

唯、結果としては「店舗拡大」では、「讃岐」は「安芸と伊予」の「商業組合との連携」を図ったと観られる。

そこで、もう一度この「関連店舗の連携店」(チェーン店)の個々の「扱い商品」を良く観て見ると、次ぎの様に成っている。

「瀬戸内三白」(「砂糖、綿、塩」)の「砂糖・塩」と、「瀬戸内三品」(「胡麻、大豆、煙草」)の「胡麻と豆粉」が生かされる商品と成っている。

「砂糖・塩」が基本調味料に、「米粉」を基本に「胡麻粉と豆粉」が原材料にした商品群で、これに「寒天」が「つなぎ材」と成っている。

(注釈 「寒天」を「単一商品」として「ハチミツ」や「酢」や「醤油」や「胡麻」や「きな粉」や「カツオブ粉」等の各種の調味料を塗した商品を大元店で出していて、当時として「大ヒット商品」と成った事が絵画や川柳や狂句等にまで詠まれているのである。)

そもそも、「寒天」そのものは、「トコロテン」(心太)から改良されたもので、残る記録では、京伏見の旅館で1685-1690年頃に商品化されたと一般に云われている。
然し、この説は「後付説」の商い上の「偽飾説」であろう。

それは、「天草の歴史」を調べれば違うと云う事が直ぐに判る。

そもそも、その「天草(テングサ)」は、平安期の初めころから使われていた「海草(海藻)」で「江戸の末期」までは当初は”「肥料」”に使われていたのである。

当時は、“「平安言葉」が遺る地域”、況や、“「京の文化の影響を受けた地域」”、即ち、 「瀬戸内全域」、と「紀州伊勢奈良域」では、「天草」の事を“「てぐさ」”や“「おごのり」”と呼ばれていた。
古代の三史書の「延喜式目録」にも記録されている事である。

つまり、この「平安言葉が遺る地域」が「良質の天草生息地」であったからこそ、この古い「てぐさ」や「おごのり」の言葉が遺されて来たのである。
上記の「天草-心太-寒天の経緯」の通り、“「肥料」”として土地に捲かれていた「天草」が次第に変化して「雨水と寒暖差」で「心太」(産地では“ごり”と呼称 ゲル状より固めの「植物性たんぱく質」)の様に成っていたものを工夫して「困窮時の食料」として「瀬戸内全域」、と「紀州伊勢奈良域」では一時、使われたりしていたとある。

そもそも、この「天草」は江戸期までは日本全国で、関西域では「紀州伊勢域」が、関東域では「伊豆半島域」が良質の「主要の天草生産地」で、「黒潮の流れる暖流域」が生産地であった。
ここは、云わずとも「二つの青木氏の本領地」である。

(注釈 「天草」に付いての「口伝や資料や伝説や慣習や経験や資料や商品」の宝庫で「二つの青木氏」が情報として持つ以上の氏は無い。
筆者の幼少の頃の「天草」には、「自家製の肥料」に、「自家製の天草から心太」にして食する等は珍しい事では無かった。
寒天以外にも多くの使い道は有った。
平安期から「蜜柑、柿、桃、筍等の主産地」であった事から、これらの「畑の下地」に「肥料」として理に叶っている事から昭和期まで盛んに使われていた。)

この「黒潮の流れる暖流域」の「主要の天草生産地」では、この「享保期前の50年前」から起こった“「飢饉」”にも食された事が記録や口伝で判っている。

そこで、江戸期に成ってこれを「各地の庶民」は「料理」に使える様に色々と工夫して試みたらしい。
その「試み」が良かったと観られ、各地に広がり「食」に煩い「京の庶民」にも人気に成った。

この「試み」で、“臭みも無く極めて総合的な栄養が豊富であった事”から瞬く間に好まれたが、その海産物の「天草」の「第二の生産地」の「瀬戸内の三地域」では、これを契機に紀州伊勢(肥料)に代わって「食料用の良質の生産」に着手した。
そして、「株権(願株 冥加金)」に依る「商業組合」を結成して大量生産を開始した。

この「安定した量産」を期するため「三地域」が集まった「連合の商業組合(株権)」を結成して、遂には、この「勢い」に載って1720年頃に「寒天の専門店」を「京伏見」に出した。
これが、少し遅れて「吉宗や青木氏の要請」に応じた「出店の経緯」であった様である。

つまり、「吉宗や青木氏の要請」(1716年前)から、「食料用の良質の生産」に着手し、「株」に依る「商業組合」を結成して「大量生産を開始」し、出店までに先ず4年掛かった事に成る。
そして、「関連店舗の連携店の出店」までにはそれより2年を要した事と成る。
合わせて計6年である。
唯のこれは単なる「寒天店」では無く、上記した様に「寒天」に更に工夫を加えた「寒天菓子」として出したのである。


これが大ヒット(1740年頃)したのだが、「讃岐青木氏」が先ず出資して「讃岐屋」を伏見に出した。
(合わせて計22年経過と成っている。)
この時、この栄養豊富な「寒天」を「京の有名な萬福寺」など各地の「寺の精進料理」にも使われる事に成り、この話は瞬く間に広がり「寒天の勢い」は最早、「京」だけに留まらなかった。
(ここまで計14年掛かっている。ピーク時までにはここから8年後である。)
1780年頃境には「生産地」に関しても海に面した「寒天の材料(天草)」としては、「瀬戸内摂津域」から「南関東域や東北域(生産地の三郡)」にも拡大したのである。

(注釈 ピーク時1740年から約40年後で、この関東以北への遅れた理由は「肥料」であった事に成る。)

その結果、関東でも取り分け「伊豆地方」にも良く産出して「肥料」として使用していた事から、この「京や難波」まで広がった「寒天のブーム」を観た幕府は、ここで、関西域とはやや遅れて「天草の肥料としての使用」(1780年頃)を全国的に「全面的に使用制限の令」を出したのである。

(注釈 幕府の禁令を出す位であるから、幕府は「寒天ブーム」で米に代わる「主要な食糧」と成る事に注目した。
中でも「伊豆相模域の青木氏」等が扱う「伊豆地方」は、関東では「最大の肥料生産地」であって、「肥料の商いの対象 商業組合」と成っていて「使用禁令」を出すのが遅れて1798年頃にやっと「禁令」に従った記録が遺っている。
関東向けに「畑肥料」としての出荷もあったが、地元の「蜜柑等の肥料」には欠かせなかった理由もあった。)

「京文化」や「難波の商文化」の影響を受けていた「関西以西の地域」では、早くて1725年頃からは地域ごとに「肥料使用の禁令」が出ていた。
この様に「肥料から食品の寒天」に成った事で、関東や東北部でも「原材料の産地拡大」で、「讃岐屋」は、時期を見計らい「天草肥料全面禁止令」が出された直後の1800年頃には「江戸」にも「関連店舗の連携店」の出店をしているのである。
これは「伊豆の肥料使用の禁令」が発せられた事を見計らっての「江戸出店」と成ったと普通は考えられる。
この時期は、既に「江戸の伊勢屋」と「青木氏と伊勢郷士衆」と「紀州家臣団」等は引き上げた後であった。
この時に合わせて「伊豆相模の組」と「讃岐屋の組」の青木氏が連携したのかと云う発想が生まれる。
と云うのは、「関連店舗の連携店」の「江戸出店」をするには、安定した大量の「天草」から「寒天」に仕上げた原材料が必要である。
瀬戸内からは「江戸用」に「原材料」を横取りする事は、量と距離と共に確実に無理であった筈である。
そうなると「調達先」を「一族の相模」に求める事は普通はあり得る。
年代も1年も空かずして、且つ、一度に「関連店舗の連携店」のチェーン店の出店をしている事は、関東に対して「800年の昔の怨念」を捨てて「原材料調達」で確実に談合したと観られる。
然し、この件については両者に資料がありそうで何故か見つからない。

そもそも、「瀬戸内の3地域の商業組合」は、1722年前後のこの時期を逃さず「京や摂津」に「関連店舗の連携店」(チェーン店)を「讃岐屋の同屋号」で出店して、この「チャンス」を逃さなかったのである。
その意味で関東に於いても逃す事は無いであろう。
その「勢い」は、「伊勢の紙屋」(青木氏 松阪摂津堺店の商記録)が「外国貿易」で出荷される程に成り、当時、“「100万石商品」”と呼ばれるに至っていたのである。

それにしても、1740年頃を「京出店」を成功させて、その「勢い」をピークに持ち込んでいるが、「江戸出店」が1800年とは遅すぎる。
普通なら、この“「勢い」を逃さないのが「商い」である”とするならば、戦略上は少なくとも1745年頃には「出店の段取り」が付いて「江戸出店」は果たしているだろう。
況して、1745年頃は「享保の改革」を「江戸の伊勢屋」が軌道に乗せる事に成功している。
チャンスとしてはこれほどのタイミングは無いだろう。
然し、“60年後”とはこれまた遅すぎる。

確かに、「江戸への怨念」(1)や「天草-心太の原材料」の「調達の問題」(2)もあっただろうが、それにしても“何か変で遅すぎる”と感じる。
この上記の「二つの問題」(1、2)の他に、“「肥料」と云う「地域感覚」(3)”が働いていたと観ている。

もう一つは、「執政の田沼」が、「インフレ要因」は「株権の商業組合」にあるとするとする説を採った事から圧力(4)を加えたが、この事が原因している事も考えられる。

“「肥料」と云う「地域感覚」(3)”では、関西地域は「余り拘りがない性癖」に比べて、関東地域では「肥料」は“食料に出来ない“と云う「強い庶民等の拘り」が強かったと云う事も考えられる。
だから、1788年以降「インフレーション」に入り景気が悪く成り、「肥料の天草」を改良すれば「有望な食糧(植物性タンパク質)」と成り得る事を関西域で実証している事を観て、この「拘り」を捨てさせる為に、敢えて最も遅れて「関東一の生産地の伊豆」に「制限令」では無く、“「全面禁止令」”を発したのであると考えられる。
“「全面禁止令」であると「肥料」としては使えない“と云う説破詰まった問題が起こる事を承知の上で”背に腹は代えられない“と云う「緊迫の令」であった事に成る。

(注釈 この為の解決策として、「3年間の税の軽減適用」と、「天草肥料」から「干鰯や菜種油粕」の「肥料の転換奨励」で対応していた事が書かれている。)

実は、享保から寛政期に掛けて関西以西の各地で「イナゴ大被害」が蔓延し、米の収穫が著しく低下した。
特に紀州や瀬戸内沿岸部の地域では飢饉が発生した。
そこで、「クジラ油や菜種油や魚油」の「油散布」で凌いだところ「イナゴ被害」は軽減した事が記録されている。
そして、この時の経験から、この「搾粕」を肥料として使う事にも成功して相乗効果を果たしたとある。
取り分け、この「イナゴ被害」の大きかった「瀬戸内一帯の飢饉」では、“天草を肥料から食料にする”という発想が瀬戸内ではより強く働いたと考えられる。
「瀬戸内全域」と「紀州伊勢奈良域」は、早くから「肥料も心太も寒天」も含めて重要な「商いの対象」として扱っていた事からも禁令は発せられていた。

取り分け、当時の「紀州伊勢の天草生産量」は記録にも残る様に桁が外れている。
「伊勢の紙屋」等の動きに依って「新たな殖産」として「商業組合」(天草肥料)も結成して生産量も「肥料用」としては飛躍的に増大していた。
一部では「寒天用」もあった筈で、「イナゴ被害」で「米の収穫量」が落ちて喘いでいたが、肥料としては紀州から調達出来て、代替食料としての「瀬戸内用の天草」は、、全て「寒天用」に廻しても成り立つ状況下にはあった。

実は、「伊勢の商記録」(1783年)の中に、「江戸帰りの郷士衆」の「働き先」として「伊勢海産物の殖産」が記録されている。
恐らくは、「伊勢」では以前から「肥料」として生産していたものであって、これに「伊勢の紙屋」はこの殖産に投資して「江戸帰りの彼等の受け入れ先」としても、この「天草から寒天までの殖産」の事を推し進めたが、この事を意味していると考えられる。

(注釈 「青木氏の殖産」として資本投資して商品として販売する方法を採ったが、「商業組合」にしていない。あくまでも「青木氏が興した殖産」であった。)

合わせて「紀州藩」も「江戸帰りの家臣団」を「伊勢」に廻しているのである。
この殖産の何をさせたかは判らないが、この事で下記にも論じるが、この「殖産」であったと考えられる。

(注釈 幕末にも「伊勢の紙屋」は「紀州藩の勘定方指導」を再び務め藩財政を救っている。
この時、「坂本龍馬の海援隊の商船」を間違えて沈めて仕舞った事で賠償を求められていたが、賠償する程に回復していた。)

(注釈 「萬福寺」の「隠元和尚」は、インゲン豆の名付け親 「瀬戸内の大豆」の「加工品発展の基礎」を築いた人物でもある。寒天とインゲンや大豆と組み合わせる精進料理にも使われて更にヒットした。有名な隠元和尚の名を使った事もヒットに繋がった事もある。
名付け親の隠元和尚から「寒い空に晒す天草の心太」から「寒天」と名付けたとされる説がある。)

これで、「讃岐と伊予と安芸の三商業組合」の「主材料」を安定して供給して、それを使った「加工品の関連商品」を個々に開発して「京と難波と江戸」で連携していた事に成る。
これが「6地域-3組」の「商業組合方式(株方式) 関連店舗の連携店方式」であった。
明らかに「江戸の伊勢屋」の「4地域-2組」との「商業組合方式(会員方式)」 職能集団方式」とは根本的に全く異なっている。

そこで、上記の経緯は兎も角も、“何故、「屋号」(讃岐屋)を同じにしたか”と云う疑問が起こる。

最終、先ず、「讃岐の商業組合」が背景と成って「讃岐青木氏」が「京」に動き、地盤が出来た処で「商業組合」が組合として動き、続けて「伊予と安芸」の「商業組合」が「加工品店舗」を「関連加工商品」で出店して「同屋号の連携で食品の菓子店舗」を拡大させた事が確かに判る。

(注釈 「享保の改革後」は、「冥加金」を納めた「願株」の「商業組合」であった。
参考として、 同屋号の「関連店舗の連携店」の中で、“「安芸の讃岐うどん」”もその代表の一つである。
“「讃岐うどん」”なのに「安芸の讃岐うどん」と成っているが、実は、この時の「関連店舗の連携店」に依って「讃岐屋」の組合に参加した「安芸の店」が、“讃岐産のうどん”を味付けや添え物などで「一つの加工品」として営んだ事が「京や難波」と云う「宣伝経済圏」で名が広がった事からこの様な呼称と成った典型的な代表例の所以である。)

これは1722年頃に「京」に先ず「讃岐青木氏」(寒天商品)が出店し、1740年頃からは「商業組合方式」が採用され拡大し、各地の「連携店方式」で1766年頃に最盛期と成った事に成る。
この様に「6地域-3組の商業組合」は「江戸の商業組合」とは、結局、全く異なる「商業組合方式の活用戦略」と成っている。
当然に、上記した様に「越後越前の組」は残存したが、「江戸の伊勢屋」の1781年からの「伊勢引き上げ」で、「出店目的」と「商いの目的」が違っていた事に成る。
「江戸の伊勢屋」は「青木氏の役」として「吉宗の為政」に協力した事に成る。
「吉宗の前」の「為政の失政」から国を救う為に「15地域の商業組合」を以て働いたのである。

結局は、「6地域-3組の商業方式」の「讃岐屋」と、「4地域-2組の商業方式」の「伊勢屋」の東西の特徴を活かした「二極構造」で経済を立て直した事に成るのである。

突き詰めれば、「江戸の伊勢屋」は「伊勢の紙屋」の「組合の移動」だが、「京の讃岐屋」は「讃岐の讃岐屋」の「組合の出店」であったから「組合の移動」は無かったと云う事に成る。
つまり、両組は「商業方式」と「その目的」が根本的に異なっていた事に成る。

参考 「15地域」
讃岐、伊予、安芸、尾張、駿河、伊豆、相模、越前、若狭、越後、米子、阿波、筑前、肥前、陸奥(伊勢 紀州は除く)

「京の讃岐屋」も確かに「商業組合の讃岐屋」であったが、「江戸の伊勢屋」も「商業組合の伊勢屋」で何れも「青木氏」を表に出す戦略方法では無かった事には違いは無い。
上記の様に、「江戸の伊勢屋」の金融業(AからF)は、「単なる質屋」(A)の金融業とは根本的に異なるが、裏に「青木氏」が存在する事を隠して「同屋号の支店」を拡げて「営業力」を高めたが、これには実際に次ぎの方法が採用された。

「讃岐屋」は「商業組合」の「元から店主」(構成員の出店)そのものであった事から、「店の責任」は「店主側」に元より有って「店の運営の仕方」も店主側に在った。
唯、「原材料の仕入れ」は、「組合に依る一括仕入れ方式」で運営される方式であって、「讃岐屋」として「商業組合の株権」により構成していた。
「讃岐屋」の「関連店舗の連携店」には、「暖簾分け制度の採用」や「株権の措置」については、個々の連携店の自由の裁量範囲に任される事であったが、下記に論じる「江戸の伊勢屋の質」が行った「江戸での商業組合」では、先ず「株権を有しない組合員の出店」に成った上で、それは「店員の暖簾分け出店」であった。

「伊勢から出て来た職能別の商業組合の組合員(構成員)」は、「株権を持つ構成員」であって、江戸の「質の指導」で新たに「暖簾分け制度」などで「認可された店員」が、独立して「組合員」として「構成員が作る組合」には先ず入るのだが、この「江戸の組合員」に成った者には「株権の持つ構成員の組合員」には本来成らない仕組みであった。
但し、空席の出た「限られた株権」(「親方株」)を「構成員の継承者」として取得し購入しない限りは、要するに「構成員の組合員」には成らない仕組みであった。

(注釈 「商業組合」に敷かれた「御師制度」は、「組合」を「維持し管理監督する制度」であるが、上記の江戸で「新規組合員に成る者」は、この御師の支配下で「知識や技能」を始め「慣習仕来り掟」の指導管理管轄を厳しく受ける仕組みに成っていた。)

「江戸の伊勢屋」と「質屋の伊勢屋」も同じで、この「店員」の「暖簾分け制度」に依って拡げたのである。
従って、「讃岐屋の仕組み」の「関連店舗の連携店」での拡大とは異なっていた。

(注釈 上記の「仕組み」で人材を育てた。「店員」は「暖簾分け出店」を受ける場合は、「組合員」に成った上での事で、又、新規に出店を希望し融資を受ける者である場合は、先ずは「店員」に成り「見習い経験」をして「組合」に加入する「仕組み」であった。
「見習経験-認可-組合員-出店-指導」のプロセスが要領であった。)

ここで実は、「伊勢屋の屋号」が上記した様なシステムで「2800輔」と成ってはいるが、”その内の「3割程度」に付いては疑問である”と観ていると上記したが、公的記録では、“一般が店舗詐称した“とする説にしている。
この説には合理性が欠けていて納得出来ない。
これに付いて改めて検証して観た。
そこで、先ず、”そう簡単に「店舗名詐称」が出来たのか”と云う事である。
僅か1-3%では無く、「3割もの搾取の伊勢屋の質屋」が出れば「経営の方針」の違いから「享保の改革の信用問題」にも繋がるし、江戸の伊勢屋」にしても「青木氏」にしても放置する事は絶対に出来ない筈である。
「江戸の慣習」が其処まで、「簡単に詐称を許す社会」であったのか、又、「伊勢屋の力がそれを簡単に許す程度」であったのか、「享保政治の影の力」として「布衣の役の勘定方指導の青木六兵衛」が許し得るか、「享保の改革」を進める上で「吉宗(1761年没)」はそれを許す事が出来るのか等々考えた場合、「享保の改革」の戦略上は先ずあり得ない事と判断できる。

だとすると、“これは一体何なのか”である。
そこで、最も解明のポイントに成るのは、この「暖簾分け以外」の「出店の制度」に付いてであると観ている。
そこで、更に調べたところ、次ぎの様な結論と成る。

唯、享保期後の宝暦明和後(1770年頃以降)には、「商業組合」に入らないで「一般の庶民」、つまり、「3割程度の店舗」は、「店舗名詐称」が出来ないと成れば、「暖簾分け制度」から“「外れた者」”であったかも知れないと観て調べた。
この「店舗名詐称」とするものが、“ある時期に集中して”、この「伊勢屋」の「屋号」を“正式な許可なく”使って、“「店」を持っていた事”が多く起こっていた事が判ったのである。
そこで、幾ら「店舗名詐称」としても、“3割もの詐称が一度に集中して起こるか”の問題が出る。

これには「江戸の犬の糞と伊勢屋の質屋」の有名な川柳に相当する数(上記2800店舗)のこの“「伊勢屋」”の名(1781年頃から江戸撤退)に肖ろうとする「表れ」での意味があった事は否めないが、それだけに“「伊勢屋」”は、或は、“「伊勢商人」”は「憧れの的」や「庶民の目標」にも成って居た事を示すものでもある。
確かにこれは頷けるが、唯、だからと云って、1770年から1781年の“「10年程度の間」に一度に集中するか”と云う事である。

「店舗名詐称」が起こるとすれば、江戸撤退前後の1781年以降と成る事から、次ぎの様に成る。

そこで、「3割」とすれば「約640店舗」で、10年間-「64店舗/1年」で建設したと成る。
では、「7割」の「2160店舗」は、1716年から1770年の54年間の間に、平均的に仮に建設されたとすると、54年-「40店舗/1年」で建設したと成る。

