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甲斐青木氏の研究(花菱紋)-後編

甲斐青木氏の研究(花菱紋)-後編
投稿者:福管理人 投稿日:2009/09/29(Tue) 15:21:16


[花菱紋から丸に花菱紋]
親族の豊定の柳沢氏の菩提寺は常光寺-光沢寺-永慶寺-護国神社となります。
その柳沢氏は上記の理由で曹洞宗常光寺から引き上げて浄土宗光沢寺を開山しました。
同じく兄の正定の本家筋を継がした青木氏の菩提寺は常光寺-源空寺(末寺 明治廃寺)を開山しました。そして、自分の青木氏は山間部の「国衆」の防衛団役として住んでいた北巨摩郡の菩提寺松源寺を開山したのです。
柳沢郡青木村の人の青木氏の菩提寺は結局は有りませんから甲斐に戻った後は「丸に花菱紋」の曹洞宗常光寺としたのです。
”何故、柳沢郡に青木村があるのか”と云う理由は信定が臨終の間際に採った父子の「路線争い」と「宗派争い」の苦肉の策と観られます。
14代目兄弟正定、豊定の親族では特に豊定自身が継ぐものと思っていただけに苦々しく思っており、止む無く伝統の無い柳沢氏を発祥させられる羽目に成った事に成ります。
後刻、末裔は花菱紋の別家を起こした兄と共に、この養子信之の末裔(長男元忠襲名)に対して異議を申し立てた事になります。
事実、この伝統ある皇族青木氏の柳沢郡青木氏を血縁の無い青木氏が継いでいる事に対して甲斐全体の青木一族には、継承の経緯もあり、決着を付けるべく”伝統ある青木氏を血縁の無い者が継ぐ事は罷り成らん”と申し込んだと観られます。
”事実、血縁が無い事は否めない事実”として”「花菱紋の使用」と「浄土宗派」をやめるが、「系譜」と「青木氏」を改める事は拒否する”として決着を図ったと成っている訳です。
果たして決着を見たのかは疑問です。
取り敢えず、「花菱紋」から伝統の無い分家的な扱いの「丸に花菱紋」に変紋した事で一応は納得した事にして”様子を見る事にした”としたと思われます。

と云うのは、この事は次ぎのことからも覗えます。
1 寛政の史書(1800頃)にも「寛永第三の青木氏」(1635頃)と示されていた事。
2 花菱紋青木氏元祖の正定の9代目末裔信政(1735頃)が、この「丸に花菱紋」の系譜を当時の口伝から偏纂し添書を詳細にして違いを表し、伝統を正確に遺した事
以上等で末裔は先祖の錯誤行為を一時納めたと観られます。
3 この時、末裔信政は”この「丸に花菱紋青木氏」は違うのだ”と後世に示す為に、年代も故意的にみえみえにずらして居ることもその憎悪の程が良く判ります。
4 9代目末裔「信政」が編集し直したとされるその養子「信之」を祖とする「丸に花菱紋」の系譜には、その添書もさることながら、「信正」の所が「某」と記されているのがその先祖に対する「遺憾の意」を表現している所で、その経緯が面白いと見られます。
自分先祖の系譜には「信正-信定」と明記していながら、信之養子の系譜には「某」-「信定」とし添書を記しているのです。これでは直ぐに判ります。
これは遺憾の意を後世に表すために故意的に判る様にしたのです。

常光寺に祭祀されている「信安(11)」の弟「信生(11)」の次に「信正」(12)が来て更に「信定」(13)が来て養子「信之」(14)-養子「信茂」(15)....(20)として、この系譜は明らかであるのに、わざわざ「信正」を「某」とするのも故意的です。
この末裔信政は自分の系譜も添え書きの追記編集していてそこは正常に記載しています。
末裔信政は信定(13)よりは信正(12)に対して「遺憾」の感情を持っていた事が割ります。

当然、この様に系譜は明治までは花菱紋一族は、親族柳沢氏と同じ対応をしていた事に成りますが、源空寺の廃仏毀釈で、「お墓と仏像と過去帳と記録資料と石燈等」の「花菱紋青木氏の遺産」を何れかに移す必要に迫られた事になります。
その理由は、上記した「丸に花菱紋」と「常光寺曹洞宗」の経緯にあります。
南北の巨摩郡青木村青木氏と一門一族は、この歴史的史実を寛政の史書から少なくとも(1800-1900)年頃まで知っていたと思われます。少なくとも本家筋の南巨摩郡の浄土宗派は。
「丸付き紋」とした為に分家となった派は曹洞宗に入信し、宗派争いは3宗派で燻り続けて明治まで続いたと見られます。
養子続きの系譜上の経緯から「丸付き紋」青木氏の一部が浄土宗のお寺にする訳には行かなかったのでしょう。”止む無く、曹洞宗とし、南明寺を墓所とした”と云う事に成ります。

ところが、「丸に花菱紋」曹洞宗の青木氏(第三氏)派に対して、明治初期に発祥した「第3の青木氏」の存在が更に複雑にして、廃仏毀釈廃寺の浄土宗源空寺の「歴史遺産」に複雑にしている様子です。
恐らくは、この歴史遺産は明治初期頃までは承知されていたとすれば、昭和の末期に不明に成ったとすると、その廃寺後の処置から紛失経緯を鑑みた場合、現存する花菱紋本家分家筋に引き取られている可能性があります。
現在、源空寺跡近在の歴史家等によって市の文化遺産にした事や、曹洞宗などの対応から観て、この「第3氏」等や「宗派問題」の解消又は区切りを図ったと見られます。
実は地元がこの「第3氏」の問題に苦慮するには理由があるのです。それは甲斐の「第3氏」の青木氏の問題は「特別な背景」と云うか事情を持っているからなのです。(後述)
もし、これ(第3氏の主張)を認めると文化遺産の所有権の問題が更に複雑になることが予想できるからなのです。
兎も角も、1573-2009年頃まで続いた甲斐花菱紋青木氏の問題はこの研究レポートが一助になることを期待しています。
この「特別な背景」を理解する前に必要とする経緯を復習したいと考えます。

「柳沢青木氏の復習」
経緯
武田氏系青木氏と同じく、柳沢郡の青木氏は「長篠の戦い」(天正3年)で敗戦しました。
(武田勝頼に奇策を提案したが受け入れられなかったので、武川12騎は勝頼から離れ戦線から離脱した)
その直前(1567)に、信定(巨摩郡青木氏と柳沢郡青木氏の父 常光寺を曹洞宗に改宗した人物)の妻の実家(安芸国桜井安芸守)を頼り一族は安芸に移動します。
この柳沢郡の青木氏は元は織田信長に攻められる前は和泉守(高尾氏)でした。(和歌山と大阪の境の国 後に毛利氏から浅野氏になり紀州徳川氏に移る)
柳沢郡青木氏はこの後、母安芸の実家の安芸守の縁で「毛利元就」(中国地方の覇者)に仕官します。
そして、勲功で安芸の尾引城の城主となります。
毛利氏の勢力拡大に著しい勲功をあげます。
更に元亀4年の元の和泉守を取り戻します。
しかし、この者は(初代養子信之)尼子の戦いで戦死します。
そこで子供の次男毛利氏の伸張で志摩守と成り信之の跡目を天正5年に継ぎます。
ところが、この次男は毛利氏の配下で讃岐元吉城の合戦で戦死します。(長篠の敗戦から2年後)
この志摩守の兄(青木助兵衛元忠)が跡を継ぎ父の名信之を襲名し、その後、三田尻(山口)に移りそこから一族は甲斐国韮崎(1582)に帰ります。(墓は安芸、三田尻近在になしの記載あり)
この毛利で3代続いた養子一族の柳沢郡青木氏一族は、和泉守、志摩守等をして大きく財を築きました。1577年頃、その勢力と財力で先祖の曹洞宗常光寺を再興し先祖祭りを再び開始します。
この時(天正中頃:寛永に記録)、北巨摩郡青木氏から家紋と系譜の使用で協議します。
この時期の北巨摩郡の青木氏を含む「武川衆」は「武州鉢形に国替え」は起こっていないので、丁度柳沢郡の養子青木氏も戻った所であり協議と成ったと考えられます。
協議結論は家紋は丸付き紋に変紋と改宗で妥協、系譜は譲らずと成ります。(慣習は原則丸付き紋は不使用)
これが、曹洞宗常光寺の寺紋「丸に花菱紋」の所以で、「丸に花菱紋」の発祥理由です。
系譜には末裔に対して理解を得る為に経緯の詳細を書添に遺した事に成ります。
次に、理解する事として「尾張守」に対する知識です。

「尾張守の意味」
さて、ここで、この「尾張守」の持つ意味はどのようなものかを歴史の変化で述べます。
官職で職位です。尾張の守護職で尾張の守護地から取れる石米を糧としていた事を意味します。
史料から次ぎのものが観られます。
甲斐氏一族には武田氏本家の「甲斐守」があります。
菱紋青木氏、割菱紋青木、花菱紋本家青木氏は「尾張守」です。
武田氏が最大勢力を張っていた時期はここまでです。軍制にも「尾張衆」とあります。
残る家紋の一門柳沢郡青木氏は「和泉守」(高尾氏)と一部の史料に記載されています。
花菱紋の別家青木時光は「摂津守」です。
甲斐でいながら尾張の守護とは変ですが、平安時代、鎌倉時代、室町時代前期は自分は朝廷の仕事をし領地には朝廷、幕府から国司、地頭、守護を送ります。この国司、地頭、守護が守護主に代わって勤めます。自分は朝廷、幕府の仕事をします。
鎌倉時代からは守護の代わりに地頭を送りますが、殆ど自分が赴く制度です。

平安時代は守護は公家と貴族と朝臣、宿禰族が領地を持ちましたので、公家貴族は采地には軍事を持ちませんので護ることが出来ません。そこで「国司」「地頭」を送ったのです。
江戸時代に成ると、この守護は無くなり領主となり自ら当ります。そして家臣に任せて幕府に仕えます。
ところが、しかし、次第に江戸中期以降、中級以上の武士は金品を天皇家に送り名誉職の実質の伴なわない官位官職を貰う事に成ったのです。衰退した朝廷の経済的財源と成りました。
むしろ、幕府はそのように仕向けたのです。天皇家に僅かな経済的な潤いを与えて幕府の経費を削減して朝廷が幕府に歯向かわないように縛り上げたのです。
当然、幕府の職位と天皇家の名誉職とダブル事に成ります。
この事で争いが起こっています。
ですから、ある時期を通じてこの官職に対する見方評価は別にする必要があります。
平安期、鎌倉期、室町期はほぼ正等に評価して史料史実として考察する判断材料に成ります。

というのは、この武田系青木氏にはこの尾張守が大きく左右する疑問点があるのです。
下記で系譜上の最大疑問点であるこの事を論じます。
その前にもう一度「一条氏」の事に付いて検証します。

「一条氏呼称の疑問」
次ぎに”一条氏と武田氏と青木氏とで家紋が変わるのか”の疑問です。
一条氏は一応武田氏では母方です。忠頼の母一条郷出身であると云う前提に立っています。
本来は「氏家制度」は男系継承です。
武田氏の血を引いた源の時光ですので、前編と中編で述べた様に身分と家柄という点では弟より落ちる事に成ります。
そこで、忠頼の一条氏をとりわけ誇張したのであって男系の一条氏では有りません。
この一条氏の系譜継承で名乗るにも問題があり過ぎるのです。
本来は一条氏は藤原北家筋の摂関家です。藤原秀郷は北家です。その秀郷の血筋も陸奥の小田氏(武田氏は)で血筋を引いている事に成ります。
武田氏は源氏末裔を名乗っていますが、清和源氏の頼光が本家筋です。
弟の頼信系の分家で河内源氏の更に傍流と成ります。更に、陸奥小田氏(秀郷一も門杜血縁)から豪族となった甲斐の武田氏にこの傍流の跡目を送り込み源氏系としたもので、藤原秀郷一門の支流に源氏の跡目を入れたことを意味します。
よって、この血縁は氏家制度の中では下の氏との血縁を源氏がしたことを意味します。本来は源氏は下の氏との血縁はしないのが慣習で殆どが青木氏を含む賜姓族、皇族16氏の同族血縁が主流なのです
しかし、止む終えない事でした。源氏の16の一門は平家一門に圧迫を受けていましたので、なんとしても子孫を遺す必要があったのです。そこで下の氏との血縁をした事に成ります。
ただ、武田氏には藤原秀郷一門の筋が流れていますので、源氏としては建前は護れた事を意味します。従って、武田氏は源氏の跡目が婿として入ったので、源氏の血筋の良い方の家柄身分の方を誇張したのです。
この時光系の一条氏を名乗るものと同じです。
清和源氏の河内源氏の傍流からすると、支流の直系ではない末端の源氏です。(史実が取れているので未勘氏にならない)それも頼信系の分家筋の賜姓清和源氏です。
ですから、女系側の清和源氏には藤原摂関家の母方一条氏の血が流れていますので史実の如何を問わずより一条郷を作り出し忠頼の一条氏を名乗りたかったのでしょう。
同じ清和源氏の分家本流の河内源氏の頼朝に謀殺された初代忠頼も甲斐一条郷の出身として名乗っていますが、一条郷に一条氏が流れ着いたかの確証は見当たりません。
そんなにあちこちに一条氏が逃がれるだけの一族が居たのでしょうか。これは明らかに疑問です。
これは清和源氏母方の一条氏の誇張ではと観ています。
時光の末裔の仕組んだ誇張宣伝ではなかったかと観ているのです。
この時代大変にこの風潮が蔓延した時期なのです。第3氏と未勘氏の発祥もこの時期が多いのです。
(江戸初期前後の2期目混乱期)
ですから、家紋は笹竜胆ではなく、武田氏の菱紋で、更に、分家のその分家筋の花菱紋なのです。
武田氏一門は厳密には6つの菱紋、概して8つの菱紋を一門としています。
氏として分けると、花菱紋はこの第3番目です。
1番は本家武田菱紋、2番は割菱紋、3番目が花菱紋です。
これでは時光の気持ちは判ります。まして、弟の源光系は1番2番で、朝臣族皇子の甲斐賜姓青木氏との血縁を主流としていますから兄としてはたまりませんね。
ですから、武田氏は笹竜胆紋は使えませんし、宗家から認められません。ですから使用していません、武田氏の家紋類だけです。
甲斐武田氏が直系の源氏であれば笹竜胆紋の筈ですが、同じ分家頼信系列でありながら、義経、頼朝等は「笹竜胆紋」ですし、甲斐の皇族賜姓青木氏も笹竜胆紋です。
甲斐源氏と名乗っていますが、分家の支流の分家の武田氏です。(公表している史料は誇張)

信濃足利氏でも、陸奥から藤原秀郷一門と血縁して護衛団として足利の赴任地に同行した花房氏が地元に定着し勢力を得て土豪と成り地名を採って足利氏と名乗りました。
その後、藤原秀郷一門がこの足利氏の絶えた分家に藤原秀郷一門の者を入れて分家を興して、最後はこの本家を排除して足利氏を乗っ取ったのです。
其処に清和源氏頼信系本流との跡目血縁を2度して清和源氏系足利氏が出来たのです。
後にはこの様によく似た事件が起こっていますが、武田氏ではこれ程では有りません。
足利氏の場合は藤原秀郷一門が大きく足利氏に関わっています。
清和源氏の時光は下の家柄の武田氏と繋がります。

そして、清和源氏は第6位皇子の経基王の子孫で甲斐賜姓青木氏も第6位皇子です。
源光自らはこの清和源氏(清和天皇第6位皇子系)頼信系の末裔であり、且つ、甲斐国守護王の皇族賜姓青木氏(光仁第6位皇子)と血縁をした賜姓族系であります。
時光は甲斐武田氏に跡目として入った一族の血縁朝臣族として単族で皇族青木氏を名乗った訳ですから兄でありながら身分は下と成ります。

この時光が名乗った青木氏は「嵯峨期の詔」によるものです。
嵯峨天皇期の詔とは ”皇族者が平民になる事の「下俗」する時に青木氏を名乗れ””その青木を他氏は名乗ってはいけない”の天皇の勅令の命令です。
父桓武天皇の賜姓青木氏に対する反発から、子供嵯峨天皇は賜姓をこの青木氏から氏名を変えて賜姓源氏としたのです。
この命令に従い清和源氏は第6位皇子ですので(「朝臣族」ですので)青木氏を名乗れるのです。
この詔を使って下の身分の武田氏と血縁した時には身分家柄が下がりますので「青木氏」を名乗ったのです。
この詔を使える資格者は歴史上18人居て内確認出来る範囲で4-5人です。
本来、時光は源光に対抗して詔を使ったと云う説を採用しています。。
しかし、弟の源光は、尚且つ、武田氏でも本家筋の上の家紋2つの菱紋と割菱紋と笹竜胆紋との血縁ですので差が大きく出ています。この二つは賜姓青木氏系と成ります。
同じ武田氏系でも家臣ではなく客人扱いです。座る位置は全く兄弟と言えども時光は家臣となってしまいますので下座下末座です。これでは面子が有りませんので、だから母方一条氏や詔の青木氏を持ち込んだと成ります。
これが青木氏や一条氏の名乗りの背景と成ります。

しかし、この末裔の正定らは更に下の扱いと成り、「国衆」と云う驚くべき階級なのです。
しかしながら、その家柄では朝廷が嵯峨期の詔が認めている証拠として次ぎのことがあるのです。

「源空寺と吉田氏」
そこで時光系の正定(14)では浄土宗源空寺を菩提寺として建立しますが、この寺の位置付けを示す事柄があるのです。それはその住職に吉田氏を迎えて居る事なのです。
何故そのように成るのかと云う事なのですが、その住職吉田氏に付いてお話します。

先ず、源空寺をどれだけ大切にしていたかと云う事を意味しその寺の位置付けが判るのです。
つまり、この吉田氏住職は源空寺の寺院の威厳、権威、又はレベルを示すものなのです。

「吉田兼好」徒然草の作者を承知されている事として、吉田兼好は朝廷の役人(官僚)をしていましたが、役所勤めが嫌に成って放浪の旅に出ました。
その役所の勤めとは何であったかと云う疑問です。
吉田氏は日本書紀に出てきます古い伝統の藤原氏に負けない氏です、
つまり、朝廷の祭祀を司る斎蔵の藤原氏の下役人だったのです。
中臣鎌足、つまり、藤原鎌足は大化改新の功労者です。
その仕事は朝廷の官僚機構の3蔵の一つの「斎蔵」の祭祀を司る官僚でした。
昔奈良期-平安初期の政治機構は3つの機構で出来ていました。

1 「斎蔵」です。朝廷、天皇家の事務一切を取り仕切る政治機構です。
2 「大蔵」です。朝廷の財政全般を取り仕切る政治機構です。
3 「内蔵」です。天皇家の一切の財政全般を取り仕切る政治機構です。
これを「3蔵」と云います。
これに軍事が着き「斎蔵」が指揮する形です。

そこで、この「斎蔵」は事務一切の中には、朝廷の祭祀行事(政治を含む政所:まんどころ)が主な仕事ですが、斎蔵の藤原氏はだから摂関家なのです。
これを藤原氏の下で専門に祭祀だけを行っていた官僚が吉田氏です。
この吉田氏は奈良時代からの氏です。
吉田氏は朝廷と天皇家の神社仏閣の専門祭祀役人です。
全国に最も多い神社の宮司は吉田氏ですが、この関係から来ているのです。
また、寺社も吉田氏が多いのです。余り知られていないのですが吉田氏は祭祀の名門族なのです。
関西の神社には吉田氏は大変多く、とりわけ熊野権現社を始めとして万葉の世界が残る紀州には吉田氏が多く宮司として現在も任官しています。

(参考 世界遺産の熊野権現第1社の藤白神社は吉田氏です鈴木氏の発祥社です)

青木氏、佐々木氏も浄土宗菩提寺を自らの氏で運営をしていましたので多いのです。
独自の菩提寺と氏神を持つ身分でしたので、身内の者がそれを勤めました。佐々木氏と青木氏の家紋で見分けが着くのです。その伝統が今でも続いているのです。
吉田兼好はこの祭祀役人でした。藤原氏の下で役人勤めが嫌に成ったのは今も同じですね。
これ等の事は「研究室」の「鈴木氏関係のレポート」2つに書いていますので参照して下さい。

どう言うことかと云うと、常光寺の曹洞宗改宗の時に浄土宗源空寺を開基しました。
この時、この寺に対する肝いり具合が判るのです。
藤原氏を通じて朝廷関係者から吉田氏を迎え入れた可能性があると云う事です。
源空寺の元墓には現在も住職吉田氏の墓があると云う事はこのことを意味しています。
つまり、それだけに花菱紋の青木氏は皇族系ですので、藤原氏を通じて吉田氏派遣を願い出たという事に成ります。
”何時から源空寺の住職は吉田氏か”は現在、私も未確認ですが、恐らくは最初からではないでしょうか。まだ今でも、吉田氏の墓があると云う事は、昔から吉田氏系統の住職であった可能性があります。だから廃寺になっても吉田氏の墓があると云う事に成ります。
吉田氏を住職、宮司としてある神社仏閣は位の高い神社仏閣と言う事を意味します。
吉田氏を迎えるだけの氏柄、身分でなくては派遣されません。
まして、京や奈良ではなくて、甲斐ですので、余程の氏身分では無くては北家の藤原摂関家からは派遣される事は有りません。
時光系は賜姓源氏で皇族朝臣族青木氏ですので、文句無く派遣される事です。
武田氏の元は、源信義が跡目に入る前は北家の藤原秀郷一門と陸奥小田氏との血縁族でした。
筋目から全く問題はありません。

「吉田氏」の住職で「源空寺」は最高の組み合わせです。
時代的に”吉田氏は何時からで、青木氏の住職は合ったのか”の確認が必要です。
研究課題として調べていましすがまだ見つかりません
この様に吉田氏の史実一つでも源空寺の時光系青木氏の確証が取れます。

「系譜上から観た武田氏系青木氏の系譜経緯」

さて、次ぎは時光系青木氏の実系譜を記述します。
これは上記した系譜上の疑問点の解決に必要とするもので、公開されている誇張された史料とは一部異なるところがあります。

寛政までの系譜(割菱紋 葉菱紋 時光系本家)
信義-信光-信長-信経ー時信-時光*-常光-信連-貞義-義遠-安遠-義虎-信種-信親-信時信安-信就-信幸-信峯-信祐-信任-信*-信考-某

(割菱紋 時光系分家)
義虎-信正ー信定-正定-正重-信久-信知-信秋-信富-信保-正蜜-信政
累代です。


さて、この系譜では、信正は8代目、信定は9代目となる筈です。
ところが、本来の本家と分家の系譜では、信安11の義弟落合氏養子の信生11系列に成っているのです。
信生11は信安11の義弟ですから、本流の系譜の中には有りません。又、常光寺には祭祀されていません。
どの様に系譜の位置付けに成っているかと云うと次ぎの様に成ります。

北巨摩郡青木氏 信生11-信正12-信定13-正定14-正重15・・と成ります。(後述)
柳沢郡青木氏 信生11-信正12-信定13-信之14-与蔵15(次男)-元忠16(長男:襲名)-信茂・・・(後述)

上記二つのどちらにも系譜には11代目の信安の義弟の信生11が8代目、9代目の信正とその子の信定の前に来ています。最大の疑問です。
先ず年代的に観てみると、信正は信虎と信玄、信定は信玄と勝頼に仕えています。
信生は勝頼に仕えて徳川氏に仕官しています。
信生の経歴は信安の実父信時に養われています。
武田氏家臣で落合常陸守信資の三男です。
子供の居無かった信時は落合氏から養子として縁組し小さい時から養ったが、その後に実子が生まれ信生の扱いは部屋住みと成りました。

次ぎに、この信正に付いて考察します。
信正は青木氏本家の義虎の子供で嫡子は信種であるので、嫡子外の子供で妾子です。
しかし、信種は尾張守と成っています。信正も尾張守です。同時期に尾張守に成っています。
ところが、嫡子外妾子の信正には後継ぎの通名の「与兵衛」が与えられ尾張守にも成っています。
何れも信虎と信玄に仕えています。

疑問
1 同時期に尾張守
2 世継ぎの通名「与兵衛」は信正に

これを”どの様に理解したら良いのか”の「信生の系譜の位置」と合わせて2つ目の最大疑問です。

これから推理すると、先ず考えられる筋目としては、次ぎの様な事に成ります。
1 信種は信正であろうとする説が成り立ちます。つまり信正=信種説です。
年代共に一致しある一点を除いては疑問は解決します。

次ぎの事も成り立ちます。それは信種の子供嫡子信親は尾張守で通名の与兵衛が着いています。
2 信正が信種の子供嫡子の信親であろうとする説です。信正=信親説です。
年代もほぼ一致しある一点を除いては疑問は尾張守と通名の点で解決します。

信親の子供の信時つまり、信安の実父で信生の義父です。尾張守ですが通名の与兵衛は有りません。
3 信正が信親の子供嫡子の信時であろうとする説です。信正=信時説です。
この説では年代は何とか一致しますし信生が先代に据える事は可能です。

先ず、ここで通名が大きなキーワードに成っていますので、中編でも記述しましたが、系譜上からこの通名を名乗った人物をもう一度引き出します。

「通名の考察」
義虎は弥七郎-信種は無し-信正は与兵衛-信親は与兵衛-信時は無し-信安は与兵衛-信就は与兵衛-信幸は与右衛門-信峯は与右衛門-信祐は与兵衛-信任は与兵衛-信*は与右衛門-後は与右衛門
義虎以前には与兵衛は無い。尾張守は嫡子は代々継承している。

このことからすると嫡子であれば与兵衛の通名を継ぐ事に成っているとすると、信種と信時の2人は通名が無い事が不自然であるので、1番の尾張守でもあり同一説が納得できる事に成ります。
では、信種なのか信時なのかを考察すると、次ぎの様に成ります。
しかし、上記した様に、正定ルーツの系譜(花菱紋)と養子柳沢郡青木氏の信之ルーツ(丸に花菱紋)の系譜の二つはこの1番の説では起こらないことに成ります。しかし、子孫は現存しています。
ある以上は1番の信種説と3番の信時説は成立しません。

2番の信親説には信親は、又の名を「信立」であると添書に書かれています。
この「信立」は全ての系譜上には出てきません。
つまり、しかし、「信立」は柳沢氏の系譜から公開されている史料では初代人物の元祖であるとしています。
しかし、柳沢氏は系譜では豊定を初代として明らかに系譜にありますので、信生-信正-信定-豊定としていますので本流の信親の「信立」ルーツでは無くなります。
とすると、”この「信立」は一体誰なのか”を解く必要が出てきます。

一種架空の人物の「信立」は本来系譜の信正の子供の信定であろうとする説です。
つまり、系譜を作る際、或いは信政が再編集する再に、信定の「定」の字の行書を「立」と観てしまった、又は書いてしまったのではないかと考えられます。
系譜資料では字体の崩し様で確かに「立」に読み取れるのです。

そうすると、123の説は消えますので、信種の腹違いの弟妾子信正は別家の割り菱紋を起こした事に成ります。これが正しい答えと成ります。

では、次ぎは尾張守と与兵衛の件を解決する事です。
先ず、信正と信種の年齢です。
明確な史料は有りません。そこで、戒名を特別に調べました。(個人情報に関わるので詳細不公表)

信正の戒名から死亡年は不明ですが、法名は信正は深見、信種は浄賢と明らかに異なりますので別人である事は間違い有りません。

考察経緯
A 信正の死亡年代は1548年頃、信種の死亡年代は不明だがこの僅か前と成ります。
先ず、当初妾子の信正が別家を興した。
B しかし、嫡子の信種が尾張守を名乗り死亡した。
C そこで、別家の信正が嫡子扱いとなり、それより以後「与兵衛」を通名として名乗り、跡を継いで尾張守に成ったが戦いで信正も死亡した。
D その跡を信種のルーツに戻しての豚ねの子供嫡子信親が尾張守に成り通名を与兵衛を名乗った。
E そして、嫡子信親が死亡した。
F これを再び別家信正の子供の信定が継いだ為に通名の無い尾張守と成った。
G この間20年程度の経緯で、その後、信定は長篠の戦い(1575)で戦死した。
H そこで、又本家に戻して通名の無い形式上信時が尾張守となった。
I しかし、この時は既に尾張守は有名無実のもので、2年後の1578年で滅亡の一時期であったので通名は後世滅亡か存続かどの様になるかは判らない為に名乗らなかった。
J その後、本家分家ともに徳川氏に仕官出来たし、本家嫡子の信安は真田氏の上田城攻めに加わる事に成ったし、分家正定は武州鉢形に国替えとなり徳川氏の旗本に成ったとすれば疑問は解けます。

因みに、尾張守は時光より3代目の信連から始まり、嫡子貞義-義遠なし-安遠-義虎なし-信種と続きました。
信種の親の義虎は無役でした。それだけに、信種に対する期待は大きかったとみられますが戦死したので嫡子信親にせずに別家の信正に移した。
この時代の信虎の武田氏はひどい戦いに明け暮れていたので嫡子を失う事を嫌ったのではないかと観られます。
この時には信虎と信玄の軋轢の争いが物語っていますが、信玄も結局40数回もの戦いをしたのでこの様な系譜と成ったと見られ、その影響もあって戒名等には詳細が書き込まれていないのもこの事から来ているものと思われます。この間20年であるので如何に難しかったかが判ります。
以上系譜の添書から割り出した系譜の経緯です。

次ぎは、信正の上に信生が来る系譜である。
A 信生は信時に養子嫡子として育てられたが実子信安が生まれた事から信安を嫡子とした。
B そこで、信生の扱いに不憫に思い苦慮した信時は別家の信正の跡取として据える事を考え系譜上で信生を別家の上に据える事を相談したのではと観られます。

この時は別家は信定の時代で上記の系譜の経緯からすると、本家側から見ると別家からの人の移動が無いが本家との区別が少ないと観ていたのではないだろうか。
信定の子供としては実子の正定や豊定や豊勝等が居て親子争いを起こしていたので、子供として養子にする事は難しいと観たのではないか。そこで、上にすえる事で、形式上何とか処理したのではと観られます。 
下にすえる事は1575年前の軍事的な連携から高尾氏との関係もあり、信之の柳沢郡の青木氏の養子もあるので、最早別家を興させる手が無く成っていたと観られます。
この時は1567年頃後の織田氏との戦いを前にした緊張時期でもあり、年齢は無視して5年程度の期間の系譜として扱ったと観られます。

これが、不思議な系譜が出来上がっている原因と観られます。
前編と中編の系譜はこの信生-信正-信定の前提に立っていますので、ここで、系譜や添書や史料や戒名などで検証しました。
このような20年の間に上記に近い経緯を持っていたと考えられます。
本来であれば、信正-信定-信生(落合氏養子)と成るのですが、信正-信定-信之(高尾氏養子)と成れば、実子3人も居る上に養子2人と成ってしまいます。
それでなくても実子との軋轢が起こっているのに、この上に信生の養子は幾ら戦乱とは言え受け入れ難いことだろうと考えます。
結局、この様な系譜に納まったのではと考えます。

「内容の整理」(重複)
参考
因みに、「与兵衛」の通名を使っている人物は次ぎの通りです。
割菱紋青木氏本家(義虎系)
信種(嫡子)の子の信親
信時(信親の子)の子の信安
信安の子の信就
信就、信幸、信峯の子の信祐
信祐の子の信任

割菱紋青木氏分家(義虎系)
信虎の子の信正(妾子:信種弟)
以上6人です。

参考
注 信種は信正と同人物との説もある。
注 信種は信定と同人物との説もある。
注 信親は信立と同人物との説もある。
注 信親は信定と同人物との説もある。
注 信時は信定と同人物との説もある。

参考
「尾張守」を名乗った者は次ぎの通りです。
始祖時光は甲斐守
時光系割菱紋の本家
A 時光-常光の子の信連
B 信連の子の貞義
C 貞義-義遠の子の安遠
D 安遠-嘉虎の子の信種
E 信種の子の信親
F 信親の子の信時

時光系割菱紋の分家
G 義虎の子の信正
H 信正の子の信定
以上8人です。

参考
注 信正と信種は兄弟で同時期に尾張守である。
注 信定と信親は従兄弟で同時期に尾張守である。
注 信時で武田氏は滅ぶ。

参考
疑問点
以上の「通名」と「尾張守」からの疑問点が浮かび上がる。
1 通名「与兵衛」が付く事は本流本家筋を意味する。しかし、信正だけは分家である。
2 官職名「尾張守」は本来は本流本家筋となるが、しかし、信正とその子の信定が引き継いでいる。つまり、本流本家の信種と信正は「尾張守」が重複している。(疑問)
3 更に、本流本家の信種には「与兵衛」の通名が無いが、分家の信正(妾子)には通名がある。
4 本流本家の信親と分家の信定は「尾張守」が重複している。(疑問)
5 本流本家でありながら信時は「尾張守」だが「通名」が無い。
6 分家でありながら信定は「尾張守」だが「通名」が無い。
7 重複人物説の疑問がある。
以上を複合的見地から解明しなくてはならない。

参考
信立
柳沢氏は4つの流れがある事は前述しましたが、青木と血縁を同じくする(柳沢)豊定を祖とする柳沢氏は青木氏との関連で源空寺に石燈を送ったという史実は間違いの無い事である事がこの石塔で証明されます。
「浄土宗源空寺」(南巨摩郡)と「浄土宗松源寺」(北巨摩郡)の二つの菩提寺と強い繋がりが合ったことを意味します。
送ったと記録されている柳沢家の柳沢吉保はこの流れの青木氏から出ていることを意味します。
それは「豊定-信立-信俊」系列である事を意味し、その中でも疑問又は不明人物と成っている「信立」の人物解明に付いて大きく前進する事に成ります。
「信生-信正-信定-豊定」の時光系の割菱紋副紋葉菱紋本家から分家した割菱紋系列である事に成りますので、「信立」の人物はこの4人の中の一人である事を意味します。


ところで話を戻します。
この様な事は話し合いによる訳ですから、この武田氏系青木氏の滅亡か存続かの瀬戸際に系譜がどうのこうのと云う単純事で、”この時期にこの事に付いての話し合いが果たして出来るだろうか”という素朴な疑問が湧くのです。
何らかの都合が一族間に起こらなければ出来る話では有りません。
”それは何なのか””何かがあったのか”です。

戦乱の世に於いては他にも宗派間の違いが兎角争いの元と成っています。
ところが、この武田氏系青木氏(時光系)には他氏には見られない程に宗派に拘り、挙句は別家を興すほどの事を起こしているのです。そして明らかに「争いの遍歴」が大きく起こっているのです。
中でも日本最大といわれる112年に及ぶ宗教界を巻き込んだ「天保騒動」が甲斐で起こっているのです。これではなかなか一族一門は納まりが付きません。
そこで、その経緯と宗派の競争の状況を調べて見ました。

武田氏系青木氏時光系の宗派経緯
信義-...-時光 浄土宗(明楽寺 宝林寺、前常光寺)
常光-...-信正 真言宗(常光寺の中興開基 改宗)
信定-.......曹洞宗(中興開基 改宗 天正3年まで)
正定-(割り菱紋).浄土宗(源空寺 中興開基 菩提寺解除 天正5年頃-明治廃仏毀釈廃寺)
正定(花菱紋分流).浄土宗(武川衆 松源寺 関東に武蔵鉢形に国替え移転と移設)
信之(丸に花菱紋).曹洞宗(武田氏滅亡で常光寺を再建)
廃寺後、......曹洞宗(第3氏 南明寺 信定派曹洞宗派)


以上の様に。甲斐武田氏の信義から5回の改宗が起こっています。
この事から次ぎの争いが起こったと観られます。

第1回目の信義の時
改宗時には青木氏の浄土宗の伝統を護ろうとする宝林寺派と、母方一条氏派の真言宗派との間で争いが起こったと観られます。
元祖時光を宝林寺に祭祀しようとする一族と、時光を常光寺に祭祀しようとする一族が争いを起こしたと観られます。(これに時光赴任先の摂津からも菩提寺説が出ている)
第2回目の常光の時
この時、常光派が勝ち皇族賜姓青木氏と皇族賜姓源光系武田氏系青木氏の2つの派を巻き込んで争いが起こり常光寺派が勝ち常光寺を開基しました。そして、亡き父時光を常光寺に祭祀しました。
そして、曹洞宗で上記の11代が祀り続けられたと観られます。(11代目信安まで祭祀)
浄土宗、真言宗の者が曹洞宗に祀られると云う前代未聞の事が続けられた事に成ります。
第3回目の信定の時
ところが、又再び、12代目の信正の死後、信正を祭祀するところを巡って、又争いが起こります。
元の真言宗派の一族と、現在の曹洞宗派の一族と、元来の浄土宗派の元に戻そうとする一族が争いました。3つ巴の争いです。話し合いで解決できる事などあり得ません。
結局、この時は信定が帰依する曹洞宗派が勝ちました。しかし、12代目の信正の墓は曹洞宗常光寺には祭祀されていません。11代目信安までですが、これも異常です。
曹洞宗が勝ったとは云え12代目13代目は常光寺には並べて墓は無いのです。
第4回目の正定の時
納得しなかった信正別家正定派本流は元来の青木氏の浄土宗源空寺を南巨摩郡に開基しました。そして、曹洞宗常光寺から脱退したのです。
この時正定は別家を興した青木氏、豊定も別付けを興した柳沢氏が父子争いを起こしたのです。
第5回目の正定の時
そして、本流は正定実子昌輝に任し、正定分流派は北巨摩郡に浄土宗松源寺を開基したのです。
恐らくは、親子軋轢の結果、宙に浮いた12代目と13代目は「御魂移し」をして源空寺に存在したとも考えられますが史実の経緯がありませんし、明治の廃寺で不明です。
尊たい寺と光福寺にあったと観られますが、武田氏滅亡により信正と信定の墓は関東に移動により墓、過去帳、仏像、記録等も含めて移したとも考えられます。
上記の様に、其れより光福寺と尊たい寺への祭祀が経緯から妥当と考えられます。
(現在でも一部はこの浄土宗派はどこかの浄土宗の寺に墓と御魂を移して祭祀している可能性があります。)
第6回目の信之の時
信之は毛利氏に仕官して戦死し、その後跡目を継いだ次男も戦死し、長男が信之を襲名し甲斐に帰ります。そして、武田氏滅亡で廃寺となった常光寺を再興して丸に花菱紋の寺紋とします。
血縁の無い養子一族が本来のこれまで本流本家の10代を祭祀している曹洞宗常光寺を再び興し割り菱紋から丸に花菱紋に寺紋を変紋して血縁性の無い信之一族の曹洞宗派の寺としたのです。
本来であれば本流本家の常光から信時まで祭祀されているのですからその割り菱紋の末裔一族が再興してこれを祀るが本筋です。
しかし、違ったのです。信正別家の養子の血縁性の無い信之一族(以後も血縁性の無い跡目養子縁組が続く)と成っているのです。

ここで、11代の信安は本流本家割り菱紋の嫡子ですし、信之とは同年代であり既に家は別家と成っているし、寺も信之の一族の丸に花菱紋の寺として再興されています。既に武田氏も滅亡しています。信安は徳川家の家臣として江戸に赴きそしてその後上田城攻めに参加しています。
その人物が死んだとして、全く血縁性の無い信之一族の曹洞宗常光寺に祭祀された史実と成るのです。
この浄土宗の信安11が最後の人物として信之の別族が運営する常光寺に、且つ異宗の曹洞宗に祀られる事はこの2つの大異常性がありながら、ここに何らかの大きい経緯があると観ています。
本来ならば、氏家制度ではありえません。
これは信安は絶っての願いとして2代目襲名信之に頼んだという事に成ります。そしてこの2つの異常性が認められたのです。

「協議の内容推理」
実は、上記した系譜協議の結末が、ここに、”系譜を其の侭に家紋を変更する事だけ”で治めた妥協の経緯があるのではと考えているのです。
「・・・・よりて各々のその見ゆるところを記して後勘に備う」とするこの一文を系譜に記され且つ文章の表現を考察すると「・・各々・・」の表現は多数関係者の同意に基づく表現と観えますし、「・・見ゆるところを記して・・」は衆議の意見を書き記して置くことにするとの表現に成ります。
更に、「・・後勘に備う」の表現は明らかに衆議合意の上での記述となると観えます。
この様な事から、「多数関係者」が存在して「関係する事柄」を「協議合意」したと成ります。

そうすると、別家の正定と、別家本流の昌輝と、本家本流の信安と、別家の祖と成った信生と、柳沢氏の豊定等の関係者を交えた協議が「常光寺」で行われて、「信安11の常光寺祭祀の約束」と「信生11の別家の祖」と「丸に花菱紋使用」と「信正系譜」と「常光寺の譲渡」等を正式に決めたのではと推理しているのです。
そして、この事が1578-1580年の2年間の間に行われたと観ています。
これだけの宗派の遍歴を起こしていて後に大きな問題が起こっていないのはこの様な協議の成立があった事を意味していると考えます。
それでなければ、普通本来であれば、氏家制度の中では、青木一族の柳沢吉保が甲府藩の領主と成り甲斐に対して権力を持った時にもめる筈です。しかし、揉め事は起こっていません。

これがより経緯とより立体的に理解を得る為の後編の冒頭からの説明に起因する事であったのです。

「花菱紋一族の証明」
ところで、第7番目の明治の廃仏毀釈による廃寺が問題です。
この廃寺に依って多くの資料と系譜の如何が複雑にしてしまっているのです。
4宗派の争いがあり、信之一族の「丸付き紋の花菱紋」の「第三氏」に、本来の丸付き紋を使った「第3氏」が入り乱れて信之の末裔に大して区別し判断する事が出来なくなっていることがあります。
特に、北巨摩郡の正定の花菱紋は武蔵の鉢形に国替えが起こり一族全て強制的に移動していますので判別問題は明確です。
南巨摩郡では第3氏青木氏が存在し主張している花菱紋末裔はこの歴史的史実を知らない結果に拠りますので判別は明らかです。
しかし、南巨摩郡の昌輝の別家本流と柳沢郡青木氏の甲斐帰国後の信之の末裔に判別が付き難い事が起こります。
南巨摩郡の昌輝の別家本流の末裔も徳川氏の仕官となり旗本と成った事から八王子近隣から江戸にかけて移り住みましたので、これも第3氏の主張が判別できます。
しかし、とりわけ、信之末裔との判別です。
信之末裔も本多氏の家臣と徳川氏の家臣と成って武蔵、常陸、上総、栃木の関東に最終移動していますので大方は判別が可能なのです。
しかし、この末裔一部が先祖の寺を守る為にか常光寺付近に残ったとする説があります。
この「第三氏」と「第3氏」の判別が困難のです。

更に複雑なのはこの「第3氏」には二通りあります。
一つは明治の苗字令による「第3氏」です。
二つは1575年前の農兵による制度から来る苗字帯刀を許した青木氏があります。
戦いの場合は家臣だけでは兵力成り立ちません。そこで「農兵制度」と云う組織があり、農民との契約で兵として参加する方式です。戦勝すれば契約報奨金と褒美が与えられます。
この時に、その農兵の庄屋や名主や郷士の長等に青木氏の苗字を名乗る事と家紋使用を許す事が在りました。特に武田氏は兵を多く集めましたので、この方式を採用したのです。
明治期の「第3氏」と異なりこの名乗る根拠のある「第3氏」があります。

この根拠のある農兵「第3氏」と武士の信之末裔の甲斐残存子孫の「第三氏」との判別が付き難いのです。
明治期には先祖が戦いに参加したこの農兵の長とは違う者等もこの「第3氏」を名乗ったことになります。何も経緯の無い「第3氏」が殆どですがこの中にはこの青木氏もあるのです。
つまり、甲斐では「第3氏」は4種ある事に成ります。

全国青木氏が定住する地域に対しては夫々異なりますが、甲斐での武田氏系青木氏に関する「第3氏」には4種もあり、それなりの根拠を保持していて、この様な経緯を持っているのです。

そこで、これ等を特別に判別できる事があるのです。これだけは同じくすることは出来ないからです。それは継ぎの事柄です。
そこで、これ等を次にを詳しく説明します。

俗名、戒名、法名、没年はこれ等の青木氏の独特の戒名を持っています。
宗派と寺と土地によって宗教的教義が違う為にまた、習慣が違う事から必ずしも統一している訳では有りません。
しかし、浄土宗青木氏では戒名と没年は必ず記載しますが、俗名はそのものを書くものと、俗名を戒名の中に二文字を読み込んで入れる習慣とがあります。
俗名そのものは仮の名として厳格に教義を護り書かない宗派もあります。
浄土宗と浄土真宗は原則として「俗名」と「法名」と「生き様」の3つを表すように書いています。

