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伊勢青木氏 家訓6

タイトル : 伊勢青木家 家訓6
投稿日 : 12/29-06:48
投稿者 : 福管理人

伊勢青木氏家訓10訓

家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず


家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)

家訓6までの戒めは次ぎの通りである。
家訓1は「夫婦の戒め」
家訓2は「親子の戒め」
家訓3は「行動の戒め」
家訓4は「性(さが)の戒め」
家訓5は「対人の戒め」
以上であった。

家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)である。
この教訓6はそもそも「教育」と「教養」とは違うという事を意味し、その区別を受けて培えと云う事として伝えられている。
この事が両親から子供の頃から最も頻繁に教えられた事である。
それは何故なのかと云う事である。この事は人を無意味な差別化を無意識にさせてしまう思考を培ってしまう事を誡めているのである。
この家訓の持つ意味に付いて、成人して結婚に至った時に初めてこの家訓の意味を知ったのだが、家族を持った事で”子孫存続に大きく関わる事だからである”と判ったのである。

それに付いてこの家訓6には添書で細かく解説されている。
それには、まとめるとまず最初に次ぎの様な事柄が書いている。
「教養」「教育」は社会を維持する時に必要とする「上下関係の差違」を意味するものではない事は明らかである。「社会」は「組織に類するもの」と「家庭に類するもの」とに分類出来る。
そこで、その「社会」の中での「組織」や「家庭」で必要とする差違、例えば、上下の関係は「契約」であり、元より「差別」では無く「差違」であり、「組織」又は「家庭」を円満で効果的に維持する上で必要とする「相互の了解」の上での「契約」である。
組織は「命令する者」と「命令される者」の契約を伴なう事であるが、この「命令」が上下の感覚を生み出してしまうのである。
家庭はもとより親と子の関係はあるが上下ではなく、家訓1又は家訓2にある様に「導く者」と「導びかれる者」の差異が主流となり契約が成立する。
「組織」=「命令する者」、「命令される者」=「契約」
「家庭」=「導く者」、「導かれる者」=「契約」

更に、進めて、そもそも、人は「人間的な程度」(人間力)を上げることを目的として「教育」を受けさせる。しかし、この「教育」は「知識」の習得を前提として「人間的な程度」(人間力)を上げる事に第一義があり、決して「心の持ち様」を上げての「人間的な程度」(人間力)の向上を成し得るものではない。
その「人間的な程度」(人間力)とは2つの要素に依って構成される。
それは、ここで云う「教養」であり、「教育}である。

この世に於いて「諸事」を解決するに必要とする「人間力」は様々なところで発揮される。それに依ってその「人の力量」が試される。この「力量」を「人間力」と言うが、「解決成し得る力」のその程度に依ってその「人間力」は測られる。
それは、「心の豊かさ」を培った「教養」だけでは成し得ない。人間は他の動物と違う所は「知恵」に依って得た「知識」で「人間」としての存在がある。
従って、その本来の「知恵」の根拠とする処の「知識」を得て初めてこの世の諸事に対することが出来る。その「諸事の解決」の「成果」を高めるのはこの「心の豊かさ」を培う「教養」である。
この「諸事の解決」には仏教で云う「三相」(人、時、場所)を必要としている。
この「三相」のこの「3つの相」に卓越する事が「人間力」を高める事に成るのである。
その「卓越」は、例えば、「人」を捉えた場合「人」を動するには「知識」と「心の豊かさ」の量が試される。決して、「知識」だけでは成し得ない。
人は「心の動物」と云われる様に、其処には「心の豊かさ」の「教養」が無ければ人を動する事は出来ない。
況や、”人とは何ぞや”と成った場合には、「人の如何」を知る必要がある。これは「先人の知恵」に学ぶ以外には無い。それは「知恵」即ち「知識」である。
つまり、この「2つの知識」と「心の豊かさ」の量の大小の如何に関わることを意味する。
当然に、「知識」を会得する場合にそれに伴ない幾らかの「心の豊かさ」も会得できるであろうし、「心の豊かさ」を会得するにも幾らかの「知識」も会得する事に成るだろう。
しかし、その比は同率では無い。故に、2つの「低い所」を補ってこそ「諸事を成し得る力量」が会得できるのである。
この家訓6では「人の力量」をより他に比して高めるにはこの低い部分を補うことであり、且つ”「教養」と「教育」とは異なる”としているのであり、故に本家訓6ではこの”二つの事を培え”としているのである。
「力量」=「教養」+「教育」=「人間力」=「三相の獲得(人、時、場所)」
「教養」=「心」=「心の豊かさ」
「教育」=「知識」=「知恵」=「先人の知恵」

ところで、この家訓が生まれた頃は氏家制度の盛重期であり、家柄身分が社会を構成する基準と成っていた。その中で、青木氏の家訓では上下の身分は「社会を構成する為の契約」であるとしている。決して本来存在する階級では無いとしているのである。当時としては、口外できる考え方ではなかったのであろうが、それを家訓6としてその意味合い(社会を構成する契約)を遺したものと考えられる。それが、青木氏一族一門の「長」としての「秘たる心根」「人間的な戒め」としていたのであろう。これらは添書から覗える事である。
家柄身分が低いから高いからとして「長」として、差配すれば恐らくは「人」は充分に動かず子孫を遺し得なかったのではないだろか。その良い例がある。

そもそも伊勢青木氏はそれまで日本書紀にも記述されている様に伊勢王施基皇子から発祥し、その活動では皇親政治の中心に居た青木氏は、桓武天皇の律令国家の完成期から始まり、1125年頃から[律令による国家運営」と「皇親政治による国家運営」とに矛盾を生じた為に皇親政治側に居た青木氏は阻害された。
この桓武天皇は母方(高野新笠 阿多倍の孫娘)子孫の賜姓族の「たいら族」(「京平氏」「桓武平氏」「伊勢平氏」)と呼ばれる一族をして青木氏を阻害させたものである。況や、彼の有名な後漢の阿多倍王の末裔帰化人、5代目末裔「平清盛」の全盛時代の始まりの中である。
桓武天皇は、第5位までに皇位継承者が無く次ぎの第6位皇子の身分(浄大1位)の伊勢王施基皇子の一族の長男が天皇と成ったが、その光仁天皇のその子供である。
要するに伊勢青木氏とは親族同族であると云う事だが、その親族同族の伊勢青木氏を圧迫し、300年程度後にはその引き上げた「平族」(たいら族)の台頭に依って、賜姓青木氏は一族の源氏と同様に一族存亡に関わる事態にまで落ち至ったのである。
その衰退の立場に於いて、同じ第6位皇子の末裔子孫の賜姓源氏も11家11流存在していたが衰退滅亡して3家3流に成り清和源氏主流と成った。
賜姓源氏は賜姓青木氏と同様に身の振り方を変えればそれなりの存亡もあったであろうが、この時、伊勢青木氏がわざわざ「2足の草鞋策」を採った。そして生残れた。
賜姓清和源氏の頼信(分家)子孫の頼朝は義経の提言にも関わらず無視弾圧して、皇族としての立場を依然として維持し、「坂東八平氏」の北条氏を「武力的背景」として「政治的存立」に掛けたが、結局70年後には滅ぶ結果と成った。
この事を考えると、賜姓5家5流の青木氏も源氏の滅亡を考えると如何にその立場が窮していたかがよく判る。
70年後の1195年頃には同族5家5流の賜姓青木氏だけが生き残り、賜姓源氏11家11流が全て滅亡したのはこの「2足の草鞋策」から生まれた家訓6を守った事によるものと評価するべき点である。それはどう云う事かと云うと次ぎの様に成るだろう。

つまり、桓武天皇は先ず800年頃にこの青木氏の勢力を殺ぐことを目的として伊勢の国守護等の実権を藤原氏北家筋(藤成 秀郷の曾祖父、平安末期には基景)の国司に委ねた。
それにより賜姓青木氏は次第に衰退し、続いて平氏の台頭が起きた事から生きる為に過去の実力を使い、「経済的安定」を一族一門の目標として、1125年頃(この時は基景が国司)に「2足の草鞋策」を展開したのである。
この時から、一面では摂津港にも店を持つ豪商の松阪商人として、一面では土地の松阪、名張、員弁、桑名、四日市一帯の3つの城を持つ豪族として一族の生き残りを図ったのである。
(美濃、信濃の青木氏と連携をしていた事が口伝や信濃伊勢町などの地名などから判断出来る)
恐らくは、この時から伊勢青木氏は一族一門を束ねて行かねば成らない苦しい試練と経験が起こり、それを通して生まれたのがこの家訓6では無いかと考えられる。
それまでは、皇族賜姓族として、「皇親政治」の主流一族としての立場からそれはそれなりに維持出来ていたのであろう。しかし、この立場を失した状況下では止む無き事となり、一族一門一統を束ねるべき「資質」が大いに求められたのではないかと想像出来る。
何処でも起こる事だが、当然の様に「路線争い」で内部でも内紛の様な事が起こったであろう事からこの家訓が生まれたのであろう。
その時の苦悩の結論からその一族の「長」としての「資質」がこの家訓6と成って代々遺されたものであろう。

この家訓6は賜姓族の侍の家の家訓と言うよりは、むしろ「商家的な色合い」が強く感じる。
「賜姓侍」としては「氏家制度」の中では生まれながらにして「家柄身分」が決められていればこの様な家訓は必要がない筈である。むしろ「武運長久」の家訓らしきものが主と成り得る筈であろう。
しかし、標記の家訓10訓は全て「人」の本質を求めている。
これは伊勢松阪青木氏は伊勢神宮の膝元で「不入不倫の権」で守られていた事から、外から侵害し攻められる脅威が低かった事にもよる。だから「武運長久」の家訓らしきものが無かったからにも依るだろう。
しかし、1130年代頃からその脅威は次第に増したのである。それは「武力的の脅威」と云うよりは衰退に依る「経済的な脅威」が増していたのであろう。
しかし、鎌倉時代に同じ立場に居た全ての同族賜姓源氏が滅んだことから「武力的な脅威」が増し始めたと考えられる。続いて、室町時代には「下克上、戦国時代」が起こり「不入不倫の権」で守られる保証は無く成ったのであろう。そして、遂には、「武力的な脅威」は”「天下布武」を標榜し比叡山等の古代社会権威を破壊すべし”とする信長の登場で現実の問題と成り、遂にはこの伊勢にも「天正の乱」の「3つ戦い」が起こった。
この様に歴史の経緯を観ると、賜姓源氏はこの「経済的な脅威」に対処していなかった為に滅んだと云える。
この時、この「2つの脅威」に対処していた青木氏はこの家訓を遺したのであろう。
しかし、それだけに一層に難しい存続の運営を任された一族一門一統の「長」としての「資質」、「力量」のあるべき姿の根本を問われていた事に成る。

関西以西32/66国を従え、技能集団を抱えての「宋貿易」を自ら行うなど「武力と経済力」を持っていたこの大勢力を誇る「平氏の脅威」に対しては、たった5国だけの5家5流の青木氏は一致団結と成って対処しなければ少なくとも存続が危ぶまれる状況下であった筈である。
5家5流は「経済力での繋がり」と「5つの小さい武力」の一族同盟の終結で対処した事に成る。
そこで、「小さい武力」しか持たない青木氏にとっては、平氏と同様に「経済的な力」を持つ事を考えたのは当然であろう。
むしろ、平氏の”「一門の経営を真似た」”のではないだろうか。それがこの「2足の草鞋策」であったと考えている。
平氏はもとより後漢の技能集団を率いていて「経済的な力」は帰化当時の始めから持っていたものである。恐らくは氏家制度の中で、阿多倍よりその5-7代で政権に上り詰めた「その実力」を観ていたのではないか。
その真因が「武力」では無く「経済力」に真因があると理解していたのであろう。
その証拠に、朝廷は奈良期末にはその始祖の大隈の首魁の阿多倍に、伊勢青木氏の守護地であった伊勢北部伊賀地方を割譲したのである。(薩摩の国の大隈も割譲した)
そして、伊勢青木氏は「経済力」を高める為に、その隣の阿多倍一門(京平氏、伊勢平氏)の和紙を作る技能に目を付けていたのであろう。これを販売する職業を最初に営んだ点である。
”商をする”をすると云っても並大抵の事ではない。まして、天領地の皇族である。
”血を吐く”思いで営んだと観られる。部門であれば組織であるから上記した様に「命令」で動くが「商」と成れば「命令」では動かない。それだけにこの「家訓6の重み」が血の滲む思いにあったのであろう。その「商」を保証する武力は他の四家の青木氏を束ねて一つの力として発揮するのであるから、その「束ねる力」も「命令」では動かないであろう。
当時の「商」は治安が悪く「武力」を背景としなくては販売と運搬は侭成らなかったのである。
当然、台頭する勢力の種を潰すのが上に立つ平家の戦略でありその妨害や脅威もあった筈であろう。
故に「商」にしても「武力」にしてもこの家訓6が大きく左右する事になった筈である。
同じく、信濃青木氏も日本書紀にも出て来る程に、阿多倍らが引き連れて来た「馬部」が信濃のこの地を開墾して信濃王の賜姓青木氏と血縁関係(諏訪族系青木氏)が起こっている。
美濃には小さい氏の「伊川津青木氏」があるが、未確認で証拠は無いが、この氏が細々と生き残った美濃賜姓青木氏の末裔(土岐氏系青木氏がある)ではと見ていて、それもこの「商」の経済的な裏打ちがあったからであろう。その先祖はこの付近の海幸を扱う技能集団の末裔の磯部氏等の血縁の末裔ではと考える。この様に何れもが阿多倍の技能集団との関係が其れなりに出来ている。
これ等の事が存続に大きく作用したと観ているが、反面では「平氏の圧迫や妨害や脅威」もあった不思議な関係にあった筈である。
歴史上は伊勢と信濃での繋がりは明確であるのだが、伊勢青木氏や信濃青木氏もこの阿多倍一門との関わりを持っていたのである。
この様に「経済的な形」ではシンジケートを形成して繋がっていた事に成るが、その阿多倍末裔の一門に「政治的な圧力」を加えられたのであるから不思議な因果関係である。

しかし、次ぎの様な助けられた経緯の事もあるのだ。
衰退した賜姓源氏の中で清和源氏の宗家頼光の末裔の頼政がただ一人平家の中で生き残り朝廷の中で苦労して三位まで上り詰めたのは、私はこの同族賜姓伊勢青木氏と隣の阿多倍一門との付き合いがあった事から生残れたと観ている。
この頼政が遺した「辞世の句」があるので紹介する。

うもれ木の 花は咲く事も 無かりしに 身のなる果てど かなしかりける

源氏を潰さない為にも何とかして平家に迎合して歯を食いしばって生き残りを図り、なかなか源氏を蘇がえさせられなく、出世の出来ない平家の中で生きる辛さを辞世の句として遺したのである。
その心情が良く判る。源氏の衰退に対してそのキツカケを作ろうとした「真情」が良く出ている。

実は確証は無いが、この家訓6を遺したのは頼政の孫の伊勢青木氏の跡目京綱では無いかと考えている。当然、父の仲綱と共に果てた祖父の頼政のこの句は「子孫存続」と云う意味合いを強く表していることから、京綱はこの句を理解して1125年頃から1180年の「以仁王の乱」までの60年程の青木氏の苦しみを承知している筈である。それ以後、身を以って乱を起した事で、伊勢青木氏には更に圧迫が加えられ苦しみ抜いたと考えられる事から、子孫を遺す戒めとして、考えた末にこの家訓6の意味合いを遺したのでは無いかと観ている。

兎も角も、1180年にこの頼政は源氏再興を狙って立ち上がったのであるが、敗戦後頼政の孫の3人の内、清盛の母や一族の執り成しで惨罪にならず、許されてこの2人だけは生残れて日向廻村に配流(日向青木氏)と成った。恐らくは、伊勢北部伊賀地方に定住する彼等の子孫との繋がりや伊賀和紙の商いでの深い付き合いから、京綱の伊勢青木氏は「除名嘆願の運動」を伊賀を通して起したのではないだろうか。幾ら一族の執り成しでもこの様な特別な理由が無い限り謀反の張本人の孫の依頼でも無理であっただろう。
(後にこの2人は平氏に対して廻氏と共に再び反乱を起し失敗する 子孫は逃亡し薩摩大口で青木氏を名乗り子孫を遺す 廻氏系青木氏は現存する)
また、上記したように末の孫京綱が伊勢青木氏の跡目に入っている事から許されて難を逃れたのである。
これは伊勢青木氏と伊賀の伊勢平氏(阿多倍子孫)との和紙の商いによる付き合い関係からであろう。

