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写真技術と色理論 後編(副題 自然美のある綺麗な写真を撮る方法)

写真技術と色の理論 後編
(副題 自然美のある綺麗な写真を撮る方法)

色理論(CCカーブ)

「写真技術の現状」
むしろ、極端に云うと、この理論から云うと、一般的にはマニアを除く素人域では”YMCの色合いを出す努力”で大方の良い綺麗な自然美の写真を撮るのには充分だと成りますよね。
そして、ポイント4域右の領域は”プロとマニアに任す”と成るのでは有りませんか。
つまり、2分化ですね。我々は「光の色域」の中間色の所での撮影に重点を置く事ですね。
カーブもそ「光の色域」が広く安定した様に成っているのは太陽、否、神の成せる業(技)ですね。特に、色理論のCCカーブは日本人好み向きと成りますね。そこで次第にCC理論の腕を挙げて来れば挑戦すればよい事になるのでは有りませんか。しかし、このCC理論を知っておく事は絶対に必要ですね。腕をより挙げるのであれば。
昔は、外国で”カメラを首から吊るして歩いている人は日本人と思え”と云われていました。
ところで、この日本の2分化は写真技術の発展に大きな効果を示し、カメラのみならず写真媒体関係も発展させたのです。何れもが世界のトップに成ったのです。
非常に美的感覚の強い繊細な日本人の為にはCCは最適であり、YMC域があり、好みの範囲であり、その領域が綺麗に撮れる領域で、且つ、撮影には安定しているのですから、故に日本で写真技術は進んだのですね。
そこで市場の現状を観て見ると、昭和の時代はコダック社が日本の市場の寡占状態でしたが、次第に日本のメーカーもカメラ好きの日本人の後押しもあり、上記した様なCC理論の技術革新と開発をして、平成に入って日本のトップメーカーのF社はアメリカに上陸し、優れた繊細で綺麗な写真技術を背景に瞬く間に2大写真媒体メーカーを買収したのです。現在はカメラ本体、写真の技術媒体の何れもがアメリカ市場を大きく寡占する状況に成っているのです。
当然に、上記した米国人の印象記憶の問題がありますが、これはポイント4-5域のところですからCC全体からすると20%程度と成るでしょう。
最近では、日本人好みのG傾向が理解されて来て日本ソフトも好まれるように成りました。
これは日本の景観の観光の効果と、米国の多様人種化の影響、米国人の「飲まず嫌い」の為でもあったと考えられます。丁度、寿司が世界に広まった事と同じではないでしょうか。
これは、ただし写真を撮るのではなく、上記CC理論の様な写真技術を理解して撮る事により進歩が生まれて、それが物心両面で何時か我々の生活を豊かにさせる要因と成っているのではありませんか。

話をCC理論に戻します。
上記して重複しますが、ここで、「色調」を示す「色の階層」というものがあります。それを知っておく必要がありますので、長文と成った為にも改めて上記の復習をします。

色の無い白が次第にやや色じみたものが出て来ます。このポイント1が大事な写真の良悪の判定となるのです。これがある程度の平行状態で進みポイント2のところに来ますと、YMCの色合いが強く出てきます。
この辺まではポイント1と同じく自然色の色合いの判定が出来又、その写真性の修正も幾らのYMCを足せば自然色なるかの判定が可能です(説明する)。
YMCのバランス関係が一定で推移します。
ところが、更に右に進むと、つまり、このポイント3付近ですが、このポイントから急激に濃度は上がります。又このポイント3当りからYMCの相関関係が崩れてきます。
同時に光の関係が崩れて色の関係へと進むのです。融合すると薄いグレー色を示してきます。
そして、ポイント3から4付近で全てのYMCが一点に集中して来ます。ここがポイント4です。
所謂、融合色のグレーです。このポイント4が「K18」と云われるところで、「光と色の中心」即ち(YMC)と(BGR)の中心と成ります。「K18グレーポイント」と呼ばれるところです。
「BGR:YMC」の光と色の中心、又は光と色の分れ目、分岐点、分離点です。
このポイント4が世界で統一されたグレーでこれを基準に色の種類の判定が出来る様に成っています正確に、そのK18の中味を分析すると、YMC、BGRの数値がバランスの取れた形で存在して色合いが出来ています。

では、その階層が判るとして、写真技術では「色のレベル」を判定して調整する事が必要に成ります。
撮影時には環境条件やカメラ技術で調整する事に成りますし、プリントではペイントソフトで編集する事も必要と成ります。
兎も角も撮影時の調整として考えるとどうしても「色レベルの判別能力」をつける必要が出てきます。
そこで、人間には色に対する判別能力が実にシビヤーに持っているのです。

色判別能力
そのレベルはどの程度なのかの疑問が湧きますね。
もとより判別が出来なければ撮影の環境条件を左右させられません。
目で観た自然との違いを表現するにしても数値的ものが無くてはこの位と云っても抽象的では判りません。
世界共通の何かの基準が必要です。
そこで、そのために色理論では「色の階層」を定めています。そのレベルに付いて述べます。
そして、それに依ってYMC、BGRの個々の色の階層と云うものを定めています。

その方法を簡単に述べますと次ぎの様に成ります。
人間の色の濃度(Ed)或いは強さ(Es)の判定のレベルを統計的に、色の範囲を十進法で先ず10階層に分けます。そして、その1の色の濃度の変化を更に10等分してどの程度に見分けることが出来るかを観ます。
(注 ここでは写真性という観点から判りやすくする為に「濃度Edと光の強さEs」と云うエネルギーの定義の枠で説明している)
そうしますと、統計的に実験では、カラーチャートを使うと次ぎの様な能力を持っています。

人間の判定能力は次ぎの様に成ります。
普通の人でD=0.5です。
プロではD=0.2です。
D=1であると判り易いのですがそうでは有りませんでした。

この判定能力を機械的(濃度計)に再現しても一致しますし、写真の中での濃度を見ても0.5と0.2ですので、これを根拠に再び階層を分け直しますと次ぎの様に成ります。
0.5では10のものは、中心と両サイドを計算すると12階層と成ります。
プロでは0.2ですから24階層と成ります。
更にプロ域が使えるために作った0.2は確実なので「感の領域」のために進めると36階層が出来ます。この様に分ければ人間の判別能力に一致します。
簡単であれば現実でも6階層でも充分可能です。
これで”何色が0.5足りない”とすれば直ぐに対処できます。
当然、縦と横の階層の判別はその色がK18の基準が決められていますので縦の位置と横の位置の判別には問題はなく成ります。

本文では、縦のその色の変化をポイント1から7までとしての6階層として説明しています。
しかし、この6階層を更にその微細な特長毎に分割すると12階層に分けられます。
当然この域はプロの域です。そうしますとYMC、BGRの一階層に対して、6、12、24、36の単一の階層が出来ます。
そうしますと、最高の識別では縦横の階層に分けた色の種類は1300程度成ります。
現在では機械的に更に分ける事は出来ますが、それに付いて来る人間の判別能力が追い付きませんので意味が有りません。
多くして超微妙な「色合い」を変化させてもそれを観る人が居ないのでは同じですね。(中には10進法で階層を作っているものもある)
これで、YMC、BGRの色の分類をしています。
我々では6階層でも綺麗な写真は上記理論を駆使すれば充分に撮れます。
ですから、出来た写真を観て、1程度の濃度等の判別能力があれば充分です。
色見本を観ながらでは経験して慣れますと、この写真の出来栄えでは”少し濃度が現実の自然より高いな”とか、”色がずれているな”と評価して一眼レフのカメラ技術で修正撮影をする事が出来ます。
又、プリントする際はカメラ写真店で”Mを0.5程度引いて下さい”と云えば自分の好きな色合いを弾き出す事は出来ます。
当然、目で観た「自然の美」に合わせることも出来るし、「趣」を表現し誇張する事もこの操作で出来る事に成ります。(デジタル、アナログともに可能)
今はデジタルですので目で観たものとモニター写真とで直ぐにこの評価が出来ますね。
しかし、ところが、このデジタルにも多く問題を持っていて万来の信頼を置く事は出来ません。
デジタル写真では、家でのプリンターでの操作は、先ずはそのソフトの持つメモリー容量から来る再現能力で決まります。その再現の品質が悪ければ、後は画像修正のペイントソフトで行えますね。
ところが、実はデジタルは色を出す事に対して「大変な問題」を持っているのです。このことは詳細は後述します。

「店頭プリントの問題」
ここで、自然の美を追求する立場から、デジタルとアナログ共にプリントに付いて少し予備知識として持っておく必要があるのです。
デジタルはインクジェットでプリントしますが、なかなか思った様な再現プリントが出来ませんね。
微妙な色合いは出ません。それはそのインクジェツトが噴射するソフトのメモリーが左右します。
充分な色階層を再現出来るソフトメモリーでなくては実態の自然美を出す事は出来ません。
そうすると、マニアーはデジタルカードを銀塩写真の現像器にセットして処理しますと400万画素と成りますので充分な色合いを正しく出す事が出来ます。
しかし、現像液の管理が正常に出来ている事を前提としています。これには管理の問題があるのです。
デジタルを直接PCに映像にすると、それを再現するソフトのメモリーが左右してしまいます。
今は多くはインクジェツもソフのトメモリーの低さが左右しますので同じです。、これを放置するとどんなに撮影で写真技術を駆使して微妙に表現しても、思ったような写真は出来上がりません。

メモリーでないこの店頭プリント(家でのプリントも含む)で解決できるのですが、この管理の問題点を理解していないと再現出来ません。
それを説明します。
店頭のプリントは現像液で処理しますが、このシステムは簡単に云いますと次ぎの様に成ります。
デジタルアナログ共に同じです。
「現像]「定着」「水洗」「安定」「乾燥」の原則5つのプロセスで出来ています。
ところが、これは化学液ですから次ぎのことが起こります。
「処理液の反応差」
「反応による劣化」
「自然の劣化」
「機械のCCソフト差」

先ず、反応差です。
反応は処理すると反応前の原液が一定量で処理量に合わせて補充されます。従って処理液は原則的には劣化しません。ところが、この処理液はメーカーに依って微妙に異なるのです。
この「微妙」がまずは問題なのです。0.2以下の違いであれば問題有りませんね。しかし、それでは反応差をメーカーがつける必要がありませんから、少なくとも0.5程度の差を付けています。
当然に、ポイント4-7までの域での差と成ります。
この差は次ぎの様に成ります。
CC全体に及ぼしている場合
限定したポイント域で及ぼしている場合
以上2つです。

それは上記したCC理論で記述したメーカー独自のノウハウで調整されています。
上記での人種の差も含みますから、米国の処理機械と処理液では日本人であればクレームを付けられる範囲です。
先ずは、ここで出る「0.5程度」の「色の差」と「濃度の差」を認識しておく事です。
ポイント5-6域では1弱程度は出るでしょう。
日本のデジタルカメラで日本の処理機であれば0.2程度以下ですのでほぼ問題が有りませんる
カメラと処理機のマッチングが違った時の問題です。日本に居ますので殆どはマッチングしていますが、米国製であると、上記した様にR系で出てきます。そうするとテストプリントを見て「R0.5引き」を要求する事に成ります。
この事を知っていれば自然美の写真を再現出来ます。この時にはこの色の判別能力が求められます。

次ぎは「反応による劣化」です。
処理すると反応による処理劣化が起こります。劣化した分の液の補充は行います。しかし、反応によって起こった反応廃棄物は機械的に除去されながらも発生して沈殿し、さらに攪拌されて印画紙に付着等の現象を起し、紙の表面の反応が不十分と成り、自然に劣化が起こります。
定期的に交換が必要に成ります。これを忙しさとコスト意識で遅らすと出てきます。
この時に、全体に先ず濃度が低下します。個別の色ではM(マゼンタ傾向)が多くて出来ます。
これも、液の交換が怠り長引けば0.5程度の「色の差」と「濃度の差」は出ます。
劣化はマゼンタですので、写真でマゼンタになったのか、現像劣化でマゼンタに成ったのかは左右しますので、兎も角も少なくともこの劣化では「マゼンタ引き」M0.5引きは起こるでしょう。

次ぎは「自然の劣化」です。
処理されていれば「反応劣化」の程度で済むのですが、一日の処理量が少いと充分に補充が行われませんので、化学液は空気、湿度と温度の影響も伴ない自然劣化します。
標準的には一日20本以下であると発生してきます。8本/1日ですと劣化退化を起すのです。
このレベルは20本では0.5程度で、8本以下であれば1程度起こります。
起こる「自然劣化」の色合いはこれもはっきりとしたM(マゼンタ傾向)です。
当然にそのプリントの店頭の繁盛さが響きます。
本来であれば、モーニングチェックでK18のグレーチャートをプリントして補正を掛けます。
処理量が少ないと補正が届きませんし、経費が大きく掛かります。
最近ではデジタルのインクジェツトプリンターに成りましたので銀塩の処理機ではこの問題が大きいのです。マゼンタ引きM0.5から1.0は起こります。

次ぎは「機械のCCソフト差」です。
処理機ではCCカーブのソフトが入っていますが、次ぎの問題が出ます。
ソフトメーカーのノウハウ差
店頭のノウハウ差(顧客の要望傾向の反映差)
以上の2つがあります。

CCカーブの事に付いては上記で論じて来ましたが、例えば米国メーカーの機械で日本のカメラで撮影したものを米国の処理機械でプリントした場合はどのように成るのかという疑問が出ます。
上記した様に米国はR傾向と日本はG傾向の違いによる「色ズレ」なるものが起こる可能性があります。実際、目で観た被写体に較べてRとGが強く出ると言う事に成りますね。
この逆の事も起こりえます。どの程度かは判断は困難ですが、0.2では無い事が云えますから0.5程度の差は出る事はCCカーブ差でも判ります。
店頭では顧客の満足度を高める事が「市場命題」(至上命題)ですから、その統計的な傾向を汲み取りセットアップの時にK18グレーに対してこの分を補正を掛けてスタンダードとします。
当然、気に入らない人も出てきます。統計では8割程度の時に実行します。
ですから、2割程度の人は不満足と成ります。この人が自然美を追求していると、補正分を引く事を指示しなくてはなりません。8割とは写っていれば良い一般の人です。
そして、この補正の色合いは上記しました様に
矢張りM(マゼンタ)なのです。元々日本人はマゼンタ傾向を要求しますので、補正分とすれば補正値は(0.2要求分)0.5程度です。
中にはCCカーブの両端の白と黒の色合いを要求します。白にマゼンタが入ると「白さ」が低下しますので余計に嫌われると言うことに成ります。
白を強調するのは上記した様にC(シアン)ですからね。

対応策
「処理液の反応差」「反応による劣化」「自然の劣化」「機械のCCソフト差」が最悪の場合重なると、2程度の差が出て来る事に成ります。何度も経験しています。そして、その都度、主にM引きを要求するのですが、問題はその店のオペレーターの「技量」の問題、つまり、「目の判別能力」の問題ですね。その為に、メーカーが各店を廻ってセットアップをK18にする様に指導するシステムを採用しているのですが、徹底されていないのですね。上記した様に、”アスファルトにマゼンタ”のオペレータとか、”市場がM傾向が多い”とか成りますと最悪ですね。
修正を要求するとそれだけ儲けが無く成りますからね。ですから、「いい店」を見つけて置くか、主人と「知り合い」に成っておくか、その店の傾向を観て「何時もM引き」とするかの対応策が必要です。マァ2度程同じ修正をすると、”何時もの様に”で通りますがね。
故意的にM傾向にしているのは別として、上記「4つの問題」からでは他のYCも多少狂っていることを意味しますから、処理量20本/日以上と0.2-0.5の判別能力の持った「いい店」を選ぶべですね。
何せ上記した様に1で誰でも明らかに違和感が起こりクレームが付くのですからね。これは絶対に無視する事は出来ません。少なくとも0.5-1は起こっているのです。
0.5は普通の人の判別能力がありますからね。
この様な画素数ではよい処理機でありながら上記「4つの問題」ですから、”インクジェツトのプリンターに”としたいと成りますし便利ですが、一般の人は上記のPCの画像ソフトメモリーの問題が伴ないますしね。最近は大分高いものはよくなりましたが、プリンターの画像の解像度の問題も起こりますしね。余り使わないプリンターに高額も無いと思いますから。
そこで、私は”これぞ”と思う写真は溜めておいて「行付けの店」で「何時もの」でプリントしています。要は「CC理論」は「400万画素」と「画像ソウトメモリー」の問題で揺さぶられるのです。ですから、展覧会とか展示とも成ると、是非にも「店」ですね。
さぁ、どうしますか。
こんな事が起こっていると云う事を想像した事はないでしょう。アマチュアでも否プロでも知らないかもね。恐らく、このズレに慣れている為に、”これが「当り前だ」”と認識していると思いますよ。不幸にしてか「上記4つの問題」と「CCの傾向」から、全てM系かR系に走りますからね。”何か赤っぽい”とか思う程度で終わっていると思いますよ。
この「4つの問題知」の知識と「画素数とメモリー」の知識を覚えておくことが必要であり、自分の問題として「判別能力」を養って置く事が自然美を再現する「隠れた秘訣」です。
 
デジタルのメモリー
上記に”後述する”としたメモリーの問題です。
改めて、更にメモリー(画素数含む)を解説します。

兎も角も人の判別能力を持ったとしても、その外側では先ず「上記4つの問題」で「色のズレ」が起こります。この「色のズレ」を何とかしなくてはなりません。しかし、未だ「色の問題」が外側であるのです。
それ等を知ってこそ「自然の美」を、吟味し観察し、撮影して再現できると云うものです。
難しい面倒と思えばそれまでの事です。しかし、その物事の「追求」とはその様なもので、それを会得する処に「面白味」や果てには「侘寂」の様な何か「悟り」の様なものを得られるのでは無いかと思うのです。当然その面白味も倍増すると云うものですね。
もとより、「色理論」等と難しいものと観られがちな事を長々と解説するのは本文の目的ですので敢えて論じることを続けます。色にはさて未だ問題があるのです。

先ず、次ぎの事がソフト上で出ます。
先ずは、「YMCの表現力」と「CCカーブを含む理論」を記憶させる「メモリー容量」の問題が出ます。
次には、上記の「色の階層」をメモリとして反映する容量の問題も出るのです。
更には、困った事には、画面の「画素数」(後述します)にも問題が出来ます。
以上「3つのソフト問題」を抱えています。

幾ら写真技術で「自然美」を表現してもこれ等の「メモリー」がそれに追いついて来なければ何の意味も有りません。
ですから、6階層程度でも良い事に成ります。それ以上であると、その1300以上の階層の色合いを先ずメモリーにしておかねば成りません。CCカーブをメモリーにするだけでも大変な要領を必要とします。そうなるとPCでは無理ですから専用器機のプリントや画像にするプロ用の高容量の高額のソフトを使う必要があります。
そこで、これ等の3つの事は後で解説します先ずは予備知識として知って置いて下さい。

再び、話を元に戻します。
前まではポイント4の説明でした。
これからの説明にはメモリーに直接関わってくることだから重複して詳細に掘り下げて置きます。

さて、ここからが問題です。ポイント5域です。
上記しました人種の印象記憶の違いが出てくる域です。
そして、BGRの色合いのバランスは大きく差として出て来ます。
この事は、撮影では大きく影響します。では”どの様に出てくるのか”ですが、YMCの様に”撮影の環境条件をコントロールすれば自然美を出す事が出来る”と云う事では無く成ります。
それは次ぎの原因です。もとよりBGRは「透過」と云う現象を乗り越えてくる事から、「環境条件」に左右され易いことは説明をしました。ところが、これだけでは今度は済まないのです。

そもそも、CCカーブより”BGRの色の差が大きく差が出る”と云う事は、本来であれば同率である筈ですが、そうであれば問題ありませんね。次ぎの様な事柄です。

自然界では縦軸と横軸に微妙な(E)の差でズレが出る事、
更には人種の印象記憶から来る「好みの違い」を演出している事
この2つから厄介な事が起こります。

先ず、YMCの様に環境条件を合わせたところが、このポイント5域は撮影すると、自然に合わせて撮ったつもりでも極端にRが強く出たりして、目で観たものと違う現象が画像上に起こる事に成りますね。
BGR同率で有ればバランスが取れていた場合は目で観た通りのものが再現されますね。
しかし、BGRとしての色としては「はっきりくっきり」と出る事に成りますが、当然に、突出した色に対して、画面にフェリヤーが更に働く構成の画像に成っていたとしたらこれは大変です。
先ず見られる写真では有りません。色が突出してフェリヤーが働くのです。
しかし、故意的、恣意的にその様にしたいとすれば好都合ですね。その場合、この領域を使って撮影する事で解決出来ます。但し、フェリヤーがそれだけに働きやすいのですから注意が必要です。
人種による印象記憶の好みの国ではこの現象の2つは普通の事に成るでしょうが。日本人では先ずは普通では無いと思います。(日本人はマゼンタ好みでG)
では”日本人のこの2つはどの様に成るのか”と疑問が出ますね。
日本人は統計的に「G」にあるのです。
これは問題が出ますね。
このポイント5での日本人好みは、CCカーブでは、エネルギー(E)的にはRが強く出ます。其処に印象記憶の好みの「G」が要求されて来るのです。
つまり、RとGが衝突です。さて、どうするのか。解決策はただ一つです。
Eの順序からするとR>G>Bですから、RとGを同率扱いにソフト上操作する事が必要に成ります。
これは論理的に同率で本来の形ですからいい事です。でも、そうも行きませんね。
RとGが良くても、今度はBとの差が同率であれば問題ありませんが、しかし、Bとの差が単独で大きく(-)で出て来る事に成ります。R=G<Bと成ります。
つまり、日本人の場合は、Bに問題が出て来るのです。
この場合は、RとGが同率ですから、Bが低い写真として出て来る事に成りますね。
Bの少ない何となく思惑より青味の少ない写真が出来る傾向が出てきます。
乾いた様な写真が出来る事に成りますね。
つまり、ポイント5域付近で撮影した写真はBが引けている写真と成ります。
日本人の目の印象記憶の目の感覚からすると”自然美と少し違う”と云う感覚ですね。
D0.5の領域を越えない範囲であれば問題視しないでしょう。色の判別能力外ですからね。でも、プロD0.2では困りますね。(D:濃度差)
しかし、このポイント5の域は断念ながら0.5域では有りません。明らかに違うのですから、概して1.0-2.0はあると思います。

困りました。そこで”何か技術的工夫は無いのか”ですね。
幾つか考えられますが、次ぎの方法があります。
フェリヤーを使う方法です。
このポイント5域付近はDがフェリヤーを起しやすいDに成っていますから、この技術を使えますね。
先ず、被写体の「背景をY傾向」にします。
その「被写体の位置を画面60%の中央の中」に入れます。
且つ「Yの多い背景の位置に写す」様にアングルを考えます。
これで補える理屈に成ります。

或いは、
その被写体に「日差し」を強く取り込みます。
そして「紫外線」を多く取り込む事です。
「C(シアン)」の薄い青味の色合いを取り込みます。
太陽のハレーションとで何とか見た目を直す事が出来ます。

この様に、写真技術の論理の展開でカバーが出来る様に成ります。経験と訓練が必要ですがね。
この様な「Bの低下現象」は、季節の傾向としては、次ぎの様に成ります。
「青味豊かな夏」は目立ちます。
「秋は色の綜合色が蔓延する時期」ですから、写真としては元々は青味が少なくなる時期ですから「紅葉」が進んだのかとも観えますね。
反対傾向では
「冬は落ち葉」で目立ちません。
「春は緑」は徐々に目立って来ることに成るでしょう。
「春と夏」にはこの認識を持つ必要があります。

特に、ポイント5域はBGRの最も撮影の良い所ですからね。色がくっきりと出る時期ですね。

では、この時は他の人種にとってはどの様に成るでしょう。
例えば、アングロサクソン系はRが強くなり濃度を上げて来ますので、ソフトもそのバランスを組み込んで作られています。「R傾向」に「R好み」ですからR>G>Bはそのままでも問題ないことに成ります。
本来はYMCもBGRも同率比であるのが理論ですが、つまり、一つの曲線で推移する筈です。本来は。自然界のEはそう上手く出来ていません。
復習しますと、しかし、自然はそのように出来ていなくて、地球の環境により太陽から飛来し届いた振動磁波は、3段階の成層圏を経て地球に到達するまでに、振幅の細かさの影響でこの定率の関係は崩れて、先ずYMCでY=M=Cであるはずのものが、はそのY>M>Cの順序で成り立ちが変わります。
そうしますと、Y>M>Cであるのですから、理論的にはB>G>Rとなる筈です。
しかし、R>G>Bと成っています。逆転していますね。上記の説明の通りでRは振幅が細かいのですから「可視光線」の順序からすればRが強く成るのは当然ですね。
ポイント1でのYMCではYの濃度が最も高く出ます。それほどに大きな差を示しませんが。これがポイント2までの領域です。
ところが、ポイント3からはその濃度が急激に上がる事で差は再び縮まります。
ポイント4では左側から集中が起こり始め遂には「一点に集中」(K18)します。
これは濃度がこのYMCの少しのバランスの違いを埋める事になる事を意味しています。この事は、写真は撮りやすく成り、思ったように自然美が撮れる傾向が改善され事を意味します。
そのポイント4からはBGRのバランスがRの濃度が高く成ります。
この様に品利色の変化の経緯は上記したようにポイント5域と成りますので、Rが突出して、次にGと成り、Bと成ります。
逆転したRGBであり更に大きな差を示しますので、写真にすると「色の違い」が完全に判別することが出来ます。

ここで、その前に、「色の違い」が出るのですから、「判別能力」が必要です。何度もと言っていますが、「判別能力」が無ければ「色の違い」は出来ませんから自然の美の再現は出来ません。
従って、更にそれを説明します。
一つの色を機械的には10段階(基本12段階)に分類する事に成っていますね。
一般の人の色の差の判定能力は0.5で違うと判別する事が出来ます。
プロになると0.2でも判定する事ができます。
普通の人では0.2では”違うかなー”との程度と成りますが計測器では違うのです。(この判定はデンシティー計で計測する事がで来ます。)
この様に、人間の脳の能力は素晴らしいものがあります。

そこで、この判別能力が特に働かせなくては成らない領域と成るであり、これなくして「目で観た自然美」を再現する事は不可能ですね。
このBGRのポイント5の処から、人種の違いが出てきて「印象記憶」から「本当の色合いと違う」のですから、夫々「希望的色合い」を主張するように成ります。
つまり、CCの理屈以外のところの「美意識」で「自然美」に対する違いが出てきます。
日本人からすると、基準から”何でこんなに違うのに”と思うくらいです。
統計的に日本人はこの基準に極めて近く理解に苦しむ範囲がこの辺から起こります。

「日本人はG」ですが、「彼等はR」が強い訳ですから、この域のカーブはR>G>Bと成っていますので、”更にRが強い”と成ります。
日本人はGで下のBが低くで、彼等は上のRですから、これは反対に成りますよね。
日本人からすると、”何だこれは”の印象ですね。
季節から観て見ると、彼等にしてみれば、日本の秋の紅葉はBGRの祭典ですね。喜びますよ”ワンダフル”と。「日本人はGですから春」ですね。

この様にポイント5域ではこの様な傾向を持ちながら、次ぎはその傾向を維持しながら、ポイント6付近ではその状況のバランスが最大と成ります。
マァこの辺までが写真にする事が出来る範囲です。それがポイント6と成ります。BGRが「はっきりくっきり区域」です。
その最高点に来ています。逆に云えばポイント5の拙い現象は最高と云う事に成ります。
写真性で云えば、極めて「BGRの色合い」を出すには最高の所ですが、自然美の演出では危険性も失敗も起こり易い所と成ります。
念の為に、YMCを忘れない事ですね。前述した様に、YMCは光の色で、その光がBGRに変化するのですから、その基本又はベースに成っていますね。
つまり、「BGR」の色合いを良く見せるのはこの「YMC」なのですから、「くすんだ、澱んだ、濁った、冴えない、映えない等の色合い」を無くすには、「BGR」にこの「YMC」を多く加える事が論理的に必要ですね。日本人には。

それには、次ぎのことが必要です。
可視光線外に「紫外線や赤外線を多く取り込む事」
上記した「撮影の環境条件を最大限に引き出す事」
以上の2つの工夫が必要に成ります。

YMCはBGRの根幹
画面全体が綺麗であるのですが、”何となくスッキリしない、パッとしない”はこのYMCの不足から来ている事が多いのです。
逆に云えば、”素晴らしい”と成るのはこの「YMC」を多く取り込み含んだ写真と成ります。
この判別は次ぎの様に成ります。
夏の「夕日の写真」
秋の「紅葉の景色」
以上での2つの季節ではっきりしますよ。

この様な現象が顕著に起こるのがポイント6なのです。
春は原色を持つ西洋花などで起こるので「夕日」と「紅葉」とのその中間域ですね。
ポイント5からポイント6はこの季節域にこれ等の現象が主に働きます。
被写体によっては他の季節では起こらないと云う事では有りませんが。

そこで、この域ではBGRの綜合色は黒ですから、黒域に近づいている訳ですから、この域の特長としては「黒の色合いにも変化」が出てきます。
写真では黒を演出する場合もありますから、その黒の色合いをこの域では多少論理的に意識する必要が出ますね。その現象が顕著に出て来るのが、次ぎのポイント6です。

ポイント6域
ポイント5域を基本に説明してきましたが、改めてポイント6を勧めます。
Ed(濃度)としては最もピークに有る訳ですから、即ちポイント5の特長が最大に成る事ですから、写真では「色合い」がはっきりし、濃度もよく出ると云う事に成ります。
自然の景色では、この域ではこの被写体は季節的に限定され少ないと思いますが、あるとするとYMCによる「はっきりくつきり」の特長と黒の特長が出し易いと云う事ですね。

このポイント6域前後はカーブではRGBの全体が下がる傾向を持っています。
「下がる」と云う事は縦軸と横軸の「Eが下がる」と云う事、主には「濃度が下がる」と云うことですから、撮影では思ったより薄く写ることに成ります。
しかし、もとよりこの域では黒の傾向が強く成りますから、撮影には大きく影響しません。この辺からは黒く暗くなり過ぎて最早、写真とはいい難いものと成ります。
黒を基調とする被写体であれば問題と成りますが、「自然美の綺麗な写真」では殆ど問題外と成ります。マア、「夏の夜空の花火」の写真や「夜景写真]や「影の多い写真」くらいでしょうか。
この領域の黒味を使って、YMCの中間色の色合いを出すと言う技法もありますね。日差しの強い所でのYMCの色合いはカラーフェリヤーが働き自然美を表現し難いということが起こります。そこでこの技法を良く使われるのです。
つまり、青葉や緑葉での多い背景の中での自然のYMCの色合いを持つものが多いですから、影にして、斜め上から柔らかい朝の日差しを部分的に入れて被写体の花のYMCを表現するのです。

そして、次第に今度は黒の領域が始まりほぼその濃度差は一定で少し下がり始めますので黒の基調が(R)赤気味に成ったり、(G)、(B)の黒が目だって出て来ます。
BGRの強さ、即ち「明度」とか「彩度」とかの特長が良く出て被写体の中の黒に特長が出ると云う事ですね。
全体としてはR傾向の黒が出ます。画面全部が真っ黒な写真と云うものはありませんから、その中に被写体の灯りが出てきますので、赤傾向(R)又はG傾向(緑に含まれるY)であれば問題はなく成ります。むしろこの特長を利用して撮影をすると云う事もあり得ますね。

この様な特長を維持してポイント6からポイント7と成り、ポイント7では黒のレベルの領域です。
そして、急にその濃度は下がります。
これは黒はエネルギーを他から吸収する性質を持っている事から起こります。
依って、その黒の持つエネルギーと濃度との対比関係に狂いが生じる事に成り、吸収した分の差だけ濃度が下がると云うEに関する自然現象が起こる事に成ります。
ですから、下がったところで印象として赤みがかった黒とか、緑がかった黒とかの印象領域と成ります。
当然に、次ぎの様に成ります。
BGRの黒の末端には「Eの色を吸収する」の性質があります。
YMCの白の初期部分にも「Eの光を反射する」の性質があります。
以上2つですから、その分のEの濃度比率が僅かに上がることが起こります。

しかし、この白と黒のこの末端領域で印象領域と成りますので、殆ど使用しませんので、全く問題はありません。マァここの域はスタジオでの写真技術ですから何とでも成りますのでプロ域でしょう。

この様に、「YMC」と「BGR」は定率で変化するのでは無く、且つ、バランスよく差の無い形で変化しているものでは無い事を物語ります。
論理的には光(YMC)と色(BGR)はある一定の傾きで直線として伸び、且つ1本線であるはずのものが、上記の様に縦軸と横軸のEd、EsはYMC、BGRのポイント毎に異なる巾を持ってこの様にSカーブを示します。
其処にポイント4域付近からポイント6域までは厄介な「印象記憶」が働くと云う事が起こるのですが、この部分には本来Eに依って起こるカーブの傾き(積分係数)より高めの印象記憶(R等)が追加されてソフトに組み込まれます。

現在ではアナログでのプリントと云うものは少なくなりましたが、アナログの現像器機ではこの印象記憶を「現像液」と「マニアル操作」で反映されるように成っています。
デジタルではスキャナーでの読み込み、プリンターでの読み込みのソフトに反映されているのです。
(詳細は後述)

撮影の変化
例えば、撮影では”どの様なことが起こるか”と云う事ですが、次ぎの様な事に成るでしょう。
まず、中間色のハーフトーン領域だけの写真撮影であれば、多分考えた通りのものが出来上がります。
しかし、BGRだけの写真撮影であれば、一律で無い為にその被写体の濃度Eに依って少し思ったものと違う色合いのものが出来る事に成ります。そうすると自然色の美は遠ざかります。
更に、ハーフトーン領域(YMC)とBGR領域とを入れた被写体とすると、脳がYMCに持っている基本的な正常な記憶(YMCは広域で定率変化する事から脳で基準と成っている)から対比感覚が起こり微妙に判定して”違う”としてしまいます。

アマプロの判定領域
これ等の微妙な判定領域は、上記した様にYMCとBGRでの横軸は、本文では判りやすく6階層に分けましたが、プロ域ではこれを更には12階層、24階層、36階層と分けられています。
プロ域での分け方では微妙な色(E)の階層域です。
普通、簡単なもので普通は6階層(0.5)ですが、マニア等やや専門的に成ると12階層で留まりです。これ以上は上記したプロの判定能力(0.2)に掛かりますので一般の人は無理と成ります
上記した事は色の三属性(色相、彩度、明度)の変化がどの様に変わるのかを簡単に判り易いE(縦横のエネルギー)として観た場合の変化で説明をして来ました。

