青木氏と守護神(神明社)-16
[No.284] Re:青木氏と守護神(神明社)-16
投稿者:福管理人 投稿日:2012/03/02(Fri) 08:10:36
:「北陸東北域」の続き
>八幡社の分布順位(地域分布・重複)
>1 関東域 7県-94-26.5%(全体比)-平均13/県 清和源氏勢力圏域
>2 九州域 8県-70-19.8%(全体比)-平均 9/県 未氏族の圏域
>3 関西域 6県-52-14.7%(全体比)-平均 7/県 氏の出自元の圏域
>4 中部域 8県-52-14.4%(全体比)-平均 7/県 清和源氏・秀郷一門圏域
>5 東北北陸域 8県-38-10.7%(全体比)-平均 5/県 反河内源氏の圏域
>6 中国域 5県-24- 7.9%(全体比)-平均 5/県 源氏空白域・讃岐藤氏圏域
>7 四国域 4県-21- 5.9%(全体比)-平均 5/県 讃岐藤氏圏域・源氏空白域
>(詳細データは本論末尾添付)
「3つの守護神の神明社」
前段で論じてきた論処の通り、この「八幡社38+神明社97」=135と成る数字は疑う事無く「神明社」そのものなのです。しかし、では”何故に「八幡社」としているのか”についての疑問です。
それは「4の中部域」では「神明化八幡社」と発展させてましたが、この「北陸東北域」では「八幡化神明社」と成り得たのです。そしてこの八幡化した「八幡社」はこの地域では最早「弓矢の神」では無く、「4の中部域」の「農兵」の「身の安全を護る神」から、更に発展させて「家内安全の神」の守護神として考えられていたのです。
それは、「神明社」の「生活の神」「物造りの神」は勿論の事、前段で論じた様に「400年に及ぶ苦難」の末にこの地域では弓矢に変えて民は「家内安全の神」を求めたのです。
それは「合祀」ではなく「神明社」そのものに「3つの守護神」を求めたのです。
この「3つの守護神」を持った神明社の一部が鎌倉期に成って「家内安全の神」を強く主張する「神明社」が現れ、その「神明社」が室町期に入っての「下克上と戦乱」を背景に「創建主の勢力」が衰退し「管理維持」が困難に成り、「神社経営」の為に「神明社」と区別して「八幡社」と呼称されるように成ったものなのです。
これは呼称の範囲のものであってその元は「3つの守護神の神明社」であり続けたものなのです。
「3つの守護神」
>神明社の存在意義=「生活の神」「物造りの神」+「身の安全を護る神」→「家内安全の神」→「万能の神」
「八幡社呼称の経緯」
地域の「八幡社」の現在の呼称の経緯としては、鳥居の形や社屋の形状は多くは「神明造り」であり、元は「神明社」としての建立であった傾向が有り、室町期に入ってからの呼称と観られるのです。
その結果、「3つの守護神」の傾向が更に進み「家内安全の神」をそのものを求めたのです。
この地域は「生活の神」「物造りの神」として上記したように古くから神明域であった事から、当然の事として「時代の背景」が影響して武士も民も全ての民が「生活の神」を発展させて「家内安全の神」を「主の守護神」として民は求めたのです。
その為に「神明社」が一部「八幡社」に単純に変名したと云う事なのです。
「八幡社」と云っても此処では「弓矢の八幡社」で無い「神明社的な家内安全の八幡社」であった事から変名の抵抗は最早無かったと観られます。
「生活の神」「物造りの神」に、そして「家内安全の神」に、遂には八幡社の本来の「国家鎮魂」を加えた神を創造したのです。そしてそれは「神明社」のみならず「八幡社」との距離感を殆ど無くし、何れも「民の守護神」として崇める風習が生まれたのです。
その証拠に次ぎのような事がこの地域に限って起こったのです。
そして、そもそもこの地域の「神明」とする呼称は、「3つの守護神」の意味を持ち、それを単純に”「神様」を「神明」”と古くから呼称されていて、”神明”と云えば”神様”の総称の事であったのです。
それには「雄略天皇の八幡社」の意味合いも含んでいて、一応は「八幡社」の呼称はあるとしても根本的に「応神天皇」の「神明」であったのです。
>「民の”神様”」=「民の守護神」=「”神明”の呼称」
つまり、全ての守護神の総称を”「神明」”と呼称したのです。
「神明社」「八幡社」に分ける事に大した意味は無く全て大まかに”「神明」”であって、その”「神明」”は「神明社」なのです。
神社の経営的な意味のみであるのであって「民の心の区分け」を意味するものでは無かったのです。
北陸東北域の「神明社-八幡社の関係式」
>「神明社」≒「八幡社」→「神明社」+「八幡社」→「神様」=「神明」=「民の守護神」
>「生活の神」+「物造りの神」+「家内安全の神」+「国家鎮魂」+「身の安全神」=「八幡社+神明社」
実は「神明社」には「2つの通説」があるのですが、この中の一つの「神明=神の説」は此処から来ているのです。強ち、関東以北ではこの「神明=神の説」は間違いないのです。
ところが関西以西では八幡社、神明社、鎮守社、春日社、住吉社、出雲社等の前段で論じた自然神に繋がる「5つの守護神」を祭祀する社はその存在意義は又明らかに別なのです。
特に「氏の神」の神に代表される春日社等は区別化は当然の事として、上記した様に以西に行くに従い「八幡社の区別化」は明確に成って行くのです。
それは「荘園と未勘氏族」のあり方に起因しているのです。
「荘園に依って酷い苦しみを受けた地域と未勘氏族」と、「荘園に依って利益を受けた地域と未勘氏族」との「パラメータの差」が「八幡社と神明社の区別化」を促しているのです。
そして、その「荘園と未勘氏族」の有様は、平安期中期、平安後期、鎌倉期、室町期初期、室町期中期、室町期後期の「6つの期」になって現れ、それは「政治的な施策」と「戦乱の影響」に依って変化して行くのです。それが関西を中心に「以西と以北との変化」に差として生まれて来たのです。
この「八幡社と神明社の区別化」の差が次ぎの様な関係を示しているのです。
>”「以西・大>関西>以北・小」の関係”
が生まれて行ったのです。
この事は「4の中部域」で論じた様に、「圏域の勢力数」の関西を基準にした関係表(冒頭の表 上記の重複表)でもこの傾向を顕著に示しています。
実はこの事が次ぎの数にも表れているのです。
「北陸東北域のデータの検証」
「4の中部域の論説」の通りこの「北陸東北域」はそもそもそれ以上の地域であり、それからするとこの下の数は更に少な過ぎるのです。
関西域に対して1.8倍は低すぎるし、神明社3.9も低すぎると考えられます。
つまり、「関西域の八幡社」が概ね15%であるとすると、この地域の八幡社38は多すぎ、全国比1割を占める事は考えられずもっと低い筈です。
当然に神明社は「関東域115」に対してこの地域での「神明社97」は少なすぎ、「関東域の全国比20%」に比べて「北陸東北域の全国比17%」は低すぎると考えられます。
もし、このままの数字であるとするならば前段で論じた様な事件が ”歴史的に何も無かった”と云う事に成ってしまいます。
既に関西から関東に掛けて「八幡社」は勿論の事、「神明社」もその「歴史的な経緯」による変化を起こして来ていて、その様にデーターの変化を起こしています。”何も無かった”はあり得ずそんな事は絶対に無い筈です。
この「北陸東北域」に於いて現実に厳然と「特異な歴史的な経緯」を持っているのに ”何も無かった”と云う事をこのデータは示している事に成ります。「八幡社」だけならいざ知らず「神明社」も歴史的な状況に一致しないデータなのです。
”現世は移ろい去り行く”の例えの通りの如く歴史につれて「人の営み」は変化するものです。
つまりは「八幡社」の数は(+)であり「神明社」の数は(-)である事から、これは明らかに「時間の経過」に伴い「神明社→八幡社の変化」を起こした事を意味します。
そこで、では、どの様なデータならこの地域のデータに成り得るのかを検証します。
次ぎの表を参照して下さい。
>総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
>1.8倍 3.9 0.7
>八幡社 7県-38-10.7%(全体比)-平均5/県
>神明社 7県-97-17.1%(全体比)-平均14/県
>関西域八幡社 6県-52-14.7%(全体比)-平均 7/県 源氏の出自元の圏域
>関西域神明社 6県-14- 0.2%(全体比)
>八幡社 秋田3 山形7 宮城7 青森3 岩手4 福島2 北海道9
>神明社 秋田33 山形15 宮城14 青森13 岩手11 福島9 北海道2
上記する経緯から、「以西・大>関西>以北・小」の関係から考えると、”中部域の「5割域の分布」の自説は「46.6%の計算値」”に匹敵する位の「神明社の数」である筈です。
この「八幡社38」を加えて135として観ると24%となり、関西域を基準として観ると5.4倍と成ります。
「関西域25」を基準としたこの地域の神明社の97の倍率3.9ですので、5.4はそれなりの比率と観られます。
しかし、「地理的要素」と上記の「歴史的要素」を考慮した場合、少なくとも秀郷一門の「関東域の数字」位は少なくとも保有していると考えられますので、因って「関東域の倍率4.6」に対し「5.4」は納得出来る倍率と考えられます。
そうすると、比較すると次ぎの様に成ります。
>関東全域 神明社 7県-115-20%(全体比)-平均16/県 本家域
>北陸東北 神明社 7県-135-24%(全体比)-平均19/県
神明社の全体比として考えれば20%/24%は、遜色なく相当として納得出来る数字と成ります。
それに「関東域」と「北陸東北域」の人口比(1/2と試算)から考えれば、48%程度と成り「中部域46%」に匹敵することに成ります。
これを下の表の通り「県分布」で考察すると、この地は”越後域から陸奥域に掛けて神明社の勢力圏が移動し構築されている事”が良く判ります。
他の6県域ではほぼ一定で変化が無い事等は、真に「歴史的な青木氏の経緯」と一致します。
つまり、この地域の「八幡社」は全て「神明社」と観て検証する必要があるのです。
そうすると次ぎの様な「北陸東北域の総合分布」に成ります。.
「北陸東北域の総合分布」
>神明社 秋田36 山形22 宮城21 青森16 岩手15 福島11 北海道2
以上と成ります。
「統治経路と末裔分布経路」
上記の事は秀郷一門のこの域の「統治経路」か「末裔分布の経路」を調べる事で判る筈です。
これはこの域の「八幡社」を「神明社」として観てしまうと、明らかに「青木氏の末裔分布、又は勢力分布」に極めて酷似しています。
前段で論じたこの地域の立役者である「特別賜姓族」の「越後青木氏」は、歴史的な幾つもの戦乱から「賜姓青木氏を保護」し受け入れて護り、且つ陸奥への「戦略的ルートを構築」し、陸奥域の「青木氏の基盤」を護った地域でもあり、越後はその拠点と成った所であります。
そして、その陸奥より南下の岩手に勢力圏を伸張して同門の「進藤氏などの力」を借りて「山形の勢力圏」を築いたのです。つまり、次ぎの表の経路を示しているのです。
>「新潟の拠点」→「青森域」→「岩手域」→「山形域」→「秋田域」→「宮城域」
以上の順で勢力圏を拡大しそれに伴って「神明社の分布」は拡大したのです。
本来であれば、「北陸ライン」を北に採って、統治経路を造るのが戦略上では理想的です。
>「新潟の拠点」→「山形域」→「秋田域」→「青森域」→「岩手域」→「宮城域」
以上と成る筈です。
しかし、この圏域全般は阿多倍一門の「産土神」の「内蔵氏」や「阿倍氏」の「末裔の勢力分布域」であった地域です。この域を抜くのは大戦闘を意味しますので戦略上得策ではありません。
この事から「鎮守府将軍」として秀郷一門が先ず「陸奥域」に赴任して、その地を統治するには「越後」を拠点とするも「出羽の山形域と秋田域」は直ぐには「越後域の一門」と結ぶ事(北陸ライン)は困難であったのです。
そこで先ず「陸奥域」の「東北ライン」の「岩手域」を統治し、そこから左隣国の「山形域」を「越後域」の拠点と結んで統治し、その勢いで上の領域に伸張して「秋田域」を制圧して、最終には「宮城域」の北側を統治する勢力圏と成ったのです。それに伴い「神明社」が分布するのです。
この経路で「神明社」が分布する事は、前段でも論じた神明社の第2の別の目的の「戦略拠点」なのですから、この「分布経路」に沿って「統治経路」の戦略を採った事を意味します。
つまり、これには平安初期からのこの地域は阿多倍一門の「内蔵氏」等の勢力圏でも在った事から、未だこの地には「産土神の地盤」でもあったのです。「敵対地域」だけではなかったのです。
それが200年の間に秀郷一門の統治により阿多倍一門の末裔は、思考の根底には「産土神」の考え方も在っても次第にこれを変化させ、「秀郷一門の青木氏」の影響を受けて「祖先神-神明社」へと変化させて行ったのです。
返して云えば、「産土神」から「祖先神-神明社」に変化させるだけの「秀郷流青木氏の影響力」が実に大きかったかを物語るものです。少なくとも大なり小成りに ”思考の根源を変えさせた”と云う事を意味します。これはある条件が揃わなくては成し得る事ではありません。少なくとも争いの連鎖を生む「武力」ではない筈です。
本来ならば、上記した「統治経路」は進藤氏や一部長谷川氏等の協力を得ているのですから、間違いなく「春日社」と成る筈です。
ところが、それどころか「春日社」勢力圏に成らず、のみならず「産土神」さえ殆ど消え去り「祖先神の神明社」と成って行ったのです。そうなると人の思考を変え得るのは唯一つです。考えられるのは「血縁力」と成ります。
(参考 明治2年 陸奥→磐城、岩代、陸前、陸中の東北圏に分ける 出羽→羽前、雨後の北陸圏に分ける それまでは北陸東北域は陸奥と出羽であった)
「進藤氏の活動経緯」
特にこの地域の「神明社の分布」の発展は、真にこの「進藤氏の活動経緯」と一致しているのです。
前段で論じたこの”進藤氏の歴史に残る秀郷一門の中での活動行動”が無くして「神明社の分布発展」は無かったのです。
これは”神明社を直接に進藤氏が建立した”と云う事ではなく、建立に必要とする「秀郷流青木氏の勢力保持」をこの地域に於いて側面からバックアップしたと云う事なのです。
恐らくは、この地域に於いて上記した「歴史的経緯」があったからこそ「秀郷流青木氏の力」だけではなく陸奥域から関東以北全般に掛けての「進藤氏の圏域」が必要であって成し得たものであります。
「人の心」は武力に頼らない「鎮守府将軍」の方に向いた事を物語ります。
その中心と成って働いたのが「第2の宗家」と成っている「特別賜姓族」で「秀郷流青木氏」であります。
又、一門の中でその「調整役の立場」にあった「進藤氏」は為政の為に自らの氏を犠牲にしても積極的に出て来た結果であると考えられます。
上記の”ある条件”とは、民から慕われる神明社建立の役目を担う「特別賜姓族」と「進藤氏」と「血縁力」の3つにあった考えられます。故にこの様な総合分布の分布データを示しているのです。
一族一門が束に成って掛かって初めて成し得るもので、「特別賜姓族」だけではたとえ「勅命」があったとしても、平安時代の「氏家制度」の柵の中ではなかなか簡単に成し得るものではありません。
そもそも「神明社」とは「生活の神」「物造りの神」「家内安全の神」「身の安全の神」とは云えど、別の面で前段で論じた「戦略的拠点の役目」も担っていた訳ですから、”これだけの広範囲の中に「神明社」を建立する”と云う事は他氏との関係から観て無理やりに建立する事は不可能です。
しかし、ただ一つ可能な方法と云うか戦術戦略と云うか解決する方法があったのです。
それは他氏との大小濃淡に関わらず「血縁関係の輪」を構築する事です。
それが氏家制度の社会の中では最も大事で効果的な手法である筈で、断りきれない柵に填まる筈です。それを演じたのが”進藤氏だった”と云うのです。
勿論、前段で論じた様に小田氏や小山氏や花房氏の様に秀郷流青木氏の努力はあるのですが、「武力的」、「経済的」、「政治的」な手法に因らない進藤氏の「人間関係の構築」によるものなのです。
秀郷一門の中で主要5氏の系譜・添書を調べても、進藤氏ほど上下左右に血縁関係を広げている一門は無いのです。
例え一門の取りまとめ役の「第2の宗家」と呼ばれる青木氏でも進藤氏程ではないのです。
前段で論じた様に自らの氏の跡目を犠牲にする位に分家・分派・支流の末端の処までを使って大小の血縁関係を結んでいるのです。
秀郷流青木氏は116氏に対して進藤氏は48氏で1/3なのですが、「進藤氏の血縁関係」は殆どが相手先に出す「養子縁組」なのです。
(この養子縁組枝葉を入れれば青木氏と遜色ない氏数になると観られます)
これは「進藤氏の影響力」を強めることには効果的でありますが、自らの本家の氏は逆に跡目が無くなり一門から跡目を入れて継承すると云う形であって、本家のこの方針に対して内紛が度々起こる程であったのです。
これは一門の中で「自らの役目」を認識しての事で、「添書」を観ると、実に詳しく記述されているのです。
「系譜書」と云うよりは「添書綴り」と云うものと成っていて、他の一門と比べ物にならない程でその役目の一端の認識具合が確認できます。
恐らく、それだけにこの「添書の形式」は、一門の中で「自らの氏の役目」の必要性を末裔に理解させる為に、又、”その務めを先祖がどの様に苦労して来たのか”を知らしめる為に添書に書き記す事に重点を置いていたと考えられます。
「自らの氏」は「自らの力」で護るのは普通ですが、血縁関係を推し進める為に進藤氏はこのぎりぎりの所にあり、「秀郷流青木氏」に護ってもらっていた事が添書から読み取れます。
その証拠に冠位等のものが他の一門に比べて少ないのです。役目に徹していた事が良く判ります。
その役目の血縁は主にどちらかと云えば「小党との血縁関係」が主流と成っているのです。
血縁を豪族や貴族や公家に結んでいれば更に自らの氏の発展に繋がっていた筈ですが「小党との血縁関係」に徹していたのです。(青木氏の様に「賜姓」と云う特別の立場にない進藤氏にとっては難しかったかも知れないだけに役目に徹したと観られます。)
陸奥域から関東域では「武蔵7党」、「丹治党」等、西は美濃域の「伊川津7党」等までの秀郷一門が定住する地域の「土豪の自衛集団」との関係保持が目立ちます。
(この事は中国域に於いても亀甲氏子集団等に観られる)
これは「中部域」とは異なる”「神明社の建立」に関わる「基盤づくり」”であり、特に北陸東北域の特徴を大きく反映した一門の戦略であったのです。
(「神明社建立」は「統治拡大」に伴う「民の人心の掌握戦術」や「戦略的拠点」と共に同じく「統治戦術の象徴」でもあった)
恐らく、他の地域と異なり「関東以北-北陸東北域」に掛けての「歴史的な経緯」から観て秀郷一門には戦略的にこれ以外には無かったと考えられます。余りにも惨く辛い醜い仕打ちを受けていたからです。
そして、この地域の「民の心」はこの穏やかに応じる特別賜姓族青木氏に向いて行ったのです。
故に血縁も成し得たのであってこの「血縁の輪」がまた「民の心」を神明に向けたのです。
進藤氏の成す「血縁の輪」と特別賜姓族の成す「血縁の輪」が連動して民の「心の輪」に波状しその象徴とする「神明社」の「生活の神」「物造りの神」に向いて行ったのです。
それだからこそ”神明=神様 神様=神明の言葉”が生まれたのです。
>”神明=神様 神様=神明の言葉”
これは「2つの血縁の輪」 がこの呼称のみに終わらず「民の心の有様」全てに波及して云った事を物語っているのです。
筆者は、”秀郷一門に朝廷が特別賜姓族を委ねた”その要因の一つには、一門が持つ各地のこの「血縁の輪」と「戦略的な背景」を見込んでの施政に対する「賜姓」であったと考えているのです。
返して云えば、実質12代も「鎮守府将軍」が続いたのですが、青木氏を始めとする「鎮守府将軍」の役目に対して朝廷は信頼評価していた事を物語ります。
その「最高の手段」が ”「賜姓青木氏の神明社建立」を担わせる事にあった”と観ていて、総合的な力を保持しているし真摯な姿勢で対応すると見込んでいたのです。
故に”全く賜姓青木氏と寸分違わない冠位、官位、官職の諸待遇の全てを同じとした”と観ています。
”全て同じ”と云う事は総簡単な事ではありません。そこには ”それだけに相当に秀郷の行動に対して信頼していた”と云う事に成ります。
桓武天皇が推し進めた神明社20の上に、さらに特別賜姓族が推し進めた神明社97-135が存在するのです。この信頼は「2つの心の輪」と結びついた神明社の数に依って評価されるのです。
秀郷第3子千国の秀郷流青木氏が入間の秀郷宗家以上の扱いを受け「家柄、身分、官位、冠位、官職」が全て上と成っているのです。”宗家以上”とは宗家の立場もあり一門で問題を起こす事もあり得ますが宗家もこれで納得したのです。
これだけ与えて河内源氏の様に振舞われては「朝廷の権威」にかかわる恐れがありますが万来の信頼で与えて行った事に成ります。
「11代の源氏」の「やり過ぎ」と対比して「賜姓青木氏の生き様」が「民の心」を捉え、そしてその特別賜姓族青木氏がそれに勝るとも劣らずの氏であった事が「民の心」を和ませ信頼して行った結果であると観られます。それを自らの身を削って補完して行った進藤氏が居たからこその成し得た功績であったと云えるのです。秀郷一門「青木族」の一つ「進藤氏」ならではの行為であります。
(我々青木族は末裔として同族の進藤氏に対して尊敬せねば成りません)
その意味で、神明社もこの様な非常な努力の上に成り立つものであり、初期の「国家鎮魂の八幡社の建立」を担う「皇族賜姓族」が元々無かったのは、「朝廷の勅命」に頼る以外には建立する方法が無かったのであって、それだけに神社建立は一筋縄ではいかない非常に難しい事であった筈です。
(源氏の様にカーとならずに沈着冷静に人の道を外さずにそれを成し得た事の結果なのです。)
まして、後の「弓矢の神の八幡社」とも成れば、武士階級に限られ歴史的な辛い経緯から観て少なくともこの地域に於いては全く不可能であった筈で、そもそもこの地域には余りにも「民の心」にすっきりと浸透して行った神明社があったのですから、「国家鎮魂の八幡社」さえをもそもそも建立する必要性は無かった事が云えます。
ここが重要で、奈良期から「神明社」がどんどん建立が増えて行きながらも、同じ奈良期からの「八幡社」の方は「再建などの勅命」が無ければ荒廃して行ったのです。
「神明社と八幡社の明暗」はこの北陸東北域に於いて顕著に出たのです。論じている7つの地域には「神明社と八幡社の明暗」はそれぞれ又違う明暗を示しているのです。
「神明社」と「八幡社」の大きな違いはここにあるのです。「2つの賜姓族青木氏」と「11代の源氏」との明暗と極めて類似しているのです。
「神明社」は「2つの青木氏」が「皇祖神-祖先神」のつながりの中で建立する、「八幡社」は豪族への勅命による建立と成っていたからなのです。その違いの大本は「守護神の存在意義」であって、「生活の神」「物造りの神」としての民に直結する意義であり、八幡社は国家的な「国家鎮魂」の意義であって民に直接的な意義ではなかった事にあります。なかなか勅命とは言え豪族にその建設を命じる事は何かの適宜な根拠か理由が無ければ難しい事に成ります。普通ではあれば朝廷自らの財力で建設する以外には無いところです。せいぜい出来たとしても修理が関の山ではないかと考えられますし、現実にはその様であったのです。
河内源氏や未勘氏族がこれに目をつけたと考えられ、その「存在意義」を歪曲して ”国家鎮魂は武士の弓矢により成し得るものだ”とする理屈を付けて、”八幡社を自らの氏の守護神”の様に扱ったとする傾向が見られるのです。
そうかと云って”自らの氏の守護神”と宣言豪語するには「皇族系の祖先神」の立場にある以上難しかったと考えられます。
それは「神明社」がその役目を同じ立場にいた「皇族系の祖先神」の「2つの青木氏」が担っていて、且つ「桓武天皇期の建立」(伊勢青木氏の末裔-光仁天皇の父施基皇子の皇孫)に観られる様に天皇自らが積極的に担っていたからです。
「八幡社の現実」
この事から逆に言えば「河内源氏」の大きく関わった地域のみに「弓矢の八幡社の建立」が可能であった事が云えます。
現に調べて観ると、因みに河内南隣の最も近い紀州では上記した様に「八幡社」は極めて少ないのです。「弓矢の八幡社」は限定された局部地域に於いてであり、室町期後期以降の後付のものである事が傾向として云えるのです。矢張り相当後ろめたい気を使っていた事を物語る事象です。
そもそも隣国である紀州であれば「河内源氏の荘園」が出来ている筈です。すぐ隣で都合が良い筈です。
しかし、出来ていなくて「藤原北家筋」(藤原脩行)の荘園」と「熊野大社の系列」が殆どです。
返して云えば「神明社建立」で成り立つ事であるからです。
前段で論じて来た様に、紀州はそもそも古来より「皇祖神の遍歴地域」でもあり、ここに「河内源氏」が食い入って「荘園や八幡社」を建立する事は朝廷に対しても歴史的にも皇族の立場上も難しかった事が考えられます。これ以上朝廷との軋轢を悪化させられなかった背景が観られます。
地形的にも紀伊半島と云う地理条件と温暖な環境からすると荘園としては最高の立地条件であります。
”喉から手が出るほどで”あった筈です。しかし、ここにはこの「弓矢の八幡社」は極めて少ないのです。
殆ど無いと云っても過言ではありません。
「熊野大社の社領」と云っても主体は南紀であり、北紀は平安期は藤原北家の所領で、現在でも特に「春日社」が多い地域なのです。「伊勢神宮の社領域は勿論の事と、この神宮を中心とする一定の円系内には一切の社物は禁止されていた事もあって、少なくとも北紀州の領域は「皇祖神遍歴地域」であった為にいくら「河内源氏」でも出来なかったと考えられます。
少なくとも平安時代には伊勢を中心として「南に向かっての太陽の昇る方向の地域」に対しては避ける配慮があって「不入不倫の権」の解釈拡大で護られていた事もあると考えられます。
故に太陽の昇る方位地域の「熊野詣で」の30年間の間に65回も累代天皇が詣でる地域であった南紀も然ることながら、”八幡神社”の呼称すら余り聴かない地域なのです。
事程然様に、紀州の如くにそもそも「勅命による国家鎮魂の八幡社」はいざ知らず「河内源氏の弓矢の八幡社」としての建立は極めて難しかった筈です。
それは、上記のように「古来からの環境」がある中でも紀州の様に難しいものであっただけでは無く、別には「神明社の氏上様」は「賜姓青木氏」でもあったからです。
つまり、「神明社=青木氏」と観られていた地域であって、且つ「3つの発祥源」であったからで、元々「神明の意味」を普通に解せば、「生活神」「物造神」「家内安全神」「身安全神」「国家鎮魂神」「武神」は「皇祖神」に繋がり、「自然神」に繋がり、「応仁神」に繋がり、「雄略神」に繋がり、あまつさえ「皇祖神」の「天照大神」の「伊勢神宮」の2神に繋がる「総合神」としての「祖先神の神明社」であるからです。
だから、この関西域の”「神明=青木」”と同じく、北陸東北域の ”「神様」と云えば「神明」、「神明」と云えば「神様」”の呼称が生まれ慣わしと成っていたのです。この「呼称の意味」が神明社を大きく物語ります。
何も「国家鎮魂・弓矢の八幡社」に殊更に信心する必要性は無かったのです。
「神明社は総神」
隣国国境の北紀州に於いてでさえも「国家鎮魂や弓矢の八幡社」は無かったのですから、北陸東北域に於いてでは、上記の通りの「環境と歴史の経緯」から観ても ”「神様」=「神明」”以外には無かった筈です。
まして、上記した様に、歴史的な民族の経緯に因って「産土神の思考原理」が奥深く潜んでいる「祖先神の神明社」です。
こう成るとこの地域の「祖先神」には、「皇祖神」は勿論の事として、「産土神」「八幡神」、強ち地域性から観ても「春日神」や「鎮守神」の「存在意義」も潜んでいる事を否定出来ないのですから、最早、「慣わし」の域を超えて当然の「総神」である事は否めません。
そもそも平安期から「氏家制度」は「社会の慣習」を「伝統」として重んじる社会構成である中では、突然に「勅命」による為政の「国家鎮魂の八幡社」も、あまつさえ「弓矢の八幡社」は相当な事で無いと新規建立は出来ない慣習です。
筆者は「氏家制度」が強く慣習として護られていた室町紀中期・下克上・戦国時代以前の社会の中では慣習的にも論理的にも有り得ない”と観ています。
この考え方からすると「弓矢の八幡社」は殆どは「未勘氏族」による「後付の行為」であって、それは「氏家制度」が緩んだ室町期後期からの事であり、徳川家康-家光の3代に渡る「宗教改革の一環」として「武士の社会」を安定化と固定化するために打ち出した「八幡社奨励令」(浄土宗督奨令)にて拡がったものと考えているのです。
この考え方と上記した「藤原一門の組織形態」が関東から北陸東北の神明社建立に大きく貢献しているのです。何も「八幡社」に拘る必要性はこの地域では、上記の通り「総神」である以上、最早、無かった事を意味します。
この様な背景の中で秀郷一門の行動が上記した「神明社-八幡社の関係式」を作り上げたのです。
「神明社の分布進路」
それが「以北方向」からと他方「関東方向」からの2つの方向から進み、宮城では常陸や武蔵から下野、上野へと北に伸張し、保護した諏訪族青木氏の立ち直った力を借りて仙台の直前までその勢力圏を伸張したのです。
つまり「神明社の分布進路」の経路は2つの方向から起こったのです。
その意味で、「北陸東北域の総合分布」の表は、”「秀郷流青木氏の活動」があったからこれだけの建立が出来た”と云うのではなく、何時の世も「特段の事」を成すには何がしかの「特段の要素」が働いて成し得るものですが、この「特異な経緯」を持つこの地域では、前段で特筆している「進藤氏の活動」があっての事であって、その行動とこの総合分布の結果と真に一致するのです。
青木氏と進藤氏の「活動分布」とこの「分布の比率」が一致するのです。
つまり、「秀郷流青木氏(特別賜姓族)」の真にこの「勢力分布」と「青木氏末裔分布」に「神明社建立分布数」が相対しその進路さえも相対しているのです。
とりも直さず、「越後を前線基地の拠点」として働き、「特別賜姓族」「第2の宗家」「秀郷流青木氏」の夫々の「3つの役目」が的確に進められていた事を物語ります。
戦略的に観て、これには「進藤氏の活躍」と「越後の前線基地」としての働きが大いに功を奏したと考えています。
そして、それは「桓武天皇期の20の神明社」と「義家事件の直後の時期」の条件が合致した結果(566)と考えられます。
この様な確固たる基盤に護られていたからこそ「関東域」にも勝るとも劣らず、「最大勢力圏8.5の中部域」にも逼迫する分布が成されたものであります。
「6の中国域」
・「6の中国域」は「7の四国域」と共に「たいら族」の圏域でもあった事や「出雲大社」の圏域でもあり、「源氏の勢力圏の外」にありますが、「荘園制」による「未勘氏族」の多い所で在った事から日本海側の北域の多くは「未勘氏族」に依って建立されたものと成ります。
この域は神明社のデータを観ても「神明社の完全な圏域外」でもあります。
しかし、極めて微妙な地域でもあり、「瀬戸内」に限っては日本最大の利権が潜む地域を有しているのです。
”「瀬戸内を制する者は国を制する」”と云われて来た地域でもあり、その影響を受けて日本海側の北域にも少なからず影響を与えた地域なのです。
古来より醜い政治性が渦巻く地域を有しているのです。その中に「神明社と八幡社」が存在しているのですから無影響である筈はありません。
関東域と北陸東北域の状況と大きく異なる処があるのです。その意味で対比して論じる必要が出てきます。
>6の中国域は「八幡社24+神明社9」=33
>総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
>0.4倍 0.4 0.5
>6 中国域 八幡社 5県-24-7.9%(全体比)-平均5/県
> 中国域 神明社 5県- 9-1.6%(全体比)-平均2/県
>八幡社 山口9 広島5 岡山4 島根4 鳥取2
>神明社 山口1 広島6 岡山1 島根1 鳥取0
「県別分布の現実」
この域の青木氏は前段で論じた様に、平安初期から「讃岐藤氏」の「秀郷流青木氏」の絶大な圏域で、「讃岐」は元より「瀬戸内」、「土佐の一部」、「安芸や美作」には土地の土豪との間に血縁族を作り、「出雲大社の氏子集団」の「亀甲衆団」との血縁も進め、その勢力を宍道湖のところまで伸張して、其処には「2足の草鞋策」を足懸りに「讃岐藤氏の勢力圏」を構築したのです。
その為に県別分布では広島域が神明社が最も多い事でも証明できます。
ただ「亀甲衆団」との血縁族で広げた圏域は、「神明社」を一つ作る勢力が精一杯のものであったと観られ、広島は八幡社でも神明社も同じ勢力ですが、ここの「神明社」は「讃岐青木氏」が「未勘氏族の八幡社」の中に食い込んだ事で、室町末期の中国域の豪族から「八幡社勢力」と成ったと観られます。
「八幡社」の山口9、つまり「長州の八幡社」は納得出来ます。
実はこの中国域には、因みに「源氏の未勘氏族」は3氏があり、この3氏とも清和源氏頼信系で小笠原氏(山口9)と安芸武田氏(広島5-安芸4)と山名氏(島根4)ですが、この「3氏の圏域範囲」のみに「八幡社」の分布と成っています。
島根と鳥取の神明社は、此処には秀郷一門に追い出された土豪足利氏の本家一族とこの一族と血縁した「足利氏系青木氏」の賜姓族の一部末裔が秀郷一門に追い遣られて八頭と米子に移動定住し、その後、宍道湖東まで定住域を広げていますが、この末裔が神明社を1社程度建立する勢力圏を構築していて、その「勢力分布」と「末裔分布」であった事を示しています。
神明社の広島6は「讃岐青木氏の血縁族」を広げての「勢力分布」であり「末裔分布」で在った事になります
この地域は「神明社」の「生活の神」「物造りの神」の守護神であり、「八幡社」は単純に「弓矢の神」の「八幡社」であったのです。
この中国域は奈良期から「阿多倍が引き連れてきた職能集団の土地柄」で室町末期までその最大勢力を誇り、中国域全土を制覇した「陶部」の「陶氏族の土地柄」です。
依って、元より阿多倍一門の西の九州は大蔵氏、北の北陸東北には内蔵氏、中部北には阿倍氏、この中国域には「たいら族」の圏域と成っていて、他の勢力が食い込む事はなかなか困難な土地柄で、そもそも、”蟻の隙間も無い”くらいに「神明社や八幡社」が食い汲む事の事態が珍しい事なのです。
このデータは、其処に「讃岐藤氏」がうまく「血縁による戦略的な方法」で食い込んだ事の意味や、問題と成る「清和源氏頼信系義家」の「荘園制拡大で未勘氏族を広めた事」の勢力のパラメータの数字としても吟味できるものなのです。
まして、この「中国域」には古来より「出雲大社」と「厳島神社」の「2つの神域」でもあります。
其処にこれだけの「神明社9と八幡社24」の33は「関西域77」に匹敵する位の意味合いを持っています。
それだけに中部域の「神明化八幡社」や「北陸東北域」の「八幡化神明社」の様な「存在意義の変異」は起こり得なかったのです。
むしろ「弓矢の八幡社」をより鮮明にしてその背景に対峙したと考えられます。
「神明社の存在意義」も元より「陶氏」に観られる様に「職能集団の地場」であった事から「生活の神」「物造りの神」はそのままに新鮮に受け入れられたのです。それは真に「陶部の陶氏」が物語ります。
この中国域は「瀬戸内」を四国域と挟んでいる限りには分離して論じる事には危険があり、次ぎに合わせて「瀬戸内」を中心に論じる事にします。
それだけに「瀬戸内」は両域に取って大きな意味を持っていて「接着剤の役割」または両域の特徴の重複する部分なのです。
「7の四国域」
・先ず「7の四国域」は「讃岐藤氏の讃岐青木氏」と「阿波の阿波青木氏」で何れも秀郷一門の「秀郷流青木氏」の土地柄です。ここに特別賜姓族の青木氏が建立した「神明社」より「2倍の八幡社」が建立されているのですが、この「神明社」が建立されている背景は、この「讃岐青木氏」の香川1と愛媛2と高知3の6神明社で、この建立地の範囲が「下がり藤に雁金紋」の「讃岐青木氏」の丁度、その勢力圏でもあります。
徳島3は「剣片喰族」の「阿波青木氏の勢力圏」です。讃岐と阿波の6対3の比率に相似する末裔分布でもあり、この「2つの青木氏」は秀郷一門の中でも主要な青木氏で、「主要8家紋」の一つでもあり、かなりの「第2の宗家」としての「発言力」を占めていた事が判ります。
特に「讃岐青木氏」は家紋に示す様に綜紋である「下がり藤紋に副紋付き」の家柄で「第2の宗家」の本家筋に相当する力を持っていたのです。
平安期の関東の「平将門の乱」と呼応して起こった「瀬戸内」の「海賊騒動」の「藤原純友の乱」(多説あり)に観られる様に、「清和源氏の祖の経基王」に「海賊の嫌疑」を掛けられたほどに、「瀬戸内の制圧権と利権」をめぐる「朝廷との軋轢」はすさまじいものがあり、その中での「神明社建立」とそれに伴なうその「讃岐藤氏」の「勢力伸張」は警戒されていたのです。
藤原氏北家の中では「田舎の藤原氏」と蔑まれ、しかしその田舎者が「瀬戸内」と云う地域で「利権と権力」を拡大させていたのです。その中で瀬戸内の「海の族」を纏め上げて行ったのです。
>八幡社 香川6 徳島3 愛媛9 高知3
>神明社 香川1 徳島3 愛媛2 高知3
(下記重複)
この高知を除いた香川と徳島と愛媛の計「神明社6」は「関西域の25」に対してその「立場と勢力」から観て小さいと考えられます。しかし、「讃岐青木氏1氏」の実力から観ると、「中国域9の神明社」も合わせると「15の神明社」と成りますので、関西域は3氏として観ると25/3対15/1と成り、「讃岐青木氏」は他の秀郷流青木氏と比べて約「2倍の力」を持ち得ていた事が「神明社」を1つのパラメータとして観ると良く判ります。「瀬戸内の富」を背景に「田舎者藤氏」は「入間の宗家」に匹敵するくらいに財力と利権と勢力を拡大していたのです。「妬み」が生まれるのはこの世の常です。警戒をしなくてはなりません。
この事から観ると、「武田氏滅亡」により「讃岐青木氏」を頼って逃亡して来た土佐に住み着いた「甲斐賜姓族」の「武田氏系青木氏」を匿う能力が十分にあったとされます。
依ってこの高知3の神明社はこの「讃岐青木氏」の援護の下に建立された事が判ります。
恐らくは、他の地域の逃亡先の「神明社自力の建立能力」は「神明社1程度」が相当と成っていますので、高知3の内の1は青木村を形成している事も考え合わせると「土佐の青木氏」が建立したと成ります。
この様にこの四国地域の「神明社の建立」は良く判るし、室町期中期頃までの守護神の社を建立出来る豪族となると、藤原氏を除くとこの四国域では14の豪族と成ります。
この14の豪族の内、藤原氏の血縁族は家紋分析から6割を占めます。
しかし、この中で「八幡社」を建立する「清和源氏頼信系の豪族」はただ1氏で「阿波の三好氏」だけであります。
徳島3はこの三好氏に因って建立されたと考えられますが、「八幡社」では愛媛9の伊予とすると4氏の豪族、香川6の讃岐とすると3氏の豪族、高知3の土佐は6氏の豪族と成ります。
これは”平安末期に「清和源氏頼信系一門」の影響(主に荘園制)を受けた豪族は少ない”と云える事に成りますし、或いは海を越える地理的な要素を勘案すると、「讃岐藤氏」の「瀬戸内」を跨ぎ中国域も勢力圏に納める大圏域の影響等から考察すると、この域では「河内源氏の荘園名義貸し」の難しさが大きく働いていたのでは無いかと考えられます。
「八幡社の疑問」
そうすると、では”誰が八幡社を建立したのか(イ)”、又”「弓矢の神」を守護神にしたのか(ロ)”と云う疑問が出て来ます。現実には吟味したデータでは21社が室町期中期までには建立されている筈です。
この「建立する能力」を持った豪族は藤原氏宗家と讃岐と阿波の秀郷流青木氏16氏とすると、残るは「2つの秀郷流青木氏」と「小さい未勘氏族の集合体」以外には無い事に成ります。
幾らこの讃岐と阿波の「2つの秀郷流青木氏」が建立したとしても「春日社」、「神明社」、「八幡社」の ”「3つの守護神」を建立する事は可能なのかどうか”(ハ)です。
そこでこの3つの疑問(イ)(ロ)(ハ)に付いて検証する必要があります。
先ず、下記の通り「八幡社と神明社」の合計31と「春日社」を合わせても、下記の関西域との比の総合倍率0.4をパラメータとして使ったとして、「春日社」は30社と成りますから併せて61社と成ります。
これに「中国域の建立分33」と「春日社」の同じく総合倍率0.4ですのでこれを積算したとして66社となります。
これを合わせて全127社と成ります。
上記の「2倍の勢力」(15)を持つ「讃岐青木氏」と、徳島3の「阿波青木氏」の勢力を同倍率からほぼ0.3と観て、2.3倍率と成ります。
これを合わせたとしての127社の建立は、他の域のデータと比較すると、「関東域の115社」と「北陸東北域の135社」の丁度その中間の勢力を保持していれば可能と云う判断に成ります。
そうすると下記の表の通り「関東域の勢力」2.7と「北陸東北域の勢力」1.8と成ります。
> 総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
>A 関東域 2.7 4.6 1.8
>B 北陸東北域 1.8 3.9 0.7
> (A/B) (1.5) (1.2) (2.5)
>C 四国域 0.4 0.4 0.4
>D 中国・四国域 [2.3] (0.8) (0.9)
以上の表より次ぎの関係式が成立します。
>「関東域の勢力」(2.7)>「四国域の勢力」(2.3)>北陸東北域(1.8)
丁度、「関東域の勢力」と「北陸東北域」との「中間の勢力」を保持している事が云えます。
中国・四国のこの総合調整倍率[2.3の勢力]と云う事のみでは、”建立する能力はあるか”と云う事に成ります。
そこで、個別の「神明社倍率」と「八幡社倍率」の(A/B)の比1.5から観て「神明社倍率」もほぼ同比率1.2である為に1.5≒1.2と成り「建立可能」と成ります。
次ぎに「八幡社倍率」は2.5/1.5ですから確かにハンディーがある事は認められますが、この「中国域の八幡社建立」は、山名氏や武田氏や小笠原氏の大豪族3氏の清和源氏頼信系の豪族と、その「未勘氏族」に依って建立されているので、このハンディーは抹消されますので問題はなく成ります。
むしろこのハンディー(2.5/1.5)は「余力」1.0と観る事が出来ます。
そうすると次ぎの要件がこの地域にありますのでこれを吟味する必要が出てきます。
>7の四国域は「八幡社21+神明社10」=31
>「関西域基準比」
>四国域 (中国域)
>総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率 (総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率)
>0.4倍 0.4 0.4 (0.4倍 0.4 0.4)
>「全国比」
>7 四国域 八幡社 4県-21-5.9%(全体比)-平均5/県
> 四国域 神明社 4県-10-1.7%(全体比)-平均3/県
>「県域数」
>八幡社 香川6 徳島3 愛媛9 高知3
>神明社 香川1 徳島3 愛媛2 高知3
この検証の問題には次ぎの「5つの要素」が働きます。
A「地理性」
B「経済性」
C「歴史性」
D「圏域の広さ」
E「武力」
以上の「5つの要素」が影響します。
「5つの要素」
この「5つの要素」は次ぎの様に成ります。
・Dの「圏域の広さ」は中国域5+四国域4で9県であり、ほぼ一致しますので問題は無いと観られます。
・Cの「歴史性」は比較は難しいですが、平安末期は「関東の動乱」と「瀬戸内四国の動乱」は一致しますし、その後も「下克上と戦国戦乱」は同じであったとほぼ考えられます。
・Eの「武力」は「神明社」と「八幡社」を他氏から侵食を防ぐには必要な要素ですが、平安中期からのこの地域での「長期間の経緯」を背景にすれば、この「2氏の秀郷流青木氏一門の勢力」を持ってすれば可能と考えられます。(下記 藤原の純友の乱以外は現実に護られて来た。)
・Bの「経済性」は日本海側まで出た瀬戸内全体の廻船業の権勢を誇っていますので「2足の草鞋策」から全く問題は無い事に成ります。
そこで筆者はこの「5つの要素」のキーポイントは最後に残る大きく「地理性」に関わっていると観ているのです。
この「地域の特徴」は”「地理性」そのものにある事だ”と考えていて、それは”「瀬戸内」”と云う要素だと云う事なのです。
この”瀬戸内”は10国の沿岸部を持ち、これに依って「姓氏」の始祖の「海部氏」等に代表されるように「海鮮業」が盛んに成り、当然にこれに伴い「造船業」や「廻船業」も起こります。
ましてこの海は古来より中国域を制していた陶部の「陶氏」に代表される様に「物造り」の盛んな地域でもあったのです。「総合産業域」といっても過言ではない「瀬戸内」圏で、その圏域や勢力が廃り侵食される事は100%無い事が判りますし、現在でも健在です。
現実に昭和20年までこの圏域は「総合経済圏」で保たれていたのです。
因って、この海域を制することは「莫大な経済的な富」(a)と「海利権などの威力」(b)を獲得します。
この「2つの富」(a)(b)を以って勢力圏を高めれば上記する関係式の[2.3]の「勢力の基盤」の構築は可能と成ります。
この「経済的な基盤」(a)(b)の裏打ちが可能と成る事に依って「八幡社の建立能力」は出て来ます。
それは「武力」に依って得られる「税的な経済的基盤」だけではなく、自ら営む「商業」、つまり「2足の草鞋策」に依っても充分に成り立つものです。
この「讃岐青木氏」と「阿波の青木氏」はこの”「瀬戸内の海域の廻船業と造船業」”を営み、取り分け「讃岐青木氏」はこの力を以って安芸、美作を越え石見、出雲の北の海まで伸張しているのです。
それは「商い」のみならず「血縁関係」までを構築して末裔を定住させると云う実に「高度な戦略的手法」に観ても「三相の理」を得る「完璧な戦略」を駆使しているのです。
この結果、記録によると昭和20年頃までこの廻船業・造船業を営んでいるのです。
又、「阿波青木氏」も史資料によると、その末裔も淡路までの範囲で「廻船業・造船業」を営み「紀伊水道域」を征し手広く北の海まで出かけている事の資料が多く遺されています。
この2氏はこの様に「2足の草鞋策」を手広く営んでいたのです。
これらの検証から(イ)(ロ)(ハ)の疑問は説明できます。
「瀬戸内」と「2つの鍵」
「讃岐と阿波の2氏の青木氏」が「瀬戸内」と「紀伊水道」を制していた事は「政治的・戦略的」に観て「清和源氏頼信系の八幡社」の勢力伸張は難しかった事が判ります。
筆者は前段で論じた清和源氏の祖の「経基王の讒訴」「藤原純友の乱」の「海賊嫌疑」はこの「勢力圏の拡大」の「嫉み」に依るものと観られ、裏を返せば ”この地域の利権の獲得を狙っていた”と観ているのです。それは清和源氏の「勢力拡大の基礎力」にしたいとする狙いであったと考えられます。
実は「瀬戸内」のこの「海賊(海族)の正体」と「勢力伸張の難しさ」とを顕著に現れている事件があります。
それはこの「瀬戸内」で起った「源平の2つの戦い」の「義経の行動背景」にあるのです。
ここにはこの「瀬戸内」と云うものを説明する「2つの鍵」が隠されているのです。
その「2つの鍵」とは一つ目は「海賊・海賊」と云うものであり、二つ目は「財力・利権」なのです。
それは関西域の海域圏の東側の沿岸沿いにこの「摂津水軍」と「紀伊水軍」と「熊野水軍」と「伊勢水軍」と「駿河水軍」が制していて、これに対して義経は「源氏への合力」の為に半年を掛けて懸命に数度の談合を試み、遂にはその合力を獲得する事が出来た歴史史実があるのです。
この「談合」にはその「合力の目的」として「2つの鍵」が義経の腹中にあったのです。
その「2つの鍵」は「平家側」には存在し「源氏側」には無かったものなのです。
この「2つの鍵」に必要とするものは、つまり「海族」を意味する「水軍」なのです。
(資料に因れば、「たいら族」の忠盛は密かにこの水軍を使って禁令の「宋貿易」を始めていて莫大な利益を獲得していて清盛に成って本格的に貿易を行った。朝廷からも疑われていて藤原氏もこの事は讃岐藤氏からの情報で承知していた。大蔵氏も承知していた。)
先ずは勝利の為には「水軍の獲得」であり、その水軍を獲得した暁には勝利し、そして遂には当面の目的として2つ目の「財力・利権」を平家から奪取し、その「財力・利権」に依って最終目的として「清和源氏の繁栄」と「生き残り」であったのです。
それには先ずは「平家と同じ戦力」に到達させる事であり、「同じ戦力」に到達させた上で相手の弱点を突く戦術を構築して戦いの前哨戦を制する事であって、その後は同等の戦力で常套作戦で挑む戦略を描いていたのです。
その元と成るのは「水軍」であったのです。その為には平家と同じ「兵能水軍」ではなく弱点を突ける水軍でなくては成りません。それを持っているのが上記の「5つの水軍」であり、弱点を突ける共通する武力を保持していたのです。
この「5つの水軍」の中でも「紀伊水軍」はその能力を最大に持った水軍であったのです。
中でも、瀬戸内に明るい「摂津水軍」(摂津を中心とする大阪湾海域の水軍)と最大の能力を持った「紀伊水軍」(大阪湾から淡路から紀伊水道海域)に対しては「合力嘆願」には苦労を重ね、記録によると時には義経が襲われると云う事の中から得られた強烈で強力なものでした。
この「弱点を突ける能力」とは「海族」の中に潜む「海賊の戦闘術」であったのです。
この「5つの水軍」にはそれぞれの地域の海域の違いにより大小があるにしてもこの「海賊の戦闘術」を必要性として保有していたのです。
平家水軍は職能集団の海の「兵能集団」でこの海賊性はもとより保有していないのです。「陸の兵」に対して高度で常套な操船術を保有した「海の兵」なのです。
「義経の行動と瀬戸内」
平安時代は「武」に従事する者として、「源氏」の様に「武家」を組織して兵とする集団と、「平家」の戦力の様に組織化されない「兵能」の兵とする集団との2つが混在していたのです。
「源平の戦い」は別の意味でこの2つの異なる覇権をめぐる「兵の集団の戦い」でもあったのです。
義経はこの「2つの違いの弱点」を突く発想であったのです。
この事に付いてはその「2つの水軍」の末裔の「私史資料」が発見され、共通する事としてその中に詳細に記録されているのです。
その2つの資料に共通する事は「義経の人柄、将の力量」とこの「源平の海上戦」の「義経勝利の秘訣」であって、そのつまりはその「戦い方」にあるとして、それは「水軍の野戦的戦法」(海族的戦法)と記録されているのです。
この「瀬戸内」と「紀伊」の「2つの水軍」は不慣れな「平家水軍の通常戦の常套的戦法」(後の村上水軍)様な戦い方を嫌い ”海族的な「野戦的戦法」なら合力する”との双方の考え方の合意が得られたからなのです。この様に記録されているのです。
「義経の人柄、将の力量」を見抜くに時間を掛けたとする「末裔の忘備禄」が発見されたのです。
「八幡社・神明社」を論じる時にこの「瀬戸内」に於いては、この「義経の行動」が「瀬戸内」を語る上で欠かす事が出来ない事なのです。
上記した様に”「瀬戸内を制する者は国を制する」”の事に大いに関係してくるのです。
そして、その「義経の戦略」が平家を倒し「源氏体制」を確立する為には「絶対条件の瀬戸内」であったのです。
そして「義経」はその「2つの鍵」を念頭に綿密にその様に行動したのです。そして”その判断(2つの鍵)に賛同したからこそ合力した”と記されているのです。
紀伊水軍は”この「2つの鍵」が理解されていないと合力しても敗退し却って自らも滅ぼす”と考えていた事に成ります。
そして彼等の水軍は”それを理解できているか”の”「将としての力量」があるか”の「瀬踏み」をした事に成ります。
そしてその「瀬踏み」では、実に「用意周到な性格」で「勇猛果敢」で実に「沈着冷静」の「源氏の将」と記録されているのです。資料から観て筆者の印象も同じです。
そして、戦いでは、特に「紀伊水軍」は真に「海族的戦法」で奈良期からの阿多倍の「職能集団の平家水軍」を戦いの勝負が決まる前哨戦で打ち破ったのです。
そして、この「紀伊水軍」は海戦終了後、恩賞を受け取らず直ちに紀州に戻った事が記録されているのです。
他の合力した「3つの水軍」は一つは前段の青木氏の「伊勢シンジケート」の水軍、後の2つは「熊野源氏」と「駿河源氏」方の水軍です。
この「2水軍の戦力」と「5つのライン上の5水軍」が整えられていれば「神明社と八幡社」の勢力圏を揺るぎ無いものにしていた事が判ります。
(参考 紀伊水軍の「海賊的野戦戦法」と3つの水軍の「常套戦法」の「2段構え戦法」であった事が記録されていて、この戦法に「海賊的な紀伊水軍」がやっと賛成し「義経個人」を信頼して個人に合力したと記録されている)
日本全国何処の海域でも上記した「5つの水軍」の様な「海族」が「陸の土豪」と同じ様に存在します。
これ等が「海の支配権」を持ち「海域」の「勢力バランス」を保っているのです。全く陸と同じなのです。
「海・陸」何れにしても、この「海域支配権」「領地の支配権」を無視し、或いは軽視する場合は攻撃されるは当たり前の事で、これを「海賊」とすれば、陸の土豪・豪族も「山賊」と成ります。世に俗に云う「一所懸命」なのです。
もし「海賊」がいるとすればそれはこれ等の「海族」が掃討し自らの海域を護るのです。これは海と陸は同じであって、それに依って船舶の「航行の安全」がより保てる海域となるのです。
そして、何時か多少の荒くれがあるとしても海賊の類は結局は掃討されて、秩序としてこれ等の「海族」の支配下に置かれるのです。
現在の契約社会から観れば「海賊」であっても、当時の時代考証からはこれ等は当然の事であって、「一定の支配権」の下にその「安全の契約」を「暗黙の社会のルール」の中で保てばむしろ逆に安全な手法となるのです。これは陸も同じです。
前段でも論じてきた「大規模な商い」を行おうとすれば、この「安全の契約」が必要に成り輸送などの事が行えるのです。多くは「自らの経済力」にてシンジケートを構築すればよい事に成ります。
これも一つの「安全の契約」で現在でも同じ「安全の契約」は必要であるのと同じです。
「安全の契約」と「水軍・海族」
現在と過去の「安全の契約」の違いは直接的に保障されるのか、はたまた間接的に保障されるのかの違いであります。
過去の場合はこれ等の海の「海族」と陸の「山族」を一つの組織の中に取り込み、各地の勢力の届く範囲でそれをシンジケートとして構築する直接的な「安全の契約」の保障制度を採用していたのです。
要するに現在の様に「律令制度」(契約社会)が未だ完備されていない中では、「氏家制度」の中の「社会の秩序」を保つ為の当然の「安全の契約の保障制度」であって、この「シンジケート」にして纏め上げる「慣習システム」は一つの「社会の暗黙の慣習制度」なのです。
これを現在感覚の契約社会感覚で「海賊や山賊」と見てしまえばそれはそれまでの事であり、少なくとも明治以前の社会は「シンジケート」はある意味で「社会の暗黙了解」のある「治安維持機構」であり、「警察機構」でもあり、「職業更正機構」でもありして、本質的に「善悪の考え方の量と質」が違うのです
要するに「純友」は海の族を「海族と海賊」を一つにまとめ「水軍」として統括し、これを武力に頼らず義経の様に「政治的」に行っただけの行為であったのです。
むしろ、当事の世情と時代背景から考えると、武力による解決は武力の連鎖が起こり、この結果の「恨み辛みの怨念」が渦巻く社会世界が生まれます。
しかし、純友の様にして要するに「海のシンジケート」を構築する事は「恨み辛みの怨念」は霧消します。
彼等にも家族先祖伝統の普通の社会生活があるのですから、むしろ、「理想的とするべき処置」でもあったのです。
その行為がより伊予・讃岐の土豪の藤原一族一門の「安全の契約の保障制度」になっていたのです。
当然にこの「安全の契約」によってそこには「莫大な利権と勢力の圏域」が生まれるは何時の世も同じです。
上記した「2つの鍵」を紐解く「義経の行動」を述べましたが、実は下記に述べる様にこの事には大きな意味を持っていたのです。
注釈 「水軍と海族の論処」
これには多くの通説があって大別すると、土豪が海賊に味方して首領に成ったとする説と、筆者が採用する上記の「シンジケート説」の2つに成ります。青木氏から観たシンジケート説です。
遺された資料からよく調べると、「海賊」と云っても「1000艘以上の大船団」を持ち、当事としては全国トップの勢力を誇り、「複数の自港」(日振島等)を持ち、その船団の組織化された首領格には正式な「藤原氏」が多く存在し、船団以外にも「地上戦」も行い強く各沿岸部の地域を奪取していて、北九州から紀州域までの海域と陸地も豊後や伊予や讃岐や安芸や紀伊の「地域を領有する豪族」と成り、「純友神社」や「純友城」等も有する「海と陸の両方を有する豪族」で、「叙位従5位下の下級貴族」なのです。
更には”周囲の沿岸部の民からも慕われていた”とする「神社の記録」複数が残されていて、その記録を信じるとして、「純友」が納めている間は「穏やか」であったとしているのです。
上記の「恨み辛みの怨念」は”何処吹く風”でむしろ”民から慕われていた”のです。
これはどう観ても「海賊」ではありません。上記した様にまさしくこの地域の荒くれをまとめて組織化し成し遂げた「海族」なのです。
まして「自らの神社」(大きな意味を持っている)を持つ者など陸にも少ないのです。これは下記に論じますが本論の本質を意味しているのです。
この純友の「神社・城」はただの「神社・城」の意味だけではなく、「神明社・八幡社」で論じている様に、これには「歴史的な生き様」が遺されているのです。絶対に見逃してはならない要素なのです。
つまり、そこには「神明社の青木氏」と同じく ”それは組織から崇拝されていた事”を色濃く示す事にも成ります。
その「組織の局部」を捉えれば荒くれである以上は「海賊的な要素」も見え隠れするでしょうが、それを捕らえればそれはその様に見えるかも知れません。しかし、「神社・城の存在」は「神明社」で論じている様に”「何がしかのその儀」”を有している事に成る訳ですから、それを基下に組織化している限りは「陸の豪族」とは内容は異なりません。
その「何がしかの儀の如何」と「局部の荒くれ」であるかどうかの違いだけです。「局部の荒くれ」であるからと云って”「海賊だ」”とするにはそれをその様に決め付けた側の ”何か「裏の意」”が感じられます。
その”「裏の意」とは一体何なのか”です。
そもそも「海賊説」とそれを発端とする「出自説(複数)」等を良く調べると、兎も角も、先ずは当時の社会の「時代考証」が不十分なのです。これらの「海賊説」は古くは無く「跡付け」と観られる近代の説であります。(通説にはこの類が実に多い)
これをもし「海賊説」とすると上記した駿河、伊勢、熊野、紀伊、大島、伊豆等の「主要な水軍」も同じ要素を大なり小なりに持っているのですから、この論理で行けば全て「海賊」に成ってしまいますし、その大きさもトップで組織化されているのですから、日本の古来水軍は全て「海賊」に成ります。
この事を知り得ていて「海賊説」とした「朝廷の記録」には、「政治の世界での政争」に使われる「醜い常套手段」の「大きな裏の意」がある事を匂わせています。
何時の世も盗人、盗賊、山賊、海賊の類はありますが、上記した様にその内容と時代の社会構造の慣習はそもそも違うのです。
古来より”勝てば官軍 負ければ賊軍”の日本人の「悪い慣習」がこの様な通説を生み出して、史実を歪め、「正しさ」を記録として遺さない「日本人の性癖」には「歴史の掘り起こし」に於いても充分注意しなくては成らない事なのです。何等現在でも変わらない性癖です。
本論でも何度かこの事に付いて論じていますが、その意味で「公的な資料」に類するものには「判断の参考」とする場合は、ここが雑学フィルターを通して観て特に「注意する点」なのです。
又、「本論の神明社」に関わるとして論じている「八幡社」の場合も「未勘氏族の資料」には”身内を良くする背景や経緯を作り出し、はたまた搾取偏纂しているところを雑学を駆使して見抜き矛盾点を掘り出す事が大切なのです。
「青木氏の歴史」の「生き様の掘り起こし」にはこの作業の繰り返しに時間がかかるのです。
特に筆者は先祖たちの性癖を受け継いでいるのか”勝てば官軍 負ければ賊軍”が肌が受け付けれないと云うか嫌悪を感じるのです。”判官びいき”とまでは云わなくてもその元の本質の姿を知りたくなるのです。
「”瀬戸内を制する者は国を制する”」
古来から言い伝えられていたこの言葉には瀬戸内の地域の「神明社と八幡社」を論じる時には大きな意味を持っているのです。全てはこの言葉に事象は左右されるのです。
故に、「純友海賊説」に関わるものも例外ではないのです。
恐らくは「源経基の讒訴」は、藤原氏等が制するこの”「5つのライン上の絶大な圏域」を清和源氏側に獲得しようと画策したものであった”と観ているのです。
そもそも古来に於いて”瀬戸内を制する者は国を制する”の言葉がある様に、この「地域の利権と安定の確保」は無視できる話ではない筈で、その状況を「為政者」や「利権者」の側は上記した様に本音では純友に変えられては困る訳です。
ましてや民に人気があり人が出来ない事を成し遂げたと成ると、”人は嫉妬の念にとらわれる”は「仏説」の通りであります。
この世に於いて例外なくこの情理を脱した者は居ない筈です。
まして「為政者と利権者」とも成ると「自己顕示欲」の強い者でありますから、、”人は嫉妬の念にとらわれる”は必定であります。それが朝廷とも成ればこれ等の者の集合場所でもあります。要するに巣窟であります。
そこで、何時の世も海賊や山賊の類の存在は有るのがこの世の無常の定めであり、それを声高に剥きに成って事に当たるは「為政の範疇」ではない訳で殊更に取り掛かる政治問題では無い筈です。
むしろ”瀬戸内を制する者は国を制する”の言葉の通り「海域の利権」が大きく絡んでいれば、「海賊」を懐柔して纏め上げられれば、「利権者」と「為政者側」取り分け「為政者」にとって見れば困ることに成ります。
それは純友側にこの”瀬戸内を制する者は国を制する”の権利を与えてしまう事に成ります。
まして「民を味方」にして「何がしかの儀」を重んじ「民の暮らしを安定にし安寧にする守護神」を持っている以上はこの権利を確実に保障する事を意味します。本音では放置できません。
表向きでは「海賊の騒動」は困るが、本音のところで「海賊」を懐柔されて「利権」が「純友」の方に全て移れば、「為政者」にとっては ”この世の無常の定め”どころの話では無くなり死活問題であり、更に実に困るのです。
これがそもそも「大儀と本音」の政治です。口では態度では”海賊が騒ぐのは困る”と云いながらも、本音は”利権がなくなるのはもっと困る”のです。この2つは最早、天秤にかける問題ではないものです。
そこで、困る側の為政者側は、国、即ち天皇や朝廷から観れば「大儀」を自分の方に引き寄せるには ”純友を「海賊」の仲間とする”事に決め付ける事が必要に成り、「表向きの海賊問題」を解決して、且つ、「邪魔な純友」を抹殺して、「地域の利権と安定」を確保するには「海賊」と決め付ける方が都合が良い訳です。むしろそれしかなかった筈です。
”そう成るとどうすれば良いのか”と成りますが、簡単な事です。
上記した”勝てば官軍 負ければ賊軍”を行える立場に為政者が特権として持っている訳ですから全く問題は無い訳です。そしてそれを世に知らしめる為には、まずそれとして「勅命」や「宣旨」や「院宣」を発し、且つ、為政者側には資料や証拠類や風説をそれに合せた様に搾取し偏纂して遺す事に務めるのが偏纂役の務めでそれを密かに命じれば事は済みます。
それにはその事の内容を公文書外にも関係する役所や神社や寺等に遺させる手立てを講じる事だけです。「公文書の類」に密かに書けばそれで充分なのです。利権者もこれに習うでしょう。これで大儀は利権者や為政者に移ることは必定です。
そしてそれが史実の形として後勘に触れてそれを信じ史実が歪み、公文書を正として通説が生まれるのです。
(しかし、事の真偽を歪めているのですから矛盾と疑問が必ず生まれるのです。これを正すのが「後勘の役目」です。「青木氏の歴史」はこの事に努めている。)
これは上記した様に「未勘氏族問題」でも同じで、「自らの側」の良い様に後勘に遺す事は当たり前の事なのです。
問題はそれを雑学で「見抜く側の読解力」に関わる能力なのです。現代でもこの世に於いてはこの事は同じです。
前段で論じた「陸奥の安部氏の奴婢の問題」でも安部氏等には非は無く蝦夷・征夷として処理されたのもこの「純友問題」と全く同じです。その意味で「河内源氏」の”義家に対する白河院の策謀説”も殆ど同じです。”安部氏に無常な嫌疑を掛けた上で義家に陸奥での利権を潰させておいて今度はその義家を潰す”これが「為政側の常套作戦」なのです。(前段でも論じた様に義家にも禁令を無視した無理があった。)
「為政者側の矛盾」
この”瀬戸内を制する者は国を制する”の「2つの圏域」はデータでも上記した様に「河内源氏」のみならず「清和源氏の圏域外」(荘園本領・未勘氏族)にあったのです。
経基が、平安期に伊予まで及んだ讃岐藤氏の藤原氏を讒訴に落としいれてそれを獲得しようとした画策であったのです。
これは「3つ巴、否4つ巴の事件」なのです。讃岐藤氏・清和源氏・大蔵氏・朝廷天皇の利権争いそのものの事件であったのです。結局、下記に論じます様に純友が旨く”勝てば官軍 負ければ賊軍”の策に掛けられたのです。
その証拠に詳細に調べれば上記した事も含めて矛盾が多すぎるのです。上記した様に「矛盾が多い事」が何よりの証拠なのです。
