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:「青木氏の伝統 9」-「古代宗教」


[No.326] Re:「青木氏の伝統 9」-「古代宗教」
投稿者:福管理人 投稿日:2014/12/18(Thu) 08:36:49


>前回の末尾
>
>「古代宗教」と「古代和紙」と「古代仏教」の経緯の下に、「青木氏の四つの氏」は構成されて行ったのである。
>本論の遺された「伝統と遺品」は、この「三つの時代要素」と「四つの氏」に関わっているものなのである。それは「賜姓五役」に関わったものと成って居る。
>この範疇で青木氏を考える必要があるのだ。



「伝統 9」

古代宗教に付いて、もう少し検証して観る。

「毘沙門天の経緯」
そもそも、密教の「毘沙門天像」とは、どう云うものかを検証して観る。
インドより中国を経由して、「武神」又は「守護神」として扱われて奈良時代の日本に入った。
この時に「賜姓青木氏」は、この「毘沙門天」を神格化して祭祀したとある。
この「毘沙門天」は、梵語のその字句の意から”よく聞く者”と理解され、別に「多聞天」とも呼称される。これは上記の「密教の定義」に合致する。
「青木氏」の様に、”「独尊像」”で祭祀する場合は、”「毘沙門天」”である。

「伊勢青木氏」のは、”「独尊像」”であった。

この”「毘沙門天」”は、「仏の住む世界」を支える「須弥山」に住み、「密教」として「十二天の北方」を守護すると云われている。

そこで、日本では、”「四天王」”の一尊として造像安置する場合は、”「多聞天」”と呼称したが、「青木氏」の様には、”「独尊像」”として造像安置する場合は、”「毘沙門天」”と呼ぶのが通例であった。
そして、「青木氏」とは別に、”「毘沙門天」”は”「密教」”でありながら、ところが、この”庶民における「毘沙門信仰」の発祥”もあるのだ。

・「庶民の毘沙門天」
それは、”「平安時代の鞍馬寺」”からであるとされている。
”何故、鞍馬山なのか”である。
それは「鞍馬山」にも「密教の毘沙門天」が祭祀されていたからであった。
ただ「密教的な扱い」とは強いてせずにいた。

その前に、密教「毘沙門天」の時代的な経緯に付いて先ず検証して観ると、この「密教仏像」が、”「密教でない仏像」”とする成り立ちが良く判る。
「密教」の反意は、「顕教」ではあるが、”そうでは無い「信仰体」”と成って居たのである。

・飛鳥時代
「鞍馬寺」は、当時は、北陸若狭と山陰丹波とを京都で結ぶ「交通の要衝」でもあった。
その為に、古くからここには市が栄え、「宗教文化」が育ち、民から自然と、”「鞍馬寺の毘沙門天」”と称される様に成り、慕われるに至った。

・平安初期
この「庶民信仰化」によって、「本来の神格」である

本来の「財福の神」(3)

(3)という面が、他の神格から変化した。

この「他の神格」が庶民信仰の中に加えられた。

「武神」(1)
「守護神」(2)

(3)>(1,2)

以上の現象が庶民の中に起こり、よりも平安期初期には先ず強まったのである。

・平安中期
又、9世紀頃からは、庶民の間では、「正月のお祓い行事」が行われたが、この”「疫病を祓う役」”が決められていた。

”官吏「方相氏」”
以上が専門に「朝廷の役」として司って来た。

しかし、その役目は、その後に「毘沙門天と竜天」が行うと成った事から、次ぎの役目が加わった。

「無病息災の神」(4)

(3)>(1,2)+(4)
という事に成り一面も加わって複雑な神と成って仕舞った。

・平安末期
平安時代末期には、庶民は、”悪を祓い睨みを利かす”として、都合よく考えた。

「戎の本仏」(5)

結局のところが、「市民化」が起こって、次ぎの様に成って仕舞った。


(3)+(4)+(5)>(1)+(2)

・鎌倉期
鎌倉期には、時代を反映して、再び元の「武神」(3)が見直された。
日本では、その後、この(3)の”「毘沙門天」”には、”甲冑をつけた姿”が主流となった。
結局は、この姿は、最終、庶民の「戎神の古い形態」ともなったのである。
この事は鞍馬寺の「民の市場」で祀られたこととも関係があった。

(3)<(1)+(2)+(4)+(5)

・室町期初期
こうして、”「密教の神格」”であったにも関わらず、「庶民信仰」に依って、何時しか(3)「福財神」と、(1)「武神」とに加え、(5)「戎神」と、(7)「生活神」と、甲冑を着した(2)「守護神」しての ”「毘沙門天」”と成ったのである。

「生活の神」(7)

(3)<(1)+(2)+(4)+(5)+(7)

・室町期末期
そして、室町時代末期には日本独自の信仰として発展し「七福神の一尊」に組み込まれた。

(1)+(2)+(3)+(4)+(5)+(7)=「七福神」

・江戸期初期
こおなれば、江戸時代以降には、更に進んで、特に、”「勝負事」”にご利益あるとして崇められた。

”「勝負神」(6)”

の通称羽、”「尚武様」”として祭られた。

(1)+(2)+(3)+(4)+(5)+(6)+(7)=「毘沙門天」の神格

最早、「万能の神格化」してしまったのである。

この頃から、”「毘沙門信仰」”は、本来の「密教」から離れ、独り歩きして各地には「密教外の宗派」も、この「毘沙門像」の造像を施して、信者獲得に走った。

・江戸期中期
その結果、「義経ー弁慶像」と「毘沙門天像」と重ね合わせて身近な者で「信仰対象」を同化させてしまったのである。

「義経-弁慶像」=「毘沙門天像」

何時しか、この「毘沙門天像」も消え、極端な”「判官贔屓」”が起こり、「義経ー弁慶像」を祭祀に使う様に成ったのである。

(1)+(2)+(3)+(4)+(5)+(6)+(7)>「義経-弁慶像」=(「毘沙門天」の神格)

以上が、「毘沙門信仰の経緯」である。

注釈
上記した”「方相氏」”とは、次ぎの事である。

方相氏(ほうそうし)と呼ばれる”鬼を払う役目を負った官吏”がいた。
役職は「大舎人(おおとねり)」と呼ばれた。
この”「方相氏」”の脇に仕える”「振子(しんし)」”と呼ばれる{無役の官吏の20人}で、大内裏の中を掛け声を掛けつつ「厄払い」をしたとの記録がある。
この「方相氏」の「技能役人」は、「節分」の時には、特に「玄衣朱裳の袍(ほう)」を着て、金色の目4つ持った面をつけて、右手に矛、左手に大きな楯を持った形相をした「方相氏」が大内裏を警護して回った。
その時、「公卿衆」は、清涼殿の階から弓矢をもって「方相氏」を援護として弓をひき、「殿上人」は「振鼓(でんでん太鼓)」を振って「厄」を払ったと記録にある。
ところが、歴史的に更に良く調べると、9世紀中頃に入ると、「毘沙門天像」が一般にも出て来て、「鬼を払う役目」を担い、「鬼を追う側の役目」であった「方相氏」が、逆に「鬼の役回り」に成って追われるように慣習が変わってしまったのである。

つまり、これが「宮廷の節分の行事」であった。

つまり、”「古来の宗教の和魂荒魂」”の「荒魂」の「悪神部分」を祭祀に依って取り除けば、”「荒魂」”も逆に”「荒神」”を追い払い、”「守護神」”に成れるとする概念に変わったのである。

これは「神仏習合の結果」であった。
この「神仏習合」は、”「庶民の顕教でも無い信仰体」を作り上げた結果”が招いたものであった。
「密教」でありながら”「密教」”でも無く、且つ”「顕教」”でも無い、”「古来宗教」”でも無い”「庶民信仰体」”が作り上げられたのである。

この結果、この「庶民信仰」が、「朝廷の儀式」の中にまで浸透して行って、「方相氏」が「荒魂の悪神の厄払い」を務めていたのに、今度はこの影響で、”「毘沙門天」”が守護神と成って「悪神」を追い祓う役を担う事になってしまった。
「方相氏」が、その「悪信の役」を務めると云う奇妙な事が起こったのである。

百々の詰まりは、これが、

”「朝廷の節会」”

以上と成った。
融合して再び、次ぎの様に変わった。

”「庶民の節分」”

以上と成った。

つまりは、庶民の元へ戻って来たと云う事である。

これが「神仏習合」で突然に現れた”「密教の毘沙門天」”であり、この「毘沙門天」は、この様な家系で以って「上層階級」と「庶民」の間に瞬く間に広がりを見せたのである。

その「広がりの仕方」が、次ぎの様なものであった。

上層階級には、”「武神、財福の神、守護神」”の「三神」として、
庶民階級には、”「戎神、生活神、勝負神」”の「三神」として

以上の様な奇妙な広がりを見せたのである。

そもそも、”「密教寺の仏格」”であるのに”「神社の神格」”なのである。

「密教寺の仏閣=「神社の神格」

ところが、「青木氏」は、そもそも、”賜姓族の「三つの発祥源」”として、”「密教の武神」”を祭祀する役は主務である事から、この”「毘沙門天」”を奈良期より独自に祭祀して来たものである。

”「密教」の「宇宙仏の大日如来仏」”を祭祀しながら、”「毘沙門天」”だけは、”「密教」”では無い”「神格の毘沙門天」”が出て来て、周囲との間には、「違和感」が生まれたのである。

「青木氏の守護神」である”「祖先神の本尊」”とした。
「賜姓族の役」としての ”「武神」”とした。
「平安期」からは「二足の草鞋策」としての ”「戎神」”とした。
「氏存続」としての”「財福神」”とした

以上の四状況でも祭祀されていた。

「大日如来坐像」と「祖先神ー神明社」の「神仏習合」であった事も加え、「密教の毘沙門天像」は、「本尊」は元より、この「三つの神格」を以って積極的に祭祀されたのである。
上記した様に、「四つの氏」の顔を持つ「青木氏」に取っては、この”「毘沙門天の変遷」”は、考え方に依っては ”「四つの顔」を一つの形に融合させる”のに返って都合が良かったと観られる。

この”「毘沙門天」”も、その意味で”「賜姓五役」”を果たせた所以でもある。

しかし、その「庶民の発祥元」が、「鞍馬山」からであった事から、”「戎神」「生活神」「勝負神」”が付け加えられて行ったのである。
この”「庶民の三格神」”は、「青木氏」に取っては直接的なものでは無かった。
しかし、”「賜姓五役」”を果たす上での”「四つの氏の立場」”を演じるには、直接「庶民との関係」を持つ事からすると、極めて都合が良かったと考えられる。
特に、上記した”「和紙の改革」”では、”無くてはならない要素”であったと位置づけられる。

筆者は、「毘沙門天」を「青木氏」が祭祀している事が、”強く受け入れられる要素”と成ったと評価していて、”なくてはならないものであった”と位置づけている。
「青木氏菩提寺」に安置されていたこの”「毘沙門天」”が、「鞍馬寺」の様に、”「庶民の願い」(「戎神」「生活神」「勝負神」)”を受け止める役割を果たして、より「庶民との接点」を強く持てるものであったと評価している。
単純に、「密教」だから「青木氏」だからとして、この”「毘沙門天」”をただ祭祀していたのでは無い事を物語っている。

それは、上記した様に、次ぎの数式論の中にあったからである。

”「宗教」<=「生活」の環境”

以上にあったからである。

これが、以下の数式論で成り立っていた場合は違っていたであろう。

”「宗教」≠「生活」の環境”

以上であったなら、むしろ逆効果であっただろう。

ところが、江戸時代には、むしろ「庶民の文化」として、「鞍馬山」から発展して、”「武神としての義経の神格化」”と”「弁慶の尚武様見立て」”の現象が起こった。
そして、次第に”「毘沙門天」”から離れて、江戸期には身近な「義経ー弁慶像」に特化して発展した。

丁度、この直前に、青木氏の”「毘沙門天像」”等は、青木氏菩提寺から伊勢松阪の居宅を経由して新宮の別宅に移されている。

「信長の伊勢三乱の攻め」の「戦乱の災禍」を避ける為ではあったとされているが、その原因もあったろう。
むしろ、”「庶民との繋がりの「毘沙門天の役割」”も、低下した事も原因しているとも観ているのである。
長らく「青木氏菩提寺」に祭祀して、、”「宗教」<=「生活」の環境”の「庶民との繋がりの源」として”鞍馬山の様に”安置されていたが、「義経ー弁慶の特化現象」もあって、最早、”「青木氏の毘沙門天」に戻した”と観ている。

その証拠には、「義経ー弁慶の特化」とは別に、青木氏の「毘沙門天」に対する状況は大きく変化しているのである。
それは、実は、庶民の間で、「義経ー弁慶の特化」と共に、”「古来の宗教」から生まれた「和魂荒魂」”の習合信仰体の”「三宝荒神様」”と、庶民が習合した”「地荒神様」”が「毘沙門天」と習合して、”「荒神さん」成る信仰体”が、江戸期に入って見直されたのである。

「道祖神」や「産土神」として庶民の中に”「庶民の護り本尊」”であるかの様に、生活に密着して爆発的に広まった。

これは「義経ー弁慶の特化」が原因していると観ている。

この「特化現象」には「特別な現象」が起こったのである。
「特化現象」が起こる位であるから、それなりにその「特化エネルギー」が必要である。
その「エネルギー源」として「顕教の武士集団」が、「毘沙門天信仰」に食い込んで来たのである。
そして、その「神格偶像」が、何時しか「毘沙門天」ではなく、自分たちの身近な「理想的偶像」を「仏格」に置いたのである。
それが「義経ー弁慶」であった。

結局、「武士の信仰体」として席巻した為に、「密教、顕教」の何れにも属さない「庶民の無派閥な信仰体」のイメージが薄らいだのであろう。
”薄らいだ”と云うよりも、”排除排斥した”と云うのが正しいのではないだろうか。
そもそも、「密教」で在った時は「武家の守護神」であった。
それが、”全て「仏教」は「顕教」とする”とした「家康の宗教令」で、「特定の氏」のものでは無く成った。

「一般武士の守護神」と成った事で、「密教の毘沙門像」は「顕教の毘沙門像」と変化した。

「神格化像」としてはそのままに、より”「義経ー弁慶像」”を身近に”「武士の崇拝偶像」”として引き出して、”新しい現実味のある「崇拝偶像」”を作り出したのである。
”「義経ー弁慶像」”=”「武士の崇拝偶像」”

これに、「別の三神格」で庶民が関わる事に、武士は抵抗した。
封建社会がより強く成った社会でもあって、共有する事に嫌ったのである。
自らの「武士の崇拝偶像」が薄らぎ穢れると考えた。

毘沙門天から発展した「武士の崇拝偶像」の「悪神」を取り除いた「地荒神信仰」を復活させたのである。
「毘沙門天」>「武士の崇拝偶像」(悪神)<「地荒神信仰」
今度こそ、”「庶民の守護神」”として位置づけたのである。

これが江戸初期頃から興った”「毘沙門天の変遷」”であった。

「青木氏」は、この「二つの現象」を横目で見ながら頑なに、”「密教の毘沙門天の信仰」”を続けたのである。


「毘沙門天像の3信仰集団」
そもそも、「毘沙門天像」の信仰集団には次ぎの様なものがあった。

イ 「三大密教宗派」を「信仰する限られた氏族」の「武神ー財福神ー守護神」の信仰集団
ロ 「庶民の信仰対象」の「戎神ー無病息災神ー勝負神」の信仰集団

以上の「二つの毘沙門信仰の流れ」が同時に起こっていたのである。

ハ 特に、ロには、「勝負神」を信仰体として密教外の武士階級の別派の信仰集団

以上のイとロに、ハが加わった。

然し、「現世と彼世の連携概念」と「道標行燈」等の青木氏が継承して来た「密教所作」は、ロとハの集団には流布し伝わらなかった。
筆者の家の「毘沙門天像」は、 「木彫刻」のものであった事が、明治期35年に消失した事が伝えられている。
ところが、「義経ー弁慶像」を身近にした「武士の崇拝偶像」の「節句の人形像」は、上記のロとハの「逆の流布」が起こっていた。
江戸期に成って、武士の「顕教の武神、守護神、財福神」の「崇拝偶像」が、「密教の毘沙門天」を祭祀する青木氏にも、「義経ー弁慶像」の形として伝わっていた事が判っている。
故に、「義経ー弁慶像」が江戸期から居宅側にも存在したのである。

この事は”一体何を意味するのか”「伝統の変遷」として検証して置く必要がある。

「青木氏の崇拝偶像」
「義経ー弁慶像」は、「節句の人形像」と云う扱いよりは、「護り本尊」、即ち、”「神仏合体」の「青木氏の守護神」”として祭祀されていたのである。
実は、伊勢と信濃の「青木氏」には、1180年代前後に、「清和源氏の宗家」の四家から、跡目が入っている。
「伊勢青木氏」には、清和源氏(摂津源氏 頼光系)の「源頼政」の孫(仲綱の子)三男の京綱が跡目に入っている。
この事から、「密教の毘沙門天」だけに拘る事が出来ず、武士が「義経ー弁慶」を「顕教の崇拝偶像」とする以上は、祭祀する以外には収まらなかったと考えられる。
そこで、この事は、「伊勢の氏上様 御師様」としての立場があった事から周知であった。
その為に、「世間の非難」を受ける事になると考えたのではないか観られる。
況して、菩提寺から引き揚げて居宅で「大日如来座像」と「毘沙門天像」を祭祀している。
「賜姓五役」の「武家の発祥源」の立場を持っていれば、「義経」は「河内源氏」だからと「内家の理由」を付けても納得が得られるものでは無かった筈で在る。
従って、「顕教の義経ー弁慶像」も祭祀せざるを得なかったのである。

ただ、問題は”どの様に祭祀するか”であった事に成る。
「護り本尊」は避けられるものでは無い。
しかし、遺された文書には、”「節句の人形像」”と云う表現を採っている。
つまり、「節句の意味」と「人形像の意味」をどの様に理解するかにある。
「密教の毘沙門天像」と全く同じ扱いとする事は出来なかった筈である。
これは、”節句の時に祭祀する慣習”であり、「密教」である限り、”「顕教の人形像」の扱い”として、”それなりに祭祀せよ”との「間接的な言い伝え事項」としたと判断できる。


もう一つは、「戎神ー無病息災神ー勝負神」は、別の顔の「商いの青木氏」に取っても見逃す事の出来ない「神格信仰体」であったからであろう。
この扱いは”一体どのような扱い”であったのであろう。
当然に、[別の顔の商いの青木氏」の中での扱いとなろう。
兎も角も、「賜姓族」での扱いでは無かった筈である。
これは、口伝であるが、「庶民の毘沙門天の三格神」には、1月と4月には、商いの関係者や一族や縁者や家人や小作人や近隣の住人を招いて盛大に、「毘沙門天像」を公開し、「祝いの宴」を開いたとされ、「甘酒」を振る舞い「紅白の餅」を配り、最後には花火を上げたと伝えられている。
(この「花火」は、「紙屋」が「松阪の花火大会」で上げていた。「花火庫」があった。)
「五月の節句の祭祀」にも同様の「祝いの宴」を催したと伝えられていて、近隣では有名であったと事が伝えられている。
松阪は元より玉城町は、町全体が青木氏の関係者の長屋と蔵群であったので、大変な宴で庶民は楽しみにしていたと伝えられている。
これは、堅苦しいものでは無く、現在で云えば、「町内の運動会」の様で、ゲームをし、景品を出しする雰囲気で在ったらしい。


恐らくは、正式には、江戸期前の菩提寺には「独尊像」(「武神」他の弁天像等の伴像は無かった)として安置され祭祀していた。
「毘沙門天像」は「青木氏のお仏像様」と対の「脇侍扱い」であった。

そうすると、室町期の「菩提寺」では、未だ正式に「毘沙門天像」が祭祀されていたので、江戸期の「居宅」では、「義経ー弁慶像」の人形が置かれていて、「節会」に取りだされていて祭祀に利用されていた事に成る。
この「義経ー弁慶像」の人形の初代は、江戸初期頃の家物であったのであろう。
江戸期には「居宅」には「お仏像様」が遺されていて、現在、「毘沙門天像」が遺されていないのは、元々何れも安置場所が、室町期末期の戦禍の時には、「菩提寺」に安置されていたからである。
その時に、「お仏像様」と共に運び出して「、居宅」に移して以後、新宮に移して再び戦禍が収まると居宅で祭祀したとされている。
従って、この江戸期前後頃から、「武士の崇拝偶像」としての「義経ー弁慶像」の初代があって、「菩提寺の毘沙門天像」も居宅に移した事から同時に祭祀されていた事に成る。
ただ、「祭祀の仕方」に同じでは無く差違はあった事が判る。

注釈
(「青木氏菩提寺」は、室町期末期と明治35年の2度の戦禍の大火を受けて消失している。
現在の菩提寺は3度目の建立と成る。
この「毘沙門天像」は「明治期の消失」によるが、「お仏像様」だけは消失を免れた。
「伊勢青木氏」に取っては、「大日如来座像のお仏像様」と「毘沙門天像」は、「絶対的な信仰の対象」であった。
何故、「毘沙門天像」だけが消失したのかは、疑問であるが、これには、祖父と父の口伝によると、一度、外の道路に家人が運び出したが、家長の長兵衛が、”自分の家の物だけが助かるのは忍びない”として、家の中に戻したとと伝えられている。
「お仏像様」は別の所に運び置かれていて消失は免れたと伝えられている。
この明治期に共に消失した「毘沙門天像」と「義経ー弁慶像」(初代)に代わって、用いた「義経ー弁慶像」(二代目)の造像物と成るが、「毘沙門天像」の様に祭祀されていなく、「端午の節会」にのみ飾ったとされている。
現在もこの二代目は保有している。)

