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日本書紀と青木氏 5/10

前節と本節には、関連性がある為、左メニューの「最近の記事」から、前節(1/10-4/10)を順次選択して先にお読み下さい。
それを念頭に「本節 5」をお読み頂きたい。

レポートリンク
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検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」

活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」
活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」


本書記録
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
天武”14年12月30日の翌年の1月20日を朱鳥元年とし、その前の1月2日 大極殿で諸王を召して、宴を行い、詔を発した。””王たちに無端事を尋ねる”と言われ、”答を得ると賜物を授ける。”とあり、戯にしてこれまでの勲功に対して2人に論功行賞を行った。

壬申の乱と政務などで天武天皇を助け最も活動した勲功者として、二人に論功行賞をした。
”高市皇子に秦擦の御衣(ハンの木の実で編んだ染め衣)を三揃い、錦の袴を二揃い、絹20匹、糸50斤、綿百斤、布百反を賜った。”とあり、次に、”「伊勢王」も答が当り、黒色の御衣三揃い、紫の袴二揃い、絹7匹、糸20斤、綿40斤、布40反を賜った。”と記録されている。

天武”14年7月26日 勅して、明位以下進位以上の者の朝廷服の色を定めた。
浄位以上は朱花(はねず)、正位は深紫 直位は浅紫 勤位は深緑 務位は浅緑 追位は深葡萄 進位は浅葡萄 と定めた”とある。
(注 「伊勢王」は「朱花」色である。前節レポートにもあるが、衣は「黒擦」袴は「紫」の最高職を許されている。) 


検証
天武”14年9月24日 天皇は病気に成られた。”とある。”朱鳥元年の9月9日 正宮で崩御した。”とある。
病気に成って、丁度1年後である。多分、信濃から螻蛄の胃薬を取り寄せたとある事から、胃がんで有ったのであろう。死期を悟り、最も、自分の御世に貢献してくれた「伊勢王」と高市皇子の2人に、特別に感謝を込めて賜物を授けたのであろう事が判る。

それを、感謝だけを以って正式な形としては出来難い事もあり、高市皇子と「伊勢王」の2人に特別に論功行賞の宴を催し行ったのである。50人もの諸王が居るにも拘らず、このたった2人にである。如何にこの二人だけに信頼されていたかが判る。

壬申の乱では殆ど「高市皇子」と「伊勢王」(施基皇子)の働きで天皇に即位できたし、その後の政務の2人の働きは段突である。この節では活躍 第1節-4節のそれをはっきりと記録しているものである。

特に、「伊勢王」の紫の袴は最高位の者(皇太子)が着用を許される色袴である。
高市皇子の錦の袴は天皇以外に着用を許されていないものである。
(平安後期では紫は僧位の最高位の者が許可されて着用を許された。)
そして、「伊勢王」は黒色の御衣の着用を許された。これは、政務官僚の長としての式服である。
皇太子が即位する時に着る冠位束帯の「黒染(くりそめ)御衣の法服」である。つまり、身分は第6位皇子、4位(5位)の王位、浄大3位(この時)であるが、皇太子扱い以上を意味しているのである。
どんな爵位を与えられてもこれ程の名誉は無いし、50人中の皇族の中にはこれ以上の者は他に居ない。

因みに、草壁皇子の皇太子の爵位は浄広1位で1階級下である。それ以上の身分扱いとなる。
(最高位の爵位は明大1位 2位 次は浄位1-4で大広に分ける 全48階級)
この2人には朝廷内外にその最高位の勲功があった事を発表したものである。
その有能さに付いてはこれ以上の説明は必要は無い。
伊勢王は、最終浄大1位に成る。

朝廷服の実務服は壬申の乱の従軍者への取立ての一環で、朝廷に上がる役人として登朝時に着る服でその勲功の印としたのであろう。

身分制度を明確にし、その実力に応じた勲功と身分を与えて、「皇親政治」のピラミッドの基礎が着々と進められていることが判る。

その例として、その朝廷方針として、今後の「律令制定計画」として「官僚体制」を確立する為に、上節記述の様に「官吏」を臣連はもとより、民間からも「優秀な者」の採用を積極的に行っている。
第6位皇子の「伊勢王」や「高市皇子」の二人は、空洞化していた皇太子身分より下でありながらも、爵位と実質身分が「伊勢王」等の方がはるかに高い事でも判る。
この辺に身分は前提になるが、その中でも「実力主義」である事が判断出来る。皇太子より他の皇子らは低い。

