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先祖と宗教(キリスト教の教え 9ー10 主題5)

では、キリスト教の設問として、⑧番の続き、⑨の問題の説明に入ります。
設問
① 他宗を少なくとも先ずは強く排他している事。
② 教えがかなり強引である事。
③ キリスト個人を神扱いにしている事。
④ 兎に角にも、”先ずは信じよ”である事。
⑤ 人は全て悪の子供であると否定する事。

5「仏教とキリスト経の妥協の余地」
⑥ 中間的考え(柔軟性)は無い事。
⑦ 全体が闘争的な発想に成っている事。
⑧ 特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。
⑨ 先祖に対する考えは全体として希薄である事。
⑩ 「民族的」と言う考えを認めていない事


⑨番目の事です。(先祖に対する考えは全体として希薄である事)
この事は当然のことかも知れないし、⑧での論文としても充分考えられる事であると思います。

「数理的、合理的、論理的」(以後、定理とする)であるとする事は、「先祖」と言うテーマに対して、この思考を入れた宗教にすると、「定理」であれば不確定要素の多い「先祖」に対して説明が付け難いことに成ろう。又、付けたとして教義の矛盾が生じるであろうと思います。

兎に角、「先祖」に対しては、前論で述べた様に、世界の多くの民族の「先祖」には、その民族の特異性が必ずあり、且つ、譲れない、否定出来ない、事柄を持っている教義に成ります。依って、キリスト教としては何処の民族でも通用する「先祖」に対して一つの定型的な「定義と教義」を作る事は出来ない筈であります。

一民族の中の教義であれば、可能でありますが、全世界に布教伝導と言う野望と言うか考えが有れば、共通項である事が望ましいと言えるでしょう。

その根拠として、次のような事に成ります。
そもそも、ヨーロッパは人類学上、元を正せば2つの人類猿から出来た民族で、その融合民族の合わせた3つの民族から原則構成されているし、それが、更に、その3つはヨーロッパを東西南北に分けた形で枝分かれの4-5つの民族の人類から出来ている事に成ります。
キリスト教はそう云う意味で、ヨーロッパの民族に布教するとすれば、民族的に統一性のある教義とする必要があり、遺伝学上の「思考原理」から、上記の定理の原則が出来上がると言えます。

この2つの理由は、その人類猿期の厳しい極寒の「自然環境」から来ていると言われています。
その2つに成った人類猿の原因は、この環境から生き延びる為に選んだ要素が「食種と住宅」であったとし、2つに変化したと言う最近の学説であります。

一つは、極寒の自然環境に対して、岩盤地域が多く草食に適する南地域に移動して、菜食と岩盤下の竪穴住居とそれを最も補える集団生活を選んだのです。
一方は、狩を中心として肉食の出来る北の地域を選択して移動して、肉食と毛皮に依るテント住居方式を取り狩を行う為に大きく一箇所に集団する形式は採らなかったのです。
この結果、後者は、むしろ逆に、積極的に極寒の自然環境を逆手に取った方法で生き延び、前者は、極寒に耐える消極的な手段を採った事により、生き延びたのは少数と成ったのであります。

それは概略は次の通りであります。
この時、環境に対する進化として、この2つに成った人類猿は、必然的に、その体型と骨格と生理機能を変化させました。
そして、この2つの人類猿に合ったその生活に於ける習慣と規則を創り上げました。
前者は、体型をより小さく丸くし、頭型は四角形とし、肩から後頭部に掛かる筋肉と顎に掛かる筋肉を異常に大きく発達させ食利用の事情に合わせました。
岩盤竪穴式から移動を少なくしてエネルギー消費を小さくし、暖房して身を守りました。この結果、生理機能の変化を少なくし、繊維素の衣服をまとい、現状の体型と生理機能を守った為に進化は遅れました。

後者は、体型をより大きく高くし、頭型は逆円錐とし、胸と肩に掛かる筋肉を大きくし狩に適した体とし、体全体を毛深くして身を守りました。そして、体の周囲に脂肪をつけ筋肉を守り、胎盤、腰盤を大きくし、皮膚の血管を中に入れて、眉毛を深くし、冷気を肺に直接入れないように鼻は長くし下向きにして、額を前に出して目を守って極寒から身を守りました。頭髪は雪日の光に適して茶髪とし、目は光から耐えられるようにブルーとして進化させたのです。

双方はほぼ逆の対策を採りましたが、極寒環境に対して進化を大きくした後者が大きく生き延びたのであります。
前者は、南地域に一部生き残り、一部が北に移動して後者の方式をとりました。この一部が、後者との血縁融合を図り、東に第3の民族を形成したのであります。
そして、遂には、この第3の民族と後者の民族との融合、前者と後者の境界での融合が起こり民族は形成されたのであります。

必然的に、その生活環境から思考の原理は異なる事に成りますが、しかし、その基盤となる自然環境は同じである事。極寒の範囲の活動も小さい事など人間関係の「しがらみ」は、共通する規則的条件が強かった事等から、思考する原理は、「自然と行動」の関わりから、又、精神面からの「しがらみ」が少ないことからも、進化として数理、合理、論理の共通の定理思考となったのであります。

しかし、これとは別に、アジアでは、このほぼ逆の自然環境から「自然と行動」も活発とされました。
(詳細は研究室の日本民族の形成過程の論文参照、また、 大化改新のレポートにも記述)
それ故に、仏教では、言うまでもなく、この「先祖」に対して真正面から「定義と教義」に取り組み取り入れているのです。
それどころではなく、この世の人間、そして、その人間が死して「4つのみ」から抜け出し、「仏」となり、遂には、「神」となるのであります。そして、この職神の神の元締めとして「万能の神」が存在し、この「仏」は自己の民族の「先祖」で有るとするそれを「教義」の大前提にしています。

仏教は、歴史的に、インドを始めとして、アジアを中心に東日本に布教して来ました。中国、韓国の儒教も根底とする教義の所は大きく変わってはいないのであります。
ただ、物事に付いて、仏教より「極端」というか「厳格」と言うか「硬直性」というか「明確」とした所があるだけであります。(江戸時代に一時活発になり、最後は禁令になりました。しかし、日本人の生活に深く残りました)


このキリスト教と仏教の差は、上記の様に、その民族の根源の差にあると見られます。極端に言えば、進化の過程の「猿の根源」の違いにあるとも言えるのです。
それはピネカントロプスとネアンデルタールの違いと成り、更には、コルボックスの移動経路の所に出来た民族と、極寒のヨーロッパ大陸の移動経路の民族の違いであろうと考えます。

そこで、先祖を教義に入れるアジアの民族の根拠は次の通りであります。
この件に付いては本サイトでも何度も記述してきましたが改めて概容を述べます。(研究室のレポート参照)

コルボックスの移動経路の所に出来た民族は、東アジア、南アジア、シベリヤ、アラスカ、北アメリカ、南アメリカ北部までへと移動しましたが、全てのこの民族は、元は全て、コルボックスの民族で一族で縁者兄弟であったのであります。
これは遺伝子的に証明されているのです。

日本の7つの民族の融合族の一部と南アメリカのインカ帝国の末裔との遺伝子は完全一致している事が国の機関で証明されています。(移動経路は同じところで分離した)
これはインカ帝国の末裔のみならず、その民族の人々と遺伝子が共通していることを意味するのであります。

そして、更に、この一つと7つのうちの3つと一部異なるがほぼ一致していることも判っていて、分離した南に進んだ一族とは元は一族が分かれた分離点のところでは縁者である事を証明しているのであります。

この様なことから、この7つの民族は結果として更に融合したが、その内5つの民族は、基は2つの経路から入った一族であった事が証明されています。
真に、これは大ロマンであります。
大昔、分かれた家族は長い年月の末に他民族となり、再び、一つのところで出会い、又、日本で民族を構成したという事に成ります。
日本人は7つの融合単一民族と成っていますが、突き詰めると、ほぼ一族分離点のところでは一つの民族であった事が言えるのです。

これは遺伝子の成す所以であり、人の成した所以ではないので有ります。

それ故に、「融合」と言う今だ世界どの民族も成し得ていない事を成し得たと言える民族なのです。
つまり、長い人類進化の歴史の中で、「先祖」が再び交じり合ったと言う不思議な事にも成ります。
この様な自然が一致したほぼ統一した遺伝子を持つ民族が成す思考は、環境から進化した遺伝子であり、自ずと必然的に同じとなるでしょう。

