青木[アオキ] 名字 苗字 家系 家紋 ルーツ 由来

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「毘沙門天の影響 2」


No.323] Re:「青木氏の伝統 6」-「毘沙門天の影響 2」
投稿者:福管理人 投稿日:2014/09/26(Fri) 09:22:05


> 前回の末尾

>因みに、その盛大さは、「超大地主」であったことから、奈良や紀州や伊勢の各地の農民等の代表者等が泊りがけで集まったと伝えられている。
>その為の宿泊の準備では、「菩提寺と関係寺の解放」、「各地神明社の解放」と「全ての居宅や旅館」を確保したとされる。
>「土産物」「引き出物」などは、地元の家々の分も大八車に載せて列を組んで運んだと聞かされている。
>明治35年以降は、「端午、雛の節会」は、形式的に終わらせ、「盆彼岸の節会」は普通に内家で行った。
>現在は、「盆彼岸の節会」「暮正の節会」は「毘沙門天荒神節会」と合わせて家内で形式的に消えない範囲で行っている程度である。実際のところ”文書に遺せる範囲の維持”と成っている。




> 伝統-6


・「注釈6」
ヘに付いて、「仏壇の作法」は「密教作法」に関わっている。
ただ、現在は「密教浄土宗」は何処にも無く、伊勢菩提寺も知恩院系の顕教と成っている。
(江戸期の禁止令)
従って、「密教部分」は、「青木氏」に伝えられている「密教作法」のみと成っている模様である。
「青木氏」には、これに「三宝荒神信仰」と「毘沙門天信仰」の部分の「伝承範囲」が習合と成っている。
ただ、「仏壇祭祀の飾り立て」は、他の浄土宗の祭祀とは違っていて盛大と云えば盛大である。
(筆者が他の葬儀に参列した時の作法でその違い差が出て来る)
「仏壇供え物」は、専用の高瓶盆、専用の器類、専用の机、専用の台、専用の経机、・・等、古来からの「武家の慣習」に従った「歴史的な専用の物」に備えて祭る。
全て、「漆金」と「漆朱」を中心としてと一部「漆黒」で出来ている。
これを仏壇前の一畳の中に治めて先ず供る。
例えば、盆類は、公家は低盆で庇は少ないし漆黒であるが、「武家」は高く庇は大きく朱色である。
盆以外にも「武家」の専用具には全て象徴紋が大きく金色で書き込まれている。

「密教」の「両界曼荼羅絵」を仏壇の左右壁に並べて下げる。(古来慣習 下記)
「釈迦天女像」が仏壇上正面壁に飾られる。(古来慣習 下記)
「青木氏の三象徴物」の「笹竜胆紋」「神木のあおきの絵」が仏間正面に掲げられる。(古来慣習)
本来、「大日如来坐像」と「毘沙門天像」が、仏壇の左側の間に、仏壇と同じ作法で鎮座して別に祀られていた。

(ところが、ある時期から、盗難の危険が迫った事と成った事から、現在は、或ところに依頼して別に祭祀している。毘沙門天像は消失)
それに代わって、左間側に「大日如来坐像絵」と「毘沙門天像絵」が祀られている。(古来慣習)
ここに、節会の毎の像・器・具(義経ー弁慶像 雛人形、・・・)が飾られる。
(筆者は、大変なので始めから隣の一つの部屋に「飾り部屋」としてこれらを飾っている。)
祭祀の間は、左右に二畳ずつの間、その二つの前には六畳仏間があり、合わせて十畳の間と成っている。ここの仏間の両脇に「廻り灯篭」の一対の「行燈」と、「武家・侍」としての「印」の「密教の三昧耶形」が飾られる経机を設置する。

「達親の論文」でも論じたが、仏壇の内容には「細かい作法」で「密教性」が出ている。
「線香、蝋燭の用い方」、「木魚・鐘鈴の用い方」、「座り方」、「仏壇御簾の使い方」等が、「浄土宗作法」と違っている。「密教性」が出ている。
確かに、「違い差」がある事が、「月節会」の知恩院系住職との会話から判った事であるが、「密教性」と云うよりは、「古代性」である様である。
典型的な違いのあった例事は、「座り方」であった。全てこの考え方に尽きる。
男性は「胡坐」、女性は「立膝座り」である。(室町期ー江戸期の武士の座り方作法である。)
「月節会」では、住職の後ろには座らず左右に別れて座る。(中央は「仏の道」との考え方にある。)
家長と姑 嫡男と嫁は左側、その他は右側に座る。
この様に上記の違い差は全て「古代仏教の仕来り」に習っている作法が遺されている。
これは、古来より「三宝荒神信仰と毘沙門信仰」の「古い信仰体の作法」が引き継がれて祭祀して来ていた事が、これが「作法の違い差」に成って出ている事に成る。
つまりは、「古来作法」が介在していた為に ”俗化されなかった事”に成る。
この「古い信仰体の作法」がある事が、千三百年以上の長い間、「新しい信仰体」の作法が入る余地は無かった事に成る。
これは当然の事でもある。”先祖との会する場”の「密教概念」が、実際にはもっと遺されていたのではと考えられる。
「江戸期の密教が禁令」と成る前の室町期前には、当たり前の形で遺っていたと観ている。
例えば、
「仏の道」「仏の座」を作る事     「道座」
「仏壇の開閉」はせず「御簾」を使う事 「御簾」
「住職」は「専用の椅子」に座る事   「椅座」

(「道座」は仏教にもあるが、「神道」にも”神が通る道”と云うものがあって、「本殿に通ずる参道」なる道がある。つまり、”「憚られる道」と云う概念”が「神道」にもある。)

以上等は、「道座作法」「御簾作法」「椅座作法」と呼ばれる。
その部屋に仏が通る道を設けたり座る場所を設けたり、仏壇を開閉せずに仏が居るので神道で使う御簾を設けて常に仏壇を開けて置いたり、住職が座る椅子を準備して仏が動座して和する様にしたりする所作は、これらは、当に、そこに ”仏が居る”とする前提にある所作である。
奈良期の頃は板の間であって、上級階級の「生活の場」や「政治の場」や「祭祀儀式の場」では、人が集まって輪座する時は、「床几」と呼ばれる椅子の様なものを使った。
「神道」では、現在でも ”「神が坐処」”としてこの「三つの所作」が遺されているが、「御簾」と「椅座」は、「神道」のみならず「天皇家の儀式」にもはっきりと遺されている。
然りながら、現在の仏教に遺されていないで、「神道」等の所作に遺されている事は、それは元は、古来の「和魂荒魂の宗教」(自然神)の「仕来り所作」から来ている事を示すものである。
つまり ”先祖との会する場”と云う事で生まれた作法である。
これらは、江戸期の禁令に対して「明確な排他的密教作法」とする前提に無い事から、 ”他に弊害が無い”として遺された作法であろう。

参考
古来の宗教の「邪馬台国の卑弥呼」の「自然神の占術」は、祈祷する事に依って、この”先祖との会する場””神・仏が居る”を作り出し、その”先祖の知恵と経験”を聞き出して、”神のお告げ”として「占い」をした事を意味する。


”先祖との会する場””仏が居る”の「密教概念」に付いて、上記の様に、追求すると「古来宗教の仕来り所作」が基本になっているのである。
仏教伝来後に「密教概念の作法」に成っていた事には間違いはないが、ただ、注釈3の「伝家作法」、注釈4の「賜姓五役」、注釈5の「白幔幕、青幔幕」、本注釈6の「道座」「御簾」「椅座」等は、全て「神道の所作」に通ずる事であって、必ずしも「密教仏教作法」だけではない。
多くは「神道の所作」が「密教仏教作法」の中に組み込まれたものとして一体化したものである。
それだけに、「古来仏教の勢い」が「古来神道の勢い」(和魂・荒魂)より大きかったことを物語る。

これらの「一部の所作」が、現在の「神道の祭祀」や「天皇家の儀式」の中に観られる所作ではあるが、”「個人としての伝承」”では、奈良期からの「賜姓族の青木氏」だけであった。
これは「賜姓五役の所以」であった。
つまり、注釈2の古来宗教の「和魂 荒魂」から来た所作であって、これが「神仏習合の所作」である。従って、”「古来の宗教所作」の伝承”と云えるのである。
言い換えれば、当に、”「三宝荒神信仰と毘沙門信仰」の合体”が、「青木氏の所作」と云える。

・「注釈7」
トに付いて、”「三昧耶形」”として祀られているが、つまり、密教の「三宝荒神信仰」と「毘沙門天信仰」に使われる仏具と云う事である。
筆者には、この”「三昧耶形」として祀る事”は ”少し変だ”と観ている。
何故ならば、確かに「二つの信仰体の仏具」である事は事実ではあるが、それならば、敢えて”改めて何故祀るのか”疑問がある。

「三昧耶形」を指し示す事は「密教」であり、「賜姓族」で「武家」である事の証である。
しかし、それならば何も「三昧耶形」の仏具でなくても証明は出来ている。
取り分けに「仏具」をわざわざ誇示する必要は無い筈である。
筆者は、この「三昧耶形の仏具」は、「毘沙門天像」が「明治の出火」で消失したが、この「毘沙門天像」が燃えた後に遺された「鉄製の装飾品」、つまり、像に飾られていた「三昧耶形」の「装飾仏具」であったと観ている。
何故ならば、古来にこれらが作られた時に鉄製であった事から、錆びない様に”黒染め”と云う処理を施していた。
他の古い仏像の金具には必ずこの”黒染め処理”が施されていて、既に、この技術は大化期の初期の古来からあった。
それは「後漢」からの「職能集団の鍛治部」が持ち込んだ技術である。  

つまり、鉄を350度くらいで熱すると、表面が空気と触れて酸化する。
この酸化は、錆びの酸化とは異なり、錆びない酸化膜なのである。
鉄には、温度を上げて行くと4段階で4種類の酸化膜が出来る。
第2段階のこの酸化膜はその中を拡大すると、空気が入り込めないほどに緻密に成っていて逆に錆びなくなるのである。

「毘沙門天像」が燻り燃えた時、この鉄の仏具もある程度の温度になり、黒染めに成っている処に、更に黒染めが働いて更に強く成って錆びなかった。この為に遺されたのである。
つまり、明治35年消失の「毘沙門天像の遺品」と云う事に成る。
これが”錆びない”とすると、この「毘沙門天像」は、「青木氏の発祥期647年頃」のものである事に成る。

つまり、天智天皇から命じられて「大日如来坐像のお仏像様」を作った「司馬達等」かその孫の「鞍作部止利」の仏師の作と成る。
そこで、この「三昧耶形の仏具装飾品」の大きさから像の大きさを算出した。
その結果、菩提寺から室町期末期に居宅に運び込まれたとされていることから、一間以下であった筈で、台座を入れて室内で祭祀するには、1500Cm以下であった筈である。
「金剛棒の長さ」からみて、宝棒や宝塔等の大きさから、台座の高さを少なくとも30Cmとすると、像は1200Cmと成る。
金剛棒(1000Cm程度)が、これを超えない範囲で製作されている筈であるから、「毘沙門天像」は1200Cm程度であった事に成り、この像のものであった事が判る。
他の「三昧耶形」もこのサイズに対して一致する。
「像木」が管理された環境の中に無いにも関わらず、ここまで朽ちないで遺っていた事から、「楠の巨木」からの像であった観ている。別の三昧耶形の仏具の中に鉄製では無い「木製仏具」は「楠製」で出来ていて黒光りしている。

これらの仏具は、「毘沙門天像」に付随する「三昧耶形」として整えられたものであろう。
一つは50Cm位の「大蛙の彫り物」(現存)、二つ目は12Cm程度の太さで65Cm程度の「釈迦立像」(現存)も楠で彫られている。

(古来には「大蛙」は「神仏の使い」として扱われていた。この事から「毘沙門天像」の「三昧耶形の仏具」として扱われていた可能性が高い。)

この「釈迦立像」(下記)は、口伝では元々から菩提寺では無く居宅に安置されていた仏像であったらしい。
室町期の大火で「大日如来坐像」と「毘沙門天像」が居宅に安置されてから、この「釈迦立像」とはどの様な形で安置し祭祀されていたかは不明である。(下記)
明らかに、容像は、「浄土宗仏像」形式で、「天上天下唯我独尊」の構えの像である。
この容像から観て、この崇拝偶像は、「本仏壇(平安中期頃の持仏堂型仏壇形式)」の前に用いられていた仏間で中央に祭祀されていた「本尊の仏像」の一つではないかと考えられる。
この「釈迦立像」は、元々何かの台座の上に据えられていた事が像の底の形から判る。
「雲の形」をした台座の上に据えられていたらしいが、この「台座」は、端部が朽ちていて中央は角型に抜けている。サイズバランスからして適切なものである。
しかし、楠の材質では無く檜で、楠の様な樹液による”黒くすみ”は無く赤白い。
推定だが、この台座の上に金糸絹布が載せられていた可能性がある。
現在は大花瓶の台座に成っている。

お恐らくは、この事は、奈良期の「大日如来坐像」と「毘沙門天像(三宝荒神信仰)」への「偶像への祭祀」と、「先祖を祭祀する仏壇」の「偶像の祭祀(釈迦立像)」とは、「別の信仰体」として祭祀されていた事を意味する。(奈良期から室町期末期での祭祀は異なっていた。下記)
「賜姓五役」を達成し維持出来る様にする為の祭祀と、「先祖への祭祀」とは概念として区別して祭祀していた事に成る。

そもそも、「毘沙門天像」は、足元に多くの「三昧耶形の仏具」が多く添えられている仏具で有名で、その足元には、鬼を踏みつける容像等、足元にその特徴があって、その密教に依っても異なる。
「青木氏の毘沙門天像」は、「鬼相台座」の横に、「神仏の使い」として「大蛙」を引き連れた容像であった事に成る。
この事は、「青木氏の密教」の概念を物語る。
その概念とは次の様に成る。

「青木氏の密教概念」
古来宗教の「和魂荒魂」から、「荒魂の荒神」の「悪神」として時には荒れると見做されていた「鬼」を、「毘沙門天」は足で押し潰し、「悪」を祓い守護される。

(「鬼」は、この時期、未だ「悪」とは必ずしも考えられておらず、「神の使い」としての扱いであった。ただ、「神の使い」として、時には、奢り、豊満、怠惰、強情、遍情等の「戒め」の為に「世」を懲らしめるとしたが、人間の勝手な理屈で嫌われた。
9世紀半頃の何時しか鬼は「悪神」と成った。下記の「方相氏」の論を参照)

「和魂の和神」の「仏神の使い」としての「大蛙」に依って「和魂」の「大日如来」の「ご利益」に導かれる。

以上の様な「青木氏独自」の「密教概念」を持っていた事に成る。
この「密教概念」は次ぎの様にまとめられる。

青木氏の「守護神の密教数式論」
A 「和魂の和神」=「大日如来坐像」+「大蛙の仏神の使い」
B 「荒魂の荒神」=「毘沙門天像」+「三宝荒神」
C 「仏教の守護神」+「神道の守護神」=「青木氏の守護神」

これで、「青木氏の密教概念」の論理性は成り立っている。

しかし、「青木氏の密教概念」だけでは、「仏教」だけの守護となり、「青木氏の賜姓五役」は成り立たない。(仏教の守護神 神仏習合神)
その為に、「神道」の「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の守護があってこそ、「青木氏の賜姓五役」は成り立つ。(神道の守護神)

(研究室「青木氏の守護神の神明社」の論文参照)

結局は、上記の”「守護神の密教数式論」”が「賜姓青木氏」に成り立っていた事に成る。
本来、如何なる他氏でもこの様な「守護神の密教数式論」が成り立つ事は無かった。
それは「賜姓五役」と云うべき”「氏」に課せられたもの”が無かったからで、同じ「朝臣族」であった「賜姓源氏」にはこの務めは無かった。
如何に大変な宿命を負っていた事かが判る。
しかし、それだけに、「氏の行動」は「慎重な行動」に成らざるを得ず、「賜姓源氏」の様に「自由な行動」に出て、結局は11氏もありながら全て「滅亡の憂き目」を受けてしまった事を鑑みると、「賜姓青木氏」は幸せであった事に成る。
当に、”世に晒す事無かれ 何れに一利無し”である。

言い換えれば、この「守護神の密教数式論」の御蔭である。


そこで、この「青木氏」の「慎重な行動」は、上記で執拗に論じた「密教節会所作」と云う行動を作り出し、そこからはみ出さぬ様に、「自らの概念」に、”箍を填めて作り出していた”事に成る。

(何故、二月に一回程度に「節会所作」を繰り返していたかは、「氏の者の思考」の中に徹底して浸み込ませていた事でも判る。)

「青木氏の慎重な行動」=「密教節会所作」=”世に晒す事無かれ 何れにも一利無し。”


ところが、青木氏の「密教数式論」はこれだけでは終わらなかった。

それは上記した「釈迦立像」の「仏壇の本尊」があった事である。
更に進めた調査で次の事が判った。

本来の他の氏であれば、この「仏壇の本尊」への「祈願とその所作」の範囲で留まる。
「賜姓青木氏」は、この「仏壇の本尊」も偶像化して、その所作を上記の「守護神の所作」と重ねていたのである。
上記の「九度節会所作」にもある様に「賜姓五役」の「守護神の密教数式論」に伴う「節会所作」と連動させていた事に成る。
では、どの様に、連動させていたのかである。