因みに、先ずこの「瀬戸内の海族問題」(純友・伊予国司代・瀬戸内追捕使の令外官)を朝廷が解決させたのは、前段で論じた”阿多倍一門の九州自治”を狙っていた「大蔵春実」(小野好古・藤原正衡・橘遠保:源経基も参加説もある)であります。
そもそもこの「海域の問題」を最初に特別に朝廷から任命され派遣された「治世権と警察権」を与えられた者は「令外官の純友」なのです。その「純友」を討伐する又令外官を送る事のそのものの事態がおかしいのです。
(この順序と任官そのものを ”あやふやにした記録”を根拠とする為政者・利権者側の説もある。 「海賊」とするには矛盾を消す為にした偏纂行為と観られる。)
これ等の資料に基づくと、為政者側の特権で色々な資料が遺されていて複数の説が生まれているのですが、この説の中で先ず信頼できる史実は、「純友」はこの地域(伊予・讃岐)の「瀬戸内の政治」を任された国司代(3等官・伊予掾)で、且つ、当初は「海賊問題解決」の「令外官」(特別問題解決の為に任命された官)であった事ですから、「3等官・伊予掾」と「瀬戸内海賊掃討追捕使令外官」の「両方の任務」を持っていた事に成ります。
この事の意味は「伊予と讃岐」と中国域を含む「瀬戸内沿岸域」の「為政に関する全権」を任された事を意味します。先ずは”任した”とする矛盾があります。普通は任す以上は純友の事は承知している筈です。
摂関家と同じ一族一門で藤原氏北家なので「讃岐藤氏」と呼称されるくらいに都にも聞こえた一族です。
知らないとは云えない筈です。この事件の前に別件で仕事をしていますし、国司代(3等官・伊予掾)です。何も経基に云われなくても知っているのです。事件直前に令外官追捕使として任じられているのです。
それが急に「海賊呼ばわり」とは笑止千万はなはだしい事であります。
つまりそもそも瀬戸内の「全権大使」であり、そうすると、その「全権大使」を「海賊」と決め付けるには「朝廷側の失態」が表に出てきます。
そこで「順序と任官」の部分の記録を”あやふや”にして置く必要が出てきます。その処置を朝廷側と利権者側は行った事を証明します。
ですから、「純友」は「全権大使」として、「令外官の任務」の「海賊掃討」だけを任務とするのであれば「武力」により解決して根絶やしは無理としても押さえ込める事は可能であり任務は全うします。
しかし、地元の為政権を持つ「3等官・伊予掾」で、地元の住人の讃岐藤氏でもあります。
彼等はこの富を生む瀬戸内の国策に対して大貢献しているのです。
「海賊」と看做されている「瀬戸内沿岸地域の民」とは敵対している訳では無くむしろ絆を持っているのですし、「藤原氏の戦略」の「血縁関係」で中国域までその圏域を広めている訳でもあり、尚且つこの海域の「廻船業や造船業」やこれを基にした「大商い」の「2足の草鞋策」を敷いている土地柄でもあります。
そうなると、解決方法は唯一つ瀬戸内の住民が無傷に解決できる方法は決まって来ます。
純友にしてみれば「絆」を基に「談合」により解決するしか無い筈です。
しかし、この「談合解決」は本音のところでは、「為政者」と「利権者」と「敵対勢力側」からすると、最も好ましくない解決方法です。
何故ならばますます純友を大きくしてしまう結果になる訳です。
大水軍を控えて「政治」「経済」「軍事」の「3権」を掌握した訳ですから、上記した「瀬戸内を制する者は国を制する」事と成りこれに対抗する者は無く成ります。放置する訳には行きません。
”早い内に何とかしなくては”と「為政者」と「利権者」と「敵対勢力側」は考えるが必定です。
それには「純友」から「大義名分」を無くす事で潰すしか無く成ります。それが「海賊」なのです。
そして、「為政者」と「利権者」は自ら手を汚さずに、それを「利権」を欲しがっていて「清和源氏の勢力」を伸ばそうと野心に漲っていた「敵対勢力側」の経基に言わしめた事に成ります。
「純友」もこの事は充分に読めていた筈です。しかし、解決方法は一つです。
”「絆」を採るか” ”権力側3者に迎合するか”の二者選択を迫られた事に成ります。
何れにしても後は出方を観る仕儀と成ります。
そこで「絆」を選んだのです。現実には彼にはそれしかなかった事に成るでしょう。
「純友」にすれば、後者の「権力者3者」を選ぶ事は、信義の上で ”死に値する”事に成り、結果しても「権力者3者」は ”彼を生かす事”は解決には成らない筈で、”向後に憂いを残す事”に成りますから、機会を観て ”何らかの嫌疑を作り出して葬る事”にする筈です。
何れにしても ”死を決意しなくては成らない事”に気が付いては居た筈です。
周囲の者達もその事は”百も承知”であり、だとすれば”「絆」を選ぶ事”を勧めたと考えられます。
”では、どうすればよいのか”と云う事に成ります。考える戦略は唯一つです。
「絆」を選ぶ限りは ”例え純友死しても絆は遺す。”であり、その為には ”絆の中に「讃岐藤氏」を遺す。”つまり言い換えれば、”「絆組織」の「次ぎの継承者」を生き残らせる事”にあります。
そして、それを盛り立て蘇させるには「結束の象徴」を造る事に成るでしょう。
それが、”「純友神社」であった”のです。だから1度ならずも2度、否5度の蘇りを興して昭和まで生残れたのです。仮称の「純友神社むは神社だけの意味ではなかったのです。
何時の世も、現世の事象(事件、問題、乱、変など)森羅万象には、「諸悪」(5悪)が巣食うのです。
仏説の通りです。「為政者」と「利権者」と「敵対勢力者」と「無関心者」と、そして「被者」です。
(被者は「純友」ですが、仏教では”一分の非がある”と説いています。”「完全無欠」ではない”と云う事です。「諸行無常」です。)
この”「5悪」の何れに「大儀」が来るか”は、”その「5悪」の「質」に因る”と解いています。
”決して「権利や富の大小」ではない”とするのです。
では、この海賊問題は真にこのパターンに填まります。この場合は「質」を得ていたのは憤死した「純友」にあったのです。”純友に大儀があった”事を意味しています。
後勘から観れば、「被者」の純友以外の「3悪」(「為政者」と「利権者」と「敵対勢力者」)は200年後には滅びているのです。
浄土宗を思考の原理としている平安期の武家では、純友とその周囲と讃岐藤氏はこの事を承知していた筈です。
とすると、現世は「諸行無常」であって憤死しても「絆」を護れば「後勘」は「大儀の者」となる事を覚悟して次ぎの行動に出たのです。「純友の志」は昭和まで「海の族」として引き継がれたのです。
「純友」は「争いの連鎖」を起こす「武力」に因らず、無数の海賊団と談合し説得してこの問題を見事に解決したのです。
そしてこの無数の大小の海賊団の民とその瀬戸内地域の民衆から信頼され崇められて神社が建立されたのです。その神社の建立時期は不明ですが状況証拠から生前の前後の直前と観られます。
「純友神社」(産土神)と云うよりは当初は「海族」と成った集団の「心の拠り所」と、その集団結束の「象徴の守護神」であって、没後に地域住民に慕われて「純友神社」と呼称されたと観られます。
純友は乱後の暫くしての後に捕まり斬首に成りましたが、純友の憤死没後に難を逃れた「讃岐の藤原氏末裔」が再結成してからもこの”瀬戸内は穏やかであった”と記されていて、明らかに海賊ではなかった事が良く判ります。
それを讒訴して”海賊に成った”と告訴され、現在発見された資料よりその資料を基にすれば「経基王に讒訴密告された経緯」となるのです。
但し、ましてこれは「海賊」では無く「海族」であり、古来よりこの瀬戸内に住する「海の土豪集団」であったのです。そもそもその末裔は、つまりこの「海族の末裔」は「後漢の阿多倍の海の兵能集団」で「奈良期初期の帰化人の末裔」(陸は東漢氏・物部氏などがある。)であります。
その特徴は「海利権」を護らない場合は襲う事がある土豪なのです。この事は「陸の土豪」も「陸の支配権」を護らないと同じ目にあう事は同じであって、そもそもこの「海利権」を護らない側からするとその見方は「海賊」と成るでしょう。
当然にこの「海利権」を護らない側は伊予と讃岐の分布する讃岐藤氏と「瀬戸内で覇権争い」をしている大小の中国と四国と北九州の集団となるでしょう。
「兵能・職能集団」の主筋
ここで面白い現象が起こっている事に成ります。
それはこの「瀬戸内沿岸の海族」の多くは上記した「阿多倍の兵能集団と職能集団の末裔」です。
しかし、利権を護らない覇権争いをしている主要集団はこれも阿多倍一門中でも最大の大蔵一門です。
500年経過後の「兵能・職能集団」の主筋に当たる訳です。
彼等は ”忘れられたのか忘れていないのか”は不明ですが、室町期のこの「瀬戸内水軍」を保有し中国域を制した「陶氏」と、「海部氏」や「武部氏」等の彼等の職能集団の末裔が現存している事から考えると忘れていなかったと考えられます。
彼等の守護神は「産土神」であり、その考え方からすると不思議な現象が起こっていた事に成ります。
そもそも官僚を専守している為政者側と利権者側にある「大蔵氏の主筋」に味方せずに「讃岐藤氏」の「純友に合力」した事に成ります。
この事には大きな意味を持っているのです。本来であれば「儀」と「利害関係」から観ても普通は主筋の大蔵氏を選ぶ筈です、しかし敢えて利害関係にある「讃岐藤氏」をわざわざ選んだのですからここには何か大きな意味がある事に成ります。
それもこの瀬戸内の全ての海の族の大小の集団が挙って集まり「儀と利害」を捨てるだけの何かが在った事に成ります。
”それは何であったのか”解明する必要があります。
それは色々な資料から「2つの共通するもの」としての答は出ています。
それは一つは「純友神社」であり、二つは「純友個人」だけではなく「讃岐藤氏の一族」がこの水軍の「海族」には入っていると云う事です。
そうと成ると、彼等への「理解」と「利害」と身の「安全」を護ってくれる「者」、或いは、「氏」は「大蔵氏」か「讃岐藤氏」かと云う事に成りますが、彼等は「讃岐藤氏」を選んだと云うことに成ります。
勿論、その「氏」を支配し統治する「讃岐藤氏」の実質の信頼できる支配者・頭の「純友」の「個人的魅力」に魅かれた事をも意味します。
「好みや利害」ではいざ知らず単に複数の「海の族」が集ったのではないのです。
瀬戸内の全ての海の族が挙って集ったのです。ここに意味があってこれはまさしくそれを護ってくれる「氏の選択」とそれを指揮する「棟梁の魅力」が伴っての命を懸ける彼等の「選択」を主筋から替える大決断をした事に成ります。
当然に少なくとも大小の多くの「瀬戸内の海の族」が集って協議した結果でなければこの様な事には成りません。故にこの「意思表示」を「純友神社」と云う形で表し且つそれを「集団の象徴」とした事に成ります。
この裏を返して云えば”大蔵氏に対する何がしかの共通する不満が在った事”を意味します。
古来からの主筋の大蔵氏が彼等の「理解」と「利害」と「安全」を護ってやっていれば「儀」を捨てて主筋を外すような事は「氏家制度」の社会慣習の中では絶対に無かった筈です。
そうすると奈良期から500年の経過が主筋感覚が薄れたのかと云う事に成ります。
実は違うのです。原因は彼等の守護神「産土神」にあるのです。
守護神の「産土神」に付いては前段で論じてきましたが、後段でも改めて詳細に論じます。
ここでは「海の族」の「行動の根源」となる「産土神の位置づけとその考え方」に付いて次ぎに論じます。
青木氏と守護神(神明社)-17に続く。
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
投稿者:福管理人 投稿日:2012/03/02(Fri) 08:10:36
:「北陸東北域」の続き
>八幡社の分布順位(地域分布・重複)
>1 関東域 7県-94-26.5%(全体比)-平均13/県 清和源氏勢力圏域
>2 九州域 8県-70-19.8%(全体比)-平均 9/県 未氏族の圏域
>3 関西域 6県-52-14.7%(全体比)-平均 7/県 氏の出自元の圏域
>4 中部域 8県-52-14.4%(全体比)-平均 7/県 清和源氏・秀郷一門圏域
>5 東北北陸域 8県-38-10.7%(全体比)-平均 5/県 反河内源氏の圏域
>6 中国域 5県-24- 7.9%(全体比)-平均 5/県 源氏空白域・讃岐藤氏圏域
>7 四国域 4県-21- 5.9%(全体比)-平均 5/県 讃岐藤氏圏域・源氏空白域
>(詳細データは本論末尾添付)
「3つの守護神の神明社」
前段で論じてきた論処の通り、この「八幡社38+神明社97」=135と成る数字は疑う事無く「神明社」そのものなのです。しかし、では”何故に「八幡社」としているのか”についての疑問です。
それは「4の中部域」では「神明化八幡社」と発展させてましたが、この「北陸東北域」では「八幡化神明社」と成り得たのです。そしてこの八幡化した「八幡社」はこの地域では最早「弓矢の神」では無く、「4の中部域」の「農兵」の「身の安全を護る神」から、更に発展させて「家内安全の神」の守護神として考えられていたのです。
それは、「神明社」の「生活の神」「物造りの神」は勿論の事、前段で論じた様に「400年に及ぶ苦難」の末にこの地域では弓矢に変えて民は「家内安全の神」を求めたのです。
それは「合祀」ではなく「神明社」そのものに「3つの守護神」を求めたのです。
この「3つの守護神」を持った神明社の一部が鎌倉期に成って「家内安全の神」を強く主張する「神明社」が現れ、その「神明社」が室町期に入っての「下克上と戦乱」を背景に「創建主の勢力」が衰退し「管理維持」が困難に成り、「神社経営」の為に「神明社」と区別して「八幡社」と呼称されるように成ったものなのです。
これは呼称の範囲のものであってその元は「3つの守護神の神明社」であり続けたものなのです。
「3つの守護神」
>神明社の存在意義=「生活の神」「物造りの神」+「身の安全を護る神」→「家内安全の神」→「万能の神」
「八幡社呼称の経緯」
地域の「八幡社」の現在の呼称の経緯としては、鳥居の形や社屋の形状は多くは「神明造り」であり、元は「神明社」としての建立であった傾向が有り、室町期に入ってからの呼称と観られるのです。
その結果、「3つの守護神」の傾向が更に進み「家内安全の神」をそのものを求めたのです。
この地域は「生活の神」「物造りの神」として上記したように古くから神明域であった事から、当然の事として「時代の背景」が影響して武士も民も全ての民が「生活の神」を発展させて「家内安全の神」を「主の守護神」として民は求めたのです。
その為に「神明社」が一部「八幡社」に単純に変名したと云う事なのです。
「八幡社」と云っても此処では「弓矢の八幡社」で無い「神明社的な家内安全の八幡社」であった事から変名の抵抗は最早無かったと観られます。
「生活の神」「物造りの神」に、そして「家内安全の神」に、遂には八幡社の本来の「国家鎮魂」を加えた神を創造したのです。そしてそれは「神明社」のみならず「八幡社」との距離感を殆ど無くし、何れも「民の守護神」として崇める風習が生まれたのです。
その証拠に次ぎのような事がこの地域に限って起こったのです。
そして、そもそもこの地域の「神明」とする呼称は、「3つの守護神」の意味を持ち、それを単純に”「神様」を「神明」”と古くから呼称されていて、”神明”と云えば”神様”の総称の事であったのです。
それには「雄略天皇の八幡社」の意味合いも含んでいて、一応は「八幡社」の呼称はあるとしても根本的に「応神天皇」の「神明」であったのです。
>「民の”神様”」=「民の守護神」=「”神明”の呼称」
つまり、全ての守護神の総称を”「神明」”と呼称したのです。
「神明社」「八幡社」に分ける事に大した意味は無く全て大まかに”「神明」”であって、その”「神明」”は「神明社」なのです。
神社の経営的な意味のみであるのであって「民の心の区分け」を意味するものでは無かったのです。
北陸東北域の「神明社-八幡社の関係式」
>「神明社」≒「八幡社」→「神明社」+「八幡社」→「神様」=「神明」=「民の守護神」
>「生活の神」+「物造りの神」+「家内安全の神」+「国家鎮魂」+「身の安全神」=「八幡社+神明社」
実は「神明社」には「2つの通説」があるのですが、この中の一つの「神明=神の説」は此処から来ているのです。強ち、関東以北ではこの「神明=神の説」は間違いないのです。
ところが関西以西では八幡社、神明社、鎮守社、春日社、住吉社、出雲社等の前段で論じた自然神に繋がる「5つの守護神」を祭祀する社はその存在意義は又明らかに別なのです。
特に「氏の神」の神に代表される春日社等は区別化は当然の事として、上記した様に以西に行くに従い「八幡社の区別化」は明確に成って行くのです。
それは「荘園と未勘氏族」のあり方に起因しているのです。
「荘園に依って酷い苦しみを受けた地域と未勘氏族」と、「荘園に依って利益を受けた地域と未勘氏族」との「パラメータの差」が「八幡社と神明社の区別化」を促しているのです。
そして、その「荘園と未勘氏族」の有様は、平安期中期、平安後期、鎌倉期、室町期初期、室町期中期、室町期後期の「6つの期」になって現れ、それは「政治的な施策」と「戦乱の影響」に依って変化して行くのです。それが関西を中心に「以西と以北との変化」に差として生まれて来たのです。
この「八幡社と神明社の区別化」の差が次ぎの様な関係を示しているのです。
>”「以西・大>関西>以北・小」の関係”
が生まれて行ったのです。
この事は「4の中部域」で論じた様に、「圏域の勢力数」の関西を基準にした関係表(冒頭の表 上記の重複表)でもこの傾向を顕著に示しています。
実はこの事が次ぎの数にも表れているのです。
「北陸東北域のデータの検証」
「4の中部域の論説」の通りこの「北陸東北域」はそもそもそれ以上の地域であり、それからするとこの下の数は更に少な過ぎるのです。
関西域に対して1.8倍は低すぎるし、神明社3.9も低すぎると考えられます。
つまり、「関西域の八幡社」が概ね15%であるとすると、この地域の八幡社38は多すぎ、全国比1割を占める事は考えられずもっと低い筈です。
当然に神明社は「関東域115」に対してこの地域での「神明社97」は少なすぎ、「関東域の全国比20%」に比べて「北陸東北域の全国比17%」は低すぎると考えられます。
もし、このままの数字であるとするならば前段で論じた様な事件が ”歴史的に何も無かった”と云う事に成ってしまいます。
既に関西から関東に掛けて「八幡社」は勿論の事、「神明社」もその「歴史的な経緯」による変化を起こして来ていて、その様にデーターの変化を起こしています。”何も無かった”はあり得ずそんな事は絶対に無い筈です。
この「北陸東北域」に於いて現実に厳然と「特異な歴史的な経緯」を持っているのに ”何も無かった”と云う事をこのデータは示している事に成ります。「八幡社」だけならいざ知らず「神明社」も歴史的な状況に一致しないデータなのです。
”現世は移ろい去り行く”の例えの通りの如く歴史につれて「人の営み」は変化するものです。
つまりは「八幡社」の数は(+)であり「神明社」の数は(-)である事から、これは明らかに「時間の経過」に伴い「神明社→八幡社の変化」を起こした事を意味します。
そこで、では、どの様なデータならこの地域のデータに成り得るのかを検証します。
次ぎの表を参照して下さい。
>総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
>1.8倍 3.9 0.7
>八幡社 7県-38-10.7%(全体比)-平均5/県
>神明社 7県-97-17.1%(全体比)-平均14/県
>関西域八幡社 6県-52-14.7%(全体比)-平均 7/県 源氏の出自元の圏域
>関西域神明社 6県-14- 0.2%(全体比)
>八幡社 秋田3 山形7 宮城7 青森3 岩手4 福島2 北海道9
>神明社 秋田33 山形15 宮城14 青森13 岩手11 福島9 北海道2
上記する経緯から、「以西・大>関西>以北・小」の関係から考えると、”中部域の「5割域の分布」の自説は「46.6%の計算値」”に匹敵する位の「神明社の数」である筈です。
この「八幡社38」を加えて135として観ると24%となり、関西域を基準として観ると5.4倍と成ります。
「関西域25」を基準としたこの地域の神明社の97の倍率3.9ですので、5.4はそれなりの比率と観られます。
しかし、「地理的要素」と上記の「歴史的要素」を考慮した場合、少なくとも秀郷一門の「関東域の数字」位は少なくとも保有していると考えられますので、因って「関東域の倍率4.6」に対し「5.4」は納得出来る倍率と考えられます。
そうすると、比較すると次ぎの様に成ります。
>関東全域 神明社 7県-115-20%(全体比)-平均16/県 本家域
>北陸東北 神明社 7県-135-24%(全体比)-平均19/県
神明社の全体比として考えれば20%/24%は、遜色なく相当として納得出来る数字と成ります。
それに「関東域」と「北陸東北域」の人口比(1/2と試算)から考えれば、48%程度と成り「中部域46%」に匹敵することに成ります。
これを下の表の通り「県分布」で考察すると、この地は”越後域から陸奥域に掛けて神明社の勢力圏が移動し構築されている事”が良く判ります。
他の6県域ではほぼ一定で変化が無い事等は、真に「歴史的な青木氏の経緯」と一致します。
つまり、この地域の「八幡社」は全て「神明社」と観て検証する必要があるのです。
そうすると次ぎの様な「北陸東北域の総合分布」に成ります。.
「北陸東北域の総合分布」
>神明社 秋田36 山形22 宮城21 青森16 岩手15 福島11 北海道2
以上と成ります。
「統治経路と末裔分布経路」
上記の事は秀郷一門のこの域の「統治経路」か「末裔分布の経路」を調べる事で判る筈です。
これはこの域の「八幡社」を「神明社」として観てしまうと、明らかに「青木氏の末裔分布、又は勢力分布」に極めて酷似しています。
前段で論じたこの地域の立役者である「特別賜姓族」の「越後青木氏」は、歴史的な幾つもの戦乱から「賜姓青木氏を保護」し受け入れて護り、且つ陸奥への「戦略的ルートを構築」し、陸奥域の「青木氏の基盤」を護った地域でもあり、越後はその拠点と成った所であります。
そして、その陸奥より南下の岩手に勢力圏を伸張して同門の「進藤氏などの力」を借りて「山形の勢力圏」を築いたのです。つまり、次ぎの表の経路を示しているのです。
>「新潟の拠点」→「青森域」→「岩手域」→「山形域」→「秋田域」→「宮城域」
以上の順で勢力圏を拡大しそれに伴って「神明社の分布」は拡大したのです。
本来であれば、「北陸ライン」を北に採って、統治経路を造るのが戦略上では理想的です。
>「新潟の拠点」→「山形域」→「秋田域」→「青森域」→「岩手域」→「宮城域」
以上と成る筈です。
しかし、この圏域全般は阿多倍一門の「産土神」の「内蔵氏」や「阿倍氏」の「末裔の勢力分布域」であった地域です。この域を抜くのは大戦闘を意味しますので戦略上得策ではありません。
この事から「鎮守府将軍」として秀郷一門が先ず「陸奥域」に赴任して、その地を統治するには「越後」を拠点とするも「出羽の山形域と秋田域」は直ぐには「越後域の一門」と結ぶ事(北陸ライン)は困難であったのです。
そこで先ず「陸奥域」の「東北ライン」の「岩手域」を統治し、そこから左隣国の「山形域」を「越後域」の拠点と結んで統治し、その勢いで上の領域に伸張して「秋田域」を制圧して、最終には「宮城域」の北側を統治する勢力圏と成ったのです。それに伴い「神明社」が分布するのです。
この経路で「神明社」が分布する事は、前段でも論じた神明社の第2の別の目的の「戦略拠点」なのですから、この「分布経路」に沿って「統治経路」の戦略を採った事を意味します。
つまり、これには平安初期からのこの地域は阿多倍一門の「内蔵氏」等の勢力圏でも在った事から、未だこの地には「産土神の地盤」でもあったのです。「敵対地域」だけではなかったのです。
それが200年の間に秀郷一門の統治により阿多倍一門の末裔は、思考の根底には「産土神」の考え方も在っても次第にこれを変化させ、「秀郷一門の青木氏」の影響を受けて「祖先神-神明社」へと変化させて行ったのです。
返して云えば、「産土神」から「祖先神-神明社」に変化させるだけの「秀郷流青木氏の影響力」が実に大きかったかを物語るものです。少なくとも大なり小成りに ”思考の根源を変えさせた”と云う事を意味します。これはある条件が揃わなくては成し得る事ではありません。少なくとも争いの連鎖を生む「武力」ではない筈です。
本来ならば、上記した「統治経路」は進藤氏や一部長谷川氏等の協力を得ているのですから、間違いなく「春日社」と成る筈です。
ところが、それどころか「春日社」勢力圏に成らず、のみならず「産土神」さえ殆ど消え去り「祖先神の神明社」と成って行ったのです。そうなると人の思考を変え得るのは唯一つです。考えられるのは「血縁力」と成ります。
(参考 明治2年 陸奥→磐城、岩代、陸前、陸中の東北圏に分ける 出羽→羽前、雨後の北陸圏に分ける それまでは北陸東北域は陸奥と出羽であった)
「進藤氏の活動経緯」
特にこの地域の「神明社の分布」の発展は、真にこの「進藤氏の活動経緯」と一致しているのです。
前段で論じたこの”進藤氏の歴史に残る秀郷一門の中での活動行動”が無くして「神明社の分布発展」は無かったのです。
これは”神明社を直接に進藤氏が建立した”と云う事ではなく、建立に必要とする「秀郷流青木氏の勢力保持」をこの地域に於いて側面からバックアップしたと云う事なのです。
恐らくは、この地域に於いて上記した「歴史的経緯」があったからこそ「秀郷流青木氏の力」だけではなく陸奥域から関東以北全般に掛けての「進藤氏の圏域」が必要であって成し得たものであります。
「人の心」は武力に頼らない「鎮守府将軍」の方に向いた事を物語ります。
その中心と成って働いたのが「第2の宗家」と成っている「特別賜姓族」で「秀郷流青木氏」であります。
又、一門の中でその「調整役の立場」にあった「進藤氏」は為政の為に自らの氏を犠牲にしても積極的に出て来た結果であると考えられます。
上記の”ある条件”とは、民から慕われる神明社建立の役目を担う「特別賜姓族」と「進藤氏」と「血縁力」の3つにあった考えられます。故にこの様な総合分布の分布データを示しているのです。
一族一門が束に成って掛かって初めて成し得るもので、「特別賜姓族」だけではたとえ「勅命」があったとしても、平安時代の「氏家制度」の柵の中ではなかなか簡単に成し得るものではありません。
そもそも「神明社」とは「生活の神」「物造りの神」「家内安全の神」「身の安全の神」とは云えど、別の面で前段で論じた「戦略的拠点の役目」も担っていた訳ですから、”これだけの広範囲の中に「神明社」を建立する”と云う事は他氏との関係から観て無理やりに建立する事は不可能です。
しかし、ただ一つ可能な方法と云うか戦術戦略と云うか解決する方法があったのです。
それは他氏との大小濃淡に関わらず「血縁関係の輪」を構築する事です。
それが氏家制度の社会の中では最も大事で効果的な手法である筈で、断りきれない柵に填まる筈です。それを演じたのが”進藤氏だった”と云うのです。
勿論、前段で論じた様に小田氏や小山氏や花房氏の様に秀郷流青木氏の努力はあるのですが、「武力的」、「経済的」、「政治的」な手法に因らない進藤氏の「人間関係の構築」によるものなのです。
秀郷一門の中で主要5氏の系譜・添書を調べても、進藤氏ほど上下左右に血縁関係を広げている一門は無いのです。
例え一門の取りまとめ役の「第2の宗家」と呼ばれる青木氏でも進藤氏程ではないのです。
前段で論じた様に自らの氏の跡目を犠牲にする位に分家・分派・支流の末端の処までを使って大小の血縁関係を結んでいるのです。
秀郷流青木氏は116氏に対して進藤氏は48氏で1/3なのですが、「進藤氏の血縁関係」は殆どが相手先に出す「養子縁組」なのです。
(この養子縁組枝葉を入れれば青木氏と遜色ない氏数になると観られます)
これは「進藤氏の影響力」を強めることには効果的でありますが、自らの本家の氏は逆に跡目が無くなり一門から跡目を入れて継承すると云う形であって、本家のこの方針に対して内紛が度々起こる程であったのです。
これは一門の中で「自らの役目」を認識しての事で、「添書」を観ると、実に詳しく記述されているのです。
「系譜書」と云うよりは「添書綴り」と云うものと成っていて、他の一門と比べ物にならない程でその役目の一端の認識具合が確認できます。
恐らく、それだけにこの「添書の形式」は、一門の中で「自らの氏の役目」の必要性を末裔に理解させる為に、又、”その務めを先祖がどの様に苦労して来たのか”を知らしめる為に添書に書き記す事に重点を置いていたと考えられます。
「自らの氏」は「自らの力」で護るのは普通ですが、血縁関係を推し進める為に進藤氏はこのぎりぎりの所にあり、「秀郷流青木氏」に護ってもらっていた事が添書から読み取れます。
その証拠に冠位等のものが他の一門に比べて少ないのです。役目に徹していた事が良く判ります。
その役目の血縁は主にどちらかと云えば「小党との血縁関係」が主流と成っているのです。
血縁を豪族や貴族や公家に結んでいれば更に自らの氏の発展に繋がっていた筈ですが「小党との血縁関係」に徹していたのです。(青木氏の様に「賜姓」と云う特別の立場にない進藤氏にとっては難しかったかも知れないだけに役目に徹したと観られます。)
陸奥域から関東域では「武蔵7党」、「丹治党」等、西は美濃域の「伊川津7党」等までの秀郷一門が定住する地域の「土豪の自衛集団」との関係保持が目立ちます。
(この事は中国域に於いても亀甲氏子集団等に観られる)
これは「中部域」とは異なる”「神明社の建立」に関わる「基盤づくり」”であり、特に北陸東北域の特徴を大きく反映した一門の戦略であったのです。
(「神明社建立」は「統治拡大」に伴う「民の人心の掌握戦術」や「戦略的拠点」と共に同じく「統治戦術の象徴」でもあった)
恐らく、他の地域と異なり「関東以北-北陸東北域」に掛けての「歴史的な経緯」から観て秀郷一門には戦略的にこれ以外には無かったと考えられます。余りにも惨く辛い醜い仕打ちを受けていたからです。
そして、この地域の「民の心」はこの穏やかに応じる特別賜姓族青木氏に向いて行ったのです。
故に血縁も成し得たのであってこの「血縁の輪」がまた「民の心」を神明に向けたのです。
進藤氏の成す「血縁の輪」と特別賜姓族の成す「血縁の輪」が連動して民の「心の輪」に波状しその象徴とする「神明社」の「生活の神」「物造りの神」に向いて行ったのです。
それだからこそ”神明=神様 神様=神明の言葉”が生まれたのです。
>”神明=神様 神様=神明の言葉”
これは「2つの血縁の輪」 がこの呼称のみに終わらず「民の心の有様」全てに波及して云った事を物語っているのです。
筆者は、”秀郷一門に朝廷が特別賜姓族を委ねた”その要因の一つには、一門が持つ各地のこの「血縁の輪」と「戦略的な背景」を見込んでの施政に対する「賜姓」であったと考えているのです。
返して云えば、実質12代も「鎮守府将軍」が続いたのですが、青木氏を始めとする「鎮守府将軍」の役目に対して朝廷は信頼評価していた事を物語ります。
その「最高の手段」が ”「賜姓青木氏の神明社建立」を担わせる事にあった”と観ていて、総合的な力を保持しているし真摯な姿勢で対応すると見込んでいたのです。
故に”全く賜姓青木氏と寸分違わない冠位、官位、官職の諸待遇の全てを同じとした”と観ています。
”全て同じ”と云う事は総簡単な事ではありません。そこには ”それだけに相当に秀郷の行動に対して信頼していた”と云う事に成ります。
桓武天皇が推し進めた神明社20の上に、さらに特別賜姓族が推し進めた神明社97-135が存在するのです。この信頼は「2つの心の輪」と結びついた神明社の数に依って評価されるのです。
秀郷第3子千国の秀郷流青木氏が入間の秀郷宗家以上の扱いを受け「家柄、身分、官位、冠位、官職」が全て上と成っているのです。”宗家以上”とは宗家の立場もあり一門で問題を起こす事もあり得ますが宗家もこれで納得したのです。
これだけ与えて河内源氏の様に振舞われては「朝廷の権威」にかかわる恐れがありますが万来の信頼で与えて行った事に成ります。
「11代の源氏」の「やり過ぎ」と対比して「賜姓青木氏の生き様」が「民の心」を捉え、そしてその特別賜姓族青木氏がそれに勝るとも劣らずの氏であった事が「民の心」を和ませ信頼して行った結果であると観られます。それを自らの身を削って補完して行った進藤氏が居たからこその成し得た功績であったと云えるのです。秀郷一門「青木族」の一つ「進藤氏」ならではの行為であります。
(我々青木族は末裔として同族の進藤氏に対して尊敬せねば成りません)
その意味で、神明社もこの様な非常な努力の上に成り立つものであり、初期の「国家鎮魂の八幡社の建立」を担う「皇族賜姓族」が元々無かったのは、「朝廷の勅命」に頼る以外には建立する方法が無かったのであって、それだけに神社建立は一筋縄ではいかない非常に難しい事であった筈です。
(源氏の様にカーとならずに沈着冷静に人の道を外さずにそれを成し得た事の結果なのです。)
まして、後の「弓矢の神の八幡社」とも成れば、武士階級に限られ歴史的な辛い経緯から観て少なくともこの地域に於いては全く不可能であった筈で、そもそもこの地域には余りにも「民の心」にすっきりと浸透して行った神明社があったのですから、「国家鎮魂の八幡社」さえをもそもそも建立する必要性は無かった事が云えます。
ここが重要で、奈良期から「神明社」がどんどん建立が増えて行きながらも、同じ奈良期からの「八幡社」の方は「再建などの勅命」が無ければ荒廃して行ったのです。
「神明社と八幡社の明暗」はこの北陸東北域に於いて顕著に出たのです。論じている7つの地域には「神明社と八幡社の明暗」はそれぞれ又違う明暗を示しているのです。
「神明社」と「八幡社」の大きな違いはここにあるのです。「2つの賜姓族青木氏」と「11代の源氏」との明暗と極めて類似しているのです。
「神明社」は「2つの青木氏」が「皇祖神-祖先神」のつながりの中で建立する、「八幡社」は豪族への勅命による建立と成っていたからなのです。その違いの大本は「守護神の存在意義」であって、「生活の神」「物造りの神」としての民に直結する意義であり、八幡社は国家的な「国家鎮魂」の意義であって民に直接的な意義ではなかった事にあります。なかなか勅命とは言え豪族にその建設を命じる事は何かの適宜な根拠か理由が無ければ難しい事に成ります。普通ではあれば朝廷自らの財力で建設する以外には無いところです。せいぜい出来たとしても修理が関の山ではないかと考えられますし、現実にはその様であったのです。
河内源氏や未勘氏族がこれに目をつけたと考えられ、その「存在意義」を歪曲して ”国家鎮魂は武士の弓矢により成し得るものだ”とする理屈を付けて、”八幡社を自らの氏の守護神”の様に扱ったとする傾向が見られるのです。
そうかと云って”自らの氏の守護神”と宣言豪語するには「皇族系の祖先神」の立場にある以上難しかったと考えられます。
それは「神明社」がその役目を同じ立場にいた「皇族系の祖先神」の「2つの青木氏」が担っていて、且つ「桓武天皇期の建立」(伊勢青木氏の末裔-光仁天皇の父施基皇子の皇孫)に観られる様に天皇自らが積極的に担っていたからです。
「八幡社の現実」
この事から逆に言えば「河内源氏」の大きく関わった地域のみに「弓矢の八幡社の建立」が可能であった事が云えます。
現に調べて観ると、因みに河内南隣の最も近い紀州では上記した様に「八幡社」は極めて少ないのです。「弓矢の八幡社」は限定された局部地域に於いてであり、室町期後期以降の後付のものである事が傾向として云えるのです。矢張り相当後ろめたい気を使っていた事を物語る事象です。
そもそも隣国である紀州であれば「河内源氏の荘園」が出来ている筈です。すぐ隣で都合が良い筈です。
しかし、出来ていなくて「藤原北家筋」(藤原脩行)の荘園」と「熊野大社の系列」が殆どです。
返して云えば「神明社建立」で成り立つ事であるからです。
前段で論じて来た様に、紀州はそもそも古来より「皇祖神の遍歴地域」でもあり、ここに「河内源氏」が食い入って「荘園や八幡社」を建立する事は朝廷に対しても歴史的にも皇族の立場上も難しかった事が考えられます。これ以上朝廷との軋轢を悪化させられなかった背景が観られます。
地形的にも紀伊半島と云う地理条件と温暖な環境からすると荘園としては最高の立地条件であります。
”喉から手が出るほどで”あった筈です。しかし、ここにはこの「弓矢の八幡社」は極めて少ないのです。
殆ど無いと云っても過言ではありません。
「熊野大社の社領」と云っても主体は南紀であり、北紀は平安期は藤原北家の所領で、現在でも特に「春日社」が多い地域なのです。「伊勢神宮の社領域は勿論の事と、この神宮を中心とする一定の円系内には一切の社物は禁止されていた事もあって、少なくとも北紀州の領域は「皇祖神遍歴地域」であった為にいくら「河内源氏」でも出来なかったと考えられます。
少なくとも平安時代には伊勢を中心として「南に向かっての太陽の昇る方向の地域」に対しては避ける配慮があって「不入不倫の権」の解釈拡大で護られていた事もあると考えられます。
故に太陽の昇る方位地域の「熊野詣で」の30年間の間に65回も累代天皇が詣でる地域であった南紀も然ることながら、”八幡神社”の呼称すら余り聴かない地域なのです。
事程然様に、紀州の如くにそもそも「勅命による国家鎮魂の八幡社」はいざ知らず「河内源氏の弓矢の八幡社」としての建立は極めて難しかった筈です。
それは、上記のように「古来からの環境」がある中でも紀州の様に難しいものであっただけでは無く、別には「神明社の氏上様」は「賜姓青木氏」でもあったからです。
つまり、「神明社=青木氏」と観られていた地域であって、且つ「3つの発祥源」であったからで、元々「神明の意味」を普通に解せば、「生活神」「物造神」「家内安全神」「身安全神」「国家鎮魂神」「武神」は「皇祖神」に繋がり、「自然神」に繋がり、「応仁神」に繋がり、「雄略神」に繋がり、あまつさえ「皇祖神」の「天照大神」の「伊勢神宮」の2神に繋がる「総合神」としての「祖先神の神明社」であるからです。
だから、この関西域の”「神明=青木」”と同じく、北陸東北域の ”「神様」と云えば「神明」、「神明」と云えば「神様」”の呼称が生まれ慣わしと成っていたのです。この「呼称の意味」が神明社を大きく物語ります。
何も「国家鎮魂・弓矢の八幡社」に殊更に信心する必要性は無かったのです。
「神明社は総神」
隣国国境の北紀州に於いてでさえも「国家鎮魂や弓矢の八幡社」は無かったのですから、北陸東北域に於いてでは、上記の通りの「環境と歴史の経緯」から観ても ”「神様」=「神明」”以外には無かった筈です。
まして、上記した様に、歴史的な民族の経緯に因って「産土神の思考原理」が奥深く潜んでいる「祖先神の神明社」です。
こう成るとこの地域の「祖先神」には、「皇祖神」は勿論の事として、「産土神」「八幡神」、強ち地域性から観ても「春日神」や「鎮守神」の「存在意義」も潜んでいる事を否定出来ないのですから、最早、「慣わし」の域を超えて当然の「総神」である事は否めません。
そもそも平安期から「氏家制度」は「社会の慣習」を「伝統」として重んじる社会構成である中では、突然に「勅命」による為政の「国家鎮魂の八幡社」も、あまつさえ「弓矢の八幡社」は相当な事で無いと新規建立は出来ない慣習です。
筆者は「氏家制度」が強く慣習として護られていた室町紀中期・下克上・戦国時代以前の社会の中では慣習的にも論理的にも有り得ない”と観ています。
この考え方からすると「弓矢の八幡社」は殆どは「未勘氏族」による「後付の行為」であって、それは「氏家制度」が緩んだ室町期後期からの事であり、徳川家康-家光の3代に渡る「宗教改革の一環」として「武士の社会」を安定化と固定化するために打ち出した「八幡社奨励令」(浄土宗督奨令)にて拡がったものと考えているのです。
この考え方と上記した「藤原一門の組織形態」が関東から北陸東北の神明社建立に大きく貢献しているのです。何も「八幡社」に拘る必要性はこの地域では、上記の通り「総神」である以上、最早、無かった事を意味します。
この様な背景の中で秀郷一門の行動が上記した「神明社-八幡社の関係式」を作り上げたのです。
「神明社の分布進路」
それが「以北方向」からと他方「関東方向」からの2つの方向から進み、宮城では常陸や武蔵から下野、上野へと北に伸張し、保護した諏訪族青木氏の立ち直った力を借りて仙台の直前までその勢力圏を伸張したのです。
つまり「神明社の分布進路」の経路は2つの方向から起こったのです。
その意味で、「北陸東北域の総合分布」の表は、”「秀郷流青木氏の活動」があったからこれだけの建立が出来た”と云うのではなく、何時の世も「特段の事」を成すには何がしかの「特段の要素」が働いて成し得るものですが、この「特異な経緯」を持つこの地域では、前段で特筆している「進藤氏の活動」があっての事であって、その行動とこの総合分布の結果と真に一致するのです。
青木氏と進藤氏の「活動分布」とこの「分布の比率」が一致するのです。
つまり、「秀郷流青木氏(特別賜姓族)」の真にこの「勢力分布」と「青木氏末裔分布」に「神明社建立分布数」が相対しその進路さえも相対しているのです。
とりも直さず、「越後を前線基地の拠点」として働き、「特別賜姓族」「第2の宗家」「秀郷流青木氏」の夫々の「3つの役目」が的確に進められていた事を物語ります。
戦略的に観て、これには「進藤氏の活躍」と「越後の前線基地」としての働きが大いに功を奏したと考えています。
そして、それは「桓武天皇期の20の神明社」と「義家事件の直後の時期」の条件が合致した結果(566)と考えられます。
この様な確固たる基盤に護られていたからこそ「関東域」にも勝るとも劣らず、「最大勢力圏8.5の中部域」にも逼迫する分布が成されたものであります。
「6の中国域」
・「6の中国域」は「7の四国域」と共に「たいら族」の圏域でもあった事や「出雲大社」の圏域でもあり、「源氏の勢力圏の外」にありますが、「荘園制」による「未勘氏族」の多い所で在った事から日本海側の北域の多くは「未勘氏族」に依って建立されたものと成ります。
この域は神明社のデータを観ても「神明社の完全な圏域外」でもあります。
しかし、極めて微妙な地域でもあり、「瀬戸内」に限っては日本最大の利権が潜む地域を有しているのです。
”「瀬戸内を制する者は国を制する」”と云われて来た地域でもあり、その影響を受けて日本海側の北域にも少なからず影響を与えた地域なのです。
古来より醜い政治性が渦巻く地域を有しているのです。その中に「神明社と八幡社」が存在しているのですから無影響である筈はありません。
関東域と北陸東北域の状況と大きく異なる処があるのです。その意味で対比して論じる必要が出てきます。
>6の中国域は「八幡社24+神明社9」=33
>総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
>0.4倍 0.4 0.5
>6 中国域 八幡社 5県-24-7.9%(全体比)-平均5/県
> 中国域 神明社 5県- 9-1.6%(全体比)-平均2/県
>八幡社 山口9 広島5 岡山4 島根4 鳥取2
>神明社 山口1 広島6 岡山1 島根1 鳥取0
「県別分布の現実」
この域の青木氏は前段で論じた様に、平安初期から「讃岐藤氏」の「秀郷流青木氏」の絶大な圏域で、「讃岐」は元より「瀬戸内」、「土佐の一部」、「安芸や美作」には土地の土豪との間に血縁族を作り、「出雲大社の氏子集団」の「亀甲衆団」との血縁も進め、その勢力を宍道湖のところまで伸張して、其処には「2足の草鞋策」を足懸りに「讃岐藤氏の勢力圏」を構築したのです。
その為に県別分布では広島域が神明社が最も多い事でも証明できます。
ただ「亀甲衆団」との血縁族で広げた圏域は、「神明社」を一つ作る勢力が精一杯のものであったと観られ、広島は八幡社でも神明社も同じ勢力ですが、ここの「神明社」は「讃岐青木氏」が「未勘氏族の八幡社」の中に食い込んだ事で、室町末期の中国域の豪族から「八幡社勢力」と成ったと観られます。
「八幡社」の山口9、つまり「長州の八幡社」は納得出来ます。
実はこの中国域には、因みに「源氏の未勘氏族」は3氏があり、この3氏とも清和源氏頼信系で小笠原氏(山口9)と安芸武田氏(広島5-安芸4)と山名氏(島根4)ですが、この「3氏の圏域範囲」のみに「八幡社」の分布と成っています。
島根と鳥取の神明社は、此処には秀郷一門に追い出された土豪足利氏の本家一族とこの一族と血縁した「足利氏系青木氏」の賜姓族の一部末裔が秀郷一門に追い遣られて八頭と米子に移動定住し、その後、宍道湖東まで定住域を広げていますが、この末裔が神明社を1社程度建立する勢力圏を構築していて、その「勢力分布」と「末裔分布」であった事を示しています。
神明社の広島6は「讃岐青木氏の血縁族」を広げての「勢力分布」であり「末裔分布」で在った事になります
この地域は「神明社」の「生活の神」「物造りの神」の守護神であり、「八幡社」は単純に「弓矢の神」の「八幡社」であったのです。
この中国域は奈良期から「阿多倍が引き連れてきた職能集団の土地柄」で室町末期までその最大勢力を誇り、中国域全土を制覇した「陶部」の「陶氏族の土地柄」です。
依って、元より阿多倍一門の西の九州は大蔵氏、北の北陸東北には内蔵氏、中部北には阿倍氏、この中国域には「たいら族」の圏域と成っていて、他の勢力が食い込む事はなかなか困難な土地柄で、そもそも、”蟻の隙間も無い”くらいに「神明社や八幡社」が食い汲む事の事態が珍しい事なのです。
このデータは、其処に「讃岐藤氏」がうまく「血縁による戦略的な方法」で食い込んだ事の意味や、問題と成る「清和源氏頼信系義家」の「荘園制拡大で未勘氏族を広めた事」の勢力のパラメータの数字としても吟味できるものなのです。
まして、この「中国域」には古来より「出雲大社」と「厳島神社」の「2つの神域」でもあります。
其処にこれだけの「神明社9と八幡社24」の33は「関西域77」に匹敵する位の意味合いを持っています。
それだけに中部域の「神明化八幡社」や「北陸東北域」の「八幡化神明社」の様な「存在意義の変異」は起こり得なかったのです。
むしろ「弓矢の八幡社」をより鮮明にしてその背景に対峙したと考えられます。
「神明社の存在意義」も元より「陶氏」に観られる様に「職能集団の地場」であった事から「生活の神」「物造りの神」はそのままに新鮮に受け入れられたのです。それは真に「陶部の陶氏」が物語ります。
この中国域は「瀬戸内」を四国域と挟んでいる限りには分離して論じる事には危険があり、次ぎに合わせて「瀬戸内」を中心に論じる事にします。
それだけに「瀬戸内」は両域に取って大きな意味を持っていて「接着剤の役割」または両域の特徴の重複する部分なのです。
「7の四国域」
・先ず「7の四国域」は「讃岐藤氏の讃岐青木氏」と「阿波の阿波青木氏」で何れも秀郷一門の「秀郷流青木氏」の土地柄です。ここに特別賜姓族の青木氏が建立した「神明社」より「2倍の八幡社」が建立されているのですが、この「神明社」が建立されている背景は、この「讃岐青木氏」の香川1と愛媛2と高知3の6神明社で、この建立地の範囲が「下がり藤に雁金紋」の「讃岐青木氏」の丁度、その勢力圏でもあります。
徳島3は「剣片喰族」の「阿波青木氏の勢力圏」です。讃岐と阿波の6対3の比率に相似する末裔分布でもあり、この「2つの青木氏」は秀郷一門の中でも主要な青木氏で、「主要8家紋」の一つでもあり、かなりの「第2の宗家」としての「発言力」を占めていた事が判ります。
特に「讃岐青木氏」は家紋に示す様に綜紋である「下がり藤紋に副紋付き」の家柄で「第2の宗家」の本家筋に相当する力を持っていたのです。
平安期の関東の「平将門の乱」と呼応して起こった「瀬戸内」の「海賊騒動」の「藤原純友の乱」(多説あり)に観られる様に、「清和源氏の祖の経基王」に「海賊の嫌疑」を掛けられたほどに、「瀬戸内の制圧権と利権」をめぐる「朝廷との軋轢」はすさまじいものがあり、その中での「神明社建立」とそれに伴なうその「讃岐藤氏」の「勢力伸張」は警戒されていたのです。
藤原氏北家の中では「田舎の藤原氏」と蔑まれ、しかしその田舎者が「瀬戸内」と云う地域で「利権と権力」を拡大させていたのです。その中で瀬戸内の「海の族」を纏め上げて行ったのです。
>八幡社 香川6 徳島3 愛媛9 高知3
>神明社 香川1 徳島3 愛媛2 高知3
(下記重複)
この高知を除いた香川と徳島と愛媛の計「神明社6」は「関西域の25」に対してその「立場と勢力」から観て小さいと考えられます。しかし、「讃岐青木氏1氏」の実力から観ると、「中国域9の神明社」も合わせると「15の神明社」と成りますので、関西域は3氏として観ると25/3対15/1と成り、「讃岐青木氏」は他の秀郷流青木氏と比べて約「2倍の力」を持ち得ていた事が「神明社」を1つのパラメータとして観ると良く判ります。「瀬戸内の富」を背景に「田舎者藤氏」は「入間の宗家」に匹敵するくらいに財力と利権と勢力を拡大していたのです。「妬み」が生まれるのはこの世の常です。警戒をしなくてはなりません。
この事から観ると、「武田氏滅亡」により「讃岐青木氏」を頼って逃亡して来た土佐に住み着いた「甲斐賜姓族」の「武田氏系青木氏」を匿う能力が十分にあったとされます。
依ってこの高知3の神明社はこの「讃岐青木氏」の援護の下に建立された事が判ります。
恐らくは、他の地域の逃亡先の「神明社自力の建立能力」は「神明社1程度」が相当と成っていますので、高知3の内の1は青木村を形成している事も考え合わせると「土佐の青木氏」が建立したと成ります。
この様にこの四国地域の「神明社の建立」は良く判るし、室町期中期頃までの守護神の社を建立出来る豪族となると、藤原氏を除くとこの四国域では14の豪族と成ります。
この14の豪族の内、藤原氏の血縁族は家紋分析から6割を占めます。
しかし、この中で「八幡社」を建立する「清和源氏頼信系の豪族」はただ1氏で「阿波の三好氏」だけであります。
徳島3はこの三好氏に因って建立されたと考えられますが、「八幡社」では愛媛9の伊予とすると4氏の豪族、香川6の讃岐とすると3氏の豪族、高知3の土佐は6氏の豪族と成ります。
これは”平安末期に「清和源氏頼信系一門」の影響(主に荘園制)を受けた豪族は少ない”と云える事に成りますし、或いは海を越える地理的な要素を勘案すると、「讃岐藤氏」の「瀬戸内」を跨ぎ中国域も勢力圏に納める大圏域の影響等から考察すると、この域では「河内源氏の荘園名義貸し」の難しさが大きく働いていたのでは無いかと考えられます。
「八幡社の疑問」
そうすると、では”誰が八幡社を建立したのか(イ)”、又”「弓矢の神」を守護神にしたのか(ロ)”と云う疑問が出て来ます。現実には吟味したデータでは21社が室町期中期までには建立されている筈です。
この「建立する能力」を持った豪族は藤原氏宗家と讃岐と阿波の秀郷流青木氏16氏とすると、残るは「2つの秀郷流青木氏」と「小さい未勘氏族の集合体」以外には無い事に成ります。
幾らこの讃岐と阿波の「2つの秀郷流青木氏」が建立したとしても「春日社」、「神明社」、「八幡社」の ”「3つの守護神」を建立する事は可能なのかどうか”(ハ)です。
そこでこの3つの疑問(イ)(ロ)(ハ)に付いて検証する必要があります。
先ず、下記の通り「八幡社と神明社」の合計31と「春日社」を合わせても、下記の関西域との比の総合倍率0.4をパラメータとして使ったとして、「春日社」は30社と成りますから併せて61社と成ります。
これに「中国域の建立分33」と「春日社」の同じく総合倍率0.4ですのでこれを積算したとして66社となります。
これを合わせて全127社と成ります。
上記の「2倍の勢力」(15)を持つ「讃岐青木氏」と、徳島3の「阿波青木氏」の勢力を同倍率からほぼ0.3と観て、2.3倍率と成ります。
これを合わせたとしての127社の建立は、他の域のデータと比較すると、「関東域の115社」と「北陸東北域の135社」の丁度その中間の勢力を保持していれば可能と云う判断に成ります。
そうすると下記の表の通り「関東域の勢力」2.7と「北陸東北域の勢力」1.8と成ります。
> 総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
>A 関東域 2.7 4.6 1.8
>B 北陸東北域 1.8 3.9 0.7
> (A/B) (1.5) (1.2) (2.5)
>C 四国域 0.4 0.4 0.4
>D 中国・四国域 [2.3] (0.8) (0.9)
以上の表より次ぎの関係式が成立します。
>「関東域の勢力」(2.7)>「四国域の勢力」(2.3)>北陸東北域(1.8)
丁度、「関東域の勢力」と「北陸東北域」との「中間の勢力」を保持している事が云えます。
中国・四国のこの総合調整倍率[2.3の勢力]と云う事のみでは、”建立する能力はあるか”と云う事に成ります。
そこで、個別の「神明社倍率」と「八幡社倍率」の(A/B)の比1.5から観て「神明社倍率」もほぼ同比率1.2である為に1.5≒1.2と成り「建立可能」と成ります。
次ぎに「八幡社倍率」は2.5/1.5ですから確かにハンディーがある事は認められますが、この「中国域の八幡社建立」は、山名氏や武田氏や小笠原氏の大豪族3氏の清和源氏頼信系の豪族と、その「未勘氏族」に依って建立されているので、このハンディーは抹消されますので問題はなく成ります。
むしろこのハンディー(2.5/1.5)は「余力」1.0と観る事が出来ます。
そうすると次ぎの要件がこの地域にありますのでこれを吟味する必要が出てきます。
>7の四国域は「八幡社21+神明社10」=31
>「関西域基準比」
>四国域 (中国域)
>総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率 (総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率)
>0.4倍 0.4 0.4 (0.4倍 0.4 0.4)
>「全国比」
>7 四国域 八幡社 4県-21-5.9%(全体比)-平均5/県
> 四国域 神明社 4県-10-1.7%(全体比)-平均3/県
>「県域数」
>八幡社 香川6 徳島3 愛媛9 高知3
>神明社 香川1 徳島3 愛媛2 高知3
この検証の問題には次ぎの「5つの要素」が働きます。
A「地理性」
B「経済性」
C「歴史性」
D「圏域の広さ」
E「武力」
以上の「5つの要素」が影響します。
「5つの要素」
この「5つの要素」は次ぎの様に成ります。
・Dの「圏域の広さ」は中国域5+四国域4で9県であり、ほぼ一致しますので問題は無いと観られます。
・Cの「歴史性」は比較は難しいですが、平安末期は「関東の動乱」と「瀬戸内四国の動乱」は一致しますし、その後も「下克上と戦国戦乱」は同じであったとほぼ考えられます。
・Eの「武力」は「神明社」と「八幡社」を他氏から侵食を防ぐには必要な要素ですが、平安中期からのこの地域での「長期間の経緯」を背景にすれば、この「2氏の秀郷流青木氏一門の勢力」を持ってすれば可能と考えられます。(下記 藤原の純友の乱以外は現実に護られて来た。)
・Bの「経済性」は日本海側まで出た瀬戸内全体の廻船業の権勢を誇っていますので「2足の草鞋策」から全く問題は無い事に成ります。
そこで筆者はこの「5つの要素」のキーポイントは最後に残る大きく「地理性」に関わっていると観ているのです。
この「地域の特徴」は”「地理性」そのものにある事だ”と考えていて、それは”「瀬戸内」”と云う要素だと云う事なのです。
この”瀬戸内”は10国の沿岸部を持ち、これに依って「姓氏」の始祖の「海部氏」等に代表されるように「海鮮業」が盛んに成り、当然にこれに伴い「造船業」や「廻船業」も起こります。
ましてこの海は古来より中国域を制していた陶部の「陶氏」に代表される様に「物造り」の盛んな地域でもあったのです。「総合産業域」といっても過言ではない「瀬戸内」圏で、その圏域や勢力が廃り侵食される事は100%無い事が判りますし、現在でも健在です。
現実に昭和20年までこの圏域は「総合経済圏」で保たれていたのです。
因って、この海域を制することは「莫大な経済的な富」(a)と「海利権などの威力」(b)を獲得します。
この「2つの富」(a)(b)を以って勢力圏を高めれば上記する関係式の[2.3]の「勢力の基盤」の構築は可能と成ります。
この「経済的な基盤」(a)(b)の裏打ちが可能と成る事に依って「八幡社の建立能力」は出て来ます。
それは「武力」に依って得られる「税的な経済的基盤」だけではなく、自ら営む「商業」、つまり「2足の草鞋策」に依っても充分に成り立つものです。
この「讃岐青木氏」と「阿波の青木氏」はこの”「瀬戸内の海域の廻船業と造船業」”を営み、取り分け「讃岐青木氏」はこの力を以って安芸、美作を越え石見、出雲の北の海まで伸張しているのです。
それは「商い」のみならず「血縁関係」までを構築して末裔を定住させると云う実に「高度な戦略的手法」に観ても「三相の理」を得る「完璧な戦略」を駆使しているのです。
この結果、記録によると昭和20年頃までこの廻船業・造船業を営んでいるのです。
又、「阿波青木氏」も史資料によると、その末裔も淡路までの範囲で「廻船業・造船業」を営み「紀伊水道域」を征し手広く北の海まで出かけている事の資料が多く遺されています。
この2氏はこの様に「2足の草鞋策」を手広く営んでいたのです。
これらの検証から(イ)(ロ)(ハ)の疑問は説明できます。
「瀬戸内」と「2つの鍵」
「讃岐と阿波の2氏の青木氏」が「瀬戸内」と「紀伊水道」を制していた事は「政治的・戦略的」に観て「清和源氏頼信系の八幡社」の勢力伸張は難しかった事が判ります。
筆者は前段で論じた清和源氏の祖の「経基王の讒訴」「藤原純友の乱」の「海賊嫌疑」はこの「勢力圏の拡大」の「嫉み」に依るものと観られ、裏を返せば ”この地域の利権の獲得を狙っていた”と観ているのです。それは清和源氏の「勢力拡大の基礎力」にしたいとする狙いであったと考えられます。
実は「瀬戸内」のこの「海賊(海族)の正体」と「勢力伸張の難しさ」とを顕著に現れている事件があります。
それはこの「瀬戸内」で起った「源平の2つの戦い」の「義経の行動背景」にあるのです。
ここにはこの「瀬戸内」と云うものを説明する「2つの鍵」が隠されているのです。
その「2つの鍵」とは一つ目は「海賊・海賊」と云うものであり、二つ目は「財力・利権」なのです。
それは関西域の海域圏の東側の沿岸沿いにこの「摂津水軍」と「紀伊水軍」と「熊野水軍」と「伊勢水軍」と「駿河水軍」が制していて、これに対して義経は「源氏への合力」の為に半年を掛けて懸命に数度の談合を試み、遂にはその合力を獲得する事が出来た歴史史実があるのです。
この「談合」にはその「合力の目的」として「2つの鍵」が義経の腹中にあったのです。
その「2つの鍵」は「平家側」には存在し「源氏側」には無かったものなのです。
この「2つの鍵」に必要とするものは、つまり「海族」を意味する「水軍」なのです。
(資料に因れば、「たいら族」の忠盛は密かにこの水軍を使って禁令の「宋貿易」を始めていて莫大な利益を獲得していて清盛に成って本格的に貿易を行った。朝廷からも疑われていて藤原氏もこの事は讃岐藤氏からの情報で承知していた。大蔵氏も承知していた。)
先ずは勝利の為には「水軍の獲得」であり、その水軍を獲得した暁には勝利し、そして遂には当面の目的として2つ目の「財力・利権」を平家から奪取し、その「財力・利権」に依って最終目的として「清和源氏の繁栄」と「生き残り」であったのです。
それには先ずは「平家と同じ戦力」に到達させる事であり、「同じ戦力」に到達させた上で相手の弱点を突く戦術を構築して戦いの前哨戦を制する事であって、その後は同等の戦力で常套作戦で挑む戦略を描いていたのです。
その元と成るのは「水軍」であったのです。その為には平家と同じ「兵能水軍」ではなく弱点を突ける水軍でなくては成りません。それを持っているのが上記の「5つの水軍」であり、弱点を突ける共通する武力を保持していたのです。
この「5つの水軍」の中でも「紀伊水軍」はその能力を最大に持った水軍であったのです。
中でも、瀬戸内に明るい「摂津水軍」(摂津を中心とする大阪湾海域の水軍)と最大の能力を持った「紀伊水軍」(大阪湾から淡路から紀伊水道海域)に対しては「合力嘆願」には苦労を重ね、記録によると時には義経が襲われると云う事の中から得られた強烈で強力なものでした。
この「弱点を突ける能力」とは「海族」の中に潜む「海賊の戦闘術」であったのです。
この「5つの水軍」にはそれぞれの地域の海域の違いにより大小があるにしてもこの「海賊の戦闘術」を必要性として保有していたのです。
平家水軍は職能集団の海の「兵能集団」でこの海賊性はもとより保有していないのです。「陸の兵」に対して高度で常套な操船術を保有した「海の兵」なのです。
「義経の行動と瀬戸内」
平安時代は「武」に従事する者として、「源氏」の様に「武家」を組織して兵とする集団と、「平家」の戦力の様に組織化されない「兵能」の兵とする集団との2つが混在していたのです。
「源平の戦い」は別の意味でこの2つの異なる覇権をめぐる「兵の集団の戦い」でもあったのです。
義経はこの「2つの違いの弱点」を突く発想であったのです。
この事に付いてはその「2つの水軍」の末裔の「私史資料」が発見され、共通する事としてその中に詳細に記録されているのです。
その2つの資料に共通する事は「義経の人柄、将の力量」とこの「源平の海上戦」の「義経勝利の秘訣」であって、そのつまりはその「戦い方」にあるとして、それは「水軍の野戦的戦法」(海族的戦法)と記録されているのです。
この「瀬戸内」と「紀伊」の「2つの水軍」は不慣れな「平家水軍の通常戦の常套的戦法」(後の村上水軍)様な戦い方を嫌い ”海族的な「野戦的戦法」なら合力する”との双方の考え方の合意が得られたからなのです。この様に記録されているのです。
「義経の人柄、将の力量」を見抜くに時間を掛けたとする「末裔の忘備禄」が発見されたのです。
「八幡社・神明社」を論じる時にこの「瀬戸内」に於いては、この「義経の行動」が「瀬戸内」を語る上で欠かす事が出来ない事なのです。
上記した様に”「瀬戸内を制する者は国を制する」”の事に大いに関係してくるのです。
そして、その「義経の戦略」が平家を倒し「源氏体制」を確立する為には「絶対条件の瀬戸内」であったのです。
そして「義経」はその「2つの鍵」を念頭に綿密にその様に行動したのです。そして”その判断(2つの鍵)に賛同したからこそ合力した”と記されているのです。
紀伊水軍は”この「2つの鍵」が理解されていないと合力しても敗退し却って自らも滅ぼす”と考えていた事に成ります。
そして彼等の水軍は”それを理解できているか”の”「将としての力量」があるか”の「瀬踏み」をした事に成ります。
そしてその「瀬踏み」では、実に「用意周到な性格」で「勇猛果敢」で実に「沈着冷静」の「源氏の将」と記録されているのです。資料から観て筆者の印象も同じです。
そして、戦いでは、特に「紀伊水軍」は真に「海族的戦法」で奈良期からの阿多倍の「職能集団の平家水軍」を戦いの勝負が決まる前哨戦で打ち破ったのです。
そして、この「紀伊水軍」は海戦終了後、恩賞を受け取らず直ちに紀州に戻った事が記録されているのです。
他の合力した「3つの水軍」は一つは前段の青木氏の「伊勢シンジケート」の水軍、後の2つは「熊野源氏」と「駿河源氏」方の水軍です。
この「2水軍の戦力」と「5つのライン上の5水軍」が整えられていれば「神明社と八幡社」の勢力圏を揺るぎ無いものにしていた事が判ります。
(参考 紀伊水軍の「海賊的野戦戦法」と3つの水軍の「常套戦法」の「2段構え戦法」であった事が記録されていて、この戦法に「海賊的な紀伊水軍」がやっと賛成し「義経個人」を信頼して個人に合力したと記録されている)
日本全国何処の海域でも上記した「5つの水軍」の様な「海族」が「陸の土豪」と同じ様に存在します。
これ等が「海の支配権」を持ち「海域」の「勢力バランス」を保っているのです。全く陸と同じなのです。
「海・陸」何れにしても、この「海域支配権」「領地の支配権」を無視し、或いは軽視する場合は攻撃されるは当たり前の事で、これを「海賊」とすれば、陸の土豪・豪族も「山賊」と成ります。世に俗に云う「一所懸命」なのです。
もし「海賊」がいるとすればそれはこれ等の「海族」が掃討し自らの海域を護るのです。これは海と陸は同じであって、それに依って船舶の「航行の安全」がより保てる海域となるのです。
そして、何時か多少の荒くれがあるとしても海賊の類は結局は掃討されて、秩序としてこれ等の「海族」の支配下に置かれるのです。
現在の契約社会から観れば「海賊」であっても、当時の時代考証からはこれ等は当然の事であって、「一定の支配権」の下にその「安全の契約」を「暗黙の社会のルール」の中で保てばむしろ逆に安全な手法となるのです。これは陸も同じです。
前段でも論じてきた「大規模な商い」を行おうとすれば、この「安全の契約」が必要に成り輸送などの事が行えるのです。多くは「自らの経済力」にてシンジケートを構築すればよい事に成ります。
これも一つの「安全の契約」で現在でも同じ「安全の契約」は必要であるのと同じです。
「安全の契約」と「水軍・海族」
現在と過去の「安全の契約」の違いは直接的に保障されるのか、はたまた間接的に保障されるのかの違いであります。
