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甲斐青木氏の研究(花菱紋) 前編

甲斐青木氏の研究(花菱紋) 前編

甲斐武田氏系青木氏

花菱紋
武田菱紋
武田割菱紋
丸に花菱紋

「始めに」
日本全国の中でも甲斐には氏を別とする青木氏が大勢居るところで、昔は村を形成していました。
青木氏発祥には夫々の氏の特徴を持っています。
ところが、千年以上経ちながらもまだ歴史的な事柄について余りにも解明されていない事が多いのです。
特に甲斐では疑問点が多く時代と共に解消されないままに史実が消え去っています。
最早、その史実を引き出し疑問点を解明する事すら出来ない状況に成っています。
そこで、本サイトとでは何とか甲斐青木氏に関する事柄をまとめ、疑問点を解き明かし、後世に遺そうとしています。
そこで、サイトの「青木氏氏 研究室」と「青木ルーツ掲示板」等に個別に関係資料レポートを保存していますが、これ等のデータを改めて引き出して、「甲斐の青木氏」を総括的に記述して判りやすくし一つの「研究記録」として遺したいと考えました。
そうする事により、まだ本サイトとのレポートを読まれていない全国に散在されている青木さんに歴史認識を高めて頂きたいと企画いたしました。

「論文方法」
先ず、本題に入る前に青木氏の「基礎知識」を高めて頂きます。
そして、その基礎知識を基に甲斐青木氏の研究論文を読んでいただければより深いご理解が得られると思います。その理由はこの甲斐の青木氏には大変入り組んだ歴史と複雑な系譜と事件を持っています。これ等を理解するには過去の歴史の知識を前提に成ります。そうすると当然にその経緯を一度に文章化が出来難い事が起こります。
そこで、論調は重要な研究部分を何度も重複しながらほぐれた紐を解くようにして更に深層を探り進めて行きます。
その裏付と成る史料、史実、各氏系譜、添書、時代背景を絡まさせて論調を形成します。
では、先にこの甲斐青木氏に持つ疑問点を列記しますので、概略を念頭にして本題をお読みください。そうする事でより深くその総括的な意味合いがご理解されると考えます。

注 本文は甲斐青木氏に関係する所有する古系譜と古添書と古史料を先ず前提に論文を進めます。
よって、インターネットなどで一般公開されているものと異なるところがあります。
注 本文は甲斐武田氏系青木氏(時光系)に限定します。
注 寛政史書、寛永青木氏第3の系図等の青木氏は含みません。
注 甲斐皇族賜姓青木氏と甲斐武田氏系青木氏(源光系)の詳細な検証は含まみません。


甲斐武田氏には今だ解明されない疑問点が以下の様にあります。
「疑問点」(順不同)
1 甲斐武田氏系(皇族系)源時光花菱紋元祖が浄土宗をどの様にしたのか。
2 何故青木氏を名乗ったのか。
3 何故花菱紋にしたのか。
4 何故甲斐の常光寺に11代分のみ祭祀していないのか。
5 何故一条氏を名乗ったのか。一条氏呼称の根拠は何か。
6 何故真言宗に中興開基し改宗したのか。
7 何故1ケ所に墓を列したのか。
8 何故12代目13代目の墓が不詳なのか。
9 時光は何処に祭祀されているのか。
10 何故曹洞宗に中興開基し改宗したのか。
11 柳沢氏は誰が興したのか、何処で繋がるのか。
12 柳沢郡の青木氏は誰が継いだのか。
13 巨摩郡の青木氏は誰が継いだのか。
14 真言宗派はどの様に成ったのか。
15 浄土宗派と曹洞宗派はどの様に成ったのか。
16 花菱紋は誰が継いだのか。
17 丸に花菱紋はどの様にして興ったのか、誰が継いだのか。
18 3派の宗派対立は何故起こったのか。
19 曹洞宗改宗事に浄土宗派はどの様な行動を採り寺を建てたのか。
20 誰が甲斐武田氏系青木氏を救ったのか。
21 柳沢氏がどの様にして甲斐武田氏を立て直したか。  
22 第3氏と未勘氏の発祥理由は何なのか。
23 明治の廃仏稀釈はどの様に影響を甲斐青木氏に与えたのか。
24 花菱紋のステイタス仏像等の歴史遺産は何処にあるのか。
25 100年以上も続いた「天保騒動」はどの様にして興ったのか。
26 「天保騒動」が青木氏に与えた影響は何か。
27 何故「丸に花菱紋」は各種の家紋集に記載無いのか。(「個人家紋」)
28 武田氏系青木氏は源光系か時光系なのか。その違いは。
29 誰が花菱紋の前に割菱紋を引き継いだのか。割菱紋と花菱紋の関係は。
30 何故国府が3つもあるのか。(青木村、氏神、氏寺の移動)
31 割菱紋の柳沢氏は存在するのか。(花菱紋の元は何処から。)
32 何故甲斐国府の経緯に異変が存在するのか。
33 武田皇族青木氏は源光説か時光説か。
34 武田氏の前身はあるのか。
35 何故家臣団位置付けの低下が起こったのか。
36 武田氏系青木氏の3系譜の3疑問(差違)の答えは何か
37 其の他(系譜上の問題点と疑問点)

以上、武田氏系青木氏を研究すると如何に疑問が多くて解明されていない事に気付きます。
それは、時代の進歩と共に起こる歴史認識の低下による影響ですが、最早、それを解明するのは今しか有りません。そこでこれ等に付いて研究を試みました。
内容は、絡み合って複雑な為に解明できる事から進めて次第に繋がるように試みました。よって順不同に成っています。疑問点の解明検証文は複雑に絡む為にこの理由から「行」を定めて限定していません。先ず疑問点の洗い出しから研究作業を行いました。
これだけ疑問が多いと整理が着きませんが、一応は全疑問点は網羅しているつもりでいますので全体を通してご理解ください。文中で他の疑問点も出てきますがこれは其の他としています。
依って、不明点等有りましたら、「青木ルーツ掲示板」から何なりとお尋ねください。
では、武田氏系青木氏を理解する為に先ずその「基本的な事」を先に説明します。

基本事項
[青木氏の系統]
まず、青木氏には大別すると、3つのルーツがあります。
1 皇族賜姓青木氏(5家5流皇族賜姓青木氏と皇族青木氏 計29氏)
2 藤原秀郷流青木氏(直系1氏、直流4氏、支流4氏 計116氏)
3 室町末期、江戸初期、明治初期の3混乱期に禁令を破り各地(主に上記2つの青木氏の土地)で発祥した青木氏(「未勘氏 第3青木氏」と呼称する)
以上の青木氏の3つに成ります。

これ等のことに付いて詳しくは「青木氏氏 研究室」の皇族賜姓青木氏関連、藤原秀郷流青木氏関連のレポートをお読みください。
「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」にも詳しく歴史的な史実に基づき研究レポートしています。

随分、長いレポートですので、ゆっくりと楽しんで少しづつお読みください。
また、お読みになっているときに、順不同の為にご不明な点、ご質問等有りましたらサイトにご遠慮なくお尋ねください。

では、上記1に付いて、甲斐の皇族賜姓青木氏系には次の氏があります
1 甲斐国府(初期の位置 現在地名 笛吹市春日居町寺本)に、「皇族賜姓青木氏」1氏、
2 甲斐北部に「諏訪族武田氏系青木氏」1氏(山梨北部)、
3 現甲府付近に定住する信濃から一部移動した「諏訪族青木氏」1氏(甲府地域)
4 巨摩郡青木村と柳沢郡青木村に「武田氏系青木氏」の3氏6家、(皇族系 後述)
以上4つの皇族系と皇族賜姓系の青木氏5氏が存在します。

これ等は「国府」の存在が大きく左右します。つまり、国府は政治の中心でした。そこからまず青木氏が発祥し、その周辺に豪族などが集まります。当然、其処に血縁関係と歴史の史実の集中が起こります。その史実を集めて、考察するのが歴史研究のポイントです。
ですから、この血縁の元の族種を知ることが必要なのです。

何れも、4番(花菱紋系2氏の青木氏)を除き、皇族賜姓青木氏の末裔で、土地の豪族の武田氏、諏訪族との血縁による一族です。
「皇族賜姓青木氏」詳細に付いては後述しますが、甲斐に朝廷より配置された第6位皇子の「甲斐王」の末裔子孫です。
「笹竜胆紋」を綜紋とする「甲斐皇族賜姓青木氏」は、男系跡目が適わず武田氏の養子側の系列に入り、家紋を変紋した一族です。(後述 「家紋掟」を参照)
「皇族系青木氏」詳細については後述しますが、嵯峨期の詔(弘仁の詔)により「青木氏」を名乗った氏です。

武田氏系青木氏には、詳細後述しますが次ぎの通りです。
1 「源の源光系青木氏」の 「武田菱紋」の氏と「武田割菱紋」の氏の2氏があります。
2 「源の時光系青木氏」の「花菱紋」及び「丸に花菱紋」には「嵯峨天皇期の詔」に基づく「皇族青木氏」1氏があります。
以上3氏(6家)があります。

(重要な研究結果)
以後の内容は重要です。(概容を把握要 後述詳細)
注 花菱紋は割菱紋から分離した家紋氏です。
注 割菱紋は副紋を「葉菱紋」を使います。本家と分家の2氏に分離しています。
注 花菱紋2氏派は本家割菱紋からと分家割菱紋からと出ています。
注 分家割菱紋から出た花菱紋は後に「丸に花菱紋」に変紋します。
注 柳沢氏花菱紋は本家割菱紋より分離しています。
注 花菱紋の本家は元来別家して発祥分離しました。(後本家と成ります。)
注 分家割菱紋から出た花菱紋は柳沢郡青木氏と成ります。
注 柳沢郡青木氏は養子より発祥 連続他氏からの養子で繋がれます。(血縁性なし)

注 源の時光と源の源光は兄弟 清和源氏分家三男頼信系の源氏(本家は嫡子頼光)(詳細後述)
注 皇族賜姓青木氏(5代)と皇族賜姓源氏(11代)とは同族(第6位皇子系)です
注 16代の天皇の第6位皇子の朝臣族で臣下族(詳細後述)です。
注 皇族青木氏は「嵯峨期の弘仁の詔」による発祥氏(詳細後述)です。


武田氏家紋群8つは次ぎの通りです。
(大別家紋 6家紋)
1 武田菱紋、
2 割菱紋(4つ割菱紋)、
3 花菱紋、丸に花菱紋、
4 地抜き武田菱紋、
5 陰武田菱紋、丸に陰武田菱紋
6 丸に出武田菱紋、
以上6分類8家紋です。

注 上記123から武田氏系青木氏が発祥しています。
注 1-6は家柄順です。

ここでは、武田氏系青木氏3氏6家の内、この「花菱紋の青木氏」と「丸に花菱紋の青木氏」に付いて重点を置き、この2氏の歴史と由来を中心に述べます。
それはこの2つの青木氏に付いては、今まで特異な歴史を持ちながら余り詳しくその「ルーツと経緯」が解明されずに居ました。
この様な事(紹介、研究されていない事)から、ここでは消失を防ぐ為に研究して解明し特別に世に紹介しておく必要があると考えました。

この武田氏系青木氏3氏は次ぎの通りです。(6家は下記)
1 武田菱紋の青木氏で武田氏本家と甲斐皇族賜姓青木氏との血縁による「賜姓青木氏」
2 武田割菱紋の青木氏で武田氏分家と甲斐皇族賜姓青木氏との血縁による「賜姓青木氏」
3 武田花菱紋の青木氏で武田氏主家の跡目に入った清和源氏の朝臣族の「皇族青木氏」
以上が武田氏系青木氏の3氏です。

注 「賜姓」とは天皇が自らの子供の第6位皇子(第6番目の皇子)に氏を与え臣下させる事で、その役目は天皇を守る親衛隊である事。この制度は天智天皇より始まります。 
「賜姓族」(詳細後述)
注 「賜姓族」は「賜姓青木氏」5氏「賜姓源氏」11氏 16代の天皇の第6位皇子(詳細後述)

このレポートは3番目の清和源氏の「皇族青木氏」の2家に付いてその歴史的な経緯を紹介します。
先ずこの氏が発祥する根拠に付いて知っておく必要があります。

[発祥根拠]
蘇我氏の専横政治を倒して「中大兄皇子」は「大化改新」によりその一つ「皇位継承の制度」を大きく見直しました。
その改革の中で、次ぎの事を断行しました。
1 第4世までを皇子王とし各地の守護王として配置しました。(それまでは第6世王)その内、「第4位皇子」までは「皇位継承権」を与え、その「第6位皇子」は臣下し賜姓して天皇を護衛する親衛隊としました。
2 「第7位皇子」以下は比叡山の僧や門跡寺院に入りました。
3 「第7世族」(6世含む)以降は「ひら族」として坂東の守護隊として配置しました。
4 「第5位皇子」と「第5世族」はその中間として皇族者の者が少なくなった場合に戻る位置としました。
5 647年頃に発祥した「天智天皇(中大兄皇子)」の「第6位皇子」の「施基皇子」が皇族賜姓の「伊勢青木氏」と成って「伊勢王」として赴任しました。これが初代です。

注 伊勢の守護王施基皇子は三宅連岩床を国司として派遣 伊勢王は天智天武の天皇を補佐した人物。日本書紀に頻繁に出て来ます。 (「日本書紀と青木氏」のレポートを参照)
この後、文武天皇以後、皇位継承者が少なく、女系天皇が続きましたが、次の5代の天皇は第6位皇子を5つの国に配置しました。

[青木氏を賜姓した天皇]
賜姓した天皇は天智、天武、文武、聖武、光仁の5代天皇

[青木氏を配置した守護国]
配置国は伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5国です。

ところが、この賜姓システムを「光仁天皇」の子供「桓武天皇」と孫の「平城天皇」は2代続いて継承しませんでした。

[賜姓の不継続の経緯]
その理由は、中国後漢国からの帰化人「阿多倍王」の一族の子孫(「たいら族」)で「桓武天皇」の母(高野新笠:阿多倍王の孫娘)の一族が賜姓を受けました。
後の「京平家、桓武平氏、伊勢平氏」と呼ばれる一族で、末裔は太政大臣平清盛です。
(詳細は「青木氏氏 研究室」の関連レポート参照)

注 阿多倍一家はの概略は薩摩の国の半国割譲(薩摩の首魁)と伊勢北部伊賀地方の半国割譲(伊勢衆)を受けました。
注 敏達天皇の孫芽淳王の娘を娶り、3男子を産む、准大臣に任じられます。
注 朝廷の官僚組織と人の6割を占める勢力を持ちます。
注 現在の第1次産業の基礎を築きました。
注 日本初の律令国家体制を完成させました。
注 日本書紀の完成チームの8割を占めました。
注 彼等の勢力日本全国66国中関西西部地域から九州薩摩まで32国を勢力圏としました。
注 日本書紀に何度も出来ます。

「たいら族」の系譜
国香、貞盛、惟盛、定盛、忠盛、清盛
阿多倍王一門から「たいら族」としては以上5代を経て最終の太政大臣にまで上り詰めます。

注 桓武天皇の「たいら族」(780年頃)とは、「第6位皇子の賜姓」の慣例を破る事に成る為に、坂東に配置した第7世族(坂東八平氏:ひら族)にあやかり皇族系と見せる必要がありこの名を授けました。呼び名は”たいらの清盛”と一方は”へい氏の梶原の景時”の様に呼称させました。

[賜姓をしなかった理由]
慣例を破り皇族からの賜姓は5代で途絶えました。
「桓武天皇」は日本の「律令国家」の政治体制を完成させた天皇として位置付けられます。
「桓武天皇」前は「皇親政治」とする天皇とその一族が政治を執り行う政治体制でした。
1 相反する政治体制である為にそれまでの「皇親」の賜姓青木氏一族等の政治発言力を排除する必要があった事、
2 更には、その律令国家体制の天皇と官僚機構の政治体制を創り上げ、日本の第1次産業を飛躍的に発展させた一族(後漢の帰化人阿多倍王が率いる200万人の技能集団)を引き上げる必要があった事。
3 母方一族らの信頼と背景に政治を推し進める必要があった事。
(朝廷軍も長男の賜姓阪上氏が統括する。 天皇親衛隊は賜姓青木氏が統括する)
以上主に集約するとこの三つに成ります。

「その他技能集団の勢力」
官僚機構の6割はこの一団で占めた事。
1奈良平安期の政治機構の3蔵(斎蔵、大蔵、内蔵)の内、2つ(大蔵、内蔵)を掌握した事。
2軍事(朝廷軍)の実権を握った事。(天皇の軍は青木氏)
3天皇家と血縁し准大臣と成った事。
4桓武天皇の母はこの集団の首魁の孫娘(高野新笠)である事。
5阿多倍の支配技能集団「部制度」で国内の第一次産業の基礎を築き経済的な支配権を保持した事

この事から「第6位皇子」を賜姓をせず、青木氏に各地守護職(国司藤原藤成等を2度派遣)を実質外し圧力を加えた。(官僚国司の派遣と権限強化)

[嵯峨天皇の賜姓族]
桓武天皇の子供の嵯峨天皇はこれに反発し戻します。
天智天武期に実行した「皇位継承制度」が厳しい事になり、皇位継承者が絶えるなどの事が続いたことから、更に「皇位継承制度」を緩めました。
この時、第6位皇子の賜姓青木氏を変名して賜姓源氏としました。
青木氏は皇族者(真人族、朝臣族、宿禰族)が下俗(下族)する際の氏名として定め、「弘仁の詔」を発して他の者が青木氏を使用する事を禁じました。(不入不倫の権を与える)
この後、賜姓源氏は11代の天皇に引き継がれます。賜姓青木氏5代とあわせて実質16代と成ります。
この事に対して、賜姓源氏16代とする説もありますが、12代以降は徳川氏等の搾取偏纂の結果で5代が追加され16代と成りますが、実質、賜姓源氏としての意味は花山天皇の11代目で終わっています。

この間、嵯峨期より「皇族系の青木氏」を名乗れる皇族者は合わせて18人いましたが、実質に青木氏を名乗り子孫を遺せたのは5氏であります。最終3人が子孫を遺しました。後は清和源氏系の2氏です。
「皇族系青木氏」
1多治彦王配流孫青木氏
2島王配流孫青木氏
3清和源氏頼政の日向配流孫青木氏
4橘氏系宿禰族青木氏
5甲斐武田氏系青木氏です。
以上5氏です
後は史実に基づかない「未勘氏」です。

この様な「賜姓青木氏」と「賜姓源氏」の両方の賜姓族が出て来る事や、阿多倍一門の平族(たいら族)に振り回される2つの賜姓族が、この甲斐の国とそこに発祥する武田氏系青木氏との時代に翻弄された氏の関係です。
この武田氏系青木氏が、江戸時代まで時代に翻弄され続け、終局、その史実さえも消え去ろうしている時に、又、その存在の確認も取れていない時に、甲斐の花菱紋の青木氏の調査の結果、完全に検証が採れました。

これにより次ぎのことが主に検証できました。
A 花菱紋の皇族系青木の存在が確認された事。
B その一族の元来、慣例よりあり得ない皇族系青木氏「丸付きの花菱紋」の存在の確認された事。
以上の2つの氏のルーツが史料から確認される事となったのです。
(2つの花菱紋の氏は室町末期、江戸初期、明治初期の第3青木氏の可能性があった事によります)
(寛政史書では第三青木氏と記載されている)

注 系譜上から「丸に花菱紋」と成った青木氏を「第三氏」とします。系譜を有しない青木氏を「第3氏」として記述します。(寛政史書に「寛永青木氏第三の系図」とありますのでこれを使います)

では、先ず次ぎの事柄から入ります。
実は系譜を調べて判った事ですが。甲斐には分けると、次ぎの様に成ります。
1 皇族賜姓青木氏
2 武田氏系青木氏(武田菱、武田割菱=1との血縁族)
3 武田氏系青木氏1(花菱紋)
4 武田氏系青木氏2(2と3の血縁族)
5 武田氏系青木氏3(3の巨摩郡の青木氏と3の柳沢郡の青木氏との血縁族)
6 武田氏系青木氏4(3の柳沢郡の青木氏と1の皇族賜姓青木氏との血縁族)
7 武田氏系柳沢氏 (時光15代正定と豊定のところで兄弟 3の花菱紋) 
以上がある事が系譜の添書と史実から観えます。

問題は、1、2、3の3氏の家紋は判明するが、4、6は判断が付かなかったのです。
5は花菱紋、丸に花菱紋の何れかであると考察されていました。

本来、武田氏主要6家は、原則、丸付き紋は主要6家紋には使用しないものとされていました。
(注 賜姓青木氏、賜姓源氏は丸付き紋を原則使用しない。源光系も使用していない。特別除く)
その中で、「丸に花菱紋」は家紋200選には無く、全国8000の家紋群にも無い家紋ですが、系譜よりその発祥はある経緯(後述)により確認出来ました。

[武田氏の家紋事件簿]
上記6家紋(詳細後述)により成り立っています。
ただ、ここで”花菱紋の丸付き紋が何故存在するのか”ですが、どの権威ある専門家紋書にも記載無いのは「個人家紋」である事に成ります。
(家紋書籍に記載無い疑問 個人家紋の経緯 丸付き紋の疑問)
「個人家紋」と歴史は判断した事に成ります。そうすると”何故「個人家紋」と考えられたか”と云う疑問に変わります。「個人家紋」とは枝葉子孫を拡げられなかった氏と成ります。
しかし、史実にはこの武田氏系の「丸に花菱紋」が出て来ます。
「個人家紋扱い」になった特別な理由がある事に成ります。
武田氏の中ではこの一つの家紋だけが異端児扱いです。
「個人家紋」扱いになるとすると、系譜上に何らかな事件があった事を意味します。
その事件を探す事で判明します。
そうなりますと、系譜とそれに纏わる事を添書として必ず書いている事に成ります。
氏家制度の中で伝統ある「ステイタス」の家紋が「丸付き」に変わると云う「大事件」が起こったのですから、武田氏の系譜添書を徹底検証して考察すれば発見できる事に成ります。
「氏家制度」の「家紋掟」から考えると、当時としては身分家柄を下げることを意味します。
其れでなくても武田氏系青木氏には一条氏を無理に誇張するほどに家柄身分を意識している氏です。丸付き紋に成る事は「晴天霹靂」でしょう。
時代は1570-1585頃までの期間で起こっている事に成ります。つまり、武田氏の変貌期です。過敏に意識する事に成ります。
そこで、その先ず系譜から考察する事にします。

[清和源氏の時光系に至る系譜]
経基王-満仲-頼信(三男 分家)-頼義-義光-義清-信義-信光-信長-信経-時信-「時光」-経光(常光)-時忠

満仲-頼光(長男 本家)

注 時信は甲斐守(甲斐国守 時光の父)-信時は尾張守(時信より11代目 時光より10代目)

甲斐武田氏系青木氏(武田菱紋、武田割菱紋の2氏3家)
(時信)-源光(弟)-信高-信行

甲斐武田氏系青木氏(武田花菱紋1氏3家)
(時信)-時光(兄)-常光2-時忠3-..-信時10-信安11-信就(12養子 割菱紋)..

時光1-....-信時10-信生(11養子 割菱紋)-信正12-信定13-正定(14 花菱紋)

注 信安は真言宗常光寺に祭祀される最後の人物
注 信安と信生は義兄弟です。
注 武田氏系青木氏の系譜には3つがある。これらを対比させると3つの疑問(不明点)が出る。
注 ここでは以下は信生-信正-信定の説に従う。(信正-信定-信生の説もある。後述)


「重要人物」
信生は清左衛門 武田氏家臣落合常陸守信資の子 信時に養われる 養子と成る
この信生より花菱紋正定が出ている。時光11代目信安の義弟信生11が割菱紋引き継いでいます。
元は落合氏からの養子です。
疑問の一つとして、この養子の人物(信生)が割菱紋を引き継いだ事に成ります。
系譜から花菱紋の「正定ルーツ」では「信生」が割菱紋を引き継いだ人物です。
その子の信正-信定と3代続いた事になり、花菱紋が発祥した事に成ります。
以上の様に関係する系譜と添書が取れました。
この系譜には「添書」が沢山ありますが、現存する子孫に対して個人情報に関わりますので不掲載とします。この系譜の中に何かがある事に成ります。

この花菱紋の清和源氏は源時光が名乗った青木氏です。
本来、この武田氏系青木氏は源源光の「青木別当蔵人」とある様に明らかにその祖とされていました。(源光と時光とは兄弟)
しかし、歴史上の史実を正確に検証すると、この源時光も甲斐の武田氏系青木氏3氏6家の内、花菱紋を持つ一族がこの時光の子孫であることが確認出来ます。(源光説ではない事)
しかし、一部には時光系青木氏は無いとする説もあり、源光系とする説もあります。
この疑問も解決する事が必要です。
先に、答えは系譜から観るとどちらの説も正しい事に成ります。
そこで、次の通り検証しました。

[甲斐武田氏系青木氏の2流]
この青木氏は次ぎの通りです。
1 源光の甲斐皇族賜姓青木氏と、武田氏との血縁で発祥した源光系青木氏
(武田菱紋、武田割菱紋家紋としています)
2 嵯峨期の詔を使って名乗った時光系青木氏
(割菱紋-花菱紋を家紋としています。)

1に付いての経緯は、次ぎの通りです。
武田氏系青木氏2氏は甲斐王の皇族賜姓青木氏との血縁にて生まれた青木氏で、平氏に圧迫されて源の源光が清和源氏の子孫を遺す為に同族の賜姓青木氏に跡目に入れた青木氏です。
2代続きの跡目が養子であった事から「家紋掟」により養子元の武田氏系と成りました。
「笹竜胆紋」から「武田氏系菱紋」と「武田氏系割菱紋」に変紋した2つの賜姓青木氏です。

[時光系の花菱紋青木氏の発祥経緯]
時光より12代目信正と13代目信定は武田氏割菱紋です。(11代目信生は養子)
信定の嫡男正定が別家花菱紋青木氏を興します。
本家(割菱紋)は三男豊勝が継ぎます。途中絶えて別家より跡を継ぎます。
詳細後述します。

[丸に花菱紋の存在と発祥経緯]
時光より13代信定が高尾氏より養子を迎えて柳沢郡青木氏を継承させます。
他氏より養子縁組続きで花菱紋柳沢郡青木氏を継承します。(柳沢青木氏の疑問)
本家と別家より異議が出て、丸に花菱紋に変更します。(詳細後述)。
結論として、次ぎの様に成ります。
割菱紋は源光の血縁族ですから、「家紋」から観ると「割菱紋」の「源光系」と成ります。
「系譜」から観ると「時光」の子孫ですので「時光系」と成ります。
つまり、「時光系12代目信正」以前の系譜の中に、「源光系の割菱紋」との血縁がありその人物が割菱紋を継承した者が居る事を意味します。(源光説と時光説の疑問)
以上の結果から、「青木信生11」が落合氏から養子に入り「割菱紋」を引継ぎ、「信正12」、「信定13」と継承したのです。

先ず、この二つのその後の歴史的経緯と由来に付いて述べます。

[花菱紋定住地]
この青木氏は次ぎの二つの所に定住しています。
1巨摩郡青木村の青木氏(花菱紋)
2柳沢郡青木村の青木氏(後に丸付き花菱紋に成る)
以上2つの定住地です。

先ず、巨摩郡青木村の青木氏(韮崎市清哲の青木町)から述べます。
この青木氏は花菱紋の青木氏です。
現「韮崎市の清哲青木」(巨摩郡)にはこの花菱紋の菩提寺の「常光寺」が在ります。
この寺に祭祀されている青木氏は皇族青木氏の宗家筋です。(嵯峨期の詔で発祥:現存確認)
この甲斐の韮崎の「常光寺」は韮崎市が特定する有名な青木氏のみの「菩提寺」です。