ハーフトーン
YMCの領域のポイント1から3まではほぼ平行領域ですので階層を分けても余り意味を持ちません。このポイント1から3の領域は「ハーフトーン」(中間色)と呼ばれるところです。
上記した肌色などの領域です。この「ハーフトーン」で色の良悪の判定が確実に出来るところです。
当然に濃度の変化の無い一定率で平行領域のところですから、ポイント3までのかなりの範囲で同じ基準で判定が出来ます。ですから、逆に云うと広範囲でのBGRの”フェリヤーの影響を受け易い”と成ります。
この理屈から背景をYMCのハーフトーン(中間色)にしてBGRの原色でない人物など被写体を撮れば綺麗な写真となりますね。これがスタジオのハーフトーン中間色の背景の理由ですね。
逆手に取れば、フェリヤーを含む写真全体の自然色の判定が出来ることを意味します。
濃度の差がないのですから基準は一定と観る事が出来ますので、その基準に照らして見れば0.2或いは0.5の差で判定が確実に出来ます。
概して云うと「空気の澱み」等の影響を余り受けていない領域だと云えます。
例えば、花や肌色などのハーフトーンを画面から探し出して、その色が変化していないかを見る事でわかります。一度テレビ等の画面をよく見てください。
あまり、金額をかけていない質の悪い番組等はこのハーフトーンが全く出来ていないのが多いのです。フェリヤーなどはもう無視の場面が実に多いですよ。
矢張り、NHK等のそれなりの写真性のある番組を見るとこの理論が出来ている事が判ります。勉強に成りますよ。その場面のハーフトーンのところを見る事ですね。一番いいのは顔ですね。化粧していても原色で化粧する人はいませんからね。

このCC理論のSカーブがソフトに組み込まれて連動して画像ソフトは出来ています。
画像を作りだす機器にはこのソフトが組み込まれているのですから、人種の印象記憶からアメリカ人の好みに合わせたソフトでポイント5から6のカーブ域は手を加えていて、その域は日本のそれと違って来ますね。日本人から観ると何時も”赤みがかっている”と云う印象を持ちます。
彼等からすると、”Gがかっている”と見えるでしょう。
最近では、この域はデジタルとなりましたので、更に難しく成ってきました。
上記のYMC、BGRのCC理論だけの問題では無いのです。

実は色に関してここに大問題があるのです。次ぎの事を認識する必要があります。
上記の「YMCとBGRのCC理論」とこの「デジタル大問題」のどちらの問題が起こっているのかを判別する必要があるのです。
折角、YMCとBGRのCC理論の写真撮影で工夫をしたのにそれを低下させる問題が起こるのです。

デジタルメモリーの不足
その問題とは、次ぎの事です。
「人間の感覚」をいかに忠実に「デジタルソフト」に組み込み反映させるかの技術です。
当然に、今までの「経験」と色の階層等の「CC理論」と2つをソフトに組み込みますが、この2つ全てを組み込みますと膨大なメモリーと成ります。とても出来るものでは有りません。
このメモリーでPCに乗せると大変な事に成ります。
PCには「ROMメモリー」と「RAMメモリー」がありますが、PCの容量を高ギガ(G)レベルに上げておくことでROMメモリーは解決しますが、PCを立ち上げた時に、ハードディスクから呼び出した表に出て来るその操作用の動作メモリーは小さい(全体の1/10程度)ので、「完全なCC理論」と「色の多階層」の情報の大きいものを入れると動作メモリーは不足して他のものに支障を来たします。
場合によっては動作メモリーは動かない事になる程度と考えられます。
従って、単独に使える専用画像ソフト器機となるでしょう。
インターネットでは現実にPCに関わる事ですから。動作メモリーにマッチングしたソフト容量と成ります。人間の感覚に忠実に自然美を反映させられるソフトにでは無理で容量を落としたソフトに限定されますね。
この事は一応納得したとして、更にこのメモリーに更に問題を持っているのです。

そこで、このメモリーには次ぎの2つの問題を持っています。
一つは、画面を出来るだけに細かくして人間が観て自然と見られる画像を入れる事が必要です。
これを「画素数」と云います。

普通アナログではこの画面の細かさ、即ち画素数が400万画素です。
この400万画素で人間の脳、又は目は画面に異常性を認めません。
問題が起こらない「基準画素数」(400万画素)です。
ところが、デジタルでは画面を細かく分けて、その分けられた個々(マス)にメモリー(2ビット)を配分して行かなければ成りません。そうしなければ、その分けられたマスに写った情報を反映させられなく成ります。又、更には、そうしなければ実際の被写体をところどころを削った写真となってしまいます。これでは自然美どころの話ではありませんね。
一度PCの自分の写真の登録したものを倍率を200-400倍程度に拡大して見てください。
四角いマスで囲われています。これはそのマスの中に入る情報が区切られていることを意味します。
多くの情報があったのが削られた結果です。
特に中心から外れた上下、左右、対角線状の4隅にはこの現象が目立ちます。
当然、全体としても画像の細かさやその輪郭等がスムースに表現出来ないし、ピントも甘く成りますね。目立つ所はYMC、BGRなどの色の繋がりなども突然に色が変わる事や悪く成ります。
それには輪郭でははっきりと放物線等の曲がったものや線などにはスムースに繋がらない線や輪郭が出来てしまいます。これを専門用語では「パラセーション」と呼びます。
中には直線部分が突然消えたように表現されないと言う事さえ起こります。
ここでは色ですから、例えばYMCの白からBGRの黒までの領域を細かく分けて、それに光と色の階層を割り振り、それを情報として画面の画素に入れる事に成りますと、大変なメモリーのバイトに成ってしまいます。
400万画素で正常にパラセーションなど事が起こらない域ですので、メモリーから考えるとせいぜい200万画素程度が良い所です。
ところが、最近ではデジタルカメラでは最高で400万を超えて1200万画素までのカメラが出来ています。
プリントソフトや画像ソフトの反映力が、「200万画素」で、「色のメモリーバイト」が低いとすると、幾らカメラが1200万画素でも1/6ですので、「画素メモリー」と「色のメモリー」が低いので反映力は悪く成ります。
つまり、折角、綺麗に取れたカメラでの映像はPCなどの映像ソフトに載せると1/6の綺麗さに低下すると云う事です。
「趣」を充分に撮影出来た写真が普通の以下(400万画素)の趣の写真となると云う事に成ります。これは、難しく云うと、当然に三属性(色相、彩度、明度)にも影響して来ます。
そこで、その画素問題をより詳しく説明します。

上記2つの問題
「画素」に関係する問題
「色」に関係する問題
以上の2つに品質低下の影響が出て来ると云う事です。

当然にプロが使う専門の専用画像ソフトは、一眼レフカメラに対してこれを反映出来るの程度400万を超える様にメモリーを配置されているのです。ですからデジタルカメラ1200万画素のカメラがある事に成ります。
画素数ではテレビでもデジタルハイビジョンのテレビとアナログのテレビの違いですね。

簡単にこれ等の判別が出来ます。
1番目は、それは放物線の線や輪郭を持つものを写すのです。
電線などですね。これを観るとその「線や輪郭が不連続」に成っています。これを「パラセーション」と云います。
2番目は、これが起こるのはメモリーが画素だけでも400万以下である事を意味します。
慣れますと、人間は色判別等でも0.5の能力を持っていますので「カラーチャート」を撮影する事で「色の違いのズレ」が判別できます。
3番目は、YMCのポイント1のところの白の白さがフェリャーが働いているか働いていないかの判別です。
上記のメモリーの不足でCCカーブのメモリーが低いと白が白らしく出なく成ります。
フェリヤーを防止するソフトを組み込まれていないのでフェリヤーが働いています。
組み込まれたテレビと組み込まれていないテレビを2台並べて観れば一目瞭然です。
最近のテレビは安価廉売と原価低減でこれ等のソフトを外しているからか知れません。

上記して来ました理論の様に、確実なのは「YMCの白」を見抜く事で自然美の良悪が判るのです。
写真もさる事ながら、デジタルテレビも画像なので同じなのです。
さすがパラセーションは400万を超えている為かなかなか発見出来ませんが。
カラーフェリヤーとYMCの白だけは一目瞭然で見抜く事が出来ます。
デジタルにはこの様にそのメモリー上の問題を持っていますので注意が必要です。
さて、これで問題は全てだと思われたでしょう。
ところが、未だ大変なことがあるのです。
それは画面の画素に対するメモリーの配分なのです。
これはどうしようもありませんね。人間の脳の働きと目の働きによる訳ですから避けられません。
それが「画面比率」と云うものです。

画面の比率
写真画面は全体を同比率でメモリーの配分を構成している訳では有りません。
人間の脳とそれと連動する目は、ピントや色合い等はその被写体をほぼ画面の中心に置く確率が高い為に、その中心の写真性をよく出す様に仕組まれています。
これは人間の目の能力に起因しています。脳が目がその様に判断して見ているから同比率配分よりはむしろ合理的であると云えます。
人間の目は捕らえた被写体のものを中心に据えて、観てよく観察して脳にその信号を送り印象記憶として保管します。従って、対角線の4つの隅は意識と記憶が低く、記憶としての量と記憶の確実性は低いのです。
当然に、写した写真を観る時もその中央のものを先ず観るという傾向を持っています。
又、画面を同時に全体を観ると云う能力は無く、ある時間を置いてこの対角4つの隅を見て中心と上下左右の6つを綜合的に写真を考察するようにも成っています。
同じくその「記憶の量」と「記憶の確実性」は低い事に成ります。
「撮る時」、「観る時」の脳の記憶の原理がこの様に成っています。
従って、その被写体の中心に評価が主に集中する訳ですから、4隅が良くビンと色合いがよくてもその評価は脳の仕組みから出て来ません。
その為に、次ぎの様に成ります。
その脳の仕組みの為
カメラ、プリントのメカニズムとメモリー上の制約の為
以上2つが働きその理由で9つの分類を画面に施しています。
いずれにして脳と目は兎も角も元はレンズなのですから。

そのメモリーの配分の仕組みは次ぎの4つに成ります。
A 脳の記憶の仕組み
B カメラの仕組み
C プリントの仕組み
D メモリーの仕組み

先ず、分割の部位は次ぎの9ヶ所と成ります。
1 画面の中央部位 1ヶ所
2 左右の部位 2ヶ所
3 上下の部位 2ヶ所
4 上の両隅 2ヶ所
5 下の両隅 2ヶ所

この1-5はA-Dが同等の配分とは成っていません。
そうすると、どの様に成っているかと云うと、次ぎの様に主に成っています。
配分
1>2、3>4、5と成っています。

その比率は概して次ぎの配分です。
比率と領域
6:3:1(1域:2、3域:4、5域)
この様に仕組まれて被写体が構成されているのです。
これはアナログ、デジタルの遺憾に関わらず脳の仕組みもさることながら、カメラ機能やプリント(映像化)機能にも仕組まれている大事な基本機能なのです。
人の脳又は目はもともとの事ですが。
ですから、この仕組みを配慮して撮影をする事がその撮影の効果、即ち本文の自然美の綺麗さを最大に引き出すコツと成りますね。
主にはメインとする被写体を何処に置くかに関わる事に成ります。

意外にもこの事は各メーカーのノウハウに依るものなので一般に知られいません。
しかし、脳科学では認知されているのですから、さして、多少より工夫を凝らした特長の持った違いはありますが、我々にはそのノウハウの違いを特別に意識する必要は何もありません。

そうすると、では写真技術ではどの様にするかですが、次ぎの様な工夫をするでしょう。
当然に、先ずは撮りたいものを中央付近に置く事が必要ですね。
そして、それは全体の6割の領域の中に納めることが必要です。
その6割のどの程度の領域を恣意的に使用するかを決める事かに掛かります。
その領域の占める割合でもその印象記憶は変化します。6割の全域を使用するのか、その中で何割の被写体にするかに依って写真の綺麗さも違ってきますね。
当然に、左右、上下、中央の何処に置くかでも違ってきます。大きな違いですよ写真では。
「趣」などはこれで一変に変わりますよ。

これは更に追求すると、その被写体を表現する度合いが、広域な意味として「時、人、場所」の何処に重点を置くかにも拠りますね。
例えば、撮りたい被写体を6割の領域内でやや左右、上下のどちらかにずらして撮る事もその思惑を表現する事にも成ります。ど真ん中とする場合もあるでしょうし、6割全部を使うと云うこともあり「場所と割合(比率)」の問題を持っていますね。
マクロなどのカメラレンズを使うとこの6割全部を使う事に成ります。
と云う事は、”どの様な色の問題を引き起こすのか”と云う疑問に突き当たります。
上記での解説の理論を使うとどうなるでしょうか。
先ずは、
画面比率から画素数が高いためにピントやYMC、BGRはよく写る。
綜合色から単一色傾向になる為に反面カラーフェリヤーが強く働く可能性が出る。
パラセーションが起こりやすい。
6つの3の領域は当然にピンとは甘くなるので全体に色に関するイメージが落ちる。
この6つの3の領域では、これをカバーする為に、色や影やアングルで中央の被写体を際立たせる工夫ポイントとする必要が出ます。

それは、上記3つの思惑条件「時、人、場所」(TMPと呼ぶ)に関わって来ます。
ただ、この領域を外れて、上下左右と4隅に置く事はA-Dの表現力の差違で写真としての効果は無いと成りますのであり得ません。
取り込んだとしても1による影響ですから全体の表現力には必然的に成り得ません。その前に脳がその様に動かないので1が0と成り論理的に無い事が云えます。
芸術写真は別として「自然美の綺麗」とするテーマではあり得ません。
当然に、本文のYMC、BGRをより効果的に問題(フェリヤー)無く取り込む為にもこの配慮も必要に成ります。
例えば、
イ 太陽の光の影響、
ロ 日差しの方向や強さや時期の取り込み
ハ 影の配置で強弱の表現力
ニ 明暗の区分けによる説明力、
ホ アングルの比率やバランス、
ヘ 全体の色合い、
ト 背景の色合いとフエリヤー
チ YMC、BGR配慮
の特長を配慮等をし、この仕組みのどの所に置くかを、それも出来るだけ瞬時に閃かせるかで決める必要があります。
これはこの条件を撮影時に訓練し経験しする事で可能に成り、この「成行き」が写真の面白みに成っていると思います。そして、次第に表現力が伸びることへの喜びに浸たるのですね。
この表現力は「CGS(長さ感、重さ感、速さ感)」を引き出す大元と成るのです。
出来た写真を観る時もこの「思惑(RPM:理由、目的、手段)」がどれだけ多く表現できたか、或いは限定した思惑がこの仕組みの中で上手く反映されたかの結果が楽しみであり、且つ、「出来栄えの喜び」か楽しみと成るのですね。
目で観た自然の美の綺麗さが表現出来、且つイ-チで「趣」をも引き出す事が出来るのです。
TMP、CGS、RPMをより引き出したかの評価が決まります。

この写真の配分比率の知識も知る事で、より綺麗な写真が脳の印象記憶と連動して、綺麗な趣のある写真が出来る事に成ります。
これはひとつ一つを使いこなす経験と訓練で成し得る事ですね。
当然に、写真の観る目もより養えて来る事に成ります。この様な目で観ればそうすると展覧会に行っても”面白い”と成る事でしょう。

まとめとしては、「6:3:1」と「1>2、3>4、5」の仕組みは「TPM、CGS、RPM」を引き出すために「A-Dとイ-チ」に大きな影響を与えるのです。
 
以上 ”目で観た自然美を如何にして綺麗に撮るか”をテーマとしてその影響する写真技術を解説してきました。
意外に多くの問題と云うか技術があるのかを知ってもらったと思います。技術ですので論理的である事は否めません。しかし、何とかより高いところを目指す意思をお持ちであるのなら、何とか繰り返し呼んで頂き少しづつ理解して経験と訓練で獲得して頂きたくレポートを致しました。

最後に私は写真を撮る時は何時も「絵」として捉え、日本画、南画のような景観を思い浮かべ被写体を決めています。このポイントが写真が写真だけでは無く成る接点ではないかと思っているのです。
「写真技術」と「色理論」が「絵」として変わる点である筈だと考えています。そして、そこに「芸術写真」との接合点が生まれると思うのです。その為には、日本画や南画の誇張の無い自然美溢れる絵を良く見る事も必要です。
芸術絵画や芸術写真には、否定するものではありませんが、何かそのものの持つ「趣」と云うものが少ない気がするのです。
写真が芸術写真でなければ、それは「趣」を表現して人にその「軽やかな印象」を与え「懐かしき思い出」を引き出すところに意味があると信じているのです。そして、それを最大限に引き出す技法が「自然の摂理」から来るこの「写真技術と色理論」にあるのだと思うのです。

折角ですので、この青木サイトには「一時の癒しの場」として写真館を解説していますので、一度ご覧下さい。
最近ではこの館に訪れる人も多く成りましたので、敢えて「昔取った杵柄」で思い出してその資料を史料とすべく遺す事にしたのです。
本文は理論を説いていますので難しいとされる方も居られますから、一度に全ての理論を記述するのではなく、何度も同じ論理を繰り返して少しづつ別の要素からの理論を書き足して行く方式を撮りました。従って、散文と成っている事は否めません。
理論の言葉や用語も平易にして出来るだけ判りやすく配慮したつもりです。
専門的な立場では多少の語弊はあると思いますが、あくまでも上記の趣旨の範囲での技術として頂きます様にお願いします。
そうして、この技術を使って撮った写真を写真館に展示して頂ければ幸いです。
その方法は次ぎの方法に依ります。

展示登録方法
雑談掲示板1580より

写真データの登録システム開設のお知らせ
この度、携帯などから直接青木ルーツ掲示板に添付したい写真がある場合、その登録する保管庫が出来ました。

パソコンなどに登録した写真の場合は青木ルーツ掲示板の投稿欄の下から添付ファイルにて出来ます又、カメラ、携帯から直接する場合、先ず一度保管庫に登録し、その後、管理人室から代理添付の作業を行います。
この場合は、保管庫に登録されたかは判りませんので、雑談掲示板などから先に連絡を頂きます。

保管庫メール先はaoki@aoki.ccです。
QUANP.NETが出ます。
コメントも付けられます。



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甲斐青木氏の研究(花菱紋)-後編

甲斐青木氏の研究(花菱紋)-後編
投稿者:福管理人 投稿日:2009/09/29(Tue) 15:21:16


[花菱紋から丸に花菱紋]
親族の豊定の柳沢氏の菩提寺は常光寺-光沢寺-永慶寺-護国神社となります。
その柳沢氏は上記の理由で曹洞宗常光寺から引き上げて浄土宗光沢寺を開山しました。
同じく兄の正定の本家筋を継がした青木氏の菩提寺は常光寺-源空寺(末寺 明治廃寺)を開山しました。そして、自分の青木氏は山間部の「国衆」の防衛団役として住んでいた北巨摩郡の菩提寺松源寺を開山したのです。
柳沢郡青木村の人の青木氏の菩提寺は結局は有りませんから甲斐に戻った後は「丸に花菱紋」の曹洞宗常光寺としたのです。
”何故、柳沢郡に青木村があるのか”と云う理由は信定が臨終の間際に採った父子の「路線争い」と「宗派争い」の苦肉の策と観られます。
14代目兄弟正定、豊定の親族では特に豊定自身が継ぐものと思っていただけに苦々しく思っており、止む無く伝統の無い柳沢氏を発祥させられる羽目に成った事に成ります。
後刻、末裔は花菱紋の別家を起こした兄と共に、この養子信之の末裔(長男元忠襲名)に対して異議を申し立てた事になります。
事実、この伝統ある皇族青木氏の柳沢郡青木氏を血縁の無い青木氏が継いでいる事に対して甲斐全体の青木一族には、継承の経緯もあり、決着を付けるべく”伝統ある青木氏を血縁の無い者が継ぐ事は罷り成らん”と申し込んだと観られます。
”事実、血縁が無い事は否めない事実”として”「花菱紋の使用」と「浄土宗派」をやめるが、「系譜」と「青木氏」を改める事は拒否する”として決着を図ったと成っている訳です。
果たして決着を見たのかは疑問です。
取り敢えず、「花菱紋」から伝統の無い分家的な扱いの「丸に花菱紋」に変紋した事で一応は納得した事にして”様子を見る事にした”としたと思われます。

と云うのは、この事は次ぎのことからも覗えます。
1 寛政の史書(1800頃)にも「寛永第三の青木氏」(1635頃)と示されていた事。
2 花菱紋青木氏元祖の正定の9代目末裔信政(1735頃)が、この「丸に花菱紋」の系譜を当時の口伝から偏纂し添書を詳細にして違いを表し、伝統を正確に遺した事
以上等で末裔は先祖の錯誤行為を一時納めたと観られます。
3 この時、末裔信政は”この「丸に花菱紋青木氏」は違うのだ”と後世に示す為に、年代も故意的にみえみえにずらして居ることもその憎悪の程が良く判ります。
4 9代目末裔「信政」が編集し直したとされるその養子「信之」を祖とする「丸に花菱紋」の系譜には、その添書もさることながら、「信正」の所が「某」と記されているのがその先祖に対する「遺憾の意」を表現している所で、その経緯が面白いと見られます。
自分先祖の系譜には「信正-信定」と明記していながら、信之養子の系譜には「某」-「信定」とし添書を記しているのです。これでは直ぐに判ります。
これは遺憾の意を後世に表すために故意的に判る様にしたのです。

常光寺に祭祀されている「信安(11)」の弟「信生(11)」の次に「信正」(12)が来て更に「信定」(13)が来て養子「信之」(14)-養子「信茂」(15)....(20)として、この系譜は明らかであるのに、わざわざ「信正」を「某」とするのも故意的です。
この末裔信政は自分の系譜も添え書きの追記編集していてそこは正常に記載しています。
末裔信政は信定(13)よりは信正(12)に対して「遺憾」の感情を持っていた事が割ります。

当然、この様に系譜は明治までは花菱紋一族は、親族柳沢氏と同じ対応をしていた事に成りますが、源空寺の廃仏毀釈で、「お墓と仏像と過去帳と記録資料と石燈等」の「花菱紋青木氏の遺産」を何れかに移す必要に迫られた事になります。
その理由は、上記した「丸に花菱紋」と「常光寺曹洞宗」の経緯にあります。
南北の巨摩郡青木村青木氏と一門一族は、この歴史的史実を寛政の史書から少なくとも(1800-1900)年頃まで知っていたと思われます。少なくとも本家筋の南巨摩郡の浄土宗派は。
「丸付き紋」とした為に分家となった派は曹洞宗に入信し、宗派争いは3宗派で燻り続けて明治まで続いたと見られます。
養子続きの系譜上の経緯から「丸付き紋」青木氏の一部が浄土宗のお寺にする訳には行かなかったのでしょう。”止む無く、曹洞宗とし、南明寺を墓所とした”と云う事に成ります。

ところが、「丸に花菱紋」曹洞宗の青木氏(第三氏)派に対して、明治初期に発祥した「第3の青木氏」の存在が更に複雑にして、廃仏毀釈廃寺の浄土宗源空寺の「歴史遺産」に複雑にしている様子です。
恐らくは、この歴史遺産は明治初期頃までは承知されていたとすれば、昭和の末期に不明に成ったとすると、その廃寺後の処置から紛失経緯を鑑みた場合、現存する花菱紋本家分家筋に引き取られている可能性があります。
現在、源空寺跡近在の歴史家等によって市の文化遺産にした事や、曹洞宗などの対応から観て、この「第3氏」等や「宗派問題」の解消又は区切りを図ったと見られます。
実は地元がこの「第3氏」の問題に苦慮するには理由があるのです。それは甲斐の「第3氏」の青木氏の問題は「特別な背景」と云うか事情を持っているからなのです。(後述)
もし、これ(第3氏の主張)を認めると文化遺産の所有権の問題が更に複雑になることが予想できるからなのです。
兎も角も、1573-2009年頃まで続いた甲斐花菱紋青木氏の問題はこの研究レポートが一助になることを期待しています。
この「特別な背景」を理解する前に必要とする経緯を復習したいと考えます。

「柳沢青木氏の復習」
経緯
武田氏系青木氏と同じく、柳沢郡の青木氏は「長篠の戦い」(天正3年)で敗戦しました。
(武田勝頼に奇策を提案したが受け入れられなかったので、武川12騎は勝頼から離れ戦線から離脱した)
その直前(1567)に、信定(巨摩郡青木氏と柳沢郡青木氏の父 常光寺を曹洞宗に改宗した人物)の妻の実家(安芸国桜井安芸守)を頼り一族は安芸に移動します。
この柳沢郡の青木氏は元は織田信長に攻められる前は和泉守(高尾氏)でした。(和歌山と大阪の境の国 後に毛利氏から浅野氏になり紀州徳川氏に移る)
柳沢郡青木氏はこの後、母安芸の実家の安芸守の縁で「毛利元就」(中国地方の覇者)に仕官します。
そして、勲功で安芸の尾引城の城主となります。
毛利氏の勢力拡大に著しい勲功をあげます。
更に元亀4年の元の和泉守を取り戻します。
しかし、この者は(初代養子信之)尼子の戦いで戦死します。
そこで子供の次男毛利氏の伸張で志摩守と成り信之の跡目を天正5年に継ぎます。
ところが、この次男は毛利氏の配下で讃岐元吉城の合戦で戦死します。(長篠の敗戦から2年後)
この志摩守の兄(青木助兵衛元忠)が跡を継ぎ父の名信之を襲名し、その後、三田尻(山口)に移りそこから一族は甲斐国韮崎(1582)に帰ります。(墓は安芸、三田尻近在になしの記載あり)
この毛利で3代続いた養子一族の柳沢郡青木氏一族は、和泉守、志摩守等をして大きく財を築きました。1577年頃、その勢力と財力で先祖の曹洞宗常光寺を再興し先祖祭りを再び開始します。
この時(天正中頃:寛永に記録)、北巨摩郡青木氏から家紋と系譜の使用で協議します。
この時期の北巨摩郡の青木氏を含む「武川衆」は「武州鉢形に国替え」は起こっていないので、丁度柳沢郡の養子青木氏も戻った所であり協議と成ったと考えられます。
協議結論は家紋は丸付き紋に変紋と改宗で妥協、系譜は譲らずと成ります。(慣習は原則丸付き紋は不使用)
これが、曹洞宗常光寺の寺紋「丸に花菱紋」の所以で、「丸に花菱紋」の発祥理由です。
系譜には末裔に対して理解を得る為に経緯の詳細を書添に遺した事に成ります。
次に、理解する事として「尾張守」に対する知識です。

「尾張守の意味」
さて、ここで、この「尾張守」の持つ意味はどのようなものかを歴史の変化で述べます。
官職で職位です。尾張の守護職で尾張の守護地から取れる石米を糧としていた事を意味します。
史料から次ぎのものが観られます。
甲斐氏一族には武田氏本家の「甲斐守」があります。
菱紋青木氏、割菱紋青木、花菱紋本家青木氏は「尾張守」です。
武田氏が最大勢力を張っていた時期はここまでです。軍制にも「尾張衆」とあります。
残る家紋の一門柳沢郡青木氏は「和泉守」(高尾氏)と一部の史料に記載されています。
花菱紋の別家青木時光は「摂津守」です。
甲斐でいながら尾張の守護とは変ですが、平安時代、鎌倉時代、室町時代前期は自分は朝廷の仕事をし領地には朝廷、幕府から国司、地頭、守護を送ります。この国司、地頭、守護が守護主に代わって勤めます。自分は朝廷、幕府の仕事をします。
鎌倉時代からは守護の代わりに地頭を送りますが、殆ど自分が赴く制度です。

平安時代は守護は公家と貴族と朝臣、宿禰族が領地を持ちましたので、公家貴族は采地には軍事を持ちませんので護ることが出来ません。そこで「国司」「地頭」を送ったのです。
江戸時代に成ると、この守護は無くなり領主となり自ら当ります。そして家臣に任せて幕府に仕えます。
ところが、しかし、次第に江戸中期以降、中級以上の武士は金品を天皇家に送り名誉職の実質の伴なわない官位官職を貰う事に成ったのです。衰退した朝廷の経済的財源と成りました。
むしろ、幕府はそのように仕向けたのです。天皇家に僅かな経済的な潤いを与えて幕府の経費を削減して朝廷が幕府に歯向かわないように縛り上げたのです。
当然、幕府の職位と天皇家の名誉職とダブル事に成ります。
この事で争いが起こっています。
ですから、ある時期を通じてこの官職に対する見方評価は別にする必要があります。
平安期、鎌倉期、室町期はほぼ正等に評価して史料史実として考察する判断材料に成ります。

というのは、この武田系青木氏にはこの尾張守が大きく左右する疑問点があるのです。
下記で系譜上の最大疑問点であるこの事を論じます。
その前にもう一度「一条氏」の事に付いて検証します。

「一条氏呼称の疑問」
次ぎに”一条氏と武田氏と青木氏とで家紋が変わるのか”の疑問です。
一条氏は一応武田氏では母方です。忠頼の母一条郷出身であると云う前提に立っています。
本来は「氏家制度」は男系継承です。
武田氏の血を引いた源の時光ですので、前編と中編で述べた様に身分と家柄という点では弟より落ちる事に成ります。
そこで、忠頼の一条氏をとりわけ誇張したのであって男系の一条氏では有りません。
この一条氏の系譜継承で名乗るにも問題があり過ぎるのです。
本来は一条氏は藤原北家筋の摂関家です。藤原秀郷は北家です。その秀郷の血筋も陸奥の小田氏(武田氏は)で血筋を引いている事に成ります。
武田氏は源氏末裔を名乗っていますが、清和源氏の頼光が本家筋です。
弟の頼信系の分家で河内源氏の更に傍流と成ります。更に、陸奥小田氏(秀郷一も門杜血縁)から豪族となった甲斐の武田氏にこの傍流の跡目を送り込み源氏系としたもので、藤原秀郷一門の支流に源氏の跡目を入れたことを意味します。
よって、この血縁は氏家制度の中では下の氏との血縁を源氏がしたことを意味します。本来は源氏は下の氏との血縁はしないのが慣習で殆どが青木氏を含む賜姓族、皇族16氏の同族血縁が主流なのです
しかし、止む終えない事でした。源氏の16の一門は平家一門に圧迫を受けていましたので、なんとしても子孫を遺す必要があったのです。そこで下の氏との血縁をした事に成ります。
ただ、武田氏には藤原秀郷一門の筋が流れていますので、源氏としては建前は護れた事を意味します。従って、武田氏は源氏の跡目が婿として入ったので、源氏の血筋の良い方の家柄身分の方を誇張したのです。
この時光系の一条氏を名乗るものと同じです。
清和源氏の河内源氏の傍流からすると、支流の直系ではない末端の源氏です。(史実が取れているので未勘氏にならない)それも頼信系の分家筋の賜姓清和源氏です。
ですから、女系側の清和源氏には藤原摂関家の母方一条氏の血が流れていますので史実の如何を問わずより一条郷を作り出し忠頼の一条氏を名乗りたかったのでしょう。
同じ清和源氏の分家本流の河内源氏の頼朝に謀殺された初代忠頼も甲斐一条郷の出身として名乗っていますが、一条郷に一条氏が流れ着いたかの確証は見当たりません。
そんなにあちこちに一条氏が逃がれるだけの一族が居たのでしょうか。これは明らかに疑問です。
これは清和源氏母方の一条氏の誇張ではと観ています。
時光の末裔の仕組んだ誇張宣伝ではなかったかと観ているのです。
この時代大変にこの風潮が蔓延した時期なのです。第3氏と未勘氏の発祥もこの時期が多いのです。
(江戸初期前後の2期目混乱期)
ですから、家紋は笹竜胆ではなく、武田氏の菱紋で、更に、分家のその分家筋の花菱紋なのです。
武田氏一門は厳密には6つの菱紋、概して8つの菱紋を一門としています。
氏として分けると、花菱紋はこの第3番目です。
1番は本家武田菱紋、2番は割菱紋、3番目が花菱紋です。
これでは時光の気持ちは判ります。まして、弟の源光系は1番2番で、朝臣族皇子の甲斐賜姓青木氏との血縁を主流としていますから兄としてはたまりませんね。
ですから、武田氏は笹竜胆紋は使えませんし、宗家から認められません。ですから使用していません、武田氏の家紋類だけです。
甲斐武田氏が直系の源氏であれば笹竜胆紋の筈ですが、同じ分家頼信系列でありながら、義経、頼朝等は「笹竜胆紋」ですし、甲斐の皇族賜姓青木氏も笹竜胆紋です。
甲斐源氏と名乗っていますが、分家の支流の分家の武田氏です。(公表している史料は誇張)

信濃足利氏でも、陸奥から藤原秀郷一門と血縁して護衛団として足利の赴任地に同行した花房氏が地元に定着し勢力を得て土豪と成り地名を採って足利氏と名乗りました。
その後、藤原秀郷一門がこの足利氏の絶えた分家に藤原秀郷一門の者を入れて分家を興して、最後はこの本家を排除して足利氏を乗っ取ったのです。
其処に清和源氏頼信系本流との跡目血縁を2度して清和源氏系足利氏が出来たのです。
後にはこの様によく似た事件が起こっていますが、武田氏ではこれ程では有りません。
足利氏の場合は藤原秀郷一門が大きく足利氏に関わっています。
清和源氏の時光は下の家柄の武田氏と繋がります。

そして、清和源氏は第6位皇子の経基王の子孫で甲斐賜姓青木氏も第6位皇子です。
源光自らはこの清和源氏(清和天皇第6位皇子系)頼信系の末裔であり、且つ、甲斐国守護王の皇族賜姓青木氏(光仁第6位皇子)と血縁をした賜姓族系であります。
時光は甲斐武田氏に跡目として入った一族の血縁朝臣族として単族で皇族青木氏を名乗った訳ですから兄でありながら身分は下と成ります。

この時光が名乗った青木氏は「嵯峨期の詔」によるものです。
嵯峨天皇期の詔とは ”皇族者が平民になる事の「下俗」する時に青木氏を名乗れ””その青木を他氏は名乗ってはいけない”の天皇の勅令の命令です。
父桓武天皇の賜姓青木氏に対する反発から、子供嵯峨天皇は賜姓をこの青木氏から氏名を変えて賜姓源氏としたのです。
この命令に従い清和源氏は第6位皇子ですので(「朝臣族」ですので)青木氏を名乗れるのです。
この詔を使って下の身分の武田氏と血縁した時には身分家柄が下がりますので「青木氏」を名乗ったのです。
この詔を使える資格者は歴史上18人居て内確認出来る範囲で4-5人です。
本来、時光は源光に対抗して詔を使ったと云う説を採用しています。。
しかし、弟の源光は、尚且つ、武田氏でも本家筋の上の家紋2つの菱紋と割菱紋と笹竜胆紋との血縁ですので差が大きく出ています。この二つは賜姓青木氏系と成ります。
同じ武田氏系でも家臣ではなく客人扱いです。座る位置は全く兄弟と言えども時光は家臣となってしまいますので下座下末座です。これでは面子が有りませんので、だから母方一条氏や詔の青木氏を持ち込んだと成ります。
これが青木氏や一条氏の名乗りの背景と成ります。