人類移動先で長い間にその元の「先祖」を祭り維持してきましたから、再会したとしても、同じと成れば、「先祖祭り」の遺伝子は共通したものとなるのは当然の事に成ります。
これが、「人-仏-神」とし、「先祖」をその教義の中核に据える教義としたのであろうし、仏教徒の民は遺伝子レベルからしても充分に納得しているものであろうと考えます。

況や、インディアンやインカやマヤ、アステカなどの文明もその原点に先祖を据えて崇め奉るという宗教行為をしています。
そして、天に届く高い塔を建て、天の先祖とのつながりのモニュメントを造り祭祀しているのは、同じ宗教行為であります。

特に、東アジアの全人類の「先祖」は、アフリカを出て、ヨーロッパ南岸を伝いアジア大陸を渡り、カムチャツカの東岸壁のところに辿り付いた家族で、彼らは北と南と西とに分かれたその時の家族と成ります。
この時点での「先祖」とすると、インカやマヤを含めた東アジアの民族も同じ「先祖」を崇めている事に成ります。
身を裂くような辛い家族の別れの中での事であったから、何れの民族も同じこの時の先祖に対する尊敬と崇めから「心の支え」とする祭りを続けて来た事に成ります。
その証拠に、人類上、最初に、この人類猿の北京原人の祖は死んだ先祖の墓石をつくりそれに花束を捧げた遺跡が遺されているのです。
ヨーロッパの民族にはこの花束を墓に手向けると言う行為の遺跡は人類となった時期の最近であります。
中でも、我が日本民族は、アジア民族の中でも「花」に対する意識が一際強くその花の多くは「仏花」として扱っています。
世界に紹介されている日本民族の教科書には、この事は書かれており、ふ大変「花」を好む民族で、その花に対する固有の文化を持っている”と紹介されているのです。全ての文化には必ず「花」の作法が添えられていると紹介されています。
つまり、「花」は「先祖」との「心の繋がり」の手段としているのです。
我々は無意識にこの作法としていますが、他民族にとっては格別な作法なのです。
それは、北京原人の遺跡から見られる様に、先祖への尊敬と尊厳の繋ぎとして、7つの民族が持つ統一した作法であったからであります。
大事な事は、人類猿が、「死者」に「墓石」を造り「花束」を手向けると言う行為の意味する所を考慮すれば、「先祖」と「仏」の教義の設定は、はるか宗教以前のものと成ります。

即ち、結論として、仏教の「先祖」「仏」は、人類猿からの元からの譲れないアジア人類の思考を超えた定理である事が言えるのです。

日本人と同じ遺伝子を持つインカ、マヤの文明の人たちの「象徴」が「先祖」であると言う事は、ヨーロッパの民族とコルボックスのアジア民族の思考原理の差の何物でもない事を物語る証拠と成ります。

この様に、仏教で言う「悟り」とは、「遠祖」からはじまり、その「先祖」の「生様の知識」を知る事により、そこに「驚き」と「敬い」と「感謝」と「崇め」の「心の念」を得る事にあります。
この「悟り」の範囲は、その「悟り」が「知識」と「理解」の域のものでも良いとしていて、その中から日々少しづつでも「真理と心理」を得られることが出来れば、それは「悟り」であるとしているのであります。つまり、「先祖」を知る事は「悟り」の第一歩と成るのです。

参考として。
キリスト教の創設一団(3人)が中国に入り、勉強して帰ったとする証拠が遺されていると文献で見た事があります。この中に、キリストが居たとの学説もあり、この時、「人-神」としていたキリストの教義を、仏教の「人-仏-神」とする教義を見て、同じにする事が上記の理由から出来ず、「魂」と成った「仏」に対して、そこに、「霊」というものを存在させて「仏」に見合うものとして「悪霊と聖霊」を造り、その「聖霊」の働きを強くして仏教の「悟り」と言うものを用いて「聖霊-悟り」として「人-霊-神」と修正したと言う学説も有るのです。
本来、上記に記述した彼らの民族構成上の所以から「霊」が存在すると言う思考はないのである。

参考として。
最近、アメリカでは、キリスト教の中で、仏教を信じる人、又は、興味を持つ人が急速に増加していると言います。
日本の食文化と相まって急速であると言います。
最近のニュースでは、仏教の先祖を真似てその価値を認めて、ルーツを調べるアメリカ企業が増えているとのことです。
余り、重要視されていなかった「先祖」を見直していると言うのです。


矢張り、これは、余りの世の中の付加価値の増加で、キリスト教が言う「数理、合理、論理」の式の通る世の中では無く成ったことから、人は心の癒しとして、先祖、仏の論理に目を向け始めた現われであると彼ら自身が認めているのであると考えます。
これは、別の面で、キリスト教がそのやり方で世界の国から嫌われている事への反省から、他の民族の譲れない教義を認識して居る証拠でもあり、架空の証明できない悪霊と聖霊の定義に対する疑問が生まれたのではないかと考えます。
そこで理解できる先祖と仏の定義に目を向け始めたと考えられられます。

ロケットで火星等の惑星の内容がわかる時代に、人間の脳医学の発達で2つの脳器官の存在が解る時代に、悪霊聖霊の論理は人を説得するに難しく成っているのではないでしょうか。
その点で仏は現実のものとして理解できるからではないかと思われます。

その意味でこの設問は意味があると思いますが、如何でしょうかう。


では、キリスト教の設問として、⑨番の続き、⑩の問題の説明に入ります。

設問
① 他宗を少なくとも先ずは強く排他している事。
② 教えがかなり強引である事。
③ キリスト個人を神扱いにしている事。
④ 兎に角にも、”先ずは信じよ”である事。
⑤ 人は全て悪の子供であると否定する事。

5「仏教とキリスト経の妥協の余地」
⑥ 中間的考え(柔軟性)は無い事。
⑦ 全体が闘争的な発想に成っている事。
⑧ 特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。
⑨ 先祖に対する考えは全体として希薄である事。
⑩ 「民族的」と言う考えを認めていない事


⑩番目の事です。(「民族的」と言う考えを認めていない事)
⑧や⑨番の内容で大方を説明していると思いますが、「宗教」と言うものがどう言う質を持っているかここで考えてみたいと思います。そのことで「民族的」の設問を解けるのではと考えます。

そして、それが、「民族として譲れない事」即ち、”その民族の特異性が必ずあり、且つ、取り除く事も出来ず、否定出来ない、事柄を持っている”と言う事を裏付けることが出来ます。

先ず、その前に、宗教とは、どの様な質があるかを考えて見ます。
① 人の悩みを救うと言う質がある。 環境と衆議の力で人の「4つのみ」と「しがらみ」を解き心を癒す事が出来る。
② 人の差、即ち、人格を作る質がある。 教義を理解し、世の成立ちを知り心理を得て人の格を高めることが出来る。
③ 心を沈める質がある。 黙然し念仏する事で心を冷静に保ち人の道を守る事が出来る。
④ ものの「理」を知る質がある。 教義から人間社会に必要とする「理」(条理)を把握する事が出来る。
⑤ 集団性を増幅させる質がある。 教義を基に民の心を統一して事を成す集団力を作りだす事が出来る。
⑥ 祭祀などの宗教文化を構成する質がある。 宗教行事から祭祀を通じて民の癒しの場処を作りだす事が出来る。
⑦ 殖産技能を発展させる質がある。 宗教行事からあらゆる技能の第一次産業を発展させる事が出来る
⑧ 独特な軌範を造り守り高める質がある。 教義から生活の軌範(信義、徳義、道義)を造り民を導く事が出来る。
⑨ 政治の基盤を補足する質がある。 教義から政治信条を模索して民の基盤を補足し安定させる事が出来る。
⑩ 生活リズムを起動する質がある。 先祖、仏、神を祭祀する日々のリズムから生活を築く事が出来る。
⑪ 病理薬事治療を治める質がある。 薬膳料理や食習慣や漢方薬などの開発や病理の解明などを進化させる事が出来る。
⑫ 記録的事務を編集する質がある。 過去帳や歴史の史実の編集などを遺す事が出来る。
⑬ 天象予測を成す質がある。 天と地の成り立ちを把握して気象情報などを予測する事が出来る。
⑭ 芸術文化を育成する質がある。 宗教的な目的から絵画、工芸等の芸術を発展させる事が出来る。
以上の様な事柄が考えられます。

