青木[アオキ] 名字 苗字 家系 家紋 ルーツ 由来

青木[アオキ]という姓[名前・名字・苗字]・家紋・家系の由来・ルーツの研究

青木さんの情報 ルーツ データベース リンク集 http://www.aoki.cc/
青木氏氏[Enter]
├ 研究&重要データ ⇒ 青木氏氏 研究室
└ ルーツに関する質疑応答 ⇒ 青木ルーツ掲示板
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ

青木ランキング参加者募集中!!



≪前ページ | ホーム | 次ページ≫

藤原秀郷主要5氏と家紋の研究-史料 8/10-1(時代の変化に対する対応)

Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究-史料 8/10-1(時代の変化に対する対応)
投稿者:福管理人 投稿日:2009/01/23(Fri) 20:11:09



史料8/10-1

この史料は主要5氏の”時代に対してどの様に血縁状況を適応させていたのか”を統計的に家紋を分析して、その姿を今に再現しようとするものである。
そこで、その内容を次ぎの2つに絞った。

(これ等は青木氏と4氏と関係の「本文の考察」の基史料と成る。)


この史料1(時代の変化に対しての推移)と、史料2(時代の変化に対して5氏の繋がり具合)に付いて、「時代性」から観た青木氏と他の4氏との「共通血縁性」を統計分類したデータである。

(作成要領と注意は史料7/10と同じ)
(史料1-5/10を基本に統計分類しデータ収集 参照)

平安(H)、鎌倉(K)、室町(M)、桃山(A)、江戸(E)の夫々の時代で、秀郷一門の「共通血縁族」(2氏から5氏)がどの様に、且つ、どの程度出来上がって行ったかを考察する。

このデータは他に「一門の有様」の「色々な状況」を発見するのに使う事が出来る。
今回は特に上記の2つの内容に絞ることで、秀郷一門の出来上がり具合(氏力の推移)を浮き出させる事にする。

先ず、史料1(時代の変化に対しての推移)から考察する。

「共通血縁族」
史料1-1

3氏合計の場合       4氏合計の場合         5氏合計の場合
H:09  11%      H:13  11%        H:20  06%
K:03  04%      K:04  04%        K:24  07%
M:35  41%      M:45  38%        M:126  39%
A:20  24%      A:27  23%        A:82  25%
E:18  21%      E:28  24%        E:75  23%

2氏合計の場合       全体の平均
H:03  08%      H:36  09%
K:07  18%      K:33  08% 
M:13  33%      M:151  38%  
A:09  23%      A:95  24% 
E:08  20%      E:88  22%

(時代の家紋数/全家紋数)=X%
(但し、例えば3氏(4、5)とは青木氏と他主要4氏の何れか2氏(3、4)との合計を意味する。)


史料の考察
史料1に付いて。
平安期に於いて
主要5氏の「共通血縁族」は「5氏の場合」のレベル(6%)は意外に低い。
これは平安期の「氏数」(40)が大きく育っていない為に少ない事が先ず云える。
尚且つ、その中で「血縁相手」が幾ら各地での「血縁戦略」とは云え、土地の土豪程度であった。
従って、「氏家制度」から藤原秀郷流主要5氏と他氏との「血縁の吊りあい」の取れる相手が少なかった事が云える。この2つ等が主な理由として挙げられる。
特に、5氏の中で、青木氏だけは「第2の宗家」としての立場から難しかったのではないかと考えられる。その為に数字を下げていると観られる。
更に、平安期での後発族の2氏(永嶋氏、長谷川氏)の血縁力はまだ拡げるに必要とする「氏力」が低かった事も誘引しているだろう。
しかし、「3氏、4氏の場合」共に「共通血縁族」の数字は11%と一割を占めている処から観るとこの時代としては5氏の6%は妥当なレベルと考えられる。
これは、上記の4つの理由からすると6%が妥当であるとするならば、赴任地24地方の相当な豪族との血縁を青木氏は進めていた事にも成る。
それは他の4氏と異なり「移動性」が高かった事によるだろう。特に、「全体の平均」(詳細事例確認:9%)(11%と6%)から観て上記4つの原因と合わせて、次ぎの事柄で「5氏共通性」が低い数字(伸悩み原因)と成ったと考えられる。

伸悩み原因
1 青木氏の「第2の宗家」としての立場
2 発祥の先発後発の関係
3 地理的な関係
4 立場、役目の違い
5 由来の違い
6 移動性
7 平家と競合(末期)

1-7により夫々の氏の「血縁戦略」は異なるだろうから5氏全てを以って評価するには問題がある。特に、2の「発祥期のズレ」が大きく原因しているだろう。これで考えると、秀郷が一門を構えてから、間隔は最大で240年、最低で130年はある。当時としては、平均寿命から4代から7代の代替わりがあった筈で「発祥期のズレ」(4-7)は史料とほぼ一致する。
この秀郷一門は、この期間のほぼ中間に居る「進藤氏」を中心にして、
1 青木氏と長沼氏の「先発組」、
2 進藤氏の「中間組」、
3 長谷川氏と永嶋氏の「後発組」、
この3つの組にはっきりと分けられる。
この間には、「進藤氏」を中心に左右2つに分けると、その片側の巾は平均90{(60-120)/2}年と成るので、この事から、盛んに血縁を進めていた3氏、4氏の「共通血縁族」の11%からすると(上記の理由(1-7)があるとすると)、左右に分けた1/2(先発組分)のその6%と同じに成る。
故に、「5氏の場合」のレベル(6%)は「妥当」な数字6%なのである。特別に低い数字では無かったと考えられる。
何か特別な原因が作用してでは無く、普通の結果(氏家制度の中で)に依って得られた低い数字である。
更に2氏(8%)と、より「共通血縁性」が高い3氏、4氏も含めての評価とすると、5氏は妥当な「時代性ある血縁」と見なされる。
それなりに”しがらみ(1-7)”の多い5氏ならではの数字(努力)である。
つまり、平安時代には、別の見方をすれば、主要5氏の「共通血縁族」は200年程度経ってやっと一割を占めていたと言う事である。
平安期では、「氏」には広がりが出てはいるが、「氏力」即ち「一門結集勢力」(共通血縁力)としては、この意味としては「氏力」の一割は既に出来上がっていた事に成るし、秀郷一門の「絆」は1割であるので固まり始めていた事にも成る。
しかし、一門に末裔の広がりを見せても、必ずしも「結束(絆)」が固まるとは限らない。
史実を観ると、むしろ「結束(絆)」は恣意的に成し得て、且つ、維持をさせて始めて成し得るものであろう事を教えている。
「嫁取り」すれば「兄弟は他人の始まり」とも云う。それが世の現実であろう。
まして、「主家、分家」等「主従関係」の厳しい「氏家制度」の社会の中では「結束(絆)」は別であり尚更であろう。
従って、全く他人が入る「嫁取り」では無く、秀郷一門間を「血縁関係」で固める事は、ここでは「結束(絆)」と成ると観ている。
その上で、「第2の宗家」の物心両面の一門への「思いやり」が「結束(絆)」を高めるものと成ろう。故に、このデータの「血縁」+「思いやり」は「結束(絆)」となると観た。
つまり、数式論で言えば、次ぎの様に成る。
「血縁」+「思いやり」=「結束(絆)」=1割
「氏力」(「一門結集勢力」:共通血縁力)=1割
故に、「共通血縁力」=「氏力」=「血縁」+「思いやり」=「結束(絆)」=1割 と成る。

更に、この論理ですると、言い換えれば、青木氏の「第2の宗家」としての「指導力」は全体の平均から観ても一門の1割を固めるだけの力を発揮していた事にも成る。

平安期
時代の状況:「貴族の社会」「氏家制度」
秀郷一門の状況:藤原氏の赴任地豪族との「血縁戦略」=「7つの確認事例」

鎌倉期について
ところが、鎌倉時代(K)に入り、矢張り一族に「失職離散」が起こり、政治体制も「武士の時代」と成り、秀郷一門の「貴族」の下に「侍集団」が構成されていた時代とでは大きく異なり、又、「豪族集団」もその「氏種」が異なった事もあり、そのレベル(4%)は平安期6%よりも低く成っている。
多分、この時代は「血縁」と言うよりは「当面の生残策」に翻弄されていた時代であったろう事を物語る数字である。
従って、この時代の血縁は、「同族内の血縁」を主体として固めていたのではないか。
その証拠にKの5氏の「共通血縁」が7%と高い。青木氏を中心として翻弄されながらも「横の関係」を必死に整えていたの事を示すものであろう。
しかし、ところが主要4氏と共通血縁性が低い青木氏と他の1氏(2氏の場合)の場合が18%と段突である。これは平安期では地方24赴任地での青木氏と土豪との「血縁戦略」があったが、まだ、主要4氏との「横の関係」の血縁までの発展には至っていなかった事を物語る数字でもある。
この18%(単独の血縁数字)は青木氏が先頭に立って進めている「血縁戦略」(平安期8%)が次第に延びて来ている証拠の数字でもある。
「氏力」には未だ至ってはいないが、全体の26%まで延びてきているのは、”「当面の生残策」に翻弄されながら、「横の関係」を必死に確実に進める努力をしていた”と成る。

この「単独血縁」と「横の関係」が次ぎの室町期の混乱期の時代に大きく支えに成ったのである。
この時期、同時に「青木氏の単独血縁」の努力と合わせて、後発の永嶋氏や長谷川氏らが構成する5氏の6%(平安期)から7%(鎌倉期)と+傾向に成り、全体13%の数字が示す様に、やっと力を付けて延び始めた時期でもある。

鎌倉期
時代状況: 「失職離散」「武士の時代に変化」「氏種が変化(豪族集団)」
秀郷一門の対応:「当面の生残策」(横の関係)「同族内の血縁」「青木氏単独血縁」「長谷川氏永嶋氏の台頭」

室町期に付いて
そして、室町時代ではなんとその努力が実り、丁度、高率の40%を占めている。
この「地道な努力」の「冬の時代」から一挙にその努力が花を開いたことを意味する。
況や、秀郷一門の鎌倉期の対応が正しかった事を示す数字と成っている。

一門全体の「同族内の血縁」による「氏力」の半分がこの時代の混乱期に出来上がったことを示す。
この時代の背景、即ち、「下克上、戦国時代」の攻撃を受けながらも、これだけの「氏力」(40%)を形成したのは、藤原秀郷一門は青木氏の「第2の宗家」を中心に一致協力して、「下克上」の攻撃には「受け」に入らず「攻め」の体制を採ったからであり、この数字はそれを物語るものである。

普通は、「下級武士の台頭」を中心とした「下克上」「戦国時代」では、「伝統」を主体としてた氏は「受け」に入り衰退するのが現実の理屈であった。また普通はその様に予想するであろう。
ところが、秀郷一門の現実の史実は、一門は「焼き討ち等の憂き目」を受けているが、「子孫」「血縁」と云うテーマで観た場合は、データの通り違うのである。
つまり、この40%は「時代の生様」を具現化する見逃しては成らないデータである。
果たしてこれは何を意味するのか。深く考察に価するテーマであろう。

そこで、敢えて検証を進める。
一体どの様な戦略で対応したのであろうか。そして、その「生き様」(経緯)はどの様であったのだろうか。
「焼き討ち等の憂き目」が在ったためにそれを「警鐘」として受け止め、一門がそれまで創り上げていた「氏力」15%で先ず「横の関係」を図り、身を鎧の様に固め、24地方の一門は青木氏を中心に据え「一致結束」して「戦い、排除」しながらも、「24地方の血縁族土豪集団」をひとり立ちできるように「育成」してたのでは無いかと観ている。
その為に、「下克上」の下級武士等の不満は、同じ立場に居た「24地方血縁族土豪集団」を「潰す」と云うところまで処せられなかったと観ている。

現に、それには次ぎの証拠があるのである。
それは家紋分類の史料(3/10)をもう一度参照されたい。
ここに隠れた証拠が潜んでいたのである。それはある種の「集団防衛」システムである。
各地の秀郷一門の土豪集団は、このシステムで動乱期に臨んだのである。
後の安土桃山時代にはこれ等は一種のシンジケート化した集団として遺したのである。
このシンジケートが、又、次の時代の生き抜く重要な力と成った。
つまり、「下克上、戦国時代」の「焼き討ち等の憂き目」の混乱に誘引されて「跡後」に訪れるそれは世の「必然の流れ」では無かったかと観られる。

