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伊勢青木氏 家訓8

伊勢青木家 家訓8
投稿者:福管理人


伊勢青木氏の家訓10訓

以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。

家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)

家訓1は「夫婦の戒め」
家訓2は「親子の戒め」
家訓3は「行動の戒め」
家訓4は「性(さが)の戒め」
家訓5は「対人の戒め」
家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)
家訓7は「品格の戒め」である。

この家訓8の先祖の説いているところは”人生 「生きるべき力」は「創造」にある”と説いている。
家訓7までの内容の戒めと少し違う。
家訓7までの戒めは「人」又はその「長」としてのより高い人間的な習得、悟るべき戒め」を説いている。
しかし、この家訓8は「人」又はその「長」としての「示さなくては成らない戒め」を解いている。

どう云う事か。当然に自らも絶対条件として保持しなくてはならない条件でもあり、且つ、「長」として人を引き付ける「強いもの」を持ち得ていなくては成らないとしている。
その「強いもの」とは「創造力」であって、その「創造」は具体的には”「技の術 技の能」とを分けて会得せよ”とあり、闇雲に「創造」を追い求めても会得できないし、「長」として人を引き付ける事は出来ないと解いているのである。
此処は”敢えて”解いている”と添書には記述されている。
つまり、”説く”のではなく”解く”であり、即ち”強く分けて考えよ”という事を伝えたいのであろう。

「強く分けて考える事」に付いて”それは何故必要なのか”疑問(1)が湧く。
そして、その「創造」の基となる「技」に付いても”「技の術」と「技の能」とはどう違うのか”の疑問(2)も当然に湧く。疑問の多く湧く家訓8である。
何も「創造」だから「技」に拘らなくても良いであろうが、特にその主な例を以って判りやすく解いているのであろう事が判る。
そこで、「技」としているのは、この「2つの疑問」(1)(2)を「解く事」と「悟る事」の行動が大事で、書籍による習得ではなく、”自らの「努力」と「思考」により得よ”(A)としているのであろう。
”「自らの努力又は思考」に依って得られた時、「長としての務め」は果たせるし、その「創造」の効果は生まれる”(B)と伝えている。
更に、即ち、”この「創造」は家訓10訓を会得する「糧」又は「力」に成るのだ”(C)と添書は強調しているのである。
 
さて、「2つの疑問」(1)(2)と「3つの添書」(A)(B)(C)に付いてこれから単独ではなく誤解をより少なくするために複合的に都度論じる事とする。

最初の”それは何故必要なのか”の疑問(1)の解明の前に、”「技の術」と「技の能」”とはどう違うのか”の疑問(2)を先に論じて解明する方が解けると考える。
そうする事で最初の疑問(1)は間違いなく理解できるし論理的な答えとして導かれるだろう。

そもそも、”自らの努力と思考により得よ”(A)と論理的に会得する事を求めているのであるから、この解明の過程が正しいと思える。

既にこの世に「技術」と「技能」と云う言葉がある。
この「二つの言葉」があると云う事は、この二つの言葉の「意味」や「目的」が違う事を意味している。
しかし、世間では言葉の範囲では厳密には使い分けをしているとは思えなく、ここは「技術」だなと思うところを「技能」と発言して使っていることが多い。当然に逆の事もある。
つまり、この現象は世間の人、全ての人は「長」としての立場で使い分けをしている事は無いだろう事を示している。
だから、裏を迎えせば、”導く立場の「長」としてはこれでは駄目なのだ”と云っている事になる。
当然、この「技」は添書では主例であるのだから、万事、特に「創造」とする事に関して”斯くあるべきだ”といっている事に成る。

そこで、結論から先に云うと次ぎの様に成るだろう。
”「技術」は「知識」を主体視してそれに「経験」を附帯させて構成されているものだ”と云う結論に成る。
”「技能」は「経験」を主体視してそれに「知識」を附帯させて構成されているものだ”と云う結論に成る。
つまり、「知識」と「経験」の主体が違うと云う事に成る。

当然にその比率は千差万別と成るだろう。場合に依っては殆ど差が無く変わらないものもあり得るだろうし、逆の場合もあり得るだろう。
例えば、科学の場合には「知識」に依って論理的に編み出された「技」もあり、この場合は「知識」から観れば「経験」の度合いが小さいと云う傾向もある。
芸術や工芸の様な観念的なことが働く場合には「経験」から観れば「知識」の度合いが小さいと言う事もあり得る。知識で創作された芸術は”論理性が高く面白くない”と誰しも評価するだろう。
ただ下記に論ずる”「経験」から「知識」へと進む「進化の過程」”を考えると、片方がゼロと云う事は論理的にないし、この比率の差は大した意味を持たない。

この様に分けて考えると、この世の「進化の過程」もあり「知識」と「経験」の定義としては類似する事に成る。だから一般的には面倒だから世間の通常は分けて使い分けしないのであろう。
しかし、だからこの家訓8は”「長」としてはそれでは駄目だ”としているのである。
判りやすく云うと”雑では駄目だ”と云う事だろう。

そこで、これを判りやすくする為に論理的に解析すると、最近の脳科学的に観た場合、次ぎの様に成るのではないか。
「知識」とは学問など書籍に依って「判読力」を主体として得られた脳の「集積結果」である。
「経験」は実労等に依り「体験力」を主体として得られた脳の「集積結果」である。
と考えられる。

「術」=「知識」=「判読力」
「能」=「経験」=「体験力」

当然に、この「集積結果」は左脳の集積場所は異なる筈である。つまり、カテゴリーが異なるのであるから、コンピータ的に観れば収納場所は「トラック」や「セクター」や「カテゴリー」の位置は異なる事になる。
脳も同じ仕組みで成り立っているのだから、つまり、これ即ち、「術」と「能」は「違う」と云うことを意味している。
しかし、厳密に云えば、「知識の学問書籍」も基を正せば始めからあったものではなく「人の進化」の過程の「体験」に依って得られもので、それを類似分析して「学問化」し「体系化」したものが「知識」と成る。
これは大事な思考基準である。
つまり、「能」の「体験力」から「術」の「判読力」へと進化したものと成る。

「進化の過程」=「経験」-「学問化」・「体系化」-「知識」
「体験力」-「進化」-「判読力」

この左から右に向かってルートを通って進む。
従って、現在に於いても未だ体系化されずに、「能」の「体験力」の段階のものもあるだろう。
「体験力」と「判読力」とには「進化」が介在する事に成る。

逆に、最近の科学域では高度な「知識」の「術」から更に進化して高度な「経験」の「新能」が生まれると言う事も起こっている。コンピーター関連やソーラー関連や最先端医療のIPS医療等はその典型であろう。むしろ、これからの形体はこのパターンで論じられる事が主体と成ろう。
しかし、あまり前に進めずとりあえず先ずは、上記の「原型のパターン」を論じて理解しておく必要がある。

「知識」の「術」-「経験」の「新能」=未来の進化。

”「術」と「能」”には同じ事象の中の事でも「能」と「術」とには「経時的変化」を伴なう。
つまり、「能」から「術」へと進むと云う事に成るので、「術」は進化した事になる。故に進化したのであるから、そこでその初期の「能」の段階に留まってはならない事を意味するのである。
つまり、”「長」はこの進化の「術」の把握に努めなくてはならない”と諭している事に先ず成る。

平たく云えば、”「長」は常に確立した「新しきもの」を求めよ。”と云える。

さて、これは難しい。何故ならば今は科学は進みその「術」は何処かで進化して確立し書籍などに表されているが、古ではその様な環境に余りなかった。
とすると、自らが「能」の段階のものを「術」の段階まで進めなくては成らない努力が伴なう。
恐らくは、”「長」はこの努力をせよ。「能」を体系化せよ”と求めている事に成る。
だから、故に家訓8は作り出す事を求め所謂「創造」としているのである。

そこで「技能」には「経験」に依ってその「技」を極めた「匠」がある。
更に推し進めて「能」の「匠」を考えるとすると、”「能」の段階の「匠」では「長」は務まらない”とし、むしろ”「匠」であっては「長」としての指揮に間違いを生じさせる”としているのではないか。
何故ならば、「経験」の「技能」を極めた「匠」は、兎角、その事に「拘り」や「偏り」を持つ傾向が起こる。止むを得ない人間の仕儀でもあるがそうでなくては「匠」には成り得ないであろう。
むしろ、「拘り」の極めが「匠」であろう。

数式で表すとすると次ぎの様になる。
「経験の最大」=「拘りの極め」=「匠」

そうすると、ここで矛盾が生じる。
”経験をして「能」を極めて進化させて「知識」の「術」を会得せよ”とすると、経験には「拘り」と「偏り」が生まれるのであるから、「知識」の「術」は成し得ない事に成る。
何故ならば、「知識」とは「能」の「拘り」と「偏り」の個人性を排除したものが「術」であろうから、そこで初めて他者が一般的に利用し知識として「学問」と成り得るのであって、「匠」の「能」はそのままでは論理的には「知識」の「術」へは不可能である事に成る。
「匠」の能は個人的なものに支配される。個人的なものに支配されるからこそ又、「匠」の値打ちが
出るものであろう。

