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青木氏と「神明」「観音」「毘沙門」

HPのお便りから投稿

[No.705] Re: 函館の青木さん
投稿者:函館 投稿日:2010/07/10(Sat) 12:03:09


函館の青木です。 楽しくみています。
教えて戴きたい事があります。
神明社、観音堂、毘沙門堂について由来、歴史など。
簡単には無理でしょうが、お願いします。




函館の青木さん お久しぶりです。
如何お過ごしですか。先日の青森の青木さんにもお便りを頂きました。
勉強されているようですが、頑張ってください。なかなかルーツの歴史を辿ると云う事は難しいですよね。
知識の積み重ねが何かのヒントとして役立つので色々と広範囲に雑学を会得される事は良い事ですね。

さて、お尋ね頂きました事はなかなか範囲が広くてご説明が難しいですし、お答えする程の知識は無いと思います。しかし、楽しみの一つとして何とか知る範囲で書いて見ようと思いました。
それで、ご了解ください。

先ず、神明社は青木氏に大いに関係する事ですので、これから始めたいと思います。
「神明」とはそもそも、「天照大神」を祀る神社ですね。
この「天照大神」を祭祀したのは天皇家で、その最初に定めたのは大化改新の立役者の中大兄皇子です。後の天智天皇です。そして、この神明を伊勢国松阪の地に定めました。しかし、この時点では朝廷の皇位継承問題などで伸び伸びになり未だ正式な決定の形が取れていませんでした。その後天武天皇が正式に「伊勢神宮」を「皇祖神」として定めたのです。

(この時以来、5代の天皇の第6位皇子と19人の第4世族皇子は臣下して主要地の守護王と成りそこにこの皇祖神の支社を守護地に建立しました。これが各地に広まる原因となり、支社から更に各地に分社が広まりました。)

第4世皇子族の守護地
伊勢王、近江王、甲斐王、山部王、石川王、高坂王、雅狭王、美濃王、栗隅王、三野王(信濃王)、武家王、広瀬王、竹田王、桑田王、春日王、(難波王、宮処王、泊瀬王、弥努王) 以上19人/66国
これ等の地に神明神社が建立されました。
信仰の伝達手段が無いこの奈良平安期には、朝廷は政策としてこの地から神明信仰を広げるために先ず支社を建てたのです。そして、人民の安寧を図りました。

そして、この伊勢松阪の天領地を神明神社として重きを置くために天智天皇の皇子の施基皇子を第1位の守護王として配置させました。
この時には皇位継承制度の見直しで第4世王までを皇子とし守護王とすると定めました。
この第4世王までの内、第6位皇子以降は臣下させて賜姓し、各主要地の天領地の守護王とする事を定めたのです。この第6位皇子が5人の天皇から青木氏の賜姓を受けて配置されました。
(伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5天領地)

天武天皇時には14の皇子の中の兄天智天皇の皇子の第6位皇子の施基皇子が守護王となり、この神明の皇祖神の伊勢神宮を護る役目を与えられましたが、それまでは、一代限りで中大兄皇子の政敵で叔父の孝徳天皇の子供が伊勢王と成っていました。
孝徳天皇の失脚と伊勢王の子供2人の突然の病死(政争)で天智天皇の施基皇子が勤める事に成りました。
この施基皇子は大変有能で天武天皇の相談役として働き草壁皇子の皇太子よりも2つも上位の身分となり多くの大化改新の改革に取り組みました。
(日本書紀にも最も多く出て来る人物でした。日本書紀と青木氏のレポト参照)
このために国司を送り「三宅連岩床」がこれを務めました。

この神明は「農耕儀礼」の神として信仰されました。
後に後漢の渡来人の帰化人阿多倍王らの子孫らの働きで各地(上記5国)で開墾に携わり著しく進み、この農耕の神明が伊勢神宮から各地に支社を作る事になりました。
上記19の守護王の国にも皇祖神の神明神社が建立されました。
これが全国各地にある神明神社の元と成ったものです。
現在は、約5000から小さいものを入れると15000もあるとされています。
この神明信仰にも後漢帰化人の阿多倍等の200万人の集団が次の観音信仰の伝導にも関わっているのです。
この神明神社の特長は、「神使」として「鶏」が定められましたが、この経緯から鶏の形に似せた鳥居があるのが特長です。そして、そこには地名として「鳥居」と云う地名が多く起こりました。
この神明神社の主要神社の地には皇族賜姓青木氏や藤原秀郷流青木氏や嵯峨期の詔による皇族青木氏が存在します。これは皇族守護神である為に守護王が支社を移設した事から始まっているのです。
平安時代は伊勢神宮の神明信仰が始まり、後半では熊野神社の熊野信仰へと信仰対象は移って行きました。どちらも同じ時期に建立されているのです。(熊野三山信仰から見るとやや熊野神社の方が早い)
天皇自らが伊勢神宮から熊野神社へと信仰の対象を変えて行く程の経緯が起こりました。
後に鎌倉、室町時代を通じて五穀豊穣を願って多く建立されたものなのです。
神明信仰は「鶏」が「神使」で五穀豊穣の信仰対象、熊野神社は「やたからす」を「神使」とし人の癒しを信仰対象と成っていました。

伊勢青木氏が主となり5家5流青木氏の護る伊勢神宮はこの神明神社の総本社です。
この伊勢神宮は朝廷より「不入不倫の権」が与えられて以後、神明神社はもちろんのこと、観音信仰の仏教寺院も打ち壊した織田信長に侵入されるまで護られました。
その信長の徹底した既成勢力の排除で観音信仰の総本山の比叡山は焼き討ちされ、もう少しで神明信仰の総本山の伊勢神宮も焼き討ちに合うところ、信長はその基点とする処の丸山城の建設を行います。「皇祖神の神明の地」のこれを守る為に伊勢青木氏、伊賀氏、北畠氏の3氏等が信長に挑みます。
伊勢青木氏は「2足の草鞋策」の経済力と伊勢シンジケートを背景に戦います。
そして、次男信雄を差し向けて全力をあげての戦いでしたが、信長の戦跡で只一つの有名な敗戦をします。この後、再び戦が始まりますが本能寺の変で信長は落命します。これで伊勢神宮は助かります。
この後、秀吉に命じられた藤原秀郷一門の蒲生氏郷は伊勢神宮と守護氏の伊勢青木氏を護り保護しました。その後、徳川氏に成って元に戻りました。
家康はこの「農耕の神」として「神明神社」を奨励します。
そして、伊勢神宮を保護し、伊勢松阪を紀州徳川氏の飛び地領とし伊勢青木氏を保護します。
それと同時に、浄土宗の督励令をわざわざ出して保護します。
そのために「神明神社」が各地に建てられ、下記に述べる観音信仰や阿弥陀信仰の著しい発展が起こりました。
平安時代の「熊野信仰」の「蟻の熊野詣」から、再び江戸に入り「神明信仰」の「お伊勢参り」へと移って行ったのです。

次ぎは「観音堂」ですね。
618年頃に後漢が滅びそのときから後漢の人たちは渡来人として帰化人としてきました。その第1陣に渡来した鞍造部の首魁の「司馬達等」(司馬氏の始祖)により私伝導された仏教が広まり、その後漢の配下の者達はその信仰の対象として釈迦観音像を彫りこれを祀りました。
これが始まりです。
その後、この後勘の帰化人を率いて来た後漢光武帝より21代の末帝の献帝の子供の阿智使王とその孫の阿多倍王がこれらの渡来人をまとめ日本66国中関西以西32国を無戦の状態で制圧し配下にしました。
この首魁の阿多倍王は南九州の大隈地方に住み着きました。帰化後朝廷よりこの大隈地方を薩摩国を半割譲して正式に与えられました。
更に朝廷から呼び出されその200万人の集団を率いる阿多倍に対して伊勢の北部伊賀地方をも半割譲して与えられました。
この時、阿多倍王は敏達天皇の孫の芽淳王の末孫の娘を娶り准大臣に任じられました。
そして、3人の子供を生みましたが、長男は阿多倍王が後漢から率いてきた軍を元に朝廷軍を任されて坂上氏を賜姓され、初代の征夷大将軍となり日本全土を制圧させました。
次男は後漢から引き連れてきた事務官僚集団を元に朝廷の財務を任されたのです。そして賜姓を受けて大蔵氏を名乗りました。三男は天皇家の財務を任され内蔵氏の賜姓を受けました。
このころの政治体制は3蔵と云い、朝廷の祭祀一切を執り行う「斎蔵」(藤原氏)と「大蔵」と「内蔵」とで構成されていました。阿多倍子王の子孫は軍と2つの権力を握ったのです。
これ等の200万人とそれに慕う倭人とがこの仏教に信心をしていたのです。
これを祀るところに堂を作りそこに観音様の像を彫って観音信仰が始まったのです。
神明信仰とほぼ同時期に仏教の観音信仰も始まったのです。
関西以西32国以外にも上記する5天領地の開墾も行いますが、この地にも当然に観音信仰は広まります。そして、観音信仰と神明信仰は彼らに依って同時に伝導されたのです。

これが、奈良時代の大化の改新の前の物部氏の神明信仰と蘇我氏の観音信仰とで国の信仰対象をどうするかで争いを起こしました。(聖徳太子の時)
結局、蘇我氏の観音信仰が勝ち、その観音信仰の人々を背景につけて勢力を伸ばしたのが蘇我氏なのですが、その後この事を苦々しく思っていた中大兄皇子は蘇我氏を打ち倒して歴史ある神明信仰を再び呼び起こして、伊勢にその拠点を作りそれを「皇祖神」として定めたのです。
しかし、観音信仰も朝廷は取り入れて神仏融合の策を取り入れて共に発展したのです。
農耕民族の所以ですね。従って、朝廷は「神明信仰」は「皇祖神」としながらも農耕の神として位置付けて融合を図ったのです。
物部氏(高句麗)、蘇我氏(百済)はともに450年代の初期の帰化人で勢力争いをしていました。
(飛鳥時代の大和政権の主要5族 紀氏、巨勢氏、葛城氏、平群氏、物部氏 物部氏は兵の集団)

実は観音信仰の仏教をもたらした阿多倍王に付いてこれがもう一つの毘沙門天の解説に繋がるのです。
この像を最初に彫った後漢の帰化人「司馬達等」の孫の「鞍造部止利」が飛鳥時代の殆どの観音様の像などを彫ったのです。実は伊勢青木氏の賜姓時に天智天皇から与えられた現有する護本尊の「大日如来坐像」はこの鞍造部止利の作です。
恐らくは、朝廷と後漢の帰化人200万人とそれを慕う大和人の何百万という人を心の救いとしてこの観音信仰をも国家安寧の為に推し進めたのではないかと見られます。
それを観音仏像を彫る事の出来る鞍造部の首魁の司馬氏に委ねたと見られます。
多分、「司馬達等」(歴史作家の司馬遼太郎氏の始祖)なる人物はそれを成すその様な大きな人物であったのでしょう。
そして、後に遂にこの阿多倍王の末裔9代目に観音信仰の神として神格化されるほどの大人物が生まれるのです。

観音信仰の観音菩薩を祭祀する礼堂として、奈良時代から平安時代にかけて六堂伽藍方式として中央本堂に安置される仏像です。この本堂を護る神として毘沙門天などを祀る四天王の堂があるのです。
六堂伽藍方式には飛鳥寺方式、四天王寺方式、法隆寺方式、東大寺方式があります。
観音堂を祀る本堂と左右に金堂、中央に観音様の骨を安置する舎利塔が配置され、後ろには毘沙門天などを祭り配置する方式で、中には四天王全てではなく毘沙門天だけを祭る堂が配置される形式もあります。

次は毘沙門天です。
「毘沙門天」は「多聞天」ともいいますが、四天王の一つで、後には「増長天」、「持国天」、「高目天」があります。東大寺や興福寺にはこの四天王が祭られています。
毘沙門天、つまり、多聞天は吉祥天の夫とされています。
多聞天は財宝、福徳の神でもあります。七福神の中の一人でもあります。

伽藍最前線には南大門を配置し「仁王様」が守護神として祭祀されて祭られます。方式により中門があります。中央塔の左右には東西の金堂が配置されます。そして、南大門より最も後ろの北側の中央に位置する講堂が配置されます。
「六堂伽藍方式」です。

菩薩様、如来様、天神様を左からの順序で格がつけられてこれを「3神格」と云います。
そこで、上記したこの四天王の仏像のモデルになった人物が居るのです。
それは、阿多倍王の次男の末裔の9代目の「大蔵種材」と云う人物です。
この者は朝廷の官僚として働き、九州全土の治世を任されます。朝廷より始めて「錦の御旗」を与えられた人物で以来正式にこの御旗を与えられた人物はいません。個人に与えられたのです。
阿多倍王が征圧した九州全土の政治軍事の一切を任された人物です。「遠の朝廷」と呼ばれていました。
官僚でありながら、日本一の武勇を持ち、平安時代当時、中国、朝鮮半島から九州に武力を使っての侵略、略奪やボートピープルが頻発しましたが全てを完全に制圧した実績を持っています。
日本の彼等が成した豊かさの為に津波の様に押し寄せたのですが、彼と朝廷は治安の維持のために最早帰化を許さなかったのです。
又経済でも、阿多倍らが引き連れてきた200万人に及ぶ技能集団をよく統率し、その技能を九州全土や関西以西の中国地方にも拡げて経済は著しく良くした事でも有名な政治家の人物です。
現在の第1次産業の殆どはこの後漢の技能集団の帰化人の末裔で発展したのです。
ですから九州には瀬戸物や製鉄などの一時産業が多いのです。
経済も含めて貧困から大富をもたらした万能人で、当時は平安の「万能の神」とも崇められた人物です。
この神格化して当てたのが毘沙門天なのです。
実際の毘沙門天等の姿のモデルにも成っているのです。

この彼は平安の日本一豪傑でありその代名詞に成っている大蔵氏の末裔です。後にこの人物は余りに資質剛健であったので神を護る者として神格化されたのです。
毘沙門天はこの「大蔵種材」の勇士姿を後に崇めたのです。
恐らくは、妻の吉祥天は大蔵種材の妻をその功を証し崇めたのではないかと思われます。
その為に、鎌倉時代から室町時代にかけてこの毘沙門天を「侍の鏡」として崇められ、「毘沙門天信仰」が武門の間で起こったのです。
仏教は飛鳥奈良時代からの観音菩薩の「観音信仰」から始まり、平安時代からは浄土宗の阿弥陀如来信仰が起こり、鎌倉時代からは毘沙門天信仰(四天王信仰)が時代の状況に合わせて起こります。

そこで、この後漢の渡来人の帰化人の阿多倍王は伊勢伊賀地方に領国を与えられ定住していましたが、阿多倍(後に高尊王と呼ばれていた 朝廷の記録では平望王と呼ばれていた)の孫娘の「高野新笠」が光仁天皇と結婚しその子供が桓武天皇となりました。
桓武天皇の子供に平城天皇と弟の嵯峨天皇があります。
この光仁天皇は施基皇子の子供で長子の皇子で、第5位までの皇位継承者がなく第6位皇子の施基皇子の末裔が天皇を継承しました。伊勢青木氏は光仁天皇、桓武天皇、嵯峨天皇まで血縁族と成ります。

