青木氏と守護神(神明社)-2
青木氏と守護神(神明社)-2
「国難」
1「蘇我一族の横暴」「天皇家を脅かすほどの脅威」と「天皇家の無力化」
2「国の漫然化」 国を豊かにし、国の安寧を計る国策の無さ 「民の疲弊」が起こる
3「民族氏間の争い」「7つの民族」が40程度の「民族氏」に拡大し「民族間抗争」が起こる。
4「朝廷内の抗争」 蘇我氏一族と反蘇我氏一族の抗争が起こる
5「後漢の民の動向」 その勢力は朝廷を凌ぎ日本の半分は支配下 「独立国の懸念」が起こる。
「国難2」
次ぎに国難2に付いては、国難3「民族間抗争」と国難4「朝廷内の抗争」と共に共通項がありより立体的に論じることが出来ると考えますので、国難2を口火として論じて行きます。
先ず国体をどのようにして豊かにして行ったのか、その考え方と行動施策を論じる必要があります。
時期を同じくして大化期に阿多倍王に率いられた200万人が第1期、第2期の難民として渡来しましたが、入国来、働く彼ら「後漢の技能集団」の「物造りの効果貢献」を観て、「大和の民」を引き付け、著しい経済的な効果を生み出します。
豊かさを享受した民が自ら進んで彼等の支配下に入り無戦でその支配地域を拡大して行きます。
その進んだ技能集団を観た朝廷は「物造りの国策」を全面に押し出し推進する事になります。
つまり「部制度」を定めて部方式の「経済の確立」を促す政策を採用したのです。
国を「物造り」で豊かにする事が出来、且つ「民の安寧」を確保する事が出来るとする教訓と、その手法がある事を彼等から具に学んだのです。それを具体化し「国策制度」として採り入れる事をこれも直に彼等から教わります。
「物造りの技能」のみならず「政治への取り入れ方」、挙句は国体の「政治手法」も彼らの官僚から学んだのです。日本書紀によると”官僚の6-7割近くは彼等の集団であった”と書かれています。
この為に天武天皇は”民より優秀な者を選び学ばせよ”と命じたと記録されています。
その政治に関する知識を持っていた「部の集団」は「史部」(ふみべ)、「文部」と呼ばれ、「阿多倍王」の父の「阿智使王」が率いる集団であったのです。「阿智使王」は自らがこの政治を主導する史部の首魁として、「文直」(ふみのあたい:官僚)として働いたのです。そして、この「阿智使王」は自らも武力集団(漢部)をも率いて軍事面での政治主導をも首魁として働いていたのです。
「乙巳の変」の経緯(改新劇)
後にこの軍事集団は「民族氏」の「漢氏」(あやし)と呼ばれ、その末裔は「阿智使王」の末裔「東漢氏」(やまとのあや)と呼ばれる様になります。
この「漢氏」は職業軍事集団として「蘇我氏」に雇われていたのです。これが「蘇我氏」の軍事的な背景であり、「蘇我氏」が裏表の軍事武力行動は全て彼等の集団が行ったのです。これらは記録として残っています。
その顕著な例として、「中大兄皇子」が「蘇我氏」を倒すことが出来るか否かは、この「漢氏」、つまり「阿多倍」の父「阿智使王」の出方如何であったのです。結局、「漢氏」の首魁「阿智使王」は「蘇我氏」の大屋敷から「漢氏」に引き上げを命じたのです。「中大兄皇子」に対して”我等は元より雇い軍である。攻める意思なし。一両日中に岡より引き上げる”と伝えて来たのです。本来、家臣である「蘇我氏」が宮殿より上の土地に館を構えるは法度でありながらも「宮廷」より遥かに大きい館を構え周囲を防御柵で覆うものであったのです。
戦略上、「中大兄皇子」にいかなる強力な軍隊が構えていても三方の岡よりくだり攻められた場合は全滅です。元より「中大兄皇子」には「蘇我入鹿」を倒しても軍事的に戦略的にも勝ち目は無かったのです。
しかし、「阿智使王」は命令を下さず事件後直ちに伝令を飛ばしてたちどころに伝え消えたと記録されています。一定期間その所在は不明であったとあり、後に出てきて「史部」「文部」の首魁、「漢部」の首魁として朝廷の官僚として働きます。そして後には朝廷軍は「阿多倍軍と阿智使王軍」の編成軍として作り上げ日本全土を制圧したのです。(阿倍比羅夫・坂上田村麻呂の軍)
この様な予備知識を下に「民族氏」の代表の阿多倍一族一門を比較対象に青木氏を「融合氏」の代表として下記に論じて行きます。(詳細は「日本書紀と青木氏」に詳細参照)
当時180もの「品部」が生み出す物を一度「朝廷に納品」させ、「必要な量の物」を「税」として郡毎の「正倉」に収納し、残りを市場に「適度な量」を放出して安定した経済にする方式で、それまでに無かった「準市場経済」の「統制仕組み」を創設しました。
それまでは「品部」を支配下に置いていた「蘇我氏」等の「一部の豪族」に「利益」が吸収されていて経済を想うままに支配されていました。これでは「氏融合」の発展の経済的基盤が整いません。
そこで彼等の指導によりそれまでの「物々交換」の経済からそれを一挙に統制された「市場経済」(貨幣経済:和銅開宝 「鋳銭司」[すせんじ]が各地の主要駅舎で発見されている)に近い方式に変更する事で平均して「氏が融合できる体制」を確立したのです。
そして、それをより効果的に可能にするには、当然にそれまで頻繁に起こっていた「物品の争奪」や偏った「利権の確保」や「民族間の争い」を無くす事に集中する必然性が出てきます。
参考記録 (「物造り」に積極的な例)
「物造り」を推進して経済的発展を促して「融合性」を進めようとする為に、これには積極的に天皇自らが新しいより良い品を作る提案や準備をする等の行動を採ったのです。
例えば記録によると日常よく使う「墨や硯石や筆」や「貨幣の材料:銅」などを探す努力や提案、その匠(墨では方氏)の派遣を中国に直接頼む等の努力をした事が数多く記録として遺されています。
(例 和歌山県海南市下津町に「方」と云う地名が現在もあり、ここに墨を造る職能集団が定住:日本最古藤白墨の生産地 熊野古道沿い 天皇が探し当てた それまでは中国から全て輸入)
この様に中には天皇が直接旅をして「材料探し」をした等が記録として遺されています。それ程に「物造り」政策が根幹であるとして積極的に力を入れていた事を物語ります。(研究室にレポート済み)
この事は「物造り」を平衡して国策として進めれば「経済的な潤い」が生まれ、争いの基と成る奪い合いは無くなり、その基盤に依って「民族氏」から混血を進める「融合氏」にする事で争いを抑えられます。
また、優秀な「後漢の民」との融合を図る事で、彼等の「独立」を防ぎ、「日本の民」を巻き込んだ「職能集団」の「経済力」の活用をも図り得ます。
「7つの民族」が定住する国土の中で「民族氏」の構成では蘇我氏の例に観られるように”「民族間の争い」が起こり「国の安寧と安定」を図ることが出来ない”と考えた天皇はこれ等を融合させて一つにする事が肝要と悟ったのです。この為に必然的に「天皇家」自らが模範として進んで「融合氏」を計る事が必要に成りました。そして其の為にも先ずは朝廷の大きな経済的な負担と成っていた「皇族数」を下野させて減らし、且つ融合を進め、それまでの「民族氏」形態から「融合氏」形態への推進の為にも、その融合の弊害の根本と成っている「皇位継承制度の改革」を全般的に果敢に断行します。
「皇族数」を減らし経済的な負担軽減を率先して行い「物造り」を併用して経済的な潤いを発生させて「融合策」を天皇家が進んで率先したのです。これに依って「民の合意と賛同」を得ようとしたのです。
天皇家の第5世族以下(1000家程度 5000人/代)が下野する事で「民との接近」が生まれ「融合」は進み「民族氏」の数(20-40)に比べて「融合氏」は一挙に増えると考えたのです。
これに皇族と母方姻戚関係を得た藤原氏の「融合氏」を加えると「民族氏」に匹敵する融合氏の数と成ったのです。(現実に増えた 荘園制で弊害の問題が起こる)
これに依って、第7世族を含む「皇族系の融合氏」が各地に広がりを示し、そこに建立して行けば「民の心の拠りどころ」として定めた「皇祖神」の「神明社」(「伊勢神宮」)の各地への普及が図られると考えたのです。つまり、根本の政策戦略としては「物造り」-「融合氏」-「神明社」の関係が成り立つのです。
その「融合策」の目玉として次ぎの様な施策を実行したのです。
先ず、第5世族以下の皇族系臣下・下野の長として第4世族内の朝臣族の「第6位皇子」を「臣下」させ「賜姓」して「融合氏(侍)」を「発祥源」とさせる事を押し進めたのです。
これに身分と経済的裏づけ(官位・官職・爵位・賜田・功田・位田・俸禄田)を与え天皇と天領地を護る近衛府軍を創設し、その責任者に任じます。
(「侍」「さぶろう」の古語 ”真人族に寄り添って護る”の意 「国、院、家」の3侍を定める)
皇位継承者を第4世族までとして真人族・朝臣族の「王」と改め、それまでの第6世族以下を改めて臣下・下野させます。(第5世族は政治の官職に就く・貴族公家)第6・7世族は坂東の護りとして「ひら族」を賜姓して夫々「8つの融合氏」として配置します。(坂東八平氏:ひら族)
「平安期以降の融合経緯」(1期から5期の融合)
この「臣下策」と「賜姓策」が平安末期までの丁度550年間継続されるのです。
「第1期融合」は、「民族氏」から「融合氏」の「初期的融合」は900年頃に政策的にも終る。
「第2期融合」は、「自然の摂理の現象」で室町期初期頃までには必然的に更に「濃厚な氏融合」へと進みます。この時から「民族氏」傾向の強かった「部民」の殆どに「職能集団」を生かして生き残りの「姓氏形成と融合」が起こります。
「第3期融合」は、完成した「濃厚な氏融合」は室町期末期頃までには今度は「自然の摂理の現象」で「氏の潰しあい」へと変化します。
「第4期融合」は、「氏の潰しあい」は終り、江戸初期には氏を形成出来ていなかった「下級武士階級」が氏を競って形成します。
「第5期融合」は、主に第4期までの全武士階級の「氏間の融合」と、封建社会に阻まれて「氏の形を採る融合」を採れずに居た庶民が「明治期の苗字令」により国民の9割が氏姓を形成します。
つまり、先ず正式で初めての「融合氏の発祥源」として、「皇族賜姓青木氏」(真人族 国侍の氏)の施策を関西域に行い、続けて「皇族7世族」(家侍の氏)の「坂東八平氏」」の発祥政策を関東域に行ったのです。
(奈良期は近江、伊勢域 平安期は美濃、信濃、甲斐域 4世王族は19地域に「融合氏の発祥源」として配置した その象徴(シンボル)として本論の「神明社」を建立した)
九州を含む関西以西域は「阿多倍一族」とその「職能集団」の配下域にあり「民族氏」の傾向が強くなかなか「融合氏の政策」を「朝廷」が率先して先に行うには難しい政治的な状況にあったのです。
何はともあれ、彼等は軍事、経済、政治共に優れ、むしろ彼等から学ぶ立場にあって、「融合氏政策」とその象徴(シンボル)の「神明社」の普及は到底「立場の優位性」から見て難しかったと考えられます。
又、関東より以北はまだ「朝廷の力」が完全に及ぶ制圧域にあらず、関西以東関東域までの施策とせざる得なかったのです。それ故に、この域には「神明社」の建立は果たし得なかったのです。
恐らく、以西と以北の地域では、これは「民族氏」の傾向が強い事から「融合氏」の「神明社」(「祖先神」)と云う「宗教観の概念」との違いが大きくあったと考えられます。
(「物造り策」-「氏融合策」-「神明社布教策」は相互関係にて連動していると云う史実観)
まだ蘇我氏と物部氏が争った「仏教観」と「神道観」が起こって60年程度しか経っていない時期でもあり、尚且つ「仏教化」が進んでいる時でもありますから「神道」の「融合氏」と「神明社」(「祖先神」)とを連動させて政策を実行するには奈良期の初期の段階では無理があったと考えられます。
そこに、阿多倍の配下の職能集団が「司馬達等」を先頭に「仏教」を崇拝していた私布教の環境下では、尚更、難しさがあったと考えられます。
(司馬達等は私伝で仏教を職能集団に普及させ最初に伝えた人物)
「宗教観」
「氏融合」と「神明信仰」を連動させての政策は先ずは限定された範囲の中にあり、しかし、反面では「氏の融合」を推し進めないと「国の安寧と発展」は無いし、「首魁阿多倍」とその「職能集団」を「九州独立」から遠ざけるには「根本的な政策」としては他には無かったのです。
史実から観て、この「氏融合」と「神明信仰」の政策を推し進めながらも、終局は「独立」から「帰化」と成りはしたものの、未だこの問題の解決は完結出来ずにいたのです。
史実から、観ると次ぎの事件が起こっていて難しさが判ります。
A 7世紀始めに朝廷は南西諸島と九州域を制圧し服属させたが、その後直ぐに九州地域は阿多倍軍に 制覇された。
B 713年に朝廷は薩摩国から日向4郡を割いて大隈国を半国割譲して何とか「独立」と云うことを避ける 為に妥協した。しかし、律令政策の浸透は九州域では無理と成った。
C 720年には遂には「朝廷の軍」を送りこの大隈の首魁に対して大征討を試みるが挟撃を受ける事を恐 れて軍を引き上げた。
D 結局、その後、阿多倍の職能集団の配下に入った九州の民の賛同が得られず放棄。
E 800年に数々の妥協策によりやっと朝廷の律令の内、農政の部曲に対する「口分田」だけが施行出 来る程度に成った。
ただ、ここで大きな疑問があります。
「関係する歴史的経緯」
645年に阿智使王と阿多倍王17県民と共に九州地方無戦制覇後に帰化する。
648年頃に阿多倍は准大臣に任じられる。
650年頃には阿多倍に伊勢の国から「伊勢北部伊賀地方」を半国割譲して住まわせる。
670年頃には阿多倍は敏達天皇孫芽淳王の女と婚姻(第6世族)する。
698年阿には阿多倍一族一門の阿倍比羅夫が蝦夷を征討します。
690年頃に子3人に賜姓(坂上、大蔵、内蔵)を受け朝廷の軍事権、経済運営権、政治権を任す。
713年には阿多倍に薩摩の国から「大隈の国」を半国割譲します。
720年には国策に従わない事を理由に朝廷軍は大隈国を攻めています。
730年頃には阿多倍孫娘(高野新笠)と天皇家(光仁天皇)と直接血縁する。
758年頃には朝廷軍の主力を「阿多倍軍(坂上氏)]と「阿智使王軍(東漢氏)」で編成する。
764年には朝廷軍として阿多倍末裔二人(阿倍氏等)が以北征夷を攻め「征夷大将軍」に任ずる。
769年には和気清麻呂は大隈国に配流される。(大分の九州最大神社の宇佐八幡宮神託事件)
790年頃には九州北部と南部大隈国に騒ぎが起こり朝廷の全ての政策に反抗して従いません。
800年には朝廷政策の内の「班田収授法」の「部曲」に支給する田畑(口分田)だけに従います。
806年には阿多倍の子坂上氏は蝦夷地の異民族アテルイを以北制圧して絶大な勢力を確保する。
820年頃にも九州地方特に大隈国は末裔肝付氏が勢力拡大し国の「律令政策」に従っていません。
833年には太宰の大蔵横凧は「宿禰族」になります。
938年には太宰の大蔵春實は「錦の御旗」を受け「藤原純友」を追捕する。
940年頃には阿多倍末裔の国香-貞盛は「将門の乱」を鎮め「功績」を上げる。維衡、正盛、忠盛-清盛
950年頃には「太宰大貫主」と成り初めて「半自治形態」を採る。
1018年には大蔵種材は「遠の朝廷」「錦の御旗」を受け「太宰大監」に成り九州を「完全自治」する。
この様に、関連史実を時系列で並べるとこの阿多倍一族一門には何か大きな「氏融合の生き様」が観えて来ます。
720年には以西では国の政策に従わず攻められています。そして以北では698年と802年に朝廷の命で蝦夷を攻めています。この時、関西では軍事と3政治機構の内、大蔵、内蔵を占有し「国の政策」を立案推進しています。
以西以北では全く逆でこの様に阿多倍一族一門の地域に依って異なる行動を採り矛盾が起こっています。
この事は何を意味するのか。「氏融合」の過程で大きな政治的な戦略が観えて来ます。
結論から述べますと、「九州基地」と「伊勢基地」との間で「両立2面作戦」の戦略を展開しています。
それは先ず、「氏融合、農政、物造り」の史実から観て、戦略的に「3つの基地」を展開しています。
1 大隈国を基地として「九州南部地域の基地」
2 大宰府を基地として「九州北部地域の基地」
3 伊勢伊賀を基地として「関西中国地域の基地」
阿多倍側からの考察
「九州南部地域」は国政に対して従わず入国以来「物造り」と「農政」には「自治」を継続。
「九州北部地域」は国政に対して「物造り」に従い「農政」には不従政策 「半自治」を継続
「関西中国地域」は国政に対して「物造り」「農政」共に従い、政策を主導
800年までこの態勢を維持した。
朝廷側からの考察
入国来、無戦征圧32/66国を征圧した彼等一団が「帰化」か「独立」で来るかで朝廷は悩む。
結果は「帰化」で来た。しかし、武力制圧して「帰化」に成った訳ではない。
争いを避ける事である。”完全に従う”という事ではないと判断して朝廷は悩む。
そこで「首魁阿多倍」を都に呼び寄せ「伊勢」に勲功を理由に懐柔策に出た。
要するに「首魁不在」の「九州南部基地」を空にする作戦に出て九州南北の基地の勢力を弱める作戦に出た。
そこで妥協策として、勲功とは別に朝廷の力が及ぶ所に定住させる作戦に出た。
関西以西中国地方の影響力に限定する戦略である。その為に阿多倍に「伊勢北部伊賀割譲」をして留めた。
しかし、九州2基地は依然折れて来ず、国策に従わない。これでは「独立」と成ると焦る。止む無く次ぎの手を考えた。
そこでこの「都定住策」に加え、取り合えず、阿多倍王と「間接血縁」させて一度目の「天皇家との繋がり」を作り恐れている「独立」の「回避策」に出た。
ここで天皇家と間接的にも結び付けば「子孫繁栄」の生活圏を築かせて置く事で縛りつけられると考えた。中国関西基地は何とか折れて国策に従い始めた。
それで九州の北部基地はやや折れてきたが南部基地は依然として国策に従う様子なしと観て、更に懐柔策として「大隈国割譲」で様子見守った。
矢張り動かないので今度は阿多倍の子に異例の賜姓をしてお膝元の九州南部基地を従わせる様に試みた。(坂上氏、大蔵氏、内蔵氏)
朝廷は妥協して阿多倍賜姓族に「軍事、経済、政治」の政策実務を任せて自らの首魁が行う政策であるので九州南北の基地が国策に従うだろうと考え誘導した。
これでも従わないので、そこで遂に軍事で解決しよう決断を下した。
当初の作戦通りに空した「九州南部基地」の本拠地を攻めて彼等の「分断作戦」に出た。
首魁らが行う政策に従わない事を理由に一族の粛清と見せて挙動したのである。
これが恐ろしく強い「彼等の戦力」に押されて失敗して慌てて船で逃げ帰る。
これで「立場と信頼」は完全に消失したと考えた。
「本拠地」大隈を突かれて「関西中国地域の基地」では阿多倍一族は驚いた。極度に警戒を強めて来た。
最早、動かし難い「伊勢伊賀基地」の今にも「独立」の気配の態度硬化を観て、軍事的にも解決は無理と観た。
後は「天皇の権力」しか無く成る。つまり「冠位と血縁の策」しか無く成った。
朝廷内も政治、軍事、経済の実務を握られている。「蘇我氏の専横」のレベルでは到底ないと感じる。
第1期の青木氏等が主導する「皇親政治」では天皇家の中で「何の改新か」との批判高まる。
遺された道は只一つ阿多倍の孫娘と2度目の天皇家と「直接血縁」で逃げる又もや懐柔策に出た。
朝廷は「仏教政治」の弊害で乱れている。「称徳天皇」の道鏡に振り回されて政治は混乱し朝廷はますます弱腰になる。
そこで、皇親政治族の賜姓青木氏や藤原氏に無理やりに押されて例外の天皇に成った優秀な光仁天皇は「仏教政治」を廃止し「皇親政治」に戻して朝廷内を先ず一新し、そして阿多倍一族から妻を向えて以西の問題を先ず収束させた。
朝廷の政治を主導し律令国家体制に整えた。しかし、3権を殆ど牛耳る程の彼等の勢力と成っては逆に打つ手なしと判断した。
「桓武天皇」が率いる賛成派は阿多倍の末裔を賜姓策で引き上げて又もや更なる「血縁融合策」に出た。そこで、先ず朝廷軍を「阿多倍軍と阿智使軍」を主力とした編成にし信用させて、九州の南北の2基地を攻める意思の無い事を示し、「政治、経済、軍事」の「3権」を任して「究極の独立回避策」に出た。
さすれば九州は国策に従うと観たが南部基地の「強行派肝付氏」が勢力を増して依然従わない。
そこで、以西を突けば「民族性」の強く「融合」に従わない「異民族」の「以北勢力」を逆に南下させると見て、まず「以北の憂い」を無くす事から始めた。
優秀な妻方の連合軍を編成して強力な「阿多倍軍+阿智使軍」を使って取り合えずは先ず以北の征圧策に出る。成功する。後は彼等の以西を国策に従わせるのみと成る。
阿多倍の子を「征夷大将軍」に任じて最終「軍事の最高権威」も与えて動きを誘導して3権で九州南部基地を従わせる様に仕組んだ。
戦っても身内同士の戦いになるし戦力の差がある。間違いなく国策に従うと観た。
ところが”強力な身内の「伊勢伊賀本部」の「首魁宗家」と争う事を避けるだろう”として考えた。朝廷は命じた。そこで「九州北部基地」に地盤を置く「大蔵氏」は国策に従う様に条件付の「柔軟な姿勢」を採ったが、逆に「九州南部基地」では騒ぎが大きくなり依然として国策に従わない。
しかし、「伊勢伊賀本部」からの指令で止む無く妥協策として農政の「口分田」のみに従うとする態度を示す。
ところが、強硬派の「九州南部基地」では異変が起こり、阿多倍末裔の超強硬派肝付氏が台頭し主導権の勢力図が変わり「律令政治」そのものに従わない態度を示す。
最早、打つ手なしとして、今度は朝廷内では「最悪の独立」を避ける為に「九州2基地」の「半自治政策」に傾く。
そこで、暫時策を打ち出す。九州阿多倍末裔の最大勢力の大蔵氏に焦点を当てる策に出た。
先ず、彼等を完全に引き入れる為に一族の大蔵氏に天皇家の流を汲む身分の「宿禰族」を与えて「身分家柄」を高める策に出た。
次ぎに、暫くして大蔵氏の本拠地「九州北部基地」に対して前代未聞の「錦の御旗」「太宰大貫主」を与え「冠位と身分」の妥協策で朝廷側に引き込むお膳立てを構ずる。完全に成功する。
依然、更に国策に従わない「九州南部基地」を横目に、「九州北部基地」に配置して「半自治」を認める「懐柔策」を展開した。
つまり「九州北部基地」の大蔵氏をして「九州南部基地」を凋落させる戦略である。
それでも、まだ不安があり解決が出来ない。そこで本家筋の大蔵氏に従わない肝付氏との間に険悪な状況が起こった。「九州南部」と「九州北部」の「基地間の争い」(同族争い)が起こる可能性が出た。
「関西中国基地」と「伊勢北部伊賀指令本部」は焦った。朝廷が狙う共倒れが起こる。
「関西中国基地」等3基地の全権を握る「伊勢基地の司令部」は慌てた。最早、「人物策」しかないと考えた。
天皇に働きかけをして一族の中でもこれを解決できる「人物」は日本全国で唯一とされる万来の「人物」に白羽の矢を当てた。
大蔵氏の優秀な政治、経済、軍事で有能で万能な逸材の「大蔵種材」に任す事を提案する。
超強硬派の肝付氏も”種材ならば”とこれに従うと判断。それには前提条件がある。
朝廷は、彼等の「共倒れ」で「乱」を選ぶか、「国策」を守らせ全国共通して律令下で「氏融合策」を採るか選択を迫られる。
そこで、前提条件を認める事に成る。九州全域には多少の「国策律令の不順」は妥協しても「運用権」を認める戦略に出た。
止む無く彼等の末裔の主力大蔵氏に「運用権」の範囲で「九州全域の政治」を任す「完全自治国」とする事で「乱の国難」を避けた。九州南部基地は従い大成功する。そして矢張り九州南北の基地では政治、経済、軍事で安定に向かう。
この時、丁度、「物造りの本拠地」でもある九州全域の安定化に伴ない「品部の物造り生産力」の向上とは裏腹に、逆に、特に全国的に「班田収授法」等の「農政政策」を定めたものの、各地で「凶作や天災、飢饉、動乱、政権不安定等の原因で、全国的に「農産物の被害」が続出し、「重税や労役の負担」で「部曲の不満」が頂点に達し「農民反乱」が各地で起こっていた。
これに呼応した豪族等が叛乱を起こし、これを潰そうとして朝廷は戦いを起こしたり挙句の果てには朝廷内で「農政による政争」が起こった。
この様な環境の中で、「部曲の農産力」が限界に至り、「難民移民」などの受け入れが国策上限界と成っていた。
特に北部地域に頻発していて、武装難民等の入国を阻止する為には九州南北基地の彼らの力が必要な環境下に入った時でもあった。
ここで「九州南北基地の戦い」が起これば、依然不安定な武力制圧で納めたがその末裔が息を吹き返してきた以北、一応は「運用権で納めた九州南北」、膝元の「中央の政権の乱れ」、「各地の農政による不満の反乱」、これに呼応した「豪族の反乱」、これでは国が立ち行かなくなると朝廷は悩んでいた。
そこで、危急存亡の「秘策の提案」を採用する事になる。
九州南北の問題を「運用権」より進めて「自治」を宣言させる方策で任して置いて、他方の「以北の憂い」を解決する為に源義家の「征夷大将軍」と藤原秀郷一門の「鎮守府将軍」に任じて、彼等の氏力で片方の「以北の完全鎮圧」に当る方策に切り替えたのである。成功する。
しかし、義家は荘園制で大きくなり過ぎて却って問題が出た。義家を潰しに掛かる。成功する。以北はほぼ解決した。
次ぎは九州全域の問題だ。彼等の狙いは実質は「独立」だか、朝廷はその「大義名分」として「遠の朝廷」として権威を与えそれを証明する「錦の御旗」で繕う事で「独立の形」を避けて「自治の国」を認める決断を下した。これが1018年の事である。成功する。
以西と以北は解決する。
しかし、この結果、「融合氏」の勢力が必要以上に増し、荘園制が行き過ぎ土地私有化へと勝手に進み始めた。朝廷は観てみぬ振りをする。
しかし、これを憂いていた天皇が立ち上がった。後三条天皇。融合の弊害に成る荘園の私有化に歯止めを掛けた。「荘園整理令」を出す。
身に危険が迫る。白河天皇は更に勇敢に「荘園公領制」に踏み切った。融合氏は正常な形で進み始めた。
融合氏推進を国策とする天皇側と、民族氏の阿多倍一族一問との駆け引きの問題に一応休戦状態となった。
これで、全国統一して「律令国家」の前提が、九州に「自治の国」は存在するにしても、一応は出来上がったのです。阿多倍側と天皇側とには両者共に主張点は確保して後は妥協策で解決する方向へと進み始めた。
時系列で観た融合に関するこれが平安期の経緯と考えられます。
「律令と造作」
これで「氏融合」「物造り」「神明社」の「3つの国策」は一挙に進むことになります。
その解決への弟1の変曲点ピークは桓武天皇期にあり、この「3つの国策」を成した天皇として、彼を「律令と造作の天皇」と呼ばれた所以なのです。
明確な”「造作」”の名称が着いた事は「氏融合政策」には「物造り政策」が連動していなければ成らない国策状況であったことを物語ります。
彼の「物造り」(造作)は資料記録から観ると、大事の「都造り」から始まり「河川道路造り」「寺造り」「神社造り」末端の「物造り増産と開発」などに率先して働きこれ等は広範囲に渡ります。
つまり、「高負担の税と労役」を課しながら「公共工事による税の還元」や「朝廷に入る部制度による物造りの利益」に依って「税と労役分」を民に戻し潤いを与えて、「農政不満の解消」を図り国の安定を計ったのです。
「物造り」政策の「増産」とそれに伴なって起こる「開発」を基盤として、自然災害の「農政問題」を補完した政策を採ったのです。
そして其処に「民の心の安寧と安定」を図る為に「神社仏閣の建設」も積極的に並行する相乗効果を狙ったのです。
これらの考え方(「氏融合」-「物造り」-「神明社」)は平安期の代々の天皇に引き継がれて行ったのです。これは真に融合氏の発祥源「青木氏」、青木氏の「守護神・祖先神」、青木氏の古代和紙・殖産「2足の草鞋策」に一致し、そのものの考え方です。これで天皇家と青木氏は連動して行くのです。(後述する)
「運用の基盤差」
上記した連動した国策(「氏融合」、「物造り」、「神明社」)は「九州南部基地」と「九州北部基地」とでは若干の導入に関する温度差はあったと想われますが、筆者は、自らの首魁等が決めた国策には概ね従っていたと考えていて、それを実行する「完全な拘束力」に対して「柔軟な運用権」を主張していたのではないかと観ているのです。”全く国策を撥ね付けていた”とは考え難いのです。
その根拠はその「土地柄」「民族柄」を未だ強く遺されていて一概に国策の「律令制度」には馴染めない環境が強く遺されていたと考えているのです。
だから、それを解決する手段としては「柔軟な運用」以外に無い筈です。彼等は「氏融合」策に付いては論理的には”「国の安寧の根幹」を示す事である”とは充分に認識していて、「否定的」ではなく「総論賛成 各論反対」の態度を採ったのであって、其処には3基地の受け入れの「温度差」があったと考えているのです。特に後の末裔「たいら族」(平族)の根拠地になった「関西中国基地」では”都に近い”と言う「地理的要素」があり国策をある程度呑む以外には無かったと観るのです。
九州の「2つの基地」に付いては、恐らくは「地理的要素」が強く遺されていた事からこの様な経緯を辿ったと考えます。とりわけ、「土地柄」「民族柄」を基本としていますが、決定的な要素が此処にあるのです。それは本文の論説の一つのなのです。
つまり、彼等は「中国人」それも最も「優秀な民族」と評されている「後漢の人」なのです。
彼等の思考の原理は「儒教の教え」から来る「石は薬」「法より人」の「生まれつきの概念」があるからなのです。今も彼等には色濃く遺されている概念です。
この「石は薬」「法より人」の「生まれつきの概念」がある限り、「律令」よりも「人」と云う理屈が生まれてくるのは必然です。ましてや、「古代の時代」「日本も始めての律令」の環境下にあったのです。遺伝的に持つ彼等の概念「柔軟な運用権」は「人」の思考を優先する彼等には「自然の思考」であったと考えます。
優に摩擦が生まれて自然にこの様な経緯を辿ったのです。
日本人の「7つの民族」から来る「集団性癖」から観ると、「集約する思考」が存在しない限りは成り立たない「融合単一民族」であり、つまり、「常識」が「法」としたとの考えがあり、「最低の常識」つまり「法」が優先されるべきと考えるが「自然の思考」と成ります。
少なくとも「人」は最低は「法」の概念を守るべきと成るでしょう。ここが彼等とは全く逆なのです。
ここが、日本の「氏融合」と「物造り」と「神明社」の概念が中国に差をつけて大きく進んだ所以と考えます。
「青木氏の功績」「妥協と争い」
兎も角も、奈良期、平安期の時代には、現在にも未だ大きく遺されて問題事件と成っている「人類の課題」が、この時期に大きくのさばっていた事を物語る「融合氏の生き様」であったのです。
恐らくは現在でも起こる中国ロシアとの摩擦どころの話では無いと考えます。
それをこの様な「経緯」を280年間の間に解決して共通認識の「氏融合」は成されたのです。
「国策経緯」=「氏融合」=280年間
日本の歴史上最も見本とするべき経緯です。
恐らく、諸外国が「民族性」から脱し得ず「氏融合の単一民族化」していない原因は「妥協」を選ばず「争い」で決着する方法を選んだ事だと考えます。
日本人の「妥協的思考原理」とすると、それから観れば彼等の遺伝子的に持つものは極端な「合理的思考原理」とも成りそれに起因するものと成ります。
「争い」も「自然摂理」から観ても必ずしも否定するものではないとは考えます。
「争い」の手段は「解決」と云うよりは「決着」と考えるのが日本人なのかも知れません。
この世の「物事の解決」には分析すると「幾つかのプロセス」が存在している筈です。
一挙に右から左と「問題発生-解決」と云うシナリオを経験した事はありません。
この間には「決着」を始めとする「2、3のプロセス」が必ず介在しています。
「決着」は「解決」と云う目標の一つ手前のプロセスである筈です。
とすると、「争い」には大小あると思いますが少なくとも人間が考え出した「本能」に近いもので「決着の手段」の一つと認識されるでしょう。
「人」が「人間」である限りは現代も全く変わっていないと考えます。
「長は理想と現実の理解者 青木氏の教え-1」
現に、この1018年以降は今度は下記の「三相の理」が崩れて「氏融合の弊害」の「生存競争」が起こり、「争い」という「自然の神」が織り成す解決手段で「下克上」「戦国時代」へと突入して行くのです。
恐らくは現代あるこの社会でも、国内外の問題を問わず「神の力」を除きこの様な事が起こればその「流れ」の中では、矢張りその解決手段は「争い」以外には無いと考えられます。
これだけ「大きなエネルギーを押さえ込む力」は「神の力」以外に何人にも無い筈です。神でも不可能かも知れない。
「神」も時には「争い」を以って解決を示します。つまり、「理想論」では行かないのがこの世の摂理です。
そもそも、少なくとも「理想」とは「人間の知恵」の「発露の発展」が成した「論理的な究極の思考」と定義付けられるでしょう。他の動物に観られない無い思考なのです。
と云う事は「厄介な思考」とも取れます。「理想」は「争い」があるからその反意として「理想」と云う形を「人間の知恵」は形作っているのであって、現実の中に容易に存在するものではない筈です。
それを恰も現実中に存在するものとして、「理想通り」に物事を進める事は「集団の長の思考」とはとても考えられないものと成ります。
歴史上の史実から観て確かにその様な人物は一部存在しますが、考察すると一時は事は成したとしても、むしろ周囲には必ず「弊害や滅亡」を生んでいます。
しかし、世の中、”「長」が理想論者であるべきだ”とする説があるのは「論理的な究極の思考」に酔っている姿の説であり、良く見掛ける”耳障りの良い事を言い立て自己を満足させる”と云う事に執着している「人間の性(さが)」(癖)の一つと筆者は観ているのです。仏教でもこの説を採っています。つまり、仏教の説法にもあるのだからこのタイプの人間が多いと言うことです。
例えば、「人を観て法を説け」「縁無き衆生動し難し」”現実から大きく離れ「理想」「無関心」などに拘り過ぎ「色即是空の説法」を聞き入れない者は捨て置きなさい”そして裏意では”行き詰まり救いを求めた時に手を差し伸べなさい”と説いています。
筆者は個人の範囲で「理想論」を思考する事が「知恵の性」である限りは否定はしませんが、”長はそれに酔って物事を云々する事”を否定するものなのです。
「理想世界」の中では、「人間の妄想」と位置付けられ「人間の性」「人間の煩悩」が無くならない限りは、現世に「矛盾差」が生まれ、その世界があっても、その中では人間は生きられない筈です。つまり、生きるには「理想の世界」は「人が生きられない世界」と考えているのです。むしろ「仏説」の説く処の「地獄」だと考えているのです。
”「理想世界」が「極楽」で、「現世(うつせ)」が「地獄」ではない””「理想世界」が「地獄」で「現世」が「極楽」である”と。これが「般若心経の教え」であり、青木氏家訓10訓の真意であると考えています。
「理想世界」は「人間の思考」の成せる業であり「神」の成せる業ではないのです。「現世」が「極楽」とする場合、「無条件」ではなくこれには「適切な条件」が伴っている筈です。
上記の「経緯」の如く歴史的に事を正しく納めた「長」にはこの理想思考タイプの人物は見当たりません。
「理想」とは、突き詰めればそもそも「個人の産物」に過ぎないのです。
「理想」は、団体では「民族性」、個人では「人生経験度」に依って異なります。
故に、「長」は「妥協」の「プロセス」として「現実」を直視すれば、「民族性」(民族氏)から脱して、より小さい集合体の「氏性」(融合氏)に終結させる事が必要である事に成ります。
1つ2つの民族ではなく、「7つもの民族」が存在している現状の中では、「自然の摂理」として「民族氏」の「民族性」が強く存在する限り、”「争い」と云う現象が起こりより良い現実の「安寧」は獲得出来ない”と考える事が「長」に求められる筈です。
この「氏融合 280年間」の「国策の山」を越させた「長」の人物「嵯峨天皇」までの「濃い血縁」で繋がる「我等全青木氏の祖」は、「長」としてぶれる事無く、この事を理解していた事を意味します。
(「我等全青木氏」は下記「血縁と絆」からの「4つの青木氏」を意味する)
「適切な条件」=「手段の使い方」と「三相の理」
「家訓10訓」の青木氏の教え-2」