「3割」-「64店舗/1年」:「7割」-「40店舗/1年」

> この理屈は成り立たない。一般説を唱えている説はこの理屈である。
>
> そもそも最も経済力のある処で、「7割」-「40店舗/1年」でありながら、「3割」-「64店舗/1年」は「最も経済力の無く成った時期」である。
> 「3割」-「64店舗/1年」である。
> 個人にそんな“「伊勢屋以上の1.5倍」もの「経済力」はあったのか“と云う事に成る。
> 明らかに「一般説の論理」は成り立たない矛盾である。
>
> 然し、現実には集中して起こっている。では何なのか。
> とすると、一般説の「自然発生的な事」では無く、”何かの「作為的な事」で起こった”と観る事が妥当である。
>
> 先ず、第一義的に「拠点」と成った「江戸の伊勢屋の総本舗」は、「伊勢屋の呼称」が“活性化に繋がる事”である限りは、“「伊勢屋の屋号の使用」”については、考え方として作為的にはこれを拒まなかったのであろう。
> 恐らくは、この頃、つまり1770年頃から、「享保の改革」は「成功裏」に終わり、「江戸の伊勢屋の総本舗」は1781年頃から伊勢などに引き揚げ始めている事から、時間的にはこの時期頃から“「引き上げの準備」”に入っていたと観られる。
>
> そこで、「引き上げの準備」としては、先ず手掛けなければならない事は、先ずは「資産整理」である。
> つまり、「暖簾分け」の「伊勢屋」と「質屋」の整理に入る事である。
>
> つまり、この“「3割の店」“の「3割」-「64店舗/1年」(7割が譲渡)が、「「資産整理の対象」(資本引上)と成った店である。
>
> その後の事は、取り分け「伊勢屋の屋号」の使用に付いては、特に拒まず、「経営の継続」は自由にしたのではないかと考えられる。
>
> この「資産整理の対象」(資本引上)と成った「3割」-「64店舗/1年」の店に付いては、“「株権」の「有無と比率」”で判別した様である。
>
> そこで、「商業組合の構成員(親方株)の本店」は、「御免株」が定める「組合株の株権の令」に従い、店側が「7割株」を保有し、「3割株」が「伊勢屋総本舗」が所有していた事か判っている。
>
> つまり、「「資産整理の対象(資本引上)と成った店」は、「江戸での暖簾分け出店」で、上記の「質」に依って経営途中の「伊勢屋ローン支払い中の店」であった事に成る。
>
> 「7割ローン払済店」は、「3割の株権の無償譲渡」で独立した。
> 「ローン未払店」では、7割に達する「残存分の店側買い取り」で、「3割の株権の無償譲渡」をした。
> 「残存分店側買い取り」が出来なかった店は「資産整理の対象」とした。
> 但し、この「資産整理の対象とした店舗」には、「10年間の猶予期間」を与えた。
>
> 資料から読み取ると以上と成っている。
>
> これが“集中的に発生した「伊勢屋」”の「店舗名詐称」と観られたもので、「「資産整理の3割店の伊勢屋」(「3割」-「64店舗/1年」)であると考えられる。
>
> 所謂、「10年間の間の資産整理」の準備期間中に出た純然とした“「伊勢屋」”であって、全て「元々の暖簾分け制度」に依って出来た「伊勢屋」であった事に成る。
>
> 従って、上記の通りで「一般説」は全く当たらない。
>
> (注釈 この様に前段からも何度も論じて来たが、「青木氏」が関わった事で詳細部分に付いては「青木氏」自らが論じないと俗説化されていて「真実の青木氏の歴史観」はなかなか引き出せず「一般説」で終わって仕舞う事が多いが解る。
> 「青木氏に関わる事」だけでも「青木氏の歴史観」として遺したい。)
>
> その後の「10年間の猶予期間」の状況に付いては、システムとしては判っているが、経理上の事であり「伊勢の紙屋への支払い」と成るが、「松阪の大火」で焼失してこの事に付いての「直接の記録」が無い。
> その事からその後の詳細は良く判らない。
> 況や、「残存分の店側買い取り」の「ローン」は果たして済んだのかは判らない。
> 「支払済」で「組合員」に成ったかはその後の「3割の店舗」に付いては判らない。
> その後の「幕府」の「組合」に付いての対応は、禁令も含めて厳しいものであった事からも、この「3割の店舗」の事は気にかかる。
> 「佐々木氏等の由来書」によると、「近江佐々木氏」一族一門の系列が手掛けた「佐々木氏の店舗」の殆どは「寄合」に移行したらしいが、遂には「明治初期の政府の施策」で閉店に追い込まれた事が書かれている。
> この事からも、「青木氏」の「3割の店舗」も、「7割の店舗」は引き上げている事からも、頼る所も無く寄合も侭ならず難しい事に成ったと考えられる。
>
> 「伊勢-信濃」や「越前-越後」での「地元の商業組合」は、健全であった以上、「商慣習」から考えて「支払い済み」に成ったと考えたいが督促そのものが可能であったかは疑問であると観られる。
>
> 上記の記録資料は、この「3割店の事」に付いて直接に触れて書いた資料のものでは無く、「商業組合の構成」の事に付いて触れた資料から判断したものである。
> 時系列的に観て、その資料の総合的状況から割り出した結論である。
>
> そもそも、その判断根拠の一つには、前段と上記で論じた様に、「享保期前の大店」は、全てと云って良い程に「中級武士階級以上」に依る「二足の草鞋策の商い」が殆どであった。
>
> ところが、享保期後は、「江戸の商業組合の自由商法」の前提で、「市民」の「徒弟制度」から起こる“「暖簾分け」”と云う制度を作って成り立った。
> そして、次第に「市民」が上記の「質制度」に依って「商い」を覚え、「能力のある者」は「経済的力」を得て「構成員の親方株」を買い取り、「商業組合」の中でも上位の位置に来て組織を動かす様に成長したのである。
> 最早、「江戸の伊勢屋」の「地元引上期」の1781年頃には「郷氏衆>市民衆」の比率に“「逆転現象」“が起こっていたのである。
> 「郷氏衆<市民衆」の比率に成っていたのである。
>
> 確かにこの「逆転現象」が起こってはいたが、幕府の「商業組合への抑圧策」が厳しく成っていた時期でもあった。
>
> 上記の「伊勢屋の屋号」を正式に引き継いだ「7割」の中には、「暖簾分け制度」で「市民」から成った「伊勢屋」は、「全部」とはいかずとも「4割程度(/7割)以上の相当数の店」に成っていた事に成るらしい。
>
> 「江戸の商業組合」を「伊勢の範囲」で観ると、この事は「武士、つまり、郷士衆」が「二足の草鞋」で確かに「3割」(/7割)は残っていた事に成る。
>
> 然し、「7割-1960(2800)もの伊勢屋の店舗」の「元からの店舗」、つまりは、「伊勢郷士衆の店舗数(親方株の構成員)」は、「1割程度(200人)(/3割)」である筈(伊勢から江戸への第一次二次の移動団は200人と成っている。)である。
> そうすると、残りの2割(/3割)は、「郷士衆の末裔」で拡げた店舗と成る。
>
> そこで、1781年頃の「地元引上期の整理状況」から観ると、「伊勢屋の否正式店舗の3割」も加えると、「暖簾分けの正式店舗の4割」とで、「市民の伊勢屋」は結局は合わせて「7割」であったと云う事に成る。
>
> 「武士の伊勢屋」:「市民の伊勢屋」=3 : 7 であった事に成る。
>
> これは「江戸の伊勢屋」から観たと云う比ではあるが、「商いの屋号」を使わなかった「職能集団の加工」から「商品の販売」までの“「商業組合」”として観ても取り分け大きな違いの要素はなかったので同じである。
>
> 唯、「職能集団の加工部門」の「商業組合」には、厳しく「御師制度」が敷かれていた事から、元より「郷士衆配下」の「伊勢の家人」が多く、比較的に「郷士衆」が少なかった事もあるので、次ぎの様に成る。
>
> 「武士の商業組合」:「市民の商業組合」=2 : 8
>
> 結論としては以上の比と云う事に成るだろう。
>
> 「青木氏の氏是」に依って“「青木氏」が表に出ないと云う事の手段”に対して、「商業組合の対策」では、次ぎの対策を採った。
>
> “「御師制度」の「徒弟制度」”(1)と、上記した“「暖簾分け制度」”(2)
>
> 以上の「新しい制度」(「二つの組織体」)を作り上げて維持したのである。
>
> その事から、それが原因して“「庶民」からの「出店」”が多く起こった事にも成るのである。
> 当然の事乍ら、恣意的と云うか戦略的と云うかその様に仕向けたのである。
>
> 然し乍ら、この事で「江戸の経済」が活性化して「享保の改革」は進んだのであって、その意味でも「自由」を据えて「青木氏の出現」は抑えたのである。
> 上記する様に、「青木氏と吉宗」は、それまでの慣習であった「郷士衆の武士による商いの慣習」からの「市民の商いに切り換える経済社会」が必要であると考えていた。
> だから、「江戸の伊勢屋」の可成り「質制度」に依って「変革」は果たしたものの「武士の商業組合」:「市民の商業組合」=2 : 8の数式論では未だ不足であると考えていたのである。
>
> 従って、1650-1700年の享保期前の頃では、この進みつつある「商人の組合」の勢いは、先ず“「幕府の脅威」”と受け取られた。
> ”「自由」を身に着けた「町方台頭」が、遂には「町方の経済」が「武士の政治」を超える”と云う「未知の恐怖」があったと考えられる。
>
> そして、この「未知の恐怖」から、“「願株」”で「冥加金」を賦課して抑制し様とした。
> 最終の享保期前には、「会号式の組合」には「禁止令」が出された経緯があった。
>
> ところが、この「未知の恐怖」から、一転して「享保期」は、前段や上記でも論じている様に、逆に、「吉宗の幕府」は、新しい(イ)(ロ)(ハ)の「商業組合」を奨励し、「願株権式」(届出制度)に加えて「御免株権式」(認可制度)とを設けて二段階に分けて本制度化した。
>
> 上記の「一般の暖簾分け」の「市民の店舗」の多くは、この「願株」(上記の7割)であり、「構成員の親方株の店舗」は「御免株」であった。
> 「株権」に「権威」を付加させたのである。
>
> 但し、「跡目継承」で「郷士衆」等が持つ「親方株」を継承した場合は、「御免株」の「組合店舗」と成り得た。
>
> 「郷士衆の末裔」の跡目は、「御免株」の継承と成るが、「跡目末裔」に欠けた場合では、「店員の優れた者」が継承した場合は、殆どは「養子策」にて届け出て「御免株」を取得した様である。
>
> 全く関係の無い家筋からの「養子策の跡目継承」には「許可」は出なかったし、「御師制度の許可」を前提としていたので、「組合」に対しても「お披露目の式」もする等衆目が認める「優秀な者」以外には「幕府」もこの「許可」を出さなかった。
>
> 「暖簾分け制度」に依って起こる「一代限り」の「組合員の願株」に付いても「届出」に依るもので、「幕府の認可制」では無かったので余計な干渉は無かったが、これに代わって「商業組合」と「御師制度の監視」と「3割株権」を有する「江戸の伊勢屋の総宗本家」の干渉を受けていた。
>
> 何れにしても「江戸の伊勢屋の総宗本家」や「享保期の幕府」は、「御免株」では「商業組合」の累代の「世襲制」に依って「質の低下」を招く事を極力嫌ったのである。
>
> 「願株」に付いても「一代限り」ではあるが、資料から読み取ると同じく「質の低下」を嫌った様である。
>
> ところが、更に一転して享保後の1770年頃からの「執政田沼」に依って、「インフレ不況の原因」は、”「享保改革の商業組合」の「経済の独占」に在る”として「冥加金の献納策」で厳しい抑制策が採られた。
> 「執政田沼」のその根拠は、「享保期前の未知の恐怖」(経済>政治)では無かった。
>
> 恐らくは、享保期に比して「経済」が急激に低下して仕舞って、その「責任の転嫁」を「商業組合」に押し付けた上で、「冥加金」まで取ると云う「離れ業」を成し遂げたのである。
>
> 遂には、その「論調の傾向」を受けて続けて、次ぎのステップに移行させると云う政策を「執政水野の天保期」では遣って退けた。
>
> 要するに、「執政水野」は、今度はその一切の原因は「株権」にあるのだとして、「商業組合の存在」は兎も角も、「一切の株権式の商業組合」の「解散」を命じたのである。
>
> 注釈として、この様に”猫の目の様に変わる幕府”に対して、これでは「江戸の伊勢屋」(青木氏)は「江戸での存続」は不可能と成った。
> 遺された「江戸の伊勢屋」等は、取り敢えずは平安期から鎌倉に採られていた「寄合形式」で何とか逃げようとした。
>
> この「寄合形式」とは「農民の組合」として遺されていたもので、多くはこの「名義を借りると云う窮策」に出て存続を図った。
>
> 「享保の改革」の「(イ)(ロ)(ハ)の商業組合」は、この様な「禁令」の全く逆の「二つの狭間」にあって、成長した経済であったのであった。
>
> この結果として、苦しい場面に知恵を出した事により、新たに「副効果」として次ぎの様な「新しい事」が起こった。
>
> 新-1 “「店舗販売」”が起こる。
> 新-2 “「御師制度の徒弟制度」”が起こる。
> 新-3 “「暖簾分け制度」”が起こる。
> 新-4 “「関連店舗の連携店」”が起こる。
> 新-5 “「チェーンストア」”が生まれる。
> 新-6 “「バーゲンセール商法」”が起こる。
> 新-7 “「金銭を融通するシステム」”として「金融業の質屋制度」が起こる。
> 新-8 “「三貨制度」の「貨幣経済」”が進んだ。
> 新-9 “「商品の開発」”の機運が進んだ。
>
> 以上も何と歴史的に「新しいシステム」が、”「市民参加の組合」”に依って「江戸の社会」に「副効果」として始動し始めたのである。
>
> 殆ど、社会の根底には「古式概念」がまだ強い「江戸の社会」ではあったが、何と「現在の経済システム」に近づいていたのである。
> これでは活性化しない方がおかしいものと成った。
>
> 注釈として 然し、「江戸の商業組合」には、この様に留意して置く重要な「青木氏の歴史観」があるのだ。
>
> この「新しい商システム」に対して、「宝暦明和」以降から「幕末まで」の「執政の為政者」には、この「新しいシステム」が、“幕府を脅かす”とか“不況の原因”と見做されて、現実にはこれも抑圧を受けた。
>
> 「享保後の幕府」は、全ての事に直ぐには「抑圧策」が現実には採れない事から、「商業組合」を構成している「株権」に対して「解散を含む抑圧策」で規制する事に至った。
>
> ところが、この結果、「商業組合」は、注釈の通り“「寄合」”と云うやり方に換えて「知恵」を出して何としても存続を図った。
>
> そもそも、この事は「幕府」としては思いも依らない事ではあった。
> この“「寄合」”とは、平安末期から鎌倉期に用いられた組織であって、その後、室町期末期までは新たに「座」に変化して、江戸期には「株」(願株と御免株)に変化して、幕末期には、止む無く「一村郷にある農民組織」に見習って、再び「商業組合」は“「寄合」”に戻したのである。
>
> これには、実は、理由があって、「宝暦明和」後に「不況」と成った事で、その影響が、実は、皮肉にも最も「仕官の下級武士」に出て仕舞ったのである。
> これも「寄合に逃げた事」と同じく「幕府の計算違い」でもあった。
>
> 享保後の幕府が主張する「商業組合」や「株権の寡占」で経済が低下したとする主張は違っていたと云う事に成り、「間違った政治」を敷いた事がその歪が最も弱い所に出たと云う事であろう。
> 商家の中で育った「吉宗」と違って「リフレーション経済」と云う「学問的な知識」にその後の為政者は完全に不足していた事から起こった事である。
> 当時としては彼等に執っては、”止む終えない”と云えばそうであるかも知れない。
> それほどに「吉宗等の経済学の知識」が如何に高かったかを物語るものである。
>
> 「殖産」を興してそれを「システム化」して「経済」に結び付けて「藩政」が潤っていたのに、これを抑え込んで仕舞った事から、この影響を受けた「下級武士」は、「飢え」に喘いで仕舞った。
> その事から、田畑を耕し農業で産物を密かに売ると云う事で生き延びた。
>
> 「郷士の武士」も「仕官の武士」も「郷士」に真似て生きる事しか無く成り同じに成って仕舞った。
> むしろ、「殖産」を興した「郷士の方」が遥かに潤っていた事が記録されている。
>
> そして、今度は、享保期の「質流地禁止令」では、対象者が「仕官している下級武士」であった事から、幕府としては充分な対応は出来なくなっていたのである。
>
> ところが、「武士の農産物等の販売」には、各職能の「組合の壁」と云うものがあって、「自由」が利かず、結局、「農民の寄合」に入れて貰う等の事や、「農民の名義」を借りる等の事で対応した。
>
> 「幕府」のこの逆に跳ね返って来た思いも依らぬ「失政」に付いて、「藩」もただ観て見ぬ振りして黙認するのみであった。
> しかし、「紀州藩」の様に密かに裏で奨励した藩もあった位であった。
>
> この事から、「職能から販売までの商業組合」も「寄合組織」に変更して、自らも救い、地域の「下級武士や農民」らも救う事で「絆を基本とする寄合組織」に変更して生き延びた。
>
> 唯、この「寄合組織」では「発展」は望めないが「維持」は可能であった。
> それには、上記の「新-1から9までの副効果」までは幕府は潰しに掛かれなかった。
> 「新-2、3、5、7、9」は流石に「株権」を保障の前提としていた事もあって低迷した。
>
> 所謂、「新-1から9」の基本に成った幾つかの制度と組み合わせた「親商法」が、享保―宝暦―明和時代に掛けて「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」の「青木氏」が興した「商業組合」の「新しい改革商法」(1716年から1788年まで)へと繋がったのである。
>
> 仔の経緯は、「伊勢の紙屋」が「伊勢の商業組合」を興してからは明和期(1788年頃)までの「185年間の悪戦苦闘の歴史」に成る。
>
> これ等の事は、「青木氏」だけの「重要な知っておくべき青木氏の歴史観」である。
>
> 伝統シリーズ-23に続く。

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:「青木氏の伝統 21」-「江戸の商業組合」 


[No.339] Re:「青木氏の伝統 21」-「江戸の商業組合」 
投稿者:福管理人 投稿日:2016/03/20(Sun) 11:46:43


>伝統シリーズ20の末尾


>それは、(イ)(ロ)(ハ)の「商業組合」とすると“「子孫の出店」”は、「自由」とする「発想外の事」と成り得て、兎も角も、全てとは言い難いが、「出店」として可能な「時代期間」と「江戸地区」を限定して考察すれば、「関係者の出店・暖簾分け」であった可能性が強く、現在で云う“「チェーンストア」”であった可能性が強い。

>(注釈 現実に「青木氏として氏名に関わる事」は、「享保の改革」を主導している理由から表に出せなかった。
>江戸に同行した「江戸の青木六兵衛」とその子供二代に渡りが「吉宗」に仕えたが、この「佐々木氏の資料」からこの事の注意が読み取れる。)

>特に「総合商社」から発展した”「伊勢屋の質屋」”が多いと云う事は、“「江戸の名物」”と云われた位に多いのはこの事を証明する。
>上記した「越後騒動の原因」と成ったのには、「質流地禁止令」が「江戸の金融問題」で出したのではあるが、「商業組合」として多く「江戸店」を出している越後国にも波及して、この「所以の事」から来ているものとも観ている。
>「伊勢屋の質屋」は、「享保の改革」を「商いや利益」と云うよりは金融面から支えた「金融システムの構築]に目的があった。


「青木氏の伝統 21」-「江戸の商業組合」


下記の「15地域」では、上記の確認の取れている「江戸出店」の「4店」(下記)の範囲に限らず、資料的に観ても少なくとも次の「15地域」の中からも動いたと考えられる。
その「経緯や所縁」から観て「吉宗や青木氏の呼びかけ」に動いたと観られる。

「江戸出店」の「4地域-2組」
「越前、若狭」(皇親族賜姓青木氏)
「越後、駿河」(秀郷流賜姓青木氏)
以上の「2氏―4地域」の「商業組合」が参加した。

「京出店」の「8地域-4組」
「讃岐」や「伊予」
「米子」や「安芸」
「尾張」や「阿波」
「伊豆」や「相模」

以上の「8地域-4組」からも江戸に出店している筈であるが“完全な確認”は取れない。
ところが、この「8地域-4組」は、どうも「特別な動き」をしている様である。
そこで、「8地域」を「地産型」で観て見ると、概ね、これも次ぎの様に分けられる。
「讃岐と伊予」
「米子と安芸」
「阿波と尾張」

「別枠組」
「伊豆と相模」
以上の「8地域-4組」は、“「地産型」”ではあるが、更に考察すると「別枠組」に分けられる。

兎も角も「地産型」で、且つ「特別な動き」をしたとして観ると、以上の「4組」に分けられる。
但し、「京出店」の事、「6地域-3組の出自」の事の「二つ事由」が異なる「伊豆と相模」(下記)はこの事由以外に特別に論じなくてはならない事柄があって「別枠」に成る。

ところが、この先ず「地産傾向」で観て見ると、「特別な動き」は「6地域-3組の出自」で「江戸」よりは「京」に出店している傾向にあった。

これには意味が存在している事に成る。
それは、“「吉宗の江戸出店の呼びかけ」“が「15地域」にあったにも関わらず、“「京に出店」をした“と云う事は、場合に依っては下手をすると「幕府反抗」と捉えられ兼ねない事に成る。
「幕府反抗」に及ぶ程の事は「吉宗や伊勢青木氏」との間には無かった筈である。
とするとこれは、“何を意味しているのか”疑問が残る。
又、「伊豆 相模」が江戸のお膝元であるにも関わらず“「別枠組」”に成っていると云う事には,“何かがあった事”にも成る。
つまり、この「京出店組」と「別枠組」には「吉宗-伊勢青木氏」との間で確実に何かがあった事に成る。
その何かを分析する事が出来れば、この時の“「15地域」がどの様な動きを示したか”が判る

そこで、その「出店の特徴」に付いて観て見ると、「6地域-3組」は、“「地元特産の出店」”であって、その最も多いのは“「地元特産品を加工した加工品」”であって、主に「和菓子」と「呉服」と「小間物」と「海産物」の“「加工品」”である。
つまり、“「原材料」”を持ち込むのでは無く、加工した“「完成品」”である事から、先ず、“「消費」”を目的とした”「販売戦略」であった事”が良く判る。
「否原材料-完成品」=「消費-販売-個人戦略」→「商店」の構図が描ける。

これは、明らかに全ての「職能集団」が動く「商業組合方式」での「江戸出店型」では無い事を意味している。
先ずは「商業組合の戦略」が根本的に違っていた事に成る。

ところが、一方のその対象と成る“「江戸出店型」”では、「原材料から加工」までのあらゆる「職種の統合的で総合的な出店」と成り、それに伴う「職能部(職人)の移動」であった事から、“「産業全体」“で“「商業組合」”を形成しての「出店」であった事に成る。
「原材料」-「加工」-「職能」-「組合」-「販売」=「組合戦略」→「商店」+「金融」の構図と成る。
上記の「個人戦略」に対して「組合戦略」であった事に成る。
「江戸出店型」=「組合戦略」=「経済機構戦略」であった事に成る。

ところが、この「8地域-4組」の「伊豆 相模」の一つを除いては、「6地域-3組」は“「加工品」で「京出店」”と成っている。

「江戸出店型」の全ての「職能集団」が動く「商業組合方式」ではなく、それをしないで済む「商い」であった事に成る。
明らかに違っているのであるから、「吉宗-伊勢青木氏」はそれで納得した事を意味している。
「享保の改革」の根幹を左右する「商業組合方式」であるのにも関わらず「大きな問題」に成らずに「納得した」と云う事は、「リフレーション政策」に執ってそれなりの「経済的な根拠」が他に有ったと云う事に成る。

それには、特徴として次ぎの「4つの要素」が働いている様だ。
つまり、「6地域-3組」の“「加工品」で「京出店」”の持つ次ぎの「共通点」である。
距離的な要素
出店先の要素
運送上の要素、
所縁の要素

以上の「共通点」の「4つの要素」が主な事に成り、それが“強く働いた”と云う事に成る。
この事は「職能集団」が動く「商業組合方式」を「押しのけるだけの力」が働いたと成るのだろう。
「商業組合方式」<「押しのけるだけの力」
と云う図式が出来上がっていた事に成る。
“これに納得した”と云う事に先ずは普通は成り得る。

前者の「江戸出店」の「4地域-2組」は、所謂、「職能集団」が動く「商業組合方式」の“「商業組合の江戸出店」”であったが、この「伊豆と相模」を除く「6地域-3組」は、上記の「江戸出店」とは明らかに根本的に異なっていた事に成る。

ところが、この後の「6地域-3組」(「伊豆と相模」除く)は、「吉宗の要請」でありながら、且つ、「商業組合」を持ちながら、“「商業組合」では無い「京出店」”であって、「商業組合の江戸出店」では無かったのである。
従って、「8地域-4組」の「6地域-3組」(「伊豆と相模」除く)には、“「商業組合」では無い「京出店」”には、“「吉宗の要請」”を跳ね除けるだけの共通する「相当な理由」があったと云う事に成る。
「幕府反抗」と成りかねない「6地域-3組」のそれが上記の「共通点」の「4つの要素」であった事に成る。
簡単に云えば,「吉宗」は次ぎの「4つの要素」の「理由」に“納得した”と云う事に成る。
この「納得」とは、「享保の改革」の根幹を左右する「商業組合方式」に反しないと考えた事に成る。
更に云えば、「リフレーション政策」に執ってそれなりの「経済的な根拠」があって、「4つの要素」の「理由」が「納得」と云う事に至ったのである。
では、どの様な理由なのかである。ここに付いて検証して観る。
「距離的な要素」に付いて
「6地域-3組」(「伊豆と相模」除く)の地域から江戸に出るには距離が在り過ぎる。
江戸までの「公道」を通ったとして、瀬戸内から京まで約233k 江戸まで692kである。
因みに、松阪から江戸まで441kと成る。
この「松阪から江戸」までの距離441kは、“「吉宗」に同行する”と云う絶対的な必然性があった。
そもそも、自発的意思により「松阪の青木氏」には「選択の余地」は無いが、ところが「讃岐青木氏」にはあったのである。
だとすると、江戸期のこの距離692kは「吉宗招請」と云えど「躊躇する距離」ではあった事に成る。
況して、瀬戸内から京は233kの1/3である。
先ず、先々江戸の経済が未だどの様に成るかは判らない状況にあったからこそ、当時の運輸環境から観てこの3倍は思考外にあってより躊躇することであろう。
「越後や越前」と違って、その途中には「摂津、京、難波」と云う「大経済圏」が控えている。
「越後や越前」には「江戸」に出る以外には周囲には「経済圏」と云う選択肢はないが彼等にはあった。

取り分け、前段でも論じたが、「讃岐藤氏」の「讃岐青木氏」には「純友の乱」の様に平安期より“政権に従わない”と云う「独立気風」があった。
この「独立気風」には、ただ単なる去勢では無く、古来からの「瀬戸内の経済力」と「地形的な軍事力」と「政治的な地域力」にある程度に「裏打ち」されていた事があった。
取り分け、「人の事」であり、「平安期の怨念」からも逃れられなくもあって更に躊躇する事であろう。
「具体的な理由」として、「選択しなかった要素」には次ぎの様な事が挙げられる。

「出店先の要素」に付いて
「出店先」は、平安期からの「最大消費地の京」であったとすると、「江戸リスク」を大きく負ってまで出るとする判断は、「相当な強制力」の無い限りは生まれないだろう。
“「摂津、京、難波」と云う「大経済圏」”で事は充分に足りる。
この事が、「リフレーション政策」に執ってそれなりの「経済的な根拠」に成っていたと考えられる。
「経済の解る吉宗」に執っては、“「江戸一極集中」“と云う事では無く、「摂津、京、難波」と云う「大経済圏」”の「二極構造の経済圏」を描いていた事に成る。
そもそも「吉宗」は、「将軍」に成った後にしても「幕府の権力や軍事力」を使っての「経済」に対して「強制力」を根本的には使わなかった。
況して、この事の「吉宗要請」は、「将軍」に成る前の「準備段階」であった事から、「吉宗要請」は根本的には元より「青木氏一族」に対する「協力要請」であった事に成る。
「強制力」を使えない「青木氏」に対して、「リフレーション政策」に執ってそれなりの「経済的な根拠」が成り立っていれば、「納得」どころかその様に要請して居た事も考えられる程である。
尚且つ、根本的には「伊勢青木氏」を通じての「吉宗要請」であったので、「讃岐気質の風習」から考えても「6地域-3組の讃岐側」では、「距離の要素」と共に「出先店」にも躊躇する事に成った事は間違いは無いであろう。

この様に「距離」と「出店先」の「二つの要素」からも、「江戸」(新参の消費地)か「京」(旧来の消費地)かと成れば疑う事無く「京」と成るであろう。
「江戸」に出て「伊勢や越前や越後の青木氏」と共に「新しい経済圏」を作る事には越した事は無いが、「一極集中政策」が「リフレーション政策」に合致するのかと云う事を考えた場合は、そうで無いと云う事は直ぐにでも解る事柄である。
そもそも、論理的には「リフレーション策」は、“「バランス」”を取る事に「経済政策の根本」が在る。
と成ると「江戸一極集中策」は「激しい経済格差」を生む欠点がある。
「激しい経済格差」は「バランス」を崩す。
この様な経済論は元より基本中の基本であり「吉宗-伊勢青木氏」は判って居た筈である。
当然の事として、「二極構造論」を取る方に舵を切る事に成る筈である。

「運送上の要素」については、
そもそも、瀬戸内の「讃岐青木氏」をベースとする「6地域-3組」であれば、「瀬戸内廻船」の外回りの「太平洋航路」を認可された「青木氏族」でもある。
運送上の防御等の「リスク」は少ないし、「コスト」は問題と成らないであろう。
唯、「リスクとコスト」に問題は無いとしてもその「商品の如何」に関わる事に成る。

ここは,要するに「瀬戸内」である。
江戸期のものとしては「海産物と酒」が主商品と成るだろう。
「讃岐と伊予」「米子と安芸」の「江戸期の産物」で出品出来るものには、「海産物と酒」を基本にして、当時、世間では、“「瀬戸内三白」“(讃岐、伊予、安芸の地域)と呼ばれていたものがあって、”「砂糖、綿、塩」”が主流であった。
それに二次的には「胡麻、大豆、煙草」の“「瀬戸内三品」”と呼ばれる物があって盛んに他国に売られていたのである。
“それを超えて敢えて江戸に”と云う発想は直ぐには生まれないであろう事は充分に判る。
それには、「江戸期の社会の慣習或は掟」として「特別な理由」があった。
それには「海陸の運送能力」が「幕府の政治的戦略」に大きく関わっていたからである。
阿波には、“「阿波味噌」”があって、尾張には、“「宮重大根」”があって、これらは、当時、関西では有名で“「江戸期の出品物」”であった事が記録されている。

そもそも、“「瀬戸内三白」”にしろ、“「瀬戸内三品」”にしろ、職能全体を「江戸には移せない商品」であって、「現地での加工品」に「仕上げての出荷」を余儀なくされるものであった。

「商業組合」として「職能部門から販売部門」までの「一連の移動」はその「藩経済の浮沈」に関わるものであって、「加工品」にして対価を獲得する事が当時の「当然の販売手法」であった。
元より“「人」は藩に所属するもの“であって”勝手な人の移動“は藩経済の低下を脅かす事にも成り、依って「国抜け罪」として極刑に処される掟があった。
従って、「瀬戸内三白」等の十八番の「物の移動」のみならず、「商業組合」としての「人の一連の移動」は原則としては一般的に無理な事であった。


「阿波と尾張」では、「江戸への出品」は下記の理由で無理であったのである。
“「阿波の味噌」”は、紀州人が阿波に移したものと考えられていて、阿波の生産は遅れて江戸期中期からのものであって、その「味噌と醤油」そのものは「開発元の紀州特産品」であって、それを「伊勢の商業組合」が「享保の改革」で「野田に殖産」していて、そこで生産され始めたものでもあった。
この様に「味噌と醤油」は、「享保期の典型的な商業組合の殖産」であったので、この事から後発の「阿波の味噌と醤油」は「関西圏商品」と成っていたのである。
そもそも、「味噌と醤油」は、当時の最大珍味で唯一の調味料として、需要に供給が追い付かず常態化していて、この様に必然的に「供給の塗り分け」が成されていたのである。
この事を度外視しての論調は成り立たない。