しかし、この末裔の正定らは更に下の扱いと成り、「国衆」と云う驚くべき階級なのです。
しかしながら、その家柄では朝廷が嵯峨期の詔が認めている証拠として次ぎのことがあるのです。

「源空寺と吉田氏」
そこで時光系の正定(14)では浄土宗源空寺を菩提寺として建立しますが、この寺の位置付けを示す事柄があるのです。それはその住職に吉田氏を迎えて居る事なのです。
何故そのように成るのかと云う事なのですが、その住職吉田氏に付いてお話します。

先ず、源空寺をどれだけ大切にしていたかと云う事を意味しその寺の位置付けが判るのです。
つまり、この吉田氏住職は源空寺の寺院の威厳、権威、又はレベルを示すものなのです。

「吉田兼好」徒然草の作者を承知されている事として、吉田兼好は朝廷の役人(官僚)をしていましたが、役所勤めが嫌に成って放浪の旅に出ました。
その役所の勤めとは何であったかと云う疑問です。
吉田氏は日本書紀に出てきます古い伝統の藤原氏に負けない氏です、
つまり、朝廷の祭祀を司る斎蔵の藤原氏の下役人だったのです。
中臣鎌足、つまり、藤原鎌足は大化改新の功労者です。
その仕事は朝廷の官僚機構の3蔵の一つの「斎蔵」の祭祀を司る官僚でした。
昔奈良期-平安初期の政治機構は3つの機構で出来ていました。

1 「斎蔵」です。朝廷、天皇家の事務一切を取り仕切る政治機構です。
2 「大蔵」です。朝廷の財政全般を取り仕切る政治機構です。
3 「内蔵」です。天皇家の一切の財政全般を取り仕切る政治機構です。
これを「3蔵」と云います。
これに軍事が着き「斎蔵」が指揮する形です。

そこで、この「斎蔵」は事務一切の中には、朝廷の祭祀行事(政治を含む政所:まんどころ)が主な仕事ですが、斎蔵の藤原氏はだから摂関家なのです。
これを藤原氏の下で専門に祭祀だけを行っていた官僚が吉田氏です。
この吉田氏は奈良時代からの氏です。
吉田氏は朝廷と天皇家の神社仏閣の専門祭祀役人です。
全国に最も多い神社の宮司は吉田氏ですが、この関係から来ているのです。
また、寺社も吉田氏が多いのです。余り知られていないのですが吉田氏は祭祀の名門族なのです。
関西の神社には吉田氏は大変多く、とりわけ熊野権現社を始めとして万葉の世界が残る紀州には吉田氏が多く宮司として現在も任官しています。

(参考 世界遺産の熊野権現第1社の藤白神社は吉田氏です鈴木氏の発祥社です)

青木氏、佐々木氏も浄土宗菩提寺を自らの氏で運営をしていましたので多いのです。
独自の菩提寺と氏神を持つ身分でしたので、身内の者がそれを勤めました。佐々木氏と青木氏の家紋で見分けが着くのです。その伝統が今でも続いているのです。
吉田兼好はこの祭祀役人でした。藤原氏の下で役人勤めが嫌に成ったのは今も同じですね。
これ等の事は「研究室」の「鈴木氏関係のレポート」2つに書いていますので参照して下さい。

どう言うことかと云うと、常光寺の曹洞宗改宗の時に浄土宗源空寺を開基しました。
この時、この寺に対する肝いり具合が判るのです。
藤原氏を通じて朝廷関係者から吉田氏を迎え入れた可能性があると云う事です。
源空寺の元墓には現在も住職吉田氏の墓があると云う事はこのことを意味しています。
つまり、それだけに花菱紋の青木氏は皇族系ですので、藤原氏を通じて吉田氏派遣を願い出たという事に成ります。
”何時から源空寺の住職は吉田氏か”は現在、私も未確認ですが、恐らくは最初からではないでしょうか。まだ今でも、吉田氏の墓があると云う事は、昔から吉田氏系統の住職であった可能性があります。だから廃寺になっても吉田氏の墓があると云う事に成ります。
吉田氏を住職、宮司としてある神社仏閣は位の高い神社仏閣と言う事を意味します。
吉田氏を迎えるだけの氏柄、身分でなくては派遣されません。
まして、京や奈良ではなくて、甲斐ですので、余程の氏身分では無くては北家の藤原摂関家からは派遣される事は有りません。
時光系は賜姓源氏で皇族朝臣族青木氏ですので、文句無く派遣される事です。
武田氏の元は、源信義が跡目に入る前は北家の藤原秀郷一門と陸奥小田氏との血縁族でした。
筋目から全く問題はありません。

「吉田氏」の住職で「源空寺」は最高の組み合わせです。
時代的に”吉田氏は何時からで、青木氏の住職は合ったのか”の確認が必要です。
研究課題として調べていましすがまだ見つかりません
この様に吉田氏の史実一つでも源空寺の時光系青木氏の確証が取れます。

「系譜上から観た武田氏系青木氏の系譜経緯」

さて、次ぎは時光系青木氏の実系譜を記述します。
これは上記した系譜上の疑問点の解決に必要とするもので、公開されている誇張された史料とは一部異なるところがあります。

寛政までの系譜(割菱紋 葉菱紋 時光系本家)
信義-信光-信長-信経ー時信-時光*-常光-信連-貞義-義遠-安遠-義虎-信種-信親-信時信安-信就-信幸-信峯-信祐-信任-信*-信考-某

(割菱紋 時光系分家)
義虎-信正ー信定-正定-正重-信久-信知-信秋-信富-信保-正蜜-信政
累代です。


さて、この系譜では、信正は8代目、信定は9代目となる筈です。
ところが、本来の本家と分家の系譜では、信安11の義弟落合氏養子の信生11系列に成っているのです。
信生11は信安11の義弟ですから、本流の系譜の中には有りません。又、常光寺には祭祀されていません。
どの様に系譜の位置付けに成っているかと云うと次ぎの様に成ります。

北巨摩郡青木氏 信生11-信正12-信定13-正定14-正重15・・と成ります。(後述)
柳沢郡青木氏 信生11-信正12-信定13-信之14-与蔵15(次男)-元忠16(長男:襲名)-信茂・・・(後述)

上記二つのどちらにも系譜には11代目の信安の義弟の信生11が8代目、9代目の信正とその子の信定の前に来ています。最大の疑問です。
先ず年代的に観てみると、信正は信虎と信玄、信定は信玄と勝頼に仕えています。
信生は勝頼に仕えて徳川氏に仕官しています。
信生の経歴は信安の実父信時に養われています。
武田氏家臣で落合常陸守信資の三男です。
子供の居無かった信時は落合氏から養子として縁組し小さい時から養ったが、その後に実子が生まれ信生の扱いは部屋住みと成りました。

次ぎに、この信正に付いて考察します。
信正は青木氏本家の義虎の子供で嫡子は信種であるので、嫡子外の子供で妾子です。
しかし、信種は尾張守と成っています。信正も尾張守です。同時期に尾張守に成っています。
ところが、嫡子外妾子の信正には後継ぎの通名の「与兵衛」が与えられ尾張守にも成っています。
何れも信虎と信玄に仕えています。

疑問
1 同時期に尾張守
2 世継ぎの通名「与兵衛」は信正に

これを”どの様に理解したら良いのか”の「信生の系譜の位置」と合わせて2つ目の最大疑問です。

これから推理すると、先ず考えられる筋目としては、次ぎの様な事に成ります。
1 信種は信正であろうとする説が成り立ちます。つまり信正=信種説です。
年代共に一致しある一点を除いては疑問は解決します。

次ぎの事も成り立ちます。それは信種の子供嫡子信親は尾張守で通名の与兵衛が着いています。
2 信正が信種の子供嫡子の信親であろうとする説です。信正=信親説です。
年代もほぼ一致しある一点を除いては疑問は尾張守と通名の点で解決します。

信親の子供の信時つまり、信安の実父で信生の義父です。尾張守ですが通名の与兵衛は有りません。
3 信正が信親の子供嫡子の信時であろうとする説です。信正=信時説です。
この説では年代は何とか一致しますし信生が先代に据える事は可能です。

先ず、ここで通名が大きなキーワードに成っていますので、中編でも記述しましたが、系譜上からこの通名を名乗った人物をもう一度引き出します。

「通名の考察」
義虎は弥七郎-信種は無し-信正は与兵衛-信親は与兵衛-信時は無し-信安は与兵衛-信就は与兵衛-信幸は与右衛門-信峯は与右衛門-信祐は与兵衛-信任は与兵衛-信*は与右衛門-後は与右衛門
義虎以前には与兵衛は無い。尾張守は嫡子は代々継承している。

このことからすると嫡子であれば与兵衛の通名を継ぐ事に成っているとすると、信種と信時の2人は通名が無い事が不自然であるので、1番の尾張守でもあり同一説が納得できる事に成ります。
では、信種なのか信時なのかを考察すると、次ぎの様に成ります。
しかし、上記した様に、正定ルーツの系譜(花菱紋)と養子柳沢郡青木氏の信之ルーツ(丸に花菱紋)の系譜の二つはこの1番の説では起こらないことに成ります。しかし、子孫は現存しています。
ある以上は1番の信種説と3番の信時説は成立しません。

2番の信親説には信親は、又の名を「信立」であると添書に書かれています。
この「信立」は全ての系譜上には出てきません。
つまり、しかし、「信立」は柳沢氏の系譜から公開されている史料では初代人物の元祖であるとしています。
しかし、柳沢氏は系譜では豊定を初代として明らかに系譜にありますので、信生-信正-信定-豊定としていますので本流の信親の「信立」ルーツでは無くなります。
とすると、”この「信立」は一体誰なのか”を解く必要が出てきます。

一種架空の人物の「信立」は本来系譜の信正の子供の信定であろうとする説です。
つまり、系譜を作る際、或いは信政が再編集する再に、信定の「定」の字の行書を「立」と観てしまった、又は書いてしまったのではないかと考えられます。
系譜資料では字体の崩し様で確かに「立」に読み取れるのです。

そうすると、123の説は消えますので、信種の腹違いの弟妾子信正は別家の割り菱紋を起こした事に成ります。これが正しい答えと成ります。

では、次ぎは尾張守と与兵衛の件を解決する事です。
先ず、信正と信種の年齢です。
明確な史料は有りません。そこで、戒名を特別に調べました。(個人情報に関わるので詳細不公表)

信正の戒名から死亡年は不明ですが、法名は信正は深見、信種は浄賢と明らかに異なりますので別人である事は間違い有りません。

考察経緯
A 信正の死亡年代は1548年頃、信種の死亡年代は不明だがこの僅か前と成ります。
先ず、当初妾子の信正が別家を興した。
B しかし、嫡子の信種が尾張守を名乗り死亡した。
C そこで、別家の信正が嫡子扱いとなり、それより以後「与兵衛」を通名として名乗り、跡を継いで尾張守に成ったが戦いで信正も死亡した。
D その跡を信種のルーツに戻しての豚ねの子供嫡子信親が尾張守に成り通名を与兵衛を名乗った。
E そして、嫡子信親が死亡した。
F これを再び別家信正の子供の信定が継いだ為に通名の無い尾張守と成った。
G この間20年程度の経緯で、その後、信定は長篠の戦い(1575)で戦死した。
H そこで、又本家に戻して通名の無い形式上信時が尾張守となった。
I しかし、この時は既に尾張守は有名無実のもので、2年後の1578年で滅亡の一時期であったので通名は後世滅亡か存続かどの様になるかは判らない為に名乗らなかった。
J その後、本家分家ともに徳川氏に仕官出来たし、本家嫡子の信安は真田氏の上田城攻めに加わる事に成ったし、分家正定は武州鉢形に国替えとなり徳川氏の旗本に成ったとすれば疑問は解けます。

因みに、尾張守は時光より3代目の信連から始まり、嫡子貞義-義遠なし-安遠-義虎なし-信種と続きました。
信種の親の義虎は無役でした。それだけに、信種に対する期待は大きかったとみられますが戦死したので嫡子信親にせずに別家の信正に移した。
この時代の信虎の武田氏はひどい戦いに明け暮れていたので嫡子を失う事を嫌ったのではないかと観られます。
この時には信虎と信玄の軋轢の争いが物語っていますが、信玄も結局40数回もの戦いをしたのでこの様な系譜と成ったと見られ、その影響もあって戒名等には詳細が書き込まれていないのもこの事から来ているものと思われます。この間20年であるので如何に難しかったかが判ります。
以上系譜の添書から割り出した系譜の経緯です。

次ぎは、信正の上に信生が来る系譜である。
A 信生は信時に養子嫡子として育てられたが実子信安が生まれた事から信安を嫡子とした。
B そこで、信生の扱いに不憫に思い苦慮した信時は別家の信正の跡取として据える事を考え系譜上で信生を別家の上に据える事を相談したのではと観られます。

この時は別家は信定の時代で上記の系譜の経緯からすると、本家側から見ると別家からの人の移動が無いが本家との区別が少ないと観ていたのではないだろうか。
信定の子供としては実子の正定や豊定や豊勝等が居て親子争いを起こしていたので、子供として養子にする事は難しいと観たのではないか。そこで、上にすえる事で、形式上何とか処理したのではと観られます。 
下にすえる事は1575年前の軍事的な連携から高尾氏との関係もあり、信之の柳沢郡の青木氏の養子もあるので、最早別家を興させる手が無く成っていたと観られます。
この時は1567年頃後の織田氏との戦いを前にした緊張時期でもあり、年齢は無視して5年程度の期間の系譜として扱ったと観られます。

これが、不思議な系譜が出来上がっている原因と観られます。
前編と中編の系譜はこの信生-信正-信定の前提に立っていますので、ここで、系譜や添書や史料や戒名などで検証しました。
このような20年の間に上記に近い経緯を持っていたと考えられます。
本来であれば、信正-信定-信生(落合氏養子)と成るのですが、信正-信定-信之(高尾氏養子)と成れば、実子3人も居る上に養子2人と成ってしまいます。
それでなくても実子との軋轢が起こっているのに、この上に信生の養子は幾ら戦乱とは言え受け入れ難いことだろうと考えます。
結局、この様な系譜に納まったのではと考えます。

「内容の整理」(重複)
参考
因みに、「与兵衛」の通名を使っている人物は次ぎの通りです。
割菱紋青木氏本家(義虎系)
信種(嫡子)の子の信親
信時(信親の子)の子の信安
信安の子の信就
信就、信幸、信峯の子の信祐
信祐の子の信任

割菱紋青木氏分家(義虎系)
信虎の子の信正(妾子:信種弟)
以上6人です。

参考
注 信種は信正と同人物との説もある。
注 信種は信定と同人物との説もある。
注 信親は信立と同人物との説もある。
注 信親は信定と同人物との説もある。
注 信時は信定と同人物との説もある。

参考
「尾張守」を名乗った者は次ぎの通りです。
始祖時光は甲斐守
時光系割菱紋の本家
A 時光-常光の子の信連
B 信連の子の貞義
C 貞義-義遠の子の安遠
D 安遠-嘉虎の子の信種
E 信種の子の信親
F 信親の子の信時

時光系割菱紋の分家
G 義虎の子の信正
H 信正の子の信定
以上8人です。

参考
注 信正と信種は兄弟で同時期に尾張守である。
注 信定と信親は従兄弟で同時期に尾張守である。
注 信時で武田氏は滅ぶ。

参考
疑問点
以上の「通名」と「尾張守」からの疑問点が浮かび上がる。
1 通名「与兵衛」が付く事は本流本家筋を意味する。しかし、信正だけは分家である。
2 官職名「尾張守」は本来は本流本家筋となるが、しかし、信正とその子の信定が引き継いでいる。つまり、本流本家の信種と信正は「尾張守」が重複している。(疑問)
3 更に、本流本家の信種には「与兵衛」の通名が無いが、分家の信正(妾子)には通名がある。
4 本流本家の信親と分家の信定は「尾張守」が重複している。(疑問)
5 本流本家でありながら信時は「尾張守」だが「通名」が無い。
6 分家でありながら信定は「尾張守」だが「通名」が無い。
7 重複人物説の疑問がある。
以上を複合的見地から解明しなくてはならない。

参考
信立
柳沢氏は4つの流れがある事は前述しましたが、青木と血縁を同じくする(柳沢)豊定を祖とする柳沢氏は青木氏との関連で源空寺に石燈を送ったという史実は間違いの無い事である事がこの石塔で証明されます。
「浄土宗源空寺」(南巨摩郡)と「浄土宗松源寺」(北巨摩郡)の二つの菩提寺と強い繋がりが合ったことを意味します。
送ったと記録されている柳沢家の柳沢吉保はこの流れの青木氏から出ていることを意味します。
それは「豊定-信立-信俊」系列である事を意味し、その中でも疑問又は不明人物と成っている「信立」の人物解明に付いて大きく前進する事に成ります。
「信生-信正-信定-豊定」の時光系の割菱紋副紋葉菱紋本家から分家した割菱紋系列である事に成りますので、「信立」の人物はこの4人の中の一人である事を意味します。


ところで話を戻します。
この様な事は話し合いによる訳ですから、この武田氏系青木氏の滅亡か存続かの瀬戸際に系譜がどうのこうのと云う単純事で、”この時期にこの事に付いての話し合いが果たして出来るだろうか”という素朴な疑問が湧くのです。
何らかの都合が一族間に起こらなければ出来る話では有りません。
”それは何なのか””何かがあったのか”です。

戦乱の世に於いては他にも宗派間の違いが兎角争いの元と成っています。
ところが、この武田氏系青木氏(時光系)には他氏には見られない程に宗派に拘り、挙句は別家を興すほどの事を起こしているのです。そして明らかに「争いの遍歴」が大きく起こっているのです。
中でも日本最大といわれる112年に及ぶ宗教界を巻き込んだ「天保騒動」が甲斐で起こっているのです。これではなかなか一族一門は納まりが付きません。
そこで、その経緯と宗派の競争の状況を調べて見ました。

武田氏系青木氏時光系の宗派経緯
信義-...-時光 浄土宗(明楽寺 宝林寺、前常光寺)
常光-...-信正 真言宗(常光寺の中興開基 改宗)
信定-.......曹洞宗(中興開基 改宗 天正3年まで)
正定-(割り菱紋).浄土宗(源空寺 中興開基 菩提寺解除 天正5年頃-明治廃仏毀釈廃寺)
正定(花菱紋分流).浄土宗(武川衆 松源寺 関東に武蔵鉢形に国替え移転と移設)
信之(丸に花菱紋).曹洞宗(武田氏滅亡で常光寺を再建)
廃寺後、......曹洞宗(第3氏 南明寺 信定派曹洞宗派)


以上の様に。甲斐武田氏の信義から5回の改宗が起こっています。
この事から次ぎの争いが起こったと観られます。

第1回目の信義の時
改宗時には青木氏の浄土宗の伝統を護ろうとする宝林寺派と、母方一条氏派の真言宗派との間で争いが起こったと観られます。
元祖時光を宝林寺に祭祀しようとする一族と、時光を常光寺に祭祀しようとする一族が争いを起こしたと観られます。(これに時光赴任先の摂津からも菩提寺説が出ている)
第2回目の常光の時
この時、常光派が勝ち皇族賜姓青木氏と皇族賜姓源光系武田氏系青木氏の2つの派を巻き込んで争いが起こり常光寺派が勝ち常光寺を開基しました。そして、亡き父時光を常光寺に祭祀しました。
そして、曹洞宗で上記の11代が祀り続けられたと観られます。(11代目信安まで祭祀)
浄土宗、真言宗の者が曹洞宗に祀られると云う前代未聞の事が続けられた事に成ります。
第3回目の信定の時
ところが、又再び、12代目の信正の死後、信正を祭祀するところを巡って、又争いが起こります。
元の真言宗派の一族と、現在の曹洞宗派の一族と、元来の浄土宗派の元に戻そうとする一族が争いました。3つ巴の争いです。話し合いで解決できる事などあり得ません。
結局、この時は信定が帰依する曹洞宗派が勝ちました。しかし、12代目の信正の墓は曹洞宗常光寺には祭祀されていません。11代目信安までですが、これも異常です。
曹洞宗が勝ったとは云え12代目13代目は常光寺には並べて墓は無いのです。
第4回目の正定の時
納得しなかった信正別家正定派本流は元来の青木氏の浄土宗源空寺を南巨摩郡に開基しました。そして、曹洞宗常光寺から脱退したのです。
この時正定は別家を興した青木氏、豊定も別付けを興した柳沢氏が父子争いを起こしたのです。
第5回目の正定の時
そして、本流は正定実子昌輝に任し、正定分流派は北巨摩郡に浄土宗松源寺を開基したのです。
恐らくは、親子軋轢の結果、宙に浮いた12代目と13代目は「御魂移し」をして源空寺に存在したとも考えられますが史実の経緯がありませんし、明治の廃寺で不明です。
尊たい寺と光福寺にあったと観られますが、武田氏滅亡により信正と信定の墓は関東に移動により墓、過去帳、仏像、記録等も含めて移したとも考えられます。
上記の様に、其れより光福寺と尊たい寺への祭祀が経緯から妥当と考えられます。
(現在でも一部はこの浄土宗派はどこかの浄土宗の寺に墓と御魂を移して祭祀している可能性があります。)
第6回目の信之の時
信之は毛利氏に仕官して戦死し、その後跡目を継いだ次男も戦死し、長男が信之を襲名し甲斐に帰ります。そして、武田氏滅亡で廃寺となった常光寺を再興して丸に花菱紋の寺紋とします。
血縁の無い養子一族が本来のこれまで本流本家の10代を祭祀している曹洞宗常光寺を再び興し割り菱紋から丸に花菱紋に寺紋を変紋して血縁性の無い信之一族の曹洞宗派の寺としたのです。
本来であれば本流本家の常光から信時まで祭祀されているのですからその割り菱紋の末裔一族が再興してこれを祀るが本筋です。
しかし、違ったのです。信正別家の養子の血縁性の無い信之一族(以後も血縁性の無い跡目養子縁組が続く)と成っているのです。

ここで、11代の信安は本流本家割り菱紋の嫡子ですし、信之とは同年代であり既に家は別家と成っているし、寺も信之の一族の丸に花菱紋の寺として再興されています。既に武田氏も滅亡しています。信安は徳川家の家臣として江戸に赴きそしてその後上田城攻めに参加しています。
その人物が死んだとして、全く血縁性の無い信之一族の曹洞宗常光寺に祭祀された史実と成るのです。
この浄土宗の信安11が最後の人物として信之の別族が運営する常光寺に、且つ異宗の曹洞宗に祀られる事はこの2つの大異常性がありながら、ここに何らかの大きい経緯があると観ています。
本来ならば、氏家制度ではありえません。
これは信安は絶っての願いとして2代目襲名信之に頼んだという事に成ります。そしてこの2つの異常性が認められたのです。

「協議の内容推理」
実は、上記した系譜協議の結末が、ここに、”系譜を其の侭に家紋を変更する事だけ”で治めた妥協の経緯があるのではと考えているのです。
「・・・・よりて各々のその見ゆるところを記して後勘に備う」とするこの一文を系譜に記され且つ文章の表現を考察すると「・・各々・・」の表現は多数関係者の同意に基づく表現と観えますし、「・・見ゆるところを記して・・」は衆議の意見を書き記して置くことにするとの表現に成ります。
更に、「・・後勘に備う」の表現は明らかに衆議合意の上での記述となると観えます。
この様な事から、「多数関係者」が存在して「関係する事柄」を「協議合意」したと成ります。

そうすると、別家の正定と、別家本流の昌輝と、本家本流の信安と、別家の祖と成った信生と、柳沢氏の豊定等の関係者を交えた協議が「常光寺」で行われて、「信安11の常光寺祭祀の約束」と「信生11の別家の祖」と「丸に花菱紋使用」と「信正系譜」と「常光寺の譲渡」等を正式に決めたのではと推理しているのです。
そして、この事が1578-1580年の2年間の間に行われたと観ています。
これだけの宗派の遍歴を起こしていて後に大きな問題が起こっていないのはこの様な協議の成立があった事を意味していると考えます。
それでなければ、普通本来であれば、氏家制度の中では、青木一族の柳沢吉保が甲府藩の領主と成り甲斐に対して権力を持った時にもめる筈です。しかし、揉め事は起こっていません。

これがより経緯とより立体的に理解を得る為の後編の冒頭からの説明に起因する事であったのです。

「花菱紋一族の証明」
ところで、第7番目の明治の廃仏毀釈による廃寺が問題です。
この廃寺に依って多くの資料と系譜の如何が複雑にしてしまっているのです。
4宗派の争いがあり、信之一族の「丸付き紋の花菱紋」の「第三氏」に、本来の丸付き紋を使った「第3氏」が入り乱れて信之の末裔に大して区別し判断する事が出来なくなっていることがあります。
特に、北巨摩郡の正定の花菱紋は武蔵の鉢形に国替えが起こり一族全て強制的に移動していますので判別問題は明確です。
南巨摩郡では第3氏青木氏が存在し主張している花菱紋末裔はこの歴史的史実を知らない結果に拠りますので判別は明らかです。
しかし、南巨摩郡の昌輝の別家本流と柳沢郡青木氏の甲斐帰国後の信之の末裔に判別が付き難い事が起こります。
南巨摩郡の昌輝の別家本流の末裔も徳川氏の仕官となり旗本と成った事から八王子近隣から江戸にかけて移り住みましたので、これも第3氏の主張が判別できます。
しかし、とりわけ、信之末裔との判別です。
信之末裔も本多氏の家臣と徳川氏の家臣と成って武蔵、常陸、上総、栃木の関東に最終移動していますので大方は判別が可能なのです。
しかし、この末裔一部が先祖の寺を守る為にか常光寺付近に残ったとする説があります。
この「第三氏」と「第3氏」の判別が困難のです。

更に複雑なのはこの「第3氏」には二通りあります。
一つは明治の苗字令による「第3氏」です。
二つは1575年前の農兵による制度から来る苗字帯刀を許した青木氏があります。
戦いの場合は家臣だけでは兵力成り立ちません。そこで「農兵制度」と云う組織があり、農民との契約で兵として参加する方式です。戦勝すれば契約報奨金と褒美が与えられます。
この時に、その農兵の庄屋や名主や郷士の長等に青木氏の苗字を名乗る事と家紋使用を許す事が在りました。特に武田氏は兵を多く集めましたので、この方式を採用したのです。
明治期の「第3氏」と異なりこの名乗る根拠のある「第3氏」があります。

この根拠のある農兵「第3氏」と武士の信之末裔の甲斐残存子孫の「第三氏」との判別が付き難いのです。
明治期には先祖が戦いに参加したこの農兵の長とは違う者等もこの「第3氏」を名乗ったことになります。何も経緯の無い「第3氏」が殆どですがこの中にはこの青木氏もあるのです。
つまり、甲斐では「第3氏」は4種ある事に成ります。

全国青木氏が定住する地域に対しては夫々異なりますが、甲斐での武田氏系青木氏に関する「第3氏」には4種もあり、それなりの根拠を保持していて、この様な経緯を持っているのです。

そこで、これ等を特別に判別できる事があるのです。これだけは同じくすることは出来ないからです。それは継ぎの事柄です。
そこで、これ等を次にを詳しく説明します。

俗名、戒名、法名、没年はこれ等の青木氏の独特の戒名を持っています。
宗派と寺と土地によって宗教的教義が違う為にまた、習慣が違う事から必ずしも統一している訳では有りません。
しかし、浄土宗青木氏では戒名と没年は必ず記載しますが、俗名はそのものを書くものと、俗名を戒名の中に二文字を読み込んで入れる習慣とがあります。
俗名そのものは仮の名として厳格に教義を護り書かない宗派もあります。
浄土宗と浄土真宗は原則として「俗名」と「法名」と「生き様」の3つを表すように書いています。

A 戒名にはその人物の現世の生き様が判ります。
B 戒名にはその人物の身分と家柄が判ります。
C 戒名にはその人物の財力勢力判ります。

花菱紋の青木氏であれば、その戒名は必ず「院殿居士」と云う最高級の戒名が付いています。
この「院殿居士」を観ることで、AからCを判別できます。
この「院殿居士」は次ぎの様に成ります。

「院」とは現世から離脱した時に庭園などを含む広域な住まいとする処で、その位を意味します。
天皇など皇族のものが「現世」の身分を離れ、「彼世」の御仏に仕える時に持つ最高級の院号です。
この住まいを「門跡寺院」と云います。僧化することを意味します。
仏教で云う「宇宙」であり教義では「立体」を意味しています。

「殿」とはその院の中の目的に合った「住居」とする処で、「院」に続く位を意味します。
この位の「殿」の位が敬称として使用されています。
「殿」のような処に住む貴方と成ります。
仏教では「立体」を構成する「面」を意味します。

「居」とはその殿の何処かの目的に合った「部屋」とする処で、「殿」に続く位を意味します。
住居とする所です。
仏教では「面」を構成する「線」を意味します。

「士」とは「居」に居住まいする者の身分を意味します。「居」に続く位を意味します。
「武士」とはその「院殿居」にて「武」を以って仕える身分の士者と成ります。
従って、「武」の意味する処は観仏に仕える者であり、「義」を基本としている事をされます。
「侍」は「院殿居」(寺院)に仕える者と「さむらい」(仕えるという意味の「古語さぶろう」の変意)です。
仏教では「線」を構成する「点」を意味します。
つまり、「氏家制度」では社会の力の尺度し「建物」を用いたのです。
この様に「彼世」の絵姿を描いた形でその建物を使って位階を定めたものなのです。

では、「院」では”どの程度の者が戒名としての「位」を付けて貰えるのか”と云う事ですが、氏家制度の社会の中では、「院」つまり、寺には「院殿居」に相当する建物がありますので、その寺を一つ建てられるだけの力のある者と成ります。
「殿」、「居」では「院」の尺度に推して知るべしで一段下の者が受けられる戒名と成ります。
「士」では階級として存在する最下位で「武」を有する者が受けられる戒名と成ります。
現在では社会に対してそれなりの勲功を収めた者が得られる位階です。
その勲功の大きさから「殿」の前にその勲功を読み込みます。
これ以下は階級なしの「院殿居士」の無い身分の者とし、俗名或いは法名のみと成ります。

「氏家制度」では、「氏姓」を持つのみの者が墓を持つ事が出来る訳ですから、庶民は河原の路傍のに俗名を書き込む習慣でした。
武士は尺度して「院殿居士」の「士」に当り氏姓を持ちますので、戒名と墓と過去帳がある事に成ります。
(氏姓を持たない事は時系列的に戒名を付け過去帳に記する事は論理的に出来ませんので、庄屋などが書き記す村の一時的な人別帳に「・・村・・」とする習慣でした。)
そこで、甲斐の武田氏系青木氏にはこの「院殿居士」の尺度に相当する事に成りますので、どの程度の戒名が付けられているかに依ってその立場や身分や貢献度や人物像が観得て来るのです。
現在に於いても、この「院殿居士」は相当な財力があり支払能力が無ければ付けて貰えません。
しかし、「士」は「信士」と「信女」として多くの戒名に付いているのは現状です。

この様に戒名や過去帳はその過去の生き様を表すものでした。
ただ古い時代にはこの習慣が徹底していなくて、また不明な事も多い時代でした事、戦いで判らなくなった事、大火、焼き討ちなどで消失したことなどで、完全に復元できない事などから、史料で観ると3つが何時も完璧という事は有りません。
特に室町時代の下克上、戦国時代では「寺は戦いの拠点」として使われましたので、一番に持ち出すものですが、遺されている可能性は低く、跡で復元したものが多いのです。
そのために不明な点が出て来るのです。

鎌倉時代初期、室町時代末期、安土桃山時代、江戸末期の混乱期の間はその寺がどのような災難にあったかによりますので必ずという事では有りません。
特に、江戸中期から明治初めまで、宗教を全面に押し出した一揆、村騒動な各地で頻発に起こりました。
特に曹洞宗や一向宗や時宗は農民や下級武士等が入信する宗派でした。ですから、この農民や下級武士が起す一揆、村騒動などの背景には曹洞宗寺等が必ず居て指揮していました。
よって、騒動を鎮める為に寺を焼くと言う行為で治める側は行いました。
当然、多くの犠牲者が出ますので、混乱の中、とても3つを揃えて書き記す事すら難しい事でした。
その意味では、浄土宗、真言宗、真宗などは比較的江戸時代中期以降には3つの原則は護れてたと思います。
ただ、この宗派は室町時代の下級武士が起した上級武士への(青木氏や藤原氏など)「下克上」の「焼き討ち」の対象寺でした。
また、戦国時代には氏寺は戦いの拠点(作戦本部)として使われましたので記録が消失している事が多いのです。
ですから、農民や武士はこの時代の人物には生年月日や没年がはっきりしないと云う事が起こりました。特に農民は姓を持ちませんので、過去帳は作れないのです。庄屋等が作るその時代の人別帳だけでした。
人別帳を使って復元するなどを寺は行いましたが、人別帳は詳しく記録しているものでは有りませんし系統的では無いのでそのような事が起こるのです。
そして、江戸中期までは、兵農の慣習がまだ残っていて分離せずにいましたので、農業をし、戦いの際は兵として参加しました。
戦死すると不明者が多く、記録は戒名どころか俗名程度しか書けかけなかったのです。
九州、四国、中部地方には明治前までこの兵農の仕来りはまだ残っていました。武士だけでは兵が足りませんので、この方式が採用されていたのです。
例として、西郷隆盛等は侍でしたが、農業もしていたのです。
明治維新の長州と土佐と薩摩軍はこの農民兵でした。”ちんらいさん”と呼ばれ強かったのです。
この寺の過去帳を調べる事でこの「第3氏」の判別がわかります。

例え、系譜や曼荼羅過去帳などは自由に作ることは出来ますが、寺が管理するこの過去帳は出来ません。
仮に作るとすると、過去の人物を調べ出す事に成りますので上記した様に記録が有りません。従って出来ないのですし、一人の過去帳を作っても親族縁者の統一した過去帳までも物理的に出来ません。
又、氏家制度は「国抜法度」ですので、何処からか流れてきても何々村移住と明記されますので出来ません。
ですから、どんなに飾っても過去帳を調べて戒名を見ると氏家制度の身分が一目瞭然と成ります。
過去帳の一番古い人を調べる事で年代が判りますので判別は簡単と成ります。

