青木[アオキ] 名字 苗字 家系 家紋 ルーツ 由来

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青木氏と守護神(神明社)-7

青木氏と守護神(神明社)-7

  「皇族賜姓族の生活圏範囲」
勿論、皇族賜姓青木氏5家5流一族はその皇族と云う立場(3つの発祥源)からこの「未勘氏」を発祥させて勢力拡大を図ろうとする行動が制約されていたのです。且つ、従って行動そのものが限定した伊勢と云う領域の範囲に留め、限定した「氏と民」を指定し、同族の賜姓源氏の様な権威を背景とした広域的な勢力拡大(荘園制の集団化)を図らなかったのです。
勢力圏域は5家5流とその一族が定住する「生活圏の範囲」に留めたのです。
藤原秀郷流青木氏も24地方域に限定し「未勘氏拡大」や「荘園制の集団化」の策は「母方族 有品の位:第4位」としても藤原秀郷一族一門の中に於いてもその行動の範囲を厳格に守ったのです。
そもそも荘園に属する未勘氏の多くは、旧来の「姓名」を持ちながらも「名義料」とその「労役の責任」を果たした上でその代償として名義主の「氏名」を名乗ったのです。そして、その主な義務と労役は「兵の提供」と「兵糧の提供」と戦いとなると「合力」する事でした。

「4つの青木氏」は「国」よりも「郡と村」と云う小域に限定した事が、その「生活圏」で結束する「絆」を強めたのです。小さいながらもそれに見合った戦略を採用して結束して戦った事によります。
それと、この「生活」と云う「絆」を強めるために採った経済策「2足の草鞋策」(物造り)を古くから採っていた事が共に生き延びられた原因なのです。
更に云えば、「賜姓族青木氏」にとっては母方で繋がる「血縁性の結合」である「秀郷流青木氏」の存在が色濃くあったでしょう。
その「秀郷流青木氏」には藤原氏の「第2の宗家」と云う確固たる立場があり、彼等の強大な護衛軍を擁していた事が賜姓青木氏に採っては大きな願っても無い「抑止力」となり「安全」を保障されていたからであります。
そして、「賜姓青木氏」が「不入不倫の権」で護られていたとは云えど、「賜姓青木氏」が存在する地理的範囲の周囲には必ず「藤原秀郷流青木氏」が定住赴任していると云う環境も見逃すことが出来ないのです。
恐らくは国策の「融合氏」「3つの発祥源」の元を潰す事は出来ないとした「天皇家の採った戦略」であったと観られます。
平安期に「賜姓青木氏」に与えられた「不入不倫の権」とは別に、安全保障の意味からも「秀郷流青木氏の抑止力」を明らかに大策として採ったものと考えられます。
「嵯峨期の詔勅」に依って皇族関係者は青木氏を名乗るとして民に「使用の禁令」を発したのですが、藤原氏北家の秀郷第3子の千国にはこれを特別に許し、「母方族」として「特別に賜姓」して「青木氏」を名乗ることを許し、更にはその”「官職」と「有品の位」は皇族賜姓青木氏と同じとする”と定めました。
これは明らかに「単純な許可」では無く、「単純」であれば何も官職と有品を賜姓族と同じとする必要性はありませんし、賜姓する必要も無い筈です。青木氏を名乗る事のみ許す事でも充分です。
「賜姓青木氏」と同じ様に「家柄と身分と役職と官職」を藤原氏北家自身が求めていないのに全く同じにした事は「藤原秀郷一門の勢力」を「賜姓青木氏」に「抑止力」として着けて護る目的であったのは明らかです。
つまり、同じ青木氏を名乗らせ同じ仕事をさせる事によって”同族だ”と思わせてその威力を見せ付けて融合氏の発祥源賜姓族に手を出させない事を目論んだのです。
又、天皇家にとっても「親衛隊の威力」を示威する狙いがあります。
この時期は960年頃ですので「荘園の行き過ぎ」に依って起こっていた諸問題が佳境に入った時期でもあります。
後60年至もすれば阿多倍族の九州自治の問題、外国からの難民流入、賎民問題、安部氏等の動向、各地での動乱、天皇の身辺もそろそろ危なくなってきた時期でもあり、「融合氏」の5家5流の賜姓族の安全保護を図るべき環境でもあったのです。
兎に角にも、朝廷内外に問題を多く抱えながら摂関政治の最盛期でもあり、その中でも「平将門の乱」を鎮めた唯一信頼できる当時の大勢力と成った藤原氏北家筋で周囲(賜姓族)を固める必要もあったのです。 
「不入不倫の権」
しかし、これも充分に「抑止力」として発揮したのは平安期の事であり、「武家政治」「武家社会」を中心とする鎌倉期から室町期にかけては周囲が皆武家であり力を持った為にそうも行かなくなりました。
本来であれば、最も「3つの発祥源」の「融合氏」としての充分な「氏拡大」を図るには、「皇族」と云う立場から考えてその「行動範囲」は極めて制約されていた筈で難しく、むしろ同じ「武家の社会」の中でこの立場(3つの発祥源」)に頼っていた場合は滅びるのは速かったと考えられます。
それだけに「融合氏」やそれに連なる「姓氏」の急激な台頭が起こったと云う事でもあり、「融合氏」が増えたら増えたでその環境は別の意味で難しく成って行ったのです。
そうすれば当然に、それまでに無かった「武家の目」が起こり、鎌倉-室町期には賜姓青木氏一門に向けられる目は、藤原秀郷流青木氏の「後ろ盾」がある事そのものが、他の豪族たちには「畏敬の念」と云うか「専横の目」と云うか”ちらついていた”ものであったと観られのです。
しかし、「武」を以って成り立つ「武家」である以上、例え青木氏に「不入不倫の権」があるとしても潰そうとすれば潰せたと考えられます。それはあくまでも「公家社会の掟」としては成り立つ「物言い」であり、何の「武」による罰則の様な拘束力も有りません。武家にとっては"片腹痛い"と成ります。
但し、その場合、ある意味で「朝敵の汚名」は覚悟する必要がありますが、それは汚名の範囲であり周囲の武家が乱世にてこの範囲を超えていればその汚名も関係は無く成ります。
現に室町期の「下克上」と「戦国時代」には殆どの武家は信長の様に「空虚な権威」として何の躊躇もしなかったのです。
信長だけではなく殆どの豪族は「不入不倫の権」は余り念頭に無かった筈で、言われれば”あっそうか”程度のものであったろうと考えられます。
まして、鎌倉期以降は社会は前記した様に「融合氏」の数では無く「姓氏」の数が主体であり、歴史と伝統のある「融合氏」ではいざ知らず、賜姓族の「不入不倫の権」は左程の「拘束力」は無かったと考えられます。
まして室町期の「下克上」の乱世の中では、5家5流の賜姓族に与えられた永代の「不入不倫の権」を気にしていては「下克上」は論理的に起こらない筈で、「下克上」とは「上の権威」の理屈が通らなくなった社会なのですから、「絵に描いた餅」程度のものとしてしか扱われなかったと考えられます。
其れだけに平安期は兎も角も「朝廷又はむしろ天皇の力」には、鎌倉以降は青木氏を支える力が無く衰退して行ったのですが、この様な社会の中では「3つの発祥源」の青木氏に執って生き残るには秀郷流青木氏一門の「抑止力による武力」と、「自力・自立の経済力」以外には無く、その意味で「2足の草鞋策」の判断が大きく効を奏したと云えます。

「秀郷流青木氏一門の抑止力による武力」+「2足の草鞋策の自力・自力の経済力」+「影の力のシンジケート」
これら「3つの策」は互いに連携した関係を保持し「相乗効果」を生み出していたのです。

「平家の様な生き方」
平清盛も「宗貿易」を試みたのも阿多倍一族一門の「民族氏」の宗家「たいら族存続」を「栄枯盛衰」のたとえの通り強く意識していたのではないかと考えられるのです。
恐らくは「伊勢の隣人」であり「古代伊賀和紙」の殖産で伊勢青木氏と繋がっていた事を考えると、伊勢青木氏が特に「2つの陰の力」と表に見える「自力・自立」で生き延びようとする姿勢を見て「武家・武門」でありながら「武」では無くむしろ「商家」に行き先を強く求めていたのではないだろうか。
その証拠に平家滅亡後、実は各地に飛散し土地を無くした平家族は各地の阿多倍一族一門を頼る事なくその飛散地で「殖産」と「家具・陶磁器等の生産」に大きく関って生き延びているのです。それは家紋から判るのです。
”平家がどの様な生き方をしたのか”を検証する事で融合氏の「4つの青木氏」と同じく生き延びられた原因の本質が観えて来ると思えるのです。
後漢の阿多倍王の6(7)代目末裔平清盛が確実に子孫の為に採った生き残り策「殖産と商い」が滅亡後に生かされていたのかを「織田氏」を通じて検証してみたいと考えます。
同じ激動の時代を生きた青木氏と共通する何かが其処にある筈です。
それがこの時代に必要とした「共通する生き残れた条件」であって真実が見えて来る筈です。

「共通する生き残れた条件」
ここからは少し「たいら族」の生き様を論じたいと考えます。
そもそも「たいら族」は滅亡後、資料と家紋考証から紀州、四国、北九州、岐阜愛知等の山間部に逃げ延び、その地にはこの「殖産と家具・陶磁器等」の名産地が多く遺されていて、その職人家のルーツを家紋と資料で調べると「平家落人」が大変多いのです。
逆に言えば大勢での落人先はこの4地域に成っていて「殖産と家具・陶磁器等」で生き延び逃げ延び通したのです。
例えば、そこでその一つの氏に注目をしたいのです。
この「織田氏」は筆者は「美濃平氏」として観ていますが、「平氏遺族だ」と名乗っている「織田氏」としてその主張している「家紋」(五つ木瓜紋 揚羽蝶紋)を正しいとして検証すると、次ぎの様に成るだろうと考えます。
しかし、「織田氏」には諸説紛々であるので、ここでは先ず「織田氏系譜」の以前のルーツとして「たいら族」として家紋考証で検証します。
その「たいら族の生き様」に青木氏に共通する何かがあると観ているのです。更に、驚くべきか何とこの織田氏が青木氏と深い関わりを持っていたのです。
その意味でもこの織田氏を徹底的に検証してみたいと考えます。