そこで、この阿多倍王の2代目後の末裔の貞盛が独立国を作るとして反乱した「平の将門乱」を藤原秀郷とともに鎮圧しました。藤原秀郷は藤原秀郷流青木氏の始祖です。
平貞盛より5代後が太政大臣平清盛です。清盛は敏達天皇の末裔にして桓武天皇の末裔でもあります。
当然、阿多倍王の子孫とも成ります
桓武平氏と呼ばれ、桓武天皇より青木氏の賜姓を中止し、皇族7世族の「ひら族」の坂東八平氏に似せて「たいら族」として母方の一族を賜姓したのです。その末裔が平の清盛です。
大蔵氏や内蔵氏や坂上氏や内蔵氏やそこから出た阿倍氏は血縁族です。
その祖先の毘沙門天のモデルとなったのもこの一族です。

余計談ですが、伊賀忍者は阿多倍一族のこの末裔です。
伊勢青木氏は天正の乱の時にこの伊賀人が信長から攻められた時に奈良時代からの付き合いのある彼等を救い信長と戦い勝利します。信長の只一つの敗戦です。歌舞伎にも成っています。

伊勢には松阪の神明信仰と、隣の伊賀地方には観音信仰が共存し、伊勢青木氏には神明信仰と古代密教の観音信仰(平安期には青木氏は阿弥陀如来の浄土信仰)が共存していた事になります。
しかし、奇しくも5家5流の賜姓青木氏はこの同族の桓武天皇と隣の伊賀の観音信仰を推し進めた阿多倍子孫に圧迫されて一時衰退します。
この時期、恐らくは同じ仏教でも司馬達等による後漢伝来の古代仏教の観音信仰と、古代浄土密教の阿弥陀如来信仰が対立したとも考えられます。
現に、平安時代に法然上人の浄土宗密教、弘法大師の真言宗密教、最澄上人の天台宗密教の3密教による激しい宗教論争が起起こっています。
それぞれの立場と考え方と信者層が異なっていた為に、観音菩薩信仰、阿弥陀如来信仰の密教の位置づけについて論争が起こりました。

桓武天皇の子供の嵯峨天皇はこの桓武天皇の賜姓に対して反発して再び第6位皇子を源氏として変名して賜姓源氏として戻したのが嵯峨源氏です。これより花山天皇まで11代続きます。この時青木氏は皇族の者が下族する際に使用する氏名として使用を禁じたのです。この青木氏が皇族青木氏です。

これらの青木氏が自ら神明信仰と古代密教を下に伝導の手段の少ない時代の各地に神明神社と浄土寺を建立し観音信仰等を広げた核とも云えるのです。
観音信仰の下に四天王の天神様のみを信仰する事も広がりました。大阪にある四天王寺はこの対象です。

さて、青木氏に関わる歴史的なこととして記述しましたが、学問的で仏教的な事は書籍やインターネットなどをご利用ください。

ご質問など有りましたらまたお便りください。



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「家紋掟」の概容

「家紋掟」の概容

青木氏の家紋に関して大変ご質問が多いので一つにまとめました。

そもそもは家紋の使用は平安末期から使用される様に成りましたが、その家紋化した目的は「氏家制度を規則正しく保つ目的の根幹手段」として室町時代の中期から明治の初期頃まで使用される様に成ったものなのです。
家紋は当初から家紋として存在していた習慣ではなく、本来は最初は奈良時代初期に皇族が自らの「ステイタス」(印章)として使用していたものでした。その最初は何んと青木氏に関わる事から始まったのです。
家紋というものを理解する上で家紋の経緯としてそれを少し詳しく述べておきます。
蘇我入鹿を倒した中大兄皇子の時代に遡ります。それまでは「文様」は儀式的な意味合いが強く天皇家と朝廷の「儀式の権威」として位置づけられていました。その儀式を司る天皇に対する「間接的権威」として扱われていたのです。ところが、この事件と成った原因から天皇家の「体制固め」(大化の改新)が始まりました。
先ずその一つは「経済的な原因」でした。つまり、それは無秩序に近い状態で存在する「皇子の数」でした。それまでは「数を固める事」で「天皇家の権威」を作り上げていたのですが、そこを入鹿に狙われたのです。先ず、蘇我氏に内蔵の経費に依る経済的な弱体化を狙われたのです。
軍事的には渡来人の漢氏(あやし)又は東漢氏(やまとあやし)等の軍事集団を蘇我氏に抱え込まれ裸同然の無力化に干されました。政治的には斎蔵の祭祀による権威のみの立場に追いやられると云う事態に成っていたのです。
つまり、天皇家の財政を司る「内蔵」、朝廷の財政を司る「大蔵」、朝廷の祭祀を司る「斎蔵」の政治機構三権と軍事権を蘇我氏に奪われていた事に成ります。
この経済的に問題に付いて、4世族までの皇子皇女の数が大変多く34人にも成っていました。第6世皇子皇女までいれると50人以上と成っていたのです。(7世族以降は坂東に配置されていました。)
そこで「大化改新」と云う「大政治改革」を断行しました。
その目的の一つとして皇族に掛る内蔵の経費を少なくする為に第4世までを皇子王とし第6世以降は臣下させる事を実行しました。
その第4世皇子までに順位を付け第4位皇子までに「皇位継承権」を与え、「第6位皇子」(1)を臣下させる仕組みとして改革をしました。
この結果、これらの下俗臣下した皇子の身分を保障するために、この「世族の仕組み」は「身分制度の確立」に発展し先ず「8つの家柄階級」(八色の姓の制)を定めました。
そして、この時、問題の皇子族は「真人族」(まさと)「朝臣族」(あそん)(2)と特別に「宿禰族」(すくね)を加えて3つの身分に分けました。
これら「八色の姓」に合わせて、別にその功労能力に応じて画期的な「官位階級制度」が定められたのです。これは現在でも観られない徹底した「実力主義」でした。
例えば、皇太子であろうと、他の下位の皇子が優れていれば皇太子よりも遥か上の官位を授かると云うものでした。現在でもあり得ない実力主義でした。
つまり、「家柄制度」と「身分制度」が定めた事に成ります。
そして、この2つの制度に伴い「職務制度」も定めたのです。
この「職務制度」でも下位の皇子でも能力が高い場合は重要な守護王に任じられると云う事が起こりました。
朝臣族4世皇子族までには6段階の位に準じて重要な順に天領地の守護王職を命じたのです。
そして、その皇子には順位を付けて6位皇子からは臣下する事としたのです。
この「3つの制度」によって先ず最も昇格したのは第6位皇子の伊勢王の施基皇子でした。
日本書紀に記述されています。(「日本書紀と青木氏」のレポート参照)
この時に最初に中大兄皇子から直接与えられたのが第6位皇子の施基皇子の伊勢の「青木氏」(3)と特別に第7位皇子の川島皇子の近江の佐々木の地名から「佐々木氏」の氏を与えたのです。
この制度に則って実力のある皇子には氏を与えると云う「賜姓の仕組み」が出来上がりました。
この「皇族の改革」を始めとして、「八色の姓」に準じた他の臣下の特別な豪族の身分改革も起こりました。政治機構は一段引き締まる体制が出来上がりつつありました。
そこで、先ず、皇子族の「身分制度」を明確にする為に、更にそのステイタスの表現の一つとして「独自の印章」(「印章制度」)を用いて明確にする様に改革しました。

5つの制度改革
「家柄制度」
「身分制度」
「職務制度」
「賜姓制度」
「印章制度」

天智天皇はこの2人の皇子にはそのステイタス(印章)として「竜胆の花」とその「葉の形」を文様として「笹竜胆紋」(4)を使用する様に命じ他の氏には使用を禁じ区別させました。
こつ「実力主義」に基づく「5つの制度」に裏打ちされた「笹竜胆の印章」が後に各氏の「家紋」への展開の始まりと成ったのです。その代表者が始祖の施基皇子の青木氏であったのです。
施基皇子は第6位皇子でありながら皇太子よりも3階級も上の官位(浄大1位 天皇に継ぐ官位)を獲得したのです。異例中の異例です。
更には、この施基皇子は天武天皇の葬儀を皇太子に代わり取り仕切ると云う前代未聞の事も起こったのです。そして、日本の律令の根本と成る「善事撰集」司を任じられると云う名誉の編纂者に任じられたのです。
天智天皇が天皇家の守護神として伊勢神宮を指定し後に天武天皇が正式に定めましたが、天皇家にとって最も大事な祭祀の地のここの伊勢の国の守護王に任じた事からもその仕事ぶりが判ります。
そして官吏として彼の有名な三宅連岩床を伊勢国の国司として送っているのです。
恐らくは、研究中ですが、この事実の実力から観てこの「4つの制度」の制定も施基皇子が指揮したと観ています。
家柄、身分、職務、賜姓の制度に裏打ちされたこの「印章制度」を更に確実な権威付けなものとして次の事も実行しているのです。
これらの制度は完璧と云わざるを得ない程に理路整然として作り上げられているのです。
この時、その皇族賜姓族の「青木氏」にはその姓の源と成った「一族の神木」(5)として「青木の木」を指定しました。当時は青木は榊と同じく朝廷祭祀の神木として扱われていたのです。
そして、その「守り本尊」として日本最初の仏師の「鞍作部止利」作の北魏方式の仏像の「大日輪座像」(6)を与えました。「神木」を指定し「守り本尊」を与えると云う事は大和朝廷の始めての事でした。
次にそれまでは天皇一族自らを護る親衛隊が無く、「蘇我氏の増長」を招いたとして大化改新の一つとしてその「護衛隊の任務」(7)を与え、何んと細部には宮中の「3つの衛門」の護りの実務をも与え、これに官職名として左右の衛門に位を与え、「左衛門上尉」や「左衛門上佐」などの「尉佐と上下」の「4階級の職務」(8)まで設定し与えたました。
更に天皇家の守護神として伊勢神宮を指定しここを守護する王の「守護王」(9)の最大任務を与えると云う徹底した改革でした。

因みに、江戸時代には御家人や旗本等の中級武士以上が金品を渡して朝廷より一代限りの官位をうけましたが、例えば彼の江戸南町奉行の遠山の金さんは遠山左衛門上尉景元と名乗っていた様に。この元は皇族賜姓族の青木氏と藤原秀郷流青木氏に与えられる永代官位だったのです。

その後、上記「5つの制度」と共に施基皇子で始まった「9つのステイタス」に裏打ちされたこの権威のある第6位皇子に5代の天皇が5つの主要天領地の守護王を命じたのです。
天智天皇
天武天皇
文武天皇
聖武天皇
光仁天皇

第4世皇子までが守護王に任じられたのは下記の当時の天領地の王に及びました。
嵯峨天皇から賜姓源氏に変名されて11代続きましたが、下記の守護王や国司に任じられたのです。

天領地の守護王
伊勢王、近江王、美濃王、三野王(信濃王)、甲斐王、山部王、石川王、高坂王、雅狭王、栗隅王、武家王、広瀬王、竹田王、桑田王、春日王、難波王、宮処王、泊瀬王、弥努王
以上19王/66国

この中で伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王には第6位皇子が任じられ上位王として5家5流の青木氏が発祥しました。この5つの国に青木氏の子孫を遺しました。
他の14王ではステイタスが授与されましたが、氏を遺したとされる王と遺し得なかった王とがあります。賜姓源氏は滅亡しましたが、未勘氏として子孫を遺しているとされていますが、史実は結果として多くは賜姓佐々木氏がこの「印章権威」に保護されてこの地の多くに子孫を遺しています。

以下の9つのステイタスは皇族賜姓青木氏5代と皇族賜姓源氏11代と皇族賜姓佐々木氏2代に続けられました。
(1) 「第6位皇子」 (1)
(2) 「朝臣族」 (2)
(3) 「青木氏」 (3)
(4) 「笹竜胆」印章 (4)
(5) 「一族の神木」 (5)
(6) 「守り本尊」「大日輪座像」 (6)
(7) 「護衛隊の任務」 (7)
(8) 「左衛門上尉」や「左衛門上佐」などの官職 (8)
(9) 「守護王」 (9)

この9つのステイタスが5代天皇に引き継がれて「光仁天皇」まで続きましたが、「桓武天皇」と「平城天皇」は律令国家完成を目指して青木氏らの「皇親政治の勢力」を排除しました。
これに反発した「桓武天皇」の第2位皇子の「嵯峨天皇」が元に戻し、これに手を加えて「嵯峨期の詔」を発し、青木氏には皇族の者が下俗する際に称する氏名として使用を禁止しました。明治3年まで3つの混乱期を除き原則守られました。
このわずか後に、「平将門の乱」を平定した功労で「藤原秀郷」は貴族に任じられて為に、秀郷護衛団として第3子の「千国」を侍にしてこの詔に基づき(2)の身分を授かり、(3)の呼称を許され、(1)同等の身分を持つ青木氏として呼称する事を申請して、朝廷より母方を同じとする事を理由に、特別認可され発祥させました。
そして、代々青木氏と同等の天皇家の近衛軍の(7)(8)の官職を与えられ、(9)として伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の守護王の補佐官吏として国司に任じられました。
(4)では秀郷は下賜「下がり藤紋」の印章を維持しました。他の藤原氏四家は「下がり」を忌み嫌い上り藤紋に変紋しましたが秀郷は下賜家紋を固持したのです。
(5)は藤、(6)は春日大社として9つのステイタスを代々保持したのです。

以上の様に藤原秀郷流青木氏は皇族賜姓青木氏と全て同等の扱いを受けていたのです。
この様に家紋「下がり藤紋」には皇族賜姓青木氏の「笹竜胆紋」と同等の身分家柄扱いを朝廷から受けていたのです。家紋はこの様に「9つのステイタス」を背景にその全体的な「象徴」として観られていたのです。
この「9つのステイタス方式」を継承して、その第6位皇子には賜姓青木氏から家紋はそのままに源氏の賜姓に変更しました。賜姓源氏は正式には花山天皇までの11代の天皇に継承されました。合わせて16代続いた事に成ります。
この同等扱いを理由に源氏とも繋がりを持つとして、後に藤原秀郷流青木氏は源氏でもあるとする説が生まれたのです。

この様な「4つの制度」(身分階級制度等)の政治システムが次第に確立してゆく中で、その「立場を表す「印」が必要に成り、そのステイタスとして平安初期には真人族の貴族や朝臣族や他の藤原氏の血筋を引く公家や八色の姓族などにも使用される様になったのです。
この「印章」となる紋だけではなく同時に「他の8つのステイタス」がその身分に合して制度として引き継がれる様になりました。

この家紋化へと進んだ時期は渡来人の帰化人が国に同化し「渡来人」と云う言葉が使われなくなった時期で、律令政治が確立した頃の桓武天皇の時期からそのステイタスを表す諸道具や牛車などに盛んに「権威ある印章」が用いられました。記録によると牛車等に付けられた「印章」でその位身分の差異で道を譲れ譲らないなどの争いが起こるなど一種のブームと成りました。
平安初期の最初は皇子族、貴族侍、公家侍等の40程度の氏を構成する者が使用を許される様に成り、平安中期には80程度の氏、平安末期には200程度に拡がり始めて、鎌倉時代には幕府の推薦で朝廷が授与するシステムが出来上がり、ステイタスからはっきりと家紋化として侍にも身分の区別化として用いられる様に成って拡がりました。
鎌倉期には朝廷からこの「9つのステイタス」を授受される事が上級侍としての誉れとされました。
しかし、鎌倉時代の移行期を経て、更に室町初期には幕府体制の下で家紋の元に成った「印章」だけは武士を中心に上級武士の間で自らが定める完全な家紋となり800程度、戦国時代には1200程度と一時急激に増え、末期には淘汰されて平安初期程度に戻ってしまったのです。

