青木氏の分布と子孫力-8
[No.312] Re:青木氏の分布と子孫力-8
投稿者:takao 投稿日:2014/05/07(Wed) 16:25:40
青木氏の分布と子孫力-8
・「讃岐青木氏」
さて、ここからは改めて歴史論をお読み頂くとする。
話を中国地方の「讃岐青木氏」に戻す。もう少し「讃岐青木氏」を考察する必要がある。
従って、中国地方のパラメータは、次ぎの通りである。
「讃岐青木氏」=「島根2+広島3+岡山0ー1」=5-6である。
(移動と入植定住は入れない)
(本来、秀郷一門には、赴任による定住はあるが、各地域の単純移動の定住は原則ない)
「陸奥青木氏」は、室町末期に「結城陸奥永嶋氏」と合力して、「秀吉と戦い」で敗戦して北海道に移動逃亡した。
「伊勢秀郷流青木氏」も陸奥で合力し敗戦した。
この「陸奥青木氏」と共に、越後域からも「越後青木氏」が明治期に入植移動した。
「瀬戸内の讃岐秀郷流青木氏」以外に入植定住したとする記録には、次の記録が観られる。
1 「信濃青木氏の神職(:明治期)」
2 「陸奥青木氏(秋田 青森: 室町末期 明治期)」
3 「越後秀郷流青木氏(明治期)」
4 「甲斐の武田氏系青木氏(花菱紋と抱き角紋: 越後移動 明治期)」
5 「越後の諏訪族青木氏(抱き角紋 :室町末期 明治期」
以上は「家紋分析」からも納得できる。
そもそも、「陸奥青木氏」は、「陸奥結城永嶋氏」が滅んだ「天正17年」と「明治期」にも入植定住した。
この五家の「明治期の入植定住」が、記録と家紋分析論と守護神論の調査で判るが、現在までとしてその期間は”150年”に成る。
上記の「子孫拡大」は、最速で150/90年、で約1.5倍と成る。
「讃岐青木氏」は、パラメータの「埼玉武蔵の17の子孫力」と同じ程度の「子孫力」を持っている筈である。
これを基準に、この「瀬戸内からの子孫拡大」(讃岐青木氏)の「パラメータが8」として吟味して観ると、次ぎの様なパラメータが出る。
(但し、”「子孫力」”は拡大して行く力を除いたもので「静の定義」、”「子孫拡大力」”は推し進める力として「動の定義」として区別して使う。)
1-「長野 9」の内の「神職の子孫力」は、パラメータとしては1に満たない。
「神職」と云う職業柄で、その為に大きく「子孫拡大」を図れない職業に起因する。
一応、パラメータは0ではないので・ 0.3とする。(家紋分析数の比)
2-「秋田 0」である事からパラメータを持たないが、少なくとも歴史上記録がある事から0ではないので、これも・ 0.2とする。
問題のパラメータ0域の「秋田」は、少なくとも天正期までその子孫を保っていた事から完全滅亡ではない。
少なくとも 「越後4」や「福島4」 に匹敵する以上の「子孫力」を持っていた。
或は、「山形2」や「宮城2」 の2倍から3倍に匹敵する「子孫力」を元来持っていた。
この事からは、「家紋分析数の比」からも明治期までには、その「子孫力」は持っていた。
天正期に滅んだ事に依って、確かに「子孫力」は明らかに低下している事は否めない。
しかし、決して0域ではない。
3-「越後 4」ではあるが、この4には、武田氏滅亡時の「武田氏系 諏訪族系の2氏」の分も含む事から得られる。
逃亡域には、神奈川・横浜域の逃亡と新潟域の逃亡と土佐行の逃亡がある。
この新潟の越後域にはこの2氏が逃亡した。
この事からは、「家紋分析数の比」から1/8なのでパラメータは凡そ・ 0.5と見込む。
4-「甲斐青木氏」は越後に定住後に明治期に移動している。
甲斐の「子孫力」が、「越後の青木氏」(家紋分析数の比)から1/5として、・ 0.2と見込む。
(逃亡外としては、「埼玉の鉢形」と「武蔵の八王子」に、「武田氏の皇族青木氏」の強制疎開がある。)
この事からは、「家紋分析数の比」から1/8なのでパラメータは凡そ・ 0.5と見込む。
5-「信濃の賜姓族の諏訪族青木氏」が、武田氏滅亡で巻き込まれて越後に逃亡した。
その後に室町末期と明治期に入植移動した。
以上は史実であるが、「家紋分析数の比」から観て小規模でパラメータに出ない程度で・0.01とする。
これで1から5の総計は、パラメータは1.7である。
これに仮に年数を比例的に観て、上記最速で 「150/90年」、で約1.5倍の「倍数1.5」を乗じるとパラメータは2.5と成る。
そこで、「北海道の11」 「讃岐青木氏の7」である。
計算して11-7=4の内、2.5を占める。
そうすると、4-2.5=1.5のパラメータが残る。
北海道の「パラメータの11」の内の「1.5のパラメータ」の分が残る事に成る。
さて、この1.5は何なのかである。この余りとも観られる1.5を検証する必要がある。
「北海道の残1.5の吟味」
さて、「北海道の入植移動」を更に考察する。
「パラメータの11」の内、明治期までに入植移動した「青木氏のパラメータ分」を加算して評価する。
そうすると、「パラメータの11」に満たない事が判る。
そこで残ったこの「パラメータの1.5」をどの様に評価するかである。
これは無視できる範囲ではない。
家紋分析論や守護神論やルーツ掲示板のお便りなどのいろいろな記録を調査した。
するとこの過程でこのパラメータを説明出来る答えが出た。
その答えは次ぎの通りである。
上記のこの様な変化が、「讃岐青木氏の子孫拡大」に影響を与えたのは「室町末期 江戸末期 明治期」の3期となる。
ところが、実は、「前段-7」で論じた様に、・「昭和期の20年代」にも大きく「子孫力」を阻害した事が起こっている事が判った。
(讃岐ー弘前ー松前)
つまり、「讃岐青木氏」の昭和20年代の「三つの条件」の内の「経済的背景」が崩壊したのである。
この原因は、「戦後の混乱」による”古い体質の廻船業の衰退”であった。
その内なる原因には、古来より、ここには、「讃岐藤氏」と呼ばれて、発祥期より「藤原氏北家一族」とは一線を画くしていた。
そして、”「讃岐藤氏」”として呼称される様に、独立して存在し続けて来た。
しかし、「社会の新風」を素直に受け入れる良い体質の「独立性」ならば良いが、この「排他的な独立性」が弊害して、「社会の新風」を拒んだのである。
戦後の大きな変化の ”うねり” に「体質改善」が遅れて対応する能力を失っていたのである。
これは、”悠久の歴史”を持つ全ての「賜姓族」に取って起こり得る体質でもある。
その「独立性」を頑なに保った事も原因していて、「戦後の子孫力」に大きな影響を与えた可能性がある。
それ故に、「経済的背景」の消滅によって、第二次大戦後には、「政治的背景」と「軍事的背景」をも無くした。
三つ要件を急激に失ったのである。漸次の変化ならばいざ知らず、余りにも急激な変化であった為に殆ど絶える事は出来なかったのである。
外なる原因として、この戦後の「経済構造の変化」は、”過去の「造船力の発展」”から、”昭和の「鉄道の発達」”に変わったのである。
その為に、「造船力の発展」に主軸を置いた廻船業の事業は、急激に傾き、更には衰退した上に、その結果、「子孫力の根底」さえも無くしたのである。
古来より江戸期まで「独立性」を「伝統」として、それを前面に歴史的に押し出していた事から、経済的悪化を来したのである。
氏の「独立性」を強調するあまり、「支援する背景」(藤原北家一門)をも遠ざかり無くした事から、急激に元からの「存立基盤」を失ったのである。
歴史上には、常時に出て来る「瀬戸内の経済力」を背景としていたが、それが故に、脆くも崩れたのである。
最早、”瀬戸内を制するものは国を制する”の神話は、脆くも戦後には体制が変わった事から崩れ去ったのである。
この時には、記録からも明らかに北海道に入植している。
況や、”蝦夷を制する者は国を制する。”の神話に変化したのである
それが故に、”瀬戸内族”であった為に、今度は ”蝦夷”を求めたのである。
つまり、これが、一攫値千金の、”蝦夷を制する者は国を制する。”に値する「1.5」であって、この時の「入植移動」の1.5のパラメータである。
注釈
同じ環境にあった「伊勢青木氏」も出火消失に成る明治35年まではその子孫力は維持されていた。
この調子で行けば、「基本の商い」は「紙と殖産」であるが故に、昭和まで充分に存続していた筈である。
その意味からすると、「讃岐青木氏」も時代変革の起こり始めた昭和初期頃までは廻船業も充分な存続が可能であったと考えられる。
ただ、近代化の「産業革命の波」が押し寄せていた事は否めない。
「讃岐青木氏の船」は、その意味で「伊勢青木氏の紙」と異なり、影響を大きく受けていた筈である。
恐らくは、この”20年間”の大波に、「体質改善」が遅れたと観ている。
「紙」は1500年来、何時の世も”革命や文化の発達”に欠かせないものとして位置づけられて来た。
「室町文化」、「元禄文化」の時も「巨万の富」を獲得した。その分、「子孫力」を伸ばして来た。
しかし、現在、「PC」成る物が「紙」に取って代わろうとしている。
恐らくは、ここで、「伊勢青木氏」も、「廻船業」は「産業の革命」には弱い事が在ったにせよ「讃岐青木氏」と同じ事が起こっていた筈である。
下記に論じるが、「伊勢青木氏の子孫力」も、「平成」(筆者の代)では、極度に低下していたと考えられる。
この「戦後移動」の「1.5のパラメータ」には、上記した様に、「陸奥青木氏」の中の「弘前ー松前の讃岐青木氏」の「入植の分」も入っていると観ている。
これが「1.5」の内の「0.5のパラメータ」程度であろう。
「家紋分析数の比」から観ても、明らかに「讃岐青木氏」の関西域に分布する「下り藤紋に雁金紋」が陸奥と北海道にも分布している証拠でもある。
故に、「北海道のパラメータ11」は、この「戦後」の「讃岐青木氏」の「入植移動」の「パラメータの1.5」で完済する。
これだけに「陸奥と北海道」に移動定住すれば、「香川と岡山」のパラメータは、当然に上がらないのは当然である。
逆にその分、「北海道のパラメータ」は上がる事に成る。
依って、「北海道の入植移動」の「パラメータ11」は、「讃岐青木氏関係比は75%台」が占める事に成ったのである。
「北海道の開拓」は、この上記した論調面から観てみると、「讃岐青木氏」即ち、「瀬戸内族」に成し遂げられたと云っても過言では無い。
「青木氏に関係する家紋数」から観ても、かなりの率(60%程度)である事は否めず、大半を占めている事が頷ける。
(広島の3は「弘前ー松前藩の移動」には組した記録は現在も見つからない。)
つまり、題して、”「讃岐青木氏の北海道大移動」”と云う事に成る。
結局、「讃岐青木氏」の子孫力の総計のパラメータは、結局、上記の13に、この北海道の余り分の1.5を加えると14.5と成る。
「讃岐青木氏」=14.5/ 「武蔵青木氏」=17
以上の様に比較すれば、充分に納得できる。
・「鳥取」
ところで、「鳥取のパラメータ」は「讃岐青木氏のデータ」では無い。
一見して、その「讃岐青木氏の活動範囲」から、「鳥取」はその様に観える。
しかし、中国地方の「鳥取」は、上記した様に、「足利氏系青木氏の逃避地」で、「米子、八頭」に定住したもので「讃岐青木氏」とは異なる。
「鳥取の青木氏」はその歴史性と地理性から観て、「地味」である。逃避に依る移動定住であるからだ。
この「鳥取のパラメータ」はその経緯から納得出来る。
その後、ある程度の勢力を得て、西の宍道湖際の東側まで、無戦でじわじわと「子孫拡大」をさせている。
日本海側に沿って東から西域に「子孫拡大」を図っている。
北から南域への「子孫拡大」は、間に中国山脈もあり、山越えはその「子孫力」から難しかったのであろう。
「先制的な武力」に頼らない「米子の青木氏」に取っては、戦略的に、「平野部」の山間部を開墾しながら西に進んだ。
同時に、それに沿って伸びている「海岸線」に、その「子孫力」を伸ばす方が、身の丈に合った生き方であった。
「平野部海岸線」ともなれば、他の豪族との摩擦が生じる。
ところが、「武力」を使わなく、「村主」の「米子青木氏」に取っては、唯一「子孫力」を拡げる方法がある。
それは、沿岸部に存在する土豪との「血縁関係」を結びながら、その「子孫力」を拡大させる事が「最高の戦略」である。
それには、「青木氏」と云う「ステイタス」が大きく働いたと考える。
その証拠に、「家紋分析」などからも判るが、宍道湖手前でピッタとその「子孫拡大」を止めている。
それには、二つの理由があった。
一つは、宍道湖西域には、「讃岐青木氏」が、その廻船業と殖産業の勢いを以って伸長してきている事。
二つは、宍道湖西域は、「出雲族の豪族集団」が「亀甲族連合体」を作り、古来より他勢をブロックする排他的な壁を構築していた事。
この”二つを押し崩す力”は、その「村主としての生き様」から全く無かった。
では、何故、「讃岐青木氏」が伸長できたのかの疑問であるが、それははっきりしている。
この「亀甲族との血縁」を成し得ているのである。
「亀甲族側の連合体」にとって、排他的壁を護る上で、瀬戸内を制する「軍事力と経済力」は、この上ない防衛同盟戦略である。
一種の「血縁同盟」を結んだ事に成る。「讃岐青木氏」にとっても廻船、殖産、子孫拡大、防衛力にしても実に得策である。
これは「米子青木氏」の「村主」では成し得ない事であった。
依って、この「村主」としての「生き様」から観ると、「パラメータの2」は納得できる。
この「鳥取」は、”逃避に依る移動定住”では、「土佐」と同じである。
しかし、「高知の土佐青木氏」の逃亡では、「武田氏の滅亡」による原因である。
確かに、よく似た「逃亡の経緯」として見込まれる。
そもそも、「長野の信濃青木氏」には、”藤原秀郷一門との本家争い”で「秀郷一門」が「後押しをした事件」に巻き込まれた事件が原因していた。
その経緯として、その「分家筋」が「本家筋の跡目」を乗っ取ろうとして、古くから居た「本家足利氏」を、分家と成る「秀郷流の跡目血縁」の家を本家とした事から起こる。
その「後押し」したのが秀郷一門の宗家であり、その目的は「本家」としての「発言力」を持ち「信濃の支配」を目論んだ。
結局、戦いの結果、秀郷一門の血筋の無い、従来より土地にいた「本家の足利氏」が敗退して、これに一部同調した「賜姓族の信濃青木氏」が「越前福井」に逃亡した。
「本家足利氏」と共に、この時に「護衛」を名目として同行した。
その縁で、「福井越前」の「皇族賜姓族」の「奈良期からの逃避地」に逃亡したが、相手も同じ「皇族賜姓族」であった為に「不入不倫の権」の例外と成った。
そして、同族の強い追跡を受けて、結局、日本海沿岸部を経由して鳥取の東にやっと辿り着いた。
ここで「山岳部の未開地の開墾」をして生き延びた。
その後、宍道湖の東端まで「子孫拡大」を無戦で単純に果たした。
この「信濃青木氏」の一部は、福井越前から結局は、「信濃足利氏の護衛同行」を続ける事を決めた。
当然に、この逃避行で「三つの条件」の全てを失っていた。
しかし、ここで米子の「地元の豪族」の援助を受けて「信濃足利氏」に代わって、「信濃青木氏」が主導したのである。
本来は、「福井越前の逃避地」までの「護衛同行」であったが、この「護衛同行の青木氏」は「青木村」を形成した。
そして、地域の人から崇められて、”「村主」(すぐり)”として争いを避けて生き延びた。
その「先制的な武力」の持たない”「村主」”として、この地域をリードして、宍道湖まで沿岸沿いの山岳部の開墾と血縁で生き延びた。
これはむしろ、土佐の「武力を背景とした生き様」よりも、前段でも論じたが、「日向青木氏の経緯」と類似する。
ここで「青木村」を形成して「村主」として伝統を守り、「普通の農民・郷氏」として生き延びた。
「傭兵」で「生活の糧」を確保して、海と山岳部の開墾での「子孫存続と拡大」を図り、郷士に成った「宮崎の日向青木氏」が一方であった。
「讃岐青木氏」の背景を基に武力で勢力図を広めた甲斐の「土佐青木氏」とがあった。
これには大きな「子孫力」の違いがあった。
「村主」として単純に当面の「生活の糧」は得られたとしても勢いをつける力はそもそも無かった。
その中で、「子孫存続と拡大」を図った「鳥取の米子青木氏」であった。
しかし、「日向青木氏」と「因幡青木氏」の、この「二つの青木氏」には「伝統」は保たれていた。
本来であれば、「土佐青木氏」の様に「武力的背景」に主軸を置く事を「生き様」とすれば、その「権威の伝統の継承」は積極的に求める筈である。
しかし、その「伝統」が消えている。
況や、「伝統の継承」とは、「武力的背景の権威の継承」だけでは遺し得ない事が判る。
これは ”「動の定義」による子孫力”と、”「静の定義」による子孫力”とでは、明らかに「静の定義の子孫力」が「伝統」を維持させ、継承させるものであると考えられる。
その意味で、”世に晒す事無かれ 何れ一利無し。 世に憚る事無かれ、何れ一利無し。” の「2つの血縁賜姓青木氏」の「戒律」は正しかった事が云える。
その「代表的な青木氏」は、総合的に観た「伝統」を継承しているのは、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の融合族の「伊豆の青木氏」ではないかと観られる。
次ぎに、厳しい戦乱の中で「村主」として生き延びて来た「米子青木氏」ではないかと考えられる。
それは、「米子の青木氏」(因幡青木氏)には、「家紋分析」で、「象徴紋の笹竜胆の家紋」が維持されている事が確認できる。
これはあらゆる「悠久の伝統」が、ある程度の面で総合的に伝承されていた事を示すからである。
ここは、次ぎの豪族が治めていた。
戦国時代、
因幡の国には、山名氏、亀井氏、草刈氏の3氏
伯耆の国には、庄氏、南条氏の2氏
江戸時代
因幡の国には、池田氏の3藩
この藩に家臣として仕官しているかの調査と「家紋分析」とをした。
戦国時代には、「米子青木氏」(信濃青木氏の賜姓族系足利氏系青木氏)は5氏の家臣に観られなかった。
江戸時代には、「池田氏」は平家末裔である。青木氏はあったが、「家紋分析」から「米子青木氏」のものは無かった。
この青木氏は、どの青木氏かは判らないが、秀郷流青木氏の家紋の類似紋を持っていた。
この事から、矢張り、郷氏の「村主」として勤めた事が判る。
鳥取(因幡と伯耆)には、「子孫存続」の「三つの条件」が全く認められない範囲である事から、鳥取の「平均の4」のパラメータが得られない事は理解できる。
「鳥取青木氏」は、その意味で「青木氏伝統」の「堅実型の子孫力」と云える。
その”「経緯」と「村主」” としての「子孫力・生存力」から、鳥取の「パラメータは2」は納得出来る。
下記に論じる「伊勢青木氏」もこの「堅実型の子孫力」を護って来た。
むしろ、「子孫」そのものの「遺伝子」がその様に成ってしまっている。
明らかに先々代までの「同族血縁の影響」を引き継いだか、突然変異の型の「血液型AB」で、筆者の代までそれで引き継いでいる事でも判る。
(血液型ABは、3代前までにO型が存在すると、「隔世遺伝」に依りA型、B型に分離する事が起こる。
如何に便利な血液型でもあり、況や、「堅実型の子孫力」を示している。他の親族を調べると矢張り、この現象が起こしているし、現実に筆者の3人の子孫にこの現象を起こしている。)
その伊勢に付いて次ぎに論じる。
・「三重 和歌山」
さて、「2つの血縁賜姓族青木氏」の中心的存在と成った「関西域」、取り分け、「伊勢域」の「青木氏」に付いて論じる。
「伊勢域」とは、古来より、「奈良の都」の東に隣接する伊勢国と、西域に隣接する紀州国を以て伊勢域と呼ばれていた。
「奈良期の大和朝廷」の前の「ヤマト政権」の頃には、「五大豪族の連合体」で治められていた。
その内、「紀州」の豪族には、 奈良盆地の「猿沢の池」を中心にそれを源泉として流れる大和川域に存在した。
この「東南部の三輪山麓一帯」に次の様な五大豪族が勢力を張っていた。
「紀氏」 現在の和歌山県の西部域 西海側域
「巨勢氏」 現在の和歌山県の北部域 東山側域
以上2氏が存在した。
「葛城氏」 和歌山県と大阪府の南部河内域 南平野側域
以下の大阪域との中間に位置していた。
「平群氏」
「物部氏」
以上2氏が大阪府の南部の大和川沿域
以上が五氏が奈良域ー和歌山側ー大阪南部と東部域に存在した。
現在の「奈良」とは違い、古来の奈良盆地は、「猿沢の池」は広大で、周囲山岳部の1/2は「広大な湖」で、そこから流れる大和川域にこれらの豪族が存在し、「連合国家」を作っていた。
その為に、奈良期に入っても、「伊勢域」とは、未だ以上の2氏が存在した名残から「紀州域」までを以って呼ばれていた。
現に、「伊勢路」とは、太湖に沿っての紀伊山脈の「山岳道」であった為に、そもそも「紀州熊野域」までの領域を「伊勢路」と呼ばれている。
参考
紀州の2氏の末裔は現存し、地名も残っている。
奈良盆地の太湖は地盤沈下で次第にひえ上がり、現在の「猿沢の池」のところの底まで曳けた。
この為に、「地形と地名」が混乱して変化してしまったのである。
奈良期の大化期に発祥した時期には、現在の「伊勢」のみならず「紀州域」までを以て「”伊勢”の範疇」として考えられていた。
故に、「青木氏の守護神神明社」で論じた様に、「伊勢ー紀州」域には、「伊勢神宮」の「90社」にも及ぶ「遷宮社」の内、この域では41社があり最も多いのである。
「日本書紀」の記述にも、”「吉野」”をも含んだものとしての”伊勢”の表現があり、”神域の行動範囲”は、この様に広域に捉えられていた。
従って、歴史を正しく考える場合は、「行政区分の伊勢域」と、「神域範囲の”伊勢域”」とは区別して考える必要がある。
「分布と子孫力の領域」は、この「神域範囲の伊勢域」を考える事が必須の条件である。
この様な事は、他にもあり、”陸奥域”や”武蔵域”や”近江域”なども、「行政区分の領域」とは異なっている。
これは、「国の括り」とは別に、古来は、”意識(神域)”の中の「”伊勢”の範疇」であった事を示すものであった。
故に、”「伊勢」”を正しく論じる場合は、”行政区分を外す事”が必要である。
依って、「紀州」を外して論じる事は出来ないのである。
中でも、「紀州」は、「地形の変化」と「伊勢の神域」と「大和の政権」が大きく影響している為に、例外中の例外扱いと成る。
関西地域では、「三重」と「和歌山」は、「伝統の国」と云われている様に、ここに問題がある。
この二つには、大きく連動している史実があるので、同時に論じる事が必要なのである。
故に、「伊勢」のみならず「奈良」を研究する場合は、「紀州」を絶対的に研究する事が必要に成る。
「伊勢時代のあらゆる面の伝統」が、未だ、この「紀州」には少なくなったとは云え、他の県に比べて多く遺されている。
ここは「伊勢ー紀州」は「筆者の地域」であり、「子孫拡大」は「伝統の国」である以上は、「パラメータ」も大きいのである。
上記で論じた様に、その「伊勢青木一族」の「経済的な根拠」になっていた「大商い」は、明治35年にて「松阪大火」(出火元)で破産した。
依って、「子孫拡大」のその根拠を一時失った。
その為に、次ぎの事が起こっている。
イ 「経済的背景」を急激に失って、大きく「子孫拡大」に至っていない事、
ロ 「子孫拡大の根拠」と成っていた歴史的な安定した血縁関係にも、明治後、消滅した事
以上の事などから、「大正ー昭和の子孫拡大」は、それ以前の「150万石から200万石」と云われた勢力が、賠償に使い極端に小さくなった。
結局、「福家・(宗家)」は「商い」から手を引き、分家に当たる「作左衛門の家」が、「摂津大阪の支店」で「紙屋」を再開した。
「三つの条件」の「経済的背景」は、「二足の草鞋策」で、「政治的背景」は「不入不倫の権」で、「軍事的背景」はシンジケートで補完されていた。
しかし、この「三つの条件」の最大の「経済的背景」(超大地主)をも失ったのである。
後の二つも明治維新での「地租改正」でも、紀州域まで含むかなりの範囲で、「絆青木氏」を含む「青木氏関係族」に引き渡し、福家(宗家)は極度に衰退した。
現在も一族一門は主に「三重」を中心に関西域の8地域に存続している。
そもそも記帳がないのはその「家柄の体質」(慎重な性質)にあると考えられる。
a 平安期から室町期初期の「初期の移動期」
b 江戸享保期と末期の「後期の移動期」
以上のこの2つには、各地の「青木氏の定住地」としての地域には大小移動定住している。
「移動定住地」は次ぎの通りである。
「大阪」に、「兵庫」に、
「愛知」に、「長野「に、
「伊豆」に、「神奈川」に
「福井」に、「新潟」に、「陸奥」に、
「東京」に、「千葉」に、「茨木」に、
(和歌山)
以上の12地域に定住移動」している。
(5家地域と神職関係と小移動は除く。 「伊勢秀郷流青木氏」は除く。)
この各地の「子孫拡大」に大小はあるが、その中でも、「移動定住」で、大きく「子孫拡大」した「伊豆青木氏」は特別である。
一国以上の定住地である。
ここ「伊豆の青木氏」は、「伊勢青木氏と信濃青木氏」の「融合族」で、「青木村」全体で「笹竜胆紋」を現在でも護っている。
ここは、「清和源氏の摂津源氏」 「宗家頼光」の「四家の長老」4代目正三位頼政の領国である。
この「頼政」の孫の「京綱」は、「伊勢青木氏の跡目」に入ったのだが、それまでに、同族としての「男系女系の血縁」を含む「親族的な付き合い」が高かった。
ただ、それは、清和源氏の分家「頼信の河内源氏」との「生き様」が異なっていた為に、永来に親交は無かった。
この為に、「伊勢青木氏」と、「信濃青木氏」は、宗家四家の棟梁「頼政」を盛り立てた。
それが「伊豆の青木氏」なのである。