実力といえば、施基皇子を始めとして、大津皇子と高市皇子の3人は確別である。
しかし、大津皇子は実質は天皇に代わり政務を取っていたが、余り、彼だけが何故か昇進の記録が少ない(疑問1 上節の草壁皇子の猜疑心から来る反対である。追記)
その後、天武天皇崩御20日後に皇位継承第3位の大津皇子の謀反の事件が発生した。
(持統天皇崩御3年前に大津皇子没後に爵位昇格を与えている)

追記
大津皇子に対しての編者舎人皇子の評価は実に良い。

余談だが、記録から、次のような記録がある。
”朱鳥元年10月3日に、訳語田の舎で死を賜った”とある。
”24歳であった。妃の山辺皇女は髪を乱し、裸足で走り出した。見る者みなすすり泣いた。

”大津皇子は天武天皇の第3位皇子で、威義備わり、言語明朗で、特に、叔父の天智天皇にその才能を認められて可愛がられていた。成長されるに及び有能で才学に富み、特に、文筆を愛された。この頃の詩賦の興隆は大津皇子にある”と本書は記録し断言している。

その証拠に、”この謀反に関連したとされる人物は30余人(皆天武期の大物の朝臣族 僧侶も多く含まれる。)である。罰は軽くした”とある。この記録がある。

又、”伊勢神宮の斎王の大来皇女が同母弟の大津の謀反で任を解かれて都に帰った”とある。

大津皇子のその身分は皇太子より低い事への不満があり、余り実力の無い皇太子に天武天皇崩御直後に謀反したとも考えられるが、既に没した天武天皇にではない。まだ誰が権威者になるかは判らない時である。
そんな時に謀反するかとの疑問が湧く。有る程度天智天皇の時の壬申の乱のように大友皇子が成ると決まっていて、乱が起った事であれば判るが、この場合は、皇太子が天皇に成るとは限っていなかった。皇太子本人は思っていた。
この天智天武期では、最も純血血縁度の高い者がなる掟であった。従って、天智の時は大海人皇子か大友皇子と成るが、本来は大海人皇子である。兄弟優先と決まっていた。

この場合は天武の皇位継承者は草壁皇子か大津皇子かの問題が出る。
順序では皇太子であるので草壁皇子ともなるが、それには実務、実力、権威、信頼、経験、性格に関わるであろうから、優先的には大津皇子となる。
大友皇子の時も、この性格人格が左右して、人心がついて行かなかったのである。
しかし、その条件中の性格は、大津皇子は温厚で文学的な素養を持ち人徳ある人物と特筆されていることからも充分である。

事件の記録されている中では、処罰された者の中には高僧も多いのである。これ等の処罰者は全て軽い刑に終わっている。
この大津皇子の事件の真因は、実刑実罪が見つから無かった事から、草壁皇子は他を罰する事に躊躇したのであろう。
この事件からも覗える事であるが、厳しい身分制度を確立しながら、ある身分の範囲では、実力主義であり、つまり、この後で起こった謀反説が、逆にこの時期に実力主義の考え方が常識化していたことを意味する。多分、上記した条件も含めて、時代の混乱期としては、大津皇子への周囲のラブコールが大きく起こっていたのではないか。
そして、そのラブコールをした人物を30人として罰したのであろう。
だから、ラブコールだから、高僧が多かったのではないか。謀反では高僧は入らないであろう。
しかし、狭量な凡庸な猜疑心の強い病的な草壁皇子には、謀反と捉えたのではないか。
だから賢く政治力の持つ母親は、心情的には草壁であろうが、息子に譲位しなかつたのである。