この一連の「9つのステイタス」は、当初は「印章」から「家紋」に、「誉れ」から「判別」に変化して行きました。
この様に家紋を始めとして(4)(5)(6)だけは個別に成り、遂には(7)(8)(9)は実態とは別に名前だけを幕府の推薦と朝廷の授受するものと変わりました。
(1)(2)(3)は朝廷内部のものとして「禁令の詔」を発して明治3年まで原則護られました。
(2)だけは(1)と(3)の家柄を持つ氏に与える事として定められました。これは結局は鎌倉、室町幕府を開いた征夷大将軍にのみ与えるものとして遺されたのです。
因みに徳川幕府は(1)(3)の朝臣族の家柄になく南北朝の天皇家の乱れた系譜を搾取偏纂して朝廷の抵抗を撥ね退けて強引に取得すると云う有名な事件が起こりました。すでに南北朝時代はこの制度は無くなっていました。徳川氏はそこを突いたのです。
安定した桃山時代には遂には秀吉が天皇家の五三の桐紋等を勝手気ままに与えるなどして再び増え江戸初期には家紋奨励するほどに中級以上の「武士階級」は全て持つように成りました。
江戸中期からは朝廷は(7)(8)(9)を乱発して経済的な収入源とした為に中級武士以上は全て持つ様に成りました。結果的に(4)は室町末期からは自由と成ったのです。
江戸末期から明治初期の戸籍化に因って裕福な一般庶民も使用する様になり、何時しか全ての氏が使用し日本全国には8000もの家紋が存在する様に成りました。

この様な経緯を持つ家紋は初期には特定の氏だけに認められて使用を禁じられていましたが、禁令の順守が緩やかに成り鎌倉末期には慣習化されて次の様なルールに基づき使用される様に成りました。
江戸時代初期には幕府により概要が明文化されて各大名が更に慣例に基づき自らの氏の「家紋掟」を定めて氏家制度を保持しました。

この様に、完全な画一的な掟ではなく、統一する事は各氏の事情により異成る為に、大筋を社会慣習にて定めたものです。例えば奈良時代から存在する一連のステイタスを保持する藤原氏の様に元来丸付き紋は使用せず、大一族一門を見分ける為に丸付き紋では困難であり、分家を始めとする分流分派を見分ける為にも「副紋方式」の様な独特な詳細な掟を定めました。
因って、皇子族、貴族侍、公家侍、大古豪族の家紋は当時の社会慣習により、血縁関係も身分釣り合いと純潔習慣があり、丸付き紋は原則使用していません。
依って、(1)(2)(3)、(4)(5)(6)、(7)(8)(9)のステイタスが3つに分離が起こり、その結果、武士階級によって家紋が左右される様な時期からは「丸付き紋」が始まり、氏が拡大して行く室町期頃からの必然的な使用と成りました。

本来、この家紋の丸付き紋の目的は、青木サイトとして「家紋掟の古原本」より筆者なりにまとめますと、「氏家制度」の武家社会の「家紋掟」により細かく分けるとすると、7-8つ程度の役目があります。

以上の経緯を考慮に入れ次ぎの各要素を組み入れて家紋を分析する事で、ご先祖のルーツ解明の一つの手段に成りご先祖の氏での位置付けが見えてきます。

皇族賜姓青木氏29氏は特別な史実に基づく未勘氏を除くと原則丸付き紋は使用していません。
ただ、笹竜胆紋は、当初は「部分変紋」を使用していたと観られていますが、「賜姓青木氏の笹竜胆紋」と「賜姓源氏の笹竜胆紋」と「賜姓佐々木氏の笹竜胆紋」は竜胆の花と5枚葉との間の軸の部分を変化させて判別させていたと観られます。
調査すると、賜姓青木氏の場合は軸状、賜姓佐々木氏の場合は円点状、賜姓源氏の場合は菱状であったと観られ判別されていた模様で何時しか軸状と同じに成っています。
この原因は奈良時代から平安時代の皇族の「純潔慣習」が保たれて「同族血縁」を繰り返した結果から「部分変紋」を維持する事が難しく成ったと考えられます。
この「同族血縁」が制度的に続けられていた最後の時期は、伊勢青木氏の血縁を観ると清和源氏宗家源頼光系頼政の仲綱の子との養子血縁をしている事から、1180年頃から1185年までと観られます。平安末期です。
その理由は最大勢力を誇った清和源氏は1195年で滅亡しました。後は同紋5家5流青木氏か近江佐々木氏との同族血縁しか無く成っていました。その後には美濃、信濃青木氏との血縁が観られます。依って、「部分変紋」が無くなったと考えられます。

同じく藤原秀郷流青木氏も原則は使用していませんが、116氏の内30紋が丸付き紋と成っています。依ってこの30紋は江戸初期前後に発祥した氏が多いのです。
青木氏に関しては、あくまでも丸付き紋単独で存在する家紋はなく全て分家である事が裏付けられます。つまり、単独であっても分家が生き残ったと観られる氏であります。
室町末期、江戸初期、明治初期に発祥した青木氏には全てと云ってよい程に「丸付き紋」が目立ちます。
これは、室町末期は下剋上と戦国時代を経て立身出世した者が没落した氏の家紋などを使用する、又は似せて使用した事から家紋掟に憚って「丸付き紋」を使用したことが原因と成っています。
「下剋上」で元の主君の家紋を何等かな方法で使った事が大きく原因しています。

江戸初期は武士に成った者や家紋の持たない下級武士であった者が左程に氏を構成するほどに大きくなくてもこぞって持つ様になりました。この時、土地柄や周囲の盟主豪族の家紋に似せて「丸付き紋」と「一部変紋」や「糸輪紋」や「囲い込み紋」の方式で変化を付けて家紋を作りました。

この時期は武士の間では急激に家紋が増えた時期です。家紋としての役割がそれほど無い家でも”家紋が無い家は武家ではない”とも観られた時期でもありました。

(参考 当初「武家」とは「公家」に対して「氏」を構成する「侍集団」として主に天皇を護衛する武力集団として呼ばれたもので、室町末期ころから一般の「武士」までを呼ぶ言葉と成った。大化期に伊勢青木氏から最初に発祥したもので、それまでは「部」を構成する武力の職業集団であった。)

氏家制度に沿って一族一門が結束する為のステイタスとしての役割では無く、氏が乱世で個別離散して持った為に一族間でありながらも家紋の違いが起こる等の問題が起こりました。
この時期、この様な家紋やルーツを手繰る専門の職業が生まれて、力のある者は良く似た家紋を作ってもらう等のブームが起こりました。

明治初期は氏家制度や身分制度の崩壊で政治新体制下で「契約社会」となりました。この為全ての国民が姓を持つ事を義務付けられて明治3年に「苗字令」8年に「督促令」が公布されました。
なかなかその習慣に馴染めない民衆は一度にある日村全員が村の周囲の盟主の氏を名乗るなどして苗字を持ち、苗字に合わせて家紋も同じ要領で持つ等の事が起こりました。
苗字でも民衆は8年も掛りましたから、家紋に至っては文様を考案する等は程遠く類似する家紋か盟主の家紋に「丸付き紋」を付けるなどの事で対応するのが限界でした。
この時、憚って盟主の家紋に主に丸付き紋を付ける事などして家紋化が起こりました。
例えば、全国各地に多い「下がり藤紋に丸付き紋」はこの時の家紋群で、群や村の全員が藤原氏の宗家本家筋だけが名乗る「藤原氏」を名乗り、又合わせて家紋も使う等の事が起こったのです。
この様に各地では盟主の家紋に「丸付き紋」が多用されました。
家紋で代表される「源平藤橘」の「丸付き紋」はこの様な背景から生まれました。
因って、「丸付き紋」には元来、正規には分家を意味しますが、氏の発祥の時期によってはこの様な意味を持っているのです。この時期の「丸付き紋」の家紋は村の盟主の「分家」と云う意味を広義に捉えた手段に成ったのです。
中にはそれなりの理由根拠があり、盟主が「農兵」として駆り出しその功労として姓と家紋の使用を許すと云う行為を多用したのです。しかし、「農兵」にしてみれば彼らには生活の中に苗字や家紋を使うそのような慣習がなかったのですから、当時としては何の価値もありませんでした。
しかし、明治の苗字令で督促されて過去のこれを持ち出した事が起こりました。盟主にしてみれば文句の言えない事でした。
明治期には盟主は地主に成り、農民には小作人として働いてもらわなくてはなりません。むしろ、苗字と家紋は新体制維持のためには是非もない事でもあり維新政府の奨励と厳しい指導があったのです。

上記した様に「印章」から始まり「家紋」化したものには必ず其々次の特徴を持っています。
1 由来姓
2 時代性
3 地理性
4 氏名性
5 特記

以上の1から5の「其々の特徴」と「氏家制度の慣習」とを把握し勘案するとその氏の家紋の発祥内容が確定できます。
特に青木氏に関する内容については明確になります。
従って、「丸付き紋」の有無で「氏の構成具合」は評価できるのです。
普通は次の要領で判断されていました。

a 嫡子が存在する場合
本家筋の末裔と分家筋の末裔に分離する。
嫡子が同紋を引き継ぐ。
本家筋の嗣子には家紋部分変更を行う。
分家筋の嗣子には丸付き紋を付ける。
妾子には丸付き紋を付ける。
因縁性のある嗣子に丸付き紋を付ける。

b 嫡子が存在しない場合(女子がいる場合)
婿養子先家紋に変紋し、婿養子が妾子の場合は丸付き紋を付ける。(養子先本家の許可)
この場合は変紋時、正式略式の場合の使い分けを行う。
婿養子に嫡子が出来ると元の家紋に戻る。(本家の許可)
2代続きの婿養子では親の婿養子先の家紋に確定する(女系化 婿先系の新氏発祥)
確定時に丸付き紋の有無の許可を婿養子先に求める。

c 嫡子が存在しない場合(子供居ない場合)
養子婿を迎え嫁を取る場合、丸付き紋に変紋する(本家の許可)
養子婿先の家紋に丸付き紋を付ける。

d 嫡子が存在しない場合(縁者より養子の場合)
家紋は変わらない。(最も一般的で多く採用された方法)

大きな氏は原則、「丸付き紋」で対応する事に成りますが、次の要素により3つの変紋の手段が採用される場合があります。
 「時代の変化」
 「地理的な変化」
 「氏の拡大」
 「全体の氏性」
以上が原因で大きい氏は確実に把握が困難と成りました。

この自然淘汰による履歴の把握が困難に加えて、家紋経過には次の事が起こりました。
 室町末期(新興勢力 氏のステイタス)
「下剋上」と「戦国時代」で混乱 奈良時代から始まった氏の構成が新興勢力に新しく変化した。
この為に氏を示す家紋も新しく発生した。

 江戸初期(下級武士 氏の判別)
新興勢力の氏は自然淘汰されて、氏の安定期に入り、それまで氏を構成しなかった下級武士が改めて興し独自の氏と家紋を持った。

 明治初期(庶民 家柄の誇示) 
「氏家制度」の崩壊で明治維新の「契約社会」へと変化し、全ての国民が苗字を持ち氏をあらためて構成し始めた。当然に家紋も併せ持った。

以上の3乱期には第3氏が「丸付き紋」を採用しました。
この為に「丸付き紋」の採用は一族性に問題を生じて来ました。
ただ、氏家制度が無くなり身分制度の無く成った社会慣習の明治初期以降に使用された家紋が、この家紋掟を護られたかは疑問ですが、a、b、c、d、イ、ロ、ハ、ニ、等の方法の中でただ「養子縁組」になると「丸付き紋」だけを一時使用していた事は確認されています。
現在では家紋の持つ意味も核家族社会の中で無くなり殆ど護られていない事と思います。

そこで次の4つの方法が採用されて来ました。
上記abcを繰り返して行くと次の方法が採用されて来ました。
イ 部分変紋(最も多く用いられた方法)
ロ 囲い込み紋(糸輪紋含む)
ハ 陰紋
ニ 類似変紋(イの変化)

#1 嫡子の本家筋ルートは次第に分家化する。
主に家紋の「部分変更紋」で何処の本家筋かを判別する方法を採用した。

#2 嗣子の分家筋ルートは次第に分家化する。
丸付き紋が細分化すると丸は採用できなくなる為に、主に「囲い込み紋」を採用して分家筋を判別する方法を採用した。更に「部分変更」を加えて対処した。

#3 妾子の分家筋ルートは次第に支流化する。
「丸付き紋」が細分化すると重複して維持できなくなる為に、一族性を保持する為に家紋の明暗を逆転して主に「陰紋」を作りだした。

#4 #2 #3のabcが進むと次第に傍系化する。
更に血縁性が不明確に成り傍系支流化すると「類似別紋」を採用した。
「部分変紋」にはその違いの大小に依って「類似変紋」に変化する事も起こる。

大小の氏では時代性が異なるが#1から#4の経過を辿っています。

(本来は6つの掟)
1 宗家、本家、分家、支流、分流、分派の区別
2 嗣子と妾子分類
3 宗家の許可
4 配流子孫の区別
5 男系跡目の継承
6 養子縁組
7 嫡子尊厳
8 身分家柄の保全

1についての説明
先ず、宗家が家紋を決めます。そこから枝葉が拡がります。
又、それぞれの本家ができます。そして、嫡子以外は分家となります。
これを繰り返してゆきますと、1の様に呼ばれる枝葉が拡がります。
この6つに更に宗家から分派まで出来る事になります。
この大元が「総宗本家」となります。
この時、家紋の使用はそれぞれの本家筋が伝統を重んじ使用許可を出して決めます。
氏家制度の中では一族の「純血」を出来るだけ守るためにそう簡単には使用を認めません。
この許可は嫡子が行います。
嫡子は何も長男とは限りません。能力のあるものが嫡子となります。
長男が嫡子と成る事を決めたのは「江戸初期」の徳川家康が決めました。徳川家の後継ぎとして定めたものです。これに諸国の大名が習ったものです。
氏家制度の中では実力のあるものが成ります。
嫡子が出来なければ、氏の血筋目が立ちませんし、「長」がいないことにも成る訳ですから、当時の「妾」の存在の概念は罪悪感はなく子孫を残すと云う人としての大命題である為に氏家制度では普通の概念でした。
ただ、とは云え「正子」と「妾子」では身分上で原則区別されます。しかし、「正子」に「妾子」が勝れば子孫繁栄存続の目的のために「妾子」が成ることがあります。「正子」が無ければ「妾子」が「嫡子」に成ることがあります。
この為、大きい氏では妾子は次ぎの3つの身分に分けられます。
妻の身分
 后:きさき (正妻)
 夫人
 妃:ひめ、
 嬪:みめ、

