青木氏と守護神(神明社)-19
[No.287] Re:青木氏と守護神(神明社)-19
投稿者:福管理人 投稿日:2012/06/11(Mon) 17:34:51
> 青木氏と守護神(神明社)-19に続く。
前段で「自然神」を含む「5つの守護神」の中の一つの「氏神」と「祖先神の神明社」の「総神」が一部に同じと考えられていた事を論じましたが、それをもう少し詳しく論じておこうと考えます。
又、前段で論じた内容の補足や関係する事柄(若宮神社との関係、他神社との関係、佐々木氏との関係)等に付いて論じます。
「氏神」と「総神」の経緯論
そこで、「祖先神」の「神明社」を今まで通称として一部の特定の地域で「氏神様」と呼ばれてきました。
凡そ、最初は「5つある神様」を祭祀する「神社」を総じて「氏神様」と呼んでいたのですが、次第に時代が大きく変化する事に因って「氏の形態」が変わり、その為に呼称は変化を来たし減少し、ある一部の複数の保守的な地域では、中でも以北地方では「神明社」を特定してその様に呼んでいたのです。(前段でその経緯を論じた)
これは一つは、「祖先神」は天皇家の「皇祖神」に繋がる「神」であり、”万系一途に通ずる”の言葉通り国民総じての「神」と崇められていた事からも其の大きな原因でもあるのです。しかし、もう一つは前段の上記してきた「皇祖神-祖先神-神明社」との色々な青木氏との関わりから来る原因もあるのです。
そこで、全国に拡大した神明社の ”「氏神様」の呼称は、何故「氏神様」としたのか、3の「氏神」とはどの様に違うのか”と云う疑問が起こります。この疑問が青木氏を物語る史実なのです。
そもそも、”通称(俗称)「氏神様」”と呼ばれる様に成ったのは、前回までに前段の上記した様に「神明社」は「物造りの神」としても平安の古より民から信仰対象とされ、それを守る青木氏も”「物造りの氏上」(御役-御師)として崇められていた”と論じてきました。
特に、この傾向は鎌倉期の「鎌倉文化」から引き継いだ室町期の「室町文化」の著しい発展で「物造り」は飛躍的に発展しました。その発展に伴ない「民衆の心」も ”より豊かで安寧と安定の維持”を願ってその「心の拠り所」として神明社に求めて来たのです。
そして、その「文化の発展」も武士階級の「下克上と戦国時代」の乱世の中に引きずり込まれる事が起こります。しかしながらも、「文化の発展」も戦乱に反発して根強く引き続きます。
そのしぶとく続く中で ”より豊かで安寧と安定の維持”の「庶民の望」と云う事だけでは無く、戦乱の世の中の反動として庶民の中に「必然的な願望性」が帯びて来たのです。
華やかで雅な「平安文化」等の他の時代の文化と異なり この文化は ”しぶとく粘り強く強い個性の持った文化である”と云えます。
その為かそれを遺そうとする意思や表現力の明文化として、取分け「文化の基礎」となる「紙」が大いに発展し、「紙文化」と呼ばれる位に「紙」が全ての「文化の基本」に成って進展したのです。
この頃の「紙」は「現在の紙の位置付け」では無く、貴重で高額でより「高い位置付け」にあったのです。
前段でも強く論じた様に、その「紙」は更には「5家5流皇族賜姓青木氏」が、庶民の快適な生活の為により進む文化の為に「2足の草鞋策」として一族一門が挙って殖産し主導する「紙」でもあり、その「青木氏」は更に「皇祖神-祖先神-神明社」の主氏でもあり、又「物造りの氏上」と「生活の神の守役」でもあった事から、「神明社」を ”「氏神様」”と室町末期以降に何時しか「尊厳と親しみ」から「民」からその様に呼ばれ様に成ったのです。
その力を以ってして、且つ、前段で論じた特別賜姓族の主要な地域での「祖先神-神明社の建立」と「藤原氏の領主様・氏神様」としての「立場と責任」を同じく果しましたが、この「2つの青木氏」は、「祖先神-神明社」を566も建立し、民の「生活の神」としても崇められ「民の信仰」を一心に集めたのです。
ですから、「神明社」に裏打ちされた守役の「氏上様」の呼称は、「時代の流れ」の「必然的願望性」とも一致し、「崇めと信頼」を背景に著しく高まったのです。
況や「3つの発祥源」の「然るべき立場と責任」を全うしていたのです。
この「氏神様」に類似する守護神の「3の氏神」は、この「下克上と戦国時代」に依って勢力を拡大した「姓氏」の神で、一族一門が一致結束して「一所懸命」の意味の通りの「結束する象徴神」として考えられた「神」なのです。そして、その「姓氏」はその文化の「職能人としての作り手」でもあったのです
つまり、「3の氏神」と「2の氏神様」との出自と呼称は同時期に起こったもので、「3の氏神」は「姓氏」の「下級武士階級の守護神」であり、他方のこの「2の氏神様」は「民の階級」の「総神の守護神」でもあったのです。
この後者の「氏神様-総神」は、全ての守護神の根幹を成す「自然神」に通じ、更には「朝廷と皇室」が行う「国事行事の祭祀」としても「皇祖神-祖先神-神明社」に通ずるものでもあったのです。
ですから、「2つの青木氏の神明社」は他に秘して比べ物にならない程に格別のものであったのです。
それまでの平安期からの「氏」は、次ぎの様に成ります。
1の守護神の大蔵氏や平族等の「民族氏」の「産土神」(阿蘇大社、出雲大社等)、
2の守護神の青木氏の「皇族融合氏」の「祖先神」(神明大社・八幡大社)、
4の藤原氏などの「古代大豪族氏」の「鎮守神」(春日大社等)等が「下克上」で衰退傾向する中で、新しく勃興してきた中小の豪族氏とその配下であった「姓氏」が興した「神」が3の守護神の「氏神」であったのです。
そして、そこで大社を作る事の出来ない「民衆」は「皇祖神の神宮大社-祖先神の神明社」に「心の拠り所」を求めたのです。それが故に、「民衆」はその呼名を「様」を付けて勢いのある「3の氏神」に対して「氏神様」と呼んだのです。この呼称が現在まで引きずられて来たのです。
「姓氏の氏神」と「融合氏の神明社」の「氏上様-氏神様」とが混同されてしまった事に因ります。
むしろ、「姓氏」も元は「職能集団の民」であったのですから、「氏上様-氏神様」と崇め信頼していた「神明社」の「物造りの神と生活の神」を信仰しその行方を信望していた民でもあった処に、前段で論じた様に彼等はその力を互いに集団で結集して「氏」としての独立を果たし、その末にその力で独自の守護神を創造したのです。因って「民の時代」の「氏上様-氏神様」は彼らに執っては守護神としている「氏神」が出来たとしても何ら変わらないのであり、且つ拘らないのです。
2の守護神の「皇祖神→祖先神」の関係と、3の「氏上様-氏神様」→「氏神」との関係とほぼ同じ位置に置かれていたのです。
それは「物造り神-生活の神」の「祖先神」である限りは、「姓氏」となっても「心の拠り所」としては何ら変わらないのです。殆どは「呼称の差」だけなのです。
それだけに「氏神の守護神」は室町中期以降では爆発的に発祥しその「姓氏」が如何に多かった事を意味しますが、逆に「祖先神-神明社」の「氏神様」は1割にも満たない程であった事を意味します。
むしろ彼等に取っては対比的な守護神ではなかったのです。氏神様は氏神様と旧来から崇め信仰し、自らの新しく創造した守護神の「氏神」はあくまでも「氏神」なのです。
明治の混乱も収まり始めた頃の10-15年頃には「皇祖神-祖先神-神明社-青木氏」の存在そのものも忘れ去られ始めた事が伊勢青木氏の記録と口伝から読み取れます。
これは江戸末期から明治初期にかけての「宗教改革」や「廃仏毀釈」などの「権威と伝統の廃棄運動」の原因も否定出来ません。
故に明治期の「8000の民衆氏」の中に「祖先神-神明社」のは最早3%にも満たない氏となってしまった事から「姓氏」のみならず8割以上の庶民までもが「氏神-氏神様」が混同してしまった事に成ります。
一部の伝統を保持していた階層(元は士分の上級武士階級以上-浄土宗階層)では大正15年頃から昭和の始め頃までは覚えられていた事が判ります。
第2次大戦後は完全にその混乱から一層忘れ去られてしまった事に成ります。
この様な伝統や知識等の消失事はより完全に進んで現在に至りますが、科学による近代化が進むに連れて尚一層忘却の憂き目を受ける事に必然的になるでしょう。3%の話どころではありません。殆ど0%と成るでしょう。
故に、人の世は全ての事柄の森羅万象の伝統により繋がっていると考えられる限りは、この「伝統」と云う事を重んじて、ここにその詳細を遺そうとしているのです。平安期の多くの歴史記録の人の努力と同じように何とかせめて青木氏に関わる歴史記録としてだけでもよいとして遺す意義はあると考えます。
そして、この蘇がえさせ様としている「祖先神-神明社の記録」の中に遺そうとしています。
次ぎの「鬼道信仰」も同じ憂き目を受けて資料や記録も一部の学者の範疇にしか遺され無い状況の中で「民衆の知識」としては無くなる中で何とか「雑学の詳細概論」として遺そうとしています。
この「祖先神-神明社」の概論も。これが「青木氏」として「歴史マニアの責任」として。
その中の努力として一見青木氏に無関係かと観られる「鬼道信仰」に関わる事をも青木氏として独自の研究を続けているのです。
恐らくは「鬼道信仰」を追及し議論し研究する出来る「氏」があるとしたら、それは神明社-青木氏以外にはあり得ません。故に「青木氏遺産」として独自の見地から是非に遺す意義があるのです。
「鬼道信仰の雑学概論」
「氏姓」(僅かな氏)が始めて発祥した時期の4世紀以降では4神ですが、4世紀前の神は「氏」の概念が無かった事からすべて各種(7つの民族)の民族は「自然神」を信仰し、その「神の意思」(「神の御告げ」)とする伝達手段を「占い」として用いました。
この「自然神」の伝達手段の「占い」(占道・占術)が体系化して最初は「鬼道」と云うものであって、それは「宗教の原型」にも成ったのです。この「鬼道」で「絶対的な神の意思」を具現化したのです。
これが中国では「占道・占術」-「鬼道」-「道教」-「儒教」へと変化と進化して行きました。
しかし、大和ではこの「鬼道」の使い方が「国情」に左右されて異なった「宗教の変化」を起しました。
3世紀頃から7世紀頃まで大まかには ”この世は「自然の神」の懐に包まれ「万物万能の神」の「意思」がこの世に降り注ぐ” と信じられていました。依ってそれを受け止めてこの世に誰がどの様な方法でどの様に具現化するかによるのですが、ところがこの「自然神の考え方」が「7つの民族」によって異なっていたのです。
特にその「考え方」をこの世に伝える「媒体」に違いがあり、初期には植物や各種の動物(生物)を媒体としていたのです。この「植物・動物媒体」は民族の植物・動物に関わる関係度から千差万別と成っていました。例えば、日本では「在来民」とする「こな族・熊襲・アイヌ」(魏志倭人伝に記載)は「熊」が媒体であった様に、亀、狐、烏、鼠、鹿、蛇、馬、狗等があります。そしてこの信じる神の伝達媒体を国名にしている国が多かった事が「魏志倭人伝」の記載の国名の30国に色濃く出ています。
しかし、「7つの民族」が混在している4世紀頃はこの「自然神」の媒体がこの様に異なっている事からまとまる事が難しかったのです。
そこで、その「媒体」の考え方が進化して「人」として「神の意思」を告げる事となれば「共通の媒体」が必要と成ります。そこで”より真実に明快に確実に言葉で伝わる”と信じられて「自然神」のお告げを表す「鬼道」と云う「占い形式」(祈祷)の体系化した信仰が生まれたのです。
それが「鬼道占術」の特長として、次ぎの様に「具現化の媒体」の違うところが(他の占術とは)次ぎの3つのところにあったのです。
一つは「気候と気象変動」を神の御告げとして読み取る事
二つは太陽の軌道を読み取る「方位学の原型」を採用した事
三つは御告げする伝達人に科学的な刺激を与える脳特性を利用した事
この3つ事が他の占術と異なっていたのです。
そして、このある意味でこの「3つの要素(人、場、時)」を加えた合理的な伝達手段が、人の「食」に大きく関わる繰り返す飢饉(下記)に対応する事が出来たのですから、鬼道信仰は飛躍的に信頼され信仰されて行ったのです。
そして、逆にこの{3つの要素]の事が無かったか、或いは低かった事から前段で論じた様に「弥生信仰」に代表されるように他の占術は衰退して行ったのです。
この「3つの要素」が現在でも通ずる様に体系化し具現化した事から、今も「国事行為の形式的行事」として生きているのです。そしてその一部を青木氏は「神明社」と云う方法で伝播させていたと論じているのです。
゜卑弥呼の鬼道」には1000人程の者がスタッフとして存在していた事が判っています。
恐らくは、この「3つの要素」を体系化し具現化する為に、卑弥呼に「3つの要素に対する情報収集や提供」を任務として伝えていた事だと考えられます。
この中には前段で特記した来た九州域や関西域や関東域の「緩やかな政治連合体」からの派遣要員が居て「鬼道」を学んでいたと考えられます。
そして、卑弥呼も中国から渡来した人々からこの元の「中国の鬼道」に要する知識の「3つの要素の学識」を学び周囲のスタッフの人々に教え指導していたと考えられます。
恐らくは卑弥呼はこれを研究して日本の風土に置き換えて自分のものとし、「日本の鬼道占術」としていたと考えられます。
(特記 中国のこの鬼道信仰は道教と進化する以前の形で現在も遺されていて、その中国の研究資料と比較すると基本的なところは一致しますが少し違っているのです。上記の「3つの要素」に重きを置く事の位置付けで差異が認められます。中国の鬼道は人間の複眼の女性の野生本能に重点を置きこの「3つの要素」は副的要素であるのです。特に中国の鬼道信仰を信ずる人々には、神の前で行う「仕種の決まり」に違いがあって、「迷信的な行為」が多いと感じられます。桃の実を撫ぜると神の加護があり御利益があると信じられていますが、日本の鬼道信仰にはその様な迷信的な行為を認めては居ません。
現在のその原型を留めている天皇家が行う国事行為と比べると違和感かあります。)
この「鬼道」の占術の有り様が真に「鬼」の様に立ち振る舞い、人の感覚を無くし、周囲には自然物を飾り火を炊き、丁度、神と人との中間の様な物体に化して無想無念の域から発する印象を言葉にして表現する「占い形式」(占術)が生まれたのです。この時にこの占師は事前に一つ目と二つ目の知識を記憶して三つ目により無念夢想の中で右脳に桃果の芳香性の刺激を与え複眼機能を蘇させて左脳の知識を引き出し御告げとするものなのです。
現在科学から観ると、これにはある程度の医学的根拠があるのです。必ずしも「迷信」と片付けるには問題があり過ぎるのです。それは特に現代人の生態の退化から観ると「迷信」以外の何物でも有りません。
しかし、古来より人間には野生時に持っていた額中央にあった「「複眼」(予知機能)」と云う物があって、それを使って、それをより「強く遺し持った者」が、使用頻度の低くなった「右大脳」を「無心の状態」にして使う事で「野生の予知本能」を強く引き出し、右脳から「ベーター波」を発して「未知」との繋がりを保持する野生の能力なのです。
これを「人の邪念」を取り除いた言葉(人の言葉ではなくなる)としてこの世に伝達する仕組みなのです。
現在ではこの「複眼」は「前頭葉」の進化で「前頭葉脳」と「大脳」が大きくなり大脳の真下の「脳幹」の側に追いやられ「休止状態の脳」となっています。現在でも特に女性に遺されているのです。
それは子供を産み育てるという本能からその野生的な複眼機能がいまだ消えずに遺されているのです。恐らくはこの生み育てると云う行為が続けられる限りに於いて遺される事が考えられます。
ただ、近代化により女性の性(さが)が異なってきた事から一部では消失している女性も増えているのです。合理的に思考する状況が増えた事から男性化して来た結果と成ります。
その証しと云うか相対的に女性ホルモンの低下が観られるのです。
中国の山岳民族の一部に未だこの「複眼機能」が大きく働く民族がいて、この民族が住んでいる地域では未だこの「鬼道」の習慣が宗教として現実に強く残っています。
中国ではこの「鬼道と複眼の関係」の研究論文が発表されていて現在も研究は続いているのです。
この「複眼機能の特性」は強弱はあるにしても「感情主観の女性」にまだ強く残っていて、それは「母性本能との連動」から来ているものとされています。
仏教でもこの「複眼機能」の原理を説いています。(お釈迦様の額中央の瘤はこの複眼なのです)
現在人の顔相の額中央に10ミリ程度のややふっくらとした膨らみを持つ人を時々見かけますし、民族に依ってはかなり強く膨らみを持っている民族があります。
恐らくは整体上遺伝的にナゴリを遺しているのではないでしょうか。
この「複眼」(予知)と同じく同じような働きをしていた「鬼相」(鬼眼・鬼顔)と云うものがあります。
これは逆に「論理主観の男性」によく観られ、額の両目の端からやや斜め逆ハの様に1線上に10ミリ程度に伸びて髪の生え際までふっくらと膨らんだものが見えます。
これはある状況におかれた男性の顔相に今でも現れます。例えば、仏像の「四天王」の顔相や「仁王像」の顔相に見られる様に「鬼の目」の様になりその左右に縦斜めに膨らみが刻まれています。
これがある「目的」に徹した「無心の顔相」なのであり、其の目的は神仏を護る事にありますから、仏教ではこの「鬼相眼」(鬼眼:現在も”おにめに成って”と言葉が遺されている)が「善悪を見通す力」として「複眼」と若干異なりますがほぼ同じ目的を持っているのです。
この「鬼相眼」と合わせて「鬼道」と呼ばれたものと考えられます。
男性の「野生本能」として保持していた「性」からのもので、現在でもこの本能は恐らくはこれは余り退化していない本能機能と見られます。原野にて動物を容赦なく捕獲出来る本能、現在も続く戦いにおいて人を分別を超えて殺傷できる本能はこの「鬼眼」の所以と観られています。
野生の肉食動物に持つ本能に類似するもので、人間のものはその脳の使い方が進化に依って変位したです。(肉食動物の顔相はこの鬼顔(両目の端から逆ハの膨らみを持つ顔相)に全て成っています。)
現在でもこの「鬼顔」が出てきた男性は危険とされる「昔からの言い伝え」が色濃く遺されています。ここから”鬼は怖いもの”と成ったものなのです。
兎も角も、本来はこの「男性の鬼眼」として使えば「女性の複眼」に相当する筈なのです。
仏教でも「複眼」と対比して「鬼相」(鬼眼・鬼顔)に付いても戒めとして説いています。
依ってこれを「鬼道」と呼ばれた所以のものなのです。
古代では決して「鬼」は「悪」と云う扱いではなく、「鬼顔」はむしろ「善」を見通し「悪」を滅ぼす「神通力」を保持しているものとして扱われていて、「悪」の姿はむしろ「美顔」として信じられていたのです。
それが鎌倉期以降に仏教の普及が急速に進んだ結果「鬼」は「悪」として扱われるように成って行ったのです。
「鬼」は人間が神と人間との間に居てその鬼の行動が仏教の教えに合わない事、つまり一部の庶民宗派が「占道」が仏教の教えに合わない事から「悪」とされたものと考えられているのです。
古代では「鬼道」は”悪を払い「善」を招く”「占道」と捕らえられていたのです。
とすると、中国から伝わった鬼道の原型が ”何故卑弥呼にだけ成し得たのか” と云う疑問が残ります。
多くの占師が居たと考えられますが、”何故、卑弥呼なのか”です。
それは、上記の複眼機能が特別に遺されていた事を意味します。この鬼道は3つの要素を組み入れての占術でありますから、それを最も生かすには、この「複眼機能」の強さと有無が左右されますし、左の脳の情報力、つまり、「3つの要素」の「記憶力」を生かすには右の能のベータ波の出す能力の強さが左右します。このベータ波は女性に於いて極めて差異があるのです。母性本能が出ると同時にこのベータ波が強く成るのが女性ですが、その個人差が大きいのです。
卑弥呼はこの条件を兼ね備えていた事がある事で判るのです。
それは卑弥呼が死んだ後に卑弥呼の兄妹の兄が王に成りますが鬼道の占術は殆ど当らず王から引きずり降ろされます。結局は、前段で特記した事なのですが、この史実として「卑弥呼の宗女」がこの卑弥呼の跡目と成り占術が当り緩やかな政治連合体の国は治まりが着く事に成ったのです。間違い無くこの宗女は卑弥呼のこの女性本能の特異な遺伝を引き継いでいた事を意味します。
この様な上記の「鬼道占術」を使って邪馬台国の卑弥呼には、「自然神」の中でこの「複眼機能」を強く持ちその「予知能力」を使って「多種民族」を纏め上げ「連合体」を作り上げたと考えられます。
中国の「鬼道」と根幹で一致していた事から「卑弥呼の占い行為」は「鬼道」と呼ばれたと考えられます。
「気候変動と卑弥呼の経緯論」
上記する「自然神」の「鬼道」の「占い巫女」であった「卑弥呼」が”何故国王に祭り上げられたのか其の背景は何なのか”の疑問が湧きます。
実はこれには次ぎの様な上記の3つの内の1の経緯の気象が働いていたのです。
上記する「自然神」の「鬼道」の「占い巫女」であった「卑弥呼」が”何故国王に祭り上げられたのか其の背景は何なのか”の疑問が湧きます。
実はこれには次のような経緯が働いていたのです。
当時としては絶対に知り得ない知識でありますが、”自然が織り成す何らかの「神の行為」”として軽度に把握していたと考えられます。
現在でも”西風が強く吹く年は天気は崩れ雨に成り水飢饉が起る””食物の成長は裏と表の年があり裏は不作で飢饉が起る”等の事等の言い伝えがありますし、これには完全な根拠がある事は解明されている事です。実は桃や梅等の果物の木、特に野生の果物の木にはその気候の影響を大きく反映して次ぎの年の気候を顕著に反映して確実に読み取る事が出来るのです。他にも田舎に行けば今だこの種の超能力の様な知識として伝わっているのです。
恐らくは、「卑弥呼」はこの「自然の変化」と「気象的な関係」を知識として把握し、且つその「自然の変異」を素早く確実明快に読み取り具現化する超感性能力(超能力)を誰よりも保持していたと考えられます。
そして、この超能力を駆使し合わせて上記する人間の野生本能を誰より高く持ち得ていて、それらのデータを総合的に且つ有機的に瞬時に取り纏め判断出来得た人物であったと考えられます。
卑弥呼の鬼道の祭壇には桃などの自然の恵みの物が配置されていた事が遺跡からも発見されていて、これを1000人のスタッフにこれ等の情報を把握させる事もさせていたと考えられます。
現在の天皇が行う国事行為の毎日行う祭祀行事もこの穀物などから読み取る行為を具現化し形式化したものです。
「100年の気候周期性」(300年大周期)
この時期に顕著に起っている気象学的変異があるのです。
それは、地球の自転の回転で其の周囲の空気の層が同時に廻るのではなく地球の磁力(引力)に依って反時計回りの回転に対して空気の流れの「ズレ」を起こします。
その時、少しづつドーナツ型(環状)の空気の層の「遅れひずみ」が起こります。
円の形だと円滑に廻るので歪みが起りませんが、この「歪み」が強い時の波と弱い時の波とが起こり、これが連続して「強弱の波」を引き起こして発生します。
ところがこの「強弱の波」であるが為に、その波の僅かな「ズレ」が球の上下側に2つの「輪状環」が起こります。
その波は遂には空気中の浮遊物の影響により5つに成ったり3つに成ったりするのです。
それに依って起こる真円ではない「変形した輪状環」の波の現象と成るのです。
この3つから5つの波の発生が北極側では空気の流れの「位置ズレ」を少しずつ起こします。
この「波の位置ずれ」に対して変化して「変動の周期性」が起こるのです。
其の為に北極南極の冷気の層が赤道に向かって引っ張られて極端に寒暖さのある気候変動が発生する事になります。
真円が最も気候変動の差が少ないことに成ります。この地球の気候変動の大きな差の周期が概ね100年に1回起こるのです。
判りやすく云えば、キリストの頭の上にリングがありますね。あのリングが3つ乃至5つの星の様に成っているのです。その様に頭の上に出来たリングまたは鉢巻の様な「空気の流れの星形輪」が起こります。其の「星形輪」が地球の回転に沿って左に回る周期性を持っていて、その「星形輪」が真円ではなく極端な場合は3角形から5角形の形になります。この為にその角の為に空気抵抗が起こり円滑に廻れなくなり回転に対して「ひずみ」を起こしやすくなり、本来の位置から少しずれるのです。
このズレを修正しないと空気の星形輪状の層は地球から外れてしまいますが「エネルギー保存の法則」により絶対に元に戻ろうとします。
この「最大のズレ」が太陽から受ける熱エネルギーの差と成って現れます。それが「気候変動の寒暖の差」に成って現れます。
このズレが元の状態に戻るのが100年間掛かることに成ります。
これが赤道軌道を中心にして北極側と南極側に顕著に出るのです。
ですから円から最も崩れた時、丁度、3角形に近い状態に成った時が「最大の歪み」に成りますから「寒暖差」が極端に出るのです。これが「寒さの飢饉」と成ります。
そして次第に又5角形に近い状態へと戻り始めたほぼ円状へと近づいて行き寒暖さが少なくなり、次ぎの歪みの時期は「暑さの飢饉」と成るのです。これがほぼ100年周期にあると云う事なのです。
ところがしかし、現在、地球は地球の自重の増加により円運動から多少「楕円状の公転軌道化」を起こしていて、この現象がより顕著に出る様に成っているのです。
星形輪に依ってエネルギーの差が生まれて「寒暖差」が生まれている処に、「楕円状の公転軌道化」が起り始めた為に余計に太陽から近い時、遠い時の「エネルギー差」が起こりますのでこの「2つの差」が更に「寒暖差」が生まれるのです。
「楕円状の公転軌道化」が起ると地球の回転に慣性力の影響が出て「星形輪」が発生しやすく成るのです。そしてこの「楕円状の公転軌道化」でも起こった「周期ズレ」がエネルギー保存の法則で戻そうとして同じ上記した原理で300年に一度の大周期性を持つ様に成るのです。この法則で100年周期の2回までの直しきれなかったエネルギーを3回目で修正する為に大きなズレの吸収性が働くのです。
100年周期で3回起こり最後周期には300年目の超寒暖差が起って大飢饉が発生するのです。
そして次第に元に戻って行きます。
因みに「楕円状の公転軌道化」は地球の重力増の変化により加速性が増した為に起っています。
これは地球上で「人口」のみが自然増を生み出して重力が増しているのです。
他の動植物や鉱物は自然環境の影響を受けてその輪廻で一定と成ります。その増減は地球の回転に影響を与えません。
江戸時代は世界の人口は40億人とされていましたが現在は70億人と成っていて現在は1日に4000人の人口が爆発的に増加しています。
もしこの状態で人口が増加し続けますと地球の回転に加速度がより起こりますので、その加速度に対して地球の引力に依って引っ張られている力とのバランスが均衡する時が必ず来ます。
この均衡が破れる時には人は地球を離れてロケットの様に宇宙に飛んでいく事に成ります。
この限界値が計算上では85億人で均衡とされていますが多少の+誤差が起る筈ですので、100億人以上で飛び出す事に成ります。恐らくはこの直前で地球に回転とそれに伴なう気候変動により食料は不足し激減する事になりますし、地軸が27.8度傾いた形で回転している事により楕円が強く成る事で隕石などの衝突が起こり始めます。その為に人口や動植物等は激減する筈です。
そしてその様な現象で地球重量が元に戻りはじめますが、元の85億人程度の重量と成った時に楕円の公転は元に戻り始めます。
当然にこの時には地球の表面の8割は水で覆われていますので、そうすると加速度が働きますと先ず水が蒸気と成って90-100キロの第1成層圏の宇宙に吸い上げられて行く事に成ります。この結果、乾燥と水不足が起り人間を含む生物が死滅する事には成ります。
従って、これにより再び人口が減少して元に戻るか一切の生物は死滅してまう事に成るかですが、自転公転の上記する「歪み」が再び戻り、生き残った生物は繁殖を起す筈です。
既に70億人と成った現在では灼熱のアフリカ大陸では原因不明の水が消えて無くなる水飢饉が起っています。従って、85-100億人の前には人口増加は止まる可能性がある筈です。
先ず地球の太陽から公転による楕円運動がこれ以上に大きくなると生物は死滅する筈ですから地球と太陽系がバーンアウトするかしないかの勝負に成ります。
然し、重力計算による研究はあるとしてもこれを立証する研究は未だありません。その前に水が「人・生物」ではなく「地球」を救うことに成ると考えます。「人・生物」はその後の話ですね。
話を戻します。これを歴史的な資料で現在から逆算すると丁度、3世紀半後から4世紀前半に掛けてこの300年周期の第1期の「100年飢饉むは起こっている事に成ります。
つまり邪馬台国の時代です。これに依って下記のシナリオが証明されるのです。
これが大体100年に一度の割合で訪れるとされる「気象変動・異常気象」が起こった時期とされ、飢饉により民族間が生存競争で争いが絶えず混乱していたと考えられます。
そこにタイミングよくこの「鬼道」が現れ「占い巫女」であった「卑弥呼」が「複眼の予知能力」と「3つの要素」を組み入れてそれを使って予知した事が確率よく当たり、100年周期の終焉期と一致すると共に、飢饉がより占術予知により避けられ無くなり、其の内、国々では「卑弥呼」の「鬼道」で政治を行う事を民族間で合意し、結局、「卑弥呼の占い」を中心とした「民族間の政治連合体」が生まれたのです。
そして、その結果、その占い師の「卑弥呼」を九州地域5地域の「国の王」と定めたと考えられます。
その卑弥呼の占術予知による北九州域の政治連合の結果、この話が全国に伝わり主な他の20-40の王国の民族もこの「卑弥呼占術予知の鬼道」を招き、複数の「政治連合体」の国王として30程度の国が絡んだ「緩やかな大政治連合体」が出来上がったものと考えられるのです。
恐らくは推理ですが、この時に「卑弥呼」は九州佐賀から連合体の中心付近の奈良大和付近に出張等での移動をしたのでは無いかと筆者説の一つの推理を立てているのです。(3つの仮説 イロハ説)
この大気候変動の大飢饉を互いに逃れる為に良く当る事を前提に「卑弥呼の鬼道占術」を基本とした政治的な連合体であった事から”緩やかなもの”として、比較的に簡単に各地域に起った緩やかな政治連合体の組み合わせ総合の政治連合の国家が出来上がったと考えられます。
当然にその総合の政治連合体の元と成った北九州の政治連合体の邪馬台国(女王卑弥呼)が主導権を握り、合わせて「卑弥呼」を総合の連合国家の「大女王」と決めたのではないかと考えられるのです。
そしてその国の総称も「邪馬台国」としたと考えられます。
(魏志倭人伝の30国の一つの「奴国」は邪馬台国の事)
「30の連合国家」の中には故に、「奴」の付く国(ナ)、馬の付く国(マ或いはマト)、中には「邪馬国」(ヤマトノクニ)とするものが多いのは総称の政治連合体の「邪馬台国」から来ていると考えられます。
北九州域の主導国の奴国(ナノクニ 山門)と関西域の主導国の「邪馬国」(ヤマトノクニ 大和)から「邪馬台国」の総称としたと考えられます。
中国との関係から北九州域の「奴国」に「緩やかな政治連合国家」の「政庁」を置いたと考えられます。
卑弥呼死亡後は関西域の主導国の「大和」にある「邪馬国」が主導権を握ったと観ています。
この「自然神」の信仰は一概に無根拠とされるものではなかったのです。
この「自然神」は消滅して変化したのでは無く、この「自然神」から分離して行ったのです。
従って、現在に於いてもこの「自然神」は遺されているし、上記する「4つの神」の母体と成っているのです。現に、朝廷の祭祀はこれを引き継ぎ全てこの上記した「自然神」による祭祀です。
又、仏教もこの「自然神」を基盤としていますし、日本書紀にも「広瀬大忌神」と「竜田風神」の事が再三に出てきます。(「風の神」、「雷の神」:風神・雷神は鬼の顔と成っています)
中国は多種民族から「鬼道」から「道教」へ、そして「儒教」へと変化して行きましたが、日本はその国情(7つの民族と自然環境)から「神に対する概念(人の思考原理)」は次ぎの様に変化して行ったのです。
「神のフロート図」
「自然神」-「鬼道」-「神道」-「仏教」-「神道・仏教」-「産土神」-・「祖先神」--「鎮守神」-「氏神」-「4つの神・融合神・自然神」
「民族氏」→(「民族氏」+「融合氏」)→(「融合氏1+融合氏2」)→「融合氏1-5」
上記した「皇祖神の鎮座地の遍歴」はこのフロート図の違いの強弱が各地に未だ顕著にあり、新しく生まれてきた「祖先神」の考え方に見合う土地柄を選んでいたのではないかと考えられます。
つまり「国情(7つの民族と自然環境)」が大きく左右していたのです。「神明社」の各地の分布の数でもそれがよく判ります。(資料参照)
この様に前記した様に「民族氏」から「融合氏1-5」へと政策的変換を遂げた結果、「自然神」から発した信仰は上記する経緯に左右されて「4つの神」が生まれ、それが「氏家制度」の社会を壊し「身分・家柄」の垣根が取れた事に依って何時(明治初期)しか「完全融合」の時が起こり始めて現在に至り、遂には自然神を加えて「5つの神」の混在現象が起こったのです。
明治初期の「維新改革」で「融合氏1-5」が更に「高度な融合現象」と成って、150年後の「平成の完全融合」へと進んだ結果、現在では「5つの神の混在現象」が起こっているのです。
最近では、「自然神」が信仰とは云えずとも「自然の偉大さへの憧れ」に近いものとして認識されてきています。
これは制度的に民の間には完全に垣根が無くなった為に起こっている現象と見ていて「民族の完全融合」の「証」と成るのでは考えているのです。
最早、将来、未来にこれ以上の「融合」が起こり得るのか、「5つの神の混在」がどの様に変化して行くのか興味の湧くところであります。
アジアやヨーロッパの民族人種が帰化する現象が自然増より以上に更に日本に起こるかは、上段で論じて来た種々の政策と共に「民族融合政策」を協力に実行した未来の「中大兄皇子の政治判断」が大きく左右すると考えられます。
故にそもそも上段で論じた色々な歴史的経緯があったとしても、「7つの民族融合」は「5つの守護神の融合」そのものであり、それを主役となって主導して来た「自然神-皇祖神-祖先神-神明社-融合氏-青木氏」でもあるのです。この事無くして現在の完全融合の日本は存在しないのです。
現在ヨーロッパの全ての国で起こっているアラブやアフリカの移民問題が日本においても起こるのか、起こった場合はどうするのか、日本人の特性で「融合氏」が更に進むのか、「民族氏」が「完全融合氏」の中に再び起こるのか、疑問が大いに広がります。
兎に角にも、現在の移民現象は「貧」から「富」への移動であり、日本に於いても「貧」から「富」への移民は「融合」を促すのかは疑問のあるところです。前段で論じた移民の経緯が日本では全く異なっているのです。
”移民をすれば直ぐに融合する”かは別問題で、この「融合」には「其れなりの条件」が伴なうと云う事を論じているのです。
明治以降の後期の朝鮮人との融合は100年経っても余り進まない現状を観ると、「移民の問題」には矢張りこの条件と云うものの有無が左右していると観て疑問を感じます。
アジアからの現在では「看護移民」や「農業移民」がありますが、「文化の高さ」で取捨選別されてと成功していない様です。
恐らくは「民族氏」の「産土神」、古代の「自然神」ならば起こり得たと考えられますが、「融合国民」と成った現在ではその溶け込むハードルが平均化されて高く、他民族には入りにくい環境にあるのではないかと考えられます。これこそが最早、「融合単一民族」の所以であります。
「融合民族」の潜在的に持つ「本能的な拒絶反応」が浮かび上がり働くのではないでしょうか。
大化期から平安期に起こった現象が再び起こるかは前記した「融合の経緯」と「神のフロート図」とその数式が成り立つからこそ融合が起こったのであって、その大変さから観ても現在版の「俘囚スラム」等を生み出す事は間違いないと考えられます。
「自然神の概念論」
そこで、現在版の移民が起こった場合は共通する概念感覚は「自然神」のみにある事に成ります。そこで更に詳細にこの「自然神」をベースとして進んだ「神」はどの様な変化の経緯を辿ったのかを検証を進めます。
「氏神の変化」
この「4つの神」にはその時代の変化、即ち、「氏融合の変化」に即応してその特徴ある性格を持っているのです。
「時代の変化」と共に「氏の融合」も進み、且つ、「人心」も変化してその「心の拠所」とする「神の形」もそれに合わせて進化してして行ったのです。
従って、この事からも「氏融合の経過」を観る事が出来るのです。
そして、其の事からその「人」の氏が上記する「4つの神」のどの神を守護神にしているかに依ってその人の「氏の出自」が判る事にも成ります。
では、その「4つの神」に付いて先ず個々に検証を進めます。
先ず「産土神です。
「産土神」の定義
その人の「生まれた土地の神」であり、一生来その「人」の土神とする「人(単独)の神」
先ず其の前にこの「4つの神」の「進化」はどの様な経緯で変化して行くかを検証します。
古代、3世紀-4世紀の当初は全て「7つの民族」の個々の集団で生活圏を構成していました。それ故に集団の首魁を中心としてまとまり、「民族」と云う形だけの定義で集まり、血縁性の不明確な形で「民族氏」を構成していた事から奈良期前には1の「産土神」が主体でありました。
これはあくまでも「7つの民族」が不定不確定に外から「渡来」と云う形で上陸した為に上陸点の付近にその上陸した集団単位で生活圏を競って獲得していました。
その為に同じ民族が同じ場所に集団を形成すると云う事では全てでは無かったのです。
同じ民族の集団が”あちらにもこちらにも”と云う形に成っていました。
この時代は未だ生存に充分な食料や生活環境が整っていませんでした。従ってそれを獲得する為にこの個々の集団の内、「争い」に勝ち得たものがその集団を吸収し奴隷として囲い、大きくなりその集団の首魁の民族を中心とする「民族氏」が出来上がって行ったのです。
丁度、饅頭の様な構造をしていたのです。中身には血縁性が無い人の単位なのです。
依って、「土地」とそこから得られる「食料」が生存の基盤と成っていた事から、其の守護神はその「生まれた人の土地の神」「土地」を「神」と崇め、永代の「自分の神」とする習慣が生まれたのです。
これが「土神」即ち「産土神」なのです。
古代「自然神」を基盤として生まれたこの「産土神」は生存・命を保障するその自然の一つ「土」に対する感謝の心から「神」と崇めたのです。
個人個人が生まれた「土地」が異なる「民族氏」では1の「産土神」と成るのです。
「外国」で生まれていればその「外国の神」が「自分の神」と成るのです。
元々は「小さい集団の集合体」として「民族氏」と成った事から起こる現象です。
特に、中国系渡来人の「神」はその民族の根本的な「思考原理」から、元々この1の「産土神」の考え方にあったのです。「鬼道」から進んだ「道教」は「産土神」の考え方に近いのです。
「渡来人」が多く押し寄せ始めた4世紀後半から7世紀中頃までに、日本に定住し始めた民族中でも中国・朝鮮族が持ち込んだ道教・儒教の「考え方」に対して、それに「自然神」を崇めていた「在来民」はその「物造り」を通じて吸収され影響を受けてこの「土に対する神」の「信仰心」が拡大したのです。
この当時の「物造り」は土地から生まれる産物の第1次産業でしたから彼等の持ち込んだ「物造り」は道教・儒教の「土の恵み」の恩恵を強く受けた思考原理に成っていたのです。
4世紀後半から「100年周期の気候変動」が改善されて行き食糧生産も当時の人口に見合う量まで回復傾向にありました。人は食料を産む「土」と個人が生き残る生存競争による「人・個人」概念の考え方から同時に次第に開放されて行きます。
ここで地域的変化が起こったのです。ここでまず中国地方で起こっていた弥生時代からの銅鐸などを使った「自然神」の信仰が3世紀から4世紀には全国的に広まっていましたが「100年の気候変動」に依って飢饉が起こり「銅鐸を使った自然神の信仰」が信用を失い排斥されて、「産土神」に近い「自然神」の「鬼道の信仰」が今度は全国的に「銅鐸を使った自然神」に入れ替わって広がったのです。
従って、初期は九州域に限定されていた「土・人」の「鬼道信仰」が広域的に信仰基盤が広がったのです。つまり、「産土神」の信仰基盤が広がった事に成ります。
弥生時代からの「銅鐸を使った自然神」古代信仰→「土・人」の「鬼道による自然神」新信仰
「土・人」の「鬼道による自然神」新信仰→「土・人」の「産土神」の基盤
しかし、幾ら回復傾向と云っても、当時の人口が450万人と推測されていて、そこに中国から200万人、朝鮮(同盟国の百済崩壊)から100万人が難民と云う形で入国したのです。
これではほぼ倍となった人口に対して生存に適する食料が別の原因で再び不足します。
当然に「自然神」を相対的に崇めると云う形には成りません。
「土からの恩恵」を重視する考え方に偏る事は当然の成り行きであります。
回復傾向であった為に300万人が生産に寄与する事で何とか不足傾向では在りますが生きて行くにぎりぎりの生産量であったと考えられます。
日本書紀には大化期初期には不足していて食料問題に成って居た事が書かれていますので、先ずこの状況であった事は間違いありません。
其れだけに入国民の扱いの問題にしても、入国民の神に対する感覚概念にしても、入国民の食料問題にしても、他の軍事、経済、政治の面からも「改新」を進めなければならない絶対的な環境に在った事に成ります。
その前の4世紀前後の頃はこの状態がやや顕著に現れ、且つ100年周期の気候変動期に入り飢饉が続発し食料不足から民族間の全てで生存競争が起こり纏まらなかったです。
この為に民族間で話し合い「卑弥呼の鬼道」に依って「占いを中心とした政治体制」を作り上げ保ちこの「占い政治」(鬼道)を中心に「緩やかな政治連合体」を形成したのです。
「産土神」の傾向を持った「土・人」の「鬼道による自然神」から、「土・人」の考え方の強い道教の人々が入国して来たのですから、自ずと今度は限定して「産土神」に限定した信仰が進んで行ったのです。
「原始的な自然神」を経て「食料を理由」に変化した「鬼道の自然神」から「人の理由」で「土と人」の「産土神」へと条件が整って大化期前まで感覚概念が変化して行ったのです。
ところが、約100年程度の間に続々と入国して来る300万人の人口増加に依って「民族の集団化」が起こって血縁性の薄い「多くの民族氏」が勃興することに成ります。
この「民族氏」が成長しほぼ淘汰(20-40程度)にされて「民族氏」の熟成期に入り増す。
大化期前後にはこの為に「産土神」を主体として「民族間の思考の違い」が大きく露出して、その為に「民族間の争い」が多発して纏まらなくなったのです。
天智天武天皇は「既存の政治体制」の中に、この「産土神の考え方(「土と人」)」が蔓延する事は”既存の体制維持が困難”と危険を感じ無かった筈はありません。
これを解決する妙案が「融合化」であったのです。それには各々の民族が抱える守護神の考え方を先ずは融合化させねば成りません。
それには融合民族の皇祖神を全体の中心に置き、その分身と成る祖先神を推し進める必要があると考えたのです。当然に、その2つの条件を持ち得る氏を天皇自らの身内から出す必要が生まれます。
それが先ず皇祖神の遷座地の伊勢の青木氏だったのです。それに伴ない19の地域に対して祖先神の神明社の建立を推し進めたのです。然し、次第に時代の変化に対応させる事が出来ず、その力を留保する外戚の藤原一門秀郷の3子にその全役目を背負わせたのです。つまり、外戚の特別の賜姓族であります。それが「祖先神-神明社」なのです。
上記した様に「民族氏」-「占い政治」-「政治連合体」の経緯の中で鬼道信仰の影響を最も色濃く持つ「祖先神」を次ぎに論じます。
「祖先神」
「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、 自分の集合である一族一門の子孫の「守護神」であり「人と氏の重複性も持つ神」
上記の「産土神」の蔓延に危機感を覚えこの事を学習していた奈良期の大化期では”「産土神」に基づく考え方、即ち、一生来その「人」の土神とする「人(単独)の神」”の考え方では ”良くしても「土神」「単独の神」は「民」を一つにまとめての安寧は在り得ない” と考えたのです。
つまり、”「民」の全ての「共通する神」が無くては国の存立は在り得ない” と考えたのです。
「単独の神」<「共通する神」=「国の安寧と安定」
「土の神」<「自然の神」=「神の恩恵」
この大化期直前に「自然神」の「鬼道」から進化した「神道」と「仏教」との対立が生まれ「仏教」を国の信仰の根幹に据える否かで争いが起こったばかりです。
結局、「仏教」を選んだものの依然として「神道」は基盤と成り続けている現状の中に「産土神」が浸透する事は国体基盤にとって好ましくないと云う背景があったのです。
この時期、「自然神」と「神道」と「仏教」と「産土神」の「4つ信仰」が混在する状況で中でもこの渡来人に依って「産土神」の拡大が目立っていたのです。
そこに「急激に増加した国民」の国情を観て、”これを一つに束ねて安寧な国を構築する”にはこの現状は困難と観たのです。
むしろ筆者は、高い技能を持ち在来民の信頼を得ている増加した国民、即ち帰化した阿多倍の率いる「200万人の技能集団」(200/650 30%)もこの「産土神」と同じ考え方であって、”この「産土神」が国民に蔓延すれば天皇家はおろか、最早、朝廷のあり方自体の存続が危うくなると考えていたのではないか”と観ているのです。その「産土神の考え方」からすれば「共和性の国家」に近い政治体制に成ると考えたのです。阿多倍がこれ等の「集団の首魁」であったとしてもこの「技能集団」は最早、後漢王国が崩壊して(220-618)数百年も支配体制が緩んでいたのです。ただ「同じ漢民族」だとする程度の集結性で、この初期の段階では阿多倍はその「象徴程度の範囲」の経緯であったのです。どちらかと云うと”各技能集団の首魁の指揮に任していた”と考えられます。
その証拠に大化の事件の時に、中大兄皇子軍と蘇我入鹿軍との飛鳥丘で対峙した時、蘇我軍の雇軍の職能集団の首魁の東漢氏は自分の判断で即座に軍を牽く事件が起こりました。この事は普通なら帰化人に左右する事柄です。事と次第では決着戦に成る事も考えられた筈で指揮を仰いだ筈ですが、入国後20年の「阿多倍」は介入しなかったのです。
これはこの段階では「職能集団の首魁」の判断に任していたと考えられます。また20年の混乱状況の中で詳細に指揮する状況は未だ確立されておらず無かったと考えられ、恐らくは敏達天皇の末孫との血縁で准大臣に成り、長男の坂上田村麻呂が朝廷軍の指揮官に成った期間が混乱期からやっと立ち直り一番に阿多倍の指揮能力が高まった時ではないかと考えられます。しかしこの時は最早、天皇家との血縁族と成り得ていたのですから、この時点ではこの共和制の危惧は無く成っていたと考えられます。
ただ、皮肉にも「邪馬台国」のあった北九州域の「自治の要求」問題は逆に高まっていたのですが。
その様なやや進んだ状況の中で、そこで”生まれて来た”のか、否”作り出した”と云った方が適切であったと見られますが、「邪馬台国からの鬼道信仰-産土神信仰」の「2つの問題」を解決する方策、それが「祖先神」なのです。
丁度、「産土神」の「自分の単独神」を「祖先神」の「自分の固有神」に変化させ、それに自分の組する「集団の神(氏の神)」を付け加えて両者の「妥協の産物」と見られる「神」を天皇と朝廷は創造したのです。
勢いづいた「産土神」に「祖先神」を加えた「2つの神」を融合させる事で「民族氏」から脱却し、「祖先神」が求めるそれまでに無かった「氏」の概念を取り入れて、”「7つの民族」が「一つの氏」(融合の氏)にさせる事で「国の安寧」は起こる”と考えたのです。
その政策が”「青木氏」を発祥させて天皇家自らが「融合氏」を作り出して行く”のであって、実に巧妙に政策転換したのです。驚くべき素晴らしい政治判断であったと考えられ、”現在にそのような移民の問題が起ったとしたら果たして現在の為政者はこの様なすばらしい政治判断と政治力を発揮できるでしょうか” 、筆者は断言して無理だと考えます。それだけに大化期から嵯峨期までの天皇能力には素晴らしい政治力があったと観ているのです。
「鬼道」による「自然神」は「朝廷の祭祀」の中には現存として遺しながら、それを強く引き継ぐ「産土神」を完全否定するのではなく、より「融合性」のある「祖先神」の集団性を有する「氏の概念」を創り上げたのです。
その「氏の発祥源」が我等「青木氏」であり、天皇家自らも「天皇家」のみに通ずる「皇祖神」とする神の概念を創造したのです。
「天皇家の皇祖神」→「伊勢神宮」→「神明社」
「青木氏の祖先神」→「神明社」
「伊勢神宮」→「皇祖神」+「祖先神」
「伊勢神宮」→「自然神の祭祀」
「産土神」の「自分の単独神」→「祖先神」の「自分の固有神」
この「関係式の概念」を天皇は「産土神」を意識しながらも社会にその新しい概念を行動で強く示したのです。
その概念を広めるために「青木氏」の育成と「祖先神-神明社」の建立を急いだのです。
これに依って社会の中には次ぎの様な信仰対象が出来上がったのです。
「自然神」+「皇祖神」+「神道」+「仏教」+「産土神」+「祖先神」
以上の「6つの信仰」が大化期には混在する事になります。
しかし、ここにはこの「祖先神」は「全国民」を対象とした「固有神」としながらも、一方では「民の領域」の神(物造りの神 生活の神)だけでは無く、あくまでも特定領域の未だ存在しないこれから生まれる「氏」の「神」でもあったのです。
そもそも平安期までは百姓(おおみたから)はまだ「氏」を構成出来る社会では無かったのです。
(当時は宿禰族を含む皇族以外の良民を「おおみたから」と呼んだ。 良民以外に賤民や奴婢や脾民や囚民などがあった。)
ここに「国の安寧と安定」には「民」の「共通する神」を創造する事を目途としながらも、他方では「融合の氏」の発祥を創造したのです。天皇の考えている事が良く判ります。
ところが、この時期の国民を信仰範囲毎に分けるととして次ぎの様に成ります。
百姓層(おおみたから)は「自然神」「産土神」「仏教」
支配層は「自然神」「産土神」「仏教」
皇族層は「自然神」「祖先神」「仏教」
朝廷は「自然神」「皇祖神」「神道」「仏教」
以上の様に信仰対象は家柄身分制度の中ではこの様に異なって行ったのです。
百姓層(一般の民)は「氏」を構成しません。構成する概念そのものが無かったのが現実です。
むしろ、そもそも大化期前後は、これから「氏」そのものを作り出して行くと云う過程域であったのです。
4世紀後半には「民族氏」で出来上がった地名からの「氏名」がやっと生まれ始めた時期から未だ200年程度しか経っていないのです。
(現在の時間列:時間感覚と異なる 現在では25-50年以下程度感覚)
信仰の対象神が上記の様にくっきりと分けられてはいますが、だからと云ってこの範囲内で信仰すると云う概念では無かったのです。(曖昧思考原理の時代)
そこには「天皇-民」との繋がりを持つ先ずは「優先の社会概念」があって、「天皇が信じる神」は「民の大元の神」とする概念であったのです。
「天皇が信じる神」=「民の大元の神」=「自然神」 (「万系一途の法」の概念の時代)
「天皇-民の共通する神」はあくまでも「自然神」であり、その「自然神」の中に「産土神」や「祖先神」などの神があり、「民」の各自は「夫々の神」を求めながらも天皇が祭祀する「自然神」に通じていると云う概念なのです。
当然に”天皇個人にも「固有の神」(「皇祖神」)がある”とするのがこの時代の概念なのです。
事程左様に、”それが「皇祖神」であり「祖先神」であった”と云う事なのです。
そしてこれを社会構造の政策の中心に置くと云うメッセージなのです。
従って、直ぐに「祖先神」そのものを信仰対象とする事はありませんが、だからと云って ”信仰の対象としない” と云う考え方は現在の考え方であって、当時は上記した様に合理的に物事を割り切ってスパッと思考を固めると云う概念では無く、物事の境目は”「ラップ思考」で考える”と云う概念でした。
”どちらに属する” 場合に依っては”どちらにも属しない” と云う「曖昧思考」が通常の思考感覚だったのです。
「ラップ思考」+「曖昧思考」=大化期の思考原理
むしろ、スパッと割り切って考える方に対して「悪」「邪道」であるとする思考原理だったのです。
従って、”「神」に対して「人」” の相対する二次元思考ではなく、”「神」と「人」との間には「媒体」とするものが存在する”と云う三次元的思考原理であったのです。
故に、”その「媒体」として「占術する者」が必然的に思考として存在し、当然にその「伝達手段の占術」が必然的に当然の如くに存在する”と云う事が何の疑いも無く信じられていたのです。
現在でも筆者はこの思考の方が社会構造からして正しいと考えていて、然し、科学が近代化するに従い生活環境が激減している中では「相対の二次元思考」の傾向になると考えられます。
まして現代では上記の「予知能力の複眼」が低下した中では、余計に人は二次元思考と成りがちです。
然し、人は本来は曖昧思考として生まれて来ているのです。
古代の人間の営みの中では、生活には「神の意思」を知るには「占術」は無くてはならないものであったのです。それだけにこの時期の「気候変動の飢饉」は「神の意志」であると捉え、余計にこの「飢饉」で苦しめられる”「神の意思」が何であるのか”を当然の事として知りたがるのです。
それだけにより正しく伝えられる占術を選ぼうとする事に人は必然的に成ります。
それが「弥生信仰」から「鬼道信仰」へと変化した経緯の原因であって、終局は”人が生存して行くには「緩やかな政治連合」へと進んで行かねばならないと”自然的と云うか必然的と云うか「人の発露」の流れの中にあったのです。
そもそも「現在人が考える政治連合体」と、「古代人が考える政治連合体」とは、その過程は質的には大いに異なっているのです。つまり上記で論じた思考原理が異なっているのです。
上記の通りこの時代の”政治的に収束して行く流れの中の一つの必然的な現象”であったのです。
だから、「北九州の緩やかな政治連合体」と「関西域の緩やかな連合体」との「広域の政治連合体」を成し得たのです。
「魏志倭人伝」に記載されている様な「血縁性の無い民族的な古代国家集団」30がこの為に政治的な連合体を構築したのです。「大飢饉の解決」を前提にして「神のお告げ」として。そしてその「御告げの手段」は「弥生占術」から素早く決別し「鬼道占術」に切り替えたのです。
その趙著の無い切り替えの素早さは、”「神」に対して「人」” の相対する二次元思考ではなく、”「神」と「人」との間には「媒体」とするものが存在する”と云う三次元的思考原理が働いたからなのです。
これは「宗教的な信念」に依るものではなかったと云う事なのです。
宗教的な事でないが故に、「広域の緩やかな政治連合体」が成し得たのです。
利害は「大飢饉」の事から逃れるを目途として、その「食」を一点にして「鬼道信仰」の「卑弥呼」に賭けたのです。その「心の切り変え」として「銅鐸の破壊」なのです。
当然に、「総称の邪馬台国」の飢饉から「気候変動の300年周期」を経過し脱出した「気候変動」の緩やかな大化期の時期に成った事から、17県民-200万人の後漢の帰化人を受け入れられる食糧事情と成り得ていたのです。当然に、これ等の人口を支え得る全ての分野に進んだ職能を持ち込み、それが一つの補完要素となっていた事は否めません。「食」に対して「生活の質の向上」に対して急激な経済的な変化を遂げたのです。勿論、政治的な質の向上も彼等が持ち込んだ知識で遂げたのです。(冶金技術や木工技術などの上記した事等も現在でも驚くべき基礎技術であるのです。
この「思考原理」に依って6-7世紀の奈良期末期からは「氏家制度」の完成に向ってその対策として「融合氏政策」を推し進めていたところです。
”「神」に対して「人」” の相対する二次元思考ではなく、”「神」と「人」との間には「媒体」とするものが存在する”と云う三次元的思考原理の社会の円熟期には、「緩やかな政治連合体」をより確かな「政治連合体」に発展させるには上記の「人」のあるべき姿を変え「民の構成」を変える必要性が課題として生まれて来たのです。
それは「人のあるべき姿」「民の構成」は「7つの民族」を完結に融合させて一つにする事であり、それには「融合氏の発祥」であった筈なのです。「民族氏の解消」が「緩やかな政治連合体」から「緊密な政治連合体」へと進められる条件であったのです。
邪馬台国の卑弥呼が亡くなり「気候変動の飢饉」が収束に向かい始めた時期のヤマト王権-ヤマト政権-大和朝廷、そして次ぎの時代のステップとして、つまり大和にその主導権が移った時からこの課題に取り組み始めたのです。
(その一つが青木氏-皇祖神-祖先神-神明社-3つの発祥源であった事を本論の主幹点であります。)
前記した様にその取り組みは、 ”天皇の下に「氏」が存在し「姓」が存在し、百姓の下に賤民が存在する” と云う身分と家柄制度を敷いた社会であったのです。
「民の象徴」としての天皇が存在し、その天皇が信仰する「皇祖神」「神明社」に対しては「民」にとっては大本の「民の神」とも成るのです。
皇族系、外戚系の「2つの青木氏」には「神明社」は「祖先神」と成りますが、百姓や支配層の「人民」にも直接は「産土神」を信じながらもその「大本の神」とも捉える思考概念となるのです。
もとより天皇は根本と成る「自然神」を基盤に祭祀し、更には「仏教」を信仰の対象と置いている訳ですから、尚且つ何れにも配慮した中間的な形にした「皇祖神」-「祖先神」の「神明社」を持つ事に成る訳ですから、この「大本の神」とする概念には矛盾が無いのです。
まして、「人民」が一人々に「産土神」を持つ様に、「天皇」も又一人として「祖先神」を持つ事には何の不思議は無いのです。
この「祖先神」の概念は、上記の様に支配層にも配慮しましたが、「氏」の先祖は「仏」である事から「仏教」にも通ずる配慮もしている事に成ります。故に「神仏融合の神」と捉えることが出来るのです。
「祖先神」=「神仏融合の神」
これでは仮に作り出した概念であるとしても「祖先神」に抗する者は出ない事に成ります。
この配慮を考える時、天智・天武の天皇は「大化改新」の驚きを超える膨大な数の改革を行いましたが、この論文に記していないものに次ぎの様なものがあります。
1 「国内の国防システム構築策」(水城・山城・防人・・)
2 「国発展の列島内に網の目の様に廻らしたインフラ整備(駅舎・烽火情報伝達・・)
3 10M以上の広幅の真直線道路(現在より広幅軌道で真直線・現在に劣らない土木工学)
(高軌道の東山道・高軌道の山陽道・高軌道の東海道・高軌道の南海道・高軌道の西海道等)
4 「貨幣経済・和同開珎」(銅と鉄の生産を本格開始 驚くべき冶金・金属技術)
5 「部による市場経済」(説明済み)
6 「物造りの殖産政策」(説明済み)
7 「仏像などに観られる文化政策」(仏教を使って信仰対象を「仏法」にも求めた)
8 「政治機構の改革」(律令の基盤構築)
以上を個々に調べると現在の土木建築工学で観てもその施行原理は劣らない程で驚くものです。
この様な「物造り」は急に大化期に発展したのでは無く、勿論、阿多倍等が率いる後漢の民の職能集団が持ち込んだものなのです。
この混在する「神」の中で ”彼等の全面的な協力を勝ち取った”と云う事だけでもそれだけでも為政者としては十分な能力です。そしてこれだけの発展とこれだけの政策を何と50年間で一挙に行ったのです。
これだけの実績を持つ為政者は現在までに於いて誰一人いません。先ず、出ないでしょう。
恐らく、民はこの2人の天皇に対するものには「神格的な感覚」を持っていたものと見られ、確かに税に対する不満は日本書紀からも伺えますが、国のリーダーとしては「神格性」が生まれたのではないかと考えられるのです。
恐らくこの大化期のこの「神格印象」が後々まで残ったのでは考えています。その「神格天皇」の下に融合氏として青木氏が発祥したのです。
(その「2つの青木氏」がその立場を認識して守り通したと云う事に成ります。上段でも論じた様に、同じ立場にいた賜姓源氏は八幡社を汚し、荘園制を乱し、当然に上記の立場を汚したのです。)
「自然神」-「神の意思」-「神格化した天皇」-「民の神格対象者」-「国家政治」
「自然神」-「鬼道」-「卑弥呼」-「神のお告げ」-「連合政治」
この上記する「邪馬台国」の「自然神」から来た「鬼道」による「占い政治」の感覚が大化期にまで緩やかに引き継がれて来ました。そこに「2人の天皇」の上記する驚くべき政治の改革実績を成した事で、”「神のお告げ」の正確な伝達能力を保有する「神格的な特別の人物」”と「民」は観たのでは無いかと考えられます。
従って、「人民の不満」は何時の世も大なり小なりあるとしても「ラップ思考」+「曖昧思考」=「大化期の思考原理」が働き、「天皇への不満」と云う形では無く、その下の「為政者・皇親政治族」に向けられていたと考えるのが妥当と観ているのです。
確かに、上記の全国網のインフラ整備だけでも「税と労役」(租庸調)の民の負担は限度を超えている事は確かであり、これに上記の大化の政治改革が成されたとすると「税と労役」では無理であります。
何か特別な政策がこれに付随して計画的に実行されないと出来るもので無い事は明々白々です。
”ではそれは何であったか”と云う事に成りますが、私は前記している様に「部による物造りの経済」と「貨幣経済の導入」の連動策にあったと考えています。
これをよりにこの策を効果的にするには基盤と成る「公地公民」制度を敷く事ですから、その財源的裏付が論理的に完全に組まれていたのです。
そして、その改革に依って「民」に「大きな恩恵」をもたらした事で民は重税に納得したのではないかと考えられます。既に阿多倍一門がもたらした職能を民は教わり潤いを得ていた教訓があり、其処に目に見えるように急激に進歩し変化して行く社会のこの「政治改革の実績」を庶民の前に見せられたのです。
百姓は”生活と社会は良くなる”と受け取っていた筈です。
資料や日本書紀の記述からこの「民の印象」を観て見ると、全国から上記のこの建造されつつある広軌道の「直線幹線」を通って「税」を運び、「労役」の為に「伴造」と共に移動するのに「手弁当」であった事が書かれています。又、「税の耕地面積」を広げる代わりに負担対象者が6歳に下げられた事等を見ると、この「手弁当」と「税負担と耕地面積」に意味が隠されています。
悪く捉えれば”過酷で不満たらたら”と成り、良く捉えれば”社会が良くなる。頑張る”と成ります。
現在の学説は前者ですが、私は後者です。前者であればこれだけの改革は困難です。
一つの改革なら未だしも驚くべき改革とその数が実行されているのです。前者である事は無い筈です。
”社会が良い方向に変わる事を夢見て民は苦しいけれど頑張った”と云うのが現実の映像であったのです。
そして、その「民の不満」の「心の拠り所」の手当策として「自然神」に加えて「皇祖神」「祖先神」-「神明社」を創設・建造して行ったのです。
”いつの世も楽して良く成る”は有りません。奈良期の民がこの条理を理解できない「知力」だったのでしょうか。そんな事は有りません。この「インフラ整備の技術」は「現在の土木工学」と寸分違いが無いのですよ。この学説によくある事ですが、何か別の意味が隠されている気がします。
そもそも日本に8000の氏姓が居るけれど、我々「4つの青木氏」だけがこの「後勘の評価云々の渦中」にいますので、”正しく史実の解析結果を子孫に伝えるべきだ”と考えているのです。
学説・通説は直ぐにトップの責任として説を作り上げているのですが、まして、当時の「社会慣習」や「社会構造」や本文の「5つの神」や「大化期の思考原理」(「ラップ思考」+「曖昧思考」)やこの様な「偉大な政治実績」や「神格性を持つ社会」から観て”異なる”と云う感覚を持っているのです。
むしろ、現在から見てもこれだけの改革を成し遂げられる人物は ”「神」に相当する神人の成せる業”と考えられます。まして大化期です。現在より「神格性の強い社会」の中です。
前記した様に、故にこの「2人の天皇」の「偉大さ」が後の天皇の「桓武天皇・嵯峨天皇」と「後三条天皇・白河天皇」に引き継がれて其の「意思の実現」に立ち上がったのだと観ているのです。
この「2人の天皇」そのものを後の天皇は「神格化」に近いものとして扱っていたと考えているのです。真に「自然神」-「お告げ者・神格天皇」-「天智・天武」であったのです。
これが後々まで「自然神」-「鬼道」-「お告げの卑弥呼」から始まりこの2人の業績により「天皇の神格化」の世論が生まれた原因と観ているのです。
事程左様に、「祖先神」を定めた事には反対者は居なかった筈です。しかし、この50年以降には「民族氏」が勢力を拡大して反抗する勢力が出て来たのです。それが「産土神」を信仰対象とする朝廷外に居た後漢の民の阿多倍一族一門とその職能集団なのです。(前記)
この様に「民族氏」を「融合の氏」にする必要性を感じて「氏融合政策」に主導し体制を変えようとしたのです。依って其の為に天皇家が率先して行う事を決めたのです。
そしてその形成された「融合氏」の「氏発祥源・皇族賜姓青木氏」や、同じく「氏発祥源・賜姓藤原氏」等が各地で発祥するに連れて、「民族氏」の「産土神」が混在する中で新しい「融合氏」はそれぞれの「独自の氏」の「安寧と結束」を願って「氏の神」を定めました。
この為に朝廷は天皇家の「守護神」を決める必要があるとして、上記の「天照大神」を祀る神社を「皇祖神-祖先神」としてそれを「神明社」と定めたのです。
そして、皇族から出た「融合氏」の「発祥源」の青木氏に先ずこれを祭らせ護らせたのです。
この事に依って皇族系族は天皇家の「皇祖神」を「祖先神の考え方」で守護神とした事に成るのです。
この役目を負った賜姓青木氏は「神明社」の「伊勢神宮」、そこから守護王が存在する天領地の19の土地に分霊される様に成ります。
それに連れて「融合」が進み、より強く「2の祖先神」が各地に伝播して「産土神」に対抗する形で変化して行ったのです。
この変化は「守護神」が代わったと云う事だけでは無く、「考え方」そのものが変わって行ったと云う事になるのです。
天智天皇は「融合氏」を増やす事そのものを目的としたのではなく「融合氏」を増やす事で「民の考え方」を変え様としたのです。其の考え方が「祖先神の考え方」なのです。
これに依って「産土神の考え方」から来る「共和の世の形」を防ぎ、この「考え方」を増やして「国の安寧と安定」が図られると考えたのです。
其の為には論理的に次ぎの「2つの事」が必要に成ります。
第1策
先ず一つはそれはその「祖先神の考え方」を持つ「氏」を多く速く作り出す事、”皇族系の純血を護ってきたが最早その場合では無い”として、それを率先して天皇家から出自する事が「融合の政策促進」と「民の合意」が得られると考えたのです。
当然に、皇位継承問題で大蔵と内蔵ともに経済的負担が大きいとする通説の理由は勿論の事、上記の「産土神の考え方」の蔓延で危機感を感じていて「体制維持」が困難と観ていた事も大きく理由の一つとして占めていたと筆者は考えているのです。
これは放置できる問題では明らかに無い筈で彼等の進んだ技能と知識を享受している在来民は「産土神の考え方」になると「天皇家の存在価値」は薄らぎ明らかに低下する筈です。
そこで、皇位継承制度を次ぎの様に変更したのです。
それまでは「第6世族までを順位に応じて次ぎの1から4の権利を有する」としていました。
1 第4世第4位皇子に皇位継承権
2 第6位皇子を賜姓臣下させ近衛府軍に
3 第6世族を「ひら族」にして坂東防衛に
4 第4世族までを守護王位にして配置
これが2番の第6位皇子の「融合氏の青木氏」であり、3番の皇族系の「第6・7世族の融合氏」であり、第4番の各地の天領地の「第4世族守護王の融合氏」なのです。
第6世族で皇族・純血の枠の中に閉じ込め下族を許さなかった制度を大化期には一挙に開放している事が判ります。
決して通説の「経済的負担」だけを主とするものでは無く、「体制維持の危機感」から「融合氏の排出」が国策として必要であったのです。
「経済的負担」とするのならば、第6世族のままで1から4を実行すればよい筈です。何も分ける必要は無い筈です。
現に、「嵯峨天皇」は150年後にある一定の危機が去ったとして、嵯峨期の詔勅・「弘仁の詔」でこの制度を「第4世族」を「第6世族」まで緩めているの事でも証明出来ます。
第2策
第1策を実行した上で、次ぎにはそれの「象徴物」を造り、そこに「民の心(不安定な心)」を引き付ける為の「産土神の考え方」を抑えて「祖先神の考え方」を象徴する物体を造る事に成ります。
つまり、これが「神明社」なのです。
この「神明社」の「伊勢神宮」の元と成った宮社の鎮座地は下記に示しますが、実は元々からこの伊勢松阪には鎮座していなかったのです。
元は「自然神」の祭祀であった事から大和の皇居内に鎮座していたのです。
しかし、崇神天皇が皇居内に鎮座する事は好ましくないとして13の国と81の鎮座地を遍歴させて90年後の天智天武期(670-675年頃)にこの伊勢松阪の位置に定めた経歴があるのです。
とすると、この81もの遍歴は”皇居内の祭祀は好ましくない”とした通説には多少疑問が残ります。
兎も角も遍歴地と国と年数に疑問が出て来ます。
後漢の民が渡来した時期の第1陣は618年を境に100年間と見ますと次ぎの様に成ります。
大量に入国した時期
渡来開始期は後漢から魏に成った時230-35年頃
第1陣は570-80年頃
第2陣は670-80年頃
阿多倍の帰化時期は645年 孝徳天皇期
天智天武期670-675年から逆算すると90年間では580-585年から開始し、675年頃で比定地に定まったと成ります。
経緯
洛陽の東の住していた後漢民が唐に圧迫された隋が東に逃れ後漢の民を圧迫(高句麗遠征)し、隋滅亡期の618年頃前後に後漢の民の大難民と隋建国581年とほぼ一致します。
第1陣の前には隋に圧迫され始めて徐々に難民として上陸した時期は10年程度と見られますが、「後漢」が「魏」に引き継がれた時期235年前後頃にも後漢の民は一部北九州に押し寄せます。
この事から鎮座地の遍歴は何も”皇居内の祭祀は好ましくない””「適地探索」”の通説だけでは無かった事を意味します。
つまり、高句麗遠征に依って「後漢の民」が難民として入国し、上記した国内の「産土神の考え方の蔓延」に対してこの時期から既に懸念されてい他のです。
この対策として大和の近隣国の13の国々と80の地域に「自然神の皇祖神の祭祀宮」を建てて「産土神の蔓延」をこの地域だけには留まる事を狙って押さえにかかったのではと考えられます。
そして、その対策の考え方が引き継がれて天智天武の「伊勢神宮を皇祖神」として正式に決め、上記する「融合氏の国策3策」を展開したのです。
引き続き「皇位継承制度」に基づく1から4の地域を鎮座地として定め、19の地域に「神明社」を建立して、合わせて「100の神明社」の分霊を急いで建立したと考えられます。
この間約30年間で実行したのです。
この説からすると、合わせて「100の鎮座地」の「神明社」を「120年」(30+90)で天領地とされる全ての地域に建立した事に成ります。
これが天智天武の大化期に於いて成された事に成ります。
何と1年に1社の速さです。この時期の建設速度の能力からすると現在でも神社仏閣は1年程度弱と見られますので如何に早い事が考えられます。
通説とするのであればこの様な速さと行動は取らない筈です。
間違いなく「産土神」への危機感を抱いて「融合氏3策」(1)と「神明社建立策」(2)と「祖先神の普及」(3)を懸命に図ったと観ているのです。
何時の世も世の中の事は通説のような簡単な事では動いていない筈です。
ですから、この上記「3つの策」(1~3)が政策的に連動して行われ、皇族系の「融合氏」が守護を務める全ての地域には、その象徴として「祖先神」の「神明社」を建立して行ったのです。
ですから、「第6位皇子の5つの天領地」と「第4世族内の朝臣族・宿禰族の定住域」と「第6・7世族のひら族の配置した地域」の「3つの地域」には、前段で論じた様に強く「祖先神の考え方」と多くの「神明社」が存在する事に成ります。
「関西全域」と「5家5流の土地」と其の周囲、「坂東域」とに多く観られ、この「3つの地域」の「氏の融合地域」(出羽・新潟等)に確認できるのです。(神明社の分布と資料参照)
しかし、この坂東域は「坂東八平氏」(ひら族)として「融合氏」を拡げます。
更にこの坂東には皇族の者が罪を得た時に配流先と定められていた為に、そこには「配流孫」と云う「融合氏」が発祥しているのです。
しかし、ここには平安中期から末期に阿多倍一族一門が勢力を拡大し「坂東八平氏」の「融合族」は一時衰退するのです。
後に、平安末期にはこの「配流孫」は最初は地域の土豪の氏名を名乗り、「嵯峨期の詔勅」が発布されるに基づき「青木氏」を名乗る事になります。
「多治彦王の配流孫」の「丹治氏系青木氏」 「真人族島左大臣」の「配流氏の青木氏」の「2つの皇族青木氏」が発祥しています。
前記した様に阿多倍一族一門とその支配下の技能集団の分布が出羽・陸奥の地域まで進出している事から観ても、「産土神の伝播」は西北の広範囲に及び、国土の大占有は元より感覚概念の点でも蔓延していたのです。(前段で内蔵氏-阿倍氏-安倍氏の段で論じた)
筆者は、”関西関東域の範囲で戦略的に固める戦略戦術の作戦を先ず採って、西と北を各個攻撃で潰して行き、そして潰したところから皇族系に近い融合氏を配置し、そこに関西域と同じ様に「神明社」を建立し、「産土神」を排除して「神明信仰」を浸透させる戦略を採った” と観ているのです。
しかし、九州域だけは国内に「荘園制の行き過ぎ問題」が起こり、「土地の私有化問題」も出てしまい、阿多倍一族一門の本領の「関西以西の神明社化」が果し得なかったのです。
蔓延が進み、最早、「九州域の自治」を認めるしか方法は無かった状況であったのです。
「神明社の分布」は全くこの政治的経緯のパターンに成っているのです。
因って、建立できる状況ではなかった事を意味し、兵庫西域から九州全域に掛けて分霊による神明社は見事に全く無しであります。
(詳細は資料参照)
この神明社の分布域は完全に「全ての青木氏に関わる地域」(A)と「皇族系の何らかの縁の地域」(B)にあります。
その分布数も「縁の大小」に比例しています。又、建立時期もその「縁の古さ」に比例しています。
特に分布の低い地域の特長としては、「産土神の地域」と「阿多倍地族一門の地域」を中心とする出雲大社域、厳島神社域(たいら族)、住吉大社域、阿蘇神社域、宗像神社域、熊野神社域、八幡神社域(源氏)、春日大社域(藤原氏)の社領域に一致しています。
この領域には当然の事として「神明信仰」は余り広がらなかった事を物語ります。
「神明社の縁の地」
A「5家5流皇族賜姓族青木氏24氏」
B「嵯峨期の詔勅の皇族系青木氏と配流孫青木氏5氏」
C「藤原秀郷流青木氏24地方119氏」
D「皇族系第6・7世族のひら族 坂東八平氏」
E「上記の歴史的史実の縁の地」
F「一部の近江佐々木氏 始祖川島皇子」
この様に其の出自に依っても「産土神」や「祖先神」に付いても、当然に”その「氏姓」の「信仰対象」が何であったか””その出自地が何処であるか”でもそのルーツがよく判る事に成ります。
当然に、「2つの青木氏」は「独自の神明社」を持っている事に成りますので、この「青木氏の神官職」も多い事に成り、その「多さの分布」もこの「神明社の分布」に比例する事に成ります。
下記の分霊地の神明社には「神官職」と共に、その建造に当たる「職人の襲名青木氏」も必ず存在しているのです。
ただ、この場合は派遣する形を採るので、初期は伊勢を始めとする「5家5流の地」と「武蔵の地域」と成っていましたが、それ以外にも秋田、新潟、等にも定住しているのです。
この「神明社分布」は「青木氏」を物語る指標にも成るのです。
(「民族氏」=「産土神」)→(「祖先神」=「国の安寧と安定」)→(「融合氏」+「神明社」)
「人の単位」→「氏の単位」
上記しましたが、改めて県単位での建立地とその数を重記します。
「神明社の分布」
北海道 2 青森 13 秋田 26+7 岩手 11 山形 15 宮城 14 新潟 55+6
福島 9 栃木 12+2 茨城 8+1 千葉 22 群馬 12+2 埼玉 15 東京 30
神奈川 9+2 静岡 18 長野 13+2 山梨 69+3 岐阜 31 愛知 33
富山 32+1 石川 1+1 福井 8 滋賀 3 三重 5 奈良 1 京都 2 和歌山 2
大阪 1 兵庫 11 鳥取 0 岡山 1 島根 0+1 広島 2+4 山口 1 徳島 3 香川 1 愛媛 2 高知 4 佐賀 1 長崎 1 熊本 1 大分 宮崎 4
鹿児島 0+3
以上「566戸数」に成る。
以下も前段で論じたものです。
「分布域の分析」
東山道-東北北陸 6県-105-18.6%
建設地域 戸数 /地域 /全国
青森(陸奥) 13 12.4 2.3
秋田(羽後) 26+7 31.4 5.8
山形(羽前) 15 14.3 2.8
岩手(陸中) 11 10.5 1.9
宮城(陸前) 14 13.3 2.5
福島(岩代) 9 8.6 1.6
東山道-中部域 6県-145-25.6%
栃木(下野) 12+2 9.7 2.5
群馬(上野) 12+2 9.7 2.5
山梨(甲斐) 69+3 49.7 12.7
長野(信濃) 13+2 10.3 2.7
岐阜(美濃) 31 21.4 5.5
北陸道域 4県-104-18.4%
新潟(越後) 55+6 58.7 10.8
富山(越中) 32+1 31.7 5.8
石川(能登) 1+1 1.9 0.0
福井(越前) 8 7.7 1.4
東海道域 8県-154-27.2%
茨城(常陸) 8+1 5.8 1.6
千葉(下総) 22 14.3 3.9
埼玉(武蔵) 31 20.1 5.5
東京(武蔵) 30 19.5 5.3
神奈川(相模)9+2 7.1 1.9
静岡(駿河) 18 11.7 3.2
愛知(尾張) 33 21.4 5.8
畿内域 4県-13-0.2%
三重(伊勢) 5 38.5 0.0
奈良(大和) 1 7.7 0.0
大阪(摂津) 1 7.7 0.0
京都(近江) 2 15.4 0.0
和歌山(紀伊)2 15.4 0.0
滋賀(近江) 3 23.1 0.0
山陽道 4県-19-0.3
兵庫(播磨) 11 57.9 1.9
岡山(美作) 1 5.3 0.0
広島(安芸) 2+4 31.6 0.0
山口(周防) 1 5.3 0.0
山陰道 2県-2-0.0%
鳥取(伯鰭) 1 0.0
島根(出雲) 0+1 0.0
南海道 4県-11-0.2%
徳島(阿波) 4 36.4 0.0
香川(讃岐) 1 9.1 0.0
愛媛(伊予) 2 18.2 0.0
高知(土佐) 4 36.4 0.0
西海道 7県-13-0.2%
福岡(筑前)1 7.7 0.0
佐賀(筑後)1 7.7 0.0
長崎(肥前)1 7.7 0.0
熊本(肥後)1 7.7 0.0
大分(豊前)1 7.7 0.0
宮崎(日向)4 30.8 0.0
鹿児島(薩摩)0+4 30.8 0.0
北海道 0
沖縄 0
(+は分霊に疑問 大化期以降の神明社 県と国の違いあり 建立時期は参拝に影響する為に明らかにしていない調査不能 一部に室町末期と伊勢詣の江戸期含む可能性あり 原則室町中期までの建立物とする 建築様式から判別 祠は含まず 県域と国域は一致せず存在地優先 分霊外と支社外は含まず)
さて、上記でも論じましたが、次ぎに再び「氏神」に付いて追記します。
「氏神」
「人の神」ではなく、「氏のみの一族一門の神」で、氏永代に守護する「氏(独善)の神」
実は上記した経緯の数式には一時突然に変異が起こったのです。
実は現在までの間に、特に鎌倉期にはこの「4つの神」が混同されて同じ扱いや間違いを起こし始めたのです。(上記で論じた)
3つ目の「氏神」は ”「氏のみの一族一門の神」で、氏永代に守護する「氏(独善)の神」” であるのですが、これが「祖先神」から「鎮守神」までもいれて「氏神」と呼称された一時期があったのです。
これは平安期の「仕来り」が崩れ、「民族氏」が1018年以降に他氏との「融合」が進み、「融合氏2」(第2の融合氏)と変化し「融合氏1」との差が見えなくなった事と、多くの品部が「姓氏」と成り、中には「氏」と成って勢力を拡大した事で「氏」の見極めが困難と成った事から同じ扱いと考えられたのです。
「融合氏2」(第2の融合氏)
「融合氏1」(2つの青木氏)
「姓氏」(職能集団 等)
しかし、鎌倉幕府の政策が「平安期の社会体制」を基盤として「武家の体制」を作り上げて行った事から次第に夫々の「神」を守護神とする様に戻って行ったのです。
そして、鎌倉末期から室町期に入ると激しい「下克上」が起こり、「姓氏族」が支配していた多くの「氏族」は平安期の中期の状態まで減少して潰されて行きます。
「民族氏社会」-「氏族社会」-「武家社会」-「下克上社会」-「姓氏族」
逆に家長・家人・郎党であった者等の反乱で「姓氏族」を興した一族が増えて行ったのです。
「姓氏族」から「氏」を興した者が結局、「産土神」や「祖先神」でも家柄身分の差から「守護神」と出来ずに、結局、総称的に呼称されていた「氏神」を「3つ目の氏神」としたのです。
つまり、「氏のみの一族一門の神」で、氏永代に守護する「氏(独善)の神」の考え方です。
従って、「氏」としての歴史が無い為に「独善の神」としたのです。
この「姓氏族」が結果として大半を占めた事から既成の事実として「3つ目の氏神」が生まれたのです。
しかし、この「神」は「時代の変化」と共に変化して行きます。
天智天皇に依って賜姓を受けた「藤原氏」は「春日社」を定めました。
当初、奈良期前は「民族氏」であった事から「民族性」が強く、その「信仰の概念」は血縁以前に「人」の単位で考えられ、個人自らの1の「産土神」の「神」としての位置づけであったのです。
しかし、奈良期の大化期からは「融合氏」の初期政策が進むにつれて「氏族社会」(氏家社会)が起り、「人の単位」と血縁の「氏の単位」へと変化する過程の中で、「人の単位」と「氏の単位」とが重複融合された2の「祖先神(祖霊)」の「神」へと変化して行ったのです。以降この過程の変化であったのです。
「人の単位」+「氏の単位」=「祖先神(祖霊)」
しかし、平安期初期に成ると、「第1の融合氏」が拡大し、それに伴って「人の信仰概念」は「民族氏」を保持する阿多倍一族一門の「産土神」の概念を遺しながらも「人の単位」の考え方が徐々に消え失せて完全に「氏・姓の単位」に移行してしまったのです。
(「氏の単位」=「祖先神(祖霊)」:氏家制度)
平安中期に成ると「氏の単位」+(「姓の単位」)=氏家制度と成ります。
これが新たに生まれた3の「氏神」(うじがみ)の信仰と成るのです。
但し、民の領域では土地に恩恵を受けて生きる環境から「自然神」-「産土神」が依然として残っていたのです。
そして、平安中期からでは「渡来人意識」、平安末期1020年頃を境に人々から「民族氏的な概念」がほぼ一部(九州南部)を残して消えて終います。
大化期2始まった「氏の融合策」の浸透に依って「姓氏」の初期の発祥も伴い、「融合氏」が「普通の集合体」として「荘園制の拡大」の影響と共に各地に分散します。
そして、その分散が氏の更なる枝葉の「末梢子孫の細分化」が起こり定着します。
その定着地の土地・地域全域に対する愛着から「氏神の考え方」に観られる様に「土地・地域に対する概念の信仰」が強まります。
大元の「氏神」が存在する中で、平安期中期頃から末期にかけて「土地の神」の4の「鎮守神」(ちんじゅのかみ)の信仰が初期の信仰として起こり始めたのです。
そして、平安末期後半には「氏の融合」と同じく、「氏神信仰」と「鎮守神信仰」との「神の共存」と「神の融合」が起り、遂には、「神の競合」も起こる状況と成ったのです。
つまり、「神の共存」と「神の融合」か起ると、「民族氏」の社会の中では「人」であったものが、次ぎの”「人」→「融合氏」”の変化の社会の中では、「氏」は”集団の「氏」→多集団の「氏」”の社会と成り、その中では「人」→「土地・地域」へと変化して行ったのです。
例えば、
「皇族賜姓青木氏」は「皇祖神-祖先神-氏上信仰」の「神明社」伊勢神宮の1つの信仰対象
「藤原氏一門」は「春日社」の「鎮守神」と「祖先神」の2つの信仰対象
が生まれたのです。
これはそれぞれの「氏の持つ特殊性」が左右しているのです。
「皇族賜姓青木氏」は5家5流から成りますが、限定された「小地域」(5)であり「融合氏」と「皇祖神-祖先神」であるが為に、藤原氏の様な「重複の信仰」は不義として成し得なかったのです。
それに引き換え、藤原氏、特に「秀郷流青木氏」は「各地」(24)に氏を融合させ119氏とも成り、枝葉の末梢子孫が生まれたことから「自由性」「特異性」が拡大します。
この為に「各地の事情」を含有して「重複で複数の信仰対象」が生まれたものです。
つまり、その「氏」の置かれた「人と土地」の「環境下」では下記の「4つの信仰対象」が異なり、1や2の「古い神の信仰の温存」や「神の共存」などが起こったのです。
その意味で藤原氏の一部には下記の様に「初期の鎮守神」を守護神とする「春日社」もあるのです。
奈良期から悠久の歴史を持ち最大の末梢子孫を持つ藤原氏北家ならではの事です。
その「鎮守神」の経緯について追記しておきます。
「鎮守神」
「現在住んでいる土地・地域の守り神」であり、「土地・地域」を守る「土地・地域の神」であり、人はその土地・地域に吸収されるとした「土地・地域優先の神」
鎌倉期以降、「氏神」はそもそも、「融合氏」の枝葉の末梢子孫が各地で生まれ、その土地・地域に根着き、そこに「氏」の守護神と成る「独善の神」を祭祀したものなのですが、更にその「氏」の枝葉の末梢子孫が細分化されて「姓単位」の「土地・地域」に根着いた土豪が生まれたのです。
この多くは「百姓」から身を興して土豪となった者達で、傍ら農業も行うとする今で言う「兼業姓氏」であったのです。村単位の土豪姓が生まれたのです。その為に特に「土地・地域」に拘る守護神を求めたのです。
「姓氏」の種類
「品部」から発祥した「姓氏」(1)
「融合氏」の末梢集団から発祥した「姓氏」(2)
「民族氏」から発祥した「姓氏」(3)
(1)(2)(3)とは異なりこの土豪等が集まり血縁性の無い集団を構築します。
「連合防衛集団」の「姓氏」(4)
以上の「4つの姓氏」が各地で出来上がったのです。
”「氏」でも無く「姓氏」でも無く、百姓でも無い”とする集団が自らの農耕の土地・地域に対して「守護神」を求めたのです。これが元来の「鎮守神」なのです。
ところが、これ等とは異なり藤原一門の「鎮守神」(2)-Aはこの各地に定住した藤原氏の枝葉の末梢子孫が守護神としたのです。確かに藤原氏の各地方の土着の枝葉の末梢子孫であり「土地・地域」の特長も持つ為に藤原氏の役職上も兼ね備えた「鎮守」を併せ持つ守護神が生まれたのです。
秀郷一門では陸奥域に於いて「鎮守府将軍」と成って長い間赴任し、その地域に枝葉の末梢子孫を遺しますが、この関東以北の「鎮守府将軍」系列の枝葉の末梢子孫(2)-Bが「土地・地域」に拘らない本来の「鎮守神」とした「守護神」も存在するのです。
そもそも後には、「鎮守の森の神様」と歌でも歌われる「庶民性」のある「神」なのですが、その性格から各地に分散する「小域の土地」の「鎮守神」と成ります。
(2)-A、Bの元来の「鎮守神」と異なり、(1)(3)(4)にしても多くは藤原一門一族の何らかの大小の血縁性を持つ一部に引き継ぐ「姓氏」でありますので、その縁と絆を下に「元来の鎮守神」に小さい単位の「人・土地・地域・農耕」の「4つの思考要素」を加えた「守護神」を造り上げたのです。
当然に、多くは農耕に携わるそれらの者達は血縁性が有っても「戸籍概念」が元より無かった為に近い範囲の親族・縁者・村人の範囲の「神」とも成る「守護神」であったのです。
この為に「4つの思考要素」の共通点を持つ事からそれらが集まり(4)の小集団の「相互防衛」の連合組織を鎮守社の旗の下に構築する為に独自に「鎮守神」を造ると云う事も各地で起こったのです。
ここで、初めて「自然神」が上記した様に変化して、「融合の最終の結果」は(4)の様に再び「民の神」として「産土神の考え方]に近い”人・土地に根着く「神」”へと戻ったのです。
これ等の枝葉の末梢子孫が後には農業に関わる「庄屋・名主・豪農」と成って「鎮守神」を護っていったのです。所謂、「村の鎮守様」であり江戸期には何時しか「鎮守神」は「農民の守り神」にも成り得ていたのです。
ここに一つ変化が起こります。
姓氏の(1)は「産土神」
姓氏の(2)は「祖先神」
姓氏の(3)は「氏神」
姓氏の(4)は「鎮守神」
(3)の姓氏は「民族氏」が基であった為によりその出自がはっきりしません。そこでかれらはその周囲の神社の氏子として集まり「氏子集団」が結成されていったのです。
ですから、この「氏子集団」には「氏神の氏子集団」と上記する「鎮守神の氏子集団」とが生まれた事に成ります。
特に(3)には、阿多倍一族一門の「民族氏の末裔」と観られる「氏姓族」が多い九州地方と中国地方に限定して存在するのです。
「古い神社」にはこの集団が結成されて「広域の土地地域」を一つのエリヤーとして(3)(1)の「氏神」と成っています。
それらは主なものとして次ぎの大社を創り出しました。
阿蘇大社、宗像神社、出雲大社、住吉大社、吉田神社、宇佐神宮、吉備津神社、厳島神社、等
中には(1234)を全て兼ね備える「神」とするものも有りますが、これ等は歴史的な建立時期が殆ど明確にされていません。恐らくは室町末期から江戸期に掛けての神社と見られますので、正しい検証出来る期間を超えています。
「鎮守神の姓氏族」と観られていても巨大豪族も中には有り、(3)(4)を兼ね備えていて「祖先神」の様に明確に線引きをする事は困難です。これ等の豪族は概ね室町末期からの族であります。
室町末期の「武士」として観た場合は「一所懸命」の言葉通りに判断すると「鎮守神」と考えられます。
「神明社 祖先神」
さて、「祖先神」とする氏が限定されている中では、当然にそのルーツも明確でありますが、特にこの「祖先神」の「青木氏」に限りその氏の「氏上」と「氏人」(家長、家人、郎党)と「百姓」と「品部の職能集団」等がこの「祖先神」を「氏上の神」として集団で崇める事に成ります。
「神明社」はこの「祖先神」の「4つの青木氏」の「氏の神」なのです。
前段で論じた「2つの血縁青木氏」に「2つの無血縁青木氏」「(2つの絆の青木氏」)が存在すると論じましたが、この「2つの無血縁の青木氏」も「氏人 家人」として主筋の神明社を崇めたのです。
例えば、判りやすい例として先ず一つは信濃皇族賜姓青木氏(神明社)の分家の諏訪族青木氏は、「諏訪神社」を「祖先神」としてその氏一族郎党・諏訪村民がこの諏訪神社(産土神)を守護神としますが、賜姓族の「氏人、家人、郎党」であるので「神明社」が主の守護神と成ります。
その二つ目は「2つの青木氏」にはその「3つの発祥源」の役目を支える職能集団が存在しましたが、この職能集団も神明社を崇めたのです。
(信濃の賜姓族系の諏訪族青木氏・と武田氏系諏訪族青木氏は、賜姓信濃青木氏の分家が2代続きで男系跡目が出来ず女系となり養子先諏訪族の系列に入った氏、その諏訪族青木氏の分家が武田氏から養子を取り同じく男系跡目が叶わず武田氏系列に入った氏が武田氏系諏訪族青木氏 諏訪族は後漢の民の馬部の末裔1400年以上 元は「産土神」 日本書紀記述)
そこで、「神明社」は「氏」と「民」を「安寧と安定」に導いてくれる「神」ではあるのですが、そもそも”「安寧」・「安定」とは何を以って安寧・安定とするのか”と成ります。
当時としてはその社会環境からすると、その答えは生きている者の「安寧」・「安定」とは「子孫存続・生活の安定」である筈です。現在とはこの様に少し違っていた筈です
そうすると”その「子孫存続」と「生活の安定」とは何に依って叶えられるのか”と成ります。
この世の生きている世界に於いてその根幹は「食」を得ずして成せるものではない筈、そうすると人の行動としては”何かを生み出しそれを糧にする事”にある筈です。
それは上記した様に「7つの民族」に依っても上記した様に大化期前はその思考原理が異なっていたのですから、「融合民族」の日本人と成り得た平安期の嵯峨期頃では何になるのかと云う事に成ります。
それが、”古来より天智天皇期の頃から「物造り」にあった”と考えていて、それを”「守護神の神明社」にあるとしていたのではないか”と云う事です。
つまり、だから人は ”「物造り」の祈願を神明社の神に願いをかけていた”と云う事に成ります。
”果たしてそうだったのだろうか”検証してみる事にします。
「部曲(かきべ)」等に依って生み出される産物は当然の事として、この産物だけでは「生活の安定」と云う定義には成りません。そもそも「市場経済」が未発達な物々交換を主体としていた時期の判断としては無理が伴ないます。勿論「生きる」という定義では成り立つ事ですが、これは仏教の範疇です。
そうすると仏教の思考ではないとすると、「神」に祈願するとなると「生活の安定」と成ります。
「自然神」の「自然の恵み」を得て得られる産物から、それを加工する「物造り」(付加価値)、つまり「第1次産業」がこれに連動しなければこの時代の定義とは成り得ない筈です。
「生きる」-「自然神の恵み」(「産土神」)→「生活の安定」-「物造り」(「祖先神」)
そこを天智・天武天皇が考えて「物造り」(付加価値品)を「経済生産の根幹」に据えたのです。
それを「自然神」から生まれた「祖先神」に課せ、「大化改新」の政策の実現の為には当然に物造り(付加価値品)が必須条件でそれは上記の関係式であった筈です。
「皇祖神」として「自然神の祭祀」を天皇家が受け継いで300年、それを”神明社で全て執り行う”と云う形に進化させて構築したのです。「自然神」を根幹とする「鬼道信仰」の「占術の御告げ」の具現化を「物造りの神」として創造して、「自然の恵み」に「付加価値」を付けて「神の恵み」が民に現実のものとして伝わるようにしたのです。ただ御告げで天候に注意して農耕だけをするのではなく、より高い「神の恵み」を「付加価値品」で与えようとしたのです。この政策の為には「豊受大明神」を伊勢大社に鎮座させる必要があったのです。
この様に「五穀豊穣の祈願-(自然神)」と、「物造りの祈願-(祖先神)」の両方を祈祷・祈願する「祖先神-神明社・皇祖神-伊勢大社」を造り上げたのです。
前段で論じた様に、「皇族系の融合氏・祖先神」の「各地の神明社」がこれを執り行う祭祀と一致させたのです。
「五穀豊穣・自然神」+「物造り祈願・祖先神」=「神明社の祭祀」=「自然神・伊勢神宮・皇祖神」
∴(皇祖神・自然神)=(祖先神・神明社)
以上の関係が成り立ちます。
この時期に「祖先神」を創造した時に「皇祖神」との親子関係から「神明社」に於いて「物造りを願う行為」を祭祀の一つとして加えたのです。依って結局は「祖先神」は「物造り」と同様に政策実現の必須条件と成り得たのです。故に「桓武天皇」が以北地方に政策として「20箇所の神明社」を稚友の坂上田村麻呂に命じて建立した事を物語ります。
故に「物造り」(政策 付加価値品)は必ずしも「自然神の農耕の恵み」と云う事には成らないのです。
「農耕の恵み」+「付加価値」=「物造り」
大化期では「自然神-鬼道信仰」をより具体性のある占術だけではない信仰に変化させたのです。
「国家の信仰」としての「祖先神-神明社」で祭祀を執り行う以上は具現化の必要性があったのです。
しかし、一方ではその「鬼道信仰」の形を遺す為に斎蔵の中に阿倍、卜部等の鬼道に関わる職能官僚を朝廷内に作り、平安期には陰陽師なる役職を残したのです。
これは「鬼道信仰」の内容を細分化してそれを担う部署や役職や社種を造り上げたのです。要するに上記した具現化であり政策化であります。その中で最も主点であり重点を置いたのが「皇祖神-祖先神-神明社-青木氏」の役割であったのです。
それは又、上記した天智天武の天皇の鬼道や産土神の考え方から来る危惧の政策実現でもあったのであり、信仰としても占術に頼らないより現実味のある一段上位の信仰を狙ったとも考えられます。
この具現化、政策化だけでは「民の生活」との繋がりに欠けるところから神明社には「生活の神」を付加したのです。
これは「豊受大明神」の御利益には「物造りに依って得られる豊かさ」と「生活の安全安心がもたらす豊かさ」の二つに分けられます。この「2つの具現化」でもあったのです。「鬼道信仰の具現化」に付いてこれ程に深化し尽くされている事に驚きです。