誤解のないようにする為に先に言っておく必要があるのは、諸説をまとめると彼等織田氏の主張は「搾取偏纂」の典型であると云う事です。ところが家紋考証と時代考証ではただ1つの矛盾の無い筋が観えて来るのです。
織田氏の主張
それは次ぎの3つの氏に成ります。
1 先ず最初に尾張で土豪守護代として勢力を高めた時期に名乗った氏は「藤原氏」
2 次ぎに頂点に躍り出た時期に訂正したのは「たいら族」(桓武平氏)
3 現在の各種の調査資料から判明したのは「斯波氏の家臣」

1と2は完全な搾取偏算の典型的な「搾取偏纂の方式」(「貼付方式」「継足方式」「遺子方式」「某方式」「混迷方式」など)を駆使して系譜の中に使用して作り上げているのです。
下記にも証明しますがこの説を少し歴史を勉強したものであれば信じる者は居ないでしょう。

3が正しいところですが、家柄の出世状況をよく見せる為に、後に室町期の系譜には「遺子方式」と「某方式」で搾取偏纂して付け足していて系譜は信用できないのですが、「斯波氏の家臣」であったことだけは最近発見された史実で「下克上」にて伸し上った姓氏である事が判明確定しました。

ところが、これら123の系譜に書かれていない「平安期と鎌倉期末期のルーツ」はすべて不明と成っているのです。
家紋考証から織田氏の行動の節目の年代が観えて来るのです。

例えば”斯波氏の家臣で守護代に成った(1339)”と云う事が正式に解明されたところから色々なことが判明して来ます。この時期は「1339年」と先ず特定出来るのですが、これ等の節目の時期を確定して時代を遡れば平安期と鎌倉末期の事が判明する筈です。
恐らくは平家滅亡の1185年-最終決戦の1190年以降、室町期初期の系譜にあるところまでは少なくとも職人であったと考えられます。(下記)
家紋の考証から割り出しますと共通するキーワードは下記の様に成ります。
織田氏は「五つ木瓜紋」である事は間違いない唯一のところです。

それは現在から考証してこの「五つ木瓜文様」の氏のルーツの傾向が「職人あるいは殖産農業」の従事者の傾向を持っています。又、この木瓜紋の95文様の中の一つの氏には「農兵」であった事も資料と家紋から判っていますので、「五つ木瓜文様」には先ず農兵でもあった事が判ります。
という事はこの家紋の「五つ木瓜文様」は元は武士の可能性が大であった事が云えます。
平安期後、直ぐに足利氏系斯波氏家臣であれば寺の過去帳等のルーツに関するに類するものが存在する筈ですが現在見付かっていないので、直ぐに家臣ではなかった事は確実です。
足利氏の斯波氏が未だ然程大きい豪族では無かったのですから、斯波氏が鎌倉時代を通して次第に力を着けて居た事は事実ですが、北条氏の圧力から未だ自由に家臣を求められる状況では有りませんでした。
この事から家臣になった時期の算定が斯波氏の経歴を調べると出て来ます。
それは(「1280-1300年の間」)下記に考証考証します。
この様な家紋考証・考察を進めて行きますと、元のルーツのところの色々な出自等を探り出せます。
そこで、ただ一つ信頼に値する可能性のある「家紋の考証」から「たいら族」として検証を進めますと、そうすると上記した123の主張と基本が一致する経緯が観えて来ます。

  「家紋からの考証」
先ず、美濃-信濃域の山間部に落延びたグループであるとして(下記証明)、このグループで云えばこの生業にて生き延びたのは「たいら族支流」(下記 美濃平氏 通盛系)ですが、その家紋の「五つ木瓜(織田木瓜)紋」の五瓜がこれを物語るのです。
つまり、判っている史実の越前国織田郷の土豪(織田姓氏家 下記証明)をどの様に観るかに依って歴史評価は異なってくるのですが、上記の1、2は次ぎの「家紋考証」からそれなりの理屈は成り立つのです。
ただそれには根拠とするものには「五つ木瓜」の文様しか無いと云う事に成ります。
結局は問題は室町期のこの文様(「家紋」)の証拠力に関わりますが、かなりの事が判ります。

その主張している家紋は変えようと思えば変えられますが、変えるには全ての縁者や親族の家紋を変えると云う面倒な事が起こりますし、織田姓氏家一党の不明期の鎌倉期の段階では「五つ木瓜紋」の文様(家紋)としては無かったか有ったとしても「口伝状況」程度の筈です。
つまり、滅亡し衰退し隠遁生活の一族一党が生活の糧として「職人あるいは殖産農業」(家紋考証)に携わっている状況の中では、家紋とすべき文様的なものは、最早、「伝統的遺産」に過ぎず、丁度、仕官まで150年の経過期間(下記)を経ていますので、織田本家が「口伝」として遺してきたものに過ぎなくなっている筈です。
そこで、力を取り戻し土豪と成り表に出られる時期は、鎌倉幕府の勢力が低下し、平家一門(下記証明)としても最早、「討伐対象」とは成らなくなった時期は、室町初期の「下克上」のチャンス到来期(1280-1300)と成ります。この時初めて「家紋」と云う「伝統遺産」を表に出せる事に成ります。(下記証明)
では、その表に出られる経緯ですが、平家一門の様な場合は、通常は「職人あるいは殖産農業」に関わっていた場合は次ぎのように成ります。
先ず、「下克上」や戦国時代にはその土地の守護、この場合は尾張の斯波氏(室町期の11国の守護大名・足利氏系 各地に守護代を置く その一つが尾張)と成りますが、家臣は出陣と成りますと、一騎に対して普通は50人程度の兵を宛がわれその騎将は近隣の村から兵農の村民を徴収して来ます。この時、一人または一族一統の単位で「前金何両・・後金何両・・首何両・・手弁当・・」等を契約して揃えます。この事を専門にする斡旋業もいました。
その時、参戦して著しい戦功を挙げた一族一党の農兵には騎馬将や領主守護の信頼を得ます。この事繰り返す事で仕官という道が開かれて来ます。一族一党統等で参加した農兵はその首領が仕官しその首領の下に兵として一族の若者が孫仕官するという形が出来ます。
「美濃平氏」(下記)とも成れば元は武士で戦い慣れたものですから領主側からすれば願ってもない領民であり、守護領主が大きくなれば当然にこの様な優れた一族一党統は召抱えるが常道です。
これが織田郷の「隠遁美濃平氏」(下記証明)であったのであり、通常の農兵もこの一族の配下に仕官して兵の形態が生まれて行くのですが、一族を揃えての実力がありますから直ぐに伸し上がります。
これが尾張守護斯波氏の守護代(織田氏:ある史実の経緯がある)と成ったのがこの織田郷に辿りつきそこで土豪の織田姓氏を名乗った事を意味します。(下記)
その織田氏は次ぎの経緯を持っています。

 「織田氏の経歴の考証」
この「五つ木瓜紋」を家紋としている氏から観ると次ぎのような事が判ります。
先ず、織田氏が守護代になった時期は1339年です。
この事から鎌倉幕府が滅亡する直前の1290-1300年頃に斯波氏に仕官したと見られます。
この時1300年前半に、丁度、越前朝倉氏や今川氏や浅井氏などが斯波氏の守護代に成っています。織田氏はこの間仕官40年で他の守護代と違い度々斯波氏に従って出陣した史実の記録を持っています。この事から斯波氏は織田氏を信頼し可愛がっています。
1339年頃に尾張は「応永の乱」で幸運にも斯波氏は一度に2国(尾張と駿府)が手に入り斯波氏の領地と成り、この時に可愛がっていた織田氏は一挙に守護代に据えられます。
ところが斯波氏の中で「応仁の乱」を境に1467年頃から下克上が起こります。
駿府で今川氏、越前で朝倉氏が謀反します。しかし織田氏は謀反に加担をしません。
斯波氏の守護代の中では下克上を起こさず最も長く255年間も斯波氏を支えます。
しかしその織田氏は1554年を境に下克上を起こします。
斯波氏は領国11国を失い1561年滅亡します。
逆に斯波氏を背景にして織田信長の時に勢力拡大します。
経緯
1185-90年に最終的に三浦半島で平氏滅亡し、離散隠遁後120(150)年程度で斯波氏に仕官し織田氏名乗る。
織田氏の姓氏は越前織田郷より名乗ります。
朝倉氏が1300年頃に守護代になるが織田氏は未だ下級家臣です。
40年間の間に織田氏は記録から戦積を挙げるべく出陣回数が最も多く斯波氏に可愛がられる。
斯波氏は尾張等の2国領地となり急激に勢力拡大(11国になる)を図り家臣が追い付かない。
織田氏を1339年に尾張の守護代に大抜擢する。
鎌倉幕府滅亡し南北朝で国乱れる。1400年頃まで織田氏は斯波氏の中で出陣重なる記録あり。
室町幕府で一族の足利氏系の斯波氏は政治の中心として勢力拡大。 織田氏は力を付ける。
1467年前後から11国の守護代は次々と下克上で謀反 斯波氏は織田氏を使って奪回作戦失敗
斯波氏衰退し1550年頃から1561年まで織田氏は斯波氏を匿う。
織田氏250年以上斯波氏に最も長く仕えた家臣です。ところが戦国大名と成った元家臣と5年間密かに同盟。織田氏1554年斯波氏を名目上追放し尾張の戦国大名と成る。
1561年斯波氏の残所領は織田氏に流れ、斯波氏系の他の戦国大名を凌ぐ。
織田氏は同盟と斯波氏保護を前面に勢力を温存。1561年に2つの同盟を解消し旧斯波氏の家臣の戦国大名の朝倉氏や今川氏を全て潰します。