(「信濃青木氏」も伊勢青木氏と同様に「摂津源氏」との血縁親交を持ち続けたことが記録にある。)
そもそも、この「伊豆地域」は、”「青木氏の伝統国」”と呼ばれる地域でもある。
ここに行けば、現在も、上記する様な、「笹竜胆紋」のステイタスを「青木村」の全域で継承している。
「青木氏の伝統」を調べようとすれば先ずは「伊豆」である。
その証拠の最大のパラメータを持つ「神奈川の21」には、次ぎの様な、パラーメータが見込まれる。
「伊豆の4」と、「東京の18」には「2」と、「兵庫の3」には「摂津の1」としての「伊勢青木氏のパラメータ 7」が合わせて見込まれる。
筆者の福家・(宗家)は、その後、子孫を拡大させて各地に大きく分布している。
数字的には、極めて深い親交のあった長野の「信濃青木氏」の「パラメータが9」とすると、明治期まで「不入不倫の権」で守られて来た。
このことから、「三重」は少なくとも「平均の4」以上の ”7” には相当していると観られる。
次ぎの事で、「伊勢青木氏」は、少なくとも、実質「パラメータ 7」以上である事が判る。
ところが、上記する「伊勢域」の、この「三重」に隣接する和歌山には、「パラメータが4」と成っている。
ここには、本来は、何れの青木氏も歴史的に定住地ではない。
しかし、定住地論ではないが、”「青木」”と云う地名が、”和歌山有田郡”に存在する。
ここには、平安末期に、確かに「藤原氏」が守護として赴任している。
しかし、この「藤原氏」は「脩行系の藤原氏」で、「秀郷流青木氏」とは無関係である。
この「藤原氏」が赴任移動した地域は、有田郡の”「明恵」”と云う地名に成っている。
”「藤原明恵」の赴任先末孫だ”と云う一族がこの「明恵」地域に住んでいる。(家紋が疑問)
そこから離れた地域に、「青木」と云う地名があるが、ここには歴史的に村の形成は無い。
恐らくは、明治期初期に地名として、「第3の青木氏」の「青木村」が多く作られたが、その時に名づけられたものである。
周囲に、最早、その「第3の青木氏」は全く存在しない。
ところが、上記した様に、「紀州」は「神域の伊勢域」であった。
この事から、長い歴史の中で「伊勢青木氏」は”「紀州」”の方向に「子孫拡大」で伸長して行った。
伸長の経緯
(1) 実は、この和歌山の「有田郡」には、明治初期から筆者の「伊勢青木氏」の「絆青木氏」が存在する (1)。
(2) 祖父の代に「伊勢青木氏」に所属していた「職能団」の中から、「絆青木氏」を発祥させた (2)。
この「絆青木氏」が明治期から定住している。
この「絆青木氏」には、(1)と(2)と、以下の「二流の青木氏」がある。
(3) 一つは、伊勢での「家臣団の絆青木氏」が伊勢青木氏倒産で和歌山に移動定住した (3)。
(4) もう一つは、「伊勢青木氏」の「職能集団の絆青木氏」も和歌山に移動定住した (4)。
合わせて、先ず、「4つの絆青木氏」がある。
(5) この「職能集団の絆青木氏」には、更に、和歌山で祖父の代で「絆青木氏」として発祥させた元は「藤田姓(明治期の農民)」の「絆青木氏」が有田郡域に定住した (5)。
(この藤田の「絆青木氏」は明治の終わり頃に「絆の養子縁組」を破棄した。)
(6) これと別に、「伊勢秀郷流青木氏」の一部が明治期に、和歌山ー有田域に定住移動した (6)。
(7) これに同行した職能集団が、「主家の氏名」を「明治期の苗字令」に基づき名乗った「第三の青木氏」がある (7)。
(8) 当然に、倒産時に「福家(宗家)の伊勢青木氏」は、伊勢に子供を一人残して跡を引き継がせて、福家(宗家)の「伊勢青木氏」の地の新宮と云う地域に移動した (8)。
この時、福家(宗家)以外は伊勢に残る。「三家の青木氏」が伊勢の地に残った。
現在も、この”伊勢域”の古来からの「8地域」に存続し、拡大している。
従って、和歌山には以上の「8つの青木氏」が存在する。
これらが「子孫拡大」をしていった「伊勢青木氏の経緯」である。
この全ての「青木氏」が大阪(摂津域)にも移動して子孫を現在も拡大させている。
和歌山には、従って、「パラメータ 4」が出たのである。
更に、この4の内訳は次ぎの様に成る。
「伊勢青木氏」は1、
「秀郷流青木氏」が1
女系血縁性の「絆青木氏」の1
「第三の青木氏」の1
以上がこれに相当する。
但し、祖父の代の「絆青木氏」は血縁性を持っていないので「第三の青木氏」の中に入れる。
従って、「伊勢青木氏」は次ぎの様に成る。
「伊豆の青木氏の「3」
「三重ー和歌山の青木氏の「4」
合わせて、「伊勢青木氏の子孫力」の「パラメータ」は”7”と成る。
しかし、「信濃 9」に対しては、「伊勢青木氏 7」は少なくとも9かそれ以上と成り得る。
その答えが「奈良 1」である。
この「奈良の1」は「名張の伊勢青木氏」である。
小計としては、「伊勢青木氏」は、7+1で、「パラメータ 8」と成る。
そもそも、「伊勢青木氏」は、次ぎの様に成る。
・松坂、名張、員弁、桑名、四日市
(伊勢青木氏と伊勢秀郷流青木氏と青木氏融合族)
(四日市は融合族)
・伊賀、脇坂、上田
(「2つの絆青木氏」 「職能集団」)
・玉城
(「2つの絆青木氏」 「家人集団」)
「青木氏の絆青木氏の本流筋」、
「絆青木氏」には、次ぎの2流がある。
「家人」と呼ばれる家臣に相当する一門
「職能集団」の一門
参考
「家人集団」も「職能集団」も、その本家筋は「女系の血縁関係」を構築していた。
現在の「玉城市の全域」は、明治35年以前は、「2つの絆青木氏」の住人と蔵群であった。(明治35年)
「名張」はこの「奈良の1」である。
以上から成り立っていた。
結局は、これで「伊勢青木氏」の「パラメータ 8」と成るが、これに「都会流失分」が加味される。
これに、下記の「大阪の都会移動分」を加味すれば、「パラメータ 11」以上程度と成ろう。
(「和歌山の移動分 2」ー絆、「兵庫摂津の移動分 1」ー支店が加算される。)
以上は、「賜姓族伊勢青木氏」のカウントである。
従って、殆ど親族関係にあった「伊勢秀郷流青木氏」の分が「伊勢域」の中に組み込まれている。
「皇族賜姓族5家5流の青木氏」の”古来からの定住地”に、直接、平安中期から定住しているところはこの「伊勢域」だけである。
それだけに、「伊勢秀郷流青木氏」の「特別賜姓族」は、前段-5でも論じたが、「全くの同族」なのである。
ここで、それを加味すれば、次ぎの様に成る。
「パラメータ 11」+「伊勢秀郷流青木氏分の3」=「パラメータ 14」
前段-5、6、7で論じた様に、「伊勢青木氏」のバラメータ は次ぎの様に成るだろう。
「伊勢青木氏」は、最大「パラメータ 14」と成ろう。
上記した様に、「明治後の都会移動分」として「大阪14」と「東京18」の分の幾らかが加算される。
「大阪」には、「関西域の青木氏」の定住地から「都会移動」が明治後に起こっている。
「伊勢青木氏」が、この「大阪」にどの程度のパラメータで食い込んでいるかは判らない。
ただ、筆者の分家に相当する「伊勢青木一族」は、明治35年倒産の後、大阪に移動定住して平安期からの「和紙の問屋」を今も続けている。
これは「ルーツ掲示板」と「家紋分析」から観察する事が出来る。
何れのデータでも信頼度は、「都会」と云う事もあって、過去からの伝統的なデータが維持されていない。
裏付けるものがないので、「虚偽」のものとで渾然としていて低下する事から、正確なデータが採れない。
・「大阪の14の内訳吟味」
「大阪の14」の全てが、「集合パラメータ」である事から、関西と中国と中部域の周辺の定住地の総合が14-15である。
従って、全て「パラメータ 1」で、均等に集合したとして考えると、下記の様に、丁度14ー15と成る。
現在も「集合域」なので、「家紋分析」などではそのルーツが判らない。
又、この地域の「青木氏自身」が、その「ルーツの情報」を持ち得ていない場合が多い。
これは「移動定住の所以」であろう。
これでも、「都会の青木氏」の「ルーツの情報」は、この現象から消えるのみである。
大阪の「都会」も然ることながら、「田舎」に於いては、老化して継承出来なくなった現象が起こっているので、「ルーツ情報」は最早、まじかに消える。
仮に、遺されたとしても問題は、「正しいルーツ情報」が遺されたかとうかの問題である。
この様な状況の中では、「遺される情報」は、「慣習仕来り掟」の伴わない環境の中では正しく遺されずに湾曲されるが世の常である。
とすれば、「大阪周辺地域」の「伊勢青木氏」の場合は、周辺の「伊勢青木氏」が、関係する定住地は「3地域」と成る。
従って、「大阪の14」の内の「3」は獲得できる。
依って、「伊勢青木氏の定住地」の「パラメータとして 「14」、これに「都会移動分」を加えて、その「総合の子孫力」の「パラメータ」は14と3で「15」と成る。
結局は、「伊勢青木氏」の合計「パラメータ」 15」(実質12)である。
事ほど左様に、大阪に集まる「青木氏」は次ぎの様に成る。
「伊勢青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」を始めとして、
「香川青木氏」、「高知青木氏」、「徳島青木氏」、
「福井青木氏」、「長野青木氏」、
「愛知青木氏」、「岐阜青木氏」、
「近江青木氏」、「兵庫青木氏」、「滋賀青木氏」、「鳥取青木氏」、
その他地域の青木氏
以上の地域に、「大阪の14」が分散して「子孫力」として各地域に加算される。
全体の20%程度が大阪に集まっているのだが、上記の14地域から、1地域に「パラメータは1」を配分できる。
比較対象として、「都会」の「東京18」は「武蔵国」で「秀郷一門の定住地」であるので、「パラメータ」の持つ意味は若干異なる。
「大阪の14」は、その意味で、「伝統の継承」は、「東京の18」に比べて、関西域は、これからは低く成る事を物語る。
その事から、「伊勢青木氏」の「遺された伝統」の意味は実に大きい。
そもそも、「伝統」とは、その「伝統」を維持している「氏の思考の基準」となるものである。
「氏の思考基準から外れた考え方」はその氏は排除する。
要するに、「伝統」=「思考基準」(行動規範)である。
況して、「氏の独善の宗教」=「密教」であるとすれば、「宗教的な作法」の「伝統」は”自らの氏が決めた作法”である。
「氏の思考基準」である。
次ぎの”「青木氏だけの伝統」”は、”「青木氏の思考基準」”となる。
「青木氏」は、”この様なものの考え方をしていた”と云う事で理解するべきである。
所感(伝統 2)
筆者の「伊勢青木氏」の生活の中にも、何気なく行ってる「慣習仕来り掟」は、外から観れば、”古来のもの”と観られる。
筆者はそれを当たり前だと「無意識」に受け取っていた。
子供の頃から、”何か違うな”と思いながらも、その「無意識の感覚」が強く打ち消していた傾向があった。
今、思えば、「部屋の間取り」や「構え」や「大きさ」や「家具」や「調度品」や「装飾品」や「作法」等は確かに違う事が判る。
例えば、「達親の論文」で論じた様に、「祭祀の作法」の”「達親」”等はよく調べると、「古代慣習の継承」であったりする。
この様な事が、未だ、沢山ある筈で、「無意識」を「有意識」にして、これから「伝統」を掘り起こして行く計画である。
何せ、相当伝授されたが、その”有意識の持った人”が居なくなっている現状である。
何とか「違い差」を見つける事と認識している。
そこから検証を進めて投稿する。
後に、詳しく伝統の論文として、投稿する予定だが、「無意識」を「有意識」にして、因みに一つ簡単な例を挙げる。
祭祀で、仏様に、線香を捧げる。
この時の”「仏法作法」”が異なっていて、”「古来の密教浄土宗の作法」”が遺り継承されている事がある。
「仏説作法」
それは、先ず「仏」に向かって挨拶をする。
「数珠」は、親指に賭ける。ところが一般は親指以外の4本の手に賭ける。
そして、「粉の線香」を、先ず、一摘みして、一般では香炉に入れる。
ところが、この時、その一摘みの線香を、香炉に入れずに、「額中央」に当てる。
その後、に香炉に入れる。
これを、3度繰り返す。
これを他の宗派では日蓮宗は一度で、真宗は2度にして、額に当てずに、直ぐに香炉に入れる作法である。
ここで、重要な異なる作法が2つある。
”「親指に数珠」”を掛けるのは、「親指」の持つ意味から来ている。
この”「数珠作法」”は、他の宗派にもあり、「自然神」をも崇め、「神仏合体」で信仰する「修験道師」にも、一部作法として遺されている。
これも「古来の作法」であったと観られる。
古来は「現在の数珠のサイズ」の様では無く、現在は小さくなかった。
古来は「108の球」を連ねた「長い数珠繋ぎ」であったのです。それを両方の親指に賭ける。
そして、その「長い数珠」を両手で擦り合わせて、”「擬音」”を出す作法であった。
この”「擬音」”で、「仏への合図」とした。
これは現在では無く成って居る。
青木氏の中でも無く成って居るが、”親指に賭ける作法”だけは遺されている。
ところが次の作法では異なっている。
「作法の相違点」
A 一つは、回数が3度にする作法
B 二つは、額に当てる作法
これらには、2つの作法には、「古代密教浄土宗」のみ「本来古来の姿」が「仏説根拠」を伴って遺されている。
先に、Bに付いて、この「額に当てる」とは、何なのかである。
それは、古来より、「額中央」に、人間には、「瘤」の様に膨らんだ「複眼機能」と云うものがあった。
現在は、その機能は退化して、大脳の下に10ミリ程度の大きさで押し込まれている。
これは「前頭葉」が進化して大きく成った事により退化して、更に、存在場所が圧迫されて奥に引きこもった様に成って居る。
ここで、この「複眼機能」は、ここに「無我無心」にして「全神経」を集中させると、右脳より「ベータ波」を飛ばす事が出来る。
これは、「未来」を予見し、「過去」を悟り、「現在」を見据える事、の出来る「予知機能」を有している。
この「予知機能」を使って、「過去の人」と成った「仏」に対して、「未来」に生まれ変わってくる「仏」に対して、「現在」の世に未だ居る「仏」に対して、「信号」を送る事が出来る。
(現在、中国では、現実性を以って研究が進んでいる。「中国山岳民族」に、未だ、この「複眼機能」を有している「少数民族」がある。)
この「信号」の「ベータ波」で、「三世の仏」に対して、”「会話」をする事が出来る、”と信じられている仏説である。
この「仏との会話」は、例えば、”生前中は大変にお世話に成りました。ありがとうございます。”との事が出来るとして、この「仏説作法」が遺されているのである。
この「3度」とは、「過去、未来、現在」の「仏」に対する「三度」と成っている。
これが、「古代密教浄土宗の仏説作法」である。
これは、一概に、”迷信”では無く、実は、”生態学的に根拠のある現象”なのである。
この「複眼機能」は、現在も「動物の本能」として持っているもので、人間には退化している。
ところが、未だ、人間の元と成る「女性」には、「母性本能」の一輪として遺されている。
そして、この”「機能」”を鍛える事で、「予知能力」は高まる事が判っている。
特に、「男性」は全く働かないが、「女性」には未だ現実に持っている。
現実に、右脳から発する「ベータ波」が「母性本能」の中で高く成ることが判っている。
「女性」が子供を育てる時には、現在も、この機能の一部を使っている。
これが「古代仏説」として、その「作法」が、「三世の仏」に「話しかける手段」として、未だ「青木氏」の中で遺されているのである。
これは、「古来の仏説」では、”「仏」が死する事は、「肉体の消滅」 を意味し、「霊威」は一定期間遺る”とする「仏法」である。
従って、この遺された「霊威」に対して、上記する”「古来の仏説作法」でのみ話しかける事が出来る”とした説法である。
その”「霊威」の存在する期間”が、”「現在過去未来」の何れにか存在する”として、「3度」と成って居るのだ。
その「祭祀の目的」、例えば、「葬式」では、「現在」に存在するとして「現在」を、「法事」であれば、「過去」に存在するとして「過去」をと成る。
「常の祭祀・お勉め」では、「未来」(「仏」が生まれ変わる)に存在するとして「未来」に向かって、「仏との会話」をするとした仏説である。
一切の「祭祀の作法」として、「密教浄土宗」では、総括して「三界の3度の動作」を繰り返す作法と成っている。
これを、この「動作の回数」と「額の所作」を省いて、その「宗派の考え方」で、「過去現在未来」の何れかの「三界」に対して1度、2度とした。
これが、「顕教の浄土宗」では無く、「密教の浄土宗」の中に遺されている「密教の古来作法」の一つである。
以上の事を「根拠」とした、上記した「古来作法」なのである。
以上、「達親」に続き、「伝統」の一つを披露した。
「伊勢青木氏」等の慣習の中には、この「古代仏説の作法」を、未だ遺されたものとして、現在も引き継いでいるのである。
これらの「伝統」は、「先祖の青木氏」を正しく理解する上で、”意味のある事だ”と考えられる。
> ・> 青木氏の分布と子孫力
> >
> > [地域別分布力]
> > > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > > 地域 異変の県 分布力
> >> 九州地方 長崎、大分 5%
> >> 四国地方 高知 2.5%
> >> 中国地方 山口、岡山 2.5%
> >> 関西地方 三重(筆者ルーツ) 14%
> >> 東北地方 秋田 7%
> >> 中部地方 15%
> >> 関東地方 45%
> >> 北海道・沖縄 6%
> >> その他 3%
> >>
> >> 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> >> 九州地方 1.3
> >> 四国地方 1.3
> >> 中国地方 1.3
> >> 関西地方 4.7
> >> 中部地方 4.3
> >> 関東地方 11.3
> >> 東北地方 2.0
> >> その他 11.0
> >>
> >> 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
> >>
> >> 修正地域(表ー3)
> >> 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1-7 三重 12 福井 4 愛知 13-7
> >> 秋田 1
> >>
> > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> >> 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> >> 福岡 2 山口 0 愛媛 3 兵庫 3 三重 1
> >> 長崎 0 島根 2 香川 1 大阪 14 石川 2
> >> 佐賀 1 広島 3 高知 0 京都 5 福井 1
> >> 大分 0 岡山 0 徳島 1 奈良 1 岐阜 3
> >> 熊本 4 和歌山 4 愛知 13
> >> 宮崎 2 滋賀 1 長野 9
> >> 鹿児島 1 山梨 1
> >>
> >> 域平均 1.25 平均 1.25 平均 1.25 平均 4.7 平均 4.3
> >
> >> 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
> >> 静岡 5 青森 1 沖縄 1
> >> 神奈川 21 山形 2 北海道 11
> >> 東京 18 岩手 1
> >> 埼玉 17 新潟 4
> >> 群馬 6 秋田 0
> >> 千葉 11 福島 4
> >> 茨木 4 宮城 2
> >> 栃木 8
> >>
> >> 域平均 11.3 平均 2.0 平均 11.0
>
> 青木氏の分布と子孫力-9に続く。
>
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
投稿者:takao 投稿日:2014/05/07(Wed) 16:25:40
青木氏の分布と子孫力-8
・「讃岐青木氏」
さて、ここからは改めて歴史論をお読み頂くとする。
話を中国地方の「讃岐青木氏」に戻す。もう少し「讃岐青木氏」を考察する必要がある。
従って、中国地方のパラメータは、次ぎの通りである。
「讃岐青木氏」=「島根2+広島3+岡山0ー1」=5-6である。
(移動と入植定住は入れない)
(本来、秀郷一門には、赴任による定住はあるが、各地域の単純移動の定住は原則ない)
「陸奥青木氏」は、室町末期に「結城陸奥永嶋氏」と合力して、「秀吉と戦い」で敗戦して北海道に移動逃亡した。
「伊勢秀郷流青木氏」も陸奥で合力し敗戦した。
この「陸奥青木氏」と共に、越後域からも「越後青木氏」が明治期に入植移動した。
「瀬戸内の讃岐秀郷流青木氏」以外に入植定住したとする記録には、次の記録が観られる。
1 「信濃青木氏の神職(:明治期)」
2 「陸奥青木氏(秋田 青森: 室町末期 明治期)」
3 「越後秀郷流青木氏(明治期)」
4 「甲斐の武田氏系青木氏(花菱紋と抱き角紋: 越後移動 明治期)」
5 「越後の諏訪族青木氏(抱き角紋 :室町末期 明治期」
以上は「家紋分析」からも納得できる。
そもそも、「陸奥青木氏」は、「陸奥結城永嶋氏」が滅んだ「天正17年」と「明治期」にも入植定住した。
この五家の「明治期の入植定住」が、記録と家紋分析論と守護神論の調査で判るが、現在までとしてその期間は”150年”に成る。
上記の「子孫拡大」は、最速で150/90年、で約1.5倍と成る。
「讃岐青木氏」は、パラメータの「埼玉武蔵の17の子孫力」と同じ程度の「子孫力」を持っている筈である。
これを基準に、この「瀬戸内からの子孫拡大」(讃岐青木氏)の「パラメータが8」として吟味して観ると、次ぎの様なパラメータが出る。
(但し、”「子孫力」”は拡大して行く力を除いたもので「静の定義」、”「子孫拡大力」”は推し進める力として「動の定義」として区別して使う。)
1-「長野 9」の内の「神職の子孫力」は、パラメータとしては1に満たない。
「神職」と云う職業柄で、その為に大きく「子孫拡大」を図れない職業に起因する。
一応、パラメータは0ではないので・ 0.3とする。(家紋分析数の比)
2-「秋田 0」である事からパラメータを持たないが、少なくとも歴史上記録がある事から0ではないので、これも・ 0.2とする。
問題のパラメータ0域の「秋田」は、少なくとも天正期までその子孫を保っていた事から完全滅亡ではない。
少なくとも 「越後4」や「福島4」 に匹敵する以上の「子孫力」を持っていた。
或は、「山形2」や「宮城2」 の2倍から3倍に匹敵する「子孫力」を元来持っていた。
この事からは、「家紋分析数の比」からも明治期までには、その「子孫力」は持っていた。
天正期に滅んだ事に依って、確かに「子孫力」は明らかに低下している事は否めない。
しかし、決して0域ではない。
3-「越後 4」ではあるが、この4には、武田氏滅亡時の「武田氏系 諏訪族系の2氏」の分も含む事から得られる。
逃亡域には、神奈川・横浜域の逃亡と新潟域の逃亡と土佐行の逃亡がある。
この新潟の越後域にはこの2氏が逃亡した。
この事からは、「家紋分析数の比」から1/8なのでパラメータは凡そ・ 0.5と見込む。
4-「甲斐青木氏」は越後に定住後に明治期に移動している。
甲斐の「子孫力」が、「越後の青木氏」(家紋分析数の比)から1/5として、・ 0.2と見込む。
(逃亡外としては、「埼玉の鉢形」と「武蔵の八王子」に、「武田氏の皇族青木氏」の強制疎開がある。)
この事からは、「家紋分析数の比」から1/8なのでパラメータは凡そ・ 0.5と見込む。
5-「信濃の賜姓族の諏訪族青木氏」が、武田氏滅亡で巻き込まれて越後に逃亡した。
その後に室町末期と明治期に入植移動した。
以上は史実であるが、「家紋分析数の比」から観て小規模でパラメータに出ない程度で・0.01とする。
これで1から5の総計は、パラメータは1.7である。
これに仮に年数を比例的に観て、上記最速で 「150/90年」、で約1.5倍の「倍数1.5」を乗じるとパラメータは2.5と成る。
そこで、「北海道の11」 「讃岐青木氏の7」である。
計算して11-7=4の内、2.5を占める。
そうすると、4-2.5=1.5のパラメータが残る。
北海道の「パラメータの11」の内の「1.5のパラメータ」の分が残る事に成る。
さて、この1.5は何なのかである。この余りとも観られる1.5を検証する必要がある。
「北海道の残1.5の吟味」
さて、「北海道の入植移動」を更に考察する。
「パラメータの11」の内、明治期までに入植移動した「青木氏のパラメータ分」を加算して評価する。
そうすると、「パラメータの11」に満たない事が判る。
そこで残ったこの「パラメータの1.5」をどの様に評価するかである。
これは無視できる範囲ではない。
家紋分析論や守護神論やルーツ掲示板のお便りなどのいろいろな記録を調査した。
するとこの過程でこのパラメータを説明出来る答えが出た。
その答えは次ぎの通りである。
上記のこの様な変化が、「讃岐青木氏の子孫拡大」に影響を与えたのは「室町末期 江戸末期 明治期」の3期となる。
ところが、実は、「前段-7」で論じた様に、・「昭和期の20年代」にも大きく「子孫力」を阻害した事が起こっている事が判った。
(讃岐ー弘前ー松前)