 采女:うねめ

正妻と次ぎの2つの妻との間には一つランクがあり、更に妥女との間にも一つランクがあります。
当然、この子供が独立するとなると、歴然としてその扱いには差異があり、家紋の継承が問題と成ります。
正妻の身分に子供が居ないとなると必然的に下に降りて行きますが、嫡子が江戸時代までは原則正妻よりランクに従い長男と成りますが誰になるかは別問題です。
これは大きい氏には正妻等の血族結婚による弊害を避ける事もあり、戦国時代で優秀な者を嫡子にしなければ氏の存続は保てない事情もあります。
本家宗家はこのシステムで血縁性と家紋継承を保つのです。

「正子」がいる場合は「采女」の身分まででは、「丸付き紋」は当然の事として「部分変紋」又は「陰紋」「類似変紋」「別紋」の順序でかなり厳しい扱いを受ける事に成ります。
この3つの身分扱いは各氏で血縁性を担保するために「掟」として定めていました。
一般的には「丸付き紋」「部分変紋」「陰紋」「類似変紋」「別紋」の順序となっています。
「陰紋」はその意味合いや目立たない事から比較的に使用を嫌われていました。
家紋は「部分変紋」の差異が小差であるから「類似変紋」へ、「類似変紋」の差異が大差であるから次第に「別紋」へと変異しているのです。
この様な「家紋掟」の中では分家以降は余程その子孫の枝葉が大きくならないと勝手に家紋を決める事はできません。
依って主要な大豪族は原則「丸付き紋」は使用しません。多くは「副紋方式」です。
分家の分家以降は主に普通は「丸付き紋」が多いのですが、これは、普通の氏で、分家である場合か、他氏の無断使用の場合かによります。
しかし、ここで「丸付き紋」に欠点があります。
分家の分家の場合は「丸付き紋」は二重の丸となり使えないことが起こるのです。そこで「丸付き紋」に「部分変紋」が起こるのです。そこで又更に分家扱いが起こると「部分変紋」にも限界が起こる為に「類似変紋」と成ります。
この「類似変紋」に来ると「変化の多様性」つまり差異が大きく取れる特長を持っているので「別紋」に至るまでには時間的な経過期間を保てるのです。この様にして一族の家紋は変化して行くのです。
血縁性の経緯を一定に保つために戸籍簿、系譜の様に氏家制度の中ではそれを宗家本家が管理している事に成ります。
しかし、この管理が江戸中期以降緩んだと云う事に成ります。宗家本家の力が落ちた事を意味し、氏家制度も低下した事に成ります。明治期に入り氏家制度が崩壊し、家紋の使用は庶民に広がったがその家紋の持つ意味合いは「9つのステイタス」からほど遠く成り、「氏の誉れ」と云う単位から「家の虚勢」へと変化していったのです。
藤原秀郷一門の家紋掟ではない「丸に下がり藤紋」は庶民のせめてもの「虚勢行為」と考えられます。
例えば、藤原氏の「下がり藤紋」や「上がり藤紋」に「丸付き紋」は、元来、家紋掟では副紋方式ですので、第3氏である事になります。この様に「源平藤橘」の紋は主に副紋方式ですが、源平橘の氏の子孫拡大はそれまでに至っていません。依ってこの3氏には「丸付き紋」の未勘氏が多いのです。

「橘紋」は藤原氏に圧迫されて子孫を多く広げる事は出来ず大衰退を余儀なくされ、この衰退を末裔は忌み嫌い、橘氏自身がこの橘の紋を使う事をやめると云う事が起こりました。依って、第3氏の丸付き紋の「橘紋」も著しく敬遠されました。丸付き紋になる程に橘紋は使用されなかった筈なのです。子孫もそれだけに広がっていないのです。
ところが、橘紋には上記の由来性、時代性、地理性や宗派性に先ず矛盾し尚且つ丸付き紋が実に多いのです。
この氏は地理性が極めて限定されいて大変氏が小さいのですが、矛盾しての名乗る氏が驚きを超える程に多いのです。

平家の「揚羽蝶紋」は滅亡して関西以西に逃亡して農民として隠れ忍びましたので、この家紋を公に使う事が憚られ室町期に入ると表に出てくる事が再び起こりました。この為に史実から末裔の素性が明確になりません。各地で農民として生きていた為に「丸付き紋の揚羽蝶」が出来る程に管理されていなかった筈なのです。「揚羽蝶紋」に対して実は平家の分家には「臥羽蝶紋」もあるのです。平家には「丸付き紋」は元来なくこの様な家紋掟により分家筋は実は「臥羽蝶紋」が使用されていたのです。丸付き紋の史実がとれない平家の未勘氏も子孫の数より数倍も多い氏が驚くほどにあります。

源氏の11家11流がありましたが、清和源氏、村上源氏、宇多源氏、嵯峨源氏の末裔が何とか政争の中でも生き残りましたが、中でも引き継いだ鎌倉時代の清和源氏の頼朝の末裔が滅亡して史実は子孫を遺せなかったのです。
何とか「不入不倫の権」で守られていた賜姓青木氏の5家5流と近江の佐々木氏、宇多天皇の滋賀佐々木氏がこの笹竜胆紋を維持して来ています。
清和源氏の未勘氏が膨大と云う言葉で表現出来る程に多いのです。何んと家紋から観ると1165氏も名乗りを揚げているのです。1/100も無い筈です。未勘氏を入れると2000前後にも成ります。
普通でも身分家柄上同族血縁を原則としている為に、これほど清和源氏が子孫を遺す事そのものが難しいのに源氏だと名乗っている氏があるのです。
そうだとしたら、源氏の末裔を尽く潰した鎌倉幕府の北条氏らは放って置く事はありません。
鎌倉幕府の後の政権を取った足利氏も家紋の違う傍系支流ですから、本流の末裔が生きているのであれば足利氏の室町幕府に参加していた筈です。
そして、副紋も丸付き紋等も使わない掟のある氏であり、嵯峨期の詔で禁令が出ているのに、家紋は笹竜胆紋ではなく氏名も異なる氏が源氏だと名乗っているのです。ほとんどは史実がありません。

因みに、上記した藤原氏に殆ど抹殺され、氏名家紋を使う事さえ嫌われた橘氏ですが、家紋から観ると86氏も名乗っているのです。藤原秀郷一門でさえ永嶋氏は34氏、長沼氏が52氏、進藤氏は48氏、長谷川氏は111氏、もちろん青木氏は116氏で、「関東屋形」と呼ばれて平安、鎌倉、室町期、江戸初期までに全盛を極めたこれらの秀郷一門の氏でさえせいぜい30-50程度です。
それが橘紋86もあると云うのです。未勘氏を入れると150くらいにも成ります。

ところが、藤原秀郷一門の主要5氏で観てみると、全部で361氏ですが、家紋から観てみると不思議に371氏なのです。未勘氏を入れると凡そ500程度に成ります。意外に少ないのです。
これは、一門が「第2の宗家」として青木氏を中心にして管理されていた事を物語り、なかなか第3氏が秀郷一門の氏名(家紋)を名乗れなかった環境があった事が云えます。

つまり、代表的なものとしてあげれば、傾向として「源平橘」は滅亡しているので氏の「厳しい管理の目」が無く自由に名乗れると云う現象が、室町末期、江戸初期、明治初期の3乱期に起こっていた事を意味します。

賜姓青木氏でも、或る伊賀の立身出世した者が、元近江青木氏が滋賀に移動して再び近江に戻りましたが、一部滋賀に残った全く絶えた分家を乗っ取り、滋賀の青木氏を名乗り、その近江青木氏本家がこれに異議を申し立て2度も戦いをしました。最終、秀吉の承認の下で決戦をし滋賀から近江に戻った近江青木氏本家は負けてしまったのです。伊賀上田の者は滋賀青木氏を堂々と名乗り、後には滋賀青木氏本家を名乗ると云う事件さえ起こりました。そしてこの滋賀青木氏は著しい子孫拡大を果たしました。

藤原氏に付いても群村単位で農民が名乗りましたが、氏家制度の管理が解き放たれた明治期に成って名乗った事、秀郷宗家本家筋が名乗る氏名を名乗ったが、家紋はなかなか使えなかった事と丸付き紋等を使用した事によるものと考えられます。
藤原氏全体では未勘氏があまりに多すぎて検証は困難です。

この様に、絶えた有名な氏を名乗った「虚勢」の未勘氏が実に多いと云う事なのです。
氏家制度の慣習の中では上記した5つの条件から検証するとそれを明確に検証できるのです。

この現象は「源平籐橘」全てに云える現象です。如何に室町末期や江戸初期に武士となった者が搾取して家柄身分に「虚勢」を張っていたかが判ります。
殆ど、5つの条件 即ち、由来性、時代性、地理性、宗派、特記や当時の慣習などから調べると矛盾が出てくるのです。

伊勢青木氏よりはじまった賜姓紋の笹竜胆紋は副紋も一切使用していませんので、本家筋の「総紋」の継承と成りますので、丸付き紋の笹竜胆紋は「未勘氏」(明確でない氏か史実として認められるが継続した証明がとれない氏の事)か第3氏の使用となります。

笹竜胆紋や下がり藤紋の青木氏は、各青木村を形成して嫡子がいない場合とか死んだとかした場合は、青木村を形成している事により縁続きの者を迎え入れて同じ血筋を保持し家紋を保持する事が出来たのです。これを護る「宿命的な伝統」のそのような仕来たりがあったのです。

笹竜胆紋は5家5流の青木村と24の国の青木村、下がり藤紋は武蔵入間を中心に神奈川横浜を半径とする地域に116氏の青木村と24国に青木村を形成していますので、宗家本家筋が血筋と家紋維持のためには縁者を迎え入れる事は氏家制度の中で管理されていればそう難しい事ではありませんでした。

笹竜胆紋の青木氏と下がり藤紋の青木氏との相互血縁も母方血縁族ですので不可能ではありませんでした。
例えば、讃岐藤氏の秀郷流青木氏が足利氏系青木氏や甲斐の武田氏系青木氏を保護し血縁、
神奈川の秀郷流青木氏が信濃諏訪族青木氏を保護し血縁、
伊豆の賜姓青木氏と神奈川の秀郷流青木氏が血縁、
その伊豆賜姓青木氏と本家筋の伊勢賜姓青木氏との血縁、
信濃賜姓青木氏と美濃の秀郷流青木氏との血縁、
その信濃賜姓青木氏と伊勢賜姓青木氏とが江戸末期まで各1300年程の歴史を持つ伊賀和紙と信濃和紙で結ばれた長い期間の血縁関係、
皇族丹治氏系青木氏と入間秀郷流青木氏との血縁

以上の様に複合した血縁関係等の多くの史実があり、恐らくはこれ以上に慣習として頻繁に更に相互間で行われていた事が予想できます。
同じ村単位だけではなく、何処に血縁族が居て互いの宗家に話を通せば相互間で紹介し合える仕来りが生まれていた事を物語ります。

「第2の宗家」の秀郷流青木氏はこの管理を江戸初期頃まで一元化して管理したいた事が判ります。

氏家制度の青木村は「只一族が集まる」というだけではなく、「9つのステイタス」の家柄、身分、家紋、伝統、血筋等を護るために「血縁関係のシステム」即ち「氏家制度の根幹」を担っていたのです。
この様に同じ青木村だけではなく各地に分布する青木村から迎え入れる事も頻繁にしたのです。この様にして広い範囲から宗家、本家、分家、支流、分流、分派から迎え入れる事で血筋の弊害をなくしていたのです。
その証拠の一つに、甲斐武田氏が滅びた時、甲斐賜姓青木氏、武田氏系青木氏、諏訪族青木氏ら一族一門が藤原秀郷一門を頼って神奈川や栃木など、四国讃岐、土佐、阿波にも逃げ延びた史実が残っています。これは真に宗家本家筋のこの管理が行き届いていた事を証明するものです。

一般の「丸付き紋」は、この事から宗家、本家、分家、支流、分流、分派の5つの中で血縁性の高低で直系性が無く成る場合に多く使う事を求められました。
この6つの流れの中で女系と成り新たに氏を発祥させる事となると、ここで始めて丸付き紋の家紋が出てくる事に成ります。「丸付き紋」で違いを出し「支流性」を表現して宗家との区別をします。
始めから「丸付き紋」の氏はこの結果で生まれるのです。
「丸付き紋」の家が血縁性が低下した場合に丸付き紋に更に丸付き紋の変紋は物理的に困難ですので、「部分変紋」や「囲い込紋」や「陰紋」が一定の規則の下で使われたのです。

家紋200選から観るとむしろ本家より分家が勢力を持った結果3割もの丸付き紋が多い事になります。

2番目の嗣子と妾子扱い
これに当たる場合は嫡子が指示しない限りは「嗣子」は原則丸付き紋は使用しない事になります。
しかし、嫡子の指示が無い場合の「妾子」は原則使用することになります。ここに区別がつきます。
只、妾子が嫡子となった場合は自らが決める事になりますので問題はなくなります。
ここに、嫡子、嗣子、妾子の問題が出て類似家紋が増加する事に成ります。
氏家制度の中での妾の概念は制度を維持する為の方法に主眼が置かれていて、元来は男子子孫を遺す事に目的があり、妾子の妾の差別的な概念が強く生まれたのは長男=嫡子となった江戸期に入ってからの事です。

3番目は宗家の許可です。
氏家制度は宗家を頂点にして一門を構成しています。
当然に、勢力を持つ宗家から経済的、武力的、政治的な保護を受けて成り立っていますから、この組織からはみ出しての勢力拡大は困難です。一族の互助システムですから、家紋はそのステイタスですからその許可は宗家の許可を必要とします。宗家に睨まれると家の存続は元より家紋使用も難しい事になります。
家紋類を分析すると、現実には3割近くが丸付き紋の使用を指示された事になります。
そして、宗家本家筋より丸付き紋の分家筋の方が勢力を持った氏が3割近くもいた事を物語ります。

4番目は配流子孫の区別です。
平安初期から氏の戦いが起こり始めて負けた側が遠地に追いやられる事に成ります。
この史実として各地には配流されましたが、その史実は認められるが、戦いや勢力争いなどに敗れて島流しや逃げ延びたりしてその地で再び子孫を広げた場合などの時にその確たる証拠等がない場合のその家紋の使用は原則丸付き紋を使うことになります。
皇族、賜姓族の青木氏では5家5流以外に嵯峨期の詔により後に皇族青木氏を名乗り史実として認められる日向青木氏等の3氏の「丸に笹竜胆紋」の青木氏がいます。
源氏や青木氏外の丸に笹竜胆紋は上記した経緯から明治期か江戸期の第3氏となります。
比較的この場合の家紋が多く、源氏や藤原氏や橘氏や京平氏等の家紋にはこの「未勘氏」のものが大変多いのです。源氏等を名乗る氏の9割はこの配流子孫の類の未勘氏です。
この配流子孫の未勘氏には史実が明確な子孫と史実が発見されない子孫に分かれています。
ほとんどは言い伝えだけで史実の無い未勘氏です。

