「青木氏の伝統 62」-「青木氏の歴史観-35」
「青木氏の伝統 61」-「青木氏の歴史観-34」の末尾
そもそも、氏家制度の社会の中であり、その様に考えるのが普通である。
寧ろ、筆者なら大いに利用したが、ところが「青木氏の氏是に基づく信念」を貫き、「提供」が結果として「青木氏に危険を招く」として、「資金の提供」はあったとしても「銃の提供」に関してだけは応じていないのだ。
又、「銃の保持」は、「青木氏の氏是」に関わらず、「銃」は「銃シンジケート」に依って掟の範囲で隔離され、仮に「金銭」が有っても「仲間の約束」は護り「調達」は難しかったのだ。
そもそも「青木氏の銃」は「貿易と財力と高度な熟練」を無くして手軽に保持できる「銃型」では無かった。
ハッキリ言えば、この「三つ要件」を身内に備える、況や“「青木氏銃」”であって「青木氏族」にしか使えない銃であったのだ。
それだけに飽く迄も「保持の前提」は、「額田青木氏の南下国衆の護身用の改良銃」であって、「松平氏・この頃から徳川氏を頻繁に名乗る」は、それを「国衆の戦力」として観てこれを「味方に持つ事」と引き換えに、「渥美湾の制海権の獲得の条件」を認めたのだ。
その意味では、“戦力と云うよりは抑止力的効果を期待していた事”も一部では読み取れる。
況や、この意味でも、「青木氏族の一員」の“「青木貞治とその子孫の松平氏の内部の活躍具合」”が読み解けるのだ。
「青木氏の伝統 62」-「青木氏の歴史観-35」
(注釈 「駿河青木氏と額田青木氏の銃隊の関係」
この二の一族の青木氏の関係の中に存在する疑問を詳細経緯として解いてみる。
重要な幾つかの疑問があり、これが判れば青木氏族はより理解され歴史観と成り得るだろう。
そこで何故、「駿河の青木貞治一族」に、、「額田青木氏」と同じ様にこの「特殊銃」を与えなかったかと云う事の「疑問」が残るが、それは”「実戦銃」”を目的とせず「護身銃・抑止力銃」であったからだ。
「青木貞治隊」は大いに希望し、且つ「秀郷流一族一門」からも求められた事は間違いなく考えられるが、上記の「三つの要件」を備えていながら頑固に然し渡さなかったのだ。
結論から、それは「額田青木氏」は確かに三河国衆と成ったがそのそのその”国衆目的が戦う集団では無かった”からだ。
”「護身用」”としているのはそこにある。戦う集団では”「戦う武器」”である。
ここが決定的に違ったのだ。
と云う事は「国衆」はある目的を達成させる為の「一時的隠れ蓑であった事」に成る。
勿論、「伊勢」から観れば、「実戦銃」を目的とせず「護身銃・抑止力銃」であった事ではあるが、もう一つは”「戦う武器」”であれば「松平氏の中での位置関係」に「歪みが生じる事」に強い懸念の配慮があったと観ている。
この事が、「額田青木氏の南下国衆」の「伊川津での例」に漏れず、”「旗本との軋轢」”を受ける結果と成って行ったのだろう。
それは「銃の威力を持つ事」に依る「権力闘争の歪み」である。
小さい国衆で在りながらも大きい発言力を持つ事への「旗本の苛立ち」にあったのだ。
それ故に、「壊滅状態の三方ヶ原」で無理にでも近づく事の出来ない「弾幕」を張って「銃力」で以て「青木貞治隊」を救い出したのだし、救い出せれば「秀郷流一族一門」に対する「伊勢の立場」は保全出来るし、旗本への牽制にも成ったのだ。
故に「2年後の長篠後」でも「貞治の子の青木長三郎隊」は生き残れているのだし、「旗本への牽制」にも成っていたのだ。
尚、其の後の「江戸期初期」に入ってでも「秀郷流青木一族」は、「伊勢」に於いても「徳川氏」と血縁し、中でも「家康の孫娘・勝姫末裔」が、「忠元家の青木氏・伊勢秀郷流青木氏」と「信定家の青木氏・伊勢青木氏」の融合族の「二つの血筋」に加わり娶り、「青木氏の四掟の伝統」から外れた「徳川氏の血筋・立ち葵紋・姓族」が「四家」に加わり、改めて「五家目融合族」の「姓血縁の伊勢四日市殿」と成ったのだ。
新たに「徳川氏の姓血筋」を入れたが、「平安期からの融合の青木氏族」の「四日市殿」と云う一族を「姓血縁の四日市殿」として構築し直しているのだ。
こう成れば最早、「駿河青木氏」に対しての「旗本の口出す場」は少なくなったのだ
「伊賀越えの事件」で逃亡中に、「徳川氏との血縁族」の「伊勢の四日市・四日市殿」にて一時休息したのもこの事から来ていると観られる。
この様に、この「青木貞治の内部の活躍具合」が無ければ、前段で論じた様な「青木氏の氏是」を護り通し、この様な「活躍・繁栄」は無かったと考えられる。
これが、即ち、「青木氏一族の鍵」であったとも云える。
「三河国衆に合力する事」も始めとして相当に「渥美湾の制海権の獲得の条件」の時にも「秀郷流青木貞治一門」の「内部での一連の活躍」はあったと観ているのだ。
さうで無ければ、これだけの事を急に「好条件」に導く出すには「伊勢との直接交渉」だけでは難しかったと観ているのだ。
「青木貞治」が「家康との仲介の役」を執ったと観ている。
そして「情報獲得の面」でも、何と云っても「籠城戦」から「野戦に変更した事」を「短時間」の間にこの極秘の「内部の情報」を掴んでいるのだ。
つまり、何と云っても尾行中の「浜松城」から「館山街道の湖東町交差点」の「短い間」でこの「内部事情」を掴んでいるのだ。
そして、「理由・目的」は兎も角も「東の三方ヶ原」に踵を変えさしたのだ。
この直前で、「二俣城開城」で「城の兵・1280」は「浜松城」に帰されている。
この事、二俣城を護れ通せなかったとする苦しい立場の中で”「ある決断」”をしたのだ。
「東の三方ヶ原」に踵を変えた理由には、「伊勢側の資料」では「様子見」であったとしているが、つまり、この「決断の実行」には、この「青木貞治」と情報提供時に「何かの交渉・接触・密かに救出策」があったのではないかと観ている。
「救出策」は「南下国衆の銃隊の指揮官」からであったろう。
この後、「情報提供の後の三方ヶ原」で「南下国衆の銃隊の指揮官」とその一族」であった「駿河青木氏・伊勢との血縁もある」の「青木貞治」が、共に「戦死している事・戦記では覚悟としている」を考え合わせると、「青木貞治」は「松平軍の情報」を詳細に示唆した。
そこで、その情報を聞いて「南下国衆」は、「救出後」に始めから「伊川津に戻る事」を計画し示していた事が予想できる。
この「救出劇」は、「青木貞治隊の配置」の位置に左右されるが、「青木貞治の隊」はどの位置に配置されていたかは正確に描いたものはないが、「駿河国衆青木氏・四騎200」であるので、記録からは右か左かは不明だが「鶴翼部に居た事」は充分に予想できる。
でなければ救い出せなかった筈である。
先ず右であれば弾幕で牽制して「武田軍の進軍」を一時阻止し、その間に左に急いで廻る事に成るだろう。
根拠は無いが「時間的な状況証拠・時間的余裕は無い」から幸い「左鶴翼」に居たと推測する。
そこに突然に予想外に「山県軍の別動隊」が右前方から突撃して来た事で「時間的余裕」が無かった筈だ。
この貞治隊の「少し東の付け根の左の位置」に隠れる様に「銃隊が位置していた事」から観て、資料の記述の通り”「様子見」”ではあった事も判るが、これを「補完し助ける意味」でも、”情報を得ていた事”からこの隊の少し「東の付け根の位置」に隠れる様にしていたのではないかと観ているのだ。
そもそも資料行の記述に付いて、”何の為の様子見”であるかが判らない。
普通なら救出の為のタイミングを計っていた事の”タイミングの様子見”であろうが、上記した様にタイムラグからしてこの”様子見”は山県軍の別動隊の突撃で無かったと考えられる。
この”様子見”は、「武田軍と松平軍の勝敗」の事を意味した記述とも受け取れるが、既にこの勝敗は「軍議の争い」が原因して、「青木貞治の救出」と云う最終目的に代わっていた事から、「無関係の立場」に成っていたのであるので無かったと観られる。
そこで“一族である”のなら放置する事は先ず100%無く何よりも優先して救出はする。
この”様子見”は、いざと云う時には、額田南下国衆も生死を掛けて「武田軍の本隊」に対して「銃射撃の弾幕」で助け出す事を目論んでいたと観る。その一点の見極めと捉える事が出来る。
結果は、「左翼面に居た青木貞治隊」を「東の付け根の左位置」から「左斜め」に向かって「銃の連続弾幕」を張っての煙幕の中から救い出した事に成る。
この時、同時に「前方右鶴翼側面のやや斜右方向から「山県軍の別動隊」が突然突撃して来たのだ。
そして、左方向と右方向の左右に弾幕を張る難しい結果と成ったのだ。
現実にはこの方向の流れに動いた。
然し、其処までは良かった。
「山県軍の別動隊が突撃して来たという事」で「銃隊自らも危機」と成り、応戦して撃退したが、この同じ位置関係の混乱の中で「駿河の青木貞治」も「伊勢の青木・・の指揮官」も共に戦死したのだ。
故に、その”様子見”と云う語句には可成り混乱していた可能性がを暗示したものであったのであろう。
この論には、唯、共に結果として”偶然の様に両指揮官が戦死する”と云う「最悪の事態」が起こったが、これが筆者には疑問を持つのだ。
其れを先ずは論じる。
これには筆者は「狙撃説」を採っている。
それも「救出直後の一瞬の狙撃」であったと観ていて、当然にこの救出時の一瞬の状況証拠から「松平軍からの狙撃」である事は判る。
その狙撃の原因説は「戦闘前夜の軍議」にあったと観ているのだ。
「吉田城守備隊」から急遽、「浜松城」に呼び出され「軍議」に参加してこの下された「軍議の命令」を拒否した。
その結果で、そして「城外」に放り出され「城」から充分に観えている「一言坂の武田軍本隊の偵察」と云う意味の無い命令を受けたのだ。
所謂、条件をを付けられた「特異な国衆」であった事に依って「打撃」とはならず、そこで「武田軍」と激突させての決死隊の命令であったが、あわよくば「打撃をと図った事の命令」であったが「銃隊」は結果は勝ったのだ。
結果として、最早、「松平軍」にはここまでとして「自由」」に成ったのだ。
だから、上記の様に「青木貞治隊」を自由に救出できたのだ。
故に,「密命」を帯びた隠れていた「狙撃兵」に「二人」は一瞬の隙間の間隙を使われ狙撃されたのだろう。
「銃隊」はこの混乱で其の後は、「次の差配頭・伊勢秀郷流青木氏の者」が「指揮を執っていたという事」に成っているが、故にこれが「伊勢の資料」では「一族の二人の戦死」が重複するような「不詳の内容の原因」と成っているのだと観られる。
恐らくはこの「筆者の読み違い」は、歌や俳句の様に「文面の表側より内側」に秘めるものを察すると云う「当時の言葉の使い分け慣習」があって、それでそれを会得していない筆者には読み切れなかったのであろう。
「駿河の青木貞治の一門の隊」は、後に、上記した「堺からの逃亡・伊賀越え事件」で「戦功・勲功」を揚げている事から観て、「青木貞治」を除くの「一族全員」が救出に依って生き残ったと観られる。
「山県軍の別動隊」が突撃して来て「銃」で応戦したが、この時、「銃隊の一部」が「駿河の青木貞治の一門の隊」を護る為に、「武田軍の本隊」の先端に「銃弾」を浴びせて「事前の打ち合わせの計画」として「開戦」より相当に早期に「200兵の全部」を救い出したのではと考えられる。
山県軍の突然の突撃して開戦と成ったが、「救出」が全部とすると「開戦と同時であった事」が云える。
相当に慌てた事になったろうが、「青木貞治隊」は東に逸れて天竜川沿いに「盤田見附の西光寺・菩提寺」に目がけて走ったのだ。
故に、「伊川津の西光寺・現存」より「54k・船1日」の「真東の盤田見附」に「菩提寺・西光寺」が今も遺しているのだし、唯この時、“見捨てて逃げる”だけでは、それ以後も「一族関係」が保たれている訳はないが保たれていたのだ。
当然に、これは「副将青木貞治の子孫」に於いても云えるものである。
そして、「示唆の通り」に「予定通り」に「戦線離脱」して「伊川津に戻ったと云う事」に成る。
この時の状況には、確認しておく必要がある事がある。
それは、直接、「二俣城の副将・青木貞治」であって「二俣城開城後」に「浜松城に戻っている事」の史実からすると、この「大きな犠牲の敗戦要素」と成った「山県軍の別動隊の事」に付いては、既に「二俣城」で「青木貞治」は山県と面識している事に成り承知していて、この事から“何れの日にか「武田軍の本隊」に合流する”と見抜いていた事にも成る。
そして、直に「詳細な内部情報」を掴める「作戦会議」には「副将」であるので参加していた筈である。
問題は、未だ「山県軍」が「三方ヶ原」に“何時来るのか”の「時間の問題」は判らなかったのであろうし、「参戦するかの事」も判らなかったであろう。
それは「別動隊の使命」として「補給路の確保」があったからで、「戦う」と云うよりは「二俣城の戦場処理・戦後処理・補給体制」に重点を置かれていた筈で、「武田軍の本隊」だけでも戦っても“松平軍は負ける”と「副将青木貞治」は観ていた可能性は充分にある。
但し、この前提は先ず「籠城戦である事」だった。
つまり、"戦いに参戦しない"と云う固定概念が有った筈である。
そこで、「別動隊の使命」として、「三方ヶ原に補給拠点を構築する事」の為に何時かは早い内に来るだろうと観ていたのだ。
ところが「二俣城開城後」は開城であって落城で無い以上、周囲の勢力は未だ抑えきれていなかったのだ。
これに大分時間が掛かったのだ。
そこで、「松平軍の夜通しの作戦会議」では、「青木貞治」は良く知る「山県軍の別動隊の行動」を詳細に論じた可能性がある。
それを聞いた「家康」は、この「補給拠点を破壊・確保」の為に「籠城作戦」を急遽、変える決心を密かに決めたと云う事であろう。
従って、「一言坂」で野戦し敗戦して「家臣の犠牲」のもとでやっとの体で「浜松城」に逃げ帰ったと云う経験がありながらも、「堀江城の落城」を聞いて「冷静さ」を無くし、これの「経験」を生かさずに再び異常にも「野戦」に変えたとする定説には一類の疑問を感じるのだ。
そもそも、「家康」が「心の内で密かに決めたと云う事」がそもそも周囲から判る事は無く、「冷静さを無くした」も同然で定説に導く様に判断されたのであろう。
故に、この「作戦変更」で、「三河戦記」にも記されている様に「二俣城の開城の敗戦の責任」を執る為に死を覚悟したとする定説に導いたのであろう。
そもそも、この「戦記の定説」が、これも「青木貞治の個人の心の中」をどうして判ったのかであり、信用できない。
では、最も責任を取らなければならない人物が居たのだ。
その時の「二俣城」の「譜代家臣の主将・中根正照」ともう一人の「副将の松平康安」はどうしたかであるが、三河戦記の中に戦死者としてこの二人は含まれていないのだ。
故に“副将の青木貞治だけが死を覚悟したとする定説”は疑問で、もつと責任を執るべき二人はこの様に居たのだ。
では、そこで「軍議の中」で“青木氏貞治に何が起こったのか”である。
戦記でこれだけの事を定説として記されている以上は、何も無かったと云う事には成らない筈である。
「戦記に残す右筆衆」が「戦場の全体を見下ろせる安全な所」から観ていた筈だし、且つ、戦後、「三方ヶ原の生き残り者」に聴取して正確な資料を纏めていた筈で、これを当時の「戦国の仕来り」では家康に「論功考証の為」にこの「右筆衆」は報告をしている事に成っているのだ。
この「右筆衆の原石」はこの様には書いていなかった筈である。
筆者は、「詳細経緯」として、確かに当初は「責任を採った事」は有り得る事で間違は無いと観ていたが、ところが「史実と時系列」を良く調べると、その「責任の取った理由」、将又、「採り方」に問題があったと観ているのだ。
上記した様に、「青木貞治」は「額田青木氏」に「一族の者・200の救出」を「内部の情報提供」の時に依頼したが、そしてこの救出の際に弾幕を張って救い出した。
然し、当初は、騎馬上から「混乱の中」で敵の目を自分に引き付けたと筆者は戦記が匂わしている様に観ていたのだ。
敵の目を引き付けるに付値する「青木貞治」は「有名な将であった事」は否めず、「武田軍の本隊」も「二俣城」で承知していて、そこで筆者は、敢えて突然に敵前に向かい、この間に「武田軍の本隊」が近づけない様にし「南下国衆の銃隊の弾幕の誘導」で救出したのであろうと考えていた。
然し、この考えは詳細経緯と時系列を良く考察すると不自然だ。
そもそも、「6000の騎馬隊全体」を一人に引き付ける事はそもそも不可能であり、これは江戸期の明らかに美化の為のストリー化である。
要するに明らかに「物語風戦記」ではある。
この説であると、既に騎馬隊は突撃している事に成り、味方の山県軍と交差する事に成りあり得ず「銃隊の存在」のみならず「無傷の救出もあり得ない事」に成るし、更には「銃隊の弾幕も無かった事」に成り得る。
そもそも、「南下国衆の銃隊の銃撃や戦線離脱の経緯」の全体も無くなるし「伊勢資料も無い事」に成る。
この「物語風戦記の行」を使う事には問題が生まれて来たのだ。
何故ならば、「青木貞治」もこの弾幕の中に包み込めば救出は容易であった筈である。
ところが然し、筆者は「向後の憂い」を無くしこの事で「弾幕の中に入る事」はしなかったのだと思い込んで仕舞ったのだ。
それを詳細な時系列は留めたのだ。
つまり、何を云わんとしているかと云うと、「松平軍の軍議」に於いて相当に「二俣城の無戦開城の責・水攻め」を「三河旗本衆」に問われたのではないか云う事だ。
「全員戦死の覚悟」で「二俣城」でも「時間稼ぎ」を求められていたが、「譜代家臣の主将の中根」の責を問うのでは無く、「旗本」ではない「副将の青木貞治」に非難が集中したのではないかと予想しているのだ。
その前に最も責を負う人物が居たと云う事だ。
それは「松平康安・18歳初陣」である。
この人物は「大草松平氏の出自」で「曾祖父」は「家康に反抗した者の裔」であり、副将級の「軍目付・軍監」として「二俣城」に派遣されていたのであった。
その前に、この「二俣城」は、そもそも元は「今川氏の輩下の松井氏の居城」で、この領土の盤田見附の土地に「縁・前段」あって、「青木貞治」は「遠州国衆・経緯下記」としてこの臣下と成った経緯を持っていたのだ。
恐らくは、「旗本との間」でこの「関係」に「糸を引いていた事」と考えられる。
然し、この事に就いて「右筆衆等」が、「何かの形・郷土史や手紙や寺や一門記録」で残しているかと観て調べたが遺されている資料は無かった。
「無いと云う事」に就いて、これは後に「家康の用人」として「青木貞治の子孫・長三郎」が重用されている立場として、“江戸期に成って「幕府の権威」を下げる様な「史実」を世に遺すのは好ましくない”として消し去った可能性が高いのだ。
それは、実はこの事に及ばず殆どの事に付いての「秀郷流青木氏の資料」が、その研究にも具する程のものが遺されていないのが現状で、その「残念な理由」の一つとしても此処にあるのだ。
その「残念な理由」とは、「秀吉天下の対応」で「徳川家康」は「武蔵転封・1590年」と成ったが、この際、土地の大郷士集団であった「秀郷流一族一門・316氏」を味方に着ける為に、「一族一門の者の一切を家臣・官僚族・旗本家人衆」に抱え込んで味方に着けた。
そして、自らも「藤原の朝臣」とし「氏名」を名乗る程に扱ったのだ。
其れも、「平安時代の習い」に従い、「徳川氏の御家人・天皇家の家人扱いと同じ格式」として扱い「特別な格式・家人扱い」を与えて「旗本」とは別に幕府で「事務官僚・本領安堵」として重用した経緯を持っているのだ。
当然に「格式の無い旗本・近習衆」は猛烈な反発をしたのだが、それ故に、「幕府の権威を下げる資料」などの保存は悉く抹祥されたのだ。
これが所以の一つなのである。
ここに至る「詳細経緯の始点」も“「駿河青木氏の貞治」”に始まっているのだ。
上記の後の事を
を考察すると、故に責は「松平康安」にあったが、「青木貞治に押し付けたと云う経緯」があった事で、この史実の経緯を抹殺しようとしたと考えられるのだ。
その為には、「青木貞治を救出される事」は逆に「旗本に執っては拙い事」であったのだ。
それで狙撃して戦死と見せかけようとしたのだ。
次の疑問として更に論じてみる。
そこで、この行の“「一族一門の者の一切を家臣・官僚族」に抱え込んで味方に着けた イ”に付いての疑問があるのだ。
それは、“「徳川氏」が何も無しでこの「状況イ」を作り込んだか”である。
それは無理でありこの「氏家制度」の中ではこれはあり得ない事で、「藤原秀郷流一門の者」が勝手に個々に「家臣に成る等の事」は一切出来ず、もし、それをすれば一族一門から排他され滅ぼされる始末の世の中であった。
要するに「互いの結束」に依って「吾身」を護っていたのが「氏家制度」であるのだ。
当然に、この制度に於いては今論じている「額田青木氏等」と「伊勢」を始めとして「全青木氏族」も同然であった。
故に、「武蔵入間の総家」との「繋」が無ければ成り立たない「時代事」であったのだ。
とすると「繋」が必要であった筈である。
筆者は、この「徳川氏の繋ぎの役目」を果たした、又は出来た唯一人の人物は「青木貞治の子の長三郎」であったと観ているのだ。
其れは青木氏貞治の裔のその後の事に関わるのだ。
この「貞治の子の長三郎」は、その後、「家康の御側衆・上級側衆・最終は上級番方に成る・3500石・1400貫・国衆から旗本」に破格の出世をしていたのだ。
「状況イ」を作り込んだ人物”としては何せ役柄と云う点からもピッタリである。
そもそも、この歴史上に遺るこの人物は、「本能寺の変頃の伊賀越え」で大功績を掲げ「家康の命を救った人物」であるのだ。
それらの事から「江戸期初期」の「長三郎の役目柄とその子孫」もその様な立場にいて、「最終」は「名誉格式を持つ上級番方頭・家人旗本」に成っているのだ。
その彼が、"宗家と紐付けた"と考えているのだ。
「本論の詳細経緯」の特筆するはここにあり先ず間違いは無いだろう。
後勘から観ると、更にはこれが「伊勢青木氏等の青木氏族」に執っても「生き方」を「良い方向」に向けた「所以の起点」とも成ったのである。
唯、その「起点」を作った「初代・青木貞治」には「波乱万丈の人生」であったと云える。
何事もこの世は初代は、波風の人生を送るは世の常庸であった事は理解できる。
この「波風の人生」を物語る徳川氏の出現は、「長篠後」に奪還したこの「二俣城」を彼の「青木氏」が苦しめられた「最大旗本の大久保忠世」に任しているのだ。
これを観てもこの「東三河の人物の旗本衆」には、「駿河青木氏」のみならず「伊川津の額田青木氏」に於いても「同じ仕打ち」を受け続けた事が判るのだ。
それだけに「松平氏・1563年改姓の徳川家康・上野国土豪得川」の先祖から「徳川」と解明したが、注・これを長篠後に大いに使うが、この様にこの「松平氏・徳川氏」に執っては、「二俣城の敗戦」は厳しく「戦略上の重要拠点」であったのだし、その旗本の「不満の矛先」を「軍議」の中で表したのだ。
それが、「主将中根」や「軍監の松平康安」に向けられずに理不尽にも国衆の身分の「青木貞治に向けた」と考えられるのだ。
然し、「所以の起点 イ」を造り出した以上、つまり、後の「江戸期」では、この「御家人と旗本と御側用人と上級番方頭・家人衆旗本」と「格式のある家筋の立場・秀郷流青木氏」に成った以上は、「旗本の不満の矛先」を向け難く成ったと考えられる。
然し、前段でも何度も論じたが、それでも「大久保・本多氏の旗本」からは江戸中期までは伊勢や信濃の青木氏にも未だ執拗に受け続けたのだ。
そもそも、「吉宗」を裏で将軍に「仕立て・親代わり」仕立て、共に「江戸向行」し、「享保の経済改革」を市中で実行した「伊勢青木氏・伊勢屋」でさえ、矢張り、「不満の矛先」は向けられたのだ。
「伊勢」に限らず「信濃青木氏」にも同然に酷い仕打ち「本領の割譲」を受ける結果と成ったのだ。
流石に「信濃も受ける羽目」と成り、「晩年の吉宗」も遂にはこの「不満の矛先」に加わりこれを止める事さえも出来せず、結局は「青木族」は裏切られ、江戸で「危険が生じる事態」と成り、急いで「伊勢に戻る羽目」と成ったのだ。
然し、其れだけではこの「不満の矛先」は依然として治まらず、「奈良期の天智天皇」より「伊勢の永代不入不倫の権」と「伊勢の事お構い無しの家康のお定め書」をも無視され、結局は「青木氏族・伊勢屋と伊勢シンジケート」と関西を仕切る「伊勢の山田奉行所・吉宗も同調・史実記録」との間でも有史来の「戦い寸前・ゲリラ戦・関東秀郷流青木氏が動き見せる」までに及んだのだ。
「三河旗本の嫉妬怨嗟」は、此処までも続く事象は斯くの如しであって、「軍議」の「青木貞治」にも向け背れていた事は後勘から観ても充分に考えられ先ず間違いは無い。
結局は、追記するが上記の「伊勢の件」は記録の通り「紀州藩・伊勢の青木氏一族が全家臣」が強力に介入し、間に入り「治まり」を着けたが、今度は、この「紀州藩」に「謀反の嫌疑」が架けられたが耐え偲んだのだ。
「格の如し」で「青木貞治」だけに及ばず「青木氏族全体」に「不満の矛先」は向けられ先鋭化していたのだ。
世の中で殆ど消えて行く中で今未だ比較にならない程の「格式力と財力と抑止力」を持ち正統に活き、それを背景に「政治」も裏で動かす「唯一の氏族」には「姓族の姓社会」では我慢が成らなかったのだと考えられる。
この「嫉妬・怨嗟」は、「人間社会」では人間である限りに於いて変わらないし否定はしないし、無くなる事は無いのだ。
「青木氏族自身」もそれを特段に取り立てたものとして考えていなかったのだ。
「青木氏の氏是」や「家訓10訓」を観れば、それが良く判り「普通の人間が生きる範囲」であったのだ。
故に、「青木氏族以上」には「過去」を周囲が意識を高めた行為であったのだ。
取り分け、「一向宗を概念とするこの三河族」に対しては青木氏族はその教義をやや高めたと云う事であろう。
さて、話を戻してそこで、更に詳細経緯を論じる。
この「苦しい環境の中」で、「青木貞治」は次の手を打ったという事だ。
この時に上記した様に「堀江」に向かい始めた「武田軍の本隊」を「額田の南下国衆の銃隊」は追尾していたが、そこで急いで「南下国衆の銃隊」に「情報提供した」と考えられる。
然し、この時の詳細経緯として「青木貞治」は、何故、自由の身と成った“南下国衆の銃隊が武田軍の本隊を追尾していた事を知っていたか”に掛かる。
それは“「何かの連絡網」”が「青木貞治との間」に構築されていた事に成るからだ。
云わずも乍らそれが、「伊勢」から派遣されていた「南下国衆の銃隊」に影に成りながら帯同していた「伊賀青木氏の忍者衆・香具師・隠密商人」にあったと観ているのだ。
つまり、「青木貞治隊」と「連絡」を取れる様に「伊賀青木氏の忍者衆・香具師」が隊の中に隠れて入っていたのだと云う事だ。
筆者は、寧ろ、「二俣城開城後」に「青木貞治隊200」に「兵」として「「伊賀青木氏の忍者衆・香具師の援軍」を送っていた事が考えられるが、この事は「定石として打つべき策」であって先ず間違いは無いだろう。
其れは次の事で証明できる。
「浜松城に呼び出された時」の「記録」では、「訓練」を受けたのは「額田青木氏の南下国衆の銃隊300」であったが、突然に「記録」は「南下国衆銃隊350」と替わっていて、「荷駄隊50」が加わっていて、これは「伊賀青木氏」と「伊勢秀郷一門」の「合流隊」と前段で説いたが、この事は当然に「青木貞治隊」にも云え、且つ、「武蔵の秀郷流一門からの援軍」と「伊勢からの援軍・伊賀青木氏の香具師」の「援軍」が加わったのではないかと「必然的な流れ」から「当然の事」として考えられるのだ。
とすると、その時期であるが、「伊勢からの援軍」は、時系列から可能な時期は、矢張り“「浜松城に呼び出された時」”であろう。
従って、時系列から「二俣城が開城した後の事」に成る。
又、「武蔵の秀郷流一門からの援軍」の場合は、時系列から当初から兵の数を整えて「副将」として入った「二俣城の時期」と成るだろう。
そもそも、その前に論じる事があるが、それは“何故副将と成り得たか”と云う事である。
その「副将」とする為には、「当時の慣習」から「青木貞治の兵数」を先ず増やし、それを「武蔵の秀郷流一門からの援軍」を求めた可能性がある。
寧ろ、求めたと云うよりは援軍は必然であったと考えられる。
何故ならば、因みにこの検証として、「駿河青木氏」の「今川氏の時代の国衆の知行」は次の様であったらしい。
検証して観ると、「江戸期」での記録を観ると、上記した様に基準は「3500石で家臣数200で1400貫」と記されている。
ところが、これに比較して「室町期」の国衆時の当時の「圷の野」であった「盤田域の庄面積」は、次の様であった。
約1800反程度弱≒1800石程度≒6000平方坪程度以下と成る。
そうすると当時は、1貫≒2.5石 7貫≒1兵 1反≒1石≒300坪≒1人の原則があった。
1家を5人として360家、この内の「農民等の家」は記録から8割として288、残りが武士の172家であり、「戦いに参加出来る者」が「最低家1人」とすると、「ave(172)≒約170人程度」と成る。
この「最低の基準」の「ave(172)≒約170人程度」に達しない場合は、農民の次男三男が「農兵・荷駄兵」として事前に金を渡され駆り出される仕組みであった。
記録では、その様な専門のバイヤーが居たと記されている。
そうすると「戦線に義務付けられた基準」は先ず「720貫 兵102人:1800石」と成る。
つまり、兵としての「兵数」が「約68人程度」が増えていた事に成る。
然し、これでは「副将」とは成り得ないのだ。
つまり、この差が「援軍・68+X」であった事に成るのだ。
当時は、「1将に対して4騎」が着き、「1騎が50兵と云う基準」があったので、「200の兵」で「将」と扱われ、「軍議に参加できる基準」であったし、故にこれを整えれば”「副将扱い」”に成ったのだ。
これ、即ち「援軍」であった事を示し、それを「秀郷流青木氏・第二の宗家」が中心と成って「援軍を送る事」で「松平氏の中」で「副将扱い」に成る様に「秀郷流青木氏一門」は計らった事に成る。
故に「X=28」と成り、「合計98人以上」を「援軍」として送る必要が出て来たのだ。
敢えて、少なくとも「約100兵程度を援軍」として送り「発言力を着けさせた事」が判る。
これを当に「数字」が物語っているのだ。
故に、本来なら軍議に参加できる「額田青木氏の南下国衆の銃隊300+荷駄50」が外に放り出された以上、は、残った「青木貞治隊」は「軍議の情報」を城外の額田青木氏の銃隊に流し、これらの「援軍」と共に「救出」を依頼したのである。
本来は残る必要が無く「軍議の命」を拒否した以上は国衆を辞める目的で其の侭に「伊川津」に戻ればよかった筈である。
それを留めたのが、「情報」と共にもたらされた「一族の救出依頼」であったのだ。
「額田青木氏・指揮官伊勢秀郷流青木氏」としては、「情報の救出依頼」があったとしても必然的にも「両者の援軍」を救出する事は、「四掟」に基づいた「嫁家制度と嫁家先制度」であった以上は「一族として義務」も負っていた事に成り得る。
救出する以上はそれには絶対的に「戦術的な内部情報」が必要であって無暗には手は出せなかったのだ。
それが「義務であった」としても下手をすると「銃隊に大変な犠牲を負う事」に成り得る。
故に、これ等の「確実な詳細の内部情報」を獲得する等の事を成すにはそれには少なくとも”「副将格」である事”が必要であったのだ。
「詳細経緯」としては、この義務を果たす為にもこの「銃隊の指揮官」も「青木貞治」と共に、これでも“相当に際どい戦いと成った事”が判り、故に「両方の指揮官」が「戦死したと云う事・狙撃」にも繋がったのでもあろう。
前段で“「堀江」に「本陣」を置いて「二極化拠点」として構築していた可能性もある”と、説いたが、戦略的に考えて「追尾行動」をしていたこの「南下国衆の銃隊」に対して、故に、「青木貞治」は、“これは危険”と観て得た「軍議の内部情報」をも提供出来ていたのだ。
そもそも、「負けると判っていた戦い」に「一族の者を援軍として送る事」は先ず無いだろうし、この「援軍」は「戦うと云う勢力」よりも「将にする事」に依って「内部情報の獲得の手段」を「主目的としていた事」と云えるのだ。
其れならば、「籠城戦」から「野戦」と成り得た前提は異なるので、「籠城戦」から参戦し「野戦」と成った以上は「青木氏族」には後は救出しかなかったのだし、つまり又もや「計算」が狂ったと云う事に成る。
それには、両者ともに安全で「無事に救い出す事」を成し得るには最後は「額田青木氏の南下国衆の銃隊の銃力に頼る」と云う事以外に無くその「流れ」は成り得たのだ。
其処に、「山県軍の別動隊」に対しては良しとしても、結局は3h~4h経てば「武田軍の本隊」が「山県軍の救出に来る事」は必然で、「青木貞治隊も南下国衆の銃隊」に執っては「愚策の鶴翼の陣形」とも成ればこんな危険な事は先ず無かっただろう。
「伊勢の勢力」も「額田青木氏の南下国衆の銃隊」も「援軍の秀郷流一族一門」も「青木貞治隊」も全体が慌てたであろう。
そもそも、この事は「開戦」と同時に「問答無用に救出の必要性が迫っていた事」に成り、故に「南下国衆の銃隊」も救出後には、即座に「初期の目的通り」に「戦場離脱に迫られていた事」にも成るのだ。
何故ならば、「補給拠点での野戦・三方ヶ原」と成れば「武田軍の本隊」は「山県軍の別動隊」を救う為に「堀江城」を出て「三方ヶ原」に向かうと当然に観たのだ。
そうなれば、救出の為に動いていた「額田青木氏の銃隊」は、「三方ヶ原」で「山県軍の別動隊」との「挟み撃ち」に成る可能性が出て来て、「300の銃隊」と云えども、再び「一言坂の遭遇戦」を再び呼び起こす結果と成り“「危険」”に陥ったのであった。
この時、ここで上記した様に「安全策」の一つとして「西の伊川津に戻る策」もあったが、そもそも「一族を放置する事」が掟上も出来ず、一族の「駿河国衆の青木貞治の隊」を「何とか護り救出する為」にも、且つその為の「様子見の為」にも湖東村の交差点で休息後、急いで「三方ヶ原」に向かったのだ。
ここに「青木氏の記録」に記されている語句の「様子見の意味」」があったのだ。
そもそも、そうなれば「急いだ事」は、物見によって“救出に適した位置取り”の点にあった事と成ったと観られる。
その「位置取り」は唯一つであった事に成る。
それは直ぐに「伊川津に戻る事」が出来、且つ「三方ヶ原に向かう事」が出来て、「安全」で「様子見」が出来て、「休息」が出来て、「三方ヶ原に徒士3h」の域で、最短での「青木貞治隊とも連絡が取れる事」が出来る「適切な位置」と成り得る地域と限定される。
それが「湖東町の館山街道の交差点付近」と成り得るのだ。
ここで余裕のある時間で先ず休息したと観られる。
そして、「三方ヶ原」では「松平軍の陣形」にも「武田軍の本隊」にも目立たなく、且つ引き上げに容易な位置取りが必要であったのだ。
其処が要するに"様子見の位置"だと観られ、全体的な意味合いを表現していたのだ。
然し、そこで前段でも論じたが「事態」は急変したのだ。
予想通り、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、「武田軍の本隊」でも充分に戦えるとして「山県軍の別動隊」が、「補給拠点築造の使命」で北の山際に待機すると観られたし観ていたが、ところが強引にも合流せずに開戦と同時にこの「挟み撃ちの作戦」の様な「位置取り」と成って突如巻き込まれたのだ。
そこでその前にこの「位置取りに関わる判断要素」として次の様な物がある。
因みにそもそも、主に「戦い方」には、中国由来の「八陣形」と呼ばれる陣形が平安期からあってそれは次の通りである。
「魚鱗、鶴翼、雁行」の三形
「彎月(偃月)、鋒矢」の二形
「衡軛、長蛇、方円 」の三形
他には「決死隊の長滝等」の一形
以上の「九形」があったが、一般に「陣形八法」と呼ばれていた。
取り分け「武田軍」には「赤兜の騎馬隊・本隊用」を持っていたので、これをそれぞれの陣形に合わして配置して特徴を出して独自に陣形を強めたのだ。
故に”武田軍は強い”と云う評判が付いていたのだ。
ところが「赤兜の騎馬隊」を持たない「山県軍の別動隊」は、それが逆に「戦力の弱い補給基地築造隊」も含んでいた事」から、これが上手く行けば「戦力の弱い補給基地築造隊」を戦わす事なく護れると考えたと観られる。
それは、「鶴翼に強い長蛇の陣形」であったからだ。
そこで、これを「背後」に廻して、又は、廻った事で一列に並んだ戦記通りの「長蛇陣形」の「鶴翼突破型の全軍側面突撃」を取らした結果、又は「山県が採った結果」と成って故に「突撃の形」が自然と出来ていたのだ。
ところが、突撃開始直前には作戦通りに「長蛇陣形」で良かったが、突撃すると前段でも論じた様に「思い掛けない事」がここで起こりこの陣形が違って仕舞ったのだ。
弱点と成って仕舞ったのだ。
何と強力な「銃弾」がとぎれる事無く、其れも先頭から後尾までに一斉に遠方左から命中率良く浴びせられたのだ。
寧ろ、これに依って逆に「長蛇の陣形」が「全滅に近い痣」を成した形と成ったのだ。
一度、経験している「銃隊の存在」を強く意識していれば、「鋒矢の陣形」で「補給基地築造隊」を包み込む様にして「敵中突破の突撃」を仕掛ければ犠牲は少なかった筈であったし、救出していた「南下国衆の銃隊」には逆の事に成り得ていたのだ。
つまり、ここでもこれでも「銃隊の存在を読み違えた事・下記」が判るのだ。
「三方ヶ原の補給拠点」を、急遽、「野戦」に出て「松平軍に確保された事」で、この情報を得た「堀江」に居た「武田軍の本隊」が、「三方ヶ原の奪還」と「山県軍の救出」を目指して東に向かい、この「山県軍の別動隊」も遅れて何とか到着したのだが、「異変」は起こった。
この事で、「三方ヶ原の補給基地」を築造後はここの「守備隊」として「山県軍の別動隊の使命」として着く予定であった事は「当然の事」としてこれで判る。
戦略上では、「先に守備隊として確保したものを奪う戦い・奪還作戦」は難しいのは何時の世も「戦略の常道の知識」である。
故に、「家康」は、突然に「籠城」から秘密裏に「野戦」に変更し先に位置確保しようとしたのだ。
それには「家康の考え」は取り敢えずは成功したかに見えた。
「別動隊の使命」に基づき「補給拠点構築隊」も引き連れていた「山県軍の別動隊」は、「本隊」に合流せずに、或いは出来ずに、そもそも荷駄などで動きの悪い「援護守備兵であった事」で遅れた事もあって、「鶴翼の右側面の山際」に開戦ぎりぎりで陣取った事に成ったのだ。
この「拠点の三方ヶ原」を「先に奪取された事」で「山県軍の別動隊」の「使命の達成」が出来なく成って仕舞ったのだ。
そこで本来であれば「武田軍の本隊と松平軍との戦い」に成ると計算されていたが、「遅れた事の道中」で「山県軍の別動隊・目的が違う」は「北の山際」まで突撃をするかどうかを考えていたのではないか。
ところが、到着して観れば、「二つの事の異変」に気づいたのだ。
一つは、「弱小の松平軍」が何と「予想の戦術・魚鱗の陣形」では無く「鶴翼の陣形」を採っていた事である。
二つは、「西向きに陣形」を向けていた事である。
本来であるなら「三方ヶ原の平坦地」の中にある「浜松城を背景に陣形を北向きに採る」のが常道である。
西から来る「武田軍の本隊」と東から来る「山県軍の別動隊」が合流して「北を背景に陣形」を組むのが常道であった。
この「陣形の向き」であれば「武田軍本隊」も「松平軍隊」も何れも両軍に執って「有利な位置取り」である。
つまり、ここで遅れて来た「山県軍の別動隊」に執ってだけに「不利な事」が起こったのだ。
それは、「西向きの鶴翼であった事」に依り“武田軍の本隊と合流出来ない”と云う事が起こったのであった。
「遅れた事」に依って「北側の山際」に“単独軍として離された形と成った事”であった。
これが逆に「松平軍の狙」でもあったかも知れない。
要するに「松平軍・家康の命令」はそれを狙っていた事にも成る。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に対して、そこで「予想していた事と違った事」の二つが起こって、それは「戦況」を観ているか、さもなくば「武田軍の本隊」より前に行動するかに迫られいたのだ。
そこから「山県軍」はそもそも「別動隊」である以上は、状況に応じて「独自単独」に移り、今度は何と「松平軍」に執っては「予想外の行動」に出たのだ。
“「援護守備兵」で「鶴翼の右側面」に「武田軍の本隊」よりも先に突撃して行った”のだ。
何れも「虚を突いた形」と成ったのだ。
「山県軍の別動隊」に執っては、「武田軍の本隊の態勢」に執ってこの状況は”これは「得策」では無い””として、先に、最早、「三方ヶ原」が先に奪われた以上は、“「使命達成」は当面は不可能”と判断したのだ。
その「行動の判断」は、「同時」に「後の行動」に執っては、「武田軍の本隊の行動」を遮る事に成った。
且つ、「敵が鶴翼陣形」であった以上は、「松平軍」にも著しい混乱を招く事にも成ったのだ。
そして、「二俣城からの移動の行列」が、丁度、「長蛇の陣形」であった事から「鶴翼側面」を「後尾の補給基地築造兵」を護る為にも「一点集中の突撃突破」で攻撃に入ったのだ。
これを観た「武田軍の本隊」もこれに引き続き「魚鱗の陣形」で「総崩れ」と成っている「鶴翼の松平軍」に向かって前進し最終は完全掃討し勝利したのだ。
唯、この時の間、復もや「山県軍の別動隊と武田軍の本隊」とに「思い掛けない事」が「南側」で起こったのだ。
それは、「南下国衆の銃隊の存在」であった。
この「南下国衆の銃隊」は、「一言坂」とその後の「追尾」であったと承知していたが、まさかの「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「戦いへの参戦」であったのだ。
「武田軍の二軍」は最初はそう見ていただろう。
恐らくは、そこで「牽制程度の事」はあるとは判っていて、“本格参戦は無いであろう”と見込んでいたのだ。
それを示す「三つの証」として、そもそもその「破壊的威力の持ち主の銃隊」でありながらも、“攻撃をして来ない意思として、それが「一言坂からの追尾」”まで終わりと思い込んでいたのだろう。
それは「松平軍としての堀江城への援軍攻撃」が無かった事の思い込みが左右したのだ。
ところが、「三方ヶ原」に到着して観れば、「銃隊」に執っては、“攻撃の仕難い「鶴翼の位置取り」”とに成っていたのだ。
要するに「武田軍の本隊」は前の一言坂や堀江城の関わり方の「戦い方」から観て、「南下国衆の銃隊」が少なくとも“攻撃的で積極的ではない”とその様に考えていた事に成る。
この事から考えても、「銃隊」としては「鶴翼の付け根部に隠れる様に位置していた事」が判っているので、射撃すれば味方も撃つ事に成る「相当難しい位置取りにあった事」が考えられる。
然し、「青木貞治隊の救出」の為にいたが、「山県軍の別動隊の思いもかけない突撃」で、止む無く「銃の攻撃」を仕掛けたのだ。
何方にも、“思い掛けない予想外の一瞬の出来事が起こった”のだ。
そして、「武田軍の本隊」に向かって「弾幕」を張って何か弾煙の先の中から「救出作戦を起こしている光景」が「信玄の目」に入ったし、先に突撃をした「山県軍の別動隊」の「山県の目」には累々と「戦死者の山の光景」が目に入って来たのだ。
「信玄」に執ってはどうしようも無い「開戦の一瞬の出来事」であったであろう。
つまり、それは「予想外の事」が「勝利の武田軍」にも、「敗戦の松平軍」の「両軍の目」に入ったのだ。
「弾幕の煙」で一時戦場が観えない程に成ったと予想できる。
開戦は午後の四時頃であったので「谷風・海風」が吹いていて、南から北に向かって谷筋に三方ヶ原の戦場に向かって吹いていた。
なので、「弾煙」が消えては、又、「弾煙」が出来ると云う光景が起こっていて、その「武田軍の本隊の混乱中」の間に、この「救出劇」が起こって東に逃がしたと「詳細経緯」としては考えられるのだ。
「山県軍の別動隊」に執っては射撃音以外に何処から弾が飛んでくるかは正確には判らなかった筈だし、「武士道」の通じない生死の「経験のない恐怖・銃弾」が先行して「逃げ隠れの出来ない処置無しの状態」であったと考えられる。
故に、比較的に「救出」は容易に犠牲も無く成功したし、「北・戦場」に向かっても連射しながら「荷駄隊」と共に、無事に西に後退する「戦線離脱」も容易であったと観られるのだ。
「近づく者」は居なかったと考えらる。
恐らくは移動しながらの「空砲の煙幕」でも充分であったろうし、「一言坂の経験」の様に100%居なかったと考えられるが、執拗に近づけば実弾連射して撃滅戦を繰り返しながら「戦線離脱」したと考えられる。
この「戦線離脱した南下国衆の銃隊」を「仮・現実には無理」に追撃したとしても「館山街道の例の交差点付近」までであろうし、此処からは「武田軍の本隊」としても戦略上踏み込めなかったと考えられる。
史実は何れの戦記にも記されていない事から“追撃は無かった”のではあるが、ところがその前の「やるべき事」が「武田軍の本隊」にあったのだ。
それは「戦場の掃討作戦」と「山県軍の別動隊の支援」にあった筈で、「補給基地の三方ヶ原築造を使命の別動隊である事」を前提にしながらも、「軍事行動」を起した事、且つ、「別動隊として浜松城を陥落させる使命がある事」も考えると、これを支援しなくてはならない「本隊としての役目」が「戦いの流れ」としてあった筈である。
現実に、史実の詳細経緯は「脚色された三河側の多説」が多いが、「掃討作戦と別動隊支援している事」には間違いは無い。
「救出後の武田軍の掃討作戦」も、「青木貞治一族」が隠れていたこの「西光寺」では、「武田軍の本隊の2度の印象」の中には、“銃隊の一部が未だ居るのでは”と連想し近づく事は出来なかったと考えられるし、命令なしに掃討が出来ない寺であった事は間違いは無い。
何故ならば、そもそも「寝る子の東の秀郷流一門361氏」と、「第二の宗家の位置づけ」の「秀郷流青木氏116」を起こして仕舞う危険性があったのだ。
「青木貞治隊」が「逃げ込んだ盤田見附の西光寺・平城館の大寺」が不思議に戦記上では掃討された事は記されていないのはこの事に依るだろう。
そもそも逃げ込んでいるか否かは別として、「一言坂の此処」で一時停留しているので確実に「掃討の確認をすべき拠点」である事は知っているし、「青木貞治隊」に限らず位置的に観て「松平軍の残兵」が少なくとも一時的にもここに潜んでいる拠点である事には間違いは無い。
この様な「一族の菩提寺の西光寺」から「青木貞治隊」が再び“城に入った”と云う記録は無い処を考えると、「武田軍の本隊」が「浜松城」を攻めた場合とか「掃討作戦」で「西光寺の方」が「平城館」の様にして「寺の周囲」を固めれば安全であると考えたのであろう。
故に、「生き残れた一族の勢力」は、江戸期には「御側用人衆・上級番方」として出世して禄高を史実の通り1800石から3500石に倍増させて「駿河青木氏の子孫」は栄えたと成るのだ。)
(注釈 「額田青木氏と駿河青木氏の生き遺り」
さて、上記の詳細経緯に至る先に論じる。
「三方ヶ原の戦い」に勝利した後、ここに当初の目的通りに「補給基地」を築造せずに堀江城と二俣城などの出城に「守備隊」を残し「甲斐」に全軍を引き上げている。
2年後の「長篠の戦い」の際には、この二つの出城の「守備隊等」は松平軍に対して「善戦をした事」が何れの戦記にも記されている。
つまり、そこで「周囲」がまだ「武田軍の守備隊」に囲まれているこの2年間の「西光寺の駿河青木氏の動向」が気に成る。
この事に関する記録等を探ったが、唯一つ何かを物語る行が「伊勢」にあった。
それは「伊勢水軍」であった。
「出城に居たの「山国の武田軍・少数」には「水軍」を持っていないので、伊勢側は「渥美湾に船を廻す事」がある程度可能に成って、「駿河水軍」と連携して「伊豆」まで廻る「商い等の運搬に盛んに従事している「行」が「商記録」にもあって共にこの史実に付いては一致していのである。
つまり、これは何を意味しているかである。
「南下国衆の銃隊」が戦線離脱して「三方ヶ原」から「伊川津」に戻り、「陸運業」に逸早く転身した。
そして「縦の陸路1と2」を構築して「信濃」に繋いだが、戦後、「三方ヶ原」より「武田軍」が予想外に甲斐に戻った事」と、「織田氏の西三河への伸長浸食」で「武田軍の脅威」は三河では低下して「渥美湾の制海権」は何とか獲得出来た。
この時、この為に「松平軍」が「力・財源」を持つ事に警戒した「織田軍」は、「伊勢」で水軍を造ろうと懸命であって、その結果、遂に「熊野水軍の九鬼水軍」を味方に引き入れた。
そして、「伊勢青木氏」が「7割株」を持つ「伊勢水軍の伊勢衆・50衆」に対し「楔・調略」を打ち込んできたのだ。
「伊勢衆の掟」を破り「4組」がこの「織田の調略」に落ちたがこれを「伊勢青木氏」は「掟と財源・株」で食い止めた。
然し、結局は「1組・現在も水運業として遺る」だけが調略に応じたのだ。
そもそも、「伊勢衆」は「伊勢青木氏の女系の重複血縁の古来からの氏人」であった。
最も尾張に近く縁の薄かった「東の知多一族」が落ちたのだ。
然しながらも、当然にこれに伴って結果として「陸運業」と「海運業」は動ける様に成った。
そうなると、「松平氏の敗戦」に依って「青木貞治の彼等の糧」は失う事は必然であった。
そこで、「駿河水軍の裔の駿河秀郷流青木氏の一族」は、この「伊勢と伊川津の陸運業と海運業」にも関わる事」で一族を生き延びさせ、且つ、「武田軍の追及を逃れる事」も出来たのだ。
「駿河水軍・1艘の廻船」を「伊勢・伊勢水軍と伊勢屋4艘」からの「海と陸の中継点」として「伊豆や武蔵」にも繋げる事が出来て糧を戻したのだ。
この「2年間の彼等の糧」はここにあったのだ。
これは「元駿河の国衆の強味」の所以でもあった。
そもそも、「敗戦し弱った松平氏の家臣」の中に、「自らの水軍」を持ち「財を持つ御側衆」は他にはいなかったのだし、「東の大勢力の秀郷一門」を背景にした「家臣」はいなかったであろう。
それが「松平氏・徳川氏」には「強み」と成ったのだ。
松平氏の旗本の中では、”三方ヶ原、云々等”と云っている場合では最早無かったのだ。
寧ろ、金銭的に助けられた事だってあっただろう位の位置に押しやられたのだ。
この事で身分以上に力を持つ「旗本扱いの家臣・秀郷一門の関東家人衆」に対して、「三河旗本・近国衆」には叶わないとする「嫉妬怨嗟の渦の波」が「額田青木氏」と同じ様に押し寄せていた筈である。
「三方ヶ原後の浜松城の松平氏」は、危険な隣の織田氏に近い「西三河」を残し、「北三河と東三河と遠州での糧」を失っていた。
その「衰弱した松平氏」の中でも、この経済的に劣ない身分以上に「力を持つ家臣・関東家人衆の御側衆・青木貞治の裔」は誰一人居なかったであろう。
ところがこれが三方原戦後に「伊勢勢力」を背景とした「額田青木氏」の「三河での商い」と共に「松平氏の強み」とも成って行ったのだ。
敗戦被害を受けなかった「西三河の軍勢」には「2000人」を与えられていて無傷で残っていた。
そこでこの時の「松平氏の力」を検証する。
そうすると、「尾張」に隣接する「西三河」だけが遺っていたので、その三河は次の様に成る。
「1貫≒2.5石 7貫≒1人家来」の「軍制の仕来り」から、最大で1万4千貫≒3万5千石となるが、「信長と秀吉」に依ってこの「弱み」を突かれて「国境沿いの西三河の浸食・三好域まで」が浸食された。
これで「2万石」にまで減石されていた状態と成っていたのだ。
これではどう考えても「旗本以外には養えなかった事」に成る。
「三方ヶ原」で全滅に近い敗戦をしているので、どの記録を観ても最大時に「国衆」を掻き集めてやっと合わせて「兵5000・脚色戦記」に成ったとしているが、検証では実際はそんな力は無かった。
戦後は「敗残逃亡兵2000程度以下」には成っていた筈である。
先ずはこれでは「旗本程度」を養える事と成るが、「国衆等」は「自らの糧」を「何らかの力」で得なければ生きては行けない事に成っていた。
「駿河青木氏」は未だこの時期は、「松平氏の三河」では上記した様に一族から援軍を得て「駿河国衆の副将レベル」であった。
上記した様に長篠後に成って「旗本・家人衆」に加えられたのだ。
故に、「駿河青木氏」は「伊勢の青木氏の経済力・商い」を背景に「元の駿河水軍の糧」に勤しんでいたのだ。
そもそも「伊勢青木氏」に依って平安時代には「女系で繋がっていた事」の所以で、「駿河青木氏の末端の裔」を何とか探し出され、相当に「駿河青木氏」は「伊勢」に依って呼び興されて訓練を受け成長した。
そして、最終は「船一艘」を与えられて、再び、その「裔系」は「水軍・水運の商い・伊勢―伊豆に運送」で拡大して行ったのだ。
それがこの「裔系の長」がこの「青木貞治」であったのだから、「江戸期・長三郎」に成っても「旗本の上級御側衆・上級番方」を務めながらも、この「水運の商い」は辞めていなかったのだ。
この様に資料では、「相当に豊かな駿河青木氏の裔」を構築して繁栄していた事に成っている。
そこで、この詳細経緯として、江戸にも子孫を広げているだろうが、彼の「盤田見附」に「菩提寺・浄土宗西光寺・再興」の「大寺・伊勢青木氏部使う」を持てるまでに「子孫」を拡大させていた。
其れなのにその割には「青木氏とその類証」が、「水運業」を生業としているこの地域に矢張り少ないのが気になるのだ。
何故だろうかここで検証して観る。
天竜川と太田川の二つの大川の間に挟まれた「圷の野」と、この「ほう僧川」の支流を合わせて、「砂丘」の中で出来た「唯一の港・西光寺より南東8k」の地域に「大船が停泊できる港」は、「天竜川」から東に離れて「圷の影響」が無くなる「福田地区」、ここから「海底深度」が良くなる大船が停泊できる“「福田港」”がある。
「伊勢資料の行」から、ここに少なくとも「仮泊」を置いて「駿河湾・34k」と「伊勢湾・白子泊」を常用していた事が判っている。
つまり、この「福田港」の此処からは「伊豆青木氏」と「秀郷流青木氏・本拠地」を含む一門の勢力領域と成る。
この地域には「青木氏に関わる地名などや春日社」も全く無かったのだ。
つまり、全て、この「福田港」から「34k離れた地域」から東に急激に「青木とそれに関連する地名」も含めて大量の所縁の何もかも出現して来るのだ。
つまり、ここには「平安期と鎌倉期と室町期初期」まで「青木氏や永嶋氏等の勢力」が伸長していたが、ところが、室町期より勢力を東に押し返されて引いていたのだ。そのために所縁のものがなくなっていたのだ。
この時の「名残の先端」が突出したのが「遠州西光寺域の庄域」であって、厳しい乱世の中でここを遺し得たのは「水軍衆の所以」であったと考えられる。
其れを逸早く裔を救って呼び寄せて訓練して戻して「伊勢」と繋いで「生きる力」を着けさせて遺し、其の後は前段の論に成ったのだ。
結果として全体は、「駿河の青木氏」の「名籍」が「存在する所・藤枝」まで勢力を引いたと云う「歴史的経緯の事」に繋がるのだ。
これは「家紋分布や地名」でも判る。
大まかな時代性としてはその「引き際の処置」で遠州に駿河青木氏が遺った事であったと考えられる。
それだけに「源平化した事」から狂い出し、遂には「源平戦敗退」により「子孫」は元より「遺物」も遺し難かったのだ。
「近江と美濃の源氏化」にした様に「伊勢信濃の忠告」は女系で深く繋がる「駿河」にも当然としてあったと考えられる。
と云う事は、その証拠は「駿河青木氏の子孫」の多くは、現在名の静岡県静岡市駿河区の「青木の地名・現在も青木・盤田見附から東54k」が遺る所にあったと云う事に成る。
「伊勢」が「盤田見附」から「駿河区青木」の庄の何れから「支流末裔」を見つけ出して「額田青木氏」と同然に世に出したと云う経緯であった事に成る。
「一族の藤枝の秀郷流青木氏・集中」では無く、再び、“「母方の伊勢」”に呼び出して「商いや水軍」等の訓練を受けさせてから「30年後~40年後」には、室町期初期から「消えていた盤田域」に「一人前の青木貞治が出た・100裔人」と云う事に成っているのだ。
唯、ここで検証しなければならない事は、「盤田見附域の元の庄」を再び獲得するには「財力と武力」が要るし、「菩提寺」を建立し直し維持するには“「相当な財力」”が要る。
其れを如何したのかである。
この「財力と武力」を以て「庄の民・農民」は信頼して従う。
「武力」は「財力」で補完できている社会である。
問題は、「青木貞治」が元の庄を獲得するには次の事が必要に成る。
上記した「盤田域の庄面積」の「1800反程度弱≒1800石程度(≒6000平方坪程度以下)」の“「地権」”を買い取る必要が先ずあり、奪還する程の武力は未だ無いしそれ以外には無いし、これは「青木氏族の氏是」に反する事で出来ない。
それには、「駿河水軍の水運」だけでは「元の庄の獲得」は無理である。
この時期としては必然的に「今川氏の国衆と成る事」が最善策の前提と成る。
その前に論じて置く事がある。
「青木氏族」とは全く縁が無いが、調べた範囲としてこの事の解決に導いてくれた者、況や、「松井氏」に付いて記して置く。
元今川氏の二俣城主であった「松井氏」は、「山城国の御家人・松井氏一族」が建武政権を離脱し「足利尊氏」に味方し、足利氏一門で宿老の今川範国に属して戦功を揚げた。
その恩賞として「建武5年駿河国葉梨荘(現在の静岡県藤枝市・青木氏定住地)」に「地頭代職」を与えられてここに移住したと成っている。
1513年には「今川氏」から「遠州鎌田の御厨領・盤田見附から真東3k・同庄内」を「領」として与えられ、1528年には「平川郷堤城主・盤田見附から真東21k」とも成ったとある。
この「近江から来た国衆の松井氏」は、最終的にこの「天竜川から菊川」の「南一帯の豪族」と成ったのであった。
この時に「秀郷流駿河青木氏」等もとより「永嶋氏などの青木氏族」等も東に追いやられたのだ。
「地頭代職時代」にこの「松井氏」はこの「藤枝」に定住する「郷氏の秀郷流青木氏・賜姓族の格式」を当然に知り得ていた筈である事と、系譜通りの「山城・近江南部・天領地・公領地域」の「御家人・松井冠者源維義」であったとすると、「源平戦」で衰退はしたが過去の「近江青木氏二氏・賜姓族格式」を完全に知り得ていた筈である事に成る。
そもそもこの「近江青木氏」と「川島の皇子の裔の佐々木氏」とは奈良期末期まで「相互重婚の一族」であって「伊勢」と「近江4氏」とは「皇位族の重血縁の縁」で繋がっていた。
「松井氏の祖」が「山城の御家人」とするならば「駿河青木氏」とも少なくとも縁は深い事に成り得るがそこまでは縁を追えない。
主張する系譜通りの「御家人・松井冠者源維義」であるとすると、「近江戦」と「富士川の戦」の源平戦で共に源氏化していた一族として味方と成って戦っていた筈である。
先ずこれだけの縁があるとすれば間違いは無いだろう。
正しいかどうかは判らないが、それが共に再び“遠州で会った”と云う経緯の行事に成り得るのだ。
且つ、その前提で行けば、ここが「室町期末期」まで「秀郷流蒲生青木氏・伊勢秀郷流青木梵純の出自元」でもあって、恐らくは「縁の鎖」の様に何らかの関係を確実に持っていた事に成る筈である。
要するに、それ故にこの「縁」を以て「国衆」と成ってこの「松井氏の配下・家臣株獲得」に入り、そこで「元の盤田見附」を「地権で獲得した事」に成る経緯であると説が生まれる。
そして、その「国衆と成った証拠」として「今川氏の最西端」の其処に「平城館・寺閣城」と成る「菩提寺を再建した事」を意味するのだ。
つまり、「国衆に成る事」にしても、「家臣に成る事」にしても、「菩提寺の平城館・寺閣城を建造する事」にしても、「地権料を払う事」にしても、「家臣を養う事」にしても、「水軍を維持する事」にしても、そもそも「水運業だけで得られる糧」では到底無理で駿河青木氏にはその「大財源が必要であった事」に成る。
当然に、その出処は「伊勢青木氏」であって「武蔵青木氏宗家・江戸長島屋」かであるが、主に「伊勢青木氏・伊勢屋」が「額田青木氏」と同然にこれを賄ったと考えられる。
要するに戦略的には、経緯として同時期に“西に「額田青木氏」、東に「駿河青木氏」を興した”のであった。
そして、「信長」に依る「尾張域の神明社破壊」や、この事で起こる「伊豆や信濃との連携」が難しく成る事を防ぐ為に、これは、つまり「駿河青木氏の復興」は“「当初からの戦略」であった”とも考えられるのだ。
その結果、その証拠にこの地域には「神明社」も「春日社」も「清光寺」も「西光寺」も全く無く成っていた「遠州」に於いて、「伊勢」にしても「武蔵」にしても、ここに「青木氏の拠点の復元」を成さねば成らなく成っていた事に成る。
それで「乱世の中」で「東西の青木氏の同族」が生き抜けて行く為には、再び途切れた「西と東」が繋がり“強大な抑止力が働く”と考えていた事に成る。
その為の「財源拠出」は問題は無いと観ていたのだ。
「室町期の紙文化開花」で「巨万の富・紙屋院」を獲得した「財源」を遺憾なく此処に投入したのだ。
それには、「青木氏族」に執っては「相手」は当面に「武田氏」であって「織田氏」でもあったのだ。
そこで、筆者が感じる処では、「伊勢信濃系列」を始めとして「青木氏族」に執つては疎遠であった「武田氏の青木氏の関与」の有無に就いては、もう少しの「関係性」を見つけられるのではと観ていた。