“「瀬戸内三白」”にしろ、“「瀬戸内三品」”にしても、急激な江戸の「享保の経済発展」に需要と供給が充分に追いつかず、更には、搬送能力にも廻船能力は元より、品物に依って廻船が限定されていて、どの廻船に積載しても良いと云う事では無く、更には過剰積載も船主側に拒否権が認められていて厳しく監視されていたのである。
「船主側」がこれを護らないと廻船権と株券も剥奪されると云う事が現実にも起こったのである。
“忙しい”からと云って、“勝手に別に船便を調達する事“も出来なかったのである。

そもそも、「水運」には「一種の統制経済の様なシステム」を採っていたのである。
それは、「市場の勢い」に任すと強い者が水運を独占して「江戸の経済」にバランスを大きく欠く事に成り混乱する。
且つ、これを押えれば幕府も倒せると云う手段とも成っていたのである。
それだけに「水運の権利」を株権で統制して「規制と制限」を掛けて安定を図っていたのである。

何度も前段や上記で論じている様に、「瀬戸内三白」等の十八番の「物の移動」のみならず、「商業組合」としての「人の一連の移動」は無理な事が出来たのは、「吉宗と伊勢青木氏」が江戸に「商業組合」を移すにしても、この「搬送能力」を「陸運と海運」を独自に持っていた事からこそ独自に出来た事でもあった。
堺摂津に三隻の大船と享保期には伊勢に三隻の新造船と伊勢水軍の株権、陸送は「伊勢信濃シンジケート」と独自持つ能力であったからこそ成し得た事であって、他地域の商業組合にはその能力は無かったのである。
野田に伊勢郷士の玉置氏等に依って「味噌と醤油の殖産」を移したのも「商業組合の殖産」と云う事のみならず、「需要と供給の問題解決の意図」もあったと考えられるし、更には「搬送能力」の「陸運と海運の独自能力」の所以があったからと考えるのが妥当であろう。

同然に「尾張大根」は、「現地生産」が基本であって、既に、江戸にも対抗する“「江戸三白」”と呼ばれるものがあって、それは「大根」、「米 」、「豆腐」であって、元より他国に積極的に販売されていた商品でもあった。
「江戸大根」は関東ローム層で培われる“「大蔵大根」”で有名であって、この為にこの「尾張大根」の競合先は矢張り関西方面での販売先とされていたのである。
この様に、「距離」と「出店先」の要素からも、「輸送上の要素」からも「江戸への主店」は不可能であった。
この「三つの要素」の「無理」を“押し出すだけの理由”は生まれていなかった。

「所縁の要素」の要素に付いて
「所縁」は、前段の「伝統シリーズ」で論じて来た事であって、最早、語るに値しないであろう。
「商業組合」としての「京主店」では,むしろ、江戸期初期の頃の社会構造からも「最大のメリット」と成るだろう。
「吉宗と伊勢青木氏」は「ごり押し」は出来なかったと観られる。
この要素一つ執ってしても,これを無視するだけの理由は無かった。
そもそも、この「所縁」は“「伝統」”そのものである。
「自らの過去」を示す「伝統」を壊してまで「京」に出る事は決して無い。
むしろ、逆に「京」を発展させて「伝統」を護ろうとするだろう。
「商業組合」が付いて来ない事でもあって、到底、「説得」は論外で、「説得」に依って逆効果を招いてしまう事に成る事は租借して承知している事でもある。
但し、「自由を前提」とするか限りの話である。
「伊勢の商業組合」は、上記の通り(イ)(ロ)(ハ)の自由を前提としての改革案である。
この事に依って,「伝統」は「犠牲」を負う。
「伊勢」では、この犠牲を負ってまでも立ち上がらなくてはならないのは、「破壊と荒廃」が室町期に起こされて仕舞ったからである。

勿論、「伊勢」は「京」に“勝るとも劣らない「伝統の国」”であった。
では、この「伝統」にしがみ付いて其の侭にしていれば戻るのかと云う「ジレンマ」があった。
何にせよ、その「伝統の先端」を走っていたのは「青木氏」で在る。
「伝統」を護ろうとするのが普通であった筈で、故にこの「伊勢を主導する青木氏」が「自由な商業組合」を発案して訴えたのである。
この「青木氏の発案」に対して「伊勢衆」は果たして反対をするだろうか。
当初は「伊勢衆」は疑心暗儀であった事は否めないであろう。
しかし、賛同をした。「家康」も「頼宣」も「吉宗」も共に賛同したのである。
故に「15地域」も動いたのであって、「讃岐青木氏」等も動く事は示したと観られる。
しかし、それを押し留める「4つの要素の理由」と次に論じる「五つ目の要素」に力が働いたのである。
何をか況や、それは、国内でのある程度の改革は成し得たとしても、「京と江戸の違い」に在った。

「四つの要素」の何れに執っても「江戸に押し出すに足りる要素」は無かったのである。

何れにしても「江戸出店」と成るには、「江戸の活況 1745年代頃」が確定的と成った処で、上記の「4つの要素」を乗り越えての出店と成るだろう。
現実に、1765年代末に単位で出店している。

「四つの要素」があったとしても、この「享保の改革開始の時」に合わせて、では、“「京出店」を何故に、この時に成しているのか”、これが疑問と成るであろう。
単に「四つの要素」だけで動いたとは思えない。
もし「京」を選ぶのであれば、普通は「享保の改革」(1788年終了)が全国に波及しての時期(1765年-1770年)を選ぶ事に成るだろう。

筆者は、「江戸出店」は、「吉宗と伊勢青木氏」等の伊勢組等には、上記の通り無理である事が理解されたが、「6地域-3組」(「伊豆と相模」除く)側としては、「吉宗と伊勢青木氏」等への縁者としての「義理と仁義」が在る。
これは、「当時の社会慣習」としては無視できなかったと観られる。
取り分け、この「6地域-3組」(「伊豆と相模」除く)をリードしていた「讃岐青木氏」は「伊勢青木氏」とは深い縁者関係にあった。
果たして「協力要請」を無下に無視できるか。
上記に論じた様に、「当時の社会概念」から絶対に出来なかったと考えている。

そこで、出店を「東の江戸」に対して「西の京」を選んだと考えられる。
この「二つの間」には「難波」を中心に「摂津堺」と「伊勢」の経済圏を持っている。
「東の江戸」と「西の京」の二つを発展させれば、一つのラインの「誘導経済圏」が生まれる。
「伊勢」と「江戸」の中間に一つの経済圏(「伊豆と相模」)を置くことで「東の江戸」と「西の京」の「経済ライン」は成立する。
そうする事には、「京出店」が必須条件として必要に成る。

この戦略からすると、「6地域-3組」(「伊豆と相模」)の「自発的意思」に依るものでは無く成る。
「4つの理由」を理解した上で、「吉宗と伊勢青木氏」が説得に掛かったと観る方が適切である。
或は、「談合」の中で「4つの理由」を知った上で、「時期」を「享保期」に合わせて「京出店」したとも考えられる。
そうすると、「伊勢の商年譜」には「何らかの談合の記録」があったと観られるが見つからない。
「堺摂津店」での事であったのかもと考えられる。
「堺摂津店」は、現在も何とか「紙問屋」として明治期の分家筋によって存在して居るが、「何らかの談合の記録」に相当するものが無いとの事であった。
(子孫の歴史的意識の低下で整理されて“無く成った“が正しい様である。)
「元禄期の浅野家の始末」(1703-5年)で前段でも論じた様に「廻船問屋の讃岐青木氏との協力」があった事から、それから、僅か10年近くの事である。
そもそも何らかのそれを物語る記録資料が無い事の方がおかしい。
「讃岐青木氏」は、そもそも「商い」と云うよりは「廻船問屋」が主体であった事もあるが、「紀州藩」が単独で進めたと云う事も無いし、「何かの形」である筈である。

唯、筆者の家には、この時代のものとされる「大きな京人形」(三月用と五月用の箱型二体)があって、恐らくは、この朽ちかけた「箱の添え書き」を観ると送られたと思える物である。

(注釈 「京人形」には「箱型と雛壇型」とがあるが、この「雛壇型」は享保の改革期に出て来たもので「享保雛」と呼ばれる人形が階段上に沢山並べられるタイプで、「箱型」は左右単体の大雛を単に飾る習慣があってそれ以前の古来からのタイプである。)

これで時代性等が解るので、従って、「讃岐青木氏」から享保期直前に送られたものである事が判る。
「箱型京人形二体」を送られる位の何らかの強い関係性を持っていた事は確実で、「商記録の年譜」には不思議に無いが、「青木氏要請」に応じて「京」に店を出した事は「京での店名」と共に「京人形」でも物語れる。

故に、「商業組合の江戸出店」は、その中心と成った「伊勢紙屋の青木氏」が「吉宗」と共に組んだ「改革戦略」であった事から、「江戸改革の中心」と成った「江戸の伊勢屋」(青木氏」)の「総合商・貿易商・金融業」が「商業組合の江戸出店」の全体を支えた事に成るのである。

だとすると、この「4つの要素の理由」に依って起こった「讃岐青木氏」等の「京出店」が、「4つの要素の理由」以外に「商業組合の出店形式」でも無かったのには、“「江戸での伊勢屋役」”を演じる位の「二足の草鞋策の氏」がいなかった事にも論理的には成る。
“果たして、そうであったのか”と云う疑問である。
否、“「氏」がいなかった事”では無い筈である。
「讃岐藤氏の讃岐青木氏」は「伊勢青木氏」とも「親密な氏の関係」と「商いの関係」を保っていて、その「保持勢力」は「伊勢青木氏」に「相当する程の勢力」を持っていた事は前段でも論じた。

では、「商業組合」として出る以上は、それを取りまとめる「氏の存在」はある筈で、それは「15地域の青木氏」にも同じ様に在った事は論じるまでも無い。
“では何であったのか”と云うと、前期の通り、“「原材料」では無く、加工した“「完成品」”である事から、先ず、“「消費」を目的とした「販売戦略」であった事。“が原因している。

地元で、「商業組合」を形成していながら、その「完成品」を出している以上は、「商業組合全体」を送り込む必要は無かった事に成る。
当然に距離的等の「四つの要素」でも無かった事に成る。
且つ、「京」が古来より主に「消費地」でもあったことから、「職能集団の移動」又は「商業組合全体」を受け付ける「土壌力」でも無かった事にも成る。

「土壌力・伝統」これは「絶対的な五つ目の要素」と成るだろう。
「絶対的な五つ目の要素」とは、これを出す事は,「京」と云うものをそもそも壊す事にも成って仕舞う。
「商業組合」が“「自由と云う前提」”に在る限りは、“「伝統」”と云うものに対して「根底からの破壊」に繋がる「悪の要素」とも成り得るし、避けなければならない「絶対の禁じ手」である。
「商業組合の出店」は、兎も角も、“「自由と云う前提」”が“「伝統と云う事」“では困るのである。

現実に、1470年代から存在した「京」に存在する“「会合衆」”も一種の商業組合の形である。
然し、「京の伝統」と云うものに馴染んだ形の「会合衆」であって、“「自由と云う前提」”では無かった。
「100年程度の歴史」しかない「江戸」との「根本的な大きな相違点」である。
“「伝統」”を活かしての“「京出店」”が必要であった。
この結果、“「京出店」”するとしても、元々は「伝統の消費地」である以上は、「商業組合」を取りまとめる「氏の必要性」は元より無く成る。

現実に出て来ない。
「京出店」の「6地域-3組」の「3組」(「伊豆と相模」除く)には、調べるが店名は出るとしても「氏名」がどうしても出て来ない。
但し、「江戸出店」の「2組」にも専門的には記録確認は出来るが、基本的には「江戸の地」にも「氏名」が出て来ないのである。
「江戸の伊勢屋」と屋号を明確にしながらも、敢えて、然し、「伊勢屋の青木氏」は表に出そうとしなかった。

この「氏名の疑問の答え」は、そもそも、「伊勢の紙屋」では無く「江戸の伊勢屋」を名乗ったのには、この「青木氏の氏是」と「改革の政治的配慮」が働いていたのである。
「青木氏の氏是」に付いては、前段で論じた通りで、根本的に何れの場合に於いても「氏名」を出さない事が「氏是」と定められている。
依って、この理由からも公に出さない事に成る。
もう一つの「改革の政治的配慮」に付いては、改革の背後で、“「青木氏が主導している」“と云う事が判れば、「江戸の民」は「青木氏の独善の利得」を疑って「改革」そのものは進まない事は必定である。

例えば、取り分け、「江戸の伊勢屋」は「青木氏」と成る事は絶対に避けなければならない。
「吉宗の勘定方指導は青木氏の六兵衛」であり、「伊勢屋も青木氏」と云う事に成ればどうしても「青木氏の為にある」と人は悪く観て仕舞う。
それは、況して、矢張り、「享保の改革の手段」の「商業組合」が「自由を前提としている事」から来ると成ると、“「青木氏」が政治と経済に介在する事は「自由」か、否、牛耳っている“と成るは必定である。
「単なる商い」と成れば、「自由を前提としている事」には異論は起こらないであろう。
何故ならば、「商い」は元来より「自由」である事に外ならないし、それでなくては発展しない。
ただ、「改革の手段」としての「商業組合」ともなれば、そこは充分な配慮が必要で異なる。
まして、「単なる社会」の中での改革を唱っている訳では無く、時の「幕府」が主導する主改革である。

ただ出すのは、唯一“「吉宗」”だけである。人々はこれは“吉宗が行う改革なのだ”と成る。
故に、「中興の祖 吉宗」と呼ばれた所以である。
これは、上記の事もあるが、「江戸ならではの事」(庶民混在の地)でもあって、「氏名」を出す事は「禁じ手中の禁じ手」であった。

然し、「佐々木氏の研究論文」の中には、「青木氏の遺された資料」よりも「享保の政治と経済の青木氏」が詳しく論じられている。又、「江戸の青木氏の論」の中でも述べられている。
これは、どう云う事なのか、ある部門には漏れていた事に成る。
その「ある部門」とは、「高級官僚」であった事に成る。
「藤原秀郷流一門一族」は江戸幕府に御家人と成って多く仕官した。
この中に、「縁籍の佐々木氏」が居たのである。その一族は「将軍の書記官」の役柄を務めていたのである。
この家に遺された資料等から主にまとめられて論じられた論文であった事が判ったのである。

因みに、将軍の書記官役には、次ぎの様な三役職が在る。
「奥祐筆」、「御小姓頭」、「小納戸役」が先ずある。
これらは「従五位下諸大夫の官位」を獲得できる「家柄身分の者」である事で、永代身分の家柄の者か、或は朝廷に金銭献納で幕府の認可を受けると、一代限りの一般の大名身分相当の扱いと成る。
旗本では最上位に成れ、同役としては「幕府の布衣の役」は六位相当の官位で旗本上位の家柄に成れる事にあった。
官位獲得は先ずは「幕府の推薦」もあり誰でもと云う事では無く中々認可は下りないが、何れも将軍と直接面談し、他の幕閣などとの調整役や記録や保管などの重要書類の事務役目を担っていた。将軍の密命で動く事が多く出張等の忙しい役柄であった。
「青木六兵衛」は「永代従三位上」の官位を持っていたが、六位に相当する勘定方指導の「布衣の役」を与えた。
「官位の届」を幕府に出す事で認められる仕組みであったことから、恐らくは、家臣では無かったが、「将軍」の「三役の立場」に居た事から、同族の多い周囲と合わせて敢えて「従五位下諸大夫の官位」の処遇で認められたと考えられる。
「加納氏の側用人」と同じ役柄でもあった事が判って居る。
この記録を遺した「佐々木氏」の縁籍は、「近江の佐々木氏の出自」で「永代従四位下」の官位を持ち「御家人」で「代々三役の家柄」(小姓、納戸、祐筆)であった事が書かれている。
その為に、記録が遺ったと観られる。
逆に「三役」(小姓、納戸、祐筆)であった事から「情報の秘匿」が護られたと観られる。
「青木六兵衛」(勘定方の布衣の役)とは同じ一族で同じ「三役の役職関係」の中にあった事から「青木氏」が持つ情報より詳細が記録されていたと考えられる。
「江戸の伊勢屋」との関係も有った事から「役務上から出入り」があった事が充分に考えられる。
実は、この「三役」(小姓、納戸、祐筆)には「江戸市中見廻り役の特権」が与えられ、「将軍外出」に同行したり、市中情報を「将軍」に伝えて特命を受けて秘密裏に処置する「露払いの役務権限」を有していた。
故に、「情報源」や「情報伝達」として「勘定方指導の布衣役の六兵衛」は元より「同役の佐々木氏縁籍の者」や「吉宗自身」も「江戸の伊勢屋への出入り」は充分にあった筈である。

この様に考察すると、「江戸」との「根本的な大きな相違点」があった事は頷けるが、次ぎの年譜を良く観て見ると「別の根本的な事」がある事が判る。
「前の4地域-2組」の「商業組合の江戸出店」と、「後の6地域-3組」の「京出店」とには、次ぎの様に「年譜」が物語っている様に、“「何かの影響」”が大きく働いていたのである。

注釈 「金融の年譜」
江戸初期1601年頃に「貨幣制度の整備」に着手
江戸で金座銀座で鋳造と貨幣制度開始
1609年に「三貨制度」の開始
1636年に「三貨制度」が完成
既存貨幣制度の併用の拡大 (本両替)
量替(1%)制度の開始と拡大 (脇両替)
1700年頃に「市場経済」の開始
1710年頃は、「本位貨幣制度」の拡大せず 概念なし。
「本両替」は「両替屋」― 「金銀兌換 大阪地域 大名・豪商の利用」
「脇両替」は「銭屋」― 「銭交換  江戸地域 農民・町人の利用」
1715年頃に、「併用の両替」が「京」に誕生。
1718年頃に、主に大阪で「両替組合」を形成して成長。
1730年頃に、両替屋は「両替株」として全国公認 600人に。
1736年頃に、江戸の「本両替組合」は僅か16人/600  「銭両替組(三組両替)」は27人
1755年頃に、「銭両替組」が「伊勢屋の質屋」の始めた「質屋」も兼務を開始。
1765年頃に、江戸と関東を始として「質屋」が全国に拡大

この「金融の年譜」で観る様に、確かに「享保の改革」で「新しい経済」が起こり始めた事が判るが、ところが、ここで“「不思議の事(“「何かの影響」”)」”が起こっていた事が判る。
それは、「金銀の両替制度」が、先ずは「江戸」に始まる筈であるが、“「何かの理由」”でそうは成らなかったのである。
この新しい「金銀の両替制度」が根付かなかったのは、それは何故なのかである。
この疑問が重要である。

「享保の江戸」は、未だ「既存の銭による経済」が一般的で、“「金座銀座の鋳造所」”が出来たにも関わらず、「金銀交換の貨幣経済」(両替経済)が江戸には余り根付かず、僅か16人と全体の2.5%と極めて低い状況であった。(江戸の人口比に比べて余りにも低すぎる。)
これは“「銭屋」”が行う「銭(銅銭)」による「既存の経済」が変わらなかったのだが、この理由は作為的に急に“「質屋経済」“が拡がった事にあった。

つまり、これには「享保の改革」の根幹の「商業組合」には「金融制度」が大きく左右する。
「リフレーション経済」には「需要と供給」を始めとして、“全て「バランス」を取る事を前提”とする為に、「金融」に於いても放置すると「デフレ」と「インフレ」の何れかに傾く事に成る。
そこで、“適量の管理された金融策”が求められる事に成る。
その必要性から「江戸の伊勢屋」が「質屋」というものを作為的に急いで敷いたのである。

「富裕層」だけでは無く、「銭」を使う「庶民層」までが使える「金融システム」が求められたのである。
従って、「江戸」には、この「商業組合」が入る事で、次ぎのシステムが構築されたのである。

「既存経済」+「質屋経済」=「金融システム」

以上の構造が新しく構築されたのである。
これが“「江戸の伊勢屋の質屋」”であって、「江戸の名物」と呼ばれて有名な事に成った所以なのであった。

筆者は、この図式の金融システムが、「江戸の社会」が“求めた“と云うよりは”論理的に必要“と求めて作為的に”敷いた”と云う方が正しかったのではないかと考えている。
「既存経済」=「金融システム」で放っておけば、上記の構造が出来るかと云う疑問である。
放置していると発展する方向に在れば「インフレーションの方向」に走るのが常道の経済論理で無理であろう。
それを押えて、「商業組合」で作意的に「リフレーション」に導こうとすれば、「自動車のハンドル操作」に匹敵する操作が必要である。
それが「質屋の特質」を生かした「金融操作」と成り、「両替屋の特質」では無理な論理と成る。

「単なる質屋の金融」では意味が無い筈で、未経験の「新しい商業組合」と云う経済行動で「リフレーション」を興そうとしているのであれば、要するに“「伊勢屋の質屋」”で無ければならない筈で、「江戸の伊勢屋」の「作為的な経済操作」であったとも考えられる。

(注釈 放置していた場合に果たして金融を充分に行える商家が出現したかと云う疑問があるが、享保前の江戸の経済状況からは商家は無かった。)

「二つ目の疑問」は、では、“何故、この「金融システム」が出来上がったのか”である。

それは、「難波と江戸と京都」の「経済状況の違い差」に依って起こった事に成る。
突き詰めれば、答えは“「商業組合の発展」”の差にあった。
「難波」は、「周囲の地域」から「産物」が入り、それを基に売買を前提とする“「商業経済」”を中心として発展した経済である。
「江戸」は、周囲全体を巻き込んだ「総合産業」を基にして、“「殖産経済」”を中心として発展した経済である。
「京」は、主に古来よりの「大消費地」で「消費経済」を中心に発展した経済である。

そもそも、「難波」は「会合衆」が発達した地域で、「自由な商業組合」が馴染まなかったし、大口の「大名と豪商」を相手としていた事から、「会合衆」から「三貨制度の両替屋」が発達した。
とすると、「江戸」には、論理的には「庶民」が作り上げた経済であって、それに適した「商業組合」が適した事に成る。
それが“「経済状況の違い差」”と成って表れた事に成る。
これが「銭屋と両替屋の数の差」と成って表れている。

そうなると、「江戸の銭屋だけの力」だけと成ると、「自由な商業組合」が発達すると、「庶民の金融」は遅れて成り立たなくなる。
そこで、下記で論じるが、「融資し物的担保を取る金融業」が必要に成る。
これが「江戸の伊勢屋の質屋」であった。

この論理からすると、論理的には金融業の「両替屋」は、「江戸」には「商業組合」が確立した以上は適しない事に成る。江戸には元より「銭屋の金融」であった。
「殖産に依る商業組合」に必要なのは、前記した様に「金融業」の“「質屋」”と云う事に成る。
これが、上記の「二つの疑問」の答えで、“「両替屋」”と“「質屋+銭屋」”の「金融業の違い」と成って表れたのである。
当然に、この「違い差」が「経済システム(土壌差)」に表れる事に成ったのである。

この「享保の江戸」には、本論の「商業組合方式」が、「総合産業と殖産産業」の中に組み込まれた事で、「士農工商の全ての民」が平均に使える「自由経済」が必要に成った。
この為には、「金銀銅の三貨の両替経済」は、「特定の金融システム」(豪商の手段)で有るので使えない。
それには、誰でもが使える「銭(銅銭)」に基づく「兌換の経済市場」が最適である事に成る。
そこに、この「商業組合の自由概念」が組み込まれたのであるから、「豪商」などが使う「三貨の両替屋」では無く、庶民誰でもが自由に直ぐ使える“「銭屋」”が必然的に発達する事に成る。
では“、「質屋」の金融業はどうであったのか“が疑問と成る。

そうすると、「金融のやり取り」には、“全ての民が自由で平等に使えるシステム”が必要であって、そうだとすると、これに合わせて「金銭を融通するシステム」の「質屋の金融」が経済的な論理としては必然的に発達する事に成り得る。
“必然的に発達する事に成り得る”のであれば、庶民がこの“「質屋」”をどう扱うかの発想が必要に成る。

「江戸」との「根本的な大きな相違点」(“「質屋」”をどう扱うかの発想)はここに出て来ていたのである。

さて、ところが、「商業組合」と云う観点から観ると、「伊豆と相模」、「讃岐と伊予」、「米子と安芸」、「阿波と尾張」の四組は地元には「商業組合」を構築したにも関わらず「商業組合の出店」では無かったのである。
当然に「商業組合」で無ければ、この“「質屋」”をどう扱うかの発想は生まれなかったのである。
「経済システムの発想」が違ったと云う事に成る。

上記の「四つの要素の理由」でも「商業組合の方式」が合わなかった事は判るし、「上記の金融年譜」でも明らかに「難波と江戸の経済の中間」を採っている。
そうすると「商業組合」としては合わない事は判るが、それでは“「出店の合意形成」”が整わなかったのか、或は、「商業組合」にその能力に未だ欠けていたのかと云う疑問点の事も念の為に検証しなれば成らない。

そこで、筆者は、その規模から考察すると、先ず「讃岐と伊予」に付いては、その「出店能力」は充分にあったと観ていて、前段でも何度も論じたが、“瀬戸内を制する者は国を制する”と云われた程の「経済的な宝庫の地域」である。
「讃岐と伊予」は「廻船業」を主体として「総合職種」を営んでいた事から、前段でも論じたが、「伊勢域以上の総合能力」を充分に持ち得ていたと考えられる。

然し、ここで「青木氏の歴史観」として、古来より「讃岐藤氏」は、「藤原純友の乱」以来より「関東域への嫌悪感」を潜在的に持っていた。
故に、その意味でも最も近く縁故のある「消費地の京」を積極的に選んだとも考えられる。
少なくとも「選択肢」の一つには位置づけられていた事は考えられる。

四国域は前段で論じた様に、そもそも、江戸よりは「京との関係」を古来より深く持っている地域でもあったことから、「京の消費地」は「第二次と第三次の消費地」であった。
然し、「江戸の消費地」は「第一次から第四次の総合の消費地」であった事から、「京」への「商業組合全体での出店」とは成らない論理に成る。
依って、「讃岐と伊予」と「米子と安芸」と「阿波と尾張」は、上記の「四つの要素の理由」とは別に、職能部門の含まない「単数の販売組合の出店」と成り、「消費地の特徴」から「加工完成品の出店」と成ったと考えられる。

上記の金融年譜の「京」は、難波と異なり平安期より「本両替(金銀 大阪 大名・豪商)」と、「脇両替(銭屋 銭 江戸 町人)」の古来からの「両方が併存する経済圏」であった事からも、明らかでそれを物語っているので、それに適合する「京」を選択したのである。
これは経済理論として大きな理由でもある。
これを無視した出店はあり得ないであろう。