この事件が、この「皇親政治」が「実力主義」で無かった場合は、この事件は起こらなかったと考えられる。つまり、草壁皇子に政務を執らせ、爵位も高くして今までの「御座成り」の体制を敷いていた場合、「病的な猜疑壁」が頭をもたげなかったとも考えられる。
立場、仕事、身分、能力等何を採っても、本来は皇太子が上である事になる天智前の時代システムが覆させられているのである。そして、「皇太子」と成っている矛盾では、「強い猜疑心」が湧くのは草壁皇子ならずとも、「人の性(さが)」から観ても必然とも思える。
同じ「猜疑心」での「大友皇子事件」、つまり「壬申の乱」は相互に「猜疑心」を持った事から起こったのであるから、若干、天皇になる慣習システム(純血順)が異なってはいたが、何れも「猜疑」と言うキーワードでは同じではないか。この乱は条件的なもの、例えば純血、勢力バランス等が均衡していた事で、相互に出せる立場にあったので、「大津皇子事件」と違い、勅書を遣わずに、「戦い」と言う手段で解決した事に成ろう。

中大兄皇子との「有間皇子事件」は、燻る孝徳天皇派との軋轢が左右した事もあり、「争い」が表沙汰に無くて、「暗殺」と言う事で解決したが、「戦い」と「猜疑」との何れもが使えなかった事件ではないだろうか。
この事からすると、3つの要素の「暗殺」「戦い」「猜疑」から逃れられて、「伊勢王」はあらゆる危機を乗り越え、真に「壬申」ならぬ「人心」に評価されてその幸運に恵まれている事を物語る。

現在でも、同じで実力があっても昇進しないということは同じでは無いか。この3つの何れかで昇進しても潰されることが世の常である。
これは真に「伊勢王の人徳」と言うものであろう。
況や、我々青木氏の末裔は、遺伝子的にこの始祖の人徳を引き継いで持っているのである。

参考
爵位の朝廷で着る実務服は、浄位では朱色である。
袴では、全体として最高位は錦と紫である。儀式では黒の御衣である。
「八色の姓の制」の八色とは元は7色の定めであったが、八色に変更したがこの色からきている。
真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置(684)である。宿禰までが皇族系

紫の色の高位性は、大化3年12月 「7種13階の冠位」を制定した。
第1は、服の色は冠と揃い深紫 第3は、冠は紫、服は浅紫とある。
僧衣も以後これに準じた。

次は、活躍 第6節 「天皇の名代」である。

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日本書紀と青木氏 6/10

前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。

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検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)

活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」


活躍 第6節 「天皇の名代」
”朱鳥(あかみどり)元年4月27日 伊勢神宮に多紀皇女、山背姫王、石川夫人を遣わされた。
5月9日 多紀皇女等は伊勢より帰った。”とある。

”朱鳥元年6月16日 「伊勢王」及び官人等を飛鳥寺に遣わして、衆僧に勅して「この頃、わが体が臭くなった。願わくは仏の威光で身体が安らかになりたい。それ故に、僧正、僧都及び衆僧たちよ、仏に祈願して欲しい」と言われ、珍宝を仏に奉られた。”とある。

”天皇の御病平癒の祈願して、朱鳥元年8月15日 施基皇子(しきのみこ)と磯城皇子(しきのみこ)2人に食封200戸を加封された”とある。

検証
この頃、天武天皇は病気である。この年(686)、年号を朱鳥とした。「大化」期から始まった年号は次には「白雉」となり、直に廃止し、天武期の終わりに「朱鳥」の元号とし、又、直に廃止した。
第1節で述べた様に、「即位、瑞祥、災難」で年号を変える慣習であり、この時は災難に当るだろう。そこで、天武天皇が身内の者を遣わして、「伊勢王」の居る伊勢国に、天武天皇が斎宮、斎王を置き正式に定めた伊勢神宮に祈願した。
この節で判る様に、「伊勢王」、「施基皇子」と2月毎に差し向けている。

この平癒祈願の3つの記録に少し違いがある。
1つ目は、「氏神」の「伊勢王」の国許に祈願した。
2つ目は、「伊勢王」を「菩提寺」の飛鳥寺に祈願させた。
3つ目は、「祈願努力」の「施基皇子」に加封した。

1つ目は、名代人物の表現が疑問である。
天皇家祈願実行を受ける「天智天皇」の息子である「伊勢王」の立場と成っているが、本来は、実父(天武天皇)の祈願であり、皇太子があるのだから「伊勢王」ではなく「草壁皇子」であろう。
2つ目と3つ目にも違和感がある。逆の表現の疑問が出る。
2つ目は、本来、寺に遣わすのであるから、その正式な皇子名で「施基皇子」とするべきであろう。
「伊勢王」は役職名である。
3つ目は、その努力は氏神を護る役目として「伊勢王」とするべきであろう。逆ではないか。