「経験」-「拘り」=「知識」

「拘り」「偏り」の排除=「体系化」作業
という事に成る。

ただ、それを解決する方法がある。(A)
それは、この家訓8では”「経験」の「能」を「匠」として極め、先ず会得せよ”とは書いていない。とすれば、何故ならば、それは”他の者をしてそれを極めさせれば良い”事に成る。
これだけでは「会得」と云う事から観て意味が無いだろう。
「長」の「習得、会得の率と理解度」が必然的に低下する事になるからだ。これでは「長」の求められるものでは無い事に成る。
しかし、その前提があろう。物事には「完全の習得」は有り得ない。
そうすると「匠」まで極めずとも良い事に成り、それを理解するに足り得る「経験」を会得する事でも、「知識」の「術」の「体系化」は充分に成し得る事が出来る。それが前提である。
つまり、他の者をして「匠」としてそれから「聞き出す事」の手段にて成し得る。
それが”「長」はこの「聞き出す努力」をせよ。そして「能」を自ら「体系化」せよ。”としていると理解する。

「聞き出す事」=「体系化」作業の始まり行動
という事に成る。

上式と連立すると、次のように成る。

「聞き出す事」=「拘り」「偏り」の排除=「個人性の排除」=「体系化」の作業

そして、行き着く処は「知識」となる。

それには先ずは、”ある程度の「経験」の「能」を会得し、「拘り」を排除して「知識」の「術」に進化させて、その「知識」の[術]で以って正しく指揮せよ。”と云っている事に成る。

つまり、”その「経験」から「知識」への「過程を創造する」”と定義している事になる。
これは何も「能」、「術」だけの問題ではないだろう。
「創造する」とは「考え、そして新しき何物かを生み出す」と定義すると次ぎの様に成る。

”「経験」から得たものを「体系化」して「新しき何物」かを生み出せ”
と成るので、この上記の解釈は正しい事になるだろう。

{「経験」-「体系化」-「知識」}=「過程を創造する」

「過程を創造する」の「行動の努力」は、再び、「経験」-「体系化」-「知識」のサイクルのプロセスを生み出す事は容易に理解出来る。より進化して。

この「進化」とはこれを定義とし「体系化」を「媒体」としている事に成る。
このサイクルが限りなく続く事を論理的に説明出来る。
但し、媒体と成る「体系化」を無くしてはこのサイクルは起こらない事も。

そうなると、そこで「創造」とは果たして俗に云う”夢を持て”と云う事に成るのか。(B)
どうも違うのではないか。そもそも俗に云う「夢」とは「就寝中の夢」の如く暗中模索、否具体性のものであろう。その「夢」をかなえる為に「暗中模索」では「夢」は叶えられるものではない。
それほど世の中は甘くは無い。人は兎角「夢」とは「暗中模索」のものを云っている傾向がある。
世間では”夢を持て”と若い者に吹聴しているが、あれには少し違いがあろう。
「暗中模索の夢」は無防備にそれに進むために「夢を叶えられる力」の醸成もせずに「無駄な挫折」をし「不必要に世の中を恨み」「捻くれて拗ねる姿勢」の弊害を生み、若い者に良い結果を生まないのが現状であろう。果たして「幾多の挫折」に充分に耐えられる者がどれだけいるだろうか。
これは、上記した「匠」に相当する”「拘り」「偏り」”と成るだろう。
「夢」を叶えられ者は「匠」と成り得る確率と同じであろう。誰しもが「匠」、「夢」を成し得る事は出来ない。一握りである。さすれば、「夢」に向かって挫折した時、その挫折が向後の人生に良い方向に働けば何の問題もないが、多くは「暗中模索、否具体性」で走る。依って、思考に「不必要に世の中を恨み」「捻くれて拗ねる姿勢」の弊害を持つだろう。これは多くの者に起こる。
この「夢」は取りも直さず「経験」の域にある。
{「経験」-「体系化」-「知識」}=「過程を創造する」のつまり以上のプロセスの「体系化」が成されていない。依って「長」とも行かずとも「夢の実現」は「過程を創造する」の域に達していないだろう。途中である。
従って「創造」とは「夢」であるとは成らない。

大事な事は「暗中模索の夢」を叶える為にその過程のそれに向かった「努力の積み重ね」が必要であり、「ただの努力」では成し得ない筈である。
何故ならば、この世は「人の社会」である。その「人の社会」が皆が同じ程度の努力で「夢」が叶えられるのであればそれは楽なもので「夢」では無い。叶え難いからこそ「夢」と表現しているのだ。
「人の社会」であるからこそ「夢」を成そうとすると「人を押しのける」事の行為は必然的に生まれる事に成る。
「人を押しのける」という事は「人以上に力」を持たなければ成し得ないし、かなりの「忍耐」「苦悩」が伴なう。
その「人の社会」が日本の様な高度な社会であればこそ、更に「それ以上の力」を保持しなくては成らない。
当然に、その「夢の分野」が高度で汎用な分野であればこそ、尚更の事「人を押しのける」「人以上の力を持つ」の条件は更に厳しさを持つ事に成る。
そう成ると、この「人を押しのける」の力は{「経験」-「体系化」-「知識」}の「体系化」の努力に等しい事に成る。

数式では次ぎの様になるだろう。
「人を押しのける力」=「体系化」の努力=「知識」

中には、”その挫折が大事だ”と如何にも正論の如く簡単に云う人が多い。
確かに「挫折」は人の成長に欠かす事が出来ない。
然し、どんな「挫折」でも良いと云う事では無い筈である。

”不必要な挫折などしない方が良い。”と考えている。この家訓から学んだ事として。
4つの「み」を強く興す「挫折」は避けるべきである。
強い「ねたみ」「そねみ」「うらみ」「つらみ」が起こる「挫折」は「人を歪ませる」と仏教では説いている通り、
この仏説には「人間形成に於いて不必要」と観て賛成できる。
確かに「挫折」するよりは「体系化」する事の方人間形成に効果的であろう。
つまり、「不必要な挫折」をするよりはこの事は言い換えれば次のように成る。

”日頃の経験を通して「体系化」する努力、又は「体系化の苦労」をせよ。”

”経験から得たものを「拘り」「偏り」を見抜き取り除くその努力を先ずせよ。”

そこで、”「人以上の力」「人を押しのける」に耐え「正常な精神と思考」を持ち得ている人物がどれほど居るだろうか。「不必要な挫折」は必ず「精神と思考」を歪ませる。
それを正常に成し得る者が果たしてどれだけいるだろうか。”先ず居ない”と云える。
仮に「人以上の力」を確保出来たとして、無情にして非情にも「人を押しのける」と云う行為に絶え得るだろうか。「人を押しのける」が一度であれば未だしも常態の日々に続くのである。
故に、無責任極まりないこの言葉を私は、”「夢]を持て”とは決して云わない。
それを云える人物が果たして、この2つの条件(人以上の力 人を押しのける)を以って発言しているのだろうか。おこがましい限りである。

云うとすれば、くどいがこの家訓8の真意を得て次ぎの様に云っている。

”日頃の経験を通して「体系化」する努力、又は「体系化の苦労」をせよ。”

”経験から得たものを「拘り」「偏り」を見抜き取り除くその努力を先ずせよ。”

”不必要な挫折はするな。その暇があるのなら「自らの努力」で「知識」を得よ。 自らの努力で”

では、どうすれば良いのかと云う事に成る。そのキーワードが必要だ。

それが、この家訓8の事で云えば次に示す処であろう。
「夢」に向かって進む限りに於いて大なり小なり「経験」が伴なう。「能」を確保する事になろう。

”それを進化させて「術」として「知識」と成せ”と云う事に成る。
”「夢」を叶えるとするならば、「能」「経験」だけでは駄目なのだ。”と云う事に成る。

では、更に考えて、”その「進化させる」はどの様にすれば良いのか。”の疑問が起こる。
それは”「体系化せよ」”又は”自分なりの「学問化せよ」”と云う事に成る。
判りやすく云えば、”「経験」(能)をまとめよ。” それが”「長い多様な経験」の間に体系化した「多様な知識」と成り得るのである。”と解ける。
つまり、”「長い多様な経験」により「多様な知識」が「人としての力量」或いは「人としての格」を成し得るのである”と解ける。
”それで良いのだ””何も「夢」を叶え持つ事だけが目的では無い。”
だから、「無駄な挫折」をして思考に歪みを持つ事よりも、”足元の「経験」(能)をまとめよ”その努力が”「長い多様な経験」の間に体系化した「多様な知識」と成り得るのである。”と成るのである。(B)