5番目は男系跡目の継承の原則です。
氏家制度ですから男子が跡を継ぐ事になります。
当然に上記した嫡子、嗣子、妾子に分けられます。
江戸の初期までは嫡子は原則正妻の長男と云う事では必ずしもありません。
一族一門を束ねるだけの器量を保持しているかどうかが問われる時代で又その制度でした。
因って、下の者に器量があれば嫡子に成る事もあります。
当然に内部で争いが起こります。それを乗り越えての試練でなくては一族一門を束ねる事は出来ないと考えられていました。必要悪の様なものでした。
中には本家からではなく分家に良い嫡子とみられる者が居れば養子に迎え入れて長に据える事も行いました。比較的分家から養子を迎える事が多かったのです。
本家に男子が生まれるとは限りません。そうなると分家から迎え入れて血筋や家紋を保つ必要が出ます。大きい氏では縁者関係まで広げて探し出して本家筋の血筋を護る事になります。
そうでない氏や分家支流筋は女子に婿養子、養子婿を迎えて嫁をとる方法が起こります。

6番目は養子縁組です。
原則丸付き紋です。
女子に婿養子をとると、男系の制度ですから一時婿養子の家紋を使います。婿養子に男子が生まれるとその男子が跡目と成れば家紋は元の家紋に戻ります。
しかし、再び女子に成れば婿養子を迎える事に成ります。この様に2代続いて女子となるとその家は女系となりますので男系の最初の婿養子先の家紋が定着してしまいます。
つまり、家紋は変化して新しい養子先系列の氏を発祥させた事に成ります。この場合は元の家紋に丸付き紋は使えなくなります。
又、多くは養子先からも本系列ではないので養子先家紋に丸付き紋とする事が多く起こりました。
この様に成らない様に宗家本家筋だけは無理でも縁者関係から婿養子を何とか探してきます。

女子もなく養子婿を迎えて家を継続する場合です。多くは分家筋の事となります。この場合は縁者から迎えない場合は血縁関係は無くなります。女子を縁者から迎えてそれに婿養子とする場合もあります。
家を継続すると云う事だけの目的で採る処置です。
従って、江戸時代では武士で家紋の持った家からの養子婿であればそれを家紋とする事に成りますが、どうせ許可は下りないので本家からの許可は多くは無視した様です。それでも摩擦を避けるために丸付き紋を使用する場合が多かった様です。
元々問題が起こらない様に丸付き紋の場合は丸の太さを変えたり中の一部を変えたりして新しいものを作りだしました。
家紋も持たない下級武士などそうでない場合が多かったので、家紋は無く新たに定める事も起こりました。しかし、大きな氏では出来ない事ですが、江戸中期以降では男系の血縁名性が途絶えても家紋掟を無視して家紋も継続してしまうと云う事が起こりました。
ほとんどの武士が家紋を持ち始めたのは江戸初期からで旗本、御家人等にブームが起こりこぞって持つ様になりました。従って、江戸初期からの発祥が殆どなので本家の許可云々の問題はあまり起こりません。ルーツを手繰れてもせいぜい普通は江戸初期までで室町期に入れる氏は少ないのです。
その点では青木氏は平安期まで遡れる氏です。
家紋8000の中では武士の場合は戦国時代を経てきたために子孫が少なくなりほとんどはこのタイプです。農民等から身を興して新たに氏を興した場合が多かったのです。
又、先祖が武士であってもそのルーツが下剋上や戦国時代で消失して判らなくなるなどして新たに氏を興したのです。この為に、未勘氏が多く成ったのです。使用した家紋のその氏に憚って丸付き紋とする事が多く起こりました。この場合は中の一部も変えると云う方法を使い争いを避けました。

七番目は嫡子尊厳です。
氏家制度の中では嫡子が絶対的権限を持っています。
嫡子に選ばれると他の嗣子妾子はその嫡子の心一つで家紋を引き継げるかどうか決まります。
家紋を引き継げると云う事は一族の中に残れるかどうかが決まる事です。
家紋を継げるという事はそれなりに財産分けがある事に成りますが、嗣子妾子はほとんどは他家に養子に出る運命です。勢力を拡大しない限りは抱え込むと氏の財政が圧迫するのです。むしろ、他家に出す事で勢力範囲が拡大する事に成るので積極的に行われたのです。
どちらかと云うと、結婚適齢期に婿養子に入ると云うよりは小さい子供のころから預けると云う習慣が多かったのです。その後に正妻や妾に嫡子が生まれたりすると、養子には家を新しく興して傍系支流を発祥させたりしました。
従って、家紋が変化することの方が氏家制度の中では正常な事であったのです。その為にも宗家本家だけは家紋や伝統を絶対的に護る必要が生まれたのです。
ただ、乱世であったことから婿養子に出て男子が多く生まれた場合で、養子先を子供に任して実家に跡目の問題など絶えたなどの事が起こると実家に戻る等の事が頻繁に起こりました。
固定された嫡子が長男と考えられるようになったのは江戸初期からで家康がその先鞭を付けたのです。

八番目は身分家柄の保全です。
氏家制度の中では「血縁はつりあい」で行われます。
その為には、家紋の判定が重要に成ります。
婿養子や養子婿では「つりあい」をある程度無視した形で行われました。
特に婿養子に男子の子供が生まれる事で解決するので家紋問題は解決します。
つり合いのとれない婚姻の場合は家紋継承が許されるかは問題で、丸付き紋を指示されたり、影紋や家紋の一部を変える変紋を要求されるか囲い紋を要求されるかは本家次第と成ります。
宗家本家筋の血縁には「吊り合い」が重視されますが、分家以下ではそのような事を云っていては跡目の継承は困難となります。養子縁組はこの様な事をある程度無視しなければ成り立ちません。
そこで、このままでは氏家制度が崩壊して行きますので、養子縁組には家紋の継承には一つのルールを設けていたのです。
以上の様な理由で一族の家紋は変化して行きます。
故に藤原秀郷流青木氏では116氏に成り、皇族賜姓青木氏(皇族青木氏含む)では24氏(29氏)に成っています。
この様に長い間に一族の家紋は元の総紋を宗家本家がどんな事が起こっても引き継ぐ苦労が伴いますが、上記の理由で分家筋では緩やかに拡がってゆきました。

その様な家紋継承にはそもそも次の様な方法があります。

A 「総紋」と云うのがあります。
これは宗家、本家が引き継ぐ一族の始めからの紋でそれが氏が拡大すると代表紋になるのですが、これが家紋掟により、分家と成った者が次第に家紋が変化して行き藤原氏で云えば361氏の家紋数に成ったと云う事です。その元の家紋が「総紋」と呼ばれるものです。藤原秀郷一門で云えば、「下がり藤紋」と云う事になるのです。この「総紋」と「藤原氏」の氏名を継承している事は361氏中限られた数の24氏と成る筈です。中でも「氏名」に付いては藤原氏にはある掟があり「藤原氏」そのものを名乗れる氏は武蔵入間の「総宗本家筋」だけと成ります。つまり、「氏名」も「総称」なのです。それを名乗ると成ると、"藤原朝臣青木左衛門上尉・・・・"と成ります。
この「総紋」を継承するには男系跡目を必ず果たさなくてはなりません。その為に宗家本家筋では妾子の方法も必然的に必要であり、それだけでも宗家本家筋に男子が生まれなかった場合には一族一門より男子を養子婿に迎えて嫁取りをします。女子がいれば婚姻し婿養子としますが、居なければ縁者から養女を迎えて婿養子をとる等して縁者による男系跡目の方策を構じて何等かな方法で宗家本家を維持し、家紋の一族紋の「総紋」の伝統を維持します。ここが宗家本家筋の大変なところなのです。当然に総宗本家を持つような大きい氏では確実に維持できる何等かな方法を構築しているのですが。

本家と分家の違いを出す方法
B 「副紋方式」(主紋に他の血縁族の家紋も併用して使用する)があります。
本家筋では養子を迎える努力はするが、どうしても叶わない場合は「総紋」にその迎えた養子先の家紋を併用する方法、或いは「総紋」の中にその養子先の家紋かその一部を組み入れて一つの家紋を作り上げます。藤原秀郷流青木氏の本家筋では「下がり藤紋」にこの2つの方式の何れかを採用しています。
宗家本家筋は依然として「下がり藤紋」です。
領国の宗家筋は総紋を維持する環境が周囲に整っていますので、総紋方式で継承して行けますが、地方に定住した本家筋には総紋維持は困難ですので副紋方式を用いたのです。
本家筋に近い分家筋ではここまで縛られませんが、丸付き紋を使わない下がり藤紋に藤の花数を変えるなどして変紋します。この意味から良く見られる現象ですが傍系支流が総紋の下がり藤紋である筈がなく、血縁性から副紋でもなく丸付き紋でもなく別紋である筈です。
藤原秀郷一門で「下がり藤紋」を家紋としているのは青木氏を含む主要7氏だけで、藤原氏だけでも系列から見て9氏しか使用できない筈です。主要7氏の宗家本家筋は結局、養子縁組が起これば副紋を使用する事に成ります。
361氏を監視しこの「氏の管理」をしていたのが「第2の宗家」と呼ばれた武力を持ち内外に睨みを利かしていた一門一族の大護衛団の青木氏なのです。

C 「丸付き紋方式」
明らかに分家となるとその氏が定めた家紋掟により養子先の家紋に変化して行きます。
丸付き紋を使用する氏は宗家本家に伺いを立てて丸を付けますが、許可が得られない場合は養子先の家紋と成ります。嗣子となった妾子の場合はこの対象に成ります。妾子は多くは他家に養子と成ります。この妾子が養子に入った先で男系に恵まれなかった場合は実家に家紋の使用の伺いをたてますが、妾子である事を理由で許可が得られない多くの場合は丸付き紋の使用と成ります。

基本的には丸付き紋は分家紋ですが、一部に女系に成ってでも分家と見なして使用している氏があります。
この様に分家の広義のとらえ方がひろまり分家の一種の分流や分派は丸付き紋と成ります。
血縁性の乏しい支流に広義に丸付き紋を使っている場合が多いですのでが、元来は別紋である筈です。
あくまでも丸付き紋は原則として同紋に分家筋以下を区別させる為に用います。

この他に次のような場合があります。
有名家紋の様な他氏の家紋を無断拝借する場合に多少なりとも遠慮して丸付き紋を用いました。
この現象は室町末期、江戸初期、明治初期に起った。
本流ではないが血縁性の低い支流であるがどうしても本流の家紋を使用したいとして丸付き紋を無断使用する事が室町末期に起こりました。

更には進んで直接血縁がなく自分の親族がその縁者である場合に丸付き紋を用いました。
縁者の縁者の場合であるので無断使用が多かったのです。
この様に、室町末期に一族の味方を誇示する事から、又その一族の背景がある事をにおわせて身を護ったことから丸付き紋が使用されました。

D 「影紋方式」
本家に遠慮して家紋の明暗を逆にして用いる。
丸付き紋を使用せずに家紋の明暗を逆転させて血縁性のある支流を誇示させる方式である。
室町末期に多く用いられました。

E 「変紋方式」
文様の一部を局部的に変更して用いる方式である。
軸、葉、花、花弁等の形や数を変更して用いる。
宗家から同紋の使用が許されないので、一見同紋の様に見えるがよく見ると一部が異にしている文様に変更して一族性を表現した。特に、妾子の場合にこの方式を多く採用した。
一般の家紋はこの方式から広まった。この方式からは血縁性が薄れる方式である。
室町末期、江戸初期、明治初期に広がりました。
特に江戸初期に御家人や旗本に多用されました。

F 「囲い紋方式」
角舛や糸輪で囲って用いる方式である。
糸輪は丸付き紋に似せて用いたもので変紋方式の一種である。
江戸中期以降に用いられたもので土豪集団、職人集団、氏子集団、檀家集団等の集団紋に多く用いられました。明治期には氏子の庶民はこの神紋や寺紋を使いましたので爆発的に増えたのです。
元の文様は神紋や寺紋から発展し小集団同士が結束して自主防衛の連合体を作りその集団紋としたものに多く観られます。
文様として囲う事で集団性を表現したものです。それを家紋としたものです。

この様な氏家制度を保つための社会慣習があり、家紋はその過程で変化して行くのです。
従って、各氏の家紋がこの上記する方式の何処に属するかにより氏家制度の中で大方の先祖の氏の位置するところが判るのです。

丸付き紋の青木氏
以下39の青木氏に関わる丸付き紋
・丸に州浜、丸に三つ盛州浜、・丸に抱き角、・丸に違い鷹の羽、・丸に蔦、丸に陰蔦、・丸に木瓜、丸に横木瓜、・丸に片喰、・丸に剣片喰、・丸に三つ柏、丸に蔓柏、・丸に梅鉢、・丸に揚羽蝶、・丸に九曜、・丸に三つ星、・丸に一つ引き、・丸に二つ引き、・丸に三つ引き、五瓜に丸に三つ引き、・丸に桔梗、・丸に三階菱、丸に三つ目菱、・丸に剣花菱、・丸に花菱、・丸に抱き茗荷、・丸に三階松、・丸に根笹、・丸に違い矢、丸に八矢車、・丸に隅立四つ目、丸に三つ目、・丸に扇、丸に違い扇、・丸に日の丸扇、・丸に並び扇、・丸に立ち沢潟、丸に三つ鱗、丸に青の角字

・印は「家紋200選」に撰ばれている丸付き紋の家紋です。
つまり、この青木氏の丸付き紋の氏は大豪族の氏です。

丸付き紋中の大豪族28紋/39紋で72%も占めています。
青木氏全体361氏の家紋からすると、家紋200選の丸付き紋28紋は7.8%を占めています。
全体の39紋では11%となります。
家紋200選全体から観ると28/200で14%です。

青木氏は丸付き紋の分家筋でも家柄、身分に釣り合いを合わせて血縁している事が云えます。

この分家を分家、分流、分派、その他で分析すると、次ぎの様に成ります。
分家 21家 79.5%
分流 12家 30.7%
分派  5家 12.8%
其他  1家  2.5%

殆ど、直系の分家で血縁(79)しています。
それも大豪族との血縁(72)です。

この丸付き紋の氏は次ぎの様な血縁で成り立っている事が云えます。

1 男系跡目が2代続きで叶わず変紋した氏。
2 直系の分家筋で丸付き紋に変紋した氏。
3 同族血縁した氏。

先ずは分家筋の氏に1の事が起こり他氏から養子縁組で変紋して家紋が増えて行くのですが、以上の内容データから観ると1-2にて氏が拡大して家紋が増え、そこで3-2-1の順に氏が構成されている事に成ります。
これほどの「家紋200選」にある丸付き紋の氏28氏もある事は1と2で起こった事とは、氏家制度の中での慣習からは、血縁関係は出来難いと考えられます。
大豪族を幾つも一門に持つ藤原秀郷一門の氏には血縁に関してはそれなりの明確な戦略があったのです。
イ 24の赴任地には土地の豪族との血縁族を拡げて勢力基盤を固めている事、
ロ 氏家制度の本筋でもある「血縁にはある一定の釣り合い」を求めている事、
ハ 氏が大きく成る弊害を克服する為に各地の同族間の純潔血縁を求めている事、

この「3つの戦略」を遂行すると一つの血縁上の問題(良い子孫が生まれない事)が生まれる為に、各地で他氏との血縁で一門で無い血液濃度の平均化を図る必要から、3を実行する事で「3つの戦略」は可能と成ります。故に、普通ではあり得ない上記の79%であり、72%等のデータが出て来るのです。