1つ目では既に役目柄同行している。これは良いとして、2つ目の「伊勢王」の使い方は、伊勢神宮の「神」の護り役であり、その者が飛鳥の「寺」に行くのはおかしい。
神に仕える者が寺に祈願に行くには、役目を外した施基皇子の名であろう。
3つ目の使い方は、身分柄でなく役目柄に対しての勲功であるから、「伊勢王」である。

さて、この1-3(疑問1)をどう解くべきかである。記録から観てみる。
上記した様に、草壁皇子は天皇崩御後は、活発に没後の祭祀(もがり)を盛んに行っている。
しかし、崩御前は活動はない。崩御後は、草壁皇子薨去までの活動は、3年間で10回(正味2.0年)で、薨去直前1年は祈願を含めて全く無いのである。
そして、天武天皇発病で(胃病:信濃より螻蛄[おけら]という薬)胃薬を取り寄せる。
天武14年9月18日後、崩御(朱鳥元年9月9日)までの一年には、草壁皇子の治癒祈願は全く行っていない。治癒祈願外もない。
崩御したからと言って、突然活発に動いた。この事の持つ意味は何を示すのであろうか。

経緯
① 上記の「伊勢王」の「身分柄」、「役目柄」の使い分の事、
② 病気中の皇太子の「本来役目」に対する活動のない事、
③ 崩御後の活動が多い事、
④ 皇太子薨去1年前は突然活動はなくなる事、
⑤ 崩御2年は喪に服する当時の慣習(本書に明記)がありながら、活動は「もがり」以外にも活発である事、
⑥ この皇太子薨去1年前は母親の妃が皇后になり、天皇に成れない事を知った年でもある事。
⑦ 本来、これ等全ては皇太子の草壁皇子が全て行う「仕事柄」であるにも拘らず、周りの者(伊勢王)が行っている事。
⑧ 何を於いても、率先して行わなければ成らない仕事柄である事。
⑨ 民の範たる立場である皇太子である事。

これ等の事(①-⑨)から考えて推理すると、舎人親王の「得意の手法」であろう。
その推理とは次の事に成ろう。
推理
つまり、崩御前後の本来あるべき皇太子の行動に対して「病的異変」(参考参照)があったと観られ、編集上、舎人親王は記述する事は出来ない。そこで、それを代行する「伊勢王」の行動に、先ず「違和感」の変化を与え、「疑問」を持たせて、本書の天武天皇崩御前後の記述に、皇太子の行動に「目立つ変化」を付けた。そして、皇太子薨去1年前にも政治が動いているにも拘らず、全くで記述しない。これで、”皇太子に何かある”と見せた。
喪の終わった時のこの1年には、妃が皇后になり、天皇に即位すると決意した時である事を明示した。即位決意して1年後に即位した。
そして、編年体の項目に関係ないのに、特別に喪の期間を2年と記述した。
これで、舎人親王はこの間(4年)に起こっている経緯を意を含めて編年体で描く事が出来ると観ていたと考えられる。
何はともあれ、前節までの草壁皇子の疑問の行動の検証部分からも考えて、それまでの舎人親王の得意技から考えても、この疑問もこの様に成るのではないか。

この疑問の答えが正しいとすると、「伊勢王」は、大変な環境に居た事を示すものである。

前節までの「伊勢王」の政治行動は「役目柄」で「身分柄」を演じている事である。
本来、「伊勢王」は伊勢の「守護の役目」で、他の王と同じく伊勢に於いて果たす事が主務であり、「朝政務の役目」ではない事は明らかである。しかし、本書では、他の皇子は全て身分柄で記述されているのである。
既にお気づきと思うが、この「伊勢王」と第6位皇子「施基皇子」の全体の扱いの使分けには疑問はある。この事は「伊勢王」のすば抜けた有能さを持ち得えていた事を本書は示しているのである。
即ち、舎人親王が力を特に入れていた編集処であろう。それ故に、第2節と下節の「伊勢王の薨去問題」でも編集時の配置ミスをしたのではないか。

