「青木氏の伝統 65」-「青木氏の歴史観-38」
「青木氏の伝統 64」-「青木氏の歴史観-37」の末尾
> 前段でも論じた様に主に「紀州徳川氏等の多くの大名に貸し付けていた「焦付き債権と土地の地権担保放棄」のこれが“上記の「コンツェルン」に大傷を着けた”と記されているし、口伝でも伝わる事でもある。
> これに薩摩藩などの長く続いた「庶民先導のゲリラ攻撃」が輪を架けたのだ。
> 幕末から明治9年まで続いた「伊勢騒動」も、その根幹は「庶民先導のゲリラ攻撃」にあったと感じている。
> 斯くの如しで後勘の歴史観から、「格式の律宗族の再呼称」は「青木氏族」には良い事は何も無かった。
> 筆者の論理ではこれこそは「青木氏の氏是」そのものであると認識しているのだ。
> 「格式の律宗族の再呼称」は、そもそも史実は史実として何も変わらないのだし、放って置いても同じなのだ。
> 殊更に動く事がそのものが良くない仕儀であった筈で、「当時の福家」は判断を誤ったと観られる。
> 当に「施基皇子」が説く「律宗族の第一の戒め」の「青木氏の氏是」を軽んじたのであろう。
> 況や、要はこれは美化論では無く反省論なのだ。
> 故に、子々孫々に「ロマン」として「具体的な史実」として言い遺しているのだ。
> これも例に事書かない「始祖施基皇子と云う歴史的人物の存在」の所以である。
> これが、全部に於いて説き切れないが本論の範囲では、網の目の様に関係性を持った事柄に就いて何とか説いた「難解の律宗族の所以・定義と背景経緯」であり、要するに本シリーズの「青木氏族論」を説くに至るのだ。
「青木氏の伝統 65」-「青木氏の歴史観-38」
さて、「律宗族論」を続ける。
この「歴史的な詳細経緯」を青木氏の歴史観を獲得する為にももう少し論じて置く。
「詳細な当時の経緯」であるが、更にこの「律宗族の意」を前提に、世の中に「仏教」が興隆し始め、「皇祖神の神道」を前提としていた「天皇家・孝謙天皇期」までも、のみならず「民」にまで深く浸透していて、この「仏道の概念」を「神道の朝廷」もこれを見逃す事が出来ず「受け入れを認める事」に迫られていたのだ。
その「受け入れ方」で悩み難しかった。
「吉備真備・公家・学者・朝臣・正二位・右大臣」に「聖武天皇の第一皇女・阿倍内親王の個人指導者・家庭教師の役割・母は光明皇后」」を受けて、天皇自らも個人としての心の中で、この「仏道の概念」に傾注していたのだ。
因みに、この「光明皇后」は、「宿禰族の橘の諸兄」の「母・三千代」が「藤原不比等」に後家として嫁し、「光明」を産み、その「光明」は「聖武天皇の皇后・光明皇后」と成り、「阿倍内親王」を産み「女系皇太子」を経て「孝謙天皇」と成る。
そして、この「橘の諸兄の母・三千代の子」から「宿禰の橘青木氏・現存」が同時に出自していて、この「光明皇后」とは「従姉妹関係」に当たり「孝謙天皇の祖母の里先」であって「所縁の深い関係」にあったのだ。
それ故に、「内親王と皇太子の時代」に密かに何度か「伊勢松阪の里」を訪ねたとする記録があり、行動力のある皇太子であったとされ、全ての事に興味を持つ性格の「阿倍内親王・皇女・皇太子」の時にも、何度か“「伊勢松阪を訪ねた」”とする「青木氏の口伝・逸話」の「史実・761年8月29日」もあり、この説としては故に可能性は低いと観られるが「孝謙天皇の白羽の矢」が「伊勢青木氏」に来たとする説もあるのだ。
故に、「姉の井上内親王」が嫁ぐ直前まで務めていた「斎王」であったが、その「斎王の面倒」を「多気郡の斎王館」で看ていたとする「伊勢青木氏」の間にも面識が浅からずあったとされる。
故に、「54歳にも成る白壁」に「伊勢の斎王」も務めたする「井上内親王」を嫁がせたとしている「伊勢の資料の説・逸話説」である位なのだ。
「阿倍内親王」も天皇に成ってからは記録的に初期に一度伊勢行幸があり、その天皇に成る前にも当然に松阪や伊勢神宮を何度も訪ねていた事に成ろう。
この事に関しては何も無しに突然に「姉の井上内親王・母は県犬養広刀自」が嫁したとする事」では、少なくとも無かった事は頷ける。
つまり、「青木氏の歴史観」から観ると、「孝謙天皇」が「通説の天智系天武系説」に係わらない「女性・感情主観」である限りに於いてこの「里絆説」を重く見ていた可能性があるのだ。
これには否定する要素や疑問は何も無い。
そもそも、「青木氏族」が「二つの神道と仏道・律宗族であった事」が、「伊勢青木氏と天皇家の間」に「感情のそれを遮るもの」は嵯峨期までは何も無かったのでは無いか。
確かにこれは「最もな逸話説」であり、普通であれば全体を占めている「天皇家族の天武系」に傾く筈の処に、「家庭教師でもあって政治の場にもあった吉備真備」も敢えて「反対」をした記録が無いし、逸話的には陣頭に進んでいたのではないか。
それには、それに「相当する格式」が無ければ無理であって、前段で論じた「二つの神道と仏道・律宗族」との「奇異な二つの文化」には、上記したそれぞれの納得させるだけの「独特の格式」”と云うものが「青木氏」には潜んでいたのだ。
そこで「朝廷」は、この「“異なる独特の格式」”が社会に浸透して仕舞って存在する以上は、社会が二分する危険性が潜み、“これにより混乱を招く”として、先ずその「前提」と成るこの「統一した格式を定める必要」に迫られていたのだ。
其れが「伊勢青木氏の裔系の天皇家」であったとすれば、問題は無い。
然し、「川島皇子の後の裔系の近江」を始めとして「天武系」には、「天皇家」であったが所以で「仏道・律宗性を取り入れる事」は出来ず、元々、その「片方の仏道・律宗性」は無かったからであろう。
何故ならば、その「朝廷の採った策・方法」は、「古来からの神道族」と「概念・格式」の異なる新しい「仏道族」との間に「決定的な争い」を起こさせぬ様に、歴史の経緯は先ず融合させようとしていたのだ。
その史実としての根拠には次の様な事が最近発見された。
既に、「仏教導入」に対して「蘇我氏派の賛成派」と「物部氏派の反対派」の二派に分かれて「激しい争い・政争」を起こしていた事は史実なのだ。
ところが念の為に注釈すると、「最近の研究」では両者ともに裏では「神道」を中心としながらも「仏道に帰依すると云う姿勢」を採っていた事の「証拠」が文献や仏像などが大量に発見されているのだ。
然し、「政治の場では違っていた姿勢」を執っていた事が判明していて、現在ではこれが「定説のイ」とされる様に成っている。
「蘇我氏と物部氏の争い」は表向きの事であった事に成る。
故に、その事を考えると、上記した様に「阿倍内親王・孝謙天皇」の「青木氏への白羽の矢の突然の行動」は、「神道族と仏道族の格式の壁が天皇家以外には無く成っていた事」に成るのだから、「賜姓族で皇親族の伊勢青木氏との間」では、「背景・青木氏の逸話の里絆説」としては普通に納得できるのだ。
要するに、前段でも論じた様に、「天武天智系説の通説」<「青木氏財力とその格式の利用説・律宗族」<「孝謙天皇の里絆説」との関係式があるが、「神道族と仏道族の格式の壁」が実質無く成った現在では、「青木氏財力の利用説」=「孝謙天皇の里絆説」の「総合説」に傾いている。
故にこれを解決するが為に、「淳仁天皇の時の策・第一段階」と「光仁天皇の時の策・第二段階」と「嵯峨天皇の時の策・第三段階」の「三度の策」が参考にしながらも執られようとしたが、「神道族と仏道族の格式の壁」に付いては相互に参考にしながらも、「夫々の融合の策」には「大きな違い」があった。
「神道族と仏道族の格式の壁」の「融合の手段」としては次の様な政策を採ろうとしたのだ。
この「三つの策」が嵯峨期には「新撰姓氏禄」として反対を受けながらも強引に世に出された。
この「三つの統一する内容」としては、「朝廷」は全国に分散していた世の中の「氏族に相当する者・認定氏・全910族」の先ず「拾い出し・第一段階」をした。
それを「4つの分類・第二段階」に分けた。
それに「身分と格式」を「第三段階」に分けそれを系統化して与えようとした。
この様に「矛盾」が生じない様に融合させようとしたのだ。
然し、史実は、この「第一段階から第三段階」までその先の結果が「社会に与える利害」を見通せられた事から、どの階級からも「猛反対」を受けたのだ。
そもそも、「選出した編者衆」からも「猛反対」を受け無視どころか纏めようとしていた案文をこの三度共に編集中の案文が隠されてしまうと云う破目に成ったのだ。
これを「約40年弱の間」に行われたのだ。
「三つ共」にその利用しようとする「編集目的」が違うが、結果として「格式を決められると云う事」には同じであり、世の中はそれを嫌ったと云う事に成ろう。
元々は「世情の中で身分格式の社会」でありながらも、それを「書類で正式に決められる事」に反発したのであろう。
そもそも、それまでは「冠位十二階の制」や「八色の姓の制等」で身分格式を決められてはいたが、「格式身分」であって「神道仏道の融合」の自由を規制するものでは無かった。
つまり、既にこの時代に於いても「神道仏道の融合」は「自由であるとする概念」が社会全体に根付いていたのだ。
「重要な事」は「神道」に於いても「仏道」に於いても「宗教概念」は違えどこの事には差異は無かったのだ。
結局は、「前二つの編集」は完全に失敗に終わり、結局、「嵯峨天皇」は「未完成の案文」を編者衆が逃げる中でも強引に社会に出してしまったのだ。
然し、「完全に格式化される事」を嫌う「世の中の反発」を激しく招き、この為に編者等が「雲隠れすると云う事態」が起こり結局は頓挫したのだ。
それが「新撰姓氏禄」であり、その原本すら隠されたのだ。
そもそも、何も「諡号範囲」の「新撰姓禄」でも良かった筈で、そこに「数少ない朝廷認定の氏禄・真人族48氏・全体の1/20」までも態々反対の中で敢えて付け加えたのだ。
其処には初めから「八色の姓の制」などでその「格式の程度」は判っている「真人族」を、何故、付け加えたのかであり、ここには“見逃せない意味”がある。
そしてそこで、「嵯峨天皇」は更に「賜姓」を「青木氏」から「源氏」に変更して勢力の財力の持った「出自元の伊勢青木氏・祖父の実家」を「単なる皇位系の氏族」にして仕舞ったのだ。
この「嵯峨天皇の行動」は、「青木氏の歴史観」から観れば“何か矛盾している行動”である。
普通であるなら、「神道仏道の融合策」を成し遂げた「出自元」であり、且つ、自ら編集した「新撰姓氏禄」にも「真人族」の「敏達天皇四世族系(春日王裔系)の天智天皇四掟一門族」と指定しながら、「賜姓族」から外して「単なる皇位系氏族」にしたのは矛盾であり、寧ろ、「源氏」を賜姓するにしても、これだけの条件を揃えている「賜姓臣下朝臣族」であるのなら「賜姓源氏」に対して、それに代わる“模範と成る賜姓族だ”と権威着けるべき事であろう。
「政治の場の策」としてはそう成る筈だ。
だから、「桓武天皇・平城天皇派」と「嵯峨天皇派」に「激しい戦いの政争」と成る醜い見っともない「一族争い」が起こったのだ。
「出自元の伊勢と一族の信濃の青木氏」は困ったであろうが、然し、「桓武派」に明確に着いたのだ。
後勘から観ても起こる事はこの程度の事は読み込めるし、事は必然であろうし「後勘の者」としては、「新撰姓氏禄」が「源」と成る「嵯峨天皇の一連の策」はこれは「嵯峨天皇の失政」と観ている。
「賜姓した五家五流の青木氏の模範の存続」を其の侭にして「弘仁五年の詔勅と禁令」の「賜姓源氏」を行い、「神道仏道の融合策」と「律宗性を高めた方」が「神道仏道の社会の混乱」は免れた筈である。
其の上で、“「9つの縛り」を出すべきであった”のだ。
そうすれば、“「矛盾は生まれなかった」”し、「伊勢信濃青木氏」は朝廷から大きく離れて行かなかった事に成ったのだが、結果として最終は「平家・たいら氏」も潰れたが、自ら進めた「源氏策」を潰す「源平戦」へと繋がって行ったのだ。
最後は、「天智期の大火の改新」で生まれた坂東に配置された「元第七世族の平族・ひら族」が天下を取って仕舞ったが、その後もそれが「河内源氏と坂東八平氏」の「一つの融合裔系の足利氏」の室町期まで続く結果と成ったのだ。
青木氏の歴史観かの後勘から観て「嵯峨天皇」は自分で自分の首を絞めた事に成ったのだ。
つまり、結論として「孝謙天皇」が執った「神道仏道の融合の策」が、結果として「嵯峨天皇の矛盾を孕んだ失政・美化されている」で「成功の方向」には向かなかったのであると「青木氏の歴史観」では説いている。
問題は、「嵯峨天皇の跡目」を継いだ「仁明天皇・ここまでは青木氏の血縁の出自元」は、「嵯峨天皇の子」であり「修正」は無理であろうと思われたが、この修正を敢行したのだ。
「桓武天皇の子」の兄の「淳和天皇・在位10年」がこれを修正しなかった事にある。
故に、その後の「賜姓」は乱れ、正式には11代であるが、賜姓無しの勝手に名乗った源氏族を加えると20位上にも上る事と成り、元々、「9つの縛り」を護らなかったが「賜姓」そのものの意味は無く成るのだ。
たった一つ真面に遺ったのは「清和源氏」だけであり、「神道仏道の融合策」と「律宗性を高める策」と云う「政治目的」は霧消する事に到ったのであり、「仏道が当たり前の社会」と成って仕舞ったのだ。
「仁明天皇の執政」はこの事に気づいて「証拠」である。
結局は、この「失政の流れ」で「朝廷の力」は弱く成って仕舞い、結果として「神道」は「青木氏・律宗族と呼ばれる」にしか「伝統」されず、「9つの縛りと融合」を護らなかった「鎌倉幕府へと移行する事」に成って、挙句は「融合ところの話」では無く成り、「神道」は社会から消え「第二の姓族が発祥する事」と成ったのだ。
況や、「神道が消える事」は「朝廷が衰退する事」に成り、伊勢と信濃の青木氏が支える神明社だけが遺る結果と成った経緯である。
そして、遂には“「子神の祖先神の神明社・青木氏」”の“「親神の皇祖神の伊勢神宮・天皇家」”の事も忘れ去られる結果と成って仕舞って、江戸期に成って遂には「青木氏」から「祖先神の神明社」を剥奪し、その結果、荒廃した「神明社」が明治期に成って「天皇家の守護神」と、“誤解される結果”と成って「子神と親神」が同一と成って仕舞ったのだ。
そもそも「天皇家」には“「皇祖神」”と云う「天皇家独自の守護神の神」があったのだ。
「青木氏の各地の定住地」には「神明社」が多いのはこの事に依るが、唯、本論の「伊勢青木氏出自の光仁天皇」の「神道仏道の融合の策」に依って、そのそもそも「出自元」が、“祖先神の神明社であった”とする事から、その血筋を受け継いでいる天皇家とすれば、「皇祖神の伊勢神宮」でありながらも「祖先神の神明社とする事」にはその一理は確かにある。
唯、それにしても「青木氏の血流の血筋とするの根拠」は、遺伝子的には、精々、「光仁天皇」から「仁明天皇」までのものであり、「四代目の六人」とされるし、「祖先神の神明社」と仮にする以上は、同然の「清光寺」も「天皇家の菩提寺」であるとする理屈に成るがそうでは絶対に無い。
「天皇家」は上記する様に「孝謙天皇期」には本論の「律宗の融合策」を執って、一時は「仏道に傾いた時期」も確かにあったが、かと云って「神道」であるから当然の事ではあるが「天皇家の菩提寺」は無い。
現在に於いても「神道」だけでその戒律の中にあり、「天皇家の全ての伝統」は「神道」に限られている。
決して、「孝謙天皇期の融合策」には現在に於いても至っていないのだ。
「祖先神の神明社」であれば「密教の清光寺」なのである。
さて、ここで参考として、「唯、不思議な言い分」があって、“「天皇家」は「神明社」であっても、「祖先神」では無い”とする「明治維新期の言い分」を唱えているのだ。
恐らくは、「維新政府」をリードする薩摩藩などの「政治的な思惑・天系一途の原則」から、上記した「皇祖神の伊勢神宮」がありながらも、これを認めていながらも訳の判らない「矛盾した言い分」が出来上がったのであろう。
「施基皇子の伊勢王と成った存命中」から始まり「光仁天皇期」までには、既に「女系態勢」をほぼ造り上げ、「伊勢衆の氏人」の「氏族関係」を構成し、「藤原北家秀郷流一門」とも「中国の古来の制」を採用して「四掟範囲」に基づき「母方族」として繋がり、後に「北家の秀郷一門と繋がる」として「独特の限られた賜姓臣下族の女系」と成っていたのだ。
これが「施基皇子」が「伊勢王」と成った最初に、「伊勢衆を含む裔系一族」に示した「青木氏の氏是」であるのだ。
故に、「明治期の祖先神の神明社」が、「天皇家の守護神とする説」は飽く迄も「皇祖神の神宮」であって、「女系で繋がる青木氏の神明社」では絶対に無いし、その証に「神明社の神職」の全ては奈良期から引き継いだ「伊勢と信濃青木氏の子孫の裔系」であり、現在の多くもその「裔系」とするは、「明治維新期に造り上げた策」は「矛盾」に満ちているのだ。
江戸期直前まで「伊勢と信濃の青木氏の莫大な財と管理維持の許」で、且つ、「一族の青木氏による神職」で、維持管理されていた「史実」をどの様に解くのかである。
「明治維新の神明社の言い分策」であるとすると、「男系の天皇家」と「女系の青木氏」は「同系」と成って仕舞うでは無いか。
つまり、且つ、「明治維新」に打ち立てた「天皇家に類する格式族の排除」の「天系一途の原則」は矛盾するでは無いか。
「今も遺されている伊勢と信濃と秀郷流の青木氏族」に執っては、この説は「施基皇子からの氏是」に基づくと、現在は最早「守護神の概念」は無いし、「神明社に拘る訳」では無いが、迷惑ない事であり、「歴史の学者」が公的に情報媒体を通じて云う時には、本論を良く読んで「歴史の経緯」を知って“是非訂正して欲しい矛盾説”ではある。
もう一度言う、「祖先神の神明社」では無く「皇祖神の神宮」である。
全国の各地に「68の神宮を有している伊勢神宮」があれば、「・・社では無い事」は直ぐに解る筈だが、「社」であって「宮」では無く、「神社」とは違うのである。
簡単に云うと、「・・社」と「・・神社」とは違うと云う事であり、「神明社」と「神明神社」とは「神明の神概念」が、前者の「・・社」は奈良期初期からの「単なる神概念・融合・神明社」、後者の「・・神社」は「仏道の概念」をある程度取り入れた「神概念・習合・神明神社や八幡神社」で分けられていると云う事である。
故に、「四掟の女系」で「血縁続き」と成った「秀郷流青木氏の守護神」は「春日社」であって、「春日神社」では無いのだ。
「春日神社」は上記の通り「習合概念の影響」を受けた「室町期以降の村各社」なのであり、決して「秀郷流青木氏の守護神」では無いのであり見分けが着く。
「秀郷流一族一門」が建設したかは疑問であるが、その判定は朝廷から受けた正式な「社格式」で判る。
主に江戸期に多く建設されたもので「無格式社と村社格式と郷社格式」では、「利を追求した民間一般財の神社」であり、「秀郷流一族一門の氏族」が独自に「一族の守護神」として建設とした場合は、「国幣社格式又官幣社格式・大中小に分類」では無く、相当に財を有する一門であり、特別に許可を得た「氏社格の別社格式」に当たるであろう。
従って、「伊勢と信濃の青木氏の神明社」と「秀郷流青木氏の春日社」は、「独自の氏社の格式」に当たるが、「光仁天皇期」と「円融天皇期」には「融合の社」としての「社の格式」を特別に「朝廷から神社で無かった事」から「最高格式の准国幣社並みの格式」を与えられていた事が記録から判っている。
つまり、それは「神明社と春日社」が、朝廷が奈良期から求めて来た“「社」”であって“「神社」”ではない「9つの縛りの掟を護る律宗氏族の社であった事」であろう。
上記する「明治維新の騒ぎの矛盾」はこれだけを捕らえたかも知れない。
現実に「紀州・和歌山市」にある「元天皇家の神宮・伊勢への遷宮の前はここに在った」が存在していて、それが現存して広大な地で古式豊かに国祭司されている「日前宮・伊勢の前の宮」であったが、それを「天智天皇」が「伊勢」に移して、「伊勢神宮とした歴史の経緯」を知れば違うという事が直ぐに判るのだが。
「光仁天皇の経緯」から来ているとしても、上記するような直ぐに解る様な多くの矛盾を孕む事が判れば、「青木氏」とは別に「神明社の史実に基づく歴史観」として何でこんな間違いを起こしているのか不思議である。
飽く迄も、「聖武天皇から孝謙天皇期」、更には引き続いて「光仁天皇から嵯峨天皇期」までには、「神道仏道の融合策」を「政治の場の策」で確かに執ろうとしたが現実には頓挫しているのである。
「伊勢と信濃の青木氏」が「神道仏道の融合策」を「伝統」として執って「律宗族」として維持して来たが、だからと云って「祖先神」が「皇祖神」に絶対に成る事は無く、且つ、「神明社」が「神宮」とは成る事ではないし、「施基皇子の時」から「天皇家とは血筋・血流」の完全に異なる「女系族」と成って仕舞っているのだ。
その為に「四掟を定めての女系氏族」としたのだ。
元に戻して、そして、その上で「彼等の賜姓源氏族」に「皇位族である格式」を保たせる為に、つまり「律宗族」にする為の「9つの縛りの掟」を負わせたのだ。
そもそも、「新撰姓氏禄」にして「真人族」や「臣下朝臣族」を付け加えた以上は、「上位の格式」は定まったものであり、「9つの縛りの掟」を負わせる必要は無い筈だ。
必然的にその位置にある以上は「9つの縛りの掟」を護る義務を負う事に成る。
此処で、「新撰姓氏禄」を観てみると、「嵯峨源氏の朝臣族」としての「確定下した記載」は無いのだ。
時系列的に検証しても、「源氏の朝臣族」としては「101氏」の中の唯一つであり、男子は一族内では「好字名」を使っているので「第一代目の四人」である事を示している。
「831年」にこの「四人の朝臣」が「朝臣族嵯峨源氏の賜姓」で臣下と成るが、そもそも「新撰姓氏禄」は「816年」に定められたとするので「時代」が合わない。
この「四人の嵯峨源氏の唯一つの臣下朝臣族」は、故に、「15年後に追加された事」に成るのだ。
唯、「嵯峨天皇の在位」は「809年から823年」であり、「没年」は842年である。
「退位」から「没年」までは「19年間」で「院政」を敷いたが、この「831年から842年」の院政後の何れの年にか書き加えた事に成る。
然し、在位開始から「7年後」に定められたとするとその「記録」は無いし、その前に紛失しているし、結局は「院政後の説」は消える。
要するによくある「後付け追加」であり、論理展開に於いては充分に検証しなければならない事に成る。
尚、参考としてこれも前段でも何度も論じたが、つまり、「嵯峨源氏朝臣族」の唯一つの「皇族賜姓臣下族の氏族」は当初は記されていなかった事に成るのだ。
果たして、「新撰姓氏禄」が紛失していないとしても、「桓武天皇の第7皇子」の「兄の次の淳和天皇(823~833)」がこれを許すかであり、例え「9年の院政」であったとしても恐らくは無理であろう。
前段の通りに「紛失後の鎌倉期から室町期初期頃」までに書き足された事」は充分に考えられる。
「書き足す事」が出来たとして考えると、それまで誰かが隠し持って保管していた事も考えられる。
そもそも公的に成っている本が、「原本」ではなく研究推論から導き出されたものであろうから深く検証は難しいのだが、“「嵯峨源氏朝臣族の記載」は原本の元から無かった”とする可能性が時系列から導き出せると筆者は観てるのだ。
書き足しているのは「11源氏の内の最初の嵯峨源氏」だけとすると、平安期と成るが、実は書き足されているのはこれだけでは無く、「諸蕃類」に時代性と格式が違うあり得ない"「第二の姓族」"が実に多い事から観て確実に室町期と成るだろう。
合理的な時系列と合理的な青木氏から観た歴史観から先ず間違いは無いだろう。
つまり、そうするとこの検証から、「嵯峨天皇」は、“律宗族の「9つの縛りの掟」を護る義務を必然的に護る”と観ていたが、全く護らなかったのでので、考えられる事としては後から「新撰姓氏禄」から削除したという事になろうか、将又、最初から書いていなかった事に成るが判断は分かれるが、筆者は実は、この“「律宗族の9つの縛りの掟」を定めた”以上は、“これで行ける”と観て、“最初から書いていなかった”事と観ているのだ。
つまり、「律宗族の9つの縛りの掟」で「神道仏道の融合」を果たせる様に負わせたのだ。
然し、この「天皇の命」を「賜姓源氏族」は違えた。
何と、それどころか流石に「神明社」で無く「清光寺」では無く、「八幡神社と八幡菩薩の習合」で果たして護ったのだ。
「律宗族の9つの縛りの掟」で「神道仏道の融合」を果たせるとかいう以前のこれは完全な「天皇への裏切り」であろう。
然し、何とこの四人にだけは「朝廷・嵯峨天皇」は重役職を与えたのだが、「従三位、参議、右大臣、左大臣と成り、他の者には公卿とも成るのだ。
但し、三世以降は好字の慣例上で貴族や公家としては後世に子孫が伝わらなかった。
つまり、好字慣例だけでは無く流石に見かねた「仁明天皇」は、「嵯峨源氏」が「律宗族の9つの縛りの掟」を護らなかった事から「嵯峨源氏の子孫の存続」さえをも許さなくして仕舞ったし、自らの「仁明源氏」も賜姓しなかったのだ。
「嵯峨源氏」の「子供の仁明天皇」に依って「子孫」が絶えて、その内の「妾子孫の二人」が地方に流れ着いたとして名乗っている「姓名」は「藤原氏の地方裔の姓名」であり「後付け」である事が判るし、これは「満仲の偽策」であった事が判る。
結果は、二代後の「清和天皇」の直前まで「律宗族」を出さなかったのだが、この「清和天皇」は、「賜姓」のあり無しの「12人の源氏」を出した。
然し、この自らの子供では無く、「子供の陽成天皇」が精神異常を来していた為に、その子の「孫の経基王」の「再三の懇願」で、遂に折れて「清和源氏」として「無格式を条件に賜姓」を許したのだ。
これが「嵯峨源氏」より悪かった。
「律宗族の9つの縛りの掟」を護る護らないより「禁手の武器」を持つだけでは無く「周囲」を侵略して「徒党」を組み「武装集団」を形成したのだが、最後には最悪の事態が生まれ「有史来の政権」を朝廷から奪い取ると云う破天荒を遣って退けたのだ。
然し、最早、誰一人、“「仁明天皇」の様に”、「律宗族の9つの縛りの掟」を破らせる行為を止める事は出来なかったのだ。
その意味で、「青木氏の最後の出自血縁」の「仁明天皇」は賢明であった事を後勘としての歴史観で子孫に遺せられる評価が出来る。
「光仁天皇・桓武天皇・平城天皇と桓武天皇の孫の仁明天皇」の「青木氏の血筋を引き出自元と成る5人」は「律宗族」の「9つの縛りの掟」と「神道仏道の融合策」の礎を築いたのだ。
その意味で「嵯峨天皇」が採ろうとした「律宗族の9つの縛りの掟」と「神道仏道の融合策」は評価できるが、「青木氏の賜姓」を外し、「皇親族」からも外し、「令外官」からも外し、「出自元の律宗」を否定し、その「出自元の伊勢信濃青木氏」に圧力を加え、「政争」を超えて「戦い」を伴う「一族争い」を興し、挙句は「殖産と献納金」までを否定した事は、最早、普通ではない。
そして、「源氏」を賜姓しながらも、その「源氏」に「9つの縛りの掟」と「神道仏道の融合策」を無視され、これを否定した「賜姓源氏策」で重職に着けると云う破天荒を遣って退けたが、つまり、全てを根底から自らが崩す矛盾を興して混乱を招いて仕舞ったのだ。
その「影響」は「実家元で出自元の青木氏の存亡に関わる事」までに及んで最後は「始祖とする天智天皇の思惑」は潰えたのだ。
確かに「嵯峨天皇の策」は錯綜していて矛盾していたが、それを救った子供の「仁明天皇の採った策」は後勘から観て正しかったのだが、結局は朝廷を衰退させ政権をその河内源氏に奪われる「始末の源」と成ったと、「青木氏の歴史観」から美化せずに説いている。
その後の天皇は「青木氏の出自・血縁元」では無く「外孫王の藤原氏系」であるので「青木氏の歴史観」からは検証するのは控える。
然し、「賜姓族青木氏の神明社の概念」と「浄土白旗派仏道の清光寺の融合」の「密教概念」を図ったのだ。
だから、その証拠にどの「11代の天皇」も何れの「11家の源氏族」にも、「融合」と成る為の「象徴紋の笹竜胆紋・神道」と「氏の青木の神木・神道」と「白旗の御印・仏道」と「賜姓物の護り本尊・仏道」の「四つ」を与えなかったのだ。
「9つの縛りの掟」を護らなかった「河内源氏の頼朝」は、摂津源氏の以仁王の乱を起こした“「頼政の跡目を継ぐ」”と云う「大義の名目」で、「象徴紋の笹竜胆紋・神道」と「白旗の御印・仏道」の二つだけは兎も角も引き継いだとしたのだ。
ところがここに矛盾が生まれたのだ。
参考として、「11家11流の賜姓源氏」の内のその「何よりの証」が「最も純粋な源氏族である嵯峨源氏」の「残存末裔等・現京都府京都市右京区嵯峨天竜寺地域・実際は資料より北側日本海側の山手に在って密かに農業をして住んでいた事が判っているが、経緯から移動したのではないか」の「家紋」は実は「笹竜胆紋」を家紋としていないのだ。
これはこの「嵯峨源氏」に限らず「残りの末裔」と観られる「9つの源氏」も同然であるのだ。
これは何故かであるが「賜姓と云う朝廷の仕来り」を正式に受けた者には「賜姓五物」と云うものが与えられる。
「賜姓」を受けないで「源氏族を名乗った者」も多いが、この者らは「平安期の混乱期」を生き抜く事は実質は出来なかったので論外とするも、正式に「嵯峨期の詔勅と禁令が定める仕来り」で「正式賜姓を受けた者の生き残った者」には、この「賜姓五物を与えたとする記録」はそもそも全く無いのだ。
それは、「嵯峨期の詔勅の文面」とそれを「詳細に条件づけた禁令」には、この「賜姓五物を与える事」のみならず、前段でも論じたが「禁令の中」での「青木氏への取扱い」の中に、“「天智期からの賜姓青木氏の慣習仕来り掟・伝統」を類してはならない”と記されているのだ。
従って、この事から「天智期からの賜姓青木氏の慣習仕来り掟・伝統に係わる事と成り、「賜姓」は、「嵯峨天皇が9つの縛りの条件付きで認めた」とするものの、この「禁令」から「賜姓五物を与える事」は出来なかったのである。
故に、「賜姓五物の一つ・象徴印号」は当然に持つ事は出来無かったのである。
そこで、どうしたかと云えば「賜姓源氏の者」が、この“「象徴印号」を持たない”という事は生きて行く上で出来ないので、「生き残った初期段階の10源氏」は「揚羽蝶紋、下り藤紋、橘紋等」の「皇位族とは女系血縁筋・外孫族・支流卑属」の「宿禰族の高位族紋」を使ったのだ。
それはどういう事かと云えば、「嵯峨期の詔勅」で明記している様に、“「生活の糧」を与えない”としているので、かといってこの「生活の糧」を自ら獲得できないので、先ず考えられる事としてこの殆どは「宿禰族の高位族・公家」に「婿養子」として入り糧を得て、その家の「家紋」を「格式号」としたのかであるか、「鎌倉期」か、将又、「室町期中期の姓勃興期」か、「江戸初期の国印状取得」の「後着け策」が殆どであり,そんなに「伝統」を「400年」もの長く「格式の伝承」を「逃げ惑う戦乱」の中で「正確」に保って生き続けられるものでは無い。
そこに論じている「伊勢と信濃青木氏と秀郷流青木氏」の「違い」が「11源氏」のその差と成って出て来たのだ。
参考として、何度も論じているが筆者の青木氏の歴史観の調査研究では、「殆ど後者」と観ていて、仮に「記録は菩提寺や守護神で祐筆保管しているので「11賜姓源氏」としては無くす事は無いと考えられるが、仮に無くしたとしても、「姓名、家紋、宗派、菩提寺、墓石、過去帳、曼陀羅、密教、発祥地域、家の慣習仕来り掟の伝承、神道の形式、戒名、院号等の五重相伝、定住地・・等」で、それは上記の「嵯峨源氏」の様に、又、「河内源氏・八幡神社八幡菩薩」の様に直ぐに判定が出来るのだ。
故に、「嵯峨源氏の様な家紋が無い事」が起こったのだ。
「賜姓氏名、象徴紋、象徴物、象徴神木(青木と柏)、冠位官位(浄大一位、正一位)などの格式と院号」と、これに伴う「副役物」の「賜姓五役」・「令外官」・「伊勢守護王」・「9つの縛りの掟」、つまり、「嵯峨期の禁令明記」の「青木氏の慣習仕来り掟の伝統」が加えられた。
現実に、「11賜姓源氏」にこれだけの「賜姓時の特典を与える事」は「天皇家」には最早その「力・財源」は無かったしそれ以後も無かったのだ。
無かったから、「嵯峨期の詔勅」と成り、それに明記する様に“「賜姓源氏をした」”のだから。
然し、元の「賜姓青木氏」には「伝統」で論じている様に「令外官」として「大商い」をし、充分に「糧・殖産等の巨万の富」を蓄えてあった。
賜姓を外されたが「影の令外官」であって外す事は出来ず、且つ、「献納が起こる財源元」を外す事は出来なかったのだ。
その「青木氏の皇親族の力削ぎの限度」は此処まであったのだが、「賜姓」を外された、「令外官」を外された、「皇親族」を外されたの以上は、「天皇家への献納」は最後は当然に停止する以外に無く成ったのだ。
では、「賜姓源氏」がこれを補填する力が在ったのかであり、「武力」は有っても「財力」は無い。
何度も論じているが、ではその彼等の「禁じ手の武力」で「青木氏の商いの財」を奪うか潰すかであるが、ところがその「武力を上回る抑止力」を既に構築していたのだ。
それは「四掟に依る藤原氏の一門とその秀郷流青木氏とその一族一門」が控えていた。
この様にしてこの「賜姓臣下族のリスク」の環境の中で興った「賜姓源氏」の「上記の天皇から賜姓物の授与」が無かった「清和河内源氏」で、「幕府を開いた事」で「格式獲得の格式矛盾」を含んだ「河内源氏の暴走」が興ったのだ。
これが「律宗族論の神道仏道の融合の策」に係わる「笹竜胆の院号論」であり、「青木氏の伝統の矛盾論」である。
この事から「幕府樹立した河内源氏」だけが「笹竜胆紋」としているのは「権威付け」から上記の「摂津源氏頼政の引き継ぎ」を前提とした「樹立大儀である事」である事は明らかで、これは「虚偽の無い朝廷の中での記録」が無い限りはこの事で判る。
「白旗の御印・仏道」は、「密教浄土宗の白旗派の御印」であるのだ
上記した様に、そもそも「密教浄土宗」ではない「八幡神社と八幡菩薩の習合概念」と、「神明社と清光寺の神道仏道の融合概念」とには埋める事の出来ない大矛盾が生まれたのだ。
これで「白旗」は使えない事は、同時に「笹竜胆紋」も使えない事を意味し、この逆の事も云える。
そこで「頼朝」は、立場上、「白旗と笹竜胆の前提」と成る“「9つの縛りの掟」を護らなかったとした「朝廷の反対」”にも拘わらず、これを「頼政の代わり」として「樹立した幕府の権威と大義」の為にも「一つの奇策」を講じたのだ。
それは、「象徴紋の笹竜胆紋・神道」の「紋の一部を書き換える」と云う「策・類似紋・花柄軸を替える」に出て「朝廷の反対」を“これだと文句は無いだろう”と躱したのだ。
それは、「青木氏が持つ象徴紋の笹竜胆紋」の「竜胆の花と笹」は同じとして「花柄の部分・軸と花の間を換えると云う策」に出たのだ。
「密教浄土宗派の白旗の御印・仏道」に対しては、「浄土密教の皇位族の帰依する宗派」を意味するこの「白旗の扱い」を、“「統一的象徴」として「王党派としての団結」を遂げた事”として言い逃れたのである。
それには「根拠」を見つけて来た。
それは、「日本書紀に記載がある白旗の意味合い」であった。
そもそもこの「白旗の意味」には、「日本の文献」では最も古いのが「降伏の意味」での「素幡・きぬのはた」を「白旗」の通常の書例・イではある。
ところが、別に「日本書紀や風土記等」の「古書」にもある様に、「白旄・中国の慣習」では、「一軍の将軍」が「軍の指揮」を執るのに用いる「白いヤクの尾毛」を「竿の先端に着けた中国の慣習」がある。
この事を利用して、この「旗印」を「王位制」、即ち、「君主制の象徴・ロ」として言い換えたのである。
このイとロの「二つの言い換え」に「朝廷」は流石に怒り狂ったが「日本書紀や風土記等」の「古書」を逆に言い出された事に「朝廷の反論」は詰まり、結局は黙視する以外に無く成ったのだ。
然し、「源平戦での白旗使用」にはこの理屈は通らず、ある程度の「9つの縛りの掟」を護っていた「摂津源氏の四家の頼政の代行」で押し通したのだ。
然し、唯一つ、言い逃れが出来なかった事は、河内源氏の「八幡神社と八幡菩薩の習合の概念」である。
「白旗」は「神明社と密教浄土の融合の概念」である。
全く違う状況の中であるのに直さない通説は「変な話」である。
つまり、上記の事例が後の時期に興ったが、これは、最早、「神道と仏道と云う話」であり、「融合か習合」の話であり、この事から引きつられて「社会}は「格式化の賛成派」と「格式化の反対派」の「二派の権力闘争」にすり替えられていた事を裏付けている。
故に、真実は、「巻き込まれる事」を嫌った両方の編者等は、逸早く命の危険を感じた学者達の編者は、史実の通り「雲隠れした事」と成ったのだ。
「神道と仏道の問題」は、上記したやや後の「源氏行動とその言動」から考えると、「朝廷」としては「伊勢青木氏」と同然の「融合導入の前提にあった事」が云える。
然し、それよりも「本命の問題」は、「導入の基盤造りにあった事」に成る。
上記した様に「導入」には「社会」にそれを受け入れる「基盤の醸成」が必要であって、それには“「独特の二つの格式」”を「統一した格式」に改めて定める必要があった。
然し、これが無い侭に「仏道の浸透」が「皇族内で進んでいた事」に成るのだ。
この侭では、「神道の朝廷」は瓦解するは必定であった状況に陥っていた事に成る。
その証拠に「最近遺跡の発見」で「二つの派閥の領袖・蘇我氏と物部氏の館跡」から、既に裏では帰依していた遺跡が出て来たのである。
つまり最早、「時間の問題」であったろう事に成る。
故に「蘇我氏」に依って「物部氏」が潰され、その後に「天智天皇の乙巳の変」で「蘇我氏」を一掃した事が既に興っていたのだ。
更に、この「仏道の浸透」が進み、「乙巳の変」で力の持った「藤原氏」に何方にしても「天皇家は乗っ取られる事」は必定な状況であった事に成る。
既に「外孫王・藤原氏系」が「淳仁天皇」と成っていた現状では猶予は無かった。
況して、「天皇家・聖武天皇系」には「男子皇位後継者が不在」であり、且つ、其処に朝廷が進んで自らが「仏道の大仏殿建立」であったのだ。
「天皇跡目の問題」と「神道仏道の融合」の「二つの危機問題」に、「藤原仲麻呂の台頭・天皇家乗っ取り」が割り込んで入り、「漁夫の利」を得ようとして「三つ巴の攻防戦」が続く破目と成るが「仲麻呂の思惑」は寸前で「自滅」し「危機の難」を逃れたと観える。
「三つ巴」の一つが消え、「二つの危機問題」を解決する模索が続いたと観える。
つまり、その解決手段が「孝謙天皇の白羽の矢」であったと「青木氏の歴史観」から観れば成るだろう。
この「最終の決定過程・吉備真備」に於いて上記した様に「里絆策の感覚・孝謙天皇」は働いたのだ。
実は、この時の「騒ぎの証」として「青木氏の逸話」が遺されている。
其れは、「追尊白壁王」に嫁した「井上内親王」の后は「青木氏の孫裔系・四代目」までに呪いの呪詛をして殺そうとして、「自らの二人の皇子の安寧」を狙ったとした。
当然に「賜姓族」とは云いながらも、最早、「天皇の里」は「殖産化した商いの氏族」と成っていた。
その間では「伊勢青木氏」が面倒を看ていた「伊勢の斎王・井上内親王」であったとは云え、感情的には「天皇家の中で育った井上内親王」であると云う感覚を持つ事は自然である。
感情的に成る以上は、そう云う事に成るであろう事は頷ける。
それだけに「井上内親王」には「殖産家の伊勢青木氏」として映っていたのであろう。
“映る”と云うよりは”知っていた”と云う方が正しいかも知れない。
“自らが取り込まれてしまう”と云う「脅迫概念」に取り込まれてしまっていたのかも知れない。
其れの感情が行き過ぎて“だから子供も護ろうとした”のでは無いか。
青木氏を呪詛する事に到ったのだろう。
注釈乍ら、「青木氏の伝えられている伝説事」と実はこの「井上内親王の奇行」とが違うのだ。
通説の経緯
744年井上内親王27歳に結婚
754年37歳の時に酒人内親王
761年47歳の時に他人親王
764年政争始まる
770年称徳天皇・孝謙天皇は没
770年に他人親王立太子
770年に白壁王が即位、后と成る
772年に光仁天皇を呪詛
772年に酒人内親王は斎王
773年に追尊難波王を呪詛・没
773年に井上内親王と他人皇太子の二人は廃位・庶人
775年に二人は没
776年に政変で粛清されて酒飲んで暗愚を装う
776年まで政務
778年に没・86歳
以上と歴史では通説と成っているが、それに依れば、“「744年までの政変で多くが粛清されて、その「飛び火」が伊勢に及ぶ事を嫌って「四男・54歳・又は六男」の一番若い「白壁」は酒飲んで暗愚を装った”と成っている。
{54歳と云う処に全ての経緯の意味」が籠っている。
当時は平均寿命年齢であるからだ。
然し、781年没(778年没説もある)の84歳の2年前まで政務を執っていたとされる記録が遺る。
とすると、「青木氏に直接及ぶ政争」は「34年間」も続いていた事に成る。
実際には、その後の「仁明天皇期の末期・850年」までの「最低100年~最高106年間」も続いていたのである。
これは「研究」が進んでいる「信濃青木氏」にも「同族血縁していた事」から影響はあったであろうし、「信濃」に於いても更に手に取るような詳しい総合実態がその内に明らかに成る事を期待している。
兎も角も色々な遺されている各地の「資料の読み漁りの行」から、「仁明期から円融期の賜姓・960年・平安期中期」までの「100年間」は、「前期の90年間」とは異なり、凡そは「平和」に成り、“施基皇子」”と云う「世間からの印象」は既に薄れ消え始めていたと観られる。
だから、「円融期の秀郷流青木氏の賜姓」に繋がったとも考えられる。
つまり、「朝廷の院の務め」から「正式に独立した925年の商業化」を「史実」、所謂、「商いの殖産家」で「庶人化していた事」に成るが、但し、「天皇家との間の繋がり」では未だ「献納と云う形」では関係性は維持していたらしい。
況や、逆に「世間からの印象」は既に薄れ消え始めていたから「庶人化した事」に踏み切った事になろう。
然し、そこから「円融期の秀郷流青木氏」が関わる「正式な賜姓」に繋がって行くのであり、遂には更に「100年後の1025年」には「庶人化した事」の証としての「宋貿易等を行う総合商社化」が成されていたのだ。
完全に「過去の院号」に頼らない「庶人化していた事・独立していた事」、つまりは「世間からの印象」は既に完全に近い形で薄れ消えていた事に成る。
此処で「青木氏のその歴史観」から観ると、この幾つかの「歴史観」には「疑問」が残り、これを解決しないと面白おかしくする為に「青木氏の歴史観」は歪められるばかりで、誰も正しく解いてもらえないのだし、歴史とはそう云うものだし、故に「伝統の危うさ」なのであるが「正しい歴史観・伝統」を解析しているのだ。
少なくとも「判る範囲」で、先に「過去の伝統」も踏まえた「状況証拠を集めた推論」でも遺しておく必要があるのだ。
さて、この時期の「青木氏の歴史観」のその「歪められた疑問」について検証して論じる。
論点は次の通りである。
「青木氏だけ」に遺された疑問が次の通りである。
772年に光仁天皇を呪詛
・1 何で呪詛されたのか?
772年に酒人内親王は斎王
・2 何で斎王にされたのか?
773年に追尊難波王を呪詛・没
・3 何で妹が呪詛されたのかであり、現実に呪殺されているのか?
773年に井上内親王と他人皇太子の二人は廃位・庶人
・4 何で廃位して、更には庶人になったのか?
775年に二人は没・自殺
・5 何で名張に移され自殺したのか?
776年に政変で粛清されて酒飲んで暗愚を装う
・6 何で暗愚を装う必要があるのか?
776年まで健康に政務
・7 何で6の史実に矛盾しているのか?
781年没
1 何で呪詛されたのか?
二人の子を残した后から夫の追尊白壁王を呪詛したのかである。
少なくとも味方と成る筈だ。
744年で結婚、754年と761年に二人の子供、770年で即位・后とすると、16年間と呪詛とするまでの2年間の計18年は正常に生活をしていた事に成る。
それが突然に夫呪詛に到るまでには「ギャプ」があり過ぎる。
「夫呪詛」と成ると、「夫呪詛の殺意」の「相当な理由」が必要であ.る筈であり、その「1年程度の間」に何かが興った事に成る。
その原因が「四家青木氏との間」で存在した、それが「青木氏の一族の人との付き合い・人間関係」に在った事に成ろう。
何故ならば「呪詛」に至るまでに「即位」までしているので、先ずは「井上内親王の実家元の天皇家」、即ち「聖武天皇の第1皇女の格式」である。
その母は「夫人県犬養広刀自・県で身分低い・地方の市長」であるが、一方、「聖武天皇の母は藤原不比等の娘・宮子で藤原系」での身分に係わるものはないだろう。
又、「称徳天皇・孝謙天皇崩御」の際に重臣に依って青木氏に嫁す事で協議が行われたと記されている。
この「協議」で幾つかの歴史書では、「天武天皇系の外孫王」を推す吉備真備と、「白壁王」を推す「藤原氏系・南家」で対立し、「藤原氏暗躍」によって「白壁王の立太子」が実現したとする経緯があるも、これは直接に呪詛に繋がらないだろう。
然し、ここで矛盾する事が興っている。
それは、白壁に「白羽の矢」を立てた「孝謙天皇の家庭教師」で要するに「相談人」の「吉備真日」が、「天武天皇系の外孫王」を推すと云う事の「矛盾」が興っているのだ。
千来であれば白壁を推している事に成る筈だ。然し、何と逆で違ったのだ。
と云う事は、「藤原氏に押し切られた形の事」に成るのだが、史実は逆で前段でも論じた様に「天智系に戻す」と云う前提で「白羽の矢」を立てたのだから、“決して押し切られた訳では無い"事に成る。
要するに、「吉備真日の行動」に「裏の意味」があった事に成るだろう。
つまり、“押し切らせて誘導した”と云う事にしたと成る。
史実は、「井上内親王」は斎王の身分ら固執し「白壁に嫁す事」を反対していたのだから。
既に「100年も経った商いの伊勢」も一族の「酒浸り」や「暗愚」を装う事や「逃避り行動」の資料にある様に、又、そもそも「氏是」からも嫌っていたのだ。
だから、“反対して於いて押し切らせて「目的」を達成させる"と云う策の「吉備真日の不思議な行動」と云う事に成ったのだ。
前段でも論じた様に、“これの方が「理と利と系と金の思惑策」が実現する事"に成るからだ。
「押し切らせて実現した」とすると、「天皇家」と「四家青木氏」との間の事と成る。
つまり、「格式の有無」と成ろう。
「天皇家の井上内親王」とは云え、父も「藤原氏系」で母も「藤原氏系一門」と成ると「藤原外孫王」でありながら「県の犬養広刀自・身分低い」と云う事に成る。
「青木氏」は賜姓臣下したとは云え「血筋」と云う点では「施基皇子の四男・六男の説」とすると、「相当な格式身分の差」があった事に成る。
“天皇家から嫁す”とは云え「白壁の母」は妃であり、それも「紀諸人の女橡姫(とちひめ)」で、「天皇家の血筋源の五大血筋の紀族」であり、何れに執っても「格式」は数段上位に位置し、従って、格式社会の中では「二足の草鞋の商人」と云えど卑下していた事に成る。
つまり、「皇位朝臣族・青木氏」と「神別朝臣族・犬養氏」の差に成るし、この「格式差」で卑下していた事が考えられるし、況してや未だこの時期では「財政不足の天皇家」は、100年経っても「永代賜姓五役の名目」で「青木氏」からも「献納・史実」を受けていたのだ。
だから、この「嫌々の即位」までは「青木氏に嫁いだ形」に成っているので、「自らの産んだ酒人王も他人王」ともに「子の格式差」もあって、「白壁」を除いた「他の青木氏の8人の息子」と「7人の娘・実際は30人程度の記録に載らない子供がいた」ので、それを卑下していて「青木氏の中に溶け込む事」が全く出来なかったと考えられる。
青木氏がその見下す態度に出ていたかは上記した様に嫌っていたとしているので無かったと出来る。
「井上内親王の卑下」にあったとしていて、それが歪んで「呪詛]と成ったとしているのだ。
其れが、所謂、対応したのが「四家」であり、「伊勢50衆の氏族」であり、「妻嫁制度」であり、「嫁家制度」であった為に尚、その「青木氏の制度」の中に溶け込む事はバリヤーの様に成って更に相当に無理で出来なかったと考えられる。
況して、その夫が「妃子の四男・六男」であった為に周りに頭が上がらず尚の事であったと観る事が出来る。
それの不満を「夫」に向けたが、夫は振り向かなかったと成るだろうし、次の「2の疑問」の「夫の4人の姉妹達・施基皇子の娘」、つまり、「姉の追尊の海上女王・従三位」、「姉の追尊の難波内親王・二品」、「追尊の衣縫内親王・従四位」、「姉の追尊の坂合部内親王・従四位下」、「姉の追尊の能登内親王・四品」の「全体を仕切る最高格式の二品を持つ難波」にも先ずその矛先を、そしてその「姉妹等」にも更に向けたと、「青木氏の資料」等に遺る様に成ったのではないか。
注・上記の「四男の白壁」が突然に別系で「光仁天皇と成る事」で「青木氏の兄弟姉妹」は、その「格式を合わす為に追尊された者」と、その「父の施基皇子」が「追尊春日宮天皇」と成る事で「子の追尊と成る者とならない者」に分かれ、其れはその「母の血筋差」で分かれたとしている。
その結果として、「伊勢青木氏」に居ながらも「難波」が子の誰よりも「最高位の天皇に継ぐ二品の格式・施基皇子以外には歴史的に二品は無い」を与えられたのだ。
つまり、その「血筋差で父と同格と成った事」に成るのだ。
故に、これが「3の答え」にも成るが、その矛先は、「男女の姉妹に係わらず「青木氏全体」を仕切る追尊の難波内親王・二品」に向けられたのだ。
「天武系」で「藤原氏系の外孫王の子」でその「天皇家」に居たとした「井上内親王・即位後二品」と、この賜姓臣下したとは云え「天智天皇の孫娘の直系難波内親王・二品」とには取り換える事の出来ない「上位の血筋の格式差」が潜在していたのだ。
「賜姓臣下朝臣族の二足の草鞋」を敷き、「四掟や妻嫁制度や嫁家制度」や「伊勢郷士衆の氏族」の環境の中での「青木氏の生活」では、即位されるまでは女系である以上はその「女系で仕切られている家の差配の頭の難波」から煩く「嫁としての振る舞い」や「氏上や御師の生活」に馴染む様に当然の事として注意されていたのではないか。
其処に「絶えられない矛盾」と「大きなギャップ・自尊心」が生まれ精神状態が鬱に成っていたのであろう。
やっと「26年間」を経た「770年の即位」に依って、それは解消されたかに見えたが、然し、その現実は変わらず即位するも「青木氏には差配力の及ばない四男の白壁」にも「2年後」にその「不満」が向けられたと成るのではないか。
772年に酒人内親王は斎王
2 何で斎王にされたのか?
天皇に成った以上は、娘の酒人は内親王と成り、母親の経緯の通りに斎王に成るだろう。
唯、結果として全ての皇女が斎王に成ると云う事は無く、{白壁」が天皇と成った以上は、「伊勢青木氏」の「白壁の姉妹に当たる二世族の者」、又は、その「三世族の者」も対象に成るし、「信濃青木氏」も「斎王に成り得る事」に成るが、然し、母親の様に「酒人内親王」に向けられたのだ。
そして、「三品」に叙せられたのだ。
要するに「呪詛の事件」の中で、突然の経緯として19歳に達していた事から斎王に指定され、身を清める為に「春日斎宮」に籠もるが2年後に伊勢に戻り、更に1年後に母親が「名張の幽閉先」で「他人皇太子」と共に自殺した。
この為に、再び「伊勢」に戻る。
帰省後に「自殺した他人皇太子」に代わって、「妃の高野新笠の子の山部親王」が「皇太子の座」に着いた。
そして、この事で「酒人内親王」は「斎王」を退位したが、この後に、「異母兄の山部王・桓武天皇の妃・」と成り、7年後の779年に「朝原内親王」を産み、「山部王」は781年即位する。
そして「朝原内親王」は“「4歳で斎王」”に成る経緯を持つが、この「経緯・イ」が重要である。
そこでこの「経緯・ロ」を「通説」としているが他には、次の説がある。
「伊勢側」が、“「聖武天皇系と血筋」を融合させ様とした”として「光仁天皇や桓武天皇」が合作した、とされる「経緯・ロ」の説と成っている。
参考に。史実とは出来ないが、鎌倉期の「水鏡」に次の事が書かれている。
故に「光仁天皇」が「娘の斎王」と成っていた「酒人内親王の立太子」を検討していたとする「経緯・ハ」の「後付け説の記述」の「記録」があり、史実の云々は別として確定しない「推測の記述」がある。
これが、仮に「経緯のハ」が事実であるとすれば、「桓武天皇」やその周辺にとっては警戒すべき存在でもあった事には成るが、「酒人内親王の上記の経緯・イとロとハ」の通りにこの記述は史実に反する。
この「朝原内親王」も後に「斎王」に成り、「井上内親王・酒人内親王・朝原内親王」と、“親子3代で「斎王」を勤めた”とする「史実」もある事から、「経緯の通説」は違うだろう。
「斎王と云う伝統の習慣」は「伊勢」ではそれ程に次の意味を持っていたのだ。
先ず、「斎王の伝統」の「経緯・イ」である。
次に、「天皇家への合作」の「経緯・ロ」である。
更に、「立太子の検討」の「経緯・ハ」である。
「斎王の伝統」の「経緯・イ」であるが、前段でも論じている様に「天智期からの仕来り」で引き継いでいた。
そして、「伊勢や信濃の青木氏」では、多気郡に「斎王館」を建て、これを「多気の館」と名付けて多気郡で多くの女官等を侍らせて面倒を看ていたのだ。
当然に、「斎王に成る皇女」は、一定期間、「清めの館」で身を清め、その後に「斎王」に着くが、これには「斎王に成る事」での政治的な制裁は無い。
何時かは事情により戻る事があり、又、仮に政治的な思惑で「斎王」にされたとしても、その侭に「斎王館」に遺る事もあり得たので、「朝原内親王」は“「4歳で斎王」”の「記述」には制裁的な意味が無い。
寧ろ、将来は、本人が好むか好まないかは別として「皇族の中での生活」を保証される。
然し、「好まない時」は「伊勢青木氏の斎王館」か「伊勢青木氏の中」に溶け込んで「女(むすめ)」として「四掟と妻嫁制度と嫁家制度」で普通に「女(むすめ)」として生きられるが、現実は、「青木氏出自の桓武天皇」の「子の平城天皇」に嫁したのである。
つまり「経緯・イ」は、この「既成の経緯」を辿るパターであり、「伊勢青木氏」に殊更に覆い被さって来る「災い」は無い経緯である。
例え、皇女から斎王に追いやられたとしても「皇女」に多くを望まなければ「正常」で居続ける事は、寧ろ、無理であり、「斎王」に成る方が安全なのであった。
従って、斎王であった「井上内親王・親」にしろ、斎王の「酒人内親王・子」にしろ、斎王の「朝原内親王・孫」にしろ「第一皇女の斎王」であった方が、「政治に巻き込まれる事」は少なかったのである。
夫々が同時に、「光仁天皇・親」、「桓武天皇・子」、「平城天皇・孫」の一族や同族を超えた「青木氏出自の完全な家族婚」である。
この現象の傍に「伊勢青木氏」は居たのだ。
この例に観る様に、歴史的に「斎王や斎宮等」の多くは何らかの形で「青木氏に入り込んだ」でいたのである。
故に、「伊勢と信濃青木氏」では「皇女等・300人程度」だけの「逃げ込み口」であったのだ。
この前段でも論じている様に「流れに入る入口」であったのだ。
この様に、「青木氏の歴史観」から観た場合、「通説や水鏡説の様な逸話説」はそもそも伝統的に無かったのだ。
次に、「天皇家への合作」の「経緯・ロ」であるが、これは逆である。
先ず、「白壁が光仁天皇に成った経緯」では、上記や前段でも論じた様に、全てを物語るのは“「白羽の矢の結果」”である。
そもそも、「天皇家」と云えど、「血筋と家筋と冠位官位品格と財力」等の一切を比べても「伊勢青木氏の全格式」の上では、上記や前段でも論じた様にこの時点では未だ遥かに「上の格式・皇親族」である。
それでも「賜姓臣下朝臣族」と「二足の草鞋策と殖産家」であって「天皇家と関わる事」を「氏是」として禁じ、「伊勢の氏族」と成って「四掟、妻嫁制度、嫁家制度等」の独特の関わらないシステムを採用し、況してや「女系化」していたのだ。
其れを既に繋がっていた「天皇家と繋がる等の説」はその必要性が無く「氏是」で禁じて、当に「研究の怠り」に外ならない。
そもそも「青木氏」に限らず「伊勢の歴史」を知ればこの説は100%出ないし、「日本書紀等の数種の歴史書」を読んでいればこの説は出ない。
面倒であるのでこれ以上はこの説の検証は終わる。
「酒人内親王の立太子の検討」の「経緯・ハ」であるが、770年には「他人親王」が既に「立太子」に成り、772年に「酒人内親王」は「斎王」と成り、773年に「他人親王」は廃位に成っている。
この4年の間、「酒人内親王」は時系列からあり得ないし、仮にそうだとしたら再び「女系の天皇」と成って仕舞う事に成る。
「白羽の矢」が「天皇家女系であった事」で「90年後」には「完全な氏族」を持ち「商い」をし「御師様」の庶人化した「天智系の裔系の者」が「女系を求める事」の事態がそもそもあり得ないし、これは「青木氏の出自元に災いを招く事」は必定で、例え、「白壁の天皇」であろうともそれを許す事はそもそも無かったであろう。
「青木氏の氏是にも悖る事」である事は、「白壁」も痛い程に知っていたであろう。
そもそも「施基皇子・716年没」が没して未だ「54年後の殖産の商いが軌道に載った時期の事」でもある。
全くあり得ない事であるし、この段階では他に皇子が「7人」も居たし、17歳も年上の「737年生まれの山部皇子・高野新笠の子」も居た。
だから敢えて17歳も若い「754年生まれの酒人内親王の女性を立太子にする事」は后の先ず子であったとしても当時の仕来りからは先ず無かった。
現実に、大病を経ても「山部皇子」が「桓武天皇」に成るのだ。
「鎌倉期の水鏡」としては「鎌倉初期の歴史略記」とすれど書き記す程には「史実性」がおかしい。
唯、それにはこの青木氏の事件に関して一つ気に成る事があり追記する。
其れは「伊勢青木氏の出自元・血縁筋」の最後の“「仁明天皇・出自元派」”である。
この事件に近い事が「歴史略記」に留めている事であり、且つ、その内容に関して「伊勢青木氏の歴史観」に“「類似する様な事」”を上記の様に記している事である。
この「編者」が確定し定まらないので、これ以上の追及は困難ではあるが、編期が「1195年頃」としているので「400年程度経過した歴史・逸話の段階」である。
つまり、「鎌倉幕府の樹立」には「9つの縛りを護らなかった頼朝」と「それを認めないとする朝廷」との「悶着」があって、成立後に「略史の水鏡が幕府におもねて書き記した可能性がある。
これは「光仁期以降の天皇家の歴史」は兎も角も、それに伴って秘密裏にする「伊勢青木氏四家の内部のゴタゴタ」が連ねて表に出るという事はあり得るのかである。
仮にあるとすれば、「神明社」か「清光寺」か「女系嫁家先の藤原秀郷流青木氏」か「伊勢郷士衆」か「信濃青木氏」からであろうが、この「編者その者」が編集した訳では無く、「独自の主観」を加えながら「皇円略記・戒話」を更に参考にして「手を加えた書」であると観ていて、それを「平安京付近での編」で書き記しているのだ。
仮に「漏れる」とすれば、「伊勢青木氏」から「嫁に行った近江秀郷流藤原高郷」を里としている「伊勢秀郷流青木氏以外・梵純系」には可能性は低いが、然し、現実には「光仁期から仁明期」まで続いた「青木氏のゴタゴタ話の類似話」が載せられているのだ。
「青木氏」では知られていないとしていても、「天皇家のゴダゴタ」に連れられて「比叡山の表」に「青木氏のゴタゴタ」も「戒め例話・浄土宗の編者・伊勢からの関係者・白旗派の者」として出ていた事も充分にあり得る。
だとすると、実態はそれ程に「隠せない程の騒ぎであった事」に成っていたと筆者は観ている。
何故ならば、「伊勢と信濃青木氏」は「賜姓五役と令外官」を熟し、「9つの縛りの掟」を「氏族の伝統」にし、「五重相伝で神道仏道の融合」を図り、それで「伊勢郷士衆」で「氏族」を形成していた「律宗族」であった。
それがこの様に「恥の失態」を「称徳天皇から嵯峨天皇」までの約100年間の恥事を外に曝け出し続けたのだ。
故に、この編者の「天台宗の皇円」は元は「浄土宗法然の師」でもあるとすれば、「律宗族の戒めの例」として捉えられ事は充分にあったと考えられる。
「伊勢青木氏に伝わる口伝」では、その「自殺した井上の呪い」の様は、「逃げ惑う青木の玄孫域の女達」は、「福家や四家や神明社や清光寺」等に隠れ、又、「尾鷲の旧領地の各地」に散り隠れ、子供が生まれても隠したとされる位であった様だ。
中には、松阪の「追尊難波王等の二世族の娘」は逃げ惑い、又、桑名の「追尊浄橋王や追尊飽浪王」は「美濃の三野王」に嫁したとする程の話もあって、「青木氏の福家」はその為に「一族の氏族」がこの「政争事」に巻き込まれない様にする為に、「女系の伊勢郷士衆」を含む「女(むすめ)」等を「福家の一か所」に集め護り教育を施したとする「実話」が遺っていて、それが後に「四掟の強化や妻嫁制度と嫁家制度」へと発展して行ったとする「青木氏の重要説」もある位であり、恐らくは「学問的な証」は無いが、「感情の根底」にはあったと観ているのだ。
つまりの処は、「施基皇子から200年弱」の「後の事」として、「天皇跡目の問題」と「神道仏道の融合」の「二つの危機問題」に遭遇し、その上に「南家の藤原仲麻呂の台頭・天皇家乗っ取り」の「経緯の政争」が絡んで、「青木氏族」は右往左往した事を後世に遺し伝える為のものであったとされるのだ。
そして注釈として、この「伝統のシリーズの筆者の論」も「後世のロマン」として正しく繋して書き記しているのだが、其れと同じくそれを「家人の青木氏祐筆」が書き遺した事が何時か永く語り継がれ、「光仁天皇期の伝統の逸話と口伝」に成ったと観ているのである。
それだけに、既に、「臣下」して「商い」で「糧」を得て生きていた「庶人化・民化・殖産化していた族」に降り注いだ思いがけない「大きな出来事」であった事を物語る。
この「青木氏の中での騒動」は「90年から100年近い後」の「新撰姓氏禄」の”嵯峨期まで続いた”という事では無いか。
普通では耐えられないであろうが、然し、耐え偲んだのだ。
「政争」とは如何に恐ろしいものであったかは判るから、故に既に「賜姓族」でありながらも「庶人化・商民化・殖産化」していた「伊勢青木氏」は逃げ惑ったのだ。
この「青木氏の逸話と口伝」によく似た事が「上記の水鏡」に記載されていて、恐らくはこの事を間接的に指しているとも考えられる。
参考に、それを経緯を要約すると、次の様に成る。
770年の夏、「異母妹の称徳天皇・孝謙天皇」が崩御、その後を受けて、「追尊白壁王」は、8年後に「藤原氏の推挙」によって、「光仁天皇」に即位、この時、この「井上内親王」は「皇后」に成る。
他人王は若年で「皇太子」に、「光仁天皇」は、身の危険を感じて酒乱と成り、馬鹿を装う。
ところが、「光仁天皇即位」を拒んだ上記の立場にいた「吉備真備」は、結局は政界を退く事に成った。
そこで「2年後」に、この「后の井上内親王」は、密かに「巫女・神明社」に、天皇の呪詛をさせたとして、「皇后の位」を剥奪される。
皇太子と成っていた「他戸皇子」も「廃太子」と成る。
これは鎌倉時代期の「歴史書の水鏡」に書かれたものであるが、此処に真実は別として “「后は呪詛し、呪物を井戸に入れさせた イ“と、観ていたかの様にある。
“「光仁天皇の早死」を願い、「我子の東宮」を位につけようと願った ロ”と書かれている。
“「井上内親王」が「光仁天皇の姉の難波内親王・追尊」を「呪詛罪」により、「現奈良県五條市・名張の西」の「館・清蓮寺城付近か」に幽閉された。 ハ”とある。
“奈良に追いやられた時に「難波内親王」は懐妊しており、「五條市・名張付近か」で「男児」を出産した ニ”としている。
“「男児」が「母の怨み」を晴らす為、この「子」が「雷神」と成った ホ”とする。
この辺は神話的である。
以上が「水鏡」の関係する「五節の逸話説」である。
恐らくは、これは「神話的」に書いているが、「青木氏の福家等に伝わる上記の混乱話」が何処からか漏れて、それを神話的に表現して「言い換えたもの」として表したものであろう。
唯、ところが、「伝わる事」と「異なる処」は次の6つの通りである。
1 二人に呪詛したのは逆の井上親王である事。
2 他人親王を東宮にしていたのは白壁も同じである事。
3 呪詛したのは井上内親王である事
4 呪詛して奈良に追い遣られたのは井上内親王である事。
5 「追尊難波内親王・770年」は773年に二品に叙されている事。
6 結婚していない。ニとホは史実と違う。一族が密かに敵を討った事を意味するか
この様に「水鏡」は史実と逆で違い過ぎるし、従って「皇円の律宗族の戒めの例」であろうとしている。
773年に追尊難波王を呪詛・没
3 何で姉が呪詛されたのかであり、現実に呪殺されているのか?