つまり、「讃岐青木氏」の昭和20年代の「三つの条件」の内の「経済的背景」が崩壊したのである。
この原因は、「戦後の混乱」による”古い体質の廻船業の衰退”であった。
その内なる原因には、古来より、ここには、「讃岐藤氏」と呼ばれて、発祥期より「藤原氏北家一族」とは一線を画くしていた。
そして、”「讃岐藤氏」”として呼称される様に、独立して存在し続けて来た。
しかし、「社会の新風」を素直に受け入れる良い体質の「独立性」ならば良いが、この「排他的な独立性」が弊害して、「社会の新風」を拒んだのである。
戦後の大きな変化の ”うねり” に「体質改善」が遅れて対応する能力を失っていたのである。
これは、”悠久の歴史”を持つ全ての「賜姓族」に取って起こり得る体質でもある。
その「独立性」を頑なに保った事も原因していて、「戦後の子孫力」に大きな影響を与えた可能性がある。
それ故に、「経済的背景」の消滅によって、第二次大戦後には、「政治的背景」と「軍事的背景」をも無くした。
三つ要件を急激に失ったのである。漸次の変化ならばいざ知らず、余りにも急激な変化であった為に殆ど絶える事は出来なかったのである。
外なる原因として、この戦後の「経済構造の変化」は、”過去の「造船力の発展」”から、”昭和の「鉄道の発達」”に変わったのである。
その為に、「造船力の発展」に主軸を置いた廻船業の事業は、急激に傾き、更には衰退した上に、その結果、「子孫力の根底」さえも無くしたのである。
古来より江戸期まで「独立性」を「伝統」として、それを前面に歴史的に押し出していた事から、経済的悪化を来したのである。
氏の「独立性」を強調するあまり、「支援する背景」(藤原北家一門)をも遠ざかり無くした事から、急激に元からの「存立基盤」を失ったのである。
歴史上には、常時に出て来る「瀬戸内の経済力」を背景としていたが、それが故に、脆くも崩れたのである。
最早、”瀬戸内を制するものは国を制する”の神話は、脆くも戦後には体制が変わった事から崩れ去ったのである。
この時には、記録からも明らかに北海道に入植している。
況や、”蝦夷を制する者は国を制する。”の神話に変化したのである
それが故に、”瀬戸内族”であった為に、今度は ”蝦夷”を求めたのである。
つまり、これが、一攫値千金の、”蝦夷を制する者は国を制する。”に値する「1.5」であって、この時の「入植移動」の1.5のパラメータである。
注釈
同じ環境にあった「伊勢青木氏」も出火消失に成る明治35年まではその子孫力は維持されていた。
この調子で行けば、「基本の商い」は「紙と殖産」であるが故に、昭和まで充分に存続していた筈である。
その意味からすると、「讃岐青木氏」も時代変革の起こり始めた昭和初期頃までは廻船業も充分な存続が可能であったと考えられる。
ただ、近代化の「産業革命の波」が押し寄せていた事は否めない。
「讃岐青木氏の船」は、その意味で「伊勢青木氏の紙」と異なり、影響を大きく受けていた筈である。
恐らくは、この”20年間”の大波に、「体質改善」が遅れたと観ている。
「紙」は1500年来、何時の世も”革命や文化の発達”に欠かせないものとして位置づけられて来た。
「室町文化」、「元禄文化」の時も「巨万の富」を獲得した。その分、「子孫力」を伸ばして来た。
しかし、現在、「PC」成る物が「紙」に取って代わろうとしている。
恐らくは、ここで、「伊勢青木氏」も、「廻船業」は「産業の革命」には弱い事が在ったにせよ「讃岐青木氏」と同じ事が起こっていた筈である。
下記に論じるが、「伊勢青木氏の子孫力」も、「平成」(筆者の代)では、極度に低下していたと考えられる。
この「戦後移動」の「1.5のパラメータ」には、上記した様に、「陸奥青木氏」の中の「弘前ー松前の讃岐青木氏」の「入植の分」も入っていると観ている。
これが「1.5」の内の「0.5のパラメータ」程度であろう。
「家紋分析数の比」から観ても、明らかに「讃岐青木氏」の関西域に分布する「下り藤紋に雁金紋」が陸奥と北海道にも分布している証拠でもある。
故に、「北海道のパラメータ11」は、この「戦後」の「讃岐青木氏」の「入植移動」の「パラメータの1.5」で完済する。
これだけに「陸奥と北海道」に移動定住すれば、「香川と岡山」のパラメータは、当然に上がらないのは当然である。
逆にその分、「北海道のパラメータ」は上がる事に成る。
依って、「北海道の入植移動」の「パラメータ11」は、「讃岐青木氏関係比は75%台」が占める事に成ったのである。
「北海道の開拓」は、この上記した論調面から観てみると、「讃岐青木氏」即ち、「瀬戸内族」に成し遂げられたと云っても過言では無い。
「青木氏に関係する家紋数」から観ても、かなりの率(60%程度)である事は否めず、大半を占めている事が頷ける。
(広島の3は「弘前ー松前藩の移動」には組した記録は現在も見つからない。)
つまり、題して、”「讃岐青木氏の北海道大移動」”と云う事に成る。
結局、「讃岐青木氏」の子孫力の総計のパラメータは、結局、上記の13に、この北海道の余り分の1.5を加えると14.5と成る。
「讃岐青木氏」=14.5/ 「武蔵青木氏」=17
以上の様に比較すれば、充分に納得できる。
・「鳥取」
ところで、「鳥取のパラメータ」は「讃岐青木氏のデータ」では無い。
一見して、その「讃岐青木氏の活動範囲」から、「鳥取」はその様に観える。
しかし、中国地方の「鳥取」は、上記した様に、「足利氏系青木氏の逃避地」で、「米子、八頭」に定住したもので「讃岐青木氏」とは異なる。
「鳥取の青木氏」はその歴史性と地理性から観て、「地味」である。逃避に依る移動定住であるからだ。
この「鳥取のパラメータ」はその経緯から納得出来る。
その後、ある程度の勢力を得て、西の宍道湖際の東側まで、無戦でじわじわと「子孫拡大」をさせている。
日本海側に沿って東から西域に「子孫拡大」を図っている。
北から南域への「子孫拡大」は、間に中国山脈もあり、山越えはその「子孫力」から難しかったのであろう。
「先制的な武力」に頼らない「米子の青木氏」に取っては、戦略的に、「平野部」の山間部を開墾しながら西に進んだ。
同時に、それに沿って伸びている「海岸線」に、その「子孫力」を伸ばす方が、身の丈に合った生き方であった。
「平野部海岸線」ともなれば、他の豪族との摩擦が生じる。
ところが、「武力」を使わなく、「村主」の「米子青木氏」に取っては、唯一「子孫力」を拡げる方法がある。
それは、沿岸部に存在する土豪との「血縁関係」を結びながら、その「子孫力」を拡大させる事が「最高の戦略」である。
それには、「青木氏」と云う「ステイタス」が大きく働いたと考える。
その証拠に、「家紋分析」などからも判るが、宍道湖手前でピッタとその「子孫拡大」を止めている。
それには、二つの理由があった。
一つは、宍道湖西域には、「讃岐青木氏」が、その廻船業と殖産業の勢いを以って伸長してきている事。
二つは、宍道湖西域は、「出雲族の豪族集団」が「亀甲族連合体」を作り、古来より他勢をブロックする排他的な壁を構築していた事。
この”二つを押し崩す力”は、その「村主としての生き様」から全く無かった。
では、何故、「讃岐青木氏」が伸長できたのかの疑問であるが、それははっきりしている。
この「亀甲族との血縁」を成し得ているのである。
「亀甲族側の連合体」にとって、排他的壁を護る上で、瀬戸内を制する「軍事力と経済力」は、この上ない防衛同盟戦略である。
一種の「血縁同盟」を結んだ事に成る。「讃岐青木氏」にとっても廻船、殖産、子孫拡大、防衛力にしても実に得策である。
これは「米子青木氏」の「村主」では成し得ない事であった。
依って、この「村主」としての「生き様」から観ると、「パラメータの2」は納得できる。
この「鳥取」は、”逃避に依る移動定住”では、「土佐」と同じである。
しかし、「高知の土佐青木氏」の逃亡では、「武田氏の滅亡」による原因である。
確かに、よく似た「逃亡の経緯」として見込まれる。
そもそも、「長野の信濃青木氏」には、”藤原秀郷一門との本家争い”で「秀郷一門」が「後押しをした事件」に巻き込まれた事件が原因していた。
その経緯として、その「分家筋」が「本家筋の跡目」を乗っ取ろうとして、古くから居た「本家足利氏」を、分家と成る「秀郷流の跡目血縁」の家を本家とした事から起こる。
その「後押し」したのが秀郷一門の宗家であり、その目的は「本家」としての「発言力」を持ち「信濃の支配」を目論んだ。
結局、戦いの結果、秀郷一門の血筋の無い、従来より土地にいた「本家の足利氏」が敗退して、これに一部同調した「賜姓族の信濃青木氏」が「越前福井」に逃亡した。
「本家足利氏」と共に、この時に「護衛」を名目として同行した。
その縁で、「福井越前」の「皇族賜姓族」の「奈良期からの逃避地」に逃亡したが、相手も同じ「皇族賜姓族」であった為に「不入不倫の権」の例外と成った。
そして、同族の強い追跡を受けて、結局、日本海沿岸部を経由して鳥取の東にやっと辿り着いた。
ここで「山岳部の未開地の開墾」をして生き延びた。
その後、宍道湖の東端まで「子孫拡大」を無戦で単純に果たした。
この「信濃青木氏」の一部は、福井越前から結局は、「信濃足利氏の護衛同行」を続ける事を決めた。
当然に、この逃避行で「三つの条件」の全てを失っていた。
しかし、ここで米子の「地元の豪族」の援助を受けて「信濃足利氏」に代わって、「信濃青木氏」が主導したのである。
本来は、「福井越前の逃避地」までの「護衛同行」であったが、この「護衛同行の青木氏」は「青木村」を形成した。
そして、地域の人から崇められて、”「村主」(すぐり)”として争いを避けて生き延びた。
その「先制的な武力」の持たない”「村主」”として、この地域をリードして、宍道湖まで沿岸沿いの山岳部の開墾と血縁で生き延びた。
これはむしろ、土佐の「武力を背景とした生き様」よりも、前段でも論じたが、「日向青木氏の経緯」と類似する。
ここで「青木村」を形成して「村主」として伝統を守り、「普通の農民・郷氏」として生き延びた。
「傭兵」で「生活の糧」を確保して、海と山岳部の開墾での「子孫存続と拡大」を図り、郷士に成った「宮崎の日向青木氏」が一方であった。
「讃岐青木氏」の背景を基に武力で勢力図を広めた甲斐の「土佐青木氏」とがあった。
これには大きな「子孫力」の違いがあった。
「村主」として単純に当面の「生活の糧」は得られたとしても勢いをつける力はそもそも無かった。
その中で、「子孫存続と拡大」を図った「鳥取の米子青木氏」であった。
しかし、「日向青木氏」と「因幡青木氏」の、この「二つの青木氏」には「伝統」は保たれていた。
本来であれば、「土佐青木氏」の様に「武力的背景」に主軸を置く事を「生き様」とすれば、その「権威の伝統の継承」は積極的に求める筈である。
しかし、その「伝統」が消えている。
況や、「伝統の継承」とは、「武力的背景の権威の継承」だけでは遺し得ない事が判る。
これは ”「動の定義」による子孫力”と、”「静の定義」による子孫力”とでは、明らかに「静の定義の子孫力」が「伝統」を維持させ、継承させるものであると考えられる。
その意味で、”世に晒す事無かれ 何れ一利無し。 世に憚る事無かれ、何れ一利無し。” の「2つの血縁賜姓青木氏」の「戒律」は正しかった事が云える。
その「代表的な青木氏」は、総合的に観た「伝統」を継承しているのは、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の融合族の「伊豆の青木氏」ではないかと観られる。
次ぎに、厳しい戦乱の中で「村主」として生き延びて来た「米子青木氏」ではないかと考えられる。
それは、「米子の青木氏」(因幡青木氏)には、「家紋分析」で、「象徴紋の笹竜胆の家紋」が維持されている事が確認できる。
これはあらゆる「悠久の伝統」が、ある程度の面で総合的に伝承されていた事を示すからである。
ここは、次ぎの豪族が治めていた。
戦国時代、
因幡の国には、山名氏、亀井氏、草刈氏の3氏
伯耆の国には、庄氏、南条氏の2氏
江戸時代
因幡の国には、池田氏の3藩
この藩に家臣として仕官しているかの調査と「家紋分析」とをした。
戦国時代には、「米子青木氏」(信濃青木氏の賜姓族系足利氏系青木氏)は5氏の家臣に観られなかった。
江戸時代には、「池田氏」は平家末裔である。青木氏はあったが、「家紋分析」から「米子青木氏」のものは無かった。
この青木氏は、どの青木氏かは判らないが、秀郷流青木氏の家紋の類似紋を持っていた。
この事から、矢張り、郷氏の「村主」として勤めた事が判る。
鳥取(因幡と伯耆)には、「子孫存続」の「三つの条件」が全く認められない範囲である事から、鳥取の「平均の4」のパラメータが得られない事は理解できる。
「鳥取青木氏」は、その意味で「青木氏伝統」の「堅実型の子孫力」と云える。
その”「経緯」と「村主」” としての「子孫力・生存力」から、鳥取の「パラメータは2」は納得出来る。
下記に論じる「伊勢青木氏」もこの「堅実型の子孫力」を護って来た。
むしろ、「子孫」そのものの「遺伝子」がその様に成ってしまっている。
明らかに先々代までの「同族血縁の影響」を引き継いだか、突然変異の型の「血液型AB」で、筆者の代までそれで引き継いでいる事でも判る。
(血液型ABは、3代前までにO型が存在すると、「隔世遺伝」に依りA型、B型に分離する事が起こる。
如何に便利な血液型でもあり、況や、「堅実型の子孫力」を示している。他の親族を調べると矢張り、この現象が起こしているし、現実に筆者の3人の子孫にこの現象を起こしている。)
その伊勢に付いて次ぎに論じる。
・「三重 和歌山」
さて、「2つの血縁賜姓族青木氏」の中心的存在と成った「関西域」、取り分け、「伊勢域」の「青木氏」に付いて論じる。
「伊勢域」とは、古来より、「奈良の都」の東に隣接する伊勢国と、西域に隣接する紀州国を以て伊勢域と呼ばれていた。
「奈良期の大和朝廷」の前の「ヤマト政権」の頃には、「五大豪族の連合体」で治められていた。
その内、「紀州」の豪族には、 奈良盆地の「猿沢の池」を中心にそれを源泉として流れる大和川域に存在した。
この「東南部の三輪山麓一帯」に次の様な五大豪族が勢力を張っていた。
「紀氏」 現在の和歌山県の西部域 西海側域
「巨勢氏」 現在の和歌山県の北部域 東山側域
以上2氏が存在した。
「葛城氏」 和歌山県と大阪府の南部河内域 南平野側域
以下の大阪域との中間に位置していた。
「平群氏」
「物部氏」
以上2氏が大阪府の南部の大和川沿域
以上が五氏が奈良域ー和歌山側ー大阪南部と東部域に存在した。
現在の「奈良」とは違い、古来の奈良盆地は、「猿沢の池」は広大で、周囲山岳部の1/2は「広大な湖」で、そこから流れる大和川域にこれらの豪族が存在し、「連合国家」を作っていた。
その為に、奈良期に入っても、「伊勢域」とは、未だ以上の2氏が存在した名残から「紀州域」までを以って呼ばれていた。
現に、「伊勢路」とは、太湖に沿っての紀伊山脈の「山岳道」であった為に、そもそも「紀州熊野域」までの領域を「伊勢路」と呼ばれている。
参考
紀州の2氏の末裔は現存し、地名も残っている。
奈良盆地の太湖は地盤沈下で次第にひえ上がり、現在の「猿沢の池」のところの底まで曳けた。
この為に、「地形と地名」が混乱して変化してしまったのである。
奈良期の大化期に発祥した時期には、現在の「伊勢」のみならず「紀州域」までを以て「”伊勢”の範疇」として考えられていた。
故に、「青木氏の守護神神明社」で論じた様に、「伊勢ー紀州」域には、「伊勢神宮」の「90社」にも及ぶ「遷宮社」の内、この域では41社があり最も多いのである。
「日本書紀」の記述にも、”「吉野」”をも含んだものとしての”伊勢”の表現があり、”神域の行動範囲”は、この様に広域に捉えられていた。
従って、歴史を正しく考える場合は、「行政区分の伊勢域」と、「神域範囲の”伊勢域”」とは区別して考える必要がある。
「分布と子孫力の領域」は、この「神域範囲の伊勢域」を考える事が必須の条件である。
この様な事は、他にもあり、”陸奥域”や”武蔵域”や”近江域”なども、「行政区分の領域」とは異なっている。
これは、「国の括り」とは別に、古来は、”意識(神域)”の中の「”伊勢”の範疇」であった事を示すものであった。
故に、”「伊勢」”を正しく論じる場合は、”行政区分を外す事”が必要である。
依って、「紀州」を外して論じる事は出来ないのである。
中でも、「紀州」は、「地形の変化」と「伊勢の神域」と「大和の政権」が大きく影響している為に、例外中の例外扱いと成る。
関西地域では、「三重」と「和歌山」は、「伝統の国」と云われている様に、ここに問題がある。
この二つには、大きく連動している史実があるので、同時に論じる事が必要なのである。
故に、「伊勢」のみならず「奈良」を研究する場合は、「紀州」を絶対的に研究する事が必要に成る。
「伊勢時代のあらゆる面の伝統」が、未だ、この「紀州」には少なくなったとは云え、他の県に比べて多く遺されている。
ここは「伊勢ー紀州」は「筆者の地域」であり、「子孫拡大」は「伝統の国」である以上は、「パラメータ」も大きいのである。
上記で論じた様に、その「伊勢青木一族」の「経済的な根拠」になっていた「大商い」は、明治35年にて「松阪大火」(出火元)で破産した。
依って、「子孫拡大」のその根拠を一時失った。
その為に、次ぎの事が起こっている。
イ 「経済的背景」を急激に失って、大きく「子孫拡大」に至っていない事、
ロ 「子孫拡大の根拠」と成っていた歴史的な安定した血縁関係にも、明治後、消滅した事
以上の事などから、「大正ー昭和の子孫拡大」は、それ以前の「150万石から200万石」と云われた勢力が、賠償に使い極端に小さくなった。
結局、「福家・(宗家)」は「商い」から手を引き、分家に当たる「作左衛門の家」が、「摂津大阪の支店」で「紙屋」を再開した。
「三つの条件」の「経済的背景」は、「二足の草鞋策」で、「政治的背景」は「不入不倫の権」で、「軍事的背景」はシンジケートで補完されていた。
しかし、この「三つの条件」の最大の「経済的背景」(超大地主)をも失ったのである。
後の二つも明治維新での「地租改正」でも、紀州域まで含むかなりの範囲で、「絆青木氏」を含む「青木氏関係族」に引き渡し、福家(宗家)は極度に衰退した。
現在も一族一門は主に「三重」を中心に関西域の8地域に存続している。
そもそも記帳がないのはその「家柄の体質」(慎重な性質)にあると考えられる。
a 平安期から室町期初期の「初期の移動期」
b 江戸享保期と末期の「後期の移動期」
以上のこの2つには、各地の「青木氏の定住地」としての地域には大小移動定住している。
「移動定住地」は次ぎの通りである。
「大阪」に、「兵庫」に、
「愛知」に、「長野「に、
「伊豆」に、「神奈川」に
「福井」に、「新潟」に、「陸奥」に、
「東京」に、「千葉」に、「茨木」に、
(和歌山)
以上の12地域に定住移動」している。
(5家地域と神職関係と小移動は除く。 「伊勢秀郷流青木氏」は除く。)
この各地の「子孫拡大」に大小はあるが、その中でも、「移動定住」で、大きく「子孫拡大」した「伊豆青木氏」は特別である。
一国以上の定住地である。
ここ「伊豆の青木氏」は、「伊勢青木氏と信濃青木氏」の「融合族」で、「青木村」全体で「笹竜胆紋」を現在でも護っている。
ここは、「清和源氏の摂津源氏」 「宗家頼光」の「四家の長老」4代目正三位頼政の領国である。
この「頼政」の孫の「京綱」は、「伊勢青木氏の跡目」に入ったのだが、それまでに、同族としての「男系女系の血縁」を含む「親族的な付き合い」が高かった。
ただ、それは、清和源氏の分家「頼信の河内源氏」との「生き様」が異なっていた為に、永来に親交は無かった。
この為に、「伊勢青木氏」と、「信濃青木氏」は、宗家四家の棟梁「頼政」を盛り立てた。
それが「伊豆の青木氏」なのである。
(「信濃青木氏」も伊勢青木氏と同様に「摂津源氏」との血縁親交を持ち続けたことが記録にある。)
そもそも、この「伊豆地域」は、”「青木氏の伝統国」”と呼ばれる地域でもある。
ここに行けば、現在も、上記する様な、「笹竜胆紋」のステイタスを「青木村」の全域で継承している。
「青木氏の伝統」を調べようとすれば先ずは「伊豆」である。
その証拠の最大のパラメータを持つ「神奈川の21」には、次ぎの様な、パラーメータが見込まれる。
「伊豆の4」と、「東京の18」には「2」と、「兵庫の3」には「摂津の1」としての「伊勢青木氏のパラメータ 7」が合わせて見込まれる。
筆者の福家・(宗家)は、その後、子孫を拡大させて各地に大きく分布している。
数字的には、極めて深い親交のあった長野の「信濃青木氏」の「パラメータが9」とすると、明治期まで「不入不倫の権」で守られて来た。
このことから、「三重」は少なくとも「平均の4」以上の ”7” には相当していると観られる。
次ぎの事で、「伊勢青木氏」は、少なくとも、実質「パラメータ 7」以上である事が判る。
ところが、上記する「伊勢域」の、この「三重」に隣接する和歌山には、「パラメータが4」と成っている。
ここには、本来は、何れの青木氏も歴史的に定住地ではない。
しかし、定住地論ではないが、”「青木」”と云う地名が、”和歌山有田郡”に存在する。
ここには、平安末期に、確かに「藤原氏」が守護として赴任している。
しかし、この「藤原氏」は「脩行系の藤原氏」で、「秀郷流青木氏」とは無関係である。
この「藤原氏」が赴任移動した地域は、有田郡の”「明恵」”と云う地名に成っている。
”「藤原明恵」の赴任先末孫だ”と云う一族がこの「明恵」地域に住んでいる。(家紋が疑問)
そこから離れた地域に、「青木」と云う地名があるが、ここには歴史的に村の形成は無い。
恐らくは、明治期初期に地名として、「第3の青木氏」の「青木村」が多く作られたが、その時に名づけられたものである。
周囲に、最早、その「第3の青木氏」は全く存在しない。
ところが、上記した様に、「紀州」は「神域の伊勢域」であった。
この事から、長い歴史の中で「伊勢青木氏」は”「紀州」”の方向に「子孫拡大」で伸長して行った。
伸長の経緯
(1) 実は、この和歌山の「有田郡」には、明治初期から筆者の「伊勢青木氏」の「絆青木氏」が存在する (1)。
(2) 祖父の代に「伊勢青木氏」に所属していた「職能団」の中から、「絆青木氏」を発祥させた (2)。
この「絆青木氏」が明治期から定住している。
この「絆青木氏」には、(1)と(2)と、以下の「二流の青木氏」がある。
(3) 一つは、伊勢での「家臣団の絆青木氏」が伊勢青木氏倒産で和歌山に移動定住した (3)。
(4) もう一つは、「伊勢青木氏」の「職能集団の絆青木氏」も和歌山に移動定住した (4)。
合わせて、先ず、「4つの絆青木氏」がある。
(5) この「職能集団の絆青木氏」には、更に、和歌山で祖父の代で「絆青木氏」として発祥させた元は「藤田姓(明治期の農民)」の「絆青木氏」が有田郡域に定住した (5)。
(この藤田の「絆青木氏」は明治の終わり頃に「絆の養子縁組」を破棄した。)
(6) これと別に、「伊勢秀郷流青木氏」の一部が明治期に、和歌山ー有田域に定住移動した (6)。
(7) これに同行した職能集団が、「主家の氏名」を「明治期の苗字令」に基づき名乗った「第三の青木氏」がある (7)。
(8) 当然に、倒産時に「福家(宗家)の伊勢青木氏」は、伊勢に子供を一人残して跡を引き継がせて、福家(宗家)の「伊勢青木氏」の地の新宮と云う地域に移動した (8)。
この時、福家(宗家)以外は伊勢に残る。「三家の青木氏」が伊勢の地に残った。
現在も、この”伊勢域”の古来からの「8地域」に存続し、拡大している。
従って、和歌山には以上の「8つの青木氏」が存在する。
これらが「子孫拡大」をしていった「伊勢青木氏の経緯」である。
この全ての「青木氏」が大阪(摂津域)にも移動して子孫を現在も拡大させている。
和歌山には、従って、「パラメータ 4」が出たのである。
更に、この4の内訳は次ぎの様に成る。
「伊勢青木氏」は1、
「秀郷流青木氏」が1
女系血縁性の「絆青木氏」の1
「第三の青木氏」の1
以上がこれに相当する。
但し、祖父の代の「絆青木氏」は血縁性を持っていないので「第三の青木氏」の中に入れる。
従って、「伊勢青木氏」は次ぎの様に成る。
「伊豆の青木氏の「3」
「三重ー和歌山の青木氏の「4」
合わせて、「伊勢青木氏の子孫力」の「パラメータ」は”7”と成る。
しかし、「信濃 9」に対しては、「伊勢青木氏 7」は少なくとも9かそれ以上と成り得る。
その答えが「奈良 1」である。
この「奈良の1」は「名張の伊勢青木氏」である。
小計としては、「伊勢青木氏」は、7+1で、「パラメータ 8」と成る。
そもそも、「伊勢青木氏」は、次ぎの様に成る。
・松坂、名張、員弁、桑名、四日市
(伊勢青木氏と伊勢秀郷流青木氏と青木氏融合族)
(四日市は融合族)
・伊賀、脇坂、上田
(「2つの絆青木氏」 「職能集団」)
・玉城
(「2つの絆青木氏」 「家人集団」)
「青木氏の絆青木氏の本流筋」、
「絆青木氏」には、次ぎの2流がある。
「家人」と呼ばれる家臣に相当する一門
「職能集団」の一門
参考
「家人集団」も「職能集団」も、その本家筋は「女系の血縁関係」を構築していた。
現在の「玉城市の全域」は、明治35年以前は、「2つの絆青木氏」の住人と蔵群であった。(明治35年)
「名張」はこの「奈良の1」である。
