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日本書紀と青木氏 2/10

前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。

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検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」

活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活動 第4節 「諸国の巡行」
活動 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活動 第6節 「天皇の名代」
活動 第7節 「天武天皇の葬儀」
活動 第8節 「善行説話の編集」
活動 第9節 「伊勢行幸」
活動 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」

本書記録
活躍 第2節  「伊勢王の薨去」
斉明7年(660)に”6月 「伊勢王」が薨去した(死去)”と記録されている。

1年後の ”秋7月24日、(斉明)天皇は朝倉宮に崩御する”と記録されている。(661)

ところが、後のページのところには、この年(661:斉明7年)の7年後(668:中大兄皇子即位)に”天智(斉明没)7年6月 「伊勢王」とその弟王とが日をついで薨去(死去)した。”とある。

注意
斉明天皇崩御から7年間中大兄皇子は即位しなかったので、本書では天智7年(天智元年:668)と記録している。
本来の元号方式では、中大兄皇子は天智天皇に成った年は668年であるから、従って、天智4年までである。
斉明天皇崩御から観ると、天智7年である。


検証
この二人の「伊勢王」とは一体誰なのか疑問が湧く。

第1節の「伊勢王」と、第2節の2人の「伊勢王」の3人の「伊勢王」は誰なのか。(疑問1)

第1節での働きがあって、”概ね6-7年後に薨去した。”とあり、更に、7年後に、又、”薨去した。”とある。「伊勢王」が何人もいる訳が無い。

先ず、この大化の改新で定められた「第6位皇子」の臣下方式で考えると「施基皇子」となるが、この人物で検証すると、無理は無い。

大化期の皇子順位の第6位皇子を「伊勢王」(689没)として配置し、臣下させ、賜姓(青木氏)し鞍造部止利の作の大日像を与えたと複数の古書録にある事から、検証すると次の推理が生まれる。

第1節の時の「伊勢王」が天智天皇の子供の「施基皇子」とすると12歳前後である。
第2節の前の「伊勢王」を「施基皇子」とすると17歳である。
第2節の後の「伊勢王」を「施基皇子」とすると24歳である。
「施基皇子」と「伊勢王」は689年(45-46歳)に平均寿命で死去している。天武天皇死後の天武没後3年に死去している。

この後、「伊勢王」は、未だ30回程度は日本書紀にその活躍の内容で記録されているのである。

この活躍具合から観て、天智天皇や天武天皇が常に「伊勢王」を側に置いて補佐させて働いている状況を観ると、身内の子供であり、天武天皇からすると甥であり、同じ天智の子供の大友皇子との皇位争いの「壬申の乱」の時の味方でもある。
天武期に於いてはこの様な補佐をさせられる信用の置ける人物(30歳)は他にない。
この事から、兎も角は年代は別として、経緯から、本節の前者は「施基皇子」であり、後で出て来る「伊勢王」であろう事が判る。

この時代の王の祭祀や儀式には6-10歳程度で補佐役を伴ない出て来る。このことから考えれば第1節の儀式の「伊勢王」は「施基皇子」と考えても問題は無い。現実に中大兄皇子の補佐が明示されている。中大兄皇子が軋轢中の孝徳天皇の子供の「伊勢王」に天皇権威の演出劇の補佐をさせる事は無い。
そうすると689年の死去までこの人物で一貫して考えられる。

現に、”持統天皇に、歳を取っているがと言い、特別に懇願されて、天武天皇の葬儀の指揮を取る様にした。”とする様子の記録は納得できる。持統天皇は天智天皇の子供であり、「伊勢王」(施基皇子)と腹違いの兄妹でほぼ同年2歳下である。

そうすると、疑問が出る。
つまり、疑問2として、この間のこの2つの記録の「伊勢王」は”どのように説けばよいのか”難しい。

ここで、実は、”孝徳天皇の子供(詳細不明)が3人居て、一人が有間皇子であり、更に一人は「伊勢王」に成り、直ぐに孝徳天皇と中大兄皇子との軋轢で、天智天皇により排除された”とする記録(病死)があり、この時は大化のすぐ後の事である。647-648年頃である。
(有間皇子は中大兄皇子の命で、蘇我赤兄により暗殺された。)

中大兄皇子は伊勢神宮を天皇家の守護神として天照大神を定めて祭り、三種の神器を内、「八た鏡」をご神体と定めたが、この初期にこの孝徳天皇の皇子の人物は外されている。
伊勢国に対して「不入不倫の権」を定めた。そして、正式には伊勢神宮は天武天皇が大増築して斎宮を置き、天武元年(実質4年)より正式に祭祀を行い定め徹底した。
この伊勢神宮の記録から、「伊勢王」は孝徳天皇の子供ではない。
伊勢神宮の制定の前の「伊勢王」は孝徳天皇の子供となる。

この経緯論からすると、後者の記録は、孝徳天皇の子供となる。
有間皇子(暗殺)と兄弟二人(病死:暗殺)で3人となり一致する。

この一環の施策の中で、守護神と決めた段階で、天智天皇(中大兄皇子)の子供を、その土地の伊勢国の守護職として、自らの子供の第6位皇子を臣下させて護らせたものである。
この時期に孝徳天皇の子供は外され病死している。(抹殺されたか)
この後、直ぐに第6位皇子に「伊勢王」を任じている。
同時に、大日像のステイタスを与え青木氏を賜姓している。
第7位皇子の川島皇子にも同時に近江王の佐々木氏を賜姓している。