”この家訓8の「長」はこのことを忘れて怠っては成らない”としている。
”それを会得した者が「人を導ける力」を持ち得るのである。”としている。

つまり、”「人としての力量」或いは「人としての格」は「長」としての人を導く「人格」が得られる”と云う事に成る。
この「人格」が「品格」に、そして、それの積み重ねの結果、雰囲気に滲み出て「風格」と成るのではないだろうか。

「長い多様な経験」=「体系化した多様な知識」=「人格」=「品格」=「風格」

そして、”この「風格」が生まれた時「長」と成り得る。”と理解できる。
家訓10訓、とりわけ家訓8の「風格」を得た時、その「長」の下には「家風」が生まれるだろう。
この「家風」が「伝統」と成り得るのである。
「家風」=「伝統」

”「家風」即ち「伝統」が醸成されると、「一族、配下」は自らその「家風」「伝統」を理解して、「長」が充分に指揮せずしても「的確な行動」を起す”と解いているのである。

昔から、”今成金”という言葉がある。
下記に例として記述する「信長、秀吉」の例は家訓8による「大意」この事に欠けていた事により滅びたと解析できる。

当然に、「多様な経験」を体系化した「多様な知識」は事に当って人を納得させ、諸々の事象に当って適切な指揮する能力を保持する事に成る。
その結果、尽くに「正しい指揮」が積み重なり、その「指揮する品質レベル」に信頼度を増し、人は従い、その結果として”「長」としての「行動の品質」の「格」が醸成される”と定義されるだろう。つまり、”「品格」は「配下の信頼度」が「長」をその様に仕立てる。”と云う事になる。
これは”自らが作り出せるものではない”と云える。

判りやすく数式で表現すると下記の様になるのではないか。(A、B、C)
「品格」=「配下の信頼度」*N=「正しい指揮」*N=「指揮する品質レベル」*N
「品格」=「人格」*N
「品格」*N=「風格」
(「人格」*N)*N=「風格」
(N=経験量+知識量)

しかし、然りながら、ここで「多く無駄な挫折」をした者が、この家訓8を成し得た時に、”何故悪いのか”の反論があろう。悪いのである。
「多く無駄な挫折」「人を押しのける」事の結果で「思考精神」に歪みの持たない者は先ず居ないだろう。つまり、その者の「自らの経験」と「力量」と「人を押しのける力」から独善的に、或いは独裁的になり「人」を導く「長」には問題を含むからである。
”一時的には「長」に成り得ても必ず破綻する。”と云う事になるからだ。

例えば、「信長、秀吉、家康」の例えが適切に物語る。
信長はこの過激的で独善的な典型的人物であろう。その人生過程に於いて余りの典型であったからこそ、歴史は事半ばで終る。
秀吉は下積みから這い出ての「技能量」或いは「経験量」は豊かであったが、体系化した多様な知識を持ち得ていなかった。「千利休に対する対応」や「金の茶室」がそれを物語る。
故に標準的な典型的人物であろう。歴史は一代で成し得たが一代で終わると成り、人生の目的、万物の目的とする後世に子孫を遺し得なかった。
家康であるが、この家訓8に適合する人物である。
三河の地侍に生まれ、今川氏の人質、織田氏から屈辱的な待遇、武田氏との敗戦、秀吉との駆け引き、摂津商人との付き合い、関が原の戦いに負けて勝った結果等を検証すると「多くの挫折」と「人を押しのける」等の「経験」は申し分なく豊かでありながらも、そこから学習して「知識」を獲得し「長」としての家訓8で云う資質を「捻くれる」事無く会得している事が検証できる。
「捻くれる」はこの家訓8で云うそれは”「体系化せよ」”又は”自分なりの「学問化せよ」”の努力の結果がそれを抑えたと考えられる。

徳川氏の歴史資料からも、”「多く無駄な挫折」を避け「人を押しのける」事の結果を極力少なくし、「長い多様な経験」の間に体系化した「多様な知識」を学習し成した。その為に出来る限り「思考精神」に歪みの持たない様に心がけた。
「家訓8」で言う「長」としての数式条件は次ぎの様に成るだろう。

即ち、「長い多様な経験」=「体系化した多様な知識」=「人格」=「品格」=「風格」 を備えた。”と理解し検証できる。

故に、250年以上の存続の条件が醸成されたのである。
それは”「体系化せよ」”又は”自分なりの「学問化せよ」”は何も言葉そのものではなく、「捻くれる」事をも抑える事が出来るのであろう事が読み取れる。
誰しもが普通は陥る経験からの「捻くれ思考」はどうすれば良いのかの疑問は次の事として云える。

「捻くれ思考」は予断なく「長」として最も排除しなければならない事は明白であろう。
"「捻くれ思考」は「体系化」「学問化」の努力でこれを打ち消せ"と成る。

恐らく、当然の事として添書に書かれていないが別の真意はここにもあるのだろう。
つまり、通常はその者の「自らの経験」と「力量」と「人を押しのける力」から独善的に或いは独裁的になり「人」を導く「長」には問題を含むからである。

”信長、秀吉はむしろ常人であって人としての陥るところに落ち至った。しかし、家康の人物は稀有であるが斯くあるべきだ”と云っている事になる。

”「長」は「常人」でありながら「常人」であっては成らない”ことを諭している事に成る。

青木氏の家訓10訓は室町以前の試練から生まれたものであるが、それ以後も子孫に合意されていたからこそ現在までに遺されているのであって、それ以前にこの「3人の生き様」を言い当てていた事になる。

この家訓8が遺された時期は一族一門がこの世に生き残れる確率は極めて低く、危険率は現在の数十倍のものであったことである。それは毎日の茶飯事思考であった筈である。
しかし、青木氏は1367年も続けて直系子孫を遺し得たのは代々先祖がこの家訓類の戒めを護り続けて来た事に他ならない。少なくとも明治35年までは「長」として。
そして「家訓」として「伝統の集約」として維持されている。
現在では科学の著しい進化で社会がより敏感に成りハイトーンと化しているが、この別の意味で厳しさはむしろより遺されているだろう。さらに子孫の時代にはこの状況はもっと続くであろう。
「経験」から「知識」に進化して来た時代から、あまり「経験」の「技能」の伴なわない「知識」から更に「新しい技術」が生まれる時代に、人間形成に於いて代らないだろうが、この「新しい厳しさ」に立ち向かうにはこの家訓8は古い様で居て現在、否未来にも何らかの形に変えて生きている筈だろう。

故に、筆者はこの家訓8の考え方を重視していて、自分の思考判断基準の重要な一つにしている。
とりわけ「人を観る」とする時、或いは「長」とされる「人物評価をする時」に反射的にこの家訓で観ているが、外れた事はない。誰しもが何らかの判断基準を持ち得ているものであろうが。
多くの歴史偉人伝を読み漁ったがこの家訓8は有効に利用されより面白く雑学を得た。
この世は当然に「人の絡み」の世であるが故に必然的に「人を押しのける」は起こる。
別の効果としてもこの世の必然的な行為の"「人を押しのける」"前にこの家訓8の「人を観る」事の「思考経験」とその「体系化」による「知識」で不必要な摩擦を避けて来た。

古い様であるが、突き詰めると現在の言葉が無いので古来の言葉にすれば、「人生の生き様」の体系化は「六稲三略」に通ずる様だ。「戦略戦術」は正しくこの「体系化」であろう気がする。

添書にはないが、"人との不必要な摩擦が避けられる"も極意なのであろう事を思い知り、頭書に記述した、”自らの「努力」と「思考」により得よ”(A)に感嘆した。
これも「経験」からの「体系化」-「知識化」を成し得た事に成るからだ。

もう一つ会得した事がある。
それは、「体系化」-「知識化」を成さず豊富な経験だけで終わる場合、その人物には「個性的性格」、「個性的思考」が残る事が確実に起こる事である。
恐らくは、信長や秀吉は多少なりとも「体系化」-「知識化」があったにせよ多くはこの「経験」のみによるところで留まっていて、そのレベルにより独特な「個性化」が起こったと観られる。
ただ、信長はこの事をある程度知り得ていて外国の新しき文化知識で補おうとしたと観られるし、その側近には同じ行動をする秀吉を登用したことで頷ける。
明智光秀は主に「経験」から「体系化」-「知識化」を成した人物ではなく「書物」から「知識化」成した事により信長との余りの差が起こり、信長は自らを補おうとした余り「接点の無い間違いの登用」をしてしまった事になるだろう。
「経験」を「体系化」成せる者で充分であった筈で、この判断ミスをした事に成る。
ただ、此処で云える事は、光秀タイプが悪いのではない。”学者馬鹿”という言葉があるが、これは「偏り」に依って起こる”「適合性の低い思考」が起こる”からで、その思考化の視野が狭くなる事から起こる現象である。しかし、これを超えるとむしろ大変な「経験」を生み出すのである。