つまり、家紋から観ると、1-2-3-3-2-1-3を繰り返す事による家紋データなのです。
この中で、この上記する「家紋掟」は(1-2-3-3-2-1-3)の循環が働いているのです。

この家紋は次の事に大きく関わっているのです。
X 氏家制度の社会慣習
Y 家紋の掟
Z 宗派の慣習
1、2、3のサイクルは、上記X、Y、Zに大きく影響を受けて定まって行くもので、これを考慮しないでは判断できない仕組みの掟なのです。

家紋は9つのステイタスを背景として初期には用いられ、次第に氏の判別としての目的が強く成りましたが、それでも忘れては成らない事として「家紋」と同様に「宗派」も一種のステイタスであったのです。

家紋ステイタスと連動してそのステイタスとみられていた宗派は「古代密教」を掲げる3つの宗派でした。
天台宗密教、
浄土宗密教、
真言宗密教
以上です。

この3つは其々又違う階級の氏を宗徒としていました。
青木氏に関しては浄土宗古代密教を慣習として引き継いでいました。
あくまで密教でありますので、密教でない宗派との運営上のシステムが異なります。

氏が自ら寺を建立して自らの氏の者の住職を立て自らで運営し自らの氏だけを祭祀する排他的運営方式ですので、宗派の発展は特定地域に限定する事に成ります。この「菩提寺方式」がこれがステイタスの象徴と成っていたのです。その菩提寺に「寺紋」として「家紋」を使う事に成ります。
藤原秀郷一門はこの浄土宗古代密教ですが、24地方に赴任していますので、限定されたところにしか無い寺と成りますと、一時的に浄土真宗に仮入信すると云う事が起こりました。
赴任地に定住し勢力を拡大させた者は多くは同様に菩提寺を建立しましたが、一時的な事が本宗と成ってしまった氏も一部に確認できます。
この様に「家紋と宗派」は、その氏のステイタスであったのですから、簡単に「家紋も宗派」も氏家制度の中では変える事はあり得なかったのです。
それは氏家制度の中でそれまでの氏の「先祖の伝統」が切れてしまう事を意味しているのです。
自らの「伝統」を切る事は氏家制度の中では氏への冒涜の何物でもありません。
これは一人の判断で出来る事ではありません。
「家紋と宗派」は連動しての「氏の伝統の象徴」であったわけですから個人の判断では困難です。

因みに甲斐青木氏において武田氏が潰れる3年前に改紋と改宗した人物がいて大問題と成り親子、親族間の争いに発展したのです。結局は2人の子供が浄土宗の菩提寺を建立して家紋を戻す元に戻すという大事件が起こりました。
この様に「家紋と宗派」は氏家制度の中では連動して動いていたのです。
ここでは複雑に成る為に宗派の慣習を論じない事として別に機会があればその掟や社会慣習に付いて研究論文を記載する事にします。

青木氏に関しては室町末期から江戸初期前後に発祥した氏の家紋の丸付き紋と観られ、恐らくは上記した掟から丸付き紋と成るには50年から100年程度の期間が必要と成ると考えられます。
依って、江戸初期から江戸中期前までに分家化したものと考えられます。
江戸中期以降は政治的に安定期に入り家紋も当然に安定化に入り新たな氏の発祥は青木氏に関わるものとしては考え難いのです。
(幕末から明治初期に調査編纂された資料による為に家紋掟による以後の家紋の変化は未確認)

江戸末期には家紋掟の順守が低下した事から丸付き紋にする氏がどれだけ居たかは疑問であります。
多くは藤原秀郷流青木氏の末裔が室町末期から江戸初期にかけて家紋掟により新しく発祥させた氏の
丸付き紋と観られます。

(注釈)
「家紋」によるルーツの解明も然ることながら「戸籍」による解明も可能ですが、戸籍はそのルーツを紐解く要素が必要です。それが「氏名の継承」でありますが、戸籍の歴史は最も古いもので天智天皇の大化の改新時の一つとして「戸籍簿」又は「人別帳」成るものが作られたのが最初で日本書紀にも記載されています。この時の戸籍簿たるものは税の「租庸調」の課税対象者を設定する為のもので、その税の最低年齢が男6歳とした為に民衆の不満が爆発したと記録にあり、むしろ戸籍と云うよりは「人別帳」の色合いが強かったのです。
然し、これも平安期の荘園制度が確立する事に成り荘園内の事はその持ち主のものとして扱われた事により次第に公的なのものは消滅して、矢張りその一時的な「人別帳」的なものが使われた様です。しかし、荘園の民はその「氏名の継承」は有りませんので、次第にルーツの概念が薄くなり無くなり江戸末期までこの状態が続きました。あるとすれば村の庄屋が取り扱う「人別帳」程度であり、「武家」を構成し支配階級の中級以上の「武士」の身分と権威の保全目的から、その氏の「氏寺」、即ち菩提寺が「過去帳」として「戸籍簿」を管理する習慣に成って行ったのです。
これに対して、室町初期から中期には「下克上」が起こり、この支配階級の社会制度を崩壊させて、力のあるものはこの中級以下の武士が取って代わろうとしました。そのために多くの元の支配階級のこの様な権威を示す物件の焼き討ちや取り壊しをしたのです。その結果、権威を代表するステイタスの氏寺を含む等のものが消失してしまいました。又江戸時代から明治の初期まで250年以上続き多発した「民衆の一揆」もこれらの武家武士ではなく下級武士を含む民衆の権威への抵抗が起こり、この2度による「事件」と「反動」で戸籍や人別帳によるルーツの解明は困難と成ってしまっているのです。
それに耐えた特定の「地域」や「氏」の権威物件だけが遺される結果と成ったのです。
その意味で皇族賜姓族5家5流青木氏や藤原秀郷流青木氏等は「不入不倫の権」とその勢力に護られてある程度その難を逃れました。
(むしろ「民衆の一揆」の経済的支援はこれらの難を逃れた氏がシンジケートを使って裏から行っていた)
この様な歴史的経緯から、その意味で「氏名」を持つ事を命じた苗字令3年や督促令8年の明治維新体制が確立するまでの間は、「戸籍簿」に代わるものとして「過去帳」や「氏寺菩提寺」等の存在はルーツ解明には重要な要素に成るのです。
そして、この「氏名」等の歴史的経緯と「家紋」とその習慣は無関係ではなく連動しているのです。

(これ等に関する詳細は研究室関連レポートに記載しています

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伊勢青木氏 家訓7

伊勢青木家 家訓7
投稿者:福管理人 投稿日:2010/05/01(Sat) 16:58:55


家訓7
伊勢青木氏の家訓10訓

以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。

家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

家訓1は「夫婦の戒め」
家訓2は「親子の戒め」
家訓3は「行動の戒め」
家訓4は「性(さが)の戒め」
家訓5は「対人の戒め」
家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)


家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
「品格の戒め」である。
この家訓7は「執着」つまり「こだわり」であると考えている。
「執着」は兎角悪く考えられがちであろうが、そうでも無い事もある。
人生に於いて苦難が多く立ち向かう。この様な時に「執着」無しでは生きていられない事もあり、それに依って苦難から幸せの扉を開く事も出来る場合もある。むしろこの場合の方が多いのかもしれない。だから、最近では、世間ではこれをむしろ煽っている向きもある。その例えの言葉として「拘りの一品」とか「拘りの・・」とかの流行言葉も出ている。
しかし、ここで云う家訓7は「こだわり」は「拘り」ではない。敢えてその違いが有るから分けて論じることとする。
人間は物事を考える場合、脳は「拘り」を持つと幅広く思考範囲を広げてその上で適切な判断を下せ無くなる「性」を持っている。狭い範囲で思考する事で正しい対処が出来なくなり人生の難業苦難に引き込まれる場合が多い。そして、狭い範囲の思考から抜け出す事が出来ず、そのような「悪のスパイラル」に陥るのである。
まして、昨今の様な科学文明が起こり「合理的な判断」無しでは正しくものが成せ得ない事に成る時代である。
科学は「合理」で成りたっているからだ。この様な時代に「主観的な拘り」を持つ事はそれだけに逆行に成り思考範囲が針の様に狭くなるだろう。
特に「感情主観」の強い傾向の持つ範囲ではこれが起こりやすい。
特に、前の家訓のところで述べた脳の一部の「性」(さが)を司る「脳陵帯」で管理されている「女性の深層思考の原理」(感情主観:感情-勘定-妥協)から観るとこの傾向が強く成るだろう。
男性に於いても「論理思考の原理」では論理的に間違うとそれを正しいとして過剰な「拘り」を強く持ちすぎる傾向があり、むしろ「女性の拘り」よりも厄介であり危険である。
女性の場合は元々揺れ動く「感情主観」であるので「環境」が変わると「他の感情」に移る事も起こり得て「拘り」は消えうせるであろうし「性(さが)」の定めに依ってその様に神は仕組んでいる。
しかし、男性は「論理の錯誤」を起している事から「環境」が変化してもその「錯誤」に気が付かない限りは「拘り」から抜け出させない「質癖」を持っている。
勿論、男性も「性(さが)」の定めに依ってその様に神は仕組んでいる。厄介な宿命の「性(さが)」の定めであろう。
むしろ女性の「拘り」に比べて個人の範囲に留まらず周囲にその「悪の影響」を及ぼしてしまう危険性を持っている。あらゆる「争い」の主因とも成っている。
この「男性の拘り」にはここが問題なのである。この家訓7はこの点を指摘しているのである。

この家訓7が説く意味は次ぎのことによるだろう。
一つは「こだわり」と「目標(目的、狙い)」とは違う事。
二つは「こだわり」は「頭の使い方」如何である事。
三つは「こだわり」と「拘り」を区別している事。
四つは「こだわり」は「長」としての「戒め」である事。

先ず、一つ目の”「拘り」(こだわり)と目標(目的、狙い)とは違う事”付いて考えてみる。
心に固く決めた揺るぎ難い「目標」はその進める過程には長期的で「論理的な戦略と仔細な戦術」を保持しているものである。
一見すると、「こだわり」と「目標」は何れもこの”心に決めた揺るぎ難いもの”を持っている様に観える。しかし、良く観察して見ると何か違う。
それは「戦略と戦術の有無の差」(1)が起こる。しかし「こだわり」はこれが「殆どゼロ」であり特に戦略は観られない。
そして、それは達成されるとその目標は「解消」はされる(2)。しかし「こだわり」は解消する事はすくない。
更には、過程では揺るぎ難い「目標」は「臨機応変」に変化させる事がある(3)。しかし「こだわり」は周辺と進行過程の変化に対して頑なに盲目である。
目標は衆議に対して「賛同」が得られる(4)。しかし、「こだわり」は個人性が強く衆議に弱い。
揺るぎ難い「目標」は周囲に「弊害」を生まない(5)。しかし「こだわり」は兎角に「弊害」を生む。
この「5つの違い」がある。
この家訓7は揺るぎ難い「目標」を持つ事を否定していない。むしろ、「こだわり」を否定する事で人生に於いて揺るぎ難い「目標」を持つ事を求めているのである。

「戦略と戦術の有無の差」(1)「解消」(2)「臨機応変」(3)「賛同」(4)「弊害」(5)

この「5つの違い」が「目標」と「こだわり」と区別されている。
これは「青木氏」の歴史的な背景から観ると、「賜姓族侍」の一面と「商人」の面も持ち得ている内容である。どちらかと云うと「商家」に成るのではないだろうか。
伊勢青木氏は「不入不倫の権」で護られながらも、室町末期からは少なくともこの「権」が弱く成っていた事は明らかであり、同じ東伊勢の村上源氏の末裔の北畠氏が信長に騙まし討ちされ織田信雄が城に養子婿として入る等の「乗っ取り事件」も起こっている。
「武力による戦い」とは別に北畠氏のような事が起こる可能性が”伊勢松阪青木氏にとっても無い”とは云えず、この時を含めて「極めて冷静な判断力」を求められていた筈である。
伊勢に限らず賜姓族の青木氏は上記の「5つの違い」の柔軟な「こだわりの無い判断力」が求められていた事が、隣で起こった深い付き合いのあったこの北畠氏で充分に認識していた筈である。
現に、大きく時間を置かずして「丸山城の戦い」が伊勢青木氏との間で起こったのである。
この時の戦いは信長の只一つの「負戦で有名な戦い」で、信長が家臣の面前で指揮官の次男の信雄を罵倒し蟄居されると言う事が起こった。この勝利したのは真にこの家訓7の「こだわり」を捨てた戦略戦術であった。
商人の顔の紙屋長兵衛が全面に出て城構築の材料の買占めから初めて経済的に締め付けて弱らせ、最後は出来上がったばかりの城を伊勢シンジケートを使って城を爆破させてしまうという実に見事で冷静巧妙沈着な戦略戦術を長兵衛は使ったのである。目に見えない相手と戦って信雄は負けたのである。商人として城構築の莫大な材料利益を生み出し、賜姓族としては邪魔な城を潰しその上青木氏は安泰と成っている。
賜姓族とか青木氏とか武士とかの必要以上の「こだわり」だけで有ればこれ程の戦略戦術は浮かばないし成功も無かっただろう。
他にもこの後の同じ「伊賀攻め」でも今度は武士の顔の長兵衛は名張の青蓮寺城と3つの城から中立を装い、商人の顔の長兵衛が伊勢シンジケートを使ってゲリラ作戦で食料調達を困難とさせた上で疲れさせて置き、この伊賀氏の伊賀城が陥落寸前に信雄の軍を側面から突き敗走させると云う戦いを実行した。これでは信長は立場は無いし怒るのも無理が無い。
この後の秀吉はこの事を学習して最後の松阪青木氏等の「伊勢松阪攻め」ではこの「こだわりの無い戦略戦術」を防ぐそれに勝るとも劣らない戦い方をした。そして、戦略家で学者であり青木氏とは繋がりの有った蒲生氏郷を派遣して青木氏を温存したのである。その経済力を潰さずに信長が好んだ西洋風の楽市楽座の出来る日本初の「伊勢松阪の街づくり」を実行したのである。この時青木氏は西洋風の街づくりの「侍屋敷町」の2区画(9番と19番)を与えられて生残ったのである。
普通に「武士のこだわり 執着」で戦っていた場合は今の青木氏は無く、これ程の扱いは氏郷も採れなかった筈であり、救済する大義名分の根拠も言い出せなかった筈である。
この「こだわり 執着」が、戦いながらも勝利し秀吉を学習させて、無傷で生残る事を成し遂げたのである。もとよりこれは「武士商人」の「こだわり」も無かった事を意味するだろう。