「120年程度の放浪生活」と「270年程度の家臣の歴史」を持ち、ほぼ「平家滅亡から400年の経緯」を有したことに成ります。

これらの予備知識を背景にして、家紋考証に話を戻して、この時、当然に、守護代とも成れば家紋を必要とされますので、「伝統遺産」として持っていた家紋を引き出して口伝・由来書を持出しある種の手を加えて類似する家紋を作り上げたのです。

この家紋の作り上げる経緯が次ぎの事から起こります。
「120年程度の放浪生活」の中で「家系不明の部分」に上記の1と2の経緯の宛がえが起こったのです。

そこで更に少し織田家に拘ってみます。意外にこの1と2の関りが出て来るのです。
そこで、織田氏の通説を述べて置きますと、次ぎの様に成ります。
"1300年前の1と2は全くの搾取偏纂 1300年の後は越前織田郷の土豪が斯波氏の尾張守護代に(1339)" の通説と成っているのです。
この事から割り出すと、斯波氏の家臣(1300)になるまでの経緯として観て見ると1185年の平氏滅亡離散から凡そ120年の間は不明に成っているのです。
この120年間は家紋考証から観て「殖産-職業人」で糧とし生きて、滅亡より100年位経った鎌倉幕府が衰退始めた頃から一族は農兵をしながら各地に仕官口を探しながら生き延びたと判断出来るのです。
この120年前の滅亡前は次ぎのルーツを持つ氏であったとしているのです。

「通説 滅亡前の織田氏系譜の主張」
1の藤原説は越前越後の藤原利仁-昌仁
2の平氏説は平重盛-資盛-親実
だと云っているのです。

1の藤原説
鎌倉期から室町期までは藤原氏は一時失職離散があったが本領安堵でその後勢力を「関東屋形」や「武蔵7党」等で勢力を持ち直しているのです。
まして、織田氏が云う120年間も一族一門が不明に成ると云う事は氏家制度の中で藤原秀郷一門は古来より融合氏であり藤原氏の独自の菩提寺や春日大社等の氏神で一族一門は詳細に管理されているので不明は全くおかしいし、足利氏(斯波氏)とは陸奥と信濃で秀郷一門は血縁関係にあり家臣になる事もおかしいのです。藤原氏系の足利氏に藤原氏が仕官は矛盾ですし、藤原氏北家であれば仕官の主家側にありますし、利仁流は秀郷流と並んで北家の2代勢力を室町末期まで維持したのです。
第一に利仁流にはこの様な人物は存在しないのです。
又、更に織田氏の時代考証がこの人物では120年位大きくずれています。
更に、越前(権守)に関わった人物は「利仁」の子供や末裔の中での長男の「大束」だけです。
利仁の9人の子供や孫・祖父等にはこの様な人物は存在しないので全くの搾取偏纂です。
要するに酷い主張の論外説です。
この程度の主張でもこの室町期はこれで通ったのです。周囲が皆立身出世の搾取偏纂の主張なのですから”赤信号皆で通れば怖くない”です。織田氏には限らないのですがこれで十分に済んだのです。
この時代の客観的立場から書かれたまともな資料には”後勘に問う”と最後に記述されています。
藤原氏北家筋としたのは「下記の経緯」から織田氏の当時の「考証力の不足」から間違いを起こしたと観られます。間違いではなく分からなかったが正しいと考えます。
そもそも木瓜紋は藤原北家筋の徳大寺氏の文様です。(下記)

2の平氏説は確かにこの人物は存在します。
しかし、親実はも資盛の子説と経盛の子説の2通り併記しているが先祖とするに自信がなく迷った形跡が観えます。これに関わる過去帳や菩提寺、氏歴の産土神か氏神または鎮守神の神社に存在するこのルーツに繋がる根拠は全く存在しないのです。
ただ、上記した「織田氏の経歴の考証と経緯」から藤原氏では全くない事と、この様な上記した「経歴と経緯」を持つ事は「平氏の末裔」以外にあり得ません。
そもそも急に斯波氏の守護代までに成れる実力は平安期に於いて組織的な実力の平家以外にはありません。
ただ藤原説としてあり得ない事が発覚し、口伝の経歴や経緯から平氏説が高いとしたがその特定の人物設定に考証力不足から搾取偏纂をしたのでしょう。
そこで、恐らくは「家紋考証」と「織田氏の経歴の考証と経緯」から”藤原氏では矛盾が大きい為にどうも平氏である”と観て訂正したと観られます。

「平親実」とは、「斎部親実」であり、斎部親澄と富田三郎基度の孫娘(あるいは蒲生親長の娘)との間の子とされます。
この人物は貞永2年(1233年)越前国丹生郡織田荘の織田神社(劔神社)神主。正嘉2年(1258年)出家し、覚性と号した。平姓は跡付けです。
この越前織田郷の「斎部覚性」「織田覚性」(或いは「津田親実」)を捉えて、この「覚性」を平資盛のこの「平覚盛」と重ねて同一人物として「平親実」として搾取偏纂したものである事は後に判明しているのです。
故に、「斎部覚性」「織田覚性」(或いは「津田親実」)は織田氏の祖である事に疑問があるのです。
「覚性」(かくせい)と「「覚盛」(かくもり)の音読みを使って同一人物と見せたのです。

実は、これには大きな史実が遺されているのです。
それは「美濃平氏」なのです。
この美濃には「美濃源氏」と、それに「美濃平氏」が居て元より混在地域でした。小競り合いがありながらもある程度安定した地域でバランスが取れていたのです。「たいら族」の本拠地の伊勢平氏と賜姓伊勢青木氏と同じ様に相反する立場にありながらも隣人付き合いをしてバランスを採っていた様に、美濃も歴史上有名な源平混在の安定地域でした。
そこに前記した常陸、上総、下総から追い出された国香・貞盛の末裔の「たいら族」(関東平氏)が1100年頃に美濃まで引き下がりここに定住したのです。
ところがこの事により「美濃平氏」(現地では「美濃平家」と呼称)とが混在していた美濃地域が勢力バランスが崩れ争いが起こり始めました。
以後、この「美濃源氏(土岐氏系)」と「美濃平氏」(通盛系)は常に勢力争いが絶えない有名な地域となりました。
そこで遂に「美濃平氏」と「美濃源氏」には、次の様な有名な争いの経緯が起こります。
「美濃源氏」は「尾張源氏」に加勢を頼み組んで「美濃平氏」を追い出しに掛かります。
有名な1180年10月「富士川の戦い」に於いて平氏は敗北して一度帰京します。
その直後の11月に「源頼朝、源信義追討の宣旨」が改めて出され、再度の源氏追討使派遣が検討され、その際、「平時忠」が「美濃源氏」を味方につける策で安定化の和睦策を進言しますがこれは容れられなかったのです。するとこれに11月に尾張・美濃の源氏が勢いついて更に蜂起したのです。
その後、「反平氏」の挙兵は畿内にも波及し、10月に「近江源氏」が挙兵します。
しかし、反撃に転じた平氏の軍事行動により先ず近江源氏の反乱勢力は制圧されます。
敗れた「近江源氏」の武将らは美濃へ逃亡して「美濃源氏」と合流します。
「美濃源氏」は「近江源氏」を迎え入れて平氏に対する抵抗を続けます。
1181年1月 平氏は美濃へ攻撃を開始します。
末裔の居る美濃に向けて「平通盛」が「蒲倉城」を落として「美濃源氏」「近江源氏」を制圧し「美濃平氏」を救います。(後にこの城が「美濃平氏」(織田氏)とって重要な拠点となる)
この様な経緯を経て通盛の流れを汲む「美濃平氏」の末裔が再び美濃を制圧したのです。
この有名な激しい戦いで両軍共に多数の戦死者を出しました。
一時は「美濃源氏」の中心人物である源行家を制圧し支流源光長(土岐光長)も討ちとられ梟首されたとの有名な歴史夜話の噂が流布。「美濃奪回・攻略」に成功した平氏は次に尾張制圧を続けます。
この直後に平清盛の死去 出陣は停止延期されますが、しかし、1181年3月に有名な「墨俣川の戦い」を迎えるのです。
この時に「美濃平氏」を救った「平通盛」の守護兵とその末裔はその後も美濃を守り続けますが、遂に1190年この「美濃平氏」は離散する経緯を辿ります。

この時期前、越前は始めは「平重盛」が国主でありましたがこれに代わって「平通盛」は国司で務めていました。しかし重盛死後1176年に通盛が越前守に成ります。
(ここで織田氏が主張する説の間違いを起こしている)
その後、朝廷内の政争ある事件が起こり1179年に平通盛は一時失職しますが、清盛がこれを解決して数ヶ月して戻ります。
その直後に上記1180年の反乱が起こり通盛は越前より美濃源氏制圧に動きます。
1181年の3月に制圧し、以後平家滅亡までの1187年まで越前と制圧した美濃平氏だけに成った美濃を合わせて平通盛が統治します。
この間、下記に示す1150-60年頃から美濃に教盛-通盛の末裔を置き、1176年から越前国司・守護を務めながら1187年までの約40~30年間程度は美濃に関わっているこ事に成ります。