過去の場合はこれ等の海の「海族」と陸の「山族」を一つの組織の中に取り込み、各地の勢力の届く範囲でそれをシンジケートとして構築する直接的な「安全の契約」の保障制度を採用していたのです。
要するに現在の様に「律令制度」(契約社会)が未だ完備されていない中では、「氏家制度」の中の「社会の秩序」を保つ為の当然の「安全の契約の保障制度」であって、この「シンジケート」にして纏め上げる「慣習システム」は一つの「社会の暗黙の慣習制度」なのです。
これを現在感覚の契約社会感覚で「海賊や山賊」と見てしまえばそれはそれまでの事であり、少なくとも明治以前の社会は「シンジケート」はある意味で「社会の暗黙了解」のある「治安維持機構」であり、「警察機構」でもあり、「職業更正機構」でもありして、本質的に「善悪の考え方の量と質」が違うのです
要するに「純友」は海の族を「海族と海賊」を一つにまとめ「水軍」として統括し、これを武力に頼らず義経の様に「政治的」に行っただけの行為であったのです。
むしろ、当事の世情と時代背景から考えると、武力による解決は武力の連鎖が起こり、この結果の「恨み辛みの怨念」が渦巻く社会世界が生まれます。
しかし、純友の様にして要するに「海のシンジケート」を構築する事は「恨み辛みの怨念」は霧消します。
彼等にも家族先祖伝統の普通の社会生活があるのですから、むしろ、「理想的とするべき処置」でもあったのです。
その行為がより伊予・讃岐の土豪の藤原一族一門の「安全の契約の保障制度」になっていたのです。
当然にこの「安全の契約」によってそこには「莫大な利権と勢力の圏域」が生まれるは何時の世も同じです。
上記した「2つの鍵」を紐解く「義経の行動」を述べましたが、実は下記に述べる様にこの事には大きな意味を持っていたのです。
注釈 「水軍と海族の論処」
これには多くの通説があって大別すると、土豪が海賊に味方して首領に成ったとする説と、筆者が採用する上記の「シンジケート説」の2つに成ります。青木氏から観たシンジケート説です。
遺された資料からよく調べると、「海賊」と云っても「1000艘以上の大船団」を持ち、当事としては全国トップの勢力を誇り、「複数の自港」(日振島等)を持ち、その船団の組織化された首領格には正式な「藤原氏」が多く存在し、船団以外にも「地上戦」も行い強く各沿岸部の地域を奪取していて、北九州から紀州域までの海域と陸地も豊後や伊予や讃岐や安芸や紀伊の「地域を領有する豪族」と成り、「純友神社」や「純友城」等も有する「海と陸の両方を有する豪族」で、「叙位従5位下の下級貴族」なのです。
更には”周囲の沿岸部の民からも慕われていた”とする「神社の記録」複数が残されていて、その記録を信じるとして、「純友」が納めている間は「穏やか」であったとしているのです。
上記の「恨み辛みの怨念」は”何処吹く風”でむしろ”民から慕われていた”のです。
これはどう観ても「海賊」ではありません。上記した様にまさしくこの地域の荒くれをまとめて組織化し成し遂げた「海族」なのです。
まして「自らの神社」(大きな意味を持っている)を持つ者など陸にも少ないのです。これは下記に論じますが本論の本質を意味しているのです。
この純友の「神社・城」はただの「神社・城」の意味だけではなく、「神明社・八幡社」で論じている様に、これには「歴史的な生き様」が遺されているのです。絶対に見逃してはならない要素なのです。
つまり、そこには「神明社の青木氏」と同じく ”それは組織から崇拝されていた事”を色濃く示す事にも成ります。
その「組織の局部」を捉えれば荒くれである以上は「海賊的な要素」も見え隠れするでしょうが、それを捕らえればそれはその様に見えるかも知れません。しかし、「神社・城の存在」は「神明社」で論じている様に”「何がしかのその儀」”を有している事に成る訳ですから、それを基下に組織化している限りは「陸の豪族」とは内容は異なりません。
その「何がしかの儀の如何」と「局部の荒くれ」であるかどうかの違いだけです。「局部の荒くれ」であるからと云って”「海賊だ」”とするにはそれをその様に決め付けた側の ”何か「裏の意」”が感じられます。
その”「裏の意」とは一体何なのか”です。
そもそも「海賊説」とそれを発端とする「出自説(複数)」等を良く調べると、兎も角も、先ずは当時の社会の「時代考証」が不十分なのです。これらの「海賊説」は古くは無く「跡付け」と観られる近代の説であります。(通説にはこの類が実に多い)
これをもし「海賊説」とすると上記した駿河、伊勢、熊野、紀伊、大島、伊豆等の「主要な水軍」も同じ要素を大なり小なりに持っているのですから、この論理で行けば全て「海賊」に成ってしまいますし、その大きさもトップで組織化されているのですから、日本の古来水軍は全て「海賊」に成ります。
この事を知り得ていて「海賊説」とした「朝廷の記録」には、「政治の世界での政争」に使われる「醜い常套手段」の「大きな裏の意」がある事を匂わせています。
何時の世も盗人、盗賊、山賊、海賊の類はありますが、上記した様にその内容と時代の社会構造の慣習はそもそも違うのです。
古来より”勝てば官軍 負ければ賊軍”の日本人の「悪い慣習」がこの様な通説を生み出して、史実を歪め、「正しさ」を記録として遺さない「日本人の性癖」には「歴史の掘り起こし」に於いても充分注意しなくては成らない事なのです。何等現在でも変わらない性癖です。
本論でも何度かこの事に付いて論じていますが、その意味で「公的な資料」に類するものには「判断の参考」とする場合は、ここが雑学フィルターを通して観て特に「注意する点」なのです。
又、「本論の神明社」に関わるとして論じている「八幡社」の場合も「未勘氏族の資料」には”身内を良くする背景や経緯を作り出し、はたまた搾取偏纂しているところを雑学を駆使して見抜き矛盾点を掘り出す事が大切なのです。
「青木氏の歴史」の「生き様の掘り起こし」にはこの作業の繰り返しに時間がかかるのです。
特に筆者は先祖たちの性癖を受け継いでいるのか”勝てば官軍 負ければ賊軍”が肌が受け付けれないと云うか嫌悪を感じるのです。”判官びいき”とまでは云わなくてもその元の本質の姿を知りたくなるのです。
「”瀬戸内を制する者は国を制する”」
古来から言い伝えられていたこの言葉には瀬戸内の地域の「神明社と八幡社」を論じる時には大きな意味を持っているのです。全てはこの言葉に事象は左右されるのです。
故に、「純友海賊説」に関わるものも例外ではないのです。
恐らくは「源経基の讒訴」は、藤原氏等が制するこの”「5つのライン上の絶大な圏域」を清和源氏側に獲得しようと画策したものであった”と観ているのです。
そもそも古来に於いて”瀬戸内を制する者は国を制する”の言葉がある様に、この「地域の利権と安定の確保」は無視できる話ではない筈で、その状況を「為政者」や「利権者」の側は上記した様に本音では純友に変えられては困る訳です。
ましてや民に人気があり人が出来ない事を成し遂げたと成ると、”人は嫉妬の念にとらわれる”は「仏説」の通りであります。
この世に於いて例外なくこの情理を脱した者は居ない筈です。
まして「為政者と利権者」とも成ると「自己顕示欲」の強い者でありますから、、”人は嫉妬の念にとらわれる”は必定であります。それが朝廷とも成ればこれ等の者の集合場所でもあります。要するに巣窟であります。
そこで、何時の世も海賊や山賊の類の存在は有るのがこの世の無常の定めであり、それを声高に剥きに成って事に当たるは「為政の範疇」ではない訳で殊更に取り掛かる政治問題では無い筈です。
むしろ”瀬戸内を制する者は国を制する”の言葉の通り「海域の利権」が大きく絡んでいれば、「海賊」を懐柔して纏め上げられれば、「利権者」と「為政者側」取り分け「為政者」にとって見れば困ることに成ります。
それは純友側にこの”瀬戸内を制する者は国を制する”の権利を与えてしまう事に成ります。
まして「民を味方」にして「何がしかの儀」を重んじ「民の暮らしを安定にし安寧にする守護神」を持っている以上はこの権利を確実に保障する事を意味します。本音では放置できません。
表向きでは「海賊の騒動」は困るが、本音のところで「海賊」を懐柔されて「利権」が「純友」の方に全て移れば、「為政者」にとっては ”この世の無常の定め”どころの話では無くなり死活問題であり、更に実に困るのです。
これがそもそも「大儀と本音」の政治です。口では態度では”海賊が騒ぐのは困る”と云いながらも、本音は”利権がなくなるのはもっと困る”のです。この2つは最早、天秤にかける問題ではないものです。
そこで、困る側の為政者側は、国、即ち天皇や朝廷から観れば「大儀」を自分の方に引き寄せるには ”純友を「海賊」の仲間とする”事に決め付ける事が必要に成り、「表向きの海賊問題」を解決して、且つ、「邪魔な純友」を抹殺して、「地域の利権と安定」を確保するには「海賊」と決め付ける方が都合が良い訳です。むしろそれしかなかった筈です。
”そう成るとどうすれば良いのか”と成りますが、簡単な事です。
上記した”勝てば官軍 負ければ賊軍”を行える立場に為政者が特権として持っている訳ですから全く問題は無い訳です。そしてそれを世に知らしめる為には、まずそれとして「勅命」や「宣旨」や「院宣」を発し、且つ、為政者側には資料や証拠類や風説をそれに合せた様に搾取し偏纂して遺す事に務めるのが偏纂役の務めでそれを密かに命じれば事は済みます。
それにはその事の内容を公文書外にも関係する役所や神社や寺等に遺させる手立てを講じる事だけです。「公文書の類」に密かに書けばそれで充分なのです。利権者もこれに習うでしょう。これで大儀は利権者や為政者に移ることは必定です。
そしてそれが史実の形として後勘に触れてそれを信じ史実が歪み、公文書を正として通説が生まれるのです。
(しかし、事の真偽を歪めているのですから矛盾と疑問が必ず生まれるのです。これを正すのが「後勘の役目」です。「青木氏の歴史」はこの事に努めている。)
これは上記した様に「未勘氏族問題」でも同じで、「自らの側」の良い様に後勘に遺す事は当たり前の事なのです。
問題はそれを雑学で「見抜く側の読解力」に関わる能力なのです。現代でもこの世に於いてはこの事は同じです。
前段で論じた「陸奥の安部氏の奴婢の問題」でも安部氏等には非は無く蝦夷・征夷として処理されたのもこの「純友問題」と全く同じです。その意味で「河内源氏」の”義家に対する白河院の策謀説”も殆ど同じです。”安部氏に無常な嫌疑を掛けた上で義家に陸奥での利権を潰させておいて今度はその義家を潰す”これが「為政側の常套作戦」なのです。(前段でも論じた様に義家にも禁令を無視した無理があった。)
「為政者側の矛盾」
この”瀬戸内を制する者は国を制する”の「2つの圏域」はデータでも上記した様に「河内源氏」のみならず「清和源氏の圏域外」(荘園本領・未勘氏族)にあったのです。
経基が、平安期に伊予まで及んだ讃岐藤氏の藤原氏を讒訴に落としいれてそれを獲得しようとした画策であったのです。
これは「3つ巴、否4つ巴の事件」なのです。讃岐藤氏・清和源氏・大蔵氏・朝廷天皇の利権争いそのものの事件であったのです。結局、下記に論じます様に純友が旨く”勝てば官軍 負ければ賊軍”の策に掛けられたのです。
その証拠に詳細に調べれば上記した事も含めて矛盾が多すぎるのです。上記した様に「矛盾が多い事」が何よりの証拠なのです。
因みに、先ずこの「瀬戸内の海族問題」(純友・伊予国司代・瀬戸内追捕使の令外官)を朝廷が解決させたのは、前段で論じた”阿多倍一門の九州自治”を狙っていた「大蔵春実」(小野好古・藤原正衡・橘遠保:源経基も参加説もある)であります。
そもそもこの「海域の問題」を最初に特別に朝廷から任命され派遣された「治世権と警察権」を与えられた者は「令外官の純友」なのです。その「純友」を討伐する又令外官を送る事のそのものの事態がおかしいのです。
(この順序と任官そのものを ”あやふやにした記録”を根拠とする為政者・利権者側の説もある。 「海賊」とするには矛盾を消す為にした偏纂行為と観られる。)
これ等の資料に基づくと、為政者側の特権で色々な資料が遺されていて複数の説が生まれているのですが、この説の中で先ず信頼できる史実は、「純友」はこの地域(伊予・讃岐)の「瀬戸内の政治」を任された国司代(3等官・伊予掾)で、且つ、当初は「海賊問題解決」の「令外官」(特別問題解決の為に任命された官)であった事ですから、「3等官・伊予掾」と「瀬戸内海賊掃討追捕使令外官」の「両方の任務」を持っていた事に成ります。
この事の意味は「伊予と讃岐」と中国域を含む「瀬戸内沿岸域」の「為政に関する全権」を任された事を意味します。先ずは”任した”とする矛盾があります。普通は任す以上は純友の事は承知している筈です。
摂関家と同じ一族一門で藤原氏北家なので「讃岐藤氏」と呼称されるくらいに都にも聞こえた一族です。
知らないとは云えない筈です。この事件の前に別件で仕事をしていますし、国司代(3等官・伊予掾)です。何も経基に云われなくても知っているのです。事件直前に令外官追捕使として任じられているのです。
それが急に「海賊呼ばわり」とは笑止千万はなはだしい事であります。
つまりそもそも瀬戸内の「全権大使」であり、そうすると、その「全権大使」を「海賊」と決め付けるには「朝廷側の失態」が表に出てきます。
そこで「順序と任官」の部分の記録を”あやふや”にして置く必要が出てきます。その処置を朝廷側と利権者側は行った事を証明します。
ですから、「純友」は「全権大使」として、「令外官の任務」の「海賊掃討」だけを任務とするのであれば「武力」により解決して根絶やしは無理としても押さえ込める事は可能であり任務は全うします。
しかし、地元の為政権を持つ「3等官・伊予掾」で、地元の住人の讃岐藤氏でもあります。
彼等はこの富を生む瀬戸内の国策に対して大貢献しているのです。
「海賊」と看做されている「瀬戸内沿岸地域の民」とは敵対している訳では無くむしろ絆を持っているのですし、「藤原氏の戦略」の「血縁関係」で中国域までその圏域を広めている訳でもあり、尚且つこの海域の「廻船業や造船業」やこれを基にした「大商い」の「2足の草鞋策」を敷いている土地柄でもあります。
そうなると、解決方法は唯一つ瀬戸内の住民が無傷に解決できる方法は決まって来ます。
純友にしてみれば「絆」を基に「談合」により解決するしか無い筈です。
しかし、この「談合解決」は本音のところでは、「為政者」と「利権者」と「敵対勢力側」からすると、最も好ましくない解決方法です。
何故ならばますます純友を大きくしてしまう結果になる訳です。
大水軍を控えて「政治」「経済」「軍事」の「3権」を掌握した訳ですから、上記した「瀬戸内を制する者は国を制する」事と成りこれに対抗する者は無く成ります。放置する訳には行きません。
”早い内に何とかしなくては”と「為政者」と「利権者」と「敵対勢力側」は考えるが必定です。
それには「純友」から「大義名分」を無くす事で潰すしか無く成ります。それが「海賊」なのです。
そして、「為政者」と「利権者」は自ら手を汚さずに、それを「利権」を欲しがっていて「清和源氏の勢力」を伸ばそうと野心に漲っていた「敵対勢力側」の経基に言わしめた事に成ります。
「純友」もこの事は充分に読めていた筈です。しかし、解決方法は一つです。
”「絆」を採るか” ”権力側3者に迎合するか”の二者選択を迫られた事に成ります。
何れにしても後は出方を観る仕儀と成ります。
そこで「絆」を選んだのです。現実には彼にはそれしかなかった事に成るでしょう。
「純友」にすれば、後者の「権力者3者」を選ぶ事は、信義の上で ”死に値する”事に成り、結果しても「権力者3者」は ”彼を生かす事”は解決には成らない筈で、”向後に憂いを残す事”に成りますから、機会を観て ”何らかの嫌疑を作り出して葬る事”にする筈です。
何れにしても ”死を決意しなくては成らない事”に気が付いては居た筈です。
周囲の者達もその事は”百も承知”であり、だとすれば”「絆」を選ぶ事”を勧めたと考えられます。
”では、どうすればよいのか”と云う事に成ります。考える戦略は唯一つです。
「絆」を選ぶ限りは ”例え純友死しても絆は遺す。”であり、その為には ”絆の中に「讃岐藤氏」を遺す。”つまり言い換えれば、”「絆組織」の「次ぎの継承者」を生き残らせる事”にあります。
そして、それを盛り立て蘇させるには「結束の象徴」を造る事に成るでしょう。
それが、”「純友神社」であった”のです。だから1度ならずも2度、否5度の蘇りを興して昭和まで生残れたのです。仮称の「純友神社むは神社だけの意味ではなかったのです。
何時の世も、現世の事象(事件、問題、乱、変など)森羅万象には、「諸悪」(5悪)が巣食うのです。
仏説の通りです。「為政者」と「利権者」と「敵対勢力者」と「無関心者」と、そして「被者」です。
(被者は「純友」ですが、仏教では”一分の非がある”と説いています。”「完全無欠」ではない”と云う事です。「諸行無常」です。)
この”「5悪」の何れに「大儀」が来るか”は、”その「5悪」の「質」に因る”と解いています。
”決して「権利や富の大小」ではない”とするのです。
では、この海賊問題は真にこのパターンに填まります。この場合は「質」を得ていたのは憤死した「純友」にあったのです。”純友に大儀があった”事を意味しています。
後勘から観れば、「被者」の純友以外の「3悪」(「為政者」と「利権者」と「敵対勢力者」)は200年後には滅びているのです。
浄土宗を思考の原理としている平安期の武家では、純友とその周囲と讃岐藤氏はこの事を承知していた筈です。
とすると、現世は「諸行無常」であって憤死しても「絆」を護れば「後勘」は「大儀の者」となる事を覚悟して次ぎの行動に出たのです。「純友の志」は昭和まで「海の族」として引き継がれたのです。
「純友」は「争いの連鎖」を起こす「武力」に因らず、無数の海賊団と談合し説得してこの問題を見事に解決したのです。
そしてこの無数の大小の海賊団の民とその瀬戸内地域の民衆から信頼され崇められて神社が建立されたのです。その神社の建立時期は不明ですが状況証拠から生前の前後の直前と観られます。
「純友神社」(産土神)と云うよりは当初は「海族」と成った集団の「心の拠り所」と、その集団結束の「象徴の守護神」であって、没後に地域住民に慕われて「純友神社」と呼称されたと観られます。
純友は乱後の暫くしての後に捕まり斬首に成りましたが、純友の憤死没後に難を逃れた「讃岐の藤原氏末裔」が再結成してからもこの”瀬戸内は穏やかであった”と記されていて、明らかに海賊ではなかった事が良く判ります。
それを讒訴して”海賊に成った”と告訴され、現在発見された資料よりその資料を基にすれば「経基王に讒訴密告された経緯」となるのです。
但し、ましてこれは「海賊」では無く「海族」であり、古来よりこの瀬戸内に住する「海の土豪集団」であったのです。そもそもその末裔は、つまりこの「海族の末裔」は「後漢の阿多倍の海の兵能集団」で「奈良期初期の帰化人の末裔」(陸は東漢氏・物部氏などがある。)であります。
その特徴は「海利権」を護らない場合は襲う事がある土豪なのです。この事は「陸の土豪」も「陸の支配権」を護らないと同じ目にあう事は同じであって、そもそもこの「海利権」を護らない側からするとその見方は「海賊」と成るでしょう。
当然にこの「海利権」を護らない側は伊予と讃岐の分布する讃岐藤氏と「瀬戸内で覇権争い」をしている大小の中国と四国と北九州の集団となるでしょう。
「兵能・職能集団」の主筋
ここで面白い現象が起こっている事に成ります。
それはこの「瀬戸内沿岸の海族」の多くは上記した「阿多倍の兵能集団と職能集団の末裔」です。
しかし、利権を護らない覇権争いをしている主要集団はこれも阿多倍一門中でも最大の大蔵一門です。
500年経過後の「兵能・職能集団」の主筋に当たる訳です。
彼等は ”忘れられたのか忘れていないのか”は不明ですが、室町期のこの「瀬戸内水軍」を保有し中国域を制した「陶氏」と、「海部氏」や「武部氏」等の彼等の職能集団の末裔が現存している事から考えると忘れていなかったと考えられます。
彼等の守護神は「産土神」であり、その考え方からすると不思議な現象が起こっていた事に成ります。
そもそも官僚を専守している為政者側と利権者側にある「大蔵氏の主筋」に味方せずに「讃岐藤氏」の「純友に合力」した事に成ります。
この事には大きな意味を持っているのです。本来であれば「儀」と「利害関係」から観ても普通は主筋の大蔵氏を選ぶ筈です、しかし敢えて利害関係にある「讃岐藤氏」をわざわざ選んだのですからここには何か大きな意味がある事に成ります。
それもこの瀬戸内の全ての海の族の大小の集団が挙って集まり「儀と利害」を捨てるだけの何かが在った事に成ります。
”それは何であったのか”解明する必要があります。
それは色々な資料から「2つの共通するもの」としての答は出ています。
それは一つは「純友神社」であり、二つは「純友個人」だけではなく「讃岐藤氏の一族」がこの水軍の「海族」には入っていると云う事です。
そうと成ると、彼等への「理解」と「利害」と身の「安全」を護ってくれる「者」、或いは、「氏」は「大蔵氏」か「讃岐藤氏」かと云う事に成りますが、彼等は「讃岐藤氏」を選んだと云うことに成ります。
勿論、その「氏」を支配し統治する「讃岐藤氏」の実質の信頼できる支配者・頭の「純友」の「個人的魅力」に魅かれた事をも意味します。
「好みや利害」ではいざ知らず単に複数の「海の族」が集ったのではないのです。
瀬戸内の全ての海の族が挙って集ったのです。ここに意味があってこれはまさしくそれを護ってくれる「氏の選択」とそれを指揮する「棟梁の魅力」が伴っての命を懸ける彼等の「選択」を主筋から替える大決断をした事に成ります。
当然に少なくとも大小の多くの「瀬戸内の海の族」が集って協議した結果でなければこの様な事には成りません。故にこの「意思表示」を「純友神社」と云う形で表し且つそれを「集団の象徴」とした事に成ります。
この裏を返して云えば”大蔵氏に対する何がしかの共通する不満が在った事”を意味します。
古来からの主筋の大蔵氏が彼等の「理解」と「利害」と「安全」を護ってやっていれば「儀」を捨てて主筋を外すような事は「氏家制度」の社会慣習の中では絶対に無かった筈です。
そうすると奈良期から500年の経過が主筋感覚が薄れたのかと云う事に成ります。
実は違うのです。原因は彼等の守護神「産土神」にあるのです。
守護神の「産土神」に付いては前段で論じてきましたが、後段でも改めて詳細に論じます。
ここでは「海の族」の「行動の根源」となる「産土神の位置づけとその考え方」に付いて次ぎに論じます。
青木氏と守護神(神明社)-17に続く。
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青木氏と守護神(神明社)-15
[No.283] Re:青木氏と守護神(神明社)-15
投稿者:福管理人 投稿日:2012/02/02(Thu) 11:13:16
「青木氏と守護神(神明社)」-15
>筆者は、”「特別賜姓青木氏」の「始祖千国」の末裔(子供)がこの伊勢の「藤成末裔」に跡目を入れて「青木氏」を興して配置した”と考えているのです。
>その”始祖千国の嗣子が誰なのか”研究中で、「賜姓族」に成った「千国」は恐らくは直ぐに天皇家の守護神の「伊勢大社」のある所に、「賜姓青木氏」と同格の身分を得た以上は、子供を直ぐに配置する筈です。否、「義務」として配置しなくてはならなかった筈で、伊勢には、「藤成の伊勢の末裔」が定住(四日市)している訳ですから、そこに跡目を入れるが常道です。
>この行動は「同格の役目と家柄」を与えられた以上は必定な絶対的職務です。先ず100%入れている筈です。末裔が居て定住地も判っているのですから後はその人物の特定だけです。
>「賜姓伊勢青木氏」の関係資料の中からこの事に付いて何らかの資料が出てくるのかとも研究しましたが、松阪の大火消失で確認出来なくなった事や、伊勢秀郷流青木氏等からもなかなか出て来ません。
>従って、”他の関係する処”からの研究を進めていますが「特別賜姓族青木氏」の「伊勢の祖」も確認出来るかは疑問です。この部分が現在の研究課題です。
「賜姓源氏の祖先神の役目」
”他の関係する処”として、源氏があります。
「嵯峨天皇」(809~823 52代)から11代続いた「花山天皇」(984~986 65代)まで同族源氏がありますが、「祖先神」を祭祀した5代続いた「賜姓青木氏」の後に、”何故に「賜姓源氏」(八幡社)にはその「祖先神」を祭祀するこの役目を与えられなかったのか”と云う疑問が湧きます。
或いは、”「賜姓の役目」があった筈なのに何故実行しなかったのか”、反して云えば、”何故、秀郷流青木氏にこの役目を与えたのか”と云う疑問が湧きます。
この「2つの疑問」の解明に付いて青木氏として答えは出していません。そこで「神明社」を論じる処でこの疑問を解き明かす必要がありますが、実はこの事に付いては不合理な疑問・矛盾が実に多いのです。
既に前段で論じたその「背景と経緯」の様に、”実行しなかった、又はさせなかった”事の理由は上記しましたが、そもそも「源氏」と云えば一般的に「清和源氏」 (858~876 56代)と思われがちです。
しかし「青木氏の賜姓」に続いて2代の天皇(桓武、平城)をあけて、再び嵯峨天皇(52代)から始まった11代の「賜姓源氏」が発祥します。中でもその源氏そのものと思われている56代の「清和天皇」の「朝臣族の源氏臣下」の「賜姓方法」にだけそもそも問題があって、この一部の「清和源氏の行動」が”皇族としてのあるべき行動(「3つの発祥源」の象徴)を採らなかった”と云う事に問題があるのです。
この事が「青木氏の生き様」と、又「神明社」「八幡社」にも大きく影響を与えたのです。
但し、この「清和源氏」筋でも主に「3つの源氏」があって、「宗家の頼光系源氏」(摂津源氏)と「分家の頼親系源氏」(大和源氏)と「分家の頼信系源氏」(河内源氏)があるのですが、その「宗家の頼光系源氏の四家」は「特別賜姓・賜姓青木氏」とほぼ同じ行動を採ったのです。採らなかったのは「分家頼信系の一門」だけなのです。
但し、「清和天皇」は「源氏の賜姓」に於いても「天智天皇」からの「令慣例」に従わずに「朝臣族・第6位皇子」を賜姓臣下させずにこれを無視し、子供の第11位と第12位の第2世族皇子の賜姓源氏を幾つも発祥させたのです。本来で有ればこの2人の第7位以降は「宗道」として比叡山に入山する仕来りです。
又、皇位継承権を保有する「清和天皇」の第3位皇子の子(孫)が源氏を名乗った事、「宗道」の位置に居た第9位皇子の子供(孫)が「源氏」を名乗った事があり、この二人の「賜姓の有無」は記録から明確ではないのですが、「嵯峨期の詔勅」を上手く運用して「青木氏」ではなく「源氏」にしたと観られます。
ですから、上記の「3つの清和源氏」以外に余り知られていない事なのですが「4つの清和源氏」もあるのです。
但し、問題の清和源氏の始祖の「経基王」は長い間賜姓を望んでいた事が資料でも見られるところで、「讒訴や讒言」とも録られる様な功績でその勲功を配慮されて「令外慣習」として特別に「清和天皇」から朝臣族ではないがやっと賜姓を受けた記録と成っています。
この経緯は次ぎの「陽成天皇」が暴君であった事からこれを忌み嫌い、これ等の上記の皇子が「経基王」に習い前の「清和天皇」の皇子として「賜姓族」ではない「源氏」を名乗った為と観られています。
(第3位の子、第9位の子と、第11位、第12位皇子が該当 「経基王」もこの一人との説あり)
「経基王」(しかし経基王だけは賜姓を受けている)もこの皇子の中に居たと観られていて、「清和天皇」からすると「第5世王」と成る事から令外で「宗道の立場」にもあり、”皇族でない”とする説が生まれたのです。下記参考の令規定より強ち否定は仕切れない説であります。
(参考 第4世王以上は皇位継承権 皇子位と王位権者、守護職位、第6世王は賜姓臣下、第7世以下は単純に臣下し、第5世王はその中間の立場で継承者が少ない場合は継承権を持つ、現実の運営は第5世まで継承者が無かった事から第6世王が継承した事もある。第4世王以上で第6位皇子は六衛府軍親衛隊として賜姓臣下 第7位以下は令外賜姓 上記の2人の清和源氏と天智天皇の川島皇子の近江佐々木氏が例外賜姓有り)
そして、清和源氏の頼信系一門の守護神である事についてのこの「八幡社の根拠」は、後の「八幡社」の「石清水八幡宮」の神職の私氏資料の中にこの事が書かれている事を根拠としているのですが、しかし、250年以降の神官職の氏の私氏資料である事から「未勘氏族」の搾取偏纂の一物の可能性も高いのです。
(これは定説には成っていない-又、下記の「八幡社の守護神説」と「八幡神説」もこの「未勘氏族」の私氏資料を根拠としている。)
「青木氏」にもある様に「賜姓青木氏」と「嵯峨期の詔勅」の「皇族青木氏」と同じく、これらの「賜姓源氏族」又は「皇族源氏族」は特段に問題を起さなかったのですが、問題を起こした賜姓「基経王」は清和天皇第3世王皇子の「孫身分」(通説)であり、”子供の第2世族の朝臣族・第6位皇子(貞純親王)を賜姓臣下させずに「清和天皇の孫」(第6位皇子の子供の経基王)にさせた”と云う経緯なのです。
(第6位皇子の貞純親王は清和天皇に信頼され政治に欠かせない人物であったとして臣下しなかった事を理由にしている)
そもそもこの「経基王」の賜姓の実態は「第2世族の朝臣族」の「令外慣習」の「令外賜姓族」であったのです。
つまり、「令外賜姓族」の「孫身分」の末裔の「分家頼信系一族」の「義家一門」も「経基王」と同じ様に「政治的な問題」を起し、”皇族にあるまじき行動” として朝廷と天皇と上皇の「巧妙な策謀」に掛かり「源氏全体の滅亡の引き金」と成ったのです。
(頼光系は「源平の争い」が原因で青木氏に跡目を入れて滅亡する)
そしてこの研究が進み確定はしていませんが、現在では上記の経緯から”「経基王」は「第4世族皇子王」内ではなかった、皇族ではなかった。”と云う新しい資料からの研究説が生まれているのです。
確かに「令外賜姓」であり、”皇族で無い”と云えばそういう事にも成ります。
”天智天皇からの第6位皇子の賜姓臣下する慣例にも拘らず第6位皇子が賜姓臣下しなかった「貞純親王」の子供として第4世王外の「経基王」を第3世王として宛がい「貞純親王」の代理賜姓として明文を付けその為に天皇は渋った為に遅れて受けた”とし、この事から「経基王」は賜姓を”待ち焦がれた”とする説と”いやいやに賜姓を受けた”とする両方の研究説が生まれたのです。
(いやいや説は経基王の歴史的行動から矛盾がある。)
しかし、現実は「経基王」の史実の行動から”待ち焦がれた”が正しい事が定説に成っています。
(筆者もそのように判断している)
「清和源氏の経緯」
念の為に八幡社に繋がるこの事が神明社にとってどの様な影響を与えたか、又はどの様な経緯に成っていたのかを知る必要がある為に概要の筋目だけを述べて置きます。
それは2代目の「満仲」は荘園制を悪用して「名義荘園主(本領)」と成り、その代わりに「無血縁の源氏姓」を名乗らせる方式で、各地の豪族(未勘氏族)を組織化して平家に対抗する「武装集団」を形成したそもそもその張本人であり、その為に朝廷と天皇から疎んじられて一時河内に身を潜める行動を採った経歴を持ち主です。
後に開き直って無冠、無官、無位で攝津に戻ると云う反発行為を採っているのです。その後も「経基王」と同じ様に2代続いて疎んじられるのです。
この事で衰退した清和源氏の3代目は発奮し、先ず長男の宗家頼光は摂関家の実力者藤原道長に仕官し出世して各地の守護、国司を歴任し、資質剛健で皇族としての立場を重んじ宗家としての「清和源氏の立場」を高めたが、反対に弟の頼信は真逆の行動を採り、矢張り父の築いた[荘園制の武装集団の組織力」を使って勢力圏を河内から伊豆を経て関東に武力に依って奪い取りその勢力を拡大させたのです。
これを孫の「義家」が継承して更に「荘園制の拡大」を図り陸奥勢力を争奪して、その行き過ぎに遂には天皇や院から「排斥の令文」を発せられて嫌われる以上の政治的な処置を受けてしまい、挙句は4代続いて再び疎んじられる羽目に成った経緯なのです。
この様に世を乱す「争奪戦」を繰り返せば国は不安定に成り、民の不満はつのり朝廷側の立場は無くなるし、「荘園制行き過ぎ」に対し、「後三条天皇」の時からも既に「禁令」も出ているのにそれを無視して拡大させる行為を犯せば誰で「排斥の令文」を発せられるのは必定です。
此処にも「経基王」の「異端児的行動」から始まり「満仲」と続き、「頼信」と「義家」の「不名誉な仕儀」と成り「氏の不尊名」は4代と続きます。:
結局は「皇族に与えられた責務」を全うせずに「破天荒な行動」を取らなければ成らなかった「経緯と背景」の一端が継続して見え隠れしています。
これ等の事柄は「祖先神-神明社」や「八幡社」の検証に大きく影響して来るのです。
次ぎにデータで論じますが、本文では「源氏・八幡社」に対して上記の「背景・理由と経緯」が判っていますので大きく論じる事はしません。
ただ「源氏の守護神」は通説は「八幡社」と成っていますが、筆者にはこの「八幡社説と八幡神の通説」には多少疑問があるのです。
この疑問については下記に論じますが、何しろ上記の行動もさる事ながら「疑問と矛盾」が多過ぎるのです。ところが最近の各研究家の間でやっとその疑問の学問的解明が進み始めたのですが、まだ社会の中では「祖先神-神明社」の義務も放置し、挙句の果ては八幡社を建立する等の行為を繰り返しながらの根強く「義家贔屓説」として通っているのです。
ところで、では「源氏」11代はどの程度の「祖先神の八幡社普及」に取り組んだのか、そのデータから先ず論じます。(「八幡神」の説もあるが後付け行為)
その「八幡社」も調査すると下記にその内容を論じますが、結局は既に青木氏等に依って建立された「神明社」そのものを利用しているだけで「純粋な八幡社」と観られる多くは彼らの「未勘氏族」に依って建立維持されているのです。
そこでそもそも「賜姓青木氏」に続く「賜姓源氏」の11代は次ぎの通りです。
嵯峨源氏、 純和源氏、 仁明源氏、 文徳源氏、 清和源氏(上記経緯)、 陽成源氏、 水考源氏、 宇多源氏(滋賀佐々木氏)、 醍醐源氏、 村上源氏、 (円融特別賜姓青木氏)、 花山源氏
(注釈 これ以外に「平城源氏」や花山天皇以降に5代の源氏があるとして徳川氏が征夷大将軍の称号を獲得し幕府開幕する為に造り挙げたものがある。
「清和天皇」と「陽成天皇」の間は賜姓が大きく乱れた。
「平城源氏」はそもそも皇族に賜姓する事を辞め阿多倍一門に「たいら族」の賜姓をしこの事で嵯峨天皇と醜い政争をした経緯がありますが、「嵯峨天皇」後にその事を忘れた様に源氏を名乗った。
「円融天皇」は清和源氏の皇族としてのあるまじき行為に反発をして「賜姓源氏」とせずにその皇族としての義務を果たさせる為に藤原秀郷の一門に「特別賜姓族青木氏」(秀郷流青木氏)賜姓した。)
「八幡社と弓矢の根拠」
その前にそもそも「八幡社」の呼称は、「筑前宇佐神宮」が「譽田天皇廣幡八幡麻呂」、即ち、実質飛鳥の「ヤマト王権」(5族の連合政府)の初代「応神大王」の事で、つまりは実質の初代の「応神天皇」の事ですが、「護国霊験の大菩薩」と「御託宣」があったとして「八幡の麻呂」(ヤハタ)から後に「八幡社」と別名呼称されるように成ったとされています。
「神明社」は前段でも記しましたが、実質4代目「雄略天皇」が、夢の中で「天照大御神」の「御託宣」を受け建立したものですが、その「豊受大御神」(外宮)を「丹波」の国から、ほど近い伊勢の「山田の原」に「天智天皇」が迎えたとされるものです。
これが「神明社」の「豊受神」、「豊かさを受けられる神」、即ち「生活の神」「物造りの神」の所以ですが、「八幡社」は「応神天皇」、「神明社」は「雄略天皇」とし何れも「夢の御託宣」です。
そして遅くともこの筑前の宇佐の地の「八幡社」の社殿建立は和銅元年(708年)頃とされ、「社」としての正式な建立は728年とされています。
この頃は「弓矢の神」ではまだ無かったのですが 「石清水八幡社」が860年頃に建立されたとします。
その年に「清和源氏」は860年に発祥されています。
後に「宇佐のヤハタ社」が支社と区別する為に後に「宇佐八幡社」として変名した事から、その後下記の考察から1010年頃の時代の背景を受けて「弓矢の神」として徐々に凡そ50年くらいを掛けて各地の「未勘氏族」に信仰される様に成って行ったと観られます。
源経基 * -961
源満仲 912 -997
源頼信 968 -1048
源頼義 988 -1075
源義家 1039-1104
そもそも全国の荘園を営む武士団を「源氏の名義貸し」の基に「組織集団化」させた「源満仲」は「住吉大社」を信心していた事が資料より判っていますので、この頃は「八幡社」はまだ清和源氏の守護神とは成っていません。勿論、「祖先神の神明社」も守護神とはしていないのです。
次ぎの代の三男の分家を興した「源頼信」の頃は「大神氏」から引き継いだ「姓氏」の土豪宇佐氏が神職を務めて膨大な社領を有していて、「自前の力」で運営されていてまだ「清和源氏の勢力」の範囲にはありませんでした。つまりまだこの頃は「源氏の守護神」とは成っていません。
次ぎの「源頼義」は「頼信」が1048没とすると60歳と成り、まだ「頼信の世」ですので1048年以前には「清和源氏の守護神」には成り得ていません。「頼信」は西ではなく東の関東に進出したのですから西にある「八幡社の勢力」との関わりは強く無かったのです。
また「頼信」は上記した「満仲的戦略」を父「満仲」から託されて踏襲し、本家の「兄の頼光」の援護を受けて関東の手前の「兄の頼光の所領」の伊豆を拠点に伸張してゆきますので、「八幡社」とは無関係でそもそも「住吉大社」を信望していたのです。
「満仲」の長男宗家の跡継ぎの「頼光」は父の「満仲的戦略」に乗らず摂関家の実力者の「藤原道長」に仕えて「祖先神-神明社」を信望しています。(勅命で神明社の再生を命じられている)
飛鳥の大神一族(下記神明社で論じる)が大和朝廷より筑前宇佐の地に赴任し定住し「神仏習合」を行い「八幡神の創出」を行ったされていて、後の平安中期頃に肥前に定着した大神一族は衰退しやや後に神職を土豪の宇佐氏に代わる事と成ります。
この時(980-1000年)、豊前、豊後、日向の「3国7郡640反」を社領とし、「18荘園」を保有していたのです。
ここ筑前の地を「源頼義」(短期間「源義家」も務める)が定住して「筑前の守護職」を務めています。
又、この影響で「頼義」は「義家元服 7歳」(1046年頃)の地を京の「石清水八幡神社」(3大八幡社の一つ)で行います。この事から”後に「八幡太郎」と呼称されるように成った”とされています。
頼信1048年没と義家1046年の元服が一致しますので、この時期より境に「住吉社」から「八幡社」に移行して行った事が判ります。
つまり、「住吉社」を信仰の神社とするならば、この時、「住吉社」で「義家7歳の元服」が行われても不思議はありません。
この「義家元服」の前に「肥前の役務」を務めていますので、この時に「住吉社」から「八幡社」の切り替えのチャンスがあった事に成ります。
恐らく「頼信」から「頼義」に「代代わり」を契機に全国的に「荘園の名義主(本領)」が拡がり「未勘氏族」を集結させ統率する為にも「八幡社」に切り替えた事が判ります。
この時期が「没後の1回忌の法事」等が済んだ「1050年」が「当時の社会習慣」から判断できます。
実は「神社の習慣」には先ず ”80日過ぎるまで関係者は神門に入っては成らないし、「3年-2年以内」の法事が過ぎるまで全ての「新しい行動」を「氏」として起こしては成らない” と云う「神社の仕来り」があります。現在でも神社に限らず「武家の伝統ある旧家」でもこれらの「仕来り」は護られています。
「1046年の義家元服」は15歳にせず7歳の早い「元服行事」を執り行い、それに限らず、「清和源氏の分家」としての「頼義」のその「意思表示」を「未勘氏族」に対しても「全国の武士団」に対しても「宣告の行事」として行ったのです。
「神社と皇族家の仕来り」により正式にはこの「元服の時」は「頼信」が未だ生きていた事から、それを見計らって行った「前倒しの祝辞」であり、故に丸3年後の「没後の1050年」が「河内源氏-八幡社」の「行動開始の年」に成ったと観られます。
その正式な宣告は「義家の元服」と「頼信の1周忌法事」の2つの行事を利用したと考えられます。
周囲の「未勘氏族と武家集団」は氏家制度の中では、この「古来からの仕来り」は充分に承知していて「暗黙の了解」があったと考えられます。(1周忌は3年であるが1年以内の前倒しは可能)
この宇佐神社の神領は「1410戸」と「18の荘園」と「640反の社領」と「24000の支社」であったとされ、この神域は1190年から1199年頃に掛けて殆ど周囲の土豪に一挙に侵食されて無く成っています。
この間、「社の運営」がままならず荒廃した時期が50年ほど続きそれを観て周囲の土豪から侵食され始めたのです。(社説)
とすると、1180年が頼政の「以仁王の乱」、1180年の「富士川の戦い」、1185年が「頼朝勝利」、1192年が「開幕」、で1199年-50年=1149年と成り、1050年から100年間が「河内源氏-八幡社-未勘氏族」の関係は隆盛期を先ず迎えていた事に成ります。
その後は1149年頃からは「後白河院の院政」、「荘園整理」、「皇室権力の強化」、「保元平治の乱」、「源氏の衰退」等が起こり、「源氏と未勘氏族」の著しい衰退と「組織の崩壊」が起こり始めた時期であります。
1050年はこの事から「河内源氏-八幡社-未勘氏族」の関係式は間違いない時期と成ります。
(その後、中世に掛けて黒田氏1601、細川氏1632、松平氏、徳川3代将軍家光に依って寄進があり、宇佐八幡社は3000石に再復活します。これを期に全国の主要八幡社は徳川幕府の再建策で復活する)
つまり、清和源氏の「荘園の本領の保護」(1050)があってこれらの神域を保っていて、義家の勢力が低下してそれが最終(1199)切れた為に侵食されて無くなるという現象が起こったのです。
(河内源氏滅亡-頼朝没1195年)
その後、再び中世から江戸の初期に掛けて上記した様に全国の多くの八幡社は「徳川幕府の梃入れ策」で地元の大名等の寄進で復活したのです。
これらを時系列的に観れば、「清和源氏」の「源頼義」が「筑前の守護職」になった事をきっかけに「18の荘園」の「名義貸し」の「本領」とその「他の神域の保護」をしたと観られます。
そして、この「頼義-義家」の没後の1140年頃からこれを守り切れなく成り、50年程度の間に徐々に侵食が起こり始め、遂には1190年頃から雪崩の様に1199年に掛けて「侵食崩壊」が起こった事に成ります。
従って、この経緯から、「弓矢の神の八幡社」と「清和源氏の守護神」の「2つの風説」は24000社を通じて一挙に広がり、”全国の「八幡社」が清和源氏の頼義等の勢力に依って護られている”と云う風説と成って1010年後の頃から起こった事に成ります。
(むしろ24000社の八幡社の支社を護る為に広めたと観られます。但し、24000社は室町期中期では調査からこの1/5程度であったと観られます。)
この説からすると、実質は「八幡神」は「清和源氏分家頼信系4代目義家一門」の「守護神」とされている事に成りますが、「皇族賜姓族青木氏」の「祖先神-神明社」と同族である上記11代の源氏も「皇族第6位皇子」の「臣下族」である事から、「祖先神の一族」である事には令の定めるところでは変わりは無いのです。
だから同じ下記参考の「守護神」の「令義」からすると彼等も「祖先神」と成る筈です。
この「令義と風説」との”ずれ”が起こったと考えられ、結局は清和源氏の「満仲の戦略的路線」を引き継いだ「頼信-頼義-義家」はむしろこれ(風説)を利用した事が考えられます。
この根拠は全国にその「荘園制」を利用して作った「未勘氏族の武装集団」を組織化した事で、その勢力をひとつに取りまとめる為にも、その「集団の守護神としての象徴」をこの「宇佐の八幡社」に求めたものと考えられます。
同時にこの「八幡社の持つ組織力」も手中に収めた勢力拡大を図ったと考えられます。
そうすると結局は、「八幡社」の「守護神」は「未勘氏族の集団の守護神」であって、清和源氏頼信系一門の「本来の守護神」では無かった事を経緯の時系列分析からそれを物語ります。
すべての八幡社に関するこれに伴う要素の組み合わせは符号一致します。
故に、この「象徴」として「祖先神-神明社」を使うことは、「他の同族の青木氏」や「他の源氏」や「特別賜姓族の青木氏」等に対して迷惑が掛り、そもそもその路線が異なる事から賛同を得られることは無く、神明社の圏域を全く戦略的に使えなかった事を意味します。
それは「八幡社」=「荘園制」であって、「神明社」≠「荘園制」である事を社会の中では成っていたし、賜姓族全ては「令慣習」に従っていた事を物語るものです。
これに逆らう事は既に「後三条天皇・白河天皇期に禁令」(1069-荘園整理令等 前段で論じた)が出ている事でもあり、それを無視して無理に推し進めて「荘園制で勢力拡大」を図る手前上も出来なかった事にも成ります。
「八幡社の守護神」=「未勘氏族の武装集団の守護神」→「清和源氏頼信系一門の名義上の守護神」
そもそも「満仲-頼信」はその守護神を本来あるべき「祖先神-神明社」では無く、まったく別の「住吉社]であったのですから、これは ”本来走るべき軌道外の事を追い求める癖” で頼信等一門の「家の伝統」とでも云えます。
これは当初、「満仲」は関西範囲の「未勘氏族の武装集団」の組織化を行った為に、その「象徴とする守護神」を地元の「住吉大社」に求め、且つその神域を利用する為にもこの戦略に求めたと考えられます。
そして、未だ拡大途中であった頼信の頃もこの「住吉大社」の「象徴戦略」を継承したと考えられます。
しかし、「肥前の赴任」の頃をきっかけに「荘園制の未勘氏族」の組織化が全国的に拡大し、それに伴い同じ路線を採る「頼義-義家」は 河内は基より相模守、伊予守、出羽守、下野守、陸奥守、越中守、筑前守等を務めた事から ”「全国的な八幡社の神域」に切れ変えた” と考えられます。
(頼信は常陸守、伊勢守、甲斐守、信濃守、美濃守、相模守を務めた。これ以外に国司、介、追捕使、押領使等の令外官等の為政権を持つ赴任先は多くある。 神明社から調べた赴任先は上記の赴任先以外にも添書などに見られる。 義家は圏域を拡げる為に主要国の美濃守の任官を強く望んだ経緯もある位である。それが荘園の名義主の領家・本領に成れる事に繋がる。)
(参考 2「祖先神(祖霊)」(そせんしん)「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、「自分の集合」である「一族一門の子孫」(皇族・朝臣族)の「守護神」であり「人と氏の重複性も持つ神」)
しかし通説として「祖先神-八幡社」又は「八幡神-八幡社」の「守護神の形」が現実に出来上がっているのです。
この「八幡説」からすると「清和源氏分家頼信系義家」からの「八幡社」ですから「清和源氏宗家頼光系四家」は「八幡社」では無く「祖先神-神明社」と成る事に成ります。また他の源氏も「八幡社」ではない事に成ります。
これは文献から観れば、「清和源氏分家頼信系義家」からの「八幡太郎」の「義家」の呼称がある事から「八幡社」を「守護神」とした事は間違いない訳であり、更には「筑前赴任の経緯」「元服地の経緯」からも明確には「義家」からと成ります。
まして「八幡神」の「守護神」まで出来上がっています。
仮に「分家頼信系義家一門」(河内源氏)が「八幡神」だとすると、上記参考の一行の「皇族の令慣習」から明らかに ”第6位皇子の朝臣族の皇族でない”と云う事に成ります。
中には「河内源氏の守護神」と書き記した説もありますが、本来は賜姓族には(皇族系には)「上記の令慣習」に縛られて居ます。
且つ、身分は「天智期の正令」と「嵯峨期の詔勅」で決められていますから、ですからこの令外の皇族以外の「氏と姓」族は ”その氏の信じる考え方を守護神に求めて独自に創設する”と云う自由な仕来りです。
それと同扱いの説は「時代考証」がよく取れていない説と看做されます。(通説にはこれが多い)
例えば、藤原氏であれば「鎮守神」、「大蔵氏」であれば「産土神」の様に決める事が出来ますが、「第6位皇子の朝臣族」である限りでは「青木氏」と「特別賜姓族」と同様にその「由来経緯の考え方」から「祖先神」である事に成る筈です。
とすると、この「河内の八幡神」はこの「令慣習」を知らないで藤原氏等と同じ感覚で「八幡神」を創設した事を意味します。つまり、この事から,この「八幡神」のみならず「八幡社」は「後付け」であると云う事に成ります。
言い換えれば、少なくとも「跡付けの時期」までは、恐らくは義家前(1046年)までは、「世の中の常識」は本来は、又は形式上は「祖先神-神明社」であった事に成ります。
(現実は満仲-頼信は住吉大社ですので、知っていた上で敢えて逆らった事を意味します。そして、社会が「武家の棟梁の風潮」が高まるに連れて次第に「世の中の常識」は薄らぎ変化して「八幡社」へと変化して行ったし、むしろその風潮を「未勘氏族」も「頼義ー義家」も利用し「既成の事実」としてこの際敢えて振舞った事に成ります。)
(この義家の終末段階では「令慣習」等”どこ吹く風”で開き直った。-ここで白河院は耐えかねて{権謀術策}を労して潰しに懸った。- その後は源氏は潰れ支えが無くなった実質の荘園主の「未勘氏族」によって煽られて”一人歩きした経緯”と観られる。)
結局は荘園も無くなり、上記した状況は次の様な事に成ります。
A ”「八幡社」=「荘園制」であって、「神明社」≠「荘園制」”の関係式
B ”「八幡社」=「未勘氏族」であって、「神明社」=「賜姓族」の関係式
A→Bに戻った事に成ります。
他の「賜姓源氏」と「皇族源氏」も含めて賜姓・特別賜姓族は「祖先神-神明社」と成りますし、現実に資料よりその経緯を辿っています。
そうすると、「八幡神」等はこの決め手は「跡付けの時期」と云う事に成ります。
実は、この疑問から「経基王」は「皇族の範疇」に無かったとする最近の研究説が生まれているのです。「第6位皇子の臣下」では無かったと云う説です。
確かに上記した様に「清和天皇」の「第6位皇子」は「父親の貞純親王」で「経基王」はその孫であり「陽成天皇」の皇子との説もあるくらいですから、孫が臣下して賜姓族の源氏を名乗る事の事態が特異であり、ある事情から「貞純親王」の賜姓の権利を”子供に譲った”とする経緯と観られます。
それならば前提と成っているその皇孫が6人居て”「六孫王」と呼ばれた”とされていますが、この「六孫王」の呼称の記述は当時の何処の文献にも出て来ないのです。これも明らかに「未勘氏族」による「跡付け」です。
ここら辺が天皇や朝廷からその出自とそのあるべき行為の反意を咎められての疎んじられる根拠に成っていたとも考えられます。
兎角、何事も「白河院の横暴」と決め付けられていますが、もしそれであれば「賜姓青木氏」を潰す事にも走っている筈ですし、わざわざは「白河院」を含む「累代の天皇や朝廷」がこの時期に天皇家が「秀郷一門」に対しこの「賜姓青木氏」の跡目の「特別賜姓青木氏の行動」はそもそも無かった筈です。
現実に潰されていませんし、むしろ前段でもその活躍を期待され源平の時代に明確に果たしているし、下記に示すデータから「神明社建立」は更に進んでいるのです。つまり国策に対して大貢献しているのです。
「白河院」は「清和源氏分家頼信系義家一門」に対する「圧迫」と「同族で戦わせて」の巧妙で戦略的な「源氏潰しの策謀」をも実行しなかった筈です。
(注釈 世間の「白河院の悪名」の通説らしきものは、この「皇族としての道」を正そうとした「権謀術策の所以」であろうが「日本人の忌み嫌う所作の所以」から来ていると、源氏に対して青木氏から観るとこの様に考えられる。)
(義家10年の蟄居期間後、許して北面に任じるがこれは「院への世間の叱責」から逃れる一つの戦術であって、その立場において「同族の行状の悪さ」を理由に「掃討の命令」を下して「同族潰合」をさせた。
その原因は上記した様に「河内源氏の皇族にあるまじきの行動」にある。)
そもそも仮に「白河院の横暴」であるならば「清和源氏宗家頼光系四家」も他の「10代の源氏」も「潰される憂き目」にあっていた筈ですがそうではなかったのです。
それは何度も論じていますが、上記の「祖先神-神明社」の「皇族としての伝統」と「3つの発祥源の責務」を護っていたからです。
この上記の「八幡社」が象徴する様に義家以降の義家一門の行動が、上記の「祖先神-神明社」の「皇族としての伝統」と「3つの発祥源の責務」を護っていなかったからで全てこの一点に集約されているのです。
”皇族の者にあるまじき態度” ”荘園制で国策を乱した”と判断されて潰される羽目に陥ったものであり、”「白河院の横暴」”と「未勘氏族」が作り上げたむしろ策謀である事が伺えます。
(為政者がこの事を許せば皇族としての自らの立場をも人民から信用も脅かす事に成る事は必定です。)
この事から考えると”「義家の立場」を改善しよう”とした「後付けの意味合い」が判る気がします。
世間が思っている様に「清和源氏」だけが源氏であるとするならば「白河院の横暴」説もある面では理解も出来ますが、ここでもう一度確認していただきたい事は、源氏は上記他に10代に、賜姓青木氏は5代29氏に、特別賜姓族青木氏は116氏もあるのです。これ等は全てその立場を守ったのです。
「八幡社」や「八幡神」や「八幡太郎」や「八幡義家」は間違いなく「後付け」の「搾取偏纂の行為」と見做されます。では”誰がこの「後付け」の搾取を実行したのか、何故実行したのか”疑問です。
これ等は後の八幡社から発見された私氏資料の中の記述を正としての前提での全て説なのです。
この私氏資料が間違いとすれば前提は崩れて「祖先神-神明社」になる筈です。
ところが未だそこまでは研究は進んでいないので「八幡社説」が通説に成っているのです。
しかし、上記した様に漠然と判ります。
この論調は少なくとも清和源氏のみの事であり、皇族としての令慣習を無視していて、他の源氏の守護神とする根拠も全くありません。源氏は清和源氏のみとする酷い思い違いの風説のみであります。
「河内源氏の守護神」などの説は「皇族外の氏と姓の扱い」と同じにしていますので青木氏などが護ってきた「令慣習の存在」を無視していますので論外です。
そこで、更にこれらをデータ分析で以って検証を進めます。
そもそも「八幡社」の建立期の728年頃には未だ源氏は発祥していません。
1代目の52代嵯峨源氏発祥は809年頃以降であり、56代清和源氏の元祖の経基は858年頃 義家は7歳で「石清水神社」(八幡社3社)で元服したとして1046年頃以降に「八幡太郎義家」と成ったとされていますが、諸説があるので1050年頃が妥当な「呼称の開始年数」となりますと、322年後と成ります。
しかし、筆者はこの呼称は「跡付け」と観ていて、義家が「武家の棟梁」として祭り上げられた時期に「後付け」として呼称されたと観ています。
この「後付け」は「後三年の役」の後と観ていて現実には1087年頃では無いかとも考察しています。
「360年後の後付けの呼称」となると「八幡社」が「源氏の守護神」であるとする事に問題があります。
だから、「清和源氏宗家頼光系四家」とは「祖先神-神明社」として「3つの発祥源」として行動が違っているのです。
つまり「満仲-頼信」までの行動は範疇内ぎりぎりの行動と見做され、「義家」の父「頼義」の頃からはっきりと「道」が外れた事を意味し、遂には”皇族としての「令慣習の限界」を超えた”として朝廷から疎んじられる羽目に成って行ったと観られます。
もし仮に「祖先神-神明社」で無いとするならば、第3世族の孫、或いは第4世王外の者における令外慣習による賜姓と成ればこれは別に守護神を求めても問題は無い事に成ります。
「祖先神-神明社」は上記の経緯より「朝臣族」で「第6位皇子」による「臣下族」の「守護神」として「皇祖神」に代わってその務めを果たす「生活の神」「物造りの神」とされています。
この厳密な定義からすれば異なる事を意味します。
「弓矢の神」「八幡社」でその「守護神」は「八幡神」でも問題は無い事に成ります。
つまり、青木氏の「嵯峨期の詔勅」により発祥した「皇族青木氏」と同じ扱いと成り得ます。
上記に述べた様に所為を「清和天皇」の「第6位皇子」外の5人の源氏は守護神は「八幡社」で「八幡神」でも問題はない事に成ります。
但し、この5人外の他10代の源氏は「祖先神-神明社」の枠組みの中に伝統はあります。
「経基王」の末裔の「清和源氏宗家頼光系四家」と「分家頼親系の清和源氏」が先祖の伝統に従い「元来の皇族孫」としての「祖先神-神明社」を採用した事に成ります。
それは「八幡社」が4代目からの仕儀であった事から「元来の皇族孫」としての伝統を守った事に成ります。
「経基王」から観れば「義家」まで丁度100年位経過していますから「八幡社」が義家からとすると100年の期間がある為に「祖先神-神明社の守護神の伝統」は護られていた事に成りますし、継続されていた事にも成ります。
つまり「乱世の時代の背景」も受けての”「義家の末裔」の守護神であるかの様に成って行った”事に成ります。
武士である事は事実であるので「氏の守護神」であるかは別にして「弓矢の神」「八幡社」は必然的に「武士の守護神」である事には間違いはありません。
ただ ”義家から直ぐに「氏の守護神」の伝統を「八幡社」に変えたのか”は下記の「八幡社の建立状況」からやや先の「未勘氏族」によるものではないかと考えているのです。
恐らくは、この時期に「六孫王」の呼称も「未勘氏族」によって搾取され「八幡社」の記録に書き込んだと考えられます。
「朝廷の記録」にも無くこの「八幡社」に「六孫王」の呼称や「八幡神」等の「義家」に関する記述が遺されているのも不自然です。
後に「武家の棟梁」などと持て囃された時期に「弓矢の神」の「八幡社」を「荘園名義主」の「本領・義家」に宛がい、その根拠を「六孫王」として作り上げて祭り上げたと観られます。
これを正当化する為に「八幡社」に「氏資料」として恣意的に記録を残したもので、それを正しいとして根拠に論理立てたその立場にいた研究者が「八幡社」と「八幡神」と「六孫王」を装具立てたものと考えられ、そうでなければ360年のタイムラグは大き過ぎます。
「疎んじられた義家」を主とする「未勘氏族」に取って観れば、「名義借りの行く末」が利害に大きく関わってくる事から、有利に成る事柄を記録として「八幡社」に遺し後世の末裔に遺したのではないかと考えられます。
「未勘氏族」の圏域を周囲から護り誇る為にもこの「義家」を宛がい「八幡社」「八幡神」を装具立てたと見られます。
上記した様に ”「源氏義家系の「未勘氏族」の守護神の八幡社”であって、必ずしも”源氏そのものの守護神であると云う定義ではない”と云う事です。
結果、遺した「八幡社の氏資料」で後に”「源氏の守護神」と決め付けられてしまった”、又は”勢力保持の為にも決め付けられる事を一門は期待した” と云う経緯と観ています。
「八幡社」=源氏頼信系義家一門の守護神=「未勘氏族の守護神」=「武家の棟梁」=「八幡神」
これ等の経緯を念頭に次ぎの検証をお読みください。これ等の上記内容をデータで下記に論処します。
その八幡社の分布域を次ぎの7つに分けて観て見ます。
但し、これらは神明社と同じく室町中期までのものとして選別したものです。
八幡社の分布順位(地域分布)
1 関東域 7県-94-26.5%(全体比)-平均13/県 清和源氏勢力圏域
2 九州域 8県-70-19.8%(全体比)-平均 9/県 未勘氏族の圏域
3 関西域 6県-52-14.7%(全体比)-平均 7/県 源氏の出自元の圏域
4 中部域 8県-52-14.4%(全体比)-平均 7/県 清和源氏・秀郷一門圏域
5 東北北陸域 8県-38-10.7%(全体比)-平均 5/県 反河内源氏の圏域
6 中国域 5県-24- 7.9%(全体比)-平均 5/県 源氏空白域・讃岐藤氏の圏域
7 四国域 4県-21- 5.9%(全体比)-平均 5/県 讃岐藤氏の圏域・源氏空白域
「1の関東域」
・「1の関東域」の八幡社が最も多いのは、源頼信が平安期末期に信濃-伊豆を拠点に「京平氏」の平族が勢力を張っていた関東にその勢力圏を拡げた事が原因しています。
故に京平氏の平族との争いが上記の「源経基」から起ったのですが、だから他の域と比べて一番多い事に成ります。当然にこの事に依って「特別賜姓族」の「秀郷流青木氏」との摩擦も起る事が考えられますが、「分布の内容」から観てこの領域はある程度の「墨分け」をしていてた模様です。
その「墨分け」は次ぎの様に成っています。、
特に「武蔵、下野」域、次ぎに「上野、常陸」域、多い所で「神奈川、下総」域、「甲斐、駿河」域
と成っています。
これは一見すると、「秀郷一門の圏域の強い地域の強弱」、逆に云えば「清和源氏の頼信系の所縁の地域の大小」に依って分布している傾向を持っている様に観えます。
ところがむしろ「秀郷圏」-「頼信圏」の「圏域の分布」と云うよりは、その「圏域の境」が重複している処を観ると、これは「神明社+春日社」-「八幡社」の「社領域の分布」であろうと考えるのが妥当と観られます。
そもそも神社を考察する場合は、「圏域」のみならず「荘園と社領」の関係を考える必要が有ります。
この平安期から室町期には「荘園制の影響」を大きく受けて「社領」が大きく認められていてこの影響を見逃す訳には行きません。
どちらかと云うと、その「社領」を保護する土豪の「未勘氏族」か「氏子衆団」に依ってその圏域は守られていた時代です。
つまり、「荘園-本所-未勘氏族-「神社」-社領」の緊密な相互関係を保持していてこれをばらばらにして無視して論じる事は出来ないのです。中でも「神明社」と「八幡社」に限っては「皇祖神」に結び付く「祖先神の神社」であり、他社と異なり「荘園の名義主」(本所・本領・領家)とも結び付く「社会構造」であったのです。
当初は「荘園の名義主」と成った源氏は幾つかの荘園を固めその一つの大きい領域は1国から2国になる程の大きさを持ち、その圏域の領域に幾つかの「八幡社」を建立して「圏域の誇示」を図ったのです。
その「八幡社」に広大な社領を与えて「未勘氏族」に護らせたのです。
(本論末尾のデータに記載してる様に「熊野古道」の世界遺産の「熊野神社」は和歌山県の殆どの主な領域を社領[海南市から熊野市]としていた事でも判ります。研究室の「鈴木氏と青木氏の関係論文」でも記載)
しかし、「実質荘園主」の「未勘氏族の勃興」に左右され、その後は「未勘氏族」の大小の「氏子衆団」に取って代わったものまで生まれたのです。
この「社領」が縮小される江戸期から禁止される明治初期の「寺社領上知令」までは大きな力を持っていたのです。
先ずその経緯は、平安期は主に「清和源氏の力」に依って建立され、末期以降頃は「荘園制」を利用して「未勘氏族」に「源氏の圏域」を誇示させ、そこを「戦略拠点」を主眼としてそれを護る為にも「八幡社」を建立させたのでは無いかと考えられます。
そこで関東域の「94の八幡社」を分類すると、これを「家紋分析」や「神紋分析」や「未勘士族の家紋分類」や「氏子集団の神紋系家紋」から総合的に分析すると次ぎの様に成ります。
先ず「家紋分析」から観ると、平安中期から「源義家」が天皇から疎んじられた時期までの平安末期直前までは「源氏力」に依って建立され、源氏衰退と滅亡の後の鎌倉期以降はこの力の持った「未勘氏族と氏子衆団」に依って建立が進められて行った事が良く判ります。
(源義家の主な朝廷の処罰:「義家に対して関係族と兵の入京禁止令」「義家への土地の全面寄進禁止」等 殆ど身動きが取れない令で10年間押さえ込まれるが、その後、「院政の横槍」で一時許されるが「同族争い」を仕向けられ衰退する)
「未勘氏族」と「氏子衆団」の形態は、当初は「実質荘園主」の「未勘氏族」で建立されたと観られ、時代が下克上・戦国時代の室町期に入ると互いに「未勘氏族」の潰しあいが起こり細分化した結果、大小の生き残りの「未勘氏族」や土豪達の「氏子衆団」がこれを護ると云う形に変化して行きました。
(参考 名義荘園主(本所・本領・領家):源氏などの名家に名義を借りて「開拓荘園主」に成ってもらい名義料を支払い見返りに名家の名籍を名乗る事を許され武士団を形成する方式でその基と成る名義上の荘園所有者と成って保護する。実質荘園主(庄司):実際に開拓した土地の豪族で名義を借りてその名籍の氏を名乗る事を許された武士団であり、これを「名籍族」と分けて「未勘氏族」(庄司等)と呼ばれる。「氏子衆団」:これ等の「未勘氏族」が戦国に依って細分化して、その結果、再編成が起こりその荘園内に建立された各社の「氏子衆」の集団が集まり「氏子衆団」を形成して「社領の圏域」と「身の安全」を護った。室町期末期では「未勘氏族」が「氏子衆団」と「戦国豪族」との入れ替えが起こった。)
「圏域の分布」<「社領の分布」⇒「荘園制」
「名義荘園主」⇒「未勘氏族」⇒「氏子衆団」
「平安期-源氏建立」⇒「鎌倉期-未勘氏族」⇒「室町期-氏子衆団」
これ等(分布域や建立者)の事は「未勘氏族の家紋」や「八幡社の神紋」に依ってその変化が良く判ります。「八幡社」神紋は「皇族賜姓族」である為には本来は「笹竜胆紋」と成りますが、源氏自ら建立したとなれば「神紋」は「笹竜胆紋」ですが、そもそもその「神紋」とは必ずしも「寺の紋」では無く主に建立した氏(氏上)の家紋を「神紋」とする傾向がある為に、その「家紋・神紋」の出自分析をすれば「分布域・土地柄・変化・経緯」が判別できるのです。