①から⑭までの質を列記し、その注釈を記しましたが、宗教には人間社会のあらゆる場面にその力は浸透し、それが大きな基盤を担っていることが頷けます。

人の心から始まり、生活、技能、政治、工芸、芸術、科学、情報までに及んでいます。
当然、これ等は、その宗教の教義の範囲で発展して行くものである事は否めず、そこには、教義の独特な思考が大きく左右する事になります。
人間社会の多くの範囲に浸透したこの特異性は、子々孫々に引き継がれる事になり、⑨番の設問で記述した自然環境から来る遺伝的なもの以外に、遺伝子的伝承とするまでのものと成ります。

これを他の宗教、例えばキリスト教の教義が入ったとしても、これだけのものを変化させる力は無いと考えられます。
仮に、キリスト教に帰依するとしても、そこには「生活リズムの大きな犠牲」と、「民族の思考の歪み」を負担せねばなりません。
⑨番の論説と含んで、上記の事柄から遺伝子的思考からは逃れることは絶対にできません。
”遺伝子を自らの体で変える事が出来る”とはまさか言う人は居ないでしょう。
もし、居たとしたら、それは狂気とする以外にありません。

日本に居て、その遺伝子を受け継いだ者が、キリスト教を信じるという事は、遺伝子レベルから来る思考原理に歪みを負わせると言うことに成ります。
歪みを背負い信じることは自由であります。しかし、「歪み」を背負い「信じる」という行為は自然の行為とは見られません。
世界の他民族から警戒されている現象は、ここにあるのではないでしょうか。

米国では、最近ニュースでも紹介されているが、先祖を見直す事が起こっている事(青木サイトに2度4世の方から依頼があった)や、仏教に帰依する事、日本文化に親しむ事が増えているのは、真さに、教義に反発して”周囲と調和して「自然の信心」”を目指し始めているのではと考えます。

”汝 罪深き”悪の子よ 信じよ されば救われん” の教義から来る”「民族性」を軽視した”歪みを背負った信心”は一考に価するのではないでしょうか。

私は、「一考する」は教義の変更だけではなく、彼らの民族の持つ遺伝子をも変えなくてはならず、「不可能」の結論と成るのではないかと思っているのです。

もとより、「教義の良し悪し」の問題では無く、又、誤解で彼らのプライドを傷つけることにも成るので、但し、私の考え方の”周囲と調和して「自然の信心」を是とするのであれば。”を追加します。

① 他宗を少なくとも先ずは強く排他している事。
② 教えがかなり強引である事。
③ キリスト個人を神扱いにしている事。
④ 兎に角にも、”先ずは信じよ”である事。
⑤ 人は全て悪の子供であると否定する事。

①から⑤の「教義の違い」はある事の是非は別としても

⑥ 中間的考え(柔軟性)は無い事。
⑦ 全体が闘争的な発想に成っている事。
⑧ 特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。
⑨ 先祖に対する考えは全体として希薄である事。
⑩ 「民族的」と言う考えを認めていない事。

⑥から⑩に付いては、
「先祖」、「民族性」、「非合理」、「融和」、「柔軟性」の思考は、色濃く持つ事の是非の論議にもなりますが、ともあれ、我々日本人には、生活習慣の真底まで浸透したものである事だけは、(余りの当然性の為に無意識となり、)否めない事実であると思います。ともあれ、他宗を信じるという事は、日本人が持つ遺伝子的な違いを無視し、その結果伝統を意味する「歴史や先祖意識」が薄らぎ、「矛盾をはらんでの信心」となるのではないでしょうか。
政治で言えば、共産主義の「歴史否定」主義に匹敵するものであろう行為に類似するものと思います。

以上、「人-仏(先祖)-神」の「先祖」というものに対して、キリスト教と対比させて、「仏教」をクローズアップさせて論文を進めてきました。

本論は青木氏の投稿者から提示された疑問(主題1ー5)に関して、その中の詳細な議論(設問1ー10)に対するやり取りを整理して掲載したものであります。しかし、現代の社会に持つ病巣というかテーマが本ブログの「先祖」と言うテーマに合致していた為に、散文ではありますが、ブログをご覧になる方々に敢えて青木氏氏のHPを超えて提示したものであります。

本論中、キリスト教を対比手段として用いました事は、但し、キリスト教を低く評価するものではなく、「仏教」と「違う」という事を科学的論処と含めて明確にしたものでありますので重ねて注釈します。

「先祖と宗教」論文のその位置付けをご理解いただけたでしょうか。
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先祖と宗教(キリスト教の教え 8 主題5)

次は⑧番目の事です。(特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事)

5「仏教とキリスト経の妥協の余地」
⑥ 中間的考え(柔軟性)は無い事。
⑦ 全体が闘争的な発想に成っている事。
⑧ 特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。
⑨ 先祖に対する考えは全体として希薄である事。
⑩ 「民族的」と言う考えを認めていない事

本論の事の始めとなった投稿者のご設問の主要部を引用します。

先ず、”罪と悪は違う”の件”と、次は、”私は:人間は肉体を持った魂である。と解釈しています。肉体は朽ちて死にますが、魂は霊の存在に関わります。霊は人間ではありません。霊魂は様々です。悪霊もあり神様もいます。魂は霊に影響を受けます。聖霊は悪霊を近づけません。
人の魂は聖霊に導かれる時に真理を悟ります。---悟り--すなわち理解と解釈しますかな!”の2件です。

宗教論議は多分答えは出ないと思いますが、信ずる所であればよいと思います。

そこで、この説が、仏教とキリスト教の違いのところと考えます。

先ず、1番目の件では、汝 罪深き悪の子よ、信じよ さらば救われん。より、
”罪と悪は違う”の件”のこの分け方が問題です。
合理的ですね。
多分、日本では、仏教でも、罪は悪の中の一つの性(ごう)です。

仏教では、前レポートでも記述しました仏教の人の性(さが、ごう)即ち「大意の悪」としての「4つのみ」から生まれる「罪」は「悪」の所業の一つの形ですが、仏教では、人が持ち得る「4つのみ」は「罪」とはせず、それは、「性」(ごう、さが)で有るとしています。
キリスト教はこれを「悪」としていると考えます。
仏教では、本来、だれでもが持ち得ている「性」だから、故に罪では無いとしています。
つまり、これは「人としての有りの侭の姿」ではないでしょうか。
これを、仏教では、”殊更に「罪」「罪」とするな”としているのです。
この教えの影響を受けて、日本人は「悪の形」として分けないのではありませんか。私も罪は総意の悪の所業の所以の一つだと思います。
更に、進めると、仏教問答では、”仮に罪なるものがあるとするならば、それは日頃の所業の成す精進で消えうせる”としています。”故に拘るな”で有ります。
真実、実生活では、「ごう」(性)を成し、それを精進で消しているのでは有りませんか。すいません。ごめんなさいとして。そして、日々、仏壇の先祖の前で、正座するのではありませんか。
ただ「正座する」と言う姿は「座る事」の意味だけですかね
この正座と合掌は、「ごう」(性)の姿を「正す基本姿勢」ではありませんか。
神社参り、お寺参り、墓参り、法事、命日、日々の仏壇の前で、「先祖の仏様」に謝意、感謝の心を表現しているのですよね。

一度、我々は、特に還暦を過ぎた者は、先ず率先して、心静かに、日頃の自分の「生活の所作」の意味を見つめてみる必要がありませんかね。その一歩から社会と環境が変わり始めるのではありませんか。

キリスト教徒の彼らもクロスを切るのと同じでは有りませんか。既に、それで「罪」的なものを洗い清めている姿ですよね。
しかし、まだ、キリスト教では罪と悪を分けるとするのでしょう。合理的な教義の所以からですね。
しかし、どちらでも良いと思いますが。「人としての差」を無視するのであれば好みの範囲でしょう。

次には、キリスト教の”人間は、肉体を持った魂”に対して、仏教では”肉体と魂を持った”と成ります。
これも本レポートで記述しています。

”霊魂”の霊の設定ですが、仏教では魂は仏と成りますので、仏教では原則ありません。
これは、仏教では戒めのために霊を悪と聖に分けることがあるとするならば、それは「迷信の世界」の設定でここでは取り上げない別次元の事です。

先ずは、論議はこの「ご利益宗教」と「迷信宗教」とは別にする必要があります。

確かにキリスト教はこの霊を用いての法話をしてよく導く事をしました。若いときは納得でした。
しかし、歳をとり経験が進み世の中が見えるようになると、”変だな?”となります。