然し、唯一つの「二俣城の浄賢」だけであった事は何か間尺は合わない。
それは、「武田氏」が完全に滅んだ「長篠」より、「甲斐には五つの青木氏」が在ったがその内の「3氏」だけは「伊勢」では無く「相模の秀郷流青木氏」を頼ったのだ。
確かに「甲斐青木氏・甲斐冠者系の源光系」と「嵯峨期詔勅に基づく時光系」の二つは「嵯峨天皇派」であって「伊勢信濃」の「桓武天皇派」とは「犬猿の仲であった事」は否めないが、それ故にこの「伊勢信濃」には全く来ていないのだ。
このすっきりしないのは「史実」である。
そもそも「武田氏系」には、「源光系青木氏・1氏」、「時光系青木氏・5氏」、「諏訪族系青木氏・3氏」があった。
「源光系青木氏・1氏」は不参戦で甲斐でその後信長に圧力を掛けられて衰退した。
「時光系青木氏・5氏」は、「分家2氏の正定と豊定」は徳川氏に味方し一族全体が武蔵鉢形に移住させられ家臣と成り、「1氏」の「分家養子・安芸」は戦線離脱後に「安芸に戻り後に「松平氏の家臣」に成る。
そして、「本家筋2氏」は完全滅亡した。
「諏訪族系青木氏・3氏」は、その内の「武田氏族系の1氏」は衰退、「諏訪族系の2氏」は「相模の秀郷流青木氏」に救出され、其の後1氏の一部が下野に配置に廻り、残りの一部も相模から「越後秀郷流青木氏」を補佐する為に頼り、「4流」」に分流した。
「長篠後」にこれだけの「関係性」を保持しているのに甲斐との関係性に付いての資料が何もないのは腑に落ちない。
当然に「三方ヶ原前」にもあったと観るのが普通であろう。
現実に、江戸期にはある程度の関係性は出来たと考えられるが、敗退した「甲斐青木氏」が「秀郷流青木氏一門を頼った事」で「血縁の繋がり性」は出来た事も「史実」である。
平安期と鎌倉期には確かに「伊勢青木氏出自の嵯峨天皇の皇子」が“「甲斐青木冠者蔵人・源光系」”として「甲斐」に配置されたがそれでも基本的に無かった。
極めて疎遠で「犬猿の仲であった事」は資料からもはっきりと解る。
上記した様に、室町期末期の戦乱期に「青木貞治と主従関係」に成ったとされる「山城・近江南部・天領地・公領地域」の「御家人・松井冠者源維義・河内頼信系源氏」と、「甲斐青木冠者蔵人・源光系」として「甲斐」に配置されたが、この「源の源光系青木氏・嵯峨源氏」とは「源氏族」では無関係では無かった筈であるが、「繋がりの詳細経緯」に付いてはこれ以上は今も資料は見つからないし判らない。
「賜姓伊勢青木氏と賜姓近江青木氏」とは、奈良期から平安期まで「相互血縁の同族」であった事と、「近江青木氏の定住地」とはほぼ同じの「松井氏との関係性」は否定できないだろう。
間違いなく「源氏・11流」とすれば「皇族としての嵯峨源氏9つの縛り」を護らなかった「源氏族」と、「源氏化しなかった伊勢と信濃の青木氏・9つの縛りを護った」とは「四掟の範囲」では無い事に成り、頼る事は出来なかった事には成る。
その意味では、「円融天皇賜姓族藤原秀郷流青木氏・伊勢信濃とは女系で血縁」は「同じ青木氏」として頼り易かったとは云えるが、「松井氏との血縁性の有無」は辿れない。
そもそも、「正式な源氏賜姓・11家11流」は「花山天皇」で終わったが、この「花山天皇」の前に「冷泉天皇の発狂事件」が起こり、これに代わって異母弟の「円融天皇・11歳」と成り、それまでの「源氏賜姓」を止めて「藤原秀郷流一門の宗家嗣子の第三子」を永代に賜姓させる事と宣言した。
「外戚の藤原氏内紛」で16年後に「冷泉天皇の嫡子・花山天皇」に譲位した。
この「花山天皇」も「外戚の藤原氏の内紛」で2年も待たず退位した。
ここで「嵯峨詔勅に基づく皇族」の「正式な源氏」は歴史的に途絶えたのだ。
つまり、其の後の「正式な賜姓」は「藤原秀郷流一門の宗家嗣子の第三子・始祖初代千国」を永代に「青木氏の賜姓をさせる形式」と変わったのだ。
その「皇族との血縁の基」は、「賜姓」を権威づける為にも「混血融合」を避ける為に「四掟と云う縛り」を設けて、代々に「伊勢信濃との青木氏の母方の女系族である事」で権威格式付けたのだ。
これが「藤原秀郷流青木氏116氏・第二の宗家」に及んだのだと云う「歴史的経緯」を持っているのだ。
況や、この「賜姓青木氏族」は「四掟前提としている以上」は、「四掟の範囲外の甲斐」との「血縁性は無い事」には成るのだ。
唯、この「秀郷流青木氏族」と呼ばれる「秀郷一門内部での血縁族の主要五氏」とはこの「嵯峨期の9つの縛り」は適用されない。
従て、この「四掟の範囲外」での「甲斐青木氏との血縁・時光系」とはあり得る事は否めないのだ。
厳然とした史実があるのに資料が無い為に然し判らないのだ。
唯、「賜姓諏訪族」とは「信濃青木氏との重婚族」であり、古来より「諏訪族青木氏・立葵紋」であってこの「裔系・抱き角紋」が「武田氏系の血縁族三氏」を構築していて、「相模に逃げ込んだ事」も史実であり、頼った事には何の問題も無い。
「秀郷流青木氏―伊勢と信濃青木氏―信濃青木氏と秀郷流青木氏―信濃と諏訪族青木氏―諏訪族と武田氏」であれば、直接血縁無くしても「血縁の濃度」は別としても、「間接血縁族」として頼れる事は可能である。
現在筆者はこの様に観ている。
そして、それが何と本論の長篠後の「駿河青木氏の裔祖の相模青木氏」であったのだ。
これは、「三方ヶ原―長篠」の後に興したより「青木氏族」であった一族の歴史の“自然が興した再結集現象”と成り得たのだ。
この「不思議な自然の血筋の流れ」は江戸期に向けて濁流の如く留まらなかったのだ。
但し、その基と成った「駿河青木氏」を家臣として抱えてくれた「松井氏」は山城の「河内源氏」であるとする事にもう少しその根拠と成る歴史観を説いて置く。
それは間尺に合わない処があるからだ。
そうすればこの「松井氏の位置づけ」がより判り、「駿河青木氏の青木貞治との関係性」も詳細経緯として理解が出来るだろう。
「松井氏の祖・平安期」は「山城の何処かの天皇家・公家・賜姓族・皇位族の家人」であったとしていても、その「家人」と成り得る「氏」としては「頼信系の河内源氏」であるとしているかも知れないが、“「松井」”としての「第二の姓名」を名乗っているので「傍系卑属の支流族」である事には間違いは無いのだ。
そもそも、「河内源氏」は「嵯峨期の9つの縛り」を護らなかった事でその「家人」である事にはそもそも疑問でその資格はない。
「9つの縛り・嵯峨天皇が後に纏めた」に依って「天皇家・公家・賜姓族・皇位族」は「諡号の姓・第一の姓」は持つが「第二の姓」はそもそも持たない掟なのだ。
従って、「天皇家・諡号と諱号」を除き「氏名だけの範囲・青木の氏や藤原氏」だけで名乗ったのだ。
唯、例外として「秀郷流一門」は「361氏」と成り、「氏名や諡号や諱号」では「一族一門の系統」を「格式管理」できなく成り、その替わりに「仕来り」として「三つの縛り」を設けてこれを判別する様にしたのだ。
其れは、次の通りである。
・第一に、「役職名」を藤原氏の氏名の藤の「上」に付けて名乗る。
斎藤氏・工藤氏等・結城氏
・第二は、「地域名」を藤原氏の氏名の藤の「上」に付けて名乗る。
伊藤氏・加藤氏 長沼氏・永嶋氏等
・第三に、「特徴名」を藤原氏の氏名の藤の「下」に付けて名乗る。
藤田氏・藤井氏等
以上この三つより更に拡大して派生した氏は「同名の字名」に替えて名乗った。
長嶋氏、長島氏等
これを以て総称は”「藤氏」”と呼び、地域事に「伊勢藤氏・讃岐藤氏等」等として大別した。
これで「系統や格式レベル」を判別するようにしたのだ。
唯、「秀郷流青木氏24地域・116氏」だけは秀郷一門に劣らず「賜姓族である事」により氏名のみの諡号名と決められたのだ。
「賜姓青木氏」であり、且つそのものの「氏」が大一族に成ったが、「賜姓族の特別の格式を有する事」で、「嵯峨期の9つの縛り」に基づき「伝統の仕来り」として「氏名」だけ、つまり「青木氏」としたのだ。
要するに本論の「駿河青木氏」もその一つであるのだ。
ここで、更に「皇位族の賜姓臣下族の朝臣族」には、もう一つの判別する「仕来り」があったのだ。
それは 「諱号・諱名」であった。
其れは、「直系尊属の本流」のみの「仕来り」として「氏名のみを名乗る事」と共に「青木氏一族」には、朝廷から与えられた「地領の字名」があり、それを使う事を許された。
其れを「字名・あざな」と呼び、これを「判別の一つの方法」として「氏名」にこの「字名」を付けて「格式・レベル」を表現する方法が許されていたのだ。
その「表現方法」には、次の条件が定められていたる
「本流である事」
「格式を有する事」
以上二つを表す「中国の皇位族の慣習」を見習った手段があった。
それが、つまり”「好字」””であった。
つまり、「格式の高い意味を持つ字」を「氏名に着けて名乗る事」とし、それを「一字」として名乗る事であった。従って、「二文字以上の字名」は「本流」では無く、且つ、「嫡流」では無い事を表現する手段としたのだ。
これは「青木氏族を判断する重要な歴史観」と成ったのである。
例えば、「賜姓源氏」で「諡号の姓」が「朝臣族」であれば、「嵯峨源氏」と「清和源氏の摂津源氏の四家」だけがこの「仕来り」が適用された。
「元皇位族」であったとしてその格式を護るためにある程度の「9つの縛り」を護った上記の二つの賜姓源氏のみに適用され、その「本家の嫡子流」の「三代目」まではこの「好字・一字名」を名乗る事が出来たのだ。
例えば、「源融・とおる」は、「平安時代前期の貴族」で「嵯峨天皇の第八皇子」である。
つまり、「嵯峨源氏の賜姓融流初代」であって、”「河原」”と云う格式の「院号」を持ち、”「河原大臣」”とも呼ばれた人物がいた。
この「融」の「好字・一文字」の慣習は「本家の嫡子流」の「三代目」までと成る。
それ以後の裔は血筋の低下で「好字・一文字」の「仕来り」は「二文字」に成り使えなかったのだ。
後に、全ての地名までの名に及ぶ「好字・二文字令」を朝廷は発して「好字・一文字の権威化と区別化」を図ったのだ。
同じ「清和源氏」であっても「頼信系の河内源氏系」は、「本家流」で無く「嫡子流」で無く「三代目」で無く、「嵯峨期の9つの縛り」を全く護らなかった事で、この「格式伝統の仕来り」の「好字・一文字」は使え無かったのだ。
この「好字の仕来り」は、遂には「地名」までに及び、「713年」には「好字二文字令の制度・仕来り」が出て郡郷までに至ったが、「諡号の名」に関してだけはなかなか「格式の伝統」として存在する以上、治らずに平安末期まで護られた。
それは、「嵯峨天皇」が定めた「新撰姓氏禄・諡号の定め・815年」との「地名と姓の整合性」が取れずに結局は権威化され残ったとされるのだ。
これは青木氏族だけの歴史観である。
さて、これらの「慣習仕来り掟」を前提に、ここまでを「氏族・諡号の姓」と云うか「姓族・第二の姓」と云うかは、この「朝廷の決まり」の中では「松井氏」は「氏族」とは云わないのである。
少なくとも「慣習仕来り掟論」からは「平安期の慣習仕来り掟」を無視され始めた「室町期」の「姓族・第二の姓」と成り得るのだ。
「松井氏の呼称」には次の通りである。
1 為義流の源維義を祖とする松井氏(松井冠者)
2 源満政流を祖とする松井氏
但し、2の満政流の松井氏は、源満政6世孫で源頼朝の御家人となり、山城国綴喜郡の地頭職となった「重行の系統」がある
3 同郡に「渡来人系(百済人とも)の松井氏」
以上の二系統があるがこれとは別系統である。
さて、これらの事の歴史観を前提に、松井氏のそのルーツを探る。
第1の説
そのルーツは始祖は先ず「河内源氏の源維義・為義の14男系譜無」であるとしている。
この「始祖の維義」が、「松井・京田辺松井地区」の「冠者・六位無冠・下級官僚」を任命され「松井冠者」と称されたとしている。
この「松井の地名」を取って「維義の子・季義」が「松井姓」を名乗ったされるルーツの前提である。
この「松井姓の裔」が「遠江に移住」、「近江に移住」、「丹波に移住」の三カ所に移住したと成っている。
この「遠江に移住」が本論の「青木貞治」に関わった「松井姓」であるとする「第1の説」がある。
第2の説
次は、「摂津源氏源の満政・始祖経基の次男」をルーツとする「松井姓」で、この満政を始祖とする「6代目裔・?」が「鎌倉時代」の「頼朝の御家人」と成り、「山城の綴喜郡の地頭」を命じられて「松井姓」を名乗ったとし、更に、この裔の子孫が「三河」に移住し「三河旗本」と成り、「松井姓」を名乗ったとする「第2の説」がある。
但し、この史実に関わる「問題の今川氏」ではない。
第3の説
室町時代に「今川氏の家臣」に成り、「遠江の松井姓」を名乗り、後に「三河松井氏」と成ったとするが、室町期前の裔系の事は全く不明である「第3の説」である。
第4の説
「綴喜郡」に渡来人(時期不明・室町期?)が入り、その祖は「地名の松井」を採って「松井姓」を名乗ったとする「第4の説」がある。
この「地名の松井」は「綴喜郡より18k真西」に在る。
この説は「第2の説」の「綴喜郡・琵琶湖真南14k」に譜を恣意的に合わしている。
尚、「渡来人」とすると、奈良期の「後漢の難民」では無く、朝鮮征伐前後に職人を連れて来た近江と丹波に入った「朝鮮難民・百済」と成る。
この「朝鮮・百済難民」は「近江の鍛冶屋・龍源寺銃等の鍛冶職人」と成ったとされる説がある。
恐らくは、此の民が「松井姓」を名乗ったとする「職人説」である。
先ず、第1の説から第4の説までの検証である。
「共通する点」は、何れも“「国衆」”と成って「各地」を渡り歩いた先が「三河」か「遠江」であって、そこで「松井姓」を名乗っている事がポイントである。
本論の「駿河の青木貞治」に関わった「松井姓」は、凡そ「第3の説」に近い事に成るが、但し、「過去の事」は判らないし、約400年後に「国衆と云う立場」にあり、即ち、「全国」を渡り歩いてより良い仕官先を見つける「土豪集団」であったのだ。
故に、「過去」を造る為に、その「過去の系譜」を「第1の説」に繋いでいると云う典型的な搾取のパターンである。
そして、更に「辻褄を合わす為」にそれを「第2の説」に繋いでいるのだ。
ところが、「第1の説」は「河内源氏」の「松井姓」、「第2の説」は「摂津源氏」の「松井姓」である。
系流がそもそもが異なるのだ。
次に、ところがこの「源維義」は、「為義の14男・本来12男」であるとしているが、ところが「妾子含めて12男」しか無く「この系譜上」には載らない「架空の人物」である。
よくある「系譜の繋手法」である。
更に「満政」は「始祖経基王」の「次男・満仲の異母弟」としている。
「1000年代前後の歴史上人物」であるが、その「裔の6代目・10人」として人物特定されていないので、「所在が不明人物説」であり、且つ、「最低で1120年~最大で1180年頃」の「平安末期・保元平治の乱・1156年~1160年」の時代の人物と成り得て、そうすると「美濃源氏」と成るのである。
これも出自元が一致しない。
そもそも歴史的に「系譜の名」が明確に成っている「6代目の裔名」も不明だし、「鎌倉期」ではないし、この「満政ルーツの裔」は「出生の姓等」は全く「松井」に関していないのだ。
この様に「辻褄合わせ」の「第1の説+第2の説」の「繋ぎ」にも更に「理解不能の大矛盾」があるのだ。
因みに、源氏一族全ては1221年で完全滅亡しているのだ。
そもそも、「駿河青木貞治」に関わった「今川氏の家臣の松井氏の一族」は「桶狭間」で滅亡している。
依って、「二俣城の城主」は「松平氏の家臣の中根氏・主将」であって、「今川氏の遠江松井氏」と「駿河青木貞治」とに関わっていないのだ。
要するに「三河松井氏」は基本的に無い事に成るのだ。
恐らくは、結論は「400年後の山城の松井庄」から出自し、身を興して「国衆」と成って「駿河」に移り、「今川氏の国衆―家臣」を経て「二俣城の城代」と立身出世した者であろう。
そもそも、故に時系列から「400年後の山城の松井庄」は、最早、「源氏云々の地」では無い。
「平安期の土地の所縁」を以て「国衆名」として名乗り、果ては「今川氏の遠江松井氏」と成り得たとするものであろう。
要するに、前段で論じた「四国の庄・阿波説と讃岐説」より出でて「国衆」と成り「伊川津七党の牧野氏等」と成った「経緯・地頭職等も」と全く同然である。
戦乱に依る「第二の姓の勃興」と「下剋上」で消えた「諡号の姓の搾取」のタイプA
「初期の系譜繋合わせ」の搾取横行時代と「後期の系譜繋合わせ」が起こった「江戸初期の国印状取得」の「搾取横行時代」のタイプB
この「ABの二つのタイプ」の何れかである。
では、「駿河青木氏の青木貞治」と「駿河・遠江松井氏の所縁の接点」は、上記では「近江・山城」を「共通の所縁」としていたが、上記の「国衆論」だとすると論は一致しない。
唯、確かな接点はある。
「出自の山城」は、「一門の蒲生秀郷流青木氏」と一致していたし、「伊勢青木氏の血縁先」の「近江青木氏との血縁の所縁地」でもあった。
この「出自元」が“「松井の庄」”としていて、「駿河」では「国衆」と成り得ている事が、「青木氏族の時代性」を「過去400年~700年」に遡り、「近江山城との関係性」は「伊勢信濃側青木氏」では衰退しているが「所縁」に関して何かあった可能性がある。
そもそも最早意味の無い源氏族であるかは別として、「松井の庄の出自である事」では間違いは無い事なので、この事から「他の所縁の有無」の検証をして観る。
結果として「所縁と成る繋ぎ目」が「青木氏族」との間にあった。
先ず、それは「地形の点」である。
「琵琶湖の南」の左に「松井の庄」があって、約2.5平方k程度の庄
「琵琶湖の東」の右に「蒲生の庄」があって、約9.0平方k程度の庄
要するにここは前段でも論じた「火縄銃の経緯」から論じた「後の日野庄」である。
ここは「松井の庄」の北東55kの位置にあり、大戸川を挟んで左右の中間の位置にある。
この「松井の庄」から「信楽の山」を一つ挟んで隣に「蒲生の庄・日野」がある。
先ずここが「第一つ目の繋ぎ点」であり「隣の庄」としては関係性は強くある。
次に「血縁の点」としては次の様に成る。
この「蒲生氏」は「秀郷流一門」で朝廷関係に派遣されていた一族であって、この「一族・高郷」に嫁いだ「伊勢青木氏の女系・梵純の母」で、その「伊勢の里・母の里」に「秀郷流青木氏」を興し継承したのであり、唯、「松井」には四掟にて血縁の関係は無い。
その周囲は「近江青木氏、佐々木氏系青木氏、甲賀青木氏、血縁族の近江佐々木氏等」の定住地である。
山を一つ越えた「松井の庄」の住民であるとするならば、ここからは「東隣の成り行き」を知り得ていた事は充分に考えられる。
「松井の庄の場所」の点に付いては「決定的な重要な論点」であり、それは次の様に成る。
室町期の「日野の庄」は前段でも論じた様に「堺支店」より「財源と資材と青木氏部の工人」を供給して「火縄銃の生産拠点」にした地域でもある。
この「物資・後に火縄銃等」を「松井の庄」に運び、そこから「隣の淀川」を経由して大阪湾に運び出し、そこから「堺店」を経由して販売をしていた。
ここはその「長い間の歴史的中継点・淀川真西4k」であった。
更に、その「所縁」を以て「蒲生の庄」から「松井の庄」の「周囲・均等」には何と青木氏の菩提寺の「清光寺」が何と「5寺」も存在していたのである。
この「青木氏の一族」の「菩提寺の清光寺」は「定住地」のそのものを意味するよりは、「堺との関わり」に依る「一族の現地在住の菩提寺」でもあり、尚且つ「青木氏に関わる事務所的要素を持った寺」でもあったのだ。
「七つの寺が菩提寺」と云うのは青木氏族がそれだけ定住していたとする数は多すぎる。
それよりは前段でも論じた様に事務所的要素が大きかったのだ。
このこの事が示す様に「松井の庄」が「中継点の役割」を果たしていたとすると、この「5つの清光寺の寺と分寺の清蓮寺を加えると7寺」は「荷駄」などの「一時保管場所的要素をも持っていた事」に成る。
当然にその結果として、「松井の庄の民」にもその「役割」は必然的に生まれていたであろう事が予想できる。
この域には、注目する点は定住地外のその「役目」としては「菩提寺の数」に比して当然に「神明社」がある筈だ。
それが無いのは、「事務所的要素と一時保管場所的要素」を重視していた事を意味する。
「事務所的要素と一時保管場所的要素」を置く事に依って、「寺」は「寺」では無く「寺」でもあり、「寺」と云う「寺閣・平城館」を利用して室町期出ある以上は「周囲への防御」に置いていたと考えられる。
例えば、「伊勢」の西入り口の地の「伊賀の戦い」で有名を覇した「名張の清蓮寺城・平城館」と同じ意味を成しているのだ。
だから、清蓮城寺があるのだ。
「伊勢青木氏」は奈良期よりこの戦略を採って来たが、「伊勢と堺の防衛上の歴史的な重要拠点」でもあった事にも成る。
その意味で、「松井の庄」は、「蒲生の庄」と堺までの「中間点」にもあり、淀川平野に出た「利便性の高い位置関係」に在ったのだ。
この事は青木氏論に関わらず、故に山間部の国の「近江滋賀山城」から観れば、「松井の庄」の地点は、上記の「第1の説」から「第4の説」に説く様に、古来より「冠者や地頭職」を置くほどに「重要な位置関係」を成していたのだ。
記する処は「第4の説」などは、“何故ここに渡来人の工人が?”と成る所以であるのだ。
「松井の庄」と「第4の説」と共に、ここ無くして「山奥の日野の火縄銃の生産」が「資材や工人の条件」と共に成し得なかった事でもあったのだ。
当にこれは室町期に関わらず奈良期からでもあったのだ。
「蒲生の庄」、「日野の庄」の人間全てに執って知らない者はいなかったであろうし、「松井の庄」からも同じ事であったろう。
故に、「伊勢との関係」は上記の通り同然のものとして、この「伊勢の二つの青木氏」と深く血縁で繋がる「駿河青木氏・青木貞治」に執って見れば、「松井の庄の出自の者」と成れば親密感を共有する事に成り、同然に「遠江の松井氏」に執っても同じであったろう。
戦国の世に於いて「遠江」に「国衆」として出てくる前の「松井の庄」で「若い頃を生きた者」に執っては懐かしさもあったと考えられる。
もっと云えば、「駿河青木氏・青木貞治」は伊勢で5年間ほど鍛えられ船で摂津に赴く等の事は充分にあり「松井の庄」に赴いた事もあったのではとも考える事は出来る。
この「遠江松井氏」に付いては遠江での譜は次の通りである。
宗能1―義行―貞宗2―信薫3―宗重4―宗恒5―宗親6―宗直7
1 御厨領家の土地を授与 1513年
2 宗能より平川郷堤城主 主要家臣 1528年
3 二俣城城主 1529 病死
4 宗信・弟 二俣城家督 1529 桶狭間戦死 1560年
5 宗恒・弟 二俣城家督 1560年
6 宗親・一族 二俣城城主 徳川氏調略・飯尾氏謀反で今川氏謀殺する。1563年
7 松井氏衰退 武田、徳川氏、今川氏に分裂後衰退 徳川氏旗本 1590年
そうすると、「駿河青木氏・青木貞治」は「伊勢」にて1540年~1545年に「訓練・5年間」の後に「大船一艘」を与えられ、「駿河」で「駿河青木氏・伊勢より嫁す」を「再興・1550年頃」し、「糧」を得て「子孫」を拡大、遠江―駿河―伊勢―「渥美・三河」―伊豆―相模で「活躍・1550年~1555年頃」し、「財」を成す。
以上の経緯を持っている事に成る。
この経緯から「松井氏」との「繋がり」は、先ず判断として「宗信~宗恒~宗親」に持ったという事に成る。
「早期の経緯論」としては、「活躍・1550年~1555年頃」し、「財」を成している段階で、「国衆の段階」を経て「松井氏家臣」に成ったのは「1555年~1560年」で、この経緯が成立するかである。
「中期の経緯論」としては、「5の宗恒」であるが、病死で直系尊属者無く「一族の者」の「6の宗親」に家督継承されている。
ここで、今川氏と決裂し、徳川氏が関わって来る。
「終期の経緯論」としては、「7の松井氏」の「衰退・分裂」が始まり、徳川氏方が勝利し、徳川氏家臣と成る。)
「青木氏の伝統 63」-「青木氏の歴史観-36」に続く。
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そもそも、氏家制度の社会の中であり、その様に考えるのが普通である。
寧ろ、筆者なら大いに利用したが、ところが「青木氏の氏是に基づく信念」を貫き、「提供」が結果として「青木氏に危険を招く」として、「資金の提供」はあったとしても「銃の提供」に関してだけは応じていないのだ。
又、「銃の保持」は、「青木氏の氏是」に関わらず、「銃」は「銃シンジケート」に依って掟の範囲で隔離され、仮に「金銭」が有っても「仲間の約束」は護り「調達」は難しかったのだ。
そもそも「青木氏の銃」は「貿易と財力と高度な熟練」を無くして手軽に保持できる「銃型」では無かった。
ハッキリ言えば、この「三つ要件」を身内に備える、況や“「青木氏銃」”であって「青木氏族」にしか使えない銃であったのだ。
それだけに飽く迄も「保持の前提」は、「額田青木氏の南下国衆の護身用の改良銃」であって、「松平氏・この頃から徳川氏を頻繁に名乗る」は、それを「国衆の戦力」として観てこれを「味方に持つ事」と引き換えに、「渥美湾の制海権の獲得の条件」を認めたのだ。
その意味では、“戦力と云うよりは抑止力的効果を期待していた事”も一部では読み取れる。
況や、この意味でも、「青木氏族の一員」の“「青木貞治とその子孫の松平氏の内部の活躍具合」”が読み解けるのだ。
「青木氏の伝統 62」-「青木氏の歴史観-35」
(注釈 「駿河青木氏と額田青木氏の銃隊の関係」
この二の一族の青木氏の関係の中に存在する疑問を詳細経緯として解いてみる。
重要な幾つかの疑問があり、これが判れば青木氏族はより理解され歴史観と成り得るだろう。
そこで何故、「駿河の青木貞治一族」に、、「額田青木氏」と同じ様にこの「特殊銃」を与えなかったかと云う事の「疑問」が残るが、それは”「実戦銃」”を目的とせず「護身銃・抑止力銃」であったからだ。
「青木貞治隊」は大いに希望し、且つ「秀郷流一族一門」からも求められた事は間違いなく考えられるが、上記の「三つの要件」を備えていながら頑固に然し渡さなかったのだ。
結論から、それは「額田青木氏」は確かに三河国衆と成ったがそのそのその”国衆目的が戦う集団では無かった”からだ。
”「護身用」”としているのはそこにある。戦う集団では”「戦う武器」”である。
ここが決定的に違ったのだ。
と云う事は「国衆」はある目的を達成させる為の「一時的隠れ蓑であった事」に成る。
勿論、「伊勢」から観れば、「実戦銃」を目的とせず「護身銃・抑止力銃」であった事ではあるが、もう一つは”「戦う武器」”であれば「松平氏の中での位置関係」に「歪みが生じる事」に強い懸念の配慮があったと観ている。
この事が、「額田青木氏の南下国衆」の「伊川津での例」に漏れず、”「旗本との軋轢」”を受ける結果と成って行ったのだろう。
それは「銃の威力を持つ事」に依る「権力闘争の歪み」である。
小さい国衆で在りながらも大きい発言力を持つ事への「旗本の苛立ち」にあったのだ。
それ故に、「壊滅状態の三方ヶ原」で無理にでも近づく事の出来ない「弾幕」を張って「銃力」で以て「青木貞治隊」を救い出したのだし、救い出せれば「秀郷流一族一門」に対する「伊勢の立場」は保全出来るし、旗本への牽制にも成ったのだ。
故に「2年後の長篠後」でも「貞治の子の青木長三郎隊」は生き残れているのだし、「旗本への牽制」にも成っていたのだ。
尚、其の後の「江戸期初期」に入ってでも「秀郷流青木一族」は、「伊勢」に於いても「徳川氏」と血縁し、中でも「家康の孫娘・勝姫末裔」が、「忠元家の青木氏・伊勢秀郷流青木氏」と「信定家の青木氏・伊勢青木氏」の融合族の「二つの血筋」に加わり娶り、「青木氏の四掟の伝統」から外れた「徳川氏の血筋・立ち葵紋・姓族」が「四家」に加わり、改めて「五家目融合族」の「姓血縁の伊勢四日市殿」と成ったのだ。
新たに「徳川氏の姓血筋」を入れたが、「平安期からの融合の青木氏族」の「四日市殿」と云う一族を「姓血縁の四日市殿」として構築し直しているのだ。
こう成れば最早、「駿河青木氏」に対しての「旗本の口出す場」は少なくなったのだ
「伊賀越えの事件」で逃亡中に、「徳川氏との血縁族」の「伊勢の四日市・四日市殿」にて一時休息したのもこの事から来ていると観られる。
この様に、この「青木貞治の内部の活躍具合」が無ければ、前段で論じた様な「青木氏の氏是」を護り通し、この様な「活躍・繁栄」は無かったと考えられる。
これが、即ち、「青木氏一族の鍵」であったとも云える。
「三河国衆に合力する事」も始めとして相当に「渥美湾の制海権の獲得の条件」の時にも「秀郷流青木貞治一門」の「内部での一連の活躍」はあったと観ているのだ。
さうで無ければ、これだけの事を急に「好条件」に導く出すには「伊勢との直接交渉」だけでは難しかったと観ているのだ。
「青木貞治」が「家康との仲介の役」を執ったと観ている。
そして「情報獲得の面」でも、何と云っても「籠城戦」から「野戦に変更した事」を「短時間」の間にこの極秘の「内部の情報」を掴んでいるのだ。
つまり、何と云っても尾行中の「浜松城」から「館山街道の湖東町交差点」の「短い間」でこの「内部事情」を掴んでいるのだ。
そして、「理由・目的」は兎も角も「東の三方ヶ原」に踵を変えさしたのだ。
この直前で、「二俣城開城」で「城の兵・1280」は「浜松城」に帰されている。
この事、二俣城を護れ通せなかったとする苦しい立場の中で”「ある決断」”をしたのだ。
「東の三方ヶ原」に踵を変えた理由には、「伊勢側の資料」では「様子見」であったとしているが、つまり、この「決断の実行」には、この「青木貞治」と情報提供時に「何かの交渉・接触・密かに救出策」があったのではないかと観ている。
「救出策」は「南下国衆の銃隊の指揮官」からであったろう。
この後、「情報提供の後の三方ヶ原」で「南下国衆の銃隊の指揮官」とその一族」であった「駿河青木氏・伊勢との血縁もある」の「青木貞治」が、共に「戦死している事・戦記では覚悟としている」を考え合わせると、「青木貞治」は「松平軍の情報」を詳細に示唆した。
そこで、その情報を聞いて「南下国衆」は、「救出後」に始めから「伊川津に戻る事」を計画し示していた事が予想できる。
この「救出劇」は、「青木貞治隊の配置」の位置に左右されるが、「青木貞治の隊」はどの位置に配置されていたかは正確に描いたものはないが、「駿河国衆青木氏・四騎200」であるので、記録からは右か左かは不明だが「鶴翼部に居た事」は充分に予想できる。
でなければ救い出せなかった筈である。
先ず右であれば弾幕で牽制して「武田軍の進軍」を一時阻止し、その間に左に急いで廻る事に成るだろう。
根拠は無いが「時間的な状況証拠・時間的余裕は無い」から幸い「左鶴翼」に居たと推測する。
そこに突然に予想外に「山県軍の別動隊」が右前方から突撃して来た事で「時間的余裕」が無かった筈だ。
この貞治隊の「少し東の付け根の左の位置」に隠れる様に「銃隊が位置していた事」から観て、資料の記述の通り”「様子見」”ではあった事も判るが、これを「補完し助ける意味」でも、”情報を得ていた事”からこの隊の少し「東の付け根の位置」に隠れる様にしていたのではないかと観ているのだ。
そもそも資料行の記述に付いて、”何の為の様子見”であるかが判らない。
普通なら救出の為のタイミングを計っていた事の”タイミングの様子見”であろうが、上記した様にタイムラグからしてこの”様子見”は山県軍の別動隊の突撃で無かったと考えられる。
この”様子見”は、「武田軍と松平軍の勝敗」の事を意味した記述とも受け取れるが、既にこの勝敗は「軍議の争い」が原因して、「青木貞治の救出」と云う最終目的に代わっていた事から、「無関係の立場」に成っていたのであるので無かったと観られる。
そこで“一族である”のなら放置する事は先ず100%無く何よりも優先して救出はする。
この”様子見”は、いざと云う時には、額田南下国衆も生死を掛けて「武田軍の本隊」に対して「銃射撃の弾幕」で助け出す事を目論んでいたと観る。その一点の見極めと捉える事が出来る。
結果は、「左翼面に居た青木貞治隊」を「東の付け根の左位置」から「左斜め」に向かって「銃の連続弾幕」を張っての煙幕の中から救い出した事に成る。
この時、同時に「前方右鶴翼側面のやや斜右方向から「山県軍の別動隊」が突然突撃して来たのだ。
そして、左方向と右方向の左右に弾幕を張る難しい結果と成ったのだ。
現実にはこの方向の流れに動いた。
然し、其処までは良かった。
「山県軍の別動隊が突撃して来たという事」で「銃隊自らも危機」と成り、応戦して撃退したが、この同じ位置関係の混乱の中で「駿河の青木貞治」も「伊勢の青木・・の指揮官」も共に戦死したのだ。
故に、その”様子見”と云う語句には可成り混乱していた可能性がを暗示したものであったのであろう。
この論には、唯、共に結果として”偶然の様に両指揮官が戦死する”と云う「最悪の事態」が起こったが、これが筆者には疑問を持つのだ。
其れを先ずは論じる。
これには筆者は「狙撃説」を採っている。
それも「救出直後の一瞬の狙撃」であったと観ていて、当然にこの救出時の一瞬の状況証拠から「松平軍からの狙撃」である事は判る。
その狙撃の原因説は「戦闘前夜の軍議」にあったと観ているのだ。
「吉田城守備隊」から急遽、「浜松城」に呼び出され「軍議」に参加してこの下された「軍議の命令」を拒否した。
その結果で、そして「城外」に放り出され「城」から充分に観えている「一言坂の武田軍本隊の偵察」と云う意味の無い命令を受けたのだ。
所謂、条件をを付けられた「特異な国衆」であった事に依って「打撃」とはならず、そこで「武田軍」と激突させての決死隊の命令であったが、あわよくば「打撃をと図った事の命令」であったが「銃隊」は結果は勝ったのだ。
結果として、最早、「松平軍」にはここまでとして「自由」」に成ったのだ。
だから、上記の様に「青木貞治隊」を自由に救出できたのだ。
故に,「密命」を帯びた隠れていた「狙撃兵」に「二人」は一瞬の隙間の間隙を使われ狙撃されたのだろう。
「銃隊」はこの混乱で其の後は、「次の差配頭・伊勢秀郷流青木氏の者」が「指揮を執っていたという事」に成っているが、故にこれが「伊勢の資料」では「一族の二人の戦死」が重複するような「不詳の内容の原因」と成っているのだと観られる。
恐らくはこの「筆者の読み違い」は、歌や俳句の様に「文面の表側より内側」に秘めるものを察すると云う「当時の言葉の使い分け慣習」があって、それでそれを会得していない筆者には読み切れなかったのであろう。
「駿河の青木貞治の一門の隊」は、後に、上記した「堺からの逃亡・伊賀越え事件」で「戦功・勲功」を揚げている事から観て、「青木貞治」を除くの「一族全員」が救出に依って生き残ったと観られる。
「山県軍の別動隊」が突撃して来て「銃」で応戦したが、この時、「銃隊の一部」が「駿河の青木貞治の一門の隊」を護る為に、「武田軍の本隊」の先端に「銃弾」を浴びせて「事前の打ち合わせの計画」として「開戦」より相当に早期に「200兵の全部」を救い出したのではと考えられる。
山県軍の突然の突撃して開戦と成ったが、「救出」が全部とすると「開戦と同時であった事」が云える。
相当に慌てた事になったろうが、「青木貞治隊」は東に逸れて天竜川沿いに「盤田見附の西光寺・菩提寺」に目がけて走ったのだ。
故に、「伊川津の西光寺・現存」より「54k・船1日」の「真東の盤田見附」に「菩提寺・西光寺」が今も遺しているのだし、唯この時、“見捨てて逃げる”だけでは、それ以後も「一族関係」が保たれている訳はないが保たれていたのだ。
当然に、これは「副将青木貞治の子孫」に於いても云えるものである。
そして、「示唆の通り」に「予定通り」に「戦線離脱」して「伊川津に戻ったと云う事」に成る。
この時の状況には、確認しておく必要がある事がある。
それは、直接、「二俣城の副将・青木貞治」であって「二俣城開城後」に「浜松城に戻っている事」の史実からすると、この「大きな犠牲の敗戦要素」と成った「山県軍の別動隊の事」に付いては、既に「二俣城」で「青木貞治」は山県と面識している事に成り承知していて、この事から“何れの日にか「武田軍の本隊」に合流する”と見抜いていた事にも成る。
そして、直に「詳細な内部情報」を掴める「作戦会議」には「副将」であるので参加していた筈である。
問題は、未だ「山県軍」が「三方ヶ原」に“何時来るのか”の「時間の問題」は判らなかったのであろうし、「参戦するかの事」も判らなかったであろう。
それは「別動隊の使命」として「補給路の確保」があったからで、「戦う」と云うよりは「二俣城の戦場処理・戦後処理・補給体制」に重点を置かれていた筈で、「武田軍の本隊」だけでも戦っても“松平軍は負ける”と「副将青木貞治」は観ていた可能性は充分にある。
但し、この前提は先ず「籠城戦である事」だった。
つまり、"戦いに参戦しない"と云う固定概念が有った筈である。
そこで、「別動隊の使命」として、「三方ヶ原に補給拠点を構築する事」の為に何時かは早い内に来るだろうと観ていたのだ。
ところが「二俣城開城後」は開城であって落城で無い以上、周囲の勢力は未だ抑えきれていなかったのだ。
これに大分時間が掛かったのだ。
そこで、「松平軍の夜通しの作戦会議」では、「青木貞治」は良く知る「山県軍の別動隊の行動」を詳細に論じた可能性がある。
それを聞いた「家康」は、この「補給拠点を破壊・確保」の為に「籠城作戦」を急遽、変える決心を密かに決めたと云う事であろう。
従って、「一言坂」で野戦し敗戦して「家臣の犠牲」のもとでやっとの体で「浜松城」に逃げ帰ったと云う経験がありながらも、「堀江城の落城」を聞いて「冷静さ」を無くし、これの「経験」を生かさずに再び異常にも「野戦」に変えたとする定説には一類の疑問を感じるのだ。
そもそも、「家康」が「心の内で密かに決めたと云う事」がそもそも周囲から判る事は無く、「冷静さを無くした」も同然で定説に導く様に判断されたのであろう。
故に、この「作戦変更」で、「三河戦記」にも記されている様に「二俣城の開城の敗戦の責任」を執る為に死を覚悟したとする定説に導いたのであろう。
そもそも、この「戦記の定説」が、これも「青木貞治の個人の心の中」をどうして判ったのかであり、信用できない。
では、最も責任を取らなければならない人物が居たのだ。
その時の「二俣城」の「譜代家臣の主将・中根正照」ともう一人の「副将の松平康安」はどうしたかであるが、三河戦記の中に戦死者としてこの二人は含まれていないのだ。
故に“副将の青木貞治だけが死を覚悟したとする定説”は疑問で、もつと責任を執るべき二人はこの様に居たのだ。
では、そこで「軍議の中」で“青木氏貞治に何が起こったのか”である。
戦記でこれだけの事を定説として記されている以上は、何も無かったと云う事には成らない筈である。
「戦記に残す右筆衆」が「戦場の全体を見下ろせる安全な所」から観ていた筈だし、且つ、戦後、「三方ヶ原の生き残り者」に聴取して正確な資料を纏めていた筈で、これを当時の「戦国の仕来り」では家康に「論功考証の為」にこの「右筆衆」は報告をしている事に成っているのだ。
この「右筆衆の原石」はこの様には書いていなかった筈である。
筆者は、「詳細経緯」として、確かに当初は「責任を採った事」は有り得る事で間違は無いと観ていたが、ところが「史実と時系列」を良く調べると、その「責任の取った理由」、将又、「採り方」に問題があったと観ているのだ。
上記した様に、「青木貞治」は「額田青木氏」に「一族の者・200の救出」を「内部の情報提供」の時に依頼したが、そしてこの救出の際に弾幕を張って救い出した。
然し、当初は、騎馬上から「混乱の中」で敵の目を自分に引き付けたと筆者は戦記が匂わしている様に観ていたのだ。
敵の目を引き付けるに付値する「青木貞治」は「有名な将であった事」は否めず、「武田軍の本隊」も「二俣城」で承知していて、そこで筆者は、敢えて突然に敵前に向かい、この間に「武田軍の本隊」が近づけない様にし「南下国衆の銃隊の弾幕の誘導」で救出したのであろうと考えていた。
然し、この考えは詳細経緯と時系列を良く考察すると不自然だ。
そもそも、「6000の騎馬隊全体」を一人に引き付ける事はそもそも不可能であり、これは江戸期の明らかに美化の為のストリー化である。
要するに明らかに「物語風戦記」ではある。
この説であると、既に騎馬隊は突撃している事に成り、味方の山県軍と交差する事に成りあり得ず「銃隊の存在」のみならず「無傷の救出もあり得ない事」に成るし、更には「銃隊の弾幕も無かった事」に成り得る。
そもそも、「南下国衆の銃隊の銃撃や戦線離脱の経緯」の全体も無くなるし「伊勢資料も無い事」に成る。
この「物語風戦記の行」を使う事には問題が生まれて来たのだ。
何故ならば、「青木貞治」もこの弾幕の中に包み込めば救出は容易であった筈である。
ところが然し、筆者は「向後の憂い」を無くしこの事で「弾幕の中に入る事」はしなかったのだと思い込んで仕舞ったのだ。
それを詳細な時系列は留めたのだ。
つまり、何を云わんとしているかと云うと、「松平軍の軍議」に於いて相当に「二俣城の無戦開城の責・水攻め」を「三河旗本衆」に問われたのではないか云う事だ。
「全員戦死の覚悟」で「二俣城」でも「時間稼ぎ」を求められていたが、「譜代家臣の主将の中根」の責を問うのでは無く、「旗本」ではない「副将の青木貞治」に非難が集中したのではないかと予想しているのだ。
その前に最も責を負う人物が居たと云う事だ。
それは「松平康安・18歳初陣」である。
この人物は「大草松平氏の出自」で「曾祖父」は「家康に反抗した者の裔」であり、副将級の「軍目付・軍監」として「二俣城」に派遣されていたのであった。
その前に、この「二俣城」は、そもそも元は「今川氏の輩下の松井氏の居城」で、この領土の盤田見附の土地に「縁・前段」あって、「青木貞治」は「遠州国衆・経緯下記」としてこの臣下と成った経緯を持っていたのだ。
恐らくは、「旗本との間」でこの「関係」に「糸を引いていた事」と考えられる。
然し、この事に就いて「右筆衆等」が、「何かの形・郷土史や手紙や寺や一門記録」で残しているかと観て調べたが遺されている資料は無かった。
「無いと云う事」に就いて、これは後に「家康の用人」として「青木貞治の子孫・長三郎」が重用されている立場として、“江戸期に成って「幕府の権威」を下げる様な「史実」を世に遺すのは好ましくない”として消し去った可能性が高いのだ。
それは、実はこの事に及ばず殆どの事に付いての「秀郷流青木氏の資料」が、その研究にも具する程のものが遺されていないのが現状で、その「残念な理由」の一つとしても此処にあるのだ。
その「残念な理由」とは、「秀吉天下の対応」で「徳川家康」は「武蔵転封・1590年」と成ったが、この際、土地の大郷士集団であった「秀郷流一族一門・316氏」を味方に着ける為に、「一族一門の者の一切を家臣・官僚族・旗本家人衆」に抱え込んで味方に着けた。
そして、自らも「藤原の朝臣」とし「氏名」を名乗る程に扱ったのだ。
其れも、「平安時代の習い」に従い、「徳川氏の御家人・天皇家の家人扱いと同じ格式」として扱い「特別な格式・家人扱い」を与えて「旗本」とは別に幕府で「事務官僚・本領安堵」として重用した経緯を持っているのだ。
当然に「格式の無い旗本・近習衆」は猛烈な反発をしたのだが、それ故に、「幕府の権威を下げる資料」などの保存は悉く抹祥されたのだ。
これが所以の一つなのである。
ここに至る「詳細経緯の始点」も“「駿河青木氏の貞治」”に始まっているのだ。
上記の後の事を
を考察すると、故に責は「松平康安」にあったが、「青木貞治に押し付けたと云う経緯」があった事で、この史実の経緯を抹殺しようとしたと考えられるのだ。
その為には、「青木貞治を救出される事」は逆に「旗本に執っては拙い事」であったのだ。
それで狙撃して戦死と見せかけようとしたのだ。
次の疑問として更に論じてみる。
そこで、この行の“「一族一門の者の一切を家臣・官僚族」に抱え込んで味方に着けた イ”に付いての疑問があるのだ。
それは、“「徳川氏」が何も無しでこの「状況イ」を作り込んだか”である。
それは無理でありこの「氏家制度」の中ではこれはあり得ない事で、「藤原秀郷流一門の者」が勝手に個々に「家臣に成る等の事」は一切出来ず、もし、それをすれば一族一門から排他され滅ぼされる始末の世の中であった。
要するに「互いの結束」に依って「吾身」を護っていたのが「氏家制度」であるのだ。
当然に、この制度に於いては今論じている「額田青木氏等」と「伊勢」を始めとして「全青木氏族」も同然であった。
故に、「武蔵入間の総家」との「繋」が無ければ成り立たない「時代事」であったのだ。
とすると「繋」が必要であった筈である。
筆者は、この「徳川氏の繋ぎの役目」を果たした、又は出来た唯一人の人物は「青木貞治の子の長三郎」であったと観ているのだ。
其れは青木氏貞治の裔のその後の事に関わるのだ。
この「貞治の子の長三郎」は、その後、「家康の御側衆・上級側衆・最終は上級番方に成る・3500石・1400貫・国衆から旗本」に破格の出世をしていたのだ。
「状況イ」を作り込んだ人物”としては何せ役柄と云う点からもピッタリである。
そもそも、この歴史上に遺るこの人物は、「本能寺の変頃の伊賀越え」で大功績を掲げ「家康の命を救った人物」であるのだ。
それらの事から「江戸期初期」の「長三郎の役目柄とその子孫」もその様な立場にいて、「最終」は「名誉格式を持つ上級番方頭・家人旗本」に成っているのだ。
その彼が、"宗家と紐付けた"と考えているのだ。
「本論の詳細経緯」の特筆するはここにあり先ず間違いは無いだろう。
後勘から観ると、更にはこれが「伊勢青木氏等の青木氏族」に執っても「生き方」を「良い方向」に向けた「所以の起点」とも成ったのである。
唯、その「起点」を作った「初代・青木貞治」には「波乱万丈の人生」であったと云える。
何事もこの世は初代は、波風の人生を送るは世の常庸であった事は理解できる。
この「波風の人生」を物語る徳川氏の出現は、「長篠後」に奪還したこの「二俣城」を彼の「青木氏」が苦しめられた「最大旗本の大久保忠世」に任しているのだ。
これを観てもこの「東三河の人物の旗本衆」には、「駿河青木氏」のみならず「伊川津の額田青木氏」に於いても「同じ仕打ち」を受け続けた事が判るのだ。
それだけに「松平氏・1563年改姓の徳川家康・上野国土豪得川」の先祖から「徳川」と解明したが、注・これを長篠後に大いに使うが、この様にこの「松平氏・徳川氏」に執っては、「二俣城の敗戦」は厳しく「戦略上の重要拠点」であったのだし、その旗本の「不満の矛先」を「軍議」の中で表したのだ。
それが、「主将中根」や「軍監の松平康安」に向けられずに理不尽にも国衆の身分の「青木貞治に向けた」と考えられるのだ。
然し、「所以の起点 イ」を造り出した以上、つまり、後の「江戸期」では、この「御家人と旗本と御側用人と上級番方頭・家人衆旗本」と「格式のある家筋の立場・秀郷流青木氏」に成った以上は、「旗本の不満の矛先」を向け難く成ったと考えられる。
然し、前段でも何度も論じたが、それでも「大久保・本多氏の旗本」からは江戸中期までは伊勢や信濃の青木氏にも未だ執拗に受け続けたのだ。
そもそも、「吉宗」を裏で将軍に「仕立て・親代わり」仕立て、共に「江戸向行」し、「享保の経済改革」を市中で実行した「伊勢青木氏・伊勢屋」でさえ、矢張り、「不満の矛先」は向けられたのだ。
「伊勢」に限らず「信濃青木氏」にも同然に酷い仕打ち「本領の割譲」を受ける結果と成ったのだ。
流石に「信濃も受ける羽目」と成り、「晩年の吉宗」も遂にはこの「不満の矛先」に加わりこれを止める事さえも出来せず、結局は「青木族」は裏切られ、江戸で「危険が生じる事態」と成り、急いで「伊勢に戻る羽目」と成ったのだ。
然し、其れだけではこの「不満の矛先」は依然として治まらず、「奈良期の天智天皇」より「伊勢の永代不入不倫の権」と「伊勢の事お構い無しの家康のお定め書」をも無視され、結局は「青木氏族・伊勢屋と伊勢シンジケート」と関西を仕切る「伊勢の山田奉行所・吉宗も同調・史実記録」との間でも有史来の「戦い寸前・ゲリラ戦・関東秀郷流青木氏が動き見せる」までに及んだのだ。
「三河旗本の嫉妬怨嗟」は、此処までも続く事象は斯くの如しであって、「軍議」の「青木貞治」にも向け背れていた事は後勘から観ても充分に考えられ先ず間違いは無い。
結局は、追記するが上記の「伊勢の件」は記録の通り「紀州藩・伊勢の青木氏一族が全家臣」が強力に介入し、間に入り「治まり」を着けたが、今度は、この「紀州藩」に「謀反の嫌疑」が架けられたが耐え偲んだのだ。
「格の如し」で「青木貞治」だけに及ばず「青木氏族全体」に「不満の矛先」は向けられ先鋭化していたのだ。
世の中で殆ど消えて行く中で今未だ比較にならない程の「格式力と財力と抑止力」を持ち正統に活き、それを背景に「政治」も裏で動かす「唯一の氏族」には「姓族の姓社会」では我慢が成らなかったのだと考えられる。
この「嫉妬・怨嗟」は、「人間社会」では人間である限りに於いて変わらないし否定はしないし、無くなる事は無いのだ。
「青木氏族自身」もそれを特段に取り立てたものとして考えていなかったのだ。
「青木氏の氏是」や「家訓10訓」を観れば、それが良く判り「普通の人間が生きる範囲」であったのだ。
故に、「青木氏族以上」には「過去」を周囲が意識を高めた行為であったのだ。
取り分け、「一向宗を概念とするこの三河族」に対しては青木氏族はその教義をやや高めたと云う事であろう。
さて、話を戻してそこで、更に詳細経緯を論じる。
この「苦しい環境の中」で、「青木貞治」は次の手を打ったという事だ。
この時に上記した様に「堀江」に向かい始めた「武田軍の本隊」を「額田の南下国衆の銃隊」は追尾していたが、そこで急いで「南下国衆の銃隊」に「情報提供した」と考えられる。
然し、この時の詳細経緯として「青木貞治」は、何故、自由の身と成った“南下国衆の銃隊が武田軍の本隊を追尾していた事を知っていたか”に掛かる。
それは“「何かの連絡網」”が「青木貞治との間」に構築されていた事に成るからだ。
云わずも乍らそれが、「伊勢」から派遣されていた「南下国衆の銃隊」に影に成りながら帯同していた「伊賀青木氏の忍者衆・香具師・隠密商人」にあったと観ているのだ。
つまり、「青木貞治隊」と「連絡」を取れる様に「伊賀青木氏の忍者衆・香具師」が隊の中に隠れて入っていたのだと云う事だ。
筆者は、寧ろ、「二俣城開城後」に「青木貞治隊200」に「兵」として「「伊賀青木氏の忍者衆・香具師の援軍」を送っていた事が考えられるが、この事は「定石として打つべき策」であって先ず間違いは無いだろう。
其れは次の事で証明できる。
「浜松城に呼び出された時」の「記録」では、「訓練」を受けたのは「額田青木氏の南下国衆の銃隊300」であったが、突然に「記録」は「南下国衆銃隊350」と替わっていて、「荷駄隊50」が加わっていて、これは「伊賀青木氏」と「伊勢秀郷一門」の「合流隊」と前段で説いたが、この事は当然に「青木貞治隊」にも云え、且つ、「武蔵の秀郷流一門からの援軍」と「伊勢からの援軍・伊賀青木氏の香具師」の「援軍」が加わったのではないかと「必然的な流れ」から「当然の事」として考えられるのだ。
とすると、その時期であるが、「伊勢からの援軍」は、時系列から可能な時期は、矢張り“「浜松城に呼び出された時」”であろう。
従って、時系列から「二俣城が開城した後の事」に成る。
又、「武蔵の秀郷流一門からの援軍」の場合は、時系列から当初から兵の数を整えて「副将」として入った「二俣城の時期」と成るだろう。
そもそも、その前に論じる事があるが、それは“何故副将と成り得たか”と云う事である。
その「副将」とする為には、「当時の慣習」から「青木貞治の兵数」を先ず増やし、それを「武蔵の秀郷流一門からの援軍」を求めた可能性がある。
寧ろ、求めたと云うよりは援軍は必然であったと考えられる。
何故ならば、因みにこの検証として、「駿河青木氏」の「今川氏の時代の国衆の知行」は次の様であったらしい。
検証して観ると、「江戸期」での記録を観ると、上記した様に基準は「3500石で家臣数200で1400貫」と記されている。
ところが、これに比較して「室町期」の国衆時の当時の「圷の野」であった「盤田域の庄面積」は、次の様であった。
約1800反程度弱≒1800石程度≒6000平方坪程度以下と成る。
そうすると当時は、1貫≒2.5石 7貫≒1兵 1反≒1石≒300坪≒1人の原則があった。
1家を5人として360家、この内の「農民等の家」は記録から8割として288、残りが武士の172家であり、「戦いに参加出来る者」が「最低家1人」とすると、「ave(172)≒約170人程度」と成る。
この「最低の基準」の「ave(172)≒約170人程度」に達しない場合は、農民の次男三男が「農兵・荷駄兵」として事前に金を渡され駆り出される仕組みであった。
記録では、その様な専門のバイヤーが居たと記されている。
そうすると「戦線に義務付けられた基準」は先ず「720貫 兵102人:1800石」と成る。
つまり、兵としての「兵数」が「約68人程度」が増えていた事に成る。
然し、これでは「副将」とは成り得ないのだ。
つまり、この差が「援軍・68+X」であった事に成るのだ。
当時は、「1将に対して4騎」が着き、「1騎が50兵と云う基準」があったので、「200の兵」で「将」と扱われ、「軍議に参加できる基準」であったし、故にこれを整えれば”「副将扱い」”に成ったのだ。
これ、即ち「援軍」であった事を示し、それを「秀郷流青木氏・第二の宗家」が中心と成って「援軍を送る事」で「松平氏の中」で「副将扱い」に成る様に「秀郷流青木氏一門」は計らった事に成る。
故に「X=28」と成り、「合計98人以上」を「援軍」として送る必要が出て来たのだ。
敢えて、少なくとも「約100兵程度を援軍」として送り「発言力を着けさせた事」が判る。
これを当に「数字」が物語っているのだ。
故に、本来なら軍議に参加できる「額田青木氏の南下国衆の銃隊300+荷駄50」が外に放り出された以上、は、残った「青木貞治隊」は「軍議の情報」を城外の額田青木氏の銃隊に流し、これらの「援軍」と共に「救出」を依頼したのである。
本来は残る必要が無く「軍議の命」を拒否した以上は国衆を辞める目的で其の侭に「伊川津」に戻ればよかった筈である。
それを留めたのが、「情報」と共にもたらされた「一族の救出依頼」であったのだ。
「額田青木氏・指揮官伊勢秀郷流青木氏」としては、「情報の救出依頼」があったとしても必然的にも「両者の援軍」を救出する事は、「四掟」に基づいた「嫁家制度と嫁家先制度」であった以上は「一族として義務」も負っていた事に成り得る。
救出する以上はそれには絶対的に「戦術的な内部情報」が必要であって無暗には手は出せなかったのだ。
それが「義務であった」としても下手をすると「銃隊に大変な犠牲を負う事」に成り得る。
故に、これ等の「確実な詳細の内部情報」を獲得する等の事を成すにはそれには少なくとも”「副将格」である事”が必要であったのだ。
「詳細経緯」としては、この義務を果たす為にもこの「銃隊の指揮官」も「青木貞治」と共に、これでも“相当に際どい戦いと成った事”が判り、故に「両方の指揮官」が「戦死したと云う事・狙撃」にも繋がったのでもあろう。
前段で“「堀江」に「本陣」を置いて「二極化拠点」として構築していた可能性もある”と、説いたが、戦略的に考えて「追尾行動」をしていたこの「南下国衆の銃隊」に対して、故に、「青木貞治」は、“これは危険”と観て得た「軍議の内部情報」をも提供出来ていたのだ。
そもそも、「負けると判っていた戦い」に「一族の者を援軍として送る事」は先ず無いだろうし、この「援軍」は「戦うと云う勢力」よりも「将にする事」に依って「内部情報の獲得の手段」を「主目的としていた事」と云えるのだ。
其れならば、「籠城戦」から「野戦」と成り得た前提は異なるので、「籠城戦」から参戦し「野戦」と成った以上は「青木氏族」には後は救出しかなかったのだし、つまり又もや「計算」が狂ったと云う事に成る。
それには、両者ともに安全で「無事に救い出す事」を成し得るには最後は「額田青木氏の南下国衆の銃隊の銃力に頼る」と云う事以外に無くその「流れ」は成り得たのだ。
其処に、「山県軍の別動隊」に対しては良しとしても、結局は3h~4h経てば「武田軍の本隊」が「山県軍の救出に来る事」は必然で、「青木貞治隊も南下国衆の銃隊」に執っては「愚策の鶴翼の陣形」とも成ればこんな危険な事は先ず無かっただろう。
「伊勢の勢力」も「額田青木氏の南下国衆の銃隊」も「援軍の秀郷流一族一門」も「青木貞治隊」も全体が慌てたであろう。
そもそも、この事は「開戦」と同時に「問答無用に救出の必要性が迫っていた事」に成り、故に「南下国衆の銃隊」も救出後には、即座に「初期の目的通り」に「戦場離脱に迫られていた事」にも成るのだ。
何故ならば、「補給拠点での野戦・三方ヶ原」と成れば「武田軍の本隊」は「山県軍の別動隊」を救う為に「堀江城」を出て「三方ヶ原」に向かうと当然に観たのだ。
そうなれば、救出の為に動いていた「額田青木氏の銃隊」は、「三方ヶ原」で「山県軍の別動隊」との「挟み撃ち」に成る可能性が出て来て、「300の銃隊」と云えども、再び「一言坂の遭遇戦」を再び呼び起こす結果と成り“「危険」”に陥ったのであった。
この時、ここで上記した様に「安全策」の一つとして「西の伊川津に戻る策」もあったが、そもそも「一族を放置する事」が掟上も出来ず、一族の「駿河国衆の青木貞治の隊」を「何とか護り救出する為」にも、且つその為の「様子見の為」にも湖東村の交差点で休息後、急いで「三方ヶ原」に向かったのだ。
ここに「青木氏の記録」に記されている語句の「様子見の意味」」があったのだ。
そもそも、そうなれば「急いだ事」は、物見によって“救出に適した位置取り”の点にあった事と成ったと観られる。
その「位置取り」は唯一つであった事に成る。
それは直ぐに「伊川津に戻る事」が出来、且つ「三方ヶ原に向かう事」が出来て、「安全」で「様子見」が出来て、「休息」が出来て、「三方ヶ原に徒士3h」の域で、最短での「青木貞治隊とも連絡が取れる事」が出来る「適切な位置」と成り得る地域と限定される。
それが「湖東町の館山街道の交差点付近」と成り得るのだ。
ここで余裕のある時間で先ず休息したと観られる。
そして、「三方ヶ原」では「松平軍の陣形」にも「武田軍の本隊」にも目立たなく、且つ引き上げに容易な位置取りが必要であったのだ。
其処が要するに"様子見の位置"だと観られ、全体的な意味合いを表現していたのだ。
然し、そこで前段でも論じたが「事態」は急変したのだ。
予想通り、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、「武田軍の本隊」でも充分に戦えるとして「山県軍の別動隊」が、「補給拠点築造の使命」で北の山際に待機すると観られたし観ていたが、ところが強引にも合流せずに開戦と同時にこの「挟み撃ちの作戦」の様な「位置取り」と成って突如巻き込まれたのだ。
そこでその前にこの「位置取りに関わる判断要素」として次の様な物がある。
因みにそもそも、主に「戦い方」には、中国由来の「八陣形」と呼ばれる陣形が平安期からあってそれは次の通りである。
「魚鱗、鶴翼、雁行」の三形
「彎月(偃月)、鋒矢」の二形
「衡軛、長蛇、方円 」の三形
他には「決死隊の長滝等」の一形
以上の「九形」があったが、一般に「陣形八法」と呼ばれていた。
取り分け「武田軍」には「赤兜の騎馬隊・本隊用」を持っていたので、これをそれぞれの陣形に合わして配置して特徴を出して独自に陣形を強めたのだ。
故に”武田軍は強い”と云う評判が付いていたのだ。
ところが「赤兜の騎馬隊」を持たない「山県軍の別動隊」は、それが逆に「戦力の弱い補給基地築造隊」も含んでいた事」から、これが上手く行けば「戦力の弱い補給基地築造隊」を戦わす事なく護れると考えたと観られる。
それは、「鶴翼に強い長蛇の陣形」であったからだ。
そこで、これを「背後」に廻して、又は、廻った事で一列に並んだ戦記通りの「長蛇陣形」の「鶴翼突破型の全軍側面突撃」を取らした結果、又は「山県が採った結果」と成って故に「突撃の形」が自然と出来ていたのだ。
ところが、突撃開始直前には作戦通りに「長蛇陣形」で良かったが、突撃すると前段でも論じた様に「思い掛けない事」がここで起こりこの陣形が違って仕舞ったのだ。
弱点と成って仕舞ったのだ。
何と強力な「銃弾」がとぎれる事無く、其れも先頭から後尾までに一斉に遠方左から命中率良く浴びせられたのだ。
寧ろ、これに依って逆に「長蛇の陣形」が「全滅に近い痣」を成した形と成ったのだ。
一度、経験している「銃隊の存在」を強く意識していれば、「鋒矢の陣形」で「補給基地築造隊」を包み込む様にして「敵中突破の突撃」を仕掛ければ犠牲は少なかった筈であったし、救出していた「南下国衆の銃隊」には逆の事に成り得ていたのだ。