それまでは「生活の安定」=「家内安全・氏の安全の祈願」は、「祖先神」の定義である”「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、 「自分の集合」である一族一門の子孫の「守護神の重複性も持つ神」”の思考原理から考えると、これは上記の関係式と一致する事と成ります。
「物造りの神」と「生活の神」の「祖先神-神明社」の存在意義の実現にはこの思考原理に真に一致しています。
現在に於いて各神社に於いて普通に「家内安全・氏の安全の祈願」をする習慣・感覚・概念は、次ぎの「時」に起こった習慣であった事に成ります。
「祖先神」と「皇祖神」が創造される前はその根幹は「自然神」であるのですから、特定に「氏」や「民」が「社」を構えて各地で盛んに自由に祭祀し祈願すると云う習慣ではなかった筈です。
それは「特定の場所」、「特定の人物」に依って代理的に一箇所で「鬼道」として「祈祷」されていた習慣であったのです。
依って「祖先神」-「皇祖神」として明確に確立した「仕来り」として、”広域の各所で夫々の祭祀者が「祈祷・祈願」を行う” と言う形式は自然神の限定した特定の場所に於いて行う自然神と異なり「天智天武天皇の決断」に依って起こった事に成ります。
依って、「物造りの政策」の実現は「皇祖神-祖先神-神明社」に特別に委ねた行為であった事に成ります。確かに「物造り」は前段で論じた「自然神の思考原理」からすれば自然の行為の壱物である事は否めませんが、これを発展させた政策として一つのものに確立して「祖先神-神明社」に課せた行為は自然神とは成り得ません。
大化期には自然神から学び、その自然を活用する行為を確立して、それを宗教的理念として、更には政策として、神明社の一つの存在意義として確立させたのです。
当時としては、前段で論じた宗教の位置付けから考えると、異常とも思える宗教目的であったと考えられます。それだけに、「民」は「神明社」に新鮮さを感じ崇め信頼したのです。
そしてそれを各地に建立して行ったのですから、「民」はそれまでの「自然神」の延長の「鬼道信仰」から脱却し ”新たな宗教体が誕生した”として、それを観て「弥生信仰」を見放し「鬼道信仰」へと進んだ様に、更には「神明社信仰」へと「心の切り替え」を果たさせたのです。
この意味で天智天武の政治的な政策目的は最終的には果たせたのです。
(特記 この政策実現に関わったのが日本書紀にも詳しく記載されている青木氏の始祖施基皇子であったのです。日本書紀と青木氏の論文参照)
そしてそれは次ぎの時期から起こった事に成ります。
(神明社の神官に青木氏が多い事もこの事を証明出来るのです)
「大化改新」の政策決定が成された時
「祖先神」が創造された時
「融合氏」が発祥させた時
「賜姓青木氏」が発祥した時
「皇祖神」が発祥した時
「神明社」が建立された時
「武家」が発祥した時
「侍」が発祥した時
「生活の安定」=「家内安全・氏の安全祈願」=「物造り祈願」(付加価値祈願)
天智・天武天皇の改新の政策は以上の数式が成り立つと事を基盤にしていた事に成ります。
そして、これを次ぎの数式の政策数式に創り上げた事に成ります。
「皇祖神」=「神明社」=「祖先神」=「融合氏」→「物造り祈願」(付加価値祈願)+「生活の安寧祈願」
「神明社」の祭祀の様子を観察すると、「農業」とするより「物造りを願う行為」と観られる祭祀動作が名残として沢山確認出来ます。
その一つとして農産物・海産物の「御供え」そのものに限らず、それらの加工品や酒、味噌、醤油、中には木製加工品、鉄金属製加工品、等の地域の殖産物のお供えと祈願行為はこの名残から起こったものである事が判ります。付加価値品の表現なのです。
(「祈祷」と云う言語はこの「鬼道」の言語の変化では無いかと考えられています)
この様に「神明社」に於いては「自然神の祈願」のみならず大化期の政策の「物造り祈願」」(付加価値祈願)の反映が大きく確認出来るのです。
勿論、「生活の安寧祈願」も御利益の一つであります。
この時以来、5代の天皇の第6位皇子と19人の第4世族皇子は臣下して主要地の守護王と成り、そこにこの「皇祖神」の支社と祖先神の神明社を守護地に建立しました。これが各地に広まる原因となり、支社から更に各地に分社が広まりました。
この「皇祖神」の支社の「神明神社」、又は「神明社」が奈良期と平安期に於いて先ず何処に「分霊」されたのかを記します。(前段で論じた)
これ等はある一定の「括り」がありその内容からまず記述します。
これはなかなか面倒な研究で、規模から観てざっと拾い出してまとめると1万5000位あり、中には祠や併社などがあり、時代性から観てもその殆どが1500年代以後のものが多く所謂「お伊勢参り」の流行から広まったものです。
皇祖神の神明社の「神明信仰」の広まりを観察すると、次ぎの3つに分けられます。
奈良期
先ず第1期は、上記した19人の第4世族の守護地に伊勢神宮の分霊を近畿圏に朝廷は行った時期の奈良期。
平安期
次ぎに第2期は、日本全国を統一した征夷大将軍と鎮守府将軍と太宰大監が東北、九州に掛けて日本全国を統一し其処に民衆の信仰の対象を神明信仰に求めた時期の平安期
この二つの時期(奈良期と平安期)には合わせて他に近畿では「熊野信仰」、北九州では「阿蘇信仰」、「宗像信仰」、宇佐信仰、中国では「出雲信仰」、「厳島信仰」、関西では住吉信仰、広田信仰等も最も盛んに成ったのです。
この「皇祖神の伊勢神宮」と「祖先神の神明社」がありながらそれをそっちのけで、近畿に起こった天皇等が毎年通い続けた「蟻の熊野詣」と称される「熊野信仰」が起こります。
それも熊野神社の身内の勢力争いが原因して衰退し(1180前頃:原因は平家衰退)、結局は元の「お伊勢詣」での「神明信仰」が再び蘇り始めたのです。
次ぎにその蘇りの流行を示す第3期の時期が始まったのです。
室町期、江戸期、明治期
その第3期は時期は更に室町期、江戸期、明治期で分けられます。
最も広く広まった時期は「お伊勢参り」の流行から江戸期で、次ぎは室町文化の反映として室町期、そして、廃仏毀釈の影響を受けての明治期と成る様です。
ところが、この内、「祠関係」の規模の小さいものや「併社関係」を除くと5000以下位に成ります。この5000の「神明社又は神明神社」の内、次ぎの様に成ります。
室町期が2割
江戸期が7割
明治期が1割
程度に分けられます。
当然にこの中から鎌倉期、平安期のものを拾い出そうとするのですが、多くはその由来と創建期が明確にしていないのです。恐らくは、より古の頃からある様に見せかけ権威付ける目的から問いあせても明確にしないのです。
しかし、そこで判らないものに付いては何らかの判別方式を確立する為に調査すると、ある程度の確立で
「鳥居の形式」(A)や「本殿の建物形式」(神明造、大社造、住吉造)(B-1)から判別して観る事が出来るのです。
建物は「延喜式」(B-2)であるか、その「配置形式」の違い(C)や、又、鳥居の形式は「神使」を象ったものですので初期の頃から時代毎に変化しています。この特質を読み取ります。
その建物は主にこの「3つが目的の変化」と「時代の変化」によりデザイン化しているのです。
この3つから判別する事が出来ます。
さて、そうなると、青木氏との関係から時代性では奈良期と平安期のものが意味を持ちます。
上記の「3つの要素」(A、B、C)で調査すると、全国各地の「神明社、又は神明神社」は50程度に絞られてきます。多少のエラーを持つ可能性がありますがほぼ確定します。
この殆どは歴史的に観て、「賜姓青木氏」と「皇族青木氏」と「藤原秀郷流青木氏」の二つに関係する地域又は国に当て嵌まる傾向を持っています。中には青木氏と政治的史実が存在する地域にも観られます。
この青木氏とのある傾向関係が把握できれば良いのでこの範囲で進めました。
これに依って伊勢青木氏を始めとして全青木氏の守護目的の伊勢神宮との繋がり関係がどのように各地に及んでいたかを網羅する事が出来ます。前記した予備知識を基に其の背景を描きながらお読みください。
当然、下記に示す主となる19地域の第4世族皇子王の守護地を含んでの事です。
残り主要な30/80程度が藤原秀郷流青木氏との関係する地域や国に存在します。
中にはある筈の「社や杜」が無いというところも観られますが、恐らく、室町期の下克上、戦国時代、江戸期の一揆や明治期の廃仏毀釈の騒動や第2次大戦で消失したものと考えられます。
この傾向は上記の原因から主に現在の都会に位置する社や杜が存在する森全体が消失したと見られます。
特に、中でも、現在呼ばれている社や杜名は「神明社」とされるところが古い傾向を持っていて、平安期のものには傾向として「神明神社」と成っています。
これには明治期の廃仏毀釈などにより途中で変名している事も覗えます。
その主要な50/80程度の「神明社や神明神社」には多くは伊勢本宮の「分霊社」と成っています。
中には「支社」とするものもあります。江戸期、室町期、明治期のものについてはこの特定が困難です。
この主要な50/80の「神明社や神明神社」の地域との政治的な由来が判り、第4世族以外の皇子の神社の「若宮神社」との関係も判り、当時の神社関係の勢力関係も表す事が出来ます。
「神明社」と「若宮神社」の関係から平安期の「朝廷の政治性」が見えてきます。
そこで、先ず第4世皇子族の「神明社や神明神社」関係を記述します。
その前にそれを面白く理解する為に当時の社会慣習などを列記してみます。
「第4世皇子族の守護地と神明神社」
これらの第4世王の皇子王はそれぞれの生まれた土地の古代地名を採り名乗っています。
多くはその母親の在所を名乗る習慣がありました。
この事に依って土地の豪族(母親)の身分が判り、皇子と王の身分(順位)が確定する制度が敷かれていました。つまり、王名は「守護地」であり「古代地名」であり「身分」である事になります。
当然にそうすると皇子と王には順位があり、その順位に依って守護地は配置されます。
その順位は先ず第1世から第4世までとされています。
中大兄皇子(天智天皇)が大化の改新を実行する前までは第6世までを皇子王としていました。
改新後は天皇が代わる度に起こる第4世までを皇子王とし、第5世族の皇子王はその時の皇子数のあり様で皇子王とするか臣下して皇子王扱いから外れる仕組みです。
古来はこの考え方が規準と成っていて、上記した様に四角四面に竹を割った様に右左に分けるという感覚は当時の社会慣習から有りませんでした。ゆったりとしていたのです。むしろ、合理的、現実的な慣習が敷かれていた事に成ります。
次にこのままでは序列が出来ませんので、その皇子王には身分の順位が決められていました。
その時の天皇に最も近い者から、先ずは「母親の身分」により決まります。身分が同じであれば生まれ来た順序に従います。
母親の身分は先ず4段階に分けられます。
妻の身分
第1位 皇后:きさき (正妻)
第2位 夫人:つま ふじん
第3位 妃:ひめ、
第4位 嬪:みめ、
第5位 妥女:うねめ (階級外の女官)
以上です。
しかし、現実はこの時代は「完璧な純血性を保持する習慣」ですので、第3親等以内の者が妻に成る事が殆どです。依って同族血縁の弊害の危険を避ける為に皇后から第3位の妻までに子供を設ける事に成っていたのです。
しかし、産まれては仕方がないのでトップに定められますが、この当時は極めて乳児や子供の死亡率が高かった事から、又、血族結婚であり元々問題が多いので育たないと言う事が起こります。
育っても殆ど役に立たない子供と成りますので扱いを敢えて皇子としないか僧侶にした様です。
そこで、優秀で良い子孫を遺す為に、序列外の無血縁の「女官」を選んだのです。
この「女官」と云っても全国の土豪の娘を「人質」に取ります。しかし、この「人質」も殆ど人質ではなく「女官奴隷」としての扱いです。
これは4段階の妻の身分制度が厳然としていた為に宮廷の女人社会の掟から起こっていのたものなのです。
そして、その「女官」もその土豪の身分の序列に従います。子供を産みますと「妥女」と呼ばれる様に成ります。従って、産まれた皇子や皇女には必然的に序列の決定的な身分が定まります。
これにより、天智天武期に定められた皇位継承制度により4世族内で皇子は第1位から第6位までと定めます。
そして後の第7位からの皇子は賜姓などの特別の扱いを受けません。第4位までを皇位継承権を保持しますが、その時の皇子数により第6位も皇位継承権を保持する場合があります。
依って、第6位皇子は皇子数が足りている場合は賜姓を受けて臣下して天皇の護衛団の家柄に入ります。基本的にこの第6位皇子は第4世族までとします。
例えば、青木氏がこれに当ります。光仁天皇は第6位皇子の施基皇子の長男でしたが、当時女性天皇であった事から男子皇子が居なかった事から急遽、最も順位の高い賜姓伊勢青木氏の施基皇子の2世が光仁天皇に成りました。
特例として、第7位皇子の川島皇子も賜姓を受けて近江の佐々木の地名から取って佐々木氏を受けました。(近江佐々木氏も青木氏を研究している)
その4世族の皇子王は次ぎの地域・天領地・主要地の王と成り、此処に「神明社」を先ず建立し「神明信仰」の布教に務めました。
平安時代の国66の国の区割りとは守護地と異なる。
伊勢王(三重県 松阪市 国府)、
近江王(滋賀県 国府)、
甲斐王(山梨県 国府)、
山部王(滋賀県 草津-東近江-守山地方)、
石川王(石川県-福井県 加賀-能登地方)、
高坂王(長野県 更級地方)、
雅狭王(滋賀県 近江-若狭地方)、
美濃王(岐阜県 国府)、
栗隅王(京都府・宇治市 山城国-久世郡地方)、
三野王(長野県 国府 信濃)、
武家王(京都府・但馬国 若狭側地方)、
広瀬王(岐阜県 大垣市地方 国分 国分寺)、
竹田王(大阪府-京都府 竹田地方)、
桑田王(愛知県 豊田市地方)、
春日王(福岡県 春日市地方)、
難波王(大阪府 摂津地方)、
宮処王(奈良県 桜井市 金屋地方 つばいち)、
泊瀬王(奈良県 桜井市-朝倉地方 長谷寺)、
弥努王(愛知県 尾張-信濃側地方)
(三野と美濃と弥努は他の書籍では混同している)
以上19人/66国
これ等の地に神明神社が建立され民の安寧と信仰の基としました。
信仰の伝達手段が無いこの奈良平安期には、朝廷は政策としてこの地から「神明信仰」を広げるために先ず支社を建てたのです。そして、普及を図りました。
そして、この伊勢松阪の天領地を神明神社の大社として重きを置くために天智天皇の皇子の施基皇子を第1位の守護王として配置させました。
この時には皇位継承制度の見直しで第4世王までを皇子とし守護王とすると定めました。
この第4世王までの内、第6位皇子以降は臣下させて賜姓し、各主要地の天領地の守護王とする事を定めたのです。この第6位皇子が5人の天皇から青木氏の賜姓を受けて配置されました。
(伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5天領地)
天武天皇時には14の皇子の中の兄天智天皇の皇子の第6位皇子の施基皇子が守護王となり、この神明の皇祖神の伊勢神宮を護る役目を与えられましたが、それまでは、一代限りで中大兄皇子の政敵で叔父の孝徳天皇の子供が伊勢王と成っていました。
孝徳天皇の失脚と伊勢王の子供2人の突然の病死(政争)で天智天皇の施基皇子が勤める事に成りました。
この施基皇子は大変有能で天武天皇の相談役として働き草壁皇子の皇太子よりも2つも上位の身分となり多くの大化改新の改革に取り組みました。
(日本書紀にも最も多く出て来る人物でした。日本書紀と青木氏のレポト参照)
このために国司を送り「三宅連岩床」がこれを務めました。
この神明は「農耕儀礼」の神として信仰されました。
後に後漢の渡来人の帰化人阿多倍王らの子孫らの働きで各地(上記5国)で開墾に携わり著しく進み、この農耕の神明が伊勢神宮から各地に支社を作る事になりました。
上記19の守護王の国にも皇祖神の神明神社が建立されました。
これが全国各地にある神明神社の元と成ったものです。
現在は、約5000から小さいものを入れると15000もあるとされています。
この「神明信仰」にも後漢帰化人の阿多倍等の200万人の集団が次の「観音信仰」の伝導にも関わっているのです。
この神明神社の特長は、「神使」として「鶏」が定められましたが、この経緯から鶏の形に似せた鳥居があるのが特長です。そして、そこには地名として「鳥居」と云う地名が多く起こりました。
この神明神社の主要神社の地には皇族賜姓青木氏や藤原秀郷流青木氏や嵯峨期の詔による皇族青木氏が存在します。これは皇族守護神である為に守護王が支社を移設した事から始まっているのです。
平安時代は伊勢神宮の「神明信仰」が始まり、後半では熊野神社の「熊野信仰」へと信仰対象は移って行きました。どちらも同じ時期に建立されているのです。(熊野三山信仰から見るとやや熊野神社の方が早い)
天皇自らが伊勢神宮から熊野神社へと信仰の対象を変えて行く程の経緯が起こりました。
後に鎌倉、室町時代を通じて「五穀豊穣」を願って多く建立されたものなのです。
「神明信仰」は「鶏」が「神使」で「五穀豊穣」の信仰対象、熊野神社は「やたからす」を「神使」とし「人の癒し」を信仰対象と成っていました。
伊勢青木氏が主となり5家5流青木氏の護る伊勢神宮はこの神明神社の総本社です。
この伊勢神宮は朝廷より「不入不倫の権」が与えられて以後、神明神社はもちろんのこと、「観音信仰」の仏教寺院も打ち壊した織田信長に侵入されるまで護られました。
その信長の徹底した「既成勢力の排除」で「観音信仰」の総本山の比叡山は焼き討ちされ、もう少しで「神明信仰」の総本山の伊勢神宮も焼き討ちに合うところ、信長はその戦いの基点とする処の「丸山城の建設」を行います。
「皇祖神の神明の地」のこれを守る為に伊勢青木氏、伊賀氏、北畠氏の3氏等が信長に挑みます。
「伊勢青木氏」は「2足の草鞋策」の経済力と伊勢シンジケートを背景に戦います。
そして、次男信雄を差し向けて全力をあげての戦いでしたが、信長の戦跡で只一つの有名な敗戦をします。この後、再び戦が始まりますが本能寺の変で信長は落命します。これで伊勢神宮は助かります。
この後、秀吉に命じられた藤原秀郷一門の蒲生氏郷(伊勢の特別賜姓族の遠戚)は伊勢神宮と守護氏の伊勢青木氏を護り保護しました。その後、徳川氏に成って元に戻りました。
家康はこの「農耕の神」として「神明神社」を奨励します。
そして、伊勢神宮を保護し、伊勢松阪を紀州徳川氏の飛び地領とし伊勢青木氏を保護します。
それと同時に、青木氏の菩提の浄土宗の督励令をわざわざ出して保護します。
そのために「神明神社」が各地に建てられ、下記に述べる「観音信仰」や「阿弥陀信仰」の著しい発展が起こりました。
平安時代の「熊野信仰」の「蟻の熊野詣」から、再び江戸に入り「神明信仰」の「お伊勢参り」へと移って行ったのです。
以上が「祖先神-神明社」関係の補足の概容です。
次ぎは「祖先神-神明社」を論ずる上で見逃してはならない重要な事柄が幾つか存在します。
これらに付いては充分に研究して関する事柄がクローズアップ出来ておりません。これからの研究課題ですが、判ってきている事柄に付いて論じます。
「古代密教との関係」
次ぎは「観音堂」です。つまり仏教との関係のとりわけ「観音信仰」との関係に付いてです。
618年頃に後漢が滅びその時から後漢の人たちは渡来人として帰化人としてきました。
その第1陣に渡来した鞍造部の首魁の「司馬達等」(司馬氏の始祖)により私伝導された仏教が広まり、その後漢の配下の者達はその信仰の対象として釈迦観音像を彫りこれを祀りました。
これが始まりです。
その後、この後漢の帰化人を率いて来た後漢光武帝より21代の末帝の献帝の子供の阿智使王とその孫の阿多倍王がこれらの渡来人をまとめ日本66国中関西以西32国を無戦の状態で制圧し配下にしました。
この首魁の阿多倍王は南九州の大隈地方に住み着きました。帰化後朝廷よりこの大隈地方を薩摩国を半割譲して正式に与えられました。
更に朝廷から呼び出されその200万人の集団を率いる阿多倍に対して伊勢の北部伊賀地方をも半割譲して与えられました。
この時、阿多倍王は敏達天皇の孫の芽淳王の末孫の娘を娶り准大臣に任じられました。
そして、3人の子供を生みましたが、長男は阿多倍王が後漢から率いてきた軍を元に朝廷軍を任されて坂上氏を賜姓され、初代の征夷大将軍となり日本全土を制圧させました。
次男は後漢から引き連れてきた事務官僚集団を元に朝廷の財務を任されたのです。
そして賜姓を受けて大蔵氏を名乗りました。
三男は天皇家の財務を任され内蔵氏の賜姓を受けました。
このころの政治体制は3蔵と云い、朝廷の祭祀一切を執り行う「斎蔵」(藤原氏)と「大蔵」と「内蔵」とで構成されていました。阿多倍子王の子孫は軍と2つの権力を握ったのです。
これ等の200万人とそれに慕う倭人とがこの仏教に信心をしていたのです。
これを祀るところに堂を作りそこに観音様の像を彫って「観音信仰」が彼等に因って始まったのです。
「神明信仰」とほぼ同時期に仏教の「観音信仰」も始まったのです。
関西以西32国以外にも上記する5天領地の開墾も行いますが、この地にも当然に「観音信仰」は広まります。そして、「観音信仰」と「神明信仰」も合わせて同時に伝導されたのです。
この”「2つの信仰」が平行して進む”と云う事は「祖先神-神明社」にとって”どの様な影響を与えたのか”と云う疑問が湧きます。
そして、その「観音信仰」は青木氏に大きく関わる「古代密教の浄土宗」と発展して行くのです。前段で論じた様に「古代密教の浄土宗」の最初の信者の氏は「青木氏」といっても良い程のものです。
奈良期の仏師で仏教伝導の祖の子孫でもある「鞍造り部止利」の作である「生仏像様」を戴く立場にあった訳ですから「仏教の正式な最初の信者氏」であると云っても過言ではない筈です。
一方では「神明信仰の担い手」、他方では「観音信仰の担い手」と云う立場にあった事に成ります。
両方の担い手であった事は無関係ではなかった筈で大きく相互関係を保持していた事が云えます。
「神明信仰の担い手」+「観音信仰の担い手」=「2つの青木氏」
この「2つの青木氏」が担う「観音信仰」は「古代密教」であるが為に「祖先神-神明社」の様な全国的な建立とまでは行かなかった筈で、「古代密教の浄土宗の分布」が前段で論じた様な「祖先神-神明社」分布には至っていないのです。「2つの青木氏」の主要定住地に分布が限定しているのです。
この事から観ると、「祖先神-神明社」に対する関わり具合は相当とまでは行かなかった筈です。
前段で論じた様な国策としての貢献度としては「祖先神-神明社」程ではなかった事を物語ります。
「古代密教の浄土宗」が庶民の所までは至っていない宗教であったからだと考えられます。
後には3大古代密教の宗教戦争が起こり、鎌倉期には日蓮宗を始めとする他宗から著しい攻撃を受けた事等があり「祖先神-神明社」の貢献度に大きく寄与したとは云い難がたい処があります。
まして、これが、奈良時代の大化の改新の前の物部氏の「神明信仰」と蘇我氏の「観音信仰」とで国の信仰対象をどうするかで争いを起こしたのですから暫くは冷却期間があったと考えられます。
(聖徳太子の時-天智天皇)
結局、蘇我氏の「観音信仰」が勝ち、その「観音信仰」の人々を背景につけて勢力を伸ばしたのが蘇我氏なのですが、その後この事を苦々しく思っていた中大兄皇子は蘇我氏を打ち倒して歴史ある「神明信仰」を再び呼び起こして、伊勢にその拠点を作りそれを「皇祖神」として定めたのです。
しかし、「観音信仰」も朝廷は取り入れ、且つ、「神仏融合の策」をも取り入れて共に発展させ様としたのです。
これも農耕民族の所以です。従って、朝廷は「神明信仰」は「皇祖神」としながらも「農耕の神」としても位置付けて融合を図ったのです。
物部氏(高句麗)、蘇我氏(百済)はともに450年代の初期の帰化人で勢力争いをしていました。
(飛鳥時代の大和政権の主要5族 紀氏、巨勢氏、葛城氏、平群氏、物部氏 物部氏は兵の集団)
実は「観音信仰」の仏教をもたらした阿多倍王に付いてこれがもう一つの毘沙門天の解説に繋がるのです。
この像を最初に彫った後漢の帰化人「司馬達等」の孫の「鞍造部止利」が飛鳥時代の殆どの観音様の像などを彫ったのです。実は伊勢青木氏の賜姓時に天智天皇から与えられた現有する護本尊の「大日如来坐像」はこの「鞍造部止利」の作です。
恐らくは、朝廷と後漢の帰化人200万人とそれを慕う大和人の何百万という人を心の救いとしてこの{観音信仰]をも国家安寧の為に推し進めたのではないかと見られます。
それを観音仏像を彫る事の出来る「鞍造部]の首魁の「司馬氏」に委ねたと見られます。
多分、「司馬達等」(歴史作家の司馬遼太郎氏の始祖)なる人物はそれを成すその様な大きな人物であったのでしょう。
そして、後に遂にこの阿多倍王の末裔9代目に「観音信仰」の神として神格化されるほどの大人物が生まれるのです。
「観音信仰」の観音菩薩を祭祀する礼堂として、奈良時代から平安時代にかけて「六堂伽藍方式」として中央本堂に安置される仏像です。この本堂を護る神として毘沙門天などを祀る四天王の堂があるのです。
「六堂伽藍方式」には飛鳥寺方式、四天王寺方式、法隆寺方式、東大寺方式があります。
観音堂を祀る本堂と左右に金堂、中央に観音様の骨を安置する舎利塔が配置され、後ろには毘沙門天などを祭り配置する方式で、中には四天王全てではなく毘沙門天だけを祭る堂が配置される形式もあります。
次ぎはその毘沙門天です。
「毘沙門天」は「多聞天」ともいいますが、四天王の一つで、後には「増長天」、「持国天」、「高目天」があります。東大寺や興福寺にはこの四天王が祭られています。
毘沙門天、つまり、多聞天は吉祥天の夫とされています。
多聞天は財宝、福徳の神でもあります。七福神の中の一人でもあります。
伽藍最前線には南大門を配置し「仁王様」が守護神として祭祀されて祭られます。方式により中門があります。中央塔の左右には東西の金堂が配置されます。そして、南大門より最も後ろの北側の中央に位置する講堂が配置されます。
所謂、「六堂伽藍方式」です。
菩薩様、如来様、天神様を左からの順序で格がつけられてこれを「3神格」と云います。
そこで、上記したこの四天王の仏像のモデルになった大人物が居るのです。
それは、阿多倍王の次男の末裔の9代目の「大蔵種材」と云う人物です。
この者は朝廷の官僚として働き、九州全土の治世自治1018を任されます。
朝廷より始めて「錦の御旗」を与えられた人物で以来正式にこの御旗を与えられた人物はいません。個人に与えられたのです。
阿多倍王が征圧した九州全土の政治軍事経済の3権の一切を任された人物です。
「遠の朝廷」と呼ばれていました。
官僚でありながら、日本一の武勇を持ち、平安時代当時、中国、朝鮮半島から九州に武力を使っての侵略、略奪やボートピープルが頻発しましたが全てを完全に制圧した実績を持っています。
日本の彼等が成した豊かさの為に避難民が津波の様に押し寄せたのですが、彼と朝廷は治安の維持のために最早帰化を許さなかったのです。
又経済でも、阿多倍らが引き連れてきた200万人に及ぶ技能集団をよく統率し、その技能を九州全土や関西以西の中国地方にも拡げて経済は著しく良くした事でも有名な政治家の人物です。仁王像のモデルと成った人物です。
現在の第1次産業の殆どはこの後漢の技能集団の帰化人の末裔で発展したのです。
ですから九州には瀬戸物や製鉄などの一時産業が多いのです。
経済も含めて貧困から大富をもたらした万能人で、当時は平安の「万能の神」とも崇められた人物です。
この神格化して当てたのが毘沙門天なのです。
実際の毘沙門天等の姿のモデルにも成っているのです。
この彼は平安の日本一豪傑でありその代名詞に成っている大蔵氏の末裔です。後にこの人物は余りに資質剛健であったので神を護る者として神格化されたのです。
毘沙門天はこの「大蔵種材」の勇士姿を後に崇めたのです。
恐らくは、妻の吉祥天は大蔵種材の妻をその功を証し崇めたのではないかと思われます。
その為に、鎌倉時代から室町時代にかけてこの毘沙門天を「侍の鏡」として崇められ、「毘沙門天信仰」が武門の間で起こったのです。
仏教は飛鳥奈良時代からの観音菩薩の「観音信仰」から始まり、平安時代からは浄土宗の「阿弥陀如来信仰」が起こり、鎌倉時代からは「毘沙門天信仰」(四天王信仰)が時代の状況に合わせて起こります。
「観音信仰」→「阿弥陀如来信仰」→「毘沙門天信仰」(四天王信仰)
そこで、前段で論じた様に、この「3大信仰」は「祖先神-神明社」との関わりとして重要なのです。
「観音信仰」の青木氏に対して人物で血縁関係するこの「毘沙門天信仰」(四天王信仰・毘沙門天を「侍の鏡」とされた人物)の大蔵種材(9代目)の祖の後漢の渡来人・帰化人の首魁阿多倍王は伊勢伊賀地方に領国を与えられ定住していましたが、阿多倍(後に高尊王・高望王と呼ばれていた 朝廷の記録では平望王と呼ばれていた)の孫娘の「高野新笠」が光仁天皇と結婚しその子供が桓武天皇となりました。この桓武天皇の子供に平城天皇と弟の嵯峨天皇があります。
この光仁天皇は施基皇子の子供で長子で、第5位までの皇位継承者がなく第6位皇子の施基皇子の末裔が特例で天皇を継承しました。伊勢青木氏はつまり、血縁的には光仁天皇、桓武天皇、嵯峨天皇まで血縁族と成ります。
この「3大信仰」は、先ずは「観音信仰」は「初代の融合氏」であるので「初代の信者」であり、「阿弥陀如来信仰」は「古代密教の初代の信者」であり、「毘沙門天信仰」(「侍の鏡」)は「3つの発祥源・侍の祖」であるので上記「血縁関係の初祖」であり、何れも「皇祖神-祖先神-神明社」の青木氏がその根源と成っているのです。
そこで、この「毘沙門天」の祖の阿多倍王の3代目後の末裔の平の貞盛が、独立国を作るとして反乱した「平の将門乱」を藤原秀郷とともに親族の立場で鎮圧しました。(藤原秀郷は藤原秀郷流青木氏の始祖です。)
平貞盛より5代後が太政大臣平清盛です。この清盛は敏達天皇の末裔にして上記した様に桓武天皇の末裔でもあります。当然、阿多倍王の子孫とも成ります。
この事から「たいら族」は「桓武平氏」と呼ばれ、「桓武天皇」より青木氏の賜姓を中止し、皇族7世族の「ひら族」の「坂東八平氏」に似せて「たいら族」として母方の一族を賜姓したのです。その末裔が平の清盛です。
大蔵氏や内蔵氏や坂上氏や内蔵氏やそこから出た阿倍氏や安倍氏は血縁族です。
その祖先の毘沙門天のモデルと成ったのもこの一族なのです。
余計談ですが、伊賀忍者は阿多倍一族のこの末裔です。
伊勢青木氏は天正の乱の時に上記の血縁の経緯から、この伊賀人が信長から攻められた時に奈良時代からの付き合いのある彼等を救い信長と戦い勝利します。信長の只一つの敗戦です。歌舞伎にも成っています。(然し、突き詰めると、織田氏も美濃域の「たいら族」の末裔ですので同族争いとなります。反面青木氏は「過去の絆」を守った氏であったのです。)
「権威の象徴の危険」
伊勢には松阪の「神明信仰」と、隣の伊賀地方には「観音信仰」が共存し、伊勢青木氏には「神明信仰と」古代密教の「観音信仰」(平安期には青木氏は阿弥陀如来の浄土信仰)が共存していた事になります。
「毘沙門天信仰」(四天王信仰)も上記の通り「侍の祖」として「祖の立場」にあるのです。
しかしながら、皮肉にも5家5流の賜姓青木氏はこの同族の桓武天皇と隣の伊賀の「観音信仰」を推し進めた阿多倍末裔子孫に圧迫されて一時衰退します。
(「過去の絆」を守り続ける信念の持った青木氏を同族と血縁関係社が圧迫 非条理なのか)
「神明信仰」(イ)の上にこの「3大信仰」の「信者の氏の祖」(ロ)としての立場があり、「3つの発祥源」の立場(ハ)を保全していて、尚且つ、平安期前後の「3人の天皇」の「親政族」(ニ)としても極めて大きい立場(権威の象徴の立場)に成っていた事等を考え合わせると、律令国家建設の世界としては危険視されて一度政治の立場から、為政者達とは「過去の絆」があっても、どうしても「権威の象徴」を外す必要があって押さえ込まれたと考えられます。
この時期、恐らくは同じ仏教でも司馬達等による後漢伝来の古代仏教の「観音信仰」と、古代浄土密教の「阿弥陀如来信仰」が対立した事も原因と考えられます。
現に、平安時代に法然上人の浄土宗密教、弘法大師の真言宗密教、最澄上人の天台宗密教の3密教による激しい宗教論争が起こっています。
それぞれの立場と考え方と信者層が異なっていた為に、「観音菩薩信仰」、「阿弥陀如来信仰」の密教の位置づけについて論争が起こりました。恐らくはこの論争と建立競争の宗教戦争の元と成ったのはこの「神明信仰」と「3つの信仰」に関わる「青木氏の立場」が疑問視されたとも考えられます。実はその証拠が遺されているのです。
後に日蓮宗日蓮が、鎌倉幕府の北条執権の問いに対してこの「神明社」-「観音菩薩信仰」-「阿弥陀如来信仰」の「密教浄土宗の背景」(権威の象徴の有様と背景)を痛烈に批判している提出した文書が遺されているのです。
(この事が原因して外国から攻められる事を予言 この文書や発言が原因して罪と成り配流 然し予言当り許される)
この事は、平安の桓武期から「賜姓族青木氏」は押さえ込まれていたが(この「権威の象徴の姿」は政治の世界から排除されたが)宗教界では400年以上も厳然として維持していた事を物語ります。
この事は日蓮の文書からも明らかな様に上記した「権威の象徴の立場」にあった事と「庶民」(百姓:おおみたから)はこの「青木氏の権威の立場」を容認していた事を示します。非難される立場に無かった事を物語ります。言い換えれば崇められ信頼され愛され続けた氏であった事が判ります。
そして、更にこの事から同族の「桓武天皇等の青木氏への圧迫」は、明らかに「親政族」そのものの「政治的形の否定」(「親政族」≠「律令政治」)に対する「政治的立場からの圧迫」であった事を意味し、少なくとも「苦渋の選択」であった事を物語ります。
現に、桓武天皇自身がこの圧迫した青木氏に代わって「神明社建立20」も行っているのです。青木氏全体の存在を否定するのであれば天皇自ら「神明社建立」は行わなかった筈です。
又、桓武天皇の子供の嵯峨天皇は、その桓武天皇の「親政族を否定する政治の有り様」に反対し父子戦争を起す程に、この桓武天皇の朝臣族ではない皇族外の賜姓(たいら族)に対して反発して、再び第6位皇子を源氏として変名し直して「賜姓源氏」として戻したのです。これが嵯峨源氏です。
これでも上記(イ)から(ニ)までの「青木氏の権威の象徴」は否定されていなかった事を意味します。
これより花山天皇まで11代続きます。この時青木氏は皇族の者が下俗する際に使用する氏名として他の者の使用を禁じたのです。この青木氏が「皇族青木氏」です。
何よりもこの直ぐ後に円融天皇は秀郷第3子の「特別賜姓族青木氏」を発祥させている事はこの「青木氏の権威の象徴」を否定していなかった事に成ります。「否定」と云うよりは「肯定」の「あるべき姿」であったのです。「嵯峨天皇」以降は「親政政治」を3回にわたり採用して政治的効果を挙げたのです。
そもそも天智天武天皇の国策の「3つの発祥源」、「皇祖神-祖先神-神明社」、「(イ)-(ニ)の関係」から「政治の根幹に関わる役目柄」を実行している青木氏に対して政治的に排除する事が論理的に異常であり、その行為は自らの政治を根幹部分で否定している事に成ります。
要するに”桓武天皇は青木氏を圧迫した事は政治的間違いであって、嵯峨天皇は正しかった、間違っていなかった”と考えているのです。
たとえそれが政治的なパフォマンスで「苦渋の選択」であったとしても”行うべき行為では無かった”と観ているのです。現に、民は400年以上もその「青木氏の立場と存在」を容認しているのです。
青木氏の自画自賛になるかも知れませんが、この平安期まで約200年も「過去の絆」を重んじて来たし、「3つの発祥源」を守り続けてきた氏が「親政族」だからと言って政治の場に口出しする氏であるかは判る筈です。
まして、桓武天皇の自らの実家の氏に対してです。はっきり云えば”洞察力が不足する”といいたい所です。前段の”河内源氏と違うのだ”と云いたいのです。
これらの青木氏が自ら「神明信仰」と「古代密教浄土宗」を下に伝導の手段の少ない時代の各地に「神明社」と「浄土寺」を建立し「観音信仰」等をも広げ、四天王の天神様のみを信仰する事」(四天王信仰)の基にも成りそれを広げた氏なのです。(大阪にある四天王寺はこの対象です。)
「若宮神社」
次ぎは「祖先神-神明社」を論ずる際に軽視してはならない重要な事柄です。
それが若宮神社との関係です。
祖先神の神明社、八幡社、そして若宮神社は「祖先神の3大神社」なのです。
次ぎに「第4世族の皇族」の守護神としたと云われているのがこの「若宮神社」です。
「祖先神-神明社」とは実はその関係に於いて重要ですが研究は余り進んでいません。
これはこれに関係する氏や人が少ない所に原因がありますが、ただ「2つの青木氏」にとっては「祖先神-神明社」に関するところからこれを研究する氏は青木氏と佐々木氏以外にはないと考えています。
本来は神明社と共に同じ立場での歴史的経緯を経ていなければならないのですが、史実は確定して居る訳ではなく詳しくは判っていません。
本来は八幡社と共に若宮社も神明社と同じ立場に在った筈で、八幡社は未勘氏族に因って牛耳られた事で史実が判っていますが、この若宮社は実はシンジケートを持っていた事が判っていますので、その働きとしては影の働きをしていた事が考えられます。充分にどの様な皇族としての役割であったかは不明です。又、「不明」である事が本来の姿ではなかったかとも考えられます。
(特記 室町中期以降には裏のシンジケートとして暗躍していた事が資料から判明しています。そのシンジケートは資料の経緯から観て駿河から以西京都までのルートと観られ、東海道線上の神社ルートかと観られます。駿河は皇子王の皇族関係者の配流先であり、秀郷一門の本領域でもあり政治的な重要な地域でありますので、 ”配流者の情報を都の摂関家に送る密命を若宮神社の神官は帯びていた”と考えられる。
鎌倉期-室町中期としては下克上・戦乱の関東域の情報を朝廷に・室町幕府に送っていたとも考えられます。この隠れ蓑として存在していたのではないでしょうか。四国域は4世-5世族の「逃避先・逃げ込み先」として「都の情報」を送っていたとも考えられます。どうも神明社の様なはっきりした役目柄が観えて来ません。
一応表向きは若宮を祭祀する神社であり、本質は神官は都の吉田氏等の神官官僚が勤め情報拠点としての役目を果たしていたのではないでしょうか。下記の分布域から観て更に強く感じるのです。
熊野神社の神職の鈴木氏の様に、全国の吉田氏の分布はこの事から来ているのではないでしょうか。吉田氏の「柏の葉」と「槲の葉」の文様の家紋分析からも頷けるところです。。)
そこでその若宮神社の信頼できる建立地を網羅します。
室町中期以降も例外無くこの若宮神社は「未勘氏族」や「下克上」で伸し上った豪族等に依って「家柄誇張の道具」に使われたのです。
「若宮大社との関係」
参考
若宮神社
・岩手県 盛岡市上太田
・東京都 北区豊島、
・新潟県 三条市柳川新田 燕市雀森家生
・山梨県 山梨市上ノ割 韮崎市
・長野県 塩尻丘入道
・石川県 金沢氏若宮 羽咋郡志賀町
・静岡県 清水区蒲原 熱海市網代 賀茂郡南伊豆町青市 賀茂郡南伊豆町大流 賀茂郡南伊豆町湊
・滋賀県 草津市芦浦町 草津市岡本町 東止江市新堂
・奈良県 桜井市馬場 奈良市(摂社)
・山口県 山口市秋穂一島 大岡市豊浦町棚 防府市佐野
・徳島県 徳島市沖浜町 南佐古二番町 阿南市那賀川町手島 仲多郡琴平町
・福岡県 柳川市西浜武 糟屋郡新宮町 糸島郡志摩町
・大分県 大分市木上
・宮崎県 宮崎市青島
・愛知県 北名古屋市
・岐阜県 飛騨市
・愛媛県 西予市明浜町高山 松山市河野別府 南宇和郡愛南町増田 南宇和郡愛南町手婆 須ノ川 西条市 今治市
・長崎県 佐世保市竹辺町
・京都府 綾部市上野町藤山
・神奈川県 川崎市川崎区大師
・和歌山県 田辺市湊 伊都郡葛城町
・鹿児島県 鹿児島市
(以上21県は室町期中期以前の若宮神社と観られる資料)
一部調査した上記の若宮神社の事ですが、実は神明系の神社として各地に多いのです。
特に有名な「若宮」とする高知土佐の神明系の神社にはどの様な由来があるのでしょうか、何かあるから天皇家・朝廷と直接に由来する殆どの県にもあるのです。
若宮神社は「皇族系の神社」として「八幡社」と共に青木氏に関わりが有るとして少し研究した事がありますので、(その位置付けや由来やその土地にある理由など大体把握しているのですが)、「若宮」は皇子或いは皇族の子供の神社と成っている事は先ず間違いないところです。
とすると、ここで問題が生まれます。
それは「嵯峨期の詔勅」から皇族の者が下族する場合は青木氏を名乗ると云う仕来りから青木氏を名乗っている筈です。所謂、「皇族青木氏」ですがところが上記の場所から神社やその神社に関わった関係者に青木氏は全くないのです。これはどの様な意味を持つのでしょうか。
矢張り、この神明系の由来に関わる神社となるのでしょうが、しかし神明社の様にどれほどに関わっていたかはこの様に不明なのです。
「青木氏-神明社」の関わりから調べたところでは、この「若宮」の若宮神社は讃岐には特別に多い所で調べた範囲では6つの神社があります。祠まで入れると10以上はあるのではないでしょうか。(何故祠が多いのか不明 意味があると考えられる。)讃岐に続き徳島と静岡がこれに続きます。
この事は「剣片喰族」と「州浜紋」の藤原秀郷一門の勢力の最も強かった地域ですので何かかかわりがあると観られます。
これは愛媛・讃岐は全国に比べて段突です。しかし、神明神社は皇族信濃青木氏とその支流の信濃足利氏系青木氏の末裔が讃岐の青木氏に保護されて逃げ込んだ国の土佐だけにありますが、讃岐には特記するべきほど(1)には有りません。
とすると、讃岐には天皇家の「皇祖神-祖先神」の「神明神社」が不思議なくらいに少ないだけに、これは、「讃岐籐氏」の藤原氏と天皇家との繋がりが強く、血縁に依って藤原北家系の皇子皇女が多い所から、とりわけこの若宮を祀ることの強い習慣があった事を物語るものではないかと思います。
藤原北家筋の秀郷一門としては前段でも論じた様に讃岐青木氏は特別な発展を遂げますが、この背景を独自に持っていたからであると観ています。
つまり、讃岐は「讃岐青木氏の神明社」より「讃岐籐氏の若宮社」の意向から地元讃岐は「神明社<若宮社の関係」が強かった事を示していると考えられます。
歴史的に見て四国は、政変にて多くの皇族系の皇子筋が頻繁に逃げ込んだ歴史史実がある事を考えると、「讃岐籐氏」との何らかの強い関わりがあると観られます。
当然、若宮の皇子と神社には藤原北家筋、平家筋、11代の源氏筋、少ないが橘氏筋等の4つの種類がありますので、中でも讃岐籐氏派がより祭祀したと見られます。
もし、あるとすると、その証拠として、「二条院門跡」の子供等の祭る神社とも成ります。それが「二条院讃岐氏」とどう繋がるのか大いに興味が沸きます。もしかすると、「二条院」との間に出来た若宮を祭祀する神社かとも観られますのでそうすると更に讃岐と繋がります。
現在、推測の域を越えませんが、神明神社の「皇祖神-祖先神」は天皇第4世族皇子までの守護神として扱われ、第5世以降の元皇子には、若宮(皇族関係者や還俗僧)としての守護神の神社としたのではないでしょうか。(多くは比叡山門跡院に入るが還俗した場合は若宮として四国域に入ったと観られる。)
この様に考えると間尺が合います。配置されている土地柄を見ますと納得出来ます。確定する記録を探しています。
(ただ江戸期以降の若宮神社とその祠はの2種は除く 「祠は」ダミーでは無いかと考えられる。)
ただ、多くは本来の役目柄と異なり変質して「厄除けの神」として江戸時代に創建されたものが多く、創建と云う域まで達しない小さい祠の様なもの2種を除きますと、この推測に成るのではと研究しています。
ただ若宮神社には「祠」が多いと云う事には問題がありますが、これはそ「の建造能力」と「維持する能力」とそれを支える「子孫力」とが無かった事から「祠の利用」と成ったとも考えられますが、判り次第レポートします。
現在のところ、この2種を除いて観ると、「第4世族までの皇祖神の神明社の分布」と、「第5世族の皇族系の皇子族の若宮神社の分布」の2つは、平安-鎌倉期までのものとしては重複しているところは見当たりません。
この事は、天智天皇は第6-7世までを皇子としていたのを大化改新で逸早く実行したのは財政難から皇族と皇位継承問題のこの改革から来ているものと考えます。
その改革では第7世族(6世族もある)は主に坂東を守護する臣下として配置しました。
第4世族では各地に配置するだけの人数が足りませんので、そこで6世族までを天皇が代わる度に出て来る皇族の処置として、「若宮」としての言葉で括り各地に配置して、そこに「皇祖神-祖先神」の「神明神社」に代る皇族の第5世族皇子の「若宮」の「若宮神社」としたのではないでしょうか。
それが何時からかは判りませんが、天智天武の伊勢神社創建からそう遠くは無いのではと推測します。
「人、時、場所」について文献などを調べましたが明確にしているものは有りませんので青木氏で関係する部分については更に研究します。
全国殆どの県に2社から3社あり、恐らくは小さい祠も含めて100程度ある様に思います。
現在調べただけでも70近くありますが、平安期からのものとすると20-30程度内に絞り込めるのではと考えています。
検証の結果は上記の分布表の21県から観ると、多い順では静岡>愛媛>徳島>滋賀>山口>福岡>石川の7県と成りますが、滋賀の都を除いてこの6県は明らかに平安期から室町末期にかけて歴史的な史実から考察すると皇族4世族の逃亡先所縁の地と成っています。
広域で観ると、
地域 県数-社数 社/県
九州 5-7 1.4
中国 1-3 3
四国 2-11 5.5
関西 3-8 2.6
中部 5-7 1.4
関東 3-8 2.6
東北北陸 2-3 1.5
の21県と成ります。21県-47社と成ります。
この県-社数のパラメータからすると次のように成ります。
A 関東-中部-都へのラインが出来ている事
B 四国と中国は上記の逃亡先で明確な本命地である事
C 九州は大宰府自治と朝廷の影響地である事
D 関西は朝廷-荘園制の未勘氏族の社である事
E 東北北陸は秀郷一門の勢力地-朝廷の関係地である事
この5つのパターンに明確に判別できます。
この5つパターンから上記で論じた様な若宮社の活動が証明できます。
この事から”「祖先神-神明社」との関係は希薄であった”と考えられます。
表向きは別にして矢張り諜報機関の役目があったと考えられ、且つ皇族の者が政変等に逃げ込む為の朝廷の機関神社であったと考えられます。これが激しい戦乱になる前の室町中期までの役目であったと考えられます。その後は「厄よけの神」に生き延びる為に変わったと考えられます。
以上、神明社に関係すると考えられる若宮神社に付いて雑学として参考に記述しました。
参考 全国各地の熊野神社の神紋は次ぎの様に成っています。
神紋 烏紋(からす)
(神使 三本足のやたがらす紋も使用)
神明大社と若宮神社と関係しているのは熊野大社である。
熊野三山の名で祭祀している神社全国各地に存在する。
必ずしも熊野三山の系列であるとは限らず、三社形式、単独形式、勧誘形式、併社形式、別社形式等で存在するが、正式系列の確認はなかなか困難である。
依って、以下の神社以外にも御霊移しなどの簡易な方法で存在する事が多くあると観られる。
それぞれの歴史的な根拠をそれなりに持ち合わせているが、全に於いて確認は取りきれない。
それは熊野三山社との関わり以外に修験道の修験者の開山とも関わっているものも多い。
夫々の神社の歴史的な関係を調べたが、不思議な一点が浮かび上がる。
それは藤原秀郷流青木氏が定住していたところ全てである。
東京は埼玉入間を中心として神奈川横浜を半径とする処に定住してたが、その範囲にある神社であるが、他も岩手から福島、宮城、青森、千葉、埼玉、神奈川、静岡、愛知、岡山、広島、高知、山口、島根は勿論の事、この全ての県でも云える事である。
京都は天皇家との関係からのものであろう。
鹿児島は日向青木氏のところであるので何か事情が存在する。
不思議である。現在研究中である。
ただ、皇族賜姓青木氏の5家5流の土地には無いのである。
皇祖神-祖先神の神明神社との関わりからであろうか。
「神明神社」と「熊野神社」との関係は「青木ルーツ掲示板」の「函館の青木さん」のご質問でお答えした内容を参考にしてください。
これ等の主要地に初期の段階の基点となる神明神社が建立されました。
矢張りこの地域には正当な系列熊野神社は存在しない。
この2つの歴史ある神社と藤原氏の守護神の「春日神社」との三つ巴の宗教的な勢力争いが大いに絡んでいると観ていてそれを研究している。当然に熊野神社の無い所には「宗像神社」、「出雲大社」が存在するなどの傾向も確認出来る。
「承久の乱」、「治承、平治、保元の乱」等も絡んでいる。義経が平家に追われて弁慶の実家の熊野の日高氏を頼りに熊野神社に出向くが庇護を断わられた。これはこの勢力関係に影響している事は判っている。この乱で賜姓青木氏を始め、賜姓源氏、藤原秀郷北家一門等が平家に押されて衰退する中でこの3氏はスクラムを組んだ。そこで同じく衰退している熊野一門はこの3氏に合力をしたのではないか。
その証拠に一番後の「承久の乱」の時に平家側(田辺別当派)と反平家側(新宮別当派)とに分かれて「熊野動乱」が起こる。最終、田辺別当派が引き下がり反平家派が主導権を握る。
これが伊勢青木氏と藤原秀郷一門青木氏に関わる源氏頼政が首謀する以仁王の乱に繋がる。
「熊野神社」はこの「承久の乱」で後鳥羽上皇に味方した為に衰退するのであるから、5大神社と平安期と鎌倉期の乱との関わりからかこの熊野神社の分布は何かを物語っていて面白い。
勢力保持のために採った秀郷一門の「第2の宗家」と呼ばれる勢力地に熊野神社建立を計画実行したのではないだろうか。
或いは、江戸幕府の奨励もあり江戸期の「お伊勢参り」で熊野神社は押されて建て直しのために昔の藤原氏との親交から各地に熊野神社普及を面倒な正式な系列方式としないやり方で試みた事かもしれない。研究している。)
これ等の神社には神紋と言う紋があります。これ等の神職は相互に血縁関係を結び互いに一族化を図り神社、寺社の結束を図っていたのです。
神明社は氏神として多くは賜姓青木氏や賜姓佐々木氏、藤原秀郷流青木氏が神職を務めました。
若宮神社関係は藤原北家一族が神職を務め、藤原氏の春日大社の氏神とを護っていたのです。
結論から元は柏ではなく、槲(かしわ)の葉で蔓が付いていました。
槲は関西地方に生息する茨の一種で丸いハート形をして大きさは人間の掌程度の大きさです。関西では「かしわの葉」と云えばこの葉の事を云います。この槲葉には蔓紋と同じ形の蔓があります。
この葉は神様や仏壇等に食べる物を備える時にはこの葉の上に置いて供える習慣があります。
この神事の名残として、5月の子供の日等にはこの2枚の葉で「あんこ」の入った柔らかい団子餅を挟んで蒸して供えたものを食べる習慣があります。
まだ関西の高級料亭等ではこの神事の習慣が残っていて、会席料理の食べ物の下に敷く食器代わりのものとして使われて遺されています。最近都市化で少なくなりましたので苦労している様です。
この葉の事を「さるいばら」方言で(さるびたち)と云っていましたが少なくなった事で忘れられてしまいました。関西(平安の習慣が遺されている主に紀州奈良伊勢)ではこの葉を使う習慣が多く遺されていて、柿の葉、からす瓜の葉、紫陽花の葉、あけびの葉などまだまだ沢山あります。
従って、蔓の付いた槲なのです。しかし、鎌倉時代頃からは関東にないこの槲葉は関東に生息する柏の木の葉に成っていたのです。そして、家紋も「柏の葉」に変わっていったのです。
槲の紋は平安の時代から丸く書かれ、柏は鎌倉の時代から細く書かれているのはこの結果から来ているのです。太紋はこの紋に成ります。この例として熱田神宮の傍系末裔の山内一豊の家紋は三つ柏の細紋です。
「柏の葉」と「槲の葉」
上記の習慣から太古の世には朝廷の食事を用意する夫を「膳夫」(かしわで)と云いました。
この事から神事に御供えするものにこの「槲の葉」を使われたことから、槲の柏を「杜の神」として神聖視されたのです。
以後、朝廷の伝統として神事にはこの葉を使用された事から、神職の家がこの槲と柏の葉を紋様化して家紋としたのです。
「柏の葉」と「槲の葉」は「神紋」というよりは「神官職紋」と成ったのです。
その由来は古来、神社は旅する人にとって無くてはならない旅の基点の役目と何かの非難の場所とも成っていました。その時、古来の旅の習慣として食事の皿の役目とおにぎりを包む包装紙の役目を持っていました。
特にその手助けをする神社では宿も別の棟を作り簡易宿の提供もしていたのです。これを「・・王子」と呼びましたが、この王子では泊めるだけで手弁当か自炊でした。その為に近隣の氏子の家からおにぎりを造ってもらってこの「柏の葉」と「槲の葉」に包んでもらっていたのです。
その経緯から何時しか「柏の葉」と「槲の葉」が神官文様と成ったのです。
現在でも地元(関西域)の老舗の料理には「柏の葉」と「槲の葉」は料理の皿としてこの名残として使用されていて、奈良期からの古い慣習が一つの形として遺されているのです。「柏の葉」と「槲の葉」は神社と切り離せない物なのです。この事は万葉集や奈良期の歌に多く詠まれています。
(参考 雑学として、銀杏の黄葉、烏瓜の黄葉、むかごの葉、笹、紫陽花の葉等が良く使われていた模様で、特に紫陽花の葉は虫も食べないほどに極めて強い殺菌作用が葉にあり、料理の皿代わりに使われていたのです。現在でも使われているのですが、実はこの葉を人が間違って食べると激しい腹痛を起す程に葉には強いシアン系の毒素を持っているのです。保存剤、冷却材、殺菌剤、冷蔵庫のない時代の知恵で旅には無くてはならないものでした。紀州では「なれ鮨」といって鯖寿司を殺菌性のあるアセ・暖竹笹で巻いて保存し発酵させて保存食にし旅の食料にしたものが現在も残っています。奈良の「柿の葉鮨」も同じです。
これ等の慣習が「姓氏」の家紋にも成っていて、この夫々草木にはこの様な歴史的な意味を持っているのです。その草木の古来の特長を調べるとその姓氏の出自が判るのです。
家紋は必ずそれを家紋とした「歴史的経緯」があるのです。それを知る事は歴史の縺れを解く秘訣なのです。それは必ず「古来の慣習」から来ているのです。この「古来の慣習雑学」を知る事が秘訣です。
草木紋には必ずその草木の古来の由来がありその家紋の根拠と成っているのです。 家紋200選の半分は草木紋です。その100の家紋群が更には江戸初期には遠戚の者等が類似家紋として10倍位に拡がっています。)
従って、神木の「榊」や「青木」(青木氏の「氏木」でもある)と並んで「柏の葉」と「槲の葉」は天皇家の皇祖神の神明神社の伊勢神宮を始めに、熊野神社系の神職の氏も使用するように成りました。その後これに習い、熱田神宮、宗像神宮、吉田神宮、吉備津宮等の神明系が「柏の葉」と「槲の葉」の紋を神官職紋にしました。
伊勢神宮の宮司久志本氏、熱田神宮の千秋氏、宗像神宮の宗像氏、吉田神宮の吉田氏と卜部氏、吉備津神宮の大守氏がこの家紋を使いました。(草木の由来を知る事は氏の出自も判る)
当初は上記の様に「柏の葉」だけではなく「蔓も付けた槲の葉紋」でした。これを元は「三つ葉槲(柏)」と呼んでいたのです。
その後、時代が平安から関東に移りこの蔓がなくなり、今の柏の三葉紋と成りました。ですから、神職紋としては「柏紋」より「蔓柏紋」の方が古く正しい文様なのです。
そこで、平安初期から上記したこの神官職の間では相互に血縁関係を結びました。
神明関係の神社は当然に氏社ですので、その仕来りから自らの氏から神官を出すので大変青木氏が多いのです。
伊勢神宮は伊勢青木氏の守護地でこの伊勢神宮を護っていた氏ですし、皇祖神は自らの氏神でありますので身内から神官職を司ったのです。各地の主要神明社の多くは青木氏で綜紋を笹竜胆紋として家紋及神官職紋を「蔓付きの槲紋」としたのです。
吉田氏も奈良の古くから朝廷の祭祀を司る神職官僚でした。
室町期の山内氏は熱田神宮系の傍系です。
この柏紋を類似変紋して家紋とする氏は、これ等の末裔血縁氏が多いのです。
山内氏、牧野氏、中川氏、蜂須賀氏等あります。150位はあると思います。
多くは江戸初期に旗本や御家人等がこの変紋を使用したのです。
そこで、原型の「三つ蔓柏紋を」家紋としているのは当然に多くは青木氏で、朝廷神職官僚の吉田氏と、それらの神明の血縁関係のある末裔と見られる山本氏や長田氏です。
古い氏の青木氏には、「二つ葉」と「三つ葉」の「蔓柏紋」があります。
全国神明関係の神社は今は数えられないほどにありますが、始まりは伊勢賜姓青木氏から近江、美濃、信濃、甲斐の地に、他に19の天領地にある主要神社は多くは青木氏です。この青木氏が各地の神社と血縁関係を結んでいるのです。平安期からは特別賜姓族系の青木氏の神官職が出自しましたので、「柏の葉」と「槲の葉」の文様の他に秀郷一門の青木氏の119の家紋の神官職紋が出て来ます。
従って、神職関係の「柏の葉」と「槲の葉」の神官職紋には「2つの青木氏」の血が流れている事が云えるのです。
吉田氏や宗像氏や千秋氏とは恐らくはつながっている筈です。少なくとも吉田氏とは朝廷内での同じ環境下にいたのですから血縁関係はあったと考えられます。
前段で論じた諏訪神社系(三つ立梶の葉紋 神紋)の諏訪青木氏(抱き角紋)の氏は皇族賜姓信濃青木氏の末裔ですのですので諏訪神社とも繋がりがあるのです。
二つ柏紋(柏の葉を向かい合わせた紋 抱き柏紋)はこの抱き角紋の諏訪族青木氏と繋がっています。
当然に蔓柏紋の藤原秀郷流青木氏ですが、この氏も赴任地の24の国に自らの氏神を持って神官職を務めていますので、もとより母方で繋がり、朝廷とつながっていますので、賜姓族の青木氏と三つ巴に相互血縁関係が成立しているのです。ですから、この藤原氏北家筋ルーツは蔓槲紋または蔓柏紋なのです。
「繋がり」という意味からは諏訪族青木氏の宮司青木賢清(抱き角紋)は蔓柏、柏紋と神職関係で繋がっている事にも成ります。藤原秀郷系青木氏ルーツとして。
蔓柏紋が神職関係に元あった事が確認出来れば、皇族賜姓信濃青木氏系の諏訪族青木氏とも三つ巴に繋がっていることにもなります。
賜姓族の神明社関係の神社の神職は殆どが青木氏ですが、実は ここで重要な事があるのです。
それは前段でも何度も関係族として論じてきました「近江佐々木氏」が、特別賜姓族の神明社関係の神職の青木氏の中でも多く、特に地域性としては関東以北に多いのです。
566の神明社の神職を青木氏で賄う事には物理的に難しさがあったと観られます。
経緯としては第6位皇子の施基皇子と、特別に賜姓を受けた第7位皇子の川島皇子が近江佐々木の地名から賜姓名を授けられた経緯から、又、「近江青木氏」とも同族でもあり血縁関係があるところから「賜姓青木氏族」として見なされて特別賜姓族の神明社関係の神職に補充されたのではないかと考えられます。
実は「柏の葉」と「槲の葉」の蔓柏紋の佐々木氏の神職が多いのです。
家紋を蔓柏紋とし「綜紋」を笹竜胆紋とする佐々木氏です。これは近江佐々木氏の系列なのです。
先ず間違いはないと考えられます。
(「近江佐々木氏の研究論文」の「青木氏」に関わる部分で神職に付いて同じ様な論文が記載されている)
この「柏の葉」と「槲の葉」の蔓柏紋は藤原秀郷流青木氏の綜紋の「下がり藤紋」から神職になった時点で「蔓柏紋」に成って男系跡目に依って変紋なく、それを引き継いでいることを物語ります。
この事から、特記すべきは「祖先神-神明社」は依って「賜姓青木氏-賜姓近江佐々木氏-特別賜姓青木氏」の関係の連携で進められていた事が良く判ります。
この近江佐々木氏も源平での戦いでは近江で敗戦し美濃にて決戦して近江青木氏とともに衰退しているのです。恐らくは神官職であった末裔が無事に戦いから生き残り再び子孫を拡大させたのです。
また清和源氏木曽義仲と共に戦い敗戦して衰退させています。この事から青木氏側からの研究が難しく成っているのです。
(参考 佐々木小次郎は近江佐々木氏の出自で本家筋の者で家を再興するために旅に出た事は判っています。本家筋は現存 綜紋は笹竜胆紋 この事で良く判ります。)
(注意 宇多天皇系の滋賀佐々木氏がある 別であるがにこの宇多佐々木氏に付いては不明)
この様に近江佐々木氏との関係は神明社のみならず特別賜姓族青木氏と同様に関係は深いのです。
(神明社外のこの関係に付いてはむしろ近江佐々木氏の研究論文とその資料でかなり判別している。)
(神明神社は天照大神を祀る皇祖神で伊勢神宮が本社宮 伊勢青木氏 No706の函館の青木さんのご質問に詳細記述)
参考
宗像大社
鎮座 福岡県宗像郡玄海町
祭神 田心姫神 市杵姫神
神紋 梶の葉
神格 旧官弊社
社数 5000
神職 宗像氏
氏子 菊地氏
神歴 平安中期
関係 藤原秀郷流青木氏
はこ崎宮
鎮座 福岡県福岡市東区箱崎
祭神 応神天皇 神宮皇后 玉依姫命
神紋 三つ巴
神格 旧官弊社
社数
神職
氏子
神歴
関係 八幡宮
宇佐神宮
鎮座 大分県宇佐市南宇佐亀山
祭神 応神天皇 神宮皇后 比売大神
神紋 旧官弊社
神格 尾長巴
社数 40000
神職
氏子
神歴
関係 八幡宮総本宮
さて、参考として青木氏に関わる歴史的な事として「青木氏の立場」から記述しましたが、他社の一般的な学問的で宗教的な事は書籍やインターネットなどをご利用ください。
本データーの採集とその検証と研究は各種の同好会の長年の計画的な協力を得てたもので、あくまでも青木氏の歴史的な立場からの研究論文です。
青木氏と守護神(神明社)-20に続く
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
投稿者:福管理人 投稿日:2012/06/11(Mon) 17:34:51
> 青木氏と守護神(神明社)-19に続く。
前段で「自然神」を含む「5つの守護神」の中の一つの「氏神」と「祖先神の神明社」の「総神」が一部に同じと考えられていた事を論じましたが、それをもう少し詳しく論じておこうと考えます。
又、前段で論じた内容の補足や関係する事柄(若宮神社との関係、他神社との関係、佐々木氏との関係)等に付いて論じます。
「氏神」と「総神」の経緯論
そこで、「祖先神」の「神明社」を今まで通称として一部の特定の地域で「氏神様」と呼ばれてきました。
凡そ、最初は「5つある神様」を祭祀する「神社」を総じて「氏神様」と呼んでいたのですが、次第に時代が大きく変化する事に因って「氏の形態」が変わり、その為に呼称は変化を来たし減少し、ある一部の複数の保守的な地域では、中でも以北地方では「神明社」を特定してその様に呼んでいたのです。(前段でその経緯を論じた)
これは一つは、「祖先神」は天皇家の「皇祖神」に繋がる「神」であり、”万系一途に通ずる”の言葉通り国民総じての「神」と崇められていた事からも其の大きな原因でもあるのです。しかし、もう一つは前段の上記してきた「皇祖神-祖先神-神明社」との色々な青木氏との関わりから来る原因もあるのです。
そこで、全国に拡大した神明社の ”「氏神様」の呼称は、何故「氏神様」としたのか、3の「氏神」とはどの様に違うのか”と云う疑問が起こります。この疑問が青木氏を物語る史実なのです。
そもそも、”通称(俗称)「氏神様」”と呼ばれる様に成ったのは、前回までに前段の上記した様に「神明社」は「物造りの神」としても平安の古より民から信仰対象とされ、それを守る青木氏も”「物造りの氏上」(御役-御師)として崇められていた”と論じてきました。
特に、この傾向は鎌倉期の「鎌倉文化」から引き継いだ室町期の「室町文化」の著しい発展で「物造り」は飛躍的に発展しました。その発展に伴ない「民衆の心」も ”より豊かで安寧と安定の維持”を願ってその「心の拠り所」として神明社に求めて来たのです。
そして、その「文化の発展」も武士階級の「下克上と戦国時代」の乱世の中に引きずり込まれる事が起こります。しかしながらも、「文化の発展」も戦乱に反発して根強く引き続きます。
そのしぶとく続く中で ”より豊かで安寧と安定の維持”の「庶民の望」と云う事だけでは無く、戦乱の世の中の反動として庶民の中に「必然的な願望性」が帯びて来たのです。
華やかで雅な「平安文化」等の他の時代の文化と異なり この文化は ”しぶとく粘り強く強い個性の持った文化である”と云えます。
その為かそれを遺そうとする意思や表現力の明文化として、取分け「文化の基礎」となる「紙」が大いに発展し、「紙文化」と呼ばれる位に「紙」が全ての「文化の基本」に成って進展したのです。
この頃の「紙」は「現在の紙の位置付け」では無く、貴重で高額でより「高い位置付け」にあったのです。
前段でも強く論じた様に、その「紙」は更には「5家5流皇族賜姓青木氏」が、庶民の快適な生活の為により進む文化の為に「2足の草鞋策」として一族一門が挙って殖産し主導する「紙」でもあり、その「青木氏」は更に「皇祖神-祖先神-神明社」の主氏でもあり、又「物造りの氏上」と「生活の神の守役」でもあった事から、「神明社」を ”「氏神様」”と室町末期以降に何時しか「尊厳と親しみ」から「民」からその様に呼ばれ様に成ったのです。
その力を以ってして、且つ、前段で論じた特別賜姓族の主要な地域での「祖先神-神明社の建立」と「藤原氏の領主様・氏神様」としての「立場と責任」を同じく果しましたが、この「2つの青木氏」は、「祖先神-神明社」を566も建立し、民の「生活の神」としても崇められ「民の信仰」を一心に集めたのです。
ですから、「神明社」に裏打ちされた守役の「氏上様」の呼称は、「時代の流れ」の「必然的願望性」とも一致し、「崇めと信頼」を背景に著しく高まったのです。
況や「3つの発祥源」の「然るべき立場と責任」を全うしていたのです。
この「氏神様」に類似する守護神の「3の氏神」は、この「下克上と戦国時代」に依って勢力を拡大した「姓氏」の神で、一族一門が一致結束して「一所懸命」の意味の通りの「結束する象徴神」として考えられた「神」なのです。そして、その「姓氏」はその文化の「職能人としての作り手」でもあったのです
つまり、「3の氏神」と「2の氏神様」との出自と呼称は同時期に起こったもので、「3の氏神」は「姓氏」の「下級武士階級の守護神」であり、他方のこの「2の氏神様」は「民の階級」の「総神の守護神」でもあったのです。
この後者の「氏神様-総神」は、全ての守護神の根幹を成す「自然神」に通じ、更には「朝廷と皇室」が行う「国事行事の祭祀」としても「皇祖神-祖先神-神明社」に通ずるものでもあったのです。
ですから、「2つの青木氏の神明社」は他に秘して比べ物にならない程に格別のものであったのです。
それまでの平安期からの「氏」は、次ぎの様に成ります。
1の守護神の大蔵氏や平族等の「民族氏」の「産土神」(阿蘇大社、出雲大社等)、
2の守護神の青木氏の「皇族融合氏」の「祖先神」(神明大社・八幡大社)、
4の藤原氏などの「古代大豪族氏」の「鎮守神」(春日大社等)等が「下克上」で衰退傾向する中で、新しく勃興してきた中小の豪族氏とその配下であった「姓氏」が興した「神」が3の守護神の「氏神」であったのです。
そして、そこで大社を作る事の出来ない「民衆」は「皇祖神の神宮大社-祖先神の神明社」に「心の拠り所」を求めたのです。それが故に、「民衆」はその呼名を「様」を付けて勢いのある「3の氏神」に対して「氏神様」と呼んだのです。この呼称が現在まで引きずられて来たのです。
「姓氏の氏神」と「融合氏の神明社」の「氏上様-氏神様」とが混同されてしまった事に因ります。
むしろ、「姓氏」も元は「職能集団の民」であったのですから、「氏上様-氏神様」と崇め信頼していた「神明社」の「物造りの神と生活の神」を信仰しその行方を信望していた民でもあった処に、前段で論じた様に彼等はその力を互いに集団で結集して「氏」としての独立を果たし、その末にその力で独自の守護神を創造したのです。因って「民の時代」の「氏上様-氏神様」は彼らに執っては守護神としている「氏神」が出来たとしても何ら変わらないのであり、且つ拘らないのです。
2の守護神の「皇祖神→祖先神」の関係と、3の「氏上様-氏神様」→「氏神」との関係とほぼ同じ位置に置かれていたのです。
それは「物造り神-生活の神」の「祖先神」である限りは、「姓氏」となっても「心の拠り所」としては何ら変わらないのです。殆どは「呼称の差」だけなのです。
それだけに「氏神の守護神」は室町中期以降では爆発的に発祥しその「姓氏」が如何に多かった事を意味しますが、逆に「祖先神-神明社」の「氏神様」は1割にも満たない程であった事を意味します。
むしろ彼等に取っては対比的な守護神ではなかったのです。氏神様は氏神様と旧来から崇め信仰し、自らの新しく創造した守護神の「氏神」はあくまでも「氏神」なのです。
明治の混乱も収まり始めた頃の10-15年頃には「皇祖神-祖先神-神明社-青木氏」の存在そのものも忘れ去られ始めた事が伊勢青木氏の記録と口伝から読み取れます。
これは江戸末期から明治初期にかけての「宗教改革」や「廃仏毀釈」などの「権威と伝統の廃棄運動」の原因も否定出来ません。
故に明治期の「8000の民衆氏」の中に「祖先神-神明社」のは最早3%にも満たない氏となってしまった事から「姓氏」のみならず8割以上の庶民までもが「氏神-氏神様」が混同してしまった事に成ります。
一部の伝統を保持していた階層(元は士分の上級武士階級以上-浄土宗階層)では大正15年頃から昭和の始め頃までは覚えられていた事が判ります。
第2次大戦後は完全にその混乱から一層忘れ去られてしまった事に成ります。
この様な伝統や知識等の消失事はより完全に進んで現在に至りますが、科学による近代化が進むに連れて尚一層忘却の憂き目を受ける事に必然的になるでしょう。3%の話どころではありません。殆ど0%と成るでしょう。
故に、人の世は全ての事柄の森羅万象の伝統により繋がっていると考えられる限りは、この「伝統」と云う事を重んじて、ここにその詳細を遺そうとしているのです。平安期の多くの歴史記録の人の努力と同じように何とかせめて青木氏に関わる歴史記録としてだけでもよいとして遺す意義はあると考えます。
そして、この蘇がえさせ様としている「祖先神-神明社の記録」の中に遺そうとしています。
次ぎの「鬼道信仰」も同じ憂き目を受けて資料や記録も一部の学者の範疇にしか遺され無い状況の中で「民衆の知識」としては無くなる中で何とか「雑学の詳細概論」として遺そうとしています。
この「祖先神-神明社」の概論も。これが「青木氏」として「歴史マニアの責任」として。
その中の努力として一見青木氏に無関係かと観られる「鬼道信仰」に関わる事をも青木氏として独自の研究を続けているのです。
恐らくは「鬼道信仰」を追及し議論し研究する出来る「氏」があるとしたら、それは神明社-青木氏以外にはあり得ません。故に「青木氏遺産」として独自の見地から是非に遺す意義があるのです。
「鬼道信仰の雑学概論」
「氏姓」(僅かな氏)が始めて発祥した時期の4世紀以降では4神ですが、4世紀前の神は「氏」の概念が無かった事からすべて各種(7つの民族)の民族は「自然神」を信仰し、その「神の意思」(「神の御告げ」)とする伝達手段を「占い」として用いました。
この「自然神」の伝達手段の「占い」(占道・占術)が体系化して最初は「鬼道」と云うものであって、それは「宗教の原型」にも成ったのです。この「鬼道」で「絶対的な神の意思」を具現化したのです。
これが中国では「占道・占術」-「鬼道」-「道教」-「儒教」へと変化と進化して行きました。
しかし、大和ではこの「鬼道」の使い方が「国情」に左右されて異なった「宗教の変化」を起しました。
3世紀頃から7世紀頃まで大まかには ”この世は「自然の神」の懐に包まれ「万物万能の神」の「意思」がこの世に降り注ぐ” と信じられていました。依ってそれを受け止めてこの世に誰がどの様な方法でどの様に具現化するかによるのですが、ところがこの「自然神の考え方」が「7つの民族」によって異なっていたのです。
特にその「考え方」をこの世に伝える「媒体」に違いがあり、初期には植物や各種の動物(生物)を媒体としていたのです。この「植物・動物媒体」は民族の植物・動物に関わる関係度から千差万別と成っていました。例えば、日本では「在来民」とする「こな族・熊襲・アイヌ」(魏志倭人伝に記載)は「熊」が媒体であった様に、亀、狐、烏、鼠、鹿、蛇、馬、狗等があります。そしてこの信じる神の伝達媒体を国名にしている国が多かった事が「魏志倭人伝」の記載の国名の30国に色濃く出ています。
しかし、「7つの民族」が混在している4世紀頃はこの「自然神」の媒体がこの様に異なっている事からまとまる事が難しかったのです。
そこで、その「媒体」の考え方が進化して「人」として「神の意思」を告げる事となれば「共通の媒体」が必要と成ります。そこで”より真実に明快に確実に言葉で伝わる”と信じられて「自然神」のお告げを表す「鬼道」と云う「占い形式」(祈祷)の体系化した信仰が生まれたのです。
それが「鬼道占術」の特長として、次ぎの様に「具現化の媒体」の違うところが(他の占術とは)次ぎの3つのところにあったのです。
一つは「気候と気象変動」を神の御告げとして読み取る事
二つは太陽の軌道を読み取る「方位学の原型」を採用した事
三つは御告げする伝達人に科学的な刺激を与える脳特性を利用した事
この3つ事が他の占術と異なっていたのです。
そして、このある意味でこの「3つの要素(人、場、時)」を加えた合理的な伝達手段が、人の「食」に大きく関わる繰り返す飢饉(下記)に対応する事が出来たのですから、鬼道信仰は飛躍的に信頼され信仰されて行ったのです。
そして、逆にこの{3つの要素]の事が無かったか、或いは低かった事から前段で論じた様に「弥生信仰」に代表されるように他の占術は衰退して行ったのです。
この「3つの要素」が現在でも通ずる様に体系化し具現化した事から、今も「国事行為の形式的行事」として生きているのです。そしてその一部を青木氏は「神明社」と云う方法で伝播させていたと論じているのです。
゜卑弥呼の鬼道」には1000人程の者がスタッフとして存在していた事が判っています。
恐らくは、この「3つの要素」を体系化し具現化する為に、卑弥呼に「3つの要素に対する情報収集や提供」を任務として伝えていた事だと考えられます。
この中には前段で特記した来た九州域や関西域や関東域の「緩やかな政治連合体」からの派遣要員が居て「鬼道」を学んでいたと考えられます。
そして、卑弥呼も中国から渡来した人々からこの元の「中国の鬼道」に要する知識の「3つの要素の学識」を学び周囲のスタッフの人々に教え指導していたと考えられます。
恐らくは卑弥呼はこれを研究して日本の風土に置き換えて自分のものとし、「日本の鬼道占術」としていたと考えられます。
(特記 中国のこの鬼道信仰は道教と進化する以前の形で現在も遺されていて、その中国の研究資料と比較すると基本的なところは一致しますが少し違っているのです。上記の「3つの要素」に重きを置く事の位置付けで差異が認められます。中国の鬼道は人間の複眼の女性の野生本能に重点を置きこの「3つの要素」は副的要素であるのです。特に中国の鬼道信仰を信ずる人々には、神の前で行う「仕種の決まり」に違いがあって、「迷信的な行為」が多いと感じられます。桃の実を撫ぜると神の加護があり御利益があると信じられていますが、日本の鬼道信仰にはその様な迷信的な行為を認めては居ません。
現在のその原型を留めている天皇家が行う国事行為と比べると違和感かあります。)
この「鬼道」の占術の有り様が真に「鬼」の様に立ち振る舞い、人の感覚を無くし、周囲には自然物を飾り火を炊き、丁度、神と人との中間の様な物体に化して無想無念の域から発する印象を言葉にして表現する「占い形式」(占術)が生まれたのです。この時にこの占師は事前に一つ目と二つ目の知識を記憶して三つ目により無念夢想の中で右脳に桃果の芳香性の刺激を与え複眼機能を蘇させて左脳の知識を引き出し御告げとするものなのです。
現在科学から観ると、これにはある程度の医学的根拠があるのです。必ずしも「迷信」と片付けるには問題があり過ぎるのです。それは特に現代人の生態の退化から観ると「迷信」以外の何物でも有りません。
しかし、古来より人間には野生時に持っていた額中央にあった「「複眼」(予知機能)」と云う物があって、それを使って、それをより「強く遺し持った者」が、使用頻度の低くなった「右大脳」を「無心の状態」にして使う事で「野生の予知本能」を強く引き出し、右脳から「ベーター波」を発して「未知」との繋がりを保持する野生の能力なのです。
これを「人の邪念」を取り除いた言葉(人の言葉ではなくなる)としてこの世に伝達する仕組みなのです。
現在ではこの「複眼」は「前頭葉」の進化で「前頭葉脳」と「大脳」が大きくなり大脳の真下の「脳幹」の側に追いやられ「休止状態の脳」となっています。現在でも特に女性に遺されているのです。
それは子供を産み育てるという本能からその野生的な複眼機能がいまだ消えずに遺されているのです。恐らくはこの生み育てると云う行為が続けられる限りに於いて遺される事が考えられます。
ただ、近代化により女性の性(さが)が異なってきた事から一部では消失している女性も増えているのです。合理的に思考する状況が増えた事から男性化して来た結果と成ります。
その証しと云うか相対的に女性ホルモンの低下が観られるのです。
中国の山岳民族の一部に未だこの「複眼機能」が大きく働く民族がいて、この民族が住んでいる地域では未だこの「鬼道」の習慣が宗教として現実に強く残っています。
中国ではこの「鬼道と複眼の関係」の研究論文が発表されていて現在も研究は続いているのです。
この「複眼機能の特性」は強弱はあるにしても「感情主観の女性」にまだ強く残っていて、それは「母性本能との連動」から来ているものとされています。
仏教でもこの「複眼機能」の原理を説いています。(お釈迦様の額中央の瘤はこの複眼なのです)
現在人の顔相の額中央に10ミリ程度のややふっくらとした膨らみを持つ人を時々見かけますし、民族に依ってはかなり強く膨らみを持っている民族があります。
恐らくは整体上遺伝的にナゴリを遺しているのではないでしょうか。
この「複眼」(予知)と同じく同じような働きをしていた「鬼相」(鬼眼・鬼顔)と云うものがあります。
これは逆に「論理主観の男性」によく観られ、額の両目の端からやや斜め逆ハの様に1線上に10ミリ程度に伸びて髪の生え際までふっくらと膨らんだものが見えます。
これはある状況におかれた男性の顔相に今でも現れます。例えば、仏像の「四天王」の顔相や「仁王像」の顔相に見られる様に「鬼の目」の様になりその左右に縦斜めに膨らみが刻まれています。
これがある「目的」に徹した「無心の顔相」なのであり、其の目的は神仏を護る事にありますから、仏教ではこの「鬼相眼」(鬼眼:現在も”おにめに成って”と言葉が遺されている)が「善悪を見通す力」として「複眼」と若干異なりますがほぼ同じ目的を持っているのです。
この「鬼相眼」と合わせて「鬼道」と呼ばれたものと考えられます。
男性の「野生本能」として保持していた「性」からのもので、現在でもこの本能は恐らくはこれは余り退化していない本能機能と見られます。原野にて動物を容赦なく捕獲出来る本能、現在も続く戦いにおいて人を分別を超えて殺傷できる本能はこの「鬼眼」の所以と観られています。
野生の肉食動物に持つ本能に類似するもので、人間のものはその脳の使い方が進化に依って変位したです。(肉食動物の顔相はこの鬼顔(両目の端から逆ハの膨らみを持つ顔相)に全て成っています。)
現在でもこの「鬼顔」が出てきた男性は危険とされる「昔からの言い伝え」が色濃く遺されています。ここから”鬼は怖いもの”と成ったものなのです。
兎も角も、本来はこの「男性の鬼眼」として使えば「女性の複眼」に相当する筈なのです。
仏教でも「複眼」と対比して「鬼相」(鬼眼・鬼顔)に付いても戒めとして説いています。
依ってこれを「鬼道」と呼ばれた所以のものなのです。
古代では決して「鬼」は「悪」と云う扱いではなく、「鬼顔」はむしろ「善」を見通し「悪」を滅ぼす「神通力」を保持しているものとして扱われていて、「悪」の姿はむしろ「美顔」として信じられていたのです。
それが鎌倉期以降に仏教の普及が急速に進んだ結果「鬼」は「悪」として扱われるように成って行ったのです。
「鬼」は人間が神と人間との間に居てその鬼の行動が仏教の教えに合わない事、つまり一部の庶民宗派が「占道」が仏教の教えに合わない事から「悪」とされたものと考えられているのです。
古代では「鬼道」は”悪を払い「善」を招く”「占道」と捕らえられていたのです。
とすると、中国から伝わった鬼道の原型が ”何故卑弥呼にだけ成し得たのか” と云う疑問が残ります。
多くの占師が居たと考えられますが、”何故、卑弥呼なのか”です。
それは、上記の複眼機能が特別に遺されていた事を意味します。この鬼道は3つの要素を組み入れての占術でありますから、それを最も生かすには、この「複眼機能」の強さと有無が左右されますし、左の脳の情報力、つまり、「3つの要素」の「記憶力」を生かすには右の能のベータ波の出す能力の強さが左右します。このベータ波は女性に於いて極めて差異があるのです。母性本能が出ると同時にこのベータ波が強く成るのが女性ですが、その個人差が大きいのです。
卑弥呼はこの条件を兼ね備えていた事がある事で判るのです。
それは卑弥呼が死んだ後に卑弥呼の兄妹の兄が王に成りますが鬼道の占術は殆ど当らず王から引きずり降ろされます。結局は、前段で特記した事なのですが、この史実として「卑弥呼の宗女」がこの卑弥呼の跡目と成り占術が当り緩やかな政治連合体の国は治まりが着く事に成ったのです。間違い無くこの宗女は卑弥呼のこの女性本能の特異な遺伝を引き継いでいた事を意味します。
この様な上記の「鬼道占術」を使って邪馬台国の卑弥呼には、「自然神」の中でこの「複眼機能」を強く持ちその「予知能力」を使って「多種民族」を纏め上げ「連合体」を作り上げたと考えられます。
中国の「鬼道」と根幹で一致していた事から「卑弥呼の占い行為」は「鬼道」と呼ばれたと考えられます。
「気候変動と卑弥呼の経緯論」
上記する「自然神」の「鬼道」の「占い巫女」であった「卑弥呼」が”何故国王に祭り上げられたのか其の背景は何なのか”の疑問が湧きます。
実はこれには次ぎの様な上記の3つの内の1の経緯の気象が働いていたのです。
上記する「自然神」の「鬼道」の「占い巫女」であった「卑弥呼」が”何故国王に祭り上げられたのか其の背景は何なのか”の疑問が湧きます。
実はこれには次のような経緯が働いていたのです。
当時としては絶対に知り得ない知識でありますが、”自然が織り成す何らかの「神の行為」”として軽度に把握していたと考えられます。
現在でも”西風が強く吹く年は天気は崩れ雨に成り水飢饉が起る””食物の成長は裏と表の年があり裏は不作で飢饉が起る”等の事等の言い伝えがありますし、これには完全な根拠がある事は解明されている事です。実は桃や梅等の果物の木、特に野生の果物の木にはその気候の影響を大きく反映して次ぎの年の気候を顕著に反映して確実に読み取る事が出来るのです。他にも田舎に行けば今だこの種の超能力の様な知識として伝わっているのです。
恐らくは、「卑弥呼」はこの「自然の変化」と「気象的な関係」を知識として把握し、且つその「自然の変異」を素早く確実明快に読み取り具現化する超感性能力(超能力)を誰よりも保持していたと考えられます。
そして、この超能力を駆使し合わせて上記する人間の野生本能を誰より高く持ち得ていて、それらのデータを総合的に且つ有機的に瞬時に取り纏め判断出来得た人物であったと考えられます。
卑弥呼の鬼道の祭壇には桃などの自然の恵みの物が配置されていた事が遺跡からも発見されていて、これを1000人のスタッフにこれ等の情報を把握させる事もさせていたと考えられます。
現在の天皇が行う国事行為の毎日行う祭祀行事もこの穀物などから読み取る行為を具現化し形式化したものです。
「100年の気候周期性」(300年大周期)
この時期に顕著に起っている気象学的変異があるのです。
それは、地球の自転の回転で其の周囲の空気の層が同時に廻るのではなく地球の磁力(引力)に依って反時計回りの回転に対して空気の流れの「ズレ」を起こします。
その時、少しづつドーナツ型(環状)の空気の層の「遅れひずみ」が起こります。
円の形だと円滑に廻るので歪みが起りませんが、この「歪み」が強い時の波と弱い時の波とが起こり、これが連続して「強弱の波」を引き起こして発生します。
ところがこの「強弱の波」であるが為に、その波の僅かな「ズレ」が球の上下側に2つの「輪状環」が起こります。
その波は遂には空気中の浮遊物の影響により5つに成ったり3つに成ったりするのです。
それに依って起こる真円ではない「変形した輪状環」の波の現象と成るのです。
この3つから5つの波の発生が北極側では空気の流れの「位置ズレ」を少しずつ起こします。
この「波の位置ずれ」に対して変化して「変動の周期性」が起こるのです。
其の為に北極南極の冷気の層が赤道に向かって引っ張られて極端に寒暖さのある気候変動が発生する事になります。
真円が最も気候変動の差が少ないことに成ります。この地球の気候変動の大きな差の周期が概ね100年に1回起こるのです。
判りやすく云えば、キリストの頭の上にリングがありますね。あのリングが3つ乃至5つの星の様に成っているのです。その様に頭の上に出来たリングまたは鉢巻の様な「空気の流れの星形輪」が起こります。其の「星形輪」が地球の回転に沿って左に回る周期性を持っていて、その「星形輪」が真円ではなく極端な場合は3角形から5角形の形になります。この為にその角の為に空気抵抗が起こり円滑に廻れなくなり回転に対して「ひずみ」を起こしやすくなり、本来の位置から少しずれるのです。
このズレを修正しないと空気の星形輪状の層は地球から外れてしまいますが「エネルギー保存の法則」により絶対に元に戻ろうとします。
この「最大のズレ」が太陽から受ける熱エネルギーの差と成って現れます。それが「気候変動の寒暖の差」に成って現れます。
このズレが元の状態に戻るのが100年間掛かることに成ります。
これが赤道軌道を中心にして北極側と南極側に顕著に出るのです。
ですから円から最も崩れた時、丁度、3角形に近い状態に成った時が「最大の歪み」に成りますから「寒暖差」が極端に出るのです。これが「寒さの飢饉」と成ります。
そして次第に又5角形に近い状態へと戻り始めたほぼ円状へと近づいて行き寒暖さが少なくなり、次ぎの歪みの時期は「暑さの飢饉」と成るのです。これがほぼ100年周期にあると云う事なのです。
ところがしかし、現在、地球は地球の自重の増加により円運動から多少「楕円状の公転軌道化」を起こしていて、この現象がより顕著に出る様に成っているのです。
星形輪に依ってエネルギーの差が生まれて「寒暖差」が生まれている処に、「楕円状の公転軌道化」が起り始めた為に余計に太陽から近い時、遠い時の「エネルギー差」が起こりますのでこの「2つの差」が更に「寒暖差」が生まれるのです。
「楕円状の公転軌道化」が起ると地球の回転に慣性力の影響が出て「星形輪」が発生しやすく成るのです。そしてこの「楕円状の公転軌道化」でも起こった「周期ズレ」がエネルギー保存の法則で戻そうとして同じ上記した原理で300年に一度の大周期性を持つ様に成るのです。この法則で100年周期の2回までの直しきれなかったエネルギーを3回目で修正する為に大きなズレの吸収性が働くのです。
100年周期で3回起こり最後周期には300年目の超寒暖差が起って大飢饉が発生するのです。
そして次第に元に戻って行きます。
因みに「楕円状の公転軌道化」は地球の重力増の変化により加速性が増した為に起っています。
これは地球上で「人口」のみが自然増を生み出して重力が増しているのです。
他の動植物や鉱物は自然環境の影響を受けてその輪廻で一定と成ります。その増減は地球の回転に影響を与えません。
江戸時代は世界の人口は40億人とされていましたが現在は70億人と成っていて現在は1日に4000人の人口が爆発的に増加しています。
もしこの状態で人口が増加し続けますと地球の回転に加速度がより起こりますので、その加速度に対して地球の引力に依って引っ張られている力とのバランスが均衡する時が必ず来ます。
この均衡が破れる時には人は地球を離れてロケットの様に宇宙に飛んでいく事に成ります。
この限界値が計算上では85億人で均衡とされていますが多少の+誤差が起る筈ですので、100億人以上で飛び出す事に成ります。恐らくはこの直前で地球に回転とそれに伴なう気候変動により食料は不足し激減する事になりますし、地軸が27.8度傾いた形で回転している事により楕円が強く成る事で隕石などの衝突が起こり始めます。その為に人口や動植物等は激減する筈です。
そしてその様な現象で地球重量が元に戻りはじめますが、元の85億人程度の重量と成った時に楕円の公転は元に戻り始めます。
当然にこの時には地球の表面の8割は水で覆われていますので、そうすると加速度が働きますと先ず水が蒸気と成って90-100キロの第1成層圏の宇宙に吸い上げられて行く事に成ります。この結果、乾燥と水不足が起り人間を含む生物が死滅する事には成ります。
従って、これにより再び人口が減少して元に戻るか一切の生物は死滅してまう事に成るかですが、自転公転の上記する「歪み」が再び戻り、生き残った生物は繁殖を起す筈です。
既に70億人と成った現在では灼熱のアフリカ大陸では原因不明の水が消えて無くなる水飢饉が起っています。従って、85-100億人の前には人口増加は止まる可能性がある筈です。
先ず地球の太陽から公転による楕円運動がこれ以上に大きくなると生物は死滅する筈ですから地球と太陽系がバーンアウトするかしないかの勝負に成ります。
然し、重力計算による研究はあるとしてもこれを立証する研究は未だありません。その前に水が「人・生物」ではなく「地球」を救うことに成ると考えます。「人・生物」はその後の話ですね。
話を戻します。これを歴史的な資料で現在から逆算すると丁度、3世紀半後から4世紀前半に掛けてこの300年周期の第1期の「100年飢饉むは起こっている事に成ります。
つまり邪馬台国の時代です。これに依って下記のシナリオが証明されるのです。
これが大体100年に一度の割合で訪れるとされる「気象変動・異常気象」が起こった時期とされ、飢饉により民族間が生存競争で争いが絶えず混乱していたと考えられます。
そこにタイミングよくこの「鬼道」が現れ「占い巫女」であった「卑弥呼」が「複眼の予知能力」と「3つの要素」を組み入れてそれを使って予知した事が確率よく当たり、100年周期の終焉期と一致すると共に、飢饉がより占術予知により避けられ無くなり、其の内、国々では「卑弥呼」の「鬼道」で政治を行う事を民族間で合意し、結局、「卑弥呼の占い」を中心とした「民族間の政治連合体」が生まれたのです。
そして、その結果、その占い師の「卑弥呼」を九州地域5地域の「国の王」と定めたと考えられます。
その卑弥呼の占術予知による北九州域の政治連合の結果、この話が全国に伝わり主な他の20-40の王国の民族もこの「卑弥呼占術予知の鬼道」を招き、複数の「政治連合体」の国王として30程度の国が絡んだ「緩やかな大政治連合体」が出来上がったものと考えられるのです。
恐らくは推理ですが、この時に「卑弥呼」は九州佐賀から連合体の中心付近の奈良大和付近に出張等での移動をしたのでは無いかと筆者説の一つの推理を立てているのです。(3つの仮説 イロハ説)
この大気候変動の大飢饉を互いに逃れる為に良く当る事を前提に「卑弥呼の鬼道占術」を基本とした政治的な連合体であった事から”緩やかなもの”として、比較的に簡単に各地域に起った緩やかな政治連合体の組み合わせ総合の政治連合の国家が出来上がったと考えられます。
当然にその総合の政治連合体の元と成った北九州の政治連合体の邪馬台国(女王卑弥呼)が主導権を握り、合わせて「卑弥呼」を総合の連合国家の「大女王」と決めたのではないかと考えられるのです。
そしてその国の総称も「邪馬台国」としたと考えられます。
(魏志倭人伝の30国の一つの「奴国」は邪馬台国の事)
「30の連合国家」の中には故に、「奴」の付く国(ナ)、馬の付く国(マ或いはマト)、中には「邪馬国」(ヤマトノクニ)とするものが多いのは総称の政治連合体の「邪馬台国」から来ていると考えられます。
北九州域の主導国の奴国(ナノクニ 山門)と関西域の主導国の「邪馬国」(ヤマトノクニ 大和)から「邪馬台国」の総称としたと考えられます。
中国との関係から北九州域の「奴国」に「緩やかな政治連合国家」の「政庁」を置いたと考えられます。
卑弥呼死亡後は関西域の主導国の「大和」にある「邪馬国」が主導権を握ったと観ています。
この「自然神」の信仰は一概に無根拠とされるものではなかったのです。
この「自然神」は消滅して変化したのでは無く、この「自然神」から分離して行ったのです。
従って、現在に於いてもこの「自然神」は遺されているし、上記する「4つの神」の母体と成っているのです。現に、朝廷の祭祀はこれを引き継ぎ全てこの上記した「自然神」による祭祀です。
又、仏教もこの「自然神」を基盤としていますし、日本書紀にも「広瀬大忌神」と「竜田風神」の事が再三に出てきます。(「風の神」、「雷の神」:風神・雷神は鬼の顔と成っています)
中国は多種民族から「鬼道」から「道教」へ、そして「儒教」へと変化して行きましたが、日本はその国情(7つの民族と自然環境)から「神に対する概念(人の思考原理)」は次ぎの様に変化して行ったのです。
「神のフロート図」
「自然神」-「鬼道」-「神道」-「仏教」-「神道・仏教」-「産土神」-・「祖先神」--「鎮守神」-「氏神」-「4つの神・融合神・自然神」
「民族氏」→(「民族氏」+「融合氏」)→(「融合氏1+融合氏2」)→「融合氏1-5」
上記した「皇祖神の鎮座地の遍歴」はこのフロート図の違いの強弱が各地に未だ顕著にあり、新しく生まれてきた「祖先神」の考え方に見合う土地柄を選んでいたのではないかと考えられます。
つまり「国情(7つの民族と自然環境)」が大きく左右していたのです。「神明社」の各地の分布の数でもそれがよく判ります。(資料参照)
この様に前記した様に「民族氏」から「融合氏1-5」へと政策的変換を遂げた結果、「自然神」から発した信仰は上記する経緯に左右されて「4つの神」が生まれ、それが「氏家制度」の社会を壊し「身分・家柄」の垣根が取れた事に依って何時(明治初期)しか「完全融合」の時が起こり始めて現在に至り、遂には自然神を加えて「5つの神」の混在現象が起こったのです。
明治初期の「維新改革」で「融合氏1-5」が更に「高度な融合現象」と成って、150年後の「平成の完全融合」へと進んだ結果、現在では「5つの神の混在現象」が起こっているのです。
最近では、「自然神」が信仰とは云えずとも「自然の偉大さへの憧れ」に近いものとして認識されてきています。
これは制度的に民の間には完全に垣根が無くなった為に起こっている現象と見ていて「民族の完全融合」の「証」と成るのでは考えているのです。
最早、将来、未来にこれ以上の「融合」が起こり得るのか、「5つの神の混在」がどの様に変化して行くのか興味の湧くところであります。
アジアやヨーロッパの民族人種が帰化する現象が自然増より以上に更に日本に起こるかは、上段で論じて来た種々の政策と共に「民族融合政策」を協力に実行した未来の「中大兄皇子の政治判断」が大きく左右すると考えられます。
故にそもそも上段で論じた色々な歴史的経緯があったとしても、「7つの民族融合」は「5つの守護神の融合」そのものであり、それを主役となって主導して来た「自然神-皇祖神-祖先神-神明社-融合氏-青木氏」でもあるのです。この事無くして現在の完全融合の日本は存在しないのです。
現在ヨーロッパの全ての国で起こっているアラブやアフリカの移民問題が日本においても起こるのか、起こった場合はどうするのか、日本人の特性で「融合氏」が更に進むのか、「民族氏」が「完全融合氏」の中に再び起こるのか、疑問が大いに広がります。
兎に角にも、現在の移民現象は「貧」から「富」への移動であり、日本に於いても「貧」から「富」への移民は「融合」を促すのかは疑問のあるところです。前段で論じた移民の経緯が日本では全く異なっているのです。
