青木[アオキ] 名字 苗字 家系 家紋 ルーツ 由来

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伊勢青木氏 家訓5

伊勢青木氏の家訓10訓

以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。

家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。


家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)

この家訓は大変に難しい誡めである。
人間には主観を持っている。そして、その主観は人により強さと方向が違うことになる。
この人の世に人と拘らなくては生きて行けない現実の中で必修の条件である。
その基本とも云える要件にこの戒めが存在する。
では、”その「実相」とは一体何であろうか”と先ず考えてしまう。
「実」の「相」ですが、語源的に考えると「実」とは本来の持ち得ているもので、花木の「果実」に当るのではないだろうか。
では、「果実」とは邪念の無い植物が最終に成し得る行為或いは目的である。
そうするとその目的の「果実」には「果実」そのものが目的では無く、本来は「種」を保存する手段と成るだろう。とすると、「果実」そのものはその「種」を保存する「相」即ち、「様」と成るだろう。
「果実」=「相」(様)となる。では、ここで、その「相」(様)とは何であろうか。
仏教ではその「相」(様)は3つあるとしている。
それは、この世にて万物が生きていく時に必要とする対応しなければならない条件のことであるが、それを「三相」(「人、時、場」)と定義している。
この「実」と「相」を組み合わせると、「種」を保存する「人、時、場」と成り得る。

この組み合わせの「実 相」=「人、時、場」(三相)と成る。

人間本来のこの世に生まれて来た目的は万物は全て「種」を遺す事にあるだろう。人間も例外ではない。つまり、「子孫」を遺す事に他成りません。つまり、「種」=「子孫」と成る。
そして、「三相」とは、その「子孫」(種)を遺す過程での「人、時、場」での現象であるとされる。
更に、この「人、時、場」とは日々の生活に働く現象である。
依って「子孫」(種)を遺す日々の本来の「生活」と成る。

「子孫」(種)=「三相」(人、時、場)=日々本来の生活

日々の「生活」の中には、「三相」の組み合わせで色々な事が起こるだろう。雑事が起こる。
その中でも「子孫」を定義しているのであるから、雑事の中でもそれを実行して行くべき「基本の姿勢」と云う事になる。

「子孫」=「基本の姿勢」と成る。

即ち、雑事の中でのさまざまな姿勢そのものではなく、それに捉われなく、「子孫」に限定した「根本的な姿勢」を意味する事に成る。

結論は、故に「実 相」とは、人間本来の目的である「子孫」に限定した根本的な「姿勢」を意味する事に成る。
「三相」(人、時、場)の中、この家訓5は「三相」の「人」に対しての事を意味している事から、”「時、場」に依って起こる雑事を排除して、その人の「根本的な姿勢」の如何だけを観なさい”としている。
「人」が生きて行く過程で”人の事に付いての「根本的な姿勢」だけを観て評価しなさい”としている筈である。
又、”「時、場」を取り除いたその「人の姿勢」という事に成りその努力をしなさい”と訓している。
”なかなか、この努力が一朝一夕では出来ない故に、その日々の努力を積み重ねなさい。”
そして、”その暁にはその「根本の姿勢」を見抜く力、人の巾を持ちなさい。”としているのであろう。
そして、”その「人の巾」が大事にせよ”と云う事であろう。

「人」は日々の雑事に追われてその雑事の中で兎角全てを見てしまい、雑事の中で生きている傾向が出来てしまう。そうして、その中でそれを基に「評価の基準」として人を見てしまうジレンマに陥る。
「根本的な姿勢」を見るどころか見えな事に成る事さえもある。
雑事の中では「拘り」が生まれるに他ならないものであろう。
殆どは、実際はこの傾向が強いのではないか。だから、この家訓があるのであり、家訓5を知りより正しくより正確に見抜く力を付ける事が、より確かに子孫を遺せる事に成るし、又は、より人生を確かに豊かに過ごせる事としているのであろう。

伊勢青木氏はその立場に於いて、他のレポートでも記述してきたが多くの立場を有していた。
商家、武家、賜姓族、組織や集団の長などの立場にあったが故に、其処からこの家訓5のその必要性を求められ、又「人の巾」、「根本の姿勢」を持ち得ていなくては成り立たなかったと云う環境にあった。
故に、この家訓5の意味がどれほどに必要視されていたかを物語り、又、子孫にそれを伝える重要性があった事から代々家訓として遺されてきたと考えられる。
この立場の多さが先ずこの家訓を生み出したのであろう。
普通なら雑事の中でも充分に生きられるが、青木氏にはそうでは無かった事を物語る。
さて、これで、この家訓の意味が終わった訳ではないのである。

この家訓には、進めて後文に次ぎの事が書かれている。
それは、「人を見て法を説け」と記されている。

つまり、「人の実相を見よ」とする家訓5の前文の「根本の姿勢」を見抜く力、「人の巾」だけではないのであり、更に進めて、「人を見て法を説け」とある。

この二つの家訓が相まって効果が生み出されるとしているのである。
この2つの意味する所の家訓を理解しようとした時、若い頃には正直に理解が出来なかった。
当然である。「人の巾」をも充分でない者がこの後文を理解できる訳は無かった。
人生の雑事での中で思考も一通り出来る様になり、”甘い酸い”の事が判る様に成って来て、ある時、”待てよ。「人の巾」だけではこの人の世の中上手く行かない”と疑問が湧いた。
”其処には何かある。”とその答えを仏典など読み漁った。
その結論が次ぎのこの答えであった。

確かに、仏典にこの答えが書かれていたし、自分の感覚もこの事に近いものを持っていた。
しかし、ここで疑問が更に湧いた。
”何故、仏教が、「人を見て法を説け」と成るのか、全ての人を幸せに導くのが仏教の道ではないか。”おかしい。”人を見比べて法を説くのは違う。「人の道義」に離反する”と考えたのである。
しかし、よくよく考えた。仏説には、上記した様に「三相」として定義し「人、時、場」を明らかにしている。
普通の場合、雑事の中での思考世界では「人を見て法を説くのは違う」で正しいのである。
しかし、この家訓前文は、”「雑事の思考」から超越して「根本の姿勢」を評価をせよ”としているのであるから、雑事の中での思考の「人を見比べて法を説くのは違う」と考える事とはこの家訓後文の意味するところは「別の思考の世界」と言う事になる事に気づいたのである。
この様に、人間には、より巾を求めるには雑事の思考世界から逸脱する必要があり、常思考は深くこの雑事の思考世界にどっぷりと浸っている事を思い知らされたのである。
つまり、”自己よがりで、低次元で拘っている”と。そして、”「別の思考世界」でなくては成らない筈”とそれは大変な難行苦行の末の事であった。
考えて見ればれば、仏教を先導する僧でさえ難行苦行のこの「逸脱の修行」を行って体得しようとしている訳であるのにも拘らず、その事に気づかず、多少なりとも教典を浚っていながらあさはかにも「別の思考世界」と思い着かなかった。
雑事の中での「低次元の拘りを捨てる事」そうする事であれば、家訓であり仏説である「人を見て法を説け」の縛りは解ける。

後はこの、「人を見て法を説け」の意味する所を理解する事にあった。
では、この意味する所とは「見て」と「説け」に解決キーがあると考えたのである。
そこで、まず、「見て」はその人の「人間的レベル」、その人の「生活環境」の二つに分けられるであろう。「その人の人間的レベルを見て法を説け」なのか、「その人の生活環境を見て法を説け」なのかである。
その「人間的レベル」とはその人の「仏教的悟り」のレベルを意味するだろう。
その「生活環境」とはその人の置かれている「諸々の立場」の如何を意味するだろう。
さて、この内の何れなのか、はたまた両方なのかである。
この事に付いては仏教ではどのように成っているかであろう。調べるとそれを決定付ける仏教の教えが出て来る。つまり、「縁無き衆生動し難し」とあった。
これで大まかには前者の「人間的レベル」である事が判る。
”どのように衆生に説法を説いても説法の効き目が無い人にはその程度の理解力しか無いのだから意味が無い”。諦めなさい”としている。
仏教では”最後までその様な人には説法を説き続けなさい”とは言っていないのである。
”見捨てなさい”とまでは云っていないが、ここで矛盾を感じる。
家訓の前文の”実相を見よ”とある。仏教でも「実相」と云う言葉が使われている。
”雑事から逸脱した「根本の姿勢」を見よ”としているのであれば、どんなに説法の効き目の無い理解力の元々持ちえていない人でも「根本の姿勢」はある筈である。
そう考えると、言っているこの二つには矛盾がある。
ところがこれは矛盾ではないとしているのである。