この事からも、前者はこの孝徳天皇の子供の人物ではない事に成る。
固有名詞で「伊勢王」に任じたとする記録は、日本書紀では正式記録されていないので、判断が尽き難い。

何はともあれ、日本書紀に記録される人物である。
真人族や朝臣族程度の者でなくては記録されていないところを観ると、まして、舎人親王が偏纂したのであるから、親の政敵の子供の事であり、大化始めの事の人物をわざわざと記録するかの疑問もある。
日本書紀にはよく出て来る者は19人中の高位王では「伊勢王」と「近江王」と「栗隈王」程度の王だけである。
研究室の「天智天武の皇子皇女の系譜」史料にも記述しているが、天智天武の皇子は合わせて12人で4世王位の者までを入れると日本書紀に書かれている王は19人である。
しかし、特に、その活躍具合を詳細記録されている人物は草壁皇太子と高市皇子と大津皇子と施基皇子(伊勢王)と川島皇子(近江王)と栗隈王(筑紫王)程度である。

この検証から観て、明らかに前者は孝徳天皇の子供の「伊勢王」ではない事に成る。

推理1
孝徳天皇の子供を病死としていたが、第2節の後者は実は病気中であって死んだので、「前」と書かずに記録したとも考えられるが、軋轢の子供を史実として書くほどの話かは問題である。

では、”前の「伊勢王」は誰なのか”と成る。(疑問3)
前の「伊勢王」の第6位皇子はこの時は17歳であるので、平均寿命は当時は45-50程度であった事からすると、充分に補佐役なしで仕事が出来る歳である。
後の「伊勢王」の記録には補佐役は出てこない。

推理2
この時点で、第6位皇子は上記したように第1期の皇親政治で政務官職が忙しく、天皇から都に呼び出しが掛かっている記述が後節に出て来るので、この時「伊勢王」を子供に任したが、この子供が若くして死んだ。”伊勢王にした若い子供の「伊勢王」だから、代理政務官の大物の三宅の連を国司に当てたとも考えられる。

止む無く、続けて死んだので、次に”「伊勢王」は自分がした”とすると、後に10回出て来る事から考えても”2人の子供も死んだ”とすると理屈が合う。
しかし、”続けて死んだ”の根拠はどの史料でもない。

身内の者で政治をリードする体制の「皇親政治」は、この時期から始まったのであるが、この時、呼び出しがあったので、天武天皇期では皇子第6位と第7位の皇子も呼び出しを受けて補佐として活躍している。
普通は大化改新では皇子の第4位(5位)までの者が政治に関わる事を決めたのだが、この二人は特別であった。日本書紀に記録されている天武期では草壁皇太子より働いているのである。
このシステムは「皇親政治」の所以である。

ところが、後での記録で記述するが、疑問の決定的その答えが出て来るのである。
先ずは、その答えから述べる。
答えは、編集ミスである。
”天智7年6月 「伊勢王」とその弟王とが日をついで薨去(死去)した。”
「天智7年」は、「孝徳7年」の間違いである。
つまり、孝徳7年は651年である。
中大兄皇子が実行した645年の大化の改新の政変劇からすると、7年である。
孝徳天皇には、この時二人の皇子(中大兄皇子と争いで有間皇子は既に死亡)が居て、「伊勢王」であったとされ、この二人は”同日病死”と成っている。
651年は第1節で述べた軋轢の政変劇のところである。
この”同日病死”は史料の一説では「暗殺」であったとされている。有間皇子の事から考えれば充分に考えられる。有間皇子を暗殺して残りの皇子を其の侭では理屈は合わない。

経緯
前節のところで記述したが、慎重で、戦略的家であり、センシティブな中大兄皇子は、この650年前後の孝徳天皇との争いで「向後の憂い」を無くす目的から、この孝徳天皇の二人を有間皇子と同じく抹殺したと見られる。
そして、その後に自らの皇子を「伊勢王」にして体制を保ち、第1節の動きと成った。空かさず、その為のデモンストレーションを演じた。と考えられる。
その証拠に、二人、病死、7年、粛清、暗殺、伊勢王、孝徳、年数、年号、月、年齢等の全ての条件に矛盾は無くなり一致する。

では、前の「伊勢王」の薨去は、どの様に理解すれば良いのかという問題に成る。

斉明7年(660)に”6月 「伊勢王」が薨去した(死去)”は次のように成る。
これには大変苦労した。

実は、本書の末の689年頃に「伊勢王」、「施基皇子」、「第6位皇子」、「爵位浄大1位」、「朝臣族」、「伊勢の首魁」等の固有名詞での薨去の事に第一全く放念し気づかなかったのである。

よく調べてみると、15人程度の上位皇子、王位の薨去の記録があるのに、本書で最も活躍した「伊勢王」等の薨去の記録が編年体であるのに無いのである。

そして、この事に気づいて、この第2節のこの二つ目の疑問の解決の為に、調べ直したのである。
その事で長く放置していた疑問が解けたのである。

その答えは、編集ミスである。
つまり、”斉明7年”は”天武17年”である。
天武崩御686年後、4年間は天皇不在で、持統天皇は2年間は喪に服する時を経て、妃から皇后になり、草壁皇子の病変問題、伊勢王の薨去等があり、その1年後にも即位を宣言したが即位しなかつた。4年目の690年でやっと即位したのである。
政治的にも揺れ動いた期間であり、本書記録的にも煩雑を極めている。(後の節で詳しく述べる)

後者の伊勢王は、上記の病死事件の経緯から、孝徳7年(651年)である事に成る。
中大兄皇子の650年ごろからの前節の時系列から観て、651年は納得できる。
天智7年は孝徳7年の編集ミスである。

その間、崩御前「朱鳥」の年号に改元するが直ちに廃号した。
天武期となる期間が690年まで続く事に成る。この辺のややこしい所の編集配置ミスをした事に成る。
崩御で年号を変えるか、即位で年号を変えるかの問題である。
この時は、まだはっきりと定まっていない。

従って、性格に間違いなく言うと、天武没3年後の689年は天武17年(天智没差)となる。
天智没671年で、 天武即位673年で、2年間即位なしがあるので一致する。