更に、例を付け加えると、後の「天正の乱」3乱の内の「伊賀の乱」の時、伊勢青木氏の紙屋青木長兵衛が伊勢シンジケートを使って食料や物資運搬などの妨害活動などをして時間を稼ぎ、伊賀氏はゲリラ作戦に出た。しかし、落城寸前で青木氏の軍は突然に名張城から織田軍の側面を突き出て後退させ伊賀一族を救い守った。これ等は、過去の恩義によるものであろう。それでなくては時の織田氏に敵対する事はないであろう。
これ等の「人間的心情」に悖る「歴史的経緯」は、この「2足の草鞋策」を基にした家訓6からの所以で、この様な「生き残りの経緯」を辿れたのではと観ている。
それは一族の「家訓6による人間形成」が平氏らの信頼を得た事からの結果であろう。本来なら完全に滅亡の憂き目を受けている筈である。

これらの家訓6が「賜姓源氏の滅亡」との「分れ目」であったと観ている。
現に、清和源氏主家の源三位頼政が「以仁王の乱」(1187年)を起こす時、頼政の嫡男仲綱の子供で三男の京綱を、子孫を遺す為に同族の伊勢青木氏に跡目として入れた後に、源氏再興の平氏討伐に立ち上がったのであるが、この伊勢青木氏に跡目を入れると云う事は、恐らくはまだ源氏は”平氏に勝てない”と判断したことを意味するが、源氏立ち上がりの「契機」に成ると信じての行動であった。この時、この「不入不倫の権」に護られた伊勢松阪に向けての逃亡を起し再起を待つ事を目論だが、遂には「宇治の平等院」で自害したのであろう。
この時、伊勢青木氏は「2足の草鞋策」を採って60年くらいは経っていた筈で経済的なその裏打ちも有って、源の頼政は源氏宗家の生き残りが果たせると考えて伊勢青木氏の跡目に入れたと想像出来る。源氏の中でもただ一人平氏に妥協して朝廷に残った遠謀術策の人物でもある。
この様に、「2足の草鞋策」が家訓を遺し、それが子孫を遺せたのである。

この後にも、この家訓で生残れた同じ事が起こっているが、この「2足の草鞋策」の家訓6で培われた末裔は、判断を間違えずに子孫を遺した。
それは、信長の「天正の乱」の伊勢3乱の伊勢丸山城の戦いである。(3戦に全て合力)
名張に城を構える青木民部尉信定、即ち、伊勢松阪の豪商紙屋青木長兵衛がこの信長の次男信雄に丸山城構築で攻められた。伊勢青木氏は商人として伊勢シンジケートを使い、築城の木材の買占めとシンジケートの築城大工の派遣とシンジケートの妨害策で食料などの調達不能を裏工作で実行した。
名張城からの牽制で時間を稼ぎ、長い年月の末に出来た丸山城が、大工が”火をつける”という作戦で消失し打ち勝った有名な乱である。信長のただ一つの敗戦である。
そして、後に伊賀一族等も助けたのである。
後に、この時の将の織田信雄と滝川一益は家臣面前で罵倒叱責され遂には蟄居を命じられて疎まれた事件は歴史上有名である。

これも、その差配する青木長兵衛の家訓6の得た「力量、資質」が、恐ろしい信長に反発してでも、配下とシンジケートを動かしたのであり、この家訓6が左右して生残れたのである。
この家訓6の「教養」とそれを裏付ける「知識」の如何が、人を動かし大群を相手に戦いの戦略の成功に結び付けたのである。
この知識は天正の乱では物価高騰の「経済学」の原理知識と諸葛孔明如きの「権謀術策」の知識と築城学の知識が事を運ばせ、それの手足と成る人を「教養」で信望を集めた結果の所以である。

では、この家訓6を深く考察すると、この「教養」とは”一体何を以って得たのであろうか”という疑問が湧く。
そこで、調べたところ、代々主に共通するものは「絵」と「漢詩」であった。
「絵」は「南画」である。所謂「墨絵」である。「漢詩」は「書道」に通ずるものである。
二つを通して考察するに、「紙屋長兵衛」即ち「伊賀和紙」を扱う問屋である。つまり、「紙」である。「南画」、「漢詩」は紙が必需品であるから大いに納得できるもので、ではそのレベルはどの程度のものなのかを更に調べた所、プロでは無いが、江戸時代の歴史を観ると、紀州徳川氏の代々藩主にこの「南画」と「漢詩」を指導していたと言う記録が残っている。これ以外にも短歌や和歌等でも相手をしたと記録されている。
これは、初代紀州藩主で家康の子供の徳川頼宣が伊勢松阪の「飛び地領」の視察での面会の時からの経緯であり、大正14年まで続いたと記録されている。私の祖父の代までである。
これ以外には、「知識」として「経済学」を指導していたとある。
特筆するには「松阪商人」としての知識を藩主と家臣に経理指導していたと記録されていて、その証拠に8代将軍吉宗は若き頃に家老職の伊勢加納氏に長く預けられていたが、この時、伊勢青木氏と加納氏とは代々深い血縁関係にあり、吉宗にも指導していたとされる。このことが縁で、請われて江戸に付き従い、伊勢の松阪商人の知識を「享保改革」で実行し推し進めたと記録されている。
将軍に直接発言できる「布衣着用を許される権限:大名格」を与えられていたとある。初代は江戸に付き従ったのは伊勢の分家の青木六左衛門とある。その後、紀州徳川家にも代々「納戸役」(経理)として奉仕したと記録されている。
この記録の様に、「時の指導者」徳川氏を「教養」で指導し、「教育」の「知識」で導いたのである。
本来であれば、家康に潰されていてもおかしくない。秀吉に潰されかけ新宮に逃げ延びたが、伊勢を任された武勇と学問で有名な蒲生氏郷との「教養」での付き合いが働いて、1年後に伊勢松阪に戻されて侍屋敷(9、19番地)の2区画も与えられる立場を得たのである。つまり、生残れたのである。
これ等は青木氏一族一門の存続に「青木氏の長」としての「教養と教育」の形を変えた貢献でもある。平安の時代より家訓として護られてきた家訓6(教養)の所以であろう。

この家訓6には特に添書に長く解説なるものがありそれを解釈すると次ぎの様になるであろう。
家訓6ではこの事が理解されていないとその「教養」と「教育」の諸事への効果なるものは出ない、又は意味しないとまで断じている。
当時の背景から考えると次ぎの様に成るであろう。
学校と言う形式のものは無かった。従って、「知識」は自らの範囲で書物に依ってのみ得られる事が通常で、学校らしきものは江戸の中期頃からの事であろう。それも「基本的な知識」であり、その専門的な事は「個人の努力」の如何に関わっていたと成る。
まして、其処では、「教養」となると尚更であっただろう。
古来の「教養」を会得する場合はその師匠となる人に付き学び、多くは「盗観」によるものであった事から、その「盗観の会得」する能力が無ければ成し得ないだろう。又、その「極意の会得」は尚更個人の能力の如何に関わるものである。
従って、この「2つの能力」(盗観 極意の会得の能力)を獲得出来るとするには誰でもと云う事では無くなる。能力の無い者は挑戦しないであろうし、してもその会得する極意のレベルは低く「人力」を高めるに足りないであろう。丁度、伝えられる茶道の秀吉如きのものであったであろう。
対比して古来の「教育」を会得する場合はその師匠とする人が少なく「知識」を前提としている為に「盗観」の会得は出来ないし、「極意」の会得は「盗観」が出来ない事から成し得ない。
これは「書籍」による「個人の理解能力」による何物でもない。当然に「教養」以上の会得の困難さを物語るであろう。まして、その書籍からより進めて「知識」を会得出来る事は少ないし困難である。
この様な事から「教養、教育」の会得はある「経済的な力」を獲得している人が得られるチャンスとなる。

と成ると、添書の書いている意味合いは次ぎの様に成る。
「教養」の本質を分析すると、「質的な探求」であり、数を多くした「量的な探求」ではその「極意」は得られないであろう。しかし、「教育」の本質は「量的な探求」であり、「知識」の会得である事からその「会得の数」を繋ぎ合わせての応用であり、「質的な探求」はその研究的なものと成るのでその研究的な知識を以って諸事を成し得るものではないであろう。
「教育」に依って得られる多くの「知識」はそれを繋ぎ活用する事で一つの「知恵」が生まれる。
これは「人間本来の姿」であり、それを多く探求し極める事がより高い「人間形成」の一端と成り得るのである。その「人間形成」の成し得た「知識」から得られたものが「教育」から得られる「教養」と成ると説いている。そして、教養も同じだと説いている。
「教養」もその高い「質的探求」に依って「心の豊かさ」が生まれ其処に「人間形成の姿」が出来てそれを極める事でも「教養」から得られる「知識」が会得出来るのだと諭している。
「教養」で得られる「心の豊かさ」は「心」で、「教育」の「知識と知恵」は「頭」で会得する。
そして、この二つは「心」と「頭」で安定に連動してこそ「効果」を発揮するものだと諭している。
これを現代風に云えば、俗ではあるが、「教養」は「前頭葉」で、「教育」は「左脳」で、そしてそれを連動させるのは「右脳」だと成る。
真に、古代に書かれたこの「説諭論」は論理的にも科学的にも間違ってはいない。驚きである。

「教養」=「質的な探求」=「心」
「教育」=「量的な探求」=「頭」
「教養」=「心の豊かさ」=「人間形成」
「教育」=「知識の応用」=「知恵」=「人間形成」
 故に「教養」(心の知識)+「教育」(頭の知識)=「人間形成」
「心の豊かさ」=「心の知識」

更に、次ぎの様にも書かれている。
「教養」は「人」を成し得るものであり、「教育」は「時」を成し得るものであると断じている。
つまり、「教養」の「質的な探求」に依って獲得した「極意」はこの世の「時」の関わる諸事には作用せず、「人」の心を通じ「質的に動じさせるもの」であるとしている。
反面、「教育」即ち「知識」は「時」の関わる諸事に作用しより効果的に動くものであるとしている。それはより多くの「知識量」がもたらす効果であるとするのある。
「教養」=「人に動じる」 「教育」=「時に作用する」

そして、「教養」の「質=人」と「教育」の「量=時」を会得した時に一族一門の長と成り得るものであるとしているのである。
ただ、ここで特筆する事は「教養」は「心」で会得するもので、その「質」が問われる以上その「質」を上げた事で「人」である限り「慢心」が起こるだろう。この「慢心」はその「教養」の効能を無くす事に成ると警告している。
対比して「教育」は「記憶」で会得するもので、その「量」が問われるが「人」にあらず「時」にあるので「慢心」はあったとしてもそれは「得意」とするものであり、むしろ「量を高める源」であるとして、その「知識」の効能は無く成るとはならないとしている。
では、誰しもその人の「性」(さが)として起こる「慢心」をどの様にするべきなのかに付いての方法は「自覚」以外に無いとしている。しかし、常にその「慢心」を抑えようとする努力が「質を高める源」であると説いていて「一体」であると説いている。
そして、その基となるその「自覚」は「仏教の教えの悟り」で成し得ると銘記している。
「仏教の教えの悟り」とは特記されていないが、筆者独自の考えだが「色即是空 空即是色」「色不異空」「空不異色」の解釈では無いかと思う。

「教養」=「心」=「極意」=「質」=「人」=「慢心の抑制」(-の方向)=「質を高める源」
「教育」=「知識」=「記憶」=「量」=「時」=「慢心ー得意」(+の方向)=「量を高める源」

以上が添え書きの解釈とするべきでは無いかと考えている。
この家訓は時代が異なり「教養」も「教育」も講座や学校とする学ぶ機関が存在する故に、若干「教養」は「教育」と等しいと判断されるが、そこで得られる領域では上記した様に、それは「教育」の「知識」の末端のところで得られる「教養」の範囲であろう。つまり、「知識的教養」と定義づける。
ここで云う「教養」とは「個人の努力」による「高い修練」の「結果」を意味していると考える。
当然に、現在では、「知識的な教養」の上に「個人の努力=高い修練」が成されれば、「心的な教養」は会得出来るだろう。
依って「教養」には「個人の努力」による「心的な教養」と「講座」による「知識的な教養」があることを意味する。
この家訓は”「個人の努力」が「心を鍛え質を高める」”としているのである。

筆者はこの家訓6の「教養」には届かないが、この教えを守り物理系技術者として「教育」の知識の方からの貢献を社会にして来たものであり、それを補う形で「知識的な教養」として「写真」や「竹細工」や「庭造り」なるものに傾注している。

幸い家訓6をそれなりに守りしている為か何かしら「心爽やか」である。
意外に、家訓6の先祖の言い分は、「教養」の極意はこの「心爽やか」の辺に合ったのではと勝手に思うのである。
近代科学的に分析すると、”「心爽やか」が事に処する時、脳を開放し、「拘泥」や「拘り」から開放されて、豊かな判断力が高まり、諸事を正しい方向に向ける力と成り得る”としているのかも知れないと、最近は思えている。
この「教養」は、上記した様に、仏教の般若経の一節「色即是空 空即是色」「空不異色 色不異空」を理解し会得する「糸口」になる事を先祖は暗示しているのではないだろうか。
この事に付いては大事と見て次ぎの家訓7で更に追求している。

兎も角も、この家訓6を筆者は次ぎの様に解している。
「教養」=「心爽やか」=「仏教の極意」>「入り口、糸口」<「長の心得」=「諸事万端良」=「資質、力量」=「教育(知識)」

なかなか難解な家訓6ではあるが、「人間形成」の基となる家訓であると考える。
家訓6=「人間形成の戒め」
次ぎの家訓7はこの家訓6を更に強調したものであるので”続く”としたい。

次ぎは家訓7に続く。



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写真技術と色理論 前編(副題 自然美のある綺麗な写真を撮る方法)

写真技術と色の理論 前編
(副題 自然美のある綺麗な写真を撮る方法)

青木氏氏のHPの写真館の付属レポートです。
(一読された後は「青木氏氏の写真館の展示をご覧下さい)

色理論(CCカーブ)


さて、写真を趣味としている人、或いは写真が好きだが難しいし理屈が判らないと云う人は一度は”写真をより綺麗に撮れるノウハウが無いのか”と思ったことがあると思います。
意外にその「写真技術」に付いての解説が一般的にどこでも見られる事に成っていない気がします。
有っても難しい抽象的な事の芸術的な事が多い気がします。カメラの使い方ならあるかも知れませんね。
そこで、「芸術写真」では無く、”綺麗で自然美のある写真を撮りたい”と思う人は多いと思います。
一般に「綺麗な写真」とは「人間の目で観た通りの感じ」が表現出来ていると、人は「綺麗な写真」と先ずは云うのではないでしょうか。
脳の科学でも「綺麗」と云う印象は、その比較対象があり「汚い」が反意語ですが、「綺麗」には脳の中に先祖から培われて来たその無意識の「印象」が遺伝子的にインプットされているものがあります。それは人間が生きて来た「環境」に左右されています。
その「環境」とは「自然の美しさ」なのです。この「自然美」が長い間に一つの統一したものを脳の「印象記憶」として保存されているのです。
そうなりますと、その「自然」が違う、或いは「環境」が違えばその「自然美」の評価も違うという事になりますね。例えば、日本人の先祖はある程度の「穏やかな環境」と「自然豊かな環境」に恵まれて来ました。四季があるのは何よりの要素ですね。
ですから「日本人の自然美」と云う固有の共通したものがある事に成ります。
それはこれから論じる写真の「色」で最も表現出来るのです。
そうすると、論理的に「人種」では異なると云う事に成りますね。
その通りです。例えば、下記でも書いていますが、以前にもレポートした事がありますが、アングロサクソン系の人種は極寒の中から生き残り進化して来ました。そして、その環境で「身体」とその「脳」もそれに合わせて進化しています。
ですから、其処に存在する「環境」の「自然美」の感覚は必然的に違う事に成ります。その最も異なる「印象記憶」は何はともあれその「極寒からの自然美」なのです。
例えば、特に人はその「肌の色」と「自然美」に顕著に違いを出すと言われています。
「肌の色」は日本人は「淡いピンク色」ですね。でもヨーロッパ系は、本当は違うのですが、「やや赤みがかった色」を云っているのです。
この様に、「色」にはかなり「主観性」というよりは「人種性」に依って異なります。
そこで、その「色」と云うものに付いて根本から考えて見ようと思います。