その事に付いて、更に仏教では”それは拘りだ”としているのである。
仏教では最大の教えは「色即是空 空即是色」又は「色異不空 空異不色」としている。
つまり、この二つの般若経の行では”必要以上に拘るな”としているのである。
”どんなに説法の効き目の無い理解力の元々持ちえていない人でも「根本の姿勢」はある筈である”と考えるのは”必要以上に拘り過ぎる”と云っているのである。
何故ならば、上記の般若経の一説は”この人の世の社会はそんなに「理詰め」では出来ていない”だから、それは”「必要以上」”であり即ち、「拘り」であるとしている。
仮に理詰めで出来ているのであればそれは”必要以上ではない”と成るだろうが。

これでは納得できる。”この人の世の社会はそんなに「理詰め」では出来ていない。” この事を「三相」で考えると、人の世は「人」と成り、社会は「時」と「場」と成る。”だから、三相(人、時、場)で考えよ”と説いているのである。
”どのような事象でも普遍ではなく三相にて異なる”と説いているのである。
もっと進めれば、「三相」に依っては”正しい事は必ずしも正しくもなく、間違いでもあり、間違いは必ずしも間違いではなく正しい事でもある。”と成り、普遍では無く成ると説いている。
つまり、これが「拘り」を排除した考え方であると云う事になる。
確かにあり得る。むしろ科学文明の付加価値が進む現代社会では自然性が無くなり、科学的付加価値の要素が大きく働き、むしろ上記した事の方が多いとも思える。否多いであろう。どちらかというと、「正しい」と「間違い」だとする間のどちらにも含まない事の方が多いと考える。
ところが、我々凡人には普遍だと思い拘ってしまう所に、「悟り」(人間力)の有無如何が問われるのであろう。この家訓の意味する所だろう。
この様に”「三相」に依って変化する時の実相を見る力を付けよ”と家訓は誡めているのであった。
「三相」を思考する事に依って「普遍」と見る「拘り」を捨てれば、「雑事の中の思考」を取り除く事が出来て、「根本的な姿勢」を見抜くことが出来る事を諭しているのである。そして、その姿勢で法を説けとする誡めである。
雑事の中の「思考の拘り」を取り除く方法とは次ぎの事と成る。
”三相で以って行い、そして、考える力の訓練をせよ”と云う事であった。

「人を見て法を説け」の意味する所の「見て」の結論は「人間的レベル」即ち「仏教的悟り」である事である。

次ぎは、”法で「説け」”での疑問である。
先ず、解決キーは「導け」と「教えよ」の二つであると考えられるだろう。
つまり、「説け」とは、仏教では「導け」までを行うのか、「教えよ」までを行うのかという事を判別する事に成る。
これも仏教の教典に随処に明確に書かれている。答えは「教えよ」である。「導け」とまでは書かれていない。”先ず教えよ”である。
例えば「般若心経」である。このお経の「経」の意味は「路」であり、更にこの「路」は「ある過程を持つ路」であり、「人生という過程の心の路」を説いている事に成る。
つまり、般若経は、この世の「心」の段階の「迷い」「拘り」を捨てさせる「術」に付いて教えている事に成る。
上記した、「縁無き衆生動し難し」でも”説法を説いても縁の無い者は動かせない”となり、「導く」と云う所までに至っていない。
本来、「導く」の語意は「教えて」の後に「導く」を意味する。教える事せずに導けることはない。
人の世のことは先ずは教える事無くして導く事は不可である。だから経文があるのである。
仏教は”この教える事に主眼を置いて教えても理解が出来ない者には導くはありえず動かし難い事である。故に「必要以上に導くのだとする拘りを捨てよ」”と禅問答などで説いているのである。

既に「法」とは「則」(のり)であり「決まり」であるのだから、”人の世の生きる為の「決まり事」を教える事”を意味する。

参考
奈良時代に我等の青木氏の始祖の「施基皇子」が、全国を天皇に代わって飛び廻った際に、地方の豪族達からの話や土地の逸話などで得た全国の「善事話」を集め整理する事と、この「まとめ」をし、民の「行動指針」とし発行するように天皇に命じられたが、更に天皇はこの「善事話」を進めたのが日本最初に作られた「律令」であり、この様な「善事話」の「まとめ」を法文化したものであったと日本書紀に書かれている。
事と場合に依っては、これ等の家訓10訓は、証明は困難だが、この時の事柄を施基皇子は自らの氏に抜粋したものを遺したのではとも考えられる。
もし、仮にそうだとした場合は、5家5流を含む29氏の一族一党の青木氏はこの家訓に近いものを保持していた可能性がある。
当時、天皇家は男子に恵まれず女性天皇が何代も続いた時期であり、第6位皇子(第4位までで対象者なし場合は第5位とする継承権)の施基皇子の子供光仁天皇に皇位継承権が廻ったという経緯がある事と、鎌倉時代から江戸時代までに交流があった事から察するに、特にその系列の伊勢、信濃、甲斐の皇族賜姓族一党の青木氏はこの家訓に近いものを持っていた可能性も考えられる。
家訓なるものが偏纂される状況を考えると、700年前から800年前の100年間の期間ではないかと推測する。青木氏が発祥して2ー4世代の間と成るだろう。
その状況の一つとして例えば、又、光仁天皇の子供の桓武天皇(伊勢青木氏の叔父)は、第6位皇子を賜姓せず、後漢の阿多倍の孫娘(高野新笠)を母に持ち、この一族(たいら族:平氏)を賜姓して引き上げ、発言力を強めていた青木氏特に伊勢青木氏に圧力(伊勢国の分轄や国司を送るなど政治から遠ざけた)を加えて歴史上最も衰退に追い込んだ。しかし、この後、桓武天皇の子の嵯峨天皇はこのやり方に反発し賜姓を戻し、青木氏は皇族(真人朝臣族)の者が俗化する時に名乗る氏として一般禁止し、賜姓は源氏と改めた経緯がある。この時代付近までに初期の家訓なるものが偏纂された可能性がある。

当然に長い間に修正編纂された事は考えられるが、多くは仏説の解釈内容を引用している事から見ると、当時の仏教の置かれている立場は絶大であった事から考えても、現在にも通ずるこの家訓10訓は可能性があり否定は出来ないだろう。
この研究を進めた。しかし、この時代の確かな文献が遺されていないために進まなかったが、状況証拠はあるとしても、日本書紀に始祖が「まとめ」に当った史実事だけである。
伊勢では、口伝で伝えられ「家訓書」なるものがあったと見られ、何度かの戦火と松阪の大火で消失し、その後「忘備禄」(別名)なるものに諸事が書かれているが、10訓はあるにしても解説は他書に漢詩文でのこしてあり、「忘備禄」の方は完成に至っていない。
恐らく復元しようとしてまとめながら口伝として「忘備禄」の中に「家訓書」にする為に書き遺し始めたのではと考えられる。続けて筆者が公表できないものを除外しながらこれ等の漢詩文と口伝と忘備禄と史料を基に何とか平成に於いて完成した。


後文の結論は即ち「法を説け」は先ず上記した解説の事柄を「教えよ」の意味する所と成る。

よって「人を見て法を説け」の解釈は次ぎの様に成る。
人の「見て」は「人間的レベル」即ち「仏教的悟り」であり、「説け」は「教えよ」である。
”人の「人間的レベル」或いは「悟り具合」を良く洞察した上でそれに合わせて必要な事を教えよ。”と成る。
しかし、と云う事は、自らがその「人間的レベル」(悟り)を上げなくては人を洞察する事は不可能であり、「教える」に値する度量とその知識と話術を習得せねばならない事に成る。
つまり、言い換えれば、この家訓は逆説の訓でもある。

