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日本書紀と青木氏 8/10

前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。

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検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」

活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」


本書記録
活躍 第8節 「善行説話の編集」
”天武没3年6月2日 施基皇子と他朝臣、連、忌寸、宿禰等の豪族6人に撰善言司(よきことえらぶつかさ)を命じられた。”とある。

検証
施基皇子はここでは、全国から善行の言伝えや話を集めて、それを民に示して、模範のマニアルとしたものである事が考えられる。しかし、良く調べてみると律令制定に繋がっている事が判る。

これを施基皇子をその長に命じられたものである。
この時代には、本書の記録から世情の一番騒がしいものとして、朝鮮半島北部と新羅、百済からの帰化人[難民)が大量に難民として上陸して来たことである。そして、朝政はこの取り扱いに懸命に活動している。
各地の未開の土地に配置しているし、騒乱状態でその長を呼びつけて沈静を命じたり、罰したりしている。これは本レポートの目的ではないので記述しないが、その記録は30箇所位ではないかと思われる。
例えば、”百済の使者が貢物と調を朝廷に納める為に、新羅の者と同行して大和に来るが、新羅の者は百済の使者を捉えて牢に入れて御調の物を盗り挙げてしまう。何とか百済の者は逃れて大和の国にたどり着き入る。百済の使者は、新羅が裏切った事を述べる。朝廷は新羅に使いを出した。言い逃れして裏切った事を朝廷の調査使者は察した。
そして、新羅との争いで難民が生まれた。これが日本書紀に出て来る記録の一つである。
この様な経緯の中で、難民が入り治安状態が悪化し、犯罪が各地で頻発して、特に大和古来の軌範の崩れが起こっていたのである。
そこで、上節で記した様に、施基皇子(伊勢王)は天皇に命じられて各地で活動して得た経験、その土地の話、逸話、物語、掟事に明るい事を買われてのことであろう。
それを取りまとめて軌範を作ろうとしたのである。そして、この帰化人、難民などの世情の乱れを正そうとしたのである。

丁度、施基皇子没(689年)前1年前の事である。
妃は出来る限りその彼の知識を遺させて向後に役立てようとしたと思われる。草壁皇子とのいざこざが取り沙汰されている時期でもある。

この時期に、全国を長期に度々飛び回って治めてきている人物は少ないので、伝達手段のない時期としては大変に貴重な知識であったであろう。
ところが、また、この時期は上節でも書いたように、新羅以外にも、後漢、百済の他民族が大量に上陸して来て、当時の慣習等が上手く護られなかった時期でもある。当然、他民族との揉め事が起こる等して、必然的に全体の軌範意識が薄く成っていたところでもあろう。

ところが、これ等の帰化人、難民たちに依って未開発地域がどんどん開発されて行く。帰化人の持ち込んだ技能を得て生活レベルが向上し豊かになる。全国は伊勢王の努力の検地などで少し治まったが、依然として、反面、犯罪が増えてきて、朝廷は頭を悩ませていた時期でもある。記録では罰則の変更を何度もしている。
本書記録では新羅、百済の難民などに褒めたり罰したりしている記録が頻繁に出て来る。

しかし、ここで、何故か、同時期に帰化してきている後漢の阿多倍が引き連れて来た技能帰化人が呼び出されての処罰はない。むしろ、下記するが、褒められていて大隈と伊勢半国を与えられて居るくらいである。(第10節に記述)
この様な騒がしい状態であり、このために民に対して、その行いの模範とするところを示して、その軌範の基準を作ろうと考えたのであろう。つまり、律と令の法の基本形を整えて作ったのである。

そこで、この時期の律令の状況はどうであったのか検証するとこの説話の目的がわかる。
律令制度は桓武天皇期(800年頃)に完成したが、100年掛けてこの原型から本格的な法が出来た事に成る。
その意味からして、持統の妃は、人、時、場処では、適時適切に指揮したと考えられる。
日本最初の「検地」を実行し、又、坂東までを概ね「征圧」して治安を治し、朝廷内務をこなし、これまた、法体系の基礎のその大事な一翼を、我等青木氏の始祖は担った事に成る。
それには施基皇子が適材であり、その補助人も臣連など全国の国司を勤めた人物である。
つまり、妃は施基皇子に最後の仕上げの仕事をさせようとしたのであろう。
つまり、妃はなんとなく朋輩で功労者の施基皇子の健康状態を慮っていたと観られる一行である。

別面では、編成者舎人親王はこの状況を経験しているので知っている筈であるから、検証すると判る。
舎人親王はわざわざこの事の記録を後で編集時に組み入れたのではと考えられる。
舎人親王は、前節でも記述したが、全巻をよく観ると編年体であるが故に、この様な手法を各所に多く取り入れている。
詩人でもあり、学者でもあり、温厚実直な性格でもあり、よく争い毎を嫌う人物であったと他書では記録されている。必然的に詩の如く、本書の状況表現する手法も同じであろう。
事実、上記にも記した各所で遣っている。それ故に、この本書を検証する際は、この点を配慮して注意して検証すると隠していたものが見えてくるのである。実に配慮の行き届いた書と思える。

この時、舎人親王は、妃の優しさ、施基皇子の実績の評価、施基皇子の状況、その時代の環境、等を実に上手く隠して間接的に表現している事が読み取れる。

当時は、字を読める人口は限られていて、尚且つ、漢文で編年体である。物語のように状況を表現する事は、記述(物語)体と違って、漢文に含まれる深意を表現するには難しい。そこで、採った手法が詩文などに観られる間接記述表現であろう。そのための深い配慮から間違いもしたと観られる。
日本書紀はこの様なことを念頭に置いて観ると筋書きが読めてくるのである。

確かに、豊富な情報がこの治安悪化の時期に必要であったが、”この任務を伊勢王(施基皇子)に与えたのか”という疑問もあり、他にも理由があると見たのである。余りにもタイミングが合い過ぎいている。
そこで、次の説を採っている。
持統天皇(妃)は「伊勢王」に対して、この「軌範つくり」を与えて、草壁皇子から遠避ける工夫をした事も合わせて考えている。
其の侭であれば、伊勢に返せばよい筈である。返せば大津皇子事件と同じく勅命が出る。
(大津皇子も避けて近江にいた。)
妃(持統天皇)は自分の側に置いて見守ることを選んだのである。2度と同じ失敗を繰り返さないように、兄妹として保護したのであろう。
1年後の689年に薨去するのであれば、「伊勢王」の姿を常に見て来た妃としては、この時点では何とか荒立てずに是非守りたかったのではないか。
何はともあれ、妃の配慮により、「伊勢王」は律令体制の基盤となる基準つくりに晩年貢献した事に成る。

しかし、この後、天皇となり、悲しきかな「戦友」とも言うべき「全ての朋輩」を失う持統天皇は、「太上天皇」とも成って、院政を敷き専制的な方向に進むのである。
しかしながら、よく調べてみると、この史料の基にして、現実に、持統天皇は「飛鳥浄御原令」(689年)の民法、行政、訴訟、その他の規定(制令)を制定(未完説あり)した。
この「飛鳥浄御原令」は未完成であり、その内容は法令と言う形までなっていないとされる説がある。これが通説と成っている。
この時の施基皇子らが「撰善言司」(よきことえらぶつかさ)でまとめ挙げたものである。
そのまとめたものが4つに区分けした一種の「令集」(令解集 基本集)とも言うべきものであった。この時の事を記録しているものである。

この構想は「伊勢王」が各地に飛び回っている時(681-682年頃 第4節記述)より天武の指示で「原稿集め」を行い始まり、688-689年に責任者として妃から最終の取りまとめを命じられた行ったものである。
この事から、「令」と言うべきは「令集」と見なされて、「未完集」の説が生まれている。