「組織の長」の採るべき「精神的な格」(こだわり)を心得ていた結果の勝利なのである。

この戦い方を分析すると「5つの違い」が浮き彫りになる。
兎も角も賜姓族でありながらも、「5つの違い」は左様に「商家」に課せられた立場にあると考えられる。どちらかと云うと「紙屋長兵衛の顔」の方の家訓であろう。
侍的な「難くなさ」が無く添書にも然程に詳しくはない所を観るとこれも(1)から(5)は「商家の家訓」である傾向が強いだろう。
昔、筆者は「こだわり」に対する判断力が無い若い時に、”お前は間違っている”と親父と話す時によく誡められたが、これは「青木氏の伝統」(こだわり 執着)とも云うべき家訓7であった。
何故、間違っているかは大分長い間判らなかった。”間違っている”とはっきり云うのだから”親父には何か明確な根拠が有るのだろう”。それは何か何時も意識していた。
その理解できたきっかけは結婚して「男女の性(さが)」に”「根本的に違う思考原理」が働いている”と云う事が経験を通しても判り、書物による脳科学的にも納得し判った時である。
つまり、そうすると男女の「こだわり」と「拘り」にも”論理的に違いがある事”と云う理解であった。「男の論理主観」と「女の感情主観」から考察すれば「男のこだわり」と「女のこだわり」は本質的に違う事に成る。
そこである時に「家訓添書」に書いていた「仏教の教え」と云う字句に気が留まった。
日々の務めとして「般若心経」を何時も仏壇で何気なしに唱えているが、”どんな内容で唱えているのだろう。”心の経(みち)”の悟りを得た仏を前にして、悟りを開いてもいない生きている者が”「心の経(みち)」を唱えるのはおこがましいのではないか”、”それが何でお経なのか”と次から次へと疑問を抱いた。
筆者の「こだわり」とも云うべき質癖が又もや働いたのである。
「般若心経」の書いている意味を元来持つ字句語意一つ一つを調べてその「字句の総意」を考えたのである。そして、その「傾向分析」を行った。真にその手法も「技術屋の質癖」である

私の結論は次ぎの通りであった。
”この現世の何気ない意思一つ一つが「拘り こだわり」の発露であり、その「拘り こだわり」の保持する「強さ」と保持する「時間」の差異に依って無意識に判別しているものである”と考えた。
”その究極は「有無の定義」であるとし、「有る」とすれば「有る」であり、「無い」とするば「無い」。「有る」を「有る」とする事がそもそもが「拘り こだわり」であり、「無い」を「無い」とするも「拘り こだわり」である。「現世」と「彼世」の差異もこの「仏法の定義」に当て填る。

「般若心経」の全ての行の共通する真意は、その真意には強弱はあるが、この”「拘り こだわり」に捉われるな”であると考えた。その”「拘り こだわり」の誡めの最大の語意の行は「色即是空 空即是色」である”と考えに達した。そして「色不異空 空不異色」との2つの語句が「拘り こだわり」の強い戒めで有ると。

その場、その時で色々な解釈は出来るが、”「色」は「現世」、「空」は「彼世」”と定義する事で
全ての行の一節語句はその意味するところが読み取れる事が判った。
この定義そのものが「拘り こだわり」ではあるが、仏の前で唱える「般若心経」を通じて、”私は不必要な「拘り こだわり」を無くす事を誓い努力します。 ご先祖の仏様ご安心ください。”と。

「色不異空 空不異色」(こだわり)であるのだから、「色」有る世界から色の無い「空」の世界へ「心」を媒体として念じ発している事となるだろう。唱えるはその姿を云う事に成る。
人の現世の生きる目的は「喜怒哀楽」に必ずしもあらず、子孫を遺す事にその一義があり、その一義の為に悪行と成す「こだわり」を捨てる事を誓っている事と成る。

即ち、上記の青木氏存続に関わった史実に観てもその秘訣は、「こだわり」を悟れば「5つの違い」の柔軟な「こだわりの無い冷静な判断力」を培える事にあるのだと考えた訳である。
そこで、此処の世の意志は全て「拘り こだわり」であるとするならば、「拘り」は感情的主観のものとし、「こだわり」は論理的主観のものとして、その思考を狭める「拘り」と「こだわり」は「色」のある現世の中では「人格形成」の一つとして習得せねば成らない「必須条件」としての事柄である。依って、この青木氏の家訓7はこの事を誡めているのだと考えている。
「拘り」も時には子孫存続に間接的に関わることもあるが、「こだわり」は特に誡めておかなくては成らないものと考えている。勿論、「揺ぎ無い目標」とは異なるが。
この「目標」と「夢、希望、願い」は仏法からすると感情主観の「拘り」であるが、その上記「5つの違いの強さ」に起因すると考えられる。依って、仏法の考え方からすると、この「弱い拘り」はむしろ「良質の拘り」であり、「現世で生きる糧」とも成ると説いている。

「5つの違いの強さ」<「目標」
「夢、希望、願い」=「弱い拘り」=「良質の拘り」=「現世で生きる糧」

標記した”「拘り」には全て悪いものではない”としたのはこの仏説に有る。

二つは「こだわり」は頭の使い方が違う事である。
即ち、頭(脳)の使う(働いている)所が違うと云う事である。
それはどう違うのか、以前の家訓でも述べたが、「感情主観の拘り」と「論理主観のこだわり」は本質的に異なる。
「感情主観の拘り」は脳の「前頭葉」の部分に於いて起こり、その「強さと時間」を保有する「拘り」は脳の神経伝達機能網シナプスのスイッチング時間が長く入っている感情の保持状態を云う。
本来の感情保持の時間は0.2-0.5s程度であるのに対してその「拘り」を持ち続ける時間だけスイッチングが保持状態になる。
電気回路で云えば「自己保持状態」である。「自己保持状態」である事から外からの信号に依ってスイッチングを切る以外にはない事に成る。例えば「うつ病」はこのスイッチングが入ったままの状態であり長く入っている事によりエネルギーを多く使い脳のシナプスは疲労しシナプスに被害を受ける状態を指す。
「拘り」はこの状態と類似し「うつ病」より「強さ」の点で弱い事に成る。
これは「自己保持状態」である事から、「外からの環境の変化」を与える事でスイッチングは切れることを意味する。つまり、「拘り」は消えるか弱くなる事に成る。
従って、感情主観に左右される女性の場合はこの「拘り」は消える事が起こる。
論理主観で左右されている男性の場合に於いてもこの感情による「拘り」が起リ得る。
そもそも深層思考が「論理主観」で有る事から、女性特有のこの「拘り」の現象が男性に起こった場合には、「論理性の矛盾」に気付けば、元々感情による「拘り」であるのだから直ぐ霧散する。
元来、男女差の性(さが)は「脳陵帯」で管理されているので「前頭葉」で起こる「感情の強さ」の部分で低いレベルで異なっている為に「拘り」の問題は少ない。
つまり、「拘り」は女性に起こりやすい事は否めないが誰にでも通常に起こっていることを意味する。この「拘り」の範囲は現世の「イザコザ」の範囲であろう。

そうなると、次ぎは「こだわり」である。
「こだわり」は「論理主観」により「錯誤」にて起こっている状況である。
だから、「論理性」を構築する「左脳のデータ」とそれをシナプスで繋いだ「右脳の働きの思考原理」を働かせて「中紀帯」で一つの思考を取りまとめ想像し構築する仕組みの中で論理主観は生まれるである。
この時、蓄積されていたデータに偏りがあった場合には、「右脳の働き」と「中紀帯の働き」とに「間違いの思考」が生まれ、これを「良し」として「こだわり」が「深層思考」として起こる事に成る。
即ち、その保有する「左脳データの信頼度」(1)や、その大脳でシナプスを繋いで「綜合判断をするデータ量」(2)や、その保管されていたデータはそれまでの構築されてきた環境に依って左右される事になるので、その「質の良悪、偏り、偏差値」(3)に依って、直接にその「こだわり」の良悪が左右される事に成る。これはその本人の「質癖の錯誤」と呼べるだろう。

「左脳データの信頼度」(1)「綜合判断をするデータ量」(2)「質の良悪、偏り、偏差値」(3)

この「質癖の錯誤」の「こだわり」が起こるとこれを解消するには(1)(2)(3)を変える以外に無い。
では”この3つを変える事が出来るのか”と云う疑問が湧く。
先ず、”難しい”と云う答えになるだろう。この3つを自ら自覚して直ぐに変える事は出来ない筈である。
なぜならば「左脳データの信頼度」では長年培って来たそのデータ量を急激に変える事は時系列に無理である。
まして、その信頼度はその者の環境とその者の賢明さにもよるだろうから殆ど無理である。
「綜合判断をするデータ量」ではデータ量を急激に増やす事は有り得ないし、その様に人間の脳の記憶を仕分けする「海馬の仕組み」はその様に出来ていない。間違い無く無理である。
「質の良悪、偏り、偏差値」は(1)(2)に左右される事からこれだけを良くする事は論理的に無理である。
これは、その「こだわり」を持った者の人生に大きく関わる問題である。その生きて来た環境に左右される問題である。余程の「左脳のデータを消滅させられるだけの衝撃」が無くては困難である事は容易に判る。その衝撃に「人間の精神」は持つとは思えない。
まして、この上記3つは個人の保有する「先天的資質」に左右されるもので誰でもが「確実で良質」な「こだわり」を持つ事の可能性は低いだろう。
多くはこの「こだわり」は終局は(3)の影響を大きく受ける事に成るだろう。
故に、仏法では「縁無き衆生動し難し」として説いている。
”無理な者は元々無理なんだ。 理想にかまけて「こだわり」を起してはならない。それこそが「こだわり」なんだ、錯誤なんだ”。と。
又、仏法では”「人を見て法を説け」”とまで云っている。
だとすれば、”どうすればよいのだ、「こだわる」な。人を観てその人なりに合わせて其れなりに説けばよいのだ。”と。”肩を張って考えるのはそれこそが「こだわり」なんだ。「こだわり」の持った者が説くことに意味は無いのだ。”と説いている。
だから衆生が「般若心経」を仏前で唱えるのはここにある。
”先ずは無心に唱える事から始まるのだ、「こだわるな」「こだわるな」”と自問自答自責して仏の前で懺悔している姿なのである。

皆、衆生が「確実で良質」な「こだわり」を持ち得ているのであれば仏前で唱える必要も無く仏も心配はないだろう。「般若心経」の様な「心の路」のお経を作る事は無かった筈であろう。
だから、この現世は「こだわり」の世界にして「こだわり」を抑える事の戒めを解いている事になるであろう。
論理主観のこの「こだわり」はその「深層思考の性の定め」により主に男性によるものであろうが、女性にはこの「こだわり」はその「性の目的」(産み育てる本能)から先ず有り得ない。もし、仮にあるとすると「こだわり」の錯誤が起これば子孫は育たない事になる。
「神」は矛盾するその様な「性(さが)」を作る筈が無い。
男女ともに”人はどんなに優れていたとしてもこの「神」から受けた性(さが)から抜け出せる者はこの現世にはいない”という事である。居るとすればその者は「現世の神」である。
この様に「人生」は「拘りとこだわり」であるとしても過言ではあるまい。

況や、殆ど「拘りとこだわり」の間に垣間見れる「喜楽」の中に生きていて、「怒哀」はこの「拘りとこだわり」の産物と成るのではないか。
その「拘りとこだわり」の大小が「怒哀」の大小と成り得ているのであろう。
だとすれば、この「拘りとこだわり」を小さくする事で「喜楽」が増え、「怒哀」は小さくなる。この「拘りとこだわり」のこれを「抑える努力を試みる事」が「現世の幸せ」を大きく享受する事になるであろう。
それを「般若心経」は現世に於いて色々な人間の性(さが)が持つ「五感」との「五体の機能」を使って表現して判りやすく誡めているのであろう。
そして、仏教では「拘りとこだわり」(執着)は「108つの煩悩」として具体的に細かく分けているのである。
人である限りに於いてこの「108つの煩悩」を無くす事は不可能であるが、幾つかでもより多く抑える努力は可能である筈。それが「人格形成」と言う事に成る。
この「108つの煩悩」は感情主観による「拘り」の産物であるが、この家訓7の戒めは上記する論理主観の「左脳データの信頼度」(1)「綜合判断をするデータ量」(2)「質の良悪、偏り、偏差値」(3)から起こる「錯誤のこだわり」を誡めている。
当然に、この「108つの煩悩」(執着 拘り)の中で生きているのであるから、全く無縁であるとは云えない。「幾つかでもより多く抑える努力」が高いレベルで成し得ている事、即ち「人格形成」が成し得ている事がその前提にはなるだろう。
この現世では「108つの煩悩」(執着 拘り)の何割で「人格形成」が成し得ていると云われるかは判らないが、多い方が良いに越している。それでなくてはこの「論理主観のこだわり」を[抑える力」は出て来ないであろう。

この”「108つの煩悩」(執着 拘り)の「抑える力」と「論理主観のこだわり」は逆比例する。”と考えている。

「108つの煩悩」(現世 執着1 拘り 感情主観)<=「人格形成」

「左脳データの信頼度」(1)
「綜合判断をするデータ量」(2)
「質の良悪、偏り、偏差」(3)
(1)+(2)+(3)=「錯誤」(現世 執着2 こだわり 論理主観)

「錯誤」の抑止=「人格形成」(人間形成)

「拘り」(感情主観)<「こだわり」(論理主観)

平易に云えば、脳医学では「統一・一貫性の抑止」と云うらしいのだが、「拘りの抑止」(人間形成 人格形成)は「こだわりの抑止」の基盤になると考えられる。そして、仮にこれが成し得られたとすると、一段上の「人格形成」を得た人物と成り得るのであろう。この時、それが「品格の形成」を成し遂げた事を意味する。
この家訓7は家訓6と類似するが、敢えて家訓6で「人間形成」が成し得られたとしても、更にその”「品格の形成」を成すには家訓7を会得(悟り)しなくてはならない”としたのであろう。
青木氏の「長」としての条件として、”「人間形成」だけでは「品格」は得られない。「悟り」で「品格」を得よ”とより厳しく求めたものであろう。

故に、此処に「伊勢青木氏が置かれていた立場の長」としてのこの「家訓7の会得」を子孫に求めている事であると考える。
添書では仏教的な事柄が書かれているこの家訓7ではあるが、上記する数式論になるであろう。
それを顕著に表すのが、上記する信長との「天正の3つの戦い」に現れていると思われる。故にこの家訓の説明では何度も引用記述しているが、この有名な史実の事を判りやすくする為に「標語の形」として子孫に明確に言伝えているのであろう。これを子孫に悟らす為に。

三つは「こだわり」と「拘り」を区別している事。
この「長」に求めた2つの戒め「拘りとこだわり」の事に違いを敢えて求めているのは、”「拘り」の範囲に留める場合は上記する一段上とされる「品格の形成」は無い”と観ていたからに違いない。
恐らくは、この厳しさは「長い青木氏の歴史の所以」であろう。
だから1365年以上も生き延びられたのである。
「信長との戦い」の口伝があるのは”見事勝った”だけの意味では無く、”織田氏の様に急に興きて急に滅びる所以”も伝える意味をあったのであろう。
つまり、室町期の青木氏の先祖は、織田氏には「家訓6、7」に値するものが無かったからに過ぎないとして観ていた。故に、青木氏としての「家訓心得」を以って全身全霊で戦えば、飛ぶ鳥を落とす勢いのある信長と云えども”潰す事は出来なくても勝てると見抜いていた”事になる。
ただ、「皇族賜姓族の誉れ」に安住しての青木氏であればたちどころに滅びたであろう。
ところが、伊勢青木氏を始めとして一族親交の深かった信濃青木氏までも子孫を遺し得ているのは、この家訓の「人間形成」と「品格形成」に依って沈着冷静な判断が可能となり生き延びたことを意味するのである。