古来、賜姓青木氏の5家5流の土地には独自の「青木村」と守護神の「氏神社」と「氏寺」を持っています。この3つをもつ事が当時の皇族系の仕来りです。
この甲斐の「青木村」には、ところが、この「菩提寺」と「氏神社」が3つもあるのです。
そして、この青木氏菩提寺と言われる「常光寺」には大きな問題を持っているのです。
では”何故三つなのか”と云う疑問です。
それを解き明かします。

[甲斐の皇族賜姓青木氏の定住地]
(発掘済で、定住地は未確認でありましたが、09年確認)
現在の「笛吹市春日居町寺本」(笛吹市庁舎南横)です。

先ず一つは、甲斐の守護王の末裔の「皇族賜姓青木氏」が甲斐国国府に村を形成して政治を行っていました。皇族賜姓5家5流の守護王の青木氏は国府を置き其処に青木村を形成し守護神と菩提寺を建立しています。
その「国府所在地」とその政治を直接行う「政庁」と「菩提寺」と「神社」がある筈ですが、甲斐では特定出来ていませんでした。
当時の政治慣習として、この上記「3つの建物」が揃っていて初めて政治が行えるのです。
「国府の3つの建物」
氏村のある所を政庁として住居とする。(現在の官邸)
氏神社は国の祭祀を行う所とし氏神とする。(現在の護国神社)
氏寺社は国の宣教を行う所とし氏寺とする。(現在の護国寺社)

このシステムは奈良、平安、鎌倉、室町、安土、江戸時代まで続けられ、これ等が一つに成って政治を行っていました。明治から現在間では多少変化をして来ていますが今だ類似する体制を持っています。ただ、これがはっきりとしていたのです。
現在の笛吹市の御坂にその国府があったとされていて、そこが甲斐の皇族賜姓青木氏の村のところであるとも考えられていました。
笛吹市の現在の市庁の南横が政庁であり、その近くに「古代寺院」と「甲斐奈神社」がある事が確認されました。これが「国府の条件」です。
国府の位置を見つける事は皇族賜姓青木氏の村を見つける事に成り、その氏との関係した血縁族の内容を網羅させる事が出来るのです。
甲斐の場合はこの賜姓族と武田氏との履歴を引き出す基に成ります。
ところが甲斐にはこの国府が3つ以上もあるのです。
つまり、平安期までは賜姓族は守護です。鎌倉期にはこれが一変しました。賜姓族から土地の豪族(武田氏)へと政権が移動していく事を意味します。
その「経緯」を調べれば偏纂されている可能性のある「系譜と添書と史料」を正しく判断する時の資料と成ります。偏纂系譜はこの矛盾と疑問と問題点が推理から浮き彫りに成ります。
歴史を調べる時は鵜呑みにするのでは無くこの事が大事なのです。

[守護王の青木氏の国府定住地]
平安期の初期は定住する処の国府には、先ず青木氏の菩提寺を建立し、守護神を建立してそこを政庁とするシステムでした。そこで甲斐の国府跡を見つける事がその皇族賜姓青木氏の存在全てを明らかにする事が出来ます。他の4国と違って甲斐は消失して記録も定かではありませんでした。
ところが、山梨県では09年4月に発掘調査が完了し、笛吹市の役所の位置(寺本)がその7世紀頃からの国府であった事が確認され、その南横には古代寺院の政庁寺があったことが確認されました。
そして守護神の「甲斐奈神社」があった事が確認されました。
ここが、甲斐の皇族賜姓青木氏の国府定住地であります。
先ず、一つの青木氏の定住地が確認されました。

ここで、政治的安定を狙って土地の豪族間との政略血縁が起こっている筈です。それがどの様なものなのかを調べ上げればよい事に成ります。基資料として「人と時と場所」の関係を掴む事に成ります。

(移動説の実証)
ところが、この国府が平安後期には寺社ともに「甲斐国八代郡国衛(笛吹市)」に移動しています
何故移動したかの原因が問題に成ります。
主に甲斐の武田には土豪小田氏(藤原秀郷一門の血縁族の陸奥小田氏 土豪武田氏を名乗る)が勢力を伸ばしていました。ここに源氏の跡目(義清-初代信義)が入り勢力と発言力が更に拡大して、政庁(寺社神社共に)を源氏系武田氏が定住する「山城郡(八代)国衛在」に移動させた事に成ります。3つの条件を持ち存在した形跡史実が確認されます。

更に、この後、武田氏が長篠の戦いに敗れて織田氏、徳川氏、今川氏から三方を囲まれ為に立て直しの為に勝頼は国府を「韮崎」(韮崎市)に移して「新府城」を構築して移動させて根拠地を固める作戦に出たとする史実があります。3つの条件が確認出来ます。(国府の疑問)
この建設経費が武田氏家臣の負担となり不満続出して離散が始まるのです
以上「3つの国府跡」がある事に成ります。

この事を「人、時、場所」を前提に分析を進めます。搾取偏纂の史料(系譜等)はこの前提のどれかを欠けています。搾取偏纂史料は其処まで史実を掴んでいないことが殆どです。
ですから上記した基本知識が必要なのです。

この寺本の賜姓族青木村は、甲斐の守護王の皇族賜姓青木氏の菩提寺で、上記の諏訪族2つの青木氏を除く宗家の菩提寺があったのです。
そして、この国府の甲斐の皇族賜姓青木氏には平安中期に清和源氏の源源光からの跡目が入ります。
ところがこれとは別に、清和源氏の分家源頼信より4代目の義清が武田冠者となり、6代目信義は甲斐の土豪武田氏(陸奥小田氏)に跡目として入ります。(武田氏の前身説)
武田氏(藤原秀郷血縁族陸奥小田氏が地名を採り土豪武田氏)はこれより清和源氏系の武田氏となり、信義が初代の清和源氏系武田氏を改めて発祥させました。つまり、前身は藤原秀郷系小田氏です。裏には藤原秀郷流青木氏が「第2の宗家」として主導する藤原秀郷一門勢力が源氏武田氏に関わっている事を念頭に検証すると深層の史実を掴むことが出来る事に成ります。

経緯
0 藤原秀郷系陸奥小田氏が甲斐に移動し地名から土豪武田氏を名乗ります。
1 義清(武田冠者 頼信4代目)が武田冠者の役目に成ります。
2 信義(武田太郎 頼信6代目)が清和源氏系武田氏を発祥させます。
3 源光(青木別当蔵人 頼信11代目)が寺本の国府に定住の皇族賜姓青木氏の跡目に入ります。
4 時光(頼信11代目)が甲斐武田氏系青木氏を発祥させます。(嵯峨期詔の青木氏)

上記した賜姓青木氏や賜姓源氏の知識が無ければ”この時光の青木氏は何処から来たの”と成ります。
その後、清和源氏系の武田氏6代目として兄の源時光は、甲斐武田氏系青木氏を発祥させます。
更に、その時光より2代目(武田氏7代目)の源常光が韮崎市にある浄土宗寺(寺名不明)を中興開基して「常光寺」とし甲斐皇族青木氏(時光系)の菩提寺とします。

「土豪小田氏から源氏系の武田氏に」
義清は乱暴で横暴な人物として甲斐に移されたとされます。そこで土豪小田氏(武田氏前身)との因縁が生まれて甲斐清和源氏系の武田氏が生まれたとされます。
清和源氏の宗家兄頼光に続いて守護代を譲り受けた頼信系が、甲斐に勢力を伸ばすにはこの様な人物でなくては務まらなかったのではと考えられます。
信濃足利氏と同じ様に、これは甲斐に勢力を張り其処に子孫を遺すと云う目的事が生易しいものではなく、清和源氏の勢力圏(子孫を遺す)を伸ばさなくては成らない切羽詰った背景(平家清盛からの圧迫)があった事によると観られます。
現に、元は兄頼光が甲斐守護を勤めていたにも関わらず土豪との血縁族を作っていません。
この事から土豪小田氏の勢力が大きく、又、なかなか一筋縄では出来ない相手であった事を示しています。それと背後に藤原秀郷一門が控えていた事も大きな障害に成っていた事と観られます。
それを打ち破るには破天荒の人物が適任と考えたのではないでしょうか。
普通ならば、この様に人物がいると平家と諍いを起こして清盛から難癖をつけられて大変な事になって居た筈です。そこを源氏は「武田冠者」と役職を付けて「京」から遠ざけて且つ一筋縄ではいかない相手に上手く合わしたという事だと考えます。
つまり、土豪武田氏(小田氏)もその様なところがあって「類が類を呼ぶが如く」で意気投合したのではないでしょうか。そして、自分が武田氏を興すのではなく、土豪との血縁者の孫息子の信義に引き継がせた事になるでしょう。
そうする事で、藤原秀郷一門を納得させたと観られます。
その証拠に信濃足利氏も秀郷血縁族の陸奥花房氏が信濃の土豪と成り足利氏を名乗り、秀郷一門がこの云う事を聞かなかった土豪足利氏(花房氏)の本家を廃嫡して追い出し、絶えた分家に秀郷一門を入れて分家足利氏を作りそれを本家にしてしまうことが起こっているのです。
当然に、この信濃にも清和源氏の跡目が直ぐに入り源氏系足利氏(藤原系)が興るのです。
恐らく、この場合は秀郷一門と源氏との結合である事に成りますので話が付いたのであろうと考えます。
だとすると、場合によっては、甲斐も信濃と同じ経過に成っていた事だと思います。そこを乱暴者の義清を宛がい上手く治めた事に成りますし、土豪武田氏(小田氏)は信濃を観て秀郷一門の手が伸びないうちに得策では無いと判断して血縁に踏み切ったと観られます。
何故秀郷一門が信濃と甲斐に執拗に発言力を高めようとしたかは、藤原氏も源氏と同様に清盛から猛烈な圧迫を受けていたからで、摂関家の立場も危なく成っていたのです。
そこで源氏と藤原氏と青木氏の3者同盟が起こっていたのです。
その荒波に頼光派は、本来部屋住みの無冠の頼信派(後に藤原道長に仕える)に信濃甲斐の守護職(守護代)の立場を譲り勢力を付けさせて関東に伸びようと考えたのです。
関東は藤原秀郷一門の勢力圏内です。其処に一部陣取る平家軍を一掃して中部域と関東域を源氏秀郷ラインを築く戦略が働いていたと考えます。
現実この戦略が働き清盛一門は関東に伸びることが出来ずに撤退して行ったのです。
それだけに団結を成すこの血縁戦略は大変な意味を持ち、信濃や甲斐の土豪を強引に抑えに入ったのです。そして、頼光派は関西に集中的に基盤を築き上げる機会を覗ったのです。
そこで頼光派の関西は、伊勢の青木氏、近江青木氏と佐々木氏、滋賀の佐々木氏、美濃の土岐氏に防御網の血縁関係を築いたのです。
清盛は結局、関西以西(兵庫が最前線)に留まる事になったのです。
ですから、兵庫に全源氏一族の氏寺と守護神の神社が在るのもこの一つの表れです。
この様な時代背景の中で甲斐の土豪武田氏から源氏武田氏へと変化して行ったのです。
しかし、後に信濃足利氏と甲斐武田氏は何れも清和源氏の跡目が入る支流ですが、同じ清和源氏の分家頼信本流の頼朝(坂東八平氏)に圧迫されて一時衰退します。
そしてその背景は更に続いたのです。

注 信義以後、武田氏5代目までは菩提寺を浄土宗明楽寺を開基し、その後、大井荘南条の宝林寺と変名します。
注 武田氏2代目信義次男忠頼(一条郷の一条氏を名乗る)は同族頼信系の鎌倉幕府将軍の源頼朝に謀殺されますが、後に一族(弟の時宗等)はこの寺を尼寺にし、一蓮寺と変名します。
注 宝林寺を甲斐武田氏の時光等一族郎党までの菩提寺としていました。
注 宝林寺は甲斐国守護の一人武田時信(信義より5代目)までの歴代の墓です。

その武田信義5代目時信(甲斐守守護)までは比較的平穏でありましたが武田信満の頃から変動し始めます。
そこで、信時(尾張守)の子の時光(信義より6代目)は青木氏を発祥させた為に、「氏」が異なる為に菩提寺を別にする必要が出てきました。(何故青木氏を発祥させたかの疑問 詳細後述)
この時、時光の死後、子の常光(信義より7代目)が突然に自分の名を採って「真言宗常光寺」と「改宗変名」をして中興開基したのです。ここで、一つ疑問が出ます。
その疑問は次ぎの事です。
”何故中興開基し改宗したのか”の疑問が起こります。
”親の浄土宗を宗派としていた親の時光は何処に祭祀されていたのか”(疑問)と云う事にも成ります。
(一説では時光は摂津国の地頭をしていた関係から、摂津国浄土宗善法寺だとする説があります)

この寺「常光寺」には、現在、時光より11代信安(後述)間での墓が一列に並べられて祀られています。
という事は、時光の宗派は浄土宗です。常光は真言宗です。
一人宗派が違います。(時光の祭祀場所の疑問 11代墓所の疑問)
ここ浄土宗宝林寺境内に安置されている5代目までの武田氏歴代の墓が在ります。
しかし、6代目青木時光より7代目常光は菩提寺として「武隆山常光寺」を「真言宗」の寺として中興開山しましたから、この時、真言宗常光寺境内に安置されている11代の青木氏歴代の墓は真言宗と成ります。、しかし、時光だけの墓は浄土宗信者です。
常光以降の10代の墓は真言宗として納得できます。
浄土宗信者の時光の墓が真言宗の寺にあると云う事に成ります。これは慣例よりおかしいです。
普通はこの場合、墓は浄土宗の墓所に移すことが慣例です。
しかし、真言宗の常光寺の境内に並べられてあるのです。
摂津浄土宗善法寺説がこの点から考えると納得できる説と成ります。多分この疑問を盾に採っているのではと考えます。しかし、現実には真言宗常光寺にもあるのです。
常光寺は史実から「中興開基と開山」と記録していますから、その前身は浄土宗(寺名は不詳)である事に成ります。
ここで「中興」を前提に推理が立ちます。
先ず、時光が「武田氏」から「青木氏」を発祥させましたから、武田氏の菩提寺「明楽寺」から出る必要があり、直ぐに独自の浄土宗寺を作る必要が出て来て建立します。その「直後前後」に没しています。
そこで、子供の常光は”この寺を常光寺とし、自分の信心する真言宗に改宗した”とすれば父が建てた以上は「中興開基開山」と云う形に成りますので理屈が合います。

そこで、「摂津善法寺説」の検証です。
時光の清和源氏は3男頼信系の河内源氏系です。
摂津は嫡男頼光の摂津源氏です。河内は元は嫡男兄頼光の領地で河内源氏としていましたが、頼光は頼信に河内領地と甲斐の守護代国司を史実として譲ったのです。
鎌倉幕府時代に源氏の地を治めるには源氏の者を地頭として配置したのです。よって善法寺があるのです。
現在も摂津には源氏一党の神社がありますし、同族の摂津賜姓近江青木氏が定住する地です。
清和源氏頼信系の時光も頼光系の寺で合わせて祀られている事は充分にありますが、しかし、本所は甲斐ですので、子供常光は親の時光が青木氏菩提寺として建てたこの寺に時光を先ずは納めたのではと考えられます。
そこで、改宗「真言宗」は別の問題と考えるのが普通の行動とみます。(一条氏説等後述)
実は、その後に、信義6代目時光から13代目信定が更に「曹洞宗」に改宗すると言う事件が再び起こっているのです。
更に、連動して「浄土宗源空寺」と「浄土宗光沢寺」を作るという一連の事件が起こっているのです。
改宗は別の行為での事と見るのが正しいと見ます。これは明らかに宗教性が甲斐に吹いていた事を示すものです。(後述詳細)
常光寺の境内には、史実として判る範囲で祀られている人物としては次ぎの人物等が祭祀されています。

[甲斐武田氏系青木氏の花菱紋の人物]
藤原秀郷と血縁した陸奥小田氏は地元の地名から初期武田氏を発祥させます。
その後、清和源氏系より信義が跡目が入り清和源氏武田氏が発祥させます。
「武田氏系譜」
初代の信義-信光-信長-信経-信時-時光(青木氏発祥)として子孫を遺します。
その後、清和源氏系の信時の子時光が以後割菱紋の甲斐青木氏(嵯峨期の詔)を発祥させます。

[甲斐時光系青木氏の系譜]
信義-信光-信長-信経-信時-時光(元祖青木氏発祥 6代)


以下11代が真言宗常光寺に祭祀
時光1-常光2-信連3-貞義4-義遠5-安遠6-義虎7-満懸8-信親9-信時10-信安11(11代)
以後、信就(同族山寺氏の三男)と続く。(時光系割菱紋本家)

時光系割菱紋分家(信生-信正-信定の説)
信生11(信安義弟 落合氏の子 養子)-信正12-信定13-正定14-豊勝15-豊信16(一時絶える 昌輝継承)(正定14は別家花菱紋青木氏を興す。)

豊信16-昌輝17-正寛18-正教19-教豊20-昌邦21-長国22-満眞23-某(熊之助)24

正定-昌輝(大井氏に養子後、戻り割菱紋分家の豊信の跡を継ぐ 大井氏は信虎の妻の実家先)

「時光源光の子孫」
時光-常光-時忠
源光-信高-信行

信生11は養子で分家であるので(義兄の信安までは真言宗常光寺に際されている)常光寺に祭祀されなかった事も一つの条件です。(11代の疑問の理由の一つ)

「真言宗常光寺」は以上時光より11代にわたる青木氏の墓と成っています。
注 信時-信安(割菱紋本家)と信時-信生(割菱紋分家 落合氏の子 養子婿)が出ていますが、これが後に大きな事件に発展するのです。(詳細後述)

伊勢を始めとしてその青木氏独自の菩提寺は「..光寺」と命名している寺が多いのですが、この常光寺は県が指定する甲斐青木氏の史跡寺です。
これで、伊勢を始めとして、長い荒波の中で5家5流の全て宗家筋が現在までも途切れずに存在している事が判った事になります。しかし、ここで更に家紋の疑問が出ます。

問題の家紋は「笹竜胆紋」の綜紋の保持氏で、且つ浄土宗の菩提寺の筈でありながら、この時光系の青木氏は2代目の常光からは真言宗常光寺として改宗し家紋を花菱紋としている説もありますが、系譜と添書から明らかに割菱紋であり、花菱紋は別家を興した際に変紋した事に成りますが、これが正定14からと成ります。同時に浄土宗源空寺を建立します。
(何故青木氏にしたのか疑問 賜姓青木氏の弟源光に対して皇族青木氏の兄時光の青木氏を興した)
(何故花菱紋に成るのか疑問 添書から正定から花菱紋が判明)
(何故11代だけなのか疑問 理由1は養子と割菱紋分家が判明)
更に他に理由と背景として無いかを考察します。
その鍵は真言宗であると考えます。
そこで真言宗に付いて考察します。

[真言宗改宗の根拠]
その根拠はこの清和源氏(母方)に藤原北家摂関家の公家より母を迎えいれた事から一条氏を名乗ったとされているのです。(書物では「一条時光」と呼称されている)
朝臣族の賜姓源氏、皇族青木氏の皇族の身分家柄がありながら、わざわざ何故一条氏を名乗ったのか疑問です。(詳細後述)
よって、一条氏の公家宗派は弘法大師空海の真言宗であるところから改宗したとされます。
時光のときは浄土宗寺であったのですが、2代目常光は自らの名前を採り常光寺と解明して更に中興開山し真言宗武隆山としたのです。
それでは今度は何故真言宗に改宗したのか疑問は一条氏にあります。
(詳細後述)
勿論、時光までは浄土宗ですが、跡目の関係で変紋が起こっている可能性もありますが、この場合は意識的な行為です。
「青木氏氏 研究室」の皇族賜姓青木氏の関連レポートをお読みください。

この常光寺は甲斐青木氏の菩提寺として上記11代まで祀られています。
その11代は常光寺に一箇所に列にして墓石が在ります。
本家は信安11-信就..と続きます。

更に割菱紋の分家 その1は次の様に成ります。
信生11-信正12-定信13-正定14-豊勝15-豊信16(一時断絶 正定の子供が継ぐ)と続いています。
11代目からは何処に祭祀されているのかも疑問です(詳細後述)

不思議に青木氏菩提寺であればその間必要性がありませんが、敢えて一列に何故1箇所に列したのかも疑問です。何かある筈です。(詳細後述)
この常光寺には、他にも多くの青木氏の墓所がありますが、その後(11、12、13)の歴代の墓所は不詳に成っていますのでありません。
とすると、この青木氏菩提寺の常光寺には他の者の何故墓所は無いのか疑問です。(詳細後述)
歴史を趣味としている人なら誰でもが知っている青木氏のお寺ですが、ここではこの様に異質の慣習が起こっています。普通は同じ墓所を多少の理由があっても代々何代も菩提寺にするのが普通です。
そして、この皇族青木氏の「花菱紋」の分家と見られる「丸付きの花菱紋」が存在しますが、本来、この皇族系(皇族賜姓族含む)の青木氏は丸付き紋を使用していないために、「丸に花菱紋」は「第3氏」か「未勘氏」なのかの疑問も残ります。(詳細後述)
何故丸に花菱紋が存在するのか疑問の疑問が出てきます。(詳細後述)
この様に次から次えと不思議なほどに矛盾を持っています。
ここまでこの8つの疑問程のものを詳細に研究して解決する必要があります。

この疑問解決には先ず信用できる範囲で更に突っ込んで系譜と史料をつき合わせてどのように成っているのかを調べる必要があります。
参考「正統な系譜の見分け方」
この系譜と添書は人物や時代性や発祥地などに矛盾が見当たりません。

普通、搾取偏纂した系譜には特長があり、前の系譜人物と後の系譜人物との間に何れにも属さない不明の人物が一人介在し、その人物と繋ぎ合わせて正統に見せる工夫があります。そこに時代のズレが生まれ、場所の不透明さが出てくるのです。系譜は代々の人が書残して継ぎ足して作るのではなく、何れかの時代に誰かがまとめて作る事に成ります。しかし、その人は歴史に専門でない所から専門の系譜屋に頼みます。系譜屋は系譜を良く見せて客を嬉しがらせ金品を高く要求しますのでこの事を必要とします。そうすると当然に上記の様な搾取偏纂が起こります。特に第3氏や未勘氏の場合は必要と成ります。江戸時代に造られて多くの系譜史書を観て作る事になるのです。
例として、九州のある氏と四国のある氏を繋ぎ合わせて繋ぎあわせる部分に一人人物を入れて系譜がさも良い家柄かの様に偏纂していました。四国の依頼者にはある遠方の土地の縁者と観られる人が居る事が判りそれと結び付いたと大変喜びその系譜を信頼してしまいます。その搾取偏纂の系譜は遠方の人が持っていた系譜でした。ところが四国地元のある土豪(乙部氏)の家にその本当の系譜が存在しているにも関わらず作られた系譜が偽であるにも関わらず知らないで信じ込んでしまいました。こうなるとどうしようも有りません。
系譜にはこの様なトリックがあるのです。

[甲斐青木氏の系譜]
「直系青木氏」
「割菱紋青木氏本家」
時光(信義より6代目)-常光-信連-貞義ー義遠ー安遠-義虎-信種-信親-信時-信安(常光寺に墓所16代目)-信就-信幸-信峯-信祐-信任-信*-信考(22代目 割菱紋系 本家)
系譜を繋いで調べ挙げると以上の様に成ります。

注 信生は信安の義弟 落合氏の子 養子婿 信時の養子となる
この中で、添書から先ず、柳沢氏への疑問事と信生(前述)の事が出てきました。

「割菱紋分家の柳沢氏」
割菱紋本家から柳沢氏に跡目を入れた形に成っています。

ところが、本来は割菱紋から分離した花菱紋の柳沢氏が豊定より発祥しています。

史料によると、「柳沢」の事が出て来るのが1433年頃に「柳沢衆」とあり、特に氏を名乗ったという形では有りません。武田一族の「柳沢の衆」と呼称する「古来の慣習」と観られます。

添書によると、割菱紋系列の安遠-信興(時光7代目 義虎の弟)が”柳沢氏を称する”とあります。
この系譜では割菱紋青木氏より7代目に初代柳沢氏が発祥しています。

問題はこの7代目がどの様な人物でどの時代になるかの問題です。
柳沢氏は後述しますが、先ず系譜では豊定14を元祖としています。
最も栄えた時期は柳沢吉保です。豊定より5代目です
とすると、この時光7代目のところで柳沢氏が発祥したのか、豊定後の事かの検証が必要ですので、関わりはあります。しかし、青木氏系譜の柳沢氏の史料には豊定が元祖とあります。
系譜と添書を繋ぐと次ぎの様に成ります。

「豊定の柳沢氏系譜」(割菱紋-花菱紋)
 別系譜では信生(割菱紋)-信正(割菱紋)-信定(割菱紋)-「豊定」(花菱紋)*-信立(花菱紋)*-信俊(花菱紋)-安忠(花菱紋)-吉保(花菱紋)-吉里(花菱紋)

「信興の柳沢氏系譜」(割菱紋  副紋は葉菱紋)
安遠-「信興」-貞興-信房-信兼-信俊-安忠-信花

この2つの柳沢氏の系譜には次ぎの違いがあります。
割菱紋を家紋とする(信生)-信正系で、信種の親の義虎系(信興の兄)で「信種」と異腹と観られる「信正」系譜から発祥しています。
信正は妾腹である為に家紋は「割菱紋に副紋葉菱紋」から「割菱紋」と成り、豊定のところで「花菱紋」に変紋します。

信種は本流の為に家紋は「割菱紋に副紋葉菱紋」です。
(信正と信種等に付いての関係は不明点があり後述します)

更に、「信立」なる人物が介在します。
この人物は系譜上からは存在しません。ただし、系譜添書では信種の子供の信親ではないかと書かれています。添書表現では”信親或いは信立”書き込まれています。
信種、信親、信正、信定、信時、信生の人物関係が他説が多くあり不詳部分です。(後述解明)

もう一つは系譜が示す「信生-信正」のルーツ説で信生は信時の子供信安と義兄弟です。
信生は落合氏の子供で信時の育てられたと添書にありますので、信正との間に系譜のズレらしきものが見られます。(とりあえずこのルーツで検証しています。)

一方「信興」(義虎の弟)は割菱紋に副紋葉菱紋です。

時光より7代目から11代目までが武田氏系青木氏の系譜の不詳部分で人物が判明しているが問題疑問の多い代です。この繋ぐ詳細な史料と系譜がこの研究課題です(後編 後述)。

本節の初期の前提で検証しますと次ぎの様に成ります。
前とすると、青木(武田)信興から途中で耐えた可能性があります。
後とすると、別の柳沢氏が発祥した事に成ります。重要な問題です

調査の結果、史料(武田氏)とこの上記系譜添書との突合せで判明しました。

時光系の本流の「割菱紋 葉菱紋」から上記1433年の「青木氏の柳沢衆」の絶えた跡目に本流から正式に「柳沢氏」を1525年頃に発祥させた事に成ります。
つまり、「柳沢衆」から「「柳沢氏」の変化です。
「信興」が「割菱紋 葉菱紋」を家紋とする「柳沢氏」を発祥させた事を意味します。

時光系の分流の割菱紋から「信正-信定」系で「豊定」が花菱紋の1567年頃に「柳沢氏」を発祥させた事を意味します。

武田氏滅亡後(1582)、大久保長安事件で、この武田信興は伊豆大島に長期流罪になり、柳沢吉保の口利きと保護の下で免罪となり一度吉保のところで保護されますが、その後、甲斐の天保動乱の中鎮める意味でも幕府の計らいで旗本に成ります。そして、甲斐八代郡500石で戻る事に成った人物がこの武田信興であります。
甲斐の戻った後に、系譜から「割菱紋」の柳沢氏を一時期(1690年頃)に名乗った事(子孫不明)が判明しました。
一代限りと見られます。 一族の柳沢氏に感謝を込めてたか天保争乱中の身の安全確保為か名乗ったと見られます。


