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日本書紀と青木氏 4/10

前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。

1/10 2/10 3/10 5/10 6/10 7/10 8/10 9/10 10/10 

検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」

活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」


本書記録
活躍 第4節 「諸国の巡行」
”天武12年12月13日 諸王5位の「伊勢王」を始めとして、大錦下羽田公八国、小錦下多臣品治、小錦下中臣連大嶋と官僚の判官、録史、行匠等を遣わして全国を巡行し諸国の境界を区分させた。”とある。”期日通りに出来なかったと報告した。”とある。

又、”天武13年10月3日 「伊勢王」等を全国に遣わして、諸国の境界を正式に定めさせた”とある。

”天武13年 詔を発し、「伊賀、伊勢、美濃、尾張」の4国は、今後、調ある年は役を免除し、役ある年には調を免除せよ”とある。
(伊勢伊賀北部を含む伊勢の国には後に不入不倫の権を与えた)

”天武14年10月17日 「伊勢王」を始めとして、諸臣を東国に向かわせ、衣袴を賜った”とある。
東国の各地で揉め事が多発した様子で、これを治めに出向いた。特に、境界による戦いであろうと考えられる。

”天武14年1月2日 爵位を改めた。施基皇子、川島皇子、忍壁皇子等に浄大三位を授け、諸王、諸臣に爵位を授けた。”とある。
(後に、伊勢王は皇子では段突の皇位の爵位の浄大1位に昇進している) 


検証
活動 第3節で検証した通り、乱後の平定を狙っての全国的な行動である。
最初の12月の仕事は1年掛かりである。大仕事である。
助手の公、臣、連の高位3人と、事務処理官、記録史、測量士のスタッフを連れての仕事である。
これには、ただ測量だけではすまない。検地と言っても(表の目的とは別に)裏の目的は燻る全国を治めに出かけたと云う事であろう。
本来の目的は境界を決めることではある。現代でも尽く揉める事が当り前である。相当な政治的な能力がなければ、俗人には出来ない。戦いも争いもあったであろう。
案の定、”命じられた日時で出来なかった”と報告しているのが何よりの証拠である。
しかし、10ヶ月後に完成していて、再び正式決定の巡行に出たのである。
終わったと思う間もなく、今度は4国の問題に関わっている。この4国は自分の国(伊勢)を含む上位王の国である。つまり、揉め事の東国の処理後、次は逆に、安定化の為の防備で身内の処理である。主要天領地である。
天領地の豊かさを確保する為には、免税処理をして安定化を図ったのである。そして、経済的だけではなく、政治、軍事的な処理も「伊勢王」は行ったのである。記録されている通り「伊勢国東付近の不可侵の詔」を与えて護ったのである。
つまり、不満の強い坂東の第7世族(ひら族)から4国との西境界域を経済、政治、軍事で強くし、バリヤーを築いた事になる。
同様に、関西以西の勢力には、どの様な「バリヤー」が敷かれていたのか疑問1である。
(第10節で詳しく朝廷の姿勢を述べる。)
しかし、それでも、揉め事は起こったので、沈静化させるために、再び2年後に出向いたのである。
この仕事は大変な仕事であるので、天皇は「伊勢王」にその労を労って「衣袴」を送ったのである。
普通、出かける時には、物は送らない。帰ってからの事である筈。
それだけに、”本当に申し訳ない”と労う天皇の気持ちが伝わる。それを表現する舎人親王の配慮も覗える。
そして、爵位を挙げて「伊勢王」に天皇に次ぐくらいの「権威」をつけて「交渉の特使」として送る段取りをしたのである。そして、納まったのである。
”納まった”と云う事は、政治的に「天武天皇期の権威」が定まったことを意味し、それは合わせて天武期の「皇親政治」の基盤を確立した事を物語る。即ち、天皇の権威を護る仕事をしたと言うことである。これだけのことを任される人物は天皇の周りには少ない。
軍事や事務に強い高市や大津の皇子でも出来ると云う事ではない。全ての能力が備わっての事である。この事からも、天皇から信頼されるほどに「伊勢王」の有能さそのものである事が言える。

しかし、ここで見落としては成らない大事なことがある。
居並ぶ50人の諸王が居る中で、順位は第6位皇子で第4位王(5位)で有りながら、まして、皇太子を差し置いて天皇に匹敵する立場と身分(浄大1位:最終皇子最高位)を確保するに至り、諸臣からも信頼も厚い。実績も挙げた。申し分のない環境である。後は、ここまでの者であれば、世の常、二つの事が起こる。
一つは人の「ねたみ」である。二つは「慢心」である。この結果、大抵の者は身を持ち崩すのである。
”この事はどうであったのか。”と言う疑問2が湧く。