この件は「上記・下記」した通りであり、その矛先は、「男女姉妹に係わらず「青木氏全体の政所」を仕切る「追尊と成った難波内親王・二品」に向けられたのは確かだ。
兎も角も、何度も論じているが「伊勢郷士衆」を含む「女系の氏族」なのであり、家の中は全て女系で流れて必然的にも「女性」が、「商い」は別として「政所は仕切る家柄」と成っていたのだ。
だとすれば、「追尊難波王が仕切る形」と成っていたし、「男勝りの頭の切れる特段に優秀な女性」であったとする「言い伝え」もある位であるし、確かに先祖を辿るとその血筋が地に流れている様だ。
「天皇家の祖の5大血筋源」の一つの紀族の「紀橡姫の同母姉」であり、「773年没」であり「白壁」とは4歳年~5歳上であったとされるので、「即位の770年時」は「62~65歳の独身」であった事に成る。
白壁の4同母姉で「海上女王>坂合部内親王>衣縫内親王・722年没>」であり、年齢も近く高齢で没している。
「追尊海上女王」が最も高齢で「追尊難波内親王」が下であった様だ。
若くして「元気で利発な難波親王」が仕切っていたとされる事は確実である。
「難波の忌名」は「伊勢青木氏の女墓」に「祖の母」として刻まれているが、当時は前段でも論じたが「神道であった事」に成るので、「皇位族の者」には生前中でも刻むと云う習慣があったので、これから観ると「65歳以上であった事・75歳以上の口伝資料もある」に成るだろう。
この事から、果たして「呪殺とする事」が出来るかであり、先ず「呪殺」そのものが科学的に有り得ないし、前段でも論じた様に、「四掟や妻嫁制度や嫁家制度での関係」を上手く維持する上で難しく極めて忙しく「青木氏の政所」を一族を代表して仕切っていた筈である。
依って、そんな「呪殺等の悪事」を「伊勢郷士衆を含む氏族の周囲」が放って置かないであろうし、現実に、「難波」が死亡した年齢の前後に、何れの姉妹も年齢も近い事や長寿であった事もあり「同母の姉妹」は没しているのだ。
そもそも、これを不吉とした可能性があるのだ。
「二足の草鞋」で「商い殖産を手広く営む青木氏」が、「不吉とする概念」を持ち込む等としていてはそもそも成り立たない。
当時は、全体が「50~54歳」が「寿命」であったとされていて、少なくとも相当に長寿であった事に成るが、現在でも長寿系にあって、依って、「姉妹」は充分な歳を得て没した事に成る。
仮に、呪詛であったとしてもそんな事を「伊勢青木氏」は四男の白壁に任して置く事は絶対に無い。
この説だと「伊勢青木氏」は無能という事に成り得るではないか。
そうだとしたらここまで生き延びてはいないだろうし「二足の草鞋」は成り立たない。。
現在まで絶える事なく続いている「氏族の氏上の御師族」であるのだ。
其処までの歴史観で以て公的な通説とするには疑問を抱いて欲しいもので、安易さに怒りを感じる。
773年に井上内親王と他人皇太子の二人は廃位・庶人
4 何で廃位して、更には庶人になったのか?
だとすると、通説としている説では「追尊難波内親王を呪殺した事」で罰を受けた事に成っているが、誰が罰を下したかに問題はある。
先ず「廃位させている事」なのだ。
少なくとも皇位に着いた以上は「朝廷の中」で行われるものだ。
然し、天皇の白壁に30年近い付き添った「光仁天皇」の自らの后と皇太子である。
簡単に「ウン」とは云わないであろう。
其れは「自らを否定された事」に成り得る。
それも「追尊難波内親王」と「自らへの天皇呪詛」とされる。
どの様にしてそれを「呪詛=呪殺=殺人」と確定させるかである。
何時の世もこれは確定は無理で、だとしたらそれを押し通すだけの誰か「天皇よりも大きな力」が働いた事に成る。
「天皇の声」は「絶対」であるが、この場合は「我子」までに結果として害を及ぶ事は誰でも判る。
依ってこの「絶対の声」は絶対に出さないであろう。
「白壁の光仁天皇」より「自らを否定された事」に成るとしても、それ以上に現実に「大きい声」はあった筈だ。
それは「普通の経緯で天皇に成った訳」では無いのだから「伊勢青木氏の福家」である事は間違いはない。
そもそもそうでは無い「青木氏独特の絶対権」を持った「神仏道の力までを持つ福家」である。
この「福家制度の大権」が在る以上は、「氏族」を護るにも「白壁」を安定にさせるにも降りかかった「災い」は間違いなく取り除くだろう。
それが、例え「藤原外孫王系の称徳天皇の関係者」であったとしても排除して「白壁」を護ろうとするだろう。
つまり、まあ、今と成っては「藤原外孫王系の勢力」を低く見ていた事を物語る。
場合に依っては「戦いが起こる事」さえもあり得えた。
然し、史実は「南家藤原系」とは戦っていないのだ。
その直前で、“その「藤原仲麻呂」が直前で滅亡した事”が在った事が実行できた原因と考えられる。
この事に就いては「不義理の事」である故に「記録らしきもの」は当然に遺さないであろうが、以上の状況証拠は充分に考えられ、「呪殺的な事」は無かったのであり、要するに「廃位」に追い込んだ上で庶人にして無ければ、「天下の大罪」が「氏族」に降り注ぎ取り除く事の出来ない「汚名」を「後世に遺す事」に成る。
その上で「災い」を取り除いたと観ている。
それが結果として「孫の命を奪う事」に成るとしても「災い排除」を選択したのではないか。
出自元の「朝廷の天皇」が、「上の者」を「廃位」し「庶人化」させる事は出来ないしその権限はない。
「福家」は苦しい選択であったろうが、その意を白壁に裏で伝えたと考えられる。
775年に二人は没・自殺
5 何で名張に移され自殺したのか?
上記の通り「廃位」にし「庶人化」させる事は、生きて行く糧を失い、必然的に自殺する以外には無く成る。
この事は伊勢は承知であったろう。
問題はその「場所」であろう。
それが「「名張であったという事」では無いか。
廃位して庶人にし直ぐに死んだとした場合は殺したとする批判は躱す必要が出る。
これを避ける為にも一族の管轄下の「名張」で匿う形であれば結果としての目的は同じでも「大義の対面」は保たれる。
故に、「3年後」であったのであろう。
従って「牢獄」に入れられていたとする説は当たらない。
そんな事をすれば「伊勢衆」からも世間からも間違いなく不必要な批判を招く事は必定で、そんな手を使う馬鹿はいないであろう。
恐らくは、「名張の清蓮寺か清蓮寺城」であった筈である。
「青木氏の清蓮寺城と清蓮寺の事」を知らない者はこれを「牢獄」としたと観ている。
誰が遣っても「后」「皇太子」であった以上は絶対にそんな馬鹿な措置はしない。
少なくとも「一族内の処置」として「尼僧と成った3年間後」と「名張」で看て一生の寿命までを世話する計画で扱ったのでは無いか。
然し、彼等は「内親王」とし「后」としての「自負心」を捨てずに「将来」を悲観して耐えられなかった事に成る。
然し、結果としてはその様な環境を生きてきた人物がこの「絶望の環境」を耐えられるとは一族の者は当初から考えていなかったであろう。
意味する処はそこにあった事は判る。
776年に政変で粛清されて酒飲んで暗愚を装う
6 何でこの時に暗愚を装う必要があるのか?
「酒飲んで暗愚を装うと云う事」は、当初の「白羽の矢」の時にもあったし、「伊勢青木氏」の中では「口伝」や「逸話」で、「白壁」だけでは無く、四世族までの一族男子の全域子孫域まで何らかの形で装うか逃げたかとされているのだ。
「二世族」では「白壁・54歳(正式4男の説と嗣子6男の説)」が、「井上内親王・717年から775年」が「伊勢神宮の斎王」が解け「帰京・744年」したその「27歳の井上内親王」と結婚したとある。
これに対して、中でも二世族では最も「白壁」が一番若かった事もあるが、「玄孫域」でも年齢適任者は大勢いたが殆どは隠れたとしているのである。
女子は一族の一員に加わった「井上内親王の奇行や怨念」を恐れていたらしい。
兎も角も「妻嫁制度」で護られていたらしいが、中には「神明社巫女」や「斎王館の十二官女」や「菩提寺の尼僧」に成って凌いだと青木氏の中では伝わっている。
この様にその「隠れ方」等が「逸話」で伝えられていて奇抜で興味を持つが、何か「精神的なストレスから奇行」に走っていた事が予想できる。
だから、“触らぬ神に祟りなし”で男女ともに感じ、取り分け「男子」はその術が無かった為に「酒飲んで暗愚を装うと云う事等」に成っていたのではないか。
「政変と云う事」には、仮に暗愚を装っても立場がある以上は巻き込まれる事には変わりはない筈で、この説はそもそも「疑問」であり、上記の様に「口伝や逸話で伝わる話」が真実ではないかと考えられる。
「井上内親王の一族内での精神的なストレスからの病的な奇行」が原因していたのではないか。
つまり、「聖武天皇の第一王女の立場」と「伊勢青木氏の伝統」の「格式の差」に納得が行かなかったのでは無いか。
仮に「天皇家の内親王」と云えども、「施基皇子の二世族・天智天皇の三世族で冠位官位官職・永代浄大一位・賜姓五役・皇親族・律宗族・令外官・家筋等」、挙句は「財力」等一切」のどれを執っても劣るものは無く、寧ろ格段に優れていると云う差があった。
「出自元の母」は「夫人県の犬養広刀自」であるとして、「内親王である」としても「県の姓」は地方の低官僚で極めて低位であるが、一方、「白壁等の兄弟姉妹」の多くは「太政大臣紀諸人の娘の紀橡姫・とちひめ」で「施基皇子の妃」である。
参考に上記したがこの「紀氏」は「飛鳥政権構成五王族の一つ」である。
精々あるとするなら、「賜姓臣下朝臣族・敏達天皇第四世族であると云う事」であろう。
「井上内親王」はこの「解決し得ない格式差」に一族の中で「36年間」、共に生活して悶えたのであろう。
「内親王とする自負心」がそれを解決する事が出来なかったのであり、同じ「母・紀橡姫」とする「青木を仕切るやり手の難波」に勝手に奇行を向けたという事であろう。
それを一族から厳しく排斥に近い形で叱責されていた事に成ろう。
776年まで健康に政務
7 何で6の史実に矛盾しているのか?
記録では、史実の記録では没する直前まで健康に光仁天皇は机に向かって政務していたとするのに、6で何で暗愚を装う必要があるのか?は、矛盾の極まりの疑問であり、天皇は矢張り高齢で781年(778年没説もある)に没している。
そもそも、暗愚を装えば政務は正常に執る事等は出来ない。
確かに、上記した様に「青木氏の資料」では、「744年の結婚前後」には確かに「酒に依る暗愚を装っていた事」は幾つかの文章の行で遺されている。
781年に没する突然の3年前にも又遣った云う事か。そんな事はない。
744年結婚、この時、最低説「54歳・青木説」であるとし、776年の32年間+54歳とすると86歳と成るのだ。
故に「酒の暗愚」そのものが不可能であるし、「井上内親王の件」も既に「775年没」で解決しているのだ。
又、86歳で酒を飲まなければならない程度の人格かと成るし、この程度の人格と云う疑問がありそんなことは無いだろう。
「過去の人生を憂いての事」か、だとしても高齢で没するまで「政務・山部王781年譲位」を譲位せずに熟している以上はこれは「疑問」であるし、“今更この歳で”と云う感じがする。
この「通説からの検証」では、「結婚前後の青木氏の騒ぎ」を捉えて面白おかしくしたとしても、そもそもその「時系列」が間違っているのだ。
せめて「青木氏の歴史観」もあると予想できるのだから、「時系列」でも矛盾の出無い様に合わして貰いたいものだ。
筆者のこの「経緯の結論」は、「伊賀の平族の裔孫」の「妃の高野新笠」の子の「山部王との皇位争い」に巻き込まれていたと観ていて、それを770年以降に「青木氏が推す姿勢を採った事」から発生した事では無いかと観ているのだ。
然し、「青木氏」に伝わるこの「高野新笠のルーツ」と通説とされる説とでは少し違うのだ。
それを参考に追記して置く。
「天智期」に渡来し「伊賀の里」に住し「半国割譲」で住んだ「たいら姓」を賜った「阿多倍王」の「裔孫女」で、その「伊賀青木氏との関係」からその「女・新笠」を「白壁の妾」として迎えたとし、「二人の妾子」を宿すとあり、重要な記述は,"光仁期に「妾新笠」は「高野朝臣」を賜る"とする行がある。
「阿多倍王」は前段でも論じた通りであり、歴史の経緯鳩史実は「天智期の史実」と一致するので、依って「伊賀の女(むすめ)」は「白壁の妾新笠」に相当するのだ。
「宮人」は「妾」に一致していて、且つ、「伊賀女」に相当し、この「伊賀の女(むすめ)」は「半国割譲の伊賀住人の阿多倍王の裔」に相当し、「伊賀女」は「新笠」に相当し、この「妾」に相当して、後の「光仁天皇の宮人」に相当する事に成り、「同一人物」である事に成る。
正式に「白壁の妾」は依って“「光仁天皇の790年に宮人」に成る”は一致している。
そこで「通説との問題」は、「始祖」は「百済系渡来人の和氏」であるとしているがここが大きく違う。
「和乙氏・和気氏」、母系は「宿禰の土師氏」としている。
然し、この「和気氏」は「百済武寧王の子孫」とされるが、歴史的に「伊勢の施基皇子の伊賀領を半国割譲し与えた」とする「阿多倍王以外」には他に記録は無い。
つまり、“「和気氏」の「百済武寧王の子孫」”は明らかに間違いである事が判る。
又、「阿多倍王の別名の「伊賀の高見王 高尊王・平望王」の別名を持ち、「桓武天皇」の「祖父の里」として「伊賀を訪れたとする史実」は「和気氏」には無い。
依ってこの「和気氏」は、「結城氏や額田部氏」と共に「朝廷の三大技術集団」であり、この「土木技術系の和気氏」は、史実は「百済系である事」と、この「一族」は「出雲朝廷」とも関係していた史実とで、「伊賀との繋がり」は別にして、その内容には異論が無いし、従って「伊賀」には歴史的に関係していないので、よくある「和気氏の姓」に繋げる「系譜繋の後付け策」であろう。
この「渡来人の和気氏の通説」は、何れにしても「日本書紀」にも明記されている様に「和気氏には伊賀記録」は全く無く、何かの目的から「渡来系の技能集団」で恣意的間違い敢えて起こして欺いているのである。
この様な事が、兎角、「通説」と云うものには付きまとうのだ。
「室町期中期か江戸初期の後付けか明治維新」で実に多いので此処を以上で先ず質して置く。
こう云う事は歴史で実に多いので良く歴史観を検証してからの説の使用とする必要がある。
注釈として同様な例として、此処では「たいら氏・桓武天皇の賜姓族」と「ひら氏・天智天皇期の大化の改新」で「坂東に配置された第7世族裔系」との混同である。
この「坂東のひら族・坂東八平氏と呼ばれる」に対して、賜姓で「たいら族・桓武平氏と呼ばれる」とし、「天智天皇・ひら族」と「桓武天皇・たいら族」は、その「違い」を賜姓時に明確にする為に命名したとする「記述・記録」があるのだ。
「阿多倍王」も「32/66国無戦制覇」した「後漢の技能集団・618年200万人渡来」であり、「日本書紀等の史書」にも「伊勢の伊賀」と「薩摩の隼人と阿多」を「半国割譲」され、「敏達天皇の孫芽淳王の娘」を娶り、「准大臣」に任じられ、「3つの賜姓・坂上氏と大蔵氏と内蔵氏」を受けている史実があるのである。
この「伊賀」に住した「本家の裔系」が、「桓武天皇」から「たいら姓の賜姓」を授かり、その「長寿阿多倍王の裔系」が「長男の国香・935没―子の貞盛・989年没」であり、後の「平清盛・1118~1191・たいらのきよもり」と繋がるのである。
この「清盛・高尊王より7代目か」は、「1153年」に「伊賀」より「播磨国」を領し、一族は移住したが、この「1153年の段階」で残るは「伊賀青木氏」と「元伊賀族」と「元渡来系族」の「3族」と成っていた。
この3族」を以て通称伊賀者と呼ばれる族である。
従って、「光仁期の段階」では、「妾の新笠」は「618年渡来後の阿多倍王の孫」に当たるが、その人物は時系列より「國香の前」と成り得るので、「長寿阿多倍の異名」として遺るとされる「平望王・高見王・高尊王」と成るのだが、“この「平望王」に「桓武天皇」が土産を持って伊賀に見舞いに行った”とする「史実の記録」があり、「別人」と確定できない。
「阿知使王の子」として「阿多倍王」が「618年」に渡来後に指揮して活動する年齢を15歳とすると、これを「本人」とはするのは年齢的に「人間の寿命」としては無理であり、この「別名・異名」とする「賜姓平望王」と「高見王・高尊王」は「同一とする考え方」は、無理と成る。
そこで「高見王・高尊王」は、その「高齢後の本人別名」として分離すると符号一致する。
筆者はこの「高・・」に着目していていて「高・・を着けたとする根拠」があるのだ。
それは、「白壁}が770年に「光仁天皇」と成った時点で、この「妾の新笠の身分」を引き上げて、この「平望王の父祖」の「高見王・高尊王」の「高」を使って、これを復活させる為に「高野の朝臣姓」を与えたのは史実であるのだ。
唯、別の説もあるので紹介する。
この「高野」は「白羽の矢を立てた孝謙天皇の別名」で、「高野皇女」と呼ばれ「高野朝臣」とした時期が在った事が史実にあり、この高野を新笠に与えたとする説が伊勢にある。
この説は伊勢に執っては重要な意味を持ってくる。
それは、「孝謙天皇」は、「白壁の妃」であった「伊賀の新笠」に、この「高野」を与えた事で、高野新笠と呼称する様に成ったとし、「高野朝臣族」から嫁いだとして格式を引き上げた事に成る。
つまり、この説であると「孝謙天皇」は嫁がせた姉の「井上内親王」を無視した事にも成り、同時に信用していなかった事に成る。
これが後の井上内親王の鬱を招いたとする事にも成る。史実の前後の経緯が一致しているので必ずしも俗説とはならない。
「高見王・高尊王」の「高」は息子の桓武期の後の経緯の事と成るので「高野朝臣説」が正しいと観ている。
「高見王・高尊王」には、既に上記の通り「敏達天皇の孫の芽淳王の娘」を娶り「准大臣」にし,その子に賜姓して「三つの賜姓」をして「天皇家の一門」に加え「格」を与えている。
つまり、従ってこの「無格式号の平望王・この王名は後漢の王位」も「高齢」と成った処で「本人の号」としてのこの「別名」を与えたのであった。
この「平の姓」から「たいら族」と成っている。
そして更に「光仁天皇」はこの「平望王」に日本の「姓の朝臣姓の高野氏」を与え、その子孫で「白壁の妾」と成っていた「新笠」には、この「父一族の賜姓の高野」を名乗らせた事に成るのである。
これは現在でも「格式ある家筋」で行われているもので「当時の習慣」であった。
つまり、時系列から追えば「桓武天皇」と成った訪問時に「賜姓」をしたが、矢張り高齢と成っていた“「平望王」”が「新笠の親」であった事に成るのだ。
つまり、故に「たいら氏の賜姓の平」と成っていると観ているのだ。
然し、前段でも何度も現在も論じたが確定はされない。
此処では、時系列と状況証拠が一致するので先ず間違い無いと思うが、「新笠」は“「平望王の娘」”とする。
733年に追尊能登女王
737年に追尊山部王・桓武天皇
(744年に白壁は井上内親王と婚姻)
750年頃に追尊早良王
以上を「妾」として3人を生む。
「白壁」が「天皇」に成った「770年即位」の「前の事」である為に、この「3人」は未だ「青木氏の妾子」であり、その「皇位の継承権」はこの段階でも全く無かったので「追尊王」と成る見込みも無かったのだ。
要するに、「最高の格式の伝統」は有すれど「普通の商いをしている四家の青木の子供」であった。
この様な状況から、「井上内親王の事件と混乱」は、「白羽の矢」から始まり。遂には「婚姻と即位と云う事」に発展して、益々、激しさを増す中で、未だ「皇親族であった青木氏」としては放置できなく成っていたと観られる。
これは「施基皇子の氏是に反する事」ではあり、「律宗族」に反し、「賜姓五役」、「9つの縛りの掟」、「四掟の信頼失墜」、「妻嫁制度の品位低下と混乱」、「嫁家制度の失墜と非難」、「伊勢郷士衆の氏族の信頼と非難」、「氏上御師様の信頼失墜」に繋がる事として「介入する事」の以外に無く成っていたと考えられる。
それが、上記した措置であったのであろう。
念の為に追記するとこれを観ると、「孫域」では「天智天皇系」からすれば「曾孫域と成る桑名殿」などは選ばれている筈の「適任者」であったが、「天智系説の理屈」や上記した様に「そうでない他説」としても、矢張り、「称徳天皇の考えの根底」では、「吉備真備」などから報告され、且つ、自らも伊勢に何度か赴いている事から、彼等が「白羽の矢」に逃げ惑っていた事は当然に知っていた筈で、然し、この「歳を取った暗愚を装った白壁以外」に「彼等が思う適格者」は居なかったのでは無いか。
つまりは「青木の騒ぎは見抜いていた事」に成る。
つまり、「四家」には成っていない「白壁・六男」と決めた裏のこれには、「青木氏族の財」と「神道仏道の融合」の「律宗族の存在」を片目で観ていた事に成り、つまりは「利」を含めた「総合判断と云う事」に成るか。
つまり、「四家」を選べば「商い」は損なわれるし、「伝統の継承」は損なわれる。
然し、「54歳の白壁に白羽の矢」には「平均寿命55歳」、つまり、再び「天皇家の継承嗣」の問題は解決し得ない可能性もあるのに「白羽の矢」を立てたのだ。
これはどう捉えたらよいかと云う事に成る。
史実は「継承嗣」は、幸いに「10年後の754年」と「17年後の761年」に叶えられたのだが、「770年没の称徳天皇」はこの事を“承知であった事に成る。
この目的の一つが「継承嗣を天智系で造ると云う事」であるならば「目的」はなかなか達成できていなかったのであるから、「754年までの10年間」にはどうするつもりであったのかである。
筆者は、「天智系」で云えば最も近い「近江佐々木氏」であり、それと「伊勢青木氏」の中で「他の者を選べば良い」と考えていたのでは無いかと観ているが、矢張り「利に最大目的があった」とすれば「財が伴わなくてはならない」としている以上は、「井上内親王」を無視してでも「青木氏の中」で選ぼうとしていたのではないか。
それが、上記した様に、だから「孝謙天皇の皇太子時」の 「高野皇女の 諱号」を与えて「高野朝臣」にして「朝臣の姓」を「新笠」に与えたと観ているのだ。
ところが「子供」が10年後に生まれたとして「揉め事」が起こって仕舞って「井上内親王」は「天皇家と青木氏」に最早見放されたと成るのであろう。
そもそも、呪詛するのであれば「一番最初の相手」は「追尊難波王」では無く「高野新笠」と成るのが普通であるのに呪詛されたとする記録は全くないのだ。
故に、初めから「井上内親王の云々」では無く、且つ、「近江佐々木氏」では無く、「その財に重点目的はあった」と観ているのだ。
だから、上記する様に「伊勢内部」は影響を最小限に留める為に「井上内親王の事」に厳しく動いたのだ。
この事に、「神野王の孫嵯峨天皇」は口伝や噂を聞き及んでいてその「伊勢のやり方」に不満を持っていたのかも知れない。
だからより格式社会を強引に「伊勢や信濃」や「伊勢郷士衆50衆の反対」も押し切ってでも造ろうとしたのかも知れない。
「青木氏の伝統 66」-「青木氏の歴史観-39」に続く。(43P)
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> 前段でも論じた様に主に「紀州徳川氏等の多くの大名に貸し付けていた「焦付き債権と土地の地権担保放棄」のこれが“上記の「コンツェルン」に大傷を着けた”と記されているし、口伝でも伝わる事でもある。
> これに薩摩藩などの長く続いた「庶民先導のゲリラ攻撃」が輪を架けたのだ。
> 幕末から明治9年まで続いた「伊勢騒動」も、その根幹は「庶民先導のゲリラ攻撃」にあったと感じている。
> 斯くの如しで後勘の歴史観から、「格式の律宗族の再呼称」は「青木氏族」には良い事は何も無かった。
> 筆者の論理ではこれこそは「青木氏の氏是」そのものであると認識しているのだ。
> 「格式の律宗族の再呼称」は、そもそも史実は史実として何も変わらないのだし、放って置いても同じなのだ。
> 殊更に動く事がそのものが良くない仕儀であった筈で、「当時の福家」は判断を誤ったと観られる。
> 当に「施基皇子」が説く「律宗族の第一の戒め」の「青木氏の氏是」を軽んじたのであろう。
> 況や、要はこれは美化論では無く反省論なのだ。
> 故に、子々孫々に「ロマン」として「具体的な史実」として言い遺しているのだ。
> これも例に事書かない「始祖施基皇子と云う歴史的人物の存在」の所以である。
> これが、全部に於いて説き切れないが本論の範囲では、網の目の様に関係性を持った事柄に就いて何とか説いた「難解の律宗族の所以・定義と背景経緯」であり、要するに本シリーズの「青木氏族論」を説くに至るのだ。
「青木氏の伝統 65」-「青木氏の歴史観-38」
さて、「律宗族論」を続ける。
この「歴史的な詳細経緯」を青木氏の歴史観を獲得する為にももう少し論じて置く。
「詳細な当時の経緯」であるが、更にこの「律宗族の意」を前提に、世の中に「仏教」が興隆し始め、「皇祖神の神道」を前提としていた「天皇家・孝謙天皇期」までも、のみならず「民」にまで深く浸透していて、この「仏道の概念」を「神道の朝廷」もこれを見逃す事が出来ず「受け入れを認める事」に迫られていたのだ。
その「受け入れ方」で悩み難しかった。
「吉備真備・公家・学者・朝臣・正二位・右大臣」に「聖武天皇の第一皇女・阿倍内親王の個人指導者・家庭教師の役割・母は光明皇后」」を受けて、天皇自らも個人としての心の中で、この「仏道の概念」に傾注していたのだ。
因みに、この「光明皇后」は、「宿禰族の橘の諸兄」の「母・三千代」が「藤原不比等」に後家として嫁し、「光明」を産み、その「光明」は「聖武天皇の皇后・光明皇后」と成り、「阿倍内親王」を産み「女系皇太子」を経て「孝謙天皇」と成る。
そして、この「橘の諸兄の母・三千代の子」から「宿禰の橘青木氏・現存」が同時に出自していて、この「光明皇后」とは「従姉妹関係」に当たり「孝謙天皇の祖母の里先」であって「所縁の深い関係」にあったのだ。
それ故に、「内親王と皇太子の時代」に密かに何度か「伊勢松阪の里」を訪ねたとする記録があり、行動力のある皇太子であったとされ、全ての事に興味を持つ性格の「阿倍内親王・皇女・皇太子」の時にも、何度か“「伊勢松阪を訪ねた」”とする「青木氏の口伝・逸話」の「史実・761年8月29日」もあり、この説としては故に可能性は低いと観られるが「孝謙天皇の白羽の矢」が「伊勢青木氏」に来たとする説もあるのだ。
故に、「姉の井上内親王」が嫁ぐ直前まで務めていた「斎王」であったが、その「斎王の面倒」を「多気郡の斎王館」で看ていたとする「伊勢青木氏」の間にも面識が浅からずあったとされる。
故に、「54歳にも成る白壁」に「伊勢の斎王」も務めたする「井上内親王」を嫁がせたとしている「伊勢の資料の説・逸話説」である位なのだ。
「阿倍内親王」も天皇に成ってからは記録的に初期に一度伊勢行幸があり、その天皇に成る前にも当然に松阪や伊勢神宮を何度も訪ねていた事に成ろう。
この事に関しては何も無しに突然に「姉の井上内親王・母は県犬養広刀自」が嫁したとする事」では、少なくとも無かった事は頷ける。
つまり、「青木氏の歴史観」から観ると、「孝謙天皇」が「通説の天智系天武系説」に係わらない「女性・感情主観」である限りに於いてこの「里絆説」を重く見ていた可能性があるのだ。
これには否定する要素や疑問は何も無い。
そもそも、「青木氏族」が「二つの神道と仏道・律宗族であった事」が、「伊勢青木氏と天皇家の間」に「感情のそれを遮るもの」は嵯峨期までは何も無かったのでは無いか。
確かにこれは「最もな逸話説」であり、普通であれば全体を占めている「天皇家族の天武系」に傾く筈の処に、「家庭教師でもあって政治の場にもあった吉備真備」も敢えて「反対」をした記録が無いし、逸話的には陣頭に進んでいたのではないか。
それには、それに「相当する格式」が無ければ無理であって、前段で論じた「二つの神道と仏道・律宗族」との「奇異な二つの文化」には、上記したそれぞれの納得させるだけの「独特の格式」”と云うものが「青木氏」には潜んでいたのだ。
そこで「朝廷」は、この「“異なる独特の格式」”が社会に浸透して仕舞って存在する以上は、社会が二分する危険性が潜み、“これにより混乱を招く”として、先ずその「前提」と成るこの「統一した格式を定める必要」に迫られていたのだ。
其れが「伊勢青木氏の裔系の天皇家」であったとすれば、問題は無い。
然し、「川島皇子の後の裔系の近江」を始めとして「天武系」には、「天皇家」であったが所以で「仏道・律宗性を取り入れる事」は出来ず、元々、その「片方の仏道・律宗性」は無かったからであろう。
何故ならば、その「朝廷の採った策・方法」は、「古来からの神道族」と「概念・格式」の異なる新しい「仏道族」との間に「決定的な争い」を起こさせぬ様に、歴史の経緯は先ず融合させようとしていたのだ。
その史実としての根拠には次の様な事が最近発見された。
既に、「仏教導入」に対して「蘇我氏派の賛成派」と「物部氏派の反対派」の二派に分かれて「激しい争い・政争」を起こしていた事は史実なのだ。
ところが念の為に注釈すると、「最近の研究」では両者ともに裏では「神道」を中心としながらも「仏道に帰依すると云う姿勢」を採っていた事の「証拠」が文献や仏像などが大量に発見されているのだ。
然し、「政治の場では違っていた姿勢」を執っていた事が判明していて、現在ではこれが「定説のイ」とされる様に成っている。
「蘇我氏と物部氏の争い」は表向きの事であった事に成る。
故に、その事を考えると、上記した様に「阿倍内親王・孝謙天皇」の「青木氏への白羽の矢の突然の行動」は、「神道族と仏道族の格式の壁が天皇家以外には無く成っていた事」に成るのだから、「賜姓族で皇親族の伊勢青木氏との間」では、「背景・青木氏の逸話の里絆説」としては普通に納得できるのだ。
要するに、前段でも論じた様に、「天武天智系説の通説」<「青木氏財力とその格式の利用説・律宗族」<「孝謙天皇の里絆説」との関係式があるが、「神道族と仏道族の格式の壁」が実質無く成った現在では、「青木氏財力の利用説」=「孝謙天皇の里絆説」の「総合説」に傾いている。
故にこれを解決するが為に、「淳仁天皇の時の策・第一段階」と「光仁天皇の時の策・第二段階」と「嵯峨天皇の時の策・第三段階」の「三度の策」が参考にしながらも執られようとしたが、「神道族と仏道族の格式の壁」に付いては相互に参考にしながらも、「夫々の融合の策」には「大きな違い」があった。
「神道族と仏道族の格式の壁」の「融合の手段」としては次の様な政策を採ろうとしたのだ。
この「三つの策」が嵯峨期には「新撰姓氏禄」として反対を受けながらも強引に世に出された。
この「三つの統一する内容」としては、「朝廷」は全国に分散していた世の中の「氏族に相当する者・認定氏・全910族」の先ず「拾い出し・第一段階」をした。
それを「4つの分類・第二段階」に分けた。
それに「身分と格式」を「第三段階」に分けそれを系統化して与えようとした。
この様に「矛盾」が生じない様に融合させようとしたのだ。
然し、史実は、この「第一段階から第三段階」までその先の結果が「社会に与える利害」を見通せられた事から、どの階級からも「猛反対」を受けたのだ。
そもそも、「選出した編者衆」からも「猛反対」を受け無視どころか纏めようとしていた案文をこの三度共に編集中の案文が隠されてしまうと云う破目に成ったのだ。
これを「約40年弱の間」に行われたのだ。
「三つ共」にその利用しようとする「編集目的」が違うが、結果として「格式を決められると云う事」には同じであり、世の中はそれを嫌ったと云う事に成ろう。
元々は「世情の中で身分格式の社会」でありながらも、それを「書類で正式に決められる事」に反発したのであろう。
そもそも、それまでは「冠位十二階の制」や「八色の姓の制等」で身分格式を決められてはいたが、「格式身分」であって「神道仏道の融合」の自由を規制するものでは無かった。
つまり、既にこの時代に於いても「神道仏道の融合」は「自由であるとする概念」が社会全体に根付いていたのだ。
「重要な事」は「神道」に於いても「仏道」に於いても「宗教概念」は違えどこの事には差異は無かったのだ。
結局は、「前二つの編集」は完全に失敗に終わり、結局、「嵯峨天皇」は「未完成の案文」を編者衆が逃げる中でも強引に社会に出してしまったのだ。
然し、「完全に格式化される事」を嫌う「世の中の反発」を激しく招き、この為に編者等が「雲隠れすると云う事態」が起こり結局は頓挫したのだ。
それが「新撰姓氏禄」であり、その原本すら隠されたのだ。
そもそも、何も「諡号範囲」の「新撰姓禄」でも良かった筈で、そこに「数少ない朝廷認定の氏禄・真人族48氏・全体の1/20」までも態々反対の中で敢えて付け加えたのだ。
其処には初めから「八色の姓の制」などでその「格式の程度」は判っている「真人族」を、何故、付け加えたのかであり、ここには“見逃せない意味”がある。
そしてそこで、「嵯峨天皇」は更に「賜姓」を「青木氏」から「源氏」に変更して勢力の財力の持った「出自元の伊勢青木氏・祖父の実家」を「単なる皇位系の氏族」にして仕舞ったのだ。
この「嵯峨天皇の行動」は、「青木氏の歴史観」から観れば“何か矛盾している行動”である。
普通であるなら、「神道仏道の融合策」を成し遂げた「出自元」であり、且つ、自ら編集した「新撰姓氏禄」にも「真人族」の「敏達天皇四世族系(春日王裔系)の天智天皇四掟一門族」と指定しながら、「賜姓族」から外して「単なる皇位系氏族」にしたのは矛盾であり、寧ろ、「源氏」を賜姓するにしても、これだけの条件を揃えている「賜姓臣下朝臣族」であるのなら「賜姓源氏」に対して、それに代わる“模範と成る賜姓族だ”と権威着けるべき事であろう。
「政治の場の策」としてはそう成る筈だ。
だから、「桓武天皇・平城天皇派」と「嵯峨天皇派」に「激しい戦いの政争」と成る醜い見っともない「一族争い」が起こったのだ。
「出自元の伊勢と一族の信濃の青木氏」は困ったであろうが、然し、「桓武派」に明確に着いたのだ。
後勘から観ても起こる事はこの程度の事は読み込めるし、事は必然であろうし「後勘の者」としては、「新撰姓氏禄」が「源」と成る「嵯峨天皇の一連の策」はこれは「嵯峨天皇の失政」と観ている。
「賜姓した五家五流の青木氏の模範の存続」を其の侭にして「弘仁五年の詔勅と禁令」の「賜姓源氏」を行い、「神道仏道の融合策」と「律宗性を高めた方」が「神道仏道の社会の混乱」は免れた筈である。
其の上で、“「9つの縛り」を出すべきであった”のだ。
そうすれば、“「矛盾は生まれなかった」”し、「伊勢信濃青木氏」は朝廷から大きく離れて行かなかった事に成ったのだが、結果として最終は「平家・たいら氏」も潰れたが、自ら進めた「源氏策」を潰す「源平戦」へと繋がって行ったのだ。
最後は、「天智期の大火の改新」で生まれた坂東に配置された「元第七世族の平族・ひら族」が天下を取って仕舞ったが、その後もそれが「河内源氏と坂東八平氏」の「一つの融合裔系の足利氏」の室町期まで続く結果と成ったのだ。
青木氏の歴史観かの後勘から観て「嵯峨天皇」は自分で自分の首を絞めた事に成ったのだ。
つまり、結論として「孝謙天皇」が執った「神道仏道の融合の策」が、結果として「嵯峨天皇の矛盾を孕んだ失政・美化されている」で「成功の方向」には向かなかったのであると「青木氏の歴史観」では説いている。
問題は、「嵯峨天皇の跡目」を継いだ「仁明天皇・ここまでは青木氏の血縁の出自元」は、「嵯峨天皇の子」であり「修正」は無理であろうと思われたが、この修正を敢行したのだ。
「桓武天皇の子」の兄の「淳和天皇・在位10年」がこれを修正しなかった事にある。
故に、その後の「賜姓」は乱れ、正式には11代であるが、賜姓無しの勝手に名乗った源氏族を加えると20位上にも上る事と成り、元々、「9つの縛り」を護らなかったが「賜姓」そのものの意味は無く成るのだ。
たった一つ真面に遺ったのは「清和源氏」だけであり、「神道仏道の融合策」と「律宗性を高める策」と云う「政治目的」は霧消する事に到ったのであり、「仏道が当たり前の社会」と成って仕舞ったのだ。
「仁明天皇の執政」はこの事に気づいて「証拠」である。
結局は、この「失政の流れ」で「朝廷の力」は弱く成って仕舞い、結果として「神道」は「青木氏・律宗族と呼ばれる」にしか「伝統」されず、「9つの縛りと融合」を護らなかった「鎌倉幕府へと移行する事」に成って、挙句は「融合ところの話」では無く成り、「神道」は社会から消え「第二の姓族が発祥する事」と成ったのだ。
況や、「神道が消える事」は「朝廷が衰退する事」に成り、伊勢と信濃の青木氏が支える神明社だけが遺る結果と成った経緯である。
そして、遂には“「子神の祖先神の神明社・青木氏」”の“「親神の皇祖神の伊勢神宮・天皇家」”の事も忘れ去られる結果と成って仕舞って、江戸期に成って遂には「青木氏」から「祖先神の神明社」を剥奪し、その結果、荒廃した「神明社」が明治期に成って「天皇家の守護神」と、“誤解される結果”と成って「子神と親神」が同一と成って仕舞ったのだ。
そもそも「天皇家」には“「皇祖神」”と云う「天皇家独自の守護神の神」があったのだ。
「青木氏の各地の定住地」には「神明社」が多いのはこの事に依るが、唯、本論の「伊勢青木氏出自の光仁天皇」の「神道仏道の融合の策」に依って、そのそもそも「出自元」が、“祖先神の神明社であった”とする事から、その血筋を受け継いでいる天皇家とすれば、「皇祖神の伊勢神宮」でありながらも「祖先神の神明社とする事」にはその一理は確かにある。
唯、それにしても「青木氏の血流の血筋とするの根拠」は、遺伝子的には、精々、「光仁天皇」から「仁明天皇」までのものであり、「四代目の六人」とされるし、「祖先神の神明社」と仮にする以上は、同然の「清光寺」も「天皇家の菩提寺」であるとする理屈に成るがそうでは絶対に無い。
「天皇家」は上記する様に「孝謙天皇期」には本論の「律宗の融合策」を執って、一時は「仏道に傾いた時期」も確かにあったが、かと云って「神道」であるから当然の事ではあるが「天皇家の菩提寺」は無い。
現在に於いても「神道」だけでその戒律の中にあり、「天皇家の全ての伝統」は「神道」に限られている。
決して、「孝謙天皇期の融合策」には現在に於いても至っていないのだ。
「祖先神の神明社」であれば「密教の清光寺」なのである。
さて、ここで参考として、「唯、不思議な言い分」があって、“「天皇家」は「神明社」であっても、「祖先神」では無い”とする「明治維新期の言い分」を唱えているのだ。
恐らくは、「維新政府」をリードする薩摩藩などの「政治的な思惑・天系一途の原則」から、上記した「皇祖神の伊勢神宮」がありながらも、これを認めていながらも訳の判らない「矛盾した言い分」が出来上がったのであろう。
「施基皇子の伊勢王と成った存命中」から始まり「光仁天皇期」までには、既に「女系態勢」をほぼ造り上げ、「伊勢衆の氏人」の「氏族関係」を構成し、「藤原北家秀郷流一門」とも「中国の古来の制」を採用して「四掟範囲」に基づき「母方族」として繋がり、後に「北家の秀郷一門と繋がる」として「独特の限られた賜姓臣下族の女系」と成っていたのだ。
これが「施基皇子」が「伊勢王」と成った最初に、「伊勢衆を含む裔系一族」に示した「青木氏の氏是」であるのだ。
故に、「明治期の祖先神の神明社」が、「天皇家の守護神とする説」は飽く迄も「皇祖神の神宮」であって、「女系で繋がる青木氏の神明社」では絶対に無いし、その証に「神明社の神職」の全ては奈良期から引き継いだ「伊勢と信濃青木氏の子孫の裔系」であり、現在の多くもその「裔系」とするは、「明治維新期に造り上げた策」は「矛盾」に満ちているのだ。
江戸期直前まで「伊勢と信濃の青木氏の莫大な財と管理維持の許」で、且つ、「一族の青木氏による神職」で、維持管理されていた「史実」をどの様に解くのかである。
「明治維新の神明社の言い分策」であるとすると、「男系の天皇家」と「女系の青木氏」は「同系」と成って仕舞うでは無いか。
つまり、且つ、「明治維新」に打ち立てた「天皇家に類する格式族の排除」の「天系一途の原則」は矛盾するでは無いか。
「今も遺されている伊勢と信濃と秀郷流の青木氏族」に執っては、この説は「施基皇子からの氏是」に基づくと、現在は最早「守護神の概念」は無いし、「神明社に拘る訳」では無いが、迷惑ない事であり、「歴史の学者」が公的に情報媒体を通じて云う時には、本論を良く読んで「歴史の経緯」を知って“是非訂正して欲しい矛盾説”ではある。
もう一度言う、「祖先神の神明社」では無く「皇祖神の神宮」である。
全国の各地に「68の神宮を有している伊勢神宮」があれば、「・・社では無い事」は直ぐに解る筈だが、「社」であって「宮」では無く、「神社」とは違うのである。
簡単に云うと、「・・社」と「・・神社」とは違うと云う事であり、「神明社」と「神明神社」とは「神明の神概念」が、前者の「・・社」は奈良期初期からの「単なる神概念・融合・神明社」、後者の「・・神社」は「仏道の概念」をある程度取り入れた「神概念・習合・神明神社や八幡神社」で分けられていると云う事である。
故に、「四掟の女系」で「血縁続き」と成った「秀郷流青木氏の守護神」は「春日社」であって、「春日神社」では無いのだ。
「春日神社」は上記の通り「習合概念の影響」を受けた「室町期以降の村各社」なのであり、決して「秀郷流青木氏の守護神」では無いのであり見分けが着く。
「秀郷流一族一門」が建設したかは疑問であるが、その判定は朝廷から受けた正式な「社格式」で判る。
主に江戸期に多く建設されたもので「無格式社と村社格式と郷社格式」では、「利を追求した民間一般財の神社」であり、「秀郷流一族一門の氏族」が独自に「一族の守護神」として建設とした場合は、「国幣社格式又官幣社格式・大中小に分類」では無く、相当に財を有する一門であり、特別に許可を得た「氏社格の別社格式」に当たるであろう。
従って、「伊勢と信濃の青木氏の神明社」と「秀郷流青木氏の春日社」は、「独自の氏社の格式」に当たるが、「光仁天皇期」と「円融天皇期」には「融合の社」としての「社の格式」を特別に「朝廷から神社で無かった事」から「最高格式の准国幣社並みの格式」を与えられていた事が記録から判っている。
つまり、それは「神明社と春日社」が、朝廷が奈良期から求めて来た“「社」”であって“「神社」”ではない「9つの縛りの掟を護る律宗氏族の社であった事」であろう。
上記する「明治維新の騒ぎの矛盾」はこれだけを捕らえたかも知れない。
現実に「紀州・和歌山市」にある「元天皇家の神宮・伊勢への遷宮の前はここに在った」が存在していて、それが現存して広大な地で古式豊かに国祭司されている「日前宮・伊勢の前の宮」であったが、それを「天智天皇」が「伊勢」に移して、「伊勢神宮とした歴史の経緯」を知れば違うという事が直ぐに判るのだが。
「光仁天皇の経緯」から来ているとしても、上記するような直ぐに解る様な多くの矛盾を孕む事が判れば、「青木氏」とは別に「神明社の史実に基づく歴史観」として何でこんな間違いを起こしているのか不思議である。
飽く迄も、「聖武天皇から孝謙天皇期」、更には引き続いて「光仁天皇から嵯峨天皇期」までには、「神道仏道の融合策」を「政治の場の策」で確かに執ろうとしたが現実には頓挫しているのである。
「伊勢と信濃の青木氏」が「神道仏道の融合策」を「伝統」として執って「律宗族」として維持して来たが、だからと云って「祖先神」が「皇祖神」に絶対に成る事は無く、且つ、「神明社」が「神宮」とは成る事ではないし、「施基皇子の時」から「天皇家とは血筋・血流」の完全に異なる「女系族」と成って仕舞っているのだ。
その為に「四掟を定めての女系氏族」としたのだ。
元に戻して、そして、その上で「彼等の賜姓源氏族」に「皇位族である格式」を保たせる為に、つまり「律宗族」にする為の「9つの縛りの掟」を負わせたのだ。
そもそも、「新撰姓氏禄」にして「真人族」や「臣下朝臣族」を付け加えた以上は、「上位の格式」は定まったものであり、「9つの縛りの掟」を負わせる必要は無い筈だ。
必然的にその位置にある以上は「9つの縛りの掟」を護る義務を負う事に成る。
此処で、「新撰姓氏禄」を観てみると、「嵯峨源氏の朝臣族」としての「確定下した記載」は無いのだ。
時系列的に検証しても、「源氏の朝臣族」としては「101氏」の中の唯一つであり、男子は一族内では「好字名」を使っているので「第一代目の四人」である事を示している。
「831年」にこの「四人の朝臣」が「朝臣族嵯峨源氏の賜姓」で臣下と成るが、そもそも「新撰姓氏禄」は「816年」に定められたとするので「時代」が合わない。
この「四人の嵯峨源氏の唯一つの臣下朝臣族」は、故に、「15年後に追加された事」に成るのだ。
唯、「嵯峨天皇の在位」は「809年から823年」であり、「没年」は842年である。
「退位」から「没年」までは「19年間」で「院政」を敷いたが、この「831年から842年」の院政後の何れの年にか書き加えた事に成る。
然し、在位開始から「7年後」に定められたとするとその「記録」は無いし、その前に紛失しているし、結局は「院政後の説」は消える。
要するによくある「後付け追加」であり、論理展開に於いては充分に検証しなければならない事に成る。
尚、参考としてこれも前段でも何度も論じたが、つまり、「嵯峨源氏朝臣族」の唯一つの「皇族賜姓臣下族の氏族」は当初は記されていなかった事に成るのだ。
果たして、「新撰姓氏禄」が紛失していないとしても、「桓武天皇の第7皇子」の「兄の次の淳和天皇(823~833)」がこれを許すかであり、例え「9年の院政」であったとしても恐らくは無理であろう。
前段の通りに「紛失後の鎌倉期から室町期初期頃」までに書き足された事」は充分に考えられる。
「書き足す事」が出来たとして考えると、それまで誰かが隠し持って保管していた事も考えられる。
そもそも公的に成っている本が、「原本」ではなく研究推論から導き出されたものであろうから深く検証は難しいのだが、“「嵯峨源氏朝臣族の記載」は原本の元から無かった”とする可能性が時系列から導き出せると筆者は観てるのだ。
書き足しているのは「11源氏の内の最初の嵯峨源氏」だけとすると、平安期と成るが、実は書き足されているのはこれだけでは無く、「諸蕃類」に時代性と格式が違うあり得ない"「第二の姓族」"が実に多い事から観て確実に室町期と成るだろう。
合理的な時系列と合理的な青木氏から観た歴史観から先ず間違いは無いだろう。
つまり、そうするとこの検証から、「嵯峨天皇」は、“律宗族の「9つの縛りの掟」を護る義務を必然的に護る”と観ていたが、全く護らなかったのでので、考えられる事としては後から「新撰姓氏禄」から削除したという事になろうか、将又、最初から書いていなかった事に成るが判断は分かれるが、筆者は実は、この“「律宗族の9つの縛りの掟」を定めた”以上は、“これで行ける”と観て、“最初から書いていなかった”事と観ているのだ。
つまり、「律宗族の9つの縛りの掟」で「神道仏道の融合」を果たせる様に負わせたのだ。
然し、この「天皇の命」を「賜姓源氏族」は違えた。
何と、それどころか流石に「神明社」で無く「清光寺」では無く、「八幡神社と八幡菩薩の習合」で果たして護ったのだ。
「律宗族の9つの縛りの掟」で「神道仏道の融合」を果たせるとかいう以前のこれは完全な「天皇への裏切り」であろう。
然し、何とこの四人にだけは「朝廷・嵯峨天皇」は重役職を与えたのだが、「従三位、参議、右大臣、左大臣と成り、他の者には公卿とも成るのだ。
但し、三世以降は好字の慣例上で貴族や公家としては後世に子孫が伝わらなかった。
つまり、好字慣例だけでは無く流石に見かねた「仁明天皇」は、「嵯峨源氏」が「律宗族の9つの縛りの掟」を護らなかった事から「嵯峨源氏の子孫の存続」さえをも許さなくして仕舞ったし、自らの「仁明源氏」も賜姓しなかったのだ。
「嵯峨源氏」の「子供の仁明天皇」に依って「子孫」が絶えて、その内の「妾子孫の二人」が地方に流れ着いたとして名乗っている「姓名」は「藤原氏の地方裔の姓名」であり「後付け」である事が判るし、これは「満仲の偽策」であった事が判る。
結果は、二代後の「清和天皇」の直前まで「律宗族」を出さなかったのだが、この「清和天皇」は、「賜姓」のあり無しの「12人の源氏」を出した。
然し、この自らの子供では無く、「子供の陽成天皇」が精神異常を来していた為に、その子の「孫の経基王」の「再三の懇願」で、遂に折れて「清和源氏」として「無格式を条件に賜姓」を許したのだ。
これが「嵯峨源氏」より悪かった。
「律宗族の9つの縛りの掟」を護る護らないより「禁手の武器」を持つだけでは無く「周囲」を侵略して「徒党」を組み「武装集団」を形成したのだが、最後には最悪の事態が生まれ「有史来の政権」を朝廷から奪い取ると云う破天荒を遣って退けたのだ。
然し、最早、誰一人、“「仁明天皇」の様に”、「律宗族の9つの縛りの掟」を破らせる行為を止める事は出来なかったのだ。
その意味で、「青木氏の最後の出自血縁」の「仁明天皇」は賢明であった事を後勘としての歴史観で子孫に遺せられる評価が出来る。
「光仁天皇・桓武天皇・平城天皇と桓武天皇の孫の仁明天皇」の「青木氏の血筋を引き出自元と成る5人」は「律宗族」の「9つの縛りの掟」と「神道仏道の融合策」の礎を築いたのだ。
その意味で「嵯峨天皇」が採ろうとした「律宗族の9つの縛りの掟」と「神道仏道の融合策」は評価できるが、「青木氏の賜姓」を外し、「皇親族」からも外し、「令外官」からも外し、「出自元の律宗」を否定し、その「出自元の伊勢信濃青木氏」に圧力を加え、「政争」を超えて「戦い」を伴う「一族争い」を興し、挙句は「殖産と献納金」までを否定した事は、最早、普通ではない。
そして、「源氏」を賜姓しながらも、その「源氏」に「9つの縛りの掟」と「神道仏道の融合策」を無視され、これを否定した「賜姓源氏策」で重職に着けると云う破天荒を遣って退けたが、つまり、全てを根底から自らが崩す矛盾を興して混乱を招いて仕舞ったのだ。
その「影響」は「実家元で出自元の青木氏の存亡に関わる事」までに及んで最後は「始祖とする天智天皇の思惑」は潰えたのだ。
確かに「嵯峨天皇の策」は錯綜していて矛盾していたが、それを救った子供の「仁明天皇の採った策」は後勘から観て正しかったのだが、結局は朝廷を衰退させ政権をその河内源氏に奪われる「始末の源」と成ったと、「青木氏の歴史観」から美化せずに説いている。
その後の天皇は「青木氏の出自・血縁元」では無く「外孫王の藤原氏系」であるので「青木氏の歴史観」からは検証するのは控える。
然し、「賜姓族青木氏の神明社の概念」と「浄土白旗派仏道の清光寺の融合」の「密教概念」を図ったのだ。
だから、その証拠にどの「11代の天皇」も何れの「11家の源氏族」にも、「融合」と成る為の「象徴紋の笹竜胆紋・神道」と「氏の青木の神木・神道」と「白旗の御印・仏道」と「賜姓物の護り本尊・仏道」の「四つ」を与えなかったのだ。
「9つの縛りの掟」を護らなかった「河内源氏の頼朝」は、摂津源氏の以仁王の乱を起こした“「頼政の跡目を継ぐ」”と云う「大義の名目」で、「象徴紋の笹竜胆紋・神道」と「白旗の御印・仏道」の二つだけは兎も角も引き継いだとしたのだ。
ところがここに矛盾が生まれたのだ。
参考として、「11家11流の賜姓源氏」の内のその「何よりの証」が「最も純粋な源氏族である嵯峨源氏」の「残存末裔等・現京都府京都市右京区嵯峨天竜寺地域・実際は資料より北側日本海側の山手に在って密かに農業をして住んでいた事が判っているが、経緯から移動したのではないか」の「家紋」は実は「笹竜胆紋」を家紋としていないのだ。
これはこの「嵯峨源氏」に限らず「残りの末裔」と観られる「9つの源氏」も同然であるのだ。
これは何故かであるが「賜姓と云う朝廷の仕来り」を正式に受けた者には「賜姓五物」と云うものが与えられる。
「賜姓」を受けないで「源氏族を名乗った者」も多いが、この者らは「平安期の混乱期」を生き抜く事は実質は出来なかったので論外とするも、正式に「嵯峨期の詔勅と禁令が定める仕来り」で「正式賜姓を受けた者の生き残った者」には、この「賜姓五物を与えたとする記録」はそもそも全く無いのだ。
それは、「嵯峨期の詔勅の文面」とそれを「詳細に条件づけた禁令」には、この「賜姓五物を与える事」のみならず、前段でも論じたが「禁令の中」での「青木氏への取扱い」の中に、“「天智期からの賜姓青木氏の慣習仕来り掟・伝統」を類してはならない”と記されているのだ。
従って、この事から「天智期からの賜姓青木氏の慣習仕来り掟・伝統に係わる事と成り、「賜姓」は、「嵯峨天皇が9つの縛りの条件付きで認めた」とするものの、この「禁令」から「賜姓五物を与える事」は出来なかったのである。
故に、「賜姓五物の一つ・象徴印号」は当然に持つ事は出来無かったのである。
そこで、どうしたかと云えば「賜姓源氏の者」が、この“「象徴印号」を持たない”という事は生きて行く上で出来ないので、「生き残った初期段階の10源氏」は「揚羽蝶紋、下り藤紋、橘紋等」の「皇位族とは女系血縁筋・外孫族・支流卑属」の「宿禰族の高位族紋」を使ったのだ。
それはどういう事かと云えば、「嵯峨期の詔勅」で明記している様に、“「生活の糧」を与えない”としているので、かといってこの「生活の糧」を自ら獲得できないので、先ず考えられる事としてこの殆どは「宿禰族の高位族・公家」に「婿養子」として入り糧を得て、その家の「家紋」を「格式号」としたのかであるか、「鎌倉期」か、将又、「室町期中期の姓勃興期」か、「江戸初期の国印状取得」の「後着け策」が殆どであり,そんなに「伝統」を「400年」もの長く「格式の伝承」を「逃げ惑う戦乱」の中で「正確」に保って生き続けられるものでは無い。
そこに論じている「伊勢と信濃青木氏と秀郷流青木氏」の「違い」が「11源氏」のその差と成って出て来たのだ。
参考として、何度も論じているが筆者の青木氏の歴史観の調査研究では、「殆ど後者」と観ていて、仮に「記録は菩提寺や守護神で祐筆保管しているので「11賜姓源氏」としては無くす事は無いと考えられるが、仮に無くしたとしても、「姓名、家紋、宗派、菩提寺、墓石、過去帳、曼陀羅、密教、発祥地域、家の慣習仕来り掟の伝承、神道の形式、戒名、院号等の五重相伝、定住地・・等」で、それは上記の「嵯峨源氏」の様に、又、「河内源氏・八幡神社八幡菩薩」の様に直ぐに判定が出来るのだ。
故に、「嵯峨源氏の様な家紋が無い事」が起こったのだ。
「賜姓氏名、象徴紋、象徴物、象徴神木(青木と柏)、冠位官位(浄大一位、正一位)などの格式と院号」と、これに伴う「副役物」の「賜姓五役」・「令外官」・「伊勢守護王」・「9つの縛りの掟」、つまり、「嵯峨期の禁令明記」の「青木氏の慣習仕来り掟の伝統」が加えられた。
現実に、「11賜姓源氏」にこれだけの「賜姓時の特典を与える事」は「天皇家」には最早その「力・財源」は無かったしそれ以後も無かったのだ。
無かったから、「嵯峨期の詔勅」と成り、それに明記する様に“「賜姓源氏をした」”のだから。
然し、元の「賜姓青木氏」には「伝統」で論じている様に「令外官」として「大商い」をし、充分に「糧・殖産等の巨万の富」を蓄えてあった。
賜姓を外されたが「影の令外官」であって外す事は出来ず、且つ、「献納が起こる財源元」を外す事は出来なかったのだ。
その「青木氏の皇親族の力削ぎの限度」は此処まであったのだが、「賜姓」を外された、「令外官」を外された、「皇親族」を外されたの以上は、「天皇家への献納」は最後は当然に停止する以外に無く成ったのだ。
では、「賜姓源氏」がこれを補填する力が在ったのかであり、「武力」は有っても「財力」は無い。
何度も論じているが、ではその彼等の「禁じ手の武力」で「青木氏の商いの財」を奪うか潰すかであるが、ところがその「武力を上回る抑止力」を既に構築していたのだ。
それは「四掟に依る藤原氏の一門とその秀郷流青木氏とその一族一門」が控えていた。
この様にしてこの「賜姓臣下族のリスク」の環境の中で興った「賜姓源氏」の「上記の天皇から賜姓物の授与」が無かった「清和河内源氏」で、「幕府を開いた事」で「格式獲得の格式矛盾」を含んだ「河内源氏の暴走」が興ったのだ。
これが「律宗族論の神道仏道の融合の策」に係わる「笹竜胆の院号論」であり、「青木氏の伝統の矛盾論」である。
この事から「幕府樹立した河内源氏」だけが「笹竜胆紋」としているのは「権威付け」から上記の「摂津源氏頼政の引き継ぎ」を前提とした「樹立大儀である事」である事は明らかで、これは「虚偽の無い朝廷の中での記録」が無い限りはこの事で判る。
「白旗の御印・仏道」は、「密教浄土宗の白旗派の御印」であるのだ
上記した様に、そもそも「密教浄土宗」ではない「八幡神社と八幡菩薩の習合概念」と、「神明社と清光寺の神道仏道の融合概念」とには埋める事の出来ない大矛盾が生まれたのだ。
これで「白旗」は使えない事は、同時に「笹竜胆紋」も使えない事を意味し、この逆の事も云える。
そこで「頼朝」は、立場上、「白旗と笹竜胆の前提」と成る“「9つの縛りの掟」を護らなかったとした「朝廷の反対」”にも拘わらず、これを「頼政の代わり」として「樹立した幕府の権威と大義」の為にも「一つの奇策」を講じたのだ。
それは、「象徴紋の笹竜胆紋・神道」の「紋の一部を書き換える」と云う「策・類似紋・花柄軸を替える」に出て「朝廷の反対」を“これだと文句は無いだろう”と躱したのだ。
それは、「青木氏が持つ象徴紋の笹竜胆紋」の「竜胆の花と笹」は同じとして「花柄の部分・軸と花の間を換えると云う策」に出たのだ。
「密教浄土宗派の白旗の御印・仏道」に対しては、「浄土密教の皇位族の帰依する宗派」を意味するこの「白旗の扱い」を、“「統一的象徴」として「王党派としての団結」を遂げた事”として言い逃れたのである。
それには「根拠」を見つけて来た。
それは、「日本書紀に記載がある白旗の意味合い」であった。
そもそもこの「白旗の意味」には、「日本の文献」では最も古いのが「降伏の意味」での「素幡・きぬのはた」を「白旗」の通常の書例・イではある。
ところが、別に「日本書紀や風土記等」の「古書」にもある様に、「白旄・中国の慣習」では、「一軍の将軍」が「軍の指揮」を執るのに用いる「白いヤクの尾毛」を「竿の先端に着けた中国の慣習」がある。
この事を利用して、この「旗印」を「王位制」、即ち、「君主制の象徴・ロ」として言い換えたのである。
このイとロの「二つの言い換え」に「朝廷」は流石に怒り狂ったが「日本書紀や風土記等」の「古書」を逆に言い出された事に「朝廷の反論」は詰まり、結局は黙視する以外に無く成ったのだ。
然し、「源平戦での白旗使用」にはこの理屈は通らず、ある程度の「9つの縛りの掟」を護っていた「摂津源氏の四家の頼政の代行」で押し通したのだ。
然し、唯一つ、言い逃れが出来なかった事は、河内源氏の「八幡神社と八幡菩薩の習合の概念」である。
「白旗」は「神明社と密教浄土の融合の概念」である。
全く違う状況の中であるのに直さない通説は「変な話」である。
つまり、上記の事例が後の時期に興ったが、これは、最早、「神道と仏道と云う話」であり、「融合か習合」の話であり、この事から引きつられて「社会}は「格式化の賛成派」と「格式化の反対派」の「二派の権力闘争」にすり替えられていた事を裏付けている。
故に、真実は、「巻き込まれる事」を嫌った両方の編者等は、逸早く命の危険を感じた学者達の編者は、史実の通り「雲隠れした事」と成ったのだ。
「神道と仏道の問題」は、上記したやや後の「源氏行動とその言動」から考えると、「朝廷」としては「伊勢青木氏」と同然の「融合導入の前提にあった事」が云える。
然し、それよりも「本命の問題」は、「導入の基盤造りにあった事」に成る。
上記した様に「導入」には「社会」にそれを受け入れる「基盤の醸成」が必要であって、それには“「独特の二つの格式」”を「統一した格式」に改めて定める必要があった。
然し、これが無い侭に「仏道の浸透」が「皇族内で進んでいた事」に成るのだ。
この侭では、「神道の朝廷」は瓦解するは必定であった状況に陥っていた事に成る。
その証拠に「最近遺跡の発見」で「二つの派閥の領袖・蘇我氏と物部氏の館跡」から、既に裏では帰依していた遺跡が出て来たのである。
つまり最早、「時間の問題」であったろう事に成る。
故に「蘇我氏」に依って「物部氏」が潰され、その後に「天智天皇の乙巳の変」で「蘇我氏」を一掃した事が既に興っていたのだ。
更に、この「仏道の浸透」が進み、「乙巳の変」で力の持った「藤原氏」に何方にしても「天皇家は乗っ取られる事」は必定な状況であった事に成る。
既に「外孫王・藤原氏系」が「淳仁天皇」と成っていた現状では猶予は無かった。
況して、「天皇家・聖武天皇系」には「男子皇位後継者が不在」であり、且つ、其処に朝廷が進んで自らが「仏道の大仏殿建立」であったのだ。
「天皇跡目の問題」と「神道仏道の融合」の「二つの危機問題」に、「藤原仲麻呂の台頭・天皇家乗っ取り」が割り込んで入り、「漁夫の利」を得ようとして「三つ巴の攻防戦」が続く破目と成るが「仲麻呂の思惑」は寸前で「自滅」し「危機の難」を逃れたと観える。
「三つ巴」の一つが消え、「二つの危機問題」を解決する模索が続いたと観える。
つまり、その解決手段が「孝謙天皇の白羽の矢」であったと「青木氏の歴史観」から観れば成るだろう。
この「最終の決定過程・吉備真備」に於いて上記した様に「里絆策の感覚・孝謙天皇」は働いたのだ。
実は、この時の「騒ぎの証」として「青木氏の逸話」が遺されている。
其れは、「追尊白壁王」に嫁した「井上内親王」の后は「青木氏の孫裔系・四代目」までに呪いの呪詛をして殺そうとして、「自らの二人の皇子の安寧」を狙ったとした。
当然に「賜姓族」とは云いながらも、最早、「天皇の里」は「殖産化した商いの氏族」と成っていた。
その間では「伊勢青木氏」が面倒を看ていた「伊勢の斎王・井上内親王」であったとは云え、感情的には「天皇家の中で育った井上内親王」であると云う感覚を持つ事は自然である。
感情的に成る以上は、そう云う事に成るであろう事は頷ける。
それだけに「井上内親王」には「殖産家の伊勢青木氏」として映っていたのであろう。
“映る”と云うよりは”知っていた”と云う方が正しいかも知れない。
“自らが取り込まれてしまう”と云う「脅迫概念」に取り込まれてしまっていたのかも知れない。
其れの感情が行き過ぎて“だから子供も護ろうとした”のでは無いか。
青木氏を呪詛する事に到ったのだろう。
注釈乍ら、「青木氏の伝えられている伝説事」と実はこの「井上内親王の奇行」とが違うのだ。
通説の経緯
744年井上内親王27歳に結婚
754年37歳の時に酒人内親王
761年47歳の時に他人親王
764年政争始まる
770年称徳天皇・孝謙天皇は没
770年に他人親王立太子
770年に白壁王が即位、后と成る
772年に光仁天皇を呪詛
772年に酒人内親王は斎王
773年に追尊難波王を呪詛・没
773年に井上内親王と他人皇太子の二人は廃位・庶人
775年に二人は没
776年に政変で粛清されて酒飲んで暗愚を装う
776年まで政務
778年に没・86歳
以上と歴史では通説と成っているが、それに依れば、“「744年までの政変で多くが粛清されて、その「飛び火」が伊勢に及ぶ事を嫌って「四男・54歳・又は六男」の一番若い「白壁」は酒飲んで暗愚を装った”と成っている。
{54歳と云う処に全ての経緯の意味」が籠っている。
当時は平均寿命年齢であるからだ。
然し、781年没(778年没説もある)の84歳の2年前まで政務を執っていたとされる記録が遺る。
とすると、「青木氏に直接及ぶ政争」は「34年間」も続いていた事に成る。
実際には、その後の「仁明天皇期の末期・850年」までの「最低100年~最高106年間」も続いていたのである。
これは「研究」が進んでいる「信濃青木氏」にも「同族血縁していた事」から影響はあったであろうし、「信濃」に於いても更に手に取るような詳しい総合実態がその内に明らかに成る事を期待している。
兎も角も色々な遺されている各地の「資料の読み漁りの行」から、「仁明期から円融期の賜姓・960年・平安期中期」までの「100年間」は、「前期の90年間」とは異なり、凡そは「平和」に成り、“施基皇子」”と云う「世間からの印象」は既に薄れ消え始めていたと観られる。
だから、「円融期の秀郷流青木氏の賜姓」に繋がったとも考えられる。
つまり、「朝廷の院の務め」から「正式に独立した925年の商業化」を「史実」、所謂、「商いの殖産家」で「庶人化していた事」に成るが、但し、「天皇家との間の繋がり」では未だ「献納と云う形」では関係性は維持していたらしい。
況や、逆に「世間からの印象」は既に薄れ消え始めていたから「庶人化した事」に踏み切った事になろう。
然し、そこから「円融期の秀郷流青木氏」が関わる「正式な賜姓」に繋がって行くのであり、遂には更に「100年後の1025年」には「庶人化した事」の証としての「宋貿易等を行う総合商社化」が成されていたのだ。
完全に「過去の院号」に頼らない「庶人化していた事・独立していた事」、つまりは「世間からの印象」は既に完全に近い形で薄れ消えていた事に成る。
此処で「青木氏のその歴史観」から観ると、この幾つかの「歴史観」には「疑問」が残り、これを解決しないと面白おかしくする為に「青木氏の歴史観」は歪められるばかりで、誰も正しく解いてもらえないのだし、歴史とはそう云うものだし、故に「伝統の危うさ」なのであるが「正しい歴史観・伝統」を解析しているのだ。
少なくとも「判る範囲」で、先に「過去の伝統」も踏まえた「状況証拠を集めた推論」でも遺しておく必要があるのだ。
さて、この時期の「青木氏の歴史観」のその「歪められた疑問」について検証して論じる。
論点は次の通りである。
「青木氏だけ」に遺された疑問が次の通りである。
772年に光仁天皇を呪詛
・1 何で呪詛されたのか?