”移民をすれば直ぐに融合する”かは別問題で、この「融合」には「其れなりの条件」が伴なうと云う事を論じているのです。
明治以降の後期の朝鮮人との融合は100年経っても余り進まない現状を観ると、「移民の問題」には矢張りこの条件と云うものの有無が左右していると観て疑問を感じます。
アジアからの現在では「看護移民」や「農業移民」がありますが、「文化の高さ」で取捨選別されてと成功していない様です。
恐らくは「民族氏」の「産土神」、古代の「自然神」ならば起こり得たと考えられますが、「融合国民」と成った現在ではその溶け込むハードルが平均化されて高く、他民族には入りにくい環境にあるのではないかと考えられます。これこそが最早、「融合単一民族」の所以であります。
「融合民族」の潜在的に持つ「本能的な拒絶反応」が浮かび上がり働くのではないでしょうか。
大化期から平安期に起こった現象が再び起こるかは前記した「融合の経緯」と「神のフロート図」とその数式が成り立つからこそ融合が起こったのであって、その大変さから観ても現在版の「俘囚スラム」等を生み出す事は間違いないと考えられます。
「自然神の概念論」
そこで、現在版の移民が起こった場合は共通する概念感覚は「自然神」のみにある事に成ります。そこで更に詳細にこの「自然神」をベースとして進んだ「神」はどの様な変化の経緯を辿ったのかを検証を進めます。
「氏神の変化」
この「4つの神」にはその時代の変化、即ち、「氏融合の変化」に即応してその特徴ある性格を持っているのです。
「時代の変化」と共に「氏の融合」も進み、且つ、「人心」も変化してその「心の拠所」とする「神の形」もそれに合わせて進化してして行ったのです。
従って、この事からも「氏融合の経過」を観る事が出来るのです。
そして、其の事からその「人」の氏が上記する「4つの神」のどの神を守護神にしているかに依ってその人の「氏の出自」が判る事にも成ります。
では、その「4つの神」に付いて先ず個々に検証を進めます。
先ず「産土神です。
「産土神」の定義
その人の「生まれた土地の神」であり、一生来その「人」の土神とする「人(単独)の神」
先ず其の前にこの「4つの神」の「進化」はどの様な経緯で変化して行くかを検証します。
古代、3世紀-4世紀の当初は全て「7つの民族」の個々の集団で生活圏を構成していました。それ故に集団の首魁を中心としてまとまり、「民族」と云う形だけの定義で集まり、血縁性の不明確な形で「民族氏」を構成していた事から奈良期前には1の「産土神」が主体でありました。
これはあくまでも「7つの民族」が不定不確定に外から「渡来」と云う形で上陸した為に上陸点の付近にその上陸した集団単位で生活圏を競って獲得していました。
その為に同じ民族が同じ場所に集団を形成すると云う事では全てでは無かったのです。
同じ民族の集団が”あちらにもこちらにも”と云う形に成っていました。
この時代は未だ生存に充分な食料や生活環境が整っていませんでした。従ってそれを獲得する為にこの個々の集団の内、「争い」に勝ち得たものがその集団を吸収し奴隷として囲い、大きくなりその集団の首魁の民族を中心とする「民族氏」が出来上がって行ったのです。
丁度、饅頭の様な構造をしていたのです。中身には血縁性が無い人の単位なのです。
依って、「土地」とそこから得られる「食料」が生存の基盤と成っていた事から、其の守護神はその「生まれた人の土地の神」「土地」を「神」と崇め、永代の「自分の神」とする習慣が生まれたのです。
これが「土神」即ち「産土神」なのです。
古代「自然神」を基盤として生まれたこの「産土神」は生存・命を保障するその自然の一つ「土」に対する感謝の心から「神」と崇めたのです。
個人個人が生まれた「土地」が異なる「民族氏」では1の「産土神」と成るのです。
「外国」で生まれていればその「外国の神」が「自分の神」と成るのです。
元々は「小さい集団の集合体」として「民族氏」と成った事から起こる現象です。
特に、中国系渡来人の「神」はその民族の根本的な「思考原理」から、元々この1の「産土神」の考え方にあったのです。「鬼道」から進んだ「道教」は「産土神」の考え方に近いのです。
「渡来人」が多く押し寄せ始めた4世紀後半から7世紀中頃までに、日本に定住し始めた民族中でも中国・朝鮮族が持ち込んだ道教・儒教の「考え方」に対して、それに「自然神」を崇めていた「在来民」はその「物造り」を通じて吸収され影響を受けてこの「土に対する神」の「信仰心」が拡大したのです。
この当時の「物造り」は土地から生まれる産物の第1次産業でしたから彼等の持ち込んだ「物造り」は道教・儒教の「土の恵み」の恩恵を強く受けた思考原理に成っていたのです。
4世紀後半から「100年周期の気候変動」が改善されて行き食糧生産も当時の人口に見合う量まで回復傾向にありました。人は食料を産む「土」と個人が生き残る生存競争による「人・個人」概念の考え方から同時に次第に開放されて行きます。
ここで地域的変化が起こったのです。ここでまず中国地方で起こっていた弥生時代からの銅鐸などを使った「自然神」の信仰が3世紀から4世紀には全国的に広まっていましたが「100年の気候変動」に依って飢饉が起こり「銅鐸を使った自然神の信仰」が信用を失い排斥されて、「産土神」に近い「自然神」の「鬼道の信仰」が今度は全国的に「銅鐸を使った自然神」に入れ替わって広がったのです。
従って、初期は九州域に限定されていた「土・人」の「鬼道信仰」が広域的に信仰基盤が広がったのです。つまり、「産土神」の信仰基盤が広がった事に成ります。
弥生時代からの「銅鐸を使った自然神」古代信仰→「土・人」の「鬼道による自然神」新信仰
「土・人」の「鬼道による自然神」新信仰→「土・人」の「産土神」の基盤
しかし、幾ら回復傾向と云っても、当時の人口が450万人と推測されていて、そこに中国から200万人、朝鮮(同盟国の百済崩壊)から100万人が難民と云う形で入国したのです。
これではほぼ倍となった人口に対して生存に適する食料が別の原因で再び不足します。
当然に「自然神」を相対的に崇めると云う形には成りません。
「土からの恩恵」を重視する考え方に偏る事は当然の成り行きであります。
回復傾向であった為に300万人が生産に寄与する事で何とか不足傾向では在りますが生きて行くにぎりぎりの生産量であったと考えられます。
日本書紀には大化期初期には不足していて食料問題に成って居た事が書かれていますので、先ずこの状況であった事は間違いありません。
其れだけに入国民の扱いの問題にしても、入国民の神に対する感覚概念にしても、入国民の食料問題にしても、他の軍事、経済、政治の面からも「改新」を進めなければならない絶対的な環境に在った事に成ります。
その前の4世紀前後の頃はこの状態がやや顕著に現れ、且つ100年周期の気候変動期に入り飢饉が続発し食料不足から民族間の全てで生存競争が起こり纏まらなかったです。
この為に民族間で話し合い「卑弥呼の鬼道」に依って「占いを中心とした政治体制」を作り上げ保ちこの「占い政治」(鬼道)を中心に「緩やかな政治連合体」を形成したのです。
「産土神」の傾向を持った「土・人」の「鬼道による自然神」から、「土・人」の考え方の強い道教の人々が入国して来たのですから、自ずと今度は限定して「産土神」に限定した信仰が進んで行ったのです。
「原始的な自然神」を経て「食料を理由」に変化した「鬼道の自然神」から「人の理由」で「土と人」の「産土神」へと条件が整って大化期前まで感覚概念が変化して行ったのです。
ところが、約100年程度の間に続々と入国して来る300万人の人口増加に依って「民族の集団化」が起こって血縁性の薄い「多くの民族氏」が勃興することに成ります。
この「民族氏」が成長しほぼ淘汰(20-40程度)にされて「民族氏」の熟成期に入り増す。
大化期前後にはこの為に「産土神」を主体として「民族間の思考の違い」が大きく露出して、その為に「民族間の争い」が多発して纏まらなくなったのです。
天智天武天皇は「既存の政治体制」の中に、この「産土神の考え方(「土と人」)」が蔓延する事は”既存の体制維持が困難”と危険を感じ無かった筈はありません。
これを解決する妙案が「融合化」であったのです。それには各々の民族が抱える守護神の考え方を先ずは融合化させねば成りません。
それには融合民族の皇祖神を全体の中心に置き、その分身と成る祖先神を推し進める必要があると考えたのです。当然に、その2つの条件を持ち得る氏を天皇自らの身内から出す必要が生まれます。
それが先ず皇祖神の遷座地の伊勢の青木氏だったのです。それに伴ない19の地域に対して祖先神の神明社の建立を推し進めたのです。然し、次第に時代の変化に対応させる事が出来ず、その力を留保する外戚の藤原一門秀郷の3子にその全役目を背負わせたのです。つまり、外戚の特別の賜姓族であります。それが「祖先神-神明社」なのです。
上記した様に「民族氏」-「占い政治」-「政治連合体」の経緯の中で鬼道信仰の影響を最も色濃く持つ「祖先神」を次ぎに論じます。
「祖先神」
「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、 自分の集合である一族一門の子孫の「守護神」であり「人と氏の重複性も持つ神」
上記の「産土神」の蔓延に危機感を覚えこの事を学習していた奈良期の大化期では”「産土神」に基づく考え方、即ち、一生来その「人」の土神とする「人(単独)の神」”の考え方では ”良くしても「土神」「単独の神」は「民」を一つにまとめての安寧は在り得ない” と考えたのです。
つまり、”「民」の全ての「共通する神」が無くては国の存立は在り得ない” と考えたのです。
「単独の神」<「共通する神」=「国の安寧と安定」
「土の神」<「自然の神」=「神の恩恵」
この大化期直前に「自然神」の「鬼道」から進化した「神道」と「仏教」との対立が生まれ「仏教」を国の信仰の根幹に据える否かで争いが起こったばかりです。
結局、「仏教」を選んだものの依然として「神道」は基盤と成り続けている現状の中に「産土神」が浸透する事は国体基盤にとって好ましくないと云う背景があったのです。
この時期、「自然神」と「神道」と「仏教」と「産土神」の「4つ信仰」が混在する状況で中でもこの渡来人に依って「産土神」の拡大が目立っていたのです。
そこに「急激に増加した国民」の国情を観て、”これを一つに束ねて安寧な国を構築する”にはこの現状は困難と観たのです。
むしろ筆者は、高い技能を持ち在来民の信頼を得ている増加した国民、即ち帰化した阿多倍の率いる「200万人の技能集団」(200/650 30%)もこの「産土神」と同じ考え方であって、”この「産土神」が国民に蔓延すれば天皇家はおろか、最早、朝廷のあり方自体の存続が危うくなると考えていたのではないか”と観ているのです。その「産土神の考え方」からすれば「共和性の国家」に近い政治体制に成ると考えたのです。阿多倍がこれ等の「集団の首魁」であったとしてもこの「技能集団」は最早、後漢王国が崩壊して(220-618)数百年も支配体制が緩んでいたのです。ただ「同じ漢民族」だとする程度の集結性で、この初期の段階では阿多倍はその「象徴程度の範囲」の経緯であったのです。どちらかと云うと”各技能集団の首魁の指揮に任していた”と考えられます。
その証拠に大化の事件の時に、中大兄皇子軍と蘇我入鹿軍との飛鳥丘で対峙した時、蘇我軍の雇軍の職能集団の首魁の東漢氏は自分の判断で即座に軍を牽く事件が起こりました。この事は普通なら帰化人に左右する事柄です。事と次第では決着戦に成る事も考えられた筈で指揮を仰いだ筈ですが、入国後20年の「阿多倍」は介入しなかったのです。
これはこの段階では「職能集団の首魁」の判断に任していたと考えられます。また20年の混乱状況の中で詳細に指揮する状況は未だ確立されておらず無かったと考えられ、恐らくは敏達天皇の末孫との血縁で准大臣に成り、長男の坂上田村麻呂が朝廷軍の指揮官に成った期間が混乱期からやっと立ち直り一番に阿多倍の指揮能力が高まった時ではないかと考えられます。しかしこの時は最早、天皇家との血縁族と成り得ていたのですから、この時点ではこの共和制の危惧は無く成っていたと考えられます。
ただ、皮肉にも「邪馬台国」のあった北九州域の「自治の要求」問題は逆に高まっていたのですが。
その様なやや進んだ状況の中で、そこで”生まれて来た”のか、否”作り出した”と云った方が適切であったと見られますが、「邪馬台国からの鬼道信仰-産土神信仰」の「2つの問題」を解決する方策、それが「祖先神」なのです。
丁度、「産土神」の「自分の単独神」を「祖先神」の「自分の固有神」に変化させ、それに自分の組する「集団の神(氏の神)」を付け加えて両者の「妥協の産物」と見られる「神」を天皇と朝廷は創造したのです。
勢いづいた「産土神」に「祖先神」を加えた「2つの神」を融合させる事で「民族氏」から脱却し、「祖先神」が求めるそれまでに無かった「氏」の概念を取り入れて、”「7つの民族」が「一つの氏」(融合の氏)にさせる事で「国の安寧」は起こる”と考えたのです。
その政策が”「青木氏」を発祥させて天皇家自らが「融合氏」を作り出して行く”のであって、実に巧妙に政策転換したのです。驚くべき素晴らしい政治判断であったと考えられ、”現在にそのような移民の問題が起ったとしたら果たして現在の為政者はこの様なすばらしい政治判断と政治力を発揮できるでしょうか” 、筆者は断言して無理だと考えます。それだけに大化期から嵯峨期までの天皇能力には素晴らしい政治力があったと観ているのです。
「鬼道」による「自然神」は「朝廷の祭祀」の中には現存として遺しながら、それを強く引き継ぐ「産土神」を完全否定するのではなく、より「融合性」のある「祖先神」の集団性を有する「氏の概念」を創り上げたのです。
その「氏の発祥源」が我等「青木氏」であり、天皇家自らも「天皇家」のみに通ずる「皇祖神」とする神の概念を創造したのです。
「天皇家の皇祖神」→「伊勢神宮」→「神明社」
「青木氏の祖先神」→「神明社」
「伊勢神宮」→「皇祖神」+「祖先神」
「伊勢神宮」→「自然神の祭祀」
「産土神」の「自分の単独神」→「祖先神」の「自分の固有神」
この「関係式の概念」を天皇は「産土神」を意識しながらも社会にその新しい概念を行動で強く示したのです。
その概念を広めるために「青木氏」の育成と「祖先神-神明社」の建立を急いだのです。
これに依って社会の中には次ぎの様な信仰対象が出来上がったのです。
「自然神」+「皇祖神」+「神道」+「仏教」+「産土神」+「祖先神」
以上の「6つの信仰」が大化期には混在する事になります。
しかし、ここにはこの「祖先神」は「全国民」を対象とした「固有神」としながらも、一方では「民の領域」の神(物造りの神 生活の神)だけでは無く、あくまでも特定領域の未だ存在しないこれから生まれる「氏」の「神」でもあったのです。
そもそも平安期までは百姓(おおみたから)はまだ「氏」を構成出来る社会では無かったのです。
(当時は宿禰族を含む皇族以外の良民を「おおみたから」と呼んだ。 良民以外に賤民や奴婢や脾民や囚民などがあった。)
ここに「国の安寧と安定」には「民」の「共通する神」を創造する事を目途としながらも、他方では「融合の氏」の発祥を創造したのです。天皇の考えている事が良く判ります。
ところが、この時期の国民を信仰範囲毎に分けるととして次ぎの様に成ります。
百姓層(おおみたから)は「自然神」「産土神」「仏教」
支配層は「自然神」「産土神」「仏教」
皇族層は「自然神」「祖先神」「仏教」
朝廷は「自然神」「皇祖神」「神道」「仏教」
以上の様に信仰対象は家柄身分制度の中ではこの様に異なって行ったのです。
百姓層(一般の民)は「氏」を構成しません。構成する概念そのものが無かったのが現実です。
むしろ、そもそも大化期前後は、これから「氏」そのものを作り出して行くと云う過程域であったのです。
4世紀後半には「民族氏」で出来上がった地名からの「氏名」がやっと生まれ始めた時期から未だ200年程度しか経っていないのです。
(現在の時間列:時間感覚と異なる 現在では25-50年以下程度感覚)
信仰の対象神が上記の様にくっきりと分けられてはいますが、だからと云ってこの範囲内で信仰すると云う概念では無かったのです。(曖昧思考原理の時代)
そこには「天皇-民」との繋がりを持つ先ずは「優先の社会概念」があって、「天皇が信じる神」は「民の大元の神」とする概念であったのです。
「天皇が信じる神」=「民の大元の神」=「自然神」 (「万系一途の法」の概念の時代)
「天皇-民の共通する神」はあくまでも「自然神」であり、その「自然神」の中に「産土神」や「祖先神」などの神があり、「民」の各自は「夫々の神」を求めながらも天皇が祭祀する「自然神」に通じていると云う概念なのです。
当然に”天皇個人にも「固有の神」(「皇祖神」)がある”とするのがこの時代の概念なのです。
事程左様に、”それが「皇祖神」であり「祖先神」であった”と云う事なのです。
そしてこれを社会構造の政策の中心に置くと云うメッセージなのです。
従って、直ぐに「祖先神」そのものを信仰対象とする事はありませんが、だからと云って ”信仰の対象としない” と云う考え方は現在の考え方であって、当時は上記した様に合理的に物事を割り切ってスパッと思考を固めると云う概念では無く、物事の境目は”「ラップ思考」で考える”と云う概念でした。
”どちらに属する” 場合に依っては”どちらにも属しない” と云う「曖昧思考」が通常の思考感覚だったのです。
「ラップ思考」+「曖昧思考」=大化期の思考原理
むしろ、スパッと割り切って考える方に対して「悪」「邪道」であるとする思考原理だったのです。
従って、”「神」に対して「人」” の相対する二次元思考ではなく、”「神」と「人」との間には「媒体」とするものが存在する”と云う三次元的思考原理であったのです。
故に、”その「媒体」として「占術する者」が必然的に思考として存在し、当然にその「伝達手段の占術」が必然的に当然の如くに存在する”と云う事が何の疑いも無く信じられていたのです。
現在でも筆者はこの思考の方が社会構造からして正しいと考えていて、然し、科学が近代化するに従い生活環境が激減している中では「相対の二次元思考」の傾向になると考えられます。
まして現代では上記の「予知能力の複眼」が低下した中では、余計に人は二次元思考と成りがちです。
然し、人は本来は曖昧思考として生まれて来ているのです。
古代の人間の営みの中では、生活には「神の意思」を知るには「占術」は無くてはならないものであったのです。それだけにこの時期の「気候変動の飢饉」は「神の意志」であると捉え、余計にこの「飢饉」で苦しめられる”「神の意思」が何であるのか”を当然の事として知りたがるのです。
それだけにより正しく伝えられる占術を選ぼうとする事に人は必然的に成ります。
それが「弥生信仰」から「鬼道信仰」へと変化した経緯の原因であって、終局は”人が生存して行くには「緩やかな政治連合」へと進んで行かねばならないと”自然的と云うか必然的と云うか「人の発露」の流れの中にあったのです。
そもそも「現在人が考える政治連合体」と、「古代人が考える政治連合体」とは、その過程は質的には大いに異なっているのです。つまり上記で論じた思考原理が異なっているのです。
上記の通りこの時代の”政治的に収束して行く流れの中の一つの必然的な現象”であったのです。
だから、「北九州の緩やかな政治連合体」と「関西域の緩やかな連合体」との「広域の政治連合体」を成し得たのです。
「魏志倭人伝」に記載されている様な「血縁性の無い民族的な古代国家集団」30がこの為に政治的な連合体を構築したのです。「大飢饉の解決」を前提にして「神のお告げ」として。そしてその「御告げの手段」は「弥生占術」から素早く決別し「鬼道占術」に切り替えたのです。
その趙著の無い切り替えの素早さは、”「神」に対して「人」” の相対する二次元思考ではなく、”「神」と「人」との間には「媒体」とするものが存在する”と云う三次元的思考原理が働いたからなのです。
これは「宗教的な信念」に依るものではなかったと云う事なのです。
宗教的な事でないが故に、「広域の緩やかな政治連合体」が成し得たのです。
利害は「大飢饉」の事から逃れるを目途として、その「食」を一点にして「鬼道信仰」の「卑弥呼」に賭けたのです。その「心の切り変え」として「銅鐸の破壊」なのです。
当然に、「総称の邪馬台国」の飢饉から「気候変動の300年周期」を経過し脱出した「気候変動」の緩やかな大化期の時期に成った事から、17県民-200万人の後漢の帰化人を受け入れられる食糧事情と成り得ていたのです。当然に、これ等の人口を支え得る全ての分野に進んだ職能を持ち込み、それが一つの補完要素となっていた事は否めません。「食」に対して「生活の質の向上」に対して急激な経済的な変化を遂げたのです。勿論、政治的な質の向上も彼等が持ち込んだ知識で遂げたのです。(冶金技術や木工技術などの上記した事等も現在でも驚くべき基礎技術であるのです。
この「思考原理」に依って6-7世紀の奈良期末期からは「氏家制度」の完成に向ってその対策として「融合氏政策」を推し進めていたところです。
”「神」に対して「人」” の相対する二次元思考ではなく、”「神」と「人」との間には「媒体」とするものが存在する”と云う三次元的思考原理の社会の円熟期には、「緩やかな政治連合体」をより確かな「政治連合体」に発展させるには上記の「人」のあるべき姿を変え「民の構成」を変える必要性が課題として生まれて来たのです。
それは「人のあるべき姿」「民の構成」は「7つの民族」を完結に融合させて一つにする事であり、それには「融合氏の発祥」であった筈なのです。「民族氏の解消」が「緩やかな政治連合体」から「緊密な政治連合体」へと進められる条件であったのです。
邪馬台国の卑弥呼が亡くなり「気候変動の飢饉」が収束に向かい始めた時期のヤマト王権-ヤマト政権-大和朝廷、そして次ぎの時代のステップとして、つまり大和にその主導権が移った時からこの課題に取り組み始めたのです。
(その一つが青木氏-皇祖神-祖先神-神明社-3つの発祥源であった事を本論の主幹点であります。)
前記した様にその取り組みは、 ”天皇の下に「氏」が存在し「姓」が存在し、百姓の下に賤民が存在する” と云う身分と家柄制度を敷いた社会であったのです。
「民の象徴」としての天皇が存在し、その天皇が信仰する「皇祖神」「神明社」に対しては「民」にとっては大本の「民の神」とも成るのです。
皇族系、外戚系の「2つの青木氏」には「神明社」は「祖先神」と成りますが、百姓や支配層の「人民」にも直接は「産土神」を信じながらもその「大本の神」とも捉える思考概念となるのです。
もとより天皇は根本と成る「自然神」を基盤に祭祀し、更には「仏教」を信仰の対象と置いている訳ですから、尚且つ何れにも配慮した中間的な形にした「皇祖神」-「祖先神」の「神明社」を持つ事に成る訳ですから、この「大本の神」とする概念には矛盾が無いのです。
まして、「人民」が一人々に「産土神」を持つ様に、「天皇」も又一人として「祖先神」を持つ事には何の不思議は無いのです。
この「祖先神」の概念は、上記の様に支配層にも配慮しましたが、「氏」の先祖は「仏」である事から「仏教」にも通ずる配慮もしている事に成ります。故に「神仏融合の神」と捉えることが出来るのです。
「祖先神」=「神仏融合の神」
これでは仮に作り出した概念であるとしても「祖先神」に抗する者は出ない事に成ります。
この配慮を考える時、天智・天武の天皇は「大化改新」の驚きを超える膨大な数の改革を行いましたが、この論文に記していないものに次ぎの様なものがあります。
1 「国内の国防システム構築策」(水城・山城・防人・・)
2 「国発展の列島内に網の目の様に廻らしたインフラ整備(駅舎・烽火情報伝達・・)
3 10M以上の広幅の真直線道路(現在より広幅軌道で真直線・現在に劣らない土木工学)
(高軌道の東山道・高軌道の山陽道・高軌道の東海道・高軌道の南海道・高軌道の西海道等)
4 「貨幣経済・和同開珎」(銅と鉄の生産を本格開始 驚くべき冶金・金属技術)
5 「部による市場経済」(説明済み)
6 「物造りの殖産政策」(説明済み)
7 「仏像などに観られる文化政策」(仏教を使って信仰対象を「仏法」にも求めた)
8 「政治機構の改革」(律令の基盤構築)
以上を個々に調べると現在の土木建築工学で観てもその施行原理は劣らない程で驚くものです。
この様な「物造り」は急に大化期に発展したのでは無く、勿論、阿多倍等が率いる後漢の民の職能集団が持ち込んだものなのです。
この混在する「神」の中で ”彼等の全面的な協力を勝ち取った”と云う事だけでもそれだけでも為政者としては十分な能力です。そしてこれだけの発展とこれだけの政策を何と50年間で一挙に行ったのです。
これだけの実績を持つ為政者は現在までに於いて誰一人いません。先ず、出ないでしょう。
恐らく、民はこの2人の天皇に対するものには「神格的な感覚」を持っていたものと見られ、確かに税に対する不満は日本書紀からも伺えますが、国のリーダーとしては「神格性」が生まれたのではないかと考えられるのです。
恐らくこの大化期のこの「神格印象」が後々まで残ったのでは考えています。その「神格天皇」の下に融合氏として青木氏が発祥したのです。
(その「2つの青木氏」がその立場を認識して守り通したと云う事に成ります。上段でも論じた様に、同じ立場にいた賜姓源氏は八幡社を汚し、荘園制を乱し、当然に上記の立場を汚したのです。)
「自然神」-「神の意思」-「神格化した天皇」-「民の神格対象者」-「国家政治」
「自然神」-「鬼道」-「卑弥呼」-「神のお告げ」-「連合政治」
この上記する「邪馬台国」の「自然神」から来た「鬼道」による「占い政治」の感覚が大化期にまで緩やかに引き継がれて来ました。そこに「2人の天皇」の上記する驚くべき政治の改革実績を成した事で、”「神のお告げ」の正確な伝達能力を保有する「神格的な特別の人物」”と「民」は観たのでは無いかと考えられます。
従って、「人民の不満」は何時の世も大なり小なりあるとしても「ラップ思考」+「曖昧思考」=「大化期の思考原理」が働き、「天皇への不満」と云う形では無く、その下の「為政者・皇親政治族」に向けられていたと考えるのが妥当と観ているのです。
確かに、上記の全国網のインフラ整備だけでも「税と労役」(租庸調)の民の負担は限度を超えている事は確かであり、これに上記の大化の政治改革が成されたとすると「税と労役」では無理であります。
何か特別な政策がこれに付随して計画的に実行されないと出来るもので無い事は明々白々です。
”ではそれは何であったか”と云う事に成りますが、私は前記している様に「部による物造りの経済」と「貨幣経済の導入」の連動策にあったと考えています。
これをよりにこの策を効果的にするには基盤と成る「公地公民」制度を敷く事ですから、その財源的裏付が論理的に完全に組まれていたのです。
そして、その改革に依って「民」に「大きな恩恵」をもたらした事で民は重税に納得したのではないかと考えられます。既に阿多倍一門がもたらした職能を民は教わり潤いを得ていた教訓があり、其処に目に見えるように急激に進歩し変化して行く社会のこの「政治改革の実績」を庶民の前に見せられたのです。
百姓は”生活と社会は良くなる”と受け取っていた筈です。
資料や日本書紀の記述からこの「民の印象」を観て見ると、全国から上記のこの建造されつつある広軌道の「直線幹線」を通って「税」を運び、「労役」の為に「伴造」と共に移動するのに「手弁当」であった事が書かれています。又、「税の耕地面積」を広げる代わりに負担対象者が6歳に下げられた事等を見ると、この「手弁当」と「税負担と耕地面積」に意味が隠されています。
悪く捉えれば”過酷で不満たらたら”と成り、良く捉えれば”社会が良くなる。頑張る”と成ります。
現在の学説は前者ですが、私は後者です。前者であればこれだけの改革は困難です。
一つの改革なら未だしも驚くべき改革とその数が実行されているのです。前者である事は無い筈です。
”社会が良い方向に変わる事を夢見て民は苦しいけれど頑張った”と云うのが現実の映像であったのです。
そして、その「民の不満」の「心の拠り所」の手当策として「自然神」に加えて「皇祖神」「祖先神」-「神明社」を創設・建造して行ったのです。
”いつの世も楽して良く成る”は有りません。奈良期の民がこの条理を理解できない「知力」だったのでしょうか。そんな事は有りません。この「インフラ整備の技術」は「現在の土木工学」と寸分違いが無いのですよ。この学説によくある事ですが、何か別の意味が隠されている気がします。
そもそも日本に8000の氏姓が居るけれど、我々「4つの青木氏」だけがこの「後勘の評価云々の渦中」にいますので、”正しく史実の解析結果を子孫に伝えるべきだ”と考えているのです。
学説・通説は直ぐにトップの責任として説を作り上げているのですが、まして、当時の「社会慣習」や「社会構造」や本文の「5つの神」や「大化期の思考原理」(「ラップ思考」+「曖昧思考」)やこの様な「偉大な政治実績」や「神格性を持つ社会」から観て”異なる”と云う感覚を持っているのです。
むしろ、現在から見てもこれだけの改革を成し遂げられる人物は ”「神」に相当する神人の成せる業”と考えられます。まして大化期です。現在より「神格性の強い社会」の中です。
前記した様に、故にこの「2人の天皇」の「偉大さ」が後の天皇の「桓武天皇・嵯峨天皇」と「後三条天皇・白河天皇」に引き継がれて其の「意思の実現」に立ち上がったのだと観ているのです。
この「2人の天皇」そのものを後の天皇は「神格化」に近いものとして扱っていたと考えているのです。真に「自然神」-「お告げ者・神格天皇」-「天智・天武」であったのです。
これが後々まで「自然神」-「鬼道」-「お告げの卑弥呼」から始まりこの2人の業績により「天皇の神格化」の世論が生まれた原因と観ているのです。
事程左様に、「祖先神」を定めた事には反対者は居なかった筈です。しかし、この50年以降には「民族氏」が勢力を拡大して反抗する勢力が出て来たのです。それが「産土神」を信仰対象とする朝廷外に居た後漢の民の阿多倍一族一門とその職能集団なのです。(前記)
この様に「民族氏」を「融合の氏」にする必要性を感じて「氏融合政策」に主導し体制を変えようとしたのです。依って其の為に天皇家が率先して行う事を決めたのです。
そしてその形成された「融合氏」の「氏発祥源・皇族賜姓青木氏」や、同じく「氏発祥源・賜姓藤原氏」等が各地で発祥するに連れて、「民族氏」の「産土神」が混在する中で新しい「融合氏」はそれぞれの「独自の氏」の「安寧と結束」を願って「氏の神」を定めました。
この為に朝廷は天皇家の「守護神」を決める必要があるとして、上記の「天照大神」を祀る神社を「皇祖神-祖先神」としてそれを「神明社」と定めたのです。
そして、皇族から出た「融合氏」の「発祥源」の青木氏に先ずこれを祭らせ護らせたのです。
この事に依って皇族系族は天皇家の「皇祖神」を「祖先神の考え方」で守護神とした事に成るのです。
この役目を負った賜姓青木氏は「神明社」の「伊勢神宮」、そこから守護王が存在する天領地の19の土地に分霊される様に成ります。
それに連れて「融合」が進み、より強く「2の祖先神」が各地に伝播して「産土神」に対抗する形で変化して行ったのです。
この変化は「守護神」が代わったと云う事だけでは無く、「考え方」そのものが変わって行ったと云う事になるのです。
天智天皇は「融合氏」を増やす事そのものを目的としたのではなく「融合氏」を増やす事で「民の考え方」を変え様としたのです。其の考え方が「祖先神の考え方」なのです。
これに依って「産土神の考え方」から来る「共和の世の形」を防ぎ、この「考え方」を増やして「国の安寧と安定」が図られると考えたのです。
其の為には論理的に次ぎの「2つの事」が必要に成ります。
第1策
先ず一つはそれはその「祖先神の考え方」を持つ「氏」を多く速く作り出す事、”皇族系の純血を護ってきたが最早その場合では無い”として、それを率先して天皇家から出自する事が「融合の政策促進」と「民の合意」が得られると考えたのです。
当然に、皇位継承問題で大蔵と内蔵ともに経済的負担が大きいとする通説の理由は勿論の事、上記の「産土神の考え方」の蔓延で危機感を感じていて「体制維持」が困難と観ていた事も大きく理由の一つとして占めていたと筆者は考えているのです。
これは放置できる問題では明らかに無い筈で彼等の進んだ技能と知識を享受している在来民は「産土神の考え方」になると「天皇家の存在価値」は薄らぎ明らかに低下する筈です。
そこで、皇位継承制度を次ぎの様に変更したのです。
それまでは「第6世族までを順位に応じて次ぎの1から4の権利を有する」としていました。
1 第4世第4位皇子に皇位継承権
2 第6位皇子を賜姓臣下させ近衛府軍に
3 第6世族を「ひら族」にして坂東防衛に
4 第4世族までを守護王位にして配置
これが2番の第6位皇子の「融合氏の青木氏」であり、3番の皇族系の「第6・7世族の融合氏」であり、第4番の各地の天領地の「第4世族守護王の融合氏」なのです。
第6世族で皇族・純血の枠の中に閉じ込め下族を許さなかった制度を大化期には一挙に開放している事が判ります。
決して通説の「経済的負担」だけを主とするものでは無く、「体制維持の危機感」から「融合氏の排出」が国策として必要であったのです。
「経済的負担」とするのならば、第6世族のままで1から4を実行すればよい筈です。何も分ける必要は無い筈です。
現に、「嵯峨天皇」は150年後にある一定の危機が去ったとして、嵯峨期の詔勅・「弘仁の詔」でこの制度を「第4世族」を「第6世族」まで緩めているの事でも証明出来ます。
第2策
第1策を実行した上で、次ぎにはそれの「象徴物」を造り、そこに「民の心(不安定な心)」を引き付ける為の「産土神の考え方」を抑えて「祖先神の考え方」を象徴する物体を造る事に成ります。
つまり、これが「神明社」なのです。
この「神明社」の「伊勢神宮」の元と成った宮社の鎮座地は下記に示しますが、実は元々からこの伊勢松阪には鎮座していなかったのです。
元は「自然神」の祭祀であった事から大和の皇居内に鎮座していたのです。
しかし、崇神天皇が皇居内に鎮座する事は好ましくないとして13の国と81の鎮座地を遍歴させて90年後の天智天武期(670-675年頃)にこの伊勢松阪の位置に定めた経歴があるのです。
とすると、この81もの遍歴は”皇居内の祭祀は好ましくない”とした通説には多少疑問が残ります。
兎も角も遍歴地と国と年数に疑問が出て来ます。
後漢の民が渡来した時期の第1陣は618年を境に100年間と見ますと次ぎの様に成ります。
大量に入国した時期
渡来開始期は後漢から魏に成った時230-35年頃
第1陣は570-80年頃
第2陣は670-80年頃
阿多倍の帰化時期は645年 孝徳天皇期
天智天武期670-675年から逆算すると90年間では580-585年から開始し、675年頃で比定地に定まったと成ります。
経緯
洛陽の東の住していた後漢民が唐に圧迫された隋が東に逃れ後漢の民を圧迫(高句麗遠征)し、隋滅亡期の618年頃前後に後漢の民の大難民と隋建国581年とほぼ一致します。
第1陣の前には隋に圧迫され始めて徐々に難民として上陸した時期は10年程度と見られますが、「後漢」が「魏」に引き継がれた時期235年前後頃にも後漢の民は一部北九州に押し寄せます。
この事から鎮座地の遍歴は何も”皇居内の祭祀は好ましくない””「適地探索」”の通説だけでは無かった事を意味します。
つまり、高句麗遠征に依って「後漢の民」が難民として入国し、上記した国内の「産土神の考え方の蔓延」に対してこの時期から既に懸念されてい他のです。
この対策として大和の近隣国の13の国々と80の地域に「自然神の皇祖神の祭祀宮」を建てて「産土神の蔓延」をこの地域だけには留まる事を狙って押さえにかかったのではと考えられます。
そして、その対策の考え方が引き継がれて天智天武の「伊勢神宮を皇祖神」として正式に決め、上記する「融合氏の国策3策」を展開したのです。
引き続き「皇位継承制度」に基づく1から4の地域を鎮座地として定め、19の地域に「神明社」を建立して、合わせて「100の神明社」の分霊を急いで建立したと考えられます。
この間約30年間で実行したのです。
この説からすると、合わせて「100の鎮座地」の「神明社」を「120年」(30+90)で天領地とされる全ての地域に建立した事に成ります。
これが天智天武の大化期に於いて成された事に成ります。
何と1年に1社の速さです。この時期の建設速度の能力からすると現在でも神社仏閣は1年程度弱と見られますので如何に早い事が考えられます。
通説とするのであればこの様な速さと行動は取らない筈です。
間違いなく「産土神」への危機感を抱いて「融合氏3策」(1)と「神明社建立策」(2)と「祖先神の普及」(3)を懸命に図ったと観ているのです。
何時の世も世の中の事は通説のような簡単な事では動いていない筈です。
ですから、この上記「3つの策」(1~3)が政策的に連動して行われ、皇族系の「融合氏」が守護を務める全ての地域には、その象徴として「祖先神」の「神明社」を建立して行ったのです。
ですから、「第6位皇子の5つの天領地」と「第4世族内の朝臣族・宿禰族の定住域」と「第6・7世族のひら族の配置した地域」の「3つの地域」には、前段で論じた様に強く「祖先神の考え方」と多くの「神明社」が存在する事に成ります。
「関西全域」と「5家5流の土地」と其の周囲、「坂東域」とに多く観られ、この「3つの地域」の「氏の融合地域」(出羽・新潟等)に確認できるのです。(神明社の分布と資料参照)
しかし、この坂東域は「坂東八平氏」(ひら族)として「融合氏」を拡げます。
更にこの坂東には皇族の者が罪を得た時に配流先と定められていた為に、そこには「配流孫」と云う「融合氏」が発祥しているのです。
しかし、ここには平安中期から末期に阿多倍一族一門が勢力を拡大し「坂東八平氏」の「融合族」は一時衰退するのです。
後に、平安末期にはこの「配流孫」は最初は地域の土豪の氏名を名乗り、「嵯峨期の詔勅」が発布されるに基づき「青木氏」を名乗る事になります。
「多治彦王の配流孫」の「丹治氏系青木氏」 「真人族島左大臣」の「配流氏の青木氏」の「2つの皇族青木氏」が発祥しています。
前記した様に阿多倍一族一門とその支配下の技能集団の分布が出羽・陸奥の地域まで進出している事から観ても、「産土神の伝播」は西北の広範囲に及び、国土の大占有は元より感覚概念の点でも蔓延していたのです。(前段で内蔵氏-阿倍氏-安倍氏の段で論じた)
筆者は、”関西関東域の範囲で戦略的に固める戦略戦術の作戦を先ず採って、西と北を各個攻撃で潰して行き、そして潰したところから皇族系に近い融合氏を配置し、そこに関西域と同じ様に「神明社」を建立し、「産土神」を排除して「神明信仰」を浸透させる戦略を採った” と観ているのです。
しかし、九州域だけは国内に「荘園制の行き過ぎ問題」が起こり、「土地の私有化問題」も出てしまい、阿多倍一族一門の本領の「関西以西の神明社化」が果し得なかったのです。
蔓延が進み、最早、「九州域の自治」を認めるしか方法は無かった状況であったのです。
「神明社の分布」は全くこの政治的経緯のパターンに成っているのです。
因って、建立できる状況ではなかった事を意味し、兵庫西域から九州全域に掛けて分霊による神明社は見事に全く無しであります。
(詳細は資料参照)
この神明社の分布域は完全に「全ての青木氏に関わる地域」(A)と「皇族系の何らかの縁の地域」(B)にあります。
その分布数も「縁の大小」に比例しています。又、建立時期もその「縁の古さ」に比例しています。
特に分布の低い地域の特長としては、「産土神の地域」と「阿多倍地族一門の地域」を中心とする出雲大社域、厳島神社域(たいら族)、住吉大社域、阿蘇神社域、宗像神社域、熊野神社域、八幡神社域(源氏)、春日大社域(藤原氏)の社領域に一致しています。
この領域には当然の事として「神明信仰」は余り広がらなかった事を物語ります。
「神明社の縁の地」
A「5家5流皇族賜姓族青木氏24氏」
B「嵯峨期の詔勅の皇族系青木氏と配流孫青木氏5氏」
C「藤原秀郷流青木氏24地方119氏」
D「皇族系第6・7世族のひら族 坂東八平氏」
E「上記の歴史的史実の縁の地」
F「一部の近江佐々木氏 始祖川島皇子」
この様に其の出自に依っても「産土神」や「祖先神」に付いても、当然に”その「氏姓」の「信仰対象」が何であったか””その出自地が何処であるか”でもそのルーツがよく判る事に成ります。
当然に、「2つの青木氏」は「独自の神明社」を持っている事に成りますので、この「青木氏の神官職」も多い事に成り、その「多さの分布」もこの「神明社の分布」に比例する事に成ります。
下記の分霊地の神明社には「神官職」と共に、その建造に当たる「職人の襲名青木氏」も必ず存在しているのです。
ただ、この場合は派遣する形を採るので、初期は伊勢を始めとする「5家5流の地」と「武蔵の地域」と成っていましたが、それ以外にも秋田、新潟、等にも定住しているのです。
この「神明社分布」は「青木氏」を物語る指標にも成るのです。
(「民族氏」=「産土神」)→(「祖先神」=「国の安寧と安定」)→(「融合氏」+「神明社」)
「人の単位」→「氏の単位」
上記しましたが、改めて県単位での建立地とその数を重記します。
「神明社の分布」
北海道 2 青森 13 秋田 26+7 岩手 11 山形 15 宮城 14 新潟 55+6
福島 9 栃木 12+2 茨城 8+1 千葉 22 群馬 12+2 埼玉 15 東京 30
神奈川 9+2 静岡 18 長野 13+2 山梨 69+3 岐阜 31 愛知 33
富山 32+1 石川 1+1 福井 8 滋賀 3 三重 5 奈良 1 京都 2 和歌山 2
大阪 1 兵庫 11 鳥取 0 岡山 1 島根 0+1 広島 2+4 山口 1 徳島 3 香川 1 愛媛 2 高知 4 佐賀 1 長崎 1 熊本 1 大分 宮崎 4
鹿児島 0+3
以上「566戸数」に成る。
以下も前段で論じたものです。
「分布域の分析」
東山道-東北北陸 6県-105-18.6%
建設地域 戸数 /地域 /全国
青森(陸奥) 13 12.4 2.3
秋田(羽後) 26+7 31.4 5.8
山形(羽前) 15 14.3 2.8
岩手(陸中) 11 10.5 1.9
宮城(陸前) 14 13.3 2.5
福島(岩代) 9 8.6 1.6
東山道-中部域 6県-145-25.6%
栃木(下野) 12+2 9.7 2.5
群馬(上野) 12+2 9.7 2.5
山梨(甲斐) 69+3 49.7 12.7
長野(信濃) 13+2 10.3 2.7
岐阜(美濃) 31 21.4 5.5
北陸道域 4県-104-18.4%
新潟(越後) 55+6 58.7 10.8
富山(越中) 32+1 31.7 5.8
石川(能登) 1+1 1.9 0.0
福井(越前) 8 7.7 1.4
東海道域 8県-154-27.2%
茨城(常陸) 8+1 5.8 1.6
千葉(下総) 22 14.3 3.9
埼玉(武蔵) 31 20.1 5.5
東京(武蔵) 30 19.5 5.3
神奈川(相模)9+2 7.1 1.9
静岡(駿河) 18 11.7 3.2
愛知(尾張) 33 21.4 5.8
畿内域 4県-13-0.2%
三重(伊勢) 5 38.5 0.0
奈良(大和) 1 7.7 0.0
大阪(摂津) 1 7.7 0.0
京都(近江) 2 15.4 0.0
和歌山(紀伊)2 15.4 0.0
滋賀(近江) 3 23.1 0.0
山陽道 4県-19-0.3
兵庫(播磨) 11 57.9 1.9
岡山(美作) 1 5.3 0.0
広島(安芸) 2+4 31.6 0.0
山口(周防) 1 5.3 0.0
山陰道 2県-2-0.0%
鳥取(伯鰭) 1 0.0
島根(出雲) 0+1 0.0
南海道 4県-11-0.2%
徳島(阿波) 4 36.4 0.0
香川(讃岐) 1 9.1 0.0
愛媛(伊予) 2 18.2 0.0
高知(土佐) 4 36.4 0.0
西海道 7県-13-0.2%
福岡(筑前)1 7.7 0.0
佐賀(筑後)1 7.7 0.0
長崎(肥前)1 7.7 0.0
熊本(肥後)1 7.7 0.0
大分(豊前)1 7.7 0.0
宮崎(日向)4 30.8 0.0
鹿児島(薩摩)0+4 30.8 0.0
北海道 0
沖縄 0
(+は分霊に疑問 大化期以降の神明社 県と国の違いあり 建立時期は参拝に影響する為に明らかにしていない調査不能 一部に室町末期と伊勢詣の江戸期含む可能性あり 原則室町中期までの建立物とする 建築様式から判別 祠は含まず 県域と国域は一致せず存在地優先 分霊外と支社外は含まず)
さて、上記でも論じましたが、次ぎに再び「氏神」に付いて追記します。
「氏神」
「人の神」ではなく、「氏のみの一族一門の神」で、氏永代に守護する「氏(独善)の神」
実は上記した経緯の数式には一時突然に変異が起こったのです。
実は現在までの間に、特に鎌倉期にはこの「4つの神」が混同されて同じ扱いや間違いを起こし始めたのです。(上記で論じた)
3つ目の「氏神」は ”「氏のみの一族一門の神」で、氏永代に守護する「氏(独善)の神」” であるのですが、これが「祖先神」から「鎮守神」までもいれて「氏神」と呼称された一時期があったのです。
これは平安期の「仕来り」が崩れ、「民族氏」が1018年以降に他氏との「融合」が進み、「融合氏2」(第2の融合氏)と変化し「融合氏1」との差が見えなくなった事と、多くの品部が「姓氏」と成り、中には「氏」と成って勢力を拡大した事で「氏」の見極めが困難と成った事から同じ扱いと考えられたのです。
「融合氏2」(第2の融合氏)
「融合氏1」(2つの青木氏)
「姓氏」(職能集団 等)
しかし、鎌倉幕府の政策が「平安期の社会体制」を基盤として「武家の体制」を作り上げて行った事から次第に夫々の「神」を守護神とする様に戻って行ったのです。
そして、鎌倉末期から室町期に入ると激しい「下克上」が起こり、「姓氏族」が支配していた多くの「氏族」は平安期の中期の状態まで減少して潰されて行きます。
「民族氏社会」-「氏族社会」-「武家社会」-「下克上社会」-「姓氏族」
逆に家長・家人・郎党であった者等の反乱で「姓氏族」を興した一族が増えて行ったのです。
「姓氏族」から「氏」を興した者が結局、「産土神」や「祖先神」でも家柄身分の差から「守護神」と出来ずに、結局、総称的に呼称されていた「氏神」を「3つ目の氏神」としたのです。
つまり、「氏のみの一族一門の神」で、氏永代に守護する「氏(独善)の神」の考え方です。
従って、「氏」としての歴史が無い為に「独善の神」としたのです。
この「姓氏族」が結果として大半を占めた事から既成の事実として「3つ目の氏神」が生まれたのです。
しかし、この「神」は「時代の変化」と共に変化して行きます。
天智天皇に依って賜姓を受けた「藤原氏」は「春日社」を定めました。
当初、奈良期前は「民族氏」であった事から「民族性」が強く、その「信仰の概念」は血縁以前に「人」の単位で考えられ、個人自らの1の「産土神」の「神」としての位置づけであったのです。
しかし、奈良期の大化期からは「融合氏」の初期政策が進むにつれて「氏族社会」(氏家社会)が起り、「人の単位」と血縁の「氏の単位」へと変化する過程の中で、「人の単位」と「氏の単位」とが重複融合された2の「祖先神(祖霊)」の「神」へと変化して行ったのです。以降この過程の変化であったのです。
「人の単位」+「氏の単位」=「祖先神(祖霊)」
しかし、平安期初期に成ると、「第1の融合氏」が拡大し、それに伴って「人の信仰概念」は「民族氏」を保持する阿多倍一族一門の「産土神」の概念を遺しながらも「人の単位」の考え方が徐々に消え失せて完全に「氏・姓の単位」に移行してしまったのです。
(「氏の単位」=「祖先神(祖霊)」:氏家制度)
平安中期に成ると「氏の単位」+(「姓の単位」)=氏家制度と成ります。
これが新たに生まれた3の「氏神」(うじがみ)の信仰と成るのです。
但し、民の領域では土地に恩恵を受けて生きる環境から「自然神」-「産土神」が依然として残っていたのです。
そして、平安中期からでは「渡来人意識」、平安末期1020年頃を境に人々から「民族氏的な概念」がほぼ一部(九州南部)を残して消えて終います。
大化期2始まった「氏の融合策」の浸透に依って「姓氏」の初期の発祥も伴い、「融合氏」が「普通の集合体」として「荘園制の拡大」の影響と共に各地に分散します。
そして、その分散が氏の更なる枝葉の「末梢子孫の細分化」が起こり定着します。
その定着地の土地・地域全域に対する愛着から「氏神の考え方」に観られる様に「土地・地域に対する概念の信仰」が強まります。
大元の「氏神」が存在する中で、平安期中期頃から末期にかけて「土地の神」の4の「鎮守神」(ちんじゅのかみ)の信仰が初期の信仰として起こり始めたのです。
そして、平安末期後半には「氏の融合」と同じく、「氏神信仰」と「鎮守神信仰」との「神の共存」と「神の融合」が起り、遂には、「神の競合」も起こる状況と成ったのです。
つまり、「神の共存」と「神の融合」か起ると、「民族氏」の社会の中では「人」であったものが、次ぎの”「人」→「融合氏」”の変化の社会の中では、「氏」は”集団の「氏」→多集団の「氏」”の社会と成り、その中では「人」→「土地・地域」へと変化して行ったのです。
例えば、
「皇族賜姓青木氏」は「皇祖神-祖先神-氏上信仰」の「神明社」伊勢神宮の1つの信仰対象
「藤原氏一門」は「春日社」の「鎮守神」と「祖先神」の2つの信仰対象
が生まれたのです。
これはそれぞれの「氏の持つ特殊性」が左右しているのです。
「皇族賜姓青木氏」は5家5流から成りますが、限定された「小地域」(5)であり「融合氏」と「皇祖神-祖先神」であるが為に、藤原氏の様な「重複の信仰」は不義として成し得なかったのです。
それに引き換え、藤原氏、特に「秀郷流青木氏」は「各地」(24)に氏を融合させ119氏とも成り、枝葉の末梢子孫が生まれたことから「自由性」「特異性」が拡大します。
この為に「各地の事情」を含有して「重複で複数の信仰対象」が生まれたものです。
つまり、その「氏」の置かれた「人と土地」の「環境下」では下記の「4つの信仰対象」が異なり、1や2の「古い神の信仰の温存」や「神の共存」などが起こったのです。
その意味で藤原氏の一部には下記の様に「初期の鎮守神」を守護神とする「春日社」もあるのです。
奈良期から悠久の歴史を持ち最大の末梢子孫を持つ藤原氏北家ならではの事です。
その「鎮守神」の経緯について追記しておきます。
「鎮守神」
「現在住んでいる土地・地域の守り神」であり、「土地・地域」を守る「土地・地域の神」であり、人はその土地・地域に吸収されるとした「土地・地域優先の神」
鎌倉期以降、「氏神」はそもそも、「融合氏」の枝葉の末梢子孫が各地で生まれ、その土地・地域に根着き、そこに「氏」の守護神と成る「独善の神」を祭祀したものなのですが、更にその「氏」の枝葉の末梢子孫が細分化されて「姓単位」の「土地・地域」に根着いた土豪が生まれたのです。
この多くは「百姓」から身を興して土豪となった者達で、傍ら農業も行うとする今で言う「兼業姓氏」であったのです。村単位の土豪姓が生まれたのです。その為に特に「土地・地域」に拘る守護神を求めたのです。
「姓氏」の種類
「品部」から発祥した「姓氏」(1)
「融合氏」の末梢集団から発祥した「姓氏」(2)
「民族氏」から発祥した「姓氏」(3)
(1)(2)(3)とは異なりこの土豪等が集まり血縁性の無い集団を構築します。
「連合防衛集団」の「姓氏」(4)
以上の「4つの姓氏」が各地で出来上がったのです。
”「氏」でも無く「姓氏」でも無く、百姓でも無い”とする集団が自らの農耕の土地・地域に対して「守護神」を求めたのです。これが元来の「鎮守神」なのです。
ところが、これ等とは異なり藤原一門の「鎮守神」(2)-Aはこの各地に定住した藤原氏の枝葉の末梢子孫が守護神としたのです。確かに藤原氏の各地方の土着の枝葉の末梢子孫であり「土地・地域」の特長も持つ為に藤原氏の役職上も兼ね備えた「鎮守」を併せ持つ守護神が生まれたのです。
秀郷一門では陸奥域に於いて「鎮守府将軍」と成って長い間赴任し、その地域に枝葉の末梢子孫を遺しますが、この関東以北の「鎮守府将軍」系列の枝葉の末梢子孫(2)-Bが「土地・地域」に拘らない本来の「鎮守神」とした「守護神」も存在するのです。
そもそも後には、「鎮守の森の神様」と歌でも歌われる「庶民性」のある「神」なのですが、その性格から各地に分散する「小域の土地」の「鎮守神」と成ります。
(2)-A、Bの元来の「鎮守神」と異なり、(1)(3)(4)にしても多くは藤原一門一族の何らかの大小の血縁性を持つ一部に引き継ぐ「姓氏」でありますので、その縁と絆を下に「元来の鎮守神」に小さい単位の「人・土地・地域・農耕」の「4つの思考要素」を加えた「守護神」を造り上げたのです。
当然に、多くは農耕に携わるそれらの者達は血縁性が有っても「戸籍概念」が元より無かった為に近い範囲の親族・縁者・村人の範囲の「神」とも成る「守護神」であったのです。
この為に「4つの思考要素」の共通点を持つ事からそれらが集まり(4)の小集団の「相互防衛」の連合組織を鎮守社の旗の下に構築する為に独自に「鎮守神」を造ると云う事も各地で起こったのです。
ここで、初めて「自然神」が上記した様に変化して、「融合の最終の結果」は(4)の様に再び「民の神」として「産土神の考え方]に近い”人・土地に根着く「神」”へと戻ったのです。
これ等の枝葉の末梢子孫が後には農業に関わる「庄屋・名主・豪農」と成って「鎮守神」を護っていったのです。所謂、「村の鎮守様」であり江戸期には何時しか「鎮守神」は「農民の守り神」にも成り得ていたのです。
ここに一つ変化が起こります。
姓氏の(1)は「産土神」
姓氏の(2)は「祖先神」
姓氏の(3)は「氏神」
姓氏の(4)は「鎮守神」
(3)の姓氏は「民族氏」が基であった為によりその出自がはっきりしません。そこでかれらはその周囲の神社の氏子として集まり「氏子集団」が結成されていったのです。
ですから、この「氏子集団」には「氏神の氏子集団」と上記する「鎮守神の氏子集団」とが生まれた事に成ります。
特に(3)には、阿多倍一族一門の「民族氏の末裔」と観られる「氏姓族」が多い九州地方と中国地方に限定して存在するのです。
「古い神社」にはこの集団が結成されて「広域の土地地域」を一つのエリヤーとして(3)(1)の「氏神」と成っています。
それらは主なものとして次ぎの大社を創り出しました。
阿蘇大社、宗像神社、出雲大社、住吉大社、吉田神社、宇佐神宮、吉備津神社、厳島神社、等
中には(1234)を全て兼ね備える「神」とするものも有りますが、これ等は歴史的な建立時期が殆ど明確にされていません。恐らくは室町末期から江戸期に掛けての神社と見られますので、正しい検証出来る期間を超えています。
「鎮守神の姓氏族」と観られていても巨大豪族も中には有り、(3)(4)を兼ね備えていて「祖先神」の様に明確に線引きをする事は困難です。これ等の豪族は概ね室町末期からの族であります。
室町末期の「武士」として観た場合は「一所懸命」の言葉通りに判断すると「鎮守神」と考えられます。
「神明社 祖先神」
さて、「祖先神」とする氏が限定されている中では、当然にそのルーツも明確でありますが、特にこの「祖先神」の「青木氏」に限りその氏の「氏上」と「氏人」(家長、家人、郎党)と「百姓」と「品部の職能集団」等がこの「祖先神」を「氏上の神」として集団で崇める事に成ります。
「神明社」はこの「祖先神」の「4つの青木氏」の「氏の神」なのです。
前段で論じた「2つの血縁青木氏」に「2つの無血縁青木氏」「(2つの絆の青木氏」)が存在すると論じましたが、この「2つの無血縁の青木氏」も「氏人 家人」として主筋の神明社を崇めたのです。
例えば、判りやすい例として先ず一つは信濃皇族賜姓青木氏(神明社)の分家の諏訪族青木氏は、「諏訪神社」を「祖先神」としてその氏一族郎党・諏訪村民がこの諏訪神社(産土神)を守護神としますが、賜姓族の「氏人、家人、郎党」であるので「神明社」が主の守護神と成ります。
その二つ目は「2つの青木氏」にはその「3つの発祥源」の役目を支える職能集団が存在しましたが、この職能集団も神明社を崇めたのです。
(信濃の賜姓族系の諏訪族青木氏・と武田氏系諏訪族青木氏は、賜姓信濃青木氏の分家が2代続きで男系跡目が出来ず女系となり養子先諏訪族の系列に入った氏、その諏訪族青木氏の分家が武田氏から養子を取り同じく男系跡目が叶わず武田氏系列に入った氏が武田氏系諏訪族青木氏 諏訪族は後漢の民の馬部の末裔1400年以上 元は「産土神」 日本書紀記述)
そこで、「神明社」は「氏」と「民」を「安寧と安定」に導いてくれる「神」ではあるのですが、そもそも”「安寧」・「安定」とは何を以って安寧・安定とするのか”と成ります。
当時としてはその社会環境からすると、その答えは生きている者の「安寧」・「安定」とは「子孫存続・生活の安定」である筈です。現在とはこの様に少し違っていた筈です
そうすると”その「子孫存続」と「生活の安定」とは何に依って叶えられるのか”と成ります。
この世の生きている世界に於いてその根幹は「食」を得ずして成せるものではない筈、そうすると人の行動としては”何かを生み出しそれを糧にする事”にある筈です。
それは上記した様に「7つの民族」に依っても上記した様に大化期前はその思考原理が異なっていたのですから、「融合民族」の日本人と成り得た平安期の嵯峨期頃では何になるのかと云う事に成ります。
それが、”古来より天智天皇期の頃から「物造り」にあった”と考えていて、それを”「守護神の神明社」にあるとしていたのではないか”と云う事です。
つまり、だから人は ”「物造り」の祈願を神明社の神に願いをかけていた”と云う事に成ります。
”果たしてそうだったのだろうか”検証してみる事にします。
「部曲(かきべ)」等に依って生み出される産物は当然の事として、この産物だけでは「生活の安定」と云う定義には成りません。そもそも「市場経済」が未発達な物々交換を主体としていた時期の判断としては無理が伴ないます。勿論「生きる」という定義では成り立つ事ですが、これは仏教の範疇です。
そうすると仏教の思考ではないとすると、「神」に祈願するとなると「生活の安定」と成ります。
「自然神」の「自然の恵み」を得て得られる産物から、それを加工する「物造り」(付加価値)、つまり「第1次産業」がこれに連動しなければこの時代の定義とは成り得ない筈です。
「生きる」-「自然神の恵み」(「産土神」)→「生活の安定」-「物造り」(「祖先神」)
そこを天智・天武天皇が考えて「物造り」(付加価値品)を「経済生産の根幹」に据えたのです。
それを「自然神」から生まれた「祖先神」に課せ、「大化改新」の政策の実現の為には当然に物造り(付加価値品)が必須条件でそれは上記の関係式であった筈です。
「皇祖神」として「自然神の祭祀」を天皇家が受け継いで300年、それを”神明社で全て執り行う”と云う形に進化させて構築したのです。「自然神」を根幹とする「鬼道信仰」の「占術の御告げ」の具現化を「物造りの神」として創造して、「自然の恵み」に「付加価値」を付けて「神の恵み」が民に現実のものとして伝わるようにしたのです。ただ御告げで天候に注意して農耕だけをするのではなく、より高い「神の恵み」を「付加価値品」で与えようとしたのです。この政策の為には「豊受大明神」を伊勢大社に鎮座させる必要があったのです。
この様に「五穀豊穣の祈願-(自然神)」と、「物造りの祈願-(祖先神)」の両方を祈祷・祈願する「祖先神-神明社・皇祖神-伊勢大社」を造り上げたのです。
前段で論じた様に、「皇族系の融合氏・祖先神」の「各地の神明社」がこれを執り行う祭祀と一致させたのです。
「五穀豊穣・自然神」+「物造り祈願・祖先神」=「神明社の祭祀」=「自然神・伊勢神宮・皇祖神」
∴(皇祖神・自然神)=(祖先神・神明社)
以上の関係が成り立ちます。
この時期に「祖先神」を創造した時に「皇祖神」との親子関係から「神明社」に於いて「物造りを願う行為」を祭祀の一つとして加えたのです。依って結局は「祖先神」は「物造り」と同様に政策実現の必須条件と成り得たのです。故に「桓武天皇」が以北地方に政策として「20箇所の神明社」を稚友の坂上田村麻呂に命じて建立した事を物語ります。
故に「物造り」(政策 付加価値品)は必ずしも「自然神の農耕の恵み」と云う事には成らないのです。
「農耕の恵み」+「付加価値」=「物造り」
大化期では「自然神-鬼道信仰」をより具体性のある占術だけではない信仰に変化させたのです。
「国家の信仰」としての「祖先神-神明社」で祭祀を執り行う以上は具現化の必要性があったのです。
しかし、一方ではその「鬼道信仰」の形を遺す為に斎蔵の中に阿倍、卜部等の鬼道に関わる職能官僚を朝廷内に作り、平安期には陰陽師なる役職を残したのです。
これは「鬼道信仰」の内容を細分化してそれを担う部署や役職や社種を造り上げたのです。要するに上記した具現化であり政策化であります。その中で最も主点であり重点を置いたのが「皇祖神-祖先神-神明社-青木氏」の役割であったのです。
それは又、上記した天智天武の天皇の鬼道や産土神の考え方から来る危惧の政策実現でもあったのであり、信仰としても占術に頼らないより現実味のある一段上位の信仰を狙ったとも考えられます。
この具現化、政策化だけでは「民の生活」との繋がりに欠けるところから神明社には「生活の神」を付加したのです。
これは「豊受大明神」の御利益には「物造りに依って得られる豊かさ」と「生活の安全安心がもたらす豊かさ」の二つに分けられます。この「2つの具現化」でもあったのです。「鬼道信仰の具現化」に付いてこれ程に深化し尽くされている事に驚きです。
それまでは「生活の安定」=「家内安全・氏の安全の祈願」は、「祖先神」の定義である”「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、 「自分の集合」である一族一門の子孫の「守護神の重複性も持つ神」”の思考原理から考えると、これは上記の関係式と一致する事と成ります。
「物造りの神」と「生活の神」の「祖先神-神明社」の存在意義の実現にはこの思考原理に真に一致しています。
現在に於いて各神社に於いて普通に「家内安全・氏の安全の祈願」をする習慣・感覚・概念は、次ぎの「時」に起こった習慣であった事に成ります。
「祖先神」と「皇祖神」が創造される前はその根幹は「自然神」であるのですから、特定に「氏」や「民」が「社」を構えて各地で盛んに自由に祭祀し祈願すると云う習慣ではなかった筈です。
それは「特定の場所」、「特定の人物」に依って代理的に一箇所で「鬼道」として「祈祷」されていた習慣であったのです。
依って「祖先神」-「皇祖神」として明確に確立した「仕来り」として、”広域の各所で夫々の祭祀者が「祈祷・祈願」を行う” と言う形式は自然神の限定した特定の場所に於いて行う自然神と異なり「天智天武天皇の決断」に依って起こった事に成ります。
依って、「物造りの政策」の実現は「皇祖神-祖先神-神明社」に特別に委ねた行為であった事に成ります。確かに「物造り」は前段で論じた「自然神の思考原理」からすれば自然の行為の壱物である事は否めませんが、これを発展させた政策として一つのものに確立して「祖先神-神明社」に課せた行為は自然神とは成り得ません。
大化期には自然神から学び、その自然を活用する行為を確立して、それを宗教的理念として、更には政策として、神明社の一つの存在意義として確立させたのです。
当時としては、前段で論じた宗教の位置付けから考えると、異常とも思える宗教目的であったと考えられます。それだけに、「民」は「神明社」に新鮮さを感じ崇め信頼したのです。
そしてそれを各地に建立して行ったのですから、「民」はそれまでの「自然神」の延長の「鬼道信仰」から脱却し ”新たな宗教体が誕生した”として、それを観て「弥生信仰」を見放し「鬼道信仰」へと進んだ様に、更には「神明社信仰」へと「心の切り替え」を果たさせたのです。
この意味で天智天武の政治的な政策目的は最終的には果たせたのです。
(特記 この政策実現に関わったのが日本書紀にも詳しく記載されている青木氏の始祖施基皇子であったのです。日本書紀と青木氏の論文参照)
そしてそれは次ぎの時期から起こった事に成ります。
(神明社の神官に青木氏が多い事もこの事を証明出来るのです)
「大化改新」の政策決定が成された時
「祖先神」が創造された時
「融合氏」が発祥させた時
「賜姓青木氏」が発祥した時
「皇祖神」が発祥した時
「神明社」が建立された時
「武家」が発祥した時
「侍」が発祥した時
「生活の安定」=「家内安全・氏の安全祈願」=「物造り祈願」(付加価値祈願)
天智・天武天皇の改新の政策は以上の数式が成り立つと事を基盤にしていた事に成ります。
そして、これを次ぎの数式の政策数式に創り上げた事に成ります。
「皇祖神」=「神明社」=「祖先神」=「融合氏」→「物造り祈願」(付加価値祈願)+「生活の安寧祈願」
「神明社」の祭祀の様子を観察すると、「農業」とするより「物造りを願う行為」と観られる祭祀動作が名残として沢山確認出来ます。
その一つとして農産物・海産物の「御供え」そのものに限らず、それらの加工品や酒、味噌、醤油、中には木製加工品、鉄金属製加工品、等の地域の殖産物のお供えと祈願行為はこの名残から起こったものである事が判ります。付加価値品の表現なのです。
(「祈祷」と云う言語はこの「鬼道」の言語の変化では無いかと考えられています)
この様に「神明社」に於いては「自然神の祈願」のみならず大化期の政策の「物造り祈願」」(付加価値祈願)の反映が大きく確認出来るのです。
勿論、「生活の安寧祈願」も御利益の一つであります。
この時以来、5代の天皇の第6位皇子と19人の第4世族皇子は臣下して主要地の守護王と成り、そこにこの「皇祖神」の支社と祖先神の神明社を守護地に建立しました。これが各地に広まる原因となり、支社から更に各地に分社が広まりました。
この「皇祖神」の支社の「神明神社」、又は「神明社」が奈良期と平安期に於いて先ず何処に「分霊」されたのかを記します。(前段で論じた)
これ等はある一定の「括り」がありその内容からまず記述します。
これはなかなか面倒な研究で、規模から観てざっと拾い出してまとめると1万5000位あり、中には祠や併社などがあり、時代性から観てもその殆どが1500年代以後のものが多く所謂「お伊勢参り」の流行から広まったものです。
皇祖神の神明社の「神明信仰」の広まりを観察すると、次ぎの3つに分けられます。
奈良期
先ず第1期は、上記した19人の第4世族の守護地に伊勢神宮の分霊を近畿圏に朝廷は行った時期の奈良期。
平安期
次ぎに第2期は、日本全国を統一した征夷大将軍と鎮守府将軍と太宰大監が東北、九州に掛けて日本全国を統一し其処に民衆の信仰の対象を神明信仰に求めた時期の平安期
この二つの時期(奈良期と平安期)には合わせて他に近畿では「熊野信仰」、北九州では「阿蘇信仰」、「宗像信仰」、宇佐信仰、中国では「出雲信仰」、「厳島信仰」、関西では住吉信仰、広田信仰等も最も盛んに成ったのです。
この「皇祖神の伊勢神宮」と「祖先神の神明社」がありながらそれをそっちのけで、近畿に起こった天皇等が毎年通い続けた「蟻の熊野詣」と称される「熊野信仰」が起こります。
それも熊野神社の身内の勢力争いが原因して衰退し(1180前頃:原因は平家衰退)、結局は元の「お伊勢詣」での「神明信仰」が再び蘇り始めたのです。
次ぎにその蘇りの流行を示す第3期の時期が始まったのです。
室町期、江戸期、明治期
その第3期は時期は更に室町期、江戸期、明治期で分けられます。
最も広く広まった時期は「お伊勢参り」の流行から江戸期で、次ぎは室町文化の反映として室町期、そして、廃仏毀釈の影響を受けての明治期と成る様です。
ところが、この内、「祠関係」の規模の小さいものや「併社関係」を除くと5000以下位に成ります。この5000の「神明社又は神明神社」の内、次ぎの様に成ります。
室町期が2割
江戸期が7割
明治期が1割
程度に分けられます。
当然にこの中から鎌倉期、平安期のものを拾い出そうとするのですが、多くはその由来と創建期が明確にしていないのです。恐らくは、より古の頃からある様に見せかけ権威付ける目的から問いあせても明確にしないのです。
しかし、そこで判らないものに付いては何らかの判別方式を確立する為に調査すると、ある程度の確立で
「鳥居の形式」(A)や「本殿の建物形式」(神明造、大社造、住吉造)(B-1)から判別して観る事が出来るのです。
建物は「延喜式」(B-2)であるか、その「配置形式」の違い(C)や、又、鳥居の形式は「神使」を象ったものですので初期の頃から時代毎に変化しています。この特質を読み取ります。
その建物は主にこの「3つが目的の変化」と「時代の変化」によりデザイン化しているのです。
この3つから判別する事が出来ます。
さて、そうなると、青木氏との関係から時代性では奈良期と平安期のものが意味を持ちます。
上記の「3つの要素」(A、B、C)で調査すると、全国各地の「神明社、又は神明神社」は50程度に絞られてきます。多少のエラーを持つ可能性がありますがほぼ確定します。
この殆どは歴史的に観て、「賜姓青木氏」と「皇族青木氏」と「藤原秀郷流青木氏」の二つに関係する地域又は国に当て嵌まる傾向を持っています。中には青木氏と政治的史実が存在する地域にも観られます。
この青木氏とのある傾向関係が把握できれば良いのでこの範囲で進めました。
これに依って伊勢青木氏を始めとして全青木氏の守護目的の伊勢神宮との繋がり関係がどのように各地に及んでいたかを網羅する事が出来ます。前記した予備知識を基に其の背景を描きながらお読みください。
当然、下記に示す主となる19地域の第4世族皇子王の守護地を含んでの事です。
残り主要な30/80程度が藤原秀郷流青木氏との関係する地域や国に存在します。
中にはある筈の「社や杜」が無いというところも観られますが、恐らく、室町期の下克上、戦国時代、江戸期の一揆や明治期の廃仏毀釈の騒動や第2次大戦で消失したものと考えられます。
この傾向は上記の原因から主に現在の都会に位置する社や杜が存在する森全体が消失したと見られます。
特に、中でも、現在呼ばれている社や杜名は「神明社」とされるところが古い傾向を持っていて、平安期のものには傾向として「神明神社」と成っています。
これには明治期の廃仏毀釈などにより途中で変名している事も覗えます。
その主要な50/80程度の「神明社や神明神社」には多くは伊勢本宮の「分霊社」と成っています。
中には「支社」とするものもあります。江戸期、室町期、明治期のものについてはこの特定が困難です。
この主要な50/80の「神明社や神明神社」の地域との政治的な由来が判り、第4世族以外の皇子の神社の「若宮神社」との関係も判り、当時の神社関係の勢力関係も表す事が出来ます。
「神明社」と「若宮神社」の関係から平安期の「朝廷の政治性」が見えてきます。
そこで、先ず第4世皇子族の「神明社や神明神社」関係を記述します。
その前にそれを面白く理解する為に当時の社会慣習などを列記してみます。
「第4世皇子族の守護地と神明神社」
これらの第4世王の皇子王はそれぞれの生まれた土地の古代地名を採り名乗っています。
多くはその母親の在所を名乗る習慣がありました。
この事に依って土地の豪族(母親)の身分が判り、皇子と王の身分(順位)が確定する制度が敷かれていました。つまり、王名は「守護地」であり「古代地名」であり「身分」である事になります。
当然にそうすると皇子と王には順位があり、その順位に依って守護地は配置されます。
その順位は先ず第1世から第4世までとされています。
中大兄皇子(天智天皇)が大化の改新を実行する前までは第6世までを皇子王としていました。
改新後は天皇が代わる度に起こる第4世までを皇子王とし、第5世族の皇子王はその時の皇子数のあり様で皇子王とするか臣下して皇子王扱いから外れる仕組みです。
古来はこの考え方が規準と成っていて、上記した様に四角四面に竹を割った様に右左に分けるという感覚は当時の社会慣習から有りませんでした。ゆったりとしていたのです。むしろ、合理的、現実的な慣習が敷かれていた事に成ります。
次にこのままでは序列が出来ませんので、その皇子王には身分の順位が決められていました。
その時の天皇に最も近い者から、先ずは「母親の身分」により決まります。身分が同じであれば生まれ来た順序に従います。
母親の身分は先ず4段階に分けられます。
妻の身分
第1位 皇后:きさき (正妻)
第2位 夫人:つま ふじん
第3位 妃:ひめ、
第4位 嬪:みめ、
第5位 妥女:うねめ (階級外の女官)
以上です。
しかし、現実はこの時代は「完璧な純血性を保持する習慣」ですので、第3親等以内の者が妻に成る事が殆どです。依って同族血縁の弊害の危険を避ける為に皇后から第3位の妻までに子供を設ける事に成っていたのです。
しかし、産まれては仕方がないのでトップに定められますが、この当時は極めて乳児や子供の死亡率が高かった事から、又、血族結婚であり元々問題が多いので育たないと言う事が起こります。
育っても殆ど役に立たない子供と成りますので扱いを敢えて皇子としないか僧侶にした様です。
そこで、優秀で良い子孫を遺す為に、序列外の無血縁の「女官」を選んだのです。
この「女官」と云っても全国の土豪の娘を「人質」に取ります。しかし、この「人質」も殆ど人質ではなく「女官奴隷」としての扱いです。
これは4段階の妻の身分制度が厳然としていた為に宮廷の女人社会の掟から起こっていのたものなのです。
そして、その「女官」もその土豪の身分の序列に従います。子供を産みますと「妥女」と呼ばれる様に成ります。従って、産まれた皇子や皇女には必然的に序列の決定的な身分が定まります。
これにより、天智天武期に定められた皇位継承制度により4世族内で皇子は第1位から第6位までと定めます。
そして後の第7位からの皇子は賜姓などの特別の扱いを受けません。第4位までを皇位継承権を保持しますが、その時の皇子数により第6位も皇位継承権を保持する場合があります。
依って、第6位皇子は皇子数が足りている場合は賜姓を受けて臣下して天皇の護衛団の家柄に入ります。基本的にこの第6位皇子は第4世族までとします。
例えば、青木氏がこれに当ります。光仁天皇は第6位皇子の施基皇子の長男でしたが、当時女性天皇であった事から男子皇子が居なかった事から急遽、最も順位の高い賜姓伊勢青木氏の施基皇子の2世が光仁天皇に成りました。
特例として、第7位皇子の川島皇子も賜姓を受けて近江の佐々木の地名から取って佐々木氏を受けました。(近江佐々木氏も青木氏を研究している)
その4世族の皇子王は次ぎの地域・天領地・主要地の王と成り、此処に「神明社」を先ず建立し「神明信仰」の布教に務めました。
平安時代の国66の国の区割りとは守護地と異なる。
伊勢王(三重県 松阪市 国府)、
近江王(滋賀県 国府)、
甲斐王(山梨県 国府)、
山部王(滋賀県 草津-東近江-守山地方)、
石川王(石川県-福井県 加賀-能登地方)、
高坂王(長野県 更級地方)、
雅狭王(滋賀県 近江-若狭地方)、
美濃王(岐阜県 国府)、
栗隅王(京都府・宇治市 山城国-久世郡地方)、
三野王(長野県 国府 信濃)、
武家王(京都府・但馬国 若狭側地方)、
広瀬王(岐阜県 大垣市地方 国分 国分寺)、
竹田王(大阪府-京都府 竹田地方)、
桑田王(愛知県 豊田市地方)、
春日王(福岡県 春日市地方)、
難波王(大阪府 摂津地方)、
宮処王(奈良県 桜井市 金屋地方 つばいち)、
泊瀬王(奈良県 桜井市-朝倉地方 長谷寺)、
弥努王(愛知県 尾張-信濃側地方)
(三野と美濃と弥努は他の書籍では混同している)
以上19人/66国
これ等の地に神明神社が建立され民の安寧と信仰の基としました。
信仰の伝達手段が無いこの奈良平安期には、朝廷は政策としてこの地から「神明信仰」を広げるために先ず支社を建てたのです。そして、普及を図りました。
そして、この伊勢松阪の天領地を神明神社の大社として重きを置くために天智天皇の皇子の施基皇子を第1位の守護王として配置させました。
この時には皇位継承制度の見直しで第4世王までを皇子とし守護王とすると定めました。
この第4世王までの内、第6位皇子以降は臣下させて賜姓し、各主要地の天領地の守護王とする事を定めたのです。この第6位皇子が5人の天皇から青木氏の賜姓を受けて配置されました。
(伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5天領地)
天武天皇時には14の皇子の中の兄天智天皇の皇子の第6位皇子の施基皇子が守護王となり、この神明の皇祖神の伊勢神宮を護る役目を与えられましたが、それまでは、一代限りで中大兄皇子の政敵で叔父の孝徳天皇の子供が伊勢王と成っていました。
孝徳天皇の失脚と伊勢王の子供2人の突然の病死(政争)で天智天皇の施基皇子が勤める事に成りました。
この施基皇子は大変有能で天武天皇の相談役として働き草壁皇子の皇太子よりも2つも上位の身分となり多くの大化改新の改革に取り組みました。
(日本書紀にも最も多く出て来る人物でした。日本書紀と青木氏のレポト参照)
このために国司を送り「三宅連岩床」がこれを務めました。
この神明は「農耕儀礼」の神として信仰されました。
後に後漢の渡来人の帰化人阿多倍王らの子孫らの働きで各地(上記5国)で開墾に携わり著しく進み、この農耕の神明が伊勢神宮から各地に支社を作る事になりました。
上記19の守護王の国にも皇祖神の神明神社が建立されました。
これが全国各地にある神明神社の元と成ったものです。
現在は、約5000から小さいものを入れると15000もあるとされています。
この「神明信仰」にも後漢帰化人の阿多倍等の200万人の集団が次の「観音信仰」の伝導にも関わっているのです。
この神明神社の特長は、「神使」として「鶏」が定められましたが、この経緯から鶏の形に似せた鳥居があるのが特長です。そして、そこには地名として「鳥居」と云う地名が多く起こりました。
この神明神社の主要神社の地には皇族賜姓青木氏や藤原秀郷流青木氏や嵯峨期の詔による皇族青木氏が存在します。これは皇族守護神である為に守護王が支社を移設した事から始まっているのです。
平安時代は伊勢神宮の「神明信仰」が始まり、後半では熊野神社の「熊野信仰」へと信仰対象は移って行きました。どちらも同じ時期に建立されているのです。(熊野三山信仰から見るとやや熊野神社の方が早い)
天皇自らが伊勢神宮から熊野神社へと信仰の対象を変えて行く程の経緯が起こりました。
後に鎌倉、室町時代を通じて「五穀豊穣」を願って多く建立されたものなのです。
「神明信仰」は「鶏」が「神使」で「五穀豊穣」の信仰対象、熊野神社は「やたからす」を「神使」とし「人の癒し」を信仰対象と成っていました。
伊勢青木氏が主となり5家5流青木氏の護る伊勢神宮はこの神明神社の総本社です。
この伊勢神宮は朝廷より「不入不倫の権」が与えられて以後、神明神社はもちろんのこと、「観音信仰」の仏教寺院も打ち壊した織田信長に侵入されるまで護られました。
その信長の徹底した「既成勢力の排除」で「観音信仰」の総本山の比叡山は焼き討ちされ、もう少しで「神明信仰」の総本山の伊勢神宮も焼き討ちに合うところ、信長はその戦いの基点とする処の「丸山城の建設」を行います。
「皇祖神の神明の地」のこれを守る為に伊勢青木氏、伊賀氏、北畠氏の3氏等が信長に挑みます。
「伊勢青木氏」は「2足の草鞋策」の経済力と伊勢シンジケートを背景に戦います。
そして、次男信雄を差し向けて全力をあげての戦いでしたが、信長の戦跡で只一つの有名な敗戦をします。この後、再び戦が始まりますが本能寺の変で信長は落命します。これで伊勢神宮は助かります。
この後、秀吉に命じられた藤原秀郷一門の蒲生氏郷(伊勢の特別賜姓族の遠戚)は伊勢神宮と守護氏の伊勢青木氏を護り保護しました。その後、徳川氏に成って元に戻りました。
家康はこの「農耕の神」として「神明神社」を奨励します。
そして、伊勢神宮を保護し、伊勢松阪を紀州徳川氏の飛び地領とし伊勢青木氏を保護します。
それと同時に、青木氏の菩提の浄土宗の督励令をわざわざ出して保護します。
そのために「神明神社」が各地に建てられ、下記に述べる「観音信仰」や「阿弥陀信仰」の著しい発展が起こりました。
平安時代の「熊野信仰」の「蟻の熊野詣」から、再び江戸に入り「神明信仰」の「お伊勢参り」へと移って行ったのです。
以上が「祖先神-神明社」関係の補足の概容です。
次ぎは「祖先神-神明社」を論ずる上で見逃してはならない重要な事柄が幾つか存在します。
これらに付いては充分に研究して関する事柄がクローズアップ出来ておりません。これからの研究課題ですが、判ってきている事柄に付いて論じます。
「古代密教との関係」
次ぎは「観音堂」です。つまり仏教との関係のとりわけ「観音信仰」との関係に付いてです。
618年頃に後漢が滅びその時から後漢の人たちは渡来人として帰化人としてきました。
その第1陣に渡来した鞍造部の首魁の「司馬達等」(司馬氏の始祖)により私伝導された仏教が広まり、その後漢の配下の者達はその信仰の対象として釈迦観音像を彫りこれを祀りました。
これが始まりです。
その後、この後漢の帰化人を率いて来た後漢光武帝より21代の末帝の献帝の子供の阿智使王とその孫の阿多倍王がこれらの渡来人をまとめ日本66国中関西以西32国を無戦の状態で制圧し配下にしました。
この首魁の阿多倍王は南九州の大隈地方に住み着きました。帰化後朝廷よりこの大隈地方を薩摩国を半割譲して正式に与えられました。
更に朝廷から呼び出されその200万人の集団を率いる阿多倍に対して伊勢の北部伊賀地方をも半割譲して与えられました。
この時、阿多倍王は敏達天皇の孫の芽淳王の末孫の娘を娶り准大臣に任じられました。
そして、3人の子供を生みましたが、長男は阿多倍王が後漢から率いてきた軍を元に朝廷軍を任されて坂上氏を賜姓され、初代の征夷大将軍となり日本全土を制圧させました。
次男は後漢から引き連れてきた事務官僚集団を元に朝廷の財務を任されたのです。
そして賜姓を受けて大蔵氏を名乗りました。
三男は天皇家の財務を任され内蔵氏の賜姓を受けました。
このころの政治体制は3蔵と云い、朝廷の祭祀一切を執り行う「斎蔵」(藤原氏)と「大蔵」と「内蔵」とで構成されていました。阿多倍子王の子孫は軍と2つの権力を握ったのです。
これ等の200万人とそれに慕う倭人とがこの仏教に信心をしていたのです。
これを祀るところに堂を作りそこに観音様の像を彫って「観音信仰」が彼等に因って始まったのです。
「神明信仰」とほぼ同時期に仏教の「観音信仰」も始まったのです。
関西以西32国以外にも上記する5天領地の開墾も行いますが、この地にも当然に「観音信仰」は広まります。そして、「観音信仰」と「神明信仰」も合わせて同時に伝導されたのです。
この”「2つの信仰」が平行して進む”と云う事は「祖先神-神明社」にとって”どの様な影響を与えたのか”と云う疑問が湧きます。
そして、その「観音信仰」は青木氏に大きく関わる「古代密教の浄土宗」と発展して行くのです。前段で論じた様に「古代密教の浄土宗」の最初の信者の氏は「青木氏」といっても良い程のものです。
奈良期の仏師で仏教伝導の祖の子孫でもある「鞍造り部止利」の作である「生仏像様」を戴く立場にあった訳ですから「仏教の正式な最初の信者氏」であると云っても過言ではない筈です。
一方では「神明信仰の担い手」、他方では「観音信仰の担い手」と云う立場にあった事に成ります。
両方の担い手であった事は無関係ではなかった筈で大きく相互関係を保持していた事が云えます。
「神明信仰の担い手」+「観音信仰の担い手」=「2つの青木氏」
この「2つの青木氏」が担う「観音信仰」は「古代密教」であるが為に「祖先神-神明社」の様な全国的な建立とまでは行かなかった筈で、「古代密教の浄土宗の分布」が前段で論じた様な「祖先神-神明社」分布には至っていないのです。「2つの青木氏」の主要定住地に分布が限定しているのです。
この事から観ると、「祖先神-神明社」に対する関わり具合は相当とまでは行かなかった筈です。
前段で論じた様な国策としての貢献度としては「祖先神-神明社」程ではなかった事を物語ります。
「古代密教の浄土宗」が庶民の所までは至っていない宗教であったからだと考えられます。
後には3大古代密教の宗教戦争が起こり、鎌倉期には日蓮宗を始めとする他宗から著しい攻撃を受けた事等があり「祖先神-神明社」の貢献度に大きく寄与したとは云い難がたい処があります。
まして、これが、奈良時代の大化の改新の前の物部氏の「神明信仰」と蘇我氏の「観音信仰」とで国の信仰対象をどうするかで争いを起こしたのですから暫くは冷却期間があったと考えられます。
(聖徳太子の時-天智天皇)
結局、蘇我氏の「観音信仰」が勝ち、その「観音信仰」の人々を背景につけて勢力を伸ばしたのが蘇我氏なのですが、その後この事を苦々しく思っていた中大兄皇子は蘇我氏を打ち倒して歴史ある「神明信仰」を再び呼び起こして、伊勢にその拠点を作りそれを「皇祖神」として定めたのです。
しかし、「観音信仰」も朝廷は取り入れ、且つ、「神仏融合の策」をも取り入れて共に発展させ様としたのです。
これも農耕民族の所以です。従って、朝廷は「神明信仰」は「皇祖神」としながらも「農耕の神」としても位置付けて融合を図ったのです。
物部氏(高句麗)、蘇我氏(百済)はともに450年代の初期の帰化人で勢力争いをしていました。
(飛鳥時代の大和政権の主要5族 紀氏、巨勢氏、葛城氏、平群氏、物部氏 物部氏は兵の集団)
実は「観音信仰」の仏教をもたらした阿多倍王に付いてこれがもう一つの毘沙門天の解説に繋がるのです。
この像を最初に彫った後漢の帰化人「司馬達等」の孫の「鞍造部止利」が飛鳥時代の殆どの観音様の像などを彫ったのです。実は伊勢青木氏の賜姓時に天智天皇から与えられた現有する護本尊の「大日如来坐像」はこの「鞍造部止利」の作です。
恐らくは、朝廷と後漢の帰化人200万人とそれを慕う大和人の何百万という人を心の救いとしてこの{観音信仰]をも国家安寧の為に推し進めたのではないかと見られます。
それを観音仏像を彫る事の出来る「鞍造部]の首魁の「司馬氏」に委ねたと見られます。
多分、「司馬達等」(歴史作家の司馬遼太郎氏の始祖)なる人物はそれを成すその様な大きな人物であったのでしょう。
そして、後に遂にこの阿多倍王の末裔9代目に「観音信仰」の神として神格化されるほどの大人物が生まれるのです。
「観音信仰」の観音菩薩を祭祀する礼堂として、奈良時代から平安時代にかけて「六堂伽藍方式」として中央本堂に安置される仏像です。この本堂を護る神として毘沙門天などを祀る四天王の堂があるのです。
「六堂伽藍方式」には飛鳥寺方式、四天王寺方式、法隆寺方式、東大寺方式があります。
観音堂を祀る本堂と左右に金堂、中央に観音様の骨を安置する舎利塔が配置され、後ろには毘沙門天などを祭り配置する方式で、中には四天王全てではなく毘沙門天だけを祭る堂が配置される形式もあります。
次ぎはその毘沙門天です。
「毘沙門天」は「多聞天」ともいいますが、四天王の一つで、後には「増長天」、「持国天」、「高目天」があります。東大寺や興福寺にはこの四天王が祭られています。
毘沙門天、つまり、多聞天は吉祥天の夫とされています。
多聞天は財宝、福徳の神でもあります。七福神の中の一人でもあります。
伽藍最前線には南大門を配置し「仁王様」が守護神として祭祀されて祭られます。方式により中門があります。中央塔の左右には東西の金堂が配置されます。そして、南大門より最も後ろの北側の中央に位置する講堂が配置されます。
所謂、「六堂伽藍方式」です。
菩薩様、如来様、天神様を左からの順序で格がつけられてこれを「3神格」と云います。
そこで、上記したこの四天王の仏像のモデルになった大人物が居るのです。
それは、阿多倍王の次男の末裔の9代目の「大蔵種材」と云う人物です。
この者は朝廷の官僚として働き、九州全土の治世自治1018を任されます。
朝廷より始めて「錦の御旗」を与えられた人物で以来正式にこの御旗を与えられた人物はいません。個人に与えられたのです。
阿多倍王が征圧した九州全土の政治軍事経済の3権の一切を任された人物です。
「遠の朝廷」と呼ばれていました。
官僚でありながら、日本一の武勇を持ち、平安時代当時、中国、朝鮮半島から九州に武力を使っての侵略、略奪やボートピープルが頻発しましたが全てを完全に制圧した実績を持っています。
日本の彼等が成した豊かさの為に避難民が津波の様に押し寄せたのですが、彼と朝廷は治安の維持のために最早帰化を許さなかったのです。
又経済でも、阿多倍らが引き連れてきた200万人に及ぶ技能集団をよく統率し、その技能を九州全土や関西以西の中国地方にも拡げて経済は著しく良くした事でも有名な政治家の人物です。仁王像のモデルと成った人物です。
現在の第1次産業の殆どはこの後漢の技能集団の帰化人の末裔で発展したのです。
ですから九州には瀬戸物や製鉄などの一時産業が多いのです。
経済も含めて貧困から大富をもたらした万能人で、当時は平安の「万能の神」とも崇められた人物です。
この神格化して当てたのが毘沙門天なのです。
実際の毘沙門天等の姿のモデルにも成っているのです。
この彼は平安の日本一豪傑でありその代名詞に成っている大蔵氏の末裔です。後にこの人物は余りに資質剛健であったので神を護る者として神格化されたのです。
毘沙門天はこの「大蔵種材」の勇士姿を後に崇めたのです。
恐らくは、妻の吉祥天は大蔵種材の妻をその功を証し崇めたのではないかと思われます。
その為に、鎌倉時代から室町時代にかけてこの毘沙門天を「侍の鏡」として崇められ、「毘沙門天信仰」が武門の間で起こったのです。
仏教は飛鳥奈良時代からの観音菩薩の「観音信仰」から始まり、平安時代からは浄土宗の「阿弥陀如来信仰」が起こり、鎌倉時代からは「毘沙門天信仰」(四天王信仰)が時代の状況に合わせて起こります。
「観音信仰」→「阿弥陀如来信仰」→「毘沙門天信仰」(四天王信仰)
そこで、前段で論じた様に、この「3大信仰」は「祖先神-神明社」との関わりとして重要なのです。
「観音信仰」の青木氏に対して人物で血縁関係するこの「毘沙門天信仰」(四天王信仰・毘沙門天を「侍の鏡」とされた人物)の大蔵種材(9代目)の祖の後漢の渡来人・帰化人の首魁阿多倍王は伊勢伊賀地方に領国を与えられ定住していましたが、阿多倍(後に高尊王・高望王と呼ばれていた 朝廷の記録では平望王と呼ばれていた)の孫娘の「高野新笠」が光仁天皇と結婚しその子供が桓武天皇となりました。この桓武天皇の子供に平城天皇と弟の嵯峨天皇があります。
この光仁天皇は施基皇子の子供で長子で、第5位までの皇位継承者がなく第6位皇子の施基皇子の末裔が特例で天皇を継承しました。伊勢青木氏はつまり、血縁的には光仁天皇、桓武天皇、嵯峨天皇まで血縁族と成ります。
この「3大信仰」は、先ずは「観音信仰」は「初代の融合氏」であるので「初代の信者」であり、「阿弥陀如来信仰」は「古代密教の初代の信者」であり、「毘沙門天信仰」(「侍の鏡」)は「3つの発祥源・侍の祖」であるので上記「血縁関係の初祖」であり、何れも「皇祖神-祖先神-神明社」の青木氏がその根源と成っているのです。
そこで、この「毘沙門天」の祖の阿多倍王の3代目後の末裔の平の貞盛が、独立国を作るとして反乱した「平の将門乱」を藤原秀郷とともに親族の立場で鎮圧しました。(藤原秀郷は藤原秀郷流青木氏の始祖です。)
平貞盛より5代後が太政大臣平清盛です。この清盛は敏達天皇の末裔にして上記した様に桓武天皇の末裔でもあります。当然、阿多倍王の子孫とも成ります。
この事から「たいら族」は「桓武平氏」と呼ばれ、「桓武天皇」より青木氏の賜姓を中止し、皇族7世族の「ひら族」の「坂東八平氏」に似せて「たいら族」として母方の一族を賜姓したのです。その末裔が平の清盛です。
大蔵氏や内蔵氏や坂上氏や内蔵氏やそこから出た阿倍氏や安倍氏は血縁族です。
その祖先の毘沙門天のモデルと成ったのもこの一族なのです。
余計談ですが、伊賀忍者は阿多倍一族のこの末裔です。
伊勢青木氏は天正の乱の時に上記の血縁の経緯から、この伊賀人が信長から攻められた時に奈良時代からの付き合いのある彼等を救い信長と戦い勝利します。信長の只一つの敗戦です。歌舞伎にも成っています。(然し、突き詰めると、織田氏も美濃域の「たいら族」の末裔ですので同族争いとなります。反面青木氏は「過去の絆」を守った氏であったのです。)
「権威の象徴の危険」
伊勢には松阪の「神明信仰」と、隣の伊賀地方には「観音信仰」が共存し、伊勢青木氏には「神明信仰と」古代密教の「観音信仰」(平安期には青木氏は阿弥陀如来の浄土信仰)が共存していた事になります。
「毘沙門天信仰」(四天王信仰)も上記の通り「侍の祖」として「祖の立場」にあるのです。
しかしながら、皮肉にも5家5流の賜姓青木氏はこの同族の桓武天皇と隣の伊賀の「観音信仰」を推し進めた阿多倍末裔子孫に圧迫されて一時衰退します。
(「過去の絆」を守り続ける信念の持った青木氏を同族と血縁関係社が圧迫 非条理なのか)
「神明信仰」(イ)の上にこの「3大信仰」の「信者の氏の祖」(ロ)としての立場があり、「3つの発祥源」の立場(ハ)を保全していて、尚且つ、平安期前後の「3人の天皇」の「親政族」(ニ)としても極めて大きい立場(権威の象徴の立場)に成っていた事等を考え合わせると、律令国家建設の世界としては危険視されて一度政治の立場から、為政者達とは「過去の絆」があっても、どうしても「権威の象徴」を外す必要があって押さえ込まれたと考えられます。
この時期、恐らくは同じ仏教でも司馬達等による後漢伝来の古代仏教の「観音信仰」と、古代浄土密教の「阿弥陀如来信仰」が対立した事も原因と考えられます。
現に、平安時代に法然上人の浄土宗密教、弘法大師の真言宗密教、最澄上人の天台宗密教の3密教による激しい宗教論争が起こっています。
それぞれの立場と考え方と信者層が異なっていた為に、「観音菩薩信仰」、「阿弥陀如来信仰」の密教の位置づけについて論争が起こりました。恐らくはこの論争と建立競争の宗教戦争の元と成ったのはこの「神明信仰」と「3つの信仰」に関わる「青木氏の立場」が疑問視されたとも考えられます。実はその証拠が遺されているのです。
後に日蓮宗日蓮が、鎌倉幕府の北条執権の問いに対してこの「神明社」-「観音菩薩信仰」-「阿弥陀如来信仰」の「密教浄土宗の背景」(権威の象徴の有様と背景)を痛烈に批判している提出した文書が遺されているのです。
(この事が原因して外国から攻められる事を予言 この文書や発言が原因して罪と成り配流 然し予言当り許される)
この事は、平安の桓武期から「賜姓族青木氏」は押さえ込まれていたが(この「権威の象徴の姿」は政治の世界から排除されたが)宗教界では400年以上も厳然として維持していた事を物語ります。
この事は日蓮の文書からも明らかな様に上記した「権威の象徴の立場」にあった事と「庶民」(百姓:おおみたから)はこの「青木氏の権威の立場」を容認していた事を示します。非難される立場に無かった事を物語ります。言い換えれば崇められ信頼され愛され続けた氏であった事が判ります。
そして、更にこの事から同族の「桓武天皇等の青木氏への圧迫」は、明らかに「親政族」そのものの「政治的形の否定」(「親政族」≠「律令政治」)に対する「政治的立場からの圧迫」であった事を意味し、少なくとも「苦渋の選択」であった事を物語ります。
現に、桓武天皇自身がこの圧迫した青木氏に代わって「神明社建立20」も行っているのです。青木氏全体の存在を否定するのであれば天皇自ら「神明社建立」は行わなかった筈です。
又、桓武天皇の子供の嵯峨天皇は、その桓武天皇の「親政族を否定する政治の有り様」に反対し父子戦争を起す程に、この桓武天皇の朝臣族ではない皇族外の賜姓(たいら族)に対して反発して、再び第6位皇子を源氏として変名し直して「賜姓源氏」として戻したのです。これが嵯峨源氏です。
これでも上記(イ)から(ニ)までの「青木氏の権威の象徴」は否定されていなかった事を意味します。
これより花山天皇まで11代続きます。この時青木氏は皇族の者が下俗する際に使用する氏名として他の者の使用を禁じたのです。この青木氏が「皇族青木氏」です。