つまり、ここでもこれでも「銃隊の存在を読み違えた事・下記」が判るのだ。
「三方ヶ原の補給拠点」を、急遽、「野戦」に出て「松平軍に確保された事」で、この情報を得た「堀江」に居た「武田軍の本隊」が、「三方ヶ原の奪還」と「山県軍の救出」を目指して東に向かい、この「山県軍の別動隊」も遅れて何とか到着したのだが、「異変」は起こった。
この事で、「三方ヶ原の補給基地」を築造後はここの「守備隊」として「山県軍の別動隊の使命」として着く予定であった事は「当然の事」としてこれで判る。
戦略上では、「先に守備隊として確保したものを奪う戦い・奪還作戦」は難しいのは何時の世も「戦略の常道の知識」である。
故に、「家康」は、突然に「籠城」から秘密裏に「野戦」に変更し先に位置確保しようとしたのだ。
それには「家康の考え」は取り敢えずは成功したかに見えた。
「別動隊の使命」に基づき「補給拠点構築隊」も引き連れていた「山県軍の別動隊」は、「本隊」に合流せずに、或いは出来ずに、そもそも荷駄などで動きの悪い「援護守備兵であった事」で遅れた事もあって、「鶴翼の右側面の山際」に開戦ぎりぎりで陣取った事に成ったのだ。
この「拠点の三方ヶ原」を「先に奪取された事」で「山県軍の別動隊」の「使命の達成」が出来なく成って仕舞ったのだ。
そこで本来であれば「武田軍の本隊と松平軍との戦い」に成ると計算されていたが、「遅れた事の道中」で「山県軍の別動隊・目的が違う」は「北の山際」まで突撃をするかどうかを考えていたのではないか。
ところが、到着して観れば、「二つの事の異変」に気づいたのだ。
一つは、「弱小の松平軍」が何と「予想の戦術・魚鱗の陣形」では無く「鶴翼の陣形」を採っていた事である。
二つは、「西向きに陣形」を向けていた事である。
本来であるなら「三方ヶ原の平坦地」の中にある「浜松城を背景に陣形を北向きに採る」のが常道である。
西から来る「武田軍の本隊」と東から来る「山県軍の別動隊」が合流して「北を背景に陣形」を組むのが常道であった。
この「陣形の向き」であれば「武田軍本隊」も「松平軍隊」も何れも両軍に執って「有利な位置取り」である。
つまり、ここで遅れて来た「山県軍の別動隊」に執ってだけに「不利な事」が起こったのだ。
それは、「西向きの鶴翼であった事」に依り“武田軍の本隊と合流出来ない”と云う事が起こったのであった。
「遅れた事」に依って「北側の山際」に“単独軍として離された形と成った事”であった。
これが逆に「松平軍の狙」でもあったかも知れない。
要するに「松平軍・家康の命令」はそれを狙っていた事にも成る。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に対して、そこで「予想していた事と違った事」の二つが起こって、それは「戦況」を観ているか、さもなくば「武田軍の本隊」より前に行動するかに迫られいたのだ。
そこから「山県軍」はそもそも「別動隊」である以上は、状況に応じて「独自単独」に移り、今度は何と「松平軍」に執っては「予想外の行動」に出たのだ。
“「援護守備兵」で「鶴翼の右側面」に「武田軍の本隊」よりも先に突撃して行った”のだ。
何れも「虚を突いた形」と成ったのだ。
「山県軍の別動隊」に執っては、「武田軍の本隊の態勢」に執ってこの状況は”これは「得策」では無い””として、先に、最早、「三方ヶ原」が先に奪われた以上は、“「使命達成」は当面は不可能”と判断したのだ。
その「行動の判断」は、「同時」に「後の行動」に執っては、「武田軍の本隊の行動」を遮る事に成った。
且つ、「敵が鶴翼陣形」であった以上は、「松平軍」にも著しい混乱を招く事にも成ったのだ。
そして、「二俣城からの移動の行列」が、丁度、「長蛇の陣形」であった事から「鶴翼側面」を「後尾の補給基地築造兵」を護る為にも「一点集中の突撃突破」で攻撃に入ったのだ。
これを観た「武田軍の本隊」もこれに引き続き「魚鱗の陣形」で「総崩れ」と成っている「鶴翼の松平軍」に向かって前進し最終は完全掃討し勝利したのだ。
唯、この時の間、復もや「山県軍の別動隊と武田軍の本隊」とに「思い掛けない事」が「南側」で起こったのだ。
それは、「南下国衆の銃隊の存在」であった。
この「南下国衆の銃隊」は、「一言坂」とその後の「追尾」であったと承知していたが、まさかの「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「戦いへの参戦」であったのだ。
「武田軍の二軍」は最初はそう見ていただろう。
恐らくは、そこで「牽制程度の事」はあるとは判っていて、“本格参戦は無いであろう”と見込んでいたのだ。
それを示す「三つの証」として、そもそもその「破壊的威力の持ち主の銃隊」でありながらも、“攻撃をして来ない意思として、それが「一言坂からの追尾」”まで終わりと思い込んでいたのだろう。
それは「松平軍としての堀江城への援軍攻撃」が無かった事の思い込みが左右したのだ。
ところが、「三方ヶ原」に到着して観れば、「銃隊」に執っては、“攻撃の仕難い「鶴翼の位置取り」”とに成っていたのだ。
要するに「武田軍の本隊」は前の一言坂や堀江城の関わり方の「戦い方」から観て、「南下国衆の銃隊」が少なくとも“攻撃的で積極的ではない”とその様に考えていた事に成る。
この事から考えても、「銃隊」としては「鶴翼の付け根部に隠れる様に位置していた事」が判っているので、射撃すれば味方も撃つ事に成る「相当難しい位置取りにあった事」が考えられる。
然し、「青木貞治隊の救出」の為にいたが、「山県軍の別動隊の思いもかけない突撃」で、止む無く「銃の攻撃」を仕掛けたのだ。
何方にも、“思い掛けない予想外の一瞬の出来事が起こった”のだ。
そして、「武田軍の本隊」に向かって「弾幕」を張って何か弾煙の先の中から「救出作戦を起こしている光景」が「信玄の目」に入ったし、先に突撃をした「山県軍の別動隊」の「山県の目」には累々と「戦死者の山の光景」が目に入って来たのだ。
「信玄」に執ってはどうしようも無い「開戦の一瞬の出来事」であったであろう。
つまり、それは「予想外の事」が「勝利の武田軍」にも、「敗戦の松平軍」の「両軍の目」に入ったのだ。
「弾幕の煙」で一時戦場が観えない程に成ったと予想できる。
開戦は午後の四時頃であったので「谷風・海風」が吹いていて、南から北に向かって谷筋に三方ヶ原の戦場に向かって吹いていた。
なので、「弾煙」が消えては、又、「弾煙」が出来ると云う光景が起こっていて、その「武田軍の本隊の混乱中」の間に、この「救出劇」が起こって東に逃がしたと「詳細経緯」としては考えられるのだ。
「山県軍の別動隊」に執っては射撃音以外に何処から弾が飛んでくるかは正確には判らなかった筈だし、「武士道」の通じない生死の「経験のない恐怖・銃弾」が先行して「逃げ隠れの出来ない処置無しの状態」であったと考えられる。
故に、比較的に「救出」は容易に犠牲も無く成功したし、「北・戦場」に向かっても連射しながら「荷駄隊」と共に、無事に西に後退する「戦線離脱」も容易であったと観られるのだ。
「近づく者」は居なかったと考えらる。
恐らくは移動しながらの「空砲の煙幕」でも充分であったろうし、「一言坂の経験」の様に100%居なかったと考えられるが、執拗に近づけば実弾連射して撃滅戦を繰り返しながら「戦線離脱」したと考えられる。
この「戦線離脱した南下国衆の銃隊」を「仮・現実には無理」に追撃したとしても「館山街道の例の交差点付近」までであろうし、此処からは「武田軍の本隊」としても戦略上踏み込めなかったと考えられる。
史実は何れの戦記にも記されていない事から“追撃は無かった”のではあるが、ところがその前の「やるべき事」が「武田軍の本隊」にあったのだ。
それは「戦場の掃討作戦」と「山県軍の別動隊の支援」にあった筈で、「補給基地の三方ヶ原築造を使命の別動隊である事」を前提にしながらも、「軍事行動」を起した事、且つ、「別動隊として浜松城を陥落させる使命がある事」も考えると、これを支援しなくてはならない「本隊としての役目」が「戦いの流れ」としてあった筈である。
現実に、史実の詳細経緯は「脚色された三河側の多説」が多いが、「掃討作戦と別動隊支援している事」には間違いは無い。
「救出後の武田軍の掃討作戦」も、「青木貞治一族」が隠れていたこの「西光寺」では、「武田軍の本隊の2度の印象」の中には、“銃隊の一部が未だ居るのでは”と連想し近づく事は出来なかったと考えられるし、命令なしに掃討が出来ない寺であった事は間違いは無い。
何故ならば、そもそも「寝る子の東の秀郷流一門361氏」と、「第二の宗家の位置づけ」の「秀郷流青木氏116」を起こして仕舞う危険性があったのだ。
「青木貞治隊」が「逃げ込んだ盤田見附の西光寺・平城館の大寺」が不思議に戦記上では掃討された事は記されていないのはこの事に依るだろう。
そもそも逃げ込んでいるか否かは別として、「一言坂の此処」で一時停留しているので確実に「掃討の確認をすべき拠点」である事は知っているし、「青木貞治隊」に限らず位置的に観て「松平軍の残兵」が少なくとも一時的にもここに潜んでいる拠点である事には間違いは無い。
この様な「一族の菩提寺の西光寺」から「青木貞治隊」が再び“城に入った”と云う記録は無い処を考えると、「武田軍の本隊」が「浜松城」を攻めた場合とか「掃討作戦」で「西光寺の方」が「平城館」の様にして「寺の周囲」を固めれば安全であると考えたのであろう。
故に、「生き残れた一族の勢力」は、江戸期には「御側用人衆・上級番方」として出世して禄高を史実の通り1800石から3500石に倍増させて「駿河青木氏の子孫」は栄えたと成るのだ。)
(注釈 「額田青木氏と駿河青木氏の生き遺り」
さて、上記の詳細経緯に至る先に論じる。
「三方ヶ原の戦い」に勝利した後、ここに当初の目的通りに「補給基地」を築造せずに堀江城と二俣城などの出城に「守備隊」を残し「甲斐」に全軍を引き上げている。
2年後の「長篠の戦い」の際には、この二つの出城の「守備隊等」は松平軍に対して「善戦をした事」が何れの戦記にも記されている。
つまり、そこで「周囲」がまだ「武田軍の守備隊」に囲まれているこの2年間の「西光寺の駿河青木氏の動向」が気に成る。
この事に関する記録等を探ったが、唯一つ何かを物語る行が「伊勢」にあった。
それは「伊勢水軍」であった。
「出城に居たの「山国の武田軍・少数」には「水軍」を持っていないので、伊勢側は「渥美湾に船を廻す事」がある程度可能に成って、「駿河水軍」と連携して「伊豆」まで廻る「商い等の運搬に盛んに従事している「行」が「商記録」にもあって共にこの史実に付いては一致していのである。
つまり、これは何を意味しているかである。
「南下国衆の銃隊」が戦線離脱して「三方ヶ原」から「伊川津」に戻り、「陸運業」に逸早く転身した。
そして「縦の陸路1と2」を構築して「信濃」に繋いだが、戦後、「三方ヶ原」より「武田軍」が予想外に甲斐に戻った事」と、「織田氏の西三河への伸長浸食」で「武田軍の脅威」は三河では低下して「渥美湾の制海権」は何とか獲得出来た。
この時、この為に「松平軍」が「力・財源」を持つ事に警戒した「織田軍」は、「伊勢」で水軍を造ろうと懸命であって、その結果、遂に「熊野水軍の九鬼水軍」を味方に引き入れた。
そして、「伊勢青木氏」が「7割株」を持つ「伊勢水軍の伊勢衆・50衆」に対し「楔・調略」を打ち込んできたのだ。
「伊勢衆の掟」を破り「4組」がこの「織田の調略」に落ちたがこれを「伊勢青木氏」は「掟と財源・株」で食い止めた。
然し、結局は「1組・現在も水運業として遺る」だけが調略に応じたのだ。
そもそも、「伊勢衆」は「伊勢青木氏の女系の重複血縁の古来からの氏人」であった。
最も尾張に近く縁の薄かった「東の知多一族」が落ちたのだ。
然しながらも、当然にこれに伴って結果として「陸運業」と「海運業」は動ける様に成った。
そうなると、「松平氏の敗戦」に依って「青木貞治の彼等の糧」は失う事は必然であった。
そこで、「駿河水軍の裔の駿河秀郷流青木氏の一族」は、この「伊勢と伊川津の陸運業と海運業」にも関わる事」で一族を生き延びさせ、且つ、「武田軍の追及を逃れる事」も出来たのだ。
「駿河水軍・1艘の廻船」を「伊勢・伊勢水軍と伊勢屋4艘」からの「海と陸の中継点」として「伊豆や武蔵」にも繋げる事が出来て糧を戻したのだ。
この「2年間の彼等の糧」はここにあったのだ。
これは「元駿河の国衆の強味」の所以でもあった。
そもそも、「敗戦し弱った松平氏の家臣」の中に、「自らの水軍」を持ち「財を持つ御側衆」は他にはいなかったのだし、「東の大勢力の秀郷一門」を背景にした「家臣」はいなかったであろう。
それが「松平氏・徳川氏」には「強み」と成ったのだ。
松平氏の旗本の中では、”三方ヶ原、云々等”と云っている場合では最早無かったのだ。
寧ろ、金銭的に助けられた事だってあっただろう位の位置に押しやられたのだ。
この事で身分以上に力を持つ「旗本扱いの家臣・秀郷一門の関東家人衆」に対して、「三河旗本・近国衆」には叶わないとする「嫉妬怨嗟の渦の波」が「額田青木氏」と同じ様に押し寄せていた筈である。
「三方ヶ原後の浜松城の松平氏」は、危険な隣の織田氏に近い「西三河」を残し、「北三河と東三河と遠州での糧」を失っていた。
その「衰弱した松平氏」の中でも、この経済的に劣ない身分以上に「力を持つ家臣・関東家人衆の御側衆・青木貞治の裔」は誰一人居なかったであろう。
ところがこれが三方原戦後に「伊勢勢力」を背景とした「額田青木氏」の「三河での商い」と共に「松平氏の強み」とも成って行ったのだ。
敗戦被害を受けなかった「西三河の軍勢」には「2000人」を与えられていて無傷で残っていた。
そこでこの時の「松平氏の力」を検証する。
そうすると、「尾張」に隣接する「西三河」だけが遺っていたので、その三河は次の様に成る。
「1貫≒2.5石 7貫≒1人家来」の「軍制の仕来り」から、最大で1万4千貫≒3万5千石となるが、「信長と秀吉」に依ってこの「弱み」を突かれて「国境沿いの西三河の浸食・三好域まで」が浸食された。
これで「2万石」にまで減石されていた状態と成っていたのだ。
これではどう考えても「旗本以外には養えなかった事」に成る。
「三方ヶ原」で全滅に近い敗戦をしているので、どの記録を観ても最大時に「国衆」を掻き集めてやっと合わせて「兵5000・脚色戦記」に成ったとしているが、検証では実際はそんな力は無かった。
戦後は「敗残逃亡兵2000程度以下」には成っていた筈である。
先ずはこれでは「旗本程度」を養える事と成るが、「国衆等」は「自らの糧」を「何らかの力」で得なければ生きては行けない事に成っていた。
「駿河青木氏」は未だこの時期は、「松平氏の三河」では上記した様に一族から援軍を得て「駿河国衆の副将レベル」であった。
上記した様に長篠後に成って「旗本・家人衆」に加えられたのだ。
故に、「駿河青木氏」は「伊勢の青木氏の経済力・商い」を背景に「元の駿河水軍の糧」に勤しんでいたのだ。
そもそも「伊勢青木氏」に依って平安時代には「女系で繋がっていた事」の所以で、「駿河青木氏の末端の裔」を何とか探し出され、相当に「駿河青木氏」は「伊勢」に依って呼び興されて訓練を受け成長した。
そして、最終は「船一艘」を与えられて、再び、その「裔系」は「水軍・水運の商い・伊勢―伊豆に運送」で拡大して行ったのだ。
それがこの「裔系の長」がこの「青木貞治」であったのだから、「江戸期・長三郎」に成っても「旗本の上級御側衆・上級番方」を務めながらも、この「水運の商い」は辞めていなかったのだ。
この様に資料では、「相当に豊かな駿河青木氏の裔」を構築して繁栄していた事に成っている。
そこで、この詳細経緯として、江戸にも子孫を広げているだろうが、彼の「盤田見附」に「菩提寺・浄土宗西光寺・再興」の「大寺・伊勢青木氏部使う」を持てるまでに「子孫」を拡大させていた。
其れなのにその割には「青木氏とその類証」が、「水運業」を生業としているこの地域に矢張り少ないのが気になるのだ。
何故だろうかここで検証して観る。
天竜川と太田川の二つの大川の間に挟まれた「圷の野」と、この「ほう僧川」の支流を合わせて、「砂丘」の中で出来た「唯一の港・西光寺より南東8k」の地域に「大船が停泊できる港」は、「天竜川」から東に離れて「圷の影響」が無くなる「福田地区」、ここから「海底深度」が良くなる大船が停泊できる“「福田港」”がある。
「伊勢資料の行」から、ここに少なくとも「仮泊」を置いて「駿河湾・34k」と「伊勢湾・白子泊」を常用していた事が判っている。
つまり、この「福田港」の此処からは「伊豆青木氏」と「秀郷流青木氏・本拠地」を含む一門の勢力領域と成る。
この地域には「青木氏に関わる地名などや春日社」も全く無かったのだ。
つまり、全て、この「福田港」から「34k離れた地域」から東に急激に「青木とそれに関連する地名」も含めて大量の所縁の何もかも出現して来るのだ。
つまり、ここには「平安期と鎌倉期と室町期初期」まで「青木氏や永嶋氏等の勢力」が伸長していたが、ところが、室町期より勢力を東に押し返されて引いていたのだ。そのために所縁のものがなくなっていたのだ。
この時の「名残の先端」が突出したのが「遠州西光寺域の庄域」であって、厳しい乱世の中でここを遺し得たのは「水軍衆の所以」であったと考えられる。
其れを逸早く裔を救って呼び寄せて訓練して戻して「伊勢」と繋いで「生きる力」を着けさせて遺し、其の後は前段の論に成ったのだ。
結果として全体は、「駿河の青木氏」の「名籍」が「存在する所・藤枝」まで勢力を引いたと云う「歴史的経緯の事」に繋がるのだ。
これは「家紋分布や地名」でも判る。
大まかな時代性としてはその「引き際の処置」で遠州に駿河青木氏が遺った事であったと考えられる。
それだけに「源平化した事」から狂い出し、遂には「源平戦敗退」により「子孫」は元より「遺物」も遺し難かったのだ。
「近江と美濃の源氏化」にした様に「伊勢信濃の忠告」は女系で深く繋がる「駿河」にも当然としてあったと考えられる。
と云う事は、その証拠は「駿河青木氏の子孫」の多くは、現在名の静岡県静岡市駿河区の「青木の地名・現在も青木・盤田見附から東54k」が遺る所にあったと云う事に成る。
「伊勢」が「盤田見附」から「駿河区青木」の庄の何れから「支流末裔」を見つけ出して「額田青木氏」と同然に世に出したと云う経緯であった事に成る。
「一族の藤枝の秀郷流青木氏・集中」では無く、再び、“「母方の伊勢」”に呼び出して「商いや水軍」等の訓練を受けさせてから「30年後~40年後」には、室町期初期から「消えていた盤田域」に「一人前の青木貞治が出た・100裔人」と云う事に成っているのだ。
唯、ここで検証しなければならない事は、「盤田見附域の元の庄」を再び獲得するには「財力と武力」が要るし、「菩提寺」を建立し直し維持するには“「相当な財力」”が要る。
其れを如何したのかである。
この「財力と武力」を以て「庄の民・農民」は信頼して従う。
「武力」は「財力」で補完できている社会である。
問題は、「青木貞治」が元の庄を獲得するには次の事が必要に成る。
上記した「盤田域の庄面積」の「1800反程度弱≒1800石程度(≒6000平方坪程度以下)」の“「地権」”を買い取る必要が先ずあり、奪還する程の武力は未だ無いしそれ以外には無いし、これは「青木氏族の氏是」に反する事で出来ない。
それには、「駿河水軍の水運」だけでは「元の庄の獲得」は無理である。
この時期としては必然的に「今川氏の国衆と成る事」が最善策の前提と成る。
その前に論じて置く事がある。
「青木氏族」とは全く縁が無いが、調べた範囲としてこの事の解決に導いてくれた者、況や、「松井氏」に付いて記して置く。
元今川氏の二俣城主であった「松井氏」は、「山城国の御家人・松井氏一族」が建武政権を離脱し「足利尊氏」に味方し、足利氏一門で宿老の今川範国に属して戦功を揚げた。
その恩賞として「建武5年駿河国葉梨荘(現在の静岡県藤枝市・青木氏定住地)」に「地頭代職」を与えられてここに移住したと成っている。
1513年には「今川氏」から「遠州鎌田の御厨領・盤田見附から真東3k・同庄内」を「領」として与えられ、1528年には「平川郷堤城主・盤田見附から真東21k」とも成ったとある。
この「近江から来た国衆の松井氏」は、最終的にこの「天竜川から菊川」の「南一帯の豪族」と成ったのであった。
この時に「秀郷流駿河青木氏」等もとより「永嶋氏などの青木氏族」等も東に追いやられたのだ。
「地頭代職時代」にこの「松井氏」はこの「藤枝」に定住する「郷氏の秀郷流青木氏・賜姓族の格式」を当然に知り得ていた筈である事と、系譜通りの「山城・近江南部・天領地・公領地域」の「御家人・松井冠者源維義」であったとすると、「源平戦」で衰退はしたが過去の「近江青木氏二氏・賜姓族格式」を完全に知り得ていた筈である事に成る。
そもそもこの「近江青木氏」と「川島の皇子の裔の佐々木氏」とは奈良期末期まで「相互重婚の一族」であって「伊勢」と「近江4氏」とは「皇位族の重血縁の縁」で繋がっていた。
「松井氏の祖」が「山城の御家人」とするならば「駿河青木氏」とも少なくとも縁は深い事に成り得るがそこまでは縁を追えない。
主張する系譜通りの「御家人・松井冠者源維義」であるとすると、「近江戦」と「富士川の戦」の源平戦で共に源氏化していた一族として味方と成って戦っていた筈である。
先ずこれだけの縁があるとすれば間違いは無いだろう。
正しいかどうかは判らないが、それが共に再び“遠州で会った”と云う経緯の行事に成り得るのだ。
且つ、その前提で行けば、ここが「室町期末期」まで「秀郷流蒲生青木氏・伊勢秀郷流青木梵純の出自元」でもあって、恐らくは「縁の鎖」の様に何らかの関係を確実に持っていた事に成る筈である。
要するに、それ故にこの「縁」を以て「国衆」と成ってこの「松井氏の配下・家臣株獲得」に入り、そこで「元の盤田見附」を「地権で獲得した事」に成る経緯であると説が生まれる。
そして、その「国衆と成った証拠」として「今川氏の最西端」の其処に「平城館・寺閣城」と成る「菩提寺を再建した事」を意味するのだ。
つまり、「国衆に成る事」にしても、「家臣に成る事」にしても、「菩提寺の平城館・寺閣城を建造する事」にしても、「地権料を払う事」にしても、「家臣を養う事」にしても、「水軍を維持する事」にしても、そもそも「水運業だけで得られる糧」では到底無理で駿河青木氏にはその「大財源が必要であった事」に成る。
当然に、その出処は「伊勢青木氏」であって「武蔵青木氏宗家・江戸長島屋」かであるが、主に「伊勢青木氏・伊勢屋」が「額田青木氏」と同然にこれを賄ったと考えられる。
要するに戦略的には、経緯として同時期に“西に「額田青木氏」、東に「駿河青木氏」を興した”のであった。
そして、「信長」に依る「尾張域の神明社破壊」や、この事で起こる「伊豆や信濃との連携」が難しく成る事を防ぐ為に、これは、つまり「駿河青木氏の復興」は“「当初からの戦略」であった”とも考えられるのだ。
その結果、その証拠にこの地域には「神明社」も「春日社」も「清光寺」も「西光寺」も全く無く成っていた「遠州」に於いて、「伊勢」にしても「武蔵」にしても、ここに「青木氏の拠点の復元」を成さねば成らなく成っていた事に成る。
それで「乱世の中」で「東西の青木氏の同族」が生き抜けて行く為には、再び途切れた「西と東」が繋がり“強大な抑止力が働く”と考えていた事に成る。
その為の「財源拠出」は問題は無いと観ていたのだ。
「室町期の紙文化開花」で「巨万の富・紙屋院」を獲得した「財源」を遺憾なく此処に投入したのだ。
それには、「青木氏族」に執っては「相手」は当面に「武田氏」であって「織田氏」でもあったのだ。
そこで、筆者が感じる処では、「伊勢信濃系列」を始めとして「青木氏族」に執つては疎遠であった「武田氏の青木氏の関与」の有無に就いては、もう少しの「関係性」を見つけられるのではと観ていた。
然し、唯一つの「二俣城の浄賢」だけであった事は何か間尺は合わない。
それは、「武田氏」が完全に滅んだ「長篠」より、「甲斐には五つの青木氏」が在ったがその内の「3氏」だけは「伊勢」では無く「相模の秀郷流青木氏」を頼ったのだ。
確かに「甲斐青木氏・甲斐冠者系の源光系」と「嵯峨期詔勅に基づく時光系」の二つは「嵯峨天皇派」であって「伊勢信濃」の「桓武天皇派」とは「犬猿の仲であった事」は否めないが、それ故にこの「伊勢信濃」には全く来ていないのだ。
このすっきりしないのは「史実」である。
そもそも「武田氏系」には、「源光系青木氏・1氏」、「時光系青木氏・5氏」、「諏訪族系青木氏・3氏」があった。
「源光系青木氏・1氏」は不参戦で甲斐でその後信長に圧力を掛けられて衰退した。
「時光系青木氏・5氏」は、「分家2氏の正定と豊定」は徳川氏に味方し一族全体が武蔵鉢形に移住させられ家臣と成り、「1氏」の「分家養子・安芸」は戦線離脱後に「安芸に戻り後に「松平氏の家臣」に成る。
そして、「本家筋2氏」は完全滅亡した。
「諏訪族系青木氏・3氏」は、その内の「武田氏族系の1氏」は衰退、「諏訪族系の2氏」は「相模の秀郷流青木氏」に救出され、其の後1氏の一部が下野に配置に廻り、残りの一部も相模から「越後秀郷流青木氏」を補佐する為に頼り、「4流」」に分流した。
「長篠後」にこれだけの「関係性」を保持しているのに甲斐との関係性に付いての資料が何もないのは腑に落ちない。
当然に「三方ヶ原前」にもあったと観るのが普通であろう。
現実に、江戸期にはある程度の関係性は出来たと考えられるが、敗退した「甲斐青木氏」が「秀郷流青木氏一門を頼った事」で「血縁の繋がり性」は出来た事も「史実」である。
平安期と鎌倉期には確かに「伊勢青木氏出自の嵯峨天皇の皇子」が“「甲斐青木冠者蔵人・源光系」”として「甲斐」に配置されたがそれでも基本的に無かった。
極めて疎遠で「犬猿の仲であった事」は資料からもはっきりと解る。
上記した様に、室町期末期の戦乱期に「青木貞治と主従関係」に成ったとされる「山城・近江南部・天領地・公領地域」の「御家人・松井冠者源維義・河内頼信系源氏」と、「甲斐青木冠者蔵人・源光系」として「甲斐」に配置されたが、この「源の源光系青木氏・嵯峨源氏」とは「源氏族」では無関係では無かった筈であるが、「繋がりの詳細経緯」に付いてはこれ以上は今も資料は見つからないし判らない。
「賜姓伊勢青木氏と賜姓近江青木氏」とは、奈良期から平安期まで「相互血縁の同族」であった事と、「近江青木氏の定住地」とはほぼ同じの「松井氏との関係性」は否定できないだろう。
間違いなく「源氏・11流」とすれば「皇族としての嵯峨源氏9つの縛り」を護らなかった「源氏族」と、「源氏化しなかった伊勢と信濃の青木氏・9つの縛りを護った」とは「四掟の範囲」では無い事に成り、頼る事は出来なかった事には成る。
その意味では、「円融天皇賜姓族藤原秀郷流青木氏・伊勢信濃とは女系で血縁」は「同じ青木氏」として頼り易かったとは云えるが、「松井氏との血縁性の有無」は辿れない。
そもそも、「正式な源氏賜姓・11家11流」は「花山天皇」で終わったが、この「花山天皇」の前に「冷泉天皇の発狂事件」が起こり、これに代わって異母弟の「円融天皇・11歳」と成り、それまでの「源氏賜姓」を止めて「藤原秀郷流一門の宗家嗣子の第三子」を永代に賜姓させる事と宣言した。
「外戚の藤原氏内紛」で16年後に「冷泉天皇の嫡子・花山天皇」に譲位した。
この「花山天皇」も「外戚の藤原氏の内紛」で2年も待たず退位した。
ここで「嵯峨詔勅に基づく皇族」の「正式な源氏」は歴史的に途絶えたのだ。
つまり、其の後の「正式な賜姓」は「藤原秀郷流一門の宗家嗣子の第三子・始祖初代千国」を永代に「青木氏の賜姓をさせる形式」と変わったのだ。
その「皇族との血縁の基」は、「賜姓」を権威づける為にも「混血融合」を避ける為に「四掟と云う縛り」を設けて、代々に「伊勢信濃との青木氏の母方の女系族である事」で権威格式付けたのだ。
これが「藤原秀郷流青木氏116氏・第二の宗家」に及んだのだと云う「歴史的経緯」を持っているのだ。
況や、この「賜姓青木氏族」は「四掟前提としている以上」は、「四掟の範囲外の甲斐」との「血縁性は無い事」には成るのだ。
唯、この「秀郷流青木氏族」と呼ばれる「秀郷一門内部での血縁族の主要五氏」とはこの「嵯峨期の9つの縛り」は適用されない。
従て、この「四掟の範囲外」での「甲斐青木氏との血縁・時光系」とはあり得る事は否めないのだ。
厳然とした史実があるのに資料が無い為に然し判らないのだ。
唯、「賜姓諏訪族」とは「信濃青木氏との重婚族」であり、古来より「諏訪族青木氏・立葵紋」であってこの「裔系・抱き角紋」が「武田氏系の血縁族三氏」を構築していて、「相模に逃げ込んだ事」も史実であり、頼った事には何の問題も無い。
「秀郷流青木氏―伊勢と信濃青木氏―信濃青木氏と秀郷流青木氏―信濃と諏訪族青木氏―諏訪族と武田氏」であれば、直接血縁無くしても「血縁の濃度」は別としても、「間接血縁族」として頼れる事は可能である。
現在筆者はこの様に観ている。
そして、それが何と本論の長篠後の「駿河青木氏の裔祖の相模青木氏」であったのだ。
これは、「三方ヶ原―長篠」の後に興したより「青木氏族」であった一族の歴史の“自然が興した再結集現象”と成り得たのだ。
この「不思議な自然の血筋の流れ」は江戸期に向けて濁流の如く留まらなかったのだ。
但し、その基と成った「駿河青木氏」を家臣として抱えてくれた「松井氏」は山城の「河内源氏」であるとする事にもう少しその根拠と成る歴史観を説いて置く。
それは間尺に合わない処があるからだ。
そうすればこの「松井氏の位置づけ」がより判り、「駿河青木氏の青木貞治との関係性」も詳細経緯として理解が出来るだろう。
「松井氏の祖・平安期」は「山城の何処かの天皇家・公家・賜姓族・皇位族の家人」であったとしていても、その「家人」と成り得る「氏」としては「頼信系の河内源氏」であるとしているかも知れないが、“「松井」”としての「第二の姓名」を名乗っているので「傍系卑属の支流族」である事には間違いは無いのだ。
そもそも、「河内源氏」は「嵯峨期の9つの縛り」を護らなかった事でその「家人」である事にはそもそも疑問でその資格はない。
「9つの縛り・嵯峨天皇が後に纏めた」に依って「天皇家・公家・賜姓族・皇位族」は「諡号の姓・第一の姓」は持つが「第二の姓」はそもそも持たない掟なのだ。
従って、「天皇家・諡号と諱号」を除き「氏名だけの範囲・青木の氏や藤原氏」だけで名乗ったのだ。
唯、例外として「秀郷流一門」は「361氏」と成り、「氏名や諡号や諱号」では「一族一門の系統」を「格式管理」できなく成り、その替わりに「仕来り」として「三つの縛り」を設けてこれを判別する様にしたのだ。
其れは、次の通りである。
・第一に、「役職名」を藤原氏の氏名の藤の「上」に付けて名乗る。
斎藤氏・工藤氏等・結城氏
・第二は、「地域名」を藤原氏の氏名の藤の「上」に付けて名乗る。
伊藤氏・加藤氏 長沼氏・永嶋氏等
・第三に、「特徴名」を藤原氏の氏名の藤の「下」に付けて名乗る。
藤田氏・藤井氏等
以上この三つより更に拡大して派生した氏は「同名の字名」に替えて名乗った。
長嶋氏、長島氏等
これを以て総称は”「藤氏」”と呼び、地域事に「伊勢藤氏・讃岐藤氏等」等として大別した。
これで「系統や格式レベル」を判別するようにしたのだ。
唯、「秀郷流青木氏24地域・116氏」だけは秀郷一門に劣らず「賜姓族である事」により氏名のみの諡号名と決められたのだ。
「賜姓青木氏」であり、且つそのものの「氏」が大一族に成ったが、「賜姓族の特別の格式を有する事」で、「嵯峨期の9つの縛り」に基づき「伝統の仕来り」として「氏名」だけ、つまり「青木氏」としたのだ。
要するに本論の「駿河青木氏」もその一つであるのだ。
ここで、更に「皇位族の賜姓臣下族の朝臣族」には、もう一つの判別する「仕来り」があったのだ。
それは 「諱号・諱名」であった。
其れは、「直系尊属の本流」のみの「仕来り」として「氏名のみを名乗る事」と共に「青木氏一族」には、朝廷から与えられた「地領の字名」があり、それを使う事を許された。
其れを「字名・あざな」と呼び、これを「判別の一つの方法」として「氏名」にこの「字名」を付けて「格式・レベル」を表現する方法が許されていたのだ。
その「表現方法」には、次の条件が定められていたる
「本流である事」
「格式を有する事」
以上二つを表す「中国の皇位族の慣習」を見習った手段があった。
それが、つまり”「好字」””であった。
つまり、「格式の高い意味を持つ字」を「氏名に着けて名乗る事」とし、それを「一字」として名乗る事であった。従って、「二文字以上の字名」は「本流」では無く、且つ、「嫡流」では無い事を表現する手段としたのだ。
これは「青木氏族を判断する重要な歴史観」と成ったのである。
例えば、「賜姓源氏」で「諡号の姓」が「朝臣族」であれば、「嵯峨源氏」と「清和源氏の摂津源氏の四家」だけがこの「仕来り」が適用された。
「元皇位族」であったとしてその格式を護るためにある程度の「9つの縛り」を護った上記の二つの賜姓源氏のみに適用され、その「本家の嫡子流」の「三代目」まではこの「好字・一字名」を名乗る事が出来たのだ。
例えば、「源融・とおる」は、「平安時代前期の貴族」で「嵯峨天皇の第八皇子」である。
つまり、「嵯峨源氏の賜姓融流初代」であって、”「河原」”と云う格式の「院号」を持ち、”「河原大臣」”とも呼ばれた人物がいた。
この「融」の「好字・一文字」の慣習は「本家の嫡子流」の「三代目」までと成る。
それ以後の裔は血筋の低下で「好字・一文字」の「仕来り」は「二文字」に成り使えなかったのだ。
後に、全ての地名までの名に及ぶ「好字・二文字令」を朝廷は発して「好字・一文字の権威化と区別化」を図ったのだ。
同じ「清和源氏」であっても「頼信系の河内源氏系」は、「本家流」で無く「嫡子流」で無く「三代目」で無く、「嵯峨期の9つの縛り」を全く護らなかった事で、この「格式伝統の仕来り」の「好字・一文字」は使え無かったのだ。
この「好字の仕来り」は、遂には「地名」までに及び、「713年」には「好字二文字令の制度・仕来り」が出て郡郷までに至ったが、「諡号の名」に関してだけはなかなか「格式の伝統」として存在する以上、治らずに平安末期まで護られた。
それは、「嵯峨天皇」が定めた「新撰姓氏禄・諡号の定め・815年」との「地名と姓の整合性」が取れずに結局は権威化され残ったとされるのだ。
これは青木氏族だけの歴史観である。
さて、これらの「慣習仕来り掟」を前提に、ここまでを「氏族・諡号の姓」と云うか「姓族・第二の姓」と云うかは、この「朝廷の決まり」の中では「松井氏」は「氏族」とは云わないのである。
少なくとも「慣習仕来り掟論」からは「平安期の慣習仕来り掟」を無視され始めた「室町期」の「姓族・第二の姓」と成り得るのだ。
「松井氏の呼称」には次の通りである。
1 為義流の源維義を祖とする松井氏(松井冠者)
2 源満政流を祖とする松井氏
但し、2の満政流の松井氏は、源満政6世孫で源頼朝の御家人となり、山城国綴喜郡の地頭職となった「重行の系統」がある
3 同郡に「渡来人系(百済人とも)の松井氏」
以上の二系統があるがこれとは別系統である。
さて、これらの事の歴史観を前提に、松井氏のそのルーツを探る。
第1の説
そのルーツは始祖は先ず「河内源氏の源維義・為義の14男系譜無」であるとしている。
この「始祖の維義」が、「松井・京田辺松井地区」の「冠者・六位無冠・下級官僚」を任命され「松井冠者」と称されたとしている。
この「松井の地名」を取って「維義の子・季義」が「松井姓」を名乗ったされるルーツの前提である。
この「松井姓の裔」が「遠江に移住」、「近江に移住」、「丹波に移住」の三カ所に移住したと成っている。
この「遠江に移住」が本論の「青木貞治」に関わった「松井姓」であるとする「第1の説」がある。
第2の説
次は、「摂津源氏源の満政・始祖経基の次男」をルーツとする「松井姓」で、この満政を始祖とする「6代目裔・?」が「鎌倉時代」の「頼朝の御家人」と成り、「山城の綴喜郡の地頭」を命じられて「松井姓」を名乗ったとし、更に、この裔の子孫が「三河」に移住し「三河旗本」と成り、「松井姓」を名乗ったとする「第2の説」がある。
但し、この史実に関わる「問題の今川氏」ではない。
第3の説
室町時代に「今川氏の家臣」に成り、「遠江の松井姓」を名乗り、後に「三河松井氏」と成ったとするが、室町期前の裔系の事は全く不明である「第3の説」である。
第4の説
「綴喜郡」に渡来人(時期不明・室町期?)が入り、その祖は「地名の松井」を採って「松井姓」を名乗ったとする「第4の説」がある。
この「地名の松井」は「綴喜郡より18k真西」に在る。
この説は「第2の説」の「綴喜郡・琵琶湖真南14k」に譜を恣意的に合わしている。
尚、「渡来人」とすると、奈良期の「後漢の難民」では無く、朝鮮征伐前後に職人を連れて来た近江と丹波に入った「朝鮮難民・百済」と成る。
この「朝鮮・百済難民」は「近江の鍛冶屋・龍源寺銃等の鍛冶職人」と成ったとされる説がある。
恐らくは、此の民が「松井姓」を名乗ったとする「職人説」である。
先ず、第1の説から第4の説までの検証である。
「共通する点」は、何れも“「国衆」”と成って「各地」を渡り歩いた先が「三河」か「遠江」であって、そこで「松井姓」を名乗っている事がポイントである。
本論の「駿河の青木貞治」に関わった「松井姓」は、凡そ「第3の説」に近い事に成るが、但し、「過去の事」は判らないし、約400年後に「国衆と云う立場」にあり、即ち、「全国」を渡り歩いてより良い仕官先を見つける「土豪集団」であったのだ。
故に、「過去」を造る為に、その「過去の系譜」を「第1の説」に繋いでいると云う典型的な搾取のパターンである。
そして、更に「辻褄を合わす為」にそれを「第2の説」に繋いでいるのだ。
ところが、「第1の説」は「河内源氏」の「松井姓」、「第2の説」は「摂津源氏」の「松井姓」である。
系流がそもそもが異なるのだ。
次に、ところがこの「源維義」は、「為義の14男・本来12男」であるとしているが、ところが「妾子含めて12男」しか無く「この系譜上」には載らない「架空の人物」である。
よくある「系譜の繋手法」である。
更に「満政」は「始祖経基王」の「次男・満仲の異母弟」としている。
「1000年代前後の歴史上人物」であるが、その「裔の6代目・10人」として人物特定されていないので、「所在が不明人物説」であり、且つ、「最低で1120年~最大で1180年頃」の「平安末期・保元平治の乱・1156年~1160年」の時代の人物と成り得て、そうすると「美濃源氏」と成るのである。
これも出自元が一致しない。
そもそも歴史的に「系譜の名」が明確に成っている「6代目の裔名」も不明だし、「鎌倉期」ではないし、この「満政ルーツの裔」は「出生の姓等」は全く「松井」に関していないのだ。
この様に「辻褄合わせ」の「第1の説+第2の説」の「繋ぎ」にも更に「理解不能の大矛盾」があるのだ。
因みに、源氏一族全ては1221年で完全滅亡しているのだ。
そもそも、「駿河青木貞治」に関わった「今川氏の家臣の松井氏の一族」は「桶狭間」で滅亡している。
依って、「二俣城の城主」は「松平氏の家臣の中根氏・主将」であって、「今川氏の遠江松井氏」と「駿河青木貞治」とに関わっていないのだ。
要するに「三河松井氏」は基本的に無い事に成るのだ。
恐らくは、結論は「400年後の山城の松井庄」から出自し、身を興して「国衆」と成って「駿河」に移り、「今川氏の国衆―家臣」を経て「二俣城の城代」と立身出世した者であろう。
そもそも、故に時系列から「400年後の山城の松井庄」は、最早、「源氏云々の地」では無い。
「平安期の土地の所縁」を以て「国衆名」として名乗り、果ては「今川氏の遠江松井氏」と成り得たとするものであろう。
要するに、前段で論じた「四国の庄・阿波説と讃岐説」より出でて「国衆」と成り「伊川津七党の牧野氏等」と成った「経緯・地頭職等も」と全く同然である。
戦乱に依る「第二の姓の勃興」と「下剋上」で消えた「諡号の姓の搾取」のタイプA
「初期の系譜繋合わせ」の搾取横行時代と「後期の系譜繋合わせ」が起こった「江戸初期の国印状取得」の「搾取横行時代」のタイプB
この「ABの二つのタイプ」の何れかである。
では、「駿河青木氏の青木貞治」と「駿河・遠江松井氏の所縁の接点」は、上記では「近江・山城」を「共通の所縁」としていたが、上記の「国衆論」だとすると論は一致しない。
唯、確かな接点はある。
「出自の山城」は、「一門の蒲生秀郷流青木氏」と一致していたし、「伊勢青木氏の血縁先」の「近江青木氏との血縁の所縁地」でもあった。
この「出自元」が“「松井の庄」”としていて、「駿河」では「国衆」と成り得ている事が、「青木氏族の時代性」を「過去400年~700年」に遡り、「近江山城との関係性」は「伊勢信濃側青木氏」では衰退しているが「所縁」に関して何かあった可能性がある。
そもそも最早意味の無い源氏族であるかは別として、「松井の庄の出自である事」では間違いは無い事なので、この事から「他の所縁の有無」の検証をして観る。
結果として「所縁と成る繋ぎ目」が「青木氏族」との間にあった。
先ず、それは「地形の点」である。
「琵琶湖の南」の左に「松井の庄」があって、約2.5平方k程度の庄
「琵琶湖の東」の右に「蒲生の庄」があって、約9.0平方k程度の庄
要するにここは前段でも論じた「火縄銃の経緯」から論じた「後の日野庄」である。
ここは「松井の庄」の北東55kの位置にあり、大戸川を挟んで左右の中間の位置にある。
この「松井の庄」から「信楽の山」を一つ挟んで隣に「蒲生の庄・日野」がある。
先ずここが「第一つ目の繋ぎ点」であり「隣の庄」としては関係性は強くある。
次に「血縁の点」としては次の様に成る。
この「蒲生氏」は「秀郷流一門」で朝廷関係に派遣されていた一族であって、この「一族・高郷」に嫁いだ「伊勢青木氏の女系・梵純の母」で、その「伊勢の里・母の里」に「秀郷流青木氏」を興し継承したのであり、唯、「松井」には四掟にて血縁の関係は無い。
その周囲は「近江青木氏、佐々木氏系青木氏、甲賀青木氏、血縁族の近江佐々木氏等」の定住地である。
山を一つ越えた「松井の庄」の住民であるとするならば、ここからは「東隣の成り行き」を知り得ていた事は充分に考えられる。
「松井の庄の場所」の点に付いては「決定的な重要な論点」であり、それは次の様に成る。
室町期の「日野の庄」は前段でも論じた様に「堺支店」より「財源と資材と青木氏部の工人」を供給して「火縄銃の生産拠点」にした地域でもある。
この「物資・後に火縄銃等」を「松井の庄」に運び、そこから「隣の淀川」を経由して大阪湾に運び出し、そこから「堺店」を経由して販売をしていた。
ここはその「長い間の歴史的中継点・淀川真西4k」であった。
更に、その「所縁」を以て「蒲生の庄」から「松井の庄」の「周囲・均等」には何と青木氏の菩提寺の「清光寺」が何と「5寺」も存在していたのである。
この「青木氏の一族」の「菩提寺の清光寺」は「定住地」のそのものを意味するよりは、「堺との関わり」に依る「一族の現地在住の菩提寺」でもあり、尚且つ「青木氏に関わる事務所的要素を持った寺」でもあったのだ。
「七つの寺が菩提寺」と云うのは青木氏族がそれだけ定住していたとする数は多すぎる。
それよりは前段でも論じた様に事務所的要素が大きかったのだ。
このこの事が示す様に「松井の庄」が「中継点の役割」を果たしていたとすると、この「5つの清光寺の寺と分寺の清蓮寺を加えると7寺」は「荷駄」などの「一時保管場所的要素をも持っていた事」に成る。
当然にその結果として、「松井の庄の民」にもその「役割」は必然的に生まれていたであろう事が予想できる。
この域には、注目する点は定住地外のその「役目」としては「菩提寺の数」に比して当然に「神明社」がある筈だ。
それが無いのは、「事務所的要素と一時保管場所的要素」を重視していた事を意味する。
「事務所的要素と一時保管場所的要素」を置く事に依って、「寺」は「寺」では無く「寺」でもあり、「寺」と云う「寺閣・平城館」を利用して室町期出ある以上は「周囲への防御」に置いていたと考えられる。
例えば、「伊勢」の西入り口の地の「伊賀の戦い」で有名を覇した「名張の清蓮寺城・平城館」と同じ意味を成しているのだ。
だから、清蓮城寺があるのだ。
「伊勢青木氏」は奈良期よりこの戦略を採って来たが、「伊勢と堺の防衛上の歴史的な重要拠点」でもあった事にも成る。
その意味で、「松井の庄」は、「蒲生の庄」と堺までの「中間点」にもあり、淀川平野に出た「利便性の高い位置関係」に在ったのだ。
この事は青木氏論に関わらず、故に山間部の国の「近江滋賀山城」から観れば、「松井の庄」の地点は、上記の「第1の説」から「第4の説」に説く様に、古来より「冠者や地頭職」を置くほどに「重要な位置関係」を成していたのだ。
記する処は「第4の説」などは、“何故ここに渡来人の工人が?”と成る所以であるのだ。
「松井の庄」と「第4の説」と共に、ここ無くして「山奥の日野の火縄銃の生産」が「資材や工人の条件」と共に成し得なかった事でもあったのだ。
当にこれは室町期に関わらず奈良期からでもあったのだ。
「蒲生の庄」、「日野の庄」の人間全てに執って知らない者はいなかったであろうし、「松井の庄」からも同じ事であったろう。
故に、「伊勢との関係」は上記の通り同然のものとして、この「伊勢の二つの青木氏」と深く血縁で繋がる「駿河青木氏・青木貞治」に執って見れば、「松井の庄の出自の者」と成れば親密感を共有する事に成り、同然に「遠江の松井氏」に執っても同じであったろう。
戦国の世に於いて「遠江」に「国衆」として出てくる前の「松井の庄」で「若い頃を生きた者」に執っては懐かしさもあったと考えられる。
もっと云えば、「駿河青木氏・青木貞治」は伊勢で5年間ほど鍛えられ船で摂津に赴く等の事は充分にあり「松井の庄」に赴いた事もあったのではとも考える事は出来る。
この「遠江松井氏」に付いては遠江での譜は次の通りである。
宗能1―義行―貞宗2―信薫3―宗重4―宗恒5―宗親6―宗直7
1 御厨領家の土地を授与 1513年
2 宗能より平川郷堤城主 主要家臣 1528年
3 二俣城城主 1529 病死
4 宗信・弟 二俣城家督 1529 桶狭間戦死 1560年
5 宗恒・弟 二俣城家督 1560年
6 宗親・一族 二俣城城主 徳川氏調略・飯尾氏謀反で今川氏謀殺する。1563年
7 松井氏衰退 武田、徳川氏、今川氏に分裂後衰退 徳川氏旗本 1590年
そうすると、「駿河青木氏・青木貞治」は「伊勢」にて1540年~1545年に「訓練・5年間」の後に「大船一艘」を与えられ、「駿河」で「駿河青木氏・伊勢より嫁す」を「再興・1550年頃」し、「糧」を得て「子孫」を拡大、遠江―駿河―伊勢―「渥美・三河」―伊豆―相模で「活躍・1550年~1555年頃」し、「財」を成す。
以上の経緯を持っている事に成る。
この経緯から「松井氏」との「繋がり」は、先ず判断として「宗信~宗恒~宗親」に持ったという事に成る。
「早期の経緯論」としては、「活躍・1550年~1555年頃」し、「財」を成している段階で、「国衆の段階」を経て「松井氏家臣」に成ったのは「1555年~1560年」で、この経緯が成立するかである。
「中期の経緯論」としては、「5の宗恒」であるが、病死で直系尊属者無く「一族の者」の「6の宗親」に家督継承されている。
ここで、今川氏と決裂し、徳川氏が関わって来る。
「終期の経緯論」としては、「7の松井氏」の「衰退・分裂」が始まり、徳川氏方が勝利し、徳川氏家臣と成る。)
「青木氏の伝統 63」-「青木氏の歴史観-36」に続く。
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「青木氏の伝統 61」-「青木氏の歴史観-34」
[No.386] 「青木氏の伝統 61」-「青木氏の歴史観-34」
投稿者:副管理人 投稿日:1970/01/01(Thu) 09:00:01
> 「青木氏の伝統 60」-「青木氏の歴史観-33」の末尾
>
この「山県昌景の判断ミス」とは相対的であるのだ。
> これが「青木氏族」に遺した「始祖の施基皇子の教訓」の「青木氏の氏是」の意味する処なのである。
> 躊躇なく直ぐ様に執った「戦線離脱の行動」では無く、其の侭に「山県軍の別動隊の追尾」や「武田軍の本隊」に向けてこの「銃口」を向けていた場合は、間違いなく「歴史」に名を遺し、周囲から警戒されて其の侭では済まなかった筈で、泥沼化していた事は間違いは無いのだ。
> これは「青木氏の氏是」の「発祥以来の伝統」に反するのだ。
「青木氏の伝統 61」-「青木氏の歴史観-34」
(注釈 「三河戦記の詳細な検証」
「三河の事に関わる戦記」には主に五つある。
この「三河戦記A」や「甲斐戦記B」から総合的に読み取る事が出来る「額田青木氏に関わる事柄」を拾い出して、この「二つの事に含まれる脚色部分」を外して、そこからその更に“「細かい処」”を検証して読み解いてみる。所謂、詳細経緯である。
そうすると「言葉の使いまわし」等から意外に“普通なら見逃している情報”が潜んでいる事が多く、「青木氏の歴史観・無脚色」と突き合わせて観ると判る事が出て来るのだ。
そこを突いて観る。
取り分け、「三河戦記A」には「脚色・矛盾」が実に多いのだ。
そうすると、先ず「前段までの注釈」でも論じた様に「詳細な行動の経緯」が見える事が出来る。
先ず、「武田軍の背後・堀江城行軍」を「銃力で背後から圧力を掛けた事」に付いては「額田青木氏の銃隊」の「独自の判断」であった事が解る。
「三河戦記の事を書いた五記」からも「命令が出ていた事」は何処にも書かれていず結果だけである。
「書いている事」は、詳しくは「一言坂の偵察隊の事の前後の部分」だけではあるが、判る事は「言葉の隠された意味や隠れた読み解いた経緯」からで、それを繋ぐとこの時の「全体の行動」が見えて来る。
何は兎も角も最も「全ての経緯」の「決め手」と成ったのが「籠城の経緯のキー」である。
どの戦記でも此処は見逃していない。
「武田軍の全軍」が「大軍」であった事で、仮に「松平軍」が「浜松城籠城」を選んだとすると、「浜松城」を攻めるには「補給等・二俣城・山県軍の別動隊が整えた・史実」を受けながら「波動作戦」で、「三方ヶ原・宿営地・補給基地」から「当初の作戦」として何度も攻めて来る事に成っていた事が判る。
この「一連の経緯」から読み解くと、その“「準備の為・掃討と補給」”に「山県軍の別動隊・二俣城」は「三方ヶ原」にやや遅れた事が先ず判る。
その証拠に、「戦記」では、現実に「武田軍の本隊」に遅れて「別動隊・山県軍」は「二俣城」で「周囲の掃討作戦」と、その“「補給路の準備」”に入っていた事が判っている。
その「遅れた主な理由」は、「落城までの期間・2月」と、その勝敗の様子を観ていた「周囲の地侍」が反抗し、これを鎮圧するまで「補給拠点」は最初の二俣城落城前までは造れなかったのだ。
然し、遂に「水攻め」で崩れて開城し、この「様子見の地侍」も「武田氏」に靡いて遂には襲われる事も無く成り「補給路」は出来たのだ。
ここで「青木氏の歴史観」として注目するべき「決定的な情報」があるのだ。
それはこの「二俣城」には「副将」として「青木貞治・三方ヶ原で戦死・駿河秀郷流青木氏」が居たのだ。
この本論の「最大の史実」は、「額田青木氏の南下国衆」に影響していた事に成るので下記でこの点の「詳細経緯」を論じる。
この経緯から「10/16日・元亀」から攻めて、12/19日に落城させて、12/20日まで掃討し、12/21日に「補給路作戦」を開始し、12/22日に西に向けて移動している。
これに「三河五戦記等の信頼できる記載」を合わせると、「補給作戦拠点造り」に苦労して「二俣城」を必要以上に時間を掛けて「北の山際」を西に向けて進軍して来ている。
つまり、これはこの「三方ヶ原」が”「宿営地」”と云うよりは”「補給基地」”であった事を間違いなく物語るものである。
仮に、違うのであるならば「武田軍の本隊が辿った道」を「山県軍の別動隊」は南下するのが通常である。
然し、「山県軍の別動隊」としては「補給基地」は、同時に「守備隊の宿営地」と成り得るので、戦記では“「補給基地・補給拠点の意味含む」”として記しているのだ。
又同時に、この事でも他説の「山県軍の別動隊」が、「天竜川沿い」に南に進軍せずに、「北の山際」に沿ってこの当初の「補給基地・補給拠点」の「北の三方ヶ原」に向かっていた事が読み取れる。
そもそも「武田軍の本隊」も、この「三方ヶ原」を「補給基地・補給拠点」として確保するならば「北の山際」を通って牽制しながら「堀江城」に向かうのが戦略的に距離的にも最も合理的である。
ところが先にこの「南のルート」を使ったのだ。
当然に、「山県軍の別動隊」も、「補給基地・補給拠点」としないのであれば「同じルート・南ルート」を辿って「武田軍の本隊」の後を追うだろう。
ここがよく読み切らないと判らないところであり、故に、「武田軍の本隊」と「家康」との「一言坂の戦い・二つの説」が起こったのだ。
さて、「一言坂」と云うキーを元に、故に、ここからが「青木氏の歴史観」の「額田青木氏の南下国衆の事」と「青木貞治の事に関わる事」に絡まって起こる事に成るのだ。
「三河戦記」の一つの説は、「二俣城」の南下している「武田軍の本隊」に向かって城から出て「野戦」を仕掛けたとする説と、「一言坂」に到着した「武田軍の本隊」に城から出て「野戦」を仕掛けたとする説の二つの説があるが、「詳細経緯のタイムラグ」から観て、前者は成り立たず、後者が正しい事に成る。
普通なら、ここでは遅くとも12/20日で「西・堀江城」に向かう筈であった事が判る。
要するに、この「4日間」の「山県軍の別動隊」は「浜松城籠城作戦に対する為の準備」をしていた事に成る。
この為にも、同時に「武田軍の本隊」が「浜松城」を攻めるには「北の三方ヶ原・宿営地・補給基地」にするとして必ず来ると「松平軍」は観ていたのであろうし、寧ろ、作戦的には先に「野戦の戦場の確保」と「補給基地・補給拠点」を阻止する為に「三方ヶ原」としたとも執れる。
これには「南下国衆の銃隊の一連の行動」に執って「意味する処」があり、何れかであるがどの「三河戦記」にも「甲斐戦記」にも“何れか”を記されていない。
唯単に「三方ヶ原」とし主にはその意味合いから「宿営地とする説」が主流である。
それについては疑問がある。
先ず「経緯の行動」から読み込むと、当初は「堀江城」を「本陣・武田軍の本隊」として、「二俣城の拠点・補給拠点・山県軍の別動隊」にする案が検討されていた「形跡」があると観る。
何故ならば、「信玄の戦い方」の全体を観れば、「野営地を本陣とする戦法」を採らないのが「信玄の戦略のポイント」なのである。
彼の戦記では「周囲の大城・本陣」を落として必ずそうしている。
必ず、「本陣」を戦場と成る所を見計らって「1k~1.5k程度の処・城館」に安全を期して離している置いた戦術を採っているのだ。
「一言坂の周囲」には「2k圏内」には「8つの出城」があり、この何れかに「本陣」を構えた筈である。
何故ならば、「一言坂」より少し「東・18k」に離れて「遠江と駿河との国境域」には堅固な戦略上の拠点と成る「掛川城」と「高天神城」の二つの城があって、これを先ず落とす必要があった。
その「掛川城」は三方ヶ原の戦いの前の「永禄12年5月・1569年」に落城させた。
これは「三方ヶ原の戦い」より「3年前の事」であるが、ここを「本陣」とするには遠すぎる。
ところが、「高天神城・掛川城より南8k」は「天正2年5月・1574年」に落城させた。
「三方ヶ原の戦い」より「4月後の事」であるが、「掛川城」と同じく遠すぎる。
戦略的に先に「掛川城」を落として於いて「西側の城の処置」に掛かり、この「西側」が片付いたらその余力で「高天神城」を落とし、その間は「掛川城」から「東側」に睨みを利かしていたと云う事であろう。
故に、「三方ヶ原の戦い」では、東に「高天神城」の一つの城を残して落とさずに其の侭に直ぐ近くの「一言坂」に入っている。
「三河戦記」では、「二俣城」の手前まで出向いて牽制しようとしたが、その前に「武田軍の本隊」が迎え撃つ様に「一言坂手前」まで進軍し逃げる「松平軍」を追尾し「一言坂」で追い払い、再び、「文面の流れ」からこれをあやふやに“本隊が二俣城に戻つた”様にと記されている。
明らかに上記の後者説であって、「一言坂」に到達した「武田軍の本隊」に城から出て「野戦」を仕掛けた事に成る。戦記では前者説は「偵察隊」と記しているが現実には「野戦」であって、「偵察隊」ではあり得ない「5000の兵」を向けているし、後者説では「野戦」と記されているので後者説が史実と成る。
ところが、この「一言坂の戦い」は、この日が「三河の戦記・松平氏」では「10/13、又は10/14」としていて、ところが「甲斐の戦記」では、「武田軍の本隊」は「10/15」は「匂坂城」を落としている。
「二俣城に戻ったとする様な説」と「匂坂城の説・10/15・一言坂より北4k・天竜川沿い」とには「2日の行動の無理」が起こる、又戻ってもいないのだ。
然し、「甲斐戦記」では「二俣城」には、「山県軍の別動隊・11/中旬・15日頃」に合流し、「本隊」と共に「水源」を破壊して落とした事と記されていて、「武田軍の本隊」が戻ったとは成っていなく、この後、直ぐに「目途」の着いた「二俣城」を「山県軍の別動隊」に「周囲の国衆の掃討」と「補給路の構築」を任せて「二俣城」を離れて南下しているのだ。
実際は、先ずこの「二俣城」は無血開城したが、未だ「周囲」の「国衆・土豪」は反抗を続けていて現実には終わっていない。
これを「武田軍の本隊」も“未だ「二俣城」に居た”と勘違いしたか、「脚色のネタ」にした可能性があると観られる。
この説では、“「偵察隊」”としていて、その軍勢が家康本隊が3000で、本多・大久保等の隊は総勢2000としていて、合わせて合計5000である。
これは松平軍の全勢力であって、そもそも「偵察隊」であれば、「家康・大将」も出ないし、精々100程度で済む筈である。
ところが更にはそもそも「偵察隊」であれば戦わず手前で引くのが常道でありながら、引いたが追いついたとして脚色している。
「武田軍の本隊」が“自動車にでも乗っていたのか”、「どれだけの速さ」であったのか脚色もここまで来ると笑える。
ここにもこの説の無理があり、矛盾だらけで「負けた戦」に江戸期に脚色して虚勢を張ったのだ。
「一言坂」から「二俣城」まで直線で16k、徒士で最低で4hの道則であり、そもそも疲れた兵が戦い後に1日の工程では「大軍の進軍」は倍と成り無理であり、再び、「一言坂」まで戻ってくるのは戦略的に無理であり、そもそも無駄であるし、更にはこれでは「一言坂」の遠江の周囲の「出城8つ」を落とす時間は生まれないし、当然に突然出張った松平軍を追ったとすれば「武田軍の本隊」の「補給態勢」が続かないのだ。
又、そもそもその期間に「2月のずれ」があるのだ。
「甲斐側の戦記」とには修正できない点が生まれて其の侭にして脚色したのだ。
「三河戦記の脚色」は後勘で墓穴を掘った形であるが、江戸期ではこれでも良かったのであろう。
筆者の感覚では敗戦した「甲斐の戦記類」の方が「矛盾と脚色」は少なく「祐筆衆の原稿通り」に「史実」を伝えている気がするし、普通は逆であろう。
もう一つは、「一言坂」へ進軍中の「武田軍の本隊」に向けて城から出て「一言坂」で「野戦に依る戦い」を仕掛けたとしている説があり、天竜川を越えた域当たりで「野戦」と成り敗戦したとする説でこれの方が矛盾は少ない。
そもそも地形的な面から観て、「浜松城」からは、この付近は”「圷の平地」”であったので、「武田軍の本隊」の「一言坂付近の進軍」の「動向の状況」は見えていたので矛盾はない。
其の後の詳細経緯を追うと、ここで、「松平軍を追い払い・11/15日頃」、「軍の態勢を立て直し」、「補給路を確保」し乍ら、その間に「8つの出城」を落として、この間に一時、「約1ケ月間程度・12/20まで」を「浜松城の様子」を観察しながら駐留したのだ。
そして、前段の時系列の通りの行動と成って行く。
12/21 本隊 朝頃一言坂発進
12/21 銃隊到着-額田青木氏の銃撃戦
12/21 17時半頃浜松城通過
12/21 20時頃堀江城到着・開戦
つまり、この経緯から故に、「武田軍の本隊」が北三河を制圧して合流していた「山県軍の別動隊」に「二俣城の処理」を任したが、然し、「二俣城」から「南下」して途中で左に折れて直接に「三方ヶ原」に向かい、「本陣とするべき城館」の無いそこを「宿営地」として、そこから「浜松城」を攻めて、その後に「堀江城」を攻め落とし、それから「本戦の西・三河に向かうと云う戦略」では元々無かったと云う事である。