例えば、三国志の劉備と軍師の諸葛孔明である。
諸葛孔明は最たる「知識」と「知恵」の持ち主である。諸葛孔明の策に対して、”敵は過去の彼の「策の経験」から恐れて逃げる”と云う所まで達していた。これは明らかに「知識」から「経験」を生み出し、その「策の知識」から敵は「体系化」して自ら「経験」を作り出した効果に他ならない。「逆のプロセス」である。
明智光秀はこの域に達していなかった事に成るだろう。世に云う「今だ我木鶏にあらず」であろう。
「知識」からの「逆体系化」で「経験」は「木鶏」に達し得る可能性がある事を意味する。
歴史偉人伝にはこの「逆体系化」は少ない為にかなり難しい事が云える。
しかし、家訓8の添書には一句も触れていないがあり得る事である。

秀吉は「金の茶室」で全てを物語るもので「体系化」-「知識化」は自ら嫌っていた事が覗える。だから、補う為に石田三成を重く登用したと観られる。しかし、この石田三成も明智光秀型であった。
ただ、秀吉はこの体系化の見本と見なされる人物を採用している処は優れている。
その人物は一介の下級浪人の薬売りで溢れる知恵の持ち主であった。そして、その知恵を屈指して各地の土豪の争いに雇われて「戦い」を「経験」し、そこから自らその「戦い方の体系化」を成し、知識として保持し続けた。その結果、「天下一の軍師」として賞賛され認められた秀吉の「軍師 黒田勘兵衛」と成り得たし、明治期まで続いた黒田藩主の「長」にも成った。

だから家康は石田三成や明智光秀を「知識側の偏り」に対する者として(「経験」-「体系化」-「知識」の者でないとして)ある面で軽視していた事が伺えるが、黒田勘兵衛は認めていた。
当然、家康は本人が「長」としての「経験」-「体系化」-「知識」を偏り無く成し、性格的にも合致していた事から全て側近はこの型の者を配置したし、「経験」型のものは実践部門に配置した事が読み取れる。

信長は「経験」型の偏りから、「実戦型」と成ろう。
秀吉は「経験」型の標準から、「実戦型」+「術策型」と成ろう。
家康は結果視として「経験」-「体系化」-「知識」から「権謀術策型」と成ろう。

この家訓8は言い換えれば別の意味で、"「長」としては「個性型」を避けよ"と云っている事になる。("「経験」-「体系化」-「知識」"とはっきりと明言している。)
避けなくてはならない理由は、当然、家訓からすると後の人物であるが、"信長-秀吉であるな"と云っているのであるが、この事について他の家訓3で明確でも云えている。
つまり、「個性的」である事は結果として「人」「時」「場所」の三相に左右されるからだ。
その「経験」を「体系化」せずにすると「偏りの個性化」が起こる。その個性は「ある人A」に対してよい効果を生み出すが「ある人B」に対しては逆効果と成ることが起こるからだ。信長-秀吉の例に成る。「時」「場所」も"推して知るべし"である。
"未来永劫に子孫の繁栄を願う場合には、これをリードするに「長」としては好ましくない"
これは個人の単位での事として良いのであればそれも良いであろう。しかし、この訓では個人ではない。あくまでも「長」なのである。
然しながら、筆者は大なり小なり"「長」に限らず斯くあるべきだ"と考えている。
現在の様な「個人」を基盤として尊重し、その連携の先に集団結束を目途とする「個人主義」の時代にあれば「個性的」を賛美され「良し」としているが、日本人にはこの思考原理は「違う」と考えている。
これが仏教で言う"「刹那主義」に偏りすぎる。"と云う点である。
家訓8の「裏意」として、「経験」-「体系化」-「知識」の線上に於いて、この「刹那主義」を排除せよ"としている事が云える。
その根拠は"人は男女一対で成り立っている。"と云う事である。
その「男女一対」は更に「家族」を構成する。そしてその「家族」は「親族」を構成する。「親族」は「一族一門」を構成する。この原理はすべて「男女一対」の「理」が成立しその中にある。
決して、「単数」「個人」の「理」ではこの構成は論理的に成り立たない。
「単数」「個」だけでは子孫は生まれず決して拡大しない。「人」のみに限らずこの世の「万物」は「相対の原理」と「一対の原理」に依って成立する。
この家訓ができた時期には、この「個」の上に無く長い歴史の中で日本の歴史と文化と思想は上記の根拠(「男女一対」-「家族」-「親族」-「一族一門」=伝統)が醸成されて来た。そしてそれが国民の遺伝子的な思考基準と成っている。所謂、現代用語で「チーム」、古代用語で「族」で事を成そうとする癖がある。つまり、「複数の原理」の社会である。
ところが、この「複数」の社会の中に、突然に「単数」「個人」「個性的」を最高視し標榜する国の思想が流入した。この標榜する国の考えが悪いと云うのではない。それは「その国なりの形」でありそれでなくては国は成り立たないのであろう。ただ、日本という「国に於いては構成上の条件」としては決して好ましくないと云う事なのである。
「個人主義」仏教で言えば「刹那主義」と見なされる易い思考が蔓延したのである。
上記した「遺伝子的な思考基準」が醸成している2000年以上の社会の中に、200年にも満たない「然程の伝統」「然程の祖先」も持たない国の思考基準が混在して来たのである。

{「遺伝子的思考基準」=「複数の原理」}><{「個人」「個性的」「個人主義」=「単数の原理」}

現在ではその間約100年で「複数の原理」<「単数の原理」の状況の中で矛盾が生まれ社会問題化していると考えられる。
しかし、反面、「然程の伝統」「然程の祖先」でも200年も経過すると先祖が形成される様になり初めて日本の様な「初期的な伝統」が重んじられる社会風土が出来つつあると云われている。
その一つの現われとして、「ルーツ探し」が大ブームと成っていると云われていて、日本の様な「チームの重視」「族の重視」に思考が傾きつつあると云われている。
端的には云うと今までの彼等の観光目的とは異なり、日本の彼等の観光目的はこの稀有な「伝統の確認」に変わりつつあるとされている。彼等はこの経済大国と近代的な世界有数の国、トップのノーベル賞や最先端の科学技術立国の社会の中に「何故、伝統の美が融合するのか疑問」があり、その「融合力」に驚いているという事らしい。未開発国のそれとは別に観ていると言う事だ。

そもそも元より世界稀有の国として、日本民族は7つの民族の「融合」であり、その「融合」を「遺伝子的性癖」とも云われている事から、何時かこの「刹那主義」に近い「個人主義」から何物かを融合して日本独自の「複数の原理」+「単数の原理」=「中間子の原理」を生み出すであろう。
米国がそうである様に今丁度その最中であろう。

参考に日本の融合過程は、古墳時代の融合は別として、先ず飛鳥時代と奈良時代初期に第1陣の大量移民が起こり、大化期初期に第2陣、奈良末期に第3陣、平安初期に第4陣の民族の大移動が西と北で起こった。然し、平安初期の桓武天皇の時代の律令国家完成期の800年頃には「帰化人」「渡来人」の言葉は書籍から消えている。「遠の朝廷」「錦の御旗」の称号を与えられた「大蔵種材」の時代にはこの移民は禁止して「大宰府大監」は押さえ、北は大蔵氏の兄の坂上氏の「坂上田村麻呂」の「征夷大将軍」がこれを完全に抑えた記録がある。450年から800年の350年で完全融合した事を意味し、900年までの100年で民族は「単一性」を成した。
200年後の650年代大化期では融合の終焉期であった筈である。記録にもそれなりの表現がある。当然に、民族が移動する事は思考も流入されていた事に成り、その最たるものとしての「司馬達等」による「仏教」の伝来で証明出来る。
だとすると、民族の移動は無いにしても思想の流入はあったから、それだけに、明治初期から始まり昭和20年とするかは時期設定には問題であるが、新しい思考原理が侵入して来たこの期間を80-100年とすると、170年後の今ここで家訓8の検証とその問題提起が思考原理の融合が起こり始めている中ほどの時期と観て重要な事であると考えている。
そもそも科学物理の「中間子理論」関係の発見が続いているがこれすべては日本人なのである。
中間子はや中性子は+と-を融合させるファクターであるが、それを発見し続けている日本に於いて日本の「思考の融合」は先ず間違いは無いであろう。次ぎの子孫の代には完成するであろう。
その為にも、家訓8を書き記しておく事の意味は大きいと考える。

何をか況や、先進国の彼等が驚く「融合力」は取りも直さず「経験」-「体系化」-「知識」から起こる「本家訓8の創造力」に他ならないのである。
つまり、”「創造力」は「経験」-「体系化」-「知識」の力であり、即ち、日本固有の「融合力」に等しいのだ。”と解いている。

「融合」とはA+B=Cと成る。しかし、この式の過程には何がしかの因子Xが働いているだろう。
自然科学では「中間子」なるものが働き、更には、「中性子」なるものが働いている。
そして、この両者のエネルギーのバランスをとり続ける。
とすると、AとBと「融合」が成し得なかった民族融合の要素として「中間子」が働かなかったことに成る。つまり「拒絶反応」が働いたことに成る。
日本の「融合」はその「拒絶反応」の逆の事が起こったことに成る。
”ではそれは何なのか。中間子は何なのか。”又疑問が湧く。