何よりもこの直ぐ後に円融天皇は秀郷第3子の「特別賜姓族青木氏」を発祥させている事はこの「青木氏の権威の象徴」を否定していなかった事に成ります。「否定」と云うよりは「肯定」の「あるべき姿」であったのです。「嵯峨天皇」以降は「親政政治」を3回にわたり採用して政治的効果を挙げたのです。
そもそも天智天武天皇の国策の「3つの発祥源」、「皇祖神-祖先神-神明社」、「(イ)-(ニ)の関係」から「政治の根幹に関わる役目柄」を実行している青木氏に対して政治的に排除する事が論理的に異常であり、その行為は自らの政治を根幹部分で否定している事に成ります。
要するに”桓武天皇は青木氏を圧迫した事は政治的間違いであって、嵯峨天皇は正しかった、間違っていなかった”と考えているのです。
たとえそれが政治的なパフォマンスで「苦渋の選択」であったとしても”行うべき行為では無かった”と観ているのです。現に、民は400年以上もその「青木氏の立場と存在」を容認しているのです。
青木氏の自画自賛になるかも知れませんが、この平安期まで約200年も「過去の絆」を重んじて来たし、「3つの発祥源」を守り続けてきた氏が「親政族」だからと言って政治の場に口出しする氏であるかは判る筈です。
まして、桓武天皇の自らの実家の氏に対してです。はっきり云えば”洞察力が不足する”といいたい所です。前段の”河内源氏と違うのだ”と云いたいのです。
これらの青木氏が自ら「神明信仰」と「古代密教浄土宗」を下に伝導の手段の少ない時代の各地に「神明社」と「浄土寺」を建立し「観音信仰」等をも広げ、四天王の天神様のみを信仰する事」(四天王信仰)の基にも成りそれを広げた氏なのです。(大阪にある四天王寺はこの対象です。)
「若宮神社」
次ぎは「祖先神-神明社」を論ずる際に軽視してはならない重要な事柄です。
それが若宮神社との関係です。
祖先神の神明社、八幡社、そして若宮神社は「祖先神の3大神社」なのです。
次ぎに「第4世族の皇族」の守護神としたと云われているのがこの「若宮神社」です。
「祖先神-神明社」とは実はその関係に於いて重要ですが研究は余り進んでいません。
これはこれに関係する氏や人が少ない所に原因がありますが、ただ「2つの青木氏」にとっては「祖先神-神明社」に関するところからこれを研究する氏は青木氏と佐々木氏以外にはないと考えています。
本来は神明社と共に同じ立場での歴史的経緯を経ていなければならないのですが、史実は確定して居る訳ではなく詳しくは判っていません。
本来は八幡社と共に若宮社も神明社と同じ立場に在った筈で、八幡社は未勘氏族に因って牛耳られた事で史実が判っていますが、この若宮社は実はシンジケートを持っていた事が判っていますので、その働きとしては影の働きをしていた事が考えられます。充分にどの様な皇族としての役割であったかは不明です。又、「不明」である事が本来の姿ではなかったかとも考えられます。
(特記 室町中期以降には裏のシンジケートとして暗躍していた事が資料から判明しています。そのシンジケートは資料の経緯から観て駿河から以西京都までのルートと観られ、東海道線上の神社ルートかと観られます。駿河は皇子王の皇族関係者の配流先であり、秀郷一門の本領域でもあり政治的な重要な地域でありますので、 ”配流者の情報を都の摂関家に送る密命を若宮神社の神官は帯びていた”と考えられる。
鎌倉期-室町中期としては下克上・戦乱の関東域の情報を朝廷に・室町幕府に送っていたとも考えられます。この隠れ蓑として存在していたのではないでしょうか。四国域は4世-5世族の「逃避先・逃げ込み先」として「都の情報」を送っていたとも考えられます。どうも神明社の様なはっきりした役目柄が観えて来ません。
一応表向きは若宮を祭祀する神社であり、本質は神官は都の吉田氏等の神官官僚が勤め情報拠点としての役目を果たしていたのではないでしょうか。下記の分布域から観て更に強く感じるのです。
熊野神社の神職の鈴木氏の様に、全国の吉田氏の分布はこの事から来ているのではないでしょうか。吉田氏の「柏の葉」と「槲の葉」の文様の家紋分析からも頷けるところです。。)
そこでその若宮神社の信頼できる建立地を網羅します。
室町中期以降も例外無くこの若宮神社は「未勘氏族」や「下克上」で伸し上った豪族等に依って「家柄誇張の道具」に使われたのです。
「若宮大社との関係」
参考
若宮神社
・岩手県 盛岡市上太田
・東京都 北区豊島、
・新潟県 三条市柳川新田 燕市雀森家生
・山梨県 山梨市上ノ割 韮崎市
・長野県 塩尻丘入道
・石川県 金沢氏若宮 羽咋郡志賀町
・静岡県 清水区蒲原 熱海市網代 賀茂郡南伊豆町青市 賀茂郡南伊豆町大流 賀茂郡南伊豆町湊
・滋賀県 草津市芦浦町 草津市岡本町 東止江市新堂
・奈良県 桜井市馬場 奈良市(摂社)
・山口県 山口市秋穂一島 大岡市豊浦町棚 防府市佐野
・徳島県 徳島市沖浜町 南佐古二番町 阿南市那賀川町手島 仲多郡琴平町
・福岡県 柳川市西浜武 糟屋郡新宮町 糸島郡志摩町
・大分県 大分市木上
・宮崎県 宮崎市青島
・愛知県 北名古屋市
・岐阜県 飛騨市
・愛媛県 西予市明浜町高山 松山市河野別府 南宇和郡愛南町増田 南宇和郡愛南町手婆 須ノ川 西条市 今治市
・長崎県 佐世保市竹辺町
・京都府 綾部市上野町藤山
・神奈川県 川崎市川崎区大師
・和歌山県 田辺市湊 伊都郡葛城町
・鹿児島県 鹿児島市
(以上21県は室町期中期以前の若宮神社と観られる資料)
一部調査した上記の若宮神社の事ですが、実は神明系の神社として各地に多いのです。
特に有名な「若宮」とする高知土佐の神明系の神社にはどの様な由来があるのでしょうか、何かあるから天皇家・朝廷と直接に由来する殆どの県にもあるのです。
若宮神社は「皇族系の神社」として「八幡社」と共に青木氏に関わりが有るとして少し研究した事がありますので、(その位置付けや由来やその土地にある理由など大体把握しているのですが)、「若宮」は皇子或いは皇族の子供の神社と成っている事は先ず間違いないところです。
とすると、ここで問題が生まれます。
それは「嵯峨期の詔勅」から皇族の者が下族する場合は青木氏を名乗ると云う仕来りから青木氏を名乗っている筈です。所謂、「皇族青木氏」ですがところが上記の場所から神社やその神社に関わった関係者に青木氏は全くないのです。これはどの様な意味を持つのでしょうか。
矢張り、この神明系の由来に関わる神社となるのでしょうが、しかし神明社の様にどれほどに関わっていたかはこの様に不明なのです。
「青木氏-神明社」の関わりから調べたところでは、この「若宮」の若宮神社は讃岐には特別に多い所で調べた範囲では6つの神社があります。祠まで入れると10以上はあるのではないでしょうか。(何故祠が多いのか不明 意味があると考えられる。)讃岐に続き徳島と静岡がこれに続きます。
この事は「剣片喰族」と「州浜紋」の藤原秀郷一門の勢力の最も強かった地域ですので何かかかわりがあると観られます。
これは愛媛・讃岐は全国に比べて段突です。しかし、神明神社は皇族信濃青木氏とその支流の信濃足利氏系青木氏の末裔が讃岐の青木氏に保護されて逃げ込んだ国の土佐だけにありますが、讃岐には特記するべきほど(1)には有りません。
とすると、讃岐には天皇家の「皇祖神-祖先神」の「神明神社」が不思議なくらいに少ないだけに、これは、「讃岐籐氏」の藤原氏と天皇家との繋がりが強く、血縁に依って藤原北家系の皇子皇女が多い所から、とりわけこの若宮を祀ることの強い習慣があった事を物語るものではないかと思います。
藤原北家筋の秀郷一門としては前段でも論じた様に讃岐青木氏は特別な発展を遂げますが、この背景を独自に持っていたからであると観ています。
つまり、讃岐は「讃岐青木氏の神明社」より「讃岐籐氏の若宮社」の意向から地元讃岐は「神明社<若宮社の関係」が強かった事を示していると考えられます。
歴史的に見て四国は、政変にて多くの皇族系の皇子筋が頻繁に逃げ込んだ歴史史実がある事を考えると、「讃岐籐氏」との何らかの強い関わりがあると観られます。
当然、若宮の皇子と神社には藤原北家筋、平家筋、11代の源氏筋、少ないが橘氏筋等の4つの種類がありますので、中でも讃岐籐氏派がより祭祀したと見られます。
もし、あるとすると、その証拠として、「二条院門跡」の子供等の祭る神社とも成ります。それが「二条院讃岐氏」とどう繋がるのか大いに興味が沸きます。もしかすると、「二条院」との間に出来た若宮を祭祀する神社かとも観られますのでそうすると更に讃岐と繋がります。
現在、推測の域を越えませんが、神明神社の「皇祖神-祖先神」は天皇第4世族皇子までの守護神として扱われ、第5世以降の元皇子には、若宮(皇族関係者や還俗僧)としての守護神の神社としたのではないでしょうか。(多くは比叡山門跡院に入るが還俗した場合は若宮として四国域に入ったと観られる。)
この様に考えると間尺が合います。配置されている土地柄を見ますと納得出来ます。確定する記録を探しています。
(ただ江戸期以降の若宮神社とその祠はの2種は除く 「祠は」ダミーでは無いかと考えられる。)
ただ、多くは本来の役目柄と異なり変質して「厄除けの神」として江戸時代に創建されたものが多く、創建と云う域まで達しない小さい祠の様なもの2種を除きますと、この推測に成るのではと研究しています。
ただ若宮神社には「祠」が多いと云う事には問題がありますが、これはそ「の建造能力」と「維持する能力」とそれを支える「子孫力」とが無かった事から「祠の利用」と成ったとも考えられますが、判り次第レポートします。
現在のところ、この2種を除いて観ると、「第4世族までの皇祖神の神明社の分布」と、「第5世族の皇族系の皇子族の若宮神社の分布」の2つは、平安-鎌倉期までのものとしては重複しているところは見当たりません。
この事は、天智天皇は第6-7世までを皇子としていたのを大化改新で逸早く実行したのは財政難から皇族と皇位継承問題のこの改革から来ているものと考えます。
その改革では第7世族(6世族もある)は主に坂東を守護する臣下として配置しました。
第4世族では各地に配置するだけの人数が足りませんので、そこで6世族までを天皇が代わる度に出て来る皇族の処置として、「若宮」としての言葉で括り各地に配置して、そこに「皇祖神-祖先神」の「神明神社」に代る皇族の第5世族皇子の「若宮」の「若宮神社」としたのではないでしょうか。
それが何時からかは判りませんが、天智天武の伊勢神社創建からそう遠くは無いのではと推測します。
「人、時、場所」について文献などを調べましたが明確にしているものは有りませんので青木氏で関係する部分については更に研究します。
全国殆どの県に2社から3社あり、恐らくは小さい祠も含めて100程度ある様に思います。
現在調べただけでも70近くありますが、平安期からのものとすると20-30程度内に絞り込めるのではと考えています。
検証の結果は上記の分布表の21県から観ると、多い順では静岡>愛媛>徳島>滋賀>山口>福岡>石川の7県と成りますが、滋賀の都を除いてこの6県は明らかに平安期から室町末期にかけて歴史的な史実から考察すると皇族4世族の逃亡先所縁の地と成っています。
広域で観ると、
地域 県数-社数 社/県
九州 5-7 1.4
中国 1-3 3
四国 2-11 5.5
関西 3-8 2.6
中部 5-7 1.4
関東 3-8 2.6
東北北陸 2-3 1.5
の21県と成ります。21県-47社と成ります。
この県-社数のパラメータからすると次のように成ります。
A 関東-中部-都へのラインが出来ている事
B 四国と中国は上記の逃亡先で明確な本命地である事
C 九州は大宰府自治と朝廷の影響地である事
D 関西は朝廷-荘園制の未勘氏族の社である事
E 東北北陸は秀郷一門の勢力地-朝廷の関係地である事
この5つのパターンに明確に判別できます。
この5つパターンから上記で論じた様な若宮社の活動が証明できます。
この事から”「祖先神-神明社」との関係は希薄であった”と考えられます。
表向きは別にして矢張り諜報機関の役目があったと考えられ、且つ皇族の者が政変等に逃げ込む為の朝廷の機関神社であったと考えられます。これが激しい戦乱になる前の室町中期までの役目であったと考えられます。その後は「厄よけの神」に生き延びる為に変わったと考えられます。
以上、神明社に関係すると考えられる若宮神社に付いて雑学として参考に記述しました。
参考 全国各地の熊野神社の神紋は次ぎの様に成っています。
神紋 烏紋(からす)
(神使 三本足のやたがらす紋も使用)
神明大社と若宮神社と関係しているのは熊野大社である。
熊野三山の名で祭祀している神社全国各地に存在する。
必ずしも熊野三山の系列であるとは限らず、三社形式、単独形式、勧誘形式、併社形式、別社形式等で存在するが、正式系列の確認はなかなか困難である。
依って、以下の神社以外にも御霊移しなどの簡易な方法で存在する事が多くあると観られる。
それぞれの歴史的な根拠をそれなりに持ち合わせているが、全に於いて確認は取りきれない。
それは熊野三山社との関わり以外に修験道の修験者の開山とも関わっているものも多い。
夫々の神社の歴史的な関係を調べたが、不思議な一点が浮かび上がる。
それは藤原秀郷流青木氏が定住していたところ全てである。
東京は埼玉入間を中心として神奈川横浜を半径とする処に定住してたが、その範囲にある神社であるが、他も岩手から福島、宮城、青森、千葉、埼玉、神奈川、静岡、愛知、岡山、広島、高知、山口、島根は勿論の事、この全ての県でも云える事である。
京都は天皇家との関係からのものであろう。
鹿児島は日向青木氏のところであるので何か事情が存在する。
不思議である。現在研究中である。
ただ、皇族賜姓青木氏の5家5流の土地には無いのである。
皇祖神-祖先神の神明神社との関わりからであろうか。
「神明神社」と「熊野神社」との関係は「青木ルーツ掲示板」の「函館の青木さん」のご質問でお答えした内容を参考にしてください。
これ等の主要地に初期の段階の基点となる神明神社が建立されました。
矢張りこの地域には正当な系列熊野神社は存在しない。
この2つの歴史ある神社と藤原氏の守護神の「春日神社」との三つ巴の宗教的な勢力争いが大いに絡んでいると観ていてそれを研究している。当然に熊野神社の無い所には「宗像神社」、「出雲大社」が存在するなどの傾向も確認出来る。
「承久の乱」、「治承、平治、保元の乱」等も絡んでいる。義経が平家に追われて弁慶の実家の熊野の日高氏を頼りに熊野神社に出向くが庇護を断わられた。これはこの勢力関係に影響している事は判っている。この乱で賜姓青木氏を始め、賜姓源氏、藤原秀郷北家一門等が平家に押されて衰退する中でこの3氏はスクラムを組んだ。そこで同じく衰退している熊野一門はこの3氏に合力をしたのではないか。
その証拠に一番後の「承久の乱」の時に平家側(田辺別当派)と反平家側(新宮別当派)とに分かれて「熊野動乱」が起こる。最終、田辺別当派が引き下がり反平家派が主導権を握る。
これが伊勢青木氏と藤原秀郷一門青木氏に関わる源氏頼政が首謀する以仁王の乱に繋がる。
「熊野神社」はこの「承久の乱」で後鳥羽上皇に味方した為に衰退するのであるから、5大神社と平安期と鎌倉期の乱との関わりからかこの熊野神社の分布は何かを物語っていて面白い。
勢力保持のために採った秀郷一門の「第2の宗家」と呼ばれる勢力地に熊野神社建立を計画実行したのではないだろうか。
或いは、江戸幕府の奨励もあり江戸期の「お伊勢参り」で熊野神社は押されて建て直しのために昔の藤原氏との親交から各地に熊野神社普及を面倒な正式な系列方式としないやり方で試みた事かもしれない。研究している。)
これ等の神社には神紋と言う紋があります。これ等の神職は相互に血縁関係を結び互いに一族化を図り神社、寺社の結束を図っていたのです。
神明社は氏神として多くは賜姓青木氏や賜姓佐々木氏、藤原秀郷流青木氏が神職を務めました。
若宮神社関係は藤原北家一族が神職を務め、藤原氏の春日大社の氏神とを護っていたのです。
結論から元は柏ではなく、槲(かしわ)の葉で蔓が付いていました。
槲は関西地方に生息する茨の一種で丸いハート形をして大きさは人間の掌程度の大きさです。関西では「かしわの葉」と云えばこの葉の事を云います。この槲葉には蔓紋と同じ形の蔓があります。
この葉は神様や仏壇等に食べる物を備える時にはこの葉の上に置いて供える習慣があります。
この神事の名残として、5月の子供の日等にはこの2枚の葉で「あんこ」の入った柔らかい団子餅を挟んで蒸して供えたものを食べる習慣があります。
まだ関西の高級料亭等ではこの神事の習慣が残っていて、会席料理の食べ物の下に敷く食器代わりのものとして使われて遺されています。最近都市化で少なくなりましたので苦労している様です。
この葉の事を「さるいばら」方言で(さるびたち)と云っていましたが少なくなった事で忘れられてしまいました。関西(平安の習慣が遺されている主に紀州奈良伊勢)ではこの葉を使う習慣が多く遺されていて、柿の葉、からす瓜の葉、紫陽花の葉、あけびの葉などまだまだ沢山あります。
従って、蔓の付いた槲なのです。しかし、鎌倉時代頃からは関東にないこの槲葉は関東に生息する柏の木の葉に成っていたのです。そして、家紋も「柏の葉」に変わっていったのです。
槲の紋は平安の時代から丸く書かれ、柏は鎌倉の時代から細く書かれているのはこの結果から来ているのです。太紋はこの紋に成ります。この例として熱田神宮の傍系末裔の山内一豊の家紋は三つ柏の細紋です。
「柏の葉」と「槲の葉」
上記の習慣から太古の世には朝廷の食事を用意する夫を「膳夫」(かしわで)と云いました。
この事から神事に御供えするものにこの「槲の葉」を使われたことから、槲の柏を「杜の神」として神聖視されたのです。
以後、朝廷の伝統として神事にはこの葉を使用された事から、神職の家がこの槲と柏の葉を紋様化して家紋としたのです。
「柏の葉」と「槲の葉」は「神紋」というよりは「神官職紋」と成ったのです。
その由来は古来、神社は旅する人にとって無くてはならない旅の基点の役目と何かの非難の場所とも成っていました。その時、古来の旅の習慣として食事の皿の役目とおにぎりを包む包装紙の役目を持っていました。
特にその手助けをする神社では宿も別の棟を作り簡易宿の提供もしていたのです。これを「・・王子」と呼びましたが、この王子では泊めるだけで手弁当か自炊でした。その為に近隣の氏子の家からおにぎりを造ってもらってこの「柏の葉」と「槲の葉」に包んでもらっていたのです。
その経緯から何時しか「柏の葉」と「槲の葉」が神官文様と成ったのです。
現在でも地元(関西域)の老舗の料理には「柏の葉」と「槲の葉」は料理の皿としてこの名残として使用されていて、奈良期からの古い慣習が一つの形として遺されているのです。「柏の葉」と「槲の葉」は神社と切り離せない物なのです。この事は万葉集や奈良期の歌に多く詠まれています。
(参考 雑学として、銀杏の黄葉、烏瓜の黄葉、むかごの葉、笹、紫陽花の葉等が良く使われていた模様で、特に紫陽花の葉は虫も食べないほどに極めて強い殺菌作用が葉にあり、料理の皿代わりに使われていたのです。現在でも使われているのですが、実はこの葉を人が間違って食べると激しい腹痛を起す程に葉には強いシアン系の毒素を持っているのです。保存剤、冷却材、殺菌剤、冷蔵庫のない時代の知恵で旅には無くてはならないものでした。紀州では「なれ鮨」といって鯖寿司を殺菌性のあるアセ・暖竹笹で巻いて保存し発酵させて保存食にし旅の食料にしたものが現在も残っています。奈良の「柿の葉鮨」も同じです。
これ等の慣習が「姓氏」の家紋にも成っていて、この夫々草木にはこの様な歴史的な意味を持っているのです。その草木の古来の特長を調べるとその姓氏の出自が判るのです。
家紋は必ずそれを家紋とした「歴史的経緯」があるのです。それを知る事は歴史の縺れを解く秘訣なのです。それは必ず「古来の慣習」から来ているのです。この「古来の慣習雑学」を知る事が秘訣です。
草木紋には必ずその草木の古来の由来がありその家紋の根拠と成っているのです。 家紋200選の半分は草木紋です。その100の家紋群が更には江戸初期には遠戚の者等が類似家紋として10倍位に拡がっています。)
従って、神木の「榊」や「青木」(青木氏の「氏木」でもある)と並んで「柏の葉」と「槲の葉」は天皇家の皇祖神の神明神社の伊勢神宮を始めに、熊野神社系の神職の氏も使用するように成りました。その後これに習い、熱田神宮、宗像神宮、吉田神宮、吉備津宮等の神明系が「柏の葉」と「槲の葉」の紋を神官職紋にしました。
伊勢神宮の宮司久志本氏、熱田神宮の千秋氏、宗像神宮の宗像氏、吉田神宮の吉田氏と卜部氏、吉備津神宮の大守氏がこの家紋を使いました。(草木の由来を知る事は氏の出自も判る)
当初は上記の様に「柏の葉」だけではなく「蔓も付けた槲の葉紋」でした。これを元は「三つ葉槲(柏)」と呼んでいたのです。
その後、時代が平安から関東に移りこの蔓がなくなり、今の柏の三葉紋と成りました。ですから、神職紋としては「柏紋」より「蔓柏紋」の方が古く正しい文様なのです。
そこで、平安初期から上記したこの神官職の間では相互に血縁関係を結びました。
神明関係の神社は当然に氏社ですので、その仕来りから自らの氏から神官を出すので大変青木氏が多いのです。
伊勢神宮は伊勢青木氏の守護地でこの伊勢神宮を護っていた氏ですし、皇祖神は自らの氏神でありますので身内から神官職を司ったのです。各地の主要神明社の多くは青木氏で綜紋を笹竜胆紋として家紋及神官職紋を「蔓付きの槲紋」としたのです。
吉田氏も奈良の古くから朝廷の祭祀を司る神職官僚でした。
室町期の山内氏は熱田神宮系の傍系です。
この柏紋を類似変紋して家紋とする氏は、これ等の末裔血縁氏が多いのです。
山内氏、牧野氏、中川氏、蜂須賀氏等あります。150位はあると思います。
多くは江戸初期に旗本や御家人等がこの変紋を使用したのです。
そこで、原型の「三つ蔓柏紋を」家紋としているのは当然に多くは青木氏で、朝廷神職官僚の吉田氏と、それらの神明の血縁関係のある末裔と見られる山本氏や長田氏です。
古い氏の青木氏には、「二つ葉」と「三つ葉」の「蔓柏紋」があります。
全国神明関係の神社は今は数えられないほどにありますが、始まりは伊勢賜姓青木氏から近江、美濃、信濃、甲斐の地に、他に19の天領地にある主要神社は多くは青木氏です。この青木氏が各地の神社と血縁関係を結んでいるのです。平安期からは特別賜姓族系の青木氏の神官職が出自しましたので、「柏の葉」と「槲の葉」の文様の他に秀郷一門の青木氏の119の家紋の神官職紋が出て来ます。
従って、神職関係の「柏の葉」と「槲の葉」の神官職紋には「2つの青木氏」の血が流れている事が云えるのです。
吉田氏や宗像氏や千秋氏とは恐らくはつながっている筈です。少なくとも吉田氏とは朝廷内での同じ環境下にいたのですから血縁関係はあったと考えられます。
前段で論じた諏訪神社系(三つ立梶の葉紋 神紋)の諏訪青木氏(抱き角紋)の氏は皇族賜姓信濃青木氏の末裔ですのですので諏訪神社とも繋がりがあるのです。
二つ柏紋(柏の葉を向かい合わせた紋 抱き柏紋)はこの抱き角紋の諏訪族青木氏と繋がっています。
当然に蔓柏紋の藤原秀郷流青木氏ですが、この氏も赴任地の24の国に自らの氏神を持って神官職を務めていますので、もとより母方で繋がり、朝廷とつながっていますので、賜姓族の青木氏と三つ巴に相互血縁関係が成立しているのです。ですから、この藤原氏北家筋ルーツは蔓槲紋または蔓柏紋なのです。
「繋がり」という意味からは諏訪族青木氏の宮司青木賢清(抱き角紋)は蔓柏、柏紋と神職関係で繋がっている事にも成ります。藤原秀郷系青木氏ルーツとして。
蔓柏紋が神職関係に元あった事が確認出来れば、皇族賜姓信濃青木氏系の諏訪族青木氏とも三つ巴に繋がっていることにもなります。
賜姓族の神明社関係の神社の神職は殆どが青木氏ですが、実は ここで重要な事があるのです。
それは前段でも何度も関係族として論じてきました「近江佐々木氏」が、特別賜姓族の神明社関係の神職の青木氏の中でも多く、特に地域性としては関東以北に多いのです。
566の神明社の神職を青木氏で賄う事には物理的に難しさがあったと観られます。
経緯としては第6位皇子の施基皇子と、特別に賜姓を受けた第7位皇子の川島皇子が近江佐々木の地名から賜姓名を授けられた経緯から、又、「近江青木氏」とも同族でもあり血縁関係があるところから「賜姓青木氏族」として見なされて特別賜姓族の神明社関係の神職に補充されたのではないかと考えられます。
実は「柏の葉」と「槲の葉」の蔓柏紋の佐々木氏の神職が多いのです。
家紋を蔓柏紋とし「綜紋」を笹竜胆紋とする佐々木氏です。これは近江佐々木氏の系列なのです。
先ず間違いはないと考えられます。
(「近江佐々木氏の研究論文」の「青木氏」に関わる部分で神職に付いて同じ様な論文が記載されている)
この「柏の葉」と「槲の葉」の蔓柏紋は藤原秀郷流青木氏の綜紋の「下がり藤紋」から神職になった時点で「蔓柏紋」に成って男系跡目に依って変紋なく、それを引き継いでいることを物語ります。
この事から、特記すべきは「祖先神-神明社」は依って「賜姓青木氏-賜姓近江佐々木氏-特別賜姓青木氏」の関係の連携で進められていた事が良く判ります。
この近江佐々木氏も源平での戦いでは近江で敗戦し美濃にて決戦して近江青木氏とともに衰退しているのです。恐らくは神官職であった末裔が無事に戦いから生き残り再び子孫を拡大させたのです。
また清和源氏木曽義仲と共に戦い敗戦して衰退させています。この事から青木氏側からの研究が難しく成っているのです。
(参考 佐々木小次郎は近江佐々木氏の出自で本家筋の者で家を再興するために旅に出た事は判っています。本家筋は現存 綜紋は笹竜胆紋 この事で良く判ります。)
(注意 宇多天皇系の滋賀佐々木氏がある 別であるがにこの宇多佐々木氏に付いては不明)
この様に近江佐々木氏との関係は神明社のみならず特別賜姓族青木氏と同様に関係は深いのです。
(神明社外のこの関係に付いてはむしろ近江佐々木氏の研究論文とその資料でかなり判別している。)
(神明神社は天照大神を祀る皇祖神で伊勢神宮が本社宮 伊勢青木氏 No706の函館の青木さんのご質問に詳細記述)
参考
宗像大社
鎮座 福岡県宗像郡玄海町
祭神 田心姫神 市杵姫神
神紋 梶の葉
神格 旧官弊社
社数 5000
神職 宗像氏
氏子 菊地氏
神歴 平安中期
関係 藤原秀郷流青木氏
はこ崎宮
鎮座 福岡県福岡市東区箱崎
祭神 応神天皇 神宮皇后 玉依姫命
神紋 三つ巴
神格 旧官弊社
社数
神職
氏子
神歴
関係 八幡宮
宇佐神宮
鎮座 大分県宇佐市南宇佐亀山
祭神 応神天皇 神宮皇后 比売大神
神紋 旧官弊社
神格 尾長巴
社数 40000
神職
氏子
神歴
関係 八幡宮総本宮
さて、参考として青木氏に関わる歴史的な事として「青木氏の立場」から記述しましたが、他社の一般的な学問的で宗教的な事は書籍やインターネットなどをご利用ください。
本データーの採集とその検証と研究は各種の同好会の長年の計画的な協力を得てたもので、あくまでも青木氏の歴史的な立場からの研究論文です。
青木氏と守護神(神明社)-20に続く
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青木氏と守護神(神明社)-18
[No.286] Re:青木氏と守護神(神明社)-18
投稿者:福管理人 投稿日:2012/05/18(Fri) 19:20:00
> 「2つの青木氏」の「特別賜姓族青木氏」は秀郷一門を背景には「氏構成」の大きさは別格として、同族5家5流の皇族賜姓族(近江、美濃は支流末裔は何とか遺せた)が「源氏11代」と対比しても前段から論じている「祖先神-神明社」を通して上記するその「生き様」の違いがあり、それが適時適切であった事を物語っている事に成ります。
> (絶大な勢力を誇った「特別賜姓族の援護」が「賜姓青木氏の生き様」を救った)
> この他にも宗像大社、熊野大社、住吉大社、出雲大社、阿蘇大社、等の氏子集団を形成した「姓氏」の果たした充分な役目から考えると、「祖先神」を守護神としながらも概して源氏は本来賜姓族でありながら「祖先神の役目」に対してその果たした功績は極めて低いと云わざるを得ないのです。
>それが子孫を遺し切れなかった「生き様」に現れたと考えられます
>
> 「八幡社の議論」はデータからも明らかに成った事から、更に次ぎからは「本論の神明社」の分析に入ります。
「2つの青木氏」に依る「祖先神-神明社」の建立は「河内源氏の八幡社」の独自の行動に因って全国各地に特徴ある影響を受けました。然し、神明社は確固たる信念の下に「2つの青木氏の守護神」としても「生活の神」「物造りの神」を存在意義として等しく「民の守護神」としても全国各地でどんな環境の中でも受け入れられ何時しか「総神」として崇められました。
その神明社の建立地は「2つの青木氏」の定住地としても「完全一致の形」で成り得ているのですが、その定住地を広域で区分けして観ると「2つの青木氏」の特徴ある様々な「生き様」が観えて来ます。
「広域定住地」、又は「広域建立地」は「青木氏の歴史を物語る域」に成り得ていてそれは次の様に分けられます。
前段で論じた歴史的な生き様や他の論文でも論じて来た様々な事を想起して次ぎの数字を観てください。
その神明社の日本全国の分布は次ぎの様に成ります。
(Jの分布表)
特別賜姓青木氏の神明社分布
関東全域 7県-103-18.2%-本家域
「青木氏の歴史を物語る域」を語るには先ずこの「関東域」を語る必要があります。
この域は秀郷一門の「第2の宗家の青木氏」(116氏)としての本領であります。武蔵入間の秀郷宗家を中心に伊豆の手前の神奈川・横浜を半径に円を描く様にその中心から青木氏本家を基点に外枠に至るところまで螺旋状に取り囲み護っていました。その為に青木氏としては他の地域に比べて定住地としての密度が極めて高く、ここから他の地域に戦略上の指揮を発していたのです。
その面積密度の高いこの「武蔵と下野本領」(後に上野が加わる)には、その「神明社の建立」は全体の2割程度を占める程に建立されていて、藤原氏北家の守護神「鎮守神の春日社」の本領の本家域に於いてでさえ、「神明社」が深慮する事無く深く取り込まれて建立されています。
これは「第2の宗家」である事と、「特別賜姓族」である事と、「生活の神」「物造りの神」の「全て民の守護神」である事の3つの事としても、一門の影響力の大きく及ぶところには、即ち、この関東域全域では無条件で受け入れられていた事に成ります。
故にこの数字はこの「青木氏の影響力の範囲」、或いは「青木氏の定住地の範囲や人口密度や末裔分布力」等様々なパラメータとして使う事が出来ます。
この様に関東域には他の域と違う特別な意味を持っていて「特別賜姓族青木氏」の「生き様の根幹」が読み取れるのです。
(Kの分布表)
特別賜姓青木氏-34県-418-73.8%
北陸道域 4県-104-18.4%-北陸域
東山道域 6県-105-18.6%-東北域
東海道域 8県-154-27.2%-中部域
移動先域 16県- 55- 9.7%-分布域
(関東全域の103は418に含む)
上記同然に、前段で論じて来た「鎮守府将軍としての赴任地域」であり、この域の「血縁域」としての「北陸道域」、その「北陸道域」から「東海道域」に繋ぐ末裔分布域の「東山道域」、「関西域」手前までの勢力伸張域の「東海道域」、それと各地赴任地24地方域に藤原氏の戦略的手法として遺して来た各地の土豪血縁族の「移動先域」の4つに分けられます。
これ等の域は夫々に特長ある秀郷一門の「生き残りの戦略上の役割」を持っています。
当然にその役割には「神明社建立」と云う事が大きく関わってくる事に成ります。
他の論文や前段で論じて来た様に、その「神明社の建立数」は秀郷一門の勢力のパローラメータとしても読み取れますし、「第2の宗家」の「特別賜姓族の青木氏」の勢力分布や末裔分布のパラメータとしても読み取る事が出来ます。
これ等の域の更に下記の県域毎の詳細な内容を観れば、各地に分布する「特別賜姓族青木氏」の勢力分布や末裔分布も読み取れるのです。
県単位で観てみるとこの戦略の役割の大きさや末裔分布力が明確です。
各種のパラメータ 戦略上の役割
北陸道域は28/県 赴任地として勢力拡大の基点域
東山道域は18/県 基点と本領を結ぶ戦略拠点域
東海道域は19/県 移動先域と本領を繋ぐ補給拠点域
移動先域は 3/県 前線の情報収集拠点
関東全域は15/県 本領の戦略指令拠点
(関東全域は北陸道域と東山道域と東海道域を結ぶ要として存在する)
「各種のパラメータ」の数字や「戦略上の役割」の具合を下に他の事柄に置き換えて考察する事が出来ます。
特に注目すべきは「東海道域」であり、関東域、北陸域、東山道域が如何にも調整したかの様に同率の2割弱を示す中で、段突の3割弱を示しています。これは関西域の手前の伊勢や美濃域を境に強力な防衛線を敷いていた事を示し、且つ、本領武蔵との環道を戦略的に強化していた事にも成ります。
事程左様に様々なパラメータとしても見る事が出来ますが、賜姓族の元締めの「伊勢の賜姓青木氏」と緊密な関係保持をしていた「特別賜姓族伊勢青木氏」の置かれている立場も戦略上重要視している事が良く判り増すし、又、都京と伊勢神宮との連携戦略拠点に成っていた事が判ります。
「移動先域」は1割で一県としてみれば前段で論じた様に「4社の神明社」/県を均等に配置していた事も判ります。恐らくはこれが戦略的に配置する一門の基準と成っていて、主要地の「関東域」、「北陸道域」、「東山道域」等にはその4-5倍/「移動先域」の戦略拠点を配置するとの基準の様なものがあったと観られます。勿論の事、為政的で政治的な戦略としても「生活の神、物造りの神」の「民の安寧の守護神」としても「神明社」を建立する基準とも成っていたと考えられます
この「移動先域」はその県毎のデータを観ると、地方の他氏の守護神などとの関係から前線基地としての地域毎の特長があり、その建立の目的にはかなり重要性が潜んでいて前段で論じた様子が具に覗える数字と成っています。
その「移動先域」の中国・四国域と九州域は、秀郷一門の「特別賜姓族青木氏」としての地域毎の繋がりある「戦略的な建立」は観られず、「移動先域」の前線基地的な県毎の範囲の位置に留まっています。
下記の県毎のデータにその県毎の歴史雑学を重ね合わせて考察すると、個々の数字の持つ意味がよく読み取れます。
(Lの分布表)
皇族賜姓青木氏-16県-148-26.1%
宗家主家域 5県-126-22.3%
移動定住域 4県- 10- 1.8%
二氏重複域 7県- 12- 2.1%
「1/4の原則の保守」
実は上記の特別賜姓族のデータで、”4-5倍/「移動先域」/県での戦略拠点を配置する基準”の様なものがあるとしましたが、「特別賜姓族青木氏」の主要41県全域の418に対して、「皇族賜姓族青木氏」の148は凡そその「4倍弱」と成っていて、これは「皇族賜姓族青木氏」の29氏に対して「特別賜姓族青木氏」の116氏の4倍弱(1/4)と同じであります。
この事は「神明社建立」には上記した「4社の神明社/県の基準」と合わせて「皇族賜姓青木氏」/「特別賜姓族青木氏」の「1/4の勢力」に合わせていた事が判ります。
(412+148/566に対して九州域の6社が含まず)
建立範囲として観ると、「皇族賜姓青木氏」の16県の内「二重重複域」は「宗家主家域」「移動定住地」とは重なる所があるので実質9県程度と成り、「特別賜姓族青木氏」の34県との比も矢張り「1/4の勢力」と成ります。
つまり、この事から明らかに「皇族賜姓族青木氏/特別賜姓族青木氏」の関係には「1/4の勢力」であった事が判ります。やはり勢力に合わせた建立以上には建立する事は実質上無理が絡む事を考えると、この「1/4の原則」を護っていた事が判ります。
更に、これらは実質の「神明社建立数」の%から観ても 26.1/73.8≒1/3 に成っていますが、この数字は上記の八幡社の論議でも明らかな様に「特別賜姓族青木氏」の域に於いて室町期中期以降後に合祀などの流れが起っている事から変更(7.8%)されていますので、それを加算するとここでも「1/4の勢力」(1/4の原則)が働いています。
先ず「1/4の勢力」は「勢力」のみに留まらず全ての事柄が「勢力」に左右される事からの「原則」に成り得ていた事は間違いないと観られます。
ところで、この「1/4の勢力」以外にもこの「1/4の原則」が一部の生活習慣の中にも遺されている様で、筆者の家の盆暮れや法事や日常生活の所作等に至るまでの様々な「仕来り」や「日常の生活習慣」にも遺されている事から観ると、この「原則」が当り前の事として日常生活の中にも良く浸透していたと考えられます。
この「1/4の原則の仕来り」は筆者の家の歴史から観ると、明治35年頃まで充分に遺されていた事か判りますが、ところが現在では周囲には殆ど観られない「仕来り」ですので、最早、周囲習慣とは違い(違和感)が有り過ぎる事から守れない事が起っていて、又その意味や合理性や根拠が今や強く感じられ無い事から、次ぎの世代には引き継ぐ事が難しく且つ出来ない事と成っています。
(何か要領書の様なもので ”この様な「古式所作と仕来り」があった” として末裔に先祖記録として遺したいと考えている。)
これには周囲の習慣を具に観ると其処かしこに伊勢青木氏の我家にのみ遺されていたと観られる事から、平安当時に「何らかな基本的な思想」が働いての事と考えていて、賜姓族には伝統的に”中国の「五行思想」の様な思想があった筈”と見ていますが現在は研究中で確認は取れません。
これは研究過程での検証誤差で「1/4の原則」と成っているのか「五行思想」の「1/5の原則」であるのかは確定できないのですが、「青木氏の思考原理」としての「祖先神-神明社」をパラメータとして観ると、その様な「1/4の原則」の関係を恣意的に構築していた事が判り、又、勢力に沿って無規則に「神明社建立」を実行していた訳では無い事が判ります。
「生活の基盤」の基と成っている「祖先神-神明社」の考え方からもたらされた「1/4の原則」であると考えています。
(特記 「五」を超える事は思想的にタブーとして敢えて「四」に抑えていた事も考えられるが、古来の皇室の格式習慣として、例えば、”皇位継承権は4位までとし6位は継承権外と明確にし、その間の5位は4位に近くしながらもどちらにも属する”とする「皇室の格式慣習」が奈良期から平安期まであった事から考えると、又「皇族賜姓族」であった事からそれに従っていたと考えられ、又その一部が「祭祀や所作」の中にも遺されていたと考えられ、故に「1/4の原則」は正しいと考えている。
又、皇族枠の点でも4世族と6世族はこの「仕来り」に沿っている事等、公家は「有品の制」でも従4位と従5位にはこの4と5との原則が働いている事、官位官職勲功叙勲に関してもこの4の原則が働いている事等からも先ず間違いは無いと考えています。
「青木氏の生活習慣の仕来り」の「1/4の原則」の「根拠の口伝」は当り前の事としていた事からか慣習や仕来りは多くのところで遺されているが、正式な「根拠の口伝」は「青木氏家訓10訓」の様には無く確認出来ない。
これは恐らくは、これ程に遺されているところを観ると、「青木氏の格式」で、つまり「令外規則」の「要領書」の様なもので、下記の「三大格式・三大儀式」に習った「賜姓族格式・儀式」であった事が考えられる。
「2つの青木氏」はこれを守っていた事が考えられ、上記の「河内源氏」は守らなかった事に成り生き残りの手段としてその差が出た事に成る。)
(「格式」とは令外規則の一種の要領書の事 大化期の律令の基と成った施基皇子が編集した「善事撰集」や桓武期の律令完成を法令補足する為に作られた嵯峨期の「弘仁格式・弘仁儀式」を始めとして「貞観・延喜式目」の等の「三大格式」や「三大儀式」がある。日本独自の法令形式)
この生活の中まで浸透していた「4-6の原則」「1/4の原則」「4の原則」は、「青木氏の賜姓族」に密かに脈々と引き継がれて来た「仕来り」であった様で、「氏を構成する平安武家」に引き継がれていたかは「下克上と戦国時代」で殆ど滅亡してしまった為に定かでは無いが多少の伝承があったと考えられる。
尚、賜姓族の「2つの青木氏」は神明社の観点からこの「1/4の原則」の慣習に従っていた事から観ると、秀郷一門の「特別賜姓族の青木氏」は秀郷一門一族(藤原氏北家)の「第2の宗家」の役割を果しながらも「賜姓族側の立場」をより強くしていた事を物語ります。
「祖先神-神明社」の考え方から来た「賜姓族の行動規範」であってこれを守っていたからこそ等しく「民の信頼」を得ていた事の基に成っていたと考えられます。
故に秀郷一門は「特別賜姓族青木」に「賜姓族」として一目を置いていた事が判りますし、前段の「瀬戸内の純友の問題」でも論じた様に世間も信頼し一目は置かれていた事を物語ります。
言い換えれば ”必要以上の勢力拡大は反って逆効果である” として考えていた事であり、清和源氏のの「河内源氏」の様に無制限の勢力拡大をしたのでは無く、「青木氏式目」(「青木氏格式」「賜姓族格式・儀式」)を守り着実にある範囲に留めて勢力拡大に努めていた事も判ります。(個々に生き残りの大きな違いがあった)
と云うのは、「皇族賜姓族青木氏」は「3つの発祥源」としての範囲で武力を使っての勢力拡大は所詮のこととして無かったのですから、従って、「特別賜姓族青木氏」はその「4倍程度の勢力」の範囲に留めていた事が適当と考えていた事が判ります。
秀郷一門が拡大するに連れてその範囲を管理していた事を意味します。
「皇族賜姓族」が持つ組織力が成し得る統率を超える勢力拡大は無かった事を意味し、それは同時に「特別賜姓族」の勢力の抑止力を超えるものでは無かった事と成り、もう一つの抑止力の「伊勢-信濃シンジケート」も「2足の草鞋策」の範囲を超えるものでは無かった事に成ります。
これ等は「1/4の原則」に意識して沿っていた事が判ります。
「1/4の原則関係式」
青木氏の勢力拡大≦賜姓族の組織力≒「1/4の原則」←「賜姓族格式・儀式」
青木氏の勢力拡大≦特別賜姓族の抑止力≒「1/4の原則」
伊勢-信濃シンジケートの抑止力 ≦「2足の草鞋策」≒「1/4の原則」
∴「賜姓族の組織力」 ≦特別賜姓族の抑止力」×「1/4の原則」
比較対照として ”氏が生き残れるか否かの違い” は前段の「河内源氏」の中にこの様な原則が存在したかは定かでは無いが、「荘園制と未勘氏族との武力を背景とした関係」から観て無かったと考えられ、伸びるだけ伸びた様な「生き様」であった考えられます。
青木氏式目」(「青木氏格式」「賜姓族格式・儀式」)を守らずに居た事が、これが前段で論じた”賜姓族にあるまじき姿”であって、 ”「賜姓族扱い」では無かった時期の姿を何時までも引きずった事から来ている”と考えられるのです。
源氏の名義だけを借りた「未勘氏族」にはこの「青木氏式目」(「青木氏格式」「賜姓族格式・儀式」)が無かった彼等に、更にその上に「清和源氏の賜姓未了の時期」に引きずられてしまったとも考えられます。
これは「たいら族」にしても「拡大する武力」に対してその裏付として「2足の草鞋策」を講じ戦略的には意識してバランスを採りながらも、「武力」に於いては”伸びに伸びた事”が滅亡を招いたと考えられます。
「伸びる事」を背景に無意識に「奢る態度」が必然的に生まれ、”平氏にあらずんば人にあらず” と世間から云われた所以では無いかと考えられます。
阿多倍一門で、且つ同じ「賜姓族の敏達天皇系」の「たいら族」にも「賜姓族格式・儀式」なるものが無かったと観られます。
前段で論じた様に「2つの青木氏」の原則に類似するものとして「ある程度の原則」は保ちつつも”奢れる者久しからず”の部分に引き込まれた滅亡であったと考えられます。
この引き込まれた原因は、”「諸行無常の世の条理」にあがなう事無く、知らず知らずの内に「河内源氏の生き様」に引きずられたものであった”と考えられます。
そう観ると、源平と同じ厳しい時代に生きた我等の先祖の「2つの青木氏」の「1/4の原則」に従っての「生き様」はすばらしいものであった事が云えます。
普通であるならば「源平」と全く無関係の立場には無かった訳ではないのですから、むしろ極めて近い立場にあった筈で、「諸行無常の世の条理」に引き込まれていた事は間違いない筈で、そうで無かったのはこの「1/4の原則」を懸命にして護っていた事ではないかと考えているのです。
ただ”偶然に生き残った”とするものでは無く「青木氏家訓10訓」と同じく「生き残りの戒め策」が「2つの青木氏一門」に働いていた事に成ります。
恐らくは、「特別賜姓族青木氏」は秀郷一門と云う組織で護られていた事も別の面で強く働いていた事もありますが、特に「賜姓信濃青木氏」や「賜姓甲斐青木氏」も厳然として本流、支流がと生き残っている訳ですから、「賜姓伊勢青木氏」との「1/4の原則」で緊密に結ばれていた事が云えます。
前段でも論じた、”出る釘は打たれる、地に竿させば流される等”の例えの通り、これを「1/4の原則」で以ってぎりぎりの所を維持させていたと考えられます。
”出る釘は打たれる、地に竿させば流される”等だけでは、むしろ消極的に成りこの”厳しい近い立場”の中では生き残る事は逆に困難であった筈です。
必要以上に消極的で無かったのは、真に「2足の草鞋策」と「2つの抑止力」を堅持していた事でも明らかです。
そうすると、この「1/4の原則」は 上記の”厳しい近い立場”に加え、前段の「2つの青木氏」の難しい立場、即ち「3つの発祥源」の立場に対して、この「2つの立場」の「2つの限界」を護る法則であったのです。
この上記の「2つの限界」(「2足の草鞋策」と「2つの抑止力」)と「1/4の原則関係式」を護る「心の支え」が「祖先神-神明社」に置いていたからこそ「青木氏の思考」をコントロールする「1/4の原則」を護り得たと考えているのです。
「青木氏の生き様関係式」
「2つ源平勢力」<「2つの青木氏」>「諸行無常の世の条理」
「2つの青木氏」=「2つの立場の2つの限界」
「2つの立場の2つの限界」=「3つの発祥源」+「2足の草鞋策」+「2つの抑止力」
「2つの青木氏」=「1/4の原則」+「祖先神-神明社」
さて、次ぎに皇族賜姓族青木氏の「宗家主家域」は何度も論じている近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の地域で5家5流青木氏の主家域で、夫々は国府を中心として拡がっています。
そして、土地の豪族との血縁賜姓族の近江の佐々木氏系青木氏、美濃の土岐氏系青木氏、信濃の足利氏系青木氏、諏訪族系青木氏、甲斐の武田氏系青木氏、武田氏系諏訪族青木氏、の支流族があり、夫々定住域を血縁氏側の国境方に拡げています。
美濃であれば西側の尾張域、信濃であれば北側の越中-越前域、西側の諏訪域、西域の尾張域、甲斐であれば東域と北域、諏訪族は東側の武蔵域に分布地を拡げています。
この地域の県域の分布域には神明社が必ずその末裔証拠として存在します。
(特記 比較的歴史的には不思議に知られていないが、事実は「信濃足利氏」は陸奥の斯波氏系足利氏で足利氏拡大の中心と成った足利氏で幕府を開いた関東の下野足利氏より勢力拡大とその貢献度は伯父に当る斯波氏足利氏の方が大きかった。室町期には11の国を治めたが「信濃足利氏」がその最大勢力を誇った。この信濃には斯波氏系足利氏のその血縁族は多い。
信濃諏訪族には甲斐諏訪族武田氏系青木氏があるが賜姓族ではない。足利氏系青木氏の一部は足利氏本家と秀郷宗家との血縁して後に主導権争いに破れ越前-米子-八頭に同行して末裔は移動定住した。斯波氏の足利氏は室町幕府衰退と共に衰退した。織田氏の主君に当る。)
「皇族賜姓青木氏」の「移動定住域地」は室町期中期までには西から・日向、土佐、・米子、八頭、・摂津、滋賀、越前、・越後、美濃、尾張、・伊豆、相模、下野、上野、武蔵鉢形、陸奥の北域(青森県北域)が記録として移動が確認出来る地域でありますが、移動して神明社を建立し末裔を大きく遺したとする主な移動定住域は・印の4県であります。(室町中期前の記録)
「二重重複域」は「皇族賜姓青木氏」と「特別賜姓青木氏」の同士の血縁融合域でありますがこの地域にも神明社が建立されているのです。
・近江、・摂津、・伊勢(四日市)、土佐、・美濃(桑名)、・伊豆、・相模、武蔵(入間)、武蔵(鉢形)、・越後(新潟)以上の地域に「青木氏融合氏」が定住していますが、古くから神明社と末裔子孫を大きく明確に確実に遺しているのは・印の7県域です。。(室町中期前の記録)
(但し、室町中期までの移動先域でこれ以後混乱期に入る為にデータとしては信頼性は寛政記録や家紋分析等から「第3青木氏の発祥」などがあり信頼性が低下して割愛するが上記の地域から歴史的経緯に基づいて拡大を見せている。)
これ等の個々の地域の「祖先神-神明社」の実情は次ぎの表から読み取る事が出来ます。
(Aの分布表)
「神明社の県域順位表」(八幡社と対比)
神明社の分布(県域分布/全国比) 八幡社の差 分布域の圏域 八幡社順位 順位差
1 山梨72 -12.7% -69 2つの青木氏の圏域 29 28
2 新潟61 -10.8% -58 2つの青木氏の圏域 37 35
3 東京30 - 5.3% - 1 秀郷流青木氏と源氏の圏域 2 - 1
4 愛知33 - 5.9% -19 秀郷流青木氏と源氏の圏域 5 1
5 富山33 - 5.8% -28 賜姓青木氏の圏域 24 19
6 秋田33 - 5.8% -30 秀郷流青木氏の圏域 35 29
7 岐阜31 - 5.5% -19 賜姓青木氏の圏域 8 1
8 千葉22 - 3.9% 1 秀郷流青木氏と源氏の圏域 4 - 4
9 静岡18 - 3.2% - 6 秀郷流青木氏の圏域 7 2
10埼玉15 - 2.7% - 6 秀郷流青木氏の絶対圏域 11 1
11山形15 - 2.7% - 8 秀郷流青木氏の圏域 17 6
12長野15 - 2.7% -13 賜姓青木氏の圏域 41 29
13栃木14 - 2.5% - 3 2つの青木氏の圏域 9 - 4
14宮城14 - 2.5% - 7 秀郷流青木氏の圏域 19 5
15群馬14 - 2.5% - 9 秀郷流青木氏の圏域 36 21
16青森13 - 2.3% -10 秀郷流青木氏の圏域 34 18
17神奈川11 - 1.9% 1 秀郷流青木氏と源氏の圏域 6 -11
18兵庫11 - 1.9% 13 清和源氏発祥地と賜姓青木氏 3 -15
19岩手11 - 1.9% - 7 秀郷流青木氏の圏域 28 9
20福岡9 - 1.6% 30 八幡社発祥地と秀郷流青木氏 1 -19
21茨城9 - 1.6% - 2 秀郷流青木氏の圏域 20 - 1
22福島9 - 1.6% - 7 秀郷流青木氏の圏域 44 -22
23福井8 - 1.4% - 5 賜姓青木氏の圏域 38 15
24広島6 - 1.1% - 1 秀郷流青木氏(讃岐) 23 - 1
25三重5 - 0.8% - 4 皇祖神と神明社絶対神域 47 22
26宮崎4 - 0.7% 2 皇祖神 天岩戸神社神域 22 - 4
27高知4 - 0.7% - 1 賜姓武田氏系青木氏 33 6
28鹿児島3 - 0.5% 6 源氏未勘氏の阿蘇大社神域 13 -15
29徳島3 - 0.5% 0 秀郷流青木氏(阿波) 30 1
30滋賀3 - 0.5% - 1 賜姓青木氏と源氏圏域 42 12
31石川2 - 0.3% - 1 賜姓足利氏系青木氏 46 15
32愛媛2 - 0.3% 7 清和源氏未勘氏の圏域 12 -20
33北海道2 - 0.3% 7 清和源氏未勘氏の圏域 14 -19
34和歌山2 - 0.3% 6 清和源氏の圏域 16 -18
35京都2 - 0.3% 2 神明社の絶対的神域 27 -12
36大阪1 - 0.1% 10 賜姓源氏の圏域 10 -26
37山口1 - 0.0% 8 清和源氏の圏域 15 -22
38大分1 - 0.0% 6 清和源氏未勘氏の圏域 18 -20
39香川1 - 0.0% 5 秀郷流青木氏(讃岐)圏域 21 -18
40岡山1 - 0.0% 3 秀郷流青木氏(讃岐)圏域 25 -15
41島根1 - 0.0% 3 出雲大社絶対的神域 26 -15
42長崎1 - 0.0% 2 宗像大社の神域 31 -11
43熊本1 - 0.0% 2 阿蘇大社と宗像大社神域 32 -11
44佐賀1 - 0.0% 1 宗像大社神域 40 - 4
45奈良1 - 0.0% 1 神明社の絶対的神域 43 - 2
46沖縄1 - 0.0% 0 45 - 1
47鳥取0 - 0.0% 2 出雲大社の神域 39 - 8
(神明社566社) (八幡社354社)
「皇祖神-祖先神-神明社-2つの青木氏-特定地域」(「5つの連携した関連要素」)
ここで改めて上記の表から歴史的に観て特筆する圏域があります。それは九州域であります。
福岡9、長崎1、大分1、熊本1、佐賀1、宮崎4、鹿児島3でありますが、「特別賜姓族青木氏」としては末裔が福岡9を中心に、長崎、大分に拡がっています。末裔も神明社分布の程度であります。
「2つの青木氏」「祖先神-神明社」として、その建立域は特別な地位でありながら確実に古くからの建立根拠を持っているのです。然し、薩摩域3と日向域4は異なるのです。ここは改めて論じる事とします。
故にそもそも上記の経緯から論じた様に「神明社」は、「皇祖神」と「祖先神」の役割が「親子の関係」にある事から、その立場が何処の地域でも繊細で微妙で重要な処を保持しています。
そして、それが矢張り「神明社-2つの青木氏」を意味するものである事なので、それに繋がる史実が無ければなかなか以下のこの薩摩3と日向4の様に説明がつき難い事に成るのです。
今までの経緯から「皇祖神-祖先神-神明社-2つの青木氏-特定地域」の「5つの連携した関連要素」が成立しないと証明や説明が出来ない事に成ります。
前段でも論じ、又、他の論文でも論じて来た長嶋氏(ルーツ掲示板の九州長嶋氏のお便りも参照 長谷川氏も含む)が南九州で大きく出自している事が歴史的になんらかの唯一の繋がりでありますが、青木氏と長嶋氏や長谷川氏等の主要5氏が建てると成ると上記の戦略上の範疇から外れて「神明社」では無く「春日大社」が優先される事に成りますので難しい事と成ります。
確かに、日向4は「日向青木氏」として「神明社」か「八幡社」に繋がる歴史的史実がありますが、神明社を2社の説明が就くとして残りの2/4社を建立すると成ると相当強い関係がなくては成りませんし、前段で論じた様にそれ程建立する勢力は日向青木氏には無かったのです。
(特記 日向青木氏の経緯由来は、源頼光の4代目源三位頼政の孫で、仲綱の子の長男宗綱と次男有綱と伯父の高綱は、伊勢賜姓青木氏の跡目に入った三男京綱が伊賀平族に助命嘆して、平清盛に特別に許されて日向に配流となった。その地元廻村の廻氏に匿われ廻氏との子孫を遺すが再び日向警護の平族に挑み敗戦、その後、「薩摩大口村」の寺まで落延び、そこで住職の勧めで「嵯峨期の詔勅」により伊勢青木氏族を名乗り生き延びる事が出来た配流孫で、後に九州諸藩の農兵として生き延び「日向青木村」を形成した。1100年頃はある程度の勢力を保持したが薩摩の台頭で完全に衰退した。確かに伊勢青木氏の系列の賜姓族で「神明社族」ではあるが「神明社」を創建し維持管理するその勢力はなかった。大きく現存する)
(参考 日向青木氏は次ぎの地域に青木村を形成した。現存)
現在は鹿児島県北伊佐郡大口村・山野村・羽月村 の三村大合併した。
その大口村は更に次ぎの8村が合併した。この中に上記の青木村がある。
(大口村 ← 「青木村」,里村, 原田村, 大田村, 牛尾村, 木ノ氏村, 目丸村, 篠原村)
「日向の神明社4の考察」
そうすると、青木氏外に平安期の朝廷が「心の神」と「生活の神」「物造りの神」として建立したと考えるにも無理があります。ただ日向4の内の1社が年代は確定出来ないのですが平安初期前後頃の建立ではないかと観られる神明社です。
残りの神明社2社(天岩戸神社は除く)に付いて、日向の土地は「天皇家の皇祖神」に取って所縁の土地でもありますが、これに関係する何かの建立と観ることも考えられます。
「皇祖神の伊勢神宮」の分霊支社等の要件があるのかを調べましたが、何しろ南九州は資料の遺産と発掘が少ない土地柄であって困難を極めているのです。
この日向2社はこの「神明社1」が原因して分社したとも考えられますが、果たして誰が維持していたのかも現在までも判りません。
[天岩戸神社(1)]
そこでこれ等の解明は先ず日向4に対してその糸口とも成りますので4社の一つの[天岩戸神社]を考察をしてみます。
下記にその日向地域の神明社4を列記しましたがこれを調査すると次ぎの様に成ります。
云わずと知れた「天岩戸神社」は「天孫降臨」による地の「天皇家の神社」(国社)ですので先ずこの一つは外れます。
そこで、此処には「西本宮」と「東本宮」とがありますが、「西本宮」がこの「天孫降臨」の神社ですので、朝廷は、”この域には建造物成るものを建ててはならない”とする飛鳥の古来からの掟があります。
然し、この地の豪族の「大神族」が”夢のお告げにより建てた”とする神社があり、これを地元では「東本宮」と呼ばれています。
神社本庁は宮崎県西臼枡郡高千穂町にある「西本宮」のみを「天岩戸神社」、正式には「天磐戸神社」としています。この「天岩戸神社」では無い事は間違いありませんので残り3つの神明社です。
(「大神族」の「東本宮」と呼ばれる神社に付いては下記で関係する部分が詳細に出てきます。)
ところが、この同じ高千穂町にもう一つの神社があります。
それは「高千穂神社」(2)と呼ばれています。
[高千穂神社(2)と大神氏]
この「高千穂神社」は別名「十社大明神」と呼ばれています。この神社の祭祀する神は「神武天皇」の兄の家族10人を祭る「皇族神社」、つまり「神明社」です。
この10人を以って「十社大明神」と呼ばれているのです。この神社は神社本庁の記録の「別表神社」に登録されています。
「皇祖神」の「伊勢大社」系列の神社の「神明社」としては登録されている事を意味します。
ところが、ここで検証すべき問題が有ります。
この「高千穂神社」(2)にも上記の「天岩戸神社」の「東本宮」と呼ばれる神社を建てたと主張する地元土豪(豊後の大野郡)の「大神氏」がこの「高千穂神社」をも”管理していた”と主張しているのです。
その人物が「大神太夫惟基」だと主張しているのです。
さて、問題はこの豊後(日向)の「大神族」なのですが、氏発祥は地元の「地理纂考」の経緯より11世紀始め頃発祥した「姓氏」です。(大神氏は8世紀だと主張 疑問)
つまり、この「姓氏」は家柄を良く見せる為に過去に遡って系譜の搾取偏纂をして良く見せる様に造り上げた事で、それを現実化させる為に「天岩戸神社」の近くに掟破して「東本宮」を”夢お告げ”として掟を犯して建てて於いて信用させ、「高千穂神宮」をも如何にも「氏神社」の如く後(平安期末期)で仕立てた事になります。
これには矛盾があって平安期の末期の後の彼等の記述によると、「高千穂神社」を”建立した”とは明確には云っていないのです。”管理していた”と主張する部分もあり不可解な表現をしているのです。
もう一つは、「神明社」は「祖先神」で「青木氏か源氏」の「皇族賜姓族」か「特別賜姓族」の「朝臣族」しか建立する事は無いのですが、平安期の認証の「氏族」ではなく「姓氏」族であり、その「姓氏族」の豊後の土豪大神族には有り得ない事なのであります。
この為に「明治期の宗教改革(廃仏毀釈、神仏判然令等)」の混乱期の中で、明治政府は神社関係の整理を行った際に、この「高千穂神社」を「別表扱い」として「神明社」である事を判りながら、彼等の社説の言い分を聞き入れ「天岩戸神社」の「東本宮」と伴に「高千穂皇神」(後の高千穂神社)を上記する「氏神」の「氏社扱い」の中に組み込まれてしまったのです。
[高千穂神社の3説]
ところが、この神社の明治初期の整理の際に調べると書かれていた社歴にも”創建は1200年前”と書かれていて、そうすると812年頃と成ります。
そこでこの「高千穂神社」の説には次ぎの3つがあります。
A 垂仁天皇期創建-紀元前の神代の時代の天皇家の説
B 地元実話を基にした「続日本後記」「三代実録」より引用した10世紀後半頃の大神族創建説
C 神社資料古物の研究機関の分析より明治期1200年前の創建説
以上の3説があり現在はC説の1200年前説が有力
特に「大神説」の大神氏と神社が主張する社説に依れば、「高千穂神社」も「天岩戸神社」と同じの「天孫降臨の社」ともあり「天岩戸神社」だけであるのに矛盾します。
更には「東本宮」と呼称させたものは812年創建と主張して於いて、「高千穂神社」では947年頃創建としていて、”この氏は何時の発祥なのか”と成り矛盾しています。
もし812年とすれば700年頃にこの氏は既に存在している筈ですが史実では存在していません。
つまり「神明社」である事を認めながらも”管理者が大神氏であるかも知れない”として「氏神」の「氏社扱い」になり、神社本庁の「社格」は「別表扱い」とされ「東本宮」が「氏神社」(姓氏族)であるので「高千穂神社」も「氏神」とされてしまったのです。
現在でも「東本宮」は余り知られていないのですが、「大神族」は自らの資料に812年に建立したと主張しているのですが、これがもしそうだとすると矛盾が起こります。
812年とすると大神氏はこの次期には「姓氏」は全く発祥していません。依ってそれはそれなりの「姓氏族」では無く立派な由緒ある「氏族」と成りますので、当然に朝廷の「八色の姓の制」から日本書紀などの書物には認可された「氏」として明らかに出てくる筈ですが、当時の豊後(日向)の豪族にはこの氏は記録にはありません。
(後の搾取偏纂で多くの知識を誤った)
まして、当時は「大蔵氏」や「肝付氏」の大勢力圏でもあり、ここは朝廷の5大官僚の一つ「伴氏」の「弁済使」の勢力圏に入っていましたのでこの時代には「大神族」は有り得ません。
結局、この明らかな矛盾から健在の「高千穂神社と天岩戸神社」の公的機関の研究からこの「大神族」は11世紀初頭の「姓氏族」である事が判明しています。(筆者の調査でも11世紀初頭)
このことから結局、豊後の大神族(おおがし:「姓氏」で大野郡の土豪)が「高千穂神社」であるとすると「神明社」で無い筈であります。しかし”「十社の明神」を祭祀する神社である”としています。これも矛盾しています。
そこで明治初期では神社本庁は「祖先神」ではなく「氏神」としたのですが、祭祀する神は皇族の十社ですので「皇祖神系列神明社」と成り明らかに矛盾します。
「高千穂神社」と「大神族」とをいろいろな資料の一説を引き出して結び付けて強引に作り上げた矛盾した自説である事が良く判ります。
「高千穂神社」も”「創建した」”と一方で示し、一方では”「村の守神」と崇めた”と記述していて、そしてその表現の言質を左右できる様に工夫している矛盾説であります。
中には「豊後大神氏」は「平家物語」に記している「緒方氏の祖、(緒方惟栄)」としていますが、ところが大和に全く別の由緒ある古氏の朝臣族の「大和大神氏」(おおみわし:「氏族」)があり、又、大和緒方氏もありこの家柄とを錯誤させる様に家柄を上手く利用しています。
11世紀初頭の「大神族」(おおがし:「姓氏」で大野郡の土豪)には、「筑前青木氏」までの不明期間100年から150年の間の歴史的空白期間を搾取偏纂により上手く利用され狙われたと考えられます。
利用された理由の一つは「青木氏か源氏」の存在がこの日向の神明社だけには唯一無い事であります。
その間100から150年の間は地元に派遣された累代の官僚族により維持されたからであります。
この事は3説ともに期間の間の維持管理は認めています。
(累代官僚による維持管理を認める事は「式内社」である事を認めている事に成りこれ又矛盾する)
この事に付いては記録が多くあります。
10世紀後半からの一時期はこの九州3国地域の神明社と伴に藤原一門とその青木氏が管理(寄進して補助行為)した事、鎌倉時代以降には頼朝も寄進したと記録が多くある事、歴代の知行藩主或いは領主の管理と伴に多くの豪族の氏からも少なくとも寄進にて賄われていた事は明記されている事等の資料史実からも確実です。この事は止む無く彼等が主張する社説も認めています。
これを認める事がそもそも矛盾する所です。
室町末期以降から江戸末期には土地の延岡藩等の歴代藩主等が、「天岩戸神社」と同じく由緒あり庶民からも尊厳されていた事もあって、これを認めて引き続き管理していた事が明記されています。
(明治以降は結局は余りの矛盾のために神社本庁の「別表扱い」と変更され最終は寄進で管理維持となった)
豊後大神族の社説は矛盾が多いことが判っていて当初から疑われていて「別表扱い」とすると問題に成るので採用されていなかった事を物語ります。
つまり「社説」と「寄進行為」は矛盾しています。明らかに「創建主」ではなく隣村のこの神社を崇めた事を誇大に言い合わせて如何にも「創建主」で在るかのように末裔に「搾取誇示する作為」で造り上げたと観られます。
(社説は後の社の所有権や地域興しの利害関係からこの様な大矛盾だらけの説を故意に採ったと観られます。 この様な搾取偏纂の偏在は悪い典型的見本で「姓氏族」に多い事に注意を要するのです。地方史録はこの様な資料をベースに偏纂されているので特段に注意を要する。)
上記した様に神明社を建立する力は、日向国の隣の豊後の一地方一郡(大野郡)程度の土豪の大神族には隣の日向国に神明社を建立し維持する勢力は全くになかった筈です。
”大神族の「氏神」と定め村人はこれを崇めた”と室町期に於いて土地の「地理考」に書かれているが、「日向の西臼桁郡」にあるこの「高千穂神社」を「豊後の国隣の大野郡」の村人の「心の拠り所」の神社とした事を意味しますから、「豊後の大野郡」には適当な神社が無かった事を意味するか、”村人が「高千穂神社」を余りに崇めていたのでこの様な破天荒の矛盾だらけの姓説を作ってしまった”と考えられます。
現実に「豊後大野郡」にはこの時代までに創建された神社は2つであり、何れも時期は不祥とされていますが、平安中期頃で「八坂神社」と「西寒多神社」です。(高千穂の郷には多かった)
この建設地域は高千穂地域とは逆の東の臼杵地域側にあります。
「八坂神社」は850年頃に当社全国支社の本社神社として豊後に創建された事で有名な神社です。
(京の祇園神社で有名です)
実質の創建は平安中期頃と観られ、且つ「延喜式神名帳」に記されている事から927年頃前の平安中期創建されたと観られる「西寒多神社」(ささむた)は、豊後を支配した大友氏が応永15年(1408年)に別の場所に移したとあります。
「八坂神社」は「氏神社」(県社 式内社並扱い)であります。
「西寒多神社」は「式内社」で発祥は平安期中期頃であり、この何れの神社も臼杵郡側にあり早くても実質は平安期中期に成るが有名な神社と成りますので、”大神族の大野郡の神社”と云う事には成りません。依って、大野郡には「式内社」や「氏神社」や「別表社」は無かった事に成ります。
或いは、平安末期発祥の大神族が崇める神社は無くなってしまった事は、これは「豊後大神氏」が自らの力で神社を建立する力が無かった事を意味し、止む無く民は西隣国越えの日向国の西臼桁郡高千穂村の「高千穂神社」を崇める結果と成った事に成っていた事に成ります。
そこで、この「豊後大神氏」は平安末期に「直入郡」に発祥していますから、鎌倉期の後期頃にはこの大野郡を納めこの事から民を引き付ける必要性に迫られ、東域は大豪族の大友氏の反発を招く事から、西側の「天岩戸神社」を利用する意味から近くの洞窟に掟を破り「小さい祠」を造った事に成ります。
ところが、この「祠の策」は効果なく結局は民が始めから崇めていた「高千穂神社」を”自分の祖の氏神だ”として作為したと観られます。
(推測 矛盾のある社説がこれだけ主張する事は、上記の空白期間の戦乱混乱期をこの大神氏から武力的な保護を受けて護られていた事が予想できる。)
だからこの意を汲んだ「大神説を社説」とする神社は”建立した”とは充分に主張していないのだし「維持管理」の100年間を狙われたと観て正しいと観られます。
参考として「天岩戸神社」の近隣の「東本宮」の社屋は「祠並」で社領等一切無いのです。
(豊後大神氏は飛鳥大神氏の一部が豊後に移動してその後平安末期に末裔を遺したとする説がある。)
そもそも「歴史の紐解き」とは例外無くこの様な「矛盾・疑問」を如何に切り崩すかにあります。
しかし相当苦労致しましたが、「大矛盾の大神説」は削除されますので、この事から残り「2つの神社」は南端にありますし、建立年代が不祥で平安末期以降と考えられますので「栗隈王か武家王」の唯一青木氏の発祥と末裔の存在しない域での「神明社建設」はこの「高千穂神社」である事に成ります。
(注 明治維新4年には神社本庁はこの社説を採用し「氏神社」「村社」としながらも「別表扱い」として高千穂の郷の土地の土豪の三田井氏の名を採って「三田井神社」と改名し、その後、28年に変更し元の「高千穂皇神」を「高千穂神社」して戻した。そして「国の管理」の下に戻した。実質は間違いを訂正した形式に成っている)
事程左様で、この大神説は矛盾だらけで明らかに除外できますので、従って、上記の理由で「別表扱い」と成っていますが、由緒ある「高千穂神社」の「神明社」は年代の検証から大化期頃に立てられた「神明社」である事に成ります。
つまり、前段で論じた「19の神明社」の創建記録の通り「栗隈王」か「武家王」が「中大兄皇子」に命じられた「19の神明社」の一つである事に成ります。
この「時代考証」と「天岩戸神社の所縁の側域の建設」と「高千穂の地理考証」と「19神明社」と「祭祀の神の皇族系」と「肥後と日向と豊後の国境に建てられている事」や「3国北地域の守護範囲南端にある事」等や「戦略的な位置付け」等から「栗隈王か武家王」が建立した「神明社」である事がほぼ証明できます。
この「天岩戸神社と高千穂神社」の「分霊支社」としての伸張が”戦略上で何かあったのか”等を研究する必要が有りますが、この2社は「皇祖神-祖先神-神明社-2つの青木氏-特定地域」の要素関連が成立しませんが、青木氏に関係のない神明社関係の神社である事は間違いない事に成ります。
青木氏から観れば例外神明社の神社と成りますが、皇祖神から観れば「神明社の元祖社」と成ります。
そこで「宗像大社」や「阿蘇大社」の圏域や社領域の中で、”残りの日向2(下記下の2つ 江田神社 鳴戸神社)を含む薩摩3は一体何なのか”大いに疑問です。
この事に付いて青木氏としては神明社研究を進める必要が有ります。
日向国の神明社の4社
天岩戸神社(1) 西臼枡郡高千穂町 「式内社」
高千穂神社(2) 高千穂町 「村社」(別表扱い)
江田神社 (3) 宮崎市阿波岐原町 「式内社」
鵜戸神宮 (4) 日南市宮浦 「郷社」
上記の様に日向の残りの上記の江田神社(3) 鳴戸神社(4)の2つは確実に古い社である事は事実であり神明社に関わっている事も事実ですが、「皇祖神-祖先神-神明社-2つの青木氏-特定地域」の要素関連が成立しないし、全く青木氏には関わりが無いと観られ後に大蔵氏の影響を受けて「産土神」に変わっています。
この事から可能性として戦国時代に入り管理維持が困難と成り元より賜姓族の影響の低い九州域では鎌倉期末期から「祖先神-神明社」から九州中心とした大蔵氏の「産土神」に変えた事が充分に考えられますが確認は取れません。
「薩摩3の考察」
ただ薩摩3は下記のデータには0+3として記述していますが、筆者の研究の調査ミスかも知れませんが、上記大神氏の様に分霊である事の疑問の社で何か古く魅せている可能性があるのです。
そもそも薩摩と日向は、前段で論じた様に中央との間に「政治的隔壁」を奈良時代から明治維新まで長い間持ち続けた国柄でもあり、何事にも一段深慮する必要のある地域である事は間違いはないのです。
「賜姓族」という点ではこの隔壁のそのものであるのです。
故に日向の古いと観られる残りの2つの神明社は、平安期に皇祖神の伊勢大社の分霊により創建されたとはこの事情からさすが難しく、「祖先神の神明社」を建立したと考えられるのですが確定する資料は見付かりません。
もしそうだとして鎌倉期以降とりわけ室町幕府が管理維持を続けたのかと云う疑問もあります。
これを維持管理する豪族とも成ると肝付氏と島津氏以外には無い筈です。
阿蘇大社域では出来たとしても他社社領域と成り無理と観るのが普通であります。
(肝付氏26代はこの日向の諸県を支配しています。)
九州域、特に南九州域は江戸末期から明治維新の廃仏毀釈などの4つの令(神仏分離令、大教宣布、寺社領上知令)に基づく江戸末期から明治初期の激しい宗教改革で他県と比べ物にならない程に大嵐が吹いたのです。それ故に不明不祥と成っているのです。
この様に南九州域にはそもそも平安初期より「神明社域」ではありませんから室町期中期前には「神明社」は無かったと観て次ぎの論所に入ります。
「賜姓族の神明社の検証」
次ぎはもう一つの皇族賜姓族の指揮組織であります。
「皇族賜姓族」では次ぎの「3つの指令基地」の拠点が働いていたと考えられます。
(Bの分布表)
皇族賜姓青木氏-16県-148-26.1%
宗家主家域 5県-126-22.3% (Fの分布表)
移動定住域 4県- 10- 1.8% (Gの分布表) 16県
二氏重複域 7県- 12- 2.1% (Hの分布表) 11県
この「皇族賜姓青木氏」の本拠地は伊勢青木氏で、平安末期には「源平の争い」に巻き込まれて前段で論じた様に近江、美濃は衰退してその遂行する能力は最早無く成ったと考えられ、平安末期にはこの指令システムが一時崩れたと考えられます。
前段から論じている様に、そこで立て直す為にも領国から上がる年貢に頼る事無く乱世の中で経済的な自立の道を選んだと考えられ、「2足の草鞋策」を採用して再構築を成したと観られます。
武力に相当する抑止力等の構築の為にも「神明社の建設」を推し進めそれを基にシンジケートを構築して護ったのです。
ここでも、明らかに「心の神」「生活の神」「物造りの神」のもので有れば上記の「1/4の原則」から4社/県から観て16県の範囲で148もの神明社は多すぎると考えられ、何と神明社全体の1/3程度にも配置しているのです。
「心の神」「生活の神」「物造りの神」により民衆を味方に引き入れる事と同時にこれ等を守る意味としての「戦略的な建設」でもあったとも考えられます。
これは秀郷流と若干異なる戦略目的であったと考えられ、「2足の草鞋策」に軸足を掛けての事であり゜殖産・商い」と成ると彼等の賛同を確保する事が絶対的な必須条件と成ります。
これ等を護るためにも「武力」を捨て「抑止力」に頼った運営とも成ればこれまた「民衆の力」なくして維持する事は出来ません。その意味で各地の民衆が結集したこの「シンジケート」は「絶対的な戦略的手段」と成ります。
「シンジケート構築」にしてもその「核」に成るものが必要であり、それが「神明社」と云うものであったと考えられるのです。
勿論、上記した”それは何なのか”で論じた絶対的条件も備わっての事であります。
「宗家主家域」のデータの5県で126もの建立であります。
つまり「5家5流」の5つの国であります。5家と云っても実質3家で有りますが、甲斐の青木氏は特に武田氏系青木氏は、別の論文でも論じている様に「神明社建立」を実行する能力が無くなっていて、自らの守護神さえも侭成らない始末であった事が史実から判っているのです。
(甲斐武田氏系青木氏の論文で論じている)
後は「賜姓族甲斐青木氏」で有りますが一族を護るに限界で有った事が記述から読み取れます。
そもそも甲斐には「賜姓族青木氏」1と、この賜姓族と武田氏との血縁で生まれた「武田氏系青木氏」2と、甲斐の賜姓族青木氏と血縁した「諏訪族青木氏」3(信濃諏訪族青木氏の一部の移動定住)と、この諏訪族青木氏と血縁した「諏訪族武田氏系青木氏」4と、これから分流した「武田氏族諏訪系青木氏」5の賜姓族の1氏とその支流青木氏の4氏の計5氏が定住しているのですが、1と3の賜姓族青木氏を除き、2と4と5の武田氏系青木氏は武蔵国と越後国と土佐国に逃亡して存続しているのです。
依って甲斐は神明社の基地としての機能は果たせなかったと観られ、伊勢青木氏(2氏)-信濃青木氏(3氏)との連携により成り立っていたのです。其処に126であります。
従って、この伊勢青木氏-信濃青木氏の関係が緊密なものであった事が判ります。
賜姓族青木氏の95%は武力に頼らないだけにこの2つの地域に集中しているのです。
全体の神明社の23%程度が集中しているのです。賜姓族の5県-126-22.3% 特別賜姓族の7県-103-18.2%-本家域とほぼ%で相似する内容と成っています。
何れも本家域の圏域の及ぶ範囲には「4社/県」と「1/4の原則」を確実に守っていて、「特別賜姓族」は武力を保持する事からこのややその割合を抑えています。
移動定住域 4県- 10- 1.8%(Gの分布表)
二氏重複域 7県- 12- 2.1%(Hの分布表)
このデータから見逃す事が出来ない事があります。
それは確かに「移動定住先10」で力を盛り返し10もの神明社を建立したと云う事であり、その力を発揮したと云う事を物語るデータであります。4社/県から観れば10は少ないのですが、移動域とすれば”勢力を盛り返し建立した”とすると妥当と考えられます。
「二氏重複域」(Hの分布表)は主に逃亡先での秀郷流青木氏と同地域で生活している中で12もの神明社を自らの力で建設しているのです。
力を盛り返し地主等に成り、その力で管理維持したもので主に「心の神」「生活の神」「物造りの神」を目的として建設されたものである事が覗えます。
これは「移動定住域」の10も同じであったと考えられますが、戦略的意味合いもまだ乱世が続いている事からその目的も見逃せない筈です。ただ主体が何れにあるかの問題であると考えられます。
ここで、「移動定住域」(16県)と同じ比を示しているこの「二氏重複域」(11県)には「融合青木氏」(賜姓族青木氏と特別賜姓族青木氏の血縁族)が発祥していて、この存在がより「特別賜姓族」との連携を一層効果的に働かせたと観ているのです。
「移動定住域」があったからこそ「二氏重複域」が生まれた事に成ります。
その意味からすると計11県-22-4%は4社/県からすると2社/県は半分と小さいのですが、「移動定住域-二氏重複域」の意味合いからすると4社/県に相当する意味合いを持っている考えます。
そしてそれが「賜姓族」と「特別賜姓族」を特定地域に限らず”全体的なより強い絆で結ばれていた”と考えられます。親族以上のもので運命共同体とする関係を保持されていたと考えられます。
その意味で「二氏重複域」(11県)の神明社の2.1%は各地でかなり大きな役割を果していたことが判ります。姿としては「強い絆」「運命共同体」の象徴的なものと成っていたのです。
「宗家主家域」の神明社とは「強い絆」「運命共同体」の点でより強いものがあったと考えられます。
筆者はこの自然摂理と歴史的経緯から生まれた「移動定住域」-「二氏重複域」の関係が「2つの青木氏」の隠れた「生き残り」の基点(骨格)に成っていたと考えているのです。
4社/県に対して2社/県は「2社の肉の部分」を剥がした「骨格部分」の神明社であったと観ていて2社以下ではなく2社/県-2%であった事に意味があると観ているのです。
つまり、”この「2つの域」では「1/4の原則」に沿ってそれだけのものにしていた”と云う事なのです。
それは次ぎの地理性と青木氏の主要地から読み取れるのです。
実は「移動定住域」と「二氏重複域」がA:攝津、B:越後、C:美濃、D:伊豆、E:相模、F:武蔵の6県域で重なっていますが、この6県のそれは「融合青木氏」の子孫拡大が大きかった域を意味します。
即ち、これは前段でも論じた様に「賜姓族」と「特別別賜姓族」の何れにとっても重要で主要拠点であり、「賜姓族」と「特別賜姓族」の家柄身分の区別が最早この間の関係にはなかったと観られ、「完全な親族」としてその「仲介役的な働き」をしていた証拠であります。
それは地理性に応じた特徴ある次ぎの「血縁融合の仕方」に意味を持っているのです。
A 摂津は賜姓族を中心に特別賜姓族が血縁融合(1)と賜姓佐々木氏系青木氏と特別賜姓族との血縁融合(2)をした。
B 越後は特別賜姓族を中心に賜姓族(1)が、特別賜姓族を中心に諏訪族系青木氏3氏と血縁融合(2)をした。
C 美濃は西域は賜姓族を中心に特別賜姓族(1)が、東域は特別賜姓族を中心に賜姓族が血縁融合)(2)をした。
D 伊豆は5家の賜姓族の同族の複合の血縁融合(1)と、この賜姓族を中心に特別賜姓族(2)が、この2つの血縁融合氏と複合血縁の青木氏(3)、清和源氏摂津源氏頼光系との血縁した青木氏(4)の5氏が存在した。
E 相模は甲斐武田氏系青木氏1氏と賜姓族を含む諏訪族系青木氏3氏間との相互の血縁融合(1)とこれらと特別賜姓族の相互の複合の血縁融合(2)をした。
F 武蔵は特別賜姓族を中心に伊豆-相模の賜姓族を含む諏訪族系青木氏との血縁融合(1)し、鉢形に移住した甲斐武田氏系青木氏と特別賜姓族との血縁融合(2)をした。
(これらは歴史史実と家紋分析による総合判別の結果記録)
特に「融合青木氏」のメッカとして「伊豆-相模域」は複合血縁で伊豆よりは賜姓族を中心に、相模よりは特別賜姓族を中心に特別な複合血縁している傾向を持っています。
これは青木氏の歴史的な移動経緯に左右されていて、伊豆域は守護国であった事から頼光系清和源氏の嵯峨期詔勅による青木氏発祥と伊豆の賜姓3家の同族複合血縁族との青木氏が発祥しているのが特徴で「二氏重複域」の拠点にも成っているのです。全体の6%を占めています。
(この6県に付いて「神明社の県域順位表」を参照するとその特長が判る)
中には、土佐と滋賀が重なっていますが、土佐はその拡大が小さい事と全体の戦略的な位置付けは低い事もあり少し意味合いが異なる事が云えます。
滋賀は前段でも論じた様に近江青木氏が一時移動定住した地域でありますが、この滋賀青木氏は上山氏の青木氏であり、一部に近江-滋賀の秀郷一門との血縁族と観られる融合族が存在するが神明社とは別問題で時代性が室町後期から江戸初期に成る事から本論とは別にしています。
(この上山氏の青木氏の一部は江戸初期前後に三河駿河と流れ最終の千葉には子孫を遺している)
伊勢と信濃には秀郷流青木氏との血縁による「融合青木氏」が「仲介役」(接着剤)としても存在しているのですが、この「仲介役」の「融合青木氏」が全体の「2つの青木氏」の連携軸に成っていたのです。
(Kの分布表 家紋分析 参照)
そうすると、秀郷流青木氏の「4つの指令基地」に話を戻して、この「北陸道域」を戦略的前線基地とすると本拠地は陸奥域と成ります。
果たして、その様に神明社が配置されているのかと云う疑問が出ますし、もしなければ上記の説は覆されます。
そこで、陸奥域の神明社の状況を下記に示しますと次ぎの様に成ります。
(Cの分布表)
東山道-東北北陸 6県-105-18.6%
建設地域 社数 /地域% /全国%
青森(陸奥) 13 12.4 2.3
秋田(羽後) 26+7 31.4 5.8
山形(羽前) 15 14.3 2.8
岩手(陸中) 11 10.5 1.9
宮城(陸前) 14 13.3 2.5
福島(岩代) 9 8.6 1.6
秋田を除いて間違いなくほぼ同じ程度の分布状況に成っています。
陸奥域は平安期の本来の域は青森-秋田-山形の領域を以って陸奥域とされていました。
これは明治2年に陸奥を磐城と岩代と陸前と陸中と陸奥とに分離したもので、出羽は羽前と羽後に分離したものです。(平安期の陸奥域は広域なのです。)
ですから、秋田26+7は北陸域との連携からも特別に平安期の陸奥域の西域に主力を置いていた事が判ります。神明社分布と末裔分布はこれに一致します。4社/県の原則は県域としては8倍程度の建立数を維持していますので東山道域では主要域であった事が頷けます。
ですから、平安期から室町期まででは、61-58%で、全国的に観ると61/566=11%と成り、平安期の陸奥の勢力圏域から観ると105-19%と北陸道の前線基地と遜色ない勢力を保持しいます。
この陸奥域は当然に平安期から室町末期まで北家の藤原秀郷一門の絶対的権域で、室町末期には永嶋氏が陸奥に拠点を置くほどに重要な「戦略上の拠点」でもあり「穀倉地帯」としても重要な地域でもあります。
この前線基地と本拠地を合わせると(北陸道域 4県-104-18.4%) (東山道-東北北陸 6県-105-18.6%)で併せて「10県-209-37%」と成り、全体の1/3以上が集中しているところであります。このデータは青木氏の分布と一致する数値でもあります。
殆どは、秀郷流青木氏の分布域でもあります。
下記の東海道域に比べてやや落ちますがこれが特別賜姓族の勢力の置き方であった事を意味します。
この東山道の東北北陸のデータから秀郷流青木氏と一部の賜姓族とその系列の青木氏の分布域に合致するのですが、更にこれを裏付けるデータが東海道域のデータがこれを物語ります。
(Dの分布表)
東海道域 7県-154-27.2%
建設地域 戸数 /地域 /全国
茨城(常陸) 8+1 5.8 1.6
千葉(下総) 22 14.3 3.9
埼玉(武蔵) 31 20.1 5.5
東京(武蔵) 30 19.5 5.3
神奈川(相模 ) 9+2 7.1 1.9
静岡(駿河) 18 11.7 3.2
愛知(尾張) 33 21.4 5.8
特別賜姓族の本領であった武蔵域を中心に相模と常陸が両翼にしてやや下総側に伸びた神明社の分布状況となっているのは本領勢力圏の形に一致します。この本領から手足が伸びる様に街道沿いに本領勢力圏と同じ様にまた末裔分布圏と同じ様に伸びています。
上記の特別賜姓青木氏の神明社分布の関東全域 7県-103-18.2%-本家域(Jの分布表)は秀郷一門が領国とする関東域にして観たものですが、前記した様にこれに沿ってその延長線上の静岡と愛知は秀郷流青木氏が西の前線権域として大いに活躍した領域です。
全体比から観ても、この西域の静岡と愛知域は9%であります。
これに対して、A-103(関東域)、B-104(北陸道域)、C-105(東山道域)で312と成り合わせて55%と成り、これに静岡と愛知の分の51-9%を加算すると全体比では364と成り64%にも成ります。
東海道域と東山道域から観ると、街道沿いには209と成り、37%と成ります。
つまり、このデータの持つ意味は上記した様に戦略的な意味としては、街道沿いは皇祖神の神明社で4割は占めている訳ですから、藤原秀郷一門の秀郷流青木氏の特別賜姓族の勢力が街道沿いを中心に勢力を集めていてその勢力は如何に大きかったを物語るものです。
この神明社の勢力圏に加えて藤原氏の春日大社の勢力圏を加算すると8割程度の勢力圏を占めていた事が判ります。
この神明社の分布に依って藤原北家一族中でも「下がり藤紋」の一族がこの街道沿いの圏域を如何に大きい力で占めていたかを物語るものです。当然に末裔分布も一致しますので「勢力の内容」を実証するものと成ります。
”果たして、その様に神明社が配置されているのか”と云う上記の疑問はこれで配置されていた事が判り解消されます。
前記より東山道域圏と東海道の東域の主要街道域は、藤原一門で抑えられていて信長-秀吉-家康はこの勢力を無視できず信長-秀吉は現実に手を出せずにいました。そして、家康はこの秀郷一門の青木氏(「第2の宗家」)のこの力を無視できず、むしろ戦略的に積極的に家臣に取り入れた事が良く判ります。
故に、江戸初期の家臣団の初期の構成時には「武田氏の家臣団」と並んで「秀郷一門の旗本」が多い事はこの街道沿いの「秀郷一門の勢力」を取り込んだ家康の戦略から来ているのです。
これは家紋分析からもこの事が良く判ります。
そこで気に成る事ですが、”家臣そのものを取り込んだ”と云うよりは上記のデータで示す「街道沿いの勢力」、即ち、「賜姓族「神明社」も含む”「神明社圏域」を取り込んだ”と云う事が正しいと云う事なのです。
戦略家の家康であれば「家臣の人」より地に根付いたの考え方に基づいた「優れた組織」を取り込んだ筈です。当然にそうすると「祖先神-神明社」で構築された組織を取り込んだのです。
秀郷一門のみならず武田氏の赤兜軍団も「組織の取り込み」です。
武蔵鉢形に武田氏系の「青木氏全軍団」を根こそぎ村毎そっくり移住させているのもこの戦略の考え方から来ているのであり、この「2つの組織」を秀郷一門の本拠地の武蔵にわざわざ指定して移動させたのもこの「2つの優秀な軍団」を膝元に置き武蔵の江戸を固める事にあったのです。
つまり、この戦略である限り「人」では無いのです。
「祖先神-神明社」で「統率された組織」と「青木氏の思考原理」を取り込んだのです。
そして、その取り込んだ「祖先神-神明社の考え方」が江戸期以降の「武士道」の基盤と成り得たのです。
私はむしろ突き詰めると、”「祖先神-神明社の考え方」に重点を置いていたのではないか” と観ています。
それは江戸期の初期の侍社会を固めるには、農民から伸し上った下級武士や下克上からの武士を主体とする武家武士の多い社会を根本から構築する必要に迫られ、豊臣との戦乱後に幕府を開く以上は「社会の再構築」の「優先的な政治課題」に迫られていた筈です。
それには奈良期から日本の「民と武家の社会」に根強く根ざし受け入れられて来た上記で論じた「祖先神-神明社の考え方」を江戸期の封建社会の中に敷くには最適であると家康は観ていたと考えられます。
当然に「物造り神、生活の神」としても、「総神」として崇められてきた経緯を見逃す事は出来ない筈ですし、この「神明社の分布」が政治的にも効果的であり幕府樹立として利用しない訳には行かなかった筈です。他の守護神とはその位置付けは論じて来た様に大きく異なるのですから、「祖先神-神明社」に目を向けられた筈です。
その証拠には前段で論じて来た「八幡社」の「八幡大菩薩」を「下級武士の心の支え」として再び陽の目を見て掛け軸などにして床の間に飾る江戸期の下級武士の風習はこの証であり、その思考原理は「神明社」が室町以降に「未勘氏族」に依って「八幡社」に改宗された経緯もあり、故に総じて前段でも論じた「祖先神」に通ずるものとして扱われたのです。
つまり、江戸期には「下級武士には八幡社、上級武士には神明社」の仕来りの流れが起ったのです。
故に青木氏のみならず「神明社」も幕府の援護を受けて上記で論じて来た社会の主要なところに建立されていた「神明社566社 八幡社354社」が好都合として残り得たのです。
江戸期には「2つの青木氏」にはこの566社を充分に全て管理維持する能力が江戸期には遺されていたかは疑問でありますから、しかし現実に遺されている以上は江戸幕府の「祖先神-神明社」を「武士道の根幹」に取り込んだ事に因ると考えられます。偶然に残ったのではありません。それ程に江戸初期までは戦乱で甘い社会ではなかった筈です。それなりの遺し得る確実な理由があったのです。
「武士道の根幹」と「総神」
その証しの一つとして「祖先神-神明社」の青木氏族は「古代密教形式の浄土宗」を菩提寺とする事から、江戸初期の「浄土宗督奨令」の発布と江戸初期に行われた「寺社の宗教改革」はこの事から来ているのです。そして、その浄土宗は上級武士の宗派と成ったのです。
ですから、江戸初期に旗本と成った中には「祖先神-神明社」「浄土宗」の関係する青木氏の家紋群が多い事と、それに関連する類似家紋の支流分流分派の家紋が多いのはこの事から来ているのです。
前段で論じた江戸初期に発祥した多くの「姓氏族」の守護神の「氏神」が「神明社」と一部で間違われているのは、江戸初期の上記の経緯から来ているのであって、「神明社-総神-氏上-御師-総師」と崇められていた事から「氏神-総神-神明社」の流れが「下級武士の姓氏」と「民」の中に起ったのです。
これも「祖先神-神明社」を「武士道の根幹」のみならず守護神を離れて全民の「総神」として位置付けられていたのです。
この事の証拠に就いて前段で論じた様に「伊勢青木氏と信濃青木氏」は江戸初期から明治初期まで徳川氏から「賜姓族」として「特別な待遇と保護」(例 下記特記)を受けていた事でも判ります。
特記 前段で論じた事ですが、伊勢青木氏には、紀州が徳川氏直轄藩と成り飛地治領としての松阪での「賜姓族特別面談扱い」や、紀州藩初代徳川頼宣からの手紙や拝領品等が多く遺されていて、家臣では無いが明治初期まで特別に十二人扶持を与えられていた事や、幕末14代まで特別扱いの下で「師」としての深い親交があった事や、伊勢松阪で吉宗を親族の加納家と共に育て上げた事や、その8代将軍吉宗の有名な「享保の改革」を布依着用(大名扱い)で勘定方で断行し、合わせてその時の財政改革の世間への見本として同時期の紀州藩の財政改革を特別依頼されて断行に成功し享保の改革の反対者を押さえ込んだ事や、且つ幕末の「坂本竜馬と船沈没の事件」で高額の賠償金捻出での有名な幕末紀州藩の財政改革等を断行した等が記録として遺されている。松阪にある賜姓青木氏の氏の総菩提寺が江戸期には紀州徳川氏の菩提寺に成っている。
これ等は「祖先神-神明社」の上記の証しと成るものと考えます。
私はここが「2つの青木氏」のみならず徳川氏の「天下分け目の決め手」であったと考えていて、もっと遡れば徳川氏には信長が甲斐武田氏を潰した時に甲斐の戦後処理を家康に任した事が決めてであったと観ています。それに依っての結果として「神明社」が遺されたと云う事も云えるのですが、これよる勝敗が逆であった場合は「神明社の運命」は恐らく焼き討ちにあい無く成っていたと考えられ、強いては「2つの青木氏」の存在や上記するその関係が破壊されていた事が考えられます。
この様にDとJの分布表の神明社から観れば、「神明社の存在」そのものが「2つの青木氏の命運」が如何に関わっていたかが判ります。室町期中期以降の生き残りはこの分布表からも読み取れるのです。
武蔵入間を中心に神奈川-横浜を半径とする総宗本家の勢力圏はAからDまでの主要街道沿いを7割で抑え、次ぎのデータの都の畿内圏域に結び付けていた事が判ります。
更に、この勢力圏はお膝元の畿内の神明社とどの様に結び付いているかを次ぎに検証します。
(Eの分布表)
畿内域 6県-14-0.2%
建設地域 戸数 /地域 /全国
三重(伊勢) 5 38.5 0.0
奈良(大和) 1 7.7 0.0
和歌山(紀伊) 2 15.4 0.0
大阪(摂津) 1 7.7 0.0
京都(近江1) 2 15.4 0.0
滋賀(近江2) 3 23.1 0.0
比較的にAからDの分布に対してEの分布表の数字は少ないと観られます。
つまり、この少ない原因は神明社の質的な意味合いがこのデータは異なっているのです。
特に奈良域は1と成っていますが、神明社の奈良期の19の神明社は室町期から観たものである事とその遺跡の有無から1としたもので、この域の「神明社の環境」は域全体が神明社であり分離したものでは無く当然のものとして存在しているので別格的扱いとしましたが、伊勢5は「分霊扱い」では無く「支社扱い」のもので「神明社の本拠点」と見なされ、量的な意味合いではない事に成ります。
天智天皇が実行した天領地の主要地19の第4世守護王の配置域に神明社を建立したものを加えて計算すると32-5.7%と成ります。しかし一部この19の守護地は5家5流の中部域の3国(美濃、信濃、甲斐)を外しますと29-5.1%と成ります。
この6県は「質的な神明社」であって、量的な判別は困難であり、32-5.7%に修正すると4社/県の原則から観ても5-6社/県と成りますのでこの神明社の古来からの聖域としては「1/4の原則」の範囲にあり妥当なものと考えられます。
(「皇祖神の聖域」であり「神明社」を建立する根拠は祭礼格式により無かった)
そもそもこの6県全域が「皇祖神-伊勢神宮」の90年-90社の遷宮域で「皇祖神-祖先神-神明社の聖域」そのものである事から考えると「皇祖神宮90社」を加算して122と成り、むしろ20社/県となり、「1/4の原則」から観れば20社/16社と成りむしろ多い事と成ります。
民衆から観た「生活の神」「物造りの神明社」とは別に上記した様に「戦略的意味合い」も強くあった事から伊勢を始めとして畿内域はその意味合いが無い訳ですから当然に量的分布は別物であります。
故にこの様な分布状況を示しているのです。
従って、その建立地も戦略的意味合いの位置の山岳国境には無く平地の主要地に位置しています。
この事が神明社布教を前提として純粋に「生活の神」「物造りの神明社」としての役割を果たす事に主眼が置かれていた事が判ります。