これ以後の日本書紀の記録記述を注意しながら読み、舎人親王の記述表現にも現れていないかを観察するが、不思議に出て来ないのである。
むしろ、益々であり、最後には、「有終の美」を飾っている。
この事に付いて、「伊勢王」の努力もあったであろうが、「大津皇子謀反」が起こった事により、反省し自らを誡めたものでなかろうか。(成行きは後節記述)

「伊勢王」がこの様な事に巻き込まれなかった理由(反省)として大津皇子事件を更に検証して見る。そうする事で伊勢王の環境がより理解できるだろう。

伊勢王を検証するための大津皇子事件
”朱鳥元年9月24日 もがりの宮を南庭に建て、天武天皇の喪がりをした。大津の皇子が皇太子に謀反を企てた。”とある。

大津皇子の件も、その命令を出した主役は、妃の後の持統天皇か、草壁の皇太子かは本書では記録していない。
しかし、前後の関係から執務を取っていた大津の皇子に対して頼んだ妃が行うのは疑問がある。
まして、妃が「壬申の乱」(後節記述)で高市皇子と大津皇子と共に戦い、危ない橋を渡ってきて、尚且つ、自分に代わって天武天皇崩御の直前まで政務を執ったのである。人の道や義理人情に於いて朋輩に成し得ない事である。

ところが、記録をよく観察すると、反面、事件後の皇太子の行動の記録は一度に出てきて頻繁に行動して活発である。この活発な行動は奇異である事から、皇太子の命令で有ろう。

天武天皇崩御後の”朱鳥元年9月9日 皇后(妃)は崩御の式も出来ずに”と記録している事から、皇太子が実行したと見られる。崩御から20日経ってからの事件である。

その経緯は、次の通りとなろう。
”天武天皇が崩御して、次は自分がなるものだと思い込んだ。ところが、自分ではない事が判ってきた(後節記述)。そこで、これは実務をしている「大津皇子の反対」に合っているものと思い込み、今の中なら手を打てると見て、皇太子命(勅書を出せる)で実行した。”となるのが世の常であろう。
実際、政務を執り行う大津皇子に対して、本来は自分(草壁)が取るべき立場にありながらも、皇太子草壁皇子の凡庸さの所以から、「ねたみ、そねみ」から嫌疑を掛けたのではないか。
というのも、本来は自分が執務を執り、そして、天皇になる筈でありながら、この時、妃(持統天皇)が成ったのである。

草壁皇子は年齢的(24-5)にも充分である。しかし、この時、成れなかったのは、この辺の皇太子草壁皇子の「人徳の不足」(病癖 後節記述)から来たものではないかと考えられる。
現実に、史実は皇后(持統天皇)で、次は「文武天皇」に譲位と続き、皇太子草壁皇子は遂には天皇に即位出来なかった。病気で無いのに突然、27歳で薨去している。

”天武没3年4月13日 皇太子草壁皇子が薨去した。”とある。
病気であれば、盛んに草壁皇子の行動を記録していて、渦中の人物であるから、舎人親王であれば、病気と書くが、前後に関係する何も記録なし。これもおかしい。舎人親王の得意技であろう。
(後述)
”普通であれば書くが、それを書かないで、想像させる。”と言う手法である。

ここで、更に追求して、推測だが、草壁皇子に即位させなかったのは、一体誰なのかと言う疑問3である。検証して見る。

即位に反対できる次の有力者は4人であろう。反対する条件は次の様になる。
1番目は、最有力は母親の妃(持統天皇)である。
2番目は、大津皇子 皇位第2位、出生順3位 実力2位 人徳1位 政務担当 壬申の乱功労者2位
3番目は、高市皇子 皇位第8位、出生順2位 実力1位 人徳3位 軍事担当 壬申の乱功労者1位
4番目は、「伊勢王」(施基皇子 天智)第6位 出生順1位 実力3位 人徳2位 実務担当。壬申の乱功労者3位
5番目は、舎人皇子 皇位第3位、出生順7位、実力4位 人徳4位 編集担当 壬申の乱功労者0位 
長皇子は4位、出生順5位、弓削皇子は5位、出生順6位 壬申の乱功労者
(人徳は本書の中での記録、活躍、爵位、勲功、昇進の度合いを参考にした)
これらの2人物は、皇位第4、5位は順位はあるが、発言するに必要とする「実力」がない。

継承の「順位」と「実力」と固有の「人徳」の3つの条件が備わっていなければ継承者が多ければなれない。
条件の順位はこの時期では、「実力」で「皇位」で「人徳」となろう。この条件に無関係の人は妃(持統天皇)がある。
(舎人親王はその実力と人望は抜群でその声が出たが、断わり編集に専念した記録経緯がある。)