しかし、ここで、この対応策の「集団防衛」は「精神論」だけでは成り立たない。
当然に「経済的裏打ち」が取れていてこそシステムなのである。
既にお気づきと思うが、秀郷一門の「第2の宗家」青木氏の「2足の草鞋策」で「裏打ち」されていたのである。
恐らく、青木氏はこの「裏打ち」の為に、「第2の宗家」として一門を支える為に採った「必然の策」であっただろう。
「氏家制度」による「手弁当の掟」から観ても、「領地から得られる税収入」を以って一門を支えこの動乱期を乗り切るだけ力は無かった筈で、秀郷一門にはどの様に見積っても到底その財力は出て来ない。有史来、史実の中で「世中の動乱の動き」(必然の流れ)を押し返すだけの「氏力」の持った氏は何処にも無かった。
たとえ、頼朝、尊氏、秀吉、家康にしてもその時代の「世中の動乱の動き」(必然の流れ)に上手く乗っただけである。自分の「氏力」のやり方で押し返したのではない。
まして、24地方の赴任地に戦略として「血縁族」を作っている。室町期まで上記の通り育ててきたこれ等の「血縁族」に生き残らせる為に「軍事的支援」のみならず「経済的支援」を必要とする。まして、動乱期(有史来「世中の動乱の動き」:必然の流れ)である。尋常の「経済的支援」では済まないであろう。
これ等の育ちかけた「抹消の血縁族」を生残らせ、尚更に、育てるには尋常を超えていると観られる。
と成ると、「人の心」は、必然的にその財源を求めようとする。
しかし、その「財源」は他氏を攻め落として領地を増やして得られる収入の範囲ではない。
それに頼れば「犠牲」も多く成り、育てている「抹消の血縁族」は疲労し潰れ離れて行く事は世の必然である。
だとすると、「人の心」に生まれる知恵は「地の利と理」と「役職の利」を先ず考える。
税としての物資を裁くは「役職の利」そのものである。当然、それを「守る武力」も役職である。裁く「商いの繋がり」も一門の縁故を使える。
この様に「2足の草鞋策」の「商い」の条件は整っていると成ると、むしろ、これだけの条件を使わない方がおかしい。「人の心」はその方向に間違いなく動く。これが「必然の動き」である。
それは「24地方の血縁族」の力も使えるし、その24土地の「生活物資や生活用品」を一手に扱い動かせば商いは成り立つ。まして動乱期である。
「動乱の戦い」のその「軍需物資」を扱う事が出来れば大商いは成り立つ。当時では、食料は当然の事、鉄や銅や金などの「鉱物資源」と成ろう。

参考
自然の摂理で、太平洋プレート、ユーラシャプレート、フィリピンプレートの3つのプレートが重なる地域には地殻の動きで比重の重いものが集まるのが冶金学的な特長である。
信濃と上野と甲斐の境界点付近の3合流を基点に能登佐渡との中間を結ぶ線上帯に鉱物資源は集まる。

さて、ここで、本文の進藤氏のレポートを思い起こしてもらいたい。
大変な藤原秀郷一門の戦略が観得るのである。
再度、概容として、進藤氏は秀郷一門が発祥であった。ところがこの秀郷一門の進藤氏は「秀世」のところで男系跡目に苦労した。そして、利仁流の「藤原為輔」と出羽国で出合った。そして、この進藤氏を為輔は引き継いだ。この進藤氏を「接着剤的役割」でリードした青木氏は利仁流との血縁関係を戦略上で持とうとした。
この利仁流は北陸道7国を代々の勢力圏としている。何故、この北陸道に目を就けたのか。
一つは、確かに藤原秀郷一門の「氏力」の「血縁戦略上の強化」であったであろう。しかし、それだけでは無いと観る。それは上記の資源帯のこの北陸道一帯に存在する鉱物資源である。

既に、頼朝に潰された秀郷一門の「平泉三代」の栄華はこの鉱物資源(金)の確保から来ている。
又、信長、秀吉の経済力もこの北陸道地域を抑えた事から全国を平定した。
当然、この知識を知っていたであろう。同じ秀郷一門宗家が知らないはずが無い。
(史実は足利氏、信長、秀吉、家康も先ずこに最も信頼できる人物を差し向けている。)
「武力」だけではない「経済力の裏打ち」が必要であると、間違いなくこの事を知っていた筈で天下を取ろうとする者がこのことを知らない方がおかしい。
だとすると、喉から手が出るほどに「経済的な裏打ち」を望んでいた筈。これを一門を維持するには戦略上見逃す筈が無い。
しかし、直接、「武力」でこれを抑えるには室町期では藤原氏の「50%の氏力」では無理であろう。
だとすると、「血縁戦略」以外に無い。まして、土地には藤原北家一門利仁流が土地に根付いている。直接支配は室町幕府の直轄であるが、現場の支配は利仁流一門が担っている。これを「商い」として結び付けば、相当の「経済的効果」は挙げられる。
これに目を付けて進めた血縁戦略ではあった筈で、利仁流一門からしても当時とすれば3倍以上の程度の「氏力」を保持している秀郷一門からのこの「力」を借りて「経済的裏づけ」を持ちたいと云う立場にあった筈である。藤原北家一門でその恩恵を分かち合える事が出来る。
秀郷宗家としては、貴族であり「武力」と「商い」は法度であるとすると、「第2の宗家」の青木氏としては、24土地の「生活物資や生活用品」を一手に扱い動かせる「大商い」と、「軍需物資」を扱う事が出来る「大商い」の2つを見逃す事は無い。
これが、青木氏の藤原秀郷一門の戦略であった。
この「必然的な流」の中でのその知恵が青木氏に働かせたのである。

その「必然の流」(A-B-C)とは次ぎの様にまとめられるのではないか。
(A)「下級武士の不満」「下克上、戦国時代」の「焼き討ち等の憂き目」の混乱
(B)「縦から横の関係」「一致結束」「24地方の血縁族土豪集団化」「2足の草鞋策の裏打ち」
(C)「秀郷一門の集団防衛化」

(A)が起こり、混乱から逃れ生きる為に「味方を呼び集め」、一心に「身を固め」、他に「生活の糧」を得んとして、必然的に人の心に(B)の「自然の流」が起こり進み、結果として(C)の生き延びられる「形」が生まれた。とする。

この「必然の流れ」の中で青木氏は、それを(B)を得心し、一門をリードし、自ら「糧」を生み出しす役目を果たしたのである。

一門の「2足の草鞋策」は史料から観てみると、年代は不詳だが由来書や系譜説明等の内容の経緯から、丁度、この時期(末期)から実行されている。

史料から他氏の時期を記述する事には問題があるので、因みに筆者伊勢青木氏の紙問屋紙屋の青木長兵衛の事に例を挙げて記する。
丁度、この頃、同じ苦境にあった青木長兵衛は「土地の利と理」(伊賀紙)と「守護の立場」を生かして1325-40年頃(鎌倉-室町期)に「2足の草鞋策」に挑んだのである。史実は秀郷一門の青木氏も同様の時期に「2足の草鞋策」を各地で採っている。(詳細下記)
逆に、動乱期に於いては「2足の草鞋策」にも「経営と物資運搬」の防衛の為にシンジケートが必要である。この必然的な「相互依存の環境」にあった事がこの「システム完成」を助長した。
「下克上、戦国時代」後の安定期には、これ等がシンジケート化して現存したのである。
「比叡山などの寺社集団」や「2足の草鞋のシンジケート」のこれに苦しんだ信長以後の主導者の秀吉、家康は「戦わずして勝つ」と云う戦略上で挑み、史実上、逆にこの2つを味方に引き入れて利用し勝利した事に成る。
つまり、2人はこの藤原氏一門の「戦い方の史実」としてこの各地の「防衛集団」種を充分に認識し承知していた事を示すものでもあろう。そのために戦いに有利としてこのシステムを持つ藤原一門はこの2人に大いに雇われ仕官したのである。
その決定的な事例の「典型的事件」がこの時期に起こっている。それは「南北朝の戦い」で楠木政重(菊水紋)と北条氏10万の戦いであろう。

この特長データから考察すると、各地に満遍なく、且つ、大変な量の集団が形成されていたかが判る。これでは、「下克上、戦国時代」では「勢いのある焼き討ち集団等の敵」に対して、何とか抗する事が出来たのではないかと容易に想像出来る。

史料(3/10)の特長として、「一門の集団性」がある。つまり、「2つの種類の集団」が秀郷一門の家紋類に大きく存在するのである。

「2つの種類の集団」
1つは、地域に根ざした「土豪の集団防衛」である。
2つは、地域の氏子の「寺社の集団防衛」である。

この「血縁族」をまとめた「集団防衛」は他にレポートした「伊勢の青木長兵衛」のそれをはるかに超えた大きいものである。

史料1-2(一門の集団性)

主な秀郷一門「土豪の集団防衛」群
中国地方では、亀甲族集団(8党)、鷹羽党(3党)
関東地方では、武蔵族(7党)、関東屋形族(4党)、坂東族(8党)、矢車族(2党 荒川党)、大島族(2党)、根笹族(4党)、駿河族(3党)
中部地方では、伊川津族(7党)、諏訪族(2党)、真田族(2党)、伊勢族(2党)
関西地方では、河内摂津族(7党)、紀州一党(雑賀族、根来族、巨勢族、葛城族、紀族、平群族)、熊野神職族(5党)、上山党(2党)、伊賀族(2党)、菊水党(2党)
四国地方では、讃岐族(讃岐籐氏4党)、阿波族(阿波藤氏2党)

(注)史実上、秀郷一門の何らかの「流」を汲むもので、以上は動乱期前後までに何族、何党、何衆と呼ばれた共闘集団を構成したものを記述した。
(注)史料3/10では枝葉氏の家紋まで記述していない。

主な秀郷一門「寺社の集団防衛」群
出雲大社氏子集団(亀甲紋神紋:美作、安芸、出雲の氏子)
阿蘇大社氏子集団(鷹の羽神紋:氏子が中国地方に移動 菊地氏、浅野氏)
伊勢大社氏子集団(柏紋神紋:久志本氏)
熱田大社氏子集団(柏紋神紋:千秋氏)
宗像大社氏子集団(柏紋神紋:宗像氏)
吉田大社氏子集団(柏紋神紋:吉田氏、ト部氏)
吉備大社氏子集団(柏紋神紋:大守氏)
春日大社氏子集団(下がり藤紋:藤原一門)
菅原大社氏子集団(梅鉢紋神紋:菅原氏系)
天台宗檀家集団(摩多羅神の神紋寺紋:抱き茗荷紋:二宮氏系)
加茂大社氏子集団(立ち葵紋神紋:西田氏系 丹波、信濃、三河)
柊明神社氏子集団(抱き柊紋神紋:丹治氏、大関氏)
諏訪大社氏子集団(立ち梶の葉神紋:諏訪氏)
熊野大社氏子集団(やた烏紋神紋:熊野5氏)

(注)史実上、秀郷一門の何らかの流を汲むもので、血縁関係が認められる集団で、以上は動乱期に共闘集団を構成したものを記述した。更にこの期間では、完成した「防衛共闘集団」になりかけのものも含まれている。以上、2つの「防衛共闘集団」に更に夫々小さい土豪の集団が枝葉する。
(注)柏紋の大社神紋は主に三つ柏紋8種に分類される。

これだけの「2種の大集団」を一つにしてシンジケート化すれば、「表の勢力」に比較できない程の「裏の勢力」が働く事は間違いない。「裏の勢力」であるが故に、室町政権から直接睨まれる事は無く、又大儀明文が無い為に出来ないであろう。

上記の経緯から、この時代の期間では、「他の氏の入れ替わり」が起こったにも拘らず、全体としての一門の「氏力」の推移は、平安期10%の「氏力」(基礎力)から苦難の中で鎌倉期では15%と維持し、その努力が生きて室町期(39)では全体では55%と拡大に繋がったものである。
これは平安期の藤原氏の赴任地豪族との「血縁戦略」が、時代の変化にも拘らず鎌倉期の群雄割拠の侍時代(土豪達)に、効を相して血縁族が台頭したものである。
それが室町期では、この台頭の血縁した土豪、地侍等が「勢力争い」に勝ち抜き一門が「氏力」を広げたと成る。
勿論、この土豪、地侍に秀郷一門が積極的に「武力と経済」で「裏打ち」したのは紛れもない事実であるが、終局、彼等の集団は「共通血縁族の主要8氏」と大豪族と成り得たのである。
この終局の室町期は「共通血縁族の主要8氏」がこの数字を作り得たものである。