普通は、「浄土宗仏壇形式」の「持仏堂型仏壇の様式」で諸々の仏具を整えての祭祀となるであろう。
しかし、ここでも「賜姓青木氏」は他と違っていた。
恐らくは、奈良期647年に賜姓を受けてからの「古来の奈良期の仏壇」と成った筈である。
その頃は、未だ、時代的に「持仏堂型仏壇」は無かった。
「持仏堂型仏壇」は、仏教伝来後、寺の中に「持仏堂」と云う建物を建てた事から、この”仏を祭祀していた堂”の形をそっくり真似て、小型化したものが現在の「持仏堂型仏壇」の元となった。
従って、その「持仏堂」の初期の代表的なものは、平安期の「平等院鳳凰堂」の「持仏堂」であり、これが”「仏壇の起源」”であると云われている。
この「持仏堂型仏壇形式」の前までの祭祀方法は、上記した古来宗教の”「和魂荒魂」の「祭祀の方法」”に従っていた事に成る。
この”「和魂荒魂」の「祭祀の方法」”では、”何時頃からのものになるか”と云うと、これには記録があった。
最も古い記録から、この古来の「和魂 荒魂」の「祭祀の方法」として、何と、当にこの事に付いて、684年3月に「天武天皇の詔勅」を発している。

この「詔勅」から、未だ当時、「仏の祭祀方法」に定まったものが無く、新たにその祭祀そのものを命じ、且つ、その祭祀方法等をも禁令で命じた事に成る。
この「天武天皇の詔勅」では、次ぎの様に命じている。

”「諸国の家毎に「仏舎」を作り、「仏像」及び「経」を置きて、以て「礼拝」し「供養」せよ」”

以上と明記している。

この”「仏舎」”とは、上記した平安期の「持仏堂型仏壇形式」に相当するもので、古来の「和魂荒魂の祭祀の方法」である。
その”「仏舎」”(現在の仏壇に相当)の作り方も明記している。
その内容を現在文に要約すると次ぎの通りである。

そもそも、「仏の祭祀」は、その都度、四隅には、「木又は竹の支柱」を建て、これに板を渡した「舎」を造り、その中央に「本尊(仏像)」を造り安置し、その「葬儀」には、ここに「仏」を安置する方法として祭祀する。
この「舎」の形状は、箱型にした上部には、斜めに「板」を渡し、「庇」を設け、側面の一方を開いて正面とし、内部の底には「台」を設けて、そこに「本尊なる物」を設けて「仏舎」とすべし。

以上としていて、更に記録を観ると、この”「仏舎」”の形では、「天武天皇の詔勅」に基づいた「仕来り」に従った事を、更に発展させた事を明示している。
それは、次ぎの発展内容の通りである。

しかし、この「仏舎」で祭祀するに従って、その頻度が高く成り、「上級階層の祭祀」では、これを繰り返したが、遂には、それを定型化して「台」と「仏像」を安置する「仏舎型」なるものを作り上げた。(「台」と記されている遺品は遺っている。下記)
そして、それを「小型化」して、「家屋」の中に治めた。と記録にある。

これらの経緯としては、最初は外にあった「仏舎」を屋内に治めたのか、外と中にも設ける仕来りにしたのかはこれでは判らないが、しかし、”両方に設けた仕来り”であったと判断できる。
そして、外の「仏舎」は「墓」と進化したと考えられる。
「墓」は何時しか「仏舎」の形造る板が朽ちる事から「砂岩」で表現したと観られる。
墓石の「砂岩」に付いては、平安期の仏教の記録資料があって、”風雨で自然に朽ち果て自然に戻る事”を「仏説作法」で求めている。
と云う事は、この資料から「外の仏舎」が「墓」に変化した時期は、奈良末期から平安期初期の頃と成る。(「外仏舎」と呼称されていた模様)

古墳時代の末期に位置していて、この時期の墓としては次ぎの様なものがある。
(「仏舎」の形に影響を与えた「古代インドの墓」の形に相似させた古墳時代の円墳丘)

持統天皇陵の奈良県高市郡明日香村の野口王墓、(686年 697年)
文武天皇陵の明日香村の中尾山古墳、(707年)
天智天皇陵の御廟野古墳 (672年)
[施基皇子の陵墓」(「春日宮天皇陵」)高円山東古墳:「後付墳墓」(716年)
「光仁天皇の陵墓」の奈良県奈良市日笠町の田原東古墳 (781年)
などが墳丘を持っている。

日本では、初めて以上の皇族王の「固有型式の陵墓」が出現した。
この事から、684年に「天武天皇の詔勅」が出て、王族では無く、上級階層の「仏舎」は、「施基皇子の墓」(高円山東の「春日宮天皇陵」)として「後付墳墓」があるので、後716年以降と云う事に成る。
近くには、「子供の光仁天皇の陵墓」があるが、「伊勢青木氏の菩提寺」には「施基皇子」「白壁王」までを祭祀している。
「春日宮天皇陵墓」と「光仁天皇陵墓」は、「公式の墓所」として祭祀されていたので、別として、「賜姓氏」の「個人の墓所」は「青木氏菩提寺(」匿名)にあったが、「墓形式」は「仏舎型」で、当初は「木仏舎」から、平安期直前(716年頃-810年頃)に墓石に変え、この墓石は当初は「砂岩」であった事が判っていて、その証拠に隣の「女墓」の一部の墓石は未だ「砂岩」のものが遺されている。
始祖「施基皇子王」と元祖「白壁王」の「氏墓」も青木氏菩提寺に祭祀されていた。
(松阪大火で菩提寺消失 明治初期に大理石の墓石に変えた。)

この事で、次ぎの事が判る。
”790年頃以降”に「青木氏」がその「賜姓族立場」の頂点にあった事から率先して見本を示し、「上級階層」から「仏舎型石墓」を採用したと考えられる。
この「石墓」に成るには、上記した「後漢の職能集団の石作部」が「大和川流域」に住んでいた渡来人にて可能に成った。
「木製内仏舎」や「木製外仏舎」は「玉作部」が、後の「石墓」は「石作部」が作っていた。
この「玉作部」や「石作部」等職能に関する後漢から渡来した「部民」は、直接、朝廷の管理下に置かれていて、官吏「伴造」が仕切っていた。
この官吏「伴造」は殆どは「氏上」の中から選ばれた。しかし、「人」がいない時は「部民」の中から選ばれる事もあった。
「伴造」は「民部省の配下」にあったが、「始祖施基皇子」の「青木氏」は、この”「大和川流域の部民」(技能集団)”(「青木部」と呼称 名張拠点)を「氏上」(伴造として選出)として直接統括していたのである。

注釈
(「青木氏」が ”氏上様”と呼ばれていた所以であり、”御師様”とも呼ばれていた所以である。
「御師」は職能集団の総括者の事、 江戸時代には「徳川吉宗」に依って幕府にもこの「御師制度」を伊勢から持ち込んだ。以後幕末まで維持された。)

注釈
(「青木部」:民部 かきべ 後漢渡来人の職能集団の総称 後に「守護神神明社建立」や「菩提寺建立」等に関わり「賜姓族青木氏」の「2つの絆青木氏」に成る。「三つ発祥源」「国策氏」「神明社建立」の為に、永代の「民部大輔」にも成っている。この役職には、実質、下記の”「民部四権」”と云う国策に直接関わる大権を持っていた為に、「正四位下」以上の上位の位官級の者で中納言か上位公家等が任官した。「命令権者」であった。実務者は「民部大丞」と「民部少丞」(秀郷一門の役)であった。大蔵省よりも権限は強く、その為に「太政官府」の譜と併用して発給していた超重要な朝廷の機関であった。「民部部門」を実質制する者は、”朝廷の真の権力者”であった。「皇親政治の根幹部」であった為に「光仁天皇期」(施基皇子第六子)まで維持された。桓武期の「律令政治」に成った事から「民部四権」の大権は律令に取って代わったが、「青木部」は遺された。この段階から、「二つの絆青木氏」は発祥した。「嵯峨期」では「民部大輔」は「永代官位」と認定された。)

注釈
(民部省:「税政権」を主幹とし、その「具納組織の管理権」と、それに伴う一切の「問題解決権」と、その「管理内の警察権」(「民部四権」と呼ばれるもので、「私有荘園内」にも認めた。)

従って、「青木氏」がこの立場を利用して、この身内の官吏「伴造」を通じて命じて、全体を動かし、「青木部」をして、「仏舎や石墓」等を率先して作り、見本的にも ”作り易い環境”に成っていたと観られる。
その「青木氏」が作ったので「上級階層」は、”我先に競って作った”と云う事が起こったと考えられる。
何故ならば、「日本人の国民性」で、”自分が先んじると周囲の批判を受ける”と云う懸念する習性が働いたと考えられる。
実行するのは「上層階級」なので、批判は「公家や天皇」から直接受ける事に成る。
ところが、そもそも、「上層階層」は、自ら「民部(品部)」を持っていなかった為に、「青木氏」に頼む事に成り「批判の心配」もなく見習ったと考えられる。
元より「賜姓族氏」として「見習れる立場」にあった。

その「石墓の原型」は、「砂岩石」の高さ1M程度幅40Cm程度の四支柱板を組み立て箱にし、その上に石板の「屋根型の箱蓋」をした形であった事が伝わっている。
(仏舎型石墓)
その後に、下の四支柱板を設けそれの一方を開いた箱型を立てた形にし、「仏舎型の屋根」を載せた形にした。
(箱型仏舎石墓)
更に、この箱型が1角柱に変化して、その上に小さく仏舎型を載せた形となった事に成っている。(角柱型仏舎石墓)
角柱に変化してから、ここで、更に次ぎの様な差別化が起こった。
この様に、三段階の「外仏舎の石墓」”(灯篭型仏舎石墓)”の変化を来した事が判っている。
(灯篭型外仏舎)
江戸期には下級武士も墓所を持つ様に成って汎用化して、より安く簡単にした形が好まれて屋根部が省かれ始めた。
(角柱型石墓)

明治期の苗字令で、庶民も墓を持つ様に成った事から、「角柱型」のものと成って行った。
この時期を境に「材質」も汎用で長持ちさせる為に変えられた。(花崗岩)
「角柱型石墓」の多くは室町期末期から江戸期に入って起こった形である。

その身分さ家柄さを表現する為に、次ぎの様な工夫が凝らされた。
角柱の上に元の様に、「五輪の塔」の様なものをした石物を載せた様にしたが、これも差別化と当時に、「仏教の教え」を表現する仕来りが出て来た。
多宝塔、層塔等の物が石墓の横に添えられた。
50年経つと、この「五輪の塔」を設ける者が現れ、何時しかそれが「仕来り」と成った。
しかし、これも上級階層の誰しもが設ける様に成ってからは、「先祖の仏」が50年経過毎にこの塔に移す仕来りに代ったのであった。要するに「50年祭」である。

「現在の石墓」はこの角柱の上に置かれた屋根型のものを省いたものと成った。
しかし、「平安初期の古石墓」は何れも「仏舎型の石墓」の形を呈している。
調査したところによれば、比叡山や高野山や知恩院の浄土寺の古い寺や墓所からこの様子が観て取れる。

現在でも、地方の古来の歴史的遍歴を持っている墓所の「墓の形」には、未だ、初期の平安期の石墓の形を遺している地域がある。
この様に「内仏舎の原型様式」や「外仏舎の原型の石墓様式」も「インド墓」の流れの「円古墳」を汲んでいたのである。
それが、日本式に「環境や仕来り」(「和魂荒魂」と「古代仏教」)に合して改良した事に成る。
丁度、「灯篭の形」に成っている。
そして、はっきりとした記録に観ると、平安期800年過ぎ頃から石墓の「灯篭型外仏舎」に蝋燭を灯して先祖を導く行燈とした。
「木製外仏舎」には「天武天皇の詔勅」が出た直ぐ後の690年頃から使われた模様である。
現在の「庭灯篭」はこの「外仏舎型石墓」(灯篭型石墓)が変化したものと考えられている。
この「庭灯篭」の汎用は1360年頃から絵画にも観られる様に成った。
実は、この「庭灯篭」が、更に「密教の内仏舎」の上記の”「迎え行燈」の役目”に発展を成していたらしい。

”灯を点灯して、先祖を迎え入れる”と云う行為は、「古代仏教の概念」としては強いものがあり、「仏舎の時代変化」は、調べると「蝋燭の時代変化」にも合致している。



> 終わり。

「伝統」-7に続く。
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「青木氏の伝統 5」-「毘沙門天の影響 1」


[No.322] Re:「青木氏の伝統 5」-「毘沙門天の影響 1」
投稿者:福管理人 投稿日:2014/08/29(Fri) 15:14:16


前回の末尾

>事ほど左様に、他の四節句も、”休ませる事”に重点が置かれ、「人日の節句」の通りに考え方が、上巳、端午、七夕、重陽にしても、全てこの”休ませる事”の解釈であった。(別記)

>”何故、この様に成ったか”と云う論調には、上記の「稲荷信仰体」と同じく、次ぎの「庶民信仰体」の影響が左右されていたのである。


伝統-5


「毘沙門天の影響」
この「庶民の五節句」の「祝日祭りの影響」は、江戸期からの”民衆化した「3つの毘沙門天の神格化」(「戎神」「勝負神」「無病息災神」)”に大きく影響された事もあったと観られる。(下記)

何故、この特定階級の中でも、「上級階層の密教」そのものの「毘沙門信仰」が浸透したかと云う疑問がある。

それは、江戸期250年の間に、何と全国的に起こる「気候変動の大飢饉」が8回も起こっているのである。30年に1回である。
地方の小さい飢饉にすると数えられない位で、「小さい飢饉」は殆どが「河川反乱」であった。
この為に「土木事業」が盛んであった。
「薩摩藩」や「紀州藩」は、その「最先端の技術」を持っていて、幕府に請われて他藩に主張して「河川改修」を命を掛けて盛んに行った記録がある。

江戸期の庶民は、これは「日本古来の和魂と荒魂」の考え方が蘇り、「荒魂の悪神の悪神」が暴れていて、これを鎮める「毘沙門天」や「荒神」が働かず、「庶民の無信心」で勝手気儘に暴れているのだと考えたのである。

それまでは、当に、「密教範囲の信仰体」であったのに、民衆は藁をも掴む思いで、この信仰体に再び飛びついた。
「古来の荒神信仰」が「武士」の間で信仰されていた事を知ったのである。
其れが元は「庶民信仰の地荒神信仰」(道祖神や産土神)であった事を知ったのである。

そこで「神社仏閣」は、いち早く、民衆を呼び止める為に、「毘沙門天像」や「不動明王」や「荒神像」を祭祀した。

ところが、毘沙門天像と不動王像の神格に対して、新たに「戎神」「勝負神」「無病息災神」を求めたが、「武神」「守護神」「財神」の「3神格」は求めなかったのである。

その代わりに、「地荒神」を発展させて「万能神の様」にしてまったのである。
この「地荒神」と「毘沙門天の神格」の「無病息災」等に”願いを込める休む日”とする節句をつくりだしたのである。

この様な経緯から、「節会」が「節句」に変わった事も、庶民の「毘沙門天の神格」が「戎」「勝」「無」の「現世の生活観」に特化した為に、「会」に持つ”彼世の仏の意味”が消え失せて、「句」の”現世の人の息遣いの意味”に変化したものである事が判る。
庶民の中では、最早、”「武」「守」「財」の3神格”は影形も全くなく成ったのである。
(武士階級の中で護られた)
ところが、その後に、「本来の3神格」を維持して来た「伊勢青木氏」にも、これを維持することが難しくなった時期が発生したのである。
室町期末期に戦乱と大火で、「菩提寺」が消失して、「本来の密教作法」に依る祭祀が充分に行えなく成った。
そこで、「大日如来坐像」も居宅に安置されて「毘沙門天像」と共に祭祀を何とか維持していたにも関わらず、今度も「明治の大火」に依って「毘沙門天像」そのものの偶像を消失しまった。
完全な意気消沈状態であった事か伝わっている。
暫くは、祭祀そのものが危ぶまれた時期があったとされる。

当然に、この時期から、青木氏には、「本来の目的」(「武神」「守護神」「財福神」)の概念が低下して行ったと観られる。
大正期に入り何とか祭祀は盛り返されたが、この時、「護り本尊」の「毘沙門天像」の代わりに「節句」に使っていた「義経ー弁慶像」を使う事で「密教作法」は何とか遺されたのである。

従って、「青木氏」のこの「義経ー弁慶像」(二代目)は、江戸期の庶民が用いた偶像の「義経ー弁慶像」では無かったのである。
「毘沙門天像の身代わり像」であった事に成る。
”消失による概念の低下”を防ぐ目的の為に、むしろ「庶民文化の偶像」を上手く利用した事に成る。
奈良の発祥期から観ると、「伊勢青木氏」には、「氏存続」に関わったものとして、「一度の衰退」「3度の戦禍」「2度の災難」が起こった。

毘沙門天像等の遍歴(三昧耶形仏具)
大化期初期ー居宅 ー・・・  賜像「毘沙門天像」・「大日如来座像」
平安期初期ー菩提寺ー150年 桓武天皇 皇親族排除
平安期中期ー居宅 ー50年  秀郷流青木氏賜姓 商い開始
鎌倉期初期ー菩提寺ー125年 源平合戦 以仁王の乱 孫京綱跡目
室町期初期ー居宅 ー175年 紙文化 室町文化開始 巨万の富 「大日如来座像の移転」
室町期末期ー新宮 ー350年 信長の伊勢三乱 商い中断 「大日如来座像の移転」
江戸期初期ー松阪 ー10年  本領安堵 商い再開 「大日如来座像の移転」
明治期初期ー鎌倉 ー275年 伊勢動乱 一揆支援 家勢再興 「大日如来座像の移転」
明治期中期ー松阪 ー25年  松阪大火・毘沙門天像消失 商い倒産 「大日如来座像の移転」
大正期初期ー松阪 ー20年  家勢再興 仏具整理