この様に、「4つの経緯」から「系譜と添書と古史料と家紋」の「4検証むから「7代目から11代目」の前後共に起こった柳沢氏(柳沢衆)の呼称を代表とする「生き様」があった事を意味します。

結論
4つの柳沢氏の発祥経緯
1 「時光系本流家」の「割菱紋 葉菱紋」の「柳沢衆」(1433)
2 「信興」の「割菱紋 葉菱紋」の柳沢氏(1525)
3 「豊定」の「花菱紋」の柳沢氏(1567)
4 「武田信興」の柳沢氏を一時呼称(1735)


注 この「武田信興」なる人物は本家筋を担い武田氏滅亡後で大久保長安事件で流罪になった人物です。(武田信興は武田信道の子)
注 ほぼ同時期に「青木信興」なる人物が居て、時光より7代目に有り、柳沢氏を名乗るとあります。
注 「武田信興」(1690)と「青木信興」(1525)と同一人物かは判明できない。
注 「武田信興」は大変長寿であったと記録があるが年代が異なります。
注 一般公開されている史料の柳沢氏(青木氏)は系譜や添書や家紋等の検証が成されていないのです。

柳沢氏の家紋と云われているものには次ぎの4つがあります。
1 花菱紋(豊定系柳沢氏 甲斐甲府藩)
2 4つ花菱紋(吉里系柳沢氏 大和郡山藩)
3 割菱紋(信興系柳沢氏 本流本家筋)
4 葉菱紋(信興系柳沢氏 本流分家筋)

  
1 花菱紋は兄正定の青木氏の花菱紋と弟豊定の柳沢氏の花菱紋があり、地域は巨摩郡の北域に多く分布します。何れも別家を興した氏ですので父親信定の割菱紋を使えません。
吉保の甲府藩主の時代までに使用した家紋です。

2 4つ花菱紋は4つの花菱紋を組み合わせて菱形に割って配置している家紋です。
信定の割菱紋に類似させて花菱紋を図案化したものです。
これは柳沢吉保跡の吉里が大和郡山藩主に移封された時に家紋化したものです。
大和郡山柳沢氏の家紋です。

3 割菱紋は信興の本流の家紋で1433年頃からの武川筋の青木氏の伝統家紋で副紋を葉菱紋としていました。1525年ごろからの武川衆に成った時に使用した本流の本家筋の家紋として使用したものです。
巨摩郡南域から柳沢郡域にまたがって分布する家紋です。

4 信興系は割菱紋 葉菱紋を使用している本流ですが、この分家筋が副紋の葉菱紋を家紋としたものです。柳沢葉菱紋として有名です。柳沢郡域に分布する家紋です。

注 現在の家紋分布は4つ花菱紋を除き徳川氏仕官と武川筋の代替地で多くは中部東から関東全域に移動しています。
注 信興や義虎-信種らの割菱紋 葉菱紋の本流派は、皇族賜姓青木氏の源光系の菱紋と割菱紋の宗家との違いを出す所から時光系の本流は副紋を「葉菱紋」として使ったものです。
注 信正-信定の妾子分流派はこれに対して葉菱紋の副紋を外し割菱紋のみとしたのです。何か意味合いが感じられます。

この様に家紋に依って何処の氏の柳沢氏かを判別する事が出来ます。
インターネット等の一般公開の史料はこれらの総合的判断による分類が出来ていません。
この様に、家紋に代表されるように青木一族の柳沢氏には青木氏を物語る意味合いを多く持っているのです。


「割菱紋の柳沢氏の意味」
柳沢氏の発祥経緯は記録から観ると、次ぎの様に成ります。
1433年頃に柳沢の呼称が出てきますが、この時代の「柳沢」は当時の呼称としての慣習から地名を採り「武田一族」の中で「柳沢の何者」と呼称していたと見られ氏としての発祥という経緯では無いと観られます。
次ぎに観られるのは、1521年に柳沢氏を記録として名乗っているものが有ります。
多分、年代からこの人物が「青木信興」であると観られます。
当然に、系譜から青木義虎の弟であるので「割菱紋 副紋葉菱紋」と成ります。
しかし、この「青木信興」の柳沢氏は大永年間の武田一族の争いで絶えます。

つまり、豊定の前と成りますので、系譜の割菱紋青木(武田)信興の柳沢氏が一時一代程度で発祥した事に成ります。「割菱紋柳沢氏」が発祥した事に成ります。
(この割り菱紋子孫が存在する事に成りますが不明です。)
つまり、豊定の花菱紋の柳沢氏では無く、信定までの割菱紋の柳沢氏を本筋として発祥させた事を意味します。割菱紋の武田氏の中での家柄と正当性の意味するところが判ります。
その前に信定の(信之)養子事件が起こっていた事に成ります。(後述)
とすると、それだけにこの割菱紋の「柳沢郡」(武田氏一門にとっての柳沢氏と血縁性の無い青木氏との関係が目立ちます)の存在価値を意識していたことを意味します。

後に、柳沢吉保(1688年頃 100年前史実)の上記の結論のこの事は承知していて系譜の一部偏纂(信立等の系譜の疑問)した事の可能性があります。
「信立の人物」の件や「信俊-安忠」の共通系譜の件を組み込んで立身出世にあわせて「4つの柳沢氏」の「統一系譜」を創り上げて「一条氏家柄拡大」の事も含めて世間に喧伝したと考えられます。

7-11代の同時期に生きた「信定」は、この信興に割菱紋の柳沢氏を別に立てさせるのでは無く、他人の柳沢郡青木氏をつくり出して、本流の信興柳沢氏を無視した形で、敢えて柳沢郡は柳沢氏(豊定)の花菱紋と柳沢郡青木氏(信之)の花菱紋のものであると誇示したのではないでしょうか。

柳沢吉保は、「信定」の取った処置が愚策で合ったと認識していた事と見られ末裔に影響を与えていた事に成ります。それだけに「柳沢氏の系譜偏纂」やこの「丸付き紋の変紋事件」や末裔信政の下記の系譜編集時の「否定細工」に繋がったのではと考察しています。

次ぎに進めて、そこで、前述の信生の割菱紋から4代目に花菱紋(正定と豊定)が出ている事に成りましたのでその分家筋を更に調べます。

「割菱紋分家」
割菱紋分家 その2が系譜から確認出来ました。(柳沢郡青木氏の疑問)
信生(16代目養子)-某(信正)-信定-信之(養子)-信茂(養子)ー信也-信考(養子)-信並-信*(割菱紋系 分家)

この分家の系譜もあります
注 信生は信安の弟 信生は信時に養われる 信生は武田氏家臣落合常陸守信資の子
信安は常光寺の最後の時光より11代目の祭祀の人。

この系譜添書には故意的と観られる全て+100年の年代誤差があります。
この系譜は”信政が作る”と添書にあります。
この信政は正定の別家の花菱紋分家(本来は本家 正定が別家を興した事による。詳細後述)の寛政時代の人物です。
別家の添書と系譜とこの系譜のその2を信政(正重系)が意味を持って割菱紋分家の系譜を改めて完成させた事が判りました。江戸の末期寛政に作った事が判りました。
寛政期には寛政史書が出来ています。この中に「寛永青木氏第三の系図」としての事が書かれています。
別家を興した花菱紋の末裔以外に、もう一つの信生の末裔で信定の時に信之を突然養子にし柳沢郡青木氏を継承させると云う事件が起こります。
この別家の末裔がこの柳沢郡青木氏の正当性を疑問視して故意的に,年代のズラシと信正を某とするなど偏纂した事に成ります。調べれば直ぐに判る偏纂です。
又、この氏の信之(実家和泉守)が義父信定の妻の実家の桜井氏(安芸守)を頼って安芸に出かけた事も添書にこっそりと書き添えて違いを見せています。
柳沢郡青木氏の系譜の序文に毛利氏に仕官した経歴や墓の有無までを詳細に明記しています。

「花菱紋青木氏本家1」
信生16-信正17-信定18-正定(19代目 花菱紋青木氏の元祖)-豊勝-豊信-(花菱紋は断絶-花菱紋系に引き継ぐ)-昌輝が継ぐ

「花菱紋柳沢氏本家」
信生16-信正17-信定18-豊定(19代目 柳沢氏継承 花菱紋柳沢氏の元祖)-(後述)

「花菱紋青木氏別家 (正重系系譜)」
信生-信正-信定-正定-正重-信久-信知-信秋(青木市郎の次男より養子になる)-信富-信保-正満(石川氏4男養子)-信政(花菱紋分家1-後述 系譜編集者)

「花菱紋青木氏本家2 本家1継承 昌輝分家で継承(昌輝系譜)」
信生-信正-定信-正定-昌輝(大井氏に養子後、豊信の青木氏本家に戻る)-正寛(大井氏次男 青木氏本家を引き継ぐ)-正教-教豊(養子)-昌那-長国-満眞-(割菱紋から-花菱紋に変紋)

「花菱紋柳沢郡青木氏本家」
信生-某(信定)-信定-信之(養子 高尾伝九郎久治の三男)-信茂(養子 多田新八郎の三男)-信也-信考(婿養子 小野朝右衛門高騰の次男)-信並-信*

この「系譜」と「添書」と「他の史料」の詳しく研究し検証した結果から判った事が次ぎの11点であります。
1 武田氏の第2勢力を誇る割菱紋の一族は本家筋の末裔「信生」から分家が出ている事。
2 この割菱紋本家筋は正定の孫の豊信のところで末裔無しにより断絶した事。
3 この断絶した花菱紋本家を正定(花菱紋青木氏元祖)の子昌輝が一度大井氏に養子に入り、再び断絶した花菱紋の父の実家(断絶)に戻った事。
4 引き継いだ「花菱紋分家」筋は昌輝より「花菱紋本家」となります。
つまり、正定の本家花菱紋は正定の分家花菱紋に引き継がれている事に成ります。
5 花菱紋の青木氏は正定より発祥した事に成ります。
6 正定には長男豊勝(実は正定の弟)と次男昌輝と三男正重と3人子供がいた事に成ります。
7 嫡子豊勝(実は正定の弟 養子)の本家を次男昌輝(正式に子正寛継承)が本家を継ぎ直した事に成ります。
8 青木昌輝が大井氏の養子となりますが、昌輝の子嫡男には大井氏を継がせ、父昌輝は断絶した実家本家に戻る事に成ります。そして、次男大井正寛はこの実家の花菱紋本家青木氏を引き継ぎます。
(青木昌輝-大井昌輝-青木昌輝 大井正寛-青木正寛)
9 柳沢氏は正定(19代目)の弟の豊定が花菱紋柳沢氏を発祥させている事に成ります。
10 割菱紋青木氏本家より割菱紋柳沢氏を武田信興(信義12代目)が称する。
11 以降信義19代目豊定で花菱紋柳沢氏を発祥させます。
12 時光系青木氏から出た柳沢氏は割紋菱と花菱紋の柳沢氏(現在の本家筋と成っている)が2氏が存在する事に成ります。(割菱紋柳沢氏の存在が未確認 花菱紋に変紋統一)

注 武田信興(時光より7代目)は柳沢吉保の口利きで流罪伊豆大島より戻り吉保の下で生活するが、その後幕府の許可を得て八代郡500石として旗本となる。この時、割菱紋の柳沢氏を称する。
系譜と史料とで花菱紋柳沢氏と割菱紋柳沢氏の2流がある事に成ります。これがどの様に絡んでくるのかは現在不明です。
兎も角も、柳沢郡青木氏は武田氏滅亡前に”信定の妻の実家に移る”とあり、これが後に「丸に花菱紋」と「曹洞宗改宗」の事件の鍵を握ります。(詳細後述)

[甲斐の異質慣習]
先ず、甲斐の皇族賜姓青木氏は発掘によりその定住跡と菩提寺跡と守護神が寺本に確認できましたが現存する皇族賜姓青木氏の本家は笹竜胆紋で浄土宗を護っています。

この甲斐武田氏系の青木氏は「嵯峨期の詔」(第6位皇子の源氏系であるので朝臣族)に基づき青木氏を名乗りましたが、当然に時光のときは「浄土宗」寺でした。嵯峨期の詔を使えば当然に「笹竜胆紋」と成る筈です。しかし、この割菱紋です。綜紋笹竜胆紋を使えない理由がある筈です。
其れは、武田氏の出自に拠ります。
家柄と身分での違いです。武田氏は清和源氏と大々的に甲斐源氏の名乗っていますが、系譜からは明らかに清和源氏分家頼信系で河内源氏の支流の傍系です。これも系譜からは次ぎの一条氏の名乗りと同じく誇張領域です。つまり、義経頼朝の本流に対して傍系ですので明らかに笹竜胆紋は使えません。

初代の武田氏の武田信義が浄土宗明楽寺を開基します。
2代目武田氏の次男の武田忠頼の時に浄土宗宝林寺を中興開基します。
忠頼は甲斐一条氏を名乗る。(武田忠頼は一条郷の出身です。)
一条氏を忠頼は名乗った事により氏が異なることから「浄土宗明楽寺」から独立して「浄土宗宝林寺」を開山する必要に迫られた事に成ります。(一条氏は後述)
源の時光(6代目)より青木氏を発祥させた事により氏が異なる事で「浄土宗明楽寺」から離れ新たに皇族青木氏2代目常光の時に自分の名を採用して青木氏の氏寺の真言宗常光寺を中興開山し事に成ります。ここで、改宗していることに成ります。
しかし、この間、元祖時光の菩提は「中興開山」である以上は元の浄土宗の寺名は何であったのかは不明です。又は明楽寺に一時祭祀されていた事も考えられます。

時光は浄土宗であり青木氏を発祥させた事から甲斐の全青木氏(源光系賜姓族含む)の浄土宗菩提寺を計画します。
時光2代目常光は青木氏でありながら一条氏を名乗っていることから時光の計画に乗れなく成ります。そこで常光はこの計画が完成する前後に時光が没しましたので、一条氏の真言宗の寺に改宗し寺名に自分の名をつけた事に成ります。
これでは他の青木氏(菱紋と割菱紋の源光系)はこの寺を菩提寺にする訳にはいかなく成ります。
一条氏系青木常光は親青木時光を祭祀する寺が無い事に成りますし、元の計画者でもあり放置できない親であり真言宗常光寺に無理やりに祭祀する以外になくなります。
この様な背景の中で、青木氏でありながら家柄誇張の為に筋違いの一条氏を更に名乗り、その宗派を真言宗に中興開基したのです。
これと同じ事が、時光より11代後(時光より11代目)にも再び起こります。
時光より13代目信定が、この常光寺を3度目に中興開基して今度は「曹洞宗」に改宗してしまいます。
この様に、「繁栄衰退の栄枯盛衰」も含めて「宗派対立の因果応報」の繰り返しがこの甲斐の武田氏に降りかかっているのです。

[改宗経緯]
1 信義より6代目時光まで浄土宗明楽寺(後に浄土宗宝林寺に中興開山)を菩提寺とする。
2 信義より2代目忠頼謀殺で後に宝林寺は一蓮寺の尼寺として中興開基します。 
3 信義より7代目常光から真言宗常光寺を中興開基します。16代目信安まで。常光寺に墓所あり
4 信義より18代目信定は曹洞宗常光寺と開山します。
5 信義より19代目正定は浄土宗源空寺を開山します。(花菱紋青木氏発祥)
6 信義より19代目豊定は浄土宗光沢寺を開山します。(花菱紋柳沢氏発祥)
7 柳沢郡青木村の青木氏は真言宗常光寺を再興します。(丸に花菱紋を継承 後述)
8 明治の廃仏毀釈で浄土宗源空寺は廃寺と成ります。
9 柳沢氏の浄土宗光沢寺は郡山に転封で永慶寺(岩窪)-大泉寺(廃仏毀釈で廃寺 護国神社)
10 浄土宗源空寺の花菱紋の氏は浄土宗派と真言宗派と曹洞宗派とに分かれる。
11 現在の花菱紋の曹洞宗派の青木氏の一部は曹洞宗南明寺に入信した可能性あり。(不詳)
(浄土宗派花菱紋の青木氏、真言宗花菱紋の青木氏は武田氏滅亡で関東に移動したので現在未確認)
12 天正期の時、曹洞宗派は武田氏滅亡で衰退した元の常光寺を再興、別に常光寺曹洞宗派を引き継ぐ。(丸に花菱紋を寺紋と成っている)
13 青木常光の改宗で、明治まで真言宗派と浄土宗派と曹洞宗派に分かれる事に成ります。
14 信義より19代目豊定は柳沢氏を発祥させる。
15 柳沢氏菩提寺の浄土宗光沢寺を開山する。(信定の子正定と豊定は兄弟)
16 19代目信之に柳沢郡青木村青木氏を発祥させる(後に丸に花菱紋が出る 曹洞宗常光寺再興)
17 信生(信安の義弟)から信正-信定(曹洞宗)-正定の浄土宗系譜が出来る。

以後、以上の経過を経て花菱紋青木氏は明治の廃仏稀釈まで代々祭祀します。

[武田氏の発祥経緯]
花菱紋は武田氏の家紋で、時光系で発祥。(嵯峨期詔青木氏 朝臣族と宿禰族皇子)
武田菱紋と割菱紋は武田氏の家紋で、源光系で発祥、甲斐皇族賜姓青木氏との血縁で発祥。(皇族賜姓族 皇族賜姓族は天智期詔青木氏 第6位皇子)

当時は「氏家制度」の中、血縁は身分制度(甲斐の皇族賜姓青木氏は光仁天皇第6位皇子、朝臣族、浄広1-2位を持つ天皇に継ぐ最高身分家柄です)の吊りあいによって行われる慣習でした。
そこで、当時、最大勢力を誇った武田氏ですが、元は陸奥の豪族であり、陸奥の鎮守府将軍として赴任中の藤原秀郷一門と血縁をした小田氏が在りました。秀郷一門が甲斐に赴任替えに成った時に護衛として藤原秀郷流青木氏と共に同行した小田氏の一部が甲斐に定住した氏です。
その後、勢力を持ち甲斐の最大豪族と成り上がった氏で、武田の地名を採り土豪武田氏を名乗ったのです。
そこに、清和源氏の義清が武田冠者として赴任し、小田氏の武田氏と血縁し、清和源氏の血筋を引く武田氏が発祥しました、この初代が信義です。
この小田氏の一部は、その後、再び秀郷一門の国に同行して常陸に移り、「関東屋形」と呼ばれる日本最大の豪族の有名な3氏の一つと成りました。甲斐の武田氏と常陸の小田氏は親族です。

この清和源氏系となった武田氏と、甲斐の守護王であった皇族賜姓青木氏との間で血縁を結んだが源光系の武田系青木氏(賜姓族)です。
当然、武田氏より身分は数段青木氏の方が上です。先ず、賜姓青木氏は天皇以外に上に来る身分は無いのです。
ところが、本来は、天皇より皇族賜姓青木氏に与えられた綜紋の笹竜胆紋ですが、武田氏と血縁をした際に、皇族賜姓青木氏の本家筋の方に男系跡目が出来ずに居ました。
先ず、政治的に土豪との結びつきを良くする為に、武田氏から養子を迎えたのです。ところが、この養子婿との間に嫡男に恵まれず、一時、家紋は氏家制度の「家紋掟」により養子婿先の菱紋に変紋を余儀なくされました。次ぎに再び養子を迎えましたが、この時も嫡男に恵まれずに、最終この賜姓青木氏の一部が女系となり「笹竜胆紋」に戻る事は出来ませんでした。
つまり、賜姓族でありながらも、「氏家制度」では「男系」で言いますので武田氏系の方に系譜がなると云う事です。これが、甲斐の皇族賜姓青木氏の武田氏系青木氏です。
同じ事が割り菱紋との血縁もした事に成ります。この賜姓族も同じ事が起こってしまった事を意味します。甲斐の皇族賜姓青木氏本家は存在して、本家筋の嫡子外の分家筋が武田氏との血縁に成った事を意味します。
しかし、武田氏の一門に入りましたが武田氏の家来では有りません。
あくまでも、甲斐の皇族賜姓青木氏の一門です。
これが、時光の弟の源光系の武田菱紋、武田割菱紋の青木氏です。
時光系と源光系の間には身分家柄の違いが歴然として起こっています。
この皇族賜姓青木氏の「青木氏氏 研究室」の関連レポートに詳細があります。
「藤原秀郷一門の生き方」や「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」等にも甲斐の皇族賜姓青木氏との関係も詳しく記録しています。
しかし、この武田氏も遠くは藤原秀郷一門の血筋(藤原鎌足より8代目-11代目くらいの北家一門の血筋)も引く名門です。

[皇族賜姓青木氏の経緯と身分家柄]
皇族賜姓青木氏は天智天皇の「大化改新」で天皇を凌ぐ専横を極めた応仁期の渡来系の蘇我(入鹿)氏を中臣鎌足と共に倒して、政権を取り戻しましたが、その時の反省から、天智天皇(中大兄皇子)は”自分の身は身内で守る”ことを決意して、皇位継承の制度を変更しました。
その制度の概要としては、皇子の内、第6位の皇子を臣下させて、賜姓(天皇自ら子供に氏を与える事)して「青木氏」とし、象徴権威紋の「笹竜胆紋」と、天皇家ステイタスとして「仏像(鞍造部止利の作 大日像坐像)」を与え、その神木として青木の木を定めました。(象徴三物)
そして、その官職を天皇を守る「親衛隊」としその官職を...左衛門佐尉、右衛門佐尉とし、又民部佐尉の官職名を名乗らせました。身分は真人族(第4位皇位継承皇子まで)に続く朝臣族(第6位皇子)としたのです。
それの初代が、日本書紀にも出てきます中大兄皇子の施基皇子(最終は「浄大1位」の身分)で、天領地で守護神伊勢神宮の伊勢の守護王と成りました。伊勢青木氏には「永代不入不倫の権」を与えました。

注 左衛門佐尉、右衛門佐尉は宮廷の三門を護る官位で「佐」は上下2段、一階級下の「尉」も上下2段で構成されています。周辺警備隊の「民部」も同様の階級で構成されています。
注 「浄大1位」は身分制度の最高、これ以上は天皇、皇族の皇太子は一段下の浄広1位-2位、皇子は浄広3位です。
注 「永代不入不倫の権」は永代に如何なる理由があろうとこの地と氏には侵入したり攻めたりする行為一切をしては成らないと云う詔です。
信長と秀吉による「天正伊賀の乱」(3度)までこの詔は伊勢では破られる事は有りませんでした。

施基皇子は天皇の補佐役として働いていましたので、朝廷は三宅岩床を国司として派遣しました。
これらの詳細は日本書紀に書かれています。
「日本書紀と青木氏の関係レポート」を詳細参照して下さい。
これが伊勢の皇族賜姓青木氏です。
この制度が、その後、天武、文武、聖武、光仁天皇の第6位皇子が、天領地で防衛主要国の近江、美濃、信濃、甲斐の国の守護王となって赴任し引き継がれて行きました。

「源氏発祥の経緯」
光仁天皇(伊勢施基皇子の長男)の子供の桓武天皇はこのシステムを嫌い自分の母方の渡来系阿多倍一族に賜姓をしました。これが「たいら族」で後に太政大臣に成る平清盛です。
これを嫌った桓武天皇の子供の嵯峨天皇が制度を元に戻しました。
この時、第6位皇子は賜姓「青木氏」ではなく、賜姓「源氏」として賜姓する事にしました。
そして、賜姓青木氏は、皇族の者が下俗する際に使用する氏とする事を「弘仁の詔」を発して決め青木を一般に使用する事を禁じました。明治3年まで原則的に守られました。
当時、女系天皇が3代も続き、男系の皇位継承者が居なくて止む無く第6位皇子の子孫である伊勢王の施基皇子の子供が皇位(光仁天皇)を継いだのです。伊勢青木氏より出た事に成ります。
したがって、賜姓伊勢青木氏と賜姓甲斐青木氏は従兄弟の同族と成ります。
賜姓源氏は11代続きました。この中でも、清和源氏とこの賜姓5家5流との同族血縁をしました。
清和源氏とは義経や頼朝ですが、三男頼信の分家子孫です。
伊勢は長男頼光系との同族血縁、甲斐は頼信系との同族血縁をしました。
当時は純血を守る為に皇族系では同族血縁の習慣が主流であったのです。

「武田氏栄枯盛衰」
武田氏発祥後は「4度の衰退と復興」の歴史を持っている。
1184年、2代目武田忠頼が頼朝に謀殺されて鎌倉幕府の圧力で衰退し盛り返す
1417年、室町幕府により武田信満が天目山木賊村で討死し衰退(家臣裏切り)
1582年、武田勝頼か天目山田野村で討死し衰退(家臣裏切り)
1688年、武田氏柳沢吉保が甲斐三郡の領主に返り咲き成る。
1690年頃、武田信興が吉保の口利きで流罪放免し八代郡500石に戻る。
1709年、武田氏柳沢吉保が奈良郡山の領主に移封と成る。

頼朝に忠頼が謀殺され衰退し、盛り返して今度は信長に潰され、武田氏系青木氏は藤原秀郷一門の勢力圏の横浜、神奈川に藤原秀郷流一門青木氏を頼って逃げ延びました。そこで、再び花菱紋の時光系の皇族青木氏が子孫を広げます。

甲斐青木時光は摂津の地頭として働きました。
その子孫(時光より2代目常光)が、常光寺を当初菩提寺にし、その後に花菱紋を甲斐で維持している氏があるとすると、柳沢氏が甲斐三郡の領主になり、その時に甲斐に戻ったと観られその横浜神奈川域に逃亡した甲斐青木氏本家筋に当ると見られます。しかし、果たして、1575(1582)-1688年113年間も経過して戻られるかの疑問も残ります。私が持つ系譜で見るとこの期間内では本家筋は戻っていない事に成ります。
当然、この後、直ぐに柳沢氏が奈良郡山に移封された時には同行する事に成りますので残るとすると浪人となる以外にありません。この時期、甲斐では天保騒動112年間続いています。
この中で浪人までして生きるか死ぬかの中で個人ではいざ知らず氏家制度の中で武士をして氏の保護のない所では先ず無理と観られます。出来たとして特例で多くの家臣を抱えての本家筋が先ず出来ることでは有りません。

同じ、武田氏系青木氏でもなかなか、この花菱紋と青木氏菩提寺の二つの条件を維持して行くのは長い歴史の中では困難です。多くは、菩提寺や家紋を変更せざるを得ないのです。
しかし、この系譜の末裔が調査の結果、二つの条件を現在維持していると観られるのは、その皇族青木氏と相当に本家筋に近い一族である事です。
簡単なようですが、本家の目的義務を長い期間を維持する事は普通では出来ない大変な努力が必要です。大抵は分家は伝統を無くしその家の宗派や家紋すら忘れ去られているのです。