参考
持統天皇は天智天皇の第2女である。天智天皇(中大兄皇子)の同母(遠智娘:おちのいらつめ)弟である天武天皇(大海人皇子)の妃となり、後に皇后と成った。正式名は高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのすめらみこと)。幼名は鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)、俗称は新田部皇子
叔父の天武天皇との血族結婚による。その子供が草壁皇子である。

当時の皇位の血縁は血族結婚を主体として、純血を守る為に慣習化されていた。その代わり、その為に地方の豪族の娘を妥女(うねめ:宮廷女官:人質:妻の階級外)としてとり子孫を護った。
故に生まれは遅いが、妃の子供であるので皇位第一位皇子で皇太子なのである。

伊勢青木氏の始祖の伊勢王(第6位皇子)は越道君の郎女で妥女である。身分の低い皇子となる。
(天智天武の皇子皇女の系譜レポートを参照)

第3親等までの血縁は障害異児の危険性があり、隔世遺伝による危険もあるので、妥女からの子孫存続を図り、当時は可能な限りに於いて2代毎に新しい血筋を入れている。

持統天皇の孫(草壁皇子と後の女性天皇の元明天皇との子供)が次の天皇に成っている。つまり、文武天皇である。元明天皇は天智天皇の子供。持統天皇とは姉妹で、草壁皇子と叔母と血縁した子供が文武天皇である。

妥女の子の伊勢王、施基皇子の子供が光仁天皇であるが、光仁天皇は大隈首魁阿多倍の孫娘「高野新笠」(帰化人)の血筋を入れている。この後、「高野新笠」を母とする桓武天皇からは律令制度の確立に基づき、法的方針として、血族結婚は藤原氏や、阿多倍らの帰化人などの血筋を入れて避けた。
阿多倍は敏達天皇の曾孫の芽淳王の娘を娶る。(詳細は第10節)

次ぎは、活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」である。

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日本書紀と青木氏 7/10

前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。

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検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活躍 第6節 「天皇の名代」

活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」


本書記録
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
”天武没年10月22日 皇太子は公家百官と諸国の国司、国造を率いて大内陵の築造に着手した。”とある。

”天武没2年8月11日 浄大1位の「伊勢王」に命じて、葬儀の事を取り計らうように命じた。”とある。


検証
着工1年後の喪(2年喪中)に服した後、天武陵の完成(天武没年12月22日に着手)を見て、山陵に埋葬の正式な葬儀を行う事を、天皇は敢えて「伊勢王」に命じたのである。
この事はこの意味では終わらないのである。
本来は、この行為の責任者は皇太子の草壁皇子が執り行うものである。しかし、伊勢の守護で第6位皇子「伊勢王」なのである。
「天武天皇葬儀」と言う最も形式の慣習を重視する儀式の域をはるかに飛び越えている。

この事に付いて、草壁皇子には、絶えられないことであろう。
この「葬儀の件」、「大津皇子の事件」も含めて、「即位」出来なかった事、「爵位」が「伊勢王」や高市皇子よりも低い事、などを含めて、葬儀の事でも物語る様に、何か「人間的な欠陥」があったのではないかとも思える。これだけ立場の無い事は普通では、考えられない。

兎も角、この儀式は天武天皇の崩御の2年後の事である。
”崩御後に密葬して、天皇陵を造って埋葬の儀式をする。”とするが、本書記録では喪中を実行する為の肝心な「密葬の正式葬儀」は無かったのである。

この事を知りながら、大津皇子のこともあり、草壁皇子の猜疑心を考えると、かなり重大な危険性を持った任務を「伊勢王」は取り計らう事になったのである。
この時は、未だ草壁皇子は健在である。難しい仕事である。
実は、天武天皇崩御から10月まで草壁皇子は御陵の造営の指揮を取っている。
ところが、翌年の8月には、最後の仕上げの儀式では、「伊勢王」である。
つまり、草壁皇子にしてみれば、”下準備の工事は自分で本式の自分の親の葬儀は違う”では、納得しないであろう。本来はこの逆であるべき話である。
ここでも、違和感を感じる。