然し、史実は直接に南下して「浜松城の東・12k-2.5h」に位置する「一言坂・兵站・六間街道―盤田街道・天竜川から東5.5kの坂・盤田目付」まで到達している。
この「東坂下」では「松平軍」と「一度目の野戦・一言坂」をしているのである。
要するに、仮に、何故か「宿営地」としていたとするならば、この史実と矛盾するので「三方ヶ原」には向かっていないのだ。
この様に多くの「三河戦記の説」とは矛盾するのであり、「江戸期の脚色の矛盾点」である。
寧ろ、「二俣城」を落としている限りに於いて先に宿営地としているのなら「二俣城」から直接に「藁科街道・静岡県―本坂街道・愛知県」を西に向かって「三方ヶ原」に向かう筈であり、この西に向かわずに「天竜川沿いの東」の「二俣街道東」を通って南下して「盤田街道」を西の「一言坂」に向かっていて、且つ、そこで無駄な「仕掛けれられた野戦」もしている事に成るのだ。
然し、そもそもこの「三方ヶ原に向かう方・藁科街道」が前段で論じた「時間のずれ」などの事は、一切の問題は吸収出来ていて「無駄」が無く成り「合理的」であった筈である。
故に敢えて、「天竜川沿いの東」の「二俣街道東を採った事」には意味があった事に成る。
つまり、この詳細経緯では、戦略は当初から最も三河寄りの湾際の「堀江城」を本陣に据える筈であった事に成る。
これは過去の戦歴の「信玄の戦略ポイント」に一致する。
だとすると、「二俣城」から「三方ヶ原の南横」を経由して「湖東町交差点」を西にルートを採れば、「三方ヶ原」などに対する「戦略的印象」も効率的で、最も「堀江」に「近いルート」と成り、「両者の籠城戦の考え方」に執っても意味があった筈であったが、史実は違ったのだ。
ここに「両戦記」の「記載の牽制策説」の生まれる所以と成っているのだが、これは飽く迄も「三方ヶ原が野営地・本陣」の「前提の説」に成り、「武田軍の補給基地説」ではない事に成る。
史実は「武田軍の本隊」からは「浜松城の真下・城南」を通過しているので「多少の牽制の考え」はあった事に成る。
況や、「三河戦記」の多くの主説の「信玄の牽制策・脚色」では無かった事に成る。
この説では従って「三方ヶ原」の「信玄の本陣説・脚色矛盾」では無い事に成る。
では、そこで問題に成るのは、上記の“天竜川沿いの東の「二俣街道東」を通って南下して「盤田街道」を西の「一言坂」に向かって”の史実は何なのかである。
確かに「8つの出城を潰す事」もあったろうが、「他の全ゆるルート」では解決でき得ない点の「決定的なポイント」があった事と成る。
それが、次の事だと観ているのだ。
筆者は「二俣城の副将」の「青木貞治・駿河秀郷流青木氏一族一門・駿河水軍」の存在であると観ている。
そもそも、このルートを採ったのには、この「駿河青木氏の青木貞治」の背景には、「日本一の大勢力」の「遠州と駿河と相模と武蔵の国衆の出方+秀郷流一門361氏+秀郷流青木氏116氏」の「出方」を伺ったと観ているのだ。
要するに「青木貞治の駿河青木氏」に繋がる「東勢力」を気にしていたのだ。
「軽視し無視の出来ない勢力・青木氏116氏+青木主要五氏の一族361氏」である。
これは「一族の直の勢力」であって、これにこの一族と血縁を持った国衆も存在するのだ。
信長も秀吉も家康も手を着けなかった相手であった。
此れを下手に動かす様な事にも成れば幾ら「戦い上手な信玄」でも人溜まりもない。
平安期から元々、“「戦闘的ではない寝る子」は起こすな”である。
何せ「一言坂の盤田」の「姫街道沿い・本坂街道」の「直ぐ横・1k」の所に「駿河青木氏の青木貞治」の「一門の菩提寺西光寺・大寺閣の平館城」があるのだ。
これを誰が観ても解らない馬鹿はいないだろう。
この周りは要するに「一言坂の戦場と成った地域」であり、「一族の住処・東域」で一族一門としても放置できない事で、古来より「氏是」として直接に攻撃侵攻はしないが、「入間総宗家の判断」があれば一団と成って救出する。
これが寝る子の「青木氏族の掟」である。
「第二の宗家」としていた「遠江駿河の青木貞治」を始めとする「秀郷流青木氏116氏」はこれを護った。
いざと云う時には、「伊勢」から「伊勢水軍を廻す事」もあり、「駿河水軍にも救助を求める事」も出来、最も東に近いの一族が居る「藤枝」か「青木」からは直ぐに動ける「1日生活圏」の「40k=10里の位置」にもある。
この様に「援軍救助と云う点」では全く問題は無かったし、「武田軍」は「水軍」には全く弱く「補給路」は陸路に限られていた。
故に、「武田軍の本隊・東駿河侵攻」ではこれに対して「藪蛇の戦略」と成らない様な戦略の必要性に迫られていたのだ。
それには「唯一つの策」があった。
それは「戦記」から観ても、「松平軍を攻めた」が「周囲・菩提寺付近」は荒らさず手を付けていないのだ。
何故ならば、「一言坂の戦場」と成った「盤田の西光寺」も「一族の過去帳」や「墓所」等が遺る位に消失していないのだ。
これを観た「遠江と駿河と相模の秀郷一門の勢力」と「伊勢の抑止力の勢力」は連携して「攻撃すると云う事」はせず結果として動かなかったのだ。
故に、「武田軍」は、この寝る子を起こすような事をしなければ、“一言坂を通る南周りの行軍路を選択した”のだ。
同然に、「二俣城の副将・青木貞治等」とその「兵・1200」を開放するに及んだのだ。
これを「甲斐側」から観れば、「遠江と駿河と相模の秀郷一門の勢力」を戦う事なく間接的に抑えた事に成り、「松平氏側」からすると、逆に「背後」を及びやかして欲しかったであろうが、「駿河侵攻・松平氏支配・1568年頃からの4年」では余りに短くその勢力は浸透していなかったのだ。
要するに「戦略の狂い」であった。
上記の“天竜川沿いの東の「二俣街道東」を通って南下して「盤田街道」を西の「一言坂・姫街道」に向かって”の「史実」は、「東の勢力・青木貞治の一族一門」を間接的に抑えたと云う点では「戦略」では「信玄の方」が一枚も上であった事に成るのだ。
つまり、「家康と重臣」は「二俣城の副将の青木貞治の存在・背後の勢力」を低く見ていた事に成る。
「元今川氏の家臣・松井氏」と云う事もあったろう。
要するに「菩提寺」が、“直ぐ傍にあると云う事”を放念していたのだ。
そんな処で「戦いをする事」がそもそも可笑しいのだ。
因みにこの「二俣城の時に、本家分家共に「5人の甲斐時光系青木氏・重臣」が参加していたが、この内の内部紛争で「二人・分家」は積極参加していないのだ。
他の三人は、「三方ヶ原」と「長篠」で「戦死・滅亡」であった。
この「二人」は、後に「武蔵鉢形」に移住させられ「徳川氏の家臣」と成り、一人は孫の「柳沢吉保・青木吉保」であるが、この時のこの一族が「青木貞治の秀郷流一門との関係性」は無かった事が二つの系譜上で判る。
要するに、元々、甲斐とは古来より犬猿性が歴史的にあって、「繋がり」は働いていなかった事に成るが、“働いている”と成っていれば「青木貞治の様子」は違っていただろう。
唯、「二俣城の開城」の“「条件」”から観ると、確たる「証拠」は無いが、甲斐側は“何らかの横の繋がり”を持っていての事かも知れない。
つまり、この無血開城の“「条件」”に疑義があるのだ。
「水攻め」で負けたが、その「開城の条件」が良すぎる。
普通なら、無血開城の場合は「主将と副将」は切腹で始末するのがこの時代の常道である。
それを「城兵1200」と「主将と副将」の「退散」で何と「浜松城に入場」までもを許したのだ。
“これから攻めようとする浜松城に”であり、「敵の勢力を高める策」では無いか。
本来であるなら歴史の定説では解かれていないが「青木貞治隊200」は全滅であった筈で、それが生き遺させた何かが働いたと観るのが普通であろう。
それが上記で論じた「遠州と駿河と相模の秀郷流一門の説」であると説いている。
「青木貞治の秀郷流一門との関係性」を誰かが「甲斐の青木氏・重臣の信種か信秀か等の二人」を通じて「条件」として「青木貞治」に持ち込んだとする説である。
実は、この「信種」は「法名」を「浄賢」と称し、「僧門に入っていた事」から「秀郷一門の事」に詳しく「駿河攻め」に帯同しての「信玄の参謀」を務めていた事が判っていて「「浄賢は重臣参謀の者」であった。
「藪蛇の戦略」や「寝る子を起こす」の様な事の無い様に「逃避説」を説いたのではと観られるのだ。
それに成功したとすれば、“「1200兵の開放」”は「等価の条件と判断した」と考えられる。
場合に依っては、「駿河青木貞治」、又は、「甲斐青木信種」かの何れかが、“「条件」”としてこの「参謀の信種」に話を通したのではないか。
筆者はこの推論は先ず間違いは無いだろうと観ている。
だから、「青木貞治」は「三方ヶ原」で「責任を執つて戦死・旗本から責任を問われた」のだし、「青木貞治隊200」は「南下国衆の銃隊の援助」を受けた事もあるが、その後の掃討でも「西光寺」に逃げ込み無事に生き延びられた所以であろう。
これは「青木氏の歴史観」として絶対に見逃す事の出来ない点であるのだ。
さて、ここで念の為に記するが「青木貞治の一族」は、「遠江の盤田」に「西光寺の菩提寺」があるが、「遠江青木氏」では無く「駿河青木氏」であって、「秀郷流青木氏」の「駿河青木氏の西の勢力末端」に分布して平安期から鎌倉期に子孫を拡大させた裔系である。
この「駿河」は、平安末期の富士川の合戦・源平戦に参加して敗退して逃げて来た「近江青木氏」と「美濃青木氏」と組んで「源平戦」に参加して滅亡した「駿河水軍の駿河青木氏」である。
其の後、織田勢に「尾張と三河の神明社」を全て破壊され、この為に「額田青木氏」を「国衆」として鍛え上げて「フリントロック式改良銃」を秘密裏に堺で独自製作し、これを「額田青木氏」に持たせて南下させて「古跡神明者の神職」が定住していた「三河伊川津」に家族と共に定住移住させた。
この時、「伊勢」は、この「駿河」には「滅亡した駿河水軍の末裔」を探し出して「伊勢」で「訓練・1540年~1545年頃から」を着けさせて「大船一艘」を与え、「糧」を与えて、再び、水軍の「駿河青木氏の裔系・28年~30年間」を拡大させたのだ。
その「復元駿河水軍」の「30年後の裔系」が、「国衆」として仕えた「元今川氏の国衆連」であったが、「今川氏衰退」で「松平氏の家臣・下記」と成った「青木貞治一族」である。
その意味で、「水軍を持つ国衆の駿河青木氏」は「松平氏」に執っては魅力であったのだ。
さて、この「青木貞治一族」の「秀郷一門を背景とする勢力」を軽視し、16k離れた「二俣城」に配置していたのだが、ところが、更に「松平軍」には弱点があった。
つまり、この「弱点」を「武田軍の本隊」に読み込まれたのだ。
「浜松城」と先に落とされた「掛川城」と後で落とされた「高天神城」の「間・28k」には「護りの城」が無く、その中間の「一言坂」を突かれたのだ。
周囲には「8つの出城」があったが、この「青木貞治一族」の「庄地・盤田」に「出城」なり「平館」を造れば、「駿河水軍の威力」はより戦略的に働いたのだがそれをしなかった。
「秀郷一門を背景とする勢力」の「補給や兵力」も含めて「臨戦態勢」が構築できるのだった。
その様にできれば、「織田氏」では無く、「松平軍+東の勢力・秀郷一門・江戸転封で構築」の「武田軍を凌ぐ勢力圏」を築けていた筈であった。
もっと云えば、この「青木貞治の駿河水軍」を使えば「浜松城の籠城戦」の勝利は可能であった筈であった。
当然に、背後を突ける「伊勢水軍と伊勢の財力」をも使えたのだし、「鬼に金棒」であったろう。
つまり、「青木氏の歴史観」から観れば、この様に悉く、「現場的な戦略性の無い家康」は「青木貞治の使い方・旗本の嫉妬と怨嗟」にも失敗していたのだ。
後勘と成るが、筆者ならそうする。
さて、結局は「一言坂の東」を制し「向後の憂い」を無くし、戦略通りに西進しこの「堀江」に向かったのだ。
此処からは、この「青木貞治論」に於いて、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の詳細経緯に関わって来るポイントに成るのだ。
そもそも「堀江城」は、「武田軍の本隊の本陣」としては、「今後の西三河尾張攻め」としても「最高の戦略的位置」である事は、「甲斐戦記」での「言葉の使いまわし」で「読み取る処」ではあり、「三河と甲斐の両記類」でも「両軍が認めていた」とする節があるのだ。
この事は、「武田軍の本陣」とに関わらず、「二俣城」と共にどの「三河戦記・戦略拠点」としてのその表現には“「最重要拠点」”との意が記されている。
“「最重要拠点」”と表現する内部に含まれる「幾つかの意味」を持っている。
その「意味」の一つには、「武田軍」にしても「松平軍」にしても「二俣城」は、「補給の拠点」、「堀江城」は「指揮命令の本陣」とする事、又はその様に成る事に“重きを置いていた”という事に成る。
逆に云えば、「松平軍」に執っては戦闘で最も重要となる「差配・命令」の出る「本陣化の危険城」と観ていた事に成る。
然し、「一言坂・元亀3/11/13?・勝利」に向かい、且つ、最後には「堀江城・元亀3/12/22落城」に向かい、ここで一度、「補給」などをして「軍立」を直して「元亀3/12/22 ・1573/1/25」に直ぐに「三方ヶ原」に向かったのだ。
定説と成っている「三方ヶ原の野営・宿営地の説」は、これで崩れるのだが、然し、ここで改めて「疑問」があっ。る。
第一に、況してや「武田軍の本隊」は「一言坂の野戦」をして周囲を掃討した後に「堀江」に向かったのだが、何故、「浜松城の前」を素通りして、その後で、「定説」と成っている「三方ヶ原・宿営地」に「情報」があったのなら、何故に堀江より先に向かわなかったか?と云う疑問もあるのだ。
但し、「松平軍」は「堀江城陥落後」に松平軍が「籠城」から「野戦」を選び、この「補給拠点を攻めると云う説」もあり、この説が正しいと云う事は上記の論で解明できているが、それならば「堀江」を攻められるというも「一言坂の地点」で既に判明しているのだ。
だとすると、此処で「松平軍の軍議」は、何故、「野戦」としなかったのか?である。
「情報」と「野戦決定」との間には、「1月程度の大きなタイムラグ」があり、これは有り過ぎる。
要するに、ここには「額田青木氏の南下国衆の銃隊」が大きく関わっていたと観ているのだ。
先ずは、「籠城戦」にしろ「野戦」にしろ「銃隊の効果」は大きいので何れにせよ「吉田城」から呼び出すまでの期間を待ったとする説論である。
現実には呼び出した後の「軍議」では、そうならず何と「350の銃隊の大勢力・松平氏軍勢比7%」を「吉田城」から呼び出して置き乍ら、”城外”に「偵察隊」として放り出した結果と成った。
注釈として、そもそも、「火縄銃の銃力」は「兵力の10倍」と云われていて、額田青木氏の南下国衆の連射式のフリントロック改良銃では20倍以上となろう。
とすると、「7500の兵力」に相当する事に成り「松平軍の1.5倍の兵力」を外に放り出して「偵察隊」としてしまったのだ。
そもそも、「吉田城の守備隊」であったものを{浜松城}に呼び出して置いて、「偵察隊」とする戦術的に「低い命令」を何故に下したかである。
既に、そもそも、「浜松城」からは平坦地にいる「武田軍」は東に見えているのである。
何故、意味の無い、又は「低い命令・偵察」を出したかにある。
何れにしても「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、そもそもの「三河国衆の初期の目的・条件」とは異なっていた事から、そんな「危険な位置に加わる事・銃隊を陣形の中心に据える事」をこれを「軍議で拒んだ事」は、「銃隊の指揮官」からの伊勢への手紙の資料等の内々の「やり取り・不満」からも読み取れる。
つまり、ここは「駿河青木氏の青木貞治」と、「武田軍」にしても「松平軍」にしても「判断の分かれ目」に関わっていたので詳細に検証して観る。
その“「判断のカギ」”は、その前に“「武田軍の本隊に起こった出来事」”であろう。
それの大元は、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」との「一言坂の偵察隊との遭遇戦」にあったと観ているのだ。
先ず、その内容はこの「遭遇戦」に勝利して無傷で「西の坂下」に戻った「南下国衆の銃隊の行動」にあったのではと考える。
そして、それは「額田青木氏の南下国衆の銃隊」が、「浜松城」の「城」、或いは「城付近・北東の小丘」に「陣取つた事」にあったと考えるのだ。
つまり、先ず「信玄の頭」に「1年前の第一次吉田城の籠城戦の経験」が過ったと云う事だ。
少なくとも覚えていただろう。
そこで、「信玄」は「一言坂の銃隊の偵察隊」に対して「吉田城の敗戦時・撤退」の「印象記憶」とから、「浜松城通過の間」に、先ず「第1回目の変更の作戦方針」が替えられてたと云う事であろう。
“これは拙い”として「武田軍の初期の目的」の「堀江の方向」に向かったと成るのだ。
つまり、「浜松城」の必要以上の“「牽制行動」”は「銃隊の存在・追尾」でこれ以上は危険と察知したと云う事に成る。
ここの直前までは、未だ“「牽制行動の一策」”として「山県軍の別動隊・補給基地増築使命」の到着までの期間として、「三方ヶ原の補給基地・宿営地・浜松城攻略」に行くか、直接にこの「牽制行動の如何」の為に「堀江城の攻略」に向かうかの「判断」は出ていなかったと観ている。
そこで、「一言坂の坂下」を下りて「浜松城の北東の小丘」に手痛い思いをさせられた「額田青木氏の南下国衆の銃隊」が「浜松城の右横」の「北東の小高い丘・公園の右側・140~150m」に陣取った事を観たのだ。
ここは「一言坂の平地」と違って此処から下に向けて銃弾を浴びせられれば抵抗できない為に“全滅もあり得る”と、信玄は「2度の経験」から観たのだ。
「三方ヶ原の宿営地・浜松城攻略の作戦」では、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」を「相手にする事」に成る為に、「信玄の判断を先送りした」と考えられるのだ。
そこで、「浜松城の城周り」を廻って「館山街道」を北に進んだ。
未だこの段階では「三方ヶ原の補給基地・宿営地・浜松城攻略」に向かえる道である。
つまり、「第1回目の方針変更地点・城」から離れて「武田軍の本隊の後尾」を「額田青木氏の南下国衆の銃隊」が「追尾してくる事」を「武田軍」に「情報」として後尾より入っていた。
ここで、この「情報」に依って、更に「第2回目の方針変更地点」で「判断」を更に替えさせたのである。
それは「牽制行動の中止」の「最終的な決定方針」である。
つまり、「三方ヶ原」に向かうか、将又、「堀江城」に向かうかの「最終的な判断」に達して此処で方針を確定させたのだ。
その「二つの判断のポイント」が、「西と東の街道の交差点・湖東町交差点付近・館山街道」にあったと観るのだ。
同然に、「浜松城攻略」が「最後の作戦」と観ていれば、「二俣城」から南下して進軍してきて、其の侭に「三方ヶ原」に向かい宿営して「山県具の別動隊」を待って「浜松城攻略」を進めれば良い筈である。
その後に「堀江城を落とすと云う戦略」もあった筈だが、この場合は「本陣」が「野営と成る欠点・奇襲攻撃」を持っていたがそれを嫌ったのだ。
要するに、「信長の桶狭間の奇襲作戦・1560年」の例があったからなのだ。
その「奇襲攻撃・南下国衆の銃隊」は、「松平軍」と云うよりは、つまりは、直前の「一言坂」で遭遇した偵察隊の「額田青木氏の南下国衆の銃隊の攻撃」を予想していたのだ。
そうすると、「一言坂を通るという事」の詳細経緯の結論は、先ずは「余裕」を以て「浜松城そのもの」をある程度に牽制して置いて、後に「堀江城」に向かい当初から「三方ヶ原に陣取る予定」では無かった事に成る。
この事は、「一言坂の野戦」の「兵の数」と「織田軍の援軍」も無いと観ていた事に成る。
「織田軍の援軍」があれば、「一万近い兵」が「浜松城」には入り切れないし、「兵糧作戦」から「織田軍」は「補給路」を確立して、「城」の近くに「野営」をしていた筈である。
西には「堀江城からの挟み撃ち」や「大軍の織田軍の補給路」も断たれる事が起こるし、「援軍」は無いと観ていた筈である。
そもそも「織田軍」もそのような愚策もそうしないであろう。
兎も角も先ずは、「銃隊も攻撃してくる様子」も無いとして、その「牽制であった事」に成る。
然し、何れの戦記にも「野営と補給路の記載」は無いの通り、「織田軍」にしても「松平軍」の何れにも「野営」は現実に無かったのだ。
「浜松城」の近くに「野営」が無ければ「松平軍の戦略」は「籠城戦」である。
当然に、「一言坂の坂下」に降りた「額田青木氏の南下国衆の銃隊」も「城近く・北東の小高い丘」に「野営していた事・隠れる」は判っている。
現実には「軍議の内容」では、「織田軍の軍目付・軍艦」と「松平軍も」からも、間違いなく「籠城戦」としてその様な傾向に成っていた筈である。
「銃の牽制力の戦略的効果」を上げながらの「南下国衆の銃隊」も、「軍議」で拒否して外に出された以上は城に入れずに、そのつもりで攻撃せずに追尾だけにしたのだ。
ここで検証は「駿河青木氏の青木貞治」に関わって来る。
然し、「館山街道」の追尾中に、「軍議」に参加している「駿河青木氏の青木貞治隊」から“「驚くべき内部情報」”が齎されたのだ。
つまり、「一言坂の偵察隊との遭遇戦」で、暫く、「武田軍の本隊」は進軍に於いて「隊の再編成」を整えていた「時間・4h~8h」の間に、この「松平軍の浜松城の夜間の軍議」が成されたと云う事に成るのだ。
これに対応した上記の経緯の変化点で、「追尾中の南下国衆の銃隊」は、“「信玄の臨機応変の二つの命」に待つ”という事、つまり、どう出て来るか待つ事に成ったと考えられるのだ。
「武田軍の本隊」には、「松平軍」に放っていた「隠密からの情報」が入っていたと観られる。
そこで、「一案・第1の方針変更」は、「城」を通過して廻って「三方ヶ原」で宿営して「山県軍の別動隊・補給路確保」を待って「浜松城」を攻めると云う「危険策」であった。
つまり、これは「二俣城の作戦」と同じである。
次に、「二案・第2の方針変更」は、被害の大きく出る「銃隊の行動」を観て、これを逸らして「堀江城」に向かう「安全策」である。
その「判断の起点」が、「西と東の分岐点の湖東町・館山街道」で現実のものと成ったのだ。
同然に、これは「額田青木氏の南下国衆の銃隊」にも同じ事が云えたのだ。
この時、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、未だこの時点でこの「三方ヶ原」が「武田軍の宿営地・補給基地」で「籠城戦」と成ると考えていれば、“三方ヶ原方向の東に向かわずに、「もと来た道・館山街道南下」を採り、城には入れないので、「城の近くの丘に陣取る事」に戻る筈である”がそうは成らなかったのだ。
ところが、然し、ここで所謂、上記の「青木貞治の軍議情報」が入り「東の三方ヶ原」に向かっているのだ。
では「内部情報」を得たとしているが、「南下国衆の青木氏の情報源」は判るとしても、気に成る処は「武田軍の本隊」は何処からこの「情報・隠密説」を獲得したかである。
「情報源」が無かったとして「籠城」から「野戦」と変更されるタイミングは「城」を出た時であろう。
然し、これでは「三方ヶ原」を確保され、「補給拠点築造の山県軍の別動隊」は危なく成り遅過ぎる。
少なくとも「内部の情報源」で無ければ無理である。
そこで「内部に情報源」があったとして、「松平軍の軍議」に参加できる国衆は、凡そ200以上を持つ豪族である事になるので、「190居たとされる国衆」の内の“1割にも満たない数”である。
一つ考えられるのは、「時光系甲斐青木氏の五氏」である。
然し、この二つは「長篠の戦い」に消極的態度を採った「分家筋・巨摩郡と柳沢郡」であり、更に一つは安芸・女系の縁者から養子で継いだ分家の本家であって、「戦い」が始まると直ちに安芸に逃亡した。
依って、「甲斐時光系青木氏の武田氏系」と縁組をした本家筋の二つであった。
この「二つの青木氏」が「青木貞治」に「繋を採ったと云う事」も考えられるが、古来より甲斐とは「犬猿の縁」にあって「繋がり」は本来は無かった筈である。
唯、「二俣城」で「武田軍参謀の信種・浄賢」が「二俣城の開城の条件」として「青木貞治を救った事・副将200」があったが、この誼で「お返し・恩義返し」として、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に「内部情報」を提供したと同じ様に情報を提供したのか。
これは疑問であるが、“一族温存の為に”この「情報」を提供したか、又は、要求されたかの可能性があり、「戦乱の世」に於いて否定は出来ない。
元々、「松平氏の家臣」では無く、今川氏の家臣の「松井氏の家臣・近江での縁」であった。
この「松井氏」が潰され、「松平氏の家臣」の「中根氏の配下・二俣城の主将」の「副将」として入っていたのだ。
この事は、飽く迄も「流れの推論」であり、「一切の資料」からは読み取れず、且つ、「戦記」からも同然である。
然し、何も「情報源が無いと云う事」は考え難い。
もう一つは、追尾していた「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「突然の行動・三方ヶ原に向かった」のを観て、「異変を察知した事」も充分に考えられる。
つまり、この場合は「青木貞治が間接的に情報を提供した事」には結果として成る。
筆者はこの説を採っている。
そうすると、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「銃力の威力」では、“「山県軍の別動隊・補給基地築造」が危険”に陥るとして警戒して「武田軍の本隊」が、これを護るために急遽、予定を超えて行動を起こした事も考えられる。
然し、「堀江城」から「三方ヶ原」に向かう途中で「魚鱗の陣形」を途中で編成しながら「三方ヶ原」に向かった「武田軍の本隊の行動経緯」を観ると、違うかなとも考えられる。
然し、場合に依ってはそのつもりで「進軍中」に、「松平軍が居ると云う事」に判り、更に「編成」を強めて後尾に居た「赤兜の騎馬隊を前に出した事」からすると充分に有り得る「詳細経緯」である。
「武田軍の本隊」からすると、城に入らず追尾して来た「額田青木氏の南下国衆の銃隊」が、「独自の行動」で「三方ヶ原・補給基地・宿営地」とする処に向かったとは考え難いだろうし、幾ら「脅威の銃力」を保持していたとしても一つ間違えれば極めて危険な行為の判断と観たのではないか。
「武田軍の本隊」は、その「南下国衆と成った初期の目的」は知っていたかであるが、「吉田城の戦い」や「一言坂の偵察隊の遭遇戦」から観て“「松平軍の銃隊」”と未だ観ていた事が考えられる。
「松平軍の軍議」で拒否し城外に外された事は未だ知り得ていないであろう。
故に、「南下国衆の銃隊」が「東の三方ヶ原の方向に走つた事」で察知し確信したのだ。
恐らくは、この時点で同時に「武田軍の幌者」を確認の為に「三方ヶ原・8.4k・馬0.8h・徒士2h」に走らせたであろう。
「南下国衆の銃隊」が「三方ヶ原に到着する前」に「幌者の往復」で充分確認はできる。
この時点で、少なくとも「籠城戦」では無く、「二度目の野戦との情報」が確認でき、この「情報源」が、実は上記の通り「額田青木氏の南下国衆の銃隊・下記詳細」にはあったのだ。
然し同時に、「松平軍」からすれば「武田軍の本隊」も「堀江に向かっている事」で直ぐに踵を返しても、この段階では「三方ヶ原」に来ない事は判っている。
とすると、この状況は少なくともこの時点、つまり同じ「西と東の分岐点の湖東町・館山街道」で「籠城戦」から「野戦」に「作戦が変更された事」の「情報の入手」を示すものと成ったのだ。
追尾していた「南下国衆の銃隊」が「三方ヶ原に向かった事」と合わせて間違いは無いとしたのだ。
「武田軍の本隊」と「松平軍」の両軍方に執っても「両軍に作戦が変更された事」に成る。
「松平軍の変更」で「武田軍」が変更したのか、将又、「武田軍の変更」で「松平軍」の変更が成されたのかは記録からは判らない。
「流れ・詳細経緯」から上記の通り「松平軍の方」であった事は判る。
但し、「三河側の戦記」では匂わしているが、「松平軍の変更」とは定説では成っていない。
一方の「武田軍側の戦記・資料」では、「堀江城を落とす事」に変更したとする程度で明確な表現が無いし、「三方ヶ原への変更」も明確な記載がない。
故に、「松平軍の変更」と成っているが必ずしも決定づけられない。
何れにせよこの「地点・西と東の分岐点の湖東町・館山街道」が「三者の運命の共通地点」という事に成る。
ここで、「武田軍本隊」と「松平軍」と「山県軍」と「南下国衆の銃隊」と「青木貞治隊」のこの「五者の全てのサイクル」が“「狂い始めた地点」”であるのだ。
ここで何故、「松平軍」が、まだ決まってもいない「堀江」に居る筈の「武田軍の宿営地・補給基地の予定地」を、先に「野戦・決戦場」と決めて、「三方ヶ原」に来たかと云う疑問に成る。
それには、「合戦の戦略上の常道」として、“「合理的な堀江を拠点にすると云う作戦」”もあった筈で、「武田氏側の戦記」では、「堀江城」を「長い時間・延4日」を掛けて落とす程にこの城に対して「大軍」を投入して“「注力」”を注いだのだ。
何も大軍を投入する程の城勢力では無かった。
これに付いて「両戦記で物語る事」は、「堀江城・武田軍本隊の指揮拠点」と「三方ヶ原・山県軍の別動隊の補給所の役目」の「二極拠点化説」が「武田軍側に在ったと云う事」である。
そこでこの事を後で知った「松平軍」は、この「三方ヶ原、山県軍の別動隊の補給所」を「野戦で攻める目的・補給拠点の破壊と場所の確保」であったとする事が頷ける。
然し、これには「高いハードル」が二つあった。
一つは同勢の「山県軍の別動隊」を打ち破る事である。
二つは「補給拠点」を絶たれた「武田軍の本隊」は必ず攻めて来て「決戦と成る事」である。
何れにしても「周囲の城を完全に落とされている事」から「敗戦見込みの賭け」で「織田軍援軍の時間稼ぎである事」は判るし、「織田氏の軍目付・軍監・3氏」も当初より「時間稼ぎに最も効果的な籠城戦」のその発言をしている事が戦記でも記されている。
最終的に「織田軍の大掛かりな援軍・援軍の意思なし・時間稼ぎ」は得られず、結局、「軍目付・軍監・3人・1200・美濃尾張の守備隊」の内の「平手軍の小部隊・主将戦死」のみが「三方ヶ原」で合力をしたし、元より「織田氏」は「武田軍の尾張進軍の時間稼ぎ」を「狙い」としていて「積極的な姿勢」では無かった。
故に、「平手軍」は「この時間稼ぎの一つの策」としての「作戦変更」に止む無く賛同して「合力・戦死」したのだ。
この事で後に「信長」に「軍目付・軍監の二人」は戦記の通り「信長」より「酷い叱責・追放」を受けたのだ。
この「後の史実」が「三方ヶ原」に出たのは「野戦で攻める目的・補給拠点の破壊と場所の確保」を証明している。
そこで因みに、この「補給拠点の破壊と場所の確保」には観えて来るものがある。
「堀江城、三方ヶ原、二俣城、浜松城、一言坂」の「五つの点の地形的な関係性」に付いて検証して観ると、この“「堀江城」の「武田軍側の二極拠点化説」”に対して頷けるものが見えて来るのだ。
先ず、この「五つの点」には次の様な「正三角形の位置関係」にあるという事である。
「一言坂」からは「5点の全体」は、当に“「正台形の位置関係」”を示しているのだ。
「堀江城」からやや北東側に「三方ヶ原」があり距離は8.5kある。
この「三方ヶ原」から同じ「線状A」の12.2kの位置に「二俣城」がある。
「堀江城」からほぼ「中間点の位置」に「三方ヶ原」があると云う事だ。
そして、この「三方ヶ原」から「線状A」に「垂直の位置」の「9.7kの位置」に「浜松城」がある。
この「浜松城」から南西側の「堀江城」に結ぶ距離は12.5kにある。
「浜松城」から北東側の「二俣城」までの距離は18.5kにある。
「一言坂」から「二俣城」までの距離は15.7kの位置にある。
「浜松城と三方ヶ原」の「線状A」を「左右対象の位置」に左に「堀江城」、右に「二俣城」があると云う事だ。
つまり、地形的に「三方ヶ原」は戦略上では、「武田軍側の拠点化」には「最適な位置関係」にあり、「籠城戦」とした場合は、「武田軍の本隊」の「三方ヶ原の野営」よりは「堀江城の本陣・指揮所」としてはより「最適な位置」にあったのだ。
この「武田軍側」のこの「二極拠点化説」には合理性がある。
言い換えれば、西の「織田軍の動向」を堀江から睨みながら、この「堀江城の存在」は同時に「浜松城籠城戦の長期化を予測していた事」をこの説は物語る。
「織田軍の援軍」はこの「堀江城」を攻め落とさなければ「浜松」には、上記の補給の問題もあるが、「入る事」さえも出来ないのである。
「三河戦記の定説」と成っている「援軍説」は無理であった筈である。
現実に「長篠の戦い」で「堀江城と二俣城」は歴史に遺る程の抵抗戦が繰り返された事が記されている。
という事は、この説からすると、「家康」はこの「補給拠点」を奪取して上手く行けば上記の「二つのハードル」を突破して、この「二極拠点化説」を撃ち砕く作戦に無理に出た事に成る。
この「補給拠点」を造ろう、或いは護ろうとしているのは「同勢の山県軍の別動隊」である。
其れで突如、「作戦」を変更して「浜松城」を早く出て、「三方ヶ原」に「鶴翼の陣で構えて待つ作戦に出た事」に成るだろう。
然し、この「作戦」は「信玄」に「館山街道湖東町の交差点の動き・南下国衆の動き」で悟られていたのだ。
定説とは異なり、密かに「家康」は「情報・定法の漏れる事」を恐れて「タイミング・山県軍の別動隊の動向」が来るまで心中に秘めていたかも知れないのだ。
何故なら、それは遠江では「190以上の国衆の寄せ集め軍・脆軍」であったからだ。
筆者は、この「きっかけ」は、間接的にも「青木貞治の南下国衆への情報」から興った事で心持ちこの気がする。
さて、この時の否定されている「鶴翼の陣形の妥当性」であるが、「山県軍の別動隊」と「同勢」、或いは「やや多い兵力」であるとするならば、「松平軍」が戦った場合は必ずしも負ける前提の陣形では無い。
何故なら「山県軍の別動隊」は、「二俣城の陥落後」に「二俣城」より経由して「三方ヶ原」に「補給基地を構築する使命」を帯びていた。
「甲斐戦記の通り」にすると、「山県軍の別動隊5000」とあるが、この内訳は記されていないがこの「使命」は明記されている。
とすると、この「使命」から「実戦兵・守備兵」は「約半分のと2000~3000」と見込まれる。
「松平軍」は実質は「190以上の国衆の寄せ集め軍・脆軍」であっても、5000>2000~3000とすれば「家康」は密かに勝てると見込んだ事が予想できる。
だから「鶴翼の陣とした」とも取れるのだ。
これは当に「甲斐側の戦記通り」である。
この場合からすると、当然に“「松平軍」が東側に陣取った”ので、「山県軍の別動隊」が西側に陣取る事に成ろうし、又、必然的に結果として「西の堀江城をからの応援を求める事」に成るので間違いなく、止む無くして「北の山際」を西に向かって廻り込む様に「西」に陣取る事に成る。
この「西向きの鶴翼」の是非は、「山県軍の別動隊・補給隊と戦後処理」には、「早くて突撃性の強い赤兜の騎馬隊」を有していないので、「攻めて来た兵」に対して相手がどんな陣形であろうが、随時、波状的に包み込む様に戦う事で互角には戦え問題は無い事に成る。
唯、「鶴翼の陣形の欠点」の一つは、「鶴翼の開閉」が出来ず「早くて突撃性の強い赤兜の騎馬隊・6000」の様な勢力に弱いと云う事である。
弱ければ疲れれば「本陣・大将」に突き抜けて仕舞うと云う事だ。
「山県軍の別動隊」にこれが出来たかと云う事であって、「補給基地を築造する使命」から、その「築造兵」を連れている以上は当然に出来ない事は一般として判る。
「三方ヶ原」で勝利すれば、「補給基地の使命」を帯びていた事から「浜松城の掃討」もしなければ成らない事に成る。
そうでなけれは「補給基地」は成り立たないし、次の「西三河攻略」の「第一補給基地」にも成る拠点でもあるのだし、それには「松城城の掃討」も「一連の重要な使命」であった筈である。
そもそも「戦い」は第一義的なものとして何れの戦いも「補給」無くして戦いは成り立たない。
これを危惧した「武田軍の本隊の上記した行動」に繋がったのだ。
因みに、早くて突撃性の強い「赤兜の騎馬隊・6000」の様に、「関ケ原の真田幸村」も大阪城から突き出した様に「廓柵・1km・馬防柵」を造り、周囲から攻撃されない様にして「本陣近く・家康」に近づき「騎馬隊」で突撃してこの「作戦」に出て成功している。
同然に、又、騎馬隊よりも早い銃を無視して頼り過ぎた面もあるが、この「赤兜の騎馬隊」が「武田軍の強み・本隊所属」でもあったのだ。
更に、参考として「家康」は、長篠後に、この「赤兜の騎馬隊・6000の勢力」をそっくり陣営に加え配下に組み込んで兵力を高めた位である。
故に、「松平軍」にはこれが無い以上は「鶴翼で同格に戦うと云う戦術を採った」と云う事にも成ったのだ。
中間説を採る戦記の「突撃性有無論の説」である。
もっと云えば、「堀江城の本陣化」は「今川氏真の失敗」を承知していて「家康」は充分に知り得ていた筈である。
だから、遠州が自分の手に入ったのだから知らない訳はない。
今その手に入れて遠州を「信玄」に「滅亡寸前」まで攻められているのだ。
「三河戦記」では定説とされている「本陣」を「三方ヶ原」に置くなどの事は露も思わなかっただろう。
要するに、故に「家康」は、“心の中に秘めていた判断”として「定説」とは違い、“補給拠点を破壊する”、又は、“確保する”と云う「戦術」に急変した事に成るのだ。
唯、とは云えど、これも「堀江城陥落の後」に、間違いなく奪回に「武田軍の本隊」は「三方ヶ原」に駆けつけて来ると云う難題があって、その時間内に勝利しなければならないし、再び、勝利しても奪回されるのは「時間の問題の課題」があった。
その時は、「城に逃げ帰る事」に成っていて、此処で「籠城戦に持ち込む」と云う「時間稼ぎ」にあったのであろうし、これであれば始めから「籠城戦」では無く、「織田氏の援軍の同意・軍目付・軍監の同意」を獲得できると云う「妥協中間策・時間稼ぎ」を執ったと考えられるのだ。
この「武田氏側の戦記」での仮説では、何処かの資料を以て史実に基づいて論じているかは別にして、この様に観ていたと云う事なのだろう。
これに賛同したのは「軍目付・軍監」の内の一人の「織田氏家老・平手汎秀」だけであったという事に成る。
故に合力して戦死しているのだ。
現実には、「武田軍の本隊」は「三方ヶ原」に出向いて来たが、出向いてきた理由は“補給拠点を破壊する”、又は、“確保する”事に対する作戦行動であったとしているのだ。
恐らくは、故にこの「説・二極拠点化説」の意味する処は此処にあったと考えられる。
だとすると、「軍勢とか陣形の是否」では「合理性に基づいた行動」として符号一致しているのだ。
本来であれば、江戸期で「戦記として論じる事」には「有利な立場」に成った「松平氏側の戦記・幕府」でも正しく論じられるものではあるが、そうでは無く不思議に冷静に筆者の上記の“青木氏の歴史観から観た考え”に似た「詳細経緯」が、「武田氏側の戦記の一つ」が論じているのだ。
気になるのはこの「論処の合理的な所以」である。
どうもこの「武田氏側の戦記」と云うか、「甲斐の戦記」と云うかの「研究資料の根拠」は「武田氏の戦略・戦術を決める立場の者」の傍に居た「家臣の書き記し・日記等」に基づく「総合論」である様だ。
明記はされていないがそれが「松平氏側の戦記」との「江戸期の照合論」である様だ。
この戦記資料は、江戸期初期には余りにも幕府自らも進んで行った「松平氏側の戦記」の“有利性を持たした美化の脚色論”に対しての「反論」であったのではないかと観られるのだ。
筆者は、「徳川家康・1563年に改姓後・長篠後に多用する」は、長篠後、多くの武田氏の家臣をそっくり抱え込んだが、この中の者が密かに「名・ペンネーム」に変えて「擁護論」を展開したのではと考えられる。
それが誰かは正確には判らないが筆者の見立てでは二人居る。
それをできる者として、先ず、綱吉の側用人の「柳沢吉保・甲斐青木吉保・時光系青木豊定の孫」が密かに家臣の誰かに命じて纏めさせたものでは無いかと考えている。
もう一人は、「松平氏の重臣」で「二俣城の副将」の「青木貞治・三方ヶ原で戦死」の「子孫・戦功を揚げる」が「無駄死にした先祖の名誉」の為にも「真実・史実」を書き記し遺したと観ているのだ。
この「駿河青木氏の青木貞治」の「子・長三郎・伊賀越えの功労者」とその子孫は、「御側衆3500石・上級番方」に取り立てられ破格の出世をしたのだ。
では、此処で、「柳沢吉保・青木吉保」の事は前段でも充分に論じているので、もう一人の上記でも論じた「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に「貴重な情報を齎した者」は誰だったのかであるが、其れは「二俣城副将の青木貞治」である。
当然に、「伊賀青木氏の銃隊・荷駄隊50」にも、又「伊勢シンジケート・香具師・伊賀隠密」も参加している事は当然の事として、「伊勢隠密」も放っていた。
そこで「情報経緯」として、「松平氏の内部の情報」をどの様に「情報」として獲得したかを解明して置く必要がある。
実は、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「指揮官」と、「国衆として銃の取り扱い訓練」の「指導者」として、前段でも論じた様に、「伊勢秀郷流青木氏」がこれに当たったし、且つ、「三河」に「開発業や殖産業」をして「長篠後」にも爆発的に子孫を多く遺した。
ところが、前記の「松平氏の重臣」で「二俣城の副将」の「青木貞治・三方ヶ原で戦死」は鎌倉期までこの地の「秀郷一門の豪族・駿河秀郷流青木氏」であった。
「全国24地域116氏」のここは「州浜族と片喰族」と呼ばれた一族の24地域の一つの定住地の一つであったのだ。
平安期には「駿河の最西端」の遠江との国境に定住した水軍族であって、伊勢屋信濃の制止を振り切って「源氏化」して源平戦に参加して滅亡したが、「伊勢」に依って再び探し出され「伊勢」で訓練を受けた「復興一族・女系」であった。
この「三方ヶ原後」の「青木貞治の子孫・長三郎」は「家康御側五人衆と呼ばれた者」で、「本能寺の変」の時、「堺に居た家康」を護っていた「御側五人」の中の一人であった。
この時の「伊賀越えの事件」には、「青木貞治の子孫・長三郎」以外にも「実家の駿河水軍」には他にも功績を挙げた者らが居たのだ。
伊勢の資料を繋合わせると、その詳細経緯が記され判って来る。
これによると、「本能寺の事件」と「青木長三郎から持ち込んだ家康救出作戦」が伊勢で採られた。
「堺の伊勢青木氏・仮名を使う・摂津店の商人」に先ず話を持ち込み、「伊勢シンジケート」を使って「伊勢福家」に連絡し、更に「一族の伊勢秀郷流青木氏」にも話を通し、「伊勢青木氏」が「伊賀青木氏・伊勢シンジケート」に指示して「伊勢」まで擁護して「四日市・青木氏」まで救出し一時休息させた。
そこから更に「青木氏資料の白子湾説」、又は他説では「長太浜説」より、「伊勢水軍」が周囲を保護して「青木氏の船」で「三河の大浜」まで運び助けたとする有名な歴史的経緯があった。
「伊勢水軍の伊勢衆」は後にこの事で家康から「お墨付き」を貰い江戸までの「永代の廻船業の許可」を得たとして記されている。
又、「伊勢シンジケートの情報」により「出迎え」に廻って海から警護に当たったこの「駿河水軍・実家」も「家臣・水軍」に加えられたとしている。
つまり、これが「駿河青木氏の青木貞治」の裔で、「伊賀越えの御側衆」で貢献した「駿河青木氏の青木長三郎の実家」であるが、この実家も家臣と成ったのだ。
これは「家康」には、「徳川軍に水軍の必要性」を感じさせた事件でもあり、「三方ヶ原の青木貞治と子の長三郎」の実家先の「駿河水軍青木氏の存在」をも認めさせた「勲功・褒章」であったのだ。
今川氏、松井氏、中根氏から遂には独立して、「近習衆・近番衆・近侍衆・近国衆の三河衆」の旗本に対して、「家人衆」と呼ばれる「関東の秀郷流一門・官僚族」が成った関東の「旗本」に加えられたのだ。
但し、注釈としてこの「伊賀越え」では、「家康を助けた者」では「堺の商人」も「伊勢の青木氏」やその「船などの所有者」もを「青木氏側」では一切直接に名を出していないのである。
「内部の資料・祐筆の記録」にもこの件の行動が記載されて遺されてはいるが、「本名を出さない仕来り」のこれは、全て“「青木氏の古来からの仕来り・青木氏の氏是」”である。
因みに、前段でも論じたが、もう一度この事に少し触れて置くと、その一つとして「信長の伊勢攻め」で「戦いの出城」として「松ケ島城」を建築したが、この際に、城の築城建材の一切を「堺商人・伊勢青木氏・伊勢屋支店・名変える」が請負い掛け合っていたが、物価高騰を理由に「高額な値」を付けて織田氏を財政的に影から揺さぶり、「伊勢シンジケート」を使って城建築の現場に職人を送り込み、建築材の遅延を理由に工事を遅らせ、挙句は「伊勢シンジケート」に依って出来上がつた城を燃やしたのだ。
この時も、「堺商人」は「伊勢」に害を及ぼさない様に「実名」を隠して接したのだ。
歴史書には時々出て来るこの「二人の堺商人」は当に「伊勢青木氏の人物」である。
「秀吉の長島氏攻め」でも同じ手を使って出城建築を遅らせたのだが、これを秀吉に気づかれて「自らの兵」を使って吉野の山から木材を切り出すと云う破目に成ったのだ。
この「偽名の手段」は、「堺支店の掟」であり、「堺」に限らず「全国488店の支店」にも適用されたと記されている。
この様に都度、「名」を変えたとしているのだ。
これらの事は、「青木氏の資料の行」のみならず「江戸期の物語風の戦記・二つ」にも成っているのだ。
通常は、要するに「超豪商」は「名」を変えるか、「顔」を見せないか、「人」を変えるか、時には「店」を変えるかして対応していたのだ。
この掟は別には借財も抱える等もしている「武力の持つ者」からの害を防ぐ目的があったのだ。
最大の目的は二足の草鞋にあって「商い」の行為が「賜姓臣下族青木氏の格式」に尾よ場無い様にする為の掟であった。
一般的にも超豪商は「テレビ物語などの様な実名を出す様な事」は決してなかったのだし、「伊勢青木氏」には奈良期からの「格式の氏是」があったのだ。
「伊勢青木氏」は「朝廷の命」で「紙屋院」として「925年頃」から「商人」も兼ねる「二つの顔」を持つ様に成ったが、これ以来に基づく「商人」としての「厳しい掟」があったのだ。
取り分け、実務の「堺支店の堺商人」や全国に店を持つ一族の「伊賀青木氏の香具師・隠密商人」等にもこれが求められていたし、これが大正期まで続いていたのだ。
これ等は明治期初期に「維新政府の命」や、「火付け打ちこわしの嫌がらせ」の圧力も受け無償放棄で「本店関係」を残し解体したのだし、「伊勢の青木氏部」も同然であった。
其の後には、広大な大字の本領地の土地までも、又、債権も無償放棄する結果と成り、この掟等は遂に歴史を閉じ霧消したのだ。
「伊賀青木氏の香具師等の各地の店」も一部は昭和初期までとし多くは大正15年頃までに各地に「影」を残し解体されるが、「明治期の厳しい締め付け」が緩み改めて大正期頃から各地の支店であった定住地では「掟」を無くして「青木・・店」として再出発している。
正しく理解する為の青木氏の歴史観として上記を付記する。
戻して、これ、即ち、「伊賀越え事件」は「渥美湾の制海権」を獲得した「9年後の事」である。
この「駿河秀郷流青木氏一族」の「菩提寺の西光寺・青木貞治」は「静岡県盤田市目付」にあって現在もある。
「南下国衆の指揮官」であった「伊勢秀郷流青木氏」の「三河伊川津田原」の「古跡神明社の隣200m」の所にも「菩提寺・西光寺」があるのだ。
この「二つの西光寺・秀郷流青木氏菩提寺」は真東西に「54kの位置」にある。
「伊勢の青木氏の裔系」とは「四掟」に基づき古来より「女系」で何度も網の目の様に繋がり、互いに助け合って来た。
当然に、「三方ケ原の戦い」の中でも容易くに「情報交換」はあったと考えられ、「内部の事情」は間違いなく把握出来ていたと考えられる。
故に「伊勢の家人等に遺されている手紙」などの「資料」には、信用度は高く資料の行の各所には「伊賀越えの事件」の一節等が記されていたのだ。
長い間の一族でありながら「情報を遮断すると云う事」は100%あり得ないだろう。
公で無くても提供しあっていた筈であるし、上記の通り「伊勢からの資金援助」も充分に有ったと考えられる。
そもそも「青木貞治等」には、「滅亡した駿河水軍の駿河青木氏の子孫」を探しだし、「伊勢」で教育して大船一艘を与えて駿河に帰しているのだ。
勿論、俯瞰し合っている「青木氏一族」のみならず「松平氏」にもである。
「松平軍」はこの「莫大な資金」無くしてこれだけの「長い間の戦いの戦費」は「石高」では何もできない。
「家康」も、「二俣城の副将・青木貞治」に据える位であるとすると、「青木氏」に於ける一族関係は承知していた事は間違いなく頷ける。
故に、だとすると、これが“「額田青木氏の南下国衆との初期の約束」”をぎりぎりのところで護った事になろう。
そもそも、氏家制度の社会の中であり、その様に考えるのが普通である。
寧ろ、筆者なら大いに利用したが、ところが「青木氏の氏是に基づく信念」を貫き、「提供」が結果として「青木氏に危険を招く」として、「資金の提供」はあったとしても「銃の提供」に関してだけは応じていないのだ。
又、「銃の保持」は、「青木氏の氏是」に関わらず、「銃」は「銃シンジケート」に依って掟の範囲で隔離され、仮に「金銭」が有っても「仲間の約束」は護り「調達」は難しかったのだ。
そもそも「青木氏の銃」は「貿易と財力と高度な熟練」を無くして手軽に保持できる「銃型」では無かった。
ハッキリ言えば、この「三つ要件」を身内に備える、況や“「青木氏銃」”であって「青木氏族」にしか使えない銃であったのだ。
それだけに飽く迄も「保持の前提」は、「額田青木氏の南下国衆の護身用の改良銃」であって、「松平氏・この頃から徳川氏を頻繁に名乗る」は、それを「国衆の戦力」として観てこれを「味方に持つ事」と引き換えに、「渥美湾の制海権の獲得の条件」を認めたのだ。
その意味では、“戦力と云うよりは抑止力的効果を期待していた事”も一部では読み取れる。
況や、この意味でも、「青木氏族の一員」の“「青木貞治とその子孫の松平氏の内部の活躍具合」”が読み解けるのだ。)
「青木氏の伝統 62」-「青木氏の歴史観-35」に続く。
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
投稿者:副管理人 投稿日:1970/01/01(Thu) 09:00:01
> 「青木氏の伝統 60」-「青木氏の歴史観-33」の末尾
>
この「山県昌景の判断ミス」とは相対的であるのだ。
> これが「青木氏族」に遺した「始祖の施基皇子の教訓」の「青木氏の氏是」の意味する処なのである。
> 躊躇なく直ぐ様に執った「戦線離脱の行動」では無く、其の侭に「山県軍の別動隊の追尾」や「武田軍の本隊」に向けてこの「銃口」を向けていた場合は、間違いなく「歴史」に名を遺し、周囲から警戒されて其の侭では済まなかった筈で、泥沼化していた事は間違いは無いのだ。
> これは「青木氏の氏是」の「発祥以来の伝統」に反するのだ。
「青木氏の伝統 61」-「青木氏の歴史観-34」
(注釈 「三河戦記の詳細な検証」
「三河の事に関わる戦記」には主に五つある。
この「三河戦記A」や「甲斐戦記B」から総合的に読み取る事が出来る「額田青木氏に関わる事柄」を拾い出して、この「二つの事に含まれる脚色部分」を外して、そこからその更に“「細かい処」”を検証して読み解いてみる。所謂、詳細経緯である。
そうすると「言葉の使いまわし」等から意外に“普通なら見逃している情報”が潜んでいる事が多く、「青木氏の歴史観・無脚色」と突き合わせて観ると判る事が出て来るのだ。
そこを突いて観る。
取り分け、「三河戦記A」には「脚色・矛盾」が実に多いのだ。
そうすると、先ず「前段までの注釈」でも論じた様に「詳細な行動の経緯」が見える事が出来る。
先ず、「武田軍の背後・堀江城行軍」を「銃力で背後から圧力を掛けた事」に付いては「額田青木氏の銃隊」の「独自の判断」であった事が解る。
「三河戦記の事を書いた五記」からも「命令が出ていた事」は何処にも書かれていず結果だけである。
「書いている事」は、詳しくは「一言坂の偵察隊の事の前後の部分」だけではあるが、判る事は「言葉の隠された意味や隠れた読み解いた経緯」からで、それを繋ぐとこの時の「全体の行動」が見えて来る。
何は兎も角も最も「全ての経緯」の「決め手」と成ったのが「籠城の経緯のキー」である。
どの戦記でも此処は見逃していない。
「武田軍の全軍」が「大軍」であった事で、仮に「松平軍」が「浜松城籠城」を選んだとすると、「浜松城」を攻めるには「補給等・二俣城・山県軍の別動隊が整えた・史実」を受けながら「波動作戦」で、「三方ヶ原・宿営地・補給基地」から「当初の作戦」として何度も攻めて来る事に成っていた事が判る。
この「一連の経緯」から読み解くと、その“「準備の為・掃討と補給」”に「山県軍の別動隊・二俣城」は「三方ヶ原」にやや遅れた事が先ず判る。
その証拠に、「戦記」では、現実に「武田軍の本隊」に遅れて「別動隊・山県軍」は「二俣城」で「周囲の掃討作戦」と、その“「補給路の準備」”に入っていた事が判っている。
その「遅れた主な理由」は、「落城までの期間・2月」と、その勝敗の様子を観ていた「周囲の地侍」が反抗し、これを鎮圧するまで「補給拠点」は最初の二俣城落城前までは造れなかったのだ。
然し、遂に「水攻め」で崩れて開城し、この「様子見の地侍」も「武田氏」に靡いて遂には襲われる事も無く成り「補給路」は出来たのだ。
ここで「青木氏の歴史観」として注目するべき「決定的な情報」があるのだ。
それはこの「二俣城」には「副将」として「青木貞治・三方ヶ原で戦死・駿河秀郷流青木氏」が居たのだ。
この本論の「最大の史実」は、「額田青木氏の南下国衆」に影響していた事に成るので下記でこの点の「詳細経緯」を論じる。
この経緯から「10/16日・元亀」から攻めて、12/19日に落城させて、12/20日まで掃討し、12/21日に「補給路作戦」を開始し、12/22日に西に向けて移動している。
これに「三河五戦記等の信頼できる記載」を合わせると、「補給作戦拠点造り」に苦労して「二俣城」を必要以上に時間を掛けて「北の山際」を西に向けて進軍して来ている。
つまり、これはこの「三方ヶ原」が”「宿営地」”と云うよりは”「補給基地」”であった事を間違いなく物語るものである。
仮に、違うのであるならば「武田軍の本隊が辿った道」を「山県軍の別動隊」は南下するのが通常である。
然し、「山県軍の別動隊」としては「補給基地」は、同時に「守備隊の宿営地」と成り得るので、戦記では“「補給基地・補給拠点の意味含む」”として記しているのだ。
又同時に、この事でも他説の「山県軍の別動隊」が、「天竜川沿い」に南に進軍せずに、「北の山際」に沿ってこの当初の「補給基地・補給拠点」の「北の三方ヶ原」に向かっていた事が読み取れる。
そもそも「武田軍の本隊」も、この「三方ヶ原」を「補給基地・補給拠点」として確保するならば「北の山際」を通って牽制しながら「堀江城」に向かうのが戦略的に距離的にも最も合理的である。
ところが先にこの「南のルート」を使ったのだ。
当然に、「山県軍の別動隊」も、「補給基地・補給拠点」としないのであれば「同じルート・南ルート」を辿って「武田軍の本隊」の後を追うだろう。
ここがよく読み切らないと判らないところであり、故に、「武田軍の本隊」と「家康」との「一言坂の戦い・二つの説」が起こったのだ。
さて、「一言坂」と云うキーを元に、故に、ここからが「青木氏の歴史観」の「額田青木氏の南下国衆の事」と「青木貞治の事に関わる事」に絡まって起こる事に成るのだ。
「三河戦記」の一つの説は、「二俣城」の南下している「武田軍の本隊」に向かって城から出て「野戦」を仕掛けたとする説と、「一言坂」に到着した「武田軍の本隊」に城から出て「野戦」を仕掛けたとする説の二つの説があるが、「詳細経緯のタイムラグ」から観て、前者は成り立たず、後者が正しい事に成る。
普通なら、ここでは遅くとも12/20日で「西・堀江城」に向かう筈であった事が判る。
要するに、この「4日間」の「山県軍の別動隊」は「浜松城籠城作戦に対する為の準備」をしていた事に成る。
この為にも、同時に「武田軍の本隊」が「浜松城」を攻めるには「北の三方ヶ原・宿営地・補給基地」にするとして必ず来ると「松平軍」は観ていたのであろうし、寧ろ、作戦的には先に「野戦の戦場の確保」と「補給基地・補給拠点」を阻止する為に「三方ヶ原」としたとも執れる。
これには「南下国衆の銃隊の一連の行動」に執って「意味する処」があり、何れかであるがどの「三河戦記」にも「甲斐戦記」にも“何れか”を記されていない。
唯単に「三方ヶ原」とし主にはその意味合いから「宿営地とする説」が主流である。
それについては疑問がある。
先ず「経緯の行動」から読み込むと、当初は「堀江城」を「本陣・武田軍の本隊」として、「二俣城の拠点・補給拠点・山県軍の別動隊」にする案が検討されていた「形跡」があると観る。
何故ならば、「信玄の戦い方」の全体を観れば、「野営地を本陣とする戦法」を採らないのが「信玄の戦略のポイント」なのである。
彼の戦記では「周囲の大城・本陣」を落として必ずそうしている。
必ず、「本陣」を戦場と成る所を見計らって「1k~1.5k程度の処・城館」に安全を期して離している置いた戦術を採っているのだ。
「一言坂の周囲」には「2k圏内」には「8つの出城」があり、この何れかに「本陣」を構えた筈である。
何故ならば、「一言坂」より少し「東・18k」に離れて「遠江と駿河との国境域」には堅固な戦略上の拠点と成る「掛川城」と「高天神城」の二つの城があって、これを先ず落とす必要があった。
その「掛川城」は三方ヶ原の戦いの前の「永禄12年5月・1569年」に落城させた。
これは「三方ヶ原の戦い」より「3年前の事」であるが、ここを「本陣」とするには遠すぎる。
ところが、「高天神城・掛川城より南8k」は「天正2年5月・1574年」に落城させた。
「三方ヶ原の戦い」より「4月後の事」であるが、「掛川城」と同じく遠すぎる。
戦略的に先に「掛川城」を落として於いて「西側の城の処置」に掛かり、この「西側」が片付いたらその余力で「高天神城」を落とし、その間は「掛川城」から「東側」に睨みを利かしていたと云う事であろう。
故に、「三方ヶ原の戦い」では、東に「高天神城」の一つの城を残して落とさずに其の侭に直ぐ近くの「一言坂」に入っている。
「三河戦記」では、「二俣城」の手前まで出向いて牽制しようとしたが、その前に「武田軍の本隊」が迎え撃つ様に「一言坂手前」まで進軍し逃げる「松平軍」を追尾し「一言坂」で追い払い、再び、「文面の流れ」からこれをあやふやに“本隊が二俣城に戻つた”様にと記されている。
明らかに上記の後者説であって、「一言坂」に到達した「武田軍の本隊」に城から出て「野戦」を仕掛けた事に成る。戦記では前者説は「偵察隊」と記しているが現実には「野戦」であって、「偵察隊」ではあり得ない「5000の兵」を向けているし、後者説では「野戦」と記されているので後者説が史実と成る。
ところが、この「一言坂の戦い」は、この日が「三河の戦記・松平氏」では「10/13、又は10/14」としていて、ところが「甲斐の戦記」では、「武田軍の本隊」は「10/15」は「匂坂城」を落としている。
「二俣城に戻ったとする様な説」と「匂坂城の説・10/15・一言坂より北4k・天竜川沿い」とには「2日の行動の無理」が起こる、又戻ってもいないのだ。
然し、「甲斐戦記」では「二俣城」には、「山県軍の別動隊・11/中旬・15日頃」に合流し、「本隊」と共に「水源」を破壊して落とした事と記されていて、「武田軍の本隊」が戻ったとは成っていなく、この後、直ぐに「目途」の着いた「二俣城」を「山県軍の別動隊」に「周囲の国衆の掃討」と「補給路の構築」を任せて「二俣城」を離れて南下しているのだ。
実際は、先ずこの「二俣城」は無血開城したが、未だ「周囲」の「国衆・土豪」は反抗を続けていて現実には終わっていない。
これを「武田軍の本隊」も“未だ「二俣城」に居た”と勘違いしたか、「脚色のネタ」にした可能性があると観られる。
この説では、“「偵察隊」”としていて、その軍勢が家康本隊が3000で、本多・大久保等の隊は総勢2000としていて、合わせて合計5000である。
これは松平軍の全勢力であって、そもそも「偵察隊」であれば、「家康・大将」も出ないし、精々100程度で済む筈である。
ところが更にはそもそも「偵察隊」であれば戦わず手前で引くのが常道でありながら、引いたが追いついたとして脚色している。