その室町期の「氏力」の出来上がり具合は次のように成る。
2氏で59% 3氏で56% 4氏で53% 5氏で52%
この数字から観ると、5氏だけに拘らず青木氏と1氏までも50%台であり、”一門と血縁族全体が均一に「氏力」を固めた”と云う事であり、”取り残しは無い”事に成る。
”赴任地24地方の血縁族が全て生残り、尚且つ勢力を拡大した”と云う事は、如何に秀郷一門が強かったかを物語る。
この強さは当然に一門を指揮したからこそ強いのであるから、これは当然に青木氏の指揮如何に関わる事である。指揮のない「烏合集団」はやがて衰退するがこの「世の常道」である。
つまり、秀郷一門は「烏合集団」では無かった事を証明する。
これは後の時代に遺す「一門の絆」の強さを示すものである。
青木氏と他4氏との関わり具合が均一である事は、明らかに「血縁戦略」即ち「青木氏の指揮」が徹底していた証拠にも成る。
これでは、秀郷一門が時代に取り残されずに生抜けた事がこのデーターでも明確に解る。

安土桃山期に付いて
そして、その「氏力」が安土桃山時代ではその勢いが続き25%と氏力を維持させた。
多分、室町期の40%が無ければ、この高い「氏力形成25%」は無かったであろう。

この時代は「群雄割拠の時代」から「選別の時代」へと変化して行った時代である。
その中で「選別された豪族」(「共通血縁族の主要8氏」等)との血縁が結ばれ、主要5氏が時代に即応した「氏力」を培ったと言う事に成る。この事は主に「分家筋」との血縁を優先させた事が頷けるし、その証明に成る。
「共通血縁族の主要8氏」からそれを主軸として、更には「選別」により駆逐されてこれ等「枝葉の末裔末孫」の「横の血縁」を拡げたに他ならない。つまりは、鎌倉期に勢いのあった2氏(18%)のところまで主要4氏との血縁は進んだことを意味する。

普通、この時代は時代のめまぐるしい変化に即応出来ずに古い氏は全て衰退し消えて行った時代でもある。その中で生残れたのは、「時代の変化」に拘らず、これもH、K、M(55%)と「氏力」を即応させた結果による。
しかし、生き残れはしたが、秀吉には、史実上に記録されている氏として、豪族クラスでは、四国の讃岐藤氏一門、阿波の藤氏一門、伊勢の秀郷一門の青木氏、永嶋氏、伊藤氏、常陸の結城氏、小山氏、陸奥の結城氏等が多くの秀郷一門が潰された。数えられない程である。逆に、徳川叙封禄に記載されているもので、江戸初期には家康に依って潰された青木氏等の秀郷一門も多い。
多少の戦いはあったとしても、殆ど「選別」に類する衰退である。
(機会あれば何時か衰退した青木氏等のレポートもしたい)

安土桃山期に付いては上記した室町期から桃山期初期の秀郷一門の「生残りシステム」が効かなかったことに成る。
何故ならば、彼等二人はこの一門の「生残りシステム」を熟知し、真似をし、利用し、駆使したに過ぎない。
同じ「生残りの戦略」で対抗されれば、「時の勢い」の持ったものが勝つのが常道である。
違うものを持った同士の戦いであれば、「群雄割拠」であり、殺戮の少ない同じシステムの戦いであれば「選別」であろう。

しかし、ここで、特記する事は、秀郷一門の生き方の数式論である。
「生残りシステム」から「選別」が起こると差し引き残るものがある。
{秀郷一門}=「生残りシステム」-「選別」={時代の趨勢}
1 「生残りシステム」=「血縁戦略」+「経済(2足の草鞋策)」であった。
2 「生残りシステム」-「選別」=「経済(2足の草鞋策)」と成る。
3 「経済(2足の草鞋策)」は無傷である。
4 そうすると、「全秀郷一門」-「選別」=「選別された遺豪族」と成る。
5 故に、「経済(2足の草鞋策)」+「選別された遺豪族」と成る。
6 そこで、「経済(2足の草鞋策)」+「選別された遺豪族」=「共通血縁族の主要8氏」と成る。
結論は、”{力の着いた「共通血縁族の主要8氏」}が一門を支えた”と云う事になる。

しかし、これが選別後の江戸初期以降では、時代に即応して、6の数式論が大きく左右して末裔を遺し得たのである。

因みに、再び、筆者の伊勢青木氏を例に挙げると、この典型的な数式論が成立しているのである。
「伊勢攻め」即ち「天正伊賀の乱」と「伊勢永嶋の戦い」で、信長、秀吉と戦った。
この時、青木氏は名張城、青木山城、柏原城など3つの城と平城の松阪館から戦いを挑んだ。
信長は伊勢の入り口に丸山城を築く為に信長の次男信雄と滝川一益を差し向けた。
この時、伊勢の500年歴史を持つ豪商紙問屋青木長兵衛が陰で建築物資を抑えて高騰させ物資不足を作り出し伊勢シンジケートを動かしてゲリラ作戦を展開した。そして、高額築城費と長期間を費やさせやっと出来たその日にシンジケートに天守閣を爆破させて消失させた。信長は烈火の如く怒り、信雄を蟄居させる事になった。有名な史実である。一方この時、名張の城では、別の顔を持つ青木民部尉信定は無傷、紙問屋長兵衛の店も無傷で、次ぎの「伊賀攻め」に備えた。
その後、秀吉を先ず伊勢永嶋攻めに差し向けた。青木氏の手の内を知る秀吉は青木氏の陰の手口を封じて、材木を兵が切り裁き筏を組んで流したりして伊勢永嶋を攻めて北畠氏を潰した。次ぎにこの伊勢の背景を知る秀吉は、戦わずして勝つ戦法を使ってきた。藤原一門で清和源氏血筋も持つ蒲生高卿の子の歌人で軍師の蒲生氏郷を差し向けた。伊勢青木氏とは遠縁関係にあり縁故を使った。青木氏の背景を知る抜いている。戦うと両者ともに「シンジケート戦」で大きな犠牲を払う事に成る。青木長兵衛を説いた。条件を飲んだ。一端新宮に青木氏は引き上げた。
氏郷は有史来松阪に城を築いた。1年後に屋敷町に2区画を与えて青木氏を戻し松阪の一部と玉城町を与えた。そして、その経済力とシンジケートを氏郷は潰さずに利用した。
伊勢は発展した。その後、家康は関が原の戦いにその「経済力」と「シンジケートの力」を利用して合力した青木氏を氏郷と同様に無傷で青木氏を遺した。

この史実は、秀郷一門と同様に、上記の方程式の「必然の条理」の上にあった。
これはこの世の「必然の条理」に従った最高の戦略ではないか。秀郷一門はこの戦略に到達したからこそ子孫を大きく遺し得たのである。何をか況や、青木氏の指揮の下の所以である。

時代の状況:「群雄割拠の時代」から「選別の時代」
秀郷一門の状況:「共通血縁族の主要8氏」成長と「選別された遺豪族」「横の血縁}(分家筋)

江戸期に付いて
江戸時代に成ると、そして、その「必然の条理」の下に、江戸時代の藤原秀郷一門の主要5氏は多くはその背景を持つ事を重用されて大名、御家人、旗本に成った。
この時代は「戦国時代の終焉」を経て「江戸の安定期」に入ったが、逆に「氏と家紋」は爆発的に増加した。
(参考 氏数変化は家紋200選を参照 N40-H200-K800-M400-A1000-E2000-m8000)

この中には「家柄や身分」などが「出世や羽振り」等に必要と成り、こぞって自分のルーツの故古を持って名乗りを挙げた。この中には疑問のものも多いが20%台を維持して血縁関係を維持したのはこのブームの影響もあった。
つまり、室町期まで培った「正味の努力」の血縁で拡げたものとは異なるレベルである。所謂、江戸の「安定期」に起こる過去の「家柄の誇示」に過ぎない。
「安定期」のこの時代にはある意味では「戦略的血縁」を必要としている訳では無かった。
むしろ、「社会的必要性」(家柄)からの血縁ではあった。
しかし、ここで秀郷一門の「戦略的血縁」を必要としないからと云って、レベルが低く成っていた場合は、現在の青木氏等の主要5氏は無かったのではと考える。
「戦略的血縁」ではその勢いは息切れしたであろうし、一種の「接着剤的働き」をしていたと考えられる。この血縁は現在の青木氏を始めとして藤原一門の存続に大きく影響させた時代でもあった。
秀郷一門にとってはその「社会的必要性」(家柄)を元より踏襲する必要が無かった事によるもので、江戸の時代の「軽い風潮」に振り回されることが無かった事が幸いしたものであろう。
むしろ、「羨望の目」が向けられたし、この家柄が安定した「氏力」を保持していると評価されて認識されて、幕府や大名に仕官し、平安期と同じく再び高い位置を得た要因の一つと成り得たのである。

世間の中級以上の武士は、この安定期では、衰退した朝廷に媚入り金品を支払い、誰しもが一代限りの名前だけの官職や爵位を貰い獲得し名乗ると云う風潮がはびこった時代でもある。しかし、藤原氏はこの必要が無く元より永代の官職を保持している事から、鎌倉期の失職離散の憂き目や室町期の下克上での敵対視された時代と異なり、今度は逆に一門の末裔である事が効果的に働き続けた時代でもあった。このために末裔はその一門の「氏力」を期待されて、多くの新興勢力の大名に逆に抱えられて出世した時代でもあった。
これは、青木氏を中心に的確に「時代の先取り」を間違える事無く一門を指揮した為に、平安期から室町期までの上記した「血縁戦略」がやっと働いた事に成る。データはそれを物語っている。

そのA、Eでは、共に3氏4氏5氏の青木氏との「共通血縁」が同じ数字20%台と成っているが、青木氏から観ると、総じて”5氏間は70%台以上が同じ血縁族で占められていた”と言う事であり、平安期から江戸期まで次第に相互間の血縁を深めて行った事に成る。
普通ならば、「安定期」では、世間と同様に5%台程度の数字を示すのが当り前であったが、何れも20%台と言う高く巾のある「5氏の血縁力」(絆:結束力:氏力)を維持していた。
「家柄の誇示」等の「社会的必要性」(室町期から江戸にかけての風潮)と、地道な「秀郷一門の血縁戦略」に支えられた「氏力」が世間に受け入れらマッチングして2つの「相乗効果」を発揮したものであろう。
その典型的な時代は室町期の数字の通りであり、且つ「混乱期」にありながらより「5氏の血縁力」(絆:結束力:氏力:40%)を高めていたその時代性(難行苦行の努力)にあり、この事を物語る。
これは青木氏の一門に対する「指揮力」が在ったからこそ成し得たものであった。
そして、その「指揮力」は「5氏の血縁力」(絆:結束力:氏力)の裏づけにあった。
統一した指揮指導がなければ40%の「氏力」のこの様な数字は残せない。普通は5%台なのであるから。
「5氏の血縁力」(絆:結束力:氏力)とは云え、結束は緩むものであるのが世の常である。ましてや「安定期」である。しかし、25%程度の「血縁力」を生み出し、決して”緩んでいない”のである。誰かが中心に成ってリードしてこそのこの結果であろう。
私はそれが、「第2の宗家」の青木氏であると説いている。つまりは青木氏を中心として秀郷一門は「混乱期の余裕の不足」と「安定期の気の緩み」に2つに依って緩みかねない中で「氏家制度」を厳然と護っていた事の証しである。

そして、この90%にも達した(2氏3氏4氏5氏共に)「氏力」が突然ある磐が崩れる如く崩壊したのである。今度は、「2足の草鞋策」も全く効果がなく明治末期頃までに崩れ去ったのである。