さて、ここで、草壁皇子から4人に対して「猜疑心」を抱かれるトップは、母親を例外として、矢張り、全ての条件で大津皇子となろう。余りに条件的に整いすぎている大津皇子が居る為に、草壁皇子は高市皇子にしろ施基皇子にしろ、先ず即位はないと見ていたであろう。そして、母親への猜疑は本能的に出なかったのではないか。
しかし、結論として、即位に反対したのは、無条件の母親であろう。(後述)

その証拠的記録がある。
何故ならば、天武天皇崩御後、暫く(5年間)は葬儀、即位を実行しなかった事。
次に、本書では、”壬申の乱から、妃は天皇に対して政務に対して助言をよくする積極的な人柄であった”。と記録されている。
別のところでは、”朱鳥元年9月9日より、2年を経て、立って妃から皇后となられた。皇后は始終天皇を助けて天下を安定させ、常によき助言者で、政治の面でも輔弼の任を果たされた。崩御後、5年間政務を自ら積極的に執った。”とある。
更に、”「2年後に」”、”「妃から皇后」”になって、”「更に1年後に」”、草壁皇子は”「薨去」”している。(689天武没3年後)
本書記録とこの4つの意味は何を示すのであろうか。

明らかに一つの経緯の推理が生まれる。
天武天皇没(686)後、大津事件(上記経緯)があった。即位の問題が出た。妃は悩んだ。暫く考える時間(1年:687)を執った。周囲の様子を見る事にした。しかし、矢張り決断した。自分(妃)が朝政務を執った(1年:688)。兄の「伊勢王」(高市皇子にも)に補佐を頼んだ。皇后になる必要がある。天武天皇の葬儀をした(688)、皇后で即位を決意(689)した。しかし、1年間は即位しなかった。この時、皇太子は自分が即位出来ない事を知った。意気消沈、大津皇子への懺悔、周囲の目から心の病、翌年(689)死亡(27)、兄の「伊勢王」も没(689)、補佐なくした皇后は翌年即位(690)。高市皇子太政大臣(693)。故大津皇子の嫌疑回復(爵位昇格:695)。持統崩御(697)

上記した事件の経緯と合わせて、この推理は、皇后の性格人柄から明らかであろう。

本書の記録もこの編のところを暗示させる為に、突然に行間の経緯から離れて、舎人親王はわざわざ記述したのであろう。
草壁皇子の人間を見て母親は長く悩み決断したと考えられる。
草壁皇子の取り巻きを本書の中で調べたが、はっきりしない。むしろ、大津皇子に関わったとする30人の高官は天武期の高官である。唆されたとする傾向はない。
この事から、草壁皇子の人間性から猜疑心を起し焦って皇太子の権限で実行してしまった。
(この時期、皇太子までは「詔書:天皇」「勅書:皇太子」を出せる仕来りであった)
焦った母親の皇后は、草壁皇子を押さえて暫く天皇を置かずに居たと考えられる。
そして、落ち着いたところで、後に、故大津皇子の嫌疑を回復する爵位の昇進を決めている事でもこれを証明する。

ただ、疑問4なのは、上記の天武期の3羽烏の一人高市皇子の動向である。
この事件を押さえることが出来る実力を持っていた。壬申の乱の功労者である。草壁皇子も一目は置いていた筈である。軍事力、政治力、経済力でも優位であった事から、草壁皇子を押さえ込む事は出来た筈である。
この場合は、中立的に軍を動かすだけの軍事的行動で抑圧して牽制する事で押さえる事は出来る筈であろう。軍事的対立での決着ではなく、「猜疑心」の嫌疑である。
謀反を起すとしたら、「軍事的行動」であろう。記録によると、大津皇子は軍事的行動を起した訳ではないのである。記録には全く無い。その周囲(30人)として挙げている者は僧侶達が多いのである。要するに狭量な嫌疑であり、記録では、ある日、「突然の死」の皇太子命令が下ったのである。
「軍事的行動」とすると事前に知っていた筈だから、その様な事は予期しているから錯乱する事は無い。それだから、大津の后(山辺皇女)は錯乱したのである。又、軍事的でないから、高市皇子や「伊勢王」も助けを出す暇がなかった事が言える。だから記録の通り”周囲の者は涙した”のである。「軍事的行動」であれば、”周囲の者は涙する”は無いだろう。まして、”周囲の者は涙した”は編年体の記録対象では無いだろう。
ここが舎人親王の「詩文的表現力」なのである。この一行を書く事に依って、その「様」を全て表現したのである。
もし、そうでないとしたら、何故、草壁皇子の正当性を表現し記録にしなかったのであろう。

(他説では”自殺”とあるが、本書では”訳語田「おさだ」の舎「いえ」で死を賜った”即ち、”命が伝えられた”とある)