更に調べると、施基皇子の作った「令解集」それを基本として編集した本格的な「大宝律令」(701年)を、持統天皇は「思い出多き令解集」を「自分の手で完成」を目指して、この後、「草壁皇子」の息子の「文武天皇」に譲位しながらも、この時代に、「院政」を敷きながらも完成させたものなのである。院政はこの為なのである。
況や、思い出多き朋輩等の「人生の集大成」の完成を目指した事が第1-9節からの記録で読み取れる。そして、時代は進み「大宝律令」は、更に見直されて、次の「養老律令」と成るのである。
「令解集」即ち、「「飛鳥浄御原令」は「大宝律令」へ「養老律令」への「見直しの史実」から証明されるのである。

この行の記録を入れる事により、舎人親王は後勘に委ねた「思い」として、この事を読み取ってもらいたかったのではなかろうか。
「令解集」の内容そのものの記録であれば、その内容を続けて記録するであろう。しかし、この記録以上の事は全く記録されていない。

「本書前後の記録」から見て、わざわざ、舎人親王は、「伊勢王(施基皇子)と持統天皇」の「8年間の人生苦労」を、「伊勢王薨去1年前の朝務の司」を記録として編入したのであろう。

特記
史料によると、舎人親王は、一時その人柄と有能さから政務(皇太子役)に押されたが、固持し本書の編集記録のみに専念したとある。確かに政治の場面では出てこない。
それだけに「記録の羅列」だけに人生をかける事はこの人物にして無く、本書にかける親王の「心意気」が見える。本書の持つ意味はこの一点に有り、この「政務(皇太子役)に押されたが、固持」の一行を放念してはならない事であると考える。

本書の記録もほぼ終わりに近い巻末に来ているところで、編集して締めくくったのである。


次ぎは、活躍 第9節 「伊勢行幸」である。

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日本書紀と青木氏 9/10

前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。

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検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。

検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」

活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」


本書記録
活躍 第9節  伊勢行幸
”持統3年2月19日 伊勢行幸を決める。”とある。 

”中納言三輪朝臣高市麻呂は農時の妨げになると諫言した。”とある。

”持統3年3月6日 再度の諫言に従わず、伊勢に行幸した。”とある

”持統3年3月17日 伊賀伊勢志摩の国造等に冠位を賜り調役を免じた。大赦をされた。行宮造営の者たちに免じた。”とある。

”持統3年5月13日 伊勢神宮の神官が天皇に奏上し、「伊勢の国の今年の調役を免じられましたが、2つの神郡からの納めるべき赤引糸35斤は来年に減らす事にしたいと思います」と言った。”とある。 

”持統3年9月21日 班田収授の法の制定で役人長官を伊勢国等の4畿内に遣わした。”とあり、”伊勢の国の嘉采を見て嘉稲2本を立て奉った”とある。  

”持統3年12月24日 太夫を遣わして、新羅からの調(税)を伊勢、住吉(すみのえ)、紀伊、大和に立て奉った。”とある。

 
検証
伊勢の国の事に付いて記録されている内容であるが、ここで違和感を感じる。
と言うのは、先ず、記録3月6日までの3つの記録である。

”何故、中納言が行幸に反対した事をわざわざ記録したのか”。(疑問1)
何事に付いても、反対はあるものである。天皇が行動すると言う事は官僚が計画し段取りをする。当然、検討段階では問題もあろうが、内部の問題であり、その内部の検討段階のそれを記録として遺したのは普通ではない。
普通は、編年体であるから、結果を書く事になるだろう。しかし、舎人親王は結果に対して、その結果の深意やその背景をそれとなしに書き足すと言う手法を執っている事は前記でも彼の得意技として論じた。
今回は、この「検討段階の内部事情」を書いたのは何故か。(疑問1-1)
わざわざ、2度も諫言していることを記録している。記録は一度で良い筈である。
それには、先ず、次の事から研ぎ解す。

「持統天皇の反論理由」
天皇家の守護神のある伊勢の国に天皇が行くことが、何が問題なのか。(疑問1-2)
問題として、”農事の妨げになる”とあるが、別に伊勢神宮に行くのである。今までもあり問題はない筈である。
まして。天智天皇が建立して定め、天武天皇が斎王、斎宮や三種の神器(鏡)などの祭祀を正式にシステムを作り定めたものである。その場所に”行くな”と言う方がおかしい。むしろ、”行け”であろう。
それも「注意程度」のものであるなら未だしも「2度の諫言」である。
「農時」と言っても、天皇が「農時」をするのではない。邪魔といっても伊勢路せいぜい1-2日で通り神宮に参詣するのである。
「梅雨の農時」を言うのであれば、「春畑の農時」、「夏の取入れの農時」、冬の「仕度の農時」がある。この程度の理屈を言い立てれば”行けない”となり理屈が成り立たない。
そもそも、伊勢の国に伊勢神宮を定めたのである。この時点からこの事は承知の事実である。
まして、「壬申の乱」で伊勢に集結して大儀を立てた土地ではないか。天武死後の混乱後の”けじめ”として、”行く”が正しい事であろう。
これが持統天皇の反論になるだろう。

そこで、次の事が考えられる。
1 中納言が何故「諫言」したのか。
2 舎人親王が何故この事を意図的に「記述記録」したのか。
3 持統天皇は「伊勢行幸」を何故強行したか。
4 何があったのか。

そこで、これ等を導き出すために、舎人親王の事だからどこかに得意技があると見られるので、この前後の1年間記録を調査すると次の記録が出て来る。

”持統3年6月9日 諸国の長吏(このかみのつかさ)遣わして、名のある山や河に祈祷を捧げさした。”とある。
”持統3年6月11日 畿内に太夫を遣わして、雨乞いをした。”とある。
”持統3年7月11日 使者を遣わして、広瀬と竜田とを祭らせた。”とある。
”持統3年9月9日 班田収受の役の太夫の長官(ただまいのまえつきみ)らを四畿内(よつのうちつくに)に遣わした。”とある。
”持統4年3月17日 詔して、全国に桑、カラムシ、梨、栗、青菜などの草木を勧めて、植えさせた。五穀の助けの為にした。”とある。
”持統4年4月17日 太夫を遣わして、全国諸社に詣でて、雨乞いをした。
”持統4年4月17日 使者を遣わして広瀬大忌神と竜田風神とを祭らせた。”とある。
”持統5年4月13日 使者を遣わして、広瀬大忌神と竜田風神とを祭らせた”とある。
”持統5年7月14日 使者を遣わして、広瀬大忌神と竜田風神とを祭らせた”とある。

記録では、” 持統3年5月15日から4年4月17日までの1年間で、農作業の免除や録や食封などの勲功賞として民臣に与えたのが7回記録されている。特に顕著である。”(詳細割愛) 

4月17日以後は全く状況が変わって、免除的な関係記録的なものはない。概ね、一年間の全記録数は140件程度であるが、この中の記録である。

この1年間で盛んに与えている。論功行賞は毎年年賀と祭祀と祝事にまとめて行う程度であるが、この様な盛んな行動は他に記録はない。
それどころではない。
”伊勢北部伊賀地方、伊勢南部志摩地方と南北を割譲して功労者に与えた。”(第10節)