次のこの行のところですが、
”他次元に於いて、物質=エネルギーと相対の原理が成り立つ”
”霊は人間ではありません。霊魂は様々です。悪霊もあり神様もいます。”
”魂は霊に影響を受けます。聖霊は悪霊を近づけません。”
”人の魂は聖霊に導かれる時に真理を悟ります。---悟り--すなわち理解と解釈しますか”

では、以上の3つのことですが、「悪と聖」を分ける論法はキリストの説法方式ですが、仏教では「拘り」と成り、「人のなせる業」ですので区別せず同格です。

最後のお話ですが、
”物質=エネルギー”のお話が⑦-1のところにありました。
”相対の原理”に付いては、他次元世界の範囲内では論外であります。物理学は未確定の論域までの定理と定義ではありません。
「相対の原理」の範囲は「現世と彼世」との範囲では成立するものですが、現世の世界では論理的確認は出来ますが、一方の彼世の世界の中では、更に、この「相対の原理」は未確定の領域ゆえに誰もそれを論理的に証明する事は出来ません。ここまでの域まで「相対の原理」を持ち込んでの説法は飛躍があり理解が出来ません。

多分、論理性を教義に強める手段として、これの論法をキリスト教が説話する際に用いたことだと思います。確か、私も聞いた事があります。物理系の学生であったので、宣教師と大議論になった事です。

しかし、「相対の原理」は+と-の両極の原理を説いたもので、+の質があればその表裏一体として-の質があり、その質の当量は等しいとする定理です。(例 オス、メス)
「相対の原理」では、キリスト教が言う消滅は、物質を+とすると相対の-は消滅するところまでを意味しません。
ただ、しかし、論理的、物理的には、「エネルギー保存の法則」に従うと言う前提では-側をエネルギーに変換とすると消滅します。
つまり、-側をエネルギーとすると「物質=エネルギー」での式が成り立ち、逆に「相対の原理」は成り立ちません。

つまり、エネルギーとするならば、「相対の原理」ではなく、エネルギーは「エネルギー保存の法則」の定理によります。
この場合、この定理は「位置に関するエネルギー」と「運動に関するエネルギー」の2つの定理で成立し、この二つは等しいと成ります。この時、そのものの質の「質量」が「介在物」と成ると言う前提になります。

つまり、この「エネルギー保存の法則」の定理をキリスト教の教義では何処から見出すとするのでしょうか。
多分、「相対の原理」と「エネルギー保存の法則」と混在していたのではと考えます。この説法手段を用いたときには、まだこの定理が存在することが解明されていなかったと見られます。故に、この「時代錯誤の矛盾」が現在でも残っているのです。
(「時代錯誤の矛盾」とは、以下「時代変化による教義の矛盾」とします)

お説の「物質が消滅」する時、最終の形では、現代の物理学では、「エネルギー」では無く、全ての物質は「固有の波長」を出します。「波長」は「介在物」が存在しない限りエネルギーを出しません。
多分、この事も解明されていなかったところでしょう。
ここでも説法手段として「時代錯誤の矛盾」が遺されたままに成っている事に成ります。

無形のところから発した「波長」とは、太陽の表面の6000ケルビン以上の燃焼爆発で核分裂(物質の消滅)が起こり、その時に発する核の振動(波長)であり、これがこの地球上に届いているのです。
その時の波長が、物質に依って固有の波長を持ちます。(前論で記述)
人間に見える範囲では、色で見える範囲の可視光線であります。(400-700n)
「自然現象の無味無形の不思議さ」を以って説法手段としている事も「波長」として既に解明されています。これも「時代錯誤の矛盾」です。

仮に、更に進めて、この可視光線が空気中の浮遊物質と衝突の時に出す熱量をエネルギーとするとしているのでしょうか。
しかし、もし、そうだとするとこのエネルギーは「-の質」では有りません。
波長は振動です。故に質量を持ちません。この仮設も無理と成ります。

ただ、人間と言う物質が死したときに何らかのエネルギーを出すのかはまだ解りませんが、波長をフラッシュバックとして「波長」を出す事は前レポートに書きました。(センサーとしての「2つの器官」と波長としての「2つの脳波」)
しかし、この「波長」がエネルギーとするかは今後の解析に期待する以外にありませんね。多分ないと論理的に考えられます。多くの物理的定理は変更を余儀なくされるでしょう。

論理的に無い事ですが、ただし、波長、即ち、振動が、エネルギーを持つ事とすると、他の物体を「介在」しての条件で持つという定理になります。(他の物体とは例えば、質の質量です。つまり、波長に質量をもたすという事に成ります。)
簡単に言えば、波長がものに衝突するときには質量があるが為にエネルギーに変換するという論理に成ります。
しかし、これも(F=NCV)という定理があり、解明されており、他に二つの要素(CとV)が関係しての事です。
この仮設も含めてどの仮設から検討してもキリスト教のこの種の説法手段は「時代錯誤の矛盾」からは逃げられません。

もし、キリスト教が、物質=振動のエネルギー説とするならば、この「介在物」(質量)は何なのかという事に成ります。
これが第1の疑問の点です。
ここで注意する事は、+のエネルギーを持つものは上記の定理で消滅するという事です。
第2は「消滅する」の疑問の点です。

キリスト教の教義ではこの二つの疑問の仮設を解明しなければなりませんね。

では論理的に科学的に解明してみます。
人間という+の物質が死するとき、介在物が無いとしても、仮に-のエネルギーが霊(魂)とすると、介在物には永久エネルギー(エンタルピーとエントロピーの定理)はありませんので、霊は消滅する事に成ります。よってこの自然の摂理の事実からもキリスト教の霊は存在しないと言う説に成ります。
これも又、「永久エネルギー」の「時代錯誤の矛盾」で物理的解明が成されていない時に教義を裏付けて信用させたものであろう事が想像できます。

仏教では、エネルギー論は兎も角も、前レポート論でも私の不思議なエピソードとして記述しましたように、この魂の存在期間は7日としています。(初七日の法事です。)
現世での-のエネルギーがあるとして、消滅期間、即ち、エネルギー保存の定理は7日という論に成りますね。

この事は次ぎの論処に成ります
私は人間にはフラッシュバックとしては存在するのではと考えます。(前論で述べている)
センサーとしての「2つの器官」の解明もすすんでいると聞きますし、最近の脳波の研究も更に進んで、言葉の如く出る脳波の強弱と波種で、コンピーターとメカとを連動させると、人間の意思に添って脳から出る脳波を利用して物を自由自在に動かす事が出来る様に既に成っていますからね。つまり、これは現世のーエネルギーの存在が解明されつつあると言う事です。
前論の仏説の「2つの器官」と「2つの脳波」の解明では近い将来答えが出ると思います。

この点から見ても、仏教のこの種の教義が、「時代錯誤の矛盾」だらけのキリスト教より、比較にならない古い宗教の教義でありながら、「自然摂理」に叶っていることを意味するのです。
言い換えれば、仏教のその優秀さが科学的面からも証明されている事を意味します。

次ぎにエネルギーで空間を歪ませることが出来るというキリスト教の説法論のお話ですが、

確かに、歪ませることが出来ます。だから、キリスト教では、この歪ませるのが霊であるとして、その存在を信じさせるトリックとしていると思いますが。
しかしながら、但し、この場合の理論は、電位現象です。既に物理学では解明されている理論です。

そこで、再び、科学論です。

空間に存在する「チリや水分」などの遊離物質が存在する時に起こります。真空では起こりません。
つまり、エネルギーの+物質とその空間の間に存在する-の遊離物質との間で超電位が発生すると、この時、波長(電磁波)を発生させ、その波長の「周期差」で歪むのです。

地球の上空は3つの成層圏(0-95、95-500、500-1000)に分けられていますが、95キロ内の成層圏に存在する「チリや水分」には地球の-の電位(電圧の差)に対して、その上にある全ての物質には電圧がかかります。
この時、地球に対して個々の電圧が異なります。この時の生まれる電圧の差を電位と言います。
この物質「チリや水分」の集合体に対して、このエネルギー源が大きければ大きいほど電位差が出来て、結論として大きな歪みの電位帯が出ます。