「伊勢王」にしても、17歳年上の叔父であり、実務に長けているし、天智天武期を乗り越えてきて人格的な信頼度が高い。大津皇子との繋がりも高い。実務もし、身分も近いから頻繁に顔を合わしているから事前に説得出来た筈である。
だから、編者舎人親王は、それとなしに、事実を書かずに、大津皇子の性格を故意に書き添えて後勘に委ねたのであろう。
その証拠に持統9年1月5日 持統天皇は事件後9年後に、故大津皇子に浄広1位の爵位を授けている。持統天皇は、自分の子供の皇太子の人徳のなさで起した事件に申し訳ない気持ちを長く持ち続け、持統崩御3年前に嫌疑を回復させたのであろう。(活躍 第5節に記述)
この「故大津皇子の嫌疑回復」は”念願の心のしこり”を解消する為、高市皇子が太政大臣に成って提案し実行したと見られる。
妃である母親は途中(5年と7年計12年間)で、皇太子に問題なければ、譲位する事が充分に出来た筈である。しかし、譲位しなかった。一説では、”直前(1年前)で死んだから”と理由付けしている説もあるが、(持統天皇690年即位に対して草壁皇子689年薨去)天武天皇崩御(686)からの5年間がある。皇太子(27没)23歳で即位は充分である。

「伊勢王」ついては、この事件でも補佐と言う大変な立場にあったし、事態の変化に依っては草壁皇子の病的猜疑心から、場合に依っては嫌疑を掛けられて滅亡に至ったことも考えられる。
結果として、草壁皇子に説得を試みた様子の記録が見当たらないが、幸いしていたとも考えられる。

只、次に、「衣袴の授与」には「衣:つねみごろも」の深意をどう解釈するかである。(疑問5)
(参考の衣袴の解説参照)これを解釈すると、多少の努力はあったことも理解できる。
ともあれ、草壁皇子の性格を見抜いていた行動とも取れる。第一に高市皇子が動かなかった事から見ても、2人は乱の大事になる事を、壬申の乱の後だけに、人心に目を向けて、犠牲を最小限に押さえるために避けたとも考えられる。
壬申の乱の危機の後に、大津の事件の危機である。「伊勢王」は重要な政務と共に、気の休まる暇はなかったと思われる。人心も3度の「天皇家の争い」にはもう目をそむけて離れる事は必定である。

ところが、一難さって又一難である。更に「伊勢王」伊勢青木氏にはすごい試練が未だ待っていたのである。この事件の陰で試練は侵攻していたのである。
今度は、態勢が余りに大きく回避する事は出来なかったのである。(下記の第7節)

参考
天皇の妻 (皇后、后、妃、賓)の4階級と、妥女、女官の階級外で構成、女性天皇には皇后の位が必要。(皇后、妃、夫人、賓:の説もあり)

伊賀国は伊勢の国の分割国で後漢の阿多倍(大隈の首魁)に与えたものであると本書にも記録されている。

皇族賜姓青木氏の5家5流の一つ甲斐は、後の光仁天皇期であるのでやや先であるが、この4つの国には皇子を王として送っている。

信濃国(三野王)であるが、この当時は尾張の一部が開発されていた。
この当時は未だ開発は、現在の信濃までに及んでいなかった。この直ぐ後に後漢の阿多倍が率いる帰化人が入植した。(馬部、磯部等が入植)
大型外来馬を持ち込み牧畜による開発は信濃、甲斐までに及んだと本書に記録されている。

”持統天皇は、天智天皇の第2女で、母は遠智郎娘である。落ち着きのある広い度量の人柄である。”とあり記録されている。 天武天皇の妃になる 天智元年に草壁皇子の母となる。

「衣袴」とは、この字句には意味がある。この「衣」とは「つねみごろも」と読むが、皇位の者が日常に着る衣のことである。”私事(公務外)でも衣が磨り減るほどに頑張って貢献してくれた。”と言う意味があって、又、「袴」とは、今の袴(はかま)の意味ではない。この袴は「法衣」(ほうえ)又は「法服」(ほうふく)と言い、宮中で着る儀式や政務の時の衣服であるが、”政事(公務)でも袴の磨り減るほどに貢献してくれた。”だから、衣袴を与えよう”とする天皇はその意をこめて与えるものである。次の第5節でも、これをはっきりさせる勲功式があった。

次は、活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)である。

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日本書紀と青木氏 5/10

前節と本節には、関連性がある為、左メニューの「最近の記事」から、前節(1/10-4/10)を順次選択して先にお読み下さい。
それを念頭に「本節 5」をお読み頂きたい。

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検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」

活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」
活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」


本書記録
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)
天武”14年12月30日の翌年の1月20日を朱鳥元年とし、その前の1月2日 大極殿で諸王を召して、宴を行い、詔を発した。””王たちに無端事を尋ねる”と言われ、”答を得ると賜物を授ける。”とあり、戯にしてこれまでの勲功に対して2人に論功行賞を行った。