上記の「伝統3」(青木氏の分布と子孫力-12)に論じた作法は、この時に「菩提寺」で行っていた祭祀方法を「居宅」でそっくり踏襲したものである。
ただ、口伝によると、「灯明」は「菩提寺」から家に運び入れて、代々「道標行燈」に点けていた事が伝えられている。
中でも、「五月の節会」と「盆と彼岸と正月の節会」には、「菩提寺」から「導師」が来訪して祭祀していたと伝えられている。
この正式には、平成10年10月15日まで続いた。
その後、筆者がこの祭祀を引き継いでいた。
つまり、その「祭祀の名残」(下記)が現在に何とかその「最低限の作法」で遺されているのである。
忘れ去られる前にこの様にして文書にして遺している。
「茶釜の作法」は、「囲炉裏」をしまい込んでいる為に、諸道具は遺されているが、「実際の擬音」を出すまでには至っておらず、形式的な諸道具の仏前に供えるだけに終わっている。

それまでは、次ぎの通りの祭祀である。
青木氏の役の「武神」、
賜姓族の「守護神」、
青木氏の「財福神」

以上の「三神格」として、「伊勢青木氏」が祭る儀式に「毘沙門天像」が用いられていたのである。

そして、この祭祀には、「現世の者」、「彼世の者」が一堂に集い、その道標としての「道標行燈」が用いられたものである。

この”「道標行燈」”が、象徴的な形で遺された”「古代密教的な仏教作法」”なのである。
恐らくは、鞍馬山を拠点として「毘沙門天」が平安期から江戸期までも民にも神格化されて慕われ続いた。

一方、この密教の”「道標行燈」の風習”には次ぎの事があった。

(流布-1)
”「青木氏」が「古代密教浄土宗」であった事”
”「毘沙門天」そのものが「古代密教の信仰体」であった事”

以上の事から、青木氏外には一般的には用いられていないと考えられる。 

(流布-2)
「嵯峨期の詔勅」に伴う「禁令」にて、その「青木氏の一連の習慣」が、明治初期まで禁じられ護られていた事から、「毘沙門天の神格化」が、平安期から徐々に庶民化しても、この「青木氏の道標行燈の習慣」は伝わらなかったと観られる。
それは、「毘沙門天」の「6つの神格化」の内、3つは本来の「青木氏の神格化」であり、残りの3つの神格化は庶民のものであった事から、前者の「道標行燈の習慣」は移動しなかったと考えられる。

(流布-3)
それと、室町期末期には、遂には毘沙門天も「七福神の一尊」に加えられた事もあり、更には、江戸期には、庶民の発想の鞍馬山と、一般武士から「義経ー弁慶像」に特化した事が原因しているのではないかと考えられる。
故に、「義経ー弁慶像の神格化」も原因して、一般には、「毘沙門天」に依る祭祀の「現世の者、彼世の者」の一堂に会する”とする「考え方」(密教概念)は生まれず、且つ、その「道標行燈の作法」も生まれなかったのである。

(流布-4)
「青木氏の祭祀」には、”「現世の者、彼世の者」の一堂に会する”とする「考え方の概念」は、「節句、盆、暮、彼岸等の祭祀」以外には表現する事が無かった事が、一般にも広がる概念とは成らなかったのであろう。
(むしろ、逆に青木氏の方に流布が起こって融合したと観る方が正しい。)
仮に流布して広まったとしても、一般にこの「密教の所作」は同化する事は出来なかったと考えられる。

(流布-0)
それは、矢張り、何をともあれ、根本的には”「密教の考え方」「密教の習慣」”が大きく左右したのである。
そもそも、「密教仏像」である事が根本的な流布に至らなかった原因であろう
江戸期に興った「顕教仏像」であれば、「考え方の概念」と「毘沙門天の神格化」は違った形を見せたであろう。


そこで、次ぎにこの「毘沙門天」の「密教仏教性」を論じて観る。
「青木氏の古代仏教の密教性」(浄土宗密教までの間)がどの様なものであったのかを検証する。

参考
そもそも「密教の毘沙門天像の姿」には、次ぎの「四つの条件」が伴う。

第一に、「三昧耶形」(「密教仏教」を表すが道具)
第二に、「宝棒」(仏敵を打ち据える護法の棍棒)
第三に、「宝塔」(珍宝を納めて置く仏舎 魔除塔)
第四に、「密教氏」独自の表現(悪神を祓う仏具)

これ以外に、はっきりした規定はなく、様々な表現があるとされている。

これは、「毘沙門天像」は「密教仏像」であったことから、「3大密教の考え方」が色濃く出たものである。

3大密教の考え方

A 浄土宗密教は「大日如来仏」の「雄弁の仏」 極めて密教性が強い概念ー密教の母体
B 天台宗密教は「毘盧舎那仏」の「無言の仏」 殆どは顕教性が強い概念ー顕教の母体
C 真言宗密教は「大乗仏教」の「教義」    「波羅蜜の顕教」と「真言の密教」の合体

注釈
(「平安期の密教論争」では、BとCは、そもそも「顕教の宇宙仏の毘盧舎那仏」を基本にして釈迦の法華経を仲介に「密教の教義」を作り上げている。
しかし、Aは完全な「密教の宇宙仏の大日如来仏」を基本にしていて、”密教そのものの教義”を作り上げている。
ここが根本的に異なっている。
従って、BとCは、Aの「古代仏教」を根幹とする浄土宗を「密教」と認めない論調を採る。
「古代仏教」を背負うAはその概念やその慣習の中に顕教性が全くない。
当に「伝統ー達親」で論じた内容がその典型的な概念の見本である。

BとCは、「顕教性の概念と習慣」の上に「密教性」を採ると云うものである。 
平安期に起こった「密教論争」は当にこの点の論争であった。
真言宗の外来性の強い「大乗仏教」に対比して「小乗仏教」もある。)

「密教の毘沙門天」を、このAとBとCの「密教の概念」で観た場合は、当然に大きく異なる。
我々、「青木氏」は、「密教の宇宙仏の大日如来仏」を祭祀して、この「Aの密教の毘沙門天」の考え方を採っている。

日本では、「毘沙門天像」は、一般に「革製の甲冑」を身に着けた唐代の「武将風の姿」で表されている事が多い。
(九州自治を納めた「大蔵種材」をモデルにした影響が形に成っている。)
また、「荒魂」の「悪神」(浄土密教では「邪鬼」と呼ばれる「鬼形の像」の上に乗る)を足で抑え込む形を採る事が多い。

この辺は、”何にするかはどうするか”は、第四の「密教氏の裁量の範囲」である。

「青木氏密教」では、「最良の範囲」として「大蛙の彫刻物」が添えられている。
これは、「大蛙」は「神の使い」であるとの「古来の伝説」に従ったものである。

又、第一の「三昧耶形」でも「密教氏の裁量」が表現される。
この様な「裁量の範囲」の内容を具に観れば、それによって、その「密教氏」が、”どの様な考え方や概念を持っていたか”が判るのである。

上記で論じて来た「青木氏の密教の概念」、況や、”この様に生きたい”とする「青木氏の生き様」が、この「毘沙門天像の第一から第四」までの事を租借すれば理解できる。
否、”この様に「青木氏」は在りたい、生き続けたい”とする考えを表す「仏具」を添えて、それに願いを込め念じて祭祀していた事に成る。
「毘沙門天」とは、その様な「氏の願い」を聞き入れ叶え護る「神格仏」である。

第一の「三昧耶形」の「複数の仏具」を観れば、「累代の先祖」が、”その時代にどの様なその思いを込めて願って祭祀していたか”が良く判るのである。
この「仏具」には、一度に「三昧耶形としての仏具」としたのではなく、”青木氏に起こったある事柄”を、その都度に表現したと観られ、”時代性のある事”を感じられる。

因みに、「青木氏密教」には、”どの様な仏具があるか”例を挙げて観る。
(写真転付が一枚に限られているので、何時か改めてまとめて投稿する。)

これらは「仏具飾棚」があってそこに祭祀展示している。
「武神」には、「刀掛」
「守護神」には、「馬杯」
「財福神」には、「宝塔」(玉)
「戎神」には、「薬籠」
「無病息災神」には、「六瓢箪」
「勝負神」には、「軍配」

何れも古代の先祖が使った「伝来の実物」である。

この内容を観る事に依って、青木氏が ”どの様な「密教概念」を持っていたか”が判るのである。

参考
「鎧兜」は「青木氏の戒律」の「禁手」で祭祀し飾る事は敢えてしていない。
以上の「六神格の内容」を観ても判るが、「賜姓五役」「密教青木氏」を護る上で、「戦い」を前提とする「解決方法」を好しとせず、下記の「象徴言」にて解決する事を「氏の戒律」としていた。
依って、「鎧兜」は「戦いの象徴」であるによって祭祀や飾る事は禁止していた。
上記の「六仏具」の「密教の三昧耶形」は、その立場から判断すれば、それなりに意味を以て納得出来る。
例えば、「刀掛」には刀はない。伝来の刀は10振りあった。刀は鎧兜と類を同じくする。
しかし、「武家の発祥源」、「侍の発祥源」ではある。
「刀掛」と「刀」は一対、しかし、「戦い」は「賜姓族」としては法度とする。
つまり「武」とは「刀掛」であると諭している。
「刀」を「殺傷の刀」に頼って常に振り回しているのは「武家としての立場」では無いとしたのであろう。
大事なのはその基と成るものが大事な事であると諭しているのである。
刀は「武士」であってもそれは「武家」では無いとする諭しである。
「武家」は「刀」だけで解決するものでは無く、”「知略」を以って事を成すべきだ”と諭しているのである。
「刀」は「刀掛」なくしては治め処が無くは成り立たない。
「刀の解決」も「知略」の上に成り立つ”としているのである。
”「武士」”である事の前に”「武家」”である事を”肝に銘じよ”としているのである。
この事は「家訓10訓」に色濃く出ている。
後の「三昧耶形」も、事ほど左様に、物語っている。


注釈
(筆者は、「子孫存続」を危ぶまれる程の、可成り”波乱万丈の生き様であった”と観ている。
その「密教の生き様の戒め」には、”世に晒す事無かれ、何れ一利無し” 然すれども ”世に憚る事無かれ、何れ一利無し”に込められていると理解している。
これは、現代に於いても云える事であると考える。
これが当に「密教青木氏の伝統」の「象徴言」であろう。
後世に遺したい「伝統の戒言」である。)

それは、「密教氏青木氏」としては、「賜姓五役の遂行」と「子孫存続」であったと理解している。
それが「毘沙門天」の「三神格の武神、守護神、財福神」であって、別の顔の「商いの氏」としては、「戎神、無病息災神、勝負神の三神格」であった事に成る。
「毘沙門天」にこの願いを込めたのであろう事が判る。

「毘沙門天像」には、この様な「酌量の余地」を残しているのは、「密教性を自由に表現できる余地」を残している事に成る。
これは、「毘沙門天像」が「和魂荒魂の古代宗教」との「習合性」を持たす事に依って「仏教の浸透力」を高めようとした所以であろう。
(現実に「三宝荒神像」と同化した。)



「伝統10」に続く
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:「青木氏の伝統 8」-「大和絵と絵所領職と朝廷絵師の経緯」


[No.325] Re:「青木氏の伝統 8」-「大和絵と絵所領職と朝廷絵師の経緯」
投稿者:福管理人 投稿日:2014/11/17(Mon) 10:47:49


>前回の末尾

>「賜姓族青木氏」には、残す手立ては、一族の青木氏の神職(500社)と住職(15寺)に指示する事に成った筈であり、可成り、「仏画構築」に急いでいたと考えられる。
>この能力を以てすれば十分に対応できたと考えられる。しかし、ここで問題が生まれた。
>それは、元々、「神職 住職」は「書」への高い技量を持っていた。
>しかし、「絵画への技量」は無い。
>そこで、「賜姓族の青木氏」は、その「絵画の技量の基礎」を会得しなければならない。
>「仏画」と成れば、「中国画」が主体を占めていたが、「青木氏の密教仏画」を表現すると成れば、古来からあった”「大和絵」”から”「青木氏の密教仏画」”を新たに創造する必要性に迫られた事に成る。


伝統8


「大和絵と絵所領職と朝廷絵師の経緯」
この事に付いて次ぎの様な事があった。
ここで、先に以下の事を事前に知っておく必要がある。
そこで、奈良期の朝廷の「絵所領職」(絵等を管理する役目)を務めていた「巨勢氏」が、その役目からこの「大和絵」の伝統を「傍職」として細々と個人的に継承していた。
「賜姓族の青木氏」は、この「絵所領職」の「巨勢氏」に援助して、「大和絵の絵を描いていた者」を招いて、「青木氏の神職住職」の優れた才のある者に師事させたのである。
そもそも、この「巨勢氏」(こせ)は、「大和朝廷」の元の飛鳥時代の「大和政権」を構成する「五大豪族」の一つであった。
「ヤマト政権」から「大和朝廷」に成長したことから、「蘇我氏」が勢力を拡大させ、「物部氏」と共に「前政権の豪族」は衰退し、蘇我氏に依って掃討された。
この衰退した「巨勢氏の末裔」が、「大和朝廷の絵所領職」を務めていた。
この衰退した「巨勢氏」(紀州北部東域に勢力圏)を「賜姓族の青木氏」(施基皇子から白壁王の光仁天皇まで)は支援して「朝廷絵師」と云う形にして引き揚げた。
そして、「絵所領職」と「朝廷絵師」としての「役付け」を朝廷内に構築し、「大和絵」を「国の絵技法」として確立させるように支援した。
遂に、その努力は実り、父の意向を鑑み「光仁天皇」は、「絵所領職」の中に、正式に「朝廷絵師」として「朝廷の支持」を取り付けたのである。
これで、結局、「大和絵」と云う技法は確立し遺されるに至ったのである。
この「大和絵を興した巨勢氏」の初代は上記した様に「巨勢公望」であった。

この様な「青木氏の神職住職」の技量獲得の背景から、この「大和絵」は、「賜姓族青木氏」の「仏画」の中に引き継がれて行って、「大和絵の裾野」を広めたのである。
それは、その「大和絵」から発展した「神仏習合」の「神格像」や「密教仏画」であるのであるから、尚更、「三つの発祥源」で「密教青木氏」の「氏寺社」と成れば文句の附け様が無かった筈である。
其処の神社や寺で、その”「宗教画」のお祓い”を受けての事と成れば仏画の依頼側は尚更に充分であった筈である。
つまり、頼むとしても”他に頼めないところまでの環境に至っていた”と観られる。
これで「青木氏の福家」としては、目的通りの「賜姓族」、況や、「国策氏」の「役目」を果たしている事に成る。
特段で云えば、その状況は、恐らくは”描くに描いた”と云う表現であった筈である。
彼らに取っても、「宗教概念」を心を込めて描くことで、”「本尊」”として扱われるには全く異論は無かった筈で、この上ない幸せであったであろう。
当に、”役目の冥利に尽きる”であったと考えられる。
むしろ「本道」を忘れる程に積極的に取り組んだと思われる。
一部の資料に、その様な手紙の表現が遺っているが、むしろ、この文面から考察するに、むしろ”「本道」=「仏画」”と考えていたと思われる。

(上記の事柄は、守護神や菩提寺に遺されているあらゆる資料からのもので、この推論で調査した結果の判断である。)

「賜姓青木氏と賜姓源氏の仏画の違い」
ここで「賜姓族青木氏」の上記する「仏画の現象」であったが、かっと云って、特記するべき点は、「賜姓源氏」にはこの現象は起こっていないのである。
この現象が起こっていた奈良期末期の後は、丁度、この時、「嵯峨期の詔勅」に依って、「青木氏の賜姓」は「賜姓源氏」と変名と成って、「青木氏」は皇族出身者が下族する際に名乗る「氏名」と成った。
この「賜姓源氏」の初代の「嵯峨源氏」の「源の融」が、”天上を表す平等院と持仏堂”を作り、それを小型にしたものを室内の祭祀殿として「持仏堂型仏壇」を作り採用した。
従って、時代が異なっている為に、「賜姓源氏」は、「賜姓青木氏」が継承していた「和魂荒魂」が持つ「宗教概念」と「密教性」は持っていない。
つまり、同じ「賜姓族の青木氏」と「賜姓族の源氏」は、根本的に「その立場」と「その氏の概念」に大きな”「氏差」”があったのである。
その証拠として、上記した事の様に、「嵯峨天皇」は、源氏には、「賜姓五役」としての「密教所作」等は元より付加しなかった為に「賜姓源氏」には全くない事に成る。
(むしろ詔勅の文面を考察すると、”「賜姓五役の役」”を否定している。)
つまり、上記で論じた下記の数式論は、全く成立していない事に成る。
この事、つまり,”「密教仏画」”と云う点では、「賜姓族青木氏」と「賜姓族源氏」との比較に於いて、最も、”歴史論”としては重要な点である。
依って、「賜姓源氏」には、上記する”「密教仏画」”と云う概念が無く、その代わり彼らには「八幡大菩薩」の「書」と「菩薩像」に限定していた。
つまり、”「賜姓青木氏の如来」”に対して、”「賜姓源氏の菩薩」”と云う仕訳に成るだろう。
それは次ぎの数式論でもあきらかである。
この数式論が「賜姓源氏」には成り立たなかったからである。

青木氏の「守護神の密教数式論」
A 「和魂の和神」=「大日如来坐像」+「大蛙の仏神の使い」
B 「荒魂の荒神」=「毘沙門天像」+「三宝荒神」
C 「仏教の守護神」+「神道の守護神」=「青木氏の守護神」


「釈迦立像」
そこで、先ず、この「二つの仏画」の前に、上記の事を理解を深める為に「釈迦立像」に付いて論じる。
上記した様に、”「仏舎の本尊」”として使われていたこの「青木氏の釈迦立像」が、何かの上に載っていたのではないかと観られる。
「仏教伝来」の早いこの時期の歴史的に遺されている「仏像」の大抵は、朽ち無い様にする為の「環境設備」が無かった為に、多くは「楠の巨木」が使われている。
(楠にはナフタールと云う成分が含んでいて「除虫」や「酸化」から来る「風化」を防げる木質を持っている。)
「大日如来坐像」の「お仏像様」の右横間に安置していた「本尊の像」としてもマッチングしていて納得出来る。

「仏舎」の中央に安置していたこの「釈迦立像」には「台座」があって、その「台座」が乗っている「台」が上記した”「天武期の詔勅」”で定められていた事は上記の詔勅文でも判る。
つまり、「仏舎」の床に、この「釈迦立像」とその「台座」と共に直に置いていた事では無い事が判る。
そうするとその内容から想像できるのは、床の上に、”宗教的な理念の基”に、それを形採った広い台の様なものがあった事に成る。
先ずは、その”理念とは、何なのか”の研究が必要である。
つまり、「仏教と仏像の関係」である。
その結果、「仏像」を作る際には、次の理念が生かされねばならない事が判る。
つまり、「仏像」とは、そもそも「天上に上った釈迦やその弟子たちの”神格化した偶像”」である。
その為には、この”「天上」”を表す表現が必要であって、その「天上表現」の一つには「雲海の表現」がある。
更には、「大蓮の花の上」、或は、「平等院の様な社殿景観」等が用いられる事が判る。
従って、上記した様に、”何かの様な形をした台座”に金糸絹布が被せられて据えられていた「釈迦立像」であった事が論じた。
この”「台座」”は仏教的意味を持ったものである事だけは、仏壇の他の物の形から、「仏具」である事が判る。
家の中に相当大きなものとして、保管されている筈であったが、何時も生活の中で接して居乍ら筆者はこの事に付いて暫く判らなかった。
ところが、ある時、”特異なテーブル”の代わりに敷布を掛けて使われていたものを調べると、実はこのものがこの”「台座」”そのものであることに気が付いたのである。
筆者から観れば、無造作に置かれているこの台が、「歴史の知識」が未だ未熟で在った事からそんな物であるとは考えも付かなかった。
(父親はそんな環境の中で育っていた事からこの台座そのものである事に左程の意識は無かった様であったが、後で確認するとお仏像様のものである事は知って居た事は知っていた。)
それは、ほぼ畳一条程度の大きさで、厚みが15Cm程度で、中はそっくりくり抜かれていて、中は彫刻されている。
結果として、厚みは4Cm程度で、「台縁」は雲の様に波打って形採られている。
その彫刻は、明らかに「蓮の葉と花」を形採ったもので、明らかに「宗教性の要件」に嵌る。
その彫刻のある側の裏側は、前面に平に削られて仕上げられている。
材質は「一枚板の黒檀」である。相当な価値を持つものである。
見るからに古く、何かの宗教的な三昧仏具である事は気が付けば理解できる。
普通の家では、先ず無いし、この様な使い方はしていないのではないかと思うものである。
余りに無造作過ぎる位であって、何でこの「台座」が「お仏像様」に使われていなかったのかは、父親の言い分で判った。
明治35年に伊勢松阪大火で消失した際に、このお仏像様を何とか助け出したが、この際に、”この「台座の影響」で災いが一部にあった”との事で、その後には使われなかったらしい。
(この災いは何であるかを論じるのは別にする。)
しかし、先ずこれだけの大きさの「黒檀の樹」は先ずは無い。大変珍しい代物である。
これだけの「黒檀」そのものが「歴史的遺産」であろう。奈良期の青木氏の位置関係が良く判る代物である。
また、その「黒檀」のみならず、「彫刻の粋」も歴史的な遺産であろう。
彫刻面の真ん中は「蓮の一枚葉」で葉の部分は40Cm角で平らで立体的に彫刻されているものである。
何かの宗教的な意味を込めて彫刻され、蓮は宗教的な花で仏教的な何かをここに載せる様に彫刻されたものと観られる。
その中央の「蓮の葉」の両側には又やや小さめの「蓮の葉」の平な部分がある。
左右対称に彫刻されていてその前後左右の周囲は「蓮の花」で形採られている。
この彫刻のある窪んだ部分は表に成るのであろう。
その台そのものの縁が、「蓮の葉」の立体性を持たすように細かく彫刻されている。
わざわざ、この様な彫刻を施す事は、”テーブル”には明らかに不適切である。
何かの目的で彫刻したと思われる台座である。
(実はこの台座と全く同じ形をした1/4程度の「黒檀の台座」が見つかった。「副台座」であろう。)
これが、本台は「内仏舎」の床部に置く台で、ここに上記した「釈迦立像」とその「台座」を本尊として中央部に安置した事は間違いはないと考えられる。
更に、問題は、お仏像様の大きさから中央に安置したとして大きすぎるが、この両方のスペースは何なのかと成る。
何か置いていた事に成る。
そこで、調べると次ぎの様に成る。