「家紋・神紋の分析」から観ると、先ず検証できる事は秀郷一門(春日社・神明社)と大きな争いに成らない様にその建立地域は分布していて見事であります。恐らくは秀郷一門との関係もありますが、殆どは”「未勘氏族」が建立して管理していた事から併設を避けた事によるものと考えられ、この傾向はその「神紋」が具に物語ります。「笹竜胆紋の神紋」は極めて稀であります。
ところが、この判別で解釈の判断が付き難い地域があるのですが、秀郷圏の中に居る「土豪」つまりは「未勘氏族・氏子衆団・武蔵7党等」の土地柄であって、秀郷一門としても血縁関係等もありなかなか文句を付けるところまでには成らなかった事が観えて来ます。
(秀郷一門の中ではこれ等との問題の関係調整役は主に進藤氏の役目柄である)
次ぎに「笹竜胆紋」を神紋としているのは平安期のものだけで室町期には無い事ですが、中には疑問のものもあり鎌倉期と室町期の建立で有りながら「笹竜胆紋」を神紋としている「八幡社」があります。
「地理的な条件」」から観て荘園制に絡む「未勘氏族」による建立である事は確実であるのですが、果たして神紋を正当に使用しているかは疑問で、江戸期の神社間の競争激化で搾取変更したのではないかと考えられます。
そもそも関東域の秀郷一門の圏域の中では故意に変更する事はいくら名義を借りているとしても「未勘氏族」でも不可能であった筈です。
「源氏自力建立」(未勘氏に命じた社も含む)と見なされる神紋を含む「笹竜胆紋」の「八幡社」は全体の3割弱程度で頼信系源氏が根拠地としていた「武蔵の北東一部」と「甲斐や駿河」や「神奈川西域」と「下総の一部」(神紋の疑問社は除く)に限定して観られます。
もとよりこの様な背景と経緯の中で、この秀郷一門は元来の彼等の「人生訓」に対して観ても、この事柄に於いても「柔軟性を保有する氏」で有った様で、彼等の圏域の中でも「弓矢の神」の「八幡社」に対して頑なに拒んだ姿勢を示さなかった模様です。
当然に「弓矢」と成れば秀郷一門の「護衛軍団の青木氏」(武家)との摩擦とも成りますし、一方では「特別賜姓族」としての「神明社建立の責務」をも負っているのですから少なくとも放置出来るレベルではない筈で利害関係は有った筈です。
多くの一門との軋轢も生まれていた事が覗えます。しかも、最も多い94もの「八幡社」をも建立しているのです。下記のデータがそれを物語ります。
総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
2.7倍 4.6 1.8
関東域は「八幡社94+神明社115」=209
関東全域 八幡社 7県- 94-26.5%(全体比)-平均13/県
関東全域 神明社 7県-115-20.3%(全体比)-平均16/県 本家域
八幡社 東京29 千葉23 栃木11 神奈川12 埼玉9 茨城7 群馬3
神明社 東京30 千葉22 栃木14 神奈川11 埼玉15 茨城9 群馬14
その勢いとしては、「神明社」は115社-20.3%(全国比)です。「八幡社」も「神明社」共に最高値です。この数字から観ても拒まなかった事や受け入れに柔軟であった事が証明出来ます。
これは圏域内をうまく収める為に一門とも多少の血縁性のある「未勘氏族」と「進藤氏」と「青木氏」との充分な調整が取れていたと考えられます。
(進藤氏は未勘氏族に限らず細部の土豪の領域まで何らかの血縁性を張り巡らしていた事が進藤氏の系譜添書に詳細に出ています。それが原因してか自らの跡目は連続して一門からの養子跡目と成っているのです。それだけ与えられた一門の「氏としての調整役」の役目を全うした事を物語ります。その添書の中に書かれている血縁氏と姓の地理的な分布を観ると、「坂東八平氏」や「武蔵7党」や「関東屋形族]等の大小の土豪集団等との関係を持っていて「関東域」にかなり集中していますが、北の陸奥から西の近江までに及んでいます。これほどの事は他の主要5氏一門の中には見られないのです。このデータの八幡社の所以は進藤氏の功績に依って成されたものです。これが秀郷一門の長く生き残れた基盤に成っていたと考えられます。その役目の為に自らの氏は可也綻びの多い系譜と成っているのが「氏の定め」の物悲しさを誘う。対比して上記の八幡社に代表される「河内源氏の生き様」は同じ賜姓族の青木氏から観ると賛成できないのです。故に敢えてここに進藤氏の生き様を記す。)
この”柔軟さと云うか戦略的と云うか”のこの秀郷一門の「生き様」が「生き残り」を果した要因にも成っているのですが、平安末期に鎌倉幕府が興り秀郷一門は失職しながらも室町期には勢力を盛り返し関東一円の大豪族と成り得ているのです。
この根幹を見失わずに”柔軟さと云うか戦略的と云うか”の生き様があっての事であります。このデータが河内源氏の八幡社に対比してこれを顕著に表しています。
因みにその勢いとしては、八幡社の94に付いては、平均13/県と云う事は郡には2社/郡の割合で建立している事になります。
上記した印象からすると、「弓矢の神・八幡社」としては郡に1社有り無しの程度とも思えますが多く建てている方です。
「弓矢の神・八幡社」は「弓矢の神」である限りは”多くて良い”と言う訳ではありません。これは取り敢えず”「墨分け」はしている”と云っても普通の感覚では秀郷一門側としては無視出来ない数の建立と成ります。
当然にこれに対して、「神明社」115で平均16/県で郡では3/郡の割合と成ると郡に5社とも成れば1社/村となり、ここに「八幡社」と「春日社」が加わるのですから3~4社/村に成ります。
これでは村のいたる所に神社があった事に成ります。「八幡社/神明社」の信者獲得合戦も起こり得る数字と成りますが、この数字は信心とは別に当然に上記した「戦略的意味合い」が色濃く出ていた事が挙げられます。
平安期では2~1/社と成り妥当とも思える状況であったと観られ、この傾向は鎌倉期から室町期に掛けて「戦乱の世」に成るに連れて「未勘氏族・氏子衆団」に依って建立されて次第に増えて行った事に成ります。
「生活の神」「物造りの神」の「神明社」はいざ知らず「民」に取っては「弓矢の神」の「八幡社」は直接は無縁であります。
この事が、”「八幡社/神明社」の争い事を避けられていた”と考えられ「神明社」に匹敵する「八幡社」が建てられた事に成ります。
平安期末期から室町期中期に掛けては「八幡社」は「民」に取っては「弓矢の神」としてだけでは無く、関東域に於いては「清和源氏の勢力拡大圏」である事から、特別に「神明社」の「祖先神」としての「補助的な信仰対象」と成り得ていた可能性があります。
”それは何故なのか”の疑問ですが、特に前段で論じた”「民の農兵制度」が「補助的な信仰対象」と成り得ていた”と考えられます。
平安期末期に於いては「末端兵」は「農兵制度」に依って調達され一つの「徴兵の慣習システム」と成っていたのですから、「八幡社の建立」は「源氏力」(総合的な意)に依って成され、「民」に取っても充分に「補助的な信仰対象」と成り得ていたと考えられます。
しかし、鎌倉期に入り「立役者の源氏」が滅亡しながらも、「武家の世」と成り皮肉にも「武家」の「平家や源氏」が全て衰退し「未勘氏族・氏子衆団」を除く「八幡社建立」の主は無くなった事に成ります。
又、民の「農兵制度」も「武家」の世と成った事から「農兵」が「兵」として身を興す傾向が生まれます。
そしてそれは遂には「下克上」のところまでこれまた到達する変化を起したのですから、「補助的な信仰対象」は「2分化」して行く事に成ります。
「八幡社」は次ぎの様な2分化を起こします。
1 「平安期中期から末期の変化」
「高位の武家」の「守護神・弓矢の神」 →「源氏の力」
2 「鎌倉期以降の変化」
「武家」の「弓矢の神」(侍としての守護神) →「未勘氏族の力」
「農兵と兵」の「弓矢の神」(戦いから「身の安全を護る神」) →「氏子衆団の力」
以上の2分化を起したのです。
平安期の「建立の目的」と鎌倉期-室町期の「建立の目的」とは異なり、前者は「源氏族」が、後者は「未勘氏族」が主体と成って建立していった事に成ります。
関東域ではこの二つの「2分化の胎動」が起ったのです。
確定は困難ですが、関東の94の「八幡社」の内、初期の大半は「清和源氏の建立」(河内源氏)と見なされます。未だ「未勘氏族」が建立を充分に成す力と環境は、勃興する氏の家紋分析から観て充分に無かったと観られ、その力のある「未勘氏族」は数は多くなかったのです
主に鎌倉期以降に世の乱れ行く状況に沿って「未勘氏族」が台頭し依って建立(神明社合祀・守護神替え)が進み、再び「農兵制度」が更に活発に成り故に円滑に受け入れられたのです。
特に秀郷一門の勢力圏の関東に於いては”顕著に成り得ていた”と云う事が云えます。
それは各地に「青木村」を形成しての環境下です。つまり「青木氏-進藤氏」の調整下でその「受け入れ状態」が「4つの青木氏」の「共存共生」の「生き様」の土壌がこのデータの状態94を成し得たのです。
「青木氏-進藤氏の調整」+「受け入れ状態の環境下」→「八幡社94の建立]
豊臣秀吉がこの「農兵制度」を禁止するまでは充分にこの環境下にあったと考えられます。
(「農兵制度」に付いて 「武家」とは「公家」に対しての身分呼称で、江戸期の「武家」の総称とは異なる。平安期は「武士」(侍)と「兵」の身分階級があった。
「武士」は「組織の上下」を持つが、「兵」は「職能集団」で「組織の上下」の関係を持たない。
鎌倉期以降はこれが無くなった。 関東域は平安期は藤原秀郷と清和源氏頼信系の勢力圏域で、「たいら族」は後退し美濃域に引き下がる 前論記述)
「2の九州域」
・「2の九州域」は「基八幡社の発祥地」でもあり北九州が殆どで、福岡の総社宇佐八幡社の圏域から分社が拡がったので多く成っているのです。この地域は「民族氏」の「産土神」の地域柄でそもそも「神明社」の少ないところでもありますが、「3国地域」の「神明社」が「一社分布」と成っていますのでその争い(産土神と祖先神)は無かったと観られます。
ただ源義家は筑前に赴任していますので「八幡太郎」の呼称もありますが、この筑前(福岡)の数字を観ても全体の6割近い八幡社が建立されています。明らかにこの影響を受けての事でありますが、この地域は関東域のこの時代の影響を全て受けた複雑な「経緯と背景」と異なり比較的簡単な「経緯と背景」を持っている事が判ります。
先ずは何と云っても大蔵氏等の絶対的な「民族氏の圏域」であり、前段で論じて来た様に一言で云えば「遠い朝廷」「錦の御旗」「太宰府」の真にその地域です。
丁度、有名な大蔵氏の「春實」から「種材-種輔」まで著しい勢力拡大を九州域に図った丁度その時期でもあります。
この場所、この時期、この氏、の所に「源氏自力」による「八幡社の建立」は難しい筈です。その中に70もの八幡社は何故かの疑問であります。そして、この時期に問題の人物の八幡太郎源の義家が筑前に赴任しているのです。何か匂うものがあります。
九州域は、”「関東域の藤原秀郷の氏」と「清和源氏」の掛け合い”があった様に、同じく”「大蔵氏」と「清和源氏」のこの二つの氏の掛け合い”に成ります。この面では極めて類似しています。
更に、藤原氏の「春日社の氏神」があったと同じくここには「宗像神社」や「阿蘇神社」等の「氏子衆団」の豪族がひしめく地域でもあります。藤原秀郷一門主要5氏が鎌倉期以降にやや遅れて大蔵氏と血縁して勢力拡大をして九州に食い込んで来た時期でもあります。
ただ違う点は下記の通りで「神明社の数」が絶対的に異なる事です。(詳細は下記の神明社で論じる)
それは「関東域の経緯と背景」から観て「八幡社に関わる事件性」や「源氏に対する事件性」がここにも存在し、且つ、この地域は奈良期の早い時期からの「神明社の神域」(詳細下記)であった事が挙げられます。
1と2の地域を比較して観ると次の様に成ります。
2の九州域は「八幡社70+神明社13」=83
総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
1.1倍 0.5 1.3
関東全域 八幡社 7県- 94-26.5%(全体比)-平均13/県
関東全域 神明社 7県-115-20.3%(全体比)-平均16/県 本家域
九州全域 八幡社 8県- 70-19.8%(全体比)-平均 9/県 沖縄含み
九州全域 神明社 7県- 13- 0.2%(全体比)-平均 2/県 西海道
八幡社 福岡39 鹿児島9 大分7 宮崎6 長崎3 熊本3 佐賀2 沖縄1
神明社 福岡9 鹿児島3 大分1 宮崎4 長崎3 熊本1 佐賀1 沖縄1
九州域の源氏中でも清和源氏のそのものの勢力がこの地域に大きく及んだ事は「義家と足利氏」の巻き返しの基盤地域と成った地域でありますし、返して云えばその基盤は「荘園制の名義主(本領)」の土地柄でもあります。つまり清和源氏の「未勘氏族」の地域でもあります。
この「未勘氏族」の数を示すデータでもあります。
1番目の関東域は「清和源氏の数」であります。
2番目の九州域は「未勘氏族の数」と成ります。
これは「清和源氏」は西に大きく「荘園名義主」を伸ばした事を示していて、当然に「未勘氏族」の多い事に成ります。関東の足利氏が南北朝の時に一度北九州に敗退して退きますが、この時の「未勘氏族」の勢力に依って勢力を持ち返し再び勝利して幕府を開きます。
この事からも「未勘氏族」の地域である事は理解できます。
筆者はこの地域の「未勘氏族」が”後の「義家の偶像」を作り上げた”と判断していて、上記した様に彼等の守護神の「八幡社」を少し後に「義家の八幡社」と装具立てたのでは無いかと観て居ます。
清和源氏の足利氏が返り咲く根拠もこの「義家の八幡社」の下に「未勘氏族」を参集させたと観ています。兵騎を参集させるには呼びかけだけでは兵騎は集まらない訳で何かの「共通する旗」の下に参集するのはこの「世の常道」であり「戦いの基本戦術」であります。
従って”清和源氏そのものが建立した”と云うよりは「清和源氏の未勘氏族」が自らの集団の纏まりを「八幡社」に求め、その「八幡社」を「各未勘氏族の圏域」に建立して行ったと考えられます。
ここが関東域と違う所ではないかと考えられます。
この風潮が源氏の中でも最大勢力を誇った清和源氏の「分家頼信系義家一門」の「守護神」と思われて行った原因であると考えられます。むしろ”思わせて行った”と考えるべきです。
「源氏の棟梁・武家の棟梁」と持て囃された風潮の所以の一物です。
対比して「神明社」がこの地域に極めて少ないのもこの大きな風潮の中に入り込めなかった原因であろう事が判ります。
何はともあれこの地は「八幡社」にしても「基八幡社」の北九州宇佐神宮大社の地域、「神明社」にしても日向の「天岩戸神社・高千穂神社」の基社であり何れも「総社」であります。
この事から日向が神明社の基社でありながらも建立は殆ど無いわけであり、「八幡社の総社」であるから建立は多いと云う訳だけではない事が判ります。
それを立て様とした必要とした者の数である事に成ります。
つまりその立場に居たのが「未勘氏族」であります。
しかしながらこの九州行きに於いて「総社」である「神明社」は風潮にならず、総社の「八幡社」が風潮に成った如何は、その違いは”「八幡社」と「神明社」の「未勘氏族」の有無の違い”にあったからです。
言い換えれば「未勘氏族」を造らなかった賜姓族と、「未勘氏族」を造った賜姓族の違いであり、皇族としての「立場とその役目」を護ったかどうかの違いであり、「旗頭」に成ったかどうかの違いであり、究極は氏の「生き様」の如何に拠ります。
このデータはこの事を顕著に証明しているデータであると観ているのです。
その意味でこの九州域は八幡社の「持つ意味」や「全容」や「有り様」を示す地域なのです。
「3の関西域」
・「3の関西域」は11代の源氏の「出自元の集積する地域」でありますが、「神明社」との建立地の混合はありません。”「天皇家の神域」を「弓矢の神」を主神としている為に避けた”とも考えられ、「神明社-八幡社」の争いを避けたとも考えられます。「同族としての争い」を避ける事を一応は配慮していたと考えられます。もしこの争いが起る事も考えられますが、最悪の信義は護った事を意味します。
そもそもこの地域は860年の「石清水八幡社」の関係八幡社が殆どで比較的古い建立と成っていますので、その「八幡社の存在意義の有様」を検証するのに重要な地域です。
下記のデーターでも判る様に思いの外少ない事が判ります。
関西域の京都の「石清水八幡社」が九州の宇佐の「宇佐八幡社」より格上であるとする説もあり、八幡社には三大八幡社のもう一つの「鶴岡八幡社」がありますが、「鶴岡八幡社」は時代性と建立の由来から別にして内容を精査するとどうも「2局の系統」に八幡社は判別されると考えられます。
それは上記した「宇佐八幡社」を中心とする「未勘氏族の八幡社」系列と、「石清水八幡社」の「河内源氏一門の八幡社」系列とに分類出来るのです。だからこの「二つの八幡社の格上論」が出てくるのです。
確かに時代性から云って宇佐八幡社が僅かに先であり、それを都の京に分霊して天皇家が祭祀しやすくした事は経緯は否めません。
「清和天皇が「石清水八幡社」を建立したのを慌てて宇佐の八幡社は「ヤハタ神社」から「宇佐八幡宮」と名称を変更したのもこの「系統の本筋」を争っていたからで、宇佐は朝廷が飛鳥からわざわざ赴任させた「神職官僚の大神氏」と後に引き継いだ「土豪の宇佐氏」の氏神的扱いの「ヤハタ神社」で、一方は「石清水八幡社(ハチマンシャ)」は「天皇家の国家鎮魂の祭神」と定められ、その八幡社から下記に示す「関西域の分霊社」が天皇家に依って増設されて行った為に系統の本筋が関西域となる経緯は当然の事であります。
この事が後に「国家鎮魂」から「弓矢の神」へと、「天皇家の守護神」であったものが「河内源氏の守護神」と観られる様に、或いは利用される様に成っていた起点に成るのです。
そしてその経緯の副産物が「鶴岡八幡宮」であり、鎌倉期以降の「未勘氏族」と云うよりは「武士の神」(武神)としての守護神の八幡社とはっきりと変化して行った象徴の八幡社と考えられるのです。
この3大八幡社は次ぎの変化を起こします。
「石清水八幡社」→「国家鎮魂の八幡社」→「天皇家の守護神」⇒「河内源氏の守護神」・「弓矢の守護神」
「宇佐八幡社」→「氏神の八幡社」→「未勘氏族の守護神」⇒「九州武士の守護神」・「「弓矢の守護神」
「鶴岡八幡社」→「弓矢の八幡社」→「河内源氏の守護神」⇒「関東武士の守護神」」・「弓矢の守護神」
(注:「氏神」は下記に定義する枝葉の広い関係族の氏姓の護り本尊の意味)
源氏滅亡の鎌倉期直前からこの3つの八幡社の系列は「未勘氏族の弓矢の八幡社」で結びついて行くのです。(地域に依っては「弓矢の八幡社」→「家内安全の守護神」と変化を遂げます。)
この関西域の八幡社は「石清水八幡社系列」である事は勿論ですが、「河内源氏」と関わっている事から「弓矢の八幡社」と考えられがちですが、実は上記で論じた様に歴史的に860年を起点に祭祀されていますので、「八幡社の本来の初期の守護神の形(存在意義)」が判るのです。
「神明社」の「豊受・五穀豊穣」(生活の神・物造りの神)の守護神」であった様に、当初は「八幡社」はそれは「国家鎮魂の守護神」であったのです。
それが時代背景から八幡社は変化して行った事なのです。
「国家鎮魂」は、飛鳥の「ヤマト王権」の日本の国を始めて一応の「5族連合」の「統一政権」を造ったのは「応仁大王」で、「天皇制」から観ては初代の「国家生誕の統一国家の王」を天皇として定めそれを祭祀する社である事から「国家鎮魂の守護神」と崇められたのです。
平安期に京に都を置く事により「石清水八幡社」は「国家鎮魂の守護神」として累代の天皇から天皇家が祭祀する守護神として扱われてきたのです。
3の関西域 「八幡社52+神明社25」=77
総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
基準 1-77 基準 1-25 基準 1-52
この地域の「八幡社」と「神明社」のを比較してみると次ぎの様に成ります。
関西域 八幡社 7県-52-14.7%(全体比)-平均7/県 源氏の出自元の集積圏域
関西域 神明社 7県-25- 4.4%(全体比)-平均4/県
この「八幡社の数」は1或いは2の地域と異なり「未勘氏族」ではなく真に「源氏の力」(主に河内源氏)による建立と観られ、その「源氏の定住地」に建立されている事であり、「戦略的要素」のある「八幡社建立地」は少ない事が挙げられ比較的に平地に建立されているものが多いのです。
しかし、上記した11代の源氏が各自建立したと云うよりは次ぎの県別で観ると殆どは清和源氏の「摂津地域」、「河内地域」、「大和地域」、に主に建立されているのです。
八幡社 兵庫24 大阪11 和歌山8 京都4 奈良2 滋賀2 三重1
神明社 兵庫11 大阪1 和歌山2 京都2 奈良1 滋賀3 三重5
(大和は和歌山と奈良に跨る地域)
この事から観ると清和源氏外の源氏10家は「弓矢の八幡社」に深く関わっていなかった事がこれでも判ります。「武家」であっても弓矢に直接関わらない「武家貴族」であった事が伺えます。
10代の源氏の「武家貴族」はそもそも「皇祖神」に繋がる「祖先神-神明社」であって「武家貴族」である事から積極的に「弓矢の八幡社」の方に帰依し変更する根拠は無い筈です。
しかし滋賀2は佐々木氏系宇多源氏 三重1は北畠氏系村上源氏、京都4は「石清水八幡宮」に代表する様に上記した背景から一門に依って源平期に「義家系の一門」に依ってその勢力誇示から建立されたものと観られます。(近江には賜姓佐々木氏がある)
そうすると京都4と滋賀2の数は、次ぎの様な事を物語っています。
上記した八幡社の定義として、”「源氏義家系の未勘氏族の守護神の八幡社」”であって、必ずしも”源氏そのものの「守護神」であると云う定義ではない”と云う事です。
結果、「未勘氏族」が遺した「八幡社の氏資料」で、後に”「源氏の守護神」と決め付けられてしまった”、又は”勢力保持の為にも決め付けられる事を一門は期待し利用した”と云う経緯”とすると、上記した様に此処でも矢張り次ぎの関係式が成り立ちます。
「八幡社」=「源氏頼信系義家一門の守護神」=「未勘氏族の守護神」=「武家の棟梁」=「八幡神」
この京都4・滋賀2には主な「未勘氏族」が存在しない事から「義家一門」が建立して”利用した”を物語る数字です。但し、自分の意思で建立したかは検証を要する事と成ります。
そこで、先ず歴史的に観て、殆どが「清和天皇」が860年に建立したとされる「石清水八幡社」の関連社(離宮八幡社等)の由来のある八幡社ある事です。
中でも、「河内源氏」の問題の「源頼義」が「後冷泉天皇」(1045-1068)からの勅命にて「石清水八幡社」からの霊験を自邸に移して建立したとされる「若宮八幡社」があり、又、同じくこれを河内に勧請した「壺井八幡社」があります。
この記録の通りこの頃(860年~1000年-1045)は未だ「天皇の勅命」による建立であって、その目的は何れも「国家鎮魂の為」とする記録がありその「存在意義」であって、それを勅命により「河内源氏」が積極的に建立した事がこの「京都4と滋賀2の八幡社」である事が判明するのです。
実は諸々の資料から1010-1050年の間の50年程度には、「天皇家の勅命」とは別に社会にはこの経緯から如何にも「河内源氏の守護神」であるかの様な漸次の風評期間があった事が確認できるのです。
結局は、1000年直後までは「弓矢の神の八幡社」では無く「国家鎮魂」の「天皇家の祭祀神」として存在していたのです。
それまでは「弓矢の神」の存在意義は全く無く、その後の上記した様に”この経緯を利用してこれを発展させた義家”の行為と見做されるのです。そして、それに大きく関わったのが河内源氏の「頼義-義家」であった事に成ります。
この「経緯と記録」からも明確で、「勅命」に依って建立された「石清水八幡社関連の八幡社」でそれを「清和源氏」(河内源氏)が「勅命」を受けてその守護地に建立したものが殆どなのです。
「摂津地域」と「大和地域」は「宗家頼光一門」と「分家頼親一門」が「勅命」で「国家鎮魂」の目的で建立したもので「氏の守護神」とした建立では無かった事がこの関西域の考察で良く判ります。
そうするとこの「八幡社の環境下」の中で果たして「神明社」がどの様な事に成っていたのか気に成ります。恐らく建立には何らかの関係があった事が考えられます。つまり直接八幡社として新規に建立したのかどうかの検証です。
「神明社」に付いて三重5は「皇祖神」の地元であり前記「19の神明社」を建立した経緯からこの数字は納得できるものですが、しかし、兵庫11は「近江青木氏」が建立したとするには問題があります。
何故ならばそれは”神明社を建立するには近江青木氏の経緯”に問題があるのです。
そもそも平安初期に「近江青木氏」は近江にて「近江佐々木氏」やその系列の「佐々木氏系青木氏」との同地域内での「勢力争い」のような事が起こり、その為それを避ける目的で近江青木氏は一時滋賀に移動していて、後に近江に戻ると云う経緯があるのです。その後、「摂津源氏」の保護の下に摂津に移動定住します。この背景があり「源平の戦い」で合力して潰され、その後、美濃に逃亡し同族の「美濃青木氏」と共に「富士川の激戦」で敗退して滅亡し一部末裔が攝津に逃げ延びた経緯を持っています。
この様に源氏と共に最も早く滅亡に近い衰退を起した事から、この兵庫11を興す勢力は無かったと考えられます。
これは「摂津源氏」の「清和源氏の宗家頼光系四家」により建立されたか、或いは「近江佐々木氏」かその「佐々木氏系青木氏」かが何らかの事由(勅命)で建立した可能性が高いのです。そしてその神社は「神明社」の可能性が高いのです。
現在ではその判別は、社遺が古すぎる事から「初期の創健者」が不明な神明社が多く困難なのですが、ただ「八幡社」としては共に頼光系宗家筋が建立していた事を示すデーターが6~8の八幡社と成ります。
実はこれ等は記録があるもので観ると、極めて古く750~1025年までのもので、「創建」と云うよりは「朝廷の命」により「管理・維持・建て直し」を命じられたものが多いのです。
その多くは「摂津源氏」の「荘園」、或いは「領地」の中に存在するものが多いのです。
前段で論じた大化改新の「19の神明社」と共に、
奈良期から平安初期に建立された[自然神の祭祀社屋」や、「産土神の祭祀社屋」や、日本書紀にも書かれている「風神雷神の祭祀社屋」を、平安期初期から平安中期には「神明社」に変換し、その後の平安末期から平安後期には更に神明社から「国家鎮魂の八幡社」に変換させる事の勅命がこの2つの氏の何れかに下されそれを護ったものと観られます。
これは時代背景が大きく左右したと考えられますが、記録が一部を除いて完全に消滅しているのです。
ただ古くて幾つかの遍歴を遂げている事が「断片的に遺されている社資料」などや「伝統行事の内容の検証」など「地域内の他の社殿」とその「社殿の配置関係」を対比考察すると判る範囲です。
この平安期には社殿の建立は全て中国から伝来した「方位学や陰陽学」等を使って建立されているのです。ある程度の条理を以って無秩序には建立されていないのです。それから観ると、「地域内の他の社殿」とその「社殿の配置関係」は重要な要素なのです。
記録が消失していると観られる他の社殿にはこの「方位学や陰陽学」の何がしかの関係がある事が伺えるのです。
そうすると、次ぎの遍歴がある事が判ります。
「祭祀社屋から神明社」に
「祭祀社屋から八幡社」に
「神明社から八幡社」に、
この「3つのパターン」がある事が判ります。
しかし、何がしかの条理があった歴史的な祭祀社屋からのもので、新規に「八幡社の建立」は室町期中期前には確認できません。
又,この「3つのパターン」がどの神社に当てはまるかは古くて資料記録が無く断定できる程に確認が取れません。
しかし、その証拠としてこの中には「地域内の他の社殿」として明らかにこの「経緯」を辿り「勅命」で修復や再建した事の記録が残されているのです。
因みに「八幡社」と成ったものとして「魚吹八幡社」、「宗佐厄神八幡社」、「多井畑八幡社」、「柏原八幡社」、「松原八幡社」、「波豆八幡社」等があり、これ等は上記の「勅命・条件・経緯」を持っている事が記録から出て来ます。(詳細は論外の為別途)
従って、他の八幡社も多くは古くありながらもその経歴が消滅しているものが多く、形式上は現在は「村社、県社」扱いに成っているのです。つまり「氏社」は全く確認出来ないのです。一般の「氏の守護神」では無かった事を意味します。記録が無いだけで「村社や県社扱い」に成っていると云う事です。
とすると、この関西域の「八幡社の兵庫24」と「神明社の兵庫11」は、少し違う事と成ります。
そもそもこれ等の「弓矢の八幡社」は「義家」後の「八幡社」である事から、この「八幡社の兵庫24」は主に当初は「神明社」として建立されていたのではないかと考えられます。
併せて「神明社35」であった可能性が考えられます。
その意味で「兵庫の八幡社」は、その後、朝廷はもとより「戦国の世」と成って行って「建立者」や「維持管理する氏」が滅亡していった事から、当時の幕府は時代の背景から一部「神明社」を「弓矢の八幡社」に変更して行ったと考えられます。
その根拠としているのは、「八幡社」の3大八幡宮の「宇佐八幡宮」、「石清水八幡宮」、「鶴岡八幡宮」と共に、これ等の35の社は「合祀-八幡神」の経緯の中で変更された可能性が充分あり、「関西域の八幡社」には他の地域には少ない「合祀」が多いのはこの傾向があった事を物語ります。
「合祀」に依って「生活の神」「物造りの神」と「弓矢の神」の2つが合祀される事で全ての民からの信仰を集める事が出来る事に成り、「建立主」と成っていた「清和源氏」の衰退滅亡後の寄進による神社経営を救ったと考えられます。
ここが「未勘氏族」が主体と成った建立地域ではなかった「特別な神社経営の事情」がこの地域にはあったのです。
そうなると、「源平合戦」の初戦「以仁王の乱」(1180年)の主謀者の「頼光系宗家4代目源三位頼政」までの期間の建立・再建と成ります。
「八幡社」としては「1050年頃」からとすると、「乱後の130年間」と「乱前の200年間」で「合計330年間の神明社の建立期間」と成り、「兵庫の神明社35社」は1社/10年とすると充分に建立は可能と成ります。
「大和源氏」の頼親系は兄の頼光に慕っていて同一歩調を採ったとされているので、大阪11、和歌山8、滋賀2の八幡社は神明社では無かった可能性が高く、52の内の21は八幡社で有った事に成ります。
依って、この関西域に於いての31(52-21)の「八幡社」は元は「神明社」であり、純粋な「神明社25」と併せて56/77は「八幡社1050年」を基準として基準前の「250年間の神明社」(嵯峨期809年 前期2)と「大化期から嵯峨期までの150年間の神明社」(前期1)の「400年間の神明社」-この2期間を「前期」とすると神明社は「前期25の建立」と成ります。
「150年間の神明社」(前期1)-「250年間の神明社」(前期2)-・「八幡社1050年」→「神明社-25」
・「八幡社1050年」-室町期中期までの400年間(後期)→「神明社-31」
「八幡社1000年」→「守護神」の風評開始
「八幡社1050年」→「守護神」の風評定着→「弓矢神」の風評→「河内源氏」
「八幡社1090年」→「弓矢神」の風評開始
「八幡社1099年」→「弓矢神」の風評定着
そうすると「八幡社1050年」の基準後から室町期中期までの400年間を後期とすると、この後期は神明社は31/52に分けられる事に成ります。つまり純然とした「八幡社は21/52」と成ります。
関西域に於いては「八幡社は21」であり、清和源氏分家頼信系義家一門の「勅命」による「自前の建立」と成ります。
従って、「神明社」はこの地域では頼信系を除く「源氏」や「2つの青木氏」の「賜姓族」による「56の建立」(25+31)と成ります。
「神明社」はこの関西地域では全体の丁度1割を占める建立をした事に成ります。
この関西域の検証は時系列的に観ても上記の経緯を辿った事が充分に証明できます。
「4の中部域」
・「4の中部域」は関西域とは少し違った経緯を辿って言います。
この「4の中部域」は「賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」の重要拠点でありますが、ここは「清和源氏宗家」の「頼光系四家の国司代の圏域」でもあり、この宗家筋は「3つの発祥源」として”同歩調を採っていた事”や「濃い同族の血縁関係」がある為に「神明社-八幡社の競合」は起らなかった土地柄です。
むしろ”起らなかった”と云うよりは”起る事はなかった”と云った方か正しい事でしょう。
総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
3.5倍 8.5 1.3
この4の中部域の状況は次ぎの様に成っています。
4 中部域 八幡社 8県-52 -14.4%(全体比)-平均7/県
中部域 神明社 8県-212-37.5%(全体比)-平均27/県
八幡社 愛知14 静岡12 岐阜12 富山5 福井3 山梨3 長野2 石川1
神明社 愛知33 静岡18 岐阜31 富山33 福井8 山梨72 長野15 石川2
この中部地域の「八幡社」と「神明社」のデータを比較すると、上記1、2、3の「3つの地域」とはその比率が完全に逆転しています。八幡社<神明社の状況です。その差も大きいのです。その大きい理由がこの中部域にあるのです。
この地域は先ず「皇族賜姓族」と「特別別賜姓族」の「2つの青木氏」の勢力圏であり、尚且つ秀郷一門の勢力圏であったのです。その中で全ての「頼光系四家の国司代の圏域」でもありました。
しかしながらこの地域の「八幡社の数」を観てみると左程に「源氏の勢力圏」では無かった事を物語ります。
更に云えば、前記した様に「頼光系四家」は「八幡族」では無かった事を述べてきましたが、清和源氏力が最も強かったところです。「八幡義家の祖」である「頼信」は兄の「頼光」からこの地域の勢力を借りて坂東に伸張していって伊豆に第2の拠点を設けて勢力を拡大した基拠点となったところです。
摂津を発祥拠点として「藤原道長」の四天王と呼ばれた程にその勢力を背景に中部地域に清和源氏の勢力拠点を築いていた所です。その守護職はこの圏域の11の地域を務めた地域でもあるのです。
しかし、その割には「八幡社の数」が少な過ぎます。
真に「源氏の勢力圏」ではなかったと観られる程度にそれを物語ります。
頼信系が「八幡族」として勢力を持ちえたと云えどもその勢力を遥かに凌ぐ清和源氏の宗家の「最大の拠点と成る地域」であります。此処なくして頼信系の関東の勢力圏は軍事戦略上、「摂津拠点」から関東の間の中間を抜かれた戦略形態と成り「伊豆拠点」と「関東拠点」は成立しません。
(伊豆は頼光系四家宗家の最大所領地 この東隣に頼信の伊豆前線拠点を設けた)
それ程の戦略上の最重要拠点地域でもあります。
”では果たしてこの「八幡社」は何なのか”と云う事に成ります。
この中部地域は「神明社」に於いて全体の4割に近い勢力を誇っており、県内平均27とすると郡内に5前後の「神明社」が存在し、村には1社必ず存在する地域と成ります。
そこに「八幡族」でない「八幡社」が郡に2社程度とすると2村に1社がある事に成りますので、この2つを合わせると1郡に7社で1村では2社程度の勢力圏と成ります。
ここに秀郷一門の春日社が建立されていますので1村で3社~4社は必ずある事に成ります。
1村に3社~4社の守護神がある事は、当時の人口が現在の1/4とすると守護神が過飽和状態に近い状況であった事を物語ります。とすると、この状況からそもそも「弓矢の八幡社」の「存在意義」は「村民」に採って意味を成さない筈です。
兎も角も、そもそもこの地域は、飛鳥から奈良時代に掛けて日本書紀にも書かれている様に、後漢の阿多倍王が率いてきた職能集団が入植した最大の地域なのです。
従って、「生活の神」「物造りの神」に対する「心の拠り所」としての「守護神の意義」は他の地域とは比べ物にならない程に高い意識があったのです。その様な環境の中に「弓矢の八幡社」が平安末期に入り込む余地は少なかった筈で、あったとしても「弓矢の意味」では無かった事を意味します。
その証拠にこの地域は「神明社」が全国比4割を占めている環境なのです。
民は「生活の神」「物造りの神」の意識が特別強かった事からこの「日本一の数字」を示しているのです。
そこで「上記の環境下」ではこの212の4割は少ないと考えられ、5割程度前後の神明社が集中していなければならない筈です。(下記の「圏域の勢力数」の表から計算できる 計算では神明社47%が妥当)
この状況の中で、上記データでは「生活の神」「物造りの神」が主導し「弓矢の神」は1/4程度と極めて勢いは無かった事を証明しています。
では”この「八幡社」は一体何なのか”の疑問は、そうなると”八幡社であって八幡社でなかった”と云う事に成ります。”「八幡社」の形を整えていたが「八幡社」ではなかった”と云う事に成ります。
では、”どの様な「八幡社」なのか”と云う事に発展します。
この地域の「八幡社」は「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」と「頼光系源氏」と10源氏の内の「4つの源氏末裔」の勢力圏の中にあり、「弓矢の頼信系源氏」とその「未勘氏族」が「弓矢の神」としての「八幡社の守護神」を公然と建立する事は出来たかは大いに疑問で、論理的に不可能と考えられます。
従って、結論はこの地域の「八幡社」は”弓矢の特徴を下ろしていた”と云う事に成ります。
故に、この中部域の「八幡社」は、「弓矢の神の守護神」だけではなく、全体化していた環境の「生活の神」と「物造りの神」の「守護神」の中では、「中間の曖昧な機能」を果たしていたと考えられるのです。
つまり、「合祀」乃至は”「神明社化した八幡社」”であった筈です。
何故そうなったかは上記する環境下にあった事は勿論の事、それは多少は”「民の必然性」がそれを後押しした”と考えています。
つまり、平安末期以降(1023年以降 農奴と部曲の開放)に前段で論じて来た「民」とりわけ「農民の役割」にあったのです。それは”「農兵」が新たに出来上がって行った時代”であったのです。
それまでは、「戦いの担い手」には「2つの身分階級」があったのです。
それは「武家」の呼称と「兵」の呼称とに依って構成されていたのです。
「武家」を構成する「武士」は、組織化して上下の関係を保有した武装集団。
「兵」は上下関係を有さず組織化せず職能集団化した「武装兵団」
以上2つに分けられていたのです。
「源家勢力」は「武家」軍団側で「融合氏」集団で「未勘氏族」を従えた組織集団です。(祖先神)
一方は「平家勢力」は奈良期から阿多倍一門が率いてきた「兵の職能集団」(漢氏、東漢氏、物部氏等)を配下に従えた側で「たいら族」や「大蔵氏」等の「民族氏」集団であったのです。(「産土神」)
「源平」は外見から同じ様な「武装集団」と見られがちですが、実は前段でも論じてきました様にそもそもその「基盤構成」は異なっているのです。
然し、時代は次第に乱世へと突入し何時しか世は「下克上 戦国時代」へと突入して行くに従い、この「武士」と「兵」の「2つの集団」では間に合わなくなり「農兵」が生まれて来たのです。
この半職業化した「農兵」は「弓矢の場」に赴くに従い彼等の「心の拠り所」の「生活の神」と「物造りの神」の「日常の神」に、”「弓矢」から身を護ってもらえる「神明社」”を要求して行ったのです。
そこで、「神明社」は次ぎの何れかの守護神の形を採る様に成ったのです。
”「八幡社」を合祀する形を採る「八幡社」(合祀八幡社)”
”「神明社的な形を採る八幡社」(神明化八幡社)”
以上の形として変異させたかの何れかの守護神の形を採ったのです。
これがこの中部域の「37%程度を占める神明社」と「15%程度を占める八幡社」の実態なのです。
そこで地域8県を検証すると次ぎの様に成ります。
1 愛知14と静岡12は特別賜姓族の「専圏区域」、
2 岐阜12と長野2と山梨3は皇族賜姓族系列と頼光系源氏の「融合区域」、
3 福井3と富山5と石川1は4つの源氏末裔族と皇族賜姓族の「共存区域」
以上の様に中部域の小地域(県)に依っては「八幡社の分布」は「3つの区域」に分類出来るのです。
当然に、この特色の持った「3つの区域」の「八幡社」は上記する「合祀八幡社」か「神明化八幡社」の傾向が明確で全てとは云い難い所はあるが一つの傾向を示しているのです。
A 「1の専圏区域」-「合祀八幡社」
B 「2の融合区域」-「神明化八幡社」
C 「3の共存区域」-「合祀八幡社+神明化八幡社」
Aは富士川の激戦地で「美濃賜姓青木氏と土岐氏系青木氏」、「近江源氏と近江賜姓青木氏」、「美濃源氏」、「駿河源氏」、「木曽源氏」等の「賜姓源氏」と「賜姓青木氏」が終結して敗退し滅びた区域でもあります。
この地域には「秀郷一門」と「特別賜姓青木氏」が残りその勢力は最大勢力を誇っていた場所である事から「神明社」を建立すると共に、秀郷一門の「春日社」も共存する柔軟な圏域でもあった事から「八幡社」をも公然と建立し、その運営を柔軟にする事から「生活の神」と「弓矢から護る神」のどちらかのご利益が働く「合祀」の形の「八幡社」が多く観られるのです。
Bは奈良期から平安中期(800年頃-桓武期)まで「賜姓青木氏」の守護地であった事と、その後に「清和源氏宗家頼光」が各地(11)の守護代、国司を務めた政治的、戦略的な重要な区域であったところです。
「3つの国」の「賜姓青木氏」と同族血縁して「清和源氏宗家」と、奈良期から居た「賜姓青木氏3家3流」が融合した区域であって、此処には「特別賜姓青木氏」も「秀郷一門」も強く勢力圏を保持しなかった中間区域でもある事から、「神明社化した八幡社」の融合の形を採っていた区域であります。
特に「弓矢」そのものより戦乱の世から「家族身内の身」を護ってもらえる「守護神」でもあり「生活の神」「物造りの神」の守護神でもある形を採っていたのです。
その後のこの「地域の形」が室町末期から江戸期には「八幡社」は「神明化八幡社」が共通の形と成って行ったのです。
「世の中の安定」と他の「守護神との競合激化」も合わさって一種の「総合神社」の様相を呈して行ったのです。
Cは他の賜姓源氏と嵯峨期の詔勅に基づく源氏族が「源平の争い」から逃避して定住した地域でもあり、「賜姓族青木氏」の「足利系青木氏」や「武田氏系青木氏」や「諏訪氏系青木氏」等が平安中期から室町中期にかけて「争い」から遠ざかる為や「戦い」により逃亡して来た地域の「移動定住地」でもあったのです。
この「移動賜姓族」と目される末裔は「融合」を起さず「自然衰退」や「断絶」や「滅亡」が起った地域でもあるのです。
中にはこの区域から鳥取米子から島根東へ移動した一部の「賜姓族青木氏」や「讃岐籐氏の青木氏」を頼って高知に移動する等の流れが起りました。又、北には更に越後の「秀郷流青木氏」を頼って逃げ延びている通過経路とも成っていたのです。
ここに定住した賜姓源氏の逃亡末裔や嵯峨期詔勅の皇族源氏が「地元の血縁性のある未勘氏族の力」も得て「神明化八幡社」か「合祀八幡社」を建立して生き残りを図ったと観られます。
実はこの地域の「神明社」や「八幡社」の神職には青木氏と佐々木氏が実に多いのです。
実はABCの判別にはこの「神職のルーツ」が判別要素の一つとして用いたのですが、この区域は特にこの傾向が顕著であったのです。
この「Cの区域」は他と異なる点は「地元の血縁性のある未勘氏族の力」を利用した形跡があり、恐らくはこの力を利用し切れなかった一部の青木氏や源氏の賜姓族が西と北に更に定住先を求めて移動して行ったと考えられます。
問題はこの「地元の血縁性のある未勘氏族の力」なのです。
1000以上もあると云うか数え切れないと云うか、この「未勘氏族」と観られる族を全国各地に振り分けて、これに家紋群で貼り付けそれを「賜姓源氏」と「皇族源氏」と其の他の本領と成った豪族毎に分けて行く作業を行い研究し考察すると、その全体の傾向が掴めてきます。
その内、清和源氏の占める割合は全体の8割弱を占めますが、この研究(何時か論文で発表)からこの「Cの区域」の「未勘氏族」を観ると、次ぎの様に分けられます。
「清和源氏外の源氏の未勘氏族」(A)
「賜姓青木氏族の未勘氏族」(B)
前段で論じた「2つの絆族」の「薄い外縁未勘氏族」(C)
或いは「家臣による青木氏未勘氏族」(D)
以上4つで占められているのです。
然し、これ等(A)(B)(C)(D)の「未勘氏族」は平安末期の源平の戦いと、室町期の「下克上と戦乱」で滅亡衰退して行き、或いは裏切り、結局はこの「Cの区域」に逃げ込んだ賜姓族は西と北に再び移動せざるを得なかった事が判ります。
この事からもこの区域の「八幡社」は殆ど”「合祀八幡社」”や”「神明化八幡社」”と云うよりは、”「八幡化神明社」”と最終は流動的で室町中期から室町末期には成ったと考えられるのです。
恐らくはこの区域での傾向として
賜姓源氏系は佐々木氏で「合祀八幡社」、
賜姓青木氏系は「神明化八幡社」
以上にとに判別できるのです。
それはこの神職青木氏が越後-陸奥にまで大きく血縁して全国的にも「神職青木氏」の多い所だからでそれを証明しているのです。
全体としてもこの傾向は観られるのですが、この「中部域の神職」は相互に重層な血縁関係を結んでいる事が上げられます。
この意味からもこの「中部域の八幡社」は全国最大の「神明社帯」とも云える神明社群の中で「合祀八幡社」と「神明化八幡社」の成行きは納得出来るものと成ります。
この事は前段でも論じた「青木氏の職能集団」との関わりも大きく影響していた事が云えます。
この事は下記の神明社の処でも論じる事に成る重要な事柄です。
(前段の論説には大きく関わる領域ですので想起して下さい)
結局は、このこの中部域は「神明社地域」と観ていて、元来は「神明社」と「八幡社」を合体合計した「264の神明社域」であったと考えています。
中部域の「神明社の数」が「神明社」と「八幡社」のこの合体合計264とすると、上記する「5割域の分布」の自説は「46.6%の計算値」と成り予測とほぼ一致して納得出来る論説に成ります。
この地域では「弓矢八幡社」系の「頼信系源氏」とその「未勘氏族」は全て平安末期の「源平の初戦」の「富士川の激戦」で滅亡衰退している事から「弓矢八幡社」の意味合いはそもそも著しく無く成っているのです。
前段で「平家織田氏の処域」で論じた様に、後に室町中期以降の勃興した武田氏が通説と成っている「頼信系源氏の河内源氏」の傍系を主張しているがその自説由来の経緯は疑問です。
つまり、「頼光系源氏」と「4つの賜姓源氏末裔」と「皇族賜姓青木氏3家3流の勢力」と、藤原秀郷一門の「第2の宗家」の「特別賜姓族の勢力圏」であった事が良く判ります。
依って、筆者は”264(212+52)が中部地域の神明社の実質の勢力である”と観ているのです。
鎌倉期から室町期中期には「源氏力」、又は「未勘氏族の力」がここまで及んでいなかった事が判り、「関東の戦略的前線」としての地域には「頼朝の源氏幕府」が元来より「浮き草」の上にあった事も良く判ります。
その意味で「美濃」での「源平の初戦」は大きな意味を持ち、「近江源氏」と「美濃源氏」と「駿河源氏」と「木曽源氏」等の周辺の源氏主力が此処に終結して、敗退して滅亡した事は大きな意味を持っています。
つまり「源平の勢力圏」の丁度、「間」に合ったことに成り、その「間」は同時に「神明社」の最大勢力圏であった為に平家側には富士川で大乱と成り、源平共に崩れて行った地域であったのです。
「八幡社の勢力」と「神明社の勢力」が合体して戦ったとしたら互角の勝負に成る事は良く判ります。
「八幡社族の源氏」と「其の他の源氏」と「3つの地域の神明族」がこの時に史実として参戦しているのです。その「八幡族」と引きずり込まれた「3つの神明族」は滅亡してしまったのです
それを証明するこれが「八幡社と神明社」の対比データです。
しかし、それにしても「神明社212」に対して「52の八幡社」は少ないのですが、「関西域の52」と同じ規模の「八幡社」をこの地域で有しているのです。
この「地域の規模」を「八幡社+神明社」の「数」をパラメータとするならば、「源氏11家」と「皇族賜姓族、特別賜姓族」の本拠地でもあった「関西域77」に対して、「中部域」は何と264と成り、「約4倍の勢力圏」であった事に成ります。
「都地域の約4倍」にも成る如何に大きな力を秀郷一門は持っていたかが判ります。
そこで「神明社と八幡社」を全体で観てみると、「関西域の77」(都域)を1として観て見ると次ぎの「勢力分布」を観る事が出来ます。
関西域は「神明社と八幡社」の「成立ちや有り様」が標準的な要素として存在していた事からそれを基準として全国のデータを観て観ると事は客観的な判断に成ります。
そうする事により「2つの青木氏」の「全ての姿」を物語る極めて重要な結果が出るのです。
圏域の勢力数 総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
1の関東域は 「八幡社94+神明社115」=209 2.7倍 4.6 1.8
2の九州域は 「八幡社70+神明社13」=83 1.1倍 0.5 1.3
3の関西域は 「八幡社52+神明社25」=77 1 1 1
4の中部域は 「八幡社52+神明社212」=264 3.5倍 8.5 1.3
5の東北北陸域は「八幡社38+神明社97」=135 1.8倍 3.9 0.7
6の中国域は 「八幡社24+神明社9」=33 0.4倍 0.4 0.5
7の四国域は 「八幡社21+神明社10」=31 0.4倍 0.4 0.4
(この神明社の詳細分析は下記に論じる)
前段で論じて来た青木氏に関する内容の根拠はこのデーターを引用するところが大きいのです。
そして、この「最大の勢力圏」を誇る中部域は、更にはこれに留まらず東の後側に本拠地の「1の関東域」2.7倍を控えているのです。更には「5の東北北陸域」1.8倍を控えていて、都に比べて約合計8倍の如何に「絶大な勢力圏」を保持していたかが判ります。
「神明社」だけでその勢力圏を観た場合に、都に対して矢張り中部域に8から9倍の主力があり、その後ろに本拠地の4倍の勢力を控え、東北北陸域には4倍の勢力圏を保持していた事が判ります。
これは何を物語っているかという事ですが、この分布は「2つの青木氏」の「勢力分布」にも成り、青木氏の勢力外の「末裔分布」の状況・在様をも示している事に成ります。
この傾向は八幡社を加えた総合倍率から観ても全く同じ倍率分布を示しているのです。
次ぎの関係式が成り立ちます。
総合倍率≒神明社倍率=「青木氏の勢力分布」=「青木氏の末裔分布」
「神明社の勢力分布」は「青木氏の末裔分布」に完全に合致し、更にはその「青木氏の勢力分布」をも示し如何に正しい事かを意味します。
「八幡社倍率」から「八幡社」だけで観た場合に都に対して大きく差が無く、ほぼ均等に勢力圏を広げ、その力は「神明社」の力に対して25%(1/4以上)以下の差があった事に成ります。
「八幡社の分布力」は「頼信系清和源氏」の「勢力分布」であり「末裔分布」をも示しています。
それは九州域-(中国域)-関西域-中部域-関東域が1~2の中に在りここに「清和源氏頼光系四家」の勢力圏が入っていない事が判ります。八幡社を守護神にはしていなかつた事を証明しています。
仮に入っていたとすればその勢力圏であった基圏域の関西域の1とする「基数字77」は高くなり最大の勢力圏域の中部域はもっと1.3から1以下に低くなる筈ですし、北陸域も一部勢力圏であった為に0.7より0.4程度にそもそも成っている筈ですがそうでは無く、「義家の歴史の行動史実」と数字は一致します。
つまり「清和源氏頼光系四家」は「八幡社」を守護神にしていなかった事を示します。
その分「神明社倍率」の数字は「賜姓族と特別賜姓族」の「2つの青木氏」の成す倍率以上のものがあるのは「清和源氏頼光系四家」の神明社の分が組み込まれているからです。
これは次ぎに論じる「神明社の処」の論処で更に詳しく物語ります。
「頼信系清和源氏源氏」とその「未勘氏族」の勢力と、「2つの青木氏」と「他の源氏力」の勢力には4倍の差があった事を物語ります。
「頼信系清和源氏源氏力」+「未勘氏族の勢力」<「2つの青木氏力」+「他の源氏力」=1<4
「八幡社」<「神明社」
しかし、この神明社の勢力には弱点が在った事を示しています。
中国と四国と九州域(0.4~0.5域)には殆ど勢力は無かった事が示されています。
「青木氏」、つまり「神明社」は”勢力が東に偏っていた事”を物語ります。これが弱点です。
この0.4を勢力と観る場合、四国の讃岐籐氏の「讃岐青木氏」と「阿波青木氏」と一部「土佐青木氏」の勢力と観る事が出来ます。
同じく、0.4の中国は讃岐籐氏の「出雲青木氏」と鳥取米子の「足利氏系青木氏」の勢力と観る事が出来ます。
0.5の九州は北九州3県の分布の秀郷一門の「肥前青木氏」の「末裔の勢力」と見る事が出来ます。(下記に論じる)
又、「青木村」を形成した「日向青木氏」は下記に論じますが「神明社」を建立する勢力は無かった事が判っています。
以上「2つの青木氏」が分布する地域がこのデータに漏れる事無く完全に合致し、その「末裔分布力」、又は「勢力分布」として数字的に表現出来るのです。
この結果、「八幡社の役割」は、「清和源氏分家頼信系義家一門」の「八幡社」であった事で、地域的にも、勢力的にも、期間的にも、「神明社」のそれに比べて1/4程度に小さく、元より大きな働きは無かった事が云えます。
明らかに「弓矢の八幡」としての役割に終わった事が云えます。
源氏滅亡以降は各地の武士、特に九州域と関東の南域による「未勘氏族」により支えられていた事を物語ります。
「中部地域の八幡社」は、結論として「合祀八幡」乃至は「神明化八幡」であった事に成ります。
「八幡社」のその「存在意義」は次ぎの様な変異を地域的に遂げている事が判ります。
これは次ぎに論じる「神明社の論処」でも証明する事が出来るのです。
西から北に掛けて次ぎの変異の存在意義であったのです。
地域に於ける「存在意義の変異」
「八幡社」(九州域)→「混在社」(中国域・四国域)→「合祀八幡社」(関西域)→「神明化八幡社」(中部域)→「八幡化神明社」(関東域)→「神明社」(東北北陸域)
注:「混在社」とは「八幡社」と「神明社」が同率で変異せずに低率で混在していた事を示す。
上記のフローから「九州域の八幡社」から「東北北陸域の神明社」へとその「有様」が次第に「地域変化」を起こしています。真にその中間が「関西域の有様」であったのです。
そして、「九州域の未勘氏族」から「北陸東北域の民衆」の「有様」で合った事なのです。
これは「地理的要素」と「歴史的要素」の「2つの違い」から来ているのです。
上記の「存在意義の変異」を参考に殆ど「神明化した北陸東北の八幡社」に付いて次ぎに論じます。
「5の北陸東北域」
・「5の東北北陸地域」の状況は次ぎの様に成っています。
そもそもこの地域は歴史的経緯として「親神明社」と云うだけでは無く、更に強烈な「反八幡社」の土地柄なのです。
この「民の心情」は歴史が長く古くは奈良期から始まり「蘇我馬子」の攻められ「蝦夷」と蔑まれ、その平安期初期(802)には「アテルイ騙し討ち事件」が起り、平安初期に掛けては「国家戦略」としてこの地域を征討し、その安定化の為に「朝廷の威信」を掛けて「神明社建立」を推し進めた地域でもあります。
この「未開の蝦夷地の征討」とそれに合わせた「安定政策」が実行された苦い経験を持つ土地柄です。
前記した様に「皇族賜姓族の神明社建立」から代わって「桓武天皇」による「皇祖神」に変わる「神明社建立」がこの地に推し進められ、「征夷大将軍の坂上田村麻呂」(806年)の丹沢城建設と共に勅命による「神明社」を20社程度も建立した特定の地域なのです。
平安中期に入りこの地域は「阿多倍一門」の「内蔵氏一門」と「阿多倍」の末孫の「阿倍氏」の末裔圏域であって、その安定した地域を八幡太郎と呼ばれる「源義家」が未勘氏族発祥の基と成った「荘園制」を利用して、これ等の末裔子孫の「安倍氏」や「阿倍氏」や「清原氏」等の末裔子孫を制圧して、そこから「敗残兵」や「土地の農民」を集めて「奴婢」として各地の「未勘氏族」の「義家の荘園」の「働き手」として送り込んだのです。
これ等の「やり過ぎ事」が原因で「朝廷」や「北陸東北の民」からも「源義家」が疎んじられ排斥された経緯を持っている土地柄です。
この事が全国的な暴動に発展した度重なる苦い経験を持った地域なのです。(この経緯は前段で論じた)
この様な「反清和源氏」に対する激しい反発感情の土地に「弓矢の神」八幡太郎の「八幡社」などは到底建立する事等不可能です。
弓矢の「武士や兵」は勿論「民」までが700年に近い苦い経験の下に興った「反八幡社」なのです。
しかし、「神明社」は「桓武天皇」の征討後の「政治的で戦略的な神明社建立の目的」ではあったが、「神明社」から主導する「生活の神」「物造りの神」としての働きが「民の心」の中にやがて浸透し「心の拠り所」として受け入れられたのです。
そしてその立役者がこの地の為政を任された「藤原秀郷一門の鎮守府将軍」としての「政治的な働き」が有って「親神明社」へと傾いて行ったのです。
その主役が「秀郷流青木氏」であり、「第2の宗家」でもあり、即ち「特別賜姓青木氏」としての「3つの立場」が「神明社の役目」を全うし民の心を安寧に導いた地域でもあるのです。
そもそも「特別賜姓族」はその「土地の豪族」(小田氏、小山氏、花房氏等)との「重層な血縁関係」を作り、その「血縁族の一部末裔」が青木氏と共に関東に移動し足利や武田の土豪族と成り、遂には大勢力を誇り、それが室町期には「関東屋形」族と呼ばれる程の秀郷一門として関東から中部全域に掛けての大豪族にも成っているのです。
これは全て「特別賜姓族の主導」(神明社建立)によるものであって、故郷の末裔は反旗を翻すどころか「親神明社」の領域を超えて「神明社」そのものとなったのです。
この地域には関西域の「賜姓青木氏」も神職として赴き「神明社建立」の「職能集団」の定住も起こった位なのです。室町期末期には「関東屋形」の永嶋氏(結城)が陸奥域に移り住むと云う事まで起こったのです。この北陸東北域は関東域との深い関係を持つ神明社であって、この地域における八幡社は関東域の関係の背景を無視して論じることは出来ないです。八幡社=神明社としての論処に成ります。
青木氏と守護神(神明社)-15の北陸東北域は次ぎに続く。
「青木氏と守護神(神明社)」-16 に続く。
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投稿者:福管理人 投稿日:2012/02/02(Thu) 11:13:16
「青木氏と守護神(神明社)」-15
>筆者は、”「特別賜姓青木氏」の「始祖千国」の末裔(子供)がこの伊勢の「藤成末裔」に跡目を入れて「青木氏」を興して配置した”と考えているのです。
>その”始祖千国の嗣子が誰なのか”研究中で、「賜姓族」に成った「千国」は恐らくは直ぐに天皇家の守護神の「伊勢大社」のある所に、「賜姓青木氏」と同格の身分を得た以上は、子供を直ぐに配置する筈です。否、「義務」として配置しなくてはならなかった筈で、伊勢には、「藤成の伊勢の末裔」が定住(四日市)している訳ですから、そこに跡目を入れるが常道です。
>この行動は「同格の役目と家柄」を与えられた以上は必定な絶対的職務です。先ず100%入れている筈です。末裔が居て定住地も判っているのですから後はその人物の特定だけです。
>「賜姓伊勢青木氏」の関係資料の中からこの事に付いて何らかの資料が出てくるのかとも研究しましたが、松阪の大火消失で確認出来なくなった事や、伊勢秀郷流青木氏等からもなかなか出て来ません。
>従って、”他の関係する処”からの研究を進めていますが「特別賜姓族青木氏」の「伊勢の祖」も確認出来るかは疑問です。この部分が現在の研究課題です。
「賜姓源氏の祖先神の役目」
”他の関係する処”として、源氏があります。
「嵯峨天皇」(809~823 52代)から11代続いた「花山天皇」(984~986 65代)まで同族源氏がありますが、「祖先神」を祭祀した5代続いた「賜姓青木氏」の後に、”何故に「賜姓源氏」(八幡社)にはその「祖先神」を祭祀するこの役目を与えられなかったのか”と云う疑問が湧きます。
或いは、”「賜姓の役目」があった筈なのに何故実行しなかったのか”、反して云えば、”何故、秀郷流青木氏にこの役目を与えたのか”と云う疑問が湧きます。
この「2つの疑問」の解明に付いて青木氏として答えは出していません。そこで「神明社」を論じる処でこの疑問を解き明かす必要がありますが、実はこの事に付いては不合理な疑問・矛盾が実に多いのです。
既に前段で論じたその「背景と経緯」の様に、”実行しなかった、又はさせなかった”事の理由は上記しましたが、そもそも「源氏」と云えば一般的に「清和源氏」 (858~876 56代)と思われがちです。
しかし「青木氏の賜姓」に続いて2代の天皇(桓武、平城)をあけて、再び嵯峨天皇(52代)から始まった11代の「賜姓源氏」が発祥します。中でもその源氏そのものと思われている56代の「清和天皇」の「朝臣族の源氏臣下」の「賜姓方法」にだけそもそも問題があって、この一部の「清和源氏の行動」が”皇族としてのあるべき行動(「3つの発祥源」の象徴)を採らなかった”と云う事に問題があるのです。
この事が「青木氏の生き様」と、又「神明社」「八幡社」にも大きく影響を与えたのです。
但し、この「清和源氏」筋でも主に「3つの源氏」があって、「宗家の頼光系源氏」(摂津源氏)と「分家の頼親系源氏」(大和源氏)と「分家の頼信系源氏」(河内源氏)があるのですが、その「宗家の頼光系源氏の四家」は「特別賜姓・賜姓青木氏」とほぼ同じ行動を採ったのです。採らなかったのは「分家頼信系の一門」だけなのです。
但し、「清和天皇」は「源氏の賜姓」に於いても「天智天皇」からの「令慣例」に従わずに「朝臣族・第6位皇子」を賜姓臣下させずにこれを無視し、子供の第11位と第12位の第2世族皇子の賜姓源氏を幾つも発祥させたのです。本来で有ればこの2人の第7位以降は「宗道」として比叡山に入山する仕来りです。
又、皇位継承権を保有する「清和天皇」の第3位皇子の子(孫)が源氏を名乗った事、「宗道」の位置に居た第9位皇子の子供(孫)が「源氏」を名乗った事があり、この二人の「賜姓の有無」は記録から明確ではないのですが、「嵯峨期の詔勅」を上手く運用して「青木氏」ではなく「源氏」にしたと観られます。
ですから、上記の「3つの清和源氏」以外に余り知られていない事なのですが「4つの清和源氏」もあるのです。
但し、問題の清和源氏の始祖の「経基王」は長い間賜姓を望んでいた事が資料でも見られるところで、「讒訴や讒言」とも録られる様な功績でその勲功を配慮されて「令外慣習」として特別に「清和天皇」から朝臣族ではないがやっと賜姓を受けた記録と成っています。
この経緯は次ぎの「陽成天皇」が暴君であった事からこれを忌み嫌い、これ等の上記の皇子が「経基王」に習い前の「清和天皇」の皇子として「賜姓族」ではない「源氏」を名乗った為と観られています。
(第3位の子、第9位の子と、第11位、第12位皇子が該当 「経基王」もこの一人との説あり)
「経基王」(しかし経基王だけは賜姓を受けている)もこの皇子の中に居たと観られていて、「清和天皇」からすると「第5世王」と成る事から令外で「宗道の立場」にもあり、”皇族でない”とする説が生まれたのです。下記参考の令規定より強ち否定は仕切れない説であります。
(参考 第4世王以上は皇位継承権 皇子位と王位権者、守護職位、第6世王は賜姓臣下、第7世以下は単純に臣下し、第5世王はその中間の立場で継承者が少ない場合は継承権を持つ、現実の運営は第5世まで継承者が無かった事から第6世王が継承した事もある。第4世王以上で第6位皇子は六衛府軍親衛隊として賜姓臣下 第7位以下は令外賜姓 上記の2人の清和源氏と天智天皇の川島皇子の近江佐々木氏が例外賜姓有り)
そして、清和源氏の頼信系一門の守護神である事についてのこの「八幡社の根拠」は、後の「八幡社」の「石清水八幡宮」の神職の私氏資料の中にこの事が書かれている事を根拠としているのですが、しかし、250年以降の神官職の氏の私氏資料である事から「未勘氏族」の搾取偏纂の一物の可能性も高いのです。
(これは定説には成っていない-又、下記の「八幡社の守護神説」と「八幡神説」もこの「未勘氏族」の私氏資料を根拠としている。)
「青木氏」にもある様に「賜姓青木氏」と「嵯峨期の詔勅」の「皇族青木氏」と同じく、これらの「賜姓源氏族」又は「皇族源氏族」は特段に問題を起さなかったのですが、問題を起こした賜姓「基経王」は清和天皇第3世王皇子の「孫身分」(通説)であり、”子供の第2世族の朝臣族・第6位皇子(貞純親王)を賜姓臣下させずに「清和天皇の孫」(第6位皇子の子供の経基王)にさせた”と云う経緯なのです。
(第6位皇子の貞純親王は清和天皇に信頼され政治に欠かせない人物であったとして臣下しなかった事を理由にしている)
そもそもこの「経基王」の賜姓の実態は「第2世族の朝臣族」の「令外慣習」の「令外賜姓族」であったのです。