[青木村の形成]
青木氏は”何処にでもある青木”と思われているところがあります。
ところが、大化の天智天皇より、唯一独自の村を形成したのは先ず青木氏なのです。
と云うよりは「青木村」を形成が認められたのは皇族の賜姓族の青木氏だけなのです。
当時の習慣で、地名から氏名にした氏名が全てでしたが、中大兄皇子が初めて賜姓をしたのが、伊勢王の施基皇子の青木氏で、それを村名にしたのが始まりでした。
その伊勢には、桑名、員弁、四日市、名張、松阪のその「青木村」が有り、現在も存在しています。
これ等”しき”と言う地名では、以下の通りです。
桑名京町、松阪京町、四日市京町、伊勢市一色町、津市一色町、四日市一色町、河芸一色町、久古一色町、施基、磯城、...10程あります。
全て”しき”と読みますがこの名が多いのです。(一色をいっしきと呼称するのは室町末期から)
当時、奈良時代では施基皇子の個人名を特別に地名とする事を朝廷から許されたのです。
ですから、「氏名」を地名にする習慣が無かったのです。
もっと云うと、「氏名」そのものを持つと云う習慣がなかったのです。ですから、”何処の土地の何々者だ”と云うように成っていました。
中大兄皇子が第6位皇子に青木氏を賜姓をし、住んだ伊勢の地名が「特別な氏」であるところから「青木村」と名付ける様になったのです。
「氏名」を地名にするのは「特別な氏」(青木氏)しか習慣として認められていなかったのです。
そして、ですから、その「氏名と地名」の「青木」の使用は嵯峨天皇が「弘仁の詔」を発して一般に使う事を正式に禁止したのです。
ですから、「青木村」は氏名から地名となったもので、賜姓青木氏と皇族青木氏が住んでいた5つの守護国の国府に「青木村」が必ずあるのです。これが歴史的な所以なのです。
明治以降詔が解けて青木村が多く出来たのは「第3氏」「未勘氏」の結果です。
天智天皇は第7位皇子(川島皇子)に特別賜姓しましたが、天皇はこの原則を護り、川島皇子が住んでいた土地の地名を採り近江佐々木氏を賜姓すると云う経緯があるのです。
但し、朝廷は藤原秀郷流青木氏には督励で認めましたので藤原秀郷一門の青木村があるのです。
赴任地24地方には藤原秀郷流青木氏の始祖「千国」等の地名もあるのです。
藤原氏北家でも藤原の地名は少ないのです。あるとしても、明治以降に名付けられたものと観ます。

ですから、甲斐の青木村の二つはその習慣から賜姓青木氏系であり、武田氏としては当初は賜姓青木氏と繋がる割菱紋から出た花菱紋ですので巨摩郡青木村と柳沢郡青木村があり、「第3氏」「未勘氏」の青木氏の村では無い事に成ります。
「地名地形データーベース」を参照して下さい。

[嵯峨詔で認められた氏」
念のために、この習慣を認められた氏が他に2つあります。
一つは、皇族賜姓佐々木氏です。
上記した中大兄皇子の第7番目の皇子(施基皇子の弟)の「川島皇子」です。
特別に第7位皇子にもその功績を認めて近江佐々木村の地名を採って「佐々木氏」を中大兄皇子は賜姓したのです。
地名から氏名を賜姓された最初の賜姓佐々木氏です。
この後、青木氏と共に、佐々木氏も宇多天皇が第6位皇子に佐々木氏を賜姓して滋賀の守護王として賜姓しました。
これが「近江佐々木氏」と「滋賀の佐々木氏」です。
有名な剣豪の佐々木小次郎はこの近江賜姓佐々木氏の末裔です。

もう一つは、鎌足の子孫の藤原氏です。
藤原氏は四家(北家、式家、南家、京家)と言って4つの一族家がありましたが、勢力争いがおこり「北家」が勝ち他は絶滅に近く衰退しました。
この中でも藤原秀郷一門が最大勢力を広げました。この一族には主要5氏(青木、永嶋、長沼、長谷川、進藤)が在りますが、中でも、藤原秀郷流青木氏が最大勢力を持ち、「第2の宗家」と呼ばれていました。
この青木氏は母方で5家5流の皇族賜姓青木氏で繋がっています。
藤原秀郷は朝廷に青木氏を使用する事を願い出ました。許されて958年頃秀郷の第3子の千国が始祖として貴族の身分から臣下して藤原氏を護る護衛隊としての役割を担いました。
そこで、天皇を護る親衛隊の青木氏と血縁と役目で同じであることから朝廷はこれを特別に許したのです。
これが藤原秀郷流青木氏です。116氏に広がっています。
特別の氏名を地名として使用を許されたのはこの2氏です。
ですから各地には青木村が多いのです。
これ等の土地は皇族賜姓青木氏6家6流29氏と藤原秀郷流青木氏116氏に関わった土地柄が殆どです。
地名に付いてのデータは「地名地形データベース」のメニューを参照して下さい。

[青木氏の由来]
そもそもその「青木氏」の氏名の由来は、次ぎのことから来ています。
中大兄皇子が施基皇子に与えた「青木」の理由は、常緑樹「青木」と云う木があります。
この木は奈良期より「榊」と共に「神木」として使われていて、その木の性質から真っ赤な1センチ程度の実を着け、木と葉は共に緑で枯れずに成長が早く枝を真っ直ぐ伸ばす性質がある木です。
その実の赤は血を表し、常緑の緑は体を表すもので、全ての命の根源として扱われていました。
つまり、この第6位皇子は天皇の皇子、「民の象徴」の皇子として、この木の「青木」の名から与えたのものなです。
これ等のことは詳細に、「皇族賜姓青木氏関連のレポート」と家紋の笹竜胆紋のところにも写真つきで記載しています。
甲斐の国府のあったところの県庁所在地ですが、武田氏系青木氏の韮崎の周辺は青木村が有ったところで現在も清哲青木町があります。「地名地形データベース参照」

「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」の青木氏29氏の所のレポート観てください。

[青木氏墓石の慣習]
さて、甲斐の青木氏の花菱紋に関わる出来事があります。墓石のことです。
昔、室町末期、江戸初期、明治初期頃にこの様なステイタスに関わるものが盗まれると云う事件が各地で起きました。
この原因の一つには、明治政府の失策「廃仏毀釈」です。
これにより、「伝統」が壊れる事が起こりましたので、民は反発をして「一族の伝統」を隠す行為をしたのです。また、逆に、その伝統を盗み自らの出自を証明するものとして盗みの行為をしたのです。
(明治政府はこの「伝統」が政策実行に対して邪魔に成った事は否めません。江戸幕府はむしろこの「伝統」を遵守して強化したので300年という封建社会を維持したのです。逆に終末、この「伝統」を重んじ過ぎて大勢を疲弊腐敗させる原因とも成りました。平安時代も同じで鎌倉幕府の樹立につながりました。何時の時代も伝統-腐敗-維新のサイクルが起こります)

そこで、現在の使用されている墓石は、正しくは明治初期から使われている花崗岩、つまり大理石の墓石は江戸時代は使用していませんでした。
実は、昔の墓石は、泥岩や砂岩の石を使っていました。
これは、”魂と体は「自然に帰る」”と云う仏教的教えによるもので、そのために、”川原に帰る”を意味するところから川原にある石を使用したものなのです。
江戸中期以前の当時は、武士以上、庶民の裕福な者、農民の庄屋、名主等の身分のものが砂岩、泥岩等で墓石を作り墓所を設けていたのです。
庶民は、適当な川原の石を選んできて積み上げた川原に簡単な墓を作ったのです。ですから土葬でした。(この作業をする者を昔は「川原者」と呼んだのです。)
今でも”死して路傍の石になる”という言葉を使いますが、この「路傍の石」の言葉の由来はここから来ています。
どんな大名でも当時はこの石を使用していました。ですから、歴史探訪で墓石が大理石では虚偽となります。明治になって墓を綺麗に長持ちさせることを狙いに花崗岩の石にしたのです。
砂岩などは苔がつきやすく風雨で崩れやすいのです。昔は”自然に帰る”としてこれでよかったのです。

韮崎青木の常光寺にある11代の青木氏ばかりの古いお墓はこの石で出来ています。
墓石は塔(五輪の塔)のように積み上げていますか゛、これは50年経ったご先祖にはこの塔にするのです。それまでは、角墓石です。このお寺のお墓はこの泥岩砂岩で出来ています。
一条氏などの公家は真言宗高野山には歴史上有名な人物の墓石が在りますが、全てこの砂岩や泥岩の石で出来ています。ですから苔が生しています。”土に返る”はこの事なのですが、だから泥岩砂岩を使用したのです。
ただ、これ等の青木氏の墓石には、特長があります。
浄土宗の仕来りとして皇族賜姓青木氏、皇族青木氏の宗家、本家、主家の墓には習慣として「女墓」と「男墓」の2つがあります。
まず、「男墓」は全体を祀る墓です。そして、「女墓」は代々の妻及び子孫拡大に寄与した人物の「俗名」と「戒名」を書いた大きな平石の墓石があります。この様に別に更に特別に祀ります。
この様な事から「青木氏」は奈良時代から明治まではその青木氏の家柄から衆知の姓でしたので、それで各地の青木氏の墓が、「第3氏」や「未勘氏」を名乗る人たちや一般の人たちからよく各地で盗まれたのです。
特に女墓は戒名が書いていますので、証拠になるところから良く盗まれたのです。
ですから、「女墓」は廃れてしまったのです。今では多分5家5流の本家だけで女墓の持つ家は無いと思います。
甲斐の花菱紋の一族でもこの事は起こっている筈ですが、多分、逃亡の移動で女墓も無く成っていると思います。まして、甲斐の花菱紋の青木氏では特異に5回も改宗などの事件が起こっているのですから、男墓と女墓も消失しているでしょう。
さらにその上に浄土宗、真言宗、曹洞宗などの宗派争いが発生している事からも当然の事と思います。むしろ、起こらない方が不自然です。史実から観ても、武士が起さなくても寺側が起すことがあります。
この様に青木氏には伝統に支えられた細かい習慣があり、本家筋はこの「伝統」である「習慣」と「遺品」と「記録」を懸命に護っています。勿論、宗派もその一つです。
ですから、「伝統」の差が起こり、「夫々の伝統」を護ろうとして宗派間対立が生まれるのです。

甲斐一揆などは確かに政治に対する不満が大儀明文でしょうが、その殆どは宗派対立です。
その証拠に甲斐で起こった「天保騒動」(1724-1835)云う大変な騒乱が112年も続いて起こったのです。
この宗派争いの中で、花菱紋本家筋かその上の宗家には女墓か或いは子孫を生み遺した女性の戒名と俗名を書いた何物かが仏壇などに遺しているかも知れませんが現在確認されていません。
これはこの宗派対立を巻き込んだ騒乱が原因で現在でも墓、仏像、寺そのものが消失しているのです。

[家柄身分の考察]
その証拠には常光寺の菩提寺には11代の青木氏の墓がありますが、その周囲には個人墓も祭祀されています。
これ等の史実から、根拠の薄い矛盾を伴なう「一条氏」を名乗るほどに、家柄身分を誇張する傾向の強い甲斐の青木氏とも思えますので、特別の家柄として観て比叡山か高野山か清水寺などの浄土宗本山にも本家筋の墓所がある筈です。
これ等の事で筆者の家などにも口伝が多く遺されています。
余談を一つ披露しますと、徳川家康の3男の子供で紀州の徳川頼宣と伊勢で青木氏先祖と対面した時の出来事です。客殿座敷に殿様が座る上段の席が在ります。そこを降りて上席の上座を譲ったと伝えられ、祖父の代までの大正14年まで代々付き合いがあり、紀州徳川氏はこの仕来りを護ったと祖父から聞かされ伝えられています。
昔、歌舞伎でも、”おのれ、このわしが甲斐の山猿めらに上座を譲らねば成らないとは口惜しい”と将軍が怒鳴ると言う場面がありました。この”甲斐の山猿”は甲斐の皇族賜姓青木氏であったのです。
江戸初期のことで、甲斐の青木氏と将軍と対面する場面で、青木氏との仕来りを護らない将軍に対し挨拶もせずその場で立ったままにしているところ、家臣が将軍に仕来りを教える場面でした。
これも史実に基づいた事ですが。
更に、史実として、信長が、甲斐を打ち破った後、甲斐の豪族達と対面する時に、甲斐の青木氏の末裔は下馬せずに白装束の古来の正装で乗馬のままに挨拶をしなかったとして、刀の鞘で徹底的に打ちのめし半死の大怪我をさせると云う有名な事件がありました。
信長はその歴史的なことを知らなかったのです。
この二つの史実は甲斐での出来事です。当時の青木氏の習慣を知る事が出来る事件です。
余談ですが、普通とは少し変わった青木氏だけの古い習慣や口伝があります。都度雑学として知る事も良いのでは。そして、それを子供達に知らしていく事もよく、先祖を敬う口伝としても伝わってゆくのではと思います。

これ等の歴史的な事柄は次ぎのレポートを参照して下さい。
1 「青木氏の綜紋」関係
2 「皇族賜姓青木氏の背景」関係
3 「賜姓青木氏の弱体」関係
4 「青木氏の地名の発祥源」関係
5 「青木姓の発祥源」関係
6 「青木氏と血縁族」(家紋)の菱紋
7 「大化改新」関係
8 「天智、天武天皇の皇子皇女系譜」関係
9 「日本書紀と青木氏」関係
10 「青木氏と官位、官職、職位の研究」
11 「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」の4/10
12 左メニューの「地名/地形データベース」の山梨関係の2つ(地図を左クリック)

先ずはこのレポートとあわせて以上のレポートをお読みください。(左クリックで文章が出ます)
注意点
以上のレポートは無駄と理解の間違いを無くす為に論文方式で記述しています。
なれない文面でしょうから、暫くは難しいかもしれませんが我慢して読んでいきますと慣れます。
(読んでいる間に、ご質問、ご不明点が有りましたら、お尋ねください。)

そこで、”「花菱紋」の青木氏は「未勘清和源氏の武田氏系青木氏 尾張」”と書いていますが、研究では花菱紋が存在することは史実で検証出来ているのです。
今回の研究で系譜や添書や史料などから花菱紋の末裔が現存することが確認出来ました。
現在では、史実が消えてしまい個人情報保護で確認する事は不可能に成り、更に室町末期から以後の史料は「搾取偏纂」が殆どで信用できないのです。
ですから、現実に、”史実に合う確認が取れる”という事はこれは大変な出来事なのです。

[青木姓の由来]
そこで、既にレポートしていますが、改めて「青木の木」に付いて述べます。
余りそこらにある木では有りません。
賜姓青木氏の「象徴3物」というものがあります。
1笹竜胆の綜紋、
2大日像坐像、
3青木の木の神木
以上の一つの「象徴木」を末裔の人に、「先祖を敬う心」を根づかせる為に、何時しか末裔の誰かが知ってもらえるとして、言葉よりも「心の木」を植えたのが天智天皇です。
これ以後、多くの貴族などの氏は独自の木などを定め、それがシンボル化して何時しか家紋と成っていたのです。当然甲斐青木氏の花菱紋青木氏には浄土宗源空寺を開基した際には、そのステイタスとして、護り本尊として「仏像」を保持していた事が覗えますが、明治の廃仏毀釈で由緒在る源空寺は廃寺となりました。
恐らくは、明治期には真言宗常光寺から曹洞宗常光寺とめまぐるしく中興開基したことから、浄土宗源空寺の歴史的存在の理由を消却されて末寺として処理されてしまったのではと考えます。
浄土宗源空寺は曹洞宗常光寺以上に歴史的価値の在る皇族青木氏の菩提寺浄土寺です。
現在、その寺社跡があり、僅かに石燈や釣鐘や墓石などが遺されています。
又、天正2年ころから明治までその寺を皇族青木氏花菱紋の浄土宗菩提寺として護ってきた武田氏滅亡後、仕官先からの花菱紋一族と近隣の檀家が、その1500年以降の過去帳などが保存されています。
源空寺は武田氏滅亡で菩提寺を氏で護れなくなり広く浄土宗信徒(江戸の浄土宗督奨令で中級武士が入信)に門戸を開きました。これが近隣の檀家と成ります。多くは1688年頃の柳沢吉保の甲斐三郡の領主と成った時の家臣団の檀家と観られます。
その過去帳の戒名からもその末裔で在る事の証しを確認する事が出来ます。(戒名の証しは下記)
源空寺にはこれ等の檀家の過去帳等は廃寺の際には事務手続き上しかるべきところに保存されていると観られます。1575年から青木氏だけの氏寺ではなくなりましたので檀家総代は保存の義務を負っていると考えられます。

[戒名の意味]
この花菱紋の青木氏には、源空寺に開山当時からの何処にか「過去帳」が遺されていて「系譜と添書」と「史料」が出来上がっています。寛政の史書(1800)にもあるくらいですので、廃寺に成る明治まで後68年と成ります。そして、その史書の有無からそれが関東にある事を意味しています。
且つ、その系譜等の伝統を護ってきた本家末裔も関東である事に成ります。
花菱紋本家の青木信政が系譜編集に関わった事が添書から判明しています事からの裏付けられます。
この菩提寺過去帳の存在とその戒名の内容からその花菱紋青木氏の証しと成ります。

そこで戒名に付いて基礎知識として記述します。
戒名はその「家柄と身分と生様」を物語る物です。
現在はやや多く成りましたが、戒名の形の「院殿居士」をお持ちの氏は少ないと思います。
平安期からの戒名「院殿居士」は相当の家柄身分で無いと付けていません。
一つのステイタスなのです。
その「院殿居士」に付いて説明します。
一つはその人が「現世で行った功徳」を表現します。これが「院」で、より詳しくすると「殿」でも表現します。
次にその人の「人徳」または「人格」(性格)を表現します。法名などがこれに当ります。
漢文に成っています。
3つ目はその人の現世での俗名の二文字を戒名のどこかに組み込みます。
昔の戒名にはこの3つの意味合いが含まれているのです。特に浄土宗には。
この様に戒名を観ると、その人の現世での生きた大まかな生き方がわかるようにしていたのです。
明治以降はそのことが変化して無関係により聞こえよくする傾向が強く成りました。
寺と依頼する側の意向が働いているのです。

では、このような戒名を「院殿居士」(いんでんこじ)と云います。
先ず、観られない戒名です。現在に於いても。
昔、皇族系の者で花菱紋の様な皇族青木氏と菱紋や割菱紋の賜姓青木氏、賜姓源氏等の朝臣族と真人族や宿禰族等の者が皇位継承から外れた場合(第7位皇子第6世皇子)は門跡院を造って僧に成り入るか、比叡山の僧になって入るかの選択をします。皇女の場合は、「斎王」と云って伊勢神宮や天皇系の神社の「斎王」と成って入ります。そこで一生を終えます。
又、天皇を経験した人なども門跡院の仏門に入り天皇家とその一族の御魂を弔います。
この時に、「...院」としてその人を呼ぶ事に成りました。
つまり、俗世から離れた時(剃髪して仏門に入ったとき)に付ける「院殿」てす。
この慣習が特別な宗教(浄土宗、天台宗)で皇族、貴族、公家が入信する宗派で用いられる様に成りました。
この習慣が鎌倉期以降は少し上級武士にも用いられる事に成りました。
室町期ではたくさんの宗派が出来ましたので、寺の経済的な運営のことから、他の宗派でも用いるように成ったのです。
明治初期の頃までは中級武士でも用いられる様に成りました。
明治になっても、相当な資産家などが高額金品を寺側に渡して付けてもらう事になってしまったのです。
次に、「殿」も同じ経緯を辿りましたが、「法名」(仏法に基づく名)がつけられます。
昔は、同じ様に皇族系や貴族、公家、上級武士でなくては「法名」も持ちません。
これらの身分の者以外は戒名すらありませんし、墓もありません。川原に埋めるのが普通です。
「法名」がある事に成ると彼世の住まいとして「殿」が必要です。
つまり、彼世での法名、彼世での住まいの「殿」が必要と成りますので、「殿」が付けられるのです。
「住」では無くて立派な「殿」です。それが、今は現世でもその習慣が「...様」の「...殿」(どの)に成って使われているのです。
例えば、奈良に在る平等院の中にはたくさんの「...殿」が在るように「院」と「殿」を一つにして使う場合が多いのですが、「...院..殿」とする場合もあります。
次も、「居士」も同じですが、その「仏法」の位が高いことを示す階級です。
「居士」を付けない場合は「信女」とか「信士」とかを付けるか、全くな無しで、「俗名」を後ろにつけるのが普通です。現在もこの「居士」は特別な者しか用いません。
以上3つのその身分を示す表す方法として用いられたのです。
この3つを付けてくれと寺側に頼んでも昔はその身分に無い者には付けてもらえません。
誰でもつけるとその値打ちが無くなり寺側としての権威と経済的な裏づけはなくなりますので絶対に受け付けませんでした。
特に、浄土宗では厳格に護られました。江戸時代初期まで。ところが、檀家が少なくなって浄土宗は運営が出来なくなったのです。困った徳川幕府は「督奨令」を出して、武士以上の者に進めたのです。
浄土宗はこれ等の身分(皇族、貴族、公家)に支えられて権威と経済力で特定宗派として維持できていたのです。入信したくても出来ない宗派でした。江戸初期までは。然し、それでも駄目でしたが明治の苗字令で政府の援助もあり。廃仏毀釈の目的でもあり、増えたのです。
今でも多くはありません。
源空寺が廃寺の一つの原因です。
源空寺を支える人達の財力が低下した事にもよります。
だから、明治の廃仏毀釈で殆どの人は甲斐では元々常光寺「曹洞宗」と云う事もあり宗派変えの事も考えられます。

この「院殿居士」の意味は戒名の意味だけでは無く、改宗の原因でもあるのです。
現在でも、この「院殿居士」を付けてもらえるには、大変なお礼金額を出さないと付けてもらえません。多分、1割も無いでしょう。ですから、これだけでも、直ぐに判るのです。

花菱紋青木氏のことはこの「院殿居士」と曹洞宗「改宗」が繋がっているのです。
第3氏や未勘氏がどんなに繕っても絶対にごまかせないのです。歴史の慣習を知っていると。
甲斐全体でも現在でも4寺しか有りません。大変少ない県です(宗派別データを後述)
この4寺中での「院殿居士」ですから大変です。
花菱紋の過去帳(系譜編集)の存在があり、尚且つ「院殿居士」だけでもこの慣習が働いていた時代(明治以前)として確実な証明に成ります。
この様に「源空寺」は歴史の知る者にとっては大変な価値を持っているのです。

そこで話を戻します。
甲斐青木氏の存在の当時の立場がどの程度のものかを知ってもらうために余談を致しましたが、さて、甲斐の源時光(一条系と呼称している)の常光寺の青木氏菩提寺が在りますが、その藤原摂関家四家一条氏系を名乗る初代信義より2代目次男の源忠頼なる人物がありすが、この忠頼(一条忠頼を名乗る)にはある事件が起こります。
これは武田氏がどれほどの立場を占めていたかを物語る事件なのです。
武田氏系青木氏に関わる事件です。
武田源氏の初代信義の次男(嫡子)忠頼の居住した所は大きく変貌する青木氏の菩提寺と関係を持ちます。
大きい事として有名な事件ですか忠頼が頼朝に謀殺された真相です。
(吾妻鏡、源平盛衰記に小説的に記載)
平安中期960年頃に陸奥より藤原秀郷一門との血縁をした小田氏が秀郷一門の赴任地替えで甲斐に藤原秀郷流青木氏と共に護衛団として同行しました。
この事は前で記述しましたが、その後、勢力を増して清和源氏の満仲三男の分家頼信系で、頼信より4代目義清が、甲斐の武田で豪族となった小田氏系武田氏と血縁し土地の地名から清和源氏系武田氏(小田氏)が発祥します。これよりは正式には初代が孫の武田信義と成ります。
その経緯は、源満仲の嫡子の本家頼光が青木氏の守護の国司職として甲斐に赴任します。
しかし、摂津源氏の頼光は弟三男頼信(河内源氏)を出世させるために、この国司役を頼光の上司の摂関家の藤原氏の許可を貰って(朝廷の許可)頼信に譲ります。
そこを足場にして分家の頼信は関東に勢力を伸ばし、第2の拠点を兄頼光本家筋の領地伊豆に賜姓伊勢青木氏の護衛の下で勢力を得て築きます。これが、河内清和源氏の頼信系の勢力拡大に繋がります。
当然、これが土地の豪族となっていた小田氏(地名より武田氏を名乗る)と有名な暴れ者の義清の血縁と成ります。
これが甲斐の源氏としての流を作ります。これが謀殺の大きな原因に成ります。
その義清の孫の信義の子次男忠頼はその居城を国府(八代郡)に起きます。
そして、明楽寺を開基します。
その居住地は大井荘南条に起きます。現在の宝林寺と云われています。
そこに政治の場として甲府城を築きます。
しかし、頼朝の鎌倉幕府樹立するまでにこの武田氏は勢力を最大に伸ばしていましたが、忠頼は同じ清和源氏(頼信系)の分家本流(本家は頼光系)頼朝に謀殺されます。

この謀殺の経緯は、次ぎの通りです。
頼朝は北条氏の援護の下に鎌倉政治を行いました。
しかし、その実態は大変複雑でした。
頼朝は幕府樹立後には、身内の源氏一族が極めて衰退していました。
つまり、これでは孤立無援の将軍であり、自分の身内の援護がありませんので、樹立後、直ぐに北条氏らの反対を強引に押し切って、衰退してしまっている自分の血縁関係にある源氏一族と、母方であり跡目を入れている北家藤原氏(朝廷が衰退して失職離散)の復興を狙って「本領安堵策」(土地を旧来の持ち主に戻す策)を強引に2度行い自分の背景勢力を戻して築こうとしました。
更に駄目押しとして「平家没官僚策」(平家の土地を含む財産を分ける策)も実行しました。
しかし、このことが切っ掛けで、北条氏の基盤の「坂東八平氏」は猛反発します。
「坂東八平氏」は頼朝も含めてこれ等の2つの勢力の一掃にかかりました。
幕府の実権の確保と、頼信の関東制覇と藤原秀郷一門の勢力拡大で坂東八平氏は取られた土地を取り戻す為に動きました。
更には、他の源氏を担ぎ出して、別の幕府を作り、鎌倉幕府に対抗して来る可能性が朝廷にありました。頼朝弟の義経もその自前の軍1万2千を持ち平家を一人で潰してしま程に勢力を持っていました。「坂東八平氏」の敵対したい人物その1人ですが、他にもう2人居ました。
それが甲斐の一条系源忠頼です。

もう一人は、大島源氏です。
義経に壇ノ浦で負けた平家水軍が最終決戦として再結成して鎌倉幕府の弱点(坂東八平氏は水軍を持っていないし、兵は全て各地に出払っている)の三浦湾を襲い逆転を狙いました。
水軍の持たない裸同然の鎌倉に平家水軍が上陸する寸前に、この作戦を知った大島群島の為朝配流孫の落種の大島源氏が大島水軍を黒潮を3日で渡り三浦湾に到着し平家水軍と激戦しこれを打ち破りました。
平家の知らない隠し源氏の大島源氏です。最大の勲功を挙げました。清和源氏頼信系(源の為朝の子)です。彼は義経と同じ考え(幕府は源氏一族で)を持っていました。
北条氏を始めとする「坂東八平氏」はこの「大島氏」と「義経」も「忠頼」と同じく宿舎で謀殺にかかりました。何れも難を察知して逃げ延びます。
大島氏は戦えば義経軍(駿河水軍と伊勢水軍と熊野水軍と紀伊水軍)共に背後から平泉藤原氏軍で挟めば必ず勝つ事は出来るのですが戦わず水軍を大島に引き上げます。
この3人を潰せば「坂東八平氏」は朝廷の封じ込め(別に朝廷側の源氏幕府を開く動き)が出来て安泰です。結局、大島氏を残して2人を潰しました。
そして、各地の源氏一族(義経の件も含む)も、各地(24)の土地の豪族と成っていた藤原秀郷一門(平泉藤原氏の秀郷一門)を尽く潰しにかかったのです。
戦略的には、義経が、その時意見を頼朝が聞き入れることをしなかった場合は、一度京に戻り、関西と中部の源氏と中部以西の幕府樹立で失職離散した藤原一門を味方に引き入れて、関東の藤原氏と坂東八平氏を敵に廻しても勝てることは充分でした。
忠頼は元より武田氏系青木氏を含む関西系青木氏一門と、残存する清和源氏や村上源氏などが味方する軍力と、関西に集中する青木氏や藤原氏の軍と経済力でははるかに義経側が上でした。
史実、紀州源氏の叔父である新宮太郎は繋ぎ役としてこれを必至に説きましたがこれも謀殺により潰されてしまいます。
坂東八平氏は藤原一門に周囲を囲まれていて旧来より抑えられています。更には「平泉の軍と金の経済力」が在れば「袋のネズミ」だったのです。そうする事で源氏一族は子孫を遺す事が出来た筈です。海陸共に抑えられていたのですから、坂東八平氏は窮地にあった筈で戦うと負けるので、3人と頼朝一族を会議の場で緊急で謀殺としたのです。
しかし、義経の性格がこの機会を逃したのです。逃げるという手段に出た事によります。