実は奈良期と平安期の「釈迦三尊像」には次ぎの様な仏説の決まりがあった。

奈良時代の仏舎形式には、右に「薬王菩薩」と左に「薬上菩薩」
平安時代の仏壇形式には、右に「文殊菩薩」と左に「普賢菩薩」

以上の「菩薩像」の配置が一般的と成り、当然に中央に「釈迦如来立像」と成る。
ところが中央の「釈迦立像」は、上記した様に筆者の家には存在するが、「脇侍」の何れも全く見当たらないが、松阪大火で消失したのかも知れない。
処で、この「釈迦三尊像の決まり」には、”「自由性」”が認められていて、その証拠に「他の宗派」では次ぎの様に成る。

「梵天」と「帝釈天」、
「金剛手菩薩」と「蓮華手菩薩」

などの例がある。

この「宗派の概念」に依って、”「脇侍」”は、その概念に沿った像にする事には問題が無い事が判る。
むしろ、”その概念の仏説の表現する手段”として認められた「決まり」である事が判った。
要するに、「密教」である事なのだ。つまり、”その氏の考える様に決められる事”であった。
「青木氏の古代密教仏教」の概念に従った「脇侍像」を安置する事が「正しい決まり」である事に成る。
つまり、その左右に安置する「脇侍の仏像」は、奈良時代であるので、一般的には「薬王菩薩」と「薬上菩薩」とは成るが、”仏像”そのものより、それを物語るものが祭祀されている事が重要である。
依って、”その何かが遺されていないか”を調べる結果となった。
結果は、”全く何も無い”となった。つまり、当然に無い筈であった。
そもそも、”「薬王菩薩」「薬上菩薩」”は、一般的仏教の”「後期の概念」”である。
この事を前提としているから見つからないのかも知れない。

「伊勢青木氏」には、そもそも、この「密教」とは別に、「和魂荒魂の古来宗教」と「古代仏教の神仏習合の概念」の中に成り立っている。
つまり、「大日如来坐像信仰」と「毘沙門天像信仰」と「三宝荒神信仰」の”「習合概念」”の中にあった。
”上記の配置の「一般概念」と、「青木氏の密教の宗教概念」とには大きな相違があったのではないか”と云う発想が生まれた。

・ 「青木氏の神仏習合概念」
「大日如来坐像信仰」
「毘沙門天像信仰」
「三宝荒神信仰」

「釈迦三尊像」と云えば、上記に論じた配置に成る。
しかし、「時代と宗派」の要素で、この「配置」が変化して、その「概念の表現」で違っている事は判っている。
とすれば、「梵天と帝釈天」の様に、「三仏格」の「如来像」、「菩薩像」に限らず、「王像」も、概念の表現では問題ない事に成る。
「賜姓族の青木氏」は、”「毘沙門天像信仰」と「三宝荒神信仰」の「習合概念」の中にあった。”のであるから、そこで、この「神仏習合概念の表現」を採っても問題は無い筈である。
むしろ、筆者は、この方が、「賜姓青木氏」には適切ではないかと考える。
何せ、「古代仏教」、「初期の詔勅に依る仏舎」、「初期の青木氏密教」としてみれば、「仏教の安定期の慣習概念」では、むしろ、「時代性と初期概念」の点から逆に矛盾が出る事に成る。

そこで、そうなると、「内仏舎の配置」として、中央には「釈迦立像」が、右に「毘沙門天像」、左に「三宝荒神像」を配置していた事に成る。
(本来の「大日如来坐像」は「青木氏の菩提寺」にあった。)
何れも”「密教」”の”「守護神」”であって、「青木氏」にふさわしい「脇侍像」と成る。
本来は「大日如来坐像」を中央にあって、右に「毘沙門天像」、左に「三宝荒神像」の脇侍であった筈で、一時「釈迦立像」と成っていたのは、「大日如来坐像」の賜物の「お仏像様]と一族一門の象徴とする為に「青木氏の菩提寺」に安置祭祀していた為である。

(この「釈迦立像」は、上記した主台座に対して二つ目の「副台座」の上に安置していたと考えられる。
「釈迦立像の存在」と「副台座の存在」はこれで解ける。)

しかし、「薬王菩薩」「薬上菩薩」の「脇侍像」となると、「顕教の定義」による「宇宙仏の盧舎那仏」から「釈迦」を仲介する構図と成り、「密教の教義」に矛盾する。
「青木氏の密教」のみならず「密教」そのものは、「宇宙仏の大日如来仏」から「直接の構図」を採るものであって、「釈迦」を仲介しない。
この「薬王菩薩」「薬上菩薩」の「脇侍像」は「釈迦の弟子」であり、「顕教」による構図である。

「三宝荒神像」は南北の位置に対で配置していた”北側の荒神像”と云う事に成る。
この”「北側の荒神像」”は、「主神像」と云われていたもので、30Cm程度の大きさで「毘沙門天像」によく似ている。
何れも「造像の構え」の「容像」と「三昧耶形」もが違うが、「密教像」である。

左に「三宝荒神像」を配置していた。
右に「毘沙門天像」を配置していた。
中央に「釈迦立像」を配置していた(顕教の定義 矛盾)
と考えれば納得出来る。

(但し、「密教の定義」では、本来は保有する「大日如来座像」でなければならない。)

”南側の荒神像”は「小さい像」で、「仏舎」の時は、本来は、北側に配置していたものである。、
”明治期の松坂の火事”で、長い間の”「密教の仏舎」”は止めて、”「顕教の持仏堂型仏壇」”に替えた。
しかし、何とか”「密教形式」の「浄土宗仏壇」”とする為に、”中央に「釈迦立像」”を配置する事に変えた。
この時、「毘沙門天像」たけは消失し、結局は、その後、「三宝荒神像」(家の南北側隅に)は別々に祭祀した。
以上の「祭祀の構え」と成っていたと考えられる。

室町期末期から菩提寺より引き揚げた「大日如来座像」は、松坂大火までは居宅の「仏間の右側」に、「仏舎」は「仏間の右側」に安置したと考えられる。
本来は、「大日如来座像」は「密教の決まり」からすると、「仏舎」の中央に安置されていた筈の像であった事に成る。
それが、明治35年の大火消失までは、「顕教の決まり」と成る「釈迦立像」が、「密教の決まり」に反して、「仏舎の本尊」として中央に安置されていた事に成る。

(「大日如来座像」は室町期末期まで「青木氏菩提寺」に安置祭祀されていた。)

そこで、この「密教の決まり」の矛盾は、”何故起こったのか”である。
「大日如来座像」と「毘沙門天像」は、「天智天皇から賜物」(647年)であることから、大化期の当初は、居宅の「仏間」(647年)に安置し、その後、「天武期の詔勅」(684年)に従って「仏舎」」(684年)に安置し、少し後の「菩提寺建立」(716年頃)の時に「密教菩提寺の本尊と脇侍像」として治めた。
その後の「室町期の末期の混乱期:伊勢攻め」(1567年)まで、約850年間程度を菩提寺に祭祀し続けた事に成る。
この後、「二つの密教像」は、一時的に和歌山の新宮に退避、 11年後の1588年に松阪の居宅に戻る。(家人は1年間退避)

参考
(秀吉の命で「蒲生氏郷」は1588年には、飯高郡矢川庄四五百森に松坂城を築城。松阪の武士には本領安堵をし、商人を強制的に移住させて、城を中心に屋敷町と商業町の城下町を作り上げた。)

要するに、次ぎの様に成る。
・ 室町期末期以前は、居宅の「仏舎」は、顕教の「釈迦立像」を中央に配置し、「三宝荒神像」の一対を左右に配置していた事に成る。
その「顕教の矛盾」を消すために「二つの仏画」を掲げたものと成る。

・ 室町期末期以降は、居宅の仏間の右の「仏舎」には次ぎの形で治められていた。
(「信長の伊勢攻め三乱」を避ける為に、一時新宮に避難し、その後の「本領安堵」に依って「密教菩提寺の本尊と脇侍像」が居宅に帰って来た。)
「左の仏舎」には、「大日如来座像」と「毘沙門天像」と「大蛙像」の「密教像」
「右の仏舎」には、「釈迦立像」と一対の「三宝荒神像」と「二つの仏画」の「顕教像」
以上に見立てて配置していた事に成る。
(この状態を室町期末期から明治35年まで維持保全した。)

これで、発見された「黒檀の副台座」の上に、中央に遺された「釈迦如来立像」を、左右に「三宝荒神像」、仏間の左には、「主台座」には「大日如来座像」と「毘沙門天像」、その「毘沙門天像」と台座の上に、「大蛙像」を配置して居た事に成る。
これが明治35年まで、「仏間」の「青木氏の内仏舎」の中に治められていた事に成る。

そして、明治35年以降から大正4年までは、「持仏堂型仏壇」を「浄土宗仏壇」にして、中央に「釈迦立像」を本尊として備えた形であった事に成る。
合わせて「二つの密教仏画」を「副本尊」として掲げた形であった。

(現在は「大日如来座像」は特定の保管所で祭祀している。又、「釈迦立像」と「三宝荒神像」とその他の「三昧耶形の仏具一切」は当家に保管されている。)

ところで、何故、ばらばらにされていたのか、疑問ではあった。
ここで”「伝統」”と云うものを理解する上で、後世に対して敢えてこの事を記録して置く。

松阪大火(失火元)後、それなりに復興を成し遂げたにも関わらず元に戻していない。
これは云うまでもなく”「明治35年の松阪の大火」”とその「消失事件」による後遺症と思われる。
(「持仏堂型仏壇」:「浄土宗仏壇」は、明治35年以後に据えられた。)
つまり、どういう事かと云えば、伝統の”「遺品」”に対して、この”消失した事”の汚名を後世に遺さない為に、”古くなった事”を理由にして通すつもりであった。
しかし、「像の消失遺品」を捨てる事に忍びない為に、「三昧耶形の密教仏具」として敢えて飾る事を考えたのであろう。
況して、この時、「密教の態」を成していない「顕教の仏壇」でもあった事から、”尚更に解体した”と観られる。
最早、「密教」は、既に江戸初期には「家康の督励」で終わり、大正末期までの320年過ぎた時代になっても、「毘沙門天像の密教」に意識し、未だ「三昧耶形の密教仏具」等の「密教の伝統継承」に拘っていたかが良く判る。

(密教に”拘っている事”は、当時としては、”特異な身分”の中にあった事から、簡単に”「拘り=伝統」の関係”から、その習慣から抜け出す事は出来ない事は理解できる。
伝統とはその様なものと理解する。)

”「顕教の仏壇」”と、「伝統」で遺された”「釈迦立像」”には、青木氏は、又”違った伝統意識”を持っていた事に成る。
それが、つまり、「迎え行燈の密教作法」の様な「伝統行事」に成って遺されて来たものと考えられる。
「顕教の作法」の中には、この「迎え行燈の密教作法」は正式には無い。
既に、「顕教仏壇」に切り替わって居ながらも「仏教作法」は、矢張り”、「密教作法」”の侭であったのである。
これには「青木氏1367年間の歴史」を物語る”「大日如来座像」が現存する”と云う事が、「伝統」の意識の中に大きく左右していたのであろう。
それだけに「密教の伝統」の強い意識の中での消失であった。
この「精神的な後遺症」が遺品関係をばらばらにして、何とか一部の「密教の伝統」を抑え込んでいたのである。
「顕教」で行くのか、「密教」で行くのかの”狭間”に立たされていたのであろう。
先ず考えられる事は氏家制度の中で、一般の「本家ー分家の仕来り」を採らない「青木氏の仕来り」(福家方式)から、一族四家一門からの異論もあってこの様な結果と成ったのではないか。
代々維持して来た「密教の仏舎形式」の中で、江戸初期の「浄土宗顕教令」も在って、取り分け”徳川氏との付き合い”もあって、この様に成ったのであろう。

念の為に、”「伝統」”に大きく関わって来る事として、その”「付き合い」”とは、「伊勢青木氏の菩提寺」は、「紀州徳川氏の菩提寺」に成り、「寺跡」も「寺名」も同じくして「紀州徳川氏」に依って維持されて継承された。
そこに「青木氏の菩提」も合祀している関係からも「顕教」への切り替えは、立場上は少なくとも「必要条件」であった筈である。
この”「付き合い」”は、記録によると、1600年頃の関ヶ原の決戦準備で名古屋城で家康が秀忠を待つ傍ら、周囲の豪族に「調略」を進めていた事からの「付き合い」であり、大正14年まで親交があった。
故に、「青木氏の伝統」を護らねばならない事から、多くの「密教作法」だけは、密かに継承されて来ているのである。

注釈
とまあ、この柵の中で、兎も角も”余り目立たない様にした”のであろう。
結果としては、「古来の遺品」が遺っている事であるので先ずは良かった事に成るが、当に”「伝統」の維持”とは、その当時の当事者に成ってみなければその継承の意識は判りにくいものである。
この様に本論で論じてはいるが、現在から観れば、”「青木氏の伝統」”を理解するのもなかなか難しいものと成ろう。
この様な背景があって「青木氏の伝統」には、「伝統の継承」<「伝統への無理解」=時代の変化」の関係式が働いて、何時しか消える宿命にある。
故に、”「史実」”と云う事に必要以上に拘らず、先ずは、”未来の青木氏のロマン”として、筆者は判る範囲の末端の事まで必死に書き遺している。
幕末から徐々に起こり始め、一時、明治維新期の直ぐ後の5年から15年頃には、「地租改正」や「廃仏毀釈」などの「社会の反動」で、”家が「密教」”である事に気兼ねする時期が続いた。
「身分への庶民の反動の表れ」として”「密教」”がそれを指し示す事に成っていた。
この頃、「地主」から小作人への「土地の下渡令」が起こり、地主と小作人との「摩擦騒動」が各地で起こったし、「廃仏」で仏教の最たる信者としての「青木氏」の様な「密教の家」は肩身が狭かった。
(青木氏は各地では名主や庄屋や豪農や郷氏と成っていた為に極めて地主が多かった。この為に「密教」である事も含めて、「土地の下渡令」では厳しい対応が様られた。)
この様に、”社会に毛嫌われた時期”が続き、昭和の初期頃まで庶民の中に渦巻いていた時期があった。
この事に依って「青木氏」の一部には、それまで維持して来た「密教の伝統」を敢えて「顕教」に変えた家が多かったのである。
下手をすると、”打ちこわし”などもあったとされる事件もあって、”社会からいじられてはみ出される ”事より、苦しみながらも”「伝統」を捨てる事”を選んだのである。
しかし、この時、明治6年から9年まで続いた「地租改正]の「農民一揆」が起こった。
中でも「青木氏」の多い「伊勢」、「愛知」、「岐阜」、「茨木]、「栃木」では、一揆は特段に大きく、且つ、多い地域であった。
これには、”特別な意味”が在った。
「青木氏」が陰でこの「農民一揆」を経済的に援護をしていた事は記録からも判っており、上記の環境から考えると”不思議な事”である。
そもそも、”「一揆」に類するもの”とは言え、長期に続けてその「主張」を聞かせるには、単なるただの「主張」だけでは長くは続かず、殆ど潰されて失敗に終わる。
しかし、この一揆の”経済的裏付け”と「主張」を実現させる交渉力、つまり、政治力が必要である。
がなり立てるだけでは主張は成立しない。

この長期に続き全国的に広がった「維新期の一揆」は、この背景が陰にあった。
この「背景」が、「青木氏」であった。特に関西域が大きく、更に「青木氏の存在地域」に起こり、且つ、長く続いた事が判っている。
「豪商としての二足の草鞋の商い」と、「郷氏としての政治力」の二つが備わって居た事がこの傾向を生んだと思われる。
他の氏が背景に成っても、この「二つの条件」が両方に備わっている事は先ずは無い。多くは政治力に偏る。
何故、この様な態度に全国の「青木氏」は出たのであろう。
「青木氏」には、他の氏と全く異なり、「密教の伝統」を維持している限り、上記する「伝統への危険性」と「氏の社会的存立の危険性」はあった筈である。
ところが、他の氏は、配下に「武家の家臣団]だけを持っていたに過ぎない。
しかし、「青木氏」には「家臣団」より、むしろ、多く「民の職能集団」を配下に持っていた。
その「職能集団の裾野」は、「和紙」に依る「殖産産業」を支えていた「農民」を含めて、「庶民の末端」までの配下で支えられていた。
その例として挙げると、「青木氏の守護神ー神明社の論文」で論じたが、「伊勢青木氏」の場合は、伊勢松坂は元より隣の玉城村の全域(現在の玉城市)が、青木氏の「殖産農民」と「職能集団」の配下と、その裾野の庶民の居住地として提供され、且つ、その「蔵群]であった事が当時を生きた祖父からの口伝と記録で判っている。
つまり、この事から、切っても切れない環境下で、且つ、「一蓮托生の柵関係」の中にあった。
この関係は、今、始まったものでは無い。ゆうまでも無く「悠久の歴史」の中にあった。他氏とはこの点でも異なる点である。
この”「配下組織」”は、この関係から大なり小なり、祭祀などで”「密教の伝統」”の影響を強く受けていた筈である。
この事から、恐らくは、「伝統の密教」で反動されながらも、庶民や農民とは「対立関係」に持ち込まず、「共存関係」に持ち込んで、”地主としての存立”を謀ったと観られる。
当然にも「配下組織」の態勢も「対立関係」に持ち込みたくは無かった筈である。
むしろ、青木氏関連者に執っては、「悠久の歴史を持つ共存関係」を続けて図る事以外に、「庶民」を主役で中心とする「維新の社会」に成ったとは云え、「他の選択肢」は無かった筈である。
(ここで論じている事は、「他氏」には全く観られない環境で、日本全国広しと云えども、「青木氏」のみの「独特の環境」にあり、特筆すべき事なのである。)
一部には、「土地の下渡令」に対する「政府への反動」と、「大地主」としての「米の税率」(3%石高から通貨換算)に対する反対もあった事は頷けるが、”経済的な援護まではするか”は疑問である。
それは解決後の ”維新政府からの軋轢のリスク”の方が遥かに大きい事から観れば、矢張り、「共存関係」を重視したとも思える。
(既に、維新改革で江戸期前の「不入不倫の権」は解消されている事から軋轢は当然の事としてあった。)
特に、「伊勢の一揆」は「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の援護で、全国のこの「地租一揆」では、最大の規模で政治性を帯びていた事であった。
結局、長く続いた激しい一揆は、「維新政府」は妥協して3%から2.5%に下げて妥協して概ね解決した。
この様に 青木氏が裏で”政府と交渉力”を持っていた事から、全国各地の「青木氏の背後の勢力」の政治力、交渉力が働いた事に成る。
この事で、農民等の信任をより厚くしての結果と成った。
この意味で、農民や庶民が動いた「廃仏毀釈」の「密教のリスク」は、この為に遥かに軽減したと観られる。
それほどに、「密教への反動」は極めて大きかった事が判る。
下手をすると、「青木氏」と配下との関係を打ち壊して新たな「庶民の関係」を存立させる動きさえあった事が記録されている。
”農民庶民の打ちこわしの憂き目”を受けていた事が充分に予想できた。
「全国の青木氏」の中に、大なり小なり「明治維新期の下剋上の現象」が起こる可能性を大きく秘めていたのである。
「全国の青木氏」はこの事を特に内心で意識していた。
この「密教リスク」は、この事から”氏存続の生死”を分けたものであった事が遺された一族の手紙(配下の動向)などの表現からも、又資料からでも判る。