その後の時代の経緯として、この結束は明治前夜の動乱に依って、「武士の体制」が壊れ、西欧化した「政治体制」が敷かれて、その基盤の「氏家制度」は崩壊して最早「血縁戦略」の意味が無くなり始めて一門は完全に離散したのである。その後、明治以降昭和20年頃までは、そう強くは無かったが、「社会慣習」として「家柄」だけは重んじられていた。その契機は終戦による「アメリカナイズ」により完全に社会から消え去ったのである。
むしろ昭和は「日本的伝統」さえも「自由主義」と「共産主義」とで社会に「罪悪感」がはびこり否定された時代であった。平成に入り世界第2位の経済力を確保して人の気持に余裕が生まれて「自然の確保」とそれに伴なってあらゆる「伝統」が見直される時代へと変化してきた。
最早、平成では、藤原一門の「景」は完全に消え去ったのである。
明治から100年を経ているが、後世から見た藤原秀郷一門の生き様はどの様に理解され検証されるのであろうか。多分、藤原秀郷一門青木氏などの歴史的史実は霧消しているだろう。

そこで、現在の社会体制の中では「家柄」「伝統」が大した経済的意味を持たないが、「心の伝統」(誇り)の持つ事の意味は「7つの民族」で構成される「融合単一民族」の日本社会にはあると信じている。
「7つの民族」「融合単一民族」=「伝統」と成る。これが「日本人」なのである。
故に「日本人」=あらゆる「伝統」である。
とすると、「三段論法」が是とするならば、故に、「日本人」-「伝統」=0であり、「日本人」から「伝統」を差し引けば何が残るだろう。
そして、もし「伝統」が認められるなら、「伝統」=「先祖」=「自分」=「尊厳 感謝」=「日本人の心」へと進化する。
もし、日本人を「骨抜き」にする事を目論むなら、数式から「伝統」をことごとく否定する事により潰せる事に成る。これが左傾主義者の「目論み」であろう。行く末「伝統」の破壊は「革命」であろう。故に我々「日本人」であり続けるためには、「伝統」の啓示にある。

その「伝統の啓示」は最早、今の時代のみしか無く成っている。次世代では史料もさることながら「心の伝統」も蘇させる事は無理であろう。「時代の動きとウネリ」は計り知れないほど大きい。せめて、筆者は青木氏の子孫の一部にでも遺したいと考えていてこの史料関係の提供と成っている。

(参考 子孫は血液型が同じであれば、遺伝子的には85-95%が同じなのである。故に、自分*0.85=子供 の数式が成立する。故に、先祖=自分=子孫 の数式が成立する。)

さて、次ぎは秀郷主要5氏に関わる「共通血縁族」の比率である。
青木氏とどの主要4氏がどの様に一番関わっていたのかの検証史料である。
関連記事
 

名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒

藤原秀郷主要5氏と家紋の研究-史料 7/10 (時代の変化に対する特長)

Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究-史料 7/10 (時代の変化に対する特長)

史料 7/10(主要5氏の時代性の分析)

青木氏との関係を「時代性」から観て、どの様に変化しているか、その特長を分析する。
この事から、その氏の発祥時期や氏の置かれている立場などの総括的な活躍具合が観えて来る。

(これ等は青木氏と4氏と関係の「本文の考察」の基史料と成る。)

判りやすくする為に次ぎの記号を用いる。
H:平安時代前期 K:鎌倉時代 M:室町時代 A:安土桃山時代 E:江戸時代
(一つの家紋は幾つかの時代を重複して計算している。)

「作成要領」
主要5氏各氏の家紋群を上記5つの時代に分け、その家紋群の一つ一つの発祥を分類し、一つの家紋に1ポイントを与える。
但し、一つの家紋が時代を跨るものもある。
家紋になる過程は「家紋200選」にある様な主要な家紋は、象徴-ステイタス-物象-具象-宗匠-家紋などの過程を踏むが、いきなり家紋に成るもの等多種多彩である。
又、また家紋の種類(瑞祥象徴等)もありかなり難しい。一つの家紋でも本家、分家、分流、分派等の家紋の変化と経緯と由来もあり、それらにも配慮してポイントを割り振った。

(注)
室町期(M)までの家紋群には上記の「経緯」とか「由来」を正確に持つが、安土桃山期、江戸期の家紋にそれらのものが殆ど無く「類似家紋」のものが多い。
特に江戸期初期の家紋には、殆どこの「類似家紋」が多く時代性の特定は容易である。
また古い滅びた氏の家紋を持ち出して「経緯と由来」に一致せず自前の家紋とした搾取偏纂も多い。
この辺も考慮して割り振った。従って、このポイントは数値そのものに意味を持たないレベルを表すデシベル(dB)とする。


史料
「時代性から観て家紋の分布」
長谷川氏     長沼氏      永嶋氏      進藤氏     青木氏
H:4  11%   H:3  13%   H:2  08%   H:4  13%   H:7 03%
K:1  03%   K:1  04%   K:1  04%   K:1  03%   K:20 10%  
M:15 39%   M:9  39%   M:11  46%   M:10  31%   M:81 39%
A:9  24%   A:6  26%   A:5  21%   A:7  22%   A:55 26%
E:9  24%   E:4  17%   E:5  21%   E:10  31%   E:47 22%
(謝:画面のズレはソフトの関係)

「時代性」の考察
先ず、H、Kの時代から考察する。
「青木氏」は2代目の千国を元祖とする発祥であり、「第2の宗家」であったことを物語る様に、他の4氏とはHとKが比べ物に成らない程に8倍を有し全体の家紋数(27)を保持している。

Hでは3%で低く、Kは特に10%と高い。
氏数では多いのであるが、これは平安末期から鎌倉期にかけて秀郷一門の「失職離散」の時期でもあり苦しい時期でもあった中で、「第2の宗家」として、藤原一門の氏を守らんとして働いたことを示す苦しさを示す数字である。
特に、逆にHの数字(3%)が低いのは、当時、青木氏との「血縁を進める相手」の問題があったと考えられる。
ながでも「氏家制度」の「身分家柄の吊りあい」の取れた血縁相手が少なかった事にもより、又、純血を守る「同族(属)血縁」を主体とした「奈良時代の高位の習慣」が色濃く残っていた時代でもあった。
これが青木氏に大いに働いたのであろう。何せ、「第2の宗家」でもある。宗家としての立場もあったであろう。他の4氏と同じようには行かない自由の効かない事情もあったのであろう。
逆に言えば、他の4氏と「同属血縁」する事により、「間接的に新しい血」を取り入れていた事をも意味するものである。
「共通血縁数」の数値が、他の氏と異なり8倍ほどに段突に高いのは、上記の理由から「同属血縁」を推し進めた証でもある。

H、Kの時代は氏数も少ない中でも高いものである事から、Kの10%は全国の氏数が200から800に変化した様に、4倍の変化からするとこの10%は40%に相当する。
これは、他の時期の数字から観てもピークに相当する数字であるので、大いに努力をし苦労した事を意味するものである。
何をか況や、これは「第2の宗家」としての「本当の実力の本領発揮」を示すものである。

全体的には、H、Kでは青木氏の努力の証明から勘案しても、全氏とも12-17%に入るが、これは5氏が「一致協力(絆)」して頑張ったことを示すものである。
これはまさしく青木氏の秀郷一門に対する「体制固め」を主要5氏に対して均等に図ったことを示すものである。

数字が示すもの
「同属血縁」、「本領発揮」、「体制固め」

しかし、その中で「長沼氏」と「進藤氏」は若干高めを推移している。
これはどのようなことを意味するのか多少考察しておく必要がある。

特長としては、「長沼氏」と「進藤氏」は「発祥」が「先発」で速いために矢張りHでは13%と高い。これが原因しているのであろう。
「発祥」が早いと言う事は、それなりに「積み重ねた勢力」を築いていた事を示す為に血縁の機会を拡げる事が出来たのであろう。
その証拠に、逆に「長谷川氏」と「永嶋氏」は「後発」であるので3%は高くは無い。論理が一致する。
つまり、「発祥時期」即ち「勢力圏」がこの時期では大きく働いていた事を示すものである。

では”その血縁はどのようなものであったのか”を考察する事も必要である。

この時代の数字は「同族内での血縁」でも数字が出来ているのである。

この時代はまだ、社会全体の「氏数」が低く、青木氏を除いて、4氏の数字としてはそれ相当の意味を持っている。
鎌倉時代は進んで「氏数」も増えたが、ここでは平安期に較べても数字は低い。
更に、このH期は、主要5氏共にH、Kと合わせて(12-17%)で「京平家」との軋轢の中でも氏を次第に固め始めている時期でもある。

主要5氏ともに、鎌倉期Kは対抗する「平家が滅亡した」となったとしても、反面、矢張り、鎌倉幕府樹立で「失職離散期」であり「苦難の時期」で有った事には変わりは無い。
本来なら「平家滅亡」で数字は上がる筈である。しかし、それ以上に「失職離散」のマイナス要因が大きく働いたと云う事であり、結果として、「氏数と血縁数」は当然に低くなった事を示すものである。
「平家の影響」によるものより、矢張り、「失職離散の影響」の方が影響が大きかったことを示すこの数字は、この「失職離散」期の子孫を広げる事どころか失う方が大きかったほどの「大苦労」が襲ったことが解る。しかし、この大苦労が後の「子孫繁栄の礎基」と成ったと観られる。

私は今ある現在の苦労を考える時、この時期の先祖を理解して、この時期の苦労を思い起こして将来に鑑みて頑張っている。
何時か未来の子孫がこの様に考察するとき、「平成期の先祖」としての印象に成る事を期待している。これが先祖に残す「先祖が居て現在の自分がある。先祖への敬いと伝統」との最大のメッセージであり、我々も平安鎌倉期の先祖の苦労を思い起こすように。私事ながらこれ等の史料を由来書に書き記したものである。

数字が示すもの
(「平家滅亡」)-(「失職離散」+「侍の時代」)「2重苦難の時期」=「子孫繁栄の礎」

さて、この事はさて置き、室町、安土桃山期の戦乱期でさえこの大苦労が実を結ぶのである。
本来であれば、更に鎌倉期より氏の入れ替えが起こり、尚且つ、既成勢力の藤原一門を狙い撃ちにされたにも拘らず、「子孫繁栄」に大きく影響した「下克上、戦国時代」に、更に翻弄されて、数字は間違いなく下がった筈である。
しかし、それにも拘らず違っているのである。

M、Aの時代
Mでは、永嶋氏と進藤氏を除く3氏は39%で「失職離散」の苦難の時代から脱出してやっとその勢力を伸ばし始めている。
その中でも、「後発」の永嶋氏は「関東屋形」(結城氏、小山氏、宇都宮氏、佐竹氏)と呼ばれる様に佐野氏流と結城流からと氏を二つに分けて勢力を「氏力」の半分を占めるほどに伸ばしている。

これに対照的に、「先発」の進藤氏は秀郷流と利仁流からとこれも氏を二つに分けているが、「氏力」は他の4氏と較べると低い。これは他の4氏の間では「接着剤的働き」に専念し勢力圏を思う存分に広げる事が出来なかったである。
また、秀郷流進藤氏はその「末裔の跡目」に代々恵まれなかった事が起因している。データーもそのように成っている。
進藤氏は他の4氏に較べて、別の方へ勢力(接着剤的働き)を注ぎ、軍事、経済、政治的な「基礎的な戦略的」が徹底されていなかった事によるものである。この「3重苦難の時期」に主要5氏にさすがは「明暗の変化」を与えた。
勿論「第2の宗家」青木氏の補完はあったのであり、主要5氏として遺し得たのであるが。

数字が示すもの
「2重苦難の時期」+「下克上、戦国時代」=「3重苦難の時期」 -「主要5氏に明暗変化」

Aでは、5氏共に「戦乱の終焉期」でありながら、同率(21-26)でありよく氏力を固めている。室町期では進藤氏が、安土桃山期では永嶋氏が史実通りやや息切れ状態ではあるが。

実は、この時、皇族賜姓青木氏、及び、藤原秀郷流青木氏は西軍と東軍に分かれて戦った。
子孫を遺すにはやむ終えない仕儀であったと考えられ、それなりの「氏力」を形成している以上避ける事は不可能であった。例え中立で居られたとしても戦いが終わった勝者の戦後処理では子孫存続は不可能であった筈でこれはこの世の条理である。