「色」とは何か
そこで、先ず、この雑学に入る前に、”色とは一体何だ”ということを知る必要があります。
ここから少し論理的に成りますが苦手な人は何とか追い付いて来てください。
出来るだけ優しく説明をします。
では先ず、簡単にいえる事は、「色」は「波」、つまり「振動波」と云う事ですね。
では、その「振動波」は”何の振動波”と次から次えと疑問が湧きますよね。
それは、「太陽から来る振動波」です。
では更に、その「太陽から来る振動波」は”何の振動波 何で来るのかな”と続きます。
それは「太陽の核爆発で起こる振動波」だと云う事で「エネルギーを持った振動の波だ」と成るのです。
では、その「太陽の核爆発で起こる振動波」は”何が爆発して起こるのかな”と疑問が湧きます。
それは、「全ての物質」の「核爆発振動波」だという事ですね。
「物質」の基の基と成っている「核」と云うものがあります。それが爆発しているのです。核爆弾のあれであの爆弾の大きい破裂が連続的に起こっているのです。一つが爆発すると、その物凄いエネルギーで更に隣の核も爆発してしまいます。この「核の連動爆発」が起こっているのです。そのためにその爆発の熱で太陽の表面の温度は6000ケルビン(ほぼ6000℃)と成っているのですが、その中の方は想像も付かない温度と成っています。この為の熱で連動して「あらゆる物質」の核が爆発を続けるのです。ビッグバーンで飛来した地球上にある物質では溶解する温度の最高は知る範囲で3200度程度です。地球と太陽は同じビッグバーンで発生していますから、ほぼ同じ物質が存在している筈ですね。そうすると、表面が6000度ですから内部の物質は全て熔け蒸発の領域にあると考えられます。
因みに鉄は1540度ですから、太陽の中ではとっくに蒸発している筈ですね。
蒸発すれば4倍以上ですから気体領域をとっくに超えている訳ですから、その物質のエネルギーを持つ核は裸の剥き出しですから隣の核との反応に依って核の分解が起こる事は素人的にも充分に考えられる筈です。
そうすると気体を超えて裸の核の状態の中で、”何で核が爆発すると振動が起こるのか”と云う疑問が起こりますよね。
それは簡単に云うと、「裸の核」の環境の中(+-の状態)で、物質の基の核が爆発すると+と-の引き合うエネルギーの渦が起こります。そうするとそのエネルギーの差がバランスをとろうとして「振動」として動きます。そもそも「振動」というのは原理は「高いところ」と「低いところ」の差で起こるのですから、差が無ければ振動は起こりません。
そうすると、その+-のエネルギーの差が次第に集まってきてエネルギーを持っているのですから「磁場の渦」が起こるはずですね。よってその渦の中にはエネルギー差の振動が集まりで大振動が起こる事に成ります。従って、この振動は音の振動のようにエネルギーの無い振動ではなく、その振動には磁力(E)を持っていますので「振動磁波」が働きます。この磁波の力が集まって「磁束」が起こりその磁波の渦が起こるのです。
この大きなものが宇宙で起こるビッグバーンと連動して起こるブラックゾーンですね。
恐らくは其処に起こる磁波の渦の形は「とんがり帽子」をひっくり返した様な形で渦巻いていると想像できますね。強い所と弱い所の差を埋めようとして渦が収束して行きますからね。
太陽ではこの一つの核爆発で一瞬の一つのビッグバーンの連動が起こる事で振動が起こるのです。

この現象は太陽だけで見られる事ではありませんよ。実は地球の「自然の摂理」の中でも、これと同じ様なよく似た事が身近で起こっていますよ。台所ではIHのコンロです。洗面所では自動歯ブラシ器です。工場では高周波熱源などの装置です。
つまり、この原理は次ぎの通りです。
上記した磁束の真ん中には振動磁波の束の渦が起こります。この渦の真ん中に抵抗する何かのものをセットすると、その振動がその抵抗物の中の電子を無理に動かしその逆の方向に電流が生まれます。そうすると、そのセットした物質に電子の衝突が起こり、衝突した時の熱で加熱現象が起こるのです。IHのコンロはこの振動磁波の特長を利用しているのです。(誘導起電力と云う)
電動歯ブラシもこの電流でモータを廻しているのです。
この原理の大きいものが起こり、その時に起こる振動が渦の中心から「振動波の連動」で飛び出すのです。そこから発生するのです。この連続したものが振動磁波です。
では、爆発するとそのあらゆる物質の核の”その振動波はどの様にして遠い太陽からこの地球まで届くのか”と云う疑問が湧きます。
その答えは、太陽と地球の間には「宇宙ちり」以外に障害物がないからですね。
障害物が無いと”何で「核爆発振動波」が届くのかな”と疑問が湧きます。”
振動波とはどんなものか”という事を知る事で判ります。
先ず、衝撃が起こる。宇宙は「相対の原理」に基づく為に、衝撃の+エネルギーの反対の-エネルギーが同時に起こります。それでなくては衝撃は起こりません。反対のエネルギーが無い事は同じ衝撃が連続的に起こる事を意味します。その事は衝撃が無い事を意味していますね。
つまり、衝撃とは「ある処からの差」を云っているのですよね。

簡単に言い換えますと、「楽しい」と云う事は「楽しくない」と云う事があって、その「差」を言っているのですよね。「楽しくない」と云う事が無ければ「楽しい」と云う変化はありませんね。当然に、差が無いのですから「楽しい」という言葉も無い筈ですね。

この様に、核爆発が起こる事は例えば「+の衝撃」が起こると、多少の「タイムラグ(時間差)」が起こり「-の衝撃」が起こります。
同じく「-の衝撃」が起これば必然的に相対の原理で「+の衝撃」が起こる事に成ります。
ここにこの時、次の「三つの特長」が必ず生まれますね。
それは、次ぎの通りです。
「タイムラグ」
「衝撃の大きさ」
「速さ」
以上3つが生まれる事に成ります。
この事が色に関しては大事な事なのです。特に人間には大事な事なのです。
この衝撃の「+-」の事が繰り返して起こりますね。この衝撃に「障害と成るもの」が無い限り永遠のリサイクルが繰り返し起こります。

つまり、「タイムラグ」と「衝撃の大きさ」と「速さ」の「三つの特長」が起こる限りはサイクルは続く事に成りますね。
「三つの特長」が起こらないと、”衝撃は皆同じ”と言うことに成りますので、波は起こらない事を意味します。
そこで基に戻りますと「波」とは”あるものからあるものへの差”があるので「波」と云う言葉が存在するのですよね。
繰り返しますと、”全てのものが皆同じ衝撃”という事に成りますので、それは衝撃ではありませんね。当然に「衝撃」と云う言葉は必然的に存在しませんね。

さて、太陽で核爆発を起して衝撃振動波が起こりサイクルが起こると磁束の渦の中央から噴水のように打ち出される様にそれが宇宙に飛びたします。(トンガリ帽子の形のために)
宇宙には、空気を含む一切の障害物がないとしますと、「三つの特長」の持った波は「+-」のサイクルが次から次えと起こり始めます。
「タイムラグ差」*Nの条件で360度の方向に繋がって起こり始めます。
障害が無いのですから、「タイムラグ」と「衝撃の大きさ」と「速さ」の「三つの特長」に影響を与える事無く条件は永遠に維持される事に成りますね。
つまり、このサイクルでこれが太陽で起こった「核爆発衝撃波」として三つの特長を持ち続けて地球まで届いているのです。これが波なのです。

さて、そうすると、”あの太陽でそんなことが起こっているの””「三つの特長」は何で起こるのかな”と思いますよね。
そこで、それを解くには”太陽はどんな物で出来ているかのかな”と考えます。
地球は星のビッグバン(爆発)で生まれていますので、少なくとも太陽と同じ物質である事が考えられますよね。
そうすると、同じ物質であるので、その物質には上記した様に何がしかのエネルギーを持っています。そうすると”そのエネルギーとは何なのか”と云う疑問が生まれます。”鉱物は生きてもいないのにどんなエネルギー”と続きます。
この太陽から分裂したこの宇宙の世に存在する全ての物質には上記した様に「電磁波」なるものを持っているのです。当然に人間にも持っているのですよ。
この宇宙は相対の原理ですから、「+」と「-」とがあるのですよね。太陽を含む宇宙からから出た物質にはこの原理に依っていますので、「+」「-」になるものが物質に存在する筈です。
それが、「電磁波」なのです。未だすっきりとしませんね。
その電磁波についてももう少し詳しく考えると、物質は分子、原子、核とにより成り立っています。
その物質は幾らかなバランスを崩して他と引っ張り合う為に1か2か3か4か・・の+-の何れかのイオンを物質に触手の様に手を出して持っています。
このイオンの触手がある為に物質と物質との「結合と融合」が起こるのです。その基は核の振動です。
この核の中には僅かなエネルギーの差を埋める為に、更に「中間子」と「中性子」とがあり、夫々の役割を果たして微妙なエネルギーのバランスを保っています。
そうで無いと、いつかバランスが崩れて物質は破壊してしまいますね。
言い換えればこの「相対の原理」とは「バランスの原理」とも云えます。
そして、その為に物質には何がしかの行動が無くてはなりませんが、その核は「超微細な振動」をし続けているのです。一般的な概念では”鉱物は死んでいる”と思いますが、これでは”生きている”と成りますよね。そうなんです鉱物も生きているのです。「生きると言う概念」の問題ですね。
全く静止しているのではなく自ら核はバランスを取る為に中間子中性子を連動させて「超微細振動」を起こしているのですからこの概念の一つとも云えます。
更に、この磁力を持つ振動の磁波は人間を始めとする他の物質に影響を与えているのですから、これでは”生きている”と成りますね。
概念として観て見ると、この電磁波の最たるものとしての収束力が地球と成りますが、鉱物の集合体の地球の電磁波は地球の上に存在している人間を、この磁力の力、つまり、エネルギーの差で地球に引き付けているのです。
人間にもその人に相当する電位差(身長分)を持っていますので、その電位差と引き合い地球に存在出来ているのです。そうでないと、地球はマッハ2程度の速さで回転していますので、加速度により宇宙に飛ばされて行きます。そして破壊します。
つまり、バランスが崩れての現象が起こるのです。人間だけでは無く全物質が対象です。この様に、電磁波は太陽で起こった核爆発で振動と云う原理で届きます。

ところが、その物質が持つ猛烈な電磁波の差で引き付けられて核の衝突が起こり、その衝突熱のエネルギーで核が更に破壊されて核爆発(爆発のすごさを表現すると6000ケルビンで℃では凡そ6千度の表面温度)が起こっているのですから、この理屈から地球に存在する物質の全ての核爆発が太陽で起こっている事に成ります。
そうすると、その物質の核爆発の特徴とする「特有の衝撃波の違い」が出てきますね。人間の指紋の様に、それが「三つの特長」と成って出てきます。
その3つの特長とは、「タイムラグの大小(波長)、衝撃波の大小(振幅)、波の速さ(エネルギー)」でその大小が生まれますね。
これが、地球に「特有波」と共に届いているのです。
では、その物質は地球では約360程度の物質数にも成りますので、太陽にもその物質が熔けてある筈ですね。その物質の全ての核爆発が起こりそれだけの違いの振動磁波のサイクルで地球に届いている理屈に成ります。
この波が地球に届くとここからが「色」と云う原理が働きます。

さて、いよいよ「色」ですが、では、その「三つの特長」が人間にはどのように見えているのか疑問です。
其処には、ある「物理的現象」と「人間の目」のシステムに依っているのです。

そこで、その前に、復習としてもう少し波の成り立ちに触れます。
”何でその振動(波)が遠い地球に届くのか”と云う疑問の追求です。
先ず、+の第1の振動が起こります。そうするとその-(マイナス)の相対のエネルギーの振動が起こりますね。そのエネルギーを減らす障害物が宇宙には無いのですからエネルギーを保持したままにこのサイクルが前へと延々と繰り返されます。
この様に、宇宙は障害物が有りませんので、全く変化無く届きます。しかし、地球に届いた時から障害物が存在します。
”そうするとその障害物にどの様な事が起こるのか”と云う疑問です。

その前に地球圏内ではどの様な障害物があるのかと云う事の疑問が先ですね。
先ず、地球には次ぎの2つがあります。
全ての物質さえも引き付けてしまう超強力な磁力波(バリヤーA)が存在しています。
更にはその周りには「空気と塵やガス」(バリヤー:B)が在ります。

そのバリヤーBには3段階で覆われています。
第1(95K)、第2(500K)、第3の成層圏(1000K)のB(1-3)で構成されています。

そうすると、このバリヤーB(1-3)の手前まではこの核爆発で起こった振動波が弱まる事無く「+-」のサイクルで届いている訳ですから、エネルギー(E)に変化はありません。
それが、(B)と衝突します。
猛烈な速さで届いた振動磁波は、その時、超高速な為にそこに含む物質との間で衝突が起こり分子が破壊されて、それによる分子爆発が生まれ閃光を発します。この現象が必ず起こります。
丁度、火打石で火花を飛ばす事と同じですね。金属と金属が衝突した時に出る火花の様に。
その時に発する特別な「波」との「火花」です。
それが、人間の目ではその「爆発波」が網膜の角質に入り「色」としてに入り目に写るのです。

太陽からこの360もの物質の振動磁波が届いている筈ですが、その内のほんの僅かな振動磁波だけが目の細胞が受け取る事が出来るのです。これを「可視光線」と云います。
この「可視光線」の「振動磁波」の大きい側には、紫外線(周波数:振幅700ナノ)、細かい側には赤外線(周波数:振幅400)があります。
後は地球の電磁波力に依って引き付けられて消滅するか、振動磁波の細かいものは人間の細胞を透過して地球も透過して再び宇宙へと飛んで行くのです。
この時、全ての物質の衝撃波が主に太陽から届いていますが、それを人間は「色」として捉えてある範囲しか見えていません。つまり、「光」、即ち振動磁波が「色」に変わるのです。
これが「可視光線」と云います。(波では、400ナノ(n)-700ナノと成ります。)

目に見える色(光)に変えるとすると、「7つの原色」と成りますので振幅の小さい順に、次のように並びます。

「赤外線」 「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫」 「紫外線」です。

この「可視光線」外の「紫外線」、「赤外線」までは目には見えませんがある現象に依って確認出来ます。
この「可視光線」のそれは、真に、「虹」の現象として観えますね。
虹は雨上がりの空気中に、水滴が多いためにそれにこの7つの物質の振動磁波の波が当ります。
そうすると、K(カリウム)と云う物質の核爆発の振動磁波の光の変化の色の「紫」は振幅が大きいので、水滴の少ない所でも遮られて止まってしまいます。その時に衝突により色を発します。

Li(リチウム)と云う物質の光の変化の色の赤は振幅が細かいので水滴が多くても通過して最も多い所で遮られますのでその時に衝突により色を発します。
夕焼けも同じですね。一日の塵や埃などで光が遮られてその障害物の多さや細かさでその夕焼けの色が違ってきます。赤色の夕焼け、黄色い夕焼け、紫色の夕焼けとその中間の夕焼けが見える事に成ります。それは「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫」の範囲で見える事に成ります。
端的に云うと、赤色の夕焼けは空気がより澱んでいる事に成り、赤色より右側の振動磁波も手前で抑えられてしまいますので衝突して赤色だけを発することになり、紫色の夕焼けは藍色より左側の振動磁波が透過してしまうくらいに澄んでいる事に成ります。
一日の空気が汚れて通過する振動磁波の波長が変化します。天気の良い日の塵埃の少ない時、多いときで色合いは変化するのはこの原理から来ています。
「真赤な夕焼け」や「紫の夕焼け」や「黄色の夕焼け」では空気の清み方が違うのです。