上記の平通盛の経緯から観ても2の説の「重盛-資盛-親実の説」は確かに越前国主でありましたが京に定住していて、越前との関係は1176年では既に終わっていて、その前から平通盛が国司の実質の管理下にあったので間違っているのです。
越前-美濃の関係からは平通盛が実質の関係者なのです。
まして、もし重盛ルーツであるとすると織田氏は越前の土地の者と云う事に成り「越前平氏」なる一族がいた事になり新たな平氏説が生まれますし、平家滅亡後、鎌倉幕府の掃討も受けずに逃亡もせずに住み付きその土地に穏やかに居た事にも成ります。(越前は知行国で平氏領国ではない)
そして斯波氏にすんなりと仕官した事に成りますが、だとしたら「150年の過去の消失」は起こり得ませんし、織田氏の姓名も生まれない事に成ります。
とそう成ると当然に織田氏の神社、寺社も残っている事に成りますから「150年の過去」を消失する事はあり得ません。
そもそも各地の平氏掃討はそんな生易しいものではありませんでした。殆ど追手を逃れて都から遠く離れた人里離れた山間部を切り開き密かに隠れて住んでいたので生き残れたのです。(「隠れ里」と言う言葉がある位なのです)
紀州の資料に残る平家の村も四国の平家の村と云われる所等(平家の里)はこの様なところです。
”越前に居て越前に”などあり得ないのです。
現実に越前では平通盛は越前国人の全てから長い間反抗されていて”命令を聞かない”と清盛に愚痴手紙を送っている位にこの地の国府の平家役人の政治は上手く行っていなかったのです。
もし、2の説であるのなら平家の部族が居て武力で押さえ込んでいた筈です。
だから後白河法王は越前守を平家一門から外す事件が起きたくらいなのです。数ヶ月後に有名な政変事件を起こして平清盛が圧力を掛けて元に戻させたのです。
そもそも越前は平氏の「知行国」であって末裔子孫が定住する「領国」ではないのです。
知行の為に一定の軍を引き連れての赴任国でそこに赴任したからと云って、”子孫だ”と云うには矛盾であり、普通は知行国は政治的な知行能力があれば一人で幾つもの国を持つ事があり、重盛や教盛などは清盛の傍に居て補佐役で政権を維持する必要から代わりに「国司」を送るのが普通でなのです。
国司とは本来その役目なのです。越前も長い間「知行地行政」を平通盛が代行していたのです。
「たいら族」の平家は中部より以北地域は一時の関東を除き知行地でした。
本論6までのところに記述した様に美濃より以西地域が平氏を含む「たいら族」の領国であったのです。美濃がその最前線です。
「たいら族」の関東に押領使等で赴任しながらも一部には「関東平氏」の地域を作り出していた事も有りますが、その地域の「常陸-上総-下総」には「平将門の乱」はこの地域を領国として作り上げた上で近隣を制覇して更に進めて「独立国」を造ろうと考えた事件なのです。ここには元は一部は藤原秀郷の領国もあったのです。
この様に知行国と領国とでは社会慣習やルーツ的な事も含めて根本的に色々な事が異なる判断が起こるのです。この事を織田氏は系譜を作る時に既に400年前の祖先のルーツを伝え切れていなくなっていた事を示しています。微妙なところですが「たいら族」は承知していたと観られますが、「越前-美濃」と「清盛-重盛」と「教盛-通盛」の違いを間違えてしまったのです。
口伝で「清盛」(きよもり)と「教盛」(きよもり)の違いを間違えたために矛盾が生まれてしまったのでは無いかと観ています。

先ずはこのおだしが主張している2つの説はどこから考察しても矛盾があり、鎌倉幕府の地頭が居た越前から足利氏の斯波氏に越前は変わったのにその間何をしていたというのでしょうか。
重盛ルーツ説は搾取偏纂の疑問矛盾だらけですから通説でもどの様な根拠か不明ですが否定されているのです。
(参考 清盛-重盛 教盛-通盛 教盛は清盛の弟)
しかし、本論の「平通盛」の「美濃平氏」説では無理が生まれません。

「美濃検証」
更に詳しく家紋考証から「美濃検証」を進めます。
本来「たいら族」は「阿多倍-国香-貞盛」から始まり「伊勢平氏」(維衡が伊勢半国司に任じられる)と呼ばれる頃から本拠地の伊賀地方に居て、その勢力は北部に向かいその隣には後に「美濃平氏」の通盛支流末裔が定住し、1100年頃には「関東平氏」は常陸、上総、下総から美濃に引き上げて来ます。「美濃平氏」は「美濃源氏」本流と「土岐源氏」を凌ぐ勢力拡大を図ります。

ここで「美濃平氏」と「美濃秀郷流青木氏」との深い付き合いが浮き彫りに成るのです。
この時期に「美濃平氏」と「藤原秀郷北家一門」との血縁関係が盛んに行われます。
(北家秀郷一門の主要5氏の内3氏の13家13流が発祥します。)
最終、「美濃源氏:行家」の本流は滅亡し「土岐源氏」も圧迫され衰退し、宗家源の頼政の「以仁王の乱」を切っ掛けに最初に攻め落とされた「近江源氏」と合力して最後の決戦を挑むのですが、敗退し遂に遺された3源氏も「近江源氏」と「美濃源氏」と「尾張源氏」は滅亡するのです。
この「美濃平氏」は凡そ美濃には170年間位定住していて、この内1160年の後半50-30年が「平氏の拡大期」でもあり「美濃の拡大期」でもあったのです。
この期間が下記に示す「50-30年」の期間で、この間に藤原氏北家筋とも家紋考証でも見られるように盛んに血縁をしているのです。

「家紋が生まれ使われた時期は何時」
そこで、先ず家紋考証するに際して参考として、そもそもこの文様は御簾の周囲に施した刺繍の布巾「帽額」(もこう)に付けられた文様が独立したもので、木瓜や胡瓜をせん断した模様の切り口とされていますがこれは間違いで、そもそも歴史は中国で「果紋」と呼ばれ、唐の時代に官服として袖口に刺繍してその職位をあらわす文様でした。
これが奈良時代に使用された衣服や車紋や家財道具などに見られる物で、特に保元・平治の頃に多く利用されたのものなのです。資料からこの文様が最初に使われた時期は1156年に観られ「公家徳大寺氏」(藤原氏北家)の車紋に使われたとされています。
とすると、家紋として使われた時期は徳大寺氏の1180年-85年代であります。
この時期は綜紋「揚羽蝶紋」の平家一族が「美濃平氏」(織田氏)の支流まで家紋が定まっていたかは検証する必要があります。
これは象徴紋から家紋として発生した経緯と年代と氏数から明らかに成る筈です。(下記)
そうなると、この家紋が生まれた時期は何時になるのか””この文様を使った時期は何時になるのか”という疑問が湧きます。
当然に「美濃平氏」の末裔が本格的に使った時期は「平家滅亡」後の各地に姓氏が多く発祥した時期と成ります。(平家滅亡前には織田木瓜紋は使用されておらず「五つ木瓜紋」は使用していた事が証明出来ます。)
「織田木瓜紋」としてのその時期は室町期の「下克上」の頃が適切で1300年頃前後からと成ります。

次ぎに資料から越前朝倉氏が1335年頃後半にこの「菱木瓜家紋(3文様)」を正式に使用した記録がありますのでこれから考えると、少なくとも上記の1300年が妥当な時期と成ります。
この間、このグループの「美濃平氏」、つまり、「美濃守備隊の平氏」と「美濃に居た通盛系の平氏(後の織田氏)」等は、「越前-美濃-尾張-伊勢東」のライン域の山岳部(家紋分布)に先ず逃げ延びて、後世から観てこの家紋に関る何らかの職業(殖産と陶器家具等)に関り一致結束して隠れて生き延びた。
ほとぼりの冷めた頃、再び元の武士の力を盛り返して来て農兵をしながら仕官口を探して各地を農兵として転戦して行くうちに、一部の「美濃平氏」は織田(斯波氏)に仕官口が見付かり、その後土地の土豪として定着し農兵から武士に戻ったと観られます。
この時が室町期初期(南北朝期前後)で、仕官口が当時の足利氏であって勢力を拡大していた斯波氏に見出され「美濃平氏」の一族は家臣と成ります。
これは斯波氏の経歴と一致します。
ところで室町期初期から斯波氏は各地に勢力を広めましたが、足利氏系斯波氏の領国間運営は「守護代方式」を11国に採用したのです。
拠って足利氏の急激に増える領国の家臣が大量に必要に成ります。
(斯波氏11国 越前、若狭、越中、山城、能登、遠江、信濃、尾張、加賀、安房、佐渡)
それも陸奥から始まり九州までに及んできますので1農兵の単位では間に合いません。
(斯波氏は陸奥斯波の地名から名乗った)
そうなると、「即戦力」として平家滅亡の各地に飛散隠遁している平氏に目を付けることに成ります。
この事が「斯波氏の思惑」と「美濃平氏の思惑」が一致していたのです。
「美濃平氏側」からすれば、”斯波氏が兵をどこそこで求めている”と云う噂を聞きつけます。そうすると農兵をしていた美濃の一族は挙って集まります。丁度、その土地が斯波氏の越前で求めていてそこに駆けつけて一族が農兵と成って大活躍をし、その元武士の実力の「即戦力」から「斯波氏の信頼」を一挙に得たということに成ります。
現実に斯波氏の記録から、斯波氏は戦力の中でも「美濃平氏」のこの一団に対して目を付けて便利に各地に連れ行った記録が残っています。つまり、「即戦力」に成ったからです。
その為に守護代になるのが遅かったのです。普通ならそれだけに「即戦力」の実力があったのなら朝倉氏の様にもっと早く1310-20年頃には守護代に成っていた筈です。
しかし、斯波氏にとっては「信頼でき即戦力」となれば勢力拡大著しい時期の斯波氏にとっては喉から手が出る程に必要としていて、守護代として固定させる訳には行かなかったのでしょう。
しかし、斯波氏はその代わり40年後に越前などに比べて尾張の温暖で主要な穀倉地の守護にします。

当時、この様な農兵を集める仕事をする専門の斡旋業が横行していて、「斯波氏」や「美濃平氏」双方からこの斡旋業に繋ぎを求めていた可能性があります。
筆者は考えるには、1300年頃に越前で朝倉氏等が斯波氏の守護代に成っていますが、1250年頃に「美濃平氏」の別働隊(美濃守備隊か通盛末裔隊-3集団の第2集団)が鎌倉幕府が傾き始めた時期の早期に動いて先に仕官口を得たのではないかと推測しているのです。
それは、諸説ある朝倉氏等の家紋がこの木瓜紋類(菱木瓜、三つ盛木瓜、一つ木瓜 :四つ木瓜紋は疑問)であるからなのです。同じ文様である事は見逃すわけにはいかない要素です。
そこで織田郷の「美濃平氏」の土豪一族は家紋として関った職業と口伝から「徳大寺木瓜紋」(四つ木瓜文様)から「何らかの経緯-血縁」を経て、案じて「織田木瓜紋」(五つ木瓜文様)に成り、それを使用したと考えられますがその検証が必要ですし、又”案じたのか始めからなのか”も家紋考証で見てみますとこの2つの答えが出て来ます。