史実は、この二つの青木氏を見てみると真田氏の様に本家分家で仕儀無く二つに分けて戦っている。

この時期は「戦いによる子孫存続の可否」もさる事ながら、どちらに味方するかの天下分け目の戦いに「選択による子孫存続の可否」も大きく左右した時代でもあった。

生死を伴なう「戦いによる子孫存続の可否」+生死を伴なわない「選択による子孫存続の可否」の「2重苦の時代」でもあった。

「戦う」と言う事ではその「戦術の駆使」で臨めばよいが、「選択」と言う事で「子孫存続」を決めると言う事は「至難の業」である。最早、殆ど「賭け」であっただろう。

故に、高い確率で子孫を遺せる方法として藤原一門は「本家分家の選択」で臨んだのだ。
だから、永嶋氏や長沼氏の様に分家筋が多いのはこの事の原因によると観られる。

ただ、徳川幕府後の青木氏等の本家分家の比率を調査したが確実な答えは出なかった。
しかし、感じとしては家紋類から観て矢張り「分家筋」が多い感じがする。
確証は出来ないが数字としては青木氏は83/121=69%に成った。
当時、感覚的には社会現象として、庶民の中では、強弱は別として「軍勢の差」と「豊臣政権に対する保守的思考」が働いていたのではと考える。
大豪族は別として、全国各地の一般的な豪族の分家筋は自分達も室町期に立身出世したこともあり、「立身出世の星」の豊臣政権に期待したのではと考える。
現実は小説や伝説などの説とは少し違うのではと観ている。家紋から観ると間違いなく通説と異なる。

「通説」と「家紋説」のどちらが正しいかの検証は難しい。
藤原秀郷主要5氏の家紋から観ると分家筋が60-70%と成り、通説と異なる。
通説と異なるのは藤原一門だけが分家筋に偏ったととも考えられる。

その理由は、商業に長けた豊臣政権ならではの「2足の草鞋」策が働いたと観ているのである。

史実では、関西の堺、摂津、伊勢、近江、瀬戸内などの豪商は二つに分かれたと成っているし、藤原秀郷一門の本拠地の関東の豪商では徳川側に傾いたからである。
つまり、関西では割れた事、「2足の草鞋策」を採った秀郷一門の豪商の多くは関西に在った。

「戦い」は「武力」だけでは戦えない。「経済力」なくした絶対に勝利は無い。年貢だけではせいぜい生活が限度である。そこに、「戦いの戦費」と成ると、別の所から補う必要がある。
当時の戦いの「手弁当の掟」から、”軍事費用(戦費)の「経費負担」はこの「2足の草鞋策」の豪商から出ていた”とし、その「豪商の発言力」が左右したのではと観られる。
況や、この豪商の主体は「第2の宗家」の「青木氏の発言力」に有ったからである。
「2足の草鞋策」を持つ「讃岐籐氏」の青木氏と、四国の豪族の藤原一門の長曾我部氏等の末裔は、四国では秀吉と戦っている事からも、藤原秀郷一門の特長であったと観られる。
血縁を結んでいる伊勢青木氏を始めとする5家5流の賜姓族青木氏と、その「2足の草鞋策」の豪商の全ては徳川方に味方した。その為に、関西の5地方の港を抑えていた商業に長けた豊臣政権に対抗して、家柄、身分から観て、その「2足の草鞋策」の青木氏の豪商は、徳川氏に味方し、その発言力を保守的な本家筋を避け分家筋に向けていたと観られる。

平安、鎌倉期の「失職離散、氏家制度の影響」と、室町期の「下克上、戦国時代の血縁戦略の良悪」と異なり、この時の時代背景(2極体制下、「2足の草鞋策」の経済力、賭け)が数字に、即ち子孫繁栄に大きく左右した時代でもあった。

平安鎌倉期は「失職離散、氏家制度の影響」
室町期は「下克上、戦国時代の血縁戦略の良悪」
安土桃山期は「2極体制下、2足の草鞋策の経済力、賭け」
 
Eでは、混乱から安定期に入り、青木氏は当然として、「後発」の2氏の長谷川氏と永嶋氏は20%程度である。江戸幕府の御家人、旗本に成り子孫を遺す為に勢力を懸命に維持した時代である。その苦労が数字で物語っている。
ここでは進藤氏が高い「氏力」を示している。これはMでの伸び切れなかった「氏力」をここで伸ばしているのである。
「接着剤的働き」がここに来て花を咲かしたと云う事になり、他の4氏と違う「生残り戦略」を採った結果による。
進藤氏が室町期に足利氏に大老として入り各地、特に北陸道以北に領国を持ち、その戦乱の影響を最小限に抑えた結果、江戸期に入って、その力をその遺された力を遺憾なく発揮したのである。

その証拠に、逆の現象を起こした中部にその勢力を温存していた先発の長沼氏は、低い「氏力」を示している。「生残り戦略」を前半に採った事に依る。
つまり、平安鎌倉期の「高位の氏との血縁」を主体としていたが、江戸期には「戦乱後の立身出世の豪族」との入れ替わりの時代と成り、その時代の趨勢に乗れなかった結果でもある。

「高位の氏との血縁」から「戦乱後の立身出世の豪族」に変化

しかし、全体を観ても判る様に、青木氏は他の4氏の「標準的氏力」を示している。
夫々の「時代性」に対応して「血縁戦略」を採っている事を物語っている。
その苦労が読み取れる。
これは、矢張り、藤原秀郷一門を指揮するその立場(第2の宗家)から来ているのでは無いかと観られる。極端な戦略は取れない立場で、且つ生残れなくては成らない宿命があった事に依る。
しかし、時代を通じてところがこれが相して現代に我々子孫が現存する結果と成ったのである。

このデータはその時の「時代の背景」とデータを突き合せてみると、先祖の生き様がこの様に良く見えてくる。
史料7/10は、この様に他に多くのことの分析に使用する事が出来るので利用されたい。

このデータは主要5氏の分析考察の確証となるものである。

関連記事
 

名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒

藤原秀郷主要5氏と家紋の研究-進藤氏との関係

藤原秀郷主要5氏と家紋の研究-進藤氏との関係

先発進藤氏に付いては次ぎのレポートで延べる。

本文では、藤原秀郷一門の主要5氏の永嶋氏、長沼氏、長谷川氏と青木氏の関係を述べて来たが、最後は進藤氏である。
夫々3氏は特長ある氏力を持って青木氏と関わって来た。そして、その中で、比較対象として進藤氏の事にも触れてた。ここでは、それ以外の特に主な役割に付いて述べるとする。
次ぎの進藤氏も例外ではなく、極めてはっきりとした特長を持っている。そして、その特長はその「氏力」に合わした重要な役割を演じている。
では先ずは家紋群から入るとする。

文行流の進藤氏48家紋は次の様な血縁族となる。

血縁族の家紋類
(以下第3の進藤氏の家紋含む)
(・印 家紋200選 23/48 48%) 

・上り藤、・下がり藤、左藤巴、かに藤
・笹竜胆
・橘、・丸に橘
・蔦、・丸に蔦、丸に鬼蔦、丸に陰蔦
・丸に剣片喰、・丸に片喰、隅切り角に剣片喰
・丸に桔梗、太田桔梗、五瓜に桔梗
・丸に梅鉢
・丸に立ち沢瀉
・丸に三つ柏
・丸に違い鷹の羽、丸に並び鷹の羽、藤の輪に違い鷹の羽
・抱き茗荷
・丸に二つ引き
・九枚笹
・九曜
・三つ鱗
・左三つ巴、・左二つ巴、左二つ丁字巴
・丸に雁金、丸に対噛合い雁金
・三階菱、丸に花菱
・五三の桐
丸に釘抜き
丸に横木瓜
亀甲に三つ星
茶の実、丸に茶の実
丸に木の字
丸に宋の字
抱き柊
組井桁に花菱
井桁に違い扇
丸に隅立て井筒
浮線菊十六菊

29氏の分類である。

進藤氏の血縁族の考察

さて、進藤氏の考察に付いては、青木氏を中心に主要3氏の考察をして来た中で、概ねは比較対照として述べて来たが、主要5氏は夫々の立場などを生かして特長ある血縁戦略を採っている。
その中で、進藤氏は秀郷流から外れて利仁流にも進藤氏も発祥させている。
これが最も他の主要4氏と違う所ではないかと考えられる。
永嶋氏は兼光流の中での2流を発祥させている。
青木氏には利仁流があるとされているが、これは室町期の混乱期の搾取偏纂である事が高い。
長沼氏は中沼氏等を発祥させているが兼光流を越えていない。
長谷川氏は自らの氏の勢力拡大と兼光流の3氏中でも青木氏との関係を強く維持したのである。
勿論、文行流の主導者としての長谷川氏は、兼光流の主導者としての青木氏の立場と同様に、利仁流進藤氏(為輔)との関係も維持したのであった。(利仁流一族との血縁は直接は持っていない。)

元々、進藤氏は下記に詳細を記するが秀郷流からの発祥であり利仁流との次ぎの様な縁で末裔が拡がったものである。
この進藤氏は利仁流から進藤氏を発祥させている事の意味は大きいので特記する。
単純に利仁流進藤氏と言う事だけではない。これは血縁戦略の重要な一つである。
つまり、関東に勢力を持つ兼光流と文行流を持つ秀郷一門と、同じ地域に勢力圏を持つ藤原北家利仁流一門とを固める大きな要素に成っているのである。
利仁流と秀郷流を両方の進藤氏の仲介で結びつける事は、より強固に北家一門が固まる事になり、その「接着剤的働き」をする事に成る。
まして、利仁流は秀郷一門の「鎮守府将軍」も歴任する等「同じ地域」でも「同じ環境」に繁栄している。利仁流に付いての赴任地を見てみても2地域に限定はされているが秀郷一門と余り代わらない位である。
「藤原秀郷一族の赴任地と発祥氏と主要五氏 」を参照して観てもかなりの多くの赴任地を占めている。それも代々の赴任地である。
因みに、そこで重要な関係であるので、利仁流との関係に付いて先に少し述べる事とする。

先ず次ぎの様に成る。
赴任地とは云え「藤原氏の血縁戦略」として「土地に子孫を遺す」と云う事から、当然に次ぎの土地にも子孫を多く遺している事に成る。
赴任地は「藤原氏の血縁戦略」の最たるものでもあるので、これ等の検証を先ず進めると何かが見えてくる筈である。

利仁流の赴任地は次ぎの通りである。
豊後2人、5、12代目
豊前1人 5、(15)代目 
筑前4人、19、20、20、21代目
陸奥2人、1、2代目
加賀8人、5、7、8、11、12、13、14、15代目
能登2人、14、17、(26)代目
越前7人、7、10、11、13、14、20、20代目
越中4人、12、13、14、20代目
越後1人、10代目
相模1人、15代目
隠岐1人、12代目
肥後1人、22代目
飛騨1人、22代目
出羽2人、5、9代目(18、20)
秀郷流24地方に較べて、14地方37人である。

(注)出羽と豊前と能登は時代性より対象外とした。
(注)「藤原秀郷一族の赴任地と発祥氏と主要五氏 」のレポートとは分布を前提にし影響ある下位の役職範囲を広げた事から若干異なる。

これで、「藤原氏の血縁戦略」であるので利仁流の概ねの「氏力」が判る。約半分であろう。
氏数から観ては25%程度(下記)であろう。
赴任地の大きさから、次ぎの様に成る。

① 越前、越中、越後、加賀、能登、陸奥(後に出羽分離) の北陸道地方(7国)
② 豊前、豊後、筑前、肥後 の北九州地方(4国)
主に以上の2地域に限られる。

北陸道は秀郷一門は特に赴任していないが、北九州地方は赴任している事は特長ある戦略である。
これは明らかに秀郷一門の手薄な地方の北陸地方を利仁一門が補完した形態である。
北九州地方の土地は秀郷一門が、阿多倍一門、即ち、京平家の大勢力圏を後ろから牽制する力を利仁一門に補完してもらった形態である。
しかし、後に、この「敵対関係」は北条氏の鎌倉幕府に成ってからは、むしろ「同盟関係」を樹立した。それは念の為に記するが、秀郷一門の鎌倉幕府樹立による「失職離散」の憂き目と、阿多倍一門大蔵氏の「元寇の役」による責任「太宰大監の失職」の憂き目とが一致した「血縁同盟」であった。
この事は、長谷川氏のところで詳細に論じた「大蔵永嶋氏との関係」で証明した事であるが、重要であるので概容だけを重複させる。
これが秀郷-利仁ラインの主な「戦略的な関係」であった。
そして、その繋がりと成ったのが「進藤氏」である。
その意味で、「大蔵氏との血縁同盟」も然ることながら、北家一門の2氏の「接着剤役割」=「進藤氏」なのである。
これは秀郷一門をまとめるには下記に述べる「大事な役割」である。