772年に酒人内親王は斎王
・2 何で斎王にされたのか?
773年に追尊難波王を呪詛・没
・3 何で妹が呪詛されたのかであり、現実に呪殺されているのか?
773年に井上内親王と他人皇太子の二人は廃位・庶人
・4 何で廃位して、更には庶人になったのか?
775年に二人は没・自殺
・5 何で名張に移され自殺したのか?
776年に政変で粛清されて酒飲んで暗愚を装う
・6 何で暗愚を装う必要があるのか?
776年まで健康に政務
・7 何で6の史実に矛盾しているのか?
781年没
1 何で呪詛されたのか?
二人の子を残した后から夫の追尊白壁王を呪詛したのかである。
少なくとも味方と成る筈だ。
744年で結婚、754年と761年に二人の子供、770年で即位・后とすると、16年間と呪詛とするまでの2年間の計18年は正常に生活をしていた事に成る。
それが突然に夫呪詛に到るまでには「ギャプ」があり過ぎる。
「夫呪詛」と成ると、「夫呪詛の殺意」の「相当な理由」が必要であ.る筈であり、その「1年程度の間」に何かが興った事に成る。
その原因が「四家青木氏との間」で存在した、それが「青木氏の一族の人との付き合い・人間関係」に在った事に成ろう。
何故ならば「呪詛」に至るまでに「即位」までしているので、先ずは「井上内親王の実家元の天皇家」、即ち「聖武天皇の第1皇女の格式」である。
その母は「夫人県犬養広刀自・県で身分低い・地方の市長」であるが、一方、「聖武天皇の母は藤原不比等の娘・宮子で藤原系」での身分に係わるものはないだろう。
又、「称徳天皇・孝謙天皇崩御」の際に重臣に依って青木氏に嫁す事で協議が行われたと記されている。
この「協議」で幾つかの歴史書では、「天武天皇系の外孫王」を推す吉備真備と、「白壁王」を推す「藤原氏系・南家」で対立し、「藤原氏暗躍」によって「白壁王の立太子」が実現したとする経緯があるも、これは直接に呪詛に繋がらないだろう。
然し、ここで矛盾する事が興っている。
それは、白壁に「白羽の矢」を立てた「孝謙天皇の家庭教師」で要するに「相談人」の「吉備真日」が、「天武天皇系の外孫王」を推すと云う事の「矛盾」が興っているのだ。
千来であれば白壁を推している事に成る筈だ。然し、何と逆で違ったのだ。
と云う事は、「藤原氏に押し切られた形の事」に成るのだが、史実は逆で前段でも論じた様に「天智系に戻す」と云う前提で「白羽の矢」を立てたのだから、“決して押し切られた訳では無い"事に成る。
要するに、「吉備真日の行動」に「裏の意味」があった事に成るだろう。
つまり、“押し切らせて誘導した”と云う事にしたと成る。
史実は、「井上内親王」は斎王の身分ら固執し「白壁に嫁す事」を反対していたのだから。
既に「100年も経った商いの伊勢」も一族の「酒浸り」や「暗愚」を装う事や「逃避り行動」の資料にある様に、又、そもそも「氏是」からも嫌っていたのだ。
だから、“反対して於いて押し切らせて「目的」を達成させる"と云う策の「吉備真日の不思議な行動」と云う事に成ったのだ。
前段でも論じた様に、“これの方が「理と利と系と金の思惑策」が実現する事"に成るからだ。
「押し切らせて実現した」とすると、「天皇家」と「四家青木氏」との間の事と成る。
つまり、「格式の有無」と成ろう。
「天皇家の井上内親王」とは云え、父も「藤原氏系」で母も「藤原氏系一門」と成ると「藤原外孫王」でありながら「県の犬養広刀自・身分低い」と云う事に成る。
「青木氏」は賜姓臣下したとは云え「血筋」と云う点では「施基皇子の四男・六男の説」とすると、「相当な格式身分の差」があった事に成る。
“天皇家から嫁す”とは云え「白壁の母」は妃であり、それも「紀諸人の女橡姫(とちひめ)」で、「天皇家の血筋源の五大血筋の紀族」であり、何れに執っても「格式」は数段上位に位置し、従って、格式社会の中では「二足の草鞋の商人」と云えど卑下していた事に成る。
つまり、「皇位朝臣族・青木氏」と「神別朝臣族・犬養氏」の差に成るし、この「格式差」で卑下していた事が考えられるし、況してや未だこの時期では「財政不足の天皇家」は、100年経っても「永代賜姓五役の名目」で「青木氏」からも「献納・史実」を受けていたのだ。
だから、この「嫌々の即位」までは「青木氏に嫁いだ形」に成っているので、「自らの産んだ酒人王も他人王」ともに「子の格式差」もあって、「白壁」を除いた「他の青木氏の8人の息子」と「7人の娘・実際は30人程度の記録に載らない子供がいた」ので、それを卑下していて「青木氏の中に溶け込む事」が全く出来なかったと考えられる。
青木氏がその見下す態度に出ていたかは上記した様に嫌っていたとしているので無かったと出来る。
「井上内親王の卑下」にあったとしていて、それが歪んで「呪詛]と成ったとしているのだ。
其れが、所謂、対応したのが「四家」であり、「伊勢50衆の氏族」であり、「妻嫁制度」であり、「嫁家制度」であった為に尚、その「青木氏の制度」の中に溶け込む事はバリヤーの様に成って更に相当に無理で出来なかったと考えられる。
況して、その夫が「妃子の四男・六男」であった為に周りに頭が上がらず尚の事であったと観る事が出来る。
それの不満を「夫」に向けたが、夫は振り向かなかったと成るだろうし、次の「2の疑問」の「夫の4人の姉妹達・施基皇子の娘」、つまり、「姉の追尊の海上女王・従三位」、「姉の追尊の難波内親王・二品」、「追尊の衣縫内親王・従四位」、「姉の追尊の坂合部内親王・従四位下」、「姉の追尊の能登内親王・四品」の「全体を仕切る最高格式の二品を持つ難波」にも先ずその矛先を、そしてその「姉妹等」にも更に向けたと、「青木氏の資料」等に遺る様に成ったのではないか。
注・上記の「四男の白壁」が突然に別系で「光仁天皇と成る事」で「青木氏の兄弟姉妹」は、その「格式を合わす為に追尊された者」と、その「父の施基皇子」が「追尊春日宮天皇」と成る事で「子の追尊と成る者とならない者」に分かれ、其れはその「母の血筋差」で分かれたとしている。
その結果として、「伊勢青木氏」に居ながらも「難波」が子の誰よりも「最高位の天皇に継ぐ二品の格式・施基皇子以外には歴史的に二品は無い」を与えられたのだ。
つまり、その「血筋差で父と同格と成った事」に成るのだ。
故に、これが「3の答え」にも成るが、その矛先は、「男女の姉妹に係わらず「青木氏全体」を仕切る追尊の難波内親王・二品」に向けられたのだ。
「天武系」で「藤原氏系の外孫王の子」でその「天皇家」に居たとした「井上内親王・即位後二品」と、この賜姓臣下したとは云え「天智天皇の孫娘の直系難波内親王・二品」とには取り換える事の出来ない「上位の血筋の格式差」が潜在していたのだ。
「賜姓臣下朝臣族の二足の草鞋」を敷き、「四掟や妻嫁制度や嫁家制度」や「伊勢郷士衆の氏族」の環境の中での「青木氏の生活」では、即位されるまでは女系である以上はその「女系で仕切られている家の差配の頭の難波」から煩く「嫁としての振る舞い」や「氏上や御師の生活」に馴染む様に当然の事として注意されていたのではないか。
其処に「絶えられない矛盾」と「大きなギャップ・自尊心」が生まれ精神状態が鬱に成っていたのであろう。
やっと「26年間」を経た「770年の即位」に依って、それは解消されたかに見えたが、然し、その現実は変わらず即位するも「青木氏には差配力の及ばない四男の白壁」にも「2年後」にその「不満」が向けられたと成るのではないか。
772年に酒人内親王は斎王
2 何で斎王にされたのか?
天皇に成った以上は、娘の酒人は内親王と成り、母親の経緯の通りに斎王に成るだろう。
唯、結果として全ての皇女が斎王に成ると云う事は無く、{白壁」が天皇と成った以上は、「伊勢青木氏」の「白壁の姉妹に当たる二世族の者」、又は、その「三世族の者」も対象に成るし、「信濃青木氏」も「斎王に成り得る事」に成るが、然し、母親の様に「酒人内親王」に向けられたのだ。
そして、「三品」に叙せられたのだ。
要するに「呪詛の事件」の中で、突然の経緯として19歳に達していた事から斎王に指定され、身を清める為に「春日斎宮」に籠もるが2年後に伊勢に戻り、更に1年後に母親が「名張の幽閉先」で「他人皇太子」と共に自殺した。
この為に、再び「伊勢」に戻る。
帰省後に「自殺した他人皇太子」に代わって、「妃の高野新笠の子の山部親王」が「皇太子の座」に着いた。
そして、この事で「酒人内親王」は「斎王」を退位したが、この後に、「異母兄の山部王・桓武天皇の妃・」と成り、7年後の779年に「朝原内親王」を産み、「山部王」は781年即位する。
そして「朝原内親王」は“「4歳で斎王」”に成る経緯を持つが、この「経緯・イ」が重要である。
そこでこの「経緯・ロ」を「通説」としているが他には、次の説がある。
「伊勢側」が、“「聖武天皇系と血筋」を融合させ様とした”として「光仁天皇や桓武天皇」が合作した、とされる「経緯・ロ」の説と成っている。
参考に。史実とは出来ないが、鎌倉期の「水鏡」に次の事が書かれている。
故に「光仁天皇」が「娘の斎王」と成っていた「酒人内親王の立太子」を検討していたとする「経緯・ハ」の「後付け説の記述」の「記録」があり、史実の云々は別として確定しない「推測の記述」がある。
これが、仮に「経緯のハ」が事実であるとすれば、「桓武天皇」やその周辺にとっては警戒すべき存在でもあった事には成るが、「酒人内親王の上記の経緯・イとロとハ」の通りにこの記述は史実に反する。
この「朝原内親王」も後に「斎王」に成り、「井上内親王・酒人内親王・朝原内親王」と、“親子3代で「斎王」を勤めた”とする「史実」もある事から、「経緯の通説」は違うだろう。
「斎王と云う伝統の習慣」は「伊勢」ではそれ程に次の意味を持っていたのだ。
先ず、「斎王の伝統」の「経緯・イ」である。
次に、「天皇家への合作」の「経緯・ロ」である。
更に、「立太子の検討」の「経緯・ハ」である。
「斎王の伝統」の「経緯・イ」であるが、前段でも論じている様に「天智期からの仕来り」で引き継いでいた。
そして、「伊勢や信濃の青木氏」では、多気郡に「斎王館」を建て、これを「多気の館」と名付けて多気郡で多くの女官等を侍らせて面倒を看ていたのだ。
当然に、「斎王に成る皇女」は、一定期間、「清めの館」で身を清め、その後に「斎王」に着くが、これには「斎王に成る事」での政治的な制裁は無い。
何時かは事情により戻る事があり、又、仮に政治的な思惑で「斎王」にされたとしても、その侭に「斎王館」に遺る事もあり得たので、「朝原内親王」は“「4歳で斎王」”の「記述」には制裁的な意味が無い。
寧ろ、将来は、本人が好むか好まないかは別として「皇族の中での生活」を保証される。
然し、「好まない時」は「伊勢青木氏の斎王館」か「伊勢青木氏の中」に溶け込んで「女(むすめ)」として「四掟と妻嫁制度と嫁家制度」で普通に「女(むすめ)」として生きられるが、現実は、「青木氏出自の桓武天皇」の「子の平城天皇」に嫁したのである。
つまり「経緯・イ」は、この「既成の経緯」を辿るパターであり、「伊勢青木氏」に殊更に覆い被さって来る「災い」は無い経緯である。
例え、皇女から斎王に追いやられたとしても「皇女」に多くを望まなければ「正常」で居続ける事は、寧ろ、無理であり、「斎王」に成る方が安全なのであった。
従って、斎王であった「井上内親王・親」にしろ、斎王の「酒人内親王・子」にしろ、斎王の「朝原内親王・孫」にしろ「第一皇女の斎王」であった方が、「政治に巻き込まれる事」は少なかったのである。
夫々が同時に、「光仁天皇・親」、「桓武天皇・子」、「平城天皇・孫」の一族や同族を超えた「青木氏出自の完全な家族婚」である。
この現象の傍に「伊勢青木氏」は居たのだ。
この例に観る様に、歴史的に「斎王や斎宮等」の多くは何らかの形で「青木氏に入り込んだ」でいたのである。
故に、「伊勢と信濃青木氏」では「皇女等・300人程度」だけの「逃げ込み口」であったのだ。
この前段でも論じている様に「流れに入る入口」であったのだ。
この様に、「青木氏の歴史観」から観た場合、「通説や水鏡説の様な逸話説」はそもそも伝統的に無かったのだ。
次に、「天皇家への合作」の「経緯・ロ」であるが、これは逆である。
先ず、「白壁が光仁天皇に成った経緯」では、上記や前段でも論じた様に、全てを物語るのは“「白羽の矢の結果」”である。
そもそも、「天皇家」と云えど、「血筋と家筋と冠位官位品格と財力」等の一切を比べても「伊勢青木氏の全格式」の上では、上記や前段でも論じた様にこの時点では未だ遥かに「上の格式・皇親族」である。
それでも「賜姓臣下朝臣族」と「二足の草鞋策と殖産家」であって「天皇家と関わる事」を「氏是」として禁じ、「伊勢の氏族」と成って「四掟、妻嫁制度、嫁家制度等」の独特の関わらないシステムを採用し、況してや「女系化」していたのだ。
其れを既に繋がっていた「天皇家と繋がる等の説」はその必要性が無く「氏是」で禁じて、当に「研究の怠り」に外ならない。
そもそも「青木氏」に限らず「伊勢の歴史」を知ればこの説は100%出ないし、「日本書紀等の数種の歴史書」を読んでいればこの説は出ない。
面倒であるのでこれ以上はこの説の検証は終わる。
「酒人内親王の立太子の検討」の「経緯・ハ」であるが、770年には「他人親王」が既に「立太子」に成り、772年に「酒人内親王」は「斎王」と成り、773年に「他人親王」は廃位に成っている。
この4年の間、「酒人内親王」は時系列からあり得ないし、仮にそうだとしたら再び「女系の天皇」と成って仕舞う事に成る。
「白羽の矢」が「天皇家女系であった事」で「90年後」には「完全な氏族」を持ち「商い」をし「御師様」の庶人化した「天智系の裔系の者」が「女系を求める事」の事態がそもそもあり得ないし、これは「青木氏の出自元に災いを招く事」は必定で、例え、「白壁の天皇」であろうともそれを許す事はそもそも無かったであろう。
「青木氏の氏是にも悖る事」である事は、「白壁」も痛い程に知っていたであろう。
そもそも「施基皇子・716年没」が没して未だ「54年後の殖産の商いが軌道に載った時期の事」でもある。
全くあり得ない事であるし、この段階では他に皇子が「7人」も居たし、17歳も年上の「737年生まれの山部皇子・高野新笠の子」も居た。
だから敢えて17歳も若い「754年生まれの酒人内親王の女性を立太子にする事」は后の先ず子であったとしても当時の仕来りからは先ず無かった。
現実に、大病を経ても「山部皇子」が「桓武天皇」に成るのだ。
「鎌倉期の水鏡」としては「鎌倉初期の歴史略記」とすれど書き記す程には「史実性」がおかしい。
唯、それにはこの青木氏の事件に関して一つ気に成る事があり追記する。
其れは「伊勢青木氏の出自元・血縁筋」の最後の“「仁明天皇・出自元派」”である。
この事件に近い事が「歴史略記」に留めている事であり、且つ、その内容に関して「伊勢青木氏の歴史観」に“「類似する様な事」”を上記の様に記している事である。
この「編者」が確定し定まらないので、これ以上の追及は困難ではあるが、編期が「1195年頃」としているので「400年程度経過した歴史・逸話の段階」である。
つまり、「鎌倉幕府の樹立」には「9つの縛りを護らなかった頼朝」と「それを認めないとする朝廷」との「悶着」があって、成立後に「略史の水鏡が幕府におもねて書き記した可能性がある。
これは「光仁期以降の天皇家の歴史」は兎も角も、それに伴って秘密裏にする「伊勢青木氏四家の内部のゴタゴタ」が連ねて表に出るという事はあり得るのかである。
仮にあるとすれば、「神明社」か「清光寺」か「女系嫁家先の藤原秀郷流青木氏」か「伊勢郷士衆」か「信濃青木氏」からであろうが、この「編者その者」が編集した訳では無く、「独自の主観」を加えながら「皇円略記・戒話」を更に参考にして「手を加えた書」であると観ていて、それを「平安京付近での編」で書き記しているのだ。
仮に「漏れる」とすれば、「伊勢青木氏」から「嫁に行った近江秀郷流藤原高郷」を里としている「伊勢秀郷流青木氏以外・梵純系」には可能性は低いが、然し、現実には「光仁期から仁明期」まで続いた「青木氏のゴタゴタ話の類似話」が載せられているのだ。
「青木氏」では知られていないとしていても、「天皇家のゴダゴタ」に連れられて「比叡山の表」に「青木氏のゴタゴタ」も「戒め例話・浄土宗の編者・伊勢からの関係者・白旗派の者」として出ていた事も充分にあり得る。
だとすると、実態はそれ程に「隠せない程の騒ぎであった事」に成っていたと筆者は観ている。
何故ならば、「伊勢と信濃青木氏」は「賜姓五役と令外官」を熟し、「9つの縛りの掟」を「氏族の伝統」にし、「五重相伝で神道仏道の融合」を図り、それで「伊勢郷士衆」で「氏族」を形成していた「律宗族」であった。
それがこの様に「恥の失態」を「称徳天皇から嵯峨天皇」までの約100年間の恥事を外に曝け出し続けたのだ。
故に、この編者の「天台宗の皇円」は元は「浄土宗法然の師」でもあるとすれば、「律宗族の戒めの例」として捉えられ事は充分にあったと考えられる。
「伊勢青木氏に伝わる口伝」では、その「自殺した井上の呪い」の様は、「逃げ惑う青木の玄孫域の女達」は、「福家や四家や神明社や清光寺」等に隠れ、又、「尾鷲の旧領地の各地」に散り隠れ、子供が生まれても隠したとされる位であった様だ。
中には、松阪の「追尊難波王等の二世族の娘」は逃げ惑い、又、桑名の「追尊浄橋王や追尊飽浪王」は「美濃の三野王」に嫁したとする程の話もあって、「青木氏の福家」はその為に「一族の氏族」がこの「政争事」に巻き込まれない様にする為に、「女系の伊勢郷士衆」を含む「女(むすめ)」等を「福家の一か所」に集め護り教育を施したとする「実話」が遺っていて、それが後に「四掟の強化や妻嫁制度と嫁家制度」へと発展して行ったとする「青木氏の重要説」もある位であり、恐らくは「学問的な証」は無いが、「感情の根底」にはあったと観ているのだ。
つまりの処は、「施基皇子から200年弱」の「後の事」として、「天皇跡目の問題」と「神道仏道の融合」の「二つの危機問題」に遭遇し、その上に「南家の藤原仲麻呂の台頭・天皇家乗っ取り」の「経緯の政争」が絡んで、「青木氏族」は右往左往した事を後世に遺し伝える為のものであったとされるのだ。
そして注釈として、この「伝統のシリーズの筆者の論」も「後世のロマン」として正しく繋して書き記しているのだが、其れと同じくそれを「家人の青木氏祐筆」が書き遺した事が何時か永く語り継がれ、「光仁天皇期の伝統の逸話と口伝」に成ったと観ているのである。
それだけに、既に、「臣下」して「商い」で「糧」を得て生きていた「庶人化・民化・殖産化していた族」に降り注いだ思いがけない「大きな出来事」であった事を物語る。
この「青木氏の中での騒動」は「90年から100年近い後」の「新撰姓氏禄」の”嵯峨期まで続いた”という事では無いか。
普通では耐えられないであろうが、然し、耐え偲んだのだ。
「政争」とは如何に恐ろしいものであったかは判るから、故に既に「賜姓族」でありながらも「庶人化・商民化・殖産化」していた「伊勢青木氏」は逃げ惑ったのだ。
この「青木氏の逸話と口伝」によく似た事が「上記の水鏡」に記載されていて、恐らくはこの事を間接的に指しているとも考えられる。
参考に、それを経緯を要約すると、次の様に成る。
770年の夏、「異母妹の称徳天皇・孝謙天皇」が崩御、その後を受けて、「追尊白壁王」は、8年後に「藤原氏の推挙」によって、「光仁天皇」に即位、この時、この「井上内親王」は「皇后」に成る。
他人王は若年で「皇太子」に、「光仁天皇」は、身の危険を感じて酒乱と成り、馬鹿を装う。
ところが、「光仁天皇即位」を拒んだ上記の立場にいた「吉備真備」は、結局は政界を退く事に成った。
そこで「2年後」に、この「后の井上内親王」は、密かに「巫女・神明社」に、天皇の呪詛をさせたとして、「皇后の位」を剥奪される。
皇太子と成っていた「他戸皇子」も「廃太子」と成る。
これは鎌倉時代期の「歴史書の水鏡」に書かれたものであるが、此処に真実は別として “「后は呪詛し、呪物を井戸に入れさせた イ“と、観ていたかの様にある。
“「光仁天皇の早死」を願い、「我子の東宮」を位につけようと願った ロ”と書かれている。
“「井上内親王」が「光仁天皇の姉の難波内親王・追尊」を「呪詛罪」により、「現奈良県五條市・名張の西」の「館・清蓮寺城付近か」に幽閉された。 ハ”とある。
“奈良に追いやられた時に「難波内親王」は懐妊しており、「五條市・名張付近か」で「男児」を出産した ニ”としている。
“「男児」が「母の怨み」を晴らす為、この「子」が「雷神」と成った ホ”とする。
この辺は神話的である。
以上が「水鏡」の関係する「五節の逸話説」である。
恐らくは、これは「神話的」に書いているが、「青木氏の福家等に伝わる上記の混乱話」が何処からか漏れて、それを神話的に表現して「言い換えたもの」として表したものであろう。
唯、ところが、「伝わる事」と「異なる処」は次の6つの通りである。
1 二人に呪詛したのは逆の井上親王である事。
2 他人親王を東宮にしていたのは白壁も同じである事。
3 呪詛したのは井上内親王である事
4 呪詛して奈良に追い遣られたのは井上内親王である事。
5 「追尊難波内親王・770年」は773年に二品に叙されている事。
6 結婚していない。ニとホは史実と違う。一族が密かに敵を討った事を意味するか
この様に「水鏡」は史実と逆で違い過ぎるし、従って「皇円の律宗族の戒めの例」であろうとしている。
773年に追尊難波王を呪詛・没
3 何で姉が呪詛されたのかであり、現実に呪殺されているのか?
この件は「上記・下記」した通りであり、その矛先は、「男女姉妹に係わらず「青木氏全体の政所」を仕切る「追尊と成った難波内親王・二品」に向けられたのは確かだ。
兎も角も、何度も論じているが「伊勢郷士衆」を含む「女系の氏族」なのであり、家の中は全て女系で流れて必然的にも「女性」が、「商い」は別として「政所は仕切る家柄」と成っていたのだ。
だとすれば、「追尊難波王が仕切る形」と成っていたし、「男勝りの頭の切れる特段に優秀な女性」であったとする「言い伝え」もある位であるし、確かに先祖を辿るとその血筋が地に流れている様だ。
「天皇家の祖の5大血筋源」の一つの紀族の「紀橡姫の同母姉」であり、「773年没」であり「白壁」とは4歳年~5歳上であったとされるので、「即位の770年時」は「62~65歳の独身」であった事に成る。
白壁の4同母姉で「海上女王>坂合部内親王>衣縫内親王・722年没>」であり、年齢も近く高齢で没している。
「追尊海上女王」が最も高齢で「追尊難波内親王」が下であった様だ。
若くして「元気で利発な難波親王」が仕切っていたとされる事は確実である。
「難波の忌名」は「伊勢青木氏の女墓」に「祖の母」として刻まれているが、当時は前段でも論じたが「神道であった事」に成るので、「皇位族の者」には生前中でも刻むと云う習慣があったので、これから観ると「65歳以上であった事・75歳以上の口伝資料もある」に成るだろう。
この事から、果たして「呪殺とする事」が出来るかであり、先ず「呪殺」そのものが科学的に有り得ないし、前段でも論じた様に、「四掟や妻嫁制度や嫁家制度での関係」を上手く維持する上で難しく極めて忙しく「青木氏の政所」を一族を代表して仕切っていた筈である。
依って、そんな「呪殺等の悪事」を「伊勢郷士衆を含む氏族の周囲」が放って置かないであろうし、現実に、「難波」が死亡した年齢の前後に、何れの姉妹も年齢も近い事や長寿であった事もあり「同母の姉妹」は没しているのだ。
そもそも、これを不吉とした可能性があるのだ。
「二足の草鞋」で「商い殖産を手広く営む青木氏」が、「不吉とする概念」を持ち込む等としていてはそもそも成り立たない。
当時は、全体が「50~54歳」が「寿命」であったとされていて、少なくとも相当に長寿であった事に成るが、現在でも長寿系にあって、依って、「姉妹」は充分な歳を得て没した事に成る。
仮に、呪詛であったとしてもそんな事を「伊勢青木氏」は四男の白壁に任して置く事は絶対に無い。
この説だと「伊勢青木氏」は無能という事に成り得るではないか。
そうだとしたらここまで生き延びてはいないだろうし「二足の草鞋」は成り立たない。。
現在まで絶える事なく続いている「氏族の氏上の御師族」であるのだ。
其処までの歴史観で以て公的な通説とするには疑問を抱いて欲しいもので、安易さに怒りを感じる。
773年に井上内親王と他人皇太子の二人は廃位・庶人
4 何で廃位して、更には庶人になったのか?
だとすると、通説としている説では「追尊難波内親王を呪殺した事」で罰を受けた事に成っているが、誰が罰を下したかに問題はある。
先ず「廃位させている事」なのだ。
少なくとも皇位に着いた以上は「朝廷の中」で行われるものだ。
然し、天皇の白壁に30年近い付き添った「光仁天皇」の自らの后と皇太子である。
簡単に「ウン」とは云わないであろう。
其れは「自らを否定された事」に成り得る。
それも「追尊難波内親王」と「自らへの天皇呪詛」とされる。
どの様にしてそれを「呪詛=呪殺=殺人」と確定させるかである。
何時の世もこれは確定は無理で、だとしたらそれを押し通すだけの誰か「天皇よりも大きな力」が働いた事に成る。
「天皇の声」は「絶対」であるが、この場合は「我子」までに結果として害を及ぶ事は誰でも判る。
依ってこの「絶対の声」は絶対に出さないであろう。
「白壁の光仁天皇」より「自らを否定された事」に成るとしても、それ以上に現実に「大きい声」はあった筈だ。
それは「普通の経緯で天皇に成った訳」では無いのだから「伊勢青木氏の福家」である事は間違いはない。
そもそもそうでは無い「青木氏独特の絶対権」を持った「神仏道の力までを持つ福家」である。
この「福家制度の大権」が在る以上は、「氏族」を護るにも「白壁」を安定にさせるにも降りかかった「災い」は間違いなく取り除くだろう。
それが、例え「藤原外孫王系の称徳天皇の関係者」であったとしても排除して「白壁」を護ろうとするだろう。
つまり、まあ、今と成っては「藤原外孫王系の勢力」を低く見ていた事を物語る。
場合に依っては「戦いが起こる事」さえもあり得えた。
然し、史実は「南家藤原系」とは戦っていないのだ。
その直前で、“その「藤原仲麻呂」が直前で滅亡した事”が在った事が実行できた原因と考えられる。
この事に就いては「不義理の事」である故に「記録らしきもの」は当然に遺さないであろうが、以上の状況証拠は充分に考えられ、「呪殺的な事」は無かったのであり、要するに「廃位」に追い込んだ上で庶人にして無ければ、「天下の大罪」が「氏族」に降り注ぎ取り除く事の出来ない「汚名」を「後世に遺す事」に成る。
その上で「災い」を取り除いたと観ている。
それが結果として「孫の命を奪う事」に成るとしても「災い排除」を選択したのではないか。
出自元の「朝廷の天皇」が、「上の者」を「廃位」し「庶人化」させる事は出来ないしその権限はない。
「福家」は苦しい選択であったろうが、その意を白壁に裏で伝えたと考えられる。
775年に二人は没・自殺
5 何で名張に移され自殺したのか?
上記の通り「廃位」にし「庶人化」させる事は、生きて行く糧を失い、必然的に自殺する以外には無く成る。
この事は伊勢は承知であったろう。
問題はその「場所」であろう。
それが「「名張であったという事」では無いか。
廃位して庶人にし直ぐに死んだとした場合は殺したとする批判は躱す必要が出る。
これを避ける為にも一族の管轄下の「名張」で匿う形であれば結果としての目的は同じでも「大義の対面」は保たれる。
故に、「3年後」であったのであろう。
従って「牢獄」に入れられていたとする説は当たらない。
そんな事をすれば「伊勢衆」からも世間からも間違いなく不必要な批判を招く事は必定で、そんな手を使う馬鹿はいないであろう。
恐らくは、「名張の清蓮寺か清蓮寺城」であった筈である。
「青木氏の清蓮寺城と清蓮寺の事」を知らない者はこれを「牢獄」としたと観ている。
誰が遣っても「后」「皇太子」であった以上は絶対にそんな馬鹿な措置はしない。
少なくとも「一族内の処置」として「尼僧と成った3年間後」と「名張」で看て一生の寿命までを世話する計画で扱ったのでは無いか。
然し、彼等は「内親王」とし「后」としての「自負心」を捨てずに「将来」を悲観して耐えられなかった事に成る。
然し、結果としてはその様な環境を生きてきた人物がこの「絶望の環境」を耐えられるとは一族の者は当初から考えていなかったであろう。
意味する処はそこにあった事は判る。
776年に政変で粛清されて酒飲んで暗愚を装う
6 何でこの時に暗愚を装う必要があるのか?
「酒飲んで暗愚を装うと云う事」は、当初の「白羽の矢」の時にもあったし、「伊勢青木氏」の中では「口伝」や「逸話」で、「白壁」だけでは無く、四世族までの一族男子の全域子孫域まで何らかの形で装うか逃げたかとされているのだ。
「二世族」では「白壁・54歳(正式4男の説と嗣子6男の説)」が、「井上内親王・717年から775年」が「伊勢神宮の斎王」が解け「帰京・744年」したその「27歳の井上内親王」と結婚したとある。
これに対して、中でも二世族では最も「白壁」が一番若かった事もあるが、「玄孫域」でも年齢適任者は大勢いたが殆どは隠れたとしているのである。
女子は一族の一員に加わった「井上内親王の奇行や怨念」を恐れていたらしい。
兎も角も「妻嫁制度」で護られていたらしいが、中には「神明社巫女」や「斎王館の十二官女」や「菩提寺の尼僧」に成って凌いだと青木氏の中では伝わっている。
この様にその「隠れ方」等が「逸話」で伝えられていて奇抜で興味を持つが、何か「精神的なストレスから奇行」に走っていた事が予想できる。
だから、“触らぬ神に祟りなし”で男女ともに感じ、取り分け「男子」はその術が無かった為に「酒飲んで暗愚を装うと云う事等」に成っていたのではないか。
「政変と云う事」には、仮に暗愚を装っても立場がある以上は巻き込まれる事には変わりはない筈で、この説はそもそも「疑問」であり、上記の様に「口伝や逸話で伝わる話」が真実ではないかと考えられる。
「井上内親王の一族内での精神的なストレスからの病的な奇行」が原因していたのではないか。
つまり、「聖武天皇の第一王女の立場」と「伊勢青木氏の伝統」の「格式の差」に納得が行かなかったのでは無いか。
仮に「天皇家の内親王」と云えども、「施基皇子の二世族・天智天皇の三世族で冠位官位官職・永代浄大一位・賜姓五役・皇親族・律宗族・令外官・家筋等」、挙句は「財力」等一切」のどれを執っても劣るものは無く、寧ろ格段に優れていると云う差があった。
「出自元の母」は「夫人県の犬養広刀自」であるとして、「内親王である」としても「県の姓」は地方の低官僚で極めて低位であるが、一方、「白壁等の兄弟姉妹」の多くは「太政大臣紀諸人の娘の紀橡姫・とちひめ」で「施基皇子の妃」である。
参考に上記したがこの「紀氏」は「飛鳥政権構成五王族の一つ」である。
精々あるとするなら、「賜姓臣下朝臣族・敏達天皇第四世族であると云う事」であろう。
「井上内親王」はこの「解決し得ない格式差」に一族の中で「36年間」、共に生活して悶えたのであろう。
「内親王とする自負心」がそれを解決する事が出来なかったのであり、同じ「母・紀橡姫」とする「青木を仕切るやり手の難波」に勝手に奇行を向けたという事であろう。
それを一族から厳しく排斥に近い形で叱責されていた事に成ろう。
776年まで健康に政務
7 何で6の史実に矛盾しているのか?
記録では、史実の記録では没する直前まで健康に光仁天皇は机に向かって政務していたとするのに、6で何で暗愚を装う必要があるのか?は、矛盾の極まりの疑問であり、天皇は矢張り高齢で781年(778年没説もある)に没している。
そもそも、暗愚を装えば政務は正常に執る事等は出来ない。
確かに、上記した様に「青木氏の資料」では、「744年の結婚前後」には確かに「酒に依る暗愚を装っていた事」は幾つかの文章の行で遺されている。
781年に没する突然の3年前にも又遣った云う事か。そんな事はない。
744年結婚、この時、最低説「54歳・青木説」であるとし、776年の32年間+54歳とすると86歳と成るのだ。
故に「酒の暗愚」そのものが不可能であるし、「井上内親王の件」も既に「775年没」で解決しているのだ。
又、86歳で酒を飲まなければならない程度の人格かと成るし、この程度の人格と云う疑問がありそんなことは無いだろう。
「過去の人生を憂いての事」か、だとしても高齢で没するまで「政務・山部王781年譲位」を譲位せずに熟している以上はこれは「疑問」であるし、“今更この歳で”と云う感じがする。
この「通説からの検証」では、「結婚前後の青木氏の騒ぎ」を捉えて面白おかしくしたとしても、そもそもその「時系列」が間違っているのだ。
せめて「青木氏の歴史観」もあると予想できるのだから、「時系列」でも矛盾の出無い様に合わして貰いたいものだ。
筆者のこの「経緯の結論」は、「伊賀の平族の裔孫」の「妃の高野新笠」の子の「山部王との皇位争い」に巻き込まれていたと観ていて、それを770年以降に「青木氏が推す姿勢を採った事」から発生した事では無いかと観ているのだ。
然し、「青木氏」に伝わるこの「高野新笠のルーツ」と通説とされる説とでは少し違うのだ。
それを参考に追記して置く。
「天智期」に渡来し「伊賀の里」に住し「半国割譲」で住んだ「たいら姓」を賜った「阿多倍王」の「裔孫女」で、その「伊賀青木氏との関係」からその「女・新笠」を「白壁の妾」として迎えたとし、「二人の妾子」を宿すとあり、重要な記述は,"光仁期に「妾新笠」は「高野朝臣」を賜る"とする行がある。
「阿多倍王」は前段でも論じた通りであり、歴史の経緯鳩史実は「天智期の史実」と一致するので、依って「伊賀の女(むすめ)」は「白壁の妾新笠」に相当するのだ。
「宮人」は「妾」に一致していて、且つ、「伊賀女」に相当し、この「伊賀の女(むすめ)」は「半国割譲の伊賀住人の阿多倍王の裔」に相当し、「伊賀女」は「新笠」に相当し、この「妾」に相当して、後の「光仁天皇の宮人」に相当する事に成り、「同一人物」である事に成る。
正式に「白壁の妾」は依って“「光仁天皇の790年に宮人」に成る”は一致している。
そこで「通説との問題」は、「始祖」は「百済系渡来人の和氏」であるとしているがここが大きく違う。
「和乙氏・和気氏」、母系は「宿禰の土師氏」としている。
然し、この「和気氏」は「百済武寧王の子孫」とされるが、歴史的に「伊勢の施基皇子の伊賀領を半国割譲し与えた」とする「阿多倍王以外」には他に記録は無い。
つまり、“「和気氏」の「百済武寧王の子孫」”は明らかに間違いである事が判る。
又、「阿多倍王の別名の「伊賀の高見王 高尊王・平望王」の別名を持ち、「桓武天皇」の「祖父の里」として「伊賀を訪れたとする史実」は「和気氏」には無い。
依ってこの「和気氏」は、「結城氏や額田部氏」と共に「朝廷の三大技術集団」であり、この「土木技術系の和気氏」は、史実は「百済系である事」と、この「一族」は「出雲朝廷」とも関係していた史実とで、「伊賀との繋がり」は別にして、その内容には異論が無いし、従って「伊賀」には歴史的に関係していないので、よくある「和気氏の姓」に繋げる「系譜繋の後付け策」であろう。
この「渡来人の和気氏の通説」は、何れにしても「日本書紀」にも明記されている様に「和気氏には伊賀記録」は全く無く、何かの目的から「渡来系の技能集団」で恣意的間違い敢えて起こして欺いているのである。
この様な事が、兎角、「通説」と云うものには付きまとうのだ。
「室町期中期か江戸初期の後付けか明治維新」で実に多いので此処を以上で先ず質して置く。
こう云う事は歴史で実に多いので良く歴史観を検証してからの説の使用とする必要がある。
注釈として同様な例として、此処では「たいら氏・桓武天皇の賜姓族」と「ひら氏・天智天皇期の大化の改新」で「坂東に配置された第7世族裔系」との混同である。
この「坂東のひら族・坂東八平氏と呼ばれる」に対して、賜姓で「たいら族・桓武平氏と呼ばれる」とし、「天智天皇・ひら族」と「桓武天皇・たいら族」は、その「違い」を賜姓時に明確にする為に命名したとする「記述・記録」があるのだ。
「阿多倍王」も「32/66国無戦制覇」した「後漢の技能集団・618年200万人渡来」であり、「日本書紀等の史書」にも「伊勢の伊賀」と「薩摩の隼人と阿多」を「半国割譲」され、「敏達天皇の孫芽淳王の娘」を娶り、「准大臣」に任じられ、「3つの賜姓・坂上氏と大蔵氏と内蔵氏」を受けている史実があるのである。
この「伊賀」に住した「本家の裔系」が、「桓武天皇」から「たいら姓の賜姓」を授かり、その「長寿阿多倍王の裔系」が「長男の国香・935没―子の貞盛・989年没」であり、後の「平清盛・1118~1191・たいらのきよもり」と繋がるのである。
この「清盛・高尊王より7代目か」は、「1153年」に「伊賀」より「播磨国」を領し、一族は移住したが、この「1153年の段階」で残るは「伊賀青木氏」と「元伊賀族」と「元渡来系族」の「3族」と成っていた。
この3族」を以て通称伊賀者と呼ばれる族である。
従って、「光仁期の段階」では、「妾の新笠」は「618年渡来後の阿多倍王の孫」に当たるが、その人物は時系列より「國香の前」と成り得るので、「長寿阿多倍の異名」として遺るとされる「平望王・高見王・高尊王」と成るのだが、“この「平望王」に「桓武天皇」が土産を持って伊賀に見舞いに行った”とする「史実の記録」があり、「別人」と確定できない。
「阿知使王の子」として「阿多倍王」が「618年」に渡来後に指揮して活動する年齢を15歳とすると、これを「本人」とはするのは年齢的に「人間の寿命」としては無理であり、この「別名・異名」とする「賜姓平望王」と「高見王・高尊王」は「同一とする考え方」は、無理と成る。
そこで「高見王・高尊王」は、その「高齢後の本人別名」として分離すると符号一致する。
筆者はこの「高・・」に着目していていて「高・・を着けたとする根拠」があるのだ。
それは、「白壁}が770年に「光仁天皇」と成った時点で、この「妾の新笠の身分」を引き上げて、この「平望王の父祖」の「高見王・高尊王」の「高」を使って、これを復活させる為に「高野の朝臣姓」を与えたのは史実であるのだ。
唯、別の説もあるので紹介する。
この「高野」は「白羽の矢を立てた孝謙天皇の別名」で、「高野皇女」と呼ばれ「高野朝臣」とした時期が在った事が史実にあり、この高野を新笠に与えたとする説が伊勢にある。
この説は伊勢に執っては重要な意味を持ってくる。
それは、「孝謙天皇」は、「白壁の妃」であった「伊賀の新笠」に、この「高野」を与えた事で、高野新笠と呼称する様に成ったとし、「高野朝臣族」から嫁いだとして格式を引き上げた事に成る。
つまり、この説であると「孝謙天皇」は嫁がせた姉の「井上内親王」を無視した事にも成り、同時に信用していなかった事に成る。
これが後の井上内親王の鬱を招いたとする事にも成る。史実の前後の経緯が一致しているので必ずしも俗説とはならない。
「高見王・高尊王」の「高」は息子の桓武期の後の経緯の事と成るので「高野朝臣説」が正しいと観ている。
「高見王・高尊王」には、既に上記の通り「敏達天皇の孫の芽淳王の娘」を娶り「准大臣」にし,その子に賜姓して「三つの賜姓」をして「天皇家の一門」に加え「格」を与えている。
つまり、従ってこの「無格式号の平望王・この王名は後漢の王位」も「高齢」と成った処で「本人の号」としてのこの「別名」を与えたのであった。
この「平の姓」から「たいら族」と成っている。
そして更に「光仁天皇」はこの「平望王」に日本の「姓の朝臣姓の高野氏」を与え、その子孫で「白壁の妾」と成っていた「新笠」には、この「父一族の賜姓の高野」を名乗らせた事に成るのである。
これは現在でも「格式ある家筋」で行われているもので「当時の習慣」であった。
つまり、時系列から追えば「桓武天皇」と成った訪問時に「賜姓」をしたが、矢張り高齢と成っていた“「平望王」”が「新笠の親」であった事に成るのだ。
つまり、故に「たいら氏の賜姓の平」と成っていると観ているのだ。
然し、前段でも何度も現在も論じたが確定はされない。
此処では、時系列と状況証拠が一致するので先ず間違い無いと思うが、「新笠」は“「平望王の娘」”とする。
733年に追尊能登女王
737年に追尊山部王・桓武天皇
(744年に白壁は井上内親王と婚姻)
750年頃に追尊早良王
以上を「妾」として3人を生む。
「白壁」が「天皇」に成った「770年即位」の「前の事」である為に、この「3人」は未だ「青木氏の妾子」であり、その「皇位の継承権」はこの段階でも全く無かったので「追尊王」と成る見込みも無かったのだ。
要するに、「最高の格式の伝統」は有すれど「普通の商いをしている四家の青木の子供」であった。
この様な状況から、「井上内親王の事件と混乱」は、「白羽の矢」から始まり。遂には「婚姻と即位と云う事」に発展して、益々、激しさを増す中で、未だ「皇親族であった青木氏」としては放置できなく成っていたと観られる。
これは「施基皇子の氏是に反する事」ではあり、「律宗族」に反し、「賜姓五役」、「9つの縛りの掟」、「四掟の信頼失墜」、「妻嫁制度の品位低下と混乱」、「嫁家制度の失墜と非難」、「伊勢郷士衆の氏族の信頼と非難」、「氏上御師様の信頼失墜」に繋がる事として「介入する事」の以外に無く成っていたと考えられる。
それが、上記した措置であったのであろう。
念の為に追記するとこれを観ると、「孫域」では「天智天皇系」からすれば「曾孫域と成る桑名殿」などは選ばれている筈の「適任者」であったが、「天智系説の理屈」や上記した様に「そうでない他説」としても、矢張り、「称徳天皇の考えの根底」では、「吉備真備」などから報告され、且つ、自らも伊勢に何度か赴いている事から、彼等が「白羽の矢」に逃げ惑っていた事は当然に知っていた筈で、然し、この「歳を取った暗愚を装った白壁以外」に「彼等が思う適格者」は居なかったのでは無いか。
つまりは「青木の騒ぎは見抜いていた事」に成る。
つまり、「四家」には成っていない「白壁・六男」と決めた裏のこれには、「青木氏族の財」と「神道仏道の融合」の「律宗族の存在」を片目で観ていた事に成り、つまりは「利」を含めた「総合判断と云う事」に成るか。
つまり、「四家」を選べば「商い」は損なわれるし、「伝統の継承」は損なわれる。
然し、「54歳の白壁に白羽の矢」には「平均寿命55歳」、つまり、再び「天皇家の継承嗣」の問題は解決し得ない可能性もあるのに「白羽の矢」を立てたのだ。
これはどう捉えたらよいかと云う事に成る。
史実は「継承嗣」は、幸いに「10年後の754年」と「17年後の761年」に叶えられたのだが、「770年没の称徳天皇」はこの事を“承知であった事に成る。
この目的の一つが「継承嗣を天智系で造ると云う事」であるならば「目的」はなかなか達成できていなかったのであるから、「754年までの10年間」にはどうするつもりであったのかである。
筆者は、「天智系」で云えば最も近い「近江佐々木氏」であり、それと「伊勢青木氏」の中で「他の者を選べば良い」と考えていたのでは無いかと観ているが、矢張り「利に最大目的があった」とすれば「財が伴わなくてはならない」としている以上は、「井上内親王」を無視してでも「青木氏の中」で選ぼうとしていたのではないか。
それが、上記した様に、だから「孝謙天皇の皇太子時」の 「高野皇女の 諱号」を与えて「高野朝臣」にして「朝臣の姓」を「新笠」に与えたと観ているのだ。
ところが「子供」が10年後に生まれたとして「揉め事」が起こって仕舞って「井上内親王」は「天皇家と青木氏」に最早見放されたと成るのであろう。
そもそも、呪詛するのであれば「一番最初の相手」は「追尊難波王」では無く「高野新笠」と成るのが普通であるのに呪詛されたとする記録は全くないのだ。
故に、初めから「井上内親王の云々」では無く、且つ、「近江佐々木氏」では無く、「その財に重点目的はあった」と観ているのだ。
だから、上記する様に「伊勢内部」は影響を最小限に留める為に「井上内親王の事」に厳しく動いたのだ。
この事に、「神野王の孫嵯峨天皇」は口伝や噂を聞き及んでいてその「伊勢のやり方」に不満を持っていたのかも知れない。
だからより格式社会を強引に「伊勢や信濃」や「伊勢郷士衆50衆の反対」も押し切ってでも造ろうとしたのかも知れない。
「青木氏の伝統 66」-「青木氏の歴史観-39」に続く。(43P)
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「青木氏の伝統 64」-「青木氏の歴史観-37」
> 「青木氏の伝統 63」-「青木氏の歴史観-36」の末尾
> 「織田軍と今川軍」が衝突する様な場所は、凡そは予想が着くとするならば、又、其処辺りには「神明社と春日社」が在るとするならば、上記の様な戦略を事前に立てるし、事前に「駿河青木氏」や「額田青木氏」には「事前連絡・伊賀者」は着けていただろう。
> 何せこれを行う「情報・伝達組織」には「伊賀青木氏の香具師」が存在し全く苦労はしない。
> 「行軍・戦い時の兵糧の運搬・駿河青木氏」もあるとすると、「伊勢水軍・駿河水軍」と「伊賀青木氏の香具師の隠密行動」も必ず必要であった筈である。
> これ等の事は「他氏には絶対に出来ない行動」であり、「氏族の強みを生かす事」でもあったのだ。
> 前段や上記でも論じた様に、「額田青木氏の銃隊と荷駄50」と「駿河青木氏の隊・100」には「伊賀青木氏」を組み込んでいたと論じたが、当にこれを証明するものである。
> 上記の論だとするとして、これに「追加する事」として、訓練中であった「額田青木氏の銃隊」は「桶狭間の前の前哨戦」の「小豆坂の戦い」の「一次戦」に「軍事演習的行動」として依頼されて参戦しているが、この事も考え合わせると、「額田青木氏の銃隊」の「一部」が「伊賀青木氏」と共に、「伊川津域」に国衆として定着する「少し前・4~5月程度」の「桶狭間」に、“「一族の誼」”として「駿河青木氏の青木貞治隊」にも密かに合力していた事も考えられる。
> だとすると、桶狭間の敗戦では“上記の筋書き通りに簡単に安全に脱出出来た”と観られるのだ。
> その証拠に、故に、記録に遺る事もない程に「駿河青木氏の青木貞治隊」は犠牲無く脱出出来ているのだ。
> ここに後に「完全に生き残っている事 イ」と、「二俣城の副将と成り得ている事 ロ」の「論の焦点」が来るのだ。
> そして、その後に「松平氏の家臣・御側衆・旗本 ハ」と成り得ている事のイ、ロ、ハと下記のニ、ホを勘案すると、「上記の筋書きの状況証拠」は成立するだろう。
> 況や、「桶狭間」で二俣城城主が討ち取られる「大犠牲の大混乱の真中・逼迫戦」で奇しくも「青木貞治隊」が生き残り得たとすれば、例え、「松井氏の衰退」で「徳川氏・松平氏側」に着いたとしても「松平の国衆 ニ」にも成り得なかった筈であるし、又、其の後の「駿河・相模青木氏の支援」を得て「兵力・200」に増やし「二俣城副将 ホ」にも成り得ていなかった筈だ。
> 要するに、「青木氏族の生き遺りの為」に、「戦乱の中」では「唯一の抵抗手段」の「大抑止力」は働いていたと云う事になろう。
「青木氏の伝統 64」-「青木氏の歴史観-37」
(注釈 「前段の当時の慣習の理解」
前段の疑問の、“B 何故、この時期に訓練中の「額田青木氏の銃隊」が「三河国衆・1560年」と成ったのかである。”に付いて続けて論じる。
つまり、先ず時期が「駿河青木氏・青木貞治の桶狭間の戦いの時期」に合わせている事である。
前段では、これに付いて「額田青木氏の銃隊」の「単独の論としての1560年」を論じた。
然し、前段では論が複雑に成り得て論じるのが難しく分けて論じたが、ここまでは「駿河青木氏・青木貞治の論」を「詳細経緯として論じる事」が出来たとして、故に、ここでは「この二つの因果関係」を「B」として論じる。
先ずその前に何度も論じている事ではあるが、それを正しく理解する為に次の事を先に論じて置く。
つまり、前段で論じた通りそれは「伝統」として「青木氏族の異質な事柄・異質性」が“「生存の大きな枷」”に成っていたとしていた。
その中でも、この「伝統・異質性」に付いては奈良期から室町期までには「慣習仕来り掟」が室町期の戦乱に依っての社会変化と共に徐々に変化した事である。
この「変化の中」で未だ霧消する事なく「根本的なもの」は遺されていたのだ。
この「根本的なもの」には幾つかあって、これを理解しなければ「正しい青木氏の歴史観」は導き出されないのだ。
それは「青木氏族」は、他氏と違って「特異な立場であった事・伝統・異質性」で生き遺るには「苦しい環境」に置かれていたと云う事なのだ。
この「特異な立場であった事・伝統・異質性」について未だ「下克上で姓化・第二の姓」をした「社会一般」は充分に認めていなかった事だ。
その「特異な立場であった事・伝統・異質性」を持ち続けていた事では、代表的なものとしては「足利幕府」が「白旗派の浄土宗・原理主義」を認めた事と共に、“「伊勢と信濃の賜姓青木氏」が「律宗族」”である事をも認めた事であった。
この時代の「特異な立場であった事・伝統・異質性」を含有する認定であった。
それは姓化する社会の方向性に対して、真逆の認定をした事であった。
これを一般社会は驚いたであろうし、どの様に扱うか迷ったのではないか。
これが「社会と青木氏族との間の矛盾」と成って現れたのであろうが、それをここでその視点で論じて置く。
念の為に、その前に前段の論に追加して、“「室町幕府・義満」が「律宗族」として認めたのか、この事に付いて”将又、“「青木氏」が認めさせたか”であるが、これに依って論の結論は大きく変わる。
この史実を両方の資料から読み込む経緯としては次の様に成って行く。
「室町幕府・河内源氏族」には、「各宗派の争い」と「宗内部の派閥争い」が激しく起こっており、且つ、又、武力勢力とも結託して「政治に影響力を及ぼす宗教」と成っていたが、これを鎮めるべく決定を下した事であるとしてこれが「一つの定説論」と成っている。
これが「宗教力の格式論説」である。
「伊勢信濃の青木氏」は、この唯一持ち続けた「特異な立場であった事・伝統・異質性」と、「社会との乖離の解消」と、「一族生き遺り」を成すが為に「朝廷には献納」をし「室町幕府には冥加金」で働き架けをした事が「商記録からの史実」があって、この説に依っての「格式擁立論説」が成り立つているのだ。
当時のこの状況証拠から「以上の二つ」から読み取れるが、何れに於いても「青木氏側」に執っても“利に叶うもの”があって、少なくとも最低、「青木氏側」は “両者に対して合議には及んでいた事”は充分に考えられる。
「青木氏族の歴史観」の側から考えれば、これは「青木氏の再格式擁立論説」と成り得る。
それが奈良期より長期に於いて「異質性の伝統を補完し続けた律宗族」であったとされるのだ。
「現実の史実」は、室町幕府は自らの「幕府の権威の低下」からも「朝廷」を再び前面に押し出すより「律宗族として宗教力」を使って「幕府の権威低下」を補完しようとしたのだ。
一方で「青木氏族」は「紙の生産と鉄生産、及び各種の殖産」で「巨万の富」を獲得していたのだ。
果たして、室町期に於いて「青木氏側」が「律宗族」と成り得なければ成らないかの「利」に対して「疑問x」がある。
因みにこの「異質性の伝統を補完し続けた律宗族」に付いてその経緯を改めて下記に詳細を記述する。
恐らくこの「疑問x」は判明するだろ。
「室町幕府」には、「浄土宗14派」の中で「超最小派で白旗派」があっても、「聖聡等」が世に出て何故か興隆させて何時しか短期間で他派と他流を圧倒していた時期があった。
この「白旗派」には、「皇位性」とそれに基づく「宗脈・戒脈相伝の伝統」があるとして、つまり、奈良期から固く護り続けて来た「伝統・9つの縛り」の中に“「五戒の相伝論・律宗論」”があるとして、その「位格式」を前面に押し出しその「位」を以て信頼を勝ち得て他派と他流を圧倒したのだ。
これが要するに“「律宗族」”に繋がるのだ。
これに基づき僧侶でもあった「三代目足利義満」は、これの「白旗派律宗論」を認め、その「皇位性の相伝」の「伝統氏の青木氏」を「律宗族」として認め、これを相伝するも廃れていた「知恩院・1548年」を再興建立を命じたのだ。
これを「1575年」には27年遅れて「正親町天皇」よりこの「再興した知恩院」を以て「正式な浄土宗本寺・足利幕府承認」に伴い「正式承認・追認」を受けたのだ。
これに依って「浄土宗」へ「統一の格式・香衣付与」と「剥奪不可の権限・毀破綸旨の令」を授かったのだ。
況や、「奈良期・天智天皇の勅令」から保持する「伊勢信濃の青木氏への不入不倫の権」を改めて930年後に正式に「朝廷」よりも追認されて与えられた形と成ったのだ。
「家康の江戸幕府」ではこれを更に追認し、幕府に依って正式に確定させる為に「浄土宗諸法度・1615年」が制定されたのだ。
この経緯を経て「知恩院」を「門跡寺院・皇位族・律宗族院の本山」と認定されたのだ。
これを受けて「幕府の格式化」を図る為にも利用され「徳川氏の菩提寺の増上寺」をその「知恩院の格式」を借りてこの「知恩院の下位に置く寺」と定めたのだ。
「利」に対して「疑問x」には、上記の「律宗族の確定」と「白旗派知恩院の格式化」を成すと云う詳細経緯があって、「念願の青木氏族の目的」が遂に再び蘇って達成されると云う事に繋がったのだ。
つまり、「律宗族の確定」と「白旗派知恩院の格式化」は裏を返せば「青木氏族の格式化を蘇させた事」に成ったのだ。
果たして、筆者には“その必要性があったのか”は最早必要であったのかが疑問であって、それに比するものを全てを獲得しているのに何故か伝えられているのだ。
その時の「四家の福家の考え方」を聞かなければ解らないが、戦乱の中での事であるので、それを咀嚼すると、矢張り、残るは「抑止力の強化」にあったのではと考えられる。
得られる「全ての抑止力」を持ったが、残された後の抑止力は唯一つで、それはあやふやと成っていた「過去の格式化」を蘇らせて、「伊勢」と共に「青木氏族」の「不入の権を獲得する目的」が「福家」には在ったと考えられるのだ。
現実にその戦々恐々とした「福家の懸念」は的中したのだ。
それは当初は「戦乱」であって、後にはこれらの考え方を全面否定する「織田信長と秀吉の出現」であった。
「伊勢」が破壊されれば「青木氏族全体」に及ぶ事は必然で、先ず伊勢では官僚の「北畠」が奈良期からの「不入の権」を無視して入り、これを「信長」が潰しその後、「紀州伊勢攻め」が始まり、「秀吉・紀州征伐」が続き、江戸期では「外枠の格式」を外され、最後は「明治維新」で薩摩藩などのゲリラで本体に「焼き討ち・打ち壊し」を仕掛けられたのだ。
さて、そこで“B 何故、この時期に訓練中の「額田青木氏の銃隊」が「三河国衆・1560年」と成ったのかである。”の疑問の解決の検証に戻す。
上記の斯くの如しである「特異な立場であった事・伝統・異質性」の「律宗族の所以」を以て、ある程度の“「嵯峨期の9つの縛り・五戒相伝」”を護った「摂津源氏四家・頼光系」の一族の中には、兎も角も「姓族・第二の姓」は無いのだからとして、「摂津源氏・清和源氏系」は「四家構成の氏族」とも云えると云う立場を保全していた。
況や、「准律宗族と云える格式」にあったのだ。
余談だがところが、後世の「河内源氏」はこの「里・摂津の格式」を利用して、こっそりと知らぬ振りして「准律宗族的振る舞い」をした事に成るのだ。
注としてそもそも「新撰姓氏禄」では、「頼信系源氏」は“「嵯峨期の9つの縛り・五戒相伝」”で、「対象族」として編集から「資格的に外されている事」から、当初から「真人族」の中には入れずに、「朝臣族だけの格式」にされて外されていた事に成る。
将又、根本的に「朝臣族」にも加えられていなかった筈である。
この史実は、「満仲蟄居事件」と「嵯峨期の9つの縛り」で明らかに判る。
「新撰姓氏禄」は当初より「朝臣族」は「嵯峨期の9つの縛りの前提」にあった事に成る。
其の後、「賜姓源氏」は「摂津源氏・頼光系」を除き、この「嵯峨期の9つの縛りの前提」を遵守しなかった史実があるのだ。
と云う事は、元より書き換えられたとする説もあったが、この「嵯峨期の新撰姓氏禄・715年」のそのものは、現在は原本が紛失しているが、「1106年・満仲より4代目」で「後の1197年頃・義家期」の頃に「1039年頃に“「朝臣族」”に書き換えられたとする「可能性・書換説定説化」があるする説が今では定説と成っていて、従って、「原本紛失」そのものは室町期説はこの時期前後と云う事になるか。
確かに「時代性」から観てこの説には反論する為の無理がない。
つまり、その大きな根拠は、一時、“「立場格式・名誉回復」”を「河内源氏の義家」が成し、最も復興させたとされるが、それがその時期が「院昇殿を許された時期の白河法皇期」に当たる事に成るだろう。
つまり、「昇殿の格式」を得た事でこれを笠に着た「義家傍若無人期」の行為でもあるだろう。
「昇殿の格式」を得た事は確かに「朝臣族」には返り咲いた事には成る。これを以て「書き換えたとする説」であるし、「書き換えた」としても無理はない事に成り、恐らくは河内源氏としては書き換えたのであろう。
そして要するに、“一族に執って拙いこの原本を隠匿した”との「隠匿説」もが成立するのだ。
其の後の室町期に入って「姓族を書き足した事」が根拠に基づかない脚色段階に入り「完全隠匿の行為」に繋がったのであろう。
他にもこの説を裏付ける証拠がある。
そもそもそれはこの「原本」には本来無いと観される「河内源氏系の卑属族」が、そもそも「時系列の時期」が「異なる一門裔」として追加されている事である。
「嵯峨期の原本」に「室町期の姓」が書かれている事は時系列からあり得ない事であり見破られているのだ。
そもそも「朝臣族」が限定されていた「新撰姓氏禄」であるのに、その満仲期で朝臣族から外された裔系が記載される事そのものが有り得ない事でもあるのだ。
そこで、その前に「律宗族」に成り得てその基と成った「嵯峨期の9つの縛り・五戒相伝」の処で論じた「理解の要素」と成り得る「注釈イ」と「注釈ロ」を先に追記する。
これは「鎌倉期」を除いて「奈良期と平安期と室町期」の「三文化の広範」に及んだそのものであって、中々、纏め上げるには難しいが敢えて試みる。
前段でも論じたが歴史観を高める為にも論じる。
・「注釈イ」は、そもそも上記の通り「姓の判断」には、「嵯峨期の新撰姓氏禄」を根拠とする「諡号の姓・第一の姓」と、「諡号族から外れた民」を根拠とする「姓・第二の姓(室町期に発生)」のところの二つがある。
多くはそこを同じ様に混同されている処があるが、実は「奈良期―平安期―鎌倉期―室町期初期頃」までは「諡号の姓」と「諡号無しの姓」が比率を変えながら混在していて、徐々に「諡号無しの姓」が戦乱で戦う者が必要として増加して行くが、処が本来は別々のものであって「使い方・格式」は違っていたのだ。
「910氏程度」の「諡号の姓・第一の姓」を持つ族は、その「出自の格式」を意味するが、一方で「民」などが戦乱期で「武士」に伸し上がり「土豪・国衆」と成り、勝手に名乗ったか、買い取ったか、弱体した「諡号の姓」に入り込んで「血縁」で血筋を獲得したかの「姓」は、この三つの何れかに依って「姓名・第二の姓」を自助努力で獲得したのだ。
この三つが室町期からの「下剋上の第二の姓」であり、又、別に「新撰姓氏禄」にある「第一の姓族」の生き遺った殆どは、「統治用に持ち得ていた武力」を生かして生き残った「官僚族や押領使や弁財使等」であったのだ。
ところが「諡号の姓族」の中でも「新撰姓氏禄」に加えられる程に別格であったこの「摂津源氏・嵯峨源氏との融合族」は、「皇位族の臣下朝臣族としての純血性血縁」を護る為に「四家制度」を一応は構成はしていた。
然し、朝廷が認める「正式な氏族・9つの縛り・五戒相伝・賜姓五役」と云える程の格式相伝も無く、更に「限定された氏人・単独男系血縁族」を持っていなかった事でそれ故に直ぐに消えたのだ。
・注釈ロ 「青木氏族」は臣下した時から皇族内の政争に巻き込まれない様に「女系血縁族・四掟範囲で純血保持」に変換したのであって、先ず「血縁の面」でも「慣習仕来り掟の面」でも故に女系としての統一した「律宗族」と成り得ていたのだ。
「嗣子」は他氏から入らない為に、全て「母の子・嗣子・男子」が「氏の四家の何れかを継ぐ事」で統一して変化しない「伝統・純血性と慣習仕来り掟」は保たれた。
これが確定した伝統の「四家の前提」と成り得て、且つ、「五戒相伝の律宗族」と成り得ていたのだ。
例えば、「伝統の異なる男子」が「青木氏の氏の跡目に入る事」や、「女系が四掟で護られていない事」等で持ち込んだ“「男子の家の伝統」”のみで一時的に統一されたりする事で、その継承毎に「伝統」が混濁して保てない事に成り得る。
ところが、ここが異なり故にこの女系の範囲を限定する為に設けた「四掟」も「律宗族の所以」の大きな一つと成り得ていたのだ。
だから、「臣下朝臣族の立場」にあり乍らも、この何れにも属さない衰退していた「三代目以降・二代目まで公家族」等は、「初代源氏の嵯峨源氏・神野・賀美野に在郷」を京に呼び寄せて融合して「朝廷が認める氏族の格式」を構成していたのだ。
然し、その「格式を保つ手段・条件」として「皇位族としての縛りの最大の禁じ手の一つ・武力保持」を破り、「清和源氏と嵯峨源氏」は身を守るために共に融合して「武力」を持った。
それ故に「源満仲の事件」の様に蟄居されて追放されて“「律宗族の資格」”を失って仕舞ってのだ。
つまり、「嵯峨源氏」も「満仲の清和源氏」もここで「五戒相伝の氏」としての「最も重要な戒の資格」を失い消え失せたのだ。
この事で、この「父満仲の失敗」を取り戻すべく、所謂、この「資格」を取り戻すべく「長男・頼光」は「藤原道長」に近づき各地の国司代を務め「五戒相伝の氏」として再び認められるに至ったのだ。
この時、その「国司代」を務めるべく「禁じ手の武力」は、「道長に命じられた公務」を「果たすべく手段」として認知されて、「五戒相伝の氏」として「四家を構成する事」を許された。
当然に、その為に「四家」に伴い頼光系には「四掟の戒」が課せられたのだ。
この「五戒相伝の資格」は「頼政―仲綱」まで引きがれ頼政は「従三位の公家貴族の資格」まで破格に取得し戻したのだ。
ここで「武力賛成派・三男頼信・河内源氏・縛り無視・姓派」と「武力反対派・嫡子頼光・摂津源氏・ある程度の縛り賛成・氏派」の二派が起こったのだ。
それにより、「二代目満仲・武力派」の賛成派は「公家・武家貴族資格」も消失に及び、朝廷より厳しく排斥され遂には「蟄居刑」を命じられた。
そこでその子の賛成派の「三代目三男の頼信」は、河内に逃げ延びて「武力」で定住地を確保したのだ。
「次男頼親は大和源氏」と成るも荒れて「再三の事件」を起こし遂には土佐に配流と成り、「最も重要な戒の資格」をも失う結果と成ったのだ。
然し、この「河内源氏」は開き直りこの「縛り」の一切を無視し勢力を高める為に尊属卑属に関わらず「姓族・第二の姓」をどんどん作ったのだ。
最後は系譜系統も判らない程になったのだ。
故に、「五戒相伝の資格・9つの縛り」の保有する「正統な源氏」であるかは疑問なのであって否定される所以と成っているのだ。
つまり、此処で明らかに「律宗族」では無い事に成ったのだ。
上記の通り、この「資格」を有しない事から朝廷から拒否されたので、そこで「鎌倉幕府の樹立」の為に、「准資格有する頼政の跡目」として言い立てたのだ。
依ってこの「五戒相伝の資格・9つの縛り」は鎌倉以後に有名無実と成り以後無視されたのだ。
然し、「室町期」に成って上記した様に「五戒相伝の資格・9つの縛り・四掟」の「伝統」を護る「女系族の青木氏族」に対してのみ「神明社と春日社」、「浄土宗白旗派の清光寺と西光寺・密教原理主義」の「伝統」を長く護る「四掟の氏族」として、又、改めて「賜姓族・賜姓五役」としも守り続けたこれを以て“「律宗族」”としての「格式権威」のこれを復活させたのだ。
この本来、「五戒相伝の資格・9つの縛り」の無い「足利幕府」は、“「律宗族」”を認める事で自らも正当な格式があるかの様に振る舞ったのだ。
その証拠にこの「戒めの名」、即ち「戒名」は「浄土宗・密教浄土宗・原理主義」の「白旗派・皇位族・高位族が帰依」に帰依する「律宗族」には、「生前に持ち得る資格」として与えられ特別に許され得度としたのだ。
要するに、古来からの“「院殿居士」”の「仕来りの権威化・格式化」であった。
因みに、この「消えた名誉な号の伝統」を蘇させるとして、「院」は「院号」、「殿」は「誉号」、「居」は「戒号」、「士」は「位号」に相当させ白旗派の族に許可したのだ。