AとBが「融合」するには、その数多くの過程で色々な事が起こるであろうが、先ず、融合に依って何らかの良いことが起こり、良い事の「融合の経験」が繰り返される。そしてその「経験過程」で「信頼」が生まれる。この「信頼」の元となる「経験」が数多く繰り返され人は「学習」をする。
この数多く繰り返される「学習」から何らかの「体系化」の「知恵」が働くだろう。
そして、そこに「知識」の「知恵」が生まれ、「経験」では「伝達」を成し得ないその「知識」と云う「共通媒体」で次に正しく伝える。そして、その「正しさ」の結果、「高い信頼」が生まれる。
この事が繰り返されての「信頼」に裏打ちされた厚味のある「知恵」と成り、より「確率の高い融合」は完成する。
日本は「7つの民族」と云う途轍もない数の融合である。世界を観ても、たった300年という短い期間では普通の融合の条件では成し得ない。しかし、そこにはこの「信頼」と云う確固たる「醸成手段」が出来上がる。この「信頼」が「中間子」である。信頼は(+)右の人と(-)左の人を結び付ける。

この事は明らかに正しく「経験」-「体系化」-「知識」である。
”この事が何故に日本人に成し得たのか”またまた次ぎの疑問である。

それは、現在に於いても「科学技術」や「文化芸術」でも「創造力」を駆使して遥かに他を抜いている「日本人の特質」に他ならないのである。2000年もの期間を経過してでもこの特質は変わらない。つまり、「融合」と「創造」は「遺伝的特質」に他ならない事を証明する。
”「中間子」を働かせる力が強い”と云う訳である。言わずもがな自然物理の「中間子」や「中性子」は日本人の発見である。
「長」の「体系化」は配下に「信頼」を生むと論じた。そうすると、次ぎの数式が成立する。

「中間子」=「信頼」=「体系化」

この「経験」-「体系化」-「知識」、即ち、「融合」に働く「中間子=信頼=体系化」に裏打ちされた「創造」が日本人の基盤にあり、ここが外国の「個」の世界と歴然と根本から違うのである。
故に、この理屈からすると”自らに無いものを求める”のも、そして、”それを融合する”のも日本人の特質と云える。それでなくては「日本人の融合論 創造論」は論理的にあり得ないことに成る。
故に、”「個」の侵入は心配いらない”と成り、それ故にそれに惑わされた”「刹那的な夢」の吹聴は良くない。”としている。
それよりも、この「家訓8」は取りも直さず”「中間子」を見つけ働かせよ。さすれば「知識」が生まれる”とのこの事を解いている。

「融合力」=「経験」-「体系化」-「知識」=「創造力」
「知恵」=「体系化」+「中間子」
「知恵」=「創造力」=「融合力」

この数式間には目に見えない「何らかの中間子」が作用している事に成る。
正しく「核理論」そのものである。
その「中間子」は諸事事象によって異なるであろう。「中間子」が発見されれば「体系化」が起こり「知識」となり末には「知恵」と成る。そして、その「知識」は「伝達手段」として正しく継承されるもの」と成るのである。

”「経験」が浄化、或いは整流されて「知識」「知恵」になり伝わる。”と解ける。

日本の国全体に於いても然ることながら、故に青木氏に於いても「家訓8」である事が頷ける。
故に、古の家訓でありながらも、この事は家訓1の真意でもある。
取りも直さず、仏教ではこの事を説き、"「個」「単」から思考する「刹那主義」を「悪」とし排除せよ"としているのであろう。理解できる。
故に、日本社会に於いて行き過ぎた「個」から発した思考規準は現在は尊重されてはいるが、余りの「個性的思考、性癖」により大きな「偏り」を起こす事を好ましくないと観ているのである。
それはその「事象」により「経験」を卓越し「名人」「匠」と成り得るには「個性的」を強く求められる事もあるが、それはそれで「名人」「匠」の範囲であれば、必要以上に「体系化」-「知識」の線上に無くても良いであろう。
むしろ、彼等が「体系化」-「知識」の線上にあると「名人」「匠」と認めない不思議な風潮が日本社会にはあるだろう。「中間子」が存在する割り切れない思考として。
これは取りも直さず、”「名人」「匠」は「長」又は「石田三成」「明智光秀」「諸葛孔明」「黒田勘兵衛」の「権謀術策」側にあってはならない”とする日本人特有の区分けの思考であり、裏を返せば、この「家訓8」の「経験」-「体系化」-「知識」の思考がある事を証明する。
ただし、「家康」も「個性的」とするかは「経験」-「体系化」-「知識」の線上の何れの「位置と量」にあるかに依って決まる事になろう事は頷けるが、家康は歴史上最も偉人伝の人物の中ではこの「家訓8」に「典型的」ではない「標準的」に相当する人物と見なされる。

この何処に規準を置くかも「中間子思考」の所以であろう。其れはそれで良い。そうでなくては凝り固まっては「融合」「創造」は働かない。

「融合」「創造」は正しく「色即是空 空即是色」「空不異色 色不異空」である。

平たく云えば、”頭を柔らかくせよ。(融合) でも考えよ。(創造)”である。
禅問答である。

筆者は青木氏を研究する雑学の中で、この「経験」-「体系化」-「知識」の線上で「偉人伝」なりを観ているが、人物の「生き様」がより立体的に観られて面白いし、意外に大発見の糸口に繋がる事が多いのである。
その中でも、偉人伝の人物の生き様も然ることながら、この家訓8は特に「長」のとるべき姿として論じているが、この「体系化」には別に誰しもが人生で経験する事、即ち、「スランプ」の原因とも成り、そこから「脱出」する答えでもあると考えている。
スランプは、「経験」-「体系化」-「知識」のプロセスの中に起こっている。
「経験」を長く続けると必ずスランプに陥る。然し、このスランプは「経験」だけに留まり、その中で長くそれに頼り生きる「能」を身に沁み込ませてしまう。その結果、この「経験」を活かしての「体系化」に怠り、足踏みしてしまう事がスランプである。前に進まない。「経験」を活かして「拘り」「偏り」を排除して「体系化」を成せば「知識」として身や脳に集約され、更なる「進化」が起こるのである。
スランプの中でも”前に進む”と言う事である。
このプロセスの中で「体系化」を怠った結果スランプなるものが起こる。
つまり、「体系化」を成せばスランプから脱してより一段上のものを獲得する事が出来るのである。
経験中になかなか「体系化」の行為は難しいだろう。
”どの時点で「体系化」を成せば良いのか”の疑問も残るだろう。
その答えは「スランプ」に落ち至った処と観ている。即ち、「スランプ」は「スランプ」では無いのである。
「スランプ」はこの「体系化」するポイントなのである。その「体系化」には「拘り」と「偏り」を見つけ出す時間が必要である。この時間が「スランプ期間」なのである。
人生はこれを繰り返して行く事であるが、その「スランプ」の「期間とレベル」は次第に小さいものと成り得る。但し、「体系化」をして「知識」に移す事で。

”この世の中に「進化」せずして生残れるものは決して無いない。”周囲は途絶える事無く「進化」しているのである。自らもそれに合わせて「進化」せずして取り残されるは必定である。
「進化」の手段「体系化」を怠れば留まるしかないのである。
冒頭からの上記の論説は「長」の誡めに限らず”よって件の如し”である。
「長」のスランプを避け、尚且つ「長」はこのスランプ対策のそれを超える処のものを要求されているのである。「長のスランプ」は取り扱いに依れば一門の滅亡を意味する。
「長」は常に「体系化」を無し、自らの「資格」を獲得し、「スランプ」も起しては成らないのである。
それには、家訓8の戒めを護る以外に無い事を諭している。

話を戻して、だから、この様な事を多く積み重ねる事で「生きる力」「望み」「希望」「目標」は内側から醸成されてくるものであり、「暗中模索の夢の発揚」方法にも賛成できない。
仏教でも説いているが、上記で論じた「刹那思考」や「刹那主義」からの考えや行動を戒めている。
しかし、「刹那思考」や「刹那主義」をマスコミでも大口を開けて怒鳴り喧伝しているが、今だ未だ社会は上記に論じている様に「融合」の中期過程にあるのだろう。
これからは上記した時代の厳しさは増すと共に、そこから逃げようとする「その場凌ぎの思考や行動」がより起こるであろうが、故に誡めて、この”「長」のみならず人は「刹那思考や行動」に陥ち至っては成らない。”としている。
故に「長」でなくしてもこの家訓類10訓とりわけ「家訓8」は以上の様に解説して末裔に伝え守り通さなくてはならないと考えている。
そのためにも、平成に掛けて家訓添書の解説を時代に合わせて、状況に合わせての再編集を行い遺す事をした。

家訓8を取り纏めれば、次ぎの様に成るだろう。
家訓8の添書(悟る事)