以上から成り立っていた。
結局は、これで「伊勢青木氏」の「パラメータ 8」と成るが、これに「都会流失分」が加味される。
これに、下記の「大阪の都会移動分」を加味すれば、「パラメータ 11」以上程度と成ろう。
(「和歌山の移動分 2」ー絆、「兵庫摂津の移動分 1」ー支店が加算される。)
以上は、「賜姓族伊勢青木氏」のカウントである。
従って、殆ど親族関係にあった「伊勢秀郷流青木氏」の分が「伊勢域」の中に組み込まれている。
「皇族賜姓族5家5流の青木氏」の”古来からの定住地”に、直接、平安中期から定住しているところはこの「伊勢域」だけである。
それだけに、「伊勢秀郷流青木氏」の「特別賜姓族」は、前段-5でも論じたが、「全くの同族」なのである。
ここで、それを加味すれば、次ぎの様に成る。
「パラメータ 11」+「伊勢秀郷流青木氏分の3」=「パラメータ 14」
前段-5、6、7で論じた様に、「伊勢青木氏」のバラメータ は次ぎの様に成るだろう。
「伊勢青木氏」は、最大「パラメータ 14」と成ろう。
上記した様に、「明治後の都会移動分」として「大阪14」と「東京18」の分の幾らかが加算される。
「大阪」には、「関西域の青木氏」の定住地から「都会移動」が明治後に起こっている。
「伊勢青木氏」が、この「大阪」にどの程度のパラメータで食い込んでいるかは判らない。
ただ、筆者の分家に相当する「伊勢青木一族」は、明治35年倒産の後、大阪に移動定住して平安期からの「和紙の問屋」を今も続けている。
これは「ルーツ掲示板」と「家紋分析」から観察する事が出来る。
何れのデータでも信頼度は、「都会」と云う事もあって、過去からの伝統的なデータが維持されていない。
裏付けるものがないので、「虚偽」のものとで渾然としていて低下する事から、正確なデータが採れない。
・「大阪の14の内訳吟味」
「大阪の14」の全てが、「集合パラメータ」である事から、関西と中国と中部域の周辺の定住地の総合が14-15である。
従って、全て「パラメータ 1」で、均等に集合したとして考えると、下記の様に、丁度14ー15と成る。
現在も「集合域」なので、「家紋分析」などではそのルーツが判らない。
又、この地域の「青木氏自身」が、その「ルーツの情報」を持ち得ていない場合が多い。
これは「移動定住の所以」であろう。
これでも、「都会の青木氏」の「ルーツの情報」は、この現象から消えるのみである。
大阪の「都会」も然ることながら、「田舎」に於いては、老化して継承出来なくなった現象が起こっているので、「ルーツ情報」は最早、まじかに消える。
仮に、遺されたとしても問題は、「正しいルーツ情報」が遺されたかとうかの問題である。
この様な状況の中では、「遺される情報」は、「慣習仕来り掟」の伴わない環境の中では正しく遺されずに湾曲されるが世の常である。
とすれば、「大阪周辺地域」の「伊勢青木氏」の場合は、周辺の「伊勢青木氏」が、関係する定住地は「3地域」と成る。
従って、「大阪の14」の内の「3」は獲得できる。
依って、「伊勢青木氏の定住地」の「パラメータとして 「14」、これに「都会移動分」を加えて、その「総合の子孫力」の「パラメータ」は14と3で「15」と成る。
結局は、「伊勢青木氏」の合計「パラメータ」 15」(実質12)である。
事ほど左様に、大阪に集まる「青木氏」は次ぎの様に成る。
「伊勢青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」を始めとして、
「香川青木氏」、「高知青木氏」、「徳島青木氏」、
「福井青木氏」、「長野青木氏」、
「愛知青木氏」、「岐阜青木氏」、
「近江青木氏」、「兵庫青木氏」、「滋賀青木氏」、「鳥取青木氏」、
その他地域の青木氏
以上の地域に、「大阪の14」が分散して「子孫力」として各地域に加算される。
全体の20%程度が大阪に集まっているのだが、上記の14地域から、1地域に「パラメータは1」を配分できる。
比較対象として、「都会」の「東京18」は「武蔵国」で「秀郷一門の定住地」であるので、「パラメータ」の持つ意味は若干異なる。
「大阪の14」は、その意味で、「伝統の継承」は、「東京の18」に比べて、関西域は、これからは低く成る事を物語る。
その事から、「伊勢青木氏」の「遺された伝統」の意味は実に大きい。
そもそも、「伝統」とは、その「伝統」を維持している「氏の思考の基準」となるものである。
「氏の思考基準から外れた考え方」はその氏は排除する。
要するに、「伝統」=「思考基準」(行動規範)である。
況して、「氏の独善の宗教」=「密教」であるとすれば、「宗教的な作法」の「伝統」は”自らの氏が決めた作法”である。
「氏の思考基準」である。
次ぎの”「青木氏だけの伝統」”は、”「青木氏の思考基準」”となる。
「青木氏」は、”この様なものの考え方をしていた”と云う事で理解するべきである。
所感(伝統 2)
筆者の「伊勢青木氏」の生活の中にも、何気なく行ってる「慣習仕来り掟」は、外から観れば、”古来のもの”と観られる。
筆者はそれを当たり前だと「無意識」に受け取っていた。
子供の頃から、”何か違うな”と思いながらも、その「無意識の感覚」が強く打ち消していた傾向があった。
今、思えば、「部屋の間取り」や「構え」や「大きさ」や「家具」や「調度品」や「装飾品」や「作法」等は確かに違う事が判る。
例えば、「達親の論文」で論じた様に、「祭祀の作法」の”「達親」”等はよく調べると、「古代慣習の継承」であったりする。
この様な事が、未だ、沢山ある筈で、「無意識」を「有意識」にして、これから「伝統」を掘り起こして行く計画である。
何せ、相当伝授されたが、その”有意識の持った人”が居なくなっている現状である。
何とか「違い差」を見つける事と認識している。
そこから検証を進めて投稿する。
後に、詳しく伝統の論文として、投稿する予定だが、「無意識」を「有意識」にして、因みに一つ簡単な例を挙げる。
祭祀で、仏様に、線香を捧げる。
この時の”「仏法作法」”が異なっていて、”「古来の密教浄土宗の作法」”が遺り継承されている事がある。
「仏説作法」
それは、先ず「仏」に向かって挨拶をする。
「数珠」は、親指に賭ける。ところが一般は親指以外の4本の手に賭ける。
そして、「粉の線香」を、先ず、一摘みして、一般では香炉に入れる。
ところが、この時、その一摘みの線香を、香炉に入れずに、「額中央」に当てる。
その後、に香炉に入れる。
これを、3度繰り返す。
これを他の宗派では日蓮宗は一度で、真宗は2度にして、額に当てずに、直ぐに香炉に入れる作法である。
ここで、重要な異なる作法が2つある。
”「親指に数珠」”を掛けるのは、「親指」の持つ意味から来ている。
この”「数珠作法」”は、他の宗派にもあり、「自然神」をも崇め、「神仏合体」で信仰する「修験道師」にも、一部作法として遺されている。
これも「古来の作法」であったと観られる。
古来は「現在の数珠のサイズ」の様では無く、現在は小さくなかった。
古来は「108の球」を連ねた「長い数珠繋ぎ」であったのです。それを両方の親指に賭ける。
そして、その「長い数珠」を両手で擦り合わせて、”「擬音」”を出す作法であった。
この”「擬音」”で、「仏への合図」とした。
これは現在では無く成って居る。
青木氏の中でも無く成って居るが、”親指に賭ける作法”だけは遺されている。
ところが次の作法では異なっている。
「作法の相違点」
A 一つは、回数が3度にする作法
B 二つは、額に当てる作法
これらには、2つの作法には、「古代密教浄土宗」のみ「本来古来の姿」が「仏説根拠」を伴って遺されている。
先に、Bに付いて、この「額に当てる」とは、何なのかである。
それは、古来より、「額中央」に、人間には、「瘤」の様に膨らんだ「複眼機能」と云うものがあった。
現在は、その機能は退化して、大脳の下に10ミリ程度の大きさで押し込まれている。
これは「前頭葉」が進化して大きく成った事により退化して、更に、存在場所が圧迫されて奥に引きこもった様に成って居る。
ここで、この「複眼機能」は、ここに「無我無心」にして「全神経」を集中させると、右脳より「ベータ波」を飛ばす事が出来る。
これは、「未来」を予見し、「過去」を悟り、「現在」を見据える事、の出来る「予知機能」を有している。
この「予知機能」を使って、「過去の人」と成った「仏」に対して、「未来」に生まれ変わってくる「仏」に対して、「現在」の世に未だ居る「仏」に対して、「信号」を送る事が出来る。
(現在、中国では、現実性を以って研究が進んでいる。「中国山岳民族」に、未だ、この「複眼機能」を有している「少数民族」がある。)
この「信号」の「ベータ波」で、「三世の仏」に対して、”「会話」をする事が出来る、”と信じられている仏説である。
この「仏との会話」は、例えば、”生前中は大変にお世話に成りました。ありがとうございます。”との事が出来るとして、この「仏説作法」が遺されているのである。
この「3度」とは、「過去、未来、現在」の「仏」に対する「三度」と成っている。
これが、「古代密教浄土宗の仏説作法」である。
これは、一概に、”迷信”では無く、実は、”生態学的に根拠のある現象”なのである。
この「複眼機能」は、現在も「動物の本能」として持っているもので、人間には退化している。
ところが、未だ、人間の元と成る「女性」には、「母性本能」の一輪として遺されている。
そして、この”「機能」”を鍛える事で、「予知能力」は高まる事が判っている。
特に、「男性」は全く働かないが、「女性」には未だ現実に持っている。
現実に、右脳から発する「ベータ波」が「母性本能」の中で高く成ることが判っている。
「女性」が子供を育てる時には、現在も、この機能の一部を使っている。
これが「古代仏説」として、その「作法」が、「三世の仏」に「話しかける手段」として、未だ「青木氏」の中で遺されているのである。
これは、「古来の仏説」では、”「仏」が死する事は、「肉体の消滅」 を意味し、「霊威」は一定期間遺る”とする「仏法」である。
従って、この遺された「霊威」に対して、上記する”「古来の仏説作法」でのみ話しかける事が出来る”とした説法である。
その”「霊威」の存在する期間”が、”「現在過去未来」の何れにか存在する”として、「3度」と成って居るのだ。
その「祭祀の目的」、例えば、「葬式」では、「現在」に存在するとして「現在」を、「法事」であれば、「過去」に存在するとして「過去」をと成る。
「常の祭祀・お勉め」では、「未来」(「仏」が生まれ変わる)に存在するとして「未来」に向かって、「仏との会話」をするとした仏説である。
一切の「祭祀の作法」として、「密教浄土宗」では、総括して「三界の3度の動作」を繰り返す作法と成っている。
これを、この「動作の回数」と「額の所作」を省いて、その「宗派の考え方」で、「過去現在未来」の何れかの「三界」に対して1度、2度とした。
これが、「顕教の浄土宗」では無く、「密教の浄土宗」の中に遺されている「密教の古来作法」の一つである。
以上の事を「根拠」とした、上記した「古来作法」なのである。
以上、「達親」に続き、「伝統」の一つを披露した。
「伊勢青木氏」等の慣習の中には、この「古代仏説の作法」を、未だ遺されたものとして、現在も引き継いでいるのである。
これらの「伝統」は、「先祖の青木氏」を正しく理解する上で、”意味のある事だ”と考えられる。
> ・> 青木氏の分布と子孫力
> >
> > [地域別分布力]
> > > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > > 地域 異変の県 分布力
> >> 九州地方 長崎、大分 5%
> >> 四国地方 高知 2.5%
> >> 中国地方 山口、岡山 2.5%
> >> 関西地方 三重(筆者ルーツ) 14%
> >> 東北地方 秋田 7%
> >> 中部地方 15%
> >> 関東地方 45%
> >> 北海道・沖縄 6%
> >> その他 3%
> >>
> >> 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> >> 九州地方 1.3
> >> 四国地方 1.3
> >> 中国地方 1.3
> >> 関西地方 4.7
> >> 中部地方 4.3
> >> 関東地方 11.3
> >> 東北地方 2.0
> >> その他 11.0
> >>
> >> 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
> >>
> >> 修正地域(表ー3)
> >> 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1-7 三重 12 福井 4 愛知 13-7
> >> 秋田 1
> >>
> > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> >> 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> >> 福岡 2 山口 0 愛媛 3 兵庫 3 三重 1
> >> 長崎 0 島根 2 香川 1 大阪 14 石川 2
> >> 佐賀 1 広島 3 高知 0 京都 5 福井 1
> >> 大分 0 岡山 0 徳島 1 奈良 1 岐阜 3
> >> 熊本 4 和歌山 4 愛知 13
> >> 宮崎 2 滋賀 1 長野 9
> >> 鹿児島 1 山梨 1
> >>
> >> 域平均 1.25 平均 1.25 平均 1.25 平均 4.7 平均 4.3
> >
> >> 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
> >> 静岡 5 青森 1 沖縄 1
> >> 神奈川 21 山形 2 北海道 11
> >> 東京 18 岩手 1
> >> 埼玉 17 新潟 4
> >> 群馬 6 秋田 0
> >> 千葉 11 福島 4
> >> 茨木 4 宮城 2
> >> 栃木 8
> >>
> >> 域平均 11.3 平均 2.0 平均 11.0
>
> 青木氏の分布と子孫力-9に続く。
>
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- 青木氏の分布と子孫力-4 (2014/04/13)
- 青木氏の分布と子孫力-3 (2014/04/07)
- 青木氏の分布と子孫力-2 (2014/03/27)
- 青木氏の分布と子孫力-1 (2014/03/25)


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青木氏の分布と子孫力-7
No.311] Re:青木氏の分布と子孫力-7
投稿者:takao 投稿日:2014/04/27(Sun) 14:24:11
> 青木氏の分布と子孫力-6末尾
> 話をもどす。
> 上記の「瀬戸内族等の蝦夷地開拓に関わる変遷の論証」は、出来たと考える。
> そこで、江戸期まで云われていた ”瀬戸内を制する者は国を制する” の言葉の通り、上記した様に「瀬戸内族」は平安期でもそうであった。
> しかし、この様に「伊勢青木氏・信濃青木氏」と共に、「瀬戸内族の生き様」、即ち「瀬戸内族の子孫力」は、「幕府内に浸透した秀郷一門の横の関係力」と連携している。
> 江戸期でも矢張り特別に重視されていたのである。
> そして、上記した様にその子孫力は「幕政改革」にも利用されたのである。
>
> 従って、「瀬戸内族」の地元の「香川1」と「岡山0」の「子孫力のパラメータ」は、この様な「背景の経緯」にあった為に、”一族存亡に成るほどに注ぎ込んだ”のである。
> 依って、その後の地元での「子孫力」や「子孫拡大力」には、当然に支障を来した事を物語るのである。
> しかし、その分、この「子孫力」で「江戸期ー明治期」までで、最低でも北海道の7/11にシフトしている事に成ったのである。
> 衰退していたのでは決して無いのである。
> 普通なら、上記した様な ”波乱に満ちた世の中の荒波”に洗われて、一族を注ぎ込んだが諸共に消えて仕舞う憂き目を受けている。
> しかし、これもこの「現世の条理」であり、普通である。
青木氏の分布と子孫力-7
・「戦後の入植」
更には、これに重ねて「昭和20年後(戦後の混乱期・経済的悪化)」にも同じことが「瀬戸内族」に起こったのである。
この「昭和の瀬戸内族の危機」でも、このパラメータに大きく影響を与えたのである。
「讃岐青木氏」には、上記した「江戸期の経験」があったからこそ、また現地にも一族を廻している。
だから、既に、「受け入れの土壌」も出来上がっている事から、「瀬戸内の廻船業」から「蝦夷地の入植と廻船」に切り換えて、再び盛り返す事を狙ったものである。
従って、逆に、北海道には、この「昭和の入植移動」でも、その分「北海道のパラメータ」(1.5分)が拡大したのである。
上記した様に、「弘前藩」の救援劇に関わった「讃岐の瀬戸内族」、とりわけ「弘前の讃岐青木氏」(陸奥の「香川の移動族」と「岡山の末裔族」)の両方とも「北海道」に入植した。
この入植には、下記した「弘前藩と松前藩の関係」(下記)が大きく影響したのである。
この「陸奥青木氏の入植」には、この「弘前の讃岐青木氏」も含まれていると観ていて、故に、「秋田の分」が「北海道」に引っ張られて、秋田は0と成っているのだ。
ところで、それまでの経緯に付いて重複するが、改めて記述すると次の様に成る。
イ 「北海道の支配権」を家康から1599年に「松前藩」に与えられて正式に認められた。
ロ この「松前藩」は家臣(瀬戸内族)を配置して交易を正式に開始した。
ハ ただ、この元々は「青森に居た松前氏」には、「蝦夷地の支配権」を家康は特別に見込んで任した。
ニ ところが、米が採れない「無石の藩」であったので、「青森の弘前藩」との間で「米の供給」をする契約が交わされていた。
ホ 最初は「1万石相当」を「弘前藩」から供給を受けていたが 次第に交易が拡大し人口が増え、「米の供給」が不足し始めた。
ヘ 享保4年には「1万人人口の都市」と成り、この「基本的な米の供給」のみならず、「10万石」が不足していた。
ト この為に、「弘前藩」に対しては、「蝦夷地の入植」と、その「海産物などの殖産貿易の権利」の優遇を図っていた。
チ この事から、他のどの藩よりも「北海道の入植とその利権」は優位にあったし、積極的に行った。
リ この為に「交易と殖産」の為の「弘前からの入植移動」は「最大の条件下」にあった。
ヌ 「松前藩」も、財政的な面から観て、「弘前藩の北海道の入植」は、”「コメの供給」の対価支払が出来、それと「継続的な供給状態」が維持出来る事の負担面で都合が良かった。
ル 「弘前藩」は、この関係から積極的に「瀬戸内族」をその経験を見込んで「家臣」としての扱いで優遇し北海道に配置した。
ヲ 「松前藩」に対しても「幕府の肝いり」もあり「瀬戸内族」には同様に家臣として扱ったのである。
ワ 記録では、「松前藩」は、江戸時代の「5大飢饉」に起こった ”「米の飢饉」の時も度々に救われた” と記されている。
カ 「松前藩」は、「弘前藩」に対して「恩義」に思っていたのである。
ヨ 「弘前藩」は、「お家騒動の体質」で苦労している事から、「経済的な背景」は「藩政安定」につながる事から、”絶対に崩せない”と云う弱みもあった。
タ その「瀬戸内族」に依って運営されていた ”「海運による海産物の交易の利」”も身に染みて知っていた。
レ この状況から、「幕府の強い意向」もあり、「瀬戸内から来ていた関係者」を全てつぎ込んだ。
ソ 上記した様に、これが「青木氏」の「歴史的な定住地」ではなかったが、これが「北海道の11」の内容の一つに成っているのである。
従って、この数字的には、「北海道」には次ぎの様に成る。
1 「信濃」から「皇族賜姓族の神職系の移動」
2 「陸奥からの秀郷一門の移動」
3 「瀬戸内族の陸奥からの移動」
以上の3件の室町期末期の記録がある。
この事があるので、全国平均の4のパラメータから観ると次の様に成る。
「讃岐青木氏」(瀬戸内族)としての「実質の子孫力」は次ぎの様に成る。、
北海道分 7
香川の分 1
岡山の分 0(X)
広島の分 3
島根の分 2
岡山の分は0としているが(X)は2以上は見込める。
以上で、最低でも「13のパラメータ以上」が認められる。
(北海道分の7は昭和の最終吟味で異なる。)
この「パラメータ13以上」に付いては、長年同じ行動を採って来た「伊勢青木氏」等の「実質のパラメータ12」に匹敵するものとして納得できる。
以上の様に、実質の「讃岐青木氏」は、「武蔵」と肩を競い合っていたところから、17以上にはならないものの、15程度に匹敵するものを持っていると考えられる。
そこで、この「讃岐のパラメータ」を最終確定させるには、その前に、上記の経緯から、次ぎの「青森ー秋田」の状況を吟味して置く必要がある。
「青森ー秋田」
しかし、「瀬戸内族」が一時、定住したこの陸奥地域の「青木氏の動き」が解明されたとしても、”地元「青森ー秋田」の「秀郷流青木氏」は一体どうしたのか” と云う疑問がある。
そもそも、「青森ー秋田の陸奥青木氏」は、秀郷一門の「鎮守府将軍」の頃から、「青木氏」の「入間の本領地」に継ぐ位の定住地でもあった。
しかし、「青木氏の守護神の神明社建立」と云う面からにしても、データは、「陸奥の秋田」と云う範囲では「青木氏の子孫力」は不思議に低い。
因みに、「青木氏族の永嶋氏」も、関東でも、愛知でも、陸奥でも、「子孫拡大」を室町期末期まで大きく興している。
にも拘らず、この事を考えると、「秋田」では、「同族の青木氏」が、”何故に「子孫拡大」が大きく起こらなかったのか”が疑問である。
この疑問を解決する必要がある。
陸奥域の周囲には同族の一門も居たし、土地の豪族も殆どが「血縁族」であるにも関わらず、「軍事的背景」、「経済的背景」、「周囲の一族」などから観ても「政治的背景の環境」も決して悪くは無かった。
むしろ「子孫拡大」には「三つの条件」が揃い過ぎている。
もう一つの「時代的背景」にしても、確かに、陸奥域には「荘園制」に関わる有名な「子孫力」を低下させる「奴婢事件」等が起こった。
この国を動かすほどの大事件が、平安期末期や室町期末期には大きな事件が多く起こった。
しかし、「青木氏の分布やその子孫力」の「拡大抑制の元凶」と成っていた「荘園制」が、「平安末期の禁止令」に依って無く成った。
依って、その後の「子孫力」は再び盛り返している。
元陸奥域の「周囲の5県」には、「秀郷一族一門」と「北家利仁流一門」にも囲まれている。
しかし、「唯一の脅威」としては「阿多倍一族」の有名な「内蔵氏系」の「安倍氏や清水氏」などの勢力に囲まれていたことは事実である。
ところが、この「内蔵氏族」の氏とは、歴史的に見て「子孫力」を下げる大きな事件を起こしていない。
その証拠に、「藤原利仁流族」や「秀郷流進藤氏」は、この中間地域に挟まれていながら子孫を伸ばしている。
では、”何が子孫力を下げていたのか”である。後は、「子孫力」を低下させるこの地域の要因は厳しい「気候」しか浮かばない。
では、”「気候的背景」があったのか”、しかし、「青木氏」が ”気候的背景に弱い”という事は聞いた事はない。
とすると、考えられる事は次ぎの事が只一つである。
この「気候的背景」が原因して、「秀郷流青木氏の護衛団」の ”入間との間の交代制”にあった事が考えられる。
そもそも、陸奥の「花房氏」や「小山氏」や「小田氏」などの土豪との「全ての血縁族」が、関東に来て「秀郷一門の勢力」を背景を基にして大豪族と成っている。
この事が物語る事は ”子孫拡大の流れ” が確かに「北から南」にあった事は否めない。
そもそも、「秀郷流青木氏」の「陸奥の定住」は、あくまでも ”「赴任定住」” にあった。
従って、「陸奥土豪の血縁族」等が、関東に出てきて勢力を伸ばしている中で、本家筋の「赴任定住の青木氏」が「逆の行動」を採るかは大いに疑問である。
先ずは採る可能性は無い。
「秀郷流青木氏116氏」の「24地域」では「入間帰還」を前提としたシステムを元より採用している。
確かに「赴任定住」で各地域の赴任地には、「子孫末裔」を遺してきている事は確かである。
そうすると、この「24地域」の中で、「子孫力」「子孫存続拡大」に関わる”異なる条件”とすれば、「環境の影響」である。
この中でも、厳しい「気候的背景」だけが「子孫力差」として出て来る。
この「陸奥域の気候的背景」が、この「子孫力の限界値」として観てみると ”、「赴任定住・交代制」に大きく影響を与えたのではないか” と考えられる。
特に、上記した様に、「讃岐青木氏」などの「瀬戸内族」に依って、江戸期初期には「太平洋周りの廻船」が新たに創設された。
これに依って、四季を通して凡そ二日か三日で赴任地から護衛団が入間に帰還できる様に成った。
江戸初期の「造船力の発展」が原因した。気候の厳しい「蝦夷地等の交易」が「造船技術」を伸ばした。
この「造船力の発展」に依って、”豪雪の中での護衛”と云う役目は、「冬場での役目」としてあまり意味がなくなった事に成る。
それまで、帰還に要する危険や難儀から留守居の形で定住する事に成っていたが、その必要性が一年中無くなった事に成る。