そもそも”「伝統」”を維持して行く為には、生易しい事では無いが、この「密教リスクの現象」を事前に危険視していた事が判る。
それ故に、上記した「青木氏」の中では、”諸々の諸条件のリスク”から逃れる為に、上記した様に氏内で「密教仏像」などの”「伝統」”に対する「やり繰り」が起こっていたのである。
場合に依っては、これらの”仏像などの伝統品”も打ち壊される危険性を極めて帯びていた事に成る。
誰にも止められない”事の流れ”に依っては、打ち壊されれば、「密教」と連動していた「悠久の歴史」を持つ「青木氏の慣習や仕来りや掟」は霧消する。
これは、結局は、「青木氏の象徴」=「伝統」を失った事に依り、”豪商としての経済的能力”を維持していても、何時しか”「青木氏の氏存続の生死」”にも関わって来る問題であると捉えられていたのである。
「生きて行く上での精神の根幹」=「伝統」と捉えられていたのである。
一千年後に招いた「氏の危機」であった。
”上記の環境”の中でも、それ故に、「像の形」は消えたが、その「伝来の像遺品」の「三昧耶形の仏具」は何とか遺された事に成る。
この環境下にあった曾祖父と祖父は兎も角も、これらの事を父は充分に承知していたと観ていて、充分に対応して護り通したのであるが、親であった事から敢えて未来に口を閉ざしていたと観ている。
筆者は、”長い歴史の中では、消失する事も充分にあり得る”と考えいて、解明した今では、その柵も無く成っている事から、筆者はこの時の史実を明かした事に成る。
そもそも、それが目的で親に頼まれて、大化期の同族の「近江佐々木氏」の様に、「青木氏の由来」などを纏め上げたのである。
(全く同じ環境を持っていた「近江佐々木氏」も、”「伝統」”を紐解く歴史の解明に同じ事をしている。)

兎も角も、現在では「密教仏具」は「三昧耶形」と成っているが、元は「密教所作 (九度作法・節会所作)」の一つとして、「毘沙門天像と三宝荒神」を祭祀する「密教の作法事」のものであった。
本来であれば、「三つの発祥源」「賜姓五役」の立場にあって、その「伝統」を頑なに護って来た。
しかし、室町期から江戸期には「鎧兜具足」等を飾って”何がしかの作法”を興したと普通は考えられる。
又、「武家と侍の発祥源」であれば尚そう成る。
しかし、この「青木氏」は、この「鎧兜具足」等を用いての「武」を誇張する事は敢えて避けていた。
そもそも、「賜姓五役」を護り通すには、「戦い」を旨とする考え方を採っていず、”「和魂」の中で、「荒魂」を「三宝」で鎮めて護る”と云う考え方を採っていた。
しかし、上記した様に、古来からあった事に所以する。
その為の「神仏格偶像」として、更に、その鎮める道具と成る「三宝の有り様」を、「古代浄土宗」に求め、これを「青木氏の密教」にして、「毘沙門天像」に求めた所以でもある。
つまり、上記する経緯が古来よりあった事が、「鎧兜具足」が持つ”武しい感覚概念”には明らかに元より組していなかった事に成る。
故に、この”先祖と会する場”の「密教概念」が、”武しい感覚概念”を抑え込んだのであろう。
”武しい感覚概念”側からすれば、”先祖と会する場”の概念は ”女々しい”と云う事になり、矛盾する概念とも成り得る。
その意味で、「三昧耶形」を敢えて「青木氏の密教所作」としている事には、上記の様に、大きな意味を持っているのだ。
全青木氏には、「三つの発祥源」でありながらも、「武しい感覚概念」は、先祖代々持ち得ていないのである。
これは、頑なにも”「密教の伝統」の所以”である。
先代まで持ち得ていた確実な「青木氏の概念」と云える。
これが、明治維新の難問にも適合したのである。
当に”世に晒す事無かれ 何れに一利無しである。
”その精神は「青木家家訓10訓」に遺されている。
「青木氏の立ち位置の概念」そのものが違っていたのである。


では、”「伝統」”とは、そもそも何なのか、どの様な要素に依って成り立つのか、考えて観た。
それは、結論から云えば、次ぎの数式の関係で成り立っていた。

「伝統」=「概念力」+「経済力」+「社会力」+「子孫力」+「象徴力」

以上5つの要素を持ち合わせている必要がある。
何れ、一つを掛けるとその「伝統」は弱まり、次第に「伝統」は、何らかの問題を起こし霧消して行く。
この「欠ける要素」が多ければ多い程に、その「伝統」の「霧消速度」は速まる。
その上記した「要素の内容」に依っては、起こる霧消して行く問題の「質」は異なる。
全てが無く成れば、「伝統」は即座に消え去る。

逆に、この要素が成り立ち次第に、「伝統」は逆に創出されて行く。

そこで、「青木氏の伝統の基盤」がどの様にして出来上がったのかをその経緯を先ず検証する。
この「5つの要素」が出来上がって行く過程を歴史を知る上で理解して置くことが重要である。
それ無くして”「伝統」”を理解し知る上で何の意味をも持たない。
そこで、全青木氏に取っては、次ぎの事からこの「伝統」が始まった。
それは、次ぎの「賜姓五役」である。

「賜姓五役」
さて、そこで、「青木氏」に関わっている”「密教」”が、この「賜姓五役」を護るために、周囲から観れば「特殊な概念」をもたらしたと云う事は判る。
果たしてどのようなものであるのかをもう少し検証してみる必要がある。
”「密教性」を以て合法としているもの”には次の様なものがある。
青木氏外に次ぎの教派に依って長く引き継がれている。

「密教合法」(7つの合法体)
1「毘沙門天信仰」
2「三宝荒神信仰」
3「古代密教仏教」
4「三大密教」
5「神仏習合体」
6「大乗仏教」
7「修験道」
以上、「7つが合法体」である。

この為に、この様な「密教の作法」の事に成っているのである。
以上の「7つの合法体」は、夫々信仰体としての概念が異なっている。

さて、ここで改めて、そもそも”密教とは何なのか”を要約して記述して置くと次ぎの様に成る。

「密教六義」
定義1 「密教」とは、宇宙には「宇宙仏」があって支配されている。
定義2 この「宇宙仏」には唯一「大日如来仏」が存在する。
定義3 この「大日如来仏」は直接、人に向かって説法をして導く。「雄弁の仏」と呼ばれる。
定義4 しかし人には「煩悩」があって、この「煩悩」を取り除かないと「説法」を聞き取れない。
定義5 「煩悩」を取り除けば取り除くほどに「説法」は聞き取れて悟れて導かれて幸せに成る。
定義6 依って、”なかなか聞こえる事の出来ない「秘密の教え」”とされる。

これを「密教六義」と呼ばれるものである。

(参考 「如」とは宇宙の真理の事、その宇宙から”来た”宇宙仏の事を「如と来」で「如来」と云う。)
(三大仏格 如来、菩薩、王)
この「密教六義」に対して相対の位置にある「顕教」は次ぎの様に成る。

「顕教」
「宇宙仏」には「毘盧舎那仏」が存在する。
「毘盧舎那仏」は人に直接語りかけない。「沈黙の仏」と呼ばれる。
「御釈迦様」がこの仲介をして言葉にして何人にも説法する。
「釈迦の言葉」は「書物」に換えられる
「煩悩有無」には無関係の教えと成る。

つまり、”「盧舎那仏の宇宙仏からの意志」”の伝達者である”「お釈迦様」を介して”の全ての事が成り立つ概念である。

釈迦を介さない法然の「密教浄土宗」に対して、弟子の親鸞は「顕教浄土宗」を唱えた。
その概念の大きく異なる教義は、上記で論じた「現世の人」は、「肉体と魂」とを持ち合わた人とし、「彼世の人」は、「魂だけの人」と定義づける。
つまり、単なる肉体が無い変化に過ぎないとした。
依って、”現世と彼世の行来”では、”先祖と会する場”として、「仏」を擬人化していた教義と成る。
しかし、「親鸞の顕教」は、「現世と彼世の往来」のこの”「先祖との会する場」”の概念は認めるも、そっくり其の侭の「擬人化」の概念だけは採らなかった。
「密教浄土宗」と「顕教浄土真宗」との概念の大きな違いは、それは、「浄土真宗」の”「釈」”に有る。
そもそも、”「釈」”の「字句の語源」は、”薄める、弱める、副する、解かす、属するの意”を持っていて、”元の物より、やや若干「異]にしていながら、依然としてその「体」を成し、その「体」は変異するが、「同類」であるとする語源である。
従って、「親鸞の顕教の浄土真宗」は、現世で「先祖と会する場」も、その「会」は、「副する人との会する場」と教義した。
判り易く言えば、「人の定義」に、現世と彼世の間に、「釈」と云う概念を加える事に依って、”ほんの少し違うのだ”としたのである。
この為に、「顕教の浄土真宗」の戒名には”「釈」”が着けられるのである。
しかし、「顕教」で在りながらも、当初は「釈迦の概念」を持ち込まなかった。どちらかと云えば、釈の概念を加え入れた「浄土宗の密教系」に属していた。
「普通の顕教」は、”「盧舎那仏」の意を介する[釈迦」”を定義としているが、古代の「顕教浄土真宗」は、必ずしも「釈迦」を定義としてはいなかった。
ところが、結局、浄土真宗の内部での「教義の考え方の差違」で、4派に分離する事で,室町期中頃には、派に依って釈迦を重視する派閥も出て来て、結局は、親鸞死後に、この「釈迦の定義」も異なって来た。
この為に一宗派間での争いが興った。この状態は現在でも続いている。

以上の様に「密教系」は、信じる「氏」に依ってはその教義は異なり判断に柔軟性を持つ。
しかし、”現世で会する”とする以上は、”自らを鍛えなくては悟る事は出来ない。”とし、この”悟り”で「先祖と会する事」が出来る定義付けられた。
時代は、この様に「密教浄土宗」を変化させた。
「悟り」は、より「煩悩」を取り除いて成長すれば、”先祖と会話が出来る”と云う教義に成る。
「仏や先祖」に対する考え方は、その「煩悩の除去」に依って成し得る「心の心経」として、”「先祖と会する場」”はこの教義から定義される。
この「心の心経」の如何で、”先祖と会話が出来る事に成る教義”である。
この事で、「先祖との会話」が可能に成り、「伝統」は護られるとしたのである。
つまり、「伝統」=「先祖との会話」と定義付けた。その為には「先祖と会する場」が必要であるとしたのである。
況や、故に、「青木氏家訓10訓」は、この「古代密教仏教の教義」に従って出来ている事に成る。

「密教合法の3」の「古代密教仏教」は、「青木氏の伝来宗派」である。
「密教合法の5」の「祖先神ー神明社」は、「青木氏の守護神」(「神仏習合」)である。
「密教合法の1」の「毘沙門天信仰」は、「青木氏だけの信仰体」と云っても良いほどである。、
「密教合法の2」の「三宝荒神信仰」も「密教合法の1」と同様に青木氏だけである。
以上と云っても良い「信仰体」である。
最終は、「密教合法の4」の密教浄土宗となった。

以上「7つの合法」の信仰体の内、「5つの信仰体」に「青木氏」は関わっていた事に成る。
上記の「密教合法の6と7」は、この「定義4」と「定義5」を極める事に主眼を置いての合法である。
依って「密教合法の6」の「合法」と「密教合法の7」の「合法」は青木氏には馴染みが無い。

むしろ、”主眼を置く事に馴染む事が、「賜姓5役」としては出来なかった”と云う事に成ろう。

先ず、この様な「氏」は日本には他にない。
間違いなく”密教の世界””特異な世界”で生きて来た事を立証している。
皇族から臣下した初めての法令に基づく役柄を持った「賜姓族」であり、且つ、「国策」を側面から執行推進する「国策氏」であった。
”「完全な密教氏」”と云っても過言では無い。
「古代の概念」を抱えた珍しい「宗教氏」と云える。
然りながら、「二足の草鞋策」を手広く採用する「商い氏」でもある。
これは全て、「賜姓五役」を護ろうとして来た「賜姓氏」であった。

果たして、本来の「国策氏」を含むこの「四つの氏の役柄」を持つ事は成り立つのか疑問が湧く。
「賜姓族」(国策氏含む)
「宗教氏」
「密教氏」
「商い氏」

この「四つの氏」は一度に以てしたものでは無い。
ある経緯の中での苦闘の結果、成し得た「氏の存立」である。
「普通の論理」では成し得ないであろう。
これが”「密教」の所以”であろう。
先ずは、「賜姓族」が「存立の根幹」である。議論の余地はない。
この根幹を補完する為に、第一義に「宗教氏」が存立する。
この「宗教氏」には、上記した様に、「和魂荒魂」の「古代概念」を有している。
これは、むしろ「宗教」と云う「区分け」の中にあるのでは無く、「飛鳥人の考え方」そのものに匹敵するものであったと考えられる。
「現代感覚での言葉の区分け」は危険である。
筆者は、「宗教」=「生活」であって、「生活の考え方」つまり、”「思考原理」は「宗教の概念」に従っていた”と云う事であって、”現代感覚の精神的な悩みの解決”の「思考原理」では無かったと考えている。
「宗教」=「生活」で「完全密着」していたのである。
そして、その「根幹」が単純明快に「和魂」と「荒魂」に区分けされたものであった。
ところが、飛鳥から100年経って、ここに「古代仏教」成る物が突然にもたらされた。
「宗教」=「生活」の「完全密着」がここで少しずつ離れて行った。
本来なら、他国で観られる様に、「宗教」は「分離の最大要素」と成っている。
つまり、”「宗教」≠「生活」の原則”が働く。
ところが、日本では、「和魂荒魂」の「神道の古代概念」に「古代仏教の概念」が食い込んで来た。
「青木氏」は、当初は「和魂荒魂」の「神道の古代概念」を「民の先頭」に立って護ろうとした氏であった。むしろ当初は「賜姓族の役目」であった。
しかし、伝来50年を経過した頃から「古代仏教の概念」が「民の生活」に不思議に静寂にして浸透し始めた。
確かに伝来当初は、「宗教」≠「生活」であった筈なのに、伝来50年後には、再び「宗教」=「生活」の実に「不思議な現象」が起こり始めたのである。
丁度、「賜姓族」に成り、臣下した時期650年頃には、この「不思議な現象」が佳境に入った時期であったのである。
「青木氏」は「賜姓五役の役目柄」の遂行で苦しんでいた。
「和魂荒魂」の「神道の古代概念」が低下して、「概念の混乱」が起こり、「民の生活」は乱れる恐れがあった。
果たして、”過去の「宗教」=「生活」の環境”を守るべきなのか、”現在の、「宗教」=「生活」の環境”を守るべきなのか、悩んだ。

しかし、この「浸透現象の原因」は、「古代仏教の概念」をもたらした「彼らの技能」(後漢の職能部)が、「民の生活の豊かさ」を根底から静寂に無理なく変えた事にあった。
”「宗教」=「生活」の環境”は護られていて、「生活」は”「宗教」<=「生活」の環境”であって、”「神道の古代概念」>=<「仏教の古代概念」の環境”にあるのなら、「青木氏」は抗らう根拠は無く成る。
「青木氏」は、この環境が長く続くかの様子を観た。「宗教」≠「生活」に成らないかを観た。
この「静寂の浸透の環境」は、遂には、次ぎの様な環境を作り上げ始めた。

”「神道の古代概念」の環境>+<「仏教の古代概念」の環境”
”「宗教」=「生活」の環境”

ここで、「青木氏」はこの環境を促進させる策を講じた。「融合安定策」であった。

注釈
(上記で「和魂と荒魂」の関係で、民は”「荒魂」は「悪」を成すもの”として恐れていた。
ところが、”この「荒魂」の「悪神」を鎮めて味方に引き入れる事が出来る”として仏教伝道師は説いた。
それには、”「荒魂」の「悪神」の部分を祭祀する事で、むしろ「守護神」と成り得る”と説いた。
その祭祀では、”「自分の煩悩」を取り除いて祭祀すれば「悪心」=「悪神」は消える”と説いた。
ところがこの説に対して「民」には違和感は無かった。むしろ「荒魂」を積極的に祭祀し始めたのである。
荒れ狂う自然現象やそれによってもたらされる疫病等は、この「悪神の現れ」として”「風神や雷神」”として祭祀したのである。)

これで「賜姓氏」「宗教氏」は成り立った。
後は、「青木氏」の中に「密教氏」を定着させる必要が生まれた。
それが、35年後の「仏舎の詔勅と令」であった。

以下の事を民に政治的にも肯定する姿勢を「青木氏」は率先して示したのである。
上記で論じた様に、「仏舎」を設けて祭祀する事で「荒魂」の「全ての悪神」は消え、「仏舎」を設けて、”先祖と会う場”を設けて会話し、”「煩悩」を取り除く知恵”を授かる事が出来るとして考えたのである。
その為の「仏舎の詔勅と令」を発した。
そして、「荒魂」→「仏教の毘沙門天」=「荒神」の構図を作り上げたのである。

この構図は自然発生的に生まれたものでは無く、「青木氏」が、”融合させる手段”として、朝廷より令を発して置いて、積極的に「構図の概念」を浸透させたと観られる。

この「仏教の古代概念」は、”「宗教」<=「生活」の環境”であった為に、「民の生活」の中に育ったものである。
「自然の融合」が起こる様に仕向けたのである。
しかし、”「宗教」<=「生活」の環境”の「恩恵」を受けていない階層が出来上がった。
この「否恩恵階層」は「支配層」であった。
その「支配層」にも「仏教の古代概念」の環境”の浸透が必要であった。
「賜姓族」としては、大きな課題で難題であった。
この難題を解決しないと、「支配層」である限りは、社会に「二重構造」が起こり、「民の生活」にその圧力は掛かる。
又、他国の様に、”「宗教」≠「生活」の環境”に呼び込んで仕舞う事に成る。
この解決策は、ただ一つ支配層に「恩恵」を与えること以外には無い。
そして、その「恩恵」が、”「宗教」<=「生活」の環境に繋がっている事である。
「賜姓五役」の「青木氏」はそこで考えた。

「紙」をベースとした「改革条件」を作り出す事であった。
その「改革条件」は次ぎの通りであった。

「第一条件」
進む大化期に欠けている物
文化を発展させる物
国を発展させる物
中国から全面輸入を受けている物
仏教に関わる物

以上の全ての条件に関わる物は、”「紙と墨と硯と筆」”であると考えた。
(豪商 「紙問屋の”紙屋”」の所以である。)

「第二条件」
これには、「中国の渡来人」の「職能集団の部」から「技能の享受」が受けられる事。

彼らは、同時に仏教を伝えた「伝道師」でもあった。
「技能の享受」=「仏教の伝道」の関係にあった。
「自然神」をベースとする「古代宗教の和魂荒魂」の「神道の社会の中に、「仏教」を浸透させるには「技能の享受」≠「仏教の伝道」の関係はあり得なかった。
それだけの「仏教浸透力」は神道社会の中に未だ無かった。
そこで、「技能の享受」を受ける事で生活は潤い、それは「仏のご利益」として説き、「仏教伝道」の根幹と置いて、古代宗教の和魂荒魂の固い扉を開かせたのである。

つまり、”「宗教」<=「生活」の環境”の中で、この関係の協調が図られば、「紙の改革」の実行に支障が生まれない。
そして、庶民は、自らその部組織の中に飛び込んだのである。

「紙」は「紙作部」
「墨」は「墨作部」
「硯」は「硯作部」
「筆」は「筆作部」 

以上の「技能集団」からその「技能の伝授」を容易に受けられる事であった。

(「紙」は上記で論じたし研究室の論文にも論じている。)

兎も角も、歴史的には、紙の生産は、”後漢から「職能集団」に依って、朝鮮半島を経由して610年頃に僧侶に依って伝えられた”と「日本書紀」に記されている。
ところが、この100年前の頃には既に国内でも試行されていた事が判っている。(使用には至らなかった。)
特に「日本書紀」には、その事に付いて詳しく記録されていて要約すると、次ぎの様に書かれている。

注釈(日本書紀)
高句麗から来た僧侶の後漢の「曇徴」は、「紙漉き」と「墨」を上手に作る事が出来た。
僧侶でありながら、そう云う「万能な特技」を持った渡来人がやって来た。
又、「横型の水車」の「動力」を使った特殊な「石臼」も造れて、それを民の前で作って見せた。
この「石臼の製造」は大和の国で初めて観るものであった。
特記する程に最新の技術を観たとされている位に民は驚いた。
”自動”である事や、”「生産」”する事や ”「機械」”と云う物を観た”「天地驚愕」の境地”であった。
「自動概念」、「生産概念」、「機械概念」の無かった社会の中に持ち込んだ。
特に、この、「横型の水車」の「動力」を使った特殊な「石臼」は、「紙の漉」に「f飛躍的発展」を遂げた。
特に「石臼」とその「原理]は、全ての技能に飛躍的に貢献した。
以上と記されている。