「伊勢王」の伊勢国を次から次へと、3割譲してしまったのである。
この意味するところは推して知るべしである。

先ずは、以上8つ記録から明確に見えてくるものがある。
この1年は大水飢饉(渇水、旱魃)であった事。(概ね2年間続く)
この1年に、特別に通称(租庸調)の年貢に関わる免疫追封の勲功賞を散在している事。
天領地の伊勢3割譲(伊勢、伊賀、志摩)が起こっている事。
舎人親王の得意技(間接表現:8記録配置)を駆使している事。
班田法で問題が各地畿内で起こっている事。

この事柄を考え合わすと、疑問1-2の答えでは次の事が言える。

持統3年から5年に掛けて著しい水飢饉が起こり、田畑の収穫は激減し、大飢饉となりながらも、逆に民臣に勲功賞を散在し、大判振る舞いをしたお陰で、朝廷の大蔵と天皇家の内蔵は火の車と成った。まして、大盤振る舞い最たるものは、「天領地」の伊勢をも割譲してしまった事である。間違いなく収穫激減である。「伊勢王」の伊勢松阪付近のみと成ったのであるから当然である。
そこに、全国各地とりわけ畿内では班田法施行の不満(参考)が勃発した。
この様な事であろう事が観えて来る。

つまり、答えは大旱魃が起こったのである。

持統天皇の政治に対する配慮が欠けていたことを記録として直接表現できないので、舎人親王は周囲に記録として18箇所(10+8)を配置し、「伊勢行幸」のところで主表現に違和感を持たせて、それとなしに、連想させる手法に出た。

上記1-4に付いては、
1番目の中納言の諫言理由は、即ち、「伊勢割譲不満と水飢饉と政情不安」である。
2番目の舎人親王の意図は、即ち、「直接表現の回避」である。
4番目の”何があったのか”は、即ち、「水大飢饉と政情不安」と成る。
以上の説明が付く。

しかし、問題は、3番目の持統天皇の「伊勢行幸の強行」である。
1、2、4のある事は雨乞いなどもあり充分に知っていた筈である。にも拘らず、3番目の強行をしたのは、「持統天皇の反論理由]であろう。
特にその中でも、「けじめ」ではないか。そして、自らが、守護神の伊勢神宮に「雨乞いと、政情不満の解消の神仏加護」を祈願するデモンストレーションを実行したとすれば、納得できる。

実は、記録を遡り、この様な事が無いか調べた。そうすると出てきた。そして、上記の説が当っている事が判る。

天武期の経緯は概ね次の通りである。
天武期4年の1月頃から旱魃が始まり、制定したばかりの伊勢神宮に斎王を行かせて祈りをさせたが、旱魃は続き、5年の9月頃にやや納まり、再び、6年の5月頃まで続いている。そして、この時4年、初めて、風の神を祭る事ととして竜田に社を建立し、広瀬には忌神を祭る事として社を建立した。ところが、全く効果は無く、全国的に凶作で民は飢えた。そして、国司は天皇に現状を訴え救いの対応を願い出たが受け入れられなかった。
それどころか、山の木々草木を切ることを禁じて、保水と保湿の対応と、竜田の風神と広瀬の大忌神に祈った。神頼みだけである。
結局は大旱魃となり、民は飢えてしまった。半年後に一時雨は降ったが、解決には至ら無かった。1年半の天武期の大旱魃であった。
以上の記録が出て来た。

天武期では、事態を明確に集中的に時系列に記録しているし、天武天皇の対応のまずさと無策までを暗に非難して記録している。
ところが、持統期では、この様な事は一言も記録で触れていない。
同じ事が起こっているにも拘らず、片方は書かないのは不思議である。

それは、舎人親王は編集上、「政情と財政」が揺らぐ位の救済の対応をした持統天皇に対する配慮を示したのである。
これは上記の通り「政情不安」の中で、そこまでした女性天皇の持統に対する「配慮、思いやり」があって、故意的に直接的に触れずに、舎人親王の得意技を遣って状況説明をしたと観られる。
これで、疑問1-1は解けて、疑問1-2と合わせて疑問1のこの証明が付く。

その得意技を記録から調べると次の様に成る。
それが舎人親王の得意技(配慮)であり、次の各処から抜粋した時系列記録である。
”天武期2年4月14日 大来皇女を伊勢神宮の斎王にするために、先ず泊瀬の斎宮にお住まわせになった。ここで先ず体を潔めて神に使えるところである。”とある。

”天武期4年1月1日 大来皇女は泊瀬の斎宮から伊勢神宮に移られた。”とある。

”天武期4年2月13日 十市皇女、阿閉皇女は伊勢神宮に詣でられた。”とある。

”天武期4年4月10日 美濃王と佐伯連広足を遣わして「神風」を竜田の立野に新たに建立して祭らせた”とある。

”天武期4年4月10日  間人連大蓋と大山中曽根連韓犬を遣わして大忌神を広瀬の川原に新たに建立して祭らせた。”とある。

”天武期5年4月4日  竜田の風神と広瀬の大忌神を祭った。”とある。

”天武期5年5月7日 下野の国司から国内の百姓は凶作の為に飢えて子を売ろうとする者があります”と訴えた。とあり、”天皇は許されなかった。”とある。

”勅して、南渕山と細川山の草木を切る事を禁ずる。又畿内の山野の元からの禁制の所は勝手な切り焼く事をしては成らぬ。”とある。

”天武期5年6月 大旱魃があった 各地に使いを出し、神々に祈った。雨が降らず五穀は実らず百姓は飢えた。”とある。

”天武期5年7月16日 竜田の風神と広瀬の大忌神を祭った。”とある。

”天武期5年9月 雨あり、旱魃は雨乞いの祈りは無くやや解決した。”とある。

”天武期6年5月 又、旱魃があり京や畿内で雨乞いをした。”とある。 


兎にも角にも、これだけを各処に配置して状況を演出している。最早、これでは編年体ではない。明らかに「編年体小説」と言うものである。

更に、舎人親王の記録表現の最たるものは、上記の神宮の「神官の申し出の記録表現」であり、これにもその事が良く出ている。

持統3年3月17日から12月24日までの4つの記録からも、そのための対策を実行している。

それは次の通りである。
朝廷に納められた新羅からの「調」税を、この伊勢にわざわざ移して与えて減免量分を補充している事や、”伊勢国(畿内4域に)に嘉采を見て嘉稲2本を立て奉った”とした「新良種の稲」を与えて「収穫量の増大」を賄って不満を押さえている。

この「新良種の稲」の記録は、次の記録がある。
”天武8年12月2日 嘉稲が現れた。それを称えて、関係した親王、諸王、諸臣、百官の人々に禄物を賜り、罪人の大恩赦をした。”とある。
恩赦するほどの良品種であったことが覗える。それを育て、「伊勢国」に与えたのである。

持統天皇は諫言理由の処置は、上記の事で出来ると観て、”ケジメとデモンストレーション”を専制的に強行したのである。

持統天皇の判断は、「衆生の論」に左右されない主長たる積分域(伊勢青木氏家訓3 苦しい時の明断)の判断である。正しい判断であったと考えられる。
それも然る事ながら、言い換えれば、又、舎人親王の各所に表現記録している「持統天皇の人物像」の「見識眼」も大したものである。

舎人親王は、皇子たちから信頼され、慕われ天皇に推されるに価する相当な人物であったことが覗える。
この記録は信頼に値する。

但し、上記の疑問1が解け判った以上、いよいよ本題の伊勢のことである。

ここで見逃して成らない事がある。
「伊勢国3割譲」と「伊勢王の努力」である。
持統天皇が採った「伊勢国3割譲」は、無二の朋輩しての「伊勢王」に対する裏切りではないか。つまり、「努力貢献」に対する無視である。
この「無視」は末裔の我等青木氏の者でも今でも、”ムカ”とする。
単純な「無視」ではない。それは、これが為に、「青木氏衰退」の”きっかけ”が出来て始まるのである。
つまり、持統天皇のこの事件の「専制的強行」は大きな犠牲の上に成り立ったのである。
今までの最大の朋輩で、「兄妹」に対して、「後ろ足で砂を蹴る」が如きである。