つまり、古来より「密教」であった頃より「帰依する皇位族の仕来り」として用いられている「密教浄土宗の戒・戒号」は、次の様であった。
「五戒相伝」の「伝統」を維持している事に依って、「新撰姓氏禄」に記されている「48朝臣族/910の氏族・平安期初期・48/110」の「他氏」と異なり、その「戒」に基づき「生前の格式」として「院号」「誉号」「戒号」「位号」の「4つの号」を格式として持つ事と成っていたのだ。
取り分け、「皇位族の伝統」の「五戒相伝」にある様に、この「戒の号」は、「号の格式」が低下して無くなり鎌倉期頃からはある程度の身分階級に一般化してこれを戒めの誉の号を“「戒名」”と後に称される様に成ったのだ。
これが上記する「鎌倉幕府の源氏の所以」で起こった仕儀であったのだ。
この時、「戒の号の習慣」が遺る事は、「頼政系を利用した頼朝系」を疑わせる事に成り、これの印象を排除したい為に、もつと云えばつまりこれの関係者に従わせる為に、「白旗派」に「鎌倉幕府」から強引に圧力が掛かった事が平安期より他派よりも更に衰退に繋がったのだ。
「48の帰依族」から「青木氏等の10程度」の極めて弱小派と成って仕舞い、故に室町期では「律宗族」としたのだ
「奈良期からの原理主義の概念」が衰退し「日蓮宗等の他流派」が逆に隆盛を極め始めたが、「皇位族の伝統」に依って引き継がれて来た「五戒相伝の衰退」も「白旗派」に「鎌倉幕府からの強引な圧力が掛かった事」がこの根本原因であつた事は頷けるのだ。
然し、ここには「大きな矛盾」が潜んでいたのだ。
それは「鎌倉幕府」と云うよりは「頼朝」に矛盾があった。
それは、「頼朝」はこの「白旗」を「軍の旗印」とした事であった。
当然に「白旗」なら「神明社・神教」であり、「浄土宗・仏教」である「神仏分離の享受」であるが、頼朝にはところがここに無理があって違ったのだ。
この上記の「五戒相伝等の矛盾」をかき消すかの様に、その信じる処を「八幡菩薩・仏教」とした。
それは同時に「神明社」では無く「八幡神社・神教」で且つ「神仏習合の享受体」、つまり、「仏教擁護の神」と云う「無理な概念」を造り出したのだ。
ここが正当な伝統を守っていなかった事が「矛盾の大きな違い」として出たのだ。
ここが世間から非難され「鎌倉幕府の基幹の権威」が低下した故と成ったのだ。
「北条氏等の坂東八平氏」、つまり、元皇位族7世族以上は坂東に配置されたその族」で彼等に執ってはこの「矛盾」は「執権制・政権奪取」を敷く上で都合が良かったのだ。
その「根拠」を、論外であるが追記する。
そもそも「清和天皇の即位・859年」に、「南都大安寺の行教」が「宇佐神宮」に参詣し、その時に「御託宣」を受けたとし、「男山に移座し国家を武家で鎮護せん」としたとすると云うのだ。
この「清和天皇の命」で上記した様に「石清水八幡宮の神仏享受体」が創建されたのだ。
この「石清水八幡宮」は、其の後「国家鎮守の神」として崇敬を集め、取り分け「清和天皇の河内源氏・源頼信系の姓族」は崇めたのだ。
「武家社会の許」で「武家の神と仏」として「鎌倉鶴岡八幡宮」はこの「信仰」を集めたのだ。
話は都合よくまとめられているが、要するに「天皇家」はそもそも「皇祖神」であり、「仏教の事」のみならず、況してや「武家を推奨する事」は、自らの天皇家を否定する事に成り、「矛盾の極み」であり、この上記した「矛盾」を克服する為に、その中間の「八幡の神仏享受体」を頼朝は造り上げたのだ。
「欽明天皇と用明天皇」 「飛鳥寺と法隆寺」 「蘇我氏と物部氏」が基点と成って朝廷内で信仰して興つたものであり、上記した様に「庶民の仏教」はずっと後の鎌倉期の事である。
その間の「朝廷の考え方」は矛盾から脱出する為に「詔の発出」に迫られていた。
この様に、“国家として「仏道」にはその必要性を感ずるが、「神道」を根幹とするは変わりは無い”として詔を出して「豪族間の争い仏教派と神道派を鎮めるに躍起に成っていた。
故に、鎌倉期では「八幡神社・神教」と八幡菩薩・仏教」で「神仏習合の享受体」が都合よく河内源氏の幕府に執っては成立したのだ。
此の反対側に居た「五戒相伝の青木氏族」に執っては「社会の流れ」とは反対側に居て難しい立場に置かれていた。
然し、仏教も積極的に取り入れる立場を保っていた事に成る。
寧ろ、これも「青木氏族の自らの矛盾の期」でもあった筈だ。
「伊勢」で「青木氏族」が当に世に引き出される「直前・白羽の矢・孝謙天皇期・聖武天皇期」の時期、つまり、この「東大寺大仏の建立」と「鑑真招来による律宗概念の導入」が原因していたのだ。
「青木氏族」では調べると、この「鑑真律宗の法界の戒律」が、遂には上記したその「朝廷の考え方の影響」を受けて、「神明社と古代密教浄土の仏教」の「古式豊かな神仏融合の原理主義の伝統」を守って来た「青木氏等」にも適用される様に成って仕舞ったのだ。
その結果の影響を受けて「律宗族」と成って仕舞ったと云う経緯である。そうでなければ氏是゛に依って「律宗族の指定」とは成らなかったであろう。
その大きな原因は「守護神の神明社の神職」や「菩提寺密教の清光寺の住職」は「自らの氏の者」が務めるとした「伝統の事」にあったのだ。
故を以て室町期に「律宗族」と再任される結果と成ったのだ。
要するに、“理利に反する”としても「再認される事を拒む根拠」は「青木氏側」には何も無かった事なのだ。
そのターゲットが伊勢信濃に置いていたとしても「秀郷流青木氏」も同然であったろう。
故にその証拠として、この「五戒相伝の伝統」の「院号」「誉号」「戒号」「位号」の「4つの号」の「格式」は依然として「伝統」として頑として保たれていたのだ。
これに付いて本来は反対し圧力を加えて来る筈だが「鎌倉幕府」は何故か黙認した事を意味する。
興味深いのは、社会が替わろうと何故かこの「頑なな伝統」だけは現在でも遺るのであるし、この部分に於いてはこの資料関係を遺している所以であろう。
ここで重要なのは、前段でも論じている事でもあるが、「律」は「全体の行動の戒め」であって、「戒」は「個人の戒」と定義されている事に成っている。
「青木氏の資料」から読み解くと、「律」は「刑の事」であって、「令」は「民の事」と定義して明記している。
とすると、「青木氏族に於ける律宗族」は、「律」である所以である以上は「青木氏族全体」に課せられた「戒」であって、「戒宗族」とは成っていない。
故に氏が定めるところに於いて反すると罰が下る定義である。
要するに「個人の戒」で無かったと云う所以と成り、「青木氏」に課せられた「戒」では無かった事に成るだろう。
つまり、「五戒相伝の伝統」の「院号」「誉号」「戒号」「位号」の「4つの号」の「格式」はこの時代に於いても未だ「一族全体が護っていた伝統」と成り得る。
これは「伊勢信濃の青木氏族」と「女系で繋がる秀郷流青木氏」の「二つの青木氏族」に課せられていた「五戒相伝の伝統」であった事を証明するし、これが「格式」と成り前段で論じた論説に符号一致する。
逆に云えば、何れの源氏族にも「五戒相伝の伝統」は適用されていなかった事を意味し、河内源氏系の頼朝等が主張する格式は有していなかった事に成る。
それを「河内源氏系足利氏の幕府」が、「二つの青木氏族」を「律宗族」と認定したのには興味深いものがあるし、「正親町天皇」が70年後の相当遅れて追認したのは歴史的に意味を持ち頷ける。
この「五戒相伝の伝統」の「院号」「誉号」「戒号」「位号」の「4つの号」の「格式」は、「賜姓五役」の任にも通ずる事に成り、「五戒相伝の伝統 イ」=「賜姓五役の伝統 ロ」と成り得るのだ。
「五戒相伝の伝統 イ」=「賜姓五役の伝統 ロ」の役務の時系列は同じであり、イがあってロが成り立ち、ロがあってイが成り立つ相関関係にあるのだ。
故に、「足利幕府」と「正親町天皇」の「律宗族認定」は、「五戒相伝の伝統 イ」は兎も角も「賜姓五役の伝統 ロ」をも認めていた事を示すものだ。
もっと云えば、「青木氏族」が「古来より持つ伝統」の全ては「イとロ」に相関して成り立っていると観て居るのだ。
決して「律宗族」の格式認定だけでは無かったのだ。
「大義」はイにあり、「目的」はロにあったと考えられる。
ロに持つ「経済的潤い」に狙いがあった気がする。
幕府や朝廷が「経済的潤い」を受ける以上は「非難される点」を除かねばならない。
この「当然の務め」として「賜姓五役のロ」にあったと考えられる。
「昔の永代の務め」を廃れているのに今に成って「ぶり返して来たと云う事」であろう。
「足利幕府」と「正親町天皇」は、その様に考えていたかは定かではないが、少なくとも「正親町天皇」は思っていた可能性は充分にあり得る。
何故ならば、前段の「殖産の論」の「献納の処」で論じた様に、裏で「賜姓五役」の「令外官」として「紙屋院」に始り「絵画院」・「繪処預」等を務め、「鉱山開発・硝煙開発」等は平安期初期までは「伴造と国造りの統括支配の役」で務めていたとされるからだ。
この時の支配下にあったが「役務名」に付いては詳細では無く「院名不記載」である。
これは恐らくは、敢えて特別に「院号」を与えられず「伴造と国造りの統括支配」の許で“「令外官」”として務めていた事が間違いなく考えられる。
「幕府」は兎も角も「朝廷」には無理がない事が云える。
何故ならば「平安初期」からは「嵯峨期の詔勅禁令」で「皇親族・賜姓族」を外されたが、“「令外官」”で「国造や伴造」を配下にし、且つ、自らも「専門技術を有する青木氏部」を有し、又、当時にその「殖産の専門技術者集団の額田部氏」と連携もしていたのだ。
鉱山開発には額田部氏との連携があったと考えられる。
そして、「途方もない大財源」を必要とする「鉱山開発・硝煙開発等の殖産」では、朝廷内ではたった「18氏しかない臣下族朝臣族」では果たす事は到底出来ず、これを「青木氏族の独占上」であって務めていた背景があり他の氏は無理であったろう。
そうでなければ「朝廷の大きな財源となる献納金」は獲得は出来ない背景にあった。
幾ら「嵯峨天皇」が「自らの出自元」に反抗してもこの事に関しては無理であったのだ。
「出自元の青木氏」を「皇親族」から「賜姓族」からも外したのには殖産で力の着き過ぎた皇親族を政治の世界から外したかったからであろう。
その証拠に「永代の賜姓五役と令外官」は外していないのだ。
兎も角も」経済力を持つ事」には朝廷は潤うし、自らの首を絞める事にも成り外すわけには行かず、従って否では無く、要するに「青木氏の政治の場」に対する「政治的立場」を排除したかったのではないか。
自分の思う様にしたかったとと云う事であろう。
然し、思う様に一族や青木氏は動いてくれなかったのだ。
桓武派と嵯峨派が生まれて政治的敵対したのだ。
前段でも何度も論じたが、この「殖産状況」は正式には政治体制が変わる明治9年まで続いた事が記録されているが、「鉱山開発・硝煙開発等の殖産」は基本的には「影の令外官であった事」が「献納」で証明できる。
これに関わった「鉄穴部・鉄安部・かんなべし」を何時、「青木氏部」に加えて、何時、「青木氏部」から何時、「鉱山開発と硝煙開発等の殖産」から手を引いたかは判っていない。次第に低下して行ったのであろう。
然し、「鉄」に関わる以下の状況証拠と大体の時系列から割り出せる。
大倉鉱山の産出量が低下し古く成った時期・1540年
摂津堺店が日野支援を打ち切った時期・1550年
銃の開発が済んだ時期・1557年
薩摩などが日野鍛冶師を雇った時期・1558年
採掘の額田部氏が滋賀より引いた時期・1560年
近江で松井氏と再関係を持った時期・1562年
額田部氏が穂積氏とが疎遠に成った時期・1565年
日野から伊勢青木氏部に鍛冶師が逃げ込んだ時期・1567年
高倉鉱山が盛んに成った時期・1568年
雑賀に伊勢の支店を置いた時期・1569年
雑賀で鉄鉱石輸入で製鉄が盛んに成った時期・1570年
渥美湾の制海権の獲得した時期・1572年
伊川津で殖産を開始した時期・1573年
雑賀根来が信長と秀吉に敵対した時期・1576年
根来衆が雑賀衆と疎遠に成った時期・1577年
信長が近江丹波を獲得した時期・1579年
信長から秀吉政権に移行した時期・1580年
青木氏の伊勢と紀州の殖産が軽工業に移行した時期・1582年
秀吉刀狩りを実行した時期・1588年年
青木氏部が宮大工等の建設業に移行した時期・1590年
以上等の総合的な事柄が左右している「ある一定の時期」には「鉱山開発・硝煙開発等の殖産」から手を引いている筈で、そもそも「続ける事」がそもそもが困難で「商い」としても得策では無かった時期があった筈だ。
その基準は、次の通りであったろう。
経済的な財力や開発能力の有無には総合的な問題は無かったのである。
第一次的な理由は「殖産」に関わる事
鉱山開発の「意味・目的・理由」が総合的に無くなった時期
鉱山開発の「排他的な続行」が総合的に困難に至った時期
鉱山開発の「政治的な配慮」が総合的に必要と成った時期
第二次的な理由は「鉄」に関わる諸々の事
第三次的な理由は「総合的な理由は幾つか重なった事」であろう。
故に突如辞めたのでは無く「一定の短い期間」を経て引いた事となろう。
これ等の事は「商記録」に最も反映される事柄であるが何故かこれには記録や資料がないのだ。
何なのかは良く判らないのだ。
この「鉱山開発の資産」に付いての「日本書紀などの歴史書での書き方」には記録や資料がないのだ。
686年8月にも「封」を加増され、伊勢に200戸を加えられている。
703年9月に、“近江の鉄穴・鉄安を賜る”と「役務」を与えられる。
704年1月に封100戸を伊勢に加増されている。
714年1月に封200戸を伊勢に加増されている。
持統上皇御葬送の際に「造御竈長官」を務む。
706年9月から10月に架けて「文武天皇の難波行幸」に従う。
707年6月、文武天皇崩御の際、殯宮に供奉する。
708年1月、叙品し、三品を授けられる。
715年1月、二品に成る。この時初めて封租を全給され、封租全給の初例と成った。(判断として重要)
716年8月11日、薨去し、「六人部王」らが葬事の監護に派遣され、この薨伝に「天智天皇第七之皇子」と記されている。
770年11月6日、「光仁天皇」は「春日宮皇子」を「同族同祖同門同宗の四掟」とする「父の施基皇子」を追尊し「春日野天皇」を追尊した。
「三笠山の野辺」に「宮」を営む、とあり「高円山」に葬送したとあるが、「御墓山陵」は別に「田原西陵」と称され、現在の「高円山の東南、奈良市須山町・名張から真西19.5k」にある。
「施基皇子の祭事寺」は現在の「奈良市白毫寺町白毫寺・びゃくごうじ)」に祭寺があり、「名張」から真西23kの線状点にある。
703年9月に、“近江の鉄穴・鉄安を賜る”と記しているが、「役務」を与えられたとしているだけで「本領で無かった事」も考えられ、この事からこの近江の開発した「二つの鉱山」そのものが「伊勢青木氏」のものでは無かった事も考えられるがどうであつたのかである。
そこでこの前後関係の経緯を判断して“賜る”をどの様に判断したのかである。
その判断する根拠と成る歴史観は何処にあったのかでこの「文章の意」は決まる。
否、寧ろ、此の頃の文章に云えるのだ。
それは、当時の制度レベルにあったのだ。
つまり、当時はこの“鉄穴・鉄安”とは“かんな”と呼称し、要するに“鉄の穴・鉄の安の事”、即ち、“鉱山の事”で、「土地と民」を以て「封と戸」で功績時は恩賞を賜る仕組みであった。
従って、この“鉄穴・鉄安”は、「鉄と民」が「封と戸」に値するのだ。
当時としては全てこの評価基準が「米」に相当して評価する社会で税とし、その「米」を生み出す「民」と合わせて恩賞は与えられた。
とするとこのあたらしい「鉄」はどの様に評価するかは未だ決まっていなかった事に成る。
これから「鉄の社会」に入ろうとしていた時期であったのだ。
つまり「米」>「鉄」であった。
「紙」も木簡や竹簡に頼っていた時期である。
「紙」は「紙屋院の称号」を与えられて「青木氏族」が開発し「特権」を獲得して市場に貢献したのだ。
そして、今度は「鉄・かんな」であったのだ。
当然にそうすると“「鉄穴院・鉄安院」”の様な「特権」が与えられていたかの問題である。
さて、そこで働く「鉄穴部・鉄安部・かんなべ」が「戸・民」であって、「鉱山・鉄」はそもそも神道の世界では「山・神」であるので「山を売る事」は叶わず、「売るもの」は「鉄」に及び、これは「土地の米」に値する。
要するに、「封戸」は本来は「土地・民」に替えて「米・民」に値するのだ。
「土地」は原則、神、即ち天皇からの「貸借のもの」であったのだ。
つまり、それまでは未だ正式にはこの「鉱山」による仕組みは初めての事で、「鉱山」は、実質は「貸借」のものであって、その代わりを以て「米」、又はこの場合は「鉄」を「税」として換金して治める仕組みとして「施基皇子の裔の青木氏」は取り組んだのだ。
元来、これが「中国の周の斉」から統治手段として採用し、それを始めて「太公望」に依って治められて「封建社会の原理」と成った。
この社会原理が日本に新しく浸透して来た時代であるのだ。
前段で何度も論じている中国著書の「六韜と三略の戦略」は、「呂尚・太公望・、紀元前11世紀頃」に依って採用されたものであるが、丁度、「唐・618~907年」の「731年」に「呂尚の記念廟」が建立された時代でもある。
この「新しい考え方」が「大化の改新」に依って「皇位族の者・賜姓臣下朝臣族」に限って採用されたのだ。
その中でも未だ「鉄・鉄穴・鉄安」は余り例に観ず新しかったのだ。
取り分け、「近江の大倉鉄穴」は開発時のものであった。
其の後に需要の爆発で「近江の高倉鉄穴・鉄安」が開発されたとする経緯を持っているのだ。
従って、この“近江の鉄穴・鉄安を賜る”の「賜る」の書紀には「意味」が多く「封建社会」に入る「初期の天皇家の処置」と成り、それを「皇位族・皇親族の青木氏」に遣らせる判断は初めての事であったと考えられる。
寧ろ、その様な時代であった事から都合よく「賜姓臣下朝臣族」に遣らせた、又は遣らせる為に「臣下させた事」も考えられる。
最も「信頼於ける身内の者に委ねる事」の判断が強く働いていたと考えられる。
「蘇我氏の失敗などの事」を含めて「近衛兵」も然りであり、この将来を占う「鉄穴・鉄安・かんな」も他に任せる事は出来なかったのであろう。
そこで「鉄穴・鉄安・かんなの役務」を賜ったのか、この文章の直前の686年に「200戸の封民」を、その直後の704年1月にも「封100戸」を伊勢に加増されている。
「封」を与えられているので、功績としてあるので「鉄穴部・鉄安部の民・青木氏部」をも賜った事に成る。
それが前段でも何度も論じているが「国造」として「青木氏部」に属した「鉄穴部・鉄安部」であろう。
後にこの「鉄穴部・鉄安部・かんなべ」がこれが後に「鍛冶部・かじやべ」と成った事が記されている。
“686年8月にも「封」を加増され、伊勢に200戸”とあるが、原文記載の文章の記述を良く観ると“「・・も」”とある。
つまりこれがある以上は、文章の行から、それ以前にも「初めての封戸」が在った事を示している。
この「686年8月」は「天武天皇の崩御後10月1日」の「大津皇子事件10月2日」があった年の10月の翌日に成る。
この年の8月9日 「実妹の持統天皇」に成り「政・まんどころ」を執り主な政務を皇太子に託す。と成っている。
8月14日・16日 32年間断絶していた日本の元号が再開、新元号朱鳥に成る。
686年8月にも「実兄・施基皇子」に「封」を加増され、伊勢に200戸を加増されたが、これは「持統天皇即位」に依り授かるものだ。
さて、「・・も」のものは何なのかである。
つまり、従って、その前の「686年の前」にも記載は無いが“「・・も」”の表現では少なくとも「100戸程度」は受けている筈である。
それには別に気に成る記述があるのだ。
715年1月、二品に成る。この時初めて封租を全給され、封租全給の初例と成った。とある。
気に成るのは以上の記述である。
「施基皇子」の「没・716年8月」の前の1年7月前に上記の「全封戸」が支給されていたという事は、それまで一切の皇子にも支給されていなかった事に成り、事実もそう成っている。
これは「施基皇子」の「没・716年8月」に関わりなく支給されていなかった事に成る。
それも「伊勢王の施基皇子・遙任・国司代三宅連岩床」にのみならず「全皇子の封戸」にである。
従って、「賜姓」に依って「647年」に「伊勢」に「青木氏」を興した。
そこで、“どの様に「糧」を得ていたのか”である。
これが「・・も」に関わっていると観られるのだ。
この時、「国造」から上がって来る全物品を先ず朝廷に納め、「朝廷の余剰品」を市場に下ろし裁き、この「利鞘」を「朝廷」に納める「部経済」であったが、この「役目」を「伊勢王の施基皇子」は一切担っていたのだ。
これに依って「伊勢王の役料」と「市場放出の令外官の役料」に依って「二つの糧」を得ていた事に成る。
「商い」である以上その仕方で可成り大きいものに成っていた筈であり、朝廷からの務めの役料以上であった事は間違いはない。
その延長線上に「鉄穴開発・鉄安開発」と「和紙開発の命」が下り「開発成功」とその殖産の生産に及んでいたのだ。
結果として、後の「925年頃」に「商いの二足の草鞋策」が朝廷より「施基皇子の裔」に認められる経緯を持っていてそれ程であった事に成る。
「647年伊勢」に「青木氏」を興してから、「686年の前」までの40年間には、評価に値する世の中に果たした何れも「新しい経済システムの確立」であった。
それは「余剰品を市場放出の成功例」と、この「鉄穴開発・鉄安開発」と「和紙開発の命」の「二つの成功例」の「三つの功績」があり、「686年の前の記録」では記述が無い事が判る。
“715年1月、二品に成る。
この時、初めて封租を全給され、封租全給の初例と成った。”の以上の記述に原因していると考えられる。
つまり、この「三つつの功績」に対して715年まで朝廷より保留されていた事に成る。
故に、これらの「二つの功績」を取り纏めて、“二品に成る”とあるのであろう。当時としては最高位である。
念の為に、「701年に制定した大宝律令」と「718年の養老律令」のこの「二品の評価」であるが、没する「1年半前」にはここで全功績を纏めて「令外官の親王の二品・最高位」を獲得した事に成る。
注・官位は「政務職」、「近衛」、「令外官」の三つに分けられている。
「青木氏族」は「近衛」か「令外官」のどちらかの「品位掌職」に就いていた。
先祖の戒名や襲名名や 諱号や諡号から間違いなく両方に就いていた事が判る。
これは前段や前記でも論じている通り「令外官の二品・正二位」であった事から「内大臣・現在の特命国務大臣」に扱われていた事を示すものである。
そもそも上級では「国司」までが朝廷より「俸給」を受けていたのだ。
従って、この時、「令外官の親王の二品」は、つまり、「諸王の正二位」に相当するが、「最上位から三番目」で「最高の官位とそれに相当する俸給」を功績として得ていた事を示すのだ。
現実には「親王一品の位」は空席にするのが当時の慣習である。
そこで、「施基皇子」は、最終は、“715年1月、二品に成る。”の直ぐ後に、「元明天皇・在707年8月~715年10月」に依って「天武天皇」に継ぐ「浄大一位・親王一品」を獲得したのだ。その根拠と成るのだ。
そこで「施基皇子」が貢献したその他の功績の経緯を記す。
689年に「撰善言集」を編集した。
701年に作られた「大宝律令」を整備し運用した。
701年に平城京第一次大極殿を復元した
708年7月に「秩父」より「銅の産出」があり、「和同開珎」を鋳造させた。
710年に「藤原京」から「平城京」に遷都した。
710年に「荷役就民の詔」を伊勢国司に出した。
710年に「古事記」を献上させた。
713年は「風土記の編纂」と「好字令・諸国郡郷名著好字令」を詔勅申請した。
715年には六人の参議の協議で「郷里制」を敷いた
以上の事等の整備に努力が成されたとしているのだ。
これらは経済的には「鉄銅の産出」と、社会的には「律令体制」の確立した経緯とが進み、「大化期からの財政不足」で保留にされていた「以下の事」が実行に移されたのだ。
そして直接的には、“「荷役就民の詔」を国司に出した。の令”が以下の記述と成ったのだ。
結果として、センセイにる個人採決の判断では無く、”「律令」で判断する「大宝律令の制度」”に従った事と、「荷役就民の詔」に従った事」とで、今までの慣習を打ち破り過去の保留されていた褒章・功績も一斉に以下の文章に遺る様に施行されたのだ。
“この時、初めて封租を全給され、封租全給の初例と成った。”との以上の記述に成ったのだ。
その前には、“708年1月、叙品し、三品を授けられる。”がある。
つまり、それまでの「功績の評価」を纏めて官位で受けているのだ。
この時の功績評価は、次の「イロハの三つ」である。
一つは、「持統天皇」は、645年~702年崩御 在位690年~697年である事から、「持統天皇」と「天武天皇の墳墓構築」とに直接責任者・イとして関わったり、707年6月には、「文武天皇崩御」の際には「殯宮」に供奉・ロし、その後、この「三人の天皇の葬儀と墳墓構築」を指揮担当した事・ハを示す。
前段でも論じた様に「孝謙天皇の白羽の矢」で誕生した「父施基皇子」の「四男」の「光仁天皇・后井上内親王」は、この「三つの功績」を評して「天武天皇」に継ぐ「浄大一位・親王一品・令外官一品位」を追認して獲得したのだ。
つまり「追尊天皇」に成り得た人に成る。
参考として、“「・・も」”に就いて前段での検証で論じたが、上記の「封戸」の全ての積領を算出すると伊勢と近江の「大字」は、4又は5の数授説もあるので仮に5とすると、「伊勢王」であった事から、ほぼ「伊勢全域弱の有効な積領」を持っていた事に成る。
故に、これ以上に「有効な積領」の「封戸」を「功績として与える事」は出来なかった事に成り得る。
従って、これをそれに相当する「品位」に換えて「浄大一位・親王一品・令外官一品位・715年10月」を追認したと観る事も出来る。
「浄大一位・親王一品・令外官一品位・715年10月」を獲得した事で、「伊勢と信濃の濃厚血縁青木氏族」はその格式を背景に前段で論じた”「色々な事」”が出来たと考えられる。
要するに、「室町期の律宗族」に繋がった「永代の賜姓五役」であったのであろう。
次に、「銅の鉱山開発の疑問・秩父」である。
この時は未だ「伊勢青木氏」は「秩父」までその「経済的勢力」は及んでいないし、且つ、「過去の記載の散見」は一切無い処から、「銅の鉱山開発に関わった者」は誰であったのかは確定する記録が無い。
然し、結論はこの「銅の産出」には一切関わっていない事は確かであろう。
では誰なのかである。
そこで余談だがこの検証の為に、前段でも論じたが「青木氏」と深く長く関わった「連」「臣」「宿禰」と大出世した「大和朝廷系の額田部氏」とは違う「渡来人系の別の額田部氏の職能集団・出雲国臣系」が在った事は記録で判っていて、「出雲国」が「大和国」と合体して以降はその集団は「各地の鉱物の開発と生産」にも関わっていた事は判っている。
史実、「出雲国」から唐に船を出してこの「技能集団」を態々招いている記録が遺る。
「大和朝廷系の額田部氏」も元の出自を質せば、この「渡来系とされる出雲国系額田部氏の職能集団」からの出自であった事も考えられる。
但し、「渡来系とされる出雲国系額田部氏の職能集団に鍛えられた大和人」とする説もある。
筆者は、前段でも論じたが「日本書紀等の史書」にも明記の記載がある程に、「天武天皇」が「大和人の全ゆる技能者・官僚族含む」が少ない事を嘆いて、“積極的に招いて大和人を鍛える様に”と命じているのだ。
故に、この事で養成された「額田部系の職能集団・土木」のこの「大和人説」を採っているのだ。
更に、何故ならばこの「大和朝廷系の額田部氏」の当時の分家に当たる「穂積氏」と呼称する「分流集団」があり、彼等は共に“稲の専門技術を以て保存管理して連携して働いていた事”が判っているからだ。
つまり、前段でも論じた様に「大和朝廷系の額田部氏」は、記録から主に「米の干拓灌漑工事」や「地質と地形等の技能技術」を駆使して「墳墓建築工事」や少し後に成るが「墨・硯・砥石・岩絵具等の生活用品の開発と採掘工事」や「遷都時の排水工事」や「神社建設などの基礎土木工事」等にも関わっていた史実の事から「出雲国系額田部氏の職能集団とは違う技能集団」であった事が判るのだ。
其の後、「桓武天皇の遷都時・784年・794年」に「平城飛鳥」より遷都への同行命令を拒否して事件を起こして罰せられ朝廷から離れて「伊勢青木氏」がこれを桑名で保護し、その後彼等と連携して生き延びているのだ。
依って、恐らくは、このその後の「銅の鉱山開発・708年」~「遷都事件・787年」の間は「三大官僚土木業」の一つで「武蔵域の土地の結城氏等」が請け負い、787年以降は「出雲国系額田部氏の職能集団・部制度の強化」に依るものでは無いかと推測される。
その証拠に参考として「魏志倭人伝」によると次の事が書かれているのだ。
それは「出雲国」では「稲作農耕」が良く行われ、その祭祀に用いた「銅剣や銅矛盾や銅鐸などの青銅器」が生産され、「弥生人」が持ち込んだその「中国・朝鮮文化」の進んだ文化が華が咲いたと書かれている。
そして「卑弥呼の邪馬台国」は「狗奴国」と争ったと記され、この「狗奴国」がこの「出雲国・疑問」とし、この「出雲国」は「大和国」に“「350年頃」”に滅ぼされたとする説の「滅亡説」と、「古事記」では逆に「国譲り説」が見える。
筆者は定説と成っている「出雲朝廷」の国が「大和朝廷」と融合したとする説を採っている。
争っていればもっと記録が遺されている筈だが無い。
ところが現在では、「関西の発掘調査」では「縄文人の村」と「弥生人の村」はたった「300mも離れていな地域」に「村」が「共生」で構成され、相互に文化の遺跡品が混在していた事が採掘で新しく判ってきているのだ。
ところが逆に、最近の「九州の遺跡調査」では寧ろ「闘争的民族」が住んでいた事が判っている。
この「狗奴国」は「邪馬台国」の西隣の「熊本県」とする説があり、「邪馬台国」に滅ぼされ、この「邪馬台国」は南薩から来た「太平洋民族」と「南アジア民族」の「二漂着民族」と「薩摩原住民族」の「三融合民族」に依って滅ぼされたとし、「邪馬台国」に戦い勝利したが占領せずに引き上げたとする説に成る。
そして「狗奴国・不戦民族」は中国地方を経て「出雲国」で戦い中部地方を経て「蝦夷国・アイヌ民族」にと到達したとしている説がある。
筆者はこの説を採っている。
それは「出雲国=狗奴国の説」では、「出雲国系額田部氏の職能集団とは違う技能集団」であった事の歴史的史実や「魏志倭人伝」は成り立たない事に成る。
「出雲国」は「亀甲・こおら」を「神」と崇め、「狗奴国」は「狗・くま」を崇めている。
そもそも「崇めの物体」が異なり、「出雲氏族集団」は室町期まで「亀甲集団」と呼ばれていたのだ。
「崇めの物体」が異なる事は同一の国ではない事に成る。
この事から、この「350年以降」を契機に「出雲国」と「大和国」は“「国譲り」に依って融合して行った”とされているのだが、この「国譲り後」のこの専門知識を有した「銅の鉱山開発」に関する時期は、これより“「704年」”に「大和国系額田部氏・大和人」の工人に依って「鉄」が「近江・大倉・書紀」で発掘されていたが、再び、そのすぐ「後・4年後の関東」で“「708年」”に「出雲国系の額田部氏・出雲人」の工人に依って「銅」が「秩父」で発掘されていた事に成るのだ。
この「額田部氏」に付いては間違いを起こしやすいのだ。
丁度、この708年に「大和朝廷」が「関東」を何とか制圧下に治めた時期であって、当にこの「708年・出羽国・国府の設置」の時期でもあり、その統治下に入った「秩父・武蔵」では要するに「制圧直後・358年後」に「銅鉱山発掘」と成っているのだ。
この経緯では時系列の整合性が採れる
余談ではあるが、従ってこの「語る処事」は、関西では「703年の近江で鉄鉱山開発」を、”統治下に入った関東では当時に「708年に銅鉱山開発」にも直ぐに入った”と云う事に成るのだ。
それだけに、当時は、「鉄」は勿論の事、“銅の必要性も高まっていた事”を示すものだ。
つまり、青木氏が命じられた近江での「大和国系額田部氏・大和人の工人による鉱山開発」は「関東」では無理であり、元より彼等の本職である「上記のイロハの墳墓建築」で「施基皇子」と共に桑名で関わっていたし、従って其処まで「彼等の活動範囲」とその詳細は及んでいなかった事にも成るのだ。
それ故に、中部域から東の関東域では「額田部氏の子孫」は遺していないのだ。穂積氏は中部関東間である。
前段でも論じたが、「施基皇子の伊勢青木氏と共に運命共同体として生きた事・桑名」により当然の事と云えば当然の事ではあるが、江戸期に成っても関東は疎か中部域以北には「彼等の痕跡」は全くない所以なのだ。
話は戻って、上記の“「施基皇子没・716年」の「1年半前」には、ここで全功績を纏めて「令外官の親王の二品・最高位」を獲得”していた事に成るが、この“「令外官」”としてその後も身内の「嵯峨天皇」に依って「皇親族」を外された立場ではあったが、「令外官の上記の品位」は一度与えられた義理は外れる事は無く、続けて密かに「軍務処」や「学問処」として任命追認され、「社会の状況」を「献納・定期」を機会に「天皇」に伝えていた事を前殿で論じたが、この「密かな役務・令外官・一品」は明治直前まで務めていた事が「青木氏の資料の行」で読み取れる。
それはつまり、この「上記の事」は「献納・朝廷」と「冥加金・幕府」の「裏打ちが在った事」にも成る。
この事から「公家や貴族を含む上層階級」の間では、未だ「青木氏族」に於ける「五戒相伝の伝統」=「賜姓五役の伝統・令外官の親王の一品・最高位」の格式は、この時代に於いても家康が、「伊勢の事お構いなしのお定め書」で認めた事の様に「衆知の事」であった事を意味しいている。
要するに、これが、つまり、「戒」が世間に一般化していた事を示す。
この「格式の号」に代わって、「浄土宗知恩院派の白旗派」では「戒」に「名」を着けられて「・・の号」として持つ事も「格式の一つ」と成り得たのだ。
これが一般化した証拠として「戒名」として「戒による格式」は無くなった事を示すものなのだ。
「朝廷様式」を重んじた「鎌倉期・安定期」では、この“「律宗族の格式呼称」”は、何故か無く成った、又は消えた、消れたが、故に逆に格式を取り戻す樽に「室町期・騒乱期」には、再び「律宗族と呼称しての格式」を再興された所以の一つと成ったのだ。
それには、二つ考えられ、先ず一つは、「北条氏」に執っては「西の文化の発展」は好ましく無く、且つ、「各種の宗派の勃興」で「浄土宗だけの格式化」は好ましく無かったのだ。
以下にその号の詳細を記する。
・1 「院の院号」は、「門跡院」に代表される様に、「退位した天皇」、或いはそれに相当する立場の「者・皇子皇女と皇位族・皇親族」に与えられる「最高格式の号」である。
・2 「殿の誉号」は、「院号」に次ぐ「五戒相伝の族」にあってそれに基づく「五重相伝の得度」を得た者の「貴人・皇位族と高位族」に与えられる格式である。
「誉号を持つ事」に依って「・・殿」と呼称され其れを表す「殿」を建立できる。
この「殿の語源」は、そもそも「左部首の象形」は「椅子」で、それに右の「股」を組み合わせて要するに「椅子に座っている人」を指し意味する。
つまり、「皇位や天皇の高位の者」であってその人が住む「館」を意味する。
況や、「誉号」を持つ事で「殿・館に住める事・名誉な館」を意味する。
・3 「居の戒号」は、「五重相伝の得度」を得た者の「貴人・皇位族と高位族」が持つ「慣習仕来り掟」の「伝統」を有した者に「格式号」として与えられるものである。
・4 「士の位号」は、「貴人・皇位族と高位族」の「天皇」より与えられた「身分」を号として表す「格式号」であり、そもそも「天皇」に仕える「侍士・近衛の士」の「格式号」である。
要するに、この四つは全て“「住まいの形」”であり、中でも古来の「士の語源」として、“地上・つまり一に+を立ててこれを杭を立てた様”として使われていた。
後に、この「様」が「戦士階級の身分」を表す「儀器」と成ったのだ。
それ故、「兵士の意味」に用いられる様になったもので元は物を支える「杭」なのだ。
従って、「住居の環境」を「院→殿→居→士」の「形」を「格式化」して順序良く並べたものである事に成る。
「士」の「杭」が集まると「居」に成り、この「居」が多く集まると「殿」に成り、「殿」が多く集まる所を「院」と云う事だ。
つまり、全てがこの“「杭の数」”に由来して「階級格式」は出来ている定義と成っているのだ。
もっと云えば、“「杭の数」”は“「士の数」”に由来している事に成るのだ。
況や、“「士の数」”はその「階級」に成り、この「階級の数」は「格式」に繋がるとしているのだ。
この格式数のそれを以て「号」とするとしているのだ。
この逆の事も然りであり、これが「古代社会の社会定義」である。
更に詳細には、当時の「青木氏の立場格式」を理解するには次の様に成る。
例えば、以上の事は次の様に成る。
・1に付いて、「二つの青木氏族」に執って云えば、「院の号」は「清光院や西光院」である。
「光仁期の桑名殿」の「浄橋や飽浪」に与えられたのは「美濃の清光院」や「伊豆の伊勢信濃青木氏の融合族の清光院」等がある。
「清光寺と西光寺」が「清光院と西光院」と成り得たのはここにあるのだ。
・2に付いて、「施基皇子の冠位の浄大一位」等がある。
・3に付いて、「賜姓族の賜姓五役・令外官」や「皇位臣下朝臣族」に課せられた「9つの縛り」等がある。
・「居の語源」はそもそも「古の古いもの・固い」と「戸・家」との「意味の組み合わせ語」の語源から来ていて、初期は「古・ふるい」の「者や物」に使われていたとされる。
つまり、「古い戒め・伝統・慣習仕来り掟」の「者物・伝統を持つ氏族」と云う事を意味している。
・4に付いて、「官位」の「正一位~正三位」や「伊勢王や信濃王」の「役職・位」等がある。
この様に「古代密教の浄土概念を持つ教え・導き」を如実に表す「院殿居士」の“「院」”は、「格式の最上位の位置」にしてその“「号」”に値すると云う事に成る。
当然に格式を持った時点で「生前」でも持つ事は当然とされたのだ。
況や「号を持つ事」が出来るそのものがそもそも「高位格式の表れ」であって、誰でもが持てる「号の呼称」では決してなかった。
この所以を以てこの「院」と「号」の「格式呼称様式」は、古くは「皇位族・貴人」にのみに付けられていた事になるのだ。
極めて「墓石・砂岩、又は青石」とその「古き墓所の上記の刻印」の二つを観る事で歴史の隠し得ない「真の由縁」が判るのだ。
この「仕来り・各種の号の呼称」が変化し一般化して平安末期から鎌倉期頃に掛けては「浄土宗に信仰心が篤い事」、且つ、「寺院や地域社会への貢献に優れた人達」にも贈られる様に成ったのだ。
然し、この「一般化した仕来り」をこの“「律宗族」”として改めて格式化して復元したのが室町期であって、この「一般化し変化した慣習」を嫌って「古来からの元の仕来りを維持している極めて少なく成った正統な氏族」に対して、要するに“「律宗族」”として称して改めて区別した事に成るのだ。
但し、現在では最早、上記した「格式や伝統」に対して無関係に「浄土宗に帰依する立場のある人」に贈られて再び「平準化・一般化」したのだ。
所謂、金銭を出せば、「院殿居士・白旗派」以外の「院誉戒位」を与えられる「消えた格式呼称」と成ったのだ。
現在では「院殿居士・白旗派」もこの「伝統の格式」が「白旗派」ではなくても「金銭」で買える状況と成って、要するに最早今では「白旗派」は無くなり忘れ去っているのが現実である。
況や、「院殿居士・白旗派」の「院」のみならず「律宗族」を如実に表現している「呼称の存在」も知る人は最早、「歴史上の事」として無い。
“「白旗派」の「院殿居士」”とその他の“「知恩院」の「院誉戒位」”とには、「・殿居士」の語と「意」が異なる。
「誉」は「ほまれ」であって前提条件として「誉」と成り得る「殿」を持つ事に限定されず、単に「誉・ほまれを持つ事」を許された者に相当する。
「特別の立場・格式」に由来せず限定せずに「誉・ほまれ」は得られる。
要するに一般化したものと成ったのだ。
「戒」とは、要するに「いましめ」であって、そもそもその族に「慣習仕来り掟の伝統」を既に有している事が前提であって、それを元にして「戒め・いましめ」が起こり罰せられたり行動を制したりする事が起こるが、その範囲に無くても「戒」の号は無関係に得られた。
「位」とは「官位の八位」までのものを云うが、次の三つに分けられ更に実務は「職掌」に小分けされていたが、次第に「名目の職掌」と成り、資格外や対象外の者もそれこそ実務の伴わなわない「名誉職」と成り得たし、朝廷も金銭獲得の為に与えた。
その結果、この「位」も「誉・ほまれ」の一つとし「二つの位」が起こったのだ。
言うなれば、「慣習仕来り掟の伝統」の無い「誉」も「戒」も「位」も、「誉」=「戒」=「位」の関係にあって形骸化していたのだ。
参考として次の「三つの官僚機構・大宝律令」から成り立っていた。
「官省職寮司の高官吏・政治」
「坊監暑台府国司の中堅官吏・軍治」
「官所職寮司府使の令外官・経済 特命」
上記の「三つの官僚機構」に依って授与されていた“「知恩院派」の「院誉戒位」”に、「院殿居士」の“「杭の数」”の「原理に由来した階級格式」の「定義」が存在せず成立し得ていなかったのである。
つまりは、この現象は早くも平安期末期から始まり「幕府社会・第二の姓武士」に成って「西の朝廷の縮小された三つの官僚機構」の中では、最早、「慣習仕来り掟の伝統の原理」が働か無く成り基より形骸化していたのだ。
これは「青木氏族」に執ってこれは「重要な歴史観」なのである。
故に、「白旗派の律宗族」を如実に表現している「呼称」に付いて更に論じて観る。
以上が「白旗派・知恩院の相伝・五重相伝/五戒相伝」であるのだ。
ところが、現在においても、「白旗派・知恩院派」が「浄土宗・権威付け」と定められてはいるが、これに納得せず、「浄土宗」には元々「14派」もあって、「流派争い・主導権」が矢張り続き、統一されずこの流派に依ってもこれ以外にも他にも色々な「号の格式」を使っているのだ。
其れを「重要な歴史観」として次に参考として一応追記して置く。
これは「白旗派・院殿居士」であったかの「判別・格式判別」に使えるだろう。
先ず、“「知恩院」の「院誉戒位」”では、流石に「最高格式の院号」の格式には変化は着けていず使わずにいる。
次は「誉号」では、浄土宗僧侶のみにならず、「五重相伝を受けた檀家・信徒」にも他流派でも授与されたが、今日では得度を受けていない人にも与えられる様に成った。
又、取り分け、「浄土宗の主流派・現在でも主流」であった「西山派」では、「授戒・得度」を受けた人には“「空号」”が与えられ、更に“「道号」”も着けられる様に成った。
「名越派」では“「良号」”が与えられている。
「戒名」はそもそも「仏教」に帰依したものに付けられる「忌名・いみな」の名前であって、本来は出家して得度者となった時に与えられていたものだ。
白旗派は帰依する事で得度したと認められ、その院殿居士を生前手も獲得できたのだ。
その前提と成ったのが朝廷から与えられた格式にあってそれが得度を得たとされたのだ。
其れだけの社会への貢献を果たしたと見做されて得度を得たと考えられたのだ。
当に施基皇子の様にである。
故に、後には「出家者」に限らずとも「在家の人々」もその前提に在れば形の上で「仏門」に帰依し「授戒」を受ければ授かるようになっていたのだ。
「授戒」に限らず室町期中期頃から「第二の姓族」が下剋上で勃興し格式を獲得する為に莫大な金銭を以て帰依し一般化して多くの人はこれを使っていたのだ。
莫大な金銭を以て得度したと評価される様に成ったのだ。
この帰依が浄土宗であっても先祖の格式云々に限らず事の次第では死後の忌名としても使っているのだ。
最早、「格式」では無く「金銭」で評価する慣習では、これでは「忌名」とのみならず判別の歴史観としては何の意味も持たない事に成ったのだ。
「位号」たけは、他の流派も使うが「年齢や性別」、「信仰心の篤さ」等によって付与されていたが、中でも「禅定門・男」や「禅定尼・女」のこの「位号」は、そもそも「浄土宗に深く帰依した人」にのみ付けられた「格式称号」ではあった。
然し、「白旗派」の「居士・男」や女性だけが持ち得る“「大姉・女」”に次ぐ格式とされていた。
要するにこれは唯単に格式では無く「信仰者の対象を広める事」で細分化していったのだ。
ところがもともとは上記の通り「五重相伝の受者/五戒相伝の格式保持者」の「格式氏・公家・四掟範囲」に限って与えられていたが、現在ではもともと数少ない「限定的な白旗派以外」には見られなく成っている。
「朝廷」が認めた「正統な氏・18氏/48の存続」が、下剋上で潰され「白旗派」に帰依していた「数氏・青木氏族等・居号」に限られて始末している現在である。
然しそれは、その「格式の有無の存在」は意味をなさなく成っている。
ここで、歴史観として忘れては成らない事は、何度も論じている事ではあるが、この「仏教・古代浄土密教」としての「律宗族の五戒相伝格式付け」の裏には、「神教の皇祖神の子神の祖先神」の数少ない「神明社族」であると云う事が含まれていたのだ。
所謂、その「基盤は神道・祖先神」であって、且つ、「仏道・密教浄土」の「二つの路」も持つと云う「特異な立場」を保持していたと云う所以にあった。
それ故に、この「二つの路」にはこれを保つ為には「戒律と云う厳しい伝統」を頑なに室町期に成っても未だ保持していたと云う事に繋がるのだ。
「院殿居士」/「五重相伝」/「五戒相伝」の「三格式保持者」=「律宗族」の関係式が室町期に成っても成り立っていたのだ。
そもそも、「律宗の族」の「本来の意味」は次の通りである。
「律」の語源は「慣習仕来り掟の伝統の戒」にある。
「宗」の語源は「物事の始まりの塊」を意味するにある。
「律」+「宗」=「慣習仕来り掟の伝統の戒」+「物事の始まりの塊」
以上の関係式が成立するのだ。
つまり、この「二つの組み合わせ語」の意味は、所謂、“「物事の始まりの塊」を「慣習仕来り掟」として、それを「戒めの伝統」として受け継いで行く”の「族」と成り得る。
必ずしも、「宗」とは、今では「仏教」と成り得ているが、確かに「鎌倉期以降」は「仏教」が興隆してその「仏道」もその一つとして成り得たが、「平安期前後」までは、神道も含んでの語意であり決してそうでは無かった。
依って、奈良期以前からの「神道・祖先神・社」は、「仏教」よりも先に概念そのものが「律+宗」と成り得ていたのである。
言わずもがなそれを奈良期から「伝統」として維持して来た代表する「賜姓臣下族の青木氏」は、「神明社の神道」を主軸としながらも、この「古代仏教の白旗派・密教原理主義・即身成仏の大日如来の伝統」を「氏の行動指針」として維持して来たのだ。
この「時期」に付いては前段でも論じたが全ゆる記録や資料から読み取れる範囲では初期は「光仁天皇期」であるだろう。
「光仁天皇期」と云えばその「経緯・孝謙天皇の白羽の矢」からも「仏道の導入」は大仏殿の所以もあって社会的には止むを得ない事由があった事は否めないし、将又、「出自の氏」としても「二足の草鞋策」を敷いている「柔軟な考え方」から考えても頑なに拒む事はしなかったのであろう。
その「証拠」に「伊勢」には「神明社」が「12社」あるが、その時の「名残」としてこの全ての「神明社の後ろ」には「仏道に関ったある地名」が加えられていたのだ。
現在でも幾つか遺されている。
これは「神明社全488社の内の伊勢の神明社」にだけに限る事なのだ。
但し、これが上記した様に「平安期初期」にも「朝廷」は世間から「政治的立場」を質されて、矢張り、“「神道」を主幹とするも「仏道」は否定しない”と“コメント”を発した所以にある。
この「背景の経緯」には、「聖武天皇の大仏殿建立」に関わっていたのだが、この「姿勢の概念」を引き継いだ「光仁天皇」が、「出自元の青木氏」がそのその「神明社」を守護神としながらも、且つ、「神明社の神道族」で在りながらも、「古代浄土密教の浄土概念・大日如来概念・天智天皇賜姓時の賜物」にも独自に確かに帰依していた。
その後、それを「桓武天皇」や「平城天皇」が慣れ親しんだこの「生活環境の状態」を黙認していたのだ。
この「聖武天皇の大仏殿の件」もあり、更には「孝謙天皇の白羽の矢の事件」の経緯もあり、「ステイタス」とした「賜姓物の三つ」の内の一つの「大日如来坐像」は、「天智天皇の賜姓物の件」もあり、「清光院の建立の件」もあり、最早、ありと全ゆる事が簡単に言い逃れ難い状況に陥っていたのだ。
所謂、「皇親族」であったのだ。
依って、ところがこの事で「出自元の伝統」を「二人の天皇」も追認したかに見えて疑われ、それが「天皇家の疑い」と成って「政争の道具」として持ち込まれたのだ。
この「解決策」は唯一つ、この「疑い・政争の中心」と成っている「伊勢施基皇子系青木氏」を「皇親族・賜姓族から外す事」にあったのだ。
これが藤原氏外の同じ出自元の「桓武天皇派と嵯峨天皇派の争い事件」の「薬子の変」であったのだ。
上記の「天智天皇の賜姓物」に発端し、そこから遂には“「神道」を主幹とするも「仏道」は否定しない”の“コメント”で解決したのだ。
「青木氏側」では、前段の論調である様に、この時、天皇家に寄り添う事なく、“「四掟・妻嫁制度・嫁家制度等の変革」”で“「女系氏族」”を構築して貫いて完全に矛先を躱し、“「商い」”も営み最早誰から観ても「天皇家」と一線を画して逃れたのだ。
この時が「嵯峨期初期頃」であるのだ。
但し、この時でも秘密裏に動く「永代の賜姓五役であった事」から“「令外官」”だけは頑なに維持していたのだ。
その為にこれが「室町期」にもこの二つの「神道と仏道」の「律宗の族」と成り得ていて、故を以て「室町幕府」と「天皇・朝廷」から追認された由縁と云う事に再び成り得たのだ。その様に持ち込まれた観がある。
「神仏」の「奇異な二つの文化」を何と“「伝統」”として取り入れ「融合」させて来たのだ。
その「全ゆる点に尽きる処」は、「永代の賜姓五役であった事・令外官の概念の伝統」が再び”「律宗族」”と成り得たのである。
“「律宗族」”を維持させしめた根幹は「柔軟な思考力」を兼ね備えた“「商い」”にあったろう。
歴史的に観ても前段の論の通りこれがの信長・秀吉等に敵対され、明治初期には薩摩藩などから「”天皇の格式を脅かす族」として存在する事を否定されて攻撃された。
我々に口伝でも伝えられる程に、「格式存在族」を否定し同調する世間からも「密教である事」さえも「攻撃の言葉」を受けていたと伝えられている。
遂には、現実に各地で何度も「焼き討ちや打ち壊し・記録」を受けながらも「青木氏族」の方から明治35年頃に「自発的解体・分散策に至る事」で事は治まった。
要するに摂津に移す事で伊勢での伝統を消し去ったのだ。
「当時の環境」としては「青木氏族」に執っては、“それなりの利する処あり”として「幕府等との工作」で対処したのであろうが、後勘として筆者の思う処では、この“「律宗族の騒ぎ」”は結果として”何んの野心も無い「青木氏族」に執っては「利する処」は何も無かったと考えるし、寧ろ「害の方」が大きかったと観ている。
唯単に“史実は史実だけ”でありそれ以上の美化論の事は無い。
念の為に、「現在の経済機構」で云うとすれば、「青木氏族」とそれを実行する「商い」の「基本定義」は、“「市場の独占価格・A」を形成する為に「生産から販売・B」までを統制して「グループ化・C」を施して、それ根幹とした「殖産カルテル・D」を基礎にした「自由活動性・E」を制限する「トラスト・F」を構築した「コンツェルン・G」であった”と考えられる。
要するに、これを「自発的解体・分散策に至る事」にしたと云う事だが、結論は“「グループ化・C」だけの部分を解体したという事”に成るだろう。
世間の豪商もその様にした。
百々の詰まりは、「室町幕府と朝廷」が「律宗族・1450年頃・紙文化・」として呼称し直して権威化して近づいたのは、ここで生まれた“「巨万の富」に魅力”があったと後勘の筆者は観ているのだ。
それは前段で論じたが、「鎌倉期の徳政令・永仁129年・武士」と、「室町幕府の徳政令・八回以上・武士」と「江戸期の棄損令・武士」と「明治初期の債権放棄令・民」に影響を受けた事が判っている。
この「青木氏コンツェルン・伊勢屋」が持つ「全ての債券と担保」に対して「政策」に依って「四期の放棄令・徳政令」が発せられ「全債権」は霧消に期したとされているのだ。
取り分け、中でも特徴的なのは「室町期の頻発する徳政令・八回以上」で「室町幕府辞自体」に及ばず「各地の国」に於いても頻発させて「財政」を保とうとしたのだ。
「徳政令幕府」とも云えるこの状況では、「格式の律宗族の再呼称」はこれと控えに担保したとも観ているのだ。
前段でも論じたが、「額田青木氏の三河の南下国衆論」で論じた様に、その論理で云えば、「江戸期の伊勢お墨付き・お定め書」も同じ「裏事情」はここにあったのかも知れない。
「青木氏の資料と記録」に明確に遺るのは、「明治初期22年から28年」に架けて何度も発せられた「法律・28号等に依る債権保放棄の令」である。
更にこれに関わる「担保・土地」の「秩禄処分」と「地租改正」と「累積債務処理」の「放棄令」が出たのだ。
前段でも論じた様に主に「紀州徳川氏等の多くの大名に貸し付けていた「焦付き債権と土地の地権担保放棄」のこれが“上記の「コンツェルン」に大傷を着けた”と記されているし、口伝でも伝わる事でもある。
これに薩摩藩などの長く続いた「庶民先導のゲリラ攻撃」が輪を架けたのだ。
幕末から明治9年まで続いた「伊勢騒動」も、その根幹は「庶民先導のゲリラ攻撃」にあったと感じている。
斯くの如しで後勘の歴史観から、「格式の律宗族の再呼称」は「青木氏族」には良い事は何も無かった。
筆者の論理ではこれこそは「青木氏の氏是」そのものであると認識しているのだ。
「格式の律宗族の再呼称」は、そもそも史実は史実として何も変わらないのだし、放って置いても同じなのだ。
殊更に動く事がそのものが良くない仕儀であった筈で、「当時の福家」は判断を誤ったと観られる。
当に「施基皇子」が説く「律宗族の第一の戒め」の「青木氏の氏是」を軽んじたのであろう。
況や、要はこれは美化論では無く反省論なのだ。
故に、子々孫々に「ロマン」として「具体的な史実」として言い遺しているのだ。
これも例に事書かない「始祖施基皇子と云う歴史的人物の存在」の所以である。
これが、全部に於いて説き切れないが本論の範囲では、網の目の様に関係性を持った事柄に就いて何とか説いた「難解の律宗族の所以・定義と背景経緯」であり、要するに本シリーズの「青木氏族論」を説くに至るのだ。)
> 「青木氏の伝統 65」-「青木氏の歴史観-38」に続く。
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
> 「織田軍と今川軍」が衝突する様な場所は、凡そは予想が着くとするならば、又、其処辺りには「神明社と春日社」が在るとするならば、上記の様な戦略を事前に立てるし、事前に「駿河青木氏」や「額田青木氏」には「事前連絡・伊賀者」は着けていただろう。
> 何せこれを行う「情報・伝達組織」には「伊賀青木氏の香具師」が存在し全く苦労はしない。
> 「行軍・戦い時の兵糧の運搬・駿河青木氏」もあるとすると、「伊勢水軍・駿河水軍」と「伊賀青木氏の香具師の隠密行動」も必ず必要であった筈である。
> これ等の事は「他氏には絶対に出来ない行動」であり、「氏族の強みを生かす事」でもあったのだ。
> 前段や上記でも論じた様に、「額田青木氏の銃隊と荷駄50」と「駿河青木氏の隊・100」には「伊賀青木氏」を組み込んでいたと論じたが、当にこれを証明するものである。
> 上記の論だとするとして、これに「追加する事」として、訓練中であった「額田青木氏の銃隊」は「桶狭間の前の前哨戦」の「小豆坂の戦い」の「一次戦」に「軍事演習的行動」として依頼されて参戦しているが、この事も考え合わせると、「額田青木氏の銃隊」の「一部」が「伊賀青木氏」と共に、「伊川津域」に国衆として定着する「少し前・4~5月程度」の「桶狭間」に、“「一族の誼」”として「駿河青木氏の青木貞治隊」にも密かに合力していた事も考えられる。
> だとすると、桶狭間の敗戦では“上記の筋書き通りに簡単に安全に脱出出来た”と観られるのだ。
> その証拠に、故に、記録に遺る事もない程に「駿河青木氏の青木貞治隊」は犠牲無く脱出出来ているのだ。
> ここに後に「完全に生き残っている事 イ」と、「二俣城の副将と成り得ている事 ロ」の「論の焦点」が来るのだ。
> そして、その後に「松平氏の家臣・御側衆・旗本 ハ」と成り得ている事のイ、ロ、ハと下記のニ、ホを勘案すると、「上記の筋書きの状況証拠」は成立するだろう。
> 況や、「桶狭間」で二俣城城主が討ち取られる「大犠牲の大混乱の真中・逼迫戦」で奇しくも「青木貞治隊」が生き残り得たとすれば、例え、「松井氏の衰退」で「徳川氏・松平氏側」に着いたとしても「松平の国衆 ニ」にも成り得なかった筈であるし、又、其の後の「駿河・相模青木氏の支援」を得て「兵力・200」に増やし「二俣城副将 ホ」にも成り得ていなかった筈だ。
> 要するに、「青木氏族の生き遺りの為」に、「戦乱の中」では「唯一の抵抗手段」の「大抑止力」は働いていたと云う事になろう。
「青木氏の伝統 64」-「青木氏の歴史観-37」
(注釈 「前段の当時の慣習の理解」
前段の疑問の、“B 何故、この時期に訓練中の「額田青木氏の銃隊」が「三河国衆・1560年」と成ったのかである。”に付いて続けて論じる。
つまり、先ず時期が「駿河青木氏・青木貞治の桶狭間の戦いの時期」に合わせている事である。
前段では、これに付いて「額田青木氏の銃隊」の「単独の論としての1560年」を論じた。
然し、前段では論が複雑に成り得て論じるのが難しく分けて論じたが、ここまでは「駿河青木氏・青木貞治の論」を「詳細経緯として論じる事」が出来たとして、故に、ここでは「この二つの因果関係」を「B」として論じる。
先ずその前に何度も論じている事ではあるが、それを正しく理解する為に次の事を先に論じて置く。
つまり、前段で論じた通りそれは「伝統」として「青木氏族の異質な事柄・異質性」が“「生存の大きな枷」”に成っていたとしていた。
その中でも、この「伝統・異質性」に付いては奈良期から室町期までには「慣習仕来り掟」が室町期の戦乱に依っての社会変化と共に徐々に変化した事である。
この「変化の中」で未だ霧消する事なく「根本的なもの」は遺されていたのだ。
この「根本的なもの」には幾つかあって、これを理解しなければ「正しい青木氏の歴史観」は導き出されないのだ。
それは「青木氏族」は、他氏と違って「特異な立場であった事・伝統・異質性」で生き遺るには「苦しい環境」に置かれていたと云う事なのだ。
この「特異な立場であった事・伝統・異質性」について未だ「下克上で姓化・第二の姓」をした「社会一般」は充分に認めていなかった事だ。
その「特異な立場であった事・伝統・異質性」を持ち続けていた事では、代表的なものとしては「足利幕府」が「白旗派の浄土宗・原理主義」を認めた事と共に、“「伊勢と信濃の賜姓青木氏」が「律宗族」”である事をも認めた事であった。
この時代の「特異な立場であった事・伝統・異質性」を含有する認定であった。
それは姓化する社会の方向性に対して、真逆の認定をした事であった。
これを一般社会は驚いたであろうし、どの様に扱うか迷ったのではないか。
これが「社会と青木氏族との間の矛盾」と成って現れたのであろうが、それをここでその視点で論じて置く。
念の為に、その前に前段の論に追加して、“「室町幕府・義満」が「律宗族」として認めたのか、この事に付いて”将又、“「青木氏」が認めさせたか”であるが、これに依って論の結論は大きく変わる。
この史実を両方の資料から読み込む経緯としては次の様に成って行く。
「室町幕府・河内源氏族」には、「各宗派の争い」と「宗内部の派閥争い」が激しく起こっており、且つ、又、武力勢力とも結託して「政治に影響力を及ぼす宗教」と成っていたが、これを鎮めるべく決定を下した事であるとしてこれが「一つの定説論」と成っている。
これが「宗教力の格式論説」である。
「伊勢信濃の青木氏」は、この唯一持ち続けた「特異な立場であった事・伝統・異質性」と、「社会との乖離の解消」と、「一族生き遺り」を成すが為に「朝廷には献納」をし「室町幕府には冥加金」で働き架けをした事が「商記録からの史実」があって、この説に依っての「格式擁立論説」が成り立つているのだ。
当時のこの状況証拠から「以上の二つ」から読み取れるが、何れに於いても「青木氏側」に執っても“利に叶うもの”があって、少なくとも最低、「青木氏側」は “両者に対して合議には及んでいた事”は充分に考えられる。
「青木氏族の歴史観」の側から考えれば、これは「青木氏の再格式擁立論説」と成り得る。
それが奈良期より長期に於いて「異質性の伝統を補完し続けた律宗族」であったとされるのだ。
「現実の史実」は、室町幕府は自らの「幕府の権威の低下」からも「朝廷」を再び前面に押し出すより「律宗族として宗教力」を使って「幕府の権威低下」を補完しようとしたのだ。
一方で「青木氏族」は「紙の生産と鉄生産、及び各種の殖産」で「巨万の富」を獲得していたのだ。
果たして、室町期に於いて「青木氏側」が「律宗族」と成り得なければ成らないかの「利」に対して「疑問x」がある。
因みにこの「異質性の伝統を補完し続けた律宗族」に付いてその経緯を改めて下記に詳細を記述する。
恐らくこの「疑問x」は判明するだろ。
「室町幕府」には、「浄土宗14派」の中で「超最小派で白旗派」があっても、「聖聡等」が世に出て何故か興隆させて何時しか短期間で他派と他流を圧倒していた時期があった。
この「白旗派」には、「皇位性」とそれに基づく「宗脈・戒脈相伝の伝統」があるとして、つまり、奈良期から固く護り続けて来た「伝統・9つの縛り」の中に“「五戒の相伝論・律宗論」”があるとして、その「位格式」を前面に押し出しその「位」を以て信頼を勝ち得て他派と他流を圧倒したのだ。
これが要するに“「律宗族」”に繋がるのだ。
これに基づき僧侶でもあった「三代目足利義満」は、これの「白旗派律宗論」を認め、その「皇位性の相伝」の「伝統氏の青木氏」を「律宗族」として認め、これを相伝するも廃れていた「知恩院・1548年」を再興建立を命じたのだ。
これを「1575年」には27年遅れて「正親町天皇」よりこの「再興した知恩院」を以て「正式な浄土宗本寺・足利幕府承認」に伴い「正式承認・追認」を受けたのだ。
これに依って「浄土宗」へ「統一の格式・香衣付与」と「剥奪不可の権限・毀破綸旨の令」を授かったのだ。
況や、「奈良期・天智天皇の勅令」から保持する「伊勢信濃の青木氏への不入不倫の権」を改めて930年後に正式に「朝廷」よりも追認されて与えられた形と成ったのだ。
「家康の江戸幕府」ではこれを更に追認し、幕府に依って正式に確定させる為に「浄土宗諸法度・1615年」が制定されたのだ。
この経緯を経て「知恩院」を「門跡寺院・皇位族・律宗族院の本山」と認定されたのだ。
これを受けて「幕府の格式化」を図る為にも利用され「徳川氏の菩提寺の増上寺」をその「知恩院の格式」を借りてこの「知恩院の下位に置く寺」と定めたのだ。
「利」に対して「疑問x」には、上記の「律宗族の確定」と「白旗派知恩院の格式化」を成すと云う詳細経緯があって、「念願の青木氏族の目的」が遂に再び蘇って達成されると云う事に繋がったのだ。
つまり、「律宗族の確定」と「白旗派知恩院の格式化」は裏を返せば「青木氏族の格式化を蘇させた事」に成ったのだ。
果たして、筆者には“その必要性があったのか”は最早必要であったのかが疑問であって、それに比するものを全てを獲得しているのに何故か伝えられているのだ。
その時の「四家の福家の考え方」を聞かなければ解らないが、戦乱の中での事であるので、それを咀嚼すると、矢張り、残るは「抑止力の強化」にあったのではと考えられる。
得られる「全ての抑止力」を持ったが、残された後の抑止力は唯一つで、それはあやふやと成っていた「過去の格式化」を蘇らせて、「伊勢」と共に「青木氏族」の「不入の権を獲得する目的」が「福家」には在ったと考えられるのだ。
現実にその戦々恐々とした「福家の懸念」は的中したのだ。