A 戒名にはその人物の現世の生き様が判ります。
B 戒名にはその人物の身分と家柄が判ります。
C 戒名にはその人物の財力勢力判ります。

花菱紋の青木氏であれば、その戒名は必ず「院殿居士」と云う最高級の戒名が付いています。
この「院殿居士」を観ることで、AからCを判別できます。
この「院殿居士」は次ぎの様に成ります。

「院」とは現世から離脱した時に庭園などを含む広域な住まいとする処で、その位を意味します。
天皇など皇族のものが「現世」の身分を離れ、「彼世」の御仏に仕える時に持つ最高級の院号です。
この住まいを「門跡寺院」と云います。僧化することを意味します。
仏教で云う「宇宙」であり教義では「立体」を意味しています。

「殿」とはその院の中の目的に合った「住居」とする処で、「院」に続く位を意味します。
この位の「殿」の位が敬称として使用されています。
「殿」のような処に住む貴方と成ります。
仏教では「立体」を構成する「面」を意味します。

「居」とはその殿の何処かの目的に合った「部屋」とする処で、「殿」に続く位を意味します。
住居とする所です。
仏教では「面」を構成する「線」を意味します。

「士」とは「居」に居住まいする者の身分を意味します。「居」に続く位を意味します。
「武士」とはその「院殿居」にて「武」を以って仕える身分の士者と成ります。
従って、「武」の意味する処は観仏に仕える者であり、「義」を基本としている事をされます。
「侍」は「院殿居」(寺院)に仕える者と「さむらい」(仕えるという意味の「古語さぶろう」の変意)です。
仏教では「線」を構成する「点」を意味します。
つまり、「氏家制度」では社会の力の尺度し「建物」を用いたのです。
この様に「彼世」の絵姿を描いた形でその建物を使って位階を定めたものなのです。

では、「院」では”どの程度の者が戒名としての「位」を付けて貰えるのか”と云う事ですが、氏家制度の社会の中では、「院」つまり、寺には「院殿居」に相当する建物がありますので、その寺を一つ建てられるだけの力のある者と成ります。
「殿」、「居」では「院」の尺度に推して知るべしで一段下の者が受けられる戒名と成ります。
「士」では階級として存在する最下位で「武」を有する者が受けられる戒名と成ります。
現在では社会に対してそれなりの勲功を収めた者が得られる位階です。
その勲功の大きさから「殿」の前にその勲功を読み込みます。
これ以下は階級なしの「院殿居士」の無い身分の者とし、俗名或いは法名のみと成ります。

「氏家制度」では、「氏姓」を持つのみの者が墓を持つ事が出来る訳ですから、庶民は河原の路傍のに俗名を書き込む習慣でした。
武士は尺度して「院殿居士」の「士」に当り氏姓を持ちますので、戒名と墓と過去帳がある事に成ります。
(氏姓を持たない事は時系列的に戒名を付け過去帳に記する事は論理的に出来ませんので、庄屋などが書き記す村の一時的な人別帳に「・・村・・」とする習慣でした。)
そこで、甲斐の武田氏系青木氏にはこの「院殿居士」の尺度に相当する事に成りますので、どの程度の戒名が付けられているかに依ってその立場や身分や貢献度や人物像が観得て来るのです。
現在に於いても、この「院殿居士」は相当な財力があり支払能力が無ければ付けて貰えません。
しかし、「士」は「信士」と「信女」として多くの戒名に付いているのは現状です。

この様に戒名や過去帳はその過去の生き様を表すものでした。
ただ古い時代にはこの習慣が徹底していなくて、また不明な事も多い時代でした事、戦いで判らなくなった事、大火、焼き討ちなどで消失したことなどで、完全に復元できない事などから、史料で観ると3つが何時も完璧という事は有りません。
特に室町時代の下克上、戦国時代では「寺は戦いの拠点」として使われましたので、一番に持ち出すものですが、遺されている可能性は低く、跡で復元したものが多いのです。
そのために不明な点が出て来るのです。

鎌倉時代初期、室町時代末期、安土桃山時代、江戸末期の混乱期の間はその寺がどのような災難にあったかによりますので必ずという事では有りません。
特に、江戸中期から明治初めまで、宗教を全面に押し出した一揆、村騒動な各地で頻発に起こりました。
特に曹洞宗や一向宗や時宗は農民や下級武士等が入信する宗派でした。ですから、この農民や下級武士が起す一揆、村騒動などの背景には曹洞宗寺等が必ず居て指揮していました。
よって、騒動を鎮める為に寺を焼くと言う行為で治める側は行いました。
当然、多くの犠牲者が出ますので、混乱の中、とても3つを揃えて書き記す事すら難しい事でした。
その意味では、浄土宗、真言宗、真宗などは比較的江戸時代中期以降には3つの原則は護れてたと思います。
ただ、この宗派は室町時代の下級武士が起した上級武士への(青木氏や藤原氏など)「下克上」の「焼き討ち」の対象寺でした。
また、戦国時代には氏寺は戦いの拠点(作戦本部)として使われましたので記録が消失している事が多いのです。
ですから、農民や武士はこの時代の人物には生年月日や没年がはっきりしないと云う事が起こりました。特に農民は姓を持ちませんので、過去帳は作れないのです。庄屋等が作るその時代の人別帳だけでした。
人別帳を使って復元するなどを寺は行いましたが、人別帳は詳しく記録しているものでは有りませんし系統的では無いのでそのような事が起こるのです。
そして、江戸中期までは、兵農の慣習がまだ残っていて分離せずにいましたので、農業をし、戦いの際は兵として参加しました。
戦死すると不明者が多く、記録は戒名どころか俗名程度しか書けかけなかったのです。
九州、四国、中部地方には明治前までこの兵農の仕来りはまだ残っていました。武士だけでは兵が足りませんので、この方式が採用されていたのです。
例として、西郷隆盛等は侍でしたが、農業もしていたのです。
明治維新の長州と土佐と薩摩軍はこの農民兵でした。”ちんらいさん”と呼ばれ強かったのです。
この寺の過去帳を調べる事でこの「第3氏」の判別がわかります。

例え、系譜や曼荼羅過去帳などは自由に作ることは出来ますが、寺が管理するこの過去帳は出来ません。
仮に作るとすると、過去の人物を調べ出す事に成りますので上記した様に記録が有りません。従って出来ないのですし、一人の過去帳を作っても親族縁者の統一した過去帳までも物理的に出来ません。
又、氏家制度は「国抜法度」ですので、何処からか流れてきても何々村移住と明記されますので出来ません。
ですから、どんなに飾っても過去帳を調べて戒名を見ると氏家制度の身分が一目瞭然と成ります。
過去帳の一番古い人を調べる事で年代が判りますので判別は簡単と成ります。

「甲斐の宗教戦」
さて、この様なことですので、甲斐は武田氏ですから、このシステムを用いていました。後に徳川氏の配下に入りますが、「武田の赤兜」で有名ですが、これに従ったのは地元の地侍と農民兵です。
だから強かったのです。
甲斐では、曹洞宗が多く一揆の多いところで100年以上も続いた「天保騒動」の例の様に、寺の焼き討ちも多く、明治維新前の徳川側として戦いの場にもなった地域です。
寺は寺の宗教的目的だけでは無く、軍事的拠点としても使われ、作戦本部としても使われましたし、その為に軍略上要衝地に建立しました。
甲斐ではこの様に宗派間争いが強く、次ぎに記述する日本最大の「天保騒動」が有名です。
これが起こったという事は上記したような甲斐のそのものを物語る物です。

「甲斐騒動(天保騒動)」
特に、「甲斐騒動」又は「天保騒動」と呼ばれ、1724年から頻発し1836年までの112年に及ぶ一揆で甲斐の国全域で起こりました。日本最大の一揆で広域一揆で、日本歴史上最も有名な一揆です。

農民、商人、下級武士らによる鉄砲刀等の武器を持ち焼き討ち、打ちこわしをし、食糧難から政治不満(米穀商と徳川甲府藩との癒着)に発展した甲府域を中心にした戦いでした。
商人らは経済的支えをし炊き出しまで行いました。
多分、家臣の宗家本家は別として、多くは農業と武士とを兼ねる生活をしていたと観られます。

仮に一部の者が武士を棄て甲斐に戻った武田氏系青木氏3氏6家の花菱紋らの一部の遺産は明治前の「維新戦争」に巻き込まれ、尚、「宗派争い」とこの「100年に及ぶ一揆」で全てを失ったと観ています。甲斐に武田氏系青木氏は残る事が珍しかったと考えます。
この様に記録や記録の遺し方は不完全であることが当り前の地域でした。
農民や下級武士にとっては甲斐の歴史上最も苦難の時期でした。
当時は氏寺に出来るだけ寺に証拠などのものを遺す習慣でしたから、寺の消失が起こると過去帳関係や歴史資料が消えてしまうのです。ですから不完全なのです。
花菱紋の宗派争いもこのことに大きく影響していると考察しています。

世の中には、「宗閥」「派閥」が生まれるのは止むなしです。自然の摂理です。
現在も、浄土宗派と真言宗派と曹洞宗派が出来れば、必然的にこの派閥が生まれ一致団結が難しくなる事は必然です。当然に、この宗派の派閥は「伝統」のレベルを弱めます。
その伝統が今も続いていると見られます。「因果応報」です。
祭祀するものが無く成った事に成ります曹洞宗常光寺は、結局、柳沢郡青木村の青木氏が直ぐ後にこれを再興しました。兎も角も、この2人(12、13代目)の墓所は不明確で無く「御魂移し」で済ましたと観られます。
この場合、一条氏を名乗る真言宗派は潰れたと見られます。それは一条氏を名乗る事に無理があり味方を得られなかったと考えられます。
その理由として、中国地方や四国でもこの一条氏を名乗る者が各地で出てその正当性を疑問視された事によると観られます。ここには、当時の社会システムの氏家制度の矛盾があるのです。
明らかに、時光らは清和源氏頼信系分家の源氏系統です。
しかし、一条氏は藤原北家摂関家四家の一つの公家です。
(藤原氏四家は北家、式家、南家、京家であり、北家が残る。この北家は更に2氏摂関家と秀郷一族に分かれる。その摂関家は四家の一条、九条、京極、鷹司氏に分かれる)
公家は元来、武力を保持しないのですが、武器を持つ一条氏です。
(秀郷は貴族に成った為に第3子千国を侍として護衛隊にした)
この源氏傍流が母方の一条氏を名乗ったのです。
武田氏は甲斐源氏と呼称していますが、一条氏を名乗るのであれば源氏では有りません。男系跡目の社会です。まして、時光は源氏として土豪武田氏に跡目として入り源氏と成ったと呼称しているのです。なのに一条時光は慣習の矛盾です。
正規の書物は源氏と成っています。そして武田氏は甲斐源氏支流と河内源氏傍系と呼称しています。
でも、河内源氏などの源氏は皆、本流笹竜胆紋です。武田氏は菱紋です。
一条氏といい、甲斐源氏といい、矛盾です。
慣習で源氏と名乗るのであれば、全て源氏になってしまいます。
ですから、一条氏はある時期のある人物の時に家柄を更に誇張する為に世間に対して偏纂したものと観ています。
甲斐には一条郷の一条氏を名乗り又他の村などに一条氏の子孫の繁栄は無い事から判断できます。
だから真言密教の宗派は消えたのです。まして、密教を教義としている真言宗です。
そして、明治になり、廃寺と成って、再び、浄土宗派と曹洞宗派との間で争いが起こります。
ところが、浄土宗源空寺の伝統を重んじる派がありながら、多くは曹洞宗に帰依する事を決めたものです。
この時、当然に、浄土宗派はその伝統とする仏像と墓を隠す手段に出たものではないでしょうか。
”歴史は繰り返す”と云いますが、過去5回も立て続けに同じ「宗派争い」の戦いをしたものと当時の慣習から考えられます。
他の国でも同じ事が起こっていることなどを考えると、この伝統と歴史を持って神奈川、横浜、栃木、常陸、鉢形、八王子、仙台手前域などには時光系、源光系の武田氏系青木氏が全て移動して子孫を拡大している事に成ります。
今回、青木氏としてのかなりの疑問を解決しましたが、甲斐武田氏系花菱紋の一族にはまだその「伝統」が明確に成らないこの宿命がまだ続いていると見られます。
5回の宗派争いの中に伝統を護ったのは、正定の弟の別家を興した豊定の柳沢氏で浄土宗光沢寺-永慶寺として伝統を明治まで護り続けました。
柳沢氏の発祥と元祖とが明確になり、更にこの柳沢氏も4つの柳沢氏がある事が確認する事が出来ました。

今回のこれ等の研究で甲斐の割り菱紋と花菱紋の青木氏の歴史的な史実が多く表に出す事が出来たと感じています。これからも、個人情報の難しさもありますが、青木氏の史料を整備しながらも各地の青木氏のより深い研究を続けたいと考えています。

ここで、もう一つ疑問があります。
それは、「信生」です。
「信生」は武田氏家臣落合常陸守信資の三男で、信時の養子となり、幼少の頃より養われるとあり、「信安」と義兄弟です。
「信安」は常光寺の最後の11代目として祭祀された人物で時光系本家割菱紋 葉菱紋の本家を継承している人物です
「信正」と「信定」より系譜上で上に来ています。
本来であれば、「信正-信定-信生-正定」と成る筈です。



史料
「甲斐の宗派別勢力表」(廃寺含まず)
甲斐百八霊場より宗派の影響がどのように成っているかを分析すると、次ぎの様に成ります。
浄土宗.. 3.7%
曹洞宗.. 33.3%
浄土真宗..2.7%
真言宗...16.7%
臨済宗...22.2%
日蓮宗...12.9%
時宗....2.7%
法華宗...2.7%
単一....1.8%
考察
3派(浄土宗、真言宗、曹洞宗)で全体の54%を占めています。

浄土宗は%が低いがこの宗派は朝臣族、宿禰族等の高位の特定氏がその菩提寺として独自に寺を建て運営する真言宗に近い古代密教に近い方式を採っていた事から、低いながらもその権力の座にいる者が支配していましたので、宗派を維持するためにも武力を背景に3派の争いに成る事が覗えます。

真言宗は密教を主体としている為に公家、貴族など自らは武力を持ず権力だけの層に入信を許す事と成ります。これは武士の生き方に合わない教義でもある事から特異な層貴族や公家の宗派でもあります。
その意味でも一条氏を名乗るのもこの真言宗で無くてはならない事を意味します。
2代目常光が浄土宗から開基して真言宗に帰依した事はこの一条氏を名乗った事に起因します。
又、真言宗は密教ですので16.7%の率は相当な甲斐での力を持っていたことを示します。
全体で54%と成りますが恐らくは70%程度の勢力を占めていたと考えられます。

浄土真宗は2.7%と低いですが、この宗派は浄土宗の代用宗派としての役割を担っていました。
浄土宗派は特定氏、特定域に存在する寺ですので、赴任する事などでは更に寺を建てると云う経済的な負担が掛かります。従って、その代用として藤原秀郷流青木氏などはこの中級-下級武士層が入信する宗派を一時的に利用し、領国に戻ると元の浄土宗派に戻るなどしたのです。

曹洞宗は33.3%ととして下級武士や農民層等を取り込み宗教とは思えぬ影の武力的勢力を持っていました。自らの力で寺を建て、運営をしそこを一種城郭的なものとして利用していたのでそのためにも農兵を動かす為にはこの宗派を見方にする必要時要件として必要があったのです。
信定が真言宗から曹洞宗に改宗したのは最早、名誉から力へと移っていた事からの処置と見られます。

臨在宗が目立っていますが、これは後発である事と農民層を主体としていた為に国府近在では拡がらない事が観えます。曹洞宗とあわせると55.5%にも成ります。

浄土宗と真宗と真言宗の3つの宗派を合わせると23.1%と成ります。

このA55.5%とB23.1%とは教義や信者や宗教的作法は全く異なり宗派対立の元と成るのです。
この意味から、信定の採った処置は晴天霹靂なのです。当然に正定との父子間の争いは起こります。
その証拠に、この結果1724年から12年に及ぶ「天保騒動」が起こるのは当然と云えば当然であったことに成ります。144年歴史を遡って史実を分析し観れば正定等が正しかった事を意味します。この父子対立は如何に激しい対立であったかを物語るものなのです。
柳沢吉保が甲府藩を去った直ぐあとに始まった事なのです。
仮に55.5の宗派連合をAとすると、A宗派は柳沢吉保等の武田一族が健在の間は静かにして置き虎視眈々と狙っていたと成ります。
このA3派が国府近在に集中しています。
ただ、浄土真宗が拡がらない事が不思議です。浄土真宗は藤原秀郷流青木氏が赴任地移動時は浄土宗の代替宗派として帰依していた宗派です。しかし、甲斐では全く見放されています。
其れと、臨済宗が近隣に接近してきていますが3派に入らなかった点が不思議です。
「後発、農民層」の2つが影響しています。
甲斐を揺るがした112年に及ぶ「天保騒動一揆」が明らかに間近に迫っている事が判ります。
この騒動の裏の煽動者(曹洞宗34、臨済宗22、日蓮宗13 下級武士と農民)70%が集まれば起こらない方がおかしいです。
武田氏滅亡と同時期にタガが外れた様に始まった事がこれで理解できます。
特記したい事は、信定の「曹洞宗改宗」の裏の事情はこの「迫り来る圧迫」に左右されていた事も考えられます。だから「宗派争い」なのです。
花菱紋浄土宗の正定派が親と対立した根拠は少ない浄土宗を「伝統」の意味から護ろうとした事が判りますし、源空寺の建立の意味も出てきます。
このデータが、信定-正定間の軋轢が手にとる様に判り、その大きな意味を持っています。

この様にして多くの史実を基に武田系青木氏花菱紋の遍歴を観れば、その当時の生き様が目に観る様に浮き出てきて真実の史実が出てくるのです。
他の青木氏と異なり宗派の問題は甲斐の武田氏系青木氏の研究に欠かす事の出来ない要素なのです。
以下にその史料を記述しますが、未だ多くの事柄を引き出す事が出来るのです。
しかし、又の機会に更に論じる事にします。

これら前編から後編までの研究論を通じて、お読みに成られた歴史ファンの方々に一辺の史料と成る事が出来れば幸いであります。
更に青木サイトでは全国の青木さんと本サイトのファンの方々に他の青木氏の生き様をも再現したいと考えています。

史料

近隣地域分布
浄土宗3 曹洞宗23 浄土真宗6 真言宗14 臨済宗18 日蓮宗0 時宗0 法華0

浄土宗75 曹洞宗64 浄土真宗0 真言宗78 臨済宗64


甲斐青木氏が定住していた近隣地域の分布
甲府
浄土宗3 曹洞宗4 浄土真宗3 真言宗2 臨済宗4 日蓮宗2 時宗0 法華0
山梨
浄土宗0 曹洞宗3 浄土真宗0 真言宗1 臨済宗2 日蓮宗0 時宗0 法華0
甲州
浄土宗0 曹洞宗1 浄土真宗2 真言宗2 臨済宗5 日蓮宗1 時宗0 法華0
巨摩郡
浄土宗0 曹洞宗5 浄土真宗0 真言宗6 臨済宗3 日蓮宗6 時宗0 法華0
笛吹
浄土宗0 曹洞宗2 浄土真宗1 真言宗3 臨済宗4 日蓮宗2 時宗1 法華0
韮崎
浄土宗0 曹洞宗4 浄土真宗0 真言宗0 臨済宗0 日蓮宗0 時宗0 法華0
甲斐
浄土宗0 曹洞宗4 浄土真宗0 真言宗0 臨済宗0 日蓮宗0 時宗0 法華0

宗派別寺数
浄土宗...4
曹洞宗...36
浄土真宗..3
真言宗...18
臨済宗...28
日蓮宗...14
時宗....3
法華宗...3
単一 ...2
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甲斐青木氏の研究(花菱紋) 中編

:甲斐青木氏の研究(花菱紋) 中編
投稿者:福管理人 投稿日:2009/08/18(Tue) 10:09:20

忠頼の考察]
100年の遍歴
武田信玄は信義から19代目です。武田氏は次ぎの20代目の勝頼で滅びますが、吾妻鏡や源平盛衰記にある小説的な事と違い、信義2代目次男忠頼は実質は上記の様な政治的経緯で謀殺されました。
要は源の義経や平泉藤原氏や大島源氏などと同じく潰しに架けられたのです。
(平家水軍を打ち破った大島源氏は謀殺直前で察知し難を逃れる)
11代の賜姓源氏の末裔が全く遺されていないのは北条氏による「徹底した殲滅作戦」のこの事によります。
同じ同族でありながらも、天智天皇の伝統の「不入不倫の権」に護られて5家5流24氏の賜姓青木氏(皇族青木氏を除く)は、桓武天皇と平家に圧力を加えられ衰退はしたけれども、生き延びて子孫を遺しました。
賜姓青木氏と同族の賜姓清和源氏も賢い「義経の戦略」に従っていれば充分勝算があり子孫を遺せたのです。
しかし、頼朝の本音は2度強行した「本領安堵策」と「平家没官僚策]で源氏一族を遺せると観たのでしょうが、北条氏の方が上であった事に成ります。
頼朝は当初より北条氏の勢力拡大は予想できていて、この程度の事は念頭にあって北条氏の反対を押し切って強行したが、裏では北条氏等の潰しに架かりそれが成功していたので、身の安全と源氏の幕府の存続を考えて、止む無く北条氏に従う以外に無く成った事に成ります。
史実、この事に付いて、史実として、義経、大島氏、新宮太郎の源氏一統等は頼朝を説得している記録が残っています。
しかし、当然に、同じ河内源氏の傍流としながらも、当時は武田氏の忠頼は北条氏と同等の勢力を持っていた事から謀略で甲斐武田氏までやられるとは計算していなかったのでしょう。
(兄弟の信光は安芸守に成り、忠頼謀殺後甲斐武田氏は衰退したが安芸武田氏が中心に成る)

この時、信濃足利氏も媚びながらも鎌倉政権には途中まで付き合いますが、後に圧迫を受け信濃に引き籠ります。
この時から足利氏は倒幕行動を開始したのです。執権北条氏の執事と蜜脈を通じて情報を獲得していたのです。結果、大きな怪我も無く倒幕するだけの力を蓄えていました。
後に、足利幕府が樹立した時には、この北条氏執権家の執事(平氏を与えられ名乗る)を足利氏の執事として成り立つように、元京平家(桓武平氏 阿多倍一族)に与えた伊勢北部伊賀地方(割譲地)を執事に与えたのです。
頼朝の味方と成る清和源氏宗家頼光系の跡目を入れて存続を狙っていた伊勢賜姓青木氏は、この時、鎌倉幕府(室町足利幕府でも)から「本領安堵策」で割譲された伊賀地方の変換があると考えていましたが矢張り無かった事に拠ります。(伊勢東部志摩地方も割譲されている 半国司)
鎌倉、室町時代ともに5家5流の賜姓青木氏を率いる伊勢青木氏等は大きく伸張する事は出来なかったのです。
頼朝は懸命に伊勢を含む摂津近江などの5家5流青木氏と、その血縁を持つ5地方の同族に対して三つの策(2度の「本領安堵策」と「平家没官僚策」)を強引に構じましたが、北条氏の強い抵抗もあり徹底出来なかった事が原因したと観ています。

この方向から検証すると、頼朝は一般に伝えられている程に北条氏に対して信頼をしていないという事が判ります。その戦略は当初は北条氏を含む坂東八平氏等を使って京平家を破り、その後に「本領安堵策」や「平家没官僚策」で立ち直らせて、「源氏政権樹立」をと考えていたと観られます。
しかし、甲斐源氏や関東に根を張っていた藤原秀郷一門をも含む反勢力を北条氏らに依って戦いに依らず殆ど裏工作で潰されて行ったのです。
その証拠に頼朝を始めとして一族末裔は3年後には源氏一族は全て根絶やしで抹殺されています。
これに反対する北条氏の味方であった「坂東八平氏」等さえも潰されたのです。
この事件が有名なのはこの「源氏の再興」を意図したこの象徴的な事件の一つとして甲斐源氏武田(一条)忠頼の事件があります。

他に潰された史実は沢山ありますが、これくらいにします。

忠頼が謀殺されただけでは無く、清和源氏支流の武田氏系青木氏を含む甲斐武田氏一門も例外ではなく圧力を加えられ、1200年ころから衰退を始め、その勢いを警戒されて室町幕府からも睨まれて武田信満の頃(1430)ころまで100年単位で浮き沈みを繰り返します。
しかし、義清や清光等が築いた14氏の縁戚族の持つ遺伝的な特異体質から、再び信虎の時代ごろから拡大を始め、信玄の頃(1550)ではその勢力は頂点に達します。
しかし、総じて何れも清和源氏系でありながらも、鎌倉幕府と室町幕府に執拗に圧力を掛けられたのです。美濃の土岐氏などは武田氏の様な強い体質が無く脆くもいち早く潰れてしまいます。
徳川時代には、青木氏から出た柳沢氏を除くと、それでも末裔は武田信興の八代郡500石で終わります。

「体質の分析」
この様な観点から検証すると、これは武田氏が「危険視された原因」であり、ただの大豪族と云う事では無く根本は、矢張り前編文で今まで述べて来たその甲斐の「土地柄」と「気風」と「異質体質」(発展的体質)に在ったのではないかと観られます。氏家制度の社会慣習の中では当時の為政者はそのように観ていたと考えられます。

賜姓青木氏5家5流の「系譜と添書と史料」と比較検証しても、甲斐武田氏には「浮沈を繰り返して来る力」が系譜からも観られます。
その証拠として最後の一族「柳沢吉保」(1688)の返り咲きです。
”元に戻すまでに周りが何を云われ様と形振り構わず頑張り、駄目と感じると形振り構わず素早く身を引く早さ”これが吉保の行動に現れています。
これが「甲斐の特異体質の原点」、つまり、内訳は「変わり身の早さ」と「頑張りたい異質」に在ると考えられます。
これは武田氏の遺伝であると考えます。
その元は武田始祖の義清(「武田冠者」)にあり、彼が「乱暴者」であったことから父義光の守護地となったとされている常陸武田郷(他説あり)に移し、そこで再び起こした土豪等(吉田氏等)との争い事件(乱暴な性格)で訴えられて、朝廷からその罪を認められて更に甲斐に配流され、そこで又再び受け入れを拒否されてしまったのです。
甲斐の土地の土豪(陸奥小田氏末裔)に助けられて、後に甲斐の土豪等と争勝ち、子供清光(「逸見冠者」)が甲斐14地方に子供を配置して土豪の荒くれを押さえ込み、この結果、伸張し地盤を築いた経歴を観るとその遺伝が頷けます。
河内で、京で、常陸で、甲斐でと排斥されたと成ると「乱暴者」の定評が出るのも史実として頷けます。
罪人として入りながら、土豪の反発を受けながらも、甲斐に地盤を築くなど生半可な荒くれの性格では成し得ません。つまり、むしろ乱暴者の一面に「軍略的」な一面を持ち、それが逆に「適所適時適材」の功を奏したのです。この遺伝が子孫に引き継がれて居るのです。
信虎と信玄の親子争いもこの「義清の血」に所以しています。
それだからこそ下記のような「甲斐100年遍歴」が起こるのではと観られます。

上記の様に「100年遍歴」を以って「盛り返してくる力」が在るのです。
0 1100年頃の平安末期に甲斐各地(14)に勢力伸張(義清、清光 子孫14氏)
1 1200年頃の鎌倉幕府樹立での衰退(忠頼 頼朝と対等勢力保持)
2 1330年頃の室町幕府樹立で復興(信光 安芸国に勢力移る)
3 1420年頃の室町幕府から圧力で衰退(信満 甲斐に勢力戻す)
4 1550年頃の信玄の復興(信虎、信玄 中部関東一円に拡がる)
5 1565年頃の勝頼の衰退(勝頼 甲斐に縮小)
6 1688年頃の柳沢吉保の復興(吉保 甲斐から郡山移封反転)
(小遍歴除外)

注 義清と清光の武田縁戚一族
第1縁戚族 逸見、武田、加賀見、安田、平井、河内、浅利、八代 以上8氏
第2縁戚族 一条、甘利、坂垣、秋山、小笠原、南部、三好 以上7氏

「武田冠者の説」
注 義清の「武田冠者」は常陸武田郷であるとする説(源氏検証説)があります。
これは藤原秀郷一門と血縁をした陸奥小田氏が藤原秀郷一門の赴任先の甲斐の武田郷に同行して勢力を高めて土豪武田氏を築いた後(1000)に、一部は秀郷一門の領地の常陸にも移動して(1050)室町期には「関東屋形」と呼ばれるまでに勢力を持ちました。この移動時に元の甲斐の武田の地名を採って常陸に武田郷を造り上げた事を捉えて、常陸の「武田冠者」(1100)としているものです。
しかし、義清の「武田冠者」と子供清光の甲斐「逸見冠者」もあり甲斐の「武田冠者」の説もあります。
常陸の武田、甲斐の武田どちらを採るかに依ります。
本当の所は手の付けられない乱暴者であって、父義光(義家弟)から常陸の管理を任すとの大義名分の理由を付けて常陸に移された程の人物に「冠者」が付くのは疑問でもあり、まして常陸の行状が悪くて罪人配流となった者に「武田冠者」が付くのかと云う疑問もあります。
この土地は藤原秀郷一門361氏の主要な土地柄なのです。まして、この国一帯の秀郷一門の頼朝に合力した結城朝光を始めとして末裔で占めていますから、鎌倉時代には「本領安堵策」で息を吹き返している事に成ります。この平安時代末期前後の条件を考慮されていない説ではと観ています。
つまり、源氏から観た武田氏、藤原氏と青木氏から観た武田氏の違いにより、その対象と成った史料の違いと信頼度の差に依ると考えます。
本文は元より「藤原検証説」に従っていますが、これら「源氏検証説」は、前節でも述べましたが、他の賜姓4家4流と藤原秀郷一門には見られない甲斐武田一族の「特有の体質」で、一条氏の呼称等に観られる様に「甲斐武田氏」の家柄を良く見せようとする後からの偏纂であろうと考えられます。むしろ、甲斐武田での成功に依って附帯した「冠者」であると観ています。

徳川幕府編集の史料が多い事から、徳川氏は源氏末裔(搾取偏纂で朝廷と揉めたは有名に事件 朝臣族)と名乗って「征夷大将軍」に成っていますから都合良く偏纂したと見られます。
従って、「源氏検証説」は義清らの行状を悪く書いていない特長を持っています。
この「体質源」は、「氏家制度」の中で、清和源氏の「河内源氏の傍流」であり、「配流氏末裔」であるとする「劣等感」から来るものと観られ、それに裏打ちされる「頑張り意識」「100年の遍歴」では無いかと考えます。

そこで比較対象として、この時、これに対して一方では、鎌倉幕府樹立で失職離散した武蔵国の「青木氏」(第2の宗家)を始めとして藤原秀郷一門が生き延びたのには3つの理由があります。

「鎌倉期の生き延び説」
1つは「2足の草鞋策」(大豪商 「地の利」「元職の利」「武力の利」)に出た事
2つは藤原宗家の朝光が地元の鎌倉幕府樹立に合力協力した事
3つは頼朝による2度の「本領安堵策」と「平家没官僚策」で域を吹き返した事

これを評価されて直ぐ第一次の関東領が本領安堵されて(結城の下総と上総と常陸結城等)一部が戻されて息ついた事と、そして第2次で関西各地の藤原一門の土地を少し遅れて「本領安堵」と成った事、この2つの事で宗家の基盤が確立して、後に藤原秀郷一門と藤原秀郷流青木氏と共に、その「武力」と「経済力」で勢力を戻します。
この「3つの戦略」の差で、源氏と武田氏系は潰されましたが、一方では5家5流の賜姓青木氏と全国各地の藤原秀郷一門は大きく末裔を遺す事が出来たのです。

この様に武田氏と藤原氏とではその返り咲きの過程が異なります。
しかし、子孫を全く潰されていたとする説に対して、その潰された一条系、清和源氏分家支流の武田氏系青木氏(3氏6家)の一つ(花菱紋の本家筋(時光系)の末裔)が、今回の研究で現存する事等が判り疑問の解消が出来たのです。
(通常、皇族賜姓青木氏は特別な場合を除き「丸付き紋」を使わないのが決まりですが、この花菱紋の分家筋と見なされる「丸付き花菱紋」の分家筋も、「系譜添書」の分析から、今回その存在の確認は取れています。原則外の丸付き紋になった理由も確認出来ました。)(上記系譜参照)

家紋的に観ると3氏の武田菱紋、武田割菱紋、武田花菱紋、と、他3つの分家支流分派の武田氏系青木氏の「変紋菱紋」(武田菱紋の一部を変える)の6家青木氏があります。

1 「武田菱紋」と「割菱紋」は「源光系」で甲斐賜姓青木氏(青木氏主流の源光系)です。
2 1の「割菱紋」から出た「割菱紋副紋葉菱紋」の本家と「花菱紋」及び「丸に花菱紋」の別家は「時光系」で「皇族青木氏」です。

「家紋、系譜、添書」から観ると1から2を発祥させたことを意味します。これが源光系青木説の理由です。

源光系青木氏は賜姓系ですので、その存在は守護王として居ますので政庁の「国府」に起因します。
そこで、この甲斐の「国府」を調べますと次ぎの様な経緯を持っているのです。
普通は、何処でも「国府」は政庁ですので混乱を招く為に移動させませんが、甲斐は何度も移動すると云う敬意を持っているのです。それだけに甲斐の賜姓族の史実は元より史料も整わないのです。

尚、甲斐の「皇族賜姓青木氏」の守護王時代の国府は、次ぎの通りです。

1 7世紀末に現在の「山梨県笛吹市春日居町寺本付近」に「寺院」を建てて「国府」が置いていたことが判っています。
この付近に「皇族賜姓甲斐の青木氏の村」があった事が判っています。
更に、この付近に「甲斐賜姓青木氏守護神」の「甲斐奈神社」も置いていたとされています。
この事はつい先日(09-4)に予測されていた所から7世紀末の古代国府の「古代寺院跡」が発見されました。

2 この後、清和源氏の頼光、その後、頼信系6代目信義の子の忠頼の頃前に、守護青木氏に代わって守護代と成った頃(1185年頃)に「八代郡」に国府と氏神の「甲斐奈神社」を移したと見られています。

賜姓甲斐青木氏と武田菱紋と割菱紋の2武田氏系青木氏(源光系)より勢力が強かった観られ、忠頼等に依って菱紋武田氏が移動させた事に成ります。
そして、その後、常光寺も変名した事に成ります。

その証拠として、次ぎの事柄が挙げられます。
1 甲斐武田氏一条忠頼が頼朝に謀殺された時(1184)に「国府城」に居住していた事、
2 その直ぐ後にここを弟の時宗が一蓮寺の尼寺とした事
等が記されています。

この時(国府城が尼寺になると国府はなくなります)に移動させた原因として、衰退する中で一族間で何かあったと推測して研究していますが、原因はまだ見つかりません。同族親族間争いがあった可能性が否定できません。
ただ、上記した様に「甲斐皇族賜姓青木氏」の村で「国府」であろうとされるところが先日発見されました。これで「移動説」はっきりしましたので、後はその理由(時光系の勢力説)と成ります。

つまり、「国府の移動」はその「勢力の変化」と移動を意味しますので「国府の移動」は重要に成ります。
まとめると次のように成ります。
「国府移動」は3度で厳密には勝頼の事件を含めると4度と成ります。

「国府所在地」
平安初期 山梨県笛吹市春日居町寺本 市庁南横(09.4確認)(皇族賜姓青木氏定住跡 770)
平安後期 山代郡甲府国衛に移した。(武田氏発祥第1衰退期 後1185)
室町初期 甲斐の国国衛在「八代郡」国衛(笛吹市御坂国衛 信満没 武田氏第2衰退期 後1420)
室町末期 武田勝頼は韮崎市に新府城を建設。(武田氏第3衰退期 滅亡前 信定時代1575 )
江戸初期 甲府城 武田氏系柳沢氏(吉保)甲斐三郡の領主に成る (1688)
江戸初期 柳沢氏 奈良郡山に移封 (吉保、吉里 花菱紋継承)
江戸初期 武田宗家の氏(信満) 免罪となり八代郡500石に戻る。(信満 割菱紋柳沢を発祥)

「国府」と「国府寺」と氏神の「甲斐奈神社」が移動しています。
「国衛」とは「国府」を意味します。
「山代」は八代との説もあり。
以上が武田氏の衰退復興の政治的経緯です。

[ステイタス仏像の存在]
この皇族賜姓青木氏には象徴3物の「生仏像様」が在ります。その経緯は次ぎの通りです。
後漢の阿多倍王に率いられた渡来人の第1段階の帰化人技能団の司馬氏で、日本に最初に仏教を伝えた「司馬達等」という人物が居ました。
馬の鞍を作る職人集団の首魁でした。その集団を鞍造部と云いますが、又、仏教も伝えて信望していましたので仏像も彫りました。
多くの渡来人を含む日本人は好んでこの配下に入り学びました。その司馬達等の孫が「鞍造部止利」です。奈良時代の日本の国宝は彼の作です。この仏師「鞍造部止利」が天智天皇の命で作りました。
作家の司馬遼太郎氏はその子孫です。
この時代の書籍は日本書紀しかありませんが、韓国に「日本世紀」という書物が見つかりました。
そこには、天皇と朝廷が毎日行った仔細な行事や出来事を「日本書紀」よりも日記帳的に詳しく書かれています。そのものが発見されました。
遺したのは韓国より政治指導に来日していた天皇の相談役の人物です。
其処にも詳しく書かれているのです。
当然、賜物仏像の事は(筆者)賜姓伊勢青木氏の宗家の記録でも遺していたのですが、祖父の代の明治35年の伊勢松阪の大火で消失してしまいました。新たに祖父が記した忘備禄にも書き遺されています。小さい頃より口伝として、「由来事項」や「生仏像様」の事は安全な所に保管して伝わっていた事を当時の事を知る祖父から聞き及んでいます。

ただ、その他の賜姓青木氏4氏に仏像等の物を与えた記録は確認出来ていませんが、書物より、次ぎの様な事が書かれています。
一つは多くの平安中期から末期の書物から観ると未だ家紋が一般化していませんでした。しかし、「真人族」や「朝臣族」や「宿禰族」等にその身分を表す「象徴紋」の使用を許したと記されています。
この時から、「40程度」の有力各氏は挙って正式に「象徴紋(家紋化)」として使用し発展して行ったと観られます。
公家や皇族賜姓族や高位の身分を与えられた氏(日本書紀に記載されている豪族)がこれを用いていて、ですからこの身分の氏には後に目的に合わした紋(象徴紋、車紋、旗印、陣紋等)が3つくらい持つように成っています。
其の他、賜物で遺らないものとして、反物とか当時貴重なものを与えたと記録されています。
日本書紀には身分、家位、官位、職位などの位を与えた際には、賜物は絹などや中国の宝石(田嚢:ダイヤモンドより数倍もする貴重宝石)や中国珍物を与えています。
実は賜姓伊勢青木氏宗家にもこの与えられたと観られる田嚢(美嚢の一種)があるところに保管されていますので、この様な経緯から直接天皇より賜姓のあった4氏4家の青木氏宗家には何がしかの賜物が伝わっていると思います。
「田嚢」は極めて希少価値であり、当時としては天皇家一族しかもてないものでした。現在でもより難しい宝物です。持つ事そのものがステイタスに成りきれない程の超貴重物なのです。
伊勢と、近江、美濃、甲斐の賜姓青木氏とは江戸期初期ころまで付き合いがあった事が記録から認められますので、この伊勢青木氏に与えられた「生仏像様」で少なくとも3つの青木氏とその一族が衆参していた事が覗えます。

平安初期には甲斐賜姓青木氏宗家とは伊勢賜姓青木氏の始祖施基皇子の子供ですので親族として付き合いがこの「生仏像様」との衆参であったと考えます。この様な背景から少なくとも源光系の賜姓青木氏には何がしかの賜物があったと考えられ、兄時光にもあったと考えるのが普通ではないでしょうか。
因みに、清和源氏の第6位皇子の経基王は天皇からなかなか賜姓してもらえずやきもきしていることが遺された文書で判っていまして、賜姓を受けた時にはそれは飛び上がらんばかりの喜び様であったと記されています。それだけの賜姓に重みがあったという事でしょう。
ですから、光仁天皇も何がしかの物を甲斐賜姓族に与え、それを兄弟の時光の皇族青木氏にも伝授してし与えている事が考えられます。
時光系に賜物を与えていなくても弟の源光一族に見習ってそれに相当する一族を象徴するステイタスを準備したと考えます。

美濃は伊勢の隣り合わせで伊勢青木氏の員弁と桑名付近まで伊勢青木氏の国境に定住しています。
現在も青木村を形成して集中して住んでいます。ですから、この「生仏像様」との関わりは少なからずあった筈です。問題は甲斐です。
「嵯峨期の詔」に基いて名乗った皇族青木氏(時光系青木氏)には「仏像」なるものが天皇の賜物として与えられたかは判りませんが、何がしかのステイタスとして祭祀されていた事が口伝で明治期まで判っています。
この仏像らしき物は明治の「廃仏毀釈」令により、それが保管されていたその一族の菩提寺(浄土宗源空寺)が廃寺に成り、現在まで記録遺品関係が不明と成っています。
(賜物であるかは他の皇族青木氏には記録が無い事から疑問)
これ等が発見されると、この甲斐皇族青木氏で花菱紋の時光系青木氏の研究が更に進むと期待しているのです。恐らくはこの口伝経緯からステイタスは適切な処に現存すると見ています。
それは、武田氏滅亡で徳川氏に仕官して中部から最終関東方面に移動しましたので、その移動過程の添っていると考えられます。

源時光と源源光との青木氏のルーツの違いをはっきりさせる事でもこれらの人物(花菱紋の一族)は大切です。更に甲斐の国府、守護神、定住村、菩提寺、韮崎市、笛吹市、花菱紋、武田3氏6家、藤原氏との関係など甲斐の青木氏に関する事柄を史実として一つにまとめることもこの掲示板の大事な仕事です。
その意味で、甲斐にこれ等を物語る記録遺品関係が少ない無い中で、それに代って武田氏には諏訪族青木氏を含む「諏訪族赤兜軍団」を始めとして、「花菱紋」の青木氏を含む「武川衆12騎家臣集団」等も重要な要素であり考察する必要が出てきます。
先ず、これ等を分析する事で武田氏の中での花菱紋の位置付けが判ります。

先ず「花菱紋」の「丸付き紋」の件に付いては以下の通りの事柄を論じてきました。
武川衆青木尾張守主計、
氏神に保管の仏像と氏神の神紋の花菱紋、
甲斐の花菱紋のステイタスの仏像、
廃仏毀釈と源空寺、
柳沢氏と灯篭と青木氏
以上5検証等を研究して論じてきました。
これ等の事を念頭に次ぎの事を網羅すれば綜合的に読み取れると観られます。

次ぎは花菱紋の母体と成る[武川衆12騎家臣団]です。
この母体を探る事で花菱紋の青木氏の在様が観えて来ます。
その武川衆12騎家臣団は次ぎの通りです。

[武川衆12騎家臣団]
馬場氏、柳沢氏、折居氏、折井氏、山寺氏、横手氏、入戸野氏、山高氏、白須氏、横根氏、牧原氏、青木氏

(1騎とは足軽約50人従えた将で当時の責任範囲の基準とされ、兵50人を養えるだけの石高と戦いの際の行動単位と成った。これ以外に戦いのレベルに応じて要求され、この際は地元「農兵」を雇兵とした)

武田氏には家臣団の一つとして以上の武川衆の家臣団(600)が構成されていました。
この家臣団に青木氏(柳沢氏含む)は加えられています。
武田氏には、他には大別すると次ぎのように成ります。

「武田家臣団」
「御親類衆」、「譜代家老衆」、「他国衆」、「水軍衆」、「近習衆」、「譜代国衆」、「国衆」
以上の7衆に分けられます。

この武田系青木氏(花菱紋)が所属するのは「国衆」の中の武川衆です。
この「国衆」は次ぎの通りです。
「武川衆」、「津金衆」、「御嶽衆」、「九一色衆」、「西湖衆」
以上の5衆で構成されています。