それに付いて次に論じる。
第1節から8節まで「伊勢王」は朝政務に誰よりも貢献して来た。本書に記録されていて出て来る人物の最高功労者である。身分も第6位皇子でありながらも、他の皇子より爵位上位でもある位に貢献してきた。8節までで説明は不要であろう。
しかし、朋輩「伊勢王」没後(689)には、この持統天皇の後期では、伊勢の国は3分割割譲されてしまった。
これではたまったものではない。末裔青木氏は一度に勢力を衰退させただろう。恐らくはこの段階では近江青木氏も衰退の傾向があったであろう。

第1期の皇親政治は、「伊勢王」や大津皇子の薨去後、必然的に持統天皇の独壇場となり、「皇親政治」の本筋は次第に変化して行ったのである。この一つの現われとして、本節の伊勢行幸問題が位置付けられるのである。単純に「伊勢行幸」だけではない。
敢えて、「専制的強行」と記したのは、大津皇子と伊勢王薨去後、舎人親王の心の中に、「皇親政治」から「専制政治」況や「院政政治」へ移行の「寂しい気持」があったから、多くのスペースを採り記録を多くしたのであろう事が観える。

この後も、「持統天皇」は草壁皇子の子供の文武天皇に譲位したが、この文武天皇の時も、「太上天皇」(皇太后)として「大宝律令」の制定に大きく関与したのである。
所謂、第1期の「皇親政治」から「院政政治」への始まりである。
「持統天皇」後も「太上天皇」と呼称した事がその専制の決定的証拠である。
しかし、一面、心情的には、必然的に生まれる「流」で、この事(専制、院政)は止む無き事かなとも咀嚼される。(第8節記述)

当然、伊勢国はこの強い「院政政治」の影響を受ける事に成ったとしても不思議ではない。
その仕打ちは、国の割譲の問題だけではないのである。
この「割譲を受けた氏」(阿多倍一族)にも影響を受けて、実は伊勢青木氏には大きな衰退問題が潜んでいたのである。
この一族と青木氏は相対の関係にあった。
(その内容は続いて、次の第10節で詳しく記述する。)

持統天皇が慌てた真因は、この「班田収受法」の施行にあった。人、時、場から観て拙い時に施工したものである。
その法の中の問題としては、「6歳6年」である。
班田収受法とは、戸籍に基づいて、6年毎(班年。籍年の翌年)6才以上の班田農民に口分田を支給し(6年1班:2反)、死亡後国家に収納する土地制度の仕組みである。
蘇我氏の横暴を防ぐ為に、大化改新を実行しその反省から採った公地公民の制で、土地人を国に帰し、その仕組みの一つとして、施行したもので、6才と言う幼児の年齢から土地を貸し与えて、その税の負担を課した。それを6年というサイクルで早くし税の収納を大きくした。

班田法の不満とは、これ等の「重税と飢饉」に対する不満が合致膨張して人心は大きく離れていった。この時、畿内の中、伊勢は最も割譲、重税、水飢饉、衰退、専制で苦しんだ事になる。
この時、「伊勢王」を始祖とする青木氏一族は不満の中、衰退の方向に傾く(桓武期まで)のである。


参考
文武天皇の第6位皇子も美濃王として青木氏を遺す。

次は、活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」である。

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日本書紀と青木氏 10/10

前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。

レポートリンク
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検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」

活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」


本書記録
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」
”天武没(朱鳥)元年5月22日 皇太子は公家百官を率いて、もがりの宮に詣で慟哭された。隼人の大隈:阿多の首魁が夫々の仲間を率いて互いに進んで、しのびごとをした。”とある。

”天武没(朱鳥)元年7月9日 隼人の大隈:阿多の首魁等337人に物を賜った。”とある。

”天武没(朱鳥)3年8月16日 伊勢国伊賀郡(阿多倍の国)の身野2万代に禁猟区を設けて守護人を置いて、河内大鳥郡に順ずるものとした。”とある。

”持統3年5月15日筑紫大宰率「河内王」等に詔して「沙門を大隈と阿多とに遣わして仏教を伝える様にとご下命。”とある。

”持統6年5月13日 隼人の大隈に饗を賜った。”とある。

”持統6年5月21日 隼人の相撲を飛鳥寺の西の槻の木の下で行われた。”とある。

”持統7年 直広1位の位を宿禰大隈に授けられ、伊賀に水田40町賜った。”とある。


検証
本記録は「伊勢王」とは異なるが、「伊勢王」に大変関係する不可欠な記録であるので、特記する。
上記に、その大隈首魁の阿多倍と阿多倍一族の事だけの抜粋とした。何故ならば、この首魁の行動は、相対の関係で、青木氏の「栄枯盛衰」に大いに関わる事と成って行く事だからだ。
大変に奈良時代、否、現在の日本の国体の基礎を築いた帰化人の一族なのだが、余り知られていない。それだけに、特記する必要性を感じている。
この知られていない理由には、日本書紀の研究の遅れと、近代の日本の軍国主義と、左傾主義の本書の否定から、これ等の史実に対して葬って来た事が上げられる。
しかし、本書の裏づけが、韓国(高句麗)から発見された僧道顕の著「日本世記」や「海外記」「海外国記」等から、日本外交史の事に付いて最近裏づけが取れた事から、史実である事が判り、理解される様に成ったのである。
僧道顕は天智天皇の無二の政治の相談相手であり、共に生活した為に、その書は天智、天武天皇の政務や出来事をかなり詳しくその日の出来事を日記的、且つ、記述的に書き込んだのもので、日本書紀より詳細に書かれている。(本書外にも、青木氏の賜姓、由来、仏像授与もここにも記録)
しかし、「日本世記」に拘らずとも、本書の前後関係だけから見て史実である事は明白である。左傾主義者が間違いの多い事を殊更に喧伝した思惑否定の為に一般には信用されていなかったのである。だから、知られていなかったのであり、そのことを頭の隅に置いて頂き次の事をお読み頂きたい。

先ず、研究室のレポートに各処に記述しているが、本書の目的の面から概容を改めて記す。
この大隈の首魁の阿多、即ち、阿多倍王は、後漢光武帝より21代末帝の献帝の孫(石秋王の子)阿智使王と、その子の阿多倍王である。
最終、後漢は隋に圧迫(610)され、唐に潰されて(618)、これ等の阿多倍らに率いられた民は、北九州に上陸した。その入国は1次と2次とに分けられる。

入国経緯
第1次(前期)としては、隋が後漢を含む朝鮮半島を征圧する為に東征したが失敗し、そのために隋は弱体化して、結局、後漢と共に唐に618年に滅ぼされる。この時の2度の圧迫(隋唐)で難民が生まれ、その時、第1次(前期)は、先行して、後漢(高句麗)の漢氏(東漢氏)、司馬氏、秦氏、陶部氏、鍛冶部氏、等が先ず入国(582年頃前後)したとあり、渡来人の秦人、秦人部、秦部等(弓月君始祖)の秦氏の一部族だけでは約7053人居たと記録(宣化、欽明天皇期頃の記録:570-580年)にある。
この数字から観ると、従って、新羅百済の朝鮮系の渡来人を入れると、「部」の技能組織は、記録から調べると40-50程度と観られ、590-630年の間には40-50万人は入国していたと見られる。