「武田軍の本隊」が“自動車にでも乗っていたのか”、「どれだけの速さ」であったのか脚色もここまで来ると笑える。
ここにもこの説の無理があり、矛盾だらけで「負けた戦」に江戸期に脚色して虚勢を張ったのだ。
「一言坂」から「二俣城」まで直線で16k、徒士で最低で4hの道則であり、そもそも疲れた兵が戦い後に1日の工程では「大軍の進軍」は倍と成り無理であり、再び、「一言坂」まで戻ってくるのは戦略的に無理であり、そもそも無駄であるし、更にはこれでは「一言坂」の遠江の周囲の「出城8つ」を落とす時間は生まれないし、当然に突然出張った松平軍を追ったとすれば「武田軍の本隊」の「補給態勢」が続かないのだ。
又、そもそもその期間に「2月のずれ」があるのだ。
「甲斐側の戦記」とには修正できない点が生まれて其の侭にして脚色したのだ。
「三河戦記の脚色」は後勘で墓穴を掘った形であるが、江戸期ではこれでも良かったのであろう。
筆者の感覚では敗戦した「甲斐の戦記類」の方が「矛盾と脚色」は少なく「祐筆衆の原稿通り」に「史実」を伝えている気がするし、普通は逆であろう。
もう一つは、「一言坂」へ進軍中の「武田軍の本隊」に向けて城から出て「一言坂」で「野戦に依る戦い」を仕掛けたとしている説があり、天竜川を越えた域当たりで「野戦」と成り敗戦したとする説でこれの方が矛盾は少ない。
そもそも地形的な面から観て、「浜松城」からは、この付近は”「圷の平地」”であったので、「武田軍の本隊」の「一言坂付近の進軍」の「動向の状況」は見えていたので矛盾はない。
其の後の詳細経緯を追うと、ここで、「松平軍を追い払い・11/15日頃」、「軍の態勢を立て直し」、「補給路を確保」し乍ら、その間に「8つの出城」を落として、この間に一時、「約1ケ月間程度・12/20まで」を「浜松城の様子」を観察しながら駐留したのだ。
そして、前段の時系列の通りの行動と成って行く。
12/21 本隊 朝頃一言坂発進
12/21 銃隊到着-額田青木氏の銃撃戦
12/21 17時半頃浜松城通過
12/21 20時頃堀江城到着・開戦
つまり、この経緯から故に、「武田軍の本隊」が北三河を制圧して合流していた「山県軍の別動隊」に「二俣城の処理」を任したが、然し、「二俣城」から「南下」して途中で左に折れて直接に「三方ヶ原」に向かい、「本陣とするべき城館」の無いそこを「宿営地」として、そこから「浜松城」を攻めて、その後に「堀江城」を攻め落とし、それから「本戦の西・三河に向かうと云う戦略」では元々無かったと云う事である。
然し、史実は直接に南下して「浜松城の東・12k-2.5h」に位置する「一言坂・兵站・六間街道―盤田街道・天竜川から東5.5kの坂・盤田目付」まで到達している。
この「東坂下」では「松平軍」と「一度目の野戦・一言坂」をしているのである。
要するに、仮に、何故か「宿営地」としていたとするならば、この史実と矛盾するので「三方ヶ原」には向かっていないのだ。
この様に多くの「三河戦記の説」とは矛盾するのであり、「江戸期の脚色の矛盾点」である。
寧ろ、「二俣城」を落としている限りに於いて先に宿営地としているのなら「二俣城」から直接に「藁科街道・静岡県―本坂街道・愛知県」を西に向かって「三方ヶ原」に向かう筈であり、この西に向かわずに「天竜川沿いの東」の「二俣街道東」を通って南下して「盤田街道」を西の「一言坂」に向かっていて、且つ、そこで無駄な「仕掛けれられた野戦」もしている事に成るのだ。
然し、そもそもこの「三方ヶ原に向かう方・藁科街道」が前段で論じた「時間のずれ」などの事は、一切の問題は吸収出来ていて「無駄」が無く成り「合理的」であった筈である。
故に敢えて、「天竜川沿いの東」の「二俣街道東を採った事」には意味があった事に成る。
つまり、この詳細経緯では、戦略は当初から最も三河寄りの湾際の「堀江城」を本陣に据える筈であった事に成る。
これは過去の戦歴の「信玄の戦略ポイント」に一致する。
だとすると、「二俣城」から「三方ヶ原の南横」を経由して「湖東町交差点」を西にルートを採れば、「三方ヶ原」などに対する「戦略的印象」も効率的で、最も「堀江」に「近いルート」と成り、「両者の籠城戦の考え方」に執っても意味があった筈であったが、史実は違ったのだ。
ここに「両戦記」の「記載の牽制策説」の生まれる所以と成っているのだが、これは飽く迄も「三方ヶ原が野営地・本陣」の「前提の説」に成り、「武田軍の補給基地説」ではない事に成る。
史実は「武田軍の本隊」からは「浜松城の真下・城南」を通過しているので「多少の牽制の考え」はあった事に成る。
況や、「三河戦記」の多くの主説の「信玄の牽制策・脚色」では無かった事に成る。
この説では従って「三方ヶ原」の「信玄の本陣説・脚色矛盾」では無い事に成る。
では、そこで問題に成るのは、上記の“天竜川沿いの東の「二俣街道東」を通って南下して「盤田街道」を西の「一言坂」に向かって”の史実は何なのかである。
確かに「8つの出城を潰す事」もあったろうが、「他の全ゆるルート」では解決でき得ない点の「決定的なポイント」があった事と成る。
それが、次の事だと観ているのだ。
筆者は「二俣城の副将」の「青木貞治・駿河秀郷流青木氏一族一門・駿河水軍」の存在であると観ている。
そもそも、このルートを採ったのには、この「駿河青木氏の青木貞治」の背景には、「日本一の大勢力」の「遠州と駿河と相模と武蔵の国衆の出方+秀郷流一門361氏+秀郷流青木氏116氏」の「出方」を伺ったと観ているのだ。
要するに「青木貞治の駿河青木氏」に繋がる「東勢力」を気にしていたのだ。
「軽視し無視の出来ない勢力・青木氏116氏+青木主要五氏の一族361氏」である。
これは「一族の直の勢力」であって、これにこの一族と血縁を持った国衆も存在するのだ。
信長も秀吉も家康も手を着けなかった相手であった。
此れを下手に動かす様な事にも成れば幾ら「戦い上手な信玄」でも人溜まりもない。
平安期から元々、“「戦闘的ではない寝る子」は起こすな”である。
何せ「一言坂の盤田」の「姫街道沿い・本坂街道」の「直ぐ横・1k」の所に「駿河青木氏の青木貞治」の「一門の菩提寺西光寺・大寺閣の平館城」があるのだ。
これを誰が観ても解らない馬鹿はいないだろう。
この周りは要するに「一言坂の戦場と成った地域」であり、「一族の住処・東域」で一族一門としても放置できない事で、古来より「氏是」として直接に攻撃侵攻はしないが、「入間総宗家の判断」があれば一団と成って救出する。
これが寝る子の「青木氏族の掟」である。
「第二の宗家」としていた「遠江駿河の青木貞治」を始めとする「秀郷流青木氏116氏」はこれを護った。
いざと云う時には、「伊勢」から「伊勢水軍を廻す事」もあり、「駿河水軍にも救助を求める事」も出来、最も東に近いの一族が居る「藤枝」か「青木」からは直ぐに動ける「1日生活圏」の「40k=10里の位置」にもある。
この様に「援軍救助と云う点」では全く問題は無かったし、「武田軍」は「水軍」には全く弱く「補給路」は陸路に限られていた。
故に、「武田軍の本隊・東駿河侵攻」ではこれに対して「藪蛇の戦略」と成らない様な戦略の必要性に迫られていたのだ。
それには「唯一つの策」があった。
それは「戦記」から観ても、「松平軍を攻めた」が「周囲・菩提寺付近」は荒らさず手を付けていないのだ。
何故ならば、「一言坂の戦場」と成った「盤田の西光寺」も「一族の過去帳」や「墓所」等が遺る位に消失していないのだ。
これを観た「遠江と駿河と相模の秀郷一門の勢力」と「伊勢の抑止力の勢力」は連携して「攻撃すると云う事」はせず結果として動かなかったのだ。
故に、「武田軍」は、この寝る子を起こすような事をしなければ、“一言坂を通る南周りの行軍路を選択した”のだ。
同然に、「二俣城の副将・青木貞治等」とその「兵・1200」を開放するに及んだのだ。
これを「甲斐側」から観れば、「遠江と駿河と相模の秀郷一門の勢力」を戦う事なく間接的に抑えた事に成り、「松平氏側」からすると、逆に「背後」を及びやかして欲しかったであろうが、「駿河侵攻・松平氏支配・1568年頃からの4年」では余りに短くその勢力は浸透していなかったのだ。
要するに「戦略の狂い」であった。
上記の“天竜川沿いの東の「二俣街道東」を通って南下して「盤田街道」を西の「一言坂・姫街道」に向かって”の「史実」は、「東の勢力・青木貞治の一族一門」を間接的に抑えたと云う点では「戦略」では「信玄の方」が一枚も上であった事に成るのだ。
つまり、「家康と重臣」は「二俣城の副将の青木貞治の存在・背後の勢力」を低く見ていた事に成る。
「元今川氏の家臣・松井氏」と云う事もあったろう。
要するに「菩提寺」が、“直ぐ傍にあると云う事”を放念していたのだ。
そんな処で「戦いをする事」がそもそも可笑しいのだ。
因みにこの「二俣城の時に、本家分家共に「5人の甲斐時光系青木氏・重臣」が参加していたが、この内の内部紛争で「二人・分家」は積極参加していないのだ。
他の三人は、「三方ヶ原」と「長篠」で「戦死・滅亡」であった。
この「二人」は、後に「武蔵鉢形」に移住させられ「徳川氏の家臣」と成り、一人は孫の「柳沢吉保・青木吉保」であるが、この時のこの一族が「青木貞治の秀郷流一門との関係性」は無かった事が二つの系譜上で判る。
要するに、元々、甲斐とは古来より犬猿性が歴史的にあって、「繋がり」は働いていなかった事に成るが、“働いている”と成っていれば「青木貞治の様子」は違っていただろう。
唯、「二俣城の開城」の“「条件」”から観ると、確たる「証拠」は無いが、甲斐側は“何らかの横の繋がり”を持っていての事かも知れない。
つまり、この無血開城の“「条件」”に疑義があるのだ。
「水攻め」で負けたが、その「開城の条件」が良すぎる。
普通なら、無血開城の場合は「主将と副将」は切腹で始末するのがこの時代の常道である。
それを「城兵1200」と「主将と副将」の「退散」で何と「浜松城に入場」までもを許したのだ。
“これから攻めようとする浜松城に”であり、「敵の勢力を高める策」では無いか。
本来であるなら歴史の定説では解かれていないが「青木貞治隊200」は全滅であった筈で、それが生き遺させた何かが働いたと観るのが普通であろう。
それが上記で論じた「遠州と駿河と相模の秀郷流一門の説」であると説いている。
「青木貞治の秀郷流一門との関係性」を誰かが「甲斐の青木氏・重臣の信種か信秀か等の二人」を通じて「条件」として「青木貞治」に持ち込んだとする説である。
実は、この「信種」は「法名」を「浄賢」と称し、「僧門に入っていた事」から「秀郷一門の事」に詳しく「駿河攻め」に帯同しての「信玄の参謀」を務めていた事が判っていて「「浄賢は重臣参謀の者」であった。
「藪蛇の戦略」や「寝る子を起こす」の様な事の無い様に「逃避説」を説いたのではと観られるのだ。
それに成功したとすれば、“「1200兵の開放」”は「等価の条件と判断した」と考えられる。
場合に依っては、「駿河青木貞治」、又は、「甲斐青木信種」かの何れかが、“「条件」”としてこの「参謀の信種」に話を通したのではないか。
筆者はこの推論は先ず間違いは無いだろうと観ている。
だから、「青木貞治」は「三方ヶ原」で「責任を執つて戦死・旗本から責任を問われた」のだし、「青木貞治隊200」は「南下国衆の銃隊の援助」を受けた事もあるが、その後の掃討でも「西光寺」に逃げ込み無事に生き延びられた所以であろう。
これは「青木氏の歴史観」として絶対に見逃す事の出来ない点であるのだ。
さて、ここで念の為に記するが「青木貞治の一族」は、「遠江の盤田」に「西光寺の菩提寺」があるが、「遠江青木氏」では無く「駿河青木氏」であって、「秀郷流青木氏」の「駿河青木氏の西の勢力末端」に分布して平安期から鎌倉期に子孫を拡大させた裔系である。
この「駿河」は、平安末期の富士川の合戦・源平戦に参加して敗退して逃げて来た「近江青木氏」と「美濃青木氏」と組んで「源平戦」に参加して滅亡した「駿河水軍の駿河青木氏」である。
其の後、織田勢に「尾張と三河の神明社」を全て破壊され、この為に「額田青木氏」を「国衆」として鍛え上げて「フリントロック式改良銃」を秘密裏に堺で独自製作し、これを「額田青木氏」に持たせて南下させて「古跡神明者の神職」が定住していた「三河伊川津」に家族と共に定住移住させた。
この時、「伊勢」は、この「駿河」には「滅亡した駿河水軍の末裔」を探し出して「伊勢」で「訓練・1540年~1545年頃から」を着けさせて「大船一艘」を与え、「糧」を与えて、再び、水軍の「駿河青木氏の裔系・28年~30年間」を拡大させたのだ。
その「復元駿河水軍」の「30年後の裔系」が、「国衆」として仕えた「元今川氏の国衆連」であったが、「今川氏衰退」で「松平氏の家臣・下記」と成った「青木貞治一族」である。
その意味で、「水軍を持つ国衆の駿河青木氏」は「松平氏」に執っては魅力であったのだ。
さて、この「青木貞治一族」の「秀郷一門を背景とする勢力」を軽視し、16k離れた「二俣城」に配置していたのだが、ところが、更に「松平軍」には弱点があった。
つまり、この「弱点」を「武田軍の本隊」に読み込まれたのだ。
「浜松城」と先に落とされた「掛川城」と後で落とされた「高天神城」の「間・28k」には「護りの城」が無く、その中間の「一言坂」を突かれたのだ。
周囲には「8つの出城」があったが、この「青木貞治一族」の「庄地・盤田」に「出城」なり「平館」を造れば、「駿河水軍の威力」はより戦略的に働いたのだがそれをしなかった。
「秀郷一門を背景とする勢力」の「補給や兵力」も含めて「臨戦態勢」が構築できるのだった。
その様にできれば、「織田氏」では無く、「松平軍+東の勢力・秀郷一門・江戸転封で構築」の「武田軍を凌ぐ勢力圏」を築けていた筈であった。
もっと云えば、この「青木貞治の駿河水軍」を使えば「浜松城の籠城戦」の勝利は可能であった筈であった。
当然に、背後を突ける「伊勢水軍と伊勢の財力」をも使えたのだし、「鬼に金棒」であったろう。
つまり、「青木氏の歴史観」から観れば、この様に悉く、「現場的な戦略性の無い家康」は「青木貞治の使い方・旗本の嫉妬と怨嗟」にも失敗していたのだ。
後勘と成るが、筆者ならそうする。
さて、結局は「一言坂の東」を制し「向後の憂い」を無くし、戦略通りに西進しこの「堀江」に向かったのだ。
此処からは、この「青木貞治論」に於いて、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の詳細経緯に関わって来るポイントに成るのだ。
そもそも「堀江城」は、「武田軍の本隊の本陣」としては、「今後の西三河尾張攻め」としても「最高の戦略的位置」である事は、「甲斐戦記」での「言葉の使いまわし」で「読み取る処」ではあり、「三河と甲斐の両記類」でも「両軍が認めていた」とする節があるのだ。
この事は、「武田軍の本陣」とに関わらず、「二俣城」と共にどの「三河戦記・戦略拠点」としてのその表現には“「最重要拠点」”との意が記されている。
“「最重要拠点」”と表現する内部に含まれる「幾つかの意味」を持っている。
その「意味」の一つには、「武田軍」にしても「松平軍」にしても「二俣城」は、「補給の拠点」、「堀江城」は「指揮命令の本陣」とする事、又はその様に成る事に“重きを置いていた”という事に成る。
逆に云えば、「松平軍」に執っては戦闘で最も重要となる「差配・命令」の出る「本陣化の危険城」と観ていた事に成る。
然し、「一言坂・元亀3/11/13?・勝利」に向かい、且つ、最後には「堀江城・元亀3/12/22落城」に向かい、ここで一度、「補給」などをして「軍立」を直して「元亀3/12/22 ・1573/1/25」に直ぐに「三方ヶ原」に向かったのだ。
定説と成っている「三方ヶ原の野営・宿営地の説」は、これで崩れるのだが、然し、ここで改めて「疑問」があっ。る。
第一に、況してや「武田軍の本隊」は「一言坂の野戦」をして周囲を掃討した後に「堀江」に向かったのだが、何故、「浜松城の前」を素通りして、その後で、「定説」と成っている「三方ヶ原・宿営地」に「情報」があったのなら、何故に堀江より先に向かわなかったか?と云う疑問もあるのだ。
但し、「松平軍」は「堀江城陥落後」に松平軍が「籠城」から「野戦」を選び、この「補給拠点を攻めると云う説」もあり、この説が正しいと云う事は上記の論で解明できているが、それならば「堀江」を攻められるというも「一言坂の地点」で既に判明しているのだ。
だとすると、此処で「松平軍の軍議」は、何故、「野戦」としなかったのか?である。
「情報」と「野戦決定」との間には、「1月程度の大きなタイムラグ」があり、これは有り過ぎる。
要するに、ここには「額田青木氏の南下国衆の銃隊」が大きく関わっていたと観ているのだ。
先ずは、「籠城戦」にしろ「野戦」にしろ「銃隊の効果」は大きいので何れにせよ「吉田城」から呼び出すまでの期間を待ったとする説論である。
現実には呼び出した後の「軍議」では、そうならず何と「350の銃隊の大勢力・松平氏軍勢比7%」を「吉田城」から呼び出して置き乍ら、”城外”に「偵察隊」として放り出した結果と成った。
注釈として、そもそも、「火縄銃の銃力」は「兵力の10倍」と云われていて、額田青木氏の南下国衆の連射式のフリントロック改良銃では20倍以上となろう。
とすると、「7500の兵力」に相当する事に成り「松平軍の1.5倍の兵力」を外に放り出して「偵察隊」としてしまったのだ。
そもそも、「吉田城の守備隊」であったものを{浜松城}に呼び出して置いて、「偵察隊」とする戦術的に「低い命令」を何故に下したかである。
既に、そもそも、「浜松城」からは平坦地にいる「武田軍」は東に見えているのである。
何故、意味の無い、又は「低い命令・偵察」を出したかにある。
何れにしても「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、そもそもの「三河国衆の初期の目的・条件」とは異なっていた事から、そんな「危険な位置に加わる事・銃隊を陣形の中心に据える事」をこれを「軍議で拒んだ事」は、「銃隊の指揮官」からの伊勢への手紙の資料等の内々の「やり取り・不満」からも読み取れる。
つまり、ここは「駿河青木氏の青木貞治」と、「武田軍」にしても「松平軍」にしても「判断の分かれ目」に関わっていたので詳細に検証して観る。
その“「判断のカギ」”は、その前に“「武田軍の本隊に起こった出来事」”であろう。
それの大元は、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」との「一言坂の偵察隊との遭遇戦」にあったと観ているのだ。
先ず、その内容はこの「遭遇戦」に勝利して無傷で「西の坂下」に戻った「南下国衆の銃隊の行動」にあったのではと考える。
そして、それは「額田青木氏の南下国衆の銃隊」が、「浜松城」の「城」、或いは「城付近・北東の小丘」に「陣取つた事」にあったと考えるのだ。
つまり、先ず「信玄の頭」に「1年前の第一次吉田城の籠城戦の経験」が過ったと云う事だ。
少なくとも覚えていただろう。
そこで、「信玄」は「一言坂の銃隊の偵察隊」に対して「吉田城の敗戦時・撤退」の「印象記憶」とから、「浜松城通過の間」に、先ず「第1回目の変更の作戦方針」が替えられてたと云う事であろう。
“これは拙い”として「武田軍の初期の目的」の「堀江の方向」に向かったと成るのだ。
つまり、「浜松城」の必要以上の“「牽制行動」”は「銃隊の存在・追尾」でこれ以上は危険と察知したと云う事に成る。
ここの直前までは、未だ“「牽制行動の一策」”として「山県軍の別動隊・補給基地増築使命」の到着までの期間として、「三方ヶ原の補給基地・宿営地・浜松城攻略」に行くか、直接にこの「牽制行動の如何」の為に「堀江城の攻略」に向かうかの「判断」は出ていなかったと観ている。
そこで、「一言坂の坂下」を下りて「浜松城の北東の小丘」に手痛い思いをさせられた「額田青木氏の南下国衆の銃隊」が「浜松城の右横」の「北東の小高い丘・公園の右側・140~150m」に陣取った事を観たのだ。
ここは「一言坂の平地」と違って此処から下に向けて銃弾を浴びせられれば抵抗できない為に“全滅もあり得る”と、信玄は「2度の経験」から観たのだ。
「三方ヶ原の宿営地・浜松城攻略の作戦」では、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」を「相手にする事」に成る為に、「信玄の判断を先送りした」と考えられるのだ。
そこで、「浜松城の城周り」を廻って「館山街道」を北に進んだ。
未だこの段階では「三方ヶ原の補給基地・宿営地・浜松城攻略」に向かえる道である。
つまり、「第1回目の方針変更地点・城」から離れて「武田軍の本隊の後尾」を「額田青木氏の南下国衆の銃隊」が「追尾してくる事」を「武田軍」に「情報」として後尾より入っていた。
ここで、この「情報」に依って、更に「第2回目の方針変更地点」で「判断」を更に替えさせたのである。
それは「牽制行動の中止」の「最終的な決定方針」である。
つまり、「三方ヶ原」に向かうか、将又、「堀江城」に向かうかの「最終的な判断」に達して此処で方針を確定させたのだ。
その「二つの判断のポイント」が、「西と東の街道の交差点・湖東町交差点付近・館山街道」にあったと観るのだ。
同然に、「浜松城攻略」が「最後の作戦」と観ていれば、「二俣城」から南下して進軍してきて、其の侭に「三方ヶ原」に向かい宿営して「山県具の別動隊」を待って「浜松城攻略」を進めれば良い筈である。
その後に「堀江城を落とすと云う戦略」もあった筈だが、この場合は「本陣」が「野営と成る欠点・奇襲攻撃」を持っていたがそれを嫌ったのだ。
要するに、「信長の桶狭間の奇襲作戦・1560年」の例があったからなのだ。
その「奇襲攻撃・南下国衆の銃隊」は、「松平軍」と云うよりは、つまりは、直前の「一言坂」で遭遇した偵察隊の「額田青木氏の南下国衆の銃隊の攻撃」を予想していたのだ。
そうすると、「一言坂を通るという事」の詳細経緯の結論は、先ずは「余裕」を以て「浜松城そのもの」をある程度に牽制して置いて、後に「堀江城」に向かい当初から「三方ヶ原に陣取る予定」では無かった事に成る。
この事は、「一言坂の野戦」の「兵の数」と「織田軍の援軍」も無いと観ていた事に成る。
「織田軍の援軍」があれば、「一万近い兵」が「浜松城」には入り切れないし、「兵糧作戦」から「織田軍」は「補給路」を確立して、「城」の近くに「野営」をしていた筈である。
西には「堀江城からの挟み撃ち」や「大軍の織田軍の補給路」も断たれる事が起こるし、「援軍」は無いと観ていた筈である。
そもそも「織田軍」もそのような愚策もそうしないであろう。
兎も角も先ずは、「銃隊も攻撃してくる様子」も無いとして、その「牽制であった事」に成る。
然し、何れの戦記にも「野営と補給路の記載」は無いの通り、「織田軍」にしても「松平軍」の何れにも「野営」は現実に無かったのだ。
「浜松城」の近くに「野営」が無ければ「松平軍の戦略」は「籠城戦」である。
当然に、「一言坂の坂下」に降りた「額田青木氏の南下国衆の銃隊」も「城近く・北東の小高い丘」に「野営していた事・隠れる」は判っている。
現実には「軍議の内容」では、「織田軍の軍目付・軍艦」と「松平軍も」からも、間違いなく「籠城戦」としてその様な傾向に成っていた筈である。
「銃の牽制力の戦略的効果」を上げながらの「南下国衆の銃隊」も、「軍議」で拒否して外に出された以上は城に入れずに、そのつもりで攻撃せずに追尾だけにしたのだ。
ここで検証は「駿河青木氏の青木貞治」に関わって来る。
然し、「館山街道」の追尾中に、「軍議」に参加している「駿河青木氏の青木貞治隊」から“「驚くべき内部情報」”が齎されたのだ。
つまり、「一言坂の偵察隊との遭遇戦」で、暫く、「武田軍の本隊」は進軍に於いて「隊の再編成」を整えていた「時間・4h~8h」の間に、この「松平軍の浜松城の夜間の軍議」が成されたと云う事に成るのだ。
これに対応した上記の経緯の変化点で、「追尾中の南下国衆の銃隊」は、“「信玄の臨機応変の二つの命」に待つ”という事、つまり、どう出て来るか待つ事に成ったと考えられるのだ。
「武田軍の本隊」には、「松平軍」に放っていた「隠密からの情報」が入っていたと観られる。
そこで、「一案・第1の方針変更」は、「城」を通過して廻って「三方ヶ原」で宿営して「山県軍の別動隊・補給路確保」を待って「浜松城」を攻めると云う「危険策」であった。
つまり、これは「二俣城の作戦」と同じである。
次に、「二案・第2の方針変更」は、被害の大きく出る「銃隊の行動」を観て、これを逸らして「堀江城」に向かう「安全策」である。
その「判断の起点」が、「西と東の分岐点の湖東町・館山街道」で現実のものと成ったのだ。
同然に、これは「額田青木氏の南下国衆の銃隊」にも同じ事が云えたのだ。
この時、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、未だこの時点でこの「三方ヶ原」が「武田軍の宿営地・補給基地」で「籠城戦」と成ると考えていれば、“三方ヶ原方向の東に向かわずに、「もと来た道・館山街道南下」を採り、城には入れないので、「城の近くの丘に陣取る事」に戻る筈である”がそうは成らなかったのだ。
ところが、然し、ここで所謂、上記の「青木貞治の軍議情報」が入り「東の三方ヶ原」に向かっているのだ。
では「内部情報」を得たとしているが、「南下国衆の青木氏の情報源」は判るとしても、気に成る処は「武田軍の本隊」は何処からこの「情報・隠密説」を獲得したかである。
「情報源」が無かったとして「籠城」から「野戦」と変更されるタイミングは「城」を出た時であろう。
然し、これでは「三方ヶ原」を確保され、「補給拠点築造の山県軍の別動隊」は危なく成り遅過ぎる。
少なくとも「内部の情報源」で無ければ無理である。
そこで「内部に情報源」があったとして、「松平軍の軍議」に参加できる国衆は、凡そ200以上を持つ豪族である事になるので、「190居たとされる国衆」の内の“1割にも満たない数”である。
一つ考えられるのは、「時光系甲斐青木氏の五氏」である。
然し、この二つは「長篠の戦い」に消極的態度を採った「分家筋・巨摩郡と柳沢郡」であり、更に一つは安芸・女系の縁者から養子で継いだ分家の本家であって、「戦い」が始まると直ちに安芸に逃亡した。
依って、「甲斐時光系青木氏の武田氏系」と縁組をした本家筋の二つであった。
この「二つの青木氏」が「青木貞治」に「繋を採ったと云う事」も考えられるが、古来より甲斐とは「犬猿の縁」にあって「繋がり」は本来は無かった筈である。
唯、「二俣城」で「武田軍参謀の信種・浄賢」が「二俣城の開城の条件」として「青木貞治を救った事・副将200」があったが、この誼で「お返し・恩義返し」として、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に「内部情報」を提供したと同じ様に情報を提供したのか。
これは疑問であるが、“一族温存の為に”この「情報」を提供したか、又は、要求されたかの可能性があり、「戦乱の世」に於いて否定は出来ない。
元々、「松平氏の家臣」では無く、今川氏の家臣の「松井氏の家臣・近江での縁」であった。
この「松井氏」が潰され、「松平氏の家臣」の「中根氏の配下・二俣城の主将」の「副将」として入っていたのだ。
この事は、飽く迄も「流れの推論」であり、「一切の資料」からは読み取れず、且つ、「戦記」からも同然である。
然し、何も「情報源が無いと云う事」は考え難い。
もう一つは、追尾していた「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「突然の行動・三方ヶ原に向かった」のを観て、「異変を察知した事」も充分に考えられる。
つまり、この場合は「青木貞治が間接的に情報を提供した事」には結果として成る。
筆者はこの説を採っている。
そうすると、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「銃力の威力」では、“「山県軍の別動隊・補給基地築造」が危険”に陥るとして警戒して「武田軍の本隊」が、これを護るために急遽、予定を超えて行動を起こした事も考えられる。
然し、「堀江城」から「三方ヶ原」に向かう途中で「魚鱗の陣形」を途中で編成しながら「三方ヶ原」に向かった「武田軍の本隊の行動経緯」を観ると、違うかなとも考えられる。
然し、場合に依ってはそのつもりで「進軍中」に、「松平軍が居ると云う事」に判り、更に「編成」を強めて後尾に居た「赤兜の騎馬隊を前に出した事」からすると充分に有り得る「詳細経緯」である。
「武田軍の本隊」からすると、城に入らず追尾して来た「額田青木氏の南下国衆の銃隊」が、「独自の行動」で「三方ヶ原・補給基地・宿営地」とする処に向かったとは考え難いだろうし、幾ら「脅威の銃力」を保持していたとしても一つ間違えれば極めて危険な行為の判断と観たのではないか。
「武田軍の本隊」は、その「南下国衆と成った初期の目的」は知っていたかであるが、「吉田城の戦い」や「一言坂の偵察隊の遭遇戦」から観て“「松平軍の銃隊」”と未だ観ていた事が考えられる。
「松平軍の軍議」で拒否し城外に外された事は未だ知り得ていないであろう。
故に、「南下国衆の銃隊」が「東の三方ヶ原の方向に走つた事」で察知し確信したのだ。
恐らくは、この時点で同時に「武田軍の幌者」を確認の為に「三方ヶ原・8.4k・馬0.8h・徒士2h」に走らせたであろう。
「南下国衆の銃隊」が「三方ヶ原に到着する前」に「幌者の往復」で充分確認はできる。
この時点で、少なくとも「籠城戦」では無く、「二度目の野戦との情報」が確認でき、この「情報源」が、実は上記の通り「額田青木氏の南下国衆の銃隊・下記詳細」にはあったのだ。
然し同時に、「松平軍」からすれば「武田軍の本隊」も「堀江に向かっている事」で直ぐに踵を返しても、この段階では「三方ヶ原」に来ない事は判っている。
とすると、この状況は少なくともこの時点、つまり同じ「西と東の分岐点の湖東町・館山街道」で「籠城戦」から「野戦」に「作戦が変更された事」の「情報の入手」を示すものと成ったのだ。
追尾していた「南下国衆の銃隊」が「三方ヶ原に向かった事」と合わせて間違いは無いとしたのだ。
「武田軍の本隊」と「松平軍」の両軍方に執っても「両軍に作戦が変更された事」に成る。
「松平軍の変更」で「武田軍」が変更したのか、将又、「武田軍の変更」で「松平軍」の変更が成されたのかは記録からは判らない。
「流れ・詳細経緯」から上記の通り「松平軍の方」であった事は判る。
但し、「三河側の戦記」では匂わしているが、「松平軍の変更」とは定説では成っていない。
一方の「武田軍側の戦記・資料」では、「堀江城を落とす事」に変更したとする程度で明確な表現が無いし、「三方ヶ原への変更」も明確な記載がない。
故に、「松平軍の変更」と成っているが必ずしも決定づけられない。
何れにせよこの「地点・西と東の分岐点の湖東町・館山街道」が「三者の運命の共通地点」という事に成る。
ここで、「武田軍本隊」と「松平軍」と「山県軍」と「南下国衆の銃隊」と「青木貞治隊」のこの「五者の全てのサイクル」が“「狂い始めた地点」”であるのだ。
ここで何故、「松平軍」が、まだ決まってもいない「堀江」に居る筈の「武田軍の宿営地・補給基地の予定地」を、先に「野戦・決戦場」と決めて、「三方ヶ原」に来たかと云う疑問に成る。
それには、「合戦の戦略上の常道」として、“「合理的な堀江を拠点にすると云う作戦」”もあった筈で、「武田氏側の戦記」では、「堀江城」を「長い時間・延4日」を掛けて落とす程にこの城に対して「大軍」を投入して“「注力」”を注いだのだ。
何も大軍を投入する程の城勢力では無かった。
これに付いて「両戦記で物語る事」は、「堀江城・武田軍本隊の指揮拠点」と「三方ヶ原・山県軍の別動隊の補給所の役目」の「二極拠点化説」が「武田軍側に在ったと云う事」である。
そこでこの事を後で知った「松平軍」は、この「三方ヶ原、山県軍の別動隊の補給所」を「野戦で攻める目的・補給拠点の破壊と場所の確保」であったとする事が頷ける。
然し、これには「高いハードル」が二つあった。
一つは同勢の「山県軍の別動隊」を打ち破る事である。
二つは「補給拠点」を絶たれた「武田軍の本隊」は必ず攻めて来て「決戦と成る事」である。
何れにしても「周囲の城を完全に落とされている事」から「敗戦見込みの賭け」で「織田軍援軍の時間稼ぎである事」は判るし、「織田氏の軍目付・軍監・3氏」も当初より「時間稼ぎに最も効果的な籠城戦」のその発言をしている事が戦記でも記されている。
最終的に「織田軍の大掛かりな援軍・援軍の意思なし・時間稼ぎ」は得られず、結局、「軍目付・軍監・3人・1200・美濃尾張の守備隊」の内の「平手軍の小部隊・主将戦死」のみが「三方ヶ原」で合力をしたし、元より「織田氏」は「武田軍の尾張進軍の時間稼ぎ」を「狙い」としていて「積極的な姿勢」では無かった。
故に、「平手軍」は「この時間稼ぎの一つの策」としての「作戦変更」に止む無く賛同して「合力・戦死」したのだ。
この事で後に「信長」に「軍目付・軍監の二人」は戦記の通り「信長」より「酷い叱責・追放」を受けたのだ。
この「後の史実」が「三方ヶ原」に出たのは「野戦で攻める目的・補給拠点の破壊と場所の確保」を証明している。
そこで因みに、この「補給拠点の破壊と場所の確保」には観えて来るものがある。
「堀江城、三方ヶ原、二俣城、浜松城、一言坂」の「五つの点の地形的な関係性」に付いて検証して観ると、この“「堀江城」の「武田軍側の二極拠点化説」”に対して頷けるものが見えて来るのだ。
先ず、この「五つの点」には次の様な「正三角形の位置関係」にあるという事である。
「一言坂」からは「5点の全体」は、当に“「正台形の位置関係」”を示しているのだ。
「堀江城」からやや北東側に「三方ヶ原」があり距離は8.5kある。
この「三方ヶ原」から同じ「線状A」の12.2kの位置に「二俣城」がある。
「堀江城」からほぼ「中間点の位置」に「三方ヶ原」があると云う事だ。
そして、この「三方ヶ原」から「線状A」に「垂直の位置」の「9.7kの位置」に「浜松城」がある。
この「浜松城」から南西側の「堀江城」に結ぶ距離は12.5kにある。
「浜松城」から北東側の「二俣城」までの距離は18.5kにある。
「一言坂」から「二俣城」までの距離は15.7kの位置にある。
「浜松城と三方ヶ原」の「線状A」を「左右対象の位置」に左に「堀江城」、右に「二俣城」があると云う事だ。
つまり、地形的に「三方ヶ原」は戦略上では、「武田軍側の拠点化」には「最適な位置関係」にあり、「籠城戦」とした場合は、「武田軍の本隊」の「三方ヶ原の野営」よりは「堀江城の本陣・指揮所」としてはより「最適な位置」にあったのだ。
この「武田軍側」のこの「二極拠点化説」には合理性がある。
言い換えれば、西の「織田軍の動向」を堀江から睨みながら、この「堀江城の存在」は同時に「浜松城籠城戦の長期化を予測していた事」をこの説は物語る。
「織田軍の援軍」はこの「堀江城」を攻め落とさなければ「浜松」には、上記の補給の問題もあるが、「入る事」さえも出来ないのである。
「三河戦記の定説」と成っている「援軍説」は無理であった筈である。
現実に「長篠の戦い」で「堀江城と二俣城」は歴史に遺る程の抵抗戦が繰り返された事が記されている。
という事は、この説からすると、「家康」はこの「補給拠点」を奪取して上手く行けば上記の「二つのハードル」を突破して、この「二極拠点化説」を撃ち砕く作戦に無理に出た事に成る。
この「補給拠点」を造ろう、或いは護ろうとしているのは「同勢の山県軍の別動隊」である。
其れで突如、「作戦」を変更して「浜松城」を早く出て、「三方ヶ原」に「鶴翼の陣で構えて待つ作戦に出た事」に成るだろう。
然し、この「作戦」は「信玄」に「館山街道湖東町の交差点の動き・南下国衆の動き」で悟られていたのだ。
定説とは異なり、密かに「家康」は「情報・定法の漏れる事」を恐れて「タイミング・山県軍の別動隊の動向」が来るまで心中に秘めていたかも知れないのだ。
何故なら、それは遠江では「190以上の国衆の寄せ集め軍・脆軍」であったからだ。
筆者は、この「きっかけ」は、間接的にも「青木貞治の南下国衆への情報」から興った事で心持ちこの気がする。
さて、この時の否定されている「鶴翼の陣形の妥当性」であるが、「山県軍の別動隊」と「同勢」、或いは「やや多い兵力」であるとするならば、「松平軍」が戦った場合は必ずしも負ける前提の陣形では無い。
何故なら「山県軍の別動隊」は、「二俣城の陥落後」に「二俣城」より経由して「三方ヶ原」に「補給基地を構築する使命」を帯びていた。
「甲斐戦記の通り」にすると、「山県軍の別動隊5000」とあるが、この内訳は記されていないがこの「使命」は明記されている。
とすると、この「使命」から「実戦兵・守備兵」は「約半分のと2000~3000」と見込まれる。
「松平軍」は実質は「190以上の国衆の寄せ集め軍・脆軍」であっても、5000>2000~3000とすれば「家康」は密かに勝てると見込んだ事が予想できる。
だから「鶴翼の陣とした」とも取れるのだ。
これは当に「甲斐側の戦記通り」である。
この場合からすると、当然に“「松平軍」が東側に陣取った”ので、「山県軍の別動隊」が西側に陣取る事に成ろうし、又、必然的に結果として「西の堀江城をからの応援を求める事」に成るので間違いなく、止む無くして「北の山際」を西に向かって廻り込む様に「西」に陣取る事に成る。
この「西向きの鶴翼」の是非は、「山県軍の別動隊・補給隊と戦後処理」には、「早くて突撃性の強い赤兜の騎馬隊」を有していないので、「攻めて来た兵」に対して相手がどんな陣形であろうが、随時、波状的に包み込む様に戦う事で互角には戦え問題は無い事に成る。
唯、「鶴翼の陣形の欠点」の一つは、「鶴翼の開閉」が出来ず「早くて突撃性の強い赤兜の騎馬隊・6000」の様な勢力に弱いと云う事である。
弱ければ疲れれば「本陣・大将」に突き抜けて仕舞うと云う事だ。
「山県軍の別動隊」にこれが出来たかと云う事であって、「補給基地を築造する使命」から、その「築造兵」を連れている以上は当然に出来ない事は一般として判る。
「三方ヶ原」で勝利すれば、「補給基地の使命」を帯びていた事から「浜松城の掃討」もしなければ成らない事に成る。
そうでなけれは「補給基地」は成り立たないし、次の「西三河攻略」の「第一補給基地」にも成る拠点でもあるのだし、それには「松城城の掃討」も「一連の重要な使命」であった筈である。
そもそも「戦い」は第一義的なものとして何れの戦いも「補給」無くして戦いは成り立たない。
これを危惧した「武田軍の本隊の上記した行動」に繋がったのだ。
因みに、早くて突撃性の強い「赤兜の騎馬隊・6000」の様に、「関ケ原の真田幸村」も大阪城から突き出した様に「廓柵・1km・馬防柵」を造り、周囲から攻撃されない様にして「本陣近く・家康」に近づき「騎馬隊」で突撃してこの「作戦」に出て成功している。
同然に、又、騎馬隊よりも早い銃を無視して頼り過ぎた面もあるが、この「赤兜の騎馬隊」が「武田軍の強み・本隊所属」でもあったのだ。
更に、参考として「家康」は、長篠後に、この「赤兜の騎馬隊・6000の勢力」をそっくり陣営に加え配下に組み込んで兵力を高めた位である。
故に、「松平軍」にはこれが無い以上は「鶴翼で同格に戦うと云う戦術を採った」と云う事にも成ったのだ。
中間説を採る戦記の「突撃性有無論の説」である。
もっと云えば、「堀江城の本陣化」は「今川氏真の失敗」を承知していて「家康」は充分に知り得ていた筈である。
だから、遠州が自分の手に入ったのだから知らない訳はない。
今その手に入れて遠州を「信玄」に「滅亡寸前」まで攻められているのだ。
「三河戦記」では定説とされている「本陣」を「三方ヶ原」に置くなどの事は露も思わなかっただろう。
要するに、故に「家康」は、“心の中に秘めていた判断”として「定説」とは違い、“補給拠点を破壊する”、又は、“確保する”と云う「戦術」に急変した事に成るのだ。
唯、とは云えど、これも「堀江城陥落の後」に、間違いなく奪回に「武田軍の本隊」は「三方ヶ原」に駆けつけて来ると云う難題があって、その時間内に勝利しなければならないし、再び、勝利しても奪回されるのは「時間の問題の課題」があった。
その時は、「城に逃げ帰る事」に成っていて、此処で「籠城戦に持ち込む」と云う「時間稼ぎ」にあったのであろうし、これであれば始めから「籠城戦」では無く、「織田氏の援軍の同意・軍目付・軍監の同意」を獲得できると云う「妥協中間策・時間稼ぎ」を執ったと考えられるのだ。
この「武田氏側の戦記」での仮説では、何処かの資料を以て史実に基づいて論じているかは別にして、この様に観ていたと云う事なのだろう。
これに賛同したのは「軍目付・軍監」の内の一人の「織田氏家老・平手汎秀」だけであったという事に成る。
故に合力して戦死しているのだ。
現実には、「武田軍の本隊」は「三方ヶ原」に出向いて来たが、出向いてきた理由は“補給拠点を破壊する”、又は、“確保する”事に対する作戦行動であったとしているのだ。
恐らくは、故にこの「説・二極拠点化説」の意味する処は此処にあったと考えられる。
だとすると、「軍勢とか陣形の是否」では「合理性に基づいた行動」として符号一致しているのだ。
本来であれば、江戸期で「戦記として論じる事」には「有利な立場」に成った「松平氏側の戦記・幕府」でも正しく論じられるものではあるが、そうでは無く不思議に冷静に筆者の上記の“青木氏の歴史観から観た考え”に似た「詳細経緯」が、「武田氏側の戦記の一つ」が論じているのだ。
気になるのはこの「論処の合理的な所以」である。
どうもこの「武田氏側の戦記」と云うか、「甲斐の戦記」と云うかの「研究資料の根拠」は「武田氏の戦略・戦術を決める立場の者」の傍に居た「家臣の書き記し・日記等」に基づく「総合論」である様だ。
明記はされていないがそれが「松平氏側の戦記」との「江戸期の照合論」である様だ。
この戦記資料は、江戸期初期には余りにも幕府自らも進んで行った「松平氏側の戦記」の“有利性を持たした美化の脚色論”に対しての「反論」であったのではないかと観られるのだ。
筆者は、「徳川家康・1563年に改姓後・長篠後に多用する」は、長篠後、多くの武田氏の家臣をそっくり抱え込んだが、この中の者が密かに「名・ペンネーム」に変えて「擁護論」を展開したのではと考えられる。
それが誰かは正確には判らないが筆者の見立てでは二人居る。
それをできる者として、先ず、綱吉の側用人の「柳沢吉保・甲斐青木吉保・時光系青木豊定の孫」が密かに家臣の誰かに命じて纏めさせたものでは無いかと考えている。
もう一人は、「松平氏の重臣」で「二俣城の副将」の「青木貞治・三方ヶ原で戦死」の「子孫・戦功を揚げる」が「無駄死にした先祖の名誉」の為にも「真実・史実」を書き記し遺したと観ているのだ。
この「駿河青木氏の青木貞治」の「子・長三郎・伊賀越えの功労者」とその子孫は、「御側衆3500石・上級番方」に取り立てられ破格の出世をしたのだ。
では、此処で、「柳沢吉保・青木吉保」の事は前段でも充分に論じているので、もう一人の上記でも論じた「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に「貴重な情報を齎した者」は誰だったのかであるが、其れは「二俣城副将の青木貞治」である。
当然に、「伊賀青木氏の銃隊・荷駄隊50」にも、又「伊勢シンジケート・香具師・伊賀隠密」も参加している事は当然の事として、「伊勢隠密」も放っていた。
そこで「情報経緯」として、「松平氏の内部の情報」をどの様に「情報」として獲得したかを解明して置く必要がある。
実は、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「指揮官」と、「国衆として銃の取り扱い訓練」の「指導者」として、前段でも論じた様に、「伊勢秀郷流青木氏」がこれに当たったし、且つ、「三河」に「開発業や殖産業」をして「長篠後」にも爆発的に子孫を多く遺した。
ところが、前記の「松平氏の重臣」で「二俣城の副将」の「青木貞治・三方ヶ原で戦死」は鎌倉期までこの地の「秀郷一門の豪族・駿河秀郷流青木氏」であった。
「全国24地域116氏」のここは「州浜族と片喰族」と呼ばれた一族の24地域の一つの定住地の一つであったのだ。
平安期には「駿河の最西端」の遠江との国境に定住した水軍族であって、伊勢屋信濃の制止を振り切って「源氏化」して源平戦に参加して滅亡したが、「伊勢」に依って再び探し出され「伊勢」で訓練を受けた「復興一族・女系」であった。
この「三方ヶ原後」の「青木貞治の子孫・長三郎」は「家康御側五人衆と呼ばれた者」で、「本能寺の変」の時、「堺に居た家康」を護っていた「御側五人」の中の一人であった。
この時の「伊賀越えの事件」には、「青木貞治の子孫・長三郎」以外にも「実家の駿河水軍」には他にも功績を挙げた者らが居たのだ。
伊勢の資料を繋合わせると、その詳細経緯が記され判って来る。
これによると、「本能寺の事件」と「青木長三郎から持ち込んだ家康救出作戦」が伊勢で採られた。
「堺の伊勢青木氏・仮名を使う・摂津店の商人」に先ず話を持ち込み、「伊勢シンジケート」を使って「伊勢福家」に連絡し、更に「一族の伊勢秀郷流青木氏」にも話を通し、「伊勢青木氏」が「伊賀青木氏・伊勢シンジケート」に指示して「伊勢」まで擁護して「四日市・青木氏」まで救出し一時休息させた。
そこから更に「青木氏資料の白子湾説」、又は他説では「長太浜説」より、「伊勢水軍」が周囲を保護して「青木氏の船」で「三河の大浜」まで運び助けたとする有名な歴史的経緯があった。
「伊勢水軍の伊勢衆」は後にこの事で家康から「お墨付き」を貰い江戸までの「永代の廻船業の許可」を得たとして記されている。
又、「伊勢シンジケートの情報」により「出迎え」に廻って海から警護に当たったこの「駿河水軍・実家」も「家臣・水軍」に加えられたとしている。
つまり、これが「駿河青木氏の青木貞治」の裔で、「伊賀越えの御側衆」で貢献した「駿河青木氏の青木長三郎の実家」であるが、この実家も家臣と成ったのだ。
これは「家康」には、「徳川軍に水軍の必要性」を感じさせた事件でもあり、「三方ヶ原の青木貞治と子の長三郎」の実家先の「駿河水軍青木氏の存在」をも認めさせた「勲功・褒章」であったのだ。
今川氏、松井氏、中根氏から遂には独立して、「近習衆・近番衆・近侍衆・近国衆の三河衆」の旗本に対して、「家人衆」と呼ばれる「関東の秀郷流一門・官僚族」が成った関東の「旗本」に加えられたのだ。
但し、注釈としてこの「伊賀越え」では、「家康を助けた者」では「堺の商人」も「伊勢の青木氏」やその「船などの所有者」もを「青木氏側」では一切直接に名を出していないのである。
「内部の資料・祐筆の記録」にもこの件の行動が記載されて遺されてはいるが、「本名を出さない仕来り」のこれは、全て“「青木氏の古来からの仕来り・青木氏の氏是」”である。
因みに、前段でも論じたが、もう一度この事に少し触れて置くと、その一つとして「信長の伊勢攻め」で「戦いの出城」として「松ケ島城」を建築したが、この際に、城の築城建材の一切を「堺商人・伊勢青木氏・伊勢屋支店・名変える」が請負い掛け合っていたが、物価高騰を理由に「高額な値」を付けて織田氏を財政的に影から揺さぶり、「伊勢シンジケート」を使って城建築の現場に職人を送り込み、建築材の遅延を理由に工事を遅らせ、挙句は「伊勢シンジケート」に依って出来上がつた城を燃やしたのだ。
この時も、「堺商人」は「伊勢」に害を及ぼさない様に「実名」を隠して接したのだ。
歴史書には時々出て来るこの「二人の堺商人」は当に「伊勢青木氏の人物」である。
「秀吉の長島氏攻め」でも同じ手を使って出城建築を遅らせたのだが、これを秀吉に気づかれて「自らの兵」を使って吉野の山から木材を切り出すと云う破目に成ったのだ。
この「偽名の手段」は、「堺支店の掟」であり、「堺」に限らず「全国488店の支店」にも適用されたと記されている。
この様に都度、「名」を変えたとしているのだ。
これらの事は、「青木氏の資料の行」のみならず「江戸期の物語風の戦記・二つ」にも成っているのだ。
通常は、要するに「超豪商」は「名」を変えるか、「顔」を見せないか、「人」を変えるか、時には「店」を変えるかして対応していたのだ。
この掟は別には借財も抱える等もしている「武力の持つ者」からの害を防ぐ目的があったのだ。
最大の目的は二足の草鞋にあって「商い」の行為が「賜姓臣下族青木氏の格式」に尾よ場無い様にする為の掟であった。
一般的にも超豪商は「テレビ物語などの様な実名を出す様な事」は決してなかったのだし、「伊勢青木氏」には奈良期からの「格式の氏是」があったのだ。
「伊勢青木氏」は「朝廷の命」で「紙屋院」として「925年頃」から「商人」も兼ねる「二つの顔」を持つ様に成ったが、これ以来に基づく「商人」としての「厳しい掟」があったのだ。
取り分け、実務の「堺支店の堺商人」や全国に店を持つ一族の「伊賀青木氏の香具師・隠密商人」等にもこれが求められていたし、これが大正期まで続いていたのだ。
これ等は明治期初期に「維新政府の命」や、「火付け打ちこわしの嫌がらせ」の圧力も受け無償放棄で「本店関係」を残し解体したのだし、「伊勢の青木氏部」も同然であった。
其の後には、広大な大字の本領地の土地までも、又、債権も無償放棄する結果と成り、この掟等は遂に歴史を閉じ霧消したのだ。
「伊賀青木氏の香具師等の各地の店」も一部は昭和初期までとし多くは大正15年頃までに各地に「影」を残し解体されるが、「明治期の厳しい締め付け」が緩み改めて大正期頃から各地の支店であった定住地では「掟」を無くして「青木・・店」として再出発している。
正しく理解する為の青木氏の歴史観として上記を付記する。
戻して、これ、即ち、「伊賀越え事件」は「渥美湾の制海権」を獲得した「9年後の事」である。
この「駿河秀郷流青木氏一族」の「菩提寺の西光寺・青木貞治」は「静岡県盤田市目付」にあって現在もある。
「南下国衆の指揮官」であった「伊勢秀郷流青木氏」の「三河伊川津田原」の「古跡神明社の隣200m」の所にも「菩提寺・西光寺」があるのだ。
この「二つの西光寺・秀郷流青木氏菩提寺」は真東西に「54kの位置」にある。
「伊勢の青木氏の裔系」とは「四掟」に基づき古来より「女系」で何度も網の目の様に繋がり、互いに助け合って来た。
当然に、「三方ケ原の戦い」の中でも容易くに「情報交換」はあったと考えられ、「内部の事情」は間違いなく把握出来ていたと考えられる。
故に「伊勢の家人等に遺されている手紙」などの「資料」には、信用度は高く資料の行の各所には「伊賀越えの事件」の一節等が記されていたのだ。
長い間の一族でありながら「情報を遮断すると云う事」は100%あり得ないだろう。
公で無くても提供しあっていた筈であるし、上記の通り「伊勢からの資金援助」も充分に有ったと考えられる。
そもそも「青木貞治等」には、「滅亡した駿河水軍の駿河青木氏の子孫」を探しだし、「伊勢」で教育して大船一艘を与えて駿河に帰しているのだ。
勿論、俯瞰し合っている「青木氏一族」のみならず「松平氏」にもである。
「松平軍」はこの「莫大な資金」無くしてこれだけの「長い間の戦いの戦費」は「石高」では何もできない。
「家康」も、「二俣城の副将・青木貞治」に据える位であるとすると、「青木氏」に於ける一族関係は承知していた事は間違いなく頷ける。
故に、だとすると、これが“「額田青木氏の南下国衆との初期の約束」”をぎりぎりのところで護った事になろう。
そもそも、氏家制度の社会の中であり、その様に考えるのが普通である。
寧ろ、筆者なら大いに利用したが、ところが「青木氏の氏是に基づく信念」を貫き、「提供」が結果として「青木氏に危険を招く」として、「資金の提供」はあったとしても「銃の提供」に関してだけは応じていないのだ。
又、「銃の保持」は、「青木氏の氏是」に関わらず、「銃」は「銃シンジケート」に依って掟の範囲で隔離され、仮に「金銭」が有っても「仲間の約束」は護り「調達」は難しかったのだ。
そもそも「青木氏の銃」は「貿易と財力と高度な熟練」を無くして手軽に保持できる「銃型」では無かった。
ハッキリ言えば、この「三つ要件」を身内に備える、況や“「青木氏銃」”であって「青木氏族」にしか使えない銃であったのだ。
それだけに飽く迄も「保持の前提」は、「額田青木氏の南下国衆の護身用の改良銃」であって、「松平氏・この頃から徳川氏を頻繁に名乗る」は、それを「国衆の戦力」として観てこれを「味方に持つ事」と引き換えに、「渥美湾の制海権の獲得の条件」を認めたのだ。
その意味では、“戦力と云うよりは抑止力的効果を期待していた事”も一部では読み取れる。
況や、この意味でも、「青木氏族の一員」の“「青木貞治とその子孫の松平氏の内部の活躍具合」”が読み解けるのだ。)
「青木氏の伝統 62」-「青木氏の歴史観-35」に続く。
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「青木氏の伝統 60」-「青木氏の歴史観-33」
「青木氏の伝統 59」-「青木氏の歴史観-32」の末尾
結局、「三方ヶ原」に到着するに必要とした時間は、「青木氏の銃隊の偵察隊と追尾」が「所要4時間」であり、「松平軍の浜松城から出陣」が「所要2時間」であり、その「2時間差」が結果に出た事に成った。
「武田軍本隊」は「前日」から手こずり「一夜後の朝」に落城した「堀江城」から、そこから「軍態勢」を整えて「昼前」に出発したとあり、「三方ヶ原」に向かって到着したのは、“「夕方の時間・昼4時頃」とあり、遅れた”と記されている事から、計画と違って合計「5時間位所要していた事」に成ったが「陣形と山県軍の遅れ」から勝利を得たのだ。
そして、「三方ヶ原の戦い」の「戦闘時間」が「2時間・昼6時頃」で終わったとある。
「別動隊・山県軍」が「浜松城・夜8時前頃」に到着した時は、「浜松城」には“「篝火」”が焚かれていたとある。
この「篝火」に意味があった。
そうすると、以下の検証は次ぎの様に成る。
「青木氏の伝統 60」-「青木氏の歴史観-33」
「伝統シリーズ」で、「注釈」として論じて来た「伝統56-3~59」までの事が、実は「研究」が進むと「青木氏の歴史観」として、別に論じ切れない事、又は、論じ得ない事が多いのだ。
これをここで分けて更に続ける。
(注釈 「二軍の経緯」
「全ての資料」からの「読み取り」で、“「時系列」”から検証して観ると色々な事が判って来る。
この「美濃の額田青木氏の歴史観」を解く事で他に観えて来るものがあるのだ。
開戦時、直ぐに「二俣城の戦後始末」を完了し「武田軍の本隊」に合流する為に「西の三方ヶ原合流地点・計画は宿営地」に向かって急いでいた「山県軍の別動隊・5000」は、「当初の作戦計画」とは「様子」が違う事に「情報」を得ていたので、東沿いに南下する案もあったらしいが、然し、「北の山際」から先ず西に向かい「松平軍の鶴翼右側面」に着こうとしていた。
「武田軍本隊」に合流する作戦が二俣城で決めた「元の作戦」であった。
ところが、「作戦のずれ」と「松平軍の行動のズレ」が起こって仕舞ったのだ。
そこでこの「二つの作戦ズレ」で「別動隊」として「独自の行動作戦」により有利に臨機応変に出るしかなかったのだ。
「当初の計画通り」に「武田軍の本隊・魚鱗の陣形に入り込むのは危険」に合流せず、山際で様子を見ようとした事もあり得るが、然し、「経緯」から観て「合流する充分な時間的余裕」がそもそも無かった事が判る。
結果として「北山際の鶴翼右側面」の少し離れた位置に着いたのだ。到着したのだ。
ところが「時系列」から観て、「東の街道沿い」を直に南下して「松平軍の背後」に着き「武田軍本隊との挟み撃ちの態勢を執る事」も時間的には出来た筈であるし、その案も実際には出ていたのだ。
此れの方が軍を動かす上では確かに円滑である。
それは「天竜川沿い」に「二俣街道-飛龍街道・16.8k-5.5h」を経て「三方ヶ原」に入る事は出来るのだ。
確かに「北の山際」に沿って「三方ヶ原」に入るには、「15.2k-5h」を所要する。
要するに、これを考察すると、余りこの差が無い筈で、そこで、「判断の分かれ目」は「情報」による「鶴翼の陣形」にあった事が判る。
この「松平軍の鶴翼の陣形」であれば「右側面を突いた方」が良いか、「背後を突いた方」が良いかに関わる。
「選択の理由」では、「時間差」と共に「地理地形」には問題差が無い。
そこで「背後を突く事」には、「武田軍の本隊」と「山県軍の別働隊」での“「挟み撃ち」”に成るが、これでは「両方のタイミング差」が起こる。
「タイミング」が狂えば「武田軍側の2軍」のどちらかに「大被害」を興す。
少なくとも、この場合は「武田軍の本隊」が先ず「戦闘態勢」に入り、「山県軍・徳川軍と同勢」が「背後」を突けば成功する。現実には「二つの作戦ズレ」でそんな「打ち合わせの時間」は無かったのだ。
「武田軍の本隊」は「魚鱗」、「松平軍」は「鶴翼」とすると下手をすれば、先ず「武田軍本隊」に犠牲が大きくなる。
其処に「山県軍の別働隊」が「背後」を突けば、確かに最終は「武田軍本隊」と「山県軍本隊」での「挟み撃ち」で勝利するだろうし、「山県軍の別動隊」より「武田軍の本隊」の「犠牲」の方が大きくなる。
これは「別動隊としての使命」から「逆戦法」である。
然し、「北の山際」から「タイミング」を見計らって南に向けて準備の無い弱点の「鶴翼の右側面」を突けば「鶴翼の陣形」は先ずは本隊に犠牲無く時間差に問題なく崩せる。
其処に「武田軍の本隊」が攻め込めば「武田軍の本隊」には犠牲は少ないし、「山県軍の“別動隊”」の「本来の目的・使命」は達成される。
然し、そこで青木氏の歴史観に関わって来るのだ。
この「作戦」には「南下国衆の銃隊」の配慮は無いのだ。
“右鶴翼の側面を突いて成功した”と「山県軍の“別働隊”」は瞬間は思ったと考えられる。
ところが、違った。
突然に突撃の瞬間に「突撃の前面」に観た事も無い「凄い弾幕の銃力」が迫って来たのだ。
最早、突撃し始めた”「山県軍の別動隊」”の「突撃の勢い」を止める事は出来なかった。
それは「敵中に留まる事」に成り、左の松平軍の本陣の攻撃を受け、且つ、防御しようもない遠方から「銃弾」を浴びせられる事に成り、下手をすれば「全滅の憂き目」を受ける。
最早、より早く突っ込む以外に無かった筈である。
「凄い弾幕の銃力」の前には全くの“「無防備の戦い」”と成ったと観られる。
故に、「両軍の全戦記」には統一して短い戦闘の時間で「2000の犠牲・程度・少な目」が出たと記されているのだ。
結果としては、然し乍ら、突撃し「鶴翼の横腹」を突かれ「総崩れ」に成って「松平軍の敗戦」は一瞬で決定的と成ったのだ。
不思議な光景である。
「大将の家康」が時間的に観て「右側面」を突かれた時点で早くも「戦線離脱」していたのだ。
そして、「家康の本陣」が楠ずれたのを横目で見ながら、ところが一方で「山県軍の別動隊」は、この思い掛けない「弾幕の大きな犠牲」を負いながらも、その侭に“「浜松城」に目がけて突進した”とある。
筆者は、「青木氏の歴史観」として、この“「浜松城」に目がけて突進した”事には「意味、疑問」があったと考えている。
「浜松城」に目がけて突進した“「山県軍の別動隊の面目」”が働いたと観ているのだ。
勿論、再び向きを替えて南から「波状攻撃」を「南下国衆の銃隊」に向けて何度もかけて「自らの別動隊の使命」として「全滅」に至る作戦を実行すると云う手もあった。
それは、「武田軍の本隊」の「犠牲」を少なくする為でもあって、又は、「救う」と云う「別動隊の本来の使命」もあった筈で、それをもせずに、且つ、「波状攻撃・全滅」もせずに、「浜松城」に向かったのは「別動隊の使命」の全てをそもそも逸脱している。
「命のやり取りの作戦」を実行する戦場で「全滅覚悟」で「使命」を果たすのが通常である。
これは勝利した後、「戦後処理」で“「誹り」”を受けるは必定で、それを敢えて“浜松城”に目がけて「計画の無い作戦」として南下したのだ。
南下したのは、勝利を確認する目的」で、そうでなければ「城」を落とすのが「別動隊としての使命」である。
もし、ここで、“「南下国衆の銃隊」が追尾して来る”とした場合でも「銃力の戦力の違い」で近づかずして別動隊は全滅に至るは必至である。
これは「別動隊の使命」でもあるが、「臨機応変」に「計画の無い作戦の形」を執る事で本隊を補完するが、其れから考えると、”「体裁」”を整えた事となろう。
又、その時、「南下国衆の銃隊」が思いがけずも「追尾してこない様子」が見えたので城検視するだけ引き上げで「体裁」を執ったのではないか。