参考として諏訪族や真田衆は「他国衆」に属します。

以上の事が武田氏系青木氏(花菱紋)の武田氏の中での位置付けです。

これを観て皆さんは疑問を感じたのでは無いでしょうか。
時光系でありながら「御親類衆」では無いのです。まして、青木氏が所属する「武川衆」は「譜代国衆」でもないのです。さすが「他国衆」では無い事は判りますが、これで「武川衆」の武田氏の中での位置付けが良く判ります。つまり、「普通の甲斐の土豪集団」として扱われている事に成ります。
何か、違和感を感じます。家臣団として最も低く更にはその中の一つです。

時光系からは武田氏の跡目に入った者もいる位です。とすると、まさか時光の時代から「国衆」で合った事に成るのか疑問です。
時光は信義から6代目で甲斐守で甲斐国主の時信の子供です。明らかに武田氏の直系子孫です。
「御親類衆」の上の「直系子孫」であるとすると、何処でこの様な扱いに成ったのか解き明かす必要があります。扱いを下げられる何か大きな事件があった事を示唆しています。

それが次ぎの様な事が引き金の一つに成っている可能性があります。
1 一条氏を名乗った事
2 青木氏を名乗った事
3 何度も中興開山した事
4 花菱紋に変紋した事
5 柳沢青木氏の発祥させた事
6 別家を興した事
7 柳沢氏発祥させた事
8 宗派争いをした事
9 信定と正定豊定らの争い事
10 養子系が続いた事
11 妾子一族である事

系譜を中心に史料と添書を考察して、この様な事に成る”どこかに「節目」に成る所が在るのか”を探す事が必要です。その中で最も「国衆」に成る「節目」(上記1-10)を発見する事と成ります。
これ等を洗い出した結果次の4つに成ります。

考察
A 時光2代目の常光が真言宗常光寺として中興開基した事
甲斐の3氏6家の青木氏の菩提寺として建立したものが常光が他氏の2氏を排除して中興開山してしまった事が引き金に成って「御親類衆」から外されて「国衆」に組み込まれてしまった。
(b、c、d)
B 時光から11代後までは常光寺に祭られている事
時光から11代の信安までは常光時に墓所を設けて割菱紋の氏として遺しているが、この10代には「系譜や添書や史料」から「事件性」のものは見当たらないのです。
(b、c)
C 11代目に落合氏から養子(信生)が入った事
割菱紋の分家を発祥させて武田氏の家臣落合氏から養子(時信が育てる)に入れて跡目を起てた。
この為に養子先の血筋分家と成った事から譜代ではなく通常の家臣で構成する「国衆」に組み込まれた。
(a、b、c、)
D 割菱紋から14代目で別家花菱紋を発祥させて分離した事(3と同時期)
信定が家臣高尾氏から養子信之を迎えて柳沢郡青木氏を、実子三男豊勝に分家割菱紋跡目(12代からの分家)を継がせ、実子嫡男を別家青木氏花菱紋を発祥させ、実子豊定には新家の柳沢氏の花菱紋を発祥させた親子での争いが起きたので血縁性も低くなった事もあり「国衆」に組み込まれた。
(a、b、c、d)

11代信生は武田の信虎(勝頼)に仕え、13代信正は信虎と信玄に仕え、14代信定は信玄と勝頼に仕え、15代正定は勝頼に仕えた。そして、1575年織田信長に負け、1582年滅亡する。
この期間までの「節目事件」が問題と成ります。

先ず、「御親類衆」から「国衆」に下げられるには次ぎの事が上げられます。
第1番目はa「血縁の低下」
第2番目はb「家柄の低下」
第3番目はc「名誉の低下」
第4番目はd「主家との争い」
以上4条件と考えられます。
(4条件を上記AからDに割り振りました。)

考察
上記AからDまでに条件を当てると、Dが最も可能性が高く、Cと続きます。
Dは勝頼の時代で起こった事で、その母方諏訪族が武田氏の中で勢力を占めていました。その様な立場からも、Dは更に有力です。
直接の原因はDの時に起こったと見られ、その背景はAとCの一族が大いに乱れていた時期が根拠に成っていて、採決する「御親類衆」「譜代家老衆」が最早当然と考えたのではないかと思われます。
つまり、「国衆」の中の一つ「武川衆」に組み込まれた時期が12代目(信正)-13代目(信定)-14代目(正定)の1期間(信玄ー勝頼)と成ります。
この時期は武田氏の48戦中、勝頼の2度の大戦があった最も戦いの多かった時期でもあり、軍編成上で変化を付けられたと考えられます。

確定するには問題は武川衆が何時ごろから発祥したのかと云う疑問です。
武川衆の発祥期は定かでは有りませんが、「1567年」に「武田信豊」に提出した「起請文」に一族名を列ねて「武川衆」と出て来るのが確認されている中では最初です。
この1567年前には史料より「武川筋」と呼称されていて、「西郡路から諏訪口」を云います。
信親-信時、信正-信定の時はまだ正式には武川衆とはなっていません。
「国境警備軍団的な土豪集団」として扱われていました。

「武川衆」の最終は徳川氏に仕官(1582)後、1590年に「武州鉢形」に「代替地」を設けられます。従って、1567-1582年まで(正定や豊定の時代)は、正式に「武川衆」と呼称されていた15年期間です。
それまでは、「武川筋」は最も古い時期としては1542年の桑原築城の文書に”武川筋は板垣信形の配下に入れる”と記されているので、1542年から1567年までの25年間が「武川筋」と呼称されていた事に成ります。

「武川筋」 1542-1567年 25年間
「武川衆」 1567-1582年 15年間

「武川筋」の当時は、広域的には「武川筋」と呼称し、むしろ「武河衆」又は「六河衆」と呼ばれていたのです。それが1567年以後は「武川衆」に変わった事に成ります。

信玄から勝頼までの期間では動向が史料から現在も不明です。
しかし、「長篠の役」(1575)13代目信定の時より6年前と成ります。
直接原因のD説に一致します。

しかし、一説では「甲斐国志」では「直参」と記されています。
この問題を解決する必要があります。

「直参青木氏の検証」(甲斐国志)
「武川衆」とは「国境辺境地域の土豪」で、武田氏に組み込まれてからは「国境警備」を任務としていた事が書かれています。
「国衆」の津金、御嶽、九一色、西湖の地名の土豪は国境域にあります。
「武川衆」は「北巨摩郡」の国境域です。
ここに定住していた前編の巨摩郡青木氏と云う事に成ります。
「北」の巨摩郡青木氏(現北杜市)は14代目正定の別家花菱紋(正定-正重-)の定住地です。
依って、「八代郡」に居た分家割菱紋青木氏(豊勝-・-・昌輝-)は含まれて無いと考えられますので、この武田氏割菱紋系の11代目養子信生系(信虎期)の本家割菱紋青木氏と他2氏(国衛、八代、甲府)が「甲斐国志」に記されている「直参青木氏」である事に成ります。
「甲斐国志」の説も正しいことを意味しますが、青木氏は3氏6家あるのですから、どれが「直参衆」かを明記すべきであったと考えます。ただ、3氏6家の青木氏がある事を承知していなかった文面です。(殆どの史料は判別できていない。)
「直参青木氏」は本家割菱紋(葉菱紋)青木氏(信安系)と分家割菱紋青木氏(信生系)
「武川衆青木氏」は別家花菱紋青木氏(別家柳沢氏含む)

豊定の柳沢氏も起請文(1567)には「国衆」に組み込まれた事が記されていますが、武川衆12騎の中には有りません。これは信生系青木氏から豊定の柳沢氏が発祥したばかりで引き入る一族も無い訳ですので小さい氏(50人以下)として兄の正定の「別家青木氏花菱紋族」の中に組み込まれたのでは無いかと見られます。

「柳沢郡青木氏の扱い」
そして、柳沢郡青木氏に付いては記されていない処を見ると、丁度、1567年頃に安芸国に移動した事から記されていないのです。これは添書と一致します。この養子続きの柳沢郡青木氏の移動時期(1567)とも一致します。
この時、起請文を武田信豊にわざわざ提出する事を行っているところを観ると、織田氏との戦いに向けて大掛かりな軍編成があり、其処にはこの高尾氏の子「信之」が「信定」の養子と成り柳沢郡青木氏を発祥させたばかりでもあり、「豊定」の柳沢氏発祥と同じ扱いを受けたのではと観られます。
しかし、「信之」の場合は義父信定が強引に進めた跡目側でもあり、別家を興さざるを得なかった正定と新たに柳沢氏を起こさなくては成らなくなった豊定側からすると、血縁のない信之を正定側は豊定の柳沢氏のような扱いで正定の隊に入れて行動を共にしたくない相手でもあります。
信之は実家高尾氏の「和泉守」を名乗っている事があります事から、正定は無冠であり余計に関係が上手く行かなかった事と見られます。
恐らくは、実家高尾氏の「和泉守」(標準四騎)である事から、少なくとも信之は一族一騎(50人)を以って「一騎合衆」(寄合衆)に加えられた事も考えられます。
結果として、これを不満としてか義母の実家先の安芸の毛利家家臣の桜井安芸守を紹介してもらい家臣を引き連れて移動したことに成ります。
上記した様に、「甲斐の武田氏」は衰退し、一時1330年代に安芸守守護として信光の「安芸の武田氏」に勢力が移っていた時期があります。
この末裔桜井氏が毛利氏の家臣となっていたところを頼った事を意味します。

信定は尾張守を称していた事から4ー5騎程度の兵を有していたことが考えられ、「武川衆」に組み込まれた事から一部は正定と豊定に宛がわれ、残りは信生系の三男豊勝の本家が有していたと観られます。(最終は正定の子供昌輝が跡を引き継ぎ、武川衆の中では全騎が正定の配下と成った)

信定(尾張守)-信之(和泉守)-豊勝と正定-豊定の軋轢の背景には、織田軍との戦いを前にして前編の「路線争い」と「宗派争い」の他に、添書の”終わりに臨して養子と成る”(織田軍との戦いに討死覚悟で養子にする)を憶測すると、「信之」の実家の兵(4-5騎)を期待したのではないでしょうか。
武田氏に対して「信生系」の青木氏の尾張守としての立場を意識したと考えられます。
そうすると、この考え方で行けば、曹洞宗改宗は多くは曹洞宗信者の多い農兵を集める一つの手段であった事にも成ります。
(建前は”曹洞宗の海秀玄岱商人に信心した”と成っているが裏にはこの目的があった事に成る)
つまり、織田氏との戦いを前にして、「戦況不利」で兵が集まらない状況に落ち至っていたことを示すものと成ります。上部からの命令で信定の一門は躍起と成っていた事を物語ります。
その証拠に、次ぎの様な事で証明できます。

武田氏主力軍の「他国衆」の編成は次ぎの通りです。
1 信濃先方衆
2 西上野衆
3 駿河先方衆
4 遠江、三河先方衆
5 飛騨先方衆
6 越中先方衆
7 成蔵先方衆
8 駿河、三河、信濃、上野一騎合衆
以上8衆です。

これでも判る様に、3と4と8は織田軍(徳川軍)に最早抑えられています。兵力は不足しています。更に、「他国衆」のみならず、「譜代国衆」も離反、謀反が相次いで起こり始めていた時期です。最終、戦い直前では国境を護る「国衆」の武川衆も離反したのです。
見逃しては成らないこの背景もあった事が考えられます。

何れにしても、「御親類衆」でなく北巨摩郡の別家花菱紋は「国衆」の武川筋の国境を護る衆に下げられた事は事実です。

注 巨摩郡は南北に分けられている。花菱紋の正定の別家を興したときには北に移動したことを意味します。豊勝の割菱紋側が南に留まったが断絶し、結局、正定の子昌輝が跡を継いだ事から南北は統一された事に成ります。
(1590年 徳川氏仕官後、正定花菱紋一族は武州鉢形の代替地に強制移住させられた。)

前編で記した家臣落合氏の子信生を養子にし嫁を迎えての系図であり血縁性が無く成った事は否めません。「信定」(1573討死)は肩書きが「尾張守」であった事を配慮すると、「長篠の役」6年前の1567年頃に「軍制編成会議」で子供の正定の別家が「国衆」に組み込まれ起請文を提出した事に成ります。

それらの事情も背景の上に「正定と信定との親子争い」はこの様な事に繋がっているのです。
これで「宗派争い」と「路線争い」と「身分家柄の低下」と「本家の跡目」問題が重なって起こり天地が変わる程の大変な争いであった事を意味します。
其処に武田氏の急激な衰退が起こりつつある中での事です。今で云えば、正定の青木氏は”左遷で格下げで窓際族で肩書き無しで給与ダウンで免職瀬戸際”と云うところでしょう。
普通では耐えられない環境です。一つ間違えば武田氏系青木氏滅亡も有り得た環境です。
結局、1582年の武田氏滅亡後に徳川氏に下級家臣として扱われ250石程度で仕官した事が逆に武川衆の青木氏の「命拾い」に成った事に成ります。その事で決着が着き氏は持ち堪えたのです。

「柳沢吉保」の出世で武田氏系が復興するまでの期間(1582-1688=106)と明治までの徳川譜代家臣団として期間(1688-1866=178)あわせて約300年存続出来たのです。

特筆する事は、「花菱紋の丸付き紋の青木氏」も添書で観ると、少し遅れて1582年武田氏滅亡後3年後に仕官し、以後、徳川氏に代々大番役で禄米200俵ながらも叶えられて存続したのです。
貧困に喘いでいた元親族の柳沢郡青木氏(後に丸付き紋に成る)も安芸で功を成し、それからその財を以って帰国(1584年頃)し曹洞宗常光寺の建て直しなどを行った事に成ります。その期間に帰国6年も遅れての事から300年の存続を成し得たと考えられます。
武田氏系青木氏は豊定系柳沢氏(花菱紋)が丁度よい時期(1688)に立身出世したお陰で丸付き紋までの武田氏系青木氏一族をも救出した事を証明しています。

この様に調べると、時光系から青木氏の発祥経緯に始まり、一条氏などの上記した「引金条件」の様な事が14代目まで続き、異質の一族家系の乱れが後世の子孫に大きな原因と成っていたことが判ります。(これらの事は前編で既に記述していますがより深く改めてここでも記録しておきます)

「丸付き紋の花菱紋」
この様な背景にある花菱紋ですが、そこで無い筈の「丸付き紋」に付いて、更に詳しく「丸付き紋」経緯の件で考察します。
この花菱紋の「丸付き紋」が更に又一族に問題を引き起こすのです。

賜姓青木氏5家5流と11家11流の賜姓源氏の綜紋の「笹竜胆紋」は慣習(歴史的な家柄、身分)から「丸付き紋」等を一切原則的に使用しませんでした。
同様に藤原秀郷一門も「下がり藤紋」の綜紋は「丸付き紋」を使用していません。
藤原秀郷流の青木氏は末裔が116氏に及ぶ為に副紋方式(藤紋の中に副紋を入れる方式)を採用しました。
(配流孫等によりその証拠が確認できる特別な場合は慣用的に「丸付き紋」を用いた。殆ど丸付き紋は未勘氏と第3氏です。)
これは、当時の「氏家制度」の慣習から、”「家柄」「身分」「純血」を護る事”を前提としていた事によります。
つまり、「丸付き紋」を使用しないのは多くの血縁外の氏が使用して仕舞う為に「血縁外青木氏」の拡がりを防いだのです。嵯峨期の「青木氏使用禁令の詔」を護ったのです。
この2氏のこの原則は明治3年まで3つの期間を除き原則長く守られました。

3つの期間とは次ぎの通りです。
「室町末期」 下克上、戦国時代の混乱期に、氏姓の持たない農兵や下級武士がその中に力のある者は武士として立身出世して氏姓を与えられ、又自ら主人の氏名を搾取して名乗った。

「江戸初期」 ある程度安定期に入り、「兵農分離令」で農兵の武士化が起こり、又末端の下級武士等が旗本、御家人等に成ると、自らの氏姓や家紋を改めてよく見せる為、又出世に必要とする為に家柄身分の良い氏姓を搾取して名乗った。

「明治初期」 維新革命の3年の苗字令やその8年の督促令に基づき、九割近い国民は苗字を持つ事に成ったが、近隣に居た身分家柄の良い氏姓を自由、無秩序に名乗り、それに伴なって家紋や系譜も搾取して名乗った。
以上の3混乱期です。
これ等は未勘氏や第3氏と云います。

そこで、「氏家制度」の代表的な「社会慣例」は、当初は特定の氏の「象徴紋」としての家紋でしたが、次第に氏姓に代るくらいの意味合いを持つ様に成りました。そして、其処に社会の中で規則が生まれ統一した使用方法が確立したのです。増加、拡大した氏のその紋に依って氏の家柄、身分等を判別できるシステムが発展し、「家紋」を中心とした「氏家制度の充実」が起こりました。
そこで、先ず、夫々の氏の紋、即ち「家紋」と云うものに対しての位置付けを改めて先に「家紋掟」の概容を取りまとめてみます(レポート済み)それは「家紋掟」にあります。

「家紋掟」
本来、丸付き紋の目的は、青木サイトとして「家紋掟の古原本」より筆者なりにまとめますと、「氏家制度」の「家紋掟」により細かく分けるとすると、7-8つ程度の役目があります。
(本来は6つの掟)
1 宗家、本家、分家、支流、分流、分派の区別
2 嗣子と妾子分類
3 宗家の許可
4 配流子孫の区別
5 男系跡目の継承
6 養子縁組
7 嫡子尊厳
8 身分家柄の保全
これ等は「氏家制度」と「封建社会」の維持を理路整然として堅持する事を目的としていました。

ただ、これ等の事が江戸末期から次第に守られなく成りました。
当時の封建社会の社会慣習の緩みが原因です。
明治に入り、明治3年の「苗字令」と8年の「督促令」でかなり緩やかに成りました。これにより国民が無秩序に皆氏名を持つ事でその必要性が薄らいだのです。
昭和に入り全く護られなくなりました。むしろ、「家紋」の有無もある事すら衆知されていないことです。家紋は存在しながらも「家紋掟」どころではありません。

そこでまず、項目事に説明し考察します。
1番目は「純血」を前提とするので血縁も「吊りあい:身分合わせ」を採り厳密に云うと同族(同属)血縁関係を維持していたのです。

奈良期-平安期頃までは当時の習慣として同族血縁でした。奈良期では5親等族間での血縁でした。
その後、同属と少し緩やかな血縁と変化しました。日本書紀の記録では姪を妻とする事を正式に行っています。
(この純血遵守の慣習の弊害を除く為に、2つの方法を採用しました。
1 「妻の制度」を4つに分けていました。(身分により階級は異なる)
2 戦いや視察などを目的で各地に移動して「戦地妻」の仕来りに従いました。

この奈良期と平安期の時代には、血縁の大きな変化が無い為に家紋は全く同じものを使用しました。
同じ家紋同士の血縁と成りますので、この慣習が続いた為に「丸付き紋」を使用する慣習の必要がなかったのです。それが家紋が急激に多くなった鎌倉期まで続いたのです。
この鎌倉期ごろから氏の爆発的拡大が起こり、夫々の氏は家紋を持つ様に成り始めましたので、家紋を持てる上級の武士と貴族は1番目の方式(宗家、本家、分家、支流、分流、分派の区別)を採用して家紋を変える事をしました。
特に藤原北家一門は子孫末裔を大きく広げましたので区別する為にこの方式を代表として使用しました。

1番目に付いて、各氏によって違いますが、原則として末裔子孫が大きく拡大するにつれて、次ぎの様に変化して行きました。
家紋を認めるのは氏家制度ですので、夫々の枝葉末孫(ツリー)の本家筋が使用の許可を宗家(本家)に出しました。
本家筋は、「同紋採用」の方式と、家紋の「一部変化」させる方式と、もう一つの紋を付ける「副紋」を使う方式を採用しました。
但し、皇族賜姓青木氏、藤原秀郷一門、武田氏系はもとより武田氏系青木氏の宗家筋一門の綜紋は丸付き紋を使用しませんでした。
分家筋は「丸付き紋」にする方式と、「裏紋」にする方式にしました。
支流分派筋は家紋を変化させる「類似変紋」の方式にしました。

2番目(嗣子と妾子分類)は男系跡目を作る為、近親婚の弊害を避ける為に、妾方式を正式慣習として認められていました。大まかに分類すると次のように成ります。
上級では4階級(后、妃 賓 妥女)
中級では3階級(妃 賓 妥女)
下級では2階級(妻 妥女)

注 「賓」は使用字は賓の左に女辺が付き「ひめ」と呼ぶ。妥女(うねめ)は妾である。
そこで、正妻に男系が出来れば同紋の採用、嫡子外は本家筋方式(綜紋)に、妾子は分家方式に、嫡子が出来なければ妾子に同紋採用、嫡子外は分家方式にしました。

3番目(宗家の許可)は、夫々の本家がその家紋の使用の仕方を命じます。本家の宗家がその使用の仕方に異議があれば指摘し、従わない時は破門か武力で取り潰しでした。かなり強い決定権を持っていました。つまり、1、2番の規定方式外に宗家本家のチェック機構が働いていたのです。最も上は「総宗本家」と云います。このシステムで決めていた事に成ります。

4番目(配流子孫の区別)は配流子ですが、戦いで又は罪を得て島流しに遭った者に現地で子孫が生まれた場合です。
普通、その子供に嫡子である事を認知確認出来れば、妾子と成りますので2番目の方式を採用します。殆どは、配流ですので丸付き紋に成ります。認知外は原則別紋です。

「未勘氏」は確認出来ない何らかな根拠がある場合はこの「認知外」です。
「第3氏」は根拠無しで認知外(第3混乱期)です。「未勘氏」と「第3氏」は判定は困難です。
ただし、歴史的に史実が取れれば、原則丸付き紋と成ります。
(真人族、朝臣族、特別宿禰族に対する処置が多かった)
「配流」でなくても、正式に「戦地妻」の習慣がありましたので、認知、認知外の方式を採用する事に成ります。つまり、この未勘氏が殆どこれに当ります。
「戦地妻」は正式な慣習行為として認められていましたが、源氏や平家や藤原氏や橘氏や鈴木氏等の有力な豪族が自らの子孫を拡げ”いざ戦い”の時には、その子孫の一族郎党が駆けつけて自軍勢力を拡大する戦略です。又「戦地妻」の子孫が生まれればこの旗頭の配下に入り身の安全は護れると云う相互互恵の考えがあったのです。
(一族に”娘が居なければ妻を出す”という事も常識の範囲として平然と行われました)
最も有名なものとして頼朝の坂東八平氏軍を頼らず、強行突破して平家を2度も打ち破った「義経軍」(1万2千)の手勢はこれから来ているのです。
(義経自身は行わず、鈴木三郎、亀井六郎、駿河次郎、伊勢三郎等の戦地妻族です)
北条氏は摂津にどしどしと終結してくるこの「義経1万2千の手勢軍」に対して計算外で合ったことが記録されています。これ等に対して義経自身も摂津から河内、紀州、伊勢に掛けて説得して周り自ら兵を集めたとする記録が遺されています。
それほどにこの「戦地妻」方式が氏家制度の中で汎用化していたのです。
それだけに、この義経の「人的魅力、指揮能力、軍略、軍の有様」が怖かった背景と成ります。

5番目「男系跡目の継承」ですが、男子が正妻子、妾子の何れにも嫡子が出来なかった場合の娘の場合は養子婿を採ります。
この場合は、養子婿に嫡子が出来れば自家の家紋採用です。
妾子嫡子の場合は本家に伺いを申し立てます。原則そのままですが、本家との関係が悪ければ丸付き紋を命じられます。
嫡子が出来なければこの間養子婿先の家紋採用と成ります。或いは丸付き紋の許可を本家に求めます。更に娘がいて養子婿を採る場合は、嫡子が出来れば元の家紋に戻す事に成ります。
つまり、男系跡目が出来た事に成ります。

6番目の「養子縁組」ですが、5番に続いて、嫡子が出来なければ2代続きで女系に成りましたので、以後その最初の養子婿先の家紋採用と成ります。
子供ができない場合は、他氏から養子縁組をする事に成りますが、この時、原則家紋を引き継ぎますが、男系は切れていますので、1番の何れかの方式に成ります。通常、丸付き紋か変紋です。
ですから、家紋が変わるので、極力縁続き(分家、支流、分派、遠縁、縁者)の男子を必死に探し出して迎える事をします。普通この場合が多いのです。この場合は家紋はそのままで繋げます。
例として、実は花菱紋青木氏は正定から4代目信知に嫡子無く3女子であって、青木宗頼の次男を養子婿として迎えて跡目を継いでいます。
(享保の跡の寛保元年没 宗頼は縁者になし 上記系譜参照 末尾記述)

後に異議が出た「信之」の柳沢郡青木氏の場合は、”全く他人を養子に迎えて嫁を採り養子に子が無く、跡目として更に養子先母方の親族から探し出して養子を迎えて嫁を採り子が出来たが早世して、更に他人を養子に迎えて嫁を採り”と次ぎから次ぎへと繰り返している家系図ですが、花菱紋の家紋を変えなかったので正定系子孫から異議が出たものです。結局、原則使用しない事に成っている「丸付き紋」に成ったのです。

7番目の嫡子尊厳ですが、嫡子とは「後継ぎ」の事ですが、長男とは限りません。
最も跡目に相応しい人物と云う事に成りますので、男子が居ても6番の方式で探します。
普通は3親等範囲では問題はありません。跡目に成らなかった場合はその男子は1-5の方式を採用しますが、家紋は主に本家の許可を求めます。普通は1番の方式で処理します。
長男方式の習慣に成ったのは江戸初期からです。徳川家康が”長男を後継ぎとせよ”とした事が始まりです。それまでは「生残り」の為に長男とは限らず優れた者が嫡子の跡目に成ります。
自分の家に男子が居てもきわめて優れた者が親族縁者(原則3親等内だけれど文武にたけた人物が居る場合は)に居れば廃嫡して養子として迎えて跡目に入ります。但し、この場合は名家、豪族以上と限定されます。一族末裔郎党の存続に大きく左右する様な事とが無ければここまではしません。
この場合は、廃嫡子は親族縁者か他家に養子に出すか、僧侶にするか、家臣にするかの選択が必要と成ります。宗家が本家に対して注文を突きつけるなどをする事もあり、氏家制度の中では戦国時代はこの状況が頻繁に行われました。
正定(別家北巨摩郡青木氏)と豊定(別家柳沢氏)は、父信定との軋轢から信之(柳沢郡青木氏 准嫡子)と豊勝(本家巨摩郡青木氏-割菱紋 嫡子)に本筋青木氏を奪われてしまった為に、実質廃嫡に成った事から夫々別家を興したので割菱紋は使えません。
又信之の様に職位が無かった事もあり、そこで本文の事件では花菱紋に変紋した事に成ります。

8番目の身分家柄の尊厳ですが、「氏家制度」の社会の中では、極力「吊り合い」を採る血縁です。
下の家柄身分の血縁は極力避ける事に成りますので、普通は6番の方式(養子縁組-縁者)で逃げますので家紋はそのままです。場合によっては虚偽の遠縁を作り出し跡目に据えると云う事が横行しました。
定信と豊定は廃嫡になり家柄身分の継承が成り立つ分家では無く、「別家」(甲斐北国境の辺境地 北巨摩郡)を興していますので、信生の養子系(嫁採り)である為に血筋も無くなり、家柄身分も当然に無くなります。依って、親子争いだけでは無く氏家制度の「家紋掟」から観ても「国衆」に下げられた事に成ります。
信生の場合は、割菱紋から養子として分家を興している事に成りますので家柄身分は維持されます。
信之(嫁採り)の場合は、信定の采地巨摩郡(南)の青木氏(豊勝)対してもう一つの采地柳沢郡にも青木氏を興して分家扱いとした為に、それなりの家柄身分(和泉守の含めて)は維持されたと観られます。ただ養子続き(嫁採り)である事が問題と成ったのです。

注 氏家制度には、養子には「養子婿入り」(女系)と「養子嫁採り」(他人)があります。
注 「養子婿入り」には「遠縁養子」は家紋が変化しない。「他氏養子」は変紋義務が伴います。

[第3氏と未勘氏の存在と判別]
氏家制度の下では、家柄を良く見せると云う事が風潮として社会全体にありました。その為には立身出世した者は、下から上への血縁では、”上の潰れた分家等の家を探し出してそこに一族の者を入れて跡目を立てて名乗る”と云う事が頻繁に起こったのです。無ければ強引に造り出す事もしましたが、「戦地妻」と違い根拠の無い多くの「未勘氏」とされる氏はこの方式です。
滅亡した源氏などの氏が何故こんなに多いのか不思議です。こんなに多いのであれば滅亡ではないでは無いか、又滅亡する事は無いだろうと思う位です。
それは、拡大に伴なう「氏家制度の弊害」と云えるもので、「情報社会の発達」の初期の課程で起こる現象です。

一人が搾取偏纂するが、次ぎの様なことが起こります。
1 それに異議を唱えるだけの情報が無い事、
2 自らも搾取偏纂の同じ立場にある事、
3 情報網が未熟である事、
4 武力で戦う以外に中止させられる罰則が無い事、
5 期間を経るとそれが既成事実として歴史になる事、
6 元の氏末裔は死滅で異議を唱える者が無くなる事、
7 社会全体が搾取を暗黙で認めている事、

この様な経緯から源氏、青木氏、藤原氏の身分家柄を獲得するのにはこの8番目の方式を利用したのです。
この場合、有名な事件が大変多いのです。当然、家紋掟では家紋は異なる事に成りますが、同紋を使われた宗家本家との間で戦いが起こりました。
青木氏では、秀吉の立会いの前で、近江の青木氏の宗家と滋賀の分家残留組の断絶家を使われた為に
戦うと云う事件(250人が出陣した)が起こりました。近江の宗家本家の青木氏が負けました。(近江青木氏が一時滋賀に移動して再び近江に戻り後に摂津に定住するが、滋賀残留組が断絶した)
滋賀に多い青木氏は勝った方の青木氏です。
(この勝利した者は元は伊賀南部上山郷の農民出身の上山一族でそこからは多々良姓青木氏が出ている位で歴史が既成化したのです。
近江佐々木氏系(天智天皇第7位皇子の川島皇子が始祖)青木氏と、滋賀佐々木氏系(宇多天皇系)青木氏とは異なります。
(共に皇族で家紋笹竜胆で判別は通名と土地と系譜で判別が出来るが専門的で困難と観られる)

賜姓源氏と賜姓青木氏は綜紋は次ぎの通りです。
「笹竜胆紋」、
藤原秀郷一門は次ぎの通りです。
「下がり藤紋」
武田氏は武田菱紋です。
以上が綜紋です。

武田氏の様に直系の源氏を名乗っているのに家紋が笹竜胆紋でないのは「支流傍流氏」か「未勘氏」です。
賜姓源氏は11家の内で最終3家しか残らず、最終その3氏も滅亡して遺していません。特定の5氏に跡目策を採り遺しましたがこの5氏を除き絶滅しています。
笹竜胆紋からの他紋への変紋が慣習上は全く無く、他紋で名乗っているのは九割九分はこの未勘氏です。又、笹竜胆紋なのに青木氏と佐々木氏(他1氏)でない氏は未勘氏です。
(丸付き紋は特定の配流氏のみ使用)
何れも綜紋を引き継げるのは宗家か本家筋の一門だけです。
清和源氏を名乗る「未勘氏」は数える事が出来ないほどに多いのです。もしこれだけ源氏が多ければ潰れてはいません。この意味するところは家柄を良く見せると云う風潮です。
特にこの甲斐の国はその傾向と未勘氏が多いのには特別の感じがします。
笹竜胆紋は綜紋(一族一門の代表紋)ですから、宗家、本家筋が引き継ぐものですから、分家支流分派でありながら笹竜胆紋とするのは家紋掟の慣習を無視した「第3氏」か「未勘氏」です。

例えば、「藤原氏」を直接名乗る氏がありますが、藤原氏は地名官位官職を「藤」の前につけて名乗る事に成っています。藤原氏を名乗れるのは武蔵国入間の宗家だけです。しかし、直接藤原氏を名乗っている氏が如何に多いかです
同様に、「下がり藤紋」を家紋としている氏も大変多いのです。これも藤原秀郷主要5氏と2氏合わせて7氏の本家筋と宗家筋だけですがこれも大変多いのです。。”全て”と云っても「第3氏」で当るでしょう。
しかし、上記した伊勢伊賀地方の南の上山郷から出た上山氏の青木氏には、家柄を獲得した為に結果として10以上の守護、国司等の高官を勤めた氏ですので、最早第3氏ではありません。歴史伝統を証拠つける全ての条件が整っているのです。
滋賀残留組の近江賜姓青木氏、近江佐々木系青木氏、滋賀佐々木系青木氏の判別がつかなく成っています。既に分流族もありこの一族(元上山氏)から出た多々良姓青木氏もあるくらいです。
混乱期第1期(室町期)の青木氏に限り4ー5の元上山氏の青木氏の様な「第三青木氏」があります。
明確に史実として遺されている氏として、関西では2氏、中部では1氏、関東では2氏があります。これを筆者は「第三青木氏」と呼称しています。
問題はこの「第三青木氏」には宗派が浄土衆では無い事なのです。
恐らく室町期の浄土宗側の入信戒律が厳しいものがあった事から来ていると観られます。
浄土宗は、氏自ら実費で専属の氏寺、菩提寺として建立し、一族の者から住職を選び、許可して本山で養成していた事から特定以外の他氏は財力があるとしても許可が得られなかったのです。
賜姓青木氏と秀郷流青木氏は宗派は浄土宗です。これは分派まで同じです。
この様な理由から青木氏を名乗りながら浄土宗とは違うのは「第3氏」か「未勘氏」と成るのです。

この様に浄土宗は高位の身分の氏だけが入信できる宗派でした。と云うよりは、一族で自寺を建てて菩提寺として、一族の者から住職を作り寺を一族で浄土宗寺を運営していたのです。
ですから、室町期の上記の第三氏青木氏は知恩院、清水寺などの総本山からの派遣の僧侶の無い事、仮に浄土宗の菩提寺を建立する経済的な勢力が在ったとしても浄土宗総本山からの異議が出来て場合によっては戦いになる事も起こるのです。多分、宗教活動が出来ない事に成ります。
現在でも浄土宗は総本山から管理される運営システムです。勝手には出来ません。

これ等の2氏が下克上と戦国時代で衰退しましたので、浄土宗寺菩提寺を単独で維持できなくなり潰れて行くことが多発しました。そこで、江戸初期からは中級武士が入信させる「浄土宗督奨令」を出しました。
江戸初期からは総本山から管理され補助されながらも浄土宗寺は中級以上武士の「檀家衆」で寺を運営する様に成りました。この「檀家衆」は未勘氏を含む藤原氏系、平家系、源氏系、橘氏系、皇族賜姓青木氏系29氏等の流を持つ氏から成り立っていました。
この様に浄土宗には歴史的な経緯があるのです。
この歴史的経緯で以って、2つの青木氏も定住地が特定されていますので、宗派と特定先と違う土地の青木氏は「第3氏」か「未勘氏」と判定できるのです。
(明治期前の昔は「国抜け」で移動定住は許可なしにはできなかった。無宿者と成る)

他には、菩提寺の有無、過去帳の有無、過去帳の一番古い人、仏壇形式、氏神の有無、村の有無、伝統品の有無、本家分家の有無と判別が出来ます。
実際、2つの青木氏より第3の青木氏と未勘氏の方が数倍多いのです。
「第3氏」と「未勘氏」はこれ等の条件が一致しないのです。
特に、絶滅した源氏を名乗る氏は未勘氏が殆どです。
中には、九州地方と中国地方西域に源氏そのものの氏名で「源」氏を名乗る者がいます。
多分、これはこの地域に上陸した中国と韓国から渡来した「源」さんの末裔なのでしょう。
例えば、山口県に多い武部氏や武田氏は中国からの渡来人です。
(安芸には甲斐武田氏の末裔が定住 安芸武田氏)
毛利氏家臣で有名な毛利元就が取り立てた中国人の武氏がいましたが、この人物は後に武田、武部を名乗りました。中国地方特に西域に多い武田氏の多くはこの末裔です。甲斐の武田氏とは中国系で別です。
この様に、特に、この家紋掟から見て、史実と照らし合わせると、家紋はそれを見抜く事が出来る代表的な条件です。
特に、2つの青木氏関係の家紋は史実と照らし合わせ、又「家紋掟」から割り出して判っていますので、丸付き紋の有り無しが疑問に成るのです。
室町末期、江戸初期、明治初期の第3氏を含む未勘氏は、この2つの青木氏(源氏含む)の条件に一致しないのです。
皇族賜姓青木氏、皇族青木氏、藤原秀郷流青木氏等は「丸付き紋」は当時の氏家制度の社会の中で身分家柄(純血 下の身分家柄との血縁は原則しない慣習)の保持の為に丸付き紋は使用していないのです。
「丸付き」は”本来本流では無い事”を意味する手段として用いたもので、「象徴紋」から「氏の家紋」に変化して行った平安末期では「分家」などに用いられたものです。その意味が拡大解釈されて血縁が無くても”違うや仮”を意味する記号として変化して行きました。
それが「下克上」に依って「分家」や「支流」「分流」「分派」が本家に変わるなどの現象が起こった事から何時しかデザインの一つとして用いられる様に成ったのです。
特に、養子などによる変紋の「仮」の意味合いは昭和初期まで使用され一般に認識されていました。

そこで、問題に成るが、武田氏系青木氏3氏6家の一つの時光系の花菱紋に「丸付き紋」が史実に照らして存在するのかが研究課題なのです。第3氏か未勘氏の判別です。
では、この「丸付き紋」は「家紋掟」1番のどれに当るのかと云う疑問も出来ます。
それには花菱紋の氏には要件が一致していますが、その花菱紋の分家筋と見られる上記の条件の「土地」と「家紋」を除いて、他の要件に一致するかの研究が必要となります。

研究を進めると、「武田菱紋」の「系譜と添書と史料」を基に調べると、次ぎの事柄が発見されました。
この上記した武田氏が滅んだ天正3年の頃、毛利元就に仕官した甲斐花菱紋青木氏で柳沢郡青木村の者がこの「丸付き紋」を後にある事件で使用した事が系譜、添書で発見されました。
つまり、「丸に花菱紋」の武田氏系の皇族青木氏の存在が「第3氏」「未勘氏」でない事とその経緯が発見されました。
「花菱紋青木氏」では、氏神社、柳沢氏、仏像、尾張守、官職主計と、花菱紋、時光系、韮崎市の常光寺、丸付き紋なし、源空寺、吉田氏住職、巨摩郡青木村、柳沢氏が史実と完全一致しています。
ですので、理解を深めて頂き正しく判断して頂く為に「氏家制度」で用いられた上記「家紋掟」を今回詳しく紹介して検証しました。

「丸に花菱紋」は正定系の花菱紋末裔から全く血縁性が無い事を理由に異議申し立てがあり、協議の結果、信生-信正-信定-信之の系譜はそのままに、家紋の花菱紋を「丸付き紋」とする事を前提に妥協したのです。そして、これ等のことを系譜とその末尾に一文を入れる事で解決したと添書にあります。
花菱紋の系譜の「信生-信正-信定-正定」の系譜と丸に花菱紋の「信生-信正-信定-信之」の系譜は、後刻、寛政の頃(1800)信正にて添書き等を含む修正編集が加えられていますが、信之側の系譜には異系である事を誇張する故意的な編集が観られます。これはこの協議の時に成されたものか信政に依って成されたものかは確定できません。
問題は寛政時代の信政が信之側の系譜に携わることが出来たのかは不明です。
協議の時期も定かではありませんが、曹洞宗常光寺が丸に花菱紋に成っている処を考察すると武田氏滅亡後の信之(2代目襲名 元忠)の常光寺再興期頃(1585年頃)である事が考えられます。
何れの氏も徳川氏に仕官して3年くらいの時期ですので、多少の落ち着きが出た処と観られます。
この二つの氏がどの様にしてコンタクト出来たかも確定は出来ませんが、添書より次ぎの事が判ります。

正定側は”家康に仕える 旗本 采地250-450石、代々大番に列す”とあります。
信之側は”家康家臣本多佐渡守に仕える 禄200俵 代々大番に列す”とあります。
仕官初期の頃(1585年)であれば本多氏は家康側近である事から家康陣内で合う事は充分に可能と成ります。この頃はまだ武州鉢形に移動していません。時系列的に一致します。
依って、上記系譜は寛政期の信政の修正編集では無い事がほぼ裏付けられます。

ここで、もう一つ疑問があります。
それは、「信生」です。
「信生」は武田氏家臣落合常陸守信資の三男で、信時の養子となり、幼少の頃より養われるとあり、「信安」と義兄弟です。
「信安」は常光寺の最後の11代目として祭祀された人物で時光系本家割菱紋 葉菱紋の本家を継承している人物です
「信正」と「信定」より系譜上で上に来ています。
本来であれば、「信正-信定-信生-正定」と成る筈です。
この事に付いて後編で論じます。

さて、次ぎは「青木尾張守主計」の件ですが、史実を披露しますと次ぎの様に成ります。
清和源氏末裔の青木十郎時光から12代目に尾張守青木主計頭信正がいました。
この人物が花菱紋青木氏の祖祖父です。皇族青木氏の時光系青木氏その末裔と云う事に成ります。
この「信正」は官職は尾張守で、俗名は「与兵衛」と云います。法名は「深見」と云います。
「..兵衛」は賜姓青木氏の宮殿親衛隊の官位から特別につける共通名「..兵衛」なのです。
これは、元は天皇を護衛する近衛兵親衛隊で、宮殿の3つの門を護る官職名で2つの青木氏に天皇から与えられた永代使用を認められた共通通名です。だから、「..兵衛」(門を守る兵)なのです。
「北面武士」として有名ですが、これが青木氏なのです。(右衛門、左衛門も青木氏の通名です)
この「通名」でその「系列」を判別するように成っています。
(後に金品を朝廷に渡す事で得られる名誉官位、官職と成りました 天皇家の経済的根拠)

因みに、「与兵衛」の通名を使っている人物は次ぎの通りです。
割菱紋青木氏本家(義虎系)
信種(嫡子)の子の信親
信時(信親の子)の子の信安
信安の子の信就
信就、信幸、信峯の子の信祐
信祐の子の信任

割菱紋青木氏分家(義虎系)
義虎の子の信正(妾子:信種弟)
以上6人です。

注 信種は信正と同人物との説もある。
注 信種は信定と同人物との説もある。
注 信親は信立と同人物との説もある。
注 信親は信定と同人物との説もある。
注 信時は信定と同人物との説もある。
注 信立は系譜上正式に存在しない。

「尾張守」を名乗った者は次ぎの通りです。
始祖時光は甲斐守
時光系割菱紋の本家
A 時光-常光の子の「信連」
B 信連の子の「貞義」
C 貞義-義遠の子の「安遠」
D 安遠-嘉虎の子の「信種」
E 信種の子の「信親」*
F 信親の子の「信時」*
時光系割菱紋の分家
G 義虎の子の「信正」*
H 信正の子の「信定」
以上8人です。

注 信正と信種は兄弟で同時期に尾張守である。
注 信定と信親は従兄弟で同時期に尾張守である。
注 信定と信時で武田氏は滅ぶ。

以上の「通名」と「尾張守」からの疑問点が浮かび上がります。
1 通名「与兵衛」が付く事は本流本家筋を意味する。しかし、信正だけは分家である。
2 官職名「尾張守」は本来は本流本家筋が引き継ぐ事となるが、しかし、信正とその子の信定が引き継いでいる。つまり、本流本家の信種と信正は「尾張守」が重複している。(疑問)
3 更に、本流本家の信種には「与兵衛」の通名が無いが、分家の信正(妾子)には通名がある。
4 本流本家の信親と分家の信定は「尾張守」が重複している。(疑問)
5 本流本家でありながら信時は「尾張守」だが「通名」が無い。
6 分家でありながら信定は「尾張守」だが「通名」が無い。
7 重複人物説の疑問がある。