「甲斐の宗教戦」
さて、この様なことですので、甲斐は武田氏ですから、このシステムを用いていました。後に徳川氏の配下に入りますが、「武田の赤兜」で有名ですが、これに従ったのは地元の地侍と農民兵です。
だから強かったのです。
甲斐では、曹洞宗が多く一揆の多いところで100年以上も続いた「天保騒動」の例の様に、寺の焼き討ちも多く、明治維新前の徳川側として戦いの場にもなった地域です。
寺は寺の宗教的目的だけでは無く、軍事的拠点としても使われ、作戦本部としても使われましたし、その為に軍略上要衝地に建立しました。
甲斐ではこの様に宗派間争いが強く、次ぎに記述する日本最大の「天保騒動」が有名です。
これが起こったという事は上記したような甲斐のそのものを物語る物です。

「甲斐騒動(天保騒動)」
特に、「甲斐騒動」又は「天保騒動」と呼ばれ、1724年から頻発し1836年までの112年に及ぶ一揆で甲斐の国全域で起こりました。日本最大の一揆で広域一揆で、日本歴史上最も有名な一揆です。

農民、商人、下級武士らによる鉄砲刀等の武器を持ち焼き討ち、打ちこわしをし、食糧難から政治不満(米穀商と徳川甲府藩との癒着)に発展した甲府域を中心にした戦いでした。
商人らは経済的支えをし炊き出しまで行いました。
多分、家臣の宗家本家は別として、多くは農業と武士とを兼ねる生活をしていたと観られます。

仮に一部の者が武士を棄て甲斐に戻った武田氏系青木氏3氏6家の花菱紋らの一部の遺産は明治前の「維新戦争」に巻き込まれ、尚、「宗派争い」とこの「100年に及ぶ一揆」で全てを失ったと観ています。甲斐に武田氏系青木氏は残る事が珍しかったと考えます。
この様に記録や記録の遺し方は不完全であることが当り前の地域でした。
農民や下級武士にとっては甲斐の歴史上最も苦難の時期でした。
当時は氏寺に出来るだけ寺に証拠などのものを遺す習慣でしたから、寺の消失が起こると過去帳関係や歴史資料が消えてしまうのです。ですから不完全なのです。
花菱紋の宗派争いもこのことに大きく影響していると考察しています。

世の中には、「宗閥」「派閥」が生まれるのは止むなしです。自然の摂理です。
現在も、浄土宗派と真言宗派と曹洞宗派が出来れば、必然的にこの派閥が生まれ一致団結が難しくなる事は必然です。当然に、この宗派の派閥は「伝統」のレベルを弱めます。
その伝統が今も続いていると見られます。「因果応報」です。
祭祀するものが無く成った事に成ります曹洞宗常光寺は、結局、柳沢郡青木村の青木氏が直ぐ後にこれを再興しました。兎も角も、この2人(12、13代目)の墓所は不明確で無く「御魂移し」で済ましたと観られます。
この場合、一条氏を名乗る真言宗派は潰れたと見られます。それは一条氏を名乗る事に無理があり味方を得られなかったと考えられます。
その理由として、中国地方や四国でもこの一条氏を名乗る者が各地で出てその正当性を疑問視された事によると観られます。ここには、当時の社会システムの氏家制度の矛盾があるのです。
明らかに、時光らは清和源氏頼信系分家の源氏系統です。
しかし、一条氏は藤原北家摂関家四家の一つの公家です。
(藤原氏四家は北家、式家、南家、京家であり、北家が残る。この北家は更に2氏摂関家と秀郷一族に分かれる。その摂関家は四家の一条、九条、京極、鷹司氏に分かれる)
公家は元来、武力を保持しないのですが、武器を持つ一条氏です。
(秀郷は貴族に成った為に第3子千国を侍として護衛隊にした)
この源氏傍流が母方の一条氏を名乗ったのです。
武田氏は甲斐源氏と呼称していますが、一条氏を名乗るのであれば源氏では有りません。男系跡目の社会です。まして、時光は源氏として土豪武田氏に跡目として入り源氏と成ったと呼称しているのです。なのに一条時光は慣習の矛盾です。
正規の書物は源氏と成っています。そして武田氏は甲斐源氏支流と河内源氏傍系と呼称しています。
でも、河内源氏などの源氏は皆、本流笹竜胆紋です。武田氏は菱紋です。
一条氏といい、甲斐源氏といい、矛盾です。
慣習で源氏と名乗るのであれば、全て源氏になってしまいます。
ですから、一条氏はある時期のある人物の時に家柄を更に誇張する為に世間に対して偏纂したものと観ています。
甲斐には一条郷の一条氏を名乗り又他の村などに一条氏の子孫の繁栄は無い事から判断できます。
だから真言密教の宗派は消えたのです。まして、密教を教義としている真言宗です。
そして、明治になり、廃寺と成って、再び、浄土宗派と曹洞宗派との間で争いが起こります。
ところが、浄土宗源空寺の伝統を重んじる派がありながら、多くは曹洞宗に帰依する事を決めたものです。
この時、当然に、浄土宗派はその伝統とする仏像と墓を隠す手段に出たものではないでしょうか。
”歴史は繰り返す”と云いますが、過去5回も立て続けに同じ「宗派争い」の戦いをしたものと当時の慣習から考えられます。
他の国でも同じ事が起こっていることなどを考えると、この伝統と歴史を持って神奈川、横浜、栃木、常陸、鉢形、八王子、仙台手前域などには時光系、源光系の武田氏系青木氏が全て移動して子孫を拡大している事に成ります。
今回、青木氏としてのかなりの疑問を解決しましたが、甲斐武田氏系花菱紋の一族にはまだその「伝統」が明確に成らないこの宿命がまだ続いていると見られます。
5回の宗派争いの中に伝統を護ったのは、正定の弟の別家を興した豊定の柳沢氏で浄土宗光沢寺-永慶寺として伝統を明治まで護り続けました。
柳沢氏の発祥と元祖とが明確になり、更にこの柳沢氏も4つの柳沢氏がある事が確認する事が出来ました。

今回のこれ等の研究で甲斐の割り菱紋と花菱紋の青木氏の歴史的な史実が多く表に出す事が出来たと感じています。これからも、個人情報の難しさもありますが、青木氏の史料を整備しながらも各地の青木氏のより深い研究を続けたいと考えています。

ここで、もう一つ疑問があります。
それは、「信生」です。
「信生」は武田氏家臣落合常陸守信資の三男で、信時の養子となり、幼少の頃より養われるとあり、「信安」と義兄弟です。
「信安」は常光寺の最後の11代目として祭祀された人物で時光系本家割菱紋 葉菱紋の本家を継承している人物です
「信正」と「信定」より系譜上で上に来ています。
本来であれば、「信正-信定-信生-正定」と成る筈です。



史料
「甲斐の宗派別勢力表」(廃寺含まず)
甲斐百八霊場より宗派の影響がどのように成っているかを分析すると、次ぎの様に成ります。
浄土宗.. 3.7%
曹洞宗.. 33.3%
浄土真宗..2.7%
真言宗...16.7%
臨済宗...22.2%
日蓮宗...12.9%
時宗....2.7%
法華宗...2.7%
単一....1.8%
考察
3派(浄土宗、真言宗、曹洞宗)で全体の54%を占めています。

浄土宗は%が低いがこの宗派は朝臣族、宿禰族等の高位の特定氏がその菩提寺として独自に寺を建て運営する真言宗に近い古代密教に近い方式を採っていた事から、低いながらもその権力の座にいる者が支配していましたので、宗派を維持するためにも武力を背景に3派の争いに成る事が覗えます。

真言宗は密教を主体としている為に公家、貴族など自らは武力を持ず権力だけの層に入信を許す事と成ります。これは武士の生き方に合わない教義でもある事から特異な層貴族や公家の宗派でもあります。
その意味でも一条氏を名乗るのもこの真言宗で無くてはならない事を意味します。
2代目常光が浄土宗から開基して真言宗に帰依した事はこの一条氏を名乗った事に起因します。
又、真言宗は密教ですので16.7%の率は相当な甲斐での力を持っていたことを示します。
全体で54%と成りますが恐らくは70%程度の勢力を占めていたと考えられます。

浄土真宗は2.7%と低いですが、この宗派は浄土宗の代用宗派としての役割を担っていました。
浄土宗派は特定氏、特定域に存在する寺ですので、赴任する事などでは更に寺を建てると云う経済的な負担が掛かります。従って、その代用として藤原秀郷流青木氏などはこの中級-下級武士層が入信する宗派を一時的に利用し、領国に戻ると元の浄土宗派に戻るなどしたのです。

曹洞宗は33.3%ととして下級武士や農民層等を取り込み宗教とは思えぬ影の武力的勢力を持っていました。自らの力で寺を建て、運営をしそこを一種城郭的なものとして利用していたのでそのためにも農兵を動かす為にはこの宗派を見方にする必要時要件として必要があったのです。
信定が真言宗から曹洞宗に改宗したのは最早、名誉から力へと移っていた事からの処置と見られます。

臨在宗が目立っていますが、これは後発である事と農民層を主体としていた為に国府近在では拡がらない事が観えます。曹洞宗とあわせると55.5%にも成ります。

浄土宗と真宗と真言宗の3つの宗派を合わせると23.1%と成ります。

このA55.5%とB23.1%とは教義や信者や宗教的作法は全く異なり宗派対立の元と成るのです。
この意味から、信定の採った処置は晴天霹靂なのです。当然に正定との父子間の争いは起こります。
その証拠に、この結果1724年から12年に及ぶ「天保騒動」が起こるのは当然と云えば当然であったことに成ります。144年歴史を遡って史実を分析し観れば正定等が正しかった事を意味します。この父子対立は如何に激しい対立であったかを物語るものなのです。
柳沢吉保が甲府藩を去った直ぐあとに始まった事なのです。
仮に55.5の宗派連合をAとすると、A宗派は柳沢吉保等の武田一族が健在の間は静かにして置き虎視眈々と狙っていたと成ります。
このA3派が国府近在に集中しています。
ただ、浄土真宗が拡がらない事が不思議です。浄土真宗は藤原秀郷流青木氏が赴任地移動時は浄土宗の代替宗派として帰依していた宗派です。しかし、甲斐では全く見放されています。
其れと、臨済宗が近隣に接近してきていますが3派に入らなかった点が不思議です。
「後発、農民層」の2つが影響しています。
甲斐を揺るがした112年に及ぶ「天保騒動一揆」が明らかに間近に迫っている事が判ります。
この騒動の裏の煽動者(曹洞宗34、臨済宗22、日蓮宗13 下級武士と農民)70%が集まれば起こらない方がおかしいです。
武田氏滅亡と同時期にタガが外れた様に始まった事がこれで理解できます。
特記したい事は、信定の「曹洞宗改宗」の裏の事情はこの「迫り来る圧迫」に左右されていた事も考えられます。だから「宗派争い」なのです。
花菱紋浄土宗の正定派が親と対立した根拠は少ない浄土宗を「伝統」の意味から護ろうとした事が判りますし、源空寺の建立の意味も出てきます。
このデータが、信定-正定間の軋轢が手にとる様に判り、その大きな意味を持っています。

この様にして多くの史実を基に武田系青木氏花菱紋の遍歴を観れば、その当時の生き様が目に観る様に浮き出てきて真実の史実が出てくるのです。
他の青木氏と異なり宗派の問題は甲斐の武田氏系青木氏の研究に欠かす事の出来ない要素なのです。
以下にその史料を記述しますが、未だ多くの事柄を引き出す事が出来るのです。
しかし、又の機会に更に論じる事にします。

これら前編から後編までの研究論を通じて、お読みに成られた歴史ファンの方々に一辺の史料と成る事が出来れば幸いであります。
更に青木サイトでは全国の青木さんと本サイトのファンの方々に他の青木氏の生き様をも再現したいと考えています。

史料

近隣地域分布
浄土宗3 曹洞宗23 浄土真宗6 真言宗14 臨済宗18 日蓮宗0 時宗0 法華0

浄土宗75 曹洞宗64 浄土真宗0 真言宗78 臨済宗64


甲斐青木氏が定住していた近隣地域の分布
甲府
浄土宗3 曹洞宗4 浄土真宗3 真言宗2 臨済宗4 日蓮宗2 時宗0 法華0
山梨
浄土宗0 曹洞宗3 浄土真宗0 真言宗1 臨済宗2 日蓮宗0 時宗0 法華0
甲州
浄土宗0 曹洞宗1 浄土真宗2 真言宗2 臨済宗5 日蓮宗1 時宗0 法華0
巨摩郡
浄土宗0 曹洞宗5 浄土真宗0 真言宗6 臨済宗3 日蓮宗6 時宗0 法華0
笛吹
浄土宗0 曹洞宗2 浄土真宗1 真言宗3 臨済宗4 日蓮宗2 時宗1 法華0
韮崎
浄土宗0 曹洞宗4 浄土真宗0 真言宗0 臨済宗0 日蓮宗0 時宗0 法華0
甲斐
浄土宗0 曹洞宗4 浄土真宗0 真言宗0 臨済宗0 日蓮宗0 時宗0 法華0

宗派別寺数
浄土宗...4
曹洞宗...36
浄土真宗..3
真言宗...18
臨済宗...28
日蓮宗...14
時宗....3
法華宗...3
単一 ...2
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甲斐青木氏の研究(花菱紋) 中編

:甲斐青木氏の研究(花菱紋) 中編
投稿者:福管理人 投稿日:2009/08/18(Tue) 10:09:20

忠頼の考察]
100年の遍歴
武田信玄は信義から19代目です。武田氏は次ぎの20代目の勝頼で滅びますが、吾妻鏡や源平盛衰記にある小説的な事と違い、信義2代目次男忠頼は実質は上記の様な政治的経緯で謀殺されました。
要は源の義経や平泉藤原氏や大島源氏などと同じく潰しに架けられたのです。
(平家水軍を打ち破った大島源氏は謀殺直前で察知し難を逃れる)
11代の賜姓源氏の末裔が全く遺されていないのは北条氏による「徹底した殲滅作戦」のこの事によります。
同じ同族でありながらも、天智天皇の伝統の「不入不倫の権」に護られて5家5流24氏の賜姓青木氏(皇族青木氏を除く)は、桓武天皇と平家に圧力を加えられ衰退はしたけれども、生き延びて子孫を遺しました。
賜姓青木氏と同族の賜姓清和源氏も賢い「義経の戦略」に従っていれば充分勝算があり子孫を遺せたのです。
しかし、頼朝の本音は2度強行した「本領安堵策」と「平家没官僚策]で源氏一族を遺せると観たのでしょうが、北条氏の方が上であった事に成ります。
頼朝は当初より北条氏の勢力拡大は予想できていて、この程度の事は念頭にあって北条氏の反対を押し切って強行したが、裏では北条氏等の潰しに架かりそれが成功していたので、身の安全と源氏の幕府の存続を考えて、止む無く北条氏に従う以外に無く成った事に成ります。
史実、この事に付いて、史実として、義経、大島氏、新宮太郎の源氏一統等は頼朝を説得している記録が残っています。
しかし、当然に、同じ河内源氏の傍流としながらも、当時は武田氏の忠頼は北条氏と同等の勢力を持っていた事から謀略で甲斐武田氏までやられるとは計算していなかったのでしょう。
(兄弟の信光は安芸守に成り、忠頼謀殺後甲斐武田氏は衰退したが安芸武田氏が中心に成る)

この時、信濃足利氏も媚びながらも鎌倉政権には途中まで付き合いますが、後に圧迫を受け信濃に引き籠ります。
この時から足利氏は倒幕行動を開始したのです。執権北条氏の執事と蜜脈を通じて情報を獲得していたのです。結果、大きな怪我も無く倒幕するだけの力を蓄えていました。
後に、足利幕府が樹立した時には、この北条氏執権家の執事(平氏を与えられ名乗る)を足利氏の執事として成り立つように、元京平家(桓武平氏 阿多倍一族)に与えた伊勢北部伊賀地方(割譲地)を執事に与えたのです。
頼朝の味方と成る清和源氏宗家頼光系の跡目を入れて存続を狙っていた伊勢賜姓青木氏は、この時、鎌倉幕府(室町足利幕府でも)から「本領安堵策」で割譲された伊賀地方の変換があると考えていましたが矢張り無かった事に拠ります。(伊勢東部志摩地方も割譲されている 半国司)
鎌倉、室町時代ともに5家5流の賜姓青木氏を率いる伊勢青木氏等は大きく伸張する事は出来なかったのです。
頼朝は懸命に伊勢を含む摂津近江などの5家5流青木氏と、その血縁を持つ5地方の同族に対して三つの策(2度の「本領安堵策」と「平家没官僚策」)を強引に構じましたが、北条氏の強い抵抗もあり徹底出来なかった事が原因したと観ています。

この方向から検証すると、頼朝は一般に伝えられている程に北条氏に対して信頼をしていないという事が判ります。その戦略は当初は北条氏を含む坂東八平氏等を使って京平家を破り、その後に「本領安堵策」や「平家没官僚策」で立ち直らせて、「源氏政権樹立」をと考えていたと観られます。
しかし、甲斐源氏や関東に根を張っていた藤原秀郷一門をも含む反勢力を北条氏らに依って戦いに依らず殆ど裏工作で潰されて行ったのです。
その証拠に頼朝を始めとして一族末裔は3年後には源氏一族は全て根絶やしで抹殺されています。
これに反対する北条氏の味方であった「坂東八平氏」等さえも潰されたのです。
この事件が有名なのはこの「源氏の再興」を意図したこの象徴的な事件の一つとして甲斐源氏武田(一条)忠頼の事件があります。

他に潰された史実は沢山ありますが、これくらいにします。

忠頼が謀殺されただけでは無く、清和源氏支流の武田氏系青木氏を含む甲斐武田氏一門も例外ではなく圧力を加えられ、1200年ころから衰退を始め、その勢いを警戒されて室町幕府からも睨まれて武田信満の頃(1430)ころまで100年単位で浮き沈みを繰り返します。
しかし、義清や清光等が築いた14氏の縁戚族の持つ遺伝的な特異体質から、再び信虎の時代ごろから拡大を始め、信玄の頃(1550)ではその勢力は頂点に達します。
しかし、総じて何れも清和源氏系でありながらも、鎌倉幕府と室町幕府に執拗に圧力を掛けられたのです。美濃の土岐氏などは武田氏の様な強い体質が無く脆くもいち早く潰れてしまいます。
徳川時代には、青木氏から出た柳沢氏を除くと、それでも末裔は武田信興の八代郡500石で終わります。

「体質の分析」
この様な観点から検証すると、これは武田氏が「危険視された原因」であり、ただの大豪族と云う事では無く根本は、矢張り前編文で今まで述べて来たその甲斐の「土地柄」と「気風」と「異質体質」(発展的体質)に在ったのではないかと観られます。氏家制度の社会慣習の中では当時の為政者はそのように観ていたと考えられます。

賜姓青木氏5家5流の「系譜と添書と史料」と比較検証しても、甲斐武田氏には「浮沈を繰り返して来る力」が系譜からも観られます。
その証拠として最後の一族「柳沢吉保」(1688)の返り咲きです。
”元に戻すまでに周りが何を云われ様と形振り構わず頑張り、駄目と感じると形振り構わず素早く身を引く早さ”これが吉保の行動に現れています。
これが「甲斐の特異体質の原点」、つまり、内訳は「変わり身の早さ」と「頑張りたい異質」に在ると考えられます。
これは武田氏の遺伝であると考えます。
その元は武田始祖の義清(「武田冠者」)にあり、彼が「乱暴者」であったことから父義光の守護地となったとされている常陸武田郷(他説あり)に移し、そこで再び起こした土豪等(吉田氏等)との争い事件(乱暴な性格)で訴えられて、朝廷からその罪を認められて更に甲斐に配流され、そこで又再び受け入れを拒否されてしまったのです。
甲斐の土地の土豪(陸奥小田氏末裔)に助けられて、後に甲斐の土豪等と争勝ち、子供清光(「逸見冠者」)が甲斐14地方に子供を配置して土豪の荒くれを押さえ込み、この結果、伸張し地盤を築いた経歴を観るとその遺伝が頷けます。
河内で、京で、常陸で、甲斐でと排斥されたと成ると「乱暴者」の定評が出るのも史実として頷けます。
罪人として入りながら、土豪の反発を受けながらも、甲斐に地盤を築くなど生半可な荒くれの性格では成し得ません。つまり、むしろ乱暴者の一面に「軍略的」な一面を持ち、それが逆に「適所適時適材」の功を奏したのです。この遺伝が子孫に引き継がれて居るのです。
信虎と信玄の親子争いもこの「義清の血」に所以しています。
それだからこそ下記のような「甲斐100年遍歴」が起こるのではと観られます。

上記の様に「100年遍歴」を以って「盛り返してくる力」が在るのです。
0 1100年頃の平安末期に甲斐各地(14)に勢力伸張(義清、清光 子孫14氏)
1 1200年頃の鎌倉幕府樹立での衰退(忠頼 頼朝と対等勢力保持)
2 1330年頃の室町幕府樹立で復興(信光 安芸国に勢力移る)
3 1420年頃の室町幕府から圧力で衰退(信満 甲斐に勢力戻す)
4 1550年頃の信玄の復興(信虎、信玄 中部関東一円に拡がる)
5 1565年頃の勝頼の衰退(勝頼 甲斐に縮小)
6 1688年頃の柳沢吉保の復興(吉保 甲斐から郡山移封反転)
(小遍歴除外)

注 義清と清光の武田縁戚一族
第1縁戚族 逸見、武田、加賀見、安田、平井、河内、浅利、八代 以上8氏
第2縁戚族 一条、甘利、坂垣、秋山、小笠原、南部、三好 以上7氏

「武田冠者の説」
注 義清の「武田冠者」は常陸武田郷であるとする説(源氏検証説)があります。
これは藤原秀郷一門と血縁をした陸奥小田氏が藤原秀郷一門の赴任先の甲斐の武田郷に同行して勢力を高めて土豪武田氏を築いた後(1000)に、一部は秀郷一門の領地の常陸にも移動して(1050)室町期には「関東屋形」と呼ばれるまでに勢力を持ちました。この移動時に元の甲斐の武田の地名を採って常陸に武田郷を造り上げた事を捉えて、常陸の「武田冠者」(1100)としているものです。
しかし、義清の「武田冠者」と子供清光の甲斐「逸見冠者」もあり甲斐の「武田冠者」の説もあります。
常陸の武田、甲斐の武田どちらを採るかに依ります。
本当の所は手の付けられない乱暴者であって、父義光(義家弟)から常陸の管理を任すとの大義名分の理由を付けて常陸に移された程の人物に「冠者」が付くのは疑問でもあり、まして常陸の行状が悪くて罪人配流となった者に「武田冠者」が付くのかと云う疑問もあります。
この土地は藤原秀郷一門361氏の主要な土地柄なのです。まして、この国一帯の秀郷一門の頼朝に合力した結城朝光を始めとして末裔で占めていますから、鎌倉時代には「本領安堵策」で息を吹き返している事に成ります。この平安時代末期前後の条件を考慮されていない説ではと観ています。
つまり、源氏から観た武田氏、藤原氏と青木氏から観た武田氏の違いにより、その対象と成った史料の違いと信頼度の差に依ると考えます。
本文は元より「藤原検証説」に従っていますが、これら「源氏検証説」は、前節でも述べましたが、他の賜姓4家4流と藤原秀郷一門には見られない甲斐武田一族の「特有の体質」で、一条氏の呼称等に観られる様に「甲斐武田氏」の家柄を良く見せようとする後からの偏纂であろうと考えられます。むしろ、甲斐武田での成功に依って附帯した「冠者」であると観ています。

徳川幕府編集の史料が多い事から、徳川氏は源氏末裔(搾取偏纂で朝廷と揉めたは有名に事件 朝臣族)と名乗って「征夷大将軍」に成っていますから都合良く偏纂したと見られます。
従って、「源氏検証説」は義清らの行状を悪く書いていない特長を持っています。
この「体質源」は、「氏家制度」の中で、清和源氏の「河内源氏の傍流」であり、「配流氏末裔」であるとする「劣等感」から来るものと観られ、それに裏打ちされる「頑張り意識」「100年の遍歴」では無いかと考えます。

そこで比較対象として、この時、これに対して一方では、鎌倉幕府樹立で失職離散した武蔵国の「青木氏」(第2の宗家)を始めとして藤原秀郷一門が生き延びたのには3つの理由があります。

「鎌倉期の生き延び説」
1つは「2足の草鞋策」(大豪商 「地の利」「元職の利」「武力の利」)に出た事
2つは藤原宗家の朝光が地元の鎌倉幕府樹立に合力協力した事
3つは頼朝による2度の「本領安堵策」と「平家没官僚策」で域を吹き返した事

これを評価されて直ぐ第一次の関東領が本領安堵されて(結城の下総と上総と常陸結城等)一部が戻されて息ついた事と、そして第2次で関西各地の藤原一門の土地を少し遅れて「本領安堵」と成った事、この2つの事で宗家の基盤が確立して、後に藤原秀郷一門と藤原秀郷流青木氏と共に、その「武力」と「経済力」で勢力を戻します。
この「3つの戦略」の差で、源氏と武田氏系は潰されましたが、一方では5家5流の賜姓青木氏と全国各地の藤原秀郷一門は大きく末裔を遺す事が出来たのです。

この様に武田氏と藤原氏とではその返り咲きの過程が異なります。
しかし、子孫を全く潰されていたとする説に対して、その潰された一条系、清和源氏分家支流の武田氏系青木氏(3氏6家)の一つ(花菱紋の本家筋(時光系)の末裔)が、今回の研究で現存する事等が判り疑問の解消が出来たのです。
(通常、皇族賜姓青木氏は特別な場合を除き「丸付き紋」を使わないのが決まりですが、この花菱紋の分家筋と見なされる「丸付き花菱紋」の分家筋も、「系譜添書」の分析から、今回その存在の確認は取れています。原則外の丸付き紋になった理由も確認出来ました。)(上記系譜参照)

家紋的に観ると3氏の武田菱紋、武田割菱紋、武田花菱紋、と、他3つの分家支流分派の武田氏系青木氏の「変紋菱紋」(武田菱紋の一部を変える)の6家青木氏があります。

1 「武田菱紋」と「割菱紋」は「源光系」で甲斐賜姓青木氏(青木氏主流の源光系)です。
2 1の「割菱紋」から出た「割菱紋副紋葉菱紋」の本家と「花菱紋」及び「丸に花菱紋」の別家は「時光系」で「皇族青木氏」です。

「家紋、系譜、添書」から観ると1から2を発祥させたことを意味します。これが源光系青木説の理由です。

源光系青木氏は賜姓系ですので、その存在は守護王として居ますので政庁の「国府」に起因します。
そこで、この甲斐の「国府」を調べますと次ぎの様な経緯を持っているのです。
普通は、何処でも「国府」は政庁ですので混乱を招く為に移動させませんが、甲斐は何度も移動すると云う敬意を持っているのです。それだけに甲斐の賜姓族の史実は元より史料も整わないのです。

尚、甲斐の「皇族賜姓青木氏」の守護王時代の国府は、次ぎの通りです。

1 7世紀末に現在の「山梨県笛吹市春日居町寺本付近」に「寺院」を建てて「国府」が置いていたことが判っています。
この付近に「皇族賜姓甲斐の青木氏の村」があった事が判っています。
更に、この付近に「甲斐賜姓青木氏守護神」の「甲斐奈神社」も置いていたとされています。
この事はつい先日(09-4)に予測されていた所から7世紀末の古代国府の「古代寺院跡」が発見されました。

2 この後、清和源氏の頼光、その後、頼信系6代目信義の子の忠頼の頃前に、守護青木氏に代わって守護代と成った頃(1185年頃)に「八代郡」に国府と氏神の「甲斐奈神社」を移したと見られています。

賜姓甲斐青木氏と武田菱紋と割菱紋の2武田氏系青木氏(源光系)より勢力が強かった観られ、忠頼等に依って菱紋武田氏が移動させた事に成ります。
そして、その後、常光寺も変名した事に成ります。

その証拠として、次ぎの事柄が挙げられます。
1 甲斐武田氏一条忠頼が頼朝に謀殺された時(1184)に「国府城」に居住していた事、
2 その直ぐ後にここを弟の時宗が一蓮寺の尼寺とした事
等が記されています。

この時(国府城が尼寺になると国府はなくなります)に移動させた原因として、衰退する中で一族間で何かあったと推測して研究していますが、原因はまだ見つかりません。同族親族間争いがあった可能性が否定できません。
ただ、上記した様に「甲斐皇族賜姓青木氏」の村で「国府」であろうとされるところが先日発見されました。これで「移動説」はっきりしましたので、後はその理由(時光系の勢力説)と成ります。

つまり、「国府の移動」はその「勢力の変化」と移動を意味しますので「国府の移動」は重要に成ります。
まとめると次のように成ります。
「国府移動」は3度で厳密には勝頼の事件を含めると4度と成ります。

「国府所在地」
平安初期 山梨県笛吹市春日居町寺本 市庁南横(09.4確認)(皇族賜姓青木氏定住跡 770)
平安後期 山代郡甲府国衛に移した。(武田氏発祥第1衰退期 後1185)
室町初期 甲斐の国国衛在「八代郡」国衛(笛吹市御坂国衛 信満没 武田氏第2衰退期 後1420)
室町末期 武田勝頼は韮崎市に新府城を建設。(武田氏第3衰退期 滅亡前 信定時代1575 )
江戸初期 甲府城 武田氏系柳沢氏(吉保)甲斐三郡の領主に成る (1688)
江戸初期 柳沢氏 奈良郡山に移封 (吉保、吉里 花菱紋継承)
江戸初期 武田宗家の氏(信満) 免罪となり八代郡500石に戻る。(信満 割菱紋柳沢を発祥)

「国府」と「国府寺」と氏神の「甲斐奈神社」が移動しています。
「国衛」とは「国府」を意味します。
「山代」は八代との説もあり。
以上が武田氏の衰退復興の政治的経緯です。

[ステイタス仏像の存在]
この皇族賜姓青木氏には象徴3物の「生仏像様」が在ります。その経緯は次ぎの通りです。
後漢の阿多倍王に率いられた渡来人の第1段階の帰化人技能団の司馬氏で、日本に最初に仏教を伝えた「司馬達等」という人物が居ました。
馬の鞍を作る職人集団の首魁でした。その集団を鞍造部と云いますが、又、仏教も伝えて信望していましたので仏像も彫りました。
多くの渡来人を含む日本人は好んでこの配下に入り学びました。その司馬達等の孫が「鞍造部止利」です。奈良時代の日本の国宝は彼の作です。この仏師「鞍造部止利」が天智天皇の命で作りました。
作家の司馬遼太郎氏はその子孫です。
この時代の書籍は日本書紀しかありませんが、韓国に「日本世紀」という書物が見つかりました。
そこには、天皇と朝廷が毎日行った仔細な行事や出来事を「日本書紀」よりも日記帳的に詳しく書かれています。そのものが発見されました。
遺したのは韓国より政治指導に来日していた天皇の相談役の人物です。
其処にも詳しく書かれているのです。
当然、賜物仏像の事は(筆者)賜姓伊勢青木氏の宗家の記録でも遺していたのですが、祖父の代の明治35年の伊勢松阪の大火で消失してしまいました。新たに祖父が記した忘備禄にも書き遺されています。小さい頃より口伝として、「由来事項」や「生仏像様」の事は安全な所に保管して伝わっていた事を当時の事を知る祖父から聞き及んでいます。

ただ、その他の賜姓青木氏4氏に仏像等の物を与えた記録は確認出来ていませんが、書物より、次ぎの様な事が書かれています。
一つは多くの平安中期から末期の書物から観ると未だ家紋が一般化していませんでした。しかし、「真人族」や「朝臣族」や「宿禰族」等にその身分を表す「象徴紋」の使用を許したと記されています。
この時から、「40程度」の有力各氏は挙って正式に「象徴紋(家紋化)」として使用し発展して行ったと観られます。
公家や皇族賜姓族や高位の身分を与えられた氏(日本書紀に記載されている豪族)がこれを用いていて、ですからこの身分の氏には後に目的に合わした紋(象徴紋、車紋、旗印、陣紋等)が3つくらい持つように成っています。
其の他、賜物で遺らないものとして、反物とか当時貴重なものを与えたと記録されています。
日本書紀には身分、家位、官位、職位などの位を与えた際には、賜物は絹などや中国の宝石(田嚢:ダイヤモンドより数倍もする貴重宝石)や中国珍物を与えています。
実は賜姓伊勢青木氏宗家にもこの与えられたと観られる田嚢(美嚢の一種)があるところに保管されていますので、この様な経緯から直接天皇より賜姓のあった4氏4家の青木氏宗家には何がしかの賜物が伝わっていると思います。
「田嚢」は極めて希少価値であり、当時としては天皇家一族しかもてないものでした。現在でもより難しい宝物です。持つ事そのものがステイタスに成りきれない程の超貴重物なのです。
伊勢と、近江、美濃、甲斐の賜姓青木氏とは江戸期初期ころまで付き合いがあった事が記録から認められますので、この伊勢青木氏に与えられた「生仏像様」で少なくとも3つの青木氏とその一族が衆参していた事が覗えます。

平安初期には甲斐賜姓青木氏宗家とは伊勢賜姓青木氏の始祖施基皇子の子供ですので親族として付き合いがこの「生仏像様」との衆参であったと考えます。この様な背景から少なくとも源光系の賜姓青木氏には何がしかの賜物があったと考えられ、兄時光にもあったと考えるのが普通ではないでしょうか。
因みに、清和源氏の第6位皇子の経基王は天皇からなかなか賜姓してもらえずやきもきしていることが遺された文書で判っていまして、賜姓を受けた時にはそれは飛び上がらんばかりの喜び様であったと記されています。それだけの賜姓に重みがあったという事でしょう。
ですから、光仁天皇も何がしかの物を甲斐賜姓族に与え、それを兄弟の時光の皇族青木氏にも伝授してし与えている事が考えられます。
時光系に賜物を与えていなくても弟の源光一族に見習ってそれに相当する一族を象徴するステイタスを準備したと考えます。

美濃は伊勢の隣り合わせで伊勢青木氏の員弁と桑名付近まで伊勢青木氏の国境に定住しています。
現在も青木村を形成して集中して住んでいます。ですから、この「生仏像様」との関わりは少なからずあった筈です。問題は甲斐です。
「嵯峨期の詔」に基いて名乗った皇族青木氏(時光系青木氏)には「仏像」なるものが天皇の賜物として与えられたかは判りませんが、何がしかのステイタスとして祭祀されていた事が口伝で明治期まで判っています。
この仏像らしき物は明治の「廃仏毀釈」令により、それが保管されていたその一族の菩提寺(浄土宗源空寺)が廃寺に成り、現在まで記録遺品関係が不明と成っています。
(賜物であるかは他の皇族青木氏には記録が無い事から疑問)
これ等が発見されると、この甲斐皇族青木氏で花菱紋の時光系青木氏の研究が更に進むと期待しているのです。恐らくはこの口伝経緯からステイタスは適切な処に現存すると見ています。
それは、武田氏滅亡で徳川氏に仕官して中部から最終関東方面に移動しましたので、その移動過程の添っていると考えられます。