ただ、問題はその「手段の使い方」によるものでしょう。「妥協」もその使い方如何では「争い」以上の悲惨さを生む事は「神と仏教の教え」でもあります。
即ち、「手段の使い方」とは「人時場所」の「三相の理」であります。
この解決策と成った「妥協」は、この「三相の理」(人、時、場所)に叶っていた事を意味するもので、即ち、「7つの民族」の「集団性」から来た「日本人の特技」であり「癖」でもあるからです。
「奈良平安期の天皇と後漢の帰化」の「人」
「上記280年経緯」の「経時」
「3つの基地と都」の「場所」
以上の「3つの理」が叶っていたと云う事に成ります。
では、この「三相の理」を一つにして適える「使い方の手段」とは「律令」「格式」であります。
「律」は刑法、「令」は民法、「格」は追加法令、「式」は雑則規定類
この4つを「現世」に於いて「極楽」と成す条件であり、これにより「現世」の「人の性(さが)」による「弊害」を最小限に押さえ込む事が出来るとするものです。
「律令」「格式」により「地獄」から「極楽」に変換するものです。
ただ、これでは「絵に描いた餅」、要は「長」のそれの「手段の使い方」、つまり、「運用」と成ります。「絵に描いた餅」「環境問題(人、時、場所の環境変化)」は刻々変化します。
それに適合する「運用」(妥協)が「長」に相応しい「資質」として求められるのです。
これが上記した経緯「律令国家体制への道筋」なのです。(現在でも通じる事)
「適切な条件」=「手段の使い方」=「三相の理」=「律令」「格式」・・・「極楽」>「地獄」
この「三相の理」を理解していた「皇親政治側」の青木氏等の偉大な為政者には私事を捨て「大変な苦労」であった事が絵に描くように判ります。現代の為政者を評価する時、大いにその評価基準と成り得ます。
故にこの思考は、この時代を「皇親政治のリード役青木氏」の全ての「始祖施基皇子」の「善事選集」司の処から発している事を強調する点なのです。
「飛鳥浄御原律令」、「大宝律令(養老律令)」等と「上記した国策」であり、その究極は「氏融合」とそれに連動する「物造り」であったのです。
日本書紀にも書かれている記録であるのですが、この大元は全国を歩き回って集めた行動指針として活用を始めた施基皇子編集の「善事選集」から発しているのです。
(「善事選集」:各地の豪族たちが国を運用する時に決められた賞罰、慣習法の良いものを集め「律令格式」の下地にした。 後に整備された「律令格式」以外にも独自に「国例」即ち、慣習法として国ごとに定めた残った。 現在の「国政令」と「地方条令」の仕組みの下に成った)
これを上記した「長」としての資質を持ち天皇に代わって先ず執行したのが青木氏の始祖であるのです。この当時としては現在の「2つの仕組み」になるほどのものを考えた事は驚きで卓見そのものです。
これが青木氏にとっては本文の目的とする「伝統とするべき認識」なのです。
「3つの発祥源」である青木氏はこの様な「やり取りの渦中」に居た事を物語るものです。
これは取りも直さず、故に「青木氏の家訓10訓」の大いに示す所でもあります。
大化期では施基皇子が「天地、天武天皇」の「皇親政治の相談役」として主導している事は日本書紀にもよく出てくる事でなのです。(研究室にレポート有)
まして、「光仁天皇」は「施基皇子」の子供で女系天皇が続いた為に皇位継承者が無く押されて天皇に成った人物です。
(女系天皇が続きその精神的負担から逃れるために「仏教のお告げ政治」を敢行し、国は乱れ疲弊してしまった危機状況であった。 これを解決するために民衆と藤原氏は皇位継承権外の第5世族次席者第6位皇子の家柄に白羽の矢を立てた。)
青木氏の始祖末裔で、「阿多倍の孫娘 高野新笠 血縁の妥協策」の苦しい時期の為政者であって、正に青木氏の「皇親政治」の真ん中に居たのです。つまり、「青木氏の孤立的な苦悩」でもあったのです。
「280年の経緯」全体から見ればこの時期は「最も重要な良悪の分かれ目」になるポイントであったと観られます。青木氏は正しい判断を問われて親族として具申した事は明らかに予想が出来ます。
日本書紀の伊勢国を「国司三宅連岩床」に任せて「天皇の補佐役」をしていた「施基皇子の優秀さと立場」から判断すると、間違いなく「皇親政治の立役者」の「青木氏の具申」と考えられます。
まして「桓武天皇」は「青木氏の第3始祖」とも考えられる人物です。大いに具申はあったと考えるのが自然ではないかと思うのです。
(青木氏と直系血縁天皇: 天智天皇-施基皇子-光仁天皇-桓武天皇-嵯峨天皇)
筆者は、青木氏は「3つの発祥源」である訳ですから、「皇親政治」を標榜する天皇は青木氏の考え方、提案を聞かない訳には行かなかったと考えています。
重要参考
光仁天皇の妻 高野新笠の実子の桓武天皇は父方(皇親政治)、母方(阿多倍政治)の「苦しい選択」に迫られて「母方重視の策」を止む無く採った。故に「律令政治」に成り「第1期の皇親政治」は終わり、何と青木氏出目の天皇に依って青木氏は一時衰退させられる憂き目を負う事に成る。
(ここで5家5流青木氏は和紙を扱う「2足の草鞋策」に入るのです。)
2代後「激しい政争」の末に嵯峨天皇期では再び第2期の「皇親政治」は「賜姓青木氏」から「賜姓源氏」に復活するのです。
ここより「賜姓源氏」に変名するのですが、「賜姓源氏」も「阿多倍伊勢一族」の直系子孫(平清盛)の台頭を抑えきれずに憂き目を引き継ぐのです。
国策「融合氏」から発祥した「賜姓青木氏」「賜姓源氏」と、「民族氏」から発展した「阿多倍一門の融合氏」の対照的な2種氏の勢力関係の競合は、依然として1275年頃にやっと起こった九州北部基地の大蔵氏と、九州南部基地の肝付氏と、藤原秀郷流青木氏と秀郷一門永嶋氏との血縁までのその時期まで続くのです。
これらの関係は次ぎの融合数式により成り立ったのです。
A 「賜姓青木氏」+「賜姓源氏」><阿多倍一族一門
B 「秀郷流青木氏」+「秀郷流永嶋氏」><阿多倍一族一門
C 「賜姓青木氏」+「賜姓源氏」=「絆」=阿多倍一族一門(関西中国基地 伊勢基地本部)
D 「秀郷流青木氏」+「秀郷流永嶋氏」=「血縁」=阿多倍一族一門(九州南北基地の2氏)
「融合氏」の「賜姓青木氏5家」にしてみれば宗家が「伊勢北部南部の隣の地理的関係」から、また「5大和紙と云う経済的関係」からの関係からも、「民族氏」の彼等との血筋は無いにしても「絆」と云う点では多少なりともあった事になります。
所謂、判りやすく云えば、日本人ノーベル賞の有機物の不可能な結合を成した「カップリング現象の結合」で相反する氏は融合したのです。「絆」を触媒として。
(1180年の「源平合戦 以仁王の乱」にて賜姓青木氏の伊勢青木氏の跡目に入った京綱が助けられ、賜姓清和源氏頼光系頼政末孫3名がこの「絆」で日向で日向青木氏として助けられる。)
最終の結末は「争い」と云う手段で解決しなくてはならない方向に動きます。
5年後には「2軍の将相立たず」の教えの通り「絆」で結び付いていても「解決」と云うものに向って「決着」と云うプロセスを踏まなくては成らないのがこの「世の条理」です。
「関西中国基地 伊勢基地本部」は滅亡するのです。
E (「賜姓青木氏」+「賜姓源氏」)>×(阿多倍一族一門:関西中国基地 伊勢基地本部)=0
しかし、「解決」には影で動かす勢力も必ず存在するのもこの世の摂理条理です。
上記の数式の影で「第7世族 坂東八平氏」が再び「融合氏」として成長して来ていたのです。
「決着」の「争い」で弱体化した「賜姓源氏」は影の氏に依って葬りさられるのです。
F 「第7世族 坂東八平氏」×「阿多倍一門一族 伊勢基地本部」=0
G 「第7世族 坂東八平氏」>「賜姓源氏」=0
結局、上記のAからGまでの数式から差し引くと
「賜姓青木氏」+「秀郷流青木氏」
「九州南北基地の阿多倍一族一門」
結局、「融合氏」の「3つの発祥源」の青木氏が無傷で残る事になります。
これは上記で論じてきた事柄
a 「三相の理」や「理想と現実」を弁えて「家訓の戒め」を良く守った。
b 「2足の草鞋策(物造り)」と「絆」で結ばれた「絆結合の青木氏の支え」があった。
c 「神明社で団結」の4つの条件が整っていた事があった。
以上の3つがあったからこそ「融合氏の3つの発祥源の青木氏」として生き延びられたのです。
今から観れば、”これ以外には無い”と考えられる素晴らしいこの様な経緯を辿ったのです。
恐らくは3地域を率いる阿多倍一族一門側も、青木氏等と藤原氏等を始めとする「皇親政治」を主導している朝廷側(天皇家)との駆け引きには、上記する経緯に「裏腹の相似する態度と思考」を持っていたと考えられます。
それはその上記した大化の国策に始まった「融合政策」と関連する「物造り」等の国策は取りも直さず彼等の立案と実行に掛かっていた事なのです。
彼等にとって大きく反動する事は「自らの政治立案」と矛盾する事になり、政治は成り立たなくなり「皇親政治側」の反発を招き危険な筋道を辿る事は必定です。
其処に両者には難しい上記する手綱捌きが起こったのです。
この青木氏を始めとする「皇親政治側」の「苦悩と生き様」は研究室のレポートに詳細にしている通りであり、これ等との知識と連動させると立体的な奈良時代から平安末期までの「生き様」が観えて来ます。
この「氏融合」「物造り」「神明社」とするには研究室レポートと他面の阿多倍側の「苦悩と生き様」も描き明確にする事が必要で一挙に大論文に入っているのです。
次ぎは「青木氏と守護神(神明社)-3」に続く
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
「国難」
1「蘇我一族の横暴」「天皇家を脅かすほどの脅威」と「天皇家の無力化」
2「国の漫然化」 国を豊かにし、国の安寧を計る国策の無さ 「民の疲弊」が起こる
3「民族氏間の争い」「7つの民族」が40程度の「民族氏」に拡大し「民族間抗争」が起こる。
4「朝廷内の抗争」 蘇我氏一族と反蘇我氏一族の抗争が起こる
5「後漢の民の動向」 その勢力は朝廷を凌ぎ日本の半分は支配下 「独立国の懸念」が起こる。
「国難2」
次ぎに国難2に付いては、国難3「民族間抗争」と国難4「朝廷内の抗争」と共に共通項がありより立体的に論じることが出来ると考えますので、国難2を口火として論じて行きます。
先ず国体をどのようにして豊かにして行ったのか、その考え方と行動施策を論じる必要があります。
時期を同じくして大化期に阿多倍王に率いられた200万人が第1期、第2期の難民として渡来しましたが、入国来、働く彼ら「後漢の技能集団」の「物造りの効果貢献」を観て、「大和の民」を引き付け、著しい経済的な効果を生み出します。
豊かさを享受した民が自ら進んで彼等の支配下に入り無戦でその支配地域を拡大して行きます。
その進んだ技能集団を観た朝廷は「物造りの国策」を全面に押し出し推進する事になります。
つまり「部制度」を定めて部方式の「経済の確立」を促す政策を採用したのです。
国を「物造り」で豊かにする事が出来、且つ「民の安寧」を確保する事が出来るとする教訓と、その手法がある事を彼等から具に学んだのです。それを具体化し「国策制度」として採り入れる事をこれも直に彼等から教わります。
「物造りの技能」のみならず「政治への取り入れ方」、挙句は国体の「政治手法」も彼らの官僚から学んだのです。日本書紀によると”官僚の6-7割近くは彼等の集団であった”と書かれています。
この為に天武天皇は”民より優秀な者を選び学ばせよ”と命じたと記録されています。
その政治に関する知識を持っていた「部の集団」は「史部」(ふみべ)、「文部」と呼ばれ、「阿多倍王」の父の「阿智使王」が率いる集団であったのです。「阿智使王」は自らがこの政治を主導する史部の首魁として、「文直」(ふみのあたい:官僚)として働いたのです。そして、この「阿智使王」は自らも武力集団(漢部)をも率いて軍事面での政治主導をも首魁として働いていたのです。
「乙巳の変」の経緯(改新劇)
後にこの軍事集団は「民族氏」の「漢氏」(あやし)と呼ばれ、その末裔は「阿智使王」の末裔「東漢氏」(やまとのあや)と呼ばれる様になります。
この「漢氏」は職業軍事集団として「蘇我氏」に雇われていたのです。これが「蘇我氏」の軍事的な背景であり、「蘇我氏」が裏表の軍事武力行動は全て彼等の集団が行ったのです。これらは記録として残っています。
その顕著な例として、「中大兄皇子」が「蘇我氏」を倒すことが出来るか否かは、この「漢氏」、つまり「阿多倍」の父「阿智使王」の出方如何であったのです。結局、「漢氏」の首魁「阿智使王」は「蘇我氏」の大屋敷から「漢氏」に引き上げを命じたのです。「中大兄皇子」に対して”我等は元より雇い軍である。攻める意思なし。一両日中に岡より引き上げる”と伝えて来たのです。本来、家臣である「蘇我氏」が宮殿より上の土地に館を構えるは法度でありながらも「宮廷」より遥かに大きい館を構え周囲を防御柵で覆うものであったのです。
戦略上、「中大兄皇子」にいかなる強力な軍隊が構えていても三方の岡よりくだり攻められた場合は全滅です。元より「中大兄皇子」には「蘇我入鹿」を倒しても軍事的に戦略的にも勝ち目は無かったのです。
しかし、「阿智使王」は命令を下さず事件後直ちに伝令を飛ばしてたちどころに伝え消えたと記録されています。一定期間その所在は不明であったとあり、後に出てきて「史部」「文部」の首魁、「漢部」の首魁として朝廷の官僚として働きます。そして後には朝廷軍は「阿多倍軍と阿智使王軍」の編成軍として作り上げ日本全土を制圧したのです。(阿倍比羅夫・坂上田村麻呂の軍)
この様な予備知識を下に「民族氏」の代表の阿多倍一族一門を比較対象に青木氏を「融合氏」の代表として下記に論じて行きます。(詳細は「日本書紀と青木氏」に詳細参照)
当時180もの「品部」が生み出す物を一度「朝廷に納品」させ、「必要な量の物」を「税」として郡毎の「正倉」に収納し、残りを市場に「適度な量」を放出して安定した経済にする方式で、それまでに無かった「準市場経済」の「統制仕組み」を創設しました。
それまでは「品部」を支配下に置いていた「蘇我氏」等の「一部の豪族」に「利益」が吸収されていて経済を想うままに支配されていました。これでは「氏融合」の発展の経済的基盤が整いません。
そこで彼等の指導によりそれまでの「物々交換」の経済からそれを一挙に統制された「市場経済」(貨幣経済:和銅開宝 「鋳銭司」[すせんじ]が各地の主要駅舎で発見されている)に近い方式に変更する事で平均して「氏が融合できる体制」を確立したのです。
そして、それをより効果的に可能にするには、当然にそれまで頻繁に起こっていた「物品の争奪」や偏った「利権の確保」や「民族間の争い」を無くす事に集中する必然性が出てきます。
参考記録 (「物造り」に積極的な例)
「物造り」を推進して経済的発展を促して「融合性」を進めようとする為に、これには積極的に天皇自らが新しいより良い品を作る提案や準備をする等の行動を採ったのです。
例えば記録によると日常よく使う「墨や硯石や筆」や「貨幣の材料:銅」などを探す努力や提案、その匠(墨では方氏)の派遣を中国に直接頼む等の努力をした事が数多く記録として遺されています。
(例 和歌山県海南市下津町に「方」と云う地名が現在もあり、ここに墨を造る職能集団が定住:日本最古藤白墨の生産地 熊野古道沿い 天皇が探し当てた それまでは中国から全て輸入)
この様に中には天皇が直接旅をして「材料探し」をした等が記録として遺されています。それ程に「物造り」政策が根幹であるとして積極的に力を入れていた事を物語ります。(研究室にレポート済み)
この事は「物造り」を平衡して国策として進めれば「経済的な潤い」が生まれ、争いの基と成る奪い合いは無くなり、その基盤に依って「民族氏」から混血を進める「融合氏」にする事で争いを抑えられます。
また、優秀な「後漢の民」との融合を図る事で、彼等の「独立」を防ぎ、「日本の民」を巻き込んだ「職能集団」の「経済力」の活用をも図り得ます。
「7つの民族」が定住する国土の中で「民族氏」の構成では蘇我氏の例に観られるように”「民族間の争い」が起こり「国の安寧と安定」を図ることが出来ない”と考えた天皇はこれ等を融合させて一つにする事が肝要と悟ったのです。この為に必然的に「天皇家」自らが模範として進んで「融合氏」を計る事が必要に成りました。そして其の為にも先ずは朝廷の大きな経済的な負担と成っていた「皇族数」を下野させて減らし、且つ融合を進め、それまでの「民族氏」形態から「融合氏」形態への推進の為にも、その融合の弊害の根本と成っている「皇位継承制度の改革」を全般的に果敢に断行します。
「皇族数」を減らし経済的な負担軽減を率先して行い「物造り」を併用して経済的な潤いを発生させて「融合策」を天皇家が進んで率先したのです。これに依って「民の合意と賛同」を得ようとしたのです。
天皇家の第5世族以下(1000家程度 5000人/代)が下野する事で「民との接近」が生まれ「融合」は進み「民族氏」の数(20-40)に比べて「融合氏」は一挙に増えると考えたのです。
これに皇族と母方姻戚関係を得た藤原氏の「融合氏」を加えると「民族氏」に匹敵する融合氏の数と成ったのです。(現実に増えた 荘園制で弊害の問題が起こる)
これに依って、第7世族を含む「皇族系の融合氏」が各地に広がりを示し、そこに建立して行けば「民の心の拠りどころ」として定めた「皇祖神」の「神明社」(「伊勢神宮」)の各地への普及が図られると考えたのです。つまり、根本の政策戦略としては「物造り」-「融合氏」-「神明社」の関係が成り立つのです。
その「融合策」の目玉として次ぎの様な施策を実行したのです。
先ず、第5世族以下の皇族系臣下・下野の長として第4世族内の朝臣族の「第6位皇子」を「臣下」させ「賜姓」して「融合氏(侍)」を「発祥源」とさせる事を押し進めたのです。
これに身分と経済的裏づけ(官位・官職・爵位・賜田・功田・位田・俸禄田)を与え天皇と天領地を護る近衛府軍を創設し、その責任者に任じます。
(「侍」「さぶろう」の古語 ”真人族に寄り添って護る”の意 「国、院、家」の3侍を定める)
皇位継承者を第4世族までとして真人族・朝臣族の「王」と改め、それまでの第6世族以下を改めて臣下・下野させます。(第5世族は政治の官職に就く・貴族公家)第6・7世族は坂東の護りとして「ひら族」を賜姓して夫々「8つの融合氏」として配置します。(坂東八平氏:ひら族)
「平安期以降の融合経緯」(1期から5期の融合)
この「臣下策」と「賜姓策」が平安末期までの丁度550年間継続されるのです。
「第1期融合」は、「民族氏」から「融合氏」の「初期的融合」は900年頃に政策的にも終る。
「第2期融合」は、「自然の摂理の現象」で室町期初期頃までには必然的に更に「濃厚な氏融合」へと進みます。この時から「民族氏」傾向の強かった「部民」の殆どに「職能集団」を生かして生き残りの「姓氏形成と融合」が起こります。
「第3期融合」は、完成した「濃厚な氏融合」は室町期末期頃までには今度は「自然の摂理の現象」で「氏の潰しあい」へと変化します。
「第4期融合」は、「氏の潰しあい」は終り、江戸初期には氏を形成出来ていなかった「下級武士階級」が氏を競って形成します。
「第5期融合」は、主に第4期までの全武士階級の「氏間の融合」と、封建社会に阻まれて「氏の形を採る融合」を採れずに居た庶民が「明治期の苗字令」により国民の9割が氏姓を形成します。
つまり、先ず正式で初めての「融合氏の発祥源」として、「皇族賜姓青木氏」(真人族 国侍の氏)の施策を関西域に行い、続けて「皇族7世族」(家侍の氏)の「坂東八平氏」」の発祥政策を関東域に行ったのです。
(奈良期は近江、伊勢域 平安期は美濃、信濃、甲斐域 4世王族は19地域に「融合氏の発祥源」として配置した その象徴(シンボル)として本論の「神明社」を建立した)
九州を含む関西以西域は「阿多倍一族」とその「職能集団」の配下域にあり「民族氏」の傾向が強くなかなか「融合氏の政策」を「朝廷」が率先して先に行うには難しい政治的な状況にあったのです。
何はともあれ、彼等は軍事、経済、政治共に優れ、むしろ彼等から学ぶ立場にあって、「融合氏政策」とその象徴(シンボル)の「神明社」の普及は到底「立場の優位性」から見て難しかったと考えられます。
又、関東より以北はまだ「朝廷の力」が完全に及ぶ制圧域にあらず、関西以東関東域までの施策とせざる得なかったのです。それ故に、この域には「神明社」の建立は果たし得なかったのです。
恐らく、以西と以北の地域では、これは「民族氏」の傾向が強い事から「融合氏」の「神明社」(「祖先神」)と云う「宗教観の概念」との違いが大きくあったと考えられます。
(「物造り策」-「氏融合策」-「神明社布教策」は相互関係にて連動していると云う史実観)
まだ蘇我氏と物部氏が争った「仏教観」と「神道観」が起こって60年程度しか経っていない時期でもあり、尚且つ「仏教化」が進んでいる時でもありますから「神道」の「融合氏」と「神明社」(「祖先神」)とを連動させて政策を実行するには奈良期の初期の段階では無理があったと考えられます。
そこに、阿多倍の配下の職能集団が「司馬達等」を先頭に「仏教」を崇拝していた私布教の環境下では、尚更、難しさがあったと考えられます。
(司馬達等は私伝で仏教を職能集団に普及させ最初に伝えた人物)
「宗教観」
「氏融合」と「神明信仰」を連動させての政策は先ずは限定された範囲の中にあり、しかし、反面では「氏の融合」を推し進めないと「国の安寧と発展」は無いし、「首魁阿多倍」とその「職能集団」を「九州独立」から遠ざけるには「根本的な政策」としては他には無かったのです。
史実から観て、この「氏融合」と「神明信仰」の政策を推し進めながらも、終局は「独立」から「帰化」と成りはしたものの、未だこの問題の解決は完結出来ずにいたのです。
史実から、観ると次ぎの事件が起こっていて難しさが判ります。
A 7世紀始めに朝廷は南西諸島と九州域を制圧し服属させたが、その後直ぐに九州地域は阿多倍軍に 制覇された。
B 713年に朝廷は薩摩国から日向4郡を割いて大隈国を半国割譲して何とか「独立」と云うことを避ける 為に妥協した。しかし、律令政策の浸透は九州域では無理と成った。
C 720年には遂には「朝廷の軍」を送りこの大隈の首魁に対して大征討を試みるが挟撃を受ける事を恐 れて軍を引き上げた。
D 結局、その後、阿多倍の職能集団の配下に入った九州の民の賛同が得られず放棄。
E 800年に数々の妥協策によりやっと朝廷の律令の内、農政の部曲に対する「口分田」だけが施行出 来る程度に成った。
ただ、ここで大きな疑問があります。
「関係する歴史的経緯」
645年に阿智使王と阿多倍王17県民と共に九州地方無戦制覇後に帰化する。
648年頃に阿多倍は准大臣に任じられる。
650年頃には阿多倍に伊勢の国から「伊勢北部伊賀地方」を半国割譲して住まわせる。
670年頃には阿多倍は敏達天皇孫芽淳王の女と婚姻(第6世族)する。
698年阿には阿多倍一族一門の阿倍比羅夫が蝦夷を征討します。
690年頃に子3人に賜姓(坂上、大蔵、内蔵)を受け朝廷の軍事権、経済運営権、政治権を任す。
713年には阿多倍に薩摩の国から「大隈の国」を半国割譲します。
720年には国策に従わない事を理由に朝廷軍は大隈国を攻めています。
730年頃には阿多倍孫娘(高野新笠)と天皇家(光仁天皇)と直接血縁する。
758年頃には朝廷軍の主力を「阿多倍軍(坂上氏)]と「阿智使王軍(東漢氏)」で編成する。
764年には朝廷軍として阿多倍末裔二人(阿倍氏等)が以北征夷を攻め「征夷大将軍」に任ずる。
769年には和気清麻呂は大隈国に配流される。(大分の九州最大神社の宇佐八幡宮神託事件)
790年頃には九州北部と南部大隈国に騒ぎが起こり朝廷の全ての政策に反抗して従いません。
800年には朝廷政策の内の「班田収授法」の「部曲」に支給する田畑(口分田)だけに従います。
806年には阿多倍の子坂上氏は蝦夷地の異民族アテルイを以北制圧して絶大な勢力を確保する。
820年頃にも九州地方特に大隈国は末裔肝付氏が勢力拡大し国の「律令政策」に従っていません。
833年には太宰の大蔵横凧は「宿禰族」になります。
938年には太宰の大蔵春實は「錦の御旗」を受け「藤原純友」を追捕する。
940年頃には阿多倍末裔の国香-貞盛は「将門の乱」を鎮め「功績」を上げる。維衡、正盛、忠盛-清盛
950年頃には「太宰大貫主」と成り初めて「半自治形態」を採る。
1018年には大蔵種材は「遠の朝廷」「錦の御旗」を受け「太宰大監」に成り九州を「完全自治」する。
この様に、関連史実を時系列で並べるとこの阿多倍一族一門には何か大きな「氏融合の生き様」が観えて来ます。
720年には以西では国の政策に従わず攻められています。そして以北では698年と802年に朝廷の命で蝦夷を攻めています。この時、関西では軍事と3政治機構の内、大蔵、内蔵を占有し「国の政策」を立案推進しています。
以西以北では全く逆でこの様に阿多倍一族一門の地域に依って異なる行動を採り矛盾が起こっています。
この事は何を意味するのか。「氏融合」の過程で大きな政治的な戦略が観えて来ます。
結論から述べますと、「九州基地」と「伊勢基地」との間で「両立2面作戦」の戦略を展開しています。
それは先ず、「氏融合、農政、物造り」の史実から観て、戦略的に「3つの基地」を展開しています。
1 大隈国を基地として「九州南部地域の基地」
2 大宰府を基地として「九州北部地域の基地」
3 伊勢伊賀を基地として「関西中国地域の基地」
阿多倍側からの考察
「九州南部地域」は国政に対して従わず入国以来「物造り」と「農政」には「自治」を継続。
「九州北部地域」は国政に対して「物造り」に従い「農政」には不従政策 「半自治」を継続
「関西中国地域」は国政に対して「物造り」「農政」共に従い、政策を主導
800年までこの態勢を維持した。
朝廷側からの考察
入国来、無戦征圧32/66国を征圧した彼等一団が「帰化」か「独立」で来るかで朝廷は悩む。
結果は「帰化」で来た。しかし、武力制圧して「帰化」に成った訳ではない。
争いを避ける事である。”完全に従う”という事ではないと判断して朝廷は悩む。
そこで「首魁阿多倍」を都に呼び寄せ「伊勢」に勲功を理由に懐柔策に出た。
要するに「首魁不在」の「九州南部基地」を空にする作戦に出て九州南北の基地の勢力を弱める作戦に出た。
そこで妥協策として、勲功とは別に朝廷の力が及ぶ所に定住させる作戦に出た。
関西以西中国地方の影響力に限定する戦略である。その為に阿多倍に「伊勢北部伊賀割譲」をして留めた。
しかし、九州2基地は依然折れて来ず、国策に従わない。これでは「独立」と成ると焦る。止む無く次ぎの手を考えた。
そこでこの「都定住策」に加え、取り合えず、阿多倍王と「間接血縁」させて一度目の「天皇家との繋がり」を作り恐れている「独立」の「回避策」に出た。
ここで天皇家と間接的にも結び付けば「子孫繁栄」の生活圏を築かせて置く事で縛りつけられると考えた。中国関西基地は何とか折れて国策に従い始めた。
それで九州の北部基地はやや折れてきたが南部基地は依然として国策に従う様子なしと観て、更に懐柔策として「大隈国割譲」で様子見守った。
矢張り動かないので今度は阿多倍の子に異例の賜姓をしてお膝元の九州南部基地を従わせる様に試みた。(坂上氏、大蔵氏、内蔵氏)
朝廷は妥協して阿多倍賜姓族に「軍事、経済、政治」の政策実務を任せて自らの首魁が行う政策であるので九州南北の基地が国策に従うだろうと考え誘導した。
これでも従わないので、そこで遂に軍事で解決しよう決断を下した。
当初の作戦通りに空した「九州南部基地」の本拠地を攻めて彼等の「分断作戦」に出た。
首魁らが行う政策に従わない事を理由に一族の粛清と見せて挙動したのである。
これが恐ろしく強い「彼等の戦力」に押されて失敗して慌てて船で逃げ帰る。
これで「立場と信頼」は完全に消失したと考えた。
「本拠地」大隈を突かれて「関西中国地域の基地」では阿多倍一族は驚いた。極度に警戒を強めて来た。
最早、動かし難い「伊勢伊賀基地」の今にも「独立」の気配の態度硬化を観て、軍事的にも解決は無理と観た。
後は「天皇の権力」しか無く成る。つまり「冠位と血縁の策」しか無く成った。
朝廷内も政治、軍事、経済の実務を握られている。「蘇我氏の専横」のレベルでは到底ないと感じる。
第1期の青木氏等が主導する「皇親政治」では天皇家の中で「何の改新か」との批判高まる。
遺された道は只一つ阿多倍の孫娘と2度目の天皇家と「直接血縁」で逃げる又もや懐柔策に出た。
朝廷は「仏教政治」の弊害で乱れている。「称徳天皇」の道鏡に振り回されて政治は混乱し朝廷はますます弱腰になる。
そこで、皇親政治族の賜姓青木氏や藤原氏に無理やりに押されて例外の天皇に成った優秀な光仁天皇は「仏教政治」を廃止し「皇親政治」に戻して朝廷内を先ず一新し、そして阿多倍一族から妻を向えて以西の問題を先ず収束させた。
朝廷の政治を主導し律令国家体制に整えた。しかし、3権を殆ど牛耳る程の彼等の勢力と成っては逆に打つ手なしと判断した。
「桓武天皇」が率いる賛成派は阿多倍の末裔を賜姓策で引き上げて又もや更なる「血縁融合策」に出た。そこで、先ず朝廷軍を「阿多倍軍と阿智使軍」を主力とした編成にし信用させて、九州の南北の2基地を攻める意思の無い事を示し、「政治、経済、軍事」の「3権」を任して「究極の独立回避策」に出た。
さすれば九州は国策に従うと観たが南部基地の「強行派肝付氏」が勢力を増して依然従わない。
そこで、以西を突けば「民族性」の強く「融合」に従わない「異民族」の「以北勢力」を逆に南下させると見て、まず「以北の憂い」を無くす事から始めた。
優秀な妻方の連合軍を編成して強力な「阿多倍軍+阿智使軍」を使って取り合えずは先ず以北の征圧策に出る。成功する。後は彼等の以西を国策に従わせるのみと成る。
阿多倍の子を「征夷大将軍」に任じて最終「軍事の最高権威」も与えて動きを誘導して3権で九州南部基地を従わせる様に仕組んだ。
戦っても身内同士の戦いになるし戦力の差がある。間違いなく国策に従うと観た。
ところが”強力な身内の「伊勢伊賀本部」の「首魁宗家」と争う事を避けるだろう”として考えた。朝廷は命じた。そこで「九州北部基地」に地盤を置く「大蔵氏」は国策に従う様に条件付の「柔軟な姿勢」を採ったが、逆に「九州南部基地」では騒ぎが大きくなり依然として国策に従わない。
しかし、「伊勢伊賀本部」からの指令で止む無く妥協策として農政の「口分田」のみに従うとする態度を示す。
ところが、強硬派の「九州南部基地」では異変が起こり、阿多倍末裔の超強硬派肝付氏が台頭し主導権の勢力図が変わり「律令政治」そのものに従わない態度を示す。
最早、打つ手なしとして、今度は朝廷内では「最悪の独立」を避ける為に「九州2基地」の「半自治政策」に傾く。
そこで、暫時策を打ち出す。九州阿多倍末裔の最大勢力の大蔵氏に焦点を当てる策に出た。
先ず、彼等を完全に引き入れる為に一族の大蔵氏に天皇家の流を汲む身分の「宿禰族」を与えて「身分家柄」を高める策に出た。
次ぎに、暫くして大蔵氏の本拠地「九州北部基地」に対して前代未聞の「錦の御旗」「太宰大貫主」を与え「冠位と身分」の妥協策で朝廷側に引き込むお膳立てを構ずる。完全に成功する。
依然、更に国策に従わない「九州南部基地」を横目に、「九州北部基地」に配置して「半自治」を認める「懐柔策」を展開した。
つまり「九州北部基地」の大蔵氏をして「九州南部基地」を凋落させる戦略である。
それでも、まだ不安があり解決が出来ない。そこで本家筋の大蔵氏に従わない肝付氏との間に険悪な状況が起こった。「九州南部」と「九州北部」の「基地間の争い」(同族争い)が起こる可能性が出た。
「関西中国基地」と「伊勢北部伊賀指令本部」は焦った。朝廷が狙う共倒れが起こる。
「関西中国基地」等3基地の全権を握る「伊勢基地の司令部」は慌てた。最早、「人物策」しかないと考えた。
天皇に働きかけをして一族の中でもこれを解決できる「人物」は日本全国で唯一とされる万来の「人物」に白羽の矢を当てた。
大蔵氏の優秀な政治、経済、軍事で有能で万能な逸材の「大蔵種材」に任す事を提案する。
超強硬派の肝付氏も”種材ならば”とこれに従うと判断。それには前提条件がある。
朝廷は、彼等の「共倒れ」で「乱」を選ぶか、「国策」を守らせ全国共通して律令下で「氏融合策」を採るか選択を迫られる。
そこで、前提条件を認める事に成る。九州全域には多少の「国策律令の不順」は妥協しても「運用権」を認める戦略に出た。
止む無く彼等の末裔の主力大蔵氏に「運用権」の範囲で「九州全域の政治」を任す「完全自治国」とする事で「乱の国難」を避けた。九州南部基地は従い大成功する。そして矢張り九州南北の基地では政治、経済、軍事で安定に向かう。
この時、丁度、「物造りの本拠地」でもある九州全域の安定化に伴ない「品部の物造り生産力」の向上とは裏腹に、逆に、特に全国的に「班田収授法」等の「農政政策」を定めたものの、各地で「凶作や天災、飢饉、動乱、政権不安定等の原因で、全国的に「農産物の被害」が続出し、「重税や労役の負担」で「部曲の不満」が頂点に達し「農民反乱」が各地で起こっていた。
これに呼応した豪族等が叛乱を起こし、これを潰そうとして朝廷は戦いを起こしたり挙句の果てには朝廷内で「農政による政争」が起こった。
この様な環境の中で、「部曲の農産力」が限界に至り、「難民移民」などの受け入れが国策上限界と成っていた。
特に北部地域に頻発していて、武装難民等の入国を阻止する為には九州南北基地の彼らの力が必要な環境下に入った時でもあった。
ここで「九州南北基地の戦い」が起これば、依然不安定な武力制圧で納めたがその末裔が息を吹き返してきた以北、一応は「運用権で納めた九州南北」、膝元の「中央の政権の乱れ」、「各地の農政による不満の反乱」、これに呼応した「豪族の反乱」、これでは国が立ち行かなくなると朝廷は悩んでいた。
そこで、危急存亡の「秘策の提案」を採用する事になる。
九州南北の問題を「運用権」より進めて「自治」を宣言させる方策で任して置いて、他方の「以北の憂い」を解決する為に源義家の「征夷大将軍」と藤原秀郷一門の「鎮守府将軍」に任じて、彼等の氏力で片方の「以北の完全鎮圧」に当る方策に切り替えたのである。成功する。
しかし、義家は荘園制で大きくなり過ぎて却って問題が出た。義家を潰しに掛かる。成功する。以北はほぼ解決した。
次ぎは九州全域の問題だ。彼等の狙いは実質は「独立」だか、朝廷はその「大義名分」として「遠の朝廷」として権威を与えそれを証明する「錦の御旗」で繕う事で「独立の形」を避けて「自治の国」を認める決断を下した。これが1018年の事である。成功する。
以西と以北は解決する。
しかし、この結果、「融合氏」の勢力が必要以上に増し、荘園制が行き過ぎ土地私有化へと勝手に進み始めた。朝廷は観てみぬ振りをする。
しかし、これを憂いていた天皇が立ち上がった。後三条天皇。融合の弊害に成る荘園の私有化に歯止めを掛けた。「荘園整理令」を出す。
身に危険が迫る。白河天皇は更に勇敢に「荘園公領制」に踏み切った。融合氏は正常な形で進み始めた。
融合氏推進を国策とする天皇側と、民族氏の阿多倍一族一問との駆け引きの問題に一応休戦状態となった。
これで、全国統一して「律令国家」の前提が、九州に「自治の国」は存在するにしても、一応は出来上がったのです。阿多倍側と天皇側とには両者共に主張点は確保して後は妥協策で解決する方向へと進み始めた。
時系列で観た融合に関するこれが平安期の経緯と考えられます。
「律令と造作」
これで「氏融合」「物造り」「神明社」の「3つの国策」は一挙に進むことになります。
その解決への弟1の変曲点ピークは桓武天皇期にあり、この「3つの国策」を成した天皇として、彼を「律令と造作の天皇」と呼ばれた所以なのです。
明確な”「造作」”の名称が着いた事は「氏融合政策」には「物造り政策」が連動していなければ成らない国策状況であったことを物語ります。
彼の「物造り」(造作)は資料記録から観ると、大事の「都造り」から始まり「河川道路造り」「寺造り」「神社造り」末端の「物造り増産と開発」などに率先して働きこれ等は広範囲に渡ります。