以上を複合的見地から解明しなくてはならない事柄です。
これらの事は長文を要する為に後編で論じます。

次ぎに、「主計」は名では有りませんで、「朝廷の職位」です。
かなりの上の身分で事務の中の経理に相当する役職で「頭」が付いている為にその長である事を意味します。斎蔵(藤原氏 摂関家)の所属です。
本来の呼称は、「青木尾張守主計頭与兵衛信正」と成ります。
この青木氏は先ず「割菱紋と副紋葉菱紋」から「割菱紋」に変わり「花菱紋」と成り、後に武田氏「武川衆12騎」に成った事は確認出来ました。

発祥地は「割菱紋」は「甲斐国南巨摩郡青木村(南)」です。
後に発祥する正定の「花菱紋」は「甲斐北巨摩郡青木村(北)」です。

信正は武田信虎に仕えます。その後、子供信定は信玄、勝頼に仕えますが、天正3年長篠の役で討死します。法名は宗青です。
その子供豊定は家康に仕えます。法名玄栄。大番役500石 別家の柳沢氏を発祥させます。
豊定と共に別家を興した兄正定はこの跡を継ぎ花菱紋青木氏を発祥させます。

この2代目豊勝(正定の弟)が信正の主家を引き継ぎ、形式上正定の子供とします。
そして、3代目豊信のところで後継ぎなしで絶えます。
しかし、弟豊勝に主家を譲り、別家を興した分家となる正定の子供の昌輝が継承します。
13代目信定の嫡子であったが別家を興した正定-正重-信久(途中略)以降の代々末裔は徳川旗本として栄えています。(上記系譜参照)
これが正定からの花菱紋系譜です。
(徳川氏により仕官3年後に武州鉢形に強制移動させられる)
ところが、この14代目正定の次男の15代昌輝は大井家に養子になりましたが、後に実家の青木氏が豊信で絶えましたので、昌輝の嫡子に大井氏を引き継がせて後、自分昌輝は子供次男正寛を引き連れて断絶の豊信の割菱紋青木氏主家の継ぐ事に成ります。
(信定系割菱紋は結局、別家の正定の花菱紋系列に吸収される)

まとめますと、信生11ー信正12-信定13と続いた割菱紋より分家した青木氏は次ぎの様に分流します。
時光系青木氏の系列
A 信安系本家割菱 副紋葉菱紋 青木氏(本流)

B 信生系分家割菱紋 青木氏の4流
1 豊勝系(南巨摩郡青木氏 主家 割菱紋)
2 信之系(柳沢郡青木氏 別家 跡目養子 割菱紋-花菱紋-丸に花菱紋)
3 正定系(北巨摩郡青木氏 別家 花菱紋)
4 豊定系(柳沢郡柳沢氏 別家 花菱紋)

注 最終 1及び3は合流
注 柳沢氏は割菱紋 副紋葉菱紋柳沢氏、花菱紋柳沢氏 4つ割花菱紋 割菱紋の4流がある。

3の別家を興した為に家紋は「家紋掟」にてこの時点で「割菱紋」から「花菱紋」になります。
豊勝の主家は最終は正定系の系譜と成ります。(途中略)
以上が花菱紋青木氏の4家の系譜略です。

問題は元となる系譜の位置付けです。
1「信生」-「信正」-「信定」系列の「信生」の問題、
2「信正」の出生(信種)と尾張守重複の問題
3「信定」の出生(信親)と尾張守重複の問題
4「信立」の問題(花菱紋柳沢氏の系譜)
5「正定」の系譜の位置付け問題(信安、信生に列するのか)

前提と成っている上記系譜の為には元の系譜上の疑問を解決する事が必要です。(後編記述)
そこで、その前に先ず5の問題の「正定」末裔の系譜を確認する必要があります。

「正定の子供」
正定の子供がどの様に成っているかを検証します。
末裔が「丸付き紋の花菱紋」の可能性もある事から、「正定の子供」の研究は4つの系譜を付き合わせた結果、次ぎの通り解決しました。以下の通りです。

(正定は本来は嫡男で長男であった)
A 豊勝(割菱紋青木氏 主家 正定の弟で養子と成る)
B 正重(花菱紋青木家 別家)
C 昌輝(大井氏-青木氏)
D 忠世(犬塚氏)
E 元宣(木村氏)
F 大震(初宋友 松源寺住職)
以上6人です。

1 豊勝は兄正定に代わり父の割菱紋本家を継承し、3代目豊信に嫡子なしで4代目断絶、後に割菱紋から花菱紋に変わる。(13代目信定は割菱紋を継承したが子の3男豊勝がこれを継ぐ)
2 長男正重が別家花菱紋を継承する。
(正定は長男であるが、弟に本家を譲り、自分は花菱紋の別家を興す。)
3 次男昌輝は大井氏に養子後戻り、実家断絶の割菱紋主家を継承し、大井氏は昌輝の嫡男に譲り、昌輝次男正寛が主家青木氏の跡を継ぎ花菱紋に戻し継承する。
(大井氏は信玄の妻の実家先)

花菱紋青木氏は、別家と、割菱紋から花菱紋にかわった主家との2家に成ります。
後の子供は他家への養子となります。
これで正常に継承していますので家紋掟からの変紋を含めて正定系列の「丸付き紋」の可能性は消えました。

さて、次ぎは丸付き紋と柳沢氏との事ですが、信正の子信定で先祖を同じくしています。
正定の弟豊定が別家を興して花菱紋柳沢氏を発祥させ元祖と成ります。
家紋も兄と共に花菱紋の同紋を引き継ぎます。(柳沢氏の4系譜4家紋は上記検証済み)
柳沢氏の丸付き紋の可能性は家紋掟から観ても消えています。(信立の問題含む 後編)

[花菱紋の丸付き紋の原因]
この柳沢郡青木村が存在しますが、この青木村から青木氏が出ている事が判っています。
この柳沢郡青木氏派どの様な系譜であるのかを検証する必要があります。
次ぎの2つの問題を解決する必要が出ました。

この柳沢郡の青木氏は一体誰なのかの疑問があります。
その前にこの青木村から「丸に花菱紋」が出た経緯がこれも疑問です
この二つをまず研究しました。

本来は、花菱紋を初めとする武田氏6家紋には丸付き紋は有りません。
武田氏は清和源氏系(朝臣族 皇族系)である為に原則使用しません。
「丸に花菱紋」は「家紋200選」及び「全国家紋8000書類」にも掲載されていません。
しかし、「丸に花菱紋」が史料の中で存在し重要な歴史史実が存在します。
つまり、検証の方向はこの「丸に花菱紋」が「第3氏」又は「未勘氏」であるのかどうかの検証と成ります。
これはどう云う事を意味しているのかも研究が必要です。
そこで、系譜と添書や他の資料を細かく調査すると出てきました。

「系譜添書の内容」
甲斐青木氏の系譜には甲斐の「青木和泉守」なるものが居ます。
この甲斐の青木和泉守の子孫系譜には、次ぎの様なことが書かれています。

1 甲斐青木和泉守は柳沢郡青木村の青木氏の出自である。
2 義母実家安芸の桜井安芸守を頼る。(信光の安芸武田氏との関係)
3 和泉守の時に芸州の毛利元就に仕える。(1567)
4 同国尾引城に処している。
5 再び輝元公から再び元亀4年1月20日(1573)に和泉守に任じられた。
6 その後、和泉守は尼子氏との合戦に参加する。出雲国にて討死する。
7 墓は芸州吉田には無い。
8 更に、跡目を継承した次男志摩守與三は天正5年6月23日(1577)輝元公に従い四国に渡り讃州元吉城の合戦で討死する。
9 尚、志摩守與三の兄青木助兵衛元忠(二代目)の時、長州三田尻に移っている。その後、甲斐に戻る。(1582年頃)
 
以上とあります。

柳沢郡青木氏の系譜によると次ぎの様に成ります。
注 この系譜は巨摩郡青木氏の系譜と対比すると、丁度100年全てずれています。
(編集者の寛政の頃の信政による系譜編集時の故意的行為と観られる。)

青木尾張守信正は添書は次ぎの様に成ります。
割菱紋  副紋は葉菱紋
正保4年12月跡目継承(1647年となり史実の1547年で一致)と成っています。
信正は与兵衛以外に幼名三十郎 清左衛門の名も記されている。信虎に仕える。

信正の子信定(藤九郎 主計頭) 信玄、勝頼に仕える。
信定は明暦3年12月家督継ぐ(1657年となり史実1557年で一致)と成っています。

「巨摩郡青木氏添書」
巨摩郡青木氏の系譜によると次ぎの様に成ります。
信定は天正3年5月(1576)長篠の役に討死 法名宋青 妻は桜井安芸守の娘。(史実)
主計頭 常光寺を曹洞宗に改宗した人物である。花菱紋の正定の父である。
以上添書にあります。

この信正の子は実子正定(巨摩郡青木氏花菱紋)と豊定(柳沢郡柳沢氏花菱紋)が居るが「第3の子」なる者(養子信之)が居て上記の通り「柳沢郡青木氏」を継いでいる事になります。
安芸は信正の妻(義母)の実家先である。
(安芸守護の信光末裔武田氏 甲斐の新守護信元の前までは安芸の武田氏の勢力が中心 信光は頼朝に謀殺された人物忠頼の兄に当る。信光は安芸守 忠頼は甲斐守)
この者が武田氏滅亡前(1567頃)に義母の実家桜井安芸守を頼り赴いた事を意味します。
では、この者(第3の子)は一体誰なのか(疑問)です。

「柳沢郡青木氏添書」
柳沢郡青木氏系譜によると次ぎの様に成ります。
結論から先に述べると、”信定の終わりに臨み養子と成る”と添書にある本人で、高尾伝九郎久治の三男伝助 この母は多田次郎右衛門昌繁の女と書かれている者の「信之」と成ります。

添書を検証しますと次ぎの様に成ります
和泉守の時代は元亀から天正前半にかけての人物となります。(1570-1576)
この期間で毛利に繋がる人物は信定の妻の実家桜井安芸守である。
安芸は毛利家の国である。
この時代は毛利元就、輝元である。
この信正の子供(第3の子の存在)か又は関係者となる。
そこで、信正の子供を探すと4つの系譜から次のように出て来る。

「信正の子供」
正定(花菱紋、巨摩郡青木氏)、
豊勝(割菱紋、巨摩郡青木氏 正定の養子に成る 正定の子昌輝が継承)
豊定(花菱紋、柳沢氏)、
信之(割菱紋継承後に花菱紋、柳沢郡青木氏の養子)
「信之」なる人物が出る。この人物はどのような人物かを調べました。

「信之の継承経緯」
上記の通りこの「信之」は”高尾伝九郎久治の三男 信定(討死)の終わり臨み養子となる。”とある。
この者(信之)が柳沢郡の青木氏を継承した事に成ります。
それ以前に柳沢郡青木氏が発祥している史実はありません。
そして、長篠の役1575年武田氏敗北の前に何らかの事件か理由(後述)が起こり義母の実家の桜井安芸守(毛利氏の家臣)を頼り安芸守の配下として働いた。

何らかの理由とは上記に記述した様に織田軍との決戦の為に開かれた「軍編成会議」で国境警備の「国衆」に正定と豊定と共に組み込まれたが、その際に提出した「起請文」の中には無い事から正定隊に柳沢氏と同様に組み込まれた可能性があり、それを不満として信光系安芸武田氏のいる安芸に移動したと観られます。

其処での安芸での経過は以上の通りです。
この「信之」討死後、この柳沢郡青木氏筋の跡目は「信茂」と記されています。
この「信茂」で”多田新八郎昌興の三男久三郎が青木氏(柳沢郡)の養子に入る。”とあります。
多田新八郎昌興とは「右衛門」の肩書きが無い所をみると、「信之」の実母の実家先多田次郎右衛門昌繁の子供(母方叔父の子 従兄弟)であると観られます。
安芸にて「信之」本人と子度次男「与蔵」が討死した事から、甲斐では母方から跡目を入れた事を意味します。

この「信茂」の跡目時期に付いては記されていないので、安芸での別の毛利氏(柳沢郡青木氏)の記録を調べると次ぎの様に成ります。

「安芸(毛利氏)柳沢郡青木氏の記録」
安芸に赴いた”「信之」の次男志摩守「与蔵」は討死後、安芸当地で長男(兄)の青木助兵衛元忠には「2代目」”と特記しています。
その後に、”安芸と周防に墓は無い”とあり、”甲斐に戻る。(1582頃)”とあります。
「信之」の長男「元忠」が戻った時には既に武田氏が滅び、徳川氏の配下に入った時期と成ります。
この「元忠」は本来であれば、「信茂」に代って跡目を採る立場に有ったことが考えられますが、時代性が合いません。
「元忠」は長州三田尻に1577年頃まで居た事よりすでに出国後15年も経っていて「信之」と子嫡子と認められていた次男志摩守「与蔵」もが討死した為に、長男「元忠」は「2代目特記」の意味から「信之」(初代)を現地で襲名(1677 1577)した事になります。
甲斐に帰国後(1582)2年程度経過後、直ぐに”徳川氏に仕官し大番と成る。後に加恩あり200俵の禄(1694 1594)となる”とあります。
更に、それは武田氏滅亡1582年後の徳川氏の仕官は次ぎの4代目「信也」の系譜添書でも理解できます。
「信也」の添書によると「信也」は”久五郎 清左衛門 享保元年(1716 1616)年6歳にて後を継ぐ。享保15年(1730 1630)大番に列する。27歳で死亡”とあります。 
これで、2代目から4代目(元忠-信茂-信也)までの時代差の考証は採れています。

ここで、戻った「信之」の長男元忠2代目襲名は本来柳沢郡青木氏に戻りますが、時代差考証から観ると上記添書から現地で2代目襲名した事に成ります。
この時代差から考察すると、元忠が帰国し仕官した時(1582-1594の前半)に祖母方親族より「養子信茂」(跡目養子)を迎えたことに成ります。
つまり柳沢郡青木氏は多田氏からの養子「信茂」3代目が引き継いでいる事に成ります。

この毛利氏の記録によると2代目元忠から10代目までの記録は無く10代目以降は明確に成っています。
武田氏の記録とこの二つの記録を付き合わせると系譜は次ぎの様に成ります。

「武田氏系青木氏と毛利氏の記録系譜」
始祖「信之」1-1代目「与蔵」2-2代目「元忠」(襲名)3-「信茂」4-「信也」5-「信考」6-「信睦」7-「信並」8-「信嬰」9-「住眞」10-「道」11-「健」12-・・

注 「信之」和泉守 「与蔵」志摩守 毛利氏が陶氏を滅ぼした際に泉州と志摩一部を領する
注 弟「与蔵」が跡を継いだが討死 1代目
注 兄「元忠」信之襲名 2代目 甲斐に戻る
注 「信茂」4は母方縁者多田新八郎昌興の三男 跡目養子
注 「信考」6は小野朝右衛門高壽の次男 九歳の婿養子 
注 「信睦」7は「信考」の長男で早世
注 「信並」8は「信考」の三男 久米之丞 母は「信也」の女(叔母)跡目養子
注 「信考」6の次男「高達」は養子元の縁者小野平八郎高品の養子と成る
注 「信嬰」9は安太郎(嬰:えい)
注 「信考」の末裔は現存
 
ここで、甲斐に戻った柳沢郡青木氏の高尾氏から養子「信之」の長男「元忠一族」(信之襲名)の家紋に問題が出ます。
定住地は添書から”甲斐の国に戻る”とあり、一度柳沢郡の青木村に帰ったと推理出来ます。
その後、更に検証を進めると巨摩郡付近に移動している事が2つの事(常光寺再興と常光寺寺紋と丸に花菱紋事件)で理解できます。
多分、元忠の帰参一族の柳沢郡青木氏はこの常光寺に一時停泊したのではと思われます。
最終、武田氏が滅び武田氏系青木氏の時光系一族は徳川氏に下級武士として仕官した為に曹洞宗常光寺を維持する事が出来ずにいたと見られます。
そこで、帰参一族はこの荒廃した菩提寺曹洞宗常光寺の再建に取り掛かった事が、「丸付き紋」の花菱紋に成る切っ掛けに成ったと観るのが、当時の「寺」の持つ役割から普通では無いかと思います。
常光寺は割菱紋から襲名信之の頃から「花菱紋」に、続いて「丸付き紋」に変紋しています。
この史実によると次ぎの様に成ります。

「柳沢氏の発祥と時期」
信定の子の「豊定」がこの柳沢氏を発祥 法名は玄栄です。元は「正定」の所で兄弟です。
「信之」は義兄弟と成ります。
天正3年5月の時です。
系譜からは割り出すと天正の頃(1575)からの親族です。
ここで問題が出ます。
とすると、時代的には「柳沢郡青木村の青木氏」は「柳沢氏発祥」とは同時であった事を示すものと成ります。
そして、「豊定」の柳沢氏は、義弟(養子)「信之」が主家(信定)の意に添い柳沢郡の青木氏を継いだので、止む無くこの地名を採って青木氏を名乗らず柳沢郡の「柳沢氏」を名乗った事に成ります。

以上系譜、添書、史料等から信之の花菱紋(丸付き紋)のルーツは解明されましたので、次ぎは丸付き紋に成った経緯と時期が問題と成ります。

そこで「信之」の長男「元忠」系の柳沢郡青木氏の「花菱紋」が「丸付き紋」に成った事に対して調査の結果、青木氏と柳沢氏の系譜を照合すると末尾の添書に一致する内容が出てきました。

「5つの継承の意味」
この内容には、5つの意味があります。

1 父「信定」が「信之」を柳沢郡青木氏をこの養子に継がせた(発祥させた)。
「正定」の添書を観ると、別家を興して太郎右衛門正満の祖と書かれている事から、長男「正定」は北巨摩郡青木氏の別家を興し、子供「正重」にこの分家を引き継がせた。
そして、南巨摩郡青木氏を三男豊勝に主家を継がせた事に成る。

2 次男豊定は本来は筋目から柳沢郡青木氏を継ぐ事に成るが、養子「信之」の出現で止む無く地名より柳沢氏を発祥させた。

3 父「信定」の長男「正定」と次男「豊定」に対する対応がおかしい。
本来であれば、長男「正定」に本家巨摩郡青木氏を継がせ、三男「豊勝」に分家を継がせ、次男「豊定」には柳沢郡青木氏を継がせる事に成る筈である。

ところが、わざわざ養子「信之」を設けて柳沢郡青木氏を、三男に巨摩郡青木氏主家を継がせる事は長男「正定」と次男「豊定」は排除されたも同然です。
だから、反発した長男「正定」は別家の分家青木氏を興し、次男「豊定」も柳沢に別家柳沢氏を興した事に成ります。
そして、この2人は、兄「正定」は巨摩郡青木村に「浄土宗源空寺」を開山し、弟「豊定」は柳沢郡に「浄土宗光沢寺」を開山せざるを得なかった理由の一つに成ります。
更に家紋を割菱紋から花菱紋に変更を余儀なくされたのです。

参考(「浄土宗源空寺」と「浄土宗松源寺」)
寺については、通説「浄土宗源空寺」に対して「浄土宗松源寺」(正定の5男大震 初宋友 松源寺住職)では無いかとの仮説もあります。
これは、次ぎの様に考察しています。
正定は最終主家の割菱紋と別家の花菱紋とを引き継ぐ事になります。

1 「浄土宗源空寺」は主家の地の南巨摩郡に菩提寺として建立した。
2 「浄土宗松源寺」は別家の地の北巨摩郡に菩提寺として建立した。

2の寺は甲斐の巨摩郡には確認されないのは、徳川氏により武川衆は武州鉢形に代替地を与えられて一族郎党は強制移動させられた為に確認出来ないのです。
北巨摩郡には自分の子供を住職にして寺を建立した事に成ります。

4 父「信定」は常光寺を曹洞宗に改宗した、或いは改宗せざるを得なかった事に対して「正定」と「豊定」が反対をした。そこで父「信定」は対立の見せしめに養子を迎え、三男に本家を継がした事になった。

更には、武川衆の青木氏の採った態度(武田勝頼を見放す事)に対して、「正定」と「豊定」が見放す側に立った事等で父親と対立した事が考えられます。
「正定」と「豊定」の花菱紋の別家は「国衆」の国境辺境地の警備に廻され、「御親類衆」から外されて格下げされた。

5 しかし、結果は、正定が正しかった事が云えます。
巨摩郡青木氏主家も、別家した青木氏分家も、「正定」の末裔が跡を継ぐ結果と成った事を意味します。

柳沢郡の柳沢氏の立身出世と柳沢郡の青木氏の2分裂化と養子化で他人化してしまった事に成ります。血縁の無い他人化した丸付き紋の花菱紋の発祥を招いた事に成ります。
血縁上は第3の青木氏(「寛永青木第三の系図」の歴史書が示す通り)であり、系譜上は柳沢郡青木氏の2流が出来た事を意味します。
(現在も氏家紋書にも乗らない第3氏として扱われる所以です。)

以上歴史史実から考察すると、矢張り、父「信定」は曹洞宗改宗などの暴挙を行い子孫末裔にも大きな禍根を現在までに遺した事に成ります。

「花菱紋の系譜」
正定は別家を興す。小右衛門 太郎右衛門正満の祖
正定は花菱紋北巨摩郡青木氏別家 (正重派 副紋は九曜紋)
正定の次男昌輝青木氏主家継承 (昌輝派 大井氏養子後 割菱紋-花菱紋 副紋は九曜紋 )
豊定は花菱紋柳沢郡柳沢氏本家 勘九郎 勘右衛門  
信之は割菱紋柳沢郡青木氏本家 和泉守-志摩守(花菱紋-丸に花菱紋 信定の養子 高尾氏三男)
信茂は花菱紋柳沢郡青木氏本家(多田氏より柳沢郡本家青木氏養子となる)
信之の長男元忠は柳沢郡青木氏本家(信茂と元忠の本家と重複 花菱紋-丸に花菱紋)
以上徳川氏に仕える。

注 「信之」の実母は多田次郎右衛門昌繁の娘 「信茂」多田新八郎昌興の三男 信之の母と信茂は従兄弟である。信之(元忠襲名)は割菱紋の柳沢郡青木氏を1577年に正式に継ぎ1585年に徳川氏本多家仕官1595年大番役を勤む。

柳沢郡青木氏の「信之」の割菱紋-花菱紋-丸に花菱紋の変紋の経緯は次の様な系譜添書が在ります。

「丸に花菱紋の経緯」
文章1
「寛政系図」の史書には 信正は通称与兵衛といい尾張守と称す。武田信虎に仕う。某年死す。法名深見。とあり、「寛永青木第三の系図」に載する処によると、信種、及び同書柳沢曲渕の譜に見ゆる信定と共に尾張守と称する。法名浄見と云う。
その事跡同じければ、この「信正」疑うらくは同人ならん。

文章2
これ寛永の時呈する処の譜なり。各々の家に伝わる処を誤りとするか、或いは、その名を異にするか、或いは、別人の如くするかは、何れその子孫に至りては、何れ兄、何れ弟たる事を詳細にせず、よりて各々のその見ゆる処を記して後勘に備え識する」と記されています。

「信之」の末裔青木助兵衛元忠が安芸国から甲斐に戻り、柳沢郡の信之系青木氏を継承し、家紋を義父の家紋割菱紋から花菱紋に変え、その後、正定の二つの巨摩郡青木氏の主家方から抗議を受け話し合いにより、花菱紋を「丸付き紋」(以後変紋している)として変える事で妥協した。しかし、「信定の系譜」は譲らなかった。”と成ります。そして、系譜に付いては”後勘に備える”としたのです。
上記の分析からこの特別な2添書で検証された事に成ります。

注 寛政期(1800)本系譜修正編集した信政の父信満は伝五郎 太郎右衛門 石川清右衛門 政辰の4男 母は山本新五左衛門正相の女 信保の終りに臨みて養婿子となる。寛政2年家を継ぐ。大番役に列し、寛政8年に新番に移る。250石 妻は信保の養女 信政は大助 

異議の申し立ての時期は不明ですが、一説では系譜編集に当った花菱紋別家の末裔青木信政の時(寛政10年頃1800年)ではないかとも観られますが、それまでに曹洞宗常光寺が「丸に花菱紋」の寺紋と成っている事から花菱紋を使用する「正定」の別家青木氏と、後に正定の子昌輝継承の主家青木氏と「豊定」の柳沢氏と「信之」の柳沢郡青木氏(当初発祥期は割菱紋)の4氏と成ります。従って、必然的に常光寺の再建とも含めて、血縁の無い「信之」系の青木氏が「丸付き紋」に成る可能性がある事に成りますが、問題は時期と成ります。

上記に検証した通り、1584年(1585年)頃の徳川氏が甲斐を支配し始め仕官を集めた時期で、信之の青木氏が家康の家臣本多氏に仕官し協議出来る時期はこの期間と見られます。この後、本多氏は領国に移動した為に信之一門も移動、正定も武蔵鉢形に移動していますので、家紋のことや系譜の事もまだ新しいこの時期しかありません。

この「信之一族」は、武田氏滅亡後、青木氏離散、間際の曹洞宗改宗等で常光寺の維持管理は困難と成り、荒廃した為に、この寺の再興を図ったとされています。その為にこの常光寺の寺紋は本来の「花菱紋」から結局「丸に花菱紋」に変紋しました事に成ります。(1584年頃)
常光寺を維持管理する者が仕官で各地に移動し始めた為に荒廃したのです。

これも「丸に花菱紋の常光寺」もその証拠と成ります。
つまり、曹洞宗は信定の曹洞宗僧侶に帰依した事により改宗と成っていますが、その3-5年後に起こったこの「丸付き紋の事件」による事も考えられます。

更に検証すると、丸付き紋に成ると云う事には氏家制度の中ではそれなりの事件である必要があります。
次ぎの事が考えられます。
1 花菱紋の「血縁関係」の変化が変わった時
2 菩提寺等が改宗等の「事変関係」が起こった時
3 本家分家の「跡目関係」が変わった時
4 ある程度の「勢力関係」を保持した時

これ等の事が一時期に起こっている時と成ると「信定-正定の時期」と云う事に成ります。

A 菩提寺の真言宗常光寺が曹洞宗常光寺に改宗は「信定」(1575没)が行ったのでその直後の跡目の問題が出た時とすると[1575-1576年頃]。

B 血縁性の無い「信之」一族(元忠襲名 1577)に成る前には協議できないので帰国前の襲名後の周防三田尻の頃[1577-1580年頃]。

C 常光寺に最後頃に祭祀されている人物「信時」は信玄と勝頼に仕え尾張守であったので、「信定」(1575年没)が尾張守であり2人ともに信玄と勝頼(1582没)に仕えた事と、重複して尾張守を名乗ることは出来ないとすると、「信定」が常光寺を曹洞宗に改宗したので、その時期は1567頃年と成ります。

そうすると「信時」の尾張守は1575年に引継ぎ、没年は勝頼時代討死武田他氏滅亡(1582没年)と成ります。「信時」は武川衆と呼ばれたとされている時期(1567)の人物である事に成ります。(武田氏軍編成の起請文(1567)に武川衆が始めて出て来る)
最後の祭祀人物「信安」は(1573跡目)と成り、次の信就の跡目が1606年と成りますので「信安」は(1606没)と成ります。

D 正定の浄土宗源空寺建立と豊定の浄土宗光沢寺建立時期にまだその勢いがある事から信定が没後に正定等の別家を興して花菱紋を定めて信定の没後時期と成ると[1580-1585年頃]

E 長篠の役(1575)から武田氏滅亡時期期間と成ると[1582-1582年頃]

F 徳川氏仕官後では低禄でそんなことに拘っている余裕は無い事から仕官前とすると[1582年後頃]。

以上添書と史料から検証割出しました。
結論はAからFまでを考え合わせると、「丸に花菱紋」に成った時期は1585年前後頃と成ります。この年代であれば時代考証は採れます。

武田氏が滅亡した後に、”武川衆の離散と甲斐青木氏の逃亡が相次ぎ常光寺の荒廃が進んだが、花菱紋の2氏は徳川氏に仕えたとは云え、その生活は貧窮を呈し、この事態を解決できる勢力を最早維持していなかった事。其処にこの柳沢郡青木氏が毛利氏に仕えた事でその裏打ちで和泉守や志摩守などのその財力を持って甲斐に帰ってきた事(1582)。その財力で先祖の常光寺の再興を成した事。
これらを考え合わせると、その為、曹洞宗常光寺(1565-1567改宗)の寺紋を「丸に花菱紋)」に変紋(1584-1585)した”と云う事に成ります。

この柳沢郡青木氏信之派が義母桜井安芸守を頼ったのもこの時武田氏の行く末を推し量り、徳川氏等の勢力に対して何処に味方して生き残れるかを真剣に模索していた事を物語ります。
また、前述した「長篠の戦い」を前(1567)にして軍団編成の処置に対して起請文を提出させられ、扱いを「国衆」に格下げさせられた事も一因と観られます。

一つに偏る事は一族存亡を考えた場合得策ではないとして、当時中国地方を制覇しつつあった毛利氏を一時頼ったのではと考えられます。武田氏の大勢が固まった後(1582年)に甲斐に帰国後は徳川氏(1585年 1594大番役)に仕えたとなります。

その常光寺に付いては、次ぎの視点が起こります。
多少の疑問は養子にして「曹洞宗の常光寺問題」の扱いのこの「役目を担わした」と云う視点です。

1 別家を興すほどに「親子争い」に成っていた関係上、わざわざ信之を養子を迎えて「信定」が命じたものと考えられます。

2 武田氏滅亡後に信之派が曹洞宗常光寺を扱い始めた事に正定派と問題も起した形跡も無くすんなりと進んでいるし、常光寺寺紋も何の問題も無く割菱紋から丸付き紋の花菱紋に変更しているのも不思議です。

3 正定派に執って見れば、最早父親が改宗した曹洞宗であり、別家を興した時に自前の浄土宗寺を建立している事、祭祀している人物は時光系青木氏の割菱紋本家の人物に限られている事などからも信之派に任した事でも頷けます。

4 割菱紋本家の信安派もこの寺に執着していない所を観ると曹洞宗寺となってしまった寺に対して浄土宗を護る本家としての意味合いが無く成った事も考えられます。

しかし、この時、「信安」は、分家の信定が尾張守としての主導権を行使して曹洞宗に改宗していながら、最後の祭祀人物としてこの寺に祭祀されているのです。不思議な疑問点です。
「信安」と「信生」と「正定」と「信之」(元忠)と「豊定」等は同年代です。
自分(信安)を時光系本家の先祖の眠る寺に最後に祭祀する事を条件にして、信之や正定等に対して妥協を求めた事も考えられます。

現に、改宗した人物信定と父の信正はこの寺に祭祀されていない現実があるのです。
又、信安の義弟で信生も系譜上は年代の違う分家の先に死んだ信定の父に成っているのです。

分家が本家の寺を一族の指導者として成っている尾張守を背景に主導権を行使して改宗しているのですから、武田氏滅亡後に同年代の者が揃った短い時期を利用して、戦後処理として、徳川氏に仕官し異動する事の前に、「家紋や寺の事等を含めて一切の何らかな話し合い」が成されなければこれだけの問題は解決する事は無いと考えます。
家紋変紋や常光寺扱いや系譜の添書などの事は一度に解決する事はあり得ないと考えます。

5 その再興のもう一つは、甲斐の国の最大34%を占めるこの時代最も勢力を大きく伸ばした曹洞宗を使った事による事も見られます。(史料 後編)
曹洞宗は農民や下級武士の入信団でありました、この大多数で常光寺を青木氏だけの菩提寺だけのものとせずに開放したと見られます。

故に時光から11代「信安」での墓所と成っているのはこの事が原因と成ります。
武田氏の滅亡寸前で寺を「1氏で運営維持する事が難しく成った事」と「農兵を確保する手段」でもあったのです。つまり、豪農、庄屋、名主、郷士、豪商等の農兵指導者の確保に動いたのです。
この事に「親子の路線争い」が起こり「別家」を興すなどの事が起こったのです。

この様な中で常光寺に「信安11」の祭祀がされている事に疑問が解決します。(後述)
1567年頃に改宗したと見られますので、その後の改宗後の「信安」が曹洞宗常光寺に祭祀され最後の人と成っているのはこの事だも働いていると観られます。
つまり、それは曹洞宗改宗の意味が違ったのではと観られます。

信定の”特定の僧侶に帰依”だけでは改宗は、当時の生活に密着した宗教の慣習から相当強引に実行しなければ無理で、「氏家制度」の中では一族の総意でなくてはなりません。一人が変えても周囲一族が変えなくては成り立ちません。
一人の者の意思だけで成し得る「氏家制度」の時代では有りません。「助け助け合いの慣習」の中ではこの様な事をすれば無視され、場合に依っては廃領されしまい浮いてしまいます。
改宗は「象徴と伝統」そのものを壊す行為です。この様な”帰依した”だけでは済まないのが氏家制度です。
恐らく、非常に多い歴史結論に見られる現代感覚で思慮した説であると観られます。最近痛感する事柄です。短期間(6年)の間の出来事からこの事を誤って考証されたと見ています。

「跡目」などの「路線争い」が起こっている処から観ると、「織田氏との決戦」を控えての「政治的決断」と考えられます。だから、「改宗事件」があっても本流の後継者浄土宗信者の「信安」が祀られたと観られます。そして、滅亡後には「丸に花菱紋」の寺紋となって正味の下級武士とや土豪や庄屋や豪農等が入信する一般曹洞宗寺に成ったと観られます。

「柳沢氏の検証と石燈」
花菱紋の柳沢氏との関係の考証は、その「柳沢氏」から石燈を花菱紋青木氏の菩提寺浄土宗源空寺に贈られた事は史実とし柳沢氏の記録の中に記述がある事です。
この石燈は現在も廃寺浄土宗源空寺跡に保存されている事から確認出来ます。
又、同石燈は柳沢氏菩提寺浄土宗光沢寺(廃寺)にもあります。この二つは極めて類似します。
柳沢氏は4つの流れがある事は前述しましたが、青木(柳沢)豊定を祖とする柳沢氏は青木氏との関連にで源空寺に石燈を送ったという史実は間違いの無い事である事がこの石塔で証明されます。
「浄土宗源空寺」(南巨摩郡)と「浄土宗松源寺」(北巨摩郡)の二つの菩提寺と強い繋がりが合ったことを意味します。
送ったと記録されている柳沢家の柳沢吉保はこの流れの青木氏から出ていることを意味します。
それは「豊定-信立-信俊」系列である事を意味し、その中でも疑問又は不明人物と成っている「信立」の人物解明に付いて大きく前進する事に成ります。
「信生-信正-信定-豊定」の時光系の割菱紋 副紋葉菱紋本家から分家した割菱紋系列である事に成りますので、「信立」の人物はこの4人の中の一人である事に限定されてくる事を意味します。
この事は後編で論じますので、更に、ここではその裏付となるこの石燈を送られた時期等に付いて詳しく検証する必要が出てきます。

「石燈を贈られた可能性と時期」
次ぎの様になります。
分家の時代から観て、付き合いが見られた時期は、江戸の親族付き合いの慣習と系譜から平均45歳として4-5代とすると、5代目の吉保(1714没)が没した時期の享保元年位(1712-1716)までは親密に付き合いしていた事に成ります。

付き合い期間 (1582)-(1712-1716年)頃まで

武田氏滅亡1582年、約140年と成りますが、石燈を贈るとすると1676年頃以降と見ます。4代目位のところです。

石燈奉納時期 1676年以降-(1680-1688) 柳沢吉保期

そうすると、柳沢安忠の時代です。安忠は1602-1687年です。
徳川氏に仕官し、この時代は250石程度の貧困時代です。石燈を2つ贈る余力は有りません。
次の子供は柳沢氏最大の立身出世吉保の時代と成ります。
石燈を贈れる身分は1680年の小納戸役から吉保(1658-1714)が30歳1688年に大名格に出世した期間と成ります。
最終、吉保は1694年の川越藩72000石から、1704年の甲斐の国三郡(山梨、八代、甲府)15万石を知行地とします。
吉保(吉里)が奈良郡山に転封する前と成ります。この1688年の1年前は父親の享年です。
吉保の納戸役に成った時1680年頃か、1688年の大名に成った時の何れかです。
推理と一致するとすると、

第1説 1676-1680年。

或いは、「父親の喪中明け」に巨摩郡青木氏花菱紋正定系の浄土宗源空寺と柳沢氏の元祖豊定(正定兄弟)の光沢寺に2対を贈った事に成ります。

第2説 1688年

後者の大名に成ってから贈るには立場上に問題があり過ぎます。
送れる能力が出来た頃である筈です。氏家制度の社会慣習の中では「親族付き合いの義理」が重んじられる慣習(一族で力のある者は無い者を助け、無い者ある者の力と成る)から観て、これを欠くと人は付いて来ませんので贈れる事が出来始めた頃となると前者(1676-1680)の1680年と観られます。

結論 1680年の奉納

浄土宗源空寺石燈は間違いなく記録から柳沢氏からと観られます。
これは次ぎの証しとも成ります。

1 花菱紋青木氏の菩提寺検証の充分な証しと成ります。
2 別家を興した正定の花菱紋青木氏とその菩提寺浄土宗源空寺の建立、
3 弟の豊定も別家花菱紋の柳沢氏を興し光沢寺を建立の証しに成ります。
4 この石燈は、信興の割菱紋柳沢氏では無く、豊定系の花菱紋柳沢氏である事の証しにも成ります。(信立の事も証しの一つですがこの件は後述)

次ぎの証明です。
「氏神に保管の仏像」と「氏神の神紋の花菱紋」

この事は「花菱紋ステイタスの仏像」と「廃仏毀釈と源空寺」の事件に関わります。
明治の愚策として有名な維新政治を断行する「廃仏毀釈」ですが、歴史的に有名な貴重な寺など文化財が無くしてしまいました。この愚策も当時学者の愚論が成したもので甲斐の武田氏の貴重な「伝統」が消えてしまいました。この様な研究をして大変な努力でその史実を戻す必要があるのです。

花菱紋の祖の「正定」主家が建てた青木氏菩提寺浄土宗源空寺ですが、浄土宗の開祖「法然」の法名「源空」を採って名付けられたのです。その山は「法然山」として開山します。
甲斐青木氏の菩提寺の浄土宗寺ですので、ここに彼等のステイタスとするところの仏像が明治の廃仏毀釈まではあったと伝えられています。
現在、不明であり、一時、源空寺廃寺になった際に近隣の氏神社に保管されていたと伝えられています。
地元の口伝によれば、この源空寺を市当局が昭和の末に住民の申請に基づき調査し、その伝統の重要性を認め市の寺跡としては「文化財」として保管管理しているとの事です。
恐らくはこの「仏像の所在」が確認されれば、廃仏毀釈で壊された甲斐武田氏花菱紋の一部の「伝統」が子孫に遺される事になります。地元では期待されています。
源空寺には現在、過去帳や書籍記録などは不明であり、柳沢氏から贈られた石燈だけが遺されています。(上記検証済み)
廃寺と成った源空寺と住民檀家の意思で江戸時代に造られた嘉永年間の「釣鐘」が神社に保管されているとの事です。
これ等の遺品の所在が確認されれば、正定系花菱紋青木氏と豊定系花菱紋柳沢氏との関係の証しとも成ります。恐らくはその記録書籍にも明示されているものと思われます。
青木氏と柳沢氏が徳川氏に仕官して移動した経緯や、1590年の武川衆の武州(武蔵:埼玉鉢形)への代替地などでの移動で明示の廃仏寺に宗家筋に引き取られている可能性も否定できません。
従って、武川筋には花菱紋の青木氏や柳沢氏の子孫末裔は無く、全て徳川氏の命で鉢形に移動しているのです。
巨摩郡には両氏ともにその末裔は、江戸時代には極めて少なく、依ってこれ等に関する全ての史実が両方の土地では歴史が霧散しているのが現実なのです。
これ等が確認出来れば武田氏、青木氏、柳沢氏との完全な形の証拠が裏付けられますが、間違いは無いと考えますが、最早、個人の提供なしでは現状ではこの程度の検証と成ります。ここまで把握するだけでも大変な苦労を伴ないます。武田氏は兎も角も青木氏と柳沢氏に関しては進めたいと考えます。

「曹洞宗改宗の対応」
花菱紋の正定を元祖とする青木氏は同時期(常光寺曹洞宗に改宗期)に浄土宗源空寺を開基しています。
花菱紋の豊定を元祖とする柳沢氏は同時期(常光寺曹洞宗に改宗期)に浄土宗光沢寺を開基しています。
(時光より2代目常光は真言宗常光寺を中興開基しましたが、更に天正元年頃前(1567)に13代目信定が曹洞宗常光寺と中興開基したのもこの同時期です)

甲斐の賜姓族を含む皇族系青木氏(武田氏系青木氏)の一門3氏6家は独自の菩提寺と氏神を当初持っていたと考えられます。
その浄土宗寺を確認すると、甲斐には4寺のみです。
その内、甲斐巨摩郡付近の浄土宗寺は次の通りです。
1 定額山善光寺(甲斐)
2 岩泉山光福寺
3 功徳山尊たい寺
以上3寺があります。

甲斐の賜姓青木氏も青木村と寺社(国府跡)を持っていたことが史実として判明していますが、それが時間の経過に伴ない不明に成っていました。しかし、先日、寺本の庁舎南横がその寺であったことが判明しました。(皇族賜姓青木氏 国府跡)
その後、当然に、青木氏の慣習に基づき、当初は武田氏系青木氏の3氏6家(時光派、源光派)の「統一した菩提寺と氏神社」があったと考えられます。
先ず一つは、真言宗に改宗する前の常光寺であったと考えられます。
ただ、その完成から時光没までの期間が短いために、2代目常光が故意的に「中興開山」して新たな寺として、尚且つ、真言宗と改宗してしまったのではないかと思われます。(中興開基と開山と寺名の変更が記録されているので、建立当初は浄土宗であったと観られる証拠で、建立から極めて短期間のためにその寺名は不明となったと観られます。

この様に、この2代目常光の行動は不自然です。
源光系2氏としては、新たに開基、開山され、宗派が違えればこの寺を使う訳には行きません。
まして、念を押すように、時光派の自分の名を寺名に付けた極めて不自然な行動からすれば源光系2氏は引き下がる以外に方法はありません。
”そうする事で源光系2氏を排除した”と考えれば、常光の突然の「中興開基、開山」「真言宗改宗」「寺名変更」の理由は成り立ちます。
そうなれば、常光から真言宗、建てた親の時光だけは浄土宗の常光寺の理由は成り立ちます。
ここで、常光寺には11代分の墓がある事は上記した通りです。(疑問7)
時光より14代目正定と豊定が夫々浄土宗源空寺(松源寺)と浄土宗光沢寺を建立しましたので、以後の墓所は断定できます。しかし、12代目信正と13代目信定は何処に祭祀されているかの疑問11Aが残ります。(但し、信正、信定、正定等の代数は信生系譜説を前提 後述)

「信正と信定の祭祀場所」
先ず、時光より「12代目信正の添書」によると次ぎの様に書かれています。
与兵衛 尾張守 武田信虎に仕える。法名深見、

祭祀推定場所の浄土宗尊たい寺
寺記によると次ぎの通りです。
寺の創立は大永元年(1521)。
武田信虎が忠蓮社弁誉上人を開山に迎えて開いた。
初めは古府中の元柳町(武田3丁目)にあったが、文禄・慶長(1592~1614)の頃、加藤、 浅野氏ら豊臣大名の甲府城築城にともない、現在地に移転した。
以上の添書が在ります。

考察すると、割菱紋の信定は浄土宗です。よって真言宗常光寺(曹洞宗になる前)になく、源空寺、光沢寺にもないとすると、浄土宗寺は上記二つであり、時代性、武田氏縁の寺でもこの寺のみです。信定は史実では何処にも移動していません。時光系の守護職「尾張守」であった人物です。
添書”信虎に仕えた”とすると、信虎が建てた尊たい寺と成ります。
ここに祭祀されている可能性があります。

「時光より13代目信定の添書」
藤九郎 主計頭 信玄と勝頼に仕える 天正3年長篠の役(1576)で討死 法名宋青 妻桜井安芸守の女 
祭祀推定場所は浄土宗光福寺
寺記によると、次ぎの通りです。
甲斐源氏の祖である新羅三郎源義光が、「後三年の役」の時、奥州で戦死した人々を弔うために、嘉保2年(1095)に空源法印を開山として「寂静院」(横根寺)という真言宗寺院建立した。
その後、山崩れで寺は失われたが、天文16年(1547)に武田信玄が、先祖の由緒ある寺として再建し、その時に「光福寺」と寺号を改めて浄土宗となった。