それは当初は「戦乱」であって、後にはこれらの考え方を全面否定する「織田信長と秀吉の出現」であった。
「伊勢」が破壊されれば「青木氏族全体」に及ぶ事は必然で、先ず伊勢では官僚の「北畠」が奈良期からの「不入の権」を無視して入り、これを「信長」が潰しその後、「紀州伊勢攻め」が始まり、「秀吉・紀州征伐」が続き、江戸期では「外枠の格式」を外され、最後は「明治維新」で薩摩藩などのゲリラで本体に「焼き討ち・打ち壊し」を仕掛けられたのだ。
さて、そこで“B 何故、この時期に訓練中の「額田青木氏の銃隊」が「三河国衆・1560年」と成ったのかである。”の疑問の解決の検証に戻す。
上記の斯くの如しである「特異な立場であった事・伝統・異質性」の「律宗族の所以」を以て、ある程度の“「嵯峨期の9つの縛り・五戒相伝」”を護った「摂津源氏四家・頼光系」の一族の中には、兎も角も「姓族・第二の姓」は無いのだからとして、「摂津源氏・清和源氏系」は「四家構成の氏族」とも云えると云う立場を保全していた。
況や、「准律宗族と云える格式」にあったのだ。
余談だがところが、後世の「河内源氏」はこの「里・摂津の格式」を利用して、こっそりと知らぬ振りして「准律宗族的振る舞い」をした事に成るのだ。
注としてそもそも「新撰姓氏禄」では、「頼信系源氏」は“「嵯峨期の9つの縛り・五戒相伝」”で、「対象族」として編集から「資格的に外されている事」から、当初から「真人族」の中には入れずに、「朝臣族だけの格式」にされて外されていた事に成る。
将又、根本的に「朝臣族」にも加えられていなかった筈である。
この史実は、「満仲蟄居事件」と「嵯峨期の9つの縛り」で明らかに判る。
「新撰姓氏禄」は当初より「朝臣族」は「嵯峨期の9つの縛りの前提」にあった事に成る。
其の後、「賜姓源氏」は「摂津源氏・頼光系」を除き、この「嵯峨期の9つの縛りの前提」を遵守しなかった史実があるのだ。
と云う事は、元より書き換えられたとする説もあったが、この「嵯峨期の新撰姓氏禄・715年」のそのものは、現在は原本が紛失しているが、「1106年・満仲より4代目」で「後の1197年頃・義家期」の頃に「1039年頃に“「朝臣族」”に書き換えられたとする「可能性・書換説定説化」があるする説が今では定説と成っていて、従って、「原本紛失」そのものは室町期説はこの時期前後と云う事になるか。
確かに「時代性」から観てこの説には反論する為の無理がない。
つまり、その大きな根拠は、一時、“「立場格式・名誉回復」”を「河内源氏の義家」が成し、最も復興させたとされるが、それがその時期が「院昇殿を許された時期の白河法皇期」に当たる事に成るだろう。
つまり、「昇殿の格式」を得た事でこれを笠に着た「義家傍若無人期」の行為でもあるだろう。
「昇殿の格式」を得た事は確かに「朝臣族」には返り咲いた事には成る。これを以て「書き換えたとする説」であるし、「書き換えた」としても無理はない事に成り、恐らくは河内源氏としては書き換えたのであろう。
そして要するに、“一族に執って拙いこの原本を隠匿した”との「隠匿説」もが成立するのだ。
其の後の室町期に入って「姓族を書き足した事」が根拠に基づかない脚色段階に入り「完全隠匿の行為」に繋がったのであろう。
他にもこの説を裏付ける証拠がある。
そもそもそれはこの「原本」には本来無いと観される「河内源氏系の卑属族」が、そもそも「時系列の時期」が「異なる一門裔」として追加されている事である。
「嵯峨期の原本」に「室町期の姓」が書かれている事は時系列からあり得ない事であり見破られているのだ。
そもそも「朝臣族」が限定されていた「新撰姓氏禄」であるのに、その満仲期で朝臣族から外された裔系が記載される事そのものが有り得ない事でもあるのだ。
そこで、その前に「律宗族」に成り得てその基と成った「嵯峨期の9つの縛り・五戒相伝」の処で論じた「理解の要素」と成り得る「注釈イ」と「注釈ロ」を先に追記する。
これは「鎌倉期」を除いて「奈良期と平安期と室町期」の「三文化の広範」に及んだそのものであって、中々、纏め上げるには難しいが敢えて試みる。
前段でも論じたが歴史観を高める為にも論じる。
・「注釈イ」は、そもそも上記の通り「姓の判断」には、「嵯峨期の新撰姓氏禄」を根拠とする「諡号の姓・第一の姓」と、「諡号族から外れた民」を根拠とする「姓・第二の姓(室町期に発生)」のところの二つがある。
多くはそこを同じ様に混同されている処があるが、実は「奈良期―平安期―鎌倉期―室町期初期頃」までは「諡号の姓」と「諡号無しの姓」が比率を変えながら混在していて、徐々に「諡号無しの姓」が戦乱で戦う者が必要として増加して行くが、処が本来は別々のものであって「使い方・格式」は違っていたのだ。
「910氏程度」の「諡号の姓・第一の姓」を持つ族は、その「出自の格式」を意味するが、一方で「民」などが戦乱期で「武士」に伸し上がり「土豪・国衆」と成り、勝手に名乗ったか、買い取ったか、弱体した「諡号の姓」に入り込んで「血縁」で血筋を獲得したかの「姓」は、この三つの何れかに依って「姓名・第二の姓」を自助努力で獲得したのだ。
この三つが室町期からの「下剋上の第二の姓」であり、又、別に「新撰姓氏禄」にある「第一の姓族」の生き遺った殆どは、「統治用に持ち得ていた武力」を生かして生き残った「官僚族や押領使や弁財使等」であったのだ。
ところが「諡号の姓族」の中でも「新撰姓氏禄」に加えられる程に別格であったこの「摂津源氏・嵯峨源氏との融合族」は、「皇位族の臣下朝臣族としての純血性血縁」を護る為に「四家制度」を一応は構成はしていた。
然し、朝廷が認める「正式な氏族・9つの縛り・五戒相伝・賜姓五役」と云える程の格式相伝も無く、更に「限定された氏人・単独男系血縁族」を持っていなかった事でそれ故に直ぐに消えたのだ。
・注釈ロ 「青木氏族」は臣下した時から皇族内の政争に巻き込まれない様に「女系血縁族・四掟範囲で純血保持」に変換したのであって、先ず「血縁の面」でも「慣習仕来り掟の面」でも故に女系としての統一した「律宗族」と成り得ていたのだ。
「嗣子」は他氏から入らない為に、全て「母の子・嗣子・男子」が「氏の四家の何れかを継ぐ事」で統一して変化しない「伝統・純血性と慣習仕来り掟」は保たれた。
これが確定した伝統の「四家の前提」と成り得て、且つ、「五戒相伝の律宗族」と成り得ていたのだ。
例えば、「伝統の異なる男子」が「青木氏の氏の跡目に入る事」や、「女系が四掟で護られていない事」等で持ち込んだ“「男子の家の伝統」”のみで一時的に統一されたりする事で、その継承毎に「伝統」が混濁して保てない事に成り得る。
ところが、ここが異なり故にこの女系の範囲を限定する為に設けた「四掟」も「律宗族の所以」の大きな一つと成り得ていたのだ。
だから、「臣下朝臣族の立場」にあり乍らも、この何れにも属さない衰退していた「三代目以降・二代目まで公家族」等は、「初代源氏の嵯峨源氏・神野・賀美野に在郷」を京に呼び寄せて融合して「朝廷が認める氏族の格式」を構成していたのだ。
然し、その「格式を保つ手段・条件」として「皇位族としての縛りの最大の禁じ手の一つ・武力保持」を破り、「清和源氏と嵯峨源氏」は身を守るために共に融合して「武力」を持った。
それ故に「源満仲の事件」の様に蟄居されて追放されて“「律宗族の資格」”を失って仕舞ってのだ。
つまり、「嵯峨源氏」も「満仲の清和源氏」もここで「五戒相伝の氏」としての「最も重要な戒の資格」を失い消え失せたのだ。
この事で、この「父満仲の失敗」を取り戻すべく、所謂、この「資格」を取り戻すべく「長男・頼光」は「藤原道長」に近づき各地の国司代を務め「五戒相伝の氏」として再び認められるに至ったのだ。
この時、その「国司代」を務めるべく「禁じ手の武力」は、「道長に命じられた公務」を「果たすべく手段」として認知されて、「五戒相伝の氏」として「四家を構成する事」を許された。
当然に、その為に「四家」に伴い頼光系には「四掟の戒」が課せられたのだ。
この「五戒相伝の資格」は「頼政―仲綱」まで引きがれ頼政は「従三位の公家貴族の資格」まで破格に取得し戻したのだ。
ここで「武力賛成派・三男頼信・河内源氏・縛り無視・姓派」と「武力反対派・嫡子頼光・摂津源氏・ある程度の縛り賛成・氏派」の二派が起こったのだ。
それにより、「二代目満仲・武力派」の賛成派は「公家・武家貴族資格」も消失に及び、朝廷より厳しく排斥され遂には「蟄居刑」を命じられた。
そこでその子の賛成派の「三代目三男の頼信」は、河内に逃げ延びて「武力」で定住地を確保したのだ。
「次男頼親は大和源氏」と成るも荒れて「再三の事件」を起こし遂には土佐に配流と成り、「最も重要な戒の資格」をも失う結果と成ったのだ。
然し、この「河内源氏」は開き直りこの「縛り」の一切を無視し勢力を高める為に尊属卑属に関わらず「姓族・第二の姓」をどんどん作ったのだ。
最後は系譜系統も判らない程になったのだ。
故に、「五戒相伝の資格・9つの縛り」の保有する「正統な源氏」であるかは疑問なのであって否定される所以と成っているのだ。
つまり、此処で明らかに「律宗族」では無い事に成ったのだ。
上記の通り、この「資格」を有しない事から朝廷から拒否されたので、そこで「鎌倉幕府の樹立」の為に、「准資格有する頼政の跡目」として言い立てたのだ。
依ってこの「五戒相伝の資格・9つの縛り」は鎌倉以後に有名無実と成り以後無視されたのだ。
然し、「室町期」に成って上記した様に「五戒相伝の資格・9つの縛り・四掟」の「伝統」を護る「女系族の青木氏族」に対してのみ「神明社と春日社」、「浄土宗白旗派の清光寺と西光寺・密教原理主義」の「伝統」を長く護る「四掟の氏族」として、又、改めて「賜姓族・賜姓五役」としも守り続けたこれを以て“「律宗族」”としての「格式権威」のこれを復活させたのだ。
この本来、「五戒相伝の資格・9つの縛り」の無い「足利幕府」は、“「律宗族」”を認める事で自らも正当な格式があるかの様に振る舞ったのだ。
その証拠にこの「戒めの名」、即ち「戒名」は「浄土宗・密教浄土宗・原理主義」の「白旗派・皇位族・高位族が帰依」に帰依する「律宗族」には、「生前に持ち得る資格」として与えられ特別に許され得度としたのだ。
要するに、古来からの“「院殿居士」”の「仕来りの権威化・格式化」であった。
因みに、この「消えた名誉な号の伝統」を蘇させるとして、「院」は「院号」、「殿」は「誉号」、「居」は「戒号」、「士」は「位号」に相当させ白旗派の族に許可したのだ。
つまり、古来より「密教」であった頃より「帰依する皇位族の仕来り」として用いられている「密教浄土宗の戒・戒号」は、次の様であった。
「五戒相伝」の「伝統」を維持している事に依って、「新撰姓氏禄」に記されている「48朝臣族/910の氏族・平安期初期・48/110」の「他氏」と異なり、その「戒」に基づき「生前の格式」として「院号」「誉号」「戒号」「位号」の「4つの号」を格式として持つ事と成っていたのだ。
取り分け、「皇位族の伝統」の「五戒相伝」にある様に、この「戒の号」は、「号の格式」が低下して無くなり鎌倉期頃からはある程度の身分階級に一般化してこれを戒めの誉の号を“「戒名」”と後に称される様に成ったのだ。
これが上記する「鎌倉幕府の源氏の所以」で起こった仕儀であったのだ。
この時、「戒の号の習慣」が遺る事は、「頼政系を利用した頼朝系」を疑わせる事に成り、これの印象を排除したい為に、もつと云えばつまりこれの関係者に従わせる為に、「白旗派」に「鎌倉幕府」から強引に圧力が掛かった事が平安期より他派よりも更に衰退に繋がったのだ。
「48の帰依族」から「青木氏等の10程度」の極めて弱小派と成って仕舞い、故に室町期では「律宗族」としたのだ
「奈良期からの原理主義の概念」が衰退し「日蓮宗等の他流派」が逆に隆盛を極め始めたが、「皇位族の伝統」に依って引き継がれて来た「五戒相伝の衰退」も「白旗派」に「鎌倉幕府からの強引な圧力が掛かった事」がこの根本原因であつた事は頷けるのだ。
然し、ここには「大きな矛盾」が潜んでいたのだ。
それは「鎌倉幕府」と云うよりは「頼朝」に矛盾があった。
それは、「頼朝」はこの「白旗」を「軍の旗印」とした事であった。
当然に「白旗」なら「神明社・神教」であり、「浄土宗・仏教」である「神仏分離の享受」であるが、頼朝にはところがここに無理があって違ったのだ。
この上記の「五戒相伝等の矛盾」をかき消すかの様に、その信じる処を「八幡菩薩・仏教」とした。
それは同時に「神明社」では無く「八幡神社・神教」で且つ「神仏習合の享受体」、つまり、「仏教擁護の神」と云う「無理な概念」を造り出したのだ。
ここが正当な伝統を守っていなかった事が「矛盾の大きな違い」として出たのだ。
ここが世間から非難され「鎌倉幕府の基幹の権威」が低下した故と成ったのだ。
「北条氏等の坂東八平氏」、つまり、元皇位族7世族以上は坂東に配置されたその族」で彼等に執ってはこの「矛盾」は「執権制・政権奪取」を敷く上で都合が良かったのだ。
その「根拠」を、論外であるが追記する。
そもそも「清和天皇の即位・859年」に、「南都大安寺の行教」が「宇佐神宮」に参詣し、その時に「御託宣」を受けたとし、「男山に移座し国家を武家で鎮護せん」としたとすると云うのだ。
この「清和天皇の命」で上記した様に「石清水八幡宮の神仏享受体」が創建されたのだ。
この「石清水八幡宮」は、其の後「国家鎮守の神」として崇敬を集め、取り分け「清和天皇の河内源氏・源頼信系の姓族」は崇めたのだ。
「武家社会の許」で「武家の神と仏」として「鎌倉鶴岡八幡宮」はこの「信仰」を集めたのだ。
話は都合よくまとめられているが、要するに「天皇家」はそもそも「皇祖神」であり、「仏教の事」のみならず、況してや「武家を推奨する事」は、自らの天皇家を否定する事に成り、「矛盾の極み」であり、この上記した「矛盾」を克服する為に、その中間の「八幡の神仏享受体」を頼朝は造り上げたのだ。
「欽明天皇と用明天皇」 「飛鳥寺と法隆寺」 「蘇我氏と物部氏」が基点と成って朝廷内で信仰して興つたものであり、上記した様に「庶民の仏教」はずっと後の鎌倉期の事である。
その間の「朝廷の考え方」は矛盾から脱出する為に「詔の発出」に迫られていた。
この様に、“国家として「仏道」にはその必要性を感ずるが、「神道」を根幹とするは変わりは無い”として詔を出して「豪族間の争い仏教派と神道派を鎮めるに躍起に成っていた。
故に、鎌倉期では「八幡神社・神教」と八幡菩薩・仏教」で「神仏習合の享受体」が都合よく河内源氏の幕府に執っては成立したのだ。
此の反対側に居た「五戒相伝の青木氏族」に執っては「社会の流れ」とは反対側に居て難しい立場に置かれていた。
然し、仏教も積極的に取り入れる立場を保っていた事に成る。
寧ろ、これも「青木氏族の自らの矛盾の期」でもあった筈だ。
「伊勢」で「青木氏族」が当に世に引き出される「直前・白羽の矢・孝謙天皇期・聖武天皇期」の時期、つまり、この「東大寺大仏の建立」と「鑑真招来による律宗概念の導入」が原因していたのだ。
「青木氏族」では調べると、この「鑑真律宗の法界の戒律」が、遂には上記したその「朝廷の考え方の影響」を受けて、「神明社と古代密教浄土の仏教」の「古式豊かな神仏融合の原理主義の伝統」を守って来た「青木氏等」にも適用される様に成って仕舞ったのだ。
その結果の影響を受けて「律宗族」と成って仕舞ったと云う経緯である。そうでなければ氏是゛に依って「律宗族の指定」とは成らなかったであろう。
その大きな原因は「守護神の神明社の神職」や「菩提寺密教の清光寺の住職」は「自らの氏の者」が務めるとした「伝統の事」にあったのだ。
故を以て室町期に「律宗族」と再任される結果と成ったのだ。
要するに、“理利に反する”としても「再認される事を拒む根拠」は「青木氏側」には何も無かった事なのだ。
そのターゲットが伊勢信濃に置いていたとしても「秀郷流青木氏」も同然であったろう。
故にその証拠として、この「五戒相伝の伝統」の「院号」「誉号」「戒号」「位号」の「4つの号」の「格式」は依然として「伝統」として頑として保たれていたのだ。
これに付いて本来は反対し圧力を加えて来る筈だが「鎌倉幕府」は何故か黙認した事を意味する。
興味深いのは、社会が替わろうと何故かこの「頑なな伝統」だけは現在でも遺るのであるし、この部分に於いてはこの資料関係を遺している所以であろう。
ここで重要なのは、前段でも論じている事でもあるが、「律」は「全体の行動の戒め」であって、「戒」は「個人の戒」と定義されている事に成っている。
「青木氏の資料」から読み解くと、「律」は「刑の事」であって、「令」は「民の事」と定義して明記している。
とすると、「青木氏族に於ける律宗族」は、「律」である所以である以上は「青木氏族全体」に課せられた「戒」であって、「戒宗族」とは成っていない。
故に氏が定めるところに於いて反すると罰が下る定義である。
要するに「個人の戒」で無かったと云う所以と成り、「青木氏」に課せられた「戒」では無かった事に成るだろう。
つまり、「五戒相伝の伝統」の「院号」「誉号」「戒号」「位号」の「4つの号」の「格式」はこの時代に於いても未だ「一族全体が護っていた伝統」と成り得る。
これは「伊勢信濃の青木氏族」と「女系で繋がる秀郷流青木氏」の「二つの青木氏族」に課せられていた「五戒相伝の伝統」であった事を証明するし、これが「格式」と成り前段で論じた論説に符号一致する。
逆に云えば、何れの源氏族にも「五戒相伝の伝統」は適用されていなかった事を意味し、河内源氏系の頼朝等が主張する格式は有していなかった事に成る。
それを「河内源氏系足利氏の幕府」が、「二つの青木氏族」を「律宗族」と認定したのには興味深いものがあるし、「正親町天皇」が70年後の相当遅れて追認したのは歴史的に意味を持ち頷ける。
この「五戒相伝の伝統」の「院号」「誉号」「戒号」「位号」の「4つの号」の「格式」は、「賜姓五役」の任にも通ずる事に成り、「五戒相伝の伝統 イ」=「賜姓五役の伝統 ロ」と成り得るのだ。
「五戒相伝の伝統 イ」=「賜姓五役の伝統 ロ」の役務の時系列は同じであり、イがあってロが成り立ち、ロがあってイが成り立つ相関関係にあるのだ。
故に、「足利幕府」と「正親町天皇」の「律宗族認定」は、「五戒相伝の伝統 イ」は兎も角も「賜姓五役の伝統 ロ」をも認めていた事を示すものだ。
もっと云えば、「青木氏族」が「古来より持つ伝統」の全ては「イとロ」に相関して成り立っていると観て居るのだ。
決して「律宗族」の格式認定だけでは無かったのだ。
「大義」はイにあり、「目的」はロにあったと考えられる。
ロに持つ「経済的潤い」に狙いがあった気がする。
幕府や朝廷が「経済的潤い」を受ける以上は「非難される点」を除かねばならない。
この「当然の務め」として「賜姓五役のロ」にあったと考えられる。
「昔の永代の務め」を廃れているのに今に成って「ぶり返して来たと云う事」であろう。
「足利幕府」と「正親町天皇」は、その様に考えていたかは定かではないが、少なくとも「正親町天皇」は思っていた可能性は充分にあり得る。
何故ならば、前段の「殖産の論」の「献納の処」で論じた様に、裏で「賜姓五役」の「令外官」として「紙屋院」に始り「絵画院」・「繪処預」等を務め、「鉱山開発・硝煙開発」等は平安期初期までは「伴造と国造りの統括支配の役」で務めていたとされるからだ。
この時の支配下にあったが「役務名」に付いては詳細では無く「院名不記載」である。
これは恐らくは、敢えて特別に「院号」を与えられず「伴造と国造りの統括支配」の許で“「令外官」”として務めていた事が間違いなく考えられる。
「幕府」は兎も角も「朝廷」には無理がない事が云える。
何故ならば「平安初期」からは「嵯峨期の詔勅禁令」で「皇親族・賜姓族」を外されたが、“「令外官」”で「国造や伴造」を配下にし、且つ、自らも「専門技術を有する青木氏部」を有し、又、当時にその「殖産の専門技術者集団の額田部氏」と連携もしていたのだ。
鉱山開発には額田部氏との連携があったと考えられる。
そして、「途方もない大財源」を必要とする「鉱山開発・硝煙開発等の殖産」では、朝廷内ではたった「18氏しかない臣下族朝臣族」では果たす事は到底出来ず、これを「青木氏族の独占上」であって務めていた背景があり他の氏は無理であったろう。
そうでなければ「朝廷の大きな財源となる献納金」は獲得は出来ない背景にあった。
幾ら「嵯峨天皇」が「自らの出自元」に反抗してもこの事に関しては無理であったのだ。
「出自元の青木氏」を「皇親族」から「賜姓族」からも外したのには殖産で力の着き過ぎた皇親族を政治の世界から外したかったからであろう。
その証拠に「永代の賜姓五役と令外官」は外していないのだ。
兎も角も」経済力を持つ事」には朝廷は潤うし、自らの首を絞める事にも成り外すわけには行かず、従って否では無く、要するに「青木氏の政治の場」に対する「政治的立場」を排除したかったのではないか。
自分の思う様にしたかったとと云う事であろう。
然し、思う様に一族や青木氏は動いてくれなかったのだ。
桓武派と嵯峨派が生まれて政治的敵対したのだ。
前段でも何度も論じたが、この「殖産状況」は正式には政治体制が変わる明治9年まで続いた事が記録されているが、「鉱山開発・硝煙開発等の殖産」は基本的には「影の令外官であった事」が「献納」で証明できる。
これに関わった「鉄穴部・鉄安部・かんなべし」を何時、「青木氏部」に加えて、何時、「青木氏部」から何時、「鉱山開発と硝煙開発等の殖産」から手を引いたかは判っていない。次第に低下して行ったのであろう。
然し、「鉄」に関わる以下の状況証拠と大体の時系列から割り出せる。
大倉鉱山の産出量が低下し古く成った時期・1540年
摂津堺店が日野支援を打ち切った時期・1550年
銃の開発が済んだ時期・1557年
薩摩などが日野鍛冶師を雇った時期・1558年
採掘の額田部氏が滋賀より引いた時期・1560年
近江で松井氏と再関係を持った時期・1562年
額田部氏が穂積氏とが疎遠に成った時期・1565年
日野から伊勢青木氏部に鍛冶師が逃げ込んだ時期・1567年
高倉鉱山が盛んに成った時期・1568年
雑賀に伊勢の支店を置いた時期・1569年
雑賀で鉄鉱石輸入で製鉄が盛んに成った時期・1570年
渥美湾の制海権の獲得した時期・1572年
伊川津で殖産を開始した時期・1573年
雑賀根来が信長と秀吉に敵対した時期・1576年
根来衆が雑賀衆と疎遠に成った時期・1577年
信長が近江丹波を獲得した時期・1579年
信長から秀吉政権に移行した時期・1580年
青木氏の伊勢と紀州の殖産が軽工業に移行した時期・1582年
秀吉刀狩りを実行した時期・1588年年
青木氏部が宮大工等の建設業に移行した時期・1590年
以上等の総合的な事柄が左右している「ある一定の時期」には「鉱山開発・硝煙開発等の殖産」から手を引いている筈で、そもそも「続ける事」がそもそもが困難で「商い」としても得策では無かった時期があった筈だ。
その基準は、次の通りであったろう。
経済的な財力や開発能力の有無には総合的な問題は無かったのである。
第一次的な理由は「殖産」に関わる事
鉱山開発の「意味・目的・理由」が総合的に無くなった時期
鉱山開発の「排他的な続行」が総合的に困難に至った時期
鉱山開発の「政治的な配慮」が総合的に必要と成った時期
第二次的な理由は「鉄」に関わる諸々の事
第三次的な理由は「総合的な理由は幾つか重なった事」であろう。
故に突如辞めたのでは無く「一定の短い期間」を経て引いた事となろう。
これ等の事は「商記録」に最も反映される事柄であるが何故かこれには記録や資料がないのだ。
何なのかは良く判らないのだ。
この「鉱山開発の資産」に付いての「日本書紀などの歴史書での書き方」には記録や資料がないのだ。
686年8月にも「封」を加増され、伊勢に200戸を加えられている。
703年9月に、“近江の鉄穴・鉄安を賜る”と「役務」を与えられる。
704年1月に封100戸を伊勢に加増されている。
714年1月に封200戸を伊勢に加増されている。
持統上皇御葬送の際に「造御竈長官」を務む。
706年9月から10月に架けて「文武天皇の難波行幸」に従う。
707年6月、文武天皇崩御の際、殯宮に供奉する。
708年1月、叙品し、三品を授けられる。
715年1月、二品に成る。この時初めて封租を全給され、封租全給の初例と成った。(判断として重要)
716年8月11日、薨去し、「六人部王」らが葬事の監護に派遣され、この薨伝に「天智天皇第七之皇子」と記されている。
770年11月6日、「光仁天皇」は「春日宮皇子」を「同族同祖同門同宗の四掟」とする「父の施基皇子」を追尊し「春日野天皇」を追尊した。
「三笠山の野辺」に「宮」を営む、とあり「高円山」に葬送したとあるが、「御墓山陵」は別に「田原西陵」と称され、現在の「高円山の東南、奈良市須山町・名張から真西19.5k」にある。
「施基皇子の祭事寺」は現在の「奈良市白毫寺町白毫寺・びゃくごうじ)」に祭寺があり、「名張」から真西23kの線状点にある。
703年9月に、“近江の鉄穴・鉄安を賜る”と記しているが、「役務」を与えられたとしているだけで「本領で無かった事」も考えられ、この事からこの近江の開発した「二つの鉱山」そのものが「伊勢青木氏」のものでは無かった事も考えられるがどうであつたのかである。
そこでこの前後関係の経緯を判断して“賜る”をどの様に判断したのかである。
その判断する根拠と成る歴史観は何処にあったのかでこの「文章の意」は決まる。
否、寧ろ、此の頃の文章に云えるのだ。
それは、当時の制度レベルにあったのだ。
つまり、当時はこの“鉄穴・鉄安”とは“かんな”と呼称し、要するに“鉄の穴・鉄の安の事”、即ち、“鉱山の事”で、「土地と民」を以て「封と戸」で功績時は恩賞を賜る仕組みであった。
従って、この“鉄穴・鉄安”は、「鉄と民」が「封と戸」に値するのだ。
当時としては全てこの評価基準が「米」に相当して評価する社会で税とし、その「米」を生み出す「民」と合わせて恩賞は与えられた。
とするとこのあたらしい「鉄」はどの様に評価するかは未だ決まっていなかった事に成る。
これから「鉄の社会」に入ろうとしていた時期であったのだ。
つまり「米」>「鉄」であった。
「紙」も木簡や竹簡に頼っていた時期である。
「紙」は「紙屋院の称号」を与えられて「青木氏族」が開発し「特権」を獲得して市場に貢献したのだ。
そして、今度は「鉄・かんな」であったのだ。
当然にそうすると“「鉄穴院・鉄安院」”の様な「特権」が与えられていたかの問題である。
さて、そこで働く「鉄穴部・鉄安部・かんなべ」が「戸・民」であって、「鉱山・鉄」はそもそも神道の世界では「山・神」であるので「山を売る事」は叶わず、「売るもの」は「鉄」に及び、これは「土地の米」に値する。
要するに、「封戸」は本来は「土地・民」に替えて「米・民」に値するのだ。
「土地」は原則、神、即ち天皇からの「貸借のもの」であったのだ。
つまり、それまでは未だ正式にはこの「鉱山」による仕組みは初めての事で、「鉱山」は、実質は「貸借」のものであって、その代わりを以て「米」、又はこの場合は「鉄」を「税」として換金して治める仕組みとして「施基皇子の裔の青木氏」は取り組んだのだ。
元来、これが「中国の周の斉」から統治手段として採用し、それを始めて「太公望」に依って治められて「封建社会の原理」と成った。
この社会原理が日本に新しく浸透して来た時代であるのだ。
前段で何度も論じている中国著書の「六韜と三略の戦略」は、「呂尚・太公望・、紀元前11世紀頃」に依って採用されたものであるが、丁度、「唐・618~907年」の「731年」に「呂尚の記念廟」が建立された時代でもある。
この「新しい考え方」が「大化の改新」に依って「皇位族の者・賜姓臣下朝臣族」に限って採用されたのだ。
その中でも未だ「鉄・鉄穴・鉄安」は余り例に観ず新しかったのだ。
取り分け、「近江の大倉鉄穴」は開発時のものであった。
其の後に需要の爆発で「近江の高倉鉄穴・鉄安」が開発されたとする経緯を持っているのだ。
従って、この“近江の鉄穴・鉄安を賜る”の「賜る」の書紀には「意味」が多く「封建社会」に入る「初期の天皇家の処置」と成り、それを「皇位族・皇親族の青木氏」に遣らせる判断は初めての事であったと考えられる。
寧ろ、その様な時代であった事から都合よく「賜姓臣下朝臣族」に遣らせた、又は遣らせる為に「臣下させた事」も考えられる。
最も「信頼於ける身内の者に委ねる事」の判断が強く働いていたと考えられる。
「蘇我氏の失敗などの事」を含めて「近衛兵」も然りであり、この将来を占う「鉄穴・鉄安・かんな」も他に任せる事は出来なかったのであろう。
そこで「鉄穴・鉄安・かんなの役務」を賜ったのか、この文章の直前の686年に「200戸の封民」を、その直後の704年1月にも「封100戸」を伊勢に加増されている。
「封」を与えられているので、功績としてあるので「鉄穴部・鉄安部の民・青木氏部」をも賜った事に成る。
それが前段でも何度も論じているが「国造」として「青木氏部」に属した「鉄穴部・鉄安部」であろう。
後にこの「鉄穴部・鉄安部・かんなべ」がこれが後に「鍛冶部・かじやべ」と成った事が記されている。
“686年8月にも「封」を加増され、伊勢に200戸”とあるが、原文記載の文章の記述を良く観ると“「・・も」”とある。
つまりこれがある以上は、文章の行から、それ以前にも「初めての封戸」が在った事を示している。
この「686年8月」は「天武天皇の崩御後10月1日」の「大津皇子事件10月2日」があった年の10月の翌日に成る。
この年の8月9日 「実妹の持統天皇」に成り「政・まんどころ」を執り主な政務を皇太子に託す。と成っている。
8月14日・16日 32年間断絶していた日本の元号が再開、新元号朱鳥に成る。
686年8月にも「実兄・施基皇子」に「封」を加増され、伊勢に200戸を加増されたが、これは「持統天皇即位」に依り授かるものだ。
さて、「・・も」のものは何なのかである。
つまり、従って、その前の「686年の前」にも記載は無いが“「・・も」”の表現では少なくとも「100戸程度」は受けている筈である。
それには別に気に成る記述があるのだ。
715年1月、二品に成る。この時初めて封租を全給され、封租全給の初例と成った。とある。
気に成るのは以上の記述である。
「施基皇子」の「没・716年8月」の前の1年7月前に上記の「全封戸」が支給されていたという事は、それまで一切の皇子にも支給されていなかった事に成り、事実もそう成っている。
これは「施基皇子」の「没・716年8月」に関わりなく支給されていなかった事に成る。
それも「伊勢王の施基皇子・遙任・国司代三宅連岩床」にのみならず「全皇子の封戸」にである。
従って、「賜姓」に依って「647年」に「伊勢」に「青木氏」を興した。
そこで、“どの様に「糧」を得ていたのか”である。
これが「・・も」に関わっていると観られるのだ。
この時、「国造」から上がって来る全物品を先ず朝廷に納め、「朝廷の余剰品」を市場に下ろし裁き、この「利鞘」を「朝廷」に納める「部経済」であったが、この「役目」を「伊勢王の施基皇子」は一切担っていたのだ。
これに依って「伊勢王の役料」と「市場放出の令外官の役料」に依って「二つの糧」を得ていた事に成る。
「商い」である以上その仕方で可成り大きいものに成っていた筈であり、朝廷からの務めの役料以上であった事は間違いはない。
その延長線上に「鉄穴開発・鉄安開発」と「和紙開発の命」が下り「開発成功」とその殖産の生産に及んでいたのだ。
結果として、後の「925年頃」に「商いの二足の草鞋策」が朝廷より「施基皇子の裔」に認められる経緯を持っていてそれ程であった事に成る。
「647年伊勢」に「青木氏」を興してから、「686年の前」までの40年間には、評価に値する世の中に果たした何れも「新しい経済システムの確立」であった。
それは「余剰品を市場放出の成功例」と、この「鉄穴開発・鉄安開発」と「和紙開発の命」の「二つの成功例」の「三つの功績」があり、「686年の前の記録」では記述が無い事が判る。
“715年1月、二品に成る。
この時、初めて封租を全給され、封租全給の初例と成った。”の以上の記述に原因していると考えられる。
つまり、この「三つつの功績」に対して715年まで朝廷より保留されていた事に成る。
故に、これらの「二つの功績」を取り纏めて、“二品に成る”とあるのであろう。当時としては最高位である。
念の為に、「701年に制定した大宝律令」と「718年の養老律令」のこの「二品の評価」であるが、没する「1年半前」にはここで全功績を纏めて「令外官の親王の二品・最高位」を獲得した事に成る。
注・官位は「政務職」、「近衛」、「令外官」の三つに分けられている。
「青木氏族」は「近衛」か「令外官」のどちらかの「品位掌職」に就いていた。
先祖の戒名や襲名名や 諱号や諡号から間違いなく両方に就いていた事が判る。
これは前段や前記でも論じている通り「令外官の二品・正二位」であった事から「内大臣・現在の特命国務大臣」に扱われていた事を示すものである。
そもそも上級では「国司」までが朝廷より「俸給」を受けていたのだ。
従って、この時、「令外官の親王の二品」は、つまり、「諸王の正二位」に相当するが、「最上位から三番目」で「最高の官位とそれに相当する俸給」を功績として得ていた事を示すのだ。
現実には「親王一品の位」は空席にするのが当時の慣習である。
そこで、「施基皇子」は、最終は、“715年1月、二品に成る。”の直ぐ後に、「元明天皇・在707年8月~715年10月」に依って「天武天皇」に継ぐ「浄大一位・親王一品」を獲得したのだ。その根拠と成るのだ。
そこで「施基皇子」が貢献したその他の功績の経緯を記す。
689年に「撰善言集」を編集した。
701年に作られた「大宝律令」を整備し運用した。
701年に平城京第一次大極殿を復元した
708年7月に「秩父」より「銅の産出」があり、「和同開珎」を鋳造させた。
710年に「藤原京」から「平城京」に遷都した。
710年に「荷役就民の詔」を伊勢国司に出した。
710年に「古事記」を献上させた。
713年は「風土記の編纂」と「好字令・諸国郡郷名著好字令」を詔勅申請した。
715年には六人の参議の協議で「郷里制」を敷いた
以上の事等の整備に努力が成されたとしているのだ。
これらは経済的には「鉄銅の産出」と、社会的には「律令体制」の確立した経緯とが進み、「大化期からの財政不足」で保留にされていた「以下の事」が実行に移されたのだ。
そして直接的には、“「荷役就民の詔」を国司に出した。の令”が以下の記述と成ったのだ。
結果として、センセイにる個人採決の判断では無く、”「律令」で判断する「大宝律令の制度」”に従った事と、「荷役就民の詔」に従った事」とで、今までの慣習を打ち破り過去の保留されていた褒章・功績も一斉に以下の文章に遺る様に施行されたのだ。
“この時、初めて封租を全給され、封租全給の初例と成った。”との以上の記述に成ったのだ。
その前には、“708年1月、叙品し、三品を授けられる。”がある。
つまり、それまでの「功績の評価」を纏めて官位で受けているのだ。
この時の功績評価は、次の「イロハの三つ」である。
一つは、「持統天皇」は、645年~702年崩御 在位690年~697年である事から、「持統天皇」と「天武天皇の墳墓構築」とに直接責任者・イとして関わったり、707年6月には、「文武天皇崩御」の際には「殯宮」に供奉・ロし、その後、この「三人の天皇の葬儀と墳墓構築」を指揮担当した事・ハを示す。
前段でも論じた様に「孝謙天皇の白羽の矢」で誕生した「父施基皇子」の「四男」の「光仁天皇・后井上内親王」は、この「三つの功績」を評して「天武天皇」に継ぐ「浄大一位・親王一品・令外官一品位」を追認して獲得したのだ。
つまり「追尊天皇」に成り得た人に成る。
参考として、“「・・も」”に就いて前段での検証で論じたが、上記の「封戸」の全ての積領を算出すると伊勢と近江の「大字」は、4又は5の数授説もあるので仮に5とすると、「伊勢王」であった事から、ほぼ「伊勢全域弱の有効な積領」を持っていた事に成る。
故に、これ以上に「有効な積領」の「封戸」を「功績として与える事」は出来なかった事に成り得る。
従って、これをそれに相当する「品位」に換えて「浄大一位・親王一品・令外官一品位・715年10月」を追認したと観る事も出来る。
「浄大一位・親王一品・令外官一品位・715年10月」を獲得した事で、「伊勢と信濃の濃厚血縁青木氏族」はその格式を背景に前段で論じた”「色々な事」”が出来たと考えられる。
要するに、「室町期の律宗族」に繋がった「永代の賜姓五役」であったのであろう。
次に、「銅の鉱山開発の疑問・秩父」である。
この時は未だ「伊勢青木氏」は「秩父」までその「経済的勢力」は及んでいないし、且つ、「過去の記載の散見」は一切無い処から、「銅の鉱山開発に関わった者」は誰であったのかは確定する記録が無い。
然し、結論はこの「銅の産出」には一切関わっていない事は確かであろう。
では誰なのかである。
そこで余談だがこの検証の為に、前段でも論じたが「青木氏」と深く長く関わった「連」「臣」「宿禰」と大出世した「大和朝廷系の額田部氏」とは違う「渡来人系の別の額田部氏の職能集団・出雲国臣系」が在った事は記録で判っていて、「出雲国」が「大和国」と合体して以降はその集団は「各地の鉱物の開発と生産」にも関わっていた事は判っている。
史実、「出雲国」から唐に船を出してこの「技能集団」を態々招いている記録が遺る。
「大和朝廷系の額田部氏」も元の出自を質せば、この「渡来系とされる出雲国系額田部氏の職能集団」からの出自であった事も考えられる。
但し、「渡来系とされる出雲国系額田部氏の職能集団に鍛えられた大和人」とする説もある。
筆者は、前段でも論じたが「日本書紀等の史書」にも明記の記載がある程に、「天武天皇」が「大和人の全ゆる技能者・官僚族含む」が少ない事を嘆いて、“積極的に招いて大和人を鍛える様に”と命じているのだ。
故に、この事で養成された「額田部系の職能集団・土木」のこの「大和人説」を採っているのだ。
更に、何故ならばこの「大和朝廷系の額田部氏」の当時の分家に当たる「穂積氏」と呼称する「分流集団」があり、彼等は共に“稲の専門技術を以て保存管理して連携して働いていた事”が判っているからだ。
つまり、前段でも論じた様に「大和朝廷系の額田部氏」は、記録から主に「米の干拓灌漑工事」や「地質と地形等の技能技術」を駆使して「墳墓建築工事」や少し後に成るが「墨・硯・砥石・岩絵具等の生活用品の開発と採掘工事」や「遷都時の排水工事」や「神社建設などの基礎土木工事」等にも関わっていた史実の事から「出雲国系額田部氏の職能集団とは違う技能集団」であった事が判るのだ。
其の後、「桓武天皇の遷都時・784年・794年」に「平城飛鳥」より遷都への同行命令を拒否して事件を起こして罰せられ朝廷から離れて「伊勢青木氏」がこれを桑名で保護し、その後彼等と連携して生き延びているのだ。
依って、恐らくは、このその後の「銅の鉱山開発・708年」~「遷都事件・787年」の間は「三大官僚土木業」の一つで「武蔵域の土地の結城氏等」が請け負い、787年以降は「出雲国系額田部氏の職能集団・部制度の強化」に依るものでは無いかと推測される。
その証拠に参考として「魏志倭人伝」によると次の事が書かれているのだ。
それは「出雲国」では「稲作農耕」が良く行われ、その祭祀に用いた「銅剣や銅矛盾や銅鐸などの青銅器」が生産され、「弥生人」が持ち込んだその「中国・朝鮮文化」の進んだ文化が華が咲いたと書かれている。
そして「卑弥呼の邪馬台国」は「狗奴国」と争ったと記され、この「狗奴国」がこの「出雲国・疑問」とし、この「出雲国」は「大和国」に“「350年頃」”に滅ぼされたとする説の「滅亡説」と、「古事記」では逆に「国譲り説」が見える。
筆者は定説と成っている「出雲朝廷」の国が「大和朝廷」と融合したとする説を採っている。
争っていればもっと記録が遺されている筈だが無い。
ところが現在では、「関西の発掘調査」では「縄文人の村」と「弥生人の村」はたった「300mも離れていな地域」に「村」が「共生」で構成され、相互に文化の遺跡品が混在していた事が採掘で新しく判ってきているのだ。
ところが逆に、最近の「九州の遺跡調査」では寧ろ「闘争的民族」が住んでいた事が判っている。
この「狗奴国」は「邪馬台国」の西隣の「熊本県」とする説があり、「邪馬台国」に滅ぼされ、この「邪馬台国」は南薩から来た「太平洋民族」と「南アジア民族」の「二漂着民族」と「薩摩原住民族」の「三融合民族」に依って滅ぼされたとし、「邪馬台国」に戦い勝利したが占領せずに引き上げたとする説に成る。
そして「狗奴国・不戦民族」は中国地方を経て「出雲国」で戦い中部地方を経て「蝦夷国・アイヌ民族」にと到達したとしている説がある。
筆者はこの説を採っている。
それは「出雲国=狗奴国の説」では、「出雲国系額田部氏の職能集団とは違う技能集団」であった事の歴史的史実や「魏志倭人伝」は成り立たない事に成る。
「出雲国」は「亀甲・こおら」を「神」と崇め、「狗奴国」は「狗・くま」を崇めている。
そもそも「崇めの物体」が異なり、「出雲氏族集団」は室町期まで「亀甲集団」と呼ばれていたのだ。
「崇めの物体」が異なる事は同一の国ではない事に成る。
この事から、この「350年以降」を契機に「出雲国」と「大和国」は“「国譲り」に依って融合して行った”とされているのだが、この「国譲り後」のこの専門知識を有した「銅の鉱山開発」に関する時期は、これより“「704年」”に「大和国系額田部氏・大和人」の工人に依って「鉄」が「近江・大倉・書紀」で発掘されていたが、再び、そのすぐ「後・4年後の関東」で“「708年」”に「出雲国系の額田部氏・出雲人」の工人に依って「銅」が「秩父」で発掘されていた事に成るのだ。
この「額田部氏」に付いては間違いを起こしやすいのだ。
丁度、この708年に「大和朝廷」が「関東」を何とか制圧下に治めた時期であって、当にこの「708年・出羽国・国府の設置」の時期でもあり、その統治下に入った「秩父・武蔵」では要するに「制圧直後・358年後」に「銅鉱山発掘」と成っているのだ。
この経緯では時系列の整合性が採れる
余談ではあるが、従ってこの「語る処事」は、関西では「703年の近江で鉄鉱山開発」を、”統治下に入った関東では当時に「708年に銅鉱山開発」にも直ぐに入った”と云う事に成るのだ。
それだけに、当時は、「鉄」は勿論の事、“銅の必要性も高まっていた事”を示すものだ。
つまり、青木氏が命じられた近江での「大和国系額田部氏・大和人の工人による鉱山開発」は「関東」では無理であり、元より彼等の本職である「上記のイロハの墳墓建築」で「施基皇子」と共に桑名で関わっていたし、従って其処まで「彼等の活動範囲」とその詳細は及んでいなかった事にも成るのだ。
それ故に、中部域から東の関東域では「額田部氏の子孫」は遺していないのだ。穂積氏は中部関東間である。
前段でも論じたが、「施基皇子の伊勢青木氏と共に運命共同体として生きた事・桑名」により当然の事と云えば当然の事ではあるが、江戸期に成っても関東は疎か中部域以北には「彼等の痕跡」は全くない所以なのだ。
話は戻って、上記の“「施基皇子没・716年」の「1年半前」には、ここで全功績を纏めて「令外官の親王の二品・最高位」を獲得”していた事に成るが、この“「令外官」”としてその後も身内の「嵯峨天皇」に依って「皇親族」を外された立場ではあったが、「令外官の上記の品位」は一度与えられた義理は外れる事は無く、続けて密かに「軍務処」や「学問処」として任命追認され、「社会の状況」を「献納・定期」を機会に「天皇」に伝えていた事を前殿で論じたが、この「密かな役務・令外官・一品」は明治直前まで務めていた事が「青木氏の資料の行」で読み取れる。
それはつまり、この「上記の事」は「献納・朝廷」と「冥加金・幕府」の「裏打ちが在った事」にも成る。
この事から「公家や貴族を含む上層階級」の間では、未だ「青木氏族」に於ける「五戒相伝の伝統」=「賜姓五役の伝統・令外官の親王の一品・最高位」の格式は、この時代に於いても家康が、「伊勢の事お構いなしのお定め書」で認めた事の様に「衆知の事」であった事を意味しいている。
要するに、これが、つまり、「戒」が世間に一般化していた事を示す。
この「格式の号」に代わって、「浄土宗知恩院派の白旗派」では「戒」に「名」を着けられて「・・の号」として持つ事も「格式の一つ」と成り得たのだ。
これが一般化した証拠として「戒名」として「戒による格式」は無くなった事を示すものなのだ。
「朝廷様式」を重んじた「鎌倉期・安定期」では、この“「律宗族の格式呼称」”は、何故か無く成った、又は消えた、消れたが、故に逆に格式を取り戻す樽に「室町期・騒乱期」には、再び「律宗族と呼称しての格式」を再興された所以の一つと成ったのだ。
それには、二つ考えられ、先ず一つは、「北条氏」に執っては「西の文化の発展」は好ましく無く、且つ、「各種の宗派の勃興」で「浄土宗だけの格式化」は好ましく無かったのだ。
以下にその号の詳細を記する。
・1 「院の院号」は、「門跡院」に代表される様に、「退位した天皇」、或いはそれに相当する立場の「者・皇子皇女と皇位族・皇親族」に与えられる「最高格式の号」である。
・2 「殿の誉号」は、「院号」に次ぐ「五戒相伝の族」にあってそれに基づく「五重相伝の得度」を得た者の「貴人・皇位族と高位族」に与えられる格式である。
「誉号を持つ事」に依って「・・殿」と呼称され其れを表す「殿」を建立できる。
この「殿の語源」は、そもそも「左部首の象形」は「椅子」で、それに右の「股」を組み合わせて要するに「椅子に座っている人」を指し意味する。
つまり、「皇位や天皇の高位の者」であってその人が住む「館」を意味する。
況や、「誉号」を持つ事で「殿・館に住める事・名誉な館」を意味する。
・3 「居の戒号」は、「五重相伝の得度」を得た者の「貴人・皇位族と高位族」が持つ「慣習仕来り掟」の「伝統」を有した者に「格式号」として与えられるものである。
・4 「士の位号」は、「貴人・皇位族と高位族」の「天皇」より与えられた「身分」を号として表す「格式号」であり、そもそも「天皇」に仕える「侍士・近衛の士」の「格式号」である。
要するに、この四つは全て“「住まいの形」”であり、中でも古来の「士の語源」として、“地上・つまり一に+を立ててこれを杭を立てた様”として使われていた。
後に、この「様」が「戦士階級の身分」を表す「儀器」と成ったのだ。
それ故、「兵士の意味」に用いられる様になったもので元は物を支える「杭」なのだ。
従って、「住居の環境」を「院→殿→居→士」の「形」を「格式化」して順序良く並べたものである事に成る。
「士」の「杭」が集まると「居」に成り、この「居」が多く集まると「殿」に成り、「殿」が多く集まる所を「院」と云う事だ。
つまり、全てがこの“「杭の数」”に由来して「階級格式」は出来ている定義と成っているのだ。
もっと云えば、“「杭の数」”は“「士の数」”に由来している事に成るのだ。
況や、“「士の数」”はその「階級」に成り、この「階級の数」は「格式」に繋がるとしているのだ。
この格式数のそれを以て「号」とするとしているのだ。
この逆の事も然りであり、これが「古代社会の社会定義」である。
更に詳細には、当時の「青木氏の立場格式」を理解するには次の様に成る。
例えば、以上の事は次の様に成る。
・1に付いて、「二つの青木氏族」に執って云えば、「院の号」は「清光院や西光院」である。
「光仁期の桑名殿」の「浄橋や飽浪」に与えられたのは「美濃の清光院」や「伊豆の伊勢信濃青木氏の融合族の清光院」等がある。
「清光寺と西光寺」が「清光院と西光院」と成り得たのはここにあるのだ。
・2に付いて、「施基皇子の冠位の浄大一位」等がある。
・3に付いて、「賜姓族の賜姓五役・令外官」や「皇位臣下朝臣族」に課せられた「9つの縛り」等がある。
・「居の語源」はそもそも「古の古いもの・固い」と「戸・家」との「意味の組み合わせ語」の語源から来ていて、初期は「古・ふるい」の「者や物」に使われていたとされる。
つまり、「古い戒め・伝統・慣習仕来り掟」の「者物・伝統を持つ氏族」と云う事を意味している。
・4に付いて、「官位」の「正一位~正三位」や「伊勢王や信濃王」の「役職・位」等がある。
この様に「古代密教の浄土概念を持つ教え・導き」を如実に表す「院殿居士」の“「院」”は、「格式の最上位の位置」にしてその“「号」”に値すると云う事に成る。
当然に格式を持った時点で「生前」でも持つ事は当然とされたのだ。
況や「号を持つ事」が出来るそのものがそもそも「高位格式の表れ」であって、誰でもが持てる「号の呼称」では決してなかった。
この所以を以てこの「院」と「号」の「格式呼称様式」は、古くは「皇位族・貴人」にのみに付けられていた事になるのだ。
極めて「墓石・砂岩、又は青石」とその「古き墓所の上記の刻印」の二つを観る事で歴史の隠し得ない「真の由縁」が判るのだ。
この「仕来り・各種の号の呼称」が変化し一般化して平安末期から鎌倉期頃に掛けては「浄土宗に信仰心が篤い事」、且つ、「寺院や地域社会への貢献に優れた人達」にも贈られる様に成ったのだ。
然し、この「一般化した仕来り」をこの“「律宗族」”として改めて格式化して復元したのが室町期であって、この「一般化し変化した慣習」を嫌って「古来からの元の仕来りを維持している極めて少なく成った正統な氏族」に対して、要するに“「律宗族」”として称して改めて区別した事に成るのだ。
但し、現在では最早、上記した「格式や伝統」に対して無関係に「浄土宗に帰依する立場のある人」に贈られて再び「平準化・一般化」したのだ。
所謂、金銭を出せば、「院殿居士・白旗派」以外の「院誉戒位」を与えられる「消えた格式呼称」と成ったのだ。
現在では「院殿居士・白旗派」もこの「伝統の格式」が「白旗派」ではなくても「金銭」で買える状況と成って、要するに最早今では「白旗派」は無くなり忘れ去っているのが現実である。
況や、「院殿居士・白旗派」の「院」のみならず「律宗族」を如実に表現している「呼称の存在」も知る人は最早、「歴史上の事」として無い。
“「白旗派」の「院殿居士」”とその他の“「知恩院」の「院誉戒位」”とには、「・殿居士」の語と「意」が異なる。
「誉」は「ほまれ」であって前提条件として「誉」と成り得る「殿」を持つ事に限定されず、単に「誉・ほまれを持つ事」を許された者に相当する。
「特別の立場・格式」に由来せず限定せずに「誉・ほまれ」は得られる。
要するに一般化したものと成ったのだ。
「戒」とは、要するに「いましめ」であって、そもそもその族に「慣習仕来り掟の伝統」を既に有している事が前提であって、それを元にして「戒め・いましめ」が起こり罰せられたり行動を制したりする事が起こるが、その範囲に無くても「戒」の号は無関係に得られた。
「位」とは「官位の八位」までのものを云うが、次の三つに分けられ更に実務は「職掌」に小分けされていたが、次第に「名目の職掌」と成り、資格外や対象外の者もそれこそ実務の伴わなわない「名誉職」と成り得たし、朝廷も金銭獲得の為に与えた。
その結果、この「位」も「誉・ほまれ」の一つとし「二つの位」が起こったのだ。
言うなれば、「慣習仕来り掟の伝統」の無い「誉」も「戒」も「位」も、「誉」=「戒」=「位」の関係にあって形骸化していたのだ。
参考として次の「三つの官僚機構・大宝律令」から成り立っていた。
「官省職寮司の高官吏・政治」
「坊監暑台府国司の中堅官吏・軍治」
「官所職寮司府使の令外官・経済 特命」
上記の「三つの官僚機構」に依って授与されていた“「知恩院派」の「院誉戒位」”に、「院殿居士」の“「杭の数」”の「原理に由来した階級格式」の「定義」が存在せず成立し得ていなかったのである。
つまりは、この現象は早くも平安期末期から始まり「幕府社会・第二の姓武士」に成って「西の朝廷の縮小された三つの官僚機構」の中では、最早、「慣習仕来り掟の伝統の原理」が働か無く成り基より形骸化していたのだ。
これは「青木氏族」に執ってこれは「重要な歴史観」なのである。
故に、「白旗派の律宗族」を如実に表現している「呼称」に付いて更に論じて観る。
以上が「白旗派・知恩院の相伝・五重相伝/五戒相伝」であるのだ。
ところが、現在においても、「白旗派・知恩院派」が「浄土宗・権威付け」と定められてはいるが、これに納得せず、「浄土宗」には元々「14派」もあって、「流派争い・主導権」が矢張り続き、統一されずこの流派に依ってもこれ以外にも他にも色々な「号の格式」を使っているのだ。
其れを「重要な歴史観」として次に参考として一応追記して置く。
これは「白旗派・院殿居士」であったかの「判別・格式判別」に使えるだろう。
先ず、“「知恩院」の「院誉戒位」”では、流石に「最高格式の院号」の格式には変化は着けていず使わずにいる。
次は「誉号」では、浄土宗僧侶のみにならず、「五重相伝を受けた檀家・信徒」にも他流派でも授与されたが、今日では得度を受けていない人にも与えられる様に成った。
又、取り分け、「浄土宗の主流派・現在でも主流」であった「西山派」では、「授戒・得度」を受けた人には“「空号」”が与えられ、更に“「道号」”も着けられる様に成った。
「名越派」では“「良号」”が与えられている。
「戒名」はそもそも「仏教」に帰依したものに付けられる「忌名・いみな」の名前であって、本来は出家して得度者となった時に与えられていたものだ。
白旗派は帰依する事で得度したと認められ、その院殿居士を生前手も獲得できたのだ。
その前提と成ったのが朝廷から与えられた格式にあってそれが得度を得たとされたのだ。
其れだけの社会への貢献を果たしたと見做されて得度を得たと考えられたのだ。
当に施基皇子の様にである。
故に、後には「出家者」に限らずとも「在家の人々」もその前提に在れば形の上で「仏門」に帰依し「授戒」を受ければ授かるようになっていたのだ。
「授戒」に限らず室町期中期頃から「第二の姓族」が下剋上で勃興し格式を獲得する為に莫大な金銭を以て帰依し一般化して多くの人はこれを使っていたのだ。
莫大な金銭を以て得度したと評価される様に成ったのだ。
この帰依が浄土宗であっても先祖の格式云々に限らず事の次第では死後の忌名としても使っているのだ。
最早、「格式」では無く「金銭」で評価する慣習では、これでは「忌名」とのみならず判別の歴史観としては何の意味も持たない事に成ったのだ。
「位号」たけは、他の流派も使うが「年齢や性別」、「信仰心の篤さ」等によって付与されていたが、中でも「禅定門・男」や「禅定尼・女」のこの「位号」は、そもそも「浄土宗に深く帰依した人」にのみ付けられた「格式称号」ではあった。
然し、「白旗派」の「居士・男」や女性だけが持ち得る“「大姉・女」”に次ぐ格式とされていた。
要するにこれは唯単に格式では無く「信仰者の対象を広める事」で細分化していったのだ。
ところがもともとは上記の通り「五重相伝の受者/五戒相伝の格式保持者」の「格式氏・公家・四掟範囲」に限って与えられていたが、現在ではもともと数少ない「限定的な白旗派以外」には見られなく成っている。
「朝廷」が認めた「正統な氏・18氏/48の存続」が、下剋上で潰され「白旗派」に帰依していた「数氏・青木氏族等・居号」に限られて始末している現在である。
然しそれは、その「格式の有無の存在」は意味をなさなく成っている。
ここで、歴史観として忘れては成らない事は、何度も論じている事ではあるが、この「仏教・古代浄土密教」としての「律宗族の五戒相伝格式付け」の裏には、「神教の皇祖神の子神の祖先神」の数少ない「神明社族」であると云う事が含まれていたのだ。
所謂、その「基盤は神道・祖先神」であって、且つ、「仏道・密教浄土」の「二つの路」も持つと云う「特異な立場」を保持していたと云う所以にあった。
それ故に、この「二つの路」にはこれを保つ為には「戒律と云う厳しい伝統」を頑なに室町期に成っても未だ保持していたと云う事に繋がるのだ。
「院殿居士」/「五重相伝」/「五戒相伝」の「三格式保持者」=「律宗族」の関係式が室町期に成っても成り立っていたのだ。
そもそも、「律宗の族」の「本来の意味」は次の通りである。
「律」の語源は「慣習仕来り掟の伝統の戒」にある。
「宗」の語源は「物事の始まりの塊」を意味するにある。
「律」+「宗」=「慣習仕来り掟の伝統の戒」+「物事の始まりの塊」
以上の関係式が成立するのだ。
つまり、この「二つの組み合わせ語」の意味は、所謂、“「物事の始まりの塊」を「慣習仕来り掟」として、それを「戒めの伝統」として受け継いで行く”の「族」と成り得る。
必ずしも、「宗」とは、今では「仏教」と成り得ているが、確かに「鎌倉期以降」は「仏教」が興隆してその「仏道」もその一つとして成り得たが、「平安期前後」までは、神道も含んでの語意であり決してそうでは無かった。
依って、奈良期以前からの「神道・祖先神・社」は、「仏教」よりも先に概念そのものが「律+宗」と成り得ていたのである。
言わずもがなそれを奈良期から「伝統」として維持して来た代表する「賜姓臣下族の青木氏」は、「神明社の神道」を主軸としながらも、この「古代仏教の白旗派・密教原理主義・即身成仏の大日如来の伝統」を「氏の行動指針」として維持して来たのだ。
この「時期」に付いては前段でも論じたが全ゆる記録や資料から読み取れる範囲では初期は「光仁天皇期」であるだろう。
「光仁天皇期」と云えばその「経緯・孝謙天皇の白羽の矢」からも「仏道の導入」は大仏殿の所以もあって社会的には止むを得ない事由があった事は否めないし、将又、「出自の氏」としても「二足の草鞋策」を敷いている「柔軟な考え方」から考えても頑なに拒む事はしなかったのであろう。
その「証拠」に「伊勢」には「神明社」が「12社」あるが、その時の「名残」としてこの全ての「神明社の後ろ」には「仏道に関ったある地名」が加えられていたのだ。
現在でも幾つか遺されている。
これは「神明社全488社の内の伊勢の神明社」にだけに限る事なのだ。
但し、これが上記した様に「平安期初期」にも「朝廷」は世間から「政治的立場」を質されて、矢張り、“「神道」を主幹とするも「仏道」は否定しない”と“コメント”を発した所以にある。
この「背景の経緯」には、「聖武天皇の大仏殿建立」に関わっていたのだが、この「姿勢の概念」を引き継いだ「光仁天皇」が、「出自元の青木氏」がそのその「神明社」を守護神としながらも、且つ、「神明社の神道族」で在りながらも、「古代浄土密教の浄土概念・大日如来概念・天智天皇賜姓時の賜物」にも独自に確かに帰依していた。
その後、それを「桓武天皇」や「平城天皇」が慣れ親しんだこの「生活環境の状態」を黙認していたのだ。
この「聖武天皇の大仏殿の件」もあり、更には「孝謙天皇の白羽の矢の事件」の経緯もあり、「ステイタス」とした「賜姓物の三つ」の内の一つの「大日如来坐像」は、「天智天皇の賜姓物の件」もあり、「清光院の建立の件」もあり、最早、ありと全ゆる事が簡単に言い逃れ難い状況に陥っていたのだ。
所謂、「皇親族」であったのだ。
依って、ところがこの事で「出自元の伝統」を「二人の天皇」も追認したかに見えて疑われ、それが「天皇家の疑い」と成って「政争の道具」として持ち込まれたのだ。
この「解決策」は唯一つ、この「疑い・政争の中心」と成っている「伊勢施基皇子系青木氏」を「皇親族・賜姓族から外す事」にあったのだ。
これが藤原氏外の同じ出自元の「桓武天皇派と嵯峨天皇派の争い事件」の「薬子の変」であったのだ。
上記の「天智天皇の賜姓物」に発端し、そこから遂には“「神道」を主幹とするも「仏道」は否定しない”の“コメント”で解決したのだ。
「青木氏側」では、前段の論調である様に、この時、天皇家に寄り添う事なく、“「四掟・妻嫁制度・嫁家制度等の変革」”で“「女系氏族」”を構築して貫いて完全に矛先を躱し、“「商い」”も営み最早誰から観ても「天皇家」と一線を画して逃れたのだ。
この時が「嵯峨期初期頃」であるのだ。
但し、この時でも秘密裏に動く「永代の賜姓五役であった事」から“「令外官」”だけは頑なに維持していたのだ。
その為にこれが「室町期」にもこの二つの「神道と仏道」の「律宗の族」と成り得ていて、故を以て「室町幕府」と「天皇・朝廷」から追認された由縁と云う事に再び成り得たのだ。その様に持ち込まれた観がある。
「神仏」の「奇異な二つの文化」を何と“「伝統」”として取り入れ「融合」させて来たのだ。
その「全ゆる点に尽きる処」は、「永代の賜姓五役であった事・令外官の概念の伝統」が再び”「律宗族」”と成り得たのである。
“「律宗族」”を維持させしめた根幹は「柔軟な思考力」を兼ね備えた“「商い」”にあったろう。
歴史的に観ても前段の論の通りこれがの信長・秀吉等に敵対され、明治初期には薩摩藩などから「”天皇の格式を脅かす族」として存在する事を否定されて攻撃された。
我々に口伝でも伝えられる程に、「格式存在族」を否定し同調する世間からも「密教である事」さえも「攻撃の言葉」を受けていたと伝えられている。
遂には、現実に各地で何度も「焼き討ちや打ち壊し・記録」を受けながらも「青木氏族」の方から明治35年頃に「自発的解体・分散策に至る事」で事は治まった。
要するに摂津に移す事で伊勢での伝統を消し去ったのだ。
「当時の環境」としては「青木氏族」に執っては、“それなりの利する処あり”として「幕府等との工作」で対処したのであろうが、後勘として筆者の思う処では、この“「律宗族の騒ぎ」”は結果として”何んの野心も無い「青木氏族」に執っては「利する処」は何も無かったと考えるし、寧ろ「害の方」が大きかったと観ている。
唯単に“史実は史実だけ”でありそれ以上の美化論の事は無い。
念の為に、「現在の経済機構」で云うとすれば、「青木氏族」とそれを実行する「商い」の「基本定義」は、“「市場の独占価格・A」を形成する為に「生産から販売・B」までを統制して「グループ化・C」を施して、それ根幹とした「殖産カルテル・D」を基礎にした「自由活動性・E」を制限する「トラスト・F」を構築した「コンツェルン・G」であった”と考えられる。
要するに、これを「自発的解体・分散策に至る事」にしたと云う事だが、結論は“「グループ化・C」だけの部分を解体したという事”に成るだろう。
世間の豪商もその様にした。
百々の詰まりは、「室町幕府と朝廷」が「律宗族・1450年頃・紙文化・」として呼称し直して権威化して近づいたのは、ここで生まれた“「巨万の富」に魅力”があったと後勘の筆者は観ているのだ。
それは前段で論じたが、「鎌倉期の徳政令・永仁129年・武士」と、「室町幕府の徳政令・八回以上・武士」と「江戸期の棄損令・武士」と「明治初期の債権放棄令・民」に影響を受けた事が判っている。
この「青木氏コンツェルン・伊勢屋」が持つ「全ての債券と担保」に対して「政策」に依って「四期の放棄令・徳政令」が発せられ「全債権」は霧消に期したとされているのだ。
取り分け、中でも特徴的なのは「室町期の頻発する徳政令・八回以上」で「室町幕府辞自体」に及ばず「各地の国」に於いても頻発させて「財政」を保とうとしたのだ。
「徳政令幕府」とも云えるこの状況では、「格式の律宗族の再呼称」はこれと控えに担保したとも観ているのだ。
前段でも論じたが、「額田青木氏の三河の南下国衆論」で論じた様に、その論理で云えば、「江戸期の伊勢お墨付き・お定め書」も同じ「裏事情」はここにあったのかも知れない。
「青木氏の資料と記録」に明確に遺るのは、「明治初期22年から28年」に架けて何度も発せられた「法律・28号等に依る債権保放棄の令」である。
更にこれに関わる「担保・土地」の「秩禄処分」と「地租改正」と「累積債務処理」の「放棄令」が出たのだ。
前段でも論じた様に主に「紀州徳川氏等の多くの大名に貸し付けていた「焦付き債権と土地の地権担保放棄」のこれが“上記の「コンツェルン」に大傷を着けた”と記されているし、口伝でも伝わる事でもある。
これに薩摩藩などの長く続いた「庶民先導のゲリラ攻撃」が輪を架けたのだ。
幕末から明治9年まで続いた「伊勢騒動」も、その根幹は「庶民先導のゲリラ攻撃」にあったと感じている。
斯くの如しで後勘の歴史観から、「格式の律宗族の再呼称」は「青木氏族」には良い事は何も無かった。
筆者の論理ではこれこそは「青木氏の氏是」そのものであると認識しているのだ。
「格式の律宗族の再呼称」は、そもそも史実は史実として何も変わらないのだし、放って置いても同じなのだ。