つまり、「令外賜姓族」の「孫身分」の末裔の「分家頼信系一族」の「義家一門」も「経基王」と同じ様に「政治的な問題」を起し、”皇族にあるまじき行動” として朝廷と天皇と上皇の「巧妙な策謀」に掛かり「源氏全体の滅亡の引き金」と成ったのです。
(頼光系は「源平の争い」が原因で青木氏に跡目を入れて滅亡する)
そしてこの研究が進み確定はしていませんが、現在では上記の経緯から”「経基王」は「第4世族皇子王」内ではなかった、皇族ではなかった。”と云う新しい資料からの研究説が生まれているのです。
確かに「令外賜姓」であり、”皇族で無い”と云えばそういう事にも成ります。
”天智天皇からの第6位皇子の賜姓臣下する慣例にも拘らず第6位皇子が賜姓臣下しなかった「貞純親王」の子供として第4世王外の「経基王」を第3世王として宛がい「貞純親王」の代理賜姓として明文を付けその為に天皇は渋った為に遅れて受けた”とし、この事から「経基王」は賜姓を”待ち焦がれた”とする説と”いやいやに賜姓を受けた”とする両方の研究説が生まれたのです。
(いやいや説は経基王の歴史的行動から矛盾がある。)
しかし、現実は「経基王」の史実の行動から”待ち焦がれた”が正しい事が定説に成っています。
(筆者もそのように判断している)
「清和源氏の経緯」
念の為に八幡社に繋がるこの事が神明社にとってどの様な影響を与えたか、又はどの様な経緯に成っていたのかを知る必要がある為に概要の筋目だけを述べて置きます。
それは2代目の「満仲」は荘園制を悪用して「名義荘園主(本領)」と成り、その代わりに「無血縁の源氏姓」を名乗らせる方式で、各地の豪族(未勘氏族)を組織化して平家に対抗する「武装集団」を形成したそもそもその張本人であり、その為に朝廷と天皇から疎んじられて一時河内に身を潜める行動を採った経歴を持ち主です。
後に開き直って無冠、無官、無位で攝津に戻ると云う反発行為を採っているのです。その後も「経基王」と同じ様に2代続いて疎んじられるのです。
この事で衰退した清和源氏の3代目は発奮し、先ず長男の宗家頼光は摂関家の実力者藤原道長に仕官し出世して各地の守護、国司を歴任し、資質剛健で皇族としての立場を重んじ宗家としての「清和源氏の立場」を高めたが、反対に弟の頼信は真逆の行動を採り、矢張り父の築いた[荘園制の武装集団の組織力」を使って勢力圏を河内から伊豆を経て関東に武力に依って奪い取りその勢力を拡大させたのです。
これを孫の「義家」が継承して更に「荘園制の拡大」を図り陸奥勢力を争奪して、その行き過ぎに遂には天皇や院から「排斥の令文」を発せられて嫌われる以上の政治的な処置を受けてしまい、挙句は4代続いて再び疎んじられる羽目に成った経緯なのです。
この様に世を乱す「争奪戦」を繰り返せば国は不安定に成り、民の不満はつのり朝廷側の立場は無くなるし、「荘園制行き過ぎ」に対し、「後三条天皇」の時からも既に「禁令」も出ているのにそれを無視して拡大させる行為を犯せば誰で「排斥の令文」を発せられるのは必定です。
此処にも「経基王」の「異端児的行動」から始まり「満仲」と続き、「頼信」と「義家」の「不名誉な仕儀」と成り「氏の不尊名」は4代と続きます。:
結局は「皇族に与えられた責務」を全うせずに「破天荒な行動」を取らなければ成らなかった「経緯と背景」の一端が継続して見え隠れしています。
これ等の事柄は「祖先神-神明社」や「八幡社」の検証に大きく影響して来るのです。
次ぎにデータで論じますが、本文では「源氏・八幡社」に対して上記の「背景・理由と経緯」が判っていますので大きく論じる事はしません。
ただ「源氏の守護神」は通説は「八幡社」と成っていますが、筆者にはこの「八幡社説と八幡神の通説」には多少疑問があるのです。
この疑問については下記に論じますが、何しろ上記の行動もさる事ながら「疑問と矛盾」が多過ぎるのです。ところが最近の各研究家の間でやっとその疑問の学問的解明が進み始めたのですが、まだ社会の中では「祖先神-神明社」の義務も放置し、挙句の果ては八幡社を建立する等の行為を繰り返しながらの根強く「義家贔屓説」として通っているのです。
ところで、では「源氏」11代はどの程度の「祖先神の八幡社普及」に取り組んだのか、そのデータから先ず論じます。(「八幡神」の説もあるが後付け行為)
その「八幡社」も調査すると下記にその内容を論じますが、結局は既に青木氏等に依って建立された「神明社」そのものを利用しているだけで「純粋な八幡社」と観られる多くは彼らの「未勘氏族」に依って建立維持されているのです。
そこでそもそも「賜姓青木氏」に続く「賜姓源氏」の11代は次ぎの通りです。
嵯峨源氏、 純和源氏、 仁明源氏、 文徳源氏、 清和源氏(上記経緯)、 陽成源氏、 水考源氏、 宇多源氏(滋賀佐々木氏)、 醍醐源氏、 村上源氏、 (円融特別賜姓青木氏)、 花山源氏
(注釈 これ以外に「平城源氏」や花山天皇以降に5代の源氏があるとして徳川氏が征夷大将軍の称号を獲得し幕府開幕する為に造り挙げたものがある。
「清和天皇」と「陽成天皇」の間は賜姓が大きく乱れた。
「平城源氏」はそもそも皇族に賜姓する事を辞め阿多倍一門に「たいら族」の賜姓をしこの事で嵯峨天皇と醜い政争をした経緯がありますが、「嵯峨天皇」後にその事を忘れた様に源氏を名乗った。
「円融天皇」は清和源氏の皇族としてのあるまじき行為に反発をして「賜姓源氏」とせずにその皇族としての義務を果たさせる為に藤原秀郷の一門に「特別賜姓族青木氏」(秀郷流青木氏)賜姓した。)
「八幡社と弓矢の根拠」
その前にそもそも「八幡社」の呼称は、「筑前宇佐神宮」が「譽田天皇廣幡八幡麻呂」、即ち、実質飛鳥の「ヤマト王権」(5族の連合政府)の初代「応神大王」の事で、つまりは実質の初代の「応神天皇」の事ですが、「護国霊験の大菩薩」と「御託宣」があったとして「八幡の麻呂」(ヤハタ)から後に「八幡社」と別名呼称されるように成ったとされています。
「神明社」は前段でも記しましたが、実質4代目「雄略天皇」が、夢の中で「天照大御神」の「御託宣」を受け建立したものですが、その「豊受大御神」(外宮)を「丹波」の国から、ほど近い伊勢の「山田の原」に「天智天皇」が迎えたとされるものです。
これが「神明社」の「豊受神」、「豊かさを受けられる神」、即ち「生活の神」「物造りの神」の所以ですが、「八幡社」は「応神天皇」、「神明社」は「雄略天皇」とし何れも「夢の御託宣」です。
そして遅くともこの筑前の宇佐の地の「八幡社」の社殿建立は和銅元年(708年)頃とされ、「社」としての正式な建立は728年とされています。
この頃は「弓矢の神」ではまだ無かったのですが 「石清水八幡社」が860年頃に建立されたとします。
その年に「清和源氏」は860年に発祥されています。
後に「宇佐のヤハタ社」が支社と区別する為に後に「宇佐八幡社」として変名した事から、その後下記の考察から1010年頃の時代の背景を受けて「弓矢の神」として徐々に凡そ50年くらいを掛けて各地の「未勘氏族」に信仰される様に成って行ったと観られます。
源経基 * -961
源満仲 912 -997
源頼信 968 -1048
源頼義 988 -1075
源義家 1039-1104
そもそも全国の荘園を営む武士団を「源氏の名義貸し」の基に「組織集団化」させた「源満仲」は「住吉大社」を信心していた事が資料より判っていますので、この頃は「八幡社」はまだ清和源氏の守護神とは成っていません。勿論、「祖先神の神明社」も守護神とはしていないのです。
次ぎの代の三男の分家を興した「源頼信」の頃は「大神氏」から引き継いだ「姓氏」の土豪宇佐氏が神職を務めて膨大な社領を有していて、「自前の力」で運営されていてまだ「清和源氏の勢力」の範囲にはありませんでした。つまりまだこの頃は「源氏の守護神」とは成っていません。
次ぎの「源頼義」は「頼信」が1048没とすると60歳と成り、まだ「頼信の世」ですので1048年以前には「清和源氏の守護神」には成り得ていません。「頼信」は西ではなく東の関東に進出したのですから西にある「八幡社の勢力」との関わりは強く無かったのです。
また「頼信」は上記した「満仲的戦略」を父「満仲」から託されて踏襲し、本家の「兄の頼光」の援護を受けて関東の手前の「兄の頼光の所領」の伊豆を拠点に伸張してゆきますので、「八幡社」とは無関係でそもそも「住吉大社」を信望していたのです。
「満仲」の長男宗家の跡継ぎの「頼光」は父の「満仲的戦略」に乗らず摂関家の実力者の「藤原道長」に仕えて「祖先神-神明社」を信望しています。(勅命で神明社の再生を命じられている)
飛鳥の大神一族(下記神明社で論じる)が大和朝廷より筑前宇佐の地に赴任し定住し「神仏習合」を行い「八幡神の創出」を行ったされていて、後の平安中期頃に肥前に定着した大神一族は衰退しやや後に神職を土豪の宇佐氏に代わる事と成ります。
この時(980-1000年)、豊前、豊後、日向の「3国7郡640反」を社領とし、「18荘園」を保有していたのです。
ここ筑前の地を「源頼義」(短期間「源義家」も務める)が定住して「筑前の守護職」を務めています。
又、この影響で「頼義」は「義家元服 7歳」(1046年頃)の地を京の「石清水八幡神社」(3大八幡社の一つ)で行います。この事から”後に「八幡太郎」と呼称されるように成った”とされています。
頼信1048年没と義家1046年の元服が一致しますので、この時期より境に「住吉社」から「八幡社」に移行して行った事が判ります。
つまり、「住吉社」を信仰の神社とするならば、この時、「住吉社」で「義家7歳の元服」が行われても不思議はありません。
この「義家元服」の前に「肥前の役務」を務めていますので、この時に「住吉社」から「八幡社」の切り替えのチャンスがあった事に成ります。
恐らく「頼信」から「頼義」に「代代わり」を契機に全国的に「荘園の名義主(本領)」が拡がり「未勘氏族」を集結させ統率する為にも「八幡社」に切り替えた事が判ります。
この時期が「没後の1回忌の法事」等が済んだ「1050年」が「当時の社会習慣」から判断できます。
実は「神社の習慣」には先ず ”80日過ぎるまで関係者は神門に入っては成らないし、「3年-2年以内」の法事が過ぎるまで全ての「新しい行動」を「氏」として起こしては成らない” と云う「神社の仕来り」があります。現在でも神社に限らず「武家の伝統ある旧家」でもこれらの「仕来り」は護られています。
「1046年の義家元服」は15歳にせず7歳の早い「元服行事」を執り行い、それに限らず、「清和源氏の分家」としての「頼義」のその「意思表示」を「未勘氏族」に対しても「全国の武士団」に対しても「宣告の行事」として行ったのです。
「神社と皇族家の仕来り」により正式にはこの「元服の時」は「頼信」が未だ生きていた事から、それを見計らって行った「前倒しの祝辞」であり、故に丸3年後の「没後の1050年」が「河内源氏-八幡社」の「行動開始の年」に成ったと観られます。
その正式な宣告は「義家の元服」と「頼信の1周忌法事」の2つの行事を利用したと考えられます。
周囲の「未勘氏族と武家集団」は氏家制度の中では、この「古来からの仕来り」は充分に承知していて「暗黙の了解」があったと考えられます。(1周忌は3年であるが1年以内の前倒しは可能)
この宇佐神社の神領は「1410戸」と「18の荘園」と「640反の社領」と「24000の支社」であったとされ、この神域は1190年から1199年頃に掛けて殆ど周囲の土豪に一挙に侵食されて無く成っています。
この間、「社の運営」がままならず荒廃した時期が50年ほど続きそれを観て周囲の土豪から侵食され始めたのです。(社説)
とすると、1180年が頼政の「以仁王の乱」、1180年の「富士川の戦い」、1185年が「頼朝勝利」、1192年が「開幕」、で1199年-50年=1149年と成り、1050年から100年間が「河内源氏-八幡社-未勘氏族」の関係は隆盛期を先ず迎えていた事に成ります。
その後は1149年頃からは「後白河院の院政」、「荘園整理」、「皇室権力の強化」、「保元平治の乱」、「源氏の衰退」等が起こり、「源氏と未勘氏族」の著しい衰退と「組織の崩壊」が起こり始めた時期であります。
1050年はこの事から「河内源氏-八幡社-未勘氏族」の関係式は間違いない時期と成ります。
(その後、中世に掛けて黒田氏1601、細川氏1632、松平氏、徳川3代将軍家光に依って寄進があり、宇佐八幡社は3000石に再復活します。これを期に全国の主要八幡社は徳川幕府の再建策で復活する)
つまり、清和源氏の「荘園の本領の保護」(1050)があってこれらの神域を保っていて、義家の勢力が低下してそれが最終(1199)切れた為に侵食されて無くなるという現象が起こったのです。
(河内源氏滅亡-頼朝没1195年)
その後、再び中世から江戸の初期に掛けて上記した様に全国の多くの八幡社は「徳川幕府の梃入れ策」で地元の大名等の寄進で復活したのです。
これらを時系列的に観れば、「清和源氏」の「源頼義」が「筑前の守護職」になった事をきっかけに「18の荘園」の「名義貸し」の「本領」とその「他の神域の保護」をしたと観られます。
そして、この「頼義-義家」の没後の1140年頃からこれを守り切れなく成り、50年程度の間に徐々に侵食が起こり始め、遂には1190年頃から雪崩の様に1199年に掛けて「侵食崩壊」が起こった事に成ります。
従って、この経緯から、「弓矢の神の八幡社」と「清和源氏の守護神」の「2つの風説」は24000社を通じて一挙に広がり、”全国の「八幡社」が清和源氏の頼義等の勢力に依って護られている”と云う風説と成って1010年後の頃から起こった事に成ります。
(むしろ24000社の八幡社の支社を護る為に広めたと観られます。但し、24000社は室町期中期では調査からこの1/5程度であったと観られます。)
この説からすると、実質は「八幡神」は「清和源氏分家頼信系4代目義家一門」の「守護神」とされている事に成りますが、「皇族賜姓族青木氏」の「祖先神-神明社」と同族である上記11代の源氏も「皇族第6位皇子」の「臣下族」である事から、「祖先神の一族」である事には令の定めるところでは変わりは無いのです。
だから同じ下記参考の「守護神」の「令義」からすると彼等も「祖先神」と成る筈です。
この「令義と風説」との”ずれ”が起こったと考えられ、結局は清和源氏の「満仲の戦略的路線」を引き継いだ「頼信-頼義-義家」はむしろこれ(風説)を利用した事が考えられます。
この根拠は全国にその「荘園制」を利用して作った「未勘氏族の武装集団」を組織化した事で、その勢力をひとつに取りまとめる為にも、その「集団の守護神としての象徴」をこの「宇佐の八幡社」に求めたものと考えられます。
同時にこの「八幡社の持つ組織力」も手中に収めた勢力拡大を図ったと考えられます。
そうすると結局は、「八幡社」の「守護神」は「未勘氏族の集団の守護神」であって、清和源氏頼信系一門の「本来の守護神」では無かった事を経緯の時系列分析からそれを物語ります。
すべての八幡社に関するこれに伴う要素の組み合わせは符号一致します。
故に、この「象徴」として「祖先神-神明社」を使うことは、「他の同族の青木氏」や「他の源氏」や「特別賜姓族の青木氏」等に対して迷惑が掛り、そもそもその路線が異なる事から賛同を得られることは無く、神明社の圏域を全く戦略的に使えなかった事を意味します。
それは「八幡社」=「荘園制」であって、「神明社」≠「荘園制」である事を社会の中では成っていたし、賜姓族全ては「令慣習」に従っていた事を物語るものです。
これに逆らう事は既に「後三条天皇・白河天皇期に禁令」(1069-荘園整理令等 前段で論じた)が出ている事でもあり、それを無視して無理に推し進めて「荘園制で勢力拡大」を図る手前上も出来なかった事にも成ります。
「八幡社の守護神」=「未勘氏族の武装集団の守護神」→「清和源氏頼信系一門の名義上の守護神」
そもそも「満仲-頼信」はその守護神を本来あるべき「祖先神-神明社」では無く、まったく別の「住吉社]であったのですから、これは ”本来走るべき軌道外の事を追い求める癖” で頼信等一門の「家の伝統」とでも云えます。
これは当初、「満仲」は関西範囲の「未勘氏族の武装集団」の組織化を行った為に、その「象徴とする守護神」を地元の「住吉大社」に求め、且つその神域を利用する為にもこの戦略に求めたと考えられます。
そして、未だ拡大途中であった頼信の頃もこの「住吉大社」の「象徴戦略」を継承したと考えられます。
しかし、「肥前の赴任」の頃をきっかけに「荘園制の未勘氏族」の組織化が全国的に拡大し、それに伴い同じ路線を採る「頼義-義家」は 河内は基より相模守、伊予守、出羽守、下野守、陸奥守、越中守、筑前守等を務めた事から ”「全国的な八幡社の神域」に切れ変えた” と考えられます。
(頼信は常陸守、伊勢守、甲斐守、信濃守、美濃守、相模守を務めた。これ以外に国司、介、追捕使、押領使等の令外官等の為政権を持つ赴任先は多くある。 神明社から調べた赴任先は上記の赴任先以外にも添書などに見られる。 義家は圏域を拡げる為に主要国の美濃守の任官を強く望んだ経緯もある位である。それが荘園の名義主の領家・本領に成れる事に繋がる。)
(参考 2「祖先神(祖霊)」(そせんしん)「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、「自分の集合」である「一族一門の子孫」(皇族・朝臣族)の「守護神」であり「人と氏の重複性も持つ神」)
しかし通説として「祖先神-八幡社」又は「八幡神-八幡社」の「守護神の形」が現実に出来上がっているのです。
この「八幡説」からすると「清和源氏分家頼信系義家」からの「八幡社」ですから「清和源氏宗家頼光系四家」は「八幡社」では無く「祖先神-神明社」と成る事に成ります。また他の源氏も「八幡社」ではない事に成ります。
これは文献から観れば、「清和源氏分家頼信系義家」からの「八幡太郎」の「義家」の呼称がある事から「八幡社」を「守護神」とした事は間違いない訳であり、更には「筑前赴任の経緯」「元服地の経緯」からも明確には「義家」からと成ります。
まして「八幡神」の「守護神」まで出来上がっています。
仮に「分家頼信系義家一門」(河内源氏)が「八幡神」だとすると、上記参考の一行の「皇族の令慣習」から明らかに ”第6位皇子の朝臣族の皇族でない”と云う事に成ります。
中には「河内源氏の守護神」と書き記した説もありますが、本来は賜姓族には(皇族系には)「上記の令慣習」に縛られて居ます。
且つ、身分は「天智期の正令」と「嵯峨期の詔勅」で決められていますから、ですからこの令外の皇族以外の「氏と姓」族は ”その氏の信じる考え方を守護神に求めて独自に創設する”と云う自由な仕来りです。
それと同扱いの説は「時代考証」がよく取れていない説と看做されます。(通説にはこれが多い)
例えば、藤原氏であれば「鎮守神」、「大蔵氏」であれば「産土神」の様に決める事が出来ますが、「第6位皇子の朝臣族」である限りでは「青木氏」と「特別賜姓族」と同様にその「由来経緯の考え方」から「祖先神」である事に成る筈です。
とすると、この「河内の八幡神」はこの「令慣習」を知らないで藤原氏等と同じ感覚で「八幡神」を創設した事を意味します。つまり、この事から,この「八幡神」のみならず「八幡社」は「後付け」であると云う事に成ります。
言い換えれば、少なくとも「跡付けの時期」までは、恐らくは義家前(1046年)までは、「世の中の常識」は本来は、又は形式上は「祖先神-神明社」であった事に成ります。
(現実は満仲-頼信は住吉大社ですので、知っていた上で敢えて逆らった事を意味します。そして、社会が「武家の棟梁の風潮」が高まるに連れて次第に「世の中の常識」は薄らぎ変化して「八幡社」へと変化して行ったし、むしろその風潮を「未勘氏族」も「頼義ー義家」も利用し「既成の事実」としてこの際敢えて振舞った事に成ります。)
(この義家の終末段階では「令慣習」等”どこ吹く風”で開き直った。-ここで白河院は耐えかねて{権謀術策}を労して潰しに懸った。- その後は源氏は潰れ支えが無くなった実質の荘園主の「未勘氏族」によって煽られて”一人歩きした経緯”と観られる。)
結局は荘園も無くなり、上記した状況は次の様な事に成ります。
A ”「八幡社」=「荘園制」であって、「神明社」≠「荘園制」”の関係式
B ”「八幡社」=「未勘氏族」であって、「神明社」=「賜姓族」の関係式
A→Bに戻った事に成ります。
他の「賜姓源氏」と「皇族源氏」も含めて賜姓・特別賜姓族は「祖先神-神明社」と成りますし、現実に資料よりその経緯を辿っています。
そうすると、「八幡神」等はこの決め手は「跡付けの時期」と云う事に成ります。
実は、この疑問から「経基王」は「皇族の範疇」に無かったとする最近の研究説が生まれているのです。「第6位皇子の臣下」では無かったと云う説です。
確かに上記した様に「清和天皇」の「第6位皇子」は「父親の貞純親王」で「経基王」はその孫であり「陽成天皇」の皇子との説もあるくらいですから、孫が臣下して賜姓族の源氏を名乗る事の事態が特異であり、ある事情から「貞純親王」の賜姓の権利を”子供に譲った”とする経緯と観られます。
それならば前提と成っているその皇孫が6人居て”「六孫王」と呼ばれた”とされていますが、この「六孫王」の呼称の記述は当時の何処の文献にも出て来ないのです。これも明らかに「未勘氏族」による「跡付け」です。
ここら辺が天皇や朝廷からその出自とそのあるべき行為の反意を咎められての疎んじられる根拠に成っていたとも考えられます。
兎角、何事も「白河院の横暴」と決め付けられていますが、もしそれであれば「賜姓青木氏」を潰す事にも走っている筈ですし、わざわざは「白河院」を含む「累代の天皇や朝廷」がこの時期に天皇家が「秀郷一門」に対しこの「賜姓青木氏」の跡目の「特別賜姓青木氏の行動」はそもそも無かった筈です。
現実に潰されていませんし、むしろ前段でもその活躍を期待され源平の時代に明確に果たしているし、下記に示すデータから「神明社建立」は更に進んでいるのです。つまり国策に対して大貢献しているのです。
「白河院」は「清和源氏分家頼信系義家一門」に対する「圧迫」と「同族で戦わせて」の巧妙で戦略的な「源氏潰しの策謀」をも実行しなかった筈です。
(注釈 世間の「白河院の悪名」の通説らしきものは、この「皇族としての道」を正そうとした「権謀術策の所以」であろうが「日本人の忌み嫌う所作の所以」から来ていると、源氏に対して青木氏から観るとこの様に考えられる。)
(義家10年の蟄居期間後、許して北面に任じるがこれは「院への世間の叱責」から逃れる一つの戦術であって、その立場において「同族の行状の悪さ」を理由に「掃討の命令」を下して「同族潰合」をさせた。
その原因は上記した様に「河内源氏の皇族にあるまじきの行動」にある。)
そもそも仮に「白河院の横暴」であるならば「清和源氏宗家頼光系四家」も他の「10代の源氏」も「潰される憂き目」にあっていた筈ですがそうではなかったのです。
それは何度も論じていますが、上記の「祖先神-神明社」の「皇族としての伝統」と「3つの発祥源の責務」を護っていたからです。
この上記の「八幡社」が象徴する様に義家以降の義家一門の行動が、上記の「祖先神-神明社」の「皇族としての伝統」と「3つの発祥源の責務」を護っていなかったからで全てこの一点に集約されているのです。
”皇族の者にあるまじき態度” ”荘園制で国策を乱した”と判断されて潰される羽目に陥ったものであり、”「白河院の横暴」”と「未勘氏族」が作り上げたむしろ策謀である事が伺えます。
(為政者がこの事を許せば皇族としての自らの立場をも人民から信用も脅かす事に成る事は必定です。)
この事から考えると”「義家の立場」を改善しよう”とした「後付けの意味合い」が判る気がします。
世間が思っている様に「清和源氏」だけが源氏であるとするならば「白河院の横暴」説もある面では理解も出来ますが、ここでもう一度確認していただきたい事は、源氏は上記他に10代に、賜姓青木氏は5代29氏に、特別賜姓族青木氏は116氏もあるのです。これ等は全てその立場を守ったのです。
「八幡社」や「八幡神」や「八幡太郎」や「八幡義家」は間違いなく「後付け」の「搾取偏纂の行為」と見做されます。では”誰がこの「後付け」の搾取を実行したのか、何故実行したのか”疑問です。
これ等は後の八幡社から発見された私氏資料の中の記述を正としての前提での全て説なのです。
この私氏資料が間違いとすれば前提は崩れて「祖先神-神明社」になる筈です。
ところが未だそこまでは研究は進んでいないので「八幡社説」が通説に成っているのです。
しかし、上記した様に漠然と判ります。
この論調は少なくとも清和源氏のみの事であり、皇族としての令慣習を無視していて、他の源氏の守護神とする根拠も全くありません。源氏は清和源氏のみとする酷い思い違いの風説のみであります。
「河内源氏の守護神」などの説は「皇族外の氏と姓の扱い」と同じにしていますので青木氏などが護ってきた「令慣習の存在」を無視していますので論外です。
そこで、更にこれらをデータ分析で以って検証を進めます。
そもそも「八幡社」の建立期の728年頃には未だ源氏は発祥していません。
1代目の52代嵯峨源氏発祥は809年頃以降であり、56代清和源氏の元祖の経基は858年頃 義家は7歳で「石清水神社」(八幡社3社)で元服したとして1046年頃以降に「八幡太郎義家」と成ったとされていますが、諸説があるので1050年頃が妥当な「呼称の開始年数」となりますと、322年後と成ります。
しかし、筆者はこの呼称は「跡付け」と観ていて、義家が「武家の棟梁」として祭り上げられた時期に「後付け」として呼称されたと観ています。
この「後付け」は「後三年の役」の後と観ていて現実には1087年頃では無いかとも考察しています。
「360年後の後付けの呼称」となると「八幡社」が「源氏の守護神」であるとする事に問題があります。
だから、「清和源氏宗家頼光系四家」とは「祖先神-神明社」として「3つの発祥源」として行動が違っているのです。
つまり「満仲-頼信」までの行動は範疇内ぎりぎりの行動と見做され、「義家」の父「頼義」の頃からはっきりと「道」が外れた事を意味し、遂には”皇族としての「令慣習の限界」を超えた”として朝廷から疎んじられる羽目に成って行ったと観られます。
もし仮に「祖先神-神明社」で無いとするならば、第3世族の孫、或いは第4世王外の者における令外慣習による賜姓と成ればこれは別に守護神を求めても問題は無い事に成ります。
「祖先神-神明社」は上記の経緯より「朝臣族」で「第6位皇子」による「臣下族」の「守護神」として「皇祖神」に代わってその務めを果たす「生活の神」「物造りの神」とされています。
この厳密な定義からすれば異なる事を意味します。
「弓矢の神」「八幡社」でその「守護神」は「八幡神」でも問題は無い事に成ります。
つまり、青木氏の「嵯峨期の詔勅」により発祥した「皇族青木氏」と同じ扱いと成り得ます。
上記に述べた様に所為を「清和天皇」の「第6位皇子」外の5人の源氏は守護神は「八幡社」で「八幡神」でも問題はない事に成ります。
但し、この5人外の他10代の源氏は「祖先神-神明社」の枠組みの中に伝統はあります。
「経基王」の末裔の「清和源氏宗家頼光系四家」と「分家頼親系の清和源氏」が先祖の伝統に従い「元来の皇族孫」としての「祖先神-神明社」を採用した事に成ります。
それは「八幡社」が4代目からの仕儀であった事から「元来の皇族孫」としての伝統を守った事に成ります。
「経基王」から観れば「義家」まで丁度100年位経過していますから「八幡社」が義家からとすると100年の期間がある為に「祖先神-神明社の守護神の伝統」は護られていた事に成りますし、継続されていた事にも成ります。
つまり「乱世の時代の背景」も受けての”「義家の末裔」の守護神であるかの様に成って行った”事に成ります。
武士である事は事実であるので「氏の守護神」であるかは別にして「弓矢の神」「八幡社」は必然的に「武士の守護神」である事には間違いはありません。
ただ ”義家から直ぐに「氏の守護神」の伝統を「八幡社」に変えたのか”は下記の「八幡社の建立状況」からやや先の「未勘氏族」によるものではないかと考えているのです。
恐らくは、この時期に「六孫王」の呼称も「未勘氏族」によって搾取され「八幡社」の記録に書き込んだと考えられます。
「朝廷の記録」にも無くこの「八幡社」に「六孫王」の呼称や「八幡神」等の「義家」に関する記述が遺されているのも不自然です。
後に「武家の棟梁」などと持て囃された時期に「弓矢の神」の「八幡社」を「荘園名義主」の「本領・義家」に宛がい、その根拠を「六孫王」として作り上げて祭り上げたと観られます。
これを正当化する為に「八幡社」に「氏資料」として恣意的に記録を残したもので、それを正しいとして根拠に論理立てたその立場にいた研究者が「八幡社」と「八幡神」と「六孫王」を装具立てたものと考えられ、そうでなければ360年のタイムラグは大き過ぎます。
「疎んじられた義家」を主とする「未勘氏族」に取って観れば、「名義借りの行く末」が利害に大きく関わってくる事から、有利に成る事柄を記録として「八幡社」に遺し後世の末裔に遺したのではないかと考えられます。
「未勘氏族」の圏域を周囲から護り誇る為にもこの「義家」を宛がい「八幡社」「八幡神」を装具立てたと見られます。
上記した様に ”「源氏義家系の「未勘氏族」の守護神の八幡社”であって、必ずしも”源氏そのものの守護神であると云う定義ではない”と云う事です。
結果、遺した「八幡社の氏資料」で後に”「源氏の守護神」と決め付けられてしまった”、又は”勢力保持の為にも決め付けられる事を一門は期待した” と云う経緯と観ています。
「八幡社」=源氏頼信系義家一門の守護神=「未勘氏族の守護神」=「武家の棟梁」=「八幡神」
これ等の経緯を念頭に次ぎの検証をお読みください。これ等の上記内容をデータで下記に論処します。
その八幡社の分布域を次ぎの7つに分けて観て見ます。
但し、これらは神明社と同じく室町中期までのものとして選別したものです。
八幡社の分布順位(地域分布)
1 関東域 7県-94-26.5%(全体比)-平均13/県 清和源氏勢力圏域
2 九州域 8県-70-19.8%(全体比)-平均 9/県 未勘氏族の圏域
3 関西域 6県-52-14.7%(全体比)-平均 7/県 源氏の出自元の圏域
4 中部域 8県-52-14.4%(全体比)-平均 7/県 清和源氏・秀郷一門圏域
5 東北北陸域 8県-38-10.7%(全体比)-平均 5/県 反河内源氏の圏域
6 中国域 5県-24- 7.9%(全体比)-平均 5/県 源氏空白域・讃岐藤氏の圏域
7 四国域 4県-21- 5.9%(全体比)-平均 5/県 讃岐藤氏の圏域・源氏空白域
「1の関東域」
・「1の関東域」の八幡社が最も多いのは、源頼信が平安期末期に信濃-伊豆を拠点に「京平氏」の平族が勢力を張っていた関東にその勢力圏を拡げた事が原因しています。
故に京平氏の平族との争いが上記の「源経基」から起ったのですが、だから他の域と比べて一番多い事に成ります。当然にこの事に依って「特別賜姓族」の「秀郷流青木氏」との摩擦も起る事が考えられますが、「分布の内容」から観てこの領域はある程度の「墨分け」をしていてた模様です。
その「墨分け」は次ぎの様に成っています。、
特に「武蔵、下野」域、次ぎに「上野、常陸」域、多い所で「神奈川、下総」域、「甲斐、駿河」域
と成っています。
これは一見すると、「秀郷一門の圏域の強い地域の強弱」、逆に云えば「清和源氏の頼信系の所縁の地域の大小」に依って分布している傾向を持っている様に観えます。
ところがむしろ「秀郷圏」-「頼信圏」の「圏域の分布」と云うよりは、その「圏域の境」が重複している処を観ると、これは「神明社+春日社」-「八幡社」の「社領域の分布」であろうと考えるのが妥当と観られます。
そもそも神社を考察する場合は、「圏域」のみならず「荘園と社領」の関係を考える必要が有ります。
この平安期から室町期には「荘園制の影響」を大きく受けて「社領」が大きく認められていてこの影響を見逃す訳には行きません。
どちらかと云うと、その「社領」を保護する土豪の「未勘氏族」か「氏子衆団」に依ってその圏域は守られていた時代です。
つまり、「荘園-本所-未勘氏族-「神社」-社領」の緊密な相互関係を保持していてこれをばらばらにして無視して論じる事は出来ないのです。中でも「神明社」と「八幡社」に限っては「皇祖神」に結び付く「祖先神の神社」であり、他社と異なり「荘園の名義主」(本所・本領・領家)とも結び付く「社会構造」であったのです。
当初は「荘園の名義主」と成った源氏は幾つかの荘園を固めその一つの大きい領域は1国から2国になる程の大きさを持ち、その圏域の領域に幾つかの「八幡社」を建立して「圏域の誇示」を図ったのです。
その「八幡社」に広大な社領を与えて「未勘氏族」に護らせたのです。
(本論末尾のデータに記載してる様に「熊野古道」の世界遺産の「熊野神社」は和歌山県の殆どの主な領域を社領[海南市から熊野市]としていた事でも判ります。研究室の「鈴木氏と青木氏の関係論文」でも記載)
しかし、「実質荘園主」の「未勘氏族の勃興」に左右され、その後は「未勘氏族」の大小の「氏子衆団」に取って代わったものまで生まれたのです。
この「社領」が縮小される江戸期から禁止される明治初期の「寺社領上知令」までは大きな力を持っていたのです。
先ずその経緯は、平安期は主に「清和源氏の力」に依って建立され、末期以降頃は「荘園制」を利用して「未勘氏族」に「源氏の圏域」を誇示させ、そこを「戦略拠点」を主眼としてそれを護る為にも「八幡社」を建立させたのでは無いかと考えられます。
そこで関東域の「94の八幡社」を分類すると、これを「家紋分析」や「神紋分析」や「未勘士族の家紋分類」や「氏子集団の神紋系家紋」から総合的に分析すると次ぎの様に成ります。
先ず「家紋分析」から観ると、平安中期から「源義家」が天皇から疎んじられた時期までの平安末期直前までは「源氏力」に依って建立され、源氏衰退と滅亡の後の鎌倉期以降はこの力の持った「未勘氏族と氏子衆団」に依って建立が進められて行った事が良く判ります。
(源義家の主な朝廷の処罰:「義家に対して関係族と兵の入京禁止令」「義家への土地の全面寄進禁止」等 殆ど身動きが取れない令で10年間押さえ込まれるが、その後、「院政の横槍」で一時許されるが「同族争い」を仕向けられ衰退する)
「未勘氏族」と「氏子衆団」の形態は、当初は「実質荘園主」の「未勘氏族」で建立されたと観られ、時代が下克上・戦国時代の室町期に入ると互いに「未勘氏族」の潰しあいが起こり細分化した結果、大小の生き残りの「未勘氏族」や土豪達の「氏子衆団」がこれを護ると云う形に変化して行きました。
(参考 名義荘園主(本所・本領・領家):源氏などの名家に名義を借りて「開拓荘園主」に成ってもらい名義料を支払い見返りに名家の名籍を名乗る事を許され武士団を形成する方式でその基と成る名義上の荘園所有者と成って保護する。実質荘園主(庄司):実際に開拓した土地の豪族で名義を借りてその名籍の氏を名乗る事を許された武士団であり、これを「名籍族」と分けて「未勘氏族」(庄司等)と呼ばれる。「氏子衆団」:これ等の「未勘氏族」が戦国に依って細分化して、その結果、再編成が起こりその荘園内に建立された各社の「氏子衆」の集団が集まり「氏子衆団」を形成して「社領の圏域」と「身の安全」を護った。室町期末期では「未勘氏族」が「氏子衆団」と「戦国豪族」との入れ替えが起こった。)
「圏域の分布」<「社領の分布」⇒「荘園制」
「名義荘園主」⇒「未勘氏族」⇒「氏子衆団」
「平安期-源氏建立」⇒「鎌倉期-未勘氏族」⇒「室町期-氏子衆団」
これ等(分布域や建立者)の事は「未勘氏族の家紋」や「八幡社の神紋」に依ってその変化が良く判ります。「八幡社」神紋は「皇族賜姓族」である為には本来は「笹竜胆紋」と成りますが、源氏自ら建立したとなれば「神紋」は「笹竜胆紋」ですが、そもそもその「神紋」とは必ずしも「寺の紋」では無く主に建立した氏(氏上)の家紋を「神紋」とする傾向がある為に、その「家紋・神紋」の出自分析をすれば「分布域・土地柄・変化・経緯」が判別できるのです。
「家紋・神紋の分析」から観ると、先ず検証できる事は秀郷一門(春日社・神明社)と大きな争いに成らない様にその建立地域は分布していて見事であります。恐らくは秀郷一門との関係もありますが、殆どは”「未勘氏族」が建立して管理していた事から併設を避けた事によるものと考えられ、この傾向はその「神紋」が具に物語ります。「笹竜胆紋の神紋」は極めて稀であります。
ところが、この判別で解釈の判断が付き難い地域があるのですが、秀郷圏の中に居る「土豪」つまりは「未勘氏族・氏子衆団・武蔵7党等」の土地柄であって、秀郷一門としても血縁関係等もありなかなか文句を付けるところまでには成らなかった事が観えて来ます。
(秀郷一門の中ではこれ等との問題の関係調整役は主に進藤氏の役目柄である)
次ぎに「笹竜胆紋」を神紋としているのは平安期のものだけで室町期には無い事ですが、中には疑問のものもあり鎌倉期と室町期の建立で有りながら「笹竜胆紋」を神紋としている「八幡社」があります。
「地理的な条件」」から観て荘園制に絡む「未勘氏族」による建立である事は確実であるのですが、果たして神紋を正当に使用しているかは疑問で、江戸期の神社間の競争激化で搾取変更したのではないかと考えられます。
そもそも関東域の秀郷一門の圏域の中では故意に変更する事はいくら名義を借りているとしても「未勘氏族」でも不可能であった筈です。
「源氏自力建立」(未勘氏に命じた社も含む)と見なされる神紋を含む「笹竜胆紋」の「八幡社」は全体の3割弱程度で頼信系源氏が根拠地としていた「武蔵の北東一部」と「甲斐や駿河」や「神奈川西域」と「下総の一部」(神紋の疑問社は除く)に限定して観られます。
もとよりこの様な背景と経緯の中で、この秀郷一門は元来の彼等の「人生訓」に対して観ても、この事柄に於いても「柔軟性を保有する氏」で有った様で、彼等の圏域の中でも「弓矢の神」の「八幡社」に対して頑なに拒んだ姿勢を示さなかった模様です。
当然に「弓矢」と成れば秀郷一門の「護衛軍団の青木氏」(武家)との摩擦とも成りますし、一方では「特別賜姓族」としての「神明社建立の責務」をも負っているのですから少なくとも放置出来るレベルではない筈で利害関係は有った筈です。
多くの一門との軋轢も生まれていた事が覗えます。しかも、最も多い94もの「八幡社」をも建立しているのです。下記のデータがそれを物語ります。
総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
2.7倍 4.6 1.8
関東域は「八幡社94+神明社115」=209
関東全域 八幡社 7県- 94-26.5%(全体比)-平均13/県
関東全域 神明社 7県-115-20.3%(全体比)-平均16/県 本家域
八幡社 東京29 千葉23 栃木11 神奈川12 埼玉9 茨城7 群馬3
神明社 東京30 千葉22 栃木14 神奈川11 埼玉15 茨城9 群馬14
その勢いとしては、「神明社」は115社-20.3%(全国比)です。「八幡社」も「神明社」共に最高値です。この数字から観ても拒まなかった事や受け入れに柔軟であった事が証明出来ます。
これは圏域内をうまく収める為に一門とも多少の血縁性のある「未勘氏族」と「進藤氏」と「青木氏」との充分な調整が取れていたと考えられます。
(進藤氏は未勘氏族に限らず細部の土豪の領域まで何らかの血縁性を張り巡らしていた事が進藤氏の系譜添書に詳細に出ています。それが原因してか自らの跡目は連続して一門からの養子跡目と成っているのです。それだけ与えられた一門の「氏としての調整役」の役目を全うした事を物語ります。その添書の中に書かれている血縁氏と姓の地理的な分布を観ると、「坂東八平氏」や「武蔵7党」や「関東屋形族]等の大小の土豪集団等との関係を持っていて「関東域」にかなり集中していますが、北の陸奥から西の近江までに及んでいます。これほどの事は他の主要5氏一門の中には見られないのです。このデータの八幡社の所以は進藤氏の功績に依って成されたものです。これが秀郷一門の長く生き残れた基盤に成っていたと考えられます。その役目の為に自らの氏は可也綻びの多い系譜と成っているのが「氏の定め」の物悲しさを誘う。対比して上記の八幡社に代表される「河内源氏の生き様」は同じ賜姓族の青木氏から観ると賛成できないのです。故に敢えてここに進藤氏の生き様を記す。)
この”柔軟さと云うか戦略的と云うか”のこの秀郷一門の「生き様」が「生き残り」を果した要因にも成っているのですが、平安末期に鎌倉幕府が興り秀郷一門は失職しながらも室町期には勢力を盛り返し関東一円の大豪族と成り得ているのです。
この根幹を見失わずに”柔軟さと云うか戦略的と云うか”の生き様があっての事であります。このデータが河内源氏の八幡社に対比してこれを顕著に表しています。
因みにその勢いとしては、八幡社の94に付いては、平均13/県と云う事は郡には2社/郡の割合で建立している事になります。
上記した印象からすると、「弓矢の神・八幡社」としては郡に1社有り無しの程度とも思えますが多く建てている方です。
「弓矢の神・八幡社」は「弓矢の神」である限りは”多くて良い”と言う訳ではありません。これは取り敢えず”「墨分け」はしている”と云っても普通の感覚では秀郷一門側としては無視出来ない数の建立と成ります。
当然にこれに対して、「神明社」115で平均16/県で郡では3/郡の割合と成ると郡に5社とも成れば1社/村となり、ここに「八幡社」と「春日社」が加わるのですから3~4社/村に成ります。
これでは村のいたる所に神社があった事に成ります。「八幡社/神明社」の信者獲得合戦も起こり得る数字と成りますが、この数字は信心とは別に当然に上記した「戦略的意味合い」が色濃く出ていた事が挙げられます。
平安期では2~1/社と成り妥当とも思える状況であったと観られ、この傾向は鎌倉期から室町期に掛けて「戦乱の世」に成るに連れて「未勘氏族・氏子衆団」に依って建立されて次第に増えて行った事に成ります。
「生活の神」「物造りの神」の「神明社」はいざ知らず「民」に取っては「弓矢の神」の「八幡社」は直接は無縁であります。
この事が、”「八幡社/神明社」の争い事を避けられていた”と考えられ「神明社」に匹敵する「八幡社」が建てられた事に成ります。
平安期末期から室町期中期に掛けては「八幡社」は「民」に取っては「弓矢の神」としてだけでは無く、関東域に於いては「清和源氏の勢力拡大圏」である事から、特別に「神明社」の「祖先神」としての「補助的な信仰対象」と成り得ていた可能性があります。
”それは何故なのか”の疑問ですが、特に前段で論じた”「民の農兵制度」が「補助的な信仰対象」と成り得ていた”と考えられます。
平安期末期に於いては「末端兵」は「農兵制度」に依って調達され一つの「徴兵の慣習システム」と成っていたのですから、「八幡社の建立」は「源氏力」(総合的な意)に依って成され、「民」に取っても充分に「補助的な信仰対象」と成り得ていたと考えられます。
しかし、鎌倉期に入り「立役者の源氏」が滅亡しながらも、「武家の世」と成り皮肉にも「武家」の「平家や源氏」が全て衰退し「未勘氏族・氏子衆団」を除く「八幡社建立」の主は無くなった事に成ります。
又、民の「農兵制度」も「武家」の世と成った事から「農兵」が「兵」として身を興す傾向が生まれます。
そしてそれは遂には「下克上」のところまでこれまた到達する変化を起したのですから、「補助的な信仰対象」は「2分化」して行く事に成ります。
「八幡社」は次ぎの様な2分化を起こします。
1 「平安期中期から末期の変化」
「高位の武家」の「守護神・弓矢の神」 →「源氏の力」
2 「鎌倉期以降の変化」
「武家」の「弓矢の神」(侍としての守護神) →「未勘氏族の力」
「農兵と兵」の「弓矢の神」(戦いから「身の安全を護る神」) →「氏子衆団の力」
以上の2分化を起したのです。
平安期の「建立の目的」と鎌倉期-室町期の「建立の目的」とは異なり、前者は「源氏族」が、後者は「未勘氏族」が主体と成って建立していった事に成ります。
関東域ではこの二つの「2分化の胎動」が起ったのです。
確定は困難ですが、関東の94の「八幡社」の内、初期の大半は「清和源氏の建立」(河内源氏)と見なされます。未だ「未勘氏族」が建立を充分に成す力と環境は、勃興する氏の家紋分析から観て充分に無かったと観られ、その力のある「未勘氏族」は数は多くなかったのです
主に鎌倉期以降に世の乱れ行く状況に沿って「未勘氏族」が台頭し依って建立(神明社合祀・守護神替え)が進み、再び「農兵制度」が更に活発に成り故に円滑に受け入れられたのです。
特に秀郷一門の勢力圏の関東に於いては”顕著に成り得ていた”と云う事が云えます。
それは各地に「青木村」を形成しての環境下です。つまり「青木氏-進藤氏」の調整下でその「受け入れ状態」が「4つの青木氏」の「共存共生」の「生き様」の土壌がこのデータの状態94を成し得たのです。
「青木氏-進藤氏の調整」+「受け入れ状態の環境下」→「八幡社94の建立]
豊臣秀吉がこの「農兵制度」を禁止するまでは充分にこの環境下にあったと考えられます。
(「農兵制度」に付いて 「武家」とは「公家」に対しての身分呼称で、江戸期の「武家」の総称とは異なる。平安期は「武士」(侍)と「兵」の身分階級があった。
「武士」は「組織の上下」を持つが、「兵」は「職能集団」で「組織の上下」の関係を持たない。
鎌倉期以降はこれが無くなった。 関東域は平安期は藤原秀郷と清和源氏頼信系の勢力圏域で、「たいら族」は後退し美濃域に引き下がる 前論記述)
「2の九州域」
・「2の九州域」は「基八幡社の発祥地」でもあり北九州が殆どで、福岡の総社宇佐八幡社の圏域から分社が拡がったので多く成っているのです。この地域は「民族氏」の「産土神」の地域柄でそもそも「神明社」の少ないところでもありますが、「3国地域」の「神明社」が「一社分布」と成っていますのでその争い(産土神と祖先神)は無かったと観られます。
ただ源義家は筑前に赴任していますので「八幡太郎」の呼称もありますが、この筑前(福岡)の数字を観ても全体の6割近い八幡社が建立されています。明らかにこの影響を受けての事でありますが、この地域は関東域のこの時代の影響を全て受けた複雑な「経緯と背景」と異なり比較的簡単な「経緯と背景」を持っている事が判ります。
先ずは何と云っても大蔵氏等の絶対的な「民族氏の圏域」であり、前段で論じて来た様に一言で云えば「遠い朝廷」「錦の御旗」「太宰府」の真にその地域です。
丁度、有名な大蔵氏の「春實」から「種材-種輔」まで著しい勢力拡大を九州域に図った丁度その時期でもあります。
この場所、この時期、この氏、の所に「源氏自力」による「八幡社の建立」は難しい筈です。その中に70もの八幡社は何故かの疑問であります。そして、この時期に問題の人物の八幡太郎源の義家が筑前に赴任しているのです。何か匂うものがあります。
九州域は、”「関東域の藤原秀郷の氏」と「清和源氏」の掛け合い”があった様に、同じく”「大蔵氏」と「清和源氏」のこの二つの氏の掛け合い”に成ります。この面では極めて類似しています。
更に、藤原氏の「春日社の氏神」があったと同じくここには「宗像神社」や「阿蘇神社」等の「氏子衆団」の豪族がひしめく地域でもあります。藤原秀郷一門主要5氏が鎌倉期以降にやや遅れて大蔵氏と血縁して勢力拡大をして九州に食い込んで来た時期でもあります。
ただ違う点は下記の通りで「神明社の数」が絶対的に異なる事です。(詳細は下記の神明社で論じる)
それは「関東域の経緯と背景」から観て「八幡社に関わる事件性」や「源氏に対する事件性」がここにも存在し、且つ、この地域は奈良期の早い時期からの「神明社の神域」(詳細下記)であった事が挙げられます。
1と2の地域を比較して観ると次の様に成ります。
2の九州域は「八幡社70+神明社13」=83
総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
1.1倍 0.5 1.3
関東全域 八幡社 7県- 94-26.5%(全体比)-平均13/県
関東全域 神明社 7県-115-20.3%(全体比)-平均16/県 本家域
九州全域 八幡社 8県- 70-19.8%(全体比)-平均 9/県 沖縄含み
九州全域 神明社 7県- 13- 0.2%(全体比)-平均 2/県 西海道
八幡社 福岡39 鹿児島9 大分7 宮崎6 長崎3 熊本3 佐賀2 沖縄1
神明社 福岡9 鹿児島3 大分1 宮崎4 長崎3 熊本1 佐賀1 沖縄1
九州域の源氏中でも清和源氏のそのものの勢力がこの地域に大きく及んだ事は「義家と足利氏」の巻き返しの基盤地域と成った地域でありますし、返して云えばその基盤は「荘園制の名義主(本領)」の土地柄でもあります。つまり清和源氏の「未勘氏族」の地域でもあります。
この「未勘氏族」の数を示すデータでもあります。
1番目の関東域は「清和源氏の数」であります。
2番目の九州域は「未勘氏族の数」と成ります。
これは「清和源氏」は西に大きく「荘園名義主」を伸ばした事を示していて、当然に「未勘氏族」の多い事に成ります。関東の足利氏が南北朝の時に一度北九州に敗退して退きますが、この時の「未勘氏族」の勢力に依って勢力を持ち返し再び勝利して幕府を開きます。
この事からも「未勘氏族」の地域である事は理解できます。
筆者はこの地域の「未勘氏族」が”後の「義家の偶像」を作り上げた”と判断していて、上記した様に彼等の守護神の「八幡社」を少し後に「義家の八幡社」と装具立てたのでは無いかと観て居ます。
清和源氏の足利氏が返り咲く根拠もこの「義家の八幡社」の下に「未勘氏族」を参集させたと観ています。兵騎を参集させるには呼びかけだけでは兵騎は集まらない訳で何かの「共通する旗」の下に参集するのはこの「世の常道」であり「戦いの基本戦術」であります。
従って”清和源氏そのものが建立した”と云うよりは「清和源氏の未勘氏族」が自らの集団の纏まりを「八幡社」に求め、その「八幡社」を「各未勘氏族の圏域」に建立して行ったと考えられます。
ここが関東域と違う所ではないかと考えられます。
この風潮が源氏の中でも最大勢力を誇った清和源氏の「分家頼信系義家一門」の「守護神」と思われて行った原因であると考えられます。むしろ”思わせて行った”と考えるべきです。
「源氏の棟梁・武家の棟梁」と持て囃された風潮の所以の一物です。
対比して「神明社」がこの地域に極めて少ないのもこの大きな風潮の中に入り込めなかった原因であろう事が判ります。
何はともあれこの地は「八幡社」にしても「基八幡社」の北九州宇佐神宮大社の地域、「神明社」にしても日向の「天岩戸神社・高千穂神社」の基社であり何れも「総社」であります。
この事から日向が神明社の基社でありながらも建立は殆ど無いわけであり、「八幡社の総社」であるから建立は多いと云う訳だけではない事が判ります。
それを立て様とした必要とした者の数である事に成ります。
つまりその立場に居たのが「未勘氏族」であります。
しかしながらこの九州行きに於いて「総社」である「神明社」は風潮にならず、総社の「八幡社」が風潮に成った如何は、その違いは”「八幡社」と「神明社」の「未勘氏族」の有無の違い”にあったからです。
言い換えれば「未勘氏族」を造らなかった賜姓族と、「未勘氏族」を造った賜姓族の違いであり、皇族としての「立場とその役目」を護ったかどうかの違いであり、「旗頭」に成ったかどうかの違いであり、究極は氏の「生き様」の如何に拠ります。
このデータはこの事を顕著に証明しているデータであると観ているのです。
その意味でこの九州域は八幡社の「持つ意味」や「全容」や「有り様」を示す地域なのです。
「3の関西域」
・「3の関西域」は11代の源氏の「出自元の集積する地域」でありますが、「神明社」との建立地の混合はありません。”「天皇家の神域」を「弓矢の神」を主神としている為に避けた”とも考えられ、「神明社-八幡社」の争いを避けたとも考えられます。「同族としての争い」を避ける事を一応は配慮していたと考えられます。もしこの争いが起る事も考えられますが、最悪の信義は護った事を意味します。
そもそもこの地域は860年の「石清水八幡社」の関係八幡社が殆どで比較的古い建立と成っていますので、その「八幡社の存在意義の有様」を検証するのに重要な地域です。
下記のデーターでも判る様に思いの外少ない事が判ります。
関西域の京都の「石清水八幡社」が九州の宇佐の「宇佐八幡社」より格上であるとする説もあり、八幡社には三大八幡社のもう一つの「鶴岡八幡社」がありますが、「鶴岡八幡社」は時代性と建立の由来から別にして内容を精査するとどうも「2局の系統」に八幡社は判別されると考えられます。
それは上記した「宇佐八幡社」を中心とする「未勘氏族の八幡社」系列と、「石清水八幡社」の「河内源氏一門の八幡社」系列とに分類出来るのです。だからこの「二つの八幡社の格上論」が出てくるのです。
確かに時代性から云って宇佐八幡社が僅かに先であり、それを都の京に分霊して天皇家が祭祀しやすくした事は経緯は否めません。
「清和天皇が「石清水八幡社」を建立したのを慌てて宇佐の八幡社は「ヤハタ神社」から「宇佐八幡宮」と名称を変更したのもこの「系統の本筋」を争っていたからで、宇佐は朝廷が飛鳥からわざわざ赴任させた「神職官僚の大神氏」と後に引き継いだ「土豪の宇佐氏」の氏神的扱いの「ヤハタ神社」で、一方は「石清水八幡社(ハチマンシャ)」は「天皇家の国家鎮魂の祭神」と定められ、その八幡社から下記に示す「関西域の分霊社」が天皇家に依って増設されて行った為に系統の本筋が関西域となる経緯は当然の事であります。
この事が後に「国家鎮魂」から「弓矢の神」へと、「天皇家の守護神」であったものが「河内源氏の守護神」と観られる様に、或いは利用される様に成っていた起点に成るのです。
そしてその経緯の副産物が「鶴岡八幡宮」であり、鎌倉期以降の「未勘氏族」と云うよりは「武士の神」(武神)としての守護神の八幡社とはっきりと変化して行った象徴の八幡社と考えられるのです。
この3大八幡社は次ぎの変化を起こします。
「石清水八幡社」→「国家鎮魂の八幡社」→「天皇家の守護神」⇒「河内源氏の守護神」・「弓矢の守護神」
「宇佐八幡社」→「氏神の八幡社」→「未勘氏族の守護神」⇒「九州武士の守護神」・「「弓矢の守護神」
「鶴岡八幡社」→「弓矢の八幡社」→「河内源氏の守護神」⇒「関東武士の守護神」」・「弓矢の守護神」
(注:「氏神」は下記に定義する枝葉の広い関係族の氏姓の護り本尊の意味)
源氏滅亡の鎌倉期直前からこの3つの八幡社の系列は「未勘氏族の弓矢の八幡社」で結びついて行くのです。(地域に依っては「弓矢の八幡社」→「家内安全の守護神」と変化を遂げます。)
この関西域の八幡社は「石清水八幡社系列」である事は勿論ですが、「河内源氏」と関わっている事から「弓矢の八幡社」と考えられがちですが、実は上記で論じた様に歴史的に860年を起点に祭祀されていますので、「八幡社の本来の初期の守護神の形(存在意義)」が判るのです。
「神明社」の「豊受・五穀豊穣」(生活の神・物造りの神)の守護神」であった様に、当初は「八幡社」はそれは「国家鎮魂の守護神」であったのです。
それが時代背景から八幡社は変化して行った事なのです。
「国家鎮魂」は、飛鳥の「ヤマト王権」の日本の国を始めて一応の「5族連合」の「統一政権」を造ったのは「応仁大王」で、「天皇制」から観ては初代の「国家生誕の統一国家の王」を天皇として定めそれを祭祀する社である事から「国家鎮魂の守護神」と崇められたのです。
平安期に京に都を置く事により「石清水八幡社」は「国家鎮魂の守護神」として累代の天皇から天皇家が祭祀する守護神として扱われてきたのです。
3の関西域 「八幡社52+神明社25」=77
総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
基準 1-77 基準 1-25 基準 1-52
この地域の「八幡社」と「神明社」のを比較してみると次ぎの様に成ります。
関西域 八幡社 7県-52-14.7%(全体比)-平均7/県 源氏の出自元の集積圏域
関西域 神明社 7県-25- 4.4%(全体比)-平均4/県
この「八幡社の数」は1或いは2の地域と異なり「未勘氏族」ではなく真に「源氏の力」(主に河内源氏)による建立と観られ、その「源氏の定住地」に建立されている事であり、「戦略的要素」のある「八幡社建立地」は少ない事が挙げられ比較的に平地に建立されているものが多いのです。
しかし、上記した11代の源氏が各自建立したと云うよりは次ぎの県別で観ると殆どは清和源氏の「摂津地域」、「河内地域」、「大和地域」、に主に建立されているのです。
八幡社 兵庫24 大阪11 和歌山8 京都4 奈良2 滋賀2 三重1
神明社 兵庫11 大阪1 和歌山2 京都2 奈良1 滋賀3 三重5
(大和は和歌山と奈良に跨る地域)
この事から観ると清和源氏外の源氏10家は「弓矢の八幡社」に深く関わっていなかった事がこれでも判ります。「武家」であっても弓矢に直接関わらない「武家貴族」であった事が伺えます。
10代の源氏の「武家貴族」はそもそも「皇祖神」に繋がる「祖先神-神明社」であって「武家貴族」である事から積極的に「弓矢の八幡社」の方に帰依し変更する根拠は無い筈です。
しかし滋賀2は佐々木氏系宇多源氏 三重1は北畠氏系村上源氏、京都4は「石清水八幡宮」に代表する様に上記した背景から一門に依って源平期に「義家系の一門」に依ってその勢力誇示から建立されたものと観られます。(近江には賜姓佐々木氏がある)
そうすると京都4と滋賀2の数は、次ぎの様な事を物語っています。
上記した八幡社の定義として、”「源氏義家系の未勘氏族の守護神の八幡社」”であって、必ずしも”源氏そのものの「守護神」であると云う定義ではない”と云う事です。
結果、「未勘氏族」が遺した「八幡社の氏資料」で、後に”「源氏の守護神」と決め付けられてしまった”、又は”勢力保持の為にも決め付けられる事を一門は期待し利用した”と云う経緯”とすると、上記した様に此処でも矢張り次ぎの関係式が成り立ちます。
「八幡社」=「源氏頼信系義家一門の守護神」=「未勘氏族の守護神」=「武家の棟梁」=「八幡神」
この京都4・滋賀2には主な「未勘氏族」が存在しない事から「義家一門」が建立して”利用した”を物語る数字です。但し、自分の意思で建立したかは検証を要する事と成ります。
そこで、先ず歴史的に観て、殆どが「清和天皇」が860年に建立したとされる「石清水八幡社」の関連社(離宮八幡社等)の由来のある八幡社ある事です。
中でも、「河内源氏」の問題の「源頼義」が「後冷泉天皇」(1045-1068)からの勅命にて「石清水八幡社」からの霊験を自邸に移して建立したとされる「若宮八幡社」があり、又、同じくこれを河内に勧請した「壺井八幡社」があります。
この記録の通りこの頃(860年~1000年-1045)は未だ「天皇の勅命」による建立であって、その目的は何れも「国家鎮魂の為」とする記録がありその「存在意義」であって、それを勅命により「河内源氏」が積極的に建立した事がこの「京都4と滋賀2の八幡社」である事が判明するのです。
実は諸々の資料から1010-1050年の間の50年程度には、「天皇家の勅命」とは別に社会にはこの経緯から如何にも「河内源氏の守護神」であるかの様な漸次の風評期間があった事が確認できるのです。
結局は、1000年直後までは「弓矢の神の八幡社」では無く「国家鎮魂」の「天皇家の祭祀神」として存在していたのです。
それまでは「弓矢の神」の存在意義は全く無く、その後の上記した様に”この経緯を利用してこれを発展させた義家”の行為と見做されるのです。そして、それに大きく関わったのが河内源氏の「頼義-義家」であった事に成ります。
この「経緯と記録」からも明確で、「勅命」に依って建立された「石清水八幡社関連の八幡社」でそれを「清和源氏」(河内源氏)が「勅命」を受けてその守護地に建立したものが殆どなのです。
「摂津地域」と「大和地域」は「宗家頼光一門」と「分家頼親一門」が「勅命」で「国家鎮魂」の目的で建立したもので「氏の守護神」とした建立では無かった事がこの関西域の考察で良く判ります。
そうするとこの「八幡社の環境下」の中で果たして「神明社」がどの様な事に成っていたのか気に成ります。恐らく建立には何らかの関係があった事が考えられます。つまり直接八幡社として新規に建立したのかどうかの検証です。
「神明社」に付いて三重5は「皇祖神」の地元であり前記「19の神明社」を建立した経緯からこの数字は納得できるものですが、しかし、兵庫11は「近江青木氏」が建立したとするには問題があります。
何故ならばそれは”神明社を建立するには近江青木氏の経緯”に問題があるのです。
そもそも平安初期に「近江青木氏」は近江にて「近江佐々木氏」やその系列の「佐々木氏系青木氏」との同地域内での「勢力争い」のような事が起こり、その為それを避ける目的で近江青木氏は一時滋賀に移動していて、後に近江に戻ると云う経緯があるのです。その後、「摂津源氏」の保護の下に摂津に移動定住します。この背景があり「源平の戦い」で合力して潰され、その後、美濃に逃亡し同族の「美濃青木氏」と共に「富士川の激戦」で敗退して滅亡し一部末裔が攝津に逃げ延びた経緯を持っています。
この様に源氏と共に最も早く滅亡に近い衰退を起した事から、この兵庫11を興す勢力は無かったと考えられます。
これは「摂津源氏」の「清和源氏の宗家頼光系四家」により建立されたか、或いは「近江佐々木氏」かその「佐々木氏系青木氏」かが何らかの事由(勅命)で建立した可能性が高いのです。そしてその神社は「神明社」の可能性が高いのです。
現在ではその判別は、社遺が古すぎる事から「初期の創健者」が不明な神明社が多く困難なのですが、ただ「八幡社」としては共に頼光系宗家筋が建立していた事を示すデーターが6~8の八幡社と成ります。
実はこれ等は記録があるもので観ると、極めて古く750~1025年までのもので、「創建」と云うよりは「朝廷の命」により「管理・維持・建て直し」を命じられたものが多いのです。
その多くは「摂津源氏」の「荘園」、或いは「領地」の中に存在するものが多いのです。
前段で論じた大化改新の「19の神明社」と共に、
奈良期から平安初期に建立された[自然神の祭祀社屋」や、「産土神の祭祀社屋」や、日本書紀にも書かれている「風神雷神の祭祀社屋」を、平安期初期から平安中期には「神明社」に変換し、その後の平安末期から平安後期には更に神明社から「国家鎮魂の八幡社」に変換させる事の勅命がこの2つの氏の何れかに下されそれを護ったものと観られます。
これは時代背景が大きく左右したと考えられますが、記録が一部を除いて完全に消滅しているのです。
ただ古くて幾つかの遍歴を遂げている事が「断片的に遺されている社資料」などや「伝統行事の内容の検証」など「地域内の他の社殿」とその「社殿の配置関係」を対比考察すると判る範囲です。
この平安期には社殿の建立は全て中国から伝来した「方位学や陰陽学」等を使って建立されているのです。ある程度の条理を以って無秩序には建立されていないのです。それから観ると、「地域内の他の社殿」とその「社殿の配置関係」は重要な要素なのです。
記録が消失していると観られる他の社殿にはこの「方位学や陰陽学」の何がしかの関係がある事が伺えるのです。
そうすると、次ぎの遍歴がある事が判ります。
「祭祀社屋から神明社」に
「祭祀社屋から八幡社」に
「神明社から八幡社」に、
この「3つのパターン」がある事が判ります。
しかし、何がしかの条理があった歴史的な祭祀社屋からのもので、新規に「八幡社の建立」は室町期中期前には確認できません。
又,この「3つのパターン」がどの神社に当てはまるかは古くて資料記録が無く断定できる程に確認が取れません。
しかし、その証拠としてこの中には「地域内の他の社殿」として明らかにこの「経緯」を辿り「勅命」で修復や再建した事の記録が残されているのです。
因みに「八幡社」と成ったものとして「魚吹八幡社」、「宗佐厄神八幡社」、「多井畑八幡社」、「柏原八幡社」、「松原八幡社」、「波豆八幡社」等があり、これ等は上記の「勅命・条件・経緯」を持っている事が記録から出て来ます。(詳細は論外の為別途)
従って、他の八幡社も多くは古くありながらもその経歴が消滅しているものが多く、形式上は現在は「村社、県社」扱いに成っているのです。つまり「氏社」は全く確認出来ないのです。一般の「氏の守護神」では無かった事を意味します。記録が無いだけで「村社や県社扱い」に成っていると云う事です。
とすると、この関西域の「八幡社の兵庫24」と「神明社の兵庫11」は、少し違う事と成ります。
そもそもこれ等の「弓矢の八幡社」は「義家」後の「八幡社」である事から、この「八幡社の兵庫24」は主に当初は「神明社」として建立されていたのではないかと考えられます。
併せて「神明社35」であった可能性が考えられます。
その意味で「兵庫の八幡社」は、その後、朝廷はもとより「戦国の世」と成って行って「建立者」や「維持管理する氏」が滅亡していった事から、当時の幕府は時代の背景から一部「神明社」を「弓矢の八幡社」に変更して行ったと考えられます。
その根拠としているのは、「八幡社」の3大八幡宮の「宇佐八幡宮」、「石清水八幡宮」、「鶴岡八幡宮」と共に、これ等の35の社は「合祀-八幡神」の経緯の中で変更された可能性が充分あり、「関西域の八幡社」には他の地域には少ない「合祀」が多いのはこの傾向があった事を物語ります。