この北条氏の母体「坂東八平氏」は、元はと云えば、天智天皇の「大化改新」で、皇族第7世以降は「平民」にして皇族から外し、侍として坂東の固めに配置しました元皇族系の一族です。
そして、第四世までを皇族として「守護王」の身分として「大化改新」の経済的負担もあり急いで第一の改革しました。
この時に、皇子も今までは第6世までの皇子を、第4世までの皇子でその第4番目(第4位)までを皇位継承権を与え身分を「真人族」としてました。
そして、第4世までの第6番目の皇子は臣下して侍とし、賜姓して天皇を護る親衛隊しました。
これが初代施基皇子の伊勢王の皇族賜姓青木氏です。この一族の身分を「朝臣族」としました。
(皇子数のにより第5世はこの中間としました。)
この時、当然、第6世以降は天皇が代わる度に第7世になって行きます。
これが「坂東八平氏」なのです。この一族を「ひら族」と呼ばれました。
ここで、大きな違いが起こったのです。
第4世の皇族賜姓青木氏の侍の親衛隊で守護王、一方、第7世の「ひら族」の坂東守備隊、
元は同じ皇族王であった者が、大きく変化したのです。

そこえ、この不満の「坂東八平氏」に追い討ちが起こりました。
藤原秀郷がこの坂東の地域の領主として入り込んできました。
当然、摂関家を背景とした北家藤原氏に圧迫を受けます。土地は尽く奪われます。
第7世の「坂東八平氏」は完全に衰退します。
この状況で皇族賜姓5家5流の青木氏はその親衛隊として、皇族朝臣族として、その政治と武力で最大に発言力を持ちます。
合わせて、鎌足よりの摂関家の藤原氏との血縁関係で藤原氏も勢力を持ちます。
「賜姓青木氏」、「北家藤原氏」、「坂東八平氏」の3つ巴の関係が出来上がります。何れも血縁関係はあります。そして先ず「坂東八平氏」が勢力を失います。

ところが、この勢力関係を好まない天皇が出ました。桓武天皇です。
日本の律令国家体制を完成させた天皇です。天智天皇から仕来りとして詔に従い、第6位皇子を青木氏を賜姓して臣下させる事を嫌いました。
そこで、伊勢青木氏の施基皇子の子供の光仁天皇、その子供の桓武天皇は、自分の母方の渡来人の後漢の阿多倍王の孫娘の「高野新笠」を母に持ちます。この母方を引き上げます。
阿多倍王一族は全国66国中32国を征圧します。そして、伊勢の北部伊賀地方を青木氏から割譲します、また、朝廷は薩摩国の大隈も半国割譲して与えました。
そして、賜姓をするに必要となる皇族者の根拠を坂東の第7世族(ひら族)に求めます。
この一族であるかのようにして、名を「ひら族」に対して「たいら族」としました。
これが、桓武平氏(京平氏 伊勢平氏とも呼ばれる)です。
そして、この勢力は大化期より敏達天皇の孫の芽淳王の娘を娶り子を成し准大臣に成ります。
そして、三人の子供の長男は征夷代将軍になり、坂上氏の賜姓を受け、次男は朝廷の財務担当で賜姓大蔵氏、三男は天皇家の財務担当で内蔵氏となり、朝廷の官僚の6割はこの一族末孫と連れてきた渡来系政治部の者達で占めれたのです。
このすざましい勢いで拡大し、遂には。国香、貞盛より5代で太政大臣「平清盛」に上り詰めます。約200年で朝廷の3政治機構の内2つを握り3政権(政治軍事経済)を末端の官僚の事務員まで一族で固めてしまいます。ただ一つ斎蔵は藤原氏が、天皇の親衛隊は賜姓青木氏だけと成りました。
その最後が清盛の”平家にあらずんば人にあらず”の時代でした。

上記の3つ巴にもう一つ加わったのですが、この桓武天皇のやり方を嫌った子供の嵯峨天皇は青木氏の賜姓に戻そうとしましたが、抵抗が生まれて賜姓源氏として第6位皇子が臣下させました。
これが11代続いた源氏で終局3つの源氏(清和源氏、村上源氏、嵯峨源氏)だけが生き残りました。中でも、清和源氏が北家藤原氏と組んだ為に最大勢力を持ちました。

第7世族の「坂東八平氏」は、頼朝を前面に推しながらも、この清和源氏の北家摂関家の藤原氏の一条家の血筋を持つ甲斐の武田氏を、他のところは潰したので、清和源氏の血筋を持つ武田忠頼(信義の子供)を潰しにかかったのです。
頼朝は、幕府3年後(1195)にトリカブトを食わされて毒殺され、2人の子孫も有名な事件として鎌倉八幡宮と伊豆修繕寺で暗殺されてしまいます。
藤原秀郷一門、義経、各地の清和源氏を根絶やし(1184-1185)にします。
ここで、三つ巴の一つ皇族賜姓青木氏5家5流一門24氏(皇族系宿禰族青木氏は除く)を抹殺する事は天皇家に逆らう事を意味するところから世の反発を受けて好ましくないとして生残るのです。

この様な背景から、藤原北家一条氏の血筋を引く小田氏の血筋を持つ支流の甲斐の源氏 源忠頼は謀殺(1184)されたのです。
この時、弟の時宗は居城であった甲府城を、忠頼の妻子の尼寺として一蓮寺とします。
その後、甲斐の武田氏は勢力を盛り返し信義から5代目の甲斐の国守武田時信(一条系源時信)は子供の時光と源光に甲斐の皇族賜姓青木氏と更に重複跡目血縁して北条氏からの追求を逃れる為に(子孫を遺す為に)引き継がせます。
既に、武田菱紋と割菱紋の青木氏との血縁は出来ています。

本来、源の源光が青木別当蔵人で青木氏の祖です。官職もその通りです。
これが甲斐の皇族賜姓青木氏の跡目には入ってこの武田氏2氏との血縁関係は出来ました。
その兄弟の源の時光と更にこの武田氏(小田氏)との血縁で生まれたのが、もう一つ武田氏の花菱紋でこちらもこの青木氏を名乗ったのが時光だとされていてこれが有力説です。
1180年代の源の頼政を首謀とする「以仁王の乱」の「源平の争い」が始まる前後と見られます。

因みに、伊勢青木氏にも同じ事が起こりました。この時、頼光の4代目頼政(仲綱の子)の孫の三男京綱が跡目に入っています。
(ほぼ同時期に近江、美濃、信濃の賜姓青木氏にも同じ事が起こりました。)
乱の敗戦後、嫡男次男は日向に配流されます。
(配流先での末裔は日向青木氏です。)

つまり、時代的に考察すると、1180年の5-6年前後に武田氏の忠頼から始まった初期の存亡の時に危険として皇族甲斐の賜姓青木氏に6代目に跡目(源光2、時光1)を入れている事に成ります。
(同時期に各地でも朝臣族血筋を持つ者は青木氏を名乗り難を逃れている)
この時信の子供の時光が(これ等のことを明らかにするために)青木氏菩提寺の常光寺に初代の時光系の源氏武田系青木氏としての11代の墓石を列ねる事にしたのではないかと観られています。
この寺の周囲には全体に他の多くの賜姓青木氏と観られる小さい墓石があります。
この寺は、本来、甲斐青木氏(源光系)の菩提寺でもあったのでは無いかと推測されます。
そこに、流を異なる兄の時光系武田氏系青木氏により2代目の常光の時に変名しています。
名を執り常光寺としました。元の名は不明でする
源光の武田氏系青木氏(武田菱紋と武田割り菱紋)の墓所が明確ではないのはこの原因ではとも思います。しかし、この研究で光福寺と尊たい寺が有力と成りました。
この時、兄の時光派(一条氏を名乗る)弟の源光派(一条氏を名乗っていない)の間で常光寺(前名は不明)の処遇で争いがあったと推測が出来ます。
(時光の墓は摂津の地頭であった事から、摂津浄土宗善法寺にあるとする説もあります)

[一条氏を名乗る疑問]
甲斐の一条氏は山梨郡一条郷として名乗る事と成ります。
この一条郷には室町末期に一条氏が住んだとされる由来からです。
そこで、甲斐清和源氏系の武田信義の次男忠頼がこの一条氏を名乗ったとさされるものです。
信義の長男武田信光は武田氏を、次男は忠頼は母方の一条氏を名乗ったと成ります。
京の公家藤原北家摂関家四家の一つ一条氏が甲斐のこの地に逃げ延びたという史実の確証は取れません。各地でこの時期一条氏が逃げ込んで子孫を発祥させたとする説は大変多いのですが、甲斐も一条郷とするだけにその一つと見られています。未勘一条氏と観られます。
しかし、忠頼は兎も角も、6代目以降の時光等が一条氏を名乗る根拠が系譜史実から薄いのです。

先ず、兄弟で一条氏を名乗る者と名乗らないものが出た事に疑問です。

「時光7人兄弟」
信一、義行、貞連、宗景、貞家、時光、源光、信源
以上の内では誰も名乗っていないのです。

その前には名乗っている人物を確認すると次ぎの人物と成ります。
時信の弟宗信(時光の叔父)
時信の叔父宗長
時信の祖父信長
以上の3人です。
この3人の内、武田氏に関わった人物は祖父信長だけです。
信長は武田六郎です。
信長は信光の4人の子で実質4男です。
信長は忠頼の甥に当ります。
時光は信長の曾孫に当ります。
時光その者は十郎です。

つまり、系譜から観ると、時光が一条氏を名乗るとすると、自分と父からの筋では無く、祖祖父の親(信光)の兄弟(異母弟忠頼)の母方家筋を名乗った事に成ります。つまり、祖祖母です。
そして、この一条氏を叔父の宗長一族が正式に引き継いでいるのです。
この様な事は現実にはありません。
お爺さんの親の異母弟の母方の実家を名乗った事に成ります。

この様に、一条氏の名乗りそのものが問題ですが、多分、この兄弟の矛盾は当時はなかったものと推測され、ある時期から家柄を誇張する為に採った手段であろうと見られます。
もしこの様なことを行えば本人は世間の笑いものに成るでしょう。それも”笑いもの”の反対の”よく見せようとする目的”で名乗るのです。あり得ません。
賜姓源氏で最も栄えた清和源氏の血筋を引いているのに、敢えて無理に一条氏を名乗る事は賜姓源氏の名をわざわざ否定する事に成ります。
賜姓源氏は皇族系の朝臣族、一条氏の公家は藤原氏で身分と家柄は2段下と成ります。
何も低い方を名乗ることは、「氏家制度」の家柄身分を誇示する社会の中であり得ません。
そうすると、賜姓源氏以上に更に上乗せて家柄身分を誇張しなくてはならない現実があったことに成ります。
その「誇張した人物」と、その「誇張の背景」があって強引にこの叔父と祖父の系列の筋違いの一条氏を名乗る必要があり、平気で名乗れる環境があった時期と成ります。
それをこの武田氏系一族の中からこの二つの環境条件を引き出せればその証明の一つと出来ます。
まず、その時光等が叔父の家の一条氏を名乗るには嘘を世間が認めないでしょう。逆効果も甚だしいものと成ります。
一条忠頼が、一条氏がこの地に来たとする証拠の有無は兎も角としても、発祥元としている事は先ずはあり得ることですが、また、各地に多く逃げ込むほどに、それ程一条氏はその時に子孫が多かったのかの疑問もあります。
更に云えばばらばらにして何故逃げ込んだとする疑問もありますし、山口や四国の様にそ一条氏の人物が明確であればよいのですが、甲斐の場合は風説です。

頼朝に謀殺された忠頼の筋ではなくて甥(信光の子供)の信長の姓であるのです。
これも疑問ですので、ですからその時代に生きている人間には一条氏を語ることは先ずあり得ません。
時光から墓を源氏として11代列ねたとすると、この間その必要性がなかった事にも成ります。
ただ、常光が真言宗に改宗する根拠は「一条氏」が一つ根拠として必要です。
しかし、有力ですが、真言宗に改宗したのがこの「一条氏」を理由としたのではない事も考えられます。時光が一条氏の筋では明らかに無いからです。
謀殺された忠頼の子孫では納得できますが、常光が理由にするには根拠が低いと考えます。
つまり、真言宗改宗は、信定の曹洞宗改宗と同じ事件が、時光から2代目の常光の時にも起こったのではないでしょうか。「第1の呼称説」の2つの原因説です。

仮に、この前提で考察すると、次ぎの様に成ります。
「第2の呼称説」
その人物は、つまり誇張するに必要として世に出た人物は柳沢氏であり、柳沢一族が出世した人物と時は「柳沢吉保」であり1680年頃と成ります。
その柳沢氏は次ぎの系譜と成ります。

「青木氏系譜」
12代信生-信定-正定-豊勝-豊信-(嗣なし家絶える 分家跡を継ぐ)..青木氏系譜 花菱紋

「柳沢氏系譜」
12代信生-信定-豊定-信立-信俊-安忠-吉保-吉里 柳沢氏系譜 花菱紋
吉保は1688年です。

豊定は武田氏が天正3年に滅びその後直ぐに家康に仕えます。 家禄は吉保までは250石程度の下級武士でした。大番などの役目であったと記されています。
吉保の出世で甲斐国15万石 柳沢郡、八代郡、甲府郡の三郡を知領しましたが、吉保失脚後、吉里は奈良郡山に同等の石高で移封と成りました。
もともと250石程度では誇張する必要は無く、甲斐の地元の三郡を治めた時期が最もこれを誇張するに必要とします。
丁度、柳沢氏発祥から100年経過した頃です。3代前と成ります。
時光より18代後です。この頃に矛盾の多い本筋ではない一条氏を無理に持ってきたのではないでしょうか。後付の家柄誇張と謂う説です。
源氏では、甲斐源氏とは云え本流ではなく下の家柄の支流の跡目筋ですのでその迫力は当時ではなかったのではと推測します。
多分、甲斐源氏もさほどこの当時は甲斐では意識が無く、むしろ土着の小山氏筋の方に意識が強かったのでは無いでしょうか。跡目が入ったとしても意識の変化はタイムラグを起すのが世の常です。
それだけに甲斐源氏とも矛盾の誇張をしたでは無いかと考察されます。(甲斐の人には悪いですが誇張癖が強い民)
本流は兎も角も支流の源氏の家紋も違い、陸奥花房氏の足利氏と同じく、元は陸奥小田氏の武田氏であるのですから。どの確実な学術史料にもこの一条氏は出て来ません。あくまでも源氏の跡目一族です。
インターネットなどの史料はこの搾取偏纂を元にしてのものですので確実性は疑問です。
この辺の史実の検証が出来ていなくて常にこの時代の資料には鵜呑みには注意が必要なのです。
 
話を戻します。
氏家制度の社会の中で家柄身分の低い時光系にとってコンプレックスを抱き、その結果「氏争い」や「宗派争い」が起こった。時光の「甲斐全部の青木氏」(3氏6家)の菩提寺としての目的を排除して「皇族青木氏」だけのものとする事に賭けた。そして、宗派争いでは時光側が勝った(正しくは常光が勝った)。そして、建立完成前後に時光が死去し、その後、素早く殊更に1条氏を誇張し「真言宗改宗」と、他の青木氏のプライドを傷つける「寺名」(自名)の変更をするために「中興開山」せざるを得なくなった事に成ります。(一条氏の疑問、中興開山の疑問)
そして、常光は妥協条件として源光側に対して花菱紋の時光系の墓を墓全体とするのでは無く一箇所に墓所を固めて列ねる事と云う事にしたと観られます。(1列の疑問)

源氏の名乗りにしても、青木氏の名乗りにしても、家柄象徴の家紋にしても、一条氏の名乗りの理由にしても、宗派の違いにしても、武田氏の中でも菱紋では無く割菱紋で更にその分家の分流と成ると、少なくとも、賜姓青木氏と賜姓源氏は皇族同族である事とはせよ、皇族賜姓青木氏5家5流と区別した武田氏系青木氏(3氏家6家あり)その内の(割菱紋-花菱紋)の1氏を故意に喧伝する行為に出た事に成ります。
皇族賜姓青木氏、皇族賜姓源氏と区別する為に、下の身分家柄の武田氏の跡目系武田氏であるところから、低い武田氏ではなく、時光の代からはより高い身分家柄の嵯峨期の詔に基づく朝臣族の皇族青木氏を名乗ったと見られます。(青木氏の疑問)それを2代目常光は更に菩提寺を分離させる喧伝行為に出たと考えられます。
(職位官職など一切の諸事はこの強い氏家制度の身分家柄社会の中では必然の行為です。)
武田氏、一条氏は皇族系でも無く、又朝臣族でも無い身分家柄で無いのに一条氏を名乗ることはあり得ないのです。皇族青木氏に名乗り替えをしているのに、わざわざ下の氏を重複して名乗る必要性はありません。
参考に、同じ甲斐の武田氏系諏訪族青木氏は、信濃諏訪族と皇族賜姓青木氏と血縁した諏訪族青木氏が武田氏と更に血縁した一族で常光寺隣りにはその守護神の諏訪神社もありますが、秀郷流青木氏と他の4氏、それと隣りの信濃足利系青木氏はこの様な態度は採っていないのです。

では、皇族賜姓青木氏、皇族賜姓源氏と皇族青木氏、一条氏の身分家柄の違いはどの程度かを示しますと、
更に、武田氏と因縁を持った信濃諏訪族青木氏は源氏、武田氏、小田氏、藤原秀郷氏の血筋が入っていない日本書紀にも出て来るほどの純粋な賜姓青木氏です。
天皇と謁見できる身分では無かったのですが、信濃王青木氏の後見として特別に許したのです。
そして、年貢の納件に対する具申まですると云う態度を採ったとして天皇はその力量を褒めたのです。これ程に賜姓青木氏とその血縁族の身分家柄のレベルは当時としては破格の立場であったのです。
天皇に謁見拝聴できる身分は従三位の身分である必要があります。京一条氏を初めとして摂関家四家の公家でもこの立場にあるものは数人程度です。
5家5流の賜姓族青木氏は朝臣族で浄広1位-3位で従三位です。因みに、藤原氏秀郷一門は従4-5位下です。皇族青木氏は朝臣族だけですので謁見等は有りません。まして跡目支流の分家筋清和源氏では他の源氏とは格段の身分家柄の差があった事に成ります。
その中の不詳甲斐一条氏です。
(諏訪族は日本書紀にも出て来る渡来人後漢阿多倍王の末裔支流子孫集団(馬部)です。)

次に続きます。
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雑学 「竹細工」と忘れられた知識

竹花筒

竹
写真左は7年 写真右は5年 写真手前は1年 写真奥中央は3年の竹年です。
10年ではもっと赤く成ります。 15年では深みのある赤に成ります。
白ずんているのは竹油です。


雑学 「竹細工」と忘れられた知識


「竹細工」のことを書くのですがその前に竹の事を書いて置こうと思います。
「竹細工」のゼミナールの時間です。
写真は竹花筒の幾つかを添付しました。

前置き
楽しみの知識として気軽に読んで見ませんか?。
私の趣味のあり方は実は、「竹細工」とそれに関わる事の「技能技術の知識」を知り、マスターする事(挑戦する事)を目的としているのです。
これは青木氏の長年の研究の癖から来ているようですね。
否、もともとの癖かも知れません。
ですから、「竹細工」は「竹の知識」を知って作る事がよりその特長を生かしたよい物が出来るからなのです。
昔は竹は生活の中で必需品でした。それだけに竹に関する知識が豊富で誰でもが知っている知識であったのです。現在では田舎でさえ失われた知識です。
そこで、竹細工を通してそれにまつわることを書いて雑学として頂きたいと思います。

忘れられた筍
さて、先ず、竹には色々な種類があり私の癖と同じ様にその竹の癖も違うのです。
ここでは「白竹」という中国産の竹で述べてみます。
と云うのはこの竹は中国でこの竹細工と食用として改造された竹なのです。
大昔は必需品の竹で、紙文化が発達していない時は竹にこの文字を書遺す役目を持たしていました。
「木簡」と云うものがありますが、漢詩の文学的なものを遺すのにはこの改造された白竹を用いたのです。
要するに「竹簡」です。この竹を1/3-1/4くらいに割り用いているのです。
この竹は大変太くなる竹で育て方では直径25センチにもなるのです。昔では最大で30センチ位はあったのではないでしょうか。保存されている竹簡を直径に直すとそれくらいに成ります。

他の種類は別の機会に記述するとして、さて、この白竹の細工を中心に挑戦した色々とおもしろい事を先ず書く事にします。
と言いますのも、最近では竹薮が少なく筍の生えている所を観た事がないという人が多く成りました。
私の近所のみならず孫までも知らなかったと云う有り様です。当然に竹の特長など知る術もありません。先日もご近所に掘りたてを配りましたが、子供達が寄ってきて大騒ぎです。
これからもこの現象も大きくなるでしょう。
そこで、青木氏の皆さんにも竹の事と細工の事をご披露したいと思い、また、雑記録にしたいと思います。
竹と云っても色々な特長を持っています。そして、大変に繊細な性格です。
昔から”竹を割った性格”と云う言葉がありますが、”繊細でありながらはっきりとしている”まさにその通りです。この事は竹に携わっていないと意外と知らない事が多いのです。
そして、この竹の性格から人生のいろいろな事を悟らされます。
この言葉は昔の人はこの性格から来た人生訓の意味を持たしていたのだと思います。

白竹の事
竹の事を一寸知ると言う事でも先ずは次ぎをお読みください。
筍の事から。
先ず竹は4ー5年で筍を出さなく成ります。ですから竹の手入れは4ー5年目に成ったものを年に一回選別して手入れします。そうしないと竹は良い筍を出しません。
約1メーター間隔で良い竹を遺して行きます。良い竹の選別は年に2度行います。
それは、4月と10月です。
これには色々理由があるのです。
先ず筍の時節の4月から選別します。
出て来る筍を太くてより円錐型の強い元気の良い筍を選びます。そして、少し竹の皮が赤味かかったものを選び遺します。いたる所に出て来ますが石の下からとか二つ重なりくっついたりして出ますので筍が変形して出て来ます。これを排除して素直にすくっと出たものを遺します。

ところが、竹細工では逆にこの排除する珍しいものを使いたいのです。普通の竹は丸い形をしていますが、排除するような筍は変形していておもしろいのでこれを紐で縛り印を付けて遺します。
竹の皮には黒ずんだ筍がありますが、これは余り食用にするとおいしく有りませんし、やや固くなり筍の灰汁(あく えぐ味)が強いのです。特に筍の先端が最もえぐ味が強いのです。
しかし、店頭には多くはこの黒い竹の皮の筍が並べられています。従って、茶色い筍は竹薮のある特定の地域の持ち主だけしか食べられない筍なのです。

昔はこのえぐ味を取り除く為に料理では、現在では釜の灰が有りませんので米ぬかを使いますが、釜の下の灰を使いました。灰は石灰質(アルカリ性)でえぐ味を分解します。
大昔はどんぐり等も食料にしていましたが、どんぐりも大変このえぐ味が強く余り食すぎると毒性があります。麻袋に灰を入れて川の水で先ず何日もさらしその後に湯の中に灰を入れてさらして食用にしました。この様に昔から自然のえぐ味をとるのには釜の灰を使いました。

「えぐ味」の効能
その前に、何でこのえぐ味があるのかと云うと、一つは他の動物や昆虫や虫に冒されないようにする植物の防衛手段なのです。竹や筍も同じで、先ず筍は狸や猪に地表に出たばかりのところを食べられてしまいます。ですから、竹の先端は特にえぐ味が強いのです。それで地表15センチくらいに出ると狸や猪はもう食べません。よく知っています。
竹にはあの固い竹を食べる虫があるのです。それは竹を食べる専門の黒蟻があるのです。この黒蟻は先ず1.5ミリ程度の穴を竹の節の近くに開けます。其処を出入り口として中を食いつくし上から下まで巣を作ります。小さい一つの穴しか見えませんので外からは全く判りません。
竹の中は温度湿度が一定で、どんな蟻や蜂でも必ず一日に1回は水を飲みに出てきますが、この竹の黒蟻は、竹は水分を竹の節の間に貯めますので充分で、それを呑めば外に出る必要がありませんし、竹は元々水分を多く含んでいます。
その水分と竹の甘味と竹油がありますので、蟻には栄養分と居住環境は満点なのです。
ところが、この蟻が食べる竹は5年以上経ったものしか食べないのです。
それは5年以下の竹はこの強いえぐ味があるからなのです。
5年以上経った竹は次第に古くなるとこのえぐ味分が少なくなるのです。竹をいじっているとよく判ります。
古い5年以上経った竹とそれ以内の竹とでは先ず臭いが違うのです。
古い竹は甘味がはっきりすっきりとしますが、新しい竹ほどすっぱい甘味の臭いがするのです。
このえぐ味は酸性度を強くする物質を出しているので、灰で中和させるか湯で煮て分解したりして取り除く事になるのです。

私の子供の頃までの昔は、竹やどんぐりなどの植物のこのえぐ味を採り過ぎると手足の痺れや脳が犯されると云われていました。戦後、物資の少ない時には焼酎はこのどんぐりと芋を混ぜて作りましたので、よく大酒飲みは手足が痺れると云う症状を訴えたものなのです。当然、虫も尚更です。
竹と筍だけでは無くこの渋味、えぐ味、苦味を持つ植物は子孫を残そうとする防衛手段なのです。
どんな植物でも種子が出来る頃にはこの防衛策を採ります。
皆さんは野菜などはお店で求めますが、田舎の家庭菜園では食べられるかどうかはこの渋味、えぐ味、苦味の度合いで判断してするのです。渋味、苦味、えぐ味が出る頃にはもう食べません。
ところが果実ではこの現象は逆に無く成って行くのです。
太陽の光を多く取り入れてシアンを果実に当てアントシアンにして甘くし熟させて、そしてその合図としてシアンの補色の赤を出すのです。
典型的な果実としては柿の実ですね。柿の葉もその補助行為で赤くして鳥や狸、猪等に認識させるのです。つまり、”柿の渋味が甘味に変化したよ”とする印です。
虫で落ちた柿などの果物を狸や猪は色が変化したものしか食べません。人に負けず劣らずよく知っています。
野菜などは風により種子を運ばさせ子孫を残しますが、果実は鳥や動物により渋味を変化させ甘味を作りだし種子を運ばさせます。ここに違いがあるのです。

さて、えぐ味は外的防衛のそれだけでは無く、えぐ味は植物の表面を環境から護る役目もしています。
温度が下がるとこのえぐ味成分は表皮を硬化させて温度から護る事もしています。
竹には、よく判る典型的な現象を観察する事が出来るのです。
この竹のえぐ味成分は、4ー6月頃に竹の根(茎根)を切りますと、切断面からどろっとした乳白色のゲル状液を大量に出して竹を護ろうとします。大変に苦味のある嫌な強い臭いのする液状のものです。放置すると今度はこれが白く固まります。
これは狸や猪や蟻等の虫、動物を寄せ付けないようにする手段なのです。そして、切り口を固めてふさぐのです。

筍は当然に竹の皮で表面を覆って身を護りますが、大きくなると竹のえぐ味は基より表面に竹油の乳化したものを出して表面の乾燥などから身を保護するのです。
そして、竹の節間(筒部)に水を吸い上げて貯めて乾燥しない様に成っています。4ー6月には竹の筒の中は水で一杯に成っています。
竹の皮もその乾燥と外敵から初期の間に竹身を護るために巻きつけています。
この時は竹油が出ていませんので竹の皮で保護しているのです。
この竹の皮は楠の葉と同じく虫は食べませんし、なかなか腐りません。これも竹の皮にこのえぐ味を保持しているからなのです。
楠の葉などはナフトールと云う防虫、防触物を出すのですが、楠の手入れをしているとこの臭いで気分が悪く成る位です。
竹の皮がある間は防虫効果で虫も同じでよってきません。