先ずその前にこの内、その進藤氏の赴任地としては次ぎの通りである。
豊前1人
豊後1人
筑前4人
加賀4人
能登1人
越前6人
越中4人
越後1人
隠岐1人
出羽1人、

但し、進藤氏は秀郷流進藤氏と利仁流進藤氏とがあるが区別は無しとする。
「藤原秀郷一族の赴任地と発祥氏と主要五氏 」のレポートとは分布を前提にし影響ある下位の役職範囲を広げた事から若干異なる。
陸奥の利仁本人と父の時長の2人であるので進藤氏ではない。

この地域は同時に進藤氏の末裔の分布域である。

北陸道の赴任地は主に昔の越国と出羽国域である。
(注:後に、越国は越前、加賀、越中、越後と4分轄、出羽国は羽前、羽後と2分轄)

利仁流の赴任地37人中で進藤氏は29人であり、78%を占めているのである。

進藤氏でない赴任地
相模1人
能登1人
肥後1人
飛騨1人
加賀2人
越前1人
出羽1人

以上の7赴任地8人が進藤氏でない事に成る。

残りのこの進藤氏が利仁流と血縁をし大きく交流を続けていたことが判る。

利仁流藤原氏(8)と進藤氏(29)では、この赴任地から観ると利仁一門の働き(78%)は進藤氏が主役である事になる。
この数字78%は2つの進藤氏の「接着剤的役割」の大きさが証明出来る。
では”この進藤氏の中で秀郷流進藤氏の割合がどの程度占めているのか”が問題と成る。

先に数字的には下記に示す7人で進藤氏の中では秀郷流進藤氏は24%(7/29)である。

この内、先ず秀郷流進藤氏の内情を調べると、「下がり藤紋」より「かに藤紋」が主家主流と成っていて、この一族の末裔は出羽国(山形、秋田)の山形地方に広く定住した(現存:仙台岩切)進藤氏であった。
この進藤氏の家紋から観て、血縁に依って北家の京、近江、丹波付近に定住する「上り藤紋」の進藤氏もあり、「下がり藤紋」の秀郷一門の本家筋も下野国付近に存在するが、長い歴史の中で「かに藤紋」の進藤氏が子孫繁栄には隆盛を極めたものと考えられる。
これは利仁一門との関わりからその居住地(出羽)に定住した進藤氏が主流となったと考えられる。
しかし、この多くの進藤氏は利仁流進藤氏が76%(22:7)で占める働きをしている事に成る。
その比率は、利仁流の赴任地(37)の中での29人である事から観て、この29人の中で秀郷流進藤氏は、確定出来ないが、下記に示す血縁族の分布と史料、系譜から観ると次ぎの通り7人である。

この7つの国域帯に秀郷流進藤氏の末裔が分布した。
特に、分布域は次ぎの様に成る。

出羽国域(延沢、里見)
陸前国境域(宮城:大崎)
越後国境域(出羽国境)
越前域(主に斯波域)
能登域(2人の域は判別できない。)

出羽、越前域には両方の進藤氏が分布した。

秀郷流進藤氏
出羽1人
越後1人
越前1人(斯波域)
隠岐1人
能登1人
筑前1人
豊前1人

以上7域の7人と考えられる。

全進藤氏29人:秀郷進藤氏7人で約24%であろう。(4:1)

そこで、秀郷流進藤氏と利仁流進藤氏の系譜上の接点は何処にあるのかが次ぎに問題と成る。

そもそも、元の進藤氏の始祖は秀郷-千常-脩行-行景の系譜で「行景」がその始祖と成る。
先ず「脩行」が官職「進藤大夫」と成り、その子「行景」が「進藤左衛門尉」の官職と従五位下と成った。そこで、進藤氏の発祥の基が生まれた。発祥は明らかに秀郷一門である。

この進藤氏は利仁流進藤氏では、次ぎの様に成る。
これには斎藤氏が発祥の基と成っている。

「利仁」の子の「叙用」(斎宮頭)が「流」と成り、下記の通り次ぎの9氏の「斎藤氏」が発祥している。この「斎藤氏」の内「疋田斎藤氏」から発祥している。
この疋田斎藤氏から進藤氏に到達するには次ぎの事を理解する必要がある。

藤原一門は全て2つの氏名の使い方をしている。
1つ目は役職官職を藤原の「藤」の前につけて区別して氏名としている事。
(役職を前に着ける。左衛門佐の左藤氏、佐藤氏 斎宮頭の斎藤氏等)
2つ目は土地の名を藤の前につけて区別する何れかの方法である事。
(24地方の国名の前だけを着ける。伊勢で伊藤氏 加賀で加藤氏等)
北家は大変多くの藤原氏を出したが、「姓名」だけでは区別判別が難しいし、同じ「姓名」の者も多く居る。よって主に上記2つの方法を採った。
3つ目は少ないが爵位より着けた氏名がある事。(爵位 諸臣の位6回階級の第6番目の「進位」でその進藤氏は藤原氏の爵位の「進」と「藤」とで進藤氏とした)

参考
宗家以外に藤原氏を直接「姓」として各地に名乗る氏があるが、多くは明治初期の村全体が或いは郡全体が名乗ると云う現象が、特に”藤原”姓に起こったが、この「第3の藤原氏」か「未勘の藤原氏」である。上記2つの方式で名乗っているのが本来の藤原氏である。
家紋も同様で、藤原氏は丸付き紋の藤紋は使わず副紋を使う定めである。
多い丸付き紋は「未勘氏」か「第3の氏」と成る。
「藤原氏」そのものの「氏名」を名乗れるのは基本的に夫々の「宗家、本家」と「総宗本家」である。以上の知識を把握すると家紋類の分析が正しく出来る。

元に戻して。
役職官職では「斎藤氏」はそもそも朝廷の藤原氏の本職の「斎蔵」の官職「斎宮頭」に成った事により「斎藤氏」と号するように成ったものである。
「斎蔵」は奈良期、主に大化期から「朝廷の政治機構」を3つに分けると「3蔵」と称し分けられた。
この内、律令が進むに連れてその立役者と成った阿多倍の子の次男の「大蔵」の大蔵氏と、3男の「内蔵」の内蔵氏が2つを占めていた。賜姓である。

律令体制が完成する桓武期にはこの高い知識を持った後漢の帰化人が官僚の6割を占めていたことが日本書紀に記録されており、天武期には一般からも官僚として採用するように命じている。
この桓武期以降には史料から渡来人、帰化人などの言葉が消えている。この事から150年で融合同化したものと考えられる。
(この日本書紀そのものが、舎人親王を中心に主にこれ等の官僚の編集組織で構成されていた。)
この事を念頭に次ぎの事柄を把握されると概ね全体像が見えてくると考える。
その全体像の中で、次ぎの事柄の流と時代背景(氏家制度の社会慣習)を思考されたい。

天智天皇の大化の改新以降、「皇親政治」の祀り事一切(政治含む)を司る「斎蔵」、朝廷の財政を司る「大蔵」、天皇家の財政を司る「内蔵」の「3つの機構」と「軍事(朝廷軍と親衛隊の2軍と藤原氏の押領使)」に分かれていた。
朝廷軍は「阿多倍」の子の長男の「坂上氏」が征夷大将軍を司った。親衛隊は「北面武士」に語られるように宮廷の衛兵軍の近衛兵で天皇を護る「親衛隊」の役目から「青木氏」と、「斎蔵」の役目から各地の押領使役の「藤原氏」であり、この2氏には永代の左と右の衛門尉か佐の官職が与えられた。
(宮廷門の左右の門の衛兵から来ている。2つの青木氏、即ち、賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏はこの事からは民部尉か佐、右左の門(左衛門尉か左衛門佐)の役職と成る)

この「斎蔵頭」の「疋田斎藤氏」が上記の越前の国の押領使(警察と軍の役割)に成った「藤原為延」から起こり進藤氏の祖と成った。
そして、その子の4兄弟の一人「為輔」が史料から勘案すると進藤氏を名乗ったと成っている。利仁より6代目である。

秀郷流進藤氏は「行景」で4代目、利仁流進藤氏では「為輔」で6代目である。
秀郷の代から合わせると、利仁は「時長」の子であるので「為輔」は7代目に当る。
では、秀郷流の相伝の「行景」の進藤氏の末裔の誰がこの「為輔」と関わったのか問題である。

秀郷流の進藤氏系統では、可能性のある人物は次ぎの4人に絞られる。
6代目では「脩俊」(隠岐八嶋冠者)
7代目は「好治」(進藤太郎)
8代目では「治卿」(左衛門尉、母は豊後守藤原安隆の娘)
9代目では「秀世」(進藤左馬允)
以上4人が可能性のある人物と成る。

つまり、秀郷流より発祥した進藤氏は、利仁流の進藤氏相伝の「為輔」との血縁か縁組かをした事に成るが、上記の秀郷流の4人の内の誰かとの子孫と跡目継承か血縁をしたことを意味する。

そこで、繋がるキーは「為輔」と繋がる関係を持つところを調べる事で判別できる。

次ぎの通り検証した。
同じ年代7代目の「進藤好治」では実質の進藤太郎で嫡子であるので難しいし、その親の「進藤脩俊」は源の頼朝から冠者として命ぜられて平家を西海に討ち紀州和歌山の地の領主となっているから血縁は無い。
8代目の「進藤治卿」は豊後守の利仁流安隆の娘を母にしている。豊後と言う利仁流子孫の赴任地から血縁して可能性が高まるが、経歴から将軍宗尊の近臣を務めた事から山形にいる「為輔」とは関係は薄いので疑問である。

最後は次ぎの「進藤秀世」である。
この「進藤秀世」の親が利仁流と血縁関係を先ず母方で完全に繋がり、更にこの「進藤秀世」の経歴を調べると完全に繋がるのである。
その経歴の一部から、元弘の建武の乱の時、北条尊時に属し勲功、その後、足利幕府家兼家に仕え、家兼の奥州官領の時、陸前の「大崎五郡」(現在の宮城大崎市)を知行するによって、その一部を知行とし、元の赴任地の「越前斯波」の一部加美郡保柳(現在の宮城加美郡 大崎市の隣り)2百余町を加え知行する。秀世大老として働く。
その後、足利家兼の嫡男家督し大崎治部大輔になり継承する、次男が斯波修理大夫として延文元年に出羽探題(山形、秋田地方)と成り、最上地方(現在の山形北部最上郡)に移動した時、秀世は同行する、この代々秀世の末裔12代まで足利氏(最上家)に仕える。
秀世はこの地の「為輔の知行」の一部「寒河江小国」(現在の山形中央部の寒河江市)を知行する。その後、「手の粉城主」(手の子城)となる。(山形と宮城の圏域地帯の藤原氏と最上家の知行帯)

この事から、①秀郷流の秀世の母(利仁流)の豊後、②大崎の一部知行地、③利仁流の主な赴任地の越前、④「為輔」の斯波、⑤利仁流の「為輔」の官職知行の一部取得、⑥利仁一門の代々の山形居城の出城の「手の粉城主」から観て、明らかにこの「秀世」が関わったと観ている。

その一族の履歴がこの経緯を示す重要な史料となるので次に記する。
「為輔」の父は「疋田斎藤氏」の祖で「為延」である。
「為延」は「越前押領使」で「北陸道7国押領使」も兼ねている。(重要)
利仁より4代目の祖父は「伊傳」で越前押領使で官位は高い「民部小輔」である。
伊傳の兄弟の一人嫡男「忠頼」は加賀守で加賀斎藤氏である。
次男「重光」は豊後守で豊後の斎藤氏である。
三男の尚忠は官位は「春宮小進」であり、爵位の進位の「進」の氏の役官である。
四男は「文紀」で隠岐守、讃岐守である。
他無役4人の男子が居る。