しかし、30年間も経過した時点の大化期でも、「殖産」は愚か「紙の生産」としての形は未だ無かった。
歴史的に観ても、「聖徳太子」が福井で試行を試みた記録があるが、大化期に成っても殖産は愚かその「仕様」に耐えられるものは依然として出来ていなかった事に成る。
其処に、”後漢で生産された紙が輸入されていた”ところに、後漢からその技能集団が続々と渡来したのである。
その中に、更には、この輸入の「良質な紙」の「生産技術」と「技能」をもそっくり持ち得ていた「高能力の僧侶」が既に渡来していたのである。
そこで、「時代革命」を起こしたとされる「水力に依る石臼」は、”紙の繊維を粉にする高い生産技術”までも持ち込んだのである。
画期的な技術導入である。

「産業革命」では無く、時代を変えて仕舞う「時代革命」であった。

それをこの僧侶は、”自ら作って”、それを”使って見せる”まで考えられない事までも伝えた。
全ての民は、この”僧侶”に完全に心服してしまった。
こおなれば、最早、”僧侶”では無く、「生き仏」とまで崇拝された。

”「技能=紙=僧侶=仏教」の関係”
”「技能の享受」=「仏教の伝道」の関係”
”「宗教」<=「生活」の環境”

以上の「三つの関係」は揺るぎないものと成って行った。

「青木氏の始祖」の「施基皇子」は、この「時代革命」を起こし始めた「技術と技能の伝来」は、未来の「産業」と云う形を起こす事が出来ると考えた。
彼は、”進まなかった紙の使用”を憂慮していたが躍り上がって喜んだ。
これで、「生産」のみならず「殖産」まで成し遂げられるとして生き込んだ。
そこで、648年頃に、「紙の環境条件の樹立」(上記三つの関係)が整った事を天皇に上申した。
先ず、そこで「朝廷の内部」に「紙の改革」を推し進める”「紙屋院」”を創設した。
合わせて官僚の「伴造」を付けて正式な「朝廷の部民」(紙品部)も創設もした。
これとは別に「青木氏」も「殖産」までを睨んで、独自にこの「技能者の養成」に取り掛かって「紙作部の青木部」を作り上げた。
朝廷は、「青木部」が殖産に入った時点で、”朝廷内部の需要を先ず賄う体制”を試行的に創設した。
その一つとして朝廷は、”「図書院」”を創設して、40人程度で「紙の生産」に入ったのである。
(朝廷内部の需要を満たす範囲で試行生産に入った。)
ところが、一方、「青木氏」に取っては、上申して朝廷はこれを実行したがここで問題が起こった。
”「賜姓族」が「商い」は「絶対法度」である。”要するに禁じ手である。
この事から、「朝廷」の動き共に、「青木氏」にも ”「紙屋」”の呼称で、「商い戦略」を進める部門を「青木部」の「氏」の中に密かに作り上げた。
ところが、当時は、未だ社会は「木簡」が中心であって、30年程度経っても「紙への慣習」へ動か無かったのはこの「木簡の原因」であった。

この30年間、「青木氏」は、「青木部」と共に、上記の「革命新技術」を使って、「紙材」と成る「植物の選定」と、その「植物に適合した製造法」の研究を進めていた。
上記の通り、「5家5流の賜姓地」での近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐で、夫々「特徴ある紙質」(楮)を作りだした。
「伊勢和紙(伊賀和紙)」を中心にその技術と技能を「近江和紙」に広げ、次ぎに「美濃和紙」、引き続いて「信濃和紙」、最後に「甲斐和紙」と広げて行った。


そこで、「朝廷」は「丹波国」にその拠点を移した。所謂、紙材が異なる「山城和紙・丹波和紙」である。
「 苦参 」を原料にしたものを作り出した。

しかし、ここで、この「古い慣習」を打ち破る事が起こったのである。
それは次ぎの二つの事で在った。

一つは、改新による国策法規の「大宝律令」等である。
二つは、仏教の伝道布教による「教典の写経」等である。

それは、先ず一つの代表的なものは「大宝律令」(701年)であった。
更には、それによって遺すべき「日本の歴史」が遺される必要が起こった。
この結果、「古事記」や「日本書紀」等の歴史書偏纂には、大量の「良質な紙の必要性」が生まれて、結局、量産には向かない「木簡の慣習」を徐々に押しのける事件と結果が起こったのである。
そこで、「大宝律令」の結果を指し示す「事務記録」や「歴史」を編纂して遺す役所の”「図書寮(院)」”が創設設置された。
最早、[木簡]では、量と整理方法に問題が生まれ間に合わなくなって来たのである。
当然に、それに必要とする「紙の製造」と「紙の調達」もこの役所が管掌したのである。
朝廷内で必要とする絶対量の「年間の生産量」までを定めて、朝廷の”「丹波の紙屋院」”では、「紙の生産の必要性」を図ったのである。

ここまでに「施基皇子」が上申した時(648年頃)から、既に50年も経過していた。、

「施基皇子」の妹で「天武天皇」の皇后であって、その後、天武天皇崩御後に天皇と成ったごの「持統天皇」から次ぎの特命を命じられた。
全国を天智ー天武天皇の時代に「皇太子」に代って「執政」として飛び廻って得た「知識と経験」(日本書紀に記述)をより政治に反映させる様に ”「善事撰集司」の「政治の大役」(689年)に任じられたのである。
この「日本人」にと、「日本社会」に合った「律令の基」を作る事を命じられたのである。
一応のこの態勢が整うまでに12年経過した。
和紙は、最早、朝廷内部で生産されるものでは既に間に合わなくなっていた。
「青木部」らの「殖産和紙」が活気づいた。
益々、その量と共に、「和紙の品質」が求められた。
朝廷の「丹波の和紙」は、「苦参」で作られ、紙色は茶褐色で、表面はザラ質であった。(正倉院と東大寺)
「紙質と量産」に合う様に改良を求められていた。
その「2つの要求」に応えたのが、「青木部の楮和紙」に依る「伊勢和紙・伊賀和紙の殖産方式」であった。

「紙伝来」(610年)からは91年経過している。
如何にその「古い慣習」を打破するのに大変であった事が伺える。
しかし、これでも「古い慣習の打破開始」である。

更に、「本格的使用開始」までには、次ぎの様な経緯があったのである。

739年頃に律令によって、別に”「写経司」”が設置された。
この「国の写経事業」で「本格的な紙の需要」が喚起された。
その為に、上記の”「図書寮(院)」”では、34人の定員で、歴史を記録する”「写書手」”は20人。「紙漉き」を行う”「造紙手」”は4人の態勢で挑んだ。
更に、”「図書寮」”の要請を下に、山城国に「朝廷」の”「紙屋院」”を別院として置き、その下に”「紙戸」”と呼ばれる「50戸の紙漉き専業者」の「部民」を置いて管理した。
「朝廷」は、「年間の造紙量」を「二万張」と規定し、”「朝廷の紙屋院」”とは別に、「青木氏」の「青木部」等に公に「紙漉権利」を与え、「租税」を免除して「官用の紙」を専門に漉かせた。
この他にも、各地(福井)で民に紙を漉かせ、これを「調」として徴収した。
しかし、”研究の不足”と”殖産との結び付き”が悪い事で、民間は”「苦参」”を使ったものの為に「紙質」が悪かった。

そもそも、「朝廷」では、「施基皇子」の上申で、所謂、準備庁に当たる”「紙屋院」”を650年頃に中央に初めて設置した。
それでも、上記の経緯の様に、739年頃から本格的に朝廷内に体制は整えられた。
しかし、これでも、本格的に「紙」に代った時期は774年頃に切り替わったのである。
何と「紙屋院の上申」から124年も経過している。
これでも未だ殆どは「朝廷内の紙の使用」に留まっていた。

それでも、125年程度から155年もかかった事に成る。原因は”「安価な木簡」”にあった。

参考
「善事撰集司」(689年 施基皇子)とは、現在で云えば、「行政改革庁長官」兼「総理」と云う役処である。
政治、経済、軍事の三権の全てに長じ、その「経験と知識」の豊富な事を意味し、税や政治や軍事の改革に反映させる事を纏めて上申するトップの役処で在った。
そして、それを「政治の策」にして人脈を通じて「政令や律令」に反映して施行する「実務の役目」も持つものであった。
率先して、”その策を民に見せる役目”も負っていた。
これが「皇親政治の立役者」である。

筆者は、「紙伝来の610年」から「本格使用774年」まで164年も掛かったとする事から鑑みると、余りに掛かり過ぎたと観ていている。
恐らくは、朝廷は「上申650年」を受けてから考えると、執政の「施基皇子」と「持統天皇」は、その「紙の改革」が”遅すぎる”と観たと考察している。
その原因には、「需要の問題」が「木簡」を超えない事と、それを率先して作り出す”「政治体制の未熟さ」が在る”と判断したと観ている。
恐らくは、利害に絡む「内部的な抵抗」も在ったのであろう。
この膠着した「政治体制」を動かすには、「行政改革」を断行する事だと考えたと観る。
その証拠に、この「施基皇子」と「持統天皇」の二人は、全権を一か所に掌握させて、「細部の改革」まで手を入れる必要があるとして、「施基皇子」を「執政」とは別に、特命して「善事撰集司」(善撰言集司 689年)に任じて動かそうとしたの事である
この事がそれを証明している。

現実に、上記の様に、この時を契機に「朝廷内部」が動き、且つ、それによって紙の「朝廷需要」が先ず生まれ動き始めた事である。
この紙の需要が証明している。
「施基皇子」の没年は716年で、天武、持統、文部の崩御の葬儀委員長を、当時の皇太子を差し置いても「執政」を務めている人物である。

(「施基皇子」は、「浄大1位の身分:天皇に継身分」を授与された。
本来の「執政の皇太子」とは、身分上でも3階級上の身分差と成っていた。
皇族や官僚などの「周囲の軋轢」を排除して、「政治の執行権」を強くする狙いが、天武天皇と持統天皇にはあった。
それだけに、これは「改革」を強力に推し進める意志の現れであった。本来、皇太子が行うべきところを二人の葬儀委員長を実行している事からも、朝廷では慣例を重んじる中でそれを破っての「執政の異例の立場」は判る。)

「日本最初の法令」と云われる「大宝律令701年」の前には、「近江令」や「飛鳥浄御原令」の”「民事法」”をも作っている。
(これらの法令を日本全土に伝達し、且つ、それを各所で遺しするには、最早、そこに「紙」と云う便利なものが出来て来ているのなら、「木簡」を超えて「紙の需要」が必要と成っていた。)
これらの制定に、「執政」としても、「善事撰集司」(689年 施基皇子)としても、全てに関わった指揮者の人物であった。
全体を指揮するに充分な立場にあった。
この二人は、「善事撰集の事例」をこの「令」などに反映させながら、「法令」を作る事でそれを記する手段として推奨し、「朝廷内の紙の使用の喚起」を促し、「間接的効果」として「需要」を呼び込み、逆に「木簡」の抑え込みを図ったのではないか”と観ている。

(記録から観ると、各地方に発する「政令」や「行政令等の執行」には、「文書」を発行させ、各地方の別府に通達を出し、”「紙書」”を創設し、そこには実務上の役所の”「紙屋院」”や”「図書院」”を併設させて、”「紙の需要喚起」を強制的に図った”と観られる。
現実に、この頃から「善事撰集」で得た内容を地方機関に「政令」や「行政文書」の形で文書を発刊している。)

「民間の需要」
では「民間の需要」はどの様に成って居たのか。
「紙の殖産」を起こさない限りは民間では「紙の安価」は興せない。
「朝廷」では、以上の経緯があって「需要の喚起」を起こさせる事は出来たが、この範囲では「安価な紙」は起こらない。
前提は「民間の需要の喚起」=「紙の殖産」である。
この経緯に入る前に、「青木部の努力」の「紙の活動」は上記648年に開始されていた。
「一般の紙の使用」に至るまでには、「紙の生産技術の確立」と「青木氏の殖産化」の準備に懸命に関わっていた。
朝廷内では需要の絶対量は把握出来る。
しかし、民間では「需要の絶対量」は把握出来ない。
その為に、「供給」を「需要の変化」に応えられる体制にすることが必要である。
これは「民間使用の絶対条件」である。
それには、先ず「殖産態勢」を作る事である。
次ぎには、民間である以上は、「利益態勢」の確立を成さなければ続かない。
況や「興業」である。

「朝廷」では、774年に成っても「殖産化」は行われなかった。
ただ単なる「朝廷内の需要」に対する「供給」だけであった。
「民間の需要」を喚起させるには先ずは「必要な策」ではあったが、記録されていない。
しかし、ここで、経済の「需要と供給の原則」に関わらない事が起こったのである。
それは、「仏教伝来」によって布教するに必要とする「教典の複製」が必要と成っていたのである。
最早、この段階では、「木簡」は使えない。
そこで、「東大寺等の寺」では、盛んに「写経」と云う行事を催し、「経典複製」を作った。
この「教典複製」は、上記した様に、「朝廷」でも”「写経司」”を設けて確かに「紙の需要」を喚起する為の施策を講じていた。
しかし、それでは最早、「爆発的布教伝道の波が起こり、紙の生産は間に合わなくなって行った。
(しかし、盛んに行われた「東大寺の写経会」では、この「紙質の問題」について記録されている。)
それには、先ず「紙の市場性」を高める事が、先ず一般化にするには「絶対的条件」であった。
それなくして、「紙の需要性」が生まれて来ない為に、「生産」のみならず到底「殖産」までには達しない事であった。
最大の「紙改革の戦略課題」であった。
それには、「木簡」から「紙に替える革命」にはその「品質」に大きく関わっていた。
そこで、一般市場に受け入れられる「品質」にするには次ぎ数式が成り立つ。

「紙の品質」=「素材の探索」」+「紙漉の技術」+「紙漉の技能」+「殖産態勢」

注釈
ところが、この問題には、「墨と硯」の問題があったのである。
(この「紙の質」は「墨と硯」に大きく影響していた。)
「墨」は、中国から帰化して中国人の「墨作部」の「方氏」が、「硯」は同じく「硯作部」の「硯氏」が携わった事が記録で判っている。

(両者、何れも、朝廷が中国から態々招請した「氏部」である。それだけに”紙の質の問題を重視していた証拠”である。)

しかし、当時の輸入墨は、松根油の「松煙煤」から作る煤炭で、墨の「粉」は荒く、「ムラ」が出来て、「墨色」が悪く、「沁み」が起こり、「滲み」も大きく変質し易かった。
資料に依れば、「飛鳥」にその試験場を作り進めていた。合わせて、各地に方氏の「墨作部」を出して「良い煤炭」を探した。

(現在、この墨方の末裔子孫は、和歌山に現存し、その姓も同じで、地名も遺されている。筆者は、不思議にもこの末裔の方を極めてよく存じ上げている。)

この事に付いては、既に研究室などにもこの「古代墨」と「古代硯」の写真を掲示して論じている。
(写真館メニュー参照)

筆者は、この「古代和紙」と共に、関わったと観ているが、諸説は時代性でずれている。
しかし、筆者の家には掲示写真の様に共に保有しているが、時代性が「紙の経緯」と一致しているのである。
「紙」だけで、「上記の経緯」が、「諸説」の様に動くとは考え難い。
「墨」と「硯」と共に、「筆」もあると観られるが、未だそこまでの研究に至っていない。
少なくとも、墨と硯は古書からの資料で解明されている。
確かに、筆者の家では、「古代の筆」は可成りの量で収集し保有しているが、未だ現在では正しく判別出ていない。
「古代の墨と硯」は保有しているので、この時の「筆」でも有る事には間違いはない。
何時か研究結果を投稿する。
必ず、「墨と硯と筆の経緯」が伴って「紙の経緯」が起こっている筈であるが、ここで「紙の経緯」で論じる。
(「良質な墨と硯の生産」は、結局、平安中期まで解決されなかった。「熊野古道」の「熊野神社詣」に関わって解決した。研究室の「鈴木氏と青木氏」の論文参照)
この「和紙」に関わる「産業」を大々的に「殖産事業」として興す事、そして、それを販売する「商業態勢」を興す事が必要であると「青木氏」は判断していたのである。

恐らくは、上記した様に、500年頃にはその「技術」は思考され、610年頃には中国製に頼っている。
これは「庶民の生活の糧」に成るまでのものに成っていなかった事を意味する。
恐らくは、「支配者階級」がこれに本腰を入れる者は居なかった事を意味している。
輸入に完全に頼っていた事に成る。
これでは「殖産」どころか「文化」は愚か「国」そのものは発展しない。

そこで、「賜姓族」として、「青木氏」として、上記した「下記の事の解決策」を展開したのである

「宗教」≠「生活」の環境に呼び込んで仕舞う事を防ぐ事。
「解決策」は、「支配層」に「恩恵」を与える事。
「恩恵」が、”「宗教」<=「生活」の環境に繋げる事。

それが、「殖産事業」と「興業態勢」を「青木氏」自らも整え、それを支配層に財源的投資させ、そこから得られる利益を享受して貰うシステムを構築したのである。
そして、それを政治的に裏付けられる様に、「青木氏(施基皇子)」は再び「持統天皇」に上申して「殖産事業と興業態勢に関する令」を発したのである。
朝廷内にも、”「紙屋院」と「図書院(寮)」”を設置し、「本格的な体制」を整えて推進させたのである。
「善事撰集司」として力を発揮し、”官民が需要を喚起出来る様に”全体を動かしたのである。

「青木氏」としても「青木部」の「紙屋」として推進した。
「5家5流の青木氏」に対して30年間の間に得られたノウハウを伝え殖産を促した。
そして、それが687年に叶えられた。

「年代検証」(青木氏の紙の態勢の準備が整った時期)
750年には正倉院に保管されている「写経会の和紙」が確認されている事、739年の「写経司」の態勢が出来ていることからこの以前である筈である。
そうすると、叶えられた時期は650年の「紙の上申」が出来る状態であった。
従って、701年の律令で朝廷内部に専門機関が出来るまでの間で、689年「善事撰集司」と成って進められる状況に入った時期の少し前である。
とすると、685年の「仏舎の詔勅」が発布された間で、「青木氏」が「五大和紙」の態勢が出来てこそ民間への紙の供給は可能に成る筈である。
従って、685年から689年の間の3年間の間と成る。
「687年」には次ぎの「五大古代和紙」は供給できる態勢にあった事に成る。

それが、「青木部」の「五大古代和紙」(687年:「青木古代和紙」)と呼称されるものである。
「伊賀古代和紙」
「近江古代和紙」
「美濃古代和紙」
「信濃古代和紙」
「甲斐古代和紙」

五大古代和紙の市場への供給の準備態勢が整った事で、この事に依って、「支配層の不満反発」は、「財源的投資」に依って潤い、無く成る事に成った。
後は、これを契機に支配層に対する「古代仏教の普及」を同時に解決する事が必要に成った。

これは、上記した、「684年の仏舎の詔勅と令」と「690年の第一式年宮令」で「支配層」を政治的に拘束し、後は、上記した「密教としての戦略的手法」で調和させ融合させ習合させる事であった。
「上級階層」を「仏教の慣習と仕来りと掟」の中に取り込んだのである。
彼らは、好むと好まざるとこの戦略から離脱する事は、最早、出来なくなった。
それは、「朝廷の詔勅と財源的投資の潤い」から「離脱反発の理由」を失わせたのである。
後は、上記の論調の様に、この「仏舎の流れ」に載る以外には彼等には無く成っていたのである。
それを「青木氏」に最早、委ねる以外には無く成って居たのである。

この事で、「青木氏」が考えた「神仏習合策」は、上層階層の支配層の中にも、「密教氏」として無理にでも根付く事に成ったのである。

これが奈良期から平安中期までの「青木氏の賜姓五役」の「前半の生き様」(「300年苦闘」)であった。「紙の革命」と共に苦闘した前半期であった。

注釈
筆者は「青木氏の生き様」を分けるとしたら、これを”「300年苦闘」*4”と呼んでいる。
「青木氏の生き様」は、この「300年苦闘」の周期が4回繰り返されている。
そして、この「300年の切目」のところに「転換期」が訪れている。
その「4つの転換期」を乗り越えて来たのである。

この初回の「300年苦闘」は次ぎの二つに分けられる。
前半の150年間は、「施基皇子と白壁王」が成した「政治力」での全盛期」-797年
後半の150年間は、「政治力」を無くした青木氏の「経済的な基盤の構築期」-950年

間には「桓武天皇」からの排除で厳しい「30年の空白期」はあったが、これも「950年の商い開始」までの苦闘であった。

この「300年苦闘」が、上記の「4氏」を融合させて成り立つ事に成ったのである。
当に「青木氏」と「青木部」の「賜姓五役の生き様」であった。
共に生きて来た「青木部」は、女系の血筋を引き継ぐ「二つの絆青木氏」と成って「一心同体の青木氏」に成って居た。

以上の様に、「紙の経緯」から「商い氏」が「青木氏の別の顔」として成立した。
「賜姓氏」が「商い氏」は禁令である。最も似つかぬ「氏」である。
流石、この「紙の商い氏」(「紙屋」)だけは「別面の影の青木氏」として明治初期9年頃まで「影の青木氏」であった。
知らない様で、知っている「既成事実の青木氏」であった模様である。