考察すると、常光寺を曹洞宗に改宗したのは信定本人です。しかし、この常光時には時光から11墓ですから11代目と成ります。「信安」までです。つまり、12代目と自分13代目は祭祀されていないことを意味します。
記録から時光系の守護職「尾張守」であった信定は祭祀されていません
”では何処に”と成りますと、後は信玄が建立したこの寺しか有りません
何はともあれ、甲斐甲府付近には浄土宗は3寺です。甲斐善光寺は武田氏本家で青木氏は祭祀されていませんので上記2寺です。これが時代考証として「信虎」と「信玄」に夫々合致します。
もし、ここに無ければ他国と成りますのであり得ないと思います。
(一蓮(寺尼寺)と長禅寺の宗派のない単一寺で異なります。)

確かに、両者は時光系青木氏割菱紋 副紋葉菱紋の本家では無く妾子により割り菱紋の分家(葉菱紋無し)を興したわけですから、その意味でも本家筋が祭祀には拒絶すると考えられます。
しかし、信正と信定は当時は「尾張守」で時光系青木氏の主導権を握っていた人物です。
まして、信定は常光寺を主導者として10代まで祭祀されている寺を独断で曹洞宗に改宗してしまった人物です。この事から考えれば、まして親の信正と自分を祭祀させようとすれば簡単に出来る事です。
これだけの条件が揃っていながら、祭祀されていないのは、他に祭祀される寺があった事を意味します。まして、自分が入らずに甥に当る本家の信安が曹洞宗に改宗した後に最後の人物として祭祀しているのです。
常光寺は宗派は別として、信定が尾張守で甲斐青木氏の主導者であっても「時光系青木氏の本家」を祭る寺として扱い、そこで曹洞宗に改宗して時光系青木氏だけの菩提寺とせずに一般化した事で、以後青木氏の祭祀を打ち切るとして決断し、物事の「けじめ」を着け、親の信定と自分は上記二つの寺に祭祀される様に武田宗家に申し込んだと考えられます。
(信定は信玄と勝つ頼に仕え、この時は勝頼)
その宗家の許可の背景には、曹洞宗にする事の利益、つまり、甲斐全土35%の「宗派の力」とその曹洞宗信徒から来る「農兵の勢力」の確保にあったからに他なりません。(曹洞宗は下級武士、庄屋豪農、名主、郷士、を信徒とし、それに連ねて農民が帰依した。)
この時期は織田氏との戦いを前にして家臣が離散し、兵が集まらずに躍起と成っていた時期であります。これ等の条件が重なり過ぎています。

「常光寺前の経緯」
”時光は武田氏から離れ、清和源氏の朝臣族を理由に「嵯峨期の詔」に従い「皇族青木氏」を名乗り、弟の源光の「皇族賜姓系青木氏」の2氏と共に統一した甲斐の「青木氏の菩提寺建立」に着手した。”と成ります。統一した青木氏の寺を建立しようとしている位に青記氏に津からを入れています。
その時光は賜姓源氏清和源氏の充分な身分家柄の末裔でありながら、敢えて同族青木氏を名乗る必要性は有りません。そもそも賜姓源氏と賜姓青木氏は皇族系の同族です。しかし、名乗ったのですから、そこで、”何故青木氏を名乗ったのか”と云う元の疑問1が出ます。

「青木氏を名乗った理由」
”甲斐の本流の「皇族賜姓青木氏」と血縁した武田氏系青木氏(賜姓血縁族青木氏2氏)を持つ弟源光と、弟に合わせて兄時光系からも青木氏を発祥させる事にした。”とすれば証明が付きます。
そこで「全甲斐青木氏菩提寺」を建て始めたとする事で疑問の経緯は成り立ちます。
従って、全甲斐の皇族青木氏を含む武田氏系青木氏の当初の寺(浄土宗常光寺)は、2代目常光の行動により常光の代から天正3年前まで(1576頃)時光系の真言宗菩提寺として使ったとすれば(既にこれは確定していますので)、別に武田割菱紋宗家の青木氏(源光系)と武田菱紋の青木氏(源光系)の独自の末寺と氏神社が別にあったと考えられます。
(武田氏系花菱紋の青木氏(時光系)を除く)
では、それは何処なのか疑問11Bです。
(甲斐皇族賜姓青木氏宗家は寺本の古跡寺院跡)
この2氏は当然に浄土宗寺ですが。その浄土寺は上記した様に甲斐では2寺のみしか見当たりません。
12代目(信正)と13代目(信定)は時光系ですが、系譜通り家紋は割菱紋を使っています。
とすると、源光系の皇族賜姓青木氏の「武田割菱紋」一族もこの第13代目「信正」の祭祀されていると推理される「尊たい寺」と成ります。
源光系の皇族賜姓青木氏の「武田菱紋」も皇族賜姓族の清和源氏の祖を祭る事で「光福寺」であると考えられます。
もし、源光系の青木氏は賜姓系である事から、寺本の国府跡にあったとされる寺院に祭祀されていたとすると、「国府」が武田氏によって笛吹市に移動された時期と寺の消失時期が問題に成ります。
源光系の武田氏系青木氏の発祥は、武田氏が最初に国府移動させた後に成りますので、寺本の寺院は賜姓族本家筋のみであるとなり除外できます。(国府は甲斐では3回移動させている)

そうなると、この二つの浄土宗寺は次ぎの氏を祭祀してることに成ります。
時光系青木氏12代目割菱紋(尊たい寺)
時光系青木氏13代目割菱紋(光福寺)
源光系皇族賜姓武田氏系青木氏の一族の武田割菱紋(尊たい寺、光福寺)
源光系皇族賜姓武田氏系青木氏の一族の武田菱紋(光福寺)

その経緯からすれば、13代目の信定の曹洞宗に改宗する理由背景は”曹洞宗の僧に帰依した”とする単純な理由説で良いのかと疑問11Cが湧きます。
現在ではいざ知らず、「氏家制度」によって成り立っている社会です。
そんな事をすれば一族の「伝統と習慣」が壊れ一族郎党が大変な事に成りますし、信定本人や本家の存続が危ぶまれます。
上記で述べた様に、信定は実の3人の子供が居ながら次ぎの様な脅威の事を断行しました。
1 他家から養子(信之 高尾氏)を迎え柳沢郡の青木氏を継がせた。
2 嫡男(正定)に別家を作らせた。
3 次男(豊定)には新規に別家柳沢氏を発祥させた。
4 三男(豊勝)に兄正定の養子として分流跡目の割菱紋を継がせた。
5 信生(信時の養子 落合氏 信安の義弟)を本流(割菱紋 副紋葉菱紋)から迎えて分流始祖に据えた。
(系譜上、父信正の祖に据え義祖父とした。信生-信正-信定の説 後述)
と云う5事件が起きたのです。

更には、次ぎの様な事も起こっているのです。
1 曹洞宗改宗事件は天正3年前(長篠の役前)に武田氏が危ぶまれている時期に起こっています。
2 武川衆の去就(離脱)も左右している時期です。
3 真言宗常光寺の存続も危ぶまれている時期です。
4 真言宗は密教ですから尚更に運営維持は困難と成って居た筈です。
5 信定にとっては政治的に身動き出来ない事に成っていたと考えられます。
6 実子(正定、豊定)と「路線問題」の意見対立が起こっていたと見られます。

故に、「浄土宗源空寺」の経緯は、強引に又は止む無く「曹洞宗常光寺」に成った事により、浄土宗派(正定、豊定)が、常光(真言宗)や信定(曹洞宗)の採った処置を、元に戻そうとした行動と成ります。
当然に、ここで、武田系青木氏の中に「浄土宗派」、「真言宗派」、「曹洞宗派」が生まれるのは自然の摂理です。
「5つの浄土宗派」は次の通りです。
「甲斐皇族賜姓青木氏」1氏
「武田氏系青木氏(源光)」2氏
「花菱紋青木氏(正定、豊定)」2氏
以上5浄土宗派は、依然として勢力を持ち現存している中で、浄土宗派が元に戻そうとする行動は自然、必然の行為です。
では、次ぎに真言宗になった時点で浄土宗派はどうしたのかと言う疑問12が生まれます。

「浄土宗派の行動」
「光福寺」と「尊たい寺」の前身を堅持していたと見られます。
これ以外に甲斐には浄土宗はないのですから、「宗派伝統」を護るためにもこの二つの寺を堅持する以外にありません。
その武田氏系青木氏の経緯を観ていた「信虎」と「信玄」が、武田氏の本家筋の寺としてでは無く、改めて改宗をして全武田氏系青木氏の菩提寺として2つの寺を再建したと考えられます。
だから、「信虎、信玄」の時代、即ち「信正と信定」の時代に改宗しているのです。
又、だから真言宗常光寺も11代分(信定の前の信安)までの墓しかないのです。
信虎、信玄、(勝頼)は、特異な行動を採る常光寺を除外し、この二つの寺を再建して伝統の浄土宗の武田氏系の菩提寺としたと成ります。
5つの浄土宗当事者と本家の「信虎、信玄」を含む浄土宗派武田氏は「真言宗と曹洞宗の改宗」に対して対策行動を採った事に成ります。
この宗家の行動は自然で当然の行動と考えられます。これで筋道が通ります。
しかし、この行動も直ぐ後(天正3年1576、武田氏離散 天正10年1582 武田氏滅亡)で難しい問題に直面したのです。(史実としては1573年頃から崩れ出した)
この事で、これ等の寺を棄てて全武田氏系青木氏が各地の藤原秀郷流青木氏を頼って逃亡しました。
当然に、信虎や信玄の折角の浄土宗寺の再建にも檀家の青木氏が逃亡したのでは維持管理は難しく成ります。
(逃亡した武田氏系諏訪族青木氏、諏訪族青木氏は逃亡先に御霊を移して菩提寺を建立した)
その後、この2つの寺も戦国時代で火災消失が起こりその記録などが無く成っているのです。
現在はその再建した寺ですので上記の事が記録として確認出来ないのです。
しかし、後にも先にも甲斐にはこの二つの浄土宗寺のみですので、浄土宗派には祭祀はここしか有りません。その意味でも花菱紋の源空寺の存在は重要です。
次ぎに、この花菱紋に「丸付き問題」が続きまたもや事件が起こったのです。
更には明治の「廃仏毀釈」が起こったのです。

「廃仏毀釈廃寺の理由」
全国の廃寺の寺は殆どが「末寺、檀家数、特定寺」によって廃寺処理されています。
明治政府にとって観れば維新政治を断行するには宗教勢力を弱体にする必要がありましたのでこれ等を基準に潰したのです
このことから考えますと、青木氏の源空寺と柳沢氏の光沢寺はこの条件に合致し末寺の花菱紋2氏の青木氏菩提寺であった事から、一般性に欠ける「特定寺」「小さい寺」として(本寺があるとして)廃寺されたものと考えられます。(松源寺は武蔵鉢形に移された 廃寺)
親族の末裔「柳沢曲渕」を元祖とする寺(豊定系)が甲斐(光沢寺-奈良に移動 永慶寺廃寺-末寺大泉寺)に別にあリますので、花菱紋の正定系の2氏も当然に独自の寺を持っていた事に成ります。これが源空寺と松源寺です。そして、源空寺の廃寺の際に花菱紋の一族のステイタスも含めて寺の物事を近隣の神社に移動させたとする口伝がありますので、大切なものであったとされます。
その花菱紋一族のステイタスが「仏像」であった事に成ります。
当時、伊勢を初めとする皇族、賜姓青木氏にはそのステイタスとするところの仏像を保持していました。
甲斐の皇族賜姓青木氏(源光系含む:慣習で仏像を与えている)には寺本の国府寺が消失しているので、そのステイタスの存在如何は今後の研究課題です。
しかし、甲斐の花菱紋の「仏像」が存在しているとすると、まして、その寺の寺紋が花菱紋の丸なしです。(現在、昭和60年前後以降この仏像の所在は確認されていない)
花菱紋の青木氏の氏神が現存すると云う事は、花菱紋のステイタスの仏像もある事に成ります。
藤原秀郷流青木氏主要9氏116家も同じ独自の寺社神社を持っていますので、家紋の事も含めて丸付き紋なしの花菱紋であれば間違いなくその慣習に従っています。
この研究が今後の課題です。

そこで、武田氏と武田氏系青木氏の家紋には「丸付き紋」は本来は採用していません。
まして、一条系(後呼称)とされている源時光系の花菱紋族となれば尚の事です。
藤原摂関家北家系の一条、九条、鷹司、近衛の公家4氏一族の母方です。名門中の名門です。
その名門に仮に「丸付き紋」が存在するとした場合、「家紋掟」1-8のどの原因で「丸付き紋」に成ったのか「原則が崩れる大きな問題」が存在し、それを研究することは甲斐の「武田氏系花菱紋青木氏」を解き明かす上で必要と成るのです。
そこで、以前より「丸付き花菱紋」を調べていましたが、花菱紋の系譜添書から観て、分家筋には丸付き紋になる原因が発見されました。この「丸付き花菱紋」は柳沢郡青木村の青木氏が「特定の事情」により「丸付き紋」を使用しました。この事は上記検証済です。
江戸中期以降はこの家紋掟の1-8が緩やかに成りました。
しかし、追記しておく必要がある事として、次ぎの系譜添書が発見されました。
天正の頃、その時代付近では、花菱紋の正定が別家を起こしました。そして、その別家末裔が発展し正定より享保の頃、5代目信秋のところで、養子縁組が起こっています。
当初、この下記青木氏が柳沢郡青木氏として考察していましたが異なりました。
詳細に調べた結果、次ぎの様な検証と成りました。

他氏の同姓の青木宗頼の次男「信秋」が花菱紋青木氏分家「信知」(正定系)に養子に入っています。
この養子先実家の青木市郎兵衛宗頼が何処の氏なのか疑問でした。
当初、柳沢郡の青木氏とも考えられていました。
今回、「丸付き紋」を調査していて、更に検証の結果、「丸付き紋」に成った背景が享保(1735年)頃と判断されていたがその可能性が乏しい事に成ります。
そして、天正の時期が最も適合するとの推理から、添書を更に徹底調査し史実を発見した事に成ります。
これも添書調査を行った結果、享保のこの養子先家紋は花菱紋を含む武田氏系では有りませんので、柳沢郡青木氏の可能性はなくなりました。
そこで、念のためにこの信秋を考察したところ、添書と史料を付き合わせると次ぎの事が書かれていました。

「添書と史料」
三五郎 太郎右衛門 実は青木市郎兵衛宗頼の次男 母は小栗平吉久弘の女 信知の養子となる 宝永6年大番に列する 享保20年組頭に進む 寛保元年51歳にて死す 法名常心 妻は松平勘十郎忠隆の女

史料
その元と成ったキーワードは「享保」「・・兵衛」「小栗氏」「江戸」です。
徳川吉宗の享保改革として、伊勢松阪の豪商伊勢青木氏本家(紙屋青木長兵衛)から吉宗に請われて紀州藩から同行 吉宗の享保の改革を勘定方として断行する。江戸に伊勢青木氏の分家2氏の末裔が出来る。吉宗は伊勢の紀州藩家老加納家に育てられる。吉宗と知友 加納家と伊勢青木氏とは数度の血縁関係にある。同時に伊勢青木氏は紀州藩勘定方としても奉仕する。
以上の伊勢青木氏の史料から享保時代の内容が出てきました。

享保時代の江戸の青木氏は史料から6氏程度と見られます。
この一つが「青木市郎兵衛宗頼」の氏と観られ分家の1氏と成ります。
以上の内容からこの伊勢青木氏の「通名等と時代性」と血縁性が酷似していますので、この氏とも考えられます。
(何れも徳川氏家臣ですが、この氏は1-8の家紋掟から観て「丸に花菱紋」に変わる根拠が発見されません)
つまり、別に享保時代に正定の武田氏系花菱紋青木氏の末裔と笹竜胆紋伊勢青木氏との血縁があった事が覗えます。(今後充分な検証要)
信正-信定系譜の高尾氏からの養子「信之」の末裔が丸付き紋の花菱紋を使った事が上記で検証しましたので、特記として正定の養子の「青木宗頼」は伊勢青木氏のルーツとの血縁がある可能性がある事も判りました。

「丸付き紋の第3氏の青木氏」
系譜を確認する際に於いて最も考察しなくてはならないのは、第1期、2期の「未勘氏」と「第3氏」ですが、賜姓青木氏や藤原氏一族主要5氏や賜姓源氏等の名家はその特定の定住した地域に多く発祥しています。
この「第3氏と未勘氏」には必ず「氏家制度の慣習」の矛盾が起こります。
前のレポーにも書きましたが、先ず、「菩提寺の有無」と「過去帳の有無」、それに先祖の「最も古い人」が江戸中期前の人である事などで直ぐに判ります。
幾ら系譜などで「搾取偏纂」しても氏家制度の社会の中では絶対に変更できない事が発生します。
中級武士、又は下級武士は寺に過去帳を作ります。
氏家制度の慣習の中では、姓を持たない者は時系列が取れませんので「過去帳」を作れず持ちません。又、庶民にはその社会習慣がありませんでした。一部苗字帯刀を許された者以外は例え持ったとしても江戸中期以前は認められなかったからです。
豊臣政権下の「兵農分離令」以降に於いて一部苗字帯刀を許された者として次の家柄が挙げられます。
A 庄屋、
B 名主、
C 豪農、
D 郷士、
E 郷氏、
F 豪商
以上です。
これ等の者はもとより鎌倉期-室町期初期では武士であった事と、「伝来の姓」を堅持していた事が「共通条件」です。「過去帳」も持っている事と、「墓所」も持っている事に成ります。
「それなりの伝統」を堅持しています。
しかし、これ等以外の庶民は宗派(改宗)は単独では変える事は出来ますが、特定の宗派(浄土宗寺)が受け付けませんし、姓を持ちませんので出自の確認は当然に出来ません。
個人一人が名乗ったとしても親族関係が変化していませんので判別できる事に成ります。
この様に江戸中期前は当時の「氏家制度の慣習」は厳しいものがありましたので、一つ一つを潰して行けば必ず矛盾が生まれます。

現在の感覚から判断して「第3氏、未勘氏」は差別的と考える人が居られますが、当時の「氏家制度」の社会慣習からは普通の事で、特に本サイトだけの事では有りません。
一つの青木氏の氏として系統的に纏め様と試みますが、何せ”「氏姓」を持たない”と云う事から物理的に、「不特定多数」である為に「系統化」出来ないのです。又当然、「特定の事件性を持った第3氏か未勘氏」6氏以外に古史料も有りませんので調べる事は出来ないと云う難点があります。
多くの明治以前の歴史書では「第3氏、未勘氏」の区別を明確にしています。当時としては区別しない方に社会慣習から異常感があったのです。
今回の系譜、添書、史料からの検証もこの系統的なものがある事から成し得たものです。
本サイトでも、「第3氏と未勘氏」に関してはすでに一部のデータもレポートしています様に、上山氏等の特定6氏の第3氏青木氏の研究データを保持しています。
将来、上記AからFまでの青木氏に関する研究を試みたいと思いますが、しかし、最早、武田氏系青木氏の研究も難しく成りつつある今、その史料と成るものの発見が困難と観られます。

注 「青木氏氏 研究室」「明治期に発祥した第3の青木氏」レポートに詳細の検証項目を列記していますので参照して下さい。

現実には、皇族賜姓青木氏29氏と藤原秀郷流青木氏119氏以外の「第3氏又は未勘氏」の方が格段の差で人口的には多い事に成ります。

さて、「信之」の「花菱紋」に関しては、系譜上は初代より養子の連続で「丸に花菱紋」は「第3氏」ではありませんが、血縁関係としては全く有りません。(上記済み)
「寛政史書」の「寛永青木氏第三の系図」の歴史書にみる様に、又「古書家紋200選」や「全国家紋8000の家紋集」にも掲載がない所をみる様に、ある意味の「第三氏」である事が検証の結果判りました。
しかし、この「第三氏」として扱われている青木氏にも、甲斐には上記したルーツ(系譜と血縁)を持たない「第3氏」(氏姓を持たない)が多く存在します。
上記の様に、武田氏系青木氏は殆ど完全に近い形で一族郎党が移動している現実があります。
武田氏滅亡により、関東に逃亡、徳川氏仕官、秀吉の甲府関係の築城で転地、徳川氏の代替地、で本家宗家を含む一族郎党、菩提寺氏寺、氏神も持って移動しているのですから、他の国の青木氏と違い甲斐としては特別な第3氏、未勘氏」の意味を持っています。
これ等は「個人の意思」とは別の「政治的な移動」であるからです。

「花菱紋」の浄土宗菩提寺源空寺には、この「花菱紋(浄土宗)」と「丸に花菱紋(曹洞宗)」の問題が後世に於いても面倒な遺産として遺しています。それだけに、家紋の変紋と共に、甲斐武田氏系青木氏には「浄土宗、真言宗、曹洞宗の改宗問題」が大きい物であるかが判ります。
しかし、この検証結果から「丸に花菱紋」(第三氏)の源空寺問題には差違を生じている事は否めません。
また、武田氏衰退滅亡(1573-1582)と共に、「丸付き紋」も含む第3の系図青木氏は例外なく武田氏系青木氏と見なされて全ては逃亡して本家分家ともに主に現在も関東の東に在住しています。当然に氏寺や氏神(御魂とステイタス仏像)を移動させているのです。
甲斐は織田氏に滅ぼされて、更には豊臣、徳川氏の支配下に置かれました。(1582信長死亡)
従って、1585年戦後処理の後には、一部身元引受人の藤原秀郷流青木氏の許可を得て再びその地に帰る事もあったとも考えられますが、徳川の家臣団に組み入れられましたので移動は現実には困難であったと考えられます。

「花菱紋の柳沢氏の出世」
特に、柳沢氏の吉保の出世に伴ない甲斐の武田氏系青木氏を初めとする出身家臣が多くなったと考えられます。
豊定を元祖とする柳沢吉保は概暦は次の通りの出世をしています。
1 綱吉の小姓 111石 1675年
2 小納戸役 500石 1680年
3 従五位下 6500石 1685年
4 側用人 12000石 1688年
5 従四位下 32000石 1690年
6 老中侍従 72000石 1694年
7 甲府藩 150000石 1704年
8 郡山藩 150000石 1709年   
以上石高から観た概暦です。 
(当時の慣習では史料からバラツキがあるが戦い時には1万石で平均4-5騎が義務付けられたとする。)
小姓時代は0人、小納戸役時代は1-2人、6500石時代で100人 12000石では300-400人 32000石では900-1200人 72000石では1800-2400人 150000石では3700-5000人

恐らくは、甲斐の武田氏系青木氏の者の内、親族の巨摩郡青木氏の「花菱紋族」はこの柳沢氏家臣団を構成したと見られます。
一騎50人を原則としていますので、身内から集めて石高に合わせて家臣団を作る必要があります。そうなると当然に先ずは身内から集める事に成ります。

「柳沢氏と家臣団と家紋の分布」
柳沢氏は35年の間に家臣を上記の推移で養っていたと考えられます。
これ等は主に甲斐の花菱紋を始めとする3氏6家と武田氏縁の家臣を集めて編成したと考えられます。これ以外に直接徳川氏の旗本と御家人に成っているものが殆どである事から、1688年の頃には武田氏系3氏6家は充分に一族郎党が吸収される能力を保持している事に成ります。
当然、吉保4代前の元祖豊定の兄弟の正定の花菱紋の親族を中心に家臣団を構成したと考えられるますので、花菱紋の末端まで吸収されたと観られます。

1 中部から関東にかけて藤原秀郷流青木氏に保護されていた源光系の武田氏系の青木一族
2 神奈川横浜、栃木、常陸に移動した諏訪族青木氏、諏訪族武田氏系青木氏
3 時光系の武田氏系青木氏の武蔵、上野の青木氏
4 武川衆の武蔵鉢形に代替地移転
5 讃岐、高知、阿波の藤原氏を頼った源光系青木氏
6 安芸を毛利氏を頼った武田氏分家一族
7 武田氏宗家 第1縁戚8氏、第2縁戚7氏
8 甲斐国隣接する国境の武田氏家臣の同心一団
以上に移転し、その後、柳沢氏や徳川氏の家臣団に加わる事に成ります。

各地から身内を呼び戻して家臣に加えたと観られます。
柳沢、八代、江戸、川越、甲斐、郡山へと花菱紋を中心とする武田系の家臣団は移動し、甲斐には柳沢氏の配下に成った者は1704年頃には殆どは故郷に戻った事に成ります。早い者は1688年に戻っている事に成ります。
問題はその5年後の奈良郡山郡への移動では家臣は戦時と異なり減少をしている事が考えられるので、減少すると見て、甲斐には僅かに一部残留組が留まったとも観られます。
しかし、「武士を捨てる云う選択」に迫られる事が起こるために土地家屋を失った所では青木氏の一族郎党は直に生活に困ると云う現実問題が伴ないます。
数として考えられない範囲の若者の個人単位であったと観られます。
この事から、江戸、川越、郡山にも花菱紋の青木氏の多くが定住し存在した事が考えられます。

柳沢吉保は武田氏として再び甲斐3郡(山梨、八代、甲府)の15万石の大名(1688)になり、再び花菱紋の武田氏が領地を取り戻した事に成ります。
逆には、甲斐に戻れたとした場合は、113年後には、関東の逃亡先からの武田氏系青木氏は戻った事も一部であるが考えられますが、但し、100年以上も経っている事から武士として戻る事は不可能と観られます。
既に生活基盤が出来ている年数ですし、住めば都です。100年(当時では3-5代)も逃亡先ではその生活も出来ている事もありますので極めて少ない事であろうと考えられます。
しかし、一族揃って徳川氏の家臣となりましたので、柳沢氏の家臣団の移動以外の武士の移動は国抜け脱藩となり罪人と成りますので、現在の移動とは比べ物にならない困難さであったと観られます。

この様な、動きを証明する事件が起きています。
柳沢氏以外にも、この事に対して、一派の家臣を救う次ぎの様な動き(8)がありました。
1 武田氏の家臣で徳川氏に仕官した「大久保長安」なる者(八王子8000石)が家康に「治安と要衝地防御」を理由に建言し、「八王子500人同心」を編成する事を許可され、離散した武田氏家臣を吸収しました。
2 又その後、その効果ありと観た家康は「八王子1000人同心」を追加指令して多くの武田氏浪人を救ったのです。この策を武田氏の家臣の分布する国々に「・・同心」を編成して治安を回復を進めたのです。
3 他には、武田氏宗家の生き残りは伊豆大島の流刑となり50年間滞在する事に成ります。
その代表的な事件として、武田信興は柳沢吉保の働きかけで、この流罪刑を解かれて戻り、一時、同族柳沢吉保に護られて生活をします。
4 更に許されて武田氏最後の地の八代郡に戻されて500石を与えられて旗本にし一族家臣を引き取りました。
恐らくは、これが最後の武田氏の救済作であったと観れます。

「武田氏の救済策」
徳川氏の仕官した一団、
八王子大久保氏に救済された一団
柳沢氏に吸収された一団、
八王子大久保氏に救われた一団、
四国讃岐籐氏に保護された一団、
藤原秀郷流青木氏を頼った横浜神奈川に定住した一団
伊豆の皇族賜姓族青木氏を頼った一団
下野、武蔵、常陸、上野に逃亡定住した一団
以上の様に、武田氏系花菱紋の柳沢氏の吉保は直接間接に武田家臣団を救済していたのです。

武田氏の家臣団全てが徳川氏に仕官したわけではありません。青木氏等の武田氏に縁のある一族が先ず仕官が適ったのです。
しかし、末端の家臣では盗賊山賊などのシンジケートに入りその集団は膨れ上がり治安悪化の原因と成っていたことが判ります。
多くのシンジケートには豪商などのその大元の頭目元締めが居て背後から経済的な支援をして大名以上の勢力を保持していました。
明治期までには、大豪商を維持するには、その財力の保全、取引の安全、運送の防御等の力が必要です。そうしなければ他のシンジケートから襲われる事がおきます。
その武力の背景をこれ等の戦いで敗れた者を引き取り一団を形成させて自治運営をさせて、その一団毎を列ねて束ねる経済的な支援の相互関係が形成されていたのです。
そして、今度はそのシンジケート間の連携を図ったのです。大きいシンジケートでは大名も到底おぼつかないものでありました。武力を背景とした大名と、連携の盟約の武力は勿論の事数段上であり更には、その比べ物にならない経済力です。
大久保長安はこのシンジケートを取り込み表向きは「同心」としていて、実態は裏大組織による治安維持であったのです。ですから、後に「長安事件」が起こったのです。
因みに、織田信長の3度の伊勢攻めに対して伊勢北畠氏、伊勢伊賀氏、伊勢青木氏(伊勢の豪商紙屋長兵衛)の「天正の戦い」(武田氏と同時期)で織田信長歴戦上の唯一負けたのが丸山城での伊勢賜姓青木氏(青木民部尉長兵衛信忠 青木紙屋長兵衛)との戦いでした。各地シンジケート連携による経済的な戦いでした。歴史上、有名な信長次男信雄の蟄居事件です。

武田氏一族は4度の衰退を繰り返し、最後は吉保が出世する事で立て直した事に成ります。
意外に、彼は悪役とされていますが、家臣団を救うことに情熱を高めていた事がこ考察から判ります。だから治安上から徳川氏はこれ等の動きと吉保の引き上げを図ったと考えられます。
武田氏家臣の大久保氏の建言が認められたことが何よりの証拠です。

「第3氏の発祥原因」
室町期と江戸初期と明治初期の3期に発祥した「第3氏」は実は上記の「1騎50人」の原因から来ている事が多いのです。
上記した家臣団を平時に維持する事は経済的負担が大きく、実際は「治安維持」と「年貢取扱」と「事務担当」と「資産管理」と「軍事」の家臣団の最低限の人数を維持しています。
いざ戦いと成ると、「割当」が来ます。相手により違ってきます。ではどうするかと云うと、4つの方法があります。
「徴兵の策」
1 プロの雇い兵を徴用します。
雑賀集団、根来集団、柳生集団、伊賀集団、甲賀集団、紀州集団、熊野集団、など例を挙げると限りが有りませんが、各地には多くの職業集団がありました。
2 野武士、海賊、山賊、土豪等、敗軍兵を裏で取り仕切るシンジケートがあります。
3 近隣の農兵でこれ等を束ねる地元家臣や土豪の集団 「武蔵7党」「伊川津党」等
4 堺、摂津、伊勢、近江、商業都市等の豪商

1は、信長が用いた武田氏滅亡の引き金に成った雑賀軍団鉄砲隊(3000)が有名です。
武田氏は「長篠の戦い」でなす術も無く無抵抗で殲滅されたのです。
三段撃ち戦法で間断なく発射する仕組みを使ったのです。最後は空砲で散り散りに成り逃走させたプロの射撃です。最も良い例です。

2は、各国各地で発生する敗残兵で国を追われた彼等は集団と成り、海賊、山賊、盗賊等と成りこれ等を経済的裏づけで取り仕切る豪商(武士で、2足の草鞋策を採る)に支援を求める。
秀吉の家臣の成った蜂須賀小六は元は山賊団で雇兵でした。秀吉は最初この小六団の一員で雇い兵だったのです。

3は、豊臣秀吉が各大名の勢力を削ぐ事の目的で「兵農分離」の令を出したものですが、殆どはなかなか守らなかったのです。古来からの戦いの慣習です。
農民がいざ戦いとなると土豪たちが農民と契約して借り集めて兵とする方法です。
秀吉の軍師の黒田藩や薩摩藩が最も有名ですが、この軍団を使いました。
明治維新の薩摩長州連合軍はこの兵でした。
これには、支度金と戦いで勝った場合の報奨金や討死した場合の家族への保証金、負けた場合の前渡金等明確に契約されていました。
彼等を雇う側(土豪等)では戦いでの戦利品がこの「裏付」でした。ですから、彼等は「落人狩り」を徹底して行い、又、関係する一族や農民の女子供を捕らえて人身売買をして「裏付」を確保したのです。戦利品として刀、槍兜、鎧弓、矢等を集めて金に交換するというシステムが出来ていたのです。大名はこれを黙認していました。禁止令を出す場合は自らが保証してやらねばなりません。しなければ次ぎからは兵が集まらないで負ける事に成ります。

4は、戦いは兵だけで出来ません。野戦城や櫓建築や安全に交通要衝の所を通過するための護衛と道案内や運搬や食料調達や給仕役をする事も必要です。これ等を一手に引き受ける商人が必要です。
その場合の兵とそれを護衛する護衛兵になります。
徳川氏が豊臣を攻める時、名古屋城で一時留まりました。名目は秀忠本軍を待つ事でしたが、本当は伊勢路の確保に時間が掛かったのです。つまり、実戦部代と違う上記の軍団確保に手間取ったのです。
それには、伊勢一帯を仕切る伊勢青木氏(豪商 紙屋長兵衛 伊勢シンジケート元締め)の合力が必要です。
最終、伊勢青木氏は表向きは実兵250名で合力したとありますが、裏ではシンジケート連携で「伊勢路の掃討作戦と警護」が役目で影の数万の者を投入して行われるのです。家康は信長伊勢攻めでこの勢力を知っていますので、これが決めてと観て交渉していたのです。家康はその手配に時間が掛かったと観られます。

さて、この3番目が第3氏を生み出す原因なのです。
戦いが数度と続くと地元の豪族の土豪との付き合いも出てきます。
大名は報奨金として、金品以外にも自分の家紋や氏名を使う事を許すことが多かったのです。或いは農兵の長等には「身分や権利」を与える事も行いました。
軍師黒田藩はこの方式を軍略上の主点として徹底しました。黒田藩が元は農民に近い貧困の薬売り浪人であり、武田氏一族の大系譜を持つ様な事は全く有りません。大大名に成ったのもこの「農兵システム」を使った事に拠ります。
黒田藩の農民が天皇家の象徴紋「五参の桐紋」を使っているのはこの事に拠ります。

守護、領主、大名、親族、重役、主家臣から実兵としての扱いを受けていた背景があり、場合に依っては武田氏の様に織田氏との戦いの前では兵は集まりませんので、そこで事前に苦しい選択として「農兵の長」等に家紋や氏名の使用を認めて「准家臣」扱いをして兵を集めていたのです。
甲斐に「第3氏、未勘氏」が多い原因でもあり、家柄身分を殊更に強い土地柄はこの関係から来ている事ともあるのです。源氏の傍流、系譜呼称一条氏、青木氏の強引な跡目系譜、数度の改宗事件等が起こっているのです。
この様な原因から室町期末期、江戸初期、明治初期に観られる様に、青木氏は殆ど他地に移動していながらも、甲斐には多くの「第3氏 未勘氏」が生まれた主原因の一つに成っているのです。

又、「明治期の第3氏、未勘氏」はこの傾向は少ないのですが、明治政府も「兵農の縁」から特に明治維新の功績から進んで名乗るように仕向けた事もありますし、又、なかなか明治3年の「苗字令」が行き届かなかった為に8年の「督促令」が出た事でも判ります。取り敢えず全国民が何とか苗字を持つ様にする為に、周囲の豪族の氏名を使う様に仕向けたのが原因の一つでもあります。
ある日突然に、村全体が、郡全体が藤原氏や青木氏等を名乗る現象が起こったのがその証拠です。
誰か大きな組織が主導していたから同時に成るという現象が起こったのです。

しかし、花菱紋に付いては、系譜上は兎も角も血縁上他人となった柳沢郡青木氏の「丸に花菱紋族」は氏家制度の慣習の中では、他の武田氏系青木氏と違い難しい選択に迫られ、武士を捨てて逃亡するか、武士のままでの逃亡を選択し得なかったのではないかと考えられます。
添書から観て、一時(3-5年程度)甲斐を離れて3代目で縁故を頼りに徳川氏又はその主な家臣に仕官した青木氏もあると成っています。
そして一部この者等は織田氏の過酷な追及を逃れて3年から5年程度で甲斐に戻ったとも考えられますが、家紋の分布が極めて狭く限定した小域にある事や現在も家紋8000の中に無いほどに個人家紋が多い事等から子孫繁栄は拡大出来なかったと見られます。
「丸に花菱紋」の青木氏の系譜を考察すると、先ず子供が少なく女が多い家系で、小録の扶持米200俵とあり、早世の家系にあります。これでは子孫を広げることは難しいと観られ1760年頃までで5代です。分家子孫などは1系統で殆ど増えていません。ぎりぎりに寛政(1800)まで来たと見られます。現存が確認されています。(これ以上個人情報により詳細不記載)

故に、寛政の歴史書(1800)の「第3氏」に書かれている事と、これを観て作った正定の分家花菱紋9代目の青木信政(寛政1800)が編集して作ったとされる「丸に花菱紋の系譜」(添書には信政作ると明記)の錯誤(丁度100年)も故意的にずらしたと観られますので、花菱紋からすると系譜上からずらす事で別系図の異なる氏と見せたのではないかと観られます。
この様な搾取偏纂の行為から見ても天正の頃から寛政までは「丸に花菱紋」は「第三氏」(第3氏では無い)と判断されていたと考えられます。
「丸に花菱紋」の「第3氏、未勘氏」が特定していない筈の甲斐甲府に限り集中しているのは、上記の「兵農の縁」とも重なり、この系譜と家紋を使用するに問題が少ないと観たと観られます。

「常光寺寺紋」
常光寺の寺紋ですが、この寺は3度変化しています。
1度目は寺の建立時は最初は浄土宗寺でした。(寺名不明 建立後時光死亡か)
甲斐武田氏系青木氏3氏6家の統一浄土宗菩提寺の建立を目的として計画は進められた。
(源光系菱紋、割菱紋青木氏の皇族賜姓青木氏と、時光系割菱紋葉菱紋青木氏 、割菱紋青木氏の皇族青木氏の菩提寺)

2度目は皇族青木氏2代目常光の時に「真言宗」に成ります。
建立間際前後に時光が死亡し、2代目常光は「中興開山」して自分の名を採り常光寺と命名 他の青木氏を排除する為に真言宗に改宗した。(時光系花菱紋青木氏 皇族青木氏だけの寺として中興)

3度目は時光より11代以降の13代目のところで、13代目信定(信定の子)が「曹洞宗」の僧の「海秀玄岱和尚」に深甚したと成ります。そして曹洞宗に「宗派変え」(改宗)をします。
信玄死亡後、武田氏衰退が始まり真言宗常光寺(11代目まで祭祀)の1氏菩提寺として維持管理が難しく成り、又青木氏の政治路線の違いから子(正定と豊定)側-父信定(子豊勝と養子信之)側の意見対立が生まれ、父信定は甲斐の3割以上を占める曹洞宗に改宗して門戸を開き「集兵と運営」の強化をした。
寺紋の「丸に花菱紋」の使用もこの様な「集兵と運営」の一つの表れです。現に韮崎の常光寺や源空寺付近には「丸に花菱紋」が多いと観られるのもその証しです。
(浄土、真言、曹洞宗の宗派争いに発展した 花菱紋青木氏の元祖正定と豊定は浄土宗派 豊定は花菱紋柳沢氏の元祖)
この様に3度変化していますが、甲斐武田氏系青木氏にはその菩提寺を巡って3宗派間争いが起こっていたのです。
これには、源光派の皇族賜姓青木氏(菱紋、割菱紋)-時光派の皇族青木氏(花菱紋)の対立が絡んでいたのです。
其れは兄時光より弟源光の方が家柄、身分、血筋、と武田氏の6紋(家紋)から観た立場は格段上です。これが大きく左右している要因です。
時光系派に取ってしてみれば、兄と云う立場もあり同等に成りたいとする心情がこの3つの変動から働いたと観られます。それは系譜から無理な一条氏の呼称にも観られるのです。
そもそも、初めは、1185年頃までは甲斐の皇族青木氏(浄土宗)の菩提寺でしたが、甲斐源氏武田信義より6代目武田時光は母方が藤原北家摂関家の公家(一条、九条、鷹司、近衛)であるとして甲斐一条郷の一条氏を名乗ったとされています。
これは皇族青木氏を名乗っているのにこれは疑問です。
信義より2代目次男の忠頼は一条郷のであるとして母方一条氏を名乗りました。甲斐一条氏元祖です。
それは公家一条氏が戦乱を避けて逃げ延びた所を甲斐一条郷としている所以であります。
そこで、賜姓清和源氏の分家頼信系の源氏傍流を名乗るより、又、嵯峨期の詔に基づく皇族青木氏を名乗るより、一条氏を故意に誇張して家柄身分血筋を良く見せる為にした事では無いかと推測しています。清和源氏は傍流であり、乱暴者都して河内、京、常陸、甲斐と各地で受け入れを拒否され配流扱いをされた人物義清を始祖としている事、賜姓族ではない前例の少ない嵯峨期詔の青木氏である事、土豪(小田氏末裔)との血縁族、時光系は宗家武田氏支流族等が、当時の氏家制度の社会習慣からは低く観られていた事で劣等感を抱いていたと観られます。まして、特に、比較対照として上位にある弟派に対して誇示したかったと観られます。現在では如何にも源氏名門と一般的に公表されていますが、当時では氏家制度の社会の中で左程の事は無かったと観られます。
ところがこの一条氏を名乗る根拠が系譜を調べると矢張り薄いのです。疑問です。

「一条氏の持つ意味」
一条郷の一条氏は信義の次男武田忠頼が元祖です。
武田氏は信義の嫡男武田信光(2代目)が継承し時光(6代目)に及んでいます。
忠頼は頼朝に謀殺されて絶えます。そこで、甥(信光の子)の信長に継がせます。
信長の子義長が一条氏を名乗ります。ここで再び絶えたために義長の弟信経の子(甥)の宗信が継ぎます。ここで更に一条氏は絶えます。この様に5度も血縁性は低下しているのです。殆ど無いと云っても過言ではありません。
一条郷の出自である忠頼は死亡し、その兄の信光は腹違いの兄ですので、一条郷のは母方一条氏の血縁性は元より有りません。そのルーツで名乗ります。
更には、つまり、時光の父時信の弟(叔父)の時に絶えてしまうのです。それ以後継承者は見当たりません。6度目にも絶えた氏名を更には時光系が名乗るのです。

結論は更に時光系が一条氏を名乗るのはルーツが異なります。
この様に一条氏を名乗った全員がルーツを殆ど無縁としているのです。
従って、6度もの断絶の一条氏ですから、まして、四国の一条氏や中国毛利の一条氏の様に一条氏の出自は明らかに無いのです。
この事からも明らかに何らかの目的を以って故意に名乗ったものであり、当時、高野山に於いて空海の真言密教が大変隆盛(20%)を極めていた時期でもあります。そして、それをいち早く取り入れたその公家衆の宗派の真言宗に甲斐源氏武田常光が宗派変えをしたのも、叔父の源光系浄土宗派をブロックすると共に、其処に目的を置いていたものであり、「宗派選択の意味」があったのではと考えられます。

研究の意味として、血縁性の無い甲斐の「第3氏、未勘氏」の氏姓の名乗りと、血縁性の殆ど無い武田氏系青木氏の「一条氏」の名乗りとは同じ土台の上にあると云う事です。
武士も庶民も甲斐では同じ行為をしている事を意味します。藤原秀郷一門や皇族賜姓青木氏や皇族賜姓源氏にはこの現象は確認出来ない現象です。
まして、この「宗派対立」を全面に押し出しての争いは最早、「気宇」と云うべき事かなと思えます。

「宗派対立」
甲斐青木氏を揺さぶったこの宗派がどのような勢力範囲を維持していたかを検証しますと次のような結果が出ました。
(末尾 分析詳細史料添付)

真言宗は18寺 17%に成ります。甲府関係域では6寺です。
曹洞宗は36寺 34%、
臨済宗は24寺 22%
真言宗は18寺 17%
日蓮宗は14寺 13%
真宗は3寺 2.7%
時宗は3寺 2.7%
法華宗は3寺 2.7%
単一無派は2% 1.8%