何日もかけて危険を背景に必死に陸送で帰還するよりは、「帰還」と云う点では画期的なものであった。
この”瀬戸内族による外回りの廻船の開設” が、”入間帰還のシステム”が現実のものとして”効果的なシステム”と成ったと考えられる。
「陸奥の瀬戸内族の操船入植貢献」と、「讃岐の瀬戸内族の外回りの廻船開設」と何れも瀬戸内族の貢献であった。
「蝦夷地の開拓」と「陸奥の秀郷一門の帰還」に大きく貢献したのである。
「讃岐の瀬戸内族の外回りの廻船開設」は、「蝦夷地の開拓」にも「人と者」を運送する事でも大いに貢献したのである。
そこで、「陸奥の環境」の「気候的背景」が「限界点」に成ったとしても、これで「入間帰還」は容易に成った。
これで「赴任定住の留守居役」も必要と無くなる程の移動と成った。
この事で、「現地末裔孫」も伴い「全陸奥青木氏」の「入間帰還」と成った。
依って、「陸奥秋田の青木氏」はパラメータが0に成るほどの地域と成った事が考えられる。
現実に「そっくり帰還」(根削ぎ帰還)は、温暖の地の「紀伊国」や「阿波国」や「肥前国」でも起こっていた。下記
何れも、「造船力の発展」で陸送で何日もかけての帰還より、数日で楽に帰還できる様に成ったことからの結果である。
この現象は「陸奥だけの事」では無かったのである。
これは「室町期」のみならず、上記した様に、江戸幕府の「旗本 御家人集団」と成った「土地付き家臣団」の「秀郷一門の青木氏」があった。
江戸時代に成っても、室町期の「縁故の地」に「現地派遣の幕府代官」として派遣されていた。
そこで調べて観ると、「家紋分析論」と「守護神論」でも判るのだが、この「広域陸奥」には「18の大名」が配置されていた。
この18の大名の内の「7の大名」は、何らかの秀郷一門との縁故を持っていた。
その「土地付き家臣団」には3割程度が秀郷一門で占めているのである。
江戸期に成っても、この「秀郷一門の青木氏」は、この様に「24地域の縁故地」に派遣されていた事が判る。
秀吉に依って、家康が関東に転封された時に、この地域一帯を治めていた秀郷一門には、「家康の本領安堵策」に依って関東域は安堵された。
その後、「家康の天下」と成った時も含めて、各地の「24地域の縁故地」もその後、安堵され保証された。
家康の藤原秀郷一門に対する「本領安堵策」で「土地付き家臣団」(准大名扱い:地主:御家人)が生まれたのである。
因みに、「土地付き家臣団」を超えて、江戸時代の全国大名の内の「6大名」に「下り藤紋」の藤原一門が成っている。
A 陸奥、越後、
B 信濃、近江、
C 紀伊、日向
以上が成っている。
この「6つの小大名」の藩士の多くは、「秀郷流青木氏116氏」の一門の家紋群である。
しかし、他の「縁故の地」(24地域)では、凡そ2割から3割が秀郷一門の家紋群である。
ほぼ、他の陸奥域も同じ程度である。地主として名主や豪農や庄屋や郷氏や、土地の藩の家臣として生き延びた。
この地域も家康に依って、「藤原氏の勢力」を維持させる為に、「縁故の地」も「本領安堵の策」が採られたのである。
この様に、「土地付きの家臣(御家人、上級旗本)」と成っている地域は、下記に参考に記す様に、主に「青木氏116氏の主要地域」に成っている。
武蔵、越後、讃岐、備前、
下野、相模、三河、下総、
常陸、紀伊、陸奥、上野、
美作、備後、伊予、豊後
以上16の地域に集中しているのだが、これは二つに分類できる。
一つは、「秀郷流青木氏」の平安期と室町期までの「領地」か「赴任地」
二つは、「松平氏か徳川氏の藩主」と成っている「守護地」
一つ目は、「縁故の地」に対して派遣された幕府の代官、役人等
二つ目は、江戸初期に徳川家臣団と成って藩主が赴任した地域
以上の様に、室町期に引き続いて江戸期にもほぼ同じ勢力で同じ分布域を示している。
これは「子孫力維持」と云う点で重要な事柄である。
そこには、当然に強い「子孫力」が存在する。要するに、”古来より縁故の地”であるからだ。
「室町期」と「江戸期」では、社会の不安定さや混乱差は大きく変化した。
しかし、「縁故の地」に関わる事により「子孫力」は、冒頭でも記したが ”変わらない”として論じる事が出来るのだ。
従って、「陸奥」に於いては、要するに、「基礎的な子孫力」が全く無くなったのではなく、”「子孫力」が出自先の入間に戻った”と成る。
故に、「陸奥」では、「子孫力」が激減していたのであるから、「陸奥」から「北海道」への「入植移動」は、「陸奥青木氏」だけではない事に成る。
更に、上記した様に、各地から「陸奥」に来ていた「青木氏」(瀬戸内族等)も「北海道」に入植移動した事にもなるのである。
後住の「瀬戸内族の入植」とは別に、先住の「陸奥青木氏の入植移動」は、むしろ、どの時代を通しても「入間帰還」を中心とした慣習に従っていたので、極めて少なかった。
この事から、せいぜい「留守居程度」のもの定住と考えられるから、入植移動は無かったと見做される。
依って、パラメータに出て来る範囲ではなかったと考えられる。
(「陸奥域」を始めとして、24地域の「入間帰還」は改善された。)
丁度、上記した”徳島の剣片喰族の愛知への帰還方式”と類似するが、その期間の「土地の生活環境」は大きく異なる。
「肥前の青木村」も同じである。
当初は、「期間限定の定住策」であったと考えられるが、「蝦夷地開拓」に伴う「造船力の発展」が、この「肥前の定住」にも大きな変化をもたらしたのである。
逆に、この「讃岐青木氏」ら「瀬戸内族の入植移動」が「造船力の発展」を促し、その「造船力の発展」が今度は「瀬戸内族の廻船業や殖産業の発展」を促した事に成る。
陸送より「海送の発展」が、質、量、速さ、楽さに於いて優れ社会を大いに変えた時代と成ったのである。
ところが、昭和に成って始まった機械化が、戦後に成って、その代表と成る鉄道の急激な発達によって「陸送の発展」が起こり海運を超える結果と成ったのである。
、
瀬戸内族の母体と成っていた廻船業と殖産業は、鉄道の陸送の発達で取って代わられたのである。
そこで、「讃岐青木氏」等の「瀬戸内族」は、「北海道開発」に賭けて「戦後入植」と成って表れたのである。
この様に、地域毎にその「子孫力や子孫拡大力」の「有り様」が異なり、それに伴って「青木氏の分布と子孫力」は変化したのである。
しかし、その「分布と子孫力」は、根底を覆すような変化までには至らなかったのである。
恐らくは、1600年経っても”あまり変わっていない”と評価されるが、これからの「時代の変化具合」によっては「青木氏の分布と子孫力」は変化する可能性がある。
どの様に変化するかは判らないが、判る現在の範囲で過去の事を遺しておきたい。
後世の青木氏の末裔にロマンを与えられる。
この異なる「青木氏の歴史」には、「先祖の生き様」がよく見えて来て面白いのである。
その「分布図や伝統の有り様」も面白くなるのだと考える。
従って、「青木氏の子孫力の有り様」を続けて論じる事とする。
・> 青木氏の分布と子孫力
>
> [地域別分布力]
> > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > 地域 異変の県 分布力
>> 九州地方 長崎、大分 5%
>> 四国地方 高知 2.5%
>> 中国地方 山口、岡山 2.5%
>> 関西地方 三重(筆者ルーツ) 14%
>> 東北地方 秋田 7%
>> 中部地方 15%
>> 関東地方 45%
>> 北海道・沖縄 6%
>> その他 3%
>>
>> 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
>> 九州地方 1.3
>> 四国地方 1.3
>> 中国地方 1.3
>> 関西地方 4.7
>> 中部地方 4.3
>> 関東地方 11.3
>> 東北地方 2.0
>> その他 11.0
>>
>> 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
>>
>> 修正地域(表ー3)
>> 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1-7 三重 12 福井 4 愛知 13-7
>> 秋田 1
>>
> 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
>> 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
>> 福岡 2 山口 0 愛媛 3 兵庫 3 三重 1
>> 長崎 0 島根 2 香川 1 大阪 14 石川 2
>> 佐賀 1 広島 3 高知 0 京都 5 福井 1
>> 大分 0 岡山 0 徳島 1 奈良 1 岐阜 3
>> 熊本 4 和歌山 4 愛知 13
>> 宮崎 2 滋賀 1 長野 9
>> 鹿児島 1 山梨 1
>>
>> 域平均 1.25 平均 1.25 平均 1.25 平均 4.7 平均 4.3
>
>> 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
>> 静岡 5 青森 1 沖縄 1
>> 神奈川 21 山形 2 北海道 11
>> 東京 18 岩手 1
>> 埼玉 17 新潟 4
>> 群馬 6 秋田 0
>> 千葉 11 福島 4
>> 茨木 4 宮城 2
>> 栃木 8
>>
>> 域平均 11.3 平均 2.0 平均 11.0
青木氏の分布と子孫力-8に続く。
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青木氏の分布と子孫力-6
[No.310] Re:青木氏の分布と子孫力-6
投稿者:takao 投稿日:2014/04/20(Sun) 10:55:08
> 青木氏の分布と子孫力-5末尾
>
> 注釈
> (反対に家光は頼房と仲が良かった。ところが、家康はこの「頼房」が謀反を起こす性癖の持ち主として、水戸藩主にはしたが、遺命で27年間徳川氏を名乗らせなかったのである。
> ところが頼房は逆にこの気は無かったから、家康からもその性格を信頼されていて、遺命で「朝廷工作」の「家興要領」に組み込まれていた皮肉な事が起こっていた。
> 故に、家光は頼房との差を隠すために「由井正雪事件の謀反嫌疑」を掛けたのである。)
>
> ”頼宣の孫の吉宗”が青木氏と強い結びつきを持ったかは云うまでも無く判る。
> それは、上記した様に、”何故に「伊勢青木氏」が親代わりに成った”かは、又、その後の”「享保の改革」の事”、”紀州藩の勘定方指導の事”等も含めて、上記したこの経緯の事で充分に判る。
> 更には、祖父の「頼宣」の「形式上の出自元」と成ったからであり、「ABCの族」即ち、「賜姓族青木氏系藤原氏関係族徳川氏」であるからである。
> 「伊勢青木氏」からすると「吉宗」は「家康ー頼宣」の繋がりからも、又「一族の縁者」でもあった事に成る。
>
> この上記に論じた「考察の問題」は、この「調停工作」の「権威付け」を「全ての青木氏」取り分け「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「秀郷流伊勢青木氏」の三者がこれを容認するか、どうかである。
> 容認すれば、上記の”「長保寺」”が物語るものは解明できる。
> 当然に、密かに「調停工作」をしたのだから、青木氏は容認する以外には無いし容認しなければ意味が無い。
> 否定すれば「朝廷と天皇」が求める故事の「長者の呼称」「正二位官位」は消える。
> そうなれば「徳川氏との軋轢」が決定的に生まれ、当然に「青木氏」は消滅する事に成る。
> 当然に、青木氏等の背景保護もなくし、天皇家のみならず朝廷は立ち上がれないほどに衰退していたと考えられる。
> つまり、上記するこれらの権威を容認したのである。
>
> 「権力と権威」を主体とする絶対社会では、「子孫力」を作り出すには、”世に晒す事無かれ、世に憚る事無かれ”であり、「否定」は「自己の主張を世に前面に押し出す事」に成り、これは当に「晒し憚る行為」である。
> そんな事は、絶対に青木氏はしない。それが長年の「青木氏の子孫力」の基と成る戒律である。
>
> 「長保寺問題」は上記した事の「青木氏ー徳川氏」の関係の度合いを一挙に解析出来得るテーマである。
> 仮に、「紀州徳川氏の菩提寺」を紀州に置いたとすると、一体”どう様になるか”である。
> 「伊勢」と云う「二つの故事」を継承している「伊勢青木氏」が、「伊勢」は古来より青木氏が定住している「天領地」であるからで、人は疑いなく信じるのであり、「紀州」では前は「藤原氏」を名乗っていたのが、今度は又「源氏」かと成る。
> 徳川幕府の様に、”権威を基本とした権力構造”の中では、人は信じないし、「権威」は低下し、「為政力」は低下し、末には、権力を押し付ける無理な構造が出来上がる。
> 結局は「政治体制の崩壊」に繋がる。
> 「賜姓族」の様に、この「二つの故事」を「紀州」で使えば、逆に疑う方向に周囲は働くが、折角の「権威獲得」は「水の泡」であり、「徳川政権」は「秀吉政権」と同じ様にそう長く無かった事に成ろう。
>
青木氏の分布と子孫力-6
・「伊勢の菩提寺と紀州」
徳川氏との関係の親密さは、紀州徳川氏の菩提寺が「伊勢松阪」にあって、且つ、「青木氏菩提寺跡」に建立し、「同じ青木氏菩提寺の寺名」を同じくし、古来よりの「賜姓族青木氏」の「伊勢」にあるこの「3つ要素」が最低でも裏付けてられている。
だから、”人はその権威を信じた”のであって、「紀州」に置いたとすれば、”人は無味乾燥と成り、「権威」の「故事の目論見」は消えうせた”筈で無理であった。
それが、「伊勢」であったからこそ、「故事に従った血縁関係」を「本流立葵紋」で成し得たのである。
否、成し得たから、「紀州藩の始祖」を祭祀する「長保寺」に「嵯峨期詔勅の禁令紋」の「笹竜胆紋」が使えたのである。
そして、家康の「浄土宗督奨令」(密教系と菩提寺方式を解除)に反して、わざわざ「密教排除の禁令」に反して、「密教浄土宗の寺」を建立出来たのである。
故に、この「二つの故事」の「禁令条件」を観て、その作り上げた権威を人々から信じられて使えたのである。
そして、この”信じられた影響が、徳川氏全体の行為に伝播して疑う者は居なくなった”ものである。
紀州の「民衆」、のみならず「家臣」までもが、全国の全ての民が、信じ疑わなくなったのである。
むしろ、「歴史の場」では、実際は、「徳川氏の出自」を暴かれているものの、以前は確かに「搾取偏纂」であったものであった。
しかし、それを払拭する様に、上記の「2つの故事」の事で、民衆を含む全ての人は完全に信じてしまったのである。
イ 「青木氏側」から観れば、この「本流立葵紋の青木氏」が、存在する限りは、最早、「搾取偏纂の域」を超えた「認められた正統行為」と成る。
ロ 「徳川氏側」から観れば、「本流立葵紋の徳川氏」を引き継いだ「頼宣」までの「一代限り」では、「搾取偏纂の域」を超えた手続き上では、確実に「正統な賜姓族」で「源氏の末裔孫」と成る。
このイとロの「二つの考察事」を捉えれば、徳川氏の他の直系一族(宗家と御三家)も、心情的には、「源氏末孫」を名乗る事は、「頼宣の事」を捉えて、”「仕方無い」”ともなろう。(前は藤原氏だったから。)
注釈
(「頼宣」の名は、そもそも、「清和源氏」の分家河内源氏の始祖「頼信」から来ている。
「頼宣」の「2つの故事の条件」を取得した事からこそ、「嵯峨期詔勅」に従って、始祖とする「頼信」から、「頼宣」の河内源氏の「通名」を使えたのである。
「頼将(よりのぶ)」から一度は肖って同名の「頼信」にしたが、最後には「2つの故事」の完成に憚って「頼宣」にした経緯である。
この経緯から観ても、上記の「調停工作」と「家興要領」での成功裏の「笹竜胆紋と密教浄土宗」の取得が、どれだけの影響を徳川氏に与えていたかはよく判る。)
「頼宣」の孫の「吉宗」が、「8代将軍」と成って「徳川宗家」に成ったとすれば、”一代限り”とは云え、形式上は「直系孫」となった。
その限りは、「二つの考察事」から観れば、「賜姓族」系と成ったと見做される。
形式的には「男系の血液上の繋がり」は無いが、「徳川宗家」(田安氏、保科氏等)は形式上からすると「未勘源氏」並みと云う事に成るだろう。
前は「搾取の藤原氏」であったが、今度は何とか「源氏朝臣」は名乗れるし、「青木氏」と「朝廷と天皇」はこれを確実に容認する。
これは「伊勢青木氏」等に対する親密な行動で動いた”「家康ー頼宣の戦略」”が功を奏したと成る。
これだけ、”「徳川氏の全氏」に影響を与えた功績”でも、「家光」は「頼宣」により嫉妬するであろう。
「征夷大将軍の権威」の条件が、「調停工作」の「家興要領」に基づく搾取的行為であっても、万民に信じさせて「将軍の権威」を創出したのである。
仕事でも「長保寺」の如くに、名声を挙げた事は、エレベータの様に押し上げられた「家光」には到底出来ない事であり、叶わない事であろう。
この「頼宣」は、「家康の意志夢実現」の為に、鍛えられたからこそ才能を発揮したのである。
(青木氏の上記した「経済学」は、それは其れなりにこの事とは別の行動であるが、「頼宣の才能」の条件が整ったからこそ吉宗までの成功を遂げられたのである。)
更に重ねて次ぎに考察する。
そもそも、”日本全国広し”と云えど、これらの「歴史的な事柄」を論じられるのは、「関係した氏」としても、「資料保全」からしても、「青木氏」だけである。
中でも「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「讃岐青木氏」と「秀郷流伊勢青木氏」と「近江佐々木氏」とに限られる。
この5氏が保有する資料から、この様に考察して論じなければ、「歴史の表裏の実態」は、絶対に解明できないし、消え去る憂き目を持つ事に成る。
「青木氏氏のサイト」だけの「徳川氏の江戸初期の行動」を解明できる資料である。
更に、この事は、当に「青木氏の伝統」であるので、解明の為に論じる事を続ける。
「青木氏の分布と子孫力」のこれらの「青木氏の行為」は「大変な子孫力」に大きく関わるからである。
ただ、筆者は ”世に晒す事無かれ 何れ一利無し”の戒律の姿勢は崩さない。
(注記 この論文は青木氏の範囲に留める。その心算でお読み頂きたい。)
さて、そこで、上記の事で論じ得られた筈ではあるが、青木氏だけが成し得る事として、放置すれば消え去るのみであり、出来得る限りの論調を論じて置きたい。
・「紀州藩と青木氏」
更に、「長保寺」以外に次の事が更に証明している。
この時以来、「頼宣」との「再三の談合」が持たれ、「伊勢青木氏」は「頼宣」に対して、南画絵画、俳句、禅問答、歌、茶道、書、商学、殖産学」等を指導した。
又、「藩主の話し相手」として以後、接する事と成り、この状態は江戸初期から大正14年まで代々の藩主に続いた。
この為に「12人扶持米」の「礼米」を支給し続けられた。(明治期まで)
この時のこの「付き合い」の中で、「伊勢青木氏」は、”「頼宣」に、「家康」と同じく「蝦夷地開拓」の必要性”を解き推奨した様である。
「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」はこれに関わっていた事が文意から読み取れる。
故に、この話を1600年前頃に「伊勢青木氏」から受け、堺などで見識を広めた「家康」が、「松前氏」に「蝦夷地交易権」(1599年)を与えた。
そして、続けて「讃岐青木氏」には、「外回りの蝦夷地からの新規廻船」(1600年)を同時に許可しているのである。
注釈
(上記した様に、「伊勢青木氏」は、「家康との親交」は、資料とは別に、正式には「関ヶ原」(1614年)以来からであった。
信長が光秀に討たれた時にも、「大阪の堺」に家康は居て、「堺の青木氏屋敷と店」等でも親交を深めていた状況であったことが口伝にある。
その「光秀謀反」を知った「伊勢青木氏」は、「伊勢シンジケート」に連絡を取り、その後、伊賀上野経路で逃亡し、伊賀館まで何とか辿り着いた。
この時、「伊勢シンジケート」が周囲を固めて護った事が判っている。)
この後、幕末までこの「付き合い」から、伊勢青木氏の四家(伊勢郷流青木氏含む)は、 ”「紀州藩の勘定方を指導する事」”は何度も続いた。
しかし、上記した様に「家康の時」は勿論の事、「頼宣の時」、「吉宗の時」、「幕末の時」の3度の事は詳しくよく伝わっている。
筆者までは口伝でも物語風でよく伝わっている。
(「伊勢秀郷流青木氏」とは、「本流立葵紋の青木氏」「宗家葵紋の青木氏」の「伊勢末裔四日市殿」である。
「四日市殿」を含めて「四家」は「伊勢青木氏の総合商社」を一族で運営していた。)
この時の「信濃青木氏」と「讃岐青木氏」の「徳川氏への貢献具合」のより詳細な資料が不足で掴めない状況である。
伊勢青木氏側の遺資料だけで、消失した模様。)
「頼宣の時」には、「伊勢青木氏」の指導の下で「交易船」を建造している。
この事は「家康の意向」の基に「蝦夷地開拓」を含む交易を先んじて始めた事を意味する。
そもそも、「交易船」を作っても、創藩したばかりの「紀州藩」には、元々このノウハウが無い。
これを「伊勢青木氏と讃岐青木氏と信濃青木氏」が指導して直ぐに交易した事が商業資料から判る。
商業記録から、紀州と信濃と安芸ー讃岐の殖産物の取り扱いの記録から読み取れる。
指導した内容として、交易するには「海産物や農産物の買い集め」から、それを「大量に生産する殖産態勢」、「売買の交渉技術」、何よりも「大船の操船技術」と、その「運送技術」を獲得しなければ出来ない事である。
これはノウハウと経験の無い紀州藩が、独自で一朝一夜で出来る事では無い。
況して他藩から来た官僚の家臣では尚更である。
この「3つの青木氏」が関わっても、この「システム作り」では相当に苦労する筈である。
この事は交易の事に付いては、「家康」も充分に知っていた筈で、これを「伊勢青木氏」から知り指導を受けたのである。
恐らくは、名義上は、「紀州藩」として「代表家臣」を載せ、「伊勢青木氏か讃岐青木氏や信濃青木氏」から送り込んだ「各種の職能集団」(青木氏か抱えていた「2つの絆青木氏」)が運用したと観られる。
「吉宗の享保の改革」の段階までは、「宗家葵紋の青木氏」と「本流立葵紋の青木氏」等の「四日市殿」を含むこの「3つの青木氏」は、商業記録などから「総動員」であった様子であった。
注釈
(この時の「伊勢秀郷流青木氏の宗家」の動きの記録が、「秀吉の伊勢攻め」の時と、明治の「伊勢の2度の大火」で消失していて掴めない。
ただ、天正期に於いて秀郷一門の同族で伊勢の「伊藤氏」との同族血縁関係を持っている事、更には、この融合の「伊藤氏」と「伊勢賜姓青木氏」との”「血縁の繋がり」の記録”が残っている事。
この2つ事から判断して、これらの”何回かの縁組”が起こっている事は、江戸中期以降も「伊勢秀郷流青木氏」とは、依然として緊密に繋がっていた事が判る。
実は、筆者の継祖母も、この伊藤氏の宗家の娘である。明治期までは何度も血縁していた事が判る。
この「伊勢秀郷流青木氏ー伊勢賜姓青木氏ー伊勢の伊藤氏」のより強固な関係が構築されていた事が判る。
何故、この「悠久の歴史」を持つ「2つの青木氏の関係」に同じ悠久の伊藤氏が入ってきているのかと云う疑問である。
そして、ただ、「伊藤氏」がこの「3者の関係」の中で ”どの様な働きをしていたか” は実のところそこまで研究が進んでいなくよく掴み切れていない。
若干の資料はあるにしても、推測の範囲として述べると、「信長と秀吉の伊勢攻め」の為に、互いに結束した事は記録から間違いない事が読み取れる。
「長嶋攻め」「北畠攻め」等の資料、青木氏のこの「伊勢攻め」の資料から互いに合力した事が判る。
その直後の上記した「家康の調停工作と家興要領」の完成遂行の為に、「関東の秀郷宗家との調整」の”「役目の一部」”を担ったとされる節がある。
実は、この事を物語る事として、ここにも「大きな繋がり」を持っていたのである。
前段で論じた「宗家葵紋の青木氏」の始祖母で、頼房の側室の「那那の実家先」(実家先では「弥弥」)の父は、「藤原准尊昭玄」 興正寺住職 顕如の孫 兄弟に「皇族賜姓族青木氏」の菩提寺系同門の住職と成っている。
(寺名は個人情報により不記載とする。)
「藤原氏の格式」と、更には、「菩提寺住職」でも「青木氏との繋がり」が、重複してここでも繋がっていたのである。
つまり、何とかして、「朝廷と天皇」を納得させ文句の出ない様な縁籍を構築しようとした事が判る。
この「重複の繋がり」は、放って置いて出来上がるものでは決してない。
誰かが強力に押し進めない限りは起こらない。
では、伊勢の「2つの伊勢青木氏」と「徳川氏」だけでは、「格式」と「繋がり」から観ても、この「那那の縁籍」は成し得ない。
これを「押し進めた者」「取り持った者」が必ずいる。
筆者は、それが、”伊勢の伊藤氏であった”と観ている。
実は、伊勢の伊藤氏の出自関係を観れば良く判る。
「5家5流皇族賜姓族青木氏」の「菩提寺系の同門寺の住職」(萩)に繋がっていたのである。
「伊藤氏」は、「伊勢秀郷流青木氏」から依頼されて、この「伊勢青木氏の菩提寺」の「同門寺系の住職」(萩)の弟を通じて、父の、「藤原准尊昭玄」 (興正寺住職)に「姉の婚姻先」として「徳川氏の頼房」に政略結婚先として嫁がせる話を通したと観られる。
伊藤氏はこの住職との繋がりを持っていた形跡がある。
「伊勢賜姓青木氏」は「近江賜姓佐々木氏」(勝姫)に、「伊藤氏」は萩の同門住職に話を推し進めたのである。