注釈
「墨作部と硯作部」
「墨部と硯部」の領域までは研究が及んでいないが、必ず「青木氏と青木部」との関係性を持っていた筈である。
「青木氏の商い」は1025年には「総合商社」に成長している
「和紙」を「殖産と興業」として扱ってきたのなら、他の三点も扱う筈である。
青木氏が関わった「殖産の形跡」には、何故かこの「墨と硯」の痕跡が見つからない。
恐らくは、「墨と硯」は「適切な地域性」を持っている事に起因している事で記録が消えていると観て調べている。
ただ、「墨」は室町期から時の政権が「専売品」として幕府に治めた上で「余剰品」を放出する方式を採っていた。
これは、江戸幕府末まで続けられた。依って、「青木氏」にはこの痕跡が消えて仕舞ったと観ている。
平安期では朝廷が「墨部」を「伴造」に基本的に管理させていたが、特定の「青木部」の様な氏にも「墨部」を持つ事を許されていた。
しかし、「中国輸入品」に勝る「墨」がなかなか出来なかった。
北から南まで全国に「専門の部民」を送って探していた事が判っている。
「近江や信濃」にも力を入れて探した事が記録として残っている。
(これは「青木部」か「佐々木部」が関わった可能性を示す)
その時点では取り敢えず、三流品として奈良の松根油の煤からの墨を使っていた。
その「煤」を集める「良い木」と「煤の粒度」と「墨の色」が良くなかったと記録されている。
その為に平安期には、「青木部」等の「特定の氏」にも許可して「良い墨」を作る事に施策を傾けていた。
結局、”紀州北部藤白”の地域で生産していた「姥樫」(うばめかし)から作る炭(備長炭)の煤が良い事が判った。
そして、平安末期から本格生産を始めた。
これを見つけたのが、何と「熊野詣」の「後醍醐天皇」であった。
30年間で33回参詣した実績があって、この回数から観ても尋常ではない。
「熊野詣」のみならず、”「熊野詣」に託けたこの「墨の視察」の目的もあった”と観られる。
それだけに、この「墨の発掘」は、””国家の発展の根幹”を占めていたと判断されていた事”が判る。
この「藤白墨」の生産現場のすぐ横にある「熊野神社」の第一の「藤白神社」に長く逗留して居た事が判っている。

(この神社宮司は日高氏で、「弁慶の親族」に当たり、この熊野宮司の一氏の「宮司日高氏」が養子に「氏子の者」を取り、その者が義経の家来と成って、姓を後醍醐天皇から賜姓を受けて「鈴木」と名乗った。
「義経と弁慶」は良くここに逗留し、家来と成った事から「全国の鈴木氏」が広まった「発祥の地」である。

(この「藤白墨」は「時の政権の専売品」として大正末期まで生産されていた。)
研究室の鈴木氏の論文の「周辺の環境写真(墨部・硯部・方部の行方)を参照)

この時に、平安期には「青木部」は関わっていたと観ている。この時の事を浮き上がらせたい。
その証拠に、この「二つの部」は、「伊勢ー奈良ー紀州」の{青木氏の活動範囲}に存在し、その資料が「青木氏」だけにのみ保有しているのが何よりの証拠である。

「古代宗教」と「古代和紙」と「古代仏教」の経緯の下に、「青木氏の四つの氏」は構成されて行ったのである。
本論の遺された「伝統と遺品」は、この「三つの時代要素」と「四つの氏」に関わっているものなのである。
それは「賜姓五役」に関わったものと成って居る。

この相入れない「賜姓五役」は、この様な経緯に依って、上記の様な「融合過程」を遂げて、一つの「密教青木氏の伝統」は稀に見て生まれ、継承されて行ったのである。
この範疇で、「青木氏」を考える必要があるのだ。



> 以下は伝統 9に続く



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:「青木氏の伝統 7」-「仏舎と仏壇」


[No.324] Re:「青木氏の伝統 7」-「仏舎と仏壇」
投稿者:福管理人 投稿日:2014/10/22(Wed) 09:08:52


> 前回の末尾

>この様に「内仏舎の原型様式」や「外仏舎の原型の石墓様式」も「インド墓」の流れの「円古墳」を汲んでいたのである。
>それが、日本式に「環境や仕来り」(「和魂荒魂」と「古代仏教」)に合して改良した事に成る。
>丁度、「灯篭の形」に成っている。
>そして、はっきりとした記録に観ると、平安期800年過ぎ頃から石墓の「灯篭型外仏舎」に蝋燭を灯して先祖を導く行燈とした。
>「木製外仏舎」には「天武天皇の詔勅」が出た直ぐ後の690年頃から使われた模様である。
>現在の「庭灯篭」はこの「外仏舎型石墓」(灯篭型石墓)が変化したものと考えられている。
>この「庭灯篭」の汎用は1360年頃から絵画にも観られる様に成った。
>実は、この「庭灯篭」が、更に「密教の内仏舎」の上記の”「迎え行燈」の役目”に発展を成していたらしい。

>”灯を点灯して、先祖を迎え入れる”と云う行為は、「古代仏教の概念」としては強いものがあり、「仏舎の時代変化」は、調べると「蝋燭の時代変化」にも合致している。



・「仏舎の時代変化」
「仏舎型の木製墓」は、”684年から790年頃まで”の約100年間は保たれていた事に成る。
仏舎の箱の空間部位に、”「蝋燭と線香」を点灯する仕来り”と成って行った。

注釈
(「線香」は紀元前から使われていた。日本には「仏教伝来」と共に大量に持ち込まれた。
「焼香」として使われていた。「香木」(沈丁花の古木)として「日本古来」にもあった事から、「祭祀や占い等」にも用いられた模様で、これが「線香」に成って行った。
この「線香」と同じく「蝋燭」も良く似た経緯を持つ。日本古来には「蜜蝋」「松蝋」が使われていた。
飛鳥の「和魂荒魂の宗教概念」の時代にも蝋燭や香は使われていた。
香の習慣からの「香・線香の時代経緯」と、「蝋燭」の時代経緯]と、「仏舎の経緯」とは一致する。)

(仏舎木製墓・内仏舎)  「線香と蝋燭」 684年(520年)
   ・・       ・・・
(仏舎型石墓) 「蝋燭」の点灯 石質に   790年頃 
(箱型仏舎石墓)「蝋燭」を箱型の部位に点灯 895年頃
(角柱型仏舎石墓)「持仏堂型仏壇」が出現と共に大量に使用 950年頃
(灯篭型外仏舎)「蝋燭」が国産化に成功して普及  1000年
(角柱型石墓) 「蝋燭立て」が別に設けられて祭祀 1350年

そもそも、この灯篭の蝋は、次ぎの様な歴史を持っている。
・「蝋燭の時代変化」
648年に中国晋にて本格生産、
747年に大和に輸入
894年に国産を検討(量産化・実用化に至らず)
1000年に国産化品成功、(ハゼ実、松脂製で成功 特定階級に出まわる。紀州や奈良で生産されていた。)
1350年に補充(中国製・一般階級でも使用)

747年頃には特定階級の上層部で使われた。
「灯篭型外仏舎」への「蝋燭」は、”894年頃に国産品”と合わせて使われる様に成り,大量使用の引き金に成った.
しかし、「庭灯篭」を始めとして、国産品の量産と輸入品の量で広範囲に使われる様に成るには、蝋は1350年頃から用いられた。
900年頃から、中には、余裕から「蝋燭」で飯を炊く等の事が一部で優雅な遊びとして使われる程度になった。

”810年から850年頃前”には、「持仏堂型仏壇」が上級階層に採用された。
そうすると、この頃の墓所は、「仏舎型」の「天武天皇の詔勅」に示す「木製の墓」であった事は考え難い。
「青木氏の古代和紙」に観られる上記した「7つの変遷」(重複)比較すると良く判る。

A  和紙の良質な生産開始に50年   (730年頃 正倉院 紙屋院 白鳳文化 記録)
B  和紙の殖産を始めて余剰品を作り出すには50年    (770年頃 平城消費文化)
C1 商い態勢に50年   (810年頃 平安初期文化 摂関文化初期)
C2 販売能力に50年   (890年頃 平安中期文化 摂関文化中期 記録)
D  興業として50年   (950年頃 国風文化前期 摂関文化後期 記録)

丁度、「仏舎型石墓」(790年)は、Bの時期か、C1の「商い態勢」の時期に出来上がっていた事に成る。

更に、「持仏堂型仏壇」(810-850年)は、C1の「商い態勢」の時期に出来上がっていた事に成る。

つまり、C1の「商い態勢」期に「仏の祭祀方法」も整えられた事に成る。
Sの時期の頃は、684-690年の「内仏舎」

C1の「初期の頃」は、「外仏舎」の「仏舎型石墓」
C1の「後期の頃」は、「持仏堂型仏壇」

青木氏は、”商いの態勢確立の変遷”で苦労していて、何とかその芽が出て来た時にも、「仏舎の問題の解決」に当たっていた事に成る。
「商いの7つの変遷」「蝋燭の経緯」「古代和紙の経緯」「仏舎の経緯」等と「青木氏の変遷」が不思議に時代性が一致している。
「青木氏」が文化に大きく影響を受けて変遷して居た事を物語る。
何故そうなるかは、発祥期から「古代和紙」と共に生きた事が原因していると考える。
そして、その流れに逆らう事無く、「密教の慣習」に従ったからである。
その「密教の慣習」は「仏舎」と云うものに注ぎ込まれた。
そして、「仏舎」が「商い」ともに形が出来上がって来た「変遷時期」であった事が判る。
つまり、何れにもこの期間には、”「和紙」”が連動していた事が判る。
平安期までの「青木氏」を数式論で表現するならば次ぎの様に成るだろう。

810年>「商い」=「古代和紙」=「仏舎」>684年

そこで、平安初期の上級階層の万葉歌人の墓所を調べると全て何らかの形で「砂岩の墓石」である事が判った。
但し、後付で観光名物化の為に、原型を留めず現在風にアレンジして「平安期の墓石」としているものも多く、これを除くと、810年頃の平安遷都期前後と成る。

「仏舎墓石型」に成った上限は810年頃と成る。

さて、下限はどの位の年代かに成る。
そもそも、「青木氏」は、「国策氏」として、「国政」の最先端を何にしても走らねばならない宿命がある。
従って、他氏の状況を調べて、”「青木氏の事」”を読み込むのは無理に成る事が多い。
苦労する点である。
本論も、全てこの宿命に左右されている。

故に、「天武天皇の詔勅 684年」に率先して、”「氏墓」”として”「仏舎」”を屋内外に作った筈である。
その時は未だ詔勅に従って「木製」であった筈である。
しかし、この「木製墓」の「外仏舎」は、風雨に晒されれば、幾ら良い材質を作ったとしても20年もすれば風化して朽ちる。
とすると、「700年」頃に「石質の仏舎」にする必要に一度迫られた事に成るが、「天武天皇の詔勅」が出て間が無い時期である事から、無理であった事が考えられる。
700年以降と成れば、「天武、持統天皇没後」である事から、この柵は消えている。
しかし、未だ、発案者の施基皇子は存命である事から、716年没期に契機も訪れるし、次ぎの修理期も訪れる。
この期に「石墓」を選んだ可能性がある。
まして、始祖は後付「春日宮天皇陵」、元祖の二代目「白壁王」は「光仁天皇陵」として、石室の墳墓で祭祀されている。
と成れば、つまり「公式墓」は「石質の仏舎型の円墳」と成れば、この「二人の先祖の氏墓」は必然的に「石質」の「仏舎型墓」と成るだろう。
そうしなければ、周りが「石墓」にしているのに、後から遅れて「石墓」とは、その「賜姓氏」や「国策氏」の立場は成り立たない。
あくまでも”率先して範”としなければ成らなかった筈である。
結局は、686年に、叔父の「天武天皇」 698年に妹の「持統天皇」 甥の「文武天皇」の707年期は、未だ「施基皇子」は長生きして存命中である。
その716年、息子の「白壁王」の「光仁天皇」は781年の「年代経緯」を以てして、率先して「石墓」にするには、次ぎの経緯が働く。
つまり、684+木質寿命20年=704年となり、持統天皇の698年を超え、且つ、直ぐに文武天皇の707年以降と成る。
この707年は、「仏教の仕来り」上から「上位の裳」に服する必要から賜姓族としては避けねばならない。
だとすると、上記の経緯年数では710年には裳が明ける。
しかし、この時、未だ、始祖の施基皇子は存命中であるから、石墓にするにはこの716年のみしか無く成る。
「春日宮陵」は「後造り」であるので、問題は無い。
「光仁天皇の781年」は喪主身内であり、これまでに「仏舎石墓」にしている事に成る。

「仏舎型石墓」は、716年が下限域と成る。

仏舎石墓の下限716年ー上限810年と成る。


ここで、再度、上限の810年に付いて検証する。
光仁天皇の子供の桓武天皇は施基皇子の孫に当たる。
しかし、この様な一切の政治的柵を排除する為に、平安遷都をし、「皇親政治族」を排除し、「青木氏の賜姓」を中止し、阿多倍の「平族」を賜姓して、「青木氏」を政治の場から排除した。
「青木氏」は、「賜姓族」でありながらもこの時期に一時著しく衰退した時期でもある。
「国策氏」としての「宿命と義務」は、一時抑えられた時期でもあって、勝手な事は出来なかった。
従って、810年以上の上限はあり得ない。
この後は、「持仏堂型仏壇」に成った為に、一切の古来密教性は低下したので、尚あり得ない。

従って、「施基皇子」の息子「白壁王」の「光仁天皇期」が最高の隆盛域であった。
(桓武天皇は施基皇子の孫)
「白壁王」が皇位継承した770年頃が上限と成り、恐らく、この716年から770年に施基皇子の墓を「仏舎石墓」の墓にした事に成る。
上級階層は「平安遷都」で「墓」どころの話では無い筈で、遷都すれば墓も移す事に成るし、「青木氏」が一切の事を最早、請け負う事は無く成る。

「仏舎石墓」は「770年前」までと決められる。

この年以外には無い。
実は、この裏付けと成る理由がある。
「伊勢青木氏」の始祖「施基皇子」の嫡男の「白壁王」は全くの皇位継承外である。
第四世族内でも無く、「第四位皇子」でもない。
確かに、大化期では、父が「第四世族」で「第六位皇子」ではあったが、「皇位継承権」のある「真人族」でも無く、典型的な継承外の「朝臣族」であった。
しかし、ところが両者共に「天皇」と成った。
「施基皇子」はその勲功から、子供の「光仁天皇」が父を「春日宮天皇」として「後付した」のである。
これは、その前に、奈良期末期には男系継承者が無く、「女系天皇」が四代続いた事から更に皇室には子孫が発生せず、「皇位継承者」が無く成ってしまったのである。
そこで、困ったので、無理やりに請われて「伊勢青木氏」の「二代目の第六子の白壁王 66歳」を引っ張り出し天皇にしたのである。
この為に、天皇家の女系の末孫皇女(井上内親王 36歳)を「白壁王」に嫁がせた。
むしろ、女性の「孝謙天皇」の「女の戦い」から逃れる様に、”逃げた 嫁いだ”と云う事の方が適切であろう。
この皇女に、結局、嫡子が生まれるが(天武天皇系の女系親王の誕生)、それを理由に父の「白壁王」が「光仁天皇」として即位した。
その後、皇后と成った「井上内親王」とその子皇太子は毒殺される。
結局、「阿多倍王(高尊王 平望王)」の孫の「高野笠人の嬪」に子供が生まれて、これが後に「桓武天皇」と成った。
その為に、光仁天皇期は青木氏等の「皇親政治」を敷き絶大な権限を持ち政治を断行した。
ところが、その身内の「桓武天皇」は、反転して、「律令政治の断行」を理由に「皇親族」を排除したのである。
この事に反発して、政治抗争が起こりして、その抗争を制し潰した「嵯峨天皇」は、逆転して、政治を「第二期皇親政治」を断行した。
これが、「賜姓源氏」であり、「嵯峨期詔勅」に至った理由なのである。
しかし、この”賜姓した源氏”には、「賜姓族の身分」と「国策氏の役目」を与えず保護もしなかった。
「青木氏」は、約30年で、ここで再び息を吹き返した事に成る。

この背景から、この「仏舎石墓」等の改革の実行は、”710年から760年”の50年間を於いて行われた事に成る。
この「慣習仕来り掟」を重視する「上級階層」では、この時にしかないと考えられ、裏付けられるのである。

つまり、これが大化期の「簡素な仏壇化」をした最初の「詔勅による仕来り」である。
「簡単な家の形をした仏の舎」を家の中に治めた事に成る。

これは「上級階層の詔勅の仕来り」のみであったが、その階層の程度に依っては、次ぎの現象が更に起こった。
それは、次ぎの内容であった。
「仏舎」の中に安置される「本尊の仏像」より前は、「毘沙門天像」などや「釈迦立像」やその「曼荼羅絵の掛け軸」を「仏舎」の中央奥に掛けたものであった。

ところが、これは、平安期の「三大密教の考え方」に左右した。
特に、この考え方は「天台密教」と「浄土密教」の2宗に限られた。
平安期中期前(900年頃前)には、この”「違い」を殊更に披瀝するのは拙い”と考え、敢えて「上級階層の氏」が「建立した寺院」には、「密教宗派」を限定せず、両派の社殿を建立配置する現象が起こったのである。
この為に、「内部の本尊」の造像では、「仏像」や「三昧耶形」だけでは、その「宗派の特徴」を充分に表現できないと考え、「仏画」でその「密教性」を強く表現しようとした。
この流れで、「本尊」は「仏画」とする現象が上級階層に広く起こった。
中でも、「嵯峨期の嵯峨源氏」の別荘として建立された「平等院」は、その典型的なもので、院内には数多くの殿、堂、塔、蔵、所が建てられたが、これらの中には、「仏画」を以てその「二つの密教性」を競う様に表現している。
これは当時の「和魂荒魂」の「古来の宗教」と「伝来の密教」の融合、或は「習合過程の状況」を物語る現象である。
特に、「古来の宗教」(和魂荒魂)を堅持しながらも、「三つの発祥源」と「国策氏の立場」から「青木氏の密教浄土宗」の「受け入れ状況」は、この傾向が強かった筈である。
それを最も引き継いだのは、後に庶民から判り易いと信頼され台頭して来たその系列の「顕教の浄土真宗」であった。
この「顕教の浄土真宗」は「仕来り」として、「仏画」を「本尊」として、厳しくその「仏画の内容」を定めて、各地に建てられる寺には ”仏画を本山から手渡す仕組み”を採っていた程であった。
この傾向は室町期中期まで長く続き、現在でも地域によっては、この仏画を本尊としているところがある。
一般の「武家階級」には、この「天武天皇の詔勅」による「仕来り・慣習」は未だ無かった。
810年から850年頃に掛けて「持仏堂型仏壇」が一般化してから移行の普及であった。
この平安末期頃までは、公家と上級官吏と上級技能官吏(青木氏)の範囲に留まった。

「青木氏の仏舎」
そこで、上記した様に、「青木氏」は何時頃からこの「仏舎」で祭祀し始めたかと云う問題である。
「青木氏」は、最初に「仏」となった先祖の始祖は、「天智天皇第6位皇子」の「施基皇子」であり、その最初に正式祭祀したのは716年である。
この時に、理屈上では、少なくとも「最初の仏舎」を持った事に成る筈である。
但し、この時前には、賜仏の「大日如来坐像」と「毘沙門天像」と「大蛙像」等のこれに付随する”「三昧耶形」の仏具”があって、祭祀されていた。
しかし、「仏舎」としてのものは、正式にはこの時に設けられた事に成る。
従って、「釈迦立像の本尊」はこの「仏舎設置」の少し前か直前のものと成る。
そして、恐らくは、上記した様には、「天武天皇の詔勅の仕来り」で、「密教浄土宗」では、既に「仏画」が「本尊」としていた事にも成っているので、「青木氏」が持っていた「二つの仏画」がこの時のものであった事に成る。
この「二つの仏画」が、「釈迦立像」と同時期か、その前の「大日如来坐像」「毘沙門天像」の信仰の祭祀時に使用されていたものかである。
この間、長くて50年程度差のものと成る。
何れの祭祀に使われていたかは確定は困難であるが、家内の事であるので検証出来ない事は無い。
要するに、兎も角も、上記の「青木氏」が持つ「二つの仏画」はこの時期50年時のものであった事に成る。
それから押し出せば判る筈である。

丁度、その直前に「古代仏教」が伝来していた。私伝で522年 公伝で552年である。
「青木氏」が発祥したのは647年であるので、最大で100年前と云う事に成る。
「仏舎の天武天皇の詔勅」が出たのは684年で、「皇祖神の伊勢神宮の遷宮」では、「天智天皇」が伊勢に定め、正式に定めたのは、詔勅の1年後の天武期685年である。
そして、初回式年宮は690年の「持統天皇」のその時であった。

そうすると、「青木氏」が、最初に「仏舎」を持ったのは、論理的には式年宮後の26年後の716年と成る。
この時は、未だ、現在で”「仏壇」”と云われるものは、古来の「和魂荒魂の祭祀方法」であって、「天武天皇の詔勅」に基づく「仏舎」であった事に成る。
当然に、この「仏舎」には、既に「密教」は伝来していた事に成るので、その影響を強く受けていた事に成る。
この時の「密教の青木氏」には、「大日如来坐像」、「毘沙門天像」、「大蛙像」、「釈迦立像」と「三昧耶形の仏具」や「仏画」等の一切の「密教具」はあった事に成る。