「合祀」に依って「生活の神」「物造りの神」と「弓矢の神」の2つが合祀される事で全ての民からの信仰を集める事が出来る事に成り、「建立主」と成っていた「清和源氏」の衰退滅亡後の寄進による神社経営を救ったと考えられます。
ここが「未勘氏族」が主体と成った建立地域ではなかった「特別な神社経営の事情」がこの地域にはあったのです。
そうなると、「源平合戦」の初戦「以仁王の乱」(1180年)の主謀者の「頼光系宗家4代目源三位頼政」までの期間の建立・再建と成ります。
「八幡社」としては「1050年頃」からとすると、「乱後の130年間」と「乱前の200年間」で「合計330年間の神明社の建立期間」と成り、「兵庫の神明社35社」は1社/10年とすると充分に建立は可能と成ります。
「大和源氏」の頼親系は兄の頼光に慕っていて同一歩調を採ったとされているので、大阪11、和歌山8、滋賀2の八幡社は神明社では無かった可能性が高く、52の内の21は八幡社で有った事に成ります。
依って、この関西域に於いての31(52-21)の「八幡社」は元は「神明社」であり、純粋な「神明社25」と併せて56/77は「八幡社1050年」を基準として基準前の「250年間の神明社」(嵯峨期809年 前期2)と「大化期から嵯峨期までの150年間の神明社」(前期1)の「400年間の神明社」-この2期間を「前期」とすると神明社は「前期25の建立」と成ります。
「150年間の神明社」(前期1)-「250年間の神明社」(前期2)-・「八幡社1050年」→「神明社-25」
・「八幡社1050年」-室町期中期までの400年間(後期)→「神明社-31」
「八幡社1000年」→「守護神」の風評開始
「八幡社1050年」→「守護神」の風評定着→「弓矢神」の風評→「河内源氏」
「八幡社1090年」→「弓矢神」の風評開始
「八幡社1099年」→「弓矢神」の風評定着
そうすると「八幡社1050年」の基準後から室町期中期までの400年間を後期とすると、この後期は神明社は31/52に分けられる事に成ります。つまり純然とした「八幡社は21/52」と成ります。
関西域に於いては「八幡社は21」であり、清和源氏分家頼信系義家一門の「勅命」による「自前の建立」と成ります。
従って、「神明社」はこの地域では頼信系を除く「源氏」や「2つの青木氏」の「賜姓族」による「56の建立」(25+31)と成ります。
「神明社」はこの関西地域では全体の丁度1割を占める建立をした事に成ります。
この関西域の検証は時系列的に観ても上記の経緯を辿った事が充分に証明できます。
「4の中部域」
・「4の中部域」は関西域とは少し違った経緯を辿って言います。
この「4の中部域」は「賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」の重要拠点でありますが、ここは「清和源氏宗家」の「頼光系四家の国司代の圏域」でもあり、この宗家筋は「3つの発祥源」として”同歩調を採っていた事”や「濃い同族の血縁関係」がある為に「神明社-八幡社の競合」は起らなかった土地柄です。
むしろ”起らなかった”と云うよりは”起る事はなかった”と云った方か正しい事でしょう。
総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
3.5倍 8.5 1.3
この4の中部域の状況は次ぎの様に成っています。
4 中部域 八幡社 8県-52 -14.4%(全体比)-平均7/県
中部域 神明社 8県-212-37.5%(全体比)-平均27/県
八幡社 愛知14 静岡12 岐阜12 富山5 福井3 山梨3 長野2 石川1
神明社 愛知33 静岡18 岐阜31 富山33 福井8 山梨72 長野15 石川2
この中部地域の「八幡社」と「神明社」のデータを比較すると、上記1、2、3の「3つの地域」とはその比率が完全に逆転しています。八幡社<神明社の状況です。その差も大きいのです。その大きい理由がこの中部域にあるのです。
この地域は先ず「皇族賜姓族」と「特別別賜姓族」の「2つの青木氏」の勢力圏であり、尚且つ秀郷一門の勢力圏であったのです。その中で全ての「頼光系四家の国司代の圏域」でもありました。
しかしながらこの地域の「八幡社の数」を観てみると左程に「源氏の勢力圏」では無かった事を物語ります。
更に云えば、前記した様に「頼光系四家」は「八幡族」では無かった事を述べてきましたが、清和源氏力が最も強かったところです。「八幡義家の祖」である「頼信」は兄の「頼光」からこの地域の勢力を借りて坂東に伸張していって伊豆に第2の拠点を設けて勢力を拡大した基拠点となったところです。
摂津を発祥拠点として「藤原道長」の四天王と呼ばれた程にその勢力を背景に中部地域に清和源氏の勢力拠点を築いていた所です。その守護職はこの圏域の11の地域を務めた地域でもあるのです。
しかし、その割には「八幡社の数」が少な過ぎます。
真に「源氏の勢力圏」ではなかったと観られる程度にそれを物語ります。
頼信系が「八幡族」として勢力を持ちえたと云えどもその勢力を遥かに凌ぐ清和源氏の宗家の「最大の拠点と成る地域」であります。此処なくして頼信系の関東の勢力圏は軍事戦略上、「摂津拠点」から関東の間の中間を抜かれた戦略形態と成り「伊豆拠点」と「関東拠点」は成立しません。
(伊豆は頼光系四家宗家の最大所領地 この東隣に頼信の伊豆前線拠点を設けた)
それ程の戦略上の最重要拠点地域でもあります。
”では果たしてこの「八幡社」は何なのか”と云う事に成ります。
この中部地域は「神明社」に於いて全体の4割に近い勢力を誇っており、県内平均27とすると郡内に5前後の「神明社」が存在し、村には1社必ず存在する地域と成ります。
そこに「八幡族」でない「八幡社」が郡に2社程度とすると2村に1社がある事に成りますので、この2つを合わせると1郡に7社で1村では2社程度の勢力圏と成ります。
ここに秀郷一門の春日社が建立されていますので1村で3社~4社は必ずある事に成ります。
1村に3社~4社の守護神がある事は、当時の人口が現在の1/4とすると守護神が過飽和状態に近い状況であった事を物語ります。とすると、この状況からそもそも「弓矢の八幡社」の「存在意義」は「村民」に採って意味を成さない筈です。
兎も角も、そもそもこの地域は、飛鳥から奈良時代に掛けて日本書紀にも書かれている様に、後漢の阿多倍王が率いてきた職能集団が入植した最大の地域なのです。
従って、「生活の神」「物造りの神」に対する「心の拠り所」としての「守護神の意義」は他の地域とは比べ物にならない程に高い意識があったのです。その様な環境の中に「弓矢の八幡社」が平安末期に入り込む余地は少なかった筈で、あったとしても「弓矢の意味」では無かった事を意味します。
その証拠にこの地域は「神明社」が全国比4割を占めている環境なのです。
民は「生活の神」「物造りの神」の意識が特別強かった事からこの「日本一の数字」を示しているのです。
そこで「上記の環境下」ではこの212の4割は少ないと考えられ、5割程度前後の神明社が集中していなければならない筈です。(下記の「圏域の勢力数」の表から計算できる 計算では神明社47%が妥当)
この状況の中で、上記データでは「生活の神」「物造りの神」が主導し「弓矢の神」は1/4程度と極めて勢いは無かった事を証明しています。
では”この「八幡社」は一体何なのか”の疑問は、そうなると”八幡社であって八幡社でなかった”と云う事に成ります。”「八幡社」の形を整えていたが「八幡社」ではなかった”と云う事に成ります。
では、”どの様な「八幡社」なのか”と云う事に発展します。
この地域の「八幡社」は「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」と「頼光系源氏」と10源氏の内の「4つの源氏末裔」の勢力圏の中にあり、「弓矢の頼信系源氏」とその「未勘氏族」が「弓矢の神」としての「八幡社の守護神」を公然と建立する事は出来たかは大いに疑問で、論理的に不可能と考えられます。
従って、結論はこの地域の「八幡社」は”弓矢の特徴を下ろしていた”と云う事に成ります。
故に、この中部域の「八幡社」は、「弓矢の神の守護神」だけではなく、全体化していた環境の「生活の神」と「物造りの神」の「守護神」の中では、「中間の曖昧な機能」を果たしていたと考えられるのです。
つまり、「合祀」乃至は”「神明社化した八幡社」”であった筈です。
何故そうなったかは上記する環境下にあった事は勿論の事、それは多少は”「民の必然性」がそれを後押しした”と考えています。
つまり、平安末期以降(1023年以降 農奴と部曲の開放)に前段で論じて来た「民」とりわけ「農民の役割」にあったのです。それは”「農兵」が新たに出来上がって行った時代”であったのです。
それまでは、「戦いの担い手」には「2つの身分階級」があったのです。
それは「武家」の呼称と「兵」の呼称とに依って構成されていたのです。
「武家」を構成する「武士」は、組織化して上下の関係を保有した武装集団。
「兵」は上下関係を有さず組織化せず職能集団化した「武装兵団」
以上2つに分けられていたのです。
「源家勢力」は「武家」軍団側で「融合氏」集団で「未勘氏族」を従えた組織集団です。(祖先神)
一方は「平家勢力」は奈良期から阿多倍一門が率いてきた「兵の職能集団」(漢氏、東漢氏、物部氏等)を配下に従えた側で「たいら族」や「大蔵氏」等の「民族氏」集団であったのです。(「産土神」)
「源平」は外見から同じ様な「武装集団」と見られがちですが、実は前段でも論じてきました様にそもそもその「基盤構成」は異なっているのです。
然し、時代は次第に乱世へと突入し何時しか世は「下克上 戦国時代」へと突入して行くに従い、この「武士」と「兵」の「2つの集団」では間に合わなくなり「農兵」が生まれて来たのです。
この半職業化した「農兵」は「弓矢の場」に赴くに従い彼等の「心の拠り所」の「生活の神」と「物造りの神」の「日常の神」に、”「弓矢」から身を護ってもらえる「神明社」”を要求して行ったのです。
そこで、「神明社」は次ぎの何れかの守護神の形を採る様に成ったのです。
”「八幡社」を合祀する形を採る「八幡社」(合祀八幡社)”
”「神明社的な形を採る八幡社」(神明化八幡社)”
以上の形として変異させたかの何れかの守護神の形を採ったのです。
これがこの中部域の「37%程度を占める神明社」と「15%程度を占める八幡社」の実態なのです。
そこで地域8県を検証すると次ぎの様に成ります。
1 愛知14と静岡12は特別賜姓族の「専圏区域」、
2 岐阜12と長野2と山梨3は皇族賜姓族系列と頼光系源氏の「融合区域」、
3 福井3と富山5と石川1は4つの源氏末裔族と皇族賜姓族の「共存区域」
以上の様に中部域の小地域(県)に依っては「八幡社の分布」は「3つの区域」に分類出来るのです。
当然に、この特色の持った「3つの区域」の「八幡社」は上記する「合祀八幡社」か「神明化八幡社」の傾向が明確で全てとは云い難い所はあるが一つの傾向を示しているのです。
A 「1の専圏区域」-「合祀八幡社」
B 「2の融合区域」-「神明化八幡社」
C 「3の共存区域」-「合祀八幡社+神明化八幡社」
Aは富士川の激戦地で「美濃賜姓青木氏と土岐氏系青木氏」、「近江源氏と近江賜姓青木氏」、「美濃源氏」、「駿河源氏」、「木曽源氏」等の「賜姓源氏」と「賜姓青木氏」が終結して敗退し滅びた区域でもあります。
この地域には「秀郷一門」と「特別賜姓青木氏」が残りその勢力は最大勢力を誇っていた場所である事から「神明社」を建立すると共に、秀郷一門の「春日社」も共存する柔軟な圏域でもあった事から「八幡社」をも公然と建立し、その運営を柔軟にする事から「生活の神」と「弓矢から護る神」のどちらかのご利益が働く「合祀」の形の「八幡社」が多く観られるのです。
Bは奈良期から平安中期(800年頃-桓武期)まで「賜姓青木氏」の守護地であった事と、その後に「清和源氏宗家頼光」が各地(11)の守護代、国司を務めた政治的、戦略的な重要な区域であったところです。
「3つの国」の「賜姓青木氏」と同族血縁して「清和源氏宗家」と、奈良期から居た「賜姓青木氏3家3流」が融合した区域であって、此処には「特別賜姓青木氏」も「秀郷一門」も強く勢力圏を保持しなかった中間区域でもある事から、「神明社化した八幡社」の融合の形を採っていた区域であります。
特に「弓矢」そのものより戦乱の世から「家族身内の身」を護ってもらえる「守護神」でもあり「生活の神」「物造りの神」の守護神でもある形を採っていたのです。
その後のこの「地域の形」が室町末期から江戸期には「八幡社」は「神明化八幡社」が共通の形と成って行ったのです。
「世の中の安定」と他の「守護神との競合激化」も合わさって一種の「総合神社」の様相を呈して行ったのです。
Cは他の賜姓源氏と嵯峨期の詔勅に基づく源氏族が「源平の争い」から逃避して定住した地域でもあり、「賜姓族青木氏」の「足利系青木氏」や「武田氏系青木氏」や「諏訪氏系青木氏」等が平安中期から室町中期にかけて「争い」から遠ざかる為や「戦い」により逃亡して来た地域の「移動定住地」でもあったのです。
この「移動賜姓族」と目される末裔は「融合」を起さず「自然衰退」や「断絶」や「滅亡」が起った地域でもあるのです。
中にはこの区域から鳥取米子から島根東へ移動した一部の「賜姓族青木氏」や「讃岐籐氏の青木氏」を頼って高知に移動する等の流れが起りました。又、北には更に越後の「秀郷流青木氏」を頼って逃げ延びている通過経路とも成っていたのです。
ここに定住した賜姓源氏の逃亡末裔や嵯峨期詔勅の皇族源氏が「地元の血縁性のある未勘氏族の力」も得て「神明化八幡社」か「合祀八幡社」を建立して生き残りを図ったと観られます。
実はこの地域の「神明社」や「八幡社」の神職には青木氏と佐々木氏が実に多いのです。
実はABCの判別にはこの「神職のルーツ」が判別要素の一つとして用いたのですが、この区域は特にこの傾向が顕著であったのです。
この「Cの区域」は他と異なる点は「地元の血縁性のある未勘氏族の力」を利用した形跡があり、恐らくはこの力を利用し切れなかった一部の青木氏や源氏の賜姓族が西と北に更に定住先を求めて移動して行ったと考えられます。
問題はこの「地元の血縁性のある未勘氏族の力」なのです。
1000以上もあると云うか数え切れないと云うか、この「未勘氏族」と観られる族を全国各地に振り分けて、これに家紋群で貼り付けそれを「賜姓源氏」と「皇族源氏」と其の他の本領と成った豪族毎に分けて行く作業を行い研究し考察すると、その全体の傾向が掴めてきます。
その内、清和源氏の占める割合は全体の8割弱を占めますが、この研究(何時か論文で発表)からこの「Cの区域」の「未勘氏族」を観ると、次ぎの様に分けられます。
「清和源氏外の源氏の未勘氏族」(A)
「賜姓青木氏族の未勘氏族」(B)
前段で論じた「2つの絆族」の「薄い外縁未勘氏族」(C)
或いは「家臣による青木氏未勘氏族」(D)
以上4つで占められているのです。
然し、これ等(A)(B)(C)(D)の「未勘氏族」は平安末期の源平の戦いと、室町期の「下克上と戦乱」で滅亡衰退して行き、或いは裏切り、結局はこの「Cの区域」に逃げ込んだ賜姓族は西と北に再び移動せざるを得なかった事が判ります。
この事からもこの区域の「八幡社」は殆ど”「合祀八幡社」”や”「神明化八幡社」”と云うよりは、”「八幡化神明社」”と最終は流動的で室町中期から室町末期には成ったと考えられるのです。
恐らくはこの区域での傾向として
賜姓源氏系は佐々木氏で「合祀八幡社」、
賜姓青木氏系は「神明化八幡社」
以上にとに判別できるのです。
それはこの神職青木氏が越後-陸奥にまで大きく血縁して全国的にも「神職青木氏」の多い所だからでそれを証明しているのです。
全体としてもこの傾向は観られるのですが、この「中部域の神職」は相互に重層な血縁関係を結んでいる事が上げられます。
この意味からもこの「中部域の八幡社」は全国最大の「神明社帯」とも云える神明社群の中で「合祀八幡社」と「神明化八幡社」の成行きは納得出来るものと成ります。
この事は前段でも論じた「青木氏の職能集団」との関わりも大きく影響していた事が云えます。
この事は下記の神明社の処でも論じる事に成る重要な事柄です。
(前段の論説には大きく関わる領域ですので想起して下さい)
結局は、このこの中部域は「神明社地域」と観ていて、元来は「神明社」と「八幡社」を合体合計した「264の神明社域」であったと考えています。
中部域の「神明社の数」が「神明社」と「八幡社」のこの合体合計264とすると、上記する「5割域の分布」の自説は「46.6%の計算値」と成り予測とほぼ一致して納得出来る論説に成ります。
この地域では「弓矢八幡社」系の「頼信系源氏」とその「未勘氏族」は全て平安末期の「源平の初戦」の「富士川の激戦」で滅亡衰退している事から「弓矢八幡社」の意味合いはそもそも著しく無く成っているのです。
前段で「平家織田氏の処域」で論じた様に、後に室町中期以降の勃興した武田氏が通説と成っている「頼信系源氏の河内源氏」の傍系を主張しているがその自説由来の経緯は疑問です。
つまり、「頼光系源氏」と「4つの賜姓源氏末裔」と「皇族賜姓青木氏3家3流の勢力」と、藤原秀郷一門の「第2の宗家」の「特別賜姓族の勢力圏」であった事が良く判ります。
依って、筆者は”264(212+52)が中部地域の神明社の実質の勢力である”と観ているのです。
鎌倉期から室町期中期には「源氏力」、又は「未勘氏族の力」がここまで及んでいなかった事が判り、「関東の戦略的前線」としての地域には「頼朝の源氏幕府」が元来より「浮き草」の上にあった事も良く判ります。
その意味で「美濃」での「源平の初戦」は大きな意味を持ち、「近江源氏」と「美濃源氏」と「駿河源氏」と「木曽源氏」等の周辺の源氏主力が此処に終結して、敗退して滅亡した事は大きな意味を持っています。
つまり「源平の勢力圏」の丁度、「間」に合ったことに成り、その「間」は同時に「神明社」の最大勢力圏であった為に平家側には富士川で大乱と成り、源平共に崩れて行った地域であったのです。
「八幡社の勢力」と「神明社の勢力」が合体して戦ったとしたら互角の勝負に成る事は良く判ります。
「八幡社族の源氏」と「其の他の源氏」と「3つの地域の神明族」がこの時に史実として参戦しているのです。その「八幡族」と引きずり込まれた「3つの神明族」は滅亡してしまったのです
それを証明するこれが「八幡社と神明社」の対比データです。
しかし、それにしても「神明社212」に対して「52の八幡社」は少ないのですが、「関西域の52」と同じ規模の「八幡社」をこの地域で有しているのです。
この「地域の規模」を「八幡社+神明社」の「数」をパラメータとするならば、「源氏11家」と「皇族賜姓族、特別賜姓族」の本拠地でもあった「関西域77」に対して、「中部域」は何と264と成り、「約4倍の勢力圏」であった事に成ります。
「都地域の約4倍」にも成る如何に大きな力を秀郷一門は持っていたかが判ります。
そこで「神明社と八幡社」を全体で観てみると、「関西域の77」(都域)を1として観て見ると次ぎの「勢力分布」を観る事が出来ます。
関西域は「神明社と八幡社」の「成立ちや有り様」が標準的な要素として存在していた事からそれを基準として全国のデータを観て観ると事は客観的な判断に成ります。
そうする事により「2つの青木氏」の「全ての姿」を物語る極めて重要な結果が出るのです。
圏域の勢力数 総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
1の関東域は 「八幡社94+神明社115」=209 2.7倍 4.6 1.8
2の九州域は 「八幡社70+神明社13」=83 1.1倍 0.5 1.3
3の関西域は 「八幡社52+神明社25」=77 1 1 1
4の中部域は 「八幡社52+神明社212」=264 3.5倍 8.5 1.3
5の東北北陸域は「八幡社38+神明社97」=135 1.8倍 3.9 0.7
6の中国域は 「八幡社24+神明社9」=33 0.4倍 0.4 0.5
7の四国域は 「八幡社21+神明社10」=31 0.4倍 0.4 0.4
(この神明社の詳細分析は下記に論じる)
前段で論じて来た青木氏に関する内容の根拠はこのデーターを引用するところが大きいのです。
そして、この「最大の勢力圏」を誇る中部域は、更にはこれに留まらず東の後側に本拠地の「1の関東域」2.7倍を控えているのです。更には「5の東北北陸域」1.8倍を控えていて、都に比べて約合計8倍の如何に「絶大な勢力圏」を保持していたかが判ります。
「神明社」だけでその勢力圏を観た場合に、都に対して矢張り中部域に8から9倍の主力があり、その後ろに本拠地の4倍の勢力を控え、東北北陸域には4倍の勢力圏を保持していた事が判ります。
これは何を物語っているかという事ですが、この分布は「2つの青木氏」の「勢力分布」にも成り、青木氏の勢力外の「末裔分布」の状況・在様をも示している事に成ります。
この傾向は八幡社を加えた総合倍率から観ても全く同じ倍率分布を示しているのです。
次ぎの関係式が成り立ちます。
総合倍率≒神明社倍率=「青木氏の勢力分布」=「青木氏の末裔分布」
「神明社の勢力分布」は「青木氏の末裔分布」に完全に合致し、更にはその「青木氏の勢力分布」をも示し如何に正しい事かを意味します。
「八幡社倍率」から「八幡社」だけで観た場合に都に対して大きく差が無く、ほぼ均等に勢力圏を広げ、その力は「神明社」の力に対して25%(1/4以上)以下の差があった事に成ります。
「八幡社の分布力」は「頼信系清和源氏」の「勢力分布」であり「末裔分布」をも示しています。
それは九州域-(中国域)-関西域-中部域-関東域が1~2の中に在りここに「清和源氏頼光系四家」の勢力圏が入っていない事が判ります。八幡社を守護神にはしていなかつた事を証明しています。
仮に入っていたとすればその勢力圏であった基圏域の関西域の1とする「基数字77」は高くなり最大の勢力圏域の中部域はもっと1.3から1以下に低くなる筈ですし、北陸域も一部勢力圏であった為に0.7より0.4程度にそもそも成っている筈ですがそうでは無く、「義家の歴史の行動史実」と数字は一致します。
つまり「清和源氏頼光系四家」は「八幡社」を守護神にしていなかった事を示します。
その分「神明社倍率」の数字は「賜姓族と特別賜姓族」の「2つの青木氏」の成す倍率以上のものがあるのは「清和源氏頼光系四家」の神明社の分が組み込まれているからです。
これは次ぎに論じる「神明社の処」の論処で更に詳しく物語ります。
「頼信系清和源氏源氏」とその「未勘氏族」の勢力と、「2つの青木氏」と「他の源氏力」の勢力には4倍の差があった事を物語ります。
「頼信系清和源氏源氏力」+「未勘氏族の勢力」<「2つの青木氏力」+「他の源氏力」=1<4
「八幡社」<「神明社」
しかし、この神明社の勢力には弱点が在った事を示しています。
中国と四国と九州域(0.4~0.5域)には殆ど勢力は無かった事が示されています。
「青木氏」、つまり「神明社」は”勢力が東に偏っていた事”を物語ります。これが弱点です。
この0.4を勢力と観る場合、四国の讃岐籐氏の「讃岐青木氏」と「阿波青木氏」と一部「土佐青木氏」の勢力と観る事が出来ます。
同じく、0.4の中国は讃岐籐氏の「出雲青木氏」と鳥取米子の「足利氏系青木氏」の勢力と観る事が出来ます。
0.5の九州は北九州3県の分布の秀郷一門の「肥前青木氏」の「末裔の勢力」と見る事が出来ます。(下記に論じる)
又、「青木村」を形成した「日向青木氏」は下記に論じますが「神明社」を建立する勢力は無かった事が判っています。
以上「2つの青木氏」が分布する地域がこのデータに漏れる事無く完全に合致し、その「末裔分布力」、又は「勢力分布」として数字的に表現出来るのです。
この結果、「八幡社の役割」は、「清和源氏分家頼信系義家一門」の「八幡社」であった事で、地域的にも、勢力的にも、期間的にも、「神明社」のそれに比べて1/4程度に小さく、元より大きな働きは無かった事が云えます。
明らかに「弓矢の八幡」としての役割に終わった事が云えます。
源氏滅亡以降は各地の武士、特に九州域と関東の南域による「未勘氏族」により支えられていた事を物語ります。
「中部地域の八幡社」は、結論として「合祀八幡」乃至は「神明化八幡」であった事に成ります。
「八幡社」のその「存在意義」は次ぎの様な変異を地域的に遂げている事が判ります。
これは次ぎに論じる「神明社の論処」でも証明する事が出来るのです。
西から北に掛けて次ぎの変異の存在意義であったのです。
地域に於ける「存在意義の変異」
「八幡社」(九州域)→「混在社」(中国域・四国域)→「合祀八幡社」(関西域)→「神明化八幡社」(中部域)→「八幡化神明社」(関東域)→「神明社」(東北北陸域)
注:「混在社」とは「八幡社」と「神明社」が同率で変異せずに低率で混在していた事を示す。
上記のフローから「九州域の八幡社」から「東北北陸域の神明社」へとその「有様」が次第に「地域変化」を起こしています。真にその中間が「関西域の有様」であったのです。
そして、「九州域の未勘氏族」から「北陸東北域の民衆」の「有様」で合った事なのです。
これは「地理的要素」と「歴史的要素」の「2つの違い」から来ているのです。
上記の「存在意義の変異」を参考に殆ど「神明化した北陸東北の八幡社」に付いて次ぎに論じます。
「5の北陸東北域」
・「5の東北北陸地域」の状況は次ぎの様に成っています。
そもそもこの地域は歴史的経緯として「親神明社」と云うだけでは無く、更に強烈な「反八幡社」の土地柄なのです。
この「民の心情」は歴史が長く古くは奈良期から始まり「蘇我馬子」の攻められ「蝦夷」と蔑まれ、その平安期初期(802)には「アテルイ騙し討ち事件」が起り、平安初期に掛けては「国家戦略」としてこの地域を征討し、その安定化の為に「朝廷の威信」を掛けて「神明社建立」を推し進めた地域でもあります。
この「未開の蝦夷地の征討」とそれに合わせた「安定政策」が実行された苦い経験を持つ土地柄です。
前記した様に「皇族賜姓族の神明社建立」から代わって「桓武天皇」による「皇祖神」に変わる「神明社建立」がこの地に推し進められ、「征夷大将軍の坂上田村麻呂」(806年)の丹沢城建設と共に勅命による「神明社」を20社程度も建立した特定の地域なのです。
平安中期に入りこの地域は「阿多倍一門」の「内蔵氏一門」と「阿多倍」の末孫の「阿倍氏」の末裔圏域であって、その安定した地域を八幡太郎と呼ばれる「源義家」が未勘氏族発祥の基と成った「荘園制」を利用して、これ等の末裔子孫の「安倍氏」や「阿倍氏」や「清原氏」等の末裔子孫を制圧して、そこから「敗残兵」や「土地の農民」を集めて「奴婢」として各地の「未勘氏族」の「義家の荘園」の「働き手」として送り込んだのです。
これ等の「やり過ぎ事」が原因で「朝廷」や「北陸東北の民」からも「源義家」が疎んじられ排斥された経緯を持っている土地柄です。
この事が全国的な暴動に発展した度重なる苦い経験を持った地域なのです。(この経緯は前段で論じた)
この様な「反清和源氏」に対する激しい反発感情の土地に「弓矢の神」八幡太郎の「八幡社」などは到底建立する事等不可能です。
弓矢の「武士や兵」は勿論「民」までが700年に近い苦い経験の下に興った「反八幡社」なのです。
しかし、「神明社」は「桓武天皇」の征討後の「政治的で戦略的な神明社建立の目的」ではあったが、「神明社」から主導する「生活の神」「物造りの神」としての働きが「民の心」の中にやがて浸透し「心の拠り所」として受け入れられたのです。
そしてその立役者がこの地の為政を任された「藤原秀郷一門の鎮守府将軍」としての「政治的な働き」が有って「親神明社」へと傾いて行ったのです。
その主役が「秀郷流青木氏」であり、「第2の宗家」でもあり、即ち「特別賜姓青木氏」としての「3つの立場」が「神明社の役目」を全うし民の心を安寧に導いた地域でもあるのです。
そもそも「特別賜姓族」はその「土地の豪族」(小田氏、小山氏、花房氏等)との「重層な血縁関係」を作り、その「血縁族の一部末裔」が青木氏と共に関東に移動し足利や武田の土豪族と成り、遂には大勢力を誇り、それが室町期には「関東屋形」族と呼ばれる程の秀郷一門として関東から中部全域に掛けての大豪族にも成っているのです。
これは全て「特別賜姓族の主導」(神明社建立)によるものであって、故郷の末裔は反旗を翻すどころか「親神明社」の領域を超えて「神明社」そのものとなったのです。
この地域には関西域の「賜姓青木氏」も神職として赴き「神明社建立」の「職能集団」の定住も起こった位なのです。室町期末期には「関東屋形」の永嶋氏(結城)が陸奥域に移り住むと云う事まで起こったのです。この北陸東北域は関東域との深い関係を持つ神明社であって、この地域における八幡社は関東域の関係の背景を無視して論じることは出来ないです。八幡社=神明社としての論処に成ります。
青木氏と守護神(神明社)-15の北陸東北域は次ぎに続く。
「青木氏と守護神(神明社)」-16 に続く。
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青木氏と守護神(神明社)-14
[No.282] Re:青木氏と守護神(神明社)-14
投稿者:福管理人 投稿日:2011/12/25(Sun) 13:25:09
「青木氏と守護神(神明社)」-14
本文
「神明大社」との関係
先ず、神明社又は神明神社は青木氏に大いに関係する事ですので、これから始めたいと思います。
「神明社」とはそもそも、「天照大神」(「豊受大御神」)を祀る神社です。
「経緯」
「豊受大御神」(とようけのおおみかみ)」を祭祀する「豊受大神宮」は、「皇大神宮」「天照大神」の内宮(ないくう)に対して外宮(げくう)とも云います。
「皇大神宮」「天照大神」は言わずもがな国民等しく日を照らす神であり「太陽神」であり「自然神」であり後の「鬼道」の基に成ります。つまり要するに「民の心の神」であります。
祭祀する経緯由来は、「雄略天皇」が、夢の中で「天照大御神」のご託宣を受け「豊受大御神」(外宮)を「丹波」の国から、内宮にほど近い「山田の原」に迎えたとされるものです。
この真偽の程は別として「雄略天皇」の「御託宣」とは、「心の神」に対して民には「生活の神」「物造りの神」が必要であるとしての行為であったと考えられます。人はこの「2つの基神」があってこそ「人の世の生の神」でありますが、当初は「心の神」だけを祭祀する事で「人の世の生の神」としていたのです。
しかし「夢のご託宣」の「丹波国」からわざわざ祭祀の場所を伊勢国に移して「天照大神」(内宮)と共に「豊受大御神」(「外宮」)を正式に合祀して「皇祖神」として「2つの基神」を祭祀した天皇家では、その最初に伊勢国の現在地に於いて祭祀し始めました。
その祭祀したのが「大化改新」(645年)の立役者の中大兄皇子です。後の天智天皇です。そして、この「2つの神」を「皇祖神」として祭祀しました。
ところが、この」「天照大神」の「皇祖神」として長い間の遍座(90社90地域90年)からやっと伊勢神宮に遷宮したのですが、ただこのままにしては政治的に、国家戦略的に布教を進めるには問題があるとしたのです。
(参考 伊勢大社建立期は他説あり 「大伯皇女」が「泊瀬の斎宮」に籠り、674年に伊勢大社の「斎王」として入るので、最終伊勢の周囲で更に遷宮した期間と建設期間と遍座期間と天智天武の在位期間内から判断すると650年頃と成る)
その原意となったのはそれは後漢の人「阿多倍王」が率いる技能集団の帰化人等がもたらした「技能」に依っての事であります。その結果は「物造り」が盛んに成り、「民の生活の豊かさ」が増し、この「豊かさ」を享受することで国家が安定し安寧に進んだのです。それまでは前記した様に、3世紀から始まった「邪馬台国」から「大化期」までは国内での騒乱が続き、その中で100年周期の「著しい気候変動」によって飢饉が発生して民は大疲弊していたのです。其処にこの「技能」に依る「豊かさ」に依って民を安寧に導く方法がある事を「大化改新」の立役者の中大兄皇子は知ったのです。
それまでは「自然神の鬼道」(邪馬台国の卑弥呼の「占い術」)が示す様に、民は「心の神」と「五穀豊穣」が叶う様に神に信心していたのです。
然し、そうではない事を「為政者」も「民」もこの「技能から来る豊かさ」を知る事に成ります。
この事が天智天皇の悟る処と成り、丹波国に「豊受大御神」を鎮座していたのですが「天照大神」と共に祭祀する必要性に目覚めさせたのです。
「やまと王権」の応仁大王から始まる神代の時代の3代目の雄略大王を引き合いに出し「夢の御託宣」として古さを誇示し「天照大御神」に継ぐ「2つの基神」として考え方を変えた事を意味します。
そして、この「皇祖神」に「天照大御神」を加えて「伊勢大社」に内宮と外宮として合祀する事になったのです。日向高千穂の地の「天岩戸神社」から発した90社90遍座を繰り返した「皇大神宮」「天照大神」を最終伊勢の地に遷宮する事を定めますが、この際にこの「2つの基神」をも伊勢に遷宮したのです。
伊勢豊川を中心に近隣地域にこの「2つの基神」を「皇祖神」として125社の分霊を行いますが、ここで政治的に国家統一の戦略的な意味合いから、この「2つの基神」の「皇祖神」だけでは成り立たなくなったのです。
「2つの基神」とは次ぎの様に成ります。
「自然神」+「鬼道」⇒「皇祖神」=「天照大御神」+「豊受大御神」=「心の神」+「生活の神」「物造りの神」
「生活の神」「物造りの神」=「豊受大御神」=「祖先神」=「神明社」
「祖先神」=「代替神」=「皇祖神」
∴「皇祖神」=「天照大御神」+「祖先神」
それは、前記で論じて来た様に「民の声」が「豊かさ」を享受してくれる「生活の神」「物造りの神」の要求度が大きくなった事によります。
その為には天皇は急務として「大化改新」の一つとして「皇祖神」に繋がる「代替神の創設」が必要と成り、別の国策「3つの発祥源」としての「賜姓臣下」の「融合氏」の青木氏に、この「代替神」を創設させる事に成ります。そして上記の関係式の通りのその「代替神」を「皇祖神」に継ぐ「祖先神」としたのです。
その「祖先神」を祭祀する「代替社」を「神明社」としたのです。
「3つの発祥源」+「皇祖神の代替神(神明社)」=「青木氏の象徴」⇒「4つの発祥源」
この青木氏が「守護神」とする「神明社」は上記の経緯から、「豊受大御神」を主神として「生活の神」「物造りの神」として「民から信仰」を集めたのです。
この「皇祖神」の「伊勢大社」のある伊勢国に「神明の社」を創設して松阪の地に定めました。
この時、「伊勢大社」の125社と同じく近隣地域に先ず19社の神明社を建立します。
そしてそこには「皇族第4世王皇子」を配置して守護させました。
後にこの天領地の主要守護地(5地域:東山道域+東海道域)には「第4世王内」の「第6位皇子」を賜姓臣下して配置したのです。
然し、ここに至るまでには「皇大神宮」は大変な経緯と遍歴(90年-90箇所)が伴ない、最終的に天智天皇が伊勢を鎮座地として定めるには簡単ではなかったのであり、かなりの時間と複雑な経緯を要したのです。
そこで、この事に付いて「皇祖神の伊勢大社」と「祖先神の神明社」との関わりに付いて理解を深める為にも先に触れて置く事にします。
先ず、日本人に於ける「神」は悠久の歴史の中で一つであったと考えがちですが、ところがそうではないのです。
日本は、”世界に稀な「7つの融合単一民族」だ”として、その「由来や経緯」に付いて今までいろいろな角度から詳細に既に延々と論じてきました。
そこでそれらの「神の事」に付いて取り纏めますと次のように成ります。
「氏神の種類 4神」(下記に詳細説明)
0 「自然神」(しぜんしん)
山海・草木・湖沼・岩石等の自然物や雷・風雨・地震・火などの自然 現象に宿る神とし「否特定の神」
1 「産土神」(うぶすながみ)
その「人」の「生まれた土地の神」であり、一生来その「人」の「土神」とする「人(単独)の神」
2 「祖先神(祖霊)」(そせんしん)
「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、 自分の集合である一族一門の子孫の「守護神」であり「人と氏の重複性も持つ神」
3 「氏神」(うじがみ)
「人の神」ではなく、「氏のみの一族一門の神」で、氏永代に守護する「氏(独善)の神」
4 「鎮守神」(ちんじゅのかみ)
「現在住んでいる土地の守り神」であり、「土地・地域」を守る「土地・地域の神」であり、「人」は土地に吸収されるとした「土地・地域優先の神」
(注 0は1から4の基本に成る。 不特定にて独立して祭祀されている部分もあり 其の一つとして「天皇家の祭祀」はこれに当る。)
「氏の神の種類 4神の経緯」
上記の説明を前提に次ぎの経緯・背景に付いて先に論じます。
上記の”一つでは無い”と云う事のその大元は「7つの融合民族」が原因しているのです。
先ず最初にはこの「7つの民族」の「融合過程」から起る「ある程度の集団化」が起こります。
それは先ず最も血縁する一族一門の「小さい集団化」の「氏の形成」であったのです。
その「小さい集団化」の形が「氏家制度」(氏の形成)と云う形で「規則化」が起こった訳です。
その「氏の形成」が奈良期から室町期までの事として、大別すると幾つかの氏の種類が起るのですが、最初は「7つの民族」の小さい範囲で「集団化」が起ります。
それが先ずは「民族氏」Aであったのです。
次ぎにこの「民族氏」Aのある種の弊害の事由により政策的に推進して「融合氏」Bが発祥します。
要するにその「融合氏」Bの最初は青木氏であります。
更に、この「民族氏」Aと「融合氏」Bとの血縁化による「血縁氏」Cが誕生します。
次ぎにこの「融合氏同士」の血縁化による枝葉化した「枝葉氏」Dが誕生します。
これ等の支配下にあった者等が勢力を勝ち取りそれらの血縁化が起こり「姓氏」Eを構成します。
この「5つの集団化」(A~E)が当然に遺伝子的に各々の立場から来る考え方で”自らを守護し信じる神”を構築し祭祀する事に成ります。
この立場から来る「守護神」が上記(下記にも詳細記述)に示す「5つの神」であります。
これが一つに纏まらなかった経緯なのです。
ところが、この「5つの神」(0→4)は「支配する族側」の「守護神」であり、「民衆の守護神」ではなかったのです。
それは「支配される側」の民衆は「氏家制度」と言う「身分制度」の中で拘束されていた事から生まれ得なかったのです。しかしながら彼らもそれなりに「心の拠り所」としての「何がしの行動」を採ったのです。
民衆の「心の拠り所」としての「神」に対する考え方には「2つの形」があるとしています。
1つは”人は迷うものである”とする仏教の教えから来る救いの神を「心の神」としてこれを「神仏」に求めたのです。-(「心の神」)
2つは”安寧と安定はその生活の豊かさにある”として「五穀豊穣と物造りの願い」として「生活の神」を求めたのです。-(「生活の神」)
この「民衆の支え」(「心の神」+「生活の神」)は”国の安寧と安定に繋がる”として「支配する側」はこの「2つの神」の形の実現を目指したのです。
彼等の民衆は大まかには「部曲と民部」に分離され、その「部曲と民部」の「支配される側」の民衆は「殖産」と云う形で「共通項」(接点)を持ち得ていて、そこにその「共通項」(接点)の「共通の神」を求めたのです。
「共通項」(接点)=「殖産」
「支配される側」の民衆には、「守護神」」(「心の神」+「生活の神」)を単独で維持管理する勢力は当然に到底持ち得ていない訳ですから、単独では無く「支配する側」の「神」にその神を定めたのです。
中でも下記に記述する様に、「国の神」でもあり「万世一系」に通ずるとして天皇家の「皇祖神」に信心しそれを「心の神」としたのです。
(”万世一系に通ずる”は「7つの融合民族」である限りあり得ない事で全ての万民を皇祖神に結び付ける為の「政治的方便」であり、「皇祖神」=万民の「心の神」とするものであった)
そして、「皇祖神」=万民の「心の神」とする以上はその「皇祖神」に繋がる「祖先神」に対して、「共通の神」「共通項」(接点)としての「生活の神」即ち「殖産の神」を求めたのです。
「2つの基神」
「皇祖神」=万民の「心の神」
「祖先神」-「生活の神」(殖産の神)
「支配される側」の民衆は「心の神」の「皇祖神」と、「生活の神」の「祖先神」とに分離して信仰し祭祀を重ねたのです。
これが平安期までの「神の姿」であり、国民は総じてこの「2つの基神」に信心する形が出来上がったのです。
そもそも平安期末期までは、朝廷により「八色の姓制度」などで「氏規制」され制限されていた為に、初期には20からせいぜい末期80までの「氏」での構成であり、「氏毎の守護神」を作るまでには至らず、国民全ての「共通の神」は「自然神」であり、帰化人が持ち込んだ「産土神」と、「融合氏」を始めとする「在来民」の「皇祖神-祖先神」との構成に成っていたのです。
「民の共通の神」は「自然神」⇒「皇祖神-伊勢大社」
ところが鎌倉期に入り平安末期の「融合氏」の青木氏を始めとする「武家の台頭」により朝廷からの許可規制と八色等の法の規制が外れて、氏数が200に乱立し到達し、その氏は「武家の独善の守護神」を求めるに至ったのです。その結果、次ぎの様な類別される守護神の考え方が出来上がったのです。
「武家の守護神」の誕生 →「自然神」「産土神」「皇祖神」「祖先神」に変化
此処で、「支配される側」の民衆は「支配する側」の個別の独善的な「守護神」に対して無視する事が出来ず、上記した様に「2つの基神」の使い分けを試みたのです。
「自然神」→「支配される側」の民衆→「心の神」の「皇祖神」→「武家の守護神」
然し、「支配される側」の「生活の神」の信心は強く、「支配する側」の個別の独善的な「守護神」に対してはその信心は強くは生まれず、結局は旧来からの悠久の歴史を有する「皇祖神-祖先神」に対して”霊験新たか”の心を捨てる事はしなかったのです。
それは、全ての神の「共通神」の「自然神」に通ずる「神」である事、更には台頭した氏の歴史の無い「守護神」には「生活の神」までの「霊験」を主張する事は出来なかったのです。
(守護神 阿蘇大社、宗像大社、出雲大社、住吉太守、熊野大社等を背景として氏子集団が台頭して「姓氏」が乱立した)
結局は「支配される側」の民衆は「生活の神の祖」としての「皇祖神-伊勢大社」、現世の「生活の神」の「祖先神-神明社」に信心を求め続けたのです。
「生活の神」の「皇祖神-伊勢大社」⇒「祖先神-神明社」
その時代の経緯の中でも、台頭する他氏と異なり、われ等の「融合氏の青木氏」は身分の別があるにせよそこに「溝」を求めずして「4つの青木氏」を構築し、「支配する側」と「支配される側」が一体と成って民衆が求める「祖先神」を祭祀し続けたのです。(詳細下記)
その一体化は国民は皆等しく「生活の神」の「皇祖神-伊勢大社」⇒「祖先神-神明社」に求めたからであって、「3つの発祥源」としても求められた事に由来するのです。
その求めに応じて働いたのが「神明社」の「管理・建立の職能集団」や「青木氏の神職」等の前回より論じている青木氏の「部」との掛け合いであったのです。
青木氏=「2つの血縁族の青木氏」(賜姓族、特別賜姓族)+「2つの絆族の青木氏」(未勘氏族、職能族)
この行為が下記する「物造りの氏上」と成った所以なのであって「氏神様」の呼称の所以でもあるのです。
(室町期以降の書物には”「氏神様」”と呼称の字あるが、筆者は上記する「4つの青木氏」の事から平安期までは”「氏上様」”の呼称であったと考えていて、江戸期前には「御役」(御師)の呼称もある処から間違いは無いと考えています。この変化は平安期まであった「民族氏」と「融合氏」は衰退し室町期に多くの「姓氏」が発祥し、その結果、彼等の「守護神」とする「氏神」の呼称と「物造りの氏上」の呼称が重なった事から次第に間違われて行ったと考えられます。)
「二重の信心構造」
他氏の支配下にあった「部曲と民部」の民衆は、支配される「守護神」に信心する事は当然としても「皇祖神」に繋がる「祖先神」の「神明社」にも信心すると云う「二重の信心構造」を持っていたのです。
何れに重点を置いていたかは”「5つの神」の何処に所属するか”とか、「氏家制度」の中でその氏の「勢力」「環境」「身分・家柄」に依って異なっていて判定が困難ですが、大別すると筆者は「心の神」は其の「氏の守護神」に求め、「五穀豊穣や物造り」等の「生活の神」には最終的に平安期末期頃には「皇祖神-祖先神」に置いていたと考えられます。
「皇祖神」の天皇家では「自然神」から来る新嘗祭等の祭祀を司り、全国に125社の伊勢大社の分霊を置き、「祖先神」の青木氏の「神明社」(566社程度)には朝廷もこれを推進し、中でも「桓武天皇」は積極的で全国を征討する旅に「神明社」の建立を命じて行った背景があります。
平安期末期までには「式内社」として凡そ500社-600社に上る支社・分霊を置いて民衆の「生活の神」に応えています。室町期末期では「式内社」外の「氏社」として1000社、江戸末期では5000社位にも成っています。各土地の累代の守護や領主が神明社のないところや新たに村の形成で必要となった領域には「民の安寧と安定」を願って積極的にその資力で建立して行ったものです。
特には江戸期全般を通じて「他教の布教」が目立つ事もあって「神仏分離令」などを発して奨励したのです。
「伊勢信仰」と「神明信仰」を始めとして「熊野信仰」や「諏訪信仰」や「阿蘇信仰」や「出雲信仰」や「宗像信仰」や「住吉信仰」や「八坂信仰」や「八幡信仰」や「大神信仰」等多くの「大社信仰」を競わせて各地に布教を奨励したのです。(末尾の付録データ参照)
そもそも神社は其の信仰の利害を配慮して”神社は本来古いもの”として信じさせて、各地の「神明社」の由来を明確にしない傾向があり、正しいカウントがなかなか出来ない処があります。
しかし、「鳥居や社舎の建造形式」や「建設地の地形」や「古い土地の豪族」や「神紋」などから判定する事が可能であり、その判定方式からすると凡そ566社として全国的には以上の様に成ります。
(下記 素データは付録記録参照)
しかし、これには正式な支社・分霊社かどうかは判別できないし、室町期末期の以降頃に各国の豪族は「心の神」は氏の「氏神」に求められるが、「生活の神」には出来得ない事から「象徴と権威」の「祖先神の神明社」に求め、青木氏が建てるのではなく上記する様に江戸期には土地を支配する大名大豪族自らが独善的に建立すると云う現象が起こったのです。
(依って本文はこの室町末期から江戸期のものに付いては除外した)
その前兆は「氏の拡大」と「姓氏の発祥」で、その家柄、身分、由来などを誇張し搾取すると云う現象が起った事で、その影響を受けて平安末期頃から徐々にその「社寺の由来や寺社歴」に対して「搾取偏纂の横行」が起ったのです。中でも「皇祖神」125社に繋がる神明社600社が多く狙われたのです。
その原因は「平安末期の混乱」と「武家社会誕生」に依って「2つの青木氏」の勢力が一時混乱し衰退した事でその「150年程度の間隙」を狙われたのです。
青木氏のそれを阻止する勢力はこの時期には最早無くまた方針も意思も無く、むしろ黙認し放置していたのです。
青木氏に於いては「氏の存続」に対してその「利害の損傷」は余り無かったと観られるのですが、その傾向は広く主に関東域と関西より以西の地域で起りました。(付録データ参照)
その意味で「神明社の検証」はこの搾取に付いては深慮な考察が要求されるのです。
これは鎌倉幕府以降から室町期中期までは「武家の社会」となり「関東域の豪族」が勢力を拡大させた事によると観られ、武家社会の家柄身分の誇張現象の風が吹いたのですが、その影響で「民の信任」を引き付ける為に「民の生活の神」としての「神明社」を独善的に建立したと考えられます。
この傾向が調査により131社-全国比 23%にも成ります。1/4もです。無視出来ない勢いです。
では”その豪族は何氏なのか”と云う事に成りますが、「神明社」を建立すると云っても「維持管理」に対してそれだけ「財力と勢力と維持力」が必要であり、豪族と云うだけでは過去の慣習から建立は不可能であります。又、其の建設に必要とする「職能の保持」と「神職が氏に有する氏」ではなくては困難であり、「氏家制度」を確実に構築している豪族が可能と成ります。
「皇祖神」に繋がる「祖先神」の「神明社」ですし、他氏(殆どが氏神)が建立すると成ると、「青木氏」の「祖先神」の「神明社」としても矛盾が起り許可を得る事の必要性もあり、皇族や朝廷の許し無くしてはなかなか難しい筈です。勝手に進めれば「朝敵」の汚名を受ける事にも成りかねないし下手をすると衰退の道を歩む事にも成ります。
少なくとも天皇朝廷との強い繋がりを有する豪族氏である事に成ります。依ってその氏は必然的に限られます。
当然に、この領域は平安期からは北家筋の藤原秀郷一門の領域ですから、この地域の支配者としての建立に必要とする条件は藤原秀郷一門には全て備わっている事に成ります。
この様な背景がある以上はこの室町中期前、又後期に於いてもこの「神明社の建立」は間違いなく「藤原秀郷流青木氏」による建立と考えられます。(下記のデータでも証明)
藤原氏は「鎮守神」の「春日大社」であり、この関東領域に「祖先神の神明社」を建立する事が出来るのは中でも青木氏のみであります。
「特別賜姓族」であり「賜姓族」と全く同じ「家柄、身分、官位、官職」を持つ氏であるからです。
もし他氏が建立するとしても争いが起こりますし、青木氏の存在する領域に建てる事は上記の慣習に伴なう条件を備える事はなかなかに難しいと考えられます。
ただ群馬北域に付いてはこの室町期中期以前には特別賜姓族と賜姓族の青木氏の定住は少なく建立する条件が備わっていたかは疑問でありますが、隣接する国境域の建設は有り得ると考えられ確認したところ「神明社建立地」は越後、信濃、甲斐、武蔵、下野に隣接する国境の領域が殆どです。依って群馬域は可能であったのです。
この隣接する国域は全て「2つの青木氏」の領域であり、その領民は「4つの青木氏」のスクラムの所以であります。
このデータから観ても「4つの青木氏」のその「スクラムの強さ」をも証明する事が出来ます。
依って、特別賜姓族で藤原秀郷流青木氏の影響から観ると、117/566と成り、全国比21%を占めるものと成ります。仮に群馬を外したとしても、103-地域比 79%-全国比 18%も占めます。
全国の1/4の神明社を伊勢ではなく武蔵の領国に建立すると云う事は「秀郷流青木氏」は「特別賜姓族青木氏=賜姓族青木氏」の考えを以って心魂からその責務を果たそうとしていた事に成ります。
更には下記のデータから顕著に出ている事は、「/地域」でも「/全国」でも「神明社の分布比率」は特別賜姓族で「秀郷流青木氏の末裔分布」の比率に完全に沿っています。
(これは賜姓族の末裔分布比率も同じ 下記])
「神明社の分布比率」=「青木氏末裔の分布比率」
「神明社の建立地」=「青木氏の定住地」
そして武蔵国だけでも全国比10.8%強の高い比率で関東域の中心に成っています。
「秀郷流青木氏」の「第2の宗家」と呼ばれる所以がこれでも良く判ります。
本来で有れば「春日大社」の完全領域ですが、61にも成る「神明社」がある事は、「心の神」は「春日大社」にあるとしても、「生活の神」「物造りの神明社」としての特長が色濃く出ています。
藤原一門としても「神明社」に対する「心入れ」は相当なものであった事が云えます。
これは「戦略的意味合い」と云うよりは「政治的な民に対する姿勢」であった事が云えます。
「秀郷流青木氏」と「特別賜姓族」の立場を持ちながら「第2の宗家」としての立場をも揺るぎ無いものにしていた事を物語ります。
恐らくは本領にこれだけの「祖先神」の考え方を入れられては「鎮守神」の考え方が霞む事も在り得て一門から反発は本来であれば出る筈ですがむしろ積極的な姿勢とも読み取れます。
更には藤原一門の「春日大社群」の中で「秀郷流青木氏」は「2つの青木氏」側にその軸足を強く置いていた事が良く判ります。又、これだけの「神明社」がある事からもこのデータから甲斐の青木氏が「秀郷流青木氏」を頼って逃げ込んだ史実の事が良く判ります。
「春日大社群」の中では逃亡生活も躊躇する事もあると考えられますが、これだけの「青木氏の神明社」がある事が身を寄せる気に成った条件でもあったと考えられます。
又「氏家制度の青木氏」という仕来りを「秀郷流青木氏」は厳格に護っていたことを意味します。
むしろ藤原氏よりは青木氏側に軸足が掛かっていた事が伺えます。
しかし、其の中でも「第2の宗家」と呼ばれていた事は相当な一門からの信頼を受けていた事も判ります。
(Aの分布表)
建設地域 戸数 /地域 /全国
関東域 5県-103-18.2%
茨城(常陸) 8+1 6.9 1.6
千葉(下総) 22 16.8 3.9
埼玉(武蔵) 31 23.7 5.5
東京(武蔵) 30 22.9 5.3
神奈川(相模)9+2 8.4 1.9
この傾向は次ぎの地域(Bの分布表)でも同じで一層「2つの青木氏」(皇族賜姓青木氏と特別賜姓青木氏)の結びつきを証明しています。(特別賜姓青木氏とは藤原秀郷流青木氏である)
”埼玉入間を中心に半径神奈川で円を書いた領域に青木氏が螺旋状に取り囲んでいた”と云う記述は良く証明されています。この数から観ても分布から観ても切れ間無く神明社を建立していた事が観えて来ます。
「生活の神」「物造りの神」と当時に藤原秀郷一門の戦略的な役目も充分に果たしていた事が観えます。
「祖先神」「鎮守神」の二つが混在する中で一種不思議な現象とも取れますが、これが藤原氏の「生き残りの戦略」であって ”何事にも融合する”と云う適合性をこの「融合氏」は遺伝子的に天性として持ち得ていた事が云えます。
明らかに「赴任地戦略」として”血縁子孫を赴任地に残してくる”と云う事を採用している事にこの事からも伺えます。故に源氏と異なり状況に順応して生き残れたと考えられます。
これは秀郷一門の性格を物語る大事なデータであります。
「生きる為の考え方」に付いて「2つの考え方」をしていた事に成ります。なかなか難しい事であります。
それは”人は物事に拘泥する性質を持っている”と仏教では教えていますが、この「融合氏」はそれを克服して”2つを一つにする思考原理”を造り上げていた事を意味します。
故に”不思議”と云っているのですが、その先頭に立っていてその両方を責務義務として生き抜いている特別賜姓族の秀郷流青木氏がいるのです。
どちらかと云うと、「賜姓青木氏」より難しい世の中を難しい考え方で行き抜いたと云えるのではないでしょうか。
大化前の蘇我氏の専横の為政者の蘇我氏の行き方よりは遥かに優れていて為政を担う立場に於いては数段に優れていると筆者は断じているのです。
むしろ「日本の政治史上」に於いて最も優れた為政族であったと考えます。
日本の現在の「物造りの下地」と「律令の下地」を作った「産土神」の「民族氏」の「阿多倍一門」と、それに勝るとも劣らずその2つを上手く運用した同じく「政治的な下地」を構築した「融合氏」の「藤原氏北家」がこの「日本の基礎」を造ったと考えられます。
この「縦横無尽な性格」の所以であり日本の歴史上の喜事であります。
(Bの分布表)
北陸道域 4県-104-18.4%
建設地域 戸数 /地域 /全国
新潟(越後) 55+6 58.7 10.8
富山(越中) 32+1 31.7 5.8
石川(能登) 1+1 1.9 0.0
福井(越前) 8 7.7 1.4
ここには「秀郷流青木氏」の中に「3つの青木氏」(皇族賜姓美濃青木氏と信濃青木氏と甲斐武田氏系青木氏)が逃亡した地域でもあります。
「豊臣-徳川の戦い」と「織田-武田の戦い」の「2つの戦い」に依って敗走して秀郷流青木氏を頼ったのです。中でも「越後」は平安期から朝廷の蝦夷地域の征圧の[前線基地]として力を入れていたところでもあり「神明社」の建立は政策的課題・戦略拠点として盛んであったのです。
鎌倉期-室町期に入っても秀郷一門が「鎮守府将軍」として9代に渡り「北の勢力圏」として勢力を保全する「戦略上の前線基地」でもあった事から、次ぎに論じる「東山道域」(Cの分布表)に継ぐ「神明社地域」でもあったのです。
関東域の比率(18.2%/18.4%)に勝るとも劣らず同率であります。
これは大きな意味を持っています。
越後の青木氏は「武蔵の領国」の「総宗本家」と同じくらいの力を持っていた事を意味します。
これは別の面で言えば「発言力」に起因する事に成る訳ですから”一軍の将、2頭相立たず”の例え通りもめるが必定です。然し、揉めていないのです。
現実には武蔵の青木氏は「第2の宗家」として君臨しているのです。
恐らくは、陸奥域の前線基地としての役割上、宗家の青木氏はこの越後との関係を強化していた事を物語ります。むしろ宗家の「出先機関」であったと観ているのです。
だから、「関東」と「越後」のこの2地域は賜姓族の青木氏の逃亡を助け保護したのです。
その証拠に此処越後には秀郷の遠戚族の藤原利仁流が東域よりに定住していて、少ないですが、利仁流青木氏が血縁の結果生まれているのです。山形福島の県境東域に分布しています。
これは越後を戦略上の最大重要拠点として位置付けている事を意味して、当然そうなると武蔵の宗家の青木氏も出張る事は必然です。
「神明社の分布比率」=「青木氏末裔の分布比率」
「神明社の建立地」=「青木氏の定住地」
当然に、この関係式は例外無く全国的でありますが、ここでもより上記の関係式が成り立っているのです。
(下記で詳しくデータで論じる)
「関東域」の「秀郷流青木氏」を頼って逃げ込んで保護された事のみならず、其処にも上記の「3つの武田氏系青木氏」が逃げ込んで定住した事からも、「秀郷流青木氏」の勢力が関東のみならずこの地域にも頼られるだけの力と土壌を有していた事を物語ります。
その勢力は上記の密にしてむしろ関東域を凌いでいます
それは逃亡して来た賜姓族系の青木氏の「諏訪大社」が全国的に見ても関東域を凌いでいるのです。
本来であればこの時代の慣習からはあり得ない筈なのです。
その「秀郷流青木氏」の姿勢がより「神明社の信仰」が相乗的に益々活発化したと考えられます。
其の証拠に「賜姓諏訪族青木氏」と「武田氏系諏訪族青木氏」がここに「諏訪大社」をも建立していて、全国的に観ても諏訪大社の最も多い所なのです。
それを許す「秀郷流青木氏」のその度量のある勢力が観えて来ますし、賜姓族側の「軸足の置き方」を更に証明します。戦略上危険である筈で氏家制度の中でそれを許す事が出来るのは矢張り武蔵の宗家が出張る以外にはないのではと考えられます。
つまり、全国の24の地域の指揮系統をどの様にしていたのかが問題です。
果たして、氏家制度の中で(「秀郷流青木氏」の中で)”何処の青木氏が指揮を採っていたのか”が疑問と成ります。
そもそも集団の逃亡者を保護し、他氏の守護神をも建立させる事を許す事は場合に依っては秀郷一門としても戦略上簡単に許す事は出来ない筈で、そうなると当然に武蔵入間の宗家の許可無しでは出来ない事は間違いなく、その宗家を説得していたのは”何処の秀郷流青木氏か”と云う事なのです。
果たして”入間の青木氏の宗家”なのか、”地域事の個別に指揮を得ていたのか”、はたまた”他の地域からの働きかけで指揮を得ていたのか”が疑問です。
筆者はそれには下記にも神明社のデータから論じられる様に、”「2つの青木氏」の「2つの指揮系統」が互いに連絡を取り合い秀郷宗家の指揮を得ていた”と考えているのです。
この保護の史実は、「関東域」、「北陸道域」のみならず「東海道域」、「南海道域」にもあるからであります。九州域を除いて秀郷一門のどこも例外なく青木氏の逃亡者を保護しているのです。
これは「神明社の建立」の比率にも沿っているのです。
戦略上からすれば、5地域では強いところ弱いところはある筈で受け入れは困難とも成る事は当然に起る筈です。しかし、全て受け入れているのです。
この事から考えれば、”「2つの指揮系統」が連絡をし合って指揮を受けていた”と判断出来るのです。
それは「皇族賜姓族」の地域が神明社の数の全体の1/3を占めていて、残り2/3は「秀郷流青木氏」と成ります。
この時代に「連絡の取り合う事の出来る条件」と「保護する事の条件」が兼ね備わっていなくては決して出来る事ではありません。
では ”それは何なのか”と考えれば、先ずは「第1要件」としては次ぎの様に成ります。
「第1要件」
1 「保護する事ができる武力」
2 「情報を伝達する情報網と設備」
3 「保護収用する設備と経済力」
4 場合に依っては「医療等の介護能力」
先ずは以上「4つの要件」が確保され充実されている事が必要です。
「第2要件」
次ぎは「第2要件」としてはこの時代のみに必要とする要件です。
A 当然それに対する「ケアー能力」等の「総合力」が絶対的条件として必要です。
B 又、「民衆の賛同や土豪の同意」も必要と成ります。
この第2の「2つの要件」(A、B)は下手をすると争いとも成り得る難物で、何時の世も充分に警戒する事柄です。安易には出来ない事である事は一族の悲惨を招く結果とも成ります。
では、藤原秀郷一門の青木氏が実行し得た上記する要件・条件に合致したものとは、”何なのか”-”それが「神明社」である”と云う事に成ります。
実は、当時、「神社仏閣」はその建立する目的にはもう一つの「戦略的意味」を持たしていたのです。
それは「領国の防衛上」の「前線基地」Aでもあり、「情報収集の拠点」Bでも有ったのです。
これ等は上記した様に、戦略上重要な拠点で主に「国境」に位置する「地形的に良好な位置する山岳部」を選んで建立されているのです。(室町末期と江戸期建立の大きな相違点 :平地の要衝地点)
当然、例外なく「祖先神の神明社」もその意味を強く持たしての建立であり「建立地域の地形」から観て例外はありません。これは一種の「城郭」でもあり「櫓城」で有ったのです。
この「城郭」の社には神官住職以外に必ずその神社仏閣に所属する「警護侍」を配置していたのです。
そもそも「武士」つまり「侍」は「寺の人」と書きます。”さぶろう”の寄り添うの意から”さむらい”呼ばれる様になったものであり、「社の人」も同じく「神社侍」と呼ばれていたのです。
この逃亡の受け入れの設備としての「神明社」が「皇族賜姓族側」には1/3の148と、「秀郷流青木氏側」には2/3の418があり、この設備を使う事で上記する全ての絶対的条件は備わります。
つまり、「皇族賜姓青木氏側」から「秀郷流青木氏側」にこの「連絡網」を通じて「各種の情報」Bが入り、宗家との談合により決断を夫々地域の拠点に指揮する体制が出来上がっていた事を物語ります。
この「2つの青木氏」の割合(1/3-148)がその「総合的な氏力」を示していたと考えます。
これは「政治力、軍事力」だけではなく「2足の草鞋策」や「4つの青木氏」の力の「総合力」であったと考えられます。
賜姓青木氏=148-1/3-組織力・経済力・職能力
特別賜姓族=418-2/3-政治力・軍資力・総合力
”「賜姓青木氏」に足りないものを「特別賜姓族」が補う”と云う態勢が確立していたからこそこの様なデータが出たのではないでしょうか。
こんな素晴らしいシステムを”食うか食われるか”の時代の「生き残りの手段」として使わない方がおかしい訳であり、使わないのは愚能そのものであり得ない事です。必ず使ったと考えられます。
この「2つの青木氏」がスクラムを組めば先ず打ち叶う氏は「大蔵氏」を始めとする「阿多倍一門」を除いて無かったと考えられます。
この「4つの青木氏」の弱点は「情報力とその収集能力」であり、これを破ればこのシステムは崩れるのです。
云わば人間の欠陥であります。その為には政治的にも戦略的にもその「総合力」を背景にしてそれを生かすには何よりも先ず「情報力」が優先されます。
「総合力」=「情報力」
その為にも、現実には「戦いの作戦基地」を山城から出してこの「神社仏閣」にまず移したのです。城で作戦する時は最早、非常時の篭城作戦の前兆であり、作戦展開するには城は活動や情報収集には不便なのです。
特に「4つの青木氏」に取っては互いの連絡も他の変化の情報も全ての情報は「生命線」であり「神明社」は単純な神明社だけでは無くその「組織体の要」とも成っていたのです。
(「組織体の要」のツールが必ず必要です。一種「人間の血管」に価する物が「シンジケート」と説いている)
この様に「神社仏閣」の建立の目的は「心の神」「生活の神」「物造りの神」だけでは無いのであります。
平時の時ではいざ知らず乱世であります。”使えるものは何でも工夫して使う”の精神が必要なのです。
そこで、更に考察しますと、関東域の秀郷一門の宗家を入間にして青木氏が本家分家筋を主体として螺旋状に横浜神奈川を半径として取り囲み護っていたのですが、「心の神」「生活の神」「物造りの神」にしては103は多すぎると考えられます。宗家付近の武蔵だけでも61もあるのです。
「心の神」「生活の神」「物造りの神」であるのなら”多ければ良い”と云う物ではありません。
間違いなく「戦略的な防御体制の代物」の意味があった事を物語ります。
この傾向は全ての拠点に云える事であります。
筆者が論じて来た「青木氏のシンジケート」はこの「神明社システム」が機能していた事を意味しているのです。そしてこの全国の神明社のデータから読み取れる全ての事柄を論所の一つの基礎にしているので有ります。