当然に、この「讃岐藤氏の商法」の影響を受け、且つ、「讃岐と伊予」の一族一門の「米子と安芸」は、「京」に出て「讃岐と伊予」と“タッグ”を組んだと観られる。
つまりは、「伊勢の商業組合」の「江戸の庶民の商い」を中心とする「組み方」と、「讃岐」の「京の氏の商い」を中心とする「組み方」とが存在していた事に成る。
そして、この「二つの組み方」は根本的に異なっていた事に成る。

果たして、この関係を解消して押し切ってまで「総合の商業組合」として「江戸出店」を選んだろうか。そんなことは考え難い。
取り分け、この「京との所縁と柵」を破る前に、「地理的なハンディー」(運搬に関する無理 下記)が別に在る。
故に、江戸の「総合の商業組合商法」では無く、地域別(京・名古屋)の「単位の商業組合の商法」を採ったと云う事に成る。

当然に、「阿波と尾張」の組の「阿波」は,そもそも、「片喰族と剣片喰族の一族」であり、「尾張藤氏の出自族」の「青木氏」である。
前段でも論じた様に、「讃岐と伊予」と同じ様に、「京」との繋がりが強い地域であって、室町期には「公家武家の西園寺氏」等が席巻した地域でもあり、且つ、この地域は古来より「公家の血縁族の地域」でもあり、「政争の逃避地」でもあった。
この「繋がりの無い江戸」より、「繋がりの強い地域」を求めて「京」に動いたと観られる。
その地域別の「単位の商業組合の商法」は、「讃岐と伊予」や「米子と安芸」に並ぶ結果と成るは必定である。
恐らくは、「讃岐と伊予」や「米子と安芸」と、それに加えて「阿波と尾張」の3組は,地域別の「単位の商業組合の商法」で連携した事が充分に考えられる。

故に、「伊勢」「越後」「越前」「若狭」の“「江戸の出店の4地域-2組」”とは別に成ったのである。「讃岐と伊予」や「米子と安芸」や「阿波と尾張」とが、不思議に“「京の出店の6地域-3組」“と云う事に成って行って、「商法」も同じと成ったと考えられる。

「古来の縁故」からの考察でも“「京の出店の6地域-3組」”と成り、不思議にこの様に分けられるのである。
この当時の「訪問販売」と「付け制度」とその「金融制度」から考えると、「京出店」は「江戸出店」よりは数段に最適であった事に成る。
例え「吉宗と伊勢青木氏の要請」があったとしても、これではどんな無理をしてでも“「江戸出店」”はあり得ず考え難い。

ところが、ここで“「江戸の出店の4地域-2組」”とは、行動を共にしなかったこれまた不思議な「伊豆と相模」が在った。

この「伊豆と相模」は、「源の頼光」以来の本領地で、「伊豆」は「伊勢と信濃の青木氏」がここに子孫を廻して「護衛役」として配置した地域でもある。
(注釈 前段でも論じているが、「伊勢と信濃の青木氏」は「清和源氏」の「摂津の頼光系四家」とは母方で養子縁組もしている唯一血縁族で、その縁から「護衛役」を受け持った。)

そして、この「相模」は、「藤原秀郷流青木氏の定住地」で、ここに「諏訪族青木氏」と「武田氏系青木氏」と「武田氏系諏訪族青木氏」の三氏が、「甲斐の武田氏」が滅亡時に逃避して来て「藤原秀郷流青木氏」を頼って定住した各氏の「青木氏の集結の土地柄」でもあった。

この経緯から、江戸期のこの時期に於いては、この「伊豆の二つの同族の青木氏」(伊勢と信濃)と、「相模の四つの青木氏」の「六つの同族血縁」が成されていて、その長い所縁から「伊豆と相模の青木氏」は「地域」も同じで「所縁」も同じであった事に依り「同じ行動」を採った。
「江戸出店」と「京出店」があったにも関わらず何れにも参加しなかった。

ところが、「江戸」を中心とする「総合の商業組合商法」に参画せずに、「京」を代表する地域別の「単位の商業組合商法」にも参画していないのであるが、それどころではなく、「独自の方法」を採ったのである。
明らかに、“「江戸の出店の4地域-2組」”( 江戸の「総合の商業組合商法」)、 “「京の出店の6地域-3組」” (京の「単位の商業組合商法」)の二つに分けられる。
しかし、これとは「別の行動」を採った「伊豆と相模の青木氏」の1組があったと云う事に成る。

当然に、「15地域」の「伊豆と相模」は「主要な商いの二地域」でもあって、「商業組合」は成されていた。
「吉宗」の「江戸店の呼びかけ」に対して、「伊勢信濃との古の縁故」が厳然と在りながら、“何故、「伊勢」や「越後」の「組」に入る事をしなかったのかである。
「入る事」は、充分に可能で有ったし、何処から観ても、“入って当然”と見做される位置に在った。
「15地域」の中でも、“最もリスクが無くメリット”が多い「伊豆と相模」の筈であった。
筆者も懸命に研究したが証拠と成る資料があまり出て来ない。

江戸期に於いても「伊豆と相模」は、そもそも、「伊勢信濃」以上に「大青木村」を形成し、「笹竜胆紋」を厳然と護る「平安期」からの「純血性」に近い「青木氏」で在った。
“「伊豆と相模」の関係”は、当に“「伊勢と信濃」の関係”と同じであった。

その前に現実に、「伊勢」や「越後」等の「総合の商業組合商法」の「組」に、“何故か「信濃」が入っていない事”に気付くであろう。
これが「伊豆相模」に通ずる答えに成るのである。
つまり、「伊勢と信濃」は、前段でも論じた様に、「伊勢―信濃」の関係にあって“「一身一体」の関係”にあったからである。
「伊勢」より始めた「商業組合」は「伊勢―信濃」の関係で行われていたのである。
「信濃」は「伊勢の補完関係の役目」を、」伊勢」は「信濃の補完の役目」を奈良期の古来より務めていた。
「氏の存立」や「商業の発展」にしても古来より継続されていてその役目を長く担っていた。
何事も“助け助けられての親族関係”にあった。
従って、「四家制度」にも観られる様に、“「一体」”に成る事に依って「氏の存立条件」を高めていたのである。

要するに、「享保改革」の「商業組合」は、そもそも「江戸の伊勢屋」は「江戸の信濃屋」であっても良かったのである。
然し、「伊勢」が「吉宗」との関りから主導し、「信濃」が「護り役」に廻ったのである。
どちらか一方が「主導役」になれば、片方は「護り役」に徹する。
明治期までこの関係が続けられていて,明治9年から明治13年まで続いた「伊勢騒動」にも「信濃」が「護り役」に共に動いたと記録として遺されている。
「信濃」は何と奈良期より1360年間以上にこの役目に徹していたのである。
これと同じで、「伊豆と相模」の関係も、この「伊勢と信濃の関係」と同じ状況を江戸期まで維持していたのである。

そこで問題は、この「伊豆と相模」の関係が、江戸の「伊勢と信濃」の関係にどの様に繋がっていたのかである。
結論から先にはっきり云うと、“答えが出て来なかった“と云う事に成ろう。
唯、「繋がり」としては一つあった。
そもそも、「伊豆」は兎も角も、「相模」は既に江戸に近く、武蔵入間を中心に横浜神奈川を半径とする「秀郷流青木氏の宗家の圏内」に在った。
注釈として、「相模」は、単独の「相模」を意味するものでは無く、「宗家武蔵」でもあり、「宗家の二足の草鞋策」を「補完する役目」を負っていた事で、「武蔵と相模」の意味として表現している。「伊勢と信濃との関係」と同じであった。

現実に、この「4地域-2組」に地元の本元の「江戸」である所に、“「信濃」“と同じ様に、“「武蔵」”も出て来ない事に気づくであろう。
「相模の商業組合」は、「海産物とお茶」を主体とした「商いの商業組合」を古来より構築していた。
当然に、以前より他の論文でも論じている様に、「平安期の秀郷流一門」である限り、“江戸を中心としての「商い」“を鎌倉期初期から堅持していたのであった。
家康以前からの400年前に遡る話でもある。
この事は多くの記録に遺る事で、江戸が栄えてからもその栄に沿って拡大していたのである。

態々、江戸を中心とする「総合の商業組合の商法」に参画せずとも、元々「地元の江戸」に「地域別」の「単位の商業組合の商法」を構築して居て、全く、態々,江戸に移す事の必要性が無く、「武蔵の宗家」と共に既に出来ていたのである。

要するに簡単に云えば、当に、“「地元」”なのであって、「総合の商業組合の商法」は古来からの関係をむしろ壊す事に成り、「得策」ではそもそも無かったのである。
どちらかと云うと、「武蔵」にしても「伊豆と相模」にしても「総合の商業組合の商法」は、“明らかに迷惑”と云える立場にあった。
「メリットが多い」と云う話だけではそもそも無かった。
その逆で、「商業組合の江戸出店」が出て来る事の事態が「最悪のリスク」と成っていたのである。

「江戸」が、「総合の商業組合の商法」で発展すれば、仮に、「武蔵と伊豆と相模の領域範囲」に入って来なければ、それは其れでむしろ「得策」であるが、当初は大いに懸念される事であった。
故に、「伊勢の秀郷流青木氏」が共に「商業組合」を推し進めるべく江戸に出ようとしている中に於いても、更には「紀州藩家臣」と成っていたにも拘らず、「関係性」も特段に持った記録が無かったのである。
確かに、「江戸の家臣団の官僚族」は、「武蔵宗家の秀郷一門の親族」でもあった。
にも関わらず「大きな関係性」を物語るものが観えないのである。

これは何か相当に「苦い思い」を宗家側が持っていた事にも成る。
筆者は、これはこの「江戸出店に関わる事」であったと観ている。
「伊勢や15地域の商業組合」に留まっている範囲では問題が何も無かったが、「幕府の政策」として押し出されれば、確実に武蔵一帯の「既存の商形態」は確実に破壊される。
「武蔵の一族」にして見れば、「痛し痒し」で、場合に依っては、出方を間違えれば「氏存続の根幹」を揺るがしかねない事にも成る。

江戸の「総合の商業組合の商法」の組は、この「伊豆と武蔵の相模」の関係の領域の範囲を崩さなければ“「争い」を起こさないで済む“と云う”「暗黙の事前判断」“があったのである。
当然に、この様に成れば、“「談合」を持った”とする資料か何かがある筈であるが、直接的な確かなものは未だ見つからない。
唯、この享保前の1714年から1716年までの間に「談合」と云えないが、「江戸」に動いている資料が「二つ」ある。

「一つ目」は、「吉宗」が、「嫡子外」として冷たく扱われていながら、「父兄弟と将軍綱吉との面会」に同行し「家来の控えの間」に居た。(1697年)
これより「江戸参府」は「1710年後」まで四回行われていて、「紀州帰還」は三回行われている。江戸と紀州の在籍期間は各々3年と云う事に成って史実と一致している。
この事から「13年の間」には「3年に一回」は「帰還と参府」を繰り返していた事に成る。
「参府四回」と「帰還三回」の間に「1709年末-1710年後」に江戸に出向いている事に成る。
何故、未だ無視された「控えの間の人」でありながら、三回も何故に「江戸滞在」に出ていたのかである。
「葛野藩の藩主」であった事も考えられるが、「陣屋館の形式」で家臣が15人ほど出向いて納めていた形式上の藩主で「紀州藩の支藩扱い」であった。
要するに、「吉宗の食い扶持藩」と云うものであって、三万石乍ら無役である。
つまり、単なる参勤交代では無く「何かの目的」で「江戸」に出向いていた事が判る。

「二つ目」は、「伊勢の紙屋」から二人、「江戸」に出向いている。
(1711年前頃 資料の記載が「宝永」か「宝暦」かは一部朽ちて判別できないが流れから「宝永」と考える。)
恐らくは、一人目は、その表現から息子の「福家の青木六兵衛」と観られる。
二人目は、人物の詳しい表現が無いが、「四日市殿」であると観られる。
この二人は「吉宗」にこの時に同行したのかは良くは判らない。
合わせて、「吉宗の事の一つ目の資料」と「青木氏の二つ目の資料」の接点は有るのか無いのかは、確定する資料は見つからない。

唯、「一つ目(1710年後頃)」と「二つ目(1711年前頃)」には、何かの意味があつた事に成るが、「時期的には同じ」であったが、「同じ行動」であったかは判らない。

この「二つ目の資料」は、「伊勢郷士衆」で「郷士頭」を務めた「遠縁の家」に遺されたものである。
「青木氏の福家」との間で交わされたもので、虫に食われて朽ちかけた「連絡文の様な書類」である。
この「連絡文の様な書類」の一部に書かれている文面から何とか読み取ったものである。
この「縁籍のある郷士頭」も「何かの理由」で同行する事に成っていて、その「打ち合わせ」の「連絡文」ではないかと観られる。

可成り前から、「吉宗」の「藩主擁立」か「将軍擁立」に向けて「青木氏と紀州藩」は密かに動いていた事は論じたが、その時に「青木氏」の中で「談合している事」は小記録からも判っている。
この「談合の後」に、その前に、未だ「享保の改革」が始まっていない時期に、“江戸で何かが起こったか”、或は、密かに交わした「武蔵入間宗家」に向けた書類に対する「返書」が来て、それに対する説明をする必要に迫られていたとも考えられる。
筆者は後者であると観ている。

唯、検証して観ると、一つの鍵は、“「四日市殿」”が出向く事に成っている様なので、これを租借すると、単なる説明では無い事は判る。
“何で四日市殿?“と云う事に成る。
考えられる事は、それは“「四日市殿の家筋格式」”を利用して、同行する事に成って「郷士頭」に連絡をして来た文脈と観られる。

「四日市殿の家筋格式」は前段でも論じたが、「初代紀州藩頼宣」の時に「徳川氏」より「立葵紋の使用」と「水戸藩孫の勝姫娘との血縁」を結んだ「徳川氏の縁籍筋」の家柄と成ったのである。
前段でも論じたが、「立葵紋」は「徳川氏の格式紋」として、「信濃善光寺」と「伊勢青木氏の四日市殿」にしか使用を認めていない家紋で、徳川氏宗家以外は一切使用を禁じている「最高格式紋」である。
「格式」としては江戸期では、「笹竜胆紋」に匹敵させている「最高の立葵紋の青木氏」で在ることから、この「縁籍の格式」を「青木氏」が是が非でも「利用しなければならない状況」が起こった事を示すものと先ずは解釈できる。

次ぎに、「次男の六兵衛の同行」であるが、「六兵衛」は共に育った「吉宗の幼友達」である。
これから考えれば、「嫡子外吉宗」、「継の間の吉宗」に同行したとも考えられるが、一方で「商業組合」を最も説明できる者とも考えられる。

更に、上記の「二つの事」に合わせて、三つ目として「縁籍の郷士頭」をどの様に捉えるかである。
「伊勢の商業組合」と「職能集団の実態の状況」を最も把握している「郷士頭」が補佐として同行すると云う事に成ると、“「説得工作の戦略」”とも考えられる。

この「三つの事」をこの1710年前後の時期の「伊勢の状況」とを総合的に考え合わすと、次ぎの様に成るのではないかと判断される。

「四日市殿」の格式を使って「徳川氏宗家へのコンタクトと幕閣への裏工作」として働いた。
「青木六兵衛」に依って「吉宗代行として秀郷流宗家への裏工作と経済対策の説明」に出向いた。
その上で、「伊勢の商業組合」と「職能集団の実態の状況」を最も把握している「郷士頭」が補佐として同行すると云う「説得工作の戦略」を採ったのではと読み取れる。

この「四日市殿の裏工作」から、「立葵紋」を利用して、「吉宗の幕閣や大奥お目見え」と繋がったのではないかとも考えられるが、これは少し年代がずれていて後の5年程後に成る。

将軍綱吉は、没年1709年2月で、丁度、その1年後の将軍家宣(没年1712年11月)の少し前の時期と成る。
「三年の治政」で「綱吉の悪政の修正」に務めた。「三代急逝去の時」である。
1710年後から1711年前頃とすると、徳川宗や家幕閣の中で「政治」「経済]「世継ぎ」の問題で紛糾していた時期でもある。

別の資料からは2年前(1714年)からの「幕府への説得工作の戦略」を展開したと成っている。
ところがこの資料からだと、幕府への「説得工作の戦略」は4年前(1711年前)と成るので、少し早すぎる事に成る。(当初、この説を採っていた。)

とすると、残るは、「武蔵入間宗家」への「説得工作の戦略」の説に成る。
その内容は、「商業組合に対する参加」に関する「説得工作」であった事に成る。
「享保の改革」とは別に、その前の“「15地域の一員」”に加わる様に、「伊豆と相模と宗家」への「商業組合に対する参加」を要請した事に成る。
つまり、そうすると、この段階で、“「地元」”と云う事も含めて、上記した様に、「武蔵」を始め「伊豆相模」の「経済に対する特殊事情」を考慮していた事を示すものと成る。

「青木六兵衛」と「郷士頭」は「全体の説明役」と「伊豆の説得役」に、「四日市殿」は秀郷一門との「パイプ役」に働いた事に成る。
「四日市殿」は、「伊勢青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」との「融合血縁族」である。
取り分け、この「四日市殿」には「大きな役目」があって、「秀郷一門の説得」には、「江戸の経済」に大きく影響する事から「幕閣」と「幕府高級官僚族」と成っている「一族一門の説得」と、「秀郷一門宗家の説得」と、「相模の説得」に掛かったと考えられる。

結果として、一応の説得は出来たが、その範囲は、「相模と伊豆」に限定したものであった。
この時の事が、上記の「伊勢側」の“「暗黙の事前判断」“と成っていたと観られる。

つまり、「江戸」に出ていざ改革を開始しようとした時に,「江戸への進出」には応じていなかった事に成る。
「伊勢側」では、“説得に応じた”と受け取ったが、その後に「武蔵-伊豆相模」側か、「幕閣官僚」側に“「蒸し返しの反対論」”が出た事もあり得る。
“「伊勢側」の“「暗黙の事前判断」“があったとする説は、「二つ目の資料」が見つかった事で「武蔵宗家-伊豆相模の説得説」に成ったのであるが、仮に、”「伊勢側」の“「暗黙の事前判断」“が無かったと成ると、強引に「享保の改革」の為に「伊勢の青木氏」は「江戸」に出て行けないであろう。
それこそ、「争い」と成る。
確かに、後の「将軍吉宗擁立」では、“「幕閣官僚の反対」”があった事は明白である事からも、恐らくは、後日に異議を唱えたのは、「幕閣官僚の反対」であった事は直ぐに判る。
「立葵紋の四日市殿の説得」には、流石に「反対の声」を直ちに上げる事は難しかったのは判る。
「武蔵宗家-伊豆相模の説得」は出来たと観て、一行は伊勢に戻ったのであろう。
「説得失敗」であれば、「何らかの談合」が伊勢で成されていて、且つ、「何らかの資料」が遺されていてもおかしくは無い筈であるが無い。
「15地域の商業組合の確立」は成功したと判断していた事に成る。

然し、「武蔵宗家-伊豆相模」側では、「武蔵宗家-伊豆相模」の「後日の異議」が発覚して、結局は形式上は、「江戸」には直接持ち込まずに「伊豆相模の範囲」で「一応の最低限の形」は整えた事に成る。
故に、何の行動も無しで「伊勢側」もその心算でいた事に成る。
1716年に蓋を開けてびっくりと云う処であったと観られる。
恐らくは、いざ、1716年に江戸に出て見ると、上記の様に、「武蔵-伊豆相模」は“食い違っていた”と云う事であろう。
大いに慌てたと観られる。大きな誤算であった事に成る。
結局は、「融合政策」に切り換えるほかは無かったと成ろう。
「裏の実態」は、そこで、慌てて談合して、“争いに成らない様に要領を定めた”と云う事に成ったのでは無いかと考えられる。
それが少し後で「吉宗の幕府」が出した「質流れ禁止令」と成ったと考えられる。

江戸に出した“「江戸町方の質流れ禁止令」”から、全国に向けても“「質流地禁止令」”を発したが思わぬ騒動と成った。
そこで、1年後に廃止したが、その代わりに、当然に、「吉宗の経済学の博識」から、この影響が他国に伝播する事を恐れて「葛野藩の割譲地」は“越前返却”として治めたと観られる。
現実に、この騒動は「15地域」の「越後」から一員の「越前方向」にも伝播しつつあったし、近隣の丹波北域でも防ぎきれずに起こって仕舞った。
そこで、「吉宗」は、“否を認める事の姿勢“として、「葛野藩の割譲地の返却」(3万石から4万石に質流地で増額に成っていた)として「返却手段」で治めたと観られる。

実は、「葛野藩の石高」は、当初の扶持米としての割譲時は「3万石」であったが、前政権の「質地取扱の覚」の令で一時的に「質流れ」を緩和した。
これで「騒ぎ」が起こったのであるが、この為の緩和で地権が放出されて葛野藩は4万石に増額していた。

(注釈 当時は、各地に起こる改革も何もしないで増える「支藩等の石高」に対して、葛野藩も一種の「質流れの象徴」の様に観られてしまっていた。享保の改革推進を進める吉宗としては真逆の事に成る現象が各地で起こって仕舞ったし、我が身も疑われて慌てた。)

そこで、「吉宗」は「否の証拠」と成る「葛野藩」を「越前藩」に返却をし、「質地取扱の覚」(1695年発令)も、「質流地禁止令」(1722年発令 1723年廃止)も廃止したのである。
これで各地で起こり始めていた騒動は納まった。

確かに「騒動」は納まったが、「伊勢」-「伊豆相模との問題」は納まった訳では無かった。
この侭で行けば、間違いなく「争い」が起こっていた筈であった。
この「争い」ともなれば「伊勢」と「伊豆相模」の「醜い同族争い」とも成り得る。

そこで、「町方」に多く出現させ始めていた“「江戸の伊勢屋」”の多くは、「江戸の名物」の“「金融業の伊勢屋の質屋」”であった事からも、「質流れの禁止令」( 「元の裏の目的」 「町方対象) 「要領書的な通達」)は、「武蔵と伊豆-相模の領域」を犯さない為にも発行されたものであった事が判る。
(前段で論じた鎌倉期から江戸初期にまでの間を経て確立していた「商い地盤」を崩されたくなかった。)
つまり、元を質せば“「犯す」“のは、”「金融の領域」“からであって、その「質流れ」の「担保の権利買取」の事で起こる問題で、それを防止する「要領」であった。
「担保の権利買取」は、旧来からの「銭屋経済」で生き残ろうとしていたのであった事から確かに「伊豆、相模、武蔵」に執っては明らかに困る。

商取引上では、「自由を前提とする商業組合方式」である限りは、公然と「武蔵と伊豆-相模の領域」は保護できない。
そこで、その起こる寸前の手前で「取扱要領」を決めたと云う事に成る。

「伊豆や武蔵や相模」などからは影響を強く受けていて、その「改革の勢い」で「質流れ」「手形」等を発行する事は多発していた。
そこで、これらを「江戸の伊勢屋の質屋」が「質流れ」で買い取る事は、「伊豆や武蔵の相模」の「地権」等の財産を獲得する事に成り、この「領域の範囲」を明らかに超える事に成る。
「氏存続」も危うい事にも成る。
従って、「形振り構わない不必要な反発」を受けない様に、これを「伊勢側」に約束させる事を前提としていた「質流れの禁止令」の事に成って行ったのである。

これで「伊勢」-「伊豆相模との問題」は争わずに収まりが一応は着いた。
「享保の改革」が進む保証が採れた事に成った。
つまり、「質屋の金融経済の経済」と、「銭屋の既存金融の経済」の“「共存」“は一応は成立したのである。
突き詰めれば、江戸には「両替制度の経済機構」が入りにくい「新しい経済機構」(銭屋と質屋)が出来た事に成る。
然し、新しい経済構造が出来上がりつつあったが、未だ“「融合」”と云う処までには至っていなかった。
それには、“「質屋金融」“に伴って起こる“「担保」”と云う処に問題が未だ在った。

この「享保期の当初の担保」は、「新しい町方の金融」を育てると云う「当初の目的」があって、未だ「地権」のみならず多彩に及んでいた事が判っていて、その多くは、“育てる事を目的”とする「信用貸付」(町方貸付)が多かった事が書かれている。

ところが、“「暗黙の事前判断」“の「食い違いの事件」で、「伊勢側」と「伊豆相模側」との互いの「信用」は戻ってはいなかった。
「信用貸付」である以上は、「商業組合」の「組合人」としての「伊勢側の信用貸付」が「伊豆相模の側」には起こり難かったのである。
それ故に、「銭屋による既存金融」の中にも居た事もあって、尚更に“「江戸出店」”は起こらなかった。
この傾向は1788年までの「享保改革のリフレーション政策」が続いた間は、遂に戻らなかった事に成る。
「初期の信用貸付」から「物的担保」に移行しても結局は戻らなかったのである。
結論的には、“「共存」”は起こっても“「融合」”は起こらなかった。
「伊勢信濃側」と「伊豆相模側」の関係も親族でありながらも、“「心の融合」”は明治期までも起こらなかったのである。
「食い違いの事件」は「相当な不信感」を招いた事に成る。

“「共存」”に依って「一応の安定」が得られた事から、「幕府」は、後にこの様子を観た結果、この要領(ルール)が護られていると判断し、取り敢えずは、“問題が起こらない事”を確認した事で、5年後に「令」を撤廃した。
つまり、この「5年後」には、先ず「共存」が出来上がった事に成り、“「伊勢側」の“「暗黙の事前判断」“の「食い違いの事件」は、”「要領(ルール)」“に依って解決した事に成った。
これは「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」と「勘定方指導の青木氏」の三方で「情報のやり取り」があった事を示している。

(注釈 「伊勢青木氏側」にはこの事に関する限りの記録は六度の火災で全消失。 「伊勢側の関係者」には上記の「二つ目の資料」だけ在り。“「暗黙の事前判断」“の内容と、「食い違いの事件」の内容は「商記録」で無い事から無い。「伊豆相模」までの調査は充分に出来ていない。「武蔵入間」に関しては、先の戦争や大地震等の自然災禍に依る影響か不思議に資料記録は一切無く、「伝統」も「菩提寺」も無い様な状況下で、伊勢側と佐々木氏の資料に頼る状況下にある。)

しかし、ところが思いがけなく、「商業組合」の活発な「越後」に於いて、「町方」では無く、「農地」に対して出していた「令」に依って、「1722年の越後大騒動」(他二か所)が起こって仕舞った。

(注釈 この農地対象の「質流地禁止令」は1年後廃止した。 基に成った俗称「質流れの禁止令」は5年後廃止した。)
(注釈 元々は「質地取扱の覚」で「享保期前の1695年」に発し、「禁止」から一転して「質流れ」を認める「覚令」であった。
混乱を招いた根源である。
豪商や豪農や大名や高級武士が新たな地権者と成って益々利益を挙げた。
「騒動の混乱」は「大きな格差」を招いた事が根本の原因であった。)

注釈の通りにこの「令の経緯」は極めて複雑で、次ぎの様に成っていた。
江戸初期の「田畑永代売買禁止令」 →町方対象の「質流れの禁止令」 →農民対象の「質地取扱の覚」 →農民等の「質流地禁止令」 →「田畑永代売買禁止令の緩和令」