「何故木瓜紋にの経緯と理由」
ここで先ず、先に問題は”何故木瓜紋にしたか”の経緯と理由です。
この紋には実はそれなりの確実な経緯と理由があるのです。

その前に本論とは外れますが、参考として次ぎの事を知って置くと更に深い興味が湧いてきます。
「美濃平氏」(織田氏)と因縁浅からず越前朝倉氏も浅井氏も織田氏と同じ木瓜文様類を使用している事です。その「ルーツと経緯」が実に酷似している事なのです。
同じ斯波氏の越前から始まった守護代であった両氏には因縁何かあるのかも知れません。
この朝倉氏は諸説紛々で現在のところ定まっていません。
殆どは上記した様に織田氏と同じで搾取偏纂で織田氏より酷い状態ですが、その諸説の共通点を纏めますと次ぎの様に成ります。
「朝倉氏のルーツと経緯」
大化期頃の帰化人・九州出自・神官は共通の通説で、阿多倍が引き連れてきた北朝鮮系後漢の職能集団の「祀部の末裔」と成り、平安期は九州-伊勢伊賀-美濃域の神官であった。 後に「たいら族」の支配下にあった経緯を持つ事。平安末期は美濃に居た事。 鎌倉期に武士に転身した事。 前身は日下部氏ら3氏(伴氏、紀氏 飛鳥期からの5大氏 3氏とも後付の木瓜紋類 伴氏は九州の弁済使)の枝葉説である事。
この朝倉氏の事を背景に考察すると、少なくとも織田氏は阿多倍一族一門の「たいら族」かその配下の技能集団の出自である事が頷けます。
但し、家紋を「五つ木瓜紋」として考証すると「たいら族」の末裔と成りますが疑問が多いのです。
しかし、考証の前提とする物は家紋しかないのです。
朝倉氏は天皇末裔説と阿多倍一族一門の技能集団の祭祀を司る「祀部」の末裔説の2つに分かれます。主張する家紋3種(菱木瓜、三つ盛木瓜、一つ木瓜)から観るとこの家紋は室町期の家紋類ですので織田氏の「五つ木瓜紋」類とは時期が異なります。
朝倉氏はこの矛盾を隠す為に唐突に「四つ木瓜紋」(徳大寺氏家紋)を持ち出しているのですが、阿多倍の技能集団の祀部である事は共通の通説、即ち学説ですから直の「四つ木瓜紋」は室町期中期までは有り得ない家紋と成りますのて搾取偏纂は明らかです。
結局、木瓜紋から観ると、「藤原氏北家の徳大寺氏の末裔」か「藤原秀郷流青木氏」との血縁しかありえませんので、ルーツとしての家紋を観ると、斯波氏の家臣に成った1250年代の朝倉氏の家紋の時代考証が不明不祥なのです。
この考証から見ると家柄は織田氏の方が上である事に成りますが、ドラマや通説などでは数段に朝倉氏の方が上と成っていますが、これは殆ど信用できない天皇説を独自で主張しているからで間違いない祭祀部から観れば(共通説から観れば)織田氏側の方が主君側に成ります。
織田氏と朝倉氏の戦いでは朝倉氏は虚勢を張って肩を怒らし家柄をよく見せての織田氏への態度は、信長がこの事を知っていれば”片腹痛い”と成ります。信長は同格程度に見ていたのでは無いかと観ています。
後勘から云えば家紋考証では”織田氏の方が家柄は上、斯波氏家臣では40年の朝倉氏の先輩””出自経緯からは”織田氏は朝倉氏の主家”と成ります。

朝倉氏の方が配下と云う立場から鎌倉幕府との”しがらみ”が無い為に数段に仕官運動を早めにできた事に成り、50年遅い織田氏は「美濃平氏」の立場を補完する様に遅くなった事が頷けます。
家紋を考慮しないで観てみれば、両氏は斯波氏の経緯から観て”美濃平氏の配下”か”たいら族の配下”と成るでしょう。家紋考証が大きく左右しています。

兎も角も朝倉氏は青木氏とは無関係であるので研究を進めると面白いですが此処までとして、織田氏は青木氏と関係する氏族であり、同じ時代を同じ糧で生き様も似て、生きた氏族で助け合いの絆もあった氏としてこれからも研究を進めます。

話を戻します。
「五つ瓜桔梗紋」の位置付け
この文様が大きな決め手に成るのです。
そもそもこの「五つ木瓜紋」には「7つの酷似文様]があるのですが、それとは別に放置できない極めて又似ている「五つ木瓜紋」が一つあるのです。これが大きな決め手に成るのです。
それは「五つ瓜桔梗紋」です。
桔梗紋は上記した「美濃平氏]と1181年に戦って滅びた「美濃源氏」系支流の「土岐氏」の家紋です。
つまり、既に滅びる前に「美濃源氏」の土岐氏と、上記した北家秀郷一門の3氏の何れかと血縁して「五つ瓜に桔梗紋」が平安期に出来ていた事を示します。
当然に秀郷流青木氏か秀郷流長谷川氏かですが、美濃は青木氏の領域ですので美濃土岐氏とでは地理的に青木氏の方が極めて可能性が高いことに成ります。
そもそも長谷川氏には五つ木瓜紋の単独の家紋はありません。織田木瓜紋のみですのでこの場合は対象外と成ります。また美濃の秀郷流青木氏は特別賜姓族でありますので家柄と有品の位から観て吊り合いは青木氏と成ります。

「美濃の秀郷流青木氏と美濃源氏土岐氏」、「秀郷流青木氏と美濃平氏の通盛系平氏」の2つの関係が「美濃の秀郷流青木氏」を仲介して血縁して互いに血縁により上記した「勢力バランス」を維持していた事を示します。
上記した様にこの様な事が家紋考証から観ると美濃秀郷流青木氏を介して三角形の形でこの美濃の勢力バランスが取れていた原因なのです。

その「五つ瓜桔梗紋」に成る経緯に付いて追記しておきますと、つまり、「五つ木瓜紋」の青木氏が土岐氏と血縁して土岐氏側に「五つ木瓜紋」の青木氏から跡目養子を受けた後にも続けて男系継承の跡目が叶わず両者の家柄(土岐氏が上)から養子側の家紋とせずに「五つ木瓜紋」に唐花部分を桔梗紋にして変紋せずに「副紋方式」を採ったのです。
この方式は藤原氏北家一門の青木氏が家紋掟の仕来りとしてよく使用した方式です。「藤原方式」と呼び24地方で青木氏の本家がどうしても一門から探しても男系継承が困難と成った場合に用いた仕来り手段でした。
宗家本家筋はこの場合2つの方式のどちらかを採用します。一つは上記の方式で、もう一つは主紋をそのままにもう一つの副紋を2つ併用して使用する方式です。
枝葉には夫々本家筋が存在しますが後者を使用する習慣と見られ、前者は宗家筋の傾向を持っています。
(例えば、讃岐藤氏の讃岐の宗家青木氏は「下がり藤紋に雁金紋」、雁金紋は足利氏系花房氏の例 秀郷流賜姓青木氏と賜姓源氏の支流土岐氏は家柄は同格)下がり藤紋の真ん中に雁金紋などを入れて本家筋の変紋を防ぐ方式です。

話を戻して、ところがバランスが崩れたのは常陸等から「関東平氏」が美濃に引き上げてからバランスが崩れましたから、この家紋の血縁時期は1150-60年前後と成ります。
つまり、「五つ瓜に桔梗紋」が存在する限りは「秀郷流青木氏と美濃平氏の通盛系平氏」の血縁は、その家紋は少なくとも1150-60年前後域と成ります。
1181年で決戦が行われ土岐氏は完全に滅亡したのですから、その後の「五つ瓜に桔梗紋」は存在しない訳ですから、その後も5-7年は「美濃平氏」が美濃を支配していたことに成ります。
従って、この家紋は「美濃平氏」が滅亡前(30-40年)に既に家紋として使用していた事を示します。

従って、結論は「美濃平氏」の織田氏に成った時期には既に家紋は持っていた事に成ります。

それを正式に使ったのは1335年前後(1339前)で、「織田木瓜紋」として一部判らない様に修正したのは1339年頃と成ります。

次第に天下を治めるに当たって美濃の「藤原氏秀郷流青木氏」の支流紋そのままにするには「藤原秀郷流青木氏」の支流族としても、「美濃平氏」の支流一族としても、権威として問題があるとして独自性を強調する意味から「五つ木瓜紋」に見えない修正をかけて去勢を張ったと観られます。

その「7つの類似五つ木瓜紋」即ち、「五瓜に唐花線陵紋」類は、3つは織田氏の本家分家一族、残りは藤原秀郷流青木氏2つ、長谷川氏1つ、永嶋氏1つが使用しているのです。
そこで、類似紋の「3つの織田氏の紋」は美濃平氏の「織田氏の3集団」(下記)に一致し、使い分けしているのです。

「30年間の経緯」
以上は職業紋から考証したルーツですが、滅亡前にこの家紋の主の徳大寺氏、即ち、藤原氏北家筋との何らかの血縁関係(上記検証)から美濃平家支流の越前織田郷に1300年頃に定住した一族がこの家紋を落人時代からも密かに伝承していた可能性が極めて高いのです。