「術」=「知識」=「判読力」
「能」=「経験」=「体験力」

「技術」の構成=「知識」>「経験」
「技能」の構成=「経験」<「知識」

「経験」-「学問化」・「体系化」-「知識」=進化過程
同事象の進化=「能」+「術」=「経時的変化」

”「術」は進化した事になるので「能」の段階に留まってはならない。”
”「長」はこの進化の「術」の把握に努めなくてはならない。”
”「長」は常に確立した「新しきもの」を求めよ”
”「長」はこの努力をせよ。「能」を体系化せよ”
”「能」の段階の「匠」では「長」は務まらない”
”経験をして「能」を極めて進化させて「知識」の「術」を会得せよ”
”「匠」であっては「長」としての指揮に間違いを生じさせる”
”ある程度の「経験」の「能」を会得し、「知識」の「術」に進化させて、その「知識」の[術]で以って正しく指揮せよ。”
”「経験」から「知識」への過程を「創造」せよ。”
{「経験」-「体系化」-「知識」}=「過程を創造する」
”自らの「努力」と「思考」により得よ”(A)
”「自らの努力又は思考」に依って得られた時、「長としての務め」は果たせるし、その「創造」の効果は生まれる”(B)
”この「創造」は家訓10訓を会得する「糧」又は「力」に成るのだ”(C)
”「創造力」は「経験」-「体系化」-「知識」の力、即ち、固有の「融合力」に等しいのだ・。”

家訓8の教訓(解く事)
”「夢」を叶えるとするならば、「能」「経験」だけでは駄目なのだ。”
”「長」としての「行動の品質」の「格」が醸成される。”
”「品格」は「配下の信頼度」が「長」をその様に仕立てる。”
”「長」としての「品格」「風格」は自らが作り出せるものではない”
”「長い多様な経験」=「体系化した多様な知識」=「人格」=「品格」=「風格」”
”「家風」即ち「伝統」が醸成されると、「一族、配下」は「的確な行動」を起す”
"「捻くれ思考」は「体系化」「学問化」の努力でこれを打ち消せ"
”「長」は「常人」でありながら「常人」であっては成らない。”
"「体系化」-「知識化」で人との不必要な摩擦が避けよ"
"「長」としては「個性型」を避けよ"
”「個」「単」から思考する「刹那主義」を「悪」とし排除せよ"
”人は「刹那思考や行動」に陥ち至っては成らない。”
”「中間子」を見つけ働かせよ。さすれば「知識」が生まれる”


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鈴木氏発祥地とその環境 2

参考
鈴木氏発祥地とその周辺環境編

全国各地の熊野神社
熊野神社の第1の神社支社の藤白神社は熊野神社の社領の入り口にある。
この神社以外に熊野三山の名で祭祀している神社全国各地に存在する。

必ずしも熊野三山の系列であるとは限らず、三社形式、単独形式、勧誘形式、併社形式、別社形式等で存在するが、正式系列の確認はなかなか困難である。依って、以下の神社以外にも御霊移しなどの簡易な方法で存在する事が多くあると観られる。
それぞれの歴史的な根拠をそれなりに持ち合わせているが、全に於いて確認は取りきれない。
それは熊野三山社との関わり以外に修験道の修験者の開山とも関わっているものも多い。


これらの夫々の確実な神社の歴史的な関係を調べていたが、不思議な一点が浮かび上がる。
それは藤原秀郷流青木氏が定住していたところ全てである。

この青木氏は東京は埼玉入間を中心として神奈川横浜を半径とする処に定住していたが、その範囲にある神社であるが、他も岩手から福島、宮城、青森、千葉、埼玉、神奈川、静岡、愛知、岡山、広島、高知、山口、島根は勿論の事、この下記全ての県でも云える事である。
京都は天皇家との関係からのものであろう。
鹿児島は日向青木氏のところであるので何か事情が存在する。
不思議である。現在研究中である。

ただ、皇族賜姓青木氏の5家5流の土地には無いのである。
皇祖神の神明神社との関わりからであろうか。
高知を除く四国に無いのは弘法大師真言宗の関わりか不明である。讃岐籐氏もこの影響があるのか。

「神明神社」と「熊野神社」との関係は「青木ルーツ掲示板」の「函館の青木さん」のご質問でお答えした内容を参考にしてください。

参考
伊勢王、近江王、甲斐王、山部王、石川王、高坂王、雅狭王、美濃王、栗隅王、三野王(信濃王)、武家王、広瀬王、竹田王、桑田王、春日王、(難波王、宮処王、泊瀬王、弥努王) 以上19/66国
これ等の主要地に初期の段階の基点となる神明神社が建立されました。
矢張りこの地域には正当な系列熊野神社は存在しない。

この2つの歴史ある神社と藤原氏の守護神の「春日神社」との三つ巴の宗教的な勢力争いが大いに絡んでいると観ていてそれを研究している。当然に熊野神社の無い所には「宗像神社」、「出雲大社」が存在するなどの傾向も確認出来る。

「承久の乱」、「治承、平治、保元の乱」等も絡んでいる。義経が平家に追われて弁慶の実家の熊野の日高氏を頼りに熊野神社に出向くが庇護を断わられた。これはこの勢力関係に影響している事は判っている。この乱で賜姓青木氏を始め、賜姓源氏、藤原秀郷北家一門等が平家に押されて衰退する中でこの3氏はスクラムを組んだ。同じく衰退している熊野一門はこの3氏に合力をしたのではないか。
その証拠に一番後の「承久の乱」の時に平家側(田辺別当派)と反平家側(新宮別当派)とに分かれて「熊野動乱」が起こる。最終、田辺別当派が引き下がり反平家派が主導権を握る。
これが伊勢青木氏と藤原秀郷一門青木氏に関わる源氏頼政が首謀する以仁王の乱に繋がる。

「熊野神社」はこの「承久の乱」で後鳥羽上皇に味方した為に衰退するのであるから、5大神社と平安期と鎌倉期の乱との関わりからかこの熊野神社の分布は何かを物語っていて面白い。
勢力保持のために採った秀郷一門の「第2の宗家」と呼ばれる勢力地に熊野神社建立を計画実行したのではないだろうか。

・ 紀伊熊野三山の三社形式

成島三熊野神社(岩手県花巻市)

新宮熊野神社(福島県喜多方市)

熊野三山社(宮城県名取市)

・熊野神社を名乗っている神社(単独形式)。

熊野神社 (青森県中泊町)

熊野本宮社(宮城県名取市)
熊野神社(宮城県名取市)
熊野那智神社(宮城県名取市)
今熊野神社(宮城県名取市)

前野熊野神社 (東京都板橋区前野町)
志村熊野神社(東京都板橋区志村2丁目)
熊野神社 (東京都新宿区)
熊野神社 (東京都目黒区)
熊野神社 (東京都東村山市)
熊野神社 (東京都八王子市)

熊野神社 (千葉県船橋市)
熊野神社 (千葉県四街道市内黒田)
熊野神社 (千葉県四街道市亀崎)
熊野神社 (千葉県武郡横芝光町)
熊野神社 (千葉県匝瑳市)
熊野神社 (千葉県旭市)

熊野神社 (埼玉県和光市)
熊野神社 (埼玉県入間市)

熊野神社 (神奈川県横浜市港北区)
熊野神社 (神奈川県横浜市瀬谷区)

熊野神社 (静岡県鎌倉市)
熊野神社 (静岡県富士宮市)

熊野神社 (愛知県小牧市岩崎)
熊野神社 (愛知県小牧市久保一色)
熊野神社 (愛知県北名古屋市)
熊野神社 (愛知県北設楽郡豊根村)
熊野神社 (愛知県西尾市)

熊野神社 (京都府京都市)
熊野神社 (京都府京丹後市)
新熊野神社(京都府京都市)

鹿塩熊野神社(兵庫県宝塚市)
熊野神社 (兵庫県西宮市)

熊野神社 (岡山県倉敷市林)

熊野本宮社(広島県安芸市熊野町)

熊野神社 (山口県山陽小野田市)

熊野神社 (高知県馬路村)
魚梁瀬熊野神社(高知県馬路村)

熊野神社 (鹿児島県三島村)
熊野神社 (鹿児島県出水市)

熊野神社 (和歌山県御坊市)

・併社(併社形式)
熊野大社 別神祭祀(島根県松江市)

・勧請社(勧誘形式)
熊野神社(いやじんじゃ)(和歌山県御坊市)

・別社方式
久米神社 伊邪那美神祭祀(島根県安来市)

以上


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青木氏と「神明」「観音」「毘沙門」

HPのお便りから投稿

[No.705] Re: 函館の青木さん
投稿者:函館 投稿日:2010/07/10(Sat) 12:03:09


函館の青木です。 楽しくみています。
教えて戴きたい事があります。
神明社、観音堂、毘沙門堂について由来、歴史など。
簡単には無理でしょうが、お願いします。




函館の青木さん お久しぶりです。
如何お過ごしですか。先日の青森の青木さんにもお便りを頂きました。
勉強されているようですが、頑張ってください。なかなかルーツの歴史を辿ると云う事は難しいですよね。
知識の積み重ねが何かのヒントとして役立つので色々と広範囲に雑学を会得される事は良い事ですね。