その事から「縁起」を担ぐ事で一族の中にその意識が遠退いたのであろう。
その証拠として、幸いにも遺された「お仏像様」にも、この「縁起」を担ぐ事が在って、”その「お仏像様」を祭祀するに、それに「見合う人物」でないと、その人物に「不祥事」が起こる”と云われていて、厳しく戒められていた。
現実に、筆者もその人物で無い為にあるところに安置して頂き祭祀している。
二度とこの様な事が起こらない様にする「訓戒」であろう。
事ほど左様に、この「毘沙門天像」(「護り本尊様」)にも同じ事の戒めが課せられていたが、「松坂大火」で消失して仕舞う仕儀と成った。
この為に、”この「戒めの咎目」を受けた”として祖父は、そけを祭祀する人物でないと自若し「毘沙門天の事件」で「祭祀」には口を固く閉ざしたものと観られる。
(祖父は当時、伊勢ー紀州ー奈良ー大阪ー京都圏域では誰でも知る有名な人物で、紀州徳川家や天皇家との付き合いもあった。しかし、「咎目」を受けた。)
結局は、900年以上続いた「伊勢の紙屋長兵衛」を倒産さした事への祖父の痛恨の反省なのであった。
しかし、晩年、再び祖父は、何とかこの「毘沙門天の祭祀」を甦らせ、父を経由して筆者の代まで引き継いで来た。
筆者以後は、先ずこの継承事全ては、文章にして遺す以外に最早、完全に無理な状況と成って居るのである。子孫は多く遺したが、何れの者も持って生まれた意識がそれを成し得る意識に到達していないのでは致し方無しである。仏説の当に”縁無き衆生 動し難し”である。
恐らくは,”[伝統]”と云うものはこの様にして消え去って行くものである事が判る。
消したくなくても「自然の力」はそれを超えていて、古来から伝わる「密教」の様々な「伝統」は完全に消える。何とか文章にまとめて記録して、全国の青木氏の末裔が「ロマン追求」の役に立つ為に出来るだけ詳しくして遺そうとしている。
恐らくは、全国の青木さんも殆どは伝統があるにしてもこの様な事で消えて仕舞ったと観ている。
最早、伝統そのものよりも「ルーツ探究」も侭ならない状況に成っている筈である。

事ほど左様に、以下に遺すべき歴史の史実をより詳しく解析して論じ続ける。

さて、この「義経ー弁慶像」(二代目)は、「人形」と云うよりは、”彫刻に彩色粉飾を施した木仏像”のものであたと伝えられている。
この事は、”何とか「毘沙門天像」に似せてのものに”と考えてのことであったらしい。
祖父の意識感覚が伝わって来る。
新たに「毘沙門天像」を作る財力は、「紙屋」は倒産したとは云え、未だ充分にあったと考えられるが、何故なのかは判らない。恐らくは、毘沙門天像に似せようとしたと考えられる。
当初は「毘沙門天像」は、上記した様に平安初期には「菩提寺」に保存されていたと聞かされている事から、その後、「室町末期の戦乱・大火」から「お仏像様」と共に居宅に移した。
しかし、この「毘沙門天像」(護り本尊様)は、上記の配慮から ”古く成った”との理由づけになってはいるが、正しくは「明治期の松阪大火」で消失したのである。
「毘沙門天像(護り本尊様)」の代わりかは不明であるが、上記した様に、一般文化を取り入れてか「義経ー弁慶像」(二代目)に変わった模様なのか、「毘沙門天像」に何故しなかったのか、調査したが、「菩提寺の消失」で「建立する力 維持する力」に総力を上げようとした事があって、「毘沙門天像の復元」には至らず、結局、「義経ー弁慶像」(二代目)で我慢したと云う事であったらしい。
つまりは、「偶像」は変わったが、”「祭祀の密教所作」は遺こす事で治めた”と云うことであった。

(「2度の大火の災難」から”「縁起」を担いではっきりさせていないの”が原因で、恐らくは「消失」である。ところが、この「消失の過失」を認めると、未来に「祖父の名誉の禍根」を遺すと判断したと観られる。この消失は「類焼」では無く「出火元」であった事から余計に意識したと観られる。)

現在の「義経ー弁慶像」(二代目)の人形は、明治35年(2度目の松阪大火 出火元)で「毘沙門天像」と共に「義経ー弁慶像(一代目)は消失して、その以後のものである。
後世には、悠久の歴史を持つ伝来の「毘沙門天像」であった事を明確にせず、「義経ー弁慶像」で繋ごうとしたのである。
昔は、この人形に色々な装飾物があった様であるが、現在は無いが、何とか「毘沙門天像」に近づける努力はした様である。
消失するまでの居宅での「毘沙門天像(護り本尊)」と「お仏像様」の祭祀では、色々な「仏法作法」があった。
以下の所作が伴う「密教所作」は、「義経ー弁慶像」(二代目)であるにしても、「江戸の節句行事」では無かった事が良く判る。

「密教所作 (九度作法・節会所作)」
遺されているのは「道標行燈の作法」と「茶釜の作法」の他に次ぎの「作法事」がある。
この祭祀には、次の様な作法が遺されている。
イ 「家伝の宝刀」を幼児に背負わす作法が遺されている。  (武家訓魂)
ロ 「武神」と云う事からの「武の基本所作」が遺されている。(軍配挙手、馬杯酒飲、刀剣手掛)
ハ 「紅白の角餅」を供る作法が行われいる。        (白は賜姓族の象徴色)
ニ 「幔幕」(家紋入り)を張る作法が行われている。    (福家象徴)
ホ 「方位」は北に向けての物であり、その祭祀には「方位の障害物」等を清浄する。(邪気払い)
ヘ 「回り行燈一対」を左右に据えて「仏壇」を飾り立てる作法が行われる。    (法華経典)
ト 「仏壇」は「古来の武具」の合わせた「小型金具の黒武具」の仏具が添えられる。(三昧耶形)

この様に、「青木氏の節会」は ”先祖との会する場”ではあるが、この”会する事”は「賜姓族(3つの発祥源)」を頑なに護る事の意を持っていたのである。
其処には、「護る意」のみならず「歴史的な意味」が語りつくせないほどにあった。
恐らくは、これらの「密教所作や仏具」は、仏法の「戟」「宝塔」「法棒」等の「三昧耶形の一式」であり、「九度作法」(節会作法)と呼ばれ、れぞれの「節会所作」にはそれなりの意味があった。
それを次ぎに注釈として論じて置く。
兎に角、「道標行燈」にしろ、「毘沙門天信仰」にしろ、「茶釜の作法」にしろその理解の前提と成る予備知識がないと「青木氏の密教所作」は充分な理解が得られないであろう。

・「注釈1」
ハに付いて、「紅白の配色」には、通説は「源平合戦の色分け」とされているが、元より「賜姓族青木氏の象徴色」として、且つ、奈良期から「3つの発祥源」として「色の源元」の「白」が用いられた。要するに ”「青木氏の賜姓色」”である。
他に”「あおき木の賜姓木」””「象徴紋の笹竜胆の賜姓紋」””「大日如来坐像の賜姓像」””「毘沙門天像の賜姓像」”等と共に「白色」は「青木氏の氏色」であった。
これに対して、同じ「賜姓族源氏」が、「源平の戦い」に際して、「賜姓青木氏の賜姓白」を用いた。それに対応して「賜姓平氏」は、「紅」を用いたものである。
本来であれば、「賜姓平氏」は対象色は「赤」と成るが、「中国の故事」に習い「紅」を用いたものである。
「青木氏の象徴紋の笹竜胆紋」も源氏がこれに習って使用したものであるが、そもそも、「嵯峨期の詔勅と禁令」には、「源氏」には「象徴紋や白」などの「賜物の規定」は元より何もない。
むしろ、「嵯峨天皇の詔勅」には、反対の意味合いの内容(”「朝臣族の身分」のみを与えるが、「民への負担」を考えると何事も自ら切り開け”)が記されている。
従って、「賜姓源氏」は「同族の賜姓青木氏の賜物」を用いたのである。
昭和の終わりころまで「紅白角餅」と「紅白饅頭」を配った。


・「注釈2」
ホに付いて、家の中の南北の位置に「護り神棚」があり、これを清浄にして、且つ、南北の屋敷内に不浄なものがが無いかの清掃を行う。
この「護り神棚」は「荒神様」と呼称されて、古来より毎日一族がお神酒を捧げて祭る慣習が続けられた。
そもそも、「仏教」が伝来する前は、日本古来には、信仰するものを分けると、「和魂 にぎみたま」と「荒魂 あらみたま」とがあった。
特に、「民間の伝承」としては「和魂」が信仰された。
ところが「荒魂」は悪外を成すとして民衆は祀る事はしなかった。
ところが、「賜姓青木氏」は、民衆とは異なり、発祥時より、この「和魂」と「荒魂」を祭祀していたのである。
ところが、そこに「仏教伝来」があった。
古来より「荒魂」に当たる「荒神」なるものがあったが、ところが、この「荒神」の「悪神」を、逆に祀り、この「荒神」の「神通力」を利用して「守護神」にすると云う考え方を持っていた。
ところが、ここに「仏教の密教」が持ち込まれたのである。
そもそも、上記した様に、インド伝来の「密教の神格」には「毘沙門天」や「不動明王」などもこの「荒神」であった。
そこで、この「密教」では、その「荒魂」の「荒神」の「悪神」の「神通力」を使って「守護神」とする考え方があると説かれたのである。
元よりの考え方にこの密教説が一致し、「日本の風土」にもこの考え方が根付いたである。
つまり、どう云う説かと云うと、古来からいう「荒魂」を祀って、それを「荒神」として祀ることで「悪神」の部分を取り除くことが出来ると説いたのである。
言い換えれば、”祀らないと「荒魂」の「荒神の悪神部分」は消えず悪さを起こす。”と「陰陽師」や「占師」は説いた。祀る事で逆に「荒神」と成るとしたのである。
そして、その「荒神」は、ある特定の「荒魂」に宿るとしたのである。
「荒の魂」には「武の魂」「守護の魂」「財福の魂」があり、この「荒魂」に「荒の神」が宿り、「荒神」はその「荒の神通力」を発揮して「魂」を護ると説いた。
この「守護神」が「荒神様」なのであって、神格化した「毘沙門天」や「不動明王」なのである。
「青木氏」は、元来からあった「神道の和魂と荒魂」の中に融合して、この考え方を「青木氏密教」として取り入れたのである。
要するに、「神仏習合」を「仏教伝来」と共に古来に成し得たのである。

上記した様に、「密教の神格」の「毘沙門天」は、北方十二域を守護すると云う「密教説」に従い「毘沙門天」の神を、南北の「家の中」の位置に「青木氏」は古来から祭っていたのである。
これが「荒神信仰」と云うものに発展した。
しかし、この「荒神信仰」には大別すると「二通りの系統」があった。

「屋内」の「三宝荒神」 「守護神」を持つ青木氏等が祭祀する「荒神信仰」の事
「屋外」の「地荒神」  庶民等が祭祀する「自然物」を祭祀する「荒神信仰」の事
以上とがある。

・「屋内の荒神」は、「中世の神仏習合」に依って「神社や修験者等の関与」により、「火神」「竈神」の「荒神信仰」に、「密教仏教」や「修験道」等が伝道した「三宝信仰」(下記)が結びついたものである。
これらの「屋内荒神」は、密教を宗派としている青木氏等の「特定階級の荒神信仰」であった。

・「屋外の地荒神」は、山神、屋敷神、氏神、村落神の「神格」があり、「樹木や塚」の様な自然物をも「地荒神」と呼んだ。「自然=地」から「地荒神」と呼んだ。
中には飛躍させて、民は「牛馬の守護神」として「荒神信仰」も創出した。
これらの「地荒神」は全て「庶民の荒神信仰」であった。

有名な祭神には次の様なものがある。
「道祖神」「産土神」がある。火神系を「荒神」として祀っている。
「神道系」にもこれら「火神系」と「竈神系」の「荒神信仰」がある。
「密教」「道教」「陰陽道」等が習合した独特の「スサノオ信仰」がある。
「祇園社」(八坂神社)でも、「三宝荒神」を祭祀している。

「三宝」
さて、この「三宝」とは何なのかである。
その前に、次ぎの注意事を知っておく必要がある。
平安中期頃に密教側の中で、屋内の「三宝荒神」には次の様なものがあるとされていた。
如来荒神(にょらいこうじん)
麁乱荒神(そらんこうじん)
忿怒荒神(ふんぬこうじん)
の三神を指す。
ところがこれらは「偽経」とされる説でもあった。
(「偽経」とは中国で作成されたお経の事。)
「仏教の如来」の扱いは、日本古来宗教側から観れば、「和魂」である。
其れなのに「荒魂」とは矛盾している。
この事から、大和には根付かない「妥協の産物」として排除された。
後の二つの荒神は、至るところに”「乱怒の諍い」を起こす”と批判され、当に、荒れ狂う「荒の神」の「悪神」である。
この「悪神」を「仏教の三宝の力」で沈められるとしながらも、「悪神」も「神」としてそのものが存在すると云う偽経の説は大和には受け入れられなかった。
それは、この「悪神」そのものを「沈め治める力」は、最早、「人」には無いとして「偽経の神」と扱われた。
インドの「釈迦仏教」では無く、「中国仏教の説」で、中国の「最古の道教」の影響を受けた「中国仏教」と観られ「虚偽の荒神」として大和では排除された。
中国の”石も薬”から来る思考原理で ”矛盾も又真成り”の論調の中国宗教であった。

「伝承解決者」
では、この様な国家的問題を一体誰が解決したのであろうか。
放って置いて解決する問題でも無く、国家的問題を古来の占者が、時代考証的にも平安期の陰陽師でも無い事は判る。果たして誰なのか。
この様に、文学は兎も角も、中国宗教に関しては、「中国儒教」と共に、不思議に日本には古来より根付かない歴史を持っていた。
”矛盾も又真成り”の「中国特有の論調」が「大和の人民」には素直に受け入れられない歴史を持っているのである。ここが、決定的な ”漢人と倭人との違い”である。
丁度、この「和魂」「荒魂」の古来宗教の奈良期の頃に、後漢の阿多倍王が率いる「200万人の職能集団の帰化」と「古代仏教」が持ち込まれたのである。
恐らくは、”漢人と倭人との違い”大きく出て、大変な騒ぎと成った事が容易に判る。
そこで、考えられたのが、両者の繋がりの「妥協の産物」として、「和魂」は兎も角も、「荒魂」に「三宝」を結び附ける事で、「荒魂」の「悪神」は消え、荒々しい「武魂」は、「武神」に成るとした仏説を創造した。
そして、その「武魂」が「神」と成った事で、「武魂の守護」も「神」と成り、「武魂」に依って得られる「財」も「福神」に代わるのだとする密教説を造出した。
そこで、この「武神」を密教仏教の「毘沙門天像」に偶像として求めた。
この「荒魂」に類する密教の「武神」と成った「毘沙門天像」と、古来の「荒魂」の「荒神の偶像」とを結び付けたのである。
この時に、上記する様に、幾つかの結び付け方が現れたが、取捨選別されて、「武神と成った毘沙門天」と「荒神と成った悪神の荒神」が結びついたのである。

さて、この時、最初に新しい「密教仏教説」を受け入れ、且つ、「和魂と荒魂」を護っていたのは、他でも無い「賜姓族青木氏」であって、「三つの発祥源」として、「国策氏」としてその役を担わされたのである。
当に、寸分も違わない同時期である。
これは偶然でも無く、朝廷はあらゆることを鑑みて、「国策氏」としてこの問題の解決に取り組む様に役付されたのである。
その為には、これらの問題に直面していた「天智天皇」と「天武天皇」は、「自らの子孫」をその役務に付ける事が必要に成り、最も信頼していた「施基皇子」と「川島皇子」にその役目を与えたのである。
その為には、「天皇」に継ぐ「家柄と身分官位官職」などの一切の「高位公職」を皇太子を超えて与える必要があった。それを、「第四世族内の朝臣族」にして「第六位皇子」にして「賜姓」したのが、この所以なのであった。
(補佐として第七位皇子の「川島皇子」にした。後には、「藤原秀郷」に対して特別に「青木氏」を賜姓して更に補佐させた。)
つまり、「国策氏」として、最初にこの問題に取り組んだのが「5家5流賜姓青木氏」であった。
言い換えれば、上記の様に「違い差」が出ていた「和魂ー荒魂の古来宗教」+「密教仏説」の”結びつきの解決”を図ったのが、歴史的にこの「2つの青木氏」であった事になるのである。
この「2つの賜姓青木氏」以外に、この時期に両者に関わっていて、古代密教を継承して、解決に必要とする「特権」を持ち得ていたのは、「青木氏」に於いて有史来他に無い。
これが、「毘沙門天信仰」と「三宝荒神信仰」とを悠久の歴史を以て継承して来た所以なのであった。


この「三宝荒神」の三神は、後世、「僧や陰陽師や占師」の「生活援助」の為に、この「三宝荒神」を信仰(帰依)するよう考え出されて説いた稚拙仏法のものであって、陰陽師が政治に絡んだ時期を境に平安期中頃には消え去った。
これらの「荒神」は、結局は「インド由来の仏教尊像」では無かったのである。
結局は、この論調を採る「密教の氏」は出ず排除されたのである。
本来の「三宝荒神」は、日本古来から存在する宗教(「和魂」「荒魂」)に、「古代密教仏教の信仰」が加わって独自に「習合発展した尊像」である。
本来の「三宝荒神」はその代表的な物である。