つまり、「高負担の税と労役」を課しながら「公共工事による税の還元」や「朝廷に入る部制度による物造りの利益」に依って「税と労役分」を民に戻し潤いを与えて、「農政不満の解消」を図り国の安定を計ったのです。
「物造り」政策の「増産」とそれに伴なって起こる「開発」を基盤として、自然災害の「農政問題」を補完した政策を採ったのです。
そして其処に「民の心の安寧と安定」を図る為に「神社仏閣の建設」も積極的に並行する相乗効果を狙ったのです。
これらの考え方(「氏融合」-「物造り」-「神明社」)は平安期の代々の天皇に引き継がれて行ったのです。これは真に融合氏の発祥源「青木氏」、青木氏の「守護神・祖先神」、青木氏の古代和紙・殖産「2足の草鞋策」に一致し、そのものの考え方です。これで天皇家と青木氏は連動して行くのです。(後述する)
「運用の基盤差」
上記した連動した国策(「氏融合」、「物造り」、「神明社」)は「九州南部基地」と「九州北部基地」とでは若干の導入に関する温度差はあったと想われますが、筆者は、自らの首魁等が決めた国策には概ね従っていたと考えていて、それを実行する「完全な拘束力」に対して「柔軟な運用権」を主張していたのではないかと観ているのです。”全く国策を撥ね付けていた”とは考え難いのです。
その根拠はその「土地柄」「民族柄」を未だ強く遺されていて一概に国策の「律令制度」には馴染めない環境が強く遺されていたと考えているのです。
だから、それを解決する手段としては「柔軟な運用」以外に無い筈です。彼等は「氏融合」策に付いては論理的には”「国の安寧の根幹」を示す事である”とは充分に認識していて、「否定的」ではなく「総論賛成 各論反対」の態度を採ったのであって、其処には3基地の受け入れの「温度差」があったと考えているのです。特に後の末裔「たいら族」(平族)の根拠地になった「関西中国基地」では”都に近い”と言う「地理的要素」があり国策をある程度呑む以外には無かったと観るのです。
九州の「2つの基地」に付いては、恐らくは「地理的要素」が強く遺されていた事からこの様な経緯を辿ったと考えます。とりわけ、「土地柄」「民族柄」を基本としていますが、決定的な要素が此処にあるのです。それは本文の論説の一つのなのです。
つまり、彼等は「中国人」それも最も「優秀な民族」と評されている「後漢の人」なのです。
彼等の思考の原理は「儒教の教え」から来る「石は薬」「法より人」の「生まれつきの概念」があるからなのです。今も彼等には色濃く遺されている概念です。
この「石は薬」「法より人」の「生まれつきの概念」がある限り、「律令」よりも「人」と云う理屈が生まれてくるのは必然です。ましてや、「古代の時代」「日本も始めての律令」の環境下にあったのです。遺伝的に持つ彼等の概念「柔軟な運用権」は「人」の思考を優先する彼等には「自然の思考」であったと考えます。
優に摩擦が生まれて自然にこの様な経緯を辿ったのです。
日本人の「7つの民族」から来る「集団性癖」から観ると、「集約する思考」が存在しない限りは成り立たない「融合単一民族」であり、つまり、「常識」が「法」としたとの考えがあり、「最低の常識」つまり「法」が優先されるべきと考えるが「自然の思考」と成ります。
少なくとも「人」は最低は「法」の概念を守るべきと成るでしょう。ここが彼等とは全く逆なのです。
ここが、日本の「氏融合」と「物造り」と「神明社」の概念が中国に差をつけて大きく進んだ所以と考えます。
「青木氏の功績」「妥協と争い」
兎も角も、奈良期、平安期の時代には、現在にも未だ大きく遺されて問題事件と成っている「人類の課題」が、この時期に大きくのさばっていた事を物語る「融合氏の生き様」であったのです。
恐らくは現在でも起こる中国ロシアとの摩擦どころの話では無いと考えます。
それをこの様な「経緯」を280年間の間に解決して共通認識の「氏融合」は成されたのです。
「国策経緯」=「氏融合」=280年間
日本の歴史上最も見本とするべき経緯です。
恐らく、諸外国が「民族性」から脱し得ず「氏融合の単一民族化」していない原因は「妥協」を選ばず「争い」で決着する方法を選んだ事だと考えます。
日本人の「妥協的思考原理」とすると、それから観れば彼等の遺伝子的に持つものは極端な「合理的思考原理」とも成りそれに起因するものと成ります。
「争い」も「自然摂理」から観ても必ずしも否定するものではないとは考えます。
「争い」の手段は「解決」と云うよりは「決着」と考えるのが日本人なのかも知れません。
この世の「物事の解決」には分析すると「幾つかのプロセス」が存在している筈です。
一挙に右から左と「問題発生-解決」と云うシナリオを経験した事はありません。
この間には「決着」を始めとする「2、3のプロセス」が必ず介在しています。
「決着」は「解決」と云う目標の一つ手前のプロセスである筈です。
とすると、「争い」には大小あると思いますが少なくとも人間が考え出した「本能」に近いもので「決着の手段」の一つと認識されるでしょう。
「人」が「人間」である限りは現代も全く変わっていないと考えます。
「長は理想と現実の理解者 青木氏の教え-1」
現に、この1018年以降は今度は下記の「三相の理」が崩れて「氏融合の弊害」の「生存競争」が起こり、「争い」という「自然の神」が織り成す解決手段で「下克上」「戦国時代」へと突入して行くのです。
恐らくは現代あるこの社会でも、国内外の問題を問わず「神の力」を除きこの様な事が起こればその「流れ」の中では、矢張りその解決手段は「争い」以外には無いと考えられます。
これだけ「大きなエネルギーを押さえ込む力」は「神の力」以外に何人にも無い筈です。神でも不可能かも知れない。
「神」も時には「争い」を以って解決を示します。つまり、「理想論」では行かないのがこの世の摂理です。
そもそも、少なくとも「理想」とは「人間の知恵」の「発露の発展」が成した「論理的な究極の思考」と定義付けられるでしょう。他の動物に観られない無い思考なのです。
と云う事は「厄介な思考」とも取れます。「理想」は「争い」があるからその反意として「理想」と云う形を「人間の知恵」は形作っているのであって、現実の中に容易に存在するものではない筈です。
それを恰も現実中に存在するものとして、「理想通り」に物事を進める事は「集団の長の思考」とはとても考えられないものと成ります。
歴史上の史実から観て確かにその様な人物は一部存在しますが、考察すると一時は事は成したとしても、むしろ周囲には必ず「弊害や滅亡」を生んでいます。
しかし、世の中、”「長」が理想論者であるべきだ”とする説があるのは「論理的な究極の思考」に酔っている姿の説であり、良く見掛ける”耳障りの良い事を言い立て自己を満足させる”と云う事に執着している「人間の性(さが)」(癖)の一つと筆者は観ているのです。仏教でもこの説を採っています。つまり、仏教の説法にもあるのだからこのタイプの人間が多いと言うことです。
例えば、「人を観て法を説け」「縁無き衆生動し難し」”現実から大きく離れ「理想」「無関心」などに拘り過ぎ「色即是空の説法」を聞き入れない者は捨て置きなさい”そして裏意では”行き詰まり救いを求めた時に手を差し伸べなさい”と説いています。
筆者は個人の範囲で「理想論」を思考する事が「知恵の性」である限りは否定はしませんが、”長はそれに酔って物事を云々する事”を否定するものなのです。
「理想世界」の中では、「人間の妄想」と位置付けられ「人間の性」「人間の煩悩」が無くならない限りは、現世に「矛盾差」が生まれ、その世界があっても、その中では人間は生きられない筈です。つまり、生きるには「理想の世界」は「人が生きられない世界」と考えているのです。むしろ「仏説」の説く処の「地獄」だと考えているのです。
”「理想世界」が「極楽」で、「現世(うつせ)」が「地獄」ではない””「理想世界」が「地獄」で「現世」が「極楽」である”と。これが「般若心経の教え」であり、青木氏家訓10訓の真意であると考えています。
「理想世界」は「人間の思考」の成せる業であり「神」の成せる業ではないのです。「現世」が「極楽」とする場合、「無条件」ではなくこれには「適切な条件」が伴っている筈です。
上記の「経緯」の如く歴史的に事を正しく納めた「長」にはこの理想思考タイプの人物は見当たりません。
「理想」とは、突き詰めればそもそも「個人の産物」に過ぎないのです。
「理想」は、団体では「民族性」、個人では「人生経験度」に依って異なります。
故に、「長」は「妥協」の「プロセス」として「現実」を直視すれば、「民族性」(民族氏)から脱して、より小さい集合体の「氏性」(融合氏)に終結させる事が必要である事に成ります。
1つ2つの民族ではなく、「7つもの民族」が存在している現状の中では、「自然の摂理」として「民族氏」の「民族性」が強く存在する限り、”「争い」と云う現象が起こりより良い現実の「安寧」は獲得出来ない”と考える事が「長」に求められる筈です。
この「氏融合 280年間」の「国策の山」を越させた「長」の人物「嵯峨天皇」までの「濃い血縁」で繋がる「我等全青木氏の祖」は、「長」としてぶれる事無く、この事を理解していた事を意味します。
(「我等全青木氏」は下記「血縁と絆」からの「4つの青木氏」を意味する)
「適切な条件」=「手段の使い方」と「三相の理」
「家訓10訓」の青木氏の教え-2」
ただ、問題はその「手段の使い方」によるものでしょう。「妥協」もその使い方如何では「争い」以上の悲惨さを生む事は「神と仏教の教え」でもあります。
即ち、「手段の使い方」とは「人時場所」の「三相の理」であります。
この解決策と成った「妥協」は、この「三相の理」(人、時、場所)に叶っていた事を意味するもので、即ち、「7つの民族」の「集団性」から来た「日本人の特技」であり「癖」でもあるからです。
「奈良平安期の天皇と後漢の帰化」の「人」
「上記280年経緯」の「経時」
「3つの基地と都」の「場所」
以上の「3つの理」が叶っていたと云う事に成ります。
では、この「三相の理」を一つにして適える「使い方の手段」とは「律令」「格式」であります。
「律」は刑法、「令」は民法、「格」は追加法令、「式」は雑則規定類
この4つを「現世」に於いて「極楽」と成す条件であり、これにより「現世」の「人の性(さが)」による「弊害」を最小限に押さえ込む事が出来るとするものです。
「律令」「格式」により「地獄」から「極楽」に変換するものです。
ただ、これでは「絵に描いた餅」、要は「長」のそれの「手段の使い方」、つまり、「運用」と成ります。「絵に描いた餅」「環境問題(人、時、場所の環境変化)」は刻々変化します。
それに適合する「運用」(妥協)が「長」に相応しい「資質」として求められるのです。
これが上記した経緯「律令国家体制への道筋」なのです。(現在でも通じる事)
「適切な条件」=「手段の使い方」=「三相の理」=「律令」「格式」・・・「極楽」>「地獄」
この「三相の理」を理解していた「皇親政治側」の青木氏等の偉大な為政者には私事を捨て「大変な苦労」であった事が絵に描くように判ります。現代の為政者を評価する時、大いにその評価基準と成り得ます。
故にこの思考は、この時代を「皇親政治のリード役青木氏」の全ての「始祖施基皇子」の「善事選集」司の処から発している事を強調する点なのです。
「飛鳥浄御原律令」、「大宝律令(養老律令)」等と「上記した国策」であり、その究極は「氏融合」とそれに連動する「物造り」であったのです。
日本書紀にも書かれている記録であるのですが、この大元は全国を歩き回って集めた行動指針として活用を始めた施基皇子編集の「善事選集」から発しているのです。
(「善事選集」:各地の豪族たちが国を運用する時に決められた賞罰、慣習法の良いものを集め「律令格式」の下地にした。 後に整備された「律令格式」以外にも独自に「国例」即ち、慣習法として国ごとに定めた残った。 現在の「国政令」と「地方条令」の仕組みの下に成った)
これを上記した「長」としての資質を持ち天皇に代わって先ず執行したのが青木氏の始祖であるのです。この当時としては現在の「2つの仕組み」になるほどのものを考えた事は驚きで卓見そのものです。
これが青木氏にとっては本文の目的とする「伝統とするべき認識」なのです。
「3つの発祥源」である青木氏はこの様な「やり取りの渦中」に居た事を物語るものです。
これは取りも直さず、故に「青木氏の家訓10訓」の大いに示す所でもあります。
大化期では施基皇子が「天地、天武天皇」の「皇親政治の相談役」として主導している事は日本書紀にもよく出てくる事でなのです。(研究室にレポート有)
まして、「光仁天皇」は「施基皇子」の子供で女系天皇が続いた為に皇位継承者が無く押されて天皇に成った人物です。
(女系天皇が続きその精神的負担から逃れるために「仏教のお告げ政治」を敢行し、国は乱れ疲弊してしまった危機状況であった。 これを解決するために民衆と藤原氏は皇位継承権外の第5世族次席者第6位皇子の家柄に白羽の矢を立てた。)
青木氏の始祖末裔で、「阿多倍の孫娘 高野新笠 血縁の妥協策」の苦しい時期の為政者であって、正に青木氏の「皇親政治」の真ん中に居たのです。つまり、「青木氏の孤立的な苦悩」でもあったのです。
「280年の経緯」全体から見ればこの時期は「最も重要な良悪の分かれ目」になるポイントであったと観られます。青木氏は正しい判断を問われて親族として具申した事は明らかに予想が出来ます。
日本書紀の伊勢国を「国司三宅連岩床」に任せて「天皇の補佐役」をしていた「施基皇子の優秀さと立場」から判断すると、間違いなく「皇親政治の立役者」の「青木氏の具申」と考えられます。
まして「桓武天皇」は「青木氏の第3始祖」とも考えられる人物です。大いに具申はあったと考えるのが自然ではないかと思うのです。
(青木氏と直系血縁天皇: 天智天皇-施基皇子-光仁天皇-桓武天皇-嵯峨天皇)
筆者は、青木氏は「3つの発祥源」である訳ですから、「皇親政治」を標榜する天皇は青木氏の考え方、提案を聞かない訳には行かなかったと考えています。
重要参考
光仁天皇の妻 高野新笠の実子の桓武天皇は父方(皇親政治)、母方(阿多倍政治)の「苦しい選択」に迫られて「母方重視の策」を止む無く採った。故に「律令政治」に成り「第1期の皇親政治」は終わり、何と青木氏出目の天皇に依って青木氏は一時衰退させられる憂き目を負う事に成る。
(ここで5家5流青木氏は和紙を扱う「2足の草鞋策」に入るのです。)
2代後「激しい政争」の末に嵯峨天皇期では再び第2期の「皇親政治」は「賜姓青木氏」から「賜姓源氏」に復活するのです。
ここより「賜姓源氏」に変名するのですが、「賜姓源氏」も「阿多倍伊勢一族」の直系子孫(平清盛)の台頭を抑えきれずに憂き目を引き継ぐのです。
国策「融合氏」から発祥した「賜姓青木氏」「賜姓源氏」と、「民族氏」から発展した「阿多倍一門の融合氏」の対照的な2種氏の勢力関係の競合は、依然として1275年頃にやっと起こった九州北部基地の大蔵氏と、九州南部基地の肝付氏と、藤原秀郷流青木氏と秀郷一門永嶋氏との血縁までのその時期まで続くのです。
これらの関係は次ぎの融合数式により成り立ったのです。
A 「賜姓青木氏」+「賜姓源氏」><阿多倍一族一門
B 「秀郷流青木氏」+「秀郷流永嶋氏」><阿多倍一族一門
C 「賜姓青木氏」+「賜姓源氏」=「絆」=阿多倍一族一門(関西中国基地 伊勢基地本部)
D 「秀郷流青木氏」+「秀郷流永嶋氏」=「血縁」=阿多倍一族一門(九州南北基地の2氏)
「融合氏」の「賜姓青木氏5家」にしてみれば宗家が「伊勢北部南部の隣の地理的関係」から、また「5大和紙と云う経済的関係」からの関係からも、「民族氏」の彼等との血筋は無いにしても「絆」と云う点では多少なりともあった事になります。
所謂、判りやすく云えば、日本人ノーベル賞の有機物の不可能な結合を成した「カップリング現象の結合」で相反する氏は融合したのです。「絆」を触媒として。
(1180年の「源平合戦 以仁王の乱」にて賜姓青木氏の伊勢青木氏の跡目に入った京綱が助けられ、賜姓清和源氏頼光系頼政末孫3名がこの「絆」で日向で日向青木氏として助けられる。)
最終の結末は「争い」と云う手段で解決しなくてはならない方向に動きます。
5年後には「2軍の将相立たず」の教えの通り「絆」で結び付いていても「解決」と云うものに向って「決着」と云うプロセスを踏まなくては成らないのがこの「世の条理」です。
「関西中国基地 伊勢基地本部」は滅亡するのです。
E (「賜姓青木氏」+「賜姓源氏」)>×(阿多倍一族一門:関西中国基地 伊勢基地本部)=0
しかし、「解決」には影で動かす勢力も必ず存在するのもこの世の摂理条理です。
上記の数式の影で「第7世族 坂東八平氏」が再び「融合氏」として成長して来ていたのです。
「決着」の「争い」で弱体化した「賜姓源氏」は影の氏に依って葬りさられるのです。
F 「第7世族 坂東八平氏」×「阿多倍一門一族 伊勢基地本部」=0
G 「第7世族 坂東八平氏」>「賜姓源氏」=0
結局、上記のAからGまでの数式から差し引くと
「賜姓青木氏」+「秀郷流青木氏」
「九州南北基地の阿多倍一族一門」
結局、「融合氏」の「3つの発祥源」の青木氏が無傷で残る事になります。
これは上記で論じてきた事柄
a 「三相の理」や「理想と現実」を弁えて「家訓の戒め」を良く守った。
b 「2足の草鞋策(物造り)」と「絆」で結ばれた「絆結合の青木氏の支え」があった。
c 「神明社で団結」の4つの条件が整っていた事があった。
以上の3つがあったからこそ「融合氏の3つの発祥源の青木氏」として生き延びられたのです。
今から観れば、”これ以外には無い”と考えられる素晴らしいこの様な経緯を辿ったのです。
恐らくは3地域を率いる阿多倍一族一門側も、青木氏等と藤原氏等を始めとする「皇親政治」を主導している朝廷側(天皇家)との駆け引きには、上記する経緯に「裏腹の相似する態度と思考」を持っていたと考えられます。
それはその上記した大化の国策に始まった「融合政策」と関連する「物造り」等の国策は取りも直さず彼等の立案と実行に掛かっていた事なのです。
彼等にとって大きく反動する事は「自らの政治立案」と矛盾する事になり、政治は成り立たなくなり「皇親政治側」の反発を招き危険な筋道を辿る事は必定です。
其処に両者には難しい上記する手綱捌きが起こったのです。
この青木氏を始めとする「皇親政治側」の「苦悩と生き様」は研究室のレポートに詳細にしている通りであり、これ等との知識と連動させると立体的な奈良時代から平安末期までの「生き様」が観えて来ます。
この「氏融合」「物造り」「神明社」とするには研究室レポートと他面の阿多倍側の「苦悩と生き様」も描き明確にする事が必要で一挙に大論文に入っているのです。
次ぎは「青木氏と守護神(神明社)-3」に続く
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青木氏と守護神(神明社)-1
[No.268] 青木氏と守護神(神明社)-1
投稿者:福管理人 投稿日:2011/02/09(Wed) 13:09:10
青木氏と守護神(神明社)
副題 「神明社」「融合氏」「物造り」
序(ルーツ解明に思う事 雑学の根拠)
なかなかルーツの歴史を辿ると云う事は難しいです。
知識の積み重ねが何かのヒントとして役立つので色々と広範囲に雑学を会得する事が先ず大事で他に方法がない気がします。ルーツを辿るにしても、その歴史の中ではいろいろな事が起こっています。
ただ「系譜」を通り一辺に探し当てる事は容易でなく、まして簡単に信用できない歴史的なことが「氏家制度」の社会の中では起こっているのです。まして「下克上、戦国時代」と云う事の真偽が確認できない程の乱世か起こっているのですから、その中から糸の縺れを解くように答えを導き出すにはその時代のより多くの「雑学」を把握するしかないのです。そして、その「雑学」をいろいろと組み合わせて推理し「矛盾」を思考して排除して初めてルーツがその先におぼろげに観えて来るものです。
特に江戸期に作られた資料や文献には多く虚偽の資料が多く、信じて研究するといろいろな所で矛盾が出て来るものです。より「雑学」を把握すればする程にそれが観えてきます。
それをフィルターの様に「事実と虚偽」を「篩いに掛ける事」が必要で、「残った物」を史実として遺し整理する作業事が必要に成ります。個人が単純に「我が家のルーツ」をテーマにこの期の資料で辿ると神代のルーツの様な矛盾だらけのルーツが出来てしまいます。それはそれで個人の範囲で納得をしていればそれは良いことだと思いますが、この多くは「下克上、戦国時代」に伸し上った氏が家柄身分を良く見せようとして「搾取偏纂」をして創り上げた結果に依ります。それを元に編集したのが「・・系譜本」と呼称されて遺されているのです。
しかし、小説なら兎も角も本サイトの史実のお尋ねのお答えとしては難しい事に成ります。
そこで、「青木ルーツ掲示板」にお尋ね頂きました事にお答えを正しく出すというのはなかなか範囲が広くて説明が難しいのです。当然にお尋ねする側から見れば情報が少ない事だし、その情報の原石があってもそれを磨き上げて全うな情報とするにもそもそも難しいし、お答えする側としても「個人の範囲」としてのお答えをする程の処までの知識は無いと思うのです。また世間に於いても無いと思います。古来より其処(個人の範囲)まで整えられた社会体制ではなかった筈です。
まして、「氏家制度」「封建社会」の社会習慣や考え方と現在の自由な社会とではある事の捕らえ方ひとつが全く異なります。奈良期、平安期、鎌倉期、室町期、安土、江戸期、明治期とではその期毎に「習慣や考え方」が異なっているのです。
現在から古代過去を観る時、”現在の視点で観てしまう”と云うついこの間違いを起してしまいます。
これが問題なのです。その時々の人の自然の悩みや自然に起こっていた資料に載っていない様な社会情勢を見抜く事が出来ないのです。当然に先祖の「生き様」や「悩み」も判らなくなります。
しかし、そこでまあ楽しみの一つとして正しく何とか知る範囲で書いて見ようとすると、「脳の反応」が硬くなり「雑学の記憶」が出てこないと云う事が起こります。実はこれが序文の問題なのです。
「脳の反応と雑学の取得」
上記の事は「人間の脳」が起こす忌まわしい「性」(さが)です。
この「性」(さが)を何とか克服する必要に迫られます。
そこで、私は次ぎの様な事をします。
「3つの脳」の「思考訓練」
第1番目に、何でも良いから「雑学量」を増やす事。
第2番目に、それを「系統的」に分別して覚える訓練をする事。
第3番目に、覚えた事の幾つかを引き出し「組合せ」をする事の訓練をする事。
第1番 これはある期間を限定して納得できる程度にある事の範囲に付いて「読み漁り、調べ漁りする事」で出来ます。
第2番 これは覚える時にそれに纏わる何か「印象」を遺す事で出来ます。
第3番 これはその都度「人、時、場所」の3要素でその重要度、関係度のような事で発想訓練をする事で出来ます。
筆者はこれを「3つの脳」の「思考訓練」と呼んでいてこの「習慣」の特技を身につける事となります。
そもそも「人間の脳」は本来このパターンで思考する仕組みに成っています。
これが他の動物と違う「知恵の差」と成るのです。人間に於いての差も「訓練の有無」に依ってその差が出ている事に成ります。
身近な事では、最も判りやすい例として「受験勉強」がこれに当り、それをまとめたものが「・・参考書」と成ります。これをより多くマスターし、試験問題に適用する事と同じに成ります。
私は幸い「物理系の技術屋」であった為に仕事柄で朝から晩までこの繰り返しでした。
「経験談 物造りの例-1」
どう云う事かと云いますと、ある市場に完成製品の問題が起こります。そうするとその発生原因を究明する為にあらゆる現象を思い浮かべ想定し試験し検査し原因を特定して行きます。これには広範囲な技術的な知識が必要に成り、その知識を瞬時に思い浮かべると云う能力が要求されます。
因みに、判りやすくする為に参考として経験談述べますと、例えば皆さんがお使いの自動車のブレーキのクレームが起こりました。
先ず普通では考えられない事なのですが、ブレーキに摩擦を起させてタイヤの回転を止める焼結金属で出来たライニングがありますが、このライニングを取り付ける鉄の板があります。これをパットといいますが、この何枚かある内のひとつにライニングが取り付けられた金属板(パット)が板圧方向に平行に二枚に割れてしまってブレーキの効きが悪くなったという問題です。
(焼結金属とは金属を粉にしてそれを型に入れて形にして熱を掛けて固めて均一な部品を生産する方法です)
調べた結果、金属を精錬する際に、不純物が金属内に残った結果なのですが、不純物はJISで決められた範囲に維持しているのです。普通はこの不純物を精錬で取り除きますし、もし残ったとしても溶融している時に「リミングアクション」と云う金属に起こる自然現象でインゴットの上部にこの不純物が集まりこれを強制的に取り除きますので起こらない筈なのです。
しかし、この不純物の一部が何等かな理由で金属板の中央に残り、それが圧延時の何度もの加熱で板圧方向に広がり不純物が均等に分布するという現象が起こったのです。
これは専門的には特異な現象で「バンドストラクチャー」と云う現象なのですが、普通余り技術的に知られていない事でもあり、かなりの専門書でなくては文献等には出て来ないものです。
この板を使って部品にするには適当な板圧に圧延されたフープ材(円状に巻いた鉄の板)からこの金属板をプレスで打ち抜きます。この欠陥を持った金属板の不純物現象のところにプレス圧力が掛かり、目に見えない程度に衝撃亀裂が起こります。普通は仮に不純物の欠陥があったとしても何の問題も起こりません。金属を剪断する時は板圧の4-8%の範囲(クリアランス)で切り口を入れると鉄板は後は軽い力で押すと自然に切れ落ちるのです。ところが、これを多くしたり少なくしたりするとこの金属にはその「金属の特質」を超えたところで致命的な欠陥が起こるのです。それは上記したイオウやリンや銅等の不純物がある事に依ります。まして上記の「バンドストラクチャー」等の現象が起こっていると尚更です。そこにこのブレーキの繰り返し荷重と振動が金属板に掛かり、この「バンドストラクチャー」に均等分布する不純物の一つに剪断範囲を超えた力が掛かるとミクロの破壊が起こります。
そして、次々と分布する不純物に破壊が連覇して遂には金属板が結果として二枚に成ってしまった現象でブレーキの効きが悪く成ると云う致命的な危険な現象です。一般に知られていませんが全ての金属にはこの難しい特質範囲で出来ているのです。
これを電子顕微鏡で見る前の処理として「サルファプリント」や「ナイタールプリント」と云う特殊な検査方法で調べると、丁度、サンドイッチの様な模様に成っていてその中央に不純物らしきものが点在してピカッと光るものが見えます。サンドイッチの中味は約0.5ミリ程度の薄く薄灰色の模様として見えます。これが不純物の集合体でその物質はシリコン、イオウ、リン、銅と炭素の一部が組み合わさったものです。
この不純物は原鉱石の中に含んでいるもので、この不純物があると金属は脆く成ります。
普通はこの不純物は0.03%以下でなくては鉄は成り立ちません。
これを無くす綜合技術が優れているのが日本の鉄製品の良さで、これを「ラミネーション」(薄板)と云いますが、他国ではこの現象を無くす事は出来ないのです。外国に輸出される薄板製品で自動車関係等の精密なものに使用されます。この進んだ「ラミネーション薄板」には「リムド」と「キルド」と云う2種類の板がありますが、キルドはこの現象を無くした鉄製品で高価です。普通に使用されるのはリムド(自動車関係部品等に使用)です。
「経験談 物造りの例-2」
この様な「日本の技術」は「雑学技術」から技術者のこの「3つの脳」の「思考訓練」で解決されて良い品質の物が生まれて行くのです。
その最たる綜合物のもう一つの良い例は「日本の新幹線」です。
実はこの新幹線にも上記と同じ事が起こっていたのです。
この事は未だ日本の高速新幹線が走る前の開発段階の事で、未知の高速のタイヤにブレーキを掛けると云う未知の技術で、ブレーキ開発段階の時にこの現象問題が「新幹線ブレーキ開発」にも及び特に問題に成りました。
新幹線はブレーキを掛けた時に高速の為に400度位に繰り返して成るのですが、この金属板にこの「バンドストラクチャー現象」(1)があると、更に加熱されて温度分布の差と繰り返しの「熱にての破壊」(2)(熱疲労や熱脆性破壊)が必ず起こる事が予想されていたのです。
特にこの350-400℃ではイオウやリンが反応して「ステッドブリットネス」と云う第1期の「脆性現象」を更に起こす「危険特定温度領域」(3)なのです。またあらゆる金属は繰り返しの熱過熱が起こると「熱疲労」と言う現象が起こり破壊します。その臨界限界が300度以下なのです。
この「3つ問題」を解決しないと新幹線のブレーキは効かず走らせる事は出来なかったのです。普通は無理なのですが、そして更にはこの金属板を車体のブレーキ本体に取り付ける方法も熱問題や脆性問題等の同じ上記の問題で困難を極めたのです。(4)
普通は考えられるボルトや溶接やリベットなどの固定方法では熱で「3つの問題」と「軟化」が起こり強度が持たない事が考えられ、この「現象の特定」と「原因の究明」とその「後の解決策」が無ければ今の新幹線は走らなかった筈なのです。(「物造り日本」)
勿論、日本人はこの特技の「3つの脳」の「思考訓練」で解決したのですが、今でも日本以外の先進国の高速新幹線は遠くからブレーキを掛けないと効かないのはこの辺の開発が出来ていないからなのです。日本の新幹線だけです。
この知識としては冶金学、材料力学、化学、金属学、熱処理学、ブレーキ力学、破面工学、塑性工学、自然力学などが働き、何れもが広範囲な「高い専門知識」と「熟練技術」が要求されます。
先ず、常識的にこれだけの学問を習得している技術者は、専門化しているために居ないし、文献の殆どが専門領域に限定されているもので、これだけの範囲で綜合的に研究されて解析され説明されているものは有りません。ですから、直ぐに外国が真似の出来ないノウハウであるのです。
反論として、最近の急に出てきた韓国や中国の新幹線があるだろうとするでしょうが、実はこれには落とし穴がありこの様なノウハウに追いつくことは出来ないのです。
新幹線やロケットは「総合力」」ですから「物真似」だけでは殆ど作れないのです。そこで”彼はではどうするか”と云う事に成ります。
それは新幹線の「日本の部品」を殆ど単体購入して自国で組み立て一部の可能な部分を取り付けて国産のものとしてしているのです。当然に彼等の「人工衛星」もロシアから主要な部分を購入しているのです。
これを専門的に「OEM生産」と呼ばれます。この「OEM」で政治的な自国の国威発揚を図っているのです。日本は自国製品です。「3つの脳」の「思考訓練」の結果です。
日本はこの「特技」を生かした「物造り」を成し経済的な発展を成し遂げたのですが、彼等は日本を始めとする「外国資本」の「技術の持込」と「OEM」で成り立っているのです。
「ルーツ解明」と「3つの脳」の「思考訓練」
下記に述べる様な「ルーツ解明」も全く同じで「3つの脳」の「思考訓練」に依って解明されてゆくものです。敢えて上記に例を挙げてくどくどと記述しているのは、「ルーツ解明」には上記知識と同じ様に、「考古学」や「歴史学」等の様により多くの広範囲な知識の「歴史知識」(雑学)が要求され、その中には大変重要な事が多く潜在しているからです。
例えば、当時の「生活様式」や「考え方」や「常識」や「慣習」や「仕来り」や「掟」や「身分」や「家柄」や「宗教」や「学問」等人間が生きて行く上で必要とするあらゆる「行為」の知識が学べるのです。そして、これ(雑学)が「ルーツ解明」の「紐解き」や「真偽選別」の道具に成るのです。
恐らくは「平成の事」も未来から観ると、「雑学」の一つに成る筈です。
その「平成の雑学」と「平成前の雑学」を「ルーツ解明」と云うキーワードで遺しておけば一つに繋がる事が出来、それは連続した「歴史」、即ち「伝統」と成る事に成ります。
少なくとも、「青木氏」の範囲に於いて、文科系の人には目を覆いたくなる様な例として技術的な事をくどくどと述べたのもその「青木氏の人たち」の未来に遺す「平成の雑学」の意味を持ちます。
そもそも、この「判断材料」の「雑学」の会得は「目を覆いたくなる事」そのものなのです。
文科系の得意の人は技術系が苦手、技術系の得意な人は文科系が苦手。しかし、「ルーツ解明」にはどうしても両者が必要なのです。バランスの取れた、且つ正しい「3つの脳」の「思考訓練」を成すには絶対不可避なのです。
研究室には他にも青木氏ならではの「色々な論文」(雑学)を遺しています。
その雑学行為(「3つの脳」の「思考訓練」)で「日本の伝統」況や「青木氏の伝統」を「解き明かす事」が、”日本そのものを生き遺させる仕儀の一つに成るから”と考えているのです。
ともあれ、残念ながら何処にも「ルーツ解明」の要素が一つにまとめられた「受験勉強の参考書」の様に「文献、参考書」としてのものが無いからで、それを「一つにまとめる方法」は個人努力でこの「3つの脳」の「思考訓練」による以外に他に方法が無いからです。
これ等の要素は普通はばらばらの「常態」で存在しているのです。故にこの「努力」が欠ければ「日本の伝統」は現状のように必然的に消えて行く運命にあるのです。
現在の「伝統消滅」の有様は、この「3つの脳」の「思考訓練」の「努力」が足りないか無い事ですが、「技術立国」(物造り日本)として余りに「技術」に偏りすぎた為に「伝統消滅」を起し、多くの「社会問題」を発生させているのだと考えているのです。
「技術立国」(物造り日本)と「熟練技能」と「熟練技術」
上記した「技術立国」(物造り日本)の構成を考えた場合、「熟練技能」と「熟練技術」に依って構成されていると考えます。これは「日本人の特技」とされながらも「熟練技能」と「熟練技術」で生きていかなければ成らない(下記に理由を述べます)古来よりの「日本の宿命」でもあるのです。
そうすると、当然に「技術側」(技能側)に偏りが起こります。
これも仕方の無い事とは思う事なのですが、然りながら故に、日本の「技術の伝統」は「3つの脳」の「思考訓練」で成されていても、偏り過ぎで「心の伝統」関係は消えて行けば”日本は日本で無く成るは必然”です。
無くなれば論理的に「技術の伝統」も消え去る筈です。しかし、まだ消え去っていないのですから「心の伝統」は「何がしかの工夫」で維持されている事に成ります。
では”それは何なのか”と云う疑問が起こります。
この「心の伝統」が本論の目的(これが下記本論に示す「守護神」等なのです。)
詳しくは守護神「神明社」のところで論じますが、それをより深く理解を得るためにそこまでに至る論調を追々述べて行きます。
先ずこの事についての筆者の考え方は数式に表すと次の様になります。
A「技術の伝統」+「心の伝統」=「日本の伝統」=「日本の特技」=「技術立国」(物造り日本)
B「熟練技能」+「熟練技術」=「3つの脳」の「思考訓練」=「技術立国」(物造り日本)
故に「A=B」
つまり、筆者はこの「技術の伝統」(物造り)と「心の伝統」(神明社)は表裏一体であると考えているのです。故に「守護神の神明社」本論を論じる場合はどうしても「A=B」を論じる事になるのです。
このAの表裏一体の「2つの領域」を「熟練技術」(上記した技術例)の様に高い位置に遺す事が必要と考えていて、一方の「心の伝統」を「一人の努力」として「狭い範囲」ではありますが「青木氏の範囲」で本論文の調査に入ったのです。
全くの素人であった故に、初期はその調査に入る方法が判らず、止む無く「技術屋の特技」を生かして”手法「3つの脳」の「思考訓練」”で入ったとするところです。これが序文「雑学の根拠」であります。取りも直さずこれは「雑種の優位性」(下記)の「日本人の特技」でもあるのですが。