さて、お尋ね頂きました事はなかなか範囲が広くてご説明が難しいですし、お答えする程の知識は無いと思います。しかし、楽しみの一つとして何とか知る範囲で書いて見ようと思いました。
それで、ご了解ください。

先ず、神明社は青木氏に大いに関係する事ですので、これから始めたいと思います。
「神明」とはそもそも、「天照大神」を祀る神社ですね。
この「天照大神」を祭祀したのは天皇家で、その最初に定めたのは大化改新の立役者の中大兄皇子です。後の天智天皇です。そして、この神明を伊勢国松阪の地に定めました。しかし、この時点では朝廷の皇位継承問題などで伸び伸びになり未だ正式な決定の形が取れていませんでした。その後天武天皇が正式に「伊勢神宮」を「皇祖神」として定めたのです。

(この時以来、5代の天皇の第6位皇子と19人の第4世族皇子は臣下して主要地の守護王と成りそこにこの皇祖神の支社を守護地に建立しました。これが各地に広まる原因となり、支社から更に各地に分社が広まりました。)

第4世皇子族の守護地
伊勢王、近江王、甲斐王、山部王、石川王、高坂王、雅狭王、美濃王、栗隅王、三野王(信濃王)、武家王、広瀬王、竹田王、桑田王、春日王、(難波王、宮処王、泊瀬王、弥努王) 以上19人/66国
これ等の地に神明神社が建立されました。
信仰の伝達手段が無いこの奈良平安期には、朝廷は政策としてこの地から神明信仰を広げるために先ず支社を建てたのです。そして、人民の安寧を図りました。

そして、この伊勢松阪の天領地を神明神社として重きを置くために天智天皇の皇子の施基皇子を第1位の守護王として配置させました。
この時には皇位継承制度の見直しで第4世王までを皇子とし守護王とすると定めました。
この第4世王までの内、第6位皇子以降は臣下させて賜姓し、各主要地の天領地の守護王とする事を定めたのです。この第6位皇子が5人の天皇から青木氏の賜姓を受けて配置されました。
(伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5天領地)

天武天皇時には14の皇子の中の兄天智天皇の皇子の第6位皇子の施基皇子が守護王となり、この神明の皇祖神の伊勢神宮を護る役目を与えられましたが、それまでは、一代限りで中大兄皇子の政敵で叔父の孝徳天皇の子供が伊勢王と成っていました。
孝徳天皇の失脚と伊勢王の子供2人の突然の病死(政争)で天智天皇の施基皇子が勤める事に成りました。
この施基皇子は大変有能で天武天皇の相談役として働き草壁皇子の皇太子よりも2つも上位の身分となり多くの大化改新の改革に取り組みました。
(日本書紀にも最も多く出て来る人物でした。日本書紀と青木氏のレポト参照)
このために国司を送り「三宅連岩床」がこれを務めました。

この神明は「農耕儀礼」の神として信仰されました。
後に後漢の渡来人の帰化人阿多倍王らの子孫らの働きで各地(上記5国)で開墾に携わり著しく進み、この農耕の神明が伊勢神宮から各地に支社を作る事になりました。
上記19の守護王の国にも皇祖神の神明神社が建立されました。
これが全国各地にある神明神社の元と成ったものです。
現在は、約5000から小さいものを入れると15000もあるとされています。
この神明信仰にも後漢帰化人の阿多倍等の200万人の集団が次の観音信仰の伝導にも関わっているのです。
この神明神社の特長は、「神使」として「鶏」が定められましたが、この経緯から鶏の形に似せた鳥居があるのが特長です。そして、そこには地名として「鳥居」と云う地名が多く起こりました。
この神明神社の主要神社の地には皇族賜姓青木氏や藤原秀郷流青木氏や嵯峨期の詔による皇族青木氏が存在します。これは皇族守護神である為に守護王が支社を移設した事から始まっているのです。
平安時代は伊勢神宮の神明信仰が始まり、後半では熊野神社の熊野信仰へと信仰対象は移って行きました。どちらも同じ時期に建立されているのです。(熊野三山信仰から見るとやや熊野神社の方が早い)
天皇自らが伊勢神宮から熊野神社へと信仰の対象を変えて行く程の経緯が起こりました。
後に鎌倉、室町時代を通じて五穀豊穣を願って多く建立されたものなのです。
神明信仰は「鶏」が「神使」で五穀豊穣の信仰対象、熊野神社は「やたからす」を「神使」とし人の癒しを信仰対象と成っていました。

伊勢青木氏が主となり5家5流青木氏の護る伊勢神宮はこの神明神社の総本社です。
この伊勢神宮は朝廷より「不入不倫の権」が与えられて以後、神明神社はもちろんのこと、観音信仰の仏教寺院も打ち壊した織田信長に侵入されるまで護られました。
その信長の徹底した既成勢力の排除で観音信仰の総本山の比叡山は焼き討ちされ、もう少しで神明信仰の総本山の伊勢神宮も焼き討ちに合うところ、信長はその基点とする処の丸山城の建設を行います。「皇祖神の神明の地」のこれを守る為に伊勢青木氏、伊賀氏、北畠氏の3氏等が信長に挑みます。
伊勢青木氏は「2足の草鞋策」の経済力と伊勢シンジケートを背景に戦います。
そして、次男信雄を差し向けて全力をあげての戦いでしたが、信長の戦跡で只一つの有名な敗戦をします。この後、再び戦が始まりますが本能寺の変で信長は落命します。これで伊勢神宮は助かります。
この後、秀吉に命じられた藤原秀郷一門の蒲生氏郷は伊勢神宮と守護氏の伊勢青木氏を護り保護しました。その後、徳川氏に成って元に戻りました。
家康はこの「農耕の神」として「神明神社」を奨励します。
そして、伊勢神宮を保護し、伊勢松阪を紀州徳川氏の飛び地領とし伊勢青木氏を保護します。
それと同時に、浄土宗の督励令をわざわざ出して保護します。
そのために「神明神社」が各地に建てられ、下記に述べる観音信仰や阿弥陀信仰の著しい発展が起こりました。
平安時代の「熊野信仰」の「蟻の熊野詣」から、再び江戸に入り「神明信仰」の「お伊勢参り」へと移って行ったのです。

次ぎは「観音堂」ですね。
618年頃に後漢が滅びそのときから後漢の人たちは渡来人として帰化人としてきました。その第1陣に渡来した鞍造部の首魁の「司馬達等」(司馬氏の始祖)により私伝導された仏教が広まり、その後漢の配下の者達はその信仰の対象として釈迦観音像を彫りこれを祀りました。
これが始まりです。
その後、この後勘の帰化人を率いて来た後漢光武帝より21代の末帝の献帝の子供の阿智使王とその孫の阿多倍王がこれらの渡来人をまとめ日本66国中関西以西32国を無戦の状態で制圧し配下にしました。
この首魁の阿多倍王は南九州の大隈地方に住み着きました。帰化後朝廷よりこの大隈地方を薩摩国を半割譲して正式に与えられました。
更に朝廷から呼び出されその200万人の集団を率いる阿多倍に対して伊勢の北部伊賀地方をも半割譲して与えられました。
この時、阿多倍王は敏達天皇の孫の芽淳王の末孫の娘を娶り准大臣に任じられました。
そして、3人の子供を生みましたが、長男は阿多倍王が後漢から率いてきた軍を元に朝廷軍を任されて坂上氏を賜姓され、初代の征夷大将軍となり日本全土を制圧させました。
次男は後漢から引き連れてきた事務官僚集団を元に朝廷の財務を任されたのです。そして賜姓を受けて大蔵氏を名乗りました。三男は天皇家の財務を任され内蔵氏の賜姓を受けました。
このころの政治体制は3蔵と云い、朝廷の祭祀一切を執り行う「斎蔵」(藤原氏)と「大蔵」と「内蔵」とで構成されていました。阿多倍子王の子孫は軍と2つの権力を握ったのです。
これ等の200万人とそれに慕う倭人とがこの仏教に信心をしていたのです。
これを祀るところに堂を作りそこに観音様の像を彫って観音信仰が始まったのです。
神明信仰とほぼ同時期に仏教の観音信仰も始まったのです。
関西以西32国以外にも上記する5天領地の開墾も行いますが、この地にも当然に観音信仰は広まります。そして、観音信仰と神明信仰は彼らに依って同時に伝導されたのです。