第2次(後期:最盛期)としては、次に唐に圧迫(616-618頃)された後漢も滅亡し、618年前後頃か難民で入国、孝徳天皇期(650頃)が頂点となり、以後下降(670年頃)となり、後漢民の終わりは710年頃で200万人とある。(全難民は250-280万)
これ以後、全国的に各処で度々不法入国事件が続く。最後は、1019年の博多下関での西夷大乱入事件があり、朝廷は政治的に「遠の朝廷」の太宰大監の「大蔵種材」(阿多倍の12代目子孫)に命を正式に出し、「難民受け入れ」は打ち切った。

第1次の ”「阿智使王」(阿多倍の親)が率いた”との説があり、間違いである。
史料に依ると異なる。後漢が滅亡していないのに[阿智使王}だけが先に来るのは疑問である。他に史料では阿智使王は孝徳天皇期(650)に入国したとある。本書の記録と一致し後者が正しい。
又、前者の説では阿智使王は朝鮮系と成っていて、漢氏の始祖と成っているが疑問である。
前者の説は、全て朝鮮系としたいとする意図が見られ、史実を無視している。([日本世記」を無視)

第1次の一族の入国と本格第2次の阿多倍集団は、九州全土と中国地方を無戦征圧し帰化した(17県の200万人)技能集団であった。(研究室の阿多倍の関連レポート参照)

この集団が何故にここに出て来るかと言うと、「伊勢王」即ち、伊勢青木氏の「栄枯衰退」と「子孫繁栄」に大きく関わる集団なのである。

先ず、この阿多倍の本書の記録から検証して、次に本書「伊勢王」(青木氏始祖)との関わりを論じたい。
兎も角も、その前に理解を深める為に大筋の経緯を述べて置く。
孝徳天皇期前後(第2次)から、更に、後漢から遼東半島の湾を経て、先ず北九州に上陸入国してきた。これ等の民は中国の進んだ技能を持ち込んだ。所謂、「部」(40-50部)の民である。
その首魁阿多倍王等に引き入れられた軍と技能集団は、北九州から南九州にまで殆ど無戦の状態で征圧した。むしろ、大和の九州の民は進んでその配下に入り、その優れた技能を吸収して生活レベルを向上させたのである。そうして、彼等の首魁の阿多倍は南九州の大隈に定住した。
その後、続々と上陸してくる後漢の民と後漢に圧迫された朝鮮半島の民は、朝鮮半島を経て、中国地方の下関付近に上陸し中国地方へと更に進出して、ここも無戦征圧して、関西の西域まで到達した。
後に、この中国地方は第1次の後漢の「陶部一族」(すえべ)が勢力を高めて征圧し、室町末期まで大豪族として統治した。
この時点で、朝廷は彼等の貢献度を認めて帰化を許し、彼等は帰化人として正式に各地に定住した。
しかし、新羅の政情不安からも難民が出て、ここまででいっぱいに成り、朝廷は後漢の民と共に中部地方の未開発地域に配置した。特に、本書記録でも後漢の民が持ち込んだ外来馬の飼育に適する地域として、美濃(岐阜付近)と信濃の西地域に配置したと本書に記録されている。

朝廷は、この地域が開墾開発が進み、戦略上、主要穀倉地帯でもあり、幹線道路でもある事から天領地として定め、ここに、「美濃王」として第6位皇子を配置したのである。
(この子孫が美濃青木氏である)本書にもこの記録が出て来る。

朝廷は、南九州の隼人に定住していたこれ等の帰化人の首魁阿多(後漢阿多倍王)を都に呼び寄せて、その貢献に報じて賜物を授けた。この時、彼等は天皇の前で337人と言う大勢で踊りを披露したとある。
その後、伊勢北部伊賀地方を割譲されて定住した首魁大隈の阿多倍の一族関係者が、一同挙って天皇の前に集まった事である。しかし、337人と言う定数が面白い。先ず第1の疑問1(違和感)がある。
普通、記録しては”集まった”で良い筈である。
その理由の詳細はまとめて下記に記するが、ある目的で誇張したかったのであろう。
概して、”彼等の技能が国の発展に大きく貢献した事”であり、阿多倍一族らを「伊勢北部伊賀地方の割譲」をして、そこに住まわせた「理由と経緯の明示」(疑問1)を喧伝したかったのである。(詳細下記)

その後、天武天皇が崩御して、彼等は伊賀から都に出てお悔やみをしたのである。
2月後、再び、呼び出して、改めてその功労に対して、勲功を受けたのである。
「帰化人に割譲」の「理由と経緯の明示」の目論見は目立っていて、ここまでは問題はない。

しかし、”6年後に、大隈に居る阿多倍一族と、伊賀に住んでいる阿多倍に仏教を伝える様に命じた。”とあるが、何で彼等にわざわざ命じたのか疑問が湧く。第2の疑問(疑問2-1)である。
そして、何で仏教なのか疑問が湧く(疑問2-2)。
「仏教」と「阿多倍一族」の2つの疑問である。(疑問2)

それには明確な必然的理由があるのである。本書のこのままの記録ではこの疑問は解けない。
「仏教の伝来の経緯」の中に有ったのである。そこで先ず、その経緯を説明する。

仏教伝来の実際の経緯
実は、仏教伝導は「蘇我氏と物部氏の戦い」で決まったもので、聖徳太子の時の問題であった。この時は「決まった」だけであって、「伝導:広まった」ではない。誤解されている。
しかし、第9節でも述べたが、持統6、7年頃は政情は不安定で、特に畿内では国内問題を持っていた。しかし、現状の「仏教布教」は未だ天神文化と共に上位階級のものでしかなかった。
騒いだ割には大きく進まず、民までのものでは無かったのである。依然として、神物信仰が主流であり、天皇家自ら伊勢神宮を興隆させているくらいである。
そこで、朝廷は、矢張り、「民の心」を治めるには、仏教の宗教で納める事であるとして、進んだ中国の仏教典を持つ彼等に仏教布教を命じたのである。疑問2-1の解決である。

そこで、”何故、彼等にこの「仏教」をなのか。命じたか。”と言う第2の疑問中の疑問があるだろう。
それを説明すると、第2の疑問が解けるのである。

実は、阿多倍の配下で、初期(第1次)に入った「司馬達等(馬の鞍造を造る技能人鞍造部の頭領)」と云う人物が居た。この人物は大和国高市郡坂田原(天智天皇の高市皇子の里)で草堂を営んでいた。
彼は後漢から持ち込んだ仏教を、故国から離れて「部の民の心」の頼り所として、私伝で「部の民」に伝えて導いていたのである。(司馬達等:仏教私伝の祖と呼ばれる)
そして、その為に鞍を作る技能で仏像をも彫り、祭祀していた。(他書記録による)
次第に彼等の帰化集団者と彼等の配下となって技能を磨いている「大和の民」にもその仏教の広がりを見せ、大隈国と伊賀国の民を始めとして、彼等に従う関西以北の大和の民の心は穏やかであった。

この時期、少し後に、南九州では独立運動(700-713年頃)が起こり、朝廷の命に従わなかった。
分轄した日向、薩摩、大隈の内、薩摩と日向(朝廷大官僚の弁済使の伴氏と血縁した九州大豪族肝付氏)は従わず、朝廷は720年に遂に討伐した経緯がある。
朝廷は、この阿多倍等の生活態度の事前情報を得ていて、(この時は、半国割譲の大隈の首魁阿多倍一族とその技能集団は平穏であり、その原因は仏教布教にあった事。)そこで、国政不安定の中、持統天皇は、九州全土を統治している太宰大監の「三河王」に命じて、全国に彼等のこの仏教を伝え布教するように命じたのが、この経緯なのである。(この段階では、太宰大監は阿多倍一族ではなくこの直ぐ後である)
半国大隈地方と半国伊勢北部伊賀地方の阿多倍一族の彼等に、問題と成っている関西域にも、布教する様に命じたのである。
これが第2の疑問の解答である。