「物造り日本」と「技術立国日本」
いずれにしても、「ルーツ解明」や「技術解明」にしても、それに必要とするどの学問一つ欠けてもこの問題解決の原因が判らないのです。原因が判らなくては「クレーム」や「ルーツ」が解決出来ずに「企業存亡」や「伝統消滅」に至り、否、これは「日本存亡、又は衰退」に関わり至る事なのだと思うのです。
ともあれ、これらの何れの学問の「雑学知識」を保持するだけでは「解明」は出来ず、それには上記する「3つの脳」の「思考訓練」の熟度が無ければな成らないと考えています。
「専門職」や「専門家」としては大変な仕事ですが、この様な事が「高い努力」に依って現在も解決されて「日本の技術」や「日本の伝統」は世界に冠たる位置にあるのです。
(「3つの脳」の「思考訓練」の熟度」)+「雑学知識」=「解明」
ここで「技術面」で観れば、「資源の無い国」でありながらも、不思議に日本の「資源の学問」域は世界的にトップ域であり、その応用域の「綜合技術」(例えば「ブレーキ関係産業」等)の置かれている立場も世界に冠たるもので、当然に上記「8つ程の学問」とその業界も侵されないトップクラスなのです。他の産業域もほぼ同じであると観ています。
つまり、「物造り日本」と「技術立国日本」は”「造る事」のみならず、その「資源の学問」も「学問立国」でもある”事なのです。
「物造り立国」+「学問立国」=「技術立国」
この数式が成り立たなければ中国、韓国の新幹線、ロケットは出来得ないのです。故に彼等は「OEM」なのです。仮に、純正であるとするならば、学問域でも「ノーベル賞」を取得出来る筈でそのレベルがどの程度かを確認する出来る事です。技術面から、部品を外から観て真似を出来るほどではそれは高いノウハウではないのです。単品のブレーキ部品でも絶対に真似の出来ないノウハウは私が知る範囲でも5つ程度もありそれを作り上げるノウハウの特殊な生産設備も無い筈で上記の例の様に一つではないのです。それらを作り上げる生産設備を含む経費は莫大で短期間で出来るものではないのです。日本から購入した方が割安で「相互依存」になり、彼等にとってはその目的は「海外に向けた宣伝」と「国威発揚」の政治的手段に他ならないのですから、「時期を重視」する必要があるのですから莫大な経費をかけてのものではないのです。
彼等の「国民性の考え方」は「国は面子」「石は薬」「法より人」の常識ですから「莫大な経費」より容易な「購入の相互依存」を選択するのが採るべき手段なのです。
「部品単位のOEM」は日本にとっては生産コスト削減には成り、実質日本製に他ならないのです。
これは先輩諸氏、否、先祖による「3つの脳」の「思考訓練」(「熟練技能」「熟練技術」)の努力による功績で他国が侵す事の出来ない領域まで到達させたのです。
しかし、これを今後コンピーターによる激しい速度の「学問の進歩」に合わせて、「造る事」が持ち堪えて行けるかは「遺伝的な日本人の特技」の「引き出し努力」にある事は明らかです。
つまり、その「引き出し努力」とは「3つの脳」の「思考訓練」」(「熟練技能」「熟練技術」)であると観ているのです。
「物造り」+「学問の進歩」=「技術立国」
つまり「物造り」は「学問の進歩」を連動させる事が絶対条件なのです。
だとすると、その「物造り」の概念を時代に合わせながら明確に把握する必要があります。
「物造り」=「熟練技能」+「熟練技術」
故に、「物造り」から「エキス」を引き出したとすると、この二つの概念から下記の数式が成り立っています。
「熟練技能」+「熟練技術」+「学問の進歩」=「技術立国」
この「物造り」には「普通の技能と技術」も当然に潜在しますが、日本が必要とする「物造り」は「普通の技能と技術」を軽視できませんが、コンピューター時代の基礎の進化で補う事が可能な領域です。(下記)
A「遺伝的な日本人の特技」=「3つの脳」の「思考訓練」=「引き出し努力」
B「熟練技能」+「熟練技術」=「物造り」=「3つの脳」の「思考訓練」
A=B
「A=B」の検証と詳細な「経緯」
そこで、ではこの数式の歴史が”何時から始まったのか、何処から導入したのか、誰が推し進めたのか”と云う疑問が先ず理解を深めるためには必然的に起こる筈です。
実は調べてみると、結論から云えば、この努力(「引き出し努力」)の始まった明確な時期は、何と「青木氏の発祥」(「大化改新」)と一致し、その「造る事」「資源学問」は皮肉にも中国(後漢)だったのです。そして、その推し進めた人物は当然に中大兄皇子だったのです。
「後漢」の「光武帝」より末帝の21代「献帝」の子供「阿智使王」と孫の「阿多倍王」が17県民200万人の「技能集団」(職能集団)を引き連れて北九州に上陸し瞬く間に日本66国中32国を無戦征圧した時から始まったのです。
それまでの奈良期初期前では「物造り」と云う影は無く、むしろ「原始的な日々の生活」を続ける漫然とした体制であり、蘇我氏等による一部の政治的思惑の範囲で国揚げての政策範囲というものは無かったのです。日本統一は当然に未だ無く「7つの民族間」の争いの中にあったのです。
しかし、その環境の中に突然、主に中国から渡来人が続々と襲来し始め、後漢の帰化人が第1期と第2期とに渡り入国するに当り、「日本の民」はその進んだ技能を後漢の渡来人に積極的に進んで学び、進んでその配下に入りした結果「無戦」と云う形で瞬く間に関西以西全土を彼等の帰化人が支配すると云う現象が起こったのです。この時、民は生活の向上と国を主導できる彼等に陶酔して行ったのです。
全ての青木氏の元祖の中大兄皇子はこの有り様を観て、国体の全体の有り様に疑問を持ったのです。
そして、その思いから蘇我氏を討ち「大化改新」を推し進めるのです。
しかし、この時、彼には別の大きな悩みがあった筈です。
その32/66国の「軍事、経済、政治」の勢力と民から慕われる彼等を観て、為政者である限りただの想いだけでは絶対に済まなかった筈です。
この時、史実から観て国内には次ぎの様な国難が起こっていたのです。
「国難」
1「蘇我一族の横暴」「天皇家を脅かすほどの脅威」と「天皇家の無力化」
2「国の漫然化」 国を豊かにし、国の安寧を計る国策の無さ 「民の疲弊」が起こる
3「民族氏間の争い」「7つの民族」が40程度の「民族氏」に拡大し「民族間抗争」が起こる。
4「朝廷内の抗争」 蘇我氏一族と反蘇我氏一族の抗争が起こる
5「後漢の民の動向」 その勢力は朝廷を凌ぎ日本の半分は支配下 「独立国の懸念」が起こる。
しかし、この5つの国難の内、大和国で無く成る「最大の懸念材料」は矢張り「後漢の渡来人の動向」であり、他4つは「国内の腐敗」によるものであり、リスクから観て彼の頭の中では、最大の問題であった筈です。
彼等の「軍事と経済の勢力」と「民」から慕われるその「支配形態」から観て、日本に「後勘の独立国」が出来てもおかしくなかった筈です。まして国内では「4つの崩壊する要素」が潜在していたのですから「独立」の方向に進むのが「自然の流」であった筈です。
そもそも「独立」とは「1から4」が在って起こるものです。
「1+2+3+4」=<「独立+5」
上の数式が成り立てば、為政者は危機感を感じ考えない方がおかしいの筈です。
中大兄皇子は蘇我氏を倒して「大化改新」を実行した決断力、胆力、頭脳明晰な天皇です。
「1+2+3+4」=<(「独立+5」)
ところが、幸いに「帰化」と云う形で納まったのはこの「日本の民」を巻き込んだ「無戦征圧」が原因しているのです。
(「独立」+5)=<「日本の民」+「無戦征圧」
故に、次ぎの数式が成り立つ事になる。
「1+2+3+4」=<「独立+5」=<「日本の民」+「無戦征圧」
とすると、右が<であるので、ここで、当然に、「阿多倍王の判断」が左右した筈です。
「阿多倍王」はこの数式が成り得た場合、”「独立」が可能か”を考えたのではないかと想うのです。と云うよりは、「独立は可能」だが「独立後の施政」に問題が出ると観たのではないかと考えられます。
「唐国」と崩壊寸前の隋国に西から圧迫を受け、遂には618年に滅亡し、軍隊と共に日本に後漢の漢民族の全てを引き連れて渡来したのです。
”「独立国を新たに造ろう。軍事、経済力、政治力の弱い大和の国なら潰せる」”と考えていた事は自然である筈です。まして、「漢国」が滅び東に移動して「朝鮮国」北部を征圧して「後漢国」を造った歴史を持っている民族です。疑える条件は何も無い筈です。
まして「阿多倍」は入国した主力の在る北九州に住まいせず南の薩摩大隈に定住したのです。
何故でしょう。恐らくは「独立国」にした場合に「大和から最も遠い所」に首魁を住まわせるのが「戦略の常道」です。そして、この薩摩は民族的に穏やかな「太平洋族」と、「ベトナム系民族」とその系列の「漢民族」の移民地なのであり、元を質せば半分は中国系民族で構成されていた安全な地域なのです。つまり、ここに定住した事は明らかに当初は「独立」を考えていた事に成ります。
(その史実は下記)
しかし、彼等は帰化したのです。「帰化」に決めても彼等集団の中に「乱れ」が起こらなかったのは「200万人を統制する絶大な力」があったことを意味します。
「中大兄皇子の考え」
そうすると、一方「中大兄皇子」は1から5の悩みの中で起すべき態度は決って来ます。
「独立」と「帰化」の中で、それは1から4を粛清する事以外に彼には「解決の道」は無い筈です。
そうなると「蘇我氏を滅ぼし政治の体制を改善する事」以外にありません。
そして、考え出した改善策とは「大化改新」策なのです。(研究室大化の改新レポート参照)
その中では、当然に考える事とは「1-5に対する施策」(「改新の詔」)と成ります。
つまり、「改新の詔」とは別にこれに関する「4つに関する付随政策」(勅)を別に実行しているのです。
それらを上記した技術屋的に解析すると、それには関連する「一つの道筋」が見えて来ます。それが、「氏融合策」なのです。
A「改新の詔」概容
1 公地公民制度
2 統一地方行政制度
3 戸籍、計帳、班田授受制度
4 統一税制制度
B「付随策」概容
「皇位継承制度の変更」
「東国国司制度」
「男女の法」
「冠位の制」
「葬祭令」
「食封」
「八色の姓制度」
「三蔵の制定」
「天皇の近衛軍の創設」
「部経済方式の創設」
(本文に関係策のみ記述)
C「政治課題の改革策」概容(上記重複)
1「大豪族と東漢族の横暴」「天皇家を脅かすほどの脅威」と「天皇家の無力化」
2「国の漫然化」 国を豊かにし、国の安寧を計る国策の無さ 「民の疲弊」が起こる
3「民族氏間の争い」「7つの民族」が40程度の「民族氏」に拡大し「民族間抗争」が起こる。
4「朝廷内の抗争」 蘇我氏一族と反蘇我氏一族の抗争が起こる
政治課題1に付いては、先ず「蘇我氏」を討ち天皇家に政権を取り戻した後に、朝廷の経済と軍事の疲弊の元凶と成っていたものを改善する為に、空かさず「皇位継承制度」の全般の変更を行います。
「主な変更点」
第4世皇族継承(第6世より)
第4位皇子まで皇位継承権(真人族 第6世より)
第6位皇子の賜姓臣下(朝臣族 新設)
第4世守護王(宿禰族 第6世族より)
第7世平族(新設)
第5世王、第5位皇子、第6世族はその中間位とする。
(後の7代後の嵯峨天皇は、女系天皇が続いた事により「皇位継承者」が激減した事で継承権を敢えて第4世族に変更する。例、天智天皇から5代後の光仁天皇は第6位皇子の施基皇子の子供 例外で継承し次ぎの子の桓武天皇に継承-平城天皇-嵯峨天皇)
それまで実施されていなかった「氏融合策」の「賜姓臣下策」を除き「第6世族」までを全ての対象としていたのです。しかし、これでは「大蔵、内蔵」の「財政」は耐えられず「朝廷の弱体化」を食止める事は出来なかったのです。そこで、先ず「皇位継承制度」を詳しく見直したのです。
これらCを背景にしてAとBを観察すると、次ぎの関連する政策が実行されています。
「改革策」
「付随策」
「変更策」
以上があります。
政策を単純にならべると”そんな物か”と見えますが、特技とする上記した「3つの脳」の「思考訓練」によりそれ等をよく分析して関連性を調べると、実は色々な「複合的な関連性」があり「政策的意味」を持っていることが見えて来ます。
先ず上記した「改新の詔」の4つを観ても、「Cの背景」が存在していれば「絵に描いた餅」に過ぎません。
「改新の先決問題」は要は全て「Cの背景」なのです。
「Cの背景」のその中でも、1に付いては先ず最初に手を着けるべきは、政治母体を完全に安全に保つ必要がありますから、彼の立場からすると先決問題として「軍事的な弱点」を改善する必要があります。
そこで先ず手を着けたのが「軍の編成」の点です。
天皇自らを護る一団の「近衛軍の創設」(イ)を実行し身内で護る事に成ります。
つまり、況やこれが天皇を護る為に身内の皇子にその任を課した「第6位皇子賜姓制度」(青木氏)」(ロ)と成りますから、これが「近衛軍」に相当する訳です
これには、更に別の目的として、分析類似点を調べると次ぎの様な「関連性」が見えて来ます。
「皇族」から「臣下」させて初めて「侍」としたとありますから、つまり、「民間」の中で「侍」として「皇族」から「独立」し、「身分家柄」を得て「氏」を形成する訳ですから、「氏の融合」策(「八色の姓」策併用した)(ハ)を率先して図る役目を得た事になります。又、それは強いては朝臣族とする「民間のトップの位置」を得ている事ですから、その立場を利用して「力」を発揮すれば「民族間の勢力の削除」をも図る事にも成ります。
そこで、これには実行するに必要な「経済的な裏づけ」が必要です。
そこで、殆ど「蘇我氏と物部氏」の主要豪族に所属して牛耳られていた「物造り」の「部」を制度化(ホ)を実行します。これを「公地公民」で「朝廷の政治組織」に組み入れたわけですから、今まで「民族氏」が占有していた「物造り」から生まれる「財力」を獲得できます。
依って、その「財力」で政治的に課せられた次ぎの役目は果たせる事に成ります。
青木氏の政治的任務
「近衛軍の発祥源」
「賜姓族の発祥源」
「侍の発祥源」
「朝臣族の発祥源」
「武家の発祥源」
「融合氏の発祥源」
「皇祖神の守護職発祥源」
これらは次ぎの施策から読み取る事が出来ます。
「近衛軍の創設」(イ)
「第6位皇子賜姓制度」(青木氏)」(ロ)
「氏の融合」策(「八色の姓」策併用)(ハ)
「民族間の勢力の削除」(ニ)
「物造り」の「部」を制度化(百八十部 ももやそべ :180)(ホ)
経済的には(3)の補足策の「物造り」の「部」を制度化(ニ)して一度朝廷に納品させた上で市場に供給する画期的な「経済方式」を始めます。
この為にはこれらを「公地公民制度」にして豪族からその「経済的背景」を削除して勢力を低下させて全て「国の管轄下」に起きます。
当然に「豪族の不満」は必然的に起こります。そこでこの「豪族の不満」を完全に封じ込める為に、俸禄を定めた「食封」(じきふ)と「冠位の制」と「八色の姓」制度(やしきのかばね)の「3つの策」を創設します。
「3つの策」
1 「食封」(じきふ)とは、俸禄を定める事でそれに見合った力にさせ必要以上の力を封じた。
つまり、「勢力の制限」を図ったのである。
2 「冠位の制」とはその者の冠位を授けて冠位以上の施政への関与を牽制した。つまり、「身分の 確定」による権力と行動範囲の限定を図った。
3 「八色の姓」制度(やしきのかばね)とは「氏の家柄」を8つに分けてその家柄に見合った職務 と権力を定めた。つまり、「家柄の統制」にて氏の勢力拡大の制限を図った。
このこれが後の「氏家制度」へと発展しその根幹と成ったのです。
以上が彼等豪族達の「立場」を「法」で縛ったのです。
要するに次ぎの施策と成ります。
「勢力の制限」
「身分の確定」
「家柄の統制」
と云う事に成ります。
「民族氏」の彼等は「法」のこれらに従わなければ朝廷側にその「大義名分」が出来ますので潰されることに成ります。これが「力の政治」ではなく「初期の律令政治への始まり」であったのです。
「天智天皇」はこの事にいち早く悟った事に成ります。
しかし、これでも彼等の「不満」は完全に抑える事は出来ません。そこで効いて来るのが、「近衛軍の創設」と、蘇我氏の「雇い軍隊」であった「阿多倍」の父の「阿智使王の護衛軍」(「職能軍の東漢氏」)を味方に引き入れて、初期の「朝廷軍の創設」を果たします。
そこで、帰化した阿多倍に薩摩の国を裂き「大隈国」を造り「半国割譲」(713年)し、更に「伊勢北部伊賀」を「半国割譲」(715年頃)して呼び寄せてここに住まわせます。
(日本書紀には「大隈の首魁阿多倍」と記されている。伊勢伊賀から出て来て天皇の前で踊りと相撲を披露すると記されている)
そして都に呼び寄せた「阿多倍」天皇自ら勲功し褒賞して「准大臣」に任じた上で、「敏達天皇」の孫の「芽淳王」の娘と血縁させます。
平安期の「桓武天皇期」(791頃)にはその子の長男に「坂上氏」を賜姓して「彼等の軍」を「朝廷軍」に組み入れ、「征夷大将軍」に任じて、「職能軍と阿多倍軍」から成る「強力な朝廷軍」を編成します。
(注)
(「蘇我氏討伐」の時、蘇我氏が雇い入れていた「東漢氏の職能軍」は中大兄皇子の呼びかけに岡から引き上げた)
(「朝廷軍」の主力は父の「阿智使王軍」と子供の「阿多倍王軍」の編成軍と成る:帰化人「後漢の軍」に相当する。)
(その後の経緯):この朝廷軍だからこそ国を統一出来た。
800年始めに一族の阿倍比羅夫と坂上田村麻呂が征夷族を以上4回に渡って攻め3回目で異民族のアテルイ一族が率いる民族を制圧します。(806)
900年代には秀郷一門が「鎮守府将軍」として鎮圧します。
1100年代には源義家が「征夷代将軍」として完全制覇します。
以北勢力は以上3回で統一する。
「民族性」の強い「民族氏」が以北に現存していてなかなか進まなかったのですが、以西は「帰化」、以北は以西の帰化人が「制覇」と云う珍しい形で「氏融合の基礎」を完遂させ、益々上記する「氏融合策」は進み日本全土は朝廷の支配下に入ります。
支配下に入ると云う事は一連の上記の政策が実行されるという事に成ったのです。とりわけ「氏数」と補足として「家紋」(象徴紋含む)の変化を観て見ると、この3つの時期を基点に「氏融合策」は3度に掛けて急激に進みます。
「近衛軍創設」と「朝廷軍の創設」
「勢力の制限」「身分の確定」「家柄の統制」の意味
「八色の姓制度」は、飛鳥-奈良期初期の「氏姓制度」から「氏の融合策」へと推し進める上で、更に発展させる上で、この改革をしたものですが、「国力」即ち、「公地公民」とした「物造りの生産力」に合わせた「氏数の制限策」をこの「3つの策」で実行したのです。
ただ「氏数」が無制限に伸びる事はそれに見合った「物造り生産力」と「部曲の農産力」が無くては争いが生まれます。そもそも「氏融合」の本来の目的からそれは逸脱する事に成ります。
それを「勢力の制限」「身分の確定」「家柄の統制」の「3つの策」で「許可制」にしたのです。
勝手に「氏」を起しても「身分」と「家柄」が与えられなければ「経済的裏付」「社会的な裏付」を得ることが出来ません。増やそうとすると結局、「朝廷の許可」を必要となります。
つまり、これは「物造り」の政策が拡大するに従って「融合氏」を増やして行くと云う戦略であるのです。この様に何度も力説していますが「物造り」と「氏融合」は連動しているのです。
「物造り生産力 5倍(氏融合は5倍)」
とすると、この「時代の生産力」又は「経済力」の発展具合が判る事に成ります。
奈良末期から平安末期までには「氏数」が「20から40に、40から80に、80から200に」
変化したのですから、それに見合う「物造りの生産力」更には「部曲の農産力」が最低限あった事に成ります。奈良末期から平安末期まで約550年間に5倍に伸びた事に成ります。
鎌倉前記まで100年で「倍増の生産拡大」を起したことに成ります。
(部曲に関する政策の検証は別にします。)
「融合氏の政策」に伴なって「物造り生産力の政策」は力を入れた為に効を奏している事がこれで明確に判ります。故にこの「2つの策」は連動していると解いています。
もしそうでなければ、「食の争奪戦」が起こる筈です。「政治権力の争奪戦」が在ったにせよ「食の争奪戦」の事件はこの間にはありません。
起こったのは無政策による「氏数の拡大」によりこの連動関係が崩れた結果、「下克上、戦国時代」の室町期の混乱であります。つまり、「物造りの生産力」「部曲の農産力」の不釣合いから起こる争奪戦の「氏数の生き残り合戦」です。
例えば、藤原秀郷流青木氏119氏は「秀郷第3子の千国」が母方藤原氏を理由に朝廷からの青木氏の許可を得たのも、又「皇族賜姓青木氏」の血縁を持つ「5家5流の青木氏血縁11氏/29」も、「嵯峨期の詔」に準ずる「皇族青木氏」等もこの許可の下にあったのです。
元より北家一門藤原秀郷一門主要361氏もこの許可の下に発祥した「融合氏」です。中でも母方血縁による秀郷流青木氏の「氏の融合」の勢いは恐らく当時としては比較にならない「最大の融合力」であったのです。
本流119氏、永嶋34、長沼52、長谷川88、進藤48の青木氏の主要血縁族222氏
そもそも、元の阿多倍集団の帰化以来「部制度」(「物造り」の制度)の「部民制」(180部)は、「民族氏」の諸国の有力豪族が管理して「経済的潤い」を得ていて、その「経済的潤い」の下で民を「伴」(とも)としてこの「部民」(品部)を率いて「民族性の強い彼等豪族」が朝廷の「職務に奉仕する仕組み」であったのですが、これを朝廷に組み込んだものです。
依って「民族氏」の彼等を「伴造」(とものみやつこ)と呼んだのです。これを更に「国造」(奈良期の国司:くにのみやつこ)が管理統括する仕組みとしたのです。
これらの政策により「民族氏」は否定される結果となり、必然的に「融合氏」へと動き始めるのです。「八色の姓制度」等の政策で「民族氏の性格」に固持すると「家柄身分」を得られなくなり氏の存続は難しくなりますので動かざるを得ないのです。
「氏融合」策を戦略的に推し進めて「民族的」な傾向から「融合的」な国体の形に進める以上は、それを絶対対条件として「経済的に裏付ける制度」にしなくてはなりません。それには「部の仕組み」を確固としたものに作り上げる必要が起こります。
(参考 農民は”「部曲」:かきべ”と呼ばれた。 部制度の民を「品部」:”しなべ”と呼ばれた 「品部」の下に助手「雑戸」:ざこ 2段階制度に成っていた)
(氏の宗家の長を「氏神」ならぬ「氏上」:”うじがみ”と呼称し、その支配下にある一族一統は「氏人」:”うじびと”と呼称していたのです。後にこの「氏人」は一族一統の下にある「品部」と「部曲」までを呼ばれる事になった。この「品部」は室町期後半には職能集団の首魁の部名を採って「氏」(180)を形成した。)
実質は「八色の姓」の制度では、仕組み上「朝臣族」「宿禰族」の第4世族が天領地の国の「守護王」として置き、「国造」(くにのみやつこ:奈良期の国司)を指揮したのです。これが初期の「氏姓制度」から「部制度」と連動させて、更に「公地公民制度」と変化させて、これを管轄する氏の根幹を「八色の姓制度」で明確にして改革し「氏融合策」の推進過程としたのです。
「氏融合の推進過程」
「氏姓制度」-「部制度」(物造り策)-「公地公民制度」-「八色の姓制度」-「氏融合策」
注目点として、「物造り策」と「氏融合策」と連動させたのです。
見逃してはならない事は、これが「経済的裏づけ」を生み「氏融合」を飛躍的に発展させたその「推進力、原動力」の猛烈な元となったのです。
これら「部」等を「国の管轄下」に置くことに依って「財政に対する全権」を握り、その上で「政治機構」を3分割にして「内蔵、大蔵、斎蔵」を明確にして「財政的根拠」と「権力の集約」をして「統括管理」を実行し易くし、終局、明確な「朝廷の財政的裏付」を図ります。
更に、この制度を「安定化」させる為に「改新の詔」の「2と3と4」と「男女の法」を定めて実行したのです。これで「民と支配層」の「不平不満」を抑えます。これを「管轄管理」する為に「東国国司制度」を定めて朝廷より官吏を送り「監視体制」を整えます。
「皇族賜姓青木氏」と「物造りの部制度」は同時に「Cの3」の解決策としての「氏融合」政策とします。この「氏融合政策」に伴い「庚午年籍」を定めて「戸籍制度」(ニの補足策)と「氏姓制度」(ハの補足策)を実行します。
飛鳥期ではそれまでは「氏」と云う概念が無く「民族氏」的な個人の「集団生活」を主体とした社会でしたが、これ等の連動した政策実行により「氏」は40程度に定まり初期の「氏家制度」が本格的に開始されて行きます。ただこの時、「氏」を無制限に拡大する事を避けた帰来があるのです。
それは「氏間の争い」を起こさない範囲限度、つまり、「監視出来る範囲」を考えていた事なのです。
この「監視出来る範囲」を配慮した「融合政策」を効果的にする為に「実務で補佐する政治システム」の「御史太夫制度」を定めます。つまり適時適切の臨時の「専任官僚」を任命した事に成ります。つまり指定する「地域」や「期間」を限って適切に「人選人事」をして監視する体制を施行したのです。「氏数」を増加するに伴ってこの固定制度では「専任官僚」を増やす事にも成り、結果として「経済的負担の増大」を招き、「腐敗と権力乱用」を起こす事を嫌ったものと考えられます。
よく考えています。
実質、次第に「朝廷の力」に応じてこの「令外官」の「専任官僚」が管理しながら40-80-200と拡大をさせますが、鎌倉期にはこの「平安時代の統制」が取れて「鎌倉期以降の乱世」にて無秩序になり最大1200となります。
結局、その結果、「融合氏」の「生存競争」が発生し「下克上、戦国時代」の様に「氏間の争い」が全国的に頻繁に起こってしまったのです。
経時的に観ると「令外官」の効果があった事が証明されるのです。
必然的に「潰しあいの争い」から過剰反応を起こし平安中期の80程度に急激に戻り収まります。
結局、「物造り生産力」に見合った程度に納まるのが必然です。
再び自然量の200程度に回復し、更に江戸初期には急激に拡大を始めたのです。この江戸初期では「氏」を形成していなかった「氏」の下で働く「下級家臣群」氏を立て事で1200程度以上にも成りますが、江戸幕府は史実からこの事(「物造りの生産力」「農政の生産力」)を把握していたと観られ、国内の藩を限定して大小「主要200氏」の下に組みました。これが「家紋200選」である訳です。後の氏は「主要200氏」の「枝葉氏と抹消氏」として呼ばれ拡大したのです。
江戸時代の「適正氏」は、即ち「物造り生産力」と「農政の生産力」は平安末期と同じ程度に絞ったことが判り、「融合の氏数200程度」であった事に成ります。(石高にて表現した)
平安期はこの「枝葉氏 抹消氏」は許可制の下「氏姓制度」政策と社会の「氏家制度」に縛られて発祥は無かったのです。つまり「実質の氏数と物造りの生産力」であるのです。
「物造り政策の生産力と農政の生産力の不均衡」
ただ、問題は「融合氏数」に比較してこれには見合う「部曲」の「農産力」が見合っていたかは多少疑問なのです。九州南北基地の阿多倍一族一門が国策に不順であったもう一つの原因は実はこの事にあるのです。「物造り政策の生産力」は「彼等の得意業」それに引き換え彼らに「追随した民」の「農政による生産力」が見合わない事に不満を抱いていたからなのです。
と云うのは、農政による奈良期平安期の税制として「租、庸、調」「雑よう」「兵役」「衛士」「仕丁」「運脚」「出挙」「正税」等多くの政策が実行されましたが、内容を観察するとかなり厳しいもので「重税、重役」の様にも観られます。
(各地で土豪や地方官吏を巻き込んだ大規模な不満爆発、叛乱が起こる。)
ここに証拠があって北九州基地の大宰府官庁から官吏が痺れを切らして「公営田制」「直営田制」と云う提案が朝廷に出されているのです。九州北部基地の収入を上げる為に独自の農業政策を提案実行したのです。これに依って「物造り」の「品部や雑戸」の生活の安定を図ったのです。
別途、機会を観て農政との関係に付いても論文を投稿したいと考えていますが、現に「日本書紀」には農民が不満を持ち騒いだ事や信濃の諏訪族の長が「開墾の功」で呼ばれて「信濃王」立会いの下で直接天皇に税軽減の具申をする異例の事件が起こる等の事が書かれています。他にもこの様な事が多くの資料記録等に遺されています。
明らかに「物造り政策の生産力」と「農政による生産力」とには若干の違いがあったことが認められ「農政の生産力」には恒久的な問題があった事は間違いありません。
この事に対して900年以降から徐々に発生し、1020年頃を境に「氏融合政策」が山場を越えた時期の特に1030年以降、朝廷の「部制度が弱体化」に呼応して各地の「融合氏」と成った豪族がその勢力に応じて独自に「品部、部曲」の「囲い込み」を行って「富」の分配が不均等になった「荘園制度」の結果で、これらの「富不均衡」が鎌倉期まで続いたのです。その証拠として、10世紀から13世紀前半まで、この禁令や整理令が13令も出ているが守られず、逆に基準や規制が緩かった為に拡大させて終った失政の制度と成ったのです。戸籍を偽る「偽籍」と云う行動が頻発し制度は限界を超え腐敗へと進んで行くのです。
この事が原因して「物造りの改革」に比較して「農業の改革」が進まず、13世紀後半から16世紀にその影響が出てしまったのです。
「物造り生産力」>「農業の生産力」この数式が融合氏の生存競争を加速させてしまったのです。
ここでは「物造り生産力」に重点を置きながらも、「物造り政策の生産力」+「農政による生産力」と観て検証しますが、この様に歴史的経緯から観て「安定化、沈静化」が起こった歴史的な実績でも判るのですが、この様なアンバランスが論理的に起こる事を充分に予測していた事を意味します。
天智天皇を始めとして大化期の為政者は、これでも心配であったと考えられ、これらの「補足策」を含む「政策実行」を守らせるための「規則」を定め「令」と云うよりは先ずは「氏の行動規範」とする「近江令」を制定します。
更にこの行動規範の「近江令」を補完する為に「青木氏の始祖施基皇子」が「善事選集」司を担当し、それを元に最終の編成令として「飛鳥浄御原令」を施工する事になります。
この様に念に念を入れた「氏融合策」を実行した事に成ります。
参考 皇族賜姓青木氏は「古代和紙の物造り」
皇族賜姓青木氏5家5流の国は、何れも穀倉地帯でありますが、「5大古代和紙の主要名産地」でもありこれを商いとして扱っていた。
(何れもほぼ1300年程度の歴史を持っている。重要文化財に指定されている。)
5家5流の青木氏は「2足の草鞋策」として「古代和紙」(下記)でも経済的に繋がっていた事が証明出来るのです。
これは取りも直さず、5家5流の青木氏の土地全てにこの古代和紙の「物造り」が共通してある事は偶然ではないと観られます。国の安寧は「物造り」にある事を物語るもので、5代の天皇はそれぞれの賜姓する第6位皇子に対して、”「物造り」の国策を指示し「氏融合」の役目を目指して「自立」する事を促した”と観るのが妥当ではないかと考えます。
伊勢青木氏は「伊賀古代和紙」
伊勢国北部伊賀地方で生産される最も古い和紙で阿多倍一族に依ってその技法がもたらされた。
青木氏は大化期の政策によりその立場から最初にこれを扱う。
各地伝導は710年前頃から810年前頃の100年間と観られる
恐らく、生産の各種の歴史資料(検証年代)から観て、賜姓青木氏の関係から「氏融合策」と連動して「物造り策」として他4国に伝えられたと考えられる。
信濃青木氏は「信濃古代和紙」
信濃川流域で生産された「古代和紙」で伊勢青木氏との関係からの技法で生産されていた「伊賀和紙」に継ぐ古い歴史を持っている。
近江青木氏は「近江古代和紙」
現在の滋賀県大津市桐生で生産されていた古代和紙で「 雁皮紙・鳥の子紙」と呼ばれていた。
「土師焼き(信楽焼き)」 でも後漢の技能集団の「土師部」(しがらきべ)の民が持ち込んだものが広まり近江商人青木氏が扱った「物造り」。
美濃は「美濃古代和紙」、
現在の岐阜県美濃市蕨生地域で生産された古代和紙である。
甲斐青木氏は「甲斐古代和紙」
富士川下流、河内領(現在 の西八代郡と南巨摩郡一帯)で生産されいた古代和紙。市川和紙、西島和紙の名称で和紙生産
以上の様に「農政の補足策」として古代より職能集団が伝えた「物造り」を「2足の草鞋策」の商いとして「地産の物」を扱い推進していた事が青木氏の記録で判ります。
他に「墨、硯石」等「紙」にまつわる「物造り」(生産販売)にも大きく関わっていた事が口伝や先祖の遺品、骨董品でも判ります。
中には「火薬造り」もあり、玉城町の8割を占める面積の一部の屋敷蔵に保管されいてこれが明治35年に爆発したとする記録が有り、又、紀州墨や紀州硯石などの関連品も扱っていた模様です。長い間中国との貿易をしていた形跡があり、松阪とは別に堺港には2つの大店を構え、3隻の大船を持っていたと記録があり、大きく「物造り」を推進させそれを裁く商いも両立させていた事になります。
この様に明らかに青木氏が「和紙」と云う伝統とする「物造り」で結び付いていた事は、これは取りも直さず、上記する朝廷の「融合に関する政策」が効果を発揮した事に成ります。そもそも朝廷の政策的な裏づけがあったとして発祥してもそれは充分ではなく「自立」する気構えがその氏に無くしては存続は現実は不可能です。
「3つの発祥源」のその「先駆者としての青木氏」が「経済的な困難」を乗り越え「自立力」で生きて行き崩れる事の無い姿勢を国民に示し促した事で、更に勢いが着き「融合政策」は推進していったのです。
全青木氏初代始祖施基皇子伝来の天智天皇授受の司馬氏「鞍造部止利」作「生仏像様」と共にこの紙でも強く結び付いていた事を示す大きな史実資料なのです。
この様に「物造り」と「氏融合」は連動している史実があるのですが、「青木氏の家訓10訓」の中でも「家訓8」は正にこの経験事が代々に強く在った事を示していて家訓の形に遺したと考えられます。世襲名「紙屋長兵衛」(青木長兵衛 代々南画水墨画を本職に近い形で会得しそれらの遺品が残されている。歴代の有名無名の画家の墨絵が保存されている)を示すものです。
筆者は、「物造り」は1120年代に「2足の草鞋」策としてが成されてたのですが、発祥時期頃から守護王として「自立」を認識していて積極的な支援を「物造り」の「紙部」にしていたと考えているのです。「紙」を元とする故に5家5流の賜姓守護王の「長」の資質として、「家訓8」の「長」としての認識に「物造りの戒め」を強く置いたのだと考えています。
続く
次ぎは「国難2」に付いてです。
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
投稿者:福管理人 投稿日:2011/02/09(Wed) 13:09:10
青木氏と守護神(神明社)
副題 「神明社」「融合氏」「物造り」
序(ルーツ解明に思う事 雑学の根拠)
なかなかルーツの歴史を辿ると云う事は難しいです。
知識の積み重ねが何かのヒントとして役立つので色々と広範囲に雑学を会得する事が先ず大事で他に方法がない気がします。ルーツを辿るにしても、その歴史の中ではいろいろな事が起こっています。
ただ「系譜」を通り一辺に探し当てる事は容易でなく、まして簡単に信用できない歴史的なことが「氏家制度」の社会の中では起こっているのです。まして「下克上、戦国時代」と云う事の真偽が確認できない程の乱世か起こっているのですから、その中から糸の縺れを解くように答えを導き出すにはその時代のより多くの「雑学」を把握するしかないのです。そして、その「雑学」をいろいろと組み合わせて推理し「矛盾」を思考して排除して初めてルーツがその先におぼろげに観えて来るものです。
特に江戸期に作られた資料や文献には多く虚偽の資料が多く、信じて研究するといろいろな所で矛盾が出て来るものです。より「雑学」を把握すればする程にそれが観えてきます。