この畿内域は「伊勢-大和域-紀伊」8と「近江-摂津-都域」6の2域に分類され、「伊勢-大和域-紀伊」8は「皇族賜姓伊勢青木氏」と「特別賜姓伊勢青木氏」の特別区域として管理運営されていた事が判ります。しかし「近江-摂津-都域」6は「賜姓近江青木氏」と「賜姓近江佐々木氏」の区域であり、平安末期には何れも衰退してその管理運営力を無くし室町期には朝廷の力も無くしていますので、室町期まで遺されていたのは「足利幕府の政治的な配慮」の畿内民衆の「生活の神」「物造りの神明社」の梃入れであったと考えられます。
「伊勢-大和域-紀伊」8は5家5流の賜姓青木氏との繋がりが問題であり、この繋がりは次のような傾向を示しています。
(Fの分布表)
賜姓青木氏-5県-126-22.3%(宗家・主家)
建設地域 戸数 /地域 /全国
三重(伊勢) 5 4.0 1.0
山梨(甲斐) 69+3 57.1 12.7
長野(信濃) 13+2 12.0 2.7
岐阜(美濃) 31 24.6 5.5
滋賀(近江) 3 2.4 0.0
この他の地域の賜姓族の建立状況をAの県毎の分布表からまとめ直してみると次ぎの様に成っています。
三重と滋賀は上記の通り「皇祖神の遷座地」である事から少ない事は納得できますが、中部3県の山梨69-3、長野13+2、岐阜31では、先ず山梨は5氏の青木氏内諏訪族系3氏の諏訪社を除くと2氏の賜姓族系で全国比13%程度の高比率を占めているのは高い神明社への信仰が高かった事のみならず武田氏滅亡の戦い以外に神明社の消失の原因が少なかった事が云えます。
特別賜姓族はこの山梨には存在しませんし、室町期中期以降武田氏滅亡以降に上記した家康の保護があった事と青木氏系列の柳沢氏の保護下にも成っていた事から存続の比率が高かったと考えられます。4社/県からすると12倍と成りますので多く建立した事もありますが、遺し得た事も一つの要因です。
長野は奈良期よりもとより賜姓族の拠点でもあり賜姓族2氏と前段と上記で論じた様に特別賜姓族の強力な存在もあり、また伊勢青木氏との強い連携もあり4社/県の3倍の神明社を残し得たと考えられます。特別賜姓族の存在は信濃足利氏のお家騒動に加担した事の大きな関わりであるので定住地では無い事からこの3倍程度は妥当なところで不必要な消失に巻き込まれなかった事が大きな要因とみなされます。それは「祖先神-神明社」が各階層から崇められていた事により護られ消失を免れて遺し得たと考えられます。
岐阜は賜姓族青木氏2氏と特別賜姓族系4氏流と融合青木氏とが存在する地域であり源平の戦いで土岐氏系の青木氏が滅亡した事もあって甲斐域に比べては少ないけれど特別賜姓族の支えにより戦乱の戦場と成った地域にしては遺し得たと考えられます。
4社/県から観ると8倍と成っていますので遺し得た地域とみなされます。信濃域とは少しその歴史的経緯が異なっていた事から特別賜姓族の存在からすると甲斐に比べて少ないと観られますが矢張り戦乱の戦場となり続けた地域でもあり消失は無視出来ないところであります。
下記の分布表でも判る様に、前段と上記でも論じた「皇祖神-祖先神-神明社-2つの青木氏-特定地域」(「5つの連携した関連要素」)が絡み、その地域県の「歴史的経緯と末裔分布と勢力図」の影響が特に左右して室町中期以降に「5つの連携関連要素」が緩んだ事で、その内容如何では「色々な形での消失」が働いている事は少なくとも否めません。
従って、上記の様に街道沿いの広域で相対的に論じているのですが、然し、多少のバイアスを持っている下記の県域に於いてでもその「歴史的経緯や末裔分布の生き様」等の息遣いの大まかな様子が垣間見る事が出来ます。
(Gの分布表)
賜姓青木氏-4県-10-1.8%(単独の移動定住先)
建設地域 戸数 /地域 /全国
鳥取(伯鰭) 1 10.0 0.0
島根(出雲) 0+1 10.0 0.0
高知(土佐) 4 40.0 0.0
宮崎(日向) 4 40.0 0.0
前段でも論じた鳥取は米子や八頭に移動定住した信濃賜姓族足利氏系の青木氏が勢力を拡大し島根との県境宍道湖周辺までその勢力を盛り返し信濃賜姓族の末裔として一族の結束の証しと象徴として建立したものです。
島根は讃岐青木氏の一門が2足の草鞋策で瀬戸内を越えて日本海に出て廻船問屋を手広く広げそれに伴って子孫末裔が宍道湖の西側域に定住地を確保して拡がったものでその証しと彼等の象徴として建立したものでは無いかと考えられますが、これには信濃賜姓族足利氏系青木氏が宍道湖を越えて西側にも拡がった事も家紋分析等から考えられるので、秀郷一門の讃岐青木氏との判別が難しいところです。
出雲大社域の中での神明社であるので余り西よりには建立は難しい筈であった事から、讃岐青木氏の定住地は宍道湖のやや更に西よりに青木村を形成している事から信濃足利氏系青木氏の米子域の青木村との2つの青木村の圏域の境界が判らないのです。
宍道湖付近で「融合青木氏」が存在していた事も考えられますが以前ルーツ掲示板のお便りからすると地主であったとして家紋分析からみると可能性があると考えられます。現在は確認が取れませんが家紋分析で研究中です。
宮崎は上記で論じた通りです。
(Hの分布表)力が良く判ります。
秋田4.1
重複域青木氏-7県-178-31.4%(移動定住先 秀郷流青木氏と重複域)
建設地域 戸数 /地域 /全国
秋田(羽後) 26+7 18.5 5.8
新潟(越後) 55+6 34.3 10.8
福井(越前) 8 4.5 1.4
富山(越中) 32+1 18.5 5.8
神奈川(相模)9+2 6.2 1.9
静岡(駿河) 18 10.1 3.2
栃木(下野) 12+2 7.9 2.5
重複域の特別賜姓青木氏 -166 27.3%
重複域の賜姓青木氏 -12 2.1%
{(126+10)+418}-566=-12
東山道域の広域で論じた様に、重複域から観ても矢張り新潟55+6を中心に北側の秋田にパイプを広げて戦略的に連携を採っている事が判ります。
新潟55+6を中心に秋田側26+7に重複域を拡げています。
西側には福井側8と、富山32+1 と成りますが、パラメーターを統一して4社/県として観ると、新潟15.3、秋田8.3、福井2、富山8と成り、更に 福井2を1として新潟7.6倍、秋田4.1倍、富山4と成り重複域の分布力が良く判ります。
地理的に並べて見ると 秋田4.1 新潟7.6 福井1 富山4で北側には特別賜姓族を主体に、西側には賜姓族を主体にして伸びている事に成りますが、この分布力から「1/4の原則」を当て嵌めて見ると秋田はこの原則に丁度一致し、新潟は拠点としてあるので8は拠点分4として相当して考えられます。
恐らく7.6は、この「4社/県」と「1/4の原則」が完全に適用されていたとして観ると、0.4分のマイナス分は、「神明社の分析過程」の+6の判定が室町期中期内の+の可能性と観ているので、+9とすれば7.6が8に成ります。「重複域」である事と「八幡社」の宗派変え分(宗旨変え)による+3分の判定エラーが起こっている事が考えられますが、凡そ4:8:1:4で分布力の関係が出来ていたのです。
富山の4は歴史的経緯から観て、鎌倉末期から室町期中期までの建立のものが多いので定住地の地理的な要素から観ると、甲斐の避難族だけではなく、信濃足利氏本家筋との賜姓族青木氏血縁族のものもと一部には未勘氏族も含まれている可能性が考えられます。
(純粋に融合の判別要素が無い為には難しい 福井と同じ程度か)
上記の広域で論じた様に、神奈川、静岡、栃木の3県で観ると、神奈川11 静岡18 栃木14は伊豆の複合融合最大域を中心に東西にバランスよく分布していて、2.8:4.5:3.5 として 0.7:1:0.8の関係に成っています。然し、静岡は複合融合データ域なのでこれを1としているので、若干低めに成る筈で東西に(0.4-0.5)のバランス関係を保持していた事が判ります。
東西に賜姓族の融合の重複域を採っていた事に成りますが、ここでも「1/4の原則」はほぼ守られていた事に成ります。
「重複と融合の戦略の存在」
総じて重複域での特別賜姓族と賜姓族との比が、166:12(社) 27.3:2.1(%)と成り、重複域のここでも特別賜姓族が27-28%台を持っていた事は重複域の「融合青木氏の存在の効果」が大変に大きかった事のパラメータに成ります。
重複域も例外ではなく、上記したエラーを重複域ではこの関係分を含みますので、これを考慮するとやや低めのほぼ「1/4の原則」が成立しています。
広域と境域の重複域の関係を観て来ましたが重複域期で起る「融合青木氏の仲介役、接着剤の役割」を改めて認識する事に成ります。
むしろ、これ等のデータから ”戦略的に恣意的に「重複域」を造り「融合青木氏」を発祥させて「2つの青木氏」の結束を強化していたのではないか” と考えられます。
だから危険を顧みず時代毎に起った歴史的な事件や経緯からの移動逃亡先の各種の青木氏を即座に迷う事無く受け入れたと観られます。
そして、その行動が関西-中部域は賜姓族側が、関東以北域は特別賜姓族側が中心となっていた事を物語ります。
上記の様に広域と境域共に重要なポイントの域には漏れる事無く「重複と融合」が高い割合で間違い無く行われているのです。
これは”「重複と融合の戦略」なるものが、「祖先神-神明社」の考え方を根幹にしてその存在意義を護る為にも、「3つの発祥源の2つの青木氏」にはあった”と考えているのです。
だから上記で論じた様に、抽象的なものでは無く、 ”この確固たる論理的な行動の戦略に基づいた「固い祖先神-神明社の組織」を家康は取り入れた” という事なのです。
だから「伊勢青木氏」に遺されている様な徳川氏が上座を譲るほどに「青木氏を崇める記録」が存在するのであって、「3つの発祥源の2つの青木氏」の古い賜姓族氏だからと云って簡単単純に江戸期に成って今更に崇める事はしない筈です。伊勢だけではなく信濃国府や武蔵入間の青木氏宗家にも何がしかの記録があると観ています。
(Iの分布表)
(移動定住先)
(関東以北の主要地を除いた移動定住地を除く 全24地域)
藤原秀郷流青木氏-16県-58-9.7%
建設地域 戸数 /地域 /全国
栃木(下野) 12+2 25.5 2.5
群馬(上野) 12+2 25.5 2.5
この2県域は移動定住地でもあるが本領でもある。しかし「祖先神-神明社」の特別賜姓族から観ると主要地と異なり「移動定住先」に成るのです。
因ってここに加えましたが、本領としてのそれなりのデータを示しています。
本領である以上は「4社/県」「1/4の原則」は完全に保持していて下記の地域とは完全に異なっています。
京都(近江3)5 9.0 0.0
岡山(美作) 1 1.8 0.0
広島(安芸) 2+4 11.0 0.0
山口(周防) 1 1.8 0.0
島根(出雲) 0+1 1.8 0.0
広島は下記の讃岐青木氏の勢力圏でもあり、本領の宗家からの赴任移動先でもある事からたの移動定住先とは若干異なりそれなりのデータを保持していますが、神明社の検証に+4は確定出来ないものであり、歴史的経緯と地理性からもう少し多いのではないかと考えられるのです。恐らくは、神明社が増える可能性よりも「八幡社の宗旨変え」(5 4社/県)が起っていると観られます。この地域の未勘氏族や疎遠の河内源氏が八幡社5を建立維持したとは考え難いのです
そうすると2+4+(5)=11と観ると、本領移動域の下野、上野域に比適する事と成り納得出来るデータと成ります。
徳島(阿波) 4 7.3 0.0
香川(讃岐) 1 1.8 0.0
愛媛(伊予) 2 3.6 0.0
高知(土佐) 4 7.3 0.0
福岡(筑前) 1 1.8 0.0
佐賀(筑後) 1 1.8 0.0
長崎(肥前) 1 1.8 0.0
熊本(肥後) 1 1.8 0.0
大分(豊前) 1 1.8 0.0
(京都は丹波などの3国とする)
以上の9県域は移動定住域としては納得出来るデータです。
(Jの分布表)
藤原秀郷流青木氏の神明社分布
関東全域 7県-115-20.3%-本家域
(Kの分布表)
特別賜姓青木氏-34県-418-73.8%
北陸道域 4県-104-18.4%-北陸域
東山道域 6県-105-18.6%-東北域
東海道域 8県-154-27.2%-中部域
移動先域 16県- 55- 9.7%-分布域
(Lの分布表)
皇族賜姓青木氏-16県-148-26.1%
宗家主家域 5県-126-22.3%
移動定住域 4県- 10- 1.8%
二氏重複域 7県- 12- 2.1%
(JからLの分布表は上記で論じた)
以下はその末裔分布の融合青木氏の定住地域別にまとめて見ました。
(Kの分布表 家紋分析による)
融合青木氏-賜姓青木氏(A)と特別賜姓青木氏(B)との融合血縁氏
伊勢域 四日市域、員弁・桑名域 (A)賜姓族系1 (B)特別姓族系
美濃域 伊勢側域 尾張側域 (A)特別賜姓族系 (B)特別賜姓族系
信濃域 愛知国境域 越後国境域 越中国境域 (A)賜姓族系2 (B)特別賜姓族系 (A)(B)複合
武蔵域 鉢形域 八王子域 (A)賜姓族系1 (B)武田氏系1 (B)特別賜姓族系
越後域 全域 越中側域 越前側域 (A)諏訪族系2 (B)武田氏系2 (B)特別賜姓族系
土佐域 伊予国境域 讃岐側域 阿波国境域 (A)武田氏系1 (B)武田氏系1 (B)特別賜姓族系
鳥取域 鳥取国境域 (A)足利氏系1 (B)特別賜姓族系 (A)(B)複合
伊豆域 全域 (A)賜姓族系2 (B)特別賜姓族系 (A)(B)複合
栃木域 全域と下野国境域 (A)諏訪族系2 (A)武田氏系1 (B)特別賜姓族系
神奈川域 全域 (A)諏訪族系2 (B)武田氏系2 (B)特別賜姓族系
注 越後域は越後を中心に日本海側に広域で判定困難な(A)(B)複合が多く存在する。
・・系1、2の表示は・・系の氏の複数氏を意味する。
室町期末期と明治初期の第3氏系の家紋群は除く。
次ぎに祖先神の親神の皇祖神の遍歴に付いて改めて論じる事にします。
「祖先神-神明社」に至るまでの基の皇祖神の経緯などに付いて論じて基礎知識を拡大させたいと思います。
「皇祖神」は90年-90編座の大変な遍歴と経緯を持っていて、その為に色々な仕来りと掟が生まれています。それは同時に「祖先神-神明社」の存在意義にも左右しているのです。
「大化期までの鎮座地の遍歴」
1 「皇大神宮」は理想的な場所を求めて各地に移動します。この間2人の姫皇女に依って神霊を祭祀されました。
最初は「自然神」(「鬼道」)の為に皇居内に祭祀されていましたが、崇神天皇が畏怖し遍歴させ続いて垂仁天皇がこれを引き継ぎます。
この2代の天皇の姫皇女が斎王として祭祀して現在地に至ります。
2 この伊勢市の豊川に定まる前は最初の鎮座地は大和の国「笠縫巴」33年間です。
ここから鎮座地を86又は87の地に遷座しています。
国にして13国、年数にして90年の遍歴をしています。
現在も殆どの関連した神社は残っていますが、記録だけのものが5ケ所と成っています。
3「豊受大神宮」の鎮座地は丹波国3-伊勢国1として現在地に鎮座します。
4「皇大神宮」は次ぎの遷座地を遍歴した。
大和8-丹波4-大和4-紀国2-吉備6-紀国2-大和7-伊賀10-近江14-美濃3-尾張5-伊勢5-安野国(伊勢安野郡)1-伊勢19-現在地1
地域別に観てみると次ぎの様に成ります。
大和域 19
近江滋賀域 18
美濃尾張域 8
伊勢域 37
紀伊域 4
瀬戸内域 6
これから観ると、伊勢が特別に多く遷座地と成っています。然し、全体の年数90年間と云う年数から観て大和が全体の3割以上を占めています。
恐らくは、この事は当初から朝廷のある大和域にしたいと考えてはいたが、当時は未だ大和域は盆地で現在の「猿沢の池」が4世紀前半には大湖の中央付近であって盆地の縁の地形にあったのですが、後に次第に水が退き隆起して現在の様な完全盆地と成ったのです。
この事から「水利事情」や「地形状」から鎮座地としては問題があると悩んでいた事が判ります。
そこで、飛鳥を中心にして西域の寒冷地の「近江滋賀域」と、東域の中間平地の「伊勢域」と、南域の温暖な「紀伊域」が考えられたと観られます。
結局は東域の中間平地の「伊勢域」を選定した事をこの遍歴が物語っています。
この選定の悩みを示す事として「吉備の瀬戸内域の遷座」であります。ここにはある歴史的な大きな経緯があるのです。
飛鳥を中心として東西南北とは別の地域で「吉備」を選んだのは、「吉備」の当時の国域は瀬戸内全体を指し、吉備朝臣氏(下道氏 吉備真備)は「関西域の勢力」と対峙する位に勢力を張っていたのです。
それがこの遷座の現われなのです。
当時、藤原氏(仲麻呂 恵美押勝)との争いを起していましたが、矢張り地理的な原因で選定されなかったのではないかと考えられます。
ただ、この吉備は計画上の選定だけではないのです。現実に他の神宮と同じく建設して神宮として祭祀されているのです。
つまり、上記の「地理的要素」だけではなく「民の信仰」そのものに「歴史的な変化」があったのではないかと考えられます。
実はこの域は「出雲大社」の強い影響を受けていて、その為に「弥生信仰」の象徴の「銅鐸」が多く発掘される域でもあります。
この事から吉備域はこの旧来からの全ての「民の信仰の対象」であった「弥生信仰」が特に強かった地域でもありますが、其処に遍座していると云う事なのです。何かの特別な理由があった筈です。
当時、「邪馬台国の卑弥呼」の「占術」-「占道」-「鬼道」が大きく政治に影響を与え始め、「宗教王朝の出雲国」が主導する「弥生信仰」が低下していた時期でもありました。
その現れとして、それまでは「弥生信仰の象徴」の「銅鐸」が、丁度、この時期のものとして飛鳥地区で何と多く限定して破壊されていて、まとめて捨てられた状態で発見されているのです。
これは”「弥生信仰」に何かあった事”を意味します。その発掘の遺跡からこの時期のものとして多く発見されているのです。
この事は「神具の銅鐸」が飛鳥のみならず「廃却される現象」が関西近辺でも起っていた事を物語ります。
これは宗教的には大変異常な事です。普通ではありません。
実はこの「出雲大社」の御告げによる「弥生信仰」の「神具の銅鐸」が、大変数多く全て細かく破壊されて捨てられていた事に真の問題があり、特に更には歴史学的に珍しく「破壊」そのものに問題があるのです。これを紐解く事が歴史を解明できるのです。それも3世紀頃から5世紀頃の歴史をです。
「銅鐸の破壊のメカニズム」
そもそも、この青銅の銅鐸は鋳物で出来ています。この青銅の銅鐸を「細かく破壊する事」は青銅の金属的な粘りのある特性から無理であり出来ないのです。
科学が進んだ現在に於いてもある「冶金的な処理」を施さなくては絶対に出来ないのです。
但し、それを解決出来る方法がただ一つあるのです。
それは青銅を一度溶融点より下の7割程度以上の温度に先ずは過熱して、それを6割程度の温度に戻しある温度域で、ある一定の時間を保ち、それからある程度の速さで冷却をし、常温で一定時間保つと云う「熱処理」です。
この様な「熱処理」をしないと銅鐸や青銅品は「細かく破壊する事」は絶対に出来ないのです。
つまり、青銅の粘性のある性質を逆の脆い性質に変化させないと出来ないと云う事なのです。
遺跡から出てきた銅鐸の破壊された破面を見てみると道具を使って破壊されていないのです。何かで叩いて細かく破壊した「急進破面」と云う破面なのです。脆くなければ絶対に出ない破面です。
つまり、金属的に調べると間違い無く上記の熱処理を施しているのです。
現在でもこの熱処理は金属の特性を色々変化させるのに使用されています。
普通はこの熱処理は他の物質を粘りのある均一な特徴を出すのに使われるのですが、粘りのある青銅だけは逆に成るのです。これを「焼準 ならし」と云います。
3世紀頃にはこの技術が在った事を示すもので、それはそれで大変な発見なのですが、青銅の銅鐸をこの熱処理で破壊していた事にも大変な意味を持っているのです。
この進んだ冶金技術が飛鳥に合った事を意味します。これも「魏志倭人伝」に出てくる”100枚を送った”とする記述に就いても「三角縁神獣鏡」の「鋳造技術」が飛鳥に有った事にも成ります。
つまり”魏国から送られた”との記述は、日本で製造して゜総称の邪馬台国」に送った事に成ります。
魏国ではこの種の鏡の使用の習慣文化は無い事と、鋳造した場所が発見されていない事からも関西域での鋳造と成ります。
全国(関東域まで)からこの「三角縁神獣鏡」が発見されている事から、この100枚が関東域までの「鬼道信仰」で繋がる「緩い政治連合体」のあった事の印であり、魏国から政治連合の全国の国々に対して ”「魏国との国交」があった事を知らしめる様に”との記述がある事からも、緩やかな北九州域から関東域までの「緩やかな政治連合体」の総称とする「邪馬台国」の女王は指示通りに配った事を意味します。
そうすると、果たして、この「三角縁神獣鏡」にせよこの「銅鐸破壊」にせよ”何処からこの進んだ冶金技術を導入したのか”と云う疑問に到達します。
この3世紀の時期は北九州の朝鮮半島に近い博多付近に集中して進んだ冶金技術はあった事が判っていますので、ここから導入した事は間違いありません。
恐らくは多くの関西域の商人や職人がこの博多付近に「買い付けや技術習得の人々」は往来した事は間違いない事に成ります。
博多付近と朝鮮半島の先端には日本人の貿易商の「倭人」が常駐して住む任那国があり、この当時の先端技術が彼等に依ってもたらされた事は判っていますので、「緩やかな北九州域-関西域政治連合体」の充分な条件は揃っていますので、その大決断を「卑弥呼」は全国的な300年周期目の「大飢饉の解決」を目論んで「鬼道占術」で実行した事が充分に考えられます。
恐らくは、「女王」であった事がこの決断に踏み切らせたと考えます。その卑弥呼の前は「倭国大乱」と記述が「魏志倭人伝」にありますから、この事から「飢饉大乱」を解決する事からも論理的な「鬼道信仰」の普及で解決する事も込めて決断したと考えられます。
「銅鐸破壊から読み取れる経緯」と「冶金的技術から読み取れる経緯」から「邪馬台国の全体像」がはっきりとして来ます。
(特記 そのはっきりとした中からその真髄を捉えたこの経緯を踏まえて、その「自然神」-「鬼道信仰」が基盤と成って引き継いだ「皇祖神」は、90年-90ヶ所の遍歴を繰り返した後に、6-7世紀の大化期前後頃には「皇祖神-祖先神-神明社」の青木氏による推進と成って始まったと考えられるのです。
他氏には決してない「2つの青木氏」だけに取って「皇祖神-祖先神-神明社」の氏である限りこの歴史的経緯は無関係ではないのです。見逃す事の出来ない経緯なのです。)
この様な経緯から、ですから、この事は明らかに ”「恣意的に故意的」に「ある目的」を以って「事前」に「計画」して「熱処理」をして「破壊」した” と云う事に成ります。
一時的な感情からはこの面倒な熱処理はしない筈です。それも誰でも出来ると云う熱処理ではありません。
それも大量ですから何か「特定の目的」を持った「集団」が「計画的」に行った事を意味します。
それも「弥生信仰の最たる神具」です。
本来ならば、古来の信仰性からすると、宗教的には”罰が当る”として決して行う事の絶対に無い行為です。
然し、大量に破壊されて出雲ではない飛鳥の一箇所に廃棄されていたのです。この「場所」にも問題があって青銅の銅鐸が大量に破壊されている事も問題なのです。
つまり、この「破壊行為」は何を意味するかと云うと、”「飛鳥と云う場所」で「弥生信仰を否定した事」”を意味します。
では、これ程の専門的な熱処理をすると云う事は「一時的な感情的な行為」ではない事が判ります。とすると、この”「恣意的に故意的」に、何故、「弥生信仰」を否定したのでしょうか”大いなる疑問と成ります。
それも「一個人の行為」では無く、量的な「神具の破壊」と成ると”飛鳥の最高権力者からの命令”と云う事に成ります。ではそれは ”飛鳥の最高権力者に何かがあった事”に成ります。
実はそれには「弥生信仰」を否定される事件がこの次期に起っていたのです。
その「事件」と云うか「国難」と云うかこの丁度、同時期に起っているのです。
そして、その一方では北九州域では、その事件、国難を救う「別の宗教」が起こり、その宗教が多くのこの国難を救っているのです。それも国レベルです。対照的な宗教異変です。
その救っている宗教は実に論理的な根拠のある宗教なのであり、日本の宗教の根幹に成った宗教です。
現在もこの「宗教の仕来り」を「国の祭祀」(国事行為)の根幹として皇室に於いて定期的に維持されています。
それを次ぎに詳しく論じますが、それが本論の根幹なのです。
つまり、「皇祖神-祖先神-神明社」の根幹部なのです。(下記の「重要な特記」を参照)
大和の国の近隣の諸国では当初は「弥生信仰」で有ったのですが、3世紀後半から突然に北九州域に於いて「占術」-「占道」-「鬼道」が広がり、逆に「弥生信仰」は急激に衰退して行きます。
それを示す証拠がこの銅鐸の破壊と廃却の遺跡発見なのです。
これの大きな原因は、根本から検証すると、次ぎの様に成ります。
「300年大周期の気候変動」
この時期(300年頃)は歴史的に観る(気象学的に観る)と、「300年大周期の気候変動」と云うものがありその大気候変動期は第3期に分けられる特長を持っています。この時平準でない気候の為に「大飢饉」が起こるとされています。それによる「第1期の100年目周期の大飢饉」が丁度この次期に重なり続いていた時期に当ります。
世界的に「長期間の飢饉」が起こり農業や生産物に大影響を与えていたのです。
(詳細l理論は次段で論じる)
その為に全国的に祈祷などをするにも拘らず既に全国的に広まっていた「弥生信仰」の「占術の御告げ」が当らない事等の不満が民衆に起こりました。
この「弥生信仰」に向けられた「不満の政治的な行動」がこの「銅鐸の破壊」というセンセーショナルな行動と成って現れたのです。「飛鳥の連合王朝」の中に起ったのです。
ところが、一方では北九州では(邪馬台国)、「卑弥呼」が始めた「自然神」の中でも「自然現象」を中心とした「占術や占道の御告げ」が良く当るとの事で、北九州域から「鬼道信仰」なるものが広まっていたのです。
この出雲国の「弥生信仰」と邪馬台国の「鬼道信仰」との大きなギャップが「一つの流れ」と成って爆発的に起ったのです。
つまりは、「自然現象」の「占術や占道の御告げ」とこの「周期的気候変動期」とが一致した事が「鬼道信仰」が爆発的に広まった原因事に成ります。逆に「弥生信仰」は衰退した事を意味します。
そもそも「卑弥呼」が王と成ったのもこの「鬼道信仰」が基であり、国の乱れも「鬼道」の「占術の御告げ」を中心に置いた処 ”良く当り解決する”と言う現象が起こったのです。
その結果、周囲の互いに争って食料を確保しようとしていた北九州の豪族達は緩い「政治連合体」を造り、この良く当る「自然神」を中心として「鬼道占術」を採用した「連合体の政治組織」を北九州域で造り始めたのです。
「鬼道信仰」を政治の中心に置く事で飢饉の中での「食料の調達」も「政治的な勢力争い」も「占術や占道の御告げ」で解決する事が出来るとして瞬く間に広がりを示したのです。
結局、この「自然現象」を読み取る「自然神」から来る「鬼道信仰」の「占術や占道の御告げ」を中心と成った事からその「占い師の卑弥呼」を「政治の連合体の王」と定めたのです。
その事が更により一層に九州域の緩い「政治連合体」にはまとまりを示し「食料の調達」も「政治的な勢力争い」も円滑に解決へと進む様に成ったのです。
その流れは、同じ飢饉から逃れようとして「鬼道占術」に縋り次第に関西域にも飛び火の様に広がり、そこから飛鳥へと移動してきました。
(恐らく、博多には中国を経由して朝鮮半島から入る鉄や青銅や食料品や生活必需品の調達の為に全国各地から商人が買い付けに来ていた。この事からその「鬼道信仰」の噂が広まったと考えられる。関西域との緩やかな政治連合体もこれらの商人の働きがあったと考えられる。)
(「鬼道信仰」の詳細な論理的概論は次段で論じる)
重要な特記
この時の「自然神に対する祭祀」が「朝廷の基本行事」として遺されたものなのです。
この「祭祀の思考原理」が大化期の「皇祖神-伊勢大社」と成り、その基と成った「食料の調達」も「政治的な勢力争い」の祭祀のそれをも具現化したのが「物造りの神と生活の神」を根幹とする「祖先神-神明社-豊受大明神」であり、「政治的な争い」の祭祀が「国家鎮魂の八幡社」として祭祀されたのです。
この「根幹の祭祀」を各地に広げる為にも大化期に「皇祖神」の子神の「祖先神」を創造し、それに伴なう祭祀社を建立する政治的な事業を展開したのです。それを引き継ぐ「氏」として朝臣族の皇族賜姓族を基とし「青木氏」を継承させるに相応しく新しい「融合氏」として伊勢に発祥させたのです。
この任務を施基皇子に任じたのです。この時、この青木氏に祭祀に相応しい「3つの発祥源」としての任務も与えたのです。
これを補足する事として近江の佐々木氏が特別に同時期に賜姓したのです。
そして嵯峨期にはこの「2つの祭祀族氏」にも「五穀豊穣と国家鎮魂」と「物造りの神と生活の神」を祭祀し「拡大する神明社」を継承するに等しい力が不足し、これに変わる特別の賜姓族として皇族外遠戚の藤原秀郷の第3子の千国にこの任務を特別に与えて青木氏を発祥させたのです。
これが前段で論じた「神明社と八幡社」はそもそもその根幹(自然神-鬼道信仰)はここにあったのです。
然し、その一つの「八幡社」はその存在意義を「河内源氏と未勘氏族」に依って「武神」にして異にしてしまったのです。
そして、紀元300年代には、この卑弥呼の「占術や占道の御告げ」を基とし「自然の変化」を読み取る事に長けていた「鬼道信仰の流れ」が全国的(関東域にも緩やかな政治連合体)には派生して行った時代でもあったのです。
恐らくは、この関東にまで派生した「政治連合体」は「大飢饉」の解決が主な目的と理由であったと考えられ、緩やかなものであって、後に飛鳥期から奈良期に掛けて「ヤマト王権-ヤマト政権-大和政権」とに掛けて関東域までの「緩やかな政治連合体」は次第に踏破され征討されて大和政権化して行くのです。
その後、「卑弥呼」の死により「邪馬台国」が崩壊しこれが基で飛鳥を中心とする「鬼道占術の連合体」が勢いを増し、これが「出雲信仰・弥生信仰・出雲国」を中心とする連合体の衰退に繋がったのです。
(特記 ここで、「卑弥呼の鬼道信仰」は出雲域を越えて関西域まで緩やかな「政治連合体の拡大」が起り、それに依って「卑弥呼」は飛鳥に呼び寄せられてか「自然現象」の「占術や占道の御告げ」を中心として政治連合体と成ったとする信頼できる学説があるのです。
北九州の政治連合体と関西の政治連合体との緩やかな広域的政治連合が起ったと考えられます。
それには北九州域で起った「大飢饉の解決」と青銅文化から中国を経由して北朝鮮域(3韓)からもたらされる「鉄文化の発展」の供与が主目標として関西域の政治連合体が吸収すると云う事に成ったのです。
この時この「北九州域-関西域の緩やかな政治連合体」を「邪馬台国」と総称したのではないかと考えられます。
北九州域の「吉野が里遺跡」(山門)と関西域の「マキ向遺跡」(大和)から「魏国の魏志倭人伝」にはこの2つのヤマトを「邪馬台国」と呼称したのではないかと考えられます。
この関西域には、”「鬼道信仰」が「緩やかな政治連合体」の誼からどのような形で伝達されたのか”が問題ですし、当然に「卑弥呼」はどちらの域にいたのかの疑問も出て来ます。
「魏志倭人伝」に記されている「国王の印鑑」は日本では北九州志賀島で見付かっているのですが、中国の魏の国からの国交の使者が到着するとした場合、先ず北九州の山門の吉野が里遺跡の政庁に立ちより、続いて関西の大和のマキ向遺跡の方に移動したのではないかと考えられます。)
(特記 王印の印鑑は死去すると送られたものであれば返却する古式習慣がある。この倭王印の印鑑は竹島や志賀島等幾つかの特定の地域 即ち発見は4箇所で見付かっている為にこれは複製品と成るが、古来には複製品の仕来りがあった。つまり、北九州と関西域の「緩やかな政治連合体」(緩やかな政治連合体である為に各主要国が保持していた事を意味する)にこの印鑑を両方の側が所持していた事を物語る。つまり構成国であった竹島の任那国、邪馬台国や奴国等が所持 故にこの連合国家の総称として「邪馬台国」を物語る要素と成る。)
(特記 「魏志倭人伝」には「83ヶ所の記載」があり、北九州の地名の「壱岐国」「奴国」等の9つほどの国名と移動に所要した陸と水利の距離の表現の記載があり、この記載からこの北九州域と関西域の緩やかな政治連合体を移動した場合にはこの距離間が一致します。又、水利とは博多付近から吉野が里までは河に船の水路を開き両岸から人が引っ張る方式を採っていた事が判っていますから、この水利の距離は瀬戸内海を通った水路の距離と合わせるとほぼ大和までの距離間に成ります。陸は吉野が里から瀬戸内海に面した大分付近間での陸路の距離と摂津から大和路までの陸路の距離を合算するとほぼ一致します。)
(特記 陸路の記述1月は瀬戸内沿岸で陸行すると関西域間、水路は上記の牽き舟方法で邪馬台国には10日と、瀬戸内海路を関西域までの20日の二つが記載されている。この記述から北九州域 8国 関西-関東域までの凡そ22国の計30国の緩やかな政治連合だった事が考えられる。
投馬国だけが不明だが関西域の位置にある筈で、”出雲を含まない中国地方の当時の広域の吉備国を云う”と考えると、出発点が問題には成るが、最短距離で「関西域の政治連合」の入り口部吉備国に当り、最長距離で大和盆地の”ヤマト国”に成る。
「投」の呼称は馬にヤリで投げる姿勢から”ヤ”と呼称していた事が考えられ、「馬」は”マ”又は”マト”であるので関西域の政治連合の「ヤマトコク」の呼称に成ったと考える。但し、「邪馬台国」以外に緩やかな政治連合国家の中に「遠絶地」として書かれた「投馬国」を含む22国の中に「邪馬国」と云う国がある事に注意。 ”ハリマ・播磨・兵庫”を含む後の吉備国域の関西域の緩やかな政治連合体の入り口を総称として「投馬国」か。30国中に「馬」の入れた国は4国 「奴」の入れた国は8国あるのは「緩やかな政治連合体」の証しである。)
上記の特記事項も考慮に入れると、「自然神-鬼道信仰」の根幹を継承している「青木氏-皇祖神-神明社-神明社」の立場から敢えて考証すると次ぎの様に一応検証しています。、
根幹部の「鬼道信仰-邪馬台国」の検証問題は、故に上記の「銅鐸事件」や後の「皇祖神の遍座地」や奈良期までの「歴史的経緯」に附合一致する事に成ります。
後の問題は「卑弥呼の扱い」と「鬼道信仰の習得方法」と成ります。
「鬼道信仰の問題」は大和の習得はこの「銅鐸の破壊」で証明されますので、後は卑弥呼の問題です。
「卑弥呼」の死の前に既に飛鳥に呼び寄せられたか(イ)、「政治連合の形」で飛鳥にも出長していたか(ロ)、北九州に人員を派遣して「鬼道占術」を卑弥呼に師事したのか(ハ)のところは未だ解明されていませんが、この説は最近この銅鐸破壊の遺跡発見から俄に有力説として持ち上がり、飛鳥の邪馬台国の卑弥呼説(大和国=邪馬台国)と成っているのです。
(「政治連合体」の全国的な歴史的経緯は確認されている。)
この大飢饉の中での「鬼道信仰」と「政治連合体」から観て「卑弥呼移動説」(イ)が可能性が高いと観られます。ただ、(ハ)の説も北九州説と飛鳥説の疑問をバランスよく説明が就き易く、その為に捨てがたいのです。(本論の「祖先神-神明社」の論処からは(ハ)説に近いと考えています。
その証拠と云うか説明の根拠と出来る事として、更に史実として次ぎの事があるのです。
それは先ず一つは大化期より朝廷には「藤原氏の斎蔵」の配下にこの「祭祀と占術」を司る官僚として行う氏があるのです。それは阿倍氏です。阿倍氏は前段でも論じた様に阿多倍の子孫です。
つまり、後漢の「鬼道」を引き継いでいる職能集団の首魁であります。
その職能集団は「阿部」で「鬼神の鬼道」を行う部民の集団で、「阿」の語意は「鬼道の鬼神占術」の基神を意味し、インドの鬼神の「阿修羅」の「阿」でもあります。
更にはこの分派の「鬼道の占術」を行う職能集団の「卜部」(うらべ)があり古代鬼神信仰の占師です。
後に「阿部氏」や「卜部氏」の「姓氏」発祥しています。
前段で論じた陸奥の安倍氏は阿倍氏の末裔でこれ等の首魁です。前段で論じた阿倍氏や安倍氏はこの立場の背景があったのです。この様な立場や背景が大きく彼の幾つもの陸奥事件に影響していたのです。
そしてこの様に、その子孫は平安朝期の官僚の「鬼道師」の有名な「安陪晴明の陰陽師」です。
「鬼神」を占術の中心に据えたものですが、奈良期頃から官僚として引き継がれている「自然神-鬼道信仰」の国事行事の極めて古い職能集団です。問題の時期の「ヤマト王権」期頃からあったものと考えられます。
この様に邪馬台国の卑弥呼の「鬼道信仰」は「朝廷の祭祀」の中の一つの「占術の職務」としてとして引き継がれているのです。そして、それを引き継ぐその「皇祖神の祭祀」の根幹から「゜祖先神の考え方」が生まれ、且つその事からその一部が上記上段で論じた「神明社の祭祀行事」と成ったのです。
(特記 卑弥呼の死後は”弟が王となったが納まらず一族の宗女の壱与が立ち納まる”とある事から(イ)説にも疑問があり、この一節からも(ハ)説で納まりが就く)
この事を配慮すると(ハ)説が最も現実味を帯びて信頼度を増します。
それまでの「弥生信仰」からの決別と伴に、「北九州域-関西域の政治連合体」が成立して「卑弥呼」の移動に伴ない「弥生信仰」からのはっきりとした決別の意味を込めて ”銅鐸破壊の行為に出た”と考えられているのです。
この事により飢饉から免れた事を期に、飛鳥に「卑弥呼の常駐」が起ったと考えられます。
何か「卑弥呼の常駐」か、或いは「北九州域と関西域の広域政治連合体」を祈念しての儀式であったのでは無いかと考えられます。兎も角も「弥生信仰」から「鬼道信仰」への遍歴を祝う国家行事の大儀式行為であった事は間違いないと考えられます。
(特記 「緩やかな政治連合体」を祝う国家行事であるとして、 「関西域の緩やかな政治連合体」の祝事行為だけか、「九州域の緩やかな政治連合体」との総称「邪馬台国」の「緩やかな政治連合体」での国家の祝事行為であったかは難しいが、「銅鐸の破壊行為事件」から見て後者と判断出来る。そうすると九州域にもその祝事行為に当る何かがあった筈と観ているが未だ不明。)
ところで、この飢饉は次第に時代と共に気候変動も収束すると共に一時収まりより一層に「鬼道信仰」の流れは爆発的に益々高まりを示します。
ところが、この100年後(第2期の200年目 第2期 紀元500年頃)には、再び気候変動期が再来しましたが、この事は、この頃にむしろ”吉備に遷座した”と云うのは、”出雲信仰・弥生信仰・出雲国衆の勢力衰退”をより狙い、更には連合体に参加した「北九州域-関西域」の中間域から衰退した出雲域の中国域を安定化させようとする政治的意味合いがあったとも考えられています。
この事は歴史的な経緯としては確認が取れています。(出雲の国の無戦による崩壊劇)
この拡がる「飛鳥連合体」を配慮しながら鎮座する位置を見据えていたとも考えられます。
最終的に勢力圏の関西・中部域の中でその中間の位置にあった「伊勢域」が大化期に良いと決められましたが、その後に於いてでも「伊勢域」の中でも伊勢松阪を半径に飛鳥までの円域の領域を更に「適地」を選んで小遍歴を繰り返したのです。
(この時には中部域は飛鳥連合体と政治連合を組む事が成立していた。)
如何に悩んで神が鎮座するべき位置を、上記する気候変動の飢饉の繰り返しで弱体化した「政治的な環境」(A)や「自然や地理の環境」の条件(B)のみならず「自然神の占道での御告げ」(C)等のこの「3つの状況」を合わせて考えられていたかが判ります。
筆者は飢饉に依って混乱が続く「政治的な環境」(A)に重点が置かれ、中でも鎮座させ建立する事で「国体の安寧と安定化」を図ったのではないかと観ていますが、表向きは「民の心の拠り所」として「鬼道信仰」の「宗教的布教」の目的(D)も強かったと考えられるのです。
参考 詳細理論
地球の気候変動の周期理論
1 紀元0年頃が「300年の大周期の第1期」の気候大変動期で紀元頃の大飢饉
2 邪馬台国の卑弥呼期が「300年の大周期の第2期」の気候変動期で300年目頃の大飢饉
3 推古天皇期が「300年目の大周期の第3期」の気候変動期で大飢饉の600年目頃の大飢饉。
4 この300年大周期に対して100年小周期の気候変動期が繰り返し訪れる。
5 大化期頃(645年頃)は後50年で次ぎの100年周期の第1期気候変動期に入り飢饉が起こる。
6 つまり700年頃の平安遷都期に第2期目の小気候変動期が訪れ大飢饉や洪水などが繰り返された。
7 その邪馬台国の頃(300年頃)が第1期で300年目の大周期の気候変動期で大飢饉期があった。
8 この周期で必ず自然災害の飢饉が必ず起っている。
9 この周期では大気候変動期の周期では、900年-1200年-1500年-1800年-2100年の大周期が訪れる計算に成る。
A 丁度2010年はその100年目の小周期帯に入っている時期である。
B この気候変動は地球の回転運動と第一成層圏までの「空気層のズレ」が起す変動であって、当然に地C 球内の地殻変動にもタイムラグを起こしながら影響を与えるので、地震等の災害が強く起る。
D 地殻変動は更には地球の磁場の変動を誘発し更に相乗的に気候変動を引き起こす要因と成る。
E この変動期間は一定では無く、多少のバイアス変化を起すとされ確定は出来ないが±25-30年程度と観られ後は収束に向かうと考えられている。
F この「空気層のズレ」は「単純な空気層のズレ」と共に「地場の変動」に大きく左右されているのではないかと考えられている。
G この「ズレ」の「自然修正の変動」が成す「気候変動周期」と成って現れると考えられているのです。
因みに現在で云うと、2000年の100年の最後の周期とすると、1975年から起り始めて2000年頃にピークを向かえ2025年頃に向かって収束に向かい2075年まで徐々にある小さい巾で安定期に向かい、再び2075年頃から変動巾を大きくして荒れ始め2100年頃に大変動を起し始めると云うサイクルを繰り返すのです。
尚、この「変動幅の上下」の原因は、「地球の重量」の増加で「地球の公転」が多少の「楕円運動化」を起こしており、このために回転に必要とする地軸が450年程度の間に0.5度傾きが起っていて、これが更にこの「気候変動周期」と「気候変動幅」を大きくしているのではないかと考えられているのです。
そして、この気候変動のサイクルは、この世の全ての物質と全ての自然が織り成す変化の特性には、必ず其の特性変化を物理的に観ると、「SパターンとNパターン」を示します。
例外はこのパターン外には発見されていないのです。
Sパターンは、丁度、電波などの振動波などの様に半円状に近い形で上下に起す形状で均一的な変動特性を起す様な振動で、お椀を上下にひっくり返した特性変化です。
Nパターンは、2等辺三角形を長辺を下にして寝かした形が上下に起す形状で、不均一な変動特性を起す振動で、この気候変動がNパターンであります。
日本の歴史は上記する気象学的特性と併せて考える事が必要絶対条件で、其の当時の遍歴や事変の大きな原因の一つに成っているのです。それは日本の風土全体が政治や経済に大きく影響を与える体質であるからです。
この鎮座地を86又は87の地に遷座して、国にして13国、年数にして90年の遍歴は気象学的特性から逃れる事は出来ないのです。
「自然神」を崇める「鬼道信仰」は尚の事であり、この特長を何らかの「自然の異変」でその周期的な特徴を官能的で感応的に鋭く読み取っていたのです。
真に卑弥呼はこの特技を持っていた事を意味します。
この特技は女性の性の「直感力」に起因しますが、「自然神の鬼道信仰」はあながち無根拠な占術ではなく科学的(脳医学的)な裏づけがあるのです。
問題はその確率の問題であって下記に示す論理的な裏づけが取れるのです。
「論理的な裏付」
別の論文でも論じた事ですが、現在人は脳が大きくなった為に「動物的な本能」である「予知直感力」の部位は頭の奥深くほぼ中央に押しやられて、額中央にあった「複眼機能」が退化せずに持ち得ていた証拠であります。
「卑弥呼の鬼道」には周囲に特定の果物と野菜類が並べられていた事が判っていて、特長なのは「野生の桃」の種が何千何万と遺跡から発掘されているのです。
恐らくはこの「野生の桃」から発する強く甘い香りの成分の「アルコール系芳香性」の刺激成分が脳を集中させて「複眼」を再起させ休んでいる右脳を使いベータ波を出して「占術のお告げ」を出す能力を保持していたのではないかと考えられます。
(現在の中国の山岳民族の田舎でこの「鬼道信仰」が未だ残っていて桃が使われているし、この山奥深い山岳民族にはまだ「複眼機能」を有する女性が多く、道教に至る前の「鬼道信仰」は村人から信じられていると云う研究が発表されている。「複眼機能」を使う環境がいまだ多く遺されている所以です。
(次ぎの-19の根幹概論を参照)
故に気候変動を素早く察知してそれの基に「殖産の生産物」のみならず、それに併せての「政治的な行動」も才知を働かせて考え併せて「お告げの伝達」をしていたと考えられます。
300年の大気候変動期にこの卑弥呼の自然神を基にした鬼道による占術に人が集まる根拠が納得できるものです。
そしてこの「流れ」はこの大化期に定められるこの「皇祖神」の90年と90所の諸遷座と共に「神明社」の建立が同時期、同場所にほぼ起っているのです。
9世紀始め(100年目の小周期帯の気候変動期)の征夷大将軍の阪上田村麻呂の陸奥征圧(806)でも判る様に、その移動経路の「征圧地」には伊勢青木氏の遠戚の桓武天皇の命により「皇祖神」ではなく次々と「祖先神」の「神明社」(最終806年)を建立していっている事(神明社は分布は下記参照)
「皇祖神」の遷座域と成った関西・中部域の内の主要地の19地域(上記)には第4世皇子の守護王を置き其処に神明社を建立していっている事等です。
この「神明社の建立根拠」が、丁度100年目の気候変動の小周期に入っていたのであって、桓武天皇は平安都への遷都事情も然ることながら、「皇祖神」を各地に分霊建立する事のみならず「神明社建立」を征討地に建立を命じているのもこの事情の基にあったのです。
特にこの征討地の建立は東北北陸6県に主に集中しているのです。(神明社の付録データー参照)
恐らくは荒れて乱れた征討地の戦後処置として民衆に対して「生活の神」としての「神明社」を建立し安定を図ろうとした観られ、この背景根拠はこの6県は主に日本の穀倉地帯でもあった事から上記の気候変動期に合致していた事もあった為に積極的に政策として実行したと考えられるのです。
上記の複眼機能や気候変動の論理的な根拠に就いて-19では更にその議論を深く進めます。
青木氏と守護神(神明社)-19に続く。
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
投稿者:福管理人 投稿日:2012/05/18(Fri) 19:20:00
> 「2つの青木氏」の「特別賜姓族青木氏」は秀郷一門を背景には「氏構成」の大きさは別格として、同族5家5流の皇族賜姓族(近江、美濃は支流末裔は何とか遺せた)が「源氏11代」と対比しても前段から論じている「祖先神-神明社」を通して上記するその「生き様」の違いがあり、それが適時適切であった事を物語っている事に成ります。
> (絶大な勢力を誇った「特別賜姓族の援護」が「賜姓青木氏の生き様」を救った)
> この他にも宗像大社、熊野大社、住吉大社、出雲大社、阿蘇大社、等の氏子集団を形成した「姓氏」の果たした充分な役目から考えると、「祖先神」を守護神としながらも概して源氏は本来賜姓族でありながら「祖先神の役目」に対してその果たした功績は極めて低いと云わざるを得ないのです。
>それが子孫を遺し切れなかった「生き様」に現れたと考えられます
>
> 「八幡社の議論」はデータからも明らかに成った事から、更に次ぎからは「本論の神明社」の分析に入ります。
「2つの青木氏」に依る「祖先神-神明社」の建立は「河内源氏の八幡社」の独自の行動に因って全国各地に特徴ある影響を受けました。然し、神明社は確固たる信念の下に「2つの青木氏の守護神」としても「生活の神」「物造りの神」を存在意義として等しく「民の守護神」としても全国各地でどんな環境の中でも受け入れられ何時しか「総神」として崇められました。
その神明社の建立地は「2つの青木氏」の定住地としても「完全一致の形」で成り得ているのですが、その定住地を広域で区分けして観ると「2つの青木氏」の特徴ある様々な「生き様」が観えて来ます。
「広域定住地」、又は「広域建立地」は「青木氏の歴史を物語る域」に成り得ていてそれは次の様に分けられます。
前段で論じた歴史的な生き様や他の論文でも論じて来た様々な事を想起して次ぎの数字を観てください。
その神明社の日本全国の分布は次ぎの様に成ります。
(Jの分布表)
特別賜姓青木氏の神明社分布
関東全域 7県-103-18.2%-本家域
「青木氏の歴史を物語る域」を語るには先ずこの「関東域」を語る必要があります。
この域は秀郷一門の「第2の宗家の青木氏」(116氏)としての本領であります。武蔵入間の秀郷宗家を中心に伊豆の手前の神奈川・横浜を半径に円を描く様にその中心から青木氏本家を基点に外枠に至るところまで螺旋状に取り囲み護っていました。その為に青木氏としては他の地域に比べて定住地としての密度が極めて高く、ここから他の地域に戦略上の指揮を発していたのです。
その面積密度の高いこの「武蔵と下野本領」(後に上野が加わる)には、その「神明社の建立」は全体の2割程度を占める程に建立されていて、藤原氏北家の守護神「鎮守神の春日社」の本領の本家域に於いてでさえ、「神明社」が深慮する事無く深く取り込まれて建立されています。
これは「第2の宗家」である事と、「特別賜姓族」である事と、「生活の神」「物造りの神」の「全て民の守護神」である事の3つの事としても、一門の影響力の大きく及ぶところには、即ち、この関東域全域では無条件で受け入れられていた事に成ります。
故にこの数字はこの「青木氏の影響力の範囲」、或いは「青木氏の定住地の範囲や人口密度や末裔分布力」等様々なパラメータとして使う事が出来ます。
この様に関東域には他の域と違う特別な意味を持っていて「特別賜姓族青木氏」の「生き様の根幹」が読み取れるのです。
(Kの分布表)
特別賜姓青木氏-34県-418-73.8%
北陸道域 4県-104-18.4%-北陸域
東山道域 6県-105-18.6%-東北域
東海道域 8県-154-27.2%-中部域
移動先域 16県- 55- 9.7%-分布域
(関東全域の103は418に含む)
上記同然に、前段で論じて来た「鎮守府将軍としての赴任地域」であり、この域の「血縁域」としての「北陸道域」、その「北陸道域」から「東海道域」に繋ぐ末裔分布域の「東山道域」、「関西域」手前までの勢力伸張域の「東海道域」、それと各地赴任地24地方域に藤原氏の戦略的手法として遺して来た各地の土豪血縁族の「移動先域」の4つに分けられます。
これ等の域は夫々に特長ある秀郷一門の「生き残りの戦略上の役割」を持っています。
当然にその役割には「神明社建立」と云う事が大きく関わってくる事に成ります。
他の論文や前段で論じて来た様に、その「神明社の建立数」は秀郷一門の勢力のパローラメータとしても読み取れますし、「第2の宗家」の「特別賜姓族の青木氏」の勢力分布や末裔分布のパラメータとしても読み取る事が出来ます。
これ等の域の更に下記の県域毎の詳細な内容を観れば、各地に分布する「特別賜姓族青木氏」の勢力分布や末裔分布も読み取れるのです。
県単位で観てみるとこの戦略の役割の大きさや末裔分布力が明確です。
各種のパラメータ 戦略上の役割
北陸道域は28/県 赴任地として勢力拡大の基点域
東山道域は18/県 基点と本領を結ぶ戦略拠点域
東海道域は19/県 移動先域と本領を繋ぐ補給拠点域
移動先域は 3/県 前線の情報収集拠点
関東全域は15/県 本領の戦略指令拠点
(関東全域は北陸道域と東山道域と東海道域を結ぶ要として存在する)
「各種のパラメータ」の数字や「戦略上の役割」の具合を下に他の事柄に置き換えて考察する事が出来ます。
特に注目すべきは「東海道域」であり、関東域、北陸域、東山道域が如何にも調整したかの様に同率の2割弱を示す中で、段突の3割弱を示しています。これは関西域の手前の伊勢や美濃域を境に強力な防衛線を敷いていた事を示し、且つ、本領武蔵との環道を戦略的に強化していた事にも成ります。
事程左様に様々なパラメータとしても見る事が出来ますが、賜姓族の元締めの「伊勢の賜姓青木氏」と緊密な関係保持をしていた「特別賜姓族伊勢青木氏」の置かれている立場も戦略上重要視している事が良く判り増すし、又、都京と伊勢神宮との連携戦略拠点に成っていた事が判ります。
「移動先域」は1割で一県としてみれば前段で論じた様に「4社の神明社」/県を均等に配置していた事も判ります。恐らくはこれが戦略的に配置する一門の基準と成っていて、主要地の「関東域」、「北陸道域」、「東山道域」等にはその4-5倍/「移動先域」の戦略拠点を配置するとの基準の様なものがあったと観られます。勿論の事、為政的で政治的な戦略としても「生活の神、物造りの神」の「民の安寧の守護神」としても「神明社」を建立する基準とも成っていたと考えられます
この「移動先域」はその県毎のデータを観ると、地方の他氏の守護神などとの関係から前線基地としての地域毎の特長があり、その建立の目的にはかなり重要性が潜んでいて前段で論じた様子が具に覗える数字と成っています。
その「移動先域」の中国・四国域と九州域は、秀郷一門の「特別賜姓族青木氏」としての地域毎の繋がりある「戦略的な建立」は観られず、「移動先域」の前線基地的な県毎の範囲の位置に留まっています。
下記の県毎のデータにその県毎の歴史雑学を重ね合わせて考察すると、個々の数字の持つ意味がよく読み取れます。
(Lの分布表)
皇族賜姓青木氏-16県-148-26.1%
宗家主家域 5県-126-22.3%
移動定住域 4県- 10- 1.8%
二氏重複域 7県- 12- 2.1%
「1/4の原則の保守」
実は上記の特別賜姓族のデータで、”4-5倍/「移動先域」/県での戦略拠点を配置する基準”の様なものがあるとしましたが、「特別賜姓族青木氏」の主要41県全域の418に対して、「皇族賜姓族青木氏」の148は凡そその「4倍弱」と成っていて、これは「皇族賜姓族青木氏」の29氏に対して「特別賜姓族青木氏」の116氏の4倍弱(1/4)と同じであります。
この事は「神明社建立」には上記した「4社の神明社/県の基準」と合わせて「皇族賜姓青木氏」/「特別賜姓族青木氏」の「1/4の勢力」に合わせていた事が判ります。
(412+148/566に対して九州域の6社が含まず)
建立範囲として観ると、「皇族賜姓青木氏」の16県の内「二重重複域」は「宗家主家域」「移動定住地」とは重なる所があるので実質9県程度と成り、「特別賜姓族青木氏」の34県との比も矢張り「1/4の勢力」と成ります。
つまり、この事から明らかに「皇族賜姓族青木氏/特別賜姓族青木氏」の関係には「1/4の勢力」であった事が判ります。やはり勢力に合わせた建立以上には建立する事は実質上無理が絡む事を考えると、この「1/4の原則」を護っていた事が判ります。
更に、これらは実質の「神明社建立数」の%から観ても 26.1/73.8≒1/3 に成っていますが、この数字は上記の八幡社の論議でも明らかな様に「特別賜姓族青木氏」の域に於いて室町期中期以降後に合祀などの流れが起っている事から変更(7.8%)されていますので、それを加算するとここでも「1/4の勢力」(1/4の原則)が働いています。
先ず「1/4の勢力」は「勢力」のみに留まらず全ての事柄が「勢力」に左右される事からの「原則」に成り得ていた事は間違いないと観られます。
ところで、この「1/4の勢力」以外にもこの「1/4の原則」が一部の生活習慣の中にも遺されている様で、筆者の家の盆暮れや法事や日常生活の所作等に至るまでの様々な「仕来り」や「日常の生活習慣」にも遺されている事から観ると、この「原則」が当り前の事として日常生活の中にも良く浸透していたと考えられます。
この「1/4の原則の仕来り」は筆者の家の歴史から観ると、明治35年頃まで充分に遺されていた事か判りますが、ところが現在では周囲には殆ど観られない「仕来り」ですので、最早、周囲習慣とは違い(違和感)が有り過ぎる事から守れない事が起っていて、又その意味や合理性や根拠が今や強く感じられ無い事から、次ぎの世代には引き継ぐ事が難しく且つ出来ない事と成っています。
(何か要領書の様なもので ”この様な「古式所作と仕来り」があった” として末裔に先祖記録として遺したいと考えている。)
これには周囲の習慣を具に観ると其処かしこに伊勢青木氏の我家にのみ遺されていたと観られる事から、平安当時に「何らかな基本的な思想」が働いての事と考えていて、賜姓族には伝統的に”中国の「五行思想」の様な思想があった筈”と見ていますが現在は研究中で確認は取れません。
これは研究過程での検証誤差で「1/4の原則」と成っているのか「五行思想」の「1/5の原則」であるのかは確定できないのですが、「青木氏の思考原理」としての「祖先神-神明社」をパラメータとして観ると、その様な「1/4の原則」の関係を恣意的に構築していた事が判り、又、勢力に沿って無規則に「神明社建立」を実行していた訳では無い事が判ります。
「生活の基盤」の基と成っている「祖先神-神明社」の考え方からもたらされた「1/4の原則」であると考えています。
(特記 「五」を超える事は思想的にタブーとして敢えて「四」に抑えていた事も考えられるが、古来の皇室の格式習慣として、例えば、”皇位継承権は4位までとし6位は継承権外と明確にし、その間の5位は4位に近くしながらもどちらにも属する”とする「皇室の格式慣習」が奈良期から平安期まであった事から考えると、又「皇族賜姓族」であった事からそれに従っていたと考えられ、又その一部が「祭祀や所作」の中にも遺されていたと考えられ、故に「1/4の原則」は正しいと考えている。
又、皇族枠の点でも4世族と6世族はこの「仕来り」に沿っている事等、公家は「有品の制」でも従4位と従5位にはこの4と5との原則が働いている事、官位官職勲功叙勲に関してもこの4の原則が働いている事等からも先ず間違いは無いと考えています。
「青木氏の生活習慣の仕来り」の「1/4の原則」の「根拠の口伝」は当り前の事としていた事からか慣習や仕来りは多くのところで遺されているが、正式な「根拠の口伝」は「青木氏家訓10訓」の様には無く確認出来ない。
これは恐らくは、これ程に遺されているところを観ると、「青木氏の格式」で、つまり「令外規則」の「要領書」の様なもので、下記の「三大格式・三大儀式」に習った「賜姓族格式・儀式」であった事が考えられる。
「2つの青木氏」はこれを守っていた事が考えられ、上記の「河内源氏」は守らなかった事に成り生き残りの手段としてその差が出た事に成る。)
(「格式」とは令外規則の一種の要領書の事 大化期の律令の基と成った施基皇子が編集した「善事撰集」や桓武期の律令完成を法令補足する為に作られた嵯峨期の「弘仁格式・弘仁儀式」を始めとして「貞観・延喜式目」の等の「三大格式」や「三大儀式」がある。日本独自の法令形式)
この生活の中まで浸透していた「4-6の原則」「1/4の原則」「4の原則」は、「青木氏の賜姓族」に密かに脈々と引き継がれて来た「仕来り」であった様で、「氏を構成する平安武家」に引き継がれていたかは「下克上と戦国時代」で殆ど滅亡してしまった為に定かでは無いが多少の伝承があったと考えられる。
尚、賜姓族の「2つの青木氏」は神明社の観点からこの「1/4の原則」の慣習に従っていた事から観ると、秀郷一門の「特別賜姓族の青木氏」は秀郷一門一族(藤原氏北家)の「第2の宗家」の役割を果しながらも「賜姓族側の立場」をより強くしていた事を物語ります。
「祖先神-神明社」の考え方から来た「賜姓族の行動規範」であってこれを守っていたからこそ等しく「民の信頼」を得ていた事の基に成っていたと考えられます。
故に秀郷一門は「特別賜姓族青木」に「賜姓族」として一目を置いていた事が判りますし、前段の「瀬戸内の純友の問題」でも論じた様に世間も信頼し一目は置かれていた事を物語ります。
言い換えれば ”必要以上の勢力拡大は反って逆効果である” として考えていた事であり、清和源氏のの「河内源氏」の様に無制限の勢力拡大をしたのでは無く、「青木氏式目」(「青木氏格式」「賜姓族格式・儀式」)を守り着実にある範囲に留めて勢力拡大に努めていた事も判ります。(個々に生き残りの大きな違いがあった)
と云うのは、「皇族賜姓族青木氏」は「3つの発祥源」としての範囲で武力を使っての勢力拡大は所詮のこととして無かったのですから、従って、「特別賜姓族青木氏」はその「4倍程度の勢力」の範囲に留めていた事が適当と考えていた事が判ります。
秀郷一門が拡大するに連れてその範囲を管理していた事を意味します。
「皇族賜姓族」が持つ組織力が成し得る統率を超える勢力拡大は無かった事を意味し、それは同時に「特別賜姓族」の勢力の抑止力を超えるものでは無かった事と成り、もう一つの抑止力の「伊勢-信濃シンジケート」も「2足の草鞋策」の範囲を超えるものでは無かった事に成ります。
これ等は「1/4の原則」に意識して沿っていた事が判ります。
「1/4の原則関係式」
青木氏の勢力拡大≦賜姓族の組織力≒「1/4の原則」←「賜姓族格式・儀式」
青木氏の勢力拡大≦特別賜姓族の抑止力≒「1/4の原則」
伊勢-信濃シンジケートの抑止力 ≦「2足の草鞋策」≒「1/4の原則」
∴「賜姓族の組織力」 ≦特別賜姓族の抑止力」×「1/4の原則」
比較対照として ”氏が生き残れるか否かの違い” は前段の「河内源氏」の中にこの様な原則が存在したかは定かでは無いが、「荘園制と未勘氏族との武力を背景とした関係」から観て無かったと考えられ、伸びるだけ伸びた様な「生き様」であった考えられます。
青木氏式目」(「青木氏格式」「賜姓族格式・儀式」)を守らずに居た事が、これが前段で論じた”賜姓族にあるまじき姿”であって、 ”「賜姓族扱い」では無かった時期の姿を何時までも引きずった事から来ている”と考えられるのです。
源氏の名義だけを借りた「未勘氏族」にはこの「青木氏式目」(「青木氏格式」「賜姓族格式・儀式」)が無かった彼等に、更にその上に「清和源氏の賜姓未了の時期」に引きずられてしまったとも考えられます。
これは「たいら族」にしても「拡大する武力」に対してその裏付として「2足の草鞋策」を講じ戦略的には意識してバランスを採りながらも、「武力」に於いては”伸びに伸びた事”が滅亡を招いたと考えられます。
「伸びる事」を背景に無意識に「奢る態度」が必然的に生まれ、”平氏にあらずんば人にあらず” と世間から云われた所以では無いかと考えられます。
阿多倍一門で、且つ同じ「賜姓族の敏達天皇系」の「たいら族」にも「賜姓族格式・儀式」なるものが無かったと観られます。
前段で論じた様に「2つの青木氏」の原則に類似するものとして「ある程度の原則」は保ちつつも”奢れる者久しからず”の部分に引き込まれた滅亡であったと考えられます。
この引き込まれた原因は、”「諸行無常の世の条理」にあがなう事無く、知らず知らずの内に「河内源氏の生き様」に引きずられたものであった”と考えられます。
そう観ると、源平と同じ厳しい時代に生きた我等の先祖の「2つの青木氏」の「1/4の原則」に従っての「生き様」はすばらしいものであった事が云えます。
普通であるならば「源平」と全く無関係の立場には無かった訳ではないのですから、むしろ極めて近い立場にあった筈で、「諸行無常の世の条理」に引き込まれていた事は間違いない筈で、そうで無かったのはこの「1/4の原則」を懸命にして護っていた事ではないかと考えているのです。
ただ”偶然に生き残った”とするものでは無く「青木氏家訓10訓」と同じく「生き残りの戒め策」が「2つの青木氏一門」に働いていた事に成ります。
恐らくは、「特別賜姓族青木氏」は秀郷一門と云う組織で護られていた事も別の面で強く働いていた事もありますが、特に「賜姓信濃青木氏」や「賜姓甲斐青木氏」も厳然として本流、支流がと生き残っている訳ですから、「賜姓伊勢青木氏」との「1/4の原則」で緊密に結ばれていた事が云えます。
前段でも論じた、”出る釘は打たれる、地に竿させば流される等”の例えの通り、これを「1/4の原則」で以ってぎりぎりの所を維持させていたと考えられます。
”出る釘は打たれる、地に竿させば流される”等だけでは、むしろ消極的に成りこの”厳しい近い立場”の中では生き残る事は逆に困難であった筈です。
必要以上に消極的で無かったのは、真に「2足の草鞋策」と「2つの抑止力」を堅持していた事でも明らかです。
そうすると、この「1/4の原則」は 上記の”厳しい近い立場”に加え、前段の「2つの青木氏」の難しい立場、即ち「3つの発祥源」の立場に対して、この「2つの立場」の「2つの限界」を護る法則であったのです。
この上記の「2つの限界」(「2足の草鞋策」と「2つの抑止力」)と「1/4の原則関係式」を護る「心の支え」が「祖先神-神明社」に置いていたからこそ「青木氏の思考」をコントロールする「1/4の原則」を護り得たと考えているのです。
「青木氏の生き様関係式」
「2つ源平勢力」<「2つの青木氏」>「諸行無常の世の条理」
「2つの青木氏」=「2つの立場の2つの限界」
「2つの立場の2つの限界」=「3つの発祥源」+「2足の草鞋策」+「2つの抑止力」
「2つの青木氏」=「1/4の原則」+「祖先神-神明社」
さて、次ぎに皇族賜姓族青木氏の「宗家主家域」は何度も論じている近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の地域で5家5流青木氏の主家域で、夫々は国府を中心として拡がっています。
そして、土地の豪族との血縁賜姓族の近江の佐々木氏系青木氏、美濃の土岐氏系青木氏、信濃の足利氏系青木氏、諏訪族系青木氏、甲斐の武田氏系青木氏、武田氏系諏訪族青木氏、の支流族があり、夫々定住域を血縁氏側の国境方に拡げています。
美濃であれば西側の尾張域、信濃であれば北側の越中-越前域、西側の諏訪域、西域の尾張域、甲斐であれば東域と北域、諏訪族は東側の武蔵域に分布地を拡げています。
この地域の県域の分布域には神明社が必ずその末裔証拠として存在します。
(特記 比較的歴史的には不思議に知られていないが、事実は「信濃足利氏」は陸奥の斯波氏系足利氏で足利氏拡大の中心と成った足利氏で幕府を開いた関東の下野足利氏より勢力拡大とその貢献度は伯父に当る斯波氏足利氏の方が大きかった。室町期には11の国を治めたが「信濃足利氏」がその最大勢力を誇った。この信濃には斯波氏系足利氏のその血縁族は多い。
信濃諏訪族には甲斐諏訪族武田氏系青木氏があるが賜姓族ではない。足利氏系青木氏の一部は足利氏本家と秀郷宗家との血縁して後に主導権争いに破れ越前-米子-八頭に同行して末裔は移動定住した。斯波氏の足利氏は室町幕府衰退と共に衰退した。織田氏の主君に当る。)
「皇族賜姓青木氏」の「移動定住域地」は室町期中期までには西から・日向、土佐、・米子、八頭、・摂津、滋賀、越前、・越後、美濃、尾張、・伊豆、相模、下野、上野、武蔵鉢形、陸奥の北域(青森県北域)が記録として移動が確認出来る地域でありますが、移動して神明社を建立し末裔を大きく遺したとする主な移動定住域は・印の4県であります。(室町中期前の記録)
「二重重複域」は「皇族賜姓青木氏」と「特別賜姓青木氏」の同士の血縁融合域でありますがこの地域にも神明社が建立されているのです。
・近江、・摂津、・伊勢(四日市)、土佐、・美濃(桑名)、・伊豆、・相模、武蔵(入間)、武蔵(鉢形)、・越後(新潟)以上の地域に「青木氏融合氏」が定住していますが、古くから神明社と末裔子孫を大きく明確に確実に遺しているのは・印の7県域です。。(室町中期前の記録)
(但し、室町中期までの移動先域でこれ以後混乱期に入る為にデータとしては信頼性は寛政記録や家紋分析等から「第3青木氏の発祥」などがあり信頼性が低下して割愛するが上記の地域から歴史的経緯に基づいて拡大を見せている。)
これ等の個々の地域の「祖先神-神明社」の実情は次ぎの表から読み取る事が出来ます。
(Aの分布表)
「神明社の県域順位表」(八幡社と対比)
神明社の分布(県域分布/全国比) 八幡社の差 分布域の圏域 八幡社順位 順位差
1 山梨72 -12.7% -69 2つの青木氏の圏域 29 28
2 新潟61 -10.8% -58 2つの青木氏の圏域 37 35
3 東京30 - 5.3% - 1 秀郷流青木氏と源氏の圏域 2 - 1
4 愛知33 - 5.9% -19 秀郷流青木氏と源氏の圏域 5 1
5 富山33 - 5.8% -28 賜姓青木氏の圏域 24 19
6 秋田33 - 5.8% -30 秀郷流青木氏の圏域 35 29
7 岐阜31 - 5.5% -19 賜姓青木氏の圏域 8 1
8 千葉22 - 3.9% 1 秀郷流青木氏と源氏の圏域 4 - 4
9 静岡18 - 3.2% - 6 秀郷流青木氏の圏域 7 2
10埼玉15 - 2.7% - 6 秀郷流青木氏の絶対圏域 11 1
11山形15 - 2.7% - 8 秀郷流青木氏の圏域 17 6
12長野15 - 2.7% -13 賜姓青木氏の圏域 41 29
13栃木14 - 2.5% - 3 2つの青木氏の圏域 9 - 4
14宮城14 - 2.5% - 7 秀郷流青木氏の圏域 19 5
15群馬14 - 2.5% - 9 秀郷流青木氏の圏域 36 21
16青森13 - 2.3% -10 秀郷流青木氏の圏域 34 18
17神奈川11 - 1.9% 1 秀郷流青木氏と源氏の圏域 6 -11
18兵庫11 - 1.9% 13 清和源氏発祥地と賜姓青木氏 3 -15
19岩手11 - 1.9% - 7 秀郷流青木氏の圏域 28 9
20福岡9 - 1.6% 30 八幡社発祥地と秀郷流青木氏 1 -19
21茨城9 - 1.6% - 2 秀郷流青木氏の圏域 20 - 1
22福島9 - 1.6% - 7 秀郷流青木氏の圏域 44 -22
23福井8 - 1.4% - 5 賜姓青木氏の圏域 38 15
24広島6 - 1.1% - 1 秀郷流青木氏(讃岐) 23 - 1
25三重5 - 0.8% - 4 皇祖神と神明社絶対神域 47 22
26宮崎4 - 0.7% 2 皇祖神 天岩戸神社神域 22 - 4
27高知4 - 0.7% - 1 賜姓武田氏系青木氏 33 6
28鹿児島3 - 0.5% 6 源氏未勘氏の阿蘇大社神域 13 -15
29徳島3 - 0.5% 0 秀郷流青木氏(阿波) 30 1
30滋賀3 - 0.5% - 1 賜姓青木氏と源氏圏域 42 12
31石川2 - 0.3% - 1 賜姓足利氏系青木氏 46 15
32愛媛2 - 0.3% 7 清和源氏未勘氏の圏域 12 -20
33北海道2 - 0.3% 7 清和源氏未勘氏の圏域 14 -19
34和歌山2 - 0.3% 6 清和源氏の圏域 16 -18
35京都2 - 0.3% 2 神明社の絶対的神域 27 -12
36大阪1 - 0.1% 10 賜姓源氏の圏域 10 -26
37山口1 - 0.0% 8 清和源氏の圏域 15 -22
38大分1 - 0.0% 6 清和源氏未勘氏の圏域 18 -20
39香川1 - 0.0% 5 秀郷流青木氏(讃岐)圏域 21 -18
40岡山1 - 0.0% 3 秀郷流青木氏(讃岐)圏域 25 -15
41島根1 - 0.0% 3 出雲大社絶対的神域 26 -15
42長崎1 - 0.0% 2 宗像大社の神域 31 -11
43熊本1 - 0.0% 2 阿蘇大社と宗像大社神域 32 -11
44佐賀1 - 0.0% 1 宗像大社神域 40 - 4
45奈良1 - 0.0% 1 神明社の絶対的神域 43 - 2
46沖縄1 - 0.0% 0 45 - 1
47鳥取0 - 0.0% 2 出雲大社の神域 39 - 8
(神明社566社) (八幡社354社)
「皇祖神-祖先神-神明社-2つの青木氏-特定地域」(「5つの連携した関連要素」)
ここで改めて上記の表から歴史的に観て特筆する圏域があります。それは九州域であります。
福岡9、長崎1、大分1、熊本1、佐賀1、宮崎4、鹿児島3でありますが、「特別賜姓族青木氏」としては末裔が福岡9を中心に、長崎、大分に拡がっています。末裔も神明社分布の程度であります。
「2つの青木氏」「祖先神-神明社」として、その建立域は特別な地位でありながら確実に古くからの建立根拠を持っているのです。然し、薩摩域3と日向域4は異なるのです。ここは改めて論じる事とします。
故にそもそも上記の経緯から論じた様に「神明社」は、「皇祖神」と「祖先神」の役割が「親子の関係」にある事から、その立場が何処の地域でも繊細で微妙で重要な処を保持しています。
そして、それが矢張り「神明社-2つの青木氏」を意味するものである事なので、それに繋がる史実が無ければなかなか以下のこの薩摩3と日向4の様に説明がつき難い事に成るのです。
今までの経緯から「皇祖神-祖先神-神明社-2つの青木氏-特定地域」の「5つの連携した関連要素」が成立しないと証明や説明が出来ない事に成ります。
前段でも論じ、又、他の論文でも論じて来た長嶋氏(ルーツ掲示板の九州長嶋氏のお便りも参照 長谷川氏も含む)が南九州で大きく出自している事が歴史的になんらかの唯一の繋がりでありますが、青木氏と長嶋氏や長谷川氏等の主要5氏が建てると成ると上記の戦略上の範疇から外れて「神明社」では無く「春日大社」が優先される事に成りますので難しい事と成ります。
確かに、日向4は「日向青木氏」として「神明社」か「八幡社」に繋がる歴史的史実がありますが、神明社を2社の説明が就くとして残りの2/4社を建立すると成ると相当強い関係がなくては成りませんし、前段で論じた様にそれ程建立する勢力は日向青木氏には無かったのです。
(特記 日向青木氏の経緯由来は、源頼光の4代目源三位頼政の孫で、仲綱の子の長男宗綱と次男有綱と伯父の高綱は、伊勢賜姓青木氏の跡目に入った三男京綱が伊賀平族に助命嘆して、平清盛に特別に許されて日向に配流となった。その地元廻村の廻氏に匿われ廻氏との子孫を遺すが再び日向警護の平族に挑み敗戦、その後、「薩摩大口村」の寺まで落延び、そこで住職の勧めで「嵯峨期の詔勅」により伊勢青木氏族を名乗り生き延びる事が出来た配流孫で、後に九州諸藩の農兵として生き延び「日向青木村」を形成した。1100年頃はある程度の勢力を保持したが薩摩の台頭で完全に衰退した。確かに伊勢青木氏の系列の賜姓族で「神明社族」ではあるが「神明社」を創建し維持管理するその勢力はなかった。大きく現存する)
(参考 日向青木氏は次ぎの地域に青木村を形成した。現存)
現在は鹿児島県北伊佐郡大口村・山野村・羽月村 の三村大合併した。
その大口村は更に次ぎの8村が合併した。この中に上記の青木村がある。
(大口村 ← 「青木村」,里村, 原田村, 大田村, 牛尾村, 木ノ氏村, 目丸村, 篠原村)
「日向の神明社4の考察」
そうすると、青木氏外に平安期の朝廷が「心の神」と「生活の神」「物造りの神」として建立したと考えるにも無理があります。ただ日向4の内の1社が年代は確定出来ないのですが平安初期前後頃の建立ではないかと観られる神明社です。
残りの神明社2社(天岩戸神社は除く)に付いて、日向の土地は「天皇家の皇祖神」に取って所縁の土地でもありますが、これに関係する何かの建立と観ることも考えられます。
「皇祖神の伊勢神宮」の分霊支社等の要件があるのかを調べましたが、何しろ南九州は資料の遺産と発掘が少ない土地柄であって困難を極めているのです。
この日向2社はこの「神明社1」が原因して分社したとも考えられますが、果たして誰が維持していたのかも現在までも判りません。
[天岩戸神社(1)]
そこでこれ等の解明は先ず日向4に対してその糸口とも成りますので4社の一つの[天岩戸神社]を考察をしてみます。
下記にその日向地域の神明社4を列記しましたがこれを調査すると次ぎの様に成ります。
云わずと知れた「天岩戸神社」は「天孫降臨」による地の「天皇家の神社」(国社)ですので先ずこの一つは外れます。
そこで、此処には「西本宮」と「東本宮」とがありますが、「西本宮」がこの「天孫降臨」の神社ですので、朝廷は、”この域には建造物成るものを建ててはならない”とする飛鳥の古来からの掟があります。
然し、この地の豪族の「大神族」が”夢のお告げにより建てた”とする神社があり、これを地元では「東本宮」と呼ばれています。
神社本庁は宮崎県西臼枡郡高千穂町にある「西本宮」のみを「天岩戸神社」、正式には「天磐戸神社」としています。この「天岩戸神社」では無い事は間違いありませんので残り3つの神明社です。
(「大神族」の「東本宮」と呼ばれる神社に付いては下記で関係する部分が詳細に出てきます。)
ところが、この同じ高千穂町にもう一つの神社があります。
それは「高千穂神社」(2)と呼ばれています。
[高千穂神社(2)と大神氏]
この「高千穂神社」は別名「十社大明神」と呼ばれています。この神社の祭祀する神は「神武天皇」の兄の家族10人を祭る「皇族神社」、つまり「神明社」です。
この10人を以って「十社大明神」と呼ばれているのです。この神社は神社本庁の記録の「別表神社」に登録されています。
「皇祖神」の「伊勢大社」系列の神社の「神明社」としては登録されている事を意味します。
ところが、ここで検証すべき問題が有ります。
この「高千穂神社」(2)にも上記の「天岩戸神社」の「東本宮」と呼ばれる神社を建てたと主張する地元土豪(豊後の大野郡)の「大神氏」がこの「高千穂神社」をも”管理していた”と主張しているのです。
その人物が「大神太夫惟基」だと主張しているのです。
さて、問題はこの豊後(日向)の「大神族」なのですが、氏発祥は地元の「地理纂考」の経緯より11世紀始め頃発祥した「姓氏」です。(大神氏は8世紀だと主張 疑問)
つまり、この「姓氏」は家柄を良く見せる為に過去に遡って系譜の搾取偏纂をして良く見せる様に造り上げた事で、それを現実化させる為に「天岩戸神社」の近くに掟破して「東本宮」を”夢お告げ”として掟を犯して建てて於いて信用させ、「高千穂神宮」をも如何にも「氏神社」の如く後(平安期末期)で仕立てた事になります。
これには矛盾があって平安期の末期の後の彼等の記述によると、「高千穂神社」を”建立した”とは明確には云っていないのです。”管理していた”と主張する部分もあり不可解な表現をしているのです。
もう一つは、「神明社」は「祖先神」で「青木氏か源氏」の「皇族賜姓族」か「特別賜姓族」の「朝臣族」しか建立する事は無いのですが、平安期の認証の「氏族」ではなく「姓氏」族であり、その「姓氏族」の豊後の土豪大神族には有り得ない事なのであります。
この為に「明治期の宗教改革(廃仏毀釈、神仏判然令等)」の混乱期の中で、明治政府は神社関係の整理を行った際に、この「高千穂神社」を「別表扱い」として「神明社」である事を判りながら、彼等の社説の言い分を聞き入れ「天岩戸神社」の「東本宮」と伴に「高千穂皇神」(後の高千穂神社)を上記する「氏神」の「氏社扱い」の中に組み込まれてしまったのです。
[高千穂神社の3説]
ところが、この神社の明治初期の整理の際に調べると書かれていた社歴にも”創建は1200年前”と書かれていて、そうすると812年頃と成ります。
そこでこの「高千穂神社」の説には次ぎの3つがあります。
A 垂仁天皇期創建-紀元前の神代の時代の天皇家の説
B 地元実話を基にした「続日本後記」「三代実録」より引用した10世紀後半頃の大神族創建説
C 神社資料古物の研究機関の分析より明治期1200年前の創建説
以上の3説があり現在はC説の1200年前説が有力
特に「大神説」の大神氏と神社が主張する社説に依れば、「高千穂神社」も「天岩戸神社」と同じの「天孫降臨の社」ともあり「天岩戸神社」だけであるのに矛盾します。
更には「東本宮」と呼称させたものは812年創建と主張して於いて、「高千穂神社」では947年頃創建としていて、”この氏は何時の発祥なのか”と成り矛盾しています。
もし812年とすれば700年頃にこの氏は既に存在している筈ですが史実では存在していません。
つまり「神明社」である事を認めながらも”管理者が大神氏であるかも知れない”として「氏神」の「氏社扱い」になり、神社本庁の「社格」は「別表扱い」とされ「東本宮」が「氏神社」(姓氏族)であるので「高千穂神社」も「氏神」とされてしまったのです。
現在でも「東本宮」は余り知られていないのですが、「大神族」は自らの資料に812年に建立したと主張しているのですが、これがもしそうだとすると矛盾が起こります。
812年とすると大神氏はこの次期には「姓氏」は全く発祥していません。依ってそれはそれなりの「姓氏族」では無く立派な由緒ある「氏族」と成りますので、当然に朝廷の「八色の姓の制」から日本書紀などの書物には認可された「氏」として明らかに出てくる筈ですが、当時の豊後(日向)の豪族にはこの氏は記録にはありません。
(後の搾取偏纂で多くの知識を誤った)
まして、当時は「大蔵氏」や「肝付氏」の大勢力圏でもあり、ここは朝廷の5大官僚の一つ「伴氏」の「弁済使」の勢力圏に入っていましたのでこの時代には「大神族」は有り得ません。
結局、この明らかな矛盾から健在の「高千穂神社と天岩戸神社」の公的機関の研究からこの「大神族」は11世紀初頭の「姓氏族」である事が判明しています。(筆者の調査でも11世紀初頭)
このことから結局、豊後の大神族(おおがし:「姓氏」で大野郡の土豪)が「高千穂神社」であるとすると「神明社」で無い筈であります。しかし”「十社の明神」を祭祀する神社である”としています。これも矛盾しています。
そこで明治初期では神社本庁は「祖先神」ではなく「氏神」としたのですが、祭祀する神は皇族の十社ですので「皇祖神系列神明社」と成り明らかに矛盾します。
「高千穂神社」と「大神族」とをいろいろな資料の一説を引き出して結び付けて強引に作り上げた矛盾した自説である事が良く判ります。
「高千穂神社」も”「創建した」”と一方で示し、一方では”「村の守神」と崇めた”と記述していて、そしてその表現の言質を左右できる様に工夫している矛盾説であります。
中には「豊後大神氏」は「平家物語」に記している「緒方氏の祖、(緒方惟栄)」としていますが、ところが大和に全く別の由緒ある古氏の朝臣族の「大和大神氏」(おおみわし:「氏族」)があり、又、大和緒方氏もありこの家柄とを錯誤させる様に家柄を上手く利用しています。
11世紀初頭の「大神族」(おおがし:「姓氏」で大野郡の土豪)には、「筑前青木氏」までの不明期間100年から150年の間の歴史的空白期間を搾取偏纂により上手く利用され狙われたと考えられます。
利用された理由の一つは「青木氏か源氏」の存在がこの日向の神明社だけには唯一無い事であります。
その間100から150年の間は地元に派遣された累代の官僚族により維持されたからであります。
この事は3説ともに期間の間の維持管理は認めています。
(累代官僚による維持管理を認める事は「式内社」である事を認めている事に成りこれ又矛盾する)
この事に付いては記録が多くあります。
10世紀後半からの一時期はこの九州3国地域の神明社と伴に藤原一門とその青木氏が管理(寄進して補助行為)した事、鎌倉時代以降には頼朝も寄進したと記録が多くある事、歴代の知行藩主或いは領主の管理と伴に多くの豪族の氏からも少なくとも寄進にて賄われていた事は明記されている事等の資料史実からも確実です。この事は止む無く彼等が主張する社説も認めています。
これを認める事がそもそも矛盾する所です。
室町末期以降から江戸末期には土地の延岡藩等の歴代藩主等が、「天岩戸神社」と同じく由緒あり庶民からも尊厳されていた事もあって、これを認めて引き続き管理していた事が明記されています。
(明治以降は結局は余りの矛盾のために神社本庁の「別表扱い」と変更され最終は寄進で管理維持となった)
豊後大神族の社説は矛盾が多いことが判っていて当初から疑われていて「別表扱い」とすると問題に成るので採用されていなかった事を物語ります。
つまり「社説」と「寄進行為」は矛盾しています。明らかに「創建主」ではなく隣村のこの神社を崇めた事を誇大に言い合わせて如何にも「創建主」で在るかのように末裔に「搾取誇示する作為」で造り上げたと観られます。
(社説は後の社の所有権や地域興しの利害関係からこの様な大矛盾だらけの説を故意に採ったと観られます。 この様な搾取偏纂の偏在は悪い典型的見本で「姓氏族」に多い事に注意を要するのです。地方史録はこの様な資料をベースに偏纂されているので特段に注意を要する。)
上記した様に神明社を建立する力は、日向国の隣の豊後の一地方一郡(大野郡)程度の土豪の大神族には隣の日向国に神明社を建立し維持する勢力は全くになかった筈です。
”大神族の「氏神」と定め村人はこれを崇めた”と室町期に於いて土地の「地理考」に書かれているが、「日向の西臼桁郡」にあるこの「高千穂神社」を「豊後の国隣の大野郡」の村人の「心の拠り所」の神社とした事を意味しますから、「豊後の大野郡」には適当な神社が無かった事を意味するか、”村人が「高千穂神社」を余りに崇めていたのでこの様な破天荒の矛盾だらけの姓説を作ってしまった”と考えられます。
現実に「豊後大野郡」にはこの時代までに創建された神社は2つであり、何れも時期は不祥とされていますが、平安中期頃で「八坂神社」と「西寒多神社」です。(高千穂の郷には多かった)
この建設地域は高千穂地域とは逆の東の臼杵地域側にあります。
「八坂神社」は850年頃に当社全国支社の本社神社として豊後に創建された事で有名な神社です。
(京の祇園神社で有名です)
実質の創建は平安中期頃と観られ、且つ「延喜式神名帳」に記されている事から927年頃前の平安中期創建されたと観られる「西寒多神社」(ささむた)は、豊後を支配した大友氏が応永15年(1408年)に別の場所に移したとあります。
「八坂神社」は「氏神社」(県社 式内社並扱い)であります。
「西寒多神社」は「式内社」で発祥は平安期中期頃であり、この何れの神社も臼杵郡側にあり早くても実質は平安期中期に成るが有名な神社と成りますので、”大神族の大野郡の神社”と云う事には成りません。依って、大野郡には「式内社」や「氏神社」や「別表社」は無かった事に成ります。
或いは、平安末期発祥の大神族が崇める神社は無くなってしまった事は、これは「豊後大神氏」が自らの力で神社を建立する力が無かった事を意味し、止む無く民は西隣国越えの日向国の西臼桁郡高千穂村の「高千穂神社」を崇める結果と成った事に成っていた事に成ります。
そこで、この「豊後大神氏」は平安末期に「直入郡」に発祥していますから、鎌倉期の後期頃にはこの大野郡を納めこの事から民を引き付ける必要性に迫られ、東域は大豪族の大友氏の反発を招く事から、西側の「天岩戸神社」を利用する意味から近くの洞窟に掟を破り「小さい祠」を造った事に成ります。
ところが、この「祠の策」は効果なく結局は民が始めから崇めていた「高千穂神社」を”自分の祖の氏神だ”として作為したと観られます。
(推測 矛盾のある社説がこれだけ主張する事は、上記の空白期間の戦乱混乱期をこの大神氏から武力的な保護を受けて護られていた事が予想できる。)
だからこの意を汲んだ「大神説を社説」とする神社は”建立した”とは充分に主張していないのだし「維持管理」の100年間を狙われたと観て正しいと観られます。
参考として「天岩戸神社」の近隣の「東本宮」の社屋は「祠並」で社領等一切無いのです。
(豊後大神氏は飛鳥大神氏の一部が豊後に移動してその後平安末期に末裔を遺したとする説がある。)
そもそも「歴史の紐解き」とは例外無くこの様な「矛盾・疑問」を如何に切り崩すかにあります。
しかし相当苦労致しましたが、「大矛盾の大神説」は削除されますので、この事から残り「2つの神社」は南端にありますし、建立年代が不祥で平安末期以降と考えられますので「栗隈王か武家王」の唯一青木氏の発祥と末裔の存在しない域での「神明社建設」はこの「高千穂神社」である事に成ります。
(注 明治維新4年には神社本庁はこの社説を採用し「氏神社」「村社」としながらも「別表扱い」として高千穂の郷の土地の土豪の三田井氏の名を採って「三田井神社」と改名し、その後、28年に変更し元の「高千穂皇神」を「高千穂神社」して戻した。そして「国の管理」の下に戻した。実質は間違いを訂正した形式に成っている)
事程左様で、この大神説は矛盾だらけで明らかに除外できますので、従って、上記の理由で「別表扱い」と成っていますが、由緒ある「高千穂神社」の「神明社」は年代の検証から大化期頃に立てられた「神明社」である事に成ります。
つまり、前段で論じた「19の神明社」の創建記録の通り「栗隈王」か「武家王」が「中大兄皇子」に命じられた「19の神明社」の一つである事に成ります。
この「時代考証」と「天岩戸神社の所縁の側域の建設」と「高千穂の地理考証」と「19神明社」と「祭祀の神の皇族系」と「肥後と日向と豊後の国境に建てられている事」や「3国北地域の守護範囲南端にある事」等や「戦略的な位置付け」等から「栗隈王か武家王」が建立した「神明社」である事がほぼ証明できます。
この「天岩戸神社と高千穂神社」の「分霊支社」としての伸張が”戦略上で何かあったのか”等を研究する必要が有りますが、この2社は「皇祖神-祖先神-神明社-2つの青木氏-特定地域」の要素関連が成立しませんが、青木氏に関係のない神明社関係の神社である事は間違いない事に成ります。
青木氏から観れば例外神明社の神社と成りますが、皇祖神から観れば「神明社の元祖社」と成ります。
そこで「宗像大社」や「阿蘇大社」の圏域や社領域の中で、”残りの日向2(下記下の2つ 江田神社 鳴戸神社)を含む薩摩3は一体何なのか”大いに疑問です。
この事に付いて青木氏としては神明社研究を進める必要が有ります。
日向国の神明社の4社
天岩戸神社(1) 西臼枡郡高千穂町 「式内社」
高千穂神社(2) 高千穂町 「村社」(別表扱い)
江田神社 (3) 宮崎市阿波岐原町 「式内社」
鵜戸神宮 (4) 日南市宮浦 「郷社」
上記の様に日向の残りの上記の江田神社(3) 鳴戸神社(4)の2つは確実に古い社である事は事実であり神明社に関わっている事も事実ですが、「皇祖神-祖先神-神明社-2つの青木氏-特定地域」の要素関連が成立しないし、全く青木氏には関わりが無いと観られ後に大蔵氏の影響を受けて「産土神」に変わっています。
この事から可能性として戦国時代に入り管理維持が困難と成り元より賜姓族の影響の低い九州域では鎌倉期末期から「祖先神-神明社」から九州中心とした大蔵氏の「産土神」に変えた事が充分に考えられますが確認は取れません。
「薩摩3の考察」
ただ薩摩3は下記のデータには0+3として記述していますが、筆者の研究の調査ミスかも知れませんが、上記大神氏の様に分霊である事の疑問の社で何か古く魅せている可能性があるのです。
そもそも薩摩と日向は、前段で論じた様に中央との間に「政治的隔壁」を奈良時代から明治維新まで長い間持ち続けた国柄でもあり、何事にも一段深慮する必要のある地域である事は間違いはないのです。
「賜姓族」という点ではこの隔壁のそのものであるのです。
故に日向の古いと観られる残りの2つの神明社は、平安期に皇祖神の伊勢大社の分霊により創建されたとはこの事情からさすが難しく、「祖先神の神明社」を建立したと考えられるのですが確定する資料は見付かりません。
もしそうだとして鎌倉期以降とりわけ室町幕府が管理維持を続けたのかと云う疑問もあります。
これを維持管理する豪族とも成ると肝付氏と島津氏以外には無い筈です。
阿蘇大社域では出来たとしても他社社領域と成り無理と観るのが普通であります。
(肝付氏26代はこの日向の諸県を支配しています。)
九州域、特に南九州域は江戸末期から明治維新の廃仏毀釈などの4つの令(神仏分離令、大教宣布、寺社領上知令)に基づく江戸末期から明治初期の激しい宗教改革で他県と比べ物にならない程に大嵐が吹いたのです。それ故に不明不祥と成っているのです。
この様に南九州域にはそもそも平安初期より「神明社域」ではありませんから室町期中期前には「神明社」は無かったと観て次ぎの論所に入ります。
「賜姓族の神明社の検証」
次ぎはもう一つの皇族賜姓族の指揮組織であります。
「皇族賜姓族」では次ぎの「3つの指令基地」の拠点が働いていたと考えられます。
(Bの分布表)
皇族賜姓青木氏-16県-148-26.1%
宗家主家域 5県-126-22.3% (Fの分布表)
移動定住域 4県- 10- 1.8% (Gの分布表) 16県
二氏重複域 7県- 12- 2.1% (Hの分布表) 11県
この「皇族賜姓青木氏」の本拠地は伊勢青木氏で、平安末期には「源平の争い」に巻き込まれて前段で論じた様に近江、美濃は衰退してその遂行する能力は最早無く成ったと考えられ、平安末期にはこの指令システムが一時崩れたと考えられます。
前段から論じている様に、そこで立て直す為にも領国から上がる年貢に頼る事無く乱世の中で経済的な自立の道を選んだと考えられ、「2足の草鞋策」を採用して再構築を成したと観られます。
武力に相当する抑止力等の構築の為にも「神明社の建設」を推し進めそれを基にシンジケートを構築して護ったのです。
ここでも、明らかに「心の神」「生活の神」「物造りの神」のもので有れば上記の「1/4の原則」から4社/県から観て16県の範囲で148もの神明社は多すぎると考えられ、何と神明社全体の1/3程度にも配置しているのです。
「心の神」「生活の神」「物造りの神」により民衆を味方に引き入れる事と同時にこれ等を守る意味としての「戦略的な建設」でもあったとも考えられます。
これは秀郷流と若干異なる戦略目的であったと考えられ、「2足の草鞋策」に軸足を掛けての事であり゜殖産・商い」と成ると彼等の賛同を確保する事が絶対的な必須条件と成ります。
これ等を護るためにも「武力」を捨て「抑止力」に頼った運営とも成ればこれまた「民衆の力」なくして維持する事は出来ません。その意味で各地の民衆が結集したこの「シンジケート」は「絶対的な戦略的手段」と成ります。
「シンジケート構築」にしてもその「核」に成るものが必要であり、それが「神明社」と云うものであったと考えられるのです。
勿論、上記した”それは何なのか”で論じた絶対的条件も備わっての事であります。
「宗家主家域」のデータの5県で126もの建立であります。
つまり「5家5流」の5つの国であります。5家と云っても実質3家で有りますが、甲斐の青木氏は特に武田氏系青木氏は、別の論文でも論じている様に「神明社建立」を実行する能力が無くなっていて、自らの守護神さえも侭成らない始末であった事が史実から判っているのです。
(甲斐武田氏系青木氏の論文で論じている)
後は「賜姓族甲斐青木氏」で有りますが一族を護るに限界で有った事が記述から読み取れます。
そもそも甲斐には「賜姓族青木氏」1と、この賜姓族と武田氏との血縁で生まれた「武田氏系青木氏」2と、甲斐の賜姓族青木氏と血縁した「諏訪族青木氏」3(信濃諏訪族青木氏の一部の移動定住)と、この諏訪族青木氏と血縁した「諏訪族武田氏系青木氏」4と、これから分流した「武田氏族諏訪系青木氏」5の賜姓族の1氏とその支流青木氏の4氏の計5氏が定住しているのですが、1と3の賜姓族青木氏を除き、2と4と5の武田氏系青木氏は武蔵国と越後国と土佐国に逃亡して存続しているのです。
依って甲斐は神明社の基地としての機能は果たせなかったと観られ、伊勢青木氏(2氏)-信濃青木氏(3氏)との連携により成り立っていたのです。其処に126であります。
従って、この伊勢青木氏-信濃青木氏の関係が緊密なものであった事が判ります。
賜姓族青木氏の95%は武力に頼らないだけにこの2つの地域に集中しているのです。
全体の神明社の23%程度が集中しているのです。賜姓族の5県-126-22.3% 特別賜姓族の7県-103-18.2%-本家域とほぼ%で相似する内容と成っています。
何れも本家域の圏域の及ぶ範囲には「4社/県」と「1/4の原則」を確実に守っていて、「特別賜姓族」は武力を保持する事からこのややその割合を抑えています。
移動定住域 4県- 10- 1.8%(Gの分布表)
二氏重複域 7県- 12- 2.1%(Hの分布表)