そこで、この家紋の主は徳大寺実能を始祖としていますから、徳大寺氏一族との血縁関係があるとして使用したとした場合、その期間上記の約30年の前の間に秀郷一門と同族血縁していたことに成ります。
これをどう観るかですが、ここでも「美濃平氏3分家」までの藤原氏北家筋との血縁が有り得ない事も有りません。
当時の北家筋とは3大豪族の一つですので秀郷一門青木氏であったとする可能性は上記の経緯からも明らかですが、しかし、支流の「美濃平氏」と直接に京の「徳大寺氏」とが血縁をする可能性がありません。それは地理性や時期性や家柄性や戦略性から平家本家を超えて血縁をする事は氏家制度の仕来りから観て皆無ですので、「美濃秀郷流青木氏」と「美濃平氏本家」との血縁は兎も角も「美濃平氏3分家」までの血縁はこの期間内に果たして有り得るのか疑問なのですが確認は難しいのです。
類似紋とすれば先ずは支流までは無いと考えます。本家の類似変紋にあわせて分家筋が更に変えたのだと考えます。
有るのと無いのとでは美濃平氏の考証関係には問題が無いのですが、この「織田氏3集団」のどの集団が斯波氏への仕官口を掴んだのかが変わってくる問題です。

「4つ木瓜」と「5つ木瓜」の仕来り
それには先ず「4つ木瓜」と「5つ木瓜」との違いがあります。
「五つ木瓜紋」は平安後期のもので平安期には少なかった文様でその文様の元は「四つ木瓜文様」に成っているからです。「四つ木瓜」と「五つ木瓜」は変紋による類似家紋で家紋掟によって分家が起こりますとその分家が本家の家紋を引き継ぐことが出来るかは本家の裁量に委ねられます。
その際分家を興す者が「本家の嫡子と妾子との身分関係の有無」、「嫡子と妾子との親密度の有無」に依って家紋継承の有無が決まります。
本家が容認しなければ類似紋か最悪は別紋という事に成ります。支流化の枝葉が広がるに連れてその可能性は広がります。
「四つ木瓜」より「五つ木瓜」に成る事は上記の2つの条件の何れかが適用された事を意味します。
「四つ木瓜紋」にも類似紋の変紋、「五つ木瓜紋」にも類似紋の変紋がある様にその関係度が判断出来ます。
別の氏が類似紋とする場合は氏家制度の中では争いが起こりますので同じ木瓜文様とする場合は争いが起こらない程度に大きく変紋をする事が仕来りとして要求されます。
歴史資料の中で”提訴したが最終戦いで決着と成った”とする史実もあるくらいでした。
この様に類似家紋に無なっている事は当然に身分家柄の関係が低くなった事を意味しますので、徳大寺氏から観れば直接血縁は有り得ない事に成ります。
これらの仕来りに依って既に「五つ木瓜紋」に成っている訳ですから、秀郷一門の中で起こった類似変紋の過程と成ります。そして、この「秀郷流青木氏の木瓜紋族」の支流と「美濃平氏」の支流とが養子血縁して家紋掟の男系跡目を理由に「美濃平氏」側にこの「五つ木瓜紋」の家紋が発祥した事に成ります。
上記した様な分類からその美濃平氏側でも類似変紋した事に成ります。

又、「美濃平氏」の支流一門として当時の京の平安期の最高権力者の一人徳大寺氏とが身分家柄の吊り合いの仕来りから血縁する事はありませんが、念の為にそこで調べました。
実は上記した中継可能な方法で血縁しているのです。上記した仕来り通りに現実が動いていたのです。
秀郷一門主要氏の中で次ぎの一門が血縁しているのです。
次ぎの3氏です。

青木氏  4つ木瓜、丸に4つ木瓜、・五つ木瓜 糸輪に陰木瓜、横木瓜、丸に横木瓜、
長谷川氏 ・織田木瓜、横木瓜、丸に横木瓜、四方木瓜、、三盛木瓜
永嶋氏  丸に木瓜、・丸に五つ瓜に唐花
以上3氏です

北家は9氏中7氏が秀郷一門ですから、可能性は極めて大です。
「徳大寺氏」の家紋から13家紋と成ります。
北家筋の徳大寺氏と北家筋秀郷一門との同族血縁をしているのです。それも13家に及びます。

その中で本家筋は青木氏の「四つ木瓜」、長谷川氏は無し、永嶋氏は無し
分家筋は青木氏は「丸に四つ木瓜」、永嶋氏は「丸に木瓜」(四つ木瓜は木瓜と同じ)
支流は青木氏と長谷川氏の「横木瓜」、「丸に横木瓜」

直接血縁の長谷川氏の「織田木瓜」紋と成ります。
直接血縁と観られる青木氏の「五つ木瓜」紋と成ります。
直接血縁と観られる永嶋氏の「丸に五瓜に唐花」紋と成ります。

(「五つ木瓜」は判別困難の文様が7つもあり「織田木瓜」であるかは不明。「五瓜に唐花」もこの7つの一つで不明)
青木氏だけが徳大寺氏一門の本家との血縁を幾つも重複血縁の血筋を持っています。
ここでこの事から観て次ぎの2つの関係の可能性が高いと観られます。

A 青木氏と美濃平家(織田氏)
B 長谷川氏と美濃平家(織田氏)

参考として先ず徳大寺氏とは、北家藤原実能が屋敷に小堂を建て徳大寺と名付け出家しその後徳大寺を氏名として名乗ったものです。(徳大寺氏の経歴は下記)

A 青木氏と美濃平家(織田氏)
Aの説から、北家秀郷一門の青木氏との同族血縁(6氏)をし、青木氏に跡目を入れたが男系継承ならずして養子先系列の「四つ木瓜紋」の青木氏が発祥となり家紋は「四つ木瓜紋」となる。この「四つ木瓜紋」に分家支流が発祥し、その分家裔が正妻と妾妻との身分差から家紋掟により「五つ木瓜紋」の青木氏を発祥させて生まれた家紋です。
この美濃の「五つ木瓜紋」の青木氏と「たいら族」(京平氏 桓武平氏、伊勢平氏)一門との養子血縁で美濃の「たいら族」側(美濃平氏)に男系継承ならず家紋掟により養子先家紋の家紋の「五つ木瓜紋」となった。この間30年の期間の出来事です。
しかしその後、「平家滅亡」により美濃-越前付近山岳部に隠遁し職人的糧により生き延びて後、室町期初期の下克上期に再び力を得て越前織田郷の土豪となり勢力拡大を次第に図る。この時、家紋を五つ木瓜紋(5瓜)に戻そうとするが、平家一門であるので敢えて北家紋の「五つ木瓜紋」から一部変紋して美濃平氏系列の独自の「織田木瓜紋」(5瓜紋)とした。そして室町期の公表されている「織田氏の系譜」の人物に入り(最終は斯波氏の尾張守護代)信長の経緯に至る。
以上の経緯が仕来りから間違いなく起こったと考えられます。

青木氏と守護神(神明社)-8に続く。
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青木氏と守護神(神明社)-6

[No.273] Re:青木氏と守護神(神明社)-6
投稿者:福管理人 投稿日:2011/04/21(Thu) 08:47:26


青木氏と守護神(神明社)-6

 「生き残りの秘策」
ここで、更に”もし「3つの発祥源族」と「皇族賜姓族の立場」の名誉だけで青木氏は「融合氏」として果たして生き残れたのか”と云う疑問が残ります。
しかし、これには実は「生き残りの秘策」が在ったのです。
それは5家5流の土地の開墾地の「物造り」の産物を殖産しそれを「商い」(紙関係・墨硯等)とする「2足の草鞋」策なのです。「商い」は「3つの発祥源族」と「皇族賜姓族の立場」からすると氏家制度の中で当時とするとかなり異質であり、それこそ源の頼信系の様に”模範となるべき氏が何事かけしからん”と世間から「疎んじられる」事は明らかです。
しかし、それを「2足の草鞋」としたところに意味があるのです。表向きには「別人の商人」とした処で「疎んじられる」事を避けたのです。又、「開墾地の殖産」の為と云う「大義名分」もあったと考えられます。
それも武器等の品位を汚すものではない「紙関係」なのです。
この為に周囲はなかなか表向いて批判は難しいかったと考えられます。”見て観ぬ振りをする”以外に無かったと観られます。
恐らく、天皇家の体質としては”皇族、貴族は自ら「武力」を持たない”と云う「仕来り:慣習」が会った事から考えると、同じ賜姓族の源の頼信系の源氏の様に「武力」に繋がるものであったなら同じ憂き目に会っていた事は間違いないと観られます。
この事から賜姓5家5流青木は「紙関係業」と、秀郷流青木氏は水軍を使った主に「回船運搬関係業」であった事からも”非難は小さかった”と決められます。
同じ「品部」を使ってのものであっても、その差は青木氏は「開墾-殖産-販売-運搬」と、片方の頼信系は「荘園勢力・武力」とで異なっているのです。
現実に、仮に「開墾-殖産」までは同じとしても「販売-運搬」の「商いの領域」を行える力のあるものとしては当時では先ずは「ある程度の勢力」を堅持していなくてはこの「商いの領域」は成り立ちません。
当時は大量の「販売-運搬」には危険が伴います。この危険を担保するには矢張り「ある程度の武力」を必要とします。「民の商人」ではこれは困難です。「民が武力を持つ事」は法的に不可能です。
仮に闇で持ったとしても潰されるが落ちです。まして、「運送する」と云う事に成ると通過する長距離の国間の警護が伴います。これには「シンジケート」を構築する以外にはありません。
「民の商い」では金銭による経済的な支援で構築できますが、多種多様なシンジケートの武力を金銭だけで確保する事は無理であり、そこには「ある程度の武力」と「高い権威」と「重厚な信頼」とが無くては「氏家制度の社会慣習中」では成立しません。