壬申の乱と政務などで天武天皇を助け最も活動した勲功者として、二人に論功行賞をした。
”高市皇子に秦擦の御衣(ハンの木の実で編んだ染め衣)を三揃い、錦の袴を二揃い、絹20匹、糸50斤、綿百斤、布百反を賜った。”とあり、次に、”「伊勢王」も答が当り、黒色の御衣三揃い、紫の袴二揃い、絹7匹、糸20斤、綿40斤、布40反を賜った。”と記録されている。

天武”14年7月26日 勅して、明位以下進位以上の者の朝廷服の色を定めた。
浄位以上は朱花(はねず)、正位は深紫 直位は浅紫 勤位は深緑 務位は浅緑 追位は深葡萄 進位は浅葡萄 と定めた”とある。
(注 「伊勢王」は「朱花」色である。前節レポートにもあるが、衣は「黒擦」袴は「紫」の最高職を許されている。) 


検証
天武”14年9月24日 天皇は病気に成られた。”とある。”朱鳥元年の9月9日 正宮で崩御した。”とある。
病気に成って、丁度1年後である。多分、信濃から螻蛄の胃薬を取り寄せたとある事から、胃がんで有ったのであろう。死期を悟り、最も、自分の御世に貢献してくれた「伊勢王」と高市皇子の2人に、特別に感謝を込めて賜物を授けたのであろう事が判る。

それを、感謝だけを以って正式な形としては出来難い事もあり、高市皇子と「伊勢王」の2人に特別に論功行賞の宴を催し行ったのである。50人もの諸王が居るにも拘らず、このたった2人にである。如何にこの二人だけに信頼されていたかが判る。

壬申の乱では殆ど「高市皇子」と「伊勢王」(施基皇子)の働きで天皇に即位できたし、その後の政務の2人の働きは段突である。この節では活躍 第1節-4節のそれをはっきりと記録しているものである。

特に、「伊勢王」の紫の袴は最高位の者(皇太子)が着用を許される色袴である。
高市皇子の錦の袴は天皇以外に着用を許されていないものである。
(平安後期では紫は僧位の最高位の者が許可されて着用を許された。)
そして、「伊勢王」は黒色の御衣の着用を許された。これは、政務官僚の長としての式服である。
皇太子が即位する時に着る冠位束帯の「黒染(くりそめ)御衣の法服」である。つまり、身分は第6位皇子、4位(5位)の王位、浄大3位(この時)であるが、皇太子扱い以上を意味しているのである。
どんな爵位を与えられてもこれ程の名誉は無いし、50人中の皇族の中にはこれ以上の者は他に居ない。

因みに、草壁皇子の皇太子の爵位は浄広1位で1階級下である。それ以上の身分扱いとなる。
(最高位の爵位は明大1位 2位 次は浄位1-4で大広に分ける 全48階級)
この2人には朝廷内外にその最高位の勲功があった事を発表したものである。
その有能さに付いてはこれ以上の説明は必要は無い。
伊勢王は、最終浄大1位に成る。

朝廷服の実務服は壬申の乱の従軍者への取立ての一環で、朝廷に上がる役人として登朝時に着る服でその勲功の印としたのであろう。

身分制度を明確にし、その実力に応じた勲功と身分を与えて、「皇親政治」のピラミッドの基礎が着々と進められていることが判る。

その例として、その朝廷方針として、今後の「律令制定計画」として「官僚体制」を確立する為に、上節記述の様に「官吏」を臣連はもとより、民間からも「優秀な者」の採用を積極的に行っている。
第6位皇子の「伊勢王」や「高市皇子」の二人は、空洞化していた皇太子身分より下でありながらも、爵位と実質身分が「伊勢王」等の方がはるかに高い事でも判る。
この辺に身分は前提になるが、その中でも「実力主義」である事が判断出来る。皇太子より他の皇子らは低い。

実力といえば、施基皇子を始めとして、大津皇子と高市皇子の3人は確別である。
しかし、大津皇子は実質は天皇に代わり政務を取っていたが、余り、彼だけが何故か昇進の記録が少ない(疑問1 上節の草壁皇子の猜疑心から来る反対である。追記)
その後、天武天皇崩御20日後に皇位継承第3位の大津皇子の謀反の事件が発生した。
(持統天皇崩御3年前に大津皇子没後に爵位昇格を与えている)

追記
大津皇子に対しての編者舎人皇子の評価は実に良い。

余談だが、記録から、次のような記録がある。
”朱鳥元年10月3日に、訳語田の舎で死を賜った”とある。
”24歳であった。妃の山辺皇女は髪を乱し、裸足で走り出した。見る者みなすすり泣いた。