「仏・法・僧」の「三宝」”
では、その「三宝」とは、そもそも「仏教」を維持する上で、最も「大事な宝」とするものであり、それは「仏・法・僧」であるとした。
”密教仏教での「仏・法・僧」の「三宝」”とは、”日本古来宗教の「荒魂の荒神」を沈める”との「神仏習合」を成し得た「仏説」の「密教具」とされる。
ところが、この「三宝荒神」には三神があるとされるが、ここで云う「三宝」とは何れのもの何なのか。
1「同体三宝」の説
2「別体三宝」の説
3「連携三宝」の説
以上があるが、通説の「三宝」とは、3の”仏教を維持し伝えて行く上の「三宝」で、「仏像」と「経巻」と「出家僧」の三つを言う説”が一般である。

つまり、次ぎの密教説である。
a「仏」=悟った仏
b「法」=仏説真理
c「僧」=釈迦伝道師
と説かれていた。
ところが、この「abc」の「同体説」と「別体説」の「二つの三宝」は、大和には馴染まなかった。
この「abc」の「3つの連携」で以って、”ここに特徴を生かしてその力を発揮して「大和古来の荒魂」の「荒神の悪神の神通力」を沈め治める”としたものである。
この事に依って、「荒神の悪神」は鎮まるとしたのである。
これらの「三宝荒神信仰」は、「荒魂」の「武神」や「守護神」を神格としている事から、「密教」を宗派とする「武家の氏」(青木氏)の「信仰体」として大きく発展した。
この「三宝荒神信仰体」は、江戸期に入っては、「三代密教」のみならず「密教系を基とした顕教の宗派」(真宗や曹洞宗)の武士にも一部信仰される様になった。

(江戸初期には「密教作法」は禁止されたし、全て宗教は顕教とした。「密教作法」が禁止された事に依って「三宝荒神の作法」は一部無く成った。)

この様にして、江戸期に成って、上記した「上級武家屋敷」には、「荒神の神棚」が設けられ、これを「荒神棚」と云った。
結局、江戸期に成って「密教作法」が無く成った事に依って、「青木氏」が行う「密教の毘沙門天信仰」との連動は、「上級武家屋敷」では無く成り、「上級武士屋敷」の”「年暮節会」の「荒神祓い」”のみに成ってしまった。
この「荒神棚」は、南北の位置に配置し、毎月には「晦日(みそか)の祭り」を行い、「荒神祓(はらい)」と云う祭祀を行った。
「伊勢青木氏」は、兎も角も、他の数少ない「密教氏」であった家でも、「毘沙門天の節会作法」(九度作法 )との連動は殆ど無く成り、”先祖との会する場”の「概念の伝達」は残念ながら消え去り、「荒神祓い」のみの祭祀になったのである。
従って、今や、頑なにもその立場を守り通して来た「伊勢青木氏」にしか「三宝荒神信仰」と「毘沙門天信仰」の「密教作法」は遺されなかった。

「地荒神信仰」としても、民衆の中には「大きな伝道」を興したが、矢張り、元々、何れも古来よりの「密教所作」である事から、「伝道の力」は極めて弱かったものであろう。

去りとて一方、”「不浄や災難」を除去する神(荒神力)”とされることから、逆に、江戸中期には庶民には見直され、「火と竈の神」として信仰され、台所の”「かまど神」”として祭られた。
日本では、”「台所やかまど」が最も清浄なる場所である”とする事から、庶民の「地荒神信仰」と共に、密教氏の「三宝荒神信仰」でも、江戸期に成って、次第に庶民の間でも、「密教の三宝」とは関わらず、単なる信仰として ”「限定された場所」”で信仰される様になった。

因みに、その良い例が、次ぎの事で証明される。
現在は ”かまど”は全く無く成ったが、現在でもその習慣が一部遺されている。
この「竈荒神」によると、「幼児の額」に「荒神墨」を塗る習慣が江戸中期から起こった。
それは、「竈墨」を”額の中央に塗る”と、”「荒神様の神通力」に依って「子供の難」を逃れられる”と云う習慣である。
庶民は「墨」の×印、武士は「朱」の丸印を点けた。
これは、京都から以西に広く広がった”「あやつこ」”と呼ばれる習慣で、現在でも、「祖先神の神明社」等の神明系神社では盛んに引き継がれている。
これは「青木氏」の「皇祖神ー子神の祖先神の神明社」の500社程の建立に明治期初めまで携わった事から江戸期に成ってもすたれずに遺されて引き継がれて来ているものと観られる。

平安期の「古文献」によると、この「あやつこ(綾子)」は”元は「紅」で書いた”とある。
だが「紅」は、上流階級でのみ使われたことから、一般の庶民は「すみ」、それも「なべずみ」で書くのが決まりであった。
この庶民の「なべずみ」を額に付けることは、「家の神」としての「荒神の庇護」を受けていることの印であった。
東北地方でも、この印を書く事を”「やすこ」”を呼ばれていた。
関東以北にも、この「荒神信仰」の「かまど信仰」は伝わった事を物語る。
ここには「一切の密教性」が無く、「仏教性」さえも無く成っている。
「密教性」、「仏教性」が無く成れば、最早、それは、元の「和魂」「荒魂」の「古来の宗教」に戻っている筈である。
然り乍ら、「荒魂」の「荒神」の「悪神」は消えているのである。
「庶民の消化力」は、”時には「仏教力」を超え、時にはその「仏教力」に頼る。”と云う能力を発揮する。
ここが、「密教力に頼った氏」青木氏とは、その柔軟性には大差がある。

一方、全国的に「御宮参り」のみではなく、一切の「神事」に参列する「稚児(ちご)」が、同様の「朱印」を付ける慣習が関西には未だあるが、これらは上記した「武家の習慣」(あやつこ)が逆に庶民に同化したものである。
庶民は、”自らに利あり”とすると、”貪欲に余計なものを取り除いて、「自らの神」として同化させる。”のである。
古来より、「武家」の「朱印」の「あやつこ(綾子)」を付けたものは、「神の保護」を受けたものであることを明示し、それに触れることを禁じたのであった。
これが庶民に一部同化した「三宝荒神信仰」の名残である。

遺された「古来の絵」には、「奈良時代の宮女」には、「あやつこ(綾子)」の影響を受けたと思われる「化粧の絵」と、又、「象徴する物品」にもこの「朱印」を付ける習慣もあった「絵」が遺されている。
これらは「古来」の「伝統的」な「宗教」の「荒神祭り」の所以である。

参考
「あやつこ」とは、その語源は、”あや”は「言葉の綾」と云う風に、言葉と言葉の間の微妙な意味合いを指す。つまり、現世と彼世の間を取り持つ事を指し、「荒神」や「毘沙門天神」がその働きをすることから ”あや”成る言葉が使われた。
”つこ”の語源は、”やっこ”の「奴」に通じ、その「綾」を伝える物体を指す。
関西の一部では”やっこ”と呼称する地域もある。
つまり、「綾奴」の意味を成す。
東北の ”やすこ”は、”やっこ”(奴:荒神や毘沙門天)が訛った形で変化したものである。
「奴の顔」が「毘沙門天像」に似せて描くのもこの事から来ている。

参考
逆に、「地荒神」では、江戸期に入って「庄屋、名主、豪農、村主、豪商 郷士 郷氏 元武士」の屋外に、”「屋敷神」「同族神」”等として祀る「荒神」があった。
各地方で大きく祭祀の方法が異なるので、一概には言えないが、「名主や庄屋や豪農や郷士や郷氏」などの「旧家武家」では、「屋敷」かその周辺に「屋敷荒神」を祀る例があった
庶民の「地荒神」も、密教系の武家階級の「三宝荒神」と同様に、上記した様に、節句には、「荒神祭り」を、「稲作の収穫祭」のような感じを以って行われた。
これらは「頭屋制(とうや)」で、「同族や集落の家々」が「輪番」で祭を主宰する古い祭りの形式を伝えている。
これらは、”古来より土地に根付いた武士達”が、古来の「和魂」「荒魂」の概念を受け継ぎ、「密教の影響」をあまり受けなかった「郷士や郷氏」に受け継がれて来た。
逆の現象として「地荒神」が遺された。
未だ、地方の田舎に行けばこの慣習は細々と維持されている。


そもそも、この「荒神」の「像」は、「毘沙門天」や「不動明王」に通じた「怒りの形相」である。
「持ち物」は、一般には 右手…独鈷・蓮華・宝塔(五鈷杵・金剛剣・矢)。左手…金剛鈴・宝珠・羯磨(金剛鈴・弓・戟または槍)のような形がとられている。
これは上記した様に「毘沙門天像」と全く同じである。

つまり、「日本古来の荒魂の荒神」と「密教仏教伝来の神」とが融合して「荒神」=「毘沙門天」と成った事を意味しているのである。
古来の奈良期に起こった「初期の神仏習合現象」であって、「賜姓青木氏」はいち早くこの現象を捉えた事を意味するのである。
「毘沙門天信仰」=「三宝荒神信仰」であった。
それが、現在まで「伊勢青木氏」の「個人の家間」の中で、「古来の伝統」として頑なに維持されて来た事を物語る「密教作法」(節会作法)なのである。

(正直な処、もう少し早く筆者が「伝統の研究」に気が付けば、更に貴重な復元が成されていたとも感じられる作法である。何か違うなとは思ってはいたが、残念ながら、「有形の物品」では無く、「無形の作法」であったところが落とし穴であった。)


・「注釈3]
イに付いて、「家伝宝刀」は、現在は法律にて所持出来ないので、模型が使われているが、昭和25年までは、「伝家の名刀」(大小10振り)であった。
「武神」である事から、先ず「刀類」は祭祀には欠かせない。
「3つの発祥源」の「第四世族 第6位皇子」から「皇族」を臣下して初めて「公家」とは異なる生き方をする「武家」を発祥させた。
そして、この「武家」が「公家」とは異なり、初めて天皇を護衛する「武力」を持った身分の「侍」を発祥させた。
それまでは、”天皇を直接護衛する「親衛隊」”と云う組織は無かった。
「天皇」に四六時中、着きつ離れずに「さぶらう役」から”さむらい”(侍)と呼称される様に成った。平安期には”「武家」の「さむらい」”が護る事から、「武士」と呼ばれた。
この「武士」が宮廷の北門を護ることから「北面武士」と呼ばれた。

この最も有名な侍としての歴史上の人物は「源の頼光」であろう。
「藤原道長」に終身仕えこの「武家」ー「侍」としてその「典型的な役」を全うした人物である。
この「武家ー侍」は、下記に述べる「武人」「防人」「鎮兵」の「兵士」とは別であった。

因みに、この「武家出自の侍」の位置づけがどの様な所にあったのかを論じて置く。
それまでには、次ぎの「3つの武装集団」が奈良期から室町期末期まであった。
1 中央の豪族や地方豪族が「従者と隷者」に武器を持たせた軍があった。これを「国造軍」と呼ばれた。評や郡の地方組織が独自に編成していた。
2 阿多倍王に率いられた後漢からの「職能軍団」が存在した。「漢氏」と「東漢氏」と呼ばれ蘇我氏等がこの職能軍団を雇っていた。
3 奈良期の「大宝期」に「国家統一」の為と、沿岸部が他国から侵略される事が多く成った為に、国による軍団が編成された。
税に対する目的から初めて戸籍(庚午年籍)が天智天皇に依って編成された事を踏まえて「徴兵制」が敷かれた。これを兵では「防人」や「鎮兵」と呼ばれ、将では「武人」と呼ばれた。

これらは「武装集団」であって、個人としては「一般人」であって、「個人」がある「特定の人物」等を「武」を以って護りさぶらう役目の「武士」即ち「侍」は、「武家の賜姓青木氏」が初めてである。
この”「武家」”は、江戸期に「一般武士」を以って”「武家=武士」”を呼称されたものとはその意味が異なる。
この「武家」は「公家」に対する呼称で、氏家制度の中で「氏」を大きく構成する家筋の「身分家柄」を意味するのであって、「立場」のみを意味しない。

上記123は、3に集約されて平安期は朝廷軍、鎌倉期は幕府軍に成り、この軍団の編成は、指揮する上位5階級までは「侍」の「武士」が全てを担う様に成った。
その5階級の「武士」の配下にそれぞれの従者や隷者(家来、家臣と呼称した)が編成して軍団を編成する様に変わったのである。

その軍団の指揮に当たるのは上位5階級の軍階級であった。
大毅(だいき) 大軍団 小毅2名 
小毅(しょうき)小軍団 500人
校尉(こうい) 200人
旅帥(ろそち) 100人
隊長(たいちょう)50人(一騎 最低単位の指揮官)

以上が兵士を統率した。
軍団は百人単位の編制である。

主帳(さかん)主計局
火長 炊事斑 10人

奈良期からの一騎の隊長は、自ら50人の兵士を何らかの形で集めなくてはならない。
この兵士には、上記2の傭兵も含めて、常時、家臣として確保しておく事が義務づけられる必要があった。
実際は、平時はこの6割程度の範囲で治めていた。
この常時の一代限りの傭兵の俸禄は家臣の約半分120石程度が相場であった。
武器具は、原則手弁であった。大型具などは軍団の指定支給であった。
鎧兜等の特殊具はその軍団の経済力に左右した。
戦いの時は4割の兵を「鑑札をもった者」(仲介人)に頼んで近隣の村から農兵等を集めて貰う。
「上記2の末裔」は、地方で細分化した「傭兵軍団」を編成し「・・党」を形成して、各地に”「国衆」”として転戦してはその勢力を拡大させて行った。
勢力と転戦の経験に依ってその「傭兵の契約金」が変わる仕組みであった。
この制度は、室町期末期まで続いた。

以上の軍人に対比して、「賜姓青木氏」は「3つの発祥源」の立場にあった。
「軍人」≠「侍」で、「侍」は「武家」を構成した。
奈良期から、「技能官人」と呼ばれ、その官人は二つに分類されていて異なった世界を持っていた。「武術の技能官人」
「単なる技能官人」
とがあった。
前者は、「侍」として「武家を構成する高級官人」で、公家の上級官僚の「侍」を務める。
後者は、「武人」として、「家柄、身分、位階等を有しない下級官人」で軍団に所属する。
大化期前までは、後者の「武人」と徴兵制で集めた「防人」に依って編成されていた。
「武人」は従者や隷者を集めて兵士を構成した。

大化期後は、「青木氏」の様に、特定の賜姓により「武家」を新たに構築して、「特定の人」をその技能を以て護衛する官人を新たに作り上げた。これをその役職から「侍」と呼称した。
そもそも「侍」とは、”天皇を含む上級の特定の人にさぶらう事”で、この”「特定の上級の人」”は、「仏教の作法」で、生きている時から、「法名」としての戒名の”「寺・院」”を持っていた。
この「寺院の人」に”「さぶらう人」”で、この「寺と人」の造語として「侍」として、これを”さむらい”と呼称する様に成った。
(天皇等の人が位階在位を退いた時に、この自分の”「門跡寺院」”に入る。)
これが、最初に「賜姓」を受けて成ったのが、当に ”「青木氏」”であった。
この「武家、侍」の「二つの発祥源」に続き、「天皇」は「万民の象徴」として「民族の頂点の人」として位置づけられ、これに従って、その子は「真人族、朝臣族」として、賜姓して下族臣下すれば、「民の発祥子の元」として位置づけられた。
”「民は天皇の子」(朝臣子)”であるとする「万民一計の図」から、況や、”その「子の発祥源」と成り、その「子」の範たる位置を成す”とされた。
この”「賜姓五役」”を与える代わりに「不入、不倫の権」の大権を与えた。

参考
(平安末期には、「源氏」の様に「武家」を構成しても、必ずしも「侍」に成れるかは保証は無かった。特に分家筋には「侍」に成る為の就職活動や縁故が必要であった。嵯峨期詔勅で、”朝臣の身分を与えるから自ら切り開け”と明記。 強いて”幾つもの難しく重要な役目”を与えられた「青木氏の賜姓」とは異なった。嵯峨天皇は、”これは民に負担を掛けない事による”と明記した。従って、天智天皇から光仁天皇までの「青木氏の賜姓」と、嵯峨天皇から花山天皇までの「源氏の賜姓」とは意味が異なっていた。「青木氏の賜姓」は「役を与える賜姓」、「源氏の賜姓」は上記の「朝臣子のみの賜姓」であった。 況や、「皇室の負担減らし」であった。これが、社会に「戦乱の前兆」と「荘園制の弊害」を生んだ。)

・「注釈4」
ロに付いて、「武の基本所作」の「軍配挙手」では「伝来の扇軍配」を持ち、伝来の馬杯に酒を注ぎ、「馬杯酒飲」を行い、「刀剣手掛」では鹿の角で出来た「伝来刀掛け」に刀を掛ける所作の3つを行う。
結局、次ぎの所作が成される。
一 「武家」には「伝家の宝刀」
二 「侍」には「将騎」として「伝家の軍杯」
三 「朝臣子」には「伝家の馬杯」
四 「国策氏」には、「永代正二位青木朝臣左衛門上佐」として「伝家の家紋刀掛け」
五 「融合氏」には 「陣笠」と「黒瓢箪」(江戸期は鎧兜着用)
以上は、「賜姓五役」と呼ばれた
紋付袴の正装でこの儀式を嫡子が行う。
(「鎧兜具足類一式装」は明治35年に消失した。)
「三つの発祥源」の「三つの役目」には、夫々の「伝統の武具」があって、それを使って、「武の所作」を指し示す事に成っていた。
ところが、江戸時代中期までは、この「所作」にも”正式なもの”があった様で、現在では伝わっていない。
一族一門が集まっての「盛大な儀式」であったらしく、「一族一門の者」から次ぎの時代を担う若者が選ばれていた。
青木氏は、慣習仕来りから一族の者は全て子供であり、「福家」のみの子供とは限らない。
15歳程度の若者が複数選ばれてこの役目を果たしたとある。