「伊勢賜姓青木氏」は、「菩提寺同門寺系とは云え、格式上はこの同門系寺は下位に位置していた事から勧められなかった。
そこで、「伊勢の伊藤氏」に仲介役を依頼したと云う事に成る。
輪の様に「繋がり」が出来る程に「調停工作」は進められていた事が判る。
(伊藤氏 :秀郷より 第1子千常系文行流 始祖9代目基景 詳細は別途 興正寺住職准尊は北家藤原氏文行流神職系)
(伊勢秀郷流青木氏:第3子千国系兼光流 始祖 秀郷祖祖父藤成ー秀郷ー千国ー兼光
(「2つの絆青木氏」に付いては、「神明社守護神」のところで詳しく論じている。現在の伊勢の玉城市の全域は青木氏のこれらの職能集団の長屋や家屋と蔵群であった。)
この様に、「伊勢青木氏と徳川氏の付き合い」は、「只の付き合い」では無く、殆ど一体化していると観られる。
「12扶持礼米」は「伊勢青木氏」に於いては「糧」ではないが、「礼米」の形で受け取っていた事に成り、「礼米」の「受給の意志」がそれを全て明らかに物語る。
「天保の飢饉」の頃には、「藩財政」を立て直すために幕末の時まで「勘定方」に、伊勢より人を廻して無給で専門に指導していた事が判っている。
この中でも面白い事が書かれていて、幕末に”「坂本龍馬の船」を「紀州藩の船」が「操船ミス」で沈めて「高額の賠償金」を払った事”が記されている。
(坂本龍馬の「海援隊の記録」からも同じ事が記載されている。)
それでも藩財政は立て直したと成っている。
「吉宗の将軍に成る経緯」には、上記の様に、「青木氏」と「紀州藩」が絶対とする「祖神・神君の家康の意志」を引き継いで、「藩財政の改革」を実行していると云う事があって、「幕政改革の議論」にも終止符を打ったのである。
これを裏では「伊勢青木氏ー信濃青木氏ー讃岐青木氏」等は、幕臣と成っていた関東の「藤原秀郷一門」らを味方に引き入れて、「吉宗」を「将軍の座」に押し上げたのである。
この「吉宗」は、「家康の意志」を次いで「改革実行」の為に、幕臣の6割を紀州藩から採用し、旧幕臣を徹底的に排除して、「藤原秀郷一門」の多くを上級家臣として引き揚げて、「計画実行の態勢」を固めた。
尾張藩も三井家等の「江戸の豪商」を背景にしていた事が、「尾張藩の町づくり」が越後屋を始めとして「民間の豪商」らの力によって成された事が記されていて、この事でも判る。
紀州藩は、「質素倹約」で「出」を抑え、「各藩の力」と「瀬戸内族の力」と「民間の力」との3つの力で、「蝦夷地等の開拓」を成して「開拓の利益」や「交易金」や「運用金」や「献納金」で「入」を高めて、収支の「出と入の収支差」を最大に高める「財政改革」であった。
家康はそもそもこれを目指していたものである。
(紀州藩と享保の幕府と伊勢青木氏等は「リフレ政策論」であった。
注釈
(デフレとインフレの丁度、間をくり抜ける経済政策論。
この江戸期は、丁度、地球の気候変動が大きくなる「300年周期」の中の「100年期」に入っていた。
江戸時代はこの気候変動に依る影響で大飢饉が多発していた。
この為に、物価が値上がりし、激しいインフレの状況に陥っていた。
経済力が低下する現象が起こる等のインフレ現象の中に、逆に社会は疲弊して購買力が低下するデフレ現象も片方で起こる等複雑な経済状況であった。
この為に、幕藩財政も悪化して崩壊寸前の状態に陥っていた。止む無く年貢の「五公五民の増税」に踏み切った。
これが「享保の改革」の「リフレ政策の効果」を低下させた大きな原因と観られる。
この「リフレ政策」とは、「出」を抑え「入り」を高める「中間政策」である為に「大きな増税」は「禁じ手」である。
この「入り」を高めるには、「増税」では無く、「交易や殖産能力」を高めての「入り」でなくてはならない。
それを「交易や殖産開発」をしながら、一方で「増税」もした為に、「入り」が高まり過ぎて、「出」の収支差が確かに良くなった。
一方で「出」の「質素倹約令」と「増税の令」とで、「フラストレーション(不満)」が社会の中に起こったのである。
そこで、「五公五民の弊害」に対して、これを何とかしようとして、吉宗は「米将軍」と称されるくらいで、自らの判断で、基幹の米相場の操作を実行した。
しかし、操作に依って起こるリスクヘッジに合い失敗した。
しかし、ここで疑問点がある。
「伊勢青木氏」は、増税は「禁じ手」ある事を知っていた筈であるし、「リスクヘッジ」も商人である以上は常識で知っていた筈である。
しかし、行われた。ただ、米相場のリスクヘッジは「相場の操作」を元に戻す事で解決するので問題は無い。
現実に慌ててその様にした。
問題は、「五公五民」の「増税」はありながらも、強い「反対勢力」を抑え込む為の「モデル実験の紀州藩」では成功した経済改革である。
”一体、何が幕政で違ったのか”である。
そこで「青木六左衛門」を始めとするグループは、原因を考えた。
一つは、「交易と殖産開発」の「入り」の違い差。
二つは、「出」の「質素倹約」のレベル差。
彼らが調査した原因は、「二つ目の累進性」であった。つまり、「出」の「累進性」であった。
江戸の「六左衛門グループ」は、「紀州の改革」に取り組んでいた「紀州班グループ」に問い合わせた。
その情報の分析で「出の累進性」の事を知った「六左衛門」は、その原因を吉宗に慌てて進言した。
その大元凶は、「女の園」の「大奥制度」であった。
「紀州班グループ」では、前段-5で論じた様に、「頼宣の比丘尼山の制度」が「仕来り」として引き継がれていた事であった。
「紀州班グループ」の指摘で、代々藩主の「女系家族」は、例外なく「還俗制度」を採用していた事であった。
「頼宣の比丘尼山」に習って「還俗制度」を「勘定方」を指導する立場として厳しく指導したのである。
この事を知った「六左衛門グループ」は、紀州と江戸の「大奥」の差が、藩と幕府との「出」の比例的な関係に無い事に気づいた。
「紀州:幕府」は「1:15」の関係にあった。しかし、大奥では「1:120」の関係であった。
当然に、これでは「比例関係」での「質素倹約」での効果は出ない。
(累進性は「比例線」では無く、「放物線」の形で働く。商で培った知識を持っていた「六左衛門」等はハッと気が付いた。
紀州の大奥は、30で、1:15とすると次の様な事に成る。
経済学では、比例30:450に成るに対して、先ずこの450に対して第一段階の累進性が働く。
ところが3500(450)で、本来あるべき数より約8倍である。
この関係から幕府大奥の出費は、累進性が働く為に、より450+累進率量以上の出費を、先ずは抑えなくてはならない。
しかし、更には、この8倍の数であるから、その累進性は放物線であるから比例線からその差は大きく離れて行く。
その8倍であるから「膨大な数字」と成る。
「紀州藩並」に成功させるには、この”「膨大な数字」の出費”に対しては絶対に抑えなくてはならない。
実質、”将軍7代までの全ての「女系家族」”が大奥に存在して貯め込んでいた。
これが元凶として大改革を吉宗に迫った。
吉宗は、「六左衛門の指摘」を猛烈な反対を受けながらも直ちに実行した。
そこで、吉宗は反対派に対して妥協して、1/3の1000人程度まで削減した。
(絶対条件は450以下必要)
しかし、紀州藩は「実質0ベース」である。この差を解決しなければ、「累進性」は解消しない。
そこで、困った「六左衛門グループ」は、「次ぎの手」(下記)を吉宗に提案した。
それは、大奥の「出」の元凶は、正室と男系の子供は別としても、「側室」と「姫娘」にあるとして、次ぎの提案を進言した。
イ 「無役の側室」を家臣などに転嫁する事。
ロ 「役済の側室」は「家」を興して「独立性」を持たせる事。
ハ 「将軍の家」は「別家」を興して「独立性」を持たせる事。
ニ 「役済側室と無役側室」を紀州藩に習って「比丘尼制度」を設ける事。
ホ 「上級武家からの側室」は実家に戻す事。
ヘ 「将軍に成る藩主」の藩は廃藩にして、全て家族も含めて「江戸詰め」にする制度を中止し,そのままに残す制度にして独立性採算制を敷かせた。
ト 「無位無官の側室」の姫娘は「許婚制度」によって家臣に婚姻させる事。
以上を実行したのである。
禁じ手の増税は、この様な累進性の改善で何とかバランスが取れて解決した。
(江戸時代の全ての改革は、この「享保の改革」の「リフレ政策」が見本と成った。
252年中に「8つの飢饉」があった事に依る。単純平均すれば何と1回/32年間の高頻度である。
回復したと思えば”又来た”と云う感覚であった。それだけに「専門的な改革」が必要と成る。
「吉宗」は「育親許」と成った豪商「伊勢紙屋長兵衛」の「六左衛門グループ等」を引き連れて将軍と成った。)
それだけに、これは、「六左衛門グループ」(累進性の失敗)の明らかな「沈痛な失敗」であった。
恐らくは、「宗家葵紋の青木氏」と「本流立葵紋の青木氏」は、その「裏調査と研究」に懸命と成ったと考えられる。
この事から得た知識が、吉宗大御所の専門家ブレーンとして「享保の改革」の「最後の詰め」として実行した。
この事が、江戸252年期間中の改革の中で、唯一成功裏に導いた最大の要因であった。
裏を返せば、、危険を孕みながらも「宗家葵紋の青木氏」と「本流立葵紋の青木氏」を江戸時代に子孫を遺せた最大の要因であった事に成る。
しかし、米相場だけは「吉宗の判断」であった事が、後から発見された「吉宗独自のメモ資料」から判明した。
これで紀州藩との比較の累進性は、改善に向かって「享保の改革」の幕府財政は改善された。
注釈
(公的に書かれている吉宗資料には、「伊勢青木氏の貢献」は出て来ないが、吉宗と関わった伊勢青木氏のものからは上記の事が判明する。)
そもそも、勘定方を指導したとするが、一族を総動員して家臣で無い為に「無償」で改革を進めた。
”世に晒す事ならず、何れ一利無し。”の戒律から、「不記録」を行動規範としているので、徳川氏の資料の中には出て来ない。
「青木氏の中」と「近江佐々木氏」の中にのみ断片的に記載配慮して遺される事に成る。
そもそも、”何故、「近江佐々木氏」がこの情報を青木氏と同じく掴んでいた”のかは「重要な事」でもある。(下記)
その接点があった。
前段-5で、「頼房」の「側室の勝」の出自は、同族大化期の「近江佐々木氏」であって、その「姫娘A」が「本流立葵紋の青木氏」の「発祥母」であった事を論じた。
ここで、繋がっていて同じ事が記録されたと考えられる。
「近江佐々木氏」の始祖「川島皇子」と「伊勢青木氏」の始祖「施基皇子」は兄弟で、共に第6位皇子、第7位皇子として賜姓を同時に受けた「皇族賜姓族」である。
故に、「近江佐々木氏」の資料には「青木氏の事」が多く遺されている。
「近江佐々木氏」の方から筆者の先祖が頂戴した非売品の資料本である。
兎も角も、そもそも、”改革を進める”と云っても、家臣の権限を持ち得ていない。
然すれば、幕臣を先ずは説得しなければ成せられないし、何事も成し得ない。
「吉宗の背景」があるとしても、「直接権力の行使」は反発を招く。
其れこそ、”世に晒す事無かれ、何れ一利無し”を間違いなく招く。
「六左衛門の能力」の「差配の能力の有無」が大いに問われていた筈である。
ところが、事件を招いている記録があった。
実は、「近江佐々木氏の資料」によると、”吉宗に同行したこの「六左衛門に近い人物」の「若い者」が、「享保9年」に、江戸で「小普請の役」の途中で、「不慮の事故」で死亡した。”と云う事が記録されている。
この”「不慮の事故」の記述”は、間違いなく ”反対派の襲撃を受けた”のではないかと筆者は判断している。
説得の為の調査や資料つくり等の事務方の仕事、交易などの準備の実質作業、上層部の説得の為の交際、時には実務の代行をしなくてはならない。
この作業に大変な危険を孕んでいた事がこれで充分に判る。
この「危険」のみならず、この為の「膨大な出費」、「一族の生活費」、「家人の人件費」を捻出するのに、恐らくは、伊勢青木氏の経済力(200万石相当)に「相当な歪」を興していた事が判る。
これは好き好んで出来る事では無い。
この時期の商業記録や遺産文書から観て、その「生き様」が読み取れる。
何故、近江佐々木似の資料にこの記述があるのかは、一つは、青木氏側には外の公に成った事に付いては戒律で記録を遺せない。
しかし、近江佐々木氏にはこの戒律事が無い。故に記録の遺した。
”遺した”と云う事は、一般市民は兎も角も「幕府内」では「有名な事」であった事に成り、「近江佐々木氏」と徳川氏との間に何がしかのパイプがあった事から同族の事件を記載されて記録として遺されたと成る。
では、その「パイプ」とは、”何処にあったのか”と云えば、上記する様に、「江戸詰めの頼房」の「側室の勝の方」(姫娘Aを出した)の「佐々木氏の家臣」から入手した情報である事に成る。
身内の「姫娘Aの嫁ぎ先」の末裔が事件に巻き込まれたのである。
恐らくは、この様な危険に満ちた改革を進める青木氏には徳川氏からの支援は公には当然に無い。
その中で、「宗家葵紋の青木氏」と「「本流立葵紋の青木氏」は、「江戸での人命や経済力」で”江戸での子孫拡大”に大きな影響を与えていた事が理解できる。
上記した様に、「紀州での礼米」(12人扶持)はあったが、「六左衛門」の「江戸での礼米」の「援助記録」が発見できない。
(吉宗は率先して「綿の着物」で通した。)
注釈
その後、「六左衛門」は、この後、”「享保の改革」を始末した後、息子の慶次郎に跡目を引き継いだ”とある。
これは吉宗が将軍を息子に引き継いだが、この「吉宗の世継ぎになった息子」には言葉の言語発言に問題があった。
そこで、大御所として実権を握っていたのだが、この為に、「六左衛門」は隠居したが、息子が引き継いで「大御所の吉宗」を支えたと記されている。
この六左衛門の息子慶次郎も役目を終えて、伊勢の記録では江戸に「末裔」を遺したと記されている。
しかし、「佐々木氏の資料」では、”江戸に子孫を遺して、江戸から離れて伊勢に戻ったと成って居る”と書かれている。
この意味合いが不詳であるので、調査をした。
筆者の調査では、江戸近郊に”笹竜胆家紋とする青木氏”は確認できない。
しかし、後刻、「調停工作の論文」で、調べ直した結果、江戸に残った末裔は、伊勢の記録では、「四日市殿の末裔」の事である事が判った。
つまり、親族の「宗家葵紋の青木氏」と「本流立葵紋の青木氏」とである事が判った。
その内容(江戸の歴史書)では、この末裔には、大御所時代に、引き続き”準家臣的な立場”と観れる扱いで続けて仕えたとある。
「「立葵紋の青木氏」は、「小普請組頭」で、「宗家葵紋の青木氏」は、”「小納戸役頭」として働いた”と記されている。
何れも「礼米300俵」を賜ったと記されている。
この事から、殺されたと観られる若者は、「小普請組」の「宗家葵紋の青木氏」の一族の者である事が判る。
何れも「御家人扱い」の「布衣着用の許し」を特別に引き続き受けていた事も書かれている。
「江戸の青木氏グループ」の組頭は、「布衣着用の高位の身分:将軍に対し発言権を持った大大名格以上」であった。
この事からすると、明らかに反対派の「他藩の大名藩主の命」を受けての「狙撃」であった事が判る。
この様に、危険ながらも「四日市殿末裔」は、江戸に残り子孫繁栄を果たした事が判るのである。
これは六左衛門の「笹竜胆紋の松坂殿」は、「不入不倫の大権」で保護されている事から別にして、「立葵紋の青木氏」と「宗家葵紋の青木氏」にはこの様な危険を孕んでいたのである。
「葵紋文様類」と云う事から来る反発:紀州藩を除く松平一族の反発が宿命であった事が判る。
「狙撃の原因」は、上記した「厳しい経済改革」が原因していたのである。
又、”狙撃される”と云う事は、”「改革」を裏で主導していた事”を物語る証拠でもある。
この改革は、資料には、”幕臣のみならず各藩の家臣までその「影響の余波」として浸透して行った”と記されている。
それだけに、”城に居る葵紋の者”と違い、”市中に自由に姿を現して出て来ている「葵紋系」”には、大きな危険を孕んでいた。
参考
(江戸時代300年はこの「300年周期」にぴったりと入っていた。この300周期の100年期間隔で大きな気候変動が起こるデータと成る。)
注釈
(「比丘尼僧」に付いて、これは梵語で「比」と「丘」を音韻で日本語にした言葉、意味は女子が僧に成る際に、あるいくつかの「戒律」を守らねばならないとした。
その「戒律」は「具足戒」と云うもので、具足=旅の意味 全国を「布施行脚」で生活に困った場合の「売春行為」等を「戒め」として禁じたものである。
日本では、この言葉は室町末期に使われ、「比丘尼」と云う言葉として全国に広まったのは江戸中期頃である。
しかし、「頼宣の比丘尼山」は江戸初期で、そま前からこの山は「比丘尼山」と呼称されていた。
「比丘尼」が使われた頃と一致する。
本来は、純然たる布施に頼る「行脚尼僧」の事である。
しかし、世俗から、江戸中期頃から生活苦から、この「売春戒律」を破る尼僧が出たのである。
そのことから、俗意は、”尼僧の姿をした売春婦”の意味として使われる様になった。
この「行脚尼僧」は、「山寺」にて密かに売春行為をした事から、比(戒)の丘(山)の当字となった。
この事から、この江戸初期の「頼宣の比丘尼山」から、この言葉が江戸中期頃に全国に広まったと観られる。
江戸初期は、未だこの「売春」の意味は無かった為に、「比丘尼山」と名付けられたと観られる。
しかし、その後に、「行脚尼僧」には飢饉から布施行為が無くなり、止む無くこの行為が目立ったために汚名の呼称と成ったと観られる。
故に、この「頼宣の比丘尼山」は布施行為による独立採算の寺でもあった。
その為に安定しない生活苦から売春に走らない様に、これを取り締まる為にも、厳しく下界とを遮断したと観られる。
その為に、わざわざ世話役の「寺元」を作り、「生活の保護」と「食の保護」を「地元の善意」で維持したと観られる。
江戸中期から末期まで、乞食の様に、「食と衣服」などはかなり瀕していたと地元の口伝で伝わる。
江戸中期以降には、「売春」は密かに行われていた事も考えられる。この尼寺は大正末期に無くなった。
この「山寺」は、藤白浜の入り江の突き出た先端の小高い丘の上にあった。
その丘の周囲は鯔場(いな)と云う小さい池程度の山の真水と海水の混じる湖に囲まれている「孤島」の様な地形のところに立っている。)
これも、「紀州藩の質素倹約の厳しい実行の例」である。
これを観ると、紀州藩は徹底していた事が判る。
これに比べて幕府は安易であった事を「六左衛門」は知ったのである。
祖父の尼寺として、吉宗もこの「比丘尼山」は充分に事の重要性を知っていたから、上記の提案に応じたのである。
そこで、「デフレとインフレの現象」が起こる中で、この「二つの経済政策」の間の「安定政策」を採ったのである。
つまり、「リフレ政策」を採ったのである。論理的には正しい。
デフレの方に舵を切れば更にデフレに、インフレの方に舵を切ればよりインフレになるは必定である。
問題は、その「政策の如何」に関わることであった。
そこで考えられたのは、その政策が上記した「前段-4」に論じたものであった。
しかし、この時、当然に激しい反対論が継友らの尾張藩から出た。
「将軍継承問題」の遺恨も重なって、幕臣を巻き込んでの収拾の就かない状況に成りかけていた。
そこで、吉宗は、紀州藩の勘定方を指導している伊勢青木氏に対して、指示をだした。
「吉宗と六左衛門」は、「リフレ政策の実証」を証明する「モデル藩」として、在藩中と同じ様に「改革」を続けて促進する様に督促したのである。
注釈
(伊勢青木氏等は、[総合商社]であった為に外国との交易から、この「気候変動説」を承知していたと観られ、尚且つ、この「リフレ政策」を採ったと観られる。)
そこで、「蝦夷地開拓」を各藩に対して奨励し、又、幕府自身も「新田開発」と「殖産開発」を積極的に行った。
(新田開発では、合わせて、より強化するために「流地禁止令」を採用した。)
「蝦夷地開拓」は、当に「新地」を開墾し、そこに「殖産」を根付ける両方の目的を持った「大プロジェクト」であったのだ。
家康が青木氏等から教えられて「目標」としていた考え方であった。
「新地開墾ー殖産事業」政策であった。
これを「吉宗」が”「幕臣」にせよ”と命じてもその経験とノウハウが無ければ動かないし動けない。
しかし、動いたとする事はその経験とノウハウを吉宗の「裏の背景」にあった事を示す。
又、吉宗もこの裏の背景があるから、自信を持って命じる事が出来る。
そして、吉宗にも、青木氏に商業を鍛えられて紀州藩でも「青木らの裏の背景」と共に「小さい改革」ながらも成功裏に治めていて、他藩から尊敬されていて「裏の背景」に「羨望の念」があった筈である。
大いに自信を以って臨んだと観られる。其れに周囲は圧倒された事が外に出ている資料からも覗える。
それを100年後に「吉宗の紀州藩」が率先して「家康の夢実現」に向けて、「範例外の御三家」では、無理を承知で、既に決まろうとしていた「将軍の座」を巡って果敢に挑戦して行ったのである。
結局は、周囲は、「尾張藩の継友」の考え方よりも「紀州藩の吉宗」が実現させようとする「祖神」や「神君」と崇められる「家康の夢実現」の方に突然に傾いたのである。
この「家康の夢実現」の為には、これを確実にする為に、経済学上は、吉宗等は「経済の流通の基幹」となる「3つの安定化策」(物価と米価と貨価=三価政策)を実行しなければならなかった。
この「3つの安定化策=3価政策」に対して尾張藩の継友は、将軍に成れなかった腹いせのことも含めて、猛反対して余りの口惜しさの捌け口として、藩主として「媚態行動」を取り、批判を受け信用を無くしたのである。
更には、「尾張藩の景気」は、「国政」でのレベルでは無く、「藩政」の範囲として跳ね除けられ、且つ、「紀州藩の改革実証」(青木氏指導)で、その論調の裏付けを失い、終局は立場を失って結局は蟄居となった。
この様に「将軍擁立」にも個人資料の「積み重ね説」として、記録の裏側では ”「青木氏の活躍」” があったのである。
この事から観ると、「青木氏の子孫力」は伊勢の一族一門の総力で、「一氏」が幕政を動かしている力を持つ「子孫力」であった。
・「瀬戸内族と讃岐青木氏」
瀬戸内族の「江戸初期の外回り廻船の開設」は1600年前後に家康の命に似て行われた事でもあり、その「技術の優秀さ」から「明治初期後の海軍の操船技術採用」があった事は有名で、「瀬戸内族」が全国に定住移動して、この「瀬戸内族の操船技術」も全国に普及された事を意味し、その「瀬戸内族の優秀さ」も認められていた事を明確に物語るものである。
「家康」も「瀬戸内族の優秀さ」は、「伊勢青木氏等」からも紹介されて承知していた筈で、且つ、歴史書にも「純友の乱」の事でも認知していた筈である。
それ故に、全国から「瀬戸内族の廻船技術」のみならず、それと連動した「瀬戸内の海産物の殖産技術」とその「商法・販売方法の優秀さ」の「総合力」が有名を馳せて認められていたのである。
むしろ、筆者は、関ヶ原から付き合いの中で、「伊勢青木氏ー瀬戸内族の関係」の「総合的な仕事」ぶりを観て知って、「家康」はこれを見本としたと観ている。
上記した、紀州藩が主張する”「殖産政策と新田開発」の連動策”には、この「家康の見識」を通じて優秀な頼宣から紀州藩に引き継がれて行ったのである。
故に、家康から一番に信頼されていた優秀な「10男の頼宣」を以てして「紀州藩主」にしたと考えられる。「頼宣」しか「家康の意志」を「示現できる人物」はないと考えた事に成る。
上記の「吉宗将軍擁立」には、簡単に将軍に成ったのではなく、この「瀬戸内族の事」は幕臣にも周知されていて、それだけに「紀州藩らの説得」は効力を発揮させていた。
「吉宗」には、「各地の青木氏や瀬戸内族」の「大きな後ろ盾」があることは「事前の周知」として受け取られていて、それだけに周囲は警戒してみまもつたのである。
政治とは、「表の姿」では無く、「裏の姿」を観る事が必要なので、「真の姿」が観えて来る。
「心ある者」は、この「裏の姿」を観て事に構える。
だから、「蝦夷地開墾・開拓」では、”いの一番”に特典を以てしても積極的に迎え入れられたし、幕府も継続してこれを政策として用いたものである。
「飢饉の時」も特別を以て救い、両青木氏らの天保期の「10万石問題」(上記)も幕府のみならず民間に於いてでさえ不問であったのである。
しかし、”青木氏に対する暴動”は一度も無かったどころか、この「青木氏一連の行動」も逆に賛同されていた。
これらは、この”「蝦夷地に関する一連の行動」”のみならず、”「青木氏の根本的な生き様」に賛同を得ていたのではないか”と考えられ、それが「青木氏の子孫力」に大きく影響を与えていたと考えられる。
・「青木氏の援助」
その証拠としてこの事を物語る次ぎの記録が残されている。
幕末の「天保大飢饉(1833-1839年)」の時、伊勢の「二つの青木氏」は、”私財を投入して中部地域一帯の飢えを救った”と記録されている。
この時、長く続いた飢饉であった事もあり、各地で不満を幕府に向けられ「一揆動乱」が起こった。
しかし、この時、「信濃青木氏」と共に「一揆動乱の経済的支援」(領民側に)をした事が記録されている。
これは幕府から観れば、これは明らかに動乱の「扇動行為」であり、「お家取潰し等の重罰」を受ける筈であるが無かった。
この時、幕府はこの中部地域一帯で起こった「一揆動乱」は、「長期間の飢饉」が原因であり、むしろ、その「飢饉の飢えを凌ぐ援助行為」として観た。