この歪みはバランスを取ろうとして動き、プラスからマイナス方向の左方向に渦が出来始めます。
電位帯があるので当然に浮遊物質の渦が出来ると、回転方向に電流が流れ、回転方向の反対側には電子が流れ、そしてその時、電子が他のものを引き付けるために、回転体の中央に磁場がうまれ、その磁場の束として垂直方向に磁力線が出来ます。この時、この流れる電気の周波数を高めればより高い磁力線が生まれます。この磁力線に対して、この磁力線に抗して、物質を入れますと入れまいとして抵抗が生じてその物質に起電流が流れてエネルギーが高まります。つまり、電流電子の運動により衝突が発生し熱に変わることを意味します。簡単には台所のIH器機ですね。
(参考 V=AR W=VA J=0.24Wから力と熱量を計算できる:ジュールの法則)
大きくは宇宙のブラックボックスも概してこの現象ですね。(IH現象)
他の宇宙の星の物質が核分裂の末に死滅し、フラッシュバックが起こり周囲にその星の死滅物質が飛散します。
そのチリと飛散物質が上記の現象を起こしてブラックボックスが出来ます。そして、再びこのエネルギーで遊離物質が解けて物体と成り新しい新星が出来る事に成ります。

太陽から飛んでくる核分裂の固有振動が地球に届くのは、この空間に遊離物質が無い事から起こっています。遊離物質(チリと水分と空気)があると、遮られて弱くなり、衝突と歪みのエネルギーが発生して消滅してしまいます。

例えば、遠く他の宇宙から飛んできているフラッシュバックの時の振動のニュートリノは、地球などを貫く超波のこの現象で飛んできています。
地中深くにピュア-ウオーターの池に超感度光センサーを取り付けて、ここをニュートリノが通ると水分子(H)と衝突して歪みが出ると同時に、衝突するときに衝突の運動エネルギーが発生して蛍のような光が出ます。可視光線でも空中では同じ原理で色として見えています。

空間を歪ますのは「霊」のエネルギーの仕業であるとする証拠説のキリスト教説は、上記の「2つの疑問」と、第3の「振動であるか」の説明がつかなければ(尽く事は論理的に既に現在では無い)、昔はこれで騙し得たが、既に上記の物理的に解明されている現象ですので、これも時代遅れの説法(「時代錯誤の矛盾」)と成ります。
全てこの現象は科学的には証明されているのですから。今だ家庭の中にその原理を使ったものが入り込んでいる時代なのに、この事を知らない人は兎も角も、昔の未解明のままの論理で人を説得する事は騙した行為と等しくなり無理と成ります。

ここまでが、科学的根拠に基づく答えです。

ところで、これは私の論文の次の⑧のところで論じるテーマでしたが、いみじくも真さにこのキリスト教の設論の方法です。

以降、⑧番目の設問の説明とします。
(特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。)

キリスト教ではこの様な全体として比例式のように論理的です。わかりやすい説き方です。
若者には、論理的に受け入れやすい人には、好まれるものと思います。
仏教では、「色即是空、空即是色」ですから、何のことと成ります。
キリスト教では、悪と聖(善)とに分けると言う数理的合理的な説法です。
仏教では、「悪善」と分けずに、これも人の成し得た性(ごう、さが)として「拘るな」としています。

人間は、知恵を出し、社会に付加価値を大きく生み出しました。この結果、付加価値の少ない時代の事と較べて、物事の始末と結末が、合理的、数理的、論理的に判断できない環境と成ってしまったのではないでしようか。それだけに世の中は考える様には行かずに行き詰まり、うつ病やこれ等に絡む犯罪が増えているのだと思います。
多分、原始社会やローマ時代まで当りの社会では殆どの物事はこの定理で納まったと考えます。しかし、産業革命から以後、付加価値が増え続け現代に至って定理だけでは納まらない社会になったと考えます。勿論、自然の物理現象も解明が進み、人間が自然に考える思考の殆ど、80%程度はこの通常の社会定理(通念)が納まらない社会成っているのであると見ています。そして、社会通念はこの辺のところまでとし、次ぎは未経験の宇宙通念成るものが生まれて来る事もそろそろ始まる時代へと進むのではないでしょうか。
多分、化石資源を中心とするエネルギー源の枯渇と、中国、インド、ロシアなどの経済成長により鉱物資源の枯渇等の現象から、ソーラーやレザーによる衛星からの太陽熱源の活用と、月世界の鉱物資源の活用対策となる事は明らかですので、これからもどんどんと宇宙社会の新しい定理が生まれて、観念論だけの思考では生きていけないほどになると見ています。
既に現在のソフト科学に付いていけない人が多く成っているのではありませんか。

そこで、その完成社会は特にその中でも女性に影響を与える事になると考えられます。それは女性の生まれながらの「性」(さが、ごう)に大きく影響すると考えます。
前論でも書きました様に、女性は無意識下の深層思考(感情、勘定、妥協)に大きく影響してくると予想しています。
時代進歩の付加価値が増えれば増える程に、「感情」で処理できない現象が増え、「勘定」で数式的に評価が出来ない事態が出来て、「妥協」で処理し切れない始末が出て来ると思えるのです。
つまり、本来のあるべき自然の人間の姿(性善説的)ではない否人間的(性悪説)に近い思考が増えると思えるのです。
言い換えれば、「時代の進歩の付加価値」はある面でこの性善説を壊す事を求められるという事です。
男性にしても、社会の数理、合理、論理の社会の思考が先鋭化して、本来の性(さが:理想、合理、現実)であるにしても究極の思考原理が要求される事から脱落者も増える事と成ろうと考られます。

そして、どの様な社会が生まれるかと言うと、例えば、付加価値に依って”正しい事は正しい”と出来る社会は益々と低下してしまうと思うのです。
むしろ、”正しい事は正しくない事、又は最悪の場合は悪い事”の現象がその社会情勢の変化が先鋭化して評価基準が変わる時代となると考えます。
現代でも、、”正しい事は正しくない事、で処理した方が上手く行く”と言うそれが多く成っているのではありませんか。
少なくとも、精神面の思考では「正しい事は正しくない事」が起こり、「善と悪」の中間的な思考の”正しい事は必ずしも正しくない”という数理性、合理性、論理性の少ない評価基準の社会が出来上がるのではないでしょうか。

このことから、男女の若い者はこの状況に悩み、求めるものとしてキリスト教的な教義に向かうことが考えられ、中年者は思い悩み、老年者は上記した教義の特長から仏教に向かうと考えられます。
つまり、その社会現象に対して、「抗する派」と「同調する派」とに2分化する事になるでしょう。そして、それは「若年齢者」と「高年齢者」の2分化の観念の面に於ける社会が出来ると見ています。
観念以外は全て先鋭化した究極の「数理、合理、論理」の社会となると考えられます。既に高年齢者はPCや電子化の波に乗れなくなっている現実です。
更に、ICがソフトチップの量子チップかカーボンチップのハードチップのダイヤモンドチップが完成すれば、先鋭化の科学社会が出来あがるでしょう。つまり、そのチップで宇宙社会の科学が出来る事になり、この付加価値が増大して、高年齢者の脳の能力をはるかに超える社会環境が生まれると見られます。
それはコンピーターが人間の脳の能力と等しくなる程度かそれ以上になる事を意味するのです。同サイズと同量での量子チップの記憶量は人間の脳細胞と同じ記憶量だからです。
これは予想の域を超えて、日本では太陽熱を衛星で集めてレーザーでピンポイントで地球に送り、数年前までは永久エネルギーがないという定理だった事も、今では定理を打ち壊し太陽がある限りの前提で、永久エネルギーを作りだす事も既にプラントテスト域に入っているのです。

上記の社会進化の中では、キリスト教の⑧番目の設問とする”特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。”で、この方向に向かうと一般的に思われます。
しかし、本論の説でもある様に、日本人には、比較対比して来た内容のようにキリスト教の「時代錯誤の矛盾」などの多くの矛盾から、合理的な教義ではなく、仏教の教義に理解を示す方向に向かうべき方向ではないかと考えています。