依然、草壁皇子が皇太子である以上、勅書で起した「大津皇子の謀反」の事件を再び起こす事の可能性の少ない「伊勢王」に決めたのであろう。

更に、次の事が記録から観察される。
持統天皇は、高市の皇子に対して、草壁皇子の死後に、身分、勲功、爵位、最高位官職、褒章、労い等の不思議なくらいに様々な持ち上げをしている事もある。
又、他の天武の皇子が無くて、後に、持統天皇は舎人親王一人だけを爵位(昇格)を授けている事もある。考えられない事でもない。
大津皇子は天武天皇発病から政務代行をして来た。そのために草壁皇子に猜疑されて一命を落としたが、この事で同じ事が起こっては拙い。そこで、前節からも「伊勢王」の有能さから見れば、政務代行は適切な登用で無難であろうが選択はしなかった。

しかし、”崩御後に「密葬」して、「天皇陵」を造って「埋葬儀式」をする。”の3つのことに付いて、「伊勢王」に全て指名実行しなかった。「天皇陵」は草壁皇子に、「埋葬儀式」は伊勢王にし、「密葬」は指名せず実行しなかった。

その理由は次の事ではないかと思われる。
1 天智天皇が定めたばかりの皇位継承順位第4位(継承者が無い場合第5位)と定めた事を覆すは法の尊厳から天皇の信頼を失う。
2 高市皇子、大津皇子等の天武天皇の上位皇子が居る。幾ら天武天皇の子供扱いとして可愛がられ信頼されていたとしても、この順位を狂わす事は大きな争い事を招く。
3 皇太子草壁皇子を覆す為の理由(上記)を天下にあから様に出来ない。より無難で身分、実力、年齢、何れの条件を以ってしても、草壁皇子より優れているし、問題は無いと見たので、誰しもが必然的に2人の一人を選ぶ手段でもある。

ここを境に、事前相談していた母親の妃は、草壁皇子を天皇にしない事を決断したのではないかと思われる。

そこで、決断した以上、草壁皇子は感情を高めているので危ない。
その時、葬儀責任者は、高市皇子にするか、「伊勢王」かの問題が出る。
葬儀だけは、「伊勢王」に指名したのは、上記の検証の第3番目の理由からであろう。

以上で、天武、持統天皇の二人は、相談の結果、政治、経済、軍事に長けて総合的力量を持つ「伊勢王」を選ばず、この選択肢(密葬、天皇陵、埋葬儀式の3つの行事)を全て「伊勢王」に任する事は、崩れたと観られる。軍事に長けた高市皇子も草壁の皇子の猜疑心の配慮から失う事を配慮して選択しなかった。
草壁皇子の天皇陵、「伊勢王」の埋葬儀式、とし、高市皇子を二人の「抑え」として、万全を期したのであろう。
そして、これで間接的に、草壁皇子の即位は無い事を暗に諭したと観られる。

相談していたとするその証拠に、舎人の親王は次の事を3箇所に書き添えている。
それは、結論から言うと、持統妃は大変に「利発」で「政治性」を持った女性であってそれだけの事を考える力量を持っていたのである。

次の記録でそれを証明する。
直接の輔弼の記録である。
”天武元年6月 兵に命じて味方を集めさせ、天皇と謀を練られた。”とあり、又”妃は勇者数万に命じて要害を固めさせた。”とある。

”天武2年 始終、天武天皇を補助し、助けて天下を安定させた。常に、良き助言者であった。政治の面でも積極的に輔弼の任をはたした。”とある。

”朱鳥元年9月9日 天武天皇崩御以後、皇后即位式もせずに、大津皇子の代行まで、自らが政務を執った。”とある。

これは、舎人親王の追記の得意技でもあり、特別にこの事を3度もわざわざと書き込んだ事で、妃が朝政務に積極的に関与していた事を明らかにしているのである。それも、目立つように、女性が軍に命令を発したと書いて故意に際立たせたのである。普通は書かないであろう。

余りにも有能な「伊勢王」を政務代行に、そして次の皇位継承候補に選ばなかったのは、天武、持統の二人は綿密に相談した事から、上記の理由が出て実行しなかったのであろう。

舎人親王はこの記録でそれを強く故意的に物語させたのである。
この事から、即位に付いても、草壁皇子、高市皇子、大津皇子、伊勢王の4人の扱い方を、病気治療期間中の2年間の間には、相談していた事が充分に覗える