斉明7年は、天武17年の「編集間違い」である。

これで「伊勢王」薨去なしの疑問は解決し、本節の2つの「伊勢王」の薨去問題と、3人の「伊勢王」と、第1節の後付の白雉年号の問題も根拠があり全て一致して解決する。

即ち、多すぎる「伊勢王」薨去の記録と、薨去記録なし(後節でも記述)は解決する。
以上、出て来る「伊勢王」はその記録のくだり内容から無理は無い事になる。

第1節の所で、「特記 日本書紀の編成」でも「編集ミス」等のその特長を記述したが、第2節の既に、「編集ミス」もあった。

兎も角も、本節は後の記録の内容でも判断出来る。
この説を詳しく検証した第7節でも「編集間違い説」を記述した。

そこで、次節以降の事前情報として、留意して頂くべき内容を特記する。そうする事でより検証が巾広くご理解いただけると思われる。

特記 
本書以降(持統期以降)の内容としての情報である。
光仁天皇までの第6位皇子(青木氏)には多くの子供がいて優秀な人材が多く居た。その一人は桓武天皇の前の光仁天皇である。
大化改新で定めた皇位継承順位では、平安期初期の当時は、即位できる4位(又は5位)までの皇子が少なくて、5人の女性天皇が存在している程である。結局、継承外の子供の多い施基皇子の一族に天皇を当てる以外になかった事を示し、この光仁天皇も第6位皇子(施基皇子)の子供であり天皇にした経緯がある。
この間、草壁皇子の子供(文武天皇)や舎人皇子の子供(淳仁天皇)も短期間の天皇に成っている。
桓武天皇期(781)には第6位皇子の賜姓を嫌って無かった。その代わり、母(高野新笠)方の「阿多倍の一族」の末裔を「たいら族」として、阿多倍の呼称「高尊王」に似せて「高望王:平望王」 を架空設定して伊賀に住む第6位皇子と見せかけて賜姓して引き上げた。
これが5代後の後の清盛の京平氏である。
この経緯からすると、賜姓は「第1の流」を「青木氏」とすると、阿多倍一族の京平氏は「第2の流」であり、「第2の流」は以後興隆を続けるが、この2つの「流」は共に相反する「流の勢い」を持つ。
持統天皇末期から始まり、この時点でも「伊勢王」を始祖とする「第1の流」の5家5流の青木氏は衰退を辿って行ったが、この光仁天皇の孫、つまり、桓武天皇の子供の嵯峨天皇は、前の平城天皇(兄弟)と、この相反する「流」の族に対して反目(政治争い)があった。嵯峨天皇は反対を押し切って皇族賜姓に戻し、問題の多かった天智期からの皇位継承方式を弘仁5年に変更の詔を発している。そして、第6位皇子を源氏と変名した。11家11流続いた。これが「第3の流」である。

これより賜姓の発祥時期から観ると、この第2と第3の二つには約30年の差が有り始まった。
この2つの「流」も当然に、繁栄衰退では共に相反する「流」に成る。{
「第1の流」と「第3の流」とは「同流」の族となる。繁栄衰退は共存の流を持ち、後には、第2の流に対抗する為に、同族血縁し「統一流」となった。
この時、今までの第6位皇子の青木氏の「第1の流」の氏は、皇族の者が下族する際の氏として定めた。これが「第4の流」であり、3家の氏を発祥させた。要するに第1と第3の分流族である。
「第2の流」と「第3の流」の間で、何とか「第1の流」の子孫繁栄は維持できた。
「第3の流」11家11流は、結果的に本流の何れも子孫繁栄を維持する事は出来なかったが、「第1の流」が「統一流」としてこれを保持した。
この様な経緯と関係を持つ「第1-4の流」は、本書では「第1と2の流」の記録と成るが、持統天皇末期から桓武天皇までの間では、伊勢の青木氏は上記の摂理で衰退の一途であった。
しかし、この嵯峨天皇は、桓武天皇の治世を見直した為に、伊勢の青木氏はやや一族は息を吹き返すのである。(後述)
嵯峨天皇の詔ついては、皇位継承は「4位方式」から巾を広げて「4世方式」に変更した。この時、臣下方式は第6位皇子を其の侭にしたのである。青木氏(朝臣族)が還俗下族する時の氏姓として変更し、他の者の使用禁令を同時に発した。これが原則明治初期まで維持された。

参考
「譜搾取偏纂期」(弘仁の詔が護られなかった時期)
第1期の室町末期 第2期の江戸初期 第3期の明治初期では護られなかった
「皇親政治」
第1期の天智天武の皇親政治 第2期の桓武嵯峨期の皇親政治 第3期の醍醐村上期の皇親政治
「還俗、下族」
還俗と下族は皇族の者が皇位より外れ僧となって比叡山や門跡寺院などに入るが、その後、下山して一般の者の俗人となる事を言う。皇族の者の下族は僧にはならず俗人となり氏を立てて一族を構成する事
「嵯峨期以降の青木氏」
詔を発した嵯峨期以降の青木氏が現存するのは3氏のみである。
「嶋左大臣の青木氏」、「多治彦王の丹治流青木氏」、「宿禰橘流の青木氏」であり、全対象者は18人であったのみである。殆どは比叡山の高僧僧侶となり子孫は遺していない。
この他、清和源氏の頼光系の高綱ら3人が日向に配流されて、保護した土地の娘との末裔が、逃亡中朝臣族であるので、青木氏を名乗った記録があり、未勘青木氏として日向青木氏(末裔確認済み)がある。
美濃に伊川津7党の中に青木氏があるが、未勘青木氏と見られる。
「有間皇子」は「中大兄皇子」との皇位争いで命を受けた「蘇我赤兄」が和歌山県海南市藤白の藤白神社近くの熊野古道沿いの所で、白浜温泉から帰りに、後ろから絞殺された。