写真技術の原理
ですから、写真をとるときはこの原理を頭の中に入れて撮影をすると人間の目に映る自然の色が表現が出来て綺麗に撮影出る事に成るのです。

朝日にも同じ事が必然的に起こりますよね、塵や埃の沈んだ空気ですから夕焼けとは又別の色合いを示す事に成ります。朝日には、その空気の澄み具合と温度の上昇で「3つもの色合いの変化」をも起こします。これを「朝ぼら、曙日、朝日」と呼ばれていますね。
「朝日」では塵埃が増え温度も上がり地面の水分が蒸発してあがり絶対湿度も上がります。夕焼けとは環境が変わるために又別の趣が見える事に成ります。
「朝ぼら」や「曙日」はその傾向がより低い事になります。
「朝ぼら」の持つ趣や「曙日」の持つ趣が、写真性に与える影響を考えて、その被写体の趣を最大現に引き出す為には、この様にその撮影時期を選ぶと自然性のより綺麗なスナップが取れることが約束される筈です。

そもそも人間の思考の「綺麗」であるかどうかはその比較のものがある事による感覚ですから、その人間共通する比較対象と成るのが「可視光線」による「自然美」です。
人間は目に映るこの「自然美の色」を基準にして脳の感覚を表現しています。
「自然美」=「綺麗」=「趣」の数式がもし成り立つとしますと、「太陽から発する振動磁波の光が衝突に依って発色変化する色」の理屈を ”より上手く使うことである”と定義されますね。
同じ物を同じ位置から同じ撮影条件で間違いなく撮影すると、明らか違いが出ます。
この違いを「柔らか味」とか「爽やかさ」とかの「趣」で撮る時に使えばより素晴らしい自然の色合いの「表現力」が出せると言う事に成ります。

フエリヤー理論
この様に、この振動磁波の「季節の澱みの知識」を観察して撮影する事が第1番目のポイントです。
当然にこの空気の澱み方は季節に依っても異なりますね。
夏は温度が高く、乾燥しますし、絶対湿度(空気中の水分)も高いですから空気は澱み傾向です。
冬はこの逆に成りますし、風も強く吹きますから塵埃も飛んで行きます。
この様に「春夏秋冬」、「気候」、「天候」、「地理」や「場所」での「酸素の多い少ない」等も撮影には大きく働きます。
この様に、これを写真技術では”フェリヤー(撮影の環境条件)が働く”と云います。
これを「フェリヤー理論」と云います。
先ず、色の元の知識が掴めましたがまだこの理論が続きます。

色を発する鉱物
では、その”太陽から来ている核爆発の物質のものとはどんな物か”と成りますが、地球には360の元素の内、次ぎの物質が人間には見えているのです。
今までは正直「色」は「色」としてのみ太陽から飛んできていると思っていたのではありませんか。
鉱物の振動磁波とは到底思っていなかったでしょう。
では、その鉱物又は物質はどの様な物なのでしょうか。

これは、主に「アルカリ金属」と「アルカリ土類金属」に所属する物質の爆発の振動磁波です。
第1 Li(赤)、Na(黄)、K(紫)、Cu(緑)、Ca(橙)、Cs(青紫)、Cr(暗赤)
第2 Sr(紅)、Ba(緑)、Ra(洋紅)
第3 B(黄緑)、G(青)、In(藍)、Tn(淡緑)
第5 P(淡青)、Bs(淡青)、A(淡青)
後の物質は地球を通過して行きます。

これだけの物質の光の振動磁波が色に変化するのです。
赤夕焼けの真っ赤はLiでした。Na:ナトリュウム(黄色)は皆さんも知っている何処にでも使われている物質ですよね。外灯ですね。あれはNaの黄色を出しているのです。ですから埃塵や水滴が有ってもNaの外灯の光線は届いていますよね。
ですから、黄色や赤の色合いを示している花や物は、この物質の光が花や物に当り色を発している事に成りますね。
この物質の色を簡単に試験で観る事が来ますよ。
例えば、銅の粉を市販のやや強いライターで燃やして見ると緑色の火花が見えますよ。
この原理を使ったのが夜空に咲く色とりどり「花火」の祭典ですね。
これを「花火」をも含む酸化反応による「炎色反応」と云います。

色合いの技術
この様にこの色でどんな物質の波が遮られているかが判るのです。
写真では、撮影する物がどんな色合いであるかを先ず観察します。
そして、その色合いが「可視光線」の左側にある物か右側にある物かをまず考えます。
そうすると、地球の環境は埃、塵、水分で覆われていますから、赤か紫かのどちら側の色合いが出易いかを考えます。
凡そは赤のLiの波が細かいので透過してしまいますから赤より右側の色合いが出やすい事が考えられますね。都会と田舎ではよりはっきりしますね。
そして、それが朝、昼、夕方なのかの撮影時期を考えます。
更に突っ込んで朝の何時頃、雨模様か晴天か曇りか、湿度、風の有無、日当たりや影、等を先ず考えて撮影しますと、これだけでもかなり「自然美」の色合いを出す事が出来ます。
フェリャーが正しく取れる事に成ります。
そこで、より理解を深める為に次ぎはこの「フェリヤーの理論」を進めます。

フエリヤー理論
写真では、色(光)の三原色(BGR)と補色の光の三原色(YMC)で撮影は一度に変化するので、この事を先ず覚えておく事が必要です。
ここで「色は可視光線」だけだと思っているでしょう。ところが違うのです。
その前に、元は光ですよね。そうすると、可視光線の一つ外に、「紫外線」と「赤外線」がありますよね。その紫外線や赤外線にも「色らしきもの」が幾らか有るとは思いませんか。
急に「可視光線」に成って仕舞うのですか。そんなに急に色に変わってしまう程に自然はきっぱりしていませんよね。
未だ「紫外線」、「赤外線」は光の状態ですね。
その光の状態で「僅かな色合い」を示しているのです。
そして、それが「可視光線」の色の基本に成っているのです。
この理屈が写真には大事なことなのです。
つまり、人間の脳の感性はこの「僅かな色合い」の光を重視しているのです。
可視光線の「BGRの三原色」の基を成し、このBGRの「深まりや鮮やかさ、明るさ」等微妙な「色合い」を構成しているのです。
ですから、この「光の色合い」はその可視光線の7色の「微妙な色合い」を変えているのです。
これが、「光の色合い」が(YMC)の「3つの色合い」なのです。
この事の詳細は例を上げて観るとなるほど”紫外線に色が人間の目に見えているな”と気付きますよ。
現実の目の前でBGRの可視光線ほどでは有りませんが起こっているのですから。
この事は後述します。
そこで、写真ではこの微妙に確かに目の前で起こっている「光の色合い」を知り認識する必要が先ずあるのです。
可視光線の根幹を成しているのですから、これを認識しないでは綺麗な写真は先ず撮れません。

光の色合い
そこで先ず「可視光線」の知識とこの「光の色合い」の知識が必要と成るのです。大事な事なので更に解説を続けます。
太陽から届いた振動磁波の光は全ての光が交じり合うと「白」と成ります。
混じらない時は「黒」と成ります。当然ですよね。昼は白ぽいし夜は暗いので黒ですよね。
ところが、これが衝突すると色に変わるのですから、全ての色が交じり合うと「黒」に成ります。混じらないと「白」に成ります。これも当然ですね。
そうすると、ここで、この「光」の「色」と「三原色」の「色」とに何か特長のある原理が働いていますね。そうです。大雑把に云えば「反対の性質」が働いていますね。
これを理論では「反対」と云う定義ではありません。この現象は「+-」の相対の関係では有りませんね。少し違います。
元々「光」と「色」は同じ物では有りませんからね。BGRの色だけでならば「+-」の相対の原理となるでしょうが。そこで、この関係を色理論では「補色の関係」にあると云うのです。
反対の様で基が違うのですからお互いに助け合っていると云う関係にもあると云えますよね。
そこで、この関係を良く観て見ると、この「光の色と可視光線の色」には3つに分けられますよ。

先ず可視光線を見てください。
「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫」
この可視光線は次ぎの通りです。
「黄色系」
「紫色系」
「青色系」
以上3つに分けられそうですね。
兎も角も「濃度と強さ」は別としてこの3つに分けられるのでは有りませんか。

「黄色系」を「Y」、「紫色系」を「M」、「青色系」を「C」と成ります。
この3つに分類で出来ますね。

当然に上記した様に「補色関係」にあるのですから、この3つの分別に相当するものがある筈です。
そこで、考えて見ます。
補色ですから「色」として見る事にします。
例えば、橙、緑などは黄色系の中には青が入るとこれに近い色合いに成りますよね。
この考え方で観てると次ぎの様に成りますね。

「黄色系」(Y)のものは「青色系」と観る事がで来ます。これを「B」とします。
「紫色系」(M)のものは「緑色系」と観る事が出来ます。これを「G」とします。
「青色系」(C)のものは「赤色系」と観る事が出来ます。これを「R」とします。

人間の目に見えている振動磁波の光は可視光線としての色として見えていますから、これを「色の3原色」と呼びますね。
当然「光の3原色」と観る事も出来ます。
「YMC」は「イウロー、マゼンタ、シアン」
「BGR」は「ブルー、クリーン、レッド」
以上3つと成ります。

「Y」に対して「B」、「M」に対して「G」、「C」に対して「R」の補色関係にあると云う事に成ります。

「YMC」「BGR」の働き
さて、この事が判るとして、この関係が”撮影でどのように働いてくるのか”と云う事が浮かんで来ます。
そこで、例題を挙げます。
ある「B」系の背景があります。この環境は木々などで撮影する場合が多いですよね。
其処に、人が立ちます。
そうすると、その「青色系:B:ブルー」の中に人の肌色の顔があるのですから、この肌色には「B」に引っ張られて補色関係の「Y」が働き、肌色に黄色が働き褐色ぽい顔色になってしまいます。
これは人間が観た自然色ではありませんね。人間の目は脳の印象記憶でこれを瞬時に修正しています。
”私の顔はこんな日焼けした顔していないよ”として”綺麗に撮れた”とせずクレームがつきます。

ある「G」系で画面が6割以上も占める背景があります。其処に、顔とか花とかを中心に据えます。
そうすると、フェリヤーが働き、補色の「M」が働き、花が「M」が強く混じった色の花が出来上がります。何か紫ぽい花と成ります、肌色の顔ですと赤っぽい赤紫色ぽい顔が出来ます。
同様に、クレームですね。写真を叩きつけられるかもね。

M(マゼンタ)中間色
ところで、この「M」(マゼンタ)ですが、聞きなれない色の呼び名ですね。
この色はつまり、光は「極めて薄い赤紫」の色合いを示し、”色なのか色でないのか判らないもの”で、つまり原色では有りません。
これを「中間色」と云う色理論では呼ばれている色合いです。
この「M」と「C」は「全ての色」に対して大きくその色合いを与えるもので、この様な働きをするものを「中間色」と云います。
これから撮影する場合、花や物や人物等の被写体をよーく見てください。そうすると”なるほど 少し原色と違うな”と感じる筈です。これがYMCの「中間色」が働いているのです。

さて、この「中間色」ですが、日本人はこの色合いが含まれた色を「綺麗」とし、「自然美」の感覚としているのです。つまり、日本人の「綺麗」の根源はこの「中間色」なのです。
その中でも、この聞きなれないM(マゼンタ)を最も好むのです。
万葉の昔から、「薄紫」が最も高位の色とされている理由はこの所にあるのです。
このM(マゼンタ)とこれを含んだ色合いを「綺麗」とする遺伝子を持っているのです。
ところが、上記した人種の印象記憶ではアングロサクソン系の人種は、余りこの中間色に反応を示しません。もとより「原色の美」を好みます。
つまり、「中間色」又は「中間色を含んだ色合い」のものは濁り、澱み、くすみとして嫌います。原色の中でも特に、赤系統を好む傾向があります。
それは何度も言うようですが、極寒の中で進化した人種の遺伝子がその様にさせているのです。
況や、極寒の中での生死はその血液の凍結を防ぐ最も大切な条件であったからです。
彼等の体型や顔や目鼻や皮膚の全てがこの「血液の凍結」を防ぐ事から進化してあの体型に成っているのですから。
そのYMCの中間色ですが、花の「自然美」が判りやすいと思いますが、中間色又は中間色を含んだ色合いの花と原色の花とを示すと、日本人は「中間色」系を「自然の美」として「好み」を示します。
しかし、「原色」の美は「感動」とした反応をする事が統計的に判っています。
「好み」(中間色)の「自然の美」
「感動」(原色)の「自然の美」
以上2つとに脳の印象記憶で分けている事が判るのです。

漫然と聞くと、どちらも「綺麗」と聞こえていますが、それを分析すると、上記の様に脳では分類しているのです。
故に、その理屈から云えば脳科学では「感動」は「血液」の如何を意味しています。
ですから、上記したアングロサクソン系の人たちは遺伝子から「血液」即ち「感動」を基幹とした反応を示す事になるのです。
当然に、日本人としては、写真を撮る時、又は観る時には、この脳の反応が働いている訳ですから、この「中間色」(YMC)を如何にして取り入れる工夫をするかに掛かる事に成りますね。
自分と他人は「綺麗」と反応して評価するのですからね。
当然に、日本人にもある「感動」を与える写真の工夫は、”如何に「BGRの取り入れ」を工夫するか”に掛かることを意味します。

そこで、問題に成るのが、「綺麗」で且つ「感動」の写真ですね。
つまり、「難しい写真」と成る事です。
そこで、その典型的な被写体があります。それは、「秋の紅葉」に挙げられる風景です。
「原色の自然の美」とも云えるものですね。確かに「感動」を与えます。
観ると「血」が騒ぎます。そして綺麗です。感動と綺麗が融合しているのです。難しいですね。
しかし、反対に「春の花々や植物」は「中間色の自然美」ですね。「感動」「血が騒ぐ」と云った脳や前頭葉の働きでは無い「何か静けさを感じる美的感覚」では有りませんか。
”感動して心が動く”と云うものでは有りませんね。

この季節による写真にはこの様に”何か違うもの”を感じます。
「淡い色合い」で何とも云い難い印象を持ちます。
最近は西洋花が多く成りましたが、矢張り、春の野辺の花の色合いの綺麗さは「血液」が騒ぐと云うのでは無く「遺伝子」が騒ぐと云う感じがします。
これが我々日本人に持っている「遺伝子」の「YMCの感覚」がその様に複雑に美的感覚を分けているのです。日本人は「繊細」な人種と判定出来る要素ですね。
アングロサクソン系の人たちは全体を「血液」の「感動」に依る事から、当然に日本人の様には論理的にこの難しい事は起こらないことを意味します。
彼等は全て、遺伝子から来る「血液」による「感動」を主体としている事に成ります。

量的感情と質的感情
「感動」とは確かに「綺麗さ」もその一つですが、主に「強さ」や「壮大さ」や「広大さ」に対して起こる「量的感情」が主体です。そして、秋の「感動」の綺麗さはその字の如く主に「動」による綺麗さでは有りませんか。

それに対して、春のYMCの綺麗さは「静」による綺麗さを示しているのでは有りませんか。
YMCの淡い色には、「感動」の「動」の強さや壮大さ広大さの「量的感情」の印象は少ないと思います。どちらかと云うと、「質的感情」と区分けする事が出来ます。

この様に、まとめますと「静」の「光」の「YMC」中間色による「自然美」の「綺麗」は、殆どは日本人の「遺伝子」による「質的感情」の「綺麗さ」とでも云えるものなのです。
そして、それは色理論としてはYMCが「色の根幹」の印象を左右しているのですから、むしろその上記「まとめ」である事が正しい感情と云う事に成ります。
ですから、写真撮影ではこの「YMCの如何」を習得して表現する事が「本当の自然美」であると言えます。

YMC
さて、そこで、そのYMCの全てが均等に左右しているとは限りません。
質的、量的にも特長を持ちます。経験による私的感覚ですが総合的には、この関係はM>C>Yであると観ています。その原因は日本人の「進化による遺伝子」と「四季による環境変化」によって起こっていると判断しています。