それをフィルターの様に「事実と虚偽」を「篩いに掛ける事」が必要で、「残った物」を史実として遺し整理する作業事が必要に成ります。個人が単純に「我が家のルーツ」をテーマにこの期の資料で辿ると神代のルーツの様な矛盾だらけのルーツが出来てしまいます。それはそれで個人の範囲で納得をしていればそれは良いことだと思いますが、この多くは「下克上、戦国時代」に伸し上った氏が家柄身分を良く見せようとして「搾取偏纂」をして創り上げた結果に依ります。それを元に編集したのが「・・系譜本」と呼称されて遺されているのです。
しかし、小説なら兎も角も本サイトの史実のお尋ねのお答えとしては難しい事に成ります。
そこで、「青木ルーツ掲示板」にお尋ね頂きました事にお答えを正しく出すというのはなかなか範囲が広くて説明が難しいのです。当然にお尋ねする側から見れば情報が少ない事だし、その情報の原石があってもそれを磨き上げて全うな情報とするにもそもそも難しいし、お答えする側としても「個人の範囲」としてのお答えをする程の処までの知識は無いと思うのです。また世間に於いても無いと思います。古来より其処(個人の範囲)まで整えられた社会体制ではなかった筈です。
まして、「氏家制度」「封建社会」の社会習慣や考え方と現在の自由な社会とではある事の捕らえ方ひとつが全く異なります。奈良期、平安期、鎌倉期、室町期、安土、江戸期、明治期とではその期毎に「習慣や考え方」が異なっているのです。
現在から古代過去を観る時、”現在の視点で観てしまう”と云うついこの間違いを起してしまいます。
これが問題なのです。その時々の人の自然の悩みや自然に起こっていた資料に載っていない様な社会情勢を見抜く事が出来ないのです。当然に先祖の「生き様」や「悩み」も判らなくなります。
しかし、そこでまあ楽しみの一つとして正しく何とか知る範囲で書いて見ようとすると、「脳の反応」が硬くなり「雑学の記憶」が出てこないと云う事が起こります。実はこれが序文の問題なのです。
「脳の反応と雑学の取得」
上記の事は「人間の脳」が起こす忌まわしい「性」(さが)です。
この「性」(さが)を何とか克服する必要に迫られます。
そこで、私は次ぎの様な事をします。
「3つの脳」の「思考訓練」
第1番目に、何でも良いから「雑学量」を増やす事。
第2番目に、それを「系統的」に分別して覚える訓練をする事。
第3番目に、覚えた事の幾つかを引き出し「組合せ」をする事の訓練をする事。
第1番 これはある期間を限定して納得できる程度にある事の範囲に付いて「読み漁り、調べ漁りする事」で出来ます。
第2番 これは覚える時にそれに纏わる何か「印象」を遺す事で出来ます。
第3番 これはその都度「人、時、場所」の3要素でその重要度、関係度のような事で発想訓練をする事で出来ます。
筆者はこれを「3つの脳」の「思考訓練」と呼んでいてこの「習慣」の特技を身につける事となります。
そもそも「人間の脳」は本来このパターンで思考する仕組みに成っています。
これが他の動物と違う「知恵の差」と成るのです。人間に於いての差も「訓練の有無」に依ってその差が出ている事に成ります。
身近な事では、最も判りやすい例として「受験勉強」がこれに当り、それをまとめたものが「・・参考書」と成ります。これをより多くマスターし、試験問題に適用する事と同じに成ります。
私は幸い「物理系の技術屋」であった為に仕事柄で朝から晩までこの繰り返しでした。
「経験談 物造りの例-1」
どう云う事かと云いますと、ある市場に完成製品の問題が起こります。そうするとその発生原因を究明する為にあらゆる現象を思い浮かべ想定し試験し検査し原因を特定して行きます。これには広範囲な技術的な知識が必要に成り、その知識を瞬時に思い浮かべると云う能力が要求されます。
因みに、判りやすくする為に参考として経験談述べますと、例えば皆さんがお使いの自動車のブレーキのクレームが起こりました。
先ず普通では考えられない事なのですが、ブレーキに摩擦を起させてタイヤの回転を止める焼結金属で出来たライニングがありますが、このライニングを取り付ける鉄の板があります。これをパットといいますが、この何枚かある内のひとつにライニングが取り付けられた金属板(パット)が板圧方向に平行に二枚に割れてしまってブレーキの効きが悪くなったという問題です。
(焼結金属とは金属を粉にしてそれを型に入れて形にして熱を掛けて固めて均一な部品を生産する方法です)
調べた結果、金属を精錬する際に、不純物が金属内に残った結果なのですが、不純物はJISで決められた範囲に維持しているのです。普通はこの不純物を精錬で取り除きますし、もし残ったとしても溶融している時に「リミングアクション」と云う金属に起こる自然現象でインゴットの上部にこの不純物が集まりこれを強制的に取り除きますので起こらない筈なのです。
しかし、この不純物の一部が何等かな理由で金属板の中央に残り、それが圧延時の何度もの加熱で板圧方向に広がり不純物が均等に分布するという現象が起こったのです。
これは専門的には特異な現象で「バンドストラクチャー」と云う現象なのですが、普通余り技術的に知られていない事でもあり、かなりの専門書でなくては文献等には出て来ないものです。
この板を使って部品にするには適当な板圧に圧延されたフープ材(円状に巻いた鉄の板)からこの金属板をプレスで打ち抜きます。この欠陥を持った金属板の不純物現象のところにプレス圧力が掛かり、目に見えない程度に衝撃亀裂が起こります。普通は仮に不純物の欠陥があったとしても何の問題も起こりません。金属を剪断する時は板圧の4-8%の範囲(クリアランス)で切り口を入れると鉄板は後は軽い力で押すと自然に切れ落ちるのです。ところが、これを多くしたり少なくしたりするとこの金属にはその「金属の特質」を超えたところで致命的な欠陥が起こるのです。それは上記したイオウやリンや銅等の不純物がある事に依ります。まして上記の「バンドストラクチャー」等の現象が起こっていると尚更です。そこにこのブレーキの繰り返し荷重と振動が金属板に掛かり、この「バンドストラクチャー」に均等分布する不純物の一つに剪断範囲を超えた力が掛かるとミクロの破壊が起こります。
そして、次々と分布する不純物に破壊が連覇して遂には金属板が結果として二枚に成ってしまった現象でブレーキの効きが悪く成ると云う致命的な危険な現象です。一般に知られていませんが全ての金属にはこの難しい特質範囲で出来ているのです。
これを電子顕微鏡で見る前の処理として「サルファプリント」や「ナイタールプリント」と云う特殊な検査方法で調べると、丁度、サンドイッチの様な模様に成っていてその中央に不純物らしきものが点在してピカッと光るものが見えます。サンドイッチの中味は約0.5ミリ程度の薄く薄灰色の模様として見えます。これが不純物の集合体でその物質はシリコン、イオウ、リン、銅と炭素の一部が組み合わさったものです。
この不純物は原鉱石の中に含んでいるもので、この不純物があると金属は脆く成ります。
普通はこの不純物は0.03%以下でなくては鉄は成り立ちません。
これを無くす綜合技術が優れているのが日本の鉄製品の良さで、これを「ラミネーション」(薄板)と云いますが、他国ではこの現象を無くす事は出来ないのです。外国に輸出される薄板製品で自動車関係等の精密なものに使用されます。この進んだ「ラミネーション薄板」には「リムド」と「キルド」と云う2種類の板がありますが、キルドはこの現象を無くした鉄製品で高価です。普通に使用されるのはリムド(自動車関係部品等に使用)です。
「経験談 物造りの例-2」
この様な「日本の技術」は「雑学技術」から技術者のこの「3つの脳」の「思考訓練」で解決されて良い品質の物が生まれて行くのです。
その最たる綜合物のもう一つの良い例は「日本の新幹線」です。
実はこの新幹線にも上記と同じ事が起こっていたのです。
この事は未だ日本の高速新幹線が走る前の開発段階の事で、未知の高速のタイヤにブレーキを掛けると云う未知の技術で、ブレーキ開発段階の時にこの現象問題が「新幹線ブレーキ開発」にも及び特に問題に成りました。
新幹線はブレーキを掛けた時に高速の為に400度位に繰り返して成るのですが、この金属板にこの「バンドストラクチャー現象」(1)があると、更に加熱されて温度分布の差と繰り返しの「熱にての破壊」(2)(熱疲労や熱脆性破壊)が必ず起こる事が予想されていたのです。
特にこの350-400℃ではイオウやリンが反応して「ステッドブリットネス」と云う第1期の「脆性現象」を更に起こす「危険特定温度領域」(3)なのです。またあらゆる金属は繰り返しの熱過熱が起こると「熱疲労」と言う現象が起こり破壊します。その臨界限界が300度以下なのです。
この「3つ問題」を解決しないと新幹線のブレーキは効かず走らせる事は出来なかったのです。普通は無理なのですが、そして更にはこの金属板を車体のブレーキ本体に取り付ける方法も熱問題や脆性問題等の同じ上記の問題で困難を極めたのです。(4)
普通は考えられるボルトや溶接やリベットなどの固定方法では熱で「3つの問題」と「軟化」が起こり強度が持たない事が考えられ、この「現象の特定」と「原因の究明」とその「後の解決策」が無ければ今の新幹線は走らなかった筈なのです。(「物造り日本」)
勿論、日本人はこの特技の「3つの脳」の「思考訓練」で解決したのですが、今でも日本以外の先進国の高速新幹線は遠くからブレーキを掛けないと効かないのはこの辺の開発が出来ていないからなのです。日本の新幹線だけです。
この知識としては冶金学、材料力学、化学、金属学、熱処理学、ブレーキ力学、破面工学、塑性工学、自然力学などが働き、何れもが広範囲な「高い専門知識」と「熟練技術」が要求されます。
先ず、常識的にこれだけの学問を習得している技術者は、専門化しているために居ないし、文献の殆どが専門領域に限定されているもので、これだけの範囲で綜合的に研究されて解析され説明されているものは有りません。ですから、直ぐに外国が真似の出来ないノウハウであるのです。
反論として、最近の急に出てきた韓国や中国の新幹線があるだろうとするでしょうが、実はこれには落とし穴がありこの様なノウハウに追いつくことは出来ないのです。
新幹線やロケットは「総合力」」ですから「物真似」だけでは殆ど作れないのです。そこで”彼はではどうするか”と云う事に成ります。
それは新幹線の「日本の部品」を殆ど単体購入して自国で組み立て一部の可能な部分を取り付けて国産のものとしてしているのです。当然に彼等の「人工衛星」もロシアから主要な部分を購入しているのです。
これを専門的に「OEM生産」と呼ばれます。この「OEM」で政治的な自国の国威発揚を図っているのです。日本は自国製品です。「3つの脳」の「思考訓練」の結果です。
日本はこの「特技」を生かした「物造り」を成し経済的な発展を成し遂げたのですが、彼等は日本を始めとする「外国資本」の「技術の持込」と「OEM」で成り立っているのです。
「ルーツ解明」と「3つの脳」の「思考訓練」
下記に述べる様な「ルーツ解明」も全く同じで「3つの脳」の「思考訓練」に依って解明されてゆくものです。敢えて上記に例を挙げてくどくどと記述しているのは、「ルーツ解明」には上記知識と同じ様に、「考古学」や「歴史学」等の様により多くの広範囲な知識の「歴史知識」(雑学)が要求され、その中には大変重要な事が多く潜在しているからです。
例えば、当時の「生活様式」や「考え方」や「常識」や「慣習」や「仕来り」や「掟」や「身分」や「家柄」や「宗教」や「学問」等人間が生きて行く上で必要とするあらゆる「行為」の知識が学べるのです。そして、これ(雑学)が「ルーツ解明」の「紐解き」や「真偽選別」の道具に成るのです。
恐らくは「平成の事」も未来から観ると、「雑学」の一つに成る筈です。
その「平成の雑学」と「平成前の雑学」を「ルーツ解明」と云うキーワードで遺しておけば一つに繋がる事が出来、それは連続した「歴史」、即ち「伝統」と成る事に成ります。
少なくとも、「青木氏」の範囲に於いて、文科系の人には目を覆いたくなる様な例として技術的な事をくどくどと述べたのもその「青木氏の人たち」の未来に遺す「平成の雑学」の意味を持ちます。
そもそも、この「判断材料」の「雑学」の会得は「目を覆いたくなる事」そのものなのです。
文科系の得意の人は技術系が苦手、技術系の得意な人は文科系が苦手。しかし、「ルーツ解明」にはどうしても両者が必要なのです。バランスの取れた、且つ正しい「3つの脳」の「思考訓練」を成すには絶対不可避なのです。
研究室には他にも青木氏ならではの「色々な論文」(雑学)を遺しています。
その雑学行為(「3つの脳」の「思考訓練」)で「日本の伝統」況や「青木氏の伝統」を「解き明かす事」が、”日本そのものを生き遺させる仕儀の一つに成るから”と考えているのです。
ともあれ、残念ながら何処にも「ルーツ解明」の要素が一つにまとめられた「受験勉強の参考書」の様に「文献、参考書」としてのものが無いからで、それを「一つにまとめる方法」は個人努力でこの「3つの脳」の「思考訓練」による以外に他に方法が無いからです。
これ等の要素は普通はばらばらの「常態」で存在しているのです。故にこの「努力」が欠ければ「日本の伝統」は現状のように必然的に消えて行く運命にあるのです。
現在の「伝統消滅」の有様は、この「3つの脳」の「思考訓練」の「努力」が足りないか無い事ですが、「技術立国」(物造り日本)として余りに「技術」に偏りすぎた為に「伝統消滅」を起し、多くの「社会問題」を発生させているのだと考えているのです。
「技術立国」(物造り日本)と「熟練技能」と「熟練技術」
上記した「技術立国」(物造り日本)の構成を考えた場合、「熟練技能」と「熟練技術」に依って構成されていると考えます。これは「日本人の特技」とされながらも「熟練技能」と「熟練技術」で生きていかなければ成らない(下記に理由を述べます)古来よりの「日本の宿命」でもあるのです。
そうすると、当然に「技術側」(技能側)に偏りが起こります。
これも仕方の無い事とは思う事なのですが、然りながら故に、日本の「技術の伝統」は「3つの脳」の「思考訓練」で成されていても、偏り過ぎで「心の伝統」関係は消えて行けば”日本は日本で無く成るは必然”です。
無くなれば論理的に「技術の伝統」も消え去る筈です。しかし、まだ消え去っていないのですから「心の伝統」は「何がしかの工夫」で維持されている事に成ります。
では”それは何なのか”と云う疑問が起こります。
この「心の伝統」が本論の目的(これが下記本論に示す「守護神」等なのです。)
詳しくは守護神「神明社」のところで論じますが、それをより深く理解を得るためにそこまでに至る論調を追々述べて行きます。
先ずこの事についての筆者の考え方は数式に表すと次の様になります。
A「技術の伝統」+「心の伝統」=「日本の伝統」=「日本の特技」=「技術立国」(物造り日本)
B「熟練技能」+「熟練技術」=「3つの脳」の「思考訓練」=「技術立国」(物造り日本)
故に「A=B」
つまり、筆者はこの「技術の伝統」(物造り)と「心の伝統」(神明社)は表裏一体であると考えているのです。故に「守護神の神明社」本論を論じる場合はどうしても「A=B」を論じる事になるのです。
このAの表裏一体の「2つの領域」を「熟練技術」(上記した技術例)の様に高い位置に遺す事が必要と考えていて、一方の「心の伝統」を「一人の努力」として「狭い範囲」ではありますが「青木氏の範囲」で本論文の調査に入ったのです。
全くの素人であった故に、初期はその調査に入る方法が判らず、止む無く「技術屋の特技」を生かして”手法「3つの脳」の「思考訓練」”で入ったとするところです。これが序文「雑学の根拠」であります。取りも直さずこれは「雑種の優位性」(下記)の「日本人の特技」でもあるのですが。
「物造り日本」と「技術立国日本」
いずれにしても、「ルーツ解明」や「技術解明」にしても、それに必要とするどの学問一つ欠けてもこの問題解決の原因が判らないのです。原因が判らなくては「クレーム」や「ルーツ」が解決出来ずに「企業存亡」や「伝統消滅」に至り、否、これは「日本存亡、又は衰退」に関わり至る事なのだと思うのです。
ともあれ、これらの何れの学問の「雑学知識」を保持するだけでは「解明」は出来ず、それには上記する「3つの脳」の「思考訓練」の熟度が無ければな成らないと考えています。
「専門職」や「専門家」としては大変な仕事ですが、この様な事が「高い努力」に依って現在も解決されて「日本の技術」や「日本の伝統」は世界に冠たる位置にあるのです。
(「3つの脳」の「思考訓練」の熟度」)+「雑学知識」=「解明」
ここで「技術面」で観れば、「資源の無い国」でありながらも、不思議に日本の「資源の学問」域は世界的にトップ域であり、その応用域の「綜合技術」(例えば「ブレーキ関係産業」等)の置かれている立場も世界に冠たるもので、当然に上記「8つ程の学問」とその業界も侵されないトップクラスなのです。他の産業域もほぼ同じであると観ています。
つまり、「物造り日本」と「技術立国日本」は”「造る事」のみならず、その「資源の学問」も「学問立国」でもある”事なのです。
「物造り立国」+「学問立国」=「技術立国」
この数式が成り立たなければ中国、韓国の新幹線、ロケットは出来得ないのです。故に彼等は「OEM」なのです。仮に、純正であるとするならば、学問域でも「ノーベル賞」を取得出来る筈でそのレベルがどの程度かを確認する出来る事です。技術面から、部品を外から観て真似を出来るほどではそれは高いノウハウではないのです。単品のブレーキ部品でも絶対に真似の出来ないノウハウは私が知る範囲でも5つ程度もありそれを作り上げるノウハウの特殊な生産設備も無い筈で上記の例の様に一つではないのです。それらを作り上げる生産設備を含む経費は莫大で短期間で出来るものではないのです。日本から購入した方が割安で「相互依存」になり、彼等にとってはその目的は「海外に向けた宣伝」と「国威発揚」の政治的手段に他ならないのですから、「時期を重視」する必要があるのですから莫大な経費をかけてのものではないのです。
彼等の「国民性の考え方」は「国は面子」「石は薬」「法より人」の常識ですから「莫大な経費」より容易な「購入の相互依存」を選択するのが採るべき手段なのです。
「部品単位のOEM」は日本にとっては生産コスト削減には成り、実質日本製に他ならないのです。
これは先輩諸氏、否、先祖による「3つの脳」の「思考訓練」(「熟練技能」「熟練技術」)の努力による功績で他国が侵す事の出来ない領域まで到達させたのです。
しかし、これを今後コンピーターによる激しい速度の「学問の進歩」に合わせて、「造る事」が持ち堪えて行けるかは「遺伝的な日本人の特技」の「引き出し努力」にある事は明らかです。
つまり、その「引き出し努力」とは「3つの脳」の「思考訓練」」(「熟練技能」「熟練技術」)であると観ているのです。
「物造り」+「学問の進歩」=「技術立国」
つまり「物造り」は「学問の進歩」を連動させる事が絶対条件なのです。
だとすると、その「物造り」の概念を時代に合わせながら明確に把握する必要があります。
「物造り」=「熟練技能」+「熟練技術」
故に、「物造り」から「エキス」を引き出したとすると、この二つの概念から下記の数式が成り立っています。
「熟練技能」+「熟練技術」+「学問の進歩」=「技術立国」
この「物造り」には「普通の技能と技術」も当然に潜在しますが、日本が必要とする「物造り」は「普通の技能と技術」を軽視できませんが、コンピューター時代の基礎の進化で補う事が可能な領域です。(下記)
A「遺伝的な日本人の特技」=「3つの脳」の「思考訓練」=「引き出し努力」
B「熟練技能」+「熟練技術」=「物造り」=「3つの脳」の「思考訓練」
A=B
「A=B」の検証と詳細な「経緯」
そこで、ではこの数式の歴史が”何時から始まったのか、何処から導入したのか、誰が推し進めたのか”と云う疑問が先ず理解を深めるためには必然的に起こる筈です。
実は調べてみると、結論から云えば、この努力(「引き出し努力」)の始まった明確な時期は、何と「青木氏の発祥」(「大化改新」)と一致し、その「造る事」「資源学問」は皮肉にも中国(後漢)だったのです。そして、その推し進めた人物は当然に中大兄皇子だったのです。
「後漢」の「光武帝」より末帝の21代「献帝」の子供「阿智使王」と孫の「阿多倍王」が17県民200万人の「技能集団」(職能集団)を引き連れて北九州に上陸し瞬く間に日本66国中32国を無戦征圧した時から始まったのです。
それまでの奈良期初期前では「物造り」と云う影は無く、むしろ「原始的な日々の生活」を続ける漫然とした体制であり、蘇我氏等による一部の政治的思惑の範囲で国揚げての政策範囲というものは無かったのです。日本統一は当然に未だ無く「7つの民族間」の争いの中にあったのです。
しかし、その環境の中に突然、主に中国から渡来人が続々と襲来し始め、後漢の帰化人が第1期と第2期とに渡り入国するに当り、「日本の民」はその進んだ技能を後漢の渡来人に積極的に進んで学び、進んでその配下に入りした結果「無戦」と云う形で瞬く間に関西以西全土を彼等の帰化人が支配すると云う現象が起こったのです。この時、民は生活の向上と国を主導できる彼等に陶酔して行ったのです。
全ての青木氏の元祖の中大兄皇子はこの有り様を観て、国体の全体の有り様に疑問を持ったのです。
そして、その思いから蘇我氏を討ち「大化改新」を推し進めるのです。
しかし、この時、彼には別の大きな悩みがあった筈です。
その32/66国の「軍事、経済、政治」の勢力と民から慕われる彼等を観て、為政者である限りただの想いだけでは絶対に済まなかった筈です。
この時、史実から観て国内には次ぎの様な国難が起こっていたのです。
「国難」
1「蘇我一族の横暴」「天皇家を脅かすほどの脅威」と「天皇家の無力化」
2「国の漫然化」 国を豊かにし、国の安寧を計る国策の無さ 「民の疲弊」が起こる
3「民族氏間の争い」「7つの民族」が40程度の「民族氏」に拡大し「民族間抗争」が起こる。
4「朝廷内の抗争」 蘇我氏一族と反蘇我氏一族の抗争が起こる
5「後漢の民の動向」 その勢力は朝廷を凌ぎ日本の半分は支配下 「独立国の懸念」が起こる。
しかし、この5つの国難の内、大和国で無く成る「最大の懸念材料」は矢張り「後漢の渡来人の動向」であり、他4つは「国内の腐敗」によるものであり、リスクから観て彼の頭の中では、最大の問題であった筈です。
彼等の「軍事と経済の勢力」と「民」から慕われるその「支配形態」から観て、日本に「後勘の独立国」が出来てもおかしくなかった筈です。まして国内では「4つの崩壊する要素」が潜在していたのですから「独立」の方向に進むのが「自然の流」であった筈です。
そもそも「独立」とは「1から4」が在って起こるものです。
「1+2+3+4」=<「独立+5」
上の数式が成り立てば、為政者は危機感を感じ考えない方がおかしいの筈です。
中大兄皇子は蘇我氏を倒して「大化改新」を実行した決断力、胆力、頭脳明晰な天皇です。
「1+2+3+4」=<(「独立+5」)
ところが、幸いに「帰化」と云う形で納まったのはこの「日本の民」を巻き込んだ「無戦征圧」が原因しているのです。
(「独立」+5)=<「日本の民」+「無戦征圧」
故に、次ぎの数式が成り立つ事になる。
「1+2+3+4」=<「独立+5」=<「日本の民」+「無戦征圧」
とすると、右が<であるので、ここで、当然に、「阿多倍王の判断」が左右した筈です。
「阿多倍王」はこの数式が成り得た場合、”「独立」が可能か”を考えたのではないかと想うのです。と云うよりは、「独立は可能」だが「独立後の施政」に問題が出ると観たのではないかと考えられます。
「唐国」と崩壊寸前の隋国に西から圧迫を受け、遂には618年に滅亡し、軍隊と共に日本に後漢の漢民族の全てを引き連れて渡来したのです。
”「独立国を新たに造ろう。軍事、経済力、政治力の弱い大和の国なら潰せる」”と考えていた事は自然である筈です。まして、「漢国」が滅び東に移動して「朝鮮国」北部を征圧して「後漢国」を造った歴史を持っている民族です。疑える条件は何も無い筈です。
まして「阿多倍」は入国した主力の在る北九州に住まいせず南の薩摩大隈に定住したのです。
何故でしょう。恐らくは「独立国」にした場合に「大和から最も遠い所」に首魁を住まわせるのが「戦略の常道」です。そして、この薩摩は民族的に穏やかな「太平洋族」と、「ベトナム系民族」とその系列の「漢民族」の移民地なのであり、元を質せば半分は中国系民族で構成されていた安全な地域なのです。つまり、ここに定住した事は明らかに当初は「独立」を考えていた事に成ります。
(その史実は下記)
しかし、彼等は帰化したのです。「帰化」に決めても彼等集団の中に「乱れ」が起こらなかったのは「200万人を統制する絶大な力」があったことを意味します。
「中大兄皇子の考え」
そうすると、一方「中大兄皇子」は1から5の悩みの中で起すべき態度は決って来ます。
「独立」と「帰化」の中で、それは1から4を粛清する事以外に彼には「解決の道」は無い筈です。
そうなると「蘇我氏を滅ぼし政治の体制を改善する事」以外にありません。
そして、考え出した改善策とは「大化改新」策なのです。(研究室大化の改新レポート参照)
その中では、当然に考える事とは「1-5に対する施策」(「改新の詔」)と成ります。
つまり、「改新の詔」とは別にこれに関する「4つに関する付随政策」(勅)を別に実行しているのです。
それらを上記した技術屋的に解析すると、それには関連する「一つの道筋」が見えて来ます。それが、「氏融合策」なのです。
A「改新の詔」概容
1 公地公民制度
2 統一地方行政制度
3 戸籍、計帳、班田授受制度
4 統一税制制度
B「付随策」概容
「皇位継承制度の変更」
「東国国司制度」
「男女の法」
「冠位の制」
「葬祭令」
「食封」
「八色の姓制度」
「三蔵の制定」
「天皇の近衛軍の創設」
「部経済方式の創設」
(本文に関係策のみ記述)
C「政治課題の改革策」概容(上記重複)
1「大豪族と東漢族の横暴」「天皇家を脅かすほどの脅威」と「天皇家の無力化」
2「国の漫然化」 国を豊かにし、国の安寧を計る国策の無さ 「民の疲弊」が起こる
3「民族氏間の争い」「7つの民族」が40程度の「民族氏」に拡大し「民族間抗争」が起こる。
4「朝廷内の抗争」 蘇我氏一族と反蘇我氏一族の抗争が起こる
政治課題1に付いては、先ず「蘇我氏」を討ち天皇家に政権を取り戻した後に、朝廷の経済と軍事の疲弊の元凶と成っていたものを改善する為に、空かさず「皇位継承制度」の全般の変更を行います。
「主な変更点」
第4世皇族継承(第6世より)
第4位皇子まで皇位継承権(真人族 第6世より)
第6位皇子の賜姓臣下(朝臣族 新設)
第4世守護王(宿禰族 第6世族より)
第7世平族(新設)
第5世王、第5位皇子、第6世族はその中間位とする。
(後の7代後の嵯峨天皇は、女系天皇が続いた事により「皇位継承者」が激減した事で継承権を敢えて第4世族に変更する。例、天智天皇から5代後の光仁天皇は第6位皇子の施基皇子の子供 例外で継承し次ぎの子の桓武天皇に継承-平城天皇-嵯峨天皇)
それまで実施されていなかった「氏融合策」の「賜姓臣下策」を除き「第6世族」までを全ての対象としていたのです。しかし、これでは「大蔵、内蔵」の「財政」は耐えられず「朝廷の弱体化」を食止める事は出来なかったのです。そこで、先ず「皇位継承制度」を詳しく見直したのです。
これらCを背景にしてAとBを観察すると、次ぎの関連する政策が実行されています。
「改革策」
「付随策」
「変更策」
以上があります。
政策を単純にならべると”そんな物か”と見えますが、特技とする上記した「3つの脳」の「思考訓練」によりそれ等をよく分析して関連性を調べると、実は色々な「複合的な関連性」があり「政策的意味」を持っていることが見えて来ます。
先ず上記した「改新の詔」の4つを観ても、「Cの背景」が存在していれば「絵に描いた餅」に過ぎません。
「改新の先決問題」は要は全て「Cの背景」なのです。
「Cの背景」のその中でも、1に付いては先ず最初に手を着けるべきは、政治母体を完全に安全に保つ必要がありますから、彼の立場からすると先決問題として「軍事的な弱点」を改善する必要があります。
そこで先ず手を着けたのが「軍の編成」の点です。
天皇自らを護る一団の「近衛軍の創設」(イ)を実行し身内で護る事に成ります。
つまり、況やこれが天皇を護る為に身内の皇子にその任を課した「第6位皇子賜姓制度」(青木氏)」(ロ)と成りますから、これが「近衛軍」に相当する訳です
これには、更に別の目的として、分析類似点を調べると次ぎの様な「関連性」が見えて来ます。
「皇族」から「臣下」させて初めて「侍」としたとありますから、つまり、「民間」の中で「侍」として「皇族」から「独立」し、「身分家柄」を得て「氏」を形成する訳ですから、「氏の融合」策(「八色の姓」策併用した)(ハ)を率先して図る役目を得た事になります。又、それは強いては朝臣族とする「民間のトップの位置」を得ている事ですから、その立場を利用して「力」を発揮すれば「民族間の勢力の削除」をも図る事にも成ります。
そこで、これには実行するに必要な「経済的な裏づけ」が必要です。
そこで、殆ど「蘇我氏と物部氏」の主要豪族に所属して牛耳られていた「物造り」の「部」を制度化(ホ)を実行します。これを「公地公民」で「朝廷の政治組織」に組み入れたわけですから、今まで「民族氏」が占有していた「物造り」から生まれる「財力」を獲得できます。
依って、その「財力」で政治的に課せられた次ぎの役目は果たせる事に成ります。
青木氏の政治的任務
「近衛軍の発祥源」
「賜姓族の発祥源」
「侍の発祥源」
「朝臣族の発祥源」
「武家の発祥源」
「融合氏の発祥源」
「皇祖神の守護職発祥源」
これらは次ぎの施策から読み取る事が出来ます。
「近衛軍の創設」(イ)
「第6位皇子賜姓制度」(青木氏)」(ロ)
「氏の融合」策(「八色の姓」策併用)(ハ)
「民族間の勢力の削除」(ニ)
「物造り」の「部」を制度化(百八十部 ももやそべ :180)(ホ)
経済的には(3)の補足策の「物造り」の「部」を制度化(ニ)して一度朝廷に納品させた上で市場に供給する画期的な「経済方式」を始めます。
この為にはこれらを「公地公民制度」にして豪族からその「経済的背景」を削除して勢力を低下させて全て「国の管轄下」に起きます。
当然に「豪族の不満」は必然的に起こります。そこでこの「豪族の不満」を完全に封じ込める為に、俸禄を定めた「食封」(じきふ)と「冠位の制」と「八色の姓」制度(やしきのかばね)の「3つの策」を創設します。
「3つの策」
1 「食封」(じきふ)とは、俸禄を定める事でそれに見合った力にさせ必要以上の力を封じた。
つまり、「勢力の制限」を図ったのである。
2 「冠位の制」とはその者の冠位を授けて冠位以上の施政への関与を牽制した。つまり、「身分の 確定」による権力と行動範囲の限定を図った。
3 「八色の姓」制度(やしきのかばね)とは「氏の家柄」を8つに分けてその家柄に見合った職務 と権力を定めた。つまり、「家柄の統制」にて氏の勢力拡大の制限を図った。
このこれが後の「氏家制度」へと発展しその根幹と成ったのです。
以上が彼等豪族達の「立場」を「法」で縛ったのです。
要するに次ぎの施策と成ります。
「勢力の制限」
「身分の確定」
「家柄の統制」
と云う事に成ります。
「民族氏」の彼等は「法」のこれらに従わなければ朝廷側にその「大義名分」が出来ますので潰されることに成ります。これが「力の政治」ではなく「初期の律令政治への始まり」であったのです。
「天智天皇」はこの事にいち早く悟った事に成ります。
しかし、これでも彼等の「不満」は完全に抑える事は出来ません。そこで効いて来るのが、「近衛軍の創設」と、蘇我氏の「雇い軍隊」であった「阿多倍」の父の「阿智使王の護衛軍」(「職能軍の東漢氏」)を味方に引き入れて、初期の「朝廷軍の創設」を果たします。
そこで、帰化した阿多倍に薩摩の国を裂き「大隈国」を造り「半国割譲」(713年)し、更に「伊勢北部伊賀」を「半国割譲」(715年頃)して呼び寄せてここに住まわせます。
(日本書紀には「大隈の首魁阿多倍」と記されている。伊勢伊賀から出て来て天皇の前で踊りと相撲を披露すると記されている)
そして都に呼び寄せた「阿多倍」天皇自ら勲功し褒賞して「准大臣」に任じた上で、「敏達天皇」の孫の「芽淳王」の娘と血縁させます。
平安期の「桓武天皇期」(791頃)にはその子の長男に「坂上氏」を賜姓して「彼等の軍」を「朝廷軍」に組み入れ、「征夷大将軍」に任じて、「職能軍と阿多倍軍」から成る「強力な朝廷軍」を編成します。
(注)
(「蘇我氏討伐」の時、蘇我氏が雇い入れていた「東漢氏の職能軍」は中大兄皇子の呼びかけに岡から引き上げた)
(「朝廷軍」の主力は父の「阿智使王軍」と子供の「阿多倍王軍」の編成軍と成る:帰化人「後漢の軍」に相当する。)
(その後の経緯):この朝廷軍だからこそ国を統一出来た。
800年始めに一族の阿倍比羅夫と坂上田村麻呂が征夷族を以上4回に渡って攻め3回目で異民族のアテルイ一族が率いる民族を制圧します。(806)
900年代には秀郷一門が「鎮守府将軍」として鎮圧します。
1100年代には源義家が「征夷代将軍」として完全制覇します。
以北勢力は以上3回で統一する。
「民族性」の強い「民族氏」が以北に現存していてなかなか進まなかったのですが、以西は「帰化」、以北は以西の帰化人が「制覇」と云う珍しい形で「氏融合の基礎」を完遂させ、益々上記する「氏融合策」は進み日本全土は朝廷の支配下に入ります。
支配下に入ると云う事は一連の上記の政策が実行されるという事に成ったのです。とりわけ「氏数」と補足として「家紋」(象徴紋含む)の変化を観て見ると、この3つの時期を基点に「氏融合策」は3度に掛けて急激に進みます。
「近衛軍創設」と「朝廷軍の創設」
「勢力の制限」「身分の確定」「家柄の統制」の意味
「八色の姓制度」は、飛鳥-奈良期初期の「氏姓制度」から「氏の融合策」へと推し進める上で、更に発展させる上で、この改革をしたものですが、「国力」即ち、「公地公民」とした「物造りの生産力」に合わせた「氏数の制限策」をこの「3つの策」で実行したのです。
ただ「氏数」が無制限に伸びる事はそれに見合った「物造り生産力」と「部曲の農産力」が無くては争いが生まれます。そもそも「氏融合」の本来の目的からそれは逸脱する事に成ります。
それを「勢力の制限」「身分の確定」「家柄の統制」の「3つの策」で「許可制」にしたのです。
勝手に「氏」を起しても「身分」と「家柄」が与えられなければ「経済的裏付」「社会的な裏付」を得ることが出来ません。増やそうとすると結局、「朝廷の許可」を必要となります。
つまり、これは「物造り」の政策が拡大するに従って「融合氏」を増やして行くと云う戦略であるのです。この様に何度も力説していますが「物造り」と「氏融合」は連動しているのです。
「物造り生産力 5倍(氏融合は5倍)」
とすると、この「時代の生産力」又は「経済力」の発展具合が判る事に成ります。
奈良末期から平安末期までには「氏数」が「20から40に、40から80に、80から200に」
変化したのですから、それに見合う「物造りの生産力」更には「部曲の農産力」が最低限あった事に成ります。奈良末期から平安末期まで約550年間に5倍に伸びた事に成ります。
鎌倉前記まで100年で「倍増の生産拡大」を起したことに成ります。
(部曲に関する政策の検証は別にします。)
「融合氏の政策」に伴なって「物造り生産力の政策」は力を入れた為に効を奏している事がこれで明確に判ります。故にこの「2つの策」は連動していると解いています。
もしそうでなければ、「食の争奪戦」が起こる筈です。「政治権力の争奪戦」が在ったにせよ「食の争奪戦」の事件はこの間にはありません。
起こったのは無政策による「氏数の拡大」によりこの連動関係が崩れた結果、「下克上、戦国時代」の室町期の混乱であります。つまり、「物造りの生産力」「部曲の農産力」の不釣合いから起こる争奪戦の「氏数の生き残り合戦」です。