殊更に動く事がそのものが良くない仕儀であった筈で、「当時の福家」は判断を誤ったと観られる。
当に「施基皇子」が説く「律宗族の第一の戒め」の「青木氏の氏是」を軽んじたのであろう。
況や、要はこれは美化論では無く反省論なのだ。
故に、子々孫々に「ロマン」として「具体的な史実」として言い遺しているのだ。
これも例に事書かない「始祖施基皇子と云う歴史的人物の存在」の所以である。
これが、全部に於いて説き切れないが本論の範囲では、網の目の様に関係性を持った事柄に就いて何とか説いた「難解の律宗族の所以・定義と背景経緯」であり、要するに本シリーズの「青木氏族論」を説くに至るのだ。)
> 「青木氏の伝統 65」-「青木氏の歴史観-38」に続く。
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「青木氏の伝統 63」-「青木氏の歴史観-36」
「青木氏の伝統 62」-「青木氏の歴史観-35」の末尾
この遠江松井氏に付いての系譜次の通りである。
宗能1―義行―貞宗2―信薫3―宗重4―宗恒5―宗親6―宗直7
1 御厨領家の土地を授与 1513年
2 宗能より平川郷堤城主 主要家臣 1528年
3 二俣城城主 1529 病死
4 宗信・弟 二俣城家督 1529 桶狭間戦死 1560年
5 宗恒・弟 二俣城家督 1560年 「駿河青木貞治」は桶狭間に出陣
6 宗親・一族 二俣城城主 徳川氏調略・飯尾氏謀反で今川氏謀殺する。1563年
7 松井氏衰退 武田、徳川氏、今川氏に三分裂後衰退 徳川氏旗本 1590年
そうすると、「駿河青木氏・青木貞治」は「伊勢」にて1540年~1545年に「訓練・5年間」の後に「大船一艘」を与えられ、「駿河」で「駿河青木氏・伊勢より嫁す」を「再興・1550年頃」し、「糧」を得て「子孫」を拡大、遠江―駿河―伊勢―「渥美・三河」―伊豆―「相模」で「活躍・1550年~1555年頃」し、「財」を成す。
「今川氏―松井氏」の「国衆」に成る。
以上の経緯を持っている事に成る。
この経緯から「松井氏」との「繋がり」は、先ず判断として「宗信~宗恒~宗親」に持ったという事に成る。
「早期の経緯論」としては、「活躍・1550年~1555年頃」し、「財」を成している段階で、「国衆の段階」を経て「松井氏家臣」に成ったのは「1555年~1560年」で、この経緯が成立するかである。
「中期の経緯論」としては、「5の宗恒」であるが、病死で直系尊属者無く「一族の者」の「6の宗親」に家督継承されている。
ここで、今川氏と決裂し、徳川氏が関わって来る。
「終期の経緯論」としては、「7の松井氏」の「衰退・分裂」が始まり、徳川氏方が勝利し、徳川氏家臣と成る。)
以上が前段末尾である。
「青木氏の伝統 63」-「青木氏の歴史観-36」
(注釈 「駿河青木氏と額田青木氏の銃隊の関係」
この一族の青木氏の関係の中に存在する疑問を詳細経緯として解いてみる。
「重要な幾つかの疑問」があり、これが判れば「青木氏族」はより理解され「青木氏の歴史観」と成り得るだろう。
そこで何故、「駿河の青木貞治一族」に「額田青木氏」と同じ様に、この「特殊銃」を与えなかったかの「疑問」が残るが、それは「実戦銃」を目的とせず「護身銃・抑止力銃」であったからだ。
「青木貞治隊」は大いに希望し「秀郷流一族一門」からも求められた事は間違いなく考えられるが、上記の「三つの要件」を備えていながら頑固に然し渡さなかったのだ。
勿論、「伊勢」から観れば、「実戦銃」を目的とせず「護身銃・抑止力銃」であった事ではあるが、もう一つは「松平氏の中での位置関係」に従を渡す事に依って起こる“「歪みが生じる事」”に強い懸念の配慮があったと観ている。
これが「額田青木氏の南下国衆」の「伊川津での例」に漏れず「旗本との軋轢」を受ける結果と成っていたのであろう。
それは「銃の威力を持つ事」に依る「権力闘争の歪み」である。
それ故に、「壊滅状態の三方ヶ原」で無理にでも近づく事の出来ない「銃弾幕」を張って「銃力」で以て「青木貞治隊」を救い出したのだし、救い出せれば「秀郷流一族一門」に対する「伊勢の立場」は保全出来る。
「2年後の長篠後」でも「貞治の子の青木長三郎隊」はこの抑止力で生き残れているのだ。
尚、「江戸期初期」に入ってでも「秀郷流青木一族」は、「伊勢」に於いても「徳川氏」と血縁し、中でも「家康の孫娘・勝姫末裔が入った事と伝えられている。
これには、そもそも「勝姫」とは「天崇院(1601年 - 1672年)」の事で、 「 徳川秀忠の娘、松平忠直の妻」の「裔」としているが、「勝殿の呼称」で記されていて特定が不明ではあるが、これには明確な不明の理由があった。
然し、「忠元家の青木氏・伊勢秀郷流青木氏」と「信定家の青木氏・伊勢青木氏」の融合族の「二つの血筋」に三つ目が加わり娶り、「青木氏の四掟の伝統」から外れた「徳川氏の血筋・立ち葵紋」が「四家」に加わったとされているのだ。
改めて「五家目の融合族」の「姓血縁の伊勢四日市殿」と成ったとされている「五家目の家」なのだ。
この様に新たに「徳川氏の姓血筋」を入れて安定化を図ったが、「平安期からの融合の青木氏族」の「四日市殿」と云う一族を「姓血縁の四日市殿」を構築しているのだ。
これが「青木氏族の以後の立場」を保全させたのだ。
「青木氏の安定化」と云うよりは「青木氏の財と格式向上」を徳川側が間違い側がなく狙ったものであろう。
「秀郷流青木氏宗家」を中心として「秀郷流一族一門」が裏で幕府と動いた事であろう。
この「勝姫時期」は「紀州藩初代頼宜との良好な関係」や「紀州藩の殖産への貢献」や「近習番頭と成り出世したと貞治の子の長三郎等」の裏の活躍があったと考えられ、そう云う風に成る条件が揃い過ぎている。
ここで参考として「不明の理由」だが、そもそも「勝の姫の呼称には、「徳川氏の姫の総称の呼称」であって同じ呼称を歴史的に観て6人も使っている史実がありこれは「伝統」であったらしい。
「伊賀越えの事件」で逃亡中に、「徳川氏との血縁族」のこの「伊勢の四日市・辰野青木氏の融合族の四日市殿」にて一時休息したのもこの事の縁から来ていると観られる。
この様に、この「青木貞治の内部の活躍具合」が無ければ、前段で論じた様な「青木氏の氏是」を護り通し、この様な「活躍・繁栄」は無かったと考えられのだ。
これが、即ち、「青木氏一族の鍵」であったとも云える。
「三河国衆に合力する事」も始めとして相当に「渥美湾の制海権の獲得の条件」の時にも「秀郷流駿河青木貞治一門」の「内部での一連の活躍」はあったと観ているのだ。
さうで無ければ、急に“これだけの事”を「好条件」に導き出すには「伊勢との直接交渉」だけでは難しかったと観ているのだ。
「情報獲得の面」でも、「籠城戦」から「野戦に変更した事」を「短時間」の間に「内部の情報」を掴んでいるのだ。
つまり、「浜松城」から「館山街道の湖東町交差点」の「短い間」で「内部事情」を掴んでいるのだ。
そして、「理由・目的」は兎も角も「東の三方ヶ原」に踵を変えたのだ。
この時、「二俣城開城」で「城の兵・1280」は「武田軍と協議」の末に「浜松城」に解放されているのだ。
「東の三方ヶ原に踵を変えた理由」には、「伊勢側の資料」では「様子見」であったとしているが、この「青木貞治」と情報提供時に「何かの交渉・接触」があったのではないか。
この後、「情報提供の後の三方ヶ原」で「南下国衆の銃隊の指揮官の一族」で「駿河青木氏伊勢との血縁もある」の「青木貞治」が「戦死している事・戦記では覚悟としている」を考えると、「松平軍の情報」を詳細に示唆し、始めから「伊川津に戻る事」を示していた事が予想できる。
「青木貞治の隊」はどの位置に配置されていたかは正確には判らないが、「駿河国衆青木氏・四騎200」であるので、記録からは右か左かは不明だが西向きに陣取った事から駆けつける方向からすると左側でありこの状況証拠から「鶴翼部の左付け根域に居た事」は充分に予想できる。
でなければ救い出せなかった筈である。
根拠は無いが「状況証拠」から「東左鶴翼」に居たと推測する。
この隊の少し「東の付け根の位置域」に影の様にして「銃隊が位置した事」から観て、目的は別として「戦況の様子見」ではあった事が先ずは判るし、これを「補完し助ける意味」でも、「軍議情報を得ていた事」からこの隊の少し「東の付け根の位置」にしたのではないかと観ているのだ。
「青木貞治隊」を“一族である”のなら放置する事は先ず100%無いだろう。
いざと云う時には、「武田軍の本隊」に対して「銃射撃の弾幕」で助け出す事を目論んでいたと観る。
現実に「山県軍の別動隊の突然の突撃」でその様に成って仕舞ったのだ。
「左翼面に居た青木貞治隊」を「東の付け根の左位置」から「左斜め」に向かって「銃の連続弾幕」を張っての煙幕の中から救い出した事に成る。
この時、同時に「前方右鶴翼側面のやや斜め方向から「山県軍の別動隊」が突然突撃して来たのだ。
左方向と右方向の左右に弾幕を張る難しい結果と成ったのだ。
現実にはこの方向の流れに動いた。
然し、「山県軍の別動隊が突撃して来たという事」で「銃隊自らも危機」と成り、応戦して撃退したが、この同じ位置関係の混乱の中で「駿河の青木貞治」も「伊勢の青木・・の指揮官」も共に「原因」は別として戦死したのだ。
可成り混乱した可能性がある。
「銃隊」はこの混乱で「次の差配頭・伊勢秀郷流青木氏の者」が「指揮を執っていたという事」に成るが、故にこれが「伊勢の資料」では「一族の二人の戦死」が重複するような「不詳の内容の原因」と成っているのだと観られる。
恐らくは、歌や俳句の様に「文面の表側より内側」を察すると云う「当時の言葉の使い分け慣習」があって、それでそれを会得していない筆者には読み切れ無かったのであろう。
「駿河の青木貞治の一門の隊」は、後に、上記した「堺からの逃亡・伊賀越え事件」で「戦功・勲功」を揚げている事から、一族全員が生き残ったと観られる。
「山県軍の別動隊」が突撃して来て「銃」で応戦したが、この時、「銃隊の一部」が「駿河の青木貞治の一門の隊」を護る為に、「武田軍の本隊」の先端に「銃弾」を浴びせて「事前の計画」としても開戦より相当に早期に「200兵の全部」を救い出したのではと考えられる。
そうでなければ戦況の結果から無理であった筈である。
突撃して開戦と成ったが、救出が全部とすると開戦と同時であった事が云える。
相当に慌てた事になったろうが、「青木貞治隊」は東に逸れて天竜川沿いに「盤田見附の西光寺・菩提寺」に目がけて走ったのだ。
そのタイミングは「山県軍の別動隊の突撃後」の直ぐ後と云う事に成る。
故に、「伊川津の西光寺・現存」より「54k・船1日」の「真東の盤田見附」に「菩提寺・西光寺」が今も遺しているのだし、ただこの時、“見捨てて逃げる”だけでは、それ以後も「一族関係」が保たれている訳はないが保たれていたのだ。
当然に、これは「副将青木貞治の子孫」に於いても云えるものである。
そして、「示唆の通り」に「予定通り」に「戦線離脱」して「伊川津に戻ったと云う事」に成る。
この時の状況には確認しておく必要がある事は、直接、「二俣城の副将・青木貞治」であって「二俣城開城後」に「浜松城に戻っている事」とすると、この「大きな犠牲の敗戦要素」と成った「山県軍の別動隊」の事は、「二俣城」で「青木貞治」は承知していた筈で、“何れの日にか「武田軍の本隊」に合流する”と見抜いていた事にも成る。
そして、直に「詳細な内部情報」を掴める「作戦会議」には「副将」であるので参加していた筈である。
問題は、“何時来るか”の「時間の問題」は判らなかったのであろう。
それは「別動隊の使命」として「補給路の確保」があったからで、「戦う」と云うよりは「二俣城」の「戦場処理・戦後処理・補給体制」に重点を置かれていた筈で、「武田軍の本隊」だけでも戦っても“松平軍は負ける”と「副将青木貞治」は観ていた可能性はある。
但し、この前提は「籠城戦である事」だった。
そこで、「別動隊の使命」として、「三方ヶ原に補給拠点を構築する事」で何時かは早い内に来るだろうと観ていたのだ。
「二俣城開城後」は開城であって落城で無い以上、周囲の勢力は未だ抑えきれていなかったのだ。
これに大分時間が掛かったのだ。
そこで、「松平氏の作戦会議」では、「青木貞治」の「山県軍の別動隊の行動」を詳細に論じた可能性がある。
それを聞いた「家康」は、この「補給拠点を破壊・確保」の為に「籠城作戦」を急遽、変える決心を密かに決めたと云う事であろう。
「一言坂」で野戦し敗戦して「家臣の犠牲」のもとでやっとの体で「浜松城」に逃げ帰ったと云う経験がありながらも、「堀江城の落城」を聞いて「冷静さ」を無くし、これの「経験」を生かさずに再び異常にも「野戦」に変えたとする定説には一類の疑問を感じるのだ。
「密かに決めたと云う事」が周囲から判らず、「冷静さを無くし」に判断されたのであろう。
この「作戦変更」で、「三河戦記」にも記されている様に「二俣城の開城の敗戦の責任」を執る為に死を覚悟したとする定説に導いたのであろう。
そもそも、「青木貞治の個人の心の中」をどうして判ったのかである。
筆者は偶然にも「貞治と銃隊の両指揮官の戦死」に「疑問イ」を持っているのだ
では、その時の「二俣城」の「譜代家臣の主将・中根正照」と「副将の松平康安」はどうしたかであるが、「三河戦記」の中に戦死者としてこの二人は含まれていないのだ。
故に“副将の青木貞治だけが死を覚悟したとする定説”は疑問で、もつとその前に「責任」を執るべき「二人」は居たのだ。
では、先ず、其れには「軍議」にあって、この「軍議の中」で“青木氏貞治に何が起こったのか”の「疑問ロ」である。
「戦記」でこれだけの事を定説として記されている以上は、何も無かったと云う事には成らない筈で、「戦記に残す右筆衆」が「戦場の全体を見下ろせる安全な所」から観ていた筈だし、且つ、戦後、生き残りに聴取して正確な資料を纏めていた筈である。
これを「当時の仕来り」では「家康」に「論功考証の為」にこの「右筆衆」は報告書を提出している事に成っている。
つまり、「疑問イとロ」の様にこの「右筆衆の原石」はこの様には書いていなかった筈である。
筆者は詳細経緯として、確かに形の上では「責任を採った事」には成っていて間違は無い様に観えているが、その「責任の取った理由」、将又、「採り方」に「疑問イとロの本当の問題」があったと観ているのだ。
上記した様に、「青木貞治」は「額田青木氏」に「内部の情報提供時」に「一族の者・200の救出」を城外に放り出された「南下国衆の銃隊」に依頼したが、この「救出の際」に弾幕を張って救い出したが、そうだとしたら「敵の目」を騎馬上から「混乱の中」で自分に“敵の目を引き付けた”と筆者は先ずは観ている事に成るのだが、この考えだとすると、「混乱の状況の時系列」が変だ。
そもそも、他に「青木貞治隊」にも犠牲は出ていた筈だし、「銃撃」をされている「騎馬隊」には相当の犠牲が「銃弾幕」で出ていた筈だ。
果たして“敵の目を引き付けられた”かの疑問が出る。
この場合では、又、騎馬隊と山県軍とが交差する事にも成る。
つまり極めて味方同士で混乱してしまうし、「本体の騎馬隊」は動けなかった筈だ。
そんな戦略は絶対に信玄は執らないであろう。
「山県軍の別動隊の突然の突撃」を観て「騎馬隊」は進軍を待った筈だし、現実には「弾幕」が救出の為に「武田軍の先頭」と「突撃の山県軍」に目がけて前が見えない程に連射されているのだ。
“観ているが精一杯の事”であった筈である。
「青木貞治は有名な将である事」は、「武田軍の本隊」は「二俣城」で承知していて、突然に敵前に向かい、この間に「武田軍の本隊」が近づけない様にした上で「南下国衆の銃隊の弾幕の誘導」で救出したのであろう。
それ以外に他の隊員の無傷で救い出す事は出来ないだろう。
何故ならば、「青木貞治」もこの弾幕の中に包み込めば救出は隊員と同然に容易であった筈である。
然し、「向後の憂い」を無くし、この事で「弾幕の中に入る事」はしなかったのかだ。
つまり、何を云わんとしているかと云うと、「松平軍の軍議」に於いて相当に「二俣城の無戦開城の責・水攻めの責任」を問われる前にその最初に責任を執るべき人間がいたと云う事だ。
然し乍ら、これを「三河旗本衆」に問われたのではないかと云う事だ。
「家臣の主将・中根」と「軍目付・軍監の松平康安」の二人も居たのである。
確かに「全員戦死の覚悟」で「二俣城」でも「時間稼ぎ」を求められていたが、「譜代家臣の主将の中根」の責を問うのでは無く、「旗本」ではない「副将の青木貞治」に非難が集中したのではないかと予想しているのだ。
要するに「軍議」での「庇い合い」であり、「副将の貞治」に押し付けたのだ。
「松平康安・18歳初陣」は、「大草松平氏の出自」で「曾祖父」は「家康」に反抗したものの裔であり、「軍目付・軍監」して「二俣城」に派遣されていたのであった。
この「二俣城」は、そもそも元は「今川氏の家臣の松井氏の居城」で、縁あって「青木貞治」は「遠州国衆・経緯下記」としてこの臣下にあった。
恐らくは、「旗本との間」でこの「関係」に「糸を引いていた事」と考えられる。
然し、この事に就いて「右筆衆等」が、「何かの形・郷土史や手紙や寺や一門記録」で残しているかと観て調べたが遺されている資料は無い。
「無いと云う事」は、これは「家康の用人」として、将又「青木貞治の子孫」が重用されている立場として、“江戸期に成って「幕府の権威」を下げる様な「史実」を世に遺すのは好ましくない”として消し去った可能性が高いのだ。
それは、実はこの事に及ばず「秀郷流青木氏の資料」が研究にも具する程のものも遺されていない「理由の一つ」としても此処にあるのだ。
一族全員がそっくりと家臣と成った「秀郷流青木氏」には遺せなかったのではないか。
その「残念な理由」とは、「秀吉天下の対応」で「徳川家康」は「武蔵転封・1590年」と成ったが、この際、武蔵の「秀郷流一族一門」を「味方」に着ける為に「一族一門の者の一切を家臣・官僚族・旗本家人衆」に抱え込んで「味方」に着け、自らも「藤原の朝臣」とし「氏名」を名乗る程に慎重に扱ったのだ。
其れも、「平安時代の習い」に従い、「徳川氏の御家人・天皇家の家人扱い」として「特別な格式」を与えて、「旗本」とは別に幕府で「事務官僚・本領安堵」の「家人衆旗本」として重用したのだ。
当然に「格式の無い旗本・近習衆」はこれに猛烈な反発をした。
それ故に、「幕府の権威を下げる資料」などの保存は悉く抹祥されたのだ。
これが所以の一つなのである。
ここに至る「詳細経緯の始点」も“「駿河青木氏の貞治」”に始まるのだ。
そこで、この行の“「一族一門の者の一切を家臣・官僚族」に抱え込んで「味方」に着けた”に付いての浚っておかなければならない「疑問」があるのだ。
それは、“「徳川氏」が何も無しで「この状況」を作り込んだか”である。
この「氏家制度」の中ではこれはあり得ない事で、個々に「家臣に成る等の事」は一切出来ず、もし、それをすれば一族一門から排他され滅ぼされる始末の世の中で、「互いの結束」に依って身を護っていたのだ。
当然に、今論じている「額田青木氏等」と「伊勢」を始めとして「全青木氏族」も同然であった。
故に、「武蔵入間の総家」との「繋」が無ければ成り立たない「時代事」であった。
筆者は、この「徳川氏の繋ぎの役目」を果たす事が出来た唯一人の人物は、「青木貞治の子の長三郎・御側衆・上級側衆・最終は上級番方に成る・3500石・1400貫・国衆から旗本に」であったと観ているのだ。
何せ役柄と云う点からもピッタリである。
「本能寺の変頃の伊賀越え」から「江戸期初期」の「長三郎の役目柄と子孫」もその様な立場にいて、「最終」は「名誉格式を持つ上級番方頭・家人旗本」に成っているのだ。
「本論の詳細経緯」の特筆するはここにあり先ず間違いは無い。
後勘から観ると、これが「伊勢青木氏等の青木氏族」に執っても「生き方」を「良い方向」に向けた「所以の起点」と成ったのである。
唯、その「起点」を作った「初代・青木貞治」には「波乱万丈の人生」であったと云える。
何事もこの世は初代は、波風の人生を送るは世の常庸であった事は理解できる。
この「波風の人生」を物語る「徳川氏の出現」は、「長篠後」に奪還したこの「二俣城」を何と「最大旗本の大久保忠世」に任しているのだ。
これを観てもこの「人物の旗本」には、「駿河青木氏」のみならず「伊川津の額田青木氏」に於いても「同じ仕打ち」を受け続けていたのだ。
それだけに「松平氏・1563年改姓の徳川家康・上野国土豪得川の先祖」から「徳川」と解明したが、これを「長篠後」に大いに使う結果と成った。
「改姓する事」に依って「今までの三方ヶ原での印象」を「これからの長篠での印象」に変えようとしたのではないか。
この「松平氏・徳川氏」に執っては、「二俣城の敗戦」は厳しく「戦略上の重要拠点」であったのだし、その「不満の矛先」を「軍議」では、「主将中根」や「軍監の松平康安」に向けられずに戦記の表現の通りに「青木貞治に向けた」と考えられるのだ。
然し、「所以の起点」を造り出した以上、つまり、その後の「江戸期」では、この「御家人と旗本と御側用人と上級番方・家人衆旗本」と合わせて「格式のある家筋の立場・秀郷流青木氏」に成った以上は、「旗本」は「怨嗟と嫉妬」から来る「不満の矛先」を簡単に向け難く成ったと考えられる。
然し、前段でも何度も論じたがからは「吉宗」を裏で将軍に「仕立て、且つ、「親代わりの役目」として、共に「江戸向行」し、「享保の経済改革」を市中で実行した「伊勢青木氏・伊勢屋」でさえ、矢張り、「大久保・本多の旗本」等の旗本から「不満の矛先」は益々向けられたのだ。
「伊勢」に限らず「信濃青木氏」にも同然に酷い仕打ちを受ける結果と成った。
流石に「信濃も受ける羽目」と成り、「晩年の吉宗」もこの「不満の矛先」に加わりこれを止める事さえも出来ず、江戸では遂には「危険が生じる事態」と成り、急いで「伊勢に戻る羽目」と成ったのだ。
其れだけではこの「不満の矛先」は依然として治まらず、「奈良期の天智天皇」より「伊勢の永代不入不倫の権」と「伊勢の事お構い無しの家康のお定め書」をも無視され、結局は「青木氏族・伊勢屋と伊勢シンジケート」と、関西を仕切る幕府の「伊勢の山田奉行所・吉宗も同調・史実記録」との間でも「戦い寸前・ゲリラ戦・関東秀郷流青木氏が動き見せる」までに及んだのだ。
「三河旗本の嫉妬怨嗟」は、此処までも続く傾向は斯くの如しであって、これが「軍議」の「青木貞治」にも向け背れていた事は後勘から観ても先ず間違いは無い。
結局は、追記するが上記の「伊勢の件」は「紀州藩・伊勢藤氏の青木氏一族が全家臣に成る」が強力に介入し、間に入り「治まり」を着けたが、今度は、その「紀州藩」に「謀反の嫌疑」が架けられたが耐え偲んだのだ。
「格の如し」で「青木貞治」だけに及ばず「青木氏族全体」に「不満の矛先」は向けられそれが先鋭化して行ったのだ。
世の中で殆ど消えて行く中で今未だ比較にならない程の「格式力と財力と抑止力」を持ち続けそれを以て正統に活き、それを背景に「政治」も裏で動かす「唯一の氏族」には「姓族の姓社会」では我慢が成らなかったのだと考えられる。
この「嫉妬怨嗟」は、「人間社会」では人間である限りに於いて変わらないし否定はしないし、無くなる事は先ず無いのだ。
然し、「青木氏族自身」もそれを特段に取り立てたものとして考えてはいなかったのだ。
「青木氏の氏是」や「戒めの家訓10訓」を観れば、それが良く判り「普通の人間が生きる範囲」であったのだ。
故に、「青木氏族以上」には「その過去と現在」に付いて周囲が必要以上に「意識を高めた行為」であったのだ。
取り分け、「一向宗を概念とするこの三河族」に執ってはその「教義」から影響してやや「三河者の意識を高めたと云う事」であろう。
さて、話を戻してそこで、更に「詳細経緯」を論じる。
この「苦しい環境の中」で、「青木貞治」は次の手を打ったという事だ。
この時に上記した様に「堀江」に向かい始めた「武田軍の本隊」を「南下国衆の銃隊」は追尾していたのだが、そこで急いで「南下国衆の銃隊」に「情報提供した」と考えられる。
然し、「詳細経緯」として「青木貞治」は、何故、“追尾していた事を知っていたか”に掛かる。
それは先ずは“「何かの連絡網・情報手段」”が「青木貞治との間」に構築されていた事に成る。
それが、「伊勢」から派遣されていた「南下国衆の銃隊」に影に成りながら帯同していた「伊賀青木氏の忍者衆・香具師・隠密商人」にあったと観ているのだ。その形跡が資料の隠れた意から伺える。
「青木貞治隊」と「連絡」を取れる様に「伊賀青木氏の忍者衆・香具師」が隊の中に入っていたのだと云う事だろう。
筆者は、寧ろ、二俣城開城後に「青木貞治隊200」に「兵」として「伊賀青木氏の忍者衆・香具師の援軍」を送っていた事が考えられる。
其れは「浜松城に呼び出された時」に「記録」では、訓練を受けたのは「額田青木氏の南下国衆の銃隊300」であったが、突然にその後の「記録」では「南下国衆銃隊350」と替わっていて行から「荷駄隊50」が加わっていて、これは前段でも「伊賀青木氏」と「伊勢秀郷一門」の「合流隊」と説いた。
然し、当然に「青木貞治隊」にも「武蔵の秀郷流一門からの援軍」と「伊勢からの援軍・伊賀青木氏の香具師」が加わったのではないかと「必然的な流れ」から「当然の事」として考えられるのだ。
その時期であるが、「伊勢からの援軍」は、時系列から可能な時期は、矢張り「吉田城」から“「浜松城に呼び出された時」”であろう。
従って、時系列から「二俣城が開城した後の事」に成る。
又、「武蔵の秀郷流一門からの援軍」の場合は、時系列から当初から「副将」として入った「二俣城の時期」と成る。
さて、そもそもその前に論じる事がある。
それは、“何故副将と成り得たか”と云う事である。
「副将」とする為には、当時の慣習から「青木貞治の兵数」を増やし「武蔵の秀郷流一門からの援軍」とした可能性がある。
何故ならば、因みにこの検証として、「駿河青木氏」の「今川氏の時代の国衆の知行」は次の様であったらしい。
「江戸期」では、上記した様に「3500石で家臣数200で1400貫」と記されている。
ところが、「室町期」の国衆時の当時の「圷の野」であった「盤田域の庄面積」は、次の様であった。
約1800反程度弱≒1800石程度≒6000平方坪程度以下と成る。
そうすると当時は、1貫≒2.5石 7貫≒1兵 1反≒1石≒300坪≒1人の原則があった。
「1家」を5人として360家、この内の「農民の家」は8割として288、残りが「武士の172家」であり、「戦いに参加出来る者」が「最低家1人」とすると、「ave(172)≒約170人程度」と成る。
この「最低の基準」の「ave(172)≒約170人程度」に達しない場合は、農民の次男三男が「農兵・荷駄兵」として事前に金を渡され駆り出されるのが当時の戦時下の仕組みであった。
そうすると「戦線に義務付けられた基準」は先ず「720貫 兵102人:1800石」と成る。
つまり、兵としての「兵数」が「約68人程度・援軍」が増えていた事に成る。
然し、これでは「副将」とは成り得ないのだ。
つまり、この差が「援軍・68+X」であった事に成るのだ。
当時は、「1将」に対して「4騎」が着き、「1騎」が「50兵」と云う基準があったので、「200の兵」でやっと「将」と扱われ、「軍議に参加できる基準」であったし、故に「副将扱い」に成ったのだ。
これで「秀郷流青木氏・第二の宗家」が中心と成って「駿河青木貞治」には「兵数」が足りないので何らかの手を打った事に成る。
そこで、「援軍を送る事」で「松平氏の中」で「副将扱い」に成る様に「秀郷流青木氏一門」は計らった事に成る。
そうするとこの「Xは28」と成り、「合計98人以上」を「援軍」として送る必要が出て来たのだ。
敢えて、少なくとも「約100兵程度を援軍」として送り副将にして「発言力を着けさせた事」が判る。
これを当に「数字」が援軍と云う策を執ったと事を物語っているのだ。
故に、本来なら「軍議」に充分に参加できる「額田青木氏の南下国衆の銃隊300+荷駄50」が「軍議の命令」を拒否し、何と「城外」に放り出された。
それは国衆の契約条件に反しても「銃」を陣形の前に出して戦う戦法を拒否したのだ。
以上は、「駿河青木貞治」は「軍議の情報」を彼等に流し、これらの「援軍」と共に「救出」を依頼したのである。
「額田青木氏・指揮官伊勢秀郷流青木氏」としては、「情報の救出依頼」があったとしても必然的にも「両者の援軍」を救出する事は、「疎遠・血縁」で無かった以上は「一族として義務」も負っていた事に成り得る。
それには絶対的に「戦術的な内部情報」が必要であって無暗には手は出せなかったのだ。
「救出が義務」であるとしても下手をすると「銃隊に大変な犠牲を負う事」にも成り得る。
これ等の「内部情報」を獲得するには元を返せばそれには少なくとも「決定権のある副将」である必要があったのだ。
「詳細経緯」としては、この「義務」を果たす為にもこの「銃隊の指揮官」も「青木貞治」と共に、これでも“相当に際どい戦いと成った事”が判る。
故に両方の指揮官が「戦死したと云う事」でもあろう。
“「堀江」に「本陣」を置いて「二極化拠点」として構築している可能性もある”と、戦略的に考えて「追尾行動」をしていた「南下国衆の銃隊」に対して、故に、「青木貞治」は、「軍議の内容」から“これは危険”と観て、得た「軍議の内部情報」を「銃隊の指揮官」に対して提供出来たのだ。
そもそも、「負けると判っていた戦い」に「一族の者を援軍として送る事」は先ず無いだろうし、この「援軍」は「戦うと云う勢力」よりも「将にする事」に依って「内部情報の獲得の手段」を主目的として有利に導こうとしていたと云えるのだ。
其れならば、「籠城戦」から「野戦」と成り前提は異って仕舞ったので、参戦し野戦と成った以上は「青木氏族」には後は「救出してもらう事」しかなかったのだ。
それには、”無事に救い出す”には「額田青木氏の南下国衆の銃隊の銃力に頼る」と云う事に成り得り得たのだ。
それが「銃力・弾幕」で「武田軍の本隊の進軍」を一時止めさせてその隙を突いて「救い出す作戦」に切り替えたのだ。そしてその「準備」を始めたのだ。
それには逃げ込む道すじ・場所・タイミング・合図や銃隊の引き上げ時期等詳細な打ち合わせが両者に執って必要であって打ち合わせたのだ。
其処に、「山県軍の別動隊」に対しては良しとしても、結局は1h~2h経てば「武田軍の本隊」が別動隊を救出に来る事は必然で、この「愚策の鶴翼の陣形」と成れば「銃隊の指揮官」に執ってはこんな危険な事は先ず無かっただろう。
「総崩れに成る事」は戦前でも充分に予想できただろうから救い出すには「一瞬の隙」を作るしか無かったであろう。
「伊勢の勢力」も「額田青木氏の南下国衆の銃隊」も「援軍の秀郷流一族一門」も「青木貞治隊」も4者共に慌てたであろう。
そもそも、この事は「開戦」と同時に問答無用に「救出の必要性が迫っていた事」に成り、故に「南下国衆の銃隊」も救出後に即座に「戦場離脱に迫られていた事」に成るのだ。
何故ならば、「補給拠点での野戦・三方ヶ原」と成れば「武田軍の本隊」は「山県軍の別動隊」を救う為に「堀江城」を出て「三方ヶ原」に向かうと観ていたのだ。
そうなれば、「山県軍の別動隊」との「西東の挟み撃ち」に成る可能性が出て来て、「300の銃隊」と云えども、再び「一言坂の遭遇戦」を再び呼び起こす結果と成り、“「危険」”に陥っていたのであった。
この時、ここで「安全策」の一つとして「西の伊川津に戻る策」もあったが、そもそも「一族を放置する事」が出来ず、一族の「駿河国衆の青木貞治の隊」を「何とか守り救出する為」にも、且つ、充分な「様子見の為・場所取り」にも急いで「三方ヶ原」に向かったのだ。
そもそも、「急いだ事」は、「戦い」の「場所取り」では無く最も「物見」によって“救出に適した位置取り”と「離脱場所の位置取りの点」にあったと観られる。
然し、前段でも論じたが「事態」は急変していたのだ。
予想通り、「武田軍の本隊」でも充分に戦えるとして「山県軍の別動隊」が「補給拠点築造の使命」で、“北の山際に待機するかも知れない”と観られたし観ていたが、何とこの「補給拠点築造隊」で「挟み撃ちの作戦」に突如出たのだ。
それは、「青木貞治」が位置している前線と松平軍に対してであって、結果として「左鶴翼の付け根部分」に位置取りしていた「南下国衆の銃隊」にも巻き込まれる可能性が充分に出て来たのである。
そこで因みにそもそも、主に「戦い方」には中国から伝わった「八陣形」と呼ばれる陣形が平安期からあって、「魚鱗、鶴翼、雁行、彎月(偃月)、鋒矢、衡軛、長蛇、方円 他には「決死隊の長滝等」があった。
「武田軍」は「赤兜の騎馬隊・本隊用」を持っていたので、これをそれぞれの陣形に合わして配置して特徴を出して陣形を強め「無敵の騎馬隊」と呼ばれていたのだ。
「赤兜の騎馬隊」を持たない「山県軍の別動隊」は、それが逆に戦力の弱い「補給基地築造隊も含んでいた事」から、これが上手く行けば戦力の弱い「補給基地築造隊」を戦わす事なく護れるので、これを「背後」に廻して一列に並んだ「長蛇陣形」の「鶴翼突破型の全軍側面突撃」の形に似ていたのだ。
ところが作戦通りに「長蛇陣形」が良かったが前段でも論じた様に思い掛けない事がここで起こり違ったのだ。
突撃と同時に突然に何と強力な銃弾がとぎれる事無く、其れも先頭から後尾までに一斉に遠方から命中率良く一斉同時に浴びせられたのだ。
寧ろ、逆に「長蛇の陣形」が痣を成した形と成って仕舞ったのだ。
「銃隊の存在」を強く意識していれば、「鋒矢の陣形」で「補給基地築造隊」を包み込む様にして「敵中突破の突撃」を仕掛ければ犠牲は少なかった筈であった。
つまり、これでも「銃隊の存在を読み違えた事・下記」が判るのだ。
筆者は、「救出用の隠れての位置取り」であった「南下国衆の銃隊」が「見え難かった説」を採っている。
つまり、北の山際から観て左斜め鶴翼の付け根部域であった事で「松平軍の影」に成って正確に存在を見分けられ無かったのであろう。
「三方ヶ原の補給拠点」を、急遽、「野戦」に出て「松平軍に確保された事」で、この情報を得た「堀江」に居た「武田軍の本隊」が、「三方ヶ原の奪還」を目指して東に向かいこの「山県軍の別動隊」も遅れて到着した。
この事で「三方ヶ原の補給基地」を築造後、ここの「守備隊」として「山県軍の別動隊の使命」として着く予定であった事はこれで「当然の事」としてこれで判る。
戦略上では、「先に守備隊として確保したものを奪う戦い・奪還作戦」は難しいのは何時の世も先に奪取するのが「戦略の常道の知識」である。
故に、家康は、突然に「籠城」から秘密裏に「野戦」に変更し先に確保しようとしたのだ。
それには「家康の考え」は取り敢えずは成功した。
「別動隊の使命」に基づき「補給拠点構築隊」も引き連れていた「山県軍の別動隊」は、「本隊」に合流せずに、「援護守備兵であった事で遅れた事」もあって、「鶴翼の右側面の山際」に開戦ぎりぎりで陣取った。
「拠点の三方ヶ原」を「先に奪取された事」で「使命の達成」が出来なく成って仕舞ったのだ。
そこで本来であれば「武田軍の本隊と松平軍との戦い」に成ると、遅れた事の道中で「山県軍の別動隊・目的が違う」は「北の山際での駐留」まで考えていたのではないか。
ところが、ここに到着して観れば、「二つの事の異変」に気づいたのだ。
一つは、「弱小の松平軍」が何と「予想の戦術・魚鱗の陣形」では無く「鶴翼の陣形」を採っていた事である。
二つは、「西向きに陣形」を向けていた事である。
本来であるなら「浜松城を背景に陣形を北向きに採る」のが常道である。
西から来る「武田軍の本隊」と東から来る「山県軍の別動隊」が合流して北を背景に陣形を組むのが常道である。
この「南北の陣形の向き」であれば何れも両軍に執って「有利な位置取り」である。
ここで遅れて来た「山県軍の別動隊」に執ってだけに「不利な事」が起こったのだ。
それは、「西向きの鶴翼であった事」に依り“武田軍の本隊と合流出来ない”と云う事が起こったのであった。
「遅れた事」に依って「北側の山際」に“単独軍として離された形と成った事”であった。
「松平軍・家康の命令」はそれを狙っていた事にも成る。
そこで「予想していた事と違った事」が起こって、「戦況」を其の侭に観ているか、さもなくば「武田軍の本隊」より前に行動するかに迫られたのだ。
そこから「別動隊」であった以上は「状況」に応じて「独自単独」に移る事が出来る。
今度は何と「松平軍」に執っては予想外の“「援護守備兵」で「鶴翼の右側面・弱点」に本隊よりも先に突撃して行った”のだ。
「山県軍の別動隊」に執っては、その「行動の判断」は「同時」や「後」は「武田軍の本隊の行動」を遮る事に成り、且つ、「敵が鶴翼陣形」である以上は著しい混乱を招く事に成る。
これは「得策」では無いとして、先に、最早、“「使命達成」は当面は不可能”と判断した。
そして、「二俣城」からの「移動の行列」が、丁度、「長蛇の陣形」である事から「鶴翼側面」を「後尾の補給基地築造兵」を護る為にも「一点集中の突撃突破」で攻撃に入ったのだ。
これを観た「武田軍の本隊」もこれに引き続き「魚鱗の陣形」で「総崩れ」と成っている「鶴翼の松平軍」に向かって前進し完全掃討し勝利したのだ。
唯、この時、復もや「山県軍の別動隊と武田軍の本隊」とに「思い掛けない事」が「南側」で起こったのだ。
それは、「南下国衆の銃隊の存在」は「一言坂」と「追尾」で承知していたが、まさかの「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「戦いへの参戦」であったのだ。
「武田軍の本隊」からはそう見えていた筈である。
恐らくは、「牽制程度の事」はあるとは判っていて、“本格参戦は無いであろう”と見込んでいたのだ。
それを示す「三つの証」としてある。
そもそもその「破壊的威力の持ち主の銃隊」でありながらも、“積極攻撃をして来ない事・証イであった。
「一言坂からの追尾」”までと、「堀江城への援軍攻撃」が無かった事・証ロと、「三方ヶ原」に到着して観れば“攻撃の仕難い「鶴翼の位置取り」”とにあった事・証ハなのだ。
「武田軍の本隊」は、この「三つの証」を観て少なくとも“攻撃的で積極的ではない”とその様に考えていた事に成る。
この事から考えても、「銃隊」としては「鶴翼の付け根部に位置していた事」が判っているので、射撃すれば味方も撃つ事に成る「相当難しい位置取り」にあった事である。
これが「救出目的」であるとは観ていなかった事・証ニが考えられる。
然し、「青木貞治隊の救出」と「山県軍の別動隊の思いもかけない突撃」で、止む無く「銃の攻撃」を仕掛けたのだ。
何方も、“思い掛けない予想外の一瞬の出来事が起こった”のだ。
そして、「武田軍の本隊」に向かって「弾幕」を張って先ず「進軍」を止めて、何か弾煙の中から「救出作戦を起こしている光景」が「信玄の目」に入ったし、先に突撃をした「山県軍の別動隊」の「山県の目」にも累々と「戦死者の山の光景」が目に入ったのだ。
どうしようも無い「開戦の一瞬の出来事」であったであろう。
つまり、それは「予想外の事」が「勝利の武田軍」にも、「敗戦の松平軍」の「両軍の目」に入ったのだ。
「弾幕の煙」で一時戦場が観えない程に成ったと予想できる。
開戦は午後の四時頃であったので「谷風・海風」が吹いていて、南から北に向かって谷筋に「三方ヶ原の戦場」に向かって吹いていた。
なので、「弾煙」が消えては、又弾煙が出来ると云う光景が起こっていて、その「武田軍の本隊の混乱中」の間に、この「救出劇」が起こって兎に角にも先ずは「東」に逃がしたと「詳細経緯」としては考えられるのだ。
「山県軍の別動隊」に執っては射撃音以外に何処から弾が飛んでくるかは正確には判らなかった筈だし、武士道の通じない生死の「経験のない恐怖」が先行して「逃げ隠れの出来ない処置無しの状態」であったと考えられる。
故に、比較的に「救出」は容易に犠牲も無く成功したし、「北・戦場」に向かって連射しながら「荷駄隊」と共に、無事に西に後退する「戦線離脱」も容易であったと観られるのだ。
「近づく者」は恐らくは移動しながらの「空砲の煙幕」でも充分であったろうし、「一言坂の経験」の様に100%居なかったと考えられるが、執拗に近づけば実弾連射して撃滅戦を繰り返しながら「戦線離脱」したと考えられる。
この「戦線離脱した南下国衆の銃隊」を「仮・現実には無理」に追撃したとしても「館山街道の例の交差点付近」までであろうし、此処からは「武田軍の本隊」としても戦略上踏み込めなかったと考えられる。
史実はここの状況は何れの戦記にも記されていない事から“追撃は無かった”のではあるが、ところがその前の「やるべき事」が「武田軍の本隊」にあった。
それは「戦場の掃討作戦」と「山県軍の別動隊の支援」にあった筈で、「補給基地の三方ヶ原築造を使命の別動隊である事」を前提にしながらも、「軍事行動」を起こして突撃した事、且つ、「別動隊として浜松城を陥落させる使命もあった事」も考えると、これを支援しなくてはならない「本隊としての役目」が「戦いの流れ」としてあった筈である。
現実に、史実の詳細経緯は、「脚色された三河側の多説」が多いが、「掃討作戦と別動隊支援している事」には間違いは無い。
「救出後の武田軍の掃討作戦」も、「青木貞治一族」が隠れていたこの「西光寺」では、「武田軍の本隊の2度の印象」の中には、“銃隊の一部が未だ居るのでは”と連想し近づく事は出来なかったと考えられるし、命令なしに掃討が出来ない寺であった事は間違いは無い。
何故ならば、そもそも「寝る子の東の秀郷流一門361氏」と、「第二の宗家の位置づけ」の「秀郷流青木氏116」を起こして仕舞う危険性があったのだ。
「青木貞治隊」が「逃げ込んだ盤田見附の西光寺・平城館の大寺」が不思議に戦記上では掃討された事は記されていないのはこの事に依るだろう。
そもそも逃げ込んでいるか否かは別として、「武田軍の本隊」が進軍中に「一言坂の此処」で一時停留しているので、破壊は無いし、確実に「掃討カ所としての確認をすべき拠点」である事は知っていたし、「青木貞治隊」に限らず位置的に観て「松平軍の残兵」が少なくとも一時的にもここに潜んでいる拠点である拠点には間違いは無い。
この様な「一族の菩提寺の西光寺」から「青木貞治隊」が再び“城に入った”と云う記録は無い処を考えると、「武田軍の本隊」が「浜松城」を攻めた場合とか「掃討作戦」で「西光寺の方」が「平城館」の様にして「寺の周囲」を固めれば安全であると考えたのであろう。
故に、「生き残れた一族の勢力」は、江戸期には「御側用人衆・上級番方」として出世して禄高を史実の通り1800石から3500石に倍増させて「駿河青木氏の子孫」は栄えたと成るのだ。)
(注釈 「額田青木氏と駿河青木氏の生き遺りに付いての論」
さて、上記の詳細経緯に至る内容を先に論じて置く。
「三方ヶ原の戦い」に勝利した後、ここに当初の目的通りに「補給基地」を築造せずに堀江城と二俣城などの出城に「守備隊」を残し「甲斐」に全軍を引き上げている。
2年後の「長篠の戦い」の際には、この二つの出城の「守備隊等」は松平軍に対して「善戦をした事」が何れの戦記にも記されている。
つまり、そこで「周囲」がまだ「武田軍の守備隊」に囲まれているこの2年間の「西光寺の駿河青木氏の動向」が気に成る。
この事に関する記録等を探ったが、唯一つ何かを物語る行が「伊勢」にあった。
それは「伊勢水軍」であった。
「出城の山国の武田軍・少数」には「水軍」を持っていないので、伊勢水軍と駿河水軍は「渥美湾に船を廻す事」がある程度可能に成っていた。
「駿河水軍」と連携して「伊豆」まで廻る「商い等の運搬に盛んに従事している行・商記録共に一致」である。
つまり、これは何を意味しているかである。
「三方ヶ原」から伊川津に戻り「陸運業」に逸早く転身し、「縦の陸路1と2」を構築して「信濃」に繋いだし、「三方ヶ原」より「武田軍」が予想外に「甲斐に戻った事」と、「織田氏の西三河への伸長浸食」で「武田軍の脅威」は低下して「渥美湾の制海権」は何とか獲得出来ていたのだ。
この時、この為に「松平軍」が「力・財源を持つ事」に警戒した「織田軍」は、「伊勢」で水軍を造ろうと懸命であって、遂に「熊野水軍の内の九鬼水軍」を味方に引き入れた。
そして、「伊勢青木氏」が「7割株」を持つ「伊勢水軍の伊勢衆・50衆」に対しも「楔・調略」を打ち込んできたのだ。
「伊勢衆の掟」を破り「4組」が「織田軍の調略」に落ちたがこれを「掟と財源」で食い止めた。
然し、結局は1組だけが調略に応じたのだ。
そもそも、「伊勢衆」は「伊勢青木氏の女系の重複血縁の古来からの氏人」であった。
最も尾張に近く縁の薄かった「東の知多一族」が落ちたのだ。
然しながらも、当然にこれに伴って結果として「陸運業」と「海運業」は動ける様に成った。
そうなると、「松平氏の敗戦」に依って「青木貞治の彼等の糧」は失う事は必然である。
そこで「駿河水軍の裔の駿河秀郷流青木氏の一族」は、この「陸運業」と「海運業」にも更に関わる事で、且つ、「武田軍の追及を逃れる事」も出来たのだ。
伊勢が復興させた「駿河水軍・1艘の廻船」を「伊勢・伊勢水軍と伊勢屋4艘」からの「海と陸の中継点」として「伊豆や武蔵」にも繋げる事が出来て糧を戻したのだ。
この「2年間の彼等の糧」はここにあったのだ。
これは「元駿河の国衆」の強味の所以であった。
そもそも、「敗戦し弱った松平氏の家臣」の中に「水軍」を持ち「それに依る財」を持つ「御側衆」はいなかったのだし、「東の大勢力の秀郷一門」を背景にした「家臣」もいなかったであろう。
身分以上に力を持つ「家臣・関東家人衆」に対して、「三河旗本・近国衆」には“かなわない”とする「嫉妬怨嗟の渦の波」が「額田青木氏」と同じ様に押し寄せていた筈である。
「浜松城の松平氏」は、危険な隣の織田氏に近い「西三河」を残し、「北三河と東三河と遠州での糧」を失っていた。
その「衰弱した松平氏」にも経済的に劣らない「身分以上に力を持つ家臣・関東家人衆の御側衆・青木貞治の裔」は他にいなかったであろう。
ところがこれが、「伊勢勢力」を背景とした「額田青木氏」の「三河での商い」と共に、「松平氏の強み」とも成っていたのだ
敗戦被害を受けなかった「西三河の軍勢」には「2000人」を与えられていて無傷で残った。
そこで「松平氏の力」を検証する。
そうすると、尾張に隣接する「西三河」だけが遺っていたので、「1貫≒2.5石 7貫≒1人家来」の「軍制の仕来り」から、最大で1万4千貫≒3万5千石となるが、「信長と秀吉」に依って弱みを突かれて国境の「西三河の浸食・三好域まで」が起こりこれが「2万石」にまで減石されていた常態と成っていたのだ。
これではどう考えても「旗本以外には養えなかった事」に成る。
「三方ヶ原」で全滅に近い敗戦をしているので、どの記録を観ても最大時に「国衆」を掻き集めてやっと合わせて「兵5000・脚色戦記」に成ったとしているが、実際は戦後は「敗残逃亡兵2000程度以下」には成っていた筈である。
先ずは「旗本程度」を養えると成るが、「国衆等」は「自らの糧」を「何らかの力」で得なければ生きては行けない事に成っていた筈だ。
「駿河青木氏」は未だこの時期は、上記した様に一族から援軍を得て「駿河国衆の副将レベル」であった。
上記した様に長篠後に成って「旗本・家人衆」に加えられたのだ。
故に、「駿河青木氏」は「伊勢の青木氏の経済力・商い」を背景に「元の駿河水軍の糧」に勤しんでいたのだ。
そもそも「伊勢青木氏」に依って平安時代に女系で繋がっていた事の所以で末端の裔を何とか探し出され、相当に「駿河青木氏」は「伊勢」に依って呼び興されて訓練を受けた。
そして「船一艘」を与えられて、再び、その「裔系」は「水軍・水運の商い・伊勢―伊豆に運送」で拡大して行ったのだ。
それが「裔系の長」が「青木貞治」であったのだから、「江戸期・長三郎」に成っても「旗本の上級御側衆・上級番方」を務めながらも、この「水運の商い」は辞めなかったのだ。
この様に資料では「相当に豊かな駿河青木氏の裔」を構築して繁栄していた事に成る。
そこで、この詳細経緯として、江戸にも子孫を広げているだろうが、盤田見附に「菩提寺・浄土宗西光寺・再興」の「伊勢青木氏部」に依って大寺を建立できるまでに成り、それを持てるまでに「子孫」を拡大させている以上は、青木氏等の地名や所縁のものが遺されていると考えられるのが普通で、その割には「青木氏とその類証」が「水運業」を生業としているこの地域に矢張り少ないのが気になるのだ。
何故だろうか検証して観る。
天竜川と太田川の二つの大川の間に挟まれた「圷の野」と、この「ほう僧川」の支流を合わせて、「砂丘」の中で出来た「唯一の港・西光寺より南東8k」の地域に「大船が停泊できる港」は、「天竜川」から東に離れて「圷の影響」が無くなる「福田地区」、ここから「海底深度」が良くなるその“「福田港」”がある。
ここに少なくとも先ず「仮泊」を置いて「駿河湾・34k」と「伊勢湾・白子泊」を常用していた事が資料から判っている。
つまり、「福田港の此処」からは「伊豆青木氏」と「秀郷流青木氏・本拠地」を含む「一門の領域」と成るのだ。
この地域には「青木氏に関わる地名などや春日社」も全く無く現在もである。
全て、この「福田港」から「34k離れた地域」から東に急激に「青木とそれに関連する地名」も含めて大量に何もかも出現して来る。
つまり、この差であるる
平安期と鎌倉期と室町期初期の三期までは「青木氏や永嶋氏等の勢力」が伸長していたが、ところが、室町期中期より勢力を東に押し返されて引いていたのだ。
この時の「名残の先端」が突出した「遠州西光寺域の庄」であって、厳しい乱世の中で衰退しながらもここを遺し得たのは「水軍衆の所以」であったと考えられる。
其れを逸早く裔を救って呼び寄せて訓練して戻して伊勢と繋いで生きる力を着けさせて遺し、其の後は前段の論に成るのだ。
結果として全体は「駿河の青木氏」の「名籍」が存在する所まで引いたと云う「歴史的経緯の事」に繋がるのだ。
大まかな時代性としてはその「引き際の処置」で起こった事であったと考えられる。
それだけに「源平化した事」から狂い出し、遂には「源平戦敗退」により「子孫」は元より「遺物」も遺し難かったのだ。
「近江と美濃の源氏化」に対応した様に「伊勢信濃の忠告」は女系で深く繋がる「駿河」にも当然としてあったと考えられる。
と云う事は、その証拠は「駿河青木氏の子孫」の多くは、現在名の静岡県静岡市駿河区の「青木の地名・現在も青木・盤田見附から東54k」が遺る所にあったと云う事に成る。
「伊勢」が「盤田見附」からか「駿河区青木の庄」の何れから「支流末裔」を見つけ出して「額田青木氏」と同然に世に出したと云う経緯である。
「一族の藤枝の秀郷流青木氏・集中」では無く、再び、“「母方の伊勢」”に呼び出して「商いや水軍」等の訓練をさせてから「30年後~40年後」には、室町期初期から「消えていた盤田域」に「一人前の青木貞治が出た・100裔人」と云う事に成るのだ。
唯、ここで検証しなければならない事は、「盤田見附域の元の庄」を再び獲得するには「財力と武力」が要るし、「菩提寺」を建立し直し維持するには“「相当な財力」”が要る。
其れを如何したのかである。
この「財力と武力」を以て「庄の民・農民」は信頼して従う。
「武力」は「財力」で補完できる。
問題は失った元の庄を獲得するには、上記した「盤田域の庄面積」の「1800反程度弱≒1800石程度(≒6000平方坪程度以下)」の“「地権」”を買い取る必要が先ずあり、奪還する程の武力は未だ無いしそれ以外にも無いし、武力による獲得は「青木氏族の氏是」ではない。
それには、「駿河水軍の水運」だけでは元の庄の獲得は無理で、この時期、必然的に「今川氏の国衆と成る事」が先ずは前提と成る。
その前に、「青木氏族」とは全く縁が無いが、調べた範囲としてこの事の解決に導いてくれた者、況や、「松井氏」に付いて記して置く。
元今川氏の二俣城主であった「松井氏」は、「山城国の御家人・松井氏一族」が建武政権を離脱し「足利尊氏」に味方し、足利氏一門で宿老の今川範国に属して戦功を揚げた。
その恩賞として「建武5年駿河国葉梨荘(現在の静岡県藤枝市・青木氏定住地)」に「地頭代職」を与えられて移住したと定説ではある。
1513年には「今川氏」から「遠州鎌田の御厨領・盤田見附から真東3k・同庄内」を「領」として与えられ、1528年には「平川郷堤城主・盤田見附から真東21k」とも成ったとある。
この「近江から来た国衆の松井氏」は、最終的にこの「天竜川から菊川」の「南一帯の豪族」と成ったのであった。
そうするとこの「地頭代職時代」にこの「藤枝」に定住する「郷氏の秀郷流青木氏・賜姓族の格式」は松井氏を当然に知り得ていた筈であるし、「山城・近江南部・天領地・公領地域」の「御家人・松井冠者源維義」であるとすると、源平戦で衰退はしたが「近江青木氏二氏・賜姓族格式」を完全に知り得ていた筈である事に成る。
この「近江青木氏」と「川島皇子の裔の佐々木氏」とは奈良期末期まで「相互重婚の一族」であって「伊勢」と「近江4氏」とは血縁の縁で繋がっていた。
「松井氏の祖」が「山城の御家人」と成れば「駿河青木氏」とも少なくとも縁は深い事に成り得るがそこまでは縁を追えない。
奈良期の古来より「近江」には「伊勢青木氏一族」は「施基皇子の時代」から全く縁が無かった訳ではない。
そもそも「近江の日野等」は、奈良期から「日本書紀等」にも記されている通り「賜姓五役」の一つとして「令外官」として「鉱山探索・鉄の産地・鉄穴役」を命じられたが、その所以あって、そこを「領地」として与えられ「統治」を任されていた事が判っている。
そして周囲には「一色の地名の字名」があって現在もある。
この事に青木氏の歴史観に意味があるのだ。
後には前段で論じた通りその所縁から室町期には堺を通して「火縄銃等の生産」にも関わっていて、「近江国浅井と高島の二郡」の「鉄穴・カンナ地区・鉱山」を「字名」として所領としていたのだ。
ここが最初に発見された「鉄の地」で「滋賀国長浜浅井の土倉鉱山・琵琶湖の真北端より北東二里の地・現在の西浅井」で発見されたのだ。
この事は「伊勢の資料」や「日本書紀等」にも記されている。
更に需要に応じて「鉱山開発」が朝廷の命で「伊勢の財」を投じて「東近江」でも進み、もう一つは「平安期末期」には「滋賀国湖南の高島鉱山に広がり、「室町期の開発」では「琵琶湖の真南端の東四里の中東域の一帯・甲賀を起点に日野を含む半径15k圏内」の「白水鉱山と雲井鉱と弥栄鉱山と御池鉱山」等までに広がったと成っているのだ。
その様に添書に記されている。
丁度、それを物語るかの様に「近江青木氏」や「甲賀青木氏」や二里ほど北東に離れた「日野の庄」までもこの圏内に含まれているのだ。
これ等の経済圏でその運輸に関する淀川に出る古来からの「中継点の松井の庄」であったのだ。
要するに其の後の経緯としては、「摂津堺の商い」として「中継点」のこの「松井の庄」を経由して淀川を通して「荷駄の運搬等の中継点」として大いに利用されていて、その歴史は奈良期から始まり浅からず江戸期に至っても変わらなかった様だ。
又、「商い」だけに関わらず隣の「蒲生の庄」の「秀郷流蒲生氏郷一族との血縁関係」も持ち、この「松井の庄」は「青木氏族」に執っては欠かす事の出来ない庄であったのだ。
それだけに「駿河青木氏の貞治」は「伊勢での訓練を受けた以上は元より「青木氏一族」として知っていなければならない「松井の庄」であった筈なのだ。
それが青木氏に関わる者であるとすれば「民」であろうが「商人」であろうが「武人」であろうが「万人」が知っていたのだ。
これは当然に秀郷流一門全ても等しく知り得ていた歴史観で忘れてならないものであつたのだ。
この「近江の鉄穴・カンナ地区・鉱山・鎌倉期まで伊勢と共に本領安堵された」が深く「青木氏族」に関わっていた事を知る事は歴史観に大きく左右するのだ。
故に、百々の詰まりは「額田青木氏の銃隊の由縁」もここから来ているのだ。
念の為にこの「巨万の富・献納」は、「紙文化・紙屋院」のみならず、「銃の武器・近江の鉄穴・カンナ地区の発展・殖産業・青木氏部」の「拡大・伴造」を支配していた事もあって、影で朝廷とも繋がり「無限の富・商い」を獲得していたのだ。
その象徴の一つが「松井の庄」であったのではないかと判断する。
他に「商記録」から「商い」として殆どは「貿易で得る事」で賄っていたらしいが、かなり古くから「銃用」ではなく上記する「近江の鉄穴・カンナ」に「鉱山の爆薬」としても「国内産」にも天皇より命じられて取り組んでいた事、つまり、「山部」や「工部」等の「部人」を統率し管理する「専門の官僚族」の「伴造を統率していた事」が史記にもされいる。
その書の記述には「乳母女樫の炭紛と糞尿を乾燥させものを混ぜ合わせて利用した「近江の硝煙開発と製造・703年頃」にも秘密裏に関わっていた事があった事が記され判っている。
前段でも論じたが当初は「宋貿易」で入手していたが、その後の平安期に成って「紙屋院」のとして「墨や硯石等の開発」の殖産に取り組み、「乳母女樫とその炭紛」は「伊勢紀州の特産品」であり、その副産物としての其処から密かに「爆薬用」として近江に運ばれていた事が記されている。
つまり「紙屋院」として墨用に開発したものの「粉」を集めて「近江の鉱山」に運んで「爆薬用」にこれを利用していたとされ、後には「弾薬用」にも転用したものであるとされている。
「額田青木氏のフリントロック式改良銃の弾薬用」に、更にはこの「近江の硝煙製造」にも「伊勢青木氏・伊勢屋」は更に力を入れていた事が判っている。
後の「室町期」にはこの「鉱山の爆薬用」から一部は「火縄銃用」にも用いられていた事が資料から判っていて、「近江の硝煙の道・ゆず街道・山懐静かな里の一角」を「代名詞」の様に使って密かに呼ばれていたのだ。
「青木氏の伊勢屋の貿易」とは別に「室町期の銃用」にはここを別の勢力に抑えられると困る事から密かに床下に隠して生産していたと記録されているのだ。
恐らくはそれだけでは無く硝酸塩発生を促す為に「温度一定」を図っていたと考えられる。
因みに「硝煙の製造法」は、残された一部の資料に依れば次の主に二つの方法が発見されていたらしい。
一つ目は、中国から伝わり古代では原始的で生物の死骸等の50年以上経過した腐敗堆積古土壌から浮き出て来て来た結晶の「硝酸塩」を抽出し、それに「炭粉」を混在させる方法で生産していた要するに「古土法」である。
この中国の記録を貿易で獲得してそれを青木氏の殖産として真似たのではないかと考えられる。
二つ目は、更に上記の方法を強引に起こさせる「培養方法」である。
石灰土に干草や糞尿を交互に重ね合わせて堆積し、発酵させて硝塩土を造り浮き出て来た「硝酸塩」を抽出しそれに「炭粉」を混ぜ合わせる方法である。
三つ目は、室町期に至ると更に「二つ目の方法」を大量生産型に変更した。
「硝石土の土山」を強引に造り出し、発酵後に浮き出る「硝酸塩の結晶」を取り出して、これに「炭粉」を混ぜ合わせて生産していた。
この「根本原理」は「一つ目の方法」にあるが、日本ではこの地質学上から自然堆積層が無く上記の方法で細々と造り出す方法で古来より生産していたのだろう。
「資料」にはそれを思い出すかの様な表現での様に記されている。
参考として「チリ―一帯の石灰層や硝石層の自然堆積層」は国土全体に及んでいて有名である。
因みに記されている資料に依ると、「混ぜる炭紛の品質」にも問題があって発火能力・爆発能力」にも差があって、それは「紀州と伊勢一帯」でしか採れない「固くて炭化精度が良く微粉末」に成る「伯母樫の木」の「備長炭の炭粉」が最良であった事を知り、「令外官の伊勢青木氏の研究」で到達していたのだ。
結論は「炭の内部の結晶構造」が均一で細かい事にあった事が記され、従って、古来より「国内産の爆薬」は「紀州伊勢産」が優れていた事も上記する「近江鉱山」は発展したと成っているのだ。
さて余談と成っているが「額田青木氏」が持つ「銃の爆発力の高さ」は「輸入の弾薬」に比する事なく此処にあったと考えているのだ。
故に、「額田青木氏のフリントロック式改良銃」は銃そのものも然る事乍らこの微細炭紛にもあったらしく、故に外に真似される事が無く「青木氏族の範囲」で留まった所以もここにあったのだ。
その「原始の方法」がこの論じている「近江の鉱山」から始まったのだ。
これを「天皇の命」で手掛けたのだが上記する「令外官」として「伴造」を支配下に置いていた「伊勢青木氏」ではの事であったのだ。
前段でも論じたが、故に一族の代々の諱号は「光仁天皇」より「伴、又は大伴」に纏わるものを号とする事を天皇から許されていた事が判るのだ。
「永代の令外官の所以」であったのであろう。
注釈として、では、この「実作業」を誰が実行したのかである。
他では、多くのプロジェクトに関わった記録があるのだが、この「近江の鉱山開発」に関わったとする明確に記された資料が少ないのが不思議の一つである。
前段でも論じたが、当時の朝廷の「技術職人集団のトップ」に位置して「施基皇子」と仲の良かった「伊勢の額田部氏」、つまり、後に「桓武天皇の遷都計画」に応じ無くて「飛鳥の斑鳩」を追い出されてこれを救って「伊勢の施基皇子」が「桑名」に隠したがその「額田部氏」であったと観られる。
時代性から観ても関わったとすれば何の不思議もない。
最終は、この「額田部氏」は「施基皇子の仲介」でその数々の功績を評価されその名誉を回復し更にはあり得ない程の「特段の出世」をしている。
間違いなく「鉄穴や爆薬の開発」にも大きく関わっていた事が判るし評価されたのであろう。
「額田部神社」を独自に「守護神」として持つ事を許された「技術職人集団」なのである。
前段でも詳細に論じたが、「土木の職能集団・地形地質を観る集団」で、「干拓灌漑、墳墓等」も手掛ける「土木専門技術集団」で、当時としてその技量は「和気氏や結城氏等」よりも優れていたのだ。
「近江の東」に和紙が生産できる様にした「干拓灌漑と土壌改良」などを手掛けた史実も持っている事から、同然にも「伊勢青木氏」が命じられた「近江の鉱山開発」にもその「地形地質の知識」を以て大きく関わったと考えられる。
寧ろ、関わらないと「青木氏」のみならず他の集団も出来なかった「国家大プロジェクト」であったのだ。
少なくとも初期の「滋賀国長浜浅井の土倉鉱山開発」と、「近江の硝煙開発と製造・703年頃」は青木氏だけでは無理であった筈で、その記録は何処かにあった事が考えられるがその「額田部氏に関連する記録」はその頃の一般は未だ竹簡木簡であった事から記録は消えた事が考えられる。
遺る記録は紙に遺された記録だけに成っていて「青木氏の紙屋院」ならではの記録と成るだろう。
後発の「滋賀国湖南の高島鉱山」では本格的に「額田部氏の活躍時代」に入っているので、その記録は見つかるのではないかと期待しているが未だ確かな記録は無いし、有ってもその存在範囲は「青木氏族などの関係者範囲」に限定されるだろう。
「土木用の爆薬開発」に関しては上記した様に一部であるが遺されているので「額田部氏に関する関わり」が憤怒建設や干拓灌漑の記録はあるので何かの資料の行の中で発見される可能性もある。
当にそもそもその「土木用の爆薬などの高度な知識」は朝廷では「額田部氏」を除いて有していた集団は無かったと考えられるからだ。
それは「青木氏の貿易」との関わりから多少の記録は得られたものであろう。
この様に「伊勢青木氏」は「額田部氏の力」を借りて「鉱山開発」と「硝煙開発」にまでに及んでいたのだ。
話を元に戻して、それだけにこの後の所縁の「松井の庄」を介して「駿河の松井氏」と「駿河の青木氏」は知り得ていて“「歴史のある特別な親近感」”を持ち得ていた事に成るのだ。
そこで、だとすれば、最早、無駄な論として行うが、取り敢えずは「系論」として、仮に「御家人・松井冠者源維義」であるとすると、「近江戦」と「富士川の戦」の源平戦で共に源氏化していた一族として味方と成って戦っていた筈である。
先ずこれだけの縁があるとすれば戦っていた事には間違いは無いだろうが、敗戦後、一族が浪々の身に成り、それが共に再び“遠州で会った”と云う事に「流れ」として成り得たのであろう。
且つ、ここが「室町期末期」まで「秀郷流蒲生青木氏・伊勢秀郷流青木梵純の出自元」でもあって、恐らくは「縁の鎖」の様に何らかの関係を「松井氏」とは確実に持っていた筈である。
要するに、それ故にこの「縁」を以て「国衆」と成ってこの「松井氏の配下・家臣株獲得」に入り、そこで「元の盤田見附」を「地権で獲得した事」に成る所縁と成るのだ。
そして、その「国衆と成った証拠」として今川氏の最西端の其処に「氏としての城」の「平城館・寺閣城」と成る「菩提寺・西光寺」を「再建した事」を意味するのだ。