以上が概要の遍歴である。
全て、「享保前の失政、悪政,稚政の付け」である。

この「越後騒動」(1722年)は、発令当初に、「誤解に依る大騒動」が起こって仕舞ったと云う事であって、且つ、「江戸での状況」も改善された事で、その後の解決期間を経て、「令」は中止されたのである。
この「令の事」は、“「暗黙の事前判断」“の内容と、「食い違いの事件」で「醜い同族争い」が江戸でも初期の頃は起こり始めていた事を示している。
単純に円滑に「商業組合」が浸透して行ったと云う事で決して無かった。
「享保の改革」を全国の「青木氏」から観た形で検証はして何とか描いているが、「同族争い」までして相当に苦労した事が判る。

(注釈 「談合」に入った形跡資料は見つからない。相当な不信感があった事が判る。当然に「商業組合)に対する「妨害や邪魔な行為」があった事が考えられる。それを押し切ったのが「伊勢山の質屋」であって、それに対する「リスク」を最低限に抑える為の「質流れの禁止令」の「要領書」であった事に成る。「青木六兵衛」から聞いて「幕府の吉宗」もこの「争い」を承知して気にしていた事が判る。)

この苦労が我々末裔に執っては何の影響もなく、今やロマンに過ぎないが、これ程に苦労して改革を背中に背負って果たしてどれだけの意味が在るのか疑問にも成る。

1788年以後は「青木氏と郷士衆」は紀州に引き下がって江戸での「ギクシャク」は納まったが、結局は、「次政権のインフレ策の失政」で「青木氏の功績」は霧消してしまったのである。
たった、72年間の夢幻かと成る。当に「諸行無常の極まり」である。
筆者は、掘れ起こせば掘り起こす程強い「空虚感」を抱くばかりである。
研究すればする程に、深く入れば入る程に、解き明かしてもその意味合いを他氏には理解され得ない事で、たった一つに成って仕舞った孤独な「遺された氏族の悲哀」を噛み締める事もある。
取り分け、この江戸の「伊豆相模」での事では強く感じる。

然し、この「部分の事」を解き明かして「青木氏の歴史観」にして置くのは、「青木氏」しか無く、他氏はしないであろう。
「商業組合と享保の改革」をより詳しくして遺すのは「歴史家」には出来ない研究事で、資料の持つ「青木氏」にだけ出来る事である。

恐らくは、「江戸の伊勢屋」も「伊勢の紙屋」も「江戸の六兵衛」も「伊勢紀州の郷士衆」も1790年の頃には感じ取っていた感傷であったであろう事が判る。
「越後、越前の青木氏」も同じであった事であろう。

江戸期前には「各地の青木氏の家」にもっと資料が遺されていた事が考えられ、現在でも「伝統」を護り「青木村」を形成している「伊豆」と「越後」にも遺されているものと考えられる。
今後の課題ではあるが「資料」が多く見つかれば「青木氏の歴史観」はもっと広がる事が間違いは無い。

兎も角も、「伊勢」では、「祖父の話」では、詳しくした「先祖伝来の由来書」成るものが「福家の青木氏」に在って、累代で「追い書」されていた事が判って居るので、「伊豆」と「越後」と「越前」にも在る筈であるから、「青木氏の歴史観」は更に広がる筈である。(伊勢は松阪大火で消失)
然し、「時間と時代との競争」であろう。

(注釈 「近江佐々木氏」の「青木氏に関する研究論文」が大いに役立っている。)

取り分け、「勘定方指導」と「江戸の伊勢屋」で動いた「享保の改革」の詳細については、「青木氏族」にしかわからないの“「誉れ」”には成るが、「伊豆、越前、越後」にも在るとは思われるが、「伊勢信濃側」から兎も角も判る範囲でまとめて続けて投稿して置く。




>この詳細は、 「伝統―22」に続く。
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「青木氏の伝統 20」-「商業組合」の発展 


[No.338] Re:「青木氏の伝統 20」-「商業組合」の発展 
投稿者:福管理人 投稿日:2016/02/09(Tue) 09:17:21


:「青木氏の伝統 19」の末尾


> 他には「武力的な援護」、「政治的な援護」と成るのだが、「青木氏の氏是」に依って「歯止め」が掛かっていて、直接の「武力的な援護」は無く、「経済的援護」の他に、「青木氏」が持つ「シンジケートに関わる援護」が多い傾向である。
> この「シンジケートの援護」であるが、「直接的な武力衝突」では無く、平穏時は「家族の身辺警護や食料の安全輸送」等に関わっていた模様である。
> 「一揆」を先ず根絶やしするには、為政者側の採る最初の作戦は、先ずは、「補給食料の断絶」や「家族への脅迫」や「調略作戦」から始まり、「武力に依る掃討作戦」は最後の手段であった。
> その前のこの作戦に「援護の対応していた役目」は、「郷士頭の家に遺る手紙」の資料から読み取ると、「青木氏」からの指示に基づき、その役目が危険であった事からこの「シンジケート」が手足と成って大いに働いていた様である。
>
> 「政治的な援護」の関りでは、「シンジケート」と関係していて、“「一揆後の立て直し援護」”と云った「援護の関り具合」に徹していた事が判る。
> 特に、「江戸期末期のシンジケート」は、時代と共に変化して「抑止力」と云うよりは「職能集団」と云った様変わりした「重要な役目柄」を演じていた事が判って居て、支配下に置いていた「伊勢水軍」の「職能集団」は、「海上輸送」で働き、各地域に配置していた武装集団は、「陸送輸送と警備担当」で働き、「大工等の職能部」は、神明社等を江戸幕府に引き渡した後は幕府から「関連企業」として受注を受けてこれを修理管理する事に働いていた。
>
> そして、明治期中期には、伊勢に於ける「青木氏のシンジケート」は、これら全てを解散して「企業」として独立させる手段を採った。
> 伊勢以外にも、例えば、「讃岐青木氏」の様に、本体は「商い部門」を瀬戸内に遺しながらも、「廻船業」として「新規航路」を作り、最終、蝦夷地にも支店を置いて大いに栄え、昭和20年まで続いていた。
>
> この様な例の様に、時代と共に体質変化させて生き延びていて、「青木氏の15地域」では、「伊勢、信濃,讃岐」は、勿論の事、有名な処では「新潟」や「富山」や「鳥取」等、多くは少なくとも昭和の初め頃まで「商業組合と提携商人」と共に存続した事が判っている。
>
> 要するに、江戸期末期に成っても依然として「賜姓族」として頑なに「地域の住民」を「賜姓五役」の「殖産や興業」に導いて、「商業組合と提携商人」は「本来の一揆の意味合い」としての貢献をしている。
>
> これらは前段の「伝統シリーズ」でも「関わり具合」を論じてはいるが、本論は「商業組合と提携商人」としての「15地域の青木氏の生き様」を「伊勢の例」を下に焦点を当てて論じた。
> これらの事は、決して、伊勢域だけの事では無く、「15地域」では、「商業組合と提携商人の組織」を形成する以上は、ほぼ同じ様な事が起こっていたのである。
> それを前提にご理解頂きたい。
>
> 次段は、矢張り、伊勢を以って、この「提携型商人」の「射和商人」に付いて例として詳しく論じる。




「伝統シリーズ-20」


そこで、江戸初期からの関係として、前段から論じている「青木氏と郷士衆と門徒衆との関係」で成立したのは「松阪商人と射和商人の商業組合」の経緯である。
この様な関係の経緯が時代毎に形を変えて上記の「一揆」には背後に必ずあった。

つまり、そこには上記の「関り具合」とは「別の媒体」としては、「青木氏の定住地」から発祥した有名な地域の「・・・商人」があった。
そもそも、「射和」(いわ)とは、現在では、「伊勢松阪の南域」に位置し、「玉城地域」との川を隔てた北側の処にある「古い町並みの地域」の事である。
この地域は、従って、この“「力の背景」”を得て「歴史の荒波」を得ても消失する事も無く、江戸期を経ても何と現存しているのである。
(当初の「古い街並み」そのものも遺っている。)
改めて、その「商業組合の拠点」となった「伊勢松阪」は、奈良期の古来よりの「伊勢青木氏の定住地」であった。
然し、戦乱後の室町期末期には、「秀吉の許可」を得て「蒲生氏郷の本領安堵策」で旧領も含めて認められた為に幸いに「安堵の経過」を経た。
これが「青木氏が関わる地域」の「伝統」を維持出来た大きな要素の一つであった。

「郷士衆や民」との「心のつながり」が悠久の時からのものとして維持出来たのである。
それは、前段で論じた「紀州伊勢で起こった一揆の関係」で証明できる。
この「心のつながり」が霧消して居れば、「青木氏」に「経済的背景と成る力」が在ったとしても、「一揆」までの援護をしていたかは大いに疑問である。
恐らくは、この事(本領安堵)が無ければ心は霧消していたと観られる。
その“「遺った心」”が此れから論じる“「商業組合と御師制度」”を結び付けて維持する事に成功したと考えられる。
唯、「松阪の氏郷の商業策」として「城郭整備」の為に移動し、「伊勢松阪の屋敷町」の9番地から11番地の「広大な3地域」を与えられ、そこを「青木氏の商業拠点」としたと伝えられている。

「蒲生氏郷」は、この1588年に飯高郡矢川庄四五百森(よいほのもり)で松阪城建築に伴い特別な「楽市楽座」と呼ばれる概念で「町の縄張り」も行った。
この時、「氏郷」は、寺社などの商業に関わらないものは町の外側に配置した。
そこで、戦乱を前提に町筋を直線ではなく“町角”を要所に造り“道幅”を変えて一度に多くの“敵兵”が攻め込めないようにした。
そして、「伊勢郷氏」や「伊勢郷士衆」や「伊勢商人」を強制的に移住させて「特殊な城下町」(湊町)を作り上げた。

(注釈 近江より「近江商人 日野町」を呼び寄せてまで「商人の町造り」をした。これが下記に論じる問題を起こした.)

そもそも、「伊勢松阪」は「伊勢神宮のお膝元」である事から、古来より「不入不倫の権」で護られ、城等を建築する事を「朝廷政権」、所謂、「西の政権」が室町期まで禁じていたが、「信長」に依ってこの慣例は破られていた。
現在で云う“「商業テナント」”を「街の中心」に据え、その周囲に近江より呼び寄せた「家臣集団」や伊勢の「主だった郷氏や郷士衆」や「主だった町衆」に敷地を与え「商業都市域の住宅街」を築き、当時としては画期的な“「特殊な城下町」”の基礎を構築したのである。

(注釈 唯、江戸期に入り「紀州藩の飛び地領」と成った事から、この「庶民の町屋構造」(西十町東九町)が不便と成り廃棄し廃藩をした。
その後、条理性のある「紀州藩武士の屋敷町構造」(殿町)に造り換えられた。この「屋敷町」には紀州藩支藩の田辺藩の家臣が赴任した。)

「青木氏」には、この「特殊な城下町」に与えられた3区画も、依然として紀州藩より安堵とされた。
そこで引き続き、与えられた区画のここを「商業組合の拠点」としても使われる様に成ったのである。
「紀州藩の安堵目的」には、事前の「談合の結果」(2度)として、「荒廃した伊勢の発展」の為に、「状況証拠と商業記録」だけで確定した記録が遺されてはいないが、「商業拠点」(青木氏提案)とする事があったと観られる。
そして、その「提案」に基づき、そこを、主に「伊賀和紙を扱う総合商社の紙屋」の下屋敷(拠点)にしたと考えられる。

注釈として、この時、「紀州藩」は不便な角部のある「幅狭の街並み」を態々と変えている。
この意味する処は何であったのかが問題である。
「何らかの目的」があってこそ「改善」をしたのである。
「金銭」をつぎ込んでここに新たに別に「西棟10戸 東棟9戸の家臣、即ち、紀州藩家老田所氏の家臣の武家屋敷町 一戸 間口5間 奥行5間」に編成し直した。
「青木氏の一区画300坪」とされているが、何と武士屋敷比35倍 「福家の一部住居」にも成っていた。

これは、明らかに「青木氏の提案」、即ち「商業組合の実現」を企画しての変更であったと観られる。
それでなくては、こんな「家臣の武家屋敷町」の真ん中に「強大な敷地の屋敷」を幾ら「旧来の郷氏」であったとしても与える事は無いであろう。

前段でも論じたが、「二足の草鞋策」で、「伊賀和紙」(伊勢和紙とも云う)を奈良期から殖産し興業化して作り始め、正式には925年頃に「商い」を営み、更に1025年頃には「総合商社の豪商」となり、歴史にも出て来る位の「商い」を松阪で営んでいた。(前段で論じた。)
そして、江戸期には、「紀州徳川藩」の「勘定方」を指導し、「吉宗」に同行して「享保の改革」(青木六兵衛)にも参加して、その「商法」を活かしていた。
江戸時代には、従って、地元の“「伊勢」“は「紀州藩飛び地領」として、特に力を入れ「松阪商人と射和商人などの伊勢商人」を多く輩出させた地域でもある。

ここまで「紀州徳川氏との関係」を成すには、根本に「何らかの特別な話し合い」が無くては無し得る事では無い。
この関係が「家康との談合時」の「商業組合の提案」にあったと観ている。
「西の大阪」に対して、「家康」と「青木氏」の両者は、「荒廃する伊勢」を立て直すには、「伊勢」には「試験的な自由な商業都市の実現」を目指したと観られる。
この事が次ぎに明らかに成る。

実は、前段の「商業組合」と共に、“「御師制度」”と云う「職能集団の組織制度」を「江戸幕府組織」に「吉宗」は持ち込み採用したが、この事に付いて特段で論じる必要がある。
そもそも、この“「御師制度」”とは、元は奈良期からの「伊勢神宮の職能集団の制度」であった。
そして、「伊勢神宮の皇祖神」の「子神の祖先神」(青木氏の守護神)の「神明社の神職」(青木氏族と佐々木氏族)などがこの「御師」(おし)に選ばれていた。
ところが、「御師の首魁の青木氏」は、この「御師制度」を「青木氏」の中にも持ち込んで、「二足の草鞋策」の維持に活用していたのである。
当然に、この「商業組合」の組織等にもこの「御師制度」を適用したのである。

前段で論じた(イ)(ロ)(ハ)の{身分・格式・職種」等の不必要な垣根を取り除いた”「自由な組織体」”にこの「御師制度」を適用したのである。
一見して矛盾する制度であるが、然し、その矛盾すると観られていた「御師制度」は、この「商業組合」に生きたのである。

では、”これは何故なのか”である。
それは、”「自由」”であるが故に、”完全に放置すれば飛散する”はこの世の条理である。
何処かで“飛散を止める仕組み”が必要であって、それは「内部の飛散」では無く、外側、況や、“「外郭の飛散」を留める仕組み”が必要であった。
「職能別」にまとめて放置すると、初期の段階では纏まるが、暫くすると“喉元過ぎれば熱さ知らず”の例えの通り、ある一つの職能別集団に何時かは「独立の機運」が蔓延して他の職能別集団との連携が上手く採れなくなる。
こうなると「全体の商業組合の効果」は半減低下し、何時かは離散するが条理であり、これが「自由を前提とする組織の欠点」でもある。
だとすると、“外に離散する事”を先ずは防げばよいと云う事に成る。
そうすれば、「外郭の範囲」の中で多少の「自由」は阻害されたとしても纏まる事が出来る。これがこの世の習いの条理である。
つまり、突き詰めれば、その「疎外のリスク」が「全体の享受メリット」に比して極小であれば組織は成り立つ。

「離散防止の役目」=「疎外のリスク」<「全体の享受メリット」=「御師制度」

この世は以上の数式論が成り立つ。

この「離散防止の役目」を果たしたのが「御師制度」であった。

この「単なる御師制度」では駄目であった様である工夫が成されている。
そもそも、この「商業組合」に持ち込んだ「御師制度」は、資料から読み取るに、可成り初期段階に持ち込まれていたと観られる。

幾ら「自由」の「商業組合」とは云え、「社会の自由」は「封建制度と氏家制度」とで出来ている限りふ「個人の概念」”は制限される範囲に在ったし、現在の様にそもそも体質的にそう「自由な発想の概念」を持ち合わせていなかった筈で、「社会全般の概念」がそうであった筈である。
むしろ、どちらかと云うと、「古式豊かな概念」の中に、他の者達より「新しい自由な概念」をより多く持ち合わせていたと云う事であろう。
この「新しい自由な概念」なるものは、現在の発想する「自由な概念」と云うものでは無く、「商業」と云うものから発展した概念であったと観られる。

伊勢には、昔から、”「近江泥棒に伊勢乞食」”と言う言葉が遺されている。
つまり、「近江商人」は“「がめつい商法」”、に対して「伊勢商人」は、「質素倹約の商法」の意味で呼ばれていた。
元より、この「質素倹約の商法」の“「商い」”をより豊かにするには、「質素倹約」の「固定概念」に捉われていては「商い」は成り立たない。
“「商い」”と云うものは、そもそもその「自由の原点」から発想されているものである。
この「質素倹約の商法」の「商いの概念」の中で発育した範囲からの“「自由概念」”であったと観られる。

当に、奈良期から行われていた「外国との貿易」はこの概念の範囲からのものであった筈である。

「質素倹約商法」+「自由」=「伊勢商法」+「商業組合」

以上の関係式が成り立つ商法であった。

遺された手紙の中の一節を読み取ると、「質素倹約の商法」の中での「商業組合」は、丁度、現在で云えば、”「産業別と職能別の共同連合会」の形式”に似ていると考えられる。
これに適合させた「御師制度」が、「単なる御師制度」では無かったと云う事の“もう一つの策”で有ったと観られる。

「質素倹約の商法」+「自由」=「伊勢商法」+「商業組合」+「御師制度」

この会、即ち、「御師制度」が「自由」から起こる“外郭の飛散を留める仕組み”を果たしていたと云う事に成る。

では、“一体、「商業組合と御師制度の関係」がどの様な仕組みに成っていたのか“と云う事である。
これが、”「単なる御師制度」では無かった“とする他の”もう一つの策“とは、「産業別と職能別の共同の連合会の様な類似形式の上に、この「個々の組織の頭」に”伊勢紀州の「郷士衆」を置いた”と云う事であった。

「質素倹約商法」+「自由」+「郷士衆」=「伊勢商法」+「商業組合」+「御師制度」

「個々の職能の組織の職人」をその「共同連合会の様な形式」と成っていた会の「会頭」に置くのでは無く、その「職能の責任者(差配頭)」としてその「地域の郷士」を置いて、その「組織」を纏めさせ「全体の生産工程」をも差配させていた模様である。

そしてこの「郷士の家人」がこの「事務的な実務」を担っていた事が判って居る。
この「郷士家人」とは、その「職能者の家筋の者」であった様である。
そして、身分格式を問わず「職能者全員」は「下級武士を含む農工の民」の広い範囲で構成されていたのである。
ここで「職能集団がまとまる糸筋」なるものを作り上げていた事に成る。

この「伊勢紀州の郷士」には、前段で論じた様に、“「郷士頭」”があって、「商業組合」とは別に、「青木氏との関係」で繋がっていた。
この事から、この“「郷士頭」”は、「青木氏四家との関係」と「職能集団の差配頭の郷士との関係」と「20近くあった青木氏部の頭」と「門徒衆との関係の頭」としての“「五つの責任」”を負っていた事に成る。

この様に前段でも論じたが、この「下部組織の長」と観られる“「郷士頭」”は実に重責な位置を維持していた事に成る。
この「郷士頭」は、資料の中では“「郷士頭」”と書かれているが、普通の呼称は、単に“「・・の長」等”と氏名を着けて「敬愛の意味」を込めて呼ばれていた模様である。
故に、現存する幾つかの「郷士頭の家筋」には、現在までも「青木氏の生き様」を証明し得る重要な手紙などの資料と成るものが保存されていたのである。

(注釈 筆者幼少の頃には南勢と南紀のこの何軒かの「郷士頭の家:縁者」に何日も泊まる旅をした事を覚えている。
中には現在でも南紀の老舗大旅館を営んでいる。)

これらの資料によると、年に「二度の全体会議(戦略会議)」と成る集会があり、上記の「五つの責任」の「組織」のそれぞれの部門集会は「四度の会議(営業会議)」が催され、それぞれの「職能部門の会議(工程会議)」は「毎月」に行われていた事に成っている。

ところが年に一度、秋の頃に「祭りの様な集会」が、「伊勢松阪青木氏の福家の屋敷と菩提寺」であって、「土産物」を貰って帰る等の催しの祭事で、職能者の作業者全員(組合員)が参加した様で、「遠祖地のある南紀」からも「伊勢松阪」までも二日掛けても参加している。
要するに、「伊勢運動会」であり、「二つある菩提寺」は「てんてこ舞い」であったと記されている。

この事は,「五つの責任」に加えて次ぎの「六つの組織」で構成されていた。
「青木氏の四家組織」(A)
「商業組合の組織」(B)
「御師制度の組織」(C)
「紀州伊勢郷士衆の組織」(D)と、
「郷士頭」が世話をしていた「門徒衆との組織」(E)

更には、次ぎの組織が加えられる。
「神明社の連携」と「伊勢信濃シンジケート組織」(F)

以上が有機的に関係を維持し動いていたと云う事を示している。

これが「商業組合」を効果的に存続させていた事の大きな要因であった。

当然に、この「六つの組織」で「15地域との関係」にも連携が取れ易かったのである。
「15地域」にもこれとほぼ似た組織形態を採っていた事が「越後青木氏」や「越前青木氏」の資料からも判っている。
この「15地域との関係」は「伊勢青木氏四家」が責任を持って維持していたのである。
「伊勢青木氏四家」が持つ組織を更に活用した「重層的な組織」を作り上げていた。
この「情報のやり取り」は「神明社」が行い、「連絡と搬送と護衛」は「伊勢信濃シンジケート」が行っていたのである。

そこで、「江戸幕府の組織」にこの“「御師制度」”を敷いたのには、次ぎの複雑な経緯の事があった。
若い時に伊勢で見聞きして経験していた「吉宗」が持ち込んだのには、ただ単に官僚が管轄する「職能集団の統括」と云う事の目的だけでは無く、「インフレ策」と「デフレ策」の中間とする「リフレーション」を目標とする「享保改革」には、“欠かせない制度“であったのだ。

そもそも、既に、開幕後100年近くも経っていて、官僚が管轄する幕府の職能集団の統括手段は前からもあって、遜色なくそれなりに機能していた。
それなのに新たに、この「御師制度」を態々、採用しているのには、「改革」である以上はそれを押しのけて“採用しなければならない必然性”があった事に成る。
むしろ、上記した様に、“「鷹司信子や天英院等の期待」“を背負って、“「商業組合の功績」を背景に世の中を変えられる”と云う事で「将軍」に成った以上は、“是が非でも”実行せねばならない「施策の一つ」でもあった。

それは概して、次ぎの関係式が成り立っていた。

「質素倹約商法」+「自由」+「郷士衆」=「伊勢商法」+「商業組合」+「御師制度」

以上の基本関係式の上に次ぎの数式論を展開させたのである。

「リフレーション策」=「享保改革」=「商業組合」=「御師制度の関係」

以上の「完全な二つの数式」と云っても過言では無かった。

それは「吉宗」に同行した「青木氏」が、前段で論じた「15地域」に採用している「商業組合」なる「改革的組織」を幕府の中に持ち込んで、“「リフレーション」で改革を進めようとする”には、上記した様に是非に必要とする「政策手段」であったのである。
要するに、伊勢紀州から始めて「15地域」に広めて成功した「商業組合と御師制度」を持ち込み、それを「リフレーション政策の基軸」に据えたのである。

その証拠には、「将軍」に成る為に行列をして江戸に向けて移動する隊とは別に、記録によると“「青木氏の別動隊」”として同行した中に、「御師制度の郷士頭」が数名参加している。
そこで疑問は、”何で「御師制度の郷士頭」が参加しているのか”である。

本来なら必要無い筈であるが、初めからその心算であった事を物語っている。
つまり、「上記の関係式」を描いての事であった事に成る。

況や、「将軍」に成る前提(鷹司信子や天英院等の期待)として据えていた事に成る。
確かに説得に納得した「鷹司信子や天英院等の期待」もあったが、筆者は、“宗家外からの将軍”と云う事に捉われて反対する「幕閣」を、ある理屈で「抑え込む手段」でもあったとも観ている。

(注釈 この内の「郷士頭」の1名が「隅切り角桔梗紋の職能青木氏」(「青木氏部」)を名乗って江戸に子孫を遺している。
明らかに「伊勢の職能集団」が同行していた証拠である。)

江戸初期1600年頃に松阪に「商業組合の拠点」を構え、「商業組合と提携商人の改革」を始めて、頼宣入城(1619年)を経て「商業組合」が「15地域」で成功しての成長期から、1716年までには約100年の「改革の熟成期間」があって、既に、この「システム」は確立して「15地域」を結ぶ「一つの商業圏」を構成して隆盛期に入っていた時期でもあった。
(1603年に家康は「征夷大将軍」に成る。)
ところが、この時期の享保期の前の「元禄期から宝永期」までは、「天変地異の飢饉」などが異常なまでに多発し、この為に経済が疲弊し庶民は飢餓していた。
合わせて、政治は次ぎの様に「失政」を重ねていた。

そこで「享保の前までの幕府」は,成熟していない”「三貨制度」”の下で「貨幣の鋳造比率」を変える等で逃げようとした。
然し、ところがこれが「逆効果]と成り、「15地域の経済圏」を除く他の地域の経済は、極めて疲弊し最悪の状況下であった。
むしろ、「幕府]はどうしていいか判らないと云う状況下に陥っていた。
ところが、「15地域」は違っていた。
従って、この「15地域の経済圏」は、隆盛を極め周囲から「譫妄の的」であって、周囲は「一揆」とは成らずとも「騒動」が各地で多発していた。
当然に、御三家の紀州藩は「吉宗」を盛り立てて「青木氏の勘定方指導」で経済も然ること乍ら「民の心」も平癒に成っていたのであった。

(注釈 どの程度の紀州藩の「善政」かと云うと、何と前政の「幕府からの借財10万両の返済」を一挙に成し遂げたのである。)

前段で論じた様に、「1619年頼宣入城」までは「紀州」は周囲と異なり「錯乱に近い状況」であったのに、この「商業組合の改革」で「殖産事業」が進み「豊潤な改革」で発展を遂げていたのである。
(前段で論じた下記の「一揆年譜」参照)

幕府の一部(鷹司信子と天英院)には、これを観て、「解決し得る次ぎの為政者]と成る「将軍」には、この「善政を成している伊勢紀州」から、又、「15地域を改革して成功裏に収めていた青木氏」が「親代わり」に成っている「吉宗」を適任として「周囲の反対」を押し切ってでも「将軍」に押し出したと思われる。

注釈として、公説の一説では、「家康との世代的近さ」や「綱吉の家系被弱」により「将軍」に成ったとされているが、真因は決まっていない。
社会はそんな説の様な生易しい状況では無かった。