例えば、藤原秀郷流青木氏119氏は「秀郷第3子の千国」が母方藤原氏を理由に朝廷からの青木氏の許可を得たのも、又「皇族賜姓青木氏」の血縁を持つ「5家5流の青木氏血縁11氏/29」も、「嵯峨期の詔」に準ずる「皇族青木氏」等もこの許可の下にあったのです。
元より北家一門藤原秀郷一門主要361氏もこの許可の下に発祥した「融合氏」です。中でも母方血縁による秀郷流青木氏の「氏の融合」の勢いは恐らく当時としては比較にならない「最大の融合力」であったのです。
本流119氏、永嶋34、長沼52、長谷川88、進藤48の青木氏の主要血縁族222氏
そもそも、元の阿多倍集団の帰化以来「部制度」(「物造り」の制度)の「部民制」(180部)は、「民族氏」の諸国の有力豪族が管理して「経済的潤い」を得ていて、その「経済的潤い」の下で民を「伴」(とも)としてこの「部民」(品部)を率いて「民族性の強い彼等豪族」が朝廷の「職務に奉仕する仕組み」であったのですが、これを朝廷に組み込んだものです。
依って「民族氏」の彼等を「伴造」(とものみやつこ)と呼んだのです。これを更に「国造」(奈良期の国司:くにのみやつこ)が管理統括する仕組みとしたのです。
これらの政策により「民族氏」は否定される結果となり、必然的に「融合氏」へと動き始めるのです。「八色の姓制度」等の政策で「民族氏の性格」に固持すると「家柄身分」を得られなくなり氏の存続は難しくなりますので動かざるを得ないのです。
「氏融合」策を戦略的に推し進めて「民族的」な傾向から「融合的」な国体の形に進める以上は、それを絶対対条件として「経済的に裏付ける制度」にしなくてはなりません。それには「部の仕組み」を確固としたものに作り上げる必要が起こります。
(参考 農民は”「部曲」:かきべ”と呼ばれた。 部制度の民を「品部」:”しなべ”と呼ばれた 「品部」の下に助手「雑戸」:ざこ 2段階制度に成っていた)
(氏の宗家の長を「氏神」ならぬ「氏上」:”うじがみ”と呼称し、その支配下にある一族一統は「氏人」:”うじびと”と呼称していたのです。後にこの「氏人」は一族一統の下にある「品部」と「部曲」までを呼ばれる事になった。この「品部」は室町期後半には職能集団の首魁の部名を採って「氏」(180)を形成した。)
実質は「八色の姓」の制度では、仕組み上「朝臣族」「宿禰族」の第4世族が天領地の国の「守護王」として置き、「国造」(くにのみやつこ:奈良期の国司)を指揮したのです。これが初期の「氏姓制度」から「部制度」と連動させて、更に「公地公民制度」と変化させて、これを管轄する氏の根幹を「八色の姓制度」で明確にして改革し「氏融合策」の推進過程としたのです。
「氏融合の推進過程」
「氏姓制度」-「部制度」(物造り策)-「公地公民制度」-「八色の姓制度」-「氏融合策」
注目点として、「物造り策」と「氏融合策」と連動させたのです。
見逃してはならない事は、これが「経済的裏づけ」を生み「氏融合」を飛躍的に発展させたその「推進力、原動力」の猛烈な元となったのです。
これら「部」等を「国の管轄下」に置くことに依って「財政に対する全権」を握り、その上で「政治機構」を3分割にして「内蔵、大蔵、斎蔵」を明確にして「財政的根拠」と「権力の集約」をして「統括管理」を実行し易くし、終局、明確な「朝廷の財政的裏付」を図ります。
更に、この制度を「安定化」させる為に「改新の詔」の「2と3と4」と「男女の法」を定めて実行したのです。これで「民と支配層」の「不平不満」を抑えます。これを「管轄管理」する為に「東国国司制度」を定めて朝廷より官吏を送り「監視体制」を整えます。
「皇族賜姓青木氏」と「物造りの部制度」は同時に「Cの3」の解決策としての「氏融合」政策とします。この「氏融合政策」に伴い「庚午年籍」を定めて「戸籍制度」(ニの補足策)と「氏姓制度」(ハの補足策)を実行します。
飛鳥期ではそれまでは「氏」と云う概念が無く「民族氏」的な個人の「集団生活」を主体とした社会でしたが、これ等の連動した政策実行により「氏」は40程度に定まり初期の「氏家制度」が本格的に開始されて行きます。ただこの時、「氏」を無制限に拡大する事を避けた帰来があるのです。
それは「氏間の争い」を起こさない範囲限度、つまり、「監視出来る範囲」を考えていた事なのです。
この「監視出来る範囲」を配慮した「融合政策」を効果的にする為に「実務で補佐する政治システム」の「御史太夫制度」を定めます。つまり適時適切の臨時の「専任官僚」を任命した事に成ります。つまり指定する「地域」や「期間」を限って適切に「人選人事」をして監視する体制を施行したのです。「氏数」を増加するに伴ってこの固定制度では「専任官僚」を増やす事にも成り、結果として「経済的負担の増大」を招き、「腐敗と権力乱用」を起こす事を嫌ったものと考えられます。
よく考えています。
実質、次第に「朝廷の力」に応じてこの「令外官」の「専任官僚」が管理しながら40-80-200と拡大をさせますが、鎌倉期にはこの「平安時代の統制」が取れて「鎌倉期以降の乱世」にて無秩序になり最大1200となります。
結局、その結果、「融合氏」の「生存競争」が発生し「下克上、戦国時代」の様に「氏間の争い」が全国的に頻繁に起こってしまったのです。
経時的に観ると「令外官」の効果があった事が証明されるのです。
必然的に「潰しあいの争い」から過剰反応を起こし平安中期の80程度に急激に戻り収まります。
結局、「物造り生産力」に見合った程度に納まるのが必然です。
再び自然量の200程度に回復し、更に江戸初期には急激に拡大を始めたのです。この江戸初期では「氏」を形成していなかった「氏」の下で働く「下級家臣群」氏を立て事で1200程度以上にも成りますが、江戸幕府は史実からこの事(「物造りの生産力」「農政の生産力」)を把握していたと観られ、国内の藩を限定して大小「主要200氏」の下に組みました。これが「家紋200選」である訳です。後の氏は「主要200氏」の「枝葉氏と抹消氏」として呼ばれ拡大したのです。
江戸時代の「適正氏」は、即ち「物造り生産力」と「農政の生産力」は平安末期と同じ程度に絞ったことが判り、「融合の氏数200程度」であった事に成ります。(石高にて表現した)
平安期はこの「枝葉氏 抹消氏」は許可制の下「氏姓制度」政策と社会の「氏家制度」に縛られて発祥は無かったのです。つまり「実質の氏数と物造りの生産力」であるのです。
「物造り政策の生産力と農政の生産力の不均衡」
ただ、問題は「融合氏数」に比較してこれには見合う「部曲」の「農産力」が見合っていたかは多少疑問なのです。九州南北基地の阿多倍一族一門が国策に不順であったもう一つの原因は実はこの事にあるのです。「物造り政策の生産力」は「彼等の得意業」それに引き換え彼らに「追随した民」の「農政による生産力」が見合わない事に不満を抱いていたからなのです。
と云うのは、農政による奈良期平安期の税制として「租、庸、調」「雑よう」「兵役」「衛士」「仕丁」「運脚」「出挙」「正税」等多くの政策が実行されましたが、内容を観察するとかなり厳しいもので「重税、重役」の様にも観られます。
(各地で土豪や地方官吏を巻き込んだ大規模な不満爆発、叛乱が起こる。)
ここに証拠があって北九州基地の大宰府官庁から官吏が痺れを切らして「公営田制」「直営田制」と云う提案が朝廷に出されているのです。九州北部基地の収入を上げる為に独自の農業政策を提案実行したのです。これに依って「物造り」の「品部や雑戸」の生活の安定を図ったのです。
別途、機会を観て農政との関係に付いても論文を投稿したいと考えていますが、現に「日本書紀」には農民が不満を持ち騒いだ事や信濃の諏訪族の長が「開墾の功」で呼ばれて「信濃王」立会いの下で直接天皇に税軽減の具申をする異例の事件が起こる等の事が書かれています。他にもこの様な事が多くの資料記録等に遺されています。
明らかに「物造り政策の生産力」と「農政による生産力」とには若干の違いがあったことが認められ「農政の生産力」には恒久的な問題があった事は間違いありません。
この事に対して900年以降から徐々に発生し、1020年頃を境に「氏融合政策」が山場を越えた時期の特に1030年以降、朝廷の「部制度が弱体化」に呼応して各地の「融合氏」と成った豪族がその勢力に応じて独自に「品部、部曲」の「囲い込み」を行って「富」の分配が不均等になった「荘園制度」の結果で、これらの「富不均衡」が鎌倉期まで続いたのです。その証拠として、10世紀から13世紀前半まで、この禁令や整理令が13令も出ているが守られず、逆に基準や規制が緩かった為に拡大させて終った失政の制度と成ったのです。戸籍を偽る「偽籍」と云う行動が頻発し制度は限界を超え腐敗へと進んで行くのです。
この事が原因して「物造りの改革」に比較して「農業の改革」が進まず、13世紀後半から16世紀にその影響が出てしまったのです。
「物造り生産力」>「農業の生産力」この数式が融合氏の生存競争を加速させてしまったのです。
ここでは「物造り生産力」に重点を置きながらも、「物造り政策の生産力」+「農政による生産力」と観て検証しますが、この様に歴史的経緯から観て「安定化、沈静化」が起こった歴史的な実績でも判るのですが、この様なアンバランスが論理的に起こる事を充分に予測していた事を意味します。
天智天皇を始めとして大化期の為政者は、これでも心配であったと考えられ、これらの「補足策」を含む「政策実行」を守らせるための「規則」を定め「令」と云うよりは先ずは「氏の行動規範」とする「近江令」を制定します。
更にこの行動規範の「近江令」を補完する為に「青木氏の始祖施基皇子」が「善事選集」司を担当し、それを元に最終の編成令として「飛鳥浄御原令」を施工する事になります。
この様に念に念を入れた「氏融合策」を実行した事に成ります。
参考 皇族賜姓青木氏は「古代和紙の物造り」
皇族賜姓青木氏5家5流の国は、何れも穀倉地帯でありますが、「5大古代和紙の主要名産地」でもありこれを商いとして扱っていた。
(何れもほぼ1300年程度の歴史を持っている。重要文化財に指定されている。)
5家5流の青木氏は「2足の草鞋策」として「古代和紙」(下記)でも経済的に繋がっていた事が証明出来るのです。
これは取りも直さず、5家5流の青木氏の土地全てにこの古代和紙の「物造り」が共通してある事は偶然ではないと観られます。国の安寧は「物造り」にある事を物語るもので、5代の天皇はそれぞれの賜姓する第6位皇子に対して、”「物造り」の国策を指示し「氏融合」の役目を目指して「自立」する事を促した”と観るのが妥当ではないかと考えます。
伊勢青木氏は「伊賀古代和紙」
伊勢国北部伊賀地方で生産される最も古い和紙で阿多倍一族に依ってその技法がもたらされた。
青木氏は大化期の政策によりその立場から最初にこれを扱う。
各地伝導は710年前頃から810年前頃の100年間と観られる
恐らく、生産の各種の歴史資料(検証年代)から観て、賜姓青木氏の関係から「氏融合策」と連動して「物造り策」として他4国に伝えられたと考えられる。
信濃青木氏は「信濃古代和紙」
信濃川流域で生産された「古代和紙」で伊勢青木氏との関係からの技法で生産されていた「伊賀和紙」に継ぐ古い歴史を持っている。
近江青木氏は「近江古代和紙」
現在の滋賀県大津市桐生で生産されていた古代和紙で「 雁皮紙・鳥の子紙」と呼ばれていた。
「土師焼き(信楽焼き)」 でも後漢の技能集団の「土師部」(しがらきべ)の民が持ち込んだものが広まり近江商人青木氏が扱った「物造り」。
美濃は「美濃古代和紙」、
現在の岐阜県美濃市蕨生地域で生産された古代和紙である。
甲斐青木氏は「甲斐古代和紙」
富士川下流、河内領(現在 の西八代郡と南巨摩郡一帯)で生産されいた古代和紙。市川和紙、西島和紙の名称で和紙生産
以上の様に「農政の補足策」として古代より職能集団が伝えた「物造り」を「2足の草鞋策」の商いとして「地産の物」を扱い推進していた事が青木氏の記録で判ります。
他に「墨、硯石」等「紙」にまつわる「物造り」(生産販売)にも大きく関わっていた事が口伝や先祖の遺品、骨董品でも判ります。
中には「火薬造り」もあり、玉城町の8割を占める面積の一部の屋敷蔵に保管されいてこれが明治35年に爆発したとする記録が有り、又、紀州墨や紀州硯石などの関連品も扱っていた模様です。長い間中国との貿易をしていた形跡があり、松阪とは別に堺港には2つの大店を構え、3隻の大船を持っていたと記録があり、大きく「物造り」を推進させそれを裁く商いも両立させていた事になります。
この様に明らかに青木氏が「和紙」と云う伝統とする「物造り」で結び付いていた事は、これは取りも直さず、上記する朝廷の「融合に関する政策」が効果を発揮した事に成ります。そもそも朝廷の政策的な裏づけがあったとして発祥してもそれは充分ではなく「自立」する気構えがその氏に無くしては存続は現実は不可能です。
「3つの発祥源」のその「先駆者としての青木氏」が「経済的な困難」を乗り越え「自立力」で生きて行き崩れる事の無い姿勢を国民に示し促した事で、更に勢いが着き「融合政策」は推進していったのです。
全青木氏初代始祖施基皇子伝来の天智天皇授受の司馬氏「鞍造部止利」作「生仏像様」と共にこの紙でも強く結び付いていた事を示す大きな史実資料なのです。
この様に「物造り」と「氏融合」は連動している史実があるのですが、「青木氏の家訓10訓」の中でも「家訓8」は正にこの経験事が代々に強く在った事を示していて家訓の形に遺したと考えられます。世襲名「紙屋長兵衛」(青木長兵衛 代々南画水墨画を本職に近い形で会得しそれらの遺品が残されている。歴代の有名無名の画家の墨絵が保存されている)を示すものです。
筆者は、「物造り」は1120年代に「2足の草鞋」策としてが成されてたのですが、発祥時期頃から守護王として「自立」を認識していて積極的な支援を「物造り」の「紙部」にしていたと考えているのです。「紙」を元とする故に5家5流の賜姓守護王の「長」の資質として、「家訓8」の「長」としての認識に「物造りの戒め」を強く置いたのだと考えています。
続く
次ぎは「国難2」に付いてです。
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伊勢青木氏 家訓8
伊勢青木家 家訓8
投稿者:福管理人
伊勢青木氏の家訓10訓
以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。
家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓1は「夫婦の戒め」
家訓2は「親子の戒め」
家訓3は「行動の戒め」
家訓4は「性(さが)の戒め」
家訓5は「対人の戒め」
家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)
家訓7は「品格の戒め」である。
この家訓8の先祖の説いているところは”人生 「生きるべき力」は「創造」にある”と説いている。
家訓7までの内容の戒めと少し違う。
家訓7までの戒めは「人」又はその「長」としてのより高い人間的な習得、悟るべき戒め」を説いている。
しかし、この家訓8は「人」又はその「長」としての「示さなくては成らない戒め」を解いている。
どう云う事か。当然に自らも絶対条件として保持しなくてはならない条件でもあり、且つ、「長」として人を引き付ける「強いもの」を持ち得ていなくては成らないとしている。
その「強いもの」とは「創造力」であって、その「創造」は具体的には”「技の術 技の能」とを分けて会得せよ”とあり、闇雲に「創造」を追い求めても会得できないし、「長」として人を引き付ける事は出来ないと解いているのである。
此処は”敢えて”解いている”と添書には記述されている。
つまり、”説く”のではなく”解く”であり、即ち”強く分けて考えよ”という事を伝えたいのであろう。
「強く分けて考える事」に付いて”それは何故必要なのか”疑問(1)が湧く。
そして、その「創造」の基となる「技」に付いても”「技の術」と「技の能」とはどう違うのか”の疑問(2)も当然に湧く。疑問の多く湧く家訓8である。
何も「創造」だから「技」に拘らなくても良いであろうが、特にその主な例を以って判りやすく解いているのであろう事が判る。
そこで、「技」としているのは、この「2つの疑問」(1)(2)を「解く事」と「悟る事」の行動が大事で、書籍による習得ではなく、”自らの「努力」と「思考」により得よ”(A)としているのであろう。
”「自らの努力又は思考」に依って得られた時、「長としての務め」は果たせるし、その「創造」の効果は生まれる”(B)と伝えている。
更に、即ち、”この「創造」は家訓10訓を会得する「糧」又は「力」に成るのだ”(C)と添書は強調しているのである。
さて、「2つの疑問」(1)(2)と「3つの添書」(A)(B)(C)に付いてこれから単独ではなく誤解をより少なくするために複合的に都度論じる事とする。
最初の”それは何故必要なのか”の疑問(1)の解明の前に、”「技の術」と「技の能」”とはどう違うのか”の疑問(2)を先に論じて解明する方が解けると考える。
そうする事で最初の疑問(1)は間違いなく理解できるし論理的な答えとして導かれるだろう。
そもそも、”自らの努力と思考により得よ”(A)と論理的に会得する事を求めているのであるから、この解明の過程が正しいと思える。
既にこの世に「技術」と「技能」と云う言葉がある。
この「二つの言葉」があると云う事は、この二つの言葉の「意味」や「目的」が違う事を意味している。
しかし、世間では言葉の範囲では厳密には使い分けをしているとは思えなく、ここは「技術」だなと思うところを「技能」と発言して使っていることが多い。当然に逆の事もある。
つまり、この現象は世間の人、全ての人は「長」としての立場で使い分けをしている事は無いだろう事を示している。
だから、裏を迎えせば、”導く立場の「長」としてはこれでは駄目なのだ”と云っている事になる。
当然、この「技」は添書では主例であるのだから、万事、特に「創造」とする事に関して”斯くあるべきだ”といっている事に成る。
そこで、結論から先に云うと次ぎの様に成るだろう。
”「技術」は「知識」を主体視してそれに「経験」を附帯させて構成されているものだ”と云う結論に成る。
”「技能」は「経験」を主体視してそれに「知識」を附帯させて構成されているものだ”と云う結論に成る。
つまり、「知識」と「経験」の主体が違うと云う事に成る。
当然にその比率は千差万別と成るだろう。場合に依っては殆ど差が無く変わらないものもあり得るだろうし、逆の場合もあり得るだろう。
例えば、科学の場合には「知識」に依って論理的に編み出された「技」もあり、この場合は「知識」から観れば「経験」の度合いが小さいと云う傾向もある。
芸術や工芸の様な観念的なことが働く場合には「経験」から観れば「知識」の度合いが小さいと言う事もあり得る。知識で創作された芸術は”論理性が高く面白くない”と誰しも評価するだろう。
ただ下記に論ずる”「経験」から「知識」へと進む「進化の過程」”を考えると、片方がゼロと云う事は論理的にないし、この比率の差は大した意味を持たない。
この様に分けて考えると、この世の「進化の過程」もあり「知識」と「経験」の定義としては類似する事に成る。だから一般的には面倒だから世間の通常は分けて使い分けしないのであろう。
しかし、だからこの家訓8は”「長」としてはそれでは駄目だ”としているのである。
判りやすく云うと”雑では駄目だ”と云う事だろう。
そこで、これを判りやすくする為に論理的に解析すると、最近の脳科学的に観た場合、次ぎの様に成るのではないか。
「知識」とは学問など書籍に依って「判読力」を主体として得られた脳の「集積結果」である。
「経験」は実労等に依り「体験力」を主体として得られた脳の「集積結果」である。
と考えられる。
「術」=「知識」=「判読力」
「能」=「経験」=「体験力」
当然に、この「集積結果」は左脳の集積場所は異なる筈である。つまり、カテゴリーが異なるのであるから、コンピータ的に観れば収納場所は「トラック」や「セクター」や「カテゴリー」の位置は異なる事になる。
脳も同じ仕組みで成り立っているのだから、つまり、これ即ち、「術」と「能」は「違う」と云うことを意味している。
しかし、厳密に云えば、「知識の学問書籍」も基を正せば始めからあったものではなく「人の進化」の過程の「体験」に依って得られもので、それを類似分析して「学問化」し「体系化」したものが「知識」と成る。
これは大事な思考基準である。
つまり、「能」の「体験力」から「術」の「判読力」へと進化したものと成る。
「進化の過程」=「経験」-「学問化」・「体系化」-「知識」
「体験力」-「進化」-「判読力」
この左から右に向かってルートを通って進む。
従って、現在に於いても未だ体系化されずに、「能」の「体験力」の段階のものもあるだろう。
「体験力」と「判読力」とには「進化」が介在する事に成る。
逆に、最近の科学域では高度な「知識」の「術」から更に進化して高度な「経験」の「新能」が生まれると言う事も起こっている。コンピーター関連やソーラー関連や最先端医療のIPS医療等はその典型であろう。むしろ、これからの形体はこのパターンで論じられる事が主体と成ろう。
しかし、あまり前に進めずとりあえず先ずは、上記の「原型のパターン」を論じて理解しておく必要がある。
「知識」の「術」-「経験」の「新能」=未来の進化。
”「術」と「能」”には同じ事象の中の事でも「能」と「術」とには「経時的変化」を伴なう。
つまり、「能」から「術」へと進むと云う事に成るので、「術」は進化した事になる。故に進化したのであるから、そこでその初期の「能」の段階に留まってはならない事を意味するのである。
つまり、”「長」はこの進化の「術」の把握に努めなくてはならない”と諭している事に先ず成る。
平たく云えば、”「長」は常に確立した「新しきもの」を求めよ。”と云える。
さて、これは難しい。何故ならば今は科学は進みその「術」は何処かで進化して確立し書籍などに表されているが、古ではその様な環境に余りなかった。
とすると、自らが「能」の段階のものを「術」の段階まで進めなくては成らない努力が伴なう。
恐らくは、”「長」はこの努力をせよ。「能」を体系化せよ”と求めている事に成る。
だから、故に家訓8は作り出す事を求め所謂「創造」としているのである。
そこで「技能」には「経験」に依ってその「技」を極めた「匠」がある。
更に推し進めて「能」の「匠」を考えるとすると、”「能」の段階の「匠」では「長」は務まらない”とし、むしろ”「匠」であっては「長」としての指揮に間違いを生じさせる”としているのではないか。
何故ならば、「経験」の「技能」を極めた「匠」は、兎角、その事に「拘り」や「偏り」を持つ傾向が起こる。止むを得ない人間の仕儀でもあるがそうでなくては「匠」には成り得ないであろう。
むしろ、「拘り」の極めが「匠」であろう。
数式で表すとすると次ぎの様になる。
「経験の最大」=「拘りの極め」=「匠」
そうすると、ここで矛盾が生じる。
”経験をして「能」を極めて進化させて「知識」の「術」を会得せよ”とすると、経験には「拘り」と「偏り」が生まれるのであるから、「知識」の「術」は成し得ない事に成る。
何故ならば、「知識」とは「能」の「拘り」と「偏り」の個人性を排除したものが「術」であろうから、そこで初めて他者が一般的に利用し知識として「学問」と成り得るのであって、「匠」の「能」はそのままでは論理的には「知識」の「術」へは不可能である事に成る。
「匠」の能は個人的なものに支配される。個人的なものに支配されるからこそ又、「匠」の値打ちが
出るものであろう。
「経験」-「拘り」=「知識」
「拘り」「偏り」の排除=「体系化」作業
という事に成る。
ただ、それを解決する方法がある。(A)
それは、この家訓8では”「経験」の「能」を「匠」として極め、先ず会得せよ”とは書いていない。とすれば、何故ならば、それは”他の者をしてそれを極めさせれば良い”事に成る。
これだけでは「会得」と云う事から観て意味が無いだろう。
「長」の「習得、会得の率と理解度」が必然的に低下する事になるからだ。これでは「長」の求められるものでは無い事に成る。
しかし、その前提があろう。物事には「完全の習得」は有り得ない。
そうすると「匠」まで極めずとも良い事に成り、それを理解するに足り得る「経験」を会得する事でも、「知識」の「術」の「体系化」は充分に成し得る事が出来る。それが前提である。
つまり、他の者をして「匠」としてそれから「聞き出す事」の手段にて成し得る。
それが”「長」はこの「聞き出す努力」をせよ。そして「能」を自ら「体系化」せよ。”としていると理解する。
「聞き出す事」=「体系化」作業の始まり行動
という事に成る。
上式と連立すると、次のように成る。
「聞き出す事」=「拘り」「偏り」の排除=「個人性の排除」=「体系化」の作業
そして、行き着く処は「知識」となる。
それには先ずは、”ある程度の「経験」の「能」を会得し、「拘り」を排除して「知識」の「術」に進化させて、その「知識」の[術]で以って正しく指揮せよ。”と云っている事に成る。
つまり、”その「経験」から「知識」への「過程を創造する」”と定義している事になる。
これは何も「能」、「術」だけの問題ではないだろう。
「創造する」とは「考え、そして新しき何物かを生み出す」と定義すると次ぎの様に成る。
”「経験」から得たものを「体系化」して「新しき何物」かを生み出せ”
と成るので、この上記の解釈は正しい事になるだろう。
{「経験」-「体系化」-「知識」}=「過程を創造する」
「過程を創造する」の「行動の努力」は、再び、「経験」-「体系化」-「知識」のサイクルのプロセスを生み出す事は容易に理解出来る。より進化して。
この「進化」とはこれを定義とし「体系化」を「媒体」としている事に成る。
このサイクルが限りなく続く事を論理的に説明出来る。
但し、媒体と成る「体系化」を無くしてはこのサイクルは起こらない事も。
そうなると、そこで「創造」とは果たして俗に云う”夢を持て”と云う事に成るのか。(B)
どうも違うのではないか。そもそも俗に云う「夢」とは「就寝中の夢」の如く暗中模索、否具体性のものであろう。その「夢」をかなえる為に「暗中模索」では「夢」は叶えられるものではない。
それほど世の中は甘くは無い。人は兎角「夢」とは「暗中模索」のものを云っている傾向がある。
世間では”夢を持て”と若い者に吹聴しているが、あれには少し違いがあろう。
「暗中模索の夢」は無防備にそれに進むために「夢を叶えられる力」の醸成もせずに「無駄な挫折」をし「不必要に世の中を恨み」「捻くれて拗ねる姿勢」の弊害を生み、若い者に良い結果を生まないのが現状であろう。果たして「幾多の挫折」に充分に耐えられる者がどれだけいるだろうか。
これは、上記した「匠」に相当する”「拘り」「偏り」”と成るだろう。
「夢」を叶えられ者は「匠」と成り得る確率と同じであろう。誰しもが「匠」、「夢」を成し得る事は出来ない。一握りである。さすれば、「夢」に向かって挫折した時、その挫折が向後の人生に良い方向に働けば何の問題もないが、多くは「暗中模索、否具体性」で走る。依って、思考に「不必要に世の中を恨み」「捻くれて拗ねる姿勢」の弊害を持つだろう。これは多くの者に起こる。
この「夢」は取りも直さず「経験」の域にある。
{「経験」-「体系化」-「知識」}=「過程を創造する」のつまり以上のプロセスの「体系化」が成されていない。依って「長」とも行かずとも「夢の実現」は「過程を創造する」の域に達していないだろう。途中である。
従って「創造」とは「夢」であるとは成らない。
大事な事は「暗中模索の夢」を叶える為にその過程のそれに向かった「努力の積み重ね」が必要であり、「ただの努力」では成し得ない筈である。
何故ならば、この世は「人の社会」である。その「人の社会」が皆が同じ程度の努力で「夢」が叶えられるのであればそれは楽なもので「夢」では無い。叶え難いからこそ「夢」と表現しているのだ。
「人の社会」であるからこそ「夢」を成そうとすると「人を押しのける」事の行為は必然的に生まれる事に成る。
「人を押しのける」という事は「人以上に力」を持たなければ成し得ないし、かなりの「忍耐」「苦悩」が伴なう。
その「人の社会」が日本の様な高度な社会であればこそ、更に「それ以上の力」を保持しなくては成らない。
当然に、その「夢の分野」が高度で汎用な分野であればこそ、尚更の事「人を押しのける」「人以上の力を持つ」の条件は更に厳しさを持つ事に成る。
そう成ると、この「人を押しのける」の力は{「経験」-「体系化」-「知識」}の「体系化」の努力に等しい事に成る。
数式では次ぎの様になるだろう。
「人を押しのける力」=「体系化」の努力=「知識」
中には、”その挫折が大事だ”と如何にも正論の如く簡単に云う人が多い。
確かに「挫折」は人の成長に欠かす事が出来ない。
然し、どんな「挫折」でも良いと云う事では無い筈である。
”不必要な挫折などしない方が良い。”と考えている。この家訓から学んだ事として。
4つの「み」を強く興す「挫折」は避けるべきである。
強い「ねたみ」「そねみ」「うらみ」「つらみ」が起こる「挫折」は「人を歪ませる」と仏教では説いている通り、
この仏説には「人間形成に於いて不必要」と観て賛成できる。
確かに「挫折」するよりは「体系化」する事の方人間形成に効果的であろう。
つまり、「不必要な挫折」をするよりはこの事は言い換えれば次のように成る。
”日頃の経験を通して「体系化」する努力、又は「体系化の苦労」をせよ。”
”経験から得たものを「拘り」「偏り」を見抜き取り除くその努力を先ずせよ。”
そこで、”「人以上の力」「人を押しのける」に耐え「正常な精神と思考」を持ち得ている人物がどれほど居るだろうか。「不必要な挫折」は必ず「精神と思考」を歪ませる。
それを正常に成し得る者が果たしてどれだけいるだろうか。”先ず居ない”と云える。
仮に「人以上の力」を確保出来たとして、無情にして非情にも「人を押しのける」と云う行為に絶え得るだろうか。「人を押しのける」が一度であれば未だしも常態の日々に続くのである。
故に、無責任極まりないこの言葉を私は、”「夢]を持て”とは決して云わない。
それを云える人物が果たして、この2つの条件(人以上の力 人を押しのける)を以って発言しているのだろうか。おこがましい限りである。
云うとすれば、くどいがこの家訓8の真意を得て次ぎの様に云っている。
”日頃の経験を通して「体系化」する努力、又は「体系化の苦労」をせよ。”
”経験から得たものを「拘り」「偏り」を見抜き取り除くその努力を先ずせよ。”
”不必要な挫折はするな。その暇があるのなら「自らの努力」で「知識」を得よ。 自らの努力で”
では、どうすれば良いのかと云う事に成る。そのキーワードが必要だ。
それが、この家訓8の事で云えば次に示す処であろう。
「夢」に向かって進む限りに於いて大なり小なり「経験」が伴なう。「能」を確保する事になろう。
”それを進化させて「術」として「知識」と成せ”と云う事に成る。
”「夢」を叶えるとするならば、「能」「経験」だけでは駄目なのだ。”と云う事に成る。
では、更に考えて、”その「進化させる」はどの様にすれば良いのか。”の疑問が起こる。
それは”「体系化せよ」”又は”自分なりの「学問化せよ」”と云う事に成る。
判りやすく云えば、”「経験」(能)をまとめよ。” それが”「長い多様な経験」の間に体系化した「多様な知識」と成り得るのである。”と解ける。
つまり、”「長い多様な経験」により「多様な知識」が「人としての力量」或いは「人としての格」を成し得るのである”と解ける。
”それで良いのだ””何も「夢」を叶え持つ事だけが目的では無い。”
だから、「無駄な挫折」をして思考に歪みを持つ事よりも、”足元の「経験」(能)をまとめよ”その努力が”「長い多様な経験」の間に体系化した「多様な知識」と成り得るのである。”と成るのである。(B)
”この家訓8の「長」はこのことを忘れて怠っては成らない”としている。
”それを会得した者が「人を導ける力」を持ち得るのである。”としている。
つまり、”「人としての力量」或いは「人としての格」は「長」としての人を導く「人格」が得られる”と云う事に成る。
この「人格」が「品格」に、そして、それの積み重ねの結果、雰囲気に滲み出て「風格」と成るのではないだろうか。
「長い多様な経験」=「体系化した多様な知識」=「人格」=「品格」=「風格」
そして、”この「風格」が生まれた時「長」と成り得る。”と理解できる。
家訓10訓、とりわけ家訓8の「風格」を得た時、その「長」の下には「家風」が生まれるだろう。
この「家風」が「伝統」と成り得るのである。
「家風」=「伝統」
”「家風」即ち「伝統」が醸成されると、「一族、配下」は自らその「家風」「伝統」を理解して、「長」が充分に指揮せずしても「的確な行動」を起す”と解いているのである。
昔から、”今成金”という言葉がある。
下記に例として記述する「信長、秀吉」の例は家訓8による「大意」この事に欠けていた事により滅びたと解析できる。
当然に、「多様な経験」を体系化した「多様な知識」は事に当って人を納得させ、諸々の事象に当って適切な指揮する能力を保持する事に成る。
その結果、尽くに「正しい指揮」が積み重なり、その「指揮する品質レベル」に信頼度を増し、人は従い、その結果として”「長」としての「行動の品質」の「格」が醸成される”と定義されるだろう。つまり、”「品格」は「配下の信頼度」が「長」をその様に仕立てる。”と云う事になる。
これは”自らが作り出せるものではない”と云える。
判りやすく数式で表現すると下記の様になるのではないか。(A、B、C)
「品格」=「配下の信頼度」*N=「正しい指揮」*N=「指揮する品質レベル」*N
「品格」=「人格」*N
「品格」*N=「風格」
(「人格」*N)*N=「風格」
(N=経験量+知識量)
しかし、然りながら、ここで「多く無駄な挫折」をした者が、この家訓8を成し得た時に、”何故悪いのか”の反論があろう。悪いのである。
「多く無駄な挫折」「人を押しのける」事の結果で「思考精神」に歪みの持たない者は先ず居ないだろう。つまり、その者の「自らの経験」と「力量」と「人を押しのける力」から独善的に、或いは独裁的になり「人」を導く「長」には問題を含むからである。
”一時的には「長」に成り得ても必ず破綻する。”と云う事になるからだ。
例えば、「信長、秀吉、家康」の例えが適切に物語る。
信長はこの過激的で独善的な典型的人物であろう。その人生過程に於いて余りの典型であったからこそ、歴史は事半ばで終る。
秀吉は下積みから這い出ての「技能量」或いは「経験量」は豊かであったが、体系化した多様な知識を持ち得ていなかった。「千利休に対する対応」や「金の茶室」がそれを物語る。
故に標準的な典型的人物であろう。歴史は一代で成し得たが一代で終わると成り、人生の目的、万物の目的とする後世に子孫を遺し得なかった。
家康であるが、この家訓8に適合する人物である。
三河の地侍に生まれ、今川氏の人質、織田氏から屈辱的な待遇、武田氏との敗戦、秀吉との駆け引き、摂津商人との付き合い、関が原の戦いに負けて勝った結果等を検証すると「多くの挫折」と「人を押しのける」等の「経験」は申し分なく豊かでありながらも、そこから学習して「知識」を獲得し「長」としての家訓8で云う資質を「捻くれる」事無く会得している事が検証できる。
「捻くれる」はこの家訓8で云うそれは”「体系化せよ」”又は”自分なりの「学問化せよ」”の努力の結果がそれを抑えたと考えられる。
徳川氏の歴史資料からも、”「多く無駄な挫折」を避け「人を押しのける」事の結果を極力少なくし、「長い多様な経験」の間に体系化した「多様な知識」を学習し成した。その為に出来る限り「思考精神」に歪みの持たない様に心がけた。
「家訓8」で言う「長」としての数式条件は次ぎの様に成るだろう。