”自らは「人」を見て「実相」を知るべし”の前文には、確かに「自ら」と定義している。
当初、この家訓には他の家訓と較べて一足踏み込んだ個性的な家訓であるとも考えていたが、どうもそうではない事が後で判る事となった。
特にこの前文の”自ら”と”「人を」見て”の二つの言葉に違和感を持った。
”自ら”は逆説的な事である事を意味させる為に挿入したことは判ったが、”「人」を見て”とするところに”二つの解釈が出来るのでは”と考えた。
つまり、”他人の行動を起している様を良く観察して他人のその実相(根本的な姿勢)を読み取れ、そして自分のものともせよ”と解釈するのか、はたまた、”自分以外の人を評価する時「根本的な姿勢」だけを以ってせよ。そして他人の雑事の姿勢の評価は捨てよ”と単純明快にしているかの考え方もある。
始めは後者の考え方を採っていた。しかし、後文の逆説的内容である事と判った時、前文の「自ら」の記述で、前文も前者であると解釈を仕直したのである。
そすれば、何れも前文、後文共に、”他人に対処する時の姿勢を意味しながらも、そうする為にも”先ず自らも磨け”と成り一致する。

この家訓5の解釈は「人事」を戒めとしているだけに表現も意味も難解であった。
多分、先祖は”単純明快であれば大事で肝心な事が伝わらず間違いを起す恐れがある”として何時しか書き換えて行ったのではと推測する。
恐らく長い歴史の中に間違いを起した事件の様な事があって氏の存続も危ぶまれた時があったのであろう。それだけに、この家訓は人を束ねる立場にあった青木氏の「自らの人」「人の集合体の組織」に関する最も重要な家訓である事が言える。

この様に、青木家の家訓5は人の上に立つ者のあるべき姿を説いている事になる。
これは、子孫を遺す為に難行苦行の末にして、数百年に及ぶ商家の主としての姿を誡めていると同時に、千年の武家としてのあるべき姿に共通する戒めを遺すに至ったのであろう。
正しい事だけを家訓にする必要は無い。何故ならばそんな事は書物でも読み取れる。しかし、書物に書き得ない青木家独自の上記の意味する所一見矛盾と見られるような事に関しては青木家としての家訓として遺す必要があったのであろう。
もとより伊勢青木氏のみならず、「生仏像様」を奉る全国青木氏の家訓であっただろうと同時に、これらの家訓があっての1465年続いた青木氏の所以であると見られる。

次ぎは家訓6に続く。





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藤原秀郷主要5氏と家紋の研究 史料10/10(国、地方、氏別分布)

藤原秀郷主要5氏と家紋の研究 史料10/10(国、地方、氏別分布)
投稿者:福管理人


史料10/10(国別、地方別、氏別の血縁分布データ)

詳細綜合(国別の詳細は下記参照)
この総計のデータを観ると主要5氏の国別の血縁力、分布等多くの事が良く判る。

(注):数値はデシベルである。主要5氏の家紋と関連家紋を国別にドットした。家紋は国別に跨る事がある。地方は北海道を除く9地方とした。国別は明治2年以前の割譲を含むものとした。

綜合別(539)
東北地方 関東地方 中部地方 北陸地方 関西地方 山陽地方 山陰地方 四国地方 九州地方
14     103    180    13    88     57    03     42    39
3.5%    25.9%   45.2%   3.3%  22.1%   14.3%   0.7%   10.6%  9.8%

国別(67)
陸奥12 常陸11 信濃28 越後01 山城04 備前01 壱岐00 阿波13 筑前07
出羽02 下総17 甲斐22 越中01 丹波06 美作16 対馬00 伊予16 筑後06 
      上総15 伊豆04 佐渡01 丹後07 備中14 隠岐00 讃岐06 豊前10
      安房05 駿河26 能登00 但馬05 備後09 出雲02 土佐07 豊後10
      下野15 三河25 加賀03 播磨03 安芸11 石見00       肥前05
      上野16 尾張28 越前07 淡路04 周防03 伯鰭01       日向01
      武蔵14 美濃15 若狭00 摂津08 長門03 印旛00       大隈00
      相模10 飛騨01       和泉05                   薩摩00
            遠江31       河内03
                        大和05
                        紀伊02          
                        伊勢09
                        志摩06
                        伊賀02
                        近江19  
綜合別に地方の血縁力を観て見る
これを血縁力での「生残り防衛網」として観て見ると次ぎの様に成る。
その重点の置き方はその領国の武蔵、下野(25.9%)より、前線部の中部(45.2%)に拠点を置いている。
関西以西に向けて、45.2%から22.1%、14.3%、0.7%へと次第に血縁族分布を落としている。
阿多倍一門の末裔の拠点とするところだけに、その勢力が拡げられなかった事を示している。

その背後の北九州地域には9.8%とそれなりの「背後防衛網」としてのレベルを維持している。
阿多倍の末裔子孫の多い関西以西、山陽地域を側面から睨む為にもそれなりのレベルを維持している。
問題なのは東北、北陸地域がその藤原氏一門の勢力圏と見なされた地域でありながら、3.5%、3.3%と余りにも低い。
阿多倍一門の血縁による「背後攻撃」の影響を全面的に受けている。
初期に血縁地盤を築きながら、それが殆ど潰されている。その侵蝕力がいかに大きかったかを物語る。後方防御の戦力又は戦略の弱さが目立つものである。

阿多倍一門の末裔の勢力圏の北九州地域にはそれ相当1割の勢力圏を築いたが、本来であれば東北北陸には2割近い血縁力を保持している筈であるが、これでは帳消しの状態であろう。
これで敵対する阿多倍一門の末裔と互いに潰しあったことがよく判る。

領国の関東地方の国々より中部地方の国々の「血縁力」、「氏力」の方が+45%のレベルで高い。
この数字の家紋分布を観ると、領国に足を置き、中部、関西、山陽に向けてその勢力を次第に広げたことが読み取れる。「前面攻撃」の戦略上の前線戦力が固まっていることが判る。
領国の手前に大きな厚い壁を作った様なものであろう。

また、四国、九州地方にもそれなりに食い込んでいる。
四国は京平家の末裔の多く居る地方であるにも関わらず云わば敵陣にその食い込みは高い。その生残りの積極性が観得る。
室町期以降は阿多倍一門末裔は抑えられて讃岐籐氏の独断場と成った。
京に近い事もあり、古くから代々利仁流も含めて藤原氏の讃岐籐氏一門(下がり藤紋を中心に片喰族、剣片喰族等)が抑えていた事もあり藤原一門で押さえ切ったことを示す。
四国地方を完全に抑え切られた事が、関西以西の中国地方の阿多倍一門末裔に取って観れば、脇腹に刃物を突きつけられたようなものであろう。
これが秀郷一門の大きな「側面攻撃」の戦略上の推進の原動力となったと観られる。

九州は北部にその赴任地が存在した事にもよるが、それ以上に少し高い。これは、九州北部の豪族の3氏の分家筋(巴、扇、九曜紋:北九州血縁族3氏)が移動して関東にその勢力を築き、藤原秀郷一門との血縁を進めて生残りを図った事からその縁で九州北部には高くなっているのである。
この3氏の移動が秀郷一門にとってこれも「背後攻撃」の戦略上の大きな推進力と成った。

東北、北陸には鎮守府将軍としての赴任地であるが、地方に子孫を残すと言う「血縁戦略」としての結果程度である。この地方の血縁を受けた豪族子孫(小山、小田、花房(花山)武田等)の分家末裔が中部と東関東域に移動して勢力を高めた為に低くなった事と室町期以降に潰された事も言える。

赴任地も無かったが山陽地方の豪族に支配されていた山陰地方には殆どその力を伸ばしていない。
地理的な戦略上の意味も薄かったことも言える。

国別では、駿河、遠江、三河、尾張に根を張っている。
そして、信濃、美濃、甲斐の賜姓青木氏、賜姓源氏の勢力圏に勢力をも拡げている。
母方同族として縁を頼りに固めている事が判る。
又この地方には東北北陸から移動してきた血縁族の勢力圏でもあった事も左右している。
丁度、この分布を観ると、中部で日本を南北に縦断する様に「防御網」の「勢力の砦壁」が出来ている。
そして、その壁から西には、其処から関西では「前線網」を敷いていて、更に西には「第1背後攻撃網」を構築している。
特に、伊勢(24)、近江域(27)は賜姓青木氏の勢力圏であり、その力とのバランスを採り血縁を敷いて固めている。これはいわば「朝廷の抑止力網」を採っているのである。