次は、活躍 第3節 「伊勢国の重要度」である。

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日本書紀と青木氏 3/10

前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。

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検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」

活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」


本書記録
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
”天智天皇没(壬申の乱) 飛鳥にいる高坂皇子に駅鈴(駅馬の使用許可の公用の鈴:通行手形)の確保の命令を発した。結局、得られなかった。”とある。

”止む無く、大分君恵尺が走り、近江に居る2人の皇子に伊勢に集まるように命令を伝えさせた。”とある。

”(壬申の乱の最中に)大海人皇子(天武天皇)は高市皇子と大津皇子を都の近江からわざわざ呼び寄せて伊勢国に味方の軍を集結させる様にした。”とある。

(軍はその後、)”伊勢の鈴鹿に移動し、伊勢国の伊勢王の代理行政官(国司)の三宅連石床が出迎えて伊勢の入り口を固めさせた。”とある。

(その後、日を置いて)”大海人皇子とその皇子たちと軍は伊勢神宮を遥拝された”とある。

”天武14年7月27日 詔を発して、東山道は美濃以東、東海道(うみつみち)は伊勢以東の諸国の有位の者に課役を免ずる”とある。


検証
この時、伊勢は天智天皇の第6位皇子の伊勢王(施基皇子)が務めていた。当時は30歳程度である。年齢、仕事でも油が乗っている。周囲の信頼も定着している。
従って、本来は天智天皇の子供の大友皇子に味方する筈である。味方になれば勝負は戦わずして尽く。しかし、この伊勢国に大海人皇子(天武天皇)の軍を集結させると云う事は、第6位皇子と第7位皇子の天智天皇の皇子は、初めから大海人皇子に味方する事をはっきりさせていた事になる。
だから、二人の最大の味方が相手側に移った事から、日本書紀に記録されている様に大友皇子の周囲の王や官僚はどんどん離れていったのである。(この様子が詳細に記録されている)
むしろ、「伊勢王」の味方を背景に、皇子等を呼び寄せる時間を保ち、伊勢に集結すると云う事を見せつけて、大友皇子の陣中の分断を図ったと見られる。
それ程に、この「伊勢王」に対する乱の前の諸王公家百官等からの信頼は抜群であったことを意味する。
普通の5位王は赴任地に出向いて務めているが、守護地に代理行政官を置いて伊勢王と近江王は天皇の側で仕事をしている程に信頼をされている。まして、父の天智時代からである。

この乱の後、大海人皇子が即位した後に、この天智天皇の二人(施基皇子と川島皇子)を自分の皇子として扱い、政治面で自分の子供より特別に重用している。(後の節に記述)
しかし、ここで、何故、大友皇子に味方しなかったのか疑問が残る。(疑問1)

その前に、天武天皇の重用の記録の例の一つとして、次の記録がある。

”天武8年5月6日に、天智天皇の子供の皇后と川島皇子と施基皇子の3人と、天武天皇の子供の草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子の4人の計7人(皇子12人中)を都に呼んで、母は違うが全て兄弟であるから力合わせて政務に励み忠誠を”とあり誓わせている。

この後、”天武12年2月1日 実際に大津皇子が天皇に代わって朝政の指揮を取る事になった。”
と記録されている。
(しかし、その直ぐ後(4年)の朱鳥元年8月24日(686) 大津皇子は天武天皇死後の半月後に草壁皇子の皇太子に謀反している事に成っている (疑問2 後述)

疑問1に付いて
本来ならば、例え敵にならずとも中立でも排除される筈である。天智天皇が行ったと同じく尽く潰されるのが運命である。この乱の中では、大海人皇子の敵ではないが、疑われて多くの王が抹殺されている。
記録では乱中、”大友皇子は、”中立であっても疑わしきは討て”と直接命令した”とあり、この事が記録されている。どちら側にしても同じであろう。生きるか死ぬかである。

壬申の乱の模様を事細かく記録されている。しかし、あくまでも、大海人皇子(43歳位)側からの記述である。
特に、大友皇子(24歳)が、”中立であっても疑わしきは討て”と言ったとあるが、おかしい。
相手側の事の仔細な発言の内容をどの様にして判ったのか。この件だけではない。近江軍の動きを仔細に記録しているし、描いている内容は、群臣の忠言を無視したとか、近江軍の負けや、失敗や、愚鈍な行動表現ばかりである。、吉野側は良い事ばかりで、勝利表現だけである。
吉野側を身びいきで故意に良く表現している。

例えば、中立を採った実力者の筑紫王(第4位栗隈王)とその子供の二人の王(三野王と武家王)さえも、”疑わしきは”の命令が出ていて、危なかった事が詳細に記録されているくらいである。
これは、大海人皇子の子供舎人皇子が書いた記録である事からも、当然であるが、故意的表現を除けば記録自身は大方は事実であろう。

大海人皇子は吉野から動いて伊勢路を採ったのであるから、伊勢も例外ではなかったと観られ一族が潰されていた事もあった筈である。その証拠に、「伊勢王」の代理行政官の「三宅岩床連」が出迎えている記録で、つまり、事前に味方する事を明確に伝えていた事が判る。

この様に、第1には、皇族賜姓族であっても極めて危ない「人生路を卓越した読み」(青木家の家訓参照)で生き抜いて来た事が判る。
更に、第2には、もう一つの助かりは、大海人皇子の妻(4階級)は殆どが天智天皇の娘である事が左右したのではないか(兄妹)。
特に、「大海人皇子の妃(皇后)(持統天皇)には抜群に信頼」されていたことが記録されている。(後の節で記録記述)
妃等に事前にしっかりと「根回し」をしていたことであろう。この二つの事が一族全体の生残りの結果となったと観られる。
乱前には、大友皇子と伊勢王との兄弟争いは記録されていない。又、叔父の大海人皇子とも特別に仲が良いとかの記録も無い。(後述 信頼で連携)
だとすると、疑問1の答えは上記3つの事であろう。
即ち、「卓越した読み」「抜群に信頼」「根回し」である。(後述でも証明)