それだけに、この意味するところは、持統天皇は帰化人の彼等に頼まなければ成らないほどに窮していたのである。これ一つでも「治安人心が不安定」の証拠になる。即ち、疑問2の大元が証明出来る。
しかし、この時、本書の記録を良く調べてみると、後漢の東域の朝鮮半島の新羅と百済からの難民も入っていて、この仏教を信じていた。しかし、よく調べてみると、この新羅、百済の難民の事に付いては、本書記録ではこの期間の1年間で40件程度と本書にしては、目だって多く記録されている事に気づく。(新羅、百済からの難民は応仁大王の事件と共に、5世紀頃から始まっている。)
むしろ、その中を分析すると、犯罪的な事を起し、処罰されているのが約半数弱もあるのである。反面、後漢の民の犯罪記録は全く無い。
現在に於いてでさえ、外国人が多くなると犯罪や揉め事が多くなる。この時は、250万と言う難民帰化人が入国したのである。普通である筈ではない。
そう云う環境の中で、それどころか、隼人の大隈の一族の者を呼び出して、その功労に対して、天皇自ら宴を催して褒め称え、更には、隼人相撲大会を飛鳥寺で行っているのである。
この意味するところは明らかである。まして、「飛鳥寺」と言う場所に意味がある。一般公開である。宮廷ではない。

これは、”どの様に解せば良いのか”と言うことなのであるが、第3の疑問である。

実はこれも明確な理由があったのである。
持統天皇は、不満を増大している大和の民、阿多倍の帰化人の民、新羅、百済の難民の民、この3つの民の安寧を納めるには、静かに帰化してくれ、穏やかに生活している「阿多倍一族の扱い」にあると読んだ。
そこで、相撲大会である。
単純に相撲大会如き行事は何処でもある。しかし、この二つの行事をそれも「隼人相撲」を「大々的」に記録しているのである。相撲ならば何処にもある。何も遠い隼人から呼ぶ事は無い。
また、舎人親王は、得意技で何かを意味するところを含ませているとしか思えないのである。
そこで、本書の得意技と他史料をも調べた。そうすると観えて来た。

つまり、他の時期にも新羅百済の事は記録されているが、この行間前後の本書記録としては適さない40件もあり、その中約1/3の百済、新羅の民の「犯罪」と、何処でも日常茶飯事の「懲罰」がこの時期にわざわざ集中して記録している。
新羅、百済でなくても大和の民も犯罪を犯している筈である。歴史記録に値しないその茶飯事の事を記録しているのである。
明らかに記録の編集には違和感を抱かせる。

その反面、比較対照として貢献している阿多倍の集団を相撲というものでクローズアップさせて、際立たせ、その「品行方正な民」である事を目立てさせる事が、持統天皇の企みなのであり、その天皇の「治世の苦労」を何とか記録として、舎人親王は得意技で編成の配慮をしたのであろう。
これが、第3の疑問の検証の解答である。

この本書が完成する頃31年後には、この阿多倍の帰化人は、政治の官僚の中に「事務方」として本レポート序文に記述した時(天智、天武期)よりも、多く既に入り込んでいる。

この時期、多くの「律令整備」が進んでいる事が証拠である。
そして、”本書のその編成も当然に彼等達が行っていた”と言う事である。

留学生以外の大和の民ではその学識から無理である。留学生にしても量的にもこれだけの「律令整備」を賄う事は実務的に無理である。

そこで、実は、その記録が存在するのである。
”天武期4年2月9日 大和、河内、摂津、山背、播磨、淡路、丹波、但馬、近江、若狭、伊勢、美濃、尾張の国に勅して管内の人民で歌の上手な男女朱儒技人を選んで奉れといった。”とある。

”天武期5年4月14日 朝廷に仕えたいとする者で一般の者でも能力のある者は雇え。”とする直接命令の記録がある。この一つでこれ以後、如何に忙しく成っているか物語っている。

前者の記録は、畿内と中部の王の守護統治領から、政務とは別に、文化や祭祀に拘る体制を民間(渡来人)から集めて確立させようとしていたのである。

後者の記録は、天智天武期から始まった「律令整備」の計画に対して、始まった頃に天武天皇は先読みして準備してこの手を打ったものである。

この2つの記録に付いては、この時期には、天武は民間の力(渡来人)を生かして国の力を付け様としていたのである。

それが持統期には、効果を発揮して律令体制の整備は大いに進んだ。

因みに、彼等による「律令整備」は、「帝紀」、「八色の姓」、「庚寅年籍」、「飛鳥浄御原令」、「藤原京遷都」、「大宝律令」、「養老律令」等が上げられるが、この中味たるは大変なものである。(詳細は大化の改新のレポート参照)

既に(686-692頃に)天皇家に血筋的に食い込んでいる阿多倍一族を、舎人親王は時代性を演出する為に故意的に挿入したのである。
むしろ、当然に、彼等の進んだ知識を以って入り込まなくては成らない程に「政治機構化」していたし、大和の民では、その内容を検証すると到底無理の一言の内容であり、既存の知識、学識ではその範疇が小さかった理由もある。従って、その後漢の民の活躍記録としては、主体がかれらの活躍でその記録になる。

その証拠に、天智天皇から持統天皇までの律令の制定は急激に多く成っている。(参考記述)
特に、この持統期の時期にすれば、689年の「飛鳥浄御原令」の令(民法、行政、訴訟法)と、701年の太上天皇(持統天皇)の「大宝律令」の律(刑法)の2つの大きな完成がある。
これ等は彼等の知識抜きでは成し得ない。

それならば、ここで疑問が湧く。
本来であれば、このような政治、経済、軍事の全能力を持った集団が、殆ど無戦で九州全土中国地方を征圧している事から、「独立国家」を宣言してもおかしくない。
しかし、”行わなかったのは何故なのか”
第4の疑問である。

彼等の軍事、政治、経済のどれを執っても朝廷より遥かに優れている。
また、その技能に依って民の生活レベルが急激に上がり、土地の人心も掴んでいる。従って、戦略補給は充分である。既存の朝廷が到底成し得ない力である。
なにせ、17県民200万と言う人口が津波のように押し寄せてくるのである。朝廷は戦っても絶対に勝ち目は無い。彼等の軍事、経済、政治の力を除いても、この真に津波のように「押し寄せる力」に打ち勝つ力は無い。「押し寄せる力」で充分である。

中国では隋に討伐されて漢が滅亡して漢民は西に逃れたが、西の土地(ネパールチベットベトナム等)の者を追い出し、そこに定着している経緯もある。(正式に元国のときに中国と制定)
その一方の東に逃れた漢民(光武帝に率いられた民)が、東中国と朝鮮半島北部を征圧して後漢を樹立したのである。
その経緯から考えても、後漢難民と言っても、普通の難民ではない。大和国に入った彼等は独立国を樹立するに充分な条件を備えている。大和朝廷としては、歴史上最大の国家存亡の危機問題である。