東には確実な「領国安全網」を敷いている陣形網が観得る。これだけの血縁力では先ず背後から潰されることは先ず無いし、血縁力バランスが取れている。弱点が少ない。

四国からは瀬戸内を含めた「側面攻撃網」を採用し、九州からは北部に「第2背後攻撃網」を築いている陣形である。
これでは、他の勢力は攻め込めない。京平家、信長、秀吉が容易に潰せなかったのはこの「完璧な血縁網」が存在したからに過ぎない。
これでは生き残りは確実であった事が納得できる。

「完璧な血縁網」での陣形は次ぎの様に成るだろう。
「北陸防衛網」 :第1独立北陸司令部域(出羽地域警戒 側面攻撃網)
「中部防御網」 :本陣司令部地域
「関西前線網」 :最前線司令部域
「北九州第1背後攻撃網」 :門司博多背後司令部域
「畿内朝廷の抑止力網」  :前線司令部域  
「東部領国安全網」 :中央指令部域
「四国側面攻撃網」 :第2独立四国司令部域
「北九州第2背後攻撃網」 :敵陣司令部域

これ以外にも、下記の個別のデータからも、これ等のデータは他にも色々な検証のツールとして使えるものである。

国別(539)
539  青木氏 172  永嶋氏 46    長沼氏 84     長谷川氏 174   進藤氏 63
%   31.9%      8.5%        15.6%        32.3%        11.7%   

これ等のデータを使って主要5氏の勢力関係を表す事が出来る。
家紋分布から見ても、青木氏(31.9%)と長谷川氏(32.3%)は、兼光流と文行流との領袖として同じ勢力を持っている。
継いで兼光流で長沼氏(15.6%)、文行流で進藤氏(11.7%)と成る。
この場合、進藤氏は全進藤氏として観ている。秀郷流としては半分程度以下と観られる。
最後は永嶋氏である。8.5%は後発の原因である。「関東屋形」として急激に伸張したのでこの程度の「氏力」を得たのであろう。ただこの「氏力」は新しい元気の良い「氏力」であろう。
永嶋氏(8.5%)は、長沼氏、進藤氏(15.6、11.7%)との差はあるが、その氏力(勢力)はその後発の「若い勢い」と、伝統を重んじる長沼氏の「貴族的氏力」、「跡目の苦労」をしている進藤氏とは「実質の勢力」は同じ程度以上があると考えられる。

血縁族で観た場合や他のデータでの分析でもこの程度の結果が出ている。
この勢力で青木氏は「第2の宗家」として活動し、主要5氏は夫々の役割を果たした。

ここでは「氏力」として考察したが、これ等のデータは色々な物事の判断材料にも使える。

氏別と国別
総計 青木氏  永嶋氏   長沼氏   長谷川氏   進藤氏
東北地方 3 東北地方 3 東北地方 3 東北地方 3 東北地方 2
12 陸奥 03 陸奥 02 陸奥 03 陸奥 02 陸奥 2
02 出羽 00 出羽 01 出羽 00 出羽 01 出羽 0

関東地方 33 関東地方 08 関東地方 25 関東地方 23 関東地方 14
11 常陸 06 常陸 00 常陸 02 常陸 02 常陸 1
17 下総 05 下総 01 下総 04 下総 04 下総 3
15 上総 04 上総 01 上総 04 上総 03 上総 3
05 安房 02 安房 00 安房 02 安房 01 安房 0
15 下野 04 下野 02 下野 04 下野 03 下野 2
16 上野 04 上野 02 上野 02 上野 05 上野 3
14 武蔵 04 武蔵 02 武蔵 03 武蔵 03 武蔵 2
10 相模 04 相模 00 相模 04 相模 02 相模 0

中部地方 60 中部地方 16 中部地方 22 中部地方 66 中部地方 16
28 信濃 11 信濃 03 信濃 03 信濃 10 信濃 1
22 甲斐 07 甲斐 02 甲斐 02 甲斐 08 甲斐 3
04 伊豆 02 伊豆 00 伊豆 00 伊豆 01 伊豆 1
26 駿河 07 駿河 02 駿河 05 駿河 10 駿河 2
31 遠江 11 遠江 02 遠江 04 遠江 12 遠江 2
25 三河 08 三河 03 三河 04 三河 09 三河 1
28 尾張 10 尾張 03 尾張 02 尾張 11 尾張 2
15 美濃 04 美濃 01 美濃 02 美濃 04 美濃 4
01 飛騨 00 飛騨 00 飛騨 00 飛騨 01 飛騨 0

北陸地方 02 北陸地方 02 北陸地方 01北陸地方 07 北陸地方01
01 越後 00 越後 00 越後 00 越後 01 越後 0
01 佐渡 00 佐渡 00 佐渡 00 佐渡 01 佐渡 0
01 越中 00 越中 00 越中 00 越中 01 越中 0
00 能登 00 能登 00 能登 00 能登 00 能登 0
03 加賀 10 加賀 10 加賀 00 加賀 01 加賀 0
07 越前 10 越前 10 越前 10 越前 03 越前 1
00 若狭 00 若狭 00 若狭 00 若狭 00 若狭 0

近畿地方27 近畿地方12 近畿地方14 近畿地方26 近畿地方09
04 山城 01 山城 00 山城 01 山城 01 山城 1
06 丹後 02 丹後 00 丹後 01 丹後 02 丹後 1
07 丹波 02 丹波 00 丹波 02 丹波 02 丹波 1
05 但馬 01 但馬 01 但馬 01 但馬 02 但馬 0
03 播磨 01 播磨 01 播磨 00 播磨 01 播磨 0
04 淡路 01 淡路 01 淡路 00 淡路 02 淡路 0
08 摂津 02 摂津 01 摂津 02 摂津 02 摂津 1
05 和泉 02 和泉 01 和泉 01 和泉 01 和泉 0
03 河内 01 河内 00 河内 01 河内 01 河内 0
05 大和 02 大和 01 大和 01 大和 01 大和 0
02 紀伊 01 紀伊 00 紀伊 00 紀伊 01 紀伊 0
09 伊勢 03 伊勢 01 伊勢 00 伊勢 04 伊勢 1
06 志摩 02 志摩 02 志摩 01 志摩 01 志摩 0
02 伊賀 01 伊賀 00 伊賀 00 伊賀 01 伊賀 0
19 近江 05 近江 03 近江 03 近江 04 近江 4

中国地方18 中国地方02 中国地方11中国地方17 中国地方09
01 備前 00 備前 00 備前 00 備前 01 備前 0
16 美作 05 美作 01 美作 03 美作 05 美作 2
14 備中 04 備中 01 備中 03 備中 03 備中 3
09 備後 03 備後 00 備後 02 備後 03 備後 1
11 安芸 04 安芸 00 安芸 03 安芸 03 安芸 1
03 周防 01 周防 00 周防 00 周防 01 周防 1
03 長門 01 長門 00 長門 00 長門 01 長門 1

中国地方 0 中国地方 0 中国地方 0 中国地方 3 中国地方 0
00 壱岐 00 壱岐 00 壱岐 00 壱岐 00 壱岐 0
00 対馬 00 対馬 00 対馬 00 対馬 00 対馬 0
00 隠岐 00 隠岐 00 隠岐 00 隠岐 00 隠岐 0
02 出雲 00 出雲 00 出雲 00 出雲 02 出雲 0
00 石見 00 石見 00 石見 00 石見 00 石見 0
01 伯鰭 00 伯鰭 00 伯鰭 00 伯鰭 01 伯鰭 0
00 印旛 00 印旛 00 印旛 00 印旛 00 印旛 0

四国地方15 四国地方 2 四国地方 3 四国地方15 四国地方 7
13 阿波 04 阿波 01 阿波 01 阿波 04 阿波 3
16 讃岐 05 讃岐 01 讃岐 01 讃岐 06 讃岐 3
06 伊予 03 伊予 00 伊予 00 伊予 03 伊予 0
07 土佐 03 土佐 00 土佐 01 土佐 02 土佐 1