「青木家の家訓3」にも記述したが危機は多くあった。、この様に発祥直後にもあったのである。
この事でも「伊勢王」が如何に有能であったかを物語る。

「有能さの証明」はこれだけではない。次々と驚くほどに出て来る。
更に、この事に付いて、以下の検証を進める。

”天武14年7月27日 詔を発して、東山道は美濃以東、東海道(うみつみち)は伊勢以東の諸国の有位の者に課役を免ずる”とある。

この記録に対しては、壬申の乱の後処理の記録で、伊勢王のお膝元の伊勢の処置が記録されている。
伊勢以東の国に免税した事は、壬申の乱(672)で中立を保って平静を維持し、乱は都の範囲での結果となり、最小限の犠牲での戦いで済んだ事と、乱後の平静を維持する事の狙いの2つで、免税したものである。
特に、この地域には大化期から天武期までの改新で発生した新しい皇族第7世族に成った者等を、それまでの都から坂東に追い遣り配置した地域である。
所謂、1150年代までの坂東八平氏(皇族から平になった「ひら族地域」)である。(源の頼朝の後継者に成った「ひら族」である。)
天智、天武が実行した改新の不満を持っている地域である。
ただの地方の豪族ではない。天武に於いては場合に依っては敵側一族でもある。
事と次第では、不満も燻っている地域でもあり、敵側として飛び火するに充分な地域であったのである。
素早く、乱後対策を実行したのである。
実は、これ等の政策を提言したのは、「伊勢王」ではないかという事である。何故ならば、この後、「活躍 第4節 諸国巡行」のところで記録した史実がある。
その史実の一つを述べると、特に、この東国の不安定地域を安定させる為に、検地をした。しかし、その事で後に揉め事の煙が上がった。そこでその煙を消しに回ったのである。一連の仕事をしていたことを意味する。これを実行したのは「伊勢王」である。

この様に、「伊勢王」は一触即発の戦いにもなる難しい問題解決に当り、全国を天皇の名代で指揮官として、飛び回って活躍している。この様な問題解決には、高市皇子、大津皇子やその他の皇子は記録では出て来ない。有ってもせいぜい都範囲の神社仏閣への使い走りである。

この節外にも、文章の主語が「伊勢王」とは成っていないが、主語(高市、大津)の違いがあるが、その記録には確実には「伊勢王」が組み込まれているだろうと観られる内容も沢山ある。

軍事に強い高市皇子、事務に強い大津皇子はこの様な役目を命じられていない。
如何に、「伊勢王」が政治、経済、軍事の3面にその能力が長けていた事を物語る。

ところが、面白い事がある。別述するが、「全国善行話」の収集を命じられている。
これは全国を飛び回っている経験で、よく知っていてをその知識を買われたものであろう。

参考
「ひら族」
第7世族以下の皇族系は大化の改新により天皇が代わる度毎に、”ひら”(下族させる)にして坂東地域に送り、地域の護りとして配置した。この族の呼び名を「ひら族」と呼んだ。
これが350年程度で、坂東には八平氏となった。「坂東八平氏」と呼ばれた。
「たいら族」
これに対して、後漢から帰化した技能集団の首魁が、九州大隈の半国割譲と共に、伊勢の国をも割譲して、伊勢北部伊賀地方に半国を与えられた族がある。首魁阿多倍一族である。この一族は後に、平国香より5代後で太政大臣(清盛)になった「たいら族」(後に伊勢衆)があり、天皇家(敏達天皇の曾孫の芽淳王の娘)との血縁をした。
現代日本の第一次産業の基礎を確立し、中国の進んだ知識を取り入れて律令国家の完成に最も貢献した。軍事、政治、経済に手腕を発揮して、国の国体の様を確立させたその勲功で「たいら族(平氏:京平氏)」と賜姓を受けた。この平氏がある。俗称「京平氏」と言う。坂上、大蔵(永嶋)、内蔵、阿倍氏が主流族である。(第10節記述)

「駅鈴制度」は、大化改新の詔で定められたもので、第2の条に書かれている。
都城(みやこ)を創設して畿内の国司、郡司、関塞(せきそこ)斥候(うかみ)防人駅馬(はいま)伝馬(つたわりうま)を置く。「鈴契(すずしるし)」(駅馬、伝馬を利用する時に使用する鑑札)を造り、地方の土地の区画を定めたもの。

次ぎは、活躍 第4節 「諸国の巡行」である。

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日本書紀と青木氏 4/10

前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。

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検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」

活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」


本書記録
活躍 第4節 「諸国の巡行」
”天武12年12月13日 諸王5位の「伊勢王」を始めとして、大錦下羽田公八国、小錦下多臣品治、小錦下中臣連大嶋と官僚の判官、録史、行匠等を遣わして全国を巡行し諸国の境界を区分させた。”とある。”期日通りに出来なかったと報告した。”とある。

又、”天武13年10月3日 「伊勢王」等を全国に遣わして、諸国の境界を正式に定めさせた”とある。

”天武13年 詔を発し、「伊賀、伊勢、美濃、尾張」の4国は、今後、調ある年は役を免除し、役ある年には調を免除せよ”とある。
(伊勢伊賀北部を含む伊勢の国には後に不入不倫の権を与えた)

”天武14年10月17日 「伊勢王」を始めとして、諸臣を東国に向かわせ、衣袴を賜った”とある。
東国の各地で揉め事が多発した様子で、これを治めに出向いた。特に、境界による戦いであろうと考えられる。