源時光と源源光との青木氏のルーツの違いをはっきりさせる事でもこれらの人物(花菱紋の一族)は大切です。更に甲斐の国府、守護神、定住村、菩提寺、韮崎市、笛吹市、花菱紋、武田3氏6家、藤原氏との関係など甲斐の青木氏に関する事柄を史実として一つにまとめることもこの掲示板の大事な仕事です。
その意味で、甲斐にこれ等を物語る記録遺品関係が少ない無い中で、それに代って武田氏には諏訪族青木氏を含む「諏訪族赤兜軍団」を始めとして、「花菱紋」の青木氏を含む「武川衆12騎家臣集団」等も重要な要素であり考察する必要が出てきます。
先ず、これ等を分析する事で武田氏の中での花菱紋の位置付けが判ります。

先ず「花菱紋」の「丸付き紋」の件に付いては以下の通りの事柄を論じてきました。
武川衆青木尾張守主計、
氏神に保管の仏像と氏神の神紋の花菱紋、
甲斐の花菱紋のステイタスの仏像、
廃仏毀釈と源空寺、
柳沢氏と灯篭と青木氏
以上5検証等を研究して論じてきました。
これ等の事を念頭に次ぎの事を網羅すれば綜合的に読み取れると観られます。

次ぎは花菱紋の母体と成る[武川衆12騎家臣団]です。
この母体を探る事で花菱紋の青木氏の在様が観えて来ます。
その武川衆12騎家臣団は次ぎの通りです。

[武川衆12騎家臣団]
馬場氏、柳沢氏、折居氏、折井氏、山寺氏、横手氏、入戸野氏、山高氏、白須氏、横根氏、牧原氏、青木氏

(1騎とは足軽約50人従えた将で当時の責任範囲の基準とされ、兵50人を養えるだけの石高と戦いの際の行動単位と成った。これ以外に戦いのレベルに応じて要求され、この際は地元「農兵」を雇兵とした)

武田氏には家臣団の一つとして以上の武川衆の家臣団(600)が構成されていました。
この家臣団に青木氏(柳沢氏含む)は加えられています。
武田氏には、他には大別すると次ぎのように成ります。

「武田家臣団」
「御親類衆」、「譜代家老衆」、「他国衆」、「水軍衆」、「近習衆」、「譜代国衆」、「国衆」
以上の7衆に分けられます。

この武田系青木氏(花菱紋)が所属するのは「国衆」の中の武川衆です。
この「国衆」は次ぎの通りです。
「武川衆」、「津金衆」、「御嶽衆」、「九一色衆」、「西湖衆」
以上の5衆で構成されています。

参考として諏訪族や真田衆は「他国衆」に属します。

以上の事が武田氏系青木氏(花菱紋)の武田氏の中での位置付けです。

これを観て皆さんは疑問を感じたのでは無いでしょうか。
時光系でありながら「御親類衆」では無いのです。まして、青木氏が所属する「武川衆」は「譜代国衆」でもないのです。さすが「他国衆」では無い事は判りますが、これで「武川衆」の武田氏の中での位置付けが良く判ります。つまり、「普通の甲斐の土豪集団」として扱われている事に成ります。
何か、違和感を感じます。家臣団として最も低く更にはその中の一つです。

時光系からは武田氏の跡目に入った者もいる位です。とすると、まさか時光の時代から「国衆」で合った事に成るのか疑問です。
時光は信義から6代目で甲斐守で甲斐国主の時信の子供です。明らかに武田氏の直系子孫です。
「御親類衆」の上の「直系子孫」であるとすると、何処でこの様な扱いに成ったのか解き明かす必要があります。扱いを下げられる何か大きな事件があった事を示唆しています。

それが次ぎの様な事が引き金の一つに成っている可能性があります。
1 一条氏を名乗った事
2 青木氏を名乗った事
3 何度も中興開山した事
4 花菱紋に変紋した事
5 柳沢青木氏の発祥させた事
6 別家を興した事
7 柳沢氏発祥させた事
8 宗派争いをした事
9 信定と正定豊定らの争い事
10 養子系が続いた事
11 妾子一族である事

系譜を中心に史料と添書を考察して、この様な事に成る”どこかに「節目」に成る所が在るのか”を探す事が必要です。その中で最も「国衆」に成る「節目」(上記1-10)を発見する事と成ります。
これ等を洗い出した結果次の4つに成ります。

考察
A 時光2代目の常光が真言宗常光寺として中興開基した事
甲斐の3氏6家の青木氏の菩提寺として建立したものが常光が他氏の2氏を排除して中興開山してしまった事が引き金に成って「御親類衆」から外されて「国衆」に組み込まれてしまった。
(b、c、d)
B 時光から11代後までは常光寺に祭られている事
時光から11代の信安までは常光時に墓所を設けて割菱紋の氏として遺しているが、この10代には「系譜や添書や史料」から「事件性」のものは見当たらないのです。
(b、c)
C 11代目に落合氏から養子(信生)が入った事
割菱紋の分家を発祥させて武田氏の家臣落合氏から養子(時信が育てる)に入れて跡目を起てた。
この為に養子先の血筋分家と成った事から譜代ではなく通常の家臣で構成する「国衆」に組み込まれた。
(a、b、c、)
D 割菱紋から14代目で別家花菱紋を発祥させて分離した事(3と同時期)
信定が家臣高尾氏から養子信之を迎えて柳沢郡青木氏を、実子三男豊勝に分家割菱紋跡目(12代からの分家)を継がせ、実子嫡男を別家青木氏花菱紋を発祥させ、実子豊定には新家の柳沢氏の花菱紋を発祥させた親子での争いが起きたので血縁性も低くなった事もあり「国衆」に組み込まれた。
(a、b、c、d)

11代信生は武田の信虎(勝頼)に仕え、13代信正は信虎と信玄に仕え、14代信定は信玄と勝頼に仕え、15代正定は勝頼に仕えた。そして、1575年織田信長に負け、1582年滅亡する。
この期間までの「節目事件」が問題と成ります。

先ず、「御親類衆」から「国衆」に下げられるには次ぎの事が上げられます。
第1番目はa「血縁の低下」
第2番目はb「家柄の低下」
第3番目はc「名誉の低下」
第4番目はd「主家との争い」
以上4条件と考えられます。
(4条件を上記AからDに割り振りました。)

考察
上記AからDまでに条件を当てると、Dが最も可能性が高く、Cと続きます。
Dは勝頼の時代で起こった事で、その母方諏訪族が武田氏の中で勢力を占めていました。その様な立場からも、Dは更に有力です。
直接の原因はDの時に起こったと見られ、その背景はAとCの一族が大いに乱れていた時期が根拠に成っていて、採決する「御親類衆」「譜代家老衆」が最早当然と考えたのではないかと思われます。
つまり、「国衆」の中の一つ「武川衆」に組み込まれた時期が12代目(信正)-13代目(信定)-14代目(正定)の1期間(信玄ー勝頼)と成ります。
この時期は武田氏の48戦中、勝頼の2度の大戦があった最も戦いの多かった時期でもあり、軍編成上で変化を付けられたと考えられます。

確定するには問題は武川衆が何時ごろから発祥したのかと云う疑問です。
武川衆の発祥期は定かでは有りませんが、「1567年」に「武田信豊」に提出した「起請文」に一族名を列ねて「武川衆」と出て来るのが確認されている中では最初です。
この1567年前には史料より「武川筋」と呼称されていて、「西郡路から諏訪口」を云います。
信親-信時、信正-信定の時はまだ正式には武川衆とはなっていません。
「国境警備軍団的な土豪集団」として扱われていました。

「武川衆」の最終は徳川氏に仕官(1582)後、1590年に「武州鉢形」に「代替地」を設けられます。従って、1567-1582年まで(正定や豊定の時代)は、正式に「武川衆」と呼称されていた15年期間です。
それまでは、「武川筋」は最も古い時期としては1542年の桑原築城の文書に”武川筋は板垣信形の配下に入れる”と記されているので、1542年から1567年までの25年間が「武川筋」と呼称されていた事に成ります。

「武川筋」 1542-1567年 25年間
「武川衆」 1567-1582年 15年間

「武川筋」の当時は、広域的には「武川筋」と呼称し、むしろ「武河衆」又は「六河衆」と呼ばれていたのです。それが1567年以後は「武川衆」に変わった事に成ります。

信玄から勝頼までの期間では動向が史料から現在も不明です。
しかし、「長篠の役」(1575)13代目信定の時より6年前と成ります。
直接原因のD説に一致します。

しかし、一説では「甲斐国志」では「直参」と記されています。
この問題を解決する必要があります。

「直参青木氏の検証」(甲斐国志)
「武川衆」とは「国境辺境地域の土豪」で、武田氏に組み込まれてからは「国境警備」を任務としていた事が書かれています。
「国衆」の津金、御嶽、九一色、西湖の地名の土豪は国境域にあります。
「武川衆」は「北巨摩郡」の国境域です。
ここに定住していた前編の巨摩郡青木氏と云う事に成ります。
「北」の巨摩郡青木氏(現北杜市)は14代目正定の別家花菱紋(正定-正重-)の定住地です。
依って、「八代郡」に居た分家割菱紋青木氏(豊勝-・-・昌輝-)は含まれて無いと考えられますので、この武田氏割菱紋系の11代目養子信生系(信虎期)の本家割菱紋青木氏と他2氏(国衛、八代、甲府)が「甲斐国志」に記されている「直参青木氏」である事に成ります。
「甲斐国志」の説も正しいことを意味しますが、青木氏は3氏6家あるのですから、どれが「直参衆」かを明記すべきであったと考えます。ただ、3氏6家の青木氏がある事を承知していなかった文面です。(殆どの史料は判別できていない。)
「直参青木氏」は本家割菱紋(葉菱紋)青木氏(信安系)と分家割菱紋青木氏(信生系)
「武川衆青木氏」は別家花菱紋青木氏(別家柳沢氏含む)

豊定の柳沢氏も起請文(1567)には「国衆」に組み込まれた事が記されていますが、武川衆12騎の中には有りません。これは信生系青木氏から豊定の柳沢氏が発祥したばかりで引き入る一族も無い訳ですので小さい氏(50人以下)として兄の正定の「別家青木氏花菱紋族」の中に組み込まれたのでは無いかと見られます。

「柳沢郡青木氏の扱い」
そして、柳沢郡青木氏に付いては記されていない処を見ると、丁度、1567年頃に安芸国に移動した事から記されていないのです。これは添書と一致します。この養子続きの柳沢郡青木氏の移動時期(1567)とも一致します。
この時、起請文を武田信豊にわざわざ提出する事を行っているところを観ると、織田氏との戦いに向けて大掛かりな軍編成があり、其処にはこの高尾氏の子「信之」が「信定」の養子と成り柳沢郡青木氏を発祥させたばかりでもあり、「豊定」の柳沢氏発祥と同じ扱いを受けたのではと観られます。
しかし、「信之」の場合は義父信定が強引に進めた跡目側でもあり、別家を興さざるを得なかった正定と新たに柳沢氏を起こさなくては成らなくなった豊定側からすると、血縁のない信之を正定側は豊定の柳沢氏のような扱いで正定の隊に入れて行動を共にしたくない相手でもあります。
信之は実家高尾氏の「和泉守」を名乗っている事があります事から、正定は無冠であり余計に関係が上手く行かなかった事と見られます。
恐らくは、実家高尾氏の「和泉守」(標準四騎)である事から、少なくとも信之は一族一騎(50人)を以って「一騎合衆」(寄合衆)に加えられた事も考えられます。
結果として、これを不満としてか義母の実家先の安芸の毛利家家臣の桜井安芸守を紹介してもらい家臣を引き連れて移動したことに成ります。
上記した様に、「甲斐の武田氏」は衰退し、一時1330年代に安芸守守護として信光の「安芸の武田氏」に勢力が移っていた時期があります。
この末裔桜井氏が毛利氏の家臣となっていたところを頼った事を意味します。

信定は尾張守を称していた事から4ー5騎程度の兵を有していたことが考えられ、「武川衆」に組み込まれた事から一部は正定と豊定に宛がわれ、残りは信生系の三男豊勝の本家が有していたと観られます。(最終は正定の子供昌輝が跡を引き継ぎ、武川衆の中では全騎が正定の配下と成った)

信定(尾張守)-信之(和泉守)-豊勝と正定-豊定の軋轢の背景には、織田軍との戦いを前にして前編の「路線争い」と「宗派争い」の他に、添書の”終わりに臨して養子と成る”(織田軍との戦いに討死覚悟で養子にする)を憶測すると、「信之」の実家の兵(4-5騎)を期待したのではないでしょうか。
武田氏に対して「信生系」の青木氏の尾張守としての立場を意識したと考えられます。
そうすると、この考え方で行けば、曹洞宗改宗は多くは曹洞宗信者の多い農兵を集める一つの手段であった事にも成ります。
(建前は”曹洞宗の海秀玄岱商人に信心した”と成っているが裏にはこの目的があった事に成る)
つまり、織田氏との戦いを前にして、「戦況不利」で兵が集まらない状況に落ち至っていたことを示すものと成ります。上部からの命令で信定の一門は躍起と成っていた事を物語ります。
その証拠に、次ぎの様な事で証明できます。

武田氏主力軍の「他国衆」の編成は次ぎの通りです。
1 信濃先方衆
2 西上野衆
3 駿河先方衆
4 遠江、三河先方衆
5 飛騨先方衆
6 越中先方衆
7 成蔵先方衆
8 駿河、三河、信濃、上野一騎合衆
以上8衆です。

これでも判る様に、3と4と8は織田軍(徳川軍)に最早抑えられています。兵力は不足しています。更に、「他国衆」のみならず、「譜代国衆」も離反、謀反が相次いで起こり始めていた時期です。最終、戦い直前では国境を護る「国衆」の武川衆も離反したのです。
見逃しては成らないこの背景もあった事が考えられます。

何れにしても、「御親類衆」でなく北巨摩郡の別家花菱紋は「国衆」の武川筋の国境を護る衆に下げられた事は事実です。

注 巨摩郡は南北に分けられている。花菱紋の正定の別家を興したときには北に移動したことを意味します。豊勝の割菱紋側が南に留まったが断絶し、結局、正定の子昌輝が跡を継いだ事から南北は統一された事に成ります。
(1590年 徳川氏仕官後、正定花菱紋一族は武州鉢形の代替地に強制移住させられた。)

前編で記した家臣落合氏の子信生を養子にし嫁を迎えての系図であり血縁性が無く成った事は否めません。「信定」(1573討死)は肩書きが「尾張守」であった事を配慮すると、「長篠の役」6年前の1567年頃に「軍制編成会議」で子供の正定の別家が「国衆」に組み込まれ起請文を提出した事に成ります。

それらの事情も背景の上に「正定と信定との親子争い」はこの様な事に繋がっているのです。
これで「宗派争い」と「路線争い」と「身分家柄の低下」と「本家の跡目」問題が重なって起こり天地が変わる程の大変な争いであった事を意味します。
其処に武田氏の急激な衰退が起こりつつある中での事です。今で云えば、正定の青木氏は”左遷で格下げで窓際族で肩書き無しで給与ダウンで免職瀬戸際”と云うところでしょう。
普通では耐えられない環境です。一つ間違えば武田氏系青木氏滅亡も有り得た環境です。
結局、1582年の武田氏滅亡後に徳川氏に下級家臣として扱われ250石程度で仕官した事が逆に武川衆の青木氏の「命拾い」に成った事に成ります。その事で決着が着き氏は持ち堪えたのです。

「柳沢吉保」の出世で武田氏系が復興するまでの期間(1582-1688=106)と明治までの徳川譜代家臣団として期間(1688-1866=178)あわせて約300年存続出来たのです。

特筆する事は、「花菱紋の丸付き紋の青木氏」も添書で観ると、少し遅れて1582年武田氏滅亡後3年後に仕官し、以後、徳川氏に代々大番役で禄米200俵ながらも叶えられて存続したのです。
貧困に喘いでいた元親族の柳沢郡青木氏(後に丸付き紋に成る)も安芸で功を成し、それからその財を以って帰国(1584年頃)し曹洞宗常光寺の建て直しなどを行った事に成ります。その期間に帰国6年も遅れての事から300年の存続を成し得たと考えられます。
武田氏系青木氏は豊定系柳沢氏(花菱紋)が丁度よい時期(1688)に立身出世したお陰で丸付き紋までの武田氏系青木氏一族をも救出した事を証明しています。

この様に調べると、時光系から青木氏の発祥経緯に始まり、一条氏などの上記した「引金条件」の様な事が14代目まで続き、異質の一族家系の乱れが後世の子孫に大きな原因と成っていたことが判ります。(これらの事は前編で既に記述していますがより深く改めてここでも記録しておきます)

「丸付き紋の花菱紋」
この様な背景にある花菱紋ですが、そこで無い筈の「丸付き紋」に付いて、更に詳しく「丸付き紋」経緯の件で考察します。
この花菱紋の「丸付き紋」が更に又一族に問題を引き起こすのです。

賜姓青木氏5家5流と11家11流の賜姓源氏の綜紋の「笹竜胆紋」は慣習(歴史的な家柄、身分)から「丸付き紋」等を一切原則的に使用しませんでした。
同様に藤原秀郷一門も「下がり藤紋」の綜紋は「丸付き紋」を使用していません。
藤原秀郷流の青木氏は末裔が116氏に及ぶ為に副紋方式(藤紋の中に副紋を入れる方式)を採用しました。
(配流孫等によりその証拠が確認できる特別な場合は慣用的に「丸付き紋」を用いた。殆ど丸付き紋は未勘氏と第3氏です。)
これは、当時の「氏家制度」の慣習から、”「家柄」「身分」「純血」を護る事”を前提としていた事によります。
つまり、「丸付き紋」を使用しないのは多くの血縁外の氏が使用して仕舞う為に「血縁外青木氏」の拡がりを防いだのです。嵯峨期の「青木氏使用禁令の詔」を護ったのです。
この2氏のこの原則は明治3年まで3つの期間を除き原則長く守られました。

3つの期間とは次ぎの通りです。
「室町末期」 下克上、戦国時代の混乱期に、氏姓の持たない農兵や下級武士がその中に力のある者は武士として立身出世して氏姓を与えられ、又自ら主人の氏名を搾取して名乗った。

「江戸初期」 ある程度安定期に入り、「兵農分離令」で農兵の武士化が起こり、又末端の下級武士等が旗本、御家人等に成ると、自らの氏姓や家紋を改めてよく見せる為、又出世に必要とする為に家柄身分の良い氏姓を搾取して名乗った。

「明治初期」 維新革命の3年の苗字令やその8年の督促令に基づき、九割近い国民は苗字を持つ事に成ったが、近隣に居た身分家柄の良い氏姓を自由、無秩序に名乗り、それに伴なって家紋や系譜も搾取して名乗った。
以上の3混乱期です。
これ等は未勘氏や第3氏と云います。

そこで、「氏家制度」の代表的な「社会慣例」は、当初は特定の氏の「象徴紋」としての家紋でしたが、次第に氏姓に代るくらいの意味合いを持つ様に成りました。そして、其処に社会の中で規則が生まれ統一した使用方法が確立したのです。増加、拡大した氏のその紋に依って氏の家柄、身分等を判別できるシステムが発展し、「家紋」を中心とした「氏家制度の充実」が起こりました。
そこで、先ず、夫々の氏の紋、即ち「家紋」と云うものに対しての位置付けを改めて先に「家紋掟」の概容を取りまとめてみます(レポート済み)それは「家紋掟」にあります。

「家紋掟」
本来、丸付き紋の目的は、青木サイトとして「家紋掟の古原本」より筆者なりにまとめますと、「氏家制度」の「家紋掟」により細かく分けるとすると、7-8つ程度の役目があります。
(本来は6つの掟)
1 宗家、本家、分家、支流、分流、分派の区別
2 嗣子と妾子分類
3 宗家の許可
4 配流子孫の区別
5 男系跡目の継承
6 養子縁組
7 嫡子尊厳
8 身分家柄の保全
これ等は「氏家制度」と「封建社会」の維持を理路整然として堅持する事を目的としていました。

ただ、これ等の事が江戸末期から次第に守られなく成りました。
当時の封建社会の社会慣習の緩みが原因です。
明治に入り、明治3年の「苗字令」と8年の「督促令」でかなり緩やかに成りました。これにより国民が無秩序に皆氏名を持つ事でその必要性が薄らいだのです。
昭和に入り全く護られなくなりました。むしろ、「家紋」の有無もある事すら衆知されていないことです。家紋は存在しながらも「家紋掟」どころではありません。

そこでまず、項目事に説明し考察します。
1番目は「純血」を前提とするので血縁も「吊りあい:身分合わせ」を採り厳密に云うと同族(同属)血縁関係を維持していたのです。

奈良期-平安期頃までは当時の習慣として同族血縁でした。奈良期では5親等族間での血縁でした。
その後、同属と少し緩やかな血縁と変化しました。日本書紀の記録では姪を妻とする事を正式に行っています。
(この純血遵守の慣習の弊害を除く為に、2つの方法を採用しました。
1 「妻の制度」を4つに分けていました。(身分により階級は異なる)
2 戦いや視察などを目的で各地に移動して「戦地妻」の仕来りに従いました。

この奈良期と平安期の時代には、血縁の大きな変化が無い為に家紋は全く同じものを使用しました。
同じ家紋同士の血縁と成りますので、この慣習が続いた為に「丸付き紋」を使用する慣習の必要がなかったのです。それが家紋が急激に多くなった鎌倉期まで続いたのです。
この鎌倉期ごろから氏の爆発的拡大が起こり、夫々の氏は家紋を持つ様に成り始めましたので、家紋を持てる上級の武士と貴族は1番目の方式(宗家、本家、分家、支流、分流、分派の区別)を採用して家紋を変える事をしました。
特に藤原北家一門は子孫末裔を大きく広げましたので区別する為にこの方式を代表として使用しました。

1番目に付いて、各氏によって違いますが、原則として末裔子孫が大きく拡大するにつれて、次ぎの様に変化して行きました。
家紋を認めるのは氏家制度ですので、夫々の枝葉末孫(ツリー)の本家筋が使用の許可を宗家(本家)に出しました。
本家筋は、「同紋採用」の方式と、家紋の「一部変化」させる方式と、もう一つの紋を付ける「副紋」を使う方式を採用しました。
但し、皇族賜姓青木氏、藤原秀郷一門、武田氏系はもとより武田氏系青木氏の宗家筋一門の綜紋は丸付き紋を使用しませんでした。
分家筋は「丸付き紋」にする方式と、「裏紋」にする方式にしました。
支流分派筋は家紋を変化させる「類似変紋」の方式にしました。

2番目(嗣子と妾子分類)は男系跡目を作る為、近親婚の弊害を避ける為に、妾方式を正式慣習として認められていました。大まかに分類すると次のように成ります。
上級では4階級(后、妃 賓 妥女)
中級では3階級(妃 賓 妥女)
下級では2階級(妻 妥女)

注 「賓」は使用字は賓の左に女辺が付き「ひめ」と呼ぶ。妥女(うねめ)は妾である。
そこで、正妻に男系が出来れば同紋の採用、嫡子外は本家筋方式(綜紋)に、妾子は分家方式に、嫡子が出来なければ妾子に同紋採用、嫡子外は分家方式にしました。

3番目(宗家の許可)は、夫々の本家がその家紋の使用の仕方を命じます。本家の宗家がその使用の仕方に異議があれば指摘し、従わない時は破門か武力で取り潰しでした。かなり強い決定権を持っていました。つまり、1、2番の規定方式外に宗家本家のチェック機構が働いていたのです。最も上は「総宗本家」と云います。このシステムで決めていた事に成ります。

4番目(配流子孫の区別)は配流子ですが、戦いで又は罪を得て島流しに遭った者に現地で子孫が生まれた場合です。
普通、その子供に嫡子である事を認知確認出来れば、妾子と成りますので2番目の方式を採用します。殆どは、配流ですので丸付き紋に成ります。認知外は原則別紋です。

「未勘氏」は確認出来ない何らかな根拠がある場合はこの「認知外」です。
「第3氏」は根拠無しで認知外(第3混乱期)です。「未勘氏」と「第3氏」は判定は困難です。
ただし、歴史的に史実が取れれば、原則丸付き紋と成ります。
(真人族、朝臣族、特別宿禰族に対する処置が多かった)
「配流」でなくても、正式に「戦地妻」の習慣がありましたので、認知、認知外の方式を採用する事に成ります。つまり、この未勘氏が殆どこれに当ります。
「戦地妻」は正式な慣習行為として認められていましたが、源氏や平家や藤原氏や橘氏や鈴木氏等の有力な豪族が自らの子孫を拡げ”いざ戦い”の時には、その子孫の一族郎党が駆けつけて自軍勢力を拡大する戦略です。又「戦地妻」の子孫が生まれればこの旗頭の配下に入り身の安全は護れると云う相互互恵の考えがあったのです。
(一族に”娘が居なければ妻を出す”という事も常識の範囲として平然と行われました)
最も有名なものとして頼朝の坂東八平氏軍を頼らず、強行突破して平家を2度も打ち破った「義経軍」(1万2千)の手勢はこれから来ているのです。
(義経自身は行わず、鈴木三郎、亀井六郎、駿河次郎、伊勢三郎等の戦地妻族です)
北条氏は摂津にどしどしと終結してくるこの「義経1万2千の手勢軍」に対して計算外で合ったことが記録されています。これ等に対して義経自身も摂津から河内、紀州、伊勢に掛けて説得して周り自ら兵を集めたとする記録が遺されています。
それほどにこの「戦地妻」方式が氏家制度の中で汎用化していたのです。
それだけに、この義経の「人的魅力、指揮能力、軍略、軍の有様」が怖かった背景と成ります。

5番目「男系跡目の継承」ですが、男子が正妻子、妾子の何れにも嫡子が出来なかった場合の娘の場合は養子婿を採ります。
この場合は、養子婿に嫡子が出来れば自家の家紋採用です。
妾子嫡子の場合は本家に伺いを申し立てます。原則そのままですが、本家との関係が悪ければ丸付き紋を命じられます。
嫡子が出来なければこの間養子婿先の家紋採用と成ります。或いは丸付き紋の許可を本家に求めます。更に娘がいて養子婿を採る場合は、嫡子が出来れば元の家紋に戻す事に成ります。
つまり、男系跡目が出来た事に成ります。

6番目の「養子縁組」ですが、5番に続いて、嫡子が出来なければ2代続きで女系に成りましたので、以後その最初の養子婿先の家紋採用と成ります。
子供ができない場合は、他氏から養子縁組をする事に成りますが、この時、原則家紋を引き継ぎますが、男系は切れていますので、1番の何れかの方式に成ります。通常、丸付き紋か変紋です。
ですから、家紋が変わるので、極力縁続き(分家、支流、分派、遠縁、縁者)の男子を必死に探し出して迎える事をします。普通この場合が多いのです。この場合は家紋はそのままで繋げます。
例として、実は花菱紋青木氏は正定から4代目信知に嫡子無く3女子であって、青木宗頼の次男を養子婿として迎えて跡目を継いでいます。
(享保の跡の寛保元年没 宗頼は縁者になし 上記系譜参照 末尾記述)

後に異議が出た「信之」の柳沢郡青木氏の場合は、”全く他人を養子に迎えて嫁を採り養子に子が無く、跡目として更に養子先母方の親族から探し出して養子を迎えて嫁を採り子が出来たが早世して、更に他人を養子に迎えて嫁を採り”と次ぎから次ぎへと繰り返している家系図ですが、花菱紋の家紋を変えなかったので正定系子孫から異議が出たものです。結局、原則使用しない事に成っている「丸付き紋」に成ったのです。

7番目の嫡子尊厳ですが、嫡子とは「後継ぎ」の事ですが、長男とは限りません。
最も跡目に相応しい人物と云う事に成りますので、男子が居ても6番の方式で探します。
普通は3親等範囲では問題はありません。跡目に成らなかった場合はその男子は1-5の方式を採用しますが、家紋は主に本家の許可を求めます。普通は1番の方式で処理します。
長男方式の習慣に成ったのは江戸初期からです。徳川家康が”長男を後継ぎとせよ”とした事が始まりです。それまでは「生残り」の為に長男とは限らず優れた者が嫡子の跡目に成ります。
自分の家に男子が居てもきわめて優れた者が親族縁者(原則3親等内だけれど文武にたけた人物が居る場合は)に居れば廃嫡して養子として迎えて跡目に入ります。但し、この場合は名家、豪族以上と限定されます。一族末裔郎党の存続に大きく左右する様な事とが無ければここまではしません。
この場合は、廃嫡子は親族縁者か他家に養子に出すか、僧侶にするか、家臣にするかの選択が必要と成ります。宗家が本家に対して注文を突きつけるなどをする事もあり、氏家制度の中では戦国時代はこの状況が頻繁に行われました。
正定(別家北巨摩郡青木氏)と豊定(別家柳沢氏)は、父信定との軋轢から信之(柳沢郡青木氏 准嫡子)と豊勝(本家巨摩郡青木氏-割菱紋 嫡子)に本筋青木氏を奪われてしまった為に、実質廃嫡に成った事から夫々別家を興したので割菱紋は使えません。
又信之の様に職位が無かった事もあり、そこで本文の事件では花菱紋に変紋した事に成ります。

8番目の身分家柄の尊厳ですが、「氏家制度」の社会の中では、極力「吊り合い」を採る血縁です。
下の家柄身分の血縁は極力避ける事に成りますので、普通は6番の方式(養子縁組-縁者)で逃げますので家紋はそのままです。場合によっては虚偽の遠縁を作り出し跡目に据えると云う事が横行しました。
定信と豊定は廃嫡になり家柄身分の継承が成り立つ分家では無く、「別家」(甲斐北国境の辺境地 北巨摩郡)を興していますので、信生の養子系(嫁採り)である為に血筋も無くなり、家柄身分も当然に無くなります。依って、親子争いだけでは無く氏家制度の「家紋掟」から観ても「国衆」に下げられた事に成ります。
信生の場合は、割菱紋から養子として分家を興している事に成りますので家柄身分は維持されます。
信之(嫁採り)の場合は、信定の采地巨摩郡(南)の青木氏(豊勝)対してもう一つの采地柳沢郡にも青木氏を興して分家扱いとした為に、それなりの家柄身分(和泉守の含めて)は維持されたと観られます。ただ養子続き(嫁採り)である事が問題と成ったのです。

注 氏家制度には、養子には「養子婿入り」(女系)と「養子嫁採り」(他人)があります。
注 「養子婿入り」には「遠縁養子」は家紋が変化しない。「他氏養子」は変紋義務が伴います。

[第3氏と未勘氏の存在と判別]
氏家制度の下では、家柄を良く見せると云う事が風潮として社会全体にありました。その為には立身出世した者は、下から上への血縁では、”上の潰れた分家等の家を探し出してそこに一族の者を入れて跡目を立てて名乗る”と云う事が頻繁に起こったのです。無ければ強引に造り出す事もしましたが、「戦地妻」と違い根拠の無い多くの「未勘氏」とされる氏はこの方式です。
滅亡した源氏などの氏が何故こんなに多いのか不思議です。こんなに多いのであれば滅亡ではないでは無いか、又滅亡する事は無いだろうと思う位です。
それは、拡大に伴なう「氏家制度の弊害」と云えるもので、「情報社会の発達」の初期の課程で起こる現象です。

一人が搾取偏纂するが、次ぎの様なことが起こります。
1 それに異議を唱えるだけの情報が無い事、
2 自らも搾取偏纂の同じ立場にある事、
3 情報網が未熟である事、
4 武力で戦う以外に中止させられる罰則が無い事、
5 期間を経るとそれが既成事実として歴史になる事、
6 元の氏末裔は死滅で異議を唱える者が無くなる事、
7 社会全体が搾取を暗黙で認めている事、

この様な経緯から源氏、青木氏、藤原氏の身分家柄を獲得するのにはこの8番目の方式を利用したのです。
この場合、有名な事件が大変多いのです。当然、家紋掟では家紋は異なる事に成りますが、同紋を使われた宗家本家との間で戦いが起こりました。
青木氏では、秀吉の立会いの前で、近江の青木氏の宗家と滋賀の分家残留組の断絶家を使われた為に
戦うと云う事件(250人が出陣した)が起こりました。近江の宗家本家の青木氏が負けました。(近江青木氏が一時滋賀に移動して再び近江に戻り後に摂津に定住するが、滋賀残留組が断絶した)
滋賀に多い青木氏は勝った方の青木氏です。
(この勝利した者は元は伊賀南部上山郷の農民出身の上山一族でそこからは多々良姓青木氏が出ている位で歴史が既成化したのです。
近江佐々木氏系(天智天皇第7位皇子の川島皇子が始祖)青木氏と、滋賀佐々木氏系(宇多天皇系)青木氏とは異なります。
(共に皇族で家紋笹竜胆で判別は通名と土地と系譜で判別が出来るが専門的で困難と観られる)

賜姓源氏と賜姓青木氏は綜紋は次ぎの通りです。
「笹竜胆紋」、
藤原秀郷一門は次ぎの通りです。
「下がり藤紋」
武田氏は武田菱紋です。
以上が綜紋です。

武田氏の様に直系の源氏を名乗っているのに家紋が笹竜胆紋でないのは「支流傍流氏」か「未勘氏」です。
賜姓源氏は11家の内で最終3家しか残らず、最終その3氏も滅亡して遺していません。特定の5氏に跡目策を採り遺しましたがこの5氏を除き絶滅しています。
笹竜胆紋からの他紋への変紋が慣習上は全く無く、他紋で名乗っているのは九割九分はこの未勘氏です。又、笹竜胆紋なのに青木氏と佐々木氏(他1氏)でない氏は未勘氏です。
(丸付き紋は特定の配流氏のみ使用)
何れも綜紋を引き継げるのは宗家か本家筋の一門だけです。
清和源氏を名乗る「未勘氏」は数える事が出来ないほどに多いのです。もしこれだけ源氏が多ければ潰れてはいません。この意味するところは家柄を良く見せると云う風潮です。
特にこの甲斐の国はその傾向と未勘氏が多いのには特別の感じがします。
笹竜胆紋は綜紋(一族一門の代表紋)ですから、宗家、本家筋が引き継ぐものですから、分家支流分派でありながら笹竜胆紋とするのは家紋掟の慣習を無視した「第3氏」か「未勘氏」です。