市場では「後継者の決め方」では「幕府」は潰れるとさえ思われていて、ある「東西の二つの大大名」が「不穏な動き」を現実にしていたのである。
確かに「綱吉から綱継」まで続いて「三代急逝」が続いて偶然に起こったのであるが、そうであるとしたら、「御三家」と云う範囲の事では無くても他の「近親の松平氏」でも成り得る。
(筆者は[不穏な動き]を察知した幕閣による暗殺と観ている。)

そもそも、渦中の「尾張藩」は、元々は「紀州藩」と「水戸藩」を差し置いて「御三家の筆頭格」と位置付けられていた家柄で正式に格式も上位であった。
且つ、「将軍宗家」より次々と「養子」を入れて、「宗家血縁の筆頭家柄」として存続されていたものである。
尚又、「尾張藩」はこの務めを果たすべく“「御連枝族」”という特別の「分家族」を置き、「尾張藩の宗家」に「世継ぎ」が欠けた場合は、この「御連枝族」から充足する仕組みに成っていた。
且つ、「将軍家]から「庸氏族]が次ぎつから次へと「養子」が入る慣習に従っていた事から、その後に「将軍家」に戻すと云う組織が出来上がっていたのである。
絶対に「将軍家宗家の血筋」を男系女系に関わらず引き継ぐ事の出来る体制にあったのである。

これでは、「御三家」と云えども「水戸藩」と「紀州藩」は、実質は一種の「飾りの様な立場」にあった。
その為に、取り分け、「水戸藩」は事前に「初代遺訓」として、初めから「御意見番の立場」を護る事を云い伝えられていたのである。
又、その「尾張藩」では、「水戸藩」と同じ様に、「初代遺訓(「一族秘訓)」があって、“「王命に依って催さるる事」”とされていた。
これを護っていた「家臣団」には、“初代の家系からは将軍をだせない”と云う不満が強く、「維新の戦い」の際は官軍側に付いた「謂れの結果」となったのである。
「紀州藩」にしても、前段で論じた様に、「将軍家」から「紀州藩初代頼宣」が「謀反人の家」と云うレッテルを張られてしまった経緯があって、“尾張藩の様に将軍家との血縁のつながり”を持つ事が出来なかった。
「尾張藩の家臣団の不満」と同じ様に、「紀州藩の家臣団」と成った「藤原秀郷一門(伊勢藤氏等)」から成る伊勢紀州の「郷士衆の家臣団」にも只ならぬ警戒心が強かったのである。

この事から、この「掟」とも成っていた「慣習の基元」にある「尾張藩」を跳ね除けて「紀州藩」と成ったのである。
「尾張藩の継友」や家系には「将軍」に成るに決定的な欠陥があった訳でも何でもない。
むしろ、「三代急逝の偶然」があった後であり、この時にこそ「家康の遺訓」に従い“存在する藩”であって「成るべくして成れる立場」にあった。
ところが、これらの条件を覆して「古い慣習掟」を崩してまでも、「紀州藩」に「将軍が廻る事等の要素」は上記する以外にはこの段階では全くは無かったのである。
どちらかと云うと、「当然に成るべき立場」にあって、「尾張藩」に執っては当に「晴天の霹靂」と云える出来事ではあった。

これでは、普通に考えても、藩主側は兎も角も、元からの「家臣団」には更に「強い遺恨」が残るのは必定で、遺らない方が氏家制度の中では無気力と批判されても仕方がない諸行であろう。
現実には、「尾張藩」には幕末まで将軍を出す事は無かった。

「吉宗」が行う「享保の改革」に、上記した様に真っ向から反対した「尾張藩の姿勢」は、この「経緯の事」から来ていると考えられる。
従って、この「二つの説」では、この「幕府」としても、況して、“「宗家」”と云う意味を持つ「家系の形式」を採っている「徳川氏」である限りは、この上記する「重要な慣習・掟」をも完全に無視した説にも成っている。
況して、「家康の遺訓」では、それまでは嫡子は子供の誰でも選んで据えても良い事に成っていて、要するに、原則、“「宗家」で「嫡男」は「長男」と云う慣習“を決めたのは家康そのものであった。

「お万の方」がこの「家康]に「世継ぎ」で”「争い」になっている事“を相談した時に「家康」がこの原則を始めて作った人物である。
それ以後、これに従って、大名格を始として「武士の家」の「世継ぎ争い」を避ける為にこの「原則の慣習」を護り始めた事に成ったのである。
従って、「徳川宗家」は「尾張藩」に「純然とした初代の尾張藩血筋」を継承するのでは無く、「将軍家の血筋」を「養子」として事前に何度も入れて、万が一の場合に「将軍家に戻す仕来り」を作って置いたのである。

(注釈 「伊勢青木氏」と1600年の初め頃に二度に渡り「家康と談合」を重ねたが、この時に「青木氏」の「四家制度」を知って「御三家の制度」にして模擬したと観ている。
その「将軍家」が「福家」とし、「御三家」が残りの「三家」とし、「尾張藩」には「将軍家血筋の養子家」、即ち、前段で論じた様に、「青木氏」の「孫域」までを「福家の世継ぎ」の「“子供”の仕来り」を類似させて、「徳川氏の仕来り」を作り上げたと観ている。)

この経緯から,「長男」であるかは別として、“「宗家」”と云う「本血筋を護り通す本家の家筋」を定めたのであるから、「徳川氏」が絶対に護らなければならない「家康遺訓」にも反する事に成っているのである。
この事からこの「二つの説」は実に付け焼刃の具体性に欠ける説と成る。
もっと云い換えれば、これらの「二つの説」では“誰でも良かった”と云う事に成り得る。
そんな生易しい世継ぎの事では無かった。

あるとすれば、「綱吉(五代)」が行う当時の「幕府の政治状況」、取り分け、「経済状況」と「幕府の財政状況」は「瀕死の床」に在った。

(注釈 四代綱家は、多くの学者を登用して「政治的には多くの令制」を敷いて安定したが経済は全く疲弊していた。
「五代目の綱吉」は人物が良すぎて周囲に左右されてこの「政治」さえも低下させてしまった。)

そもそも、「吉宗」が、“「幕府中興の祖」”と云われている限りは、この「二つの説の論説」とは一致せず、この「将軍擁立説」は兎も角もおかしい。
唯、共通する事としては、「二つの説」は、「吉宗」が”紀州藩財政を立て直した“と云う事には否定はしていない。

上記する様に、「吉宗」は伊勢に育ち「青木氏と加納氏」が「親代わり」に成って22歳まで育てられて、「青木氏の商業活動」などの事に関わって見聞して経験を拡げて来た。
大変真面目で、論理性が強く、「経済の成り立ち」や「社会構造の成り立ち」や「歴史」などにも強く興味を持った「堅実な人物]で、「頭の回転の速い機敏な性格」であったと「青木氏」には伝えられている。
ところが、この「紀州藩」でも藩主と成るべき者が、これまた父、兄、次兄と不思議に三代続いて急逝して、成るべき立場に無かった身分の低い「吉宗」(嫡子外)に「藩主の座」が廻って来る運命にあって、「時代」が「吉宗」を「将軍」まで押し上げるべく動いた事では事実である。
この為に、他の兄弟と共に、態々、紀州の膝元に置かず、殆ど付き人となった下級家臣の実家先の「伊勢加納氏(祖先は伊勢秀郷一門の郷士衆)」と「二つの伊勢青木氏」に隠す様に預けた経緯を持っていたのである。
確かにこんな「二度の急逝の偶然」は考え難い。
設えたにしても起こり得ない“「偶然」”でもある。(今回は真因説は不問)
幾ら何でもこの“「二つの偶然」”が、“「将軍」にする”と云う事だけでは現実の世の中では起こらない。
この“「二つの偶然」”を利用して、それなりの「根拠」と「財力」とを以って「人」が動けば成し得るものである。
決してこの“「単なる偶然」”だけでは成し得ない。

この図式には、古来より次ぎの数式が成り立つ。

「偶然(運)」+「根拠(実績)」+「財力(背景)」+「地域力(基盤)」+「人(知力)」=「目的」(将軍)

以上の数式論が必ず働いている。例外はない。

但し、この“「二つの偶然」”を「動かす力」が必要なのである。
「動かす力」には上記の「六つの要素」が働く。

この「六つの要素」が大きければ大きい程に「目的」を「叶える力」は大きく成り成就する。
要するに、「吉宗」にはこの「六つの要素」が極めて高かった事を示している。

要素-1 「偶然(運)」=「二度の急逝」
要素-2 「根拠(実績)」=「15地域の商業組合策」
要素-3 「財力(背景)」=「青木氏の500万両の経済力」
要素-4 「地域力(基盤)」=「御三家」
要素-5 「人(知力)」=「郷士衆と御師制度」
要素-6 「目的」(将軍)=「改革の理想」

「全国の青木氏」はこの「二つの偶然」等の「六つ要素」の高さを観て、「総力」を挙げて“「吉宗」を「将軍」に”と「尾張藩の慣習・掟のある事の経緯」を知りながらも、現実には八方手を尽くして押し出した。
この時、“紀州藩から将軍に“と云う事があったのかと云う事で持つ意味が違うが、この記録は未だ見つからない。

筆者は、「頼宣謀反の経緯」があって、未だ、「紀州藩主四代の吉宗」(三代四代は急逝で実質三代 年数では100年間 実質は頼宣1671年-光貞1705年 10年間程度の経過期間)までである。
従って、この「遺恨」は全く消えていないと観ていて、「水戸藩」と同じく、この段階では「尾張藩の慣習・掟のある事の経緯」を知っていれば、“紀州藩から将軍を”と云う発想は、先ずは官僚からは普通では起こらないだろうと観ている。

「吉宗の意志」では、「将軍」に成ろうとするは「意志と行動」は,「吉宗の発言や行状の記録」から無かった様である。

「吉宗と官僚」からは無かったとすると、“「周囲の人」”と成って来る。
そうすると、「青木氏等の郷士衆」と「伊勢藤氏の青木氏を含む秀郷一門」であった事に成る。

依って、上記の数式論から、「要素-2345」と成り、この「4/6の事」は「周囲の要素」で占めている事に成る。

「紀州藩の家臣団の官僚」が、「4/6の事」から “将軍に押し出すと云う事”は無理と云う判断と成り得て先ず無い事は判る。

「吉宗が持つ要素」は、「要素-1と6」と成る。

ところが、次ぎの様に働く筈である。

「要素-4」では、「地域力(基盤)」=「御三家」では、次ぎの様に成る。
「家臣団の賛同」が得られない事(基盤)
「尾張藩の慣習・掟のある事の経緯」の事(御三家)、

「要素-6」では、次ぎの様に成る。
「目的と成る改革」を実行するには、これを「支える周囲」を含む「地域の力」(青木氏)の事

以上の「三つの事」から、「吉宗自身」には幾らかのものはあったと考えられるが充分には備わっていない。

結局は、「要素-6」が「決めて」と成るが、この「要素-6」はそもそも「個人」でそもそも成し得ない。
「家臣団、青木氏、郷士衆」、も含めて、“「周囲の力」”で「具体的」に作り上げられるものである。
とすると、「吉宗の持つ要素」は「要素-1」だけと成るが、実際はそうでは無かった。

確かに、「吉宗」には、記録によると、上記の通りの「器」としての資質では、人より「行動的」で、「判断力」が良く、「調整力」を持ち、「理解力」は特段優れ、「公平性」のある「持ち主」で、「人の話をよく聞く事」にあったと成る。
つまり、「人」を動かす「大きな組織集団の頭目資質」があったと云う事に成る。

故に、「要素-1」の「偶然」と、この「持って生まれた性格」が一致したのではないかと観られる。
ところが、唯、この「継友」にもこの「要素-1」の「偶然」が「吉宗」と同じく尾張藩に起こっているのである。

矢張り、兄の四代、甥の五代がこれも不思議に急逝していて、「部屋住み」であった「継友」に廻って来て第六代藩主と成った経緯を持っている。

「違っている点」が決定的に在った。
それは、混乱期に「将軍として成り得るの資質」にあった。
「継友」は異常なまでも「ケチで短慮」あって、尾張でも”「切干大根」”のあだ名があって有名な事であった。
この事があって、その質にあらずとして不満を持つ「在来の家臣団と重臣」は「遺訓」を理由にして、上記した様に「筆頭の将軍継承藩」であり乍ら、就任運動を全くしなかった。

何と「不文律な行動]も多く在り、その「資質」から家臣と庶民から信望が無かったのであり、その為に母方は公家で在りながらも「官位の申請(大納言)」もしなかった為に「将軍に成り得る資格」を失って仕舞ったのである。
家臣と重臣から全く反抗されていたのである。
つまり、「要素-6」は無かったとされている。

しかし、反面、一部擁立派はこの批判に抗する為に、「綱吉の放漫財政」を質す事無く、尾張藩では逆にこれを補う為に家臣の俸給と強引な人員整理を実行し出費を抑えて黒字を残した。
しかし、家臣からは完全に賛同と支持を失った。

「家人」や「家臣」が犠牲に成るこの強引な「財政立直し」であって、「市場の経済的改革」を経て市場から得た税の獲得では無かった。
ただ一人(異母弟)の「将軍擁立派」が誉めそやした「名古屋と云う局部的で一時的な実績」であって、況や「ケチと短気」から来る単なる「緊縮財政」を採っただけであった。
これで、「市場の力」を温存した為に、名古屋だけには緊縮財政での金が落ちて確かに名古屋は発展し人口も増えたし、「吉宗の享保の改革」で圧迫を受けた「江戸商人」の「三井家の越後屋」も後に名古屋で「インフレ策」を採る「継友」に協力をした。
ここは、「江戸商人」の「三井家の越後屋」で一見して「要素-3」には成るが、あくまでも、「経済的利益での結び付き」であり、決して「親代わりの立場」と「吉宗の資質」と「家臣の賛同と支持」を得てでの「強い結びつき」では無かった。


その「資質」を「周囲の者」(「要素-6」 青木氏等)が見抜いて、先ずは押し出したと成る。
この「性格的な資質」は、「吉宗」の「生みの親の母(湯殿女)」からのものであった。
先天的には母親の郷の「紀州巨勢氏」と、後天的には伊勢の「育ての親」の「青木氏と加納氏」から形成されたものであろう。

(注釈 「秀郷一門の伊勢郷士」であった「付人の加納氏」も「二足の草鞋策」で「加納屋」を営む。)

そこで、「継友」と「吉宗」には、「尾張藩」と「紀州藩」とには、“一体何が違ったのか”と云う疑問が出る。
上記の「六つの要素」で比較して観ると、結局はその違いは次ぎの結果と成り得る。

要素-1 「偶然(運)」=「二度の急逝」
要素-2 「根拠(実績)」=「15地域の商業組合策」
要素-3 「財力(背景)」=「青木氏の500万両の経済力」
要素-4 「地域力(基盤)」=「御三家」
要素-5 「人(知力)」=「郷士衆と御師制度」
要素-6 「目的」(将軍)=「改革の理想」

「吉宗」  「継友」
要素-1 「吉宗」<「継友」
要素-2 「吉宗」>「継友」
要素-3 「吉宗」>「継友」
要素-4 「吉宗」<「継友」
要素-5 「吉宗」>「継友」
要素-6 「吉宗」=「継友」

そこで、「吉宗側」では「要素-5」、「継友側」では「要素-4」は比べ物にならない程に相互に差違がある。
確かに、「要素-1」の「偶然(運)」では、吉宗には「紀州藩での三代急逝」があったが、これは吉宗が藩主に成れたと云う事に外ならない。(継友にもあった。)

従って、この「六つの要素」の比較に入れたと云う事であって「将軍」に直接的な要因とはならない。

吉宗自身としては別として、「吉宗側の周囲(要素-6)」に執っては「要素-1」は大きく働くと観た筈である。
そうすると、「継友側」に「要素-4」の上記した経緯がある事に依り、「要素-1」は「継友側」に有利に働く事に成る。
結局、「吉宗側」に「要素-2」と「要素-3」が有利と成る。

但し、「要素-5」は「要素-2」と「要素-3」に連動している。
従って、「要素-5」と「要素-4」の差違は、「要素-5」の「吉宗側」に有利に働く事に成る。
これは「吉宗の周囲要素」と成る事から、「要素-6」に連動する事に成る。

(「要素-2」+「要素-3」)←(「要素-5」+「要素-6」)

以上の数式論が起こって、「鷹司信子と天英院」は「説得」に応じたのであろう。
「幕閣」は「要素-4」だけでは「ごり押し」は無理と考え、「抵抗」をこの数式論から緩め、遂には、「鷹司信子と天英院の説得劇」で、「将来の事」から不利と観て、最終的に“黙った”と云う事に成る。

その「押し出す根拠」は、「青木氏等が行う経済改革」を経験していて「親代わり」に成って紀州藩(勘定方指導)を,そして、周囲も、遂には“幕府を”と成って、世間や経済に弱い筈の「鷹司信子や天英院」の幕政から遠く離れた女性陣に、この現状の世間の最悪の経済状況を説き知らしめ、改善し改革するには、「上記の実績」を説き「経済説論」を強力に陰から訴えたのであろう。

故に、そうで無ければ、常に「保守性の強い宗家論」に引きずられる幕府を変える事等は先ず考え難い。
両説の二説であるなら、「綱吉の後の処」でも良かった筈である。

偶然にも、五、六、七代と宗家には三代続いて不思議に急逝すると云う事が起こった。
一時的には幕府には決定する嗣子が無く成り、「世継ぎの決定者」は「遺族の女性陣と幕閣」と云う事に成る。
そうすると「幕閣」は、持論の「宗家論」が難しいと云う事に成れば、必然的に「将軍継承者」は、上記した様に遺訓に依り「ご意見番」に徹する「水戸家」は兎も角も「尾張家」から持ってこようとするは必然である。
決して「謀反の嫌疑」を掛けられた「紀州藩」と成る事は無い。

この時に、「幕閣」は、「尾張藩(継友)」を押し出す以上は、上記の「偶然(運)」+「根拠(実績)」+「財力(背景)」+「地域力(基盤)」+「人(知力)」=「目的」(将軍)の図式の比較が必然的に行われる事に成る。
然し、「吉宗」が持つこれに優越する「継承対象者」が尾張藩に無ければ、「要素-4」の「家康の遺訓」と成る“「御三家論」の展開”では、最早、難しく成ったのである。

その前に、この侭では「世間の不満」を背景に「北と南の雄藩」が動き「戦乱」に戻り、“「江戸幕府」が危ない”とも観たのではないかと思われる。(現実に動きが在った。)

結局、それには「幕府」や「幕閣」も、“現状を打破し脱し改革に至るまでの道筋の状態”に出来る事が「最大の対策」と成る。
果たして、「幕府」や「幕閣」の持論の「御三家論・宗家論」では「世継ぎ」が叶ったとしても“現状を打破し脱し改革に至るまでの道筋の状態”にするには誰が考えても無理である事は明明白白の状況と成っていた。
況して、「継友」には「将軍」としての“資質・器に欠けると云う批判”が高ぶる以上は、これを無理押しする事には、「北と南の雄藩」を抑えきれないと観たのであろう。

上記の図式から観て、「吉宗の優れる処」と「吉宗の背後の力」を認めて「宗家外の吉宗」を敢えて「将軍」にする事を渋々認めたのである。
結果としては、「御三家論(継友)」<「周囲論(吉宗)」が、“現状を打破し脱し改革に至るまでの道筋の状態”にする事が出来ると観たのである。

「次の課題」は、「世間に疎い女性の遺族」をどの様に説くかの難題で、それを誰がするかの問題もあった。
取り分け、「御三家論(継友)」には確固たる現状を打破し得る「経済政策論」が無かった。
確かに、「吉宗のリフレーション策」に対抗して、「継友」は「インフレーション策」を展開して「享保の改革」を批判した。
然し、「15地域の様な実績」は無かったし、「信長秀吉」が招いた「伊勢紀州の混乱」(門徒衆)を鎮めただけでは無く、他藩では出来ていなかった難題を事も無げに「青木氏の勘定方指導」で「紀州藩の財政の立て直し」にも成功させ、「商業組合と提携商人」で「15地域の地域経済」までも発展させると云う「離れ業」をも成し遂げた。

これを観ていた「北と南の雄藩」も矛先を納めるしか無かった。
当然に、「北と南の雄藩」は納まるとしたら、最後は“「次の課題」”と成る。
この手順を間違わずに踏めば納まり、“現状を打破し脱し改革に至るまでの道筋の状態”を論じられる「吉宗論」に傾く。
「紀州藩の重臣」と「全国の青木氏」がこれを担う事に成るだろう。

これを支えるのが拠点と成っている「商業組合と提携商人」と殖産を推し進める職能の「御師制度の伊勢紀州の郷士衆」である。
上段でも論じたが、これを担ったのが実績をベースに「財力と説得力」を持つ「二つの伊勢青木氏」にしかない。
何と「二つの伊勢青木氏」は押し出した。
そして、“世間や経済に弱い筈の「鷹司信子や天英院」の「幕政から遠く離れた大奥女性陣」”の説得に成功させたのである。
これで、「抵抗勢力」は「継友」だけと成り得て、「将軍資質」に欠け「家臣の信頼」を失っている藩主は「ただの人」に成り得る。

ここまで進むと「後の課題」は、「将軍にする為の吉宗側の段取り」に在った。
「経済改革の基幹」と成る「商業組合と提携商人」は「15地域」で「100年の実績」で出来ている。
後は、「御師制度の職能部門」を“「幕政仕様」”にどう仕立てるかその“「下準備」”に在った。

そこで、“「幕政仕様」”にする為の理解として「御師制度の職能制度」に付いてもう一度論じて置く。
そもそも、これは全国に配置された500社にも成る「神明社」に関わるあらゆる職能で成り立つ「大職能組織」は、この「職能」を「円滑に運営する方法」として古来から次ぎの(a)と(b)と(c)と(d)が採用されていた。

「指揮命令系統」(a)
「職能者養育」(b)
「情報伝達」(c)
「資材調達」(d)

以上を明確にした制度であった。

然し、室町期にはこれに付随させて次ぎの事(e)(f)を制度に組み込んだ。

「情報獲得源の組織」(e)
「シンジケートとの連携」(f)

以上としても活躍させていた。

「青木氏」は「伊勢神宮」を始めとする「神明社系」のその「御師の首魁」の位置にあった。
前段で論じた様に、自らも次ぎの「六つの組織」を奈良期から持っていた。
“「五家五流の青木氏の連携」(イ)“には、“「神明社等」(ロ)“を建設する“「青木氏部」(ハ)“と云う“「職能集団」(ニ)”、これらを保護すると「シンジケート(ホ)」との以上の「五つの組織」が存在していた。

ところが、「二足の草鞋策」を本格的に稼働させた時期の925年頃からの平安期には、次ぎの事が加えられた。
“「和紙殖産」を担う「職能集団」(ヘ)“もこの「青木氏部」に加わった。
そして、江戸期には本論の“「商業組合の組織」(ト)”に「御師制度」(チ)が加えられた。

「五家五流の青木氏の連携」(イ)
「神明社等」(ロ)
「青木氏部」(ハ)
「職能集団」(ニ)、
「シンジケート(ホ)」
「和紙殖産」を担う「職能集団」(ヘ)
「商業組合の組織」(ト)
「御師制度」(チ)

ところが(イ)に付いて平安中期には「近江と美濃」の「青木氏部」が「地域の抗争」が激化して、これに影響を受けて内部でも抗争が起こり衰退を興したのである。
唯、これを観た朝廷は、「朝廷の政治と経済」に大きく関わっていた「皇親族」としてのこの「青木氏の組織」を補完する事から、「皇親族青木氏の母方」であった事から「藤原秀郷一門」に青木氏と官位官職の一切を同格として名乗る事を命じたのである。
結局、残る勢力は「伊勢」と「信濃」と「甲斐」と成ったが、室町期に入ると、複雑な内部抗争が起こり、「甲斐の御師制度と殖産」は弱体して「伊勢と信濃の二流」と成ってしまった。

「青木氏の御師制度」には、次ぎの様な三つの御師があった。

「伊勢神宮の御師」(A)
「青木氏部の御師」(B)
「商業組合の御師」(C)

以上を務めていた事に成る。

この“「3つの御師の組織」“を「江戸幕府の職能集団」(1)に適用して「享保の改革の組織改革」(2)を実行したのである。

「江戸幕府の職能集団」にこの制度を必要だからと云う事で持ち込むにはそれなりの理由があった。

それは、「江戸幕府の職能集団」には「江戸商人との関係」を大きく維持していた。
ところが、この江戸組織は、前段でも論じた様に、(イ)(ロ)(ハ)をベースとする「商業組合の商人」では無かった。
むしろ、「保守的抵抗勢力」であった。

この「江戸幕府の官僚集団」がこの「江戸幕府の職能集団」の組織と繋がっている事は、「(イ)(ロ)(ハ)をベースとする商業組合」の「政策的な効果」は出る事は先ず無い。

この事から、先ず潰される事は必定で、況してや、「御師制度」と成れば尚の事である。
そうすると、「保守的抵抗勢力」の「職能部の官僚機構」と「江戸商人」を潰す事は経済には効果的では無く、混乱を招くだけで、むしろ今以上に「強烈な抵抗勢力」と成り得る。
それには、「懐柔策」を採る必要が戦略的には必要であって、何にしても「保守的抵抗勢力」の「江戸商人」を変える事は直接的に換える事は難しい。
従って、これは別にして、先ずは「職能部の官僚機構」を変える事で、必然的に問題と成る「江戸職人との関係」を軽減させて行くことが出来る。
そして、この過程で、伊勢紀州からこの専門家を呼び寄せて人事で入れて、その官僚の「職能部門を管理する長に据えて掛からせれば、次第に問題の「官僚機構」は変化を起こし、結果として職人との仲介役と成っている“「江戸商人」”は換わらざるを得ない結果と成り得る。
(三井家の越後屋名古屋に出店等)

では、“職能管理部門の長だけを変えれば換わるか“と云うとそんな簡単な事では無い。
当然にこの「長」は、“職能に熟知している事”は勿論の事として、その下に働く者も熟知し、上記する「御師制度」は勿論の事、「商業組合の経済機構の組織」の事も合わせて熟知している者ではならない。
だとすると、必然的に、「紀州藩の職能部門の家臣」と、これと連携して働いていた「郷士衆か郷士頭」を呼び寄せて「陪臣」にして、要所々に配置して働かせる事が必要である事に成る。

上記した様に、先ず「青木氏の別動隊」に「郷士頭」が同行していたのは、この為の先行隊であった事に成り、「吉宗の政治の履歴」を観ると、途中で「大量の紀州家臣団200人」を呼び寄せている。
この事で、元からいた「幕臣の反対(抵抗)運動」が起こっていて、それを押し切る形で大量に呼び寄せている。
彼の有名な大岡越前守等はその典型的な人事であった。

当然に、この「組織改革」には“「反抗勢力」”があり、その形の表れとして“「訴訟」”が起こるであろう。
現実に、記録を観ると、民間では無く「紀州藩」を相手に「幕府」が訴訟を多く起こしている。