”天武14年1月2日 爵位を改めた。施基皇子、川島皇子、忍壁皇子等に浄大三位を授け、諸王、諸臣に爵位を授けた。”とある。
(後に、伊勢王は皇子では段突の皇位の爵位の浄大1位に昇進している) 


検証
活動 第3節で検証した通り、乱後の平定を狙っての全国的な行動である。
最初の12月の仕事は1年掛かりである。大仕事である。
助手の公、臣、連の高位3人と、事務処理官、記録史、測量士のスタッフを連れての仕事である。
これには、ただ測量だけではすまない。検地と言っても(表の目的とは別に)裏の目的は燻る全国を治めに出かけたと云う事であろう。
本来の目的は境界を決めることではある。現代でも尽く揉める事が当り前である。相当な政治的な能力がなければ、俗人には出来ない。戦いも争いもあったであろう。
案の定、”命じられた日時で出来なかった”と報告しているのが何よりの証拠である。
しかし、10ヶ月後に完成していて、再び正式決定の巡行に出たのである。
終わったと思う間もなく、今度は4国の問題に関わっている。この4国は自分の国(伊勢)を含む上位王の国である。つまり、揉め事の東国の処理後、次は逆に、安定化の為の防備で身内の処理である。主要天領地である。
天領地の豊かさを確保する為には、免税処理をして安定化を図ったのである。そして、経済的だけではなく、政治、軍事的な処理も「伊勢王」は行ったのである。記録されている通り「伊勢国東付近の不可侵の詔」を与えて護ったのである。
つまり、不満の強い坂東の第7世族(ひら族)から4国との西境界域を経済、政治、軍事で強くし、バリヤーを築いた事になる。
同様に、関西以西の勢力には、どの様な「バリヤー」が敷かれていたのか疑問1である。
(第10節で詳しく朝廷の姿勢を述べる。)
しかし、それでも、揉め事は起こったので、沈静化させるために、再び2年後に出向いたのである。
この仕事は大変な仕事であるので、天皇は「伊勢王」にその労を労って「衣袴」を送ったのである。
普通、出かける時には、物は送らない。帰ってからの事である筈。
それだけに、”本当に申し訳ない”と労う天皇の気持ちが伝わる。それを表現する舎人親王の配慮も覗える。
そして、爵位を挙げて「伊勢王」に天皇に次ぐくらいの「権威」をつけて「交渉の特使」として送る段取りをしたのである。そして、納まったのである。
”納まった”と云う事は、政治的に「天武天皇期の権威」が定まったことを意味し、それは合わせて天武期の「皇親政治」の基盤を確立した事を物語る。即ち、天皇の権威を護る仕事をしたと言うことである。これだけのことを任される人物は天皇の周りには少ない。
軍事や事務に強い高市や大津の皇子でも出来ると云う事ではない。全ての能力が備わっての事である。この事からも、天皇から信頼されるほどに「伊勢王」の有能さそのものである事が言える。

しかし、ここで見落としては成らない大事なことがある。
居並ぶ50人の諸王が居る中で、順位は第6位皇子で第4位王(5位)で有りながら、まして、皇太子を差し置いて天皇に匹敵する立場と身分(浄大1位:最終皇子最高位)を確保するに至り、諸臣からも信頼も厚い。実績も挙げた。申し分のない環境である。後は、ここまでの者であれば、世の常、二つの事が起こる。
一つは人の「ねたみ」である。二つは「慢心」である。この結果、大抵の者は身を持ち崩すのである。
”この事はどうであったのか。”と言う疑問2が湧く。

これ以後の日本書紀の記録記述を注意しながら読み、舎人親王の記述表現にも現れていないかを観察するが、不思議に出て来ないのである。
むしろ、益々であり、最後には、「有終の美」を飾っている。
この事に付いて、「伊勢王」の努力もあったであろうが、「大津皇子謀反」が起こった事により、反省し自らを誡めたものでなかろうか。(成行きは後節記述)

「伊勢王」がこの様な事に巻き込まれなかった理由(反省)として大津皇子事件を更に検証して見る。そうする事で伊勢王の環境がより理解できるだろう。

伊勢王を検証するための大津皇子事件
”朱鳥元年9月24日 もがりの宮を南庭に建て、天武天皇の喪がりをした。大津の皇子が皇太子に謀反を企てた。”とある。

大津皇子の件も、その命令を出した主役は、妃の後の持統天皇か、草壁の皇太子かは本書では記録していない。
しかし、前後の関係から執務を取っていた大津の皇子に対して頼んだ妃が行うのは疑問がある。
まして、妃が「壬申の乱」(後節記述)で高市皇子と大津皇子と共に戦い、危ない橋を渡ってきて、尚且つ、自分に代わって天武天皇崩御の直前まで政務を執ったのである。人の道や義理人情に於いて朋輩に成し得ない事である。

ところが、記録をよく観察すると、反面、事件後の皇太子の行動の記録は一度に出てきて頻繁に行動して活発である。この活発な行動は奇異である事から、皇太子の命令で有ろう。

天武天皇崩御後の”朱鳥元年9月9日 皇后(妃)は崩御の式も出来ずに”と記録している事から、皇太子が実行したと見られる。崩御から20日経ってからの事件である。

その経緯は、次の通りとなろう。
”天武天皇が崩御して、次は自分がなるものだと思い込んだ。ところが、自分ではない事が判ってきた(後節記述)。そこで、これは実務をしている「大津皇子の反対」に合っているものと思い込み、今の中なら手を打てると見て、皇太子命(勅書を出せる)で実行した。”となるのが世の常であろう。
実際、政務を執り行う大津皇子に対して、本来は自分(草壁)が取るべき立場にありながらも、皇太子草壁皇子の凡庸さの所以から、「ねたみ、そねみ」から嫌疑を掛けたのではないか。
というのも、本来は自分が執務を執り、そして、天皇になる筈でありながら、この時、妃(持統天皇)が成ったのである。