つまり、この所縁には「国衆に成る事」にしても、「家臣に成る事」にしても、「菩提寺の平城館・寺閣城を建造する事」にしても、「地権料を払う事」にしても、「家臣を養う事」にしても、「水軍を維持する事」にしても、「水運業で得られる糧」では到底無理で「大財源が必要であった事」に成る。
当然に、その「財源の出処」は「伊勢青木氏」か「武蔵青木氏宗家・江戸長島屋」かであるが、この所縁の流れとしては「伊勢青木氏・伊勢屋」が「額田青木氏」と同然にこれを賄ったと考えられる。
要するに戦略的には、同時期に“西に「額田青木氏」、東に「駿河青木氏」を興した”のであって、前段で論じた様に「信長」に依る「尾張域の神明社破壊」やこの事で起こる「伊豆や信濃との連携が難しく成る事」を防ぐ為にもこれは“「当初からの戦略」であった”と考えられるのだ。
その結果、「盤田見附の西光寺」だけを遺して「神明社」も「春日社」も「清光寺」も影形を全く無く成っていた「遠州」に於いて、「伊勢」にしても「武蔵」にしてもここに「青木氏の拠点の復元」を成さねば成らなく成っていた事、又は追い込まれていた事に成る。
それで「乱世の中」で「東西の青木氏の同族」が生き抜ける為には、再び途切れた「西と東」が繋がれば“「強大な抑止力」が働く”と考えていた事に成る。
その為の「財源拠出」は問題は無いと観ていたのだ。
「室町期の紙文化開花」で「巨万の富・紙屋院」や「鉱山等の多くの殖産」で獲得した「財源」を遺憾なく此処に投入したのだ。
それには、「青木氏族」に執っては「相手」は当面に「武田氏」であって「織田氏」でもあったのだ。
そこで筆者が感じる処では、「伊勢系列と信濃系列」を始めとして「青木氏族」に執つては疎遠であった「武田氏系青木氏の関与」は、もう少しの「関係性」を見つけられるのではと観ていたが、「二俣城の浄賢」だけであるのは何か間尺は合わない。
それは、「武田氏」が完全に滅んだ「長篠」より、「甲斐の五つの青木氏」が「伊勢」では無く「秀郷流青木氏を頼った事」なのだ。
確かに「甲斐青木氏・甲斐冠者系の源光系」と「嵯峨期詔勅で名乗った時光系」は「嵯峨天皇派」であって「犬猿の仲でった事」は否めないが「伊勢信濃」には彼等は頼って全く来ていないのだ。
“受け付けなかったと云う事”もあつたかも知れないが、そんな資料や記録の行は無い。
このすっきりしないのは「史実」である。
そもそも「武田氏系」には、「源光系青木氏・1氏」、「時光系青木氏・5氏」、「諏訪族系青木氏・3氏」があった。
「源光系青木氏・1氏」は不参戦で甲斐で衰退し、「時光系青木氏・5氏」は、「分家2氏」は徳川氏に味方し武蔵鉢形に移住させられ、残る「1氏」の「分家養子・安芸」は早めに戦線離脱し、後に安芸松平氏の家臣に成る経緯を辿っているのだ。そして「本家筋2氏」は完全滅亡している。
「諏訪族系青木氏・3氏」に付いては、「武田氏系の1氏」は衰退したが、「諏訪族系の2氏」は「相模の秀郷流青木氏」に救出され、其の後1氏の一部が下野に配置、残りの一部も「越後秀郷流青木氏」を頼り、4流に分流した。
「長篠後」にこれだけの「関係性」を保持しているのに何もないのは腑に落ちない。
当然に「三方ヶ原前」にもあったと観るのが普通であろう。
現実に、江戸期には「甲斐青木氏・正定系と豊定系」とはある程度の関係性は出来たと考えられるが、この敗退した「甲斐青木氏」が、「秀郷流青木氏一門を頼った事」で「血縁の繋がり性」は出来た事も「史実」である。
平安期と鎌倉期には確かに「賜姓」は「青木氏」を中止した代わりに「桓武派」と「嵯峨派」の争いで「仲介案」を採って「伊勢青木氏出自の嵯峨天皇の皇子・嫡子」が“「甲斐青木冠者蔵人・源光系・准賜姓格式」”として「甲斐」に配置されたがそれでも関係性は基本的に無かったのだ。
極めて疎遠で犬猿の仲であった事は資料からも解る。
上記した様に「青木貞治と主従関係」にあった「山城・近江南部・天領地・公領地域」の「御家人・松井冠者源維義・河内頼信系源氏」と、「賜姓扱いの格式」を与えられた「甲斐青木冠者蔵人・源氏族では無い・後に源光系と成る」として「甲斐」に配置されたが、この「源の源光系青木氏・嵯峨源氏」とは要するに「源氏族」で無関係では無かった筈であるが、「繋がりの詳細経緯」に付いてはこれ以上は今も資料は見つからない。
然し、そもそも遺すだけの力が無かった事も云えるのだ。
「賜姓伊勢青木氏と賜姓近江青木氏」とは、奈良期から平安期まで「相互血縁の同族」であった事と、「近江青木氏の定住地」とはほぼ同じの「松井氏との関係性」は完全否定できないだろう。
間違いなく「源氏・11流」とすれば「皇族としての嵯峨源氏」は「9つの縛り」を護らなかった「賜姓源氏族」と、「源氏化しなかった伊勢と信濃の青木氏・嵯峨源氏9つの縛りを護った」とは「四掟の範囲」では無い事に成り、それ故に頼る事は出来なかった事には成るし、又、決して四掟で受け付けなかったであろう。
その意味では、「円融天皇賜姓族藤原秀郷流青木氏・伊勢信濃とは女系で血縁」は「同じ青木氏」として頼り易かったとは云えるが、「血縁性の有無」は最早これ以上は辿れない。
そもそも、「正式な源氏賜姓・11家11流」は「花山天皇」で終わったが、この「花山天皇」の前の「冷泉天皇の発狂事件」が起こり、これに代わって異母弟の「円融天皇・11歳」と成り、「源氏賜姓」を止めて「伊勢信濃の母系族」であった「藤原秀郷流一門の宗家嗣子の第三子」を「永代・始祖は千國」に賜姓させる事としたのだ。
「外戚の藤原氏内紛」で16年後に「冷泉天皇の嫡子・花山天皇」に譲位した。
この「花山天皇」も「外戚の藤原氏の内紛」で2年も待たず退位した。
ここで「嵯峨詔勅に基づく皇族」の「正式な源氏」は途絶えたのだ。
つまり、其の後の「正式な賜姓」は「藤原秀郷流一門の宗家嗣子の第三子」を永代に「青木氏の賜姓をさせる形式」と変わったのだ。
これが要するに最終は「賜姓が元の母方系青木氏」に戻したとする「詳細経緯」であるのだ。
その前には「摂関家の藤原氏との戦い・藤原仲麻呂事件・恵美押勝」で翻弄され「孝謙天皇の白羽の矢の事件・伊勢青木氏の施基皇子の四男の白壁王と井上内親王」の問題が起こっていたのだ。
その「皇族との血縁の基」は、「賜姓」を権威づける為にも「混血融合」を避ける為に「四掟と云う縛り」を設けて、代々に「伊勢信濃との青木氏の母方・女系族である事」で権威格式付けしたのだ。
これが効果を発揮して「円融天皇の思惑通り」に何と「116氏に及んだのだと云う経緯」を持っているのだ。
況や、この経緯があるが故に「四掟前提としている以上」は「甲斐との血縁性は無かった事」には成るのだ。
先ず間違いなく詳細経緯を押し切るだけのものは無かったであろう。
唯、この「秀郷流青木氏族」と呼ばれる「秀郷一門内部での血縁族の主要五氏」とにはこの「縛り」は適用されなかったのだ。
依って、この「秀郷流内の青木氏族内」の「主要五氏・青木氏永嶋氏長沼氏進藤氏長谷川氏」の範囲での「甲斐青木氏との血縁・源光系と時光系」はあり得る事は否めないのだ。
然し、この血縁は、「二つの四掟で繋がる青木氏族」の中には出て来ないし、伊勢側から其処まで踏み込めず調査は難しいのだ。
従って、前段でも論じたが、厳然とした「噂」があるのにも関わらず「資料・記録」が無い為に判らないのだ。
唯、「諏訪族」とは「信濃青木氏との重婚族」であり、古来より「諏訪族青木氏・立葵紋」であって、この「裔系・抱き角紋」が「武田氏の血縁族」を構築していて、「相模に逃げ込んだ事」も史実であり、頼った事には「何の問題・疑い」も無い。
「秀郷流青木氏―伊勢と信濃青木氏―信濃青木氏と秀郷流青木氏―信濃と諏訪族青木氏―諏訪族と武田氏」であれば、直接、血縁無くしても「血縁の濃度」は別としても「間接血縁族」として頼れる事は可能であったであろう。
現在筆者はこの様に観ている。
そして、その仲介を担ったのがそれが何と本論の長篠後の「駿河青木氏の裔祖の相模青木氏」であったのだ。
これは、「三方ヶ原―長篠」の後に興したより「青木氏族」であった一族の歴史の“自然が興した再結集現象”と成り得たのだ。
この「不思議な自然の血筋の流れ」は江戸期に向けて濁流の如く留まらなかったのだ。
但し、そこでその基と成った「駿河青木氏を家臣」として抱えてくれた「松井氏」に付いては、“山城の「河内源氏」である”とする事にもう少しその根拠と成る歴史観を説いて置く。
そうすればこの「松井氏の位置づけ」がより判り、「駿河青木氏の青木貞治との関係性」も詳細経緯としてより理解が出来るだろう。
「松井氏の祖・平安期」と主張する根拠には、「山城の何処かの家人・天皇家・公家・賜姓族・皇位族」であったとしていても、その「家人」と成り得る「氏」としては「頼信系の河内源氏」であるとしているのだ。
“何処かの家人”としているが明記されていない事にも「疑問1」であり、“河内源氏”としているのも「疑問2」である。
しかも当時は、「嵯峨期の9つの縛り」を全く護らなかった事で「皇族系の氏族としての格式」を認められていなかった「河内源氏」である事に認識はなく「疑問2」は記載している。
認識なく名乗っていたのかも知れないが、間違いなく“「松井」”と「姓名」を名乗っていた事には間違いは無いのかも知れない。
だが、「疑問1」から「傍系卑属系の支流族」であった事には「格式」を前面に押し出す程の家柄では無かった筈であった事だ。
故に、「疑問1」と「疑問2」が欠落して仕舞っていた事に成る。
「一族の伝統」とは支流の一家が忘れていても本家筋の他家は覚えているものでそんな欠落する程のものではそもそも無い。
故にそれが起こるとする可能性のある「傍系卑属系の支流族」であった事に就いて詳しく検証して観る必要がある。
「疑問1」と「疑問2」はそもそも護らなくてはとする「伝統意識」が低く、且つ、「伝統」そのものは違う。
故に、「傍系卑属系の支流族」では起こるであろう。
現に伊勢や信濃では未だに意味しない伝統は浸み着いて忘れ去れずに何らかの形でほそぼそと持ち得ているものだ。
「9つの縛り・嵯峨天皇が後に纏めた新撰姓氏禄」に依って「天皇家・公家・賜姓族・皇位族」はそもそも「諡号の姓・第一の姓」を持つが「第二の姓」はそもそも持たないのが掟だ。
これも「伝統の一つ」であり、だから未だ「青木氏」は統一して「青木氏」であるのだ。
従って、「天皇家・諡号と諱号」を除き「氏名だけの範囲・青木の氏や藤原氏」で名乗ったのだ。
唯、例外として「藤原北家秀郷流一門」は361氏と成り、「氏名や諡号や諱号」では一族一門の系統を格式管理できなく成り、「仕来り」として「三つの縛り」を設けてこれを判別する様にしたのだ。
其れは、前段でも論じたが次の通りであり忘れ去られていないでいる。
第一に、「役職名」を藤原氏の氏名の藤の上に付けて名乗る。
斎藤氏・工藤氏等
又は、許可を得て「役職名」を名乗る。
結城氏
第二は、「国、又は地域名」を藤原氏の氏名の藤の上に付けて名乗る。
伊勢藤原氏の伊藤氏・加賀藤原氏の加藤氏等
長沼藤原氏・長沼氏 永嶋藤原氏・永嶋氏等
第三に、「特徴名」を藤原氏の氏名の藤の下に付けて名乗る。
藤田氏・藤井氏等
第四に、以上の三つより更に「事情」により拡大して派生した氏は同名の「字」に替えて名乗った。
長嶋氏、長島氏等がある。
当初は先ず「兼光系」と「文行系」の二派に分かれ、其れより更に分流して「文行系利仁流」や「文行系修行流」に大分流した。
「秀郷流青木氏族」と呼ばれる「秀郷流青木氏」と「秀郷流永嶋氏」と「秀郷流長沼氏」は「兼光系」であり、「長谷川氏」と「進藤氏」は「文行系」であり、「秀郷流青木氏族主要五氏」と呼ばれ血縁性は取り分け高い。
これを以て「氏の総称」を「藤氏」と呼び、地域事に「伊勢藤氏・讃岐藤氏」等として大別した。
これで「系統や格式レベルや血縁関係」を判別するようにしたのだ。
唯、「秀郷流青木氏24地域・116氏」だけは秀郷一門に劣らず大氏一族ではあるが、「賜姓族の特別の格式を有する事」で、「嵯峨期の9つの縛り」に基づき「伝統の仕来り」として「氏名」だけとしたのだ。
要するに本論の「駿河青木氏」もその一つであるのだ。
ここで、更に「皇位族の賜姓臣下族の朝臣族」だけには、もう一つの「判別する仕来り」があったのだ。
それは上記で記した、「好名」とは別に「字名・あざな」であった。
天皇より「皇位族の者」が成した「功績」に従って「所領と民」を与えられた。
その「所領と民」は「小字と大字」に分けられそこに「民」が替わり振られ「特別の名」がつけられたのだ。
この様にその「場所」と「民」にはそれを「特定する名」とする「特定の仕来り」があったのだ。
それが、拝領時に「天皇」から「指名される賜姓」とは別に「賜名に値する字名・あざな」があったのだ。
その「字名・あざな」はその功績の都度に別の「字名・あざな」が与えられた。
この「字名・あざな」は其処の「氏人」も「民」も「名誉」とするもので扱われたのである。
何故ならば、当時は「国造」として「民」は「天皇」から与えられたもので「氏族の氏上に所属する仕来り」であって、「民の字名」は「一色の・・・」として「姓・代名詞」にも代わるものであったのだ。
故に、「青木氏の定住する所」には民の為にも必然的に「字名・あざな」を必ず持ったのだ。
その「字名・あざな」にはその「皇位族に関連する賜名」が読み込まれていたので、これで区別していたのだ。
従って、重なる事が起こるので特定する代名詞として一族以外の別人がこの「字名・あざなの慣習」を使う事は許されなかったのだ。
朝廷が認めた氏族に限り許された慣習であった。
言うなれば「賜姓」と共に「一族の賜名」であったのだ。
これを「一族の裔の者が住む土地の代名詞」として使っていたのだ。
当然に近江もである。
例えば「伊勢王の施基皇子」には、主に伊勢では「四つの大字名」が賜名されていた。
例えばよく使われた「字名」では、「一色や色や一志や一円や志基」等があるが、江戸期には「日本全国60カ所」にも及ぶ「一色関係の大字名」があるが、この殆どは「秀郷流青木氏を含む青木氏の定住地」に広がつているのである。
但し、国抜制度があった為に正式な移動定住は考え難く一部に真似たものもあるが、約8割は関係地と認められる。
これは「四掟に基づく女系の妻嫁制度」で全国に定住している「秀郷流青木氏の嫁家先」にもこの「字名」を興した所以でもある。
言い換えれば、「秀郷流青木氏の定住地」には伊勢、又は信濃から嫁いだ「女(むすめ)」がもう一つの同じ「伊勢、信濃の青木氏」を女系の優秀な嗣子に里の青木氏を興させたと云う事にも成るのだ。
つまり、況や、最早、重婚を重ねる事に依る「二つ血筋を完全融合する二つの青木氏」のこれが「60にも成っていた事」を示すものに成る。
よく似たものに「伊豆の青木氏」や「伊勢や信濃の氏人・郷士衆」がある。
筆者は、この「60の数」から観て江戸期には、最早、この「賜名の字名」は「格式名」の前に「完全な代名詞化」を興していたと考えているのだ。
つまり、「判別名に成っていた事」に成るのだ。
現実に「四掟」に基づきながらも「京の公家先」に嫁いだところでは「賜名の字名」は興っていないのだ。
所謂、これは「代名詞化する程の事」では無かった事を意味する。
唯、注釈として説明して置くのは、この「近江」にはこの「始祖の施基皇子」に基づく「賜名の字名」がそれなりの数であるのだ。
これを上記した様に如何見るかである。
この「近江」は、そもそも「施基皇子」の兄の「川島皇子・近江王の始祖地・佐々木氏」の守護地であったのであるが、ところがここに「施基皇子の賜名の字名」があるのだ。
これには「日本書紀」に基づけば次の「三つの説」が挙げられる。
一つは、平安期直前まで「川島の皇子と施基皇子」は当時の「臣下族の習慣」として「相互重婚の唯一の天智一族」であって、其の事から「施基皇子の賜名の字名」が「近江」に遺したのだ。
二つは、その結果として「二つの青木氏」が発祥した。
つまり、「近江青木氏」と「佐々木氏系近江青木氏」である。
この結果として、「施基皇子の賜名の字名」を遺したのである。
三つは、上記した鉱山開発を命じられてそこに「伊勢の青木氏の裔系子孫」を遺した事が云える。
その結果として、二つの鉱山付近に「施基皇子の賜名の字名」を遺したのだ。
ところが「近江佐々木氏の研究資料」には、この「川島皇子の賜名の字名」の事が何故か書かれていないのだ。
そうすると、「近江青木氏」は前段まで論じて来た「五家五流賜姓族の近江青木氏」では無く、一色からから来る現地の子孫、つまり「伊勢の裔系」の「近江青木氏」であった事にも成る。
つまり、「鉄穴から来る一色の大字名説」と成り得る事も考えられるのだ。
「佐々木氏系青木氏」は別としても、将又、「五家説の単独青木氏との両方での存在説であった事も考えられる。
筆者は、「近江佐々木氏の研究資料」からもこの事に就いて散見できないし、「両方での存在説」を今の処採っている。
恐らくは「伊豆」の様に「三つの混在血縁融合」が興っていたと観ているのだ。
「川島皇子の賜名の字名」は間違いなくあった筈であるが今では確認できない。
「日本書紀」に依れば「始祖の施基皇子」と同じく「合計封戸は500戸を授かっている事」から「近江」に「字名の賜名」は持っていた筈であるが、「好字令・713年・諸国郡郷名著好字令」の施行で消えた可能性がある。
それ程に「川島皇子の賜名の字名」は弱かった事にも成る。
唯、「天武天皇の崩御後」の際に「川島皇子の裔系」はその「行動・大津皇子事件」を「持統天皇」に疑われた史実があり、この事で「近江佐々木一族」は、其の後、「不遇の扱い」を受けた史実がある。
其の事から、「川島皇子の賜名の字名」は「賜姓」と共に「近江」で遺せなかった事と、源氏化に依って遺せなかった事が考えられるし、逆に「伊勢信濃」は発展し、その差から、完全な疎遠と成って仕舞った事を示すものと成る。
もともと「近江」の「真砂の不毛の地」は「伊勢」が「額田部氏に依頼しての開拓開墾」であって、その後の開拓開墾は成功し、「楮の生産」で一時「財」を成したが「源氏化」でその財源も失って「字名」も遺し得なかったのだろう。
故に、「佐々木氏の研究資料」には不思議に「字名の記載」がない所以であろう。
従って、先ず遺しえる力は無かった事が確実に云える。
と云う事は、だとすると「近江の遺る字名」は「施基皇子の賜名の字名とその裔系」であった事も云える。
つまり、一つと三つの事に依って遺した事に成る。
つまり、斯くの如しで「施基皇子の賜名の字名」は「松井氏の論説」をも裏付けるものと云えるのである。
と云う事は、これは「摂津」を「起点」として「近江」までにも「伊勢信濃の勢力」は「商い」のみならず「子孫力」でも伸びていた事を示すものだ。
筆者は、「日本書紀」にもある様に、「鉱山力」に強く注目して「銃に関わった事」の以外に「青木氏の歴史観」を広げる為にも「賜名」も研究しているのだ。
この事に就いては前段でも論じているので「本サイトの検索で・字名で検索」されたい。
「嵯峨期の詔勅禁令」でこの「賜姓」は「青木氏」か「ら賜姓族・源氏」に変更した事を論じたが、この時に「青木氏の慣習仕来り掟を真似る事」をも同時に禁じた。
この禁令は鎌倉期より室町期ではこの「禁令・朝廷の権威」が緩み「格式の搾取」が「格式の無い姓族」に依って激しく横行した。
この時にこの「賜名の字名」が「一部の者・地頭等」に依って「格式権威」に使われたのだ。
鎌倉幕府は治めるに必要としたので敢えて使う事を黙認したのだ。
それは「守護職」から変えて未だ馴染みのない「地頭職」を幕府は置いて治めようとした。
朝廷は幕府からの申し出の「地頭職」のこれを当初認めなかったからで、つまり権威の無い役職と成って仕舞ったので敢えて「権威付け」の為に「字名の使用」を強行した。
これには「嵯峨期の禁令があった事・青木氏の慣習仕来り掟の使用禁令」から逆らう事が出来ずにこれを黙認したのだ。
頼朝の地頭制度の最初は「伊勢の伊賀の地頭職」で、次は「三河の西尾の地頭職」であった。
取り分け、三河は「荘園」が多く、「七郡・碧海郡、額田郡、賀茂郡、幡豆郡、宝飫郡、八名郡、渥美郡」 から成り、「豊穣の地」として「荘園支配権の簒奪戦」が起こっていたのだ。
そこで鎌倉幕府はこれを鎮める為にも「地頭職・西尾氏」を始めて送ったのだが周囲を統治するだけの権威は無く効果は無かった。
そこで、この「西尾氏」に「施基皇子の字名」の「一色」を使わさせて権威づけさせて統治させようとしたのだ。
何故ならば、その近くにの「額田端浪の一色」には、三野王に嫁した桑名殿の「浄橋と飽波の裔系・額田青木氏」の一族が住んでいて、「始祖施基皇子の伊勢の字名・不倫の権」の「一色」を「仕来り」に従い名付けて権威化を図り周囲に「デリバリー」をこの地域に構成していたのだ。
これを利用して「西尾の圷」にも「一色の字名」で「伊勢の荘園」であるかの様に見せて従わさせる策に出たのだ。
伊勢の「伊賀地方」も同然で、「惣国地」でもあったここに「鎌倉幕府」は「足利氏・栃木県足利」を送って地頭を最初に置いたのだ。
そして「伊賀青木氏」と同化を図って一色姓を名乗ったが任期が過ぎると早々と現地孫を遺して足利に戻った。
「権威ある字名」はこの様に使われたのだ。
これがもう一つの判別する仕来りであったのだ。
(注釈 「駿河青木氏の青木貞治」の詳細経緯)
前段までに論じた詳細経緯で「青木貞治」は戦乱の中で歴史的に「青木氏族」に大きな影響を与えた人物であった事が云える。
そこで、従って、改めてその経緯を更に辿つて論じてみると、次の様に成っている。
「駿河青木氏の青木貞治」は、先ず「今川氏」の「土着国衆・土豪」と成った。
其の後に、今川氏の「渡り国衆」に成っていた「松井氏」が、そして「勲功」を挙げて遂に「今川氏家臣」と成り、「重臣」とも成った「松井氏・二俣城城主」に対し、「駿河青木氏の青木貞治」は「松井氏の国衆」と成り、「家臣」と成った。
ところが、「今川氏・桶狭間戦死」は衰退し「二俣城の松井氏」も衰退し、分裂した。
ここで「青木貞治の裔系」はその三つに分裂した松井氏の徳川氏側方に着いてこの松井氏は「今川氏から徳川氏」に「今後の命運」を架けた。
結局、優勢を保持した「徳川氏側の国衆」と成り、「松井氏の二俣城」は結局は「徳川氏の物」となった。
この「元二俣城の松井氏」と「遠江駿河土地」と「国衆の所縁」を以て「二俣城の守備隊・家臣中根氏」と成ったのだ。
そこに「駿河秀郷流青木氏」、及び、「武蔵秀郷流一門」の「後押し」で、「兵の支援・100」を受けて「二俣城の副将格・兵200」を獲得した。
「駿河国衆」より「遠江国衆」として成り得て「徳川氏の国衆―二俣城家臣」と成り得たのだ。
先ずこれを前提にすれば、「早期の経緯論」に成り得る。
4 宗信・弟 二俣城家督 1529 桶狭間戦死 1560年
結局はこの経緯から「駿河青木氏の青木貞治」が仕えたのはこの“「松井宗信」”であった事に成る。
だとすると、この直ぐ後の「桶狭間の戦い」で主君の“「松井宗信」”は戦死したが、同じ松井隊にいた「青木貞治隊・兵100」は何とか生き延びた事に成り得る。
そこで疑問・AとBが生まれる。
A 何故、生き延びたのであろうか。
其の後の「{二俣城」では徳川氏の中で子孫拡大どころかそれ以上に確実な地位を固めているのだ。
もう一点は、歴史的時系列では、丁度、この時、「額田青木氏の銃隊」は南下して「三河国衆」に成っている。
B 何故、この時期に「訓練中の額田青木氏の銃隊」が「三河国衆・1560年」と成ったのかである。
但し、この「桶狭間の戦い・1560年」には記録上では未だ「額田青木氏の銃隊」は参戦していないのだ。
国衆に成って4~5ケ月後の事である。
「駿河青木氏の青木貞治隊」は参戦したのだ。
この「二つの何故の事・A、B」に就いて「手掛かり」と成るの詳細な記録は無い。
特異な青木氏に依る歴史観である為に独自の時系列で追うしかない。
そこでAに付いて、気に成る点がある。
「桶狭間の戦い」の中心と成った付近の「ほぼ南300mの所」に「神明社・伊勢信濃の青木氏の守護神・現存・古跡社」が在った。
そして、ここから「北東7.5k・2里」に「春日社・2社・秀郷流青木氏の守護神・古跡社」が在り、何れも現存する。
この「神明社」と「春日社」は、何れも「二つの賜姓族の青木氏社」として朝廷より「不倫不入の権・朝廷」を得ている「古来の高井神格の伝統」を保持した「最高の社格式」で、室町期はその「拘束力」は弱まったとしても未だ敬われていた。
ここで改めて、「奈良期の伊勢信濃の賜姓青木氏の神明社」と、「円融期の賜姓秀郷流青木氏の春日社」で、「古来奈良期からの伝統的神格概念・社」とは異なる「伝統的神格概念」を緩めた「神社格式」ではないのだ。
故に、一段上の神的社のものとして「神社格式」とは別により特別に敬われていたのだ。
念の為に、簡単に論ずれば「社格式」とは、「神を崇拝する原理主義概念・奈良期の古来概念」であり、「神社格式」とは、「仏教的概念」をある程度含有した「神を崇拝する進歩的概念・平安期」であつた。
「Aの推論」としては、この「神明社」か「春日社」に「青木氏」として逃げ込んだ事で掃討を免れた事が云える。
唯、「信長」はこの「特権」を否定していたが掃討していた家臣等がこの伝統を敬い黙認したとも考えられる。
何れの「社」の「神職」も「四掟の嫁家制度」の「女系で繋がる青木氏・賜姓の同族」である。
この「神職・青木氏」が「社門」で盾に成った可能性がある。
この時、元信・家康は「大樹寺(松平家菩提寺)」に逃れ住職の助けを受けて助かっているのだ。
当時は、「戦場やその近隣の民」は難を逃れる為に「神社や寺」に上記の意味で逃れるのが一般であって、そこに身を変えて逃れたと考えられる。当時はこの高い格式の国幣社格に逃げ込むと兵は一般に手を無理に出さないのが伝統であった。
因みに、何度も論じた事であるが、唯、「秀吉」は「信長」よりもっと厳しくこの習慣を否定したが、流石に攻める事まではしなかったが、然し殆ど「焼き討ち」は掛けたのだ。
「紀州根来寺」などは民や僧兵と共に6000人と云う人を焼き殺した史実はその典型である。
何故ならば、戦乱期はこの様に「逃亡兵」がこの習慣を使って寺社に逃げ込む事が多かったのだ。
他に平安期に平家に追われた日向に配流と成った「源宗綱等他2人」が「以仁王の乱」で敗退し、配流罪で隠れ住んだ「廻村の者」と「薩摩大口村の浄土寺・現存・5人」まで逃げ込んで間一髪で「伊勢青木氏」を名乗り難を逃れた。
伊賀で関係を持っていた“青木氏を攻める事は出来ない”として「九州平氏・平氏の始祖の伊賀平氏の高野新笠・青木氏出自の光仁天皇・白壁王の妃」は再び「日向」に戻った史実があるのだ。
これが「日向青木氏の大口青木氏・現存」である。
この様な史実に、「永代不入不倫の権」を持つ「官幣社の最高社格式社」は乱世とは云ど最小限の処で保護されていたのだ。
又、室町期には「足利幕府」からも改めて「青木氏族」は「律宗族」としても認められ「侵犯」に付いて「特別保護」されていたのだ。
筆者は、そこで、A 何故、生き延びたのであろうか。?では、上記の「北東7.5k・2里の春日社」では無く、「南300mの神明社」に逃げ込んだ説」を採っている。
ここであれば逃れられる。逃げるとしても「北東7.5k・2里の春日社」は遠すぎるし、そこから「遠江」に逃げ帰るには地理的に困難であろう。
「尾張」を避け「三河の国境・現名 みよし」を廻り「三河」の「青木氏の所縁の安全な地等・岡崎から豊橋等」を経由して「遠江の西光寺」まで約100k・1日以上を所要する。
然し、「突発的に起こった襲撃」を躱すには「戦場の地に在る神明社」の方が先ずは「最適な避難所」であった。
況してや、「駿河青木氏・青木貞治」と「伊勢」は母方実家・で血縁族で訓練して興して貰った「第二の里」であり、且つ、この唯一つ残る「神明社の神職」は当然に「伊勢青木氏」であり、身を挺してでも一族を護ったであろう。
其の後、「伊勢」に連絡して「伊賀者」を動かし警護に着けた事もあり得るし、小舟で導き「神明社の傍」にある戦場を流れる「鞍流瀬川と石ケ瀬川」の支流を経由して「境川」を下り「三河湾」に出れば、最短距離と且つ安全に「渥美湾」で「伊勢水軍」か「実家の駿河水軍」が待つ船で助けられ「遠江」に戻れる。
筆者はこれくらいの事は出来たと考えられる。
そのキーポイントが現在・緑区桶狭間に在る「神明社」であったと説く。
ここに逃げ込めば後は何とでも成る。
筆者はこれを突っ込んで寧ろ次の様に考えている。
「桶狭間の戦い」は、1560年6月12日である。
これに「青木貞治隊」は「今川氏の国衆」として「松井宗信隊」に所属し、参戦している。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、この戦いの直前の2~5月頃に「国衆」と成って南下し、其の後、「伊川津の三河国衆・西三河」として定着した事に成る。
この後、ところが松平氏が違約して「東三河隊」に所属させられ、「吉田城守備隊・1565年・武田氏の侵攻予測」と成っている。
「武田氏との第一次吉田城の戦い」は、「守備隊7年後」の1572年の「三方ヶ原の戦い」の1年前の事である。
当然に、この時、既に「伊勢青木氏と伊勢水軍」は約束の通り「渥美湾・2h」に廻船を始めていた。
「桶狭間の前」には、既に「伊勢と伊勢水軍の廻船」は「蒲郡の石切り湾」を拠点にして動いていた。
とすると、「1560年6月の戦い」では、「伊川津の南下国衆と家族を護る事」と、参戦している「駿河青木氏・青木貞治を護る事」の為に、万が一の場合に備えて、「警戒の帯同」の為に「陸・伊賀青木氏・情報」、「三河湾の配置」の為に「海・伊勢水軍・救出」と、綿密に作戦を組んで動かしていたと観ているのだ。
当然に、「駿河水軍」も「伊勢からの指令」で「三河湾」に集合し待機していた事が充分に考えられる。
其れを行うだけの「充分な財力と抑止力」が在るのだから躊躇なく筆者なら絶対にそうしているし、何もしないという事は100%無いだろう。
それが「青木氏族の氏族」の長く生き延びる為の「戦略行動」であって、奈良期から生き抜いてきた「青木氏族」であってこそ、そんな間抜けな「伊勢・福家」では無かったと自負しているのだ。
「織田軍と今川軍」が衝突する様な場所は、凡そは予想が着くとするならば、又、其処辺りには「神明社と春日社」が在るとするならば、上記の様な戦略を事前に立てるし、事前に「駿河青木氏」や「額田青木氏」には「事前連絡・伊賀者」は着けていただろう。
何せこれを行う「情報・伝達組織」には「伊賀青木氏の香具師」が存在し全く苦労はしない。
「行軍・戦い時の兵糧の運搬・駿河青木氏」もあるとすると、「伊勢水軍・駿河水軍」と「伊賀青木氏の香具師の隠密行動」も必ず必要であった筈である。
これ等の事は「他氏には絶対に出来ない行動」であり、「氏族の強みを生かす事」でもあったのだ。
前段や上記でも論じた様に、「額田青木氏の銃隊と荷駄50」と「駿河青木氏の隊・100」には「伊賀青木氏」を組み込んでいたと論じたが、当にこれを証明するものである。
上記の論だとするとして、これに「追加する事」として、訓練中であった「額田青木氏の銃隊」は「桶狭間の前の前哨戦」の「小豆坂の戦い」の「一次戦」に「軍事演習的行動」として依頼されて参戦しているが、この事も考え合わせると、「額田青木氏の銃隊」の「一部」が「伊賀青木氏」と共に、「伊川津域」に国衆として定着する「少し前・4~5月程度」の「桶狭間」に、“「一族の誼」”として「駿河青木氏の青木貞治隊」にも密かに合力していた事も考えられる。
だとすると、桶狭間の敗戦では“上記の筋書き通りに簡単に安全に脱出出来た”と観られるのだ。
その証拠に、故に、記録に遺る事もない程に「駿河青木氏の青木貞治隊」は犠牲無く脱出出来ているのだ。
ここに後に「完全に生き残っている事 イ」と、「二俣城の副将と成り得ている事 ロ」の「論の焦点」が来るのだ。
そして、その後に「松平氏の家臣・御側衆・旗本 ハ」と成り得ている事のイ、ロ、ハと下記のニ、ホを勘案すると、「上記の筋書きの状況証拠」は成立するだろう。
況や、「桶狭間」で二俣城城主が討ち取られる「大犠牲の大混乱の真中・逼迫戦」で奇しくも「青木貞治隊」が生き残り得たとすれば、例え、「松井氏の衰退」で「徳川氏・松平氏側」に着いたとしても「松平の国衆 ニ」にも成り得なかった筈であるし、又、其の後の「駿河・相模青木氏の支援」を得て「兵力・200」に増やし「二俣城副将 ホ」にも成り得ていなかった筈だ。
要するに、「青木氏族の生き遺りの為」に、「戦乱の中」では「唯一の抵抗手段」の「大抑止力」は働いていたと云う事になろう。)
「青木氏の伝統 64」-「青木氏の歴史観-37」に続く。
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この遠江松井氏に付いての系譜次の通りである。
宗能1―義行―貞宗2―信薫3―宗重4―宗恒5―宗親6―宗直7
1 御厨領家の土地を授与 1513年
2 宗能より平川郷堤城主 主要家臣 1528年
3 二俣城城主 1529 病死
4 宗信・弟 二俣城家督 1529 桶狭間戦死 1560年
5 宗恒・弟 二俣城家督 1560年 「駿河青木貞治」は桶狭間に出陣
6 宗親・一族 二俣城城主 徳川氏調略・飯尾氏謀反で今川氏謀殺する。1563年
7 松井氏衰退 武田、徳川氏、今川氏に三分裂後衰退 徳川氏旗本 1590年
そうすると、「駿河青木氏・青木貞治」は「伊勢」にて1540年~1545年に「訓練・5年間」の後に「大船一艘」を与えられ、「駿河」で「駿河青木氏・伊勢より嫁す」を「再興・1550年頃」し、「糧」を得て「子孫」を拡大、遠江―駿河―伊勢―「渥美・三河」―伊豆―「相模」で「活躍・1550年~1555年頃」し、「財」を成す。
「今川氏―松井氏」の「国衆」に成る。
以上の経緯を持っている事に成る。
この経緯から「松井氏」との「繋がり」は、先ず判断として「宗信~宗恒~宗親」に持ったという事に成る。
「早期の経緯論」としては、「活躍・1550年~1555年頃」し、「財」を成している段階で、「国衆の段階」を経て「松井氏家臣」に成ったのは「1555年~1560年」で、この経緯が成立するかである。
「中期の経緯論」としては、「5の宗恒」であるが、病死で直系尊属者無く「一族の者」の「6の宗親」に家督継承されている。
ここで、今川氏と決裂し、徳川氏が関わって来る。
「終期の経緯論」としては、「7の松井氏」の「衰退・分裂」が始まり、徳川氏方が勝利し、徳川氏家臣と成る。)
以上が前段末尾である。
「青木氏の伝統 63」-「青木氏の歴史観-36」
(注釈 「駿河青木氏と額田青木氏の銃隊の関係」
この一族の青木氏の関係の中に存在する疑問を詳細経緯として解いてみる。
「重要な幾つかの疑問」があり、これが判れば「青木氏族」はより理解され「青木氏の歴史観」と成り得るだろう。
そこで何故、「駿河の青木貞治一族」に「額田青木氏」と同じ様に、この「特殊銃」を与えなかったかの「疑問」が残るが、それは「実戦銃」を目的とせず「護身銃・抑止力銃」であったからだ。
「青木貞治隊」は大いに希望し「秀郷流一族一門」からも求められた事は間違いなく考えられるが、上記の「三つの要件」を備えていながら頑固に然し渡さなかったのだ。
勿論、「伊勢」から観れば、「実戦銃」を目的とせず「護身銃・抑止力銃」であった事ではあるが、もう一つは「松平氏の中での位置関係」に従を渡す事に依って起こる“「歪みが生じる事」”に強い懸念の配慮があったと観ている。
これが「額田青木氏の南下国衆」の「伊川津での例」に漏れず「旗本との軋轢」を受ける結果と成っていたのであろう。
それは「銃の威力を持つ事」に依る「権力闘争の歪み」である。
それ故に、「壊滅状態の三方ヶ原」で無理にでも近づく事の出来ない「銃弾幕」を張って「銃力」で以て「青木貞治隊」を救い出したのだし、救い出せれば「秀郷流一族一門」に対する「伊勢の立場」は保全出来る。
「2年後の長篠後」でも「貞治の子の青木長三郎隊」はこの抑止力で生き残れているのだ。
尚、「江戸期初期」に入ってでも「秀郷流青木一族」は、「伊勢」に於いても「徳川氏」と血縁し、中でも「家康の孫娘・勝姫末裔が入った事と伝えられている。
これには、そもそも「勝姫」とは「天崇院(1601年 - 1672年)」の事で、 「 徳川秀忠の娘、松平忠直の妻」の「裔」としているが、「勝殿の呼称」で記されていて特定が不明ではあるが、これには明確な不明の理由があった。
然し、「忠元家の青木氏・伊勢秀郷流青木氏」と「信定家の青木氏・伊勢青木氏」の融合族の「二つの血筋」に三つ目が加わり娶り、「青木氏の四掟の伝統」から外れた「徳川氏の血筋・立ち葵紋」が「四家」に加わったとされているのだ。
改めて「五家目の融合族」の「姓血縁の伊勢四日市殿」と成ったとされている「五家目の家」なのだ。
この様に新たに「徳川氏の姓血筋」を入れて安定化を図ったが、「平安期からの融合の青木氏族」の「四日市殿」と云う一族を「姓血縁の四日市殿」を構築しているのだ。
これが「青木氏族の以後の立場」を保全させたのだ。
「青木氏の安定化」と云うよりは「青木氏の財と格式向上」を徳川側が間違い側がなく狙ったものであろう。
「秀郷流青木氏宗家」を中心として「秀郷流一族一門」が裏で幕府と動いた事であろう。
この「勝姫時期」は「紀州藩初代頼宜との良好な関係」や「紀州藩の殖産への貢献」や「近習番頭と成り出世したと貞治の子の長三郎等」の裏の活躍があったと考えられ、そう云う風に成る条件が揃い過ぎている。
ここで参考として「不明の理由」だが、そもそも「勝の姫の呼称には、「徳川氏の姫の総称の呼称」であって同じ呼称を歴史的に観て6人も使っている史実がありこれは「伝統」であったらしい。
「伊賀越えの事件」で逃亡中に、「徳川氏との血縁族」のこの「伊勢の四日市・辰野青木氏の融合族の四日市殿」にて一時休息したのもこの事の縁から来ていると観られる。
この様に、この「青木貞治の内部の活躍具合」が無ければ、前段で論じた様な「青木氏の氏是」を護り通し、この様な「活躍・繁栄」は無かったと考えられのだ。
これが、即ち、「青木氏一族の鍵」であったとも云える。
「三河国衆に合力する事」も始めとして相当に「渥美湾の制海権の獲得の条件」の時にも「秀郷流駿河青木貞治一門」の「内部での一連の活躍」はあったと観ているのだ。
さうで無ければ、急に“これだけの事”を「好条件」に導き出すには「伊勢との直接交渉」だけでは難しかったと観ているのだ。
「情報獲得の面」でも、「籠城戦」から「野戦に変更した事」を「短時間」の間に「内部の情報」を掴んでいるのだ。
つまり、「浜松城」から「館山街道の湖東町交差点」の「短い間」で「内部事情」を掴んでいるのだ。
そして、「理由・目的」は兎も角も「東の三方ヶ原」に踵を変えたのだ。
この時、「二俣城開城」で「城の兵・1280」は「武田軍と協議」の末に「浜松城」に解放されているのだ。
「東の三方ヶ原に踵を変えた理由」には、「伊勢側の資料」では「様子見」であったとしているが、この「青木貞治」と情報提供時に「何かの交渉・接触」があったのではないか。
この後、「情報提供の後の三方ヶ原」で「南下国衆の銃隊の指揮官の一族」で「駿河青木氏伊勢との血縁もある」の「青木貞治」が「戦死している事・戦記では覚悟としている」を考えると、「松平軍の情報」を詳細に示唆し、始めから「伊川津に戻る事」を示していた事が予想できる。
「青木貞治の隊」はどの位置に配置されていたかは正確には判らないが、「駿河国衆青木氏・四騎200」であるので、記録からは右か左かは不明だが西向きに陣取った事から駆けつける方向からすると左側でありこの状況証拠から「鶴翼部の左付け根域に居た事」は充分に予想できる。
でなければ救い出せなかった筈である。
根拠は無いが「状況証拠」から「東左鶴翼」に居たと推測する。
この隊の少し「東の付け根の位置域」に影の様にして「銃隊が位置した事」から観て、目的は別として「戦況の様子見」ではあった事が先ずは判るし、これを「補完し助ける意味」でも、「軍議情報を得ていた事」からこの隊の少し「東の付け根の位置」にしたのではないかと観ているのだ。
「青木貞治隊」を“一族である”のなら放置する事は先ず100%無いだろう。
いざと云う時には、「武田軍の本隊」に対して「銃射撃の弾幕」で助け出す事を目論んでいたと観る。
現実に「山県軍の別動隊の突然の突撃」でその様に成って仕舞ったのだ。
「左翼面に居た青木貞治隊」を「東の付け根の左位置」から「左斜め」に向かって「銃の連続弾幕」を張っての煙幕の中から救い出した事に成る。
この時、同時に「前方右鶴翼側面のやや斜め方向から「山県軍の別動隊」が突然突撃して来たのだ。
左方向と右方向の左右に弾幕を張る難しい結果と成ったのだ。
現実にはこの方向の流れに動いた。
然し、「山県軍の別動隊が突撃して来たという事」で「銃隊自らも危機」と成り、応戦して撃退したが、この同じ位置関係の混乱の中で「駿河の青木貞治」も「伊勢の青木・・の指揮官」も共に「原因」は別として戦死したのだ。
可成り混乱した可能性がある。
「銃隊」はこの混乱で「次の差配頭・伊勢秀郷流青木氏の者」が「指揮を執っていたという事」に成るが、故にこれが「伊勢の資料」では「一族の二人の戦死」が重複するような「不詳の内容の原因」と成っているのだと観られる。
恐らくは、歌や俳句の様に「文面の表側より内側」を察すると云う「当時の言葉の使い分け慣習」があって、それでそれを会得していない筆者には読み切れ無かったのであろう。
「駿河の青木貞治の一門の隊」は、後に、上記した「堺からの逃亡・伊賀越え事件」で「戦功・勲功」を揚げている事から、一族全員が生き残ったと観られる。
「山県軍の別動隊」が突撃して来て「銃」で応戦したが、この時、「銃隊の一部」が「駿河の青木貞治の一門の隊」を護る為に、「武田軍の本隊」の先端に「銃弾」を浴びせて「事前の計画」としても開戦より相当に早期に「200兵の全部」を救い出したのではと考えられる。
そうでなければ戦況の結果から無理であった筈である。
突撃して開戦と成ったが、救出が全部とすると開戦と同時であった事が云える。
相当に慌てた事になったろうが、「青木貞治隊」は東に逸れて天竜川沿いに「盤田見附の西光寺・菩提寺」に目がけて走ったのだ。
そのタイミングは「山県軍の別動隊の突撃後」の直ぐ後と云う事に成る。
故に、「伊川津の西光寺・現存」より「54k・船1日」の「真東の盤田見附」に「菩提寺・西光寺」が今も遺しているのだし、ただこの時、“見捨てて逃げる”だけでは、それ以後も「一族関係」が保たれている訳はないが保たれていたのだ。
当然に、これは「副将青木貞治の子孫」に於いても云えるものである。
そして、「示唆の通り」に「予定通り」に「戦線離脱」して「伊川津に戻ったと云う事」に成る。
この時の状況には確認しておく必要がある事は、直接、「二俣城の副将・青木貞治」であって「二俣城開城後」に「浜松城に戻っている事」とすると、この「大きな犠牲の敗戦要素」と成った「山県軍の別動隊」の事は、「二俣城」で「青木貞治」は承知していた筈で、“何れの日にか「武田軍の本隊」に合流する”と見抜いていた事にも成る。
そして、直に「詳細な内部情報」を掴める「作戦会議」には「副将」であるので参加していた筈である。
問題は、“何時来るか”の「時間の問題」は判らなかったのであろう。
それは「別動隊の使命」として「補給路の確保」があったからで、「戦う」と云うよりは「二俣城」の「戦場処理・戦後処理・補給体制」に重点を置かれていた筈で、「武田軍の本隊」だけでも戦っても“松平軍は負ける”と「副将青木貞治」は観ていた可能性はある。
但し、この前提は「籠城戦である事」だった。
そこで、「別動隊の使命」として、「三方ヶ原に補給拠点を構築する事」で何時かは早い内に来るだろうと観ていたのだ。
「二俣城開城後」は開城であって落城で無い以上、周囲の勢力は未だ抑えきれていなかったのだ。
これに大分時間が掛かったのだ。
そこで、「松平氏の作戦会議」では、「青木貞治」の「山県軍の別動隊の行動」を詳細に論じた可能性がある。
それを聞いた「家康」は、この「補給拠点を破壊・確保」の為に「籠城作戦」を急遽、変える決心を密かに決めたと云う事であろう。
「一言坂」で野戦し敗戦して「家臣の犠牲」のもとでやっとの体で「浜松城」に逃げ帰ったと云う経験がありながらも、「堀江城の落城」を聞いて「冷静さ」を無くし、これの「経験」を生かさずに再び異常にも「野戦」に変えたとする定説には一類の疑問を感じるのだ。
「密かに決めたと云う事」が周囲から判らず、「冷静さを無くし」に判断されたのであろう。
この「作戦変更」で、「三河戦記」にも記されている様に「二俣城の開城の敗戦の責任」を執る為に死を覚悟したとする定説に導いたのであろう。
そもそも、「青木貞治の個人の心の中」をどうして判ったのかである。
筆者は偶然にも「貞治と銃隊の両指揮官の戦死」に「疑問イ」を持っているのだ
では、その時の「二俣城」の「譜代家臣の主将・中根正照」と「副将の松平康安」はどうしたかであるが、「三河戦記」の中に戦死者としてこの二人は含まれていないのだ。
故に“副将の青木貞治だけが死を覚悟したとする定説”は疑問で、もつとその前に「責任」を執るべき「二人」は居たのだ。
では、先ず、其れには「軍議」にあって、この「軍議の中」で“青木氏貞治に何が起こったのか”の「疑問ロ」である。
「戦記」でこれだけの事を定説として記されている以上は、何も無かったと云う事には成らない筈で、「戦記に残す右筆衆」が「戦場の全体を見下ろせる安全な所」から観ていた筈だし、且つ、戦後、生き残りに聴取して正確な資料を纏めていた筈である。
これを「当時の仕来り」では「家康」に「論功考証の為」にこの「右筆衆」は報告書を提出している事に成っている。
つまり、「疑問イとロ」の様にこの「右筆衆の原石」はこの様には書いていなかった筈である。
筆者は詳細経緯として、確かに形の上では「責任を採った事」には成っていて間違は無い様に観えているが、その「責任の取った理由」、将又、「採り方」に「疑問イとロの本当の問題」があったと観ているのだ。
上記した様に、「青木貞治」は「額田青木氏」に「内部の情報提供時」に「一族の者・200の救出」を城外に放り出された「南下国衆の銃隊」に依頼したが、この「救出の際」に弾幕を張って救い出したが、そうだとしたら「敵の目」を騎馬上から「混乱の中」で自分に“敵の目を引き付けた”と筆者は先ずは観ている事に成るのだが、この考えだとすると、「混乱の状況の時系列」が変だ。
そもそも、他に「青木貞治隊」にも犠牲は出ていた筈だし、「銃撃」をされている「騎馬隊」には相当の犠牲が「銃弾幕」で出ていた筈だ。
果たして“敵の目を引き付けられた”かの疑問が出る。
この場合では、又、騎馬隊と山県軍とが交差する事にも成る。
つまり極めて味方同士で混乱してしまうし、「本体の騎馬隊」は動けなかった筈だ。
そんな戦略は絶対に信玄は執らないであろう。
「山県軍の別動隊の突然の突撃」を観て「騎馬隊」は進軍を待った筈だし、現実には「弾幕」が救出の為に「武田軍の先頭」と「突撃の山県軍」に目がけて前が見えない程に連射されているのだ。
“観ているが精一杯の事”であった筈である。
「青木貞治は有名な将である事」は、「武田軍の本隊」は「二俣城」で承知していて、突然に敵前に向かい、この間に「武田軍の本隊」が近づけない様にした上で「南下国衆の銃隊の弾幕の誘導」で救出したのであろう。
それ以外に他の隊員の無傷で救い出す事は出来ないだろう。
何故ならば、「青木貞治」もこの弾幕の中に包み込めば救出は隊員と同然に容易であった筈である。
然し、「向後の憂い」を無くし、この事で「弾幕の中に入る事」はしなかったのかだ。
つまり、何を云わんとしているかと云うと、「松平軍の軍議」に於いて相当に「二俣城の無戦開城の責・水攻めの責任」を問われる前にその最初に責任を執るべき人間がいたと云う事だ。
然し乍ら、これを「三河旗本衆」に問われたのではないかと云う事だ。
「家臣の主将・中根」と「軍目付・軍監の松平康安」の二人も居たのである。
確かに「全員戦死の覚悟」で「二俣城」でも「時間稼ぎ」を求められていたが、「譜代家臣の主将の中根」の責を問うのでは無く、「旗本」ではない「副将の青木貞治」に非難が集中したのではないかと予想しているのだ。
要するに「軍議」での「庇い合い」であり、「副将の貞治」に押し付けたのだ。
「松平康安・18歳初陣」は、「大草松平氏の出自」で「曾祖父」は「家康」に反抗したものの裔であり、「軍目付・軍監」して「二俣城」に派遣されていたのであった。
この「二俣城」は、そもそも元は「今川氏の家臣の松井氏の居城」で、縁あって「青木貞治」は「遠州国衆・経緯下記」としてこの臣下にあった。
恐らくは、「旗本との間」でこの「関係」に「糸を引いていた事」と考えられる。
然し、この事に就いて「右筆衆等」が、「何かの形・郷土史や手紙や寺や一門記録」で残しているかと観て調べたが遺されている資料は無い。
「無いと云う事」は、これは「家康の用人」として、将又「青木貞治の子孫」が重用されている立場として、“江戸期に成って「幕府の権威」を下げる様な「史実」を世に遺すのは好ましくない”として消し去った可能性が高いのだ。
それは、実はこの事に及ばず「秀郷流青木氏の資料」が研究にも具する程のものも遺されていない「理由の一つ」としても此処にあるのだ。
一族全員がそっくりと家臣と成った「秀郷流青木氏」には遺せなかったのではないか。
その「残念な理由」とは、「秀吉天下の対応」で「徳川家康」は「武蔵転封・1590年」と成ったが、この際、武蔵の「秀郷流一族一門」を「味方」に着ける為に「一族一門の者の一切を家臣・官僚族・旗本家人衆」に抱え込んで「味方」に着け、自らも「藤原の朝臣」とし「氏名」を名乗る程に慎重に扱ったのだ。
其れも、「平安時代の習い」に従い、「徳川氏の御家人・天皇家の家人扱い」として「特別な格式」を与えて、「旗本」とは別に幕府で「事務官僚・本領安堵」の「家人衆旗本」として重用したのだ。
当然に「格式の無い旗本・近習衆」はこれに猛烈な反発をした。
それ故に、「幕府の権威を下げる資料」などの保存は悉く抹祥されたのだ。
これが所以の一つなのである。
ここに至る「詳細経緯の始点」も“「駿河青木氏の貞治」”に始まるのだ。
そこで、この行の“「一族一門の者の一切を家臣・官僚族」に抱え込んで「味方」に着けた”に付いての浚っておかなければならない「疑問」があるのだ。
それは、“「徳川氏」が何も無しで「この状況」を作り込んだか”である。
この「氏家制度」の中ではこれはあり得ない事で、個々に「家臣に成る等の事」は一切出来ず、もし、それをすれば一族一門から排他され滅ぼされる始末の世の中で、「互いの結束」に依って身を護っていたのだ。
当然に、今論じている「額田青木氏等」と「伊勢」を始めとして「全青木氏族」も同然であった。
故に、「武蔵入間の総家」との「繋」が無ければ成り立たない「時代事」であった。
筆者は、この「徳川氏の繋ぎの役目」を果たす事が出来た唯一人の人物は、「青木貞治の子の長三郎・御側衆・上級側衆・最終は上級番方に成る・3500石・1400貫・国衆から旗本に」であったと観ているのだ。
何せ役柄と云う点からもピッタリである。
「本能寺の変頃の伊賀越え」から「江戸期初期」の「長三郎の役目柄と子孫」もその様な立場にいて、「最終」は「名誉格式を持つ上級番方頭・家人旗本」に成っているのだ。
「本論の詳細経緯」の特筆するはここにあり先ず間違いは無い。
後勘から観ると、これが「伊勢青木氏等の青木氏族」に執っても「生き方」を「良い方向」に向けた「所以の起点」と成ったのである。
唯、その「起点」を作った「初代・青木貞治」には「波乱万丈の人生」であったと云える。
何事もこの世は初代は、波風の人生を送るは世の常庸であった事は理解できる。
この「波風の人生」を物語る「徳川氏の出現」は、「長篠後」に奪還したこの「二俣城」を何と「最大旗本の大久保忠世」に任しているのだ。
これを観てもこの「人物の旗本」には、「駿河青木氏」のみならず「伊川津の額田青木氏」に於いても「同じ仕打ち」を受け続けていたのだ。
それだけに「松平氏・1563年改姓の徳川家康・上野国土豪得川の先祖」から「徳川」と解明したが、これを「長篠後」に大いに使う結果と成った。
「改姓する事」に依って「今までの三方ヶ原での印象」を「これからの長篠での印象」に変えようとしたのではないか。
この「松平氏・徳川氏」に執っては、「二俣城の敗戦」は厳しく「戦略上の重要拠点」であったのだし、その「不満の矛先」を「軍議」では、「主将中根」や「軍監の松平康安」に向けられずに戦記の表現の通りに「青木貞治に向けた」と考えられるのだ。
然し、「所以の起点」を造り出した以上、つまり、その後の「江戸期」では、この「御家人と旗本と御側用人と上級番方・家人衆旗本」と合わせて「格式のある家筋の立場・秀郷流青木氏」に成った以上は、「旗本」は「怨嗟と嫉妬」から来る「不満の矛先」を簡単に向け難く成ったと考えられる。
然し、前段でも何度も論じたがからは「吉宗」を裏で将軍に「仕立て、且つ、「親代わりの役目」として、共に「江戸向行」し、「享保の経済改革」を市中で実行した「伊勢青木氏・伊勢屋」でさえ、矢張り、「大久保・本多の旗本」等の旗本から「不満の矛先」は益々向けられたのだ。
「伊勢」に限らず「信濃青木氏」にも同然に酷い仕打ちを受ける結果と成った。
流石に「信濃も受ける羽目」と成り、「晩年の吉宗」もこの「不満の矛先」に加わりこれを止める事さえも出来ず、江戸では遂には「危険が生じる事態」と成り、急いで「伊勢に戻る羽目」と成ったのだ。
其れだけではこの「不満の矛先」は依然として治まらず、「奈良期の天智天皇」より「伊勢の永代不入不倫の権」と「伊勢の事お構い無しの家康のお定め書」をも無視され、結局は「青木氏族・伊勢屋と伊勢シンジケート」と、関西を仕切る幕府の「伊勢の山田奉行所・吉宗も同調・史実記録」との間でも「戦い寸前・ゲリラ戦・関東秀郷流青木氏が動き見せる」までに及んだのだ。
「三河旗本の嫉妬怨嗟」は、此処までも続く傾向は斯くの如しであって、これが「軍議」の「青木貞治」にも向け背れていた事は後勘から観ても先ず間違いは無い。
結局は、追記するが上記の「伊勢の件」は「紀州藩・伊勢藤氏の青木氏一族が全家臣に成る」が強力に介入し、間に入り「治まり」を着けたが、今度は、その「紀州藩」に「謀反の嫌疑」が架けられたが耐え偲んだのだ。
「格の如し」で「青木貞治」だけに及ばず「青木氏族全体」に「不満の矛先」は向けられそれが先鋭化して行ったのだ。
世の中で殆ど消えて行く中で今未だ比較にならない程の「格式力と財力と抑止力」を持ち続けそれを以て正統に活き、それを背景に「政治」も裏で動かす「唯一の氏族」には「姓族の姓社会」では我慢が成らなかったのだと考えられる。
この「嫉妬怨嗟」は、「人間社会」では人間である限りに於いて変わらないし否定はしないし、無くなる事は先ず無いのだ。
然し、「青木氏族自身」もそれを特段に取り立てたものとして考えてはいなかったのだ。
「青木氏の氏是」や「戒めの家訓10訓」を観れば、それが良く判り「普通の人間が生きる範囲」であったのだ。
故に、「青木氏族以上」には「その過去と現在」に付いて周囲が必要以上に「意識を高めた行為」であったのだ。
取り分け、「一向宗を概念とするこの三河族」に執ってはその「教義」から影響してやや「三河者の意識を高めたと云う事」であろう。
さて、話を戻してそこで、更に「詳細経緯」を論じる。
この「苦しい環境の中」で、「青木貞治」は次の手を打ったという事だ。
この時に上記した様に「堀江」に向かい始めた「武田軍の本隊」を「南下国衆の銃隊」は追尾していたのだが、そこで急いで「南下国衆の銃隊」に「情報提供した」と考えられる。
然し、「詳細経緯」として「青木貞治」は、何故、“追尾していた事を知っていたか”に掛かる。
それは先ずは“「何かの連絡網・情報手段」”が「青木貞治との間」に構築されていた事に成る。
それが、「伊勢」から派遣されていた「南下国衆の銃隊」に影に成りながら帯同していた「伊賀青木氏の忍者衆・香具師・隠密商人」にあったと観ているのだ。その形跡が資料の隠れた意から伺える。
「青木貞治隊」と「連絡」を取れる様に「伊賀青木氏の忍者衆・香具師」が隊の中に入っていたのだと云う事だろう。
筆者は、寧ろ、二俣城開城後に「青木貞治隊200」に「兵」として「伊賀青木氏の忍者衆・香具師の援軍」を送っていた事が考えられる。
其れは「浜松城に呼び出された時」に「記録」では、訓練を受けたのは「額田青木氏の南下国衆の銃隊300」であったが、突然にその後の「記録」では「南下国衆銃隊350」と替わっていて行から「荷駄隊50」が加わっていて、これは前段でも「伊賀青木氏」と「伊勢秀郷一門」の「合流隊」と説いた。
然し、当然に「青木貞治隊」にも「武蔵の秀郷流一門からの援軍」と「伊勢からの援軍・伊賀青木氏の香具師」が加わったのではないかと「必然的な流れ」から「当然の事」として考えられるのだ。
その時期であるが、「伊勢からの援軍」は、時系列から可能な時期は、矢張り「吉田城」から“「浜松城に呼び出された時」”であろう。
従って、時系列から「二俣城が開城した後の事」に成る。
又、「武蔵の秀郷流一門からの援軍」の場合は、時系列から当初から「副将」として入った「二俣城の時期」と成る。
さて、そもそもその前に論じる事がある。
それは、“何故副将と成り得たか”と云う事である。
「副将」とする為には、当時の慣習から「青木貞治の兵数」を増やし「武蔵の秀郷流一門からの援軍」とした可能性がある。
何故ならば、因みにこの検証として、「駿河青木氏」の「今川氏の時代の国衆の知行」は次の様であったらしい。
「江戸期」では、上記した様に「3500石で家臣数200で1400貫」と記されている。
ところが、「室町期」の国衆時の当時の「圷の野」であった「盤田域の庄面積」は、次の様であった。
約1800反程度弱≒1800石程度≒6000平方坪程度以下と成る。
そうすると当時は、1貫≒2.5石 7貫≒1兵 1反≒1石≒300坪≒1人の原則があった。
「1家」を5人として360家、この内の「農民の家」は8割として288、残りが「武士の172家」であり、「戦いに参加出来る者」が「最低家1人」とすると、「ave(172)≒約170人程度」と成る。
この「最低の基準」の「ave(172)≒約170人程度」に達しない場合は、農民の次男三男が「農兵・荷駄兵」として事前に金を渡され駆り出されるのが当時の戦時下の仕組みであった。
そうすると「戦線に義務付けられた基準」は先ず「720貫 兵102人:1800石」と成る。
つまり、兵としての「兵数」が「約68人程度・援軍」が増えていた事に成る。
然し、これでは「副将」とは成り得ないのだ。
つまり、この差が「援軍・68+X」であった事に成るのだ。
当時は、「1将」に対して「4騎」が着き、「1騎」が「50兵」と云う基準があったので、「200の兵」でやっと「将」と扱われ、「軍議に参加できる基準」であったし、故に「副将扱い」に成ったのだ。
これで「秀郷流青木氏・第二の宗家」が中心と成って「駿河青木貞治」には「兵数」が足りないので何らかの手を打った事に成る。
そこで、「援軍を送る事」で「松平氏の中」で「副将扱い」に成る様に「秀郷流青木氏一門」は計らった事に成る。
そうするとこの「Xは28」と成り、「合計98人以上」を「援軍」として送る必要が出て来たのだ。
敢えて、少なくとも「約100兵程度を援軍」として送り副将にして「発言力を着けさせた事」が判る。
これを当に「数字」が援軍と云う策を執ったと事を物語っているのだ。
故に、本来なら「軍議」に充分に参加できる「額田青木氏の南下国衆の銃隊300+荷駄50」が「軍議の命令」を拒否し、何と「城外」に放り出された。
それは国衆の契約条件に反しても「銃」を陣形の前に出して戦う戦法を拒否したのだ。
以上は、「駿河青木貞治」は「軍議の情報」を彼等に流し、これらの「援軍」と共に「救出」を依頼したのである。
「額田青木氏・指揮官伊勢秀郷流青木氏」としては、「情報の救出依頼」があったとしても必然的にも「両者の援軍」を救出する事は、「疎遠・血縁」で無かった以上は「一族として義務」も負っていた事に成り得る。
それには絶対的に「戦術的な内部情報」が必要であって無暗には手は出せなかったのだ。
「救出が義務」であるとしても下手をすると「銃隊に大変な犠牲を負う事」にも成り得る。
これ等の「内部情報」を獲得するには元を返せばそれには少なくとも「決定権のある副将」である必要があったのだ。
「詳細経緯」としては、この「義務」を果たす為にもこの「銃隊の指揮官」も「青木貞治」と共に、これでも“相当に際どい戦いと成った事”が判る。
故に両方の指揮官が「戦死したと云う事」でもあろう。
“「堀江」に「本陣」を置いて「二極化拠点」として構築している可能性もある”と、戦略的に考えて「追尾行動」をしていた「南下国衆の銃隊」に対して、故に、「青木貞治」は、「軍議の内容」から“これは危険”と観て、得た「軍議の内部情報」を「銃隊の指揮官」に対して提供出来たのだ。
そもそも、「負けると判っていた戦い」に「一族の者を援軍として送る事」は先ず無いだろうし、この「援軍」は「戦うと云う勢力」よりも「将にする事」に依って「内部情報の獲得の手段」を主目的として有利に導こうとしていたと云えるのだ。
其れならば、「籠城戦」から「野戦」と成り前提は異って仕舞ったので、参戦し野戦と成った以上は「青木氏族」には後は「救出してもらう事」しかなかったのだ。
それには、”無事に救い出す”には「額田青木氏の南下国衆の銃隊の銃力に頼る」と云う事に成り得り得たのだ。
それが「銃力・弾幕」で「武田軍の本隊の進軍」を一時止めさせてその隙を突いて「救い出す作戦」に切り替えたのだ。そしてその「準備」を始めたのだ。
それには逃げ込む道すじ・場所・タイミング・合図や銃隊の引き上げ時期等詳細な打ち合わせが両者に執って必要であって打ち合わせたのだ。
其処に、「山県軍の別動隊」に対しては良しとしても、結局は1h~2h経てば「武田軍の本隊」が別動隊を救出に来る事は必然で、この「愚策の鶴翼の陣形」と成れば「銃隊の指揮官」に執ってはこんな危険な事は先ず無かっただろう。
「総崩れに成る事」は戦前でも充分に予想できただろうから救い出すには「一瞬の隙」を作るしか無かったであろう。
「伊勢の勢力」も「額田青木氏の南下国衆の銃隊」も「援軍の秀郷流一族一門」も「青木貞治隊」も4者共に慌てたであろう。
そもそも、この事は「開戦」と同時に問答無用に「救出の必要性が迫っていた事」に成り、故に「南下国衆の銃隊」も救出後に即座に「戦場離脱に迫られていた事」に成るのだ。
何故ならば、「補給拠点での野戦・三方ヶ原」と成れば「武田軍の本隊」は「山県軍の別動隊」を救う為に「堀江城」を出て「三方ヶ原」に向かうと観ていたのだ。
そうなれば、「山県軍の別動隊」との「西東の挟み撃ち」に成る可能性が出て来て、「300の銃隊」と云えども、再び「一言坂の遭遇戦」を再び呼び起こす結果と成り、“「危険」”に陥っていたのであった。
この時、ここで「安全策」の一つとして「西の伊川津に戻る策」もあったが、そもそも「一族を放置する事」が出来ず、一族の「駿河国衆の青木貞治の隊」を「何とか守り救出する為」にも、且つ、充分な「様子見の為・場所取り」にも急いで「三方ヶ原」に向かったのだ。
そもそも、「急いだ事」は、「戦い」の「場所取り」では無く最も「物見」によって“救出に適した位置取り”と「離脱場所の位置取りの点」にあったと観られる。
然し、前段でも論じたが「事態」は急変していたのだ。
予想通り、「武田軍の本隊」でも充分に戦えるとして「山県軍の別動隊」が「補給拠点築造の使命」で、“北の山際に待機するかも知れない”と観られたし観ていたが、何とこの「補給拠点築造隊」で「挟み撃ちの作戦」に突如出たのだ。
それは、「青木貞治」が位置している前線と松平軍に対してであって、結果として「左鶴翼の付け根部分」に位置取りしていた「南下国衆の銃隊」にも巻き込まれる可能性が充分に出て来たのである。
そこで因みにそもそも、主に「戦い方」には中国から伝わった「八陣形」と呼ばれる陣形が平安期からあって、「魚鱗、鶴翼、雁行、彎月(偃月)、鋒矢、衡軛、長蛇、方円 他には「決死隊の長滝等」があった。
「武田軍」は「赤兜の騎馬隊・本隊用」を持っていたので、これをそれぞれの陣形に合わして配置して特徴を出して陣形を強め「無敵の騎馬隊」と呼ばれていたのだ。