ではそのYMCが個々にどの様な特長を示すのかを説明します。
中でもM(マゼンタ)の美は日本人以外の人種では綺麗だとする感情を高める統計的なものは無いとされています。
市場の店頭で起こっているその例題を述べます。

M(マゼンタ)
このM(マゼンタ)に関して普通にプリントすると、10人の日本人があるアスファルト道路の入った被写体写真に対して、このマゼンタを抜いた本来の色のアスファルト道路としてプリントすると、10人がこの”道路の色はおかしい”云うのです。
あの汚いアスファルト道路に対して、Mだと認識はしていないのですが、”M(マゼンタ)の様な色合いを少し欠けている”と要求するのです。通常、0.2-0.3程度の色合いを求めます。
そして、Mを補正を欠けると納得するのです。
この様に、写真店等のところでは道路だけではなくてもプリント全体にM(マゼンタ)0.2の補正を掛けているのです。それで初めて、”綺麗だ”と評価されるくらいに日本人にとってはこの中間色の存在を綺麗の前提としているのです。
そもそも、補正に依らずとももとより、「静」の「光」の「YMC」による「自然美」の「綺麗」は綺麗なのですが、遺伝子的な強い感情なのです。

C(シアン)
淡い青の色合いを示すC(シアン)は、特にM(マゼンタ)程にその傾向はありませんが、恣意的に欠けさしていると、強さとかシビヤーさとかシャープさとしてクレームが付きます。
観やすいものとしては、真っ白い光の当った花などよーく観てください。光がよーくあたった一部分に薄い淡い青、或いは水色の光り輝く部分があります。この部分がC(シアン)が当ったところです。このC(シアン)はより真っ白を白く見せつけます。
可視光線外の何ともし難い紫外線にこのC(シアン)が多く含まれている為にフェリヤーが強く働き自然美を阻害してしまうので注意を払う必要があります。
最近ではこの紫外線は大変に知られ、嫌われる光ですが、そうでもないのです。
殺菌作用や季節の植物の発育には欠かせない光でこれなくして生物は生きて行けないものなのです。
しかし、可視光線外の紫外線に含まれるこのC(シアン)の中間色としての存在そのものが知られていないのが現実です。最近ではやっと「アントシアン」として知られるように成りました。
従って、普通は一般的には「可視光線」の範囲での色合いの構成と知られ観られていましたが、ところがこのシアンが光として写真技術にも大きく影響しているのです。
より写真技術を上げるとすると、逆にこのC(シアン)を如何にコントロールするかの技術が必要となりますね。上記した様に強弱、鋭鈍、明暗等の輪郭等の印象記憶をコントロールする場合に必要と成ります。

もとよりM(マゼンタ)は言葉そのものの認識が低くても中間色としての色合いは日本人なら誰でも知っている事ですが、太古の昔から知られていました。
しかし、このC(シアン)の言葉はもとより色合い自身も認識されていないのが今も現実ですね。
それだけに写真技術を上げるにはこのC(シアン)の論理的な知識を習得してそれを活用する事で「綺麗な写真」が撮れる前提要素と成るでしょう。

Y(イエロー)
次ぎはY(イエロー)なのですが、イエローは日本語で黄色ですね、でも、この光の中間色のイエローは色のイエローとは少し違います。
その色合いはやや淡い薄い透明的な光り輝く黄色です。
日本人はこのY(イエロー)の有無には余り反応を示しません。それは遺伝子と進化から来ています。
日本人は黄色人種ですし、その環境は森林や家屋等にイエローの多く含む環境にあります。ですから、多少のY(イエロー)が過不足があっても違和感を持たないのです。この中間色のY(イエロー)が働くと顔等は黄土色や日焼けしたように成ります。
色の黄色にこのYが多く含むと輝くようなイエローと云うか黄色が出来上がります。
テレビ等の画面に最も多く出て来る自然美から離れた不良画面はこの中間色のY(イエロー)が代表的です。余り意識していない事から来ていると考えます。
この光の中間色のY(イエロー)は原色を好む人種には大変に好まれます。それは色としての可視光線の原色の黄色として存在するからです。
原色の黄色の変化として、日本人の中間色の嗜好品的な所までは行きませんが、使われるのです。これを加える事による変化を好みます。
「感動」を主体とした反応である事から、強弱、鋭鈍、明暗等の輪郭等の印象記憶を要求する事に拠ります。

どちらかと云うと、C(シアン)等の使い方もこのY(イエロー)に近いものがあります。
更にどちらかと云うと、多くは画面が汚くなる傾向があります。このフェリヤーが働いた画面等は見られませんね。
とは言え一概には云えないことですが、写真撮影期の「春榛の緑」とすれば必要な中間色ですが。秋の銀杏の葉などにも使われる色合いですので、機会の多さ被写体の多さからすると同等に学び使う必要が出てきます。

中間色YMCの使い方
そこで、「好み」(中間色)の「自然美」と「感動」(原色)の「自然の美」をコントロールする”この難しい写真を撮るにはどうすれば良いのか”との課題です。
先ず、あくまで「原色の自然の美」の「BGR」を中心に、中間色の「YMC」を引き出すかの写真技術と成ります。そうすると、必然的には「YMC」の理論を学び会得するかに掛かる筈ですね。
難しい被写体ですから、簡単にこれだとする一つのものはあり得ません。故に複雑なそれを系統化した其処に理論が生まれるのですから。
それを系統化して論理的にしたのが「CC理論」なのです。
その中には、当然に補色に関係する「フェリヤー理論」も必要ですね。
本文の目的とするレポートですが、日本人の自然美は多くは、原色BGRの理論も必要として、よりこの「YMCの理論」と「フェリヤーの理論」を会得する事に関わります。
そして、それを融合させた理論の「CC理論」があるのです。
この「CC理論」のSカーブに付いて後述します。

そこで、それを理解する為に必要とする予備知識として知るべき事があり、その為に話を元に戻します。

撮影の予備知識
同じく、ある「R」の多い花などの背景に人が立つとしますと、或いは別の花を中心に据えるとしますと、その人物や中心の花には「C」が働き、何か青覚めた人物や花が出来上がります。
これでは写真では有りませんね。
今度は、「Y」「M」「C」の背景に同じ様に撮影の対象物を撮ると「B」「G」「R」の補色関係が働き観るも堪えない写真が出来ると考えられますね。趣が出るのか疑問に成りますね。
しかし、この「BGR」の背景に「YMC」が中心に来るとに較べて、そのフェリヤーの影響は少ないと見えます。”何故かな”と成るでしょう。
それは「YMC」の背景に「BGR」が来ると、人間の目或いは脳は次ぎの様な事に成ります。

先ず、1つは目は、フェリヤーが働いてくる「BGR」は可視光線のよくある色ですし、中央の被写体の色の殆どはこのBGRの色で構成されている事だから目立たないのです。脳、目は”反応し難い”のです。
2つ目は、YMC全体の背景と云う被写体が自然界では少ない事により、確率的に認識できないのです。恣意的、故意的にスタジオでの背景を作らないと「全体背景」としては先ず見られません。
3つ目は恣意的、故意的な特別なものは除くとして、自然背景の「BGR」に対して「YMC」はその色の根幹をなしているのですから、むしろその色合いのはっきり感等の明度の助長として働くからで目立たないのです。

テレビ等でよく観察してください。主にこのBGR背景でのフェリヤーの働いた画面が出てきますよ。
人間は「人の肌色」(YMCの中間色です)に対する印象記憶が何よりもすば抜けて強く違いを見抜きます。又、これには納得する色理論が働いているのです。後でこの理論を解説します。

人種の色の好み
この様に、フェリヤーは自然の摂理現象の「光と色」関係がある以上この現象が起こります。
写真はこれを目の錐体覚質細胞の覚質層(受光細胞)に残像として遺すわけですから、人間の印象記憶がある以上また避けることも出来ません。
ところが、恐らく、”この印象記憶が人或いは人種により異なる”と考えるでしょう。
その通りです。日本人は全世界の人種の内で最も自然色を好む人種なのです。恐らくは自然に周囲が囲まれ育まれてきた結果だと思います。
例えば、アメリカ人又はアングロサクソンのヨーロッパ人は自然色から離れたやや赤みがかった色を好みます。人肌は赤みの人肌を自然だと云います。実際は違うのですが。希望的観測と云うか印象と云うかのものですね。
これは、彼等の祖先が生き抜いて来た「極寒の環境」から来ていると云われています。そのために肌は赤く血液が通って居るのが良いということに成ります。
アングロサクソンの白色人種は極寒であったために血管が体の中に引き込めて進化した結果のために白色に成っているからです。鼻が長く高く毛深いのはこの進化から来ているのです。
日本でも北部の人はこの若干の傾向を持っています。
色とはこの様にその祖先の如何が左右するのですが、兎も角も、好みの範囲ですが、論理的「自然色の美」は変わりません。
そんな事を言っていても、フイルムや画像ソフトが売れなくては困ります。そこでその好みの範囲でフイルムやソフトはその好みに合わせています。この合わせる理論があるのです。
それを「CC理論」と云います。それを一つの図表化にしたものがあり、これを上記の「BGR:YMC」の関係と「CC理論」とを合わせた「CCカーブ」(Sカーブ)と云うものがあります。
これは大変撮影の時に重要なものですので、後で解説します。
我々は、日本人ですので、「自然美の色合い」の理論で更に進めます。

自然美の理論 YMC
紫外線
では次に「可視光線」外の紫外線と赤外線とに付いて述べます。
この「2つの光線」も色に影響するのです。当然に写真にも作用するのです。
先ず、紫外線です。700ナノ付近の光線です。
この光は現在はかなり知られて来ましたが、この光は物に作用して殺菌する能力等があります。それはその光の持っているエネルギーに拠ります。衝突した時に発生する熱エネルギーで菌が死滅するのです。また、紫外線に多く含まれる「C」(シアン)が光線として物体に当りますとそのシアンの毒性で菌などは死滅する事に成ります。(用語としてアントシアンと呼びます。)
青酸カリという劇薬を知っていると思いますが、これはシアン化カリのことです。(C)は青色系ですから青と呼称します、シアンの酸化イオンと(K:カリ)のアルカリイオンが反応したものだと云うことです。このシアンが猛毒で怖いのです。炭素と窒素で出来ています。これをCNイオンと書きます。
このシアンがアントシアンとして作用します(ここではシアンと記する)。紫外線にはこのシアン(C)の光を多く含んでいます。
光は物質の振動磁波だと上記しましたが、この紫外線にはCN物質の振動磁波の光の状態のものが含んでいることを意味します。
例えば判りやすく例を挙げますと、柿の実、或いは葉や赤い紅葉はこの紫外線に含まれるシアンが柿に当りシアンの補色の赤に作用して赤く色づくのです。
色づくだけでは有りません。このシアンは柿の実の中の味物質に衝突してCとNが分離してCが更に醸成して炭酸(CO)イオンとなり、紫外線の当る量が増え、更に進んで果糖になりブドウ糖の糖分へと変化します。これが真っ赤に熟した甘い柿の実なのです。
柿の葉や赤の紅葉も同じで紫外線の当る量が多くなるとシアン(C)の補色の(R)へと変化するのです。簡単に云えば赤い夕焼けと同じですね。
ですから、この時期の葉で太陽光線に強く当った紫陽花の葉は危険なのです。緑の葉でありながら、葉には紫外線が当っても補色の色に変化せずに緑のままでこのシアンを溜め込むのです。それだけに紫陽花の葉の緑の力が強いという事ですね。虫は紫陽花の葉を食べませんね。虫食いの紫陽花の葉を見たことが有りません。
ところが、例外の紫陽花の外では、つまり、紫外線が当る事で、葉の緑の色素は分解されて葉の内部の細かさが赤を受け付けるのです
赤の夕焼けと同じです。この物質にアントシアンが残るのです。シアンは元は「薄い青みがかった白
」です。写真技術では「薄い青みがかった白」だと大事ですので覚えて置いてください。
このC:シアンの光が衝突することで補色の赤(R)の色に変わるのです。
他に例としては、銀杏はこの紫外線のシアンを吸収しますが、紫陽花ほどでは無く黄色程度のところで葉の内部の分解は留まりますが、この葉も危険です。ですから、生きた化石として長く生き延びてきたのです。
同じく銀杏の木にもこの溜められたシアンが働きスポンジ状の木の内部に溜め込みます、当然に菌や虫は食べませんので腐らずに木は生き残れたのです。

つまり、当然にシアンを含んでいるのですから、写真ではこの紫外線の太陽光を最も気にする必要がありますね。どう言う事かと云うと、写真は光と物体の肖像ですから、アングルに光の取り入れ方が重要です。取り入れすぎるとシアンが働きますし、その光の中心に肖像物体を入れて撮るとシアンの補色が働き赤みが自然色から離れて働きます。上記の理論よりフェリヤーが働き過ぎますね。
そうすると、撮影時は光は写真を生かすかどうかのものですから、何とか取り入れる必要があります。そこで、フェリヤーが働かないように撮影肖像物から離して取り入れる必要が出てきます。
むしろ反対の場合のも在りますね。
撮影肖像物が赤であり特に強調したい場合は、むしろ紫外線を当ててフェリヤーを働かせればより綺麗に写ります。
更には、白色をより強調したい場合は、アングルの中心から僅かに外してフェリヤーを外して紫外線を直接当てる事でCの薄青みがかった白が出てより白く見せる事が出来ますね。
注意は当然に光の綜合色の白が強く成るのですから、ハレーションが起こります。このハレーションを防ぐには紫外線の時期を選ぶ以外には在りません。紫外線の少ない光です。
朝の上記した3つの時期と成り局部的に当てる事でかなり抑えられます。だから、朝日でもこの様に3つもある事の自然論を知っておく必要がありますね。
つまり、地球の空気の澱みの有無を知る事が写真技術では大切な要素と云う事です。
こうなると、物理に成りますが。マア其処まで行かなくてもこの程度の原理を覚え使う事で綺麗な写真が撮れる事に成れば覚えて活用したほうが得ですね。
この様に、上記した理論を駆使して紫外線を撮影から利用するのです。推して知るべしで撮影には紫外線は色々なアングルに「シアン」というものが大きく働きます。
太陽光の綜合色となる即ち紫外線ですから最も重要ですね。
紫外線フィルターも在りますがこれも使うことも一つです。芸術写真を撮る事等にはお勧めですが。
紫外線の効能は「シアン」以外に「趣」として観ると活力や明るさ等もありますからね。
又、他の方法では4000ケルビン程度のフラッシュで紫外線を迎え撃つ事も出来ます。光の方向に向かって明るいですがフラッシュを焚くのです。
慣れてくると、フラッシュの発射角度や時間や強さをコントロールする事でも微妙な趣を出すにはこの方法も可能です(場合によっては自分専用に改造か作る必要がある 殆ど充電量をコントロールする事で可能)。