例えば、「藤原氏」を直接名乗る氏がありますが、藤原氏は地名官位官職を「藤」の前につけて名乗る事に成っています。藤原氏を名乗れるのは武蔵国入間の宗家だけです。しかし、直接藤原氏を名乗っている氏が如何に多いかです
同様に、「下がり藤紋」を家紋としている氏も大変多いのです。これも藤原秀郷主要5氏と2氏合わせて7氏の本家筋と宗家筋だけですがこれも大変多いのです。。”全て”と云っても「第3氏」で当るでしょう。
しかし、上記した伊勢伊賀地方の南の上山郷から出た上山氏の青木氏には、家柄を獲得した為に結果として10以上の守護、国司等の高官を勤めた氏ですので、最早第3氏ではありません。歴史伝統を証拠つける全ての条件が整っているのです。
滋賀残留組の近江賜姓青木氏、近江佐々木系青木氏、滋賀佐々木系青木氏の判別がつかなく成っています。既に分流族もありこの一族(元上山氏)から出た多々良姓青木氏もあるくらいです。
混乱期第1期(室町期)の青木氏に限り4ー5の元上山氏の青木氏の様な「第三青木氏」があります。
明確に史実として遺されている氏として、関西では2氏、中部では1氏、関東では2氏があります。これを筆者は「第三青木氏」と呼称しています。
問題はこの「第三青木氏」には宗派が浄土衆では無い事なのです。
恐らく室町期の浄土宗側の入信戒律が厳しいものがあった事から来ていると観られます。
浄土宗は、氏自ら実費で専属の氏寺、菩提寺として建立し、一族の者から住職を選び、許可して本山で養成していた事から特定以外の他氏は財力があるとしても許可が得られなかったのです。
賜姓青木氏と秀郷流青木氏は宗派は浄土宗です。これは分派まで同じです。
この様な理由から青木氏を名乗りながら浄土宗とは違うのは「第3氏」か「未勘氏」と成るのです。

この様に浄土宗は高位の身分の氏だけが入信できる宗派でした。と云うよりは、一族で自寺を建てて菩提寺として、一族の者から住職を作り寺を一族で浄土宗寺を運営していたのです。
ですから、室町期の上記の第三氏青木氏は知恩院、清水寺などの総本山からの派遣の僧侶の無い事、仮に浄土宗の菩提寺を建立する経済的な勢力が在ったとしても浄土宗総本山からの異議が出来て場合によっては戦いになる事も起こるのです。多分、宗教活動が出来ない事に成ります。
現在でも浄土宗は総本山から管理される運営システムです。勝手には出来ません。

これ等の2氏が下克上と戦国時代で衰退しましたので、浄土宗寺菩提寺を単独で維持できなくなり潰れて行くことが多発しました。そこで、江戸初期からは中級武士が入信させる「浄土宗督奨令」を出しました。
江戸初期からは総本山から管理され補助されながらも浄土宗寺は中級以上武士の「檀家衆」で寺を運営する様に成りました。この「檀家衆」は未勘氏を含む藤原氏系、平家系、源氏系、橘氏系、皇族賜姓青木氏系29氏等の流を持つ氏から成り立っていました。
この様に浄土宗には歴史的な経緯があるのです。
この歴史的経緯で以って、2つの青木氏も定住地が特定されていますので、宗派と特定先と違う土地の青木氏は「第3氏」か「未勘氏」と判定できるのです。
(明治期前の昔は「国抜け」で移動定住は許可なしにはできなかった。無宿者と成る)

他には、菩提寺の有無、過去帳の有無、過去帳の一番古い人、仏壇形式、氏神の有無、村の有無、伝統品の有無、本家分家の有無と判別が出来ます。
実際、2つの青木氏より第3の青木氏と未勘氏の方が数倍多いのです。
「第3氏」と「未勘氏」はこれ等の条件が一致しないのです。
特に、絶滅した源氏を名乗る氏は未勘氏が殆どです。
中には、九州地方と中国地方西域に源氏そのものの氏名で「源」氏を名乗る者がいます。
多分、これはこの地域に上陸した中国と韓国から渡来した「源」さんの末裔なのでしょう。
例えば、山口県に多い武部氏や武田氏は中国からの渡来人です。
(安芸には甲斐武田氏の末裔が定住 安芸武田氏)
毛利氏家臣で有名な毛利元就が取り立てた中国人の武氏がいましたが、この人物は後に武田、武部を名乗りました。中国地方特に西域に多い武田氏の多くはこの末裔です。甲斐の武田氏とは中国系で別です。
この様に、特に、この家紋掟から見て、史実と照らし合わせると、家紋はそれを見抜く事が出来る代表的な条件です。
特に、2つの青木氏関係の家紋は史実と照らし合わせ、又「家紋掟」から割り出して判っていますので、丸付き紋の有り無しが疑問に成るのです。
室町末期、江戸初期、明治初期の第3氏を含む未勘氏は、この2つの青木氏(源氏含む)の条件に一致しないのです。
皇族賜姓青木氏、皇族青木氏、藤原秀郷流青木氏等は「丸付き紋」は当時の氏家制度の社会の中で身分家柄(純血 下の身分家柄との血縁は原則しない慣習)の保持の為に丸付き紋は使用していないのです。
「丸付き」は”本来本流では無い事”を意味する手段として用いたもので、「象徴紋」から「氏の家紋」に変化して行った平安末期では「分家」などに用いられたものです。その意味が拡大解釈されて血縁が無くても”違うや仮”を意味する記号として変化して行きました。
それが「下克上」に依って「分家」や「支流」「分流」「分派」が本家に変わるなどの現象が起こった事から何時しかデザインの一つとして用いられる様に成ったのです。
特に、養子などによる変紋の「仮」の意味合いは昭和初期まで使用され一般に認識されていました。

そこで、問題に成るが、武田氏系青木氏3氏6家の一つの時光系の花菱紋に「丸付き紋」が史実に照らして存在するのかが研究課題なのです。第3氏か未勘氏の判別です。
では、この「丸付き紋」は「家紋掟」1番のどれに当るのかと云う疑問も出来ます。
それには花菱紋の氏には要件が一致していますが、その花菱紋の分家筋と見られる上記の条件の「土地」と「家紋」を除いて、他の要件に一致するかの研究が必要となります。

研究を進めると、「武田菱紋」の「系譜と添書と史料」を基に調べると、次ぎの事柄が発見されました。
この上記した武田氏が滅んだ天正3年の頃、毛利元就に仕官した甲斐花菱紋青木氏で柳沢郡青木村の者がこの「丸付き紋」を後にある事件で使用した事が系譜、添書で発見されました。
つまり、「丸に花菱紋」の武田氏系の皇族青木氏の存在が「第3氏」「未勘氏」でない事とその経緯が発見されました。
「花菱紋青木氏」では、氏神社、柳沢氏、仏像、尾張守、官職主計と、花菱紋、時光系、韮崎市の常光寺、丸付き紋なし、源空寺、吉田氏住職、巨摩郡青木村、柳沢氏が史実と完全一致しています。
ですので、理解を深めて頂き正しく判断して頂く為に「氏家制度」で用いられた上記「家紋掟」を今回詳しく紹介して検証しました。

「丸に花菱紋」は正定系の花菱紋末裔から全く血縁性が無い事を理由に異議申し立てがあり、協議の結果、信生-信正-信定-信之の系譜はそのままに、家紋の花菱紋を「丸付き紋」とする事を前提に妥協したのです。そして、これ等のことを系譜とその末尾に一文を入れる事で解決したと添書にあります。
花菱紋の系譜の「信生-信正-信定-正定」の系譜と丸に花菱紋の「信生-信正-信定-信之」の系譜は、後刻、寛政の頃(1800)信正にて添書き等を含む修正編集が加えられていますが、信之側の系譜には異系である事を誇張する故意的な編集が観られます。これはこの協議の時に成されたものか信政に依って成されたものかは確定できません。
問題は寛政時代の信政が信之側の系譜に携わることが出来たのかは不明です。
協議の時期も定かではありませんが、曹洞宗常光寺が丸に花菱紋に成っている処を考察すると武田氏滅亡後の信之(2代目襲名 元忠)の常光寺再興期頃(1585年頃)である事が考えられます。
何れの氏も徳川氏に仕官して3年くらいの時期ですので、多少の落ち着きが出た処と観られます。
この二つの氏がどの様にしてコンタクト出来たかも確定は出来ませんが、添書より次ぎの事が判ります。

正定側は”家康に仕える 旗本 采地250-450石、代々大番に列す”とあります。
信之側は”家康家臣本多佐渡守に仕える 禄200俵 代々大番に列す”とあります。
仕官初期の頃(1585年)であれば本多氏は家康側近である事から家康陣内で合う事は充分に可能と成ります。この頃はまだ武州鉢形に移動していません。時系列的に一致します。
依って、上記系譜は寛政期の信政の修正編集では無い事がほぼ裏付けられます。

ここで、もう一つ疑問があります。
それは、「信生」です。
「信生」は武田氏家臣落合常陸守信資の三男で、信時の養子となり、幼少の頃より養われるとあり、「信安」と義兄弟です。
「信安」は常光寺の最後の11代目として祭祀された人物で時光系本家割菱紋 葉菱紋の本家を継承している人物です
「信正」と「信定」より系譜上で上に来ています。
本来であれば、「信正-信定-信生-正定」と成る筈です。
この事に付いて後編で論じます。

さて、次ぎは「青木尾張守主計」の件ですが、史実を披露しますと次ぎの様に成ります。
清和源氏末裔の青木十郎時光から12代目に尾張守青木主計頭信正がいました。
この人物が花菱紋青木氏の祖祖父です。皇族青木氏の時光系青木氏その末裔と云う事に成ります。
この「信正」は官職は尾張守で、俗名は「与兵衛」と云います。法名は「深見」と云います。
「..兵衛」は賜姓青木氏の宮殿親衛隊の官位から特別につける共通名「..兵衛」なのです。
これは、元は天皇を護衛する近衛兵親衛隊で、宮殿の3つの門を護る官職名で2つの青木氏に天皇から与えられた永代使用を認められた共通通名です。だから、「..兵衛」(門を守る兵)なのです。
「北面武士」として有名ですが、これが青木氏なのです。(右衛門、左衛門も青木氏の通名です)
この「通名」でその「系列」を判別するように成っています。
(後に金品を朝廷に渡す事で得られる名誉官位、官職と成りました 天皇家の経済的根拠)

因みに、「与兵衛」の通名を使っている人物は次ぎの通りです。
割菱紋青木氏本家(義虎系)
信種(嫡子)の子の信親
信時(信親の子)の子の信安
信安の子の信就
信就、信幸、信峯の子の信祐
信祐の子の信任

割菱紋青木氏分家(義虎系)
義虎の子の信正(妾子:信種弟)
以上6人です。

注 信種は信正と同人物との説もある。
注 信種は信定と同人物との説もある。
注 信親は信立と同人物との説もある。
注 信親は信定と同人物との説もある。
注 信時は信定と同人物との説もある。
注 信立は系譜上正式に存在しない。

「尾張守」を名乗った者は次ぎの通りです。
始祖時光は甲斐守
時光系割菱紋の本家
A 時光-常光の子の「信連」
B 信連の子の「貞義」
C 貞義-義遠の子の「安遠」
D 安遠-嘉虎の子の「信種」
E 信種の子の「信親」*
F 信親の子の「信時」*
時光系割菱紋の分家
G 義虎の子の「信正」*
H 信正の子の「信定」
以上8人です。

注 信正と信種は兄弟で同時期に尾張守である。
注 信定と信親は従兄弟で同時期に尾張守である。
注 信定と信時で武田氏は滅ぶ。

以上の「通名」と「尾張守」からの疑問点が浮かび上がります。
1 通名「与兵衛」が付く事は本流本家筋を意味する。しかし、信正だけは分家である。
2 官職名「尾張守」は本来は本流本家筋が引き継ぐ事となるが、しかし、信正とその子の信定が引き継いでいる。つまり、本流本家の信種と信正は「尾張守」が重複している。(疑問)
3 更に、本流本家の信種には「与兵衛」の通名が無いが、分家の信正(妾子)には通名がある。
4 本流本家の信親と分家の信定は「尾張守」が重複している。(疑問)
5 本流本家でありながら信時は「尾張守」だが「通名」が無い。
6 分家でありながら信定は「尾張守」だが「通名」が無い。
7 重複人物説の疑問がある。

以上を複合的見地から解明しなくてはならない事柄です。
これらの事は長文を要する為に後編で論じます。

次ぎに、「主計」は名では有りませんで、「朝廷の職位」です。
かなりの上の身分で事務の中の経理に相当する役職で「頭」が付いている為にその長である事を意味します。斎蔵(藤原氏 摂関家)の所属です。
本来の呼称は、「青木尾張守主計頭与兵衛信正」と成ります。
この青木氏は先ず「割菱紋と副紋葉菱紋」から「割菱紋」に変わり「花菱紋」と成り、後に武田氏「武川衆12騎」に成った事は確認出来ました。

発祥地は「割菱紋」は「甲斐国南巨摩郡青木村(南)」です。
後に発祥する正定の「花菱紋」は「甲斐北巨摩郡青木村(北)」です。

信正は武田信虎に仕えます。その後、子供信定は信玄、勝頼に仕えますが、天正3年長篠の役で討死します。法名は宗青です。
その子供豊定は家康に仕えます。法名玄栄。大番役500石 別家の柳沢氏を発祥させます。
豊定と共に別家を興した兄正定はこの跡を継ぎ花菱紋青木氏を発祥させます。

この2代目豊勝(正定の弟)が信正の主家を引き継ぎ、形式上正定の子供とします。
そして、3代目豊信のところで後継ぎなしで絶えます。
しかし、弟豊勝に主家を譲り、別家を興した分家となる正定の子供の昌輝が継承します。
13代目信定の嫡子であったが別家を興した正定-正重-信久(途中略)以降の代々末裔は徳川旗本として栄えています。(上記系譜参照)
これが正定からの花菱紋系譜です。
(徳川氏により仕官3年後に武州鉢形に強制移動させられる)
ところが、この14代目正定の次男の15代昌輝は大井家に養子になりましたが、後に実家の青木氏が豊信で絶えましたので、昌輝の嫡子に大井氏を引き継がせて後、自分昌輝は子供次男正寛を引き連れて断絶の豊信の割菱紋青木氏主家の継ぐ事に成ります。
(信定系割菱紋は結局、別家の正定の花菱紋系列に吸収される)

まとめますと、信生11ー信正12-信定13と続いた割菱紋より分家した青木氏は次ぎの様に分流します。
時光系青木氏の系列
A 信安系本家割菱 副紋葉菱紋 青木氏(本流)

B 信生系分家割菱紋 青木氏の4流
1 豊勝系(南巨摩郡青木氏 主家 割菱紋)
2 信之系(柳沢郡青木氏 別家 跡目養子 割菱紋-花菱紋-丸に花菱紋)
3 正定系(北巨摩郡青木氏 別家 花菱紋)
4 豊定系(柳沢郡柳沢氏 別家 花菱紋)

注 最終 1及び3は合流
注 柳沢氏は割菱紋 副紋葉菱紋柳沢氏、花菱紋柳沢氏 4つ割花菱紋 割菱紋の4流がある。

3の別家を興した為に家紋は「家紋掟」にてこの時点で「割菱紋」から「花菱紋」になります。
豊勝の主家は最終は正定系の系譜と成ります。(途中略)
以上が花菱紋青木氏の4家の系譜略です。

問題は元となる系譜の位置付けです。
1「信生」-「信正」-「信定」系列の「信生」の問題、
2「信正」の出生(信種)と尾張守重複の問題
3「信定」の出生(信親)と尾張守重複の問題
4「信立」の問題(花菱紋柳沢氏の系譜)
5「正定」の系譜の位置付け問題(信安、信生に列するのか)

前提と成っている上記系譜の為には元の系譜上の疑問を解決する事が必要です。(後編記述)
そこで、その前に先ず5の問題の「正定」末裔の系譜を確認する必要があります。

「正定の子供」
正定の子供がどの様に成っているかを検証します。
末裔が「丸付き紋の花菱紋」の可能性もある事から、「正定の子供」の研究は4つの系譜を付き合わせた結果、次ぎの通り解決しました。以下の通りです。

(正定は本来は嫡男で長男であった)
A 豊勝(割菱紋青木氏 主家 正定の弟で養子と成る)
B 正重(花菱紋青木家 別家)
C 昌輝(大井氏-青木氏)
D 忠世(犬塚氏)
E 元宣(木村氏)
F 大震(初宋友 松源寺住職)
以上6人です。

1 豊勝は兄正定に代わり父の割菱紋本家を継承し、3代目豊信に嫡子なしで4代目断絶、後に割菱紋から花菱紋に変わる。(13代目信定は割菱紋を継承したが子の3男豊勝がこれを継ぐ)
2 長男正重が別家花菱紋を継承する。
(正定は長男であるが、弟に本家を譲り、自分は花菱紋の別家を興す。)
3 次男昌輝は大井氏に養子後戻り、実家断絶の割菱紋主家を継承し、大井氏は昌輝の嫡男に譲り、昌輝次男正寛が主家青木氏の跡を継ぎ花菱紋に戻し継承する。
(大井氏は信玄の妻の実家先)

花菱紋青木氏は、別家と、割菱紋から花菱紋にかわった主家との2家に成ります。
後の子供は他家への養子となります。
これで正常に継承していますので家紋掟からの変紋を含めて正定系列の「丸付き紋」の可能性は消えました。

さて、次ぎは丸付き紋と柳沢氏との事ですが、信正の子信定で先祖を同じくしています。
正定の弟豊定が別家を興して花菱紋柳沢氏を発祥させ元祖と成ります。
家紋も兄と共に花菱紋の同紋を引き継ぎます。(柳沢氏の4系譜4家紋は上記検証済み)
柳沢氏の丸付き紋の可能性は家紋掟から観ても消えています。(信立の問題含む 後編)

[花菱紋の丸付き紋の原因]
この柳沢郡青木村が存在しますが、この青木村から青木氏が出ている事が判っています。
この柳沢郡青木氏派どの様な系譜であるのかを検証する必要があります。
次ぎの2つの問題を解決する必要が出ました。

この柳沢郡の青木氏は一体誰なのかの疑問があります。
その前にこの青木村から「丸に花菱紋」が出た経緯がこれも疑問です
この二つをまず研究しました。

本来は、花菱紋を初めとする武田氏6家紋には丸付き紋は有りません。
武田氏は清和源氏系(朝臣族 皇族系)である為に原則使用しません。
「丸に花菱紋」は「家紋200選」及び「全国家紋8000書類」にも掲載されていません。
しかし、「丸に花菱紋」が史料の中で存在し重要な歴史史実が存在します。
つまり、検証の方向はこの「丸に花菱紋」が「第3氏」又は「未勘氏」であるのかどうかの検証と成ります。
これはどう云う事を意味しているのかも研究が必要です。
そこで、系譜と添書や他の資料を細かく調査すると出てきました。

「系譜添書の内容」
甲斐青木氏の系譜には甲斐の「青木和泉守」なるものが居ます。
この甲斐の青木和泉守の子孫系譜には、次ぎの様なことが書かれています。

1 甲斐青木和泉守は柳沢郡青木村の青木氏の出自である。
2 義母実家安芸の桜井安芸守を頼る。(信光の安芸武田氏との関係)
3 和泉守の時に芸州の毛利元就に仕える。(1567)
4 同国尾引城に処している。
5 再び輝元公から再び元亀4年1月20日(1573)に和泉守に任じられた。
6 その後、和泉守は尼子氏との合戦に参加する。出雲国にて討死する。
7 墓は芸州吉田には無い。
8 更に、跡目を継承した次男志摩守與三は天正5年6月23日(1577)輝元公に従い四国に渡り讃州元吉城の合戦で討死する。
9 尚、志摩守與三の兄青木助兵衛元忠(二代目)の時、長州三田尻に移っている。その後、甲斐に戻る。(1582年頃)
 
以上とあります。

柳沢郡青木氏の系譜によると次ぎの様に成ります。
注 この系譜は巨摩郡青木氏の系譜と対比すると、丁度100年全てずれています。
(編集者の寛政の頃の信政による系譜編集時の故意的行為と観られる。)

青木尾張守信正は添書は次ぎの様に成ります。
割菱紋  副紋は葉菱紋
正保4年12月跡目継承(1647年となり史実の1547年で一致)と成っています。
信正は与兵衛以外に幼名三十郎 清左衛門の名も記されている。信虎に仕える。

信正の子信定(藤九郎 主計頭) 信玄、勝頼に仕える。
信定は明暦3年12月家督継ぐ(1657年となり史実1557年で一致)と成っています。

「巨摩郡青木氏添書」
巨摩郡青木氏の系譜によると次ぎの様に成ります。
信定は天正3年5月(1576)長篠の役に討死 法名宋青 妻は桜井安芸守の娘。(史実)
主計頭 常光寺を曹洞宗に改宗した人物である。花菱紋の正定の父である。
以上添書にあります。

この信正の子は実子正定(巨摩郡青木氏花菱紋)と豊定(柳沢郡柳沢氏花菱紋)が居るが「第3の子」なる者(養子信之)が居て上記の通り「柳沢郡青木氏」を継いでいる事になります。
安芸は信正の妻(義母)の実家先である。
(安芸守護の信光末裔武田氏 甲斐の新守護信元の前までは安芸の武田氏の勢力が中心 信光は頼朝に謀殺された人物忠頼の兄に当る。信光は安芸守 忠頼は甲斐守)
この者が武田氏滅亡前(1567頃)に義母の実家桜井安芸守を頼り赴いた事を意味します。
では、この者(第3の子)は一体誰なのか(疑問)です。

「柳沢郡青木氏添書」
柳沢郡青木氏系譜によると次ぎの様に成ります。
結論から先に述べると、”信定の終わりに臨み養子と成る”と添書にある本人で、高尾伝九郎久治の三男伝助 この母は多田次郎右衛門昌繁の女と書かれている者の「信之」と成ります。

添書を検証しますと次ぎの様に成ります
和泉守の時代は元亀から天正前半にかけての人物となります。(1570-1576)
この期間で毛利に繋がる人物は信定の妻の実家桜井安芸守である。
安芸は毛利家の国である。
この時代は毛利元就、輝元である。
この信正の子供(第3の子の存在)か又は関係者となる。
そこで、信正の子供を探すと4つの系譜から次のように出て来る。

「信正の子供」
正定(花菱紋、巨摩郡青木氏)、
豊勝(割菱紋、巨摩郡青木氏 正定の養子に成る 正定の子昌輝が継承)
豊定(花菱紋、柳沢氏)、
信之(割菱紋継承後に花菱紋、柳沢郡青木氏の養子)
「信之」なる人物が出る。この人物はどのような人物かを調べました。

「信之の継承経緯」
上記の通りこの「信之」は”高尾伝九郎久治の三男 信定(討死)の終わり臨み養子となる。”とある。
この者(信之)が柳沢郡の青木氏を継承した事に成ります。
それ以前に柳沢郡青木氏が発祥している史実はありません。
そして、長篠の役1575年武田氏敗北の前に何らかの事件か理由(後述)が起こり義母の実家の桜井安芸守(毛利氏の家臣)を頼り安芸守の配下として働いた。

何らかの理由とは上記に記述した様に織田軍との決戦の為に開かれた「軍編成会議」で国境警備の「国衆」に正定と豊定と共に組み込まれたが、その際に提出した「起請文」の中には無い事から正定隊に柳沢氏と同様に組み込まれた可能性があり、それを不満として信光系安芸武田氏のいる安芸に移動したと観られます。

其処での安芸での経過は以上の通りです。
この「信之」討死後、この柳沢郡青木氏筋の跡目は「信茂」と記されています。
この「信茂」で”多田新八郎昌興の三男久三郎が青木氏(柳沢郡)の養子に入る。”とあります。
多田新八郎昌興とは「右衛門」の肩書きが無い所をみると、「信之」の実母の実家先多田次郎右衛門昌繁の子供(母方叔父の子 従兄弟)であると観られます。
安芸にて「信之」本人と子度次男「与蔵」が討死した事から、甲斐では母方から跡目を入れた事を意味します。

この「信茂」の跡目時期に付いては記されていないので、安芸での別の毛利氏(柳沢郡青木氏)の記録を調べると次ぎの様に成ります。

「安芸(毛利氏)柳沢郡青木氏の記録」
安芸に赴いた”「信之」の次男志摩守「与蔵」は討死後、安芸当地で長男(兄)の青木助兵衛元忠には「2代目」”と特記しています。
その後に、”安芸と周防に墓は無い”とあり、”甲斐に戻る。(1582頃)”とあります。
「信之」の長男「元忠」が戻った時には既に武田氏が滅び、徳川氏の配下に入った時期と成ります。
この「元忠」は本来であれば、「信茂」に代って跡目を採る立場に有ったことが考えられますが、時代性が合いません。
「元忠」は長州三田尻に1577年頃まで居た事よりすでに出国後15年も経っていて「信之」と子嫡子と認められていた次男志摩守「与蔵」もが討死した為に、長男「元忠」は「2代目特記」の意味から「信之」(初代)を現地で襲名(1677 1577)した事になります。
甲斐に帰国後(1582)2年程度経過後、直ぐに”徳川氏に仕官し大番と成る。後に加恩あり200俵の禄(1694 1594)となる”とあります。
更に、それは武田氏滅亡1582年後の徳川氏の仕官は次ぎの4代目「信也」の系譜添書でも理解できます。
「信也」の添書によると「信也」は”久五郎 清左衛門 享保元年(1716 1616)年6歳にて後を継ぐ。享保15年(1730 1630)大番に列する。27歳で死亡”とあります。 
これで、2代目から4代目(元忠-信茂-信也)までの時代差の考証は採れています。

ここで、戻った「信之」の長男元忠2代目襲名は本来柳沢郡青木氏に戻りますが、時代差考証から観ると上記添書から現地で2代目襲名した事に成ります。
この時代差から考察すると、元忠が帰国し仕官した時(1582-1594の前半)に祖母方親族より「養子信茂」(跡目養子)を迎えたことに成ります。
つまり柳沢郡青木氏は多田氏からの養子「信茂」3代目が引き継いでいる事に成ります。

この毛利氏の記録によると2代目元忠から10代目までの記録は無く10代目以降は明確に成っています。
武田氏の記録とこの二つの記録を付き合わせると系譜は次ぎの様に成ります。

「武田氏系青木氏と毛利氏の記録系譜」
始祖「信之」1-1代目「与蔵」2-2代目「元忠」(襲名)3-「信茂」4-「信也」5-「信考」6-「信睦」7-「信並」8-「信嬰」9-「住眞」10-「道」11-「健」12-・・

注 「信之」和泉守 「与蔵」志摩守 毛利氏が陶氏を滅ぼした際に泉州と志摩一部を領する
注 弟「与蔵」が跡を継いだが討死 1代目
注 兄「元忠」信之襲名 2代目 甲斐に戻る
注 「信茂」4は母方縁者多田新八郎昌興の三男 跡目養子
注 「信考」6は小野朝右衛門高壽の次男 九歳の婿養子 
注 「信睦」7は「信考」の長男で早世
注 「信並」8は「信考」の三男 久米之丞 母は「信也」の女(叔母)跡目養子
注 「信考」6の次男「高達」は養子元の縁者小野平八郎高品の養子と成る
注 「信嬰」9は安太郎(嬰:えい)
注 「信考」の末裔は現存
 
ここで、甲斐に戻った柳沢郡青木氏の高尾氏から養子「信之」の長男「元忠一族」(信之襲名)の家紋に問題が出ます。
定住地は添書から”甲斐の国に戻る”とあり、一度柳沢郡の青木村に帰ったと推理出来ます。
その後、更に検証を進めると巨摩郡付近に移動している事が2つの事(常光寺再興と常光寺寺紋と丸に花菱紋事件)で理解できます。
多分、元忠の帰参一族の柳沢郡青木氏はこの常光寺に一時停泊したのではと思われます。
最終、武田氏が滅び武田氏系青木氏の時光系一族は徳川氏に下級武士として仕官した為に曹洞宗常光寺を維持する事が出来ずにいたと見られます。
そこで、帰参一族はこの荒廃した菩提寺曹洞宗常光寺の再建に取り掛かった事が、「丸付き紋」の花菱紋に成る切っ掛けに成ったと観るのが、当時の「寺」の持つ役割から普通では無いかと思います。
常光寺は割菱紋から襲名信之の頃から「花菱紋」に、続いて「丸付き紋」に変紋しています。
この史実によると次ぎの様に成ります。

「柳沢氏の発祥と時期」
信定の子の「豊定」がこの柳沢氏を発祥 法名は玄栄です。元は「正定」の所で兄弟です。
「信之」は義兄弟と成ります。
天正3年5月の時です。
系譜からは割り出すと天正の頃(1575)からの親族です。
ここで問題が出ます。
とすると、時代的には「柳沢郡青木村の青木氏」は「柳沢氏発祥」とは同時であった事を示すものと成ります。
そして、「豊定」の柳沢氏は、義弟(養子)「信之」が主家(信定)の意に添い柳沢郡の青木氏を継いだので、止む無くこの地名を採って青木氏を名乗らず柳沢郡の「柳沢氏」を名乗った事に成ります。

以上系譜、添書、史料等から信之の花菱紋(丸付き紋)のルーツは解明されましたので、次ぎは丸付き紋に成った経緯と時期が問題と成ります。

そこで「信之」の長男「元忠」系の柳沢郡青木氏の「花菱紋」が「丸付き紋」に成った事に対して調査の結果、青木氏と柳沢氏の系譜を照合すると末尾の添書に一致する内容が出てきました。

「5つの継承の意味」
この内容には、5つの意味があります。

1 父「信定」が「信之」を柳沢郡青木氏をこの養子に継がせた(発祥させた)。
「正定」の添書を観ると、別家を興して太郎右衛門正満の祖と書かれている事から、長男「正定」は北巨摩郡青木氏の別家を興し、子供「正重」にこの分家を引き継がせた。
そして、南巨摩郡青木氏を三男豊勝に主家を継がせた事に成る。

2 次男豊定は本来は筋目から柳沢郡青木氏を継ぐ事に成るが、養子「信之」の出現で止む無く地名より柳沢氏を発祥させた。

3 父「信定」の長男「正定」と次男「豊定」に対する対応がおかしい。
本来であれば、長男「正定」に本家巨摩郡青木氏を継がせ、三男「豊勝」に分家を継がせ、次男「豊定」には柳沢郡青木氏を継がせる事に成る筈である。

ところが、わざわざ養子「信之」を設けて柳沢郡青木氏を、三男に巨摩郡青木氏主家を継がせる事は長男「正定」と次男「豊定」は排除されたも同然です。
だから、反発した長男「正定」は別家の分家青木氏を興し、次男「豊定」も柳沢に別家柳沢氏を興した事に成ります。
そして、この2人は、兄「正定」は巨摩郡青木村に「浄土宗源空寺」を開山し、弟「豊定」は柳沢郡に「浄土宗光沢寺」を開山せざるを得なかった理由の一つに成ります。
更に家紋を割菱紋から花菱紋に変更を余儀なくされたのです。

参考(「浄土宗源空寺」と「浄土宗松源寺」)
寺については、通説「浄土宗源空寺」に対して「浄土宗松源寺」(正定の5男大震 初宋友 松源寺住職)では無いかとの仮説もあります。
これは、次ぎの様に考察しています。
正定は最終主家の割菱紋と別家の花菱紋とを引き継ぐ事になります。

1 「浄土宗源空寺」は主家の地の南巨摩郡に菩提寺として建立した。
2 「浄土宗松源寺」は別家の地の北巨摩郡に菩提寺として建立した。

2の寺は甲斐の巨摩郡には確認されないのは、徳川氏により武川衆は武州鉢形に代替地を与えられて一族郎党は強制移動させられた為に確認出来ないのです。
北巨摩郡には自分の子供を住職にして寺を建立した事に成ります。

4 父「信定」は常光寺を曹洞宗に改宗した、或いは改宗せざるを得なかった事に対して「正定」と「豊定」が反対をした。そこで父「信定」は対立の見せしめに養子を迎え、三男に本家を継がした事になった。

更には、武川衆の青木氏の採った態度(武田勝頼を見放す事)に対して、「正定」と「豊定」が見放す側に立った事等で父親と対立した事が考えられます。
「正定」と「豊定」の花菱紋の別家は「国衆」の国境辺境地の警備に廻され、「御親類衆」から外されて格下げされた。

5 しかし、結果は、正定が正しかった事が云えます。
巨摩郡青木氏主家も、別家した青木氏分家も、「正定」の末裔が跡を継ぐ結果と成った事を意味します。

柳沢郡の柳沢氏の立身出世と柳沢郡の青木氏の2分裂化と養子化で他人化してしまった事に成ります。血縁の無い他人化した丸付き紋の花菱紋の発祥を招いた事に成ります。
血縁上は第3の青木氏(「寛永青木第三の系図」の歴史書が示す通り)であり、系譜上は柳沢郡青木氏の2流が出来た事を意味します。
(現在も氏家紋書にも乗らない第3氏として扱われる所以です。)

以上歴史史実から考察すると、矢張り、父「信定」は曹洞宗改宗などの暴挙を行い子孫末裔にも大きな禍根を現在までに遺した事に成ります。

「花菱紋の系譜」
正定は別家を興す。小右衛門 太郎右衛門正満の祖
正定は花菱紋北巨摩郡青木氏別家 (正重派 副紋は九曜紋)
正定の次男昌輝青木氏主家継承 (昌輝派 大井氏養子後 割菱紋-花菱紋 副紋は九曜紋 )
豊定は花菱紋柳沢郡柳沢氏本家 勘九郎 勘右衛門  
信之は割菱紋柳沢郡青木氏本家 和泉守-志摩守(花菱紋-丸に花菱紋 信定の養子 高尾氏三男)
信茂は花菱紋柳沢郡青木氏本家(多田氏より柳沢郡本家青木氏養子となる)
信之の長男元忠は柳沢郡青木氏本家(信茂と元忠の本家と重複 花菱紋-丸に花菱紋)
以上徳川氏に仕える。

注 「信之」の実母は多田次郎右衛門昌繁の娘 「信茂」多田新八郎昌興の三男 信之の母と信茂は従兄弟である。信之(元忠襲名)は割菱紋の柳沢郡青木氏を1577年に正式に継ぎ1585年に徳川氏本多家仕官1595年大番役を勤む。

柳沢郡青木氏の「信之」の割菱紋-花菱紋-丸に花菱紋の変紋の経緯は次の様な系譜添書が在ります。

「丸に花菱紋の経緯」
文章1
「寛政系図」の史書には 信正は通称与兵衛といい尾張守と称す。武田信虎に仕う。某年死す。法名深見。とあり、「寛永青木第三の系図」に載する処によると、信種、及び同書柳沢曲渕の譜に見ゆる信定と共に尾張守と称する。法名浄見と云う。
その事跡同じければ、この「信正」疑うらくは同人ならん。

文章2
これ寛永の時呈する処の譜なり。各々の家に伝わる処を誤りとするか、或いは、その名を異にするか、或いは、別人の如くするかは、何れその子孫に至りては、何れ兄、何れ弟たる事を詳細にせず、よりて各々のその見ゆる処を記して後勘に備え識する」と記されています。