以上のデータの様に、甲斐は大変宗派間の競争が高いところです。全部で9派が競っているところです。
しかし、甲斐賜姓青木氏の武田氏系青木氏2氏の跡目に入った同じ弟の源の源光は一条氏を名乗りませんでした。これで何故一条氏を誇張したのかはあらかた判ります。
本来は、青木氏は源の源光が主流ですが、兄の武田時光は一条氏を名乗りながら、嵯峨期の詔に従い青木氏を名乗ったのですから、ここに意味するところがあります。
一条氏を名乗るのであれば何も青木氏を「詔」を使って名乗る必要は有りません。
既に弟の源光が本流として皇族賜姓武田氏系青木氏を引き継いでいます。
それで、時光は皇族武田氏系青木氏は一条氏としながら11代続いたのです。
(11代後墓は途切れています。)
それと、常光寺前身の菩提寺そのものが青木氏です。わざわざ特別に11代の墓を列ねて並べる必要はありません。特に墓は青木氏でありながら名乗りは一条氏とは当時の氏家制度の慣習から考え難い行為であり、家柄を誇張したい所があったのでしょう。
又、2代目の青木常光が自分の名前を採って名付けるなどの特異な行動を取りました。(中興開山)
多分、この時(時光までは)寺紋は菱紋であったと観られます。
そこで、自分の家紋の割菱紋に変更したと見られます。
ところが、13代目あたりで曹洞宗に宗派変え(改宗)をしました。
「中興開山」と記されていますので新たに開山したことを意味します。
ですから、常光寺には11代分(12代目まで)しか墓がありません。
当然、宗派が違う寺に、尚更に本流ではない妾子の12代目と13代目からは並べる事は出来ません。(浄土宗-真言宗-曹洞宗と中興開基と改宗をした)

曹洞宗派甲斐全体で34%でもっともの勢力を張っています。甲斐全体で満遍なく分布しています。
これは中興開基と改宗は当時としては飛び上がらんばかりの大変な事件です。
「伝統」を重んじる氏家制度の中で、その身分家柄を示す宗派を変えてしまったのです。
真言宗は公家、浄土宗は皇族賜姓族と藤原秀郷一門の皇族系侍が入信できる宗派です。
それが、一揆そのものの良悪は別として、各地で一揆などを起す宗派で庶民か農民などから伸し上がった下級武士が入信する曹洞宗の宗派です。一族の者としては絶対に認める訳が有りません。
まして、源氏でありながら筋違いの一条氏を誇張する程の家柄を気にした一族11代です。
それも違いを出す為に一箇所に並べての仕種です。最早、これは彼等周囲にとって青天の霹靂です。
当然、武田氏本家も何らかの対策を講じる必要はあったと考えられます。
放っておく事は武田氏本家と一族にとって織田徳川今川北条との一戦の前に乱れるのは好ましくありません。武田氏系青木氏の路線と宗派の対立争いです
其れが、武田氏宗家が採った上記の「光福寺」と「尊たい寺」の再建であり、菱紋、割菱紋青木氏(源光系)の浄土宗派への対策であり、そして、正定の別家花菱紋青木氏の発祥と源空寺建立と、豊定の花菱紋柳沢氏の発祥と光沢寺の建立、豊勝の本家継承であり、養子信之の柳沢郡の青木氏の継承となったのです。
これは恐らくは信虎、そして、信玄の打った手であり、皇族武田氏系青木氏に対して圧力を掛けたものであろうと考えられます。
自然に任したものではなく恣意的に全体が上手くまとまり過ぎています。
添書”信定終わりに臨み養子となる”として高尾氏三男の信之を養子(柳沢郡青木氏)にした事が何よりの証拠です。これが明らかに恣意的行為です。
(これが後に花菱紋との協議の結果であり、系譜添書の一節に繋がるのです)
まして戦い前の臨終前の行為です。当事者間では無理で、仲介者が居て反対を抑えて上手く納めたこと以外にありません。(高尾氏と多田氏の氏は不詳)
武田氏滅亡後に起こっ112年に及ぶ「天保騒動」でその宗教の体質も家柄誇張体質も良く判ります。

後編に続く。







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甲斐青木氏の研究(花菱紋) 前編

甲斐青木氏の研究(花菱紋) 前編

甲斐武田氏系青木氏

花菱紋
武田菱紋
武田割菱紋
丸に花菱紋

「始めに」
日本全国の中でも甲斐には氏を別とする青木氏が大勢居るところで、昔は村を形成していました。
青木氏発祥には夫々の氏の特徴を持っています。
ところが、千年以上経ちながらもまだ歴史的な事柄について余りにも解明されていない事が多いのです。
特に甲斐では疑問点が多く時代と共に解消されないままに史実が消え去っています。
最早、その史実を引き出し疑問点を解明する事すら出来ない状況に成っています。
そこで、本サイトとでは何とか甲斐青木氏に関する事柄をまとめ、疑問点を解き明かし、後世に遺そうとしています。
そこで、サイトの「青木氏氏 研究室」と「青木ルーツ掲示板」等に個別に関係資料レポートを保存していますが、これ等のデータを改めて引き出して、「甲斐の青木氏」を総括的に記述して判りやすくし一つの「研究記録」として遺したいと考えました。
そうする事により、まだ本サイトとのレポートを読まれていない全国に散在されている青木さんに歴史認識を高めて頂きたいと企画いたしました。

「論文方法」
先ず、本題に入る前に青木氏の「基礎知識」を高めて頂きます。
そして、その基礎知識を基に甲斐青木氏の研究論文を読んでいただければより深いご理解が得られると思います。その理由はこの甲斐の青木氏には大変入り組んだ歴史と複雑な系譜と事件を持っています。これ等を理解するには過去の歴史の知識を前提に成ります。そうすると当然にその経緯を一度に文章化が出来難い事が起こります。
そこで、論調は重要な研究部分を何度も重複しながらほぐれた紐を解くようにして更に深層を探り進めて行きます。
その裏付と成る史料、史実、各氏系譜、添書、時代背景を絡まさせて論調を形成します。
では、先にこの甲斐青木氏に持つ疑問点を列記しますので、概略を念頭にして本題をお読みください。そうする事でより深くその総括的な意味合いがご理解されると考えます。

注 本文は甲斐青木氏に関係する所有する古系譜と古添書と古史料を先ず前提に論文を進めます。
よって、インターネットなどで一般公開されているものと異なるところがあります。
注 本文は甲斐武田氏系青木氏(時光系)に限定します。
注 寛政史書、寛永青木氏第3の系図等の青木氏は含みません。
注 甲斐皇族賜姓青木氏と甲斐武田氏系青木氏(源光系)の詳細な検証は含まみません。


甲斐武田氏には今だ解明されない疑問点が以下の様にあります。
「疑問点」(順不同)
1 甲斐武田氏系(皇族系)源時光花菱紋元祖が浄土宗をどの様にしたのか。
2 何故青木氏を名乗ったのか。
3 何故花菱紋にしたのか。
4 何故甲斐の常光寺に11代分のみ祭祀していないのか。
5 何故一条氏を名乗ったのか。一条氏呼称の根拠は何か。
6 何故真言宗に中興開基し改宗したのか。
7 何故1ケ所に墓を列したのか。
8 何故12代目13代目の墓が不詳なのか。
9 時光は何処に祭祀されているのか。
10 何故曹洞宗に中興開基し改宗したのか。
11 柳沢氏は誰が興したのか、何処で繋がるのか。
12 柳沢郡の青木氏は誰が継いだのか。
13 巨摩郡の青木氏は誰が継いだのか。
14 真言宗派はどの様に成ったのか。
15 浄土宗派と曹洞宗派はどの様に成ったのか。
16 花菱紋は誰が継いだのか。
17 丸に花菱紋はどの様にして興ったのか、誰が継いだのか。
18 3派の宗派対立は何故起こったのか。
19 曹洞宗改宗事に浄土宗派はどの様な行動を採り寺を建てたのか。
20 誰が甲斐武田氏系青木氏を救ったのか。
21 柳沢氏がどの様にして甲斐武田氏を立て直したか。  
22 第3氏と未勘氏の発祥理由は何なのか。
23 明治の廃仏稀釈はどの様に影響を甲斐青木氏に与えたのか。
24 花菱紋のステイタス仏像等の歴史遺産は何処にあるのか。
25 100年以上も続いた「天保騒動」はどの様にして興ったのか。
26 「天保騒動」が青木氏に与えた影響は何か。
27 何故「丸に花菱紋」は各種の家紋集に記載無いのか。(「個人家紋」)
28 武田氏系青木氏は源光系か時光系なのか。その違いは。
29 誰が花菱紋の前に割菱紋を引き継いだのか。割菱紋と花菱紋の関係は。
30 何故国府が3つもあるのか。(青木村、氏神、氏寺の移動)
31 割菱紋の柳沢氏は存在するのか。(花菱紋の元は何処から。)
32 何故甲斐国府の経緯に異変が存在するのか。
33 武田皇族青木氏は源光説か時光説か。
34 武田氏の前身はあるのか。
35 何故家臣団位置付けの低下が起こったのか。
36 武田氏系青木氏の3系譜の3疑問(差違)の答えは何か
37 其の他(系譜上の問題点と疑問点)

以上、武田氏系青木氏を研究すると如何に疑問が多くて解明されていない事に気付きます。
それは、時代の進歩と共に起こる歴史認識の低下による影響ですが、最早、それを解明するのは今しか有りません。そこでこれ等に付いて研究を試みました。
内容は、絡み合って複雑な為に解明できる事から進めて次第に繋がるように試みました。よって順不同に成っています。疑問点の解明検証文は複雑に絡む為にこの理由から「行」を定めて限定していません。先ず疑問点の洗い出しから研究作業を行いました。
これだけ疑問が多いと整理が着きませんが、一応は全疑問点は網羅しているつもりでいますので全体を通してご理解ください。文中で他の疑問点も出てきますがこれは其の他としています。
依って、不明点等有りましたら、「青木ルーツ掲示板」から何なりとお尋ねください。
では、武田氏系青木氏を理解する為に先ずその「基本的な事」を先に説明します。

基本事項
[青木氏の系統]
まず、青木氏には大別すると、3つのルーツがあります。
1 皇族賜姓青木氏(5家5流皇族賜姓青木氏と皇族青木氏 計29氏)
2 藤原秀郷流青木氏(直系1氏、直流4氏、支流4氏 計116氏)
3 室町末期、江戸初期、明治初期の3混乱期に禁令を破り各地(主に上記2つの青木氏の土地)で発祥した青木氏(「未勘氏 第3青木氏」と呼称する)
以上の青木氏の3つに成ります。

これ等のことに付いて詳しくは「青木氏氏 研究室」の皇族賜姓青木氏関連、藤原秀郷流青木氏関連のレポートをお読みください。
「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」にも詳しく歴史的な史実に基づき研究レポートしています。

随分、長いレポートですので、ゆっくりと楽しんで少しづつお読みください。
また、お読みになっているときに、順不同の為にご不明な点、ご質問等有りましたらサイトにご遠慮なくお尋ねください。

では、上記1に付いて、甲斐の皇族賜姓青木氏系には次の氏があります
1 甲斐国府(初期の位置 現在地名 笛吹市春日居町寺本)に、「皇族賜姓青木氏」1氏、
2 甲斐北部に「諏訪族武田氏系青木氏」1氏(山梨北部)、
3 現甲府付近に定住する信濃から一部移動した「諏訪族青木氏」1氏(甲府地域)
4 巨摩郡青木村と柳沢郡青木村に「武田氏系青木氏」の3氏6家、(皇族系 後述)
以上4つの皇族系と皇族賜姓系の青木氏5氏が存在します。

これ等は「国府」の存在が大きく左右します。つまり、国府は政治の中心でした。そこからまず青木氏が発祥し、その周辺に豪族などが集まります。当然、其処に血縁関係と歴史の史実の集中が起こります。その史実を集めて、考察するのが歴史研究のポイントです。
ですから、この血縁の元の族種を知ることが必要なのです。

何れも、4番(花菱紋系2氏の青木氏)を除き、皇族賜姓青木氏の末裔で、土地の豪族の武田氏、諏訪族との血縁による一族です。
「皇族賜姓青木氏」詳細に付いては後述しますが、甲斐に朝廷より配置された第6位皇子の「甲斐王」の末裔子孫です。
「笹竜胆紋」を綜紋とする「甲斐皇族賜姓青木氏」は、男系跡目が適わず武田氏の養子側の系列に入り、家紋を変紋した一族です。(後述 「家紋掟」を参照)
「皇族系青木氏」詳細については後述しますが、嵯峨期の詔(弘仁の詔)により「青木氏」を名乗った氏です。

武田氏系青木氏には、詳細後述しますが次ぎの通りです。
1 「源の源光系青木氏」の 「武田菱紋」の氏と「武田割菱紋」の氏の2氏があります。
2 「源の時光系青木氏」の「花菱紋」及び「丸に花菱紋」には「嵯峨天皇期の詔」に基づく「皇族青木氏」1氏があります。
以上3氏(6家)があります。

(重要な研究結果)
以後の内容は重要です。(概容を把握要 後述詳細)
注 花菱紋は割菱紋から分離した家紋氏です。
注 割菱紋は副紋を「葉菱紋」を使います。本家と分家の2氏に分離しています。
注 花菱紋2氏派は本家割菱紋からと分家割菱紋からと出ています。
注 分家割菱紋から出た花菱紋は後に「丸に花菱紋」に変紋します。
注 柳沢氏花菱紋は本家割菱紋より分離しています。
注 花菱紋の本家は元来別家して発祥分離しました。(後本家と成ります。)
注 分家割菱紋から出た花菱紋は柳沢郡青木氏と成ります。
注 柳沢郡青木氏は養子より発祥 連続他氏からの養子で繋がれます。(血縁性なし)

注 源の時光と源の源光は兄弟 清和源氏分家三男頼信系の源氏(本家は嫡子頼光)(詳細後述)
注 皇族賜姓青木氏(5代)と皇族賜姓源氏(11代)とは同族(第6位皇子系)です
注 16代の天皇の第6位皇子の朝臣族で臣下族(詳細後述)です。
注 皇族青木氏は「嵯峨期の弘仁の詔」による発祥氏(詳細後述)です。


武田氏家紋群8つは次ぎの通りです。
(大別家紋 6家紋)
1 武田菱紋、
2 割菱紋(4つ割菱紋)、
3 花菱紋、丸に花菱紋、
4 地抜き武田菱紋、
5 陰武田菱紋、丸に陰武田菱紋
6 丸に出武田菱紋、
以上6分類8家紋です。

注 上記123から武田氏系青木氏が発祥しています。
注 1-6は家柄順です。

ここでは、武田氏系青木氏3氏6家の内、この「花菱紋の青木氏」と「丸に花菱紋の青木氏」に付いて重点を置き、この2氏の歴史と由来を中心に述べます。
それはこの2つの青木氏に付いては、今まで特異な歴史を持ちながら余り詳しくその「ルーツと経緯」が解明されずに居ました。
この様な事(紹介、研究されていない事)から、ここでは消失を防ぐ為に研究して解明し特別に世に紹介しておく必要があると考えました。

この武田氏系青木氏3氏は次ぎの通りです。(6家は下記)
1 武田菱紋の青木氏で武田氏本家と甲斐皇族賜姓青木氏との血縁による「賜姓青木氏」
2 武田割菱紋の青木氏で武田氏分家と甲斐皇族賜姓青木氏との血縁による「賜姓青木氏」
3 武田花菱紋の青木氏で武田氏主家の跡目に入った清和源氏の朝臣族の「皇族青木氏」
以上が武田氏系青木氏の3氏です。

注 「賜姓」とは天皇が自らの子供の第6位皇子(第6番目の皇子)に氏を与え臣下させる事で、その役目は天皇を守る親衛隊である事。この制度は天智天皇より始まります。 
「賜姓族」(詳細後述)
注 「賜姓族」は「賜姓青木氏」5氏「賜姓源氏」11氏 16代の天皇の第6位皇子(詳細後述)

このレポートは3番目の清和源氏の「皇族青木氏」の2家に付いてその歴史的な経緯を紹介します。
先ずこの氏が発祥する根拠に付いて知っておく必要があります。

[発祥根拠]
蘇我氏の専横政治を倒して「中大兄皇子」は「大化改新」によりその一つ「皇位継承の制度」を大きく見直しました。
その改革の中で、次ぎの事を断行しました。
1 第4世までを皇子王とし各地の守護王として配置しました。(それまでは第6世王)その内、「第4位皇子」までは「皇位継承権」を与え、その「第6位皇子」は臣下し賜姓して天皇を護衛する親衛隊としました。
2 「第7位皇子」以下は比叡山の僧や門跡寺院に入りました。
3 「第7世族」(6世含む)以降は「ひら族」として坂東の守護隊として配置しました。
4 「第5位皇子」と「第5世族」はその中間として皇族者の者が少なくなった場合に戻る位置としました。
5 647年頃に発祥した「天智天皇(中大兄皇子)」の「第6位皇子」の「施基皇子」が皇族賜姓の「伊勢青木氏」と成って「伊勢王」として赴任しました。これが初代です。

注 伊勢の守護王施基皇子は三宅連岩床を国司として派遣 伊勢王は天智天武の天皇を補佐した人物。日本書紀に頻繁に出て来ます。 (「日本書紀と青木氏」のレポートを参照)
この後、文武天皇以後、皇位継承者が少なく、女系天皇が続きましたが、次の5代の天皇は第6位皇子を5つの国に配置しました。

[青木氏を賜姓した天皇]
賜姓した天皇は天智、天武、文武、聖武、光仁の5代天皇

[青木氏を配置した守護国]
配置国は伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5国です。

ところが、この賜姓システムを「光仁天皇」の子供「桓武天皇」と孫の「平城天皇」は2代続いて継承しませんでした。

[賜姓の不継続の経緯]
その理由は、中国後漢国からの帰化人「阿多倍王」の一族の子孫(「たいら族」)で「桓武天皇」の母(高野新笠:阿多倍王の孫娘)の一族が賜姓を受けました。
後の「京平家、桓武平氏、伊勢平氏」と呼ばれる一族で、末裔は太政大臣平清盛です。
(詳細は「青木氏氏 研究室」の関連レポート参照)

注 阿多倍一家はの概略は薩摩の国の半国割譲(薩摩の首魁)と伊勢北部伊賀地方の半国割譲(伊勢衆)を受けました。
注 敏達天皇の孫芽淳王の娘を娶り、3男子を産む、准大臣に任じられます。
注 朝廷の官僚組織と人の6割を占める勢力を持ちます。
注 現在の第1次産業の基礎を築きました。
注 日本初の律令国家体制を完成させました。
注 日本書紀の完成チームの8割を占めました。
注 彼等の勢力日本全国66国中関西西部地域から九州薩摩まで32国を勢力圏としました。
注 日本書紀に何度も出来ます。

「たいら族」の系譜
国香、貞盛、惟盛、定盛、忠盛、清盛
阿多倍王一門から「たいら族」としては以上5代を経て最終の太政大臣にまで上り詰めます。

注 桓武天皇の「たいら族」(780年頃)とは、「第6位皇子の賜姓」の慣例を破る事に成る為に、坂東に配置した第7世族(坂東八平氏:ひら族)にあやかり皇族系と見せる必要がありこの名を授けました。呼び名は”たいらの清盛”と一方は”へい氏の梶原の景時”の様に呼称させました。

[賜姓をしなかった理由]
慣例を破り皇族からの賜姓は5代で途絶えました。
「桓武天皇」は日本の「律令国家」の政治体制を完成させた天皇として位置付けられます。
「桓武天皇」前は「皇親政治」とする天皇とその一族が政治を執り行う政治体制でした。
1 相反する政治体制である為にそれまでの「皇親」の賜姓青木氏一族等の政治発言力を排除する必要があった事、
2 更には、その律令国家体制の天皇と官僚機構の政治体制を創り上げ、日本の第1次産業を飛躍的に発展させた一族(後漢の帰化人阿多倍王が率いる200万人の技能集団)を引き上げる必要があった事。
3 母方一族らの信頼と背景に政治を推し進める必要があった事。
(朝廷軍も長男の賜姓阪上氏が統括する。 天皇親衛隊は賜姓青木氏が統括する)
以上主に集約するとこの三つに成ります。

「その他技能集団の勢力」
官僚機構の6割はこの一団で占めた事。
1奈良平安期の政治機構の3蔵(斎蔵、大蔵、内蔵)の内、2つ(大蔵、内蔵)を掌握した事。
2軍事(朝廷軍)の実権を握った事。(天皇の軍は青木氏)
3天皇家と血縁し准大臣と成った事。
4桓武天皇の母はこの集団の首魁の孫娘(高野新笠)である事。
5阿多倍の支配技能集団「部制度」で国内の第一次産業の基礎を築き経済的な支配権を保持した事

この事から「第6位皇子」を賜姓をせず、青木氏に各地守護職(国司藤原藤成等を2度派遣)を実質外し圧力を加えた。(官僚国司の派遣と権限強化)

[嵯峨天皇の賜姓族]
桓武天皇の子供の嵯峨天皇はこれに反発し戻します。
天智天武期に実行した「皇位継承制度」が厳しい事になり、皇位継承者が絶えるなどの事が続いたことから、更に「皇位継承制度」を緩めました。
この時、第6位皇子の賜姓青木氏を変名して賜姓源氏としました。
青木氏は皇族者(真人族、朝臣族、宿禰族)が下俗(下族)する際の氏名として定め、「弘仁の詔」を発して他の者が青木氏を使用する事を禁じました。(不入不倫の権を与える)
この後、賜姓源氏は11代の天皇に引き継がれます。賜姓青木氏5代とあわせて実質16代と成ります。
この事に対して、賜姓源氏16代とする説もありますが、12代以降は徳川氏等の搾取偏纂の結果で5代が追加され16代と成りますが、実質、賜姓源氏としての意味は花山天皇の11代目で終わっています。

この間、嵯峨期より「皇族系の青木氏」を名乗れる皇族者は合わせて18人いましたが、実質に青木氏を名乗り子孫を遺せたのは5氏であります。最終3人が子孫を遺しました。後は清和源氏系の2氏です。
「皇族系青木氏」
1多治彦王配流孫青木氏
2島王配流孫青木氏
3清和源氏頼政の日向配流孫青木氏
4橘氏系宿禰族青木氏
5甲斐武田氏系青木氏です。
以上5氏です
後は史実に基づかない「未勘氏」です。

この様な「賜姓青木氏」と「賜姓源氏」の両方の賜姓族が出て来る事や、阿多倍一門の平族(たいら族)に振り回される2つの賜姓族が、この甲斐の国とそこに発祥する武田氏系青木氏との時代に翻弄された氏の関係です。
この武田氏系青木氏が、江戸時代まで時代に翻弄され続け、終局、その史実さえも消え去ろうしている時に、又、その存在の確認も取れていない時に、甲斐の花菱紋の青木氏の調査の結果、完全に検証が採れました。

これにより次ぎのことが主に検証できました。
A 花菱紋の皇族系青木の存在が確認された事。
B その一族の元来、慣例よりあり得ない皇族系青木氏「丸付きの花菱紋」の存在の確認された事。
以上の2つの氏のルーツが史料から確認される事となったのです。
(2つの花菱紋の氏は室町末期、江戸初期、明治初期の第3青木氏の可能性があった事によります)
(寛政史書では第三青木氏と記載されている)

注 系譜上から「丸に花菱紋」と成った青木氏を「第三氏」とします。系譜を有しない青木氏を「第3氏」として記述します。(寛政史書に「寛永青木氏第三の系図」とありますのでこれを使います)

では、先ず次ぎの事柄から入ります。
実は系譜を調べて判った事ですが。甲斐には分けると、次ぎの様に成ります。
1 皇族賜姓青木氏
2 武田氏系青木氏(武田菱、武田割菱=1との血縁族)
3 武田氏系青木氏1(花菱紋)
4 武田氏系青木氏2(2と3の血縁族)
5 武田氏系青木氏3(3の巨摩郡の青木氏と3の柳沢郡の青木氏との血縁族)
6 武田氏系青木氏4(3の柳沢郡の青木氏と1の皇族賜姓青木氏との血縁族)
7 武田氏系柳沢氏 (時光15代正定と豊定のところで兄弟 3の花菱紋) 
以上がある事が系譜の添書と史実から観えます。

問題は、1、2、3の3氏の家紋は判明するが、4、6は判断が付かなかったのです。
5は花菱紋、丸に花菱紋の何れかであると考察されていました。

本来、武田氏主要6家は、原則、丸付き紋は主要6家紋には使用しないものとされていました。
(注 賜姓青木氏、賜姓源氏は丸付き紋を原則使用しない。源光系も使用していない。特別除く)
その中で、「丸に花菱紋」は家紋200選には無く、全国8000の家紋群にも無い家紋ですが、系譜よりその発祥はある経緯(後述)により確認出来ました。

[武田氏の家紋事件簿]
上記6家紋(詳細後述)により成り立っています。
ただ、ここで”花菱紋の丸付き紋が何故存在するのか”ですが、どの権威ある専門家紋書にも記載無いのは「個人家紋」である事に成ります。
(家紋書籍に記載無い疑問 個人家紋の経緯 丸付き紋の疑問)
「個人家紋」と歴史は判断した事に成ります。そうすると”何故「個人家紋」と考えられたか”と云う疑問に変わります。「個人家紋」とは枝葉子孫を拡げられなかった氏と成ります。
しかし、史実にはこの武田氏系の「丸に花菱紋」が出て来ます。
「個人家紋扱い」になった特別な理由がある事に成ります。
武田氏の中ではこの一つの家紋だけが異端児扱いです。
「個人家紋」扱いになるとすると、系譜上に何らかな事件があった事を意味します。
その事件を探す事で判明します。
そうなりますと、系譜とそれに纏わる事を添書として必ず書いている事に成ります。
氏家制度の中で伝統ある「ステイタス」の家紋が「丸付き」に変わると云う「大事件」が起こったのですから、武田氏の系譜添書を徹底検証して考察すれば発見できる事に成ります。
「氏家制度」の「家紋掟」から考えると、当時としては身分家柄を下げることを意味します。
其れでなくても武田氏系青木氏には一条氏を無理に誇張するほどに家柄身分を意識している氏です。丸付き紋に成る事は「晴天霹靂」でしょう。
時代は1570-1585頃までの期間で起こっている事に成ります。つまり、武田氏の変貌期です。過敏に意識する事に成ります。
そこで、その先ず系譜から考察する事にします。

[清和源氏の時光系に至る系譜]
経基王-満仲-頼信(三男 分家)-頼義-義光-義清-信義-信光-信長-信経-時信-「時光」-経光(常光)-時忠

満仲-頼光(長男 本家)

注 時信は甲斐守(甲斐国守 時光の父)-信時は尾張守(時信より11代目 時光より10代目)

甲斐武田氏系青木氏(武田菱紋、武田割菱紋の2氏3家)
(時信)-源光(弟)-信高-信行

甲斐武田氏系青木氏(武田花菱紋1氏3家)
(時信)-時光(兄)-常光2-時忠3-..-信時10-信安11-信就(12養子 割菱紋)..

時光1-....-信時10-信生(11養子 割菱紋)-信正12-信定13-正定(14 花菱紋)

注 信安は真言宗常光寺に祭祀される最後の人物
注 信安と信生は義兄弟です。
注 武田氏系青木氏の系譜には3つがある。これらを対比させると3つの疑問(不明点)が出る。
注 ここでは以下は信生-信正-信定の説に従う。(信正-信定-信生の説もある。後述)


「重要人物」
信生は清左衛門 武田氏家臣落合常陸守信資の子 信時に養われる 養子と成る
この信生より花菱紋正定が出ている。時光11代目信安の義弟信生11が割菱紋引き継いでいます。
元は落合氏からの養子です。
疑問の一つとして、この養子の人物(信生)が割菱紋を引き継いだ事に成ります。
系譜から花菱紋の「正定ルーツ」では「信生」が割菱紋を引き継いだ人物です。
その子の信正-信定と3代続いた事になり、花菱紋が発祥した事に成ります。
以上の様に関係する系譜と添書が取れました。
この系譜には「添書」が沢山ありますが、現存する子孫に対して個人情報に関わりますので不掲載とします。この系譜の中に何かがある事に成ります。

この花菱紋の清和源氏は源時光が名乗った青木氏です。
本来、この武田氏系青木氏は源源光の「青木別当蔵人」とある様に明らかにその祖とされていました。(源光と時光とは兄弟)
しかし、歴史上の史実を正確に検証すると、この源時光も甲斐の武田氏系青木氏3氏6家の内、花菱紋を持つ一族がこの時光の子孫であることが確認出来ます。(源光説ではない事)
しかし、一部には時光系青木氏は無いとする説もあり、源光系とする説もあります。
この疑問も解決する事が必要です。
先に、答えは系譜から観るとどちらの説も正しい事に成ります。
そこで、次の通り検証しました。

[甲斐武田氏系青木氏の2流]
この青木氏は次ぎの通りです。
1 源光の甲斐皇族賜姓青木氏と、武田氏との血縁で発祥した源光系青木氏
(武田菱紋、武田割菱紋家紋としています)
2 嵯峨期の詔を使って名乗った時光系青木氏
(割菱紋-花菱紋を家紋としています。)

1に付いての経緯は、次ぎの通りです。
武田氏系青木氏2氏は甲斐王の皇族賜姓青木氏との血縁にて生まれた青木氏で、平氏に圧迫されて源の源光が清和源氏の子孫を遺す為に同族の賜姓青木氏に跡目に入れた青木氏です。
2代続きの跡目が養子であった事から「家紋掟」により養子元の武田氏系と成りました。
「笹竜胆紋」から「武田氏系菱紋」と「武田氏系割菱紋」に変紋した2つの賜姓青木氏です。

[時光系の花菱紋青木氏の発祥経緯]
時光より12代目信正と13代目信定は武田氏割菱紋です。(11代目信生は養子)
信定の嫡男正定が別家花菱紋青木氏を興します。
本家(割菱紋)は三男豊勝が継ぎます。途中絶えて別家より跡を継ぎます。
詳細後述します。

[丸に花菱紋の存在と発祥経緯]
時光より13代信定が高尾氏より養子を迎えて柳沢郡青木氏を継承させます。
他氏より養子縁組続きで花菱紋柳沢郡青木氏を継承します。(柳沢青木氏の疑問)
本家と別家より異議が出て、丸に花菱紋に変更します。(詳細後述)。
結論として、次ぎの様に成ります。
割菱紋は源光の血縁族ですから、「家紋」から観ると「割菱紋」の「源光系」と成ります。
「系譜」から観ると「時光」の子孫ですので「時光系」と成ります。
つまり、「時光系12代目信正」以前の系譜の中に、「源光系の割菱紋」との血縁がありその人物が割菱紋を継承した者が居る事を意味します。(源光説と時光説の疑問)
以上の結果から、「青木信生11」が落合氏から養子に入り「割菱紋」を引継ぎ、「信正12」、「信定13」と継承したのです。

先ず、この二つのその後の歴史的経緯と由来に付いて述べます。

[花菱紋定住地]
この青木氏は次ぎの二つの所に定住しています。
1巨摩郡青木村の青木氏(花菱紋)
2柳沢郡青木村の青木氏(後に丸付き花菱紋に成る)
以上2つの定住地です。

先ず、巨摩郡青木村の青木氏(韮崎市清哲の青木町)から述べます。
この青木氏は花菱紋の青木氏です。
現「韮崎市の清哲青木」(巨摩郡)にはこの花菱紋の菩提寺の「常光寺」が在ります。
この寺に祭祀されている青木氏は皇族青木氏の宗家筋です。(嵯峨期の詔で発祥:現存確認)
この甲斐の韮崎の「常光寺」は韮崎市が特定する有名な青木氏のみの「菩提寺」です。

古来、賜姓青木氏の5家5流の土地には独自の「青木村」と守護神の「氏神社」と「氏寺」を持っています。この3つをもつ事が当時の皇族系の仕来りです。
この甲斐の「青木村」には、ところが、この「菩提寺」と「氏神社」が3つもあるのです。
そして、この青木氏菩提寺と言われる「常光寺」には大きな問題を持っているのです。
では”何故三つなのか”と云う疑問です。
それを解き明かします。

[甲斐の皇族賜姓青木氏の定住地]
(発掘済で、定住地は未確認でありましたが、09年確認)
現在の「笛吹市春日居町寺本」(笛吹市庁舎南横)です。

先ず一つは、甲斐の守護王の末裔の「皇族賜姓青木氏」が甲斐国国府に村を形成して政治を行っていました。皇族賜姓5家5流の守護王の青木氏は国府を置き其処に青木村を形成し守護神と菩提寺を建立しています。
その「国府所在地」とその政治を直接行う「政庁」と「菩提寺」と「神社」がある筈ですが、甲斐では特定出来ていませんでした。
当時の政治慣習として、この上記「3つの建物」が揃っていて初めて政治が行えるのです。
「国府の3つの建物」
氏村のある所を政庁として住居とする。(現在の官邸)
氏神社は国の祭祀を行う所とし氏神とする。(現在の護国神社)
氏寺社は国の宣教を行う所とし氏寺とする。(現在の護国寺社)

このシステムは奈良、平安、鎌倉、室町、安土、江戸時代まで続けられ、これ等が一つに成って政治を行っていました。明治から現在間では多少変化をして来ていますが今だ類似する体制を持っています。ただ、これがはっきりとしていたのです。
現在の笛吹市の御坂にその国府があったとされていて、そこが甲斐の皇族賜姓青木氏の村のところであるとも考えられていました。
笛吹市の現在の市庁の南横が政庁であり、その近くに「古代寺院」と「甲斐奈神社」がある事が確認されました。これが「国府の条件」です。
国府の位置を見つける事は皇族賜姓青木氏の村を見つける事に成り、その氏との関係した血縁族の内容を網羅させる事が出来るのです。
甲斐の場合はこの賜姓族と武田氏との履歴を引き出す基に成ります。
ところが甲斐にはこの国府が3つ以上もあるのです。
つまり、平安期までは賜姓族は守護です。鎌倉期にはこれが一変しました。賜姓族から土地の豪族(武田氏)へと政権が移動していく事を意味します。
その「経緯」を調べれば偏纂されている可能性のある「系譜と添書と史料」を正しく判断する時の資料と成ります。偏纂系譜はこの矛盾と疑問と問題点が推理から浮き彫りに成ります。
歴史を調べる時は鵜呑みにするのでは無くこの事が大事なのです。

[守護王の青木氏の国府定住地]
平安期の初期は定住する処の国府には、先ず青木氏の菩提寺を建立し、守護神を建立してそこを政庁とするシステムでした。そこで甲斐の国府跡を見つける事がその皇族賜姓青木氏の存在全てを明らかにする事が出来ます。他の4国と違って甲斐は消失して記録も定かではありませんでした。
ところが、山梨県では09年4月に発掘調査が完了し、笛吹市の役所の位置(寺本)がその7世紀頃からの国府であった事が確認され、その南横には古代寺院の政庁寺があったことが確認されました。
そして守護神の「甲斐奈神社」があった事が確認されました。
ここが、甲斐の皇族賜姓青木氏の国府定住地であります。
先ず、一つの青木氏の定住地が確認されました。

ここで、政治的安定を狙って土地の豪族間との政略血縁が起こっている筈です。それがどの様なものなのかを調べ上げればよい事に成ります。基資料として「人と時と場所」の関係を掴む事に成ります。

(移動説の実証)
ところが、この国府が平安後期には寺社ともに「甲斐国八代郡国衛(笛吹市)」に移動しています
何故移動したかの原因が問題に成ります。
主に甲斐の武田には土豪小田氏(藤原秀郷一門の血縁族の陸奥小田氏 土豪武田氏を名乗る)が勢力を伸ばしていました。ここに源氏の跡目(義清-初代信義)が入り勢力と発言力が更に拡大して、政庁(寺社神社共に)を源氏系武田氏が定住する「山城郡(八代)国衛在」に移動させた事に成ります。3つの条件を持ち存在した形跡史実が確認されます。

更に、この後、武田氏が長篠の戦いに敗れて織田氏、徳川氏、今川氏から三方を囲まれ為に立て直しの為に勝頼は国府を「韮崎」(韮崎市)に移して「新府城」を構築して移動させて根拠地を固める作戦に出たとする史実があります。3つの条件が確認出来ます。(国府の疑問)
この建設経費が武田氏家臣の負担となり不満続出して離散が始まるのです
以上「3つの国府跡」がある事に成ります。

この事を「人、時、場所」を前提に分析を進めます。搾取偏纂の史料(系譜等)はこの前提のどれかを欠けています。搾取偏纂史料は其処まで史実を掴んでいないことが殆どです。
ですから上記した基本知識が必要なのです。

この寺本の賜姓族青木村は、甲斐の守護王の皇族賜姓青木氏の菩提寺で、上記の諏訪族2つの青木氏を除く宗家の菩提寺があったのです。
そして、この国府の甲斐の皇族賜姓青木氏には平安中期に清和源氏の源源光からの跡目が入ります。
ところがこれとは別に、清和源氏の分家源頼信より4代目の義清が武田冠者となり、6代目信義は甲斐の土豪武田氏(陸奥小田氏)に跡目として入ります。(武田氏の前身説)
武田氏(藤原秀郷血縁族陸奥小田氏が地名を採り土豪武田氏)はこれより清和源氏系の武田氏となり、信義が初代の清和源氏系武田氏を改めて発祥させました。つまり、前身は藤原秀郷系小田氏です。裏には藤原秀郷流青木氏が「第2の宗家」として主導する藤原秀郷一門勢力が源氏武田氏に関わっている事を念頭に検証すると深層の史実を掴むことが出来る事に成ります。

経緯
0 藤原秀郷系陸奥小田氏が甲斐に移動し地名から土豪武田氏を名乗ります。
1 義清(武田冠者 頼信4代目)が武田冠者の役目に成ります。
2 信義(武田太郎 頼信6代目)が清和源氏系武田氏を発祥させます。
3 源光(青木別当蔵人 頼信11代目)が寺本の国府に定住の皇族賜姓青木氏の跡目に入ります。
4 時光(頼信11代目)が甲斐武田氏系青木氏を発祥させます。(嵯峨期詔の青木氏)

上記した賜姓青木氏や賜姓源氏の知識が無ければ”この時光の青木氏は何処から来たの”と成ります。
その後、清和源氏系の武田氏6代目として兄の源時光は、甲斐武田氏系青木氏を発祥させます。
更に、その時光より2代目(武田氏7代目)の源常光が韮崎市にある浄土宗寺(寺名不明)を中興開基して「常光寺」とし甲斐皇族青木氏(時光系)の菩提寺とします。

「土豪小田氏から源氏系の武田氏に」
義清は乱暴で横暴な人物として甲斐に移されたとされます。そこで土豪小田氏(武田氏前身)との因縁が生まれて甲斐清和源氏系の武田氏が生まれたとされます。
清和源氏の宗家兄頼光に続いて守護代を譲り受けた頼信系が、甲斐に勢力を伸ばすにはこの様な人物でなくては務まらなかったのではと考えられます。
信濃足利氏と同じ様に、これは甲斐に勢力を張り其処に子孫を遺すと云う目的事が生易しいものではなく、清和源氏の勢力圏(子孫を遺す)を伸ばさなくては成らない切羽詰った背景(平家清盛からの圧迫)があった事によると観られます。
現に、元は兄頼光が甲斐守護を勤めていたにも関わらず土豪との血縁族を作っていません。
この事から土豪小田氏の勢力が大きく、又、なかなか一筋縄では出来ない相手であった事を示しています。それと背後に藤原秀郷一門が控えていた事も大きな障害に成っていた事と観られます。
それを打ち破るには破天荒の人物が適任と考えたのではないでしょうか。
普通ならば、この様に人物がいると平家と諍いを起こして清盛から難癖をつけられて大変な事になって居た筈です。そこを源氏は「武田冠者」と役職を付けて「京」から遠ざけて且つ一筋縄ではいかない相手に上手く合わしたという事だと考えます。
つまり、土豪武田氏(小田氏)もその様なところがあって「類が類を呼ぶが如く」で意気投合したのではないでしょうか。そして、自分が武田氏を興すのではなく、土豪との血縁者の孫息子の信義に引き継がせた事になるでしょう。
そうする事で、藤原秀郷一門を納得させたと観られます。
その証拠に信濃足利氏も秀郷血縁族の陸奥花房氏が信濃の土豪と成り足利氏を名乗り、秀郷一門がこの云う事を聞かなかった土豪足利氏(花房氏)の本家を廃嫡して追い出し、絶えた分家に秀郷一門を入れて分家足利氏を作りそれを本家にしてしまうことが起こっているのです。
当然に、この信濃にも清和源氏の跡目が直ぐに入り源氏系足利氏(藤原系)が興るのです。
恐らく、この場合は秀郷一門と源氏との結合である事に成りますので話が付いたのであろうと考えます。
だとすると、場合によっては、甲斐も信濃と同じ経過に成っていた事だと思います。そこを乱暴者の義清を宛がい上手く治めた事に成りますし、土豪武田氏(小田氏)は信濃を観て秀郷一門の手が伸びないうちに得策では無いと判断して血縁に踏み切ったと観られます。
何故秀郷一門が信濃と甲斐に執拗に発言力を高めようとしたかは、藤原氏も源氏と同様に清盛から猛烈な圧迫を受けていたからで、摂関家の立場も危なく成っていたのです。
そこで源氏と藤原氏と青木氏の3者同盟が起こっていたのです。
その荒波に頼光派は、本来部屋住みの無冠の頼信派(後に藤原道長に仕える)に信濃甲斐の守護職(守護代)の立場を譲り勢力を付けさせて関東に伸びようと考えたのです。
関東は藤原秀郷一門の勢力圏内です。其処に一部陣取る平家軍を一掃して中部域と関東域を源氏秀郷ラインを築く戦略が働いていたと考えます。
現実この戦略が働き清盛一門は関東に伸びることが出来ずに撤退して行ったのです。
それだけに団結を成すこの血縁戦略は大変な意味を持ち、信濃や甲斐の土豪を強引に抑えに入ったのです。そして、頼光派は関西に集中的に基盤を築き上げる機会を覗ったのです。
そこで頼光派の関西は、伊勢の青木氏、近江青木氏と佐々木氏、滋賀の佐々木氏、美濃の土岐氏に防御網の血縁関係を築いたのです。
清盛は結局、関西以西(兵庫が最前線)に留まる事になったのです。
ですから、兵庫に全源氏一族の氏寺と守護神の神社が在るのもこの一つの表れです。
この様な時代背景の中で甲斐の土豪武田氏から源氏武田氏へと変化して行ったのです。
しかし、後に信濃足利氏と甲斐武田氏は何れも清和源氏の跡目が入る支流ですが、同じ清和源氏の分家頼信本流の頼朝(坂東八平氏)に圧迫されて一時衰退します。
そしてその背景は更に続いたのです。

注 信義以後、武田氏5代目までは菩提寺を浄土宗明楽寺を開基し、その後、大井荘南条の宝林寺と変名します。
注 武田氏2代目信義次男忠頼(一条郷の一条氏を名乗る)は同族頼信系の鎌倉幕府将軍の源頼朝に謀殺されますが、後に一族(弟の時宗等)はこの寺を尼寺にし、一蓮寺と変名します。
注 宝林寺を甲斐武田氏の時光等一族郎党までの菩提寺としていました。
注 宝林寺は甲斐国守護の一人武田時信(信義より5代目)までの歴代の墓です。

その武田信義5代目時信(甲斐守守護)までは比較的平穏でありましたが武田信満の頃から変動し始めます。
そこで、信時(尾張守)の子の時光(信義より6代目)は青木氏を発祥させた為に、「氏」が異なる為に菩提寺を別にする必要が出てきました。(何故青木氏を発祥させたかの疑問 詳細後述)
この時、時光の死後、子の常光(信義より7代目)が突然に自分の名を採って「真言宗常光寺」と「改宗変名」をして中興開基したのです。ここで、一つ疑問が出ます。
その疑問は次ぎの事です。
”何故中興開基し改宗したのか”の疑問が起こります。
”親の浄土宗を宗派としていた親の時光は何処に祭祀されていたのか”(疑問)と云う事にも成ります。
(一説では時光は摂津国の地頭をしていた関係から、摂津国浄土宗善法寺だとする説があります)