それだけに「別動隊の被害」が大きかった事も云えるのだが。
否、然し、地形と距離から「南下国衆の銃隊の行動」は観えていた筈であるので採れた行動であったとも観える。
これを観て、それ故に「体裁」を整えたし、「もぬけの殻の浜松城」を攻めずに引き上げて仕舞ったと云う「不思議な行動・判断ミス」を執ったと観ているのだ。
「もぬけの殻の浜松城」であってさえも「山県軍の残兵」を「当面の守備兵」として置き、「別動隊の使命」には「掃討作戦」が待っていた筈で、「本隊の到着」を待って残しておくのが「戦いの常道」である。
其れさえしていない。
この一説では、“浜松城に「隠し兵力」が未だ居るかも知れないとする事で引き上げた”とする擁護説もあるが、つまり、これが「定説」にも成っているが、それでも「別動隊の使命」は、「本隊」に対して「全滅覚悟」でその「障害」と成るものを「取り除く事」が「本来の使命」である。
そもそも、「石高」で凡その「兵力」は決まるし、「戦場」を観れば馬鹿で無ければ「兵力数の限界」は直ぐに読み取れるし、「情報」も得ている筈である。
それが「武田軍唯一の軍師の将軍」であれば100%そんな事は無いだろう。
「都合よく江戸期に間尺を合わした擁護説・脚色」としか観られない。
仮に、「2000の兵力」が無く成っても、未だ「3000の兵」はあるし、「別動隊の使命」としては「城兵」が同程度の「3000もの兵」がある事は無い。
「織田軍の援軍」の3人の「軍目付・軍監」は、「織田氏の狙い」である「時間を稼ぐ籠城戦」から、家康が突如、「開戦」に作戦を変換した事で3人が持つ援軍は引いた。
従って、「松平軍の5000」だけで「無謀な野戦」を仕掛けたのに、そもそも「3000も城に残す事」は絶対に無い。
そもそも、「野戦」とは「勝負の決戦」であり「前哨戦」ではないのだ。
であれば「城」に詰めているのだから直ぐに判るし、「8000もの兵力」を国衆をかき集めても確保する能力は松平氏には無かったし、そんな力は無かった事は後勘で無くても解った筈である。
他に「織田軍の援軍説」が、「後付けの多説」ではあるが、筆者は「織田軍」は況や”「西の信長包囲網」”で西に逼迫した戦況下にあり、元々負けると思われる勝負に「多くの援軍を送る事」は100%無い。
故に、「織田軍」に執っては「東での時間稼ぎ」であった筈で、それには「籠城」が最適で「籠城戦の城」の中に多くの「援軍を送る事」は無い。援軍を結果として廻さなかったとするこの説を論じている説もある。
ところが、「野戦」を遣って仕舞ったので、それを止められなかった3人の「軍目付・軍監」の「援軍の将」はそれでも後に「信長」に「無能者」として叱責を受けている史実がある。
「佐久間、平手、水野」が「多くの軍記」に記されている「者・織田家の旧重臣・3人衆」ではあるが、実際は「尾張美濃への配置」に遺していた軍とする説が主流であり、状況に応じて判断する立場にあつてこの「三者の援軍」は明らかに形の上でのものであった事が云える。
要するに、言葉の通り”「軍目付・軍監」であった事が判り、状況次第で援軍を送るかを決める立場にあって、「時間稼ぎの籠城戦」では無く、「開戦」を選んだと成れば「軍目付・軍監」としては「援軍」は送くる馬鹿はいないと観ているのだ。
筆者は、現実には送らなかったと観ていて、敗戦状況から観てこの「軍目付・軍監」の三者も命は危なかった筈で、現実には無傷であった処を観ると代理を送り、意見が通らなかった「野戦」と成った時点で3人の「軍目付・軍監」も引いたという事であろう。
当然に「軍目付・軍監」の「代理」や僅かな「援軍」も意見の違う「戦い」に合力する事は無く引き上げたと成る。
織田側の「一つの戦記」の「尾張美濃への配置説」の「軍目付・軍監の説」は正しい。
故に、「軍目付・軍監」は「旧重臣」であったのだ。
故に、、この「軍目付・軍監」とも成ればその「意味」は違って来て、「戦記」ではここの「知識のずれ」で多説の生まれる処の所以と成ったのである。
従って、故に此処で論じ着れていない「一つ青木氏の歴史観の疑問」が生まれるのだ。
それは「時系列の記録」では、「家康」は既に「浜松城」に逃げ帰って「篝火」をたかせ疲れから茶漬けを食した後に寝たとある。
さて、本論でも一部論じているが、とするとそこで“家康は何時逃げたか”であり、その「逃げる時間・タイムラグ」は「戦いの状況・経緯」から無かった筈である。
少なくとも「山県軍の別動隊の方」が「南下国衆の銃隊」に対して「武田軍の本隊」を護り引き付ける為に、「波状攻撃」をしなかった事は判っているので、先に「浜松城」に到着している筈である。
“開戦開始から2時間で戦い”は完全に終わったとある事からすると、連続的に観て「山県軍の別動隊」の「右側面の突撃」から「左側面」に到達して、更に、そこから「浜松城」に到達するには「徒歩・徒士」でほぼ「2時間」である。
そして「右から左りに突き抜ける」には、少なくとも「5000の鶴翼の軍幅」は地形からどう考えても「750m~800mの最大範囲」にあり、「勢い」を着けて「戦い」ながら「前進」するとすれば、「徒歩」を基準として「最低でも15分程度」で抜ける事は出来る。
そうすると「浜松城」まで「2.3h~2.4h」と成り、先に「家康」が「浜松城」に逃げ帰っていたとすると、「戦い開始」のこの「15分の間のタイムラグ」の間にしかなく、考えられるシナリオは「山県軍の別動隊が突撃する前に既に逃げ始めていた事」に成る。
つまり、城に着いて「篝火と茶漬けと寝る」と云う時間は少なくとも無かった事に成る。
仮に、“「家康」は既に「浜松城」に逃げ帰って”とすれば、「山県軍の別動隊」が右側面を突く勝敗の決まらない相当前に逃げ帰らねばこの説は成り立たない。
「鶴翼の陣形の横腹を突かれると云う事」は、そもそも「負けると云う事」であり、戦う前にそれを知って逃げた事に成る。
それ以外に「時間的余裕」は生まれない。
つまり、この事から「二俣城」からの「山県軍の別動隊の情報」が全くなかった事に成る。
然し、記録では「二俣城の戦闘と落城」は知っていた記録と成っているのだ。
「開戦の前」から北の山際に「山県軍の別動隊」が居た事は山手の地形からして観えていた筈である。
それも「別動隊である事」、且つ、「山県軍である事」は「二俣城の敗戦の情報」からも知っていた筈である。
開戦直前には合流せずに「武田軍の本隊」とは違う事をすると云う事は認識していた筈である。
又、「一言坂の偵察隊・南下国衆の銃隊」からの情報もあった筈である。
そもそも、「戦い」の場合は「情報の獲得」が戦いを左右し制すると云われている。
そうと成れば「忍者」を含む“「幌者”と呼ばれる者」を各地に配置して「情報」を獲得し、又、命令等を伝え戦うのが普通であり、これはあり得ない事である。
事前に間違いなく知っていた筈であり、そうでなければ「籠城戦」として「野戦」には出ない。
だとすると、「戦闘時間」が何れの戦記でも「2時間」であったとし、「三方ヶ原」から「浜松城」まで「徒歩2時間」とすると、「山県軍の別動隊」が「鶴翼の右横腹を突いた瞬間」の直前の更に前で逃げ始めた事に成る。
既に知っていたのに開戦すると逃げた事に成る。
この「タイムラグ」では、「山県軍の別動隊」が「左横腹・鶴翼の軍幅」を突き抜けるまでの時間と成り、つまり、「指揮官の山県」は横目で「家康」が逃げ始めた事を知っていた事に成る。
だとすると、「山県軍の別動隊」が「額田青木氏の銃隊」に「波状攻撃を加えて来る事」は、既に「勝利が決まっている事」に成り、無く成っている事に成り無理はしない事に成る。
「南下国衆の銃隊」が「戦線離脱していた」としても、少なくとも「波状攻撃」は別としても「武田軍本隊に掃討作戦の使命で合流する策」もあった筈である。
「額田青木氏の銃隊」も「波状攻撃の考え」は同じで無かったと考えられるのだ。
現実のには史実では、そもそも「兵の居ない篝火の浜松城」を攻めずに”検視”しただけで、「使命の掃討作戦」もせずに「本隊」に戻っているのだ。
だとすると、“疑問は何故攻め落とさなかったのか”が「大問題」であろう。
筆者は、「青木氏の歴史観」として、先ずは「精神的なダメージ」として“「額田青木氏の銃隊」から受けた「犠牲」にあった”と観ているのだ。
要するに、余りの犠牲の大きさに質と量で「空城」に対して“戦え無かった”と云う事だ。要するに「戦意喪失」である。
そして、それには「精神的ダメージを加わったという事・判断ミス」になろう。
「武田軍の戦記」には「犠牲2000/5000」とあるが、「戦場」を整理始末するのは「勝利した側の役目」である。
そうすると、「味方の銃による犠牲」は正しく確認出来た筈で、この「額田青木氏の銃隊」の前にあった「犠牲2000」は少なくとも記録を残す心理として少な目に記録するだろう。
筆者は、到底、「犠牲2000」では無かったと観ているのだ。
「武田軍本隊の犠牲」は、殆どの「松平軍の大将」の無くした「崩れた中」に攻め込んでいるので僅かと観られ、「山県軍の別動隊の余りの犠牲」の多さに驚いた筈である。
だとすると、「750m~800m」ではそもそも「フリントロック式改良銃」では「射程距離内」にあり、その「飛距離」と「命中率の良さ」から「鶴翼の右横腹」に突撃した時から撃ち始めているので、命中率100%として時間的に考察から「3000」は遥かに超えていたであろうし、それも「相当な訓練」を要する「改良銃」であった事に依り、「火縄銃」に比べる事の出来ない程の「銃の特別な威力」で「ケガ」では無く「戦死」であった筈である。
「南下国衆の銃隊」が遅れて陣形の敷いた後の「鶴翼陣形の左側面」に着いたとされているが、恐らくは「鶴翼」は開け閉めして動く事から、「銃隊」が「移動式」と云っても鶴翼と同時に様に動く事は無理で、故に「南下国衆の銃隊」が着くとした場合は「付け根部分」に位置した事が考えられる。
其れで無くては“銃は味方を打つ事”に成り論理的に「付け根部分」で無くてはならない。
と云う事は、「南下国衆の銃隊」が記録では、僅かに“右に向きを替えた”としているので、「山県軍の別動隊」が「鶴翼の右側面の山際」から突撃して来たとされているので、「付け根部分」より更に右という事は「松平軍の鶴翼」の「頭部分」と云う事に成る。
つまり、“旗本が護る本陣の先端”を目がけてやや斜めに突撃した形と成る。
「付け根部分」と「旗本が護る本陣の先端」とは完全に右向く程度の大きな距離差は無い事に成る。
だから、「旗本」は崩れ「本陣」に居る「家康」は少なくとも「突撃」と同時程度に逃げ出した事は符号一致するし、「15分の差」で「命拾い」をして逃げだした事に一致する。
では、どの方向に逃げたかと云う事に成るが、「山県軍の別動隊」が向かう同じ南に向かう事は不可能であり、先ず「東の天竜川の飛龍街道」に向かって逃げ、其処から南下して更に西の城に戻る算段と成る。
そうすれば、最も敵から離れられ安全で、其処から城に戻るとすると、完全に「山県軍の別動隊」の方が先に城に到着する事に成るし、引き上げた後を見計らって「城に入ったという事」に成る。
従って、「篝火策の説」は「山県軍の別動隊」が「城」を攻めずに「本隊」に合流した後という事に成る。
この「篝火策の説」はその後の「武田軍本隊の城攻め」を警戒してのものであった事に成る。
ところがここで意見が分かれる。
「武田軍本隊の城攻め」をしたとする「江戸期の説」と、其の侭に「三方ヶ原」から「甲斐」に向かって引き上げたとする説があり、途中で信玄は死亡したとある。
経緯から「後の説」が正しい。
さて、そうするとこの「15分の差」は、「山県軍の別動隊」にも言える事であるので、この侭に「浜松城」に「家康」と「山県軍」が向かえば「家康」が既に城に入り、「篝火」と「茶漬け」と「寝る」という事は、城の前に「山県軍が居たとすると時間的余裕」では無理な事である。
要するに「直前説」はあり得ないと成れば、「山県軍」が城前から引き上げたのを見計らって入り、「武田軍の本隊」が「詰め」として攻めて来る事を予想しての為の「篝火」と「茶漬け」と「寝る」で「諦めの策」であったと考えられ、これであれば「時間的なタイムラグ」は一致する。
だとすれば、「城引き上げ後」の“敗残兵が城に入り込んでいる”とする「思わせの篝火」であった事は頷ける。
「家康」に執っては、“傷ついた山県軍の別動隊の使命を果たさずに引き上げた事”が幸運であった事に成り、それは偶然にも、「家康」が重視しなかった「戦力の“南下国衆の銃力の御蔭」である”と説いているのだ。
更には、「南下国衆の銃力」が「山県軍の別動隊」を目がけて「追尾作戦」をしていれば更には「家康」には「幸運」を招いたであろう。
「山県軍の全滅」と、「南下国衆の銃隊」が「城」に入り「籠城戦」とも成れば、「兵力差」は無く成り、「籠城戦」を選んだ方が勝利する事もあり得て、場合に依っては全面勝利して「武田軍」は撤退していた可能性もあったと云う事に成り、「家康最大の幸運」と成ろう。
何故なら「籠城戦」で時間を稼げば、西で戦っていた「織田軍の援軍」が来て外と城とで「挟み撃ち」にして勝利出来ているし、「武田軍の兵糧」は底を突く事になり、「長期戦」は無理である状況にあった。
又、その心配をして「武田軍の長期戦」は絶対に避けるであろう。
現実には、西の「信長討伐軍との戦い」は解決せずに、恣意的に援軍を向けなかったとも観ているが、要するに「援軍」は来なかったが、「山県軍の別動隊の使命」を果たさずの「判断ミス」が、再び、西の「信長討伐軍との戦い」に織田軍は勝利して、更に伸長した事で結果として2年半後の「長篠」まで待ち込むまでに「松平軍」を急に大きくさせて仕舞ったのだ。
「急に・2年半」という処に意味がある。
敗戦している中でこれには「大きくなる為の財力・軍力」が必要であった筈で、それは其の後の「額田青木氏の陸運業と開発業と殖産業と渥美湾の制海権料」の「冥加金」にあったと観ているのだ。
「伊勢青木氏・伊勢屋」は「相当な支援・財力」をしたと考えられる。
其れで、近隣の国衆を集め兵力を高め、「輸入の火縄銃を含む武器」を買い求め勢力を高めたと考えられる。
況してや、「南下国衆の銃力の脅威・2度の経験」もあったので、「青木氏等」に良い方向に傾いた元と成る「判断ミス」としては、その考える事は人間はこの方向に走るは必定である。
つまり、「信玄死亡」が原因では無いと観ているのだ。
「武田軍」としては、「第一次吉田城の経験」もあるのだから、先ずは「城攻め」を諦めて「甲斐」に引き上げると云う判断となったのであろうが、戦略的に観た場合はこの行動は違い戦い時での判断が要求されるだろう。
其処にも「判断ミス」があったのだ。
「南下国衆の銃力」が姿を変えて「松平氏の財力」の面で支援して逆に大きくしてしまったのだ。
後ろに「伊勢青木氏の伊勢屋」が控えていた事が忘却していた山県であったのだ。
“「山県軍の大犠牲」”があり「武田軍の本隊」も「200の死傷者」を出しているとすると、引き上げは兎も角も、「武田軍の全軍」は「信玄死亡」であっても”「戦略的」”には「浜松城の集結」は常道であろう。
現実に「信玄死亡」は「2年間」は伏せていたのだし、戦略的に観て秘匿して戦場から甲斐に戻せばよい事に成るだけで要するに「戦略」は完遂するのだ。
実際には信用できる「武田軍の戦記」の殆どは「引き上げ説」が主流で、「松平軍の戦記」は「浜松城集結説」で「追い払いの勝利説」を唱え江戸期にこれを脚色している。
実際は「引き上げ説」が正しいが、後勘から「素人」が考えても、「松平軍も武田軍もその戦術」には疑問であるのだ。
これを「信玄病気説」でこれ等の「戦場行動の疑問」を霧消させていて「辻褄」を合わせているが反論はし難い。
この「信玄病気説の検証の確定要素」は調査したが「可能性」があるが上記で論じた様に「平時の事」では兎も角も「戦時の戦略」としては無い。
だとしたら「15分のタイムラグ」しかなかったにも関わらず「家康」は逃げ込んだとする「浜松城」の可能性の低い説は、兎も角も、輪を掛けて、“浜松城に逃げ帰った徳川軍”が、“崖に布の橋を掛け、「武田軍」をあざむき追い落とした”とある説は「後付けの脚色」の何物でも無い。
動物的反応で生き死にを掛けた緊縛した中ではそんなものに騙される者は居ない。
この説では、そもそも、“山県軍の別動隊の右鶴翼から突撃の戦歴”も無く成っている事にも成り得る。
これでは、“「武田軍」は引き上げていない”し、“「山県軍の別動隊」の軍より早く城に入った”と成るし、“「布の橋」を掛ける時間があった”のかも、ここまで来ると「田舎芝居」がかっていて「後付けの脚色美化」をし「物語風」にして楽しんでいる感がある。
実は注釈として、「歴史観」として、「江戸期」とは、そもそも「真実探求書」と云うより、「面白く物語風の歴史書」を好む傾向があって、「史実の探求」よりも、”これを「社会」が求めたのだ”という事を決して忘れてはならなく、「現在の感覚」では正しく推し量れないのだし、通常は時代が進めば歴史は美化されるものなのだ。
ところが、如何せん「後勘・現在」でも、「面白く物語風の歴史書」をこれを前提に「史実」として論じているものが多いのだ。
それだけに、大変な時間を掛けてより「多くの歴史観」を以て「矛盾を探し出す力」が無駄ではあるが必要であるのだ。
さて“「布の橋」を掛ける時間があった”のかも、ここまで来ると「田舎芝居」では、「2時間」と云う極めて短い戦い時間で「総崩れ・大将逃げた」の説では、“大将が逃げたが全滅は無かった”と云う事にも成るのだ。
そもそも、これも“「15分のタイムラグ」”は「南下国衆の銃力が造り出した戦歴」であるのだ。
そして、「山県軍の別動隊の使命」の「波状攻撃」もせず、「南下国衆の追尾」もせずの異変行動は、「南下国衆の銃隊」が「戦線離脱した結果」が齎したものだったのだ。
「織田軍の雑賀根来の傭兵」の「火縄銃の長篠での結果」では、「全滅の20000」と記録されている事から考察すると、筆者は「三方ヶ原の戦い」は「完全全滅」に近かったと観ているのだ。
兎も角も、この「事象」は其れこそ「家康の大将の戦線離脱」であるが、「鶴翼の陣形の横腹を突かれると云う事」で逃げた事は確実である。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊」にはその国衆と成った目的から「山県軍とのやり取り」も有ったし、敗戦の決まった戦場に遺る義理も無かったし、もう一つの決め手は、「家康の速い戦線離脱」を鶴翼の着け根部分にいて「右に向きを替えた事」で知ったのでは無いかと考えられるのだ。
そこで、「武田軍本隊と山県軍の別動隊の行動経緯」を追って観れば完全に判る。
「時系列」
9/29 本隊より「別動隊の行動開始」
9/29 「山県・秋山・馬場隊の3隊」 出陣-諏訪-東三河-武節-長篠-遠江
9/31 「馬場隊 分離」 犬居-高遠-吉村-三河
11/3 「馬場隊」 二俣城 到着
10/3 「武田軍本隊」 出陣-「諏訪・・・遠江」-犬居(馬場隊合流)-三河
10/16 二俣城 到着
10/9 「馬場別動隊」 武田軍本隊に合流
10/13 「武田軍本隊」から「馬場隊 再別動隊」 犬居-只来
10/13 「武田軍本隊」 「二俣城」 到着
10/18 「二俣城」 「戦場状況見分」
10/18 「武田軍本隊に馬場隊」 到着 開戦
11/3 「山県・秋山隊」 二俣城 到着
11/4 「全軍合流 開戦」
12/19 落城 開城
12/21 本隊 朝頃一言坂発進 銃隊到着-額田青木氏の銃撃戦
12/21 17時半頃浜松城通過
12/21 20時頃堀江城到着・開戦
12/22 堀江昼前頃開城
12/22 昼過ぎ(15時頃)三方ヶ原に出発
12/22 昼4時頃到着・開戦
12/21 「額田青木氏銃隊」
12/21 早朝・5時頃に「浜松城」を出る
12/21 「一言坂・3時間半」で9時頃に到着
12/21 早朝 「額田青木氏偵察隊」は「遭遇戦・4時間以上(14時頃終了)」
12/21 17時過ぎ頃に「浜松城の北東横近く」に再入場せず戻り陣取りする
12/21 「武田軍本隊・馬場隊」
12/21 13時半頃昼過ぎ 「一言坂通過(無抵抗)」
12/21 17時半頃「浜松城」通過
12/21 浜松城牽制後、「堀江城」へ出発・到着20時頃・開戦
12/21 一言坂遭遇戦後、「額田青木氏偵察隊」の追尾受ける
12/21 堀江城に夕方到着-開戦
12/21 「武田軍本隊・馬場隊」 堀江城 包囲 調略・開城開始
12/21 「包囲 夜半から作戦開始」
12/22」 「堀江城 朝に落城・開城」
12/22 「堀江城の結果」を朝に全体把握」 「三方ヶ原」に出陣する。
12/22 「三方ヶ原」に「昼過前出発・2時間」で到着
12/22 「情報で陣形を選択」し整え行軍
12/22 「松平軍の出陣」 「浜松城 早朝出陣・2時間」で到着
12/22 「松平軍 三方ヶ原西に移動」 「野戦陣形・4時間・12時頃」を整え待つ。
10/13 「馬場隊 只来城」を落す
10/13 「武田軍本隊」 「天方城・一宮城・飯田城・格和城・向笠城」落とす
10/15 匂坂城を攻略
10/15 掛川城や高天神城 孤立
10/14 「松平軍 浜松城孤立」
10/14 「一言坂の戦い・松平軍」 野戦で敗戦
10/16 「武田軍別動隊・山県軍」 朝から「二俣城」攻める
12/19 「武田軍別動隊・山県軍」 二俣城落城させる
12/20 「二俣城で掃討作戦と三方ヶ原に向けて補給路確保」
12/22 「武田軍別動隊」 昼12時過ぎ 西に向けて移動
12/22 「別動隊 三方ヶ原・15時過ぎ」 山際北側に到着
12/22 「武田軍全軍」 「三方ヶ原」 「16時 集結」 「魚鱗陣形」で構える。
12/22 「16時頃 開戦」 「18時過ぎ松平軍崩壊始まる」 勝利決定
12/22 「16時過半頃」 「青木氏銃隊」と「武田軍別動隊 突撃」「肉白戦の激戦」
12/22 「17時前頃 「青木氏銃隊」 戦線離脱 伊川津に向かう
12/22 「17時過ぎ頃」 「武田軍山県隊」 波動攻撃せず其の侭「浜松城」に直進
12/22 「20時頃を浜松城検視」 ・確認し城攻めずに「本隊」に引き上げる。
(注釈 「・印の疑問 銃隊の威力と篝火の策」
上記の「時系列」に「全ゆる戦記」などの信頼出来る「状況証拠の情報」を組み合わせれば「正しい歴史観」が生まれる。
「武田軍の別動隊・山県軍」は北の「二俣城」より「旧道(391号)」を移動したと考えられる。
当初、「籠城戦」を予想していた「武田軍の宿営地」としていた「三方ヶ原」に到着してより「戦いの陣形・配置」を整えるのに「大軍の場合」は歴史資料に依ると「2~4時間」を所要したとする記録がある。
そうすると「戦場」には、「三方ヶ原」に向かう途中で事前に齎された情報により、急遽、「魚鱗の編成」をしながらとあるので「2時半頃~3時頃」には到着していた事に成る。
史実は「三方ヶ原の戦い」は「所要2時間」とあり、「4時頃」から突然に「山県軍の別動隊」の「右側面」を突破して突撃する事から始まり、その時、「敵大将・家康」が逃げ出す事で「指揮系統」が無くなり、一瞬で「総崩れ」が起こり「夕暮時」で終結したとある。
「松平軍の戦記」から戦死者は、真偽は別として「武田軍200程度・本隊」で、10倍の「松平軍2000程度/5000」とある。
これは疑問であるが、「家康」は「数人の供回り」で「敗戦前に浜松城」に単独で逃げ帰ったとある。
「勝った方」が「戦場清掃をする紳士協定」があり、「兵の死者」などは敵味方に分けて引き渡した。
その他のものは農民などに請け負わさせて始末したとしている。
「松平軍の敗残兵」と「負傷兵・3000/5000」は「浜松城」に夜半に「城篝火」を頼りに都度逃げ帰るとあり、「山県の別動隊の城検視」とには、「時間差」があったか黙認したかであるが、直ぐに城から引き上げたとある。この事から、だとすると後から「戦意を失った者や負傷者」がぞろぞろと来る者を「山県昌景」はこれを黙認していた事に成り得る。
これを観ていれば、「城に戦える程の守備兵」が居たかは「一目瞭然」で落とせるか落とせないかは直ぐに判断は着くし、右側面から突破しているのであるから「松平軍の戦闘能力」も判断は着く筈であり、これは「完全な判断ミス」であり、寧ろ、「判断ミス」と云うよりは筆者は大変珍しい「勝者の敵前逃亡・戦線離脱」であったと厳しく見ている。
「家康と敗残兵」が、「山県軍の別動隊」が「鶴翼の右側面」から入り左側面で犠牲を負いながら通り抜け、その侭に「浜松城」に到着した事に成っているが、其れより前に入ったとする「説・とんでも無い脚色説」もあるが、「時系列分析」からこれは100%あり得ない。
最終の「戦場の細かい清掃と処置」は「農民」に金を渡して行ったとされているが、普通は慣例としてそうするの事に成っていたので「武田氏の資料」が信用性がある事に成る。
唯、この「山県軍の部動態の行動」が不思議の一つで、「敵将の首実検」をせずに城を攻めないで本隊に引き上げた事に大疑問が残る。
唯、「山県軍の別動隊」も「武田氏の別の戦記」では「2000」としている事から「青木氏の銃隊」に依って「犠牲」が大きかったと云われ、「城攻めの余力」は最早、無かったと考えられる事も出来るが、それでも「城」に向かって走ったとすれば、未だ「余力」はあった事に成り、「城」を落とす戦力があった事に成る。
「別動隊としての使命」を果たす事が出来ない程の全く「余力」が無ければ「城」には行かないで本隊に合流するだろう。
どう考えても「城」は完全に落とせた筈だ。
「本隊」は「犠牲200」と納得する記録もあり定説の様に扱われているが、「山県軍の犠牲」は何れの資料にも「2000以上の記録」は「遺された資料」からは散見出来ない。
そもそも、弓矢では無く、「四連発の銃弾」で、且つ、「1k手前から命中率」が90%としている事から、これを受けたとすれば少なくとも「10倍の犠牲」はあったと考えられ、結局は「負傷兵」も含み少なくとも「残兵1000程度以下」と成り、故にこれに「疲労している事」を考えるとせめて「城攻め」は無理だったと考えたとも云えるが、確かにこの「疲労説」もあるが、右から左に「突破しただけの時間」と、「城までの距離・2h」とするとこの説はあり得ない。
「篝火説」では無いが、何も無理して「城」に入らずとも「城」に戻って来る「敗残兵を掃討する事で「城」は簡単に落とせるのだ。
そもそも、戦い後、必ず行われる「掃討作戦」は本隊では無く「別動隊の使命」でもあるのにこれもしなかったのだ。
「別動隊の使命」から観れば、「残り」で「裸の城」を攻めておく必要が戦略上あった筈で、ここを拠点に周囲の出城を落としているので、「三河の西・尾張」に向かって進軍する事が出来た筈である。
筆者は「軍師の山県」は「信玄病気説」でも全滅覚悟で「後の事」を考えても「浜松城」を確保して、その後の事は「後者に託す事」の「判断ミス」をしたと考えている。
「信玄病気説」は“人間死のうが一定”が「武士の定め」であり、「信玄病気説」は記録では「甲斐」を出陣する際にも資料から「病気説」はあったのだ。
とすると、これは予想出来ていた事であって、「浜松城」を確保して「山県昌景」も命を捧げる「本来の使命」で覚悟するべきであった。
それを、後に「勝頼の出陣」の際に、“死を覚悟して酒を仲間と密かに躱す”等の史実は女々しく「三方ヶ原の判断ミス」“に対して「いいわけ」をしている”としか見えない。
唯、だとしてもこの時、この敗戦後の「浜松城」には「50人程度以下の守備兵・一説」しか居ず、「山県軍の別動隊」の「残兵」で攻めれば勝てる可能性は充分にあった。
場合に依っては、「青木氏の銃兵」を幾らか城に遺していたと考えたのでは無いかとも考える事も出来るが、目の前で「戦線離脱」して早々と「伊川津」に戻る態勢を採っているのを観ている筈で、仲間を置いて伊川津に引き上げる事等あり得ない。
だから「波状攻撃」を掛けなかったのだ。
そうすれば、残るは「判断ミス」で無いとするならば、「山県軍の戦況」は後勘から観ても最悪であった筈で、残すは、“諸々に「山県昌景」は城に2時間もかけて行っていながら「戦える状況では無かった事」”に成り、「引き上げ」を「別動隊」に命じた事だけに成る。
上記の通り少なくとも「残兵1000程度」の計算は、後の「長篠の戦い」の「織田軍の傭兵の銃隊3000」の「結果・12000戦死・火縄銃」を考慮しても未だ多い方であったと考えられる。
そもそも「火縄銃」では、当時の資料から「兵力」に直すと最低でも「10倍」とされている事から観ても、「戦い方の状況」に依っては「20倍以上」にも成ると記され、「兵力・火縄銃」に相当するとした場合でも、「不思議なフリントロック式改良銃の威力」を直前に観ているので、これを「20倍の兵力以上」とすると、「少なくとも残兵1000程度以下」では、「城守備」として「50人の銃兵」を残して置けば「1000の以上の兵力」と成る。
然し、現実には遺していない事は早々と戦線離脱して伊川津に向かっているので、「山県軍」はこれを観ていて確認しているのでこの説は成り立たない。
だとするも、仮に、「銃」を配置していたとしても、ここでも「山県軍の残兵」で「籠城戦」で戦うとすると、「別動隊の使命」としても少なくとも「全滅に近い事」とは成るが、何も「守備兵」と戦わなくても「城」は落とせる。
それは、要は「落したと云う形」}を作れば「流れ」として勝利しているので必然的に堕ちる。
上記した様に、それは「三方ヶ原の敗残兵」が「城」に戻って来る時を以て「山県軍の別動隊」が「掃討作戦」を展開すれば、「本隊」も到着するか「本隊」からの「掃討作戦の支援の援軍」を待って簡単に勝利出来る。
何れにしても絶対に“命を賭して「浜松城」を全滅覚悟で落とすべき”であったのだ。
つまり、何れの考察でも、「別動隊の使命」を無視して、「判断ミスの汚名」を避ける「口実」として、“全滅を避けたかった”とする「言い分」としたと観るしかない。
筆者は、そもそも、“武田軍は甲斐に引き上げる”と云う「選択」に対しても、感情的に成り過ぎて「戦略的」に観て疑問であると考えているのだ。
三河の隣の駿府まで支城全てを抑えたのであれば、「拠点の浜松城」を抑えて居れば西に対して勢力を確保でき、且つ、「指揮官の信玄病気死亡説」が仮に起こったとしても、後は「勝頼」なりを据えて構えた方が、「甲斐軍の勢力」は保全出来る。
“京に上る”と云う「大戦略上」を前提とすれば、「信玄そのものの病気・死」は「位置づけ」としては小さい。
何せ、“信長が天下をとり幕府を開く”と云う「名目の苦労」より、「甲斐源氏の幕府」は容易であるのだ。
「鎌倉幕府」と「室町幕府」は全て「河内源氏の支流」であり、例え甲斐が末端の支流であっても「甲斐源氏」としてはその「前例はある事」であって、「信長の様に全国制覇」をしなくても、「足利源氏」に代わって「甲斐源氏」が東側勢力を抑えたのであるから、「朝廷の宣下」は得られやすく「幕府」は簡単に開ける。
後は、その後の行動で逆らうものは滅ぼせば幕府は樹立出来る。
先ずは、世の常として「源氏と云う格式・格式問題はある」を前面に押し出せば豪族は“靡く筈”である。
何故ならば、豪族や信長は自らは「幕府の名目のお墨付き」は「朝廷・宣下」から得られないのであるから、「豪族の勢力」をそれなりに認めてやれば天下は落ち着く。
これが「尾張の信長の弱点」であったのだから。
各所の拠点に山県等の将を配置する事で「次の尾張」を潰せば、これで「天下の幕府」は開けるのだ。
筆者は「山県昌景」は「最大の判断ミスをした事」を説いている。
要は「大戦略の流れを造り出す事」であった。
それが「南下国衆の銃隊」で「大犠牲を負った事」で「正常な判断」が出来なく成ったと説いている。
それに反して「南下国衆の戦線離脱の判断」は逆に“実に正しかった”と説いている。
だから「武田氏」と違って生き遺れたのだ。
その“「判断ミスの山県」”が存在する「長篠」では「武田氏を潰す源」を造っていたと云う事なのだ。
「青木氏の歴史観」を正しく理解して遺すには、この様な深く関わっていた処を解明して置く必要があるのだ。
何故ならば、“「歴史」”は時代が進むと“美化され都合よく偏纂される”のが常道であるからだ。
それは「歴史」には、時代ごとに、氏ごとに、地域ごとに「慣習仕来り掟等の伝統知識」があるのにそれを把握しないで論じる者が多くなるからである。
そこで、もう一つ論じて置く必要がある。
「青木氏の銃隊の数」が「300丁」とは、「吉田城の籠城戦」と「一言坂遭遇戦」と「三方ヶ原での経験」をしていたとしても、概略でしか知らず、「正確な数」は「武田軍側」は、況して、遅れて来た「山県軍側」は正確には知っていなかったであろう。
この事による「判断ミスの可能性」である。
当時、「火縄銃で10倍」と評価されていた事が記録から読み取れる。
「青木氏の遺された訓練の手紙や商記録の出費や堺の生産力や南下国衆の数」から割り出した数の「秘密裏の数」は「300丁」である。
ほぼ「3度の失火」で「正式な記録」は消失してはいるが、「遺る資料」を継ぎ足して行けば間違いは無いだろう。
もう一つの推論として、「武田軍本隊」は「南下国衆の銃隊」がこれを「松平軍の銃隊」と観ていた事の可能性である。
「山県軍の別動隊」の右側面からの突撃時に「300丁の銃」を、仮に精々、「50丁前後の読み違い」はあったとすれば、「五つの三河戦記の記録」でも、「山県軍の別動隊」も「「50丁前後=1000人の兵力」が「浜松城」に居ると考えた可能性があって否定は出来ないのだ。
然し、史実は「南下国衆の銃隊」は「戦線離脱」しているので、これは成り立たないが、そもそも、「第一次吉田城の籠城戦」や「一言坂の遭遇戦」で「松平軍」として戦っているとすればその様に理解した事は否めない。
その様に「渥美湾の制海権を獲得する条件」として「伊川津の国衆」と成って合力している「詳細な経緯」を知っていたかは疑問の方が大きいので、この「推論」も成り立つが、知る必要も無かったかも知れない。
そもそもこちら側の事である。
但し、「総崩れ」と成った「松平軍」を尻目に「戦線離脱」している処を「山県軍の別動隊」や銃声の「しなくなった戦場」を「武田軍の本隊」は観ている以上は、例え「松平軍の銃隊」と観られていた「南下国衆の銃兵の仲間」を「城」に放置して見殺しにして「伊川津」に逃げないであろう事くらいは直ぐに判断できる。
そうすると、この推論は低いが余りの犠牲の大きさに“「山県昌景の判断力」は低下していた”とする上で成り立つ推論ではある。
そもそも、“戦略的に城を落とすべき”と云う“別動隊としての使命感”も無くしているのだから戦線離脱したとしても「松平軍の銃兵」かは論外であった事にも成る。
そして、尚悪いのは未だこの「判断力の低下」は続き、史実にある「甲斐」に帰って“「最後の盃」を躱す“などは「武将」としては言語道断であり、「勝頼」に「無能の責任」を押し付けて、「自己の判断ミス」に薄々気づきながらも「大義の立つ死に場所」を考えたと成る。
その「死に場所」と成った「長篠での戦い」の銃弾の前では、「火縄銃の時代」に旧態依然として「先陣を切った騎馬隊」は全員戦死し、その後に無謀にも突っ込んで来て戦死した「“山県隊”・馬場隊・内藤隊・真田兄弟隊・土屋隊」や、撤退し乍ら傷を得た「穴山隊、武田信廉隊、武田信豊隊」が全滅に近い状態であったとすると、最早、論外で「銃の威力」をどれ程のものであるかをそもそも経験していながら、未だ旧態依然として「山県昌景の判断ミス・死滅」しても「浜松城を落とす事・別動隊の使命」は続き、大きく「武田氏」を潰したと云わざるをえない。
ここには「美濃の額田青木氏」のみならず「青木氏族」の「時光系甲斐青木氏」が居たのだ。
そして滅亡に近い状態にさせているのだ。
況して、「南下国衆の銃隊」が追尾していれば兎も角も、掃討作戦もせずに早々と“戦線離脱”して甲斐に向かっているのだ。
確かに被害は大きかったかも知れないが、例え「信玄」が戦死・死亡していたとしても“絶対にどの様な場面を考えても、「当初の戦略の目的」の通り「浜松城」を陥落させる必要があった”のだ。
後勘の「歴史の説」は時代が進むと共に殆どは「美化論」に左右されて行くが、筆者は「正しい歴史観」を獲得する為には、少なくとも「青木氏の歴史観」に関わって来る事に対しては、「山県昌景」を美化する訳には行かないのだ。
況してや其れが、“「籠城戦」”とも成れば、「第一次吉田城の経験」の通りに、“より「銃力」は「無限の兵力」と成ろうとする時代に成っていた”のだ。
将としてのあるべき「時代の読みと経験」をしていながら其れさえも読み間違えていたのだ。
故に、この「判断ミス」に依って“「山県軍の別動隊」は「城」から引き上げた”と充分に考えられるのだ。
つまり実際には、“城には戦えるほどの「守備兵」は居なかった”のだ。
「三方ヶ原」から「勝敗」が決まる直前で「額田青木氏の南下国衆」が“戦線離脱している事”は、「城」には「南下国衆の額田青木氏」の「銃1丁」も遺してはいなかった事の証拠であるのだ。
そもそも、「山県昌景」は有名な「武田軍の緻密な近習軍師」でもあったとされるが、「緻密」ならその「緻密な判断の情報」を獲得し成し得ているし、「上記の事」を最も気にしなければ成らない人間であった筈である。
何故ならば、実は此処にもう一つ江戸期での「後付け・脚色説」ではあるが、その説には「山県軍の別動隊」の「引き上げ判断」に傾いたものがあったとする説がある。
一応、参考として論じて置く。
それは“城の門には明々と「篝火をともしていた事」”は「史実」であって、実は、これは唯単に「篝火を焚いていた」と云う訳では無いのだ。
つまり、「後付け脚色説」では、この“城には家康が居た事にも成る。”のだ。
そもそも、これは「中国三国志の軍師」の“「諸葛孔明の篝火の策」”であるのだ。
大軍の「敵将の仲達」はこれを観て何かの策を警戒して引き上げたのだ。
この「中国故事の戦略に習った事」を何と「家康」は窮地に知ってか知らずか実行したとも考えられる説なのだ。
恐らくは、城に入っても安全だとする「敗残兵への合図の印」であった事
「山県軍の別動隊」が浜松城に到着した時に城には「家康」がいた事を示す事
以上の二つにも成るが、「15分のタイムラグ」に「山県軍」より「家康」が先に城に到着する可能性が低いのにこの「篝火の策説」がいまだ定説として成っている。
つまり、この説だと上記の通り先に入るには、「タイムラグ」からして「山県軍」が「鶴翼の右側面」を突く直前に、戦わずして先に逃げた事に成るのだ。
裏を返せば「後付け脚色説」にした事は、「山県軍」が「浜松城」を落とさず引き上げた直ぐ後に、「家康と敗残兵」が「城」に入って「篝火」を焚いて「残りの兵」に安全を合図告知した事と成り、故に安心して茶漬けと就寝がて来た事に成り得る。
「城引き上げの判断ミスの行動」が「美化の隙間」を与えこの様な多くの脚色説を生み出す結果と成っているのだ。
つまり、何を云うかと云えば、この「篝火の策」が直前に「山県昌景」が経験した「銃の威力・隠銃力」を連想させたと成るのだ。
本来であるのなら、「青木氏の南下国衆の銃隊」が「戦線離脱した事」は確認しているが、追尾してくる事もあった筈で、それを恐れていた事もあるが史実はこれを否定している。
そもそも、逆に「山県軍の別動隊が城を落とせた事」を示す証でもあるのだ。
一時的であっても証としては成り立つ。
これらに関する「史実」は今も無い。
そこで検証して観る。
実際は「浜松城」からは、この“「三方ヶ原」”は、南の海から少しくぼんだ「丘陵の窪みの位置・標高50m・18mの段差上」にあり、「戦線離脱した事」が観えなかった事もあるが、「山県軍の別動隊の残兵」を1000としてこれを並べた場合の「最後尾」が南下国衆の戦線離脱が見えていた筈であり、「戦線離脱の報告」は充分に出来ていた事に成り、且つ、だから「波状攻撃」もしなかったのだ。
唯、この「篝火策の説」は、「松平氏側の戦記」のもので「武田氏」のものでは無い。
あったとすれば少なくとも多少成田も行で読み取れる範囲で戦記として書かれていたであろう。
先ずは、「山県軍の別動隊が城を落とした事」を示す証説を別にして、仮に、この説が有ったとして、これは「敵」を「油断させる策」である事は「軍師の山県」も充分に承知である事は疑わない。
突撃中、「家康が戦線離脱した事」は左に見えているので、寧ろ、筆者は直前の印象から“「城に隠銃隊」を配置しているのでは”と考えさせて仕舞った事とも成ると観ていたのだが、然し、「南下国衆の銃隊の戦線離脱」ではこの説は成り立たない事に後で知ったのだ。
これは別の意味で正しく“「篝火の策の延長」”であるのだ。
この「篝火」が「敗残兵の道案内」として事前に点灯させていたとして、「直前の銃撃」で死傷者を多く出した「山県昌景の理性」を無くした感情から、“「篝火策」”に合わせて「銃」を連想させたと説く事も出来る。
四時から始まり2時間で終わったとする多くの戦記から判断して割り出すと、「山県軍の別動隊」が「浜松城」に到達した時刻は、鶴翼右側面から左側面までの突撃時間は約0.2~0.4hで、「三方ヶ原」から城まで徒士で2.2~2.3hとして、合わせて2.4h~2.7hと成り、「負傷者」を運ぶ「タイムロス」を考えた場合、「合計3h」は要する事に成ると、1月の7時頃となり、「篝火」は策でろうが何であろうが必然的に必要である。
浜松城の所在地は明白に成っているので、殊更に「篝火策と云う程の事」は無かったと考えられる。
この説はやせ我慢の「後付けの脚色」である事は否めない。
そもそも「篝火」を灯す灯さないではなく、「城」を確認できれば大方は研ぎ澄まされた「戦いの野生本能」として判るし、その場で調べる事さえも出来る。
視点を替えて「青木氏の歴史観」から検証すると、この様に「江戸期の作文・脚色」とは、検証では「史実として違う事」が相当に見えて来るのだ。
一般から観れば其処に「歴史の伝統の面白み」が生み出させ夢が引き起こされるのだが。
但し、「額田青木氏」にとっての結果としては、「青木氏の歴史観」を構成する上で「山県昌景の浜松城の判断ミス」は、その後の「渥美湾の制海権の確保」や「陸運業の転身」や「開発業・殖産業への路」を開けた事で実に都合は良かったのだ。
“松平氏の生き延びられた事が良い方向に働いた”と云う事である。
それ故に検証している。
況や、この事らは「青木氏の氏是」として「良い事」なのだが、それ他家にろんじてはいるが、「一部の記録以外」に表立って「歴史上の記録」には載って来ないが、その全てを決めた行動は、「三方ヶ原の早期戦線離脱」が左右したのだ。)
(注釈 「上記の経緯の追加再考察」
これ等の「経緯」から更に次の事が読み解ける。
「堀江城・朝より開戦・調略・激戦」とで、全体の計画より相当時間が掛かった事が読み解ける。
もう一つは、「武田軍4軍が揃う」のを待って「三方ヶ原」を「宿営地・当初の目的」にして北から南に向かって「浜松城を攻める計画」であった事も読み解ける。
結果として思い掛けなく「野戦」を選んだ「家康」に依って「宿営地であった三方ヶ原での戦い」には成ったが、その「集結場所」が偶然にも「宿営地」とする処の「三方ヶ原」であった事も読み解ける。
何れの軍を動かすにも必ず「食事や武器」などの「補給隊の荷駄隊」が最後尾に伴う。
取り分け、松平氏にはこれが無かったと考えられるが、「武田軍の本隊」には史実として確認されている。
それ故に「宿営地」が「戦場と成る事」には、「武田軍の本隊」には「多くの計画の崩れ」が生まれた筈であるし、「武田軍の本隊」に執っては「若干の弱み」とも成った事であろう。
然し、この「若干の弱み」は直ぐに解決された。
それは「松平軍」は「鶴翼の陣形」であった事で、「魚鱗」の様な「移動型の陣形」では無かった事なのだ。
「最後尾」に詰めていれば安全であったので、勝負は実戦に至らずとも既に此処で決まっていたとも考えられる。
参考として、「武田軍の本隊の計画」では、「一言坂の遭遇戦」に依って「軍の行動」が一時止まり、軍が大きい程に時間が掛かるので「編成立て直し」で、“予定より「4時間~6時間程度の計画」は先ずは「ずれ」て居る”事に成る。
「武田軍の戦記」と「三河の戦記の五つの戦記」と「伊勢青木氏の資料・手紙等」を総合するとその経緯は次の様に成る。
「青木氏の銃隊」の「一言坂の偵察遭遇戦」では、前段でも詳しく論じたが、「武田軍の本隊」は「北の二俣城」から南下して、東から「堀江の西」に向かって「一言坂」を東から上って坂上に到着した。
一方、「吉田城」から「呼び出し」で到着して、「浜松城」で「命令」を受けて「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「浜松城」から出て「東の見晴らし」が良く、必ず「武田軍本隊」が通過する「一言坂」に西から向かい「西の坂下」に入り「坂上」に上った少し東で遭遇したとある。
此処で初めての「敵対の実戦」の「銃による遭遇戦」が始まるのだ。
そこで、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、実戦のしない「偵察隊」ではあったが、「西の坂下」に逃げると東から西に向かっている「武田軍本隊の騎馬隊」に背後を追撃され全滅と成る。
そこで、「偵察隊の使命」と異なり「東の坂途中の武田軍」に目がけて前段で論じた「銃撃戦」を開始し、果敢にも徐々に「銃弾幕」で「武田軍の本隊」に近づいたと戦記である。
そして、この「武田軍の本隊」は「弾幕」で押し込まれ止まるとある。
そこで、「武田軍の本隊」が更に徐々に東坂下に押し帰されると、逆に「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は尚に「東の坂下」に向けて降りる事に成り、其の侭では地形上では「坂の左右の道幅」が狭い所に達する為に、且つ、「大軍の後退」は難しい為に、「武田軍の本隊」は次第に前面に「崩れ・乱れ」が起こり始めた。
結果としてこれでは「離れた遠く・300m」から連続的に撃ち掛けて来る為に手の施しようが無く全滅して行く事に成り得ると判断したとある。
そこで、「武田軍の本隊2万」の内、「3000」を「坂の土手下」を通り、先回りして「西の坂下」に配置させて「僅かな火縄銃」で挟撃しようとしたとあり、これが「南下国衆の銃力」が勝り「効き目」が無く、そこで「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「東の前進」を止めたとある。
そこで「東の武田軍の本隊」と「西の3000」に左右に向けて「南下国衆の銃隊」を二つに分けて当に「坂上頂上」から「西の坂下」にも「弾幕」を浴びせたとある。
そこで「西の坂下の分隊3000」は余りの「銃隊の威力」で戦う事を中止したとあり。”道を開けた”とある。
これを観た「武田軍の本隊」は、更に「坂の中腹の左右」に土手を通り向けて「3000の兵」を追加してこの「坂下分隊」を救おうとした。
要するに「物量作戦・弓兵力」で囲んだつもりであつたらしい。
ところが「余りの弾幕」は止まる事無く激しく、犠牲が多く出ることを懸念した「中腹分隊」も戦う事を遂に中止して仕舞ったのだ。
これは「フリントロック式改良銃」で「黄鉄鉱」で「4回転シリンダ」であるこの事から、「火縄銃の様に10~15分の間隔」では無く「弾幕間」は空かないのである。
この時の記録として「300の銃」の「銃身に熱」を持った為に「三段式・銃身に熱」に分け、冷やしながら「前後左右の銃兵」に、「弾を用意する補足兵・50と荷駄兵」が付いての編成で打ちかけたとある。
この時、「荷駄兵50」は「疲れた銃兵」に代わって入れ替わりながら撃ち掛けたとある。
この事の意味が重要で、要するに「50の荷駄兵」は「高い経験・熟練度」を要する「フリントロック式改良銃」であった事から、「試射打ち」を経験している「伊賀青木氏と伊勢秀郷流青木氏の混成隊」であった事が考えられるし、熱を持つほどの激しい連続射撃であった事が判る。
これであれば、全く間隔の無い弾幕の雨嵐であったし、「命中率と飛距離と破壊力」は「火縄銃の10倍以上・約20倍」であった事から、驚いた「東の武田軍の本隊」も編成を崩して「東坂下通り」に徐々に後退し始めていた。
この「遭遇戦」は飛距離に問題が無い為に「命中率」は100%であったと伊勢の資料では記されている。
この結果、「武田軍の本隊」は「軍編成」を崩し、「凸状の坂道の下両方向」に崩れたとある。
「赤兜の騎馬隊・6000」が「武田軍の本隊」に存在していたがどの戦記にもこの事に一切触れていない。
何故ならば、この「赤兜の騎馬隊」が先頭に居た場合には後退するにはこの「赤兜騎馬隊」は馬は「後ずさり」が最も難しい筈である。
こ
この事に付いて何も書いていないと云う事は「軍の最後尾」に位置していた事に成る。
この「遭遇戦」に「二時・4時間」が掛かり、「西の堀江」に向かう為には「坂上で本隊の態勢立て直し」に「一時・2時間」を要したと記されている。
この事には「赤兜の騎馬隊」が原因していた事が云える。
恐らくは、記されている事の事実は、別としてもその程度の事に成る事は充分に予想できる。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊」はこの結果から何とか「無傷・無抵抗」で徐々に「西の坂下」に降りたとある。
そこで、其の後、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の判断として、“これは「浜松城の戦い・籠城戦」に成る”として、西に走り「西の坂下の北東側・城の北東付近」の一か所に潜んで「銃」を構え密かに陣取ったとある。
これはこの行動から観て、「武田軍の本隊が浜松城の城攻めの有無」を確認していた事に成る。
然し、「城攻め」をせずに「城の門前」を悠々と牽制しながら「武田軍の本隊」は先に「堀江城の方向」に向かって悠々と進軍したとある。
従って、結果として「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、この後ろから徐々に西に向けて「武田軍の殿軍・荷駄」を「追尾する形」を採った事に成ったとある。
これは、もし、「浜松城の戦い」と成ると、城に入らずに小高い丘の“「北東の後ろ」”から再び「弾幕を浴びせる作戦」に出る計画であったと観られる。
「大軍」である為に「地形的な面」から「陣取り」をしないと「主城・浜松城」を無暗に攻める事は先ず無い。
この「武田軍本隊の移動の状況」を把握する為にも、「浜松城北東」の「銃隊」に執って良好な「近くの場所・地形的な良好な場所」に先回りして「偵察隊としての使命」から隠れていたのだ。
これは、仮に「浜松城を攻める様子・牽制の攻撃」が伺えれば「使命」を超えて坂の上での様に「丘から銃弾」を浴びせる予定であったと観られる。
故に、この事で「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「浜松城」に入ら無かった事が判る。
ところが、この上記の「時系列」から観て、未だ、この時は「松平軍」は「浜松城」に居たのだ。
この時まで“籠城戦を覚悟していた”と「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は判断していた事に成るのだが、「武田軍本隊」も「籠城戦と観ていた事」に成る。
そこで堀江城を潰して「三方ヶ原で宿営する予定の行動」であった事に成る。
つまり、恐らくは、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、この為の「武田軍の牽制攻撃程度」の行動が城に向かってあると観ていたのだ。
暫くして,故に、何事も無く「浜松城」を通過して「堀江城」に向かう事が解ったので、確認の為に「陽動作戦」を警戒して追尾したのだ。
これは、「武田軍の本隊」は攻める事も無しに、唯、「後ろ・殿軍」を追尾し来て備えている一方では、「武田軍の本隊」は「追尾している事」を知っていたので、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「300の銃力の威力」を以て、“何時銃撃してくるか”を恐れたと考えられる。
何事も無く「堀江」に到着したが、この時、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「追尾」を「西と東の街道の交差際・湖東町付近」で武田軍の本隊が戻る事が無いとして「追尾」を止めたとある。
ここから「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、結局は城に戻らずに「東の路」を採り「三方ヶ原」に向かっているのだ。
宿営地に事前に向かったのか、将又、松平軍の野戦の情報を掴んだのかであるが、後者であった事が経緯で判る。
ここが「野戦のタイミング」と「浜松城出陣のタイミング」の狭間であろう。
そこで、「武田軍の本隊」は「西の端の堀江城」に向かい「堀江城」を潰して、「別動隊」を待つ為に遅れて慌てて「三方ケ原」に向かったと成った考えられる。
この時、既に「松平軍」は城を出て「野戦」を選んで「三方ケ原」に向かっていた事に成る。
「三方ヶ原への到着のどの程度の時間差」があったかは、正確には判らないが「堀江城」から「三方ヶ原」と「浜松城」から「三方ヶ原への差」があった事は考察できる。
問題に成るのはそれは「野戦を選んだタイミング」である。
「松平軍」からすると「家康」は「情報」を受けて「最後の砦」の「堀江城の陥落時期」を観て「冷静さ」を失い「野戦」を選んだと考えられるからだ。
仮に先ず相互の出発点に「タイムラグ」が無いとして、距離的にほぼ同じ程度であるが記録では「松平軍の方」が記録ではやや早く着いたとされている。
後から遅れて到着した場合は陣形を整える前に襲い掛かられて負ける。
然し、ここで武田軍に味方する「三つの事」が起こった。
それは、一つ目は、「三方ヶ原」に向かう行軍の途中で、後ろにいた「赤兜の騎馬兵」を前に出して、且つ、「魚鱗の陣形」の「三角形の編成」をしながら進んだとある。
二つ目は、「移動型ではない鶴翼の陣形」を松平軍は敷いたのだ。
この「二つの事」で遅れて到着した「武田軍の本隊」は「三方ヶ原」で攻められずに無事であったのだ。
「出発点のタイムラグ」は最低で0.5h、最高でも1hであろう。
主説と成っている経緯では、城を「未明・夜明け前」に早く出て、早くに「三方ヶ原」に「到着・バイアス8時頃~9時頃」したと記している。
この事に付いては「早く出ている事」は確実であるが、未明に関しての判断の意見の分かれる処で「松平軍」は「未明・朝方・夜明け前」に「城」を出たとしている説が通説と成っている。
これ等の説は「鶴翼陣形は時間が掛かる事」を理由にしている。
「上記の経緯欄」からそんな「時間差」は無かった事が判る。
三つ目は、「山県軍の別動隊」の「三方ヶ原への到着の遅れ」である。
この「遅れ」で「鶴翼の側面を突けると云う利点」が起こった事である。
当然に「鶴翼の陣形最大の弱点」である。
この「三つの事」が二つ欠けたとしても「三つ目」がこれを救い「相互補完の形」が出来ていた事に成るのだ。
「山県軍の別動隊」が先に着けば「本隊」が後からだと、中央に位置するべき「本隊の置く場所」を何処にするかで定め難く成り、「陣形の組み方」が難しく成る筈であった。
止む無く、合流できず右側面に着く形と成った。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「松平軍の動向の情報」からその事を見極める為にも、「堀江と向かう街道」と「三方ヶ原に向かう街道」の「交差点」で追尾を中止した事に成る。
因みに、この「青木氏の手紙の資料」から読み取れる記述には、「情報と云う言葉」が入っている事に意味を持っている。
つまり、「伊賀青木氏の集団」がこの「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に寄り添って「独自の諜報活動」を側面からしていた事を意味する。
更に云えば、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「荷駄隊の50」は少なくとも「伊賀青木氏の伊賀者・香具師・日用品を全国に販売しながら情報を集め諜報活動をする役目」であった事を意味するのだ。
「伊勢青木氏の一族」で「額田青木氏の南下国衆の銃隊」を補完していた事に成り得る。
その事で「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「三方ヶ原・当初は城に向かう予定」に着くのが相当に遅れる結果と成ったのである。
速く到着していれば「鶴翼の頭」の所の中央に据えられ「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の威力で「武田軍の本隊」のみならず「山県軍の別動隊」を少なくとも全滅に至らしめるまでには成っていた事に成り得る。
そうなれば、「全国の目」が「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に向けられて必要以上に警戒される事に成って「松平軍が勝利の形を得る事」に成り、歴史は替わり「渥美湾の制海権」どころの話ではなく成っていただろう。
この「遅れた事」が歴史に記録を遺さない「施基皇子の遺訓意」の「青木氏の氏是」の結果を引き寄せたのだ。
ところが、「12/22・早朝過ぎ」には、「松平隊」は、何と“「野戦」”を選んで既に「浜松城」を出て「三方ヶ原」で迎え撃つ為に「陣取り行動・鶴翼の陣形」に出ていたのである。
この情報を掴んだ「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、「武田軍の本隊の行動」と「松平軍の行動」を知った事で、予想外の“「野戦」”と成れば「城」に戻らずに慌てて「三方ヶ原」に向かったのだ。
「国衆としての当初の目的」から「三方ヶ原」に向かう必要が無かった筈であるのに、向かったのだ。
この理由を「青木氏の色々な資料の行」から読み解くと、「松平軍の戦闘の結果」に依っては、“渥美湾の制海権の夢は潰える”と云う「危機感」が「指揮官の脳裏」に走ったのである。
元々はその為の「偵察行動」であった様で、故に戦うのではなく、「戦いの行方の偵察」の為に左側面に着いたのだ。
ところが、突然、思い掛けなく右側面から「山県軍の別動隊」が北の山際から突撃して来た。
応戦するしかなく右側面に入った時に「火蓋」を切った。
右側面の突撃時は射程距離内であった事から「山県軍」も驚き兵はバタバタと倒れ、最早、動きの流れからブレーキが効かず引き上げる事も出来ずに「額田青木氏の南下国衆の銃隊」のいる「左側面」を突き抜けたのだ。
「松平軍の状況」を偵察する行動であった事から直ぐ様に「戦線離脱」して「伊川津」に戻ったのだ。
そして、「武田軍の三河攻め・伊川津攻め」が起こる事を予測してこれら対処する為に戻ったという事に成る。
然し、「伊賀の香具師の情報」から南下した「山県昌景の残軍」は「城を攻め落とさなかった事」を知ったのだ。これで先ずは救われた。
次の「武田軍の三河攻め」に対処する為に「三河の国衆」を止め「陸運業」に転身して「攻撃の対象」から逃れる準備を「伊勢」と共に急いで張ったと云う事に成ろう。
「東の秀郷一門」と全国24カ所に点在する「秀郷流青木氏116氏」と共にシンジケートを張りこの「抑止力」の為にもこの「銃」は保持していたのだ。
後勘から観ると、一切の対応に理する処があり、その根拠は「青木氏の氏是」に通じているのだ。
当然に「魚鱗の陣形」を予想していた「額田青木氏の南下国衆の銃隊」も、又、これを観て更に驚いた。
「魚鱗の陣形」であれば、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「陣形の先頭」に出れば陣形は整い「銃の効果」は出る。
「20倍の戦力」と成り無勢でも「武田軍」に勝利出来る事と成るが、“然し史実は違ったのだ。”
「松平軍」は「東の戦況・悉く支城が潰された事」で戦況が悪化していた。
そもそも、急遽、「額田青木氏」を「伊川津」から出て「吉田城」に入り、そこから「東の浜松城」に呼び出されたのであるから、これは否を観るより明らかで誰が観ても「軍力」は低下しているし、この事に対して「情報」を得ていて、「武田軍の本隊」も「見誤る事」は100%無かっただろう。
そもそも、「最後の砦」の「西端の堀江城」が攻められているのに、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」を使って「背後を襲う事の行動作戦」を採るのは「当然の戦略」であろう。
然し、其れさえもしなかったのである。