参考
一人とは限らず、主な5人がこの「5つの役割」に分けて務めたとある。選ばれる事に誇りを持っていたとされ、何時しか、「青木氏」をリードする役目を担わされる事が約束された儀式でもあった。
世間への”お目見え儀式、お披露目の儀式”の”意味合いも兼ねていた”とされている。
古来よりこの「賜姓五役」には、細分化すると「多くの役」を持っていた事があって、「守護神」、「神明社」、「菩提寺」、「絆青木氏」、「殖産事業」、「二足の草鞋策」、「伊勢藤原秀郷流青木氏」・・等に分けて、その「若者の長所」を見抜いて若い時から指定して、「部の長」等が彼等を教育し指導する体制であった。その為に、一門化する為に女系の「2つの絆青木氏」(「部の長」)を広く構成した。「武家」の「賜姓五役」と「二足の草鞋策」(殖産・総合商社)であった事から、現在の会社組織に類似していた。
若者が足りない時は、「信濃」から「甲斐」から一族の若者を養子として子供の時から養育していた。
この「賜姓五役」の達成の為の「神格偶像」を求めて、「五つの儀式の所作」には、「三宝荒神信仰」と「毘沙門天信仰」が組み込まれていた。


・「注釈5」
ニに付いて、これらの「所作伝統」は「福家」が行うが、「笹竜胆紋入りの幔幕」がその「象徴物」として用いられた。
然し、現実には、現在では「幕」の家紋部の一部を見せるだけで「幕」としての事はしない。
「幔幕」を張る事への世間への余りにも違和感が、現在ではあって実行しない。
大正の終わりまで行われていた。むしろ、明治期までは、「嵯峨期の詔勅と禁令」が明治期まで護られた事もあって、「賜姓族」として誇示をしていた傾向があった。
大組織を維持する「青木一族と長の判断」だけでは無く、組織そのものが、その様に押し上げる傾向があったらしく、「幔幕」は、その「誇示する象徴物」で「家紋」と同じ意味を持っていた。
むしろ、「家紋」そのものを”誇張する道具”でもあった。
「伊勢青木氏」は、「四家」と呼ばれる家が伊勢の各地にあって、松坂を中心に、員弁、桑名、名張、四日市に「一つの流れ」を持っている。
しかし、家の優先順位は無い。ただ、全体のリード役としての家を「福家」と呼称し、「・・殿」と着けて呼称する。「松阪殿」が「福家」である。
武士で云えば「本家ー分家」の組織に成るが、氏家制度の「絶対的権利」を持っていない。
従って、「本家ー分家」の家紋では無く、「氏の象徴紋」である。
従って、「家紋」では無い為に「副紋」や「丸付き紋」は使用しない。

この「幔幕」の中央より左右に大きな「笹竜胆紋」の文様が染め込まれていた。
一族一門とそれに連なる関係者(氏関係者と商業関係者)が羽織袴で挙って集まり祝いする。
この「主な儀式」(四大節会)には次ぎのものがあった。
「氏に関係する儀式」は「端午節会」
「女系の氏に関係する儀式」は「雛節会」
「伊勢族に関係する儀式」は「盆節会・彼岸節会」
「伊勢四家族に関係する儀式」は「暮節会・正節会」、
後は、「親族の内家」で、「荒神毘沙門信仰」として「月節会」が簡単に行われた。
(実は、「稲荷信仰」も、「古来の和魂宗教」と「祖先神の神明社守護神」の「伊勢神宮 豊受大御神」の関係から、「賜姓五役」の副役として細々と行われていた。)
以上が盛大に行われた。

参考
相当の経済力が無いとこの節会は行えず、「信濃青木氏」は、「伊勢青木氏」との親交が深かった為にいざ知らず、「甲斐青木氏」は、その「二足の草鞋策」への取り組みがあまり積極的に無かったことから、独自に以上の様な「密教の儀式」を行えたかどうか、将又、「節会の作法」等を遺し得たかは疑問である。
室町期中期頃からは「甲斐青木氏」には家勢から無理であったと観られるし、何がしかの記録に突き当たらない。
普通の江戸期の「五節句」程度の事の祝事は営まれていた事は考えられるが、「密教性作法」のものは考え難い。

中でも「端午節会」は、信濃、甲斐、近江、美濃一族と関係者を集めての儀式であった。
菩提寺と居宅に幔幕を張って行われた。
幔幕には「賜姓族」を表す「白幕」と「青幕」があった。
「白幕」は、「嵯峨期の禁令」にて「賜姓族青木氏」以外には一般には使えない事に成っていた。
この禁令も明治期まで護られていた。
「笹竜胆の家紋入白幕」は青木氏に関わる上記の「四節会」には使われた。
一般では「黒幕か濃紺幕」であるが、「青木氏」は、葬儀、法事でも「白幕」を使った事が判っている。
これは、その「使用する目的」によって分けるのでは無く、上記した様に「紅白角餅」等と同じく、「白」は「氏色」であった為に用いた。この事はよく聞かされていた。
「白色」の中に、「黒色の笹竜胆紋」が染め込まれている。
「青幕」(緑系青)は、「氏木」の「あおきの木」の色であった事から、独自の「副氏色」として使用していた模様で、婚姻、祝事等の「密教性作法」に関わらない諸事に用いられた。
何事にも「白幕」ばかりを使う事には、朝廷や他の賜姓族(秀郷流青木氏一門)に憚られたと考える。
青の幕の中に「対の白の笹竜胆紋」が染め抜かれている。
(現在も伝来品が遺されている。筆者の息子の結婚式に使ったところ質問攻めにあった。)

参考
因みに、その盛大さは、「超大地主」であったことから、奈良や紀州や伊勢の各地の農民等の代表者等が泊りがけで集まったと伝えられている。
その為の宿泊の準備では、「菩提寺と関係寺の解放」、「各地神明社の解放」と「全ての居宅や旅館」を確保したとされる。
「土産物」「引き出物」などは、地元の家々の分も大八車に載せて列を組んで運んだと聞かされている。
明治35年以降は、「端午、雛の節会」は、形式的に終わらせ、「盆彼岸の節会」は普通に内家で行った。
現在は、「盆彼岸の節会」「暮正の節会」は「毘沙門天荒神節会」と合わせて家内で形式的に消えない範囲で行っている程度である。実際のところ”文書に遺せる範囲の維持”と成っている。



> 終わり。
>
> 「伝統」-6に続く。

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:「青木氏の伝統 4」-「道標行燈」


[No.321] Re:「青木氏の伝統 4」-「道標行燈」
投稿者:福管理人 投稿日:2014/07/29(Tue) 11:15:23


伝統-4

「道標行燈」



青木氏には何気なく行っている作法がある。
それを良く調べると、奥が深く膨大な歴史を持っている事が判り、他氏とは異なっている事がある。
今回は、祭祀の際に置く「行燈」等の作法に付いて論じる。
この行燈作法には計り知れないほどに意味を持ち、歴史をもっている。
この「行燈」は、普通より大きめで、真ん丸で直径70センチ位あり、高さが1メートルはある。
この「行燈」は、華やかに蓮や桔梗の花などが書かれている。
真ん中に氏の象徴の「笹竜胆紋」が書かれている。
行燈の中には、周り灯篭が仕組まれている。
先祖代々が引き継いできた物である事は一目瞭然で判る。
修理手直ししながら使い込んできている事が判る代物で、筆者も何度も手直しをした。
金銭的な節約事で「古い物」を使っているのではなく、”「先祖伝来物」”と云う感覚が強いし、手直しの跡が愛おしくその様にさせている。
この「古い行燈」そのものには現在のものと同じで何の意味もない。
”その行燈を使う作法”に異質の歴史が浸み込んでいるのである。
この歴史が浸み込んだ「行燈」は、”「迎え行燈」”と呼ばれていて、「仏壇」に添えるものでは無い。
家の祝い事、不幸事、法事などの所謂、”祭祀”に使う。
その為に、青木氏の多くの「喜怒哀楽の歴史」を観て来た行燈なのである。
果たしてどのような歴史を持っていて、無言で我々に何かを語っている様な気がする。
それだけに、この無言の歴史を解明したいと云う気がするのである。
そこで、又、筆者の癖が出た。

「迎え行燈の意味」
この「迎え行燈」のその目的は、”先祖の仏を家の中に迎え入れる道標”であるとされている。
これが、”最大の異質の歴史”である。
”先祖の仏を家の中に迎え入れる”と云う事自体がおかしい。”「仏」を擬人化している。”
この概念が先ず最初に大きく違っている。
「仏」をただ単純に「仏」として迎え入れるのであれば、何処でもお盆にはしている作法である。
しかし、ここが違っている。”「仏」を「人」として迎え入れる”と云う概念なのである。
それは、「道標」としての「行燈」を設けて”ある作法”で迎えるのである。
「仏」ならば、「道標」はいらないし、「ある迎える作法」もいらない。
「人」として迎えるから「道標」が必要であって、”お帰りなさい”と「迎える作法」が必要に成る。
つまり、「人」から「仏」に代った「彼世の仏」を「現世の人」としてこの世に迎えると云う作法である。
つまり、「有形の人」が「無形の人」に成って、現世に戻って来ると云う事に成る。
其処には、”「有」から「無」に代っただけ”で、”「人は人」”と云う概念である。
彼世にいる「無の人」を「仏」と呼んでいるに過ぎない。
依って、結局は、「有」と「無」の持つ意味の差によるだけの事に成る。
この概念でこの作法は構成されている。

夜に成ると、「周囲の灯り」を消して、この「迎え行燈」を窓際に据える。
この時、一通りの「仏法作法」がある。
この「行燈」の前に、「机経台」を据えて花を生ける。
「燭台」と「香炉」を据える。
夜7時に成ると「迎え行燈」の灯りで、「般若心経」の経典を読む。
この時、経典は三代前までのご先祖の数だけ経典を諷誦する。
家族全員が集まり、その家の女主(妻)が導師と成る。
この「仏法作法」によって”仏の人”を家の中に導いたとされる。
これにて、「現世の者」と「彼世の者」が集う事で「一切の祭祀」が行われる考え方である。
祭祀が終わると、「送り行燈」として同じ作法で送りだす。
お盆の時は、「迎え火」「送り火」も併せて行うが、この務めは家長が行う。

この「作法のポイント」は、”現世と彼世の者が集う”と云う事にある。
”祭祀は「現世の者」だけが行うのではなく、「彼世の者」も共に行う”と云う概念である。
これが、「密教」であり、「青木氏」が、「古代宗教」と「古代仏教」の中で作り上げた概念である。

「密教の考え方」
「密教浄土宗」では、要約すれば、「現世と彼世」とは、「有の世界」と「無の世界」とにのみ「差」があるとする考え方で、それ以外には、”特段無い”とする考え方である。
「人の死」とは、”その「有無の境界」を単に超える事”に外ならないとしている。
「般若心経」の密教仏説の文言を忠実に守っている。

そして、その「現世と彼世」との間には、何がしかの「接着剤」か「橋渡し」の役目のものが必要に成る。
これは「自然の摂理」である。
この世の万物には、必ずあるものとあるものを繋ぐ”「つなぎ」”と云うものが必要で、これなくして、「有の物質」は成り立たない。
「原子分子の世界」にも、この”「つなぎ」”とする「中間子」や「中性子」なるものが存在する。
宇宙もこの原理に従っている。もっと平たく言えば料理でも「つなぎ」が左右する。
要するに、論文的表現としては”「媒体」”である。
それが、「伝統2」でも論じた様に、”「香」を額に当てて香炉に焼香する事で繋がる”としているものである。
現在的に、「科学的な根拠」で云えば、「右脳」から発する「ベータ波」による「媒体」で「複眼」からそれを発して、彼世の人に通ずるとしているのである。
何度も他の論文で論じた様に、これは一概に無根拠では無い。
また平たく云えば、「母性本能」は、当に、この「ベーター波」を無意識の範囲で使って子供を育てる本能を遺している。
”心頭滅却すれば火もまた涼し。”の通り、”人は心頭を鍛え雑念を除く事さえできれば、「有の世界」にあっても、「有の世界」から「無の世界」に移行出来得るのだ。”としている。
要するに、「無の世界」は、「有の世界」と”乖離された世界では無いのだ。”としている。
(科学的根拠の無い作法では必ずしもない)
”これを強調する教派が、況や、「密教」である。”としている。
その”無に到達する手段(作法)”が、「三大密教の教義」の差に成って表れている。
中には、その「到達手段」に主眼を置いた「禅宗」というのもある。

この「古代仏教の概念」に依れば、「有の人」「現世の人」の「有」とは、”「雑念」”と云う事に成る。
「有」=「雑念」と云う事に成り、「雑念の世界」「雑念の人」と云う考え方である。
従って、その「雑念」を一時的に取り外せば「無」に成るのであるから、「現世の人」は、「無の人」に成り得て「彼世の人」と同じ位置にいる事に成る。
同じ位置に居る事に成れば、”話は通ずる”と云う概念と成る。

さて、ここまで、「有と無の媒体」と「無の到達手段」があれば、後は、「有の世界」に欠けていて必要なものがある。

「偶像の神格化」
それは、「有の世界」の「有の人」は、その「雑念」を取り除いたとしても、「虚空」に向かって、「無」に成って話しかけても、広すぎて通じない。
これも例外の無い「自然の摂理」である。
それには、”「有の世界」と「無の世界」からも一か所に集中させて、それに向かって「べーター波」で話し合えば通ずる”とする概念が生まれる。
つまり、それには、何事も ”一か所に集中させる物”が必要である。
それが、世にいう ”「偶像」”である。
そして、その「偶像」を神格化して祭祀しすれば、”「有と無の世界の連携」”は成り立つとしている。
従って、その「祭祀」は、その「有の世界」にある「偶像」にまきわり着く「有の雑念」を常に取り除いて置く事である。
その事で”偶像は神格化する”とした「仏教の密教概念」である。

実は、このこの「仏教の密教概念」(下記)には、ただ単に「仏教の密教概念」だけでは無く、「日本古来の宗教概念」(下記)が習合しているのである。

それが、本論下記の「毘沙門天」の「神格化の偶像」と成る。
(伝統-5で論じる。)

さて、「無の世界」から迎え入れた「先祖(仏)の居所」は、「仏間の仏壇」(仏舎)にあるとして、祭祀では、必ず「仏壇」(仏舎)は飾り立てる。そして、迎える。
しかし、この”「仏壇」”(「仏舎」 ここでは「仏壇」と云う呼称を使う)に、上記の「神格化の偶像」が無ければ成らない。
特段に、「仏舎」には無くてはならないと云う事ではない。
この考え方は、奈良期の大化期前には未だ無かった概念である。(下記)
「仏教思想」が伝来して起こった概念である。
その前の「日本古来の宗教概念」では、「自然神」に依る概念が全体を占めていた。

「日本古来の宗教概念」とは、「和魂荒魂」の「宗教概念」であり、”「人」は自然の一物 依って「人」は自然に帰る”と云う事が主要な概念であった。(下記)
全ての思考原理は、この主要な概念の基に従う。
”「付加価値」”の就かない「原子思考の原理」である。
現在の「日本人の思考原理」には、多くの「付加価値思考」が付加されて、”現在思考の原理”が出来上がっている。
しかし、それを”玉葱”の様に、その”付加価値の思考原理”の皮を外して行くと、最終、この「原子思考原理」に辿り着く。
それが、この、”「人」は自然の一物 依って「人」は自然に帰る”に成るのである。

取り分け、日本人は、「古代仏教の影響」を強く受けたが、「純粋な仏教」では無いものを造上げている。
それは、我々は、”「仏教」”と思っている「仏教」は、これも”玉葱”の様に、紐解けば ”「神仏習合の仏教」”というものである。
この「付加価値」が付いて、結局は”「神仏習合仏教」”というものに出来上がっている事に成る。

では、”「神仏習合」のその片方の「神」(和魂荒魂)とは、一体どの様なものであったか”は余り知られていない。
それは「日本古来」からある「日本の土壌」から生まれた「宗教概念」で、”「和魂荒魂の概念」”と云う「聞きなれない概念」で構成されている。
要するに、これが「玉葱の芯」ともいうべきものである。
その「玉葱の芯」とも云うべき概念が発展して、「自然神」が確立化されて遍歴して、遂には「古代神道」と云う概念を作り上げた。
この「古代神道」が「仏教」と習合したのである。
従って、「日本人」は、「和魂荒魂の宗教概念」から出来た「自然神」に通ずる思考原理が、「他の民族」よりも強いのである。
つまり、”「人」は自然の一物 依って「人」は自然に帰る”の「原子思考」が、「無意識の根底」にあって、「他の民族」よりも強いのである。
これが、「国民性」と成って遺されているのである。
依って、根底であるが為に、”グローバル化”に成る為として、強い「国民性」となっている「仏教原理」を外しても、この「原子思考」は外せない事に成る。

つまり、本論は、この影響を同じ「日本人」でも、”「青木氏」は最も強く影響を受けた氏である”と云う事を論じる事と成っている。
我々「青木氏」は、その「遺産」を強く「伝統」と云う形で持っていた事に成る。
何故ならば、「賜姓族」と云う立場の柵(賜姓五役)があって ”それを引き継ぐ立場に置かれていた”からである。
その引き継いだ「原子思考」と成っている概念が、況や「密教」と云う形で引き継いで来たのである。
「原子思考原理の概念」=「青木氏の密教」
簡単に云えば、”「人」は自然の一物 依って「人」は自然に帰る”の考え方が一番強い氏と云う事に成る。
では、その「青木氏の密教論」を下記に論じ事に成る。