「赤兜の騎馬隊」を持たない「山県軍の別動隊」は、それが逆に戦力の弱い「補給基地築造隊も含んでいた事」から、これが上手く行けば戦力の弱い「補給基地築造隊」を戦わす事なく護れるので、これを「背後」に廻して一列に並んだ「長蛇陣形」の「鶴翼突破型の全軍側面突撃」の形に似ていたのだ。
ところが作戦通りに「長蛇陣形」が良かったが前段でも論じた様に思い掛けない事がここで起こり違ったのだ。
突撃と同時に突然に何と強力な銃弾がとぎれる事無く、其れも先頭から後尾までに一斉に遠方から命中率良く一斉同時に浴びせられたのだ。
寧ろ、逆に「長蛇の陣形」が痣を成した形と成って仕舞ったのだ。
「銃隊の存在」を強く意識していれば、「鋒矢の陣形」で「補給基地築造隊」を包み込む様にして「敵中突破の突撃」を仕掛ければ犠牲は少なかった筈であった。
つまり、これでも「銃隊の存在を読み違えた事・下記」が判るのだ。
筆者は、「救出用の隠れての位置取り」であった「南下国衆の銃隊」が「見え難かった説」を採っている。
つまり、北の山際から観て左斜め鶴翼の付け根部域であった事で「松平軍の影」に成って正確に存在を見分けられ無かったのであろう。
「三方ヶ原の補給拠点」を、急遽、「野戦」に出て「松平軍に確保された事」で、この情報を得た「堀江」に居た「武田軍の本隊」が、「三方ヶ原の奪還」を目指して東に向かいこの「山県軍の別動隊」も遅れて到着した。
この事で「三方ヶ原の補給基地」を築造後、ここの「守備隊」として「山県軍の別動隊の使命」として着く予定であった事はこれで「当然の事」としてこれで判る。
戦略上では、「先に守備隊として確保したものを奪う戦い・奪還作戦」は難しいのは何時の世も先に奪取するのが「戦略の常道の知識」である。
故に、家康は、突然に「籠城」から秘密裏に「野戦」に変更し先に確保しようとしたのだ。
それには「家康の考え」は取り敢えずは成功した。
「別動隊の使命」に基づき「補給拠点構築隊」も引き連れていた「山県軍の別動隊」は、「本隊」に合流せずに、「援護守備兵であった事で遅れた事」もあって、「鶴翼の右側面の山際」に開戦ぎりぎりで陣取った。
「拠点の三方ヶ原」を「先に奪取された事」で「使命の達成」が出来なく成って仕舞ったのだ。
そこで本来であれば「武田軍の本隊と松平軍との戦い」に成ると、遅れた事の道中で「山県軍の別動隊・目的が違う」は「北の山際での駐留」まで考えていたのではないか。
ところが、ここに到着して観れば、「二つの事の異変」に気づいたのだ。
一つは、「弱小の松平軍」が何と「予想の戦術・魚鱗の陣形」では無く「鶴翼の陣形」を採っていた事である。
二つは、「西向きに陣形」を向けていた事である。
本来であるなら「浜松城を背景に陣形を北向きに採る」のが常道である。
西から来る「武田軍の本隊」と東から来る「山県軍の別動隊」が合流して北を背景に陣形を組むのが常道である。
この「南北の陣形の向き」であれば何れも両軍に執って「有利な位置取り」である。
ここで遅れて来た「山県軍の別動隊」に執ってだけに「不利な事」が起こったのだ。
それは、「西向きの鶴翼であった事」に依り“武田軍の本隊と合流出来ない”と云う事が起こったのであった。
「遅れた事」に依って「北側の山際」に“単独軍として離された形と成った事”であった。
「松平軍・家康の命令」はそれを狙っていた事にも成る。
そこで「予想していた事と違った事」が起こって、「戦況」を其の侭に観ているか、さもなくば「武田軍の本隊」より前に行動するかに迫られたのだ。
そこから「別動隊」であった以上は「状況」に応じて「独自単独」に移る事が出来る。
今度は何と「松平軍」に執っては予想外の“「援護守備兵」で「鶴翼の右側面・弱点」に本隊よりも先に突撃して行った”のだ。
「山県軍の別動隊」に執っては、その「行動の判断」は「同時」や「後」は「武田軍の本隊の行動」を遮る事に成り、且つ、「敵が鶴翼陣形」である以上は著しい混乱を招く事に成る。
これは「得策」では無いとして、先に、最早、“「使命達成」は当面は不可能”と判断した。
そして、「二俣城」からの「移動の行列」が、丁度、「長蛇の陣形」である事から「鶴翼側面」を「後尾の補給基地築造兵」を護る為にも「一点集中の突撃突破」で攻撃に入ったのだ。
これを観た「武田軍の本隊」もこれに引き続き「魚鱗の陣形」で「総崩れ」と成っている「鶴翼の松平軍」に向かって前進し完全掃討し勝利したのだ。
唯、この時、復もや「山県軍の別動隊と武田軍の本隊」とに「思い掛けない事」が「南側」で起こったのだ。
それは、「南下国衆の銃隊の存在」は「一言坂」と「追尾」で承知していたが、まさかの「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「戦いへの参戦」であったのだ。
「武田軍の本隊」からはそう見えていた筈である。
恐らくは、「牽制程度の事」はあるとは判っていて、“本格参戦は無いであろう”と見込んでいたのだ。
それを示す「三つの証」としてある。
そもそもその「破壊的威力の持ち主の銃隊」でありながらも、“積極攻撃をして来ない事・証イであった。
「一言坂からの追尾」”までと、「堀江城への援軍攻撃」が無かった事・証ロと、「三方ヶ原」に到着して観れば“攻撃の仕難い「鶴翼の位置取り」”とにあった事・証ハなのだ。
「武田軍の本隊」は、この「三つの証」を観て少なくとも“攻撃的で積極的ではない”とその様に考えていた事に成る。
この事から考えても、「銃隊」としては「鶴翼の付け根部に位置していた事」が判っているので、射撃すれば味方も撃つ事に成る「相当難しい位置取り」にあった事である。
これが「救出目的」であるとは観ていなかった事・証ニが考えられる。
然し、「青木貞治隊の救出」と「山県軍の別動隊の思いもかけない突撃」で、止む無く「銃の攻撃」を仕掛けたのだ。
何方も、“思い掛けない予想外の一瞬の出来事が起こった”のだ。
そして、「武田軍の本隊」に向かって「弾幕」を張って先ず「進軍」を止めて、何か弾煙の中から「救出作戦を起こしている光景」が「信玄の目」に入ったし、先に突撃をした「山県軍の別動隊」の「山県の目」にも累々と「戦死者の山の光景」が目に入ったのだ。
どうしようも無い「開戦の一瞬の出来事」であったであろう。
つまり、それは「予想外の事」が「勝利の武田軍」にも、「敗戦の松平軍」の「両軍の目」に入ったのだ。
「弾幕の煙」で一時戦場が観えない程に成ったと予想できる。
開戦は午後の四時頃であったので「谷風・海風」が吹いていて、南から北に向かって谷筋に「三方ヶ原の戦場」に向かって吹いていた。
なので、「弾煙」が消えては、又弾煙が出来ると云う光景が起こっていて、その「武田軍の本隊の混乱中」の間に、この「救出劇」が起こって兎に角にも先ずは「東」に逃がしたと「詳細経緯」としては考えられるのだ。
「山県軍の別動隊」に執っては射撃音以外に何処から弾が飛んでくるかは正確には判らなかった筈だし、武士道の通じない生死の「経験のない恐怖」が先行して「逃げ隠れの出来ない処置無しの状態」であったと考えられる。
故に、比較的に「救出」は容易に犠牲も無く成功したし、「北・戦場」に向かって連射しながら「荷駄隊」と共に、無事に西に後退する「戦線離脱」も容易であったと観られるのだ。
「近づく者」は恐らくは移動しながらの「空砲の煙幕」でも充分であったろうし、「一言坂の経験」の様に100%居なかったと考えられるが、執拗に近づけば実弾連射して撃滅戦を繰り返しながら「戦線離脱」したと考えられる。
この「戦線離脱した南下国衆の銃隊」を「仮・現実には無理」に追撃したとしても「館山街道の例の交差点付近」までであろうし、此処からは「武田軍の本隊」としても戦略上踏み込めなかったと考えられる。
史実はここの状況は何れの戦記にも記されていない事から“追撃は無かった”のではあるが、ところがその前の「やるべき事」が「武田軍の本隊」にあった。
それは「戦場の掃討作戦」と「山県軍の別動隊の支援」にあった筈で、「補給基地の三方ヶ原築造を使命の別動隊である事」を前提にしながらも、「軍事行動」を起こして突撃した事、且つ、「別動隊として浜松城を陥落させる使命もあった事」も考えると、これを支援しなくてはならない「本隊としての役目」が「戦いの流れ」としてあった筈である。
現実に、史実の詳細経緯は、「脚色された三河側の多説」が多いが、「掃討作戦と別動隊支援している事」には間違いは無い。
「救出後の武田軍の掃討作戦」も、「青木貞治一族」が隠れていたこの「西光寺」では、「武田軍の本隊の2度の印象」の中には、“銃隊の一部が未だ居るのでは”と連想し近づく事は出来なかったと考えられるし、命令なしに掃討が出来ない寺であった事は間違いは無い。
何故ならば、そもそも「寝る子の東の秀郷流一門361氏」と、「第二の宗家の位置づけ」の「秀郷流青木氏116」を起こして仕舞う危険性があったのだ。
「青木貞治隊」が「逃げ込んだ盤田見附の西光寺・平城館の大寺」が不思議に戦記上では掃討された事は記されていないのはこの事に依るだろう。
そもそも逃げ込んでいるか否かは別として、「武田軍の本隊」が進軍中に「一言坂の此処」で一時停留しているので、破壊は無いし、確実に「掃討カ所としての確認をすべき拠点」である事は知っていたし、「青木貞治隊」に限らず位置的に観て「松平軍の残兵」が少なくとも一時的にもここに潜んでいる拠点である拠点には間違いは無い。
この様な「一族の菩提寺の西光寺」から「青木貞治隊」が再び“城に入った”と云う記録は無い処を考えると、「武田軍の本隊」が「浜松城」を攻めた場合とか「掃討作戦」で「西光寺の方」が「平城館」の様にして「寺の周囲」を固めれば安全であると考えたのであろう。
故に、「生き残れた一族の勢力」は、江戸期には「御側用人衆・上級番方」として出世して禄高を史実の通り1800石から3500石に倍増させて「駿河青木氏の子孫」は栄えたと成るのだ。)
(注釈 「額田青木氏と駿河青木氏の生き遺りに付いての論」
さて、上記の詳細経緯に至る内容を先に論じて置く。
「三方ヶ原の戦い」に勝利した後、ここに当初の目的通りに「補給基地」を築造せずに堀江城と二俣城などの出城に「守備隊」を残し「甲斐」に全軍を引き上げている。
2年後の「長篠の戦い」の際には、この二つの出城の「守備隊等」は松平軍に対して「善戦をした事」が何れの戦記にも記されている。
つまり、そこで「周囲」がまだ「武田軍の守備隊」に囲まれているこの2年間の「西光寺の駿河青木氏の動向」が気に成る。
この事に関する記録等を探ったが、唯一つ何かを物語る行が「伊勢」にあった。
それは「伊勢水軍」であった。
「出城の山国の武田軍・少数」には「水軍」を持っていないので、伊勢水軍と駿河水軍は「渥美湾に船を廻す事」がある程度可能に成っていた。
「駿河水軍」と連携して「伊豆」まで廻る「商い等の運搬に盛んに従事している行・商記録共に一致」である。
つまり、これは何を意味しているかである。
「三方ヶ原」から伊川津に戻り「陸運業」に逸早く転身し、「縦の陸路1と2」を構築して「信濃」に繋いだし、「三方ヶ原」より「武田軍」が予想外に「甲斐に戻った事」と、「織田氏の西三河への伸長浸食」で「武田軍の脅威」は低下して「渥美湾の制海権」は何とか獲得出来ていたのだ。
この時、この為に「松平軍」が「力・財源を持つ事」に警戒した「織田軍」は、「伊勢」で水軍を造ろうと懸命であって、遂に「熊野水軍の内の九鬼水軍」を味方に引き入れた。
そして、「伊勢青木氏」が「7割株」を持つ「伊勢水軍の伊勢衆・50衆」に対しも「楔・調略」を打ち込んできたのだ。
「伊勢衆の掟」を破り「4組」が「織田軍の調略」に落ちたがこれを「掟と財源」で食い止めた。
然し、結局は1組だけが調略に応じたのだ。
そもそも、「伊勢衆」は「伊勢青木氏の女系の重複血縁の古来からの氏人」であった。
最も尾張に近く縁の薄かった「東の知多一族」が落ちたのだ。
然しながらも、当然にこれに伴って結果として「陸運業」と「海運業」は動ける様に成った。
そうなると、「松平氏の敗戦」に依って「青木貞治の彼等の糧」は失う事は必然である。
そこで「駿河水軍の裔の駿河秀郷流青木氏の一族」は、この「陸運業」と「海運業」にも更に関わる事で、且つ、「武田軍の追及を逃れる事」も出来たのだ。
伊勢が復興させた「駿河水軍・1艘の廻船」を「伊勢・伊勢水軍と伊勢屋4艘」からの「海と陸の中継点」として「伊豆や武蔵」にも繋げる事が出来て糧を戻したのだ。
この「2年間の彼等の糧」はここにあったのだ。
これは「元駿河の国衆」の強味の所以であった。
そもそも、「敗戦し弱った松平氏の家臣」の中に「水軍」を持ち「それに依る財」を持つ「御側衆」はいなかったのだし、「東の大勢力の秀郷一門」を背景にした「家臣」もいなかったであろう。
身分以上に力を持つ「家臣・関東家人衆」に対して、「三河旗本・近国衆」には“かなわない”とする「嫉妬怨嗟の渦の波」が「額田青木氏」と同じ様に押し寄せていた筈である。
「浜松城の松平氏」は、危険な隣の織田氏に近い「西三河」を残し、「北三河と東三河と遠州での糧」を失っていた。
その「衰弱した松平氏」にも経済的に劣らない「身分以上に力を持つ家臣・関東家人衆の御側衆・青木貞治の裔」は他にいなかったであろう。
ところがこれが、「伊勢勢力」を背景とした「額田青木氏」の「三河での商い」と共に、「松平氏の強み」とも成っていたのだ
敗戦被害を受けなかった「西三河の軍勢」には「2000人」を与えられていて無傷で残った。
そこで「松平氏の力」を検証する。
そうすると、尾張に隣接する「西三河」だけが遺っていたので、「1貫≒2.5石 7貫≒1人家来」の「軍制の仕来り」から、最大で1万4千貫≒3万5千石となるが、「信長と秀吉」に依って弱みを突かれて国境の「西三河の浸食・三好域まで」が起こりこれが「2万石」にまで減石されていた常態と成っていたのだ。
これではどう考えても「旗本以外には養えなかった事」に成る。
「三方ヶ原」で全滅に近い敗戦をしているので、どの記録を観ても最大時に「国衆」を掻き集めてやっと合わせて「兵5000・脚色戦記」に成ったとしているが、実際は戦後は「敗残逃亡兵2000程度以下」には成っていた筈である。
先ずは「旗本程度」を養えると成るが、「国衆等」は「自らの糧」を「何らかの力」で得なければ生きては行けない事に成っていた筈だ。
「駿河青木氏」は未だこの時期は、上記した様に一族から援軍を得て「駿河国衆の副将レベル」であった。
上記した様に長篠後に成って「旗本・家人衆」に加えられたのだ。
故に、「駿河青木氏」は「伊勢の青木氏の経済力・商い」を背景に「元の駿河水軍の糧」に勤しんでいたのだ。
そもそも「伊勢青木氏」に依って平安時代に女系で繋がっていた事の所以で末端の裔を何とか探し出され、相当に「駿河青木氏」は「伊勢」に依って呼び興されて訓練を受けた。
そして「船一艘」を与えられて、再び、その「裔系」は「水軍・水運の商い・伊勢―伊豆に運送」で拡大して行ったのだ。
それが「裔系の長」が「青木貞治」であったのだから、「江戸期・長三郎」に成っても「旗本の上級御側衆・上級番方」を務めながらも、この「水運の商い」は辞めなかったのだ。
この様に資料では「相当に豊かな駿河青木氏の裔」を構築して繁栄していた事に成る。
そこで、この詳細経緯として、江戸にも子孫を広げているだろうが、盤田見附に「菩提寺・浄土宗西光寺・再興」の「伊勢青木氏部」に依って大寺を建立できるまでに成り、それを持てるまでに「子孫」を拡大させている以上は、青木氏等の地名や所縁のものが遺されていると考えられるのが普通で、その割には「青木氏とその類証」が「水運業」を生業としているこの地域に矢張り少ないのが気になるのだ。
何故だろうか検証して観る。
天竜川と太田川の二つの大川の間に挟まれた「圷の野」と、この「ほう僧川」の支流を合わせて、「砂丘」の中で出来た「唯一の港・西光寺より南東8k」の地域に「大船が停泊できる港」は、「天竜川」から東に離れて「圷の影響」が無くなる「福田地区」、ここから「海底深度」が良くなるその“「福田港」”がある。
ここに少なくとも先ず「仮泊」を置いて「駿河湾・34k」と「伊勢湾・白子泊」を常用していた事が資料から判っている。
つまり、「福田港の此処」からは「伊豆青木氏」と「秀郷流青木氏・本拠地」を含む「一門の領域」と成るのだ。
この地域には「青木氏に関わる地名などや春日社」も全く無く現在もである。
全て、この「福田港」から「34k離れた地域」から東に急激に「青木とそれに関連する地名」も含めて大量に何もかも出現して来る。
つまり、この差であるる
平安期と鎌倉期と室町期初期の三期までは「青木氏や永嶋氏等の勢力」が伸長していたが、ところが、室町期中期より勢力を東に押し返されて引いていたのだ。
この時の「名残の先端」が突出した「遠州西光寺域の庄」であって、厳しい乱世の中で衰退しながらもここを遺し得たのは「水軍衆の所以」であったと考えられる。
其れを逸早く裔を救って呼び寄せて訓練して戻して伊勢と繋いで生きる力を着けさせて遺し、其の後は前段の論に成るのだ。
結果として全体は「駿河の青木氏」の「名籍」が存在する所まで引いたと云う「歴史的経緯の事」に繋がるのだ。
大まかな時代性としてはその「引き際の処置」で起こった事であったと考えられる。
それだけに「源平化した事」から狂い出し、遂には「源平戦敗退」により「子孫」は元より「遺物」も遺し難かったのだ。
「近江と美濃の源氏化」に対応した様に「伊勢信濃の忠告」は女系で深く繋がる「駿河」にも当然としてあったと考えられる。
と云う事は、その証拠は「駿河青木氏の子孫」の多くは、現在名の静岡県静岡市駿河区の「青木の地名・現在も青木・盤田見附から東54k」が遺る所にあったと云う事に成る。
「伊勢」が「盤田見附」からか「駿河区青木の庄」の何れから「支流末裔」を見つけ出して「額田青木氏」と同然に世に出したと云う経緯である。
「一族の藤枝の秀郷流青木氏・集中」では無く、再び、“「母方の伊勢」”に呼び出して「商いや水軍」等の訓練をさせてから「30年後~40年後」には、室町期初期から「消えていた盤田域」に「一人前の青木貞治が出た・100裔人」と云う事に成るのだ。
唯、ここで検証しなければならない事は、「盤田見附域の元の庄」を再び獲得するには「財力と武力」が要るし、「菩提寺」を建立し直し維持するには“「相当な財力」”が要る。
其れを如何したのかである。
この「財力と武力」を以て「庄の民・農民」は信頼して従う。
「武力」は「財力」で補完できる。
問題は失った元の庄を獲得するには、上記した「盤田域の庄面積」の「1800反程度弱≒1800石程度(≒6000平方坪程度以下)」の“「地権」”を買い取る必要が先ずあり、奪還する程の武力は未だ無いしそれ以外にも無いし、武力による獲得は「青木氏族の氏是」ではない。
それには、「駿河水軍の水運」だけでは元の庄の獲得は無理で、この時期、必然的に「今川氏の国衆と成る事」が先ずは前提と成る。
その前に、「青木氏族」とは全く縁が無いが、調べた範囲としてこの事の解決に導いてくれた者、況や、「松井氏」に付いて記して置く。
元今川氏の二俣城主であった「松井氏」は、「山城国の御家人・松井氏一族」が建武政権を離脱し「足利尊氏」に味方し、足利氏一門で宿老の今川範国に属して戦功を揚げた。
その恩賞として「建武5年駿河国葉梨荘(現在の静岡県藤枝市・青木氏定住地)」に「地頭代職」を与えられて移住したと定説ではある。
1513年には「今川氏」から「遠州鎌田の御厨領・盤田見附から真東3k・同庄内」を「領」として与えられ、1528年には「平川郷堤城主・盤田見附から真東21k」とも成ったとある。
この「近江から来た国衆の松井氏」は、最終的にこの「天竜川から菊川」の「南一帯の豪族」と成ったのであった。
そうするとこの「地頭代職時代」にこの「藤枝」に定住する「郷氏の秀郷流青木氏・賜姓族の格式」は松井氏を当然に知り得ていた筈であるし、「山城・近江南部・天領地・公領地域」の「御家人・松井冠者源維義」であるとすると、源平戦で衰退はしたが「近江青木氏二氏・賜姓族格式」を完全に知り得ていた筈である事に成る。
この「近江青木氏」と「川島皇子の裔の佐々木氏」とは奈良期末期まで「相互重婚の一族」であって「伊勢」と「近江4氏」とは血縁の縁で繋がっていた。
「松井氏の祖」が「山城の御家人」と成れば「駿河青木氏」とも少なくとも縁は深い事に成り得るがそこまでは縁を追えない。
奈良期の古来より「近江」には「伊勢青木氏一族」は「施基皇子の時代」から全く縁が無かった訳ではない。
そもそも「近江の日野等」は、奈良期から「日本書紀等」にも記されている通り「賜姓五役」の一つとして「令外官」として「鉱山探索・鉄の産地・鉄穴役」を命じられたが、その所以あって、そこを「領地」として与えられ「統治」を任されていた事が判っている。
そして周囲には「一色の地名の字名」があって現在もある。
この事に青木氏の歴史観に意味があるのだ。
後には前段で論じた通りその所縁から室町期には堺を通して「火縄銃等の生産」にも関わっていて、「近江国浅井と高島の二郡」の「鉄穴・カンナ地区・鉱山」を「字名」として所領としていたのだ。
ここが最初に発見された「鉄の地」で「滋賀国長浜浅井の土倉鉱山・琵琶湖の真北端より北東二里の地・現在の西浅井」で発見されたのだ。
この事は「伊勢の資料」や「日本書紀等」にも記されている。
更に需要に応じて「鉱山開発」が朝廷の命で「伊勢の財」を投じて「東近江」でも進み、もう一つは「平安期末期」には「滋賀国湖南の高島鉱山に広がり、「室町期の開発」では「琵琶湖の真南端の東四里の中東域の一帯・甲賀を起点に日野を含む半径15k圏内」の「白水鉱山と雲井鉱と弥栄鉱山と御池鉱山」等までに広がったと成っているのだ。
その様に添書に記されている。
丁度、それを物語るかの様に「近江青木氏」や「甲賀青木氏」や二里ほど北東に離れた「日野の庄」までもこの圏内に含まれているのだ。
これ等の経済圏でその運輸に関する淀川に出る古来からの「中継点の松井の庄」であったのだ。
要するに其の後の経緯としては、「摂津堺の商い」として「中継点」のこの「松井の庄」を経由して淀川を通して「荷駄の運搬等の中継点」として大いに利用されていて、その歴史は奈良期から始まり浅からず江戸期に至っても変わらなかった様だ。
又、「商い」だけに関わらず隣の「蒲生の庄」の「秀郷流蒲生氏郷一族との血縁関係」も持ち、この「松井の庄」は「青木氏族」に執っては欠かす事の出来ない庄であったのだ。
それだけに「駿河青木氏の貞治」は「伊勢での訓練を受けた以上は元より「青木氏一族」として知っていなければならない「松井の庄」であった筈なのだ。
それが青木氏に関わる者であるとすれば「民」であろうが「商人」であろうが「武人」であろうが「万人」が知っていたのだ。
これは当然に秀郷流一門全ても等しく知り得ていた歴史観で忘れてならないものであつたのだ。
この「近江の鉄穴・カンナ地区・鉱山・鎌倉期まで伊勢と共に本領安堵された」が深く「青木氏族」に関わっていた事を知る事は歴史観に大きく左右するのだ。
故に、百々の詰まりは「額田青木氏の銃隊の由縁」もここから来ているのだ。
念の為にこの「巨万の富・献納」は、「紙文化・紙屋院」のみならず、「銃の武器・近江の鉄穴・カンナ地区の発展・殖産業・青木氏部」の「拡大・伴造」を支配していた事もあって、影で朝廷とも繋がり「無限の富・商い」を獲得していたのだ。
その象徴の一つが「松井の庄」であったのではないかと判断する。
他に「商記録」から「商い」として殆どは「貿易で得る事」で賄っていたらしいが、かなり古くから「銃用」ではなく上記する「近江の鉄穴・カンナ」に「鉱山の爆薬」としても「国内産」にも天皇より命じられて取り組んでいた事、つまり、「山部」や「工部」等の「部人」を統率し管理する「専門の官僚族」の「伴造を統率していた事」が史記にもされいる。
その書の記述には「乳母女樫の炭紛と糞尿を乾燥させものを混ぜ合わせて利用した「近江の硝煙開発と製造・703年頃」にも秘密裏に関わっていた事があった事が記され判っている。
前段でも論じたが当初は「宋貿易」で入手していたが、その後の平安期に成って「紙屋院」のとして「墨や硯石等の開発」の殖産に取り組み、「乳母女樫とその炭紛」は「伊勢紀州の特産品」であり、その副産物としての其処から密かに「爆薬用」として近江に運ばれていた事が記されている。
つまり「紙屋院」として墨用に開発したものの「粉」を集めて「近江の鉱山」に運んで「爆薬用」にこれを利用していたとされ、後には「弾薬用」にも転用したものであるとされている。
「額田青木氏のフリントロック式改良銃の弾薬用」に、更にはこの「近江の硝煙製造」にも「伊勢青木氏・伊勢屋」は更に力を入れていた事が判っている。
後の「室町期」にはこの「鉱山の爆薬用」から一部は「火縄銃用」にも用いられていた事が資料から判っていて、「近江の硝煙の道・ゆず街道・山懐静かな里の一角」を「代名詞」の様に使って密かに呼ばれていたのだ。
「青木氏の伊勢屋の貿易」とは別に「室町期の銃用」にはここを別の勢力に抑えられると困る事から密かに床下に隠して生産していたと記録されているのだ。
恐らくはそれだけでは無く硝酸塩発生を促す為に「温度一定」を図っていたと考えられる。
因みに「硝煙の製造法」は、残された一部の資料に依れば次の主に二つの方法が発見されていたらしい。
一つ目は、中国から伝わり古代では原始的で生物の死骸等の50年以上経過した腐敗堆積古土壌から浮き出て来て来た結晶の「硝酸塩」を抽出し、それに「炭粉」を混在させる方法で生産していた要するに「古土法」である。
この中国の記録を貿易で獲得してそれを青木氏の殖産として真似たのではないかと考えられる。
二つ目は、更に上記の方法を強引に起こさせる「培養方法」である。
石灰土に干草や糞尿を交互に重ね合わせて堆積し、発酵させて硝塩土を造り浮き出て来た「硝酸塩」を抽出しそれに「炭粉」を混ぜ合わせる方法である。
三つ目は、室町期に至ると更に「二つ目の方法」を大量生産型に変更した。
「硝石土の土山」を強引に造り出し、発酵後に浮き出る「硝酸塩の結晶」を取り出して、これに「炭粉」を混ぜ合わせて生産していた。
この「根本原理」は「一つ目の方法」にあるが、日本ではこの地質学上から自然堆積層が無く上記の方法で細々と造り出す方法で古来より生産していたのだろう。
「資料」にはそれを思い出すかの様な表現での様に記されている。
参考として「チリ―一帯の石灰層や硝石層の自然堆積層」は国土全体に及んでいて有名である。
因みに記されている資料に依ると、「混ぜる炭紛の品質」にも問題があって発火能力・爆発能力」にも差があって、それは「紀州と伊勢一帯」でしか採れない「固くて炭化精度が良く微粉末」に成る「伯母樫の木」の「備長炭の炭粉」が最良であった事を知り、「令外官の伊勢青木氏の研究」で到達していたのだ。
結論は「炭の内部の結晶構造」が均一で細かい事にあった事が記され、従って、古来より「国内産の爆薬」は「紀州伊勢産」が優れていた事も上記する「近江鉱山」は発展したと成っているのだ。
さて余談と成っているが「額田青木氏」が持つ「銃の爆発力の高さ」は「輸入の弾薬」に比する事なく此処にあったと考えているのだ。
故に、「額田青木氏のフリントロック式改良銃」は銃そのものも然る事乍らこの微細炭紛にもあったらしく、故に外に真似される事が無く「青木氏族の範囲」で留まった所以もここにあったのだ。
その「原始の方法」がこの論じている「近江の鉱山」から始まったのだ。
これを「天皇の命」で手掛けたのだが上記する「令外官」として「伴造」を支配下に置いていた「伊勢青木氏」ではの事であったのだ。
前段でも論じたが、故に一族の代々の諱号は「光仁天皇」より「伴、又は大伴」に纏わるものを号とする事を天皇から許されていた事が判るのだ。
「永代の令外官の所以」であったのであろう。
注釈として、では、この「実作業」を誰が実行したのかである。
他では、多くのプロジェクトに関わった記録があるのだが、この「近江の鉱山開発」に関わったとする明確に記された資料が少ないのが不思議の一つである。
前段でも論じたが、当時の朝廷の「技術職人集団のトップ」に位置して「施基皇子」と仲の良かった「伊勢の額田部氏」、つまり、後に「桓武天皇の遷都計画」に応じ無くて「飛鳥の斑鳩」を追い出されてこれを救って「伊勢の施基皇子」が「桑名」に隠したがその「額田部氏」であったと観られる。
時代性から観ても関わったとすれば何の不思議もない。
最終は、この「額田部氏」は「施基皇子の仲介」でその数々の功績を評価されその名誉を回復し更にはあり得ない程の「特段の出世」をしている。
間違いなく「鉄穴や爆薬の開発」にも大きく関わっていた事が判るし評価されたのであろう。
「額田部神社」を独自に「守護神」として持つ事を許された「技術職人集団」なのである。
前段でも詳細に論じたが、「土木の職能集団・地形地質を観る集団」で、「干拓灌漑、墳墓等」も手掛ける「土木専門技術集団」で、当時としてその技量は「和気氏や結城氏等」よりも優れていたのだ。
「近江の東」に和紙が生産できる様にした「干拓灌漑と土壌改良」などを手掛けた史実も持っている事から、同然にも「伊勢青木氏」が命じられた「近江の鉱山開発」にもその「地形地質の知識」を以て大きく関わったと考えられる。
寧ろ、関わらないと「青木氏」のみならず他の集団も出来なかった「国家大プロジェクト」であったのだ。
少なくとも初期の「滋賀国長浜浅井の土倉鉱山開発」と、「近江の硝煙開発と製造・703年頃」は青木氏だけでは無理であった筈で、その記録は何処かにあった事が考えられるがその「額田部氏に関連する記録」はその頃の一般は未だ竹簡木簡であった事から記録は消えた事が考えられる。
遺る記録は紙に遺された記録だけに成っていて「青木氏の紙屋院」ならではの記録と成るだろう。
後発の「滋賀国湖南の高島鉱山」では本格的に「額田部氏の活躍時代」に入っているので、その記録は見つかるのではないかと期待しているが未だ確かな記録は無いし、有ってもその存在範囲は「青木氏族などの関係者範囲」に限定されるだろう。
「土木用の爆薬開発」に関しては上記した様に一部であるが遺されているので「額田部氏に関する関わり」が憤怒建設や干拓灌漑の記録はあるので何かの資料の行の中で発見される可能性もある。
当にそもそもその「土木用の爆薬などの高度な知識」は朝廷では「額田部氏」を除いて有していた集団は無かったと考えられるからだ。
それは「青木氏の貿易」との関わりから多少の記録は得られたものであろう。
この様に「伊勢青木氏」は「額田部氏の力」を借りて「鉱山開発」と「硝煙開発」にまでに及んでいたのだ。
話を元に戻して、それだけにこの後の所縁の「松井の庄」を介して「駿河の松井氏」と「駿河の青木氏」は知り得ていて“「歴史のある特別な親近感」”を持ち得ていた事に成るのだ。
そこで、だとすれば、最早、無駄な論として行うが、取り敢えずは「系論」として、仮に「御家人・松井冠者源維義」であるとすると、「近江戦」と「富士川の戦」の源平戦で共に源氏化していた一族として味方と成って戦っていた筈である。
先ずこれだけの縁があるとすれば戦っていた事には間違いは無いだろうが、敗戦後、一族が浪々の身に成り、それが共に再び“遠州で会った”と云う事に「流れ」として成り得たのであろう。
且つ、ここが「室町期末期」まで「秀郷流蒲生青木氏・伊勢秀郷流青木梵純の出自元」でもあって、恐らくは「縁の鎖」の様に何らかの関係を「松井氏」とは確実に持っていた筈である。
要するに、それ故にこの「縁」を以て「国衆」と成ってこの「松井氏の配下・家臣株獲得」に入り、そこで「元の盤田見附」を「地権で獲得した事」に成る所縁と成るのだ。
そして、その「国衆と成った証拠」として今川氏の最西端の其処に「氏としての城」の「平城館・寺閣城」と成る「菩提寺・西光寺」を「再建した事」を意味するのだ。
つまり、この所縁には「国衆に成る事」にしても、「家臣に成る事」にしても、「菩提寺の平城館・寺閣城を建造する事」にしても、「地権料を払う事」にしても、「家臣を養う事」にしても、「水軍を維持する事」にしても、「水運業で得られる糧」では到底無理で「大財源が必要であった事」に成る。
当然に、その「財源の出処」は「伊勢青木氏」か「武蔵青木氏宗家・江戸長島屋」かであるが、この所縁の流れとしては「伊勢青木氏・伊勢屋」が「額田青木氏」と同然にこれを賄ったと考えられる。
要するに戦略的には、同時期に“西に「額田青木氏」、東に「駿河青木氏」を興した”のであって、前段で論じた様に「信長」に依る「尾張域の神明社破壊」やこの事で起こる「伊豆や信濃との連携が難しく成る事」を防ぐ為にもこれは“「当初からの戦略」であった”と考えられるのだ。
その結果、「盤田見附の西光寺」だけを遺して「神明社」も「春日社」も「清光寺」も影形を全く無く成っていた「遠州」に於いて、「伊勢」にしても「武蔵」にしてもここに「青木氏の拠点の復元」を成さねば成らなく成っていた事、又は追い込まれていた事に成る。
それで「乱世の中」で「東西の青木氏の同族」が生き抜ける為には、再び途切れた「西と東」が繋がれば“「強大な抑止力」が働く”と考えていた事に成る。
その為の「財源拠出」は問題は無いと観ていたのだ。
「室町期の紙文化開花」で「巨万の富・紙屋院」や「鉱山等の多くの殖産」で獲得した「財源」を遺憾なく此処に投入したのだ。
それには、「青木氏族」に執っては「相手」は当面に「武田氏」であって「織田氏」でもあったのだ。
そこで筆者が感じる処では、「伊勢系列と信濃系列」を始めとして「青木氏族」に執つては疎遠であった「武田氏系青木氏の関与」は、もう少しの「関係性」を見つけられるのではと観ていたが、「二俣城の浄賢」だけであるのは何か間尺は合わない。
それは、「武田氏」が完全に滅んだ「長篠」より、「甲斐の五つの青木氏」が「伊勢」では無く「秀郷流青木氏を頼った事」なのだ。
確かに「甲斐青木氏・甲斐冠者系の源光系」と「嵯峨期詔勅で名乗った時光系」は「嵯峨天皇派」であって「犬猿の仲でった事」は否めないが「伊勢信濃」には彼等は頼って全く来ていないのだ。
“受け付けなかったと云う事”もあつたかも知れないが、そんな資料や記録の行は無い。
このすっきりしないのは「史実」である。
そもそも「武田氏系」には、「源光系青木氏・1氏」、「時光系青木氏・5氏」、「諏訪族系青木氏・3氏」があった。
「源光系青木氏・1氏」は不参戦で甲斐で衰退し、「時光系青木氏・5氏」は、「分家2氏」は徳川氏に味方し武蔵鉢形に移住させられ、残る「1氏」の「分家養子・安芸」は早めに戦線離脱し、後に安芸松平氏の家臣に成る経緯を辿っているのだ。そして「本家筋2氏」は完全滅亡している。
「諏訪族系青木氏・3氏」に付いては、「武田氏系の1氏」は衰退したが、「諏訪族系の2氏」は「相模の秀郷流青木氏」に救出され、其の後1氏の一部が下野に配置、残りの一部も「越後秀郷流青木氏」を頼り、4流に分流した。
「長篠後」にこれだけの「関係性」を保持しているのに何もないのは腑に落ちない。
当然に「三方ヶ原前」にもあったと観るのが普通であろう。
現実に、江戸期には「甲斐青木氏・正定系と豊定系」とはある程度の関係性は出来たと考えられるが、この敗退した「甲斐青木氏」が、「秀郷流青木氏一門を頼った事」で「血縁の繋がり性」は出来た事も「史実」である。
平安期と鎌倉期には確かに「賜姓」は「青木氏」を中止した代わりに「桓武派」と「嵯峨派」の争いで「仲介案」を採って「伊勢青木氏出自の嵯峨天皇の皇子・嫡子」が“「甲斐青木冠者蔵人・源光系・准賜姓格式」”として「甲斐」に配置されたがそれでも関係性は基本的に無かったのだ。
極めて疎遠で犬猿の仲であった事は資料からも解る。
上記した様に「青木貞治と主従関係」にあった「山城・近江南部・天領地・公領地域」の「御家人・松井冠者源維義・河内頼信系源氏」と、「賜姓扱いの格式」を与えられた「甲斐青木冠者蔵人・源氏族では無い・後に源光系と成る」として「甲斐」に配置されたが、この「源の源光系青木氏・嵯峨源氏」とは要するに「源氏族」で無関係では無かった筈であるが、「繋がりの詳細経緯」に付いてはこれ以上は今も資料は見つからない。
然し、そもそも遺すだけの力が無かった事も云えるのだ。
「賜姓伊勢青木氏と賜姓近江青木氏」とは、奈良期から平安期まで「相互血縁の同族」であった事と、「近江青木氏の定住地」とはほぼ同じの「松井氏との関係性」は完全否定できないだろう。
間違いなく「源氏・11流」とすれば「皇族としての嵯峨源氏」は「9つの縛り」を護らなかった「賜姓源氏族」と、「源氏化しなかった伊勢と信濃の青木氏・嵯峨源氏9つの縛りを護った」とは「四掟の範囲」では無い事に成り、それ故に頼る事は出来なかった事には成るし、又、決して四掟で受け付けなかったであろう。
その意味では、「円融天皇賜姓族藤原秀郷流青木氏・伊勢信濃とは女系で血縁」は「同じ青木氏」として頼り易かったとは云えるが、「血縁性の有無」は最早これ以上は辿れない。
そもそも、「正式な源氏賜姓・11家11流」は「花山天皇」で終わったが、この「花山天皇」の前の「冷泉天皇の発狂事件」が起こり、これに代わって異母弟の「円融天皇・11歳」と成り、「源氏賜姓」を止めて「伊勢信濃の母系族」であった「藤原秀郷流一門の宗家嗣子の第三子」を「永代・始祖は千國」に賜姓させる事としたのだ。
「外戚の藤原氏内紛」で16年後に「冷泉天皇の嫡子・花山天皇」に譲位した。
この「花山天皇」も「外戚の藤原氏の内紛」で2年も待たず退位した。
ここで「嵯峨詔勅に基づく皇族」の「正式な源氏」は途絶えたのだ。
つまり、其の後の「正式な賜姓」は「藤原秀郷流一門の宗家嗣子の第三子」を永代に「青木氏の賜姓をさせる形式」と変わったのだ。
これが要するに最終は「賜姓が元の母方系青木氏」に戻したとする「詳細経緯」であるのだ。
その前には「摂関家の藤原氏との戦い・藤原仲麻呂事件・恵美押勝」で翻弄され「孝謙天皇の白羽の矢の事件・伊勢青木氏の施基皇子の四男の白壁王と井上内親王」の問題が起こっていたのだ。
その「皇族との血縁の基」は、「賜姓」を権威づける為にも「混血融合」を避ける為に「四掟と云う縛り」を設けて、代々に「伊勢信濃との青木氏の母方・女系族である事」で権威格式付けしたのだ。
これが効果を発揮して「円融天皇の思惑通り」に何と「116氏に及んだのだと云う経緯」を持っているのだ。
況や、この経緯があるが故に「四掟前提としている以上」は「甲斐との血縁性は無かった事」には成るのだ。
先ず間違いなく詳細経緯を押し切るだけのものは無かったであろう。
唯、この「秀郷流青木氏族」と呼ばれる「秀郷一門内部での血縁族の主要五氏」とにはこの「縛り」は適用されなかったのだ。
依って、この「秀郷流内の青木氏族内」の「主要五氏・青木氏永嶋氏長沼氏進藤氏長谷川氏」の範囲での「甲斐青木氏との血縁・源光系と時光系」はあり得る事は否めないのだ。
然し、この血縁は、「二つの四掟で繋がる青木氏族」の中には出て来ないし、伊勢側から其処まで踏み込めず調査は難しいのだ。
従って、前段でも論じたが、厳然とした「噂」があるのにも関わらず「資料・記録」が無い為に判らないのだ。
唯、「諏訪族」とは「信濃青木氏との重婚族」であり、古来より「諏訪族青木氏・立葵紋」であって、この「裔系・抱き角紋」が「武田氏の血縁族」を構築していて、「相模に逃げ込んだ事」も史実であり、頼った事には「何の問題・疑い」も無い。
「秀郷流青木氏―伊勢と信濃青木氏―信濃青木氏と秀郷流青木氏―信濃と諏訪族青木氏―諏訪族と武田氏」であれば、直接、血縁無くしても「血縁の濃度」は別としても「間接血縁族」として頼れる事は可能であったであろう。
現在筆者はこの様に観ている。
そして、その仲介を担ったのがそれが何と本論の長篠後の「駿河青木氏の裔祖の相模青木氏」であったのだ。
これは、「三方ヶ原―長篠」の後に興したより「青木氏族」であった一族の歴史の“自然が興した再結集現象”と成り得たのだ。
この「不思議な自然の血筋の流れ」は江戸期に向けて濁流の如く留まらなかったのだ。
但し、そこでその基と成った「駿河青木氏を家臣」として抱えてくれた「松井氏」に付いては、“山城の「河内源氏」である”とする事にもう少しその根拠と成る歴史観を説いて置く。
そうすればこの「松井氏の位置づけ」がより判り、「駿河青木氏の青木貞治との関係性」も詳細経緯としてより理解が出来るだろう。
「松井氏の祖・平安期」と主張する根拠には、「山城の何処かの家人・天皇家・公家・賜姓族・皇位族」であったとしていても、その「家人」と成り得る「氏」としては「頼信系の河内源氏」であるとしているのだ。
“何処かの家人”としているが明記されていない事にも「疑問1」であり、“河内源氏”としているのも「疑問2」である。
しかも当時は、「嵯峨期の9つの縛り」を全く護らなかった事で「皇族系の氏族としての格式」を認められていなかった「河内源氏」である事に認識はなく「疑問2」は記載している。
認識なく名乗っていたのかも知れないが、間違いなく“「松井」”と「姓名」を名乗っていた事には間違いは無いのかも知れない。
だが、「疑問1」から「傍系卑属系の支流族」であった事には「格式」を前面に押し出す程の家柄では無かった筈であった事だ。
故に、「疑問1」と「疑問2」が欠落して仕舞っていた事に成る。
「一族の伝統」とは支流の一家が忘れていても本家筋の他家は覚えているものでそんな欠落する程のものではそもそも無い。
故にそれが起こるとする可能性のある「傍系卑属系の支流族」であった事に就いて詳しく検証して観る必要がある。
「疑問1」と「疑問2」はそもそも護らなくてはとする「伝統意識」が低く、且つ、「伝統」そのものは違う。
故に、「傍系卑属系の支流族」では起こるであろう。
現に伊勢や信濃では未だに意味しない伝統は浸み着いて忘れ去れずに何らかの形でほそぼそと持ち得ているものだ。
「9つの縛り・嵯峨天皇が後に纏めた新撰姓氏禄」に依って「天皇家・公家・賜姓族・皇位族」はそもそも「諡号の姓・第一の姓」を持つが「第二の姓」はそもそも持たないのが掟だ。
これも「伝統の一つ」であり、だから未だ「青木氏」は統一して「青木氏」であるのだ。
従って、「天皇家・諡号と諱号」を除き「氏名だけの範囲・青木の氏や藤原氏」で名乗ったのだ。
唯、例外として「藤原北家秀郷流一門」は361氏と成り、「氏名や諡号や諱号」では一族一門の系統を格式管理できなく成り、「仕来り」として「三つの縛り」を設けてこれを判別する様にしたのだ。
其れは、前段でも論じたが次の通りであり忘れ去られていないでいる。
第一に、「役職名」を藤原氏の氏名の藤の上に付けて名乗る。
斎藤氏・工藤氏等
又は、許可を得て「役職名」を名乗る。
結城氏
第二は、「国、又は地域名」を藤原氏の氏名の藤の上に付けて名乗る。
伊勢藤原氏の伊藤氏・加賀藤原氏の加藤氏等
長沼藤原氏・長沼氏 永嶋藤原氏・永嶋氏等
第三に、「特徴名」を藤原氏の氏名の藤の下に付けて名乗る。
藤田氏・藤井氏等
第四に、以上の三つより更に「事情」により拡大して派生した氏は同名の「字」に替えて名乗った。
長嶋氏、長島氏等がある。
当初は先ず「兼光系」と「文行系」の二派に分かれ、其れより更に分流して「文行系利仁流」や「文行系修行流」に大分流した。
「秀郷流青木氏族」と呼ばれる「秀郷流青木氏」と「秀郷流永嶋氏」と「秀郷流長沼氏」は「兼光系」であり、「長谷川氏」と「進藤氏」は「文行系」であり、「秀郷流青木氏族主要五氏」と呼ばれ血縁性は取り分け高い。
これを以て「氏の総称」を「藤氏」と呼び、地域事に「伊勢藤氏・讃岐藤氏」等として大別した。
これで「系統や格式レベルや血縁関係」を判別するようにしたのだ。
唯、「秀郷流青木氏24地域・116氏」だけは秀郷一門に劣らず大氏一族ではあるが、「賜姓族の特別の格式を有する事」で、「嵯峨期の9つの縛り」に基づき「伝統の仕来り」として「氏名」だけとしたのだ。
要するに本論の「駿河青木氏」もその一つであるのだ。
ここで、更に「皇位族の賜姓臣下族の朝臣族」だけには、もう一つの「判別する仕来り」があったのだ。
それは上記で記した、「好名」とは別に「字名・あざな」であった。
天皇より「皇位族の者」が成した「功績」に従って「所領と民」を与えられた。
その「所領と民」は「小字と大字」に分けられそこに「民」が替わり振られ「特別の名」がつけられたのだ。
この様にその「場所」と「民」にはそれを「特定する名」とする「特定の仕来り」があったのだ。
それが、拝領時に「天皇」から「指名される賜姓」とは別に「賜名に値する字名・あざな」があったのだ。
その「字名・あざな」はその功績の都度に別の「字名・あざな」が与えられた。
この「字名・あざな」は其処の「氏人」も「民」も「名誉」とするもので扱われたのである。
何故ならば、当時は「国造」として「民」は「天皇」から与えられたもので「氏族の氏上に所属する仕来り」であって、「民の字名」は「一色の・・・」として「姓・代名詞」にも代わるものであったのだ。
故に、「青木氏の定住する所」には民の為にも必然的に「字名・あざな」を必ず持ったのだ。
その「字名・あざな」にはその「皇位族に関連する賜名」が読み込まれていたので、これで区別していたのだ。
従って、重なる事が起こるので特定する代名詞として一族以外の別人がこの「字名・あざなの慣習」を使う事は許されなかったのだ。
朝廷が認めた氏族に限り許された慣習であった。
言うなれば「賜姓」と共に「一族の賜名」であったのだ。
これを「一族の裔の者が住む土地の代名詞」として使っていたのだ。
当然に近江もである。
例えば「伊勢王の施基皇子」には、主に伊勢では「四つの大字名」が賜名されていた。
例えばよく使われた「字名」では、「一色や色や一志や一円や志基」等があるが、江戸期には「日本全国60カ所」にも及ぶ「一色関係の大字名」があるが、この殆どは「秀郷流青木氏を含む青木氏の定住地」に広がつているのである。
但し、国抜制度があった為に正式な移動定住は考え難く一部に真似たものもあるが、約8割は関係地と認められる。
これは「四掟に基づく女系の妻嫁制度」で全国に定住している「秀郷流青木氏の嫁家先」にもこの「字名」を興した所以でもある。
言い換えれば、「秀郷流青木氏の定住地」には伊勢、又は信濃から嫁いだ「女(むすめ)」がもう一つの同じ「伊勢、信濃の青木氏」を女系の優秀な嗣子に里の青木氏を興させたと云う事にも成るのだ。
つまり、況や、最早、重婚を重ねる事に依る「二つ血筋を完全融合する二つの青木氏」のこれが「60にも成っていた事」を示すものに成る。
よく似たものに「伊豆の青木氏」や「伊勢や信濃の氏人・郷士衆」がある。
筆者は、この「60の数」から観て江戸期には、最早、この「賜名の字名」は「格式名」の前に「完全な代名詞化」を興していたと考えているのだ。
つまり、「判別名に成っていた事」に成るのだ。
現実に「四掟」に基づきながらも「京の公家先」に嫁いだところでは「賜名の字名」は興っていないのだ。
所謂、これは「代名詞化する程の事」では無かった事を意味する。
唯、注釈として説明して置くのは、この「近江」にはこの「始祖の施基皇子」に基づく「賜名の字名」がそれなりの数であるのだ。
これを上記した様に如何見るかである。
この「近江」は、そもそも「施基皇子」の兄の「川島皇子・近江王の始祖地・佐々木氏」の守護地であったのであるが、ところがここに「施基皇子の賜名の字名」があるのだ。
これには「日本書紀」に基づけば次の「三つの説」が挙げられる。
一つは、平安期直前まで「川島の皇子と施基皇子」は当時の「臣下族の習慣」として「相互重婚の唯一の天智一族」であって、其の事から「施基皇子の賜名の字名」が「近江」に遺したのだ。
二つは、その結果として「二つの青木氏」が発祥した。
つまり、「近江青木氏」と「佐々木氏系近江青木氏」である。
この結果として、「施基皇子の賜名の字名」を遺したのである。
三つは、上記した鉱山開発を命じられてそこに「伊勢の青木氏の裔系子孫」を遺した事が云える。
その結果として、二つの鉱山付近に「施基皇子の賜名の字名」を遺したのだ。
ところが「近江佐々木氏の研究資料」には、この「川島皇子の賜名の字名」の事が何故か書かれていないのだ。
そうすると、「近江青木氏」は前段まで論じて来た「五家五流賜姓族の近江青木氏」では無く、一色からから来る現地の子孫、つまり「伊勢の裔系」の「近江青木氏」であった事にも成る。
つまり、「鉄穴から来る一色の大字名説」と成り得る事も考えられるのだ。
「佐々木氏系青木氏」は別としても、将又、「五家説の単独青木氏との両方での存在説であった事も考えられる。
筆者は、「近江佐々木氏の研究資料」からもこの事に就いて散見できないし、「両方での存在説」を今の処採っている。
恐らくは「伊豆」の様に「三つの混在血縁融合」が興っていたと観ているのだ。
「川島皇子の賜名の字名」は間違いなくあった筈であるが今では確認できない。
「日本書紀」に依れば「始祖の施基皇子」と同じく「合計封戸は500戸を授かっている事」から「近江」に「字名の賜名」は持っていた筈であるが、「好字令・713年・諸国郡郷名著好字令」の施行で消えた可能性がある。
それ程に「川島皇子の賜名の字名」は弱かった事にも成る。
唯、「天武天皇の崩御後」の際に「川島皇子の裔系」はその「行動・大津皇子事件」を「持統天皇」に疑われた史実があり、この事で「近江佐々木一族」は、其の後、「不遇の扱い」を受けた史実がある。
其の事から、「川島皇子の賜名の字名」は「賜姓」と共に「近江」で遺せなかった事と、源氏化に依って遺せなかった事が考えられるし、逆に「伊勢信濃」は発展し、その差から、完全な疎遠と成って仕舞った事を示すものと成る。
もともと「近江」の「真砂の不毛の地」は「伊勢」が「額田部氏に依頼しての開拓開墾」であって、その後の開拓開墾は成功し、「楮の生産」で一時「財」を成したが「源氏化」でその財源も失って「字名」も遺し得なかったのだろう。
故に、「佐々木氏の研究資料」には不思議に「字名の記載」がない所以であろう。
従って、先ず遺しえる力は無かった事が確実に云える。
と云う事は、だとすると「近江の遺る字名」は「施基皇子の賜名の字名とその裔系」であった事も云える。
つまり、一つと三つの事に依って遺した事に成る。
つまり、斯くの如しで「施基皇子の賜名の字名」は「松井氏の論説」をも裏付けるものと云えるのである。
と云う事は、これは「摂津」を「起点」として「近江」までにも「伊勢信濃の勢力」は「商い」のみならず「子孫力」でも伸びていた事を示すものだ。
筆者は、「日本書紀」にもある様に、「鉱山力」に強く注目して「銃に関わった事」の以外に「青木氏の歴史観」を広げる為にも「賜名」も研究しているのだ。
この事に就いては前段でも論じているので「本サイトの検索で・字名で検索」されたい。
「嵯峨期の詔勅禁令」でこの「賜姓」は「青木氏」か「ら賜姓族・源氏」に変更した事を論じたが、この時に「青木氏の慣習仕来り掟を真似る事」をも同時に禁じた。
この禁令は鎌倉期より室町期ではこの「禁令・朝廷の権威」が緩み「格式の搾取」が「格式の無い姓族」に依って激しく横行した。
この時にこの「賜名の字名」が「一部の者・地頭等」に依って「格式権威」に使われたのだ。
鎌倉幕府は治めるに必要としたので敢えて使う事を黙認したのだ。
それは「守護職」から変えて未だ馴染みのない「地頭職」を幕府は置いて治めようとした。
朝廷は幕府からの申し出の「地頭職」のこれを当初認めなかったからで、つまり権威の無い役職と成って仕舞ったので敢えて「権威付け」の為に「字名の使用」を強行した。
これには「嵯峨期の禁令があった事・青木氏の慣習仕来り掟の使用禁令」から逆らう事が出来ずにこれを黙認したのだ。
頼朝の地頭制度の最初は「伊勢の伊賀の地頭職」で、次は「三河の西尾の地頭職」であった。
取り分け、三河は「荘園」が多く、「七郡・碧海郡、額田郡、賀茂郡、幡豆郡、宝飫郡、八名郡、渥美郡」 から成り、「豊穣の地」として「荘園支配権の簒奪戦」が起こっていたのだ。
そこで鎌倉幕府はこれを鎮める為にも「地頭職・西尾氏」を始めて送ったのだが周囲を統治するだけの権威は無く効果は無かった。
そこで、この「西尾氏」に「施基皇子の字名」の「一色」を使わさせて権威づけさせて統治させようとしたのだ。
何故ならば、その近くにの「額田端浪の一色」には、三野王に嫁した桑名殿の「浄橋と飽波の裔系・額田青木氏」の一族が住んでいて、「始祖施基皇子の伊勢の字名・不倫の権」の「一色」を「仕来り」に従い名付けて権威化を図り周囲に「デリバリー」をこの地域に構成していたのだ。
これを利用して「西尾の圷」にも「一色の字名」で「伊勢の荘園」であるかの様に見せて従わさせる策に出たのだ。
伊勢の「伊賀地方」も同然で、「惣国地」でもあったここに「鎌倉幕府」は「足利氏・栃木県足利」を送って地頭を最初に置いたのだ。
そして「伊賀青木氏」と同化を図って一色姓を名乗ったが任期が過ぎると早々と現地孫を遺して足利に戻った。
「権威ある字名」はこの様に使われたのだ。
これがもう一つの判別する仕来りであったのだ。
(注釈 「駿河青木氏の青木貞治」の詳細経緯)
前段までに論じた詳細経緯で「青木貞治」は戦乱の中で歴史的に「青木氏族」に大きな影響を与えた人物であった事が云える。
そこで、従って、改めてその経緯を更に辿つて論じてみると、次の様に成っている。
「駿河青木氏の青木貞治」は、先ず「今川氏」の「土着国衆・土豪」と成った。
其の後に、今川氏の「渡り国衆」に成っていた「松井氏」が、そして「勲功」を挙げて遂に「今川氏家臣」と成り、「重臣」とも成った「松井氏・二俣城城主」に対し、「駿河青木氏の青木貞治」は「松井氏の国衆」と成り、「家臣」と成った。
ところが、「今川氏・桶狭間戦死」は衰退し「二俣城の松井氏」も衰退し、分裂した。
ここで「青木貞治の裔系」はその三つに分裂した松井氏の徳川氏側方に着いてこの松井氏は「今川氏から徳川氏」に「今後の命運」を架けた。
結局、優勢を保持した「徳川氏側の国衆」と成り、「松井氏の二俣城」は結局は「徳川氏の物」となった。
この「元二俣城の松井氏」と「遠江駿河土地」と「国衆の所縁」を以て「二俣城の守備隊・家臣中根氏」と成ったのだ。
そこに「駿河秀郷流青木氏」、及び、「武蔵秀郷流一門」の「後押し」で、「兵の支援・100」を受けて「二俣城の副将格・兵200」を獲得した。
「駿河国衆」より「遠江国衆」として成り得て「徳川氏の国衆―二俣城家臣」と成り得たのだ。
先ずこれを前提にすれば、「早期の経緯論」に成り得る。
4 宗信・弟 二俣城家督 1529 桶狭間戦死 1560年
結局はこの経緯から「駿河青木氏の青木貞治」が仕えたのはこの“「松井宗信」”であった事に成る。
だとすると、この直ぐ後の「桶狭間の戦い」で主君の“「松井宗信」”は戦死したが、同じ松井隊にいた「青木貞治隊・兵100」は何とか生き延びた事に成り得る。
そこで疑問・AとBが生まれる。
A 何故、生き延びたのであろうか。
其の後の「{二俣城」では徳川氏の中で子孫拡大どころかそれ以上に確実な地位を固めているのだ。
もう一点は、歴史的時系列では、丁度、この時、「額田青木氏の銃隊」は南下して「三河国衆」に成っている。
B 何故、この時期に「訓練中の額田青木氏の銃隊」が「三河国衆・1560年」と成ったのかである。
但し、この「桶狭間の戦い・1560年」には記録上では未だ「額田青木氏の銃隊」は参戦していないのだ。
国衆に成って4~5ケ月後の事である。
「駿河青木氏の青木貞治隊」は参戦したのだ。
この「二つの何故の事・A、B」に就いて「手掛かり」と成るの詳細な記録は無い。
特異な青木氏に依る歴史観である為に独自の時系列で追うしかない。
そこでAに付いて、気に成る点がある。
「桶狭間の戦い」の中心と成った付近の「ほぼ南300mの所」に「神明社・伊勢信濃の青木氏の守護神・現存・古跡社」が在った。
そして、ここから「北東7.5k・2里」に「春日社・2社・秀郷流青木氏の守護神・古跡社」が在り、何れも現存する。
この「神明社」と「春日社」は、何れも「二つの賜姓族の青木氏社」として朝廷より「不倫不入の権・朝廷」を得ている「古来の高井神格の伝統」を保持した「最高の社格式」で、室町期はその「拘束力」は弱まったとしても未だ敬われていた。
ここで改めて、「奈良期の伊勢信濃の賜姓青木氏の神明社」と、「円融期の賜姓秀郷流青木氏の春日社」で、「古来奈良期からの伝統的神格概念・社」とは異なる「伝統的神格概念」を緩めた「神社格式」ではないのだ。
故に、一段上の神的社のものとして「神社格式」とは別により特別に敬われていたのだ。
念の為に、簡単に論ずれば「社格式」とは、「神を崇拝する原理主義概念・奈良期の古来概念」であり、「神社格式」とは、「仏教的概念」をある程度含有した「神を崇拝する進歩的概念・平安期」であつた。
「Aの推論」としては、この「神明社」か「春日社」に「青木氏」として逃げ込んだ事で掃討を免れた事が云える。
唯、「信長」はこの「特権」を否定していたが掃討していた家臣等がこの伝統を敬い黙認したとも考えられる。
何れの「社」の「神職」も「四掟の嫁家制度」の「女系で繋がる青木氏・賜姓の同族」である。
この「神職・青木氏」が「社門」で盾に成った可能性がある。
この時、元信・家康は「大樹寺(松平家菩提寺)」に逃れ住職の助けを受けて助かっているのだ。
当時は、「戦場やその近隣の民」は難を逃れる為に「神社や寺」に上記の意味で逃れるのが一般であって、そこに身を変えて逃れたと考えられる。当時はこの高い格式の国幣社格に逃げ込むと兵は一般に手を無理に出さないのが伝統であった。
因みに、何度も論じた事であるが、唯、「秀吉」は「信長」よりもっと厳しくこの習慣を否定したが、流石に攻める事まではしなかったが、然し殆ど「焼き討ち」は掛けたのだ。
「紀州根来寺」などは民や僧兵と共に6000人と云う人を焼き殺した史実はその典型である。
何故ならば、戦乱期はこの様に「逃亡兵」がこの習慣を使って寺社に逃げ込む事が多かったのだ。
他に平安期に平家に追われた日向に配流と成った「源宗綱等他2人」が「以仁王の乱」で敗退し、配流罪で隠れ住んだ「廻村の者」と「薩摩大口村の浄土寺・現存・5人」まで逃げ込んで間一髪で「伊勢青木氏」を名乗り難を逃れた。
伊賀で関係を持っていた“青木氏を攻める事は出来ない”として「九州平氏・平氏の始祖の伊賀平氏の高野新笠・青木氏出自の光仁天皇・白壁王の妃」は再び「日向」に戻った史実があるのだ。
これが「日向青木氏の大口青木氏・現存」である。
この様な史実に、「永代不入不倫の権」を持つ「官幣社の最高社格式社」は乱世とは云ど最小限の処で保護されていたのだ。
又、室町期には「足利幕府」からも改めて「青木氏族」は「律宗族」としても認められ「侵犯」に付いて「特別保護」されていたのだ。
筆者は、そこで、A 何故、生き延びたのであろうか。?では、上記の「北東7.5k・2里の春日社」では無く、「南300mの神明社」に逃げ込んだ説」を採っている。
ここであれば逃れられる。逃げるとしても「北東7.5k・2里の春日社」は遠すぎるし、そこから「遠江」に逃げ帰るには地理的に困難であろう。
「尾張」を避け「三河の国境・現名 みよし」を廻り「三河」の「青木氏の所縁の安全な地等・岡崎から豊橋等」を経由して「遠江の西光寺」まで約100k・1日以上を所要する。
然し、「突発的に起こった襲撃」を躱すには「戦場の地に在る神明社」の方が先ずは「最適な避難所」であった。
況してや、「駿河青木氏・青木貞治」と「伊勢」は母方実家・で血縁族で訓練して興して貰った「第二の里」であり、且つ、この唯一つ残る「神明社の神職」は当然に「伊勢青木氏」であり、身を挺してでも一族を護ったであろう。
其の後、「伊勢」に連絡して「伊賀者」を動かし警護に着けた事もあり得るし、小舟で導き「神明社の傍」にある戦場を流れる「鞍流瀬川と石ケ瀬川」の支流を経由して「境川」を下り「三河湾」に出れば、最短距離と且つ安全に「渥美湾」で「伊勢水軍」か「実家の駿河水軍」が待つ船で助けられ「遠江」に戻れる。
筆者はこれくらいの事は出来たと考えられる。
そのキーポイントが現在・緑区桶狭間に在る「神明社」であったと説く。
ここに逃げ込めば後は何とでも成る。
筆者はこれを突っ込んで寧ろ次の様に考えている。
「桶狭間の戦い」は、1560年6月12日である。
これに「青木貞治隊」は「今川氏の国衆」として「松井宗信隊」に所属し、参戦している。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、この戦いの直前の2~5月頃に「国衆」と成って南下し、其の後、「伊川津の三河国衆・西三河」として定着した事に成る。
この後、ところが松平氏が違約して「東三河隊」に所属させられ、「吉田城守備隊・1565年・武田氏の侵攻予測」と成っている。
「武田氏との第一次吉田城の戦い」は、「守備隊7年後」の1572年の「三方ヶ原の戦い」の1年前の事である。
当然に、この時、既に「伊勢青木氏と伊勢水軍」は約束の通り「渥美湾・2h」に廻船を始めていた。
「桶狭間の前」には、既に「伊勢と伊勢水軍の廻船」は「蒲郡の石切り湾」を拠点にして動いていた。
とすると、「1560年6月の戦い」では、「伊川津の南下国衆と家族を護る事」と、参戦している「駿河青木氏・青木貞治を護る事」の為に、万が一の場合に備えて、「警戒の帯同」の為に「陸・伊賀青木氏・情報」、「三河湾の配置」の為に「海・伊勢水軍・救出」と、綿密に作戦を組んで動かしていたと観ているのだ。
当然に、「駿河水軍」も「伊勢からの指令」で「三河湾」に集合し待機していた事が充分に考えられる。
其れを行うだけの「充分な財力と抑止力」が在るのだから躊躇なく筆者なら絶対にそうしているし、何もしないという事は100%無いだろう。
それが「青木氏族の氏族」の長く生き延びる為の「戦略行動」であって、奈良期から生き抜いてきた「青木氏族」であってこそ、そんな間抜けな「伊勢・福家」では無かったと自負しているのだ。
「織田軍と今川軍」が衝突する様な場所は、凡そは予想が着くとするならば、又、其処辺りには「神明社と春日社」が在るとするならば、上記の様な戦略を事前に立てるし、事前に「駿河青木氏」や「額田青木氏」には「事前連絡・伊賀者」は着けていただろう。
何せこれを行う「情報・伝達組織」には「伊賀青木氏の香具師」が存在し全く苦労はしない。
「行軍・戦い時の兵糧の運搬・駿河青木氏」もあるとすると、「伊勢水軍・駿河水軍」と「伊賀青木氏の香具師の隠密行動」も必ず必要であった筈である。
これ等の事は「他氏には絶対に出来ない行動」であり、「氏族の強みを生かす事」でもあったのだ。
前段や上記でも論じた様に、「額田青木氏の銃隊と荷駄50」と「駿河青木氏の隊・100」には「伊賀青木氏」を組み込んでいたと論じたが、当にこれを証明するものである。
上記の論だとするとして、これに「追加する事」として、訓練中であった「額田青木氏の銃隊」は「桶狭間の前の前哨戦」の「小豆坂の戦い」の「一次戦」に「軍事演習的行動」として依頼されて参戦しているが、この事も考え合わせると、「額田青木氏の銃隊」の「一部」が「伊賀青木氏」と共に、「伊川津域」に国衆として定着する「少し前・4~5月程度」の「桶狭間」に、“「一族の誼」”として「駿河青木氏の青木貞治隊」にも密かに合力していた事も考えられる。
だとすると、桶狭間の敗戦では“上記の筋書き通りに簡単に安全に脱出出来た”と観られるのだ。
その証拠に、故に、記録に遺る事もない程に「駿河青木氏の青木貞治隊」は犠牲無く脱出出来ているのだ。
ここに後に「完全に生き残っている事 イ」と、「二俣城の副将と成り得ている事 ロ」の「論の焦点」が来るのだ。
そして、その後に「松平氏の家臣・御側衆・旗本 ハ」と成り得ている事のイ、ロ、ハと下記のニ、ホを勘案すると、「上記の筋書きの状況証拠」は成立するだろう。
況や、「桶狭間」で二俣城城主が討ち取られる「大犠牲の大混乱の真中・逼迫戦」で奇しくも「青木貞治隊」が生き残り得たとすれば、例え、「松井氏の衰退」で「徳川氏・松平氏側」に着いたとしても「松平の国衆 ニ」にも成り得なかった筈であるし、又、其の後の「駿河・相模青木氏の支援」を得て「兵力・200」に増やし「二俣城副将 ホ」にも成り得ていなかった筈だ。
要するに、「青木氏族の生き遺りの為」に、「戦乱の中」では「唯一の抵抗手段」の「大抑止力」は働いていたと云う事になろう。)
「青木氏の伝統 64」-「青木氏の歴史観-37」に続く。
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