だから、少なくとも日本人にはアメリカナイズされた数理的、合理的思考の現状社会から、野性的な感性から日本人は静かな心を呼び戻し、最近、山地水明の自然に戻ろうとしているのだと思います。
そして、それは今や、田舎にしか残らない上記の日々の謝意と感謝の社会へと帰ろうとし、今意識せずに国民全体が徐々に動き始めているのではありませんか。
況や、あのキリスト教全盛のアメリカでも仏教とその文化が見直されている皮肉な華頂現象が起こっています。信徒も増えていると聞きます。
同じ程度の科学の時代進歩を共有している日本では仏教の国である事から、ややその影響は鈍ることが予想できますが、大事なキーポイントは仏教のキーポイントを忘れない事であると考えます。
これさえ持ち得ていれば、何とか非常時代は避けられると考えます。ではそれは何なのかです。
言うまでもなく、私はキリスト教に少ない「先祖意識」がキーポイントであると考えているのです。
これが、科学進歩による数理的、合理的、論理的な要求に対抗できる概念であると信じています。

ただ、しかし、この合理主義は完全否定するわけではありません。その根拠を得る為に、生活の糧を得る為に仕事する上で、この部分に於いては、数理的、合理的、論理的な定理の思考を必要とされている傾向が、強く成っていると考えます。又、科学の進歩でこの世の幸せが増幅するわけである事は否めませんから必要ですね。
その様な環境(都会)の中では付加価値が強くなった為に、絶対的に必要です。
然し、これでは人はその様に出来ていませんので疲労して続きませんね。
又、この定理に弱い人(女性)も居るでしょう。そして、うつ病と犯罪が必然的に増えるでしょう。しかし、皮肉にもこれを救う手段は宗教理念のキーポイント「先祖意識」全本論のタイトルだと思うのです。

結局、{思考}と{生活面}共に、「2極化」しなければならなく成っている生活環境と考えます。
「合理と非合理」の思考、「都会と田舎」(仕事と癒し)の場所の二つに益々増える社会の付加価値のために、昔の社会と較べて、2極化しなければならなくなっていると考えます。
そして、この傾向は益々強くなるでしょう。

しかしながら、それだけに、宗教が介在する生活面、特にその精神面では、世の中、現代の世の中は、論理的に始末できれば苦労はしないですよね。出来ないから宗教があるのに。ではその宗教を何に求めるかです。
私は上記の拙論からこれから来る社会の対して、日本人には仏教だと訴えているのです。一見の見えるキリスト教では無いと訴えています。

多分、これは、上記の現象から来る、”論理的に判りやすくあって欲しい”とする人間の願望でしょう。
裏を返せば、願望とすると、世の中は精神面では最近、数理的、合理的、論理的ではなく成っているいと云う事ではないでしょうか。無いから願望するのですよね。
この点で、逆に、キリスト教は排除され、キリスト教圏の中でも、他教、特に仏教が見直されている傾向があるわけですね。そして、この定理が、世界から、紛争地から警戒されている原因の一つだと思います。

仏教の「拘るな」は反意として、精神面では”数理的、合理的、論理的であるな”としている事に成ります。
数理的、合理的、論理的は、”考えるとこうである筈だ”とする人間の判りやすい思考(願望)ですね。ところが、そうでないからな悩むのだと思いますがね。悩んで救いを宗教に頼るのでしょう。
それが、一度ではなく茶飯事だから宗教に頼るのでしょう。
では、宗教は何で存在するのですかね。

つまり、これは人間の「拘り」の典型的な思考ですよね。
「拘り」があるから悩むのではないでしょうか。そして、宗教を頼るのでは。その宗教が数理的、合理的、論理的では、変ですよね。

この理解の方法は、多分にして、民族の持ち得ている遺伝子の違いでしょう。
ネアンデルタールとピネカントロプスの違いでしょうか。

私は何れにも帰依していませんが、年をとるに従い、このキリスト教説法には?です。

それと、理解は年数では有りません。むしろ、短くして如何に要点を突くかにあり、長くはそのとりこに取られて自分を見失う事に成りがちです。何事もそうではありませんか。これは人間のもつ性(ごう、さが)でしょう。我々凡人は。

そもそも、宗教とは良し悪しは別として元々洗脳的行為の目的をもっています。長くすればこのペースにはまるのも人間です。

私の4年は研究の4年です。青木氏の研究をテーマに、そのサブテーマの「先祖」を知るには民族に関する事を知ることにあり、その民族を知るにはその基盤と成っている宗教を調べる事にあると結論付けての事でした。
そして、仏教と他民族の代表キリスト教との対比研究課題としたのでした。
宗教の布教手段としての洗脳から逃れる為に警戒をし、又、頼ろうとする者に対する落ち込みやすい数理的、合理的、論理的な教義に疑義をもつ事として(理解が容易であるが故に)、避ける為に、そして、この「捉われ」を避ける為にも信仰という手段をとりませんでした。その後も英会話習得という名目で長い間付き合いは行いました。

そこで、次ぎに、”キリスト教の布教には植民地政策と連動していた。”と言うところで、”日本も第2次大戦をしたではないか”のご意見でした。

これに付いて、次に異論を提示します。
日本の第2次大戦は仏教国に攻め入ったのですから、宗教を前提とした戦いではありませんでした。念のために。勝てば官軍と言いますが、この世の大儀的な慣習ですが、この言葉には疑問です。

両方が悪いのです。又は両方にも大儀があるのです。

戦いに入る前の状況を無視すれば、それこそ、仏説の「悪も善のときがあり、善も悪のときがある」ですね。
例えば、猛烈な言葉の暴力を浴びせた。相手は殴った。どちらも方法は違えど暴力では有りませんか。何もなしに急に殴るは狂気の沙汰でこれは犯罪です。別の話ですね。
殴った方を悪いとする現在の一方的な慣習には疑問です。悪いのは両方であり、因果関係からすると暴力的暴言を先に吐いた方に6の悪、行動の暴力は4悪位に感じるのですかね。先に言葉の暴力を吐かなければ、行動の暴力は無い筈です。

もし、この理屈を通せば、第2次大戦は、4の悪となると思うのです。
”何もなしに急に殴るは狂気の沙汰”でしたでしょう。
その経緯は狂気の沙汰ではなかったのです。

「勝てば官軍」で、非難の材料にするは疑問です。
キリスト教では、数理的、合理的、論理的では「勝てば官軍」が成り立つのでしょうが。
アメリカ軍が日本を統治したときにも、このはっきりとした東京裁判という態度をとりましたよね。戦い前のアメリカの態度を批判せずに。

何故なのかです。それは、彼らのキリスト教でもある様に合理思考だからです。
確かに、私の研究中ではこの議論が大きかったのです。
彼らは、「自分達の正しさ」を絶対に譲ることはありませんでした。それは宗教思考と同じくその合理思考から、この「猛烈な言葉の暴力を浴びせた。相手は殴った」の「戦い前の状況・経緯」(植民地政策の両国のアジアでの衝突)を無視と排除したのです。
日本が経済力を上げてきた結果、植民地政策の両国のアジアでの衝突が起こり、その大作として米国をはじめとした国々は日本の成長を押さえるために経済封鎖してきたのです。そして、負けたのです。そして、その後20年後くらいで矢張り再び第2位に成り盛り返しましたよね。

この”「盛り返した」”という「行為と行動」はどのような意味を持つのでしょうか。「善と悪」として。

私は、その「成長」は「善」であったと確信しているのです。
世界の中にアジアの日本民族の優秀さを世界に、特に白色人の国に対して示したことは彼らの優越感を砕いたことでもあり、それが無かったらもっと横暴な植民地戦略をアジアで採り続けたことが間違いなく予想できます。

ところが、そして、彼らは「勝てば官軍」の大儀を全面に押し出したのです。現実に、現在でも、彼らは認めていませんよね。
日本人には「喧嘩両成敗」には理解出来るこのことも。永久にないと思いますが、「価値観」とは異なる「思考原理の違い」です。

例えば、丁度良い例として、技術者とし勤めている時の事で、製品にクレームが出ます。相手に伝えます。そうすると、交渉の彼らの答えは決まって、”それはその程度の製品を貴方は金額を払って買ったのだから、貴方に責任がある”として認めません。
”ここは日本である。それは貴方の国で言え””貴方の製品は日本に売ったのだ。自分の国に売ったのではない””共通の理論で言え””共通の理論とは技術理論である”と反論。

万国共通の技術理論を持つ技術者から見て明らかに設計ミスであるがこの発言です。
設計ミスはその言い分外であると議論するが、一体彼らの責任はどのようなときにあるのか判らなくなってしまう合理主義です。
日本ではこの理屈を述べると「袋たたき」です。これ程に彼らの思考の裏づけとなる宗教に於いても違うのです。外国製エレベータの時も最初の言い分はこの理屈でしたね。