この「ある程度の武力」と「高い権威」と「重厚な信頼」の「3つの条件」は「血縁」と云う形で形成されて行きます。これは「民の商い」では氏を構成しない為に「血縁の意味」が氏家制度の社会慣習の中では成立しません。まして「民の血縁」は法的に身分の境を制限して平安期までは定められていますから無理であり、そもそも「民」の中には「商人」の独立した身分は上記した様に現実には無いのです。
部の制度のシステムの中(平安期)では相互間に「物々交換」を主体とした「売買」であり、実態は金銭を以て行うのは限られた範囲の身分に相当していたのです。
「物々交換」が困難なものに対する手当てであったのです。
例えば、シンジケートへの「経済的支援」などは「物々交換」は困難であり金銭を以て行われていたのです。故にこの平安期の「大商い」は「民の商い」では社会体制から無理でありそもそもその概念が低かったのです。
これが「融合氏」の「氏家制度」(相互扶助:上下支配)の一つの意味なのです。
この「氏家制度」の「社会概念」が間違えるととんでもない答えが出てくるのです。この氏家制度の平安期に「商いの概念」が薄かった時代に「生き残りの手段」として選んだと云う事は大変な画期的な手段であったのです。
丁度、この時には伊勢平氏伊賀の末裔太政大臣の平清盛も「平族」として「宗貿易」を実行したのです。
その伊勢の松阪では伊勢青木氏が中心となって国内は元より摂津と堺にも2店舗の大店を構え同じく5家5流の紙を中心に「宗貿易」を行っていたのです。
意外に、平清盛は、伊勢青木氏との「付き合い」が同じ伊勢国の隣同士(伊賀)であった事からかなり親密な付き合い関係があった事が後の「ある事件記録」の中に伺えるので、大いに青木氏の商いに触発されたのではないかと観ています。(触発は逆の事も考えられる)

参考
「ある事件記録」とは、源の頼政の「以仁王の乱1180」の敗戦の時、源3位頼政の孫の「京綱」(伊勢青木氏跡目)を除く「有綱、宗綱の助命嘆願」を清盛の母等を通じて伊勢青木氏が行い「二人は日向配流」で助けられた実績がある。(後にこの二人は廻氏との間で日向青木氏を発祥させる)
この乱の時、源の頼政-仲綱親子は伊勢松阪の京綱の居る伊勢青木氏に向けて逃げる途中、宇治の平等院で切腹する。逃げていれば助命嘆願の経緯から何らかの「時代の変化」はあったと考えられる。

以上の様に「2足の草鞋策」の「商い」(古代和紙)による「経済的な潤いを背景」として「生き残る力」を保ち苦難を乗り越え「秀郷流青木氏」を含む「4つの青木氏」は子孫を現在まで遺せたのです。
特に「絆結合の青木氏2氏」も大変であったと考えられます。現在でも存在する伊勢松阪と員弁、桑名、四日市、名張の「青木村」には血縁に勝る絆で1千年もの間、数え切れない子孫から子孫を村で引継ぎ、主家青木氏を支えてきたのです。血縁以上のものがあったと考えられます。
伊勢青木氏で38代目位に成っていますが、”明治35年時では250名以上の昔からの家人が居たと口伝され隣の玉城町の面積の8割はこれ等の家人の住居と蔵群であった”と、当時の店主の祖父と父から真新しい口伝として聞かされているのです。
この様な意味から「絆結合」で名乗った青木氏は最早、「家族の一つ」であったと認識しているのです。
伊勢のみにあらず「生仏像さま」と「笹竜胆紋」で固く結ばれていた「4家4流」と「秀郷流青木氏」と「絆結合青木氏」は少なからずも上記の様な経緯の中にあったと歴史的に観て考察されます。

話を戻して、そもそも秀郷流青木氏も母方を機軸とした「3つの発祥源族」と「皇族賜姓族の立場」にあり、且つ、摂関家北家一族の藤原氏と云う「名氏の立場」もあり、藤原氏の中でも氏家制度と云う環境の中では厳しい難しい立場にあった筈です。
故に24地方の秀郷流青木氏と同様に中でも「讃岐籐氏」の青木氏の様に大々的に「2足の草鞋策 回船問屋」を実行したのです。その先鞭をつけたのが皇族賜姓族5家5流の青木氏であると考えていて、伊勢青木氏の口伝(浅野家の取潰しの際の所蔵品・貴重品の買取)からも讃岐籐氏青木氏の回船業との繋がり関係が垣間見えてきます。
ですから、源氏一族の頼信系は方向性を間違えて完全滅亡し、頼光系も「2足の草鞋策」を講じないままにした事で平家に圧迫されて、遂には「以仁王の乱」に突入せざるを得ず、結局、5家5流青木氏には跡目を入れて青木氏として遺しはしたものの、頼光系も「2つの立場」(「3つの発祥源族」と「皇族賜姓族の立場」)は保ったにせよ未勘氏を多くしたままで源氏としての直系子孫は遺せなかったのです。
頼光系は摂津、河内、伊豆に3領国を持ちながらも経済的な裏づけが子孫を大きく残す程に無かった事によります。
頼信系を含む11代の源氏は荘園に繋がり勢力を拡大すれば子孫を遺せると考えていて、皇族賜姓族5家4流は毅然としてその立場を弁え勢力拡大には目もくれず「商い」に依る「経済的自立」で子孫を遺せると考えたのです。
結局、荘園に関わる勢力拡大は互いの勢力の保持の為に戦いが起こり戦いで全て滅亡してしまったのです。「血縁による2つの青木氏」とその絆で結ばれた「絆による2つの青木氏」にとって、「商い」(古代和紙)は、武力による戦いは無く細々としながらも、大きく現在まで子孫を遺せた源なのです。
況や、武器を使わず知恵を使う「物造り」に依って生き延びられたのです。そしてその「心拠りどころ」として「祖先神」を敬う「神明社」がそれを支えたのです。(参考 源氏は「八幡宮」を守護神とする)

(結局は伊勢に直系の跡目と伊豆には頼光系4代目頼政の血縁の信濃青木氏と伊勢青木氏の末裔を遺した事で終わる。後は傍系と未勘氏である)

話を戻して、青木氏の守護神(神明社)-5の「3つの発祥源の族」と「皇族賜姓族の立場」に続けます。

次ぎに上記の様に「良民」の範囲も定めました。良民の範囲が決まると残る「民」を「賤民」(せんみん)として呼称しその奴婢を更に五段階に分けたのです。
この五段階に分けた理由は次ぎの2つの理由に因ります。

第2期奈良期- 朝鮮半島の動乱難民→「融合民」
第3期平安期- 朝鮮半島の難民・中国大陸からの難民→「融合民」

理由1 続々と入国してくる「難民」に対処出来なくなりこの難民の処置に困ります。
そこで、これらを「賤民」に所属させ「奴婢」(ぬひ)として扱いその難民のレベルに合わせて区分けします。

これ等の「難民」は次ぎの通りに分類されて身分分けされました。
貴族の奴隷、
官僚家の奴隷、
武家の奴隷、
天領地の奴隷、
豪族の奴隷
以上5つの職位域の集団に吸収されて行きます。

  「民分類の解体」
夫々は奴隷で5つの集団に隷属して離脱する事は出来ない為にその集団の中で融合して行きます。
しかし、この身分制度は900年頃を境に解体を徐々に進めます。

「賤民制度」は901年から923年の間に解体。
「品部と雑戸」の関係は890年を境に解体。

これ等は丁度、荘園制のピーク時に当たり何れも890-923年の間の解体で一致しています。
この荘園制がこの身分制度のこの解体で益々勢い付いた事に成ります。

解体理由は次ぎの3つに因ります。
1 良民間、良民と賤民間、賤民の奴婢間に著しく融合が進み最早「区分け」の理由が大筋を残して無くなりつつあった事
2 荘園に賤民が大きく吸収され、「税と労役」はその荘園から徴収出来る体制に変化した事
3 この解体をきっかけに5つの区分けした集団の賤民が集団間の垣根が取れてますます「民の融合」が進んだ事。

900年前後に起こった「品部」等の「身分解体」により「民の融合」が著しく進みます。それに連れて「荘園大集団化」がその勢力に応じて加速度的に発達して進みます。結局、「民の身分解体」と「民の融合」は進み、挙句は「荘園の行き過ぎ」のその加速度の勢いは逆に最早誰の力も及ぶものでなくなってしまったのです。
しかし、ここで疑問が湧きます。
「民の身分解体」により「民の融合」を推し進めることには理解できますが、当然にこの事に依って懸念している筈の「荘園の行き過ぎ」は加速する事は、「朝廷と天皇家」にとっては「国家の政治態勢の維持」が困難に成る事は解りすぎる位に判る筈です。しかし、「民の解体」は実行されたのです。
これは「天皇家」と「朝廷」との間に思惑の解離があって「朝廷」を牛耳る「名義荘園主」と「官僚の主体」と成っている阿多倍一門一族の勢力の方が勝っていた事を物語るものです。

「天皇家の勢力」<「官僚の勢力」=政治の横暴と腐敗

まして、その解体で朝廷は「税の収入増と安定」が図られるし、「1、2、3の解体理由」が政策的に「融合」と云う点で合致していた為に”好ましい現象”で”解体政策は成功”と捉えていてそこに大義名分があったのです。そちらの方に目を向けていた事も考えられます。この間の累代の天皇は「無能」と云う以外に無かった事を物語ります。
しかし、これは同時に、「量的」な「荘園の拡大」、取り分け「質的」な「荘園の大集団化」に都合が良い事に気が付かなかったのです。”累代の天皇家は気づいていたとしても何ともし難かった”が真実の処でしょう。
しかし、下記123の状況を作り出した事から考えても”何をしているか本当に”と成ります。これが為政者としての「無能」の前提と成らずして何が前提でしょうか。

1の理由では、「区分け」が無く成ると云う事は荘園にとっては逆に自由に労役要員を確保が出来る事に成ります。
それまでは荘園開拓には限られた数の「部曲」(農民)を使う訳には行かず、無理やりに武力を使って「難民や俘囚」を確保する事が必要であり、この「難民や俘囚」は朝廷の管轄下にあった為に、今度は自分の力を使って確保する事が自由に出来て且つ「無届」が出来る様に成ったのです。

2の理由では、1に依って確保した「労役の担い手」には「税と労役の責任」は朝廷に対し詳細不明による「無届」とする事で逃れられ収益はより高まります。

3の理由では、「賎民の垣根」が取れる事でそれまで法で押さえ込まれていた血縁が自由に成り、出生率が増え「労役の担い手」が自然増加しそれを「無届」とする事で「自前の分」の生産力が拡大します。
(戸籍制度の有名無実化が起こった 戸籍の廃止 これ以後江戸時代まで続く)