この寺「常光寺」には、現在、時光より11代信安(後述)間での墓が一列に並べられて祀られています。
という事は、時光の宗派は浄土宗です。常光は真言宗です。
一人宗派が違います。(時光の祭祀場所の疑問 11代墓所の疑問)
ここ浄土宗宝林寺境内に安置されている5代目までの武田氏歴代の墓が在ります。
しかし、6代目青木時光より7代目常光は菩提寺として「武隆山常光寺」を「真言宗」の寺として中興開山しましたから、この時、真言宗常光寺境内に安置されている11代の青木氏歴代の墓は真言宗と成ります。、しかし、時光だけの墓は浄土宗信者です。
常光以降の10代の墓は真言宗として納得できます。
浄土宗信者の時光の墓が真言宗の寺にあると云う事に成ります。これは慣例よりおかしいです。
普通はこの場合、墓は浄土宗の墓所に移すことが慣例です。
しかし、真言宗の常光寺の境内に並べられてあるのです。
摂津浄土宗善法寺説がこの点から考えると納得できる説と成ります。多分この疑問を盾に採っているのではと考えます。しかし、現実には真言宗常光寺にもあるのです。
常光寺は史実から「中興開基と開山」と記録していますから、その前身は浄土宗(寺名は不詳)である事に成ります。
ここで「中興」を前提に推理が立ちます。
先ず、時光が「武田氏」から「青木氏」を発祥させましたから、武田氏の菩提寺「明楽寺」から出る必要があり、直ぐに独自の浄土宗寺を作る必要が出て来て建立します。その「直後前後」に没しています。
そこで、子供の常光は”この寺を常光寺とし、自分の信心する真言宗に改宗した”とすれば父が建てた以上は「中興開基開山」と云う形に成りますので理屈が合います。

そこで、「摂津善法寺説」の検証です。
時光の清和源氏は3男頼信系の河内源氏系です。
摂津は嫡男頼光の摂津源氏です。河内は元は嫡男兄頼光の領地で河内源氏としていましたが、頼光は頼信に河内領地と甲斐の守護代国司を史実として譲ったのです。
鎌倉幕府時代に源氏の地を治めるには源氏の者を地頭として配置したのです。よって善法寺があるのです。
現在も摂津には源氏一党の神社がありますし、同族の摂津賜姓近江青木氏が定住する地です。
清和源氏頼信系の時光も頼光系の寺で合わせて祀られている事は充分にありますが、しかし、本所は甲斐ですので、子供常光は親の時光が青木氏菩提寺として建てたこの寺に時光を先ずは納めたのではと考えられます。
そこで、改宗「真言宗」は別の問題と考えるのが普通の行動とみます。(一条氏説等後述)
実は、その後に、信義6代目時光から13代目信定が更に「曹洞宗」に改宗すると言う事件が再び起こっているのです。
更に、連動して「浄土宗源空寺」と「浄土宗光沢寺」を作るという一連の事件が起こっているのです。
改宗は別の行為での事と見るのが正しいと見ます。これは明らかに宗教性が甲斐に吹いていた事を示すものです。(後述詳細)
常光寺の境内には、史実として判る範囲で祀られている人物としては次ぎの人物等が祭祀されています。

[甲斐武田氏系青木氏の花菱紋の人物]
藤原秀郷と血縁した陸奥小田氏は地元の地名から初期武田氏を発祥させます。
その後、清和源氏系より信義が跡目が入り清和源氏武田氏が発祥させます。
「武田氏系譜」
初代の信義-信光-信長-信経-信時-時光(青木氏発祥)として子孫を遺します。
その後、清和源氏系の信時の子時光が以後割菱紋の甲斐青木氏(嵯峨期の詔)を発祥させます。

[甲斐時光系青木氏の系譜]
信義-信光-信長-信経-信時-時光(元祖青木氏発祥 6代)


以下11代が真言宗常光寺に祭祀
時光1-常光2-信連3-貞義4-義遠5-安遠6-義虎7-満懸8-信親9-信時10-信安11(11代)
以後、信就(同族山寺氏の三男)と続く。(時光系割菱紋本家)

時光系割菱紋分家(信生-信正-信定の説)
信生11(信安義弟 落合氏の子 養子)-信正12-信定13-正定14-豊勝15-豊信16(一時絶える 昌輝継承)(正定14は別家花菱紋青木氏を興す。)

豊信16-昌輝17-正寛18-正教19-教豊20-昌邦21-長国22-満眞23-某(熊之助)24

正定-昌輝(大井氏に養子後、戻り割菱紋分家の豊信の跡を継ぐ 大井氏は信虎の妻の実家先)

「時光源光の子孫」
時光-常光-時忠
源光-信高-信行

信生11は養子で分家であるので(義兄の信安までは真言宗常光寺に際されている)常光寺に祭祀されなかった事も一つの条件です。(11代の疑問の理由の一つ)

「真言宗常光寺」は以上時光より11代にわたる青木氏の墓と成っています。
注 信時-信安(割菱紋本家)と信時-信生(割菱紋分家 落合氏の子 養子婿)が出ていますが、これが後に大きな事件に発展するのです。(詳細後述)

伊勢を始めとしてその青木氏独自の菩提寺は「..光寺」と命名している寺が多いのですが、この常光寺は県が指定する甲斐青木氏の史跡寺です。
これで、伊勢を始めとして、長い荒波の中で5家5流の全て宗家筋が現在までも途切れずに存在している事が判った事になります。しかし、ここで更に家紋の疑問が出ます。

問題の家紋は「笹竜胆紋」の綜紋の保持氏で、且つ浄土宗の菩提寺の筈でありながら、この時光系の青木氏は2代目の常光からは真言宗常光寺として改宗し家紋を花菱紋としている説もありますが、系譜と添書から明らかに割菱紋であり、花菱紋は別家を興した際に変紋した事に成りますが、これが正定14からと成ります。同時に浄土宗源空寺を建立します。
(何故青木氏にしたのか疑問 賜姓青木氏の弟源光に対して皇族青木氏の兄時光の青木氏を興した)
(何故花菱紋に成るのか疑問 添書から正定から花菱紋が判明)
(何故11代だけなのか疑問 理由1は養子と割菱紋分家が判明)
更に他に理由と背景として無いかを考察します。
その鍵は真言宗であると考えます。
そこで真言宗に付いて考察します。

[真言宗改宗の根拠]
その根拠はこの清和源氏(母方)に藤原北家摂関家の公家より母を迎えいれた事から一条氏を名乗ったとされているのです。(書物では「一条時光」と呼称されている)
朝臣族の賜姓源氏、皇族青木氏の皇族の身分家柄がありながら、わざわざ何故一条氏を名乗ったのか疑問です。(詳細後述)
よって、一条氏の公家宗派は弘法大師空海の真言宗であるところから改宗したとされます。
時光のときは浄土宗寺であったのですが、2代目常光は自らの名前を採り常光寺と解明して更に中興開山し真言宗武隆山としたのです。
それでは今度は何故真言宗に改宗したのか疑問は一条氏にあります。
(詳細後述)
勿論、時光までは浄土宗ですが、跡目の関係で変紋が起こっている可能性もありますが、この場合は意識的な行為です。
「青木氏氏 研究室」の皇族賜姓青木氏の関連レポートをお読みください。

この常光寺は甲斐青木氏の菩提寺として上記11代まで祀られています。
その11代は常光寺に一箇所に列にして墓石が在ります。
本家は信安11-信就..と続きます。

更に割菱紋の分家 その1は次の様に成ります。
信生11-信正12-定信13-正定14-豊勝15-豊信16(一時断絶 正定の子供が継ぐ)と続いています。
11代目からは何処に祭祀されているのかも疑問です(詳細後述)

不思議に青木氏菩提寺であればその間必要性がありませんが、敢えて一列に何故1箇所に列したのかも疑問です。何かある筈です。(詳細後述)
この常光寺には、他にも多くの青木氏の墓所がありますが、その後(11、12、13)の歴代の墓所は不詳に成っていますのでありません。
とすると、この青木氏菩提寺の常光寺には他の者の何故墓所は無いのか疑問です。(詳細後述)
歴史を趣味としている人なら誰でもが知っている青木氏のお寺ですが、ここではこの様に異質の慣習が起こっています。普通は同じ墓所を多少の理由があっても代々何代も菩提寺にするのが普通です。
そして、この皇族青木氏の「花菱紋」の分家と見られる「丸付きの花菱紋」が存在しますが、本来、この皇族系(皇族賜姓族含む)の青木氏は丸付き紋を使用していないために、「丸に花菱紋」は「第3氏」か「未勘氏」なのかの疑問も残ります。(詳細後述)
何故丸に花菱紋が存在するのか疑問の疑問が出てきます。(詳細後述)
この様に次から次えと不思議なほどに矛盾を持っています。
ここまでこの8つの疑問程のものを詳細に研究して解決する必要があります。

この疑問解決には先ず信用できる範囲で更に突っ込んで系譜と史料をつき合わせてどのように成っているのかを調べる必要があります。
参考「正統な系譜の見分け方」
この系譜と添書は人物や時代性や発祥地などに矛盾が見当たりません。

普通、搾取偏纂した系譜には特長があり、前の系譜人物と後の系譜人物との間に何れにも属さない不明の人物が一人介在し、その人物と繋ぎ合わせて正統に見せる工夫があります。そこに時代のズレが生まれ、場所の不透明さが出てくるのです。系譜は代々の人が書残して継ぎ足して作るのではなく、何れかの時代に誰かがまとめて作る事に成ります。しかし、その人は歴史に専門でない所から専門の系譜屋に頼みます。系譜屋は系譜を良く見せて客を嬉しがらせ金品を高く要求しますのでこの事を必要とします。そうすると当然に上記の様な搾取偏纂が起こります。特に第3氏や未勘氏の場合は必要と成ります。江戸時代に造られて多くの系譜史書を観て作る事になるのです。
例として、九州のある氏と四国のある氏を繋ぎ合わせて繋ぎあわせる部分に一人人物を入れて系譜がさも良い家柄かの様に偏纂していました。四国の依頼者にはある遠方の土地の縁者と観られる人が居る事が判りそれと結び付いたと大変喜びその系譜を信頼してしまいます。その搾取偏纂の系譜は遠方の人が持っていた系譜でした。ところが四国地元のある土豪(乙部氏)の家にその本当の系譜が存在しているにも関わらず作られた系譜が偽であるにも関わらず知らないで信じ込んでしまいました。こうなるとどうしようも有りません。
系譜にはこの様なトリックがあるのです。

[甲斐青木氏の系譜]
「直系青木氏」
「割菱紋青木氏本家」
時光(信義より6代目)-常光-信連-貞義ー義遠ー安遠-義虎-信種-信親-信時-信安(常光寺に墓所16代目)-信就-信幸-信峯-信祐-信任-信*-信考(22代目 割菱紋系 本家)
系譜を繋いで調べ挙げると以上の様に成ります。

注 信生は信安の義弟 落合氏の子 養子婿 信時の養子となる
この中で、添書から先ず、柳沢氏への疑問事と信生(前述)の事が出てきました。

「割菱紋分家の柳沢氏」
割菱紋本家から柳沢氏に跡目を入れた形に成っています。

ところが、本来は割菱紋から分離した花菱紋の柳沢氏が豊定より発祥しています。

史料によると、「柳沢」の事が出て来るのが1433年頃に「柳沢衆」とあり、特に氏を名乗ったという形では有りません。武田一族の「柳沢の衆」と呼称する「古来の慣習」と観られます。

添書によると、割菱紋系列の安遠-信興(時光7代目 義虎の弟)が”柳沢氏を称する”とあります。
この系譜では割菱紋青木氏より7代目に初代柳沢氏が発祥しています。

問題はこの7代目がどの様な人物でどの時代になるかの問題です。
柳沢氏は後述しますが、先ず系譜では豊定14を元祖としています。
最も栄えた時期は柳沢吉保です。豊定より5代目です
とすると、この時光7代目のところで柳沢氏が発祥したのか、豊定後の事かの検証が必要ですので、関わりはあります。しかし、青木氏系譜の柳沢氏の史料には豊定が元祖とあります。
系譜と添書を繋ぐと次ぎの様に成ります。

「豊定の柳沢氏系譜」(割菱紋-花菱紋)
 別系譜では信生(割菱紋)-信正(割菱紋)-信定(割菱紋)-「豊定」(花菱紋)*-信立(花菱紋)*-信俊(花菱紋)-安忠(花菱紋)-吉保(花菱紋)-吉里(花菱紋)

「信興の柳沢氏系譜」(割菱紋  副紋は葉菱紋)
安遠-「信興」-貞興-信房-信兼-信俊-安忠-信花

この2つの柳沢氏の系譜には次ぎの違いがあります。
割菱紋を家紋とする(信生)-信正系で、信種の親の義虎系(信興の兄)で「信種」と異腹と観られる「信正」系譜から発祥しています。
信正は妾腹である為に家紋は「割菱紋に副紋葉菱紋」から「割菱紋」と成り、豊定のところで「花菱紋」に変紋します。

信種は本流の為に家紋は「割菱紋に副紋葉菱紋」です。
(信正と信種等に付いての関係は不明点があり後述します)

更に、「信立」なる人物が介在します。
この人物は系譜上からは存在しません。ただし、系譜添書では信種の子供の信親ではないかと書かれています。添書表現では”信親或いは信立”書き込まれています。
信種、信親、信正、信定、信時、信生の人物関係が他説が多くあり不詳部分です。(後述解明)

もう一つは系譜が示す「信生-信正」のルーツ説で信生は信時の子供信安と義兄弟です。
信生は落合氏の子供で信時の育てられたと添書にありますので、信正との間に系譜のズレらしきものが見られます。(とりあえずこのルーツで検証しています。)

一方「信興」(義虎の弟)は割菱紋に副紋葉菱紋です。

時光より7代目から11代目までが武田氏系青木氏の系譜の不詳部分で人物が判明しているが問題疑問の多い代です。この繋ぐ詳細な史料と系譜がこの研究課題です(後編 後述)。

本節の初期の前提で検証しますと次ぎの様に成ります。
前とすると、青木(武田)信興から途中で耐えた可能性があります。
後とすると、別の柳沢氏が発祥した事に成ります。重要な問題です

調査の結果、史料(武田氏)とこの上記系譜添書との突合せで判明しました。

時光系の本流の「割菱紋 葉菱紋」から上記1433年の「青木氏の柳沢衆」の絶えた跡目に本流から正式に「柳沢氏」を1525年頃に発祥させた事に成ります。
つまり、「柳沢衆」から「「柳沢氏」の変化です。
「信興」が「割菱紋 葉菱紋」を家紋とする「柳沢氏」を発祥させた事を意味します。

時光系の分流の割菱紋から「信正-信定」系で「豊定」が花菱紋の1567年頃に「柳沢氏」を発祥させた事を意味します。

武田氏滅亡後(1582)、大久保長安事件で、この武田信興は伊豆大島に長期流罪になり、柳沢吉保の口利きと保護の下で免罪となり一度吉保のところで保護されますが、その後、甲斐の天保動乱の中鎮める意味でも幕府の計らいで旗本に成ります。そして、甲斐八代郡500石で戻る事に成った人物がこの武田信興であります。
甲斐の戻った後に、系譜から「割菱紋」の柳沢氏を一時期(1690年頃)に名乗った事(子孫不明)が判明しました。
一代限りと見られます。 一族の柳沢氏に感謝を込めてたか天保争乱中の身の安全確保為か名乗ったと見られます。


この様に、「4つの経緯」から「系譜と添書と古史料と家紋」の「4検証むから「7代目から11代目」の前後共に起こった柳沢氏(柳沢衆)の呼称を代表とする「生き様」があった事を意味します。

結論
4つの柳沢氏の発祥経緯
1 「時光系本流家」の「割菱紋 葉菱紋」の「柳沢衆」(1433)
2 「信興」の「割菱紋 葉菱紋」の柳沢氏(1525)
3 「豊定」の「花菱紋」の柳沢氏(1567)
4 「武田信興」の柳沢氏を一時呼称(1735)


注 この「武田信興」なる人物は本家筋を担い武田氏滅亡後で大久保長安事件で流罪になった人物です。(武田信興は武田信道の子)
注 ほぼ同時期に「青木信興」なる人物が居て、時光より7代目に有り、柳沢氏を名乗るとあります。
注 「武田信興」(1690)と「青木信興」(1525)と同一人物かは判明できない。
注 「武田信興」は大変長寿であったと記録があるが年代が異なります。
注 一般公開されている史料の柳沢氏(青木氏)は系譜や添書や家紋等の検証が成されていないのです。

柳沢氏の家紋と云われているものには次ぎの4つがあります。
1 花菱紋(豊定系柳沢氏 甲斐甲府藩)
2 4つ花菱紋(吉里系柳沢氏 大和郡山藩)
3 割菱紋(信興系柳沢氏 本流本家筋)
4 葉菱紋(信興系柳沢氏 本流分家筋)

  
1 花菱紋は兄正定の青木氏の花菱紋と弟豊定の柳沢氏の花菱紋があり、地域は巨摩郡の北域に多く分布します。何れも別家を興した氏ですので父親信定の割菱紋を使えません。
吉保の甲府藩主の時代までに使用した家紋です。

2 4つ花菱紋は4つの花菱紋を組み合わせて菱形に割って配置している家紋です。
信定の割菱紋に類似させて花菱紋を図案化したものです。
これは柳沢吉保跡の吉里が大和郡山藩主に移封された時に家紋化したものです。
大和郡山柳沢氏の家紋です。

3 割菱紋は信興の本流の家紋で1433年頃からの武川筋の青木氏の伝統家紋で副紋を葉菱紋としていました。1525年ごろからの武川衆に成った時に使用した本流の本家筋の家紋として使用したものです。
巨摩郡南域から柳沢郡域にまたがって分布する家紋です。

4 信興系は割菱紋 葉菱紋を使用している本流ですが、この分家筋が副紋の葉菱紋を家紋としたものです。柳沢葉菱紋として有名です。柳沢郡域に分布する家紋です。

注 現在の家紋分布は4つ花菱紋を除き徳川氏仕官と武川筋の代替地で多くは中部東から関東全域に移動しています。
注 信興や義虎-信種らの割菱紋 葉菱紋の本流派は、皇族賜姓青木氏の源光系の菱紋と割菱紋の宗家との違いを出す所から時光系の本流は副紋を「葉菱紋」として使ったものです。
注 信正-信定の妾子分流派はこれに対して葉菱紋の副紋を外し割菱紋のみとしたのです。何か意味合いが感じられます。

この様に家紋に依って何処の氏の柳沢氏かを判別する事が出来ます。
インターネット等の一般公開の史料はこれらの総合的判断による分類が出来ていません。
この様に、家紋に代表されるように青木一族の柳沢氏には青木氏を物語る意味合いを多く持っているのです。


「割菱紋の柳沢氏の意味」
柳沢氏の発祥経緯は記録から観ると、次ぎの様に成ります。
1433年頃に柳沢の呼称が出てきますが、この時代の「柳沢」は当時の呼称としての慣習から地名を採り「武田一族」の中で「柳沢の何者」と呼称していたと見られ氏としての発祥という経緯では無いと観られます。
次ぎに観られるのは、1521年に柳沢氏を記録として名乗っているものが有ります。
多分、年代からこの人物が「青木信興」であると観られます。
当然に、系譜から青木義虎の弟であるので「割菱紋 副紋葉菱紋」と成ります。
しかし、この「青木信興」の柳沢氏は大永年間の武田一族の争いで絶えます。

つまり、豊定の前と成りますので、系譜の割菱紋青木(武田)信興の柳沢氏が一時一代程度で発祥した事に成ります。「割菱紋柳沢氏」が発祥した事に成ります。
(この割り菱紋子孫が存在する事に成りますが不明です。)
つまり、豊定の花菱紋の柳沢氏では無く、信定までの割菱紋の柳沢氏を本筋として発祥させた事を意味します。割菱紋の武田氏の中での家柄と正当性の意味するところが判ります。
その前に信定の(信之)養子事件が起こっていた事に成ります。(後述)
とすると、それだけにこの割菱紋の「柳沢郡」(武田氏一門にとっての柳沢氏と血縁性の無い青木氏との関係が目立ちます)の存在価値を意識していたことを意味します。

後に、柳沢吉保(1688年頃 100年前史実)の上記の結論のこの事は承知していて系譜の一部偏纂(信立等の系譜の疑問)した事の可能性があります。
「信立の人物」の件や「信俊-安忠」の共通系譜の件を組み込んで立身出世にあわせて「4つの柳沢氏」の「統一系譜」を創り上げて「一条氏家柄拡大」の事も含めて世間に喧伝したと考えられます。

7-11代の同時期に生きた「信定」は、この信興に割菱紋の柳沢氏を別に立てさせるのでは無く、他人の柳沢郡青木氏をつくり出して、本流の信興柳沢氏を無視した形で、敢えて柳沢郡は柳沢氏(豊定)の花菱紋と柳沢郡青木氏(信之)の花菱紋のものであると誇示したのではないでしょうか。

柳沢吉保は、「信定」の取った処置が愚策で合ったと認識していた事と見られ末裔に影響を与えていた事に成ります。それだけに「柳沢氏の系譜偏纂」やこの「丸付き紋の変紋事件」や末裔信政の下記の系譜編集時の「否定細工」に繋がったのではと考察しています。

次ぎに進めて、そこで、前述の信生の割菱紋から4代目に花菱紋(正定と豊定)が出ている事に成りましたのでその分家筋を更に調べます。

「割菱紋分家」
割菱紋分家 その2が系譜から確認出来ました。(柳沢郡青木氏の疑問)
信生(16代目養子)-某(信正)-信定-信之(養子)-信茂(養子)ー信也-信考(養子)-信並-信*(割菱紋系 分家)

この分家の系譜もあります
注 信生は信安の弟 信生は信時に養われる 信生は武田氏家臣落合常陸守信資の子
信安は常光寺の最後の時光より11代目の祭祀の人。

この系譜添書には故意的と観られる全て+100年の年代誤差があります。
この系譜は”信政が作る”と添書にあります。
この信政は正定の別家の花菱紋分家(本来は本家 正定が別家を興した事による。詳細後述)の寛政時代の人物です。
別家の添書と系譜とこの系譜のその2を信政(正重系)が意味を持って割菱紋分家の系譜を改めて完成させた事が判りました。江戸の末期寛政に作った事が判りました。
寛政期には寛政史書が出来ています。この中に「寛永青木氏第三の系図」としての事が書かれています。
別家を興した花菱紋の末裔以外に、もう一つの信生の末裔で信定の時に信之を突然養子にし柳沢郡青木氏を継承させると云う事件が起こります。
この別家の末裔がこの柳沢郡青木氏の正当性を疑問視して故意的に,年代のズラシと信正を某とするなど偏纂した事に成ります。調べれば直ぐに判る偏纂です。
又、この氏の信之(実家和泉守)が義父信定の妻の実家の桜井氏(安芸守)を頼って安芸に出かけた事も添書にこっそりと書き添えて違いを見せています。
柳沢郡青木氏の系譜の序文に毛利氏に仕官した経歴や墓の有無までを詳細に明記しています。

「花菱紋青木氏本家1」
信生16-信正17-信定18-正定(19代目 花菱紋青木氏の元祖)-豊勝-豊信-(花菱紋は断絶-花菱紋系に引き継ぐ)-昌輝が継ぐ

「花菱紋柳沢氏本家」
信生16-信正17-信定18-豊定(19代目 柳沢氏継承 花菱紋柳沢氏の元祖)-(後述)

「花菱紋青木氏別家 (正重系系譜)」
信生-信正-信定-正定-正重-信久-信知-信秋(青木市郎の次男より養子になる)-信富-信保-正満(石川氏4男養子)-信政(花菱紋分家1-後述 系譜編集者)

「花菱紋青木氏本家2 本家1継承 昌輝分家で継承(昌輝系譜)」
信生-信正-定信-正定-昌輝(大井氏に養子後、豊信の青木氏本家に戻る)-正寛(大井氏次男 青木氏本家を引き継ぐ)-正教-教豊(養子)-昌那-長国-満眞-(割菱紋から-花菱紋に変紋)

「花菱紋柳沢郡青木氏本家」
信生-某(信定)-信定-信之(養子 高尾伝九郎久治の三男)-信茂(養子 多田新八郎の三男)-信也-信考(婿養子 小野朝右衛門高騰の次男)-信並-信*

この「系譜」と「添書」と「他の史料」の詳しく研究し検証した結果から判った事が次ぎの11点であります。
1 武田氏の第2勢力を誇る割菱紋の一族は本家筋の末裔「信生」から分家が出ている事。
2 この割菱紋本家筋は正定の孫の豊信のところで末裔無しにより断絶した事。
3 この断絶した花菱紋本家を正定(花菱紋青木氏元祖)の子昌輝が一度大井氏に養子に入り、再び断絶した花菱紋の父の実家(断絶)に戻った事。
4 引き継いだ「花菱紋分家」筋は昌輝より「花菱紋本家」となります。
つまり、正定の本家花菱紋は正定の分家花菱紋に引き継がれている事に成ります。
5 花菱紋の青木氏は正定より発祥した事に成ります。
6 正定には長男豊勝(実は正定の弟)と次男昌輝と三男正重と3人子供がいた事に成ります。
7 嫡子豊勝(実は正定の弟 養子)の本家を次男昌輝(正式に子正寛継承)が本家を継ぎ直した事に成ります。
8 青木昌輝が大井氏の養子となりますが、昌輝の子嫡男には大井氏を継がせ、父昌輝は断絶した実家本家に戻る事に成ります。そして、次男大井正寛はこの実家の花菱紋本家青木氏を引き継ぎます。
(青木昌輝-大井昌輝-青木昌輝 大井正寛-青木正寛)
9 柳沢氏は正定(19代目)の弟の豊定が花菱紋柳沢氏を発祥させている事に成ります。
10 割菱紋青木氏本家より割菱紋柳沢氏を武田信興(信義12代目)が称する。
11 以降信義19代目豊定で花菱紋柳沢氏を発祥させます。
12 時光系青木氏から出た柳沢氏は割紋菱と花菱紋の柳沢氏(現在の本家筋と成っている)が2氏が存在する事に成ります。(割菱紋柳沢氏の存在が未確認 花菱紋に変紋統一)

注 武田信興(時光より7代目)は柳沢吉保の口利きで流罪伊豆大島より戻り吉保の下で生活するが、その後幕府の許可を得て八代郡500石として旗本となる。この時、割菱紋の柳沢氏を称する。
系譜と史料とで花菱紋柳沢氏と割菱紋柳沢氏の2流がある事に成ります。これがどの様に絡んでくるのかは現在不明です。
兎も角も、柳沢郡青木氏は武田氏滅亡前に”信定の妻の実家に移る”とあり、これが後に「丸に花菱紋」と「曹洞宗改宗」の事件の鍵を握ります。(詳細後述)

[甲斐の異質慣習]
先ず、甲斐の皇族賜姓青木氏は発掘によりその定住跡と菩提寺跡と守護神が寺本に確認できましたが現存する皇族賜姓青木氏の本家は笹竜胆紋で浄土宗を護っています。

この甲斐武田氏系の青木氏は「嵯峨期の詔」(第6位皇子の源氏系であるので朝臣族)に基づき青木氏を名乗りましたが、当然に時光のときは「浄土宗」寺でした。嵯峨期の詔を使えば当然に「笹竜胆紋」と成る筈です。しかし、この割菱紋です。綜紋笹竜胆紋を使えない理由がある筈です。
其れは、武田氏の出自に拠ります。
家柄と身分での違いです。武田氏は清和源氏と大々的に甲斐源氏の名乗っていますが、系譜からは明らかに清和源氏分家頼信系で河内源氏の支流の傍系です。これも系譜からは次ぎの一条氏の名乗りと同じく誇張領域です。つまり、義経頼朝の本流に対して傍系ですので明らかに笹竜胆紋は使えません。

初代の武田氏の武田信義が浄土宗明楽寺を開基します。
2代目武田氏の次男の武田忠頼の時に浄土宗宝林寺を中興開基します。
忠頼は甲斐一条氏を名乗る。(武田忠頼は一条郷の出身です。)
一条氏を忠頼は名乗った事により氏が異なることから「浄土宗明楽寺」から独立して「浄土宗宝林寺」を開山する必要に迫られた事に成ります。(一条氏は後述)
源の時光(6代目)より青木氏を発祥させた事により氏が異なる事で「浄土宗明楽寺」から離れ新たに皇族青木氏2代目常光の時に自分の名を採用して青木氏の氏寺の真言宗常光寺を中興開山し事に成ります。ここで、改宗していることに成ります。
しかし、この間、元祖時光の菩提は「中興開山」である以上は元の浄土宗の寺名は何であったのかは不明です。又は明楽寺に一時祭祀されていた事も考えられます。

時光は浄土宗であり青木氏を発祥させた事から甲斐の全青木氏(源光系賜姓族含む)の浄土宗菩提寺を計画します。
時光2代目常光は青木氏でありながら一条氏を名乗っていることから時光の計画に乗れなく成ります。そこで常光はこの計画が完成する前後に時光が没しましたので、一条氏の真言宗の寺に改宗し寺名に自分の名をつけた事に成ります。
これでは他の青木氏(菱紋と割菱紋の源光系)はこの寺を菩提寺にする訳にはいかなく成ります。
一条氏系青木常光は親青木時光を祭祀する寺が無い事に成りますし、元の計画者でもあり放置できない親であり真言宗常光寺に無理やりに祭祀する以外になくなります。
この様な背景の中で、青木氏でありながら家柄誇張の為に筋違いの一条氏を更に名乗り、その宗派を真言宗に中興開基したのです。
これと同じ事が、時光より11代後(時光より11代目)にも再び起こります。
時光より13代目信定が、この常光寺を3度目に中興開基して今度は「曹洞宗」に改宗してしまいます。
この様に、「繁栄衰退の栄枯盛衰」も含めて「宗派対立の因果応報」の繰り返しがこの甲斐の武田氏に降りかかっているのです。

[改宗経緯]
1 信義より6代目時光まで浄土宗明楽寺(後に浄土宗宝林寺に中興開山)を菩提寺とする。
2 信義より2代目忠頼謀殺で後に宝林寺は一蓮寺の尼寺として中興開基します。 
3 信義より7代目常光から真言宗常光寺を中興開基します。16代目信安まで。常光寺に墓所あり
4 信義より18代目信定は曹洞宗常光寺と開山します。
5 信義より19代目正定は浄土宗源空寺を開山します。(花菱紋青木氏発祥)
6 信義より19代目豊定は浄土宗光沢寺を開山します。(花菱紋柳沢氏発祥)
7 柳沢郡青木村の青木氏は真言宗常光寺を再興します。(丸に花菱紋を継承 後述)
8 明治の廃仏毀釈で浄土宗源空寺は廃寺と成ります。
9 柳沢氏の浄土宗光沢寺は郡山に転封で永慶寺(岩窪)-大泉寺(廃仏毀釈で廃寺 護国神社)
10 浄土宗源空寺の花菱紋の氏は浄土宗派と真言宗派と曹洞宗派とに分かれる。
11 現在の花菱紋の曹洞宗派の青木氏の一部は曹洞宗南明寺に入信した可能性あり。(不詳)
(浄土宗派花菱紋の青木氏、真言宗花菱紋の青木氏は武田氏滅亡で関東に移動したので現在未確認)
12 天正期の時、曹洞宗派は武田氏滅亡で衰退した元の常光寺を再興、別に常光寺曹洞宗派を引き継ぐ。(丸に花菱紋を寺紋と成っている)
13 青木常光の改宗で、明治まで真言宗派と浄土宗派と曹洞宗派に分かれる事に成ります。
14 信義より19代目豊定は柳沢氏を発祥させる。
15 柳沢氏菩提寺の浄土宗光沢寺を開山する。(信定の子正定と豊定は兄弟)
16 19代目信之に柳沢郡青木村青木氏を発祥させる(後に丸に花菱紋が出る 曹洞宗常光寺再興)
17 信生(信安の義弟)から信正-信定(曹洞宗)-正定の浄土宗系譜が出来る。

以後、以上の経過を経て花菱紋青木氏は明治の廃仏稀釈まで代々祭祀します。

[武田氏の発祥経緯]
花菱紋は武田氏の家紋で、時光系で発祥。(嵯峨期詔青木氏 朝臣族と宿禰族皇子)
武田菱紋と割菱紋は武田氏の家紋で、源光系で発祥、甲斐皇族賜姓青木氏との血縁で発祥。(皇族賜姓族 皇族賜姓族は天智期詔青木氏 第6位皇子)

当時は「氏家制度」の中、血縁は身分制度(甲斐の皇族賜姓青木氏は光仁天皇第6位皇子、朝臣族、浄広1-2位を持つ天皇に継ぐ最高身分家柄です)の吊りあいによって行われる慣習でした。
そこで、当時、最大勢力を誇った武田氏ですが、元は陸奥の豪族であり、陸奥の鎮守府将軍として赴任中の藤原秀郷一門と血縁をした小田氏が在りました。秀郷一門が甲斐に赴任替えに成った時に護衛として藤原秀郷流青木氏と共に同行した小田氏の一部が甲斐に定住した氏です。
その後、勢力を持ち甲斐の最大豪族と成り上がった氏で、武田の地名を採り土豪武田氏を名乗ったのです。
そこに、清和源氏の義清が武田冠者として赴任し、小田氏の武田氏と血縁し、清和源氏の血筋を引く武田氏が発祥しました、この初代が信義です。
この小田氏の一部は、その後、再び秀郷一門の国に同行して常陸に移り、「関東屋形」と呼ばれる日本最大の豪族の有名な3氏の一つと成りました。甲斐の武田氏と常陸の小田氏は親族です。

この清和源氏系となった武田氏と、甲斐の守護王であった皇族賜姓青木氏との間で血縁を結んだが源光系の武田系青木氏(賜姓族)です。
当然、武田氏より身分は数段青木氏の方が上です。先ず、賜姓青木氏は天皇以外に上に来る身分は無いのです。
ところが、本来は、天皇より皇族賜姓青木氏に与えられた綜紋の笹竜胆紋ですが、武田氏と血縁をした際に、皇族賜姓青木氏の本家筋の方に男系跡目が出来ずに居ました。
先ず、政治的に土豪との結びつきを良くする為に、武田氏から養子を迎えたのです。ところが、この養子婿との間に嫡男に恵まれず、一時、家紋は氏家制度の「家紋掟」により養子婿先の菱紋に変紋を余儀なくされました。次ぎに再び養子を迎えましたが、この時も嫡男に恵まれずに、最終この賜姓青木氏の一部が女系となり「笹竜胆紋」に戻る事は出来ませんでした。
つまり、賜姓族でありながらも、「氏家制度」では「男系」で言いますので武田氏系の方に系譜がなると云う事です。これが、甲斐の皇族賜姓青木氏の武田氏系青木氏です。
同じ事が割り菱紋との血縁もした事に成ります。この賜姓族も同じ事が起こってしまった事を意味します。甲斐の皇族賜姓青木氏本家は存在して、本家筋の嫡子外の分家筋が武田氏との血縁に成った事を意味します。
しかし、武田氏の一門に入りましたが武田氏の家来では有りません。
あくまでも、甲斐の皇族賜姓青木氏の一門です。
これが、時光の弟の源光系の武田菱紋、武田割菱紋の青木氏です。
時光系と源光系の間には身分家柄の違いが歴然として起こっています。
この皇族賜姓青木氏の「青木氏氏 研究室」の関連レポートに詳細があります。
「藤原秀郷一門の生き方」や「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」等にも甲斐の皇族賜姓青木氏との関係も詳しく記録しています。
しかし、この武田氏も遠くは藤原秀郷一門の血筋(藤原鎌足より8代目-11代目くらいの北家一門の血筋)も引く名門です。

[皇族賜姓青木氏の経緯と身分家柄]
皇族賜姓青木氏は天智天皇の「大化改新」で天皇を凌ぐ専横を極めた応仁期の渡来系の蘇我(入鹿)氏を中臣鎌足と共に倒して、政権を取り戻しましたが、その時の反省から、天智天皇(中大兄皇子)は”自分の身は身内で守る”ことを決意して、皇位継承の制度を変更しました。
その制度の概要としては、皇子の内、第6位の皇子を臣下させて、賜姓(天皇自ら子供に氏を与える事)して「青木氏」とし、象徴権威紋の「笹竜胆紋」と、天皇家ステイタスとして「仏像(鞍造部止利の作 大日像坐像)」を与え、その神木として青木の木を定めました。(象徴三物)
そして、その官職を天皇を守る「親衛隊」としその官職を...左衛門佐尉、右衛門佐尉とし、又民部佐尉の官職名を名乗らせました。身分は真人族(第4位皇位継承皇子まで)に続く朝臣族(第6位皇子)としたのです。
それの初代が、日本書紀にも出てきます中大兄皇子の施基皇子(最終は「浄大1位」の身分)で、天領地で守護神伊勢神宮の伊勢の守護王と成りました。伊勢青木氏には「永代不入不倫の権」を与えました。

注 左衛門佐尉、右衛門佐尉は宮廷の三門を護る官位で「佐」は上下2段、一階級下の「尉」も上下2段で構成されています。周辺警備隊の「民部」も同様の階級で構成されています。
注 「浄大1位」は身分制度の最高、これ以上は天皇、皇族の皇太子は一段下の浄広1位-2位、皇子は浄広3位です。
注 「永代不入不倫の権」は永代に如何なる理由があろうとこの地と氏には侵入したり攻めたりする行為一切をしては成らないと云う詔です。
信長と秀吉による「天正伊賀の乱」(3度)までこの詔は伊勢では破られる事は有りませんでした。

施基皇子は天皇の補佐役として働いていましたので、朝廷は三宅岩床を国司として派遣しました。
これらの詳細は日本書紀に書かれています。
「日本書紀と青木氏の関係レポート」を詳細参照して下さい。
これが伊勢の皇族賜姓青木氏です。
この制度が、その後、天武、文武、聖武、光仁天皇の第6位皇子が、天領地で防衛主要国の近江、美濃、信濃、甲斐の国の守護王となって赴任し引き継がれて行きました。

「源氏発祥の経緯」
光仁天皇(伊勢施基皇子の長男)の子供の桓武天皇はこのシステムを嫌い自分の母方の渡来系阿多倍一族に賜姓をしました。これが「たいら族」で後に太政大臣に成る平清盛です。
これを嫌った桓武天皇の子供の嵯峨天皇が制度を元に戻しました。
この時、第6位皇子は賜姓「青木氏」ではなく、賜姓「源氏」として賜姓する事にしました。
そして、賜姓青木氏は、皇族の者が下俗する際に使用する氏とする事を「弘仁の詔」を発して決め青木を一般に使用する事を禁じました。明治3年まで原則的に守られました。
当時、女系天皇が3代も続き、男系の皇位継承者が居なくて止む無く第6位皇子の子孫である伊勢王の施基皇子の子供が皇位(光仁天皇)を継いだのです。伊勢青木氏より出た事に成ります。
したがって、賜姓伊勢青木氏と賜姓甲斐青木氏は従兄弟の同族と成ります。
賜姓源氏は11代続きました。この中でも、清和源氏とこの賜姓5家5流との同族血縁をしました。
清和源氏とは義経や頼朝ですが、三男頼信の分家子孫です。
伊勢は長男頼光系との同族血縁、甲斐は頼信系との同族血縁をしました。
当時は純血を守る為に皇族系では同族血縁の習慣が主流であったのです。

「武田氏栄枯盛衰」
武田氏発祥後は「4度の衰退と復興」の歴史を持っている。
1184年、2代目武田忠頼が頼朝に謀殺されて鎌倉幕府の圧力で衰退し盛り返す
1417年、室町幕府により武田信満が天目山木賊村で討死し衰退(家臣裏切り)
1582年、武田勝頼か天目山田野村で討死し衰退(家臣裏切り)
1688年、武田氏柳沢吉保が甲斐三郡の領主に返り咲き成る。
1690年頃、武田信興が吉保の口利きで流罪放免し八代郡500石に戻る。
1709年、武田氏柳沢吉保が奈良郡山の領主に移封と成る。

頼朝に忠頼が謀殺され衰退し、盛り返して今度は信長に潰され、武田氏系青木氏は藤原秀郷一門の勢力圏の横浜、神奈川に藤原秀郷流一門青木氏を頼って逃げ延びました。そこで、再び花菱紋の時光系の皇族青木氏が子孫を広げます。

甲斐青木時光は摂津の地頭として働きました。
その子孫(時光より2代目常光)が、常光寺を当初菩提寺にし、その後に花菱紋を甲斐で維持している氏があるとすると、柳沢氏が甲斐三郡の領主になり、その時に甲斐に戻ったと観られその横浜神奈川域に逃亡した甲斐青木氏本家筋に当ると見られます。しかし、果たして、1575(1582)-1688年113年間も経過して戻られるかの疑問も残ります。私が持つ系譜で見るとこの期間内では本家筋は戻っていない事に成ります。
当然、この後、直ぐに柳沢氏が奈良郡山に移封された時には同行する事に成りますので残るとすると浪人となる以外にありません。この時期、甲斐では天保騒動112年間続いています。
この中で浪人までして生きるか死ぬかの中で個人ではいざ知らず氏家制度の中で武士をして氏の保護のない所では先ず無理と観られます。出来たとして特例で多くの家臣を抱えての本家筋が先ず出来ることでは有りません。

同じ、武田氏系青木氏でもなかなか、この花菱紋と青木氏菩提寺の二つの条件を維持して行くのは長い歴史の中では困難です。多くは、菩提寺や家紋を変更せざるを得ないのです。
しかし、この系譜の末裔が調査の結果、二つの条件を現在維持していると観られるのは、その皇族青木氏と相当に本家筋に近い一族である事です。
簡単なようですが、本家の目的義務を長い期間を維持する事は普通では出来ない大変な努力が必要です。大抵は分家は伝統を無くしその家の宗派や家紋すら忘れ去られているのです。

[青木村の形成]
青木氏は”何処にでもある青木”と思われているところがあります。
ところが、大化の天智天皇より、唯一独自の村を形成したのは先ず青木氏なのです。
と云うよりは「青木村」を形成が認められたのは皇族の賜姓族の青木氏だけなのです。
当時の習慣で、地名から氏名にした氏名が全てでしたが、中大兄皇子が初めて賜姓をしたのが、伊勢王の施基皇子の青木氏で、それを村名にしたのが始まりでした。
その伊勢には、桑名、員弁、四日市、名張、松阪のその「青木村」が有り、現在も存在しています。
これ等”しき”と言う地名では、以下の通りです。
桑名京町、松阪京町、四日市京町、伊勢市一色町、津市一色町、四日市一色町、河芸一色町、久古一色町、施基、磯城、...10程あります。
全て”しき”と読みますがこの名が多いのです。(一色をいっしきと呼称するのは室町末期から)
当時、奈良時代では施基皇子の個人名を特別に地名とする事を朝廷から許されたのです。
ですから、「氏名」を地名にする習慣が無かったのです。
もっと云うと、「氏名」そのものを持つと云う習慣がなかったのです。ですから、”何処の土地の何々者だ”と云うように成っていました。
中大兄皇子が第6位皇子に青木氏を賜姓をし、住んだ伊勢の地名が「特別な氏」であるところから「青木村」と名付ける様になったのです。
「氏名」を地名にするのは「特別な氏」(青木氏)しか習慣として認められていなかったのです。
そして、ですから、その「氏名と地名」の「青木」の使用は嵯峨天皇が「弘仁の詔」を発して一般に使う事を正式に禁止したのです。
ですから、「青木村」は氏名から地名となったもので、賜姓青木氏と皇族青木氏が住んでいた5つの守護国の国府に「青木村」が必ずあるのです。これが歴史的な所以なのです。
明治以降詔が解けて青木村が多く出来たのは「第3氏」「未勘氏」の結果です。
天智天皇は第7位皇子(川島皇子)に特別賜姓しましたが、天皇はこの原則を護り、川島皇子が住んでいた土地の地名を採り近江佐々木氏を賜姓すると云う経緯があるのです。
但し、朝廷は藤原秀郷流青木氏には督励で認めましたので藤原秀郷一門の青木村があるのです。
赴任地24地方には藤原秀郷流青木氏の始祖「千国」等の地名もあるのです。
藤原氏北家でも藤原の地名は少ないのです。あるとしても、明治以降に名付けられたものと観ます。

ですから、甲斐の青木村の二つはその習慣から賜姓青木氏系であり、武田氏としては当初は賜姓青木氏と繋がる割菱紋から出た花菱紋ですので巨摩郡青木村と柳沢郡青木村があり、「第3氏」「未勘氏」の青木氏の村では無い事に成ります。
「地名地形データーベース」を参照して下さい。