”大津皇子は天武天皇の第3位皇子で、威義備わり、言語明朗で、特に、叔父の天智天皇にその才能を認められて可愛がられていた。成長されるに及び有能で才学に富み、特に、文筆を愛された。この頃の詩賦の興隆は大津皇子にある”と本書は記録し断言している。

その証拠に、”この謀反に関連したとされる人物は30余人(皆天武期の大物の朝臣族 僧侶も多く含まれる。)である。罰は軽くした”とある。この記録がある。

又、”伊勢神宮の斎王の大来皇女が同母弟の大津の謀反で任を解かれて都に帰った”とある。

大津皇子のその身分は皇太子より低い事への不満があり、余り実力の無い皇太子に天武天皇崩御直後に謀反したとも考えられるが、既に没した天武天皇にではない。まだ誰が権威者になるかは判らない時である。
そんな時に謀反するかとの疑問が湧く。有る程度天智天皇の時の壬申の乱のように大友皇子が成ると決まっていて、乱が起った事であれば判るが、この場合は、皇太子が天皇に成るとは限っていなかった。皇太子本人は思っていた。
この天智天武期では、最も純血血縁度の高い者がなる掟であった。従って、天智の時は大海人皇子か大友皇子と成るが、本来は大海人皇子である。兄弟優先と決まっていた。

この場合は天武の皇位継承者は草壁皇子か大津皇子かの問題が出る。
順序では皇太子であるので草壁皇子ともなるが、それには実務、実力、権威、信頼、経験、性格に関わるであろうから、優先的には大津皇子となる。
大友皇子の時も、この性格人格が左右して、人心がついて行かなかったのである。
しかし、その条件中の性格は、大津皇子は温厚で文学的な素養を持ち人徳ある人物と特筆されていることからも充分である。

事件の記録されている中では、処罰された者の中には高僧も多いのである。これ等の処罰者は全て軽い刑に終わっている。
この大津皇子の事件の真因は、実刑実罪が見つから無かった事から、草壁皇子は他を罰する事に躊躇したのであろう。
この事件からも覗える事であるが、厳しい身分制度を確立しながら、ある身分の範囲では、実力主義であり、つまり、この後で起こった謀反説が、逆にこの時期に実力主義の考え方が常識化していたことを意味する。多分、上記した条件も含めて、時代の混乱期としては、大津皇子への周囲のラブコールが大きく起こっていたのではないか。
そして、そのラブコールをした人物を30人として罰したのであろう。
だから、ラブコールだから、高僧が多かったのではないか。謀反では高僧は入らないであろう。
しかし、狭量な凡庸な猜疑心の強い病的な草壁皇子には、謀反と捉えたのではないか。
だから賢く政治力の持つ母親は、心情的には草壁であろうが、息子に譲位しなかつたのである。

この事件が、この「皇親政治」が「実力主義」で無かった場合は、この事件は起こらなかったと考えられる。つまり、草壁皇子に政務を執らせ、爵位も高くして今までの「御座成り」の体制を敷いていた場合、「病的な猜疑壁」が頭をもたげなかったとも考えられる。
立場、仕事、身分、能力等何を採っても、本来は皇太子が上である事になる天智前の時代システムが覆させられているのである。そして、「皇太子」と成っている矛盾では、「強い猜疑心」が湧くのは草壁皇子ならずとも、「人の性(さが)」から観ても必然とも思える。
同じ「猜疑心」での「大友皇子事件」、つまり「壬申の乱」は相互に「猜疑心」を持った事から起こったのであるから、若干、天皇になる慣習システム(純血順)が異なってはいたが、何れも「猜疑」と言うキーワードでは同じではないか。この乱は条件的なもの、例えば純血、勢力バランス等が均衡していた事で、相互に出せる立場にあったので、「大津皇子事件」と違い、勅書を遣わずに、「戦い」と言う手段で解決した事に成ろう。

中大兄皇子との「有間皇子事件」は、燻る孝徳天皇派との軋轢が左右した事もあり、「争い」が表沙汰に無くて、「暗殺」と言う事で解決したが、「戦い」と「猜疑」との何れもが使えなかった事件ではないだろうか。
この事からすると、3つの要素の「暗殺」「戦い」「猜疑」から逃れられて、「伊勢王」はあらゆる危機を乗り越え、真に「壬申」ならぬ「人心」に評価されてその幸運に恵まれている事を物語る。

現在でも、同じで実力があっても昇進しないということは同じでは無いか。この3つの何れかで昇進しても潰されることが世の常である。
これは真に「伊勢王の人徳」と言うものであろう。
況や、我々青木氏の末裔は、遺伝子的にこの始祖の人徳を引き継いで持っているのである。