竹の皮の事
余談ですが、この竹の皮の事ですが、昔はこの皮を使って食品の包装材にしていました。おにぎりや饅頭などに使いました。昭和の30年頃まで使っていましたが、葉蘭(バレン、バランの方言)と同じく使用していましたし、杉や檜の葉も少し入れておくと更に抗菌作用と虫除けもあるのです。
昔は、杉の葉や檜の葉を料理の横に置き使っていましたが、最近では見たことも有りませんし、杉檜を簡単に手に入れる事が難しく成っているのでしょう。
又、あの独特の臭いの成分が抗菌、防虫効果のある事を忘れられているのでしょう。特に魚の時には必ずついていました。
最近、プラスティックを使っていましたが、又、料理屋さんでも復活して竹の皮や葉蘭を使うように成ったし、杉や檜の葉を添えるようです。昔の知恵の正しさを認識し始めたのですね。

ここで、つい先日の話ですが、知り合いの店で恐ろしい事が起こりました。
その利用し始めた竹皮や葉蘭が少なく成り、止む無く料理の敷物に緑の葉を良く使うらしいのです。アジサイの葉とか柿の葉とか銀杏の葉とか大きい綺麗な緑の葉を用いているのですが、お客が知らないでこのアジサイの緑の葉もかじったそうです。ところがお客が急に腹痛を起こしたのです。
アジサイの葉は虫も食べないほどに葉にシアンを多く含んでいるのですが、知らないで食べられる物と考えこれで腹痛を起こしてしまったのです。
特に、花の咲く時期の前6ー7月にはこの毒素が強いのですが、客も店も知らなかったのですね。
これらの事は、昔であれば私の子供の頃までは皆知っていた事なのですが。
他にも沢山使用してはならないものを戦前の人間は知っていますが。食糧難の時代を生きた者として。
当然に、元々えぐ味と苦味と渋味の強いものは採りすぎると人間には痺れ、腹痛など起こるのです。
大体、虫が食べない葉は殆ど腹痛を起こします。虫が食べるか食べないかの現場を見たことが無い人が殆どなので犯す失敗ですね。それだけにこれらの知識が無く成っているのですね。
最近、流行の春の山菜フキノトウの苦味なども”過ぎたるは及ばざるが如し”です。
他にも沢山ありますよ。昔は「たんぽぽ」の葉もほうれん草の代わりにおひたしにして食べました。しかし、この葉を虫は食べません。葉に苦い白い液汁を持っているからです。食べ過ぎるとだめですね。
”食べることは勿論触ることも駄目”という野草植物の「きんぽう草」などの伝えられた知識が。何処にでもある野辺に春から梅雨まで咲く黄色い花を咲かす愛らしい花ですがね。
私の地方では、昔はハゼの身からロウソクを作り、樹液で漆を作る産業が盛んでした。従って、野生化したハゼの木が多いのですが、この木がかぶれる木である事さえを知らない人が多いのです。
隣りに新しく出来た団地の人たちは、”秋には真紅の紅葉で綺麗だ”というだけで。大木の木6本を、”取り除く取り除かない”で論争が起こったくらいです。
この様に昭和20年頃まで伝えられていた「口伝承」が急激な科学の進歩で次第に消えてしまっていると思います。
兎も角も、春の渋味、苦味、えぐ味は植物の防衛手段なので虫でなくても、喜び勇んでの人間にも採りすぎは禁物ですね。

筍と竹の選別
筍と竹には選別が絶対に必要ですが、それで無いと竹薮は維持出来ない事を知らない人が殆どですね。
筍の選別期は4-6月ですが、次ぎは成育竹の10月の選別期です。
竹に限らず、「春系」の木々は「7月20日」を境に木の成長の変化を起こすと教えられていました。
竹は10月ですが、その成長を止め来期に向けてエネルギーを蓄えるのです。
ですから、この前に木々の剪定をする必要があり、この後の春系の植物の剪定は来期の花の咲き方を激減させるのです。
全ての木々は冬に入ったところで成長を止めますので、11月と12月の間に剪定を済ますのが木に対して一般的で良いのです。2月から成長を開始します。
ところが果実を扱う農家は、むしろ、この2月を「剪定期」では無く「選定期」として出てきた新芽を見て良い枝を残すのです。これは素人では無理です。良い枝の「選定眼」が無いからです。
「良い枝の選定眼」は木に依っても違うし、選定する条件と情報が立体的であり過ぎてきわめて難しいのです。40年やっている私にさえ判らないのが本音です。
植物の趣味の本などを見ると剪定は殆ど2月と簡単に書いていますが、これは無理です。
第一に良い果実を作って商品にする訳でもないのに、普通に出来ればその程度で満足する素人に「2月選定」は解釈が間違えていると思うのです。”本に書く”と云う事は素人向けに書いているのですからね。
では、”どのように書けば良いのか”と云う事になりますよね。

ところがあるのです。誰にでも出来る簡単な基準が。

春系は”「7月20日」(成長変換期)”を知っていれば良い事に成ります。

昔の人はこの事を口伝えで教えていたのです。

竹も同じ様な間違いの本も見られますが、現実には無理です。それは竹には記述しています様に極めて繊細な性質を持っている為です。

但し、ここで、例外があります。
昔から、桜に関しては「桜切るバカ 梅切らぬバカ」の諺がありますが、ところが桜は切らぬわけには行きませんね。
ところが、極めて、短い期間切ることが出来る時期があります。
それは桜の葉が完全に散った後の10日程度です。但し、先端を抑える「先端切り」です。

ついでに、難しいのは「山の木」を庭木にしている「モミジ」や「ヤマモモ」や「モチ」「ケヤキ」の木等ですが、完全に落葉したその直ぐ後10日くらいです。
しかし、モミジ等は、その時は既に次ぎの小さい新芽が出ています。
ずれますと「2月の先端枯れ」と云って先端が枯れてきます。場合に依っては切り過ぎると全部枯れます。

ここで、通いつけの歯医者さんが”庭の親の代からの大事な「紅葉(もみじ)」が枯れた”と私に訴えてきました。”若い庭師に文句を云ったが受け付けない”と云うのです。聞くと”2月に選定した”と。
この様に若い植木屋さんでも知らない状況に成ってしまっているのです。今度はその庭師が私に電話です。「紅葉の2月の先枯れ」を教えて1件落着。

モミジには紅葉を観るモミジと、緑葉を観るモミジがあるのですが知っていますか。
何れも綺麗ですがこれも扱いが違うのです。
単純に本を読んで選別などをすると云う事は、それは素人の事ですから、この「2月成長開始期」の所ですので充分に取り扱いに注意が必要ですよ。
私は”出来たら「2月の手入れ」は辞めた方が良いと思いますよ。

先ほどの結論は、”素人は「成長開始期」より2月戻ったところ”と考えるのが無難に上手く出来るコツです。

この様に昔からの技能の伝承、言い伝えが消えて、素人を忘れて本職並に書いたものが大変多いのです。
もう一度結論を云いますが、素人の原則は春系、秋系に限らずです。

”花を咲かす木は咲いた直ぐ後に手入れ、落葉する木は落葉した後直ぐに手入れ”を。

以上、剪定の基本を護れてすれば木々に影響は有りません。
木々や果実を販売する訳でなければ。

そこで、その基本ですが、簡単に心得る事は次ぎの通りです。
1 先ず枝には木を大きくする「成長枝」と、枝葉を張ってより光合成をする枝の「成育枝」に分かれています。
2 木を大きくしたい場合は「成長枝」を残します。そして、「成育枝」を取り除きます。
3 既に大きいので木を整えたい場合は「成長枝」を切り落とし、「成育枝」を残します。
4 木の枝葉は大方は手の中三本の指の形をした「三叉枝」に成っています。
5 真ん中が「成長枝」で両端が「成育枝」です。
6 大きくし且つ、整えたい場合は、かさの形になる様に、枝が足りない所は「成育枝」を残し、背が低い所は「成長枝」を残します。
7 但し、この場合、木は太陽の方向に成長をしますので、日当たり方向を考慮にします。
8 両方を残したい場合は「成長枝」の先端の「成長点」だけを切ります。横から芽が出て枝は伸びません。垣根の葉がすいている所はこの要領です。
9 よく勘違いしている所は、木の原則は、「成長点」が伸びて大きくなり、枝そのものが伸びて大きくなるのでは有りません。原則太くなるのです。
10 春系の木は花の咲いた後に「成長枝」を出し、秋頃に「実花のなる枝」を出します。春系は秋に手入れをするとこの次ぎの「実花枝」を刈り取る事に成りますので注意が必要です。

この理屈で「木姿」を見て行います。
椿系や梅系はこのパターンがはっきりとしています。
特に椿は上の原則を守らないと花目が葉芽に変わります。余り花が咲かないと云う事が起こります。
ですから、1-10の基本から[花の咲いた後、落葉の後}が良い事に成ります。

私は木々の手入れは本職とはしていませんが、この様な事は素人40年近く親や農家や年寄りの人から教えられた知識で庭の手入れをしています。この原則を守れば上記剪定の結論で問題は有りません。

そこで、本題の竹の結論ですが、竹は毎年花は咲きませんが、4月に「2番成り期」の時に突然に落葉を始めますので、その時か、成育済みの竹は勿論の事、10月頃が選別の最適な時期なのです。
筍から約半年経った時期です。筍の半年後は一応は成育済みと同じくらいに伸びています。その時の2ー3月前には先端から7割位のところで「先端折」をします。先端を折る事で栄養分を他の竹に均等に分配するのです。そして来年には良い筍を出させます。

実は竹は1本の水茎で繋がっていますので、その途中の一本の竹にその栄養分を採られてしまうとその水茎の後ろ竹は良く成長しないのです。良い竹が出来ません。
既に成長した竹は先ず5年以上経っているかの見極めをします。そして、1メータ間隔で伐採しますが問題はこの5年の見極め作業です。
竹細工ではこの5年以上の竹を使わなくてはなりませんので、4月の竹薮の保全は「竹細工用途」とは逆に成ってしまうのです。そこでこの5年ものを分けて残す必要がありますがそれには見極めが必要です

「竹の見極め法」
ところが、それを見極める方法がチャンとあるのです。その判断する元が幾つかあるのです。
先ず、1番目は竹の色です。2番目には竹の表面の毛の有無です。3番目は竹の艶です。4番目は竹の竹油の状況です。5番目は葉の色合いです。他にもありますがこの5つで判断が完璧です。
皆さんは”何、竹の色”と思われたでしよう。
ところがあるのです。竹の色は普通は薄青緑の所謂、「竹色」ですよね。草の色に近い”あさぎ色”です。ところが、それは竹を知らない人の色です。良く絵で書いている色がありますが、はっきり言うとあれは嘘の色ですね。
竹は年々色を変化させて行くのです。
では、先ず筍が成長して一人前の竹に成った色は薄青緑です。次ぎに5年目は黄色です。次ぎに10年目は赤色です。15年では黒ずんだ赤色(赤紫色)です。20年目ですが大方は葉がなくなりますので枯れ果てる前の色は失せて黒の大きいシミが出来て周りは薄茶色の枯れかけた色に成ります。
1年から15年まではその色が次第に色の階層のように変化してゆきます。
青系が取れて緑系に、緑系が黄色系に変化、黄色に赤が混じり赤系色に、赤系に黒が入り赤紫系に成るのです。
これは、太陽の紫外線とシアンの影響です。
紫外線に依って色が分解されて、先ず、青が分解し、緑が分解で葉緑素が消失し、それに替わってシアンが蓄積されます。更に、残された黄色系が分解、シアンの更なる蓄積、赤系が露出しシアンが大量に蓄積して変化してより補色の赤へと変色し、更に紫外線で分解、赤系の最後は黒へ変色とするのです。
20年くらいで完全に色素成分が消失して枯れるのです。
つまり、色素を作り出す生命力が無く成る事です。枯色になるのです。
明らかに色の7原色の可視光線です。
この事は、色は光の波ですから色が変化すると云うことは竹の表面の透過(吸収)が年数で違ってきていると言う事ですね。
言い換えれば細胞が変化していることですが、これは、竹の寿命では、年々竹の細胞の大きさが細かくなって行くことを意味しています。竹は歳月が経つとえぐ味等の防衛策が低下するので細胞を細かくして固くして身を護るのですね。

ところで、「黒竹」とは別に、普通の竹色が変化した黒い竹を見た事が、触った事がありますか。
多分無いと思います。紫外線により破壊されてメラニン色素が溜まった事になるのでしようが、全く人間のシミと同じですね。竹の節間では、半分以上に日の当る部分側にかなり大きい部分でシミの模様が出来て来ます。この部分はナイフや鋸が通らないほど固いのです。
竹が色素を失った後の竹を見ると判るのですが、15ー20年以上経った枯れた竹には黒い斑点の筋が枯れた後に残ります。これを見ると人間も含めてこの世の生物は皆同じなのだとつくづく思いますね。

次ぎに、竹の毛と書きましたが、竹に毛が生えているの知っていますか。
先ず、筍が成竹に大きくなると、竹の表面は薄い柔らかい毛で覆われています。
そして、竹毛はほぼ1年くらい生えているのです。これで表面を保護しているのです。
2年目くらいから完全に無くなります。そして、今度は竹毛の替わりに表面に白い粉のようなものが着いて来ます。これは竹油です。これをバーナーで炙るとピッカと光艶が出ます。
竹毛から竹油に変えて表面を保護するのです。この竹油は太陽の熱で次第に溶けて竹の表面は艶が出て来ます。そして、大事な節のところの周囲だけは竹油で真白く成ります。そして、節の下側は黒いシミが集まります。これで、4年目くらいに成ります。
5年目で色がはっきりと薄黄色に偏って来ます。
ここで、伐採です。

更に判らない時は上を見上げます。
竹の葉が新竹と違うのです。竹の葉は4月の筍の時期の2番成り時期(5月初め)に竹の葉を落として新しい葉を出します。それが半年後の10月には古い竹の葉色が違うのです。
やや黄ばんでいます。そして、その枝が黄色なのです

農家が作っている竹薮には5年程度で正確に伐採しますのでこの様な竹は観られません。
自前個人の竹薮には「竹細工」をする為に残しているのですから。
この様に竹の選別期は10月に行いますが、丁度、筍の時期から半年、次ぎの筍まで半年の中間です。この10月は来年に向けて竹は子孫を残すために準備を始める時期なのです。
竹薮管理に良くない事のみならず、この後で伐採した竹とこの前に伐採した竹は竹細工には使え無いのです。この10月が大事なのです。
竹薮の管理では子孫を遺す為に竹に影響を与えるのですが、竹細工では前後の竹は脆いので使えないのです。
10月の前は水分が多く過ぎて柔らかくて温度が低くいので脆いし、後は水分が少なくて固く温度が高いので脆いのです。この様に10月の竹が細工には最適なのです。
選別期はこのくらいにして、話を元に戻します。

筍の癖(掘り方)
その筍を掘る時は、竹の根から真っ直ぐ出ている筍より反り上がった形の筍を選びます。
筍の大きさは約30センチ程度までのものを選びます。これ以上だと固く成ります。
掘る時は竹根の紫色の芽が見える程度のところまで掘り下げます。
ところがどの方向からでも掘れるわけでは有りません。
筍は茎系根の所から出ますが、直立して直ぐ上向きには出ないのです。丸い茎があるとしますと上と下からは筍は出ません。腹の部分の横から先ず横向きに出て次ぎに上向きに土表に出てきます。
つまり、「Lの字」の形で出てくるのです。ですから、「Lの字」の左横から掘って筍を採る事は出来ません。右からLの横線の先端をタング(舌の形をした農具で、昔はトンガと云いました)で切り落とすのです。
一部の地域の農家の山の竹薮ではバールの様な農具を作りそれを差込んで「梃子の原理」で”エィ”と上に持ち上げます。これは表面が山の腐葉土で土が柔らかいので出来る事ですが、平地にちかいところでの竹薮はとてもそのようなことは出来ません。何処でも普通はこのタングですね。

さて、土の上からどちらに向いているかは判りませんね。ですが、慣れてくると判るのです。
筍の見えている部分と地形で見分ける事が出来るのです。
ではその見分け方をご紹介しますと次ぎの通りです。
先ず見えている部分では、5センチほど周りの土を取り除き掘ると、Lの右側の方が少し丸く無くつぶれています。そこを掘り下げ、赤い竹根がみえるところで最後にタングで茎根と切り離します。
ところで、”竹は単独で竹根で生きている”と思う人が今では全てですね。

ところが、親では、「茎系根」で先ず繋がっているのです。そして、自分の細かい「竹根」で支えて生きているのです。水分はこの「茎系根」から大元を採っているのです。
地下系では、竹の茎系根(水茎)は先ず日当たりの良い所、次ぎに水分の多い所に向かって地表20ー30センチ下のところ当りを横に伸びていますので、先ず日当たりの良い方向に向かって右側を掘り下げてタングを入れます。というのは伸びたとき南側に日が、北側に風が当りますので、太陽を大きく受ける側には両手を開いているように枝を伸ばします。且つ、風に耐えるためには茎ではない竹根は風の吹く方向に張ります。反対に根を張りますと風の勢いに根は耐えられません。ですから先ず右側から掘ります。この二つの事で掘る位置が判るのです。

筍の食べ方
掘った時は水が滴る程度のものがおいしいのです。それは店で売っている筍と違い本当に甘いのです。多分皆さんはこの辺のところの筍を食した事がないと思います。店、料理店に届くまでには少なくとも1日以上かかっています。多分、この時は滴る程度の水分は無いと思います。あっては取り扱いに困るでしょう。掘ったものを放って置くと2ー3時間くらいで水分は飛びますので、新聞紙を濡らして伏せるか、濡らした布を覆うかします。
そしてもう一つは柔らかいかどうかですが、掘った時のタングでの感触で判ります。雨が良く降り温度が高いときの季節の時は柔らかい筍が出来ます。
「雨後の筍」と言う風に急に大きくなり、温度が高いとより伸びますので、例えば10センチ伸びるとしますと(掘るとしますと)、多水分と高温で成長時間が短い事に成りますので柔らかいのです。10センチで1日とすると水が少なく温度が低いと3日かかりますので固いのです。
単位時間当たりの伸び率が違う事によります。
筍ほど取り立てが如何にも旬を表すものはないでしょう。だから、竹冠に旬と書くのです。
この白竹は太くて15センチ程度もあり細くて10センチもある大変珍しい大型の竹です。
記録では直径20センチもある竹がありました。普通の竹は10センチ以下です。筍の段階で判ります。
この白竹は食用に改良された竹ですが、又、太系ですので竹細工用と文字板にする等に昔は使われました。
この目的の為に日本には中国から昔取り入れたので京都の一部に生息しています。そして、我が家にも先祖がこの竹を取り入れた薮があるのです。
この筍は2ミリ程度の薄さにして刺身にして食べられる筍です。普通の筍は薄緑か薄黄していますが、この筍は白です。特別に甘いのです。

筍に付いては「1番成り」と「2番成り」とがありますがご存知ですか。
4月の10日ー15日前後を境に筍の出方が違うのです。この日を境に一度筍の出るのが留まります。後に出た筍は細いのです。そして、先ず第一に甘くなく固くえぐ味も強くおいしくありません。
これを「2番成り」と云っています。「2番成り」の見分けは新芽と入れ替える為に竹の葉が枯れて散り始めるときです。この筍は竹が葉を落とす程度にエネルギーが足りませんので細いものが多く出来るだけ伐採します。

竹の管理
さて、この様に筍を育てて竹細工にするのですが、そうは簡単には行きません。
良い選択した筍が伸びると、先ず、精一杯伸ばします。次に今度は「先端折」と云って6ー7割のところで上から揺さぶり折る作業をします。これは竹の栄養分を茎根を通じて全般に及ばせるようにしないと茎の先端の筍はあまり良く成長しません。

念のために、竹は「基竹」と云って「親竹」群があり其処から茎根(水茎)を通じて伸びて「子竹」群が成長します。地面より約30センチ程度の上根です。深くても50センチは超えません。
ですから、この竹藪を枯らそうと思うと、この親竹群の基の茎根を切るのです。切られると後の子竹群は全滅しますし、後は筍は出ません。
ところが、4ー5年に一度不要な竹と根切りをして整理をしないとだめなのは、この親竹群が次第に駄目に成って行くのです。ですから、この5年以上経った竹の側に出た太い形の良い筍は残して入れ替えます。竹の色と葉で判断しますがこの管理が大変なのです。

竹は土提や山の急な斜面に植えますが、上根ですので表面30センチ程度の大雨の土砂崩れには効果がありますが大きい山崩れは無理です。水分をどの木よりも吸う力は段突に持っていますので山崩れの初期の土砂崩れには効果があります。山に植えられた農家の竹薮は主にこの目的です。大抵は山裾のところに竹薮があるのは初期の崩れを防ぐ為です。
この目的の為に上記した竹薮の管理が必要なので、本来は筍を採り竹を維持するためにでは有りません。
田舎の農家にとっては大雨や地震で起こる山崩れで家や田畑が潰されるかどうかの大切な作業なのです。ですから、この目的の為にそれで育った竹は一本の竹の茎根から親竹群と子竹群とがあるので表層崩れには強いのです。
この何本もの茎系根が出ていますので、大方どの親竹から出ているかどこら辺に筍が出てくるのか判るのです。毎年必ずほぼ同じ処付近から出ます。
ところで、この4ー5年に1回の手入れが10回程度すると竹は枯れるのです。つまり、竹群の寿命は50年です。

ところで、皆さんは竹が花を咲かすのを知っていますか。観た事がありますか。
竹は50年に1回竹の花を咲かします。咲くとその竹薮は枯れるのです。
丁度、竹の葉を10分の1程度に小さくした様な竹の葉に良く似た花を群生して枝の先に咲かせます。咲くときはばらばらでは有りません。その竹薮が一斉に咲くのです。親竹群が咲くと茎根で繋がった小竹群も咲くのです。
もう一つは、怖いのは「天狗草病」と云う植物の菌による病気がありこれが竹に移ると枯れてしまいます。
竹の笹枝が先端の部分で群がって固まって縮こまり鞠の様になって遠くから観ると天狗の鼻のように見えるところから名付けられた病名です。これにかかるとひとたまりも有りません。竹薮が全滅です。
最近この現象が各地の山で増えてきているのです。
猛威をふるって私の家から山を見ると2ー3箇所枯れています。
それだけでは有りません。
近年、豚と猪の掛け合わせのイノブタが山に逃げ込み1匹の親から5匹生まれるので大繁殖して野生化してこの筍を全て食い尽くしているのです。山の竹薮は筍が食い尽くされているのです。その内に手入れと筍を残す事が出来ずに竹藪は松くい虫による全滅と同じ様に全滅になるでしょう。
私の家から200メータ付近以上山手の農家の竹薮全てはやられてしまいました。
筍はご近所に配るのが田舎の習慣です。しかし、農家の竹薮はイノブタ被害で遂に今年は全滅しましたので、私の家だけと言う風になりました。
全国的との事です。今のところ私の家の竹薮は平地であり途中の高速道路で遮られて降りてくることは出来ないので助かっています。まだ狸はスイカ、カボチャ、トマト、柿などの果物は既に食べますが筍を食べることをまだ覚えていません。
そんなに田舎でもない都会の既に家にも住み着いている狸とアライグマの雑種が食べることを覚えると更に悪くなると思います。
最近、直ぐ近くの家に日本猿と台湾猿とのこれも雑種も出て来ていますので、これも覚えることは時間の問題なのです。

この様に竹にも生きて行く上で大変な時期に来ているのです。
それだけに、竹細工は昔は大勢本職で趣味でやっていましたが、今は高齢化で竹を管理出来る人、造れる人が珍しく成りましたが、更にこの様な障害で竹材を手に入れる事さえ難しく成っています。
竹細工を皆さんがすると言うには難しい時期になりました。

竹薮は大変手入れが多く面倒ですが、竹細工はこの前に更に沢山の手入れが必要です。
「伐採」と簡単に書いていますが、この伐採が危険なのです。全く竹のことを知らない人がすると怪我をします。
先ず、竹の立っている場所と竹の傾き方向を見極めます。
大抵は斜めの所に立っていますので、山手の方向には倒れませんが、傾きは必ずしも下手に向いているとは限りません。竹の傾きはを観て、傾いている方向に倒す必要があります。それは傾いている方向から切り始めると鋸が重みで抑えられて切れなくなり鋸が取れなく成ります。つまり切れないのです。そこで傾いている反対から切り始めますがこれでは大怪我の元で危険なのです。
竹は「竹を割った.云々」の性質があり、突然割れて割れた竹が切る人の顔を跳ねて怪我をします。
そこで、先ず、傾いている側に少し鋸が抑えられない程度に切り口(ノッチ)を入れます。そこで、反対側から荒目の柄の長い鋸で切り始めます。20メーターもある高さのものが倒れるのですから、そこで倒れる音を聞いています。バリバリ..と聞こえ始めたら柄の持つところを直ぐに後ろにして素早く勢いよく切り落として逃げるのです。これで枝落しで伐採完了です。
この様では初めての一般の人は無理ですね。

竹材の作り方
さて、5年ー15年の伐採竹の竹細工にする為の前の保存の仕方があるのです。
実は伐採した直ぐ後では使えないのです。
伐採した竹はエイジングと云う作業をしなくてはなりません。
つまり、竹の切り立てには未だ生きるエネルギーを持っています。そこで時間を掛けて竹のエネルギーを徐々に抜いて行くのです。これは竹に限らずこの世の物質が持っている性質です。
例えば、鉄ですが精錬後、直ぐに使うと残留応力と云うものがあり精密なものには使えません。
変形や亀裂(ヘヤークラック)が起きます。

これを取り除く為に野外に放置して毎日の温度変化のエイジングや強制的にアニーリング処理(ある一定のその物質が持つ特性温度で加熱して応力除去や性質の安定化処理)をします。
当然、竹も同じです。エイジングなら草むらに寝かして1ー3年以上放置します。
昔、竹で作った番傘がありましたね。あれもこのエイジングしているのです。この場合は水の中に入れてえぐ味も共に抜いて番傘の骨材にします。
エイジングで5年以上経つと、良い竹は色も変化せずに自然割れすることも少なく成ります。
15年経つと色が無くなり黒の縞模様の竹が出来ます。これも竹細工では茶道などの人に侘、寂で大変に好まれます。このエイジングで伐採の時と違って、更に違った趣のある竹材が出てくるのです。
これで、やっと竹細工が開始です。私は30年前の竹材を持っていますが紫外線を当てないと赤色は替わっていません。
アニーリング処理に付いては処理そのものが大変なものなので又別の機会にしますが、昔の保存されている特別な竹細工はこの処理をしていると云われています。

竹の癖と竹細工
では、竹細工の事に入ります。
竹細工には色々な物があります。例えば、花瓶類、篭類、人形類、置物類、道具類...などあります。
ここでは主に花瓶類を紹介します。
一輪挿しの花瓶、プランター、生花用、飾り柱等で竹の性質を観て色々な形を考えて細工します。
馴染みのない「飾り柱」ですが、家の柱にこの1間長さの竹を固定し其処に色々な模様や細工をします。そして、それを柱の長さに合わせて固定します。そうすると家の中に竹薮があるように見えます。
高級料理店や侘寂を好むの茶室や華道道場にもよく観られます。
昔はこの太い白竹に漢詩を刻みこみ又書いて床柱に固定していたのです。
私の家にも直径25センチくらいの漢詩をびっしりと刻み込んだ極めて古い飾り柱があります。
割れやヒビが一つもありません。昔はこの様なものを細工して家の中を竹の趣で仕上げていたのですね。
近代的な家の造りでも、竹の花筒やプランターを一寸玄関の所に一輪さして飾るのも非対称的な趣があって落ち着きがありいいものです。
そう云うものを作ってみますか。