ところが、関西直前で彼等の進軍は突然に止まったのである。真に「一大決戦」と言うときにである。この時、既に、大和国66国中32国を征圧しているのである。

”進軍停止は何故なのか”第4の疑問(独立)の中の疑問が出る。

それには、ほぼ200年前にも同じ事が起こっているのである。この事は朝廷は知識として知っている。迫る阿多倍の集団に対してどう出るべきかを悩んでいる。

朝廷の事前知識
応仁(応神)大王が、朝鮮半島の百済を始めとして南部の民から構成された大船団を整えて、堺の港に上陸した。
当時、関西域は4つの豪族(巨勢、平群、葛城、紀の4族)の連合体で「ヤマト王権」(大和朝廷前進の連合政権)を樹立していたが、この連合政権と戦った。
先ず、上陸後、4つの豪族は水際の前哨戦で負けた。しかし、この4つの豪族は一端奥に退いて長期戦へと持ち込んだ。大王側は各個攻撃へと変更し、紀族を制圧、紀伊半島を回って新宮から奈良盆地に入った。ところが、残りの豪族達は奈良盆地(当時は未だ奈良盆地は中央に大湖があり、現代は地殻変動により湖面が下がり湖底の所にある。現代の「猿澤の池」がその元と言われている。)
の水際作戦のゲリラ戦を採用し長期戦に持ち込んだのである。
結局、この応仁(応神)大王の船団は補給不足となり、戦いを中止し講和した。そして、5つの豪族による「ヤマト政権」を樹立し、初代の大王に応仁(応神)大王が成った。(この時期は未だ「天皇」では無く「大王」と呼んだ。)
これが類似する事前知識である。

今回の阿多倍の集団には、違う点としては次の事がある
大和の民が彼等に従っている事である。
入国側の民は土地に生活基盤(技能集団)を作り定着している事。

戦いとなると、阿多倍側は勝利は確実であるが、この2つの事(軍人ではない2つの民を巻き込む)で良民に大きな犠牲が出る事になる。かれらも悩んだ。無戦で勢力下に入った人民である。
彼等の首魁の阿多倍は、”犠牲を払って勝利で独立国家を樹立するか、無傷に平和裏に帰化して実利を獲得するか”の二者択一の選択に迫られた。そして、都に入る直前に、選んだのは後者であった。
第4の停止の疑問の答えである。

この様な彼等の態度に対して、事前知識を持ちながらも、朝廷は悩みに悩んでいた事が、阿多倍集団の「実利の決断」と朝廷の「事前知識」とが一致した結果となった。
朝廷は平和裏に解決した事に対する安堵感で一杯であった筈である。多分記録には無いが下交渉はあった筈である。

決着した。そこで、彼等の首魁を呼んだ。阿多倍らもその恭順の意を表す為に、天武天皇崩御(686)に対して、都に出て葬儀に大勢(337人)で参加すると言う姿勢を示したのである。
これが、帰化申請後の「最初のもがりの参加記録」である。
又、この337人は上記のデモもあろうが、多分にして、騙まし討ちを避ける為の阿多倍を護衛する為に付き従った者達であろう。
そして、その返礼として持統天皇は再び彼等を2度も招き、次の記録の経緯と成るのである。

持統6年5月21日 隼人の相撲。
持統7年 爵位直広1位の位を授け、姓は宿禰とし、半国大隈国を授けられ、伊勢半国割譲の伊賀地方(水田40町)賜った。”となるのである。

見返りとして、下交渉の約束で、持統天皇は彼等に先ずはこれだけの事をした訳である。
これが第4の疑問の検証である。
(下交渉の記録はないが、これだけのことを下交渉がなくして出来ない)

しかし、これだけでは収まらず、持統天皇は次から次へと藤原氏以上に引き上げて行く事に成ったのである。(参考 藤原氏は720年頃から台頭:藤原不比等)

朝廷側も事前知識で彼等を敵とせず、味方に引き入れる戦略を採り、「独立国家」に相当するものを与えたのである。事前知識と全く同じ経過を辿ったのである。
むしろ、記録には明確なものは見当たらないが、下記の事も含めて、水面下の交渉の末でのこの「帰化条件」であったのではないかと思われる。
それは次の記録から判断出来る。

帰化の条件の説明
持統天皇としては、この200万人と言う技能大軍団の犯罪を起さないおとなしい帰化人が、第1次産業の技能を持たらし、それどころか国政の事務に長けて律令の根幹を作り、国の発展に貢献している事にうれしくて成らないのである。

その証拠に、「阿多倍」は「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王の娘」を娶り、「天皇家と縁結び」となり、且つ、「准大臣」に昇格し、「宿禰族」に列せられ(830年頃)、「半国大隈国東部を割譲」し、「国の首魁」を認め、「伊勢北部伊賀地方を割譲」し与えられ、更に、この半国に「不入不倫の権」を与えられたのである。文句の付け様のない扱いである。
これが持統7年頃のことである。

それどころではない。血縁となり、3人の男子を産み、長男は坂上氏を、次男は大蔵氏を、三男は内蔵氏を、「賜姓」(690-705年頃)を授けている。

まだまだである。少し後では、この3人に、夫々、坂上氏には「朝廷軍」を任し、大蔵氏には朝廷の「財務大蔵」を任し、内蔵氏には天皇家の「財務内蔵」を任したのである。
参考として、朝廷の役所は「3蔵」と呼ばれ、大蔵、内蔵、斎蔵で構成されていた。
斎蔵は藤原氏である。彼の名声と権力を欲しい侭にした藤原氏(不比等)である。しかし、未だ、この頃は、斎蔵を任され祭祀を含む朝廷全般の政務と総務を担当していただけなのである。

その事から、考えたら、恐ろしい程に朝廷の実権を握っていたのである。藤原氏どころの話ではない。(藤原氏の名声は知られているが、それ以上の比べ物にならない名声と実績を持ったこの阿多倍一族は余り知られていないのが、不思議の一つである)

もう終わりと思うであろう。ところが、皇族の「三河王」に代わって、九州全土の行政長官の「太宰大監」(博多別府大宰府:大蔵春實938頃:種光950頃)に任じたのである。(この時、奥州は藤原氏の鎮守府将軍となる)

まだあるのである。今度はこの「太宰大監」に、軍事、行政、経済の「3権」を委ねたのである。

そして、更に「遠の朝廷」(940年)と名付けるのである。遠いところの「九州の朝廷」とまで命名した。
又、「征西将軍」(1017年)に任じられるのである。

最後に、この「遠の朝廷」の阿多倍一族の「太宰大監」に「錦の御旗」を正式に与えたのである。
この「錦の御旗」(830頃:天慶3年:大蔵春実と孫の大蔵種材)は個人に与えた記録は他に無い。

最後の最後と言いたいところであるが、この「太宰大監」を阿多倍一族大蔵氏の「世襲制」としてしまったのである。(追加:この末裔の太宰大監の大蔵種材という豪傑がいたが、この者を四天王のモデルにしてしまった。)
この位で止めて置くが、この事で、もうお判り頂けたと思う。
「独立国」を選ばす、「実利」を選択したが、実利以上の無血の「九州独立国」そのものである。
これで疑問は史実で解けた事になる。850年代で完全達成している。

これより以後もまだ続く。
伊勢北部伊賀地方の阿多倍の孫娘の「高野新笠」が光仁天皇の妻となる。その子供が「桓武天皇」に成る。桓武天皇は母方の伊賀の「阿多倍王」別名「高尊王」(既に没)に対して、架空の「高望王」(平望王)と呼称し、「第6位皇子」の扱いをして、「たいら族」として氏の「賜姓」をしたのである。(詳細下記)
そして、その末裔孫の2代目「平国香」より「平貞盛」で勲功を挙げて、5代後に「平清盛」で太政大臣と成った。