[嵯峨詔で認められた氏」
念のために、この習慣を認められた氏が他に2つあります。
一つは、皇族賜姓佐々木氏です。
上記した中大兄皇子の第7番目の皇子(施基皇子の弟)の「川島皇子」です。
特別に第7位皇子にもその功績を認めて近江佐々木村の地名を採って「佐々木氏」を中大兄皇子は賜姓したのです。
地名から氏名を賜姓された最初の賜姓佐々木氏です。
この後、青木氏と共に、佐々木氏も宇多天皇が第6位皇子に佐々木氏を賜姓して滋賀の守護王として賜姓しました。
これが「近江佐々木氏」と「滋賀の佐々木氏」です。
有名な剣豪の佐々木小次郎はこの近江賜姓佐々木氏の末裔です。

もう一つは、鎌足の子孫の藤原氏です。
藤原氏は四家(北家、式家、南家、京家)と言って4つの一族家がありましたが、勢力争いがおこり「北家」が勝ち他は絶滅に近く衰退しました。
この中でも藤原秀郷一門が最大勢力を広げました。この一族には主要5氏(青木、永嶋、長沼、長谷川、進藤)が在りますが、中でも、藤原秀郷流青木氏が最大勢力を持ち、「第2の宗家」と呼ばれていました。
この青木氏は母方で5家5流の皇族賜姓青木氏で繋がっています。
藤原秀郷は朝廷に青木氏を使用する事を願い出ました。許されて958年頃秀郷の第3子の千国が始祖として貴族の身分から臣下して藤原氏を護る護衛隊としての役割を担いました。
そこで、天皇を護る親衛隊の青木氏と血縁と役目で同じであることから朝廷はこれを特別に許したのです。
これが藤原秀郷流青木氏です。116氏に広がっています。
特別の氏名を地名として使用を許されたのはこの2氏です。
ですから各地には青木村が多いのです。
これ等の土地は皇族賜姓青木氏6家6流29氏と藤原秀郷流青木氏116氏に関わった土地柄が殆どです。
地名に付いてのデータは「地名地形データベース」のメニューを参照して下さい。

[青木氏の由来]
そもそもその「青木氏」の氏名の由来は、次ぎのことから来ています。
中大兄皇子が施基皇子に与えた「青木」の理由は、常緑樹「青木」と云う木があります。
この木は奈良期より「榊」と共に「神木」として使われていて、その木の性質から真っ赤な1センチ程度の実を着け、木と葉は共に緑で枯れずに成長が早く枝を真っ直ぐ伸ばす性質がある木です。
その実の赤は血を表し、常緑の緑は体を表すもので、全ての命の根源として扱われていました。
つまり、この第6位皇子は天皇の皇子、「民の象徴」の皇子として、この木の「青木」の名から与えたのものなです。
これ等のことは詳細に、「皇族賜姓青木氏関連のレポート」と家紋の笹竜胆紋のところにも写真つきで記載しています。
甲斐の国府のあったところの県庁所在地ですが、武田氏系青木氏の韮崎の周辺は青木村が有ったところで現在も清哲青木町があります。「地名地形データベース参照」

「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」の青木氏29氏の所のレポート観てください。

[青木氏墓石の慣習]
さて、甲斐の青木氏の花菱紋に関わる出来事があります。墓石のことです。
昔、室町末期、江戸初期、明治初期頃にこの様なステイタスに関わるものが盗まれると云う事件が各地で起きました。
この原因の一つには、明治政府の失策「廃仏毀釈」です。
これにより、「伝統」が壊れる事が起こりましたので、民は反発をして「一族の伝統」を隠す行為をしたのです。また、逆に、その伝統を盗み自らの出自を証明するものとして盗みの行為をしたのです。
(明治政府はこの「伝統」が政策実行に対して邪魔に成った事は否めません。江戸幕府はむしろこの「伝統」を遵守して強化したので300年という封建社会を維持したのです。逆に終末、この「伝統」を重んじ過ぎて大勢を疲弊腐敗させる原因とも成りました。平安時代も同じで鎌倉幕府の樹立につながりました。何時の時代も伝統-腐敗-維新のサイクルが起こります)

そこで、現在の使用されている墓石は、正しくは明治初期から使われている花崗岩、つまり大理石の墓石は江戸時代は使用していませんでした。
実は、昔の墓石は、泥岩や砂岩の石を使っていました。
これは、”魂と体は「自然に帰る」”と云う仏教的教えによるもので、そのために、”川原に帰る”を意味するところから川原にある石を使用したものなのです。
江戸中期以前の当時は、武士以上、庶民の裕福な者、農民の庄屋、名主等の身分のものが砂岩、泥岩等で墓石を作り墓所を設けていたのです。
庶民は、適当な川原の石を選んできて積み上げた川原に簡単な墓を作ったのです。ですから土葬でした。(この作業をする者を昔は「川原者」と呼んだのです。)
今でも”死して路傍の石になる”という言葉を使いますが、この「路傍の石」の言葉の由来はここから来ています。
どんな大名でも当時はこの石を使用していました。ですから、歴史探訪で墓石が大理石では虚偽となります。明治になって墓を綺麗に長持ちさせることを狙いに花崗岩の石にしたのです。
砂岩などは苔がつきやすく風雨で崩れやすいのです。昔は”自然に帰る”としてこれでよかったのです。

韮崎青木の常光寺にある11代の青木氏ばかりの古いお墓はこの石で出来ています。
墓石は塔(五輪の塔)のように積み上げていますか゛、これは50年経ったご先祖にはこの塔にするのです。それまでは、角墓石です。このお寺のお墓はこの泥岩砂岩で出来ています。
一条氏などの公家は真言宗高野山には歴史上有名な人物の墓石が在りますが、全てこの砂岩や泥岩の石で出来ています。ですから苔が生しています。”土に返る”はこの事なのですが、だから泥岩砂岩を使用したのです。
ただ、これ等の青木氏の墓石には、特長があります。
浄土宗の仕来りとして皇族賜姓青木氏、皇族青木氏の宗家、本家、主家の墓には習慣として「女墓」と「男墓」の2つがあります。
まず、「男墓」は全体を祀る墓です。そして、「女墓」は代々の妻及び子孫拡大に寄与した人物の「俗名」と「戒名」を書いた大きな平石の墓石があります。この様に別に更に特別に祀ります。
この様な事から「青木氏」は奈良時代から明治まではその青木氏の家柄から衆知の姓でしたので、それで各地の青木氏の墓が、「第3氏」や「未勘氏」を名乗る人たちや一般の人たちからよく各地で盗まれたのです。
特に女墓は戒名が書いていますので、証拠になるところから良く盗まれたのです。
ですから、「女墓」は廃れてしまったのです。今では多分5家5流の本家だけで女墓の持つ家は無いと思います。
甲斐の花菱紋の一族でもこの事は起こっている筈ですが、多分、逃亡の移動で女墓も無く成っていると思います。まして、甲斐の花菱紋の青木氏では特異に5回も改宗などの事件が起こっているのですから、男墓と女墓も消失しているでしょう。
さらにその上に浄土宗、真言宗、曹洞宗などの宗派争いが発生している事からも当然の事と思います。むしろ、起こらない方が不自然です。史実から観ても、武士が起さなくても寺側が起すことがあります。
この様に青木氏には伝統に支えられた細かい習慣があり、本家筋はこの「伝統」である「習慣」と「遺品」と「記録」を懸命に護っています。勿論、宗派もその一つです。
ですから、「伝統」の差が起こり、「夫々の伝統」を護ろうとして宗派間対立が生まれるのです。

甲斐一揆などは確かに政治に対する不満が大儀明文でしょうが、その殆どは宗派対立です。
その証拠に甲斐で起こった「天保騒動」(1724-1835)云う大変な騒乱が112年も続いて起こったのです。
この宗派争いの中で、花菱紋本家筋かその上の宗家には女墓か或いは子孫を生み遺した女性の戒名と俗名を書いた何物かが仏壇などに遺しているかも知れませんが現在確認されていません。
これはこの宗派対立を巻き込んだ騒乱が原因で現在でも墓、仏像、寺そのものが消失しているのです。

[家柄身分の考察]
その証拠には常光寺の菩提寺には11代の青木氏の墓がありますが、その周囲には個人墓も祭祀されています。
これ等の史実から、根拠の薄い矛盾を伴なう「一条氏」を名乗るほどに、家柄身分を誇張する傾向の強い甲斐の青木氏とも思えますので、特別の家柄として観て比叡山か高野山か清水寺などの浄土宗本山にも本家筋の墓所がある筈です。
これ等の事で筆者の家などにも口伝が多く遺されています。
余談を一つ披露しますと、徳川家康の3男の子供で紀州の徳川頼宣と伊勢で青木氏先祖と対面した時の出来事です。客殿座敷に殿様が座る上段の席が在ります。そこを降りて上席の上座を譲ったと伝えられ、祖父の代までの大正14年まで代々付き合いがあり、紀州徳川氏はこの仕来りを護ったと祖父から聞かされ伝えられています。
昔、歌舞伎でも、”おのれ、このわしが甲斐の山猿めらに上座を譲らねば成らないとは口惜しい”と将軍が怒鳴ると言う場面がありました。この”甲斐の山猿”は甲斐の皇族賜姓青木氏であったのです。
江戸初期のことで、甲斐の青木氏と将軍と対面する場面で、青木氏との仕来りを護らない将軍に対し挨拶もせずその場で立ったままにしているところ、家臣が将軍に仕来りを教える場面でした。
これも史実に基づいた事ですが。
更に、史実として、信長が、甲斐を打ち破った後、甲斐の豪族達と対面する時に、甲斐の青木氏の末裔は下馬せずに白装束の古来の正装で乗馬のままに挨拶をしなかったとして、刀の鞘で徹底的に打ちのめし半死の大怪我をさせると云う有名な事件がありました。
信長はその歴史的なことを知らなかったのです。
この二つの史実は甲斐での出来事です。当時の青木氏の習慣を知る事が出来る事件です。
余談ですが、普通とは少し変わった青木氏だけの古い習慣や口伝があります。都度雑学として知る事も良いのでは。そして、それを子供達に知らしていく事もよく、先祖を敬う口伝としても伝わってゆくのではと思います。

これ等の歴史的な事柄は次ぎのレポートを参照して下さい。
1 「青木氏の綜紋」関係
2 「皇族賜姓青木氏の背景」関係
3 「賜姓青木氏の弱体」関係
4 「青木氏の地名の発祥源」関係
5 「青木姓の発祥源」関係
6 「青木氏と血縁族」(家紋)の菱紋
7 「大化改新」関係
8 「天智、天武天皇の皇子皇女系譜」関係
9 「日本書紀と青木氏」関係
10 「青木氏と官位、官職、職位の研究」
11 「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」の4/10
12 左メニューの「地名/地形データベース」の山梨関係の2つ(地図を左クリック)

先ずはこのレポートとあわせて以上のレポートをお読みください。(左クリックで文章が出ます)
注意点
以上のレポートは無駄と理解の間違いを無くす為に論文方式で記述しています。
なれない文面でしょうから、暫くは難しいかもしれませんが我慢して読んでいきますと慣れます。
(読んでいる間に、ご質問、ご不明点が有りましたら、お尋ねください。)

そこで、”「花菱紋」の青木氏は「未勘清和源氏の武田氏系青木氏 尾張」”と書いていますが、研究では花菱紋が存在することは史実で検証出来ているのです。
今回の研究で系譜や添書や史料などから花菱紋の末裔が現存することが確認出来ました。
現在では、史実が消えてしまい個人情報保護で確認する事は不可能に成り、更に室町末期から以後の史料は「搾取偏纂」が殆どで信用できないのです。
ですから、現実に、”史実に合う確認が取れる”という事はこれは大変な出来事なのです。

[青木姓の由来]
そこで、既にレポートしていますが、改めて「青木の木」に付いて述べます。
余りそこらにある木では有りません。
賜姓青木氏の「象徴3物」というものがあります。
1笹竜胆の綜紋、
2大日像坐像、
3青木の木の神木
以上の一つの「象徴木」を末裔の人に、「先祖を敬う心」を根づかせる為に、何時しか末裔の誰かが知ってもらえるとして、言葉よりも「心の木」を植えたのが天智天皇です。
これ以後、多くの貴族などの氏は独自の木などを定め、それがシンボル化して何時しか家紋と成っていたのです。当然甲斐青木氏の花菱紋青木氏には浄土宗源空寺を開基した際には、そのステイタスとして、護り本尊として「仏像」を保持していた事が覗えますが、明治の廃仏毀釈で由緒在る源空寺は廃寺となりました。
恐らくは、明治期には真言宗常光寺から曹洞宗常光寺とめまぐるしく中興開基したことから、浄土宗源空寺の歴史的存在の理由を消却されて末寺として処理されてしまったのではと考えます。
浄土宗源空寺は曹洞宗常光寺以上に歴史的価値の在る皇族青木氏の菩提寺浄土寺です。
現在、その寺社跡があり、僅かに石燈や釣鐘や墓石などが遺されています。
又、天正2年ころから明治までその寺を皇族青木氏花菱紋の浄土宗菩提寺として護ってきた武田氏滅亡後、仕官先からの花菱紋一族と近隣の檀家が、その1500年以降の過去帳などが保存されています。
源空寺は武田氏滅亡で菩提寺を氏で護れなくなり広く浄土宗信徒(江戸の浄土宗督奨令で中級武士が入信)に門戸を開きました。これが近隣の檀家と成ります。多くは1688年頃の柳沢吉保の甲斐三郡の領主と成った時の家臣団の檀家と観られます。
その過去帳の戒名からもその末裔で在る事の証しを確認する事が出来ます。(戒名の証しは下記)
源空寺にはこれ等の檀家の過去帳等は廃寺の際には事務手続き上しかるべきところに保存されていると観られます。1575年から青木氏だけの氏寺ではなくなりましたので檀家総代は保存の義務を負っていると考えられます。

[戒名の意味]
この花菱紋の青木氏には、源空寺に開山当時からの何処にか「過去帳」が遺されていて「系譜と添書」と「史料」が出来上がっています。寛政の史書(1800)にもあるくらいですので、廃寺に成る明治まで後68年と成ります。そして、その史書の有無からそれが関東にある事を意味しています。
且つ、その系譜等の伝統を護ってきた本家末裔も関東である事に成ります。
花菱紋本家の青木信政が系譜編集に関わった事が添書から判明しています事からの裏付けられます。
この菩提寺過去帳の存在とその戒名の内容からその花菱紋青木氏の証しと成ります。

そこで戒名に付いて基礎知識として記述します。
戒名はその「家柄と身分と生様」を物語る物です。
現在はやや多く成りましたが、戒名の形の「院殿居士」をお持ちの氏は少ないと思います。
平安期からの戒名「院殿居士」は相当の家柄身分で無いと付けていません。
一つのステイタスなのです。
その「院殿居士」に付いて説明します。
一つはその人が「現世で行った功徳」を表現します。これが「院」で、より詳しくすると「殿」でも表現します。
次にその人の「人徳」または「人格」(性格)を表現します。法名などがこれに当ります。
漢文に成っています。
3つ目はその人の現世での俗名の二文字を戒名のどこかに組み込みます。
昔の戒名にはこの3つの意味合いが含まれているのです。特に浄土宗には。
この様に戒名を観ると、その人の現世での生きた大まかな生き方がわかるようにしていたのです。
明治以降はそのことが変化して無関係により聞こえよくする傾向が強く成りました。
寺と依頼する側の意向が働いているのです。

では、このような戒名を「院殿居士」(いんでんこじ)と云います。
先ず、観られない戒名です。現在に於いても。
昔、皇族系の者で花菱紋の様な皇族青木氏と菱紋や割菱紋の賜姓青木氏、賜姓源氏等の朝臣族と真人族や宿禰族等の者が皇位継承から外れた場合(第7位皇子第6世皇子)は門跡院を造って僧に成り入るか、比叡山の僧になって入るかの選択をします。皇女の場合は、「斎王」と云って伊勢神宮や天皇系の神社の「斎王」と成って入ります。そこで一生を終えます。
又、天皇を経験した人なども門跡院の仏門に入り天皇家とその一族の御魂を弔います。
この時に、「...院」としてその人を呼ぶ事に成りました。
つまり、俗世から離れた時(剃髪して仏門に入ったとき)に付ける「院殿」てす。
この慣習が特別な宗教(浄土宗、天台宗)で皇族、貴族、公家が入信する宗派で用いられる様に成りました。
この習慣が鎌倉期以降は少し上級武士にも用いられる事に成りました。
室町期ではたくさんの宗派が出来ましたので、寺の経済的な運営のことから、他の宗派でも用いるように成ったのです。
明治初期の頃までは中級武士でも用いられる様に成りました。
明治になっても、相当な資産家などが高額金品を寺側に渡して付けてもらう事になってしまったのです。
次に、「殿」も同じ経緯を辿りましたが、「法名」(仏法に基づく名)がつけられます。
昔は、同じ様に皇族系や貴族、公家、上級武士でなくては「法名」も持ちません。
これらの身分の者以外は戒名すらありませんし、墓もありません。川原に埋めるのが普通です。
「法名」がある事に成ると彼世の住まいとして「殿」が必要です。
つまり、彼世での法名、彼世での住まいの「殿」が必要と成りますので、「殿」が付けられるのです。
「住」では無くて立派な「殿」です。それが、今は現世でもその習慣が「...様」の「...殿」(どの)に成って使われているのです。
例えば、奈良に在る平等院の中にはたくさんの「...殿」が在るように「院」と「殿」を一つにして使う場合が多いのですが、「...院..殿」とする場合もあります。
次も、「居士」も同じですが、その「仏法」の位が高いことを示す階級です。
「居士」を付けない場合は「信女」とか「信士」とかを付けるか、全くな無しで、「俗名」を後ろにつけるのが普通です。現在もこの「居士」は特別な者しか用いません。
以上3つのその身分を示す表す方法として用いられたのです。
この3つを付けてくれと寺側に頼んでも昔はその身分に無い者には付けてもらえません。
誰でもつけるとその値打ちが無くなり寺側としての権威と経済的な裏づけはなくなりますので絶対に受け付けませんでした。
特に、浄土宗では厳格に護られました。江戸時代初期まで。ところが、檀家が少なくなって浄土宗は運営が出来なくなったのです。困った徳川幕府は「督奨令」を出して、武士以上の者に進めたのです。
浄土宗はこれ等の身分(皇族、貴族、公家)に支えられて権威と経済力で特定宗派として維持できていたのです。入信したくても出来ない宗派でした。江戸初期までは。然し、それでも駄目でしたが明治の苗字令で政府の援助もあり。廃仏毀釈の目的でもあり、増えたのです。
今でも多くはありません。
源空寺が廃寺の一つの原因です。
源空寺を支える人達の財力が低下した事にもよります。
だから、明治の廃仏毀釈で殆どの人は甲斐では元々常光寺「曹洞宗」と云う事もあり宗派変えの事も考えられます。

この「院殿居士」の意味は戒名の意味だけでは無く、改宗の原因でもあるのです。
現在でも、この「院殿居士」を付けてもらえるには、大変なお礼金額を出さないと付けてもらえません。多分、1割も無いでしょう。ですから、これだけでも、直ぐに判るのです。

花菱紋青木氏のことはこの「院殿居士」と曹洞宗「改宗」が繋がっているのです。
第3氏や未勘氏がどんなに繕っても絶対にごまかせないのです。歴史の慣習を知っていると。
甲斐全体でも現在でも4寺しか有りません。大変少ない県です(宗派別データを後述)
この4寺中での「院殿居士」ですから大変です。
花菱紋の過去帳(系譜編集)の存在があり、尚且つ「院殿居士」だけでもこの慣習が働いていた時代(明治以前)として確実な証明に成ります。
この様に「源空寺」は歴史の知る者にとっては大変な価値を持っているのです。

そこで話を戻します。
甲斐青木氏の存在の当時の立場がどの程度のものかを知ってもらうために余談を致しましたが、さて、甲斐の源時光(一条系と呼称している)の常光寺の青木氏菩提寺が在りますが、その藤原摂関家四家一条氏系を名乗る初代信義より2代目次男の源忠頼なる人物がありすが、この忠頼(一条忠頼を名乗る)にはある事件が起こります。
これは武田氏がどれほどの立場を占めていたかを物語る事件なのです。
武田氏系青木氏に関わる事件です。
武田源氏の初代信義の次男(嫡子)忠頼の居住した所は大きく変貌する青木氏の菩提寺と関係を持ちます。
大きい事として有名な事件ですか忠頼が頼朝に謀殺された真相です。
(吾妻鏡、源平盛衰記に小説的に記載)
平安中期960年頃に陸奥より藤原秀郷一門との血縁をした小田氏が秀郷一門の赴任地替えで甲斐に藤原秀郷流青木氏と共に護衛団として同行しました。
この事は前で記述しましたが、その後、勢力を増して清和源氏の満仲三男の分家頼信系で、頼信より4代目義清が、甲斐の武田で豪族となった小田氏系武田氏と血縁し土地の地名から清和源氏系武田氏(小田氏)が発祥します。これよりは正式には初代が孫の武田信義と成ります。
その経緯は、源満仲の嫡子の本家頼光が青木氏の守護の国司職として甲斐に赴任します。
しかし、摂津源氏の頼光は弟三男頼信(河内源氏)を出世させるために、この国司役を頼光の上司の摂関家の藤原氏の許可を貰って(朝廷の許可)頼信に譲ります。
そこを足場にして分家の頼信は関東に勢力を伸ばし、第2の拠点を兄頼光本家筋の領地伊豆に賜姓伊勢青木氏の護衛の下で勢力を得て築きます。これが、河内清和源氏の頼信系の勢力拡大に繋がります。
当然、これが土地の豪族となっていた小田氏(地名より武田氏を名乗る)と有名な暴れ者の義清の血縁と成ります。
これが甲斐の源氏としての流を作ります。これが謀殺の大きな原因に成ります。
その義清の孫の信義の子次男忠頼はその居城を国府(八代郡)に起きます。
そして、明楽寺を開基します。
その居住地は大井荘南条に起きます。現在の宝林寺と云われています。
そこに政治の場として甲府城を築きます。
しかし、頼朝の鎌倉幕府樹立するまでにこの武田氏は勢力を最大に伸ばしていましたが、忠頼は同じ清和源氏(頼信系)の分家本流(本家は頼光系)頼朝に謀殺されます。

この謀殺の経緯は、次ぎの通りです。
頼朝は北条氏の援護の下に鎌倉政治を行いました。
しかし、その実態は大変複雑でした。
頼朝は幕府樹立後には、身内の源氏一族が極めて衰退していました。
つまり、これでは孤立無援の将軍であり、自分の身内の援護がありませんので、樹立後、直ぐに北条氏らの反対を強引に押し切って、衰退してしまっている自分の血縁関係にある源氏一族と、母方であり跡目を入れている北家藤原氏(朝廷が衰退して失職離散)の復興を狙って「本領安堵策」(土地を旧来の持ち主に戻す策)を強引に2度行い自分の背景勢力を戻して築こうとしました。
更に駄目押しとして「平家没官僚策」(平家の土地を含む財産を分ける策)も実行しました。
しかし、このことが切っ掛けで、北条氏の基盤の「坂東八平氏」は猛反発します。
「坂東八平氏」は頼朝も含めてこれ等の2つの勢力の一掃にかかりました。
幕府の実権の確保と、頼信の関東制覇と藤原秀郷一門の勢力拡大で坂東八平氏は取られた土地を取り戻す為に動きました。
更には、他の源氏を担ぎ出して、別の幕府を作り、鎌倉幕府に対抗して来る可能性が朝廷にありました。頼朝弟の義経もその自前の軍1万2千を持ち平家を一人で潰してしま程に勢力を持っていました。「坂東八平氏」の敵対したい人物その1人ですが、他にもう2人居ました。
それが甲斐の一条系源忠頼です。

もう一人は、大島源氏です。
義経に壇ノ浦で負けた平家水軍が最終決戦として再結成して鎌倉幕府の弱点(坂東八平氏は水軍を持っていないし、兵は全て各地に出払っている)の三浦湾を襲い逆転を狙いました。
水軍の持たない裸同然の鎌倉に平家水軍が上陸する寸前に、この作戦を知った大島群島の為朝配流孫の落種の大島源氏が大島水軍を黒潮を3日で渡り三浦湾に到着し平家水軍と激戦しこれを打ち破りました。
平家の知らない隠し源氏の大島源氏です。最大の勲功を挙げました。清和源氏頼信系(源の為朝の子)です。彼は義経と同じ考え(幕府は源氏一族で)を持っていました。
北条氏を始めとする「坂東八平氏」はこの「大島氏」と「義経」も「忠頼」と同じく宿舎で謀殺にかかりました。何れも難を察知して逃げ延びます。
大島氏は戦えば義経軍(駿河水軍と伊勢水軍と熊野水軍と紀伊水軍)共に背後から平泉藤原氏軍で挟めば必ず勝つ事は出来るのですが戦わず水軍を大島に引き上げます。
この3人を潰せば「坂東八平氏」は朝廷の封じ込め(別に朝廷側の源氏幕府を開く動き)が出来て安泰です。結局、大島氏を残して2人を潰しました。
そして、各地の源氏一族(義経の件も含む)も、各地(24)の土地の豪族と成っていた藤原秀郷一門(平泉藤原氏の秀郷一門)を尽く潰しにかかったのです。
戦略的には、義経が、その時意見を頼朝が聞き入れることをしなかった場合は、一度京に戻り、関西と中部の源氏と中部以西の幕府樹立で失職離散した藤原一門を味方に引き入れて、関東の藤原氏と坂東八平氏を敵に廻しても勝てることは充分でした。
忠頼は元より武田氏系青木氏を含む関西系青木氏一門と、残存する清和源氏や村上源氏などが味方する軍力と、関西に集中する青木氏や藤原氏の軍と経済力でははるかに義経側が上でした。
史実、紀州源氏の叔父である新宮太郎は繋ぎ役としてこれを必至に説きましたがこれも謀殺により潰されてしまいます。
坂東八平氏は藤原一門に周囲を囲まれていて旧来より抑えられています。更には「平泉の軍と金の経済力」が在れば「袋のネズミ」だったのです。そうする事で源氏一族は子孫を遺す事が出来た筈です。海陸共に抑えられていたのですから、坂東八平氏は窮地にあった筈で戦うと負けるので、3人と頼朝一族を会議の場で緊急で謀殺としたのです。
しかし、義経の性格がこの機会を逃したのです。逃げるという手段に出た事によります。

この北条氏の母体「坂東八平氏」は、元はと云えば、天智天皇の「大化改新」で、皇族第7世以降は「平民」にして皇族から外し、侍として坂東の固めに配置しました元皇族系の一族です。
そして、第四世までを皇族として「守護王」の身分として「大化改新」の経済的負担もあり急いで第一の改革しました。
この時に、皇子も今までは第6世までの皇子を、第4世までの皇子でその第4番目(第4位)までを皇位継承権を与え身分を「真人族」としてました。
そして、第4世までの第6番目の皇子は臣下して侍とし、賜姓して天皇を護る親衛隊しました。
これが初代施基皇子の伊勢王の皇族賜姓青木氏です。この一族の身分を「朝臣族」としました。
(皇子数のにより第5世はこの中間としました。)
この時、当然、第6世以降は天皇が代わる度に第7世になって行きます。
これが「坂東八平氏」なのです。この一族を「ひら族」と呼ばれました。
ここで、大きな違いが起こったのです。
第4世の皇族賜姓青木氏の侍の親衛隊で守護王、一方、第7世の「ひら族」の坂東守備隊、
元は同じ皇族王であった者が、大きく変化したのです。

そこえ、この不満の「坂東八平氏」に追い討ちが起こりました。
藤原秀郷がこの坂東の地域の領主として入り込んできました。
当然、摂関家を背景とした北家藤原氏に圧迫を受けます。土地は尽く奪われます。
第7世の「坂東八平氏」は完全に衰退します。
この状況で皇族賜姓5家5流の青木氏はその親衛隊として、皇族朝臣族として、その政治と武力で最大に発言力を持ちます。
合わせて、鎌足よりの摂関家の藤原氏との血縁関係で藤原氏も勢力を持ちます。
「賜姓青木氏」、「北家藤原氏」、「坂東八平氏」の3つ巴の関係が出来上がります。何れも血縁関係はあります。そして先ず「坂東八平氏」が勢力を失います。

ところが、この勢力関係を好まない天皇が出ました。桓武天皇です。
日本の律令国家体制を完成させた天皇です。天智天皇から仕来りとして詔に従い、第6位皇子を青木氏を賜姓して臣下させる事を嫌いました。
そこで、伊勢青木氏の施基皇子の子供の光仁天皇、その子供の桓武天皇は、自分の母方の渡来人の後漢の阿多倍王の孫娘の「高野新笠」を母に持ちます。この母方を引き上げます。
阿多倍王一族は全国66国中32国を征圧します。そして、伊勢の北部伊賀地方を青木氏から割譲します、また、朝廷は薩摩国の大隈も半国割譲して与えました。
そして、賜姓をするに必要となる皇族者の根拠を坂東の第7世族(ひら族)に求めます。
この一族であるかのようにして、名を「ひら族」に対して「たいら族」としました。
これが、桓武平氏(京平氏 伊勢平氏とも呼ばれる)です。
そして、この勢力は大化期より敏達天皇の孫の芽淳王の娘を娶り子を成し准大臣に成ります。
そして、三人の子供の長男は征夷代将軍になり、坂上氏の賜姓を受け、次男は朝廷の財務担当で賜姓大蔵氏、三男は天皇家の財務担当で内蔵氏となり、朝廷の官僚の6割はこの一族末孫と連れてきた渡来系政治部の者達で占めれたのです。
このすざましい勢いで拡大し、遂には。国香、貞盛より5代で太政大臣「平清盛」に上り詰めます。約200年で朝廷の3政治機構の内2つを握り3政権(政治軍事経済)を末端の官僚の事務員まで一族で固めてしまいます。ただ一つ斎蔵は藤原氏が、天皇の親衛隊は賜姓青木氏だけと成りました。
その最後が清盛の”平家にあらずんば人にあらず”の時代でした。

上記の3つ巴にもう一つ加わったのですが、この桓武天皇のやり方を嫌った子供の嵯峨天皇は青木氏の賜姓に戻そうとしましたが、抵抗が生まれて賜姓源氏として第6位皇子が臣下させました。
これが11代続いた源氏で終局3つの源氏(清和源氏、村上源氏、嵯峨源氏)だけが生き残りました。中でも、清和源氏が北家藤原氏と組んだ為に最大勢力を持ちました。

第7世族の「坂東八平氏」は、頼朝を前面に推しながらも、この清和源氏の北家摂関家の藤原氏の一条家の血筋を持つ甲斐の武田氏を、他のところは潰したので、清和源氏の血筋を持つ武田忠頼(信義の子供)を潰しにかかったのです。
頼朝は、幕府3年後(1195)にトリカブトを食わされて毒殺され、2人の子孫も有名な事件として鎌倉八幡宮と伊豆修繕寺で暗殺されてしまいます。
藤原秀郷一門、義経、各地の清和源氏を根絶やし(1184-1185)にします。
ここで、三つ巴の一つ皇族賜姓青木氏5家5流一門24氏(皇族系宿禰族青木氏は除く)を抹殺する事は天皇家に逆らう事を意味するところから世の反発を受けて好ましくないとして生残るのです。

この様な背景から、藤原北家一条氏の血筋を引く小田氏の血筋を持つ支流の甲斐の源氏 源忠頼は謀殺(1184)されたのです。
この時、弟の時宗は居城であった甲府城を、忠頼の妻子の尼寺として一蓮寺とします。
その後、甲斐の武田氏は勢力を盛り返し信義から5代目の甲斐の国守武田時信(一条系源時信)は子供の時光と源光に甲斐の皇族賜姓青木氏と更に重複跡目血縁して北条氏からの追求を逃れる為に(子孫を遺す為に)引き継がせます。
既に、武田菱紋と割菱紋の青木氏との血縁は出来ています。

本来、源の源光が青木別当蔵人で青木氏の祖です。官職もその通りです。
これが甲斐の皇族賜姓青木氏の跡目には入ってこの武田氏2氏との血縁関係は出来ました。
その兄弟の源の時光と更にこの武田氏(小田氏)との血縁で生まれたのが、もう一つ武田氏の花菱紋でこちらもこの青木氏を名乗ったのが時光だとされていてこれが有力説です。
1180年代の源の頼政を首謀とする「以仁王の乱」の「源平の争い」が始まる前後と見られます。

因みに、伊勢青木氏にも同じ事が起こりました。この時、頼光の4代目頼政(仲綱の子)の孫の三男京綱が跡目に入っています。
(ほぼ同時期に近江、美濃、信濃の賜姓青木氏にも同じ事が起こりました。)
乱の敗戦後、嫡男次男は日向に配流されます。
(配流先での末裔は日向青木氏です。)

つまり、時代的に考察すると、1180年の5-6年前後に武田氏の忠頼から始まった初期の存亡の時に危険として皇族甲斐の賜姓青木氏に6代目に跡目(源光2、時光1)を入れている事に成ります。
(同時期に各地でも朝臣族血筋を持つ者は青木氏を名乗り難を逃れている)
この時信の子供の時光が(これ等のことを明らかにするために)青木氏菩提寺の常光寺に初代の時光系の源氏武田系青木氏としての11代の墓石を列ねる事にしたのではないかと観られています。
この寺の周囲には全体に他の多くの賜姓青木氏と観られる小さい墓石があります。
この寺は、本来、甲斐青木氏(源光系)の菩提寺でもあったのでは無いかと推測されます。
そこに、流を異なる兄の時光系武田氏系青木氏により2代目の常光の時に変名しています。
名を執り常光寺としました。元の名は不明でする
源光の武田氏系青木氏(武田菱紋と武田割り菱紋)の墓所が明確ではないのはこの原因ではとも思います。しかし、この研究で光福寺と尊たい寺が有力と成りました。
この時、兄の時光派(一条氏を名乗る)弟の源光派(一条氏を名乗っていない)の間で常光寺(前名は不明)の処遇で争いがあったと推測が出来ます。
(時光の墓は摂津の地頭であった事から、摂津浄土宗善法寺にあるとする説もあります)

[一条氏を名乗る疑問]
甲斐の一条氏は山梨郡一条郷として名乗る事と成ります。
この一条郷には室町末期に一条氏が住んだとされる由来からです。
そこで、甲斐清和源氏系の武田信義の次男忠頼がこの一条氏を名乗ったとさされるものです。
信義の長男武田信光は武田氏を、次男は忠頼は母方の一条氏を名乗ったと成ります。
京の公家藤原北家摂関家四家の一つ一条氏が甲斐のこの地に逃げ延びたという史実の確証は取れません。各地でこの時期一条氏が逃げ込んで子孫を発祥させたとする説は大変多いのですが、甲斐も一条郷とするだけにその一つと見られています。未勘一条氏と観られます。
しかし、忠頼は兎も角も、6代目以降の時光等が一条氏を名乗る根拠が系譜史実から薄いのです。

先ず、兄弟で一条氏を名乗る者と名乗らないものが出た事に疑問です。

「時光7人兄弟」
信一、義行、貞連、宗景、貞家、時光、源光、信源
以上の内では誰も名乗っていないのです。

その前には名乗っている人物を確認すると次ぎの人物と成ります。
時信の弟宗信(時光の叔父)
時信の叔父宗長
時信の祖父信長
以上の3人です。
この3人の内、武田氏に関わった人物は祖父信長だけです。
信長は武田六郎です。
信長は信光の4人の子で実質4男です。
信長は忠頼の甥に当ります。
時光は信長の曾孫に当ります。
時光その者は十郎です。

つまり、系譜から観ると、時光が一条氏を名乗るとすると、自分と父からの筋では無く、祖祖父の親(信光)の兄弟(異母弟忠頼)の母方家筋を名乗った事に成ります。つまり、祖祖母です。
そして、この一条氏を叔父の宗長一族が正式に引き継いでいるのです。
この様な事は現実にはありません。
お爺さんの親の異母弟の母方の実家を名乗った事に成ります。

この様に、一条氏の名乗りそのものが問題ですが、多分、この兄弟の矛盾は当時はなかったものと推測され、ある時期から家柄を誇張する為に採った手段であろうと見られます。
もしこの様なことを行えば本人は世間の笑いものに成るでしょう。それも”笑いもの”の反対の”よく見せようとする目的”で名乗るのです。あり得ません。
賜姓源氏で最も栄えた清和源氏の血筋を引いているのに、敢えて無理に一条氏を名乗る事は賜姓源氏の名をわざわざ否定する事に成ります。
賜姓源氏は皇族系の朝臣族、一条氏の公家は藤原氏で身分と家柄は2段下と成ります。
何も低い方を名乗ることは、「氏家制度」の家柄身分を誇示する社会の中であり得ません。
そうすると、賜姓源氏以上に更に上乗せて家柄身分を誇張しなくてはならない現実があったことに成ります。
その「誇張した人物」と、その「誇張の背景」があって強引にこの叔父と祖父の系列の筋違いの一条氏を名乗る必要があり、平気で名乗れる環境があった時期と成ります。
それをこの武田氏系一族の中からこの二つの環境条件を引き出せればその証明の一つと出来ます。
まず、その時光等が叔父の家の一条氏を名乗るには嘘を世間が認めないでしょう。逆効果も甚だしいものと成ります。
一条忠頼が、一条氏がこの地に来たとする証拠の有無は兎も角としても、発祥元としている事は先ずはあり得ることですが、また、各地に多く逃げ込むほどに、それ程一条氏はその時に子孫が多かったのかの疑問もあります。
更に云えばばらばらにして何故逃げ込んだとする疑問もありますし、山口や四国の様にそ一条氏の人物が明確であればよいのですが、甲斐の場合は風説です。

頼朝に謀殺された忠頼の筋ではなくて甥(信光の子供)の信長の姓であるのです。
これも疑問ですので、ですからその時代に生きている人間には一条氏を語ることは先ずあり得ません。
時光から墓を源氏として11代列ねたとすると、この間その必要性がなかった事にも成ります。
ただ、常光が真言宗に改宗する根拠は「一条氏」が一つ根拠として必要です。
しかし、有力ですが、真言宗に改宗したのがこの「一条氏」を理由としたのではない事も考えられます。時光が一条氏の筋では明らかに無いからです。
謀殺された忠頼の子孫では納得できますが、常光が理由にするには根拠が低いと考えます。
つまり、真言宗改宗は、信定の曹洞宗改宗と同じ事件が、時光から2代目の常光の時にも起こったのではないでしょうか。「第1の呼称説」の2つの原因説です。

仮に、この前提で考察すると、次ぎの様に成ります。
「第2の呼称説」
その人物は、つまり誇張するに必要として世に出た人物は柳沢氏であり、柳沢一族が出世した人物と時は「柳沢吉保」であり1680年頃と成ります。
その柳沢氏は次ぎの系譜と成ります。

「青木氏系譜」
12代信生-信定-正定-豊勝-豊信-(嗣なし家絶える 分家跡を継ぐ)..青木氏系譜 花菱紋

「柳沢氏系譜」
12代信生-信定-豊定-信立-信俊-安忠-吉保-吉里 柳沢氏系譜 花菱紋
吉保は1688年です。

豊定は武田氏が天正3年に滅びその後直ぐに家康に仕えます。 家禄は吉保までは250石程度の下級武士でした。大番などの役目であったと記されています。
吉保の出世で甲斐国15万石 柳沢郡、八代郡、甲府郡の三郡を知領しましたが、吉保失脚後、吉里は奈良郡山に同等の石高で移封と成りました。
もともと250石程度では誇張する必要は無く、甲斐の地元の三郡を治めた時期が最もこれを誇張するに必要とします。
丁度、柳沢氏発祥から100年経過した頃です。3代前と成ります。
時光より18代後です。この頃に矛盾の多い本筋ではない一条氏を無理に持ってきたのではないでしょうか。後付の家柄誇張と謂う説です。
源氏では、甲斐源氏とは云え本流ではなく下の家柄の支流の跡目筋ですのでその迫力は当時ではなかったのではと推測します。
多分、甲斐源氏もさほどこの当時は甲斐では意識が無く、むしろ土着の小山氏筋の方に意識が強かったのでは無いでしょうか。跡目が入ったとしても意識の変化はタイムラグを起すのが世の常です。
それだけに甲斐源氏とも矛盾の誇張をしたでは無いかと考察されます。(甲斐の人には悪いですが誇張癖が強い民)
本流は兎も角も支流の源氏の家紋も違い、陸奥花房氏の足利氏と同じく、元は陸奥小田氏の武田氏であるのですから。どの確実な学術史料にもこの一条氏は出て来ません。あくまでも源氏の跡目一族です。
インターネットなどの史料はこの搾取偏纂を元にしてのものですので確実性は疑問です。
この辺の史実の検証が出来ていなくて常にこの時代の資料には鵜呑みには注意が必要なのです。
 
話を戻します。
氏家制度の社会の中で家柄身分の低い時光系にとってコンプレックスを抱き、その結果「氏争い」や「宗派争い」が起こった。時光の「甲斐全部の青木氏」(3氏6家)の菩提寺としての目的を排除して「皇族青木氏」だけのものとする事に賭けた。そして、宗派争いでは時光側が勝った(正しくは常光が勝った)。そして、建立完成前後に時光が死去し、その後、素早く殊更に1条氏を誇張し「真言宗改宗」と、他の青木氏のプライドを傷つける「寺名」(自名)の変更をするために「中興開山」せざるを得なくなった事に成ります。(一条氏の疑問、中興開山の疑問)
そして、常光は妥協条件として源光側に対して花菱紋の時光系の墓を墓全体とするのでは無く一箇所に墓所を固めて列ねる事と云う事にしたと観られます。(1列の疑問)

源氏の名乗りにしても、青木氏の名乗りにしても、家柄象徴の家紋にしても、一条氏の名乗りの理由にしても、宗派の違いにしても、武田氏の中でも菱紋では無く割菱紋で更にその分家の分流と成ると、少なくとも、賜姓青木氏と賜姓源氏は皇族同族である事とはせよ、皇族賜姓青木氏5家5流と区別した武田氏系青木氏(3氏家6家あり)その内の(割菱紋-花菱紋)の1氏を故意に喧伝する行為に出た事に成ります。
皇族賜姓青木氏、皇族賜姓源氏と区別する為に、下の身分家柄の武田氏の跡目系武田氏であるところから、低い武田氏ではなく、時光の代からはより高い身分家柄の嵯峨期の詔に基づく朝臣族の皇族青木氏を名乗ったと見られます。(青木氏の疑問)それを2代目常光は更に菩提寺を分離させる喧伝行為に出たと考えられます。
(職位官職など一切の諸事はこの強い氏家制度の身分家柄社会の中では必然の行為です。)
武田氏、一条氏は皇族系でも無く、又朝臣族でも無い身分家柄で無いのに一条氏を名乗ることはあり得ないのです。皇族青木氏に名乗り替えをしているのに、わざわざ下の氏を重複して名乗る必要性はありません。
参考に、同じ甲斐の武田氏系諏訪族青木氏は、信濃諏訪族と皇族賜姓青木氏と血縁した諏訪族青木氏が武田氏と更に血縁した一族で常光寺隣りにはその守護神の諏訪神社もありますが、秀郷流青木氏と他の4氏、それと隣りの信濃足利系青木氏はこの様な態度は採っていないのです。

では、皇族賜姓青木氏、皇族賜姓源氏と皇族青木氏、一条氏の身分家柄の違いはどの程度かを示しますと、
更に、武田氏と因縁を持った信濃諏訪族青木氏は源氏、武田氏、小田氏、藤原秀郷氏の血筋が入っていない日本書紀にも出て来るほどの純粋な賜姓青木氏です。
天皇と謁見できる身分では無かったのですが、信濃王青木氏の後見として特別に許したのです。
そして、年貢の納件に対する具申まですると云う態度を採ったとして天皇はその力量を褒めたのです。これ程に賜姓青木氏とその血縁族の身分家柄のレベルは当時としては破格の立場であったのです。
天皇に謁見拝聴できる身分は従三位の身分である必要があります。京一条氏を初めとして摂関家四家の公家でもこの立場にあるものは数人程度です。
5家5流の賜姓族青木氏は朝臣族で浄広1位-3位で従三位です。因みに、藤原氏秀郷一門は従4-5位下です。皇族青木氏は朝臣族だけですので謁見等は有りません。まして跡目支流の分家筋清和源氏では他の源氏とは格段の身分家柄の差があった事に成ります。
その中の不詳甲斐一条氏です。
(諏訪族は日本書紀にも出て来る渡来人後漢阿多倍王の末裔支流子孫集団(馬部)です。)

次に続きます。
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