草壁皇子は年齢的(24-5)にも充分である。しかし、この時、成れなかったのは、この辺の皇太子草壁皇子の「人徳の不足」(病癖 後節記述)から来たものではないかと考えられる。
現実に、史実は皇后(持統天皇)で、次は「文武天皇」に譲位と続き、皇太子草壁皇子は遂には天皇に即位出来なかった。病気で無いのに突然、27歳で薨去している。

”天武没3年4月13日 皇太子草壁皇子が薨去した。”とある。
病気であれば、盛んに草壁皇子の行動を記録していて、渦中の人物であるから、舎人親王であれば、病気と書くが、前後に関係する何も記録なし。これもおかしい。舎人親王の得意技であろう。
(後述)
”普通であれば書くが、それを書かないで、想像させる。”と言う手法である。

ここで、更に追求して、推測だが、草壁皇子に即位させなかったのは、一体誰なのかと言う疑問3である。検証して見る。

即位に反対できる次の有力者は4人であろう。反対する条件は次の様になる。
1番目は、最有力は母親の妃(持統天皇)である。
2番目は、大津皇子 皇位第2位、出生順3位 実力2位 人徳1位 政務担当 壬申の乱功労者2位
3番目は、高市皇子 皇位第8位、出生順2位 実力1位 人徳3位 軍事担当 壬申の乱功労者1位
4番目は、「伊勢王」(施基皇子 天智)第6位 出生順1位 実力3位 人徳2位 実務担当。壬申の乱功労者3位
5番目は、舎人皇子 皇位第3位、出生順7位、実力4位 人徳4位 編集担当 壬申の乱功労者0位 
長皇子は4位、出生順5位、弓削皇子は5位、出生順6位 壬申の乱功労者
(人徳は本書の中での記録、活躍、爵位、勲功、昇進の度合いを参考にした)
これらの2人物は、皇位第4、5位は順位はあるが、発言するに必要とする「実力」がない。

継承の「順位」と「実力」と固有の「人徳」の3つの条件が備わっていなければ継承者が多ければなれない。
条件の順位はこの時期では、「実力」で「皇位」で「人徳」となろう。この条件に無関係の人は妃(持統天皇)がある。
(舎人親王はその実力と人望は抜群でその声が出たが、断わり編集に専念した記録経緯がある。)

さて、ここで、草壁皇子から4人に対して「猜疑心」を抱かれるトップは、母親を例外として、矢張り、全ての条件で大津皇子となろう。余りに条件的に整いすぎている大津皇子が居る為に、草壁皇子は高市皇子にしろ施基皇子にしろ、先ず即位はないと見ていたであろう。そして、母親への猜疑は本能的に出なかったのではないか。
しかし、結論として、即位に反対したのは、無条件の母親であろう。(後述)

その証拠的記録がある。
何故ならば、天武天皇崩御後、暫く(5年間)は葬儀、即位を実行しなかった事。
次に、本書では、”壬申の乱から、妃は天皇に対して政務に対して助言をよくする積極的な人柄であった”。と記録されている。
別のところでは、”朱鳥元年9月9日より、2年を経て、立って妃から皇后となられた。皇后は始終天皇を助けて天下を安定させ、常によき助言者で、政治の面でも輔弼の任を果たされた。崩御後、5年間政務を自ら積極的に執った。”とある。
更に、”「2年後に」”、”「妃から皇后」”になって、”「更に1年後に」”、草壁皇子は”「薨去」”している。(689天武没3年後)
本書記録とこの4つの意味は何を示すのであろうか。

明らかに一つの経緯の推理が生まれる。
天武天皇没(686)後、大津事件(上記経緯)があった。即位の問題が出た。妃は悩んだ。暫く考える時間(1年:687)を執った。周囲の様子を見る事にした。しかし、矢張り決断した。自分(妃)が朝政務を執った(1年:688)。兄の「伊勢王」(高市皇子にも)に補佐を頼んだ。皇后になる必要がある。天武天皇の葬儀をした(688)、皇后で即位を決意(689)した。しかし、1年間は即位しなかった。この時、皇太子は自分が即位出来ない事を知った。意気消沈、大津皇子への懺悔、周囲の目から心の病、翌年(689)死亡(27)、兄の「伊勢王」も没(689)、補佐なくした皇后は翌年即位(690)。高市皇子太政大臣(693)。故大津皇子の嫌疑回復(爵位昇格:695)。持統崩御(697)

上記した事件の経緯と合わせて、この推理は、皇后の性格人柄から明らかであろう。

本書の記録もこの編のところを暗示させる為に、突然に行間の経緯から離れて、舎人親王はわざわざ記述したのであろう。
草壁皇子の人間を見て母親は長く悩み決断したと考えられる。
草壁皇子の取り巻きを本書の中で調べたが、はっきりしない。むしろ、大津皇子に関わったとする30人の高官は天武期の高官である。唆されたとする傾向はない。
この事から、草壁皇子の人間性から猜疑心を起し焦って皇太子の権限で実行してしまった。
(この時期、皇太子までは「詔書:天皇」「勅書:皇太子」を出せる仕来りであった)
焦った母親の皇后は、草壁皇子を押さえて暫く天皇を置かずに居たと考えられる。
そして、落ち着いたところで、後に、故大津皇子の嫌疑を回復する爵位の昇進を決めている事でもこれを証明する。