それも、「御三家の紀州藩」に対してである。
その多くは、「寺社の領地」、「紀州藩の領地]、「紀州藩重臣の領地」や「伊勢紀州の郷氏の地権」や、挙句は紀州藩が管理する「天領地」の「地権争い」で主に争われている。

伊勢紀州は古来より「不入不倫の権」で護られていた事から、「遷宮地」でもあり旧来からの「天領地」や「青木氏や伊勢藤氏」等の「郷氏領地の地権」や「天皇家に由来する神社仏閣の領地」「熊野神社等の広大な社領」が戦乱に巻き込まれずに存続し、それが「紀州藩の管理」の下に置かれていた。
実質は「藩領」としては大きくなかったが、逆にこの事からこれらに対する管理費を投入せずとも「莫大な地権料」は紀州藩に固定的に安定して入る仕組みに成っていた。
「幕府」はこれを崩す事で“紀州藩を根底から弱める事が出来る”として抵抗して来たのであろう。

その一角の訴訟を「大岡」は、下記する様に、“「一切松阪有利の慣例」”の慣例を破ってでも、幕府側に裁定を下したのである。
有名な事である。
恐らくは、この「抵抗勢力」を弱めるために採った策であったと観られる。

“「一切松阪有利の慣例」”の慣例に従えば、上記の「訴訟の対象」と成った「地権問題」は紀州藩側に下る事に成り、益々、「幕府の抵抗勢力」は「反抗」を示す事に成り得る。
ところが、「吉宗」は、この「才知の効いた裁き」を”「大岡裁定」”を高く評価した。

「人」は変化に対して「不安」を持つ。
この「不安」を乗り越えてこそ進歩とその後に「改革」は起こる。
然し、不安其の侭では進歩は無いが、その不安を除こうとして「人」は「訴え」を起こす。
その「不安」を払拭させる事で乗り越えられるが、それには、「不安の訴えの声」を裁くには、この“「才知」”が事態を変化させて「改革」には「必須の必要条件」であるとして「大岡」を見込んだと観られる。
この事は、「大岡等の紀州家臣団」は、“「一切松阪有利の慣例」”の「裏側の実態」を熟知しているからこそ成し得た裁定である事に成る。

その証拠に、この“「一切松阪有利の慣例」”に従わず「見事な裁定」を下した殆どは、「天領地」や「青木氏」や「伊勢藤氏」等の平安期の古からの「郷氏領地の地権」や「天皇家に由来する神社仏閣の領地」と「遷宮地領」の四領地に対してであり、全て減額している。
明らかに、多くは「二つの青木氏が関わる地権の減額」とその「管理代行地」に成っている。

「幕府の抵抗勢力」の「反抗」を弱める手段として、「青木氏等の了解」の下で裁定を下したと観られる。
この事の詳細は、「青木氏」の全ての経緯を書いた「忘備録」は消失して無く成っている為に、残るのは「商業記録」であるが故に詳細は判らないが、不思議に極めて単純に記されているだけである。
これらの「地権消失」は「青木氏の経済と商業」に大きく左右する事でもあって、当然に「殖産地」と成っている「地領」である事から「商業組合」にも大きく影響を及ぼすものであった。
然し、この“「単純」”と云うのは「了解した」からこそ「単純」に書き記したと考えられる。

注釈として 唯、「青木氏の口伝」では、「明治期の地租改正」と共に「2度の地権放棄」で半分に成ったと伝えられているが、これは明らかに“「不満」”であったと観られる。
そもそも「二つの青木氏」を含む「伊勢紀州の郷氏郷士衆団(家臣含み)」等が主導する新しい商業の「吉宗の改革」である以上は我慢したと観られる。
この時には「氏郷」や「家康」の{本領安堵策の南紀南勢」の「本領の地権」は殆ど手放したと伝えられている。
結局は、「二つの青木氏」は北勢域領と成った。

明治期には「地租改正」でこの残された「北勢域領の地権」も半減した。
この時、「郷士衆の地権」もその「所有の権利範囲」を限定して、聞くところでは最大で「一畝内=300坪=990m.m」と定められた模様であった。
一般の「郷士で家臣」であった者の地権範囲は、5間・5間=81m.m=「3LDKに小庭付き」と成った。

この「幕府の激しさ」を物語るものとしては、紀州藩の筆頭家老の田辺藩の田所氏の藩領と所領にも手を伸ばし,その激しさは尋常では無かった。
この時の根拠では、伊勢と紀州は「伊勢神宮の膝元」で全国でも「遷宮地」で「遷宮寺社」が最も多いし、従って、「天皇家の天領地」が多く、松阪も代表的な天領地であったが、江戸初期に紀州藩に吸収させて「飛び地領」とした。
ところが「幕府」はこれらの「遷宮寺社」の全てを「幕府資産」として「幕領」として接収し様とした。
これに「関連する地領」は当然に幕領と成るとして、「紀州藩領の田辺域」も「天領地」として扱われるとする言い分で訴訟の対象とされた。
これに依って伊勢紀州に「幕領」を増やす事で「紀州藩」を弱めようとしたのである。
田辺域は相当量が接収され「大きな犠牲」を負った事は事実であった。

要するに「大岡裁き」はこれに導き実行したのである。
然し、「大岡裁きの才知」は、上記の様に、この「地権」を”「細分化」して「均一化」した事”で「幕領分」に接収される範囲を小さく抑えたのである。

注釈の通り、“「一切松阪有利の慣例」”を崩し、且つ、「幕領の言い分」にも配慮し、「郷士衆の地権」にも配慮したこの「才知」と「調整力」が優れていると観たのである。
この上で、この様に「大岡才知」の様に、更に、これを“「改革」“に向けて熟知する者が裁いて行く事が必要で、それでなくては”「改革の的」“が外れる。
つまり、改革の戦略上、“「最大のまとめ役」”と成り得るのである。
それだけに、「大岡裁きの才知」で、“歴史上に出て来る人物”と成り得たのである。
(結果は、吉宗が将軍と成った事で紀州藩領とする範囲は回復した。)

上記する才知無く、唯「法」を以ってして実直に裁くのであれば、「幕臣の官僚」でも無し得る。
(後に「公事方御定書」の「判例集」を作って「訴訟と審判」の「改革」へと進む「方向性」を定めた。)

前段でも論じた様に、「伊勢紀州の郷士衆」を紀州藩の「家臣の大半」に据えている「紀州藩士」の熟知する「大岡忠相」が必要であったのだ。

注釈として、因みに、「大岡忠助」は江戸に生まれる。
旗本無役(1702年)から出世、元禄地震の「復旧奉行」に、1708年には合わせて「目付」にも成る。
この後、実家先(祖先は「伊勢藤氏の伊勢郷士衆」)の紀州の「伊勢奉行」に任地就任、1714年まで紀州伊勢の職能部に最も関係する「寺社奉行」も経験している。
前段と上記でも論じたが、この時期には、“「紀州藩と幕府との間で係争(幕領の故意的な係争)」”が非常に多発しこれを裁く。
この時まで、奈良期の古来より「不入不倫の権」で「伊勢松阪」は護られていたが、その為にその詔勅令に従って古来より“「一切松阪有利の慣例」”があった。

ところが、この「慣例」を覆して裁定を下したので、「松阪」で育った「吉宗」は驚き、むしろ、その「心魂と才知」を信じて改革に必要として逆に「吉宗」に見出される。
この「裁定」で、「伊勢の二つの青木氏」は「大きく本領地権の影響」を受けた事の「商記録」が遺されている。
「吉宗」が「将軍」と成るに従って江戸に同行。
江戸赴任後、当に、「職能の長」として“「普請奉行」”と成る。
「寺社や武家屋敷の職能部門」を専門に指揮し「経済改革」を進めた。

江戸期には、「寺社」に関する事が現在のゼネコンに当たり、全ての職能に関わるメイン事業であった。
其れだけに、「普請奉行、寺社奉行」は国土交通省大臣の責に当たる。
「江戸の三代奉行の筆頭格」で「将軍直属の奉行」として改革をした。
「大岡」の「普請奉行、寺社奉行」と、「青木氏の布衣着用」の「勘定方指導役」を担っている事は「改革の双頭」を担っている事に成る。
これらの人事を観ると、「享保の改革」は、1716年から1746年(実質 院政は1751年 改革は1788年まで)とすると、約20人が担当し、「大岡」は第16番目で1739年から1751年と最も「改革の成果」が質される重要な期間の中ほどから担当し、何と「享保の改革」を6年も超えて勤めたのである。

更には、恐らくは、本来は「大名格の奏者番」を務めた上で「三大奉行」と成るが、ただ一人、例外的に「政治の柵」に左右されない様に「奏者番(現在の官房長官」」を勤めさせず、最終は「1万石の大名格」にし「破格の官位」も与え、「改革」を継続させる意味で吉宗隠居後も「寺社奉行」を務めさせたのである。
そして、「大岡}を除き19人は最大でも9年、平均でも2年間と云うのが多い中、15年と云う段突の期間を勤めたのである。

これらの事を観ても、「大岡」を以って周囲に「改革の模範」として見せつけた「政治的配慮」であったと観られる。
ただ、この為に「裁定」に偏りが起こらない様に「改革の後期」には「改革の方向性」を示す為に「公事方御定書」(現在の判例書)を定めて「改革の統一性」を図った。

江戸初期に「青木氏」は談合にて、「神明社」は、「伊勢神宮の皇祖神の子神」である事から「500社」に上る「全国の神明社」とその「社領及び資産」を幕府に引き渡した。
主要な「遷宮」に伴う各地に配置した「公的な神社の社領と資産」、並びに「公的な寺に関する寺領と資産」も幕府は接収したのである。

ところが、接収したものの江戸初期には全国的に天変地変が多発し、この為に経済が疲弊し、且つ、政治が稚政であった事からも、「伝統」の拠点とも成る「ゼネコンの基」と成る「寺社」は荒廃した。
この為に慌てた「幕府」は、各藩に「修理令」を出すが、各藩もこれを修理する能力は全く無く荒廃の一途を辿ったのである。
そこで、政権を引き継いだ「吉宗」は、要するに「ゼネコンの基」と成る「寺社」を復興させ、「商業組合」との連動政策を図った。
これを維持させる為に、これらの「寺社」には「様々な特権」を与える政策を採った。

それの一つが、”「寺請制度」”であって、”「商業組合」”の基と成る政策を実行した。

それには、先ず、この「社寺」を“民衆管理に任せる令”を作り、この「寺社」には“民間の檀家筆頭の補償”を要求した。
この事を「届制」にして義務化したのである。
そして、これを「寺社奉行の管轄下」に置いた。
その上で、この「寺社奉行」には、更には「幕領」を超えて「他藩の領内」までの「訴訟」までも担当させて「改革の障害と成る火種」を消す「大権限」を与えたのである。

従って、それまでは幕閣下にあった「寺社奉行」は、他藩の不満を押える意味で、「将軍直轄制」にしたのである。
「寺社領」以外にも、この「制度の効果」を観て、「関東域の民間の領地」までの「訴訟と審判と施工管理の確認」の末端行政までを任せたのである。

要するに、広大な権限を与えて「訴訟審判の行方」を「施工管理の確認」で徹底的に調べて疎かにしない様に監視したのである。

この事に依って、「藩領」と「幕領」と「民間域の地権」に広げる事で、「寺社関係の勢い]は再び息を吹き返して、「商業」は活発化して「商業組合の組織」は進んだのである。
要するに、「幕領と藩領」は当然の事として、「広大な寺社領の管理と運営と維持」を民間化させる事で「寺社」から出る修理や建設などの職能仕事は格段に増え続け、この事でそれを受けて「民間の商業の連合化」を促したのである。

これだけでは「商業組合の改革」は充分では無く、遂には、加速させる為に「民間の富豪町民」、「寺社富豪領民」、その他の「宗教団体の地権」までに「寺社奉行の権限」を拡げさせたのである。

しかし、この「見返り」として、「寺社」には、“民間の檀家筆頭の補償”に依って運営させて、「庶民の戸籍管理(人別帳)」と「訴訟と審判の権限」を一部与えて、これに依る「訴訟手数料」などの「金銭報酬力」を持たせたのである。
これに依って高まった「寺社の管理維持力」で「修理費などの経済的な捻出力」を持たせて、この「修理捻出力」から職能部門を活発化させたのである。

これを活発化させる為にも、これらを納めていた「名主制度の権限」が分散していたが、この内の「町名主制度」だけを廃止して、“民間の檀家筆頭らに依って「庶民の戸籍管理(人別帳)」と「訴訟と審判の権限」を「寺社」の中に置いて集中させる仕組み(況や、「寺請制度」)を組み立てたのである。

この事で、「幕府」が行うべき「司法」と「通産」の業務の莫大な事務費を省く事も出来たのである。
世間には「質素倹約」等を呼びかけ、「税」を「六公四民」を「五公五民」と増税する代わりに「幕府財政の健全化」もこの様に促した。
挙句は、「結婚、離婚の届け出」や「搬入搬出の届け出制」や「建設修理の届け出制」やこれに伴う「訴訟や審判や施工管理の確認」なども任せて「寺社の持久力」を高めさせて、そこから生まれる「職能の商業」を活発化させたのである。
これを「寺社奉行が見守る体制(監視体制)」を採ったのである。

(注釈 大訴訟や難審や長期の訴訟等は奉行が引き取って行った。)

この事に依って、全ての「民間の民」は、戸籍に関わる事から、他の地に移動するとか旅するとか婚姻で他の地に移動するなどの庶民生活の一切の繁多事務を寺社は担ったのである。
一種の現在の「簡易裁判所の役」「調停裁判所の役」を担わしたのである。
この事で全ての庶民は、必ず、何処かの寺社の管理下に入る必要が出て、要するに“「檀家方式」「氏子方式」が生まれたのである。
この時から、「武士」を除く「庶民」には今までになかった「墓などの慣習」がこの時から起こり、職能は比較に成らない程に拡大した。

今までは、「1割程度の武士階級の慣習(400万人)」が、結局は全体の残りの9割(3600万人)の慣習と成ったのである。
全ての民がこの”「慣習」”を持ったことに成るのであるから、「寺の収入」と此れから起こる「職能の産業と商業」は9倍と成った事に成る。
「慣習」を「特定の武士階級]のものにするのでは無く、平等にして自由に持たせると云う商業組合の概念に合わせたのである。
この事で、市場は反応して活性化したのである。

恐らくはこの慣習が、封建社会と云う考え方に拘泥して「武士階級」のものだけのものとしていた場合は、「市場」の中にこの「商業組合]の持つ「自由とする原理」が馴染まなかったであろう。
全て民が「同じ慣習」とする事に依って活性化したとのである。
「賢明な吉宗」は「伊勢」での生活の中で経験し、この事を見抜いていたのである。
故に、この「皆同じ慣習」にする為に、「奉行と寺社と檀家]の改革を手掛けたのである。
これは全て「リフレーション政策」を敷く為の「商業組合と云う概念」に従っての事であった。

これに関連して、「享保の幕府」には「経費の節減」と「地権料」と「税としての手数料」の「莫大な収入」が入った。
この「収入」を「寺社や河川」などの「維持管理費」や「新規や修理工事費用」に捻出した。
「一公の負荷税分」では、普通では一揆や騒動が起こる程度であった。
然し、次第に「周囲の環境」が良く成る方向に変化して行く事に納得して、「農民・庶民」は大きく反発を起こさなかった。
取り分け、これを不満の大きく成る筈の「紀州藩」の様に「武士階級」にも「地権の細分化と均一化」を起こしたのであるから、「姓の枝葉化(分家化)」が起こり、「400万人」は990/81でこの10倍の「職能の産業と商業」が新たに興した事に成る。
この事で納まったのである。

この「商業組合」と共に”「経済の復興」”は目覚ましいものがあって、「上級の武士階級」には「地権の減少」で多少の不満があったが懐事情は等しい結果と成って納まった。
「紀州藩家臣団」の大半は、元は「伊勢紀州の郷士衆」と「伊勢藤氏の郷氏衆」で構成されていた事からも収まったのである。

この「享保の改革」に結び付けた「驚くべき才知」等を、「吉宗」はこれを他藩にも全国的に見せて「行政指導」で行わせたのである。
資料の記録では、疲弊していた藩は、「幕府への借財]で何とか急場を凌いでいたが、行政指導に素直に載らない藩には厳しくあった事が判っている。

各藩は当に疲弊して“窮鼠猫を噛む“の状況下に於いて、”この様にすれば改善するよ”と見本を示した戦略であった。
現実に「賢臣の居る各藩」は模倣して改善を果たしたが、そうで無い藩は一揆が多発し、遂には、「廃藩や主君廃嫡の憂き目」を受けた。

この”「寺請制度」”などの”「寺社制度」”で起こる10倍近い全ての職能に関わる事業は、爆発的に活発化した。
然し、この効果を保ち安定させるには、「一つの職能」の“「まとめ役の制度」”が必要と成る。

上記した様に、「享保の改革のリフレーション政策」には、「偏り」、即ち「格差」が生まれては成り立たない。

「リフレーション」は「デフレ」と「インフレ」の中間政策である以上は、全てに「平均化を促す政策」が必要に成る。
そこで、採ったのが、内郭部は「商業組合」で、外郭部は「御師制度」で纏めようとしたのである。

全ての“職能に関わる集団”ごとに「組合」を作り、その「組合」に「取りまとめ役」として「御師」を置いて外郭にはみ出て「偏り」「格差」を生み出す行為の無い様に監視し調整し懲罰する役目を各段階(「御師 「寺社」に相当」)を置いた。
最終は、“「御師頭」(「寺社奉行」に相当)”で纏めさせる制度であった。

上記した「寺社の組織」と全く同じ事で、「寺社」のこの組織(”「寺請制度」”などの”「寺社制度」”)は、況や、この「御師制度」をそっくりと真似ての制度であった。

「ゼネコンの寺社組織(基幹部)」→「商業組合(内郭部)」+「御師制度組織(外郭部)」←「幕府内の御師制度」

「寺社組織」から生まれる「商業」は、「(イ)(ロ)(ハ)の商業組合」で、その「経済活動」から起こる「殖産の職能活動」は「御師制度の組織」であった。
(下記の「越後騒動」で「殖産商人」として出て来る。)
そして、これらを更に「幕府内の職能部の御師制度」で「監視する組織」を確立して“「偏りのない格式の産まない改革」“を押し進めたのである。

概要としてはまとめると、次の「四つの改革」が推し進められたのである。

「幕府の職能部」から建設と修理の職能の「公共事業」が出て来る事
「寺社」から建設と修理の職能の「半民間事業」が出て来る事
「商業組合」から建設と修理の職能の「完全民間事業」が出て来る事
上記三つから生まれる職能の「殖産企業」から「職能者の雇用」が出て来る事

注目するべきは、「四番目の殖産企業」であった。
これも前段で論じた様に、「商業組合」とは別に、「青木氏からの提案」(御師制度)に依るものであった。

「享保の改革」では、先ずは疲弊していた「既存産業」を“拡大させる事”のみならず、「新規産業」の「殖産」に関わる「興業」が重要な事であった。
これが、下記する「越後騒動」に「騒ぎ」として出て来たのである。

特に、江戸時代には、この「伊勢松阪」は「吉宗」が育った土地であり、「青木氏」と「加納氏」が「吉宗のバック」と成って幼子の時から養育し「将軍」に育て上げた。
江戸時代には、「青木氏の紙屋」と「加納氏の加納屋等」の豪商がより大きく成長し、その元下に育てられた「松阪商人」を多く排出した。

この「松阪商人」は「江戸幕府」とはその意味で無縁では無かった。
それは、実は、この「御師制度」と「松阪商人」の「商業組合」と云う「二つのキーワード」で繋がっていたのである。
これは別個に存在して居た組織では無かった。
先ず、「商業組合」は前段で論じた様に、(イ)(ロ)(ハ)を前提として“「あらゆる職種」“で構成されていた。
この“「あらゆる職種」“をまとめあげるには、「何かの制御の組織制度」が無ければ、幾ら「自由」としても「組合」としては成立は出来ない。
唯、そこには「ある要領(秘訣)」が在って、“無制限に制御すればよい”と云う事では無く、その「ある要領(秘訣)」は“「外郭部」を制御する事”に在る。
この「範囲」で制御すれば、“「人」が納得する自由”は保たれる。
これは、「密教の浄土宗」が説くこの世の条理である。
むしろ「自由」であるからこそ「外郭部」を覆って外には飛び出さない様にしなければ成らない。
その中での「自由の原則」である。
“「人」が納得する「自由」”とは、「人時場所の三相」に依って保たれる。

「人の相」は、江戸時代の人の持つ概念

「封建社会」では、「身分格式」のある「社会」を当たり前としていた中での“「人の自由」”は左右されて、その「自由の制限度」は大きい。
「青木氏」の「般若心経の密教論」で判り易く論じると、「人の自由」と「人の不満」の関係は「相対の関係」にあると説いている。
依って、仮に「完全自由」があるとすると、それを10とし、この「自由」に対する不満を爆発させるポイント(一揆-5>暴動-4>騒動-3>騒ぎ-2>事件-1)を5とし、全く自由がない社会を0ポイントとする。

そうすると、この「享保初期」は「騒動 -4」は、「起こるか起こらないかの位置」に在り、「自由の制限度」は6でもぎりぎり納得する「自由の概念」を持っていたと云う事に成る。。 

「時の相」は、戦乱から安定期に入ったその時期

享保期は、「人の相」では「6の位置」にあるとすると、「時の相」としては、戦乱期は上記の相関論から「一揆」より激しい「人の生存」に直接に関わる期であった事に成り、だから、3であった事に成る。
「3の戦乱」が終わる事で4と成り、それが、未だやや弱い「5の一揆」が多発する時期であった事に成る。
これが、「享保の改革」で前期の後始末の政策を打ち出した「初期の段階」では、上記した様に「5の一揆」が納まり、「5の位置」から「6の位置」に格上げされた時期であった事に成る。

「場所の相」は、疲弊から繁栄に向かおうとする場所

「各藩の配置」が目まぐるしく変化して、当然に、その「藩主・藩政」も変化して、その「地の領民」に執っては未だ安心した安定した地域では無く、「15地域」の様に、「大きな地域差」が生まれていた時期でもあった。
取り分け、「幕府」も含めて「各藩の悪政稚政」が目立っていた。
「人と時の相」と共に、「悪政」で「一揆」の起こっている場所=5、「圧政」で飢餓に苦しむ場所=4(騒動-3)、「稚政」で喘ぐ領民の場所=6(暴動-4)である事から、4~6の位置に在った。

これを「享保の改革」で 「前期の後始末の政策」を打ち出した「初期の段階」では、「商業改革と御師制度と幕府改革(寺社奉行等)」で乗り切ろうとした。
上記した様に、「越後騒動」の様に「各藩政」は「政治の的」を得て、これを真似て改善に向かう事と成った。
要するに、「場所」としての藩は4~6から6~7に向かったのである。

この様に、「自由の制限範囲」は、6~7のポイントを維持すれば「民の不満」も無く、「外郭部位」を「抑制する政策」を採れば成り立つ事が判る。
即ち、その“「あらゆる職種」“に、ある意味で「自由の抑制策」とも成る”「御師制度」“を持ち込めば、「社会と組織」の「まとまり」が着くと云うことが判る。

その個々の「まとまり」を「御師衆(御師頭)」でまとめて行けば、「郷士衆」(郷士頭)等の調整が出来る事に成る。
むしろ、「人間社会」では人の「意志」「発露」「尊厳」「思考」「能力」等の「差違」、即ち、況や、「エゴイズム」が在る限りは「完全自由10」はあり得ない。
当に「争いの世界」か「極楽の世界」に成る。
依って、現実には「9までの自由」とすると、現実の「6~7のポイント」で“「御師制度」“を敷く原理には無理は無い事に成る。
むしろ「必然性」に当たる。

筆者は「8の自由」はあると考えるが、「諸行無常」の世の中で「9の自由」は現実にはあり得るだろうか。
「般若心経の解釈」を基本とした「青木氏の密教の浄土宗」の「家訓10訓」などに反映している解説にあるこの論法からすると、“「無い」“と考える。

その「纏める情報」は、「御師衆の情報源」で採れ、この事で「組合員」が「高い高度な情報」で行動が執れる。
販売に対する「質・量の調整」、「競争相手への手立て」等もこの「二つの関係」で組み立てられる。

そもそも「享保改革」とは、在任期間の1716年から1745年の年号に由来するが、宗家以外の「御三家」の「紀州徳川家」から「将軍」に就任した「吉宗」は、先ず、「“先例格式”に捉われない改革」 を実行したのである。

前段で論じた「商業組合」を「頼宣入城1619年」の安定期から観ると、丁度100年、初期施行期から観ると、120年と成る。
上記で、丁度、67年間は社会は安定したと論じた。
その後、“「宗教」”が介在して難題の「一揆」が多発したと論じた。
この「一揆」の援護が出来る程に「商業組合と提携商人でのシステム」は維持されていた事に成る。

ところが、「享保の改革」以降は、下記の通り「青木氏」が関わった「一揆」は「天保騒動」まで100年間近くに発生していないのである。
「青木氏」が関わった可能性のある「一揆」では、80年間、関係の無い「一揆」では45年間は間違いなく起こっていない。
明らかにこれは「リフレーション政策」を誘導する「商業組合に依る改革」の「享保の改革の成果」が全国的に出た事を示している。

さて、ところが、唯一、問題と思える事があった。
唯、これは、「享保期前の社会的経済的な疲弊の影響」で起こった事か、「商業組合の改革」の」金融面での施策」の遅れなのかは判らないが、初期の段階で「農民」たちは「農地」を「質」に入れて凌いだ。
然し、質に入れるは何時の世の事でもあるが、この状況の問題は「質流れの農地」が多発した事にあった。

これは当時の武家社会や封建社会の根幹を揺るがす問題であったので困る事になった。
この「質流れ」が「他藩」や“「商人」”に移る事は、「江戸の社会構造」が崩れる原因と成り、好ましくないとして「農民」を保護する為に「質流れの移動」を禁止した。
つまり、”「緊急策」としての「質流地禁止令」”(詳細下記)を発行したのである。

そもそも、この「令」は吉宗の江戸幕府が1721年に発布した法令である。(享保の改革開始は1716年)
元禄期(1688~1704)以降、経済が著しく低迷し衰退し「農地」は放棄され荒廃したが,この時、幕府は一定の条件下で「田畑の質流れ」を公認していた。

そもそも、この施策は、元々は、“「江戸町方の屋敷地」”についての「質地の令」であった。
にも拘らず、これを享保期には「田畑」にまで適用したものであった。

ところが,越後などの米どころの地域では、この「令」に付いて誤解で「大騒動」が起こり、批判が高まり1年後に撤回したものである。
以後、兎も角も、「農地の荒廃」を防止する為に「田畑の質流れ」をも一切禁止するが、その場合は「質地取扱いの方針」を次ぎの様に定めた。