この様に観る行為には、それまでの上記した様に、「過去の青木氏の生き様に対する信用」があったからである。
まかり間違えば「援助」であっても、「出方次第」では、又、「過去の行為」の如何では、”流れに抗する事が出来ない事”から潰されていた可能性は充分にあった。
これが、当に ”積み重ねて来た「伝統のある子孫力」「目に見えない子孫力」”なのである。
このすごい生命力のある「子孫力」は得ようとしても簡単に得られるものでは無い。
(明治初期から9年まで起こった動乱にも同じ援助行為があった事が記録されている。)
上記した様に、江戸初期のから享保年代までの100年の間に起こった「5つの大飢饉」(中小飢饉も含めて8飢饉)でも同じ事が云えた筈である。
(江戸時代の飢饉 この「5大飢饉」を含み記録されているものでは8つの大小の飢饉があり、約32年毎に1回起こっている。)
話をもどす。
上記の「瀬戸内族等の蝦夷地開拓に関わる変遷の論証」は、出来たと考える。
そこで、江戸期まで云われていた ”瀬戸内を制する者は国を制する” の言葉の通り、上記した様に「瀬戸内族」は平安期でもそうであった。
しかし、この様に「伊勢青木氏・信濃青木氏」と共に、「瀬戸内族の生き様」、即ち「瀬戸内族の子孫力」は、「幕府内に浸透した秀郷一門の横の関係力」と連携している。
江戸期でも矢張り特別に重視されていたのである。
そして、上記した様にその子孫力は「幕政改革」にも利用されたのである。
従って、「瀬戸内族」の地元の「香川1」と「岡山0」の「子孫力のパラメータ」は、この様な「背景の経緯」にあった為に、”一族存亡に成るほどに注ぎ込んだ”のである。
依って、その後の地元での「子孫力」や「子孫拡大力」には、当然に支障を来した事を物語るのである。
しかし、その分、この「子孫力」で「江戸期ー明治期」までで、最低でも北海道の7/11にシフトしている事に成ったのである。
衰退していたのでは決して無いのである。
普通なら、上記した様な ”波乱に満ちた世の中の荒波”に洗われて、一族を注ぎ込んだが諸共に消えて仕舞う憂き目を受けている。
しかし、これもこの「現世の条理」であり、普通である。
> ・> 青木氏の分布と子孫力
> >
> [地域別分布力]
> > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > 地域 異変の県 分布力
> > 九州地方 長崎、大分 5%
> > 四国地方 高知 2.5%
> > 中国地方 山口、岡山 2.5%
> > 関西地方 三重(筆者ルーツ) 14%
> > 東北地方 秋田 7%
> > 中部地方 15%
> > 関東地方 45%
> > 北海道・沖縄 6%
> > その他 3%
> >
> > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> > 九州地方 1.3
> > 四国地方 1.3
> > 中国地方 1.3
> > 関西地方 4.7
> > 中部地方 4.3
> > 関東地方 11.3
> > 東北地方 2.0
> > その他 11.0
> >
> > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
> >
> > 修正地域(表ー3)
> > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1-7 三重 12 福井 4 愛知 13-7 秋田 1
> >
> > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> > 福岡 2 山口 0 愛媛 3 兵庫 3 三重 1
> > 長崎 0 島根 2 香川 1 大阪 14 石川 2
> > 佐賀 1 広島 3 高知 0 京都 5 福井 1
> > 大分 0 岡山 0 徳島 1 奈良 1 岐阜 3
> > 熊本 4 和歌山 4 愛知 13
> > 宮崎 2 滋賀 1 長野 9
> > 鹿児島 1 山梨 1
> >
> > 域平均 1.25 平均 1.25 平均 1.25 平均 4.7 平均 4.3
>
> > 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
> > 静岡 5 青森 1 沖縄 1
> > 神奈川 21 山形 2 北海道 11
> > 東京 18 岩手 1
> > 埼玉 17 新潟 4
> > 群馬 6 秋田 0
> > 千葉 11 福島 4
> > 茨木 4 宮城 2
> > 栃木 8
>
> > 域平均 11.3 平均 2.0 平均 11.0
> 青木氏の分布と子孫力-7に続く。
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
投稿者:takao 投稿日:2014/04/20(Sun) 10:55:08
> 青木氏の分布と子孫力-5末尾
>
> 注釈
> (反対に家光は頼房と仲が良かった。ところが、家康はこの「頼房」が謀反を起こす性癖の持ち主として、水戸藩主にはしたが、遺命で27年間徳川氏を名乗らせなかったのである。
> ところが頼房は逆にこの気は無かったから、家康からもその性格を信頼されていて、遺命で「朝廷工作」の「家興要領」に組み込まれていた皮肉な事が起こっていた。
> 故に、家光は頼房との差を隠すために「由井正雪事件の謀反嫌疑」を掛けたのである。)
>
> ”頼宣の孫の吉宗”が青木氏と強い結びつきを持ったかは云うまでも無く判る。
> それは、上記した様に、”何故に「伊勢青木氏」が親代わりに成った”かは、又、その後の”「享保の改革」の事”、”紀州藩の勘定方指導の事”等も含めて、上記したこの経緯の事で充分に判る。
> 更には、祖父の「頼宣」の「形式上の出自元」と成ったからであり、「ABCの族」即ち、「賜姓族青木氏系藤原氏関係族徳川氏」であるからである。
> 「伊勢青木氏」からすると「吉宗」は「家康ー頼宣」の繋がりからも、又「一族の縁者」でもあった事に成る。
>
> この上記に論じた「考察の問題」は、この「調停工作」の「権威付け」を「全ての青木氏」取り分け「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「秀郷流伊勢青木氏」の三者がこれを容認するか、どうかである。
> 容認すれば、上記の”「長保寺」”が物語るものは解明できる。
> 当然に、密かに「調停工作」をしたのだから、青木氏は容認する以外には無いし容認しなければ意味が無い。
> 否定すれば「朝廷と天皇」が求める故事の「長者の呼称」「正二位官位」は消える。
> そうなれば「徳川氏との軋轢」が決定的に生まれ、当然に「青木氏」は消滅する事に成る。
> 当然に、青木氏等の背景保護もなくし、天皇家のみならず朝廷は立ち上がれないほどに衰退していたと考えられる。
> つまり、上記するこれらの権威を容認したのである。
>
> 「権力と権威」を主体とする絶対社会では、「子孫力」を作り出すには、”世に晒す事無かれ、世に憚る事無かれ”であり、「否定」は「自己の主張を世に前面に押し出す事」に成り、これは当に「晒し憚る行為」である。
> そんな事は、絶対に青木氏はしない。それが長年の「青木氏の子孫力」の基と成る戒律である。
>
> 「長保寺問題」は上記した事の「青木氏ー徳川氏」の関係の度合いを一挙に解析出来得るテーマである。
> 仮に、「紀州徳川氏の菩提寺」を紀州に置いたとすると、一体”どう様になるか”である。
> 「伊勢」と云う「二つの故事」を継承している「伊勢青木氏」が、「伊勢」は古来より青木氏が定住している「天領地」であるからで、人は疑いなく信じるのであり、「紀州」では前は「藤原氏」を名乗っていたのが、今度は又「源氏」かと成る。
> 徳川幕府の様に、”権威を基本とした権力構造”の中では、人は信じないし、「権威」は低下し、「為政力」は低下し、末には、権力を押し付ける無理な構造が出来上がる。
> 結局は「政治体制の崩壊」に繋がる。
> 「賜姓族」の様に、この「二つの故事」を「紀州」で使えば、逆に疑う方向に周囲は働くが、折角の「権威獲得」は「水の泡」であり、「徳川政権」は「秀吉政権」と同じ様にそう長く無かった事に成ろう。
>
青木氏の分布と子孫力-6
・「伊勢の菩提寺と紀州」
徳川氏との関係の親密さは、紀州徳川氏の菩提寺が「伊勢松阪」にあって、且つ、「青木氏菩提寺跡」に建立し、「同じ青木氏菩提寺の寺名」を同じくし、古来よりの「賜姓族青木氏」の「伊勢」にあるこの「3つ要素」が最低でも裏付けてられている。
だから、”人はその権威を信じた”のであって、「紀州」に置いたとすれば、”人は無味乾燥と成り、「権威」の「故事の目論見」は消えうせた”筈で無理であった。
それが、「伊勢」であったからこそ、「故事に従った血縁関係」を「本流立葵紋」で成し得たのである。
否、成し得たから、「紀州藩の始祖」を祭祀する「長保寺」に「嵯峨期詔勅の禁令紋」の「笹竜胆紋」が使えたのである。
そして、家康の「浄土宗督奨令」(密教系と菩提寺方式を解除)に反して、わざわざ「密教排除の禁令」に反して、「密教浄土宗の寺」を建立出来たのである。
故に、この「二つの故事」の「禁令条件」を観て、その作り上げた権威を人々から信じられて使えたのである。
そして、この”信じられた影響が、徳川氏全体の行為に伝播して疑う者は居なくなった”ものである。
紀州の「民衆」、のみならず「家臣」までもが、全国の全ての民が、信じ疑わなくなったのである。
むしろ、「歴史の場」では、実際は、「徳川氏の出自」を暴かれているものの、以前は確かに「搾取偏纂」であったものであった。
しかし、それを払拭する様に、上記の「2つの故事」の事で、民衆を含む全ての人は完全に信じてしまったのである。
イ 「青木氏側」から観れば、この「本流立葵紋の青木氏」が、存在する限りは、最早、「搾取偏纂の域」を超えた「認められた正統行為」と成る。
ロ 「徳川氏側」から観れば、「本流立葵紋の徳川氏」を引き継いだ「頼宣」までの「一代限り」では、「搾取偏纂の域」を超えた手続き上では、確実に「正統な賜姓族」で「源氏の末裔孫」と成る。
このイとロの「二つの考察事」を捉えれば、徳川氏の他の直系一族(宗家と御三家)も、心情的には、「源氏末孫」を名乗る事は、「頼宣の事」を捉えて、”「仕方無い」”ともなろう。(前は藤原氏だったから。)
注釈
(「頼宣」の名は、そもそも、「清和源氏」の分家河内源氏の始祖「頼信」から来ている。
「頼宣」の「2つの故事の条件」を取得した事からこそ、「嵯峨期詔勅」に従って、始祖とする「頼信」から、「頼宣」の河内源氏の「通名」を使えたのである。
「頼将(よりのぶ)」から一度は肖って同名の「頼信」にしたが、最後には「2つの故事」の完成に憚って「頼宣」にした経緯である。
この経緯から観ても、上記の「調停工作」と「家興要領」での成功裏の「笹竜胆紋と密教浄土宗」の取得が、どれだけの影響を徳川氏に与えていたかはよく判る。)
「頼宣」の孫の「吉宗」が、「8代将軍」と成って「徳川宗家」に成ったとすれば、”一代限り”とは云え、形式上は「直系孫」となった。
その限りは、「二つの考察事」から観れば、「賜姓族」系と成ったと見做される。
形式的には「男系の血液上の繋がり」は無いが、「徳川宗家」(田安氏、保科氏等)は形式上からすると「未勘源氏」並みと云う事に成るだろう。
前は「搾取の藤原氏」であったが、今度は何とか「源氏朝臣」は名乗れるし、「青木氏」と「朝廷と天皇」はこれを確実に容認する。
これは「伊勢青木氏」等に対する親密な行動で動いた”「家康ー頼宣の戦略」”が功を奏したと成る。
これだけ、”「徳川氏の全氏」に影響を与えた功績”でも、「家光」は「頼宣」により嫉妬するであろう。
「征夷大将軍の権威」の条件が、「調停工作」の「家興要領」に基づく搾取的行為であっても、万民に信じさせて「将軍の権威」を創出したのである。
仕事でも「長保寺」の如くに、名声を挙げた事は、エレベータの様に押し上げられた「家光」には到底出来ない事であり、叶わない事であろう。
この「頼宣」は、「家康の意志夢実現」の為に、鍛えられたからこそ才能を発揮したのである。
(青木氏の上記した「経済学」は、それは其れなりにこの事とは別の行動であるが、「頼宣の才能」の条件が整ったからこそ吉宗までの成功を遂げられたのである。)
更に重ねて次ぎに考察する。
そもそも、”日本全国広し”と云えど、これらの「歴史的な事柄」を論じられるのは、「関係した氏」としても、「資料保全」からしても、「青木氏」だけである。
中でも「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「讃岐青木氏」と「秀郷流伊勢青木氏」と「近江佐々木氏」とに限られる。
この5氏が保有する資料から、この様に考察して論じなければ、「歴史の表裏の実態」は、絶対に解明できないし、消え去る憂き目を持つ事に成る。
「青木氏氏のサイト」だけの「徳川氏の江戸初期の行動」を解明できる資料である。
更に、この事は、当に「青木氏の伝統」であるので、解明の為に論じる事を続ける。
「青木氏の分布と子孫力」のこれらの「青木氏の行為」は「大変な子孫力」に大きく関わるからである。
ただ、筆者は ”世に晒す事無かれ 何れ一利無し”の戒律の姿勢は崩さない。
(注記 この論文は青木氏の範囲に留める。その心算でお読み頂きたい。)
さて、そこで、上記の事で論じ得られた筈ではあるが、青木氏だけが成し得る事として、放置すれば消え去るのみであり、出来得る限りの論調を論じて置きたい。
・「紀州藩と青木氏」
更に、「長保寺」以外に次の事が更に証明している。
この時以来、「頼宣」との「再三の談合」が持たれ、「伊勢青木氏」は「頼宣」に対して、南画絵画、俳句、禅問答、歌、茶道、書、商学、殖産学」等を指導した。
又、「藩主の話し相手」として以後、接する事と成り、この状態は江戸初期から大正14年まで代々の藩主に続いた。
この為に「12人扶持米」の「礼米」を支給し続けられた。(明治期まで)
この時のこの「付き合い」の中で、「伊勢青木氏」は、”「頼宣」に、「家康」と同じく「蝦夷地開拓」の必要性”を解き推奨した様である。
「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」はこれに関わっていた事が文意から読み取れる。
故に、この話を1600年前頃に「伊勢青木氏」から受け、堺などで見識を広めた「家康」が、「松前氏」に「蝦夷地交易権」(1599年)を与えた。
そして、続けて「讃岐青木氏」には、「外回りの蝦夷地からの新規廻船」(1600年)を同時に許可しているのである。
注釈
(上記した様に、「伊勢青木氏」は、「家康との親交」は、資料とは別に、正式には「関ヶ原」(1614年)以来からであった。
信長が光秀に討たれた時にも、「大阪の堺」に家康は居て、「堺の青木氏屋敷と店」等でも親交を深めていた状況であったことが口伝にある。
その「光秀謀反」を知った「伊勢青木氏」は、「伊勢シンジケート」に連絡を取り、その後、伊賀上野経路で逃亡し、伊賀館まで何とか辿り着いた。
この時、「伊勢シンジケート」が周囲を固めて護った事が判っている。)
この後、幕末までこの「付き合い」から、伊勢青木氏の四家(伊勢郷流青木氏含む)は、 ”「紀州藩の勘定方を指導する事」”は何度も続いた。
しかし、上記した様に「家康の時」は勿論の事、「頼宣の時」、「吉宗の時」、「幕末の時」の3度の事は詳しくよく伝わっている。
筆者までは口伝でも物語風でよく伝わっている。
(「伊勢秀郷流青木氏」とは、「本流立葵紋の青木氏」「宗家葵紋の青木氏」の「伊勢末裔四日市殿」である。
「四日市殿」を含めて「四家」は「伊勢青木氏の総合商社」を一族で運営していた。)
この時の「信濃青木氏」と「讃岐青木氏」の「徳川氏への貢献具合」のより詳細な資料が不足で掴めない状況である。
伊勢青木氏側の遺資料だけで、消失した模様。)
「頼宣の時」には、「伊勢青木氏」の指導の下で「交易船」を建造している。
この事は「家康の意向」の基に「蝦夷地開拓」を含む交易を先んじて始めた事を意味する。
そもそも、「交易船」を作っても、創藩したばかりの「紀州藩」には、元々このノウハウが無い。
これを「伊勢青木氏と讃岐青木氏と信濃青木氏」が指導して直ぐに交易した事が商業資料から判る。
商業記録から、紀州と信濃と安芸ー讃岐の殖産物の取り扱いの記録から読み取れる。
指導した内容として、交易するには「海産物や農産物の買い集め」から、それを「大量に生産する殖産態勢」、「売買の交渉技術」、何よりも「大船の操船技術」と、その「運送技術」を獲得しなければ出来ない事である。
これはノウハウと経験の無い紀州藩が、独自で一朝一夜で出来る事では無い。
況して他藩から来た官僚の家臣では尚更である。
この「3つの青木氏」が関わっても、この「システム作り」では相当に苦労する筈である。
この事は交易の事に付いては、「家康」も充分に知っていた筈で、これを「伊勢青木氏」から知り指導を受けたのである。
恐らくは、名義上は、「紀州藩」として「代表家臣」を載せ、「伊勢青木氏か讃岐青木氏や信濃青木氏」から送り込んだ「各種の職能集団」(青木氏か抱えていた「2つの絆青木氏」)が運用したと観られる。
「吉宗の享保の改革」の段階までは、「宗家葵紋の青木氏」と「本流立葵紋の青木氏」等の「四日市殿」を含むこの「3つの青木氏」は、商業記録などから「総動員」であった様子であった。
注釈
(この時の「伊勢秀郷流青木氏の宗家」の動きの記録が、「秀吉の伊勢攻め」の時と、明治の「伊勢の2度の大火」で消失していて掴めない。
ただ、天正期に於いて秀郷一門の同族で伊勢の「伊藤氏」との同族血縁関係を持っている事、更には、この融合の「伊藤氏」と「伊勢賜姓青木氏」との”「血縁の繋がり」の記録”が残っている事。
この2つ事から判断して、これらの”何回かの縁組”が起こっている事は、江戸中期以降も「伊勢秀郷流青木氏」とは、依然として緊密に繋がっていた事が判る。
実は、筆者の継祖母も、この伊藤氏の宗家の娘である。明治期までは何度も血縁していた事が判る。
この「伊勢秀郷流青木氏ー伊勢賜姓青木氏ー伊勢の伊藤氏」のより強固な関係が構築されていた事が判る。
何故、この「悠久の歴史」を持つ「2つの青木氏の関係」に同じ悠久の伊藤氏が入ってきているのかと云う疑問である。
そして、ただ、「伊藤氏」がこの「3者の関係」の中で ”どの様な働きをしていたか” は実のところそこまで研究が進んでいなくよく掴み切れていない。
若干の資料はあるにしても、推測の範囲として述べると、「信長と秀吉の伊勢攻め」の為に、互いに結束した事は記録から間違いない事が読み取れる。
「長嶋攻め」「北畠攻め」等の資料、青木氏のこの「伊勢攻め」の資料から互いに合力した事が判る。
その直後の上記した「家康の調停工作と家興要領」の完成遂行の為に、「関東の秀郷宗家との調整」の”「役目の一部」”を担ったとされる節がある。
実は、この事を物語る事として、ここにも「大きな繋がり」を持っていたのである。
前段で論じた「宗家葵紋の青木氏」の始祖母で、頼房の側室の「那那の実家先」(実家先では「弥弥」)の父は、「藤原准尊昭玄」 興正寺住職 顕如の孫 兄弟に「皇族賜姓族青木氏」の菩提寺系同門の住職と成っている。
(寺名は個人情報により不記載とする。)
「藤原氏の格式」と、更には、「菩提寺住職」でも「青木氏との繋がり」が、重複してここでも繋がっていたのである。
つまり、何とかして、「朝廷と天皇」を納得させ文句の出ない様な縁籍を構築しようとした事が判る。
この「重複の繋がり」は、放って置いて出来上がるものでは決してない。
誰かが強力に押し進めない限りは起こらない。
では、伊勢の「2つの伊勢青木氏」と「徳川氏」だけでは、「格式」と「繋がり」から観ても、この「那那の縁籍」は成し得ない。
これを「押し進めた者」「取り持った者」が必ずいる。
筆者は、それが、”伊勢の伊藤氏であった”と観ている。
実は、伊勢の伊藤氏の出自関係を観れば良く判る。
「5家5流皇族賜姓族青木氏」の「菩提寺系の同門寺の住職」(萩)に繋がっていたのである。
「伊藤氏」は、「伊勢秀郷流青木氏」から依頼されて、この「伊勢青木氏の菩提寺」の「同門寺系の住職」(萩)の弟を通じて、父の、「藤原准尊昭玄」 (興正寺住職)に「姉の婚姻先」として「徳川氏の頼房」に政略結婚先として嫁がせる話を通したと観られる。
伊藤氏はこの住職との繋がりを持っていた形跡がある。
「伊勢賜姓青木氏」は「近江賜姓佐々木氏」(勝姫)に、「伊藤氏」は萩の同門住職に話を推し進めたのである。
「伊勢賜姓青木氏」は、「菩提寺同門寺系とは云え、格式上はこの同門系寺は下位に位置していた事から勧められなかった。
そこで、「伊勢の伊藤氏」に仲介役を依頼したと云う事に成る。
輪の様に「繋がり」が出来る程に「調停工作」は進められていた事が判る。
(伊藤氏 :秀郷より 第1子千常系文行流 始祖9代目基景 詳細は別途 興正寺住職准尊は北家藤原氏文行流神職系)
(伊勢秀郷流青木氏:第3子千国系兼光流 始祖 秀郷祖祖父藤成ー秀郷ー千国ー兼光
(「2つの絆青木氏」に付いては、「神明社守護神」のところで詳しく論じている。現在の伊勢の玉城市の全域は青木氏のこれらの職能集団の長屋や家屋と蔵群であった。)
この様に、「伊勢青木氏と徳川氏の付き合い」は、「只の付き合い」では無く、殆ど一体化していると観られる。
「12扶持礼米」は「伊勢青木氏」に於いては「糧」ではないが、「礼米」の形で受け取っていた事に成り、「礼米」の「受給の意志」がそれを全て明らかに物語る。
「天保の飢饉」の頃には、「藩財政」を立て直すために幕末の時まで「勘定方」に、伊勢より人を廻して無給で専門に指導していた事が判っている。
この中でも面白い事が書かれていて、幕末に”「坂本龍馬の船」を「紀州藩の船」が「操船ミス」で沈めて「高額の賠償金」を払った事”が記されている。
(坂本龍馬の「海援隊の記録」からも同じ事が記載されている。)
それでも藩財政は立て直したと成っている。
「吉宗の将軍に成る経緯」には、上記の様に、「青木氏」と「紀州藩」が絶対とする「祖神・神君の家康の意志」を引き継いで、「藩財政の改革」を実行していると云う事があって、「幕政改革の議論」にも終止符を打ったのである。
これを裏では「伊勢青木氏ー信濃青木氏ー讃岐青木氏」等は、幕臣と成っていた関東の「藤原秀郷一門」らを味方に引き入れて、「吉宗」を「将軍の座」に押し上げたのである。
この「吉宗」は、「家康の意志」を次いで「改革実行」の為に、幕臣の6割を紀州藩から採用し、旧幕臣を徹底的に排除して、「藤原秀郷一門」の多くを上級家臣として引き揚げて、「計画実行の態勢」を固めた。
尾張藩も三井家等の「江戸の豪商」を背景にしていた事が、「尾張藩の町づくり」が越後屋を始めとして「民間の豪商」らの力によって成された事が記されていて、この事でも判る。
紀州藩は、「質素倹約」で「出」を抑え、「各藩の力」と「瀬戸内族の力」と「民間の力」との3つの力で、「蝦夷地等の開拓」を成して「開拓の利益」や「交易金」や「運用金」や「献納金」で「入」を高めて、収支の「出と入の収支差」を最大に高める「財政改革」であった。
家康はそもそもこれを目指していたものである。
(紀州藩と享保の幕府と伊勢青木氏等は「リフレ政策論」であった。
注釈
(デフレとインフレの丁度、間をくり抜ける経済政策論。
この江戸期は、丁度、地球の気候変動が大きくなる「300年周期」の中の「100年期」に入っていた。
江戸時代はこの気候変動に依る影響で大飢饉が多発していた。
この為に、物価が値上がりし、激しいインフレの状況に陥っていた。
経済力が低下する現象が起こる等のインフレ現象の中に、逆に社会は疲弊して購買力が低下するデフレ現象も片方で起こる等複雑な経済状況であった。
この為に、幕藩財政も悪化して崩壊寸前の状態に陥っていた。止む無く年貢の「五公五民の増税」に踏み切った。
これが「享保の改革」の「リフレ政策の効果」を低下させた大きな原因と観られる。
この「リフレ政策」とは、「出」を抑え「入り」を高める「中間政策」である為に「大きな増税」は「禁じ手」である。
この「入り」を高めるには、「増税」では無く、「交易や殖産能力」を高めての「入り」でなくてはならない。
それを「交易や殖産開発」をしながら、一方で「増税」もした為に、「入り」が高まり過ぎて、「出」の収支差が確かに良くなった。
一方で「出」の「質素倹約令」と「増税の令」とで、「フラストレーション(不満)」が社会の中に起こったのである。
そこで、「五公五民の弊害」に対して、これを何とかしようとして、吉宗は「米将軍」と称されるくらいで、自らの判断で、基幹の米相場の操作を実行した。
しかし、操作に依って起こるリスクヘッジに合い失敗した。
しかし、ここで疑問点がある。
「伊勢青木氏」は、増税は「禁じ手」ある事を知っていた筈であるし、「リスクヘッジ」も商人である以上は常識で知っていた筈である。
しかし、行われた。ただ、米相場のリスクヘッジは「相場の操作」を元に戻す事で解決するので問題は無い。
現実に慌ててその様にした。
問題は、「五公五民」の「増税」はありながらも、強い「反対勢力」を抑え込む為の「モデル実験の紀州藩」では成功した経済改革である。
”一体、何が幕政で違ったのか”である。
そこで「青木六左衛門」を始めとするグループは、原因を考えた。