九州地方14 九州地方 3 九州地方 5 九州地方14 九州地方 5
07 筑前 03 筑前 00 筑前 00 筑前 03 筑前 1
06 筑後 03 筑後 00 筑後 00 筑後 02 筑後 1
10 豊前 03 豊前 01 豊前 01 豊前 04 豊前 1
10 豊後 03 豊後 01 豊後 02 豊後 03 豊後 1
03 肥前 01 肥前 00 肥前 01 肥前 01 肥前 0
05 日向 01 日向 01 日向 01 日向 01 日向 1
00 大隈 00 大隈 00 大隈 00 大隈 00 大隈 0
00 薩摩 00 薩摩 00 薩摩 00 薩摩 00 薩摩 0
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藤原秀郷主要5氏と家紋の研究 史料 9/10(家紋分布の分析)

藤原秀郷主要5氏と家紋の研究 史料 9/10(家紋分布の分析)
投稿者:福管理人 投稿日:2009/01/25(Sun) 08:23:27


史料 9/10(道別、国別、地域別の家紋分布の分析)

主要5氏の家紋の地域分布の状況
(青木氏121家紋を含む主要5氏家紋数361とそれに関連する家紋)
(作成要領と注意は史料 7/10と同じ)

A 全体綜合(道別の詳細は下記参照)
東北地方 14  2.6%  
北陸地方 13  2.4%
関東地方 103 19.2%
中部地方 180 33.5%
近畿地方 88  16.4%
中国地方 57  10.6%
中国地方 3   0.5%
四国地方 42  7.8%
九州地方 39  6.9%

合計   539

この各地に分布する秀郷一門の血縁族の家紋を各地(66国)にプロット(B)し、それを上記地方(A)にまとめた。
その時代を「氏家制度」の社会システムが崩れていない江戸中期までのものとして使用した。
但し、同じ家紋が国地方を跨ることはあり合計539と成る。

このデータで利用の仕方如何では秀郷一門の「生き様」のさまざまな事が判る。
秀郷一門の主要5氏の血縁分布では、上記の様に成る。

東北、北陸地方は代々鎮守府将軍として赴任した土地柄である。
「秀郷一門の血縁戦略」即ち、その土地での血縁族を増やし、地固めをして行った結果によるが、この地方ではそれなのに意外に少ない。
この地では小山氏、小田氏、花房(花山)等の多くの土豪と血縁氏しその血縁族が関東に出て勢力を伸ばした。
その中でも代表的な氏として、足利、武田、小山、花房(花山)、小田氏等が関東豪族としてあるが、他の土地との比較からすると少ない。全体の5%に過ぎない。
秀郷より発祥11代までで大体6ー7代頃まで続いたこの官職で、尚且つ、前発族である土地柄であって、宗家の土地柄血縁族である。その後も進藤氏や利仁流が引き継いで行った土地であるのに不思議に低い。
このデータは一門の各地での勢力分布としても観られるデータである事から観ると、史実、殆ど疎遠だった中国地方の山陰地方のデータから比較しても「鎮守府将軍」として務めた土地柄とは思えない数字である。これは何故なのか疑問が大いに湧く。何か子孫を遺せなかった出来事が起こった事を物語る。

つまり、血縁が進まなかった事になるが、末裔が広がるチャンスが無かった事を意味するのであるから、結論的には”時代の変化”に対応出来無かった事に成る。
そうすると、末裔を遺せなく成るような事が次ぎの様な「時代の変化」によって起こっている事に成る。それはどのようなものなのか先ず史実を拾い出してみる。
その中から何かが見えてくる筈である。

陸奥地方の秀郷一門の子孫存亡の時代の経緯は概容は次ぎの様な事に成る。
一つは鎮守府将軍から征夷大将軍に権力が転換した事にもよる。
二つは源氏勢力と藤原勢力が勢力を後に二分した事にもよる。
三つは鎌倉幕府樹立後の秀郷一門の失職離散と国換えなどの体制整理に基づくものによる。
四つは室町幕府樹立後の「下克上戦国時代」「足利氏探題」として大きく勢力を伸ばした事による。
五つは安土桃山時代の「全国平定」の変化(殺戮戦)に上手く対応する事が出来なかった事による。
六つは江戸時代の安定期に仕官等の対応が上手く出来なかった事による。
この程度であろう。

そこで、この中から史実から観てみると、藤原秀郷一門の基盤をこの陸奥の地に固めた時期としては「鎮守府将軍」と成ろう。
「鎮守府将軍」は多賀城に724年から軍政府を置いた時期からと始まる。
802年に胆沢城、志波城に移して4等官制にして運営されたが、これ等の政治的支配を嫌った地元の「伊治砦麻呂の反乱」が起こり、更に「征夷大将軍」の坂上田村麻呂が藤原氏と合力して当地域を支配していた「アテルイ(阿弓流為)」を破り811年頃までに征圧した。その様な土地柄である。
その後、この「朝廷軍」の「征夷代将軍」の勢力が大きく成り、かなり静まったが依然としてその土地柄の「独立性の強い反骨性」は残っている。史実を細かく見ると各地で燻っているし、北海道の彼等の勢力は以前として維持されている。
第一彼等の首魁アテルイを攻めて討ち取ったのでは実質ない。4度戦ったが勝負が着かなかった。そこで、「一時停戦」を理由に天皇に合わせると云い名目で引き出し、途中で「騙まし討ち」をしたのが史実である。この間約90年経っている。首魁を失った彼等は一時勢力を落としただけである。彼等には大した勢力の低下は無い。
その中で、一方征夷代将軍を含む全体としての「朝廷の軍事力」の低下も起こり、各地で反乱が頻発する。朝廷は陸奥の反乱を何とか押さえ込む為に苦慮していた。
一方の関東では、この5年も掛かっても誰も平定する事が出来ずに居た「独立国反乱」を打ち倒した秀郷に対して、朝廷は「威信低下」の窮地を救ったので最大の讃美を送った。
940年に秀郷が、「独立国反乱」の「平将門の乱」平定後、その中で、その勲功からはこの陸奥の地の治安を「鎮守府将軍」としては藤原秀郷一門が再び担う事と成り結果は陸奥は盛り返した。そして、彼等との血縁族を広げて懐柔策にでて成功する。
そして、この勢いは秀郷5代目「頼行」の処(1050-75頃)まで続くが、その間この秀郷一門は9人、利仁流は2人がこの役目を担ったのである。
ところが、渕名氏の始祖と成った兼行(1080頃)のところからは一段下の官職の「押領使」に留まり、秀郷一門は関東以西赴任地の各地にシフトされる事と成る。この時期が事の「変曲点」と成っている。
その後、官職は北陸道7国の「押領使」に変化していて、この地域は秀郷流が手を引き引き上げて信濃や甲斐や美濃や阿波などへと赴任地を移している。この時期から北陸東北地方を利仁流が担う事と成った。当然に、この時期、陸奥の血縁族の分家筋は秀郷一門の護衛として同行したのである。
そして、中部山岳地方にその勢力を伸ばす事と成ったのが陸奥血縁族の花房氏の足利氏であり、同じ陸奥血縁族の小山氏の武田氏でありその後の常陸の小山氏でもある。
ところが1185年の「鎌倉幕府樹立」で秀郷一門は足元をすくわれて失職離散で衰退したにも関わらず、頼朝に合力した秀郷5世孫の「朝光」が藤原秀郷一門の元の領国の常陸「結城」等を本領安堵(1192頃)され一門は下総結城の「広綱」の下で息を吹き返し復活した。
その息を吹き返した朝光の孫の弟の結城の「裕広」が、この陸奥白河に移り「白河結城氏」として再び陸奥で勢力を盛り返した。150年後の1335年頃である。
室町期に入り、更に秀郷一門、特に秀郷流進藤氏は足利氏の大老として活躍し「陸奥出羽国探題」に同行して再び陸奥出羽国に根を降ろす(1365)。陸奥は結城氏と進藤氏が固める事と成った。
しかし、この後、この秀郷流進藤氏は跡目継承に恵まれず子孫をおろか本家の血筋さえもを拡大する事は出来なかった。
そこで遺された陸奥の白河結城氏は南北朝末期(1370頃)に陸奥に下向した南朝(後村上天皇)に加担したにも関わらず、陸奥白河氏結城氏の秀郷一門は北畠氏の援護も受けて生き延びる事が出来ている(200Y)。ところが安土桃山時代(1573年頃)に成って全国平定の秀吉によって末裔末孫まで尽く潰される。これで陸奥には秀郷一門の息は途絶える(1590Y)。
この時、結城の結城氏は足利氏に合力(伊勢長嶋北畠家を軍師として迎え入れた)し勢力を持ち返すが、更に窮地に陥った秀郷一門の残存勢力の陸奥の結城白河氏は、秀吉にとっても暦戦上ただ一つの汚点となる過酷な戦いとなり、秀郷一門陸奥の勢力挙げての必死の戦いにも関わらず「末孫まで尽く滅ぶ有名な過酷戦」をした。ここで子孫は滅んだのである。この時、天正17年(1590)義親の時であった。
所謂「天正(17)陸奥の戦い」で有名であるが、秀吉は北畠氏をも「天正伊賀の乱」(伊賀攻め、長嶋攻め:1-3次)の「伊勢長嶋攻め」(1579-1591)で滅ぼしてしまった。
(注 秀吉2つの失敗の一つで「焦った無理押しの戦い」で大きな犠牲を払ったがこの後この反省から秀吉は2度と「無理押しの戦い」をしなかったがその反省の基になった苦い戦いであった。)