筆者は、この様に緊急策として浜松城から呼び出しはあったとしても、この事から、「国衆としての位置づけの違い」が「家康」に執っても「銃の信頼」はそれなりにあったとしていても、違約状況であった事から「遠慮があった」とも考えているのだ。
筆者は、「偵察隊と云う目的」には「銃の威力」のみならず、この「銃隊」に寄り添う「香具師・忍者・伊賀青木氏の忍者」の能力も期待していたのではないかと観ているのだ。
そうすると、この「銃隊」に寄り添う「香具師・忍者・伊賀青木氏の忍者」のみならず「伊賀者全体」をこの「戦い」に注いで強力化していた事が云えるのだ。
だから“「浜松城に隠し軍」を残すような事はしなかったし、それをする訳がない“と観られ、「額田青木氏の銃隊」が動いている事を「一言坂」で知って、当然にこれに伴い「伊勢」が動き「伊勢者」が動いている事は、「武田軍の本隊」は先ずは思うのが普通であろう。
然し、「別働隊の山県昌景」は浜松城では「軍師であった事」もあって違っていたのだ。
要するに、“余りの思い掛けない「銃の攻撃」と「その被害の大きさ」”に「冷静さ」も失っていて「篝火の計」に却って翻弄されたと云う事もあろうが、然し、そもそも戦っていてどの程度の軍力を持っているかは判っていた筈であり、「織田軍の援軍・説が錯綜」もどの程度で在るかは「関西の戦況」から観て判る筈で、其の隙を突いての「駿河三河攻撃の戦略」であって読めていたし、且つ、何は兎も角も「別動隊の基本中の基本」の「使命感」さえも失っていた事にもなる。
「使命感の喪失と判断ミス」が、「青木氏の氏是」に沿う行動が取れ「青木氏」を救ったのだ。
故に「江戸期の作文」では、「別動隊の山県昌景」は城から引き上げたのは“「信玄病状悪化説」”が主流と成っているが、そもそも、故にこの説は「青木氏」から観れば大いに疑問なのだ。
何故ならば、「三方ヶ原の戦い」でどれだけの「連合軍の軍勢」であったかは観て判っている筈で、況してや「軍師」であってこの事は“見誤る事”は先ず無いだろう。
「開戦」は「2時間」であったと「武田軍側の戦記」と「松平軍側の戦記」でもこの事では一致している。
「浜松城の守備隊」が“「銃隊」”でない限りは、「別動隊の余力」でも充分に攻め落とせる範囲であり、仮に「後付け」の「信玄病状悪化」であったとしても、死んだとしても少なくとも「1時間程度」で簡単に落とせるだろうし、“そんな時間が無かったとは云い難い”し、「今後の事・尾張織田氏決戦」を充分に予測出来ていた筈で、「青木氏の歴史観」からすると逆ではある。
この事を考えると“落としていた事の方が絶対的に得策”であったろう。
「家康の首を落としていた方」が、つまり、「今川勢力」が衰退している中では「東三河」を完全に落としていた方が、「武田軍」に執っては簡単に「西三河と尾張」に掛かれるだろう。
背後から上杉から牽制されてはいたとする説があったが、「駿河と三河」を手に入れ東から西に向かって「織田勢との戦い」に成っていた事も考えられ、北たから南に向かって通して治める事で「莫大な財」を得た「武田勢」に対しては、「上杉」もそう簡単には手は出せなくなるし、「向後の憂い」を無くして有利であった筈である。
「海の幸と陸の幸」の「財を得る事」は要するに「銃を得る事」に繋がるのだ。
この様に後勘で検証して観ても、現も実にも「長篠」に至るまでの「勝頼の行動」はそうなっている。
唯、「山県の判断ミス」が「武田氏」を二派に分けてしまったと云う事で「勝頼・武田氏の行動」は狂ったのだ。
「松平氏の勢力如何」に関わらず「伸長し始めた織田氏勢力」を“間断なく東・西三河」で抑えて置く必要”が戦略上は絶対に必要であった筈であろう。
「浜松城」を起点に「三河を制圧する拠点」であった事は「甲斐の複数の戦記」にも統一して記されているし、現実にも「武田氏の一連の南下政策の戦い方」はその様に行動していた。
そもそも「松平軍の採った行動」が、「堀江城支援無し」と「銃隊を使わなかった事」から考えれば、“「大軍の城守備隊」が「浜松城」にあった”とは実に考え難いし、「三方ヶ原」が一瞬で壊滅状態に成っているのに、仮に守備兵の中に銃隊の一部が居たとしても「城守備隊」が「援軍」として向かわなかった事もおかしい。
「城」は負けては元も子も無しである。
なのに「山県昌景」はこの「基礎的な誰でも知っている戦略」からも逸脱して「判断ミス」をしていたのだ。
そもそも、「額田青木氏の南下国衆」と「伊勢青木氏」からすると、当初の「国衆に成る条件」からして「守備隊」と云う「国衆の立場・家臣化」には無かった。
「国衆に成る条件」を知らない「銃保持の守備隊説」は「青木氏の歴史観」からすると無いのだ。
仮に居たとして「三方ヶ原」が「完全敗退」に成り掛けているのに「城」から出て「武田軍の背後」に廻れば未だ崩せていた事も考えられる。
だとすると「額田青木氏の南下国衆の銃隊」も引き上げてはいなかった筈である。
「引き上げ」そのものが難かった事になろう。
況してや、「青木氏の銃隊」が「城守備隊」として「城」に残していたとすれば、早めに「城」から出て「背後」に廻れば充分に勝てていた事は考えられるが史実は遺していなかった。
「南下国衆の銃隊」にこの「役目を負わす事」の範囲が約束上出来ていなかったと観られる。
「青木氏の資料の行」から観て、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」とは「渥美湾の制海権の補償」と「三河の商いに於ける補償」を前提としての「契約」であり、「家臣と成る契約」では無かった。
だから本来は“「吉田城の守備の範囲」”が限界であって、それを超えての「一言坂の偵察隊」であり、「三方ヶ原の目的外の働き」であって、その後はすぐさま「戦線離脱」して「伊川津」に戻り「陸運業の準備」に入ったのだ。
“「城」に残してほしい”との話はあったのかも知れないが「城などに入る事等」は元々無かったし、あったとしても拒否していたであろう。
筆者は軍議の中で「城に一部を遺す事」の「松平側からの話」はあったと観ているのだ。
「三方ヶ原」に長時間に戦場に遺るのでは無く、思わず面前に現れた敵の「山県軍の別動隊の突撃隊」を打ち壊したが、この“「開戦」”と同時の「戦線離脱の行為」はそれを裏で証明している。
恐らくは、兎も角も、「南下国衆の銃隊」みならず「伊勢」も“「建前」”だけを執り“勝敗には関わりが無かった”のではと考えられる。
唯、先ずは「渥美湾の制海権の獲得」にあって、最低限に「松平氏の三河域の保全」にあったのであろう。
「駿河の浜松城」の次は誰でも判る事だが「東三河と来る事」は読み込んでいただろう。
その為にも、逸早く、「伊川津」に戻り「伊勢の得意の情報網・香具師」を張り“「防備」”を整えようとしたと考えられる。
その「防備の方法」にはいろいろあると思うが、先ず、「三河国衆」を辞して「陸運業」に転身して、「武田氏」とは「戦歴」を造っている以上は、「攻撃の対象」から免れる「戦術」を執った。
それ故に、「土豪3氏の分家」の「陸運業への参加」は「疑いを招く事」が強い事もあって、且つ、「内部問題も招く事」として「問題」と成ったのだ。
そこで、「商い」でありながらも万が一の場合として、社会が安定せず盗賊や山賊などが頻繁に横行する中で、この「銃で抑止力」を高めたのだ。
「籠城戦」から「野戦」に作戦変化した事で「一言坂の遭遇戦」で、一応は「目的・命令」は終わっていて、故に、“堀江の近くまで追尾した”のであって、「三方ヶ原の鶴翼の左側面」に着いたのは「将来の事・渥美湾の制海権獲得」を考えれば「様子見の建前」を果たしていたのだ。
筆者は当初、「追尾」は「使命が果たされた事」で「「伊川津に戻る過程」にあったのかとも推測したが、資料を読み込む過程で「三方ヶ原」に向かっている事が判ったのだ。
ところが、「二俣城」からの「山県軍の別動隊」の「鶴翼右側面」からの思い掛けない突撃にあい、取り敢えずは「目の前の敵」に「応戦」に及んだと成ったと観ている。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に執っては「一言坂と三方ヶ原」は「初めての交戦経験」であった。
これを「戦線離脱」と云えるかは別として、故に、「今後の事」を考えて「戦況」を確認して「交戦」を終えると、行き過ぎの無い様に直ぐ様に“「踵」”を返し、必要のない場から「戦線離脱」をしたのだ。
確かに“「戦線離脱」は恥ではある”が、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に執っては「当然の行動」であったのだ。
故に、「山県昌景の判断ミス」で「浜松城」で生き延びられた「松平軍」が再び拡大しても咎められる事なく、「伊川津」に其の侭に居られたのはこの所以でもある。
寧ろ、「咎められる処」ではなく、「伊勢の青木氏・伊勢屋」を背景にして「陸運業、開発業、殖産業」と経済で「三河」を大いに替え豊かにする事に成り、それに伴て「子孫」は拡大し、それでこの「三河の財力」を以てしてその後の「長篠」から「甲斐」へと迎えたのだ。
筆者はこれは過言では無いと観ている。
それ以後、「家康」とは、その後の紀州藩とは幕末まで“「水魚の交わり」”が続いた事が何よりの証拠である。
「伊川津」のみならず、それ故に、一部は「桑名」に帰したとしても「額田青木氏の主家の蒲郡青木氏」の「蒲郡」に「事務所」を構えて遺る所以と成ったと考えている。
それだけにこれ等から判断すると、「額田青木氏の南下国衆の銃隊・銃力」には、当初から“「軍に与える影響の威力」”には「密かな自信」を持っていたのだ。
現実には、「城」には「山県昌景の恐怖感」だけあって、「銃隊」は無かったが、将又、「別動隊の背後」から猛追して来る可能性の事も考えたかも知れないが、現実にはその様な立場には無ったのだ。
寧ろ、「別動隊の使命感達成」では、「浜松城を攻める事」以外に「武田軍の本隊」を護る為にも、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」を「別動隊に引き付ける事」の考え方もあったが、この為にも、逆に死に物狂いでの「別動隊の波動攻撃」を受ける事を「南下国衆の銃隊」は予想覚悟していた事にも成る。
故に、「南下国衆」から観れば、逸早く、「戦線離脱する方」が得策と観たのだ。
然し、「波状攻撃」をしようとして偵察すると、「伊川津」に向けて「戦線離脱している事」は確認できているので、結局は「向後の憂い」を無くして「城」に向かったのであるし、然し、城を落とさなかったのだ。
どの様に考えても「別動隊」と云うよりは、“百々の詰まり”は「山県昌景の行動」が可笑しいのである。
“信玄の病状悪化説”としても「勝頼・後継者」等もいると考えれば「城も落として置く方」がどう考えても良い。
兎に角もどの様に可笑しいのかと云えば、良い方に観たとして、“落とさずにいた”のは、筆者は、“敢えて家康を遺した”とも「一つの考え方」としては考えられるが、其れならば「三方ヶ原」で突撃しなければ良く、当初の予定通りに先に「武田軍の本隊」に合流する手は疑われずに済む事にも成る。
「陣形の採り方」から観て「勝敗」は「時間差」に依るもので勝利している。
「城を落とさずに引き上げた事・判断ミス」には、後刻、「甲斐・武田氏」の中で議論が分かれた筈である。
「勝頼」は、戦略上最も重要な「別動隊と云う使命」を果たさなかった「原理主義」を以て「山県昌景」を間違いなく信用しなかったのであろう。
其れなりの「知恵・判断力」は「勝頼」には充分に有った筈で、故に武田氏は二分したのだ。
筆者はこの説を採っている。
「使命」を果たさなければ各自思い思いの行動を執れば「軍略の意味」はそもそも無いだろう。
故に、その後の「武田氏の中」で「長篠」に対して「軍勢」を纏めるのに「国衆・豪族・史実」は割れたのだ。
この様に江戸期の「家康擁護説」もあるが面白おかしくして物語にした脚色説である。
何度も云うが「青木氏の歴史観」から観ると「山県昌景の判断ミス」が全てを左右したのだ。
その「判断ミス」を起こさせたのは、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」であった。
更に、その「判断ミス」を助長させたのは、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「戦線離脱」であったと説いている。
事程左様に、幾つかの歴史史観は、この「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の歴史観を考察の中に配慮していない事で起こる「後付けの搾取や偏纂説」で「誤り」を起こしているのだ。
取り敢えずは「後勘説」とはなるが、一応、検証して観る。
それは、信玄死亡後、「織田勢の伸長」が益々著しく成り、西三河は元より「東三河」も完全に手中に納め、「駿河」も手中に収める可能性があった。
だとすると、「武田氏側」は「織田勢を抑える」には「家康を生かす事」で“歯止めに成る”と「山県昌景」は考えたていたのではないかと云う「江戸期の説」もある。
要するに、興味本位の「後付けの我田引水説」ではあるが、其れならば“浜松城を攻め落としていた方がより確実”であろう。
つまり、「武田氏の中」で「三方ヶ原の後」に「山県昌景の判断ミス」を隠して、そうすれば、「今後の勝頼の東三河攻め」が容易に成るとする説を考え出したとしたのではないか。
「勝頼の能力」にも、“山県昌景等の重臣等は疑問を持っていた事”は「戦記」でも書かれていて、同時に勝頼からも重臣たちへの「信頼・判断ミス」が薄らいでいた環境の中で、「長篠の戦い」を避けて撤退を進言したが、「決戦に傾いた」としたとする説である。
この時、旧来からの旧臣達は“「織田の勢力の伸長」を憂いて、最早、「勝ち目」がない”として「別杯」を交わしたとある。
この「別れ杯」は実際に躱された事は史実であり、これに其れなりの意味がある。
つまり、「苦戦して負ける事」を覚悟していた事を意味する。
「武田氏の戦記」の幾つかでは、この時に「松平氏の調略」を進言したが「勝頼」は聞き入れなかったとしているので、上記の「山県昌景の戦略・判断ミスを隠す」は崩れたのであり、これ等が何よりの証拠と成るであろう。
それには、「山県昌景の軍師の脳裏」には、「三方ヶ原の苦い経験・判断ミス」があり、そもそも、自信のある軍師の”戦い方の善悪の勝敗・判断ミス”では無く、「軍略」に関わらない“銃の有無の勝敗”だとして「軍議の争点・山県派」を逸らしていたと云う事に成ろう
確かにそうであり、既に、「武田軍」は「三度」も銃に経験しているのだから、この事を意味するのは当然である事は否めないが、“「山県昌景の判断ミス」”は“「銃の威力」”から来ている事を軍議で示し、この様な「判断ミス」を犯さない様にするには、「責任転嫁」か「非難覚悟」で“銃の有無の勝敗”を主張した事に成ろう。
「銃の有無論」としても、そもそも、「三方ヶ原」のは「松平氏の銃」では無く「南下国衆の限定した戦いの銃」であった。
武田氏が三方ケ原後に「火縄銃」を獲得しようとしても「信濃甲斐」に於ける「税に対する国衆の不満」が高く、「高額な銃の獲得」は「銃生産量」は元より「銃シンジケート」で仕切られていたルートでは根本的に無理であった。
そもそも「織田氏」でさえも「火縄銃」は「雑賀根来の傭兵軍団の銃」に頼っていて、信長は「長篠後・1575年」に「雑賀根来との関係性・発言力を増した」は「悪化・1570年~1576年」して調略や戦いを開始し、「1577年・長篠2年後」に遂には「信長」に依る「雑賀根来潰し」が本格的に起こったのだ。
要するに、「三方ヶ原の3年前」から既に獲得の為の「調略作戦・7年間」が展開していたのだ。
呉越同舟で兎も角も「傭兵」としていたが極度に警戒していた事が判る。
そして遂には、これに決着をつける為に「秀吉」に依る「銃獲得作戦・1585年」が開始された。
結局、15年間で完全に「銃とその銃組織」は手中に収めたのだが、既に「三方ヶ原の傭兵銃の威力」も裏では「銃獲得の戦い」が行われていた史実なのだ。
この「雑賀根来の傭兵軍団の銃」の獲得に向けて大きな犠牲を払って「紀州征伐」を行ったくらいである。
その程度の事は情報で武田氏が掴んでいただろう。
この環境の中で裏ルートで多少の銃が入手出来ていたかも知れないが戦力には成らなかったし、「銃獲得」が容易ではない事位は、「税の問題」に依らずとも「無理の判断」は武田氏側では出来ていただろう。
そこで、この事から考えれば何せ「戦線離脱している事」は知っていれば、この「国衆の力は違う」の位の情報は掴めていたと考えられるし、2年5月後の「武田氏」にも「情報網の存在」は当然にあって、「三方ヶ原後」に「陸運業に転身している事」はこの期間であれば噂では無く「情報」として充分に掴めていた筈である。
故に、其の後の状況証拠から“責任転嫁であった”と筆者は観ているのだ。
だから「甲斐・武田氏と甲斐の国衆」は「三方ヶ原後」に二つに割れていたのだ。
つまり、「武田軍」には三河以上に「旧態依然の古い感覚」があり、「銃の認識」に極めて低いものがあり、「銃の数」にも「戦うだけの数」は到底無かったし、例え、「調達の充分な財」があり、且つ、「銃の認識」が強くあったとしても「生産量とシンジケート」から無理であったのだ。
この「当時の外国製」は「銃身の爆発」が多くあり、高額ばかりで信頼されていなかったし、「貿易」は限定されていたのだ。
「外国製の火縄銃」は、そもそも「西洋で新しい軍用銃」が開発され、そこで不要と成った「中古の火縄銃」を高額で最初に種子島に持ち込んだのだし、「貿易」で新しい幾つかの「軍用銃の見本」も秘密裏に入っていた事も史実である。
従って、それ等の「全ての諸事情」を憂いた「別れの杯・杓別杯」であったとし、これを美化であろうが、「戦記」ではこの様に定説化にしているのだ。
「山県昌景・判断ミス」を裏返しする程に、反省し恥てそれほどに「強い銃の感覚」を「三方ヶ原」で持ったし、「武田軍本隊」に居て「吉田城や一言坂」で経験した多くの他の将も「長良川の情報」や「自らの三度の経験」を通して、「強い銃の威力感覚」を持っていたから、「憂いの別れ杯」と成ったしているのだ。
然し、そもそも「長良川・1556年」で初めて使った事で「自信や確信」を持った「伸長する信長の感覚・雑賀根来の銃傭兵軍団」は全く反対であった。
「長篠」では“それが決め手と成る”と感じ執っていた事を「憂いの別れ杯」は意味するのだたろうか。
それは、「三方ヶ原等の戦い」等で経験していたので、、「山県昌景の軍師の脳裏」にはこの事が走馬灯の様に浮かび、矢張り「雑賀根来の銃傭兵」が「決め手」と成ったのだ。
「長篠」では「織田軍の火縄銃の威力」が統一して記録されているが、「松平軍の銃力」は全く記録されていないのは、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、既に、「三方ヶ原」で逸早く「戦線離脱」して「伊川津」に戻り、「陸運業」に入った事で、「フリントロック式改良銃」は「青木氏の記録通り」に「松平軍」に渡していない事に成る。
これを使うには、「高度な熟練」と「弾丸や黄鉄鋼の入手」等の「貿易による調達」が必要であつて、且つ、「手紙の行を読み取る事」でも判るが、未だ「安定しない社会」では「陸運業の護身用」として「伊川津」で生き延びて行くには、“「抑止力」”として持っておく必要があったのだ。
仮に「松平軍」にこれを渡して入れば、「織田軍の火縄銃以上」に記録に成っていたであったろう。
現実には、「危険極まりない銃の勢力」が隣にいると成れば「織田氏」はこれを許さなかったであろうし、当然に戦いと成っていただろう。
そうでなくても現実にはこの方向に動いたのだ。
「三方ヶ原の戦い」とは別に、この「改良銃」を「松平軍に渡す事」で、「織田軍の火縄銃の傭兵銃・1000丁・10倍」と「松平軍のフリントロック式改良銃・300丁・20倍」の「対決」と成っていただろう。
因みにこの仮説では、「勝負」は「火縄銃の非移動式と弾幕の間隔差」と、「可動式」で「連射弾幕の差」と「命中率と被弾距離」で、「松平軍」は近づく事なく勝利していたであろう。
要するに、最早、其の後の「南下国衆の銃」を「松平氏に渡さなかった理由」は、「唯単なる撤退・判断ミスの経緯」だけでは無かった事が判るのだ。
「渡す事」で戦略的に何が起こるかであり、それが「青木氏」に於いての「利」にあったのだ。
渡して「松平氏」が「銃による兵力」を拡大させて伸長する事を良しとしては居なかったと観ている。
「織田氏との勢力争い」を起こし「渥美湾の制海権の獲得」が成し得なくなる危険性があったからだ。
現実にはそう成って行ったのだ。
筆者は、「武田軍の銃の感覚」が「経験」から強く成って行った時期の過程にあって、ところが逆に「武田軍・勝頼一派」にはこの「銃の感覚」は未だ薄く「山県昌景への判断ミスの不信感」と共に増幅し、家中ではこの「感覚差」とで争う中にあったのだ。
従って、共に「戦力と成り得る保有数」も無かったのだ。
「武田氏の中」では故に「三方ヶ原後の軍議」では激しい議論があったと予想できるし、「武田氏側の戦記」もこれを記している。
「信濃も獲得していた武田氏」には、信長の様に金に糸目を着けず「銃の獲得」は出来ずとも、「生産地の雑賀根来のシンジケートの傭兵」を「高額の金銭」を払って雇ってでも、「勝利」と云う一点に焦点を合わせ戦った事に違いが出たのだ。
勝利さえすれば元は取り戻せると云う「合理主義」にあった。
故に、直前の「信長」も「長良川の一件」が無ければ、ここまでは「銃への信頼」は無かったと考えられるのだ。
この様に、“「銃の存在」が「戦いの勝利を左右する事」”から「銃の戦記」として江戸期に書き添えると云う事が頻繁に起こり、その為に「松平氏の銃」は要するに「額田青木氏の銃」であったと誤解された。
「江戸期の戦記」では上記したような銃の環境下にあって「銃を獲得する高い経済力」も無かったにも関わらず、これを「松平氏の銃」と見間違えて描いた事に成る。
「1573年」に既に「南下国衆」が引き上げて離脱して銃力は無くなっているのに、未だ“保有している”と勘違いしていた事に成る。
念の為に史実は、次の様に成っている。
「銃の最大生産力」とその「一丁当たりの金額」と銃を外に漏れない様にして「銃のシンジケート」を構築して「傭兵需要」を保全していたので、「入手」そのものが難しかったのだし、「2000両/1丁と云う高額・初期は4000両」でもあって、「輸入」も同然で「秀吉の刀狩り」までの事であるし、「織田氏」でも「生産地の雑賀根来の傭兵」であったのだ。
仮に、戦記の意味の様に獲得できても「銃隊」を編成出来る程はそもそも無く、「近江からの横流し」からの獲得量が関の山で少量あったのだ。
後にこの事が「伊勢青木氏」に発覚し、「堺」を経由して近江には「資材の供給」を停止している。
この為に、「近江銃・龍源寺銃」は崩壊し、「真面な鍛冶師」は殆どは「伊勢青木氏・青木氏部」に引き取り、「横流しをした一部の者」は史実として「薩摩」に逃げ込んでいるのだ。
「殆どの戦記」は、この事の史実に間違えていて、入手出来たのは「信長の紀州攻め後の事・織田氏が獲得」である。
そう云う意味で、「三河戦記の五戦記」には、「額田青木氏の事」が「戦死者や戦場や伊川津の事」も含めて記されてはいるが、江戸期初期には「幕府の銃規制」があって「戦記」に書かれている程に「大量の銃の期間・刀狩りまで」は極めて短く、「銃の意味」が無ければ態々「書き足す事」は無かった筈である。
故に、江戸期に成って「多くの戦記」には「後付けの銃の事」を書き足したものであるが、「額田青木氏の事・南下国衆の銃」は「書き足される事」は無かったのだ。
これが「青木氏の資料」には遺されているとしてもである。
「長篠の戦い」がこの期間内であって、その後に「雑賀と根来の傭兵軍団」は上記した様に「銃の持つ惣国」の集団として「紀州征伐・信長と秀吉」で潰され、直ぐ後の“「秀吉の刀狩り」”で「銃」は「法度」に成ったのだ。
更に、「家康」が江戸初期初期に“「銃規制」”をして封じ込めて全く意味が無く成り、「銃の価値と値段」は底を突き無く成って仕舞ったのだ。
仮に持ったとしても貿易に関わる程の勢力との繋がりがなけれは銃は使えなかったのだ。
丁度、この“狭間”に「武田氏の銃事情」は置かれていたのだ。
故に、「入手の事情」と云うよりは当時は“「傭兵への事情」”として扱われ、「武田氏の中」では「議論が別れる処」と成ったのだ。
「信長の長良川の印象・火縄銃」と「3度の実質経験・南下国衆の銃」が「武田氏」を二分し、その基は「山県昌影の判断ミス」が引き起こしたものであったと「青木氏の歴史観」としてはどうしても成り残しておく必要があるのだ。
然し、これが「額田青木氏と青木氏族」に執って「良い方向」に事は運び「永遠の運」を掴んだのだ。
因みに、この時、「南下国衆の銃の陸運業」は、完全放棄せずに実質に使われる事は無かった様だが、「護身用・抑止力」として一部を密かに保持し、残りを「伊賀」や「秀郷一門」に「大量の備品・弾、黄鉄鉱」と共に「下げ渡している事」が読み取れる。
この「南下国衆の銃の陸運業」の「戦歴の持つ威力の事」は瞬く間に全国に密かに拡がり襲うものは居なかったであろう。
資料の陸運業の事の行には、「国と国を渡る運送」には「宿」で密かに隣のシンジケートと交渉をしていた事が記されている。
この経緯に依って「伊豆や信濃との道」は出来て「青木氏族」は生き延びられたのだ。
此れさえ出来れば「下げ渡す事」をしても「効果」は認められ、生き遺っている「全青木氏族」は護られるのだ。
「青木氏の歴史観」として「三方ヶ原の経験」は無駄ではなく「良い方向」に向いたのだ。
何を兎も角も、躊躇なく直ぐ様に執った「戦線離脱の行動」が効果を奏したのだ。
同じ「一瞬の判断」でも「銃」に頼らない「青木氏族」は、生き延びて子孫を拡大させ、疎遠であった「甲斐青木氏」を含む「武田氏」は滅亡したのだが、この「山県昌景の判断ミス」とは相対的であるのだ。
これが「青木氏族」に遺した「始祖の施基皇子の教訓」の「青木氏の氏是」の意味する処なのである。
躊躇なく直ぐ様に執った「戦線離脱の行動」では無く、其の侭に「山県軍の別動隊の追尾」や「武田軍の本隊」に向けてこの「銃口」を向けた場合は、間違いなく「歴史」に名を遺し、周囲から警戒されて其の侭では済まなかった筈で、泥沼化していた事は間違いは無いのだ。
これは「青木氏の氏是」の「発祥以来の伝統」に反するのだ。)
「青木氏の伝統 61」-「青木氏の歴史観-34」に続く。
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
結局、「三方ヶ原」に到着するに必要とした時間は、「青木氏の銃隊の偵察隊と追尾」が「所要4時間」であり、「松平軍の浜松城から出陣」が「所要2時間」であり、その「2時間差」が結果に出た事に成った。
「武田軍本隊」は「前日」から手こずり「一夜後の朝」に落城した「堀江城」から、そこから「軍態勢」を整えて「昼前」に出発したとあり、「三方ヶ原」に向かって到着したのは、“「夕方の時間・昼4時頃」とあり、遅れた”と記されている事から、計画と違って合計「5時間位所要していた事」に成ったが「陣形と山県軍の遅れ」から勝利を得たのだ。
そして、「三方ヶ原の戦い」の「戦闘時間」が「2時間・昼6時頃」で終わったとある。
「別動隊・山県軍」が「浜松城・夜8時前頃」に到着した時は、「浜松城」には“「篝火」”が焚かれていたとある。
この「篝火」に意味があった。
そうすると、以下の検証は次ぎの様に成る。
「青木氏の伝統 60」-「青木氏の歴史観-33」
「伝統シリーズ」で、「注釈」として論じて来た「伝統56-3~59」までの事が、実は「研究」が進むと「青木氏の歴史観」として、別に論じ切れない事、又は、論じ得ない事が多いのだ。
これをここで分けて更に続ける。
(注釈 「二軍の経緯」
「全ての資料」からの「読み取り」で、“「時系列」”から検証して観ると色々な事が判って来る。
この「美濃の額田青木氏の歴史観」を解く事で他に観えて来るものがあるのだ。
開戦時、直ぐに「二俣城の戦後始末」を完了し「武田軍の本隊」に合流する為に「西の三方ヶ原合流地点・計画は宿営地」に向かって急いでいた「山県軍の別動隊・5000」は、「当初の作戦計画」とは「様子」が違う事に「情報」を得ていたので、東沿いに南下する案もあったらしいが、然し、「北の山際」から先ず西に向かい「松平軍の鶴翼右側面」に着こうとしていた。
「武田軍本隊」に合流する作戦が二俣城で決めた「元の作戦」であった。
ところが、「作戦のずれ」と「松平軍の行動のズレ」が起こって仕舞ったのだ。
そこでこの「二つの作戦ズレ」で「別動隊」として「独自の行動作戦」により有利に臨機応変に出るしかなかったのだ。
「当初の計画通り」に「武田軍の本隊・魚鱗の陣形に入り込むのは危険」に合流せず、山際で様子を見ようとした事もあり得るが、然し、「経緯」から観て「合流する充分な時間的余裕」がそもそも無かった事が判る。
結果として「北山際の鶴翼右側面」の少し離れた位置に着いたのだ。到着したのだ。
ところが「時系列」から観て、「東の街道沿い」を直に南下して「松平軍の背後」に着き「武田軍本隊との挟み撃ちの態勢を執る事」も時間的には出来た筈であるし、その案も実際には出ていたのだ。
此れの方が軍を動かす上では確かに円滑である。
それは「天竜川沿い」に「二俣街道-飛龍街道・16.8k-5.5h」を経て「三方ヶ原」に入る事は出来るのだ。
確かに「北の山際」に沿って「三方ヶ原」に入るには、「15.2k-5h」を所要する。
要するに、これを考察すると、余りこの差が無い筈で、そこで、「判断の分かれ目」は「情報」による「鶴翼の陣形」にあった事が判る。
この「松平軍の鶴翼の陣形」であれば「右側面を突いた方」が良いか、「背後を突いた方」が良いかに関わる。
「選択の理由」では、「時間差」と共に「地理地形」には問題差が無い。
そこで「背後を突く事」には、「武田軍の本隊」と「山県軍の別働隊」での“「挟み撃ち」”に成るが、これでは「両方のタイミング差」が起こる。
「タイミング」が狂えば「武田軍側の2軍」のどちらかに「大被害」を興す。
少なくとも、この場合は「武田軍の本隊」が先ず「戦闘態勢」に入り、「山県軍・徳川軍と同勢」が「背後」を突けば成功する。現実には「二つの作戦ズレ」でそんな「打ち合わせの時間」は無かったのだ。
「武田軍の本隊」は「魚鱗」、「松平軍」は「鶴翼」とすると下手をすれば、先ず「武田軍本隊」に犠牲が大きくなる。
其処に「山県軍の別働隊」が「背後」を突けば、確かに最終は「武田軍本隊」と「山県軍本隊」での「挟み撃ち」で勝利するだろうし、「山県軍の別動隊」より「武田軍の本隊」の「犠牲」の方が大きくなる。
これは「別動隊としての使命」から「逆戦法」である。
然し、「北の山際」から「タイミング」を見計らって南に向けて準備の無い弱点の「鶴翼の右側面」を突けば「鶴翼の陣形」は先ずは本隊に犠牲無く時間差に問題なく崩せる。
其処に「武田軍の本隊」が攻め込めば「武田軍の本隊」には犠牲は少ないし、「山県軍の“別動隊”」の「本来の目的・使命」は達成される。
然し、そこで青木氏の歴史観に関わって来るのだ。
この「作戦」には「南下国衆の銃隊」の配慮は無いのだ。
“右鶴翼の側面を突いて成功した”と「山県軍の“別働隊”」は瞬間は思ったと考えられる。
ところが、違った。
突然に突撃の瞬間に「突撃の前面」に観た事も無い「凄い弾幕の銃力」が迫って来たのだ。
最早、突撃し始めた”「山県軍の別動隊」”の「突撃の勢い」を止める事は出来なかった。
それは「敵中に留まる事」に成り、左の松平軍の本陣の攻撃を受け、且つ、防御しようもない遠方から「銃弾」を浴びせられる事に成り、下手をすれば「全滅の憂き目」を受ける。
最早、より早く突っ込む以外に無かった筈である。
「凄い弾幕の銃力」の前には全くの“「無防備の戦い」”と成ったと観られる。
故に、「両軍の全戦記」には統一して短い戦闘の時間で「2000の犠牲・程度・少な目」が出たと記されているのだ。
結果としては、然し乍ら、突撃し「鶴翼の横腹」を突かれ「総崩れ」に成って「松平軍の敗戦」は一瞬で決定的と成ったのだ。
不思議な光景である。
「大将の家康」が時間的に観て「右側面」を突かれた時点で早くも「戦線離脱」していたのだ。
そして、「家康の本陣」が楠ずれたのを横目で見ながら、ところが一方で「山県軍の別動隊」は、この思い掛けない「弾幕の大きな犠牲」を負いながらも、その侭に“「浜松城」に目がけて突進した”とある。
筆者は、「青木氏の歴史観」として、この“「浜松城」に目がけて突進した”事には「意味、疑問」があったと考えている。
「浜松城」に目がけて突進した“「山県軍の別動隊の面目」”が働いたと観ているのだ。
勿論、再び向きを替えて南から「波状攻撃」を「南下国衆の銃隊」に向けて何度もかけて「自らの別動隊の使命」として「全滅」に至る作戦を実行すると云う手もあった。
それは、「武田軍の本隊」の「犠牲」を少なくする為でもあって、又は、「救う」と云う「別動隊の本来の使命」もあった筈で、それをもせずに、且つ、「波状攻撃・全滅」もせずに、「浜松城」に向かったのは「別動隊の使命」の全てをそもそも逸脱している。
「命のやり取りの作戦」を実行する戦場で「全滅覚悟」で「使命」を果たすのが通常である。
これは勝利した後、「戦後処理」で“「誹り」”を受けるは必定で、それを敢えて“浜松城”に目がけて「計画の無い作戦」として南下したのだ。
南下したのは、勝利を確認する目的」で、そうでなければ「城」を落とすのが「別動隊としての使命」である。
もし、ここで、“「南下国衆の銃隊」が追尾して来る”とした場合でも「銃力の戦力の違い」で近づかずして別動隊は全滅に至るは必至である。
これは「別動隊の使命」でもあるが、「臨機応変」に「計画の無い作戦の形」を執る事で本隊を補完するが、其れから考えると、”「体裁」”を整えた事となろう。
又、その時、「南下国衆の銃隊」が思いがけずも「追尾してこない様子」が見えたので城検視するだけ引き上げで「体裁」を執ったのではないか。
それだけに「別動隊の被害」が大きかった事も云えるのだが。
否、然し、地形と距離から「南下国衆の銃隊の行動」は観えていた筈であるので採れた行動であったとも観える。
これを観て、それ故に「体裁」を整えたし、「もぬけの殻の浜松城」を攻めずに引き上げて仕舞ったと云う「不思議な行動・判断ミス」を執ったと観ているのだ。
「もぬけの殻の浜松城」であってさえも「山県軍の残兵」を「当面の守備兵」として置き、「別動隊の使命」には「掃討作戦」が待っていた筈で、「本隊の到着」を待って残しておくのが「戦いの常道」である。
其れさえしていない。
この一説では、“浜松城に「隠し兵力」が未だ居るかも知れないとする事で引き上げた”とする擁護説もあるが、つまり、これが「定説」にも成っているが、それでも「別動隊の使命」は、「本隊」に対して「全滅覚悟」でその「障害」と成るものを「取り除く事」が「本来の使命」である。
そもそも、「石高」で凡その「兵力」は決まるし、「戦場」を観れば馬鹿で無ければ「兵力数の限界」は直ぐに読み取れるし、「情報」も得ている筈である。
それが「武田軍唯一の軍師の将軍」であれば100%そんな事は無いだろう。
「都合よく江戸期に間尺を合わした擁護説・脚色」としか観られない。
仮に、「2000の兵力」が無く成っても、未だ「3000の兵」はあるし、「別動隊の使命」としては「城兵」が同程度の「3000もの兵」がある事は無い。
「織田軍の援軍」の3人の「軍目付・軍監」は、「織田氏の狙い」である「時間を稼ぐ籠城戦」から、家康が突如、「開戦」に作戦を変換した事で3人が持つ援軍は引いた。
従って、「松平軍の5000」だけで「無謀な野戦」を仕掛けたのに、そもそも「3000も城に残す事」は絶対に無い。
そもそも、「野戦」とは「勝負の決戦」であり「前哨戦」ではないのだ。
であれば「城」に詰めているのだから直ぐに判るし、「8000もの兵力」を国衆をかき集めても確保する能力は松平氏には無かったし、そんな力は無かった事は後勘で無くても解った筈である。
他に「織田軍の援軍説」が、「後付けの多説」ではあるが、筆者は「織田軍」は況や”「西の信長包囲網」”で西に逼迫した戦況下にあり、元々負けると思われる勝負に「多くの援軍を送る事」は100%無い。
故に、「織田軍」に執っては「東での時間稼ぎ」であった筈で、それには「籠城」が最適で「籠城戦の城」の中に多くの「援軍を送る事」は無い。援軍を結果として廻さなかったとするこの説を論じている説もある。
ところが、「野戦」を遣って仕舞ったので、それを止められなかった3人の「軍目付・軍監」の「援軍の将」はそれでも後に「信長」に「無能者」として叱責を受けている史実がある。
「佐久間、平手、水野」が「多くの軍記」に記されている「者・織田家の旧重臣・3人衆」ではあるが、実際は「尾張美濃への配置」に遺していた軍とする説が主流であり、状況に応じて判断する立場にあつてこの「三者の援軍」は明らかに形の上でのものであった事が云える。
要するに、言葉の通り”「軍目付・軍監」であった事が判り、状況次第で援軍を送るかを決める立場にあって、「時間稼ぎの籠城戦」では無く、「開戦」を選んだと成れば「軍目付・軍監」としては「援軍」は送くる馬鹿はいないと観ているのだ。
筆者は、現実には送らなかったと観ていて、敗戦状況から観てこの「軍目付・軍監」の三者も命は危なかった筈で、現実には無傷であった処を観ると代理を送り、意見が通らなかった「野戦」と成った時点で3人の「軍目付・軍監」も引いたという事であろう。
当然に「軍目付・軍監」の「代理」や僅かな「援軍」も意見の違う「戦い」に合力する事は無く引き上げたと成る。
織田側の「一つの戦記」の「尾張美濃への配置説」の「軍目付・軍監の説」は正しい。
故に、「軍目付・軍監」は「旧重臣」であったのだ。
故に、、この「軍目付・軍監」とも成ればその「意味」は違って来て、「戦記」ではここの「知識のずれ」で多説の生まれる処の所以と成ったのである。
従って、故に此処で論じ着れていない「一つ青木氏の歴史観の疑問」が生まれるのだ。
それは「時系列の記録」では、「家康」は既に「浜松城」に逃げ帰って「篝火」をたかせ疲れから茶漬けを食した後に寝たとある。
さて、本論でも一部論じているが、とするとそこで“家康は何時逃げたか”であり、その「逃げる時間・タイムラグ」は「戦いの状況・経緯」から無かった筈である。
少なくとも「山県軍の別動隊の方」が「南下国衆の銃隊」に対して「武田軍の本隊」を護り引き付ける為に、「波状攻撃」をしなかった事は判っているので、先に「浜松城」に到着している筈である。
“開戦開始から2時間で戦い”は完全に終わったとある事からすると、連続的に観て「山県軍の別動隊」の「右側面の突撃」から「左側面」に到達して、更に、そこから「浜松城」に到達するには「徒歩・徒士」でほぼ「2時間」である。
そして「右から左りに突き抜ける」には、少なくとも「5000の鶴翼の軍幅」は地形からどう考えても「750m~800mの最大範囲」にあり、「勢い」を着けて「戦い」ながら「前進」するとすれば、「徒歩」を基準として「最低でも15分程度」で抜ける事は出来る。
そうすると「浜松城」まで「2.3h~2.4h」と成り、先に「家康」が「浜松城」に逃げ帰っていたとすると、「戦い開始」のこの「15分の間のタイムラグ」の間にしかなく、考えられるシナリオは「山県軍の別動隊が突撃する前に既に逃げ始めていた事」に成る。
つまり、城に着いて「篝火と茶漬けと寝る」と云う時間は少なくとも無かった事に成る。
仮に、“「家康」は既に「浜松城」に逃げ帰って”とすれば、「山県軍の別動隊」が右側面を突く勝敗の決まらない相当前に逃げ帰らねばこの説は成り立たない。
「鶴翼の陣形の横腹を突かれると云う事」は、そもそも「負けると云う事」であり、戦う前にそれを知って逃げた事に成る。
それ以外に「時間的余裕」は生まれない。
つまり、この事から「二俣城」からの「山県軍の別動隊の情報」が全くなかった事に成る。
然し、記録では「二俣城の戦闘と落城」は知っていた記録と成っているのだ。
「開戦の前」から北の山際に「山県軍の別動隊」が居た事は山手の地形からして観えていた筈である。
それも「別動隊である事」、且つ、「山県軍である事」は「二俣城の敗戦の情報」からも知っていた筈である。
開戦直前には合流せずに「武田軍の本隊」とは違う事をすると云う事は認識していた筈である。
又、「一言坂の偵察隊・南下国衆の銃隊」からの情報もあった筈である。
そもそも、「戦い」の場合は「情報の獲得」が戦いを左右し制すると云われている。
そうと成れば「忍者」を含む“「幌者”と呼ばれる者」を各地に配置して「情報」を獲得し、又、命令等を伝え戦うのが普通であり、これはあり得ない事である。
事前に間違いなく知っていた筈であり、そうでなければ「籠城戦」として「野戦」には出ない。
だとすると、「戦闘時間」が何れの戦記でも「2時間」であったとし、「三方ヶ原」から「浜松城」まで「徒歩2時間」とすると、「山県軍の別動隊」が「鶴翼の右横腹を突いた瞬間」の直前の更に前で逃げ始めた事に成る。
既に知っていたのに開戦すると逃げた事に成る。
この「タイムラグ」では、「山県軍の別動隊」が「左横腹・鶴翼の軍幅」を突き抜けるまでの時間と成り、つまり、「指揮官の山県」は横目で「家康」が逃げ始めた事を知っていた事に成る。
だとすると、「山県軍の別動隊」が「額田青木氏の銃隊」に「波状攻撃を加えて来る事」は、既に「勝利が決まっている事」に成り、無く成っている事に成り無理はしない事に成る。
「南下国衆の銃隊」が「戦線離脱していた」としても、少なくとも「波状攻撃」は別としても「武田軍本隊に掃討作戦の使命で合流する策」もあった筈である。
「額田青木氏の銃隊」も「波状攻撃の考え」は同じで無かったと考えられるのだ。
現実のには史実では、そもそも「兵の居ない篝火の浜松城」を攻めずに”検視”しただけで、「使命の掃討作戦」もせずに「本隊」に戻っているのだ。
だとすると、“疑問は何故攻め落とさなかったのか”が「大問題」であろう。
筆者は、「青木氏の歴史観」として、先ずは「精神的なダメージ」として“「額田青木氏の銃隊」から受けた「犠牲」にあった”と観ているのだ。
要するに、余りの犠牲の大きさに質と量で「空城」に対して“戦え無かった”と云う事だ。要するに「戦意喪失」である。
そして、それには「精神的ダメージを加わったという事・判断ミス」になろう。
「武田軍の戦記」には「犠牲2000/5000」とあるが、「戦場」を整理始末するのは「勝利した側の役目」である。
そうすると、「味方の銃による犠牲」は正しく確認出来た筈で、この「額田青木氏の銃隊」の前にあった「犠牲2000」は少なくとも記録を残す心理として少な目に記録するだろう。
筆者は、到底、「犠牲2000」では無かったと観ているのだ。
「武田軍本隊の犠牲」は、殆どの「松平軍の大将」の無くした「崩れた中」に攻め込んでいるので僅かと観られ、「山県軍の別動隊の余りの犠牲」の多さに驚いた筈である。
だとすると、「750m~800m」ではそもそも「フリントロック式改良銃」では「射程距離内」にあり、その「飛距離」と「命中率の良さ」から「鶴翼の右横腹」に突撃した時から撃ち始めているので、命中率100%として時間的に考察から「3000」は遥かに超えていたであろうし、それも「相当な訓練」を要する「改良銃」であった事に依り、「火縄銃」に比べる事の出来ない程の「銃の特別な威力」で「ケガ」では無く「戦死」であった筈である。
「南下国衆の銃隊」が遅れて陣形の敷いた後の「鶴翼陣形の左側面」に着いたとされているが、恐らくは「鶴翼」は開け閉めして動く事から、「銃隊」が「移動式」と云っても鶴翼と同時に様に動く事は無理で、故に「南下国衆の銃隊」が着くとした場合は「付け根部分」に位置した事が考えられる。
其れで無くては“銃は味方を打つ事”に成り論理的に「付け根部分」で無くてはならない。
と云う事は、「南下国衆の銃隊」が記録では、僅かに“右に向きを替えた”としているので、「山県軍の別動隊」が「鶴翼の右側面の山際」から突撃して来たとされているので、「付け根部分」より更に右という事は「松平軍の鶴翼」の「頭部分」と云う事に成る。
つまり、“旗本が護る本陣の先端”を目がけてやや斜めに突撃した形と成る。
「付け根部分」と「旗本が護る本陣の先端」とは完全に右向く程度の大きな距離差は無い事に成る。
だから、「旗本」は崩れ「本陣」に居る「家康」は少なくとも「突撃」と同時程度に逃げ出した事は符号一致するし、「15分の差」で「命拾い」をして逃げだした事に一致する。
では、どの方向に逃げたかと云う事に成るが、「山県軍の別動隊」が向かう同じ南に向かう事は不可能であり、先ず「東の天竜川の飛龍街道」に向かって逃げ、其処から南下して更に西の城に戻る算段と成る。
そうすれば、最も敵から離れられ安全で、其処から城に戻るとすると、完全に「山県軍の別動隊」の方が先に城に到着する事に成るし、引き上げた後を見計らって「城に入ったという事」に成る。
従って、「篝火策の説」は「山県軍の別動隊」が「城」を攻めずに「本隊」に合流した後という事に成る。
この「篝火策の説」はその後の「武田軍本隊の城攻め」を警戒してのものであった事に成る。
ところがここで意見が分かれる。
「武田軍本隊の城攻め」をしたとする「江戸期の説」と、其の侭に「三方ヶ原」から「甲斐」に向かって引き上げたとする説があり、途中で信玄は死亡したとある。
経緯から「後の説」が正しい。
さて、そうするとこの「15分の差」は、「山県軍の別動隊」にも言える事であるので、この侭に「浜松城」に「家康」と「山県軍」が向かえば「家康」が既に城に入り、「篝火」と「茶漬け」と「寝る」という事は、城の前に「山県軍が居たとすると時間的余裕」では無理な事である。
要するに「直前説」はあり得ないと成れば、「山県軍」が城前から引き上げたのを見計らって入り、「武田軍の本隊」が「詰め」として攻めて来る事を予想しての為の「篝火」と「茶漬け」と「寝る」で「諦めの策」であったと考えられ、これであれば「時間的なタイムラグ」は一致する。
だとすれば、「城引き上げ後」の“敗残兵が城に入り込んでいる”とする「思わせの篝火」であった事は頷ける。
「家康」に執っては、“傷ついた山県軍の別動隊の使命を果たさずに引き上げた事”が幸運であった事に成り、それは偶然にも、「家康」が重視しなかった「戦力の“南下国衆の銃力の御蔭」である”と説いているのだ。
更には、「南下国衆の銃力」が「山県軍の別動隊」を目がけて「追尾作戦」をしていれば更には「家康」には「幸運」を招いたであろう。
「山県軍の全滅」と、「南下国衆の銃隊」が「城」に入り「籠城戦」とも成れば、「兵力差」は無く成り、「籠城戦」を選んだ方が勝利する事もあり得て、場合に依っては全面勝利して「武田軍」は撤退していた可能性もあったと云う事に成り、「家康最大の幸運」と成ろう。
何故なら「籠城戦」で時間を稼げば、西で戦っていた「織田軍の援軍」が来て外と城とで「挟み撃ち」にして勝利出来ているし、「武田軍の兵糧」は底を突く事になり、「長期戦」は無理である状況にあった。
又、その心配をして「武田軍の長期戦」は絶対に避けるであろう。
現実には、西の「信長討伐軍との戦い」は解決せずに、恣意的に援軍を向けなかったとも観ているが、要するに「援軍」は来なかったが、「山県軍の別動隊の使命」を果たさずの「判断ミス」が、再び、西の「信長討伐軍との戦い」に織田軍は勝利して、更に伸長した事で結果として2年半後の「長篠」まで待ち込むまでに「松平軍」を急に大きくさせて仕舞ったのだ。
「急に・2年半」という処に意味がある。
敗戦している中でこれには「大きくなる為の財力・軍力」が必要であった筈で、それは其の後の「額田青木氏の陸運業と開発業と殖産業と渥美湾の制海権料」の「冥加金」にあったと観ているのだ。
「伊勢青木氏・伊勢屋」は「相当な支援・財力」をしたと考えられる。
其れで、近隣の国衆を集め兵力を高め、「輸入の火縄銃を含む武器」を買い求め勢力を高めたと考えられる。
況してや、「南下国衆の銃力の脅威・2度の経験」もあったので、「青木氏等」に良い方向に傾いた元と成る「判断ミス」としては、その考える事は人間はこの方向に走るは必定である。
つまり、「信玄死亡」が原因では無いと観ているのだ。
「武田軍」としては、「第一次吉田城の経験」もあるのだから、先ずは「城攻め」を諦めて「甲斐」に引き上げると云う判断となったのであろうが、戦略的に観た場合はこの行動は違い戦い時での判断が要求されるだろう。
其処にも「判断ミス」があったのだ。
「南下国衆の銃力」が姿を変えて「松平氏の財力」の面で支援して逆に大きくしてしまったのだ。
後ろに「伊勢青木氏の伊勢屋」が控えていた事が忘却していた山県であったのだ。
“「山県軍の大犠牲」”があり「武田軍の本隊」も「200の死傷者」を出しているとすると、引き上げは兎も角も、「武田軍の全軍」は「信玄死亡」であっても”「戦略的」”には「浜松城の集結」は常道であろう。
現実に「信玄死亡」は「2年間」は伏せていたのだし、戦略的に観て秘匿して戦場から甲斐に戻せばよい事に成るだけで要するに「戦略」は完遂するのだ。
実際には信用できる「武田軍の戦記」の殆どは「引き上げ説」が主流で、「松平軍の戦記」は「浜松城集結説」で「追い払いの勝利説」を唱え江戸期にこれを脚色している。
実際は「引き上げ説」が正しいが、後勘から「素人」が考えても、「松平軍も武田軍もその戦術」には疑問であるのだ。
これを「信玄病気説」でこれ等の「戦場行動の疑問」を霧消させていて「辻褄」を合わせているが反論はし難い。
この「信玄病気説の検証の確定要素」は調査したが「可能性」があるが上記で論じた様に「平時の事」では兎も角も「戦時の戦略」としては無い。
だとしたら「15分のタイムラグ」しかなかったにも関わらず「家康」は逃げ込んだとする「浜松城」の可能性の低い説は、兎も角も、輪を掛けて、“浜松城に逃げ帰った徳川軍”が、“崖に布の橋を掛け、「武田軍」をあざむき追い落とした”とある説は「後付けの脚色」の何物でも無い。
動物的反応で生き死にを掛けた緊縛した中ではそんなものに騙される者は居ない。
この説では、そもそも、“山県軍の別動隊の右鶴翼から突撃の戦歴”も無く成っている事にも成り得る。
これでは、“「武田軍」は引き上げていない”し、“「山県軍の別動隊」の軍より早く城に入った”と成るし、“「布の橋」を掛ける時間があった”のかも、ここまで来ると「田舎芝居」がかっていて「後付けの脚色美化」をし「物語風」にして楽しんでいる感がある。
実は注釈として、「歴史観」として、「江戸期」とは、そもそも「真実探求書」と云うより、「面白く物語風の歴史書」を好む傾向があって、「史実の探求」よりも、”これを「社会」が求めたのだ”という事を決して忘れてはならなく、「現在の感覚」では正しく推し量れないのだし、通常は時代が進めば歴史は美化されるものなのだ。
ところが、如何せん「後勘・現在」でも、「面白く物語風の歴史書」をこれを前提に「史実」として論じているものが多いのだ。
それだけに、大変な時間を掛けてより「多くの歴史観」を以て「矛盾を探し出す力」が無駄ではあるが必要であるのだ。
さて“「布の橋」を掛ける時間があった”のかも、ここまで来ると「田舎芝居」では、「2時間」と云う極めて短い戦い時間で「総崩れ・大将逃げた」の説では、“大将が逃げたが全滅は無かった”と云う事にも成るのだ。
そもそも、これも“「15分のタイムラグ」”は「南下国衆の銃力が造り出した戦歴」であるのだ。
そして、「山県軍の別動隊の使命」の「波状攻撃」もせず、「南下国衆の追尾」もせずの異変行動は、「南下国衆の銃隊」が「戦線離脱した結果」が齎したものだったのだ。
「織田軍の雑賀根来の傭兵」の「火縄銃の長篠での結果」では、「全滅の20000」と記録されている事から考察すると、筆者は「三方ヶ原の戦い」は「完全全滅」に近かったと観ているのだ。
兎も角も、この「事象」は其れこそ「家康の大将の戦線離脱」であるが、「鶴翼の陣形の横腹を突かれると云う事」で逃げた事は確実である。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊」にはその国衆と成った目的から「山県軍とのやり取り」も有ったし、敗戦の決まった戦場に遺る義理も無かったし、もう一つの決め手は、「家康の速い戦線離脱」を鶴翼の着け根部分にいて「右に向きを替えた事」で知ったのでは無いかと考えられるのだ。
そこで、「武田軍本隊と山県軍の別動隊の行動経緯」を追って観れば完全に判る。
「時系列」
9/29 本隊より「別動隊の行動開始」
9/29 「山県・秋山・馬場隊の3隊」 出陣-諏訪-東三河-武節-長篠-遠江
9/31 「馬場隊 分離」 犬居-高遠-吉村-三河
11/3 「馬場隊」 二俣城 到着
10/3 「武田軍本隊」 出陣-「諏訪・・・遠江」-犬居(馬場隊合流)-三河
10/16 二俣城 到着
10/9 「馬場別動隊」 武田軍本隊に合流
10/13 「武田軍本隊」から「馬場隊 再別動隊」 犬居-只来
10/13 「武田軍本隊」 「二俣城」 到着
10/18 「二俣城」 「戦場状況見分」
10/18 「武田軍本隊に馬場隊」 到着 開戦
11/3 「山県・秋山隊」 二俣城 到着
11/4 「全軍合流 開戦」
12/19 落城 開城
12/21 本隊 朝頃一言坂発進 銃隊到着-額田青木氏の銃撃戦
12/21 17時半頃浜松城通過
12/21 20時頃堀江城到着・開戦
12/22 堀江昼前頃開城
12/22 昼過ぎ(15時頃)三方ヶ原に出発
12/22 昼4時頃到着・開戦
12/21 「額田青木氏銃隊」
12/21 早朝・5時頃に「浜松城」を出る
12/21 「一言坂・3時間半」で9時頃に到着
12/21 早朝 「額田青木氏偵察隊」は「遭遇戦・4時間以上(14時頃終了)」
12/21 17時過ぎ頃に「浜松城の北東横近く」に再入場せず戻り陣取りする
12/21 「武田軍本隊・馬場隊」
12/21 13時半頃昼過ぎ 「一言坂通過(無抵抗)」
12/21 17時半頃「浜松城」通過
12/21 浜松城牽制後、「堀江城」へ出発・到着20時頃・開戦
12/21 一言坂遭遇戦後、「額田青木氏偵察隊」の追尾受ける
12/21 堀江城に夕方到着-開戦
12/21 「武田軍本隊・馬場隊」 堀江城 包囲 調略・開城開始
12/21 「包囲 夜半から作戦開始」
12/22」 「堀江城 朝に落城・開城」
12/22 「堀江城の結果」を朝に全体把握」 「三方ヶ原」に出陣する。
12/22 「三方ヶ原」に「昼過前出発・2時間」で到着
12/22 「情報で陣形を選択」し整え行軍
12/22 「松平軍の出陣」 「浜松城 早朝出陣・2時間」で到着
12/22 「松平軍 三方ヶ原西に移動」 「野戦陣形・4時間・12時頃」を整え待つ。
10/13 「馬場隊 只来城」を落す
10/13 「武田軍本隊」 「天方城・一宮城・飯田城・格和城・向笠城」落とす
10/15 匂坂城を攻略
10/15 掛川城や高天神城 孤立
10/14 「松平軍 浜松城孤立」
10/14 「一言坂の戦い・松平軍」 野戦で敗戦
10/16 「武田軍別動隊・山県軍」 朝から「二俣城」攻める
12/19 「武田軍別動隊・山県軍」 二俣城落城させる
12/20 「二俣城で掃討作戦と三方ヶ原に向けて補給路確保」
12/22 「武田軍別動隊」 昼12時過ぎ 西に向けて移動
12/22 「別動隊 三方ヶ原・15時過ぎ」 山際北側に到着
12/22 「武田軍全軍」 「三方ヶ原」 「16時 集結」 「魚鱗陣形」で構える。
12/22 「16時頃 開戦」 「18時過ぎ松平軍崩壊始まる」 勝利決定
12/22 「16時過半頃」 「青木氏銃隊」と「武田軍別動隊 突撃」「肉白戦の激戦」
12/22 「17時前頃 「青木氏銃隊」 戦線離脱 伊川津に向かう
12/22 「17時過ぎ頃」 「武田軍山県隊」 波動攻撃せず其の侭「浜松城」に直進
12/22 「20時頃を浜松城検視」 ・確認し城攻めずに「本隊」に引き上げる。
(注釈 「・印の疑問 銃隊の威力と篝火の策」
上記の「時系列」に「全ゆる戦記」などの信頼出来る「状況証拠の情報」を組み合わせれば「正しい歴史観」が生まれる。
「武田軍の別動隊・山県軍」は北の「二俣城」より「旧道(391号)」を移動したと考えられる。
当初、「籠城戦」を予想していた「武田軍の宿営地」としていた「三方ヶ原」に到着してより「戦いの陣形・配置」を整えるのに「大軍の場合」は歴史資料に依ると「2~4時間」を所要したとする記録がある。
そうすると「戦場」には、「三方ヶ原」に向かう途中で事前に齎された情報により、急遽、「魚鱗の編成」をしながらとあるので「2時半頃~3時頃」には到着していた事に成る。
史実は「三方ヶ原の戦い」は「所要2時間」とあり、「4時頃」から突然に「山県軍の別動隊」の「右側面」を突破して突撃する事から始まり、その時、「敵大将・家康」が逃げ出す事で「指揮系統」が無くなり、一瞬で「総崩れ」が起こり「夕暮時」で終結したとある。
「松平軍の戦記」から戦死者は、真偽は別として「武田軍200程度・本隊」で、10倍の「松平軍2000程度/5000」とある。
これは疑問であるが、「家康」は「数人の供回り」で「敗戦前に浜松城」に単独で逃げ帰ったとある。
「勝った方」が「戦場清掃をする紳士協定」があり、「兵の死者」などは敵味方に分けて引き渡した。
その他のものは農民などに請け負わさせて始末したとしている。
「松平軍の敗残兵」と「負傷兵・3000/5000」は「浜松城」に夜半に「城篝火」を頼りに都度逃げ帰るとあり、「山県の別動隊の城検視」とには、「時間差」があったか黙認したかであるが、直ぐに城から引き上げたとある。この事から、だとすると後から「戦意を失った者や負傷者」がぞろぞろと来る者を「山県昌景」はこれを黙認していた事に成り得る。
これを観ていれば、「城に戦える程の守備兵」が居たかは「一目瞭然」で落とせるか落とせないかは直ぐに判断は着くし、右側面から突破しているのであるから「松平軍の戦闘能力」も判断は着く筈であり、これは「完全な判断ミス」であり、寧ろ、「判断ミス」と云うよりは筆者は大変珍しい「勝者の敵前逃亡・戦線離脱」であったと厳しく見ている。
「家康と敗残兵」が、「山県軍の別動隊」が「鶴翼の右側面」から入り左側面で犠牲を負いながら通り抜け、その侭に「浜松城」に到着した事に成っているが、其れより前に入ったとする「説・とんでも無い脚色説」もあるが、「時系列分析」からこれは100%あり得ない。
最終の「戦場の細かい清掃と処置」は「農民」に金を渡して行ったとされているが、普通は慣例としてそうするの事に成っていたので「武田氏の資料」が信用性がある事に成る。
唯、この「山県軍の部動態の行動」が不思議の一つで、「敵将の首実検」をせずに城を攻めないで本隊に引き上げた事に大疑問が残る。
唯、「山県軍の別動隊」も「武田氏の別の戦記」では「2000」としている事から「青木氏の銃隊」に依って「犠牲」が大きかったと云われ、「城攻めの余力」は最早、無かったと考えられる事も出来るが、それでも「城」に向かって走ったとすれば、未だ「余力」はあった事に成り、「城」を落とす戦力があった事に成る。
「別動隊としての使命」を果たす事が出来ない程の全く「余力」が無ければ「城」には行かないで本隊に合流するだろう。
どう考えても「城」は完全に落とせた筈だ。
「本隊」は「犠牲200」と納得する記録もあり定説の様に扱われているが、「山県軍の犠牲」は何れの資料にも「2000以上の記録」は「遺された資料」からは散見出来ない。
そもそも、弓矢では無く、「四連発の銃弾」で、且つ、「1k手前から命中率」が90%としている事から、これを受けたとすれば少なくとも「10倍の犠牲」はあったと考えられ、結局は「負傷兵」も含み少なくとも「残兵1000程度以下」と成り、故にこれに「疲労している事」を考えるとせめて「城攻め」は無理だったと考えたとも云えるが、確かにこの「疲労説」もあるが、右から左に「突破しただけの時間」と、「城までの距離・2h」とするとこの説はあり得ない。
「篝火説」では無いが、何も無理して「城」に入らずとも「城」に戻って来る「敗残兵を掃討する事で「城」は簡単に落とせるのだ。
そもそも、戦い後、必ず行われる「掃討作戦」は本隊では無く「別動隊の使命」でもあるのにこれもしなかったのだ。
「別動隊の使命」から観れば、「残り」で「裸の城」を攻めておく必要が戦略上あった筈で、ここを拠点に周囲の出城を落としているので、「三河の西・尾張」に向かって進軍する事が出来た筈である。