彼らのこの言下には上記の優越感が今だ潜んでいるのである。万国共通の技術でもこれである。まして、宗教では言うまでも無く、押して知るべしである。つまり、上記の矛盾を潜みながらも今だキリスト教には続いていると言うことである。
さすが、現状では、本場のアメリカでGMに打ち勝ったトヨタの実績が、上記の反論と、大きく言えば、第2次大戦の」盛り返しの意味」の答えが出ていると思うのです。

この様な思考の違いを取り除く為にも、そして、肝心なことは、その戦い(宗教)をどの様に捉えれば良いかは「俗説通説」を排除して偏りをなくすべきと心得ます。

何れも、良し悪しの問題ではなく、違いが有るとしても、自分が良しとすれば、先ずは、それでよいと思います。自己責任の範囲として。

大事な事として、思考を偏らせない人としての差を、今に求めないのであれば、今の自分にあったものを、自分のものとして、会得する事だと思います。

今に求めるのであれば、数理的、合理的、論理的過ぎる思考に注意して、「拘り」をより少なくして「人としての差」を縮じめるべきです。

これを⑧番目の設問としますので、了解ください。

まだ、論文⑨⑩と続きますので、又、ご意見をお寄せください。
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先祖と宗教(キリストの教え 6ー7 主題5)

5「仏教とキリスト経の妥協の余地」

設問①-⑩は主題4に関わりますが、⑥からは主題5にも関わります。

では、キリスト教の設問として、⑤番の続き、⑥の問題の説明に入ります。
設問
① 他宗を少なくとも先ずは強く排他している事。
② 教えがかなり強引である事。
③ キリスト個人を神扱いにしている事。
④ 兎に角にも、”先ずは信じよ”である事。
⑤ 人は全て悪の子供であると否定する事。

5「仏教とキリスト経の妥協の余地」
⑥ 中間的考え(柔軟性)は無い事。
⑦ 全体が闘争的な発想に成っている事。
⑧ 特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。
⑨ 先祖に対する考えは全体として希薄である事。
⑩ 「民族的」と言う考えを認めていない事。

5「仏教とキリスト経の妥協の余地」を検証するため、設問(⑥-⑩)に入ります。

第⑥番目の事です。(中間的考え(柔軟性)は無い事)
①から⑤までの設問に対する考えが、共通することで大半を説明していますが、「柔軟性」はキリスト教には少ないと考えます。
むしろ、本来、(日本のように融合民族であるが)、融合していない他民族の集合体の自由の国であれば、その考え方に幅を持たせて、柔軟に教義が出来ていると考えられるのが普通であると思うのですが。
しかし、ヨーロッパも日本と違い周囲に他民族が多く存在しますので、当然に、民族の重複部分地域は、キリスト教の教義についてはこの柔軟性はあると考えられます。
しかし、矢張り「信じよ」ですから、この教義からはこの柔軟性は考えられません。これは言葉の性質からも来るのでしょうが、仏教は、般若心経の教義一つを観ても代表的な言葉として、(何度も書きますが、)「色不異空、空不異色」「色即是空、空即是色」を始めとして、「不生不滅、不垢不浄、不増不減、是故空中無色」等は、”この語意は一体何を意味するのだろうか”と思える位に、柔軟であります。

仏教は以前、その「反意や深意や真意や裏意」が大きく働く教義であると書きましたが、上記の語意は、判断の経験を大きく左右するものである事は、多くを調べていると理解出来ると思います。
ここに書いている”「色」とは、「空」とは、何ぞや”から理解する必要があります。(前説に記述)
この理解で全体の解釈も充分に異なるであろうと思います。それでよいとしています。

仏教では、”その人その人の受け取り方はそれはそれで良いのだ”という。宗教関連者では、職業柄、定説的なもを主張しますが、一般の者の理解としては、”その人が、経験もしないのに、その人も立場や環境もあろうことなのに、そのことを解いても、それは「悟り」(理解)とは言わないのである。そして、経験を通じてその理解が深まれば、それはそれなりの「悟り」(理解)と言うのだし、それは「真の悟り」へとに近ずく”としています。

「三つの法意」
上記の事を意味する仏教の教えの一つとして、次の様な仏教言葉があります。
①「人を以って法を説け」という言葉があります。
②「説法は三相を得よ」(人、時、場処)と説きます。
更に、次のその言葉として、代表的なものがあります。
③説法の効は「縁無き衆生動し難し」という言葉があります。
この3つの言葉を組合わすと上記の理解事を物語る言葉となります。
況や、その真意、深意は、この意味が柔軟性を物語る先ずひとつであります。

この「三つの法意」(3つの言葉①②③)がその「柔軟性」を物語るものです。

①は”人は夫々立場、性格、職業、男女、家柄、生立ちなどでその理解は異なる。説法だからと言って仏教の教義をそのものをずばりを以って伝えても意味がない。その立場などに応じて噛み砕いて伝えよ”としているのです。

②は”①が成し得たとしても、人、時、場処にあわして説法をしなくては法意は伝わらない。伝え得るには①と②の術を身につけるべし。何事もそうである”としているのです。

③は”①と②を経たとしても、理解できない者はある。全て者を理解させようとするはその心根は「拘り」である。理解できない者はそれはそれで縁無き常の者として動かし難いものとして扱いを別にするべし”としているのです。

この仏教の「3つの法意」は一言で言えば、”柔軟に対処せよ”としている事に成ります。

つまり、”それはその人の今の[悟り](理解)である。””「悟り」は、この様で、この如くでなくては成らないと限定するものではない。人の世では、次第にその「悟り」が増せば良い”としています。

これに較べて、キリスト教の「悪の子」は「悪」と最初から決め付けていることからも、「柔軟性」が無いと見えます。

ただし、私が言うこの「柔軟性の有無」が教義の「良悪」の事を説明しているのではありません。
それはそれで彼らが納得するのであれば関知するところでないと考えます。
当然に、国民性や常識は違うのだから、「良悪」の問題ではありません。差違や適応性の問題です。
ただ、キリスト教は、その語意は、(「悟り」理解が難しい」が、)経験が共にするので「判断は容易」であると思います。
しかし、逆には、「反意や深意や真意や裏意」があるので、、(「悟り」理解が易しい」が、)「判断は難」の仏教だと思います。
故に、キリスト教は個人の悟りに差が余りに無く(個人受け取り方)これが一つの特徴であり、中間的考え(柔軟性)は無い事に成ります。仏教は様々と成ります。第一、キリスト教には「悟り」という概念が乏しいのではと考えます。

次は⑦番の事に続きます。


5「仏教とキリスト経の妥協の余地」
設問①-⑩は主題4に関わりますが、⑥からは主題5にも関わります。

では、キリスト教の設問として、⑥番の続き、⑦の問題の説明に入ります。
設問
① 他宗を少なくとも先ずは強く排他している事。
② 教えがかなり強引である事。
③ キリスト個人を神扱いにしている事。
④ 兎に角にも、”先ずは信じよ”である事。
⑤ 人は全て悪の子供であると否定する事。

5「仏教とキリスト経の妥協の余地」
⑥ 中間的考え(柔軟性)は無い事。
⑦ 全体が闘争的な発想に成っている事。
⑧ 特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。
⑨ 先祖に対する考えは全体として希薄である事。
⑩ 「民族的」と言う考えを認めていない事



⑦番目の事です。(全体が闘争的な発想に成っている事)
この設問を説くには、仏教と対比しながら、教義より現代のキリスト教の行動を検証する事の方が明確に成ると考えます。

キリスト教の様に、他教の聖域に入り、積極的に布教をすると言う事は仏教には少ないと考えます。
むしろ、インド(ブッタガヤ)から中国を経由して日本に伝教してくるまでの東中国(後漢)過程には、多くの弾圧があった事は史実であります。キリスト教には、初期の宗派誕生期にはあったとしても、伝導過程では余り聞かない事であります。
そして、日本仏教の最初の伝導は、司馬氏の始祖(馬の鞍等の武具を製作する鞍作部の技能職人である)司馬達等が日本に帰化してきた時に、私伝として広げたのが最初(535-550年頃)であるとしています。その中国後漢(618年)が滅びて、阿多倍に率いられた17県民200万(帰化人)に依って爆発的に広がったとされています。