この時、陸奥では差し向けられた藤原秀郷一門の近江の蒲生氏と、陸奥白河氏の藤原秀郷一門との藤原秀郷一門同士が戦う悲惨な結果と成ってしまったのである。結果として秀郷一門の蒲生氏は陸奥と伊勢の「一門同士の戦い」を2度強いられたのである。
このために、進藤氏の跡目継承問題を始めとして結城白河氏の秀郷一門の子孫を潰してしまい多く遺せる状況では無かった。「時代の変化」に翻弄され陸奥一門は滅亡したのである。
950年から1591年に及ぶ「時代の変化」の期間である。この史実が低いデータと成っている。

しかし、陸奥の血縁族の小山氏、花山(花房)氏、足利氏、武田氏、佐竹氏は、信濃、甲斐と、常陸では「関東屋形」と呼ばれるほどに勢力を伸ばし生き延びたのである。
只、足利幕府と鎌倉公方との戦いで鎌倉方に味方し「関東屋形」は「永享の乱」(1439)でこの下総結城氏、下総小山氏ともに一時、「結城合戦」で没落した。その後、「政勝」の代で盛り返す。
結城氏、小山氏、佐竹氏、宇都宮氏の4氏の「関東屋形」は反対に勢力高めたのがこの「時代の変化」の経緯である。この様に明暗を分けた陸奥と結城で血縁劇が起こったのである。
時代としては、恐らく「鎮守府将軍」から「西域に赴任地を変えた事」が「子孫繁栄」に大きな基点を作り出した事が「時代仕儀の変わり目」と成ったのである。

では何故、陸奥一門滅亡のきっかけの原因と成った「一門が戦略上で西域に移した決断」をしたのか疑問である。
この決断が滅亡を導く事は誰でもが判るに、あえて決断したのは秀郷宗家とその一門に何かこの大きな事件が起こったからであろう。

本文の史料を読むと理解されると考えるが、事前に少し背景を述べる。
そのキーは「阿多倍一門」の知識であろう。未だ把握していない方は多くのレポートで記述しているので参照されたし。これを説けばその決断した理由が浮かび上がる。
兎も角も、それは阿多倍の長男の坂上田村麻呂の朝廷軍の「征夷代将軍」と、藤原氏四家の最大勢力を誇った北家秀郷一門の「地方統治軍」(押領使)の違いにあろう。

(参考概容 後漢末帝献帝の子(石秋王)の子阿智使王とその子阿多倍は200万人の職能集団を引きつれ大化期に帰化、66国中32国を無戦支配し政治経済で桓武天皇の律令体制を完成、日本の第1次産業の基礎を築く、朝廷政治の6割を官僚支配する。桓武天皇の母で阿多倍の孫娘高野新笠、阿多倍は敏達天皇の曾孫芽淳王の娘と結婚し、准大臣を拝命、3児、伊勢伊賀と大隈半島の半国を割譲、桓武平氏の祖、九州の「遠の朝廷」歴史上只1家の「錦の御旗」を正式に与えられた氏と呼ばれる、大蔵氏の永代太宰大監、中国地方の支配者陶族大内氏、関西以西支配者の桓武平氏と坂上氏、九州支配の大蔵氏、出羽支配の内蔵氏、伊賀阿多倍の末裔の阿倍氏等の一門末裔末孫大きく、藤原氏の勢力をはるかに凌ぐ一門。阿倍氏は政権では藤原氏と均等する勢力を保持した)

当時は、この様に「3つの軍」に依って軍構成が成されていた。
もとより、青木氏の天皇を護る親衛隊の「近衛軍」後には北面武士と呼ばれた、朝廷の征夷代将軍の「国軍」、と各国を護る「地方統治軍」(押領使や大監や探題や鎮守府将軍)に分轄されていた。
(このシステムは室町末期まで実質的に維持された)
そして、この朝廷の「征夷代将軍」は坂上氏の通り後漢の帰化人の末裔が担う軍であった。況や、その坂上氏ら3氏の末裔の66国中「関西西域32国」を支配統治する「平家軍」である。
方や「関西以東域」に勢力を張る藤原秀郷一門の地方統治軍である。
(北九州の大蔵氏の太宰大監や九州探題、中国地方の陶氏も平家一門)
この「時代の変化」は室町期までその様に動いた。
この勢力分布から、秀郷一門等にとっては「生残り」の為にも必然的にシフトを変えるが戦略と成ろう。まして、この帰化人末裔の平家を含む阿多倍一門の坂上氏等の末裔は朝廷の実権の3つ中2つまで(6割)握り、且つ、官僚の6割までを阿多倍一門を占める状況となり勢力を高めた。
更に、ここに坂上氏の親族の内蔵氏血縁族一門がこの北陸道と東山道に浸透しその実権も握り始めた。
鎮守府将軍としてアテルイ一族をほぼ鎮圧した形と成ったが、別の阿多倍の平家一門を含む大勢力が既に北陸道7国まで主に内蔵氏と阿倍氏が浸透してきたのである。
32/66国の関西以西勢力圏域だけでは無い。
これ等の勢力に依って秀郷一門は戦略的に「挟み撃ちの形」に填ったのである。
この時の勢力圏の陣形を纏めてみる。

言葉を整理する為に、次ぎの表現とする。
平家一門を含む後漢帰化人の首魁阿多倍の末孫一門を阿多倍一門と呼称する
坂上氏一族、大蔵氏一族、内蔵氏一族、阿倍氏一族、技能集団の首魁陶氏一族とその末裔の大内氏、そして、平氏(たいら族)一族等。
(内蔵氏や阿倍氏の末裔子孫の詳細は別に記述する。)
(秀郷一門(主要5氏)利仁一門は既に本文に記述)

陣形
A 関西以西勢力圏を阿多倍一門が保持 
B 中部関東以東の秀郷一門の勢力圏を保持
C 北陸道は秀郷一門に阿多倍一門の内蔵氏と阿倍氏が侵蝕進出。
D 北陸道を秀郷一門から利仁一門と進藤氏に任す。
E 中部地方以西域に秀郷一門進出 
F 関西以西の阿多倍勢力圏を四国地方の讃岐籐氏等の秀郷勢力圏が中国地方の沿岸域を侵蝕進出
G 九州北部地方の阿多倍一門の大蔵氏勢力圏に秀郷一門の永嶋氏(青木氏、長谷川氏)が侵蝕進出

陣形の動静
この2つの陣形の本拠地 阿多倍一門のA、秀郷一門のBは勢力圏安泰
本来Cが秀郷一門の勢力圏域に阿多倍一門の内蔵氏と阿倍氏が末裔を広げて侵蝕して進出。
本来Dが阿多倍一門の勢力圏域に秀郷一門の永嶋氏と青木氏と長谷川氏が末裔を広げて侵蝕して進出

CとFで互いの末端勢力圏が侵蝕される「氏存続の戦い」となった。
この様に、互いに侵蝕しあっていた。しかし、ここに愕然と勢力の違いがある。
それは、支配国数から 阿多倍一門>秀郷一門*2 式に成る。
この数式から、明らかに秀郷一門は領国を護るために陸奥を捨て中部関西東部域にシフトを余儀なくされたのである。この中心と成ったのが勿論護衛軍の青木氏であり主要5氏に号令を出して統治したのである。