注釈
(余談であるが、筆者は、何故か子供の頃から、「自然物理」が大好きで、その道に入った。
しかし、そうなれば、”理屈を唱える者”に成っていた筈である。
ところが、一面では理屈の根本と成る「宗教の様な概念」も好きで、子供のころから”歴史大好き”の若者であった。
取り分け、筆者の頭の中には、「物理」+「歴史」=「自然」の考え方が構築されていた。
何れも共通項は”「自然」”に通じている。
これは、無意識の生活の中で、この「青木氏の密教概念」で育った為か、或は、”遺伝子的”に継承されて来たものかも判らない。
然し、親からは、”不思議な子”と云われ、”先祖の誰々によく似ている”と云われていた。
先祖の中に4代目や7代目位前にもそのような人物がいたらしく、「青木氏」に良く出る隔世遺伝らしいことは判っている。
故に、「青木氏の由来の復元」が出来るのではないかとも考えていて、親も故に私に「復元」を依頼したと考えている。
それは「理屈と歴史と自然」の性格を持っている事を見抜いたからで、親は「家の伝統」の事を、私だけに口伝し資料や記録でも渡されていた。
この「家の伝統」の一つで「密教所作」から論じる。)


「密教作法」
そこで、「道標行燈」の「密教所作」では、「普通の日」は、据えないが「祭祀の日」には「一対の周り灯篭」を”「仏壇」”(仏舎)の左右に据える。
次ぎに、「客間に据えられた囲炉裏」に大きな黒い「南部鉄瓶の茶釜」が据えられて湯煙を上げる。
普通は、作法として「密教」を主教派とする家には、南向けた客間の右隅下に必ずこの囲炉裏があった。
昔は、この「茶道用」の「囲炉裏端」には、それなりの家筋に行けば必ず据えられて居り、直ぐに作法が出来る様に、それなりの「諸道具一式」が治められた「茶箪笥」なるものがあった。
(現在も筆者の家にはこの伝来の竹で出来た物と黒檀で出来た茶箪笥が遺されている。「囲炉裏端」もある。)
「密教寺」の「浄土宗寺」には、現在でもセットになって本殿仏間にこの様式のものがある。
この「湯煙」は、”部屋の空気を清める”と云う作法が先ずあって、その「清める内容」としては、「空気と雑音」である。
「空気」は「湯煙」で浄化させ、「雑音」は「余韻」にとする。
これは、上記の”「雑念」を取り除く為のよりよい環境(空気と音)”を作り出そうとする決められた「密教作法」である。

先ずは、その「韻」は次の様にして起こす。
筆者の家では「茶釜の作法」と呼んでいた。
先ず、水の入った「南部黒鉄茶釜」が沸騰すると、茶釜の中で「二つの韻」が起こる。
一つは”キンキンと鳴る韻”と、この”キンキン音”が先ず出始めると、部屋を静かにして置くと空気の揺らぎが無く成る。
そうすると、部屋の湿度がある一定に保たれ、茶釜の中の水分量があるところまで減少すると、この事から起こる茶釜の中で共鳴音が出る。
「湯の沸騰」による振動が、茶釜の中で響いて、膨張した茶釜の中の空気が振動して共鳴音が起こるのである。
締め切った部屋の中が加湿されてより音は伝わる事に成る。
蓋を僅かに開くと、この為に茶釜の中が片方が開いた状況と成り、「閉管」と云う「笛の原理」が成り立ち、 ”ブオーン ブオーン””キンキン”と茶釜の中で不思議な音が鳴り始める。
成り始めると、この茶釜の鉄蓋の外して、桐箱の様な形状の物を代わりに置くと、”共鳴音”は更に大きく部屋のなかで大きく共鳴する。
これで仏を ”迎える部屋の態勢”が出来上がった事になる。
つまり、”迎える環境”の中に、「雑念」が取り除かれた事に成る。
「仏間」にこの環境を作り出す事に成る。

参考
これにはある一定の広さが必要で、あまり小さすぎても加湿と室温が高く成りすぎても良くなく、広すぎてもその環境を作り出す調整が難しく出来ない。 
筆者も物理屋として試みたが、常温で常湿の範囲で周囲が板壁か土壁の部屋が良い事が判った。
これは”部屋の環境調節”が良く出来ると云う事である。

そう考えれば、室町期から江戸期に流行した「千利久の茶道」としての「茶室の造」が最適である事が判る。
恐らくは、「千利休の茶道」は、この「環境」を部屋の中に作り出す様に作られていたと考える。
つまり、「千の利休」は、恐らく、この”「古来からの密教の作法」”を知っていたと考えられる。
「千利久」の地元は堺であり、上記の大和川の湿地流域で興った「古来稲荷信仰」の地元でもある。
実は、「大和川流域系」の「古代稲荷信仰体」はこの「茶釜作法」を奈良期の古来より継承しているのである。
そこで、この「信仰の作法」から伝わった事か、或は、「伊勢青木氏」の「二束草鞋の商人」を通じて「密教浄土宗」から伝わった事かも知れない。
何れにしても、「千利休」の「茶道」は、間違いなくこの青木氏に伝わっていた「密教作法」の「茶釜の作法(環境と作法)」を採用したと考えられる。
「茶道」の「外の環境」も、周囲は樹木で囲み、湿度と酸素で温度を一定に保ち、中は上記の「茶釜の環境」を作り出した部屋にしたと観られる。
「堺商人」も小西行長の様に「二束の草鞋の商人」で「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」とも接触はあった。
この”「茶釜作法」の環境”は、人間が最も心癒される静寂、且つ、次元が異なる様な「不思議な心根」になる「環境」である。
恐らく、室町期末期から江戸期に発展して「茶道」は、この「茶釜作法の環境」をそっくり真似たものであると考えられる。
この「青木氏」や「稲荷信仰体」に伝わる「茶道の原理」は、「千利休の茶道」よりも、遥かに前から「青木氏」は、奈良期から延々と祭祀に用いて来た作法である。

「茶釜作法の謂れ」
さて、では ”何故、この作法が行われるか”の疑問ではある。
そこで、「無の世界への環境」が整えられて、「余韻と共鳴音」は、”無の世界への連絡”を意味しているのではないかと考えられる。
そして、”空気の揺らぎの無い加湿された静かな空間”が「無の世界の先祖」が居られる”「有の世界」の環境”としていると考えられる。
これが古来から伝わる「茶釜作法」が作り出す環境なのである。

恐らくは、「古来の人」は、「無の世界」の先祖は、この様な”「静かで良質な空間」にこそ存在し得る”と考えられていたのであろう。
従って、儀式毎には、この作法(「茶釜の作法」)を用いていたのである。
では、この「茶釜の作法」が「古代仏教」から来た作法なのか、古来の「和魂荒魂」から来る「古代神道」の作法なのか疑問が湧く。
「神仏習合」している環境であるが、敢えてこの歴史を調べた。(下記)

確かに、筆者から観てもこの作法の科学的論理には「論理的矛盾」はない。
人間が作り出し奏でた音では無い。「自然の原理」によって奏でられた音である。
古代にこの様な「自然の原理」を把握していたとは驚きである。
故に、”進んだインドー中国の文化の影響”を受けていたとも思える。
しかし、実は、この「密教作法」のところを調査研究していると、4世紀頃の古来より既に発祥した全く同じ作法を強調する信仰体がある事が判った。
それが、大和川流域に発祥した「稲荷信仰体」である。

「稲荷信仰体」
この「稲荷信仰体」は、自然の生活の中から生まれて来たもので、仏教の様に、概念の論理化された中での作法ものではない。
依って、「3世紀の卑弥呼の時代」から既に存在して居たと筆者はみている。
出雲から出た「弥生信仰の作法」では無く、「縄文信仰に近い作法」であるからだ。
つまり、土壌から這い出て来た「庶民信仰」と云うか「農民信仰」があった。
それは、「古代仏教」より少し前の古来より受け継がれて来た「古い信仰体」で、後に「伊勢神宮の外宮」の「豊受大御神」からの影響をも受け継がれてきた「民の信仰体」である。
むしろ、この「古い信仰体」は時代性から観て、「豊受大御神」よりやや早い時期に発祥している。
実は、この事に付いて書かれた「豊受大御神の定説」によれば、次ぎの様に成っている。

「雄略天皇」の時に、天皇の夢に「天照大御神(内宮祭神)」が現れ、”「自分一人では食事が安らかにできない。”
その夢の中で、”丹波国の「等由気大神(とようけのおおかみ)」を近くに呼び寄せるように”と神託した”とある。
そこで、同年、”内宮に近い山田の地に「豊受大御神」を迎えた。”とある。

そもそも、この説は”神代の時代の話”で「後付」の話である。
ここで、矛盾が一つある。
そもそも、伏見の神社系「稲荷信仰」は、「豊宇気毘売命(とようけびめ)」等の五主神格としている。
この「稲荷の豊宇気毘売命」と「稲荷の等由気大神」とは同神である。
「等由気大神」を勧請したのであるから、「稲荷神」の方が先と成る。

そもそも、信用できるのは、歴史論では「継体大王」からの話である。(現在の定説)
「伊勢神宮」ともなれば「天智天皇」と「天武天皇」と「持統天皇」の事である。
正式に「伊勢神宮の正式な体制」が出来上がったのは、「天武天皇期」の685年である。
全てが正式に動き出したのは「持統天皇」の690年である。
そもそも、元の「内宮」に対して「外宮」を設けての「祭祀の形」は685年と成る。
一方「稲荷信仰」は、地形上から観ると、大和川流域に広がった信仰体とすれば、「ヤマト王権」期の初期には既に、この流域の湿地帯には稲作をする民が定住していた事が判っている。
そして、堺付近の港に大船団で韓から来て上陸し、大和川の流域を制圧後、更に南の「紀族」を制圧して紀伊半島の南端から大和盆地に攻め入ったとある。
しかし、食糧調達が困難と成り、この地域を統治していた「五族」と和平して、この「五族」と共に「政治連合体」をつくった。
これが「ヤマト王権の樹立」である。
「継体大王」(507年から531年)として君臨した。
この時には、既に古来の「民の信仰体」は大和川流域には出来ていた。
何故ならば、「継体王」が、先ず最初にこの「穀倉地帯の重要な流域」を戦略的に制圧したからこそ、「連合体の大王」と成り得たのである。
つまり、この時期には、既に「民の信仰体」(少し後に「稲荷」と呼称)が出来ていた事に成る。
とすると、「稲荷信仰体の原型」は、480年頃から500年までの事に成る。
そうすると、185年から200年前の事である。
「稲荷信仰体」として、流域に「飛鳥期の石塚」が多く見つかった時から考えても、「天智天皇期」の「豊受大御神」を考えても、どんなに考えても100年程度以上前と成る。

更に「日本書紀」では次のように書かれている。
要約すると、次ぎの様に成る。
「稲荷大神」は、「欽明天皇」が即位(539年)する前に、”渡来人の「秦の大津父」という者を登用すれば「天下」をうまく治めることができる”とお告げがあった。
結局711年に、”「秦伊呂巨」が、この「稲荷大神」を「氏神」として納めて国を治めた”とある。
(この頃には、丹波の淀川流域にも「稲荷信仰体」は広がりを見せていた。)

既に、「稲荷信仰」は、539年には、正式には「神道の伏見稲荷」があった事に成る。
この事から、上記の”「稲荷信仰体」が外宮より先だ”とする説は成り立つ。

依って、「豊受大御神」は、この”民の原型の様な「稲荷信仰体」の影響” を受けてのものであると観ていて、通説の逆の経緯を辿ったと観られる。

”民のこの信仰体”が余りにも大きく、且つ、「五穀豊穣」を民から願う信仰体であった。
この事から、”追随して遷宮したばかりの「伊勢神宮」に「外宮」を設けて、「五穀豊穣の神」の「豊受大御神」として受け入れて、「民の信仰体」を追認する形を採った”と考えられる。

その「稲荷信仰体」は、「東大阪の淀川沿いの南域の湿地帯付近」に発祥した全ての「民の古代信仰体」である。
(この湿地帯は3世紀頃は「大和川沿いの奈良域西域の広域」にも広がっていた。)
これは「五穀豊穣」を「民の願い」として発展した自然発生的に広がった”「稲荷信仰」”である。
後の「秦氏の氏神 伏見稲荷大社」の「稲荷信仰体の原型」と成った「古代信仰体」である。
(この事は「青木氏の守護神と神明社」で詳細に論じている)
この「民の稲荷信仰」は、節句毎にこの上記した様な儀式を行っていたと記録されている。
現在も”お稲荷さん”として行われている事が判っている。
この「稲荷信仰の発祥地域」の近くでは、有名な「仁徳天皇陵」等の「古墳群地域」でもある
又、古くからこの近隣には「遷宮の社殿」が多くあった地域帯でもある。
更には、記録にもある様に、「飛鳥の桜井」の地域まで広がる「稲作の環境」であった。
「稲荷」、又は「稲成」と云う字を使ったものも多い通り、”「稲」が成る”の意味を持っていたのである。
この”稲が成る”の”民が集まっていた地域帯”にこの「信仰体の遺跡」が多く分布している。

一般的には、「古代密教」にも、この「儀式の作法」も頻繁に行われているので、それが「庶民の稲荷信仰」にも受け継がれたと考えられるが、その逆なのである。
何故ならば、更には、大和に私伝として最初に普及させた地域は、鞍作部の「司馬達等」が「古代仏教」を伝えたのも、この「河内岸和田域」から「奈良高市郡」に掛けての作業場庵等があった地域である。
この地域には、 ”渡来人の「部民」の在った地域”でもある。
古来より、この「湿地帯の付近」に集まって生活し、そこで自然発生的に生まれた「稲の恵みの神」の信仰体のある地域に何と異教の「私伝仏教」が広まったのである。
兎も角も、この環境からこの「密教作法」が受け継がれて来たと考えられる。

実は、この「稲荷信仰体」には「仏教の稲荷信仰体」もあるのだ。
その有名な信仰体が、実は大阪の「豊川稲荷」なのである。
上記の「伏見の稲荷信仰体」と異なるのである。
つまり、この「豊川の稲荷信仰体」は「神仏習合の信仰体」である。

元々、日本古来の「民の信仰体」の「稲荷信仰体」が、大和川流域に広がりを見せていた中に、司馬達等らの渡来人の技能集団が住み着居た。
ここに、この「司馬達等」の私伝の「古代仏教」が、自然発生的に広がり、ここで、「民の稲荷信仰体」との「習合」が起こったのである。
これが、「豊川稲荷寺院」なのである。

この「茶釜作法」は「民の古来信仰体」の「稲荷信仰」が生み出したものではある。
然し、「神仏習合」の結果から、伝来の「古代仏教」にもこの「茶釜作法」が伝わったのである。

この現象は次ぎの様にまとめられる。

ア 「上位の古来信仰体」の「和魂荒魂の信仰体」 ー公伝の古代仏教との習合 552年頃
イ 「民の古来信仰体」の「稲荷信仰体」       ー私伝の古代仏教との習合 522年頃

奈良期にはこの「二分化の流れ」が起こっていた事に成る。

この「上位の古来信仰体」(「和魂荒魂の信仰体」:天照大神の内宮)は、「豊受大御神」として、この「民の古来信仰体」の「稲荷信仰体の概念]を「外宮」として取り込んだ事に成るのである。
依って、「伊勢神宮」の中の行事でも、この「茶釜作法」に近いものが、現在も引き継がれているのではないだろうか。

(伊勢神宮の守護も任されていた奈良期の「伊勢青木氏」にも引き継がれ、奈良期末期からもこの「茶釜作法」は引き継がれている事から考えると、必ず近い形で遺されている筈である。)


「伊勢青木氏」が「古代密教」として細々とここまで引き継いできている事を考えると、「神仏習合」から、「伊勢神宮」にも何らかの祭事の中に引き継がれていると考えられる。
そもそも、朝廷では古来より「八節会の祭祀」が行われていた。現在も行われている。
従って、その中にこの作法として近いものが遺されている筈である。

さて、そこで「青木氏」は、普通に考えれば、当然に「ア」と云う事に成る。
ア 「上位の古来信仰体」の「和魂荒魂の信仰体」 ー公伝の古代仏教との習合 552年頃

果たして、そうであろうか。確かに、「イ」からでは無い事は判る。
しかし、「朝廷」とすると、上記の「豊受大御神」の源説により、「ア」と「イ」の両方からと云う事に成る。
「朝廷」は「ア」と「イ」の両方と成ると、「賜姓青木氏」が「ア」だけと云うシナリオは成り立つのか”と云う疑問が起こる。
これは検証してみる必要がある。
検証
そもそも、「天皇の夢」だけでその様にする事は先ずない。
朝廷が「イ」を「豊受大御神」として「外宮」で祭祀する様に成った経緯(上記説論)から考えて、それを”その様に仕向けたのは一体誰か”、或は、”発案したのは一体誰か”と云う事に成る。
この時の「執政」は、草壁皇太子に代って「施基皇子」が執っていた。
「伊勢神宮の遷宮」に関わった「天智、天武、持統に仕えた人物」と成れば、「施基皇子」だけである。
全国の政治に必要とする事柄を調査して、「善選言集」(善事撰集)にまとめて具申奏上した人物となれば、「施基皇子」だけである。
「伊勢国」と「伊勢神宮」を国司「三宅岩床連」に守護させていた人物は「施基皇子」である。
何れを採っても「施基皇子」だけである。
ここで、疑問が解ける。