このデータから見逃す事が出来ない事があります。
それは確かに「移動定住先10」で力を盛り返し10もの神明社を建立したと云う事であり、その力を発揮したと云う事を物語るデータであります。4社/県から観れば10は少ないのですが、移動域とすれば”勢力を盛り返し建立した”とすると妥当と考えられます。
「二氏重複域」(Hの分布表)は主に逃亡先での秀郷流青木氏と同地域で生活している中で12もの神明社を自らの力で建設しているのです。
力を盛り返し地主等に成り、その力で管理維持したもので主に「心の神」「生活の神」「物造りの神」を目的として建設されたものである事が覗えます。
これは「移動定住域」の10も同じであったと考えられますが、戦略的意味合いもまだ乱世が続いている事からその目的も見逃せない筈です。ただ主体が何れにあるかの問題であると考えられます。
ここで、「移動定住域」(16県)と同じ比を示しているこの「二氏重複域」(11県)には「融合青木氏」(賜姓族青木氏と特別賜姓族青木氏の血縁族)が発祥していて、この存在がより「特別賜姓族」との連携を一層効果的に働かせたと観ているのです。
「移動定住域」があったからこそ「二氏重複域」が生まれた事に成ります。
その意味からすると計11県-22-4%は4社/県からすると2社/県は半分と小さいのですが、「移動定住域-二氏重複域」の意味合いからすると4社/県に相当する意味合いを持っている考えます。
そしてそれが「賜姓族」と「特別賜姓族」を特定地域に限らず”全体的なより強い絆で結ばれていた”と考えられます。親族以上のもので運命共同体とする関係を保持されていたと考えられます。
その意味で「二氏重複域」(11県)の神明社の2.1%は各地でかなり大きな役割を果していたことが判ります。姿としては「強い絆」「運命共同体」の象徴的なものと成っていたのです。
「宗家主家域」の神明社とは「強い絆」「運命共同体」の点でより強いものがあったと考えられます。
筆者はこの自然摂理と歴史的経緯から生まれた「移動定住域」-「二氏重複域」の関係が「2つの青木氏」の隠れた「生き残り」の基点(骨格)に成っていたと考えているのです。
4社/県に対して2社/県は「2社の肉の部分」を剥がした「骨格部分」の神明社であったと観ていて2社以下ではなく2社/県-2%であった事に意味があると観ているのです。
つまり、”この「2つの域」では「1/4の原則」に沿ってそれだけのものにしていた”と云う事なのです。
それは次ぎの地理性と青木氏の主要地から読み取れるのです。
実は「移動定住域」と「二氏重複域」がA:攝津、B:越後、C:美濃、D:伊豆、E:相模、F:武蔵の6県域で重なっていますが、この6県のそれは「融合青木氏」の子孫拡大が大きかった域を意味します。
即ち、これは前段でも論じた様に「賜姓族」と「特別別賜姓族」の何れにとっても重要で主要拠点であり、「賜姓族」と「特別賜姓族」の家柄身分の区別が最早この間の関係にはなかったと観られ、「完全な親族」としてその「仲介役的な働き」をしていた証拠であります。
それは地理性に応じた特徴ある次ぎの「血縁融合の仕方」に意味を持っているのです。
A 摂津は賜姓族を中心に特別賜姓族が血縁融合(1)と賜姓佐々木氏系青木氏と特別賜姓族との血縁融合(2)をした。
B 越後は特別賜姓族を中心に賜姓族(1)が、特別賜姓族を中心に諏訪族系青木氏3氏と血縁融合(2)をした。
C 美濃は西域は賜姓族を中心に特別賜姓族(1)が、東域は特別賜姓族を中心に賜姓族が血縁融合)(2)をした。
D 伊豆は5家の賜姓族の同族の複合の血縁融合(1)と、この賜姓族を中心に特別賜姓族(2)が、この2つの血縁融合氏と複合血縁の青木氏(3)、清和源氏摂津源氏頼光系との血縁した青木氏(4)の5氏が存在した。
E 相模は甲斐武田氏系青木氏1氏と賜姓族を含む諏訪族系青木氏3氏間との相互の血縁融合(1)とこれらと特別賜姓族の相互の複合の血縁融合(2)をした。
F 武蔵は特別賜姓族を中心に伊豆-相模の賜姓族を含む諏訪族系青木氏との血縁融合(1)し、鉢形に移住した甲斐武田氏系青木氏と特別賜姓族との血縁融合(2)をした。
(これらは歴史史実と家紋分析による総合判別の結果記録)
特に「融合青木氏」のメッカとして「伊豆-相模域」は複合血縁で伊豆よりは賜姓族を中心に、相模よりは特別賜姓族を中心に特別な複合血縁している傾向を持っています。
これは青木氏の歴史的な移動経緯に左右されていて、伊豆域は守護国であった事から頼光系清和源氏の嵯峨期詔勅による青木氏発祥と伊豆の賜姓3家の同族複合血縁族との青木氏が発祥しているのが特徴で「二氏重複域」の拠点にも成っているのです。全体の6%を占めています。
(この6県に付いて「神明社の県域順位表」を参照するとその特長が判る)
中には、土佐と滋賀が重なっていますが、土佐はその拡大が小さい事と全体の戦略的な位置付けは低い事もあり少し意味合いが異なる事が云えます。
滋賀は前段でも論じた様に近江青木氏が一時移動定住した地域でありますが、この滋賀青木氏は上山氏の青木氏であり、一部に近江-滋賀の秀郷一門との血縁族と観られる融合族が存在するが神明社とは別問題で時代性が室町後期から江戸初期に成る事から本論とは別にしています。
(この上山氏の青木氏の一部は江戸初期前後に三河駿河と流れ最終の千葉には子孫を遺している)
伊勢と信濃には秀郷流青木氏との血縁による「融合青木氏」が「仲介役」(接着剤)としても存在しているのですが、この「仲介役」の「融合青木氏」が全体の「2つの青木氏」の連携軸に成っていたのです。
(Kの分布表 家紋分析 参照)
そうすると、秀郷流青木氏の「4つの指令基地」に話を戻して、この「北陸道域」を戦略的前線基地とすると本拠地は陸奥域と成ります。
果たして、その様に神明社が配置されているのかと云う疑問が出ますし、もしなければ上記の説は覆されます。
そこで、陸奥域の神明社の状況を下記に示しますと次ぎの様に成ります。
(Cの分布表)
東山道-東北北陸 6県-105-18.6%
建設地域 社数 /地域% /全国%
青森(陸奥) 13 12.4 2.3
秋田(羽後) 26+7 31.4 5.8
山形(羽前) 15 14.3 2.8
岩手(陸中) 11 10.5 1.9
宮城(陸前) 14 13.3 2.5
福島(岩代) 9 8.6 1.6
秋田を除いて間違いなくほぼ同じ程度の分布状況に成っています。
陸奥域は平安期の本来の域は青森-秋田-山形の領域を以って陸奥域とされていました。
これは明治2年に陸奥を磐城と岩代と陸前と陸中と陸奥とに分離したもので、出羽は羽前と羽後に分離したものです。(平安期の陸奥域は広域なのです。)
ですから、秋田26+7は北陸域との連携からも特別に平安期の陸奥域の西域に主力を置いていた事が判ります。神明社分布と末裔分布はこれに一致します。4社/県の原則は県域としては8倍程度の建立数を維持していますので東山道域では主要域であった事が頷けます。
ですから、平安期から室町期まででは、61-58%で、全国的に観ると61/566=11%と成り、平安期の陸奥の勢力圏域から観ると105-19%と北陸道の前線基地と遜色ない勢力を保持しいます。
この陸奥域は当然に平安期から室町末期まで北家の藤原秀郷一門の絶対的権域で、室町末期には永嶋氏が陸奥に拠点を置くほどに重要な「戦略上の拠点」でもあり「穀倉地帯」としても重要な地域でもあります。
この前線基地と本拠地を合わせると(北陸道域 4県-104-18.4%) (東山道-東北北陸 6県-105-18.6%)で併せて「10県-209-37%」と成り、全体の1/3以上が集中しているところであります。このデータは青木氏の分布と一致する数値でもあります。
殆どは、秀郷流青木氏の分布域でもあります。
下記の東海道域に比べてやや落ちますがこれが特別賜姓族の勢力の置き方であった事を意味します。
この東山道の東北北陸のデータから秀郷流青木氏と一部の賜姓族とその系列の青木氏の分布域に合致するのですが、更にこれを裏付けるデータが東海道域のデータがこれを物語ります。
(Dの分布表)
東海道域 7県-154-27.2%
建設地域 戸数 /地域 /全国
茨城(常陸) 8+1 5.8 1.6
千葉(下総) 22 14.3 3.9
埼玉(武蔵) 31 20.1 5.5
東京(武蔵) 30 19.5 5.3
神奈川(相模 ) 9+2 7.1 1.9
静岡(駿河) 18 11.7 3.2
愛知(尾張) 33 21.4 5.8
特別賜姓族の本領であった武蔵域を中心に相模と常陸が両翼にしてやや下総側に伸びた神明社の分布状況となっているのは本領勢力圏の形に一致します。この本領から手足が伸びる様に街道沿いに本領勢力圏と同じ様にまた末裔分布圏と同じ様に伸びています。
上記の特別賜姓青木氏の神明社分布の関東全域 7県-103-18.2%-本家域(Jの分布表)は秀郷一門が領国とする関東域にして観たものですが、前記した様にこれに沿ってその延長線上の静岡と愛知は秀郷流青木氏が西の前線権域として大いに活躍した領域です。
全体比から観ても、この西域の静岡と愛知域は9%であります。
これに対して、A-103(関東域)、B-104(北陸道域)、C-105(東山道域)で312と成り合わせて55%と成り、これに静岡と愛知の分の51-9%を加算すると全体比では364と成り64%にも成ります。
東海道域と東山道域から観ると、街道沿いには209と成り、37%と成ります。
つまり、このデータの持つ意味は上記した様に戦略的な意味としては、街道沿いは皇祖神の神明社で4割は占めている訳ですから、藤原秀郷一門の秀郷流青木氏の特別賜姓族の勢力が街道沿いを中心に勢力を集めていてその勢力は如何に大きかったを物語るものです。
この神明社の勢力圏に加えて藤原氏の春日大社の勢力圏を加算すると8割程度の勢力圏を占めていた事が判ります。
この神明社の分布に依って藤原北家一族中でも「下がり藤紋」の一族がこの街道沿いの圏域を如何に大きい力で占めていたかを物語るものです。当然に末裔分布も一致しますので「勢力の内容」を実証するものと成ります。
”果たして、その様に神明社が配置されているのか”と云う上記の疑問はこれで配置されていた事が判り解消されます。
前記より東山道域圏と東海道の東域の主要街道域は、藤原一門で抑えられていて信長-秀吉-家康はこの勢力を無視できず信長-秀吉は現実に手を出せずにいました。そして、家康はこの秀郷一門の青木氏(「第2の宗家」)のこの力を無視できず、むしろ戦略的に積極的に家臣に取り入れた事が良く判ります。
故に、江戸初期の家臣団の初期の構成時には「武田氏の家臣団」と並んで「秀郷一門の旗本」が多い事はこの街道沿いの「秀郷一門の勢力」を取り込んだ家康の戦略から来ているのです。
これは家紋分析からもこの事が良く判ります。
そこで気に成る事ですが、”家臣そのものを取り込んだ”と云うよりは上記のデータで示す「街道沿いの勢力」、即ち、「賜姓族「神明社」も含む”「神明社圏域」を取り込んだ”と云う事が正しいと云う事なのです。
戦略家の家康であれば「家臣の人」より地に根付いたの考え方に基づいた「優れた組織」を取り込んだ筈です。当然にそうすると「祖先神-神明社」で構築された組織を取り込んだのです。
秀郷一門のみならず武田氏の赤兜軍団も「組織の取り込み」です。
武蔵鉢形に武田氏系の「青木氏全軍団」を根こそぎ村毎そっくり移住させているのもこの戦略の考え方から来ているのであり、この「2つの組織」を秀郷一門の本拠地の武蔵にわざわざ指定して移動させたのもこの「2つの優秀な軍団」を膝元に置き武蔵の江戸を固める事にあったのです。
つまり、この戦略である限り「人」では無いのです。
「祖先神-神明社」で「統率された組織」と「青木氏の思考原理」を取り込んだのです。
そして、その取り込んだ「祖先神-神明社の考え方」が江戸期以降の「武士道」の基盤と成り得たのです。
私はむしろ突き詰めると、”「祖先神-神明社の考え方」に重点を置いていたのではないか” と観ています。
それは江戸期の初期の侍社会を固めるには、農民から伸し上った下級武士や下克上からの武士を主体とする武家武士の多い社会を根本から構築する必要に迫られ、豊臣との戦乱後に幕府を開く以上は「社会の再構築」の「優先的な政治課題」に迫られていた筈です。
それには奈良期から日本の「民と武家の社会」に根強く根ざし受け入れられて来た上記で論じた「祖先神-神明社の考え方」を江戸期の封建社会の中に敷くには最適であると家康は観ていたと考えられます。
当然に「物造り神、生活の神」としても、「総神」として崇められてきた経緯を見逃す事は出来ない筈ですし、この「神明社の分布」が政治的にも効果的であり幕府樹立として利用しない訳には行かなかった筈です。他の守護神とはその位置付けは論じて来た様に大きく異なるのですから、「祖先神-神明社」に目を向けられた筈です。
その証拠には前段で論じて来た「八幡社」の「八幡大菩薩」を「下級武士の心の支え」として再び陽の目を見て掛け軸などにして床の間に飾る江戸期の下級武士の風習はこの証であり、その思考原理は「神明社」が室町以降に「未勘氏族」に依って「八幡社」に改宗された経緯もあり、故に総じて前段でも論じた「祖先神」に通ずるものとして扱われたのです。
つまり、江戸期には「下級武士には八幡社、上級武士には神明社」の仕来りの流れが起ったのです。
故に青木氏のみならず「神明社」も幕府の援護を受けて上記で論じて来た社会の主要なところに建立されていた「神明社566社 八幡社354社」が好都合として残り得たのです。
江戸期には「2つの青木氏」にはこの566社を充分に全て管理維持する能力が江戸期には遺されていたかは疑問でありますから、しかし現実に遺されている以上は江戸幕府の「祖先神-神明社」を「武士道の根幹」に取り込んだ事に因ると考えられます。偶然に残ったのではありません。それ程に江戸初期までは戦乱で甘い社会ではなかった筈です。それなりの遺し得る確実な理由があったのです。
「武士道の根幹」と「総神」
その証しの一つとして「祖先神-神明社」の青木氏族は「古代密教形式の浄土宗」を菩提寺とする事から、江戸初期の「浄土宗督奨令」の発布と江戸初期に行われた「寺社の宗教改革」はこの事から来ているのです。そして、その浄土宗は上級武士の宗派と成ったのです。
ですから、江戸初期に旗本と成った中には「祖先神-神明社」「浄土宗」の関係する青木氏の家紋群が多い事と、それに関連する類似家紋の支流分流分派の家紋が多いのはこの事から来ているのです。
前段で論じた江戸初期に発祥した多くの「姓氏族」の守護神の「氏神」が「神明社」と一部で間違われているのは、江戸初期の上記の経緯から来ているのであって、「神明社-総神-氏上-御師-総師」と崇められていた事から「氏神-総神-神明社」の流れが「下級武士の姓氏」と「民」の中に起ったのです。
これも「祖先神-神明社」を「武士道の根幹」のみならず守護神を離れて全民の「総神」として位置付けられていたのです。
この事の証拠に就いて前段で論じた様に「伊勢青木氏と信濃青木氏」は江戸初期から明治初期まで徳川氏から「賜姓族」として「特別な待遇と保護」(例 下記特記)を受けていた事でも判ります。
特記 前段で論じた事ですが、伊勢青木氏には、紀州が徳川氏直轄藩と成り飛地治領としての松阪での「賜姓族特別面談扱い」や、紀州藩初代徳川頼宣からの手紙や拝領品等が多く遺されていて、家臣では無いが明治初期まで特別に十二人扶持を与えられていた事や、幕末14代まで特別扱いの下で「師」としての深い親交があった事や、伊勢松阪で吉宗を親族の加納家と共に育て上げた事や、その8代将軍吉宗の有名な「享保の改革」を布依着用(大名扱い)で勘定方で断行し、合わせてその時の財政改革の世間への見本として同時期の紀州藩の財政改革を特別依頼されて断行に成功し享保の改革の反対者を押さえ込んだ事や、且つ幕末の「坂本竜馬と船沈没の事件」で高額の賠償金捻出での有名な幕末紀州藩の財政改革等を断行した等が記録として遺されている。松阪にある賜姓青木氏の氏の総菩提寺が江戸期には紀州徳川氏の菩提寺に成っている。
これ等は「祖先神-神明社」の上記の証しと成るものと考えます。
私はここが「2つの青木氏」のみならず徳川氏の「天下分け目の決め手」であったと考えていて、もっと遡れば徳川氏には信長が甲斐武田氏を潰した時に甲斐の戦後処理を家康に任した事が決めてであったと観ています。それに依っての結果として「神明社」が遺されたと云う事も云えるのですが、これよる勝敗が逆であった場合は「神明社の運命」は恐らく焼き討ちにあい無く成っていたと考えられ、強いては「2つの青木氏」の存在や上記するその関係が破壊されていた事が考えられます。
この様にDとJの分布表の神明社から観れば、「神明社の存在」そのものが「2つの青木氏の命運」が如何に関わっていたかが判ります。室町期中期以降の生き残りはこの分布表からも読み取れるのです。
武蔵入間を中心に神奈川-横浜を半径とする総宗本家の勢力圏はAからDまでの主要街道沿いを7割で抑え、次ぎのデータの都の畿内圏域に結び付けていた事が判ります。
更に、この勢力圏はお膝元の畿内の神明社とどの様に結び付いているかを次ぎに検証します。
(Eの分布表)
畿内域 6県-14-0.2%
建設地域 戸数 /地域 /全国
三重(伊勢) 5 38.5 0.0
奈良(大和) 1 7.7 0.0
和歌山(紀伊) 2 15.4 0.0
大阪(摂津) 1 7.7 0.0
京都(近江1) 2 15.4 0.0
滋賀(近江2) 3 23.1 0.0
比較的にAからDの分布に対してEの分布表の数字は少ないと観られます。
つまり、この少ない原因は神明社の質的な意味合いがこのデータは異なっているのです。
特に奈良域は1と成っていますが、神明社の奈良期の19の神明社は室町期から観たものである事とその遺跡の有無から1としたもので、この域の「神明社の環境」は域全体が神明社であり分離したものでは無く当然のものとして存在しているので別格的扱いとしましたが、伊勢5は「分霊扱い」では無く「支社扱い」のもので「神明社の本拠点」と見なされ、量的な意味合いではない事に成ります。
天智天皇が実行した天領地の主要地19の第4世守護王の配置域に神明社を建立したものを加えて計算すると32-5.7%と成ります。しかし一部この19の守護地は5家5流の中部域の3国(美濃、信濃、甲斐)を外しますと29-5.1%と成ります。
この6県は「質的な神明社」であって、量的な判別は困難であり、32-5.7%に修正すると4社/県の原則から観ても5-6社/県と成りますのでこの神明社の古来からの聖域としては「1/4の原則」の範囲にあり妥当なものと考えられます。
(「皇祖神の聖域」であり「神明社」を建立する根拠は祭礼格式により無かった)
そもそもこの6県全域が「皇祖神-伊勢神宮」の90年-90社の遷宮域で「皇祖神-祖先神-神明社の聖域」そのものである事から考えると「皇祖神宮90社」を加算して122と成り、むしろ20社/県となり、「1/4の原則」から観れば20社/16社と成りむしろ多い事と成ります。
民衆から観た「生活の神」「物造りの神明社」とは別に上記した様に「戦略的意味合い」も強くあった事から伊勢を始めとして畿内域はその意味合いが無い訳ですから当然に量的分布は別物であります。
故にこの様な分布状況を示しているのです。
従って、その建立地も戦略的意味合いの位置の山岳国境には無く平地の主要地に位置しています。
この事が神明社布教を前提として純粋に「生活の神」「物造りの神明社」としての役割を果たす事に主眼が置かれていた事が判ります。
この畿内域は「伊勢-大和域-紀伊」8と「近江-摂津-都域」6の2域に分類され、「伊勢-大和域-紀伊」8は「皇族賜姓伊勢青木氏」と「特別賜姓伊勢青木氏」の特別区域として管理運営されていた事が判ります。しかし「近江-摂津-都域」6は「賜姓近江青木氏」と「賜姓近江佐々木氏」の区域であり、平安末期には何れも衰退してその管理運営力を無くし室町期には朝廷の力も無くしていますので、室町期まで遺されていたのは「足利幕府の政治的な配慮」の畿内民衆の「生活の神」「物造りの神明社」の梃入れであったと考えられます。
「伊勢-大和域-紀伊」8は5家5流の賜姓青木氏との繋がりが問題であり、この繋がりは次のような傾向を示しています。
(Fの分布表)
賜姓青木氏-5県-126-22.3%(宗家・主家)
建設地域 戸数 /地域 /全国
三重(伊勢) 5 4.0 1.0
山梨(甲斐) 69+3 57.1 12.7
長野(信濃) 13+2 12.0 2.7
岐阜(美濃) 31 24.6 5.5
滋賀(近江) 3 2.4 0.0
この他の地域の賜姓族の建立状況をAの県毎の分布表からまとめ直してみると次ぎの様に成っています。
三重と滋賀は上記の通り「皇祖神の遷座地」である事から少ない事は納得できますが、中部3県の山梨69-3、長野13+2、岐阜31では、先ず山梨は5氏の青木氏内諏訪族系3氏の諏訪社を除くと2氏の賜姓族系で全国比13%程度の高比率を占めているのは高い神明社への信仰が高かった事のみならず武田氏滅亡の戦い以外に神明社の消失の原因が少なかった事が云えます。
特別賜姓族はこの山梨には存在しませんし、室町期中期以降武田氏滅亡以降に上記した家康の保護があった事と青木氏系列の柳沢氏の保護下にも成っていた事から存続の比率が高かったと考えられます。4社/県からすると12倍と成りますので多く建立した事もありますが、遺し得た事も一つの要因です。
長野は奈良期よりもとより賜姓族の拠点でもあり賜姓族2氏と前段と上記で論じた様に特別賜姓族の強力な存在もあり、また伊勢青木氏との強い連携もあり4社/県の3倍の神明社を残し得たと考えられます。特別賜姓族の存在は信濃足利氏のお家騒動に加担した事の大きな関わりであるので定住地では無い事からこの3倍程度は妥当なところで不必要な消失に巻き込まれなかった事が大きな要因とみなされます。それは「祖先神-神明社」が各階層から崇められていた事により護られ消失を免れて遺し得たと考えられます。
岐阜は賜姓族青木氏2氏と特別賜姓族系4氏流と融合青木氏とが存在する地域であり源平の戦いで土岐氏系の青木氏が滅亡した事もあって甲斐域に比べては少ないけれど特別賜姓族の支えにより戦乱の戦場と成った地域にしては遺し得たと考えられます。
4社/県から観ると8倍と成っていますので遺し得た地域とみなされます。信濃域とは少しその歴史的経緯が異なっていた事から特別賜姓族の存在からすると甲斐に比べて少ないと観られますが矢張り戦乱の戦場となり続けた地域でもあり消失は無視出来ないところであります。
下記の分布表でも判る様に、前段と上記でも論じた「皇祖神-祖先神-神明社-2つの青木氏-特定地域」(「5つの連携した関連要素」)が絡み、その地域県の「歴史的経緯と末裔分布と勢力図」の影響が特に左右して室町中期以降に「5つの連携関連要素」が緩んだ事で、その内容如何では「色々な形での消失」が働いている事は少なくとも否めません。
従って、上記の様に街道沿いの広域で相対的に論じているのですが、然し、多少のバイアスを持っている下記の県域に於いてでもその「歴史的経緯や末裔分布の生き様」等の息遣いの大まかな様子が垣間見る事が出来ます。
(Gの分布表)
賜姓青木氏-4県-10-1.8%(単独の移動定住先)
建設地域 戸数 /地域 /全国
鳥取(伯鰭) 1 10.0 0.0
島根(出雲) 0+1 10.0 0.0
高知(土佐) 4 40.0 0.0
宮崎(日向) 4 40.0 0.0
前段でも論じた鳥取は米子や八頭に移動定住した信濃賜姓族足利氏系の青木氏が勢力を拡大し島根との県境宍道湖周辺までその勢力を盛り返し信濃賜姓族の末裔として一族の結束の証しと象徴として建立したものです。
島根は讃岐青木氏の一門が2足の草鞋策で瀬戸内を越えて日本海に出て廻船問屋を手広く広げそれに伴って子孫末裔が宍道湖の西側域に定住地を確保して拡がったものでその証しと彼等の象徴として建立したものでは無いかと考えられますが、これには信濃賜姓族足利氏系青木氏が宍道湖を越えて西側にも拡がった事も家紋分析等から考えられるので、秀郷一門の讃岐青木氏との判別が難しいところです。
出雲大社域の中での神明社であるので余り西よりには建立は難しい筈であった事から、讃岐青木氏の定住地は宍道湖のやや更に西よりに青木村を形成している事から信濃足利氏系青木氏の米子域の青木村との2つの青木村の圏域の境界が判らないのです。
宍道湖付近で「融合青木氏」が存在していた事も考えられますが以前ルーツ掲示板のお便りからすると地主であったとして家紋分析からみると可能性があると考えられます。現在は確認が取れませんが家紋分析で研究中です。
宮崎は上記で論じた通りです。
(Hの分布表)力が良く判ります。
秋田4.1
重複域青木氏-7県-178-31.4%(移動定住先 秀郷流青木氏と重複域)
建設地域 戸数 /地域 /全国
秋田(羽後) 26+7 18.5 5.8
新潟(越後) 55+6 34.3 10.8
福井(越前) 8 4.5 1.4
富山(越中) 32+1 18.5 5.8
神奈川(相模)9+2 6.2 1.9
静岡(駿河) 18 10.1 3.2
栃木(下野) 12+2 7.9 2.5
重複域の特別賜姓青木氏 -166 27.3%
重複域の賜姓青木氏 -12 2.1%
{(126+10)+418}-566=-12
東山道域の広域で論じた様に、重複域から観ても矢張り新潟55+6を中心に北側の秋田にパイプを広げて戦略的に連携を採っている事が判ります。
新潟55+6を中心に秋田側26+7に重複域を拡げています。
西側には福井側8と、富山32+1 と成りますが、パラメーターを統一して4社/県として観ると、新潟15.3、秋田8.3、福井2、富山8と成り、更に 福井2を1として新潟7.6倍、秋田4.1倍、富山4と成り重複域の分布力が良く判ります。
地理的に並べて見ると 秋田4.1 新潟7.6 福井1 富山4で北側には特別賜姓族を主体に、西側には賜姓族を主体にして伸びている事に成りますが、この分布力から「1/4の原則」を当て嵌めて見ると秋田はこの原則に丁度一致し、新潟は拠点としてあるので8は拠点分4として相当して考えられます。
恐らく7.6は、この「4社/県」と「1/4の原則」が完全に適用されていたとして観ると、0.4分のマイナス分は、「神明社の分析過程」の+6の判定が室町期中期内の+の可能性と観ているので、+9とすれば7.6が8に成ります。「重複域」である事と「八幡社」の宗派変え分(宗旨変え)による+3分の判定エラーが起こっている事が考えられますが、凡そ4:8:1:4で分布力の関係が出来ていたのです。
富山の4は歴史的経緯から観て、鎌倉末期から室町期中期までの建立のものが多いので定住地の地理的な要素から観ると、甲斐の避難族だけではなく、信濃足利氏本家筋との賜姓族青木氏血縁族のものもと一部には未勘氏族も含まれている可能性が考えられます。
(純粋に融合の判別要素が無い為には難しい 福井と同じ程度か)
上記の広域で論じた様に、神奈川、静岡、栃木の3県で観ると、神奈川11 静岡18 栃木14は伊豆の複合融合最大域を中心に東西にバランスよく分布していて、2.8:4.5:3.5 として 0.7:1:0.8の関係に成っています。然し、静岡は複合融合データ域なのでこれを1としているので、若干低めに成る筈で東西に(0.4-0.5)のバランス関係を保持していた事が判ります。
東西に賜姓族の融合の重複域を採っていた事に成りますが、ここでも「1/4の原則」はほぼ守られていた事に成ります。
「重複と融合の戦略の存在」
総じて重複域での特別賜姓族と賜姓族との比が、166:12(社) 27.3:2.1(%)と成り、重複域のここでも特別賜姓族が27-28%台を持っていた事は重複域の「融合青木氏の存在の効果」が大変に大きかった事のパラメータに成ります。
重複域も例外ではなく、上記したエラーを重複域ではこの関係分を含みますので、これを考慮するとやや低めのほぼ「1/4の原則」が成立しています。
広域と境域の重複域の関係を観て来ましたが重複域期で起る「融合青木氏の仲介役、接着剤の役割」を改めて認識する事に成ります。
むしろ、これ等のデータから ”戦略的に恣意的に「重複域」を造り「融合青木氏」を発祥させて「2つの青木氏」の結束を強化していたのではないか” と考えられます。
だから危険を顧みず時代毎に起った歴史的な事件や経緯からの移動逃亡先の各種の青木氏を即座に迷う事無く受け入れたと観られます。
そして、その行動が関西-中部域は賜姓族側が、関東以北域は特別賜姓族側が中心となっていた事を物語ります。
上記の様に広域と境域共に重要なポイントの域には漏れる事無く「重複と融合」が高い割合で間違い無く行われているのです。
これは”「重複と融合の戦略」なるものが、「祖先神-神明社」の考え方を根幹にしてその存在意義を護る為にも、「3つの発祥源の2つの青木氏」にはあった”と考えているのです。
だから上記で論じた様に、抽象的なものでは無く、 ”この確固たる論理的な行動の戦略に基づいた「固い祖先神-神明社の組織」を家康は取り入れた” という事なのです。
だから「伊勢青木氏」に遺されている様な徳川氏が上座を譲るほどに「青木氏を崇める記録」が存在するのであって、「3つの発祥源の2つの青木氏」の古い賜姓族氏だからと云って簡単単純に江戸期に成って今更に崇める事はしない筈です。伊勢だけではなく信濃国府や武蔵入間の青木氏宗家にも何がしかの記録があると観ています。
(Iの分布表)
(移動定住先)
(関東以北の主要地を除いた移動定住地を除く 全24地域)
藤原秀郷流青木氏-16県-58-9.7%
建設地域 戸数 /地域 /全国
栃木(下野) 12+2 25.5 2.5
群馬(上野) 12+2 25.5 2.5
この2県域は移動定住地でもあるが本領でもある。しかし「祖先神-神明社」の特別賜姓族から観ると主要地と異なり「移動定住先」に成るのです。
因ってここに加えましたが、本領としてのそれなりのデータを示しています。
本領である以上は「4社/県」「1/4の原則」は完全に保持していて下記の地域とは完全に異なっています。
京都(近江3)5 9.0 0.0
岡山(美作) 1 1.8 0.0
広島(安芸) 2+4 11.0 0.0
山口(周防) 1 1.8 0.0
島根(出雲) 0+1 1.8 0.0
広島は下記の讃岐青木氏の勢力圏でもあり、本領の宗家からの赴任移動先でもある事からたの移動定住先とは若干異なりそれなりのデータを保持していますが、神明社の検証に+4は確定出来ないものであり、歴史的経緯と地理性からもう少し多いのではないかと考えられるのです。恐らくは、神明社が増える可能性よりも「八幡社の宗旨変え」(5 4社/県)が起っていると観られます。この地域の未勘氏族や疎遠の河内源氏が八幡社5を建立維持したとは考え難いのです
そうすると2+4+(5)=11と観ると、本領移動域の下野、上野域に比適する事と成り納得出来るデータと成ります。
徳島(阿波) 4 7.3 0.0
香川(讃岐) 1 1.8 0.0
愛媛(伊予) 2 3.6 0.0
高知(土佐) 4 7.3 0.0
福岡(筑前) 1 1.8 0.0
佐賀(筑後) 1 1.8 0.0
長崎(肥前) 1 1.8 0.0
熊本(肥後) 1 1.8 0.0
大分(豊前) 1 1.8 0.0
(京都は丹波などの3国とする)
以上の9県域は移動定住域としては納得出来るデータです。
(Jの分布表)
藤原秀郷流青木氏の神明社分布
関東全域 7県-115-20.3%-本家域
(Kの分布表)
特別賜姓青木氏-34県-418-73.8%
北陸道域 4県-104-18.4%-北陸域
東山道域 6県-105-18.6%-東北域
東海道域 8県-154-27.2%-中部域
移動先域 16県- 55- 9.7%-分布域
(Lの分布表)
皇族賜姓青木氏-16県-148-26.1%
宗家主家域 5県-126-22.3%
移動定住域 4県- 10- 1.8%
二氏重複域 7県- 12- 2.1%
(JからLの分布表は上記で論じた)
以下はその末裔分布の融合青木氏の定住地域別にまとめて見ました。
(Kの分布表 家紋分析による)
融合青木氏-賜姓青木氏(A)と特別賜姓青木氏(B)との融合血縁氏
伊勢域 四日市域、員弁・桑名域 (A)賜姓族系1 (B)特別姓族系
美濃域 伊勢側域 尾張側域 (A)特別賜姓族系 (B)特別賜姓族系
信濃域 愛知国境域 越後国境域 越中国境域 (A)賜姓族系2 (B)特別賜姓族系 (A)(B)複合
武蔵域 鉢形域 八王子域 (A)賜姓族系1 (B)武田氏系1 (B)特別賜姓族系
越後域 全域 越中側域 越前側域 (A)諏訪族系2 (B)武田氏系2 (B)特別賜姓族系
土佐域 伊予国境域 讃岐側域 阿波国境域 (A)武田氏系1 (B)武田氏系1 (B)特別賜姓族系
鳥取域 鳥取国境域 (A)足利氏系1 (B)特別賜姓族系 (A)(B)複合
伊豆域 全域 (A)賜姓族系2 (B)特別賜姓族系 (A)(B)複合
栃木域 全域と下野国境域 (A)諏訪族系2 (A)武田氏系1 (B)特別賜姓族系
神奈川域 全域 (A)諏訪族系2 (B)武田氏系2 (B)特別賜姓族系
注 越後域は越後を中心に日本海側に広域で判定困難な(A)(B)複合が多く存在する。
・・系1、2の表示は・・系の氏の複数氏を意味する。
室町期末期と明治初期の第3氏系の家紋群は除く。
次ぎに祖先神の親神の皇祖神の遍歴に付いて改めて論じる事にします。
「祖先神-神明社」に至るまでの基の皇祖神の経緯などに付いて論じて基礎知識を拡大させたいと思います。
「皇祖神」は90年-90編座の大変な遍歴と経緯を持っていて、その為に色々な仕来りと掟が生まれています。それは同時に「祖先神-神明社」の存在意義にも左右しているのです。
「大化期までの鎮座地の遍歴」
1 「皇大神宮」は理想的な場所を求めて各地に移動します。この間2人の姫皇女に依って神霊を祭祀されました。
最初は「自然神」(「鬼道」)の為に皇居内に祭祀されていましたが、崇神天皇が畏怖し遍歴させ続いて垂仁天皇がこれを引き継ぎます。
この2代の天皇の姫皇女が斎王として祭祀して現在地に至ります。
2 この伊勢市の豊川に定まる前は最初の鎮座地は大和の国「笠縫巴」33年間です。
ここから鎮座地を86又は87の地に遷座しています。
国にして13国、年数にして90年の遍歴をしています。
現在も殆どの関連した神社は残っていますが、記録だけのものが5ケ所と成っています。
3「豊受大神宮」の鎮座地は丹波国3-伊勢国1として現在地に鎮座します。
4「皇大神宮」は次ぎの遷座地を遍歴した。
大和8-丹波4-大和4-紀国2-吉備6-紀国2-大和7-伊賀10-近江14-美濃3-尾張5-伊勢5-安野国(伊勢安野郡)1-伊勢19-現在地1
地域別に観てみると次ぎの様に成ります。
大和域 19
近江滋賀域 18
美濃尾張域 8
伊勢域 37
紀伊域 4
瀬戸内域 6
これから観ると、伊勢が特別に多く遷座地と成っています。然し、全体の年数90年間と云う年数から観て大和が全体の3割以上を占めています。
恐らくは、この事は当初から朝廷のある大和域にしたいと考えてはいたが、当時は未だ大和域は盆地で現在の「猿沢の池」が4世紀前半には大湖の中央付近であって盆地の縁の地形にあったのですが、後に次第に水が退き隆起して現在の様な完全盆地と成ったのです。
この事から「水利事情」や「地形状」から鎮座地としては問題があると悩んでいた事が判ります。
そこで、飛鳥を中心にして西域の寒冷地の「近江滋賀域」と、東域の中間平地の「伊勢域」と、南域の温暖な「紀伊域」が考えられたと観られます。
結局は東域の中間平地の「伊勢域」を選定した事をこの遍歴が物語っています。
この選定の悩みを示す事として「吉備の瀬戸内域の遷座」であります。ここにはある歴史的な大きな経緯があるのです。
飛鳥を中心として東西南北とは別の地域で「吉備」を選んだのは、「吉備」の当時の国域は瀬戸内全体を指し、吉備朝臣氏(下道氏 吉備真備)は「関西域の勢力」と対峙する位に勢力を張っていたのです。
それがこの遷座の現われなのです。
当時、藤原氏(仲麻呂 恵美押勝)との争いを起していましたが、矢張り地理的な原因で選定されなかったのではないかと考えられます。
ただ、この吉備は計画上の選定だけではないのです。現実に他の神宮と同じく建設して神宮として祭祀されているのです。
つまり、上記の「地理的要素」だけではなく「民の信仰」そのものに「歴史的な変化」があったのではないかと考えられます。
実はこの域は「出雲大社」の強い影響を受けていて、その為に「弥生信仰」の象徴の「銅鐸」が多く発掘される域でもあります。
この事から吉備域はこの旧来からの全ての「民の信仰の対象」であった「弥生信仰」が特に強かった地域でもありますが、其処に遍座していると云う事なのです。何かの特別な理由があった筈です。
当時、「邪馬台国の卑弥呼」の「占術」-「占道」-「鬼道」が大きく政治に影響を与え始め、「宗教王朝の出雲国」が主導する「弥生信仰」が低下していた時期でもありました。
その現れとして、それまでは「弥生信仰の象徴」の「銅鐸」が、丁度、この時期のものとして飛鳥地区で何と多く限定して破壊されていて、まとめて捨てられた状態で発見されているのです。
これは”「弥生信仰」に何かあった事”を意味します。その発掘の遺跡からこの時期のものとして多く発見されているのです。
この事は「神具の銅鐸」が飛鳥のみならず「廃却される現象」が関西近辺でも起っていた事を物語ります。
これは宗教的には大変異常な事です。普通ではありません。
実はこの「出雲大社」の御告げによる「弥生信仰」の「神具の銅鐸」が、大変数多く全て細かく破壊されて捨てられていた事に真の問題があり、特に更には歴史学的に珍しく「破壊」そのものに問題があるのです。これを紐解く事が歴史を解明できるのです。それも3世紀頃から5世紀頃の歴史をです。
「銅鐸の破壊のメカニズム」
そもそも、この青銅の銅鐸は鋳物で出来ています。この青銅の銅鐸を「細かく破壊する事」は青銅の金属的な粘りのある特性から無理であり出来ないのです。
科学が進んだ現在に於いてもある「冶金的な処理」を施さなくては絶対に出来ないのです。
但し、それを解決出来る方法がただ一つあるのです。
それは青銅を一度溶融点より下の7割程度以上の温度に先ずは過熱して、それを6割程度の温度に戻しある温度域で、ある一定の時間を保ち、それからある程度の速さで冷却をし、常温で一定時間保つと云う「熱処理」です。
この様な「熱処理」をしないと銅鐸や青銅品は「細かく破壊する事」は絶対に出来ないのです。
つまり、青銅の粘性のある性質を逆の脆い性質に変化させないと出来ないと云う事なのです。
遺跡から出てきた銅鐸の破壊された破面を見てみると道具を使って破壊されていないのです。何かで叩いて細かく破壊した「急進破面」と云う破面なのです。脆くなければ絶対に出ない破面です。
つまり、金属的に調べると間違い無く上記の熱処理を施しているのです。
現在でもこの熱処理は金属の特性を色々変化させるのに使用されています。
普通はこの熱処理は他の物質を粘りのある均一な特徴を出すのに使われるのですが、粘りのある青銅だけは逆に成るのです。これを「焼準 ならし」と云います。
3世紀頃にはこの技術が在った事を示すもので、それはそれで大変な発見なのですが、青銅の銅鐸をこの熱処理で破壊していた事にも大変な意味を持っているのです。
この進んだ冶金技術が飛鳥に合った事を意味します。これも「魏志倭人伝」に出てくる”100枚を送った”とする記述に就いても「三角縁神獣鏡」の「鋳造技術」が飛鳥に有った事にも成ります。
つまり”魏国から送られた”との記述は、日本で製造して゜総称の邪馬台国」に送った事に成ります。
魏国ではこの種の鏡の使用の習慣文化は無い事と、鋳造した場所が発見されていない事からも関西域での鋳造と成ります。
全国(関東域まで)からこの「三角縁神獣鏡」が発見されている事から、この100枚が関東域までの「鬼道信仰」で繋がる「緩い政治連合体」のあった事の印であり、魏国から政治連合の全国の国々に対して ”「魏国との国交」があった事を知らしめる様に”との記述がある事からも、緩やかな北九州域から関東域までの「緩やかな政治連合体」の総称とする「邪馬台国」の女王は指示通りに配った事を意味します。
そうすると、果たして、この「三角縁神獣鏡」にせよこの「銅鐸破壊」にせよ”何処からこの進んだ冶金技術を導入したのか”と云う疑問に到達します。
この3世紀の時期は北九州の朝鮮半島に近い博多付近に集中して進んだ冶金技術はあった事が判っていますので、ここから導入した事は間違いありません。
恐らくは多くの関西域の商人や職人がこの博多付近に「買い付けや技術習得の人々」は往来した事は間違いない事に成ります。
博多付近と朝鮮半島の先端には日本人の貿易商の「倭人」が常駐して住む任那国があり、この当時の先端技術が彼等に依ってもたらされた事は判っていますので、「緩やかな北九州域-関西域政治連合体」の充分な条件は揃っていますので、その大決断を「卑弥呼」は全国的な300年周期目の「大飢饉の解決」を目論んで「鬼道占術」で実行した事が充分に考えられます。
恐らくは、「女王」であった事がこの決断に踏み切らせたと考えます。その卑弥呼の前は「倭国大乱」と記述が「魏志倭人伝」にありますから、この事から「飢饉大乱」を解決する事からも論理的な「鬼道信仰」の普及で解決する事も込めて決断したと考えられます。
「銅鐸破壊から読み取れる経緯」と「冶金的技術から読み取れる経緯」から「邪馬台国の全体像」がはっきりとして来ます。
(特記 そのはっきりとした中からその真髄を捉えたこの経緯を踏まえて、その「自然神」-「鬼道信仰」が基盤と成って引き継いだ「皇祖神」は、90年-90ヶ所の遍歴を繰り返した後に、6-7世紀の大化期前後頃には「皇祖神-祖先神-神明社」の青木氏による推進と成って始まったと考えられるのです。
他氏には決してない「2つの青木氏」だけに取って「皇祖神-祖先神-神明社」の氏である限りこの歴史的経緯は無関係ではないのです。見逃す事の出来ない経緯なのです。)
この様な経緯から、ですから、この事は明らかに ”「恣意的に故意的」に「ある目的」を以って「事前」に「計画」して「熱処理」をして「破壊」した” と云う事に成ります。
一時的な感情からはこの面倒な熱処理はしない筈です。それも誰でも出来ると云う熱処理ではありません。
それも大量ですから何か「特定の目的」を持った「集団」が「計画的」に行った事を意味します。
それも「弥生信仰の最たる神具」です。
本来ならば、古来の信仰性からすると、宗教的には”罰が当る”として決して行う事の絶対に無い行為です。
然し、大量に破壊されて出雲ではない飛鳥の一箇所に廃棄されていたのです。この「場所」にも問題があって青銅の銅鐸が大量に破壊されている事も問題なのです。
つまり、この「破壊行為」は何を意味するかと云うと、”「飛鳥と云う場所」で「弥生信仰を否定した事」”を意味します。
では、これ程の専門的な熱処理をすると云う事は「一時的な感情的な行為」ではない事が判ります。とすると、この”「恣意的に故意的」に、何故、「弥生信仰」を否定したのでしょうか”大いなる疑問と成ります。
それも「一個人の行為」では無く、量的な「神具の破壊」と成ると”飛鳥の最高権力者からの命令”と云う事に成ります。ではそれは ”飛鳥の最高権力者に何かがあった事”に成ります。
実はそれには「弥生信仰」を否定される事件がこの次期に起っていたのです。
その「事件」と云うか「国難」と云うかこの丁度、同時期に起っているのです。
そして、その一方では北九州域では、その事件、国難を救う「別の宗教」が起こり、その宗教が多くのこの国難を救っているのです。それも国レベルです。対照的な宗教異変です。
その救っている宗教は実に論理的な根拠のある宗教なのであり、日本の宗教の根幹に成った宗教です。
現在もこの「宗教の仕来り」を「国の祭祀」(国事行為)の根幹として皇室に於いて定期的に維持されています。
それを次ぎに詳しく論じますが、それが本論の根幹なのです。
つまり、「皇祖神-祖先神-神明社」の根幹部なのです。(下記の「重要な特記」を参照)
大和の国の近隣の諸国では当初は「弥生信仰」で有ったのですが、3世紀後半から突然に北九州域に於いて「占術」-「占道」-「鬼道」が広がり、逆に「弥生信仰」は急激に衰退して行きます。
それを示す証拠がこの銅鐸の破壊と廃却の遺跡発見なのです。
これの大きな原因は、根本から検証すると、次ぎの様に成ります。
「300年大周期の気候変動」
この時期(300年頃)は歴史的に観る(気象学的に観る)と、「300年大周期の気候変動」と云うものがありその大気候変動期は第3期に分けられる特長を持っています。この時平準でない気候の為に「大飢饉」が起こるとされています。それによる「第1期の100年目周期の大飢饉」が丁度この次期に重なり続いていた時期に当ります。
世界的に「長期間の飢饉」が起こり農業や生産物に大影響を与えていたのです。
(詳細l理論は次段で論じる)
その為に全国的に祈祷などをするにも拘らず既に全国的に広まっていた「弥生信仰」の「占術の御告げ」が当らない事等の不満が民衆に起こりました。
この「弥生信仰」に向けられた「不満の政治的な行動」がこの「銅鐸の破壊」というセンセーショナルな行動と成って現れたのです。「飛鳥の連合王朝」の中に起ったのです。
ところが、一方では北九州では(邪馬台国)、「卑弥呼」が始めた「自然神」の中でも「自然現象」を中心とした「占術や占道の御告げ」が良く当るとの事で、北九州域から「鬼道信仰」なるものが広まっていたのです。
この出雲国の「弥生信仰」と邪馬台国の「鬼道信仰」との大きなギャップが「一つの流れ」と成って爆発的に起ったのです。
つまりは、「自然現象」の「占術や占道の御告げ」とこの「周期的気候変動期」とが一致した事が「鬼道信仰」が爆発的に広まった原因事に成ります。逆に「弥生信仰」は衰退した事を意味します。
そもそも「卑弥呼」が王と成ったのもこの「鬼道信仰」が基であり、国の乱れも「鬼道」の「占術の御告げ」を中心に置いた処 ”良く当り解決する”と言う現象が起こったのです。
その結果、周囲の互いに争って食料を確保しようとしていた北九州の豪族達は緩い「政治連合体」を造り、この良く当る「自然神」を中心として「鬼道占術」を採用した「連合体の政治組織」を北九州域で造り始めたのです。
「鬼道信仰」を政治の中心に置く事で飢饉の中での「食料の調達」も「政治的な勢力争い」も「占術や占道の御告げ」で解決する事が出来るとして瞬く間に広がりを示したのです。
結局、この「自然現象」を読み取る「自然神」から来る「鬼道信仰」の「占術や占道の御告げ」を中心と成った事からその「占い師の卑弥呼」を「政治の連合体の王」と定めたのです。
その事が更により一層に九州域の緩い「政治連合体」にはまとまりを示し「食料の調達」も「政治的な勢力争い」も円滑に解決へと進む様に成ったのです。
その流れは、同じ飢饉から逃れようとして「鬼道占術」に縋り次第に関西域にも飛び火の様に広がり、そこから飛鳥へと移動してきました。
(恐らく、博多には中国を経由して朝鮮半島から入る鉄や青銅や食料品や生活必需品の調達の為に全国各地から商人が買い付けに来ていた。この事からその「鬼道信仰」の噂が広まったと考えられる。関西域との緩やかな政治連合体もこれらの商人の働きがあったと考えられる。)
(「鬼道信仰」の詳細な論理的概論は次段で論じる)
重要な特記
この時の「自然神に対する祭祀」が「朝廷の基本行事」として遺されたものなのです。
この「祭祀の思考原理」が大化期の「皇祖神-伊勢大社」と成り、その基と成った「食料の調達」も「政治的な勢力争い」の祭祀のそれをも具現化したのが「物造りの神と生活の神」を根幹とする「祖先神-神明社-豊受大明神」であり、「政治的な争い」の祭祀が「国家鎮魂の八幡社」として祭祀されたのです。
この「根幹の祭祀」を各地に広げる為にも大化期に「皇祖神」の子神の「祖先神」を創造し、それに伴なう祭祀社を建立する政治的な事業を展開したのです。それを引き継ぐ「氏」として朝臣族の皇族賜姓族を基とし「青木氏」を継承させるに相応しく新しい「融合氏」として伊勢に発祥させたのです。
この任務を施基皇子に任じたのです。この時、この青木氏に祭祀に相応しい「3つの発祥源」としての任務も与えたのです。
これを補足する事として近江の佐々木氏が特別に同時期に賜姓したのです。
そして嵯峨期にはこの「2つの祭祀族氏」にも「五穀豊穣と国家鎮魂」と「物造りの神と生活の神」を祭祀し「拡大する神明社」を継承するに等しい力が不足し、これに変わる特別の賜姓族として皇族外遠戚の藤原秀郷の第3子の千国にこの任務を特別に与えて青木氏を発祥させたのです。
これが前段で論じた「神明社と八幡社」はそもそもその根幹(自然神-鬼道信仰)はここにあったのです。
然し、その一つの「八幡社」はその存在意義を「河内源氏と未勘氏族」に依って「武神」にして異にしてしまったのです。
そして、紀元300年代には、この卑弥呼の「占術や占道の御告げ」を基とし「自然の変化」を読み取る事に長けていた「鬼道信仰の流れ」が全国的(関東域にも緩やかな政治連合体)には派生して行った時代でもあったのです。
恐らくは、この関東にまで派生した「政治連合体」は「大飢饉」の解決が主な目的と理由であったと考えられ、緩やかなものであって、後に飛鳥期から奈良期に掛けて「ヤマト王権-ヤマト政権-大和政権」とに掛けて関東域までの「緩やかな政治連合体」は次第に踏破され征討されて大和政権化して行くのです。
その後、「卑弥呼」の死により「邪馬台国」が崩壊しこれが基で飛鳥を中心とする「鬼道占術の連合体」が勢いを増し、これが「出雲信仰・弥生信仰・出雲国」を中心とする連合体の衰退に繋がったのです。
(特記 ここで、「卑弥呼の鬼道信仰」は出雲域を越えて関西域まで緩やかな「政治連合体の拡大」が起り、それに依って「卑弥呼」は飛鳥に呼び寄せられてか「自然現象」の「占術や占道の御告げ」を中心として政治連合体と成ったとする信頼できる学説があるのです。
北九州の政治連合体と関西の政治連合体との緩やかな広域的政治連合が起ったと考えられます。
それには北九州域で起った「大飢饉の解決」と青銅文化から中国を経由して北朝鮮域(3韓)からもたらされる「鉄文化の発展」の供与が主目標として関西域の政治連合体が吸収すると云う事に成ったのです。
この時この「北九州域-関西域の緩やかな政治連合体」を「邪馬台国」と総称したのではないかと考えられます。
北九州域の「吉野が里遺跡」(山門)と関西域の「マキ向遺跡」(大和)から「魏国の魏志倭人伝」にはこの2つのヤマトを「邪馬台国」と呼称したのではないかと考えられます。
この関西域には、”「鬼道信仰」が「緩やかな政治連合体」の誼からどのような形で伝達されたのか”が問題ですし、当然に「卑弥呼」はどちらの域にいたのかの疑問も出て来ます。
「魏志倭人伝」に記されている「国王の印鑑」は日本では北九州志賀島で見付かっているのですが、中国の魏の国からの国交の使者が到着するとした場合、先ず北九州の山門の吉野が里遺跡の政庁に立ちより、続いて関西の大和のマキ向遺跡の方に移動したのではないかと考えられます。)
(特記 王印の印鑑は死去すると送られたものであれば返却する古式習慣がある。この倭王印の印鑑は竹島や志賀島等幾つかの特定の地域 即ち発見は4箇所で見付かっている為にこれは複製品と成るが、古来には複製品の仕来りがあった。つまり、北九州と関西域の「緩やかな政治連合体」(緩やかな政治連合体である為に各主要国が保持していた事を意味する)にこの印鑑を両方の側が所持していた事を物語る。つまり構成国であった竹島の任那国、邪馬台国や奴国等が所持 故にこの連合国家の総称として「邪馬台国」を物語る要素と成る。)
(特記 「魏志倭人伝」には「83ヶ所の記載」があり、北九州の地名の「壱岐国」「奴国」等の9つほどの国名と移動に所要した陸と水利の距離の表現の記載があり、この記載からこの北九州域と関西域の緩やかな政治連合体を移動した場合にはこの距離間が一致します。又、水利とは博多付近から吉野が里までは河に船の水路を開き両岸から人が引っ張る方式を採っていた事が判っていますから、この水利の距離は瀬戸内海を通った水路の距離と合わせるとほぼ大和までの距離間に成ります。陸は吉野が里から瀬戸内海に面した大分付近間での陸路の距離と摂津から大和路までの陸路の距離を合算するとほぼ一致します。)
(特記 陸路の記述1月は瀬戸内沿岸で陸行すると関西域間、水路は上記の牽き舟方法で邪馬台国には10日と、瀬戸内海路を関西域までの20日の二つが記載されている。この記述から北九州域 8国 関西-関東域までの凡そ22国の計30国の緩やかな政治連合だった事が考えられる。
投馬国だけが不明だが関西域の位置にある筈で、”出雲を含まない中国地方の当時の広域の吉備国を云う”と考えると、出発点が問題には成るが、最短距離で「関西域の政治連合」の入り口部吉備国に当り、最長距離で大和盆地の”ヤマト国”に成る。
「投」の呼称は馬にヤリで投げる姿勢から”ヤ”と呼称していた事が考えられ、「馬」は”マ”又は”マト”であるので関西域の政治連合の「ヤマトコク」の呼称に成ったと考える。但し、「邪馬台国」以外に緩やかな政治連合国家の中に「遠絶地」として書かれた「投馬国」を含む22国の中に「邪馬国」と云う国がある事に注意。 ”ハリマ・播磨・兵庫”を含む後の吉備国域の関西域の緩やかな政治連合体の入り口を総称として「投馬国」か。30国中に「馬」の入れた国は4国 「奴」の入れた国は8国あるのは「緩やかな政治連合体」の証しである。)
上記の特記事項も考慮に入れると、「自然神-鬼道信仰」の根幹を継承している「青木氏-皇祖神-神明社-神明社」の立場から敢えて考証すると次ぎの様に一応検証しています。、
根幹部の「鬼道信仰-邪馬台国」の検証問題は、故に上記の「銅鐸事件」や後の「皇祖神の遍座地」や奈良期までの「歴史的経緯」に附合一致する事に成ります。
後の問題は「卑弥呼の扱い」と「鬼道信仰の習得方法」と成ります。
「鬼道信仰の問題」は大和の習得はこの「銅鐸の破壊」で証明されますので、後は卑弥呼の問題です。
「卑弥呼」の死の前に既に飛鳥に呼び寄せられたか(イ)、「政治連合の形」で飛鳥にも出長していたか(ロ)、北九州に人員を派遣して「鬼道占術」を卑弥呼に師事したのか(ハ)のところは未だ解明されていませんが、この説は最近この銅鐸破壊の遺跡発見から俄に有力説として持ち上がり、飛鳥の邪馬台国の卑弥呼説(大和国=邪馬台国)と成っているのです。
(「政治連合体」の全国的な歴史的経緯は確認されている。)
この大飢饉の中での「鬼道信仰」と「政治連合体」から観て「卑弥呼移動説」(イ)が可能性が高いと観られます。ただ、(ハ)の説も北九州説と飛鳥説の疑問をバランスよく説明が就き易く、その為に捨てがたいのです。(本論の「祖先神-神明社」の論処からは(ハ)説に近いと考えています。
その証拠と云うか説明の根拠と出来る事として、更に史実として次ぎの事があるのです。
それは先ず一つは大化期より朝廷には「藤原氏の斎蔵」の配下にこの「祭祀と占術」を司る官僚として行う氏があるのです。それは阿倍氏です。阿倍氏は前段でも論じた様に阿多倍の子孫です。
つまり、後漢の「鬼道」を引き継いでいる職能集団の首魁であります。
その職能集団は「阿部」で「鬼神の鬼道」を行う部民の集団で、「阿」の語意は「鬼道の鬼神占術」の基神を意味し、インドの鬼神の「阿修羅」の「阿」でもあります。
更にはこの分派の「鬼道の占術」を行う職能集団の「卜部」(うらべ)があり古代鬼神信仰の占師です。
後に「阿部氏」や「卜部氏」の「姓氏」発祥しています。
前段で論じた陸奥の安倍氏は阿倍氏の末裔でこれ等の首魁です。前段で論じた阿倍氏や安倍氏はこの立場の背景があったのです。この様な立場や背景が大きく彼の幾つもの陸奥事件に影響していたのです。
そしてこの様に、その子孫は平安朝期の官僚の「鬼道師」の有名な「安陪晴明の陰陽師」です。
「鬼神」を占術の中心に据えたものですが、奈良期頃から官僚として引き継がれている「自然神-鬼道信仰」の国事行事の極めて古い職能集団です。問題の時期の「ヤマト王権」期頃からあったものと考えられます。
この様に邪馬台国の卑弥呼の「鬼道信仰」は「朝廷の祭祀」の中の一つの「占術の職務」としてとして引き継がれているのです。そして、それを引き継ぐその「皇祖神の祭祀」の根幹から「゜祖先神の考え方」が生まれ、且つその事からその一部が上記上段で論じた「神明社の祭祀行事」と成ったのです。
(特記 卑弥呼の死後は”弟が王となったが納まらず一族の宗女の壱与が立ち納まる”とある事から(イ)説にも疑問があり、この一節からも(ハ)説で納まりが就く)
この事を配慮すると(ハ)説が最も現実味を帯びて信頼度を増します。
それまでの「弥生信仰」からの決別と伴に、「北九州域-関西域の政治連合体」が成立して「卑弥呼」の移動に伴ない「弥生信仰」からのはっきりとした決別の意味を込めて ”銅鐸破壊の行為に出た”と考えられているのです。
この事により飢饉から免れた事を期に、飛鳥に「卑弥呼の常駐」が起ったと考えられます。
何か「卑弥呼の常駐」か、或いは「北九州域と関西域の広域政治連合体」を祈念しての儀式であったのでは無いかと考えられます。兎も角も「弥生信仰」から「鬼道信仰」への遍歴を祝う国家行事の大儀式行為であった事は間違いないと考えられます。
(特記 「緩やかな政治連合体」を祝う国家行事であるとして、 「関西域の緩やかな政治連合体」の祝事行為だけか、「九州域の緩やかな政治連合体」との総称「邪馬台国」の「緩やかな政治連合体」での国家の祝事行為であったかは難しいが、「銅鐸の破壊行為事件」から見て後者と判断出来る。そうすると九州域にもその祝事行為に当る何かがあった筈と観ているが未だ不明。)
ところで、この飢饉は次第に時代と共に気候変動も収束すると共に一時収まりより一層に「鬼道信仰」の流れは爆発的に益々高まりを示します。
ところが、この100年後(第2期の200年目 第2期 紀元500年頃)には、再び気候変動期が再来しましたが、この事は、この頃にむしろ”吉備に遷座した”と云うのは、”出雲信仰・弥生信仰・出雲国衆の勢力衰退”をより狙い、更には連合体に参加した「北九州域-関西域」の中間域から衰退した出雲域の中国域を安定化させようとする政治的意味合いがあったとも考えられています。
この事は歴史的な経緯としては確認が取れています。(出雲の国の無戦による崩壊劇)
この拡がる「飛鳥連合体」を配慮しながら鎮座する位置を見据えていたとも考えられます。
最終的に勢力圏の関西・中部域の中でその中間の位置にあった「伊勢域」が大化期に良いと決められましたが、その後に於いてでも「伊勢域」の中でも伊勢松阪を半径に飛鳥までの円域の領域を更に「適地」を選んで小遍歴を繰り返したのです。
(この時には中部域は飛鳥連合体と政治連合を組む事が成立していた。)
如何に悩んで神が鎮座するべき位置を、上記する気候変動の飢饉の繰り返しで弱体化した「政治的な環境」(A)や「自然や地理の環境」の条件(B)のみならず「自然神の占道での御告げ」(C)等のこの「3つの状況」を合わせて考えられていたかが判ります。
筆者は飢饉に依って混乱が続く「政治的な環境」(A)に重点が置かれ、中でも鎮座させ建立する事で「国体の安寧と安定化」を図ったのではないかと観ていますが、表向きは「民の心の拠り所」として「鬼道信仰」の「宗教的布教」の目的(D)も強かったと考えられるのです。
参考 詳細理論
地球の気候変動の周期理論
1 紀元0年頃が「300年の大周期の第1期」の気候大変動期で紀元頃の大飢饉
2 邪馬台国の卑弥呼期が「300年の大周期の第2期」の気候変動期で300年目頃の大飢饉
3 推古天皇期が「300年目の大周期の第3期」の気候変動期で大飢饉の600年目頃の大飢饉。
4 この300年大周期に対して100年小周期の気候変動期が繰り返し訪れる。
5 大化期頃(645年頃)は後50年で次ぎの100年周期の第1期気候変動期に入り飢饉が起こる。
6 つまり700年頃の平安遷都期に第2期目の小気候変動期が訪れ大飢饉や洪水などが繰り返された。
7 その邪馬台国の頃(300年頃)が第1期で300年目の大周期の気候変動期で大飢饉期があった。
8 この周期で必ず自然災害の飢饉が必ず起っている。
9 この周期では大気候変動期の周期では、900年-1200年-1500年-1800年-2100年の大周期が訪れる計算に成る。
A 丁度2010年はその100年目の小周期帯に入っている時期である。
B この気候変動は地球の回転運動と第一成層圏までの「空気層のズレ」が起す変動であって、当然に地C 球内の地殻変動にもタイムラグを起こしながら影響を与えるので、地震等の災害が強く起る。
D 地殻変動は更には地球の磁場の変動を誘発し更に相乗的に気候変動を引き起こす要因と成る。
E この変動期間は一定では無く、多少のバイアス変化を起すとされ確定は出来ないが±25-30年程度と観られ後は収束に向かうと考えられている。
F この「空気層のズレ」は「単純な空気層のズレ」と共に「地場の変動」に大きく左右されているのではないかと考えられている。
G この「ズレ」の「自然修正の変動」が成す「気候変動周期」と成って現れると考えられているのです。
因みに現在で云うと、2000年の100年の最後の周期とすると、1975年から起り始めて2000年頃にピークを向かえ2025年頃に向かって収束に向かい2075年まで徐々にある小さい巾で安定期に向かい、再び2075年頃から変動巾を大きくして荒れ始め2100年頃に大変動を起し始めると云うサイクルを繰り返すのです。
尚、この「変動幅の上下」の原因は、「地球の重量」の増加で「地球の公転」が多少の「楕円運動化」を起こしており、このために回転に必要とする地軸が450年程度の間に0.5度傾きが起っていて、これが更にこの「気候変動周期」と「気候変動幅」を大きくしているのではないかと考えられているのです。
そして、この気候変動のサイクルは、この世の全ての物質と全ての自然が織り成す変化の特性には、必ず其の特性変化を物理的に観ると、「SパターンとNパターン」を示します。
例外はこのパターン外には発見されていないのです。
Sパターンは、丁度、電波などの振動波などの様に半円状に近い形で上下に起す形状で均一的な変動特性を起す様な振動で、お椀を上下にひっくり返した特性変化です。
Nパターンは、2等辺三角形を長辺を下にして寝かした形が上下に起す形状で、不均一な変動特性を起す振動で、この気候変動がNパターンであります。
日本の歴史は上記する気象学的特性と併せて考える事が必要絶対条件で、其の当時の遍歴や事変の大きな原因の一つに成っているのです。それは日本の風土全体が政治や経済に大きく影響を与える体質であるからです。
この鎮座地を86又は87の地に遷座して、国にして13国、年数にして90年の遍歴は気象学的特性から逃れる事は出来ないのです。
「自然神」を崇める「鬼道信仰」は尚の事であり、この特長を何らかの「自然の異変」でその周期的な特徴を官能的で感応的に鋭く読み取っていたのです。
真に卑弥呼はこの特技を持っていた事を意味します。
この特技は女性の性の「直感力」に起因しますが、「自然神の鬼道信仰」はあながち無根拠な占術ではなく科学的(脳医学的)な裏づけがあるのです。
問題はその確率の問題であって下記に示す論理的な裏づけが取れるのです。
「論理的な裏付」
別の論文でも論じた事ですが、現在人は脳が大きくなった為に「動物的な本能」である「予知直感力」の部位は頭の奥深くほぼ中央に押しやられて、額中央にあった「複眼機能」が退化せずに持ち得ていた証拠であります。
「卑弥呼の鬼道」には周囲に特定の果物と野菜類が並べられていた事が判っていて、特長なのは「野生の桃」の種が何千何万と遺跡から発掘されているのです。
恐らくはこの「野生の桃」から発する強く甘い香りの成分の「アルコール系芳香性」の刺激成分が脳を集中させて「複眼」を再起させ休んでいる右脳を使いベータ波を出して「占術のお告げ」を出す能力を保持していたのではないかと考えられます。
(現在の中国の山岳民族の田舎でこの「鬼道信仰」が未だ残っていて桃が使われているし、この山奥深い山岳民族にはまだ「複眼機能」を有する女性が多く、道教に至る前の「鬼道信仰」は村人から信じられていると云う研究が発表されている。「複眼機能」を使う環境がいまだ多く遺されている所以です。
(次ぎの-19の根幹概論を参照)
故に気候変動を素早く察知してそれの基に「殖産の生産物」のみならず、それに併せての「政治的な行動」も才知を働かせて考え併せて「お告げの伝達」をしていたと考えられます。
300年の大気候変動期にこの卑弥呼の自然神を基にした鬼道による占術に人が集まる根拠が納得できるものです。
そしてこの「流れ」はこの大化期に定められるこの「皇祖神」の90年と90所の諸遷座と共に「神明社」の建立が同時期、同場所にほぼ起っているのです。
9世紀始め(100年目の小周期帯の気候変動期)の征夷大将軍の阪上田村麻呂の陸奥征圧(806)でも判る様に、その移動経路の「征圧地」には伊勢青木氏の遠戚の桓武天皇の命により「皇祖神」ではなく次々と「祖先神」の「神明社」(最終806年)を建立していっている事(神明社は分布は下記参照)
「皇祖神」の遷座域と成った関西・中部域の内の主要地の19地域(上記)には第4世皇子の守護王を置き其処に神明社を建立していっている事等です。
この「神明社の建立根拠」が、丁度100年目の気候変動の小周期に入っていたのであって、桓武天皇は平安都への遷都事情も然ることながら、「皇祖神」を各地に分霊建立する事のみならず「神明社建立」を征討地に建立を命じているのもこの事情の基にあったのです。
特にこの征討地の建立は東北北陸6県に主に集中しているのです。(神明社の付録データー参照)
恐らくは荒れて乱れた征討地の戦後処置として民衆に対して「生活の神」としての「神明社」を建立し安定を図ろうとした観られ、この背景根拠はこの6県は主に日本の穀倉地帯でもあった事から上記の気候変動期に合致していた事もあった為に積極的に政策として実行したと考えられるのです。
上記の複眼機能や気候変動の論理的な根拠に就いて-19では更にその議論を深く進めます。
青木氏と守護神(神明社)-19に続く。
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青木氏と守護神(神明社)-17
[No.285] Re:青木氏と守護神(神明社)-17
投稿者:福管理人 投稿日:2012/04/10(Tue) 15:34:03
さて、そもそも日本には次ぎの守護神があります。
日本に於ける守護神はその「7つの融合民族」の構成に由来します。
この「7つの融合民族」(◆日本民族の構成と経緯 - 01/21-15:25 [No.117])に付いては研究室のレポートでも詳しく論じていますし本論でも述べています。詳しくはそれを参照して頂くとしてここでは読んで頂いたと云う事で進めます。
この7つの夫々の「民族性」が下記の0~4を造り上げているのですが、この「民族性」が社会の中で「身分や家柄」を発生させて、加えてその「身分や家柄」から来る「氏の構成」に分類されているのです。
この「氏」(後の「姓氏」も含む)のその立場から来る「生き様」に合わした考え方を生み出し、そこに「守護神の存在」を想像したのです。勿論、これ等は0の「自然神」を根幹としているのですが、この「自然神」に対するその立場からの「多種多様な考え方」が生み出されたのです。
言い換えれば、この時代に於いても「氏の構成」から来る「氏の多様性」と共に「生き様の考え方」(「思考原理」とする)もこれだけもあった事を物語るものです。突き詰めれば、「現在の人」の「生き様の考え方」とあまり違っていない気がします。ただ違いはその「生き様」の中に占める「守護神」の割合です。
前段で論じた様に政治的な事までも「神に占う」と云う習慣であり、次第に時代が進むに連れて低下したとは云え生活の中に溶け込んでいた事は間違いは無く、その氏の行動に大きく左右していた事は間違いはないのです。
丁度、前段でも論じた様に昭和と平成の時代に「氏の構成」から来る「身分や家柄」(士農工商)の縛りが明治維新に解けて150年経ってやっと人々の「自由な交配」が今起っているのです。
その意味では、未だ”この「5つの守護神の考え方」が解けた”と考えられる時期でもあり、そう古い事でもないのです。つまり、この今、新しい「生き様の考え方の自由化」が起っている時期とも云えるのです。
この「考え方の自由化」の時期から約600年以前に遡った事を「祖先神の神明社」として論じているのですが、2000年の日本の歴史から考えると約600年以前から約1600年以前までの1000年の間として、この「瀬戸内」の時代(1000年頃)はその「生き様の考え方」の真っ只中に有った事が云えます。
恐らくは、その「生き様の考え方」の違いが社会の中に「大渦」として渦巻いていた考えられます。
その一つとして、各地の大神社がこの時期に系列の神社を各地に挙って「建立競争」をしているのです。この時期では「熊野神社」の「熊野蟻の詣」(本論付録末尾にデータ添付)と呼ばれた事でも有名で、「姓氏の発祥」とも重なって「自らの氏や姓氏の生き様の考え方の象徴」を荘園制に乗じた勢力拡大に伴なってその領域を各地に広げていった時期なのです。
現在ではその「生き様の考え方」は「個人の自由」として何の不思議も無く容認されていますが、この1000年の後半の「大渦」はその「生き様の考え方の是非」を巡っての争いと成っていたと考えられます。
言い換えれば、この時代の社会の中では、「5つ守護神の自由性」は無く、”どの「生き様の考え方」が「生残れるのかの戦い」”でもあったと考えられます。
従って、「累代の天皇」や「2つの青木氏」の苦闘は、「皇祖神」に繋がる「祖先神の神明社」の有り様として、「生残れるのかの戦い」の中での「祖先神の考え方の創建」であった事が云えます。
つまり、言い換えれば「祖先神の青木氏の考え方」で生残れる事が出来るのかの戦いであったのです。
その為にも、「3つの発祥源の青木氏」として何としても生き残り「祖先神の神明社の建立」を成し遂げなくては成らなかったのです。
油断すれば「祖先神-神明社」と云えどもその考え方として抹殺されていたとも考えられる程であったのです。発祥当初は問題は無かったとしても、この頃は皇族系・賜姓族系として限られた小さい氏の構成の中での考え方と成っていたのですのでありますから、多勢に無勢で多くは「3の氏神」と「4の鎮守神」の環境の中でです。埋没してしまって神明社を建立しても忘れ去られていた事に成っていた筈です。
前段でも論じた様に「祖先神-神明社」の生き残りは「3つの発祥源」の生き残りに成るのです。
その意味で、この「八幡社の問題」やこの「瀬戸内の問題」は根底にはこの「守護神の大渦」(ブラックボックス)に呑込まれる現象でもあったのです。
「神明族」としてはその意味でも「源氏の協力」は是非必要な時でもあったのです。然し、「河内源氏」は「八幡社」に走ってしまったのです。それだけに「2つの青木氏」の「祖先神-神明社の建立」に取っては大きな痛手でその立場は困難であった事が覗えます。
恐らくは、「氏家制度」の厳しい観衆の中では 源氏に対しては ”何にをやってんだ。皇族賜姓族でありながら”の批判が渦巻いていた筈です。一方「未勘氏族側の立場」からすると ”良くやった。 古い体質から脱却して大したものだ。 武家の鏡だ”と囁かれていた事でしょう。だから「武家の棟梁」の呼称が生まれたのですがこれには大きな代償を払った事に成ります。
この意味で、この「5つの守護神」に付いても前段で論じた来ましたが、改めてこの問題を大きく潜ませている「瀬戸内事件」を鮮明にする為に論じます。
ただこの事件に付いては上記の背景(守護神の大渦)が社会の中の根底に渦巻いていた事は特に留意して頂きたいのです。
人は「行動規範」の根底には、この”「生き様の考え方」が無意識の内に大きく左右しているものである”と云う事なのです。その一つの表れが今では無くなった「守護神」と云う事に出て来るのです。
現代人はこの感覚を無くしていますので、通説などを考察すると ”上辺の判断や理解” と成ってしまっていますが、当時の人々の思考の中には無くてはならない「人の芯」の様なもので在ったのです。
その「5つの守護神」の考え方の”「人の芯」のぶつかり合い”がこの「瀬戸内の事件」の背景にあるのです。
(守護神そのものの詳細は下記でも論じます。)
この「0から4の守護神の考え方」は「氏」を考える上で非常に大切な事で、決して思考の中に除外してはならないものなのです。現在では「氏」そのものを同一として論じられていますが、そもそも「氏の考え方の根幹」が異なるのです。
「祖先神の神明社」は”単なる「神明社」ではない””単なる神社の違いだけではない”と云う事なのです。
何度も云う様ですが「生き様の考え方」が異なると云う事なのです。そうなると、当然にそこには”民族の違いの軋轢や争い”が生まれのは必然です。
まして、ここにあたらしく発祥してきた「姓氏」が加わると、同じテーブル上で論じられた場合には、「氏家制度」の中で当事の歴史の出来事を正しく評価判断できなくなるのです。
「青木氏」は「皇祖神」に繋がる唯一の「祖先神の神明社」ですが、神社そのものを論じているのではなく「考え方」の歪を無くて正しく論じて「真の生き様」の掘り下げ遺そうとしているのです。
当然に、その時にはこの考え方に更には「八幡社」が関わってくるのですが、本段ではそれがどの様に関わて来るのかを掘り下げて行きます。
「姓氏と八幡社」と人の根底と成る思考の「5つの守護神」が絡んで来ると論じるのには大変です。
そこで先ずはその「守護神の違い」から論じる事にします。
「日本の守護神」
「守護神の種類 5神」は次ぎの通りです。
0「自然神」(しぜんしん) 山海・草木・湖沼・岩石等の自然物や雷・風雨・地震・火などの自然 現象に宿るものを神とし「否特定の神」
1「産土神」(うぶすながみ) その「人」の「生まれた土地の神」であり、一生来その「人」の「土神」とする「人(単独)の神」
2「祖先神(祖霊)」(そせんしん)「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、 自分の集合である一族一門の子孫の「守護神」であり「人と氏の重複性も持つ神」
3「氏神」(うじがみ) 「人の神」ではなく、「氏のみの一族一門の神」で、氏永代に守護する「氏(独善)の神」
4「鎮守神」(ちんじゅのかみ) 「現在住んでいる土地の守り神」であり、「土地・地域」を守る「土地・地域の神」であり、「人」は土地に吸収されるとした「土地・地域優先の神」
そもそも前段でも論じましたが、0の「自然神」は全ての共通する「守護神の根源」となる「神」で、全ての民の「思考の基準」と成るものです。
ただ、「後漢の民」の帰化人の末裔(阿多倍一族一門)には若干違和感がある筈です。しかし、その違和感もそもそも後漢の帰化人は「道教」を根源としているのですから、「産土神」であっても前段でも論じた様にその「道教の根源」も結局は「自然神」を根源としている事には違いは無い事に成ります。
この「5つの守護神」の中でも特に「産土神」がその考え方としては異質です。然し、この考え方が阿多倍一族一門によってすごい勢いで全国に伝播して行ったのです(前段で論じた 32/66国)。
(この時、職能集団の鞍造り部の首魁の司馬達等に依って仏教も同様に私伝されていたのです。)
中でも関西以西では彼等から「職能の享受」を受けていた民に取ってはこの「産土神の考え方」に当然に牽かれて行ったのです。また牽かれなければその職能の享受と豊かさを授かる事は不可能であった筈です。
それだけにこの「瀬戸内」の事を語る時この「産土神の考え方」を度外視出来ないのです。
その「産土神」の柵のあるところに「祖先神」は兎も角も「八幡社」で「源氏の自分の世界」を構築する事はかなり困難な環境下にあったのです。瀬戸内の事は、血縁で地元に根付いた「讃岐籐氏」であり、彼等の伝統である持ち前の柔軟さからこそ成し得た事であったのです。
まして、当初、清和源氏は「産土神」や「祖先神」ではない「海の神の住吉神社」に傾注していたのです。もとよりそもそも策謀を労しても難しい事であった筈なのです。
「産土神」
先ずは、その1の「産土神」は「瀬戸内」の問題でも「純友神社」に大きく関わって来る重要な要素なのです。依ってここでは先ずは「産土神」に付いて特に掘り下げて論じます。
上記の1の通り、”その人が生まれた「土地の神」を「その人の神」とし、同じ「氏」の者でも生まれた土地が異なれば「その人の神」は異なる”とするものです。
当時の社会は同じ族を成す者等が集まり集団で身を護る習性を持っていたのですから、人は確かに多くの者は集団で住む事に成りますから必然的に同じ神を守護神とする傾向が起こります。
しかし、これらの末裔が時間と共に広がり融合し枝葉化すると、当然にその生まれた「土地と環境」が異なって来ますから、「守護神」と云う意味ではこの場合はある程度の「自由性」を保持している事に成ります。
従って、親と子供が守護神が異なると云う事が起こるのも当然ですから、親や支配者や氏との守護神が異なり考え方が違うと云う事も起こる事に成ります。つまり、「自由性」と「個人性」を強く持つ守護神なのです。
つまり「その人(単独)の神」であって、「祖先神」の様に「氏の神」は「氏」に属する自分であるから当然に「自分の神」は「氏の神」とする「集団性を持つ守護神」では絶対性は無いのです。
依って「産土神」では「祖先神」の様な「拘束性」が無い事に成ります。
「氏の神」=「自分の神」と、「自分の神」≠「氏の神」の考え方の違いなのです。
前者は「氏の神」は「直接的な神」となり、後者は「氏の神」は「間接的な神」と成ります。
そうすると、後者は「自分」と「周囲の者」はある場所に於いて同じに成り、又そうで無い事が起こります。
それは「産土」(うぶすな 生まれた土地)ですから環境が変われば「周囲の者」は必ずしも同じとは成り切りません。
末裔の先祖は当初は「氏の神」=「自分の神」が成り得ていたとしても「人と場所の変化」は勿論の事として「時の変化」に依ってもこの関係は崩れる事に成ります。
「瀬戸内」で生まれたとすると家族・親戚は「同じ神」を信じる事に成りますが、家族構成の範囲である場合が殆どと成ると「氏の神」が「自分の神」と云う事には成り切りません。
前段で論じて来た様に、この考え方の主は、そもそも奈良期に彼等の全ては後漢から来た阿多倍一門の「職能集団」の考え方であり、この瀬戸内の沿岸に住みついた「後漢の民の帰化人」のものであり、且つ、その民を海の上に起こる海事から護る「阿多倍の海の兵能集団」のものでもであるのですから、「民族氏」であり「海部氏」等の様な列記とした「品部の姓氏」(かばねうじ)のものでもあります。
然し、この考え方はこの間、既に600年近く経過しています。
この間にこれ等の「海の兵能と職能集団」が「姓氏」として独立したのが「海部氏」であるのです。
そして「陸」では「陸の兵能集団」の「武部氏」と、「職能集団の陶部」の「陶氏」が「姓氏」として独立して勢力を拡大したのです。
この「海部氏」や「武部氏」や「陶氏」などはそもそも元来の地は「職能集団」であり、武力を持たない集団であったのですから、「姓氏」として成り立ち勢力を持つには「海の兵能集団」と「陸の兵能集団」の協力が不可欠で絶対的必要条件です。
瀬戸内で発祥した日本最初の「品部」から生まれた「姓氏」で、これ等の「姓氏」に成り得たのはこのまさしく「海の兵能集団」(海部)に護られていたからであり、その海から得られる富を背景に勢力を拡大し「姓氏」と成り得たものなのです。
陸の「姓氏」の「陶部氏」も「武部氏」もこの「海の兵能集団」に護られていたからこそ室町期には中国全土を支配する「陶氏族」となったのです。
ただ、互いの部の異なる者達の間には、問題は上記する”産土神の関係がどの程度思考の中に遺されていたか”と云う疑問が湧きます。
「産土神の影響」
「場所の要素」は瀬戸内である事は帰化当初からは同じとすると、「人の要素」は”海族””海部族”として存在しているとこから多少の変化を起していたと観られますが、この族の「産土神」は依然として存在していたと考えられます。しかし、この各海族の「族間」は「海部族」を「姓氏」として「海の兵能族」として生存し維持し互いに相互保護していた事から多少希薄には成っていたとしても存在していた事は確実です。
多少の希薄に成っていた分は、職能関係で ”相互間には「経済的条件の関係」の要素で補われ成り立っていた”事と観られます。
「海部氏」は他の「海族」から身の安全を保つ「武力的な保護」を受け、「海族」はその見返りとして「経済的な保護」を受けて成り立っていたのです。特に上記した様に「産土神の考え方」がこの「相互関係」、即ち、「自由性」と「個人性」-「否拘束性」を持つ事から、この「経済的な相互関係」を強く持つ事が特徴とするのです。各海族の族間の「希薄の分」は「経済的な結付き」で補完されていたのです。
つまり、「祖先神」が持つ「経済的な相互関係」は「当然の義務の事」として優先的に成立するのに対して、「産土神」では「義務の事」は「補助的な要件」として存在するのです。つまり「相互依存の関係」で成り立っていた事です。
経済的な相互関係→祖先神・・義務的要件 「産土神」・・補助的要件(相互依存)
実は、戦略上の常道として、「陸戦力」は海からの攻撃に弱いのです。その弱点を「瀬戸内の兵能集団」が護っていたから「陸での勢力伸張」が可能だったのです。
例えば、ここにその事例があるのです。前段で論じた事ですし、上記の義経が平家水軍を瀬戸内で破った直ぐ後、平家は最終決戦を挑む為に、「敗残兵」を集め水軍を建て直し集めて密かに頼朝の根拠地の鎌倉沖の海に三々五々終結したのです。水軍の持たない慌てた陸戦軍の頼朝軍は弱点を突かれて逃げ始めたのです。ところがこの事を察知した伊豆沖の大島群島の大島源氏の水軍が黒潮を乗り越えて不眠不休で3日で到達したのです。既に頼朝は海から攻められて敗走しているところであってこれが一日遅かった場合は鎌倉幕府は無かった事に成ります。
大島水軍が伊豆沖を通る船の多さに疑問を抱きこれを「察知」した上で、且つ「3日」以内で到達しなければ頼朝軍は滅びると観たのです。そこで来るとは予想もしなかった計算外の平家水軍は今度は船団の背後を突かれて、これを観た勢いついた陸戦軍との挟撃に合い殲滅してしまったのです。
大島水軍が動く事と頼朝軍の掃討は5日と見込んでの「秘密戦略行動」であったと記録されているのです。これが本当の源平の最終結末なのです。
事程然様に、「瀬戸内の海族の背景」が無くしては「陶部氏」にしろ「武部氏」にしろ自らの力ではその勢力の拡大は例え「海の富」があるとしても「姓氏」には成り得ないのです。
この「海の族」即ち「海族」の力が伴っている事が「姓氏としての絶対条件」なのです。それは現在の軍備においても戦略上同じです。
この証拠に室町期には「瀬戸内の兵能集団」は「陶部氏の配下」に入ります。
瀬戸内の「陸の兵能集団」は「武部氏」、「海の兵能集団」は「海部氏」等です。
(注釈 他に奈良期に蘇我氏と戦い滅亡した「兵能集団」として「物部氏」がある。実は「海部氏」と「磯部氏」の職能の境界が不祥で、「海部氏」は兵能と海産物の職人、「磯部氏」は海産物と兵能の職人の両方が記録から出て来る。先ず「海の領域」が異なっていた事ではないか、「海部氏」は外海側 「磯部氏」は内海側 従って「海部氏」は外海から互いに内部で役割分担して兵能役に重点を置いて居たとも考えられ、同様に「磯部氏」は内海であっても職能に重点を置いていたとも考えられる。 恐らくは「海部氏」の場合は家族が海産物の扱いも演じていたと考えられる。時代の変化と共に「生活の糧」の為に区分しなく成ったと考えられる。)
(注釈 前記したが、「武」と「兵」の違い 「武」の”もののふ”は「氏家制度」に依って発祥した武装集団でその「氏の宗家・武家」を主とする組織の支配形態化にある「武の士」を云う。
「兵」の”つわもの”はその集団の首魁の下に兵能職として集合し集団の首魁の直接的支配形態にはなくほぼ「兵能請負形態」に近い軍団の「兵の職人」を云う。
後に「武の士」は「武士」と呼ばれその「武の道」としての規律を養い育成した。下克上が起り主家宗家が逆転した事から江戸時代にはこの「武士」までを「武家」と呼称する様に成った。
「兵の職人」は奈良期に後漢の民の職能集団が帰化してからこの中の兵能の集団が「兵」”つわもの”として職能者として定着したもので、歴史的には漢氏や東漢氏や物部氏がこれに当る。室町期には雑賀集団、根来集団、柳生集団等の兵能集団がある。室町後期には”もののふの武士”と”つわものの兵”が「農兵」も加わり一つに成って行きます。)
この「二つの海と陸の兵能集団」を配下にしたからこそ室町期の下克上では陶部の「陶氏」中国域全域を制覇出来たのです。
この「海部氏」は「海の兵能」と共に沿岸部の末裔一族やその家族集団等が営む「海産物全般」をも取り仕切って販売しその富を得てその船団の輸送力(造船力含む)と武力を使って勢力を拡大したのです。
これ等の意味も考慮に入れて「産土神の純友神社」と云うものの存在はただの”神社”の意味だけでは無い事がよく判り、大いに生活に関わる事でもあります。
そもそもその行動は上記する「思考の根幹」にも通ずるものであって、その「純友神社の存在」の判断は「思考」と「生活」とに直接に関わる事であり、彼等の共通する「集団の象徴」でもあります。
現在、我々が感ずる神社・”お宮さん”のそのものの単純な事では無いのです。
(通説ではこの様な時代考証が無視される傾向がある)
これは上記した様に「祖先神-神明社]も「氏の神」=「自分の神」の関係にあった訳ですから、尚更に同じ以上により強いものであった事に成ります。
そして、この様な事の記録資料が彼等の「産土神」の「純友神社」系を含む神社に所蔵されているのです。
この絵巻などを含むいくつかの所蔵資料を総合する事で「海族」としての「海の族の活動具合」が読み取れるのです。
又、全く同じ時期で同じパターンが美濃から駿河の海域でも起こっており、上記した「駿河水軍」に護られて「海の族」の「磯部氏」が「海部氏」と同時期に中部地方の「姓氏」として勢力を拡大したのです。
又、やや異なるかも知れませんが、前段で論じた「伊勢-信濃の賜姓青木氏」も「伊勢シンジケート」の一つの「伊勢水軍」を背景にしていたからこそ「2足の草鞋策」が成し得たもので、生き残りの大きな背景に成っているのです。
当然に「瀬戸内の水軍」の「産土神」の「純友神社」(仮称)と同じく、「祖先神の神明社」は関西以東のその陸海の「シンジケートの象徴」でもあったのです。
そもそも何処に於いても「氏」の生き残る構成は突き詰めれば同じなのです。”ある物に共通する象徴を求める”と云う人の「本能的習性」があるのです。
勿論、「神明社の特別賜姓族の青木氏」に於いても前段でも論じている様に寸分違わぬ構成に成っているのです。これは最早、「氏家制度の古氏の条理」ともされる絶対条件なのです。
(この判断要素が通説には多く欠落している。)
その彼等の「瀬戸内と云う海域」に祭祀する伝統的な守護神は「瀬戸内の産土神」であります。
対比して「祖先神」は環境には無関係で遠くに居ても「氏の守護神」は「自分の守護神」でもある事に成ります。従って、「瀬戸内の産土神」の環境の中に於いてでも「祖先神-神明社」の存在は「生活の神」「物造りの神」である為に彼等に受け入れられる事が可能と成り得ますので、この「瀬戸内」にも「神明社」が存在している事に成ります。
(その反面、八幡社は上記した問題があり彼等に受け入れられ難い環境にあった)
そもそも前記したように「神明社の存在意義」は「祖先神」と云う括りがあったとしても、「豊受大神宮」を祭祀しているのですから「物造りの神」「生活の神」の「存在意義」があり、「産土神」に限らずどんな「守護神」の中に於いてでも「民の生活の営み」が存在するところには敬愛され信心される事が可能という事に成るのです。これは「産土神」と「未勘氏族が作り上げた八幡神」との融合とは異なるところなのです。
さて、そうすると、「瀬戸内の産土神」を守護神とする環境の中に、「讃岐籐氏」の「藤原秀郷流青木氏」の「特別賜姓族」としての「祖先神の神明社」は少なくとも抵抗無く受け入れられる事を意味しています。
つまり、「藤原純友」の周囲(讃岐籐氏護衛団の秀郷流青木氏)には彼等の「海族」を説得出来得る条件はもとより「思考原理」としても備わっていた事を意味します。
この事は ”純友が海族に成ったとする通説”には「純友-海族」の生きる世界の間には”「大きな隔たり」が存在している”とする前提条件が論理的に付いている筈です。
”解離しているから同じに成ったとする事が変質である”としていて、それを非難されているのですからこの事から考えてもこの「海賊の通説」は全くおかしいのです。
(特記 上記の矛盾考証以外に、伊予住人、伊予三等官、有品官位保持、令外官追捕使、一族讃岐籐氏、特別賜姓族護衛団、瀬戸内利権、瀬戸内血縁族、父は大宰府少弐-上野守国司、藤原北家秀郷一門等のこれ以上無い「絶大な生活環境」を保有する人物であり、一転してこの環境を捨てて「海賊」に成り得なければならな利点が無い。むしろ「瀬戸内海賊」をその環境の一つに加えての「全瀬戸全域の利権」と「血縁絆」をも収めてしまった事による為政者側(朝廷)の「怨嗟」と「危険視」の発露であった。つまりは”出る釘は打たれる”の例えの通りなのです)
然し、「産土信徒」の海族側と「神明社信徒」の同じ瀬戸内に住む「讃岐青木氏」等の純友側には「物造りの神」「生活の神」としての「共通項」が存在していたのです。この「共通項」が触媒と成って海族側の「拒絶反応」が霧散した事を意味します。
「瀬戸内の讃岐青木氏」
「讃岐籐氏」を支えていた「第2の宗家」の「讃岐青木氏」が下記の「融合条件の関係方程式」に大きく関わっていたとしているのです。
「讃岐籐氏」の護衛団は「讃岐青木氏」です。この「瀬戸内の海族団」との交渉に無くてはならないのはこの護衛団です。仮に「海族団側」と談合が付いたとしても「彼等を護る力」が純友側には保障として絶対に必要です。
(特記 丁度、真にこの時期に秀郷一門の「武士の護衛団」は秀郷第3子千国を長として「特別賜姓族の青木氏」として朝廷より「青木氏」を賜りその任務に任じられる。秀郷は「将門の乱」を平定する条件として「2つの条件」を朝廷に提示 [貴族に任じられる事 武蔵下野を領国とする事]。 「公家の藤原氏」に成る事により自ら「秀郷正規軍」はもてない事から千国にその「正規軍」の任務を与え、その「護衛軍」に成った「武家の青木氏」の賜姓を特別に受けて「貴族の護衛団」らしく権威付けた。公家は護身用の武士は持てたが戦い用の武士団は持てない慣習がある。この経緯より「秀郷流青木氏」は939年から940年の発祥と観られる。純友事件の直前に「純友の護衛団」は「特別賜姓族」の名誉と「青木氏」の名籍を獲得して純友は「追捕使の任」と共に彼等を説得する事に勢い付いたと考えられ、同時に「瀬戸内の民」も信頼する条件が生まれた筈です。当初は朝廷も「秀郷勲功」と「祖先神-神明社建立」に配慮した事が「純友任務」にも影響を大きく及ぼしたのです。 余りの影響に「朝廷怨嗟」が生まれた。
この時期の朝廷は「将門の乱の鎮圧」に誰も手を挙げなかった程に信任を落としていた。結局は平貞盛と藤原秀郷の2人が条件付で手を挙げた程であった。体裁を保つ為にやっと経基等の「追討軍」を編成して関東に送ったが既に鎮圧後の対面策であった。)
(特記 上記した様に「特別賜姓族」に任じられた理由には皇祖神に繋がる「祖先神-神明社」の普及建立など幾つかあるが、筆者はその一つとして「朝廷内の勢力争い」の中で北家筋は瀬戸内に勢力を伸ばしていた「讃岐籐氏の純友」を背後からバックアップする意味で、全国の藤原氏北家の中でも最大勢力を誇っていた「讃岐籐氏」のその「護衛団」に「特別賜姓族」とする「権威付け」をさせて事を上手く図れる様にこの期をわざわざ選んだと見ているのです。政治的経緯から観て全国的にもその権威付けの必要性の機運は北家筋としては高かった。「令外官追捕使」の任命もその一つであった。)
「令外官追捕使」の純友にはもとより彼等を護り抜くだけの兵力は与えられていない訳ですから、護衛団の「讃岐青木氏の武力」が絶対的に必要です。
そして何と云ってもこの「讃岐青木氏」はただの護衛団ではありません。
「特別賜姓族」と云う「朝廷のお墨付き」を持っています。「物造りの神」「生活の神」の「神明社」を各地に建立し続けている特別賜姓族です。彼等海族も「物造りの職能集団」の末裔です。
瀬戸内沿岸と山陰までの土豪との血縁による「幅広い血縁族」を有しています。
更には、秀郷一門の116氏の中でもトップクラスの「2足の草鞋策」の「経済力」とそれに伴なう「廻船力」を有しています。
これだけの「裏付と権威」があれば「瀬戸内の海族」に取っては信頼は出来て文句はなかった筈で、武力に依る彼等の「身の安全」の確保と「海産物の販路」の拡大の点に於いても彼等の「生活の安定」に繋がります。一方「讃岐青木氏側」に取っても「瀬戸内の富と利」に大いに繋がる事です。
貴族の「讃岐籐氏」はとりわけ「藤原北家」の「下がり藤紋」の一族は自らが武力を保有せず「秀郷流青木氏」(朝廷より特別賜姓族としての特権を与えられている)を「武力の護衛団」とするのが朝廷より認められた氏であり貴族です。
依って、「瀬戸内の海族」との交渉には、少なくとも彼等には「秀郷流青木氏」(特別賜姓族としての特権を与えられている)が背後にあるとして「純友」を観て居た筈です。
「瀬戸内の令外官の追捕使」として、又、「純友の個人的な信頼」も然ることながら「特別賜姓族としての特権」を背後にあったからこそ交渉に応じたと考えられます。
「純友の個人的な信頼」は直ぐに醸成され得ないし、「令外官の追捕使」はその役目柄から海族側に取ってみれば「敵対の立場」にある訳ですから直ぐに容易に交渉に入れる事は先ず在り得ません。
其処には、何かかれらを交渉の場に入らせた何かが在った筈です。
その背景には”それが「讃岐青木氏」の存在だ”と考えているのです。
この「讃岐青木氏」のこの「瀬戸内の活躍」にあり、四国はおろか山陰までの血縁による広い関係保持が「瀬戸内の彼等」を信頼させたと観ているのです。
安芸や美作の「瀬戸内の沿岸族」との枝葉血縁の中には彼等との血縁もあった事が「讃岐青木氏」の枝葉の家紋分析から考えられるのです。この安芸と美作の瀬戸内の沿岸部には上記した海部氏や武部氏や陶氏等の「姓氏」を始めとする「土豪の集団防衛態勢」が特に起っていたのです。そしてその連合体と「讃岐青木氏」は血縁関係を結んでいるのです。
これが「讃岐籐氏」の特筆する事柄なのであって、”この血縁によるこの深く浸透した人間関係が直ぐに交渉に入れた背景だ”と観ているのです。
更には古来より天皇から信任を得ていて「特別賜姓族青木氏」として「祖先神-神明社」の「物造りの神」「生活の神」を民の為に建立する氏であったからこそ信頼して「瀬戸内の海族」の兵能集団の彼等は話し合いに応じたのです。
何時の世も何も無しには幾ら何でも難しいのは”この世の定め”で、其処には「信頼と絆」とが先ずは醸成されていてこそ交渉事は成り立つものです。
それだからこそ何よりの証拠としてこの「瀬戸内の関係」は時代の荒波の遍歴にも関わらず四度も蘇る事が出来たのです。
突き詰めると、その「思考原理の根幹」は「瀬戸内の産土神」にあったと考えているのです。
この瀬戸内の彼等にはこの「産土神の思考原理」であったからこそ下記する関係式が成り立ったのです。
「産土神の思考原理」が無ければこの談合は成り立たなかったのです。
(特記 前段で「亀甲集団」など論じた様に、「讃岐青木氏」の讃岐宗家の家紋は「下がり藤紋に副紋雁金紋」としている事でも明らかで、秀郷流青木氏116氏の主要紋には亀甲文様を副紋としている青木氏は3つもあり、亀甲紋に限らずその枝葉の支流文様からはこの安芸-美作の土豪や姓氏の家紋を副紋としているものが実に多いことでも判る。 特に平安時代中期頃から用いられた古い文様群であり、「亀甲文様族」は中国地方の全域で「集団防衛態勢」を古くから強いていた事で有名で、それの文様の3つもの「亀甲紋様族」と血縁し、尚且つ、四国側沿岸族の「雁金紋」との血縁をしていることは「瀬戸内沿岸族」と網の目の様に血縁族で結んでいた事が判る。 「雁金紋様類」は瑞祥紋である為に「神紋」としては奈良期からあり、「象徴紋」としては平安初期からあり、「姓氏」としての文様としては四国よりこの平安末期頃に発祥し、問題の「瀬戸内沿岸族」の海部氏一族や海野氏一族や亀田氏一族等がある。海野氏や亀田氏等は「瀬戸内の兵能集団」の「海族末裔」かは確実な確認は取れていないが「武力と経済力の姓発祥条件」から観て可能性が極めて高い。