この侵蝕CFの結果、次ぎの事が起こった。
A 北陸道の陸奥出羽から秀郷一門手を引く。後を進藤氏と利仁一門に任す
B 阿多倍一門は秀郷一門の背後に北陸に二つの氏の基点を置き血縁子孫を増やす
C 阿多倍一門は近江滋賀に坂上氏、伊勢伊賀地方に阿多倍末孫が進出する。
D 秀郷一門は、阿多倍一門の北進を食止めるべくCの力をEに振り向ける
E 秀郷一門は、関東以北の勢力圏を関東以西に方針転換する。
F 阿多倍一門は秀郷一門の本拠地の関東勢力圏の北側の背後を突く。(内蔵氏、阿倍氏)
G 阿多倍一門は秀郷一門の陸奥出羽の北端勢力圏域を侵蝕する。
H 逆に秀郷一門は阿多倍一門の関西以西勢力圏の本拠地を四国の秀郷一門の勢力を以って瀬戸内沿岸域を突く。

つまり、「時代の変化」に対する動静は次ぎの様に成る。
1 末端勢力圏を両者が突く。
2 中央域では北進西進で衝突。
3 両者はその本拠地を側面から突き合う。
この勢力の3つ動静の陣形が出来上がったのである。

藤原秀郷一門と阿多倍一門の2つの陣営の勢力争いはこの様な形で動いた。
しかし、これには未だもう一つの勢力が考察されていない。
阿多倍一門から観た動静だけでは無く、秀郷一門から観た動静では無く、又両者二つから観た動静では無く、これにもう一つの勢力が考察されて加えられて真実の動きのある史実通説が生まれるべきである。しかし、現実の現在の通説はこの一方からが多い。それは、その3者の全ての血縁から含むあらゆる史実を掴まなくては出来ない。しかし、阿多倍一門の事や藤原秀郷一門の事にしても研究発掘の史料は殆ど無いのが現実である。
幸い青木一族に関する史料と関連氏(秀郷一門と阿多倍一門含む)のは何とか網羅できる程度に保有した。依ってより正しい史料が出来ていると考える。

さて、そこで、もう一つの勢力である。
当然、近畿域圏を勢力範囲として持っている氏は、主に3氏である。
既にお気づきと思うが、第6位皇子より発祥した皇族賜姓青木氏5代5家5流と、同族賜姓源氏11代4家である。16代の皇族賜姓族である。これ等の末裔末孫である。
そして、天智天皇第7位皇子の賜姓族の佐々木氏、宇多天皇の第6位皇子の賜姓滋賀佐々木氏である。つまり、皇族賜姓族3氏である。
この他に、清和源氏配流末孫大島氏と嵯峨期の皇族青木氏3氏であるが、史実上勢力圏を云々する程の氏力(子孫繁栄)を保持しなかったのでここでは除外する。

即ち、上記の勢力式 阿多倍一門>秀郷一門*2の2を補う勢力と成った氏である。
この結果、勢力式はまだ 阿多倍一門-0.5=>秀郷一門 式に成った。

この阿多倍一門と藤原秀郷一門の2大勢力と、上記3つの皇族賜姓族3氏の1勢力との考察が加えられて始めて「正しい動きのある史実」が観得て来るだろう。
既にこの皇族賜姓族の詳細はレポートされているので参照されたい。

先ずそこで、この皇族賜姓族3氏の勢力が上2つの勢力図にどのような変化を与えるであろうか。如何お考えか。

さて、この勢力圏は言わずもがな、当然、天智天皇からの親衛隊を担う近畿圏の中央である。
皇族賜姓族3氏は賜姓青木氏は5国(伊勢近江を含む東山道中部)を勢力圏としている。
源氏は当然、畿内5国である。実質は清和源氏が支配する。
(11代の源氏の中、嵯峨、村上、宇多源氏が一時勢力保持するが後に消える)
佐々木氏は近江滋賀を2勢力圏とし清和源氏の畿内5国と協調する。平家との軋轢で北陸道に移る。

この近江伊勢2国と東山道中部3国の5国と、畿内5国が勢力圏と成る。
以上を、「皇族賜姓族3氏10国」と呼称する。
この地域は阿多倍一門と藤原一門の勢力圏外である。明らかにポケットに成っている。
「皇族賜姓族3氏10国」には子孫は拡大していない。
これは大化期よりの詔「不入不倫の権」の保持による原因と観られる。
当然、この「皇族賜姓族3氏」(10国)藤原秀郷一門との血縁族と成っている。

平安末期
「阿多倍一門」(32)><「藤原秀郷一門」(24)+「皇族賜姓族3氏」(10)の構図と成る。
上記の説明による勢力圏のこの陣形は平安末期まで続く。

陣形
末端勢力圏を両者が突く。
中央域では北進西進で衝突。
両者はその本拠地を側面から突き合う。

鎌倉期に入り、次ぎの様な陣形と成る。
1185年に平家が滅亡する。中央域の「皇族賜姓族3氏」(10)は安泰と成る。
頼朝は「平家没官僚」策を実施する。関東域の平家領地は秀郷一門に本領5国安堵される。
源氏と藤原氏への2度の「本領安堵策」を実行する。阿多倍一門は中国9国を失う。
北九州の大蔵氏の支配は元寇の役で崩れる。阿多倍一門九州5国を失う
北九州3国を藤原秀郷一門が支配する。
大蔵氏と永嶋氏は血縁する。阿多倍一門と秀郷一門の末端勢力は共に崩れ始める。

鎌倉期
各時代の全国の大名の家紋から観た氏系列と土地の血縁豪族数から計算

一門の末裔実効勢力の陣形
「阿多倍一門」(13)<「藤原秀郷一門」(17)+「皇族賜姓族3氏」(10)

室町期
「阿多倍一門」(13)<「藤原秀郷一門」(19)+「皇族賜姓族3氏」(3)

安土桃山期
「阿多倍一門」(4)<「藤原秀郷一門」(9)+「皇族賜姓族3氏」(1)

江戸期
「阿多倍一門」(3)<「藤原秀郷一門」(7)+「皇族賜姓族3氏」(0)


関東地方103を領国として、中部地方180はその主勢力を西に進めて「西固め」していた事が判る。最大の勢力圏を示している。
当然であろう。上記の勢力分布を示している以上は当然にこの域を先ず固めることが必要である。
関東が20%で固め、出先の勢力圏の中部地方は34%で最も勢力を割いている。
秀吉に依って全国を完全に軍事統治出来た中でも、関東と中部は陸奥の様な衰退は起こっていない。
室町期、安土桃山期のそれは「転封」と云う形で行われても、既に各地に分布する一門を率いて新興勢力の上級武士として仕官する体制に成っていた事により末裔を減らす事無くむしろ増やせる状況にあったからである。むしろ、新興勢力は藤原一門を挙って家臣の上位に据え、その勢力を根こそぎ集めて自らの勢力の安泰を図ったのである。
徳川氏はそれを行ったその最たる氏ではないか。
甲斐の諏訪族を中心とする武田軍や東国の藤原秀郷一門をごそりと雇いいれたから秀吉は関東にその勢力を強く伸ばせなかった事だし、江戸に追い遣ったのもこの事からである。
私は、秀吉はこれが判断の失敗したと観ている。
中部から関東に掛けての勢力を持つ藤原一門の根拠地である。信長も決して手が出せなかった地域である。それだけ主要5氏の一門で固めた大きな地に根づいた勢力を保持していたのである。
北陸東北中部関東地域を観ると60%である。これだけ60%で主要5氏で固めた氏を最早「氏家制度」の中では余程失敗しなければ潰されないだろう。まして、陸奥では失敗している。
秀郷流進藤氏では跡目の問題を持っていた進藤氏では維持出来ない事から利仁流進藤氏の血縁で固め様とした策を労したが時代では追い切れ無った事を提示する。
その後もこの関東以北は大きく犯されなかった事が勢力を温存する原因に成っている。
それが、新興勢力に入り勢力維持が出来子孫を遺せたものであろう。
一門の6割を使って生残れたのである。