即ち、「長い多様な経験」=「体系化した多様な知識」=「人格」=「品格」=「風格」 を備えた。”と理解し検証できる。
故に、250年以上の存続の条件が醸成されたのである。
それは”「体系化せよ」”又は”自分なりの「学問化せよ」”は何も言葉そのものではなく、「捻くれる」事をも抑える事が出来るのであろう事が読み取れる。
誰しもが普通は陥る経験からの「捻くれ思考」はどうすれば良いのかの疑問は次の事として云える。
「捻くれ思考」は予断なく「長」として最も排除しなければならない事は明白であろう。
"「捻くれ思考」は「体系化」「学問化」の努力でこれを打ち消せ"と成る。
恐らく、当然の事として添書に書かれていないが別の真意はここにもあるのだろう。
つまり、通常はその者の「自らの経験」と「力量」と「人を押しのける力」から独善的に或いは独裁的になり「人」を導く「長」には問題を含むからである。
”信長、秀吉はむしろ常人であって人としての陥るところに落ち至った。しかし、家康の人物は稀有であるが斯くあるべきだ”と云っている事になる。
”「長」は「常人」でありながら「常人」であっては成らない”ことを諭している事に成る。
青木氏の家訓10訓は室町以前の試練から生まれたものであるが、それ以後も子孫に合意されていたからこそ現在までに遺されているのであって、それ以前にこの「3人の生き様」を言い当てていた事になる。
この家訓8が遺された時期は一族一門がこの世に生き残れる確率は極めて低く、危険率は現在の数十倍のものであったことである。それは毎日の茶飯事思考であった筈である。
しかし、青木氏は1367年も続けて直系子孫を遺し得たのは代々先祖がこの家訓類の戒めを護り続けて来た事に他ならない。少なくとも明治35年までは「長」として。
そして「家訓」として「伝統の集約」として維持されている。
現在では科学の著しい進化で社会がより敏感に成りハイトーンと化しているが、この別の意味で厳しさはむしろより遺されているだろう。さらに子孫の時代にはこの状況はもっと続くであろう。
「経験」から「知識」に進化して来た時代から、あまり「経験」の「技能」の伴なわない「知識」から更に「新しい技術」が生まれる時代に、人間形成に於いて代らないだろうが、この「新しい厳しさ」に立ち向かうにはこの家訓8は古い様で居て現在、否未来にも何らかの形に変えて生きている筈だろう。
故に、筆者はこの家訓8の考え方を重視していて、自分の思考判断基準の重要な一つにしている。
とりわけ「人を観る」とする時、或いは「長」とされる「人物評価をする時」に反射的にこの家訓で観ているが、外れた事はない。誰しもが何らかの判断基準を持ち得ているものであろうが。
多くの歴史偉人伝を読み漁ったがこの家訓8は有効に利用されより面白く雑学を得た。
この世は当然に「人の絡み」の世であるが故に必然的に「人を押しのける」は起こる。
別の効果としてもこの世の必然的な行為の"「人を押しのける」"前にこの家訓8の「人を観る」事の「思考経験」とその「体系化」による「知識」で不必要な摩擦を避けて来た。
古い様であるが、突き詰めると現在の言葉が無いので古来の言葉にすれば、「人生の生き様」の体系化は「六稲三略」に通ずる様だ。「戦略戦術」は正しくこの「体系化」であろう気がする。
添書にはないが、"人との不必要な摩擦が避けられる"も極意なのであろう事を思い知り、頭書に記述した、”自らの「努力」と「思考」により得よ”(A)に感嘆した。
これも「経験」からの「体系化」-「知識化」を成し得た事に成るからだ。
もう一つ会得した事がある。
それは、「体系化」-「知識化」を成さず豊富な経験だけで終わる場合、その人物には「個性的性格」、「個性的思考」が残る事が確実に起こる事である。
恐らくは、信長や秀吉は多少なりとも「体系化」-「知識化」があったにせよ多くはこの「経験」のみによるところで留まっていて、そのレベルにより独特な「個性化」が起こったと観られる。
ただ、信長はこの事をある程度知り得ていて外国の新しき文化知識で補おうとしたと観られるし、その側近には同じ行動をする秀吉を登用したことで頷ける。
明智光秀は主に「経験」から「体系化」-「知識化」を成した人物ではなく「書物」から「知識化」成した事により信長との余りの差が起こり、信長は自らを補おうとした余り「接点の無い間違いの登用」をしてしまった事になるだろう。
「経験」を「体系化」成せる者で充分であった筈で、この判断ミスをした事に成る。
ただ、此処で云える事は、光秀タイプが悪いのではない。”学者馬鹿”という言葉があるが、これは「偏り」に依って起こる”「適合性の低い思考」が起こる”からで、その思考化の視野が狭くなる事から起こる現象である。しかし、これを超えるとむしろ大変な「経験」を生み出すのである。
例えば、三国志の劉備と軍師の諸葛孔明である。
諸葛孔明は最たる「知識」と「知恵」の持ち主である。諸葛孔明の策に対して、”敵は過去の彼の「策の経験」から恐れて逃げる”と云う所まで達していた。これは明らかに「知識」から「経験」を生み出し、その「策の知識」から敵は「体系化」して自ら「経験」を作り出した効果に他ならない。「逆のプロセス」である。
明智光秀はこの域に達していなかった事に成るだろう。世に云う「今だ我木鶏にあらず」であろう。
「知識」からの「逆体系化」で「経験」は「木鶏」に達し得る可能性がある事を意味する。
歴史偉人伝にはこの「逆体系化」は少ない為にかなり難しい事が云える。
しかし、家訓8の添書には一句も触れていないがあり得る事である。
秀吉は「金の茶室」で全てを物語るもので「体系化」-「知識化」は自ら嫌っていた事が覗える。だから、補う為に石田三成を重く登用したと観られる。しかし、この石田三成も明智光秀型であった。
ただ、秀吉はこの体系化の見本と見なされる人物を採用している処は優れている。
その人物は一介の下級浪人の薬売りで溢れる知恵の持ち主であった。そして、その知恵を屈指して各地の土豪の争いに雇われて「戦い」を「経験」し、そこから自らその「戦い方の体系化」を成し、知識として保持し続けた。その結果、「天下一の軍師」として賞賛され認められた秀吉の「軍師 黒田勘兵衛」と成り得たし、明治期まで続いた黒田藩主の「長」にも成った。
だから家康は石田三成や明智光秀を「知識側の偏り」に対する者として(「経験」-「体系化」-「知識」の者でないとして)ある面で軽視していた事が伺えるが、黒田勘兵衛は認めていた。
当然、家康は本人が「長」としての「経験」-「体系化」-「知識」を偏り無く成し、性格的にも合致していた事から全て側近はこの型の者を配置したし、「経験」型のものは実践部門に配置した事が読み取れる。
信長は「経験」型の偏りから、「実戦型」と成ろう。
秀吉は「経験」型の標準から、「実戦型」+「術策型」と成ろう。
家康は結果視として「経験」-「体系化」-「知識」から「権謀術策型」と成ろう。
この家訓8は言い換えれば別の意味で、"「長」としては「個性型」を避けよ"と云っている事になる。("「経験」-「体系化」-「知識」"とはっきりと明言している。)
避けなくてはならない理由は、当然、家訓からすると後の人物であるが、"信長-秀吉であるな"と云っているのであるが、この事について他の家訓3で明確でも云えている。
つまり、「個性的」である事は結果として「人」「時」「場所」の三相に左右されるからだ。
その「経験」を「体系化」せずにすると「偏りの個性化」が起こる。その個性は「ある人A」に対してよい効果を生み出すが「ある人B」に対しては逆効果と成ることが起こるからだ。信長-秀吉の例に成る。「時」「場所」も"推して知るべし"である。
"未来永劫に子孫の繁栄を願う場合には、これをリードするに「長」としては好ましくない"
これは個人の単位での事として良いのであればそれも良いであろう。しかし、この訓では個人ではない。あくまでも「長」なのである。
然しながら、筆者は大なり小なり"「長」に限らず斯くあるべきだ"と考えている。
現在の様な「個人」を基盤として尊重し、その連携の先に集団結束を目途とする「個人主義」の時代にあれば「個性的」を賛美され「良し」としているが、日本人にはこの思考原理は「違う」と考えている。
これが仏教で言う"「刹那主義」に偏りすぎる。"と云う点である。
家訓8の「裏意」として、「経験」-「体系化」-「知識」の線上に於いて、この「刹那主義」を排除せよ"としている事が云える。
その根拠は"人は男女一対で成り立っている。"と云う事である。
その「男女一対」は更に「家族」を構成する。そしてその「家族」は「親族」を構成する。「親族」は「一族一門」を構成する。この原理はすべて「男女一対」の「理」が成立しその中にある。
決して、「単数」「個人」の「理」ではこの構成は論理的に成り立たない。
「単数」「個」だけでは子孫は生まれず決して拡大しない。「人」のみに限らずこの世の「万物」は「相対の原理」と「一対の原理」に依って成立する。
この家訓ができた時期には、この「個」の上に無く長い歴史の中で日本の歴史と文化と思想は上記の根拠(「男女一対」-「家族」-「親族」-「一族一門」=伝統)が醸成されて来た。そしてそれが国民の遺伝子的な思考基準と成っている。所謂、現代用語で「チーム」、古代用語で「族」で事を成そうとする癖がある。つまり、「複数の原理」の社会である。
ところが、この「複数」の社会の中に、突然に「単数」「個人」「個性的」を最高視し標榜する国の思想が流入した。この標榜する国の考えが悪いと云うのではない。それは「その国なりの形」でありそれでなくては国は成り立たないのであろう。ただ、日本という「国に於いては構成上の条件」としては決して好ましくないと云う事なのである。
「個人主義」仏教で言えば「刹那主義」と見なされる易い思考が蔓延したのである。
上記した「遺伝子的な思考基準」が醸成している2000年以上の社会の中に、200年にも満たない「然程の伝統」「然程の祖先」も持たない国の思考基準が混在して来たのである。
{「遺伝子的思考基準」=「複数の原理」}><{「個人」「個性的」「個人主義」=「単数の原理」}
現在ではその間約100年で「複数の原理」<「単数の原理」の状況の中で矛盾が生まれ社会問題化していると考えられる。
しかし、反面、「然程の伝統」「然程の祖先」でも200年も経過すると先祖が形成される様になり初めて日本の様な「初期的な伝統」が重んじられる社会風土が出来つつあると云われている。
その一つの現われとして、「ルーツ探し」が大ブームと成っていると云われていて、日本の様な「チームの重視」「族の重視」に思考が傾きつつあると云われている。
端的には云うと今までの彼等の観光目的とは異なり、日本の彼等の観光目的はこの稀有な「伝統の確認」に変わりつつあるとされている。彼等はこの経済大国と近代的な世界有数の国、トップのノーベル賞や最先端の科学技術立国の社会の中に「何故、伝統の美が融合するのか疑問」があり、その「融合力」に驚いているという事らしい。未開発国のそれとは別に観ていると言う事だ。
そもそも元より世界稀有の国として、日本民族は7つの民族の「融合」であり、その「融合」を「遺伝子的性癖」とも云われている事から、何時かこの「刹那主義」に近い「個人主義」から何物かを融合して日本独自の「複数の原理」+「単数の原理」=「中間子の原理」を生み出すであろう。
米国がそうである様に今丁度その最中であろう。
参考に日本の融合過程は、古墳時代の融合は別として、先ず飛鳥時代と奈良時代初期に第1陣の大量移民が起こり、大化期初期に第2陣、奈良末期に第3陣、平安初期に第4陣の民族の大移動が西と北で起こった。然し、平安初期の桓武天皇の時代の律令国家完成期の800年頃には「帰化人」「渡来人」の言葉は書籍から消えている。「遠の朝廷」「錦の御旗」の称号を与えられた「大蔵種材」の時代にはこの移民は禁止して「大宰府大監」は押さえ、北は大蔵氏の兄の坂上氏の「坂上田村麻呂」の「征夷大将軍」がこれを完全に抑えた記録がある。450年から800年の350年で完全融合した事を意味し、900年までの100年で民族は「単一性」を成した。
200年後の650年代大化期では融合の終焉期であった筈である。記録にもそれなりの表現がある。当然に、民族が移動する事は思考も流入されていた事に成り、その最たるものとしての「司馬達等」による「仏教」の伝来で証明出来る。
だとすると、民族の移動は無いにしても思想の流入はあったから、それだけに、明治初期から始まり昭和20年とするかは時期設定には問題であるが、新しい思考原理が侵入して来たこの期間を80-100年とすると、170年後の今ここで家訓8の検証とその問題提起が思考原理の融合が起こり始めている中ほどの時期と観て重要な事であると考えている。
そもそも科学物理の「中間子理論」関係の発見が続いているがこれすべては日本人なのである。
中間子はや中性子は+と-を融合させるファクターであるが、それを発見し続けている日本に於いて日本の「思考の融合」は先ず間違いは無いであろう。次ぎの子孫の代には完成するであろう。
その為にも、家訓8を書き記しておく事の意味は大きいと考える。
何をか況や、先進国の彼等が驚く「融合力」は取りも直さず「経験」-「体系化」-「知識」から起こる「本家訓8の創造力」に他ならないのである。
つまり、”「創造力」は「経験」-「体系化」-「知識」の力であり、即ち、日本固有の「融合力」に等しいのだ。”と解いている。
「融合」とはA+B=Cと成る。しかし、この式の過程には何がしかの因子Xが働いているだろう。
自然科学では「中間子」なるものが働き、更には、「中性子」なるものが働いている。
そして、この両者のエネルギーのバランスをとり続ける。
とすると、AとBと「融合」が成し得なかった民族融合の要素として「中間子」が働かなかったことに成る。つまり「拒絶反応」が働いたことに成る。
日本の「融合」はその「拒絶反応」の逆の事が起こったことに成る。
”ではそれは何なのか。中間子は何なのか。”又疑問が湧く。
AとBが「融合」するには、その数多くの過程で色々な事が起こるであろうが、先ず、融合に依って何らかの良いことが起こり、良い事の「融合の経験」が繰り返される。そしてその「経験過程」で「信頼」が生まれる。この「信頼」の元となる「経験」が数多く繰り返され人は「学習」をする。
この数多く繰り返される「学習」から何らかの「体系化」の「知恵」が働くだろう。
そして、そこに「知識」の「知恵」が生まれ、「経験」では「伝達」を成し得ないその「知識」と云う「共通媒体」で次に正しく伝える。そして、その「正しさ」の結果、「高い信頼」が生まれる。
この事が繰り返されての「信頼」に裏打ちされた厚味のある「知恵」と成り、より「確率の高い融合」は完成する。
日本は「7つの民族」と云う途轍もない数の融合である。世界を観ても、たった300年という短い期間では普通の融合の条件では成し得ない。しかし、そこにはこの「信頼」と云う確固たる「醸成手段」が出来上がる。この「信頼」が「中間子」である。信頼は(+)右の人と(-)左の人を結び付ける。
この事は明らかに正しく「経験」-「体系化」-「知識」である。
”この事が何故に日本人に成し得たのか”またまた次ぎの疑問である。
それは、現在に於いても「科学技術」や「文化芸術」でも「創造力」を駆使して遥かに他を抜いている「日本人の特質」に他ならないのである。2000年もの期間を経過してでもこの特質は変わらない。つまり、「融合」と「創造」は「遺伝的特質」に他ならない事を証明する。
”「中間子」を働かせる力が強い”と云う訳である。言わずもがな自然物理の「中間子」や「中性子」は日本人の発見である。
「長」の「体系化」は配下に「信頼」を生むと論じた。そうすると、次ぎの数式が成立する。
「中間子」=「信頼」=「体系化」
この「経験」-「体系化」-「知識」、即ち、「融合」に働く「中間子=信頼=体系化」に裏打ちされた「創造」が日本人の基盤にあり、ここが外国の「個」の世界と歴然と根本から違うのである。
故に、この理屈からすると”自らに無いものを求める”のも、そして、”それを融合する”のも日本人の特質と云える。それでなくては「日本人の融合論 創造論」は論理的にあり得ないことに成る。
故に、”「個」の侵入は心配いらない”と成り、それ故にそれに惑わされた”「刹那的な夢」の吹聴は良くない。”としている。
それよりも、この「家訓8」は取りも直さず”「中間子」を見つけ働かせよ。さすれば「知識」が生まれる”とのこの事を解いている。
「融合力」=「経験」-「体系化」-「知識」=「創造力」
「知恵」=「体系化」+「中間子」
「知恵」=「創造力」=「融合力」
この数式間には目に見えない「何らかの中間子」が作用している事に成る。
正しく「核理論」そのものである。
その「中間子」は諸事事象によって異なるであろう。「中間子」が発見されれば「体系化」が起こり「知識」となり末には「知恵」と成る。そして、その「知識」は「伝達手段」として正しく継承されるもの」と成るのである。
”「経験」が浄化、或いは整流されて「知識」「知恵」になり伝わる。”と解ける。
日本の国全体に於いても然ることながら、故に青木氏に於いても「家訓8」である事が頷ける。
故に、古の家訓でありながらも、この事は家訓1の真意でもある。
取りも直さず、仏教ではこの事を説き、"「個」「単」から思考する「刹那主義」を「悪」とし排除せよ"としているのであろう。理解できる。
故に、日本社会に於いて行き過ぎた「個」から発した思考規準は現在は尊重されてはいるが、余りの「個性的思考、性癖」により大きな「偏り」を起こす事を好ましくないと観ているのである。
それはその「事象」により「経験」を卓越し「名人」「匠」と成り得るには「個性的」を強く求められる事もあるが、それはそれで「名人」「匠」の範囲であれば、必要以上に「体系化」-「知識」の線上に無くても良いであろう。
むしろ、彼等が「体系化」-「知識」の線上にあると「名人」「匠」と認めない不思議な風潮が日本社会にはあるだろう。「中間子」が存在する割り切れない思考として。
これは取りも直さず、”「名人」「匠」は「長」又は「石田三成」「明智光秀」「諸葛孔明」「黒田勘兵衛」の「権謀術策」側にあってはならない”とする日本人特有の区分けの思考であり、裏を返せば、この「家訓8」の「経験」-「体系化」-「知識」の思考がある事を証明する。
ただし、「家康」も「個性的」とするかは「経験」-「体系化」-「知識」の線上の何れの「位置と量」にあるかに依って決まる事になろう事は頷けるが、家康は歴史上最も偉人伝の人物の中ではこの「家訓8」に「典型的」ではない「標準的」に相当する人物と見なされる。
この何処に規準を置くかも「中間子思考」の所以であろう。其れはそれで良い。そうでなくては凝り固まっては「融合」「創造」は働かない。
「融合」「創造」は正しく「色即是空 空即是色」「空不異色 色不異空」である。
平たく云えば、”頭を柔らかくせよ。(融合) でも考えよ。(創造)”である。
禅問答である。
筆者は青木氏を研究する雑学の中で、この「経験」-「体系化」-「知識」の線上で「偉人伝」なりを観ているが、人物の「生き様」がより立体的に観られて面白いし、意外に大発見の糸口に繋がる事が多いのである。
その中でも、偉人伝の人物の生き様も然ることながら、この家訓8は特に「長」のとるべき姿として論じているが、この「体系化」には別に誰しもが人生で経験する事、即ち、「スランプ」の原因とも成り、そこから「脱出」する答えでもあると考えている。
スランプは、「経験」-「体系化」-「知識」のプロセスの中に起こっている。
「経験」を長く続けると必ずスランプに陥る。然し、このスランプは「経験」だけに留まり、その中で長くそれに頼り生きる「能」を身に沁み込ませてしまう。その結果、この「経験」を活かしての「体系化」に怠り、足踏みしてしまう事がスランプである。前に進まない。「経験」を活かして「拘り」「偏り」を排除して「体系化」を成せば「知識」として身や脳に集約され、更なる「進化」が起こるのである。
スランプの中でも”前に進む”と言う事である。
このプロセスの中で「体系化」を怠った結果スランプなるものが起こる。
つまり、「体系化」を成せばスランプから脱してより一段上のものを獲得する事が出来るのである。
経験中になかなか「体系化」の行為は難しいだろう。
”どの時点で「体系化」を成せば良いのか”の疑問も残るだろう。
その答えは「スランプ」に落ち至った処と観ている。即ち、「スランプ」は「スランプ」では無いのである。
「スランプ」はこの「体系化」するポイントなのである。その「体系化」には「拘り」と「偏り」を見つけ出す時間が必要である。この時間が「スランプ期間」なのである。
人生はこれを繰り返して行く事であるが、その「スランプ」の「期間とレベル」は次第に小さいものと成り得る。但し、「体系化」をして「知識」に移す事で。
”この世の中に「進化」せずして生残れるものは決して無いない。”周囲は途絶える事無く「進化」しているのである。自らもそれに合わせて「進化」せずして取り残されるは必定である。
「進化」の手段「体系化」を怠れば留まるしかないのである。
冒頭からの上記の論説は「長」の誡めに限らず”よって件の如し”である。
「長」のスランプを避け、尚且つ「長」はこのスランプ対策のそれを超える処のものを要求されているのである。「長のスランプ」は取り扱いに依れば一門の滅亡を意味する。
「長」は常に「体系化」を無し、自らの「資格」を獲得し、「スランプ」も起しては成らないのである。
それには、家訓8の戒めを護る以外に無い事を諭している。
話を戻して、だから、この様な事を多く積み重ねる事で「生きる力」「望み」「希望」「目標」は内側から醸成されてくるものであり、「暗中模索の夢の発揚」方法にも賛成できない。
仏教でも説いているが、上記で論じた「刹那思考」や「刹那主義」からの考えや行動を戒めている。
しかし、「刹那思考」や「刹那主義」をマスコミでも大口を開けて怒鳴り喧伝しているが、今だ未だ社会は上記に論じている様に「融合」の中期過程にあるのだろう。
これからは上記した時代の厳しさは増すと共に、そこから逃げようとする「その場凌ぎの思考や行動」がより起こるであろうが、故に誡めて、この”「長」のみならず人は「刹那思考や行動」に陥ち至っては成らない。”としている。
故に「長」でなくしてもこの家訓類10訓とりわけ「家訓8」は以上の様に解説して末裔に伝え守り通さなくてはならないと考えている。
そのためにも、平成に掛けて家訓添書の解説を時代に合わせて、状況に合わせての再編集を行い遺す事をした。
家訓8を取り纏めれば、次ぎの様に成るだろう。
家訓8の添書(悟る事)
「術」=「知識」=「判読力」
「能」=「経験」=「体験力」
「技術」の構成=「知識」>「経験」
「技能」の構成=「経験」<「知識」
「経験」-「学問化」・「体系化」-「知識」=進化過程
同事象の進化=「能」+「術」=「経時的変化」
”「術」は進化した事になるので「能」の段階に留まってはならない。”
”「長」はこの進化の「術」の把握に努めなくてはならない。”
”「長」は常に確立した「新しきもの」を求めよ”
”「長」はこの努力をせよ。「能」を体系化せよ”
”「能」の段階の「匠」では「長」は務まらない”
”経験をして「能」を極めて進化させて「知識」の「術」を会得せよ”
”「匠」であっては「長」としての指揮に間違いを生じさせる”
”ある程度の「経験」の「能」を会得し、「知識」の「術」に進化させて、その「知識」の[術]で以って正しく指揮せよ。”
”「経験」から「知識」への過程を「創造」せよ。”
{「経験」-「体系化」-「知識」}=「過程を創造する」
”自らの「努力」と「思考」により得よ”(A)
”「自らの努力又は思考」に依って得られた時、「長としての務め」は果たせるし、その「創造」の効果は生まれる”(B)
”この「創造」は家訓10訓を会得する「糧」又は「力」に成るのだ”(C)
”「創造力」は「経験」-「体系化」-「知識」の力、即ち、固有の「融合力」に等しいのだ・。”
家訓8の教訓(解く事)
”「夢」を叶えるとするならば、「能」「経験」だけでは駄目なのだ。”
”「長」としての「行動の品質」の「格」が醸成される。”
”「品格」は「配下の信頼度」が「長」をその様に仕立てる。”
”「長」としての「品格」「風格」は自らが作り出せるものではない”
”「長い多様な経験」=「体系化した多様な知識」=「人格」=「品格」=「風格」”
”「家風」即ち「伝統」が醸成されると、「一族、配下」は「的確な行動」を起す”
"「捻くれ思考」は「体系化」「学問化」の努力でこれを打ち消せ"
”「長」は「常人」でありながら「常人」であっては成らない。”
"「体系化」-「知識化」で人との不必要な摩擦が避けよ"
"「長」としては「個性型」を避けよ"
”「個」「単」から思考する「刹那主義」を「悪」とし排除せよ"
”人は「刹那思考や行動」に陥ち至っては成らない。”
”「中間子」を見つけ働かせよ。さすれば「知識」が生まれる”
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
投稿者:福管理人
伊勢青木氏の家訓10訓
以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。
家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓1は「夫婦の戒め」
家訓2は「親子の戒め」
家訓3は「行動の戒め」
家訓4は「性(さが)の戒め」
家訓5は「対人の戒め」
家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)
家訓7は「品格の戒め」である。
この家訓8の先祖の説いているところは”人生 「生きるべき力」は「創造」にある”と説いている。
家訓7までの内容の戒めと少し違う。
家訓7までの戒めは「人」又はその「長」としてのより高い人間的な習得、悟るべき戒め」を説いている。
しかし、この家訓8は「人」又はその「長」としての「示さなくては成らない戒め」を解いている。
どう云う事か。当然に自らも絶対条件として保持しなくてはならない条件でもあり、且つ、「長」として人を引き付ける「強いもの」を持ち得ていなくては成らないとしている。
その「強いもの」とは「創造力」であって、その「創造」は具体的には”「技の術 技の能」とを分けて会得せよ”とあり、闇雲に「創造」を追い求めても会得できないし、「長」として人を引き付ける事は出来ないと解いているのである。
此処は”敢えて”解いている”と添書には記述されている。
つまり、”説く”のではなく”解く”であり、即ち”強く分けて考えよ”という事を伝えたいのであろう。
「強く分けて考える事」に付いて”それは何故必要なのか”疑問(1)が湧く。
そして、その「創造」の基となる「技」に付いても”「技の術」と「技の能」とはどう違うのか”の疑問(2)も当然に湧く。疑問の多く湧く家訓8である。
何も「創造」だから「技」に拘らなくても良いであろうが、特にその主な例を以って判りやすく解いているのであろう事が判る。
そこで、「技」としているのは、この「2つの疑問」(1)(2)を「解く事」と「悟る事」の行動が大事で、書籍による習得ではなく、”自らの「努力」と「思考」により得よ”(A)としているのであろう。
”「自らの努力又は思考」に依って得られた時、「長としての務め」は果たせるし、その「創造」の効果は生まれる”(B)と伝えている。
更に、即ち、”この「創造」は家訓10訓を会得する「糧」又は「力」に成るのだ”(C)と添書は強調しているのである。
さて、「2つの疑問」(1)(2)と「3つの添書」(A)(B)(C)に付いてこれから単独ではなく誤解をより少なくするために複合的に都度論じる事とする。
最初の”それは何故必要なのか”の疑問(1)の解明の前に、”「技の術」と「技の能」”とはどう違うのか”の疑問(2)を先に論じて解明する方が解けると考える。
そうする事で最初の疑問(1)は間違いなく理解できるし論理的な答えとして導かれるだろう。
そもそも、”自らの努力と思考により得よ”(A)と論理的に会得する事を求めているのであるから、この解明の過程が正しいと思える。
既にこの世に「技術」と「技能」と云う言葉がある。
この「二つの言葉」があると云う事は、この二つの言葉の「意味」や「目的」が違う事を意味している。
しかし、世間では言葉の範囲では厳密には使い分けをしているとは思えなく、ここは「技術」だなと思うところを「技能」と発言して使っていることが多い。当然に逆の事もある。
つまり、この現象は世間の人、全ての人は「長」としての立場で使い分けをしている事は無いだろう事を示している。
だから、裏を迎えせば、”導く立場の「長」としてはこれでは駄目なのだ”と云っている事になる。
当然、この「技」は添書では主例であるのだから、万事、特に「創造」とする事に関して”斯くあるべきだ”といっている事に成る。
そこで、結論から先に云うと次ぎの様に成るだろう。
”「技術」は「知識」を主体視してそれに「経験」を附帯させて構成されているものだ”と云う結論に成る。
”「技能」は「経験」を主体視してそれに「知識」を附帯させて構成されているものだ”と云う結論に成る。
つまり、「知識」と「経験」の主体が違うと云う事に成る。
当然にその比率は千差万別と成るだろう。場合に依っては殆ど差が無く変わらないものもあり得るだろうし、逆の場合もあり得るだろう。
例えば、科学の場合には「知識」に依って論理的に編み出された「技」もあり、この場合は「知識」から観れば「経験」の度合いが小さいと云う傾向もある。
芸術や工芸の様な観念的なことが働く場合には「経験」から観れば「知識」の度合いが小さいと言う事もあり得る。知識で創作された芸術は”論理性が高く面白くない”と誰しも評価するだろう。
ただ下記に論ずる”「経験」から「知識」へと進む「進化の過程」”を考えると、片方がゼロと云う事は論理的にないし、この比率の差は大した意味を持たない。
この様に分けて考えると、この世の「進化の過程」もあり「知識」と「経験」の定義としては類似する事に成る。だから一般的には面倒だから世間の通常は分けて使い分けしないのであろう。
しかし、だからこの家訓8は”「長」としてはそれでは駄目だ”としているのである。
判りやすく云うと”雑では駄目だ”と云う事だろう。
そこで、これを判りやすくする為に論理的に解析すると、最近の脳科学的に観た場合、次ぎの様に成るのではないか。
「知識」とは学問など書籍に依って「判読力」を主体として得られた脳の「集積結果」である。
「経験」は実労等に依り「体験力」を主体として得られた脳の「集積結果」である。
と考えられる。
「術」=「知識」=「判読力」
「能」=「経験」=「体験力」
当然に、この「集積結果」は左脳の集積場所は異なる筈である。つまり、カテゴリーが異なるのであるから、コンピータ的に観れば収納場所は「トラック」や「セクター」や「カテゴリー」の位置は異なる事になる。
脳も同じ仕組みで成り立っているのだから、つまり、これ即ち、「術」と「能」は「違う」と云うことを意味している。
しかし、厳密に云えば、「知識の学問書籍」も基を正せば始めからあったものではなく「人の進化」の過程の「体験」に依って得られもので、それを類似分析して「学問化」し「体系化」したものが「知識」と成る。
これは大事な思考基準である。
つまり、「能」の「体験力」から「術」の「判読力」へと進化したものと成る。
「進化の過程」=「経験」-「学問化」・「体系化」-「知識」
「体験力」-「進化」-「判読力」
この左から右に向かってルートを通って進む。
従って、現在に於いても未だ体系化されずに、「能」の「体験力」の段階のものもあるだろう。
「体験力」と「判読力」とには「進化」が介在する事に成る。
逆に、最近の科学域では高度な「知識」の「術」から更に進化して高度な「経験」の「新能」が生まれると言う事も起こっている。コンピーター関連やソーラー関連や最先端医療のIPS医療等はその典型であろう。むしろ、これからの形体はこのパターンで論じられる事が主体と成ろう。
しかし、あまり前に進めずとりあえず先ずは、上記の「原型のパターン」を論じて理解しておく必要がある。
「知識」の「術」-「経験」の「新能」=未来の進化。
”「術」と「能」”には同じ事象の中の事でも「能」と「術」とには「経時的変化」を伴なう。
つまり、「能」から「術」へと進むと云う事に成るので、「術」は進化した事になる。故に進化したのであるから、そこでその初期の「能」の段階に留まってはならない事を意味するのである。
つまり、”「長」はこの進化の「術」の把握に努めなくてはならない”と諭している事に先ず成る。
平たく云えば、”「長」は常に確立した「新しきもの」を求めよ。”と云える。
さて、これは難しい。何故ならば今は科学は進みその「術」は何処かで進化して確立し書籍などに表されているが、古ではその様な環境に余りなかった。
とすると、自らが「能」の段階のものを「術」の段階まで進めなくては成らない努力が伴なう。
恐らくは、”「長」はこの努力をせよ。「能」を体系化せよ”と求めている事に成る。
だから、故に家訓8は作り出す事を求め所謂「創造」としているのである。
そこで「技能」には「経験」に依ってその「技」を極めた「匠」がある。
更に推し進めて「能」の「匠」を考えるとすると、”「能」の段階の「匠」では「長」は務まらない”とし、むしろ”「匠」であっては「長」としての指揮に間違いを生じさせる”としているのではないか。
何故ならば、「経験」の「技能」を極めた「匠」は、兎角、その事に「拘り」や「偏り」を持つ傾向が起こる。止むを得ない人間の仕儀でもあるがそうでなくては「匠」には成り得ないであろう。
むしろ、「拘り」の極めが「匠」であろう。
数式で表すとすると次ぎの様になる。
「経験の最大」=「拘りの極め」=「匠」
そうすると、ここで矛盾が生じる。
”経験をして「能」を極めて進化させて「知識」の「術」を会得せよ”とすると、経験には「拘り」と「偏り」が生まれるのであるから、「知識」の「術」は成し得ない事に成る。
何故ならば、「知識」とは「能」の「拘り」と「偏り」の個人性を排除したものが「術」であろうから、そこで初めて他者が一般的に利用し知識として「学問」と成り得るのであって、「匠」の「能」はそのままでは論理的には「知識」の「術」へは不可能である事に成る。
「匠」の能は個人的なものに支配される。個人的なものに支配されるからこそ又、「匠」の値打ちが
出るものであろう。
「経験」-「拘り」=「知識」
「拘り」「偏り」の排除=「体系化」作業
という事に成る。
ただ、それを解決する方法がある。(A)
それは、この家訓8では”「経験」の「能」を「匠」として極め、先ず会得せよ”とは書いていない。とすれば、何故ならば、それは”他の者をしてそれを極めさせれば良い”事に成る。
これだけでは「会得」と云う事から観て意味が無いだろう。
「長」の「習得、会得の率と理解度」が必然的に低下する事になるからだ。これでは「長」の求められるものでは無い事に成る。
しかし、その前提があろう。物事には「完全の習得」は有り得ない。
そうすると「匠」まで極めずとも良い事に成り、それを理解するに足り得る「経験」を会得する事でも、「知識」の「術」の「体系化」は充分に成し得る事が出来る。それが前提である。
つまり、他の者をして「匠」としてそれから「聞き出す事」の手段にて成し得る。
それが”「長」はこの「聞き出す努力」をせよ。そして「能」を自ら「体系化」せよ。”としていると理解する。
「聞き出す事」=「体系化」作業の始まり行動
という事に成る。
上式と連立すると、次のように成る。
「聞き出す事」=「拘り」「偏り」の排除=「個人性の排除」=「体系化」の作業
そして、行き着く処は「知識」となる。
それには先ずは、”ある程度の「経験」の「能」を会得し、「拘り」を排除して「知識」の「術」に進化させて、その「知識」の[術]で以って正しく指揮せよ。”と云っている事に成る。