四つは「こだわり」は「長」としての「戒め」である事。
それは、この家訓6と家訓7の戒めは、伊勢、美濃、信濃の青木一族を束ねていた長の「紙屋長兵衛」に有る。
「2足の草鞋策」の「商い」が、「皇族賜姓族の誉れに安住」させなかったのである。
家訓6よりも更に家訓7を求め、更に「拘りとこだわり」の戒めを「長」に求めていた事にある。

仮に、史実から信長と長兵衛を比較すると次ぎの様に成る。
経済力からの考察からすると、家康も名古屋城で秀忠の本軍の遅れを待つとして一時徳川軍を留めて、それを理由に伊勢路の確保の為に伊勢青木氏の合力を求めてきた程の伊勢の豪商紙屋長兵衛である。経済力の大きさは堺の貿易と松阪の商いから信長とほぼ互角で有ったであろう。
信長も「楽市楽座」の制度を推し進めた人物である。そうすると直ぐ近所の伊勢松阪の紙屋長兵衛の事は知っていた筈である。当然、伊勢攻めを命じたのであるから、賜姓族青木氏の事も名張の青蓮寺城を始めとした3つの城持ちである青木民部上尉信忠の事も知っていた筈である。
ただこの「2つの顔持ち」である事は判っていたかは疑問である。
長兵衛が仲介者を通じて材木の商談を持ち込んだのに対して知っていれば警戒する筈であるが結果としてしなかった事に成る。織田信雄も家臣の滝川一益も知らなかったのであるから。
つまり、紙屋長兵衛と青木長兵衛は同じである事を知っていたとするとこの戦略戦術はもとより成り立たない事に成る。青木氏側も知らないだろうと予測し、現実に織田氏側も知らなかった事に成る。
知っていて騙される馬鹿は戦国の時代には居ないであろう。彼の有名な知者の滝川一益も補佐しての戦いでもある。「商人の顔」の長兵衛の経済力だけと観ていただけにその経済力効果がより大きい事に成る。

次ぎは軍事力の検証である。
兵力は資料から江戸初期前には250程度と記録されている。
この戦いに”「不入不倫の権」で護られている賜姓族だから静かにしているだろう”と踏んでいた事に成る。「伊賀の戦い」、「永嶋の戦い」によもや参戦するとは考えも無かった事に成る。
しかし、「商人の顔」の長兵衛が裏で暗躍していたのである。そうすると目に見えない「伊勢シンジケート」の戦力が既に戦い前に暗躍していた事に成る。信長のお膝元の岐阜の「信濃シンジケート」も伊勢青木氏とは連携を採っていたとされるので事前に動いていた事にも成る。当然に信濃の動きも情報として伊勢には入っている。
堺には大店を構えているし、信長の膝元には「楽市楽座」で仲間の豪商が入り込み信長軍との取引上から詳細な動向は掴んでいた事にも成る。
つまり、「情報戦」と「ゲリラ戦」で青木氏の方が先んじていた事に成る。
だから、海辺に面した丸山城構築の情報が入り、逸早くそれにシンジケートの大工や人夫を忍び込ませる事が出来ていたから天守閣から爆破されたのである。これは充分に「情報戦」に勝っていた事に成る。当然に事前に材木等の戦需品の買占めも出来た事からも判る。

後は「直接戦」の兵力は1/50となるが「戦わないで勝つ方法」を編み出していたのであるから問題は無く成る。当時からすると全く新しい戦法で「近代戦法」を敷いた事なのである。
つまり、「経済力」を全面に押し出した「戦い方」である。
シンジケートも「武力」で繋がるのではなく、「闇の元締め」を元に小さい小豪族や戦いで敗れた一族などを「経済的な裏付」で組織化して、お互いに一族や組織を護り合うシステムなのである。
豪商はそのシステムを利用して商品運搬の護衛や取引の安全等を担保に経済的な支援も行う互助組織である。山陸海にその組織を構築していたのである。
この組織を通じてすれば「ゲリラ戦」「情報戦」は山陸海をくもの巣の様に実行できる。
そして、そのシンジケートと他のシンジケートとが結ぶと領主どころの「武力や経済力の勢力」ではない。到底及ばない「広域の力」と成る。そして、相手が「闇の組織」であり見えない為に攻撃が出来ないのである。
しかし、秀吉だけはこの事を蜂須賀小六の子分の時に学んだ「ゲリラ戦」と「堺の商人」との付き合いから「経済力を使った情報戦」の事は良く知っていたのである。
(この小六等も今宮神社のシンジケートのこの一員であった。)
その証拠に、史実では信長には秀吉から、鉄砲入手の時に「今宮神社」の「闇の元締め」のシンジケートの有る事を教えられていた。そのお陰で紀州の「雑賀衆」から3000丁の鉄砲とその戦法を獲得でき武田軍に勝てたのである。とすると、信長はこの「近代戦法」を採用しながら、青木氏との戦いでは、この事の「ゲリラ戦」と「情報戦」の警戒はしていたと観るのが普通であろう、
しかし、「天正の乱」(3乱)は何故なのか疑問である。
恐らくは、信長は、後にこの戦法を使う事を得意とする「職業武力集団」雑賀衆と敵対するが、これが何かを物語っている。逆に家康はこの時に直様この「雑賀軍団」と手を組んだのである。
家康は何故組んだのかも疑問である。
この2つの疑問の鍵が答えに成るだろう。
そして、対比して家康は、青木氏との戦い方も観ており、且つ、豊臣との戦いの時には名古屋城でこの「伊勢路の確保」とその「青木氏の経済力とシンジケート」を味方に取り入れる事を合作し「ゲリラ戦」と「情報戦」を「戦いの本質」(前哨戦)と捉えていた事に成る。
つまり、”豪商の「影の戦い」で8割は決まる。”と家康は判断していたことに成る。
此処に信長と家康の違いが出たのは両者の「生い立ち」による「こだわりの悟り」の差が出た事を意味する。経緯からする偶然にそうなったのではない。信長の行動を観て直ぐに「雑賀衆の取り込み」に家康は行動した事でも「こだわり」を無くして冷静に判断していた事に成る。

信長が本能寺で明智光秀に打たれた時、家康は堺の商人の家に居たことからも判る。このゲリラ戦と「情報戦」の近代戦法の重要さを知って豪商に下工作をしていたのである。
信長と光秀の戦いは「情報戦」から既に家康は承知して予測しての下工作であったと考える。
そうなると、だから家康は、この戦法を得意として駆使した「戦わずして勝つ」の秀吉の死ぬのを待ったのである。
つまり、「こだわり」を捨てていた「冷静沈着な判断」「長の心得」を家康も秀吉も悟っていた事に成る。問題は信長である。
つまり、学習していたが、信長はこの「ゲリラ戦」と「情報戦」が嫌いであった。”性分に合わない”と排除していた事になる。
これは信長の生い立ちと性格から、又、「比叡山の焼き討ち」から観ても上記する環境(5つの間違い)が左右し、明智光秀の扱いにしても判るが「品格形成」更には「人間形成」のところに歪みが生まれていたのである。此処が、「長のこだわり」なのである。つまり、信長はこの「こだわり」を捨てなかった事に成る。むしろ、「こだわり」に「こだわった」のではないか。

長兵衛は千石船3隻を保有しているし、伊勢湾の丸山地区の海辺の城は海を抑えれば城の効果は半減する。では何故海辺の側に城を築こうとしたのか疑問と成る。
欠点は陸から攻められれば背後は無い。利点は補給路を確保出来る。
この当時の城は戦術上「山と川」を前提としていた。「山は護り、川は補給」である。
この考えからすると、「川」の代わりを「海」としたのではないか。
この当時には伊勢には11の城があった。真ん中から入ると周囲から囲まれ補給が困難と成る。
つまり、伊勢シンジケートと信濃シンジケートのゲリラ戦で挟撃されて補給路を立たれるし、11の城から囲まれる可能性が高い。これを打ち破るには10万の大軍が必要である。
信長には各地で戦線を広げていた事からその兵力を伊勢攻めに割く余裕は無かった。

何故10万なのかと云う事である。
実はこの例と同じ事が「南北朝」時代に起こっているのである。
新田義貞軍と足利軍の鎌倉幕府10万の兵を用いて天皇側に味方した楠木正成の3千の軍と対峙した戦いがあった。それも伊勢の横である。
そしてその戦いは正成の「情報戦」と「ゲリラ戦」であったし、その「ゲリラ戦」と「情報戦」は伊勢シンジケートに依るものであった事と、正成はその伊勢シンジケートの田舎の小豪族の一員であった事は有名な史実である。
恐らくはこの時、そのシンジケートの元締めの当時の青木長兵衛の配下と成り経済的支援を受けていた事に成る。そして、結果は10万の軍はシンジケートの「ゲリラ戦」で水と食料路を断たれて確保出来ずに餓死して敗退したのである。周囲を山に囲まれた地形である。そして、山の上で谷川を持つ城を背景に篭城戦を繰り返した。山城にはシンジケートが武器と食料を補給する。10万の軍は水と食料で飢える。この敗退した史実の学習は承知していた筈である。

この歴史的な史実を知っていた為に、伊勢シンジケートを警戒していた事に成る。だから海辺に構築しようとしたのであろう。城作りの常識を破り海から補強しながら中に戦線を広げながら攻め入る戦略であったのであろう。
これでも判る様に、信長は有る程度の戦略的な戦い方の事はこの海辺の城作りから観ても知っていた事を物語る。

これに対して青木氏側は自らも船を持ちながら海の支配を商人として持っている。陸の豪族の信長にはこの海の支配権は無かった。仮に信長に広域に補給路を抑えられたとしても海からのシンジケートを使って補給できる。また逆に織田軍の補給を抑える事も出来る。
この様に検証すると、何よりも計り知れないのは「伊勢シンジケート」と「信濃シンジケート」との連携ではほぼ互角に近かったのでは無いか。
だから、豊臣氏との戦いで家康は上記する様に伊勢青木氏に合力を求めてきたのである。
そうなると信長と青木氏との戦いは後は「戦い方」に成る。
当然に、「商いの経済力」で締め上げ、「シンジケート」で周囲から「ゲリラ戦」を駆使すれば勝てる。最も愚昧戦なのは「直接戦」である。
これでは仮に勝てたとしても被害も大きい。史実は明らかのように「ゲリラ戦」であり被害は殆どなしである。
だから信長は知っていての悔しさの余り自分に腹を立て、その腹いせに家臣の面前で次男を叩き罵倒し蟄居させてしまったのである。信長は「自分の至らなさ」に気がついたのであろう。
しかし、最早遅い。歴史的に観ればこの事が皮肉にも疎んじられた次男の織田信雄だけが生き延びて子孫を遺したのである。(子孫はスケートの織田信成)秀吉の茶友で家康の茶友として生き延びたのである。信長に取って観れば、「不幸中の幸い」であった。
つまり、言い換えれば信雄は青木氏の御蔭で生き延びた事が云える。

信長は結局、この「天正の戦い」で3つの失敗を起した事に成る。
「長」として求められる「人間形成」はもとより「品格形成」に欠けていた。
 生い立ちに打つ勝つ事が出来ずに「こだわり」に「こだわった」事にある。
1 「直接戦」を好み「シンジケート力」の「ゲリラ戦」「情報戦」の力を見誤った。
2 「武力戦」に過信し「商人の力」「経済戦」を軽視した。

ここで、「シンジケート」の史実を述べ立てたが、真にこの「シンジケート」を維持出来る事は経済的な繋がりはあるとしても、全て「人」である。ここにそれだけでは成り立たない一つの要素がある。それが「長」として「こだわり」を抑えた事によって「品格を得た者」に成し得る要素なのである。そして、その組織が「大きな力」を発揮し得るのである。
ここが「信長」に成し得なかった事なのであり、強い「こだわり」により「深い思考を巡らす能力」を会得できずに「軽視」していた事を意味するのである。
 
比較する家康も、この史実は信長の面前で観ていたので知っているから、学習して伊勢青木氏の力の有り様を知り青木氏との連携に力を注いだのである。
同じ学習した秀吉も只一度「直接戦」をして陸奥の豪族を叩くために「ゲリラ戦」にしびれを切らし、その時の指揮官は「蒲生氏郷」であるが直命して「直接戦」で失敗して3千の兵に惨敗している。
その反省として「小田原城攻め」が物語っている。
だから、更に学習した秀吉は松阪を攻略する時にこの氏郷を廻した理由の一つなのである。
その証拠に、徳川氏の天下に成って、家康の子の頼宣を紀州の藩主として差し向けた時も先ず松阪の青木氏との面談を行った。この時の様子も口伝で伝えられていて「上座」を青木長兵衛に譲ったと伝えられている。
紀州藩三代目の妾子出(巨勢氏)で後の将軍8代目吉宗が部屋住みの時、伊勢の加納家に預け親族関係にあった伊勢青木の後見として育った。将軍に成った時、伊勢青木氏で豪商紙屋長兵衛の子供を江戸に引き連れて「享保の改革」を実行させ、更には紀州藩にも長兵衛の子供を配置させて藩財政を立て直させた経緯を江戸幕府に見せ付けて、幕府の「享保の改革」を断行したのである。
筆者祖父の時代まで大正14年まで親交があった。絵画、書道、茶道、漢詩、禅道、商道などを藩主と藩士に代々教授した事が伝えられ、その徳川氏からの返礼として豪商青木長兵衛に紀州藩より十二人扶持米(1年間12人が食べてゆける石高)を与えられていたことが記録に残っている。

つまり、青木氏の「皇族賜姓族の誉れに安住」だけでは、最早、藤原秀郷の末裔で人格者で学者で歌人で戦略家であった蒲生氏郷も、徳川時代に成って紀州徳川氏も、代々これ程までに扱わなかったであろう。
これは誉れだけではない。家訓の教えに従い「こだわり」を押さえ「品格」を獲得し「見えない力」を会得したからこその所以である。

結論
この様に、”「人間形成」とその上の「品格形成」は「人を呼ぶ」事で「発展」するが、「こだわりの力」と「権力、力の形成」は「人を遠ざける」で「衰退」する。決して間違っては成らない。現世はこの条理で動いている。”況や、!成蹊の人たれ”即ち”「こだわり」を捨てた人たれ”である。これが添書の言い分である。

上記の史実が殊更に青木氏に口伝化されているのはここにあり、家訓6と家訓7の「長の戒め」が判断を間違えずに歴史上に無かった新しい戦い方で、冷静に処理し「長」としての「戒め」の勤めを果たした事を意味する。又、その後の徳川時代にも上記の素晴らしい生き延び方を図った事を物語っている。
これ全て家訓6と家訓7が伊勢青木氏を形成していた事の所以になる。


伊勢に築づいた城(館城、廓城、櫓城、寺城、山城を含む)
伊勢青木氏の城
(・は伊勢青木氏の城)
・柏原城(奈良)、・名張城(奈良)、・青蓮寺城(奈良)、・桜町城(摂津)、
・桜町中将城(奈良)、・四日市羽津城(三重)、・四日市蒔田城(三重)、・浜田城(愛知)、
・福地城(三重桑名)、・脇出城(三重松阪)、・青木山城(三重松阪)、
・松阪館城(三重松阪)

・柏野城(三重伊賀)、・阿山城(三重伊賀)、

藤原秀郷流青木氏(伊勢)
滝川城、須賀川城、

丸山城(三重 織田氏)、



次ぎは家訓8に続く。
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