これが、奈良時代の大化の改新の前の物部氏の神明信仰と蘇我氏の観音信仰とで国の信仰対象をどうするかで争いを起こしました。(聖徳太子の時)
結局、蘇我氏の観音信仰が勝ち、その観音信仰の人々を背景につけて勢力を伸ばしたのが蘇我氏なのですが、その後この事を苦々しく思っていた中大兄皇子は蘇我氏を打ち倒して歴史ある神明信仰を再び呼び起こして、伊勢にその拠点を作りそれを「皇祖神」として定めたのです。
しかし、観音信仰も朝廷は取り入れて神仏融合の策を取り入れて共に発展したのです。
農耕民族の所以ですね。従って、朝廷は「神明信仰」は「皇祖神」としながらも農耕の神として位置付けて融合を図ったのです。
物部氏(高句麗)、蘇我氏(百済)はともに450年代の初期の帰化人で勢力争いをしていました。
(飛鳥時代の大和政権の主要5族 紀氏、巨勢氏、葛城氏、平群氏、物部氏 物部氏は兵の集団)

実は観音信仰の仏教をもたらした阿多倍王に付いてこれがもう一つの毘沙門天の解説に繋がるのです。
この像を最初に彫った後漢の帰化人「司馬達等」の孫の「鞍造部止利」が飛鳥時代の殆どの観音様の像などを彫ったのです。実は伊勢青木氏の賜姓時に天智天皇から与えられた現有する護本尊の「大日如来坐像」はこの鞍造部止利の作です。
恐らくは、朝廷と後漢の帰化人200万人とそれを慕う大和人の何百万という人を心の救いとしてこの観音信仰をも国家安寧の為に推し進めたのではないかと見られます。
それを観音仏像を彫る事の出来る鞍造部の首魁の司馬氏に委ねたと見られます。
多分、「司馬達等」(歴史作家の司馬遼太郎氏の始祖)なる人物はそれを成すその様な大きな人物であったのでしょう。
そして、後に遂にこの阿多倍王の末裔9代目に観音信仰の神として神格化されるほどの大人物が生まれるのです。

観音信仰の観音菩薩を祭祀する礼堂として、奈良時代から平安時代にかけて六堂伽藍方式として中央本堂に安置される仏像です。この本堂を護る神として毘沙門天などを祀る四天王の堂があるのです。
六堂伽藍方式には飛鳥寺方式、四天王寺方式、法隆寺方式、東大寺方式があります。
観音堂を祀る本堂と左右に金堂、中央に観音様の骨を安置する舎利塔が配置され、後ろには毘沙門天などを祭り配置する方式で、中には四天王全てではなく毘沙門天だけを祭る堂が配置される形式もあります。

次は毘沙門天です。
「毘沙門天」は「多聞天」ともいいますが、四天王の一つで、後には「増長天」、「持国天」、「高目天」があります。東大寺や興福寺にはこの四天王が祭られています。
毘沙門天、つまり、多聞天は吉祥天の夫とされています。
多聞天は財宝、福徳の神でもあります。七福神の中の一人でもあります。

伽藍最前線には南大門を配置し「仁王様」が守護神として祭祀されて祭られます。方式により中門があります。中央塔の左右には東西の金堂が配置されます。そして、南大門より最も後ろの北側の中央に位置する講堂が配置されます。
「六堂伽藍方式」です。

菩薩様、如来様、天神様を左からの順序で格がつけられてこれを「3神格」と云います。
そこで、上記したこの四天王の仏像のモデルになった人物が居るのです。
それは、阿多倍王の次男の末裔の9代目の「大蔵種材」と云う人物です。
この者は朝廷の官僚として働き、九州全土の治世を任されます。朝廷より始めて「錦の御旗」を与えられた人物で以来正式にこの御旗を与えられた人物はいません。個人に与えられたのです。
阿多倍王が征圧した九州全土の政治軍事の一切を任された人物です。「遠の朝廷」と呼ばれていました。
官僚でありながら、日本一の武勇を持ち、平安時代当時、中国、朝鮮半島から九州に武力を使っての侵略、略奪やボートピープルが頻発しましたが全てを完全に制圧した実績を持っています。
日本の彼等が成した豊かさの為に津波の様に押し寄せたのですが、彼と朝廷は治安の維持のために最早帰化を許さなかったのです。
又経済でも、阿多倍らが引き連れてきた200万人に及ぶ技能集団をよく統率し、その技能を九州全土や関西以西の中国地方にも拡げて経済は著しく良くした事でも有名な政治家の人物です。
現在の第1次産業の殆どはこの後漢の技能集団の帰化人の末裔で発展したのです。
ですから九州には瀬戸物や製鉄などの一時産業が多いのです。
経済も含めて貧困から大富をもたらした万能人で、当時は平安の「万能の神」とも崇められた人物です。
この神格化して当てたのが毘沙門天なのです。
実際の毘沙門天等の姿のモデルにも成っているのです。

この彼は平安の日本一豪傑でありその代名詞に成っている大蔵氏の末裔です。後にこの人物は余りに資質剛健であったので神を護る者として神格化されたのです。
毘沙門天はこの「大蔵種材」の勇士姿を後に崇めたのです。
恐らくは、妻の吉祥天は大蔵種材の妻をその功を証し崇めたのではないかと思われます。
その為に、鎌倉時代から室町時代にかけてこの毘沙門天を「侍の鏡」として崇められ、「毘沙門天信仰」が武門の間で起こったのです。
仏教は飛鳥奈良時代からの観音菩薩の「観音信仰」から始まり、平安時代からは浄土宗の阿弥陀如来信仰が起こり、鎌倉時代からは毘沙門天信仰(四天王信仰)が時代の状況に合わせて起こります。

そこで、この後漢の渡来人の帰化人の阿多倍王は伊勢伊賀地方に領国を与えられ定住していましたが、阿多倍(後に高尊王と呼ばれていた 朝廷の記録では平望王と呼ばれていた)の孫娘の「高野新笠」が光仁天皇と結婚しその子供が桓武天皇となりました。
桓武天皇の子供に平城天皇と弟の嵯峨天皇があります。
この光仁天皇は施基皇子の子供で長子の皇子で、第5位までの皇位継承者がなく第6位皇子の施基皇子の末裔が天皇を継承しました。伊勢青木氏は光仁天皇、桓武天皇、嵯峨天皇まで血縁族と成ります。

そこで、この阿多倍王の2代目後の末裔の貞盛が独立国を作るとして反乱した「平の将門乱」を藤原秀郷とともに鎮圧しました。藤原秀郷は藤原秀郷流青木氏の始祖です。
平貞盛より5代後が太政大臣平清盛です。清盛は敏達天皇の末裔にして桓武天皇の末裔でもあります。
当然、阿多倍王の子孫とも成ります
桓武平氏と呼ばれ、桓武天皇より青木氏の賜姓を中止し、皇族7世族の「ひら族」の坂東八平氏に似せて「たいら族」として母方の一族を賜姓したのです。その末裔が平の清盛です。
大蔵氏や内蔵氏や坂上氏や内蔵氏やそこから出た阿倍氏は血縁族です。
その祖先の毘沙門天のモデルとなったのもこの一族です。

余計談ですが、伊賀忍者は阿多倍一族のこの末裔です。
伊勢青木氏は天正の乱の時にこの伊賀人が信長から攻められた時に奈良時代からの付き合いのある彼等を救い信長と戦い勝利します。信長の只一つの敗戦です。歌舞伎にも成っています。

伊勢には松阪の神明信仰と、隣の伊賀地方には観音信仰が共存し、伊勢青木氏には神明信仰と古代密教の観音信仰(平安期には青木氏は阿弥陀如来の浄土信仰)が共存していた事になります。
しかし、奇しくも5家5流の賜姓青木氏はこの同族の桓武天皇と隣の伊賀の観音信仰を推し進めた阿多倍子孫に圧迫されて一時衰退します。
この時期、恐らくは同じ仏教でも司馬達等による後漢伝来の古代仏教の観音信仰と、古代浄土密教の阿弥陀如来信仰が対立したとも考えられます。
現に、平安時代に法然上人の浄土宗密教、弘法大師の真言宗密教、最澄上人の天台宗密教の3密教による激しい宗教論争が起起こっています。
それぞれの立場と考え方と信者層が異なっていた為に、観音菩薩信仰、阿弥陀如来信仰の密教の位置づけについて論争が起こりました。

桓武天皇の子供の嵯峨天皇はこの桓武天皇の賜姓に対して反発して再び第6位皇子を源氏として変名して賜姓源氏として戻したのが嵯峨源氏です。これより花山天皇まで11代続きます。この時青木氏は皇族の者が下族する際に使用する氏名として使用を禁じたのです。この青木氏が皇族青木氏です。

これらの青木氏が自ら神明信仰と古代密教を下に伝導の手段の少ない時代の各地に神明神社と浄土寺を建立し観音信仰等を広げた核とも云えるのです。
観音信仰の下に四天王の天神様のみを信仰する事も広がりました。大阪にある四天王寺はこの対象です。

さて、青木氏に関わる歴史的なこととして記述しましたが、学問的で仏教的な事は書籍やインターネットなどをご利用ください。

ご質問など有りましたらまたお便りください。



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