「施基皇子」がこれだけの立場にありながら、他の者が執ったとは考え難いし、先ず立場上は取れないであろう。
然すれば、施基皇子が提案し実行したのに、地元の自分の「賜姓青木氏」が、”「イ」との関係を持たない”と云う事はむしろ矛盾である。
決して、”「ア」だけであった”とは考えられない。
結論は、「朝廷」と同じく「ア」と「イ」であった筈である。

故に、両方に持つ作法の「茶釜作法」であったのであって、「ア」と「イ」の両方の持つ「神仏習合の作法」であったのである。

実は、別の面からここにも証明する事柄があるのである。
そもそも、「稲荷信仰体」は、元より「五穀豊穣」である。
しかし、これをより進める為には、「殖産興業」も必要と成り、「商業」も必要に成る。
「稲荷信仰体」は、実は、この「二つの神格」も持っているのである。
この「二つの神格」は、「秦氏の氏神」として祭祀された頃(711年頃)から、この「二つの神格」を持った事が記録から判っている。

「施基皇子」の没年716年とすると、「日本書紀」を引用すれば、次ぎの様に成る。
妹の「持統天皇」から依頼されて「律令の根幹」にする為にと、全国を天皇に代って飛び廻った経験からも、終年「善選言集」の編集に取り組んだ時期714年頃と一致する。
恐らくは、「農業」を主体としての「五穀豊穣」に加えて、この「稲荷信仰体」に対して、「殖産興業・商業」を推進する様に上奏した。
それを神格化して、”「伊勢神宮」の「外宮の豊受大御神」の「ご加護」として進めようとした”と観られる。
その「青木氏の証拠」に、「伊勢青木氏」には、古くから「伏見稲荷神社の祠」と「朱鳥居」を持っていた事が伝えられていた。
そして、その「仕来り」では、現在まで「稲荷朱鳥居」を建立して祭祀していた。
口伝では、鎌倉期末には松阪の居宅には、「初代の稲荷朱鳥居」は未だあった様である。

「皇族賜姓族5家5流の青木氏」は、日本の「五大古代和紙」を「伊勢青木氏の奨励」で殖産した。
この「古代和紙」としての時期は、6世紀後半から7世紀前半と何れの五地域の記録にも遺されている。
「伊勢和紙」は「伊賀和紙」が主体と成っている事から、それを「他の賜姓族」に奨励した。

年代的には次ぎの様に成る。
この事から、そうすると、「賜姓」を受けた直後647年頃から地元の殖産を強化する為に始めた事に成る。
「大化改新」645年直後と云う事に成る。
外宮の「豊受大御神」は685年・690年の50年前に成る。
「伏見稲荷大社」711年の前に成る。
「古代仏教」の私伝522年と公伝552年の後に成る。

「五穀豊穣」は「当初発祥の神格」としては判る。
しかし、「殖産興業・商業の神格化」は、かなり早い時期であり、「古代仏教」の伝来後に成る。
そうすると、「大化期の直前」と成ると、古来の「稲荷信仰体」が、「古代仏教」の「伝来の影響」を受けた。
そして、「後漢の職能集団」の進んだ技量で、”「古代和紙を殖産態勢」にすること”を習得した事に成る。
当然に、その「殖産」のみならず「興業」には「財源等の基盤作り」が絶対に必要に成る。
その基盤には、「伊勢の守護の青木氏」が関わった事に成り、そうすると、早くて650年頃と成る。
それを「施基皇子」は、その「和紙殖産」への取り組みの経験を通じて、「殖産の奨励」を天皇に奏上した事に成る。
そして、自らも積極的に進め、子孫は950年頃には「余剰販売」まで漕ぎ着けた事に成る。
1025年には「大商いの総合商社」に発展させたのである。

(伊勢北部伊賀を実家とする「平清盛」がこの殖産に共同体として大いに関わった。清盛も「宋貿易」に関わった。)


結局は、「青木氏」は、朝廷と同じく「ア」と「イ」の両方の影響を以てして、「稲荷信仰との関係」もあった事に成る。
故に、伝わる「茶釜作法」は両方からのものである事に成る。
それだけに、この「茶釜作法」は、”単なる作法では無く”、”青木氏の歴史を物語る作法”であったからこそ、ここまで引き継がれて来た事に成る。
「単なる儀礼上の作法」ではここまで伝わらない。
当に、「茶釜作法」は「青木氏作法」であった。

「民の稲荷信仰」=「茶釜作法」=「青木氏作法」=「密教作法」

同時に、「民の稲荷信仰」は「青木氏の稲荷信仰」とも云えるのである。
「賜姓族と国策氏の立場」にある「伊勢青木氏」に取って不相応に見える「稲荷信仰体」は、ただ単に、「二足の草鞋策」の為の「ご利益の稲荷信仰」では無く、そのもの「青木氏の稲荷信仰」でもあった。

この背景には、「古代和紙の殖産能力」を高める為に、その殖産を「近江、美濃、信濃、甲斐」の「5家5流の青木氏」に奨励した事が上記関係式が広域に出来上がったのである。
その朝廷には、「豊受大御神の加護」を誓願して、「民の稲荷信仰体」を大きくする為にも、古来からの「五穀豊穣の神格」のみならず、そこに加えて「殖産・興業・販売の神格」を付加させる様に「民と朝廷」に働きかけたのである。

この為には、その「殖産・興業・販売」を成し遂げる「財力と技量と政治力と販売力」が必要であった。

(上申に依って、朝廷は「紙屋院」と云う役所を創設した。これが伊勢青木氏の「紙屋」の称号の元と成った。)

そもそもこの計画は、急に出来るものではない。
「財力」と「政治力」は「青木氏」が受け持ち支える事で可能である。
問題は、その「古代和紙の生産」の「技量」を高めなくては成り立たない。
そこで、この大和川流域には、「後漢の職能集団」が庵を構えて住んでいた。
そこで、彼らの高い進んだ「製紙の技量」を持ち込みむ事で成り立つし、「殖産」も彼らの知識を受け入れば可能に成る。
問題は、「販売力」である。
しかし、この時代は、未だ完全な「自由市場」では無く、「半市場の部経済」を敷いたばかりであった。
つまり、全ての「職能集団」から、その物を先ずは一度朝廷に治め、必要な分を税として取得し、その他を市場に放出する制度を取っていた。
結局は、「古代和紙」に関しては、「和紙の余剰」の販売は、「青木氏」が自らその市場を獲得して、売り捌く事に成る。
「半市場経済」とは云え、”売り捌く事 そのものの行為”を確立する事の難しさがあった。
更には、この時代は未だ「紙」では無く、「記録材」としては「木簡」が全てであった。
そこに、この「古代和紙」を生産し、殖産し、販売して、興業しようとしているのである。
当時としては、今までに無い ”全く新しい産業” を興そうとしている事に成る。
現在で云えば、パソコンか携帯電話に等しい革命である。
それも現在では無い、当に「大化期」である。
この時から「青木氏」は、”相当な覚悟を以てして奏上した”だろう事が判る。
奏上だけでは済まない。
「伊勢神宮の豊受大御神の加護」として「伊勢神宮」にも協力を仰がねばならない。
「民の稲荷信仰体」の庶民にも、その必要性を解き、生産してもらわなくてはならない。
彼らにしても初めての未だ経験もした事のない仕事である。
何れもなかなか納得はしなかったと考えられる。
しかし、”「氏」を掛けての挑戦”であった事が判る。
ここから「青木氏の商いの基礎」が敷かれて行った事に成る。

結局は、記録では、興業としての「商い」は、青木氏の記録では「古代和紙の販売」は950年頃と成っている。(正規の生産開始は730頃)
とすると、「殖産」を始めてから”300年”と成っているが、次ぎの経過を辿ったと考えられる。

A  和紙の良質な生産開始に50年   (730年頃 正倉院 紙屋院 白鳳文化 記録)
B  和紙の殖産を始めて余剰品を作り出すには50年    (770年頃 平城消費文化)
C1 商い態勢に50年            (810年頃 平安初期文化 摂関文化初期 記録)
C2 販売能力に50年            (890年頃 平安中期文化 摂関文化中期 記録)
D  興業として50年             (950年頃 国風文化前期 摂関文化後期 記録)
以上として観れば成り立つ。

S(初期)
初期の段階では「原材料の調査」、「生産する農民」の養成、適切な「耕作面積の獲得」、
それを和紙にする「技量の習得」と「職人の養成」等で、思考錯誤しながら基盤を作った。
とすると、次ぎの様に成る。
以上には、一期毎に50年程度の相当な期間が掛かったと考えられると、納得出来る。
「本格商い開始- 50年- 「950年」

E(完成)
「総合商社」として75年           (1025年 国風文化後期」 記録)

この期間に関しては、「紙」は「文化のパラメータ」である。
以上の様に、この「古代和紙」の「紙」を日本最初に作る事に挑戦したのが、「5家5流皇族賜姓青木氏」なのである。
日本のこの「紙文化」には必ず「宗教文化」が伴っている。
従って、青木氏の一面の”「紙屋」の歴史の変遷”は、この「紙文化」に左右されている事に成るのである。
そして、その紙の多くを消費していた「宗教文化」にも左右されていたのである。
下記に詳しく論じるその「宗教文化」の「仏舎」の「仏画」の歴史も、この「青木氏の紙の変遷」が大きく関わっているのである。
当然に、次ぎに論じる「節会」もこの「宗教文化」と「紙文化」に左右されているのである。
「宗教文化」→「節会」←「紙文化」
その「文化のパラメータ」の「紙の使用」が、Aの様に、「東大寺の写経会」に観られる。
この様に、初期の「紙文化」として遺されている「文化資産」は、「経典」と「仏画」の類が殆どである。

しかし、「後期の紙文化」としては、「鎌倉文化と室町文化」は、初期の「経典仏画」類に関わらず、全ての書籍等の「紙材」に利用されている。

中には、Bの様に、未だ一般に「紙市場」が無かったにも関わらず、「平城京」で起こった「消費経済」で「紙」が初めて大きく「消費される現象」が起こったのである。
余剰品が消費される環境が出来て来た。

そして、遂に、遷都に依って、紙の使用は庶民の中にも浸透し始めた初期の現象が起こった。
要するに、「公家文化」と「武家文化」の開始で「紙」が盛んに使われ始めた。
特に、世に「摂関家の文化」とも云われる文化であった
最早、余剰品の販売の領域を超え始めたのである。
本格的な「販売体制」に入らなくてはならなくなった。(C1)

結局、「初期の販売体制」は、区切る事無く続き、本格的な全国的な販売体制が必要に成った。
そして、「輸送」「安全」「全国的な組織体制の確立」の必要性に迫られた。
「輸送」には、大量に運ぶには「船」「陸送」が使われるが、これらを安全に輸送できる全国的な「護衛組織の確立」(シンジケート)が要求された。(C2)

C1+C2=Dの数式が完成した事から、今度はこの組織を使って「紙屋の商い」の組織と「賜姓族」の組織とを分離した。
そして、本格的な「二足の草鞋策」が始まった。
現在で云う「興業組織」の「紙屋」に成長したのであった。
各地に「守護神の神明社」などを使って「支店」などを設けた。
「紙屋」と「青木氏」との関係が世間では判らない状況となった。
恐らくは、当初は殆ど「紙」は「伝来紙」で賄われ、「朝廷や上級階級」が使う超高価品であったことから、朝廷に治めるものでいっぱいで、市場に出まわるまでにはなかなか至らなかったと考えられる。
当然に、ここまで到達するには、この期間が相当長かったと考えられる。
「紙の変遷」として、「何らかの文化」が起こらない限りは、より多く作り続ける前に、「限定生産」の状況であった筈であろう。
しかし、「日本の文化」は違っていた。
上記の様に、ほぼ、40年から50年程度で、「日本文化の変遷」が起こっているのである。
従って、「紙の文化」もこれに連動していたのであり、「青木氏の変遷」もこれに左右されていたのである。

「日本文化の変遷」=「紙の文化の変遷」=「青木氏の変遷」=「7期の変遷」

記録によれば、その大きな先鞭になったのは、矢張り「天平文化」である。
記録では「写経」「絵画」「仏画」「記録」に使われたとある。
そして、何れもの変遷は、”夫々特徴の持った進化のある上記の「7期の変遷」”を持っていた事になる。
云い換えれば、「青木氏の変遷」も、”夫々特徴の持った進化のある上記の「7期の変遷」”と云う事に成る。

記録
日本に、最初に「紙」が伝来したのは、296年と成っている。(「写経本」で西山本願寺蔵)
初めて日本で「伝来紙」で使われたのが、513年であった。(日本書紀に記載)
初めて、日本に「紙生産技術」が「後漢」から入ったのは、610年であった。(僧侶兼職能者)
「古代和紙」を使って書かれたものとして遺されているのは、739年である。(正倉院蔵)

この年代から判断して、650年から初めたとすると、上記のEからAに達していた事に成る。
何とか739年には既に「伊勢和紙の生産開始」できる態勢に入っていた事を意味する。

この739年(施基皇子没年716年の23年後)の直前に、「伊勢青木氏」は、「古代和紙の生産」に取り掛かった事を踏まえて本腰を入れる為に敢えて”「紙屋」”の商号を名乗った。
それを以て支援していた朝廷では、その仕事をし得る「役所」を定め”「紙屋院」”としたと考えられる。
これが「二足草鞋策」の「青木氏の紙屋」の始まりである。

この「正倉院の紙」は、「日本初の紙」として「伊勢青木氏」が朝廷に献納したものである可能性が高い。この時期に「古代和紙」を生産していたのは青木氏だけである。
故に青木氏の商号「紙屋」である所以である。
「仏画」にしても同様に、「青木氏」以外に上記の通りのSからEを成し得る氏は無かった筈である。
750年に行われた「東大寺写経」のものを調査した結果では、使われた紙は「伊賀和紙」の「楮和紙」である事が判っている。
つまり、「生産開始」から10年経っていることから、既に、「楮和紙」が普通に成っていた。
従って、敢えて使う事が無い筈で、況して、恒例の「写経会」で本格的に使う事は無いだろう。

その中の「写経紙」の中に「異質の紙」の粗目で「茶褐色の紙」が混入している事が判っているが、この事で多くの説があって定まっていない。

「延喜式格」に記載されている説としては、この「粗目紙」は「マメ科の紙」と記載されているが、この和紙は普及しなかった事が判っている。
筆者は、739年の後の750年である事から、「楮の紙」で生産開始の成功した時期から観れば、「テスト中の紙」も「日本古代和紙の歴史」の記録を遺す意味で敢えて使った事では無いかと観ている。
(「マメ科の古代和紙」は結局は「紙質不良」で直ぐに消えた。)

後漢の僧侶で職能者でもあった者が、自ら「民」の前で紙を作る程の器用さを持ち合わせ何でも作った僧侶であったと記録されている。

当時の記録を辿れば、大和川流域には、「古代和紙」に使える材料は、次ぎの四つであった。
1 麻    美濃産  中部  美濃古代和紙
2 楮    伊勢産  関西  伊賀古代和紙   信濃古代和紙
3 雁皮  近江産   中国  近江古代和紙  鳥の子紙 782年
4 三椏  甲斐産   関東  甲斐古代和紙  和紙としては 1600年に伐採 家康許可

恐らく、この「古代和紙」に使える原材料を見つけるだけでも、相当な時間を要したと考えられる。
夫々に紙質には特徴があり、使用に値するものにするには、「相当な技量」を要し、「研究の期間」もかかったと考えられる。
記録では、何とか「紙」にしたものの、紙質そのものが悪かったとされ、「滲み解消」等の研究に相当な時間を要した事が書かれている。
上記の様に、真面に使え遺し得る紙に成るまでには100年かかっている事に成る。
「伝来紙」は「粗悪」で大和での「紙の普及」には繋がらなかったとされている。
聖徳太子が挑戦したと云われる「福井の和紙」も市場や記録には結局は出て来なかったことがその大変さを物語っている。
研究室に「藤白墨の論文」を掲載しているが、全く同じ経緯を持っていた事に成る。

a 「伊勢青木氏」が、先ずこの「後漢の僧侶」に「紙の生産の仕方」を学んだ事
b 時代の変化と共に「改新の火種」にするには、「紙」だと認識した事
c 地元の「民の協力」を「大和川流域」に求めた事、「稲荷信仰体」に求めた事
d 良質な紙にする為に「稲荷信仰体の協力」を得て発見した事
e 紙質の改善や開発に「住民の協力」が主体に成っていた事
f 楮の土壌として、大和川流域の湿地帯の適地に求めた事
以上の事が良く判る。

特に上記のSの事が証明されている。
全てを細かく説明は出来ないが、「紙の材料」を発見する為に、面白い事が書かれている。
これだけを紹介する。
先ず最初に手に付けたのが麻であった。その麻は民が着ていた衣服を脱いで、煮沸したり、他の植物を混ぜたり、不要になった漁網を細かく切って混ぜたりして試行錯誤した。
然し、上手く行かず、最後に辿り着いたのは、それを”石臼”で細かくして試みたとある。
出来た事は出来たが、それでも色が悪く、厚すぎたり、書き難くかったり、墨を弾いたり、滲んだりして、普及しなかった。
そこで、粘土なども使ったが上手く行かなかった。
ある時、間違えて窯の「灰」の着いた材料を入れて仕舞った。
ところが、これが、「色」と「書き難さ」と「弾き」と「滲み」を無くしたのである。
「灰」はアルカリ性で色を還元して白くし、不純物を溶かし、表面を溶かして滑らかにし、紙の間に灰の粉が入り「弾き」と「滲み」を無くしたのである。
当時としては画期的な科学的な発見であった。
後は、問題は「厚み」と「平均化」であったらしい。
良く煮沸して、柔らかくして、最後は”臼”で細かくして、漉く温度を保ち、後は出来るだけ薄くする道具を考え出したとある。
”臼”が決定的な革新であったらしい。
未だ大和には、”「臼」”そのものの概念は無かった。
更に、この”臼”を「川の水」で「水車」を使って廻すと云う「機械概念」は全く無く、その伝来の後漢の技術が画期的に紙の発展に寄与したのである。