つまり、後に、”「仏壇」(持仏堂型仏壇)”と成るが、この時は、「仏舎」の「中央の本尊」には、「釈迦立像」が安置されていた事に成る。

さて、そこで「施基皇子没716年」に正式な「仏舎」が設けられたとする年以前には、既には、「青木氏」には上記の「密教仏具」一切は備わっていた可能性がないのかと云う疑問である。
普通は仏があって「仏舎」があると云う慣習に成る事は高い。
しかし、”当時の慣習仕来りはそうであったのか”と云う疑問が先に来る。
筆者は、”「仏の有無」如何に関わらず「仏舎」と云うものを備えた”と考えている。

例えば、この当時の円墳等を観ると、”死後の円墳建立”では無く、事前工事に入っていて前もって作って置くと云う形式を採っていた事が判っている。
天武天皇の「仏舎の詔勅文」から観ても、”死後に作れ”とは勅令していない。
下記でも詳しく論じるが、次ぎの様な概念であった。
平安期に出て来た「持仏堂型の仏壇」は、”「衆生の意志を繋ぐ場」”が概念である。
奈良期の詔勅の「仏舎」は、”「先祖と会する場」”が概念である。
「仏壇」は「仏の墳」であるの比して、「仏舎]は「仏の家」であった。
この概念から、我々は”人が没しての仏壇”の感覚に支配されているが、当時の平安期までの「仏舎」に対する感覚は、”「先祖と会する場」”としての感覚が強かった。
そもそも、現在感覚に引き継がれている”没してからの「仏壇」”でなく、且つ、”「先祖の意志繋ぐ場」”ではなかった事に成る。

依って、「仏の有無」如何に関わらず、”先祖を祭祀する場、” ”先祖の尊厳を伝える場”であった事に成る。

従って、この考え方から、「天武天皇の詔勅」が発せられた時に、直ちに「仏舎」を建立した事が判る。

(「施基皇子墓」は「高円山」の東に「後附け」の「春日宮天皇陵」がある)

つまり、「天武天皇の詔勅期684年の詔勅」に合わせて先に準備していたと観られる。

何故ならば、「大日如来坐像」や「毘沙門天像」などの「密教具等」を祭祀する前から用意され、「和魂荒魂信仰」と「神明社信仰」をしていたのである。
依って、敢えて”準備せよ”と命令が出ているのに、”仏が無いから”として、”「仏舎」だけは別にする”と云うことは「賜姓族の慣習」としては考え難い。

そもそも、この詔勅の「政策発案者」は、最も信頼されていた「施基皇子」本人である。

(注釈 仏舎への保釈: それまでの中国の律令の模擬では無く、”独自の律令を作る事”を目途として、天皇に代って全国を飛び回った経験から、全国の実情に合った事柄を規範に、勅命に従い全国にある善い「習慣仕来り掟」等を取りまとめ集めて「善事撰集」を偏纂して「持統天皇」に報告奏上した。これが「仏舎」や後の平安期の「律令政治」の根幹と成った。)

「草壁皇太子」に代わって施政を採っていたのは、「日本書紀」にも書かれている「青木氏始祖」である事を忘れてはいけない。
”詔勅を発する”と云う事は、その前に「仏教の影響」を受けて、王族の円墳墓等には、一部でこの「仏舎方式」の基礎的な方法で祭祀が行われていた。
この事から、全体にこの祭祀を早く及ぼす為に、「仏舎の命令」を詔勅を使って発した事に成る。
その一部とは、王族とは別に、「上級階層」では、「仏教伝来 522年」に応じて、いち早く取り入れたのは「青木氏」であった筈である。
何故ならば、「青木氏」はそもそも「三つの発祥源」で「国策氏」である。
民によりも、務めとして最も早く率先して採用する必要に迫られていた筈である。
上記した様に、率先して「神仏」を習合させて、「密教」も取り入れたのも「賜姓青木氏」である。
其れなのに「仏舎」だけは”「別だ」”と云うのはどう考えてもおかしい。
「仏」や「先祖」の有無に関わらず、先ず、国政上、「青木氏」が範を示さねばならない立場にあった。
位の一番に、大化期の賜姓時の当初は,まだ「菩提寺形式の慣習仕来り」は、未だ社会の中(720年頃建立完成)には無かった。
依って、居宅に安置されていた「大日如来坐像」と「毘沙門天像」の横の部屋に「内仏舎」を設けた筈である。

(菩提寺完成後に「大日如来坐像」は菩提寺に安置された。「毘沙門天像」と「大蛙像」は居宅の「内仏舎」に安置する形式を採った。 下記の「釈迦立像」で論じる。)

果たして、「青木氏」が「内仏舎」「外仏舎」の両方を同時に設けたかの疑問であるが、「天武期の詔勅」は、先ずは「外仏舎」から念頭に於いて述べている事から、「外仏舎」と「内仏舎」を同時に設けたと観ている。
「外仏舎」は、「墓」と変化して、終局、その「墓」を祭祀する「菩提寺」へと「一対の形式」に発展したが、この時点での「外仏舎」は「寺形式の建立と完成」までに至っていなかった。
この時点では、「天武天皇の詔勅」に従った「簡素な仏舎」で、その周囲にはこの「外仏舎」を保護する様に「仮屋社」の様なものを建設して、周囲を樹木で覆う「墳丘」の様なものにしていたと観られる。
その後、「施基皇子」没後(716年)頃には、「外仏舎墳丘形式」から「墓所」(下記)に合わせた「菩提寺形式」に仕上げ直したと考えられる。
これも「外仏舎」の”見本的な最終的な完成行為”であったと考えられる。
恐らくは、「内仏舎」も「釈迦立像」を本尊に、左右には「脇侍」の造像を安置し、側面には「密教仏画」を配置した「一連の造形」(下記)を作り上げて見本的なものとしたと考えられる。

あくまでも、「賜姓族」である為に、この時点では、「内仏舎」も「外仏舎」も青木氏がその見本的なのを示しす事に目的があった。

「外仏舎」では、「仏舎形ー墓ー菩提寺」
「内仏舎」では、「仏舎形ー本尊ー脇侍造像ー仏画」
以上の一連の形式と作法の見本を示したのである。

それは上記の青木氏の「二つの仏像の祭祀」が既にあり、「釈迦立像」と「二つの仏画」がある処を考え合わせると、同時でなければならない事に成る。

そもそも、「内仏舎」と成っているが、この形は ”庇を持つ小さい家の形”であった。
これを「大日如来坐像」と「毘沙門天像」の右隣に設けると成ると、”付け足しの建て増し”と云う事には成り、”周囲の目線”からも「模範」とするには無理であったと考えられる。
建てる以上は、目立つ様にもする為にも、”専用の「大きな仏間殿」(仏舎殿)を設える事に成った”と考えられる。
何しろ、周囲に追随して建てるのでは無く、”恣意的にも大々的にも目立つ様に、”これぞ青木氏の仏舎殿”を建設したと考えられる。
明治期の消失の家と現在の古家の仏間内容からも、小規模成れど「仏舎殿」の形を遺しているので、これ以上の形式を持っていたと考えられる。
当に、伊勢の松阪町の9番から11番までの「侍屋敷」(後に本領安堵で蒲生氏郷より与えられた。)に、平等院の様な「仏舎殿」(菩提寺の原型)を建設したと考えられる。
この頃(850年頃まで)の「仏舎」は、「持仏堂型仏壇」(下記)の様に量産されて定型的なものでは無く、都度、”依頼主の意向で外形と内部の装飾まで建設する仕様”であった事が記録から読み取れる。(その証拠が二つ遺っている。 下記)
「青木氏」に類じて上級階層は、競争する様に、”誇示する意向”も大いに働いたと考えられる。
その様に仕向けた事が考えられる。
それ故に、その「氏の密教性」も働き、より普及させる為にも、「内外の仏舎」は「自由仕様型」であった事に成る。

「持仏堂型仏壇」
それに比して、現在の「仏壇」となるものは、寺の中の「持仏堂」をそっくり模擬したもので、この手本と成った「持仏堂」が現れたのは嵯峨期頃である。
その後、少なくとも850年頃前後に、現在の「仏壇化」がうまれ、1000年に向けて次第に中流階級にも一般化したものである。それまでは、上記の「庇付きの仏舎」であった。

その前に、念の為に「仏・舎」が「仏・壇」と成ったには、一つの経緯があった。
仏教の発祥地の「インドの記録」では、次ぎの様に書かれている。
上記の事は ”インドの仏の壇の経緯”をみると頷ける。

”土の上に枠を組み、丸く盛土して、そこに仏を埋め、その上に仏具を載せて祭祀した。とあり、
その後、この土が雨風で流される事から、上に”「箱」”を被せたとある。
円墳の原型と成ったのであるが、”土の上に枠を組み”は「仏舎」の形に発展し、”仏具を載せ・・箱を被せた”は「寺社」と「杜」に発展した考えられている。

この事から、平安期以後の「持仏堂型仏壇」には、土辺の「壇」と云う字を用いる様に成った。
「仏・舎」から「仏・壇」となった所以である。
これが、上記した日本の「円古墳の原型」であるとされている。

「仏舎」と「仏壇」の違いが出ている事は、”「舎」と「壇」の違い”と成る。
そもそも、「舎」は”木の「家」”、「壇」は”土の「墳」”と云う事に成る。
「家」は ”人の居る場”、「墳」は ”死者の埋する場” と云う事に成る。

故に、「青木氏」は、「和魂荒魂の概念」と「密教の概念」の「神仏習合」から ”先祖と会する場”の概念が強いのである。 
つまり、「持仏堂型仏壇」の”死者の埋する場”と云う概念は無いのである。
この点が大きく違うのである。
これが「青木氏の伝統」の「根幹」なのである。

・「釈迦立像」と「二つの仏画」
そこで、「仏壇」には「仏像」は、本来は必要無い訳であるから、この遺された「釈迦立像」は、上記の事から ”「仏舎」”の中央に安置されていた「本尊」であった事が判った。
しかし、上記した様に、「曼荼羅絵等」を含めて、「釈迦天女像」などもあった事が記録に遺されている。上記した「二つの仏画」である。

では、”この「二つの仏画」が、何故、「持仏堂型仏壇」に掲げられていたのか”
この疑問を解く鍵がある。
最早、”平等院の持仏堂”の中をそっくり模擬しているから、一切の仏教が説く仏具は小型にして揃っていて、敢えて他に飾り立てる必要性が無い事に成る。
況して、”死者の埋する場”には必要が無い。
なのに、”何故、「二つの仏画」を飾り立てたのか”である。
当然に、ある「宗教的意味」があるから敢えて飾った事に成る。
特に、「密教浄土宗」と「顕教浄土真宗」が拘ったのかである。
拘らなくてはならない「大きな理由」があったからである。

それは、上記に論じた「壇」に関する「意味合い」である。
イ 一つは、「死者の埋する場」の意味(墳の意味)
ロ 二つは、「量産仕様」の仏壇の意味(持仏堂模擬型)

宗派に関係なく量産的に「持仏堂型仏壇」が出来て仕舞えば、宗派が主張する「宗教概念」は薄らぐ事に成り拙い。
宗派を表現しなかった「平等院の持仏堂」を模擬したのであれば尚更である。
古くからあった「公家衆」を信者とした「天台宗密教」や、古代密教仏教をベースとして上級階層の武家宗を信者とした「浄土宗密教」にとってみれば、「持仏堂型仏壇」は更に一般化して信者を増やす事に繋がるとして歓迎された。
しかし、反面、「量産仕様」は、「宗派概念」や「独自の密教性」が、強く仏壇に表せない事には問題があった。
そこで、再び脚光を浴びたのは、「仏舎」に使われた上記の「仏画本尊」であった。
この「仏舎」の「仏画本尊」を「持仏堂型仏壇」に掲げる事であった。
これで、先ず上記の二つ目(ロ)の問題は解決した。

ところが、もう一つの問題であった。
「死者を埋する場」或は、「死者を祭祀する場」に対する考え方である。
「先祖と会する場」とは異なる。

「仏壇の概念」
「持仏堂型仏壇」には、「墳」とする問題があった。
この「仏壇」には、「密教性の基本概念」である仏舎の”先祖と会する場”は無く、単に、”「仏先祖」との間を取り持つ「道具=仏具」”とする考え方が強かった。
つまり、「インド仏教」の「外来的な原型概念」が「壇」と成って、「持仏堂型仏壇の構え」と成っている。
そもそも、この「仏壇」には中央に釈迦像があり、その左右にその弟子たちが居並び、その前には天上を表現する「仏具」(三昧耶形)が揃えられている。
つまり、「天上」にいる「仏」に対して、その「現世にいる導師」が”「衆生の意志」を繋ぐ”と云う、洗練され簡素化された”新しい仏教概念”が構築されていたのであった。

「衆生の意志を繋ぐ場」≠「先祖と会する場」
「仏の墳」≠「仏の家」

「仏舎の概念」として「仏舎」の字が表す様に、「仏の家」とは根底から違っていた。
「仏壇」: ”先祖が天上でお釈迦様に導かれて成仏して、「仏」と成り現世と彼世を往来する。”
「仏舎」: ”現世に、その来世の為の空間を造り、そこに「本尊」を置き、その本尊に仏の先祖が下りて来て会話する。”
と云う二つの概念の差である。

上記で論じた様に、「仏舎」と云う「密教概念」は覆される事に成ったのである。

この二つは根底から異なる概念である。

そこで、困った「浄土宗密教」は、「密教概念」を表す事が出来る「仏画」を描き記して、「持仏堂型仏壇」の左右に掲げた。
その事で、”概念の中和が起こる”と考えたのである。
鎌倉期初期には、この対策を更に強く主張したのが「親鸞の浄土真宗」(親鸞の孫覚如)であった。
最早、「真宗」は「持仏堂型仏壇」そのものを取り除き「本来の仏舎」の形に近い形に戻したのである。
(この為に、路線争いからこの浄土真宗は三派に分離する事に成った。)

結局、そこで、鎌倉時代初期からこの「持仏堂型仏壇」は、宗派毎に「仏壇」そのものの「形式」を変える様に成った。
特に、「密教浄土宗」は”「浄土宗仏壇」”と呼ばれる「仏舎」を表現した融合型の「持仏堂形式の仏壇」を作った。
従って、「青木氏」には、この「浄土宗仏壇」をどの様な形で保有しているかが5家5流で違っていた。

主に採った方法は次ぎの方法であった。
1 位牌の形を「庇付き仏舎型」にする。
2 別台座を設けて「本尊の釈迦如来の仏像」を中央に据える。
3 仏壇の上部を「庇付き仏舎型」にする。

以上三つの方法を組した方法や単独で用いた方法等様々であるが、地域によってほぼ統一されている。
恐らくは、「時代の変化」に左右され、「伝統の継承性」の低下が起こり、「密教性の強弱」が異なる、「持仏堂型仏壇」に対する拒絶度の差違等によるものと考えられる。
筆者の家は、この「三つの複合型」であった。立場上の所以ではないかと考えられる。
(この様な伝統を一つでも維持して行くことはなかなか簡単な様で難しいのだ。)

一方、「法然浄土宗系」の「親鸞の浄土真宗」は、先ず「密教の概念」を外し、更に「本造像」は使わず、「三昧耶形」として”「仏画」”を特に厳格に用いた。

「衆生の意志を繋ぐ場」≠「先祖と会する場」
「仏の墳」≠「仏の家」

上記の”「持仏堂型仏壇」の概念”が根底から違うとして徹底的に排除したのである。
更に、密教も排除したのである。

その為に、民衆や下級武士等は、「密教の独特な概念」や「面倒な作法」に縛られる事なく、高価な「持仏堂型仏壇」を持たなくても入信出来るとして真宗は信者を多く獲得した。

(親鸞は、この「3つの差違」が起こり、この事で「師匠 法然」を裏切るとして悩んで、「浄土宗」を憚って名乗らず”真宗”と呼称した。
しかし、法然に疎遠の親鸞の弟子たちは、それでも強硬に「浄土真宗」と呼称した。)

結局、浄土宗は「法然派」と「親鸞派」の二つに分かれ、更に、この二つは法然派は、密教派と顕教派の浄土宗に、親鸞派は顕教として三派に分離してしまったのである。

以上の事が記録から判っているが、現在でも、この「伝統」を頑なに護っている宗派と地域があるのは、上記の”「仏舎」と「仏壇」の違い”がこの現象に成って表れたのである。

「皇族賜姓青木氏5家5流」は、「古来宗教ー古代密教ー密教浄土宗」とし、「仏舎」を維持して来てこの「作法」を堅持して来た。
ここに「伝統の差」が維持されて来たのである。

「衆生の意志を繋ぐ場」≠「先祖と会する場」
「仏の墳」≠「仏の家」

しかし、「特別賜姓族秀郷流青木氏」は、960年平安期の発祥とする為に、「持仏堂型仏壇」の時代の作法に従った。主に顕教浄土宗に成った。
しかし、「仏壇」は然ることながら、立場上は「密教浄土宗の概念」を職務としていた「藤原秀郷流青木氏」の地方に定住した「末孫の青木氏」等は、密教概念を堅持した事から、この「仏画の伝統」を護った事が判っている。
その根拠に成ったのは、そこで、「秀郷宗家」が地方に赴任する「青木氏」に対し、「浄土宗」が無い地域が殆どであった事から、秀郷宗家の場合は、その都度、「赴任者」に「仏画」を渡した事が記録されている。
この宗家から渡された「仏画」を以て「本尊」として、仏舎を建て一時的にも「浄土宗の信心」を続けさせる事を考えて渡したのである。
恐らくは、これをしなかった場合は一門の宗派の統一が出来ないと判断した事に依るものと考えられる。一門の「宗派統一」が成され無い事は、”一門の統一は乱れる”と考えたからに過ぎない。
特に、秀郷一門は、「第二の宗家」と呼ばれる「青木氏」を中心に厳しくこの辺を取り締まった氏である。
中でも「皇族賜姓族」と同格として補佐する立場にあった事から、「秀郷流青木氏」は、「密教性概念」を強く求められた事が所以している。
そこで「仏像」であれば、大量に生産して一門に渡す事の困難さや、搬送には嵩張る事や損傷の危険が高かったので、「仏画」を渡したのである。その上で、真宗を仮宗派とする事を認めたのである。
ところが、上記した様に、一方で、「浄土真宗」もこの「仏画」を「本尊」とする事を「宗派概念を判り易く表現できる事の本願」として推し進めていた。
この「両者の考え方」が一致した事で、相互に「協力体制」を採った。
「秀郷流青木氏116氏」の中で、赴任し地元に残った「青木氏」が「浄土真宗」を宗派としている家筋があるのは、この事に依る。
従って、この「一族の青木氏」には、「古い仏画の掛け軸」が遺されている事に成る。
確かに、「仏画」としてそれまで「本尊」として使われていたが、「持仏堂型仏壇」が、上級階層に使わられる様に成った嵯峨期頃(810年頃)に採用される様に成って、「伊勢青木氏」には、「持仏堂型仏壇」の側面に飾られて遺されてたと考えられる。

「ステイタスの絵」
そもそも、”何故、「仏画」に成って行ったのか”その経緯が問題で解明しなければならない。

「皇族伊勢青木氏」は、その後に損傷の激しくなった仏画を保存したとあるが、これは、その後の「復画」である可能性があり、現在の「仏画」も「三度目の復画」であるとの口伝がある。
その口伝から、古来よりの「密教から来る作法」として、代々 ”絵を描く”と云う事は、その”賜姓氏のステイタスでもあった”と伝えられている。
(累代の全ての先祖は、「技術官吏」で「紙屋」でもあった事から、「絵の心得」をステイタスとして会得していた。)
これも、上記の「仏舎の本尊」として「仏画」を用いた事から来ているのである。
むしろ、この「賜姓族の教養」として求められたものが、先ずは「ステイタス」と成り、その「ステイタス」が、結局は「密教の作法」と成り、それが更に ”「仏舎」の「本尊の仏画」へと発展した”と考えられる。
恐らくは、「天武期の詔勅」に依って作った「仏舎」の初期に、先祖がこの「ステイタス」を以って仏画を描いた。
そして、それを「仏舎」に掲げたところ「上級階層」から”絶大な賛美”を受け、それが、率先して「仏舎」を普及させる立場にあった為に、遂には、”周囲はこの「仏画」をも「詔勅の仏舎」の「取り決め」と解釈されたのではないか”と考えている。
そして、それが平安初期には、遂には”密教である事の影響”を強く受けて、「仏像の本尊」より上記した真宗の動きが重なり、「仏画の本尊」へと考え方が発展して行ったと考えられる。
それは、終局は、一寸した青木氏のステイタスを用いた発想が、より”その「密教性」をより表現できる”としたところと一致した事に繋がった事に意味があった事に依る。
況して、「浄土宗系宗派」だけが、この影響が強かったのも、”「賜姓族青木氏」が「密教浄土宗」であった事に依る”と考えていて、故に、「天台宗」と「真言宗」は、「仏舎の仏画」にあまり反応しなかった所以と判断している。
ただ、後発の密教真言宗は、この「仏画」には、特定の反応を示した。
それは、「両界曼荼羅絵」を信者に積極的に与えたのは、この後発の「密教真言宗」であるからだ。
現在も、積極的に「真言宗信者」のみならず「浄土宗信者」にも与えている。
ただ、「天台宗」は、「独特の立場」と「独特の密教性」と、その「世界観」を築いた為に、信者も特定者が多く、結局、”独自で仏画を与えている”と観られるし、”本尊化”は無かったのもこの事に依る。
これも「天台宗密教の作法」であったらしい。