これで、朝廷の政治も思うが侭である。九州だけではなく、全国の政治、経済、軍事の覇権を握ったのであり、独立国どころではない。

本書の持統期(700年頃)では、この一族は未だ60-70%程度であろうか。そして、最終(100%)は1120年頃であろう。そして、1175年頃から没落し1185年で平氏滅亡(京平氏)である。

反面、伊勢青木氏は全くこの逆である。
伊勢の国を割譲されて、伝統ある近衛軍の役職も押さえられ、更には、伊勢の守護も半国司の藤原藤成(藤原秀郷の祖父:826年)に任してしまったのである。
当然、皇親政治として活躍していた天智天武期から、何時の間にか(645-720)この阿多倍一族に全て国と役職を奪われたのである。国と役職を奪われては基盤は無くなる。衰退は避けられない。現実に衰退した。
一方、阿多倍の一族は半国伊賀国を与えられ、そして、遂には、この首魁「たいら族」(平氏=京平氏:桓武平氏:伊勢平氏:781年頃)の一族に天皇から賜姓を受けた。

この賜姓は「大化改新」の目的の一つ経費削減で、第6世以降の皇族の者は皇族を外し、平に成った事から「ひら族」(坂東平氏として賜姓:坂東平氏:8氏)として、天智、天武、持統期に代替わり毎に坂東に配置した。
この「たいら族」の賜姓は、この「ひら族」にかけて阿多倍一族に名付けたのであるが、実は、皇族に並び続く「7世族」として位置付け、「ひら族(平氏)」を「たいら族(平氏)」として「高尊王」(阿多倍王の日本側呼称)に賜姓(桓武天皇期)したのである。
しかし、記録では、伊賀の国に住む「平望王」(高望王)と成っている。これは「尊と望」の編集時の間違いか、平氏賜姓後の呼称なのか、生没も含めて一切の記録は不明なのである。
この時、阿多倍は没している筈であるので、皇族系(第6位皇子)である事かをほのめかす為に「平望王」(高望王)は、「高尊王」に因んで、後付したのではと考えている。

この当時(持統期)は未だ、帰化人には偏見があり、次第に皇族との血縁族とは成りつつあるが、皇族に列する処置が出来なかったのである。
史料から観て、帰化人(渡来人)の字句が消えるのは桓武天皇期の書物からである。

(桓武期頃より以後、難民、帰化人は九州「太宰大監」の大蔵氏が、記録では朝廷の命で盛んに博多、下関の水際で食い止めている事件が記録されているので判る。)

これは、伊賀の国に住む阿多倍の末裔孫]娘「高野新笠」が光仁天皇の賓(みめ)と成り、後の「桓武天皇」を産む事により、世間は、最早、「天皇まで成る時代」として世間の意識の中で、渡来人では無いと考えたからであろう。つまり、日本民族の完全融合(参照 日本民族の構成のレポート)の完結期の経緯である。

賜姓を受けた伊賀の国に住む阿多倍一族は、その末裔孫の「平国香」(900頃)より始まり、「貞盛」(950:繁栄の基礎:平将門の乱鎮圧、常陸の押領使)、「惟盛」、「正盛」(中央政界)、「忠盛」(平氏繁栄の基礎)、「清盛」と続き、5代後で「平清盛」(1180)の太政大臣にまで上り詰める。

遂には、後漢から帰化した阿多倍一族の集団は、上記の本書の記録に示す持統天皇期から政治に関わり、天皇(桓武天皇781)まで上り詰め、政治、経済、軍事と産業の基盤を創り上げたのである。
この伊賀に住む後漢阿多倍王の末裔(渡来人:高野新笠)を母に持つ桓武天皇は、その彼等の力で「日本の律令制度」を完成した天皇としても位置付けられている。

阿多倍の上陸後、上記した経緯でその独立国を樹立せず、200年間でその効果と同じものを持つ実利以上でその立場を確保したのである。はっきり言うと、乗っ取ったとも取れるものである。
しかし、大事なことは、悪い意味での「乗っ取り」ではなく、むしろ現在の日本の政治、第1次産業の基盤を築く程の国としての国体を作ったとしても過言ではない。
「単純な帰化」ではなく、日本の国体を「構築した帰化」であった。阿多倍の卓見である。

ところが、古事記域に入るが、元明、元正天皇と女性天皇が続き、聖武天皇と成り、矢張り第5位後継者までは絶えた。
暫くすると、第6位皇子である「伊勢王」(施基皇子)の子供を、皇位継承者が無かった事から、伊勢より皇位継承者を出す以外に無く成った。光仁天皇である。(伊勢青木氏とは縁続きになる)
一時、一族の光仁天皇により息を吹き返したかとの予測も付くが、甘くは無い。伊勢隣りの伊賀の娘を娶ったのである。
しかし、、前節でも記述したが、その孫(光仁天皇の孫)の嵯峨天皇は賜姓を戻し青木氏を救ったのである。

「伊勢王」を始祖とする伊勢青木氏を含む5家5流24氏の青木氏、更に母方で繋がる藤原秀郷流青木氏主要9氏116氏の元祖は、日本書紀の中で、その「生様」を検証して来たが、大変な、激動の時代(645-710)を乗り越えて来たのである。

日本書紀は編年体であるが、上記した様に真に、舎人親王著「編年体小説」と名付けたが、余り、伊勢王をキーワードとして、限定して検証している書籍はない。
また、本書内の舎人親王の「詩文体」とも言うべきものを考えて、それを年頭に記録を徹底して検索して詩文の環境を導き出すという手法を採用した。
結果は、本書には30箇所以上の伊勢に関する記録が出て来るし、他書籍にある史実以外のものが見えてきて、その背後関係を導き出す事が出来た事は、驚くに値する事であった。
検証する者としてわくわくとして検証した。
幸い、筆者の先祖代々は紀州徳川氏の漢文、漢詩、南画の師たる者でもあった事が”門前の子童習わぬ経を読む”が幸いしている。
古事記の序文ではないが、青木氏も同じ事が言える。”今を逃すと青木氏の史実は消える”と。
これが、本レポートの思いである。

近い将来、時間が有れば、青木氏一族としての藤原秀郷主要5氏の2氏(永嶋氏と長沼氏)との関係についても検証レポートを投稿したいと思っている。

参考
「坂東八平氏」とは、千葉、長尾、上総、秩父、土肥、梶原、大庭の8氏である。
北条氏や熊谷氏は支流である。

阿多倍の天皇家との血縁の年代推定は686-692の間の年代であろう。
”阿多倍次男の山本直が大蔵氏を賜う。”とあるが、その前の時期に敏達天皇曾孫の芽淳王の娘と血縁により次男が生まれ賜姓を受けている。(長男は忘手直、三男は波木直)

「平貞盛」とは藤原秀郷と共に、「平の将門の乱」の鎮圧平定者である。

大隈国 日向国を713年に4群を割譲して大隈の国を造り、正式に阿多倍の首魁一族に与えた。
4群以外はこれに従わず独立国家を主張720年に征圧した。

「司馬達等」は鞍造部の始祖で、仏教私伝者であり、日本初代の仏師「鞍造部止利」は彼の孫である。伊勢青木氏のステイタスの大日像の生仏像様は「鞍造部止利」作である。

文武天皇期の養老律令(718)は藤原鎌足の子供の不比等が編纂したものがあるが、これは大宝律令の修正版である。

光仁天皇は709-781 位770-781
桓武天皇は737-806 位781-806
嵯峨天皇は786-842 位809-823


「陶部の陶氏」は、後漢の阿多倍の配下で、第1次の後期の陶磁器の技能集団の部の頭領で、室町末期までその勢力は中国全土を占有していた。毛利氏に潰された。村上水軍はその末裔と言われている。

「日本書紀と青木氏」 完

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