一つは、「交易と殖産開発」の「入り」の違い差。
二つは、「出」の「質素倹約」のレベル差。
彼らが調査した原因は、「二つ目の累進性」であった。つまり、「出」の「累進性」であった。
江戸の「六左衛門グループ」は、「紀州の改革」に取り組んでいた「紀州班グループ」に問い合わせた。
その情報の分析で「出の累進性」の事を知った「六左衛門」は、その原因を吉宗に慌てて進言した。
その大元凶は、「女の園」の「大奥制度」であった。
「紀州班グループ」では、前段-5で論じた様に、「頼宣の比丘尼山の制度」が「仕来り」として引き継がれていた事であった。
「紀州班グループ」の指摘で、代々藩主の「女系家族」は、例外なく「還俗制度」を採用していた事であった。
「頼宣の比丘尼山」に習って「還俗制度」を「勘定方」を指導する立場として厳しく指導したのである。
この事を知った「六左衛門グループ」は、紀州と江戸の「大奥」の差が、藩と幕府との「出」の比例的な関係に無い事に気づいた。
「紀州:幕府」は「1:15」の関係にあった。しかし、大奥では「1:120」の関係であった。
当然に、これでは「比例関係」での「質素倹約」での効果は出ない。
(累進性は「比例線」では無く、「放物線」の形で働く。商で培った知識を持っていた「六左衛門」等はハッと気が付いた。
紀州の大奥は、30で、1:15とすると次の様な事に成る。
経済学では、比例30:450に成るに対して、先ずこの450に対して第一段階の累進性が働く。
ところが3500(450)で、本来あるべき数より約8倍である。
この関係から幕府大奥の出費は、累進性が働く為に、より450+累進率量以上の出費を、先ずは抑えなくてはならない。
しかし、更には、この8倍の数であるから、その累進性は放物線であるから比例線からその差は大きく離れて行く。
その8倍であるから「膨大な数字」と成る。
「紀州藩並」に成功させるには、この”「膨大な数字」の出費”に対しては絶対に抑えなくてはならない。
実質、”将軍7代までの全ての「女系家族」”が大奥に存在して貯め込んでいた。
これが元凶として大改革を吉宗に迫った。
吉宗は、「六左衛門の指摘」を猛烈な反対を受けながらも直ちに実行した。
そこで、吉宗は反対派に対して妥協して、1/3の1000人程度まで削減した。
(絶対条件は450以下必要)
しかし、紀州藩は「実質0ベース」である。この差を解決しなければ、「累進性」は解消しない。
そこで、困った「六左衛門グループ」は、「次ぎの手」(下記)を吉宗に提案した。
それは、大奥の「出」の元凶は、正室と男系の子供は別としても、「側室」と「姫娘」にあるとして、次ぎの提案を進言した。
イ 「無役の側室」を家臣などに転嫁する事。
ロ 「役済の側室」は「家」を興して「独立性」を持たせる事。
ハ 「将軍の家」は「別家」を興して「独立性」を持たせる事。
ニ 「役済側室と無役側室」を紀州藩に習って「比丘尼制度」を設ける事。
ホ 「上級武家からの側室」は実家に戻す事。
ヘ 「将軍に成る藩主」の藩は廃藩にして、全て家族も含めて「江戸詰め」にする制度を中止し,そのままに残す制度にして独立性採算制を敷かせた。
ト 「無位無官の側室」の姫娘は「許婚制度」によって家臣に婚姻させる事。
以上を実行したのである。
禁じ手の増税は、この様な累進性の改善で何とかバランスが取れて解決した。
(江戸時代の全ての改革は、この「享保の改革」の「リフレ政策」が見本と成った。
252年中に「8つの飢饉」があった事に依る。単純平均すれば何と1回/32年間の高頻度である。
回復したと思えば”又来た”と云う感覚であった。それだけに「専門的な改革」が必要と成る。
「吉宗」は「育親許」と成った豪商「伊勢紙屋長兵衛」の「六左衛門グループ等」を引き連れて将軍と成った。)
それだけに、これは、「六左衛門グループ」(累進性の失敗)の明らかな「沈痛な失敗」であった。
恐らくは、「宗家葵紋の青木氏」と「本流立葵紋の青木氏」は、その「裏調査と研究」に懸命と成ったと考えられる。
この事から得た知識が、吉宗大御所の専門家ブレーンとして「享保の改革」の「最後の詰め」として実行した。
この事が、江戸252年期間中の改革の中で、唯一成功裏に導いた最大の要因であった。
裏を返せば、、危険を孕みながらも「宗家葵紋の青木氏」と「本流立葵紋の青木氏」を江戸時代に子孫を遺せた最大の要因であった事に成る。
しかし、米相場だけは「吉宗の判断」であった事が、後から発見された「吉宗独自のメモ資料」から判明した。
これで紀州藩との比較の累進性は、改善に向かって「享保の改革」の幕府財政は改善された。
注釈
(公的に書かれている吉宗資料には、「伊勢青木氏の貢献」は出て来ないが、吉宗と関わった伊勢青木氏のものからは上記の事が判明する。)
そもそも、勘定方を指導したとするが、一族を総動員して家臣で無い為に「無償」で改革を進めた。
”世に晒す事ならず、何れ一利無し。”の戒律から、「不記録」を行動規範としているので、徳川氏の資料の中には出て来ない。
「青木氏の中」と「近江佐々木氏」の中にのみ断片的に記載配慮して遺される事に成る。
そもそも、”何故、「近江佐々木氏」がこの情報を青木氏と同じく掴んでいた”のかは「重要な事」でもある。(下記)
その接点があった。
前段-5で、「頼房」の「側室の勝」の出自は、同族大化期の「近江佐々木氏」であって、その「姫娘A」が「本流立葵紋の青木氏」の「発祥母」であった事を論じた。
ここで、繋がっていて同じ事が記録されたと考えられる。
「近江佐々木氏」の始祖「川島皇子」と「伊勢青木氏」の始祖「施基皇子」は兄弟で、共に第6位皇子、第7位皇子として賜姓を同時に受けた「皇族賜姓族」である。
故に、「近江佐々木氏」の資料には「青木氏の事」が多く遺されている。
「近江佐々木氏」の方から筆者の先祖が頂戴した非売品の資料本である。
兎も角も、そもそも、”改革を進める”と云っても、家臣の権限を持ち得ていない。
然すれば、幕臣を先ずは説得しなければ成せられないし、何事も成し得ない。
「吉宗の背景」があるとしても、「直接権力の行使」は反発を招く。
其れこそ、”世に晒す事無かれ、何れ一利無し”を間違いなく招く。
「六左衛門の能力」の「差配の能力の有無」が大いに問われていた筈である。
ところが、事件を招いている記録があった。
実は、「近江佐々木氏の資料」によると、”吉宗に同行したこの「六左衛門に近い人物」の「若い者」が、「享保9年」に、江戸で「小普請の役」の途中で、「不慮の事故」で死亡した。”と云う事が記録されている。
この”「不慮の事故」の記述”は、間違いなく ”反対派の襲撃を受けた”のではないかと筆者は判断している。
説得の為の調査や資料つくり等の事務方の仕事、交易などの準備の実質作業、上層部の説得の為の交際、時には実務の代行をしなくてはならない。
この作業に大変な危険を孕んでいた事がこれで充分に判る。
この「危険」のみならず、この為の「膨大な出費」、「一族の生活費」、「家人の人件費」を捻出するのに、恐らくは、伊勢青木氏の経済力(200万石相当)に「相当な歪」を興していた事が判る。
これは好き好んで出来る事では無い。
この時期の商業記録や遺産文書から観て、その「生き様」が読み取れる。
何故、近江佐々木似の資料にこの記述があるのかは、一つは、青木氏側には外の公に成った事に付いては戒律で記録を遺せない。
しかし、近江佐々木氏にはこの戒律事が無い。故に記録の遺した。
”遺した”と云う事は、一般市民は兎も角も「幕府内」では「有名な事」であった事に成り、「近江佐々木氏」と徳川氏との間に何がしかのパイプがあった事から同族の事件を記載されて記録として遺されたと成る。
では、その「パイプ」とは、”何処にあったのか”と云えば、上記する様に、「江戸詰めの頼房」の「側室の勝の方」(姫娘Aを出した)の「佐々木氏の家臣」から入手した情報である事に成る。
身内の「姫娘Aの嫁ぎ先」の末裔が事件に巻き込まれたのである。
恐らくは、この様な危険に満ちた改革を進める青木氏には徳川氏からの支援は公には当然に無い。
その中で、「宗家葵紋の青木氏」と「「本流立葵紋の青木氏」は、「江戸での人命や経済力」で”江戸での子孫拡大”に大きな影響を与えていた事が理解できる。
上記した様に、「紀州での礼米」(12人扶持)はあったが、「六左衛門」の「江戸での礼米」の「援助記録」が発見できない。
(吉宗は率先して「綿の着物」で通した。)
注釈
その後、「六左衛門」は、この後、”「享保の改革」を始末した後、息子の慶次郎に跡目を引き継いだ”とある。
これは吉宗が将軍を息子に引き継いだが、この「吉宗の世継ぎになった息子」には言葉の言語発言に問題があった。
そこで、大御所として実権を握っていたのだが、この為に、「六左衛門」は隠居したが、息子が引き継いで「大御所の吉宗」を支えたと記されている。
この六左衛門の息子慶次郎も役目を終えて、伊勢の記録では江戸に「末裔」を遺したと記されている。
しかし、「佐々木氏の資料」では、”江戸に子孫を遺して、江戸から離れて伊勢に戻ったと成って居る”と書かれている。
この意味合いが不詳であるので、調査をした。
筆者の調査では、江戸近郊に”笹竜胆家紋とする青木氏”は確認できない。
しかし、後刻、「調停工作の論文」で、調べ直した結果、江戸に残った末裔は、伊勢の記録では、「四日市殿の末裔」の事である事が判った。
つまり、親族の「宗家葵紋の青木氏」と「本流立葵紋の青木氏」とである事が判った。
その内容(江戸の歴史書)では、この末裔には、大御所時代に、引き続き”準家臣的な立場”と観れる扱いで続けて仕えたとある。
「「立葵紋の青木氏」は、「小普請組頭」で、「宗家葵紋の青木氏」は、”「小納戸役頭」として働いた”と記されている。
何れも「礼米300俵」を賜ったと記されている。
この事から、殺されたと観られる若者は、「小普請組」の「宗家葵紋の青木氏」の一族の者である事が判る。
何れも「御家人扱い」の「布衣着用の許し」を特別に引き続き受けていた事も書かれている。
「江戸の青木氏グループ」の組頭は、「布衣着用の高位の身分:将軍に対し発言権を持った大大名格以上」であった。
この事からすると、明らかに反対派の「他藩の大名藩主の命」を受けての「狙撃」であった事が判る。
この様に、危険ながらも「四日市殿末裔」は、江戸に残り子孫繁栄を果たした事が判るのである。
これは六左衛門の「笹竜胆紋の松坂殿」は、「不入不倫の大権」で保護されている事から別にして、「立葵紋の青木氏」と「宗家葵紋の青木氏」にはこの様な危険を孕んでいたのである。
「葵紋文様類」と云う事から来る反発:紀州藩を除く松平一族の反発が宿命であった事が判る。
「狙撃の原因」は、上記した「厳しい経済改革」が原因していたのである。
又、”狙撃される”と云う事は、”「改革」を裏で主導していた事”を物語る証拠でもある。
この改革は、資料には、”幕臣のみならず各藩の家臣までその「影響の余波」として浸透して行った”と記されている。
それだけに、”城に居る葵紋の者”と違い、”市中に自由に姿を現して出て来ている「葵紋系」”には、大きな危険を孕んでいた。
参考
(江戸時代300年はこの「300年周期」にぴったりと入っていた。この300周期の100年期間隔で大きな気候変動が起こるデータと成る。)
注釈
(「比丘尼僧」に付いて、これは梵語で「比」と「丘」を音韻で日本語にした言葉、意味は女子が僧に成る際に、あるいくつかの「戒律」を守らねばならないとした。
その「戒律」は「具足戒」と云うもので、具足=旅の意味 全国を「布施行脚」で生活に困った場合の「売春行為」等を「戒め」として禁じたものである。
日本では、この言葉は室町末期に使われ、「比丘尼」と云う言葉として全国に広まったのは江戸中期頃である。
しかし、「頼宣の比丘尼山」は江戸初期で、そま前からこの山は「比丘尼山」と呼称されていた。
「比丘尼」が使われた頃と一致する。
本来は、純然たる布施に頼る「行脚尼僧」の事である。
しかし、世俗から、江戸中期頃から生活苦から、この「売春戒律」を破る尼僧が出たのである。
そのことから、俗意は、”尼僧の姿をした売春婦”の意味として使われる様になった。
この「行脚尼僧」は、「山寺」にて密かに売春行為をした事から、比(戒)の丘(山)の当字となった。
この事から、この江戸初期の「頼宣の比丘尼山」から、この言葉が江戸中期頃に全国に広まったと観られる。
江戸初期は、未だこの「売春」の意味は無かった為に、「比丘尼山」と名付けられたと観られる。
しかし、その後に、「行脚尼僧」には飢饉から布施行為が無くなり、止む無くこの行為が目立ったために汚名の呼称と成ったと観られる。
故に、この「頼宣の比丘尼山」は布施行為による独立採算の寺でもあった。
その為に安定しない生活苦から売春に走らない様に、これを取り締まる為にも、厳しく下界とを遮断したと観られる。
その為に、わざわざ世話役の「寺元」を作り、「生活の保護」と「食の保護」を「地元の善意」で維持したと観られる。
江戸中期から末期まで、乞食の様に、「食と衣服」などはかなり瀕していたと地元の口伝で伝わる。
江戸中期以降には、「売春」は密かに行われていた事も考えられる。この尼寺は大正末期に無くなった。
この「山寺」は、藤白浜の入り江の突き出た先端の小高い丘の上にあった。
その丘の周囲は鯔場(いな)と云う小さい池程度の山の真水と海水の混じる湖に囲まれている「孤島」の様な地形のところに立っている。)
これも、「紀州藩の質素倹約の厳しい実行の例」である。
これを観ると、紀州藩は徹底していた事が判る。
これに比べて幕府は安易であった事を「六左衛門」は知ったのである。
祖父の尼寺として、吉宗もこの「比丘尼山」は充分に事の重要性を知っていたから、上記の提案に応じたのである。
そこで、「デフレとインフレの現象」が起こる中で、この「二つの経済政策」の間の「安定政策」を採ったのである。
つまり、「リフレ政策」を採ったのである。論理的には正しい。
デフレの方に舵を切れば更にデフレに、インフレの方に舵を切ればよりインフレになるは必定である。
問題は、その「政策の如何」に関わることであった。
そこで考えられたのは、その政策が上記した「前段-4」に論じたものであった。
しかし、この時、当然に激しい反対論が継友らの尾張藩から出た。
「将軍継承問題」の遺恨も重なって、幕臣を巻き込んでの収拾の就かない状況に成りかけていた。
そこで、吉宗は、紀州藩の勘定方を指導している伊勢青木氏に対して、指示をだした。
「吉宗と六左衛門」は、「リフレ政策の実証」を証明する「モデル藩」として、在藩中と同じ様に「改革」を続けて促進する様に督促したのである。
注釈
(伊勢青木氏等は、[総合商社]であった為に外国との交易から、この「気候変動説」を承知していたと観られ、尚且つ、この「リフレ政策」を採ったと観られる。)
そこで、「蝦夷地開拓」を各藩に対して奨励し、又、幕府自身も「新田開発」と「殖産開発」を積極的に行った。
(新田開発では、合わせて、より強化するために「流地禁止令」を採用した。)
「蝦夷地開拓」は、当に「新地」を開墾し、そこに「殖産」を根付ける両方の目的を持った「大プロジェクト」であったのだ。
家康が青木氏等から教えられて「目標」としていた考え方であった。
「新地開墾ー殖産事業」政策であった。
これを「吉宗」が”「幕臣」にせよ”と命じてもその経験とノウハウが無ければ動かないし動けない。
しかし、動いたとする事はその経験とノウハウを吉宗の「裏の背景」にあった事を示す。
又、吉宗もこの裏の背景があるから、自信を持って命じる事が出来る。
そして、吉宗にも、青木氏に商業を鍛えられて紀州藩でも「青木らの裏の背景」と共に「小さい改革」ながらも成功裏に治めていて、他藩から尊敬されていて「裏の背景」に「羨望の念」があった筈である。
大いに自信を以って臨んだと観られる。其れに周囲は圧倒された事が外に出ている資料からも覗える。
それを100年後に「吉宗の紀州藩」が率先して「家康の夢実現」に向けて、「範例外の御三家」では、無理を承知で、既に決まろうとしていた「将軍の座」を巡って果敢に挑戦して行ったのである。
結局は、周囲は、「尾張藩の継友」の考え方よりも「紀州藩の吉宗」が実現させようとする「祖神」や「神君」と崇められる「家康の夢実現」の方に突然に傾いたのである。
この「家康の夢実現」の為には、これを確実にする為に、経済学上は、吉宗等は「経済の流通の基幹」となる「3つの安定化策」(物価と米価と貨価=三価政策)を実行しなければならなかった。
この「3つの安定化策=3価政策」に対して尾張藩の継友は、将軍に成れなかった腹いせのことも含めて、猛反対して余りの口惜しさの捌け口として、藩主として「媚態行動」を取り、批判を受け信用を無くしたのである。
更には、「尾張藩の景気」は、「国政」でのレベルでは無く、「藩政」の範囲として跳ね除けられ、且つ、「紀州藩の改革実証」(青木氏指導)で、その論調の裏付けを失い、終局は立場を失って結局は蟄居となった。
この様に「将軍擁立」にも個人資料の「積み重ね説」として、記録の裏側では ”「青木氏の活躍」” があったのである。
この事から観ると、「青木氏の子孫力」は伊勢の一族一門の総力で、「一氏」が幕政を動かしている力を持つ「子孫力」であった。
・「瀬戸内族と讃岐青木氏」
瀬戸内族の「江戸初期の外回り廻船の開設」は1600年前後に家康の命に似て行われた事でもあり、その「技術の優秀さ」から「明治初期後の海軍の操船技術採用」があった事は有名で、「瀬戸内族」が全国に定住移動して、この「瀬戸内族の操船技術」も全国に普及された事を意味し、その「瀬戸内族の優秀さ」も認められていた事を明確に物語るものである。
「家康」も「瀬戸内族の優秀さ」は、「伊勢青木氏等」からも紹介されて承知していた筈で、且つ、歴史書にも「純友の乱」の事でも認知していた筈である。
それ故に、全国から「瀬戸内族の廻船技術」のみならず、それと連動した「瀬戸内の海産物の殖産技術」とその「商法・販売方法の優秀さ」の「総合力」が有名を馳せて認められていたのである。
むしろ、筆者は、関ヶ原から付き合いの中で、「伊勢青木氏ー瀬戸内族の関係」の「総合的な仕事」ぶりを観て知って、「家康」はこれを見本としたと観ている。
上記した、紀州藩が主張する”「殖産政策と新田開発」の連動策”には、この「家康の見識」を通じて優秀な頼宣から紀州藩に引き継がれて行ったのである。
故に、家康から一番に信頼されていた優秀な「10男の頼宣」を以てして「紀州藩主」にしたと考えられる。「頼宣」しか「家康の意志」を「示現できる人物」はないと考えた事に成る。
上記の「吉宗将軍擁立」には、簡単に将軍に成ったのではなく、この「瀬戸内族の事」は幕臣にも周知されていて、それだけに「紀州藩らの説得」は効力を発揮させていた。
「吉宗」には、「各地の青木氏や瀬戸内族」の「大きな後ろ盾」があることは「事前の周知」として受け取られていて、それだけに周囲は警戒してみまもつたのである。
政治とは、「表の姿」では無く、「裏の姿」を観る事が必要なので、「真の姿」が観えて来る。
「心ある者」は、この「裏の姿」を観て事に構える。
だから、「蝦夷地開墾・開拓」では、”いの一番”に特典を以てしても積極的に迎え入れられたし、幕府も継続してこれを政策として用いたものである。
「飢饉の時」も特別を以て救い、両青木氏らの天保期の「10万石問題」(上記)も幕府のみならず民間に於いてでさえ不問であったのである。
しかし、”青木氏に対する暴動”は一度も無かったどころか、この「青木氏一連の行動」も逆に賛同されていた。
これらは、この”「蝦夷地に関する一連の行動」”のみならず、”「青木氏の根本的な生き様」に賛同を得ていたのではないか”と考えられ、それが「青木氏の子孫力」に大きく影響を与えていたと考えられる。
・「青木氏の援助」
その証拠としてこの事を物語る次ぎの記録が残されている。
幕末の「天保大飢饉(1833-1839年)」の時、伊勢の「二つの青木氏」は、”私財を投入して中部地域一帯の飢えを救った”と記録されている。
この時、長く続いた飢饉であった事もあり、各地で不満を幕府に向けられ「一揆動乱」が起こった。
しかし、この時、「信濃青木氏」と共に「一揆動乱の経済的支援」(領民側に)をした事が記録されている。
これは幕府から観れば、これは明らかに動乱の「扇動行為」であり、「お家取潰し等の重罰」を受ける筈であるが無かった。
この時、幕府はこの中部地域一帯で起こった「一揆動乱」は、「長期間の飢饉」が原因であり、むしろ、その「飢饉の飢えを凌ぐ援助行為」として観た。
この様に観る行為には、それまでの上記した様に、「過去の青木氏の生き様に対する信用」があったからである。
まかり間違えば「援助」であっても、「出方次第」では、又、「過去の行為」の如何では、”流れに抗する事が出来ない事”から潰されていた可能性は充分にあった。
これが、当に ”積み重ねて来た「伝統のある子孫力」「目に見えない子孫力」”なのである。
このすごい生命力のある「子孫力」は得ようとしても簡単に得られるものでは無い。
(明治初期から9年まで起こった動乱にも同じ援助行為があった事が記録されている。)
上記した様に、江戸初期のから享保年代までの100年の間に起こった「5つの大飢饉」(中小飢饉も含めて8飢饉)でも同じ事が云えた筈である。
(江戸時代の飢饉 この「5大飢饉」を含み記録されているものでは8つの大小の飢饉があり、約32年毎に1回起こっている。)
話をもどす。
上記の「瀬戸内族等の蝦夷地開拓に関わる変遷の論証」は、出来たと考える。
そこで、江戸期まで云われていた ”瀬戸内を制する者は国を制する” の言葉の通り、上記した様に「瀬戸内族」は平安期でもそうであった。
しかし、この様に「伊勢青木氏・信濃青木氏」と共に、「瀬戸内族の生き様」、即ち「瀬戸内族の子孫力」は、「幕府内に浸透した秀郷一門の横の関係力」と連携している。
江戸期でも矢張り特別に重視されていたのである。
そして、上記した様にその子孫力は「幕政改革」にも利用されたのである。
従って、「瀬戸内族」の地元の「香川1」と「岡山0」の「子孫力のパラメータ」は、この様な「背景の経緯」にあった為に、”一族存亡に成るほどに注ぎ込んだ”のである。
依って、その後の地元での「子孫力」や「子孫拡大力」には、当然に支障を来した事を物語るのである。
しかし、その分、この「子孫力」で「江戸期ー明治期」までで、最低でも北海道の7/11にシフトしている事に成ったのである。
衰退していたのでは決して無いのである。
普通なら、上記した様な ”波乱に満ちた世の中の荒波”に洗われて、一族を注ぎ込んだが諸共に消えて仕舞う憂き目を受けている。
しかし、これもこの「現世の条理」であり、普通である。
> ・> 青木氏の分布と子孫力
> >
> [地域別分布力]
> > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > 地域 異変の県 分布力
> > 九州地方 長崎、大分 5%
> > 四国地方 高知 2.5%
> > 中国地方 山口、岡山 2.5%
> > 関西地方 三重(筆者ルーツ) 14%
> > 東北地方 秋田 7%
> > 中部地方 15%
> > 関東地方 45%
> > 北海道・沖縄 6%
> > その他 3%
> >
> > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> > 九州地方 1.3
> > 四国地方 1.3
> > 中国地方 1.3
> > 関西地方 4.7
> > 中部地方 4.3
> > 関東地方 11.3
> > 東北地方 2.0
> > その他 11.0
> >
> > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
> >
> > 修正地域(表ー3)
> > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1-7 三重 12 福井 4 愛知 13-7 秋田 1
> >
> > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> > 福岡 2 山口 0 愛媛 3 兵庫 3 三重 1
> > 長崎 0 島根 2 香川 1 大阪 14 石川 2
> > 佐賀 1 広島 3 高知 0 京都 5 福井 1
> > 大分 0 岡山 0 徳島 1 奈良 1 岐阜 3
> > 熊本 4 和歌山 4 愛知 13
> > 宮崎 2 滋賀 1 長野 9
> > 鹿児島 1 山梨 1
> >
> > 域平均 1.25 平均 1.25 平均 1.25 平均 4.7 平均 4.3
>
> > 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
> > 静岡 5 青森 1 沖縄 1
> > 神奈川 21 山形 2 北海道 11
> > 東京 18 岩手 1
> > 埼玉 17 新潟 4
> > 群馬 6 秋田 0
> > 千葉 11 福島 4
> > 茨木 4 宮城 2
> > 栃木 8
>
> > 域平均 11.3 平均 2.0 平均 11.0
> 青木氏の分布と子孫力-7に続く。
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