「皇族賜姓青木氏」では「伊勢青木氏」が5家5流を統括し、「特別賜姓族青木氏」では入間の「宗家青木氏」が116氏を総括していたと考えられます。何れも賜姓族の「青木一族」の「2極体制」であります。
特にその中間の位置にして「仲介役」として機能さしていたのが平安期より「伊勢秀郷流青木氏」(伊勢特別賜姓族青木氏)が担っていたと考えられます。
何故ならば、それは九世紀始めから秀郷の祖祖父の従4位下の宗家の「藤成」(820年頃-嵯峨天皇期)がこの伊勢の「半国国司」を務めていた事からも良く判ります。
(「桓武天皇」没年の806年頃で神明社創建は一時止まる。15年後に衰退した青木氏の建て直しに「嵯峨天皇」は「藤成」を差し向けた。)
この人事から観ても、「入間の青木氏」よりはより「特別賜姓族的な青木氏」の傾向を累代にこの「伊勢秀郷流青木氏」が持ち合わせていたと考えられ、秀郷以降は双方の賜姓族の「立ち位置のズレ」を調整していたと考えられます。
物事の進行は当事者同士だけでは成り立つものではなく、何時の世もこの調整役を演じる「仲介者」がいて成り立つものです。ましてこの様な難しい事を実行するには危険が伴ない危険が生じた時には双方が円滑に連携して対処して解決できるものであり、悠久の歴史を誇る「2つの青木氏」ならではの事で有ります。
因みに「特別賜姓族の青木氏」は関東域外に次ぎの様な戦略的な指揮を演じる根拠地を有していた事が系譜添書や主要家紋の如何で判ります。(詳細は下記)
武蔵入間を本拠地として「特別賜姓族」としては次ぎの「4つの指令基地」があった事が検証できます。
特別賜姓青木氏-34県-418-73.8%
北陸道域 4県-104-18.4%-北陸域 (Bの分布表)
東山道域 6県-105-18.6%-東北域 (Cの分布表)
東海道域 8県-154-27.2%-中部域 (Dの分布表)
移動先域 16県- 55- 9.7%-分布域 (Iの分布表)
(詳細地域は下記)
4つの各域には神明社100を超え全国比で一地域2割近い分布状況です。
1県に付き20~25の神明社を有しています。
当時の人口から観て現在の1/3~1/4程度ですから、郡制でしたから1県に4~6の郡数として一つの郡に4~6の神明社があった事に成ります。
当時としては「心の神」「生活の神」「物造りの神」の目的だけであればやや多すぎる感が否めません。
郡の大きさに依りますが、当時の人口(1/4×2万)として観れば、千人に1社の割合程度と成ります。現在の郡の構成から観て1郡に平均で4~6つの村があったと考えられ、1村には200人±50程度の人口と成ります。
この事から筆者の主観ですが、郡に対してせいぜい神明社1~2つ程度と観ますと、これに「戦略的拠点」としての目的を加えたとすると納得できる数と考えられます。
これだけの数を維持管理するには矢張り当域を指揮する青木氏が存在している筈で勢力から観て次ぎの青木氏と考えられます。
「各分布域の指揮拠点」(藤原秀郷流青木氏)
北陸道域は越後青木氏 (陸奥前線基地)
東山道域は陸奥青木氏 (鎮守府基地)
東海道域は武蔵青木氏 (宗家本拠地)
移動先域は次ぎの4域がありますが各域の事情が異なる為に次ぎの域に分けられます。
関東域は下野青木氏 (隣接国境より勢力拡大 東北の北前線基地)
中国域は讃岐籐氏の讃岐青木氏 (宗家に肩を並べる位に勢力保持)
四国域は讃岐青木氏(阿波青木氏)
北九州域は筑前青木氏 (九州域の西前線基地 後述)
[関東域]
この4域に秀郷流青木氏が定住しているのですが、室町期までの社会は氏家制度の強い社会であった事からその「勢力圏分布」から観て以上の指揮拠点である事に成ります。
この勢力は青木氏の分布する「地域の家紋分析」と「その村形成」などの「支配地の大きさ」と「ルーツ拡大の要素」と「地理・地形考纂」と「郷土史実」に依って判別したもので、家紋に関しては秀郷流青木氏の家紋群の主要家紋とその系列で判別したものです。
特記する事として「下野青木氏」は武蔵域から北に勢力を伸張した結果、ここに「下野青木氏」で勢力を固めその勢力は磐城の仙台の手前まで子孫の定住地を拡大しています。
この仙台地域は江戸初期まで戦いに明け暮れていた土地柄であってかなり難しい伸張で有った事が伺えられ、その意味での「神明社」の役割は「心の神」「生活の神」「物造りの神」のみならず戦略的意味合いは大きかったのです。
又、栃木(下野)には「賜姓族系の諏訪族青木氏系の2氏」が神奈川に落延び、更に一部は下野に移動した一族でありますが、「藤原秀郷流青木氏」の「下野青木氏」の勢力拡大に沿って「諏訪族青木氏」も合力して土地を確保したと考えられ、下野に多くの「諏訪大社」を祭祀して豪族で青木村を形成し土地の地主と成っています。
この時にこの「下野青木氏」も「神明社」を14も建立し、入間との連絡網の拠点を構築していたと考えられます。
(参考 武田氏系青木氏は皇族賜姓甲斐青木氏と武田氏と血縁して跡目継承が女系と成った事から武田氏に組み込まれた賜姓族系青木氏です)
後に「結城永嶋氏」と共に「宇都宮氏」や陸奥出自の「小山氏」や北九州から秀郷一門と血縁して移動して来た「戻り族」の秀郷一門と血縁した「佐竹氏」や豊後の「竹田氏」等も再び勢力を拡大して「関東屋形4氏」と呼ばれる位に秀郷一門は勢力を北に向けていたのです。
その意味で神明社の存立理由は他国と異なり「心の神」「生活の神」「物造りの神」の「心の拠り所の拠点」と「戦略的拠点」の2つの目的は一段と高いものであった事が覗えます。
その意味で伸張したこの地域の「人心の把握」として「心の神」「生活の神」「物造りの神」の「神明社」と、この前線基地の地域を確固たるものとする為にも「戦略的意味」も含めて28もの「神明社」を構築したと考えられます。
従ってこの勢力は江戸期に成っても衰退する事は無かったのです。
「秀郷流青木氏」は武蔵の国境を越えて上野にも伸張して「上野青木氏」として同様に14の神明社を建立しています。
何れにしてもこの「神明社」の「数」は乱世の世である限り「数」そのもの意味だけでは無くその青木氏の「勢力の大きさ」とその「権域の広さ」と「存続期間の長さ」や「存続の強さ」を意味するものなのです。
[中国、四国域]
特に中国、四国域の移動先の拠点の基地はこの中でも長期間に及び最大勢力を誇った「讃岐籐氏」の「秀郷流青木氏」であったと考えられます。
四国の東域の「阿波青木氏」は「北家藤原利仁族」が主体を占めていた事もあり、「阿波青木氏」の「剣片喰族」は秀郷一門の中でも主要家紋の一つでありますが、北域の「讃岐青木氏」(下がり藤に雁金紋の主家柄)のその勢力は東の宗家に匹敵する位に瀬戸内一帯と安芸、美作を縦に経由して中国出雲域までを支配していた「讃岐籐氏の青木氏」には及ばなかったと考えられます。
この「讃岐青木氏」は「武田氏系青木氏」の逃亡を手助けし最終高知に移住させて「土佐青木氏」の青木村を形成するまでに保護していますが、同じ青木氏が定住する阿波国は逃亡先と成っていないのです。
この「武田氏系青木氏」は「讃岐青木氏」の背景を基に「青木村」を形成するだけの勢力を保ち賜姓族の守護神の「祖先神-神明社」を建立したと考えられます。
神明社の数は1でありますが、逃亡先での「青木村形成」と「神明社1」はそれなりの勢力を保持したと云う事を意味します。戦略的意味合いではなく「生活の神」「物造りの神」としての「氏の守護神」の「祖先神」としての「神明社」であったのです。
つまり、「神明社の数の1」は「青木氏の勢力の基本単位」であり、「村を形成する力」と「土豪地主」と成り得た事の単位である事を物語っているのです。
例えば、上記した様に当時の人口から観て、神明社4(戦略拠点2含む)とすると、次ぎの様に成ります。
A 「1つの郡」程度
B 「人口-千人」程度
C 「4つの村」程度
以上の力を保持していた事と成ります。
石高にしてみればバラツキはありますが、1国を平均40~60万石、1国は4~6郡として試算すると次ぎの様に成ります。
a 1郡では7~8万石程度
b 1村で1万石強程度
c 米の石高だけでは約半分の4~5千石程度
以上と成ります。
これで本分析の基礎判断とする事が出来ます。
「青木氏の概略の勢力判断数値」
「神明社1」とは次ぎの勢力を持っている事に成ります。
イ 「郡の半分程度の支配面積」
ロ 「2つの村程度の人口」
ハ 「2万石程度の経済力」
ニ 「米石高-1万石程度の食料」
ホ 「1万石の小大名程度」(江戸時代)
ABC、abc、イロハの以上の判断基準と成ります。
[北九州域]
北九州域は「元寇の乱」以後九州全域を絶対支配していた大蔵氏との血縁を進め、肥前のここに秀郷流青木氏の拠点を置き大蔵氏との関係保全を保っていたのですが、大蔵氏は青木氏や永嶋氏や長谷川氏や進藤氏とも血縁関係を結び秀郷一門の子孫を拡げていたのです。
秀郷一門側から観ればこれを仕切ったのは護衛団として同行していた秀郷流青木氏で、一門の主要氏を仕切れるのは「第2の宗家」としての立場であります。
家柄・身分・官位官職・勢力圏・武力・賜姓族・朝廷を経由しての大蔵氏との繋がり等どれを採っても青木氏に及ぶ一門一族はありません。
特に「菊地氏」や「佐伯氏」(九州佐竹氏、九州酒井氏は元は関東から移動)等の北九州の大蔵氏系の豪族は秀郷一門と血縁し、その関係取引の中で「物資の運搬」などの往来で関東に頻繁に赴いたとする記録資料があり、現実に関東の常陸、下総にはこの4氏の子孫が定住しているのです。
関東の「菊池氏」や「佐伯氏」、「竹田氏」等、「関東屋形」の一つとも成った上記に記した「九州佐竹氏」があり、北九州の小さい秀郷一門の勢力圏の中でも夫々の領国の5つの国では下記の1の「神明社」は納得できるのです。
其の為に、平安期に秀郷宗家の赴任地として「秀郷流青木氏」が護衛役として同行した「筑前青木氏」の指揮の下で肥前から子孫拡大を図り、「神明社」を建立または維持管理できる程に勢力を得て「神明社」が建立されています。
(筑前) 1
(筑後) 1
(肥前) 1
(肥後) 1
(豊前) 1
以上の「維持の状況」と成っているのです。
この地域は、つまり当然に「秀郷流青木氏」の九州に定住した分家筋末裔の分布域でもあります。
これは「戦略的な勢力の伸張」のみならず「祖先神」を神と崇め「神明社」を祭祀する者、即ち神職神官は青木氏であるからで、本来「青木氏の独善的の社」として身内から神職神官を出す仕来りであったのです。
「祖先神」は「皇祖神」に繋がるものとして青木氏と源氏宗家の守護神だけであります。
源氏宗家筋は完全に絶え未勘氏だけと成っていますので「祖先神の神明社」は青木氏だけの守護神と成りますが、其の神職神官からも必然的に青木氏末裔が広がる事を意味します。
前記したように、”「神明社」のあるところには「青木氏」が、「青木氏」の有るところには「神明社」がある”と云う事に成るのです。
それがこれ等のデータと云う事に成ります。
その「神職神官」とその「神社侍」は拠点基地と成る青木氏から指揮し配置される事に成りますので末裔が枝葉にて広がるのです。
九州では「筑前青木氏」がその指揮と配置をしますので少なくとも九州域に於いては「筑前青木氏」の末裔であると成ります。
この末裔分布は、秀郷一門宗家筋と血縁した上記の北九州の豪族であり、肥前の「秀郷流青木氏」も同じくこれ等の豪族と血縁した事から興った青木氏であります。
これは家紋分類から観て「筑前青木氏」の室町期中期までの末裔分布によるものと考えられます。
「人心の把握」共にこの地域は「大蔵氏」の地元である事からも日本最大の「物造り拠点」でもあった事から、少ないながらも「神明社建立と維持」は他の地域と異なり絶対条件であったと考えられ、遠い関東との情報の「連絡拠点」としても重要であったと考えられます。
其の上でこの「神明社の1」の数字は他の地域の4~5の意味合いを持っていたと考えられます。
平安中期には「太宰大監」として「遠の朝廷」として「錦の御旗」を全面に「九州全域の自治」を任された大蔵氏の絶対的支配領域の中で、この5国で関東並の120~125の役割を果たしていたと考えられます。
中でも「永嶋氏」は「大蔵氏系青木氏」と「大蔵氏族肝付氏系長嶋氏」を継承し薩摩域では肝付氏を継承する程に勢力を拡大させました。
そこで問題なのは薩摩3、宮崎4の神明社です。”この地域の神明社は何を意味しているのか”と云う事です。
このデータには「皇族賜姓青木氏」と「藤原秀郷流青木氏」に直接繋がるものが歴史的に少ないのです。
実は、”少ない”と云うよりは”消えた”と云った方が正しいと観られます。
確かに、「天智天皇」から「桓武天皇」までの朝廷は北九州との関係を歴史的に大きく持ちました。
然し、それが ”「神明社」として南九州に繋がるもので有ったか”は疑問でありますが、実は九州北半分に関してはそれなりの経緯があるのです。
この経緯が南九州に繋がっているかは難しいのです。
確かに「令制後」には薩摩がこの経緯に入り込んできますが、”「神明社建立」までは関係があり得たか”は疑問です。
そもそもその経緯とは、天智天皇の「白村江の戦い」の準備として「神明社」を建立したと考えるにはそれを裏付ける朝廷の「歴史的な経緯」が必要であります。
その充分な「歴史的な経緯」とするものが次ぎの事にあるのです。
「中大兄皇子」による「大化改新」の一つとしてそれまでは第6世王までとしたものを第4世王までを皇子とする改革を行いました。その時、其の皇子の指定に関して特別の事由により第4世王として「栗隈王」を指定します。
大化期の「第4世王」のこの有名な「栗隈王」が「天智天皇」の命に基づき「守護王」として「九州筑紫国」に赴きます。
その後「令制前」はこの日向国から「北地域3国」(「筑紫国-豊国-肥国」→「筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後」)が組み込まれ、この「北地域3国」の守護王として任されております。
「令制後」は薩摩の北域も組み込まれています。
この時に「天智天皇か天武天皇」に命じられて建立している可能性が大いにあると考えられます。(その記述が下記)
日向の古い一つとされる「神明社」はこの時のものではないかと考えられます。
且つ、上記の「北地域3国」(筑前)1(筑後)1(肥前)1(肥後)1(豊前)1は「日向の神明社1」を含めて、この時の「神明社」ではないかと観ています。
「北地域3国」と「神明社分布の域」とは全く一致します。
そして、その後に上記する特別賜姓族(960-970年頃)に成った筑前の「神明族の秀郷流青木氏」がこれを引継ぎ護ったと観ているのです。
実は「栗隈王」は「大海人皇子」と「大友皇子」との争い(壬申の乱)で「大友皇子」が出した命令書の脅しに屈せず「大海人皇子」に味方した為に「天武天皇」の時世では九州で大勢力を収め末裔の一人は「筑紫氏」(武家王)として、もう一人は「三野王」として美濃と信濃粋域に子孫を拡げたのです。
この「栗隈王」は「美努王」の父で王の中でも秀でて優秀で中大兄皇子はこの歳を得た「第4世王」の「栗隈王」を主要守護王19人の中から外さず九州半域を任した程の人物で信頼していた人物なのです。
(日本書紀 6大皇子守護王と呼ばれる王)
「伊勢王」、「近江王」、「信濃王」、「甲斐王」、「美濃王」、「栗隈王」で中でも高位王として4王 「伊勢王」、「近江王」、「信濃王」、「栗隈王」が上げられている)
この「栗隈王」の末裔は古い九州出自の「筑紫氏」で有りますが、九州全域特に日向より北域の氏は何がしかの血縁を有していると考えられます。
後漢からの帰化人の阿多倍一族により7世紀から九世紀にかけてこの一族に折檻されこの血縁筋の旧来の土豪族は衰退したのですが、新しい「民族氏」にも何らかの血縁関係を持っていた事が考えられます。
九州は後漢の阿多倍等の軍勢に依って無戦征圧であった事から恐らくは在来民との婚姻関係を重ねての事ですのでその可能性は高いと考えられます。
依って10世紀初頭に「筑紫の秀郷流青木氏」に引き継がれるまでの間は朝廷の管理の下で150年程度はこれ等の血縁関係(筑紫氏等)のある豪族に依って護られていた事が考えられます。
この「栗隈王」の子供の「三野王(美努王):信濃王」は奈良期の19の神明社の一つを三野(信濃)に建立しているのです。 (三野王は橘諸兄の賜姓族橘氏の祖であります。)
「天智天皇と天武天皇」は「皇祖神」を「伊勢大社」とすると同時に、関西域から中部域にかけて19の神明社の建立をその19の守護王に命じているのですが、現実に例外的にこの19の第4世守護王に命じた「神明社の建立」の中に「筑紫」の「栗隈王」「武家王」が入っています。
参考(重複)
第4世族内の19守護王-19の神明社の建立地
伊勢王、近江王、甲斐王、山部王、石川王、高坂王、雅狭王、美濃王、・栗隅王、・三野王(信濃王)、・武家王
広瀬王、竹田王、桑田王、春日王、(難波王、宮処王、泊瀬王、弥努王) 以上19人/66国
この「栗隈王の守護国」と現在の「神明社建立地」とが一致し、「大化期の19」の「神明社建立地」の中に「栗隈王」の守護地が入っている事のこの2つの「歴史的な史実」から、当然に”「栗隈王」に九州の半域に「神明社建立」を同時に命じた”と考えるのが普通である筈です。
「天智天皇」は防人制度、九州から飛鳥までの直線広軌道の建設、煙火システムの確立、伴造制度、租庸調の見直し、戸籍制度など数多くの改革を実行していて、前記して来た様にこの一環として北端の陸奥域を含む国全体に「神明社建設」を行ったのです。
「陸奥域」には神明社建設の計画があって、「桓武天皇期」は「陸奥丹沢城」の建設と伴に征圧域に「神明社建設」を「坂上田村麻呂」に命じ、「桓武天皇」と「坂上田村麻呂」の稚友で同没年でその806年に「陸奥域の計画」は完成しています。
この「九州域」は「栗隈王」の子供の「武家王」の時代までに建設が進み、「令制後」に「日向域」まで組み込まれている事から、日本書紀の記述の「五畿七道」の完成期(天武天皇の時代に成立)の記述通り700年前後に基本的な配置(第1期期間)は終わっている事に成ります。
この間、日本列島約100年の神明社の建設期間(第1期)であった事が覗えます。
この様な史実を組み合わせて考察すると、当然に上記する信頼する「栗隈王」に”「九州域の神明社の建設」を命じた”と考えるのが普通と考えます。
「伊勢大社と神明社の関係」
そこで、”何故、神明社なのか”、”何故、伊勢大社ではないのか”、”何故、秀郷流青木氏に命じたのか”、”何故、「賜姓源氏-八幡社」ではないのか”、全国に戦略的に配置するのであれば、この様な「4つの疑問」が出てきます。そこでこの「4つの疑問」を解き検証します。
これ等の検証は下記の神明社で論じる事をより理解を深めるものと成ります。
「4つの疑問」
そもそもこの場合は、「皇祖神」の「伊勢大社」を創建するのが筋とも考えられますが、あくまでも「天皇家の守護神」として威信を鼓舞するには必要ですが、「戦略的な意味合い」を持たすという事には「伊勢大社」では抵抗があり、「皇祖神」である以上は「純然とした伊勢大社」で祭祀する必要があり、”「戦略的意味合い」が「皇祖神-伊勢大社」を汚す”と考えたと観られます。
そこで、その系列の「神明社」を「伊勢大社」125社以外の「戦略的拠点」に、”皇族賜姓族の「青木氏の祖先神」の「神明社」を設置した”と考えるのが普通では無いかと観ます。
筆者は、天皇家は「皇祖神の伊勢大社」の建立に不適当な地域の所の代わりに「祖先神」として「守護神」を造り、その「守護神」を「神明社」とし、それを「皇祖神」の系列に置き、「伊勢大社」の代わりに「神明社」を「戦略上の拠点」に配置させる政治的配慮があったと考えていて、故に「第6位皇子」を設定し臣下させ、「親衛隊の六衛府軍の指揮官」にして力を持たせ、5代の「5家5流の賜姓族」を創設して各地の「主要地」に「神明社」と共に配置した経緯と考えているのです。
(上記の記述した設問のその先鞭を付けたのが「藤成」の伊勢の松阪の「半国司」の布石であったと観ている。- 下記の第4期の最後の神明社建立時期806年で其処から神明社を建立する青木氏は衰退した為に次ぎに賜姓青木氏に代わって神明社を建立させる青木氏を発祥させなくてはならない筈で、そこで藤原氏の秀郷の祖祖父の「藤成」を嵯峨天皇はその目的の布石として先ず松阪に赴任させた。この時が820年頃赴任であり、此処に藤成の末裔を遺した。それまでは半国司は三宅氏であった。然し、青木氏に代わった賜姓源氏が神明社を建立する姿勢を採らなかった。同時に「嵯峨期の詔勅」で発祥した皇族青木氏も到底天皇の意に沿わなかった。結局、空白期間を生んでしまった。150年後のその後、秀郷の第3子(千国)にその任を与え「特別な賜姓の待遇」(賜姓族と同待遇)を採った。この特別賜姓族青木氏が960年頃に発祥させて松阪の末裔の跡目に入れた。以上の経緯となったと観る。)
そうすると、では「賜姓族青木氏創設」と「神明社の戦略的、政治的配慮」の順序は ”どちらが先なのか”の問題が生まれ、この順序の如何では「青木氏と神明社」の関係の意味するところが代わる事に成る筈です。そこを充分に吟味検証しておく必要があります。
この「2つの順序」は時代性から観て極めて短い範囲の政治的な実行課題であったのです。
前記に縷々と論じて来た様に、当然に「賜姓族の青木氏創設」が先であります。
この経緯は日本書紀等からも読み取れますが、その時間的な差は「伊勢大社の遍座遍歴」(飛鳥期-90社-90年-大化期前期)と、「19の神明社の創建」(大化期後期 670-686年頃)から観ても大化期の前期と後期の差であります。
そうすると「賜姓伊勢青木氏」は647年頃「伊勢王」-「伊勢大社の鎮座地の警護」として発祥していますので、大化期直前でありますので約40年の差があります。
ここから光仁天皇781まで5家の賜姓青木氏が発祥します。
この間に伊勢大社は90社から125社に向けて35社を建立して行きます。
(35社は遍歴経緯で記述 近隣4市2郡に存在)
同時に、「神明社」は19社から566社に向けて建立して行くのです。
(詳細は下記 賜姓青木氏は126社建立 桓武天皇は20社建立)
この時、第6位皇子を賜姓する青木氏の制度は、桓武天皇期で一時途絶えますので、桓武天皇は自らの力で神明社の建立を続けて行きます。
「桓武天皇」は「律令政治」を完成させ、結果、それまでの青木氏等の「皇親政治」は後退させて「桓武天皇」の圧迫で「5氏の青木氏」は衰退し「神明社の建設」は困難と成ったのです。
この間、代わって「律令政治」を主導して各地に「戦略的、政治的な目的」の為に「神明社」を建立し、最終、「桓武天皇」による「神明社建立策」は陸奥の「丹沢の神明社(806年)」の建立で終わります。
「祖先神-神明社の建立期間」
区別の期間 建立者 建立時期 建立数 建立時期
第1期神明社の建立期間 天智天皇 大化期初期 19社 天智天皇 政治的な期間
第2期神明社の建立期間 賜姓族青木氏 大化期後期 80社 天智天皇-天武天皇の期間
第3期神明社の建立期間 賜姓族青木氏 奈良期後期 46社 文武天皇-光仁天皇の期間
第4期神明社の建立期間 桓武天皇 平安期初期 20社 桓武天皇 戦略的な期間
・第1次の空白期間 :嵯峨天皇期-花山天皇期-賜姓源氏発祥-祖先神八幡社 809年~986年
第5期神明社の建立期間 特別賜姓族青木氏 平安期中期 90社 村上天皇-花山天皇の期間
・第2次の空白期間 :賜姓族青木氏の衰退期間 近江-美濃脱落 祖先神神明社 806年~1125年
第6期神明社の建立期間 賜姓族青木氏 平安期末期 22社 1125年頃開始-室町期中期
第7期神明社の建立期間 特別賜姓族青木氏 鎌倉期全期 15社 藤原一門の勢力低下期間
第8期神明社の建立期間 特別賜姓族青木氏 室町期前期 148社 秀郷一門の勢力挽回期間
第9期神明社の建立期間 特別賜姓族青木氏 室町期中期 165社 秀郷一門の勢力拡大期間
(注釈)
期間の設定は「2つの青木氏」に関わる「政治状況の変革期点」を区切りとした。
期間中の年数(期間年数/2)に対して守護国数の増加分を指数(全国数/増国数)を乗じてそれを全体比(126/全年数820)(418/全年数820)を乗じた数をその期間中の建立数としその時代の勢力状況を観て加減調整したもの。
つまり”「勢力状況」に応じて神明社を建てた”を前提とする。
この間に「神明社」がどの程度建立されているのかを考察しますと、その「桓武天皇」の「政治的な征討域」から割り出すと、「征討地に関わった地域」に一社建立したとして主に以北地域とすると、20社程建立している事に成ります。
これまでの「神明社」と合わせると「桓武天皇期」までは全社150社/566程度と成ります。
(781~806 35年間-20社程度)
凡そ室町期中期まで160年程度の間に27%建立されていた事に成ります。
全体の1/4程度が無建立されていたのですが、年数比で20%(160/820年)とすると27%-20%となり、政治的で戦略的な建設はハイピッチであった事が云えます。
神明社建立が国の絶対的課題であった事を物語ります。それだけに青木氏に期待していた事が良く判ります。
天皇家が「3つの発祥源」を象徴として前面に押し出し国策を推進していた事をもこの数字が物語るのです。突き詰めれば「桓武天皇」は「律令政治」を推進する上で「皇親政治の青木氏」と「3つの発祥源」が壁に成り、然し「律令政治」を推進せざるを得なかった事で衰退させてしまった青木氏に代わり止む無く自らが建立する立場に追い遣られたと云う事を示しています。
父光仁天皇の実家先や自らの親族の5家5流の「賜姓青木氏」を追い遣るのですから苦渋の選択を迫られた事に成ります。
だとしたら、”何故、母方の伊賀の「たいら族」を賜姓して青木氏を賜姓しなかったのか、苦渋ならばこの賜姓の仕方が矛盾しているのではないか”と云いたくなります。
現実に、この事で「桓武天皇」は親子・兄弟の「骨肉の争い」を起したのです。
「桓武天皇」と後の子供の「嵯峨天皇」、後の兄の「平城天皇」と「嵯峨天皇」の争いであります。
「嵯峨天皇」は「律令政治」を推進するとしても「皇親政治」の体制は残すべきとしたのです。
この時、青木氏の5家5流は「嵯峨天皇派」に付き「桓武天皇」と争う事に成ったのです。
結果、「賜姓青木氏」は「神明社」を建立出来ずに衰退します。
然し、「嵯峨天皇期」で賜姓族としての立場は安堵されますが、「嵯峨天皇」は「青木氏」の賜姓を中止し賜姓を変名して源氏とします。
此処で、青木氏を除いた「皇親政治」と「律令政治」の両立させた態勢が出来て必然的に「5家5流の賜姓青木氏」は途切れ、「青木氏の皇親政治」も後退して「神明社建立の根拠」とその「力」そのものも無く成ります。それに代わって同族の賜姓源氏が起る事に成ります。そしてここの同族の賜姓源氏に賜姓族としての「国策の推進」(神明社の建立等)を期待します。
この時、「賜姓青木氏」と「賜姓源氏」はその「生き様」「生き方」が違ってしまって、同族間の連携は無くなってしまったのです。
つまり、「3つの発祥源」と「皇祖神」に繋がる「祖先神-神明社」の「青木氏の立場」と、「荘園制」を利用した「勢力拡大」に主眼を置いた「賜姓源氏」(祖先神-八幡社)との間には歩く道が全く異なってしまったのです。
この事に依って「青木氏の神明社建立」も無くなり、「政治的-戦略的」な国策の「神明社の建立」は空白期間を発生させてしまったのです。
つまり、「桓武天皇」は「自らの責任での矛盾」は含むが「苦渋の選択」の上でも「神明社の建立」は推進させたのですが、これに対して「嵯峨天皇期」は「皇親政治」に戻しはしたが、「賜姓源氏」にはこの国策に充分な理解を得られずに「皮肉な現象」を起してしまた事に成ります。
「賜姓青木氏」の「祖先神-神明社」は「生活の神」「物造りの神」であり、「賜姓源氏」は「祖先神-八幡社」は「弓矢の神」であります。必然的にその「氏の発祥源」が異なってしまったのです。
大化の「天智天皇の国策の真意」、つまり「豊受大御神(とようけのおおみかみ)」を祭祀する「豊受大神宮」は「生活の神」であり「物造りの神」であり、つまりは、 ”人に豊かさを授ける神”であります。
「賜姓青木氏」の「祖先神-神明社」は、この「国策」の「本来の真意」を守り通したのです。
故に「桓武天皇」も「律令国家の完成推進」であったが、敢えてこの「皇祖神」の「国策の真意」を押し通す義務を果たしたのです。
確かに矛盾を青木氏に露出したが、筋が通っていて「合理的な判断」をした事を意味します。
青木氏に執っては「苦渋の選択」であって賜姓族としての本来の立場に大きな矛盾を含んだ事でものであった事が云えます。
それは「律令国家の完成と推進」は母方の「伊賀のたいら族」の如何に拘っていたからです。
なぜならば「立案と推進」を担う官僚の6割は彼等の一族一門郎党で構成されており、軍事は彼等の一門の宗家「坂上田村麻呂」が荷っていたのです。父方の青木氏は「六衛府軍」の「天皇親衛軍隊」であります。軍事的に圧力を掛けるにしてもこの勢力バランスでは太刀打ち出来ません。
これでは「国策の推進」を進める以上は、「桓武天皇」は、”好む好まない”にしてもこの路線を執るしかありません。だとしたら、勢いから「たいら族」が祭祀する「産土神」と成るかもしれませんが、其処は「皇祖神」を貫く意志が固かったのです。
「皇祖神」は「祖先神」でありますから、「神明社の建立」は敢えて譲らなかったのです。
だからこの厳しい辛い政治的環境の中で”筋を通した”と云えるのです。
この時の「賜姓青木氏」は「大事の中の小事」であった事に成ります。
我々末裔としては”納得すべき遠戚天皇の「桓武天皇」である”と考えるべきです。
(既に126社程度が賜姓青木氏5家5流で建立していた。下記で詳細を論じる)
実は後世の累代の天皇家はこの事(神明社国策推進)を忘れていなかったのです。
それは、結論から先に云いますと、最も大事な要点の”「特別賜姓族青木氏」の発祥経緯”なのです。
そして、”「祖先神-賜姓源氏-八幡社」は何もしなかった” ”その立場の責任を果たさなかった”のです。
(正しくは、「祖先神-賜姓源氏-八幡社」は「皇祖神-祖先神-賜姓源氏-八幡社(八幡神)」と成る。)
次ぎの「嵯峨天皇」(809年~823年)は抗争の上に再び「皇親政治」に戻し、賜姓を「青木氏」から「源氏」に変名します。(前記で論じた)これより花山天皇(984~986年)まで11代-177年間の「賜姓源氏」が発祥します。
(但し、その後の宇多天皇[887~897]は「滋賀佐々木氏」を賜姓した。「佐々木氏」は天智天皇が伊勢青木氏を賜姓したが、「第7位皇子の川島皇子」に対しても特別に地名から賜姓した「賜姓近江佐々木氏」がある)
ここで上記の「4つの疑問」の”「源氏-八幡社」がどの様に動いたのか”です。(既に先に結論は述べた)
と云うのは、”「特別賜姓族の青木氏」が「賜姓青木氏」に代わって「神明社建立」に入った”のは早くて「円融天皇期」、遅くても「花山天皇期」からであります。
つまり。この177年間は「神明社の空白期間」なのです。
従って、「賜姓青木氏」は衰退し、賜姓は「源氏」に成りましたので、この「神明社の建立」の「政治的、戦略的な国策」は引き続き「賜姓源氏」が「花山天皇期」までの間、つまり「特別賜姓族青木氏」が誕生する同時期まで果たして続けたのか”と云う事なのです。結論は前にも述べた様に果たさなかったのです。
当然に、この場合は「祖先神の神明社」ではありません。「祖先神の八幡社」に成ります。
何度も云いますが、そもそも「皇族賜姓族」でありながら「賜姓源氏」はその立場を護らなかったのです。
「祖先神-神明社」は「生活の神」「物造りの神」-「豊受大御神 豊受大神宮」「3つの発祥源」
「祖先神-八幡社」は「弓矢の神」「戦いの神」
「皇祖神」の「祖先神」を祭祀する系列神でありながら、文頭の「伊勢大社」の守護神 「皇大神宮 天照大神」(「心の神」)と「豊受大御神 豊受大神宮」({生活の神])を積極的に祭祀する立場を採らなかったのです。
(参考: 八幡宮の主神:全国の武士から「武運の神」[武神]「弓矢八幡」として崇拝され「誉田別命」[ほんだわけのみこと]-「応神天皇」と呼ばれた。別名では後に「八幡大菩薩」とも呼ばれた。大分県宇佐市と滋賀県大津市の宇佐八幡宮があるが大分を総社とする説がある。)
「賜姓源氏」とりわけ「清和源氏の時代」には時代の荒波に翻弄され、その「立場と責任」を果たそうとはしなかった事をこの祭祀する「神」でも異なっている事が判ります。
又、「弓矢の神」「戦いの神」では「政治的、戦略的な国策」としては天皇と民は納得しませんし国策としては成り立ちません。まして、「弓矢の神」は「侍の神」であり「民の神」ではありません。
「弓矢の神」「侍の神」では「生活の神」「物造りの神」強いては到底「心の神」には成らず「自然神」に基づく「心の拠り所」とは成り得ません。4つの神は本来は自然神に基づいているのですが賜姓源氏はこの自然神に基づいていないのです。、「弓矢の神」「侍の神」は到底「自然神」に基づくものではないのです。
皇族であり賜姓族でありながら「稀有な現象」が起ってしまったのです。
当然にこの事からもとより「皇祖神の祖先神」に基づく立場には完全に成り得ていません。
その稀有な現象が11代も続いたと云う事は政治そのものに直し押し切れない長い期間の状態が続いていた事を物語っています。天智天皇からの賜姓のあるべき姿を学んでいた累代の天皇の心には本来あるべき姿に戻せない遣り切れない空虚な空間が生まれてしまったのです。それが朝廷内の乱れの原因とも成って行ったのです。(第1次と第2次の空白期間の発生)
そもそも、「村上天皇」から「円融天皇」までには賜姓源氏は発祥しています。
しかし、この期間には「賜姓源氏」を差し置いて「藤原秀郷一門」に対して「特別賜姓青木氏」を「嵯峨天皇期の詔勅」に基づき「母方族」として敢えて重複して再び発祥させています。
「賜姓源氏」がその責任を果たしていれば、何も「特別賜姓青木氏」を177年後に再び持ち出して賜姓する必要は無い筈です。
それも「3大源氏」と云われた「嵯峨源氏(809~823)、清和源氏(858~876) 村上源氏(946~967)」の「村上源氏」の時代にです。(村上源氏は伊勢北畠氏 後に信長に滅ぼされる)
そもそもこの賜姓に付いて矛盾しています。
本来、皇族の賜姓は「3つの発祥源」の象徴として、「皇祖神」の「祖先神-神明社」-「生活の神」「物造りの神」として、「政治的、戦略的な国策」として「第6位皇子」を賜姓して臣下させて働かせようとしているのですから、”その役目を全く自覚せずに「弓矢の神」を吹聴して果たそうとしていない「源氏」を11代も何故賜姓するのか”大いなる矛盾行為です。
これは天皇側にも問題があります。
資料から拾い出すと次ぎの様な事が浮かんで来ます。
1 何時か護る賜姓族が出る「期待感」があった。
2 天皇に「観る目」が無かった無能であった。
3 仕方無しに「惰性」で賜姓してしまい続けた。
4 政治的に「負担軽減」に主眼を置いた。
5 渋り続けたが慣習に押された。
6 自らの「身の安全」を守ろうと臣下させた。
7 「弓矢の神」の必要性を感じた。
8 「神明社の必要性」を感化されなかった。
9 「源氏の武力」を恐れた。
10「たいら族台頭」のバランスを取ろうとした。
明確に記述しているものはありませんが言葉端や文脈から以上の事が読み取れます。
この内容を分析すると時系列的に2つに先ず分類出来ます。
1~5と6~10です。
清和天皇前までは1~5で11代のほぼ中間位から様子が変わってきます。
この前後から天皇は賜姓を渋り始めます。「時代性」も「事件性」が出て変化しています。
「桓武天皇のたいら族台頭」と「荘園制の行き過ぎ」の「政治課題」が大きく左右していると考えられます。
これは1~5に大きく政治的に影響を与えたと考えられます。
「神明社の空白期間」+「賜姓源氏」⇔「桓武天皇のたいら族台頭」と「荘園制の行き過ぎ」
確かに、「清和天皇」の前後頃から天皇は「源氏の賜姓」に対して賜姓する事を渋っていたのです。
特に11代の中でも最も後にこの役目を果たさなかった異端児族の源氏は「清和源氏」であったのです。
そして賜姓に対して顕著に出たその一連の事件が起こります。
それが「平将門の乱」とそれを終焉させた「藤原秀郷」とその子の「特別賜姓青木氏の誕生」へと繋がって行くのです。(前論で記述) それが再度、「神明社建立」に繋がって行きます。
この間「たいら族台頭」は一方で進みます。しかしこの「渦の流れ」の最後には「源平」の真に「ビッグバーン」が起るのです。
しかし、何と不思議に再度起った「神明社建立」はこのビッグバーンに影響しなかったのです。
その「清和源氏」の賜姓には「清和天皇」の孫の第3世族の第6位皇子「経基王」にはその行状の悪さ(前記した平の将門の乱の経緯)からも躊躇して賜姓をしなかったのです。
やっと賜姓したと思ったら、「経基王」の子「満仲」は全国の武士に対して「荘園制」(前記の論)を利用して「荘園名義主」と成り勢力を高め、由緒ある名家名籍の源氏の「名義貸し制度」を無秩序に拡大利用して多くの「未勘氏族」を作り上げ「源氏武士団」を構築してしまったのです。(たいら族に対抗する為に)
さすが「満仲」は”天皇家と皇族の印象を汚す”として本来なら賜姓族である為に前記した「冠位の制」や「有品の制」などの「4つの規定の官位官職」(前回で論じた)は与えられず天皇から疎んじられます。
(再注釈:前記した様に、各豪族が開発し、或いは奪い取った荘園を護る為に皇位名籍の氏名を借りて「名義上の荘園主」に成って貰い、それに見合う代償を支払い荘園を護るシステムで、その為に今度は「名義荘園主」は「名籍氏」を名乗ることを許し、「無血縁の名籍氏」を作る方式で、”いざ戦い”と成った時は”馳せ参じる”と云う契約です。中には大荘園の場合は「遠縁の娘」を何処からか探し出して、或いは作り出して間接的な遠戚を作り出す事もあった。これを「未勘氏族」と呼ばれるもので「源氏姓」や「平家姓」や「藤原姓」等を名乗る氏の95%族がこの族に部類するのです。
その「未勘氏族」の系譜を観ると、その一手法は、その「名義荘園主」の系譜のある代の処に一人架空の名籍人物を作り、その架空の人物から自らの氏の末裔が拡がった様に系譜を繋ぐ方式です。この偏纂は概ね「3つのパターン」に分類されます。)
この注釈の行状を”天皇家と皇族の印象を汚す”とし、”第6位皇子の賜姓の源氏が何処まで本当の源氏か判らなくなっている事を憂いた”のです。
当然、”同じ対比する氏が無ければ左程の憂いでは無かった”と考えられますが、厳然と「賜姓青木氏」と「特別賜姓青木氏」が「3つの発祥源」「祖先神-神明社」のその象徴としての「立場と役目」を全うしているのですから、累代の天皇は無関心ではいられないのが普通です。
これが前記した「一条天皇」から「後三条天皇」-「白河天皇」-「堀河天皇」-「鳥羽天皇」(院政含む)の累代天皇政治の「粛清政治」(「荘園性の行き過ぎ論)と成って行ったのです。
(結論はビッグバーンで「源平の問題」は解決したが、もう一つの「荘園制の行き過ぎの問題」は上記した累代粛清を実行した天皇6人が命を賭けて解決に取り組んだのです。残ったのは室町中期までの何と無傷の「神明社建立」だったのです。)
この「源氏行状」(下記のデータで論ずる)は止まらず、次ぎは3代目の三男の頼信は嫡男頼光の援護を受けて関東を支配下に攻め込んで獲得する有り様で、祖父の思惑を実行して国策の真逆の行動を採ったのです。
(援護の宗家頼光側にも問題は無かった訳ではない。)
そして、分家頼信4代目の義家では陸奥を攻めて獲得した事はしたのですが、遂に天皇は痺れを切らし「白河天皇」から「鳥羽天皇」まで完全に疎んじられて全ての彼の行為は「禁じ行為」の「私闘」と決め付けられ排除されます。
義家と頼信系清和源氏は一挙に衰退して行き、頼朝で5年間程度持ち直しますが共倒れで11代の源氏は完全に滅亡してし仕舞います。(義経-頼朝の争いはこの路線争いであった)
(この事は前記で一条天皇から鳥羽天皇の処で「国難」で論じた)
しかし、一応は調べる事として、そこで「177年間の空白期間」(第1次空白期間)の「祖先神の八幡社」の建立状態を調べる必要が出てきます。但し、”「戦略的、政治的目的」の為に”であります。
確かに「嵯峨天皇期」(809~823年)から再び「皇族賜姓族青木氏」は次第に回復する期間に入りますが、未だ「皇族賜姓族」は衰退して「神明社」を建立する勢力は無かったのです。
しかし、父桓武天皇に依って「賜姓青木氏」が衰退させられたのであれば、桓武天皇の様に”自らが神明社の建立者と成っては良いではないか”と云う疑問が当然出て来ます。
確かに、筆者は「2足の草鞋策」(1125年頃)を「賜姓青木氏」が採り始めた時期までその勢力は無かったと観ています。衰退した事も「2足の草鞋策」を採ったのですが、経済的な問題だけではなく源平の間にあって採り難い事情も考えられます。
そうすると「特別賜姓族青木氏」が「神明社建立」を始めた時期(970年±10前後)までの「160年間の空白期間」(第2次空白期間)があります。
もしこの「2つの空白期間」に「源氏-八幡社」が神明社に代わって”「戦略的、政治的目的」の為”に建立していたとするならば、この「2つの空白期間」は解消する事に成ります。(しかし無かったのです。)
その時の「4つの経緯」を下記にします。
「4つの経緯」
「180年間の空白期間」(第1次空白期間) 809年~986年 11代の賜姓源氏の時代
「225年間の重複期間」(第1次重複期間) 970年~1195年 特別賜姓族青木氏の誕生
「160年間の空白期間」(第2次空白期間) 970年~1125年 2つの青木氏の不連携
「70年間の空白期間」 (第2次重複期間) 1125年~1195年 賜姓青木氏と賜姓源氏
つまり、「源氏11代目花山天皇在位末」986年と「特別賜姓族青木氏の誕生期」970±10年がほぼ一致するからです。
残った「清和源氏」の頼朝没までの1195年に対して1125年の70年間 賜姓青木氏の重複期間、と970年の225年間 「特別賜姓青木氏」の重複期間がどの様に成るかが決ります。
しかし、この様に「桓武天皇」による「律令国家」と共に「国の征討」が進み「5家5流の賜姓青木氏」だけではこの「国家戦略」の「神明社建立」は維持する事が叶わ無くなった事も史実です。
更に推し進め様とした「村上天皇期」(946~967年頃)には、そこで勲功の高かった「北家藤原秀郷」にその「第3子」を「特別賜姓族」に任じて、「賜姓青木氏」と全くの同格の扱いである身分、家柄、勲功、官職、官位、叙勲を与えて「嵯峨期の詔勅」を使って「特別賜姓族青木氏」としたのです。
その「由来の根拠」を「母方同族氏」として「賜姓血縁族」である事を前提に引き上げたのです。
この時に特記すべき事は、「青木氏の子孫存続・維持の方策」として天皇は、秀郷に、”「秀郷宗家より第3子を以って「青木氏の跡目入れ」とする”とわざわざ命じて定めたのです。
この意味は大変大きいのです。つまり天皇家が「青木氏」をどのように見ていて、どの様に扱い、天皇家の意向を汲み、”「3つの発祥源」と「祖先神-神明社」の責任を果たしてくれる唯一の味方”と云う事が読み取れます。それは関東での「平の将門の乱」の引き金に成った一連の秀郷の頑固なまでにも天皇家に対して「律儀な性格」を見抜いて「白羽の矢」を建てた事も読み取れます。
その為には「空白期間の焦り」と「源氏の行状の憤慨」と「源氏への幻滅感」を払拭するが為に「秀郷の末裔」に期待していた事が判ります。
それ程にこの「空白期間の失政」を反省して天皇家は「2つの青木氏」に対して政策的に重要視していた事を物語ります。
それにより ”「拡大する征討地の守護」として、その「政治的、戦略的な拠点」として、「祖先神」の「神明社」を創建配置した”と考えているのです。
故に”「賜姓族」は神明社1/3であり、「特別賜姓族」は2/3であり、その守護範囲をこの様に分けた”と観ているのです。この数字の持つ意味であります。
そして”伊勢の皇祖神の伊勢大社のお膝元に、「賜姓族伊勢青木氏」と共にこの「特別賜姓族」の「秀郷流青木氏」を配置して、この「2つの青木氏」を結んで「一つの青木氏」とした”と観ているのです。
「伊勢秀郷流青木氏」を置き真っ先に伊勢に「特別賜姓族」としての役割を果させ様としたこの事が重要な事なのです。
(この事は前段で何度も論じて来たが、「5家5流の青木氏」の「青木氏の建直し」をも狙っていたのです。
それには、急に配置したとは考え難く、「事前の布石策」が天皇家にあったと考えているのです。)
秀郷の祖祖父の「藤成」を九世紀初頭(秀郷から150年前:800年頃 桓武天皇期末期)に「伊勢の半国司」と配置しているのです。これは嵯峨天皇が青木氏衰退を承知していて、「将来の布石」として政策的人事として手を打ったと観ています。依って、恐らくこの伊勢に「藤成」は末裔を遺したと考えているのです。
なぜならば、”赴任地に末裔を遺して定住させる”の戦略は秀郷一門のみならず北家藤原氏の例外の無い「赴任地の基本戦略」です。これにより一門の拡大を図ったのです。(前記で論じた)
秀郷末裔の「基景」が伊勢長嶋の地の「半国司」に成った時に「伊勢の伊藤氏」を継承しています事(この時も護衛団としての青木氏が同行している事)から”「藤成」は末裔を少なくとも遺していた”と考えられます。(この時は未だ秀郷流青木氏は発祥していない。3代後)
これが後に史実として秀郷一門の「近江蒲生氏」との跡目血縁をしていますので、その末裔が伊勢四日市に定住していて、その事から「秀郷流青木氏の始祖」となる秀郷一門(「藤成末裔」)が古くから定住していた事が判ります。
又、清和源氏の宗家頼光系四家は5家5流の青木氏に跡目を入れている事からも「賜姓青木氏」を側面から援護していた事が判ります。宗家側では何とか皇親族の青木氏を残そうとしたのです。
それに応えた事件があります。それは「以仁王の乱」の首謀者の頼光より4代目の頼政の孫等の「助命嘆願」にたいら族に対して「賜姓伊勢青木氏」が動いた事なのです。
これ等の一連の事からも清和源氏宗家頼光系が青木氏に対して援護していた事が判ります。
片方では分家頼信系は「勝手気侭な行動」を採ったと観えるのです。
筆者は、”「特別賜姓青木氏」の「始祖千国」の末裔(子供)がこの伊勢の「藤成末裔」に跡目を入れて「青木氏」を興して配置した”と考えているのです。
その”始祖千国の嗣子が誰なのか”研究中で、「賜姓族」に成った「千国」は恐らくは直ぐに天皇家の守護神の「伊勢大社」のある所に、「賜姓青木氏」と同格の身分を得た以上は、子供を直ぐに配置する筈です。否、「義務」として配置しなくてはならなかった筈で、伊勢には、「藤成の伊勢の末裔」が定住(四日市)している訳ですから、そこに跡目を入れるが常道です。
この行動は「同格の役目と家柄」を与えられた以上は必定な絶対的職務です。先ず100%入れている筈です。末裔が居て定住地も判っているのですから後はその人物の特定だけです。
「賜姓伊勢青木氏」の関係資料の中からこの事に付いて何らかの資料が出てくるのかとも研究しましたが、松阪の大火消失で確認出来なくなった事や、伊勢秀郷流青木氏等からもなかなか出て来ません。
従って、”他の関係する処”からの研究を進めていますが「特別賜姓族青木氏」の「伊勢の祖」も確認出来るかは疑問です。この部分が現在の研究課題です。
「青木氏と守護神(神明社)-15 (「賜姓源氏の祖先神の役目」) に続く。
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投稿者:福管理人 投稿日:2011/12/25(Sun) 13:25:09
「青木氏と守護神(神明社)」-14
本文
「神明大社」との関係
先ず、神明社又は神明神社は青木氏に大いに関係する事ですので、これから始めたいと思います。
「神明社」とはそもそも、「天照大神」(「豊受大御神」)を祀る神社です。
「経緯」
「豊受大御神」(とようけのおおみかみ)」を祭祀する「豊受大神宮」は、「皇大神宮」「天照大神」の内宮(ないくう)に対して外宮(げくう)とも云います。
「皇大神宮」「天照大神」は言わずもがな国民等しく日を照らす神であり「太陽神」であり「自然神」であり後の「鬼道」の基に成ります。つまり要するに「民の心の神」であります。
祭祀する経緯由来は、「雄略天皇」が、夢の中で「天照大御神」のご託宣を受け「豊受大御神」(外宮)を「丹波」の国から、内宮にほど近い「山田の原」に迎えたとされるものです。
この真偽の程は別として「雄略天皇」の「御託宣」とは、「心の神」に対して民には「生活の神」「物造りの神」が必要であるとしての行為であったと考えられます。人はこの「2つの基神」があってこそ「人の世の生の神」でありますが、当初は「心の神」だけを祭祀する事で「人の世の生の神」としていたのです。
しかし「夢のご託宣」の「丹波国」からわざわざ祭祀の場所を伊勢国に移して「天照大神」(内宮)と共に「豊受大御神」(「外宮」)を正式に合祀して「皇祖神」として「2つの基神」を祭祀した天皇家では、その最初に伊勢国の現在地に於いて祭祀し始めました。
その祭祀したのが「大化改新」(645年)の立役者の中大兄皇子です。後の天智天皇です。そして、この「2つの神」を「皇祖神」として祭祀しました。
ところが、この」「天照大神」の「皇祖神」として長い間の遍座(90社90地域90年)からやっと伊勢神宮に遷宮したのですが、ただこのままにしては政治的に、国家戦略的に布教を進めるには問題があるとしたのです。
(参考 伊勢大社建立期は他説あり 「大伯皇女」が「泊瀬の斎宮」に籠り、674年に伊勢大社の「斎王」として入るので、最終伊勢の周囲で更に遷宮した期間と建設期間と遍座期間と天智天武の在位期間内から判断すると650年頃と成る)
その原意となったのはそれは後漢の人「阿多倍王」が率いる技能集団の帰化人等がもたらした「技能」に依っての事であります。その結果は「物造り」が盛んに成り、「民の生活の豊かさ」が増し、この「豊かさ」を享受することで国家が安定し安寧に進んだのです。それまでは前記した様に、3世紀から始まった「邪馬台国」から「大化期」までは国内での騒乱が続き、その中で100年周期の「著しい気候変動」によって飢饉が発生して民は大疲弊していたのです。其処にこの「技能」に依る「豊かさ」に依って民を安寧に導く方法がある事を「大化改新」の立役者の中大兄皇子は知ったのです。
それまでは「自然神の鬼道」(邪馬台国の卑弥呼の「占い術」)が示す様に、民は「心の神」と「五穀豊穣」が叶う様に神に信心していたのです。
然し、そうではない事を「為政者」も「民」もこの「技能から来る豊かさ」を知る事に成ります。
この事が天智天皇の悟る処と成り、丹波国に「豊受大御神」を鎮座していたのですが「天照大神」と共に祭祀する必要性に目覚めさせたのです。
「やまと王権」の応仁大王から始まる神代の時代の3代目の雄略大王を引き合いに出し「夢の御託宣」として古さを誇示し「天照大御神」に継ぐ「2つの基神」として考え方を変えた事を意味します。
そして、この「皇祖神」に「天照大御神」を加えて「伊勢大社」に内宮と外宮として合祀する事になったのです。日向高千穂の地の「天岩戸神社」から発した90社90遍座を繰り返した「皇大神宮」「天照大神」を最終伊勢の地に遷宮する事を定めますが、この際にこの「2つの基神」をも伊勢に遷宮したのです。
伊勢豊川を中心に近隣地域にこの「2つの基神」を「皇祖神」として125社の分霊を行いますが、ここで政治的に国家統一の戦略的な意味合いから、この「2つの基神」の「皇祖神」だけでは成り立たなくなったのです。
「2つの基神」とは次ぎの様に成ります。
「自然神」+「鬼道」⇒「皇祖神」=「天照大御神」+「豊受大御神」=「心の神」+「生活の神」「物造りの神」
「生活の神」「物造りの神」=「豊受大御神」=「祖先神」=「神明社」
「祖先神」=「代替神」=「皇祖神」
∴「皇祖神」=「天照大御神」+「祖先神」
それは、前記で論じて来た様に「民の声」が「豊かさ」を享受してくれる「生活の神」「物造りの神」の要求度が大きくなった事によります。
その為には天皇は急務として「大化改新」の一つとして「皇祖神」に繋がる「代替神の創設」が必要と成り、別の国策「3つの発祥源」としての「賜姓臣下」の「融合氏」の青木氏に、この「代替神」を創設させる事に成ります。そして上記の関係式の通りのその「代替神」を「皇祖神」に継ぐ「祖先神」としたのです。
その「祖先神」を祭祀する「代替社」を「神明社」としたのです。
「3つの発祥源」+「皇祖神の代替神(神明社)」=「青木氏の象徴」⇒「4つの発祥源」
この青木氏が「守護神」とする「神明社」は上記の経緯から、「豊受大御神」を主神として「生活の神」「物造りの神」として「民から信仰」を集めたのです。
この「皇祖神」の「伊勢大社」のある伊勢国に「神明の社」を創設して松阪の地に定めました。
この時、「伊勢大社」の125社と同じく近隣地域に先ず19社の神明社を建立します。
そしてそこには「皇族第4世王皇子」を配置して守護させました。
後にこの天領地の主要守護地(5地域:東山道域+東海道域)には「第4世王内」の「第6位皇子」を賜姓臣下して配置したのです。
然し、ここに至るまでには「皇大神宮」は大変な経緯と遍歴(90年-90箇所)が伴ない、最終的に天智天皇が伊勢を鎮座地として定めるには簡単ではなかったのであり、かなりの時間と複雑な経緯を要したのです。
そこで、この事に付いて「皇祖神の伊勢大社」と「祖先神の神明社」との関わりに付いて理解を深める為にも先に触れて置く事にします。
先ず、日本人に於ける「神」は悠久の歴史の中で一つであったと考えがちですが、ところがそうではないのです。
日本は、”世界に稀な「7つの融合単一民族」だ”として、その「由来や経緯」に付いて今までいろいろな角度から詳細に既に延々と論じてきました。
そこでそれらの「神の事」に付いて取り纏めますと次のように成ります。
「氏神の種類 4神」(下記に詳細説明)
0 「自然神」(しぜんしん)
山海・草木・湖沼・岩石等の自然物や雷・風雨・地震・火などの自然 現象に宿る神とし「否特定の神」
1 「産土神」(うぶすながみ)
その「人」の「生まれた土地の神」であり、一生来その「人」の「土神」とする「人(単独)の神」
2 「祖先神(祖霊)」(そせんしん)
「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、 自分の集合である一族一門の子孫の「守護神」であり「人と氏の重複性も持つ神」
3 「氏神」(うじがみ)
「人の神」ではなく、「氏のみの一族一門の神」で、氏永代に守護する「氏(独善)の神」
4 「鎮守神」(ちんじゅのかみ)
「現在住んでいる土地の守り神」であり、「土地・地域」を守る「土地・地域の神」であり、「人」は土地に吸収されるとした「土地・地域優先の神」
(注 0は1から4の基本に成る。 不特定にて独立して祭祀されている部分もあり 其の一つとして「天皇家の祭祀」はこれに当る。)
「氏の神の種類 4神の経緯」
上記の説明を前提に次ぎの経緯・背景に付いて先に論じます。
上記の”一つでは無い”と云う事のその大元は「7つの融合民族」が原因しているのです。
先ず最初にはこの「7つの民族」の「融合過程」から起る「ある程度の集団化」が起こります。
それは先ず最も血縁する一族一門の「小さい集団化」の「氏の形成」であったのです。
その「小さい集団化」の形が「氏家制度」(氏の形成)と云う形で「規則化」が起こった訳です。
その「氏の形成」が奈良期から室町期までの事として、大別すると幾つかの氏の種類が起るのですが、最初は「7つの民族」の小さい範囲で「集団化」が起ります。
それが先ずは「民族氏」Aであったのです。
次ぎにこの「民族氏」Aのある種の弊害の事由により政策的に推進して「融合氏」Bが発祥します。
要するにその「融合氏」Bの最初は青木氏であります。
更に、この「民族氏」Aと「融合氏」Bとの血縁化による「血縁氏」Cが誕生します。
次ぎにこの「融合氏同士」の血縁化による枝葉化した「枝葉氏」Dが誕生します。
これ等の支配下にあった者等が勢力を勝ち取りそれらの血縁化が起こり「姓氏」Eを構成します。
この「5つの集団化」(A~E)が当然に遺伝子的に各々の立場から来る考え方で”自らを守護し信じる神”を構築し祭祀する事に成ります。
この立場から来る「守護神」が上記(下記にも詳細記述)に示す「5つの神」であります。
これが一つに纏まらなかった経緯なのです。
ところが、この「5つの神」(0→4)は「支配する族側」の「守護神」であり、「民衆の守護神」ではなかったのです。
それは「支配される側」の民衆は「氏家制度」と言う「身分制度」の中で拘束されていた事から生まれ得なかったのです。しかしながら彼らもそれなりに「心の拠り所」としての「何がしの行動」を採ったのです。
民衆の「心の拠り所」としての「神」に対する考え方には「2つの形」があるとしています。
1つは”人は迷うものである”とする仏教の教えから来る救いの神を「心の神」としてこれを「神仏」に求めたのです。-(「心の神」)
2つは”安寧と安定はその生活の豊かさにある”として「五穀豊穣と物造りの願い」として「生活の神」を求めたのです。-(「生活の神」)
この「民衆の支え」(「心の神」+「生活の神」)は”国の安寧と安定に繋がる”として「支配する側」はこの「2つの神」の形の実現を目指したのです。
彼等の民衆は大まかには「部曲と民部」に分離され、その「部曲と民部」の「支配される側」の民衆は「殖産」と云う形で「共通項」(接点)を持ち得ていて、そこにその「共通項」(接点)の「共通の神」を求めたのです。
「共通項」(接点)=「殖産」
「支配される側」の民衆には、「守護神」」(「心の神」+「生活の神」)を単独で維持管理する勢力は当然に到底持ち得ていない訳ですから、単独では無く「支配する側」の「神」にその神を定めたのです。
中でも下記に記述する様に、「国の神」でもあり「万世一系」に通ずるとして天皇家の「皇祖神」に信心しそれを「心の神」としたのです。
(”万世一系に通ずる”は「7つの融合民族」である限りあり得ない事で全ての万民を皇祖神に結び付ける為の「政治的方便」であり、「皇祖神」=万民の「心の神」とするものであった)
そして、「皇祖神」=万民の「心の神」とする以上はその「皇祖神」に繋がる「祖先神」に対して、「共通の神」「共通項」(接点)としての「生活の神」即ち「殖産の神」を求めたのです。
「2つの基神」
「皇祖神」=万民の「心の神」
「祖先神」-「生活の神」(殖産の神)
「支配される側」の民衆は「心の神」の「皇祖神」と、「生活の神」の「祖先神」とに分離して信仰し祭祀を重ねたのです。
これが平安期までの「神の姿」であり、国民は総じてこの「2つの基神」に信心する形が出来上がったのです。
そもそも平安期末期までは、朝廷により「八色の姓制度」などで「氏規制」され制限されていた為に、初期には20からせいぜい末期80までの「氏」での構成であり、「氏毎の守護神」を作るまでには至らず、国民全ての「共通の神」は「自然神」であり、帰化人が持ち込んだ「産土神」と、「融合氏」を始めとする「在来民」の「皇祖神-祖先神」との構成に成っていたのです。
「民の共通の神」は「自然神」⇒「皇祖神-伊勢大社」
ところが鎌倉期に入り平安末期の「融合氏」の青木氏を始めとする「武家の台頭」により朝廷からの許可規制と八色等の法の規制が外れて、氏数が200に乱立し到達し、その氏は「武家の独善の守護神」を求めるに至ったのです。その結果、次ぎの様な類別される守護神の考え方が出来上がったのです。
「武家の守護神」の誕生 →「自然神」「産土神」「皇祖神」「祖先神」に変化
此処で、「支配される側」の民衆は「支配する側」の個別の独善的な「守護神」に対して無視する事が出来ず、上記した様に「2つの基神」の使い分けを試みたのです。
「自然神」→「支配される側」の民衆→「心の神」の「皇祖神」→「武家の守護神」
然し、「支配される側」の「生活の神」の信心は強く、「支配する側」の個別の独善的な「守護神」に対してはその信心は強くは生まれず、結局は旧来からの悠久の歴史を有する「皇祖神-祖先神」に対して”霊験新たか”の心を捨てる事はしなかったのです。
それは、全ての神の「共通神」の「自然神」に通ずる「神」である事、更には台頭した氏の歴史の無い「守護神」には「生活の神」までの「霊験」を主張する事は出来なかったのです。
(守護神 阿蘇大社、宗像大社、出雲大社、住吉太守、熊野大社等を背景として氏子集団が台頭して「姓氏」が乱立した)
結局は「支配される側」の民衆は「生活の神の祖」としての「皇祖神-伊勢大社」、現世の「生活の神」の「祖先神-神明社」に信心を求め続けたのです。
「生活の神」の「皇祖神-伊勢大社」⇒「祖先神-神明社」
その時代の経緯の中でも、台頭する他氏と異なり、われ等の「融合氏の青木氏」は身分の別があるにせよそこに「溝」を求めずして「4つの青木氏」を構築し、「支配する側」と「支配される側」が一体と成って民衆が求める「祖先神」を祭祀し続けたのです。(詳細下記)
その一体化は国民は皆等しく「生活の神」の「皇祖神-伊勢大社」⇒「祖先神-神明社」に求めたからであって、「3つの発祥源」としても求められた事に由来するのです。
その求めに応じて働いたのが「神明社」の「管理・建立の職能集団」や「青木氏の神職」等の前回より論じている青木氏の「部」との掛け合いであったのです。
青木氏=「2つの血縁族の青木氏」(賜姓族、特別賜姓族)+「2つの絆族の青木氏」(未勘氏族、職能族)
この行為が下記する「物造りの氏上」と成った所以なのであって「氏神様」の呼称の所以でもあるのです。
(室町期以降の書物には”「氏神様」”と呼称の字あるが、筆者は上記する「4つの青木氏」の事から平安期までは”「氏上様」”の呼称であったと考えていて、江戸期前には「御役」(御師)の呼称もある処から間違いは無いと考えています。この変化は平安期まであった「民族氏」と「融合氏」は衰退し室町期に多くの「姓氏」が発祥し、その結果、彼等の「守護神」とする「氏神」の呼称と「物造りの氏上」の呼称が重なった事から次第に間違われて行ったと考えられます。)
「二重の信心構造」
他氏の支配下にあった「部曲と民部」の民衆は、支配される「守護神」に信心する事は当然としても「皇祖神」に繋がる「祖先神」の「神明社」にも信心すると云う「二重の信心構造」を持っていたのです。
何れに重点を置いていたかは”「5つの神」の何処に所属するか”とか、「氏家制度」の中でその氏の「勢力」「環境」「身分・家柄」に依って異なっていて判定が困難ですが、大別すると筆者は「心の神」は其の「氏の守護神」に求め、「五穀豊穣や物造り」等の「生活の神」には最終的に平安期末期頃には「皇祖神-祖先神」に置いていたと考えられます。
「皇祖神」の天皇家では「自然神」から来る新嘗祭等の祭祀を司り、全国に125社の伊勢大社の分霊を置き、「祖先神」の青木氏の「神明社」(566社程度)には朝廷もこれを推進し、中でも「桓武天皇」は積極的で全国を征討する旅に「神明社」の建立を命じて行った背景があります。
平安期末期までには「式内社」として凡そ500社-600社に上る支社・分霊を置いて民衆の「生活の神」に応えています。室町期末期では「式内社」外の「氏社」として1000社、江戸末期では5000社位にも成っています。各土地の累代の守護や領主が神明社のないところや新たに村の形成で必要となった領域には「民の安寧と安定」を願って積極的にその資力で建立して行ったものです。
特には江戸期全般を通じて「他教の布教」が目立つ事もあって「神仏分離令」などを発して奨励したのです。
「伊勢信仰」と「神明信仰」を始めとして「熊野信仰」や「諏訪信仰」や「阿蘇信仰」や「出雲信仰」や「宗像信仰」や「住吉信仰」や「八坂信仰」や「八幡信仰」や「大神信仰」等多くの「大社信仰」を競わせて各地に布教を奨励したのです。(末尾の付録データ参照)
そもそも神社は其の信仰の利害を配慮して”神社は本来古いもの”として信じさせて、各地の「神明社」の由来を明確にしない傾向があり、正しいカウントがなかなか出来ない処があります。
しかし、「鳥居や社舎の建造形式」や「建設地の地形」や「古い土地の豪族」や「神紋」などから判定する事が可能であり、その判定方式からすると凡そ566社として全国的には以上の様に成ります。
(下記 素データは付録記録参照)
しかし、これには正式な支社・分霊社かどうかは判別できないし、室町期末期の以降頃に各国の豪族は「心の神」は氏の「氏神」に求められるが、「生活の神」には出来得ない事から「象徴と権威」の「祖先神の神明社」に求め、青木氏が建てるのではなく上記する様に江戸期には土地を支配する大名大豪族自らが独善的に建立すると云う現象が起こったのです。
(依って本文はこの室町末期から江戸期のものに付いては除外した)
その前兆は「氏の拡大」と「姓氏の発祥」で、その家柄、身分、由来などを誇張し搾取すると云う現象が起った事で、その影響を受けて平安末期頃から徐々にその「社寺の由来や寺社歴」に対して「搾取偏纂の横行」が起ったのです。中でも「皇祖神」125社に繋がる神明社600社が多く狙われたのです。
その原因は「平安末期の混乱」と「武家社会誕生」に依って「2つの青木氏」の勢力が一時混乱し衰退した事でその「150年程度の間隙」を狙われたのです。
青木氏のそれを阻止する勢力はこの時期には最早無くまた方針も意思も無く、むしろ黙認し放置していたのです。
青木氏に於いては「氏の存続」に対してその「利害の損傷」は余り無かったと観られるのですが、その傾向は広く主に関東域と関西より以西の地域で起りました。(付録データ参照)