参考
爵位の朝廷で着る実務服は、浄位では朱色である。
袴では、全体として最高位は錦と紫である。儀式では黒の御衣である。
「八色の姓の制」の八色とは元は7色の定めであったが、八色に変更したがこの色からきている。
真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置(684)である。宿禰までが皇族系

紫の色の高位性は、大化3年12月 「7種13階の冠位」を制定した。
第1は、服の色は冠と揃い深紫 第3は、冠は紫、服は浅紫とある。
僧衣も以後これに準じた。

次は、活躍 第6節 「天皇の名代」である。

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日本書紀と青木氏 6/10

前節と本節には、関連性がある為、前節の内容を念頭に以下をお読み頂きたい。

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検証する青木氏に関わる内容は次の通りである。
検証項目
活躍 第1節 「白雉の年号」
活躍 第2節 「伊勢王の薨去」
活躍 第3節 「伊勢国の重要度」
活躍 第4節 「諸国の巡行」
活躍 第5節 「紫の袴着用の許可」(最高位の身分扱い)

活躍 第6節 「天皇の名代」
活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」
活躍 第8節 「善行説話の編集」
活躍 第9節 「伊勢行幸」
活躍 第10節 「大隈の首魁(阿多倍)」


活躍 第6節 「天皇の名代」
”朱鳥(あかみどり)元年4月27日 伊勢神宮に多紀皇女、山背姫王、石川夫人を遣わされた。
5月9日 多紀皇女等は伊勢より帰った。”とある。

”朱鳥元年6月16日 「伊勢王」及び官人等を飛鳥寺に遣わして、衆僧に勅して「この頃、わが体が臭くなった。願わくは仏の威光で身体が安らかになりたい。それ故に、僧正、僧都及び衆僧たちよ、仏に祈願して欲しい」と言われ、珍宝を仏に奉られた。”とある。

”天皇の御病平癒の祈願して、朱鳥元年8月15日 施基皇子(しきのみこ)と磯城皇子(しきのみこ)2人に食封200戸を加封された”とある。

検証
この頃、天武天皇は病気である。この年(686)、年号を朱鳥とした。「大化」期から始まった年号は次には「白雉」となり、直に廃止し、天武期の終わりに「朱鳥」の元号とし、又、直に廃止した。
第1節で述べた様に、「即位、瑞祥、災難」で年号を変える慣習であり、この時は災難に当るだろう。そこで、天武天皇が身内の者を遣わして、「伊勢王」の居る伊勢国に、天武天皇が斎宮、斎王を置き正式に定めた伊勢神宮に祈願した。
この節で判る様に、「伊勢王」、「施基皇子」と2月毎に差し向けている。

この平癒祈願の3つの記録に少し違いがある。
1つ目は、「氏神」の「伊勢王」の国許に祈願した。
2つ目は、「伊勢王」を「菩提寺」の飛鳥寺に祈願させた。
3つ目は、「祈願努力」の「施基皇子」に加封した。

1つ目は、名代人物の表現が疑問である。
天皇家祈願実行を受ける「天智天皇」の息子である「伊勢王」の立場と成っているが、本来は、実父(天武天皇)の祈願であり、皇太子があるのだから「伊勢王」ではなく「草壁皇子」であろう。
2つ目と3つ目にも違和感がある。逆の表現の疑問が出る。
2つ目は、本来、寺に遣わすのであるから、その正式な皇子名で「施基皇子」とするべきであろう。
「伊勢王」は役職名である。
3つ目は、その努力は氏神を護る役目として「伊勢王」とするべきであろう。逆ではないか。

1つ目では既に役目柄同行している。これは良いとして、2つ目の「伊勢王」の使い方は、伊勢神宮の「神」の護り役であり、その者が飛鳥の「寺」に行くのはおかしい。
神に仕える者が寺に祈願に行くには、役目を外した施基皇子の名であろう。
3つ目の使い方は、身分柄でなく役目柄に対しての勲功であるから、「伊勢王」である。

さて、この1-3(疑問1)をどう解くべきかである。記録から観てみる。
上記した様に、草壁皇子は天皇崩御後は、活発に没後の祭祀(もがり)を盛んに行っている。
しかし、崩御前は活動はない。崩御後は、草壁皇子薨去までの活動は、3年間で10回(正味2.0年)で、薨去直前1年は祈願を含めて全く無いのである。
そして、天武天皇発病で(胃病:信濃より螻蛄[おけら]という薬)胃薬を取り寄せる。
天武14年9月18日後、崩御(朱鳥元年9月9日)までの一年には、草壁皇子の治癒祈願は全く行っていない。治癒祈願外もない。
崩御したからと言って、突然活発に動いた。この事の持つ意味は何を示すのであろうか。