ただ、疑問4なのは、上記の天武期の3羽烏の一人高市皇子の動向である。
この事件を押さえることが出来る実力を持っていた。壬申の乱の功労者である。草壁皇子も一目は置いていた筈である。軍事力、政治力、経済力でも優位であった事から、草壁皇子を押さえ込む事は出来た筈である。
この場合は、中立的に軍を動かすだけの軍事的行動で抑圧して牽制する事で押さえる事は出来る筈であろう。軍事的対立での決着ではなく、「猜疑心」の嫌疑である。
謀反を起すとしたら、「軍事的行動」であろう。記録によると、大津皇子は軍事的行動を起した訳ではないのである。記録には全く無い。その周囲(30人)として挙げている者は僧侶達が多いのである。要するに狭量な嫌疑であり、記録では、ある日、「突然の死」の皇太子命令が下ったのである。
「軍事的行動」とすると事前に知っていた筈だから、その様な事は予期しているから錯乱する事は無い。それだから、大津の后(山辺皇女)は錯乱したのである。又、軍事的でないから、高市皇子や「伊勢王」も助けを出す暇がなかった事が言える。だから記録の通り”周囲の者は涙した”のである。「軍事的行動」であれば、”周囲の者は涙する”は無いだろう。まして、”周囲の者は涙した”は編年体の記録対象では無いだろう。
ここが舎人親王の「詩文的表現力」なのである。この一行を書く事に依って、その「様」を全て表現したのである。
もし、そうでないとしたら、何故、草壁皇子の正当性を表現し記録にしなかったのであろう。

(他説では”自殺”とあるが、本書では”訳語田「おさだ」の舎「いえ」で死を賜った”即ち、”命が伝えられた”とある)

「伊勢王」にしても、17歳年上の叔父であり、実務に長けているし、天智天武期を乗り越えてきて人格的な信頼度が高い。大津皇子との繋がりも高い。実務もし、身分も近いから頻繁に顔を合わしているから事前に説得出来た筈である。
だから、編者舎人親王は、それとなしに、事実を書かずに、大津皇子の性格を故意に書き添えて後勘に委ねたのであろう。
その証拠に持統9年1月5日 持統天皇は事件後9年後に、故大津皇子に浄広1位の爵位を授けている。持統天皇は、自分の子供の皇太子の人徳のなさで起した事件に申し訳ない気持ちを長く持ち続け、持統崩御3年前に嫌疑を回復させたのであろう。(活躍 第5節に記述)
この「故大津皇子の嫌疑回復」は”念願の心のしこり”を解消する為、高市皇子が太政大臣に成って提案し実行したと見られる。
妃である母親は途中(5年と7年計12年間)で、皇太子に問題なければ、譲位する事が充分に出来た筈である。しかし、譲位しなかった。一説では、”直前(1年前)で死んだから”と理由付けしている説もあるが、(持統天皇690年即位に対して草壁皇子689年薨去)天武天皇崩御(686)からの5年間がある。皇太子(27没)23歳で即位は充分である。

「伊勢王」ついては、この事件でも補佐と言う大変な立場にあったし、事態の変化に依っては草壁皇子の病的猜疑心から、場合に依っては嫌疑を掛けられて滅亡に至ったことも考えられる。
結果として、草壁皇子に説得を試みた様子の記録が見当たらないが、幸いしていたとも考えられる。

只、次に、「衣袴の授与」には「衣:つねみごろも」の深意をどう解釈するかである。(疑問5)
(参考の衣袴の解説参照)これを解釈すると、多少の努力はあったことも理解できる。
ともあれ、草壁皇子の性格を見抜いていた行動とも取れる。第一に高市皇子が動かなかった事から見ても、2人は乱の大事になる事を、壬申の乱の後だけに、人心に目を向けて、犠牲を最小限に押さえるために避けたとも考えられる。
壬申の乱の危機の後に、大津の事件の危機である。「伊勢王」は重要な政務と共に、気の休まる暇はなかったと思われる。人心も3度の「天皇家の争い」にはもう目をそむけて離れる事は必定である。

ところが、一難さって又一難である。更に「伊勢王」伊勢青木氏にはすごい試練が未だ待っていたのである。この事件の陰で試練は侵攻していたのである。
今度は、態勢が余りに大きく回避する事は出来なかったのである。(下記の第7節)

参考
天皇の妻 (皇后、后、妃、賓)の4階級と、妥女、女官の階級外で構成、女性天皇には皇后の位が必要。(皇后、妃、夫人、賓:の説もあり)

伊賀国は伊勢の国の分割国で後漢の阿多倍(大隈の首魁)に与えたものであると本書にも記録されている。

皇族賜姓青木氏の5家5流の一つ甲斐は、後の光仁天皇期であるのでやや先であるが、この4つの国には皇子を王として送っている。

信濃国(三野王)であるが、この当時は尾張の一部が開発されていた。
この当時は未だ開発は、現在の信濃までに及んでいなかった。この直ぐ後に後漢の阿多倍が率いる帰化人が入植した。(馬部、磯部等が入植)
大型外来馬を持ち込み牧畜による開発は信濃、甲斐までに及んだと本書に記録されている。

”持統天皇は、天智天皇の第2女で、母は遠智郎娘である。落ち着きのある広い度量の人柄である。”とあり記録されている。 天武天皇の妃になる 天智元年に草壁皇子の母となる。

「衣袴」とは、この字句には意味がある。この「衣」とは「つねみごろも」と読むが、皇位の者が日常に着る衣のことである。”私事(公務外)でも衣が磨り減るほどに頑張って貢献してくれた。”と言う意味があって、又、「袴」とは、今の袴(はかま)の意味ではない。この袴は「法衣」(ほうえ)又は「法服」(ほうふく)と言い、宮中で着る儀式や政務の時の衣服であるが、”政事(公務)でも袴の磨り減るほどに貢献してくれた。”だから、衣袴を与えよう”とする天皇はその意をこめて与えるものである。次の第5節でも、これをはっきりさせる勲功式があった。

次は、活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)である。

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