近畿関西地方は88と16.5%と割いているのはもとより北家の地元からであり、皇族賜姓青木氏との連携もあっての事でもある。四国を除き姓の「藤」の字の着く一門の西限が紀伊半島の伊藤氏を始めとして以東地域である事も物語る。
後は、中国地方は四国地方との連携に依って勢力圏が起こっているのである。単独ではない。
藤原秀郷一門が中国地方に赴任して血縁を拡げたのは3国で周防3代と美作1代と安芸1代である。
この地は陶族を始めとする室町末期まで最大勢力として第1の平家末裔一門の統治地域であった。にも関わらず、血縁を遺せない筈であるのに主要5氏の幾つかの氏を出している。
これは一体何故なのか疑問がまたもや湧く。
その答えは二つ挙げられる。
瀬戸内を中心として「2足の草鞋策」を採った「讃岐籐氏」がこの海を廻船問屋として支配し続け抑えていた事である。
そして、平家末裔の水上水軍と渡り合いながら、この経済力を背景に中国地方に神紋寺紋の連合集集団を形成していた事による。

四国討伐は秀吉も手を焼いたが深追いはしなかった。地元から這い上がった四国を支配していた藤氏秀郷一門長宗我部氏に土佐の国を与えて最終統治した位である。
もし最終まで長期戦で戦ったとしたら一門の動きでは時代はどう変わる判らない「経済力と武力」を持っていたのである。
もし、長期戦となれば、私は秀吉は負けたと観ている。
最大の敵の藤原一門を家臣に抱えた徳川氏が動くからである。又、四国全土に長期戦を行える「氏力」を持っていたからである。「讃岐籐氏」の青木氏を中心として瀬戸内の勢力を動く事に成れば秀吉とは同じ「経済力」を背景とするから戦いの実力の差はないので互角に戦える。
あるとすると、動向に依って利点とする場合は「徳川氏の動向」であり、弱点とする場合は「単独攻撃戦」であろう。秀郷一門の「絆」がこの弱点を補っている。
とすると、秀吉には不利と成る。その不利を招くのは長期戦である。秀吉もこの同じ考えに成っていた筈である。だから秀郷一門を潰さない形から勝利とする形式上ものとして処理したのである。
両者それを納得して軍師の条件を呑んだ。だから四国は生き延びたのである。

この二つの結果から、阿波の片喰族と剣片喰族、讃岐の青木氏、土佐の青木氏、愛媛の藤氏が海向こうに血縁族を広げて瀬戸内の水際に勢力圏を張った。この勢力は史料から昭和初期まで勢力が維持されていたと言われるくらいである。
多く青木氏が中国地方瀬戸内に多いのはこの事から来ている。
四国の7.8%と中国の10.66%と合わせると19%程度である。
秀郷一門の2割の勢力をこの一点に絞って集められていたのである。
中国地方の10.6%の数字が大きい。
3国の赴任地であるにしては。これはこの結果から来るのである。
四国の勢力からすると7.8%も低いのも2つの同じ結果ら来る原因である。
その勢力は山陽地方57まで届いていた事が判る。山陰は殆ど届いていない。
四国42と瀬戸内を武力と経済力で抑えていた「讃岐籐氏」の青木氏の支配下にあり固い地盤である。当然、平安期からの赴任地でもあり歴史的地盤もある。5氏の共通血縁族主要8氏の主力で領国から来た片喰族、剣片喰族の土地柄である。最も青木氏の強い勢力圏である。最終、秀吉に依って潰されたが、長曾我部氏末裔一門の土地柄である。

特長あるのは、九州地方37は北九州の4地方であり、「飛び地勢力圏」で赴任地の影響でもあるが、この4地方の豪族が関東に移動し、秀郷一門と血縁を広げた九曜紋族の末裔の紹介で拡がったものでもある。
北九州と西中国に分布する巴紋族と、下総上総等に分布するその末裔の秀郷一門の佐野氏、結城氏、小山氏の巴紋族から出た永嶋氏と、長沼氏の関係も働き、更に、近江の長谷川氏の支流族の「釘抜き紋」の移動末裔の北九州族もあり、この勢力圏から外れた土地に青木氏の「縁者血縁紹介」でこれだけの勢力を築いたのである。
北九州3国赴任地の肥後、豊前、豊後には秀郷流青木村を形成するくらいに定住している。
あわせて、大蔵氏の永嶋氏の存在もあり、約7%の勢力築いていた事に成る。
この形の勢力圏を保持して現在の末裔子孫を維持したのである。
子孫存続のあり得る条件が「時代の変化」に秀郷一門が一部では潰されたが、相対的にマッチングしていた事を意味するが、「氏家制度」の中で、青木氏の主導があったからこそあり得たのである。
この様に史実に基づく「時代の変化」と「秀郷一門の血縁族」の研究とを比較するとその「生き様」を観得て来るのがおもしろい。これが「動き」のある「真実の史実」ではないかと思える。

この様に本節本文を含み検証すると「通説の史実」と違うものが出て来る。それがおもしろいのではないか。
上記の結果の主要5氏の勢力内訳は次ぎの通りである。

B 個別綜合(地方別の詳細は下記参照)
青木氏       永嶋氏      長沼氏      長谷川氏      進藤氏
東北地方 3   東北地方 3  東北地方 3   東北地方 3    東北地方 2 
北陸地方 2 北陸地方 2 北陸地方 1 北陸地方 7    北陸地方 1
関東地方 33  関東地方 8  関東地方 25  関東地方 23   関東地方 14
中部地方 60  中部地方 16 中部地方 22  中部地方 66   中部地方 16
近畿地方 27 近畿地方 12  近畿地方 14 近畿地方 26   近畿地方 9
中国地方 18 中国地方 2   中国地方 11 中国地方 17 中国地方 9
中国地方 0 中国地方 0 中国地方 0 中国地方 3 中国地方 0
四国地方 15  四国地方 2    四国地方 3   四国地方 15  四国地方 7
九州地方 14 九州地方 3  九州地方 1  九州地方 14 九州地方 5

主要5氏の地方別の分布を分析したものである。
上記の史料8での役割もこの史料でも確認出来る。
関東の入間を中心に神奈川横浜を半径に「青木氏116氏」の本家筋を螺旋状に置き護衛をし、武蔵下野に領国しながら、「青木氏」は中部地方を中心にピラミッド型の血縁族を築いていた。
四国、九州地方は上記の綜合で記述した通りの特長である。それだけに他の主要4氏とは血縁力が高い。
この「青木氏116氏」とほぼ同じ血縁力分布を示しているのは、矢張り殆ど同じ「氏力」111氏を持つ「長谷川氏」である。兼光流と文行流の主力領袖の所以である。
丁度、「青木氏」と「長谷川氏」のその中間の血縁力の分布とレベルを示すを示すのは、長沼氏58である。やや関東よりの分布である。
これは史料8/10-2の長沼氏の地元を固める「政治的役割」を明確に示すデータである。
武蔵7党の「西党」を統括して地域の地侍の集団をまとめていたとすることを証明するデータでもある。
ここには、秀郷一門の神紋寺紋の氏子檀家の連合集団体と相まって大きな秀郷一門の「血縁戦略」が観えて来る。
血縁族を只羅列しただけではなく、この様に血縁をし、それを「組織化」してその「血縁の力」を最大に発揮出来る体勢も採っていたのである。
同じく関東地方には「武蔵7党」、
中部地方には「伊川津7党」等の「地方豪族の連合体」
史料8の広域的な「氏子檀家の連合集団」との血縁族にて固められ、尚、本筋の「主要共通血縁族8氏」とがある。
主に組織的にはこの「3つの集団」で守られていた事に成る。

永嶋氏35は長沼氏48と違い中間の血縁力の分布を示すが、やや関西よりに分布である。
青木氏と長谷川氏、長沼氏と永嶋氏とは対照的な特長に「戦略上の違い」がはっきりと出ている。
そこで、進藤氏52は中部に主力を置きながらもやや関東よりであり、永嶋氏と同じレベルの逆に成っている。
5氏の関係が不思議なほど戦略的に理屈が分けられている。「第2の宗家」の青木氏の「恣意的戦略」が働いているとしか観えない。
このデータは色々な分析に使用できる。本文の考察を証明する最大の史料ものであろう。
その内訳の内容は下記のデータを参照。

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