経緯
① 上記の「伊勢王」の「身分柄」、「役目柄」の使い分の事、
② 病気中の皇太子の「本来役目」に対する活動のない事、
③ 崩御後の活動が多い事、
④ 皇太子薨去1年前は突然活動はなくなる事、
⑤ 崩御2年は喪に服する当時の慣習(本書に明記)がありながら、活動は「もがり」以外にも活発である事、
⑥ この皇太子薨去1年前は母親の妃が皇后になり、天皇に成れない事を知った年でもある事。
⑦ 本来、これ等全ては皇太子の草壁皇子が全て行う「仕事柄」であるにも拘らず、周りの者(伊勢王)が行っている事。
⑧ 何を於いても、率先して行わなければ成らない仕事柄である事。
⑨ 民の範たる立場である皇太子である事。

これ等の事(①-⑨)から考えて推理すると、舎人親王の「得意の手法」であろう。
その推理とは次の事に成ろう。
推理
つまり、崩御前後の本来あるべき皇太子の行動に対して「病的異変」(参考参照)があったと観られ、編集上、舎人親王は記述する事は出来ない。そこで、それを代行する「伊勢王」の行動に、先ず「違和感」の変化を与え、「疑問」を持たせて、本書の天武天皇崩御前後の記述に、皇太子の行動に「目立つ変化」を付けた。そして、皇太子薨去1年前にも政治が動いているにも拘らず、全くで記述しない。これで、”皇太子に何かある”と見せた。
喪の終わった時のこの1年には、妃が皇后になり、天皇に即位すると決意した時である事を明示した。即位決意して1年後に即位した。
そして、編年体の項目に関係ないのに、特別に喪の期間を2年と記述した。
これで、舎人親王はこの間(4年)に起こっている経緯を意を含めて編年体で描く事が出来ると観ていたと考えられる。
何はともあれ、前節までの草壁皇子の疑問の行動の検証部分からも考えて、それまでの舎人親王の得意技から考えても、この疑問もこの様に成るのではないか。

この疑問の答えが正しいとすると、「伊勢王」は、大変な環境に居た事を示すものである。

前節までの「伊勢王」の政治行動は「役目柄」で「身分柄」を演じている事である。
本来、「伊勢王」は伊勢の「守護の役目」で、他の王と同じく伊勢に於いて果たす事が主務であり、「朝政務の役目」ではない事は明らかである。しかし、本書では、他の皇子は全て身分柄で記述されているのである。
既にお気づきと思うが、この「伊勢王」と第6位皇子「施基皇子」の全体の扱いの使分けには疑問はある。この事は「伊勢王」のすば抜けた有能さを持ち得えていた事を本書は示しているのである。
即ち、舎人親王が力を特に入れていた編集処であろう。それ故に、第2節と下節の「伊勢王の薨去問題」でも編集時の配置ミスをしたのではないか。

参考
持統天皇は天智天皇の第2女である。天智天皇(中大兄皇子)の同母(遠智娘:おちのいらつめ)弟である天武天皇(大海人皇子)の妃となり、後に皇后と成った。正式名は高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのすめらみこと)。幼名は鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)、俗称は新田部皇子
叔父の天武天皇との血族結婚による。その子供が草壁皇子である。

当時の皇位の血縁は血族結婚を主体として、純血を守る為に慣習化されていた。その代わり、その為に地方の豪族の娘を妥女(うねめ:宮廷女官:人質:妻の階級外)としてとり子孫を護った。
故に生まれは遅いが、妃の子供であるので皇位第一位皇子で皇太子なのである。

伊勢青木氏の始祖の伊勢王(第6位皇子)は越道君の郎女で妥女である。身分の低い皇子となる。
(天智天武の皇子皇女の系譜レポートを参照)

第3親等までの血縁は障害異児の危険性があり、隔世遺伝による危険もあるので、妥女からの子孫存続を図り、当時は可能な限りに於いて2代毎に新しい血筋を入れている。

持統天皇の孫(草壁皇子と後の女性天皇の元明天皇との子供)が次の天皇に成っている。つまり、文武天皇である。元明天皇は天智天皇の子供。持統天皇とは姉妹で、草壁皇子と叔母と血縁した子供が文武天皇である。

妥女の子の伊勢王、施基皇子の子供が光仁天皇であるが、光仁天皇は大隈首魁阿多倍の孫娘「高野新笠」(帰化人)の血筋を入れている。この後、「高野新笠」を母とする桓武天皇からは律令制度の確立に基づき、法的方針として、血族結婚は藤原氏や、阿多倍らの帰化人などの血筋を入れて避けた。
阿多倍は敏達天皇の曾孫の芽淳王の娘を娶る。(詳細は第10節)

次ぎは、活躍 第7節 「天武天皇の葬儀」である。

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