更に、次の事が記録から観察される。
持統天皇は、高市の皇子に対して、草壁皇子の死後に、身分、勲功、爵位、最高位官職、褒章、労い等の不思議なくらいに様々な持ち上げをしている事もある。

又、他の天武の皇子が無くて、後に、持統天皇は舎人親王一人だけを爵位(昇格)を授けている事もある。考えられない事でもない。

大津皇子は天武天皇発病から政務代行をして来た。そのために草壁皇子に猜疑されて一命を落としたが、前節からも「伊勢王」の有能さから見れば、政務代行は適切な登用であろう。

相談の結果、計算が合わなくなったのは、「大津皇子事件」であろう。それで、”妃は狼狽した。そこで、暫く、妃自らが朝政務を執り、その間、じっくりと周囲の様子を見てどうするかを考えた。その結論は、自分が皇后となり、周囲の目から観て実子草壁皇子を廃嫡し、天皇に即位し、高市皇子を太政大臣にし、伊勢王の皇子を実務補佐として人心を納めた。”となるであろう。
しかし、兎も角、誰も「伊勢王」の研究している者が居ないのでこの疑問を抱かなかったと思われる。又、舎人親王の詩文体形式の得意技で検証を試みなかったからに過ぎないと考えられる。
詩文体の検証だから出てきたのである。

その持統期以後も、新しい政争の相手が現れたが、後の活躍から立場を保っているし、「伊勢王」の末裔の我々は記録、口伝では厳然とその立場を悪戦苦闘しながら保ち、その後も生きている事からすると、これでよかった事でもあると見ている。
「伊勢王」は、大きい荒波の中で、実力を遺憾なく発揮し、自らその強運を上手く引き寄せて、生き抜いてきた人物であると評価できる。全青木氏始祖として申し分ない人物であり、末裔の者として大いなる誉れである。
「伊勢王」も危ない橋を渡っている。「伊勢王」は成功裏に終わらせている。

そして、その後、この3年後に、「伊勢王」(施基皇子)の記録は出て来ないで、他の記録から689年(6月2日以降薨去の記録を含む全ての活動記録なし)に薨去している。

ところが、同じ689年(天武崩御3年)4月13日に草壁皇子も薨去している。2月前である。
草壁皇子の薨去がそれも突然である。皇太子であり、天武没後の2年間は頻繁活動しているし、記録もされている。しかし、突然に病気でもないのに27歳で薨去している。違和感を感じる。考えられる事は一つである。

第2節でも記述したが、疑問1がある。
本書では天智(中大兄皇子)期には「伊勢王薨去」が2度も出たが、編年体であるので、689年のところ以降では、後の「伊勢王薨去」は出て来ないのである。

50歳を平均寿命とすると、690年代の前後の時期での「伊勢王」は寿命とも考えられるが、草壁皇子の方は27歳で早すぎる。

編者の舎人親王に書き難い何かがあったのか想像する。

書くに充分な立場(天皇に継ぐ浄大1位)の身分である。一つ下の浄広1位と同勲功の高市皇子と天智の兄弟の川島皇子は記録されている。
他の皇子全部と、高位4(5)世王の大半は記録されている。689年の「伊勢王」だけである。

最後に残った高市皇子が太政大臣として政務をとる事になった時代なのであるから、何かあるのではと調べたが、この事(同年死去、記録なし、高市皇子と川島皇子の処遇)から、前後の文章にそれらしき表現がないかを観察してみるが、矢張り記録は全く無い。

「伊勢王」の薨去なしの疑問に対して次の様になる。(第2節記述の追説)

先ず、次の様になる。
上記の一つ目の推理は、再び、本書記録の葬儀の件で、草壁皇子の何かが充分に働いたとも考えられる事。
二つ目の推理は、「第2節の伊勢王の薨去(こうきょ)」の所の「斉明7年の薨去」と「天智7年の薨去」のどちらかの薨去が編集時に間違えたとの推理である。
第2節では二つ目の推理としている。経緯から先ず間違いないことである。