さて、そこで先ず、長い1本の竹を持ってきます。
その竹の性質、色、固さ、変形、模様、節間、年数を観見分けます。

これ等は上記した筍、竹の癖が働いてきます。当然、5年、10年もので異なります。
性質はその育った自然環境でも違ってきます。土、風、温度、傾斜、日当たりです。
先ず、その土には色々な種類があります。ナメ土、赤土、粘土、山砂、火山土等です。
一般には、竹薮の生息地は山土のナメ土が多いのです。つまり、山崩れの為に傾斜部に竹を植えますのでその目的からこの土が多いのです。他の殆どの土は竹の本来の目的に合いませんし、上手く育たないでしょう。
ナメ土は大変脆くて、固くて、水分を吸収し難い土なのです。土木屋さんには最も土としては安くて悪い土として嫌われている土です。一度吸い込むと逆に溜め込んでしまいますので、大雨で表層山崩れが起こるのです。竹薮を調べると殆どこの土のところです。当然、そこで育つ竹はその土に合わせますから水分の補足分が一定では無く、夏までに貯めておかなくてはならない時に水が無ければ竹も当然脆い事に成ります。脆く固い土ですので根に力が入り竹の伸びは悪く成ります。
竹を高くすると風圧で根に力が入りますので倒れ折れたりします。
他の土は竹の性質に合っていないのでこの自然理で推して知るべしです。
逆に、このナメ土は細工するときはこの土地で出来た性質が加工や保存で適しているのです。
色から年数までの要素は上記した通りです。
変形に付いては竹が生育するナメ土の場合にはナメ石や石英岩が多く含んでありますので、その石の多い所から出て来る竹は変形しておもしろい形をしているので竹細工には好都合です。
ナメ土帯には鉱物学では土層帯として石英が多くその結晶の水晶が存在する層なのです。
又、セメントや庭石にする青石や、自然石高級砥石や硯などに使う紫石などの高級石が存在します。
ですから、大変固く脆い事、水分の保有の有様が考えられます。
この様に育った竹は加工時や保存時には20度前後下目の温度が好ましいのです。
夏に加工保存すると、高温、多湿で加工していますので、冬に入ると冷却されて温度差による割れが生じ、水分が無くなり低湿で乾燥しますので更に割れる事に成ります。当然、水分も低レベルに成るので色も変化して紫外線だけではなく水分による色の消失が起こります。
低温と乾燥で収縮しますので割れなくてもエイジング不良のものは「竹のしわ」が起こります。
ですから冬に細工が必要です。

細工道具
そこで竹の細工の道具ですが、ノミ、ナイフ、ハンマー、ヤスリ、カンナ、ドリル、細鋸、バーナー、ブラシ、砥石でしよう。
要するに道具から見ると職人技能を要求される細工と言う事に成ります。
切断は細鋸で行います。荒鋸では竹は割れます。切断面がささくれます。竹の表皮が剥れます。内部にも細かい亀裂が入ります。
竹は0.5ー1.0位の固い表皮に覆われていますが、竹を10月で伐採しなかった場合はこの部分が剥離し易いのです。そして、エイジングが不足すると脆く成ります。内部も粘りが有りませんし、加工後割れ易いのです。

先ず、粗加工は、必要な所を細鋸で予定切りして、後はノミとハンマーで割って行きます。
割る時にはその加える力を慎重に加減しながら割りませんと割れが走りすぎて使い物になりません。
この時は、その割る終わりの点に2ミリ程度の穴をあけます。そうする事で割れの走りを止めます。
大方の形を作ります。
次ぎに水で洗います。余りきつく洗うと竹油を落としてしまいますので濡れた布で拭く程度にします。水に長く浸すと竹の水分の吸収度合いが違う為に乾くと割れます。
その後、陰干しします。

粗加工したら、中仕上げではノミで切断面を細かく手で削って行きます。
竹の綺麗な筋目の模様が出て来る様に丁寧に削ります。
竹の節目には突形状に成っていますが、この部分に黒い竹油の変質したものが付着していますので、これを取り除きます。この突部分は加工後剥れやすく印象がよくありませんので先に少し取り除いておきます。これはカンナでくるくると廻して柔らかく削ります。
黒ずんだ竹油は毛ブラシで擦り落とします。付けておいても良いのですが。
侘寂を好む人は竹の有りの侭の姿で仕上げたものを好みます。

仕上げは、ナイフを使いナイフの刃先を立ててやや斜めにして擦り削りで表面をつるつるにします。
切断面と切断面の交点は直角にすると其処から割れを引き起こします。そこで、粗加工するときに大まかに位置を決めてドリルで穴を開けます。そしてヤスリで位置ずれを修正する為に仕上げ凹R(-R)をつけます。最低1ー2ミリ程度のーRをつけます。-Rは力を左右に逃がす事が出来るのです力学的に余り大きくしてもーRにかかる力は同じなのです。
理論では0.5Rですが小さすぎて難しいので1-2Rとします。
これは竹だけではなく金属でも同じです。本当は木材でも付けた方が良いのですが面倒な事と柾目があるからですね。

加工では最も注意する事は道具が良く切れることです。
切れない道具では、木材と違い竹は5年以上物は5倍位固いので細かい手仕事は上手く運びません。切れないで無理に力を入れるために本当に怪我する事が多いのです。
そこで、道具は必ず毎回砥石で磨く事が必要です。これが最大の問題なのです。
そして、更に木材のノミやカンナとは少し磨き方が違うのです。
木材のノミやカンナ角より更に角度を少なくします。つまり、よりシャープにすると云う事です。
それでなくては固いのですくえないのです。そしてノミ、カンナの刃先の先端形状は直線ではなく緩やかな丸みをつけます。
直線ですくって行くと刃先全面に一度に負担がかかりますので、先端が直ぐに丸くなり切れなくなるのです。また力が必要で危険です。ですから、切削の力を点で捉えて前に切り進んで行きます。
その為に、例えば、20ミリの刃巾ですと中央から次第に両サイドに切れて行く様に成ります。
この様にすると刃も持ちますし、力も楽になり削りやすく成ります。
これだけでも特殊な技能が働いているのです。

ノミ、カンナ、ナイフの砥石での磨きと鋸の目立てです。
これが一人前に成る事が良い品質を作る事が出来るのです。
竹細工は特にこの点が必要です。場合に依っては複雑な物を作る場合には、自分で焼入れ等の熱処理をして加工具を作る必要があります。
又、竹は固いし、特別に刃先の角度をシャープにしていますので直ぐにヘタリます。駄目になり切れなく成ります。そうすると、直ぐに磨きを入れますので、焼入れ部は直ぐに減ってしまって使えなく成ります。
特にノミの磨きです。真っ直ぐに良く切れる様に磨けるには2ー3年はかかるでしょう。
それに丸みを付けるのですから大変です。
これも楽しい事ですが、固くて脆い竹ですので薄く削れる様にする為にはこの様な工夫が働きます。
カンナもノミと同じ様に形状を変えます。鋸も然りで市販のものでは直ぐに切れなくなるので自分で目立てします。

忘れられた雑学
そこで、ノミも駄目に成りますし、竹の内部を削る時も特殊なノミも、必要で自分で作るしかありません。さて、この自作ノミを使える様にする為には特殊な技能の熱処理が必要です。

そこで、竹とは別に、ここで、ついでに知識幅を広くする為にノミの「熱処理」の事に付いて触れてみます。
ここからは少し大學で講義を受けていると思い我慢して読んでください。
たまには良いのでは。ボケ防止に。若い人でも最近はボケが出ているとの事、気を付けなくてはね。

いや、昔は農家の人はこの程度の技能を持っていたのです。青木氏のことを調べている過程で文献の文章から自前で農具を作り修理していた事が覗えます。そして、その中で特に特技に優れた者が村の鍛冶屋として、果てには刀鍛冶として独立したものなのです。
歴史は繰り返すと云いますが、後漢の阿多倍らが持ち込んだ鍛冶部の技能が平安末期から第一次産業として進み、それが一般化しさらには室町期に入り商業が発達し、室町文化の影響を受けて又鍛冶屋として刀鍛冶として独立した事に成ります。明治期に入り産業革命で企業化して、昭和の中ごろから高度成長で難度の高い技能は低収入と成り技能と知識は一般から忘れ去られてきたのです。平成の現代に於いては鍛冶屋そのものを見つけることが困難と成りました。

兎も角もこのことを念頭に「古の名刀」の作り方とも思い読んでください。
この様な名刀の所以の事を書いたレポートは日本全国ないと思います。
青木氏氏サイトだけです。
これからは、名刀を作っているとしても読んでください。
名刀はこの様な熱処理に依って出来るのです。

先ず、磨り減ってしまった工具を探して利用して必要な形にする為の「姿作り」を先ずします。
磨り減った使えなくなった古い工具は焼入れ部分が無く成っています。
そこで、特殊な工具を作る場合はこの処理をしないと作れません。市販では販売していません。
昔の職人は特殊な工具は自前自作で全て作ったのです。今は分担作業ですが。勿論、刀鍛冶もです。

先ず、特殊な「姿作り」をグラインダーで手作りします。
次ぎに加熱用の炉が有りませんので、昔の七輪(しちりん 昔はフイゴ)で炭をおこします。
団扇(うちわ)で猛烈に扇いで熱して赤くなった頃の600ー650度(この温度を「特性温度」と云います。)にして30分間程度加熱します。引き出して灰冷か空冷します。

(温度は「色温度」と云うものがあり昔の卓越した職人はこれを経験でマスターしたのです。熟練すると2度以内で判定が出来ます。)

(特性温度 :全ての金属には必ず持っている特別な温度です。この温度の上下を境にしてその金属の性質が変化するのです。ですからこの温度で力や振動や刺激などを加える事で無理なく性質又は品質を変化させられるのです。)
(注釈:温度だけではなく、強さでも「特性点」(YP)と云うところがあり、エネルギーの伝わり方でも特性点(SP)と云うところがこの世の全ての物質にあるのです。)

人にも特性点
ところで、この事に付いてついでの余談ですが、 ”全ての金属”と言う事ですから、この世の物質には人間も含めて特性点は全てあると云う事ですね。
この摂理で考えると、特性点は動物の人間で云うと、何処にあるのでしょうか。
私は、「社会の拘りを少なくした自然の心姿:自立環境」だと思いますが。私は「拘りと蟠り(ワダカマリ)」を捨てる心境」のところにあると思います。
マァ捨てなくても、せめて「より自然の心に浸たる事」が出来て、「自然な人間の品質(健康な状態)」を保てる点で、ここが特性点だと思います。「自然に平静を保てる所」ではないでしょうか。
町の中で平静を保てたとしても、自然の中に入り平静になった時とでは何か違いますよね。
多分その時ではないでしょうか。

これを理論的なカーブにして見ると、横に「自立神経」、縦に「健康度」ですね。
自立神経が働かない所は健康は0ですね。次第に神経が働き始めると健康も良くなって行く。そして、あるポイントまで来ると健康は最高となり、それ以上に自立神経を働かせると疲れが来て健康は横ばい低下傾向になる。何時かうつ症候群として病に成り健康を害し健康度は急激に低下し始める。
そして、何時か切れる。と云う事ですね。
以前のレポートにも書きましたが、普通はこの世の物質はSパターンの形(Sを横に引っ張った形)を示しますので、人間の特性点も、この関係グラフでは、健康が最高点に成る一つ手前がこの点に成ります。
全ての物質はこの特性点では少し横ばいになります。人にも下の所にあると思いますよ。
だから、「自然の心姿」が狂ったものが「人間の心の病気」ですが、これを変えるには人間の特性域に持ち込み何らかな刺激等を加えれば良いと云う事に成りますね。それがこの世の全ての物質の摂理であるとすると。
”それは何ですかね?” 私には、人間の脳の「継電システム」の有様から見て、”陥っている環境のスイッチを切る”と言う事だと思います。
だから仏教ではこの「特性域」に入る為に、「座禅や修行」をし「自然の心姿」を経験会得し獲得しようとするのであると思いますが。
仏教が生活の中に密接に入り込んでいた時代では、この「特性点」が今より言伝えられて明確に成っていたのではないでしょうか。
多分、”先祖を敬い毎日仏壇に向かう生活環境の自然の心境”がそれであったと思うのです。
科学の進歩でそれが消えてしまった、又は忘れられたと観ています。

現在でも、それまで行かなくても、凡人には常日頃に「静かな自然環境に浸たる」でも特性域に入れる事に成りますね。
現在の社会病魔はこのこの事に尽きているのではないでしょうかね。
つまり、自然一杯の中で、私達が子供の頃に知り得ていた何でも無い知識や経験と心姿を失った人が多くなったと。
今書いているこれ等の知識や経験は難しいと思われているかも知れませんが、私にはそうは思えないのです。
どちらかと云うと、社会の科学の進歩で煩雑化して自立神経が低下し始めている為に「難しいと思う心」が既に特性点を超えた位置にあると思えませんか。
何故ならば、今書いている事は大學講座で話す事と思われるかも知れませんが、残念ながら、800年前には難しいと思わずに既に皆が知っていたのですよ。少なくとも普通の職人と農民が。
理論ではなく経験を通して。ただ単純に、「理論(知識)」と「経験」の違いだけですよね。

話を雑学の元に戻します。
名刀の条件
古い工具や刀の素材は既に熱処理を施されていて、ある程度の固さで未だ内部が硬化が少し残っているので、そのままで焼入れをすると焼入れの変化が強すぎて割れてしまいます。(専門用語では「変態応力」と云います。)
そこで、その内部を鉄の元の状態に戻します。(アニーリングと云います。刀の素材も同じです)
冷えたら、再び加熱します。今度は温度は723度以上で850℃にし30分間加熱します。
温度は高温計が無いので「色温度」で目で判断します。判断には経験が必要です。
850℃は真っ赤になって白傾向になり少し黄色か橙色気味になったところです。
経験すると、2度も違いません。
鉄に依って温度は違いますので注意が必要なのです。
この850℃という温度は殆どどの鉄ー鋼にも合う温度なのです。材質によりこの温度を中心に上下に処理温度が違ってきます。
普通は、「焼入れ」が出来る鉄(本来は鋼と云う。ここでは鉄と云う)は内部に含まれる炭素の量で異なります。
最低は炭素量が鉄の全体の0.35%から最高は0.8%までです。
これ以下は皆さんが「鉄」と云っているもので「軟鋼」と云います。(炭素0.18%以下なのです)
これ以上は「鋳物」と云います。鋳物は本来、炭素0.9ー1.4%まででこれ以上含まれると鉄と炭素が分離して鉄にならないのです。
炭素は鉄の結晶と結晶の間に含まれていますが、この炭素が増えると鉄の結晶間を結んでいる力が低下して分解してしまいます。鉄にならないのです。
古い工具は大抵は炭素0.4ー0.5%です。中炭素鋼と云います。
「焼入れ」が出来る鉄は0.8%までです。高炭素鋼(0.6-0.8%)と云います。
つまり、鋳物は「焼入れ」をすると焼入れが起こる力(変態応力と云います)が強すぎて割れてしまいます。内部が金属崩壊するのです。
工具は大抵は中炭素鋼です。これに「焼入れ」をしているのです。

では、先ず鉱物油を用意しますが無いので、水を熱して冷やして20度くらいにした水か、雨水などの溜めていた古い水に冷却します。鉱物油は一般に無いでしょうから、以上3種類の水のいずれかを使います。この辺も刀の良悪のノウハウになるのです。
これは水の中に空気が多く含むと焼入品のノミの周りに空気が集まり冷却をするのを空気が邪魔をして「焼入れ」が出来ないのです。
加熱30分立ちますと鋏で取り出して直ぐに冷却する水に真っ直ぐに入れます。斜めにして入れると冷却差が起こり変形します。
そのままに放置すると良い焼入れは出来ないのです。
まず、冷却すると「焼入れが起こる力」で手に響いて来ます。
すごい響きです。”ググー グングン”と耳でも聞こえ鳴ります。そうすると感じるか感じないかのところで約0.5-1.0秒程度で引き上げます。そして放置します。
そうすると、表面の硬化層が0.5-1.0ミリで「焼入れ」が起こりますが、まだ内部は400度くらいの高い温度です。この熱が焼入れ層に伝わり「焼きの硬化部分」が元に戻ろうとします。
この熱が大切で戻る事が大事なのです。
「焼入れ」をすると、鉄の結晶と炭素は結合してダイヤモンドと同じ結晶と成ります。
ダイヤモンドは炭素で出来ています。この時の結晶は「稠密六方晶」と云います。
硬度に表現しますと、ダイヤモンドはHrc63-65程度ですが、この焼入れはHrc65-67程度に成ります。
先ほどの”ググー グングン”はこの結晶に変化したときの力なのです。
元の結晶はオーステナイトと云う高温での鉄の結晶です。常温ではパーライト結晶と云います。
つまり、パーライトからいきなりはダイヤモンドの構造にならないのです。
熱せられて先ずオーステナイト結晶に成り、「焼入れ」で鉄ダイヤモンドになったと言う事なのです。
これが焼入れです。
そして、内部の温度で戻されたこの「鉄ダイヤモンド」はマルテンサイトと云う結晶構造になるのです。

鉄を焼き入れると云う事は、パーライトからオーステナイトの結晶にする為なので、その為に加熱するのです。そして、それをゆっくりと灰冷すれば元に戻りますが、急激(850℃-1S)に冷やすとそのエネルギー差で本来在り得ない結晶に成ると云う事なのです。
推して知るべしで、ダイヤモンドもマグマで炭素が熔けてそれが湖や海に流れ込み急激に冷えて、そこに次から次えと流れる込む溶岩の重みが架かり結晶が変わったのです。

だとすると、昔の人は、当然に、この水晶などの取れる場所からこの自然の知識を思いつき、鉄に炭を浸込ませて、冷やせばもしかすると硬くなることを思いついたのです。そして、”試してみた所硬くなった”と技能的に経験したのです。平安中期以後の経験なのです。その後、この技能は平安末期から拡がったのです。(自然説:主に鍛造説)

このマルテンサイト結晶は内部の熱でより細かいマルテンサイト(微細マルテン)に成ります。
これで「焼入れ」は終わりです。
しかし、このままで放置すると結晶が変化した力が内部に残っている為にその内100%割れるのです。
そこで、200ー250度で1時間加熱してやりますと割れません。これをテンパーと云います。
テンパーマルテンと云う結晶に成ります。 300度以上では逆に脆性が起こり脆くなるのです。
これをやりますと、切れ味抜群なのです。マルテンでは切れ味は今ひとつで「刃こぼれ」が起こるのです。
更に、焼戻しを更に進めると「ツルースタイト」と云う結晶になり衝撃のかかる刃物に適する事に成ります。

これ等の事は理論と言葉は当然知らないにしても、技能として職人は知っていたのです。鍛冶屋も刀鍛冶も。いや、刀の目利きの出来る多くの武士もです。

この時、焼入れで、4つの硬化層が出来るのです。
一つは最も表面に加熱した時の炭の炭素が浸込んでいますので、この部分が硬化します。
(ここは0.8%の炭素です。最も良い焼入れ硬化層の部分です。共析マルテンと云う)
二つは自分の炭素量のところが焼きが入ります。(低炭素マルテンと云う)
三つは冷却が届かなかった部分で半硬化層です。(ソルバイト、又はツルースタイトという結晶です)
四つは全くもとの状態のままの層の深部です。(パーライトという結晶です)

昔の名刀と云うものは経験でこの技術理論を技能でマスターしていたのです。
つまり、これまでの処理が名刀とそうでないものとの違いです。
これだけの理論を経験で取得していたかどうかですが、大変な神経を必要とする技能です。
これの理論通りに伝承技能で上手く出来たものが「名刀」(正宗)なのです。

昔は鋼を特別に作る技術が未だ有りませんでしたので、鉄を加熱した炭の中に入れて炭の炭素を浸込ましていたのです。これを「浸炭」と云います。
逆の事を言うと、大昔の人は炭で鉄を形作るために加熱していた所、何かの理由でうっかりと急に冷やしたら硬くなる事を知り、ただ、鍛いて強くするよりもはるかに硬くなり長持ちできると知ったのです。(炭説 主に冷却説)
これがきっかけなのです。これが職人に一般化して行ったのです。

これを何度も繰り返して、鋼の上記の4つの層を先ず素材として創り上げる事が良い刀になる事を知ったのです。そして、上記の焼入れ技能を千年も掛けて習得したのです。

実は、4つの層を作るにも恐らく失敗の繰り返しを千年として行い得た技能なのです。
それは一度の加熱でこの4つの層を作る事は理論的に出来ないのです。
二つの理由があるのです。
一つは、長く加熱すると、結晶が粗大化するのです。一つの結晶に架かる力が細かくなるほど小さくなり、結果として力は強いのですが、粗大化は脆くなるのです。
二つは、炭素が浸込んで行かないのです。限界が起こるのです。
つまり、加熱可能な範囲の温度では、炭素は結晶の間に入るのですが、入らなくなるのです。飽和です。
この最高温度域が723ー910度なのです。これ以上超えると、鉄は熔ける事と徐々に蒸発を始めるのです。そして、1050度で熔けてしまいます。1540度で完全蒸発します。

こんな技術を千年も掛けての経験から技能を名刀の職人は引き継いできたのです。
では問題は千年で職人はどのような技能を修得したのかですね。
先ずは、約2時間加熱します。そして直ぐに灰の中に入れて冷やします。
この経験には2時間以上加熱すると鉄の結晶が粗大化してぼろぼろに成る事を知ったのです。
そして、灰の中に入れる事で鉄の酸化を防ぐ事をここで先年の継続した経験を通して学び覚えるのです。
これを何度も繰り返して行くと内部まで炭素が浸透して行く事を覚えたのです。
しかし、これでも駄目なのです。この間に一つしなければ駄目だと知ります。
それは、ハンマーリング、つまり、用語では鍛造です。
加熱、浸炭、鍛造、冷却この4つの作業を繰り返すと良い素材が出来ると千年を経て覚えたのです。
良く鍛冶屋さんで見られるトンテンカンの作業です。
まだあるのです。これでも駄目なのです。トンテンカンのしている温度範囲なのです。
これが、上記した下限723度なのです。これ以下にしてトンテンカンをすると逆に駄目になるのです。折角、浸炭した部分が破壊されてしまうのです。
鍛造する事で粗大化した結晶はある升の範囲では結晶が少ない事に成ります。当然、この結晶に入る炭素も少なく成ります。そこで潰して細かくし、結晶をある升の範囲で多くして再び炭素が入る様にするのです。”潰す加熱する浸炭する”を繰り返す事で出来ると知ったのです。
これを4ー5回繰り返すと刀の素材が出来るのです。
そこで、この部分を同じように焼入れしていたのです。

名刀かそうでないかはこの焼入れの温度と加熱時間と引き上げのタイミングとテンパーの有無と良悪で決まりました。更に刀の反り具合(逃げ角)などはこの冷却時の角度によるのです。

そして、名刀を作れる匠と成るには、その繰り返した浸炭の素材が出来たかの判定能力が必要ですよね。
実は、名刀を作れる職人は鋼の「火花」で見抜いていたのです。
その火花ですが、グラインダー(回転砥石)で擦りつけると熱を持ち溶融し始めて1040度以上になり、空気と接触して鉄と炭素が酸化反応を起し爆発します。これが火花です。
先ず、その火花ですが、炭素が少ししか入っていないときは、火花は「一段咲き」(通称トゲ)と云う火花を飛ばします。つまり、夕涼みの線香花火を思い起こしてください。
この線香花火は「4段咲き」です。
「一段咲き」は、つまり、狸の尻尾の形にもう一つ横に短い尻尾の火花が出る状態です。これが0.25%以下の炭素量です。トゲと云います。
「二段咲き」は、トゲの先端に一つ菊の花が咲いたように成ります。0.30%の炭素量です。菊の花と云います。0.3-0.6%までは菊の花が次第に増えます。
「三段咲き」は、菊の花が増えてその菊の花の先にもう一つ花が続けて咲きます。0.8%の炭素量です。
「四段咲き」は、線香花火の最後の方にパッパッと菊の花が咲いて散る状態となりますがこれです。
0.9-1.2%の炭素量です。
「五段咲き」は、普通は見られませんが、パッパッばかりの菊の花に成ります。1.4-1.8%の炭素量の限界に成ります。

名刀の職人の匠は名刀に出来る材質が出来たかを「線香花火の火花」が飛ぶかどうかを見抜く事が出来ていたのです。この火花を微妙に見抜く技能を習得していたのです。
名刀はこの「三段咲き」の状態を的確に見抜く力が必要なのです。
恐らく、江戸初期までには匠でなくても鍛冶や農夫でも知っていたと見られます。

実は私の家に伝わる刀に関する古本に上記のような理論は書いていませんが、「刀の目利き」に付いてそれなりの知識が武士や鍛冶衆に衆知されていた事が書かれています。
古に本が出版されている事態がそれを物語るものです。
こんな事を”よくもまぁ、千年も掛けて知り覚えたものだ”と感服です。
ですから、日本刀は技術と技能の見本のような物なのです。
名刀はこの作業を寸分無く違えずに創り上げたものが名刀で、この作業を違えてできたものが名刀でないと成ります。
そこで、参考として、切れる刀の正宗、強い刀の村政の違いは、上記のテンパーマルテンとツルースタイトの違いですね。

武士はその武士の魂の「たしなみ」として、「刀の目利き」に通じていたのです。
それは、焼入れた部分が、結晶が大変細かい結晶と成りますので、其処に当る光の反射具合が先ず変わります。光を当てよく観ると、細かい凹凸の粒が見えますが、この「粒の大きさ」と「均一さ」で「目利き」をしていたのです。機会があったら一度この感覚で観てください。

当然、良い刀はこのマルテンサイトとツルースタイトの表面の滑らかさが違いますので、光が薄い青色を含んだ白色を発します。この色合いの白色でも「目利き」が出来ます。
其処に、浸炭した部分が焼入れしますが、全部が硬く焼入れが出る訳では有りません。
これを「質量効果」(マスエフェクト)と云うのです。
これが名刀の技能の所以の一つでもありますが、質量効果が大きくなれば、表面のきざきざの「焼入波面」に違いが出ますのでこれも名刀の違いです。
つまり、「白色」と「波面」と焼きの弱い「背所の色藍」(白っぽい黒ずみが良)程度で「目利き」出来るのです。この様なものに成る技能的な理屈を武士は知っていたのです。

物作り日本
既に、「物作りの日本」の素質はここに在ったのです。
鉄の精錬は中国後漢の鍛冶部によって伝えられましたが、その後のこの刀の技能の伝承は日本独自のものであり、実はその刀の技能が現在の日本の冶金の基礎に成っているのです。

大學で学ぶ知識が既に経験で一般化していたのです。全く専門的に調べると唖然として感服です。
千年も前からあった知識を職人であれば伝え誰でもが知る事を一般化していたのです。決して大學講座では無いのです。

因みに、典型的な事があります。
日本の新幹線です。
台湾、中国は日本の新幹線を採用しましたが、韓国はフランスの鉄道技術を採用しました。
しかし、韓国は採用後日本の新幹線の方が良い事が判ったのです。
それは、ブレーキなのです。
日本の新幹線は駅手前でブレーキを架けてもきっちりと止まります。しかし、フランスの鉄道はかなり前から架けないと止まりません。フレーキの架かりが悪いのです。
新幹線のフレーキは架けるとパッドやそれを支える鉄部品は400度以上に成ります。
つまり、400度でブレーキ操作を難度も繰り返すと、金属は熱疲労を起し破壊します。
又、400度以上に成ると鉄の中に残っているS(硫黄)、P(リン)が反応して脆くなるのです。(ステッドブリットネスと云う)
更に、このS、Pは圧延に依って真ん中に一直線で分布していますが、不純物と共にこれが400度で中央に集まり「バンドストラクチャー」と言う現象を起して部品は二つに割れて破壊するのです。
それと、高速にフレーキを架ける為にそれを押し込む部品(ウエーブ)が想像を絶する強度に耐えなくては成りません。
そうなると、これ等の問題を解決するには「熱処理」です。
(アルカリ土類金属のMo、Mn、Crの一つを加えているのですが、これを加えると熱に強くなり、焼きが熱で落ちないし、強くなり焼きが入りやすいし、熱が架かると自分で硬くなるし、錆びないのです。)
ここに上記した日本刀の技術が活かされているのです。