瀬戸内の兵能集団を獲得して「絶大な武力」を保持し「瀬戸内の利権」と「青木氏の名誉」と「産土神族」を味方にした伊予讃岐の三等官の完全な聖域を超えてしまった)
「融合条件の関係方程式」
海族=産土神
讃岐籐氏+讃岐青木氏=神明社
産土神=共通項(「物造りの神」「生活の神」)=祖先神-神明社
共通項=触媒
「産土神」+「触媒・共通項」+「祖先神-神明社」=「純友神社」
「大蔵氏と瀬戸内海族との関係」
そうすると、讃岐籐氏との「純友神社」として関係が成り立つ事が判ったとして、元主筋に当る九州の「大蔵氏」と彼等の「瀬戸内の海の族」との関係はどの様に成るかの問題です。
当然に確かに阿多倍一門の大蔵氏は主筋であっても、何れも「産土神」である事から考え方に関しては両者とも異なり縛られない考え方に成ります。
当然に、「場所、時、人」の要素は長い間に変異している訳ですから、同じ「産土神」でも異なってしまう事に成ります。まして「産土神」には血縁に関する「家柄、身分、血筋の縛り」が希薄で在りますから、融合する範囲は変異すると、”「産土神」で繋がると云う関係”は希薄に成る事は必定です。
ただ、この「大蔵氏」の場合は他の「3つの守護神」と異なり「産土神」とする考え方には、つまり周囲の土着民の考え方には融合し難い所があった事は現実には九州に於いて史実から観て否めません。
当然、そこで、九州に居ても大蔵氏が彼等の「理解」と「利害」と「安全」を護ってやっていればそれはそれで主筋として「瀬戸内の民」はたとえ「兵能集団」であるとしても「儀」を護るでしょう。
しかし、そうでなければ時代を経て「瀬戸内」で生まれた者達は「産土神」の考え方から、「瀬戸内」で生まれた異神の「純友」であり主筋としては「身の安全」を護ってくれる「讃岐藤氏」である事に成りますし、彼等の「理解」と「利害」と「安全」が叶えられれば、大蔵氏の「主筋の儀」を捨てても良い考え方に成ります。
「神明社」の考え方ではそれは不可能で「不儀」と成ります。ですから「河内源氏」の「八幡社の行動」に問題が出てくるのです。「河内源氏」が「産土神」であれば問題はありません。しかし、「皇族賜姓族」である限りでは「祖先神」でありますから永遠に不可能であります。しかし、「河内源氏」の「未勘氏族」とした者達の多くは九州の土豪が多いのです。
つまり、「産土神」の考え方を「思考の根源」に持っている「後漢民の末裔」の土豪なのですから、彼等からすると「未勘氏族全体の守護神」を「八幡社」としてもそこには何等問題は無い事になります。
そうすると、「河内源氏」が守護神の処で「賜姓族の生き様」として問題を起している事に成ります。
だから「未勘氏族」が「国家鎮魂の八幡社」を自らに都合良く「弓矢の八幡社」に変異させて、勝手に自らの守護神であるかの様に吹聴しても何ら問題が無い事に成りますから、自由奔放に全国に広まった事に成るのです。「河内源氏」はこの現象を承知して故意的、恣意的に放置して利用した事に成ります。
その利用した「河内源氏の目的」は「未勘氏族の武士団の形成」にあって、それに依って得られる利益・利得を享受する事にあったのです。それが「瀬戸内の利権」を獲得出来なかった「腹癒せ」と云うか「見返り部分」で、「たいら族」と異なり源氏は「産土神」を守護神とする同民族の「兵能集団」を元から持ち得ていた訳ではなく、「賜姓族」として武力を持つには「未勘氏族の武士団の形成」以外には無かった事に成ります。従って、「武力」を優先する限りは「賜姓族」としての「祖先神」を不義であっても捨てる以外になく成る事に成ります。
これは「河内源氏」がこのジレンマに落ち至っていた事を意味します。当然その結果として、朝廷や天皇から「3つの発祥源」としての勤めを果せなく成る事から排斥や軋轢を甘んじて受けなくてはならない羽目に陥ります。因果応報で在ります。
同じ立場にあった「2つの青木氏」は「3つの発祥源」の立場を護り、このジレンマから脱する為にも「武力」ではなく、前段で論じた「抑止力」とそれを経済的に裏付ける「2足の草鞋策」を採ったのです。
「たいら族」に取ってみれば「武力」に対する苦労は「産土神」を守護神とする「兵能集団」を当初から備わっていた事に成る訳ですから、後は経済的裏付を採る事(宗貿易)で一族一門の発展は直ぐに成り立ちます。故に更には大蔵氏等の一族一門の背景も「官僚の職能集団」として朝廷内にあり、たった5代で太政大臣に上り詰めた事に成ったのです。ここに源氏との大きな違いが在ったのです。「氏発祥の差異」とも云うべき違いです。
(特記 「阿多倍一門」(坂上氏、大蔵氏、内蔵氏系)は敏達天皇系の女系の血筋と光仁天皇-桓武天皇系(たいら族、阿倍氏系)の女系の血筋を引く賜姓族の出自 大化期より兵能・職能集団が配下にある。「産土神」グループである。
「源氏一門」は嵯峨期以降の累代天皇の第6位皇子の臣下賜姓族 その内、「清和源氏」は例外皇子順位の賜姓臣下族の出自 兵能・職能集団は配下になく、荘園制を利用して「名義貸しの未勘氏族」を組織化して配下に治めた。「祖先神」グループである)
そうすると、今、論じている各地域の「未勘氏族」が九州から関東域まで存在しますから、当然に「未勘氏族」の考え方は「産土神」だけではなくなる事は起こります。
「産土神」では西の分布域は兵庫県の西域までです。ですからそこから東域は「産土神」ではない「未勘氏族」と成ります。殆どは「姓氏の守護神」の「3の氏神」ですから、当然に同じ「未勘氏族」であっても「心の考え方の根源」は異なります。
この事が上記で論じて来た様に地域による「八幡社の建立」の「位置づけと差異」と成って現れてくる事に成ります。
西域では「弓矢」でも東域では「家内安全や身の安全や生活の神や物造りの神や国家鎮魂」と変異し、北域では最早”総神の神明”と成り得てしまうのです。
しかし、因みに中部域の駿河域や信濃域や甲斐域では「産土神」であった阿多倍の職能集団が一度中国地方に配置され再び直ぐにこの「3つの域」に配置移動させられているのです。
「磯部」や「馬部」や「鞍作部」等の関係の職能集団が移り住み「放牧を中心とする開拓」等に従事しています。
前段で論じた様に信濃では彼等は後には日本書紀に出てくる「諏訪族」等と成っています。
当然に「産土神」と成りますが、少し違うのです。確かに「諏訪神」はその「心の思考の根源」は排他的傾向である事では幾らかは明確に産土神の考え方を遺してはいますが、例えば信濃の馬部や鞍作部の彼等の多くは「諏訪神」と成っているのです。つまり、これは「産土の考え方」そのものなのです。
先ずは「生まれた土地の神」を前提に成りますから、恐らくは奈良期にはつまり移動配置時には「産土神」であった事が考えられますが、「産土神」は何時しか「諏訪神」としてその土地の生活環境から「独自の守護神」「諏訪神」を創建して変異したのです。それはここには「阿多倍一門の主筋」が無くなっているからなのです。
彼等の「理解」と「利害」と「安全」が当初より叶えられ無く成った環境下に置かれた結果なのです。
故に「中部域」は「瀬戸内」とは違い、「八幡社」は勿論の事で、全て「別の歩み」を起こしたのです。
この事の様に「時代考証」を良く配慮した上で「純友神社」の「歴史的な民族的な経緯」を論じなくては正しい答えは出て来ないのです。
ですから、その考え方の上で上記の様に「中部域の変身した諏訪神の諏訪社」や「北陸東北域の変身した祖先神の神明社」と同じ様に、「瀬戸内域」の彼等は「産土神」を変身させた「仮称 純友神社」をこの期に建立したのです。
この建立した「純友神社」の意味が「産土神」の考え方と融合して「純友や讃岐藤氏」に対する姿勢が理解出来るのです。
新たに「彼等の考え方」では心から主筋を「純友や讃岐藤氏」に決め、その決心としてその「主筋と守護神」を合致させた事を意味するのです。だから身命を賭して戦い、敗れても乱れること無く何度も再び集結し「瀬戸内」の「海の族」を歴史的に長く護り通したのです。他の地域には観られない独特な産土神の考え方の生き方であります。
そして、その結果が多くの遍歴を受けながらも持ち直して昭和20年までの「瀬戸内の利権」を保守したのです。
大蔵氏500年という長い期間を経てはその意味で九州に住する限りに於いて「氏」とは成り得なかった事に成りますし、又、「瀬戸内の彼等」の「理解」と「利害」と「安全」が叶えられ無かった事は歴史上に於いても史実です。しかし、上記した様に遍歴を得て後に阿多倍一門の伊勢伊賀の宗家筋の末裔の「たいら族」がこの「海域支配」と「生活の基盤」をこの「瀬戸内」に置き、「瀬戸内の彼等」の「理解」と「利害」と「安全」が叶えられた事に依って「産土神の彼等の条件」は全て叶えられ、「たいら族」の支配下に戻る事は抵抗無く当然の結果と成り得たのです。その中でもそこには結果として「瀬戸内の彼等」の「変異し融合した純友神社」が彼等の産土の守護神として祭祀続けられたのです。
何もこれは偶然の事ではないのです。要するに源平で戦った有名な彼の無敵の「平家水軍」なのです。
”元の鞘に納まった”と云う事だけなのです。
そこでこれだけの「産土神の考え方」の中で「儀・義」を通していたこの「海族」の末裔の100年後の「平家水軍」は果たして「海賊」でしょうか。
この「産土神」の「平家水軍」の元は「純友」がまとめた「産土神」の「海の兵能集団」の「海族」なのです。
これ等の行動に「儀」に近い「産土神の考え方」の「一貫性の義」が働いているし、それを100年も持ち続けているのです。そして「たいら族」滅亡後は阿多倍の職能集団の「陶部」の支配下に入った室町期に於いても、その更には室町期末期の「村上水軍」にしても、この「義」に類する「儀」を堅持しているのです。
凡そこの間1400年間です。”これが何処が「海賊」なのでしょうか。”陸の土豪族に勝るとも劣らずであります。
この様に現実にはこの「純友」にまとめられた「海の土豪」は1200年代までその主筋の「たいら族」の支配化に入っていて、「たいら族」滅亡後、その末裔は後の「瀬戸内」を再再編して制した歴史にも出てくる「村上水軍」に成るのです。
この事に関しての出回る通説がこの歴史経緯の「民族的な判断」の欠落で大きな間違いを起こしているのです。
「瀬戸内と大蔵氏」
まして、話を戻しますが、その意味でこの事を熟知する阿多倍一門の次男の同族子孫の「大蔵春実」はこの「純友問題解決」に指名されているのです。
その立場にある「大蔵春実」は「ある意味での見事さの功績」で、天皇から万来の信頼を受け「海賊問題解決」にしては考えられない程の「破格の勲功」であって、それは「錦の御旗」「天国刀授受」と「太宰大監」「太宰大貫主」「対馬守」の役職「瀬戸内の追捕使」の役を獲得しているのです。
現在に於いてでさえも個人に「錦の御旗」「天国刀」等を与えられた者はいないのです。まして、「地方の事件」に等しい問題に対する「一度の勲功」にです。
単なる「地方の事件」であり別に国や朝廷を揺るがす程の問題でもないのです。
その「瀬戸内の海賊の問題」に「国が滅ぶかどうか」で与えられる勲功を周囲に判る様に”これでもか”と云う風にわざとらしく与えているのです。
上記した様にこの「時代の社会の慣習」から「海族と海賊との違い」と「社会の成り立ち」を承知していれば、もし「海賊」とすれば何時の世も社会の巷に起こる単なる「盗人か盗賊」に過ぎない問題です。これに朝廷や天皇や大蔵氏や藤原氏が出て来てそもそも騒ぐ問題ではありません。
何か他に意味を含んだ異常としか考えられない勲功なのです。それも「大蔵春実」だけにです。
つまり、史実を辿れば、元々「経基」が欲していたのは ”「北九州から瀬戸内と南海海域の圏域の確保」”だったのです。勲功は別にしてもそれを「純友」を倒したならば普通ならこの「地域の支配権」を「讒言讒訴の経基」に与える筈ですが、ところがその様にせずにただの「豊後水道」から「紀伊水道」までの「海域の警察権」のみを「大蔵氏」に任せ、「瀬戸内全般の警察指揮官」だけを命じる結果と成ったのです。
大蔵氏は勿論の事、天皇朝廷が上記した「海賊」と看做する「彼等の歴史的な経緯」と「産土神の考え方」と「彼等の主筋との支配関係等」の事と「彼等の不満解消」事等を、彼等の末裔6割を占める官僚が存在しているのですから、この情報は充分継承されて事前にも承知していて判っていた筈です。
従って、事前に「解決シナリオ」は出来上がっていた事は充分に考えられます。それに沿った解決が出来た事に満足して、且つ「向後の憂い」がなくなった事に満足して、一挙に九州自治、北陸の問題、関東の問題も解決に向けて拍車を掛けたのでないかと考えられます。
つまり大蔵氏に「讃岐藤氏の圏域の利権」は与えなかったのです。実態には変化は無いです。
つまり、この事件の決着方法を間違えば「藤原氏」にも「大蔵氏」にも一門の勢力を大きく左右する事であったのです。それだけにこの「海域の利権」(藤原氏)の大きさと「警察指揮権」(阿多倍一門)の重要さが物語るものであったのです。
「瀬戸内の経緯」
ここで大筋の経緯をまとめて論じたいと考えます。この大筋の経緯が「神明社と八幡社」の根幹の判断に大いに関わる事なので取り纏めて論じます。
この「二つの権利」を一時、「純友問題」に代表される様に「讃岐藤氏」が持っていた事に対して、それを獲得する為に清和源氏が合策したのです。何度も前段からも論じますが、中国域の南沿岸部全般は奈良期からの「阿多倍一門とその支配下にある姓族・品部」の無戦に拠って得た支配地域でした。
そこに「讃岐藤氏」が得意とする「血縁手法」で食い込みその圏域を脅かしていた時期でもあったのです。そしてこの「瀬戸内」はほぼ「純友」が圏域に納める事を成し得た丁度その時に、これを契機にこの「圏域の奪取」と「経基の讒言讒訴」が起こり、阿多倍一門の大蔵氏も「圏域の奪還」を図る良い機会と狙ったのではないかと思われます。
しかし、朝廷や藤原摂関家に執っては清和源氏にこの「瀬戸内の圏域」を引き渡す事は政治バランスや経済的打撃等から好ましく無く、結局は朝廷の官僚の6割を占める阿多倍一門の末裔からすると面と向かって政治的に軍事的に藤原氏と対峙する事が得策なのか選択を迫られたものと考えられ、結局は藤原氏と大蔵氏の両者は懐の痛む「痛み分け」で談合したのです。
当然に経基王の野望目論みは排除とする談合がなされたものと観られます。この事により天皇と朝廷の政治的経済的な痛手は無くなります。
当然にこの成り行きのキーマンは九州全域と豊後水道と中国域を制する大蔵氏であり、その出方如何では天皇と朝廷と藤原北家とその主家の摂関家の運命は決まる事にも成ります。
当然に経基王の今後の命運も決まるものであった筈です。
結局は、経基王はこの圏域の野望から排除されその富の獲得の為に禁止されている「荘園制」に走ってしまったのです。
そこで天皇朝廷は先ずキーマンと成っている大蔵氏を納得させる為にも何か特別のものを与えなくては納まらない事に成ります。
そこに先ずこの「事件の勲功」として、「2つの水道域間の警察権」のみを与え、「瀬戸内の圏域の利権」は「純友の捕縛」を条件に据え置きにして「讃岐藤氏」に与え、それ以外に「九州域の自治権の内示」と「破格の勲功」をプレミヤとして与える事で「向後の決着」を図ったものと考えられます。
この事の決着内容に付いて天皇は大蔵氏の姿勢に対して信頼し納得してこの決着案に同意したと考えられます。
場合に依っては「九州自治」から更には「中国自治」にまで主張を広げてくることに成るのではと懸念したのです。
この瀬戸内の圏域を大蔵氏に奪われたら、”瀬戸内を制するものは国を制する”と云われている事から、”中国域の自治まで与えてしまう事に成りかねない”と心配していた筈で、まして独立国を標榜している「将門の乱」と重なると、場合に依っては国は分裂する可能性を秘めていたのです。
この時、前段で詳しく論じていますが、北方域では「蝦夷地での問題」、関東では「平将門の乱」と「たいら族の伸張」、「西では大蔵氏の自治問題」、朝廷内では「藤原氏と阿多倍一門との軋轢問題」と「荘園制の行き過ぎの問題」が起こっており、天皇にとっては「四面楚歌の状況下」にあり、かなり「神経質な環境下」にあったのです。
しかし、歴史的な時系列で観てもこの事件を機会に一挙にこれ等の問題は解決の方向に向かうのです。
恐らくは天皇はこれ等の問題を解決の方向に進めるには ”この時が好機”と捕らえたと観られ、その証拠に前段で論じた「後一条天皇」から引き継いだ「後三条天皇」(藤原氏と無血縁天皇)の命を掛けた「政治的な粛清」に入り「白河天皇」と「その後の院政」がこれを引き継いだのです。
真にこの事件を契機に上記した問題は全て解決して行きます。
勿論、藤原氏系ではない天皇系が誕生したのですから、母方で繋がる清和源氏も摂関家も衰退し排斥されてしまいます。
そして、この期に乗じて東では「たいら族」の貞盛が父の国香を犠牲にしても同族の異端児の将門を討ち果たし、朝廷内で徐々に基盤を築き始めるのです。
それに併せて大蔵氏がこの海域の警察権を保持した事と、朝廷内の大蔵の権限を専有し、朝廷内の軍事の権限では同族の坂上氏が掌握し、内蔵の権限は同族の内蔵氏が専門官僚として占める状況の中で、伊勢伊賀の一族一門の本拠地からは遅れていた賜姓「たいら族」がこの事件を契機に台頭して行くのです。
そして、阿多倍子孫の賜姓を受けた「坂上氏」、「大蔵氏」、「内蔵氏」、天皇の補佐役を手中にした親族の阿倍氏、そして遅れて賜姓を受けた桓武平氏の貞盛の「たいら族」等は、「瀬戸内の海族」を次第に弱まった讃岐籐氏から一部を奪い反し、「海賊掃討」を理由に帰化以来に戻りその「兵能の職能集団」を再び配下に入れてしまうのです。
これで「瀬戸内の海族」の彼等は本来の帰化当時の本主筋の伊勢伊賀の本拠地の「たいら族」の下に戻ったのです。これが解決の道筋なのです。
殆ど朝廷内は阿多倍一門一族に依って占められたも同然です。院政の一局態勢が確立して思うような制改革が断行できる事に成り懸案事項であった事柄が解決して行く流れに成ったのです。
本来であれば朝廷は「たいら族」のこの行為(海族を支配下に戻した事)を容認する事は藤原摂関家との関係から無い筈です。しかし、この摂関家もこの頃は弱体化していて強く主張する事が出来ない状況にあり、源氏と摂関家の勢力を押さえ込み朝廷の権力(院政)を最大限にする狙いがあり、この為にも大蔵氏への勲功を必要以上に大きして「九州自治」の下地を構築したのです。
そして大蔵氏からその「瀬戸内の圏域」を任せ、それが同族の「たいら族」に移動するかは院政に採ってみれば大した問題では無くむしろ好都合であった筈です。「たいら族」を引き上げ力を持たせ一門体制を確立しようとしたのです。
だから、「大蔵春実」のこの事件の解決に対して「院政の意」を汲み取ったとして上記の様な勲功と成り得たのです。
「大蔵春実」が「国内解決の道筋」を作ったとする満足感が院政にあったのです。
東北の問題も「内蔵氏」、関東の問題も「たいら族」、九州の問題も「大蔵氏」、朝廷の勢力も源氏と摂関家が弱体化させられた事から前の「3つの問題」の同族大元の大蔵氏を取り込めば一挙に解決に向かう事は間違いありません。
この大蔵氏を始めとする阿多倍一門一族の勢力を引き上げてこれを支配すれば源氏と上級官僚の摂関家を押さえ込めると観たからであり、且つ、彼等阿多倍一門一族の勢力圏は中級官僚にまであり、それを掌握出来る訳ですから、親政族の源氏と上級官僚の摂関家を押さえ込める事は確実であったのです。
軍事は坂上氏、政治顧問は阿倍氏と成れば全て朝廷と「院政」の周りは阿多倍一門一族で占められた事に成ります。
この態勢が出来上がれば「院政」は”鶴の一声”の政治体制が出来上がる事に成ります。
「大蔵春実」の功績は、事件をきっかけに「院政による政治体制」を完全に構築する事に成った事を意味します。そしてこの後、直ぐに「遠の朝廷」の「太宰大監」の「九州自治」を宣言する事から始めたのです。
これで国が二分する事無く解決に向かうことに成ります。
親政の源氏や摂関家の藤原氏を頼る事では複雑な柵みの中ではこの危機の回避は不可能であり、阿多倍一門一族を朝廷側に取り込む事により前段で論じた様に危機は去り、朝廷・天皇・院政は安泰と云う事に成る訳です。
この先の見えた状況の中で、この期に乗じてこれで「たいら族」は一挙に「圏域と利権」を獲得し「武力と経済力の氏発祥条件」を備わり勢力を伸ばし続けるのです。そして逆にこの圏域と利権獲得に失敗した「河内源氏」は「荘園制の方向」に走り、「白河院」の前段で論じた「軋轢」を受ける事に成るのです。
源氏、取分け「河内源氏」と対比して「たいら族」は真逆の方向へと進むのです。
「河内源氏」は危険な「荘園制」に、「たいら族」はこの「利権の宝庫」の「瀬戸内」を基点として「宗貿易」に進み富を獲得します。危険な「荘園制」に向かった「河内源氏」は朝廷と院政から「軋轢」を受け、一方の「たいら族」は朝廷と院政から「信頼」を勝ち取るのです。どれを捉えても真逆です。
この様に「瀬戸内の海域」には「圏域と利権」が大きく絡み、且つ「政治的な動きの起点」に成っていた地域なのです。
これ等の「瀬戸内の経緯」が「河内源氏」の「八幡社-神明社」の判断に無視出来ない大きく関わる問題なのです。
丁度、この期の直ぐ後に「2足の草鞋策」を敷いた「祖先神の神明社」の「2つの青木氏」も「賜姓族」、「親政族」として影響を受けない訳には行かなかった筈です。
然し、「2つの青木氏」の元締め「伊勢青木氏」と秀郷流の元締めの「伊勢秀郷流青木氏」は、伊勢伊賀の阿多倍一門一族の本拠地「たいら族」と和紙で繋がり、隣国の親密な関係を保持し最悪の状態を免れたのです。
(「2つの青木氏の立場」 この後に起る源頼政の「以仁王の乱」では伊勢青木氏[頼政の孫の三男の京綱が跡目]と秀郷流伊勢青木氏[朝廷に働きかけた形跡あり]は頼政の孫の2人の助命嘆願に成功した事からも明らかです[日向青木氏]。
「伊勢青木氏」は摂津に2店を構え3艘大船で「瀬戸内の利権」を一部「たいら族」から認可を受けての「中国貿易」の記録有り。初期には和紙 後期には総合商社 恐らくは少なくとも伊勢青木氏等5家5流の青木氏は「荘園制の方向」に走っていた場合は「たいら族」は保護し切れなかったと考えられます。
「隣国」で「和紙」で繋がり「商い」で「たいら族」と同じ方向に向いていたからこそ親近感を醸成していたと考えられ、又、政治的にも「朝廷の信頼」を「親政族・賜姓族」として勝ち得ていたのでと考えられ、「たいら族」も擁護し助命嘆願に応じられたと考えられます。
その「象徴の姿」が「皇祖神」の「祖先神-神明社」の「創建と維持」に懸命に働いていた事が、「朝廷と天皇」と時の権力者の「たいら族」と政治家の「摂関家」と官僚の「大蔵氏」から共感を得ていたと考えられます。
それは「親政・賜姓族」が「2足の草鞋策」を採用する事が本来であれば ”親政・賜姓族が何事か あるまじき行為だ”と罵られた筈でありながら「共感」を得ていたのは不思議な事であった筈ですし、”反乱者の孫を助命嘆願など以っての外だ”と成った筈です。
又、「瀬戸内の利権」の一部を譲渡されて瀬戸内に入り「商い」をする事が許されていたのです。
しかし、現実にはこれ等全てが認められているのです。まして「慣例や仕来り」の厳しい社会の中です。
これ等は特別な信頼があったからこそで、それが「皇祖神」の「祖先神-神明社の努力」で在った事が判ります。その「神明社」の「経済的な裏づけ」を取る為の「2足の草鞋策」は容認されていたと考えられます。だから「助命嘆願」の無理も聞き入れ潰さなかったのです。そして生き残れたのです。
「2つの青木氏」はだから天下を2分した「源平の戦い」にも合力していないのです。普通本来であれば源氏側に合力するのが同族である限りは本筋である筈です。
筆者は、「青木氏家訓10訓」や「生仏像様」の処で論じた様に、”世に晒す事無かれ”の「遺戒」がこれらの「氏の姿」、つまり「在様や生様」の全てを物語っていると観ているのです。「意味深い遺戒」と観ているのです。「世に晒す事無かれ」に付いては家訓10訓の10で論じる)
再び話を戻して、そして遂には大蔵氏はこの「2つ水道の警察権」と共に「九州自治の下地」(孫の種材の代で完全自治:1018年)を構築したのです。
この時、讃岐・伊予を押さえていた「藤原氏の圏域」は警察権は大蔵氏に奪われたけれど、結局は元の「海域の利権」は護られ「純友」は終局捉えられ抹殺されましたが、その一族一門は依然として「讃岐藤氏末裔」は抹殺されていないのです。この事は本来であれば朝廷が云う罪状であれば一族一門は罰せられた筈で「純友個人」で行動した訳ではなく「2つの役職」を以って動いた訳ですから免れなかった筈です。
然し、「純友」だけなのです。朝廷のこの罪状の付け方から観てもその目的は明らかに違っていた事を意味しますし、「純友の行為の正当性」も認識して居た筈です。
「純友の非」を敢えて云うとすれば、真に”世に晒す事無かれ”で在ります。
俗世に云う ”河に竿させば流される” ”雉も鳴かずば撃たれまい” ”前に出過ぎれば潰される” ”出る釘は打たれる”の例えの通りであります。”現世は諸行無常”であります。”上手く纏めすぎた”と云うところであったと考えられます。
(関東の争い事を調停役を買って出て懸命になって働いた「平の将門」に付いても同じ)
それが「瀬戸内の利権と圏域」を独り占めの形に成る事を造り上げて、それを恐れたつまり経済的にも然ることながら「海族」の力も手中に入れる事が出来たとすると、最早、”「瀬戸内」に叶うもの無し”であります。この「勢力拡大」を朝廷、源氏、同族の藤原摂関家、阿多倍一門から怨嗟の声が上がり渦巻いた事は間違いない事であります。(この頃朝廷内ではこの体質が渦巻いていた)
それを”この海域の利権を目論んでいる「経基王」に言わしめさせた”とするところであり、要するに”出すぎた”のです。それ程にこの「瀬戸内」と云う地域は、”瀬戸内を制する者は国を制する”の言葉通りで重要な所でそれだけに難しい地域でもあったのです。
この様に重要で難しい地域で、この「海域の利権」を「讃岐藤氏」から奪って仕舞えば、中国地方と四国の対岸では結局は百々のバランス条件は崩れ、とどのつまりは再び「覇権争い」を起こす事に成り、却って「大蔵氏は警察権の務め」が果たせなく成る事に成ります。この瀬戸内問題の「落し処」が重要で在ったのです。
「経基王」に勲功を与えず、考えられない程の勲功を「大蔵氏」のみに与える事は、朝廷は「経基王」の目的を知っていた事を物語ります。それ程にこの「瀬戸内の圏域」は政治的に重要な意味を持ち、朝廷はこの「讃岐藤氏」のこの「圏域の体制」をある程度の範囲で崩したくなく、ここから挙がる「租税の恩恵」と「政治体制」を乱したく無かった事を意味し、そもそも朝廷が「九州自治」で苦しんでいる時にわざわざ源氏に与えて問題を大きくする事はしない筈ですし、その行動で「荘園制」で睨まれている清和源氏(河内源氏)には決して与える事はしなかったのです。まして祖先神の神明族として本来の責務を果たさない清和源氏に対しては尚更であります。(清和源氏の出自と行動に蔑視と懐疑の念が朝廷にあった)
(前段で論じた様に「経基-満仲」はその意味でも「荘園を利用した武家の集団化」を始めて図って朝廷に圧力を掛けていたのです。)
それを天皇と朝廷は政治的にはっきりさせる為にも大蔵氏に破格の勲功を与えて、”これでもか”と清和源氏の「経基王」を押さえ込んだのです。
そもそもこの人選を天皇に進言したのは藤原摂関家であったのです。この時の海賊問題は形の上での処理であってある意味で無傷なのです。
そもそもこの「瀬戸内」を挟んだ四国域と中国域の圏域に絡んだ複雑な勢力バランスで構築された地域を「純友の乱」の処置等で崩す事は出来ない筈です。
更に前段でも論じて来ましたが、そもそもこの中国域は阿多倍一門の32/66国の「たいら族」「大蔵氏族」「陶族」等の一門の圏域でもあるのですから、「大蔵春実」に「警察権」等を与えたとしても何の不思議も無い事なのです。
むしろ「讃岐藤氏」の純友等に「警察権」そのものを与えていた事の方が問題です。先に「有品の制」の官位を与え、且つ任命した「令外官追捕使」に「令外官追捕使」を送り込む事の矛盾をどの様に言い訳するのかが問題に成った筈で、その為には”海賊に成った”とする以外に言い訳が無くなるし、それを天皇が言い訳する事が 出来ないので、「将門の讒訴」の件もあり、又、「経基王」に言わしめる様に仕向けたのです。(瀬戸内の利権を狙っていた経基は関東で失敗した後だけに飛びついたと観られる)
前段で論じた「平の将門の乱」が”独立国(前段がある)を標榜した”として、丁度、この時に起こっていて、「平の国香」や「平の貞盛」の「たいら族」はこの乱を契機に俄かに勢力を拡大し始めた時期でもあります。
依ってこの地域はまだ「たいら族」の支配地域には成っていない丁度その中間域にあって、特にこの海域は「讃岐藤氏の圏域」の中に未だあったのです。
「大蔵氏」に代わって「たいら族」がこの「海域の警察権行使」は難しいところだけに未だ難しい勢力化にあったのです。
この事件を契機にこの瀬戸内全般を「大蔵氏の警察権」として取り戻し「たいら族」が勢力を拡大するに伴い大蔵氏は「たいら族」にその警察権を移して行くのです。
そして「平貞盛」より4代目の「平忠盛」(清盛の父)の代頃からこの「海域の利権」が「讃岐藤氏」と「たいら族」の「2局体制」に成って行くのです。
所謂、この様に「産土神族」と「出雲神族」の中に「春日神族」の「讃岐藤氏」が「血縁的」に「経済的」に食い込んだ微妙なバランスで成り立っている地域なのです。
前段でも論じた「美濃の源平の勢力バランス」と良く似ていて、この「瀬戸内」でも同時期に藤原氏と大蔵氏の勢力バランスの坩堝の中にあったのです。
まして、藤原氏北家は当然の事として「たいら族」と「大蔵氏」はこの様な状況の中では「経基王の伸張」を絶対に許す事は政治的な戦力として無い筈です。ましてこの瀬戸内の坩堝の中に一分家の河内源氏の源氏勢力を入れる事はしない筈です。(入れる事そのもの行為は最早政治ではなく成り政治家ではない)
その後も勲功で大蔵氏が警察権を持ったとしても上記した「たいら族」が伸張して来るまでは暫くは「讃岐藤氏の圏域」であった事は朝廷にとっても”政治的にも、戦略的にも”最も重要な地域である事を物語っているのです。
つまり、「経基王」はこの「瀬戸内の圏域確保」に結局は失敗し、関東に於いても行く先々の所で問題を起こし、結局は行き詰まり、「勢力拡大」に必要とする「財力源」は無く、止む無く「後一条天皇」(1018年)から「後三条天皇」(1068年)までの「荘園に関する禁令と抑制令」を無視して、「荘園制」を逆に煽る「荘園の名義貸し」の「財源・利権獲得」の方へと動いたのです。
これが「経基-満仲-頼信-義家」と続いた経緯なのです。
「瀬戸内の覇権」を狙っていた取分け「経基-満仲」の親子は「海の神の住吉大社」を信心していた事でも判ります。
(「経基王」が「瀬戸内の覇権」に失敗したことから「源満仲」は途中から「たいら族の兵能集団」に対抗して「荘園制の未勘氏族」を摂津から移動して河内で組織化して武家集団を構築したのです。
途中まで出世したが、晩年この為に満仲は朝廷から危険視され無視され軋轢を受ける破目と成り摂津に帰り蟄居する。)
(特記 ) 「源経基の経緯」(八幡社問題と瀬戸内事件の根幹)
武蔵介として赴任(938)し、直ぐに検地を実行しようとして地元土豪の地方官の郡司武蔵武芝に慣例により拒絶された為に争を起した末にその財を略縛した。経基は危険を感じて京に逃げ戻り、逆恨みして仲裁者の平将門等を讒訴。その2月後に平将門は事実無根として告訴、経基は拘禁されるがその更に半年後に朝廷の態度(勲功の評価に対して)に将門は不満を持ち朝廷に圧力を掛けた。その結果、真面目で評判の良い将門は決起して本当に乱を起したので、逆に「怪我の功名」から「経基讒訴」を認められて「有品の制」の最下位の「従五位下」に任じられた。朝廷はこの失敗を経基に官位を与える事で取り敢えず対面を繕った。
(本来、賜姓源氏は有品の制では賜田を受け従四位下に任じられる筈)
(将門は関東の各地で起る「地方豪族と国衙との争事」の「調停者」を積極的に務めた人物であったが、逆に経基に「逆恨み」」を買い讒訴、反乱者とみなされてしまった。この後直ぐに起った事件でも「純友」も将門と同じ「勲功の闘争」を朝廷に起したのです。伊予の三等官で瀬戸内の追捕使として、難しい上記の瀬戸内圏域を纏め上げたが、矢張り将門と同じく勲功に対して評価しなかった。これを「国衙怨嗟」の為に朝廷は勲功否認したので軋轢が発生 「将門の乱」と全く同じ周囲の地方豪族と国衙を追捕使の立場で掃討して朝廷に圧力を掛けたが、矢張り将門の件と同じく「朝廷の怨嗟」で逃げた。
(この「2つの怨嗟の讒訴」は経基が演じた。)
そして経基は「平将門追討軍」に参加するも既に鎮圧済み、仕方なく京に戻り、今度は「純友の行状」を又もや讒訴(941)し、その功から「西国追捕凶賦使」に任じられて、「純友の乱」の平定に向かうが又もやこれも既に鎮圧済み、挙句に果てに豊後の純友の家来「桑原生行」を襲い、これも又その財を略暴したが黙認された。(この略暴行為は歴史上有名な事件)
(「2つの経基讒訴事件」は出陣の際は既に「鎮圧済み」の後に出陣した事に意味がある)
その後、武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には「鎮守府将軍」に昇進するも、後にその出自と上記の事柄等が問題に成り「臣籍降下」の処置を受ける。
(経基も本人資料の中で不満を述べている。藤原氏と阿多倍一門の巻き返しに遇った為。 後に「将門や純友の勲功」に対して正等に評価しなかった事への朝廷の修正[次期の円融天皇]が起った。)
この事は清和天皇の第6位皇子の孫(上記説明 ゜六孫王」の呼称があるが当時の正式記録には出て来ない 未勘氏族による後付)で無かった事から第4世第7位皇子王以下は規定に基づき臣籍降下された事を意味するが、「正規の源姓(賜姓族)」に付いては、発見された摂政の実力者「藤原実頼」の遺した「日記記録資料」から判明し、現在では経基の源姓は「跡付け」と考えられていて、経基王は「嵯峨期の詔勅」(青木氏 源氏)を利用した「非賜姓の源姓族」(清和天皇第9位と12位の皇子が非賜姓源氏族)と見なされた事に成る。つまり、これは清和天皇の賜姓源氏族(第6位皇子)ではなく「狂気の陽成天皇」の皇子で賜姓族外の例外皇子王であった事を意味する。
その後の頼光からは資料からは「賜姓源氏」とみなされた資料が残っている。これは仕えた藤原氏の歴史上の最大実力者藤原道長の執り成しである。
(経基王は上記した”賜姓を強く望んでいた”とする事はそもそも賜姓に関しては規定外の例外王である事の証であり、この事からも判る。依って「蔭位の制」「有品の制」の「賜田」等の扱いの正式確認が取れない。)
(青木氏と源氏の様に「賜姓」であるかどうかは家柄・身分や官位官職や経済的な扱いや世間の扱いは大きく異なったのです。
「嵯峨期の詔勅」に基づく非賜姓の「青木氏」と「源氏」は清和天皇系と陽成天皇と冷泉天皇系が殆どで、この時期の「賜姓」の有無には皇族や世間の目は特に異なっていた。)
(その意味で上記の立場から陽成天皇の皇子の「経基王」は”焦りから来た波乱”に満ちた人生を送り子供の満仲もその経基王の影響を受けて同じ様な波乱に満ちた生き様を示した。然し3代目の頼信の頃からは兄の頼光の勲功と主君の藤原道長の計らいで憧れのやっと正式な「有品の制」の扱いも受けて立ち直りの傾向にあった。)
この過程で「瀬戸内の圏域」を狙っていたこの「河内源氏」は、その為に信心していたそれまでの守護神「海の神の住吉大社」から「荘園本領策」に方針を切り替えてからは、今度は「荘園の神」とも云っても過言ではない「八幡社」にのめり込んでいったのです。
少なくとも3代目の分家の頼信の頃までは時系列的には本来の「国家鎮魂の神」であった事が資料から読み取れるのです。
つまり、この後に「八幡社」が何らかの理由(未勘氏族との絡み)で「荘園の神、武家の神」と次第に変質させられて行く事に成ります。
この「八幡社」(国家鎮魂)が「神明社」の様に管理氏が明確で無かった事からと、朝廷の財政的な理由も伴って荒廃していた事が記録に遺されていて、この修復に「清和源氏の宗家」摂津源氏に対して修復を命じています。
全国の「八幡社」(国家鎮魂)に対してまで修復は財政的に困難であった模様で遂次と進まなかった事が記されています。恐らくは「田地・俸禄・褒章に関る制度の経緯」-(前段4)の処で論じた様に「賜田」等の禄を充分にその出自から多く受けられなかった「摂津源氏の宗家」に対して、「河内源氏」が「荘園制」を利用して「名義貸し」を行い「武家の組織化」と「財源確保」に走ったのです。
この荒廃した「国家鎮魂の八幡社」を何時しか「組織化の象徴」(弓矢の神)として宗家に取って代わり利用して八幡社修復を代わったと考えられます。
そして手段としてその「組織化の未勘氏族」(無血縁の非賜姓河内源氏族として)に修復を命じた事から、その結果として本来の「国家鎮魂」から「荘園制の神、武家の神」として勝手に変質させて行ったと観られます。
後勘からすれば上記した発祥時の経緯から「蔭位の制・有品の制」に恵まれず「武力と財源」の無い「賜姓族・神明族・親政族」の「清和源氏」にして観れば、”「宿命の自然の流れ」”とも考えられ、”止むを得ない仕儀”とも考えられます。然し、何度も云う様に「生き延びられる道」は全く無かった事では無いのです。
この「八幡社の経緯の背景」にはこの「瀬戸内の圏域」の大失敗が背景にあったのです。
(「経基-満仲」の経緯と「頼信-義家」の経緯とそれに伴なう「八幡社の問題」があったから各地の神明社の建立がこれ程進み、取分け「産土神」の環境の中でこの難しい「瀬戸内域」での「神明社の建立」が可能と成ったのです。)
「神明社」の「2つの青木氏」は「2足の草鞋策」と秀郷一門青木氏の「抑止力」で生き延びましたが、最終、大蔵氏から「2つの水道域の圏域」を引き継いだ「たいら族」もこの「瀬戸内の圏域」を大いに使って「2足の草鞋策」から更に発展させて前段で論じた「瀬戸内水軍」を使っての「宋貿易」へと進め、その莫大な「財力源」を生み出したのです。「院政」はこの「たいら族」から上がる「潤い」を受けます。
この意味では、「清和源氏の武力の背景と財源の背景」には、上記の「たいら族」に比べて元々リスクが大きかった事は否めませんし、「朝廷への潤い」でもその貢献度は大きく異なっていたのです。
それが阿多倍の一門の一方の関西域を基盤とした伊勢伊賀の後発の「たいら族」が5代で伸張し上り詰めるだけの勢いがあって拡大に繋がったのです。これも「瀬戸内の圏域」のお蔭なのです。
(重要参考 義経は清盛よりこの「宋貿易の経済学」を教えられていたとする資料が遺されている。
これによると「経基-義家」と引き継いだ「荘園制よる財力源」と、清盛から教授された「貿易による財力源」の考え方の違いが清和源氏の中に起こったのです。
後者を選んだ同じ賜姓族で神明族で親政族の「2つの青木氏」と藤原氏北家筋は生き残り、後者側に主力を置いた「たいら族」と、前者側に主力を置いた「清和源氏」は互いにその考え方の違いから生き残りを掛けて火花を散らし両者共倒れに近い形で滅亡したのです。
しかし、前段で論じた様に、「瀬戸内問題」と同時期に「同族の関東での不始末」を起した「たいら族」は、結局は「源平の緩衝地帯」の「美濃-尾張域」まで後退し、そこで「緩衝」のバランスが崩れ源平の本格的な争いが起こりました。
(美濃-尾張地域は「源氏」と「たいら族」と「秀郷流青木氏」との3氏の緩衝地帯であった)
同じ様にこの「瀬戸内地域」でも、大蔵氏は「讃岐籐氏の圏域」にあった「瀬戸内の問題」を藤原氏との争いを避けて上手く解決し、一時、瀬戸内警察権を大蔵氏の支配下の中に入れて次第に同族の関東問題で弱っていた「たいら族」にそれを移して行きます。
この結果、「たいら族」は関東からこの瀬戸内へと伸張し財力と政治力も確保しながらも美濃-尾張での初戦に続き「瀬戸内の源平の争い」で敗退したのですが、この「瀬戸内のお蔭」から来る「商いと物造りの基盤」から基礎力は生かされて、前段でも論じた「たいら族」の織田氏の「末裔の美濃・尾張」で蘇り復活に繋がったのです。
(全国に分散した阿多倍一族一門の生き方が時代をうまく捉えている。 陸奥安陪氏が犠牲。)
しかし、前者の生き方を採った「八幡社族」の「河内源氏」は遂に復活しなかったどころか近江-木曽-美濃-尾張の戦いで11代{中4代の源氏は生き残る}の源氏一族を滅亡に引き込んでしまったのです。遺したのは名義借りの「無血縁の未勘氏族」ばかりなのです。
この残った源氏の「未勘氏族」が「八幡社」を別の方向へと誘導し「河内源氏」を殊更に誇張し史実と異なる誤った印象を後勘に与えてしまったのです。
「未勘氏族」が別の方向へ誘導していなければ「河内源氏の悪名」は生まれなかったと考えられます。
「河内源氏の義家」はこの「未勘氏族」を「軍事力と経済力」の為に配下にしていた事から止む無くも煽られた事から源氏一門を巻き込み滅亡に追い遣ったと考える事が出来ます。
そして「神明社族」は生き残り「八幡社族」は滅亡したのはここに根源があったのです。
確かに、直接原因は経基王のこの「海域の奪取」の間違いに始まるのですが、間接的には「未勘氏族の八幡社の煽り」(後付論)にあったと考えられます。
”何もこの「海域の奪取」に関わる事なくしても「2つの青木氏」の様に「2足の草鞋策」と「神明社」で生きる道を選んでいれば全源氏は滅亡に走らなくても良かった”と考えられ、後勘として源氏と同族血筋を汲む「4つの青木氏」の立場から観ると 上記の様に時系列的に考察すると”判断の無理が大きく存在していた”と現在でも構成する一人として結論付けているのです。これが「青木氏家訓10訓」に表されているのです。と云うのはこの期にその論者が居なかった訳ではないのです。
現にこの義家の孫の義経は上記した様に遺された資料の文書の一節から観ても青木氏と同じ論者であったのです。
頼朝が鎌倉会議の際に「義経の方向」に舵を切っていれば第7世族の「坂東八平氏」に頼らなくても生き残れたと考えられます。
(舵を切っていれば確かに「坂東八平氏との戦い」に成った事は否めません。秀郷一門を味方に引き込んでいれば同じ関東の勢力図から観て先ず負ける事は無かった筈です。)
「義経」はこの「瀬戸内」の「海域の利権」を「たいら族」から全てを奪取しているのですから最早、何も「坂東八平氏」に頼らなくても「純粋な源氏の力」で「武家の幕府政権」も造れていたのです。
現に、”瀬戸内を制する者は国を制する”と言われていたこの「瀬戸内」を基盤に「たいら族」は栄華を誇ったのです。
当然に、関東以北に勢力圏を持つ「藤原北家秀郷一門の協力」(平泉・入間・常陸・陸奥越前等)を得ているのですし、資料からも弱体化し衰退していた摂関家も同調していた事が判っている訳ですので、政権の大本は義経は構築していたのです。同じ「神明族、賜姓族、親政族」である「2つの青木氏」も「2足の草鞋策」でこれを補完する事に成る筈です。
(院政側も利用するつもりであった事は否めませんが院政の利害からも義経に同調していた。)
この「義経の戦い」の瀬戸内の海域の成果は「最大の幕府樹立の条件」にも成っていて、義経が目指す「神明社族」としての方向性は決まっていたのです。
ともあれ、全国に「566の神明社」を建立して配置していた事からも「河内源氏の八幡社」や闇雲に「未勘氏族」や第7世族の「坂東八平氏」に頼らずとも「神明族」としてこの「瀬戸内の海域」はもとより全国の「民の心」は掴めていた筈です。
(義経は「八幡」を決して名乗らなかった。頼朝は鶴岡八幡宮を信仰し八幡を主神とした。)
「四国域・中国域」
さて、この様に「瀬戸内の圏域」を挟んだ「四国域・中国域」の「神明社と八幡社の建立時期」に起ったものとして、後勘から観れば「象徴的な事件」が2つも起こっていたのです。
そんな環境の中でも根強く「祖先神の神明社」は瀬戸内の民に招かれて建立されていたのです。この意味は「祖先神-神明社」を理解する上で大きい事であり、特段にその状況を論じたのです。
それ故に、この「事件の背景」からも判る様に河内源氏の深く関わる「弓矢の神の八幡社」のこの地域での伝播は本来無い筈なのです。(氏家制度の環境下では以下の「5つの要素」が不備 )
「産土神」の環境の中で「祖先神-神明社」が認められているとすればこの様な背景を持つ「弓矢の八幡社」が認められるかという問題です。殆ど有り得ないと考えられます。
この時の上記する讃岐と阿波の「2つの秀郷流青木氏」の「勢力の如何」を物語る事件であったのです。
その意味でこの数字考察には一考しなければなら無い大きな意味を持っているのです。
従って、故に、此処には下記の「5つの要素」
A「地理性」
B「経済性」
C「歴史性」
D「圏域性」
E「武力性」
以上の「5つの要素」の条件が影響しますが「祖先神-神明社」に関しては相互に連動して達成構築されているのです。
なかなかこの「5つの要素」全てを連動して構築している氏は少ないのです。
そうすると、「讃岐青木氏」と「阿波青木氏」が「生活の神明社」を建立し、一方で逆の「弓矢の八幡社」を建立する事が「信義的に可能な行為」であったのかと云う疑問です。
”「弓矢は武士の守護神」とする事であり、ましてや「頼信系源氏とその未勘氏族の守護神」とするものに、「皇祖神」の代わりに「祖先神の神明社」の「特別賜姓族」が建立する事が信義的に可能なのか”と云う信義的な矛盾が生まれます。
この事は関西域・中部域・関東域・北陸東北域でも特別賜姓族と賜姓族の衰退期間に於いて勅命により明確に可能です。
そもそも「特別賜姓」は前段で論じた「3つの国政の遂行」の為に衰退していたこの時期に「賜姓族青木氏」に代わって「勅命での行為」そのものであったのです。
この四国には上記する様に、「讃岐と阿波の2氏」を除き14氏の豪族にはこの「頼信系源氏とその未勘氏族の守護神」の「八幡社」を守護神とするのは「三好氏」の1氏しか存在しないのですから、この三好氏が゜秀郷流青木氏」の圏域をはるかに超えて建立する事は可能かと云う事に成り、”何も源氏に媚して八幡社を建立する事”は無い筈ですし勢力的にも不可能です。
(愛媛9に付いては、「清和源氏の経基と頼信」は若い頃に短期間「伊予」に赴任していますが、未だこの頃は「八幡社」は朝廷の命に基づく「国家鎮魂の八幡社」であった事と、この頃は頼信は「海の神」の「住吉社」を信仰していたので無関係と成ります。
ただ経基王と頼信が赴任していた事もあり源氏性が強い地域であった事は否めませんが、領主と成り得る未勘氏族が無いのです。上記の「純友の乱」での経緯で「河内源氏の勢力圏」をこの地域に伸ばす事が出来なかったのです。)
まして、その環境の中で”「讃岐と阿波の青木氏」が建立するのか”は信義的な面から観て大いに疑問であります。
しかし香川6 徳島3 愛媛9 高知3で建立されているのですから、考えられる事は他の地域で観られる”「八幡社の存在意義」の如何”に関わる事以外に無い事に成ります。
当初、「讃岐、阿波の2氏」により平安期の内に、全てこの21の「八幡社」が「神明社」として建立され、その後の四国に於いてそっくり室町期中期以降に豪族が入れ替わりますが、この時にこの21の「神明社」が「八幡社」に変えられてしまったとすると、鳥居やお社の形式は平安期のそのままでも成り立ちます。
因みに江戸初期の四国の豪族は讃岐3氏、阿波1氏、伊予7氏、土佐2氏の戦国の立身出世の豪族に入れ替わりますし、当然にこの中には「清和源氏頼信系」はありません。
どちらかと云うと室町期中期とはそっくり入れ替わった7割近くは、何らかの直間の縁の藤原氏北家の流れを汲む戦国時代の豪族であります。
しかし、この「戦いの神」の意味合いの強い「弓矢の神」の守護神から、時代を経て源氏が滅亡し「下克上と戦国時代」を経た室町期中期以後は「戦いの神」の影は潜み、”単純に「武士の守護神」としての「総合的な守神」や「武士の魂」だけを守護する神に変異したものとなった”と考えられます。
その為に、この”「後詰めの豪族14」が「神明社の30の内21」を「八幡社」に変えた”と考えられます。
この証拠と成るものが現在発見されないのですが、上記する状況証拠から他に建立できる能力とその義務か必要性を持った氏は讃岐と阿波の青木氏以外にはこの四国域には見付かりません。
「7つの域の神明社と八幡社の関係」は上記する「5つの要素」で特徴ある関係が出来上がっているのですカラ、この四国・中国域の八幡社との関係は「歴史の雑学」の判断の重要な基礎になるデータとも成ります。
「神明社」
従って、此処より「神明社」に付いてより理解力・判断力を深める為に更に研究を進めます。
そもそも「八幡社」が「弓矢の神」を主神とする以上、「河内源氏」は「皇祖神」の「祖先神-神明社」の賜姓族としての義務は無関心であった事が覗えます。
この四国・中国域の圏域も平安末期までのものであり、僅かに鎌倉期のものも含まれている模様で室町期初期の「下克上と戦国時代」へと突入する前兆現象であったのです。
「弓矢の神」に信心する「侍社会の風潮」がここから読み取れます。
恐らくは「祖先神-神明社」の「生活の神」「物造りの神」は「民の信心」と成り、侍階級は「生活の神」「物造りの神」からこの「八幡社」の「弓矢の神」に鎌倉期に向けて浸透して行ったと考えられます。
そこで、これが「第1次の空白期間」の始まりに成った原因点であったと考えられ、次ぎの「4つの経緯」に繋がって行くのです。
(1)上記した様に「祖先神-神明社」と「祖先神-八幡社」の「最悪の事態」の「競合合戦」が無かった事が次ぎのデーターで顕著に表れています。
(2)「神明社-八幡社」の「競合合戦」が無かった事は、「八幡社」が初期には「国家鎮魂」であった事と、後に「特定の氏と未勘氏族の守護神」と変質して行った事(2)は「2つの証拠」でもあります。
このデーターから「賜姓源氏」(河内源氏も含めて)は、同族である「賜姓青木氏」や「特別賜姓青木氏」が行う「3つの発祥源」としての責務と「政治的、戦略的」な「国策の神明社」には、ある程度の理解を示していた事とも考えられます。
(3)「賜姓源氏」が置かれている立場、即ち「たいら族」との「勢力争い」から目を逸らす事が出来ずに「清和源氏頼信系の一族」(河内源氏)だけは「勢力争い」にのめり込んで行った事が覗え、最終は11代の源氏を巻き込む事(4)に成り、遂には滅亡を招いてしまったのです。
(4)「2つの青木氏」が行う「生活の神」「物造りの神」の「神明社建立」域には「弓矢の神」の「八幡社建立」は明らかに避けている事が判ります。言い換えれば「2つの青木氏」が定住する地域には「八幡社の建立」は避けている事にも成ります。これは「同族争い」だけは敢えて避けたと観られます。
「神明社と八幡社の2つの差」
「八幡社の県毎の分布」と「神明社の県毎の分布」のデーターです。
この「2つの差」が表示しています。
「八幡社 354社」 「神明社 566社」に対して%は全体比です。
(八幡社から観たデータはこの表 神明社から観たデータは次表記)
「神明社-八幡社の対比表」
八幡社の分布( 県域分布) 神明社の分布(県域分布) 差 分布域の圏域
1 福岡 39 -11.1% 9 - 1.6% 30 八幡社の発祥地
2 東京 29 - 8.4% 30 - 5.3% - 1 秀郷流青木氏と源氏の圏域
3 兵庫 24 - 6.9% 11 - 1.9% 13 清和源氏の発祥地
4 千葉 23 - 6.7% 22 - 3.9% 1 秀郷流青木氏と源氏の圏域
5 愛知 14 - 4.1% 33 - 5.9% -19 秀郷流青木氏の圏域
6 神奈川 12 - 3.5% 11 - 1.9% 1 秀郷流青木氏と源氏の圏域
7 静岡 12 - 3.5% 18 - 3.2% - 6 秀郷流青木氏の圏域
8 岐阜 12 - 3.5% 31 - 5.5% -19 賜姓青木氏の圏域
9 栃木 11 - 3.2% 14 - 2.5% - 3 2つの青木氏の圏域
10 大阪 11 - 3.2% 1 - 0.1% 10 賜姓源氏の県域
11 埼玉 9 - 2.6% 15 - 2.7% - 6 秀郷流青木氏の圏域
12 愛媛 9 - 2.6% 2 - 0.3% 7 清和源氏未勘氏の圏域
13 鹿児島 9 - 2.6% 3 - 0.5% 6 清和源氏未勘氏の圏域
14 北海道 9 - 2.6% 2 - 0.3% 7 清和源氏未勘氏の圏域
15 山口 9 - 2.6% 1 - 0.0% 8 清和源氏の圏域
16 和歌山 8 - 2.3% 2 - 0.3% 6 清和源氏の圏域
17 山形 7 - 2.0% 15 - 2.7% - 8 秀郷流青木氏の圏域
18 大分 7 - 2.0% 1 - 0.0% 6 清和源氏未勘氏の圏域
19 宮城 7 - 2.0% 14 - 2.5% - 7 秀郷流青木氏の圏域
20 茨城 7 - 2.0% 9 - 1.6% - 2 秀郷流青木氏の圏域
21 香川 6 - 1.7% 1 - 0.0% 5 清和源氏未勘氏の圏域
22 宮崎 6 - 1.7% 4 - 0.7% 2
23 広島 5 - 1.4% 6 - 1.1% - 1
24 富山 5 - 1.4% 33 - 5.8% -28 賜姓青木氏の圏域
25 岡山 4 - 1.1% 1 - 0.0% 3
26 島根 4 - 1.1% 1 - 0.0% 3
27 京都 4 - 1.1% 2 - 0.3% 2 神明社の絶対的神域
28 岩手 4 - 1.1% 11 - 1.9% - 7 秀郷流青木氏の圏域
29 山梨 3 - 0.8% 72 -12.7% -69 2つの青木氏の圏域
30 徳島 3 - 0.8% 3 - 0.5% 0
31 長崎 3 - 0.8% 1 - 0.0% 2
32 熊本 3 - 0.8% 1 - 0.0% 2
33 高知 3 - 0.8% 4 - 0.7% - 1
34 青森 3 - 0.8% 13 - 2.3% -10 秀郷流青木氏の圏域
35 秋田 3 - 0.8% 33 - 5.8% -30 秀郷流青木氏の圏域
36 群馬 3 - 0.8% 14 - 2.5% - 9 秀郷流青木氏の圏域
37 新潟 3 - 0.8% 61 -10.8% -58 2つの青木氏の圏域
38 福井 3 - 0.8% 8 - 1.4% - 5 賜姓青木氏の圏域
39 鳥取 2 - 0.5% 0 - 0.0% 2
40 佐賀 2 - 0.5% 1 - 0.0% 1
41 長野 2 - 0.5% 15 - 2.7% -13 賜姓青木氏の圏域
42 滋賀 2 - 0.5% 3 - 0.5% - 1 賜姓青木氏と源氏の圏域
43 奈良 2 - 0.5% 1 - 0.0% 1 神明社の絶対的神域
44 福島 2 - 0.5% 9 - 1.6% - 7 秀郷流青木氏の圏域
45 沖縄 1 - 0.1% 1 - 0.0% 0
46 石川 1 - 0.1% 2 - 0.3% - 1
47 三重 1 - 0.1% 5 - 0.8% - 4 2つの青木氏の圏域
A:354 (/354) B:566 (/566) (A-B)
「賜姓源氏」の重要拠点には「八幡社」が、「2つの賜姓青木氏」の重要拠点には「神明社」が建立されている事がこれ程に明確に成っている事に驚きです。
これを「神明社」から観たデータ(下記の表)からも読み取れる事から、上記の表の八幡社データからは「賜姓源氏」の姿勢が読み取れます。
彼等は朝廷が行う国策に逆らいながらも、賜姓族の立場にも逆らいながらも、自らの力で建てたかは別にして「八幡社の建立」を何と「354社」も建立している事は一つの大きな意味を持っています。
彼等にしてみれば、この数字から観れば、確かに皇族ながら「朝廷の意向」を無視し、立場を違えながらも「彼等の主張」をそれなりに持っていた事が判ります。
それは ”時代に即応した「弓矢の神」を普及させる事で台頭する「侍集団の集約」が国策として肝要だ” と主張していた事に成るのではないでしょうか。(朝廷は「公家社会」から「武家社会」の到来を危惧)
然し、矢張りそれが「自らの存続」を危うくさせ、且つ、「侍の力」を強くしてしまう結果を招いたのです。
結局は、この流れは「鎌倉幕府の樹立」と成ってしまうのですが、しかし、天皇側や朝廷側からすると、むしろ、”国全体として「生活の神」「物造りの神」を全面に押し出し、”国民を豊かにする事で「侍の集団の必要以上の台頭」を抑えて安定した「国造り」をするが大事な事なのだ。”と当然に主張するでしょう。
そもそも「侍集団」と云うものが台頭するのは、”その「生活の安定」と「身の安定」に対して不安があるから集団化する”のであって、これは「人間の本能」であります。
それを「天皇側」からすると、「生活の神」「物造り神」の政治的、戦略的な上記の様な主張となるは必定であり、「源氏側」からすると、「身の安全」を優先にして「武」に頼る主張と成るでしょう。
一見して「二者択一」と観られますが、何時の世も”「武に頼る安全」”は長く続けられる手段ではありません。元来、「武に頼る安全」は「第二次的な手段」であって「第一次的手段」で無い事は衆知の史実であります。
当然に「武」の位置に居ない「天皇側」からすると、「生活の神」「物造り神」の「神明社」であり、「源氏側」にすれば「弓矢の神」の「八幡社」と成ります。
これを「源氏」は時代性を長く観過ぎた事から ”「第2次的な手段」を「第1次的な手段」と考え違いをしてしまった” と解釈出来ます。
何時の世も「武に頼る安全神話」は例外無くよくある議論です。
然し、「2つの青木氏」は明らかに”何も「神明社」側だから”と云って天皇の推し進める「神明社」に関わっただけではないのです。その証拠はこの時期に作られたと観られる「青木氏家訓10訓」にあると説いています。
この「青木氏家訓10訓」に於いて「2つの青木氏」は「同族の源氏の主張」に賛成していない事をはっきりと物語っているからです。
賛成ではなく否定に近いもの感じます。それはこの「家訓」のみならず1125年頃に「2足の草鞋策」を実行した事でも証明しているのではないでしょうか。
「弓矢の神」の「武の力」に頼らず「経済的な力」、即ち、「生活の神」「物造りの神」に舵を切っているからです。つまり「第1次的な手段」を採用しているからです。然し、「第2次的な手段」も無視してはいないのです。
それは前記に縷縷述べてきた「伊勢-信濃シンジケート」と「藤原秀郷流青木氏、特別賜姓族の抑止力」を使っているからです。
現に、この「武の力」に脅かされた時、この「第1次的な手段」と「シンジケートと特別賜姓族の抑止力」を使って撃退しているのです。(幾つかの史実がある)だから生き延びられたのです。
それを「青木氏家訓10訓」として ”真の生きる様は此処にあり” として子孫に遺したのです。
その「生きる様」は「祖先神の考え方」に沿った”「祖先神-神明社」”に凝縮されているのです。
そして、その結果が上記の表の数字的な証拠として出てきているのです。
今や歴史は「清和源氏の分家頼信系源氏」を「武家の鏡や魂」の様に持て囃されていますが、「2つの青木氏側」から観ると、「最悪の同族氏と八幡社」と観えるのです。
これが「1650年近い悠久の歴史」を持つ青木氏の変わらざる一貫した姿勢であり「生き様」なのです。
凝縮すると、上記した「源義経の主張」と「源頼朝の主張」の差であります。
「源義経」は上記した様に青木氏と同じ道を歩もうと「鎌倉会議」で主張したのです。
”「清和源氏宗家頼光系四家」の様に「祖先神-神明社側」として生きよう”と主張したのです。然し、この考え方は「八幡社」側には生かされなかったのです。
「源義経の主張」は単に空論では無く身近に上記前記する「青木氏の生き様」が見えていたのです。
「たいら族の清盛」さえも「武の力」に対して「安定の社会」に疑念を抱き「宋貿易」を開始しているのです。
資料の記録では ”義経は清盛の教訓・遺訓を受けた”と記録されていますから、当然に前記で論じた様に義経は「伊勢伊賀の清盛」と隣の同族の「2つの伊勢青木氏」の「生き様」も見ていたのです。
義経は「弓矢の八幡社」を「生活の神」「物造りの神」の「神明社」に変えようとしていた事も考えられます。
「商と殖産」に力を入れていた「平泉の都」を頼った「真の根拠」はここにあったのではないかと観ているのです。
そもそもその「侍集団」は、天皇自らの子供を「融合氏」として臣下させて国策としてそれを推進し天皇自らが作り出した政策であります。
その「3つの発祥源」として自らの分身から「2つの青木氏」を作ったのですが、その「2つの青木氏」はその立場を良く護り”良好な国策だ”と見えたのです。
ところがこの「青木氏の親政族」を、「桓武天皇」が完成させた「律令国家の完成に障害」と成るとして「皇族系の賜姓族」を取りやめ、帰化人の大集団の阿多倍族を「たいら族」として賜姓したのです。賜姓したのは阿多倍の孫娘を母に持つ本人の「桓武天皇」なのです。
(伊賀の阿多倍は敏達天皇の孫の芽淳王の娘を娶る。 光仁天皇 第6位皇子であった伊勢の施基皇子の長男 青木氏始祖)
「阿多倍」には天皇家と血縁させて大蔵氏等の他「4つの末裔」(民族氏: 大蔵氏、坂上氏、内蔵氏、平族、阿倍氏)を作り出した事が、余りにも大きくなり過ぎて、結果として彼等阿多倍一族一門は青木氏と同じ立場を採らなくなってしまったのです。
挙句は、この「侍集団の統制」が取れなくなって、累代の天皇が危険視していた「行過ぎた荘園制」に結びつき、自らの天皇家の足元さえも危うくさせてしまったのです。その事に気づいた時には”事は遅し”であります。(荘園制の問題は前段で論じた)
藤原一門の血縁を受けていない唯一の「一条天皇」から「後三条天皇」-「後鳥羽上皇」まで必至になって彼等の経済源に成っているこの「荘園制」を潰しに掛かりますが事は最早抑えきれ無く成ってしまったのです。
時系列的に観て見ると、「大化改新」「賜姓制度」「帰化政策」「民族氏政策」「阿多倍と血縁政策」「融合氏政策」「祖先神-神明社政策」「皇祖神-伊勢大社政策」「生活の神、物造りの神政策」「侍集団政策」「弓矢の神政策」「荘園制政策」「律令国家完成政策」「藤原氏摂関政策」「親政族 青木氏排除政策」「源氏賜姓政策」「祖先神-八幡社政策」「たいら族賜姓政策」「九州自治政策」「荘園潰し政策」等、これ等に付随する政策が次々実行されました。
そして、政策そのものは「適時適切」であったと考えられるのですが、「後三条天皇」が身の危険を顧みず「荘園制の制限と中止」を思い切って断行した事でも判る様に、当時の政治的権力者との”しがらみ”から”天皇が「政治的欠陥の有無」を承知しながら「政治的欠陥」を取り除く勇気が無かった事による”と筆者は考えているのです。(前段で論じた)
この発端を作り出したのが「桓武天皇」であって、それを悪化させてしまったのが「清和天皇」であって、それを直したのが「後三条天皇」であったと読み取れます。
(適時適切に特別賜姓の青木氏を発祥させた円融天皇、瀬戸内問題や阿多倍一族一門問題を解決に導いた判断力の一条天皇等の英断が「皇祖神-祖先神-神明社」を遺せたのです。)
この渦中にいて清和源氏は歪んだ政治状況の中で、その立場から「弓矢の神」を”床に油”の如くで勢力を拡げてしまったのです。その勢力を使って「八幡社」を建立して行った事を物語っています。
それは11代の源氏が定住していない地域に多くの「八幡社」がある事なのです。
そしてその由来を調べると、「源氏姓」を名乗る「未勘氏族」が多く関係している事なのです。
データから観て全体の8割程度がこの「八幡社」です。
つまり、データでは354社ですが、”自らの「弓矢の神」としての彼等の主張”とすると、”少し違う”と云えるのでは無いかとも考えます。
その「八幡社の建立」は「未勘氏族」が、”自らの立場(源氏族)を鼓舞し自らの荘園を護ろうとしてのもの”であった事を意味します。それが8割のデータです。
場合に依っては「源氏」が「未勘氏族」に対して「名義貸しの条件」であった事も考えられます。
「名義」だけではその宣伝効果は低い事から「目に見える形」として、その「象徴としての八幡社建立」であったと考えていて、一部の地域の「未勘氏族」の資料の中にそれと観られる記述があるからです。
恐らくは、”「荘園」の周囲にその勢力圏を誇示し縄張り範囲を明確にする目的”で「戦略拠点」を ”これ見よがしに”「名義主からの許可」、或いは「条件」として建立したと考えられます。
むしろこの目的の方が強かったのではないかと観られます。
結局、「源氏」の主張する”時代に合わせた「弓矢の神」”の理屈は、この事(侍集団と源氏姓の名乗り)に反発する天皇家に対する取って付けた「大義名分」であった事が云えます。
ここが「神明社」と実質的に異なる点で「生活の神」「物造りの神」は「民に直結する神」である事から、その「建立の行為」は「天皇の施政に対する国策」に合致し、「3つの発祥源」の立場と責任にも合致する事から信任を得え、尚且つ「民の信望」を深めたからこそ民から自然発生的に「氏上様」の呼称が生まれたと考えられます。
「弓矢の疑問」
そこで、”天皇が「弓矢の神」を推奨する事が政治的にあり得るのか”の疑問です。
確かに、「融合氏」を国策とし、「賜姓族」を臣下させたのは天皇であった事は否めませんが、そもそも天皇は「臣下-侍」の政策が「弓矢の神」まで祭祀する程の目的として実行したのではない筈です。
「侍の神」を祭祀する事は「侍集団」に結びつき、それは同時に天皇家の実権を弱くする事にも成ります。
「侍集団」は、「朝廷軍」(坂上氏等)が既にあり、青木氏の「六衛府軍」の「近衛軍」がありさえすれば政治的には成り立つ範囲で無用であります。
むしろ「侍集団」が闊歩すればするほどに「朝廷軍」と「六衛府軍」を強化せざるを得なくなります。
「侍集団」と「朝廷軍」+「六衛府軍」の勢力バランスは物理的に逆転して朝廷権力、強いては天皇の施政権は低下する事は必定の条理です。
どんな愚脳な天皇でもまして側近(藤原氏)もあればこそ、この程度の条理は即座に判る範囲の知恵であります。つまり、「弓矢の神」「侍集団」はもとより望んでいなかった事に成ります。
そうなれば、必然的にも「源氏」に対して、特に「清和源氏」に、更には「河内源氏」に軋轢が加わる事は目に見えています。
故に「河内源氏」と「未勘氏族」が作り上げた「変質の八幡社」は望まれて期待されていなかった事に成ります。
その証拠に「桓武天皇」は、わざわざ父方の実家先を衰退させた青木氏に代わってでも、「神明社」を天皇の自力で20社も建立しているのです。「弓矢の神の八幡社」は建立していないのです。
(確かに清和源氏宗家に修復は命じている。)
この事は、実の所は「青木氏-神明社」は期待されていた証拠であります。
ここで際立ってくる事は「青木氏の行為」が「賜姓の本来の姿勢」であって、”天皇が望んでいた事の「侍の姿」である事”に成ります。
だから「桓武天皇」の「神明社建立」であって、現実問題として挙がった事として、「賜姓族青木氏」の末裔の数に対して、「神明社建立推進」には不足の状態となり、又「河内源氏」等の「侍集団」の増加に対応する為にも母型族の「特別賜姓族を賜姓」(940年頃 円融天皇 藤原秀郷流青木氏)したのです。
まして、「桓武天皇」の子供の「嵯峨天皇」は「青木氏族」を増やそうとして賜姓を「源氏」として慌てて立てたとしてもそれが「清和天皇」の頃には「侍集団」を逆に大きく造り上げる始末と成ったのです。
まさしく”火に油”であります。其処に問題と成っていた”「荘園制」が悪用されてしまった”と成れば ”冬の大火事災害”です。
(清和天皇のところでおおくの問題が噴出する)
然し、それも「清和源氏」までの源氏では「2つの青木氏」と同じ道を歩んでいたのです。
中でも「清和源氏」の宗家の「頼光系宗家の四家」は頑なにも青木氏と同族血縁してまでも「同じ道」を歩んでいたのです。
その藤原道長に使え国司を多く務めた「頼光」に付いては「資質剛健」の性格であった事が資料として遺されていて「河内源氏」のような行動を取る人物では無かった事が判ります。
又4代目の「頼政」に付いても「保元平治の乱」後も一人源氏の中でも朝廷内に残り何とか源氏を立て直す事に努力しなかなか昇格出来ずにいたのです。
その時、清盛の計らいでやっと正三位まで遂には上りますが、然し、資料には清盛は彼を酷評しています。この頼政は強く出られない難しい立場であった事からと考えられます。
「源平の戦い」のきっかけと成った「以仁王の乱」を起した事を聞いた清盛は”あの頼政が!”と驚いた事が遺されています。この事から4代目頼政は「頼光」(宗家)に似て資質剛健であった事が覗えます。
恐らくはこれ等の資料から、この「清和源氏」の宗家の「摂津源氏」側と次男の「大和源氏」側と、三男の分家の「河内源氏」側とを朝廷や清盛等が対比していた事を物語り、この「河内源氏」は清盛等から危険視されていた事が判ります。
全てはこの様に歴史の姿を顧みると、”頼信系の分家が事の道を違えてしまった”のが原因であった事に成ります。
この下記のデータをも含めてより詳しく観てみるとこの事を裏付けています。
「遺戒の意味」
何度も延々と前記から繰り返しますが、「青木氏家訓10訓」はこの”「道の採り方」を間違えてはならない”として ”人のあるべき姿”を、むしろ、進む道を指し示す ”「長」としてのあるべき姿”を説き誡めているのだと考えます。丁度、この頃に「2足の草鞋策」は採られ、家訓の根幹は造られたと考えられます。
「青木氏家訓10訓」そのものが「清和源氏の滅び行く姿」を物語り、それを観て危機感を感じ頼政の孫の京綱とその末裔は「青木氏家訓10訓」としたのではないかと観ています。
恐らくは、この家訓はこの清和源氏の四家の宗家頼光系頼政の孫京綱が「伊勢青木氏」の跡目に入り生き残った事から、この家訓を最初に作ったのではと考えているのです。
(この時かなり緊迫した状況に「2つの伊勢青木氏」は追い詰められていたと考えられます。場合に依っては伊勢手前名張辺り(伊勢は「不入不倫の権」で保護されている)まで攻めてくる事も考えられ、その時は「特別賜姓族の伊勢青木氏」も深く血縁を結んでいる以上は秀郷一門を背景に「たいら族」と一戦を交える事を覚悟していた筈です。然し、さすが「たいら族」は伊賀和紙で青木氏と深く繋がった古い深い絆を配慮して攻めて来なかったのです。それどころか”主謀者の孫の助命嘆願に応じる”と云う前代未聞の態度を採ったのです。)
宗家側は河内源氏の破天荒な生き様を批判していた事を物語るもので伊勢青木氏のみがこの事を証明出来る事なのです。
そして、その「行動の現われ」として「力みのある力」に頼らず、「2足の草鞋策」を採り「特別賜姓族」との極めて親族以上の親密な交わりを採ったと考えています。
そして、賜姓族29氏と特別賜姓族116氏とは結束を強くする戦略構築に邁進したのです。
(参考 特別賜姓族青木氏の賜姓族青木氏に対する援護働き
前段で論じて来た事ですが、四日市には「賜姓伊勢青木氏」と「特別賜姓族の秀郷流伊勢青木氏」の「融合族」が定住している。この助命嘆願の恩義に対して「信長の伊賀攻め」の時、「2つの青木氏」は伊賀一門末裔と民を名張から側面を突いて出て助ける。 然し、信長は「たいら族支流末裔」で伊賀一門もその支流末裔の同族だが血縁の意識は薄らぎ攻めた。 それは「たいら族」は忠盛の時、摂関家に対して伊賀一部の知行を具納した事から血縁意識は薄らいだと考えられる事と、室町幕府初期に元北条氏の執事に対してこの伊賀の知行を味方した勲功により与えたなどの経緯があり薄らいだと考えられる。 美濃-尾張では「源平の戦い」で「美濃の特別賜姓族青木氏」は一部生き残った「美濃青木氏」と「近江青木氏」を残そうとして奔走するが失敗する。又、室町期に美濃-尾張では織田軍に対して「美濃の特別賜姓族青木氏」が仲介を採り「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と一部生き残った「美濃青木氏の末裔」を護った。武田氏滅亡時の諏訪族青木氏と武田氏系青木氏の逃亡を各地で助けた等の一心同体の様な関係の歴史史実がある事に留意。)
前段で論じた「4つの青木氏の結束」はこ「の祖先神-神明社」の強い絆の経緯事から生まれたのです。そして現在に生き残れたのです。
そして、その生き残れた思考の根源はまさしく「祖先神-神明社」にあったと考えているのです。
この「祖先神-神明社の考え方」だからこそ ”世に晒す事なかれ” の「遺戒」は遺され、護られた、又は護らせたと云えます。
実は、前記しましたが、「生仏像様」の処で書いた ”世に晒す事なかれ” の「遺戒」はこの「河内源氏の失態」を「青木氏家訓10訓」とは別に「総訓」として言い残したものと解釈しているのです。
恐らくは、清和源氏頼光宗家の4代目頼政の孫に当る青木氏の跡目京綱は分家の行状を観て「誡めの言葉」を「青木氏末裔」に残したと観られます。
つまり、どう言う事かと云うと、宗家側はこの「河内源氏の行状」を強く批判していたのではないでしょうか、しかし、反面では”世に晒された為に道を間違えた”とも観ていて、(”「未勘氏族」に「源氏の棟梁」と煽られた”として) ”世に晒す事の危険や意味の無さ” に疑問を持っていたと考えられます。
現在でも、”世に出る事”が”何か発展に繋がる”と考えれがちですが、当時でも同じであったと考えられ、この事に疑問を持っていた事が判ります。
そもそも、源氏は清和源氏だけでは無く11代もの源氏があり、決して「源氏の棟梁」でも無く「武家の棟梁」でもないし、まして上記した様に「経基王」は賜姓にも問題があり、「賜姓族の源氏」で無い事でもあり、まして、「河内源氏」は三男の分家筋であり、この「呼称の意味」は空虚で世の中の勝手な利益に振り回された事であり、まさしく”世に晒された事”を物語ります。
仮に、「源氏の棟梁」とするのであれば、筋論からすると初代の源氏で最後まで残った「嵯峨源氏」が「源氏の棟梁」である事に成ります。
更に強いて云えば、青木氏を加えた同族16代として見ると、「3つの発祥源」で皇祖神に繋がる「祖先神-神明社」であり、「氏上様」の呼称があり、「御師」の呼称があり、大化期からの「融合氏族」の末裔であるのですから、「青木氏」が「棟梁」である事に間違いはありません。「生仏像様」「笹竜胆の象徴紋」「象徴の青木神木」等を以ってすれば「分家の河内源氏」が”源氏の棟梁”などとする事は極めて論外です。
それどころか、”棟梁族でない”とすれば清和源氏の分家の「河内源氏」が最も無い同族であるのです。
基より青木氏から観れば「遺戒」の通り ”棟梁”とする事には!”以っての外”であります。
この事は当時で在れば「衆知の事実」であった筈で、まして「清和源氏」には上記した様に賜姓と出自に問題を持っていた事も衆知の事で在った筈です。この様な世の中の様子を「嵯峨源氏」や「2つの青木氏」からすると苦々しく思っていた筈です。まして現在と異なり一族一門が集結している氏家制度の中ではこの掟を守る事やこれ等の「情報の伝達」は社会の重要な要素であった筈です。
しかし、つまりは”「源氏の棟梁」”と世の中では勝手に自らに都合良く「河内源氏の未勘氏族」が中心に成って晒されてしまったのです。「八幡社」もこの流れの中での事だと考えられます。
この事を宗家側の京綱は伊勢から河内に向けてつぶさに観ていたのです。
助命嘆願の日向の宗綱と有綱の兄の二人も同じ印象を持っていたと考えられます。研究を進めば日向青木氏にも何か遺しているのかも知れません。
当然に、同じ行動を採っていた「特別賜姓族伊勢青木氏」にも、極めて親族付き合いにあった「信濃青木氏」にも何がしかの遺訓が遺されているのではと考えられます。この事は青木氏ならではの判る事であります。
伊勢青木氏の宗家にこの「遺戒」の言葉が現在までも長く口伝されている事はそれを明らかに物語っています。大した意味の無い事は「遺戒」として代々に口伝されることは無い筈です。意味の無いものは何時か消えるものです。
このデータを分析してみた時に数字からもその事を物語っている事に驚いたのです。
「神明社-八幡社」の上記の関係表からもこの「生き様」が読み取れのです。
「源氏の棟梁」と「八幡社の弓矢」
「源氏の棟梁」の呼称や「八幡社」の弓矢の守護神の事は、強いて云えば、上記で論じた経緯から見ても「河内源氏の頼朝」までのものであって、その後は「河内源氏の未勘氏族」に依って自らの系譜や出自を正当化しようと利用した「源氏の棟梁」や「八幡社」であった筈です。
(「荘園制の名義借り」の「未勘氏族」からすればこの「2つの事」は生き残りのためには止むを得ない仕儀であった事は否めませんが。)
上記に述べた結論より、その為に明らかに「八幡社」を政治的・戦略的な事として利用されたのであって「祖先神-神明社」の「生活の神」「物造りの神」としての普及には明らかに寄与していなかったのです。
青木氏側から見れば、河内源氏は要するに”世に晒された、又は世に晒した”のです。
どちらかと云えば、筆者は”「源氏の棟梁」と「八幡社の弓矢」の「2つの事」を使って全国の「無血縁の未勘氏族」に依って世に晒された”とする説を採っています。その理由は上記した様に”この「2つの事」は何れも根拠が無い”からです。
とすると、場合に依っては「源平の勢力争いと決戦の必要性」は無かった事に成りますし、当然に同族賜姓族の源氏と近江青木氏、美濃青木氏を滅亡に追いやる必要性は無かった事に成ります。
「無血縁の未勘氏族」がこの「2つの事」を殊更に利用しなければ生き残れたのです。
それは「無血縁の未勘氏族」が形の上では「源氏の主力戦力」であったからです。義家の時も義経の時も頼朝の時も”イザ衰退”と成ると”蜘蛛の子散らす様に”彼等は霧散したのです。そして、その後はこの根拠のない「2つの事」を喧伝する「後付態度」を示したのです。真に世に晒される事の無責任さであります。
場合に依っては、この「無責任な大きな渦」に青木氏も巻き込まれていた可能性があったと考えられ、そうでなかったのは「秀郷一族一門の抑止力」と「特別賜姓族の青木氏の絆と背後」と「青木氏のシンジケート」があったからなのです。
(注記 「未勘氏族の存在」は専門的に研究している人か書物以外に一般には意外に知られていない。
源氏と云えば河内源氏が源氏だと思われているし清和源氏でも8氏もあるし、まして源氏は11代もあるとは思っていない傾向がある。公的な情報機関のドラマでも「河内源氏」を「源氏の棟梁」としていた程である。「桓武平氏や京平氏や伊勢平氏」として知られている「たいら族」と「皇族第7世族末裔」の「坂東八平氏」の「ひら族」との区別が付かない事とは「不思議の大間違い」です。酷いものには伊勢の秀郷一門の藤原氏の伊藤氏を「たいら族」とした歴史ドラマがあった。
この「2つの事」はテレビ、簡易書物、ネット解説等の情報機関でもこの充分な「時代考証」が出来ていない事が実に多いレベルであり、これが少なくとも青木氏に関係する「通説と云う本質」なのです。)
データから観ても「八幡社の弓矢の神」としても「河内源氏」が純粋に建立したと観られるのは、全体の2割程度弱に過ぎないのです。
後の八幡社は「未勘氏族と荘園制との結びつきの建立」に過ぎない事なのです。
彼等の「弓矢の神」の役目があったとしても国全体では「神明社+八幡社」920社の中で僅かに7%に過ぎないのです。
これでは河内源氏を除く11代もの源氏が氏を成した事として考えても、「祖先神-神明社の建立」に対して賜姓族として、”その責務や目的を充分に果たしていない”と成ります。
その様な果しているとする資料が多くが見付からないのです。
そもそも11代の源氏の内、室町期まで豪族で直系の氏として生き残ったのは「嵯峨源氏」、「宇多源氏」、「村上源氏」、「清和摂津源氏」の4氏(他に醍醐源氏と花山源氏は豪族・直系氏の要件が低く未勘氏族の可能性が強い)に過ぎない事から良く言えば ”賜姓族らしく質素に生きた”、又は、別に言い換えれば、多くは「武力と経済力」の運用の無さが「河内源氏」の様に「適時適切」ではなかった事に成ります。!”その「生き様」に弱さが在った”から「賜姓族源氏の4氏」は”直系子孫を青木氏の様に現在に遺しきれなかった”と考えられます。
「2つの青木氏」の「特別賜姓族青木氏」は秀郷一門を背景には「氏構成」の大きさは別格として、同族5家5流の皇族賜姓族(近江、美濃は支流末裔は何とか遺せた)が「源氏11代」と対比しても前段から論じている「祖先神-神明社」を通して上記するその「生き様」の違いがあり、それが適時適切であった事を物語っている事に成ります。
(絶大な勢力を誇った「特別賜姓族の援護」が「賜姓青木氏の生き様」を救った)
この他にも宗像大社、熊野大社、住吉大社、出雲大社、阿蘇大社、等の氏子集団を形成した「姓氏」の果たした充分な役目から考えると、「祖先神」を守護神としながらも概して源氏は本来賜姓族でありながら「祖先神の役目」に対してその果たした功績は極めて低いと云わざるを得ないのです。それが子孫を遺し切れなかった「生き様」に現れたと考えられます
「八幡社の議論」はデータからも明らかに成った事から、更に次ぎからは「本論の神明社」の分析に入ります。
青木氏と守護神(神明社)-18に続く。
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投稿者:福管理人 投稿日:2012/04/10(Tue) 15:34:03
さて、そもそも日本には次ぎの守護神があります。
日本に於ける守護神はその「7つの融合民族」の構成に由来します。
この「7つの融合民族」(◆日本民族の構成と経緯 - 01/21-15:25 [No.117])に付いては研究室のレポートでも詳しく論じていますし本論でも述べています。詳しくはそれを参照して頂くとしてここでは読んで頂いたと云う事で進めます。
この7つの夫々の「民族性」が下記の0~4を造り上げているのですが、この「民族性」が社会の中で「身分や家柄」を発生させて、加えてその「身分や家柄」から来る「氏の構成」に分類されているのです。
この「氏」(後の「姓氏」も含む)のその立場から来る「生き様」に合わした考え方を生み出し、そこに「守護神の存在」を想像したのです。勿論、これ等は0の「自然神」を根幹としているのですが、この「自然神」に対するその立場からの「多種多様な考え方」が生み出されたのです。
言い換えれば、この時代に於いても「氏の構成」から来る「氏の多様性」と共に「生き様の考え方」(「思考原理」とする)もこれだけもあった事を物語るものです。突き詰めれば、「現在の人」の「生き様の考え方」とあまり違っていない気がします。ただ違いはその「生き様」の中に占める「守護神」の割合です。
前段で論じた様に政治的な事までも「神に占う」と云う習慣であり、次第に時代が進むに連れて低下したとは云え生活の中に溶け込んでいた事は間違いは無く、その氏の行動に大きく左右していた事は間違いはないのです。
丁度、前段でも論じた様に昭和と平成の時代に「氏の構成」から来る「身分や家柄」(士農工商)の縛りが明治維新に解けて150年経ってやっと人々の「自由な交配」が今起っているのです。
その意味では、未だ”この「5つの守護神の考え方」が解けた”と考えられる時期でもあり、そう古い事でもないのです。つまり、この今、新しい「生き様の考え方の自由化」が起っている時期とも云えるのです。
この「考え方の自由化」の時期から約600年以前に遡った事を「祖先神の神明社」として論じているのですが、2000年の日本の歴史から考えると約600年以前から約1600年以前までの1000年の間として、この「瀬戸内」の時代(1000年頃)はその「生き様の考え方」の真っ只中に有った事が云えます。
恐らくは、その「生き様の考え方」の違いが社会の中に「大渦」として渦巻いていた考えられます。
その一つとして、各地の大神社がこの時期に系列の神社を各地に挙って「建立競争」をしているのです。この時期では「熊野神社」の「熊野蟻の詣」(本論付録末尾にデータ添付)と呼ばれた事でも有名で、「姓氏の発祥」とも重なって「自らの氏や姓氏の生き様の考え方の象徴」を荘園制に乗じた勢力拡大に伴なってその領域を各地に広げていった時期なのです。
現在ではその「生き様の考え方」は「個人の自由」として何の不思議も無く容認されていますが、この1000年の後半の「大渦」はその「生き様の考え方の是非」を巡っての争いと成っていたと考えられます。
言い換えれば、この時代の社会の中では、「5つ守護神の自由性」は無く、”どの「生き様の考え方」が「生残れるのかの戦い」”でもあったと考えられます。
従って、「累代の天皇」や「2つの青木氏」の苦闘は、「皇祖神」に繋がる「祖先神の神明社」の有り様として、「生残れるのかの戦い」の中での「祖先神の考え方の創建」であった事が云えます。
つまり、言い換えれば「祖先神の青木氏の考え方」で生残れる事が出来るのかの戦いであったのです。
その為にも、「3つの発祥源の青木氏」として何としても生き残り「祖先神の神明社の建立」を成し遂げなくては成らなかったのです。
油断すれば「祖先神-神明社」と云えどもその考え方として抹殺されていたとも考えられる程であったのです。発祥当初は問題は無かったとしても、この頃は皇族系・賜姓族系として限られた小さい氏の構成の中での考え方と成っていたのですのでありますから、多勢に無勢で多くは「3の氏神」と「4の鎮守神」の環境の中でです。埋没してしまって神明社を建立しても忘れ去られていた事に成っていた筈です。
前段でも論じた様に「祖先神-神明社」の生き残りは「3つの発祥源」の生き残りに成るのです。
その意味で、この「八幡社の問題」やこの「瀬戸内の問題」は根底にはこの「守護神の大渦」(ブラックボックス)に呑込まれる現象でもあったのです。
「神明族」としてはその意味でも「源氏の協力」は是非必要な時でもあったのです。然し、「河内源氏」は「八幡社」に走ってしまったのです。それだけに「2つの青木氏」の「祖先神-神明社の建立」に取っては大きな痛手でその立場は困難であった事が覗えます。
恐らくは、「氏家制度」の厳しい観衆の中では 源氏に対しては ”何にをやってんだ。皇族賜姓族でありながら”の批判が渦巻いていた筈です。一方「未勘氏族側の立場」からすると ”良くやった。 古い体質から脱却して大したものだ。 武家の鏡だ”と囁かれていた事でしょう。だから「武家の棟梁」の呼称が生まれたのですがこれには大きな代償を払った事に成ります。
この意味で、この「5つの守護神」に付いても前段で論じた来ましたが、改めてこの問題を大きく潜ませている「瀬戸内事件」を鮮明にする為に論じます。
ただこの事件に付いては上記の背景(守護神の大渦)が社会の中の根底に渦巻いていた事は特に留意して頂きたいのです。
人は「行動規範」の根底には、この”「生き様の考え方」が無意識の内に大きく左右しているものである”と云う事なのです。その一つの表れが今では無くなった「守護神」と云う事に出て来るのです。
現代人はこの感覚を無くしていますので、通説などを考察すると ”上辺の判断や理解” と成ってしまっていますが、当時の人々の思考の中には無くてはならない「人の芯」の様なもので在ったのです。
その「5つの守護神」の考え方の”「人の芯」のぶつかり合い”がこの「瀬戸内の事件」の背景にあるのです。
(守護神そのものの詳細は下記でも論じます。)
この「0から4の守護神の考え方」は「氏」を考える上で非常に大切な事で、決して思考の中に除外してはならないものなのです。現在では「氏」そのものを同一として論じられていますが、そもそも「氏の考え方の根幹」が異なるのです。
「祖先神の神明社」は”単なる「神明社」ではない””単なる神社の違いだけではない”と云う事なのです。
何度も云う様ですが「生き様の考え方」が異なると云う事なのです。そうなると、当然にそこには”民族の違いの軋轢や争い”が生まれのは必然です。
まして、ここにあたらしく発祥してきた「姓氏」が加わると、同じテーブル上で論じられた場合には、「氏家制度」の中で当事の歴史の出来事を正しく評価判断できなくなるのです。
「青木氏」は「皇祖神」に繋がる唯一の「祖先神の神明社」ですが、神社そのものを論じているのではなく「考え方」の歪を無くて正しく論じて「真の生き様」の掘り下げ遺そうとしているのです。
当然に、その時にはこの考え方に更には「八幡社」が関わってくるのですが、本段ではそれがどの様に関わて来るのかを掘り下げて行きます。
「姓氏と八幡社」と人の根底と成る思考の「5つの守護神」が絡んで来ると論じるのには大変です。
そこで先ずはその「守護神の違い」から論じる事にします。
「日本の守護神」
「守護神の種類 5神」は次ぎの通りです。
0「自然神」(しぜんしん) 山海・草木・湖沼・岩石等の自然物や雷・風雨・地震・火などの自然 現象に宿るものを神とし「否特定の神」
1「産土神」(うぶすながみ) その「人」の「生まれた土地の神」であり、一生来その「人」の「土神」とする「人(単独)の神」
2「祖先神(祖霊)」(そせんしん)「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、 自分の集合である一族一門の子孫の「守護神」であり「人と氏の重複性も持つ神」
3「氏神」(うじがみ) 「人の神」ではなく、「氏のみの一族一門の神」で、氏永代に守護する「氏(独善)の神」
4「鎮守神」(ちんじゅのかみ) 「現在住んでいる土地の守り神」であり、「土地・地域」を守る「土地・地域の神」であり、「人」は土地に吸収されるとした「土地・地域優先の神」
そもそも前段でも論じましたが、0の「自然神」は全ての共通する「守護神の根源」となる「神」で、全ての民の「思考の基準」と成るものです。
ただ、「後漢の民」の帰化人の末裔(阿多倍一族一門)には若干違和感がある筈です。しかし、その違和感もそもそも後漢の帰化人は「道教」を根源としているのですから、「産土神」であっても前段でも論じた様にその「道教の根源」も結局は「自然神」を根源としている事には違いは無い事に成ります。
この「5つの守護神」の中でも特に「産土神」がその考え方としては異質です。然し、この考え方が阿多倍一族一門によってすごい勢いで全国に伝播して行ったのです(前段で論じた 32/66国)。
(この時、職能集団の鞍造り部の首魁の司馬達等に依って仏教も同様に私伝されていたのです。)
中でも関西以西では彼等から「職能の享受」を受けていた民に取ってはこの「産土神の考え方」に当然に牽かれて行ったのです。また牽かれなければその職能の享受と豊かさを授かる事は不可能であった筈です。
それだけにこの「瀬戸内」の事を語る時この「産土神の考え方」を度外視出来ないのです。
その「産土神」の柵のあるところに「祖先神」は兎も角も「八幡社」で「源氏の自分の世界」を構築する事はかなり困難な環境下にあったのです。瀬戸内の事は、血縁で地元に根付いた「讃岐籐氏」であり、彼等の伝統である持ち前の柔軟さからこそ成し得た事であったのです。
まして、当初、清和源氏は「産土神」や「祖先神」ではない「海の神の住吉神社」に傾注していたのです。もとよりそもそも策謀を労しても難しい事であった筈なのです。
「産土神」
先ずは、その1の「産土神」は「瀬戸内」の問題でも「純友神社」に大きく関わって来る重要な要素なのです。依ってここでは先ずは「産土神」に付いて特に掘り下げて論じます。
上記の1の通り、”その人が生まれた「土地の神」を「その人の神」とし、同じ「氏」の者でも生まれた土地が異なれば「その人の神」は異なる”とするものです。
当時の社会は同じ族を成す者等が集まり集団で身を護る習性を持っていたのですから、人は確かに多くの者は集団で住む事に成りますから必然的に同じ神を守護神とする傾向が起こります。
しかし、これらの末裔が時間と共に広がり融合し枝葉化すると、当然にその生まれた「土地と環境」が異なって来ますから、「守護神」と云う意味ではこの場合はある程度の「自由性」を保持している事に成ります。
従って、親と子供が守護神が異なると云う事が起こるのも当然ですから、親や支配者や氏との守護神が異なり考え方が違うと云う事も起こる事に成ります。つまり、「自由性」と「個人性」を強く持つ守護神なのです。
つまり「その人(単独)の神」であって、「祖先神」の様に「氏の神」は「氏」に属する自分であるから当然に「自分の神」は「氏の神」とする「集団性を持つ守護神」では絶対性は無いのです。
依って「産土神」では「祖先神」の様な「拘束性」が無い事に成ります。
「氏の神」=「自分の神」と、「自分の神」≠「氏の神」の考え方の違いなのです。
前者は「氏の神」は「直接的な神」となり、後者は「氏の神」は「間接的な神」と成ります。
そうすると、後者は「自分」と「周囲の者」はある場所に於いて同じに成り、又そうで無い事が起こります。
それは「産土」(うぶすな 生まれた土地)ですから環境が変われば「周囲の者」は必ずしも同じとは成り切りません。
末裔の先祖は当初は「氏の神」=「自分の神」が成り得ていたとしても「人と場所の変化」は勿論の事として「時の変化」に依ってもこの関係は崩れる事に成ります。
「瀬戸内」で生まれたとすると家族・親戚は「同じ神」を信じる事に成りますが、家族構成の範囲である場合が殆どと成ると「氏の神」が「自分の神」と云う事には成り切りません。
前段で論じて来た様に、この考え方の主は、そもそも奈良期に彼等の全ては後漢から来た阿多倍一門の「職能集団」の考え方であり、この瀬戸内の沿岸に住みついた「後漢の民の帰化人」のものであり、且つ、その民を海の上に起こる海事から護る「阿多倍の海の兵能集団」のものでもであるのですから、「民族氏」であり「海部氏」等の様な列記とした「品部の姓氏」(かばねうじ)のものでもあります。
然し、この考え方はこの間、既に600年近く経過しています。
この間にこれ等の「海の兵能と職能集団」が「姓氏」として独立したのが「海部氏」であるのです。
そして「陸」では「陸の兵能集団」の「武部氏」と、「職能集団の陶部」の「陶氏」が「姓氏」として独立して勢力を拡大したのです。
この「海部氏」や「武部氏」や「陶氏」などはそもそも元来の地は「職能集団」であり、武力を持たない集団であったのですから、「姓氏」として成り立ち勢力を持つには「海の兵能集団」と「陸の兵能集団」の協力が不可欠で絶対的必要条件です。
瀬戸内で発祥した日本最初の「品部」から生まれた「姓氏」で、これ等の「姓氏」に成り得たのはこのまさしく「海の兵能集団」(海部)に護られていたからであり、その海から得られる富を背景に勢力を拡大し「姓氏」と成り得たものなのです。
陸の「姓氏」の「陶部氏」も「武部氏」もこの「海の兵能集団」に護られていたからこそ室町期には中国全土を支配する「陶氏族」となったのです。
ただ、互いの部の異なる者達の間には、問題は上記する”産土神の関係がどの程度思考の中に遺されていたか”と云う疑問が湧きます。
「産土神の影響」
「場所の要素」は瀬戸内である事は帰化当初からは同じとすると、「人の要素」は”海族””海部族”として存在しているとこから多少の変化を起していたと観られますが、この族の「産土神」は依然として存在していたと考えられます。しかし、この各海族の「族間」は「海部族」を「姓氏」として「海の兵能族」として生存し維持し互いに相互保護していた事から多少希薄には成っていたとしても存在していた事は確実です。
多少の希薄に成っていた分は、職能関係で ”相互間には「経済的条件の関係」の要素で補われ成り立っていた”事と観られます。
「海部氏」は他の「海族」から身の安全を保つ「武力的な保護」を受け、「海族」はその見返りとして「経済的な保護」を受けて成り立っていたのです。特に上記した様に「産土神の考え方」がこの「相互関係」、即ち、「自由性」と「個人性」-「否拘束性」を持つ事から、この「経済的な相互関係」を強く持つ事が特徴とするのです。各海族の族間の「希薄の分」は「経済的な結付き」で補完されていたのです。
つまり、「祖先神」が持つ「経済的な相互関係」は「当然の義務の事」として優先的に成立するのに対して、「産土神」では「義務の事」は「補助的な要件」として存在するのです。つまり「相互依存の関係」で成り立っていた事です。
経済的な相互関係→祖先神・・義務的要件 「産土神」・・補助的要件(相互依存)