つまり、”その「経験」から「知識」への「過程を創造する」”と定義している事になる。
これは何も「能」、「術」だけの問題ではないだろう。
「創造する」とは「考え、そして新しき何物かを生み出す」と定義すると次ぎの様に成る。
”「経験」から得たものを「体系化」して「新しき何物」かを生み出せ”
と成るので、この上記の解釈は正しい事になるだろう。
{「経験」-「体系化」-「知識」}=「過程を創造する」
「過程を創造する」の「行動の努力」は、再び、「経験」-「体系化」-「知識」のサイクルのプロセスを生み出す事は容易に理解出来る。より進化して。
この「進化」とはこれを定義とし「体系化」を「媒体」としている事に成る。
このサイクルが限りなく続く事を論理的に説明出来る。
但し、媒体と成る「体系化」を無くしてはこのサイクルは起こらない事も。
そうなると、そこで「創造」とは果たして俗に云う”夢を持て”と云う事に成るのか。(B)
どうも違うのではないか。そもそも俗に云う「夢」とは「就寝中の夢」の如く暗中模索、否具体性のものであろう。その「夢」をかなえる為に「暗中模索」では「夢」は叶えられるものではない。
それほど世の中は甘くは無い。人は兎角「夢」とは「暗中模索」のものを云っている傾向がある。
世間では”夢を持て”と若い者に吹聴しているが、あれには少し違いがあろう。
「暗中模索の夢」は無防備にそれに進むために「夢を叶えられる力」の醸成もせずに「無駄な挫折」をし「不必要に世の中を恨み」「捻くれて拗ねる姿勢」の弊害を生み、若い者に良い結果を生まないのが現状であろう。果たして「幾多の挫折」に充分に耐えられる者がどれだけいるだろうか。
これは、上記した「匠」に相当する”「拘り」「偏り」”と成るだろう。
「夢」を叶えられ者は「匠」と成り得る確率と同じであろう。誰しもが「匠」、「夢」を成し得る事は出来ない。一握りである。さすれば、「夢」に向かって挫折した時、その挫折が向後の人生に良い方向に働けば何の問題もないが、多くは「暗中模索、否具体性」で走る。依って、思考に「不必要に世の中を恨み」「捻くれて拗ねる姿勢」の弊害を持つだろう。これは多くの者に起こる。
この「夢」は取りも直さず「経験」の域にある。
{「経験」-「体系化」-「知識」}=「過程を創造する」のつまり以上のプロセスの「体系化」が成されていない。依って「長」とも行かずとも「夢の実現」は「過程を創造する」の域に達していないだろう。途中である。
従って「創造」とは「夢」であるとは成らない。
大事な事は「暗中模索の夢」を叶える為にその過程のそれに向かった「努力の積み重ね」が必要であり、「ただの努力」では成し得ない筈である。
何故ならば、この世は「人の社会」である。その「人の社会」が皆が同じ程度の努力で「夢」が叶えられるのであればそれは楽なもので「夢」では無い。叶え難いからこそ「夢」と表現しているのだ。
「人の社会」であるからこそ「夢」を成そうとすると「人を押しのける」事の行為は必然的に生まれる事に成る。
「人を押しのける」という事は「人以上に力」を持たなければ成し得ないし、かなりの「忍耐」「苦悩」が伴なう。
その「人の社会」が日本の様な高度な社会であればこそ、更に「それ以上の力」を保持しなくては成らない。
当然に、その「夢の分野」が高度で汎用な分野であればこそ、尚更の事「人を押しのける」「人以上の力を持つ」の条件は更に厳しさを持つ事に成る。
そう成ると、この「人を押しのける」の力は{「経験」-「体系化」-「知識」}の「体系化」の努力に等しい事に成る。
数式では次ぎの様になるだろう。
「人を押しのける力」=「体系化」の努力=「知識」
中には、”その挫折が大事だ”と如何にも正論の如く簡単に云う人が多い。
確かに「挫折」は人の成長に欠かす事が出来ない。
然し、どんな「挫折」でも良いと云う事では無い筈である。
”不必要な挫折などしない方が良い。”と考えている。この家訓から学んだ事として。
4つの「み」を強く興す「挫折」は避けるべきである。
強い「ねたみ」「そねみ」「うらみ」「つらみ」が起こる「挫折」は「人を歪ませる」と仏教では説いている通り、
この仏説には「人間形成に於いて不必要」と観て賛成できる。
確かに「挫折」するよりは「体系化」する事の方人間形成に効果的であろう。
つまり、「不必要な挫折」をするよりはこの事は言い換えれば次のように成る。
”日頃の経験を通して「体系化」する努力、又は「体系化の苦労」をせよ。”
”経験から得たものを「拘り」「偏り」を見抜き取り除くその努力を先ずせよ。”
そこで、”「人以上の力」「人を押しのける」に耐え「正常な精神と思考」を持ち得ている人物がどれほど居るだろうか。「不必要な挫折」は必ず「精神と思考」を歪ませる。
それを正常に成し得る者が果たしてどれだけいるだろうか。”先ず居ない”と云える。
仮に「人以上の力」を確保出来たとして、無情にして非情にも「人を押しのける」と云う行為に絶え得るだろうか。「人を押しのける」が一度であれば未だしも常態の日々に続くのである。
故に、無責任極まりないこの言葉を私は、”「夢]を持て”とは決して云わない。
それを云える人物が果たして、この2つの条件(人以上の力 人を押しのける)を以って発言しているのだろうか。おこがましい限りである。
云うとすれば、くどいがこの家訓8の真意を得て次ぎの様に云っている。
”日頃の経験を通して「体系化」する努力、又は「体系化の苦労」をせよ。”
”経験から得たものを「拘り」「偏り」を見抜き取り除くその努力を先ずせよ。”
”不必要な挫折はするな。その暇があるのなら「自らの努力」で「知識」を得よ。 自らの努力で”
では、どうすれば良いのかと云う事に成る。そのキーワードが必要だ。
それが、この家訓8の事で云えば次に示す処であろう。
「夢」に向かって進む限りに於いて大なり小なり「経験」が伴なう。「能」を確保する事になろう。
”それを進化させて「術」として「知識」と成せ”と云う事に成る。
”「夢」を叶えるとするならば、「能」「経験」だけでは駄目なのだ。”と云う事に成る。
では、更に考えて、”その「進化させる」はどの様にすれば良いのか。”の疑問が起こる。
それは”「体系化せよ」”又は”自分なりの「学問化せよ」”と云う事に成る。
判りやすく云えば、”「経験」(能)をまとめよ。” それが”「長い多様な経験」の間に体系化した「多様な知識」と成り得るのである。”と解ける。
つまり、”「長い多様な経験」により「多様な知識」が「人としての力量」或いは「人としての格」を成し得るのである”と解ける。
”それで良いのだ””何も「夢」を叶え持つ事だけが目的では無い。”
だから、「無駄な挫折」をして思考に歪みを持つ事よりも、”足元の「経験」(能)をまとめよ”その努力が”「長い多様な経験」の間に体系化した「多様な知識」と成り得るのである。”と成るのである。(B)
”この家訓8の「長」はこのことを忘れて怠っては成らない”としている。
”それを会得した者が「人を導ける力」を持ち得るのである。”としている。
つまり、”「人としての力量」或いは「人としての格」は「長」としての人を導く「人格」が得られる”と云う事に成る。
この「人格」が「品格」に、そして、それの積み重ねの結果、雰囲気に滲み出て「風格」と成るのではないだろうか。
「長い多様な経験」=「体系化した多様な知識」=「人格」=「品格」=「風格」
そして、”この「風格」が生まれた時「長」と成り得る。”と理解できる。
家訓10訓、とりわけ家訓8の「風格」を得た時、その「長」の下には「家風」が生まれるだろう。
この「家風」が「伝統」と成り得るのである。
「家風」=「伝統」
”「家風」即ち「伝統」が醸成されると、「一族、配下」は自らその「家風」「伝統」を理解して、「長」が充分に指揮せずしても「的確な行動」を起す”と解いているのである。
昔から、”今成金”という言葉がある。
下記に例として記述する「信長、秀吉」の例は家訓8による「大意」この事に欠けていた事により滅びたと解析できる。
当然に、「多様な経験」を体系化した「多様な知識」は事に当って人を納得させ、諸々の事象に当って適切な指揮する能力を保持する事に成る。
その結果、尽くに「正しい指揮」が積み重なり、その「指揮する品質レベル」に信頼度を増し、人は従い、その結果として”「長」としての「行動の品質」の「格」が醸成される”と定義されるだろう。つまり、”「品格」は「配下の信頼度」が「長」をその様に仕立てる。”と云う事になる。
これは”自らが作り出せるものではない”と云える。
判りやすく数式で表現すると下記の様になるのではないか。(A、B、C)
「品格」=「配下の信頼度」*N=「正しい指揮」*N=「指揮する品質レベル」*N
「品格」=「人格」*N
「品格」*N=「風格」
(「人格」*N)*N=「風格」
(N=経験量+知識量)
しかし、然りながら、ここで「多く無駄な挫折」をした者が、この家訓8を成し得た時に、”何故悪いのか”の反論があろう。悪いのである。
「多く無駄な挫折」「人を押しのける」事の結果で「思考精神」に歪みの持たない者は先ず居ないだろう。つまり、その者の「自らの経験」と「力量」と「人を押しのける力」から独善的に、或いは独裁的になり「人」を導く「長」には問題を含むからである。
”一時的には「長」に成り得ても必ず破綻する。”と云う事になるからだ。
例えば、「信長、秀吉、家康」の例えが適切に物語る。
信長はこの過激的で独善的な典型的人物であろう。その人生過程に於いて余りの典型であったからこそ、歴史は事半ばで終る。
秀吉は下積みから這い出ての「技能量」或いは「経験量」は豊かであったが、体系化した多様な知識を持ち得ていなかった。「千利休に対する対応」や「金の茶室」がそれを物語る。
故に標準的な典型的人物であろう。歴史は一代で成し得たが一代で終わると成り、人生の目的、万物の目的とする後世に子孫を遺し得なかった。
家康であるが、この家訓8に適合する人物である。
三河の地侍に生まれ、今川氏の人質、織田氏から屈辱的な待遇、武田氏との敗戦、秀吉との駆け引き、摂津商人との付き合い、関が原の戦いに負けて勝った結果等を検証すると「多くの挫折」と「人を押しのける」等の「経験」は申し分なく豊かでありながらも、そこから学習して「知識」を獲得し「長」としての家訓8で云う資質を「捻くれる」事無く会得している事が検証できる。
「捻くれる」はこの家訓8で云うそれは”「体系化せよ」”又は”自分なりの「学問化せよ」”の努力の結果がそれを抑えたと考えられる。
徳川氏の歴史資料からも、”「多く無駄な挫折」を避け「人を押しのける」事の結果を極力少なくし、「長い多様な経験」の間に体系化した「多様な知識」を学習し成した。その為に出来る限り「思考精神」に歪みの持たない様に心がけた。
「家訓8」で言う「長」としての数式条件は次ぎの様に成るだろう。
即ち、「長い多様な経験」=「体系化した多様な知識」=「人格」=「品格」=「風格」 を備えた。”と理解し検証できる。
故に、250年以上の存続の条件が醸成されたのである。
それは”「体系化せよ」”又は”自分なりの「学問化せよ」”は何も言葉そのものではなく、「捻くれる」事をも抑える事が出来るのであろう事が読み取れる。
誰しもが普通は陥る経験からの「捻くれ思考」はどうすれば良いのかの疑問は次の事として云える。
「捻くれ思考」は予断なく「長」として最も排除しなければならない事は明白であろう。
"「捻くれ思考」は「体系化」「学問化」の努力でこれを打ち消せ"と成る。
恐らく、当然の事として添書に書かれていないが別の真意はここにもあるのだろう。
つまり、通常はその者の「自らの経験」と「力量」と「人を押しのける力」から独善的に或いは独裁的になり「人」を導く「長」には問題を含むからである。
”信長、秀吉はむしろ常人であって人としての陥るところに落ち至った。しかし、家康の人物は稀有であるが斯くあるべきだ”と云っている事になる。
”「長」は「常人」でありながら「常人」であっては成らない”ことを諭している事に成る。
青木氏の家訓10訓は室町以前の試練から生まれたものであるが、それ以後も子孫に合意されていたからこそ現在までに遺されているのであって、それ以前にこの「3人の生き様」を言い当てていた事になる。
この家訓8が遺された時期は一族一門がこの世に生き残れる確率は極めて低く、危険率は現在の数十倍のものであったことである。それは毎日の茶飯事思考であった筈である。
しかし、青木氏は1367年も続けて直系子孫を遺し得たのは代々先祖がこの家訓類の戒めを護り続けて来た事に他ならない。少なくとも明治35年までは「長」として。
そして「家訓」として「伝統の集約」として維持されている。
現在では科学の著しい進化で社会がより敏感に成りハイトーンと化しているが、この別の意味で厳しさはむしろより遺されているだろう。さらに子孫の時代にはこの状況はもっと続くであろう。
「経験」から「知識」に進化して来た時代から、あまり「経験」の「技能」の伴なわない「知識」から更に「新しい技術」が生まれる時代に、人間形成に於いて代らないだろうが、この「新しい厳しさ」に立ち向かうにはこの家訓8は古い様で居て現在、否未来にも何らかの形に変えて生きている筈だろう。
故に、筆者はこの家訓8の考え方を重視していて、自分の思考判断基準の重要な一つにしている。
とりわけ「人を観る」とする時、或いは「長」とされる「人物評価をする時」に反射的にこの家訓で観ているが、外れた事はない。誰しもが何らかの判断基準を持ち得ているものであろうが。
多くの歴史偉人伝を読み漁ったがこの家訓8は有効に利用されより面白く雑学を得た。
この世は当然に「人の絡み」の世であるが故に必然的に「人を押しのける」は起こる。
別の効果としてもこの世の必然的な行為の"「人を押しのける」"前にこの家訓8の「人を観る」事の「思考経験」とその「体系化」による「知識」で不必要な摩擦を避けて来た。
古い様であるが、突き詰めると現在の言葉が無いので古来の言葉にすれば、「人生の生き様」の体系化は「六稲三略」に通ずる様だ。「戦略戦術」は正しくこの「体系化」であろう気がする。
添書にはないが、"人との不必要な摩擦が避けられる"も極意なのであろう事を思い知り、頭書に記述した、”自らの「努力」と「思考」により得よ”(A)に感嘆した。
これも「経験」からの「体系化」-「知識化」を成し得た事に成るからだ。
もう一つ会得した事がある。
それは、「体系化」-「知識化」を成さず豊富な経験だけで終わる場合、その人物には「個性的性格」、「個性的思考」が残る事が確実に起こる事である。
恐らくは、信長や秀吉は多少なりとも「体系化」-「知識化」があったにせよ多くはこの「経験」のみによるところで留まっていて、そのレベルにより独特な「個性化」が起こったと観られる。
ただ、信長はこの事をある程度知り得ていて外国の新しき文化知識で補おうとしたと観られるし、その側近には同じ行動をする秀吉を登用したことで頷ける。
明智光秀は主に「経験」から「体系化」-「知識化」を成した人物ではなく「書物」から「知識化」成した事により信長との余りの差が起こり、信長は自らを補おうとした余り「接点の無い間違いの登用」をしてしまった事になるだろう。
「経験」を「体系化」成せる者で充分であった筈で、この判断ミスをした事に成る。
ただ、此処で云える事は、光秀タイプが悪いのではない。”学者馬鹿”という言葉があるが、これは「偏り」に依って起こる”「適合性の低い思考」が起こる”からで、その思考化の視野が狭くなる事から起こる現象である。しかし、これを超えるとむしろ大変な「経験」を生み出すのである。
例えば、三国志の劉備と軍師の諸葛孔明である。
諸葛孔明は最たる「知識」と「知恵」の持ち主である。諸葛孔明の策に対して、”敵は過去の彼の「策の経験」から恐れて逃げる”と云う所まで達していた。これは明らかに「知識」から「経験」を生み出し、その「策の知識」から敵は「体系化」して自ら「経験」を作り出した効果に他ならない。「逆のプロセス」である。
明智光秀はこの域に達していなかった事に成るだろう。世に云う「今だ我木鶏にあらず」であろう。
「知識」からの「逆体系化」で「経験」は「木鶏」に達し得る可能性がある事を意味する。
歴史偉人伝にはこの「逆体系化」は少ない為にかなり難しい事が云える。
しかし、家訓8の添書には一句も触れていないがあり得る事である。
秀吉は「金の茶室」で全てを物語るもので「体系化」-「知識化」は自ら嫌っていた事が覗える。だから、補う為に石田三成を重く登用したと観られる。しかし、この石田三成も明智光秀型であった。
ただ、秀吉はこの体系化の見本と見なされる人物を採用している処は優れている。
その人物は一介の下級浪人の薬売りで溢れる知恵の持ち主であった。そして、その知恵を屈指して各地の土豪の争いに雇われて「戦い」を「経験」し、そこから自らその「戦い方の体系化」を成し、知識として保持し続けた。その結果、「天下一の軍師」として賞賛され認められた秀吉の「軍師 黒田勘兵衛」と成り得たし、明治期まで続いた黒田藩主の「長」にも成った。
だから家康は石田三成や明智光秀を「知識側の偏り」に対する者として(「経験」-「体系化」-「知識」の者でないとして)ある面で軽視していた事が伺えるが、黒田勘兵衛は認めていた。
当然、家康は本人が「長」としての「経験」-「体系化」-「知識」を偏り無く成し、性格的にも合致していた事から全て側近はこの型の者を配置したし、「経験」型のものは実践部門に配置した事が読み取れる。
信長は「経験」型の偏りから、「実戦型」と成ろう。
秀吉は「経験」型の標準から、「実戦型」+「術策型」と成ろう。
家康は結果視として「経験」-「体系化」-「知識」から「権謀術策型」と成ろう。
この家訓8は言い換えれば別の意味で、"「長」としては「個性型」を避けよ"と云っている事になる。("「経験」-「体系化」-「知識」"とはっきりと明言している。)
避けなくてはならない理由は、当然、家訓からすると後の人物であるが、"信長-秀吉であるな"と云っているのであるが、この事について他の家訓3で明確でも云えている。
つまり、「個性的」である事は結果として「人」「時」「場所」の三相に左右されるからだ。
その「経験」を「体系化」せずにすると「偏りの個性化」が起こる。その個性は「ある人A」に対してよい効果を生み出すが「ある人B」に対しては逆効果と成ることが起こるからだ。信長-秀吉の例に成る。「時」「場所」も"推して知るべし"である。
"未来永劫に子孫の繁栄を願う場合には、これをリードするに「長」としては好ましくない"
これは個人の単位での事として良いのであればそれも良いであろう。しかし、この訓では個人ではない。あくまでも「長」なのである。
然しながら、筆者は大なり小なり"「長」に限らず斯くあるべきだ"と考えている。
現在の様な「個人」を基盤として尊重し、その連携の先に集団結束を目途とする「個人主義」の時代にあれば「個性的」を賛美され「良し」としているが、日本人にはこの思考原理は「違う」と考えている。
これが仏教で言う"「刹那主義」に偏りすぎる。"と云う点である。
家訓8の「裏意」として、「経験」-「体系化」-「知識」の線上に於いて、この「刹那主義」を排除せよ"としている事が云える。
その根拠は"人は男女一対で成り立っている。"と云う事である。
その「男女一対」は更に「家族」を構成する。そしてその「家族」は「親族」を構成する。「親族」は「一族一門」を構成する。この原理はすべて「男女一対」の「理」が成立しその中にある。
決して、「単数」「個人」の「理」ではこの構成は論理的に成り立たない。
「単数」「個」だけでは子孫は生まれず決して拡大しない。「人」のみに限らずこの世の「万物」は「相対の原理」と「一対の原理」に依って成立する。
この家訓ができた時期には、この「個」の上に無く長い歴史の中で日本の歴史と文化と思想は上記の根拠(「男女一対」-「家族」-「親族」-「一族一門」=伝統)が醸成されて来た。そしてそれが国民の遺伝子的な思考基準と成っている。所謂、現代用語で「チーム」、古代用語で「族」で事を成そうとする癖がある。つまり、「複数の原理」の社会である。
ところが、この「複数」の社会の中に、突然に「単数」「個人」「個性的」を最高視し標榜する国の思想が流入した。この標榜する国の考えが悪いと云うのではない。それは「その国なりの形」でありそれでなくては国は成り立たないのであろう。ただ、日本という「国に於いては構成上の条件」としては決して好ましくないと云う事なのである。
「個人主義」仏教で言えば「刹那主義」と見なされる易い思考が蔓延したのである。
上記した「遺伝子的な思考基準」が醸成している2000年以上の社会の中に、200年にも満たない「然程の伝統」「然程の祖先」も持たない国の思考基準が混在して来たのである。
{「遺伝子的思考基準」=「複数の原理」}><{「個人」「個性的」「個人主義」=「単数の原理」}
現在ではその間約100年で「複数の原理」<「単数の原理」の状況の中で矛盾が生まれ社会問題化していると考えられる。
しかし、反面、「然程の伝統」「然程の祖先」でも200年も経過すると先祖が形成される様になり初めて日本の様な「初期的な伝統」が重んじられる社会風土が出来つつあると云われている。
その一つの現われとして、「ルーツ探し」が大ブームと成っていると云われていて、日本の様な「チームの重視」「族の重視」に思考が傾きつつあると云われている。
端的には云うと今までの彼等の観光目的とは異なり、日本の彼等の観光目的はこの稀有な「伝統の確認」に変わりつつあるとされている。彼等はこの経済大国と近代的な世界有数の国、トップのノーベル賞や最先端の科学技術立国の社会の中に「何故、伝統の美が融合するのか疑問」があり、その「融合力」に驚いているという事らしい。未開発国のそれとは別に観ていると言う事だ。
そもそも元より世界稀有の国として、日本民族は7つの民族の「融合」であり、その「融合」を「遺伝子的性癖」とも云われている事から、何時かこの「刹那主義」に近い「個人主義」から何物かを融合して日本独自の「複数の原理」+「単数の原理」=「中間子の原理」を生み出すであろう。
米国がそうである様に今丁度その最中であろう。
参考に日本の融合過程は、古墳時代の融合は別として、先ず飛鳥時代と奈良時代初期に第1陣の大量移民が起こり、大化期初期に第2陣、奈良末期に第3陣、平安初期に第4陣の民族の大移動が西と北で起こった。然し、平安初期の桓武天皇の時代の律令国家完成期の800年頃には「帰化人」「渡来人」の言葉は書籍から消えている。「遠の朝廷」「錦の御旗」の称号を与えられた「大蔵種材」の時代にはこの移民は禁止して「大宰府大監」は押さえ、北は大蔵氏の兄の坂上氏の「坂上田村麻呂」の「征夷大将軍」がこれを完全に抑えた記録がある。450年から800年の350年で完全融合した事を意味し、900年までの100年で民族は「単一性」を成した。
200年後の650年代大化期では融合の終焉期であった筈である。記録にもそれなりの表現がある。当然に、民族が移動する事は思考も流入されていた事に成り、その最たるものとしての「司馬達等」による「仏教」の伝来で証明出来る。
だとすると、民族の移動は無いにしても思想の流入はあったから、それだけに、明治初期から始まり昭和20年とするかは時期設定には問題であるが、新しい思考原理が侵入して来たこの期間を80-100年とすると、170年後の今ここで家訓8の検証とその問題提起が思考原理の融合が起こり始めている中ほどの時期と観て重要な事であると考えている。
そもそも科学物理の「中間子理論」関係の発見が続いているがこれすべては日本人なのである。
中間子はや中性子は+と-を融合させるファクターであるが、それを発見し続けている日本に於いて日本の「思考の融合」は先ず間違いは無いであろう。次ぎの子孫の代には完成するであろう。
その為にも、家訓8を書き記しておく事の意味は大きいと考える。
何をか況や、先進国の彼等が驚く「融合力」は取りも直さず「経験」-「体系化」-「知識」から起こる「本家訓8の創造力」に他ならないのである。
つまり、”「創造力」は「経験」-「体系化」-「知識」の力であり、即ち、日本固有の「融合力」に等しいのだ。”と解いている。
「融合」とはA+B=Cと成る。しかし、この式の過程には何がしかの因子Xが働いているだろう。
自然科学では「中間子」なるものが働き、更には、「中性子」なるものが働いている。
そして、この両者のエネルギーのバランスをとり続ける。
とすると、AとBと「融合」が成し得なかった民族融合の要素として「中間子」が働かなかったことに成る。つまり「拒絶反応」が働いたことに成る。
日本の「融合」はその「拒絶反応」の逆の事が起こったことに成る。
”ではそれは何なのか。中間子は何なのか。”又疑問が湧く。
AとBが「融合」するには、その数多くの過程で色々な事が起こるであろうが、先ず、融合に依って何らかの良いことが起こり、良い事の「融合の経験」が繰り返される。そしてその「経験過程」で「信頼」が生まれる。この「信頼」の元となる「経験」が数多く繰り返され人は「学習」をする。
この数多く繰り返される「学習」から何らかの「体系化」の「知恵」が働くだろう。
そして、そこに「知識」の「知恵」が生まれ、「経験」では「伝達」を成し得ないその「知識」と云う「共通媒体」で次に正しく伝える。そして、その「正しさ」の結果、「高い信頼」が生まれる。
この事が繰り返されての「信頼」に裏打ちされた厚味のある「知恵」と成り、より「確率の高い融合」は完成する。
日本は「7つの民族」と云う途轍もない数の融合である。世界を観ても、たった300年という短い期間では普通の融合の条件では成し得ない。しかし、そこにはこの「信頼」と云う確固たる「醸成手段」が出来上がる。この「信頼」が「中間子」である。信頼は(+)右の人と(-)左の人を結び付ける。
この事は明らかに正しく「経験」-「体系化」-「知識」である。
”この事が何故に日本人に成し得たのか”またまた次ぎの疑問である。
それは、現在に於いても「科学技術」や「文化芸術」でも「創造力」を駆使して遥かに他を抜いている「日本人の特質」に他ならないのである。2000年もの期間を経過してでもこの特質は変わらない。つまり、「融合」と「創造」は「遺伝的特質」に他ならない事を証明する。
”「中間子」を働かせる力が強い”と云う訳である。言わずもがな自然物理の「中間子」や「中性子」は日本人の発見である。
「長」の「体系化」は配下に「信頼」を生むと論じた。そうすると、次ぎの数式が成立する。
「中間子」=「信頼」=「体系化」
この「経験」-「体系化」-「知識」、即ち、「融合」に働く「中間子=信頼=体系化」に裏打ちされた「創造」が日本人の基盤にあり、ここが外国の「個」の世界と歴然と根本から違うのである。
故に、この理屈からすると”自らに無いものを求める”のも、そして、”それを融合する”のも日本人の特質と云える。それでなくては「日本人の融合論 創造論」は論理的にあり得ないことに成る。
故に、”「個」の侵入は心配いらない”と成り、それ故にそれに惑わされた”「刹那的な夢」の吹聴は良くない。”としている。
それよりも、この「家訓8」は取りも直さず”「中間子」を見つけ働かせよ。さすれば「知識」が生まれる”とのこの事を解いている。
「融合力」=「経験」-「体系化」-「知識」=「創造力」
「知恵」=「体系化」+「中間子」
「知恵」=「創造力」=「融合力」
この数式間には目に見えない「何らかの中間子」が作用している事に成る。
正しく「核理論」そのものである。
その「中間子」は諸事事象によって異なるであろう。「中間子」が発見されれば「体系化」が起こり「知識」となり末には「知恵」と成る。そして、その「知識」は「伝達手段」として正しく継承されるもの」と成るのである。
”「経験」が浄化、或いは整流されて「知識」「知恵」になり伝わる。”と解ける。
日本の国全体に於いても然ることながら、故に青木氏に於いても「家訓8」である事が頷ける。
故に、古の家訓でありながらも、この事は家訓1の真意でもある。
取りも直さず、仏教ではこの事を説き、"「個」「単」から思考する「刹那主義」を「悪」とし排除せよ"としているのであろう。理解できる。
故に、日本社会に於いて行き過ぎた「個」から発した思考規準は現在は尊重されてはいるが、余りの「個性的思考、性癖」により大きな「偏り」を起こす事を好ましくないと観ているのである。
それはその「事象」により「経験」を卓越し「名人」「匠」と成り得るには「個性的」を強く求められる事もあるが、それはそれで「名人」「匠」の範囲であれば、必要以上に「体系化」-「知識」の線上に無くても良いであろう。
むしろ、彼等が「体系化」-「知識」の線上にあると「名人」「匠」と認めない不思議な風潮が日本社会にはあるだろう。「中間子」が存在する割り切れない思考として。
これは取りも直さず、”「名人」「匠」は「長」又は「石田三成」「明智光秀」「諸葛孔明」「黒田勘兵衛」の「権謀術策」側にあってはならない”とする日本人特有の区分けの思考であり、裏を返せば、この「家訓8」の「経験」-「体系化」-「知識」の思考がある事を証明する。
ただし、「家康」も「個性的」とするかは「経験」-「体系化」-「知識」の線上の何れの「位置と量」にあるかに依って決まる事になろう事は頷けるが、家康は歴史上最も偉人伝の人物の中ではこの「家訓8」に「典型的」ではない「標準的」に相当する人物と見なされる。
この何処に規準を置くかも「中間子思考」の所以であろう。其れはそれで良い。そうでなくては凝り固まっては「融合」「創造」は働かない。
「融合」「創造」は正しく「色即是空 空即是色」「空不異色 色不異空」である。
平たく云えば、”頭を柔らかくせよ。(融合) でも考えよ。(創造)”である。
禅問答である。
筆者は青木氏を研究する雑学の中で、この「経験」-「体系化」-「知識」の線上で「偉人伝」なりを観ているが、人物の「生き様」がより立体的に観られて面白いし、意外に大発見の糸口に繋がる事が多いのである。
その中でも、偉人伝の人物の生き様も然ることながら、この家訓8は特に「長」のとるべき姿として論じているが、この「体系化」には別に誰しもが人生で経験する事、即ち、「スランプ」の原因とも成り、そこから「脱出」する答えでもあると考えている。
スランプは、「経験」-「体系化」-「知識」のプロセスの中に起こっている。
「経験」を長く続けると必ずスランプに陥る。然し、このスランプは「経験」だけに留まり、その中で長くそれに頼り生きる「能」を身に沁み込ませてしまう。その結果、この「経験」を活かしての「体系化」に怠り、足踏みしてしまう事がスランプである。前に進まない。「経験」を活かして「拘り」「偏り」を排除して「体系化」を成せば「知識」として身や脳に集約され、更なる「進化」が起こるのである。
スランプの中でも”前に進む”と言う事である。
このプロセスの中で「体系化」を怠った結果スランプなるものが起こる。
つまり、「体系化」を成せばスランプから脱してより一段上のものを獲得する事が出来るのである。
経験中になかなか「体系化」の行為は難しいだろう。
”どの時点で「体系化」を成せば良いのか”の疑問も残るだろう。
その答えは「スランプ」に落ち至った処と観ている。即ち、「スランプ」は「スランプ」では無いのである。
「スランプ」はこの「体系化」するポイントなのである。その「体系化」には「拘り」と「偏り」を見つけ出す時間が必要である。この時間が「スランプ期間」なのである。
人生はこれを繰り返して行く事であるが、その「スランプ」の「期間とレベル」は次第に小さいものと成り得る。但し、「体系化」をして「知識」に移す事で。
”この世の中に「進化」せずして生残れるものは決して無いない。”周囲は途絶える事無く「進化」しているのである。自らもそれに合わせて「進化」せずして取り残されるは必定である。
「進化」の手段「体系化」を怠れば留まるしかないのである。
冒頭からの上記の論説は「長」の誡めに限らず”よって件の如し”である。
「長」のスランプを避け、尚且つ「長」はこのスランプ対策のそれを超える処のものを要求されているのである。「長のスランプ」は取り扱いに依れば一門の滅亡を意味する。
「長」は常に「体系化」を無し、自らの「資格」を獲得し、「スランプ」も起しては成らないのである。
それには、家訓8の戒めを護る以外に無い事を諭している。
話を戻して、だから、この様な事を多く積み重ねる事で「生きる力」「望み」「希望」「目標」は内側から醸成されてくるものであり、「暗中模索の夢の発揚」方法にも賛成できない。
仏教でも説いているが、上記で論じた「刹那思考」や「刹那主義」からの考えや行動を戒めている。
しかし、「刹那思考」や「刹那主義」をマスコミでも大口を開けて怒鳴り喧伝しているが、今だ未だ社会は上記に論じている様に「融合」の中期過程にあるのだろう。
これからは上記した時代の厳しさは増すと共に、そこから逃げようとする「その場凌ぎの思考や行動」がより起こるであろうが、故に誡めて、この”「長」のみならず人は「刹那思考や行動」に陥ち至っては成らない。”としている。
故に「長」でなくしてもこの家訓類10訓とりわけ「家訓8」は以上の様に解説して末裔に伝え守り通さなくてはならないと考えている。
そのためにも、平成に掛けて家訓添書の解説を時代に合わせて、状況に合わせての再編集を行い遺す事をした。
家訓8を取り纏めれば、次ぎの様に成るだろう。
家訓8の添書(悟る事)
「術」=「知識」=「判読力」
「能」=「経験」=「体験力」
「技術」の構成=「知識」>「経験」
「技能」の構成=「経験」<「知識」
「経験」-「学問化」・「体系化」-「知識」=進化過程
同事象の進化=「能」+「術」=「経時的変化」
”「術」は進化した事になるので「能」の段階に留まってはならない。”
”「長」はこの進化の「術」の把握に努めなくてはならない。”
”「長」は常に確立した「新しきもの」を求めよ”
”「長」はこの努力をせよ。「能」を体系化せよ”
”「能」の段階の「匠」では「長」は務まらない”
”経験をして「能」を極めて進化させて「知識」の「術」を会得せよ”
”「匠」であっては「長」としての指揮に間違いを生じさせる”
”ある程度の「経験」の「能」を会得し、「知識」の「術」に進化させて、その「知識」の[術]で以って正しく指揮せよ。”
”「経験」から「知識」への過程を「創造」せよ。”
{「経験」-「体系化」-「知識」}=「過程を創造する」
”自らの「努力」と「思考」により得よ”(A)
”「自らの努力又は思考」に依って得られた時、「長としての務め」は果たせるし、その「創造」の効果は生まれる”(B)
”この「創造」は家訓10訓を会得する「糧」又は「力」に成るのだ”(C)
”「創造力」は「経験」-「体系化」-「知識」の力、即ち、固有の「融合力」に等しいのだ・。”
家訓8の教訓(解く事)
”「夢」を叶えるとするならば、「能」「経験」だけでは駄目なのだ。”
”「長」としての「行動の品質」の「格」が醸成される。”
”「品格」は「配下の信頼度」が「長」をその様に仕立てる。”
”「長」としての「品格」「風格」は自らが作り出せるものではない”
”「長い多様な経験」=「体系化した多様な知識」=「人格」=「品格」=「風格」”
”「家風」即ち「伝統」が醸成されると、「一族、配下」は「的確な行動」を起す”
"「捻くれ思考」は「体系化」「学問化」の努力でこれを打ち消せ"
”「長」は「常人」でありながら「常人」であっては成らない。”
"「体系化」-「知識化」で人との不必要な摩擦が避けよ"
"「長」としては「個性型」を避けよ"
”「個」「単」から思考する「刹那主義」を「悪」とし排除せよ"
”人は「刹那思考や行動」に陥ち至っては成らない。”
”「中間子」を見つけ働かせよ。さすれば「知識」が生まれる”
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