(参考 阿多倍:後漢光武帝から末帝21代の献帝の子石秋王の子供阿智使王と孫阿多倍の二人が引き連れた200万の中国の民が九州へ上陸し全土を平定し、関西手前までの32/66国で征圧し帰化する。)

これが次第に周囲の中国(後漢)の渡来人の部技能職人以外に、彼らから技能を教わって恩恵を大きく受けている日本人にも自然の形で瞬く間に爆発的に(国32/66の範囲)伝わったものであります。
書籍的には、552年(538)百済から経典が入ったとされています。585年の物部氏と蘇我氏との戦いだけで伝導は決定します。594年の三法の詔に始まります。(後に神道と融合する)

この日本仏教の伝播の勢いは、この技能集団の部制度の影響が最も大きいとされます。
又、民族の融合もスムースに進んだ原因は、仏教がただ伝わったと言うだけでは無く、技能集団の彼らがもたらした仏教の影響が大きかったのではと考えています。
現在、世界の民族の融合を観察するに、中東では民族戦争が多く起こっていて絶え間なく1000年経ったいまでも融合は余り進んでいないのが現状であります。
まして、日本は7つの民族が全て分離することなく、それも300年程度(史料的には阿多倍の孫娘を母に持つ桓武天皇期以降には出て来なく成る。この原因の詳細は研究室の阿多倍関係のレポートで参照)で一つになるには何か特別な要素がなければ出来るものではないと思います。
その短期間の要素とは、「天神文化」の「神道との融合」と、この「技能集団と仏教」の結びつきがもたらした結果であると考えています。
つまり、そして、その伝播の経緯は、「神道的仏教伝播」と「民族融合」が相互に関連して平行して進んだと観ています。
日本仏教、特に奈良期から鎌倉期までの「顕密仏教」では、この背景があったことを念頭に留意して比較評価して観るべきだと考えます。
これは「顕蜜仏教」と「新鎌倉仏教」とに日本仏教の違いを区分けされている一つの要因でもあります。
その仏教の姿や役割がこの境の時期を以って異なっている所以であろう事ははっきりしています。
民族と仏教の2つの融合過程はこの域を境に一度に変化した時でもある事が言えます。
これらの事が欠けての評価は判断に間違いを起すとも考えます。

そこで、先ず、上記の事を留意して、キリスト教では、この様な仏教の自然に近い伝来と言うよりは、歴史的には植民地侵略をベースとして政治的施策を施して爆発的に伝播して行ったものであり、これは近代に於いての基本伝導の姿であろうと考えます。
この時、伝導や教義はその植民地の民族的背景を配慮してのものでは無かったであろうし(価値観の配慮と伝統の無視)、
むしろ、それを行うと、世界各地に異なる教義のキリスト教が出来てしまう事になります。
この事は、その民族間のキリスト教の争いともなり、キリスト教の存亡にも成りかねないことを意味するであろうと考えます。
故に、主題4の所で記述したキリスト教の教義の矛盾がある事を論理的に充分に知りえながら、価値観の配慮と伝統の無視して、一つの教義を押し通す事を実行したのであろう事が覗えます。これが強引で闘争的であるとする所以であります。

日本の仏教は主題4で記述した様に、「天神文化」と言う「神道と仏教との融合」と言う手段と「民族融合」も備わって伝導を成し得たのです。自然に近い伝導と認められます。

仏教もキリスト教も同じ政治性を含む伝導ではあったが、仏教は「融合」と言う形でその対立を避けたのであるから、キリスト教とはその体質は異なります。
又、仏教伝来のほぼ直ぐ後に儒教が伝導しているが、この儒教も何処にその教義の考えがあるのか判らない程に同化し融合しています。
しかし、儒教は大きく伝播せずに単独の形でのものは無ったのであります。
儒教は江戸時代にその社会情勢から突然に学問として世に出されたが、直ぐに江戸幕府の禁令で更に突然に消えました。
しかし、社会慣習の中には、儒教の慣習や作法や思考姿等の生活の慣習の中などに気づかずに多く遺されています。
例えば、葬儀のときは儒教では「正座や豪泣」、仏教では「胡座、不泣と宴」の様に遺されているのです。つまり、これも小さい「融合」であります。

融合でもそのレベルがありますが、「融合」の面白さですが、参考に、僧侶がいる仏前の前では、皆さんは正座するのでは有りませんか。あれは儒教の作法ですね。本来は胡座です。食事の作法でも細かいところでは沢山ありますよ。一度、見渡してください。一番はっきりするのは韓国との作法の違いを見るとよく判ります。
日本に於いての宗教はそれ程に無意識下の一般化した融合なのです。
同じ宗教でも、キリスト教には、伝道した地のところにこれ程の「融合」が認められるでしょうか。
この「融合」が本節の「(全体が闘争的な発想に成っている事)」キーワードと思うのです。
「(全体が闘争的な発想に成っている事)」があるが故に「自然の形の融合」は起こらないのです。

さて、キリスト教の比較に戻して、現在に於いても、世界各地で紛争が起こっています。
その紛争を「武力とキリスト教」で「世界平和」を大儀にして解決しようとしている様に見えます。
キリスト教の彼らにしてみれば、この二つの事で扮装は収まると真剣に思っているであろうと思いますが、しかし、そう簡単ではありません。ここに、「民族」(価値観の配慮と伝統の無視)という遺伝子に絡む大問題を無視している「強引さ」が彼らキリスト教にはあります。
各民族には、その特異な妥協し得ない「事情や環境」がある事は否めません。当然に、必然的に、その特異性からそこには心の悩みを解決する為に独特の宗教が存在する筈であります。

キリスト教側では、その教義で民の安寧を計ろうとするでしょうが、結果は火を見るより明らかであります。
”宗教戦争”に変化して行き、中東の様に国と民を巻き込んでのイスラム教とキリスト教との益々の争いと発展して行く事は必定です。
イスラエル、イラン、イラク、アフガン、インドネシア、フィリピンの様に国をあげての宗教戦争に成っている事が証明しています。この全て裏にはキリスト教の浸透策が潜在しています。
先日の韓国のアフガン拉致問題は⑦の設問のその象徴的出来事です。

弱り目に祟り目でありますが、日本も例外では無く、大戦の敗戦後は、この危険性はあったのです。
しかし、神道仏教の融合教義の完成度が高い事により、明治初期の「廃仏毀釈」だけで、戦後の内乱は避けられたのであります。
確かに、我々から観ると、イスラム教にも強引とも攻撃的とも思われる「聖戦」や考え難い「宗教作法」などもあります。
しかし、キリスト教やイスラム教などにしても、それはその国の民が良し悪しに関わらず「良し」とするのであれば、それはそれで良い事であります。
「悪い」とするも、当然に、何処に於いてもその「攻撃的強引さ」は「宗教の代理戦」の形として現われて来る事になるでしょう。
この問題には、その特異な妥協し得ない「事情や環境」がある事は否めないし、解決出来ないからであります。
国民の一致団結(融合)を成し得なければ、その民の選択と決断に関わる事に成ります。

この様に、宗教だけを見るのではなく、政治の裏には必ず、現実には、この様な体質を持つキリスト教の動きが存在しているのです。(そもそも、”信じよ”には反意として攻撃的の語意を持ちます)

仮に、キリスト教の伝播と浸透のそれを成し得るには、日本の仏教と民族の融合過程のように、先ずは少なくとも「キリスト教と仏教の融合過程」が必要であります。
この論理で言うと、この論理の証拠に、宗教界では、現在そのような教義を前提とする宗教団体(生長の家)があり、徐々に日本の国に浸透しています。

この宗教教義の姿や前提が「伝播過程」の通るべき道(融合)として正しいのではないかと推理しています。
しかし、私はキリスト教にとっては「無理」と考えています。
この手法ではローマ法庁のようなキリスト教の全体の形は採れずに、本体はいつかキリスト教の一括統治が働かなくなり出来ずに崩れることを意味します。従って現実には無理なのです。

「無理」という事は伝導先では、依然として「紛争」が伴なうという事に成ります。

必然的に「紛争」が伴なう「宗教」と何を意味するのでしょうか。疑問が残ります。

しかし、この様に比較対照すると、私には、体質的に出来ることならば、避けたい「キリスト教義」とその「否融合の手法」と観ますが、少なくとも積極的にはなりません。これは「拘り]なのでしょうか。皆さんは如何ですか。
では、そうであるのか無いのかを次に検証を進めます。

次は⑧に続きます。
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