実は、戦略上の常道として、「陸戦力」は海からの攻撃に弱いのです。その弱点を「瀬戸内の兵能集団」が護っていたから「陸での勢力伸張」が可能だったのです。
例えば、ここにその事例があるのです。前段で論じた事ですし、上記の義経が平家水軍を瀬戸内で破った直ぐ後、平家は最終決戦を挑む為に、「敗残兵」を集め水軍を建て直し集めて密かに頼朝の根拠地の鎌倉沖の海に三々五々終結したのです。水軍の持たない慌てた陸戦軍の頼朝軍は弱点を突かれて逃げ始めたのです。ところがこの事を察知した伊豆沖の大島群島の大島源氏の水軍が黒潮を乗り越えて不眠不休で3日で到達したのです。既に頼朝は海から攻められて敗走しているところであってこれが一日遅かった場合は鎌倉幕府は無かった事に成ります。
大島水軍が伊豆沖を通る船の多さに疑問を抱きこれを「察知」した上で、且つ「3日」以内で到達しなければ頼朝軍は滅びると観たのです。そこで来るとは予想もしなかった計算外の平家水軍は今度は船団の背後を突かれて、これを観た勢いついた陸戦軍との挟撃に合い殲滅してしまったのです。
大島水軍が動く事と頼朝軍の掃討は5日と見込んでの「秘密戦略行動」であったと記録されているのです。これが本当の源平の最終結末なのです。
事程然様に、「瀬戸内の海族の背景」が無くしては「陶部氏」にしろ「武部氏」にしろ自らの力ではその勢力の拡大は例え「海の富」があるとしても「姓氏」には成り得ないのです。
この「海の族」即ち「海族」の力が伴っている事が「姓氏としての絶対条件」なのです。それは現在の軍備においても戦略上同じです。
この証拠に室町期には「瀬戸内の兵能集団」は「陶部氏の配下」に入ります。
瀬戸内の「陸の兵能集団」は「武部氏」、「海の兵能集団」は「海部氏」等です。
(注釈 他に奈良期に蘇我氏と戦い滅亡した「兵能集団」として「物部氏」がある。実は「海部氏」と「磯部氏」の職能の境界が不祥で、「海部氏」は兵能と海産物の職人、「磯部氏」は海産物と兵能の職人の両方が記録から出て来る。先ず「海の領域」が異なっていた事ではないか、「海部氏」は外海側 「磯部氏」は内海側 従って「海部氏」は外海から互いに内部で役割分担して兵能役に重点を置いて居たとも考えられ、同様に「磯部氏」は内海であっても職能に重点を置いていたとも考えられる。 恐らくは「海部氏」の場合は家族が海産物の扱いも演じていたと考えられる。時代の変化と共に「生活の糧」の為に区分しなく成ったと考えられる。)
(注釈 前記したが、「武」と「兵」の違い 「武」の”もののふ”は「氏家制度」に依って発祥した武装集団でその「氏の宗家・武家」を主とする組織の支配形態化にある「武の士」を云う。
「兵」の”つわもの”はその集団の首魁の下に兵能職として集合し集団の首魁の直接的支配形態にはなくほぼ「兵能請負形態」に近い軍団の「兵の職人」を云う。
後に「武の士」は「武士」と呼ばれその「武の道」としての規律を養い育成した。下克上が起り主家宗家が逆転した事から江戸時代にはこの「武士」までを「武家」と呼称する様に成った。
「兵の職人」は奈良期に後漢の民の職能集団が帰化してからこの中の兵能の集団が「兵」”つわもの”として職能者として定着したもので、歴史的には漢氏や東漢氏や物部氏がこれに当る。室町期には雑賀集団、根来集団、柳生集団等の兵能集団がある。室町後期には”もののふの武士”と”つわものの兵”が「農兵」も加わり一つに成って行きます。)
この「二つの海と陸の兵能集団」を配下にしたからこそ室町期の下克上では陶部の「陶氏」中国域全域を制覇出来たのです。
この「海部氏」は「海の兵能」と共に沿岸部の末裔一族やその家族集団等が営む「海産物全般」をも取り仕切って販売しその富を得てその船団の輸送力(造船力含む)と武力を使って勢力を拡大したのです。
これ等の意味も考慮に入れて「産土神の純友神社」と云うものの存在はただの”神社”の意味だけでは無い事がよく判り、大いに生活に関わる事でもあります。
そもそもその行動は上記する「思考の根幹」にも通ずるものであって、その「純友神社の存在」の判断は「思考」と「生活」とに直接に関わる事であり、彼等の共通する「集団の象徴」でもあります。
現在、我々が感ずる神社・”お宮さん”のそのものの単純な事では無いのです。
(通説ではこの様な時代考証が無視される傾向がある)
これは上記した様に「祖先神-神明社]も「氏の神」=「自分の神」の関係にあった訳ですから、尚更に同じ以上により強いものであった事に成ります。
そして、この様な事の記録資料が彼等の「産土神」の「純友神社」系を含む神社に所蔵されているのです。
この絵巻などを含むいくつかの所蔵資料を総合する事で「海族」としての「海の族の活動具合」が読み取れるのです。
又、全く同じ時期で同じパターンが美濃から駿河の海域でも起こっており、上記した「駿河水軍」に護られて「海の族」の「磯部氏」が「海部氏」と同時期に中部地方の「姓氏」として勢力を拡大したのです。
又、やや異なるかも知れませんが、前段で論じた「伊勢-信濃の賜姓青木氏」も「伊勢シンジケート」の一つの「伊勢水軍」を背景にしていたからこそ「2足の草鞋策」が成し得たもので、生き残りの大きな背景に成っているのです。
当然に「瀬戸内の水軍」の「産土神」の「純友神社」(仮称)と同じく、「祖先神の神明社」は関西以東のその陸海の「シンジケートの象徴」でもあったのです。
そもそも何処に於いても「氏」の生き残る構成は突き詰めれば同じなのです。”ある物に共通する象徴を求める”と云う人の「本能的習性」があるのです。
勿論、「神明社の特別賜姓族の青木氏」に於いても前段でも論じている様に寸分違わぬ構成に成っているのです。これは最早、「氏家制度の古氏の条理」ともされる絶対条件なのです。
(この判断要素が通説には多く欠落している。)
その彼等の「瀬戸内と云う海域」に祭祀する伝統的な守護神は「瀬戸内の産土神」であります。
対比して「祖先神」は環境には無関係で遠くに居ても「氏の守護神」は「自分の守護神」でもある事に成ります。従って、「瀬戸内の産土神」の環境の中に於いてでも「祖先神-神明社」の存在は「生活の神」「物造りの神」である為に彼等に受け入れられる事が可能と成り得ますので、この「瀬戸内」にも「神明社」が存在している事に成ります。
(その反面、八幡社は上記した問題があり彼等に受け入れられ難い環境にあった)
そもそも前記したように「神明社の存在意義」は「祖先神」と云う括りがあったとしても、「豊受大神宮」を祭祀しているのですから「物造りの神」「生活の神」の「存在意義」があり、「産土神」に限らずどんな「守護神」の中に於いてでも「民の生活の営み」が存在するところには敬愛され信心される事が可能という事に成るのです。これは「産土神」と「未勘氏族が作り上げた八幡神」との融合とは異なるところなのです。
さて、そうすると、「瀬戸内の産土神」を守護神とする環境の中に、「讃岐籐氏」の「藤原秀郷流青木氏」の「特別賜姓族」としての「祖先神の神明社」は少なくとも抵抗無く受け入れられる事を意味しています。
つまり、「藤原純友」の周囲(讃岐籐氏護衛団の秀郷流青木氏)には彼等の「海族」を説得出来得る条件はもとより「思考原理」としても備わっていた事を意味します。
この事は ”純友が海族に成ったとする通説”には「純友-海族」の生きる世界の間には”「大きな隔たり」が存在している”とする前提条件が論理的に付いている筈です。
”解離しているから同じに成ったとする事が変質である”としていて、それを非難されているのですからこの事から考えてもこの「海賊の通説」は全くおかしいのです。
(特記 上記の矛盾考証以外に、伊予住人、伊予三等官、有品官位保持、令外官追捕使、一族讃岐籐氏、特別賜姓族護衛団、瀬戸内利権、瀬戸内血縁族、父は大宰府少弐-上野守国司、藤原北家秀郷一門等のこれ以上無い「絶大な生活環境」を保有する人物であり、一転してこの環境を捨てて「海賊」に成り得なければならな利点が無い。むしろ「瀬戸内海賊」をその環境の一つに加えての「全瀬戸全域の利権」と「血縁絆」をも収めてしまった事による為政者側(朝廷)の「怨嗟」と「危険視」の発露であった。つまりは”出る釘は打たれる”の例えの通りなのです)
然し、「産土信徒」の海族側と「神明社信徒」の同じ瀬戸内に住む「讃岐青木氏」等の純友側には「物造りの神」「生活の神」としての「共通項」が存在していたのです。この「共通項」が触媒と成って海族側の「拒絶反応」が霧散した事を意味します。
「瀬戸内の讃岐青木氏」
「讃岐籐氏」を支えていた「第2の宗家」の「讃岐青木氏」が下記の「融合条件の関係方程式」に大きく関わっていたとしているのです。
「讃岐籐氏」の護衛団は「讃岐青木氏」です。この「瀬戸内の海族団」との交渉に無くてはならないのはこの護衛団です。仮に「海族団側」と談合が付いたとしても「彼等を護る力」が純友側には保障として絶対に必要です。
(特記 丁度、真にこの時期に秀郷一門の「武士の護衛団」は秀郷第3子千国を長として「特別賜姓族の青木氏」として朝廷より「青木氏」を賜りその任務に任じられる。秀郷は「将門の乱」を平定する条件として「2つの条件」を朝廷に提示 [貴族に任じられる事 武蔵下野を領国とする事]。 「公家の藤原氏」に成る事により自ら「秀郷正規軍」はもてない事から千国にその「正規軍」の任務を与え、その「護衛軍」に成った「武家の青木氏」の賜姓を特別に受けて「貴族の護衛団」らしく権威付けた。公家は護身用の武士は持てたが戦い用の武士団は持てない慣習がある。この経緯より「秀郷流青木氏」は939年から940年の発祥と観られる。純友事件の直前に「純友の護衛団」は「特別賜姓族」の名誉と「青木氏」の名籍を獲得して純友は「追捕使の任」と共に彼等を説得する事に勢い付いたと考えられ、同時に「瀬戸内の民」も信頼する条件が生まれた筈です。当初は朝廷も「秀郷勲功」と「祖先神-神明社建立」に配慮した事が「純友任務」にも影響を大きく及ぼしたのです。 余りの影響に「朝廷怨嗟」が生まれた。
この時期の朝廷は「将門の乱の鎮圧」に誰も手を挙げなかった程に信任を落としていた。結局は平貞盛と藤原秀郷の2人が条件付で手を挙げた程であった。体裁を保つ為にやっと経基等の「追討軍」を編成して関東に送ったが既に鎮圧後の対面策であった。)
(特記 上記した様に「特別賜姓族」に任じられた理由には皇祖神に繋がる「祖先神-神明社」の普及建立など幾つかあるが、筆者はその一つとして「朝廷内の勢力争い」の中で北家筋は瀬戸内に勢力を伸ばしていた「讃岐籐氏の純友」を背後からバックアップする意味で、全国の藤原氏北家の中でも最大勢力を誇っていた「讃岐籐氏」のその「護衛団」に「特別賜姓族」とする「権威付け」をさせて事を上手く図れる様にこの期をわざわざ選んだと見ているのです。政治的経緯から観て全国的にもその権威付けの必要性の機運は北家筋としては高かった。「令外官追捕使」の任命もその一つであった。)
「令外官追捕使」の純友にはもとより彼等を護り抜くだけの兵力は与えられていない訳ですから、護衛団の「讃岐青木氏の武力」が絶対的に必要です。
そして何と云ってもこの「讃岐青木氏」はただの護衛団ではありません。
「特別賜姓族」と云う「朝廷のお墨付き」を持っています。「物造りの神」「生活の神」の「神明社」を各地に建立し続けている特別賜姓族です。彼等海族も「物造りの職能集団」の末裔です。
瀬戸内沿岸と山陰までの土豪との血縁による「幅広い血縁族」を有しています。
更には、秀郷一門の116氏の中でもトップクラスの「2足の草鞋策」の「経済力」とそれに伴なう「廻船力」を有しています。
これだけの「裏付と権威」があれば「瀬戸内の海族」に取っては信頼は出来て文句はなかった筈で、武力に依る彼等の「身の安全」の確保と「海産物の販路」の拡大の点に於いても彼等の「生活の安定」に繋がります。一方「讃岐青木氏側」に取っても「瀬戸内の富と利」に大いに繋がる事です。
貴族の「讃岐籐氏」はとりわけ「藤原北家」の「下がり藤紋」の一族は自らが武力を保有せず「秀郷流青木氏」(朝廷より特別賜姓族としての特権を与えられている)を「武力の護衛団」とするのが朝廷より認められた氏であり貴族です。
依って、「瀬戸内の海族」との交渉には、少なくとも彼等には「秀郷流青木氏」(特別賜姓族としての特権を与えられている)が背後にあるとして「純友」を観て居た筈です。
「瀬戸内の令外官の追捕使」として、又、「純友の個人的な信頼」も然ることながら「特別賜姓族としての特権」を背後にあったからこそ交渉に応じたと考えられます。
「純友の個人的な信頼」は直ぐに醸成され得ないし、「令外官の追捕使」はその役目柄から海族側に取ってみれば「敵対の立場」にある訳ですから直ぐに容易に交渉に入れる事は先ず在り得ません。
其処には、何かかれらを交渉の場に入らせた何かが在った筈です。
その背景には”それが「讃岐青木氏」の存在だ”と考えているのです。
この「讃岐青木氏」のこの「瀬戸内の活躍」にあり、四国はおろか山陰までの血縁による広い関係保持が「瀬戸内の彼等」を信頼させたと観ているのです。
安芸や美作の「瀬戸内の沿岸族」との枝葉血縁の中には彼等との血縁もあった事が「讃岐青木氏」の枝葉の家紋分析から考えられるのです。この安芸と美作の瀬戸内の沿岸部には上記した海部氏や武部氏や陶氏等の「姓氏」を始めとする「土豪の集団防衛態勢」が特に起っていたのです。そしてその連合体と「讃岐青木氏」は血縁関係を結んでいるのです。
これが「讃岐籐氏」の特筆する事柄なのであって、”この血縁によるこの深く浸透した人間関係が直ぐに交渉に入れた背景だ”と観ているのです。
更には古来より天皇から信任を得ていて「特別賜姓族青木氏」として「祖先神-神明社」の「物造りの神」「生活の神」を民の為に建立する氏であったからこそ信頼して「瀬戸内の海族」の兵能集団の彼等は話し合いに応じたのです。
何時の世も何も無しには幾ら何でも難しいのは”この世の定め”で、其処には「信頼と絆」とが先ずは醸成されていてこそ交渉事は成り立つものです。
それだからこそ何よりの証拠としてこの「瀬戸内の関係」は時代の荒波の遍歴にも関わらず四度も蘇る事が出来たのです。
突き詰めると、その「思考原理の根幹」は「瀬戸内の産土神」にあったと考えているのです。
この瀬戸内の彼等にはこの「産土神の思考原理」であったからこそ下記する関係式が成り立ったのです。
「産土神の思考原理」が無ければこの談合は成り立たなかったのです。
(特記 前段で「亀甲集団」など論じた様に、「讃岐青木氏」の讃岐宗家の家紋は「下がり藤紋に副紋雁金紋」としている事でも明らかで、秀郷流青木氏116氏の主要紋には亀甲文様を副紋としている青木氏は3つもあり、亀甲紋に限らずその枝葉の支流文様からはこの安芸-美作の土豪や姓氏の家紋を副紋としているものが実に多いことでも判る。 特に平安時代中期頃から用いられた古い文様群であり、「亀甲文様族」は中国地方の全域で「集団防衛態勢」を古くから強いていた事で有名で、それの文様の3つもの「亀甲紋様族」と血縁し、尚且つ、四国側沿岸族の「雁金紋」との血縁をしていることは「瀬戸内沿岸族」と網の目の様に血縁族で結んでいた事が判る。 「雁金紋様類」は瑞祥紋である為に「神紋」としては奈良期からあり、「象徴紋」としては平安初期からあり、「姓氏」としての文様としては四国よりこの平安末期頃に発祥し、問題の「瀬戸内沿岸族」の海部氏一族や海野氏一族や亀田氏一族等がある。海野氏や亀田氏等は「瀬戸内の兵能集団」の「海族末裔」かは確実な確認は取れていないが「武力と経済力の姓発祥条件」から観て可能性が極めて高い。
瀬戸内の兵能集団を獲得して「絶大な武力」を保持し「瀬戸内の利権」と「青木氏の名誉」と「産土神族」を味方にした伊予讃岐の三等官の完全な聖域を超えてしまった)
「融合条件の関係方程式」
海族=産土神
讃岐籐氏+讃岐青木氏=神明社
産土神=共通項(「物造りの神」「生活の神」)=祖先神-神明社
共通項=触媒
「産土神」+「触媒・共通項」+「祖先神-神明社」=「純友神社」
「大蔵氏と瀬戸内海族との関係」
そうすると、讃岐籐氏との「純友神社」として関係が成り立つ事が判ったとして、元主筋に当る九州の「大蔵氏」と彼等の「瀬戸内の海の族」との関係はどの様に成るかの問題です。
当然に確かに阿多倍一門の大蔵氏は主筋であっても、何れも「産土神」である事から考え方に関しては両者とも異なり縛られない考え方に成ります。
当然に、「場所、時、人」の要素は長い間に変異している訳ですから、同じ「産土神」でも異なってしまう事に成ります。まして「産土神」には血縁に関する「家柄、身分、血筋の縛り」が希薄で在りますから、融合する範囲は変異すると、”「産土神」で繋がると云う関係”は希薄に成る事は必定です。
ただ、この「大蔵氏」の場合は他の「3つの守護神」と異なり「産土神」とする考え方には、つまり周囲の土着民の考え方には融合し難い所があった事は現実には九州に於いて史実から観て否めません。
当然、そこで、九州に居ても大蔵氏が彼等の「理解」と「利害」と「安全」を護ってやっていればそれはそれで主筋として「瀬戸内の民」はたとえ「兵能集団」であるとしても「儀」を護るでしょう。
しかし、そうでなければ時代を経て「瀬戸内」で生まれた者達は「産土神」の考え方から、「瀬戸内」で生まれた異神の「純友」であり主筋としては「身の安全」を護ってくれる「讃岐藤氏」である事に成りますし、彼等の「理解」と「利害」と「安全」が叶えられれば、大蔵氏の「主筋の儀」を捨てても良い考え方に成ります。
「神明社」の考え方ではそれは不可能で「不儀」と成ります。ですから「河内源氏」の「八幡社の行動」に問題が出てくるのです。「河内源氏」が「産土神」であれば問題はありません。しかし、「皇族賜姓族」である限りでは「祖先神」でありますから永遠に不可能であります。しかし、「河内源氏」の「未勘氏族」とした者達の多くは九州の土豪が多いのです。
つまり、「産土神」の考え方を「思考の根源」に持っている「後漢民の末裔」の土豪なのですから、彼等からすると「未勘氏族全体の守護神」を「八幡社」としてもそこには何等問題は無い事になります。
そうすると、「河内源氏」が守護神の処で「賜姓族の生き様」として問題を起している事に成ります。
だから「未勘氏族」が「国家鎮魂の八幡社」を自らに都合良く「弓矢の八幡社」に変異させて、勝手に自らの守護神であるかの様に吹聴しても何ら問題が無い事に成りますから、自由奔放に全国に広まった事に成るのです。「河内源氏」はこの現象を承知して故意的、恣意的に放置して利用した事に成ります。
その利用した「河内源氏の目的」は「未勘氏族の武士団の形成」にあって、それに依って得られる利益・利得を享受する事にあったのです。それが「瀬戸内の利権」を獲得出来なかった「腹癒せ」と云うか「見返り部分」で、「たいら族」と異なり源氏は「産土神」を守護神とする同民族の「兵能集団」を元から持ち得ていた訳ではなく、「賜姓族」として武力を持つには「未勘氏族の武士団の形成」以外には無かった事に成ります。従って、「武力」を優先する限りは「賜姓族」としての「祖先神」を不義であっても捨てる以外になく成る事に成ります。
これは「河内源氏」がこのジレンマに落ち至っていた事を意味します。当然その結果として、朝廷や天皇から「3つの発祥源」としての勤めを果せなく成る事から排斥や軋轢を甘んじて受けなくてはならない羽目に陥ります。因果応報で在ります。
同じ立場にあった「2つの青木氏」は「3つの発祥源」の立場を護り、このジレンマから脱する為にも「武力」ではなく、前段で論じた「抑止力」とそれを経済的に裏付ける「2足の草鞋策」を採ったのです。
「たいら族」に取ってみれば「武力」に対する苦労は「産土神」を守護神とする「兵能集団」を当初から備わっていた事に成る訳ですから、後は経済的裏付を採る事(宗貿易)で一族一門の発展は直ぐに成り立ちます。故に更には大蔵氏等の一族一門の背景も「官僚の職能集団」として朝廷内にあり、たった5代で太政大臣に上り詰めた事に成ったのです。ここに源氏との大きな違いが在ったのです。「氏発祥の差異」とも云うべき違いです。
(特記 「阿多倍一門」(坂上氏、大蔵氏、内蔵氏系)は敏達天皇系の女系の血筋と光仁天皇-桓武天皇系(たいら族、阿倍氏系)の女系の血筋を引く賜姓族の出自 大化期より兵能・職能集団が配下にある。「産土神」グループである。
「源氏一門」は嵯峨期以降の累代天皇の第6位皇子の臣下賜姓族 その内、「清和源氏」は例外皇子順位の賜姓臣下族の出自 兵能・職能集団は配下になく、荘園制を利用して「名義貸しの未勘氏族」を組織化して配下に治めた。「祖先神」グループである)
そうすると、今、論じている各地域の「未勘氏族」が九州から関東域まで存在しますから、当然に「未勘氏族」の考え方は「産土神」だけではなくなる事は起こります。
「産土神」では西の分布域は兵庫県の西域までです。ですからそこから東域は「産土神」ではない「未勘氏族」と成ります。殆どは「姓氏の守護神」の「3の氏神」ですから、当然に同じ「未勘氏族」であっても「心の考え方の根源」は異なります。
この事が上記で論じて来た様に地域による「八幡社の建立」の「位置づけと差異」と成って現れてくる事に成ります。
西域では「弓矢」でも東域では「家内安全や身の安全や生活の神や物造りの神や国家鎮魂」と変異し、北域では最早”総神の神明”と成り得てしまうのです。
しかし、因みに中部域の駿河域や信濃域や甲斐域では「産土神」であった阿多倍の職能集団が一度中国地方に配置され再び直ぐにこの「3つの域」に配置移動させられているのです。
「磯部」や「馬部」や「鞍作部」等の関係の職能集団が移り住み「放牧を中心とする開拓」等に従事しています。
前段で論じた様に信濃では彼等は後には日本書紀に出てくる「諏訪族」等と成っています。
当然に「産土神」と成りますが、少し違うのです。確かに「諏訪神」はその「心の思考の根源」は排他的傾向である事では幾らかは明確に産土神の考え方を遺してはいますが、例えば信濃の馬部や鞍作部の彼等の多くは「諏訪神」と成っているのです。つまり、これは「産土の考え方」そのものなのです。
先ずは「生まれた土地の神」を前提に成りますから、恐らくは奈良期にはつまり移動配置時には「産土神」であった事が考えられますが、「産土神」は何時しか「諏訪神」としてその土地の生活環境から「独自の守護神」「諏訪神」を創建して変異したのです。それはここには「阿多倍一門の主筋」が無くなっているからなのです。
彼等の「理解」と「利害」と「安全」が当初より叶えられ無く成った環境下に置かれた結果なのです。
故に「中部域」は「瀬戸内」とは違い、「八幡社」は勿論の事で、全て「別の歩み」を起こしたのです。
この事の様に「時代考証」を良く配慮した上で「純友神社」の「歴史的な民族的な経緯」を論じなくては正しい答えは出て来ないのです。
ですから、その考え方の上で上記の様に「中部域の変身した諏訪神の諏訪社」や「北陸東北域の変身した祖先神の神明社」と同じ様に、「瀬戸内域」の彼等は「産土神」を変身させた「仮称 純友神社」をこの期に建立したのです。
この建立した「純友神社」の意味が「産土神」の考え方と融合して「純友や讃岐藤氏」に対する姿勢が理解出来るのです。
新たに「彼等の考え方」では心から主筋を「純友や讃岐藤氏」に決め、その決心としてその「主筋と守護神」を合致させた事を意味するのです。だから身命を賭して戦い、敗れても乱れること無く何度も再び集結し「瀬戸内」の「海の族」を歴史的に長く護り通したのです。他の地域には観られない独特な産土神の考え方の生き方であります。
そして、その結果が多くの遍歴を受けながらも持ち直して昭和20年までの「瀬戸内の利権」を保守したのです。
大蔵氏500年という長い期間を経てはその意味で九州に住する限りに於いて「氏」とは成り得なかった事に成りますし、又、「瀬戸内の彼等」の「理解」と「利害」と「安全」が叶えられ無かった事は歴史上に於いても史実です。しかし、上記した様に遍歴を得て後に阿多倍一門の伊勢伊賀の宗家筋の末裔の「たいら族」がこの「海域支配」と「生活の基盤」をこの「瀬戸内」に置き、「瀬戸内の彼等」の「理解」と「利害」と「安全」が叶えられた事に依って「産土神の彼等の条件」は全て叶えられ、「たいら族」の支配下に戻る事は抵抗無く当然の結果と成り得たのです。その中でもそこには結果として「瀬戸内の彼等」の「変異し融合した純友神社」が彼等の産土の守護神として祭祀続けられたのです。
何もこれは偶然の事ではないのです。要するに源平で戦った有名な彼の無敵の「平家水軍」なのです。
”元の鞘に納まった”と云う事だけなのです。
そこでこれだけの「産土神の考え方」の中で「儀・義」を通していたこの「海族」の末裔の100年後の「平家水軍」は果たして「海賊」でしょうか。
この「産土神」の「平家水軍」の元は「純友」がまとめた「産土神」の「海の兵能集団」の「海族」なのです。
これ等の行動に「儀」に近い「産土神の考え方」の「一貫性の義」が働いているし、それを100年も持ち続けているのです。そして「たいら族」滅亡後は阿多倍の職能集団の「陶部」の支配下に入った室町期に於いても、その更には室町期末期の「村上水軍」にしても、この「義」に類する「儀」を堅持しているのです。
凡そこの間1400年間です。”これが何処が「海賊」なのでしょうか。”陸の土豪族に勝るとも劣らずであります。
この様に現実にはこの「純友」にまとめられた「海の土豪」は1200年代までその主筋の「たいら族」の支配化に入っていて、「たいら族」滅亡後、その末裔は後の「瀬戸内」を再再編して制した歴史にも出てくる「村上水軍」に成るのです。
この事に関しての出回る通説がこの歴史経緯の「民族的な判断」の欠落で大きな間違いを起こしているのです。
「瀬戸内と大蔵氏」
まして、話を戻しますが、その意味でこの事を熟知する阿多倍一門の次男の同族子孫の「大蔵春実」はこの「純友問題解決」に指名されているのです。
その立場にある「大蔵春実」は「ある意味での見事さの功績」で、天皇から万来の信頼を受け「海賊問題解決」にしては考えられない程の「破格の勲功」であって、それは「錦の御旗」「天国刀授受」と「太宰大監」「太宰大貫主」「対馬守」の役職「瀬戸内の追捕使」の役を獲得しているのです。
現在に於いてでさえも個人に「錦の御旗」「天国刀」等を与えられた者はいないのです。まして、「地方の事件」に等しい問題に対する「一度の勲功」にです。
単なる「地方の事件」であり別に国や朝廷を揺るがす程の問題でもないのです。
その「瀬戸内の海賊の問題」に「国が滅ぶかどうか」で与えられる勲功を周囲に判る様に”これでもか”と云う風にわざとらしく与えているのです。
上記した様にこの「時代の社会の慣習」から「海族と海賊との違い」と「社会の成り立ち」を承知していれば、もし「海賊」とすれば何時の世も社会の巷に起こる単なる「盗人か盗賊」に過ぎない問題です。これに朝廷や天皇や大蔵氏や藤原氏が出て来てそもそも騒ぐ問題ではありません。
何か他に意味を含んだ異常としか考えられない勲功なのです。それも「大蔵春実」だけにです。
つまり、史実を辿れば、元々「経基」が欲していたのは ”「北九州から瀬戸内と南海海域の圏域の確保」”だったのです。勲功は別にしてもそれを「純友」を倒したならば普通ならこの「地域の支配権」を「讒言讒訴の経基」に与える筈ですが、ところがその様にせずにただの「豊後水道」から「紀伊水道」までの「海域の警察権」のみを「大蔵氏」に任せ、「瀬戸内全般の警察指揮官」だけを命じる結果と成ったのです。
大蔵氏は勿論の事、天皇朝廷が上記した「海賊」と看做する「彼等の歴史的な経緯」と「産土神の考え方」と「彼等の主筋との支配関係等」の事と「彼等の不満解消」事等を、彼等の末裔6割を占める官僚が存在しているのですから、この情報は充分継承されて事前にも承知していて判っていた筈です。
従って、事前に「解決シナリオ」は出来上がっていた事は充分に考えられます。それに沿った解決が出来た事に満足して、且つ「向後の憂い」がなくなった事に満足して、一挙に九州自治、北陸の問題、関東の問題も解決に向けて拍車を掛けたのでないかと考えられます。
つまり大蔵氏に「讃岐藤氏の圏域の利権」は与えなかったのです。実態には変化は無いです。
つまり、この事件の決着方法を間違えば「藤原氏」にも「大蔵氏」にも一門の勢力を大きく左右する事であったのです。それだけにこの「海域の利権」(藤原氏)の大きさと「警察指揮権」(阿多倍一門)の重要さが物語るものであったのです。
「瀬戸内の経緯」
ここで大筋の経緯をまとめて論じたいと考えます。この大筋の経緯が「神明社と八幡社」の根幹の判断に大いに関わる事なので取り纏めて論じます。
この「二つの権利」を一時、「純友問題」に代表される様に「讃岐藤氏」が持っていた事に対して、それを獲得する為に清和源氏が合策したのです。何度も前段からも論じますが、中国域の南沿岸部全般は奈良期からの「阿多倍一門とその支配下にある姓族・品部」の無戦に拠って得た支配地域でした。
そこに「讃岐藤氏」が得意とする「血縁手法」で食い込みその圏域を脅かしていた時期でもあったのです。そしてこの「瀬戸内」はほぼ「純友」が圏域に納める事を成し得た丁度その時に、これを契機にこの「圏域の奪取」と「経基の讒言讒訴」が起こり、阿多倍一門の大蔵氏も「圏域の奪還」を図る良い機会と狙ったのではないかと思われます。
しかし、朝廷や藤原摂関家に執っては清和源氏にこの「瀬戸内の圏域」を引き渡す事は政治バランスや経済的打撃等から好ましく無く、結局は朝廷の官僚の6割を占める阿多倍一門の末裔からすると面と向かって政治的に軍事的に藤原氏と対峙する事が得策なのか選択を迫られたものと考えられ、結局は藤原氏と大蔵氏の両者は懐の痛む「痛み分け」で談合したのです。
当然に経基王の野望目論みは排除とする談合がなされたものと観られます。この事により天皇と朝廷の政治的経済的な痛手は無くなります。
当然にこの成り行きのキーマンは九州全域と豊後水道と中国域を制する大蔵氏であり、その出方如何では天皇と朝廷と藤原北家とその主家の摂関家の運命は決まる事にも成ります。
当然に経基王の今後の命運も決まるものであった筈です。
結局は、経基王はこの圏域の野望から排除されその富の獲得の為に禁止されている「荘園制」に走ってしまったのです。
そこで天皇朝廷は先ずキーマンと成っている大蔵氏を納得させる為にも何か特別のものを与えなくては納まらない事に成ります。
そこに先ずこの「事件の勲功」として、「2つの水道域間の警察権」のみを与え、「瀬戸内の圏域の利権」は「純友の捕縛」を条件に据え置きにして「讃岐藤氏」に与え、それ以外に「九州域の自治権の内示」と「破格の勲功」をプレミヤとして与える事で「向後の決着」を図ったものと考えられます。
この事の決着内容に付いて天皇は大蔵氏の姿勢に対して信頼し納得してこの決着案に同意したと考えられます。
場合に依っては「九州自治」から更には「中国自治」にまで主張を広げてくることに成るのではと懸念したのです。
この瀬戸内の圏域を大蔵氏に奪われたら、”瀬戸内を制するものは国を制する”と云われている事から、”中国域の自治まで与えてしまう事に成りかねない”と心配していた筈で、まして独立国を標榜している「将門の乱」と重なると、場合に依っては国は分裂する可能性を秘めていたのです。
この時、前段で詳しく論じていますが、北方域では「蝦夷地での問題」、関東では「平将門の乱」と「たいら族の伸張」、「西では大蔵氏の自治問題」、朝廷内では「藤原氏と阿多倍一門との軋轢問題」と「荘園制の行き過ぎの問題」が起こっており、天皇にとっては「四面楚歌の状況下」にあり、かなり「神経質な環境下」にあったのです。
しかし、歴史的な時系列で観てもこの事件を機会に一挙にこれ等の問題は解決の方向に向かうのです。
恐らくは天皇はこれ等の問題を解決の方向に進めるには ”この時が好機”と捕らえたと観られ、その証拠に前段で論じた「後一条天皇」から引き継いだ「後三条天皇」(藤原氏と無血縁天皇)の命を掛けた「政治的な粛清」に入り「白河天皇」と「その後の院政」がこれを引き継いだのです。
真にこの事件を契機に上記した問題は全て解決して行きます。
勿論、藤原氏系ではない天皇系が誕生したのですから、母方で繋がる清和源氏も摂関家も衰退し排斥されてしまいます。
そして、この期に乗じて東では「たいら族」の貞盛が父の国香を犠牲にしても同族の異端児の将門を討ち果たし、朝廷内で徐々に基盤を築き始めるのです。
それに併せて大蔵氏がこの海域の警察権を保持した事と、朝廷内の大蔵の権限を専有し、朝廷内の軍事の権限では同族の坂上氏が掌握し、内蔵の権限は同族の内蔵氏が専門官僚として占める状況の中で、伊勢伊賀の一族一門の本拠地からは遅れていた賜姓「たいら族」がこの事件を契機に台頭して行くのです。
そして、阿多倍子孫の賜姓を受けた「坂上氏」、「大蔵氏」、「内蔵氏」、天皇の補佐役を手中にした親族の阿倍氏、そして遅れて賜姓を受けた桓武平氏の貞盛の「たいら族」等は、「瀬戸内の海族」を次第に弱まった讃岐籐氏から一部を奪い反し、「海賊掃討」を理由に帰化以来に戻りその「兵能の職能集団」を再び配下に入れてしまうのです。
これで「瀬戸内の海族」の彼等は本来の帰化当時の本主筋の伊勢伊賀の本拠地の「たいら族」の下に戻ったのです。これが解決の道筋なのです。
殆ど朝廷内は阿多倍一門一族に依って占められたも同然です。院政の一局態勢が確立して思うような制改革が断行できる事に成り懸案事項であった事柄が解決して行く流れに成ったのです。
本来であれば朝廷は「たいら族」のこの行為(海族を支配下に戻した事)を容認する事は藤原摂関家との関係から無い筈です。しかし、この摂関家もこの頃は弱体化していて強く主張する事が出来ない状況にあり、源氏と摂関家の勢力を押さえ込み朝廷の権力(院政)を最大限にする狙いがあり、この為にも大蔵氏への勲功を必要以上に大きして「九州自治」の下地を構築したのです。
そして大蔵氏からその「瀬戸内の圏域」を任せ、それが同族の「たいら族」に移動するかは院政に採ってみれば大した問題では無くむしろ好都合であった筈です。「たいら族」を引き上げ力を持たせ一門体制を確立しようとしたのです。
だから、「大蔵春実」のこの事件の解決に対して「院政の意」を汲み取ったとして上記の様な勲功と成り得たのです。
「大蔵春実」が「国内解決の道筋」を作ったとする満足感が院政にあったのです。
東北の問題も「内蔵氏」、関東の問題も「たいら族」、九州の問題も「大蔵氏」、朝廷の勢力も源氏と摂関家が弱体化させられた事から前の「3つの問題」の同族大元の大蔵氏を取り込めば一挙に解決に向かう事は間違いありません。
この大蔵氏を始めとする阿多倍一門一族の勢力を引き上げてこれを支配すれば源氏と上級官僚の摂関家を押さえ込めると観たからであり、且つ、彼等阿多倍一門一族の勢力圏は中級官僚にまであり、それを掌握出来る訳ですから、親政族の源氏と上級官僚の摂関家を押さえ込める事は確実であったのです。
軍事は坂上氏、政治顧問は阿倍氏と成れば全て朝廷と「院政」の周りは阿多倍一門一族で占められた事に成ります。
この態勢が出来上がれば「院政」は”鶴の一声”の政治体制が出来上がる事に成ります。
「大蔵春実」の功績は、事件をきっかけに「院政による政治体制」を完全に構築する事に成った事を意味します。そしてこの後、直ぐに「遠の朝廷」の「太宰大監」の「九州自治」を宣言する事から始めたのです。
これで国が二分する事無く解決に向かうことに成ります。
親政の源氏や摂関家の藤原氏を頼る事では複雑な柵みの中ではこの危機の回避は不可能であり、阿多倍一門一族を朝廷側に取り込む事により前段で論じた様に危機は去り、朝廷・天皇・院政は安泰と云う事に成る訳です。
この先の見えた状況の中で、この期に乗じてこれで「たいら族」は一挙に「圏域と利権」を獲得し「武力と経済力の氏発祥条件」を備わり勢力を伸ばし続けるのです。そして逆にこの圏域と利権獲得に失敗した「河内源氏」は「荘園制の方向」に走り、「白河院」の前段で論じた「軋轢」を受ける事に成るのです。
源氏、取分け「河内源氏」と対比して「たいら族」は真逆の方向へと進むのです。
「河内源氏」は危険な「荘園制」に、「たいら族」はこの「利権の宝庫」の「瀬戸内」を基点として「宗貿易」に進み富を獲得します。危険な「荘園制」に向かった「河内源氏」は朝廷と院政から「軋轢」を受け、一方の「たいら族」は朝廷と院政から「信頼」を勝ち取るのです。どれを捉えても真逆です。
この様に「瀬戸内の海域」には「圏域と利権」が大きく絡み、且つ「政治的な動きの起点」に成っていた地域なのです。
これ等の「瀬戸内の経緯」が「河内源氏」の「八幡社-神明社」の判断に無視出来ない大きく関わる問題なのです。
丁度、この期の直ぐ後に「2足の草鞋策」を敷いた「祖先神の神明社」の「2つの青木氏」も「賜姓族」、「親政族」として影響を受けない訳には行かなかった筈です。
然し、「2つの青木氏」の元締め「伊勢青木氏」と秀郷流の元締めの「伊勢秀郷流青木氏」は、伊勢伊賀の阿多倍一門一族の本拠地「たいら族」と和紙で繋がり、隣国の親密な関係を保持し最悪の状態を免れたのです。
(「2つの青木氏の立場」 この後に起る源頼政の「以仁王の乱」では伊勢青木氏[頼政の孫の三男の京綱が跡目]と秀郷流伊勢青木氏[朝廷に働きかけた形跡あり]は頼政の孫の2人の助命嘆願に成功した事からも明らかです[日向青木氏]。
「伊勢青木氏」は摂津に2店を構え3艘大船で「瀬戸内の利権」を一部「たいら族」から認可を受けての「中国貿易」の記録有り。初期には和紙 後期には総合商社 恐らくは少なくとも伊勢青木氏等5家5流の青木氏は「荘園制の方向」に走っていた場合は「たいら族」は保護し切れなかったと考えられます。
「隣国」で「和紙」で繋がり「商い」で「たいら族」と同じ方向に向いていたからこそ親近感を醸成していたと考えられ、又、政治的にも「朝廷の信頼」を「親政族・賜姓族」として勝ち得ていたのでと考えられ、「たいら族」も擁護し助命嘆願に応じられたと考えられます。
その「象徴の姿」が「皇祖神」の「祖先神-神明社」の「創建と維持」に懸命に働いていた事が、「朝廷と天皇」と時の権力者の「たいら族」と政治家の「摂関家」と官僚の「大蔵氏」から共感を得ていたと考えられます。
それは「親政・賜姓族」が「2足の草鞋策」を採用する事が本来であれば ”親政・賜姓族が何事か あるまじき行為だ”と罵られた筈でありながら「共感」を得ていたのは不思議な事であった筈ですし、”反乱者の孫を助命嘆願など以っての外だ”と成った筈です。
又、「瀬戸内の利権」の一部を譲渡されて瀬戸内に入り「商い」をする事が許されていたのです。
しかし、現実にはこれ等全てが認められているのです。まして「慣例や仕来り」の厳しい社会の中です。
これ等は特別な信頼があったからこそで、それが「皇祖神」の「祖先神-神明社の努力」で在った事が判ります。その「神明社」の「経済的な裏づけ」を取る為の「2足の草鞋策」は容認されていたと考えられます。だから「助命嘆願」の無理も聞き入れ潰さなかったのです。そして生き残れたのです。
「2つの青木氏」はだから天下を2分した「源平の戦い」にも合力していないのです。普通本来であれば源氏側に合力するのが同族である限りは本筋である筈です。
筆者は、「青木氏家訓10訓」や「生仏像様」の処で論じた様に、”世に晒す事無かれ”の「遺戒」がこれらの「氏の姿」、つまり「在様や生様」の全てを物語っていると観ているのです。「意味深い遺戒」と観ているのです。「世に晒す事無かれ」に付いては家訓10訓の10で論じる)
再び話を戻して、そして遂には大蔵氏はこの「2つ水道の警察権」と共に「九州自治の下地」(孫の種材の代で完全自治:1018年)を構築したのです。
この時、讃岐・伊予を押さえていた「藤原氏の圏域」は警察権は大蔵氏に奪われたけれど、結局は元の「海域の利権」は護られ「純友」は終局捉えられ抹殺されましたが、その一族一門は依然として「讃岐藤氏末裔」は抹殺されていないのです。この事は本来であれば朝廷が云う罪状であれば一族一門は罰せられた筈で「純友個人」で行動した訳ではなく「2つの役職」を以って動いた訳ですから免れなかった筈です。
然し、「純友」だけなのです。朝廷のこの罪状の付け方から観てもその目的は明らかに違っていた事を意味しますし、「純友の行為の正当性」も認識して居た筈です。
「純友の非」を敢えて云うとすれば、真に”世に晒す事無かれ”で在ります。
俗世に云う ”河に竿させば流される” ”雉も鳴かずば撃たれまい” ”前に出過ぎれば潰される” ”出る釘は打たれる”の例えの通りであります。”現世は諸行無常”であります。”上手く纏めすぎた”と云うところであったと考えられます。
(関東の争い事を調停役を買って出て懸命になって働いた「平の将門」に付いても同じ)
それが「瀬戸内の利権と圏域」を独り占めの形に成る事を造り上げて、それを恐れたつまり経済的にも然ることながら「海族」の力も手中に入れる事が出来たとすると、最早、”「瀬戸内」に叶うもの無し”であります。この「勢力拡大」を朝廷、源氏、同族の藤原摂関家、阿多倍一門から怨嗟の声が上がり渦巻いた事は間違いない事であります。(この頃朝廷内ではこの体質が渦巻いていた)
それを”この海域の利権を目論んでいる「経基王」に言わしめさせた”とするところであり、要するに”出すぎた”のです。それ程にこの「瀬戸内」と云う地域は、”瀬戸内を制する者は国を制する”の言葉通りで重要な所でそれだけに難しい地域でもあったのです。
この様に重要で難しい地域で、この「海域の利権」を「讃岐藤氏」から奪って仕舞えば、中国地方と四国の対岸では結局は百々のバランス条件は崩れ、とどのつまりは再び「覇権争い」を起こす事に成り、却って「大蔵氏は警察権の務め」が果たせなく成る事に成ります。この瀬戸内問題の「落し処」が重要で在ったのです。
「経基王」に勲功を与えず、考えられない程の勲功を「大蔵氏」のみに与える事は、朝廷は「経基王」の目的を知っていた事を物語ります。それ程にこの「瀬戸内の圏域」は政治的に重要な意味を持ち、朝廷はこの「讃岐藤氏」のこの「圏域の体制」をある程度の範囲で崩したくなく、ここから挙がる「租税の恩恵」と「政治体制」を乱したく無かった事を意味し、そもそも朝廷が「九州自治」で苦しんでいる時にわざわざ源氏に与えて問題を大きくする事はしない筈ですし、その行動で「荘園制」で睨まれている清和源氏(河内源氏)には決して与える事はしなかったのです。まして祖先神の神明族として本来の責務を果たさない清和源氏に対しては尚更であります。(清和源氏の出自と行動に蔑視と懐疑の念が朝廷にあった)
(前段で論じた様に「経基-満仲」はその意味でも「荘園を利用した武家の集団化」を始めて図って朝廷に圧力を掛けていたのです。)
それを天皇と朝廷は政治的にはっきりさせる為にも大蔵氏に破格の勲功を与えて、”これでもか”と清和源氏の「経基王」を押さえ込んだのです。
そもそもこの人選を天皇に進言したのは藤原摂関家であったのです。この時の海賊問題は形の上での処理であってある意味で無傷なのです。
そもそもこの「瀬戸内」を挟んだ四国域と中国域の圏域に絡んだ複雑な勢力バランスで構築された地域を「純友の乱」の処置等で崩す事は出来ない筈です。
更に前段でも論じて来ましたが、そもそもこの中国域は阿多倍一門の32/66国の「たいら族」「大蔵氏族」「陶族」等の一門の圏域でもあるのですから、「大蔵春実」に「警察権」等を与えたとしても何の不思議も無い事なのです。
むしろ「讃岐藤氏」の純友等に「警察権」そのものを与えていた事の方が問題です。先に「有品の制」の官位を与え、且つ任命した「令外官追捕使」に「令外官追捕使」を送り込む事の矛盾をどの様に言い訳するのかが問題に成った筈で、その為には”海賊に成った”とする以外に言い訳が無くなるし、それを天皇が言い訳する事が 出来ないので、「将門の讒訴」の件もあり、又、「経基王」に言わしめる様に仕向けたのです。(瀬戸内の利権を狙っていた経基は関東で失敗した後だけに飛びついたと観られる)
前段で論じた「平の将門の乱」が”独立国(前段がある)を標榜した”として、丁度、この時に起こっていて、「平の国香」や「平の貞盛」の「たいら族」はこの乱を契機に俄かに勢力を拡大し始めた時期でもあります。
依ってこの地域はまだ「たいら族」の支配地域には成っていない丁度その中間域にあって、特にこの海域は「讃岐藤氏の圏域」の中に未だあったのです。
「大蔵氏」に代わって「たいら族」がこの「海域の警察権行使」は難しいところだけに未だ難しい勢力化にあったのです。
この事件を契機にこの瀬戸内全般を「大蔵氏の警察権」として取り戻し「たいら族」が勢力を拡大するに伴い大蔵氏は「たいら族」にその警察権を移して行くのです。
そして「平貞盛」より4代目の「平忠盛」(清盛の父)の代頃からこの「海域の利権」が「讃岐藤氏」と「たいら族」の「2局体制」に成って行くのです。
所謂、この様に「産土神族」と「出雲神族」の中に「春日神族」の「讃岐藤氏」が「血縁的」に「経済的」に食い込んだ微妙なバランスで成り立っている地域なのです。
前段でも論じた「美濃の源平の勢力バランス」と良く似ていて、この「瀬戸内」でも同時期に藤原氏と大蔵氏の勢力バランスの坩堝の中にあったのです。
まして、藤原氏北家は当然の事として「たいら族」と「大蔵氏」はこの様な状況の中では「経基王の伸張」を絶対に許す事は政治的な戦力として無い筈です。ましてこの瀬戸内の坩堝の中に一分家の河内源氏の源氏勢力を入れる事はしない筈です。(入れる事そのもの行為は最早政治ではなく成り政治家ではない)
その後も勲功で大蔵氏が警察権を持ったとしても上記した「たいら族」が伸張して来るまでは暫くは「讃岐藤氏の圏域」であった事は朝廷にとっても”政治的にも、戦略的にも”最も重要な地域である事を物語っているのです。
つまり、「経基王」はこの「瀬戸内の圏域確保」に結局は失敗し、関東に於いても行く先々の所で問題を起こし、結局は行き詰まり、「勢力拡大」に必要とする「財力源」は無く、止む無く「後一条天皇」(1018年)から「後三条天皇」(1068年)までの「荘園に関する禁令と抑制令」を無視して、「荘園制」を逆に煽る「荘園の名義貸し」の「財源・利権獲得」の方へと動いたのです。
これが「経基-満仲-頼信-義家」と続いた経緯なのです。
「瀬戸内の覇権」を狙っていた取分け「経基-満仲」の親子は「海の神の住吉大社」を信心していた事でも判ります。
(「経基王」が「瀬戸内の覇権」に失敗したことから「源満仲」は途中から「たいら族の兵能集団」に対抗して「荘園制の未勘氏族」を摂津から移動して河内で組織化して武家集団を構築したのです。
途中まで出世したが、晩年この為に満仲は朝廷から危険視され無視され軋轢を受ける破目と成り摂津に帰り蟄居する。)
(特記 ) 「源経基の経緯」(八幡社問題と瀬戸内事件の根幹)
武蔵介として赴任(938)し、直ぐに検地を実行しようとして地元土豪の地方官の郡司武蔵武芝に慣例により拒絶された為に争を起した末にその財を略縛した。経基は危険を感じて京に逃げ戻り、逆恨みして仲裁者の平将門等を讒訴。その2月後に平将門は事実無根として告訴、経基は拘禁されるがその更に半年後に朝廷の態度(勲功の評価に対して)に将門は不満を持ち朝廷に圧力を掛けた。その結果、真面目で評判の良い将門は決起して本当に乱を起したので、逆に「怪我の功名」から「経基讒訴」を認められて「有品の制」の最下位の「従五位下」に任じられた。朝廷はこの失敗を経基に官位を与える事で取り敢えず対面を繕った。
(本来、賜姓源氏は有品の制では賜田を受け従四位下に任じられる筈)
(将門は関東の各地で起る「地方豪族と国衙との争事」の「調停者」を積極的に務めた人物であったが、逆に経基に「逆恨み」」を買い讒訴、反乱者とみなされてしまった。この後直ぐに起った事件でも「純友」も将門と同じ「勲功の闘争」を朝廷に起したのです。伊予の三等官で瀬戸内の追捕使として、難しい上記の瀬戸内圏域を纏め上げたが、矢張り将門と同じく勲功に対して評価しなかった。これを「国衙怨嗟」の為に朝廷は勲功否認したので軋轢が発生 「将門の乱」と全く同じ周囲の地方豪族と国衙を追捕使の立場で掃討して朝廷に圧力を掛けたが、矢張り将門の件と同じく「朝廷の怨嗟」で逃げた。
(この「2つの怨嗟の讒訴」は経基が演じた。)
そして経基は「平将門追討軍」に参加するも既に鎮圧済み、仕方なく京に戻り、今度は「純友の行状」を又もや讒訴(941)し、その功から「西国追捕凶賦使」に任じられて、「純友の乱」の平定に向かうが又もやこれも既に鎮圧済み、挙句に果てに豊後の純友の家来「桑原生行」を襲い、これも又その財を略暴したが黙認された。(この略暴行為は歴史上有名な事件)
(「2つの経基讒訴事件」は出陣の際は既に「鎮圧済み」の後に出陣した事に意味がある)
その後、武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には「鎮守府将軍」に昇進するも、後にその出自と上記の事柄等が問題に成り「臣籍降下」の処置を受ける。
(経基も本人資料の中で不満を述べている。藤原氏と阿多倍一門の巻き返しに遇った為。 後に「将門や純友の勲功」に対して正等に評価しなかった事への朝廷の修正[次期の円融天皇]が起った。)
この事は清和天皇の第6位皇子の孫(上記説明 ゜六孫王」の呼称があるが当時の正式記録には出て来ない 未勘氏族による後付)で無かった事から第4世第7位皇子王以下は規定に基づき臣籍降下された事を意味するが、「正規の源姓(賜姓族)」に付いては、発見された摂政の実力者「藤原実頼」の遺した「日記記録資料」から判明し、現在では経基の源姓は「跡付け」と考えられていて、経基王は「嵯峨期の詔勅」(青木氏 源氏)を利用した「非賜姓の源姓族」(清和天皇第9位と12位の皇子が非賜姓源氏族)と見なされた事に成る。つまり、これは清和天皇の賜姓源氏族(第6位皇子)ではなく「狂気の陽成天皇」の皇子で賜姓族外の例外皇子王であった事を意味する。
その後の頼光からは資料からは「賜姓源氏」とみなされた資料が残っている。これは仕えた藤原氏の歴史上の最大実力者藤原道長の執り成しである。
(経基王は上記した”賜姓を強く望んでいた”とする事はそもそも賜姓に関しては規定外の例外王である事の証であり、この事からも判る。依って「蔭位の制」「有品の制」の「賜田」等の扱いの正式確認が取れない。)
(青木氏と源氏の様に「賜姓」であるかどうかは家柄・身分や官位官職や経済的な扱いや世間の扱いは大きく異なったのです。
「嵯峨期の詔勅」に基づく非賜姓の「青木氏」と「源氏」は清和天皇系と陽成天皇と冷泉天皇系が殆どで、この時期の「賜姓」の有無には皇族や世間の目は特に異なっていた。)
(その意味で上記の立場から陽成天皇の皇子の「経基王」は”焦りから来た波乱”に満ちた人生を送り子供の満仲もその経基王の影響を受けて同じ様な波乱に満ちた生き様を示した。然し3代目の頼信の頃からは兄の頼光の勲功と主君の藤原道長の計らいで憧れのやっと正式な「有品の制」の扱いも受けて立ち直りの傾向にあった。)
この過程で「瀬戸内の圏域」を狙っていたこの「河内源氏」は、その為に信心していたそれまでの守護神「海の神の住吉大社」から「荘園本領策」に方針を切り替えてからは、今度は「荘園の神」とも云っても過言ではない「八幡社」にのめり込んでいったのです。
少なくとも3代目の分家の頼信の頃までは時系列的には本来の「国家鎮魂の神」であった事が資料から読み取れるのです。
つまり、この後に「八幡社」が何らかの理由(未勘氏族との絡み)で「荘園の神、武家の神」と次第に変質させられて行く事に成ります。
この「八幡社」(国家鎮魂)が「神明社」の様に管理氏が明確で無かった事からと、朝廷の財政的な理由も伴って荒廃していた事が記録に遺されていて、この修復に「清和源氏の宗家」摂津源氏に対して修復を命じています。
全国の「八幡社」(国家鎮魂)に対してまで修復は財政的に困難であった模様で遂次と進まなかった事が記されています。恐らくは「田地・俸禄・褒章に関る制度の経緯」-(前段4)の処で論じた様に「賜田」等の禄を充分にその出自から多く受けられなかった「摂津源氏の宗家」に対して、「河内源氏」が「荘園制」を利用して「名義貸し」を行い「武家の組織化」と「財源確保」に走ったのです。
この荒廃した「国家鎮魂の八幡社」を何時しか「組織化の象徴」(弓矢の神)として宗家に取って代わり利用して八幡社修復を代わったと考えられます。
そして手段としてその「組織化の未勘氏族」(無血縁の非賜姓河内源氏族として)に修復を命じた事から、その結果として本来の「国家鎮魂」から「荘園制の神、武家の神」として勝手に変質させて行ったと観られます。
後勘からすれば上記した発祥時の経緯から「蔭位の制・有品の制」に恵まれず「武力と財源」の無い「賜姓族・神明族・親政族」の「清和源氏」にして観れば、”「宿命の自然の流れ」”とも考えられ、”止むを得ない仕儀”とも考えられます。然し、何度も云う様に「生き延びられる道」は全く無かった事では無いのです。
この「八幡社の経緯の背景」にはこの「瀬戸内の圏域」の大失敗が背景にあったのです。
(「経基-満仲」の経緯と「頼信-義家」の経緯とそれに伴なう「八幡社の問題」があったから各地の神明社の建立がこれ程進み、取分け「産土神」の環境の中でこの難しい「瀬戸内域」での「神明社の建立」が可能と成ったのです。)
「神明社」の「2つの青木氏」は「2足の草鞋策」と秀郷一門青木氏の「抑止力」で生き延びましたが、最終、大蔵氏から「2つの水道域の圏域」を引き継いだ「たいら族」もこの「瀬戸内の圏域」を大いに使って「2足の草鞋策」から更に発展させて前段で論じた「瀬戸内水軍」を使っての「宋貿易」へと進め、その莫大な「財力源」を生み出したのです。「院政」はこの「たいら族」から上がる「潤い」を受けます。
この意味では、「清和源氏の武力の背景と財源の背景」には、上記の「たいら族」に比べて元々リスクが大きかった事は否めませんし、「朝廷への潤い」でもその貢献度は大きく異なっていたのです。
それが阿多倍の一門の一方の関西域を基盤とした伊勢伊賀の後発の「たいら族」が5代で伸張し上り詰めるだけの勢いがあって拡大に繋がったのです。これも「瀬戸内の圏域」のお蔭なのです。
(重要参考 義経は清盛よりこの「宋貿易の経済学」を教えられていたとする資料が遺されている。
これによると「経基-義家」と引き継いだ「荘園制よる財力源」と、清盛から教授された「貿易による財力源」の考え方の違いが清和源氏の中に起こったのです。
後者を選んだ同じ賜姓族で神明族で親政族の「2つの青木氏」と藤原氏北家筋は生き残り、後者側に主力を置いた「たいら族」と、前者側に主力を置いた「清和源氏」は互いにその考え方の違いから生き残りを掛けて火花を散らし両者共倒れに近い形で滅亡したのです。
しかし、前段で論じた様に、「瀬戸内問題」と同時期に「同族の関東での不始末」を起した「たいら族」は、結局は「源平の緩衝地帯」の「美濃-尾張域」まで後退し、そこで「緩衝」のバランスが崩れ源平の本格的な争いが起こりました。
(美濃-尾張地域は「源氏」と「たいら族」と「秀郷流青木氏」との3氏の緩衝地帯であった)
同じ様にこの「瀬戸内地域」でも、大蔵氏は「讃岐籐氏の圏域」にあった「瀬戸内の問題」を藤原氏との争いを避けて上手く解決し、一時、瀬戸内警察権を大蔵氏の支配下の中に入れて次第に同族の関東問題で弱っていた「たいら族」にそれを移して行きます。
この結果、「たいら族」は関東からこの瀬戸内へと伸張し財力と政治力も確保しながらも美濃-尾張での初戦に続き「瀬戸内の源平の争い」で敗退したのですが、この「瀬戸内のお蔭」から来る「商いと物造りの基盤」から基礎力は生かされて、前段でも論じた「たいら族」の織田氏の「末裔の美濃・尾張」で蘇り復活に繋がったのです。
(全国に分散した阿多倍一族一門の生き方が時代をうまく捉えている。 陸奥安陪氏が犠牲。)
しかし、前者の生き方を採った「八幡社族」の「河内源氏」は遂に復活しなかったどころか近江-木曽-美濃-尾張の戦いで11代{中4代の源氏は生き残る}の源氏一族を滅亡に引き込んでしまったのです。遺したのは名義借りの「無血縁の未勘氏族」ばかりなのです。
この残った源氏の「未勘氏族」が「八幡社」を別の方向へと誘導し「河内源氏」を殊更に誇張し史実と異なる誤った印象を後勘に与えてしまったのです。
「未勘氏族」が別の方向へ誘導していなければ「河内源氏の悪名」は生まれなかったと考えられます。
「河内源氏の義家」はこの「未勘氏族」を「軍事力と経済力」の為に配下にしていた事から止む無くも煽られた事から源氏一門を巻き込み滅亡に追い遣ったと考える事が出来ます。
そして「神明社族」は生き残り「八幡社族」は滅亡したのはここに根源があったのです。
確かに、直接原因は経基王のこの「海域の奪取」の間違いに始まるのですが、間接的には「未勘氏族の八幡社の煽り」(後付論)にあったと考えられます。
”何もこの「海域の奪取」に関わる事なくしても「2つの青木氏」の様に「2足の草鞋策」と「神明社」で生きる道を選んでいれば全源氏は滅亡に走らなくても良かった”と考えられ、後勘として源氏と同族血筋を汲む「4つの青木氏」の立場から観ると 上記の様に時系列的に考察すると”判断の無理が大きく存在していた”と現在でも構成する一人として結論付けているのです。これが「青木氏家訓10訓」に表されているのです。と云うのはこの期にその論者が居なかった訳ではないのです。
現にこの義家の孫の義経は上記した様に遺された資料の文書の一節から観ても青木氏と同じ論者であったのです。
頼朝が鎌倉会議の際に「義経の方向」に舵を切っていれば第7世族の「坂東八平氏」に頼らなくても生き残れたと考えられます。
(舵を切っていれば確かに「坂東八平氏との戦い」に成った事は否めません。秀郷一門を味方に引き込んでいれば同じ関東の勢力図から観て先ず負ける事は無かった筈です。)
「義経」はこの「瀬戸内」の「海域の利権」を「たいら族」から全てを奪取しているのですから最早、何も「坂東八平氏」に頼らなくても「純粋な源氏の力」で「武家の幕府政権」も造れていたのです。
現に、”瀬戸内を制する者は国を制する”と言われていたこの「瀬戸内」を基盤に「たいら族」は栄華を誇ったのです。
当然に、関東以北に勢力圏を持つ「藤原北家秀郷一門の協力」(平泉・入間・常陸・陸奥越前等)を得ているのですし、資料からも弱体化し衰退していた摂関家も同調していた事が判っている訳ですので、政権の大本は義経は構築していたのです。同じ「神明族、賜姓族、親政族」である「2つの青木氏」も「2足の草鞋策」でこれを補完する事に成る筈です。
(院政側も利用するつもりであった事は否めませんが院政の利害からも義経に同調していた。)
この「義経の戦い」の瀬戸内の海域の成果は「最大の幕府樹立の条件」にも成っていて、義経が目指す「神明社族」としての方向性は決まっていたのです。
ともあれ、全国に「566の神明社」を建立して配置していた事からも「河内源氏の八幡社」や闇雲に「未勘氏族」や第7世族の「坂東八平氏」に頼らずとも「神明族」としてこの「瀬戸内の海域」はもとより全国の「民の心」は掴めていた筈です。
(義経は「八幡」を決して名乗らなかった。頼朝は鶴岡八幡宮を信仰し八幡を主神とした。)
「四国域・中国域」
さて、この様に「瀬戸内の圏域」を挟んだ「四国域・中国域」の「神明社と八幡社の建立時期」に起ったものとして、後勘から観れば「象徴的な事件」が2つも起こっていたのです。
そんな環境の中でも根強く「祖先神の神明社」は瀬戸内の民に招かれて建立されていたのです。この意味は「祖先神-神明社」を理解する上で大きい事であり、特段にその状況を論じたのです。
それ故に、この「事件の背景」からも判る様に河内源氏の深く関わる「弓矢の神の八幡社」のこの地域での伝播は本来無い筈なのです。(氏家制度の環境下では以下の「5つの要素」が不備 )
「産土神」の環境の中で「祖先神-神明社」が認められているとすればこの様な背景を持つ「弓矢の八幡社」が認められるかという問題です。殆ど有り得ないと考えられます。
この時の上記する讃岐と阿波の「2つの秀郷流青木氏」の「勢力の如何」を物語る事件であったのです。
その意味でこの数字考察には一考しなければなら無い大きな意味を持っているのです。
従って、故に、此処には下記の「5つの要素」
A「地理性」
B「経済性」
C「歴史性」
D「圏域性」
E「武力性」
以上の「5つの要素」の条件が影響しますが「祖先神-神明社」に関しては相互に連動して達成構築されているのです。
なかなかこの「5つの要素」全てを連動して構築している氏は少ないのです。
そうすると、「讃岐青木氏」と「阿波青木氏」が「生活の神明社」を建立し、一方で逆の「弓矢の八幡社」を建立する事が「信義的に可能な行為」であったのかと云う疑問です。
”「弓矢は武士の守護神」とする事であり、ましてや「頼信系源氏とその未勘氏族の守護神」とするものに、「皇祖神」の代わりに「祖先神の神明社」の「特別賜姓族」が建立する事が信義的に可能なのか”と云う信義的な矛盾が生まれます。
この事は関西域・中部域・関東域・北陸東北域でも特別賜姓族と賜姓族の衰退期間に於いて勅命により明確に可能です。
そもそも「特別賜姓」は前段で論じた「3つの国政の遂行」の為に衰退していたこの時期に「賜姓族青木氏」に代わって「勅命での行為」そのものであったのです。
この四国には上記する様に、「讃岐と阿波の2氏」を除き14氏の豪族にはこの「頼信系源氏とその未勘氏族の守護神」の「八幡社」を守護神とするのは「三好氏」の1氏しか存在しないのですから、この三好氏が゜秀郷流青木氏」の圏域をはるかに超えて建立する事は可能かと云う事に成り、”何も源氏に媚して八幡社を建立する事”は無い筈ですし勢力的にも不可能です。
(愛媛9に付いては、「清和源氏の経基と頼信」は若い頃に短期間「伊予」に赴任していますが、未だこの頃は「八幡社」は朝廷の命に基づく「国家鎮魂の八幡社」であった事と、この頃は頼信は「海の神」の「住吉社」を信仰していたので無関係と成ります。
ただ経基王と頼信が赴任していた事もあり源氏性が強い地域であった事は否めませんが、領主と成り得る未勘氏族が無いのです。上記の「純友の乱」での経緯で「河内源氏の勢力圏」をこの地域に伸ばす事が出来なかったのです。)
まして、その環境の中で”「讃岐と阿波の青木氏」が建立するのか”は信義的な面から観て大いに疑問であります。
しかし香川6 徳島3 愛媛9 高知3で建立されているのですから、考えられる事は他の地域で観られる”「八幡社の存在意義」の如何”に関わる事以外に無い事に成ります。
当初、「讃岐、阿波の2氏」により平安期の内に、全てこの21の「八幡社」が「神明社」として建立され、その後の四国に於いてそっくり室町期中期以降に豪族が入れ替わりますが、この時にこの21の「神明社」が「八幡社」に変えられてしまったとすると、鳥居やお社の形式は平安期のそのままでも成り立ちます。
因みに江戸初期の四国の豪族は讃岐3氏、阿波1氏、伊予7氏、土佐2氏の戦国の立身出世の豪族に入れ替わりますし、当然にこの中には「清和源氏頼信系」はありません。
どちらかと云うと室町期中期とはそっくり入れ替わった7割近くは、何らかの直間の縁の藤原氏北家の流れを汲む戦国時代の豪族であります。
しかし、この「戦いの神」の意味合いの強い「弓矢の神」の守護神から、時代を経て源氏が滅亡し「下克上と戦国時代」を経た室町期中期以後は「戦いの神」の影は潜み、”単純に「武士の守護神」としての「総合的な守神」や「武士の魂」だけを守護する神に変異したものとなった”と考えられます。
その為に、この”「後詰めの豪族14」が「神明社の30の内21」を「八幡社」に変えた”と考えられます。
この証拠と成るものが現在発見されないのですが、上記する状況証拠から他に建立できる能力とその義務か必要性を持った氏は讃岐と阿波の青木氏以外にはこの四国域には見付かりません。
「7つの域の神明社と八幡社の関係」は上記する「5つの要素」で特徴ある関係が出来上がっているのですカラ、この四国・中国域の八幡社との関係は「歴史の雑学」の判断の重要な基礎になるデータとも成ります。
「神明社」
従って、此処より「神明社」に付いてより理解力・判断力を深める為に更に研究を進めます。
そもそも「八幡社」が「弓矢の神」を主神とする以上、「河内源氏」は「皇祖神」の「祖先神-神明社」の賜姓族としての義務は無関心であった事が覗えます。
この四国・中国域の圏域も平安末期までのものであり、僅かに鎌倉期のものも含まれている模様で室町期初期の「下克上と戦国時代」へと突入する前兆現象であったのです。
「弓矢の神」に信心する「侍社会の風潮」がここから読み取れます。
恐らくは「祖先神-神明社」の「生活の神」「物造りの神」は「民の信心」と成り、侍階級は「生活の神」「物造りの神」からこの「八幡社」の「弓矢の神」に鎌倉期に向けて浸透して行ったと考えられます。
そこで、これが「第1次の空白期間」の始まりに成った原因点であったと考えられ、次ぎの「4つの経緯」に繋がって行くのです。
(1)上記した様に「祖先神-神明社」と「祖先神-八幡社」の「最悪の事態」の「競合合戦」が無かった事が次ぎのデーターで顕著に表れています。
(2)「神明社-八幡社」の「競合合戦」が無かった事は、「八幡社」が初期には「国家鎮魂」であった事と、後に「特定の氏と未勘氏族の守護神」と変質して行った事(2)は「2つの証拠」でもあります。
このデーターから「賜姓源氏」(河内源氏も含めて)は、同族である「賜姓青木氏」や「特別賜姓青木氏」が行う「3つの発祥源」としての責務と「政治的、戦略的」な「国策の神明社」には、ある程度の理解を示していた事とも考えられます。
(3)「賜姓源氏」が置かれている立場、即ち「たいら族」との「勢力争い」から目を逸らす事が出来ずに「清和源氏頼信系の一族」(河内源氏)だけは「勢力争い」にのめり込んで行った事が覗え、最終は11代の源氏を巻き込む事(4)に成り、遂には滅亡を招いてしまったのです。
(4)「2つの青木氏」が行う「生活の神」「物造りの神」の「神明社建立」域には「弓矢の神」の「八幡社建立」は明らかに避けている事が判ります。言い換えれば「2つの青木氏」が定住する地域には「八幡社の建立」は避けている事にも成ります。これは「同族争い」だけは敢えて避けたと観られます。
「神明社と八幡社の2つの差」
「八幡社の県毎の分布」と「神明社の県毎の分布」のデーターです。
この「2つの差」が表示しています。
「八幡社 354社」 「神明社 566社」に対して%は全体比です。
(八幡社から観たデータはこの表 神明社から観たデータは次表記)
「神明社-八幡社の対比表」
八幡社の分布( 県域分布) 神明社の分布(県域分布) 差 分布域の圏域
1 福岡 39 -11.1% 9 - 1.6% 30 八幡社の発祥地
2 東京 29 - 8.4% 30 - 5.3% - 1 秀郷流青木氏と源氏の圏域
3 兵庫 24 - 6.9% 11 - 1.9% 13 清和源氏の発祥地
4 千葉 23 - 6.7% 22 - 3.9% 1 秀郷流青木氏と源氏の圏域
5 愛知 14 - 4.1% 33 - 5.9% -19 秀郷流青木氏の圏域
6 神奈川 12 - 3.5% 11 - 1.9% 1 秀郷流青木氏と源氏の圏域
7 静岡 12 - 3.5% 18 - 3.2% - 6 秀郷流青木氏の圏域
8 岐阜 12 - 3.5% 31 - 5.5% -19 賜姓青木氏の圏域
9 栃木 11 - 3.2% 14 - 2.5% - 3 2つの青木氏の圏域
10 大阪 11 - 3.2% 1 - 0.1% 10 賜姓源氏の県域
11 埼玉 9 - 2.6% 15 - 2.7% - 6 秀郷流青木氏の圏域
12 愛媛 9 - 2.6% 2 - 0.3% 7 清和源氏未勘氏の圏域
13 鹿児島 9 - 2.6% 3 - 0.5% 6 清和源氏未勘氏の圏域
14 北海道 9 - 2.6% 2 - 0.3% 7 清和源氏未勘氏の圏域
15 山口 9 - 2.6% 1 - 0.0% 8 清和源氏の圏域
16 和歌山 8 - 2.3% 2 - 0.3% 6 清和源氏の圏域
17 山形 7 - 2.0% 15 - 2.7% - 8 秀郷流青木氏の圏域
18 大分 7 - 2.0% 1 - 0.0% 6 清和源氏未勘氏の圏域
19 宮城 7 - 2.0% 14 - 2.5% - 7 秀郷流青木氏の圏域
20 茨城 7 - 2.0% 9 - 1.6% - 2 秀郷流青木氏の圏域
21 香川 6 - 1.7% 1 - 0.0% 5 清和源氏未勘氏の圏域
22 宮崎 6 - 1.7% 4 - 0.7% 2
23 広島 5 - 1.4% 6 - 1.1% - 1
24 富山 5 - 1.4% 33 - 5.8% -28 賜姓青木氏の圏域
25 岡山 4 - 1.1% 1 - 0.0% 3
26 島根 4 - 1.1% 1 - 0.0% 3
27 京都 4 - 1.1% 2 - 0.3% 2 神明社の絶対的神域
28 岩手 4 - 1.1% 11 - 1.9% - 7 秀郷流青木氏の圏域
29 山梨 3 - 0.8% 72 -12.7% -69 2つの青木氏の圏域
30 徳島 3 - 0.8% 3 - 0.5% 0
31 長崎 3 - 0.8% 1 - 0.0% 2
32 熊本 3 - 0.8% 1 - 0.0% 2
33 高知 3 - 0.8% 4 - 0.7% - 1
34 青森 3 - 0.8% 13 - 2.3% -10 秀郷流青木氏の圏域
35 秋田 3 - 0.8% 33 - 5.8% -30 秀郷流青木氏の圏域
36 群馬 3 - 0.8% 14 - 2.5% - 9 秀郷流青木氏の圏域
37 新潟 3 - 0.8% 61 -10.8% -58 2つの青木氏の圏域
38 福井 3 - 0.8% 8 - 1.4% - 5 賜姓青木氏の圏域
39 鳥取 2 - 0.5% 0 - 0.0% 2
40 佐賀 2 - 0.5% 1 - 0.0% 1
41 長野 2 - 0.5% 15 - 2.7% -13 賜姓青木氏の圏域
42 滋賀 2 - 0.5% 3 - 0.5% - 1 賜姓青木氏と源氏の圏域
43 奈良 2 - 0.5% 1 - 0.0% 1 神明社の絶対的神域
44 福島 2 - 0.5% 9 - 1.6% - 7 秀郷流青木氏の圏域
45 沖縄 1 - 0.1% 1 - 0.0% 0
46 石川 1 - 0.1% 2 - 0.3% - 1
47 三重 1 - 0.1% 5 - 0.8% - 4 2つの青木氏の圏域
A:354 (/354) B:566 (/566) (A-B)
「賜姓源氏」の重要拠点には「八幡社」が、「2つの賜姓青木氏」の重要拠点には「神明社」が建立されている事がこれ程に明確に成っている事に驚きです。
これを「神明社」から観たデータ(下記の表)からも読み取れる事から、上記の表の八幡社データからは「賜姓源氏」の姿勢が読み取れます。
彼等は朝廷が行う国策に逆らいながらも、賜姓族の立場にも逆らいながらも、自らの力で建てたかは別にして「八幡社の建立」を何と「354社」も建立している事は一つの大きな意味を持っています。
彼等にしてみれば、この数字から観れば、確かに皇族ながら「朝廷の意向」を無視し、立場を違えながらも「彼等の主張」をそれなりに持っていた事が判ります。
それは ”時代に即応した「弓矢の神」を普及させる事で台頭する「侍集団の集約」が国策として肝要だ” と主張していた事に成るのではないでしょうか。(朝廷は「公家社会」から「武家社会」の到来を危惧)
然し、矢張りそれが「自らの存続」を危うくさせ、且つ、「侍の力」を強くしてしまう結果を招いたのです。
結局は、この流れは「鎌倉幕府の樹立」と成ってしまうのですが、しかし、天皇側や朝廷側からすると、むしろ、”国全体として「生活の神」「物造りの神」を全面に押し出し、”国民を豊かにする事で「侍の集団の必要以上の台頭」を抑えて安定した「国造り」をするが大事な事なのだ。”と当然に主張するでしょう。
そもそも「侍集団」と云うものが台頭するのは、”その「生活の安定」と「身の安定」に対して不安があるから集団化する”のであって、これは「人間の本能」であります。
それを「天皇側」からすると、「生活の神」「物造り神」の政治的、戦略的な上記の様な主張となるは必定であり、「源氏側」からすると、「身の安全」を優先にして「武」に頼る主張と成るでしょう。
一見して「二者択一」と観られますが、何時の世も”「武に頼る安全」”は長く続けられる手段ではありません。元来、「武に頼る安全」は「第二次的な手段」であって「第一次的手段」で無い事は衆知の史実であります。
当然に「武」の位置に居ない「天皇側」からすると、「生活の神」「物造り神」の「神明社」であり、「源氏側」にすれば「弓矢の神」の「八幡社」と成ります。
これを「源氏」は時代性を長く観過ぎた事から ”「第2次的な手段」を「第1次的な手段」と考え違いをしてしまった” と解釈出来ます。
何時の世も「武に頼る安全神話」は例外無くよくある議論です。
然し、「2つの青木氏」は明らかに”何も「神明社」側だから”と云って天皇の推し進める「神明社」に関わっただけではないのです。その証拠はこの時期に作られたと観られる「青木氏家訓10訓」にあると説いています。
この「青木氏家訓10訓」に於いて「2つの青木氏」は「同族の源氏の主張」に賛成していない事をはっきりと物語っているからです。
賛成ではなく否定に近いもの感じます。それはこの「家訓」のみならず1125年頃に「2足の草鞋策」を実行した事でも証明しているのではないでしょうか。
「弓矢の神」の「武の力」に頼らず「経済的な力」、即ち、「生活の神」「物造りの神」に舵を切っているからです。つまり「第1次的な手段」を採用しているからです。然し、「第2次的な手段」も無視してはいないのです。
それは前記に縷縷述べてきた「伊勢-信濃シンジケート」と「藤原秀郷流青木氏、特別賜姓族の抑止力」を使っているからです。
現に、この「武の力」に脅かされた時、この「第1次的な手段」と「シンジケートと特別賜姓族の抑止力」を使って撃退しているのです。(幾つかの史実がある)だから生き延びられたのです。
それを「青木氏家訓10訓」として ”真の生きる様は此処にあり” として子孫に遺したのです。
その「生きる様」は「祖先神の考え方」に沿った”「祖先神-神明社」”に凝縮されているのです。
そして、その結果が上記の表の数字的な証拠として出てきているのです。
今や歴史は「清和源氏の分家頼信系源氏」を「武家の鏡や魂」の様に持て囃されていますが、「2つの青木氏側」から観ると、「最悪の同族氏と八幡社」と観えるのです。
これが「1650年近い悠久の歴史」を持つ青木氏の変わらざる一貫した姿勢であり「生き様」なのです。
凝縮すると、上記した「源義経の主張」と「源頼朝の主張」の差であります。
「源義経」は上記した様に青木氏と同じ道を歩もうと「鎌倉会議」で主張したのです。
”「清和源氏宗家頼光系四家」の様に「祖先神-神明社側」として生きよう”と主張したのです。然し、この考え方は「八幡社」側には生かされなかったのです。
「源義経の主張」は単に空論では無く身近に上記前記する「青木氏の生き様」が見えていたのです。
「たいら族の清盛」さえも「武の力」に対して「安定の社会」に疑念を抱き「宋貿易」を開始しているのです。
資料の記録では ”義経は清盛の教訓・遺訓を受けた”と記録されていますから、当然に前記で論じた様に義経は「伊勢伊賀の清盛」と隣の同族の「2つの伊勢青木氏」の「生き様」も見ていたのです。
義経は「弓矢の八幡社」を「生活の神」「物造りの神」の「神明社」に変えようとしていた事も考えられます。
「商と殖産」に力を入れていた「平泉の都」を頼った「真の根拠」はここにあったのではないかと観ているのです。
そもそもその「侍集団」は、天皇自らの子供を「融合氏」として臣下させて国策としてそれを推進し天皇自らが作り出した政策であります。
その「3つの発祥源」として自らの分身から「2つの青木氏」を作ったのですが、その「2つの青木氏」はその立場を良く護り”良好な国策だ”と見えたのです。
ところがこの「青木氏の親政族」を、「桓武天皇」が完成させた「律令国家の完成に障害」と成るとして「皇族系の賜姓族」を取りやめ、帰化人の大集団の阿多倍族を「たいら族」として賜姓したのです。賜姓したのは阿多倍の孫娘を母に持つ本人の「桓武天皇」なのです。
(伊賀の阿多倍は敏達天皇の孫の芽淳王の娘を娶る。 光仁天皇 第6位皇子であった伊勢の施基皇子の長男 青木氏始祖)
「阿多倍」には天皇家と血縁させて大蔵氏等の他「4つの末裔」(民族氏: 大蔵氏、坂上氏、内蔵氏、平族、阿倍氏)を作り出した事が、余りにも大きくなり過ぎて、結果として彼等阿多倍一族一門は青木氏と同じ立場を採らなくなってしまったのです。
挙句は、この「侍集団の統制」が取れなくなって、累代の天皇が危険視していた「行過ぎた荘園制」に結びつき、自らの天皇家の足元さえも危うくさせてしまったのです。その事に気づいた時には”事は遅し”であります。(荘園制の問題は前段で論じた)
藤原一門の血縁を受けていない唯一の「一条天皇」から「後三条天皇」-「後鳥羽上皇」まで必至になって彼等の経済源に成っているこの「荘園制」を潰しに掛かりますが事は最早抑えきれ無く成ってしまったのです。
時系列的に観て見ると、「大化改新」「賜姓制度」「帰化政策」「民族氏政策」「阿多倍と血縁政策」「融合氏政策」「祖先神-神明社政策」「皇祖神-伊勢大社政策」「生活の神、物造りの神政策」「侍集団政策」「弓矢の神政策」「荘園制政策」「律令国家完成政策」「藤原氏摂関政策」「親政族 青木氏排除政策」「源氏賜姓政策」「祖先神-八幡社政策」「たいら族賜姓政策」「九州自治政策」「荘園潰し政策」等、これ等に付随する政策が次々実行されました。
そして、政策そのものは「適時適切」であったと考えられるのですが、「後三条天皇」が身の危険を顧みず「荘園制の制限と中止」を思い切って断行した事でも判る様に、当時の政治的権力者との”しがらみ”から”天皇が「政治的欠陥の有無」を承知しながら「政治的欠陥」を取り除く勇気が無かった事による”と筆者は考えているのです。(前段で論じた)
この発端を作り出したのが「桓武天皇」であって、それを悪化させてしまったのが「清和天皇」であって、それを直したのが「後三条天皇」であったと読み取れます。
(適時適切に特別賜姓の青木氏を発祥させた円融天皇、瀬戸内問題や阿多倍一族一門問題を解決に導いた判断力の一条天皇等の英断が「皇祖神-祖先神-神明社」を遺せたのです。)
この渦中にいて清和源氏は歪んだ政治状況の中で、その立場から「弓矢の神」を”床に油”の如くで勢力を拡げてしまったのです。その勢力を使って「八幡社」を建立して行った事を物語っています。
それは11代の源氏が定住していない地域に多くの「八幡社」がある事なのです。
そしてその由来を調べると、「源氏姓」を名乗る「未勘氏族」が多く関係している事なのです。
データから観て全体の8割程度がこの「八幡社」です。
つまり、データでは354社ですが、”自らの「弓矢の神」としての彼等の主張”とすると、”少し違う”と云えるのでは無いかとも考えます。
その「八幡社の建立」は「未勘氏族」が、”自らの立場(源氏族)を鼓舞し自らの荘園を護ろうとしてのもの”であった事を意味します。それが8割のデータです。
場合に依っては「源氏」が「未勘氏族」に対して「名義貸しの条件」であった事も考えられます。
「名義」だけではその宣伝効果は低い事から「目に見える形」として、その「象徴としての八幡社建立」であったと考えていて、一部の地域の「未勘氏族」の資料の中にそれと観られる記述があるからです。
恐らくは、”「荘園」の周囲にその勢力圏を誇示し縄張り範囲を明確にする目的”で「戦略拠点」を ”これ見よがしに”「名義主からの許可」、或いは「条件」として建立したと考えられます。
むしろこの目的の方が強かったのではないかと観られます。
結局、「源氏」の主張する”時代に合わせた「弓矢の神」”の理屈は、この事(侍集団と源氏姓の名乗り)に反発する天皇家に対する取って付けた「大義名分」であった事が云えます。
ここが「神明社」と実質的に異なる点で「生活の神」「物造りの神」は「民に直結する神」である事から、その「建立の行為」は「天皇の施政に対する国策」に合致し、「3つの発祥源」の立場と責任にも合致する事から信任を得え、尚且つ「民の信望」を深めたからこそ民から自然発生的に「氏上様」の呼称が生まれたと考えられます。
「弓矢の疑問」
そこで、”天皇が「弓矢の神」を推奨する事が政治的にあり得るのか”の疑問です。
確かに、「融合氏」を国策とし、「賜姓族」を臣下させたのは天皇であった事は否めませんが、そもそも天皇は「臣下-侍」の政策が「弓矢の神」まで祭祀する程の目的として実行したのではない筈です。
「侍の神」を祭祀する事は「侍集団」に結びつき、それは同時に天皇家の実権を弱くする事にも成ります。
「侍集団」は、「朝廷軍」(坂上氏等)が既にあり、青木氏の「六衛府軍」の「近衛軍」がありさえすれば政治的には成り立つ範囲で無用であります。
むしろ「侍集団」が闊歩すればするほどに「朝廷軍」と「六衛府軍」を強化せざるを得なくなります。
「侍集団」と「朝廷軍」+「六衛府軍」の勢力バランスは物理的に逆転して朝廷権力、強いては天皇の施政権は低下する事は必定の条理です。
どんな愚脳な天皇でもまして側近(藤原氏)もあればこそ、この程度の条理は即座に判る範囲の知恵であります。つまり、「弓矢の神」「侍集団」はもとより望んでいなかった事に成ります。
そうなれば、必然的にも「源氏」に対して、特に「清和源氏」に、更には「河内源氏」に軋轢が加わる事は目に見えています。
故に「河内源氏」と「未勘氏族」が作り上げた「変質の八幡社」は望まれて期待されていなかった事に成ります。
その証拠に「桓武天皇」は、わざわざ父方の実家先を衰退させた青木氏に代わってでも、「神明社」を天皇の自力で20社も建立しているのです。「弓矢の神の八幡社」は建立していないのです。
(確かに清和源氏宗家に修復は命じている。)
この事は、実の所は「青木氏-神明社」は期待されていた証拠であります。
ここで際立ってくる事は「青木氏の行為」が「賜姓の本来の姿勢」であって、”天皇が望んでいた事の「侍の姿」である事”に成ります。
だから「桓武天皇」の「神明社建立」であって、現実問題として挙がった事として、「賜姓族青木氏」の末裔の数に対して、「神明社建立推進」には不足の状態となり、又「河内源氏」等の「侍集団」の増加に対応する為にも母型族の「特別賜姓族を賜姓」(940年頃 円融天皇 藤原秀郷流青木氏)したのです。
まして、「桓武天皇」の子供の「嵯峨天皇」は「青木氏族」を増やそうとして賜姓を「源氏」として慌てて立てたとしてもそれが「清和天皇」の頃には「侍集団」を逆に大きく造り上げる始末と成ったのです。
まさしく”火に油”であります。其処に問題と成っていた”「荘園制」が悪用されてしまった”と成れば ”冬の大火事災害”です。
(清和天皇のところでおおくの問題が噴出する)
然し、それも「清和源氏」までの源氏では「2つの青木氏」と同じ道を歩んでいたのです。
中でも「清和源氏」の宗家の「頼光系宗家の四家」は頑なにも青木氏と同族血縁してまでも「同じ道」を歩んでいたのです。
その藤原道長に使え国司を多く務めた「頼光」に付いては「資質剛健」の性格であった事が資料として遺されていて「河内源氏」のような行動を取る人物では無かった事が判ります。
又4代目の「頼政」に付いても「保元平治の乱」後も一人源氏の中でも朝廷内に残り何とか源氏を立て直す事に努力しなかなか昇格出来ずにいたのです。
その時、清盛の計らいでやっと正三位まで遂には上りますが、然し、資料には清盛は彼を酷評しています。この頼政は強く出られない難しい立場であった事からと考えられます。
「源平の戦い」のきっかけと成った「以仁王の乱」を起した事を聞いた清盛は”あの頼政が!”と驚いた事が遺されています。この事から4代目頼政は「頼光」(宗家)に似て資質剛健であった事が覗えます。
恐らくはこれ等の資料から、この「清和源氏」の宗家の「摂津源氏」側と次男の「大和源氏」側と、三男の分家の「河内源氏」側とを朝廷や清盛等が対比していた事を物語り、この「河内源氏」は清盛等から危険視されていた事が判ります。
全てはこの様に歴史の姿を顧みると、”頼信系の分家が事の道を違えてしまった”のが原因であった事に成ります。
この下記のデータをも含めてより詳しく観てみるとこの事を裏付けています。
「遺戒の意味」
何度も延々と前記から繰り返しますが、「青木氏家訓10訓」はこの”「道の採り方」を間違えてはならない”として ”人のあるべき姿”を、むしろ、進む道を指し示す ”「長」としてのあるべき姿”を説き誡めているのだと考えます。丁度、この頃に「2足の草鞋策」は採られ、家訓の根幹は造られたと考えられます。
「青木氏家訓10訓」そのものが「清和源氏の滅び行く姿」を物語り、それを観て危機感を感じ頼政の孫の京綱とその末裔は「青木氏家訓10訓」としたのではないかと観ています。
恐らくは、この家訓はこの清和源氏の四家の宗家頼光系頼政の孫京綱が「伊勢青木氏」の跡目に入り生き残った事から、この家訓を最初に作ったのではと考えているのです。
(この時かなり緊迫した状況に「2つの伊勢青木氏」は追い詰められていたと考えられます。場合に依っては伊勢手前名張辺り(伊勢は「不入不倫の権」で保護されている)まで攻めてくる事も考えられ、その時は「特別賜姓族の伊勢青木氏」も深く血縁を結んでいる以上は秀郷一門を背景に「たいら族」と一戦を交える事を覚悟していた筈です。然し、さすが「たいら族」は伊賀和紙で青木氏と深く繋がった古い深い絆を配慮して攻めて来なかったのです。それどころか”主謀者の孫の助命嘆願に応じる”と云う前代未聞の態度を採ったのです。)
宗家側は河内源氏の破天荒な生き様を批判していた事を物語るもので伊勢青木氏のみがこの事を証明出来る事なのです。
そして、その「行動の現われ」として「力みのある力」に頼らず、「2足の草鞋策」を採り「特別賜姓族」との極めて親族以上の親密な交わりを採ったと考えています。
そして、賜姓族29氏と特別賜姓族116氏とは結束を強くする戦略構築に邁進したのです。
(参考 特別賜姓族青木氏の賜姓族青木氏に対する援護働き
前段で論じて来た事ですが、四日市には「賜姓伊勢青木氏」と「特別賜姓族の秀郷流伊勢青木氏」の「融合族」が定住している。この助命嘆願の恩義に対して「信長の伊賀攻め」の時、「2つの青木氏」は伊賀一門末裔と民を名張から側面を突いて出て助ける。 然し、信長は「たいら族支流末裔」で伊賀一門もその支流末裔の同族だが血縁の意識は薄らぎ攻めた。 それは「たいら族」は忠盛の時、摂関家に対して伊賀一部の知行を具納した事から血縁意識は薄らいだと考えられる事と、室町幕府初期に元北条氏の執事に対してこの伊賀の知行を味方した勲功により与えたなどの経緯があり薄らいだと考えられる。 美濃-尾張では「源平の戦い」で「美濃の特別賜姓族青木氏」は一部生き残った「美濃青木氏」と「近江青木氏」を残そうとして奔走するが失敗する。又、室町期に美濃-尾張では織田軍に対して「美濃の特別賜姓族青木氏」が仲介を採り「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と一部生き残った「美濃青木氏の末裔」を護った。武田氏滅亡時の諏訪族青木氏と武田氏系青木氏の逃亡を各地で助けた等の一心同体の様な関係の歴史史実がある事に留意。)
前段で論じた「4つの青木氏の結束」はこ「の祖先神-神明社」の強い絆の経緯事から生まれたのです。そして現在に生き残れたのです。
そして、その生き残れた思考の根源はまさしく「祖先神-神明社」にあったと考えているのです。
この「祖先神-神明社の考え方」だからこそ ”世に晒す事なかれ” の「遺戒」は遺され、護られた、又は護らせたと云えます。
実は、前記しましたが、「生仏像様」の処で書いた ”世に晒す事なかれ” の「遺戒」はこの「河内源氏の失態」を「青木氏家訓10訓」とは別に「総訓」として言い残したものと解釈しているのです。
恐らくは、清和源氏頼光宗家の4代目頼政の孫に当る青木氏の跡目京綱は分家の行状を観て「誡めの言葉」を「青木氏末裔」に残したと観られます。
つまり、どう言う事かと云うと、宗家側はこの「河内源氏の行状」を強く批判していたのではないでしょうか、しかし、反面では”世に晒された為に道を間違えた”とも観ていて、(”「未勘氏族」に「源氏の棟梁」と煽られた”として) ”世に晒す事の危険や意味の無さ” に疑問を持っていたと考えられます。
現在でも、”世に出る事”が”何か発展に繋がる”と考えれがちですが、当時でも同じであったと考えられ、この事に疑問を持っていた事が判ります。
そもそも、源氏は清和源氏だけでは無く11代もの源氏があり、決して「源氏の棟梁」でも無く「武家の棟梁」でもないし、まして上記した様に「経基王」は賜姓にも問題があり、「賜姓族の源氏」で無い事でもあり、まして、「河内源氏」は三男の分家筋であり、この「呼称の意味」は空虚で世の中の勝手な利益に振り回された事であり、まさしく”世に晒された事”を物語ります。
仮に、「源氏の棟梁」とするのであれば、筋論からすると初代の源氏で最後まで残った「嵯峨源氏」が「源氏の棟梁」である事に成ります。
更に強いて云えば、青木氏を加えた同族16代として見ると、「3つの発祥源」で皇祖神に繋がる「祖先神-神明社」であり、「氏上様」の呼称があり、「御師」の呼称があり、大化期からの「融合氏族」の末裔であるのですから、「青木氏」が「棟梁」である事に間違いはありません。「生仏像様」「笹竜胆の象徴紋」「象徴の青木神木」等を以ってすれば「分家の河内源氏」が”源氏の棟梁”などとする事は極めて論外です。
それどころか、”棟梁族でない”とすれば清和源氏の分家の「河内源氏」が最も無い同族であるのです。
基より青木氏から観れば「遺戒」の通り ”棟梁”とする事には!”以っての外”であります。
この事は当時で在れば「衆知の事実」であった筈で、まして「清和源氏」には上記した様に賜姓と出自に問題を持っていた事も衆知の事で在った筈です。この様な世の中の様子を「嵯峨源氏」や「2つの青木氏」からすると苦々しく思っていた筈です。まして現在と異なり一族一門が集結している氏家制度の中ではこの掟を守る事やこれ等の「情報の伝達」は社会の重要な要素であった筈です。
しかし、つまりは”「源氏の棟梁」”と世の中では勝手に自らに都合良く「河内源氏の未勘氏族」が中心に成って晒されてしまったのです。「八幡社」もこの流れの中での事だと考えられます。
この事を宗家側の京綱は伊勢から河内に向けてつぶさに観ていたのです。
助命嘆願の日向の宗綱と有綱の兄の二人も同じ印象を持っていたと考えられます。研究を進めば日向青木氏にも何か遺しているのかも知れません。
当然に、同じ行動を採っていた「特別賜姓族伊勢青木氏」にも、極めて親族付き合いにあった「信濃青木氏」にも何がしかの遺訓が遺されているのではと考えられます。この事は青木氏ならではの判る事であります。
伊勢青木氏の宗家にこの「遺戒」の言葉が現在までも長く口伝されている事はそれを明らかに物語っています。大した意味の無い事は「遺戒」として代々に口伝されることは無い筈です。意味の無いものは何時か消えるものです。
このデータを分析してみた時に数字からもその事を物語っている事に驚いたのです。
「神明社-八幡社」の上記の関係表からもこの「生き様」が読み取れのです。
「源氏の棟梁」と「八幡社の弓矢」
「源氏の棟梁」の呼称や「八幡社」の弓矢の守護神の事は、強いて云えば、上記で論じた経緯から見ても「河内源氏の頼朝」までのものであって、その後は「河内源氏の未勘氏族」に依って自らの系譜や出自を正当化しようと利用した「源氏の棟梁」や「八幡社」であった筈です。
(「荘園制の名義借り」の「未勘氏族」からすればこの「2つの事」は生き残りのためには止むを得ない仕儀であった事は否めませんが。)
上記に述べた結論より、その為に明らかに「八幡社」を政治的・戦略的な事として利用されたのであって「祖先神-神明社」の「生活の神」「物造りの神」としての普及には明らかに寄与していなかったのです。
青木氏側から見れば、河内源氏は要するに”世に晒された、又は世に晒した”のです。
どちらかと云えば、筆者は”「源氏の棟梁」と「八幡社の弓矢」の「2つの事」を使って全国の「無血縁の未勘氏族」に依って世に晒された”とする説を採っています。その理由は上記した様に”この「2つの事」は何れも根拠が無い”からです。
とすると、場合に依っては「源平の勢力争いと決戦の必要性」は無かった事に成りますし、当然に同族賜姓族の源氏と近江青木氏、美濃青木氏を滅亡に追いやる必要性は無かった事に成ります。
「無血縁の未勘氏族」がこの「2つの事」を殊更に利用しなければ生き残れたのです。
それは「無血縁の未勘氏族」が形の上では「源氏の主力戦力」であったからです。義家の時も義経の時も頼朝の時も”イザ衰退”と成ると”蜘蛛の子散らす様に”彼等は霧散したのです。そして、その後はこの根拠のない「2つの事」を喧伝する「後付態度」を示したのです。真に世に晒される事の無責任さであります。
場合に依っては、この「無責任な大きな渦」に青木氏も巻き込まれていた可能性があったと考えられ、そうでなかったのは「秀郷一族一門の抑止力」と「特別賜姓族の青木氏の絆と背後」と「青木氏のシンジケート」があったからなのです。
(注記 「未勘氏族の存在」は専門的に研究している人か書物以外に一般には意外に知られていない。
源氏と云えば河内源氏が源氏だと思われているし清和源氏でも8氏もあるし、まして源氏は11代もあるとは思っていない傾向がある。公的な情報機関のドラマでも「河内源氏」を「源氏の棟梁」としていた程である。「桓武平氏や京平氏や伊勢平氏」として知られている「たいら族」と「皇族第7世族末裔」の「坂東八平氏」の「ひら族」との区別が付かない事とは「不思議の大間違い」です。酷いものには伊勢の秀郷一門の藤原氏の伊藤氏を「たいら族」とした歴史ドラマがあった。
この「2つの事」はテレビ、簡易書物、ネット解説等の情報機関でもこの充分な「時代考証」が出来ていない事が実に多いレベルであり、これが少なくとも青木氏に関係する「通説と云う本質」なのです。)
データから観ても「八幡社の弓矢の神」としても「河内源氏」が純粋に建立したと観られるのは、全体の2割程度弱に過ぎないのです。
後の八幡社は「未勘氏族と荘園制との結びつきの建立」に過ぎない事なのです。
彼等の「弓矢の神」の役目があったとしても国全体では「神明社+八幡社」920社の中で僅かに7%に過ぎないのです。
これでは河内源氏を除く11代もの源氏が氏を成した事として考えても、「祖先神-神明社の建立」に対して賜姓族として、”その責務や目的を充分に果たしていない”と成ります。
その様な果しているとする資料が多くが見付からないのです。
そもそも11代の源氏の内、室町期まで豪族で直系の氏として生き残ったのは「嵯峨源氏」、「宇多源氏」、「村上源氏」、「清和摂津源氏」の4氏(他に醍醐源氏と花山源氏は豪族・直系氏の要件が低く未勘氏族の可能性が強い)に過ぎない事から良く言えば ”賜姓族らしく質素に生きた”、又は、別に言い換えれば、多くは「武力と経済力」の運用の無さが「河内源氏」の様に「適時適切」ではなかった事に成ります。!”その「生き様」に弱さが在った”から「賜姓族源氏の4氏」は”直系子孫を青木氏の様に現在に遺しきれなかった”と考えられます。
「2つの青木氏」の「特別賜姓族青木氏」は秀郷一門を背景には「氏構成」の大きさは別格として、同族5家5流の皇族賜姓族(近江、美濃は支流末裔は何とか遺せた)が「源氏11代」と対比しても前段から論じている「祖先神-神明社」を通して上記するその「生き様」の違いがあり、それが適時適切であった事を物語っている事に成ります。
(絶大な勢力を誇った「特別賜姓族の援護」が「賜姓青木氏の生き様」を救った)
この他にも宗像大社、熊野大社、住吉大社、出雲大社、阿蘇大社、等の氏子集団を形成した「姓氏」の果たした充分な役目から考えると、「祖先神」を守護神としながらも概して源氏は本来賜姓族でありながら「祖先神の役目」に対してその果たした功績は極めて低いと云わざるを得ないのです。それが子孫を遺し切れなかった「生き様」に現れたと考えられます
「八幡社の議論」はデータからも明らかに成った事から、更に次ぎからは「本論の神明社」の分析に入ります。
青木氏と守護神(神明社)-18に続く。
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