”「斉明7年」は「天武17年」となるのを間違えた。”と推理する。(第2節の説)
天武天皇は668-686 持統天皇は690-697であり、持統天皇は天武没5年後に即位したので、689年は天武期から計算すると、17年後となる。天武没後の4年である。
その一年後に持統天皇は即位している事になるので計算は合う。

編年体で書いているので、舎人親王が故意的に書くことをずらしたが編集(計算間違い)間違いを起した。(編集故意説間違い)
伊勢王薨去が無いが為に、後の時代で書き足し(書き間違い)間違いを起したとも考えられる。
(後刻書き足し間違い説)

この記録の編年体の年号の入れ方を調べると、次の様になる。
「年号」は変化したときだけに「年号」を入れて、後は、「月日」だけである。
天智、天武、持統の3天皇の没後と即位までには年数のズレが有る。
天智と天武では2年間、天武と持統では5年間である。普通は天皇が没すると直ぐ即位である。
この間の期間を計算する事に間違いやすい。
天智、天武、持統元年の正月に年号が入り、その後、年を一度入れて、月日毎に記述されて行く。
この場合だけは、記述部位は、一行で、6月だけで、日はないのである。後全ては、行続きの日の重ね書きである。
全ての場合は月日が書かれているが両方にない。月だけはこの伊勢王の件だけである。

この「伊勢王」の2つの薨去だけに日が無いのは何か違和感を感ずる部位である。

この事からも、考えられる事は、先ずは、舎人親王らの編集時(故意的編集時)の間違い説であろう。

「舎人親王」は676-735年 淳仁天皇の父で、元明朝から聖武朝にかけて活躍した人物である。
日本書紀の編集は720年完成で、「伊勢王」没31年後(持統没23年後)の事である。
間違いを起こす事は充分考えられる。
もし、この推理だと、第1節からの全ての疑問は解消する。

これは、薨去に付いて、本書の大きな疑問1の一点である。
私は、一つ目の推理に付いては、「伊勢王」の失態ではなくて、それ故、編者が最高勲功者の「伊勢王」であるが故に、同月の薨去に対して、「大津皇子事件」の様に、草壁皇子との疑いを抱かれる紛らわしい事を編する事を避けたとも観ているが証拠は無い。

有るとすると、舎人親王の得意とする”記する事をわざわざせずにして、暗示”すると言う事で後勘に問うという思惑もある。だから、先に書いたが、”「斉明7年」は「天武17年」と間違えた。
31年も経っているし、記録人が渡来人で、多数人から成っている。更に、天智から天武即位までが2年のブランク、天武から持統までの即位は5年ブランクである。持統が即位宣言して1年後に即位したブランクなどの間違いやすいこともある。
舎人親王がチェックしているが、編年体で有るから最初に二つの「伊勢王薨去」が記録されていることに気が付きやすい筈である。私は配置は故意的であるが、2つ有るが故に間違えたのであろう。


参考
持統天皇の即位は天武天皇崩御後の4年1月1日 即位 
持統1年7月5日 高市皇子は太政大臣に任じられる。
持統2年7月5日 高市皇子に5000戸に加増される。 
持統2年7月5日 丹比嶋真人(たじひのしままひと)右大臣になる。 丹治流青木氏の始祖
持統2年1月13日 川島皇子浄大3位に食封(へひと)100戸加増される。(昇格)
持統2年9月4日 川島皇子こう去 近江佐々木氏始祖
持統4年1月2日 高市皇子に浄広1位を授ける。(昇格)
持統6年1月5日 故大津皇子に浄広2位を授けた。(昇格)
持統6年1月5日 舎人皇子に浄広2位の爵位を授けた。(昇格)
持統7年7月10日 高市皇子こう去
持統8年8月1日 文武天皇に譲位

「妥女」とは、大化改新の詔の第4の所に、”郡の少領(すけのみやつこ)以上の者の姉妹子女で、容姿端麗の者を奉れ。従丁1人と従女2人を従わせる。百戸で妥女1人の食料を負担せよ。”とある。つまり地方豪族の子女が人質として朝廷に仕えたのである。

藤原秀郷流青木氏は、この後、直ぐに勢力を高め摂関家として母方で皇族賜姓青木一族と繋がる。(呼称青木氏の許可の根拠)


次ぎは、活躍 第8節 「善行説話の編集」である。

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