そして、上記赴任地の北陸道一帯を勢力圏として納めていた一族の中で、「進藤為輔」には4人の兄弟が居る。

「為兼」(疋田大夫)疋田氏相伝した
「為頼」(越前権介)越前権介 総追捕使、7代目の利仁流跡目
「行用」(無役無禄:妾子)
「為輔」(進藤氏祖)居所最上に捨扶持知行地
以上の4人となる。

この事から残りの部屋住みの「為輔」と成る。

つまり、”秀世との上記の6つの関係が興り、4兄弟の身内から身軽な「為輔」が秀郷流との関係強化の目的から秀郷流進藤氏の実質後継者の「進藤秀世」の「進藤氏」を名乗り引き継いだ”と考えられる。
「秀世」と「為輔」は同知行地の地域で懇親を深めて部屋住みで斎藤氏を継げない所から秀郷一門からの働きかけにより「養子縁組(秀世の娘との血縁)」の形を採り進藤氏を名乗ったものと考えられる
そこで、「為輔」の捨扶持知行地一部が何故「秀世」に渡ったかは確証は取れないが、次ぎの経緯からと考えられる。

その経緯とは、朝廷より命ぜられた「秀世」の赴任地が「越前斯波と陸前大崎」に成った事から、この経緯から、恐らくは、「北陸道7国」を納めていた利仁流の父、祖父が、秀郷流一門との関係強化の目的から、「為輔」の知行地の一部の「寒河江小国」を同地に来た「秀世」に与え、その見返りに部屋住みの「為輔」に「秀世」の娘を嫁がせて「進藤氏」を名乗らせひとり立ちを進めたと観られる。つまり、秀郷と利仁の両方の一門の思惑がこの「秀世」の時に一致した事に成る。
(秀世は跡目をなくしている 下記の「血縁の経緯」参照)
同時に「為兼」には「疋田氏」を名乗らせ、「為頼には斎藤氏」を名乗らせて独立させいるから
”為輔には、進藤氏を”と成ったとしても経緯から自然である。

(参考 斎藤氏主要9氏 加賀斎藤氏、広岡斎藤氏、疋田斎藤氏、河合斎藤氏、長井斎藤氏、勢田斎藤氏、吉原斎藤氏、豊後斎藤氏 他1氏)

参考
秀郷流進藤氏と利仁流進藤氏があるが、他に未勘の進藤氏がある。

乙部氏族の進藤氏
源の頼政流の乙部氏族の未勘末裔が信長との軋轢から進藤氏に改名したとある。
伊勢国の乙部郷に住する。

綾姓羽床氏族の進藤氏
讃岐の羽床氏が進藤氏を名乗る。
以上2氏は何らかの形で藤原氏の血縁を受けていると見られる。

武田氏進藤氏
吉良氏進藤氏
近衛氏進藤氏
以上3氏は何らかの形で藤原氏の血縁を受けていると見られる。

以上5氏が時代を経て室町末期以降から江戸期初期に発祥した進藤氏である。
秀郷一門と関係があると認められるこれ等5氏は、進藤氏に何らかの血縁を先祖に持つ事から、後に何らかの理由にて縁先の進藤氏を名乗ったものと考えられる。

出羽の進藤氏
近江の進藤氏
丹波の進藤氏
安芸の進藤氏
出雲の進藤氏
他の13の未勘進藤氏がある。
夫々の国に合わせて18氏(全部で23氏)の未勘進藤氏があるが確定できない。第3氏で無いかと見られる

この様に、主流2氏の進藤氏は上記の経緯を以って一族固め戦略を7代目辺りで採った事に成る。

進藤氏は他の主要4氏の血縁戦略とは違う中間的な血縁戦略の生残りを図ったのであるが、その一つとして、地域的な血縁戦略より、上記した9つの「地方の赴任地」で血縁を固め、且つ、「利仁流の勢力圏」を利用する2つ形で主要族に成った。
それを補完した利仁流の勢力圏は14地方が秀郷流進藤氏(7)を創り上げた。
この様に、秀郷流進藤氏は「接着剤役割」で青木氏からの依頼を受けて利仁流とのパイプ役を演じていた。

参考
長谷川氏のところで九州永嶋氏との関係の仮説4つのキー探しは、接着剤役進藤氏の役目柄、”青木氏に依頼されて、利仁流の北九州の赴任地との関係から、この進藤氏が絡んでいるのでは”と見ているが現在確証は出来ない。

しかし、この「接着剤役」の文行ルートの進藤氏では、秀郷流兼光ルートの青木氏が主動していたが、一門の中で最も重要視していた血縁戦略であった筈である。
と云うのも、この「接着剤の役目」が上手く働かなければ、戦略上、関東以北の同地、身内の中に爆薬を抱える結果と成るだろう。
武蔵以西の事を主要3氏のところで、その戦略の合理性、完璧性を論じてきたが、しかし、武蔵以北が秀郷一門の弱点とも言えるところであり、武蔵以北と北陸道を抑えている利仁一門との関係が藤原秀郷一門の最悪の弱点であったでと観ている。
それだけに両方の進藤氏の出方は秀郷一門を仕切る「第2の宗家」の青木氏の最大のテーマであろう。他の4氏との戦略的関係は上手く行っているとしてもである。

その青木氏に対して、逆の見方からすると進藤氏は、江戸期までの間で平安期は13%と血縁族を多く創り上げている。(普通は3%-5%程度)
進藤氏の発祥は文行流の一族であるが、青木氏と進藤氏は対象的なのは、「護衛役の有無」と「一門の立場」と「戦略の違い」の3つに差があったと考えられるが、進藤氏には、「藤成」からの「秀郷」の一門進藤氏と、「鷲取」からの利仁流進藤氏もあり、上記の赴任地の内容から同時期、同地、同族、親族間の血縁連携をも図っていた戦略がはっきりと観える。

利仁流は鎮守府将軍や阿波と北陸道の守護を代々続けるなど、藤原氏の中でも秀郷一門と共同の活動を採って来た一門で、秀郷流と利仁流の進藤氏があるほど連携をして来たのである。
進藤氏はどちらかと言うと同じく一族内を固くする「篭城戦略」に似た「身内戦略」を採ったと観られる。上記「接着剤的役割」はこの「身内戦略」から出たものである。
永嶋氏とは少し違うのは、血縁族を赴任地だけに留め、広く求めなかった所にあり、即ち勢力圏は極めて小さい処にある。
”広く求めなかった”と云うより”求められなかった”とする可能性が下記の系譜の所の史料で判断できる。
赴任地は北九州の目的とは別に、主に能登、加賀、越前、越中、越後、陸奥の「北陸道」に限られている事からも、むしろ、鎌倉期以降の血縁族を広められなかった原因の一つではと考えられる。
それと二つ目は本流の「跡目継承の子孫繁栄」が上手く行かなかった事であろう。
それに依って、失職離散する前の成長期の平安期の血縁率(13%)が高く成ったと観られる。
その結果が室町期、安土桃山期、江戸期と余り延びていないのである。青木氏と対照的である。
(詳細は進藤氏の本文考察参照)

青木氏との共通血縁族を観てみると、進藤氏は下記の主要5氏の「共通血縁族」の「主要8氏」が殆どである。この事は進藤氏が独自に血縁戦略にて血縁族を拡げた傾向は少ないことを意味する。
青木氏に指導に基づき「主要8氏」に留めていることに成る。
その分、利仁流との関係を強化したと観られる。
この事は上記の「為輔との血縁の経緯」を観ても、「第2の宗家」との相談で、むしろ、秀郷流進藤氏の「最大の役目」としていた事を物語る証でもある。
つまり、腹の中に爆薬を抱えた秀郷一門の弱点を補う「接着剤的役割」に主眼を置いていた事に成る。
室町期から江戸期にかけて発祥している未勘の進藤氏を含む進藤氏の上記データを観ても、秀郷一門の「西側防衛域」には全く進出していない。秀郷一門の戦略上の規定域内だけである。
これも一つの「最大の役」即ち「接着剤的役割」を越えることの無い証であろう。
この秀郷一門の血縁戦略から誰が見ても明らかに見えて来る「弱点」を進藤氏で補っている。これ程の完璧な戦略事は、自然にその戦略が出来上がったと云うことではないであろう。
明らかに「恣意的な戦略計画」で実行されたものと考えられる。

”それは誰が主動したか”であろうか。当然「第2の宗家」の青木氏となろう。
青木氏との「共通血縁族」とは、”大きな笊(ざる)に血縁族というものを入れて流れ落ちて残ったものが「主要8氏」である”と云う事に成る。
と云う事は、この笊の原理からすると、「青木氏「=「共通血縁族」の条件と、上記「進藤氏」<「共通血縁族」の条件とで、共通項=「共通血縁族」と成り、結果、「青木氏」=「進藤氏」が残る。
青木氏が主導の下で、進藤氏は「行景」より発祥後、6代目「秀世」のところで利仁流の「為輔」と「接着剤的役割」を果たしたと成る。
しかし、ここで、「秀世」は秀郷流進藤氏の本家跡目を継いで子供の「脩久」に引き継いでいる事から、「跡目血縁」は無い事に成る。
では、”どのような形の血縁か”と云う事に成る。

「血縁の経緯」は次ぎの通りである。
「秀世」には子供が4人居る。2男2女である。
長男の嫡男は”秀世18歳の時の子供で実に聡明である事から足利将軍の寵愛を受け、2つ引き両紋の家紋を授与されるが、短命で死す。”とある。”次男が将軍に仕え「脩久」が跡目を継ぐが、これも若くして死す。跡目耐える。その暫時後、その跡目に養子を取る。養子「実理」成る者を跡目として進藤氏を継ぐ。”とある。”「実理」の実父は大崎家の家臣の四亀(伊予)氏で、「実理」はその次男で、65歳で没する。”と成っている。
この大崎家は秀世の2度目の赴任先で大崎五郡の知行地のある土地で其処の豪族である。

2女の”次女は里見に嫁ぎ、長女は山形の延沢に嫁ぐ”とある。
長女の延沢は現在の(出羽)山形県尾花沢市で最上線が走る最上地方であり、隣りの寒河江市地域でもある。(延沢の進藤氏発祥)
次女の里見は現在の(出羽)秋田県横手市である。(後に里見の進藤氏発祥)
これは上記の「為輔」「秀世」の記述と完全一致する。
このことから、「秀世」は跡目2人を若くして無くし、暫く跡目を探していたが、「為輔」も「4兄弟の部屋住み」である事から、長女を山形の延沢(「藤原為輔」居所)に嫁がせ進藤氏を絶えさせない努力をした。そして、この相伝「為輔」が形式上の養子縁組の形を採り進藤氏の姓を継いでもらった。(実質は延沢の末裔の吉継の継承)その後、秀郷流の進藤氏も耐える事の無い様に、支流で大崎家の家臣の四亀(伊予)氏から養子を取った。
以上が血縁経緯であり、秀郷流進藤氏は「秀世」の子供の代で絶え、支流大崎家(秀世の知行地)より跡目養子の進藤氏となり、利仁流進藤氏は「秀世」の娘の女系進藤氏と成る。

実は、この後も養子「実理」後の跡目末裔も48歳、30歳、39歳、38歳、その後も討死、親子腹切等があり、「跡目継承」は大いに乱れて大変苦労している。
この秀郷流進藤氏の本流は殆ど枝葉の無い系図である。この系図から観ると、この様に、嫡子だけでも他氏から迎えるくらいで、嗣子と女子を外に出すほどの余裕は無く秀郷流進藤氏は子孫繁栄に極めて苦労している。
ところが利仁流進藤氏の「為輔」の末裔は全く逆で枝葉を伸ばし多くの子孫を遺している。
これは上記の家紋群29分類の48家紋の氏は「未勘氏」が多いことを意味する。
未勘氏に対しては、上記の進藤氏家紋群の家紋と、進藤氏の上記の小さい地理性から観て殆ど繋がりは採れない。
室町末期と江戸初期、江戸末期と明治初期の苗字令の混乱期の移動性から来た分布氏ではと考えられる。
上記に記した「未勘氏18氏」(23)があるとしているが(他の主要4氏と異なり未勘氏が多い)殆ど枝葉の無い系譜から察するに「主要共通血縁族8氏」を除いては未勘氏と成る。