その意味で「神明社の検証」はこの搾取に付いては深慮な考察が要求されるのです。
これは鎌倉幕府以降から室町期中期までは「武家の社会」となり「関東域の豪族」が勢力を拡大させた事によると観られ、武家社会の家柄身分の誇張現象の風が吹いたのですが、その影響で「民の信任」を引き付ける為に「民の生活の神」としての「神明社」を独善的に建立したと考えられます。
この傾向が調査により131社-全国比 23%にも成ります。1/4もです。無視出来ない勢いです。
では”その豪族は何氏なのか”と云う事に成りますが、「神明社」を建立すると云っても「維持管理」に対してそれだけ「財力と勢力と維持力」が必要であり、豪族と云うだけでは過去の慣習から建立は不可能であります。又、其の建設に必要とする「職能の保持」と「神職が氏に有する氏」ではなくては困難であり、「氏家制度」を確実に構築している豪族が可能と成ります。
「皇祖神」に繋がる「祖先神」の「神明社」ですし、他氏(殆どが氏神)が建立すると成ると、「青木氏」の「祖先神」の「神明社」としても矛盾が起り許可を得る事の必要性もあり、皇族や朝廷の許し無くしてはなかなか難しい筈です。勝手に進めれば「朝敵」の汚名を受ける事にも成りかねないし下手をすると衰退の道を歩む事にも成ります。
少なくとも天皇朝廷との強い繋がりを有する豪族氏である事に成ります。依ってその氏は必然的に限られます。
当然に、この領域は平安期からは北家筋の藤原秀郷一門の領域ですから、この地域の支配者としての建立に必要とする条件は藤原秀郷一門には全て備わっている事に成ります。
この様な背景がある以上はこの室町中期前、又後期に於いてもこの「神明社の建立」は間違いなく「藤原秀郷流青木氏」による建立と考えられます。(下記のデータでも証明)
藤原氏は「鎮守神」の「春日大社」であり、この関東領域に「祖先神の神明社」を建立する事が出来るのは中でも青木氏のみであります。
「特別賜姓族」であり「賜姓族」と全く同じ「家柄、身分、官位、官職」を持つ氏であるからです。
もし他氏が建立するとしても争いが起こりますし、青木氏の存在する領域に建てる事は上記の慣習に伴なう条件を備える事はなかなかに難しいと考えられます。
ただ群馬北域に付いてはこの室町期中期以前には特別賜姓族と賜姓族の青木氏の定住は少なく建立する条件が備わっていたかは疑問でありますが、隣接する国境域の建設は有り得ると考えられ確認したところ「神明社建立地」は越後、信濃、甲斐、武蔵、下野に隣接する国境の領域が殆どです。依って群馬域は可能であったのです。
この隣接する国域は全て「2つの青木氏」の領域であり、その領民は「4つの青木氏」のスクラムの所以であります。
このデータから観ても「4つの青木氏」のその「スクラムの強さ」をも証明する事が出来ます。
依って、特別賜姓族で藤原秀郷流青木氏の影響から観ると、117/566と成り、全国比21%を占めるものと成ります。仮に群馬を外したとしても、103-地域比 79%-全国比 18%も占めます。
全国の1/4の神明社を伊勢ではなく武蔵の領国に建立すると云う事は「秀郷流青木氏」は「特別賜姓族青木氏=賜姓族青木氏」の考えを以って心魂からその責務を果たそうとしていた事に成ります。
更には下記のデータから顕著に出ている事は、「/地域」でも「/全国」でも「神明社の分布比率」は特別賜姓族で「秀郷流青木氏の末裔分布」の比率に完全に沿っています。
(これは賜姓族の末裔分布比率も同じ 下記])
「神明社の分布比率」=「青木氏末裔の分布比率」
「神明社の建立地」=「青木氏の定住地」
そして武蔵国だけでも全国比10.8%強の高い比率で関東域の中心に成っています。
「秀郷流青木氏」の「第2の宗家」と呼ばれる所以がこれでも良く判ります。
本来で有れば「春日大社」の完全領域ですが、61にも成る「神明社」がある事は、「心の神」は「春日大社」にあるとしても、「生活の神」「物造りの神明社」としての特長が色濃く出ています。
藤原一門としても「神明社」に対する「心入れ」は相当なものであった事が云えます。
これは「戦略的意味合い」と云うよりは「政治的な民に対する姿勢」であった事が云えます。
「秀郷流青木氏」と「特別賜姓族」の立場を持ちながら「第2の宗家」としての立場をも揺るぎ無いものにしていた事を物語ります。
恐らくは本領にこれだけの「祖先神」の考え方を入れられては「鎮守神」の考え方が霞む事も在り得て一門から反発は本来であれば出る筈ですがむしろ積極的な姿勢とも読み取れます。
更には藤原一門の「春日大社群」の中で「秀郷流青木氏」は「2つの青木氏」側にその軸足を強く置いていた事が良く判ります。又、これだけの「神明社」がある事からもこのデータから甲斐の青木氏が「秀郷流青木氏」を頼って逃げ込んだ史実の事が良く判ります。
「春日大社群」の中では逃亡生活も躊躇する事もあると考えられますが、これだけの「青木氏の神明社」がある事が身を寄せる気に成った条件でもあったと考えられます。
又「氏家制度の青木氏」という仕来りを「秀郷流青木氏」は厳格に護っていたことを意味します。
むしろ藤原氏よりは青木氏側に軸足が掛かっていた事が伺えます。
しかし、其の中でも「第2の宗家」と呼ばれていた事は相当な一門からの信頼を受けていた事も判ります。
(Aの分布表)
建設地域 戸数 /地域 /全国
関東域 5県-103-18.2%
茨城(常陸) 8+1 6.9 1.6
千葉(下総) 22 16.8 3.9
埼玉(武蔵) 31 23.7 5.5
東京(武蔵) 30 22.9 5.3
神奈川(相模)9+2 8.4 1.9
この傾向は次ぎの地域(Bの分布表)でも同じで一層「2つの青木氏」(皇族賜姓青木氏と特別賜姓青木氏)の結びつきを証明しています。(特別賜姓青木氏とは藤原秀郷流青木氏である)
”埼玉入間を中心に半径神奈川で円を書いた領域に青木氏が螺旋状に取り囲んでいた”と云う記述は良く証明されています。この数から観ても分布から観ても切れ間無く神明社を建立していた事が観えて来ます。
「生活の神」「物造りの神」と当時に藤原秀郷一門の戦略的な役目も充分に果たしていた事が観えます。
「祖先神」「鎮守神」の二つが混在する中で一種不思議な現象とも取れますが、これが藤原氏の「生き残りの戦略」であって ”何事にも融合する”と云う適合性をこの「融合氏」は遺伝子的に天性として持ち得ていた事が云えます。
明らかに「赴任地戦略」として”血縁子孫を赴任地に残してくる”と云う事を採用している事にこの事からも伺えます。故に源氏と異なり状況に順応して生き残れたと考えられます。
これは秀郷一門の性格を物語る大事なデータであります。
「生きる為の考え方」に付いて「2つの考え方」をしていた事に成ります。なかなか難しい事であります。
それは”人は物事に拘泥する性質を持っている”と仏教では教えていますが、この「融合氏」はそれを克服して”2つを一つにする思考原理”を造り上げていた事を意味します。
故に”不思議”と云っているのですが、その先頭に立っていてその両方を責務義務として生き抜いている特別賜姓族の秀郷流青木氏がいるのです。
どちらかと云うと、「賜姓青木氏」より難しい世の中を難しい考え方で行き抜いたと云えるのではないでしょうか。
大化前の蘇我氏の専横の為政者の蘇我氏の行き方よりは遥かに優れていて為政を担う立場に於いては数段に優れていると筆者は断じているのです。
むしろ「日本の政治史上」に於いて最も優れた為政族であったと考えます。
日本の現在の「物造りの下地」と「律令の下地」を作った「産土神」の「民族氏」の「阿多倍一門」と、それに勝るとも劣らずその2つを上手く運用した同じく「政治的な下地」を構築した「融合氏」の「藤原氏北家」がこの「日本の基礎」を造ったと考えられます。
この「縦横無尽な性格」の所以であり日本の歴史上の喜事であります。
(Bの分布表)
北陸道域 4県-104-18.4%
建設地域 戸数 /地域 /全国
新潟(越後) 55+6 58.7 10.8
富山(越中) 32+1 31.7 5.8
石川(能登) 1+1 1.9 0.0
福井(越前) 8 7.7 1.4
ここには「秀郷流青木氏」の中に「3つの青木氏」(皇族賜姓美濃青木氏と信濃青木氏と甲斐武田氏系青木氏)が逃亡した地域でもあります。
「豊臣-徳川の戦い」と「織田-武田の戦い」の「2つの戦い」に依って敗走して秀郷流青木氏を頼ったのです。中でも「越後」は平安期から朝廷の蝦夷地域の征圧の[前線基地]として力を入れていたところでもあり「神明社」の建立は政策的課題・戦略拠点として盛んであったのです。
鎌倉期-室町期に入っても秀郷一門が「鎮守府将軍」として9代に渡り「北の勢力圏」として勢力を保全する「戦略上の前線基地」でもあった事から、次ぎに論じる「東山道域」(Cの分布表)に継ぐ「神明社地域」でもあったのです。
関東域の比率(18.2%/18.4%)に勝るとも劣らず同率であります。
これは大きな意味を持っています。
越後の青木氏は「武蔵の領国」の「総宗本家」と同じくらいの力を持っていた事を意味します。
これは別の面で言えば「発言力」に起因する事に成る訳ですから”一軍の将、2頭相立たず”の例え通りもめるが必定です。然し、揉めていないのです。
現実には武蔵の青木氏は「第2の宗家」として君臨しているのです。
恐らくは、陸奥域の前線基地としての役割上、宗家の青木氏はこの越後との関係を強化していた事を物語ります。むしろ宗家の「出先機関」であったと観ているのです。
だから、「関東」と「越後」のこの2地域は賜姓族の青木氏の逃亡を助け保護したのです。
その証拠に此処越後には秀郷の遠戚族の藤原利仁流が東域よりに定住していて、少ないですが、利仁流青木氏が血縁の結果生まれているのです。山形福島の県境東域に分布しています。
これは越後を戦略上の最大重要拠点として位置付けている事を意味して、当然そうなると武蔵の宗家の青木氏も出張る事は必然です。
「神明社の分布比率」=「青木氏末裔の分布比率」
「神明社の建立地」=「青木氏の定住地」
当然に、この関係式は例外無く全国的でありますが、ここでもより上記の関係式が成り立っているのです。
(下記で詳しくデータで論じる)
「関東域」の「秀郷流青木氏」を頼って逃げ込んで保護された事のみならず、其処にも上記の「3つの武田氏系青木氏」が逃げ込んで定住した事からも、「秀郷流青木氏」の勢力が関東のみならずこの地域にも頼られるだけの力と土壌を有していた事を物語ります。
その勢力は上記の密にしてむしろ関東域を凌いでいます
それは逃亡して来た賜姓族系の青木氏の「諏訪大社」が全国的に見ても関東域を凌いでいるのです。
本来であればこの時代の慣習からはあり得ない筈なのです。
その「秀郷流青木氏」の姿勢がより「神明社の信仰」が相乗的に益々活発化したと考えられます。
其の証拠に「賜姓諏訪族青木氏」と「武田氏系諏訪族青木氏」がここに「諏訪大社」をも建立していて、全国的に観ても諏訪大社の最も多い所なのです。
それを許す「秀郷流青木氏」のその度量のある勢力が観えて来ますし、賜姓族側の「軸足の置き方」を更に証明します。戦略上危険である筈で氏家制度の中でそれを許す事が出来るのは矢張り武蔵の宗家が出張る以外にはないのではと考えられます。
つまり、全国の24の地域の指揮系統をどの様にしていたのかが問題です。
果たして、氏家制度の中で(「秀郷流青木氏」の中で)”何処の青木氏が指揮を採っていたのか”が疑問と成ります。
そもそも集団の逃亡者を保護し、他氏の守護神をも建立させる事を許す事は場合に依っては秀郷一門としても戦略上簡単に許す事は出来ない筈で、そうなると当然に武蔵入間の宗家の許可無しでは出来ない事は間違いなく、その宗家を説得していたのは”何処の秀郷流青木氏か”と云う事なのです。
果たして”入間の青木氏の宗家”なのか、”地域事の個別に指揮を得ていたのか”、はたまた”他の地域からの働きかけで指揮を得ていたのか”が疑問です。
筆者はそれには下記にも神明社のデータから論じられる様に、”「2つの青木氏」の「2つの指揮系統」が互いに連絡を取り合い秀郷宗家の指揮を得ていた”と考えているのです。
この保護の史実は、「関東域」、「北陸道域」のみならず「東海道域」、「南海道域」にもあるからであります。九州域を除いて秀郷一門のどこも例外なく青木氏の逃亡者を保護しているのです。
これは「神明社の建立」の比率にも沿っているのです。
戦略上からすれば、5地域では強いところ弱いところはある筈で受け入れは困難とも成る事は当然に起る筈です。しかし、全て受け入れているのです。
この事から考えれば、”「2つの指揮系統」が連絡をし合って指揮を受けていた”と判断出来るのです。
それは「皇族賜姓族」の地域が神明社の数の全体の1/3を占めていて、残り2/3は「秀郷流青木氏」と成ります。
この時代に「連絡の取り合う事の出来る条件」と「保護する事の条件」が兼ね備わっていなくては決して出来る事ではありません。
では ”それは何なのか”と考えれば、先ずは「第1要件」としては次ぎの様に成ります。
「第1要件」
1 「保護する事ができる武力」
2 「情報を伝達する情報網と設備」
3 「保護収用する設備と経済力」
4 場合に依っては「医療等の介護能力」
先ずは以上「4つの要件」が確保され充実されている事が必要です。
「第2要件」
次ぎは「第2要件」としてはこの時代のみに必要とする要件です。
A 当然それに対する「ケアー能力」等の「総合力」が絶対的条件として必要です。
B 又、「民衆の賛同や土豪の同意」も必要と成ります。
この第2の「2つの要件」(A、B)は下手をすると争いとも成り得る難物で、何時の世も充分に警戒する事柄です。安易には出来ない事である事は一族の悲惨を招く結果とも成ります。
では、藤原秀郷一門の青木氏が実行し得た上記する要件・条件に合致したものとは、”何なのか”-”それが「神明社」である”と云う事に成ります。
実は、当時、「神社仏閣」はその建立する目的にはもう一つの「戦略的意味」を持たしていたのです。
それは「領国の防衛上」の「前線基地」Aでもあり、「情報収集の拠点」Bでも有ったのです。
これ等は上記した様に、戦略上重要な拠点で主に「国境」に位置する「地形的に良好な位置する山岳部」を選んで建立されているのです。(室町末期と江戸期建立の大きな相違点 :平地の要衝地点)
当然、例外なく「祖先神の神明社」もその意味を強く持たしての建立であり「建立地域の地形」から観て例外はありません。これは一種の「城郭」でもあり「櫓城」で有ったのです。
この「城郭」の社には神官住職以外に必ずその神社仏閣に所属する「警護侍」を配置していたのです。
そもそも「武士」つまり「侍」は「寺の人」と書きます。”さぶろう”の寄り添うの意から”さむらい”呼ばれる様になったものであり、「社の人」も同じく「神社侍」と呼ばれていたのです。
この逃亡の受け入れの設備としての「神明社」が「皇族賜姓族側」には1/3の148と、「秀郷流青木氏側」には2/3の418があり、この設備を使う事で上記する全ての絶対的条件は備わります。
つまり、「皇族賜姓青木氏側」から「秀郷流青木氏側」にこの「連絡網」を通じて「各種の情報」Bが入り、宗家との談合により決断を夫々地域の拠点に指揮する体制が出来上がっていた事を物語ります。
この「2つの青木氏」の割合(1/3-148)がその「総合的な氏力」を示していたと考えます。
これは「政治力、軍事力」だけではなく「2足の草鞋策」や「4つの青木氏」の力の「総合力」であったと考えられます。
賜姓青木氏=148-1/3-組織力・経済力・職能力
特別賜姓族=418-2/3-政治力・軍資力・総合力
”「賜姓青木氏」に足りないものを「特別賜姓族」が補う”と云う態勢が確立していたからこそこの様なデータが出たのではないでしょうか。
こんな素晴らしいシステムを”食うか食われるか”の時代の「生き残りの手段」として使わない方がおかしい訳であり、使わないのは愚能そのものであり得ない事です。必ず使ったと考えられます。
この「2つの青木氏」がスクラムを組めば先ず打ち叶う氏は「大蔵氏」を始めとする「阿多倍一門」を除いて無かったと考えられます。
この「4つの青木氏」の弱点は「情報力とその収集能力」であり、これを破ればこのシステムは崩れるのです。
云わば人間の欠陥であります。その為には政治的にも戦略的にもその「総合力」を背景にしてそれを生かすには何よりも先ず「情報力」が優先されます。
「総合力」=「情報力」
その為にも、現実には「戦いの作戦基地」を山城から出してこの「神社仏閣」にまず移したのです。城で作戦する時は最早、非常時の篭城作戦の前兆であり、作戦展開するには城は活動や情報収集には不便なのです。
特に「4つの青木氏」に取っては互いの連絡も他の変化の情報も全ての情報は「生命線」であり「神明社」は単純な神明社だけでは無くその「組織体の要」とも成っていたのです。
(「組織体の要」のツールが必ず必要です。一種「人間の血管」に価する物が「シンジケート」と説いている)
この様に「神社仏閣」の建立の目的は「心の神」「生活の神」「物造りの神」だけでは無いのであります。
平時の時ではいざ知らず乱世であります。”使えるものは何でも工夫して使う”の精神が必要なのです。
そこで、更に考察しますと、関東域の秀郷一門の宗家を入間にして青木氏が本家分家筋を主体として螺旋状に横浜神奈川を半径として取り囲み護っていたのですが、「心の神」「生活の神」「物造りの神」にしては103は多すぎると考えられます。宗家付近の武蔵だけでも61もあるのです。
「心の神」「生活の神」「物造りの神」であるのなら”多ければ良い”と云う物ではありません。
間違いなく「戦略的な防御体制の代物」の意味があった事を物語ります。
この傾向は全ての拠点に云える事であります。
筆者が論じて来た「青木氏のシンジケート」はこの「神明社システム」が機能していた事を意味しているのです。そしてこの全国の神明社のデータから読み取れる全ての事柄を論所の一つの基礎にしているので有ります。
「皇族賜姓青木氏」では「伊勢青木氏」が5家5流を統括し、「特別賜姓族青木氏」では入間の「宗家青木氏」が116氏を総括していたと考えられます。何れも賜姓族の「青木一族」の「2極体制」であります。
特にその中間の位置にして「仲介役」として機能さしていたのが平安期より「伊勢秀郷流青木氏」(伊勢特別賜姓族青木氏)が担っていたと考えられます。
何故ならば、それは九世紀始めから秀郷の祖祖父の従4位下の宗家の「藤成」(820年頃-嵯峨天皇期)がこの伊勢の「半国国司」を務めていた事からも良く判ります。
(「桓武天皇」没年の806年頃で神明社創建は一時止まる。15年後に衰退した青木氏の建て直しに「嵯峨天皇」は「藤成」を差し向けた。)
この人事から観ても、「入間の青木氏」よりはより「特別賜姓族的な青木氏」の傾向を累代にこの「伊勢秀郷流青木氏」が持ち合わせていたと考えられ、秀郷以降は双方の賜姓族の「立ち位置のズレ」を調整していたと考えられます。
物事の進行は当事者同士だけでは成り立つものではなく、何時の世もこの調整役を演じる「仲介者」がいて成り立つものです。ましてこの様な難しい事を実行するには危険が伴ない危険が生じた時には双方が円滑に連携して対処して解決できるものであり、悠久の歴史を誇る「2つの青木氏」ならではの事で有ります。
因みに「特別賜姓族の青木氏」は関東域外に次ぎの様な戦略的な指揮を演じる根拠地を有していた事が系譜添書や主要家紋の如何で判ります。(詳細は下記)
武蔵入間を本拠地として「特別賜姓族」としては次ぎの「4つの指令基地」があった事が検証できます。
特別賜姓青木氏-34県-418-73.8%
北陸道域 4県-104-18.4%-北陸域 (Bの分布表)
東山道域 6県-105-18.6%-東北域 (Cの分布表)
東海道域 8県-154-27.2%-中部域 (Dの分布表)
移動先域 16県- 55- 9.7%-分布域 (Iの分布表)
(詳細地域は下記)
4つの各域には神明社100を超え全国比で一地域2割近い分布状況です。
1県に付き20~25の神明社を有しています。
当時の人口から観て現在の1/3~1/4程度ですから、郡制でしたから1県に4~6の郡数として一つの郡に4~6の神明社があった事に成ります。
当時としては「心の神」「生活の神」「物造りの神」の目的だけであればやや多すぎる感が否めません。
郡の大きさに依りますが、当時の人口(1/4×2万)として観れば、千人に1社の割合程度と成ります。現在の郡の構成から観て1郡に平均で4~6つの村があったと考えられ、1村には200人±50程度の人口と成ります。
この事から筆者の主観ですが、郡に対してせいぜい神明社1~2つ程度と観ますと、これに「戦略的拠点」としての目的を加えたとすると納得できる数と考えられます。
これだけの数を維持管理するには矢張り当域を指揮する青木氏が存在している筈で勢力から観て次ぎの青木氏と考えられます。
「各分布域の指揮拠点」(藤原秀郷流青木氏)
北陸道域は越後青木氏 (陸奥前線基地)
東山道域は陸奥青木氏 (鎮守府基地)
東海道域は武蔵青木氏 (宗家本拠地)
移動先域は次ぎの4域がありますが各域の事情が異なる為に次ぎの域に分けられます。
関東域は下野青木氏 (隣接国境より勢力拡大 東北の北前線基地)
中国域は讃岐籐氏の讃岐青木氏 (宗家に肩を並べる位に勢力保持)
四国域は讃岐青木氏(阿波青木氏)
北九州域は筑前青木氏 (九州域の西前線基地 後述)
[関東域]
この4域に秀郷流青木氏が定住しているのですが、室町期までの社会は氏家制度の強い社会であった事からその「勢力圏分布」から観て以上の指揮拠点である事に成ります。
この勢力は青木氏の分布する「地域の家紋分析」と「その村形成」などの「支配地の大きさ」と「ルーツ拡大の要素」と「地理・地形考纂」と「郷土史実」に依って判別したもので、家紋に関しては秀郷流青木氏の家紋群の主要家紋とその系列で判別したものです。
特記する事として「下野青木氏」は武蔵域から北に勢力を伸張した結果、ここに「下野青木氏」で勢力を固めその勢力は磐城の仙台の手前まで子孫の定住地を拡大しています。
この仙台地域は江戸初期まで戦いに明け暮れていた土地柄であってかなり難しい伸張で有った事が伺えられ、その意味での「神明社」の役割は「心の神」「生活の神」「物造りの神」のみならず戦略的意味合いは大きかったのです。
又、栃木(下野)には「賜姓族系の諏訪族青木氏系の2氏」が神奈川に落延び、更に一部は下野に移動した一族でありますが、「藤原秀郷流青木氏」の「下野青木氏」の勢力拡大に沿って「諏訪族青木氏」も合力して土地を確保したと考えられ、下野に多くの「諏訪大社」を祭祀して豪族で青木村を形成し土地の地主と成っています。
この時にこの「下野青木氏」も「神明社」を14も建立し、入間との連絡網の拠点を構築していたと考えられます。
(参考 武田氏系青木氏は皇族賜姓甲斐青木氏と武田氏と血縁して跡目継承が女系と成った事から武田氏に組み込まれた賜姓族系青木氏です)
後に「結城永嶋氏」と共に「宇都宮氏」や陸奥出自の「小山氏」や北九州から秀郷一門と血縁して移動して来た「戻り族」の秀郷一門と血縁した「佐竹氏」や豊後の「竹田氏」等も再び勢力を拡大して「関東屋形4氏」と呼ばれる位に秀郷一門は勢力を北に向けていたのです。
その意味で神明社の存立理由は他国と異なり「心の神」「生活の神」「物造りの神」の「心の拠り所の拠点」と「戦略的拠点」の2つの目的は一段と高いものであった事が覗えます。
その意味で伸張したこの地域の「人心の把握」として「心の神」「生活の神」「物造りの神」の「神明社」と、この前線基地の地域を確固たるものとする為にも「戦略的意味」も含めて28もの「神明社」を構築したと考えられます。
従ってこの勢力は江戸期に成っても衰退する事は無かったのです。
「秀郷流青木氏」は武蔵の国境を越えて上野にも伸張して「上野青木氏」として同様に14の神明社を建立しています。
何れにしてもこの「神明社」の「数」は乱世の世である限り「数」そのもの意味だけでは無くその青木氏の「勢力の大きさ」とその「権域の広さ」と「存続期間の長さ」や「存続の強さ」を意味するものなのです。
[中国、四国域]
特に中国、四国域の移動先の拠点の基地はこの中でも長期間に及び最大勢力を誇った「讃岐籐氏」の「秀郷流青木氏」であったと考えられます。
四国の東域の「阿波青木氏」は「北家藤原利仁族」が主体を占めていた事もあり、「阿波青木氏」の「剣片喰族」は秀郷一門の中でも主要家紋の一つでありますが、北域の「讃岐青木氏」(下がり藤に雁金紋の主家柄)のその勢力は東の宗家に匹敵する位に瀬戸内一帯と安芸、美作を縦に経由して中国出雲域までを支配していた「讃岐籐氏の青木氏」には及ばなかったと考えられます。
この「讃岐青木氏」は「武田氏系青木氏」の逃亡を手助けし最終高知に移住させて「土佐青木氏」の青木村を形成するまでに保護していますが、同じ青木氏が定住する阿波国は逃亡先と成っていないのです。
この「武田氏系青木氏」は「讃岐青木氏」の背景を基に「青木村」を形成するだけの勢力を保ち賜姓族の守護神の「祖先神-神明社」を建立したと考えられます。
神明社の数は1でありますが、逃亡先での「青木村形成」と「神明社1」はそれなりの勢力を保持したと云う事を意味します。戦略的意味合いではなく「生活の神」「物造りの神」としての「氏の守護神」の「祖先神」としての「神明社」であったのです。
つまり、「神明社の数の1」は「青木氏の勢力の基本単位」であり、「村を形成する力」と「土豪地主」と成り得た事の単位である事を物語っているのです。
例えば、上記した様に当時の人口から観て、神明社4(戦略拠点2含む)とすると、次ぎの様に成ります。
A 「1つの郡」程度
B 「人口-千人」程度
C 「4つの村」程度
以上の力を保持していた事と成ります。
石高にしてみればバラツキはありますが、1国を平均40~60万石、1国は4~6郡として試算すると次ぎの様に成ります。
a 1郡では7~8万石程度
b 1村で1万石強程度
c 米の石高だけでは約半分の4~5千石程度
以上と成ります。
これで本分析の基礎判断とする事が出来ます。
「青木氏の概略の勢力判断数値」
「神明社1」とは次ぎの勢力を持っている事に成ります。
イ 「郡の半分程度の支配面積」
ロ 「2つの村程度の人口」
ハ 「2万石程度の経済力」
ニ 「米石高-1万石程度の食料」
ホ 「1万石の小大名程度」(江戸時代)
ABC、abc、イロハの以上の判断基準と成ります。
[北九州域]
北九州域は「元寇の乱」以後九州全域を絶対支配していた大蔵氏との血縁を進め、肥前のここに秀郷流青木氏の拠点を置き大蔵氏との関係保全を保っていたのですが、大蔵氏は青木氏や永嶋氏や長谷川氏や進藤氏とも血縁関係を結び秀郷一門の子孫を拡げていたのです。
秀郷一門側から観ればこれを仕切ったのは護衛団として同行していた秀郷流青木氏で、一門の主要氏を仕切れるのは「第2の宗家」としての立場であります。
家柄・身分・官位官職・勢力圏・武力・賜姓族・朝廷を経由しての大蔵氏との繋がり等どれを採っても青木氏に及ぶ一門一族はありません。
特に「菊地氏」や「佐伯氏」(九州佐竹氏、九州酒井氏は元は関東から移動)等の北九州の大蔵氏系の豪族は秀郷一門と血縁し、その関係取引の中で「物資の運搬」などの往来で関東に頻繁に赴いたとする記録資料があり、現実に関東の常陸、下総にはこの4氏の子孫が定住しているのです。
関東の「菊池氏」や「佐伯氏」、「竹田氏」等、「関東屋形」の一つとも成った上記に記した「九州佐竹氏」があり、北九州の小さい秀郷一門の勢力圏の中でも夫々の領国の5つの国では下記の1の「神明社」は納得できるのです。
其の為に、平安期に秀郷宗家の赴任地として「秀郷流青木氏」が護衛役として同行した「筑前青木氏」の指揮の下で肥前から子孫拡大を図り、「神明社」を建立または維持管理できる程に勢力を得て「神明社」が建立されています。
(筑前) 1
(筑後) 1
(肥前) 1
(肥後) 1
(豊前) 1
以上の「維持の状況」と成っているのです。
この地域は、つまり当然に「秀郷流青木氏」の九州に定住した分家筋末裔の分布域でもあります。
これは「戦略的な勢力の伸張」のみならず「祖先神」を神と崇め「神明社」を祭祀する者、即ち神職神官は青木氏であるからで、本来「青木氏の独善的の社」として身内から神職神官を出す仕来りであったのです。
「祖先神」は「皇祖神」に繋がるものとして青木氏と源氏宗家の守護神だけであります。
源氏宗家筋は完全に絶え未勘氏だけと成っていますので「祖先神の神明社」は青木氏だけの守護神と成りますが、其の神職神官からも必然的に青木氏末裔が広がる事を意味します。
前記したように、”「神明社」のあるところには「青木氏」が、「青木氏」の有るところには「神明社」がある”と云う事に成るのです。
それがこれ等のデータと云う事に成ります。
その「神職神官」とその「神社侍」は拠点基地と成る青木氏から指揮し配置される事に成りますので末裔が枝葉にて広がるのです。
九州では「筑前青木氏」がその指揮と配置をしますので少なくとも九州域に於いては「筑前青木氏」の末裔であると成ります。
この末裔分布は、秀郷一門宗家筋と血縁した上記の北九州の豪族であり、肥前の「秀郷流青木氏」も同じくこれ等の豪族と血縁した事から興った青木氏であります。
これは家紋分類から観て「筑前青木氏」の室町期中期までの末裔分布によるものと考えられます。
「人心の把握」共にこの地域は「大蔵氏」の地元である事からも日本最大の「物造り拠点」でもあった事から、少ないながらも「神明社建立と維持」は他の地域と異なり絶対条件であったと考えられ、遠い関東との情報の「連絡拠点」としても重要であったと考えられます。
其の上でこの「神明社の1」の数字は他の地域の4~5の意味合いを持っていたと考えられます。
平安中期には「太宰大監」として「遠の朝廷」として「錦の御旗」を全面に「九州全域の自治」を任された大蔵氏の絶対的支配領域の中で、この5国で関東並の120~125の役割を果たしていたと考えられます。
中でも「永嶋氏」は「大蔵氏系青木氏」と「大蔵氏族肝付氏系長嶋氏」を継承し薩摩域では肝付氏を継承する程に勢力を拡大させました。
そこで問題なのは薩摩3、宮崎4の神明社です。”この地域の神明社は何を意味しているのか”と云う事です。
このデータには「皇族賜姓青木氏」と「藤原秀郷流青木氏」に直接繋がるものが歴史的に少ないのです。
実は、”少ない”と云うよりは”消えた”と云った方が正しいと観られます。
確かに、「天智天皇」から「桓武天皇」までの朝廷は北九州との関係を歴史的に大きく持ちました。
然し、それが ”「神明社」として南九州に繋がるもので有ったか”は疑問でありますが、実は九州北半分に関してはそれなりの経緯があるのです。
この経緯が南九州に繋がっているかは難しいのです。
確かに「令制後」には薩摩がこの経緯に入り込んできますが、”「神明社建立」までは関係があり得たか”は疑問です。
そもそもその経緯とは、天智天皇の「白村江の戦い」の準備として「神明社」を建立したと考えるにはそれを裏付ける朝廷の「歴史的な経緯」が必要であります。
その充分な「歴史的な経緯」とするものが次ぎの事にあるのです。
「中大兄皇子」による「大化改新」の一つとしてそれまでは第6世王までとしたものを第4世王までを皇子とする改革を行いました。その時、其の皇子の指定に関して特別の事由により第4世王として「栗隈王」を指定します。
大化期の「第4世王」のこの有名な「栗隈王」が「天智天皇」の命に基づき「守護王」として「九州筑紫国」に赴きます。
その後「令制前」はこの日向国から「北地域3国」(「筑紫国-豊国-肥国」→「筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後」)が組み込まれ、この「北地域3国」の守護王として任されております。
「令制後」は薩摩の北域も組み込まれています。
この時に「天智天皇か天武天皇」に命じられて建立している可能性が大いにあると考えられます。(その記述が下記)
日向の古い一つとされる「神明社」はこの時のものではないかと考えられます。
且つ、上記の「北地域3国」(筑前)1(筑後)1(肥前)1(肥後)1(豊前)1は「日向の神明社1」を含めて、この時の「神明社」ではないかと観ています。
「北地域3国」と「神明社分布の域」とは全く一致します。
そして、その後に上記する特別賜姓族(960-970年頃)に成った筑前の「神明族の秀郷流青木氏」がこれを引継ぎ護ったと観ているのです。
実は「栗隈王」は「大海人皇子」と「大友皇子」との争い(壬申の乱)で「大友皇子」が出した命令書の脅しに屈せず「大海人皇子」に味方した為に「天武天皇」の時世では九州で大勢力を収め末裔の一人は「筑紫氏」(武家王)として、もう一人は「三野王」として美濃と信濃粋域に子孫を拡げたのです。
この「栗隈王」は「美努王」の父で王の中でも秀でて優秀で中大兄皇子はこの歳を得た「第4世王」の「栗隈王」を主要守護王19人の中から外さず九州半域を任した程の人物で信頼していた人物なのです。
(日本書紀 6大皇子守護王と呼ばれる王)
「伊勢王」、「近江王」、「信濃王」、「甲斐王」、「美濃王」、「栗隈王」で中でも高位王として4王 「伊勢王」、「近江王」、「信濃王」、「栗隈王」が上げられている)
この「栗隈王」の末裔は古い九州出自の「筑紫氏」で有りますが、九州全域特に日向より北域の氏は何がしかの血縁を有していると考えられます。
後漢からの帰化人の阿多倍一族により7世紀から九世紀にかけてこの一族に折檻されこの血縁筋の旧来の土豪族は衰退したのですが、新しい「民族氏」にも何らかの血縁関係を持っていた事が考えられます。
九州は後漢の阿多倍等の軍勢に依って無戦征圧であった事から恐らくは在来民との婚姻関係を重ねての事ですのでその可能性は高いと考えられます。
依って10世紀初頭に「筑紫の秀郷流青木氏」に引き継がれるまでの間は朝廷の管理の下で150年程度はこれ等の血縁関係(筑紫氏等)のある豪族に依って護られていた事が考えられます。
この「栗隈王」の子供の「三野王(美努王):信濃王」は奈良期の19の神明社の一つを三野(信濃)に建立しているのです。 (三野王は橘諸兄の賜姓族橘氏の祖であります。)
「天智天皇と天武天皇」は「皇祖神」を「伊勢大社」とすると同時に、関西域から中部域にかけて19の神明社の建立をその19の守護王に命じているのですが、現実に例外的にこの19の第4世守護王に命じた「神明社の建立」の中に「筑紫」の「栗隈王」「武家王」が入っています。
参考(重複)
第4世族内の19守護王-19の神明社の建立地
伊勢王、近江王、甲斐王、山部王、石川王、高坂王、雅狭王、美濃王、・栗隅王、・三野王(信濃王)、・武家王
広瀬王、竹田王、桑田王、春日王、(難波王、宮処王、泊瀬王、弥努王) 以上19人/66国
この「栗隈王の守護国」と現在の「神明社建立地」とが一致し、「大化期の19」の「神明社建立地」の中に「栗隈王」の守護地が入っている事のこの2つの「歴史的な史実」から、当然に”「栗隈王」に九州の半域に「神明社建立」を同時に命じた”と考えるのが普通である筈です。
「天智天皇」は防人制度、九州から飛鳥までの直線広軌道の建設、煙火システムの確立、伴造制度、租庸調の見直し、戸籍制度など数多くの改革を実行していて、前記して来た様にこの一環として北端の陸奥域を含む国全体に「神明社建設」を行ったのです。
「陸奥域」には神明社建設の計画があって、「桓武天皇期」は「陸奥丹沢城」の建設と伴に征圧域に「神明社建設」を「坂上田村麻呂」に命じ、「桓武天皇」と「坂上田村麻呂」の稚友で同没年でその806年に「陸奥域の計画」は完成しています。
この「九州域」は「栗隈王」の子供の「武家王」の時代までに建設が進み、「令制後」に「日向域」まで組み込まれている事から、日本書紀の記述の「五畿七道」の完成期(天武天皇の時代に成立)の記述通り700年前後に基本的な配置(第1期期間)は終わっている事に成ります。
この間、日本列島約100年の神明社の建設期間(第1期)であった事が覗えます。
この様な史実を組み合わせて考察すると、当然に上記する信頼する「栗隈王」に”「九州域の神明社の建設」を命じた”と考えるのが普通と考えます。
「伊勢大社と神明社の関係」
そこで、”何故、神明社なのか”、”何故、伊勢大社ではないのか”、”何故、秀郷流青木氏に命じたのか”、”何故、「賜姓源氏-八幡社」ではないのか”、全国に戦略的に配置するのであれば、この様な「4つの疑問」が出てきます。そこでこの「4つの疑問」を解き検証します。
これ等の検証は下記の神明社で論じる事をより理解を深めるものと成ります。
「4つの疑問」
そもそもこの場合は、「皇祖神」の「伊勢大社」を創建するのが筋とも考えられますが、あくまでも「天皇家の守護神」として威信を鼓舞するには必要ですが、「戦略的な意味合い」を持たすという事には「伊勢大社」では抵抗があり、「皇祖神」である以上は「純然とした伊勢大社」で祭祀する必要があり、”「戦略的意味合い」が「皇祖神-伊勢大社」を汚す”と考えたと観られます。
そこで、その系列の「神明社」を「伊勢大社」125社以外の「戦略的拠点」に、”皇族賜姓族の「青木氏の祖先神」の「神明社」を設置した”と考えるのが普通では無いかと観ます。
筆者は、天皇家は「皇祖神の伊勢大社」の建立に不適当な地域の所の代わりに「祖先神」として「守護神」を造り、その「守護神」を「神明社」とし、それを「皇祖神」の系列に置き、「伊勢大社」の代わりに「神明社」を「戦略上の拠点」に配置させる政治的配慮があったと考えていて、故に「第6位皇子」を設定し臣下させ、「親衛隊の六衛府軍の指揮官」にして力を持たせ、5代の「5家5流の賜姓族」を創設して各地の「主要地」に「神明社」と共に配置した経緯と考えているのです。
(上記の記述した設問のその先鞭を付けたのが「藤成」の伊勢の松阪の「半国司」の布石であったと観ている。- 下記の第4期の最後の神明社建立時期806年で其処から神明社を建立する青木氏は衰退した為に次ぎに賜姓青木氏に代わって神明社を建立させる青木氏を発祥させなくてはならない筈で、そこで藤原氏の秀郷の祖祖父の「藤成」を嵯峨天皇はその目的の布石として先ず松阪に赴任させた。この時が820年頃赴任であり、此処に藤成の末裔を遺した。それまでは半国司は三宅氏であった。然し、青木氏に代わった賜姓源氏が神明社を建立する姿勢を採らなかった。同時に「嵯峨期の詔勅」で発祥した皇族青木氏も到底天皇の意に沿わなかった。結局、空白期間を生んでしまった。150年後のその後、秀郷の第3子(千国)にその任を与え「特別な賜姓の待遇」(賜姓族と同待遇)を採った。この特別賜姓族青木氏が960年頃に発祥させて松阪の末裔の跡目に入れた。以上の経緯となったと観る。)
そうすると、では「賜姓族青木氏創設」と「神明社の戦略的、政治的配慮」の順序は ”どちらが先なのか”の問題が生まれ、この順序の如何では「青木氏と神明社」の関係の意味するところが代わる事に成る筈です。そこを充分に吟味検証しておく必要があります。
この「2つの順序」は時代性から観て極めて短い範囲の政治的な実行課題であったのです。
前記に縷々と論じて来た様に、当然に「賜姓族の青木氏創設」が先であります。
この経緯は日本書紀等からも読み取れますが、その時間的な差は「伊勢大社の遍座遍歴」(飛鳥期-90社-90年-大化期前期)と、「19の神明社の創建」(大化期後期 670-686年頃)から観ても大化期の前期と後期の差であります。
そうすると「賜姓伊勢青木氏」は647年頃「伊勢王」-「伊勢大社の鎮座地の警護」として発祥していますので、大化期直前でありますので約40年の差があります。
ここから光仁天皇781まで5家の賜姓青木氏が発祥します。
この間に伊勢大社は90社から125社に向けて35社を建立して行きます。
(35社は遍歴経緯で記述 近隣4市2郡に存在)
同時に、「神明社」は19社から566社に向けて建立して行くのです。
(詳細は下記 賜姓青木氏は126社建立 桓武天皇は20社建立)
この時、第6位皇子を賜姓する青木氏の制度は、桓武天皇期で一時途絶えますので、桓武天皇は自らの力で神明社の建立を続けて行きます。
「桓武天皇」は「律令政治」を完成させ、結果、それまでの青木氏等の「皇親政治」は後退させて「桓武天皇」の圧迫で「5氏の青木氏」は衰退し「神明社の建設」は困難と成ったのです。
この間、代わって「律令政治」を主導して各地に「戦略的、政治的な目的」の為に「神明社」を建立し、最終、「桓武天皇」による「神明社建立策」は陸奥の「丹沢の神明社(806年)」の建立で終わります。
「祖先神-神明社の建立期間」
区別の期間 建立者 建立時期 建立数 建立時期
第1期神明社の建立期間 天智天皇 大化期初期 19社 天智天皇 政治的な期間
第2期神明社の建立期間 賜姓族青木氏 大化期後期 80社 天智天皇-天武天皇の期間
第3期神明社の建立期間 賜姓族青木氏 奈良期後期 46社 文武天皇-光仁天皇の期間
第4期神明社の建立期間 桓武天皇 平安期初期 20社 桓武天皇 戦略的な期間
・第1次の空白期間 :嵯峨天皇期-花山天皇期-賜姓源氏発祥-祖先神八幡社 809年~986年
第5期神明社の建立期間 特別賜姓族青木氏 平安期中期 90社 村上天皇-花山天皇の期間
・第2次の空白期間 :賜姓族青木氏の衰退期間 近江-美濃脱落 祖先神神明社 806年~1125年
第6期神明社の建立期間 賜姓族青木氏 平安期末期 22社 1125年頃開始-室町期中期
第7期神明社の建立期間 特別賜姓族青木氏 鎌倉期全期 15社 藤原一門の勢力低下期間
第8期神明社の建立期間 特別賜姓族青木氏 室町期前期 148社 秀郷一門の勢力挽回期間
第9期神明社の建立期間 特別賜姓族青木氏 室町期中期 165社 秀郷一門の勢力拡大期間
(注釈)
期間の設定は「2つの青木氏」に関わる「政治状況の変革期点」を区切りとした。
期間中の年数(期間年数/2)に対して守護国数の増加分を指数(全国数/増国数)を乗じてそれを全体比(126/全年数820)(418/全年数820)を乗じた数をその期間中の建立数としその時代の勢力状況を観て加減調整したもの。
つまり”「勢力状況」に応じて神明社を建てた”を前提とする。
この間に「神明社」がどの程度建立されているのかを考察しますと、その「桓武天皇」の「政治的な征討域」から割り出すと、「征討地に関わった地域」に一社建立したとして主に以北地域とすると、20社程建立している事に成ります。
これまでの「神明社」と合わせると「桓武天皇期」までは全社150社/566程度と成ります。
(781~806 35年間-20社程度)
凡そ室町期中期まで160年程度の間に27%建立されていた事に成ります。
全体の1/4程度が無建立されていたのですが、年数比で20%(160/820年)とすると27%-20%となり、政治的で戦略的な建設はハイピッチであった事が云えます。
神明社建立が国の絶対的課題であった事を物語ります。それだけに青木氏に期待していた事が良く判ります。
天皇家が「3つの発祥源」を象徴として前面に押し出し国策を推進していた事をもこの数字が物語るのです。突き詰めれば「桓武天皇」は「律令政治」を推進する上で「皇親政治の青木氏」と「3つの発祥源」が壁に成り、然し「律令政治」を推進せざるを得なかった事で衰退させてしまった青木氏に代わり止む無く自らが建立する立場に追い遣られたと云う事を示しています。
父光仁天皇の実家先や自らの親族の5家5流の「賜姓青木氏」を追い遣るのですから苦渋の選択を迫られた事に成ります。
だとしたら、”何故、母方の伊賀の「たいら族」を賜姓して青木氏を賜姓しなかったのか、苦渋ならばこの賜姓の仕方が矛盾しているのではないか”と云いたくなります。
現実に、この事で「桓武天皇」は親子・兄弟の「骨肉の争い」を起したのです。
「桓武天皇」と後の子供の「嵯峨天皇」、後の兄の「平城天皇」と「嵯峨天皇」の争いであります。
「嵯峨天皇」は「律令政治」を推進するとしても「皇親政治」の体制は残すべきとしたのです。
この時、青木氏の5家5流は「嵯峨天皇派」に付き「桓武天皇」と争う事に成ったのです。
結果、「賜姓青木氏」は「神明社」を建立出来ずに衰退します。
然し、「嵯峨天皇期」で賜姓族としての立場は安堵されますが、「嵯峨天皇」は「青木氏」の賜姓を中止し賜姓を変名して源氏とします。
此処で、青木氏を除いた「皇親政治」と「律令政治」の両立させた態勢が出来て必然的に「5家5流の賜姓青木氏」は途切れ、「青木氏の皇親政治」も後退して「神明社建立の根拠」とその「力」そのものも無く成ります。それに代わって同族の賜姓源氏が起る事に成ります。そしてここの同族の賜姓源氏に賜姓族としての「国策の推進」(神明社の建立等)を期待します。
この時、「賜姓青木氏」と「賜姓源氏」はその「生き様」「生き方」が違ってしまって、同族間の連携は無くなってしまったのです。
つまり、「3つの発祥源」と「皇祖神」に繋がる「祖先神-神明社」の「青木氏の立場」と、「荘園制」を利用した「勢力拡大」に主眼を置いた「賜姓源氏」(祖先神-八幡社)との間には歩く道が全く異なってしまったのです。
この事に依って「青木氏の神明社建立」も無くなり、「政治的-戦略的」な国策の「神明社の建立」は空白期間を発生させてしまったのです。
つまり、「桓武天皇」は「自らの責任での矛盾」は含むが「苦渋の選択」の上でも「神明社の建立」は推進させたのですが、これに対して「嵯峨天皇期」は「皇親政治」に戻しはしたが、「賜姓源氏」にはこの国策に充分な理解を得られずに「皮肉な現象」を起してしまた事に成ります。
「賜姓青木氏」の「祖先神-神明社」は「生活の神」「物造りの神」であり、「賜姓源氏」は「祖先神-八幡社」は「弓矢の神」であります。必然的にその「氏の発祥源」が異なってしまったのです。
大化の「天智天皇の国策の真意」、つまり「豊受大御神(とようけのおおみかみ)」を祭祀する「豊受大神宮」は「生活の神」であり「物造りの神」であり、つまりは、 ”人に豊かさを授ける神”であります。
「賜姓青木氏」の「祖先神-神明社」は、この「国策」の「本来の真意」を守り通したのです。
故に「桓武天皇」も「律令国家の完成推進」であったが、敢えてこの「皇祖神」の「国策の真意」を押し通す義務を果たしたのです。
確かに矛盾を青木氏に露出したが、筋が通っていて「合理的な判断」をした事を意味します。
青木氏に執っては「苦渋の選択」であって賜姓族としての本来の立場に大きな矛盾を含んだ事でものであった事が云えます。
それは「律令国家の完成と推進」は母方の「伊賀のたいら族」の如何に拘っていたからです。
なぜならば「立案と推進」を担う官僚の6割は彼等の一族一門郎党で構成されており、軍事は彼等の一門の宗家「坂上田村麻呂」が荷っていたのです。父方の青木氏は「六衛府軍」の「天皇親衛軍隊」であります。軍事的に圧力を掛けるにしてもこの勢力バランスでは太刀打ち出来ません。
これでは「国策の推進」を進める以上は、「桓武天皇」は、”好む好まない”にしてもこの路線を執るしかありません。だとしたら、勢いから「たいら族」が祭祀する「産土神」と成るかもしれませんが、其処は「皇祖神」を貫く意志が固かったのです。
「皇祖神」は「祖先神」でありますから、「神明社の建立」は敢えて譲らなかったのです。
だからこの厳しい辛い政治的環境の中で”筋を通した”と云えるのです。
この時の「賜姓青木氏」は「大事の中の小事」であった事に成ります。
我々末裔としては”納得すべき遠戚天皇の「桓武天皇」である”と考えるべきです。
(既に126社程度が賜姓青木氏5家5流で建立していた。下記で詳細を論じる)
実は後世の累代の天皇家はこの事(神明社国策推進)を忘れていなかったのです。
それは、結論から先に云いますと、最も大事な要点の”「特別賜姓族青木氏」の発祥経緯”なのです。
そして、”「祖先神-賜姓源氏-八幡社」は何もしなかった” ”その立場の責任を果たさなかった”のです。
(正しくは、「祖先神-賜姓源氏-八幡社」は「皇祖神-祖先神-賜姓源氏-八幡社(八幡神)」と成る。)
次ぎの「嵯峨天皇」(809年~823年)は抗争の上に再び「皇親政治」に戻し、賜姓を「青木氏」から「源氏」に変名します。(前記で論じた)これより花山天皇(984~986年)まで11代-177年間の「賜姓源氏」が発祥します。
(但し、その後の宇多天皇[887~897]は「滋賀佐々木氏」を賜姓した。「佐々木氏」は天智天皇が伊勢青木氏を賜姓したが、「第7位皇子の川島皇子」に対しても特別に地名から賜姓した「賜姓近江佐々木氏」がある)
ここで上記の「4つの疑問」の”「源氏-八幡社」がどの様に動いたのか”です。(既に先に結論は述べた)
と云うのは、”「特別賜姓族の青木氏」が「賜姓青木氏」に代わって「神明社建立」に入った”のは早くて「円融天皇期」、遅くても「花山天皇期」からであります。
つまり。この177年間は「神明社の空白期間」なのです。
従って、「賜姓青木氏」は衰退し、賜姓は「源氏」に成りましたので、この「神明社の建立」の「政治的、戦略的な国策」は引き続き「賜姓源氏」が「花山天皇期」までの間、つまり「特別賜姓族青木氏」が誕生する同時期まで果たして続けたのか”と云う事なのです。結論は前にも述べた様に果たさなかったのです。
当然に、この場合は「祖先神の神明社」ではありません。「祖先神の八幡社」に成ります。
何度も云いますが、そもそも「皇族賜姓族」でありながら「賜姓源氏」はその立場を護らなかったのです。
「祖先神-神明社」は「生活の神」「物造りの神」-「豊受大御神 豊受大神宮」「3つの発祥源」
「祖先神-八幡社」は「弓矢の神」「戦いの神」
「皇祖神」の「祖先神」を祭祀する系列神でありながら、文頭の「伊勢大社」の守護神 「皇大神宮 天照大神」(「心の神」)と「豊受大御神 豊受大神宮」({生活の神])を積極的に祭祀する立場を採らなかったのです。
(参考: 八幡宮の主神:全国の武士から「武運の神」[武神]「弓矢八幡」として崇拝され「誉田別命」[ほんだわけのみこと]-「応神天皇」と呼ばれた。別名では後に「八幡大菩薩」とも呼ばれた。大分県宇佐市と滋賀県大津市の宇佐八幡宮があるが大分を総社とする説がある。)
「賜姓源氏」とりわけ「清和源氏の時代」には時代の荒波に翻弄され、その「立場と責任」を果たそうとはしなかった事をこの祭祀する「神」でも異なっている事が判ります。
又、「弓矢の神」「戦いの神」では「政治的、戦略的な国策」としては天皇と民は納得しませんし国策としては成り立ちません。まして、「弓矢の神」は「侍の神」であり「民の神」ではありません。
「弓矢の神」「侍の神」では「生活の神」「物造りの神」強いては到底「心の神」には成らず「自然神」に基づく「心の拠り所」とは成り得ません。4つの神は本来は自然神に基づいているのですが賜姓源氏はこの自然神に基づいていないのです。、「弓矢の神」「侍の神」は到底「自然神」に基づくものではないのです。
皇族であり賜姓族でありながら「稀有な現象」が起ってしまったのです。
当然にこの事からもとより「皇祖神の祖先神」に基づく立場には完全に成り得ていません。
その稀有な現象が11代も続いたと云う事は政治そのものに直し押し切れない長い期間の状態が続いていた事を物語っています。天智天皇からの賜姓のあるべき姿を学んでいた累代の天皇の心には本来あるべき姿に戻せない遣り切れない空虚な空間が生まれてしまったのです。それが朝廷内の乱れの原因とも成って行ったのです。(第1次と第2次の空白期間の発生)
そもそも、「村上天皇」から「円融天皇」までには賜姓源氏は発祥しています。
しかし、この期間には「賜姓源氏」を差し置いて「藤原秀郷一門」に対して「特別賜姓青木氏」を「嵯峨天皇期の詔勅」に基づき「母方族」として敢えて重複して再び発祥させています。
「賜姓源氏」がその責任を果たしていれば、何も「特別賜姓青木氏」を177年後に再び持ち出して賜姓する必要は無い筈です。
それも「3大源氏」と云われた「嵯峨源氏(809~823)、清和源氏(858~876) 村上源氏(946~967)」の「村上源氏」の時代にです。(村上源氏は伊勢北畠氏 後に信長に滅ぼされる)
そもそもこの賜姓に付いて矛盾しています。
本来、皇族の賜姓は「3つの発祥源」の象徴として、「皇祖神」の「祖先神-神明社」-「生活の神」「物造りの神」として、「政治的、戦略的な国策」として「第6位皇子」を賜姓して臣下させて働かせようとしているのですから、”その役目を全く自覚せずに「弓矢の神」を吹聴して果たそうとしていない「源氏」を11代も何故賜姓するのか”大いなる矛盾行為です。
これは天皇側にも問題があります。
資料から拾い出すと次ぎの様な事が浮かんで来ます。
1 何時か護る賜姓族が出る「期待感」があった。
2 天皇に「観る目」が無かった無能であった。
3 仕方無しに「惰性」で賜姓してしまい続けた。
4 政治的に「負担軽減」に主眼を置いた。
5 渋り続けたが慣習に押された。
6 自らの「身の安全」を守ろうと臣下させた。
7 「弓矢の神」の必要性を感じた。
8 「神明社の必要性」を感化されなかった。
9 「源氏の武力」を恐れた。
10「たいら族台頭」のバランスを取ろうとした。
明確に記述しているものはありませんが言葉端や文脈から以上の事が読み取れます。
この内容を分析すると時系列的に2つに先ず分類出来ます。
1~5と6~10です。
清和天皇前までは1~5で11代のほぼ中間位から様子が変わってきます。
この前後から天皇は賜姓を渋り始めます。「時代性」も「事件性」が出て変化しています。
「桓武天皇のたいら族台頭」と「荘園制の行き過ぎ」の「政治課題」が大きく左右していると考えられます。
これは1~5に大きく政治的に影響を与えたと考えられます。
「神明社の空白期間」+「賜姓源氏」⇔「桓武天皇のたいら族台頭」と「荘園制の行き過ぎ」
確かに、「清和天皇」の前後頃から天皇は「源氏の賜姓」に対して賜姓する事を渋っていたのです。
特に11代の中でも最も後にこの役目を果たさなかった異端児族の源氏は「清和源氏」であったのです。
そして賜姓に対して顕著に出たその一連の事件が起こります。
それが「平将門の乱」とそれを終焉させた「藤原秀郷」とその子の「特別賜姓青木氏の誕生」へと繋がって行くのです。(前論で記述) それが再度、「神明社建立」に繋がって行きます。
この間「たいら族台頭」は一方で進みます。しかしこの「渦の流れ」の最後には「源平」の真に「ビッグバーン」が起るのです。
しかし、何と不思議に再度起った「神明社建立」はこのビッグバーンに影響しなかったのです。
その「清和源氏」の賜姓には「清和天皇」の孫の第3世族の第6位皇子「経基王」にはその行状の悪さ(前記した平の将門の乱の経緯)からも躊躇して賜姓をしなかったのです。
やっと賜姓したと思ったら、「経基王」の子「満仲」は全国の武士に対して「荘園制」(前記の論)を利用して「荘園名義主」と成り勢力を高め、由緒ある名家名籍の源氏の「名義貸し制度」を無秩序に拡大利用して多くの「未勘氏族」を作り上げ「源氏武士団」を構築してしまったのです。(たいら族に対抗する為に)
さすが「満仲」は”天皇家と皇族の印象を汚す”として本来なら賜姓族である為に前記した「冠位の制」や「有品の制」などの「4つの規定の官位官職」(前回で論じた)は与えられず天皇から疎んじられます。
(再注釈:前記した様に、各豪族が開発し、或いは奪い取った荘園を護る為に皇位名籍の氏名を借りて「名義上の荘園主」に成って貰い、それに見合う代償を支払い荘園を護るシステムで、その為に今度は「名義荘園主」は「名籍氏」を名乗ることを許し、「無血縁の名籍氏」を作る方式で、”いざ戦い”と成った時は”馳せ参じる”と云う契約です。中には大荘園の場合は「遠縁の娘」を何処からか探し出して、或いは作り出して間接的な遠戚を作り出す事もあった。これを「未勘氏族」と呼ばれるもので「源氏姓」や「平家姓」や「藤原姓」等を名乗る氏の95%族がこの族に部類するのです。
その「未勘氏族」の系譜を観ると、その一手法は、その「名義荘園主」の系譜のある代の処に一人架空の名籍人物を作り、その架空の人物から自らの氏の末裔が拡がった様に系譜を繋ぐ方式です。この偏纂は概ね「3つのパターン」に分類されます。)
この注釈の行状を”天皇家と皇族の印象を汚す”とし、”第6位皇子の賜姓の源氏が何処まで本当の源氏か判らなくなっている事を憂いた”のです。
当然、”同じ対比する氏が無ければ左程の憂いでは無かった”と考えられますが、厳然と「賜姓青木氏」と「特別賜姓青木氏」が「3つの発祥源」「祖先神-神明社」のその象徴としての「立場と役目」を全うしているのですから、累代の天皇は無関心ではいられないのが普通です。
これが前記した「一条天皇」から「後三条天皇」-「白河天皇」-「堀河天皇」-「鳥羽天皇」(院政含む)の累代天皇政治の「粛清政治」(「荘園性の行き過ぎ論)と成って行ったのです。
(結論はビッグバーンで「源平の問題」は解決したが、もう一つの「荘園制の行き過ぎの問題」は上記した累代粛清を実行した天皇6人が命を賭けて解決に取り組んだのです。残ったのは室町中期までの何と無傷の「神明社建立」だったのです。)
この「源氏行状」(下記のデータで論ずる)は止まらず、次ぎは3代目の三男の頼信は嫡男頼光の援護を受けて関東を支配下に攻め込んで獲得する有り様で、祖父の思惑を実行して国策の真逆の行動を採ったのです。
(援護の宗家頼光側にも問題は無かった訳ではない。)
そして、分家頼信4代目の義家では陸奥を攻めて獲得した事はしたのですが、遂に天皇は痺れを切らし「白河天皇」から「鳥羽天皇」まで完全に疎んじられて全ての彼の行為は「禁じ行為」の「私闘」と決め付けられ排除されます。
義家と頼信系清和源氏は一挙に衰退して行き、頼朝で5年間程度持ち直しますが共倒れで11代の源氏は完全に滅亡してし仕舞います。(義経-頼朝の争いはこの路線争いであった)
(この事は前記で一条天皇から鳥羽天皇の処で「国難」で論じた)
しかし、一応は調べる事として、そこで「177年間の空白期間」(第1次空白期間)の「祖先神の八幡社」の建立状態を調べる必要が出てきます。但し、”「戦略的、政治的目的」の為に”であります。
確かに「嵯峨天皇期」(809~823年)から再び「皇族賜姓族青木氏」は次第に回復する期間に入りますが、未だ「皇族賜姓族」は衰退して「神明社」を建立する勢力は無かったのです。
しかし、父桓武天皇に依って「賜姓青木氏」が衰退させられたのであれば、桓武天皇の様に”自らが神明社の建立者と成っては良いではないか”と云う疑問が当然出て来ます。
確かに、筆者は「2足の草鞋策」(1125年頃)を「賜姓青木氏」が採り始めた時期までその勢力は無かったと観ています。衰退した事も「2足の草鞋策」を採ったのですが、経済的な問題だけではなく源平の間にあって採り難い事情も考えられます。
そうすると「特別賜姓族青木氏」が「神明社建立」を始めた時期(970年±10前後)までの「160年間の空白期間」(第2次空白期間)があります。
もしこの「2つの空白期間」に「源氏-八幡社」が神明社に代わって”「戦略的、政治的目的」の為”に建立していたとするならば、この「2つの空白期間」は解消する事に成ります。(しかし無かったのです。)
その時の「4つの経緯」を下記にします。
「4つの経緯」
「180年間の空白期間」(第1次空白期間) 809年~986年 11代の賜姓源氏の時代
「225年間の重複期間」(第1次重複期間) 970年~1195年 特別賜姓族青木氏の誕生
「160年間の空白期間」(第2次空白期間) 970年~1125年 2つの青木氏の不連携
「70年間の空白期間」 (第2次重複期間) 1125年~1195年 賜姓青木氏と賜姓源氏
つまり、「源氏11代目花山天皇在位末」986年と「特別賜姓族青木氏の誕生期」970±10年がほぼ一致するからです。
残った「清和源氏」の頼朝没までの1195年に対して1125年の70年間 賜姓青木氏の重複期間、と970年の225年間 「特別賜姓青木氏」の重複期間がどの様に成るかが決ります。
しかし、この様に「桓武天皇」による「律令国家」と共に「国の征討」が進み「5家5流の賜姓青木氏」だけではこの「国家戦略」の「神明社建立」は維持する事が叶わ無くなった事も史実です。
更に推し進め様とした「村上天皇期」(946~967年頃)には、そこで勲功の高かった「北家藤原秀郷」にその「第3子」を「特別賜姓族」に任じて、「賜姓青木氏」と全くの同格の扱いである身分、家柄、勲功、官職、官位、叙勲を与えて「嵯峨期の詔勅」を使って「特別賜姓族青木氏」としたのです。
その「由来の根拠」を「母方同族氏」として「賜姓血縁族」である事を前提に引き上げたのです。
この時に特記すべき事は、「青木氏の子孫存続・維持の方策」として天皇は、秀郷に、”「秀郷宗家より第3子を以って「青木氏の跡目入れ」とする”とわざわざ命じて定めたのです。
この意味は大変大きいのです。つまり天皇家が「青木氏」をどのように見ていて、どの様に扱い、天皇家の意向を汲み、”「3つの発祥源」と「祖先神-神明社」の責任を果たしてくれる唯一の味方”と云う事が読み取れます。それは関東での「平の将門の乱」の引き金に成った一連の秀郷の頑固なまでにも天皇家に対して「律儀な性格」を見抜いて「白羽の矢」を建てた事も読み取れます。
その為には「空白期間の焦り」と「源氏の行状の憤慨」と「源氏への幻滅感」を払拭するが為に「秀郷の末裔」に期待していた事が判ります。
それ程にこの「空白期間の失政」を反省して天皇家は「2つの青木氏」に対して政策的に重要視していた事を物語ります。
それにより ”「拡大する征討地の守護」として、その「政治的、戦略的な拠点」として、「祖先神」の「神明社」を創建配置した”と考えているのです。
故に”「賜姓族」は神明社1/3であり、「特別賜姓族」は2/3であり、その守護範囲をこの様に分けた”と観ているのです。この数字の持つ意味であります。
そして”伊勢の皇祖神の伊勢大社のお膝元に、「賜姓族伊勢青木氏」と共にこの「特別賜姓族」の「秀郷流青木氏」を配置して、この「2つの青木氏」を結んで「一つの青木氏」とした”と観ているのです。
「伊勢秀郷流青木氏」を置き真っ先に伊勢に「特別賜姓族」としての役割を果させ様としたこの事が重要な事なのです。
(この事は前段で何度も論じて来たが、「5家5流の青木氏」の「青木氏の建直し」をも狙っていたのです。
それには、急に配置したとは考え難く、「事前の布石策」が天皇家にあったと考えているのです。)
秀郷の祖祖父の「藤成」を九世紀初頭(秀郷から150年前:800年頃 桓武天皇期末期)に「伊勢の半国司」と配置しているのです。これは嵯峨天皇が青木氏衰退を承知していて、「将来の布石」として政策的人事として手を打ったと観ています。依って、恐らくこの伊勢に「藤成」は末裔を遺したと考えているのです。
なぜならば、”赴任地に末裔を遺して定住させる”の戦略は秀郷一門のみならず北家藤原氏の例外の無い「赴任地の基本戦略」です。これにより一門の拡大を図ったのです。(前記で論じた)
秀郷末裔の「基景」が伊勢長嶋の地の「半国司」に成った時に「伊勢の伊藤氏」を継承しています事(この時も護衛団としての青木氏が同行している事)から”「藤成」は末裔を少なくとも遺していた”と考えられます。(この時は未だ秀郷流青木氏は発祥していない。3代後)
これが後に史実として秀郷一門の「近江蒲生氏」との跡目血縁をしていますので、その末裔が伊勢四日市に定住していて、その事から「秀郷流青木氏の始祖」となる秀郷一門(「藤成末裔」)が古くから定住していた事が判ります。
又、清和源氏の宗家頼光系四家は5家5流の青木氏に跡目を入れている事からも「賜姓青木氏」を側面から援護していた事が判ります。宗家側では何とか皇親族の青木氏を残そうとしたのです。
それに応えた事件があります。それは「以仁王の乱」の首謀者の頼光より4代目の頼政の孫等の「助命嘆願」にたいら族に対して「賜姓伊勢青木氏」が動いた事なのです。
これ等の一連の事からも清和源氏宗家頼光系が青木氏に対して援護していた事が判ります。
片方では分家頼信系は「勝手気侭な行動」を採ったと観えるのです。
筆者は、”「特別賜姓青木氏」の「始祖千国」の末裔(子供)がこの伊勢の「藤成末裔」に跡目を入れて「青木氏」を興して配置した”と考えているのです。
その”始祖千国の嗣子が誰なのか”研究中で、「賜姓族」に成った「千国」は恐らくは直ぐに天皇家の守護神の「伊勢大社」のある所に、「賜姓青木氏」と同格の身分を得た以上は、子供を直ぐに配置する筈です。否、「義務」として配置しなくてはならなかった筈で、伊勢には、「藤成の伊勢の末裔」が定住(四日市)している訳ですから、そこに跡目を入れるが常道です。
この行動は「同格の役目と家柄」を与えられた以上は必定な絶対的職務です。先ず100%入れている筈です。末裔が居て定住地も判っているのですから後はその人物の特定だけです。
「賜姓伊勢青木氏」の関係資料の中からこの事に付いて何らかの資料が出てくるのかとも研究しましたが、松阪の大火消失で確認出来なくなった事や、伊勢秀郷流青木氏等からもなかなか出て来ません。
従って、”他の関係する処”からの研究を進めていますが「特別賜姓族青木氏」の「伊勢の祖」も確認出来るかは疑問です。この部分が現在の研究課題です。
「青木氏と守護神(神明社)-15 (「賜姓源氏の祖先神の役目」) に続く。
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