その内容は参考として概要は次ぎの通りであった。

(A)「質流れ禁止の方針」に基づき「質地手形」の書き直しを行っう事。
(B)「質地の小作料」の上限を「貸金」の一割半の「利積り」とし、超過分は「損金」とする事。

「滞納時の小作料」は、滞納額を一割半の「利積り」で「元金」に加え、「無利子の済崩」の形とし、「元利金の返済」の次第で「質地」を戻させる事。

(C)1717年以後の「質流の土地」は、先ず「元金」を返済し、「請戻願書」を提出すると、「質流の土地」が「質屋の手元」にある場合に限り請け戻させる事。
(D)今後、「田畑」を「質入れ」しての「借用金額」は、「田畑値段の2割引」とする事。

この法令の様に法令規準を変えて厳しくして抑え込もうとした。

然し乍ら、この「法令」は、昔の幕府の「田畑永代売買禁止令」(1695年)が元に成っていたのである。
ここに問題があって、基本的に目的とするところは、“「江戸町方の屋敷地」”の「質流れ禁止令」であった。
これを「農地」にも適用したのが誤りであり、「農地」と「町方」の「土地の価値や慣習」が異なる事から法令に「無理の問題」が起こった。

そもそも、経済が疲弊して農地が荒廃した中で、生活を護ろうとしても「令」により「農地の売買」が出来ないと成ると、遺される「苦肉の策」は「質」に入れる事しか無く成っていたのが享保期前の現状であった。
ところが、この「経済」が回復しない享保前は「質流れ」が多発して収拾が着かない事が起こる様に成って仕舞ったのである。
「農地」に関わらず「町方の土地」さえも連動して同じ現象が起こっていたのである。

そこで「享保の改革」では,「根幹の土地」に関わる事である為に”「前の失政」”を懸命に防ごうとした。

「吉宗の幕府」に執っては、とりあえず、この「質流れ」によって有名無実化するのを防ごうとするものであった。
ところが各地で起こる「1722年の越後騒動」等の混乱が生じたため1723年に直ぐに問題がある事に気付き撤回された。

ところが、「享保の改革」が進み「改善状況」を観て、今度は幕府は、改めて打つ手を変えて1741年に「質流れの売買禁止令」を基から緩和したのである。

何故ならば、この時の「商人」には、”「殖産を興す商人」”が多く介在をしていた。
「経済理論に賢い吉宗」は”「本来の解決策」”はここにあるとしてここに目を付けたのである。

何故ならば、「15地域の主要地の越後」では、「商業組合」と「提携商人」による「経済発展」から、「殖産」を興そうとする「既存の商人」には、その「殖産」を興す為には「新たな土地(「新地))」が必要であった。
そこで、「質流地禁止令」が出た以上は、そうするとところが、この「殖産商人」は「天領(藩領 天領)の農地」には手を付けられない。

この為に「幕府勘定方指導を務める青木氏」は、越後の「商業組合と御師制度の組織」を活用して「幕府策」として「前政の悪政の解消」の為に動いた。

これを納める為に、「農地」を利用する「越後」の「商業組合」の「殖産商人(越後青木氏と諏訪青木氏)」に「質流れの土地」を買い取る様に進めた。
ところが、越後の住民の1/3に当たる「理解力」の無くした「過激な農民」が誤解して暴動を起こして仕舞ったのである。
越後の「殖産商人(青木氏)」も説得に掛かったが、勢いづいた収拾の着かなくなった「一揆」は、捕縛を恐れて周囲の「他藩]に逃げ込んだのである。
周囲の各藩では、“同じ事の一揆が起こると拙い”として、遂には幕府の指示もあり捕縛をしてしまった。

所謂、「殖産商人」が「質地」を買い取る事で、「殖産農地」と成って「農民」も」土地」も現状を図られ生きて行ける事に成る筈であった。
然し、その様に受け取らなかった農民が居て民衆に向かって煽ったのである。

つまり、貧しさから「農地」を手放し放棄した「無宿者」と成る「農民」も「殖産農民」としてで生きられるとした「幕府の苦肉の対策」であった。
「地権者」であった「越後青木氏等」は、懸命に「地権主では無い土地の農民」を救おうとして幕府と協力して動いたのである。
ところが、これを充分な説明を「藩」そのものがしなかった事や、「現地に派遣されていた幕僚」が「過剰な説明(殖産農地の理解が低かった。)」をした事から、その「解釈」を間違えた「農民衆」が暴動を起こし、何と”「質屋」”を襲撃したのである。

結局は130日目に、再度、「幕府」が直接に「江戸の幕僚」が出向いて充分な説明が成され納まった事件であつた。
この事から、本来目的の「殖産商人の介在」でほぼ1年後(1623年)にこの令を直ちに廃止した。

この事でも判る様に、「享保の改革」の初期は、先ずは「前政の影響の始末政治」であって、基盤と成る「農民の保護」を主体として政治を進めた事が良く判る事例の特殊な「一揆」であった。

この事からより一層に”「農民保護」”の為に、上記の通り、”「寺社政治」”を実行して「組織固め」をした事が判る事例で有って、「税負荷」から来るものでは決して無かった。

「15地域の主要青木氏定住地」で起こった最も関係のあったこの“「越後騒動」”であるが、「享保の改革」を善く物語る典型的な事例である。
これは「農民の社会的、政治的、経済的な不満」からのものでは決して無かった。

「他藩の稚政の悪影響」で起こったものでは、「・1726年津山暴動」や「・1729年岩代農民暴動」や「・1739年元文一揆」の三件があった。
これも「享保の改革」の「前政治の影響(綱吉)」で起こったものであり、「藩内事情」での「藩政政治の低さからくる失敗」に依る事件であった。

この“「前政権のツケ」”である「四つの事件」を除けば、何れも1800年代までとして観れば、矢張り100年以上は納まっていると観る事が出来る。

前段でも論じた「一揆の年譜」から観ても次ぎの様に成っている。

関わった一揆
・1677年郡上一揆
・1722年越後騒動
・1761年上田騒動・1768年新潟騒動
・1836年天保騒動(郡内騒動、甲斐一国騒動)・1814年北越騒動
・1842年近江天保一揆

関わった可能性のある一揆
(殆どは重税による農民一揆)
・1652年小浜一揆・1686年加助騒動・1690年坪谷一揆
・1726年津山暴動・1729年岩代農民暴動
・1761年伝馬騒動
・1781年絹一揆・・1786年宿毛一揆
・1842年山城谷一揆

その他の一揆
・1739年元文一揆
・1753年摺騒動
・1771年虹の松原一揆・1771年虹の松原一揆
・1771年大原騒動1793年武左衛門一揆
・1804年牛久助郷一揆・1825年赤蓑騒動・1831年長州藩天保一揆
・1838年佐渡一国一揆・1847年三閉伊一揆・1856年渋染一揆

つまり、この100年の期間を維持させられたのは、この「御師制度」がこの「商業組合」に組み込んだ事からなのである。

一方で、「紀州藩」では、「青木氏」が手掛ける「伊勢和紙」だけでは無く、前段で論じた様に、「伊勢青木氏」の指導の下で、伊勢松阪地区から玉城地区に掛けて「伊勢の土地柄」を生かした「殖産」と「興業」を強力に押し進めた。
そもそも、注釈として、「享保の改革時」は、紀州の“「地元の藩政」”が上手く行かないのでは「改革の名分」が着かず、立場は無く成る。
これは最も大事な戦略で、上記に論じた様に「15地域の商業組合の実績」など説得材料として「将軍」に成り得たが、「紀州藩財政の立て直し」の為にも「殖産・興業」で「紀州藩勘定方」を懸命に指導した。

実は、この時には、奈良期から納めていた「先祖伝来の本領とその地権」を自ら放出すると云う「激痛」もあったし、「不入不倫の権」も実質は破棄されてしまった事にも成った。
実質は何の利益も無かった完全に足元を掬われた形であった。

この時の「四家の福家」は苦しい立場であった事は判るし、南勢の遠縁の縁家に遺された資料によれば、矢張り意見が分かれた事が書かれている。
ところが、唯、多くの資料が遺されていた「郷士頭の家の資料」では、“意気込みさえ感じる事”が読み取れる内容であった。

“これは一体何なのか”を、この時の関係者の末孫に「関係する口伝等」が在るかも知れないとして意見を聞いて観た。
まぁ、口伝等を含めて総合すると、伊勢紀州の「旧領地の郷士衆」に執ってみれば、紀州藩の家臣、将又、江戸向行に伴って、“世に出て働ける”と云う武士の気概もあった。
確かに、「郷士の地権」は減らされた家筋もあるが、「御師制度の頭」と[郷士頭」が調整(金銭に依る地権差額調整)した事が原因していると云う事であった。
「訴訟の差配」が「標準平均化の前提」に成っていたと観られ、殆どは現状より増えた家筋の方が多いと云う事もあって、結局は「損益の差」は「旧領地の郷士」の中でも“青木氏と血縁を結んだ縁者関係に多く出ていた”と云う事の結論に成った。

と云う事は、「訴訟の差配」の裏では、表は“「一切松阪有利の慣例」”を破った事にして大義を世間に示し、「金銭に依る地権の差額調整」をして収めたと云う事に成る。
では、“その財源は何処から出たのか”と云う事に成るが、口伝と資料から読み取ると、“「御師様」と「氏上様」”と云う言葉が出て来る事や、「損益の差」は“青木氏と血縁を結んだ縁者関係に出た。”と云う事なので、これも「青木氏」が負担した事に成る。
「自らの土地の地権」を放棄した上で、「調整金」も自ら拠出した事に成る。

しかし、上記した様に、「青木氏の遠縁関係」でも江戸中期から明治初期に掛けて「旅館」を営んだり、「松阪商人」「射和商人」と呼ばれたり、与えられた「農地」を生かした「殖産の商人(前段で論じた養蚕・紙加工・米加工等)」に成る等と云う事があって、“却って豊かに成った”とする結論に落ち着いた。
確かに「本論の射和商人」はその「典型的な現象」である事は事実である。
「紀州藩の藩財政」が立ち直ったのも多くは、この「伊勢紀州の郷士衆」の「射和商人」に語られる様に、「郷士衆の不満」は確かに無かった事は頷ける。

それでなくては、「享保の改革の基盤」と成った位であるから“「藩財政」が立ち直った”とは云わないであろう。

ところが、筆者は唯一部納得出来ない事があった。
1716年に「吉宗江戸向行」と成ると、約1年前の1714年にこの「松阪裁定」が下されたとすると、1715年では「将軍擁立運動」は既に行われていた事に成る。
「青木氏と紀州藩」では、その為の「準備計画」が成されている筈である事から、「郷士衆の江戸同行」(「紀州藩の同行組」と「青木氏の同行組」)に付いて検討されていた事に成る。
「紀州藩士」は藩命である事から問題ないとして、「青木氏の同行組(別働隊)」の「御師制度の郷士衆」の賛同を得ておく必要がある。
この為の「納得」を容易にする「下準備の手立て」であった事と考えられる。

だとすると、上記の通りに「地元の郷士衆や農民」は、兎も角も、「江戸同行組の郷士」は、“その後にどうなったのか”である。
調べた結果では、「郷士の家」では「郷士家族の家」の全体で江戸に移動した訳ではない事は判って居る。
「一族の者」を差し向けた事は判っていて、その子孫が江戸に遺って子孫を拡大している事も判って居る。
判る範囲では、7割近くが地元に戻っている。
「残りの3割」は、「紀州藩の江戸詰め」で残った事に成っている。
結局は、「青木氏の別動隊(18の郷士衆と青木氏部)」は伊勢に戻った事に成っている。

そこで、この「享保の改革」に貢献した「7割の郷士達の帰還組」は果たしてどう成ったのかであって、ところがこの部分に於いては、「紀州藩士」では無かった事から「完全な資料」と成るものが無く良く判っていない。
(青木氏側では記録消失)
唯、「郷士家の口伝と一部の資料」に依ると、「紀州藩の家臣」と成って、「熊野、田辺、名張、伊勢三領(松坂・田丸・白子)」の“「六地域」“に配置された事が読み取れる。

これが事実とすると、伊勢紀州と江戸での“豊富な政治経験を有する者”である事から、“何故、ここに配置したか”の理由がある筈である。

この「六地域」には一つ共通点がある。
恐らくはこの「共通点」が原因していると観られる。

・「熊野」は、江戸期には日本一有名な「熊野檜の名産地」で「港町」で貿易港
・「田辺」は、江戸期には「日本最大の遠洋漁業」の拠点で「港町」で貿易港
・「名張」は、大和国と伊勢の国境域の位置しで「青木氏の旧領地」で、古来より伊勢和紙(伊賀和紙)の名産地であった。
次ぎの「松阪や白子域」を更に発展させるべき「和紙生産の拠点」であった。
・「松阪」は、本論の「商業の町」で港町で貿易港
・「田丸」は、玉城地区で「射和商人」が住む「商業組合」の元と成る「殖産と商い」の拠点で、「河川と港」を有する便利な地域である。「軍略的要衝地」でもあった。
・「白子」は、鈴鹿の南東部に位置し、「伊勢湾の港町」であり、且つ、「伊勢和紙」を利用した「伊勢型紙」で「有名な殖産地域」で、「松阪と田丸」と共に、特別に「藩の保護」を受けて発展した「伝統工芸の町」と「紡績の町」でもあった。

この「比較対象」として、そこで、何故、紀州の最も大きな良好な大港町である「下津港」と、本城のある「若山港」に配置しなかったのかと云う疑問が湧く。
この「疑問の答え」が、「江戸戻りの郷士」の「配置された理由」と成る。

それは、次の通りである。
・「下津」は、「港」としては大きいが、此処は「蜜柑の里」で、直ぐに三方が山岳地で周囲は山に囲まれる山岳部で、平地が少ない事に成っていて、それが「地形の所以」で「段々畑の蜜柑の郷」と成っている所以なのである。
一つ山を越えた隣には、「有田川の大洲域」があるが、浅瀬で湾口としては向かない。
「殖産と商業」の経済を発展させ得る地形では無い。

・「若山」は、港、地形、経済圏、何れも遜色ない要衝地で、紀川大洲の広大な平地を持ち、古来より伊勢に決まる前は「遷宮地」でもあった位に「歴史」にしても寺社仏閣等の数にしても何れの点に執っても伊勢松阪に匹敵する全てに類似の地である。
依って、古来より製鉄所を有し、鉄砲などの工業生産も盛んで、且つ、堺に隣接し、殖産と商業の経済を発展させ得る最大の地形地域でもある。
恐らくは、ここに配置しなかった理由は、既に、ここは発展している地域であって、藩のお膝元である事から「人材は豊富」であって、江戸での「彼らの知識と経験」を活かしての「発展」を期待するには既に充分地域であった。

“「更なる発展」”は、“「紀州藩飛地領」を開発する事が必要“であった事を、この「二つの地域」から比較対象として浮き上がる事が「答え」であった筈である。
故に、「上記の六領」に配置した事に成ったと観られる。

この結果を示すデータが在る。
当初、蒲生氏郷前は「8万石」、蒲生氏期は「12万石」、徳川氏吉宗期は「18万石」、その後の「江戸戻り組」が配置された宝暦から明和期は「22万石」と成っている。
この「8-12-18-22」/150の「変化の数字}は、伊勢の「紀州藩飛地領」の前段から論じている「商業組合」に依る“「商業と殖産」“に依る”「成果の変化」“を指し示している事に成る。

何と150年程度で、「紀州藩飛地領(六地域)」では、“「14万石の改革」”が起こったのである。

では、因みに、この「飛地領の14万石差」とは、“どの程度のものであるか“と云うと次ぎの様に成る。
「江戸期の大名石高」と比較して観ると、全国186国中の27番目に相当し、伊勢域の大名の石高では、長島は2万石、亀山は6万石、桑名は11万石、津は32.3万石であるから、「飛地領の14万石差」は「驚くべき発展」である。
伊勢全体の石高は、約55万石と云われていて、(14/55)・100≒25%と成る。

「飛地領の14万石差 25%」の「商業組合とその殖産」と、これを「まとめる事」の「御師制度の総合効果」はどんなものであったかは、最早、説明を必要としない。
何と27番目/186の国が一国出来た事に成るのである。

「享保の改革」の時期中にしても「10万石」(100年)も増やしている事は、前期した様に「他藩の手本」と充分に成り得ていた事に成る。
これを他藩が観ていたとして、「15地域外」の「真似しない藩」がもし居たとしたら、それは当に“「稚政藩」”であって、この“「稚政藩」(幕閣の抵抗勢力の藩)”を観ると確かに「真似」をしていない。

この事から、「江戸戻り組」は、その「享保の知識と経験」を活かして、「商業と殖産の地」を更に生かして発展させるには、“「貿易の出来る地域」”を選び、そこで“「海外貿易」”をさせる事の為に明らかに配置したと観られる。
「飛地領の14万石差」の“「貿易の出来る地域」”は、「販売する商業」とその「商品を生産する殖産」の二つがあるからこそ成し得る手段である。
そして、その“「貿易」”は「安定した生産」を要求されるが、これは“「御師制度」”で管理して行くことで成り立つ。

この事から、むしろ、「江戸戻り組の郷士」は、「自発的意思」では無く、「紀州藩」として、紀州藩士に関係する「郷士衆」は、兎も角も、「青木氏の別動隊」の「御師制度の郷士衆」には、是非に、「探しても紀州藩には必要な人材」であった。
「帰還」は喉から手の出る程の者であって、依って、江戸に掛け合ってでも命じて返したと判断するのが正しいと考えられる。
故に、「吉宗一族」が「徳川氏の宗家」となる「保科氏」として継承する以上は、10割は難しく、交渉の結果の7割であると観られる。


その結果、前記の殖産の養蚕や米改良に加え、新たに「和紙に依る紙箱などの紙製品」や「伊勢焼きの陶器」や「白粉等の産物」や「伊勢木綿の生産」を作り出し、「青木氏の紙問屋(総合商社)」からこれらを全国展開して販売し、初代頼宣から第四代藩主と成った「吉宗の頃」には、危機に陥っていた「紀州藩の財政」の立て直しに成功したのである。

特に「初代頼宣」から引き継いだ「吉宗」は、前期した様に、「青木氏」と共にこの「殖産事業と興業」に力を注ぎ、この育てた「松坂商人(射和商人等)」を江戸に店を構えさせるなどの便宜を図り育て上げたのである。

因みに、「伊勢の店」以外に、この時の結果として、“「江戸店」”として、主な商人は、「江戸の伊勢屋」(伊勢青木氏の「伊勢の紙屋」)、後に殖産による「松阪木綿」の「越後屋」(近江の人 1679年)、近江から「丹波屋」(近江の人)、「小津屋」(近江の人)の「伊勢商人」が有名である。
前段と上記した様に、「吉宗」が「商業組合」を江戸に持ち込んだ結果から、歴史に残る大豪商が生まれた。

そもそも、注釈として、 この“「江戸の伊勢屋」”は、“江戸の名物 犬の糞と伊勢屋” と呼ばれていた程に、江戸時代中期前後の日本で一番多い「商人の屋号」であった。
享保期初期の「江戸の伊勢屋」は、「伊勢青木氏」(「伊勢の紙屋」)で明和期までの商業記録が完全に遺る。
「忠臣蔵伝」にも登場する「商人」であった。
その後の安永期以降には、一度に全国的にこの「屋号」が更に拡がるが「青木氏」とは無関係である。

しかし、この様に“「江戸の伊勢屋」の屋号”が一番に拡がると云う事は、如何に享保期の「青木氏の商い」が、「15地域」にも広がりを見せ、且つ、“「疲弊」”から脱しさせた「享保の改革」を認めていた事を示す事に成る。
つまり、これを目の当たりに見た庶民は、“「江戸の伊勢屋」”をその代名詞の様に扱っていたと云う事にも成る。
「幕府の職能部の御師制度」と「青木氏の御師制度」と「商業組合の発達での御師制度」、「寺社関係の御師制度」等の広範囲に社会に広がった“「商業組合と御師制度」”が、「江戸」のみならず全国の「庶民」にどれだけのインパクトを与えていたかが判るパラメータの「屋号」である。

この「伊勢屋の屋号」の中には、伊勢紀州域と同じ様に「吉宗」の呼びかけで「15地域」から「江戸店」を出した「青木氏」の判る範囲では4店もあった。

「伊勢、信濃(総合商・貿易商)」は別として次ぎの4店である。

「越前、若狭」(皇親族賜姓青木氏)
「越後、駿河」(秀郷流賜姓青木氏)

以上の2氏―4地域店の「商業組合」が参加した。

この「伊勢屋」が、後に子孫に依って次ぎの様に広げられた。
「越前屋」(酒屋・呉服屋)
「若狭屋」(海産物屋・小間物屋)
「越後屋」(穀物屋・小物屋)
「駿河屋」(粉屋・菓子屋)

以上の「屋号」と「職種」も拡げたのである。

ここから「江戸の豪商」が出ているが、この豪商の単独の出店では無く、「原材料の生産」は別として、この「加工職種に関わる職能者」も江戸に同行して「一種のコンビナート」を形成しての「江戸店の出店」であった。

この「江戸出店」が「商業組合(コンビナート)」であったからこそ未だ成り立つ「商い」であった。

そもそも、「運輸手段」も発達していないし、社会も疲弊し運送に危険性も大きく、この享保初期の時期に一切を「商品」(加工品)にして遠方から搬送して売り捌くには「経費と危険」が伴い、「大商い」は到底困難であった。
故に、“「商業組合」“としての行動でなくては成り立たない「商い」であった。

この結果が江戸に多くのあらゆる職種の職人が集まる社会が構築されたのであって、下記に論じる「庶民経済」の「銭屋と質屋の金融業」が発達した所以でもある。

(注釈 「江戸の職人」と呼ばれる中には「伊勢紀州の出自の姓名」が多い。「享保の改革」の「商業組合の影響」と観られる。)

ここには、是非に追記しておかなければならない歴史的に表に出て来ない「影と成っている職能集団」が在った。

それは、”「運輸の安全」を担う「職能集団」”であった。
これ無くして絶対に「江戸出店」は無し得ない事であった。

それは、「シンジケート」であった。
この「シンジケート」を独自に持ち得ない「大商い」は決して成り立たなかったのである。
前段でも論じた事ではあるが、「荷駄を護る武力集団」である。
搬送中は「荷駄と搬送人」を周囲を取り囲むように「旅人」を装って護り、少し離れた場所からも移動しながらも「擁護する形体」を採っていて,国境(シンジケートの勢力圏境)では、「隣のシンジケート」との「渡り交渉」(金銭授受)を着けての搬送であった。
恐らくは、この「シンジケート」を持っていない「15地域の中の商業組合」は「江戸出店」は不可能であったと考えられる。

(注釈 従って、地域的な形で「京出店の原因」の一つとも成ったが、つまり、「江戸の伊勢屋」が、この「護衛集団を補完させられる地域」までは「江戸出店」は可能であったと観られる。
然し、「関西以西」は現実的に不可能であったと観られる。
伊勢は「摂津堺店」があって「伊勢水軍」を管轄していたし、「讃岐 伊予」や「安芸 米子」も「廻船問屋」を主体としていて「水運」は強く、「淀川」や「日本海」を経しての運搬が可能で有ったが、「陸運」は無理であった事も、京に動いた原因でもあった。)

以上の「2氏―4地域」の店の「商業組合」の主催者(青木氏)は、「有名なシンジケート」を古来より確かにこれを持ち得ていたのである。
唯、筆者の観る処では、最大は「伊勢 信濃」の明治期までその機能が遺った「二つのシンジケート」ではあったが、それと同じ様に「2氏―4地域」の「シンジケート」が,「江戸まで護衛力」を成し得る程に充分では無かった。

この事から、「伊勢 信濃」の「二つのシンジケート」が連携してこれを補完していたと観ている。

何故ならば、「伊勢 信濃」は「本職としてのシンジケート」としての働きが「地元の商業組合」でも有ったことから、この「シンジケート」を勢力拡大させて「専門の護衛集団」(職能集団)を形成していたのである。

(注釈 「総合商 貿易商 金融商の伊勢屋」が成し得る護衛集団であった。)

(注釈 江戸の1760年代後半の頃には、「護衛」のみならず「荷駄の搬送全体」を受け持つ「一種の運送集団」として「商業組合」の中で本格的に位置づけられる様に変化して行った。)

「江戸の伊勢屋」がこの「裏方の護衛」を差配していた事が判って居る。
資料では、この「護衛」の事を、未だ「享保期初期の頃」であった事から、「古い概念」が残っていて「裏の影の職能集団」を表に出す事の「弊害」を懸念してか“「護衛」”と云う表現を採っていなかった模様である。
資料の中には,「去る人(サル 忍者)」と隠語を使って表現されている。


話しを戻して、ところが、そして、享保後の「宝暦明和期頃」からの後期の「伊勢屋」では、「江戸の伊勢屋」では無く「庶民の屋号(質屋)」と成っている。
明和期に享保の改革が成功して伊勢より江戸出店して豪商と成った数人の者等が、「利益を追求する金融業」を始めた「質屋の伊勢屋」であった。(次段で詳細に論じる。)

これは、(イ)(ロ)(ハ)の「商業組合」の所以であって、“「組合」“と云う中での「同屋号の広がり」を見せたものとして解釈できる。

その意味からしても、この「4店の職種」から観ても、「伊勢屋の総合商」は「質屋の金融業」の様に、全て「元の職種」の「発展先の職種」で店を出している傾向にある。
「発展先の職種の店」に付いては、その「何らかの子孫」か「関係者の出店・暖簾分け」であるかまでは充分な“確認”が取れていない。
然し、「享保の改革」で江戸に拡がった「商業組合」としては、享保期から宝暦明和期までの間の「江戸店」の「同屋号の出店」は、「青木氏の子孫の出店」(「暖簾分け制度」である。)では無い。

それは、(イ)(ロ)(ハ)の「商業組合」とすると“「子孫の出店」”は、「自由」とする「発想外の事」と成り得て、兎も角も、全てとは言い難いが、「出店」として可能な「時代期間」と「江戸地区」を限定して考察すれば、「関係者の出店・暖簾分け」であった可能性が強く、現在で云う“「チェーンストア」”であった可能性が強い。

(注釈 現実に「青木氏として氏名に関わる事」は、「享保の改革」を主導している理由から表に出せなかった。
江戸に同行した「江戸の青木六兵衛」とその子供二代に渡りが「吉宗」に仕えたが、この「佐々木氏の資料」からこの事の注意が読み取れる。)

特に「総合商社」から発展した”「伊勢屋の質屋」”が多いと云う事は、“「江戸の名物」”と云われた位に多いのはこの事を証明する。
上記した「越後騒動の原因」と成ったのには、「質流地禁止令」が「江戸の金融問題」で出したのではあるが、「商業組合」として多く「江戸店」を出している越後国にも波及して、この「所以の事」から来ているものとも観ている。
「伊勢屋の質屋」は[享保の改革」を「商いや利益」と云うよりは金融面から支えた「金融システムの構築]に目的があった。


「青木氏の伝統 21に続く。 
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