進藤氏の利仁流一門との「接着剤的役割」は主に「主要共通血縁族8氏」に委ねられていた事を物語る。
では、その「主要共通血縁族8氏」が働いた「接着剤的役割」の血縁を他の主要3氏と比較して観てみる。

参考
主要5氏の「共通血縁族」(青木氏と同じ家紋を持つ氏)
主要5氏共通:「家紋4大血縁族」・丸に片喰、・丸に剣片喰、・丸に違い鷹の羽、・丸に梅鉢族
主要4氏共通:「家紋4血縁族」・九曜、・抱き茗荷、・丸に桔梗、・丸に立ち沢瀉。

「家紋4大血縁族」+「家紋4血縁族」=青木氏
(注 5氏共通の下がり藤と笹竜胆と第3氏の五三の桐紋は除く、4氏共通の上り藤と橘紋は除く)

青木氏と同一血縁族の分類
「共通血縁族」
1・下がり藤、・上り藤
2・笹竜胆
3・橘、丸に橘
4・丸に片喰、・丸に剣片喰
5・丸に違い鷹の羽
6・丸に梅鉢
7・九曜
8・抱き茗荷、・丸に抱き茗荷
9・丸に桔梗
10・丸に立ち沢瀉
11・蔦、・丸に蔦、丸に陰蔦
12・三つ柏
13・三階菱
14・丸に二つ引き
15 丸に横木瓜
以上15分類21「共通血縁族」

参考
長谷川氏           長沼氏            永嶋氏           
1・下がり藤・上り藤     1 ・下がり藤        1 ・上り藤、・下がり藤   
2・笹竜胆          2 ・笹竜胆         2 ・笹竜胆         
3・桔梗           3 ・桔梗、・丸に桔梗    3 ・丸に隅立て4つ目    
4・木瓜・丸に木瓜      4 ・九曜          4 ・丸に片喰、・丸に剣片喰 
5・橘・丸に橘       5 ・抱き茗荷        5 ・丸に沢瀉        
6・梅鉢・丸に梅鉢      6 ・丸に立ち沢瀉、抱き沢瀉 6 ・丸に抱き茗荷      
7・九枚笹・丸に根笹     7 ・丸に三つ鱗       7 ・丸に違い鷹の羽     
8・片喰・丸に片喰      8 ・丸に橘         8 ・丸に桔梗        
9・九曜・丸に九曜      9 ・丸に剣花菱       9 ・丸に蔓柏        
10・蔦・丸に蔦        10 ・丸に剣片喰       10 ・丸に木瓜        
11・立ち沢瀉・丸に立ち沢瀉  11 ・丸に違い鷹の羽     11 ・梅鉢、・丸に梅鉢    
12・剣片喰・丸に剣片喰    12 ・丸に梅鉢        12 ・三階菱         
13・武田菱・剣花菱      13 ・五三の桐        13 ・五三の桐        
14・抱き茗荷・丸に抱き茗荷                 14 釘抜き          
15・丸に蔓柏・違い柏     以上13分類15「共通血縁族」以上14分類17「共通血縁族」
16・違い鷹の羽・丸に違い鷹の羽                              
17・丸に一つ引き・丸に二つ引き・丸に三つ引き                       
18・三階菱                                        
19・松皮菱                                        
20・揚羽蝶                                        
21・五三の桐                                       
22・丸に隅立て四つ目                                   
23 横木瓜 丸に横木瓜                                  
以上23分類40「共通血縁族」である。
(謝罪 画面の乱れはソフトの関係)

進藤氏は以上15分類で青木氏との共通血縁族は29に成る。
分類/共通血縁族の分類比は、進藤氏52%に対して、長谷川氏58%、永嶋氏87%、長沼氏82%である。
この比は、%が高い事は同じ家紋の文様が多いことを示し、他氏やその本流に限らず支流分流分派の末裔まで及ぶ広い血縁をしている事を示すもになる。つまり、「血縁活動」が高かった事を物語る。「血縁活動」が高かったと言う事は「氏力」が高いと云う事になる。

そこで進藤氏は同じ文行流の長谷川氏と同じ程度であるが、永嶋氏と長沼氏とでは大きな差がある。
進藤氏と長谷川氏とでは同率であるが元々体質が異なる。
先ず、上記した様に未勘氏(18+5)が進藤氏に多い事で、これを勘案すると、上記した様に25%程度の分類比と成る。
「家紋200選」では48%である。
上記の考察の「共通血縁族」=「家紋200選」=「主要血縁族8氏」とすると、この分類比25%と勘案すると、支流族などと殆ど血縁していない藤原一門外の「普通の氏の血縁力」と言え得る。
故に、「共通血縁族」=「家紋200選」=「主要血縁族8氏」=「接着剤的役割」の数式の結果と成る。

つまり、秀郷流進藤氏の「氏力」(25)は「接着剤的役割」の一点に絞られていたことを示すものである。「氏力」(25)=「接着剤的役割」の数式と成ろう。
そうでなければ、この他の役割を果たす以外に25%では氏力が小さく「氏力の余裕」は出てこないであろう。
これでは、主要5氏に成る要素は無い事だし、自分の氏さえも護ることは難しい事に成るが、そこの「氏力の余裕の役割」の補填は利仁流進藤氏に頼ったという事であろう。それ以外に無いだろう。
その事は、現実に主要氏と成っていることから、2つの進藤の交流が高かった事にも成るだろう。
つまり、数式では、秀郷流進藤氏+利仁流進藤氏=氏力と評価される。
但し、この「接着剤的役割」は藤原北家一門にとって無くては成らない何物にも変え難い「最大の役目」なのである。
むしろ、進藤氏にこの役目が在った事からこの様な低い「氏力」と成り得た可能性がある。
それに進藤氏の「氏エネルギー」を使い果たしていたと言えるだろう。
その証拠に、この進藤氏の官位官職は八嶋冠者、左衛門尉、左馬允、右近蔵人、主税介、駿河守、程度であり、他の主要4氏と異なり高位高官は無く官職も少ない。
これは政治的に活発に活動をしていない事に成る。上記した活動地域も出羽を中心とした利仁一門と同じ域の北陸道に限られるし、この役目に徹していたと言え、役割に専念したからこそ藤原秀郷一門はこれ程の子孫繁栄を果たしたと言える。

この戦略的な主導的働きを進藤氏に与えたのは青木氏と成る。
今までの永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、史料1/10-6/10の考察にも比較対照として進藤氏の血縁戦略を合わせて考察し述べて来たが、進藤氏にはこの様な大きな役割が存在したのである。
以前のレポートに、長谷川氏の様に「野戦的血縁戦略」、永嶋氏や長沼氏の様に「篭城的血縁戦略」であって、世の中の諸事には、その役割が「外向き」と「内向き」とがあり、その両方をコントロールする「調整役」が居て上手く行くのであるが、この3氏は「外向き」で、進藤氏は「身内戦略」の「内向きの役割」を担っていたのである。所謂、「身内の女房役」とでもいう役割を演じた。
そして、その「外向き」と「内向き」の「調整役」が「第2の宗家」の青木氏と言う事に成る。

この時代は平安末期から室町末期までの混乱期であった事から、「外向き」と「内向き」の比率が3:1の形に成っているが、平安初期や江戸時代の安定期では1:3の逆の比率として戦略を採る事も必要であっただろう。それだけに、混乱期に「調整役の青木氏」にとっては「系譜に弱点」を持つ「氏力」の小さい「進藤氏」にこの役を担わしたのであろう。
それだけに、青木氏は利仁一門との関係強化を目論んだと観られ、上記する「秀世」-「為輔」との関係を強力に図ったものと考えられる。
それが、上記した「秀世」の跡目養子の縁組と「為輔」の婿養子の縁組(女系)の采配に現れている。
秀郷流進藤氏に対して「調整役青木氏」が大きく関わった証として、「かに藤紋」の進藤本家と、殆ど「主要8氏の共通血縁族」だけの血縁枠にある。

本来、進藤氏の家紋類には、綜紋の「下がり藤紋」が本家家紋の持つ家があるにも関わらず、出羽国域に居所する「かに藤紋」一族の分家筋を「主家筋」として扱った事。
青木氏が推し進めた秀郷一門内での戦略血縁を推し進めた「共通血縁族」が進藤氏血縁族であった事。
この氏家制度の中で青木氏だけが成し得るこの2点にある。

この様に、氏家制度の中で、一門の運営を総括する「第2の宗家」としての「調整役の青木氏」は「内向き役」の「一門の弱点」の強化に大変苦労したと考えられる。

「所感」
何にせよ、主要5氏の血縁戦略を検証するに当って、感嘆することは、その「血縁戦略」が揺るぎないものと成っている事、戦略としての定法に欠けるものが無い事、強処弱処の押さえ事、攻め護りの定法事、等を「氏」の維持に必要とする戦略上の疑問が湧く点事を、尽く史料分析から証明されて「理」に叶い否の付く所が無かった事にある。
実際、筆者の長年の検証が進むに連れて、その戦略が”定法ではこの戦略は何処に”と次々と疑問が湧く状況であったが、尽く潰された。
日本書紀には大化改新より藤原一門と賜姓青木氏の天皇の相談役の軍略司の記述が多い中で、伝統的に確かに如何に青木氏が優れた「戦略師」であったかを思い知らされた検証事であった。

「結」
本論文は、元々は「青木氏」の調査の中での他の氏に疑問を感じて調べていると大変な繋がりがある事を知れ得て、更に青木氏の巾を横に広げたのが経緯であった。
しかし、秀郷一門の「青木氏」と「主要5氏」、それに「主要8氏の共通血縁族」に付いては血縁族ではあるが、どのような関係で成り立っていたかを長い間で試みたが、あまり関係研究の資料が無い中で、苦労はしたが何とか網羅できたかとも思っている。
その苦労とは、「史料調査-疑問-推論-史料探索-考察-検証-確定調査」の繰り返しでここまで到達する事が出来たが、今後、ルーツ探しなどに挑戦しようとされる方は、この手順を踏まれる事をお勧めする。
中でも、「疑問-推論」のプロセスが大変大事であり、”「推論」が当らなければ又元に戻り推論を建て直す”とする根気の必要とする作業である。
そして、その「推論」の当る秘訣は、当時の時代性の「氏家制度の社会慣習」の知識を習得する事にあり、「現代感覚」では決して推論は当らないことである。
その「社会慣習」を習得するには、上記のプロセスは役に立たず、”只、一言「雑学」を試みる。”に以外に無い事による。この「雑学」が上がれば、「推論」も確率的に不思議に高まるのである。
筆者は物理系技術者であるので、本職的に上記プロセス作業は専門であった為に比較的にこの作業は楽であった。しかし、「科学的雑学」は領域内であったが「文科系雑学」は特に大苦手で読む事さえも毛嫌いし苦労をした。従って、この「文科系雑学」に極めて努力を重ねたものである。
それに、最後は、「男の社会経験」(ネゴシエイション)にあると考えている。
この3つがあると、「魚釣り」の吊り上げる直前のググウと引き込まれる手に伝わる「感触感と歓喜」を味わえる。
釣であろうと、何であろうと、上記「プロセス」は同じであり、それを補う「雑学」や「ネゴシエイション」も同じ「必要素」では無いだろうか。そして、其処に、「達成の歓喜」が生まれるのではないだろうか。その「達成の歓喜」が次ぎの「ヤルキ」に繋がるもと考える。
況や、これは「人生学の摂理」ではないと考える。

兎も角も、これで、他のレポートと合わせて、筆者は「歴史の伝統資産」を少しでも後世に遺す事が出来ると自己満足の域にある。今後、歴史に興味のある方は、大いに利用し挑戦して頂きたい。
その為に、本文の後に、本文関係資料を続けて掲載する。

関連記事
 

名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒

≪前ページ | ホーム | 次ページ≫
副管理人 写真館
一時癒場、季節の写真

人気記事ランキング

ホーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 全表示

この人とブロともになる

aokicc

Author:aokicc
青木のルーツを研究しています。世界中の青木さん、ご連絡ください。
監修 : 副管理人 青木研究員さん

逆アクセスランキング