写真を撮る一番最初に考える事は、被写体が決まると”「光」をどうするか”ですから、シアンの影響が続けて記憶から出るぐらいにしておく事が必要です。

赤外線
次ぎは、赤外線です。
紫外線ほどではありませんが、この光も働きます。
赤外線は400ナノ程度以下ですから、実に細かい振動磁波ですから殆どのものを透過します。
当然、空気の澄んだ時には多くこの赤の光とか赤外線の透過量が多いと成ります。
そうすると、どうなるかの問題です。
赤外線量が多いと云う事はその量が衝突する物体に赤傾向が強く成ると云う事ですね。
朝の「曙」はその赤の綺麗さが良くて「曙」と呼ばれ好まれているところですね。
赤の夕焼けとは少し違います。赤の夕焼けは空気中の澱みでやっと透過してきた赤の振動磁波が空気の澱みに衝突して発光して赤を示すのですが、朝の曙は澱みが少ない事でその量が多くて衝突してより多くの赤を発光している訳ですから。「質と量」の内の「量的」なところが違うのです。
そうすると、写真性では、先ずは「色濃度」はもとより「色の深み」と云う形で出て来る事に成ります。
紫外線のシアンの白っぽさの元気感、活力感、とかに較べて、赤外線の補色の赤は「しっとり感」「落ち着き感」とか「深み感」が出る事に成ります。
夜明けの赤外線は「低い角度」で入ってきますから、撮影時はこの角度をも配慮する事がその趣感をより強く出すので大切です。
この様に、赤外線と紫外線とは相対的な趣を醸し出す事に成ります。大まかには逆に働くとして覚え利用する事です。
赤外線は振動波が細かいですから、つまり透過は良いわけですから衝突や透過に依って起こる色合いではものを「暖める能力」を持っていますから「暖かい感じ」がしますし、被写体に当ると透過の影響で花の花びらなどでは透き通る事に依って「透明感」のある「色合い」を示します。
この様に、赤外線の「透過」と衝突による「赤味」から撮影時はこの2つの影響を論理的に考えることで赤外線の趣を引き出す事が出来るわけですね。
紫外線の様にYMCのC(シアン)が強く出る事が有りませんが。強いて云えば「下地にM傾向」と云う事になるでしょうが、赤の中にMですので目立ちません。BGRの根本の一つMですから赤の色合いは良くなる事は確実ですね。
現実に、論理的には振動磁波が物体に衝突する事で発生する熱エネルギーにより紫外線の「熱さ」に対して、赤外線が当ると穏やかな「温もり」を起します。「遠赤外線ヒーター」はその証拠ですね。
この論理的な現象から目に見えないのですが、これを活用する事が写真ではより「自然美の綺麗さ」を表現する事が出来ます。従って、意外には配慮されていないのが現実ですが、上記した様に大きく影響するのです。
推して知るべしで、逆に赤外線の影響を少なくするのには赤外線フィルターも在りますが、紫外線の処で述べ現象と同じ事が起こります。使う目的にあわすことが必要ですね。
フラッシュは逆効果で赤外線の効果を消す事の手段としては使えますが、それも面白みなどを出す目的での事に合わす事が必要ですね。
兎も角も、この赤外線を含む赤色系は、「空気の澱み」がある限り紫外線と較べて難しい事に成ります。
ですから、都会で撮影する時と、田舎で撮影する時と、町で撮影する時と、森で撮影する時では、「空気の澱み」と「酸素やオゾン」の量が異なるので、違う色合いを示す事に成ります。
森や林で、木々の多い所で撮影すると「深み」のある「しっとり感」とかが出てよい写真が撮れ易いのもこの事から来ています。

次ぎは中編、後編と続きます。



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写真技術と色理論 中編(副題 自然美のある綺麗な写真を撮る方法)

写真技術と色の理論 中編
(副題 自然美のある綺麗な写真を撮る方法)

色理論(CCカーブ)


中編
科学的な物質の影響
ここで、「酸素」(O2)やオゾン(O3)なのですが、写真性の影響外と思われたでしょう。
ところが、あるのです。
酸素は化学的に周囲の温度を下げる効果を持っています。つまり、酸素は他の物質と酸化反応を起します。その時、その反応に必要とするための熱量を周囲から吸収します。ですから、森や林や木々の下では涼しいのです。あれは影だからだけではないのです。論理的には一般には2度ほど下げる効果を持っているのです。
では、”温度が下がるとどうなるか”ですね。
空気中の水分量が下がります。つまり、絶対湿度(その温度が水分吸収するの限界能力)が下がるのです。上記の理論から「空気中の澱み」の水分量が下がりより澄んだ光を多く通すことを意味します。
又、周囲の浮遊物質を酸化させるために余計な澱みが少なくなる事を意味します。まして、オゾンは酸素より一つ酸素が多いオゾンO3のイオンですから酸化反応は抜群です。(因みに消毒剤のオキシドールは(H2O)より酸素一つ多い過酸化水(H2O2)です。それが一部空気中にあるわけですから。当然に、より赤外線領域の光が通る事を意味しますから、撮影には、赤外線の効果の「深みの色合い」が増す事になる訳です。ですから、山で撮った写真には良い綺麗な写真が撮れるのは景色だけでは有りませんね。

では、「深みのある写真」を撮ろうとすると、論理的には次ぎの様に成るでしょう。
雨上がりの後に埃が落ち、
暖められて湿度の少ない、
温度の高すぎない、
お昼までの朝方の、
カラットした日
以上の条件を選ぶ事に成りますね。

この様にして上記した知識を論理的に活用する事で目的の良い綺麗な自然美のある目で観た写真が撮れる事になるのです。

では、次ぎは上記した中で、”後述する”とした二つの事です。
この二つの事は一つを説明する事で解説出来ますので、それをこれから進めてゆきます。
この理論は最も大事です。この事を知る事でマスターすると写真家専門家に負けない知識を習得した事を意味します。意外に専門家は芸術家であるので技術者ではないので知らない基礎的知識なのです。

「CC理論」(Sカーブ)
先ずは添付ファイルの図を見てください。
写真技術はこの論理により成り立っています。
上記した「顔の肌色の影響」の解説と、「BGR:YMC」の関係と、「CC理論」とを合わせた「CCカーブ」と云うものがあります。その解説ですがこの二つのことでしたね。

では、解説を始めます。
Sカーブの経緯の見方
人の綺麗さの評価はある基準がありそれをベースにして脳では印象記憶として持っています。それが人種に依ってその先祖の生きて進化した環境から若干理論的な色合いに較べて異なっているのです。そして、それはある「光或いは色の濃度」と「光或いは色の強さ」との関係から違いの差が判定できるのです。
当然に、「BGR:YMC」の関係です。
先ず、縦軸に「光、色の濃度」を取り、横軸に「光、色の強さ」を取ります。
これをエネルギー(E)として考えても判り易いかも知れません。
そうしますと、添付ファイルのような図表が出来ます。
これをCC理論の通称Sカーブと云います。

取り敢えずは、面倒ですが、数理に苦手な方が多いのですが、でもより良い写真を撮るという意気込みからこの図表の論理的なことを覚えてください。数理に苦手な芸術家の写真家は意外に知らないのはこの事から来ているかも知れませんね。余談は兎も角も。
このデータは各メーカーのノウハウの基となるものなのでこの理論は公表されていないかも知れません。その共通の理論を解説します。

先ず上記した特長を持つ「BGR:YMC」を夫々この二つの関係をとると次ぎの様に成ります。
先ず、大まかな推移として述べます。
光の色YMCがBGRの色に変化して行く過程のEの変化を基に解説します。
そこで、縦軸の濃度を(Ed)とし、横軸の強さを(Es)とします。
光が弱い事は当然に色の濃度も低い事に成ります。当り前の事で光が弱いのに濃度が高いと云う事は有りませんね。ですから、朝の光は弱いですから、朝の色は濃度が低い事に成りますね。
当然に、写真ではこの理屈を利用する事で目的の柔らかくてスッキリとした趣は叶えられますね。
この様にカーブの変化を論理的に観てその理屈を使って写真に利用して自分の思う趣を表現すればよい訳です。

左から次第にYMCは右の方に強さ(Es)を変えて行きます。
ところが、低濃度で弱い光は余り濃度が上がらずにほんの僅かに上がりながらほぼ右に平行移動して行きます。
これは、高低と強弱の関係は余り無い事を意味しますので「安定している事」を示します。もっと云えば、Edが変化しないのですから、環境条件の諸条件に影響され難い事ですから、更に云えば、写真性として”問題なく綺麗に撮れる”と成りその領域が実に広い事になりますね。
「濃度の変化」と「色の強さ」の変化が変わらないのですから、この何処の範囲で撮っても同じ様に取れると言う事です。
YMCは下記にも書いていますが綺麗に撮れる光の色媒体ですから、朝の薄暗い時から色として確認出来るまでの明るさまではYMCの綺麗な色で写真は撮れる事なのですね。

そして、あるポイント付近(3)に来ると急激に高低のバランスが崩れて強さEsの変化比率に対して濃度Edの方がより上がるのです。EdとEsのバランスが崩れると云う事です。
ある光の強さEsの時期で強さよりも濃度Edが強く出る事に成りますから、明るさよりも濃度がきつく出る事ですので、写真では昼前後域には思ったよりも強い色の写真が出来る事に成りますね。
当然に何時もでは有りません。
曇り、塵、埃、水分などでも変わりますね。その時はこの障害物に依ってBGRの透過率が低いのですから、濃度は低いし、光の色合いYMCの方が透過率が良く成りますのでこの色合いの強い写真が出来る事に成ります。

色の出現
そして、そのポイント付近(3-4)から、光が色へと徐々に変化してゆきます。そして、遂には「色」らしきものが出てきます。
その「色」又は「光に近い色」は白に薄い淡い白に澱み、濁りに近い色合いを示してきます。それが次第にある程度の速さではっきりとしてきます。
YMCの色に近いその3つはその間隔の差が無くなりひとつに融合して行くのです。
一点化が進みます。その全ての「色の中心色」付近(4)に来るとYMCの高低同比率では一つに成ります。
YMCが同率である事は元々濃度Edの差がないのですから、それが理想的なYMCで撮影する領域である事がいえますね。
つまり中間色が理想的な色合いを示し、それでいて、写真撮影をすれば濃度も丁度良いころあいでBGRもある程度はっきりとして来る部位ですから撮影としては良い所に入ったと云えます。
ポイント4の中心とその右側での撮影より、私は、YMCの強さがまだ残っていて更にBGRもはっきりとして来るこのところの方が癖の無い部位としては良いのではと、考えます。
この様な時期は環境が好条件であるとして、昼過ぎから14時頃までのところであろうと思います。
「春夏秋冬」でその時期がずれますが、凡そ感覚的にですが、真夏では1-2時間手前、真冬では1-2時間後と言う事になるのではないかと思います。

季節の選択
真夏では日差しと紫外線量が最大の傾向がありますし、逆に真冬は日差しが弱く、夕闇は速く成ります。
秋では冬傾向にあり、春は夏傾向にありますが、一日の撮影時間の長さとYMCの量の多さか
から考えると、春がこの部位の領域を示す傾向が一般的な好みから一番ではと思います。
しかし、秋には春に対して逆に撮影時間とYMCの量が少ない事ですが、環境条件は秋晴れの空高く空気が澄んでいますし、色彩豊かで環境条件で良い事では一番となりますので写真性は高まりますね。
結論は「YMCの春」か、「環境条件の秋」かを選択する事に成ります。

K18グレー
「CCカーブ」はこれ等の環境条件等の全ての影響要素を無くしての試験世界標準適用(22℃RH50%etc)で作成されているので、この領域を使う場合は「春夏秋冬」「朝昼晩」の時期を選べぶ必要があります。

さて、上記の左側から移動して、次ぎは中心(4)ですが、ここが大変意味のあるポイントなのです。
色と光、つまり、YMCとBGRの中間点又は融合点なのです。その光(YMC)と色(BGR)の融合点は通称グレーと呼ばれています。
グレーには沢山のグレーがありますが、この点はそのグレーの中心で、G=「18K」と呼ばれるところです。
上記した左側YMCの写真性とその右側のBGRの写真性の良い部位、領域の特長の中間であると云う事に成ります。
右側のBGRの部位、領域は当然に左側より時期では14-16時、或いは夕日までの時間帯です。
環境条件としては「春夏秋冬」としてでは、夏では「光の強さと量の多さ」からBGRは段突ですね。その反対は勿論冬となるでしょう。
YMCは少なく、右側ですのでBGR域だけの域ですから、中間色は紫外線の強い夏のC(シアン)だけと成るでしょう。
「春のYMC」と「秋の環境条件」はその中間と観るのが妥当でしょう。
「春のYMC」では、右側のBGR領域ですので、BGRの品質の根幹と成るYMCで「はっきりくっきり感」等良く出る領域となるでしょう。
春の緑豊かなこの時間帯で写真を撮るとすると、春は「BGRの品質」と云う事に成りますね。

「秋の環境条件」は当然に光の透過量が大変良くなる訳ですから、写真は空気が澄んでいるので赤の色合いが強く成ることを意味しますね。ですから、紅葉写真は最も適合している訳です。

この様にこのCCカーブを使えば、写真撮影ではその目的に合わせて撮る事や、その時期の特長と時間帯を選べばより綺麗な写真が撮れることが約束される事に成ります。

時期と時間帯の特長
撮影の時期
凡そ次ぎの様に成ります。

「夏のBGR」
「春のYMC」
「秋の環境条件」
「冬の白黒」
以上の4つの条件を覚えて置く事がこのCC理論のSカーブを利用する事が出来ます。

撮影条件を考えてCCカーブの特長をのポイントを選ぶと云う選択方法もあり、逆にこのCCカーブの色のEsとEdの状態の特長を念頭にして、撮影条件を考えると言う事も有り得ますね。
上記の時期に対して、今度は時間帯はどの様に分けられるのかと云う疑問が出ます。

撮影の時間帯
CCカーブの特長から詳細に分けると次ぎの様になります。
一日の時間帯を次ぎの様に分けられます。
「朝日の3光(6-9)と時間帯(5-6)(7-8)(9-10)、(10-12)」
「昼の3つの時間帯(12-14)(14-16)(16-18)(18-19)」

(0-5)(19-24)は黒の特殊な領域です。
(0-5)の領域の黒と(19-24)の領域の黒とでは黒の傾向は異なります。
これは光の環境条件から起こる結果です。
(0-5)は空気が澄み、気温は低下します。結果、論理的に光の透過は良く成りますので、YMCは勿論の事、赤と赤外線領域の透過は良く成りますので、黒はB系の黒が出てきます。
(19-24)は空気は澱み、まだ地熱より気温は高いです。結果、光の透過は悪くなりますので、もとよりYMCは悪く、逆に黒は赤系の黒が出る事に成ります。
G系はこの何れかの時間帯の中で起こることですね。それは季節の変化にも大きく左右される所ですが、空気の澱みと気温の程度に依ります。

この時間帯での写真は全て光と色のEdとEsの変化から異なってきます。
この「8つの時間帯」を考えCCカーブの色のEdとEsの特長とを合わせて撮影するとぐっと写真性が良くなるのです。
この様にして、季節の時期と時間帯を使う事でも的確にその被写体の特長を引き出し、自然美をより効果的に演出し再現できる事に成ります。
このCCカーブの理屈を利用して綺麗な写真を撮るにはこの特長は大切です。
未だ細かい判断記憶があるのですが、後は後述で説明する事にします。先ずややこしくなるのでここまでにします。

次ぎは、ここK18では、ご覧の様にYMCとBGR全てが一点に合流しているのですから、論理的には撮影には最も良い事を意味しますね。

この中心点、合流点、K18、グレーポイントのポイント4は、左側部位、領域と、右側部位、領域から”推して知るべし”でどちらにもマッチングする領域と成ります。
しかし、当然、理想的な領域ですが、残念ながらその領域は小さい事に成ります。
ここで撮影出来れば綺麗な写真が撮れる事に成ります。無難で綺麗な写真が問題を少なくして撮れる事に成ります。
K18のグレーを背景にして写真を撮れば、自然美のある人間の目で見た綺麗な写真が撮れる事が出来ます。YMCとBGRの左右の領域に偏らない問題の少ないバランスの取れた撮影が約束されると云う事ですね。でもその綺麗な中に更に綺麗さの基を成している「趣」を強調するとした場合は左YMCの領域だと云う事なのです。

上記した「春YMC」と「夏BGR」と「秋の環境条件」と「冬の白黒」等の条件が絡んでも綺麗な写真が取れます。しかし、「趣」をより強く出すとかの工夫をする場合は、その特長と云う点では賛否両論の出るところです。写真でなくても世の中の事は何でもそうですよね。
この条件を見つけ出すのは自然界の中ではなかなか困難でしょう。
プロのスタジオでの「作り出し条件」では問題はありませんし、プロのスタジオでは凡そ世界標準に成っていてこの領域で撮影をします。ですから、商業写真は綺麗ですよね。なかなか欠点を見つける事は困難ですね。
では自然美の撮影では”どう言う時にこのチャンスはあるのか”と云う事に成りますね。
それを発見するには、先ず、CCカーブを使って論理的に考えます。

理想条件
時の要素
CCカーブは標準的で理想的条件の世界標準の中で出来ていますので、これに先ず、自然の全ての環境条件が絡んで来ると撮影時の要件は悪くなる一方ですね。
とすると、その中でも理想条件を叶えるものとして、この最高の領域となると、経験から観ると次ぎの領域ですね。
先ず「秋の環境条件」の一番良い時で時間帯は「昼前後」と成ります。