この「紙の文化の変遷」は、”「臼に依る技術革新」”が無ければ、量産を伴う殖産は、更に、200年は確実に遅れていただろう。
「紙」は「文化のバラメータ」ではあるが、この「紙の臼の技術革新」は紙以外にも画期的な革新をもたらした。
最後はまとめあげる為の全ての「経験」であった事が筆者の家の資料によると詳しく書かれている。
他の外部文献にも同じような事が書かれている。
その結果を以て「楮」や「雁皮」や「三椏」を試した事に成り、この四つが紙に成った。
中でも、”2の「楮」”が最も生産や紙質に適していた事に成った。
「雁皮」は「鳥の子」と呼ばれ、「近江産の古代和紙」として有名で「画紙」として良質である。
事ほど左様に、Sが解決すれば、AからDの改革に取り組む事に成る。


上記した様に、「紙の文化」の「7つの変遷」と共に、「宗教文化」も下記に論じる「節会作法」も同じ経緯を持っている。
これら「紙文化」が「宗教文化」(節会文化)に強く影響を与えたが、「青木氏の変遷」も、”夫々特徴の持った進化のある「7期の変遷」”の大きな基盤に成長して行ったのである。
この「青木氏の変遷」が「青木氏の密教文化」を支えたのである。

当に、この「青木氏の変遷」=「紙文化」=「密教文化」=「宗教文化」=「節会文化」であった。

以上の数式論が成り立つ相互関係を維持していたのである。
その為には、「密教作法」に繋がるこの「節会」に付いて更に深く論じて置く必要がある。

「節会と節句」(「青木氏の変遷」)
例えば、兎も角も、3月の「節句」の「雛祭り」や5月の「節句」や「彼岸」などには、祭祀の内容が、”夫々特徴の持った進化”の為に、世間とは違っている。

「三月の節句の雛祭り」には、伝来の大きな80センチの「一対の雛人形」を居宅に飾る。
しかし、筆者の家では「雛段」は無い。
明確な意味合いは不明ではあるが、これはそもそも「雛祭り」と云う意味合いでは無かったのではないかと判断できる。
「平安時代」の「遊び雛」や「厄除け雛」、「江戸時代」の「祭り」を主体とした「雛祭り」のもので無い事は明らかで有る。
恐らくは、「青木氏の子孫繁栄」を願っての正に「祭祀」であったと考えられ雛人形と云うよりは「像」に当たる。
それは平安期の「遊び」や「厄除け」、江戸時代の飾り立てた「祭り性」は全く感じられない。
そもそも、青木氏には、「遊び、厄除け、祭り」の様な「伝統的な性格性」は無い。
要するに「堅物」であろう。
(この「雛人形像」なるものは、後に桐箱に入れられて居た。更に、明治期には像をガラス箱に収められて保存性を高めた。依って「雛人形」の様に観えるのであろう。)

「賜姓族」として、室町期末期より菩提寺から居宅に移されているが、自然の生物が芽吹く時期の三月にこの「一対人形」を持ち出して祭祀したところから「子孫繁栄」を祈願したと観られる。
これは、「大日如来像」や「毘沙門天像」と同じ祭祀の意味合いを持っていたと考えられる。


確かに「五月の節句 端午の節句」にも、明治期以前の江戸初期頃には、大きな「毘沙門天像(人形)」(120センチ程度)を”祭っていた”と伝えられている。
否、”飾った”では無かった筈である。
この祭祀は「居宅」では無く、当初は直ぐ近隣にあった「菩提寺」での祭祀であったと聞かされていた。(平安期初期頃)
「三月の節句」「五月の節句」の祭祀も、世間の”子供の節句”と云う意味合いの祭祀では無かった。
「菩提寺」で行う以上は ”別の意味”があったと観られる。
仮に、「雛祭りや端午の節句」等の「子供の節句」であれば、その意味合いから「居宅」で行われる筈である。
「菩提寺」では無い筈である。つまり、「仏教行事」では無い事に成る。
然し、「青木氏の菩提寺」であった事は、「古来宗教の概念」を持った何らかの「密教的行事」であった事に成る。
つまり、「節句」では無い事に成る。
世間と異なる”夫々特徴の持った進化”が、「青木氏の変遷」の中で、この様に起こっているのである。

と云うのは、この時、つまり、鎌倉期頃から「菩提寺」では、「大日如来坐像」の「お仏像様」と合わせて「護り本尊」と呼ばれていた「毘沙門天像」(下記)の一対で祭祀していた事が判っている。

毘沙門天像の出現
この頃の経緯としては次ぎの様に成る。
平安期初期に桓武天皇から「皇親族」としての「青木氏」を排除した。
この為に一時衰退したので、菩提寺に移した事が考えられる。
その後に、子供の「嵯峨天皇」は、再び「皇親族」で行う「皇親政治」を敷いた。
この為に、「青木氏」は再び勢力を盛り返した。
この間、約50年程度、「毘沙門天像」等の祭祀は菩提寺に移した。
ところが、鎌倉期から室町期には「紙文化」が徐々に起こる。
遂には「室町文化」で華が咲いた。
その結果を受けて、平安中期頃(殖産950年頃)から「5家5流青木氏」の「殖産・量産・販売の興業」に成功した。
「二足の草鞋策」(商い1025年)で「紙問屋と総合商社」(「二束草鞋策」)を全国的に営む氏として復興した。
この直ぐ後の10年後に、「特別賜姓族の藤原秀郷流青木氏」が発祥し、「賜姓族青木氏」を補完する態勢が出来た。
再び、これを受けて「950年頃」に菩提寺に預けていた「毘沙門天像等」を居宅に引き上げて祭祀したとある。
150年間 「青木氏菩提寺」で「毘沙門天像」と「雛人形等」は祭祀していた事に成る。
ところが、当初は「菩提寺」での”正式な祭祀”(150年)であった。
上記した様に、再び、室町末期の戦乱と大火(信長ー秀吉の伊勢攻め 1567-1574年)で避難して「紀州新宮の居宅」に移した。
この頃から、その”祭祀の意味合い”が若干俗化して異なって来たのではないかとも観られる。
新宮の居宅での祭祀は10年程度で松阪の居宅に戻した。
秀吉家臣の蒲生氏郷から「本領の安堵」と、松坂に居宅(「侍屋敷」9から11番付与)を与えられる。
(超大地主250万石以上の有資産があった。)

古来より、季節の節々に、「伊勢神宮」は兎も角も「宮廷」においては、”「節会」(せつえ せちえ)”と呼ばれる宴会が奈良期より恒例で開かれていた。
これを江戸時代には、”「節句」”として称し、「祝日行事」と定めたことから、”「節句」”と云う行事と世間では成った。

様々な異変に左右されながら以上の経緯を経ている。

そもそも、奈良期から、宮廷では「節会」(せつえ・せちえ)として「皇族一族」が介して「宴会」を催した。
然し、この「節会」では、”奈良期からの「神仏習合の影響」”を受けて、「現世の者」ばかりが集う場だけでは無く”、先祖との会する場”として設けられた行事であった。
故に、言葉が「節の会」と「節の句」とに分けられているのである。
「伊勢青木氏」も”「節会」(せちえ)”と呼称されていた事から考えると、「宮廷」も「密教」と「古来宗教」の影響を受けて、”先祖との会する場”の概念が継承されていた事を物語る。
元々は、「古代密教の仏教」では、この場を「仏教用語」として「節会」(宮廷は”せつえ” 青木氏は”せちえ”)としていたものであり、”先祖との会する場”としての「迎える古代密教作法」があった。
(古来は”せちえ”の「節会」と呼称されていた。)

これが上記した「道標行燈」と「茶釜所作」の関連する「密教作法」であった。

九度所作(節会所作)
この「仕来り」は、江戸時代の様に、庶民化して「祝日」としての「節句行事」では元来なかった。
「居宅」で行われていた「雛人形像」などの祭祀は、この様に「祝日行事」としてでは無かった。
この「節句:せっく」と「節会:せちえ」の言葉の違いでも判る。 
「伊勢青木氏」に引き継がれて来た「密教作法の節会」は、この「古代密教の作法」にて ”先祖との会する場”であったのである。
年を経て繰り返す神仏を祭祀・行事を意味する”「節」”に、仏に会う事の意味として”「会」”と合成語の言葉の所以である。
「青木氏節会」は、「先祖との”会”する場」の密教作法であるのだ。
従って、「伊勢青木氏」では、「お盆の節会」と「彼岸の節会」が、その最も ”先祖との会する場”が重要な場であった。
この為に、他の節会よりも「道標行燈」と「茶釜所作」の「密教作法」以外にも、”「仏壇」”(仏舎)などの「迎え所作」が徹底していた。
(「青木氏」は、顕教の「仏壇」では無く、密教である為に「仏舎」と呼称していた。)
故に、上記した様な、「密教作法」が採られた上で、下記の”「九度所作」(節会所作)”と呼ばれるものが伴ったのである。

江戸時代には、民間には年間にわたり様々な「節句」が存在しており、その内の5つを江戸時代に幕府が公的な行事・祝日として定めた。
しかし、”、先祖との会する場”とするものでは無かった事から、「お盆」と「お彼岸」と「年暮」は「節会」である。
次ぎの様に庶民では「節句」では無かった。

それが次ぎの”「五節句」”(庶民の節句)である。
1 人日の節句 おせち料理 七草粥
2 上巳の節句 雛祭 菱餅 白酒
3 端午の節句 菖蒲酒 関東は柏餅、関西はちまき 菖蒲湯
4 七夕の節句 素麺
5 重陽の節句 菊酒

以上が江戸期に定められ「祝日」の「五節句」である。

次ぎは「密教青木氏」の”「三節会」”である。
A 「入盆」
B 「彼岸」
C 「暮年」

以上の”「五節句」”は、何れもその元は「重陽の節句」にしろ、「七夕の節句」にしろ、”先祖に思いを馳せた祭り”であった。
「端午の節句」、「雛祭りの節句」にしても、”「子供の成長」を一族が集まって喜ぶ祭り”である。
要するに「先祖への子孫繁栄」を伝えるものである。

「正月の節句」は、年の始めを祝詞する他の四つを纏めた様な ”総合節句の意味合い”が古来よりあった。
しかし、時代と共に「民の文化」の方は変化を来したのである。
この様に元を質せば、「青木氏の密教作法の節会」は「先祖」とは切り離せない祭り事であった。

「道標行燈」と「茶釜所作」はこの「青木氏の密教作法の節会」の中の一つの作法で在った。

系統概念の有無
伝統を継承するには、系統的概念が必要と成る。
然し、そもそも、江戸時代には、庶民には、”ルーツを系統的に遺す概念”そのものが無かった。
上級武士を除き、依って、”系統的に祭祀する墓、” そのものが未だ無く、当然に、無墓では「節会」では無く成る。
(その「伝統」や「系統性」に関わる「墓の起源」は下記に論じる。)
仮に、「毘沙門天信仰」が、庶民の中に発展したとしても、「戎神」、「勝負神」、「無病息災神」の範囲に留まった。
この「三つの神格」、即ち「庶民の神格化」が示す様に、”特段の概念の無さ”を顕示しているのである。
ところが、江戸期も含めて、近年次第に、より益々 ”「先祖」の意味合い”が低下して、単なる「祝日」「祭り」に更に成りつつある。
むしろ、「先祖の概念」は、論外として認識されていない状況であろう。
明治以降、「先祖の概念」は、「先祖の概念」として ”「別扱いとする合理的判断」”に依ったものと考えられる。

”先祖との会する場”と云う「密教概念」が無い事を示している江戸初期の「五節句」では、250年も経過すれば、民衆からは必然的に「先祖を尊ぶ概念」は無く成るであろう。
しかし、そんな中で、”先祖との会する場”の「青木氏の密教の概念」が、「青木氏の生活の作法」として1500年も遺し得ていた。
だからこそ、又、「先祖の概念」が系統的に『維持されて来たからこそ、「伝統」として強く遺されて来たのである。
ここに「根本的な大きな違い」がある。

何故ならば、全ての庶民は、明治3年を境にして、一挙にして「姓」を特定する「苗字」を持つ事に成った。
”「系統性」を持ったと云う事”である。”「伝統」を維持する事が出来る様に成ったと云う事である。
その結果として、”未だ、系統化された「ルーツ」の無いまま”に、”漠然とした先祖への思い”として「墓所」を持ち始めたのである。
況して、その「墓所」は、それまでの「仏教の慣習」の「砂岩の墓」(下記)では無く、「花崗岩の墓」を設け、それまで無かった「家紋」まで仕立てての墓所と成った。
「苗字」も8年間もなかなか進まなかった中、「系統性の持つ苗字」が出来ると成ると、今度は一夜にして「前の概念」を捨て、新たに「先祖の概念」を持つ”変わり身の早さ”に至ったのである。
これは、幕府が定める恒例の「江戸期の5節句」として250年続いた祭祀の中である。
上記した様に、「5節句」は、元を質せば、”先祖への思いを馳せていた事”が、「休日・祝日」の中で、意識の何れかに遺されていたのであろう。
それが、「苗字取得」に依って ”今後、先祖を特定できる” として「一挙の行動」に出たと観られる。
庶民には「休日・祝日」であった「五節句」を祝う中で、且つ、「ルーツの探究」が出来ない慣習の中でも、”根底の意識”の何処かに「先祖の概念」の思いと要求があった事を示す現象である。

これには、調べると、面白い事が出て来る。
「幕府の5節句の休日・祝日・祭日」とした「指導の仕方」にあったのである。
例えば、幕府自らが 、”「働く日」に休む馬鹿 「休みの日」に休まぬ馬鹿”等の狂歌や川柳を多くを出して、「社会のムード」を作り上げて、苦労して初めての「国家的祝日」を作り上げた事が判っている。
従って、この「5節句」は、到底、”先祖へ思いを馳せる祭り”とする事などは到底に無理であったのである。
あくまでも、「休日、祝日、祭日」の節句であった。
それも、”有史来の画期的な行政策”である。
その職場職場で適時適切に決めていた「慣習の休み」で、”暗黙の内にこの日は「休み」”と云う社会体制であった。
それを全国統一して、何が何でも”休め”としたのである。
それが、朝廷が祭祀として行っていた「八節会の儀」の中から ”民衆が休みやすい節会”を五つ選んだのである。
しかし、それの根拠が、”先祖との会する場” 又は、少し緩めて、”先祖へ思いを馳せる祭り”にしてでも、上記した様に、”未だ系統化された「ルーツ概念」”の無いままであった。
庶民にしてみればこれは、 ”ピントボケの施策”と成る。

「青木氏の三節会」のABCは、江戸期の記録から観ると、「朝廷の八節会」が行われていて、それに合わせて、”「系統化されたルーツ」を持つ上級武士を含む上級階層の間”でも、それなりに祭祀として行われていた。
「青木氏」の様に、「密教」であるかは別として、「顕教の慣習」でも兎も角も行われていた。
「朝廷の八節会」は、「伝統を護る為の行事」であり、「先祖を敬う行事」でもあった。
この事から、それなりの有る階層では、「八節会」はこの「二つの事」を護る「社会的ムード」が在った。
そこで、それに関わる家人や下僕や出入りする職人・商人・農民にも、その祭祀に順応して「主家の祭祀」に従ってお参りした。
その上で「義理」を表すために無理にでも「休日」として”1日を念じる姿勢”を示した慣習であった。
(江戸期は「義を重んじる社会」であったから成り立つ慣習であった。)
恐らく、この事もあって、幕府は敢えてこのABCは外したと観られる。

然しながら、筆者の家では、代々「人日の節会」(正月:人の日)の言葉通り、「年暮の節会」から一族が一堂に集い ”「人」に思い馳せる場”としての「節会」であった。
決して「休日、祝日、祭日の節会」では無かった。
上記した様に、「密教の青木氏」は、「年暮」から「道標行燈」を設け、「仏壇」(仏舎)には、吸い物や精進料理を伝来の「高瓶朱盆」に載せて祭祀し、一夜通しで「人日(正月)の節会」に入る作法が引き継がれる。
この「人日節会」(正月 人の日)には、「朝昼晩」には夫々決められた精進料理が供えられる。
二日目にも、「昼晩」には同じ所作が繰り返される。
三日目には「晩の所作」のみで「道標行燈」の「送り行燈」を灯明し、一族うち揃って「般若心経」を「女主」が中心に三代前までの先祖の数だけ唱えて終わる仕来りである。
これが「青木氏密教の作法」であり、元々正月は、むしろ「不作法の日」とする「民衆作法」と成っていて大きく異なる。
民衆の「人の日の節句」は、江戸幕府の川柳などの宣伝もあって、結局は”休ませる事”に重点が置かれ、”人を休ませる日の節句”と解釈されたのである。

事ほど左様に、他の四節句も、”休ませる事”に重点が置かれ、「人日の節句」の通りに考え方が、上巳、端午、七夕、重陽にしても、全てこの”休ませる事”の解釈であった。(別記)

”何故、この様に成ったか”と云う論調には、上記の「稲荷信仰体」と同じく、次ぎの「庶民信仰体」の影響が左右されていたのである。

終わり。

「伝統」-5に続く。

「毘沙門天の影響」



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