筆者は「軍師の山県」は「信玄病気説」でも全滅覚悟で「後の事」を考えても「浜松城」を確保して、その後の事は「後者に託す事」の「判断ミス」をしたと考えている。
「信玄病気説」は“人間死のうが一定”が「武士の定め」であり、「信玄病気説」は記録では「甲斐」を出陣する際にも資料から「病気説」はあったのだ。
とすると、これは予想出来ていた事であって、「浜松城」を確保して「山県昌景」も命を捧げる「本来の使命」で覚悟するべきであった。
それを、後に「勝頼の出陣」の際に、“死を覚悟して酒を仲間と密かに躱す”等の史実は女々しく「三方ヶ原の判断ミス」“に対して「いいわけ」をしている”としか見えない。
唯、だとしてもこの時、この敗戦後の「浜松城」には「50人程度以下の守備兵・一説」しか居ず、「山県軍の別動隊」の「残兵」で攻めれば勝てる可能性は充分にあった。
場合に依っては、「青木氏の銃兵」を幾らか城に遺していたと考えたのでは無いかとも考える事も出来るが、目の前で「戦線離脱」して早々と「伊川津」に戻る態勢を採っているのを観ている筈で、仲間を置いて伊川津に引き上げる事等あり得ない。
だから「波状攻撃」を掛けなかったのだ。
そうすれば、残るは「判断ミス」で無いとするならば、「山県軍の戦況」は後勘から観ても最悪であった筈で、残すは、“諸々に「山県昌景」は城に2時間もかけて行っていながら「戦える状況では無かった事」”に成り、「引き上げ」を「別動隊」に命じた事だけに成る。
上記の通り少なくとも「残兵1000程度」の計算は、後の「長篠の戦い」の「織田軍の傭兵の銃隊3000」の「結果・12000戦死・火縄銃」を考慮しても未だ多い方であったと考えられる。
そもそも「火縄銃」では、当時の資料から「兵力」に直すと最低でも「10倍」とされている事から観ても、「戦い方の状況」に依っては「20倍以上」にも成ると記され、「兵力・火縄銃」に相当するとした場合でも、「不思議なフリントロック式改良銃の威力」を直前に観ているので、これを「20倍の兵力以上」とすると、「少なくとも残兵1000程度以下」では、「城守備」として「50人の銃兵」を残して置けば「1000の以上の兵力」と成る。
然し、現実には遺していない事は早々と戦線離脱して伊川津に向かっているので、「山県軍」はこれを観ていて確認しているのでこの説は成り立たない。
だとするも、仮に、「銃」を配置していたとしても、ここでも「山県軍の残兵」で「籠城戦」で戦うとすると、「別動隊の使命」としても少なくとも「全滅に近い事」とは成るが、何も「守備兵」と戦わなくても「城」は落とせる。
それは、要は「落したと云う形」}を作れば「流れ」として勝利しているので必然的に堕ちる。
上記した様に、それは「三方ヶ原の敗残兵」が「城」に戻って来る時を以て「山県軍の別動隊」が「掃討作戦」を展開すれば、「本隊」も到着するか「本隊」からの「掃討作戦の支援の援軍」を待って簡単に勝利出来る。
何れにしても絶対に“命を賭して「浜松城」を全滅覚悟で落とすべき”であったのだ。
つまり、何れの考察でも、「別動隊の使命」を無視して、「判断ミスの汚名」を避ける「口実」として、“全滅を避けたかった”とする「言い分」としたと観るしかない。
筆者は、そもそも、“武田軍は甲斐に引き上げる”と云う「選択」に対しても、感情的に成り過ぎて「戦略的」に観て疑問であると考えているのだ。
三河の隣の駿府まで支城全てを抑えたのであれば、「拠点の浜松城」を抑えて居れば西に対して勢力を確保でき、且つ、「指揮官の信玄病気死亡説」が仮に起こったとしても、後は「勝頼」なりを据えて構えた方が、「甲斐軍の勢力」は保全出来る。
“京に上る”と云う「大戦略上」を前提とすれば、「信玄そのものの病気・死」は「位置づけ」としては小さい。
何せ、“信長が天下をとり幕府を開く”と云う「名目の苦労」より、「甲斐源氏の幕府」は容易であるのだ。
「鎌倉幕府」と「室町幕府」は全て「河内源氏の支流」であり、例え甲斐が末端の支流であっても「甲斐源氏」としてはその「前例はある事」であって、「信長の様に全国制覇」をしなくても、「足利源氏」に代わって「甲斐源氏」が東側勢力を抑えたのであるから、「朝廷の宣下」は得られやすく「幕府」は簡単に開ける。
後は、その後の行動で逆らうものは滅ぼせば幕府は樹立出来る。
先ずは、世の常として「源氏と云う格式・格式問題はある」を前面に押し出せば豪族は“靡く筈”である。
何故ならば、豪族や信長は自らは「幕府の名目のお墨付き」は「朝廷・宣下」から得られないのであるから、「豪族の勢力」をそれなりに認めてやれば天下は落ち着く。
これが「尾張の信長の弱点」であったのだから。
各所の拠点に山県等の将を配置する事で「次の尾張」を潰せば、これで「天下の幕府」は開けるのだ。
筆者は「山県昌景」は「最大の判断ミスをした事」を説いている。
要は「大戦略の流れを造り出す事」であった。
それが「南下国衆の銃隊」で「大犠牲を負った事」で「正常な判断」が出来なく成ったと説いている。
それに反して「南下国衆の戦線離脱の判断」は逆に“実に正しかった”と説いている。
だから「武田氏」と違って生き遺れたのだ。
その“「判断ミスの山県」”が存在する「長篠」では「武田氏を潰す源」を造っていたと云う事なのだ。
「青木氏の歴史観」を正しく理解して遺すには、この様な深く関わっていた処を解明して置く必要があるのだ。
何故ならば、“「歴史」”は時代が進むと“美化され都合よく偏纂される”のが常道であるからだ。
それは「歴史」には、時代ごとに、氏ごとに、地域ごとに「慣習仕来り掟等の伝統知識」があるのにそれを把握しないで論じる者が多くなるからである。
そこで、もう一つ論じて置く必要がある。
「青木氏の銃隊の数」が「300丁」とは、「吉田城の籠城戦」と「一言坂遭遇戦」と「三方ヶ原での経験」をしていたとしても、概略でしか知らず、「正確な数」は「武田軍側」は、況して、遅れて来た「山県軍側」は正確には知っていなかったであろう。
この事による「判断ミスの可能性」である。
当時、「火縄銃で10倍」と評価されていた事が記録から読み取れる。
「青木氏の遺された訓練の手紙や商記録の出費や堺の生産力や南下国衆の数」から割り出した数の「秘密裏の数」は「300丁」である。
ほぼ「3度の失火」で「正式な記録」は消失してはいるが、「遺る資料」を継ぎ足して行けば間違いは無いだろう。
もう一つの推論として、「武田軍本隊」は「南下国衆の銃隊」がこれを「松平軍の銃隊」と観ていた事の可能性である。
「山県軍の別動隊」の右側面からの突撃時に「300丁の銃」を、仮に精々、「50丁前後の読み違い」はあったとすれば、「五つの三河戦記の記録」でも、「山県軍の別動隊」も「「50丁前後=1000人の兵力」が「浜松城」に居ると考えた可能性があって否定は出来ないのだ。
然し、史実は「南下国衆の銃隊」は「戦線離脱」しているので、これは成り立たないが、そもそも、「第一次吉田城の籠城戦」や「一言坂の遭遇戦」で「松平軍」として戦っているとすればその様に理解した事は否めない。
その様に「渥美湾の制海権を獲得する条件」として「伊川津の国衆」と成って合力している「詳細な経緯」を知っていたかは疑問の方が大きいので、この「推論」も成り立つが、知る必要も無かったかも知れない。
そもそもこちら側の事である。
但し、「総崩れ」と成った「松平軍」を尻目に「戦線離脱」している処を「山県軍の別動隊」や銃声の「しなくなった戦場」を「武田軍の本隊」は観ている以上は、例え「松平軍の銃隊」と観られていた「南下国衆の銃兵の仲間」を「城」に放置して見殺しにして「伊川津」に逃げないであろう事くらいは直ぐに判断できる。
そうすると、この推論は低いが余りの犠牲の大きさに“「山県昌景の判断力」は低下していた”とする上で成り立つ推論ではある。
そもそも、“戦略的に城を落とすべき”と云う“別動隊としての使命感”も無くしているのだから戦線離脱したとしても「松平軍の銃兵」かは論外であった事にも成る。
そして、尚悪いのは未だこの「判断力の低下」は続き、史実にある「甲斐」に帰って“「最後の盃」を躱す“などは「武将」としては言語道断であり、「勝頼」に「無能の責任」を押し付けて、「自己の判断ミス」に薄々気づきながらも「大義の立つ死に場所」を考えたと成る。
その「死に場所」と成った「長篠での戦い」の銃弾の前では、「火縄銃の時代」に旧態依然として「先陣を切った騎馬隊」は全員戦死し、その後に無謀にも突っ込んで来て戦死した「“山県隊”・馬場隊・内藤隊・真田兄弟隊・土屋隊」や、撤退し乍ら傷を得た「穴山隊、武田信廉隊、武田信豊隊」が全滅に近い状態であったとすると、最早、論外で「銃の威力」をどれ程のものであるかをそもそも経験していながら、未だ旧態依然として「山県昌景の判断ミス・死滅」しても「浜松城を落とす事・別動隊の使命」は続き、大きく「武田氏」を潰したと云わざるをえない。
ここには「美濃の額田青木氏」のみならず「青木氏族」の「時光系甲斐青木氏」が居たのだ。
そして滅亡に近い状態にさせているのだ。
況して、「南下国衆の銃隊」が追尾していれば兎も角も、掃討作戦もせずに早々と“戦線離脱”して甲斐に向かっているのだ。
確かに被害は大きかったかも知れないが、例え「信玄」が戦死・死亡していたとしても“絶対にどの様な場面を考えても、「当初の戦略の目的」の通り「浜松城」を陥落させる必要があった”のだ。
後勘の「歴史の説」は時代が進むと共に殆どは「美化論」に左右されて行くが、筆者は「正しい歴史観」を獲得する為には、少なくとも「青木氏の歴史観」に関わって来る事に対しては、「山県昌景」を美化する訳には行かないのだ。
況してや其れが、“「籠城戦」”とも成れば、「第一次吉田城の経験」の通りに、“より「銃力」は「無限の兵力」と成ろうとする時代に成っていた”のだ。
将としてのあるべき「時代の読みと経験」をしていながら其れさえも読み間違えていたのだ。
故に、この「判断ミス」に依って“「山県軍の別動隊」は「城」から引き上げた”と充分に考えられるのだ。
つまり実際には、“城には戦えるほどの「守備兵」は居なかった”のだ。
「三方ヶ原」から「勝敗」が決まる直前で「額田青木氏の南下国衆」が“戦線離脱している事”は、「城」には「南下国衆の額田青木氏」の「銃1丁」も遺してはいなかった事の証拠であるのだ。
そもそも、「山県昌景」は有名な「武田軍の緻密な近習軍師」でもあったとされるが、「緻密」ならその「緻密な判断の情報」を獲得し成し得ているし、「上記の事」を最も気にしなければ成らない人間であった筈である。
何故ならば、実は此処にもう一つ江戸期での「後付け・脚色説」ではあるが、その説には「山県軍の別動隊」の「引き上げ判断」に傾いたものがあったとする説がある。
一応、参考として論じて置く。
それは“城の門には明々と「篝火をともしていた事」”は「史実」であって、実は、これは唯単に「篝火を焚いていた」と云う訳では無いのだ。
つまり、「後付け脚色説」では、この“城には家康が居た事にも成る。”のだ。
そもそも、これは「中国三国志の軍師」の“「諸葛孔明の篝火の策」”であるのだ。
大軍の「敵将の仲達」はこれを観て何かの策を警戒して引き上げたのだ。
この「中国故事の戦略に習った事」を何と「家康」は窮地に知ってか知らずか実行したとも考えられる説なのだ。
恐らくは、城に入っても安全だとする「敗残兵への合図の印」であった事
「山県軍の別動隊」が浜松城に到着した時に城には「家康」がいた事を示す事
以上の二つにも成るが、「15分のタイムラグ」に「山県軍」より「家康」が先に城に到着する可能性が低いのにこの「篝火の策説」がいまだ定説として成っている。
つまり、この説だと上記の通り先に入るには、「タイムラグ」からして「山県軍」が「鶴翼の右側面」を突く直前に、戦わずして先に逃げた事に成るのだ。
裏を返せば「後付け脚色説」にした事は、「山県軍」が「浜松城」を落とさず引き上げた直ぐ後に、「家康と敗残兵」が「城」に入って「篝火」を焚いて「残りの兵」に安全を合図告知した事と成り、故に安心して茶漬けと就寝がて来た事に成り得る。
「城引き上げの判断ミスの行動」が「美化の隙間」を与えこの様な多くの脚色説を生み出す結果と成っているのだ。
つまり、何を云うかと云えば、この「篝火の策」が直前に「山県昌景」が経験した「銃の威力・隠銃力」を連想させたと成るのだ。
本来であるのなら、「青木氏の南下国衆の銃隊」が「戦線離脱した事」は確認しているが、追尾してくる事もあった筈で、それを恐れていた事もあるが史実はこれを否定している。
そもそも、逆に「山県軍の別動隊が城を落とせた事」を示す証でもあるのだ。
一時的であっても証としては成り立つ。
これらに関する「史実」は今も無い。
そこで検証して観る。
実際は「浜松城」からは、この“「三方ヶ原」”は、南の海から少しくぼんだ「丘陵の窪みの位置・標高50m・18mの段差上」にあり、「戦線離脱した事」が観えなかった事もあるが、「山県軍の別動隊の残兵」を1000としてこれを並べた場合の「最後尾」が南下国衆の戦線離脱が見えていた筈であり、「戦線離脱の報告」は充分に出来ていた事に成り、且つ、だから「波状攻撃」もしなかったのだ。
唯、この「篝火策の説」は、「松平氏側の戦記」のもので「武田氏」のものでは無い。
あったとすれば少なくとも多少成田も行で読み取れる範囲で戦記として書かれていたであろう。
先ずは、「山県軍の別動隊が城を落とした事」を示す証説を別にして、仮に、この説が有ったとして、これは「敵」を「油断させる策」である事は「軍師の山県」も充分に承知である事は疑わない。
突撃中、「家康が戦線離脱した事」は左に見えているので、寧ろ、筆者は直前の印象から“「城に隠銃隊」を配置しているのでは”と考えさせて仕舞った事とも成ると観ていたのだが、然し、「南下国衆の銃隊の戦線離脱」ではこの説は成り立たない事に後で知ったのだ。
これは別の意味で正しく“「篝火の策の延長」”であるのだ。
この「篝火」が「敗残兵の道案内」として事前に点灯させていたとして、「直前の銃撃」で死傷者を多く出した「山県昌景の理性」を無くした感情から、“「篝火策」”に合わせて「銃」を連想させたと説く事も出来る。
四時から始まり2時間で終わったとする多くの戦記から判断して割り出すと、「山県軍の別動隊」が「浜松城」に到達した時刻は、鶴翼右側面から左側面までの突撃時間は約0.2~0.4hで、「三方ヶ原」から城まで徒士で2.2~2.3hとして、合わせて2.4h~2.7hと成り、「負傷者」を運ぶ「タイムロス」を考えた場合、「合計3h」は要する事に成ると、1月の7時頃となり、「篝火」は策でろうが何であろうが必然的に必要である。
浜松城の所在地は明白に成っているので、殊更に「篝火策と云う程の事」は無かったと考えられる。
この説はやせ我慢の「後付けの脚色」である事は否めない。
そもそも「篝火」を灯す灯さないではなく、「城」を確認できれば大方は研ぎ澄まされた「戦いの野生本能」として判るし、その場で調べる事さえも出来る。
視点を替えて「青木氏の歴史観」から検証すると、この様に「江戸期の作文・脚色」とは、検証では「史実として違う事」が相当に見えて来るのだ。
一般から観れば其処に「歴史の伝統の面白み」が生み出させ夢が引き起こされるのだが。
但し、「額田青木氏」にとっての結果としては、「青木氏の歴史観」を構成する上で「山県昌景の浜松城の判断ミス」は、その後の「渥美湾の制海権の確保」や「陸運業の転身」や「開発業・殖産業への路」を開けた事で実に都合は良かったのだ。
“松平氏の生き延びられた事が良い方向に働いた”と云う事である。
それ故に検証している。
況や、この事らは「青木氏の氏是」として「良い事」なのだが、それ他家にろんじてはいるが、「一部の記録以外」に表立って「歴史上の記録」には載って来ないが、その全てを決めた行動は、「三方ヶ原の早期戦線離脱」が左右したのだ。)
(注釈 「上記の経緯の追加再考察」
これ等の「経緯」から更に次の事が読み解ける。
「堀江城・朝より開戦・調略・激戦」とで、全体の計画より相当時間が掛かった事が読み解ける。
もう一つは、「武田軍4軍が揃う」のを待って「三方ヶ原」を「宿営地・当初の目的」にして北から南に向かって「浜松城を攻める計画」であった事も読み解ける。
結果として思い掛けなく「野戦」を選んだ「家康」に依って「宿営地であった三方ヶ原での戦い」には成ったが、その「集結場所」が偶然にも「宿営地」とする処の「三方ヶ原」であった事も読み解ける。
何れの軍を動かすにも必ず「食事や武器」などの「補給隊の荷駄隊」が最後尾に伴う。
取り分け、松平氏にはこれが無かったと考えられるが、「武田軍の本隊」には史実として確認されている。
それ故に「宿営地」が「戦場と成る事」には、「武田軍の本隊」には「多くの計画の崩れ」が生まれた筈であるし、「武田軍の本隊」に執っては「若干の弱み」とも成った事であろう。
然し、この「若干の弱み」は直ぐに解決された。
それは「松平軍」は「鶴翼の陣形」であった事で、「魚鱗」の様な「移動型の陣形」では無かった事なのだ。
「最後尾」に詰めていれば安全であったので、勝負は実戦に至らずとも既に此処で決まっていたとも考えられる。
参考として、「武田軍の本隊の計画」では、「一言坂の遭遇戦」に依って「軍の行動」が一時止まり、軍が大きい程に時間が掛かるので「編成立て直し」で、“予定より「4時間~6時間程度の計画」は先ずは「ずれ」て居る”事に成る。
「武田軍の戦記」と「三河の戦記の五つの戦記」と「伊勢青木氏の資料・手紙等」を総合するとその経緯は次の様に成る。
「青木氏の銃隊」の「一言坂の偵察遭遇戦」では、前段でも詳しく論じたが、「武田軍の本隊」は「北の二俣城」から南下して、東から「堀江の西」に向かって「一言坂」を東から上って坂上に到着した。
一方、「吉田城」から「呼び出し」で到着して、「浜松城」で「命令」を受けて「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「浜松城」から出て「東の見晴らし」が良く、必ず「武田軍本隊」が通過する「一言坂」に西から向かい「西の坂下」に入り「坂上」に上った少し東で遭遇したとある。
此処で初めての「敵対の実戦」の「銃による遭遇戦」が始まるのだ。
そこで、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、実戦のしない「偵察隊」ではあったが、「西の坂下」に逃げると東から西に向かっている「武田軍本隊の騎馬隊」に背後を追撃され全滅と成る。
そこで、「偵察隊の使命」と異なり「東の坂途中の武田軍」に目がけて前段で論じた「銃撃戦」を開始し、果敢にも徐々に「銃弾幕」で「武田軍の本隊」に近づいたと戦記である。
そして、この「武田軍の本隊」は「弾幕」で押し込まれ止まるとある。
そこで、「武田軍の本隊」が更に徐々に東坂下に押し帰されると、逆に「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は尚に「東の坂下」に向けて降りる事に成り、其の侭では地形上では「坂の左右の道幅」が狭い所に達する為に、且つ、「大軍の後退」は難しい為に、「武田軍の本隊」は次第に前面に「崩れ・乱れ」が起こり始めた。
結果としてこれでは「離れた遠く・300m」から連続的に撃ち掛けて来る為に手の施しようが無く全滅して行く事に成り得ると判断したとある。
そこで、「武田軍の本隊2万」の内、「3000」を「坂の土手下」を通り、先回りして「西の坂下」に配置させて「僅かな火縄銃」で挟撃しようとしたとあり、これが「南下国衆の銃力」が勝り「効き目」が無く、そこで「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「東の前進」を止めたとある。
そこで「東の武田軍の本隊」と「西の3000」に左右に向けて「南下国衆の銃隊」を二つに分けて当に「坂上頂上」から「西の坂下」にも「弾幕」を浴びせたとある。
そこで「西の坂下の分隊3000」は余りの「銃隊の威力」で戦う事を中止したとあり。”道を開けた”とある。
これを観た「武田軍の本隊」は、更に「坂の中腹の左右」に土手を通り向けて「3000の兵」を追加してこの「坂下分隊」を救おうとした。
要するに「物量作戦・弓兵力」で囲んだつもりであつたらしい。
ところが「余りの弾幕」は止まる事無く激しく、犠牲が多く出ることを懸念した「中腹分隊」も戦う事を遂に中止して仕舞ったのだ。
これは「フリントロック式改良銃」で「黄鉄鉱」で「4回転シリンダ」であるこの事から、「火縄銃の様に10~15分の間隔」では無く「弾幕間」は空かないのである。
この時の記録として「300の銃」の「銃身に熱」を持った為に「三段式・銃身に熱」に分け、冷やしながら「前後左右の銃兵」に、「弾を用意する補足兵・50と荷駄兵」が付いての編成で打ちかけたとある。
この時、「荷駄兵50」は「疲れた銃兵」に代わって入れ替わりながら撃ち掛けたとある。
この事の意味が重要で、要するに「50の荷駄兵」は「高い経験・熟練度」を要する「フリントロック式改良銃」であった事から、「試射打ち」を経験している「伊賀青木氏と伊勢秀郷流青木氏の混成隊」であった事が考えられるし、熱を持つほどの激しい連続射撃であった事が判る。
これであれば、全く間隔の無い弾幕の雨嵐であったし、「命中率と飛距離と破壊力」は「火縄銃の10倍以上・約20倍」であった事から、驚いた「東の武田軍の本隊」も編成を崩して「東坂下通り」に徐々に後退し始めていた。
この「遭遇戦」は飛距離に問題が無い為に「命中率」は100%であったと伊勢の資料では記されている。
この結果、「武田軍の本隊」は「軍編成」を崩し、「凸状の坂道の下両方向」に崩れたとある。
「赤兜の騎馬隊・6000」が「武田軍の本隊」に存在していたがどの戦記にもこの事に一切触れていない。
何故ならば、この「赤兜の騎馬隊」が先頭に居た場合には後退するにはこの「赤兜騎馬隊」は馬は「後ずさり」が最も難しい筈である。
こ
この事に付いて何も書いていないと云う事は「軍の最後尾」に位置していた事に成る。
この「遭遇戦」に「二時・4時間」が掛かり、「西の堀江」に向かう為には「坂上で本隊の態勢立て直し」に「一時・2時間」を要したと記されている。
この事には「赤兜の騎馬隊」が原因していた事が云える。
恐らくは、記されている事の事実は、別としてもその程度の事に成る事は充分に予想できる。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊」はこの結果から何とか「無傷・無抵抗」で徐々に「西の坂下」に降りたとある。
そこで、其の後、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の判断として、“これは「浜松城の戦い・籠城戦」に成る”として、西に走り「西の坂下の北東側・城の北東付近」の一か所に潜んで「銃」を構え密かに陣取ったとある。
これはこの行動から観て、「武田軍の本隊が浜松城の城攻めの有無」を確認していた事に成る。
然し、「城攻め」をせずに「城の門前」を悠々と牽制しながら「武田軍の本隊」は先に「堀江城の方向」に向かって悠々と進軍したとある。
従って、結果として「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、この後ろから徐々に西に向けて「武田軍の殿軍・荷駄」を「追尾する形」を採った事に成ったとある。
これは、もし、「浜松城の戦い」と成ると、城に入らずに小高い丘の“「北東の後ろ」”から再び「弾幕を浴びせる作戦」に出る計画であったと観られる。
「大軍」である為に「地形的な面」から「陣取り」をしないと「主城・浜松城」を無暗に攻める事は先ず無い。
この「武田軍本隊の移動の状況」を把握する為にも、「浜松城北東」の「銃隊」に執って良好な「近くの場所・地形的な良好な場所」に先回りして「偵察隊としての使命」から隠れていたのだ。
これは、仮に「浜松城を攻める様子・牽制の攻撃」が伺えれば「使命」を超えて坂の上での様に「丘から銃弾」を浴びせる予定であったと観られる。
故に、この事で「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「浜松城」に入ら無かった事が判る。
ところが、この上記の「時系列」から観て、未だ、この時は「松平軍」は「浜松城」に居たのだ。
この時まで“籠城戦を覚悟していた”と「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は判断していた事に成るのだが、「武田軍本隊」も「籠城戦と観ていた事」に成る。
そこで堀江城を潰して「三方ヶ原で宿営する予定の行動」であった事に成る。
つまり、恐らくは、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、この為の「武田軍の牽制攻撃程度」の行動が城に向かってあると観ていたのだ。
暫くして,故に、何事も無く「浜松城」を通過して「堀江城」に向かう事が解ったので、確認の為に「陽動作戦」を警戒して追尾したのだ。
これは、「武田軍の本隊」は攻める事も無しに、唯、「後ろ・殿軍」を追尾し来て備えている一方では、「武田軍の本隊」は「追尾している事」を知っていたので、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「300の銃力の威力」を以て、“何時銃撃してくるか”を恐れたと考えられる。
何事も無く「堀江」に到着したが、この時、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「追尾」を「西と東の街道の交差際・湖東町付近」で武田軍の本隊が戻る事が無いとして「追尾」を止めたとある。
ここから「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、結局は城に戻らずに「東の路」を採り「三方ヶ原」に向かっているのだ。
宿営地に事前に向かったのか、将又、松平軍の野戦の情報を掴んだのかであるが、後者であった事が経緯で判る。
ここが「野戦のタイミング」と「浜松城出陣のタイミング」の狭間であろう。
そこで、「武田軍の本隊」は「西の端の堀江城」に向かい「堀江城」を潰して、「別動隊」を待つ為に遅れて慌てて「三方ケ原」に向かったと成った考えられる。
この時、既に「松平軍」は城を出て「野戦」を選んで「三方ケ原」に向かっていた事に成る。
「三方ヶ原への到着のどの程度の時間差」があったかは、正確には判らないが「堀江城」から「三方ヶ原」と「浜松城」から「三方ヶ原への差」があった事は考察できる。
問題に成るのはそれは「野戦を選んだタイミング」である。
「松平軍」からすると「家康」は「情報」を受けて「最後の砦」の「堀江城の陥落時期」を観て「冷静さ」を失い「野戦」を選んだと考えられるからだ。
仮に先ず相互の出発点に「タイムラグ」が無いとして、距離的にほぼ同じ程度であるが記録では「松平軍の方」が記録ではやや早く着いたとされている。
後から遅れて到着した場合は陣形を整える前に襲い掛かられて負ける。
然し、ここで武田軍に味方する「三つの事」が起こった。
それは、一つ目は、「三方ヶ原」に向かう行軍の途中で、後ろにいた「赤兜の騎馬兵」を前に出して、且つ、「魚鱗の陣形」の「三角形の編成」をしながら進んだとある。
二つ目は、「移動型ではない鶴翼の陣形」を松平軍は敷いたのだ。
この「二つの事」で遅れて到着した「武田軍の本隊」は「三方ヶ原」で攻められずに無事であったのだ。
「出発点のタイムラグ」は最低で0.5h、最高でも1hであろう。
主説と成っている経緯では、城を「未明・夜明け前」に早く出て、早くに「三方ヶ原」に「到着・バイアス8時頃~9時頃」したと記している。
この事に付いては「早く出ている事」は確実であるが、未明に関しての判断の意見の分かれる処で「松平軍」は「未明・朝方・夜明け前」に「城」を出たとしている説が通説と成っている。
これ等の説は「鶴翼陣形は時間が掛かる事」を理由にしている。
「上記の経緯欄」からそんな「時間差」は無かった事が判る。
三つ目は、「山県軍の別動隊」の「三方ヶ原への到着の遅れ」である。
この「遅れ」で「鶴翼の側面を突けると云う利点」が起こった事である。
当然に「鶴翼の陣形最大の弱点」である。
この「三つの事」が二つ欠けたとしても「三つ目」がこれを救い「相互補完の形」が出来ていた事に成るのだ。
「山県軍の別動隊」が先に着けば「本隊」が後からだと、中央に位置するべき「本隊の置く場所」を何処にするかで定め難く成り、「陣形の組み方」が難しく成る筈であった。
止む無く、合流できず右側面に着く形と成った。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「松平軍の動向の情報」からその事を見極める為にも、「堀江と向かう街道」と「三方ヶ原に向かう街道」の「交差点」で追尾を中止した事に成る。
因みに、この「青木氏の手紙の資料」から読み取れる記述には、「情報と云う言葉」が入っている事に意味を持っている。
つまり、「伊賀青木氏の集団」がこの「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に寄り添って「独自の諜報活動」を側面からしていた事を意味する。
更に云えば、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「荷駄隊の50」は少なくとも「伊賀青木氏の伊賀者・香具師・日用品を全国に販売しながら情報を集め諜報活動をする役目」であった事を意味するのだ。
「伊勢青木氏の一族」で「額田青木氏の南下国衆の銃隊」を補完していた事に成り得る。
その事で「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「三方ヶ原・当初は城に向かう予定」に着くのが相当に遅れる結果と成ったのである。
速く到着していれば「鶴翼の頭」の所の中央に据えられ「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の威力で「武田軍の本隊」のみならず「山県軍の別動隊」を少なくとも全滅に至らしめるまでには成っていた事に成り得る。
そうなれば、「全国の目」が「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に向けられて必要以上に警戒される事に成って「松平軍が勝利の形を得る事」に成り、歴史は替わり「渥美湾の制海権」どころの話ではなく成っていただろう。
この「遅れた事」が歴史に記録を遺さない「施基皇子の遺訓意」の「青木氏の氏是」の結果を引き寄せたのだ。
ところが、「12/22・早朝過ぎ」には、「松平隊」は、何と“「野戦」”を選んで既に「浜松城」を出て「三方ヶ原」で迎え撃つ為に「陣取り行動・鶴翼の陣形」に出ていたのである。
この情報を掴んだ「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、「武田軍の本隊の行動」と「松平軍の行動」を知った事で、予想外の“「野戦」”と成れば「城」に戻らずに慌てて「三方ヶ原」に向かったのだ。
「国衆としての当初の目的」から「三方ヶ原」に向かう必要が無かった筈であるのに、向かったのだ。
この理由を「青木氏の色々な資料の行」から読み解くと、「松平軍の戦闘の結果」に依っては、“渥美湾の制海権の夢は潰える”と云う「危機感」が「指揮官の脳裏」に走ったのである。
元々はその為の「偵察行動」であった様で、故に戦うのではなく、「戦いの行方の偵察」の為に左側面に着いたのだ。
ところが、突然、思い掛けなく右側面から「山県軍の別動隊」が北の山際から突撃して来た。
応戦するしかなく右側面に入った時に「火蓋」を切った。
右側面の突撃時は射程距離内であった事から「山県軍」も驚き兵はバタバタと倒れ、最早、動きの流れからブレーキが効かず引き上げる事も出来ずに「額田青木氏の南下国衆の銃隊」のいる「左側面」を突き抜けたのだ。
「松平軍の状況」を偵察する行動であった事から直ぐ様に「戦線離脱」して「伊川津」に戻ったのだ。
そして、「武田軍の三河攻め・伊川津攻め」が起こる事を予測してこれら対処する為に戻ったという事に成る。
然し、「伊賀の香具師の情報」から南下した「山県昌景の残軍」は「城を攻め落とさなかった事」を知ったのだ。これで先ずは救われた。
次の「武田軍の三河攻め」に対処する為に「三河の国衆」を止め「陸運業」に転身して「攻撃の対象」から逃れる準備を「伊勢」と共に急いで張ったと云う事に成ろう。
「東の秀郷一門」と全国24カ所に点在する「秀郷流青木氏116氏」と共にシンジケートを張りこの「抑止力」の為にもこの「銃」は保持していたのだ。
後勘から観ると、一切の対応に理する処があり、その根拠は「青木氏の氏是」に通じているのだ。
当然に「魚鱗の陣形」を予想していた「額田青木氏の南下国衆の銃隊」も、又、これを観て更に驚いた。
「魚鱗の陣形」であれば、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「陣形の先頭」に出れば陣形は整い「銃の効果」は出る。
「20倍の戦力」と成り無勢でも「武田軍」に勝利出来る事と成るが、“然し史実は違ったのだ。”
「松平軍」は「東の戦況・悉く支城が潰された事」で戦況が悪化していた。
そもそも、急遽、「額田青木氏」を「伊川津」から出て「吉田城」に入り、そこから「東の浜松城」に呼び出されたのであるから、これは否を観るより明らかで誰が観ても「軍力」は低下しているし、この事に対して「情報」を得ていて、「武田軍の本隊」も「見誤る事」は100%無かっただろう。
そもそも、「最後の砦」の「西端の堀江城」が攻められているのに、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」を使って「背後を襲う事の行動作戦」を採るのは「当然の戦略」であろう。
然し、其れさえもしなかったのである。
筆者は、この様に緊急策として浜松城から呼び出しはあったとしても、この事から、「国衆としての位置づけの違い」が「家康」に執っても「銃の信頼」はそれなりにあったとしていても、違約状況であった事から「遠慮があった」とも考えているのだ。
筆者は、「偵察隊と云う目的」には「銃の威力」のみならず、この「銃隊」に寄り添う「香具師・忍者・伊賀青木氏の忍者」の能力も期待していたのではないかと観ているのだ。
そうすると、この「銃隊」に寄り添う「香具師・忍者・伊賀青木氏の忍者」のみならず「伊賀者全体」をこの「戦い」に注いで強力化していた事が云えるのだ。
だから“「浜松城に隠し軍」を残すような事はしなかったし、それをする訳がない“と観られ、「額田青木氏の銃隊」が動いている事を「一言坂」で知って、当然にこれに伴い「伊勢」が動き「伊勢者」が動いている事は、「武田軍の本隊」は先ずは思うのが普通であろう。
然し、「別働隊の山県昌景」は浜松城では「軍師であった事」もあって違っていたのだ。
要するに、“余りの思い掛けない「銃の攻撃」と「その被害の大きさ」”に「冷静さ」も失っていて「篝火の計」に却って翻弄されたと云う事もあろうが、然し、そもそも戦っていてどの程度の軍力を持っているかは判っていた筈であり、「織田軍の援軍・説が錯綜」もどの程度で在るかは「関西の戦況」から観て判る筈で、其の隙を突いての「駿河三河攻撃の戦略」であって読めていたし、且つ、何は兎も角も「別動隊の基本中の基本」の「使命感」さえも失っていた事にもなる。
「使命感の喪失と判断ミス」が、「青木氏の氏是」に沿う行動が取れ「青木氏」を救ったのだ。
故に「江戸期の作文」では、「別動隊の山県昌景」は城から引き上げたのは“「信玄病状悪化説」”が主流と成っているが、そもそも、故にこの説は「青木氏」から観れば大いに疑問なのだ。
何故ならば、「三方ヶ原の戦い」でどれだけの「連合軍の軍勢」であったかは観て判っている筈で、況してや「軍師」であってこの事は“見誤る事”は先ず無いだろう。
「開戦」は「2時間」であったと「武田軍側の戦記」と「松平軍側の戦記」でもこの事では一致している。
「浜松城の守備隊」が“「銃隊」”でない限りは、「別動隊の余力」でも充分に攻め落とせる範囲であり、仮に「後付け」の「信玄病状悪化」であったとしても、死んだとしても少なくとも「1時間程度」で簡単に落とせるだろうし、“そんな時間が無かったとは云い難い”し、「今後の事・尾張織田氏決戦」を充分に予測出来ていた筈で、「青木氏の歴史観」からすると逆ではある。
この事を考えると“落としていた事の方が絶対的に得策”であったろう。
「家康の首を落としていた方」が、つまり、「今川勢力」が衰退している中では「東三河」を完全に落としていた方が、「武田軍」に執っては簡単に「西三河と尾張」に掛かれるだろう。
背後から上杉から牽制されてはいたとする説があったが、「駿河と三河」を手に入れ東から西に向かって「織田勢との戦い」に成っていた事も考えられ、北たから南に向かって通して治める事で「莫大な財」を得た「武田勢」に対しては、「上杉」もそう簡単には手は出せなくなるし、「向後の憂い」を無くして有利であった筈である。
「海の幸と陸の幸」の「財を得る事」は要するに「銃を得る事」に繋がるのだ。
この様に後勘で検証して観ても、現も実にも「長篠」に至るまでの「勝頼の行動」はそうなっている。
唯、「山県の判断ミス」が「武田氏」を二派に分けてしまったと云う事で「勝頼・武田氏の行動」は狂ったのだ。
「松平氏の勢力如何」に関わらず「伸長し始めた織田氏勢力」を“間断なく東・西三河」で抑えて置く必要”が戦略上は絶対に必要であった筈であろう。
「浜松城」を起点に「三河を制圧する拠点」であった事は「甲斐の複数の戦記」にも統一して記されているし、現実にも「武田氏の一連の南下政策の戦い方」はその様に行動していた。
そもそも「松平軍の採った行動」が、「堀江城支援無し」と「銃隊を使わなかった事」から考えれば、“「大軍の城守備隊」が「浜松城」にあった”とは実に考え難いし、「三方ヶ原」が一瞬で壊滅状態に成っているのに、仮に守備兵の中に銃隊の一部が居たとしても「城守備隊」が「援軍」として向かわなかった事もおかしい。
「城」は負けては元も子も無しである。
なのに「山県昌景」はこの「基礎的な誰でも知っている戦略」からも逸脱して「判断ミス」をしていたのだ。
そもそも、「額田青木氏の南下国衆」と「伊勢青木氏」からすると、当初の「国衆に成る条件」からして「守備隊」と云う「国衆の立場・家臣化」には無かった。
「国衆に成る条件」を知らない「銃保持の守備隊説」は「青木氏の歴史観」からすると無いのだ。
仮に居たとして「三方ヶ原」が「完全敗退」に成り掛けているのに「城」から出て「武田軍の背後」に廻れば未だ崩せていた事も考えられる。
だとすると「額田青木氏の南下国衆の銃隊」も引き上げてはいなかった筈である。
「引き上げ」そのものが難かった事になろう。
況してや、「青木氏の銃隊」が「城守備隊」として「城」に残していたとすれば、早めに「城」から出て「背後」に廻れば充分に勝てていた事は考えられるが史実は遺していなかった。
「南下国衆の銃隊」にこの「役目を負わす事」の範囲が約束上出来ていなかったと観られる。
「青木氏の資料の行」から観て、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」とは「渥美湾の制海権の補償」と「三河の商いに於ける補償」を前提としての「契約」であり、「家臣と成る契約」では無かった。
だから本来は“「吉田城の守備の範囲」”が限界であって、それを超えての「一言坂の偵察隊」であり、「三方ヶ原の目的外の働き」であって、その後はすぐさま「戦線離脱」して「伊川津」に戻り「陸運業の準備」に入ったのだ。
“「城」に残してほしい”との話はあったのかも知れないが「城などに入る事等」は元々無かったし、あったとしても拒否していたであろう。
筆者は軍議の中で「城に一部を遺す事」の「松平側からの話」はあったと観ているのだ。
「三方ヶ原」に長時間に戦場に遺るのでは無く、思わず面前に現れた敵の「山県軍の別動隊の突撃隊」を打ち壊したが、この“「開戦」”と同時の「戦線離脱の行為」はそれを裏で証明している。
恐らくは、兎も角も、「南下国衆の銃隊」みならず「伊勢」も“「建前」”だけを執り“勝敗には関わりが無かった”のではと考えられる。
唯、先ずは「渥美湾の制海権の獲得」にあって、最低限に「松平氏の三河域の保全」にあったのであろう。
「駿河の浜松城」の次は誰でも判る事だが「東三河と来る事」は読み込んでいただろう。
その為にも、逸早く、「伊川津」に戻り「伊勢の得意の情報網・香具師」を張り“「防備」”を整えようとしたと考えられる。
その「防備の方法」にはいろいろあると思うが、先ず、「三河国衆」を辞して「陸運業」に転身して、「武田氏」とは「戦歴」を造っている以上は、「攻撃の対象」から免れる「戦術」を執った。
それ故に、「土豪3氏の分家」の「陸運業への参加」は「疑いを招く事」が強い事もあって、且つ、「内部問題も招く事」として「問題」と成ったのだ。
そこで、「商い」でありながらも万が一の場合として、社会が安定せず盗賊や山賊などが頻繁に横行する中で、この「銃で抑止力」を高めたのだ。
「籠城戦」から「野戦」に作戦変化した事で「一言坂の遭遇戦」で、一応は「目的・命令」は終わっていて、故に、“堀江の近くまで追尾した”のであって、「三方ヶ原の鶴翼の左側面」に着いたのは「将来の事・渥美湾の制海権獲得」を考えれば「様子見の建前」を果たしていたのだ。
筆者は当初、「追尾」は「使命が果たされた事」で「「伊川津に戻る過程」にあったのかとも推測したが、資料を読み込む過程で「三方ヶ原」に向かっている事が判ったのだ。
ところが、「二俣城」からの「山県軍の別動隊」の「鶴翼右側面」からの思い掛けない突撃にあい、取り敢えずは「目の前の敵」に「応戦」に及んだと成ったと観ている。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に執っては「一言坂と三方ヶ原」は「初めての交戦経験」であった。
これを「戦線離脱」と云えるかは別として、故に、「今後の事」を考えて「戦況」を確認して「交戦」を終えると、行き過ぎの無い様に直ぐ様に“「踵」”を返し、必要のない場から「戦線離脱」をしたのだ。
確かに“「戦線離脱」は恥ではある”が、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に執っては「当然の行動」であったのだ。
故に、「山県昌景の判断ミス」で「浜松城」で生き延びられた「松平軍」が再び拡大しても咎められる事なく、「伊川津」に其の侭に居られたのはこの所以でもある。
寧ろ、「咎められる処」ではなく、「伊勢の青木氏・伊勢屋」を背景にして「陸運業、開発業、殖産業」と経済で「三河」を大いに替え豊かにする事に成り、それに伴て「子孫」は拡大し、それでこの「三河の財力」を以てしてその後の「長篠」から「甲斐」へと迎えたのだ。
筆者はこれは過言では無いと観ている。
それ以後、「家康」とは、その後の紀州藩とは幕末まで“「水魚の交わり」”が続いた事が何よりの証拠である。
「伊川津」のみならず、それ故に、一部は「桑名」に帰したとしても「額田青木氏の主家の蒲郡青木氏」の「蒲郡」に「事務所」を構えて遺る所以と成ったと考えている。
それだけにこれ等から判断すると、「額田青木氏の南下国衆の銃隊・銃力」には、当初から“「軍に与える影響の威力」”には「密かな自信」を持っていたのだ。
現実には、「城」には「山県昌景の恐怖感」だけあって、「銃隊」は無かったが、将又、「別動隊の背後」から猛追して来る可能性の事も考えたかも知れないが、現実にはその様な立場には無ったのだ。
寧ろ、「別動隊の使命感達成」では、「浜松城を攻める事」以外に「武田軍の本隊」を護る為にも、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」を「別動隊に引き付ける事」の考え方もあったが、この為にも、逆に死に物狂いでの「別動隊の波動攻撃」を受ける事を「南下国衆の銃隊」は予想覚悟していた事にも成る。
故に、「南下国衆」から観れば、逸早く、「戦線離脱する方」が得策と観たのだ。
然し、「波状攻撃」をしようとして偵察すると、「伊川津」に向けて「戦線離脱している事」は確認できているので、結局は「向後の憂い」を無くして「城」に向かったのであるし、然し、城を落とさなかったのだ。
どの様に考えても「別動隊」と云うよりは、“百々の詰まり”は「山県昌景の行動」が可笑しいのである。
“信玄の病状悪化説”としても「勝頼・後継者」等もいると考えれば「城も落として置く方」がどう考えても良い。
兎に角もどの様に可笑しいのかと云えば、良い方に観たとして、“落とさずにいた”のは、筆者は、“敢えて家康を遺した”とも「一つの考え方」としては考えられるが、其れならば「三方ヶ原」で突撃しなければ良く、当初の予定通りに先に「武田軍の本隊」に合流する手は疑われずに済む事にも成る。
「陣形の採り方」から観て「勝敗」は「時間差」に依るもので勝利している。
「城を落とさずに引き上げた事・判断ミス」には、後刻、「甲斐・武田氏」の中で議論が分かれた筈である。
「勝頼」は、戦略上最も重要な「別動隊と云う使命」を果たさなかった「原理主義」を以て「山県昌景」を間違いなく信用しなかったのであろう。
其れなりの「知恵・判断力」は「勝頼」には充分に有った筈で、故に武田氏は二分したのだ。
筆者はこの説を採っている。
「使命」を果たさなければ各自思い思いの行動を執れば「軍略の意味」はそもそも無いだろう。
故に、その後の「武田氏の中」で「長篠」に対して「軍勢」を纏めるのに「国衆・豪族・史実」は割れたのだ。
この様に江戸期の「家康擁護説」もあるが面白おかしくして物語にした脚色説である。
何度も云うが「青木氏の歴史観」から観ると「山県昌景の判断ミス」が全てを左右したのだ。
その「判断ミス」を起こさせたのは、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」であった。
更に、その「判断ミス」を助長させたのは、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「戦線離脱」であったと説いている。
事程左様に、幾つかの歴史史観は、この「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の歴史観を考察の中に配慮していない事で起こる「後付けの搾取や偏纂説」で「誤り」を起こしているのだ。
取り敢えずは「後勘説」とはなるが、一応、検証して観る。
それは、信玄死亡後、「織田勢の伸長」が益々著しく成り、西三河は元より「東三河」も完全に手中に納め、「駿河」も手中に収める可能性があった。
だとすると、「武田氏側」は「織田勢を抑える」には「家康を生かす事」で“歯止めに成る”と「山県昌景」は考えたていたのではないかと云う「江戸期の説」もある。
要するに、興味本位の「後付けの我田引水説」ではあるが、其れならば“浜松城を攻め落としていた方がより確実”であろう。
つまり、「武田氏の中」で「三方ヶ原の後」に「山県昌景の判断ミス」を隠して、そうすれば、「今後の勝頼の東三河攻め」が容易に成るとする説を考え出したとしたのではないか。
「勝頼の能力」にも、“山県昌景等の重臣等は疑問を持っていた事”は「戦記」でも書かれていて、同時に勝頼からも重臣たちへの「信頼・判断ミス」が薄らいでいた環境の中で、「長篠の戦い」を避けて撤退を進言したが、「決戦に傾いた」としたとする説である。
この時、旧来からの旧臣達は“「織田の勢力の伸長」を憂いて、最早、「勝ち目」がない”として「別杯」を交わしたとある。
この「別れ杯」は実際に躱された事は史実であり、これに其れなりの意味がある。
つまり、「苦戦して負ける事」を覚悟していた事を意味する。
「武田氏の戦記」の幾つかでは、この時に「松平氏の調略」を進言したが「勝頼」は聞き入れなかったとしているので、上記の「山県昌景の戦略・判断ミスを隠す」は崩れたのであり、これ等が何よりの証拠と成るであろう。
それには、「山県昌景の軍師の脳裏」には、「三方ヶ原の苦い経験・判断ミス」があり、そもそも、自信のある軍師の”戦い方の善悪の勝敗・判断ミス”では無く、「軍略」に関わらない“銃の有無の勝敗”だとして「軍議の争点・山県派」を逸らしていたと云う事に成ろう
確かにそうであり、既に、「武田軍」は「三度」も銃に経験しているのだから、この事を意味するのは当然である事は否めないが、“「山県昌景の判断ミス」”は“「銃の威力」”から来ている事を軍議で示し、この様な「判断ミス」を犯さない様にするには、「責任転嫁」か「非難覚悟」で“銃の有無の勝敗”を主張した事に成ろう。
「銃の有無論」としても、そもそも、「三方ヶ原」のは「松平氏の銃」では無く「南下国衆の限定した戦いの銃」であった。
武田氏が三方ケ原後に「火縄銃」を獲得しようとしても「信濃甲斐」に於ける「税に対する国衆の不満」が高く、「高額な銃の獲得」は「銃生産量」は元より「銃シンジケート」で仕切られていたルートでは根本的に無理であった。
そもそも「織田氏」でさえも「火縄銃」は「雑賀根来の傭兵軍団の銃」に頼っていて、信長は「長篠後・1575年」に「雑賀根来との関係性・発言力を増した」は「悪化・1570年~1576年」して調略や戦いを開始し、「1577年・長篠2年後」に遂には「信長」に依る「雑賀根来潰し」が本格的に起こったのだ。
要するに、「三方ヶ原の3年前」から既に獲得の為の「調略作戦・7年間」が展開していたのだ。
呉越同舟で兎も角も「傭兵」としていたが極度に警戒していた事が判る。
そして遂には、これに決着をつける為に「秀吉」に依る「銃獲得作戦・1585年」が開始された。
結局、15年間で完全に「銃とその銃組織」は手中に収めたのだが、既に「三方ヶ原の傭兵銃の威力」も裏では「銃獲得の戦い」が行われていた史実なのだ。
この「雑賀根来の傭兵軍団の銃」の獲得に向けて大きな犠牲を払って「紀州征伐」を行ったくらいである。
その程度の事は情報で武田氏が掴んでいただろう。
この環境の中で裏ルートで多少の銃が入手出来ていたかも知れないが戦力には成らなかったし、「銃獲得」が容易ではない事位は、「税の問題」に依らずとも「無理の判断」は武田氏側では出来ていただろう。
そこで、この事から考えれば何せ「戦線離脱している事」は知っていれば、この「国衆の力は違う」の位の情報は掴めていたと考えられるし、2年5月後の「武田氏」にも「情報網の存在」は当然にあって、「三方ヶ原後」に「陸運業に転身している事」はこの期間であれば噂では無く「情報」として充分に掴めていた筈である。
故に、其の後の状況証拠から“責任転嫁であった”と筆者は観ているのだ。
だから「甲斐・武田氏と甲斐の国衆」は「三方ヶ原後」に二つに割れていたのだ。
つまり、「武田軍」には三河以上に「旧態依然の古い感覚」があり、「銃の認識」に極めて低いものがあり、「銃の数」にも「戦うだけの数」は到底無かったし、例え、「調達の充分な財」があり、且つ、「銃の認識」が強くあったとしても「生産量とシンジケート」から無理であったのだ。
この「当時の外国製」は「銃身の爆発」が多くあり、高額ばかりで信頼されていなかったし、「貿易」は限定されていたのだ。
「外国製の火縄銃」は、そもそも「西洋で新しい軍用銃」が開発され、そこで不要と成った「中古の火縄銃」を高額で最初に種子島に持ち込んだのだし、「貿易」で新しい幾つかの「軍用銃の見本」も秘密裏に入っていた事も史実である。
従って、それ等の「全ての諸事情」を憂いた「別れの杯・杓別杯」であったとし、これを美化であろうが、「戦記」ではこの様に定説化にしているのだ。
「山県昌景・判断ミス」を裏返しする程に、反省し恥てそれほどに「強い銃の感覚」を「三方ヶ原」で持ったし、「武田軍本隊」に居て「吉田城や一言坂」で経験した多くの他の将も「長良川の情報」や「自らの三度の経験」を通して、「強い銃の威力感覚」を持っていたから、「憂いの別れ杯」と成ったしているのだ。
然し、そもそも「長良川・1556年」で初めて使った事で「自信や確信」を持った「伸長する信長の感覚・雑賀根来の銃傭兵軍団」は全く反対であった。
「長篠」では“それが決め手と成る”と感じ執っていた事を「憂いの別れ杯」は意味するのだたろうか。
それは、「三方ヶ原等の戦い」等で経験していたので、、「山県昌景の軍師の脳裏」にはこの事が走馬灯の様に浮かび、矢張り「雑賀根来の銃傭兵」が「決め手」と成ったのだ。
「長篠」では「織田軍の火縄銃の威力」が統一して記録されているが、「松平軍の銃力」は全く記録されていないのは、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、既に、「三方ヶ原」で逸早く「戦線離脱」して「伊川津」に戻り、「陸運業」に入った事で、「フリントロック式改良銃」は「青木氏の記録通り」に「松平軍」に渡していない事に成る。
これを使うには、「高度な熟練」と「弾丸や黄鉄鋼の入手」等の「貿易による調達」が必要であつて、且つ、「手紙の行を読み取る事」でも判るが、未だ「安定しない社会」では「陸運業の護身用」として「伊川津」で生き延びて行くには、“「抑止力」”として持っておく必要があったのだ。
仮に「松平軍」にこれを渡して入れば、「織田軍の火縄銃以上」に記録に成っていたであったろう。
現実には、「危険極まりない銃の勢力」が隣にいると成れば「織田氏」はこれを許さなかったであろうし、当然に戦いと成っていただろう。
そうでなくても現実にはこの方向に動いたのだ。
「三方ヶ原の戦い」とは別に、この「改良銃」を「松平軍に渡す事」で、「織田軍の火縄銃の傭兵銃・1000丁・10倍」と「松平軍のフリントロック式改良銃・300丁・20倍」の「対決」と成っていただろう。
因みにこの仮説では、「勝負」は「火縄銃の非移動式と弾幕の間隔差」と、「可動式」で「連射弾幕の差」と「命中率と被弾距離」で、「松平軍」は近づく事なく勝利していたであろう。
要するに、最早、其の後の「南下国衆の銃」を「松平氏に渡さなかった理由」は、「唯単なる撤退・判断ミスの経緯」だけでは無かった事が判るのだ。
「渡す事」で戦略的に何が起こるかであり、それが「青木氏」に於いての「利」にあったのだ。
渡して「松平氏」が「銃による兵力」を拡大させて伸長する事を良しとしては居なかったと観ている。
「織田氏との勢力争い」を起こし「渥美湾の制海権の獲得」が成し得なくなる危険性があったからだ。
現実にはそう成って行ったのだ。
筆者は、「武田軍の銃の感覚」が「経験」から強く成って行った時期の過程にあって、ところが逆に「武田軍・勝頼一派」にはこの「銃の感覚」は未だ薄く「山県昌景への判断ミスの不信感」と共に増幅し、家中ではこの「感覚差」とで争う中にあったのだ。
従って、共に「戦力と成り得る保有数」も無かったのだ。
「武田氏の中」では故に「三方ヶ原後の軍議」では激しい議論があったと予想できるし、「武田氏側の戦記」もこれを記している。
「信濃も獲得していた武田氏」には、信長の様に金に糸目を着けず「銃の獲得」は出来ずとも、「生産地の雑賀根来のシンジケートの傭兵」を「高額の金銭」を払って雇ってでも、「勝利」と云う一点に焦点を合わせ戦った事に違いが出たのだ。
勝利さえすれば元は取り戻せると云う「合理主義」にあった。
故に、直前の「信長」も「長良川の一件」が無ければ、ここまでは「銃への信頼」は無かったと考えられるのだ。
この様に、“「銃の存在」が「戦いの勝利を左右する事」”から「銃の戦記」として江戸期に書き添えると云う事が頻繁に起こり、その為に「松平氏の銃」は要するに「額田青木氏の銃」であったと誤解された。
「江戸期の戦記」では上記したような銃の環境下にあって「銃を獲得する高い経済力」も無かったにも関わらず、これを「松平氏の銃」と見間違えて描いた事に成る。
「1573年」に既に「南下国衆」が引き上げて離脱して銃力は無くなっているのに、未だ“保有している”と勘違いしていた事に成る。
念の為に史実は、次の様に成っている。
「銃の最大生産力」とその「一丁当たりの金額」と銃を外に漏れない様にして「銃のシンジケート」を構築して「傭兵需要」を保全していたので、「入手」そのものが難しかったのだし、「2000両/1丁と云う高額・初期は4000両」でもあって、「輸入」も同然で「秀吉の刀狩り」までの事であるし、「織田氏」でも「生産地の雑賀根来の傭兵」であったのだ。
仮に、戦記の意味の様に獲得できても「銃隊」を編成出来る程はそもそも無く、「近江からの横流し」からの獲得量が関の山で少量あったのだ。
後にこの事が「伊勢青木氏」に発覚し、「堺」を経由して近江には「資材の供給」を停止している。
この為に、「近江銃・龍源寺銃」は崩壊し、「真面な鍛冶師」は殆どは「伊勢青木氏・青木氏部」に引き取り、「横流しをした一部の者」は史実として「薩摩」に逃げ込んでいるのだ。
「殆どの戦記」は、この事の史実に間違えていて、入手出来たのは「信長の紀州攻め後の事・織田氏が獲得」である。
そう云う意味で、「三河戦記の五戦記」には、「額田青木氏の事」が「戦死者や戦場や伊川津の事」も含めて記されてはいるが、江戸期初期には「幕府の銃規制」があって「戦記」に書かれている程に「大量の銃の期間・刀狩りまで」は極めて短く、「銃の意味」が無ければ態々「書き足す事」は無かった筈である。
故に、江戸期に成って「多くの戦記」には「後付けの銃の事」を書き足したものであるが、「額田青木氏の事・南下国衆の銃」は「書き足される事」は無かったのだ。
これが「青木氏の資料」には遺されているとしてもである。
「長篠の戦い」がこの期間内であって、その後に「雑賀と根来の傭兵軍団」は上記した様に「銃の持つ惣国」の集団として「紀州征伐・信長と秀吉」で潰され、直ぐ後の“「秀吉の刀狩り」”で「銃」は「法度」に成ったのだ。
更に、「家康」が江戸初期初期に“「銃規制」”をして封じ込めて全く意味が無く成り、「銃の価値と値段」は底を突き無く成って仕舞ったのだ。
仮に持ったとしても貿易に関わる程の勢力との繋がりがなけれは銃は使えなかったのだ。
丁度、この“狭間”に「武田氏の銃事情」は置かれていたのだ。
故に、「入手の事情」と云うよりは当時は“「傭兵への事情」”として扱われ、「武田氏の中」では「議論が別れる処」と成ったのだ。
「信長の長良川の印象・火縄銃」と「3度の実質経験・南下国衆の銃」が「武田氏」を二分し、その基は「山県昌影の判断ミス」が引き起こしたものであったと「青木氏の歴史観」としてはどうしても成り残しておく必要があるのだ。
然し、これが「額田青木氏と青木氏族」に執って「良い方向」に事は運び「永遠の運」を掴んだのだ。
因みに、この時、「南下国衆の銃の陸運業」は、完全放棄せずに実質に使われる事は無かった様だが、「護身用・抑止力」として一部を密かに保持し、残りを「伊賀」や「秀郷一門」に「大量の備品・弾、黄鉄鉱」と共に「下げ渡している事」が読み取れる。
この「南下国衆の銃の陸運業」の「戦歴の持つ威力の事」は瞬く間に全国に密かに拡がり襲うものは居なかったであろう。
資料の陸運業の事の行には、「国と国を渡る運送」には「宿」で密かに隣のシンジケートと交渉をしていた事が記されている。
この経緯に依って「伊豆や信濃との道」は出来て「青木氏族」は生き延びられたのだ。
此れさえ出来れば「下げ渡す事」をしても「効果」は認められ、生き遺っている「全青木氏族」は護られるのだ。
「青木氏の歴史観」として「三方ヶ原の経験」は無駄ではなく「良い方向」に向いたのだ。
何を兎も角も、躊躇なく直ぐ様に執った「戦線離脱の行動」が効果を奏したのだ。
同じ「一瞬の判断」でも「銃」に頼らない「青木氏族」は、生き延びて子孫を拡大させ、疎遠であった「甲斐青木氏」を含む「武田氏」は滅亡したのだが、この「山県昌景の判断ミス」とは相対的であるのだ。
これが「青木氏族」に遺した「始祖の施基皇子の教訓」の「青木氏の氏是」の意味する処なのである。
躊躇なく直ぐ様に執った「戦線離脱の行動」では無く、其の侭に「山県軍の別動隊の追尾」や「武田軍の本隊」に向けてこの「銃口」を向けた場合は、間違いなく「歴史」に名を遺し、周囲から警戒されて其の侭では済まなかった筈で、泥沼化していた事は間違いは無いのだ。
これは「青木氏の氏是」の「発祥以来の伝統」に反するのだ。)
「青木氏の伝統 61」-「青木氏の歴史観-34」に続く。
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