実は、この日本刀を分析すると、このCr(クローム)が適度に加えられているのです。
Crを加えすぎると金属は脆くなり使えないのです。ところが、この昔の時代にCrを加えていることすら脅威であり、その限界を掴んでいる事も脅威であり、それを何処から取り出し、どのようにして知ったのかは現在も不明なのです。現在のフランスの新幹線が出来ていない知識を。日本刀は出来ているのです。
この処理が設計的に活かされていて、駅手前でも止められるのです。

この様に伝えられた冶金を含む金属に関する技術、技能は日本が段突なのです。続いてドイツです。
だから、先日、経済復活の特効薬として、麻生さんはオバマ氏に新幹線を大陸横断で採用するように勧めたのです。
「日本刀」はそれを集約した物なのです。その集約した知識が昔は一般化していたのですから、今の日本の物作りがあるのです。

さて、この様に昔の職人が自前自作具をこの様な伝え知った知識を駆使して創り上げていた事に面白みがあり私も挑戦するのです。

その歴史を紐解くと、奈良時代では中国後漢から阿多倍の一団により伝えられた技能を「部」(べ)組織化し専門化して産業を構築してきましたが、部制度が崩壊する平安末期から一般化したその技能は今度は自前で作る一貫技能化して作業したのでした。そして、日本刀=日本を生み出したのです。
そこで、専用の道具を作る作業から、この様な歴史的な知識と先祖の努力とその素質が見えておもしろいから止められないのです。そして、この事を励みと成るように可能な範囲で将来の青木氏の子孫に遺したいとより思うのです。これは青木氏の歴史を調べると同じ事が判るのです。

ステンの包丁
ところで、参考雑学として、ステンレスの包丁がありますが、ステンレスは焼入れが出来ません。その理由は中にクローム(Cr)が多く含む原因と普通炭素量20.28-0.33%なので出来ないのです。
そこで、精錬後、圧延時に850℃に加熱(オーステナイト)して圧延の力(75k/)で圧してマルテンサイトの結晶にしているのです。クロームが多く含んでいるのでマルテンに成りやすいのです。
キッチンのステンレス板は常温で高温でいられるオーステナイトの結晶に成っています。ですから、NiとCrの効果と錆びない結晶(オーステナイト)で錆びないのです。

話を竹に戻します。
最終仕上げは、竹の表面の竹油をバーナーで溶かします。
竹油はかなりの高い温度で解けますので炙り過ぎないように注意してて艶が出ると直ぐに移動して行くことが必要です。但し、この場合、細工物が濡れていないことが大切です。
炙りすぎると、温度差が出来て竹は割れますので速く均一に炙ります。
また、炙りすぎると、色素が分解されて色が飛びますので、最も神経を使います。
炙った後は急に冷やすと割れますので自然に冷やします。
加工中の埃はエヤーで飛ばすか布等で拭き取る事が必要です。
加工した直後に水で洗いますと加工面だけが吸湿性が良く成っていますので、乾くとヘヤークラック(細かい亀裂)が出て何時か割れに繋がります。
次ぎに切断部分には油がありませんので、この部分から水分が蒸発しますので亀裂が入ります。亀裂が入ると割れに必ず繋がります。
そこで、この全切断部分にニスか透明ボンドか透明コーティング材を薄く塗ります。
シックハウス症候群に成る場合がありますので、塗った後は3月くらいはエイジングします。
3年未満の白ぼく艶の少ない青竹はバーナーで炙ると完全に色素が飛び色斑が出来ます。
これはこれでおもしろ味がありますが水分が多いので斑のところから亀裂が入ります。
品質は1年程度で色が変わりシワが出来て長持ちはしません。そのままでは殆ど割れますので全面にニスを強く塗ることが必要です。
ニス等のコーティングは内部の水分の放出を防ぎ、且つコーティング部で保湿を保ちます。昔はワセリンを塗るなどした様です。
大昔は吸湿放出する灰を容器に入れて保管したようです。

青竹に塗らない場合は床下や低温低湿暗室のところ、例えばシステムキッチンの下のところを選んでください。上の保管庫は温度が高く成りますので良く有りません。
次ぎの様な保管は10度の冷蔵庫に入れて保管すると良いでしょう。

最後は保管です。
竹と筍の保管に付いて冷蔵庫を使うと良いとしていますが、大昔から行われていた方法として、塩が使われました。
先ず、これが最近、再び伝承されて、「器」として料理店などで5年未満の竹を保存する場合は「塩や砂糖」を使います。特に砂糖が用いられる様に成りました。
冷蔵庫の無い時代では袋の中に塩や砂糖を入れて床下などの暗室に保存しました。
そこで、その理由では塩と砂糖などは「潮解性」と云う性質を持っています。
「潮解性」は周囲の空気を吸い込み又多いときは放出して一定に保つ性質を持っています。
現在ではこの塩か砂糖を竹にまぶして冷凍します。
そうする事で、表面を冷凍による水分の低下から護ります。内部は分子の運動がほぼ停止しますので色と竹の性質は変わりません。
ただ、塩と砂糖の使い分けをしなくては成りません。

筍は皮を剥き湯で灰汁抜き(あくぬき)してから塩で包むと塩の影響で表面が荒れますし、料理にはから味が出ますので良くありませんので砂糖を使います。
竹は表面が表皮で囲まれていますし、竹油がありますので大した違いは有りませんので、問題ないのですが昔は筍も塩でした。
現在は砂糖で包んで袋か容器に入れて冷凍します。料理店では砂糖で保存しているでしょう。
ただ、5年以上の花瓶などは次ぎの要領を護れば問題なく夏冬でも使えます。
青竹を維持したい場合には上記の方法を使います。

竹はこの様に繊細で微妙な性質を持っています。そしてその素材の影響を大きく受けます。
そこで、使用と保管の最大の注意は太陽の直射光を絶対に避ける事です。
日の当るところとそうでないところの差です。温度差が出て100%割れますし色素が抜けます。日の当らない影の温度の低い一定の所を選ぶ必要があります。
竹筒の中には水は絶対に直接入れないことです。
ペットボトルなどの何かの容器に水を入れて花を生けることが必要です。
直接入れるとその水分の内側と外側の水分の量が違ってしまう為に割れが出ます。
入れるのであれば常に入れておく必要がありますが、竹特有の強い匂いがしますので好ましく有りません。
2ー4月頃には加工量の多い部分で多くが割れが出ますので、竹筒のペットポトルに水を入れて保管すると割れません。保管ケースに入れて置くことも完全な対策に成ります。
出来れば、保管ケースの中に砂糖か塩を瀬戸物の入れ物に入れて置くと尚良いでしょう。
保管中は長い期間に一方の部分に重みを掛け過ぎると割れに繋がりますので注意が必要です。
料理用として使う5年未満の竹の青竹の場合は冷蔵庫(10度)で保管すると次ぎの一年位は持ちます。ただし、保存袋に入れて保存します。取り出した場合はゆっくりと室温に戻して下さい。
普通に凍らせては解凍後割れますので出来ません。但し、砂糖をまぶして保存すると割れないで出来ます。

生花ですが、形も然ることながら自由にも生けると良いのではないでしょうか。
竹細工の竹には水以外には影響はないと思います。竹細工の「趣」を生かしてのものであれば。

昔の「侘寂の心」では、茶道や華道や書道や武道など「道」に繋がる心は、この竹細工のものを良く使いますが、それはその雰囲気に適しているからではなく、極めて微妙で複雑な技能と広範な知識を駆使して神経を注ぎ込んだ品であるからなのでしょう。
当然に、その物質の究極の特性を掴み成し得たものであるからこそ、その作ることも「竹細工道」であるからなのでしょう。
従って、これを使って生ける花も続けて「華の道」と成り得るのでしょう。

竹細工は、色々なイマジネーションを引き起こして作り、より難しく、又、より単純にとさまざまな形を素材の性質や模様や趣に合わして作る事にあります。
当然に、その時には、生花の形を連想して作ります。そして、その趣に合わせてそれに名前を付けるのです。
作っているときは、耳も聞こえないほどに、息もしていないほどに集中しています。
そして、それに合わして生けた時に、その趣が映えた瞬間は「自然の心姿」の喜びの頂点です。
シンプル イズ ベストです。このシンプルは「自然の心姿」と私は考えています。

終わりに
生花もつまりは「自然の心姿」の結晶ですね。
生花も買ってくる花では無くて「花作り」から始めるとより「道」を得られ良いのではとも考えます。
今は、生けるところまでは行きませんが、花つくり、庭作りのところで止まっています。
”何時か、生花まで到達したいな”とも思っていますが。今は竹細工は生花の人に差し上げるだけです。
ただ科学が発達するとそれに比例して、誰でもが知っていた事が特別な知識と成る事に大いなる疑念と焦りを感じます。当然に青木氏の歴史的史実も消えるのかと。
今回は忘れられた雑知識を、竹細工をサンプルにして、そのために敢えて雑学として書いて見ました。
忘れ去られる雑学をくい止めたいですね。少なくとも青木氏の歴史だけは。



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伊勢青木氏の家訓10訓

以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。

家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。


家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)

この家訓は大変に難しい誡めである。
人間には主観を持っている。そして、その主観は人により強さと方向が違うことになる。
この人の世に人と拘らなくては生きて行けない現実の中で必修の条件である。
その基本とも云える要件にこの戒めが存在する。
では、”その「実相」とは一体何であろうか”と先ず考えてしまう。
「実」の「相」ですが、語源的に考えると「実」とは本来の持ち得ているもので、花木の「果実」に当るのではないだろうか。
では、「果実」とは邪念の無い植物が最終に成し得る行為或いは目的である。
そうするとその目的の「果実」には「果実」そのものが目的では無く、本来は「種」を保存する手段と成るだろう。とすると、「果実」そのものはその「種」を保存する「相」即ち、「様」と成るだろう。
「果実」=「相」(様)となる。では、ここで、その「相」(様)とは何であろうか。
仏教ではその「相」(様)は3つあるとしている。
それは、この世にて万物が生きていく時に必要とする対応しなければならない条件のことであるが、それを「三相」(「人、時、場」)と定義している。
この「実」と「相」を組み合わせると、「種」を保存する「人、時、場」と成り得る。

この組み合わせの「実 相」=「人、時、場」(三相)と成る。

人間本来のこの世に生まれて来た目的は万物は全て「種」を遺す事にあるだろう。人間も例外ではない。つまり、「子孫」を遺す事に他成りません。つまり、「種」=「子孫」と成る。
そして、「三相」とは、その「子孫」(種)を遺す過程での「人、時、場」での現象であるとされる。
更に、この「人、時、場」とは日々の生活に働く現象である。
依って「子孫」(種)を遺す日々の本来の「生活」と成る。

「子孫」(種)=「三相」(人、時、場)=日々本来の生活

日々の「生活」の中には、「三相」の組み合わせで色々な事が起こるだろう。雑事が起こる。
その中でも「子孫」を定義しているのであるから、雑事の中でもそれを実行して行くべき「基本の姿勢」と云う事になる。

「子孫」=「基本の姿勢」と成る。

即ち、雑事の中でのさまざまな姿勢そのものではなく、それに捉われなく、「子孫」に限定した「根本的な姿勢」を意味する事に成る。

結論は、故に「実 相」とは、人間本来の目的である「子孫」に限定した根本的な「姿勢」を意味する事に成る。
「三相」(人、時、場)の中、この家訓5は「三相」の「人」に対しての事を意味している事から、”「時、場」に依って起こる雑事を排除して、その人の「根本的な姿勢」の如何だけを観なさい”としている。
「人」が生きて行く過程で”人の事に付いての「根本的な姿勢」だけを観て評価しなさい”としている筈である。
又、”「時、場」を取り除いたその「人の姿勢」という事に成りその努力をしなさい”と訓している。
”なかなか、この努力が一朝一夕では出来ない故に、その日々の努力を積み重ねなさい。”
そして、”その暁にはその「根本の姿勢」を見抜く力、人の巾を持ちなさい。”としているのであろう。
そして、”その「人の巾」が大事にせよ”と云う事であろう。

「人」は日々の雑事に追われてその雑事の中で兎角全てを見てしまい、雑事の中で生きている傾向が出来てしまう。そうして、その中でそれを基に「評価の基準」として人を見てしまうジレンマに陥る。
「根本的な姿勢」を見るどころか見えな事に成る事さえもある。
雑事の中では「拘り」が生まれるに他ならないものであろう。
殆どは、実際はこの傾向が強いのではないか。だから、この家訓があるのであり、家訓5を知りより正しくより正確に見抜く力を付ける事が、より確かに子孫を遺せる事に成るし、又は、より人生を確かに豊かに過ごせる事としているのであろう。

伊勢青木氏はその立場に於いて、他のレポートでも記述してきたが多くの立場を有していた。
商家、武家、賜姓族、組織や集団の長などの立場にあったが故に、其処からこの家訓5のその必要性を求められ、又「人の巾」、「根本の姿勢」を持ち得ていなくては成り立たなかったと云う環境にあった。
故に、この家訓5の意味がどれほどに必要視されていたかを物語り、又、子孫にそれを伝える重要性があった事から代々家訓として遺されてきたと考えられる。
この立場の多さが先ずこの家訓を生み出したのであろう。
普通なら雑事の中でも充分に生きられるが、青木氏にはそうでは無かった事を物語る。
さて、これで、この家訓の意味が終わった訳ではないのである。

この家訓には、進めて後文に次ぎの事が書かれている。
それは、「人を見て法を説け」と記されている。

つまり、「人の実相を見よ」とする家訓5の前文の「根本の姿勢」を見抜く力、「人の巾」だけではないのであり、更に進めて、「人を見て法を説け」とある。

この二つの家訓が相まって効果が生み出されるとしているのである。
この2つの意味する所の家訓を理解しようとした時、若い頃には正直に理解が出来なかった。
当然である。「人の巾」をも充分でない者がこの後文を理解できる訳は無かった。
人生の雑事での中で思考も一通り出来る様になり、”甘い酸い”の事が判る様に成って来て、ある時、”待てよ。「人の巾」だけではこの人の世の中上手く行かない”と疑問が湧いた。
”其処には何かある。”とその答えを仏典など読み漁った。
その結論が次ぎのこの答えであった。

確かに、仏典にこの答えが書かれていたし、自分の感覚もこの事に近いものを持っていた。
しかし、ここで疑問が更に湧いた。
”何故、仏教が、「人を見て法を説け」と成るのか、全ての人を幸せに導くのが仏教の道ではないか。”おかしい。”人を見比べて法を説くのは違う。「人の道義」に離反する”と考えたのである。
しかし、よくよく考えた。仏説には、上記した様に「三相」として定義し「人、時、場」を明らかにしている。
普通の場合、雑事の中での思考世界では「人を見て法を説くのは違う」で正しいのである。
しかし、この家訓前文は、”「雑事の思考」から超越して「根本の姿勢」を評価をせよ”としているのであるから、雑事の中での思考の「人を見比べて法を説くのは違う」と考える事とはこの家訓後文の意味するところは「別の思考の世界」と言う事になる事に気づいたのである。
この様に、人間には、より巾を求めるには雑事の思考世界から逸脱する必要があり、常思考は深くこの雑事の思考世界にどっぷりと浸っている事を思い知らされたのである。
つまり、”自己よがりで、低次元で拘っている”と。そして、”「別の思考世界」でなくては成らない筈”とそれは大変な難行苦行の末の事であった。
考えて見ればれば、仏教を先導する僧でさえ難行苦行のこの「逸脱の修行」を行って体得しようとしている訳であるのにも拘らず、その事に気づかず、多少なりとも教典を浚っていながらあさはかにも「別の思考世界」と思い着かなかった。
雑事の中での「低次元の拘りを捨てる事」そうする事であれば、家訓であり仏説である「人を見て法を説け」の縛りは解ける。

後はこの、「人を見て法を説け」の意味する所を理解する事にあった。
では、この意味する所とは「見て」と「説け」に解決キーがあると考えたのである。
そこで、まず、「見て」はその人の「人間的レベル」、その人の「生活環境」の二つに分けられるであろう。「その人の人間的レベルを見て法を説け」なのか、「その人の生活環境を見て法を説け」なのかである。
その「人間的レベル」とはその人の「仏教的悟り」のレベルを意味するだろう。
その「生活環境」とはその人の置かれている「諸々の立場」の如何を意味するだろう。
さて、この内の何れなのか、はたまた両方なのかである。
この事に付いては仏教ではどのように成っているかであろう。調べるとそれを決定付ける仏教の教えが出て来る。つまり、「縁無き衆生動し難し」とあった。
これで大まかには前者の「人間的レベル」である事が判る。
”どのように衆生に説法を説いても説法の効き目が無い人にはその程度の理解力しか無いのだから意味が無い”。諦めなさい”としている。
仏教では”最後までその様な人には説法を説き続けなさい”とは言っていないのである。
”見捨てなさい”とまでは云っていないが、ここで矛盾を感じる。
家訓の前文の”実相を見よ”とある。仏教でも「実相」と云う言葉が使われている。
”雑事から逸脱した「根本の姿勢」を見よ”としているのであれば、どんなに説法の効き目の無い理解力の元々持ちえていない人でも「根本の姿勢」はある筈である。
そう考えると、言っているこの二つには矛盾がある。
ところがこれは矛盾ではないとしているのである。

その事に付いて、更に仏教では”それは拘りだ”としているのである。
仏教では最大の教えは「色即是空 空即是色」又は「色異不空 空異不色」としている。
つまり、この二つの般若経の行では”必要以上に拘るな”としているのである。
”どんなに説法の効き目の無い理解力の元々持ちえていない人でも「根本の姿勢」はある筈である”と考えるのは”必要以上に拘り過ぎる”と云っているのである。
何故ならば、上記の般若経の一説は”この人の世の社会はそんなに「理詰め」では出来ていない”だから、それは”「必要以上」”であり即ち、「拘り」であるとしている。
仮に理詰めで出来ているのであればそれは”必要以上ではない”と成るだろうが。

これでは納得できる。”この人の世の社会はそんなに「理詰め」では出来ていない。” この事を「三相」で考えると、人の世は「人」と成り、社会は「時」と「場」と成る。”だから、三相(人、時、場)で考えよ”と説いているのである。
”どのような事象でも普遍ではなく三相にて異なる”と説いているのである。
もっと進めれば、「三相」に依っては”正しい事は必ずしも正しくもなく、間違いでもあり、間違いは必ずしも間違いではなく正しい事でもある。”と成り、普遍では無く成ると説いている。
つまり、これが「拘り」を排除した考え方であると云う事になる。
確かにあり得る。むしろ科学文明の付加価値が進む現代社会では自然性が無くなり、科学的付加価値の要素が大きく働き、むしろ上記した事の方が多いとも思える。否多いであろう。どちらかというと、「正しい」と「間違い」だとする間のどちらにも含まない事の方が多いと考える。
ところが、我々凡人には普遍だと思い拘ってしまう所に、「悟り」(人間力)の有無如何が問われるのであろう。この家訓の意味する所だろう。
この様に”「三相」に依って変化する時の実相を見る力を付けよ”と家訓は誡めているのであった。
「三相」を思考する事に依って「普遍」と見る「拘り」を捨てれば、「雑事の中の思考」を取り除く事が出来て、「根本的な姿勢」を見抜くことが出来る事を諭しているのである。そして、その姿勢で法を説けとする誡めである。
雑事の中の「思考の拘り」を取り除く方法とは次ぎの事と成る。
”三相で以って行い、そして、考える力の訓練をせよ”と云う事であった。

「人を見て法を説け」の意味する所の「見て」の結論は「人間的レベル」即ち「仏教的悟り」である事である。

次ぎは、”法で「説け」”での疑問である。
先ず、解決キーは「導け」と「教えよ」の二つであると考えられるだろう。
つまり、「説け」とは、仏教では「導け」までを行うのか、「教えよ」までを行うのかという事を判別する事に成る。
これも仏教の教典に随処に明確に書かれている。答えは「教えよ」である。「導け」とまでは書かれていない。”先ず教えよ”である。
例えば「般若心経」である。このお経の「経」の意味は「路」であり、更にこの「路」は「ある過程を持つ路」であり、「人生という過程の心の路」を説いている事に成る。
つまり、般若経は、この世の「心」の段階の「迷い」「拘り」を捨てさせる「術」に付いて教えている事に成る。
上記した、「縁無き衆生動し難し」でも”説法を説いても縁の無い者は動かせない”となり、「導く」と云う所までに至っていない。
本来、「導く」の語意は「教えて」の後に「導く」を意味する。教える事せずに導けることはない。
人の世のことは先ずは教える事無くして導く事は不可である。だから経文があるのである。
仏教は”この教える事に主眼を置いて教えても理解が出来ない者には導くはありえず動かし難い事である。故に「必要以上に導くのだとする拘りを捨てよ」”と禅問答などで説いているのである。

既に「法」とは「則」(のり)であり「決まり」であるのだから、”人の世の生きる為の「決まり事」を教える事”を意味する。

参考
奈良時代に我等の青木氏の始祖の「施基皇子」が、全国を天皇に代わって飛び廻った際に、地方の豪族達からの話や土地の逸話などで得た全国の「善事話」を集め整理する事と、この「まとめ」をし、民の「行動指針」とし発行するように天皇に命じられたが、更に天皇はこの「善事話」を進めたのが日本最初に作られた「律令」であり、この様な「善事話」の「まとめ」を法文化したものであったと日本書紀に書かれている。
事と場合に依っては、これ等の家訓10訓は、証明は困難だが、この時の事柄を施基皇子は自らの氏に抜粋したものを遺したのではとも考えられる。
もし、仮にそうだとした場合は、5家5流を含む29氏の一族一党の青木氏はこの家訓に近いものを保持していた可能性がある。
当時、天皇家は男子に恵まれず女性天皇が何代も続いた時期であり、第6位皇子(第4位までで対象者なし場合は第5位とする継承権)の施基皇子の子供光仁天皇に皇位継承権が廻ったという経緯がある事と、鎌倉時代から江戸時代までに交流があった事から察するに、特にその系列の伊勢、信濃、甲斐の皇族賜姓族一党の青木氏はこの家訓に近いものを持っていた可能性も考えられる。
家訓なるものが偏纂される状況を考えると、700年前から800年前の100年間の期間ではないかと推測する。青木氏が発祥して2ー4世代の間と成るだろう。
その状況の一つとして例えば、又、光仁天皇の子供の桓武天皇(伊勢青木氏の叔父)は、第6位皇子を賜姓せず、後漢の阿多倍の孫娘(高野新笠)を母に持ち、この一族(たいら族:平氏)を賜姓して引き上げ、発言力を強めていた青木氏特に伊勢青木氏に圧力(伊勢国の分轄や国司を送るなど政治から遠ざけた)を加えて歴史上最も衰退に追い込んだ。しかし、この後、桓武天皇の子の嵯峨天皇はこのやり方に反発し賜姓を戻し、青木氏は皇族(真人朝臣族)の者が俗化する時に名乗る氏として一般禁止し、賜姓は源氏と改めた経緯がある。この時代付近までに初期の家訓なるものが偏纂された可能性がある。

当然に長い間に修正編纂された事は考えられるが、多くは仏説の解釈内容を引用している事から見ると、当時の仏教の置かれている立場は絶大であった事から考えても、現在にも通ずるこの家訓10訓は可能性があり否定は出来ないだろう。
この研究を進めた。しかし、この時代の確かな文献が遺されていないために進まなかったが、状況証拠はあるとしても、日本書紀に始祖が「まとめ」に当った史実事だけである。
伊勢では、口伝で伝えられ「家訓書」なるものがあったと見られ、何度かの戦火と松阪の大火で消失し、その後「忘備禄」(別名)なるものに諸事が書かれているが、10訓はあるにしても解説は他書に漢詩文でのこしてあり、「忘備禄」の方は完成に至っていない。
恐らく復元しようとしてまとめながら口伝として「忘備禄」の中に「家訓書」にする為に書き遺し始めたのではと考えられる。続けて筆者が公表できないものを除外しながらこれ等の漢詩文と口伝と忘備禄と史料を基に何とか平成に於いて完成した。


後文の結論は即ち「法を説け」は先ず上記した解説の事柄を「教えよ」の意味する所と成る。

よって「人を見て法を説け」の解釈は次ぎの様に成る。
人の「見て」は「人間的レベル」即ち「仏教的悟り」であり、「説け」は「教えよ」である。
”人の「人間的レベル」或いは「悟り具合」を良く洞察した上でそれに合わせて必要な事を教えよ。”と成る。
しかし、と云う事は、自らがその「人間的レベル」(悟り)を上げなくては人を洞察する事は不可能であり、「教える」に値する度量とその知識と話術を習得せねばならない事に成る。
つまり、言い換えれば、この家訓は逆説の訓でもある。

”自らは「人」を見て「実相」を知るべし”の前文には、確かに「自ら」と定義している。
当初、この家訓には他の家訓と較べて一足踏み込んだ個性的な家訓であるとも考えていたが、どうもそうではない事が後で判る事となった。
特にこの前文の”自ら”と”「人を」見て”の二つの言葉に違和感を持った。
”自ら”は逆説的な事である事を意味させる為に挿入したことは判ったが、”「人」を見て”とするところに”二つの解釈が出来るのでは”と考えた。
つまり、”他人の行動を起している様を良く観察して他人のその実相(根本的な姿勢)を読み取れ、そして自分のものともせよ”と解釈するのか、はたまた、”自分以外の人を評価する時「根本的な姿勢」だけを以ってせよ。そして他人の雑事の姿勢の評価は捨てよ”と単純明快にしているかの考え方もある。
始めは後者の考え方を採っていた。しかし、後文の逆説的内容である事と判った時、前文の「自ら」の記述で、前文も前者であると解釈を仕直したのである。
そすれば、何れも前文、後文共に、”他人に対処する時の姿勢を意味しながらも、そうする為にも”先ず自らも磨け”と成り一致する。

この家訓5の解釈は「人事」を戒めとしているだけに表現も意味も難解であった。
多分、先祖は”単純明快であれば大事で肝心な事が伝わらず間違いを起す恐れがある”として何時しか書き換えて行ったのではと推測する。
恐らく長い歴史の中に間違いを起した事件の様な事があって氏の存続も危ぶまれた時があったのであろう。それだけに、この家訓は人を束ねる立場にあった青木氏の「自らの人」「人の集合体の組織」に関する最も重要な家訓である事が言える。

この様に、青木家の家訓5は人の上に立つ者のあるべき姿を説いている事になる。
これは、子孫を遺す為に難行苦行の末にして、数百年に及ぶ商家の主としての姿を誡めていると同時に、千年の武家としてのあるべき姿に共通する戒めを遺すに至ったのであろう。
正しい事だけを家訓にする必要は無い。何故ならばそんな事は書物でも読み取れる。しかし、書物に書き得ない青木家独自の上記の意味する所一見矛盾と見られるような事に関しては青木家としての家訓として遺す必要があったのであろう。
もとより伊勢青木氏のみならず、「生仏像様」を奉る全国青木氏の家訓であっただろうと同時に、これらの家訓があっての1465年続いた青木氏の所以であると見られる。

次ぎは家訓6に続く。





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青木のルーツを研究しています。世界中の青木さん、ご連絡ください。
監修 : 副管理人 青木研究員さん

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