では、”そんな時は秋にあるのかな”と知りたいとして疑問が出ますね。
実はあるんです。その例として、皆さんは次ぎの言葉知っていますか。
”「秋の台風一過の青空」”昔の人は良い言葉を遺してくれていますね。
この言葉は写真だけに対してだけではありませんで多くの事に適応されるのです。
「台風が来た半日ほど経った時かあくる日」です。

台風のよく通る地方の人は知っている筈ですね。
このポイント4域を再現すると、この日がこのYMCとBGRの合流点なのです。抜群の写真が撮れますよ。環境は標準条件に近いでしょう。
ただ、”絶対に秋だけでは”と言う事ではなく、他の季節にもこの様な標準的な環境条件が無いと云うわけでは有りませんね。
このCCカーブの中心点に相当するYMCとBGRの総合的な好条件を再現する環境条件は”秋だけに限って”とする意味合いでは有りません。他の季節にも再現される可能性はあります。少ないと云う事だけですね。

そこで、「時、人、場所」の三要素の内、上記のこの「時の要素」の「季節、時期の問題」だけでの考察では無く、「場所の問題」で観て見ると、この標準条件の好条件に近い場所があるのです。

場所の要素
何れの季節に於いても再現しやすい所が在ります。多くの良い写真はこの場所から撮っていますよ。
其処は山間部の「山」なのです。
「山」は酸素の様な科学的な要素、温度湿度の要素、塵埃の要素、風の要素、光の透過、周囲のYMCとBGRの豊富さ等が際立って良い事が云えます。
これは季節の夏でも、気温を大きく下げる事や風等の要素が働き、秋の環境条件を再現出来るからです。
当然、春も同様ですが、冬だけは除外しなくてはなりません。冬は雪もさることながら、上記した様に白黒の再現域ですので、このポイントの好条件の発見と演出は困難となりますね。
従って、次ぎの様な事に成ります。
「秋の時期」の台風一過の様な天気、
「山間部」の山の様な場所
以上2つが撮影にはこの中心点ポイントの好条件を再現する事に成ります。

この中心域はEdがEsに対してその比率が高くその領域が狭い事を示していますので、ある限られた範囲でしかこの好条件は成立しない事を示しています。

「台風一過」の様な好条件を頭にしっかりと認識して、”さて、今日はどうかな”と空を見上げてCCカーブを思い浮かべてその日の撮影に合った被写体を模索する事が必要ですね。

中心域最右側
次ぎはこの中心点から上記した右側の域を越えての領域でのCCカーブです。
そして、其処から強さEsの変化比率に対して放物線で一挙にBGRの色の濃度Edは急に上昇してBGRの夫々の強さにその差が出てきます。
次第に拡大して行きます。
ある中間位に来ると色として最も際立って明確な色調を示します。
色としての色合いを最も幅広く使えるところでBGRそのものの特長を顕著に出す所です。
其処から放物線は最大点を迎えます。
この点付近からはポイント5の領域の特長を持ちながら、よりその特長の強さを写真性に出し”ドギツイ”と云いますか”過激”と云いますか、余り色として使われない所で自然の「美の感動」を表現するには問題が出てきます。しかし使えない所では有りません。これは何度も云っていますが日本人の話ですね。ヨーロッパ系人種は使えるところです。
日本人と比較すると、彼等はポイント1つ右にズレていると概して云えますね。

更にそのBGRの強さの差違は拡大しながら今度はその放物線は下降を始めます。
この領域は”下降する"と云う所に問題があるのです。
下降するは”Esに対してEdの比率が下がる”と云う事ですから、最高点に較べて”何か濃度が薄らんで来た”と感じるところです。
マア、その様な趣を出す被写体があればこの域のポイントを使う事に成ります。
夕焼けより少し後の”太陽が落ちた頃合”の時間帯となりますかね。
当然、写真にするのであれば、フラッシュを焚く事に成りますよね。
”何か濃度が薄らんで来た”は無関係に成ります。
”夜の線香花火”の写真でしょう。

この範囲では自然美の追求としては黒ずんできますので普通では使える程度では有りません。
黒をバックにして対比的に被写体を浮き出させその色合いを誇張する写真などがあり、夜景のスナップ写真と成ります。
そして、最後はBGRの綜合色の黒と成り、BGRが一線状に無く別々にR>G>Bで拡がっていますので、その黒がBGRのB系の黒、G系の黒、R系の黒となる黒系が出来ます。
R>G>BからR(赤)系の黒が強く出てきます。
G系、B系の黒は”鬱陶しい”と云うか”物寂しい”と云うか”物静か”と云うか基本的には”被写体の目的に応じた黒を選ぶべき”とするべきですが、現実にはR系が好まれるのです。
これが白から黒までに変化する「CCのSカーブ」と呼ばれる変化です。

「3つの要素」(撮影3要素)と「CCカーブ」
これを自然美の追求からすると、次ぎの様に成ります。
「撮影季節」と「撮影時間帯」
「撮影場所」
「撮影被写体」
以上の「撮影3要素」の「3つの要素」です。

このCC理論に当てはめて考えると「自然美に融合した綺麗な良い写真」が撮れる事が出来るのです。
逆に、写真展などで綺麗な写真を判定評価するとしたら。この「3つの要素」と「CCカーブ」が合致しているかの評価をすればよい事に成ります。
写真展や展覧会などで「3つの要素」と「CCカーブ」を下に観た事がありますか。
余り少ないと思います。
そうですね。プロはこの「3つの要素」と「CCカーブ」で観ているのですよ。
この「3つの要素」と「CCカーブ」の視点で観る事でその写真の撮った人の「努力」や「技量」の奥のものも垣間見る事が出来て楽しさや観覧の有意義さが出るのではないでしょうか。
この様に、「3つの要素」と「CCカーブ」が働いていますから、絵画の芸術性と違い写真は「技術の領域」を多く占めている事を物語る事ですね。
本文は故に「芸術写真」を論じていないのです。

ポイントの詳細(ポイントの解説)
それでは、更に深く理解を深める為に、そのポイントのところを更に詳しく考察する事にします。
さて、復習しながら進めますが、そこで、このポイントの”写真に対する効能がどの様に働くか”を解説します。

ポイント1-4
先ず、太陽の光が人間の目に届いた時点のところです。YMCの左側のスタート点と云う所ですね。
この点をポイント1としますと、このポイント1この所が、YMCの完全な綜合光、即ち灼熱の太陽に見る「白」ですから、その白つまり、ポイント1の所です。人間の目に見えうる僅かな色合いを示す限界の所です。
従って、写真には影響の出るポイントと云う事に成ります。
つまり、最も光の領域に近い色合いですよね。BGRも光が物体に衝突した時に発する閃光色と考えられますから、その最初の所と云えます。

最初とは云え、実は無視の出来ない大事な大事なポイント1なのです。
それは”何故なのか”と云う疑問が湧きますね。
太陽のぎらぎらの光が写真に無理だと思うでしょう。目にも見えないくらいの光の領域の白なのですから。ところが、人間に見えない光線が人間社会に働いているからなのです。
つまり、可視光線外に色があると云う事に成りますね。よーく知られている言葉の紫外線、赤外線の境界領域なのです。
特にこのポイント1の場合では、紫外線の働きがあるのです。
写真には、人間の目に見える限界です。
その限界に現れる白を持つ植物や自然現象が多くあるのですよ。
では、それを説明します。
元々BGRも上記した様に光の色のスタート点(ポイント1)からEsが進んだものなのですからね。

先ず、植物では「淡く薄く青じみた光輝く青」とも確認が難しいほどの色合いを示す白の花があります。
当然にこれは自然界には物理的にもあり得る事です。無いとは云えませんね。巾のある自然界ですから。
太陽から可視光線外の紫外線などの光を受け付ける細胞を持ち得るものがあればその限界の白ともいえる色合いを示す事になりますから、自然界にはある事に成ります。
もっと紫外線外の光をも受け付けている植物が在るかも知れません。しかし、如何せん人間の目にはその限界があるからそれを確認出来ないだけの事なのです。
この様に考えれば”なるほど”と納得出来ますね。実は意外にこの世の中には物理的に観るとこの事が多いのです。知られていないだけの事なのです。

自然界でははっきりと観られますよ。先ず「雷」の光を見た事の無い人はいませんよね。又は物と物とが高速で衝突した時に出る閃光も光の領域ですね。
BGRは光の透過量(YMCは衝突閃光)を原理としますが、要は元は振動磁波と浮遊物質との衝突ですね。その時に出る閃光ですからね。雷の光の色も原理は同じですね。他にも沢山あります。

最近ではプラズマ光線、レザー光線など良く知られるように成りましたが、あれは太陽で起こっている核爆発の光に近いケルビンを持っていて太陽で起こっている光そのものでもあり、小さい太陽そのものの光線ですね。
普通には鉄等の鉱物を溶断する時等に使う建築現場の酸素と窒素の溶断バーナーなどの火炎が身近に在りますよ。火炎は光りですから
水晶の結晶に超高速の高周波を通すと起こるレーザー光線などは明らかに青色がはっきりと見えますよね。レーザー光線は目でも飛んでいる光の色ははっきりと青として観えますね。

プラズマ光線ははっきりとやや赤味を帯びた感じがしますし、酸素バーナーなどはやや黄色味を帯びた色をしています。
この様に例でもわかる様にこれらの光に「色合い」を持っていますね、確かに。これがYMCのスタート点のポイント1の所です。つまり、YMCは光の領域の色合いですね。
そうすると、もうそのものから考えると、YMCは光又は色の基に成っていることが判りますから、この「光の色」(YMC)が無くては全ての色合いは成り立たない事は判りますよね。
太陽が色の根源なのですから当然ですね。
では、この光と云うか色と云うか「YMC」の融合色には3つのものがある事も判ります。
Y傾向の閃光、
M傾向の閃光、
C傾向の閃光
と云う事に成ります。

この白の色合いが完全に融合した所が白ですから、しかし、このエネルギーを分析すると本来理論的なところでは「一つの白」と成る筈ですね。
ところが、光は鉱物の核爆発の振動磁波でしたね。そうすると、鉱物には人間の指紋と同じく特長を持っていますから、当然にその持つエネルギー(E)も違う事が考えられます。
この地球上の「鉱物の周期律表」と云うものを習いましたね、あれは言い換えればエネルギーの違い差ですから、その差がズレとなって出てくるのです。YMCの3つの形で。
ですから、ご存知の上記した閃光をよーく観ると、Y系、M系、C系の白の光の色合いを示すのです。そして、そのレベルは高い順にY>M>Cと成ります。エネルギー的には一つに成っていないのです。但し、メーカーに依ってはEdがYとMが接近か或いは同等である様に編集している場合があります。これは人はM傾向を一般的に持っているからなのです。当然に日本人ですが。

つまり、その閃光の基の鉱物はNa>K>PorBs=Y>M>Cと成ります。
そこで、理解を深めてもらう為にC(シアン)の例をもう一つ挙げます。
昔の人から墓所で「火の玉」「人玉」を観たと聞いた事があるでしょう。これは現実なのです。
これは夏場に虫や生物が死んだ時に出る肉質の根源のP(リン)が静電気の現象(「スキンエフェクト」と云う現象)で引っ張られツルツルとした冷たい墓石の角にイオンの形で集まり、塊となるとそしてそれが空気の酸素と反応して酸化して燃え軽くなった塊が石から飛び出した現象なのです。
昔は人は土葬でしたからね。
余談はさて置きこの(P)が燃えた色合いがシアン色を発光するのです。

Y(イエロ)のNa(ナトリウム)は夜の道路やトンネルの外灯です。ランプガラス管の中でNaガスイオンに放電管から出た電子が衝突してYの閃光を発しているのです。これも太陽からの飛んできた振動磁波が障害物に衝突して閃光を発した光の色と同じ事ですね。それがガラス管の中で起させているのです。

M(マゼンタ)のK(カリウム)は料理の時に塩が鍋からこぼれてコンロの火に当り燃えた時の色です。このマゼンタの光の色合いが自然界では多いのですがよく認識されていない為に気が付いていないのです。そして、このマゼンタが中間色としてBGRの色に融合していないと写真では納得しない色合いなのです。勿論、前提は日本人ですが。
赤い夕焼けなどもよーく観るとマゼンタの場合が多いのです。
秋の紅葉を赤と観ていますが、あれもマゼンタのものもあるのです。
このマゼンタは最も多いのですが、赤に間違われやすい色合いだからです。
これはマゼンタのEd(濃度)が高くなった領域ポイント3-4のマゼンタを観ている事なのです。
中には、人間の肌色やピンク色を「マゼンタ」では無く「赤」として観ている傾向があるのです。
ピンク色はマゼンタのポイント3域付近の色合いですね。人間の肌色はポイント2域付近と成るでしょう。
プリントする際に補正を要求する傾向の強いのはこのマゼンタの色合いが多くこの認識の違いから来ているのです。
極端な人では、道路のアスファルトは黒か黒系統の灰色と普通は観ているでしょうが、違うのです。マゼンタ傾向のアスファルトと認識している人が日本人に実に多いのです。
決して色盲ではありません。印象記憶がその様に思い込まれて記憶しているだけなのです。

この様に印象記憶になるほどにYMCは身近にある光或いは燃えた時の光の色として多く存在しています。ですから、念の為に聞きなれない光の領域の色合い「YMC」を確認して覚えてください。
これ等は全て「YMC」=「光から出る色合い」ですね。

さて、これでその原理は判ったとして、次ぎは、この「3つの光、YMC」の色はそのエネルギーの僅かな差でほぼ平行移動して変化して行きますが、写真撮影ではどの様に働くのかが問題です。

色を左右させる根幹のものですから、人間の目には色では無い色ですから、光とBGRの色との中間ですから、このの融合色は「中間色」(専門用語でハーフトーン)と云う事に成りますね。
例えば、YMCの融合色のピンク色などが中間色です。要するに肌色の様な感じの特長を持った色合い等です。中には中間色でもEd(濃度)の濃いBGRと見間違える中間色もありますよ。
ポイント4域手前と、ポイント3域付近では慣れていないと見間違えます。
この共通する感覚としては次ぎの様に覚えてください。
「YMC」=「淡く薄い光輝く色合い」
以上の共通する特長を持っています。

それを覚えるには上記した説明です。
「YMC」=「閃光色」です。

そこで、上記した「閃光」の色合いを少し濃くした色として思い起こしてください。
そのYMCのマゼンタ傾向の強い「融合色」のピンク色はプラズマ光線の色合いを濃くした色がこの中間色です。

このポイント1の部位域での色合いの濃度、つまり、エネルギーの量Edを上げて行くとその中間色は濃くなって行きます。そして、その領域(量域)がポイント3まで続く事に成ります。
ここまでは「中間色域」で「光の色合い域」と云うべき所です。
厳密にはポイント4域までが論理的な域ですが、このポイント3からポイント4域は中間色とは云え特長をやや異にして来ます。
当然、写真性でも同じくその効能と云うか特長として出て来るものが異にしますので、ポイント3とされるのです。
兎も角も、ポイント3域まではポイント1からのスタートのYMCのEd、Esの差違は狭まりながらもやや濃度Edを上げながらもほぼ平行に推移します。この域を「中間色」(YMC)なのです。
「YMC」=中間色

余り変化の無いという事は光の色としてである為に単独(単属)では「安定している」と云えるのです。従って、ポイント1に対してポイント2までの域は強さEsと濃度Edに対する判定能力はやや出来る程度(0.5)である為に写真性に大きく差が出て来る領域では有りません。
その「安定性」の面ではポイント4より右のBGRの障害物に依って変わる色に比較して「安定」な特長を示す領域です。

ポイント1域は「極めて淡い薄い色合い」で光輝く「光の色合い」程度で、自然の中では探せば見つけることが出来る程度の色合いです。
ポイント2域では「淡い薄い色合い」で自然色の中に多く観られる色合いとなり人間の印象記憶の始まり程度の「光の色合い」です
ポイント3域では「淡く薄い色合い」では人間の判定能力から色BGRの濃度の薄い色合いと見間違える人が出て来る色合いです。印象記録は誰でもが共通の色合いを示します。
しかし、未だこの域は光輝く特質は持っています。自然の中には大変多い色合いです。
淡い透き通るような花の多くはこの域のものが多いのです。