「信之」の末裔青木助兵衛元忠が安芸国から甲斐に戻り、柳沢郡の信之系青木氏を継承し、家紋を義父の家紋割菱紋から花菱紋に変え、その後、正定の二つの巨摩郡青木氏の主家方から抗議を受け話し合いにより、花菱紋を「丸付き紋」(以後変紋している)として変える事で妥協した。しかし、「信定の系譜」は譲らなかった。”と成ります。そして、系譜に付いては”後勘に備える”としたのです。
上記の分析からこの特別な2添書で検証された事に成ります。

注 寛政期(1800)本系譜修正編集した信政の父信満は伝五郎 太郎右衛門 石川清右衛門 政辰の4男 母は山本新五左衛門正相の女 信保の終りに臨みて養婿子となる。寛政2年家を継ぐ。大番役に列し、寛政8年に新番に移る。250石 妻は信保の養女 信政は大助 

異議の申し立ての時期は不明ですが、一説では系譜編集に当った花菱紋別家の末裔青木信政の時(寛政10年頃1800年)ではないかとも観られますが、それまでに曹洞宗常光寺が「丸に花菱紋」の寺紋と成っている事から花菱紋を使用する「正定」の別家青木氏と、後に正定の子昌輝継承の主家青木氏と「豊定」の柳沢氏と「信之」の柳沢郡青木氏(当初発祥期は割菱紋)の4氏と成ります。従って、必然的に常光寺の再建とも含めて、血縁の無い「信之」系の青木氏が「丸付き紋」に成る可能性がある事に成りますが、問題は時期と成ります。

上記に検証した通り、1584年(1585年)頃の徳川氏が甲斐を支配し始め仕官を集めた時期で、信之の青木氏が家康の家臣本多氏に仕官し協議出来る時期はこの期間と見られます。この後、本多氏は領国に移動した為に信之一門も移動、正定も武蔵鉢形に移動していますので、家紋のことや系譜の事もまだ新しいこの時期しかありません。

この「信之一族」は、武田氏滅亡後、青木氏離散、間際の曹洞宗改宗等で常光寺の維持管理は困難と成り、荒廃した為に、この寺の再興を図ったとされています。その為にこの常光寺の寺紋は本来の「花菱紋」から結局「丸に花菱紋」に変紋しました事に成ります。(1584年頃)
常光寺を維持管理する者が仕官で各地に移動し始めた為に荒廃したのです。

これも「丸に花菱紋の常光寺」もその証拠と成ります。
つまり、曹洞宗は信定の曹洞宗僧侶に帰依した事により改宗と成っていますが、その3-5年後に起こったこの「丸付き紋の事件」による事も考えられます。

更に検証すると、丸付き紋に成ると云う事には氏家制度の中ではそれなりの事件である必要があります。
次ぎの事が考えられます。
1 花菱紋の「血縁関係」の変化が変わった時
2 菩提寺等が改宗等の「事変関係」が起こった時
3 本家分家の「跡目関係」が変わった時
4 ある程度の「勢力関係」を保持した時

これ等の事が一時期に起こっている時と成ると「信定-正定の時期」と云う事に成ります。

A 菩提寺の真言宗常光寺が曹洞宗常光寺に改宗は「信定」(1575没)が行ったのでその直後の跡目の問題が出た時とすると[1575-1576年頃]。

B 血縁性の無い「信之」一族(元忠襲名 1577)に成る前には協議できないので帰国前の襲名後の周防三田尻の頃[1577-1580年頃]。

C 常光寺に最後頃に祭祀されている人物「信時」は信玄と勝頼に仕え尾張守であったので、「信定」(1575年没)が尾張守であり2人ともに信玄と勝頼(1582没)に仕えた事と、重複して尾張守を名乗ることは出来ないとすると、「信定」が常光寺を曹洞宗に改宗したので、その時期は1567頃年と成ります。

そうすると「信時」の尾張守は1575年に引継ぎ、没年は勝頼時代討死武田他氏滅亡(1582没年)と成ります。「信時」は武川衆と呼ばれたとされている時期(1567)の人物である事に成ります。(武田氏軍編成の起請文(1567)に武川衆が始めて出て来る)
最後の祭祀人物「信安」は(1573跡目)と成り、次の信就の跡目が1606年と成りますので「信安」は(1606没)と成ります。

D 正定の浄土宗源空寺建立と豊定の浄土宗光沢寺建立時期にまだその勢いがある事から信定が没後に正定等の別家を興して花菱紋を定めて信定の没後時期と成ると[1580-1585年頃]

E 長篠の役(1575)から武田氏滅亡時期期間と成ると[1582-1582年頃]

F 徳川氏仕官後では低禄でそんなことに拘っている余裕は無い事から仕官前とすると[1582年後頃]。

以上添書と史料から検証割出しました。
結論はAからFまでを考え合わせると、「丸に花菱紋」に成った時期は1585年前後頃と成ります。この年代であれば時代考証は採れます。

武田氏が滅亡した後に、”武川衆の離散と甲斐青木氏の逃亡が相次ぎ常光寺の荒廃が進んだが、花菱紋の2氏は徳川氏に仕えたとは云え、その生活は貧窮を呈し、この事態を解決できる勢力を最早維持していなかった事。其処にこの柳沢郡青木氏が毛利氏に仕えた事でその裏打ちで和泉守や志摩守などのその財力を持って甲斐に帰ってきた事(1582)。その財力で先祖の常光寺の再興を成した事。
これらを考え合わせると、その為、曹洞宗常光寺(1565-1567改宗)の寺紋を「丸に花菱紋)」に変紋(1584-1585)した”と云う事に成ります。

この柳沢郡青木氏信之派が義母桜井安芸守を頼ったのもこの時武田氏の行く末を推し量り、徳川氏等の勢力に対して何処に味方して生き残れるかを真剣に模索していた事を物語ります。
また、前述した「長篠の戦い」を前(1567)にして軍団編成の処置に対して起請文を提出させられ、扱いを「国衆」に格下げさせられた事も一因と観られます。

一つに偏る事は一族存亡を考えた場合得策ではないとして、当時中国地方を制覇しつつあった毛利氏を一時頼ったのではと考えられます。武田氏の大勢が固まった後(1582年)に甲斐に帰国後は徳川氏(1585年 1594大番役)に仕えたとなります。

その常光寺に付いては、次ぎの視点が起こります。
多少の疑問は養子にして「曹洞宗の常光寺問題」の扱いのこの「役目を担わした」と云う視点です。

1 別家を興すほどに「親子争い」に成っていた関係上、わざわざ信之を養子を迎えて「信定」が命じたものと考えられます。

2 武田氏滅亡後に信之派が曹洞宗常光寺を扱い始めた事に正定派と問題も起した形跡も無くすんなりと進んでいるし、常光寺寺紋も何の問題も無く割菱紋から丸付き紋の花菱紋に変更しているのも不思議です。

3 正定派に執って見れば、最早父親が改宗した曹洞宗であり、別家を興した時に自前の浄土宗寺を建立している事、祭祀している人物は時光系青木氏の割菱紋本家の人物に限られている事などからも信之派に任した事でも頷けます。

4 割菱紋本家の信安派もこの寺に執着していない所を観ると曹洞宗寺となってしまった寺に対して浄土宗を護る本家としての意味合いが無く成った事も考えられます。

しかし、この時、「信安」は、分家の信定が尾張守としての主導権を行使して曹洞宗に改宗していながら、最後の祭祀人物としてこの寺に祭祀されているのです。不思議な疑問点です。
「信安」と「信生」と「正定」と「信之」(元忠)と「豊定」等は同年代です。
自分(信安)を時光系本家の先祖の眠る寺に最後に祭祀する事を条件にして、信之や正定等に対して妥協を求めた事も考えられます。

現に、改宗した人物信定と父の信正はこの寺に祭祀されていない現実があるのです。
又、信安の義弟で信生も系譜上は年代の違う分家の先に死んだ信定の父に成っているのです。

分家が本家の寺を一族の指導者として成っている尾張守を背景に主導権を行使して改宗しているのですから、武田氏滅亡後に同年代の者が揃った短い時期を利用して、戦後処理として、徳川氏に仕官し異動する事の前に、「家紋や寺の事等を含めて一切の何らかな話し合い」が成されなければこれだけの問題は解決する事は無いと考えます。
家紋変紋や常光寺扱いや系譜の添書などの事は一度に解決する事はあり得ないと考えます。

5 その再興のもう一つは、甲斐の国の最大34%を占めるこの時代最も勢力を大きく伸ばした曹洞宗を使った事による事も見られます。(史料 後編)
曹洞宗は農民や下級武士の入信団でありました、この大多数で常光寺を青木氏だけの菩提寺だけのものとせずに開放したと見られます。

故に時光から11代「信安」での墓所と成っているのはこの事が原因と成ります。
武田氏の滅亡寸前で寺を「1氏で運営維持する事が難しく成った事」と「農兵を確保する手段」でもあったのです。つまり、豪農、庄屋、名主、郷士、豪商等の農兵指導者の確保に動いたのです。
この事に「親子の路線争い」が起こり「別家」を興すなどの事が起こったのです。

この様な中で常光寺に「信安11」の祭祀がされている事に疑問が解決します。(後述)
1567年頃に改宗したと見られますので、その後の改宗後の「信安」が曹洞宗常光寺に祭祀され最後の人と成っているのはこの事だも働いていると観られます。
つまり、それは曹洞宗改宗の意味が違ったのではと観られます。

信定の”特定の僧侶に帰依”だけでは改宗は、当時の生活に密着した宗教の慣習から相当強引に実行しなければ無理で、「氏家制度」の中では一族の総意でなくてはなりません。一人が変えても周囲一族が変えなくては成り立ちません。
一人の者の意思だけで成し得る「氏家制度」の時代では有りません。「助け助け合いの慣習」の中ではこの様な事をすれば無視され、場合に依っては廃領されしまい浮いてしまいます。
改宗は「象徴と伝統」そのものを壊す行為です。この様な”帰依した”だけでは済まないのが氏家制度です。
恐らく、非常に多い歴史結論に見られる現代感覚で思慮した説であると観られます。最近痛感する事柄です。短期間(6年)の間の出来事からこの事を誤って考証されたと見ています。

「跡目」などの「路線争い」が起こっている処から観ると、「織田氏との決戦」を控えての「政治的決断」と考えられます。だから、「改宗事件」があっても本流の後継者浄土宗信者の「信安」が祀られたと観られます。そして、滅亡後には「丸に花菱紋」の寺紋となって正味の下級武士とや土豪や庄屋や豪農等が入信する一般曹洞宗寺に成ったと観られます。

「柳沢氏の検証と石燈」
花菱紋の柳沢氏との関係の考証は、その「柳沢氏」から石燈を花菱紋青木氏の菩提寺浄土宗源空寺に贈られた事は史実とし柳沢氏の記録の中に記述がある事です。
この石燈は現在も廃寺浄土宗源空寺跡に保存されている事から確認出来ます。
又、同石燈は柳沢氏菩提寺浄土宗光沢寺(廃寺)にもあります。この二つは極めて類似します。
柳沢氏は4つの流れがある事は前述しましたが、青木(柳沢)豊定を祖とする柳沢氏は青木氏との関連にで源空寺に石燈を送ったという史実は間違いの無い事である事がこの石塔で証明されます。
「浄土宗源空寺」(南巨摩郡)と「浄土宗松源寺」(北巨摩郡)の二つの菩提寺と強い繋がりが合ったことを意味します。
送ったと記録されている柳沢家の柳沢吉保はこの流れの青木氏から出ていることを意味します。
それは「豊定-信立-信俊」系列である事を意味し、その中でも疑問又は不明人物と成っている「信立」の人物解明に付いて大きく前進する事に成ります。
「信生-信正-信定-豊定」の時光系の割菱紋 副紋葉菱紋本家から分家した割菱紋系列である事に成りますので、「信立」の人物はこの4人の中の一人である事に限定されてくる事を意味します。
この事は後編で論じますので、更に、ここではその裏付となるこの石燈を送られた時期等に付いて詳しく検証する必要が出てきます。

「石燈を贈られた可能性と時期」
次ぎの様になります。
分家の時代から観て、付き合いが見られた時期は、江戸の親族付き合いの慣習と系譜から平均45歳として4-5代とすると、5代目の吉保(1714没)が没した時期の享保元年位(1712-1716)までは親密に付き合いしていた事に成ります。

付き合い期間 (1582)-(1712-1716年)頃まで

武田氏滅亡1582年、約140年と成りますが、石燈を贈るとすると1676年頃以降と見ます。4代目位のところです。

石燈奉納時期 1676年以降-(1680-1688) 柳沢吉保期

そうすると、柳沢安忠の時代です。安忠は1602-1687年です。
徳川氏に仕官し、この時代は250石程度の貧困時代です。石燈を2つ贈る余力は有りません。
次の子供は柳沢氏最大の立身出世吉保の時代と成ります。
石燈を贈れる身分は1680年の小納戸役から吉保(1658-1714)が30歳1688年に大名格に出世した期間と成ります。
最終、吉保は1694年の川越藩72000石から、1704年の甲斐の国三郡(山梨、八代、甲府)15万石を知行地とします。
吉保(吉里)が奈良郡山に転封する前と成ります。この1688年の1年前は父親の享年です。
吉保の納戸役に成った時1680年頃か、1688年の大名に成った時の何れかです。
推理と一致するとすると、

第1説 1676-1680年。

或いは、「父親の喪中明け」に巨摩郡青木氏花菱紋正定系の浄土宗源空寺と柳沢氏の元祖豊定(正定兄弟)の光沢寺に2対を贈った事に成ります。

第2説 1688年

後者の大名に成ってから贈るには立場上に問題があり過ぎます。
送れる能力が出来た頃である筈です。氏家制度の社会慣習の中では「親族付き合いの義理」が重んじられる慣習(一族で力のある者は無い者を助け、無い者ある者の力と成る)から観て、これを欠くと人は付いて来ませんので贈れる事が出来始めた頃となると前者(1676-1680)の1680年と観られます。

結論 1680年の奉納

浄土宗源空寺石燈は間違いなく記録から柳沢氏からと観られます。
これは次ぎの証しとも成ります。

1 花菱紋青木氏の菩提寺検証の充分な証しと成ります。
2 別家を興した正定の花菱紋青木氏とその菩提寺浄土宗源空寺の建立、
3 弟の豊定も別家花菱紋の柳沢氏を興し光沢寺を建立の証しに成ります。
4 この石燈は、信興の割菱紋柳沢氏では無く、豊定系の花菱紋柳沢氏である事の証しにも成ります。(信立の事も証しの一つですがこの件は後述)

次ぎの証明です。
「氏神に保管の仏像」と「氏神の神紋の花菱紋」

この事は「花菱紋ステイタスの仏像」と「廃仏毀釈と源空寺」の事件に関わります。
明治の愚策として有名な維新政治を断行する「廃仏毀釈」ですが、歴史的に有名な貴重な寺など文化財が無くしてしまいました。この愚策も当時学者の愚論が成したもので甲斐の武田氏の貴重な「伝統」が消えてしまいました。この様な研究をして大変な努力でその史実を戻す必要があるのです。

花菱紋の祖の「正定」主家が建てた青木氏菩提寺浄土宗源空寺ですが、浄土宗の開祖「法然」の法名「源空」を採って名付けられたのです。その山は「法然山」として開山します。
甲斐青木氏の菩提寺の浄土宗寺ですので、ここに彼等のステイタスとするところの仏像が明治の廃仏毀釈まではあったと伝えられています。
現在、不明であり、一時、源空寺廃寺になった際に近隣の氏神社に保管されていたと伝えられています。
地元の口伝によれば、この源空寺を市当局が昭和の末に住民の申請に基づき調査し、その伝統の重要性を認め市の寺跡としては「文化財」として保管管理しているとの事です。
恐らくはこの「仏像の所在」が確認されれば、廃仏毀釈で壊された甲斐武田氏花菱紋の一部の「伝統」が子孫に遺される事になります。地元では期待されています。
源空寺には現在、過去帳や書籍記録などは不明であり、柳沢氏から贈られた石燈だけが遺されています。(上記検証済み)
廃寺と成った源空寺と住民檀家の意思で江戸時代に造られた嘉永年間の「釣鐘」が神社に保管されているとの事です。
これ等の遺品の所在が確認されれば、正定系花菱紋青木氏と豊定系花菱紋柳沢氏との関係の証しとも成ります。恐らくはその記録書籍にも明示されているものと思われます。
青木氏と柳沢氏が徳川氏に仕官して移動した経緯や、1590年の武川衆の武州(武蔵:埼玉鉢形)への代替地などでの移動で明示の廃仏寺に宗家筋に引き取られている可能性も否定できません。
従って、武川筋には花菱紋の青木氏や柳沢氏の子孫末裔は無く、全て徳川氏の命で鉢形に移動しているのです。
巨摩郡には両氏ともにその末裔は、江戸時代には極めて少なく、依ってこれ等に関する全ての史実が両方の土地では歴史が霧散しているのが現実なのです。
これ等が確認出来れば武田氏、青木氏、柳沢氏との完全な形の証拠が裏付けられますが、間違いは無いと考えますが、最早、個人の提供なしでは現状ではこの程度の検証と成ります。ここまで把握するだけでも大変な苦労を伴ないます。武田氏は兎も角も青木氏と柳沢氏に関しては進めたいと考えます。

「曹洞宗改宗の対応」
花菱紋の正定を元祖とする青木氏は同時期(常光寺曹洞宗に改宗期)に浄土宗源空寺を開基しています。
花菱紋の豊定を元祖とする柳沢氏は同時期(常光寺曹洞宗に改宗期)に浄土宗光沢寺を開基しています。
(時光より2代目常光は真言宗常光寺を中興開基しましたが、更に天正元年頃前(1567)に13代目信定が曹洞宗常光寺と中興開基したのもこの同時期です)

甲斐の賜姓族を含む皇族系青木氏(武田氏系青木氏)の一門3氏6家は独自の菩提寺と氏神を当初持っていたと考えられます。
その浄土宗寺を確認すると、甲斐には4寺のみです。
その内、甲斐巨摩郡付近の浄土宗寺は次の通りです。
1 定額山善光寺(甲斐)
2 岩泉山光福寺
3 功徳山尊たい寺
以上3寺があります。

甲斐の賜姓青木氏も青木村と寺社(国府跡)を持っていたことが史実として判明していますが、それが時間の経過に伴ない不明に成っていました。しかし、先日、寺本の庁舎南横がその寺であったことが判明しました。(皇族賜姓青木氏 国府跡)
その後、当然に、青木氏の慣習に基づき、当初は武田氏系青木氏の3氏6家(時光派、源光派)の「統一した菩提寺と氏神社」があったと考えられます。
先ず一つは、真言宗に改宗する前の常光寺であったと考えられます。
ただ、その完成から時光没までの期間が短いために、2代目常光が故意的に「中興開山」して新たな寺として、尚且つ、真言宗と改宗してしまったのではないかと思われます。(中興開基と開山と寺名の変更が記録されているので、建立当初は浄土宗であったと観られる証拠で、建立から極めて短期間のためにその寺名は不明となったと観られます。

この様に、この2代目常光の行動は不自然です。
源光系2氏としては、新たに開基、開山され、宗派が違えればこの寺を使う訳には行きません。
まして、念を押すように、時光派の自分の名を寺名に付けた極めて不自然な行動からすれば源光系2氏は引き下がる以外に方法はありません。
”そうする事で源光系2氏を排除した”と考えれば、常光の突然の「中興開基、開山」「真言宗改宗」「寺名変更」の理由は成り立ちます。
そうなれば、常光から真言宗、建てた親の時光だけは浄土宗の常光寺の理由は成り立ちます。
ここで、常光寺には11代分の墓がある事は上記した通りです。(疑問7)
時光より14代目正定と豊定が夫々浄土宗源空寺(松源寺)と浄土宗光沢寺を建立しましたので、以後の墓所は断定できます。しかし、12代目信正と13代目信定は何処に祭祀されているかの疑問11Aが残ります。(但し、信正、信定、正定等の代数は信生系譜説を前提 後述)

「信正と信定の祭祀場所」
先ず、時光より「12代目信正の添書」によると次ぎの様に書かれています。
与兵衛 尾張守 武田信虎に仕える。法名深見、

祭祀推定場所の浄土宗尊たい寺
寺記によると次ぎの通りです。
寺の創立は大永元年(1521)。
武田信虎が忠蓮社弁誉上人を開山に迎えて開いた。
初めは古府中の元柳町(武田3丁目)にあったが、文禄・慶長(1592~1614)の頃、加藤、 浅野氏ら豊臣大名の甲府城築城にともない、現在地に移転した。
以上の添書が在ります。

考察すると、割菱紋の信定は浄土宗です。よって真言宗常光寺(曹洞宗になる前)になく、源空寺、光沢寺にもないとすると、浄土宗寺は上記二つであり、時代性、武田氏縁の寺でもこの寺のみです。信定は史実では何処にも移動していません。時光系の守護職「尾張守」であった人物です。
添書”信虎に仕えた”とすると、信虎が建てた尊たい寺と成ります。
ここに祭祀されている可能性があります。

「時光より13代目信定の添書」
藤九郎 主計頭 信玄と勝頼に仕える 天正3年長篠の役(1576)で討死 法名宋青 妻桜井安芸守の女 
祭祀推定場所は浄土宗光福寺
寺記によると、次ぎの通りです。
甲斐源氏の祖である新羅三郎源義光が、「後三年の役」の時、奥州で戦死した人々を弔うために、嘉保2年(1095)に空源法印を開山として「寂静院」(横根寺)という真言宗寺院建立した。
その後、山崩れで寺は失われたが、天文16年(1547)に武田信玄が、先祖の由緒ある寺として再建し、その時に「光福寺」と寺号を改めて浄土宗となった。

考察すると、常光寺を曹洞宗に改宗したのは信定本人です。しかし、この常光時には時光から11墓ですから11代目と成ります。「信安」までです。つまり、12代目と自分13代目は祭祀されていないことを意味します。
記録から時光系の守護職「尾張守」であった信定は祭祀されていません
”では何処に”と成りますと、後は信玄が建立したこの寺しか有りません
何はともあれ、甲斐甲府付近には浄土宗は3寺です。甲斐善光寺は武田氏本家で青木氏は祭祀されていませんので上記2寺です。これが時代考証として「信虎」と「信玄」に夫々合致します。
もし、ここに無ければ他国と成りますのであり得ないと思います。
(一蓮(寺尼寺)と長禅寺の宗派のない単一寺で異なります。)

確かに、両者は時光系青木氏割菱紋 副紋葉菱紋の本家では無く妾子により割り菱紋の分家(葉菱紋無し)を興したわけですから、その意味でも本家筋が祭祀には拒絶すると考えられます。
しかし、信正と信定は当時は「尾張守」で時光系青木氏の主導権を握っていた人物です。
まして、信定は常光寺を主導者として10代まで祭祀されている寺を独断で曹洞宗に改宗してしまった人物です。この事から考えれば、まして親の信正と自分を祭祀させようとすれば簡単に出来る事です。
これだけの条件が揃っていながら、祭祀されていないのは、他に祭祀される寺があった事を意味します。まして、自分が入らずに甥に当る本家の信安が曹洞宗に改宗した後に最後の人物として祭祀しているのです。
常光寺は宗派は別として、信定が尾張守で甲斐青木氏の主導者であっても「時光系青木氏の本家」を祭る寺として扱い、そこで曹洞宗に改宗して時光系青木氏だけの菩提寺とせずに一般化した事で、以後青木氏の祭祀を打ち切るとして決断し、物事の「けじめ」を着け、親の信定と自分は上記二つの寺に祭祀される様に武田宗家に申し込んだと考えられます。
(信定は信玄と勝つ頼に仕え、この時は勝頼)
その宗家の許可の背景には、曹洞宗にする事の利益、つまり、甲斐全土35%の「宗派の力」とその曹洞宗信徒から来る「農兵の勢力」の確保にあったからに他なりません。(曹洞宗は下級武士、庄屋豪農、名主、郷士、を信徒とし、それに連ねて農民が帰依した。)
この時期は織田氏との戦いを前にして家臣が離散し、兵が集まらずに躍起と成っていた時期であります。これ等の条件が重なり過ぎています。

「常光寺前の経緯」
”時光は武田氏から離れ、清和源氏の朝臣族を理由に「嵯峨期の詔」に従い「皇族青木氏」を名乗り、弟の源光の「皇族賜姓系青木氏」の2氏と共に統一した甲斐の「青木氏の菩提寺建立」に着手した。”と成ります。統一した青木氏の寺を建立しようとしている位に青記氏に津からを入れています。
その時光は賜姓源氏清和源氏の充分な身分家柄の末裔でありながら、敢えて同族青木氏を名乗る必要性は有りません。そもそも賜姓源氏と賜姓青木氏は皇族系の同族です。しかし、名乗ったのですから、そこで、”何故青木氏を名乗ったのか”と云う元の疑問1が出ます。

「青木氏を名乗った理由」
”甲斐の本流の「皇族賜姓青木氏」と血縁した武田氏系青木氏(賜姓血縁族青木氏2氏)を持つ弟源光と、弟に合わせて兄時光系からも青木氏を発祥させる事にした。”とすれば証明が付きます。
そこで「全甲斐青木氏菩提寺」を建て始めたとする事で疑問の経緯は成り立ちます。
従って、全甲斐の皇族青木氏を含む武田氏系青木氏の当初の寺(浄土宗常光寺)は、2代目常光の行動により常光の代から天正3年前まで(1576頃)時光系の真言宗菩提寺として使ったとすれば(既にこれは確定していますので)、別に武田割菱紋宗家の青木氏(源光系)と武田菱紋の青木氏(源光系)の独自の末寺と氏神社が別にあったと考えられます。
(武田氏系花菱紋の青木氏(時光系)を除く)
では、それは何処なのか疑問11Bです。
(甲斐皇族賜姓青木氏宗家は寺本の古跡寺院跡)
この2氏は当然に浄土宗寺ですが。その浄土寺は上記した様に甲斐では2寺のみしか見当たりません。
12代目(信正)と13代目(信定)は時光系ですが、系譜通り家紋は割菱紋を使っています。
とすると、源光系の皇族賜姓青木氏の「武田割菱紋」一族もこの第13代目「信正」の祭祀されていると推理される「尊たい寺」と成ります。
源光系の皇族賜姓青木氏の「武田菱紋」も皇族賜姓族の清和源氏の祖を祭る事で「光福寺」であると考えられます。
もし、源光系の青木氏は賜姓系である事から、寺本の国府跡にあったとされる寺院に祭祀されていたとすると、「国府」が武田氏によって笛吹市に移動された時期と寺の消失時期が問題に成ります。
源光系の武田氏系青木氏の発祥は、武田氏が最初に国府移動させた後に成りますので、寺本の寺院は賜姓族本家筋のみであるとなり除外できます。(国府は甲斐では3回移動させている)

そうなると、この二つの浄土宗寺は次ぎの氏を祭祀してることに成ります。
時光系青木氏12代目割菱紋(尊たい寺)
時光系青木氏13代目割菱紋(光福寺)
源光系皇族賜姓武田氏系青木氏の一族の武田割菱紋(尊たい寺、光福寺)
源光系皇族賜姓武田氏系青木氏の一族の武田菱紋(光福寺)

その経緯からすれば、13代目の信定の曹洞宗に改宗する理由背景は”曹洞宗の僧に帰依した”とする単純な理由説で良いのかと疑問11Cが湧きます。
現在ではいざ知らず、「氏家制度」によって成り立っている社会です。
そんな事をすれば一族の「伝統と習慣」が壊れ一族郎党が大変な事に成りますし、信定本人や本家の存続が危ぶまれます。
上記で述べた様に、信定は実の3人の子供が居ながら次ぎの様な脅威の事を断行しました。
1 他家から養子(信之 高尾氏)を迎え柳沢郡の青木氏を継がせた。
2 嫡男(正定)に別家を作らせた。
3 次男(豊定)には新規に別家柳沢氏を発祥させた。
4 三男(豊勝)に兄正定の養子として分流跡目の割菱紋を継がせた。
5 信生(信時の養子 落合氏 信安の義弟)を本流(割菱紋 副紋葉菱紋)から迎えて分流始祖に据えた。
(系譜上、父信正の祖に据え義祖父とした。信生-信正-信定の説 後述)
と云う5事件が起きたのです。

更には、次ぎの様な事も起こっているのです。
1 曹洞宗改宗事件は天正3年前(長篠の役前)に武田氏が危ぶまれている時期に起こっています。
2 武川衆の去就(離脱)も左右している時期です。
3 真言宗常光寺の存続も危ぶまれている時期です。
4 真言宗は密教ですから尚更に運営維持は困難と成って居た筈です。
5 信定にとっては政治的に身動き出来ない事に成っていたと考えられます。
6 実子(正定、豊定)と「路線問題」の意見対立が起こっていたと見られます。

故に、「浄土宗源空寺」の経緯は、強引に又は止む無く「曹洞宗常光寺」に成った事により、浄土宗派(正定、豊定)が、常光(真言宗)や信定(曹洞宗)の採った処置を、元に戻そうとした行動と成ります。
当然に、ここで、武田系青木氏の中に「浄土宗派」、「真言宗派」、「曹洞宗派」が生まれるのは自然の摂理です。
「5つの浄土宗派」は次の通りです。
「甲斐皇族賜姓青木氏」1氏
「武田氏系青木氏(源光)」2氏
「花菱紋青木氏(正定、豊定)」2氏
以上5浄土宗派は、依然として勢力を持ち現存している中で、浄土宗派が元に戻そうとする行動は自然、必然の行為です。
では、次ぎに真言宗になった時点で浄土宗派はどうしたのかと言う疑問12が生まれます。

「浄土宗派の行動」
「光福寺」と「尊たい寺」の前身を堅持していたと見られます。
これ以外に甲斐には浄土宗はないのですから、「宗派伝統」を護るためにもこの二つの寺を堅持する以外にありません。
その武田氏系青木氏の経緯を観ていた「信虎」と「信玄」が、武田氏の本家筋の寺としてでは無く、改めて改宗をして全武田氏系青木氏の菩提寺として2つの寺を再建したと考えられます。
だから、「信虎、信玄」の時代、即ち「信正と信定」の時代に改宗しているのです。
又、だから真言宗常光寺も11代分(信定の前の信安)までの墓しかないのです。
信虎、信玄、(勝頼)は、特異な行動を採る常光寺を除外し、この二つの寺を再建して伝統の浄土宗の武田氏系の菩提寺としたと成ります。
5つの浄土宗当事者と本家の「信虎、信玄」を含む浄土宗派武田氏は「真言宗と曹洞宗の改宗」に対して対策行動を採った事に成ります。
この宗家の行動は自然で当然の行動と考えられます。これで筋道が通ります。
しかし、この行動も直ぐ後(天正3年1576、武田氏離散 天正10年1582 武田氏滅亡)で難しい問題に直面したのです。(史実としては1573年頃から崩れ出した)
この事で、これ等の寺を棄てて全武田氏系青木氏が各地の藤原秀郷流青木氏を頼って逃亡しました。
当然に、信虎や信玄の折角の浄土宗寺の再建にも檀家の青木氏が逃亡したのでは維持管理は難しく成ります。
(逃亡した武田氏系諏訪族青木氏、諏訪族青木氏は逃亡先に御霊を移して菩提寺を建立した)
その後、この2つの寺も戦国時代で火災消失が起こりその記録などが無く成っているのです。
現在はその再建した寺ですので上記の事が記録として確認出来ないのです。
しかし、後にも先にも甲斐にはこの二つの浄土宗寺のみですので、浄土宗派には祭祀はここしか有りません。その意味でも花菱紋の源空寺の存在は重要です。
次ぎに、この花菱紋に「丸付き問題」が続きまたもや事件が起こったのです。
更には明治の「廃仏毀釈」が起こったのです。

「廃仏毀釈廃寺の理由」
全国の廃寺の寺は殆どが「末寺、檀家数、特定寺」によって廃寺処理されています。
明治政府にとって観れば維新政治を断行するには宗教勢力を弱体にする必要がありましたのでこれ等を基準に潰したのです
このことから考えますと、青木氏の源空寺と柳沢氏の光沢寺はこの条件に合致し末寺の花菱紋2氏の青木氏菩提寺であった事から、一般性に欠ける「特定寺」「小さい寺」として(本寺があるとして)廃寺されたものと考えられます。(松源寺は武蔵鉢形に移された 廃寺)
親族の末裔「柳沢曲渕」を元祖とする寺(豊定系)が甲斐(光沢寺-奈良に移動 永慶寺廃寺-末寺大泉寺)に別にあリますので、花菱紋の正定系の2氏も当然に独自の寺を持っていた事に成ります。これが源空寺と松源寺です。そして、源空寺の廃寺の際に花菱紋の一族のステイタスも含めて寺の物事を近隣の神社に移動させたとする口伝がありますので、大切なものであったとされます。
その花菱紋一族のステイタスが「仏像」であった事に成ります。
当時、伊勢を初めとする皇族、賜姓青木氏にはそのステイタスとするところの仏像を保持していました。
甲斐の皇族賜姓青木氏(源光系含む:慣習で仏像を与えている)には寺本の国府寺が消失しているので、そのステイタスの存在如何は今後の研究課題です。
しかし、甲斐の花菱紋の「仏像」が存在しているとすると、まして、その寺の寺紋が花菱紋の丸なしです。(現在、昭和60年前後以降この仏像の所在は確認されていない)
花菱紋の青木氏の氏神が現存すると云う事は、花菱紋のステイタスの仏像もある事に成ります。
藤原秀郷流青木氏主要9氏116家も同じ独自の寺社神社を持っていますので、家紋の事も含めて丸付き紋なしの花菱紋であれば間違いなくその慣習に従っています。
この研究が今後の課題です。

そこで、武田氏と武田氏系青木氏の家紋には「丸付き紋」は本来は採用していません。
まして、一条系(後呼称)とされている源時光系の花菱紋族となれば尚の事です。
藤原摂関家北家系の一条、九条、鷹司、近衛の公家4氏一族の母方です。名門中の名門です。
その名門に仮に「丸付き紋」が存在するとした場合、「家紋掟」1-8のどの原因で「丸付き紋」に成ったのか「原則が崩れる大きな問題」が存在し、それを研究することは甲斐の「武田氏系花菱紋青木氏」を解き明かす上で必要と成るのです。
そこで、以前より「丸付き花菱紋」を調べていましたが、花菱紋の系譜添書から観て、分家筋には丸付き紋になる原因が発見されました。この「丸付き花菱紋」は柳沢郡青木村の青木氏が「特定の事情」により「丸付き紋」を使用しました。この事は上記検証済です。
江戸中期以降はこの家紋掟の1-8が緩やかに成りました。
しかし、追記しておく必要がある事として、次ぎの系譜添書が発見されました。
天正の頃、その時代付近では、花菱紋の正定が別家を起こしました。そして、その別家末裔が発展し正定より享保の頃、5代目信秋のところで、養子縁組が起こっています。
当初、この下記青木氏が柳沢郡青木氏として考察していましたが異なりました。
詳細に調べた結果、次ぎの様な検証と成りました。