そもそも、何故、「伊勢青木氏」の先祖代々のその「福家」の全ての長は、”絵を描く事”の教養を持っていた事の不思議さがあった。
それは、当初は、広域の伊勢国で、伊勢古代和紙(伊賀和紙)の殖産を地元に求め、税として集め、それを販売していた。
ところが、平安期初期から徐々に殖産を強め、「税の換金」の為に販売強化し、1025年頃には、「余剰品」を正式に「二足の草鞋策」として「本格的な商い」に発展させた。
この事により、「紙」に関わっていたから、”「仏画」を描いていた”と考えていた。
それでは「趣味の範囲」で留まり”代々必ず”と云う事には成らない筈である。
ところが、趣味では無く違ったのである。

平安初期以前の相当以前にも、先祖は絵を描いていた証拠が一族一門の資料から数多く発見された。突き詰めると、「天武期の詔勅(684年)」後の700年から750年までの「絵画の遺品」と、それを物語る遺品の仏具や絵具が発見されたのである。
更に、「青木氏菩提寺」に、消失する以前のものが、遺されていて、菩提寺の青木氏住職を含めて類型的に整理してみると、代々の青木氏に洩れなく、矢張り、「何らかの絵」を相当な能力で描いていた事が判ったのである。
明らかに”「教養」”として、”「ステイタス」”として「絵を描く事」を長や住職は求められていた事を物語り、間違いなく”趣味の領域の事”では無い事が判った。
当時としては、”「絵を描くこと」”が、”最大の賜姓族としてのステイタスを表す手段”であった事が判る。

実は、江戸期に成って、先祖代々が「賜姓族ステイタス」として「絵の才」を会得したのは、”「朝廷画派」であった「土佐派」(大和絵)に師事していた事”による事が判ったのである。
そして、筆者の直前まで「曾祖父」と「祖父」と「父」は、「賜姓族」であった過去からの関係で、続けて「朝廷絵師」の「土佐光信」に師事して、遂には、二人は本職として独立して一世を風靡した。
更には、遡って、調べ上げて判った範囲では、”12代前までの累代の先祖”が、”「巨勢派」の「大和絵」”の「藤原氏朝」等の「朝廷絵師」から代々師事していた事が判った。
この室町期まで「累代の先祖」が、描いた「先祖の絵」が一族一門の中に何らかの形で遺されている。

「土佐派大和絵」
そもそも、上記の師事した師匠は、次ぎの通りである。
A 平安期には、「巨勢派」の「巨勢公望」に師事したとある。
B 鎌倉期には、「巨勢派」の門人「春日基光」に師事したとある。
C 室町期初期には「巨勢派」の「大和絵」”の「朝廷絵師」の「藤原氏朝」等に師事したとある。
D 南北朝時代の頃には、「巨勢派」の「師匠」として、「朝廷絵師」として「藤原行光」に師事し  たとある。
E 江戸期には、「巨勢派」の別派の「土佐派」が「大和絵」を復興させるのに貢献し師事したとあ  る。
F 江戸末期には、大和絵の「土佐光信」に師事したとある。

この「巨勢派」は「大和絵」として「朝廷の絵」を専門に描いた流派である。
この関係から「青木氏」は代々この派に師事した。
「青木氏」等が、この「流派の画家」を後援し、この関係から「朝廷」からも強く支持された。
「大和絵の巨勢派」は、室町時代から200年間を、正式な「朝廷の絵所」(朝廷絵師)を世襲した。しかし、室町時代末期には、一時、朝廷の「絵所領職」を失った。
その理由は、室町幕府衰退と、一時、戦乱期で朝廷も衰退した為に、更には、この流派の後継者が次々と戦乱で死するなどして「大和絵の流派」は全く途絶えたのである。
この後に、この「巨勢派」は、別流派として江戸期に成って、「土佐派」」を創設して、純日本的な「大和絵の伝法」を再び樹立した。
江戸末期には、「末裔の土佐光信」は、宮廷や将軍家と密接な関係を再び持ち、再び最盛期を築いた。
「伊勢青木氏」は、続けてこの「土佐光信」にも、「曾祖父」、「祖父」、「父」と師事した。

我が家の遺品から観れば、一族一門、更には、「信濃青木氏」や「近江青木氏等」や「近江佐々木氏」までを調べれば、又、更には、それらの家や菩提寺までのものも調べれば、その繋がりから、”奈良期までの遺品”に辿り着けると考えられる。
既に、「近江佐々木氏」の研究論文からも読み取れる様に、書画から「賜姓青木氏」の事にもかなり辿り着けると考えられるが、現在は最早難しい。
この事から、”「ステイタス」”であった事は確かであるので、上記の奈良期での「仏画の推論」は上記した様に、「大和絵の巨勢派」に師事していた事が、何よりの証拠であり、当たっていると考えている。
平安期以降からの「仏画の状況」は遺品から充分に説明出来る。
「平安期の状況」と「奈良期の状況」が全く違うと云うシナリオは考え難い。
平安初期の「桓武天皇期」には、確かに状況変化を一時的に起こした。
しかし、「嵯峨天皇期」で、又元の「皇親族」の状態に戻した。
確かに「仏舎」は、「仏壇」に成ったが、逆に上記した様に、「仏画の本尊化」は逆に進んでいるので、一時に低迷はしたが、平安期後にも仏画に関して盛り返したと考えるのが、相当と考えられる。

奈良期のものとして遺されている「二つの仏画」の検証では、次ぎの様な違いが出て来る。
「古さ」  日光の紫外線や風化で材質の劣化レベルでの判断
「絵構図」 密教の初期の為に、筆運が異なる。
「絵具」  岩絵具は中国製の良質で劣化具合が異なる。
「表具」  表具は中国の影響が顕著に出て異なる。
「糊」   表具糊が悪いと茶色く変化して絵は観えなくなる。

専門的に「絵の下地」は「特殊な糊」を使う。絵の保存関係はこの表具の下地に使う「糊」の如何によって決まる。
この「糊」は何年も掛けて醸したものでなくては、絵具の下地になる為に最終絵が剥がれ朽ちて遺す事は出来なくなるのである。又、絵が「茶化」して観えなくなるのである。
専門的には絵構図以外は専門性の判断力が左右するが、他は、材質論に左右する。
平安期直前の絵と室町期後期の絵には、「材質の差」が出る。
以上から遺されている「二つの仏画」は「原図」であろうと観ている。

しかし、確認できるのは、筆者が観て「復画」らしい遺品は、祖父の「2つ目の復画」である。
祖父は35歳までは「伊勢の紙問屋」の後継として働いていたが、「松阪大火」で紙問屋は倒産し、その時の「絵の能力」を以てそれまでの師匠に改めて弟子入りして本職とした事が判っている。
この時に、保存していた傷んだ原画を”「復画した」”と考えられる。
それともう一つ「現在の仏画」と観る復画は、「2つ目の復画」は「父の復画」である。
この違いは、絵具には膠を使うがこれには問題はない。
問題は、「表具」取り分け「表具の糊」による。これで「時代の見分け」が就く。
この見分けの方法には別の方法がある。

「氏の象徴印」
奈良期からの上級階層には、その「氏の印」が定められていた。
「家紋」と成る「氏」を示す象徴文様がこの階層にあった。
殆ど食器の類から牛車の類までにこの象徴文様を記した。
当然に、書類や絵画や書にも、この現在では「実印」に当たる「氏の印」の「烙印」や「落款」があった。
当然に、これらの「仏画」等には、「青木氏」が”書いた、或は、発行した”とする「烙印」や「落款」が押印している事に成る。其れを確認すれば証明できる事に成る。

これは「青木氏」が代々使っていた ”先祖の落款”(「5Cm角の黄玉」で出来ている落款。)は保有していて判っている。
当時の「上級階層の落款」は、”氏を象徴するもの”であるので、その印は、”「黄玉」”と云う超宝石と云われる中国でしか出土が無く、稀に出土されるのでダイヤモンドより遥かに高価な宝石である。
掘り尽くされて現在では稀である。
この「黄玉」を使う仕来りであった。
江戸時代でも、大名でも、超大名か将軍家位の身分の者が持てる「黄玉印」である。
高価で持てる持てないでは無く、持つ事を禁じられていた「黄玉印」であった。
印を押す押さないとは関係なく見せるだけでその立場が判るものであった。
「伊勢青木氏」の「福家」はこれを持っていた。

この事からも、この事を少なくとも物語っている。
「原図」の「落款」は、この「黄玉の落款」を使っている筈であるが、かなり古く成っていて判りにくいが、まず間違いない。
落款から検証すると、”奈良期の先祖の仏画”である事に成る。
この落款で一族一門の家の遺品、守護神神明社や菩提寺の遺品、を調査する際にはこの落款での検証と成った。
この結果、殆ど、「青木氏の落款」を押印していた。
”何らかのシステム”を作って、「福家」に持って来て押印していた事に成る。
この事は、平安初期の「仏画や書」には、上記した事を物語るもので、「上級階層の依頼」に対して、丁寧に対応していた事を示すものである。

平安期前では ”「賜姓族青木氏」”と云うものを証明していた事を示している事。
”福家”が受けた「依頼」に対して、”福家”から手渡すと云う契約を護った事になる事。

数は少ないが、もう一つ落款があった。
この落款は何なのかは何時のものなのかは判らない。

そもそも、筆者の家には、古来から「紙に関わる家」であった事から、昔から全国のあらゆる画家が家に逗留していた事が在って、多くの「画家の絵」が遺されている。
「画家」のみならずあらゆる芸術家や僧侶達が、宿屋の様に無償で長く逗留して居た事が判っている。その様な別宅があった程で、中には、生活苦で長逗留して勉強する芸術家もいて、生活支援しながら画家を育てていたらしい。
江戸時代の有名な美人画の画家が長逗留して居た事も判っている。
その為に、室町期からの凄い量の絵画が遺されている。
中には有名に成った芸術家の若い頃の絵が遺されている。
これらは全て「逗留者」が謝礼として遺して行った絵との事である。
絵は表具されずに原図の侭に一か所に保管されていた。
口伝では、この画家を育てる事は、”大昔からの当たり前の事 ”であった事らしい。
その大昔とは、”何時の時代を指すのか”を本論に大きく関わる事であるので調べると、鎌倉期末期の頃の「僧侶の絵」が多くあった。
「書」に関しては、平安期末期の矢張り有名な「寺の僧侶」の書がある。
何とか奈良期か平安期初期までに到達しないかを調べたが、この頃に成ると画家や書家の氏名が著名な人しか先ず判らない事、専門的に「落款の相関」が判らなく成る事、落款資料が無い事等で確定が難しく成る。
平安期初期は、画家は僧侶や神職が多く、治外法権的な領域に入るので菩提寺か守護神の領域しか判らない。

「支援と技量の習得」
この調査で「奈良期」にまで到達すれば、上記で論じた様に、「上級階層の賛美」で依頼を受けて、「青木氏の神職や住職」が「神格像や仏画」を描いたと判っている。
では、”その絵の技量は何処で習得したのか”と云う事を判明させる必要がある。
「平安期の巨勢派」から「江戸期の土佐派」までの「大和絵の一派」を「朝廷絵師」であった事から「朝廷」に代って「賜姓族」として、「紙問屋」として幅広く「生活支援」をし、且つ、絵に付いても師事していた。
上記した様に、遺された数多くの絵や書、それに伴う一族一門資料や菩提寺守護神の遺された資料から、この事に深く「福家」が関わっていた事は明確に判っている。
恐らくは、この「青木氏の神職住職」等は、この「大和絵の一派」に「福家」と共に師事していた事は間違いはないと考えられる。
「室町期の書画」が「福家」以外にも多く遺されている事から、「平安期前」も同様であったと考えられる。
「福家」の「絵」に関わる「紙問屋」としての「生活支援」のみならず、各地の多くの「青木氏の神職や住職」も「大和絵」を習う事でも「巨勢派の画家」の「生活支援」をしていたと考えられる。
そもそも、鎌倉期以降は、朝廷も彼等を「朝廷絵師」としての ”「絵所領職」”だけでは一派を維持させられる事は絶対に出来なかった筈で、況してや、「朝廷」自らの生活も侭ならなかった時期に、無理であった。
従って、”「大和絵」”を遺す上でも、この立場上、「賜姓族」としても「青木氏」は、「福家と神職住職」共に「生活支援」を積極的にしていた事が判る。
それは、上記で論じた様に、多くの画家を逗留させて「絵の修業」をさせていた事、「紙問屋」でありながら「総合商社」でもあった事から、”大和絵の画家の絵”を上級階層に積極的に斡旋して居た事も判る。
上記した様に、遺された”「画家の表具されない多くの絵」”が保存されている中には、「大和絵師」の絵も多く遺されている。

注釈
(「特別な絵箪笥」があって、その箪笥は「絵箪笥」として専用に何段にも作られ、「油紙」を敷いた「桐の子引出し」があって、それに扉が付いて、それを全体の引き出しで保存する様に成っている。更に、この引き出しの外側に二重に扉があって、外側は黒檀で出来ている。実に密閉度が良く、扉と引き出しを開くとオルガンの様に音がする「絵箪笥」で、代々大事に使われて来たものであることが判る。・・小さい頃はこのオルガンの様に音がするので開いて閉めての繰り返しで音楽を引くようにして遊んでは叱られた思い出がある。・・
実に密閉度が良く、湿度は桐の材質で吸収され調節されて、中のものは全く傷んでいないし、変色も無い。ここには、表具されたものは別の絵箪笥があって入っていない。)

この様な”原図そのものの「専用の絵箪笥」”があると云う事は、「販売目的」では無く、「生活支援」の為に、”引き取った絵”も多くあった事を示すものである。
上記した様に、「逗留画家の謝礼」としての「絵」もこの中に入っていた。
室町期から江戸幕末までには、何としても、「日本古来の大和絵」を絶やさない為にも、「若い画家」を無償で受け入れ育て、世に出し、生活が成り立つ様に、「原図」を買い取り保存し、何時しか「表具」して、「販売斡旋」して、「紙問屋」として「生活支援」していたのである。

上記した様に、これは、上記検証の通り、平安期前には、「賜姓族青木氏」として「初期の朝廷絵師」(「絵所領職」)を務めた事を縁に、「大和絵巨勢派」から、その流れを継承した幕末の「大和絵土佐派」への「青木氏の支援」であった。


その前に青木氏は、平安初期には「桓武天皇」から「皇親族として排除」をうけて30年の衰退期があった事、中期以降は「源平の争い」が起こって受け入れ態勢が出来なかった事から、この期間の絵画や書などは、「先祖の絵」(一族一門と関係族で調べられた)を除いて少なかった。
少なくとも、”賜姓族としての青木氏の経済力”は、「二足の草鞋策」を営みだした950年頃前後以降の事に成る筈で、その意味で、鎌倉期から再び出て来るのは妥当であろう。
鎌倉期から室町期は、戦乱期でありながらも、徐々に「紙文化」と呼ばれる文化が進み、遂には、有名な「室町文化」が起こって、これを機に、再び「巨万の富」を得たので、ここからは書画骨董は多く成っているのは納得出来る。

筆者は、平安期前は、福井の逃避地で賜姓族を保護する事に精一杯で余裕は無く、”画家などを逗留させる”と云う事は、未だ客人的な範囲に留まり少なかったと考える。
室町期の様に「別宅」を構えて支援する体制までには至っていなかった。
その「組織的な態勢」が、「賜姓青木氏」には、上記した様に「巨勢派」に対する「支援体制」に総力を注ぎ、未だ「全般的な支援体制」は出来ていなかったと考えられる。
それよりも、「5家5流賜姓族」の菩提寺や、全国の「神明社の守護神」で、多くの「青木氏住職」の「仏画」、多くの「青木氏の神職」の「神格像画」が主に描かれた事と考える。
筆者の家も「賜姓族の役」からの「ステイタス」として描いていた事は、当然ではあるが、これだけでは「仏画の本尊化」は、センセーションの的には成ったにしても、起こせなかったと考えられる。

「上級階層の賛美」が起こっても、”では誰に描いてもらうか”は問題と成る。
「賜姓族の青木氏」の「福家の役」は「上層階級の賛美」だけで良かった筈である。
「賜姓族の青木氏」の「福家の長」が「頼み」に応じて全てを書くと云う事には成らないだろう。

そもそも、その当時は、古代仏教の伝来時の「密教」であった事から、未だ描ける者は、阿多倍の渡来人職能集団の「舎人部」か「史部」以外には少ない筈で、「密教画」として知識を持ち、それを正しく描ける者は、未だこの時期には無い筈である。
「賜姓族青木氏」の「職能集団の民部(かきべ)・曲部(まがり部)」の中に、「青木部」と称する仏画を描く「絵師の部集団」を構築しようとして、先ずは、「密教の知識」を持つ「青木氏の神職住職」が、既に持つ「書の才」をベースに、その「仏画の能力」を付させようとした。
その為には、その基礎力を「巨勢派」に求め、上記の様に、「大和絵の巨勢派」を引き出して育成にも総力を注いでいた事に成る。
「神職や住職の描く仏画」は、最終的には、これらの「青木部の絵師」が指示に従い分担作業で書き上げたと観ている。
何故ならば、「青木氏の守護神の神明社」でも論じたが、神明社や菩提寺の建立と共にここに安置する像もこれらの「青木部」が行っていた。
「天武天皇の詔勅」の「仏舎の建立」では、筆者は問題は無かったと観ている。
何故ならば、「青木部」の「大舎人部」(詔勅の仏舎等を建築する職能集団)がその技量を充分に持ち得ていた。
従って、「神職や住職の者」が、先ず、「青木氏の密教」のその「仏画の技量」を獲得して、「青木部」にも「仏画の作成能力」も整えようと働いた筈である。

「賜姓青木氏」の「職能集団」を総称して、氏名を採って「青木部」と称した。
この「仏画」は、単なる仏画では無い。「青木氏の密教の仏画」である。
その「青木氏の密教」は、「和魂荒魂の古来宗教概念」と「古代伝来仏教」との「神仏習合の密教」である。
従って、根本的にこの「青木氏の密教概念」と「青木氏の守護神と菩提寺の様な組織」と「青木部を有する職能集団」を持たない他氏では到底描けるものではそもそも無かった。

そもそも、上記した様に、「密教」は何事にも初代は「青木氏」なのであるから、「青木氏」に頼るしか無かった筈である。
又、その「国策氏」と「賜姓族」と云う立場もあり、他に進んで受ける氏は無かった事に成る。
周囲の上級階層もこの事に付いては成す術がない”と云った処であったと観られる。
筆者は、周囲の上級階層は、「天武天皇の詔勅」の「仏舎」等に関する「勅令」にも、「勅令」が出たものの充分に対応出来なかったと観ている。
だとすると、頼まれたものを断る事は立場上、出来なかったと成れば、況して、金銭に糸目をつけない力だけは持っていた「上級階層」(下記)である。

当時の上級階層の氏族に付いて書いた記録がある。
それには、次ぎの様に書かれている。要約する。
・・・殆どの「氏族」は、多数の「部民」を「隷属民」として支配していた。・・この「部民」は農村に家を成し、農耕の傍ら主家の氏族の要求に応じて、世襲的に同一の産業的労務やその他の労働に従事させた。・・「氏族」とは別に住み、血縁関係は一切無く、部民間にも血縁関係は持たなかった。
”個々に浮浪する民”を集めて編成したものが殆どであった。
・・「農耕」にのみ従事させる隷民であった。
(朝廷の直属の農民以外は原則私有民は認めていなかった)
その「氏族の氏名」を「部の名称」とする「特技の技能」を持った「部組織」を持つ「氏族」は少なかった。・・・その殆どは政策上、「特定の氏族」を除き、主に朝廷に所属させた。・・
と記録されている。

以上の記録の通り、「上級階層」は、「青木氏」の様に「青木部」を持つ事を許されていなかった事に成る。この「特定の氏族」とは、「三つの発祥源」と「国策氏」の立場を持つ「5家5流の賜姓青木氏」に許された「特権の事」であって、後は、”朝廷の管轄下に置かれていた”事を示す。

依って、「天武天皇の詔勅」が出た以上は、これを断れば反発を招くし、「密教の詔勅」の「仏舎の翻意」は果たせない事に成る。
そもそも、その「詔勅の案件」は「施基皇子」が奏上したものである。
奏上する以上は責任を果たさねば成らなくなる。

「賜姓族青木氏」には、残す手立ては、一族の青木氏の神職(500社)と住職(15寺)に指示する事に成った筈であり、可成り、「仏画構築」に急いでいたと考えられる。
この能力を以てすれば十分に対応できたと考えられる。しかし、ここで問題が生まれた。
それは、元々、「神職 住職」は「書」への高い技量を持っていた。
しかし、「絵画への技量」は無い。
そこで、「賜姓族の青木氏」は、その「絵画の技量の基礎」を会得しなければならない。
「仏画」と成れば、「中国画」が主体を占めていたが、「青木氏の密教仏画」を表現すると成れば、古来からあった”「大和絵」”から”「青木氏の密教仏画」”を新たに創造する必要性に迫られた事に成る。



以下は伝統 8に続く


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