撮影では、条件さえ整えば「安定」して表現出来る色合いであると云う事ですので、この3つの目で観た情景を的確に捉えて。撮影に反映させればよい事に成ります。
その反映とは上記した
「撮影季節」と「撮影時間帯」
「撮影場所」
「撮影被写体」
以上の「撮影3要素」の「3つの要素」でこれを検討すればよいことに成ります。
この逆の事も「撮影3要素」で「情景」を探せば良い事に成ります。

まとめますと次ぎの様に成ります。
撮影要領=「撮影3要素」><「自然の情景」

その安定域はポイント4或いは3まで続く事に成りますので撮影には好条件です。
かなりの”環境条件にも左右され難い色合い”という事に成ります。
但し、上記したBGRのフェリヤー(補色反応)が働かないとい云う前提です。

ですから、このピンクの色の花の群れがあるとして、それを被写体としてアングルの6割以上(科学的な論理的根拠あり下記に記述する)の中に入れると、目で観た色としての感覚は保たれると云う事に成ります。
この事からすると、写真技術としては、そのピンクの色合いだけでも「安定して且つ感覚が保たれる」だけでも、「アングルや周囲の景色」の如何を問わずそれはもう綺麗な写真と成ります。
更には、光の色YMCは光が衝突して発光したのがBGRですから、この理論からすると、このBGRの色を持つものの根底にはこの中間色YMCが含むことを意味しますから、撮影にはこのYMCをより多く出す工夫をする事が秘訣と成りますね。
そうすれば、YMCのBGRに対する効能として「くすみ、澱み、濁りの無い色合い」を引き出す事が出来るのです。

よって、論理的には「YMCの中間色」は、ポイント1からポイント4までの中間色域と、BGRのポイント6までの域まで(このYMCは色合いとして)働いていることに成ります。

前はポイント3域までは「直接的な影響」です。
後ろポイント6域までは「間接的な影響」と云えます。

当然に、このYMCは直接、間接で「自然美の綺麗さ」を表現出来る最高の色合いである訳です。
更に言い換えると、このポイント3域までのところで撮影をする事が秘訣です。
最高撮影域=ポイント3域

では”どうしたらその様に出来るか”ですね。
何度も云っていますが、「自然環境」です。撮影の「環境条件」です。
振動磁波が地球の障害物に衝突した時に発する「閃光色」ですから、「障害物」つまりは論理的に地球の「環境条件」と成りますね。
光の色のYMCは光の状態に左右される事に成りますからね。地球上でこの「光の状態」を変えるのは「自然環境」以外には有りません。太陽から飛んできている訳ですからね。それが地球の障害物に衝突しているのですから。その障害物は自然そのものですね。

障害物=自然環境
その光を左右させる自然条件は上記で述べた様に、温度、酸素、風、湿度、塵、埃、朝昼、紫外線量、赤外線と影域等に成る訳ですから「被写体に合わせた良い条件」を選べばよい事に成ります。

更に、シビヤーにするとすれば、上記した様にYMC(中間色)の場合は次ぎの要領です。
光の強さのガンガンのポイント1域なのか、
量的な領域のポイント3域なのか、
その中間のポイント2域を使うか
以上3つに拠ります。

これ等は日本では、季節、時期の選択と成ります。
環境の広域変化の四季を使うか、
狭域の一日の変化を使うか
この2つによる事に成りますね。
光の色合いYMCですからね。

例えば、ガンガンのポイント1域では真夏を使えばよいでしょう
ポイント3域では秋冬間を使えばよい事に成ります。
ポイント2域では晩秋か春盛を使うことで表現出来るでしょう。

狭域では、朝の光(3つもあります)のポイント1域、
11-15時の昼の2つの光のポイント2域、
夕暮れの16-18時の夕焼けが起こらない手前のポイント3域
を使うとなるでしょう。
復習
「朝日の3光(6-9)と時間帯(5-6)(7-8)(9-10)、(10-12)」
「昼の3つの時間帯(12-14)(14-16)(16-18)(18-19)」

(0-5)(19-24)は黒の特殊な領域です。
(0-5)の領域の黒と(19-24)の領域の黒とでは黒の傾向は異なります。

これだけでも、良い写真を撮る事は出来るでしょうが、上記した幾つかの環境条件を駆使する事でも更に短期に撮影できる事に成ります。

温度の心得
先ず、温度ですが、
一季節の温度、
月単位の温度、
週単位の温度、
一日の温度の「温度の高低」
以上でも大きく変わります。

特にこの温度の要素は、湿度、乾燥、空気の移動、酸素量などの変化が起こします。
これは光の透過量を大きく左右させます。又、花などでは植物にも変化を与えますし、そもそもその色合いにも微妙に変化が起こります。

酸素の心得
酸素は意外に認識は無いでしょうが大変に影響があるのです。
酸素量はその周囲の温度を2度以上に下げる能力を強く持っています。
風は温度を2度程度下げます。もとより、塵埃類を飛ばします。

湿度は推して知るべしで空気中の水分量が光の透過を左右させます。
後はこれも推して知るべしで被写体に合わせて選ぶべきですね。

これら一度に全部の条件選択とはいかないでしょうから、その被写体に合わせたより多くの条件を選択して撮影する工夫が必要でしょう。

撮影前の心得
写真撮影は撮影前のこれを考え設計するのも又楽しみの一つとすべきです。これがこのCC理論をマ
スターする秘訣ですね。
設計する楽しみ
当然に撮影時の楽しみ、
撮影後の設計の検証考察の楽しみ
この3つだと思います。

言わずもがな、この「3つの楽しみ」が、上記した「写真技術の習得」と「その腕前」を上げる基となるでしょう。
一度には覚えられない理論に苦手な人も居られるでしょうから、何度も読み返しながらも訓練と経験を通して得られるものです。慌てる事は有りません。

条件のマスター
誰でもが通る方法は、写真撮影ではこの理論を一つづつマスターしながら多くを覚え、遂にはいくつもの条件を瞬時に配慮した撮影の成功に繋がるのです。その時の喜びは飛び上がらんばかりです。
実は、筆者も撮影の際には出来るだけ前もって設計し、それを現場である程度の範囲で瞬時に条件を考え出し、それを再現する努力をします。どちらかと云うと設計が楽しみなのです。
これはボケ防止によい様に幸いにも働いていていまだ忘れぽくなると云う事が少ない様に思いますね。何をか況やこれは父親が手本です。

さて、余談が過ぎましたが、”YMCの光が色を発する?”はこの以上の理屈から来ているのです。そして、それがBGRの色域のところまでその影響力を伸ばしているのです。

この「中間色」には色々と理論が多くありましたね。
ここら辺で一休みして又別の日でも読みますかな。
しかし、説明は続けます。

次ぎはポイント4域ですね。
中間色YMCのポイント1-3の説明はこの程度として、次ぎは大事な色の3原色のBGRの色への入り口です。
「光の色YMC」から「BGRの色」へと入るには、エネルギーEを持っていますからある変化が必要ですね。
この世の何でもそうですが、その脱皮には莫大なエネルギーEが必要です。物理学でもこの点のところには言葉が付いているくらいです。降伏点とか変態点とか分岐点とか分離点などの言葉がありますが、この色の理論では「K18ポイント」(K18)と呼ばれています。
そして、このEの「変換点」には全てのものに云える事ですが、その変化にエネルギーの加速度が起こり軌道を一時「ズレ」を起す現象が伴ないます。これを通称他の物質(水等の液体)ではス-パーヒーティング(加熱時)とかス-パークーリング(冷却時)と呼ばれています。
要するに過熱現象、過冷現象(通称ラップ現象)などの言葉が付いています。(スーパー:過)

YMCの過色現象
YMCからBGRへのこの「脱皮点」の「K18」付近では全てのEが集中しています。光が色に変化する時にも全ての物質に起こるようにこの様な「変位現象」が起こるのですね。
普通の理屈なら集中しなくてもそのままで変化しても良い筈ですね。
しかし、例外なくCCの理論のカーブでも集中現象が起こっているのです。
集中してEを蓄え「変位現象」が起こっているのです。明らかに脱皮現象ですね。
そして、そのカープが双曲線から放物線へと一挙に変化します。
物理学ではE的に観ると、この地球上の全ての物質の「変位現象」はこの「ラップ現象」と「BGRの集中現象」が起こる事に依って成立していると成ります。
そうするとCCカーブでは「集中現象」は再現されて起こっていますので、過色現象(ラップ現象)も当然にある筈です。

そこで、多分、自然摂理からこの変曲点ではこのスーパー現象(過色現象)が起こっている筈です。
つまり、どう言う事かと云うと、K18の直ぐ右側でYMCの現象も一定の領域で平行して起こっていると云う事です。本来なら理論的にはYMCはBGRの根幹要素として働く事に成ります。
しかし、このK18右側一部領域では根幹要素ではなく左側の「YMC効能」をも示す筈だと云う事に成ります。
ですから、K18の所での撮影が最も綺麗に撮れるポイントだと成るのです。
それ相当には、K18の左右のCCカーブの集中領域では綺麗に撮れる領域ですが、文句なしの完全に綺麗に撮れると成れば、理論的には、K18のその一点の領域だけと成りますね。
そんな芸当は現実に困難ですよね。しかし、テストでは確認すると現実に多少ずれても可能なのです。
最高の撮影ポイント領域だとする事はこのYMCの「過色現象」が起こっている事に成ります。
CCテストでは現計測器ではCCカーブのこの「過色現象」を取り出す事(この色としての再現)は無理だと言う事に成ります。水などははっきりと大きく長く出て来ますよ。
「YMCの過色現象」がBGRの領域にあると云う事は綺麗に撮れる領域である事の証明なのです。
当然ですよね、綺麗に撮れるYMCのポイント3の領域とBGRの領域の二つを持ち合わせるのですからね。文句なしですね。
そこで、では撮影に際してどのような時かと云う事に成りますね。なかなか難しいですが。
YMCの濃度Edが急に3-4倍に成っていますから、その事から考えると
BGRの色が情景に観られる所で、且つ、その濃度が「YMCの淡くて薄い色合いを持つ濃度」よりはっきりと数倍の濃度に成った所ですので、BGRの色合いの情景が着いた領域で、時間帯で云えば季節にも依りますが、平均して昼前ごろですね。
カンカン照りのEsEdの強い15時以降の時間帯では無い事ははっきりしていますが、季節では春の桜の咲くころ前後かなとも思います。この時期に「目で観た自然美」の「完璧な色合いの写真」が撮れる事に成りますね。これは基本的には経験で体得して頂く事に成りますが。

先ず、桜が綺麗に取れるのは桜の花の色合いをお考え下さい。
主にYMCの中間色のピンク系でEdが少し進んだところですね。桜の花がピンク色であるからだけでは無く、このK18の直ぐ右側の過色現象が働いている所も大きく左右しているのです。
写真館にこの桜の時間帯に分けた写真の3枚組写真を添付していますが、この時間帯を過ぎるとフェリヤーが働いて色合いが変化していますが、時間帯の早い桜の写真は自然の色合いを示しています。
(写真館にはこのCCカーブの各ポイントでの例題写真を展示していますのでご覧下さい)

さて、少し難しく成りましたが、そこで、これを覚える事のためにも、もう一度K18の意味合いが深いので復習を兼ねてこれに付いて考えて見ます。

各メーカーで独自の分岐点を持っていますが、これでは国際的な統一が出来ません。そこでこの微妙な点を何処の国のどの分類方式のものにするかが新理論を確立する上でも何れの時も問題に成ります。
この際は一番進んでいる2つの国の日本のポイントとするか、米国のポイントとするかに成りました。結局、この理論化の発祥元の米国のものとする事に成りました。
それを確立したメーカーのコダック社のものを使うことになったのです。
その為に、Kを使いました。そしてその分岐点の階層分類の内の18番目のものを使うと云う事に成りました。
それが、この「K18」ポイントと成ります。カーブではポイント4に当ります。
「K18グレー」と呼びます。
そうなんです。このK18は光の色のYMCとBGRの中心で、K18のグレーより左側は薄くなるグレーで中間色の色合いです。ポイント3付近半ばから起こる極めて薄い色合いのグレーです。
右側のグレーはBGRの色のグレーと理論的には云えます。
「左の中間色のグレー」か「右の色のグレー」かの判別は上記した「淡く薄い光輝く色合い」で判別が出来ます。慣れるとそう難しくは有りません。
その為に、色に変化するためのカーブの傾きが最も高く成っています。
つまり、この事は「量と質の変化」のEが同率で比例的に起こる事が示されています。
「中間色」には「YMCの色合い」以外に、この「グレー系統の中間色」があるのです。
綺麗なグレーですね。
この左側の中間色のグレー色の領域での撮影では、「色合い」の表現では、大変難しい作業と判断が伴なうことが論理的に云えます。難所である事が云えます。
それは次ぎの「質と量」の変化が原因しています。

「質と量」のE
K18での「質と量」のEが急激に同率で変化するのですから、その領域は小さい事が云えますので色合いの表現は難しいのです。
逆に、その色を表現出来たとすると、その写真は抜群の出来栄えと成る事を意味します。
被写体に中間色の薄い淡い輝くようなくすみの無いグレーがあるとすると、上記のYMCの撮影の環境条件が限定されてくる事に成ります。
逆に云うと、このグレーを背景にすると前に来る色合いはYMCとBGRの中間付近にある訳ですから最も補色関係の差が有りませんので、フェリヤーが働き難い領域と成ります。
そうすれば、我々素人範囲ではそのタイミングを取る事が難しいですし、この自然美が自然界に少ないことが考えられます。主にはプロが撮影するスタジオなどで再現できる環境条件です。
ですから、身近では祝時等でスタジオ撮る写真には後ろにグレーの背景の膜を張り撮影しますね。あれはこの原理から来ているのです。
プロが撮る商業写真などをよーく観てください。この域の中間色域のものを選んでいます。
難しいですがその環境条件を再現できれば出栄えは抜群で誰でもクレームをつける事が出来ない綺麗な写真が撮れる事が出来るからです。
当然に上記したフェリャーや紫外線の影響などの問題は起こりません。この過色現象とK18の左ですから周囲にBGRの色を使っても印象記憶の差違も出ません。
ですから、環境条件を再現出来る様に計器が多く存在するスタジオなのです。

商業写真の被写体の目的にも拠りますが、次ぎの領域を使う事に成ります。
第一には「K18の左側」=「ポイント4の左側50%付近まで」
第ニには「K18の右側」=「ポイント4の右側15%の過色現象領域まで」
第三には「K18の右側」=「ポイント5の左側50%付近まで」
成ります。

ポイント4の右域(50%以上)は既にYMCの領域では有りませんから、BGRの単一色の欠点を補う間接的なYMCの影響と成り、商業ベースでも綺麗な写真とはなり難いのがこの域です。
しかし、それを敢えて撮影に出すという技法も有り得ます。最近は美以外に人を引き付ける目的で、強い「個性出し」とか恣意的な「意外性」を出す為、又は「芸術性」を出す為に用いられる事が多いのではと考えますが。ここではその域であるとして知る事で充分ですから対象外とします。

このポイント4域の左右は撮影の良い環境ですが、変化し障害の多い自然界にはそのタイミングを捉える事には少し難しさを感じます。
先ずはこの中心点をK18と覚えてください。色合いを文章で表現するのは困難ですので、専門書等で「K18」でお調べに成ってください。

そこで、現実には更に突っ込んで、撮影では被写体が「YMC」と「BGR」のどちらの比率が高いかの問題が出ます。それを解決する事が必要ですね。
それは、被写体の中心に置くものがどちらの領域のものであるか判別する問題です。
下記にそれを解説する理論がありますので、そこでより詳しく理解してください。
答えは撮りたいものを、画面の中心を原点として、その領域の「60%の範囲」の何れかに置く事で解決します。
つまり、その「60%」の中にある被写体に合わせて、YMC、BGRのポイント5まで左の域ですので、「YMCの環境条件」を考えて撮影する事に成ります。
YMCの条件下にして被写体を60%以内に抑える事です。(60%の根拠は後述する)
そうする事で「自然美のある綺麗な写真」が撮れる事に成るのです。


次ぎは後編です。
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