他氏の同姓の青木宗頼の次男「信秋」が花菱紋青木氏分家「信知」(正定系)に養子に入っています。
この養子先実家の青木市郎兵衛宗頼が何処の氏なのか疑問でした。
当初、柳沢郡の青木氏とも考えられていました。
今回、「丸付き紋」を調査していて、更に検証の結果、「丸付き紋」に成った背景が享保(1735年)頃と判断されていたがその可能性が乏しい事に成ります。
そして、天正の時期が最も適合するとの推理から、添書を更に徹底調査し史実を発見した事に成ります。
これも添書調査を行った結果、享保のこの養子先家紋は花菱紋を含む武田氏系では有りませんので、柳沢郡青木氏の可能性はなくなりました。
そこで、念のためにこの信秋を考察したところ、添書と史料を付き合わせると次ぎの事が書かれていました。

「添書と史料」
三五郎 太郎右衛門 実は青木市郎兵衛宗頼の次男 母は小栗平吉久弘の女 信知の養子となる 宝永6年大番に列する 享保20年組頭に進む 寛保元年51歳にて死す 法名常心 妻は松平勘十郎忠隆の女

史料
その元と成ったキーワードは「享保」「・・兵衛」「小栗氏」「江戸」です。
徳川吉宗の享保改革として、伊勢松阪の豪商伊勢青木氏本家(紙屋青木長兵衛)から吉宗に請われて紀州藩から同行 吉宗の享保の改革を勘定方として断行する。江戸に伊勢青木氏の分家2氏の末裔が出来る。吉宗は伊勢の紀州藩家老加納家に育てられる。吉宗と知友 加納家と伊勢青木氏とは数度の血縁関係にある。同時に伊勢青木氏は紀州藩勘定方としても奉仕する。
以上の伊勢青木氏の史料から享保時代の内容が出てきました。

享保時代の江戸の青木氏は史料から6氏程度と見られます。
この一つが「青木市郎兵衛宗頼」の氏と観られ分家の1氏と成ります。
以上の内容からこの伊勢青木氏の「通名等と時代性」と血縁性が酷似していますので、この氏とも考えられます。
(何れも徳川氏家臣ですが、この氏は1-8の家紋掟から観て「丸に花菱紋」に変わる根拠が発見されません)
つまり、別に享保時代に正定の武田氏系花菱紋青木氏の末裔と笹竜胆紋伊勢青木氏との血縁があった事が覗えます。(今後充分な検証要)
信正-信定系譜の高尾氏からの養子「信之」の末裔が丸付き紋の花菱紋を使った事が上記で検証しましたので、特記として正定の養子の「青木宗頼」は伊勢青木氏のルーツとの血縁がある可能性がある事も判りました。

「丸付き紋の第3氏の青木氏」
系譜を確認する際に於いて最も考察しなくてはならないのは、第1期、2期の「未勘氏」と「第3氏」ですが、賜姓青木氏や藤原氏一族主要5氏や賜姓源氏等の名家はその特定の定住した地域に多く発祥しています。
この「第3氏と未勘氏」には必ず「氏家制度の慣習」の矛盾が起こります。
前のレポーにも書きましたが、先ず、「菩提寺の有無」と「過去帳の有無」、それに先祖の「最も古い人」が江戸中期前の人である事などで直ぐに判ります。
幾ら系譜などで「搾取偏纂」しても氏家制度の社会の中では絶対に変更できない事が発生します。
中級武士、又は下級武士は寺に過去帳を作ります。
氏家制度の慣習の中では、姓を持たない者は時系列が取れませんので「過去帳」を作れず持ちません。又、庶民にはその社会習慣がありませんでした。一部苗字帯刀を許された者以外は例え持ったとしても江戸中期以前は認められなかったからです。
豊臣政権下の「兵農分離令」以降に於いて一部苗字帯刀を許された者として次の家柄が挙げられます。
A 庄屋、
B 名主、
C 豪農、
D 郷士、
E 郷氏、
F 豪商
以上です。
これ等の者はもとより鎌倉期-室町期初期では武士であった事と、「伝来の姓」を堅持していた事が「共通条件」です。「過去帳」も持っている事と、「墓所」も持っている事に成ります。
「それなりの伝統」を堅持しています。
しかし、これ等以外の庶民は宗派(改宗)は単独では変える事は出来ますが、特定の宗派(浄土宗寺)が受け付けませんし、姓を持ちませんので出自の確認は当然に出来ません。
個人一人が名乗ったとしても親族関係が変化していませんので判別できる事に成ります。
この様に江戸中期前は当時の「氏家制度の慣習」は厳しいものがありましたので、一つ一つを潰して行けば必ず矛盾が生まれます。

現在の感覚から判断して「第3氏、未勘氏」は差別的と考える人が居られますが、当時の「氏家制度」の社会慣習からは普通の事で、特に本サイトだけの事では有りません。
一つの青木氏の氏として系統的に纏め様と試みますが、何せ”「氏姓」を持たない”と云う事から物理的に、「不特定多数」である為に「系統化」出来ないのです。又当然、「特定の事件性を持った第3氏か未勘氏」6氏以外に古史料も有りませんので調べる事は出来ないと云う難点があります。
多くの明治以前の歴史書では「第3氏、未勘氏」の区別を明確にしています。当時としては区別しない方に社会慣習から異常感があったのです。
今回の系譜、添書、史料からの検証もこの系統的なものがある事から成し得たものです。
本サイトでも、「第3氏と未勘氏」に関してはすでに一部のデータもレポートしています様に、上山氏等の特定6氏の第3氏青木氏の研究データを保持しています。
将来、上記AからFまでの青木氏に関する研究を試みたいと思いますが、しかし、最早、武田氏系青木氏の研究も難しく成りつつある今、その史料と成るものの発見が困難と観られます。

注 「青木氏氏 研究室」「明治期に発祥した第3の青木氏」レポートに詳細の検証項目を列記していますので参照して下さい。

現実には、皇族賜姓青木氏29氏と藤原秀郷流青木氏119氏以外の「第3氏又は未勘氏」の方が格段の差で人口的には多い事に成ります。

さて、「信之」の「花菱紋」に関しては、系譜上は初代より養子の連続で「丸に花菱紋」は「第3氏」ではありませんが、血縁関係としては全く有りません。(上記済み)
「寛政史書」の「寛永青木氏第三の系図」の歴史書にみる様に、又「古書家紋200選」や「全国家紋8000の家紋集」にも掲載がない所をみる様に、ある意味の「第三氏」である事が検証の結果判りました。
しかし、この「第三氏」として扱われている青木氏にも、甲斐には上記したルーツ(系譜と血縁)を持たない「第3氏」(氏姓を持たない)が多く存在します。
上記の様に、武田氏系青木氏は殆ど完全に近い形で一族郎党が移動している現実があります。
武田氏滅亡により、関東に逃亡、徳川氏仕官、秀吉の甲府関係の築城で転地、徳川氏の代替地、で本家宗家を含む一族郎党、菩提寺氏寺、氏神も持って移動しているのですから、他の国の青木氏と違い甲斐としては特別な第3氏、未勘氏」の意味を持っています。
これ等は「個人の意思」とは別の「政治的な移動」であるからです。

「花菱紋」の浄土宗菩提寺源空寺には、この「花菱紋(浄土宗)」と「丸に花菱紋(曹洞宗)」の問題が後世に於いても面倒な遺産として遺しています。それだけに、家紋の変紋と共に、甲斐武田氏系青木氏には「浄土宗、真言宗、曹洞宗の改宗問題」が大きい物であるかが判ります。
しかし、この検証結果から「丸に花菱紋」(第三氏)の源空寺問題には差違を生じている事は否めません。
また、武田氏衰退滅亡(1573-1582)と共に、「丸付き紋」も含む第3の系図青木氏は例外なく武田氏系青木氏と見なされて全ては逃亡して本家分家ともに主に現在も関東の東に在住しています。当然に氏寺や氏神(御魂とステイタス仏像)を移動させているのです。
甲斐は織田氏に滅ぼされて、更には豊臣、徳川氏の支配下に置かれました。(1582信長死亡)
従って、1585年戦後処理の後には、一部身元引受人の藤原秀郷流青木氏の許可を得て再びその地に帰る事もあったとも考えられますが、徳川の家臣団に組み入れられましたので移動は現実には困難であったと考えられます。

「花菱紋の柳沢氏の出世」
特に、柳沢氏の吉保の出世に伴ない甲斐の武田氏系青木氏を初めとする出身家臣が多くなったと考えられます。
豊定を元祖とする柳沢吉保は概暦は次の通りの出世をしています。
1 綱吉の小姓 111石 1675年
2 小納戸役 500石 1680年
3 従五位下 6500石 1685年
4 側用人 12000石 1688年
5 従四位下 32000石 1690年
6 老中侍従 72000石 1694年
7 甲府藩 150000石 1704年
8 郡山藩 150000石 1709年   
以上石高から観た概暦です。 
(当時の慣習では史料からバラツキがあるが戦い時には1万石で平均4-5騎が義務付けられたとする。)
小姓時代は0人、小納戸役時代は1-2人、6500石時代で100人 12000石では300-400人 32000石では900-1200人 72000石では1800-2400人 150000石では3700-5000人

恐らくは、甲斐の武田氏系青木氏の者の内、親族の巨摩郡青木氏の「花菱紋族」はこの柳沢氏家臣団を構成したと見られます。
一騎50人を原則としていますので、身内から集めて石高に合わせて家臣団を作る必要があります。そうなると当然に先ずは身内から集める事に成ります。

「柳沢氏と家臣団と家紋の分布」
柳沢氏は35年の間に家臣を上記の推移で養っていたと考えられます。
これ等は主に甲斐の花菱紋を始めとする3氏6家と武田氏縁の家臣を集めて編成したと考えられます。これ以外に直接徳川氏の旗本と御家人に成っているものが殆どである事から、1688年の頃には武田氏系3氏6家は充分に一族郎党が吸収される能力を保持している事に成ります。
当然、吉保4代前の元祖豊定の兄弟の正定の花菱紋の親族を中心に家臣団を構成したと考えられるますので、花菱紋の末端まで吸収されたと観られます。

1 中部から関東にかけて藤原秀郷流青木氏に保護されていた源光系の武田氏系の青木一族
2 神奈川横浜、栃木、常陸に移動した諏訪族青木氏、諏訪族武田氏系青木氏
3 時光系の武田氏系青木氏の武蔵、上野の青木氏
4 武川衆の武蔵鉢形に代替地移転
5 讃岐、高知、阿波の藤原氏を頼った源光系青木氏
6 安芸を毛利氏を頼った武田氏分家一族
7 武田氏宗家 第1縁戚8氏、第2縁戚7氏
8 甲斐国隣接する国境の武田氏家臣の同心一団
以上に移転し、その後、柳沢氏や徳川氏の家臣団に加わる事に成ります。

各地から身内を呼び戻して家臣に加えたと観られます。
柳沢、八代、江戸、川越、甲斐、郡山へと花菱紋を中心とする武田系の家臣団は移動し、甲斐には柳沢氏の配下に成った者は1704年頃には殆どは故郷に戻った事に成ります。早い者は1688年に戻っている事に成ります。
問題はその5年後の奈良郡山郡への移動では家臣は戦時と異なり減少をしている事が考えられるので、減少すると見て、甲斐には僅かに一部残留組が留まったとも観られます。
しかし、「武士を捨てる云う選択」に迫られる事が起こるために土地家屋を失った所では青木氏の一族郎党は直に生活に困ると云う現実問題が伴ないます。
数として考えられない範囲の若者の個人単位であったと観られます。
この事から、江戸、川越、郡山にも花菱紋の青木氏の多くが定住し存在した事が考えられます。

柳沢吉保は武田氏として再び甲斐3郡(山梨、八代、甲府)の15万石の大名(1688)になり、再び花菱紋の武田氏が領地を取り戻した事に成ります。
逆には、甲斐に戻れたとした場合は、113年後には、関東の逃亡先からの武田氏系青木氏は戻った事も一部であるが考えられますが、但し、100年以上も経っている事から武士として戻る事は不可能と観られます。
既に生活基盤が出来ている年数ですし、住めば都です。100年(当時では3-5代)も逃亡先ではその生活も出来ている事もありますので極めて少ない事であろうと考えられます。
しかし、一族揃って徳川氏の家臣となりましたので、柳沢氏の家臣団の移動以外の武士の移動は国抜け脱藩となり罪人と成りますので、現在の移動とは比べ物にならない困難さであったと観られます。

この様な、動きを証明する事件が起きています。
柳沢氏以外にも、この事に対して、一派の家臣を救う次ぎの様な動き(8)がありました。
1 武田氏の家臣で徳川氏に仕官した「大久保長安」なる者(八王子8000石)が家康に「治安と要衝地防御」を理由に建言し、「八王子500人同心」を編成する事を許可され、離散した武田氏家臣を吸収しました。
2 又その後、その効果ありと観た家康は「八王子1000人同心」を追加指令して多くの武田氏浪人を救ったのです。この策を武田氏の家臣の分布する国々に「・・同心」を編成して治安を回復を進めたのです。
3 他には、武田氏宗家の生き残りは伊豆大島の流刑となり50年間滞在する事に成ります。
その代表的な事件として、武田信興は柳沢吉保の働きかけで、この流罪刑を解かれて戻り、一時、同族柳沢吉保に護られて生活をします。
4 更に許されて武田氏最後の地の八代郡に戻されて500石を与えられて旗本にし一族家臣を引き取りました。
恐らくは、これが最後の武田氏の救済作であったと観れます。

「武田氏の救済策」
徳川氏の仕官した一団、
八王子大久保氏に救済された一団
柳沢氏に吸収された一団、
八王子大久保氏に救われた一団、
四国讃岐籐氏に保護された一団、
藤原秀郷流青木氏を頼った横浜神奈川に定住した一団
伊豆の皇族賜姓族青木氏を頼った一団
下野、武蔵、常陸、上野に逃亡定住した一団
以上の様に、武田氏系花菱紋の柳沢氏の吉保は直接間接に武田家臣団を救済していたのです。

武田氏の家臣団全てが徳川氏に仕官したわけではありません。青木氏等の武田氏に縁のある一族が先ず仕官が適ったのです。
しかし、末端の家臣では盗賊山賊などのシンジケートに入りその集団は膨れ上がり治安悪化の原因と成っていたことが判ります。
多くのシンジケートには豪商などのその大元の頭目元締めが居て背後から経済的な支援をして大名以上の勢力を保持していました。
明治期までには、大豪商を維持するには、その財力の保全、取引の安全、運送の防御等の力が必要です。そうしなければ他のシンジケートから襲われる事がおきます。
その武力の背景をこれ等の戦いで敗れた者を引き取り一団を形成させて自治運営をさせて、その一団毎を列ねて束ねる経済的な支援の相互関係が形成されていたのです。
そして、今度はそのシンジケート間の連携を図ったのです。大きいシンジケートでは大名も到底おぼつかないものでありました。武力を背景とした大名と、連携の盟約の武力は勿論の事数段上であり更には、その比べ物にならない経済力です。
大久保長安はこのシンジケートを取り込み表向きは「同心」としていて、実態は裏大組織による治安維持であったのです。ですから、後に「長安事件」が起こったのです。
因みに、織田信長の3度の伊勢攻めに対して伊勢北畠氏、伊勢伊賀氏、伊勢青木氏(伊勢の豪商紙屋長兵衛)の「天正の戦い」(武田氏と同時期)で織田信長歴戦上の唯一負けたのが丸山城での伊勢賜姓青木氏(青木民部尉長兵衛信忠 青木紙屋長兵衛)との戦いでした。各地シンジケート連携による経済的な戦いでした。歴史上、有名な信長次男信雄の蟄居事件です。

武田氏一族は4度の衰退を繰り返し、最後は吉保が出世する事で立て直した事に成ります。
意外に、彼は悪役とされていますが、家臣団を救うことに情熱を高めていた事がこ考察から判ります。だから治安上から徳川氏はこれ等の動きと吉保の引き上げを図ったと考えられます。
武田氏家臣の大久保氏の建言が認められたことが何よりの証拠です。

「第3氏の発祥原因」
室町期と江戸初期と明治初期の3期に発祥した「第3氏」は実は上記の「1騎50人」の原因から来ている事が多いのです。
上記した家臣団を平時に維持する事は経済的負担が大きく、実際は「治安維持」と「年貢取扱」と「事務担当」と「資産管理」と「軍事」の家臣団の最低限の人数を維持しています。
いざ戦いと成ると、「割当」が来ます。相手により違ってきます。ではどうするかと云うと、4つの方法があります。
「徴兵の策」
1 プロの雇い兵を徴用します。
雑賀集団、根来集団、柳生集団、伊賀集団、甲賀集団、紀州集団、熊野集団、など例を挙げると限りが有りませんが、各地には多くの職業集団がありました。
2 野武士、海賊、山賊、土豪等、敗軍兵を裏で取り仕切るシンジケートがあります。
3 近隣の農兵でこれ等を束ねる地元家臣や土豪の集団 「武蔵7党」「伊川津党」等
4 堺、摂津、伊勢、近江、商業都市等の豪商

1は、信長が用いた武田氏滅亡の引き金に成った雑賀軍団鉄砲隊(3000)が有名です。
武田氏は「長篠の戦い」でなす術も無く無抵抗で殲滅されたのです。
三段撃ち戦法で間断なく発射する仕組みを使ったのです。最後は空砲で散り散りに成り逃走させたプロの射撃です。最も良い例です。

2は、各国各地で発生する敗残兵で国を追われた彼等は集団と成り、海賊、山賊、盗賊等と成りこれ等を経済的裏づけで取り仕切る豪商(武士で、2足の草鞋策を採る)に支援を求める。
秀吉の家臣の成った蜂須賀小六は元は山賊団で雇兵でした。秀吉は最初この小六団の一員で雇い兵だったのです。

3は、豊臣秀吉が各大名の勢力を削ぐ事の目的で「兵農分離」の令を出したものですが、殆どはなかなか守らなかったのです。古来からの戦いの慣習です。
農民がいざ戦いとなると土豪たちが農民と契約して借り集めて兵とする方法です。
秀吉の軍師の黒田藩や薩摩藩が最も有名ですが、この軍団を使いました。
明治維新の薩摩長州連合軍はこの兵でした。
これには、支度金と戦いで勝った場合の報奨金や討死した場合の家族への保証金、負けた場合の前渡金等明確に契約されていました。
彼等を雇う側(土豪等)では戦いでの戦利品がこの「裏付」でした。ですから、彼等は「落人狩り」を徹底して行い、又、関係する一族や農民の女子供を捕らえて人身売買をして「裏付」を確保したのです。戦利品として刀、槍兜、鎧弓、矢等を集めて金に交換するというシステムが出来ていたのです。大名はこれを黙認していました。禁止令を出す場合は自らが保証してやらねばなりません。しなければ次ぎからは兵が集まらないで負ける事に成ります。

4は、戦いは兵だけで出来ません。野戦城や櫓建築や安全に交通要衝の所を通過するための護衛と道案内や運搬や食料調達や給仕役をする事も必要です。これ等を一手に引き受ける商人が必要です。
その場合の兵とそれを護衛する護衛兵になります。
徳川氏が豊臣を攻める時、名古屋城で一時留まりました。名目は秀忠本軍を待つ事でしたが、本当は伊勢路の確保に時間が掛かったのです。つまり、実戦部代と違う上記の軍団確保に手間取ったのです。
それには、伊勢一帯を仕切る伊勢青木氏(豪商 紙屋長兵衛 伊勢シンジケート元締め)の合力が必要です。
最終、伊勢青木氏は表向きは実兵250名で合力したとありますが、裏ではシンジケート連携で「伊勢路の掃討作戦と警護」が役目で影の数万の者を投入して行われるのです。家康は信長伊勢攻めでこの勢力を知っていますので、これが決めてと観て交渉していたのです。家康はその手配に時間が掛かったと観られます。

さて、この3番目が第3氏を生み出す原因なのです。
戦いが数度と続くと地元の豪族の土豪との付き合いも出てきます。
大名は報奨金として、金品以外にも自分の家紋や氏名を使う事を許すことが多かったのです。或いは農兵の長等には「身分や権利」を与える事も行いました。
軍師黒田藩はこの方式を軍略上の主点として徹底しました。黒田藩が元は農民に近い貧困の薬売り浪人であり、武田氏一族の大系譜を持つ様な事は全く有りません。大大名に成ったのもこの「農兵システム」を使った事に拠ります。
黒田藩の農民が天皇家の象徴紋「五参の桐紋」を使っているのはこの事に拠ります。

守護、領主、大名、親族、重役、主家臣から実兵としての扱いを受けていた背景があり、場合に依っては武田氏の様に織田氏との戦いの前では兵は集まりませんので、そこで事前に苦しい選択として「農兵の長」等に家紋や氏名の使用を認めて「准家臣」扱いをして兵を集めていたのです。
甲斐に「第3氏、未勘氏」が多い原因でもあり、家柄身分を殊更に強い土地柄はこの関係から来ている事ともあるのです。源氏の傍流、系譜呼称一条氏、青木氏の強引な跡目系譜、数度の改宗事件等が起こっているのです。
この様な原因から室町期末期、江戸初期、明治初期に観られる様に、青木氏は殆ど他地に移動していながらも、甲斐には多くの「第3氏 未勘氏」が生まれた主原因の一つに成っているのです。

又、「明治期の第3氏、未勘氏」はこの傾向は少ないのですが、明治政府も「兵農の縁」から特に明治維新の功績から進んで名乗るように仕向けた事もありますし、又、なかなか明治3年の「苗字令」が行き届かなかった為に8年の「督促令」が出た事でも判ります。取り敢えず全国民が何とか苗字を持つ様にする為に、周囲の豪族の氏名を使う様に仕向けたのが原因の一つでもあります。
ある日突然に、村全体が、郡全体が藤原氏や青木氏等を名乗る現象が起こったのがその証拠です。
誰か大きな組織が主導していたから同時に成るという現象が起こったのです。

しかし、花菱紋に付いては、系譜上は兎も角も血縁上他人となった柳沢郡青木氏の「丸に花菱紋族」は氏家制度の慣習の中では、他の武田氏系青木氏と違い難しい選択に迫られ、武士を捨てて逃亡するか、武士のままでの逃亡を選択し得なかったのではないかと考えられます。
添書から観て、一時(3-5年程度)甲斐を離れて3代目で縁故を頼りに徳川氏又はその主な家臣に仕官した青木氏もあると成っています。
そして一部この者等は織田氏の過酷な追及を逃れて3年から5年程度で甲斐に戻ったとも考えられますが、家紋の分布が極めて狭く限定した小域にある事や現在も家紋8000の中に無いほどに個人家紋が多い事等から子孫繁栄は拡大出来なかったと見られます。
「丸に花菱紋」の青木氏の系譜を考察すると、先ず子供が少なく女が多い家系で、小録の扶持米200俵とあり、早世の家系にあります。これでは子孫を広げることは難しいと観られ1760年頃までで5代です。分家子孫などは1系統で殆ど増えていません。ぎりぎりに寛政(1800)まで来たと見られます。現存が確認されています。(これ以上個人情報により詳細不記載)

故に、寛政の歴史書(1800)の「第3氏」に書かれている事と、これを観て作った正定の分家花菱紋9代目の青木信政(寛政1800)が編集して作ったとされる「丸に花菱紋の系譜」(添書には信政作ると明記)の錯誤(丁度100年)も故意的にずらしたと観られますので、花菱紋からすると系譜上からずらす事で別系図の異なる氏と見せたのではないかと観られます。
この様な搾取偏纂の行為から見ても天正の頃から寛政までは「丸に花菱紋」は「第三氏」(第3氏では無い)と判断されていたと考えられます。
「丸に花菱紋」の「第3氏、未勘氏」が特定していない筈の甲斐甲府に限り集中しているのは、上記の「兵農の縁」とも重なり、この系譜と家紋を使用するに問題が少ないと観たと観られます。

「常光寺寺紋」
常光寺の寺紋ですが、この寺は3度変化しています。
1度目は寺の建立時は最初は浄土宗寺でした。(寺名不明 建立後時光死亡か)
甲斐武田氏系青木氏3氏6家の統一浄土宗菩提寺の建立を目的として計画は進められた。
(源光系菱紋、割菱紋青木氏の皇族賜姓青木氏と、時光系割菱紋葉菱紋青木氏 、割菱紋青木氏の皇族青木氏の菩提寺)

2度目は皇族青木氏2代目常光の時に「真言宗」に成ります。
建立間際前後に時光が死亡し、2代目常光は「中興開山」して自分の名を採り常光寺と命名 他の青木氏を排除する為に真言宗に改宗した。(時光系花菱紋青木氏 皇族青木氏だけの寺として中興)

3度目は時光より11代以降の13代目のところで、13代目信定(信定の子)が「曹洞宗」の僧の「海秀玄岱和尚」に深甚したと成ります。そして曹洞宗に「宗派変え」(改宗)をします。
信玄死亡後、武田氏衰退が始まり真言宗常光寺(11代目まで祭祀)の1氏菩提寺として維持管理が難しく成り、又青木氏の政治路線の違いから子(正定と豊定)側-父信定(子豊勝と養子信之)側の意見対立が生まれ、父信定は甲斐の3割以上を占める曹洞宗に改宗して門戸を開き「集兵と運営」の強化をした。
寺紋の「丸に花菱紋」の使用もこの様な「集兵と運営」の一つの表れです。現に韮崎の常光寺や源空寺付近には「丸に花菱紋」が多いと観られるのもその証しです。
(浄土、真言、曹洞宗の宗派争いに発展した 花菱紋青木氏の元祖正定と豊定は浄土宗派 豊定は花菱紋柳沢氏の元祖)
この様に3度変化していますが、甲斐武田氏系青木氏にはその菩提寺を巡って3宗派間争いが起こっていたのです。
これには、源光派の皇族賜姓青木氏(菱紋、割菱紋)-時光派の皇族青木氏(花菱紋)の対立が絡んでいたのです。
其れは兄時光より弟源光の方が家柄、身分、血筋、と武田氏の6紋(家紋)から観た立場は格段上です。これが大きく左右している要因です。
時光系派に取ってしてみれば、兄と云う立場もあり同等に成りたいとする心情がこの3つの変動から働いたと観られます。それは系譜から無理な一条氏の呼称にも観られるのです。
そもそも、初めは、1185年頃までは甲斐の皇族青木氏(浄土宗)の菩提寺でしたが、甲斐源氏武田信義より6代目武田時光は母方が藤原北家摂関家の公家(一条、九条、鷹司、近衛)であるとして甲斐一条郷の一条氏を名乗ったとされています。
これは皇族青木氏を名乗っているのにこれは疑問です。
信義より2代目次男の忠頼は一条郷のであるとして母方一条氏を名乗りました。甲斐一条氏元祖です。
それは公家一条氏が戦乱を避けて逃げ延びた所を甲斐一条郷としている所以であります。
そこで、賜姓清和源氏の分家頼信系の源氏傍流を名乗るより、又、嵯峨期の詔に基づく皇族青木氏を名乗るより、一条氏を故意に誇張して家柄身分血筋を良く見せる為にした事では無いかと推測しています。清和源氏は傍流であり、乱暴者都して河内、京、常陸、甲斐と各地で受け入れを拒否され配流扱いをされた人物義清を始祖としている事、賜姓族ではない前例の少ない嵯峨期詔の青木氏である事、土豪(小田氏末裔)との血縁族、時光系は宗家武田氏支流族等が、当時の氏家制度の社会習慣からは低く観られていた事で劣等感を抱いていたと観られます。まして、特に、比較対照として上位にある弟派に対して誇示したかったと観られます。現在では如何にも源氏名門と一般的に公表されていますが、当時では氏家制度の社会の中で左程の事は無かったと観られます。
ところがこの一条氏を名乗る根拠が系譜を調べると矢張り薄いのです。疑問です。

「一条氏の持つ意味」
一条郷の一条氏は信義の次男武田忠頼が元祖です。
武田氏は信義の嫡男武田信光(2代目)が継承し時光(6代目)に及んでいます。
忠頼は頼朝に謀殺されて絶えます。そこで、甥(信光の子)の信長に継がせます。
信長の子義長が一条氏を名乗ります。ここで再び絶えたために義長の弟信経の子(甥)の宗信が継ぎます。ここで更に一条氏は絶えます。この様に5度も血縁性は低下しているのです。殆ど無いと云っても過言ではありません。
一条郷の出自である忠頼は死亡し、その兄の信光は腹違いの兄ですので、一条郷のは母方一条氏の血縁性は元より有りません。そのルーツで名乗ります。
更には、つまり、時光の父時信の弟(叔父)の時に絶えてしまうのです。それ以後継承者は見当たりません。6度目にも絶えた氏名を更には時光系が名乗るのです。

結論は更に時光系が一条氏を名乗るのはルーツが異なります。
この様に一条氏を名乗った全員がルーツを殆ど無縁としているのです。
従って、6度もの断絶の一条氏ですから、まして、四国の一条氏や中国毛利の一条氏の様に一条氏の出自は明らかに無いのです。
この事からも明らかに何らかの目的を以って故意に名乗ったものであり、当時、高野山に於いて空海の真言密教が大変隆盛(20%)を極めていた時期でもあります。そして、それをいち早く取り入れたその公家衆の宗派の真言宗に甲斐源氏武田常光が宗派変えをしたのも、叔父の源光系浄土宗派をブロックすると共に、其処に目的を置いていたものであり、「宗派選択の意味」があったのではと考えられます。

研究の意味として、血縁性の無い甲斐の「第3氏、未勘氏」の氏姓の名乗りと、血縁性の殆ど無い武田氏系青木氏の「一条氏」の名乗りとは同じ土台の上にあると云う事です。
武士も庶民も甲斐では同じ行為をしている事を意味します。藤原秀郷一門や皇族賜姓青木氏や皇族賜姓源氏にはこの現象は確認出来ない現象です。
まして、この「宗派対立」を全面に押し出しての争いは最早、「気宇」と云うべき事かなと思えます。

「宗派対立」
甲斐青木氏を揺さぶったこの宗派がどのような勢力範囲を維持していたかを検証しますと次のような結果が出ました。
(末尾 分析詳細史料添付)

真言宗は18寺 17%に成ります。甲府関係域では6寺です。
曹洞宗は36寺 34%、
臨済宗は24寺 22%
真言宗は18寺 17%
日蓮宗は14寺 13%
真宗は3寺 2.7%
時宗は3寺 2.7%
法華宗は3寺 2.7%
単一無派は2% 1.8%

以上のデータの様に、甲斐は大変宗派間の競争が高いところです。全部で9派が競っているところです。
しかし、甲斐賜姓青木氏の武田氏系青木氏2氏の跡目に入った同じ弟の源の源光は一条氏を名乗りませんでした。これで何故一条氏を誇張したのかはあらかた判ります。
本来は、青木氏は源の源光が主流ですが、兄の武田時光は一条氏を名乗りながら、嵯峨期の詔に従い青木氏を名乗ったのですから、ここに意味するところがあります。
一条氏を名乗るのであれば何も青木氏を「詔」を使って名乗る必要は有りません。
既に弟の源光が本流として皇族賜姓武田氏系青木氏を引き継いでいます。
それで、時光は皇族武田氏系青木氏は一条氏としながら11代続いたのです。
(11代後墓は途切れています。)
それと、常光寺前身の菩提寺そのものが青木氏です。わざわざ特別に11代の墓を列ねて並べる必要はありません。特に墓は青木氏でありながら名乗りは一条氏とは当時の氏家制度の慣習から考え難い行為であり、家柄を誇張したい所があったのでしょう。
又、2代目の青木常光が自分の名前を採って名付けるなどの特異な行動を取りました。(中興開山)
多分、この時(時光までは)寺紋は菱紋であったと観られます。
そこで、自分の家紋の割菱紋に変更したと見られます。
ところが、13代目あたりで曹洞宗に宗派変え(改宗)をしました。
「中興開山」と記されていますので新たに開山したことを意味します。
ですから、常光寺には11代分(12代目まで)しか墓がありません。
当然、宗派が違う寺に、尚更に本流ではない妾子の12代目と13代目からは並べる事は出来ません。(浄土宗-真言宗-曹洞宗と中興開基と改宗をした)

曹洞宗派甲斐全体で34%でもっともの勢力を張っています。甲斐全体で満遍なく分布しています。
これは中興開基と改宗は当時としては飛び上がらんばかりの大変な事件です。
「伝統」を重んじる氏家制度の中で、その身分家柄を示す宗派を変えてしまったのです。
真言宗は公家、浄土宗は皇族賜姓族と藤原秀郷一門の皇族系侍が入信できる宗派です。
それが、一揆そのものの良悪は別として、各地で一揆などを起す宗派で庶民か農民などから伸し上がった下級武士が入信する曹洞宗の宗派です。一族の者としては絶対に認める訳が有りません。
まして、源氏でありながら筋違いの一条氏を誇張する程の家柄を気にした一族11代です。
それも違いを出す為に一箇所に並べての仕種です。最早、これは彼等周囲にとって青天の霹靂です。
当然、武田氏本家も何らかの対策を講じる必要はあったと考えられます。
放っておく事は武田氏本家と一族にとって織田徳川今川北条との一戦の前に乱れるのは好ましくありません。武田氏系青木氏の路線と宗派の対立争いです
其れが、武田氏宗家が採った上記の「光福寺」と「尊たい寺」の再建であり、菱紋、割菱紋青木氏(源光系)の浄土宗派への対策であり、そして、正定の別家花菱紋青木氏の発祥と源空寺建立と、豊定の花菱紋柳沢氏の発祥と光沢寺の建立、豊勝の本家継承であり、養子信之の柳沢郡の青木氏の継承となったのです。
これは恐らくは信虎、そして、信玄の打った手であり、皇族武田氏系青木氏に対して圧力を掛けたものであろうと考えられます。
自然に任したものではなく恣意的に全体が上手くまとまり過ぎています。
添書”信定終わりに臨み養子となる”として高尾氏三男の信之を養子(柳沢郡青木氏)にした事が何よりの証拠です。これが明らかに恣意的行為です。
(これが後に花菱紋との協議の結果であり、系譜添書の一節に繋がるのです)
まして戦い前の臨終前の行為です。当事者間では無理で、仲介者が居て反対を抑えて上手く納めたこと以外にありません。(高尾氏と多田氏の氏は不詳)
武田氏滅亡後に起こっ112年に及ぶ「天保騒動」でその宗教の体質も家柄誇張体質も良く判ります。

後編に続く。







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