この123の解体で900年頃を境に「民の融合」としての国策は進んだのですが、結局は荘園主はより朝廷への「税と労役の負担」は軽減される事に成ってしまったのです。
つまり、「内部留保」が大きくなりより「荘園力」を増すように成ったのです。

ところが、この「無届」には更に増幅させる「愚かな措置」を発したのです。
それは「奴婢戸籍」を廃止し「戸」を形成出来なくしたのです。この為に更に「無届」が横行したのです。

これでは何か「朝廷の政策」が影では「融合の目的」とは逆の「荘園自由化」に成る様な事をしている気がします。事実その様にして阿多倍一門一族の官僚主体は「九州自治」を実現できる様に圧力を加えていたのです。如何に天皇と朝廷の間は腐敗していたかが判ります。

ところが、この腐敗の犠牲に耐えかねた民は、その証拠に、この「賎民」即ち「難民」「俘囚」「不浪人」「放棄人」「奴婢」は余りの過酷さに「俘囚」を中心に各地で大小の「暴動」を起したのです。
主なものとして、始めに878年の「元慶の乱」大暴動が有名です。これは丁度、「融合」政策、荘園ピーク期の900年前後に当たります。

「各地での主な暴動」
この暴動は歴史上では余り出て来ないのですが、各種の遺されている資料を調べて総合すると何と次の様に起こっているのです。

660年(3)-708年-712年-724年-733年-762年-802年)(4)-820年-[878年*]-1051年-1061年-1083年-1087年

主な記録から観ても20回程度は起こっている事に成ります。実質は記録に遺されない小事を入れるとこの数十倍は起こっている事に成ります。
(データーは暴動が何らかの形で起こったものを調査したもので、荘園の周囲に逃げ出さないように柵を施した等の大きな兆候を抽出)

(*)の印のピーク期900年頃から「大きな暴動」が起こり始めたのです。

蝦夷鎮圧の鎮守府将軍の頃からで、秀郷一門が鎮守府将軍に成った頃が「俘囚や賤民」が各地で起こした最大の暴動期と成ります。この陸奥の地で土豪と秀郷一門の青木氏の血縁の意味が定説とは違う意味を持っていることが良く判ります。(小山氏、花房氏、小田氏等との主な血縁)

「俘囚賤民の暴動」には余り武力は使えない経緯があり、それらの代表者との血縁を進める事で何とか解決を進める以外に無かったのです。
現にこれらの暴動は「俘囚賤民の暴動」だけの暴動ではなかったのです。余りの過酷さからその地域の土豪や地方官僚(郡司)も加わっていたのです。
江戸期の一揆には役人や土豪の蜂起はありませんが、この時の動乱には土豪や地域の役人の郡司(こおりつかさ 現在の知事と市長との間の国の役人)が加わっているのです。
良心的な役人が立ち上がる位に道理の通らない無法地の状態であって著しく政治は腐敗していた事が一揆の大きさと比べても判ります。
(実際、資料を調べて書いている筆者が”何をやってんだ。全く”とむかつく位なのです。丁度、現在の政治情勢です。)


つまり、関東各地の「俘囚賤民の暴動」は以北の大豪族の「安倍氏や清原氏の反発」に結びついていたのではないかと考えられます。
その安倍氏は朝廷の官僚である宗家阿多倍地族一門(阿倍氏等一族)の身内一族の仕打ちに憤慨し、代々の家人や兵であった者が連れ去られ、それも歴然として阿多倍一族の「民族氏」であるのに「蝦夷民」(北方の醜い民族)として決め付けられていたのです。むしろ、阿倍比羅夫や坂之上田村麻呂が征夷を掃討して此処に一族の阿倍の末裔の安倍氏や清原氏などを配置したのであって「蝦夷」では決してないし統治することで此処に定住して子孫を拡大させていたのです。それを蝦夷地の掃討を理由したこの事でもかなり強引であった事が云えるし、これを理由に平気に実行されていたのです。
この様な事から各地で「俘囚の奴婢」として酷使されいる事に首魁や地方に赴いている官僚としても絶えられなかったと考えられます。だから中央の阿多倍一門一族とその官僚族に対して安部氏等の身内の反乱が起こったのです。
故に犠牲にされた彼らには阿多倍一門一族の中央の一族は救援の兵を向けずに見殺しにしたのです。

耐えられなくなり遂に反発した事件が安倍頼時-貞任  前九年の役[1051-1062] 後三年の役[1083-1087]の乱なのです。
或いは、各地で起こる暴動を押さえ込むには「俘囚の首魁」の蝦夷(陸奥)の安倍氏等一族を倒す事として藤原氏や源義家らを差し向けたと観るのが妥当と考えられます。
(しかし官僚の主体の阿多倍一門一族の九州自治の勢力圧力を恐れて後で天皇は知らぬ顔を決め付けたが、源の頼信系分家の義家がこの戦いを通じて後に天皇家の悩みの種の「荘園制の行き過ぎ」に「3つの発祥源族」と「皇族賜姓族の立場」も弁えずに進んで手を貸してしまった事にも憤慨した。)
この時、後三条天皇(位1068-1072)は未だ19歳で天皇ではなく前九年の役の6年後(1068)に天皇に成っていて、この醜い施政の実情を知っていて「阿多倍一門一族と藤原氏等の為政の行き過ぎ」に”何とかしなくては”と憤慨していた筈です。
そして、立ち上がった後三条天皇は「2つの勢力」を果敢に排除したのです。そして、改革の為に登用された大江匡房(1041-1111)は白河-堀河天皇の3代に渡ってに仕え後三条天皇-白河天皇-上皇の意を踏まえ徹底した改革を断行します。

余談ですが、この事を観ると「累代の無能の天皇」と本論では決め付けたが、「3つの皇親政治の天皇」はいかに優秀な天皇であったかが逆に証明できるところで、むやみやたらに「皇親政治」を敷いたと云う事ではないのです。「天皇の権力欲」を避難するかの様な定説には納得が行かないのです。
確かに、「皇親政治・院政・親政」を敷いた時に「国のあり方」を左右する「国難」が無く、その「皇親政治・院政・親政」を何時までもだらだらと続けるという事では「天皇の権力欲」の定説は納得できるが、他面的に「時系列と傾向分析」をすると「国難解決の目途」が就いた時に開放しているのであるから、一つの「非常時の政治手法」として三相を得た適時適切な行動であると認められます。むしろ斯くあるべきです。
本論では「皇親政治・院政・親政」は「国難を解決する一時的な政治手段」であると云う説を採っているのです。

兎角、定説では”身内で天皇家の権力を強めた”等と一面的な事と成っているが、どうしていつもこの様な否定的な定説になるのかが不思議です。”歴史は1点で評価しては真実は見えない”が筆者の私観です。殆ど定説に納得出来るものは未だ見つからないのです。
歴史の研究は定説では何も真実が見えて来ずむしろ「疑問と矛盾」が生まれ、釈然としないし「先祖の生き様」が見えて来ないのです。
故に前述に記述した私なりに一定法則に基づく「技術屋からの分析法」を用いての研究を進めているのです。
本論のこの様な上述する事が観えて来ます。


(白河法皇は反改革派の弟「輔仁親王」を退け子「堀河天皇」を立て政治制約の少ない院政を敷き改革断行した)
(最高権力者の藤原教道を排斥した。 白河天皇:位1072-86 院政1086-1129 堀河天皇:位1086-1107)
(もともと安倍氏は「蝦夷」と蔑視の呼称をされているが「北方民族」ではない。「北方民族」660-802を制圧した阿倍氏末裔で陸奥に勢力拡大して定着した「融合氏」でルーツは「後漢の民」である。阿倍氏は阿多倍一族 阿倍比羅夫は白村江の戦いで後漢に戻った人物)

歴史的には「全国統一」を定説とされているが、この様に本文の「融合民族」と云う観点から時系列と共に見て行くと疑問が多く残るのです。

「全国統一」は「荘園主官僚の大義名分」(天皇の大義名分では必ずしもない)であって、本当は官僚たちの利害に関わる「俘囚賤民の暴動」を抑え込む目的であったと観られます。
その証拠に「院政」は「源の頼義-義家」の「征夷討伐」(前九年と後三年の両方の役)は通説の「義家等の私闘」と片付けたのもこの「阿倍氏」の「末裔安倍氏」等の行動に非は無いと考えていた事と、「荘園行き過ぎ」に「皇族賜姓族」として「あるまじき行動」を採った事からではないかと考えられます。

そもそも阿多倍一族一門の「阿倍比羅夫」(3度:658)660年、同じく宗家の「坂上田村麻呂」の802年の「蝦夷の北方民族」と、「頼義-義家」の時の「蝦夷の民族」とは最早異なっているのです。(民族そのものが違っている)
「724年」以降は「蝦夷の北方民族」は衰退し、制圧した「阿倍氏」の末裔の「安倍氏」と阿多倍の3男の「内蔵氏」の末裔がその後に陸奥地域を勢力圏としたのです。

(元の安倍氏勢力圏は越後北(新潟)-岩代北(福島)-羽前南(山形)-陸前南(宮城)に囲まれた地域を基盤としていた。古代後漢渡来人の開墾配置地域の「中部山岳地帯域」であったが阿倍氏・坂上氏等一族一門で蝦夷を制圧したことから蝦夷の東北域に勢力を伸ばした) 

だから、制圧後に残った北方民族勢力が盛り返したので「掃討作戦」に依って阿多倍長男の「坂上田村麻呂」(3度:アテルイ)が802年に完全制圧していたのです。



完全制圧の証として朝廷の命により次ぎの証としての神明社を建立しているのです。
A 宮城(陸前)仙台に762年(光仁期末期頃 「伊治砦麻呂の反乱」)先ず「神明社の第1社」建立しています。

B 続けて4回の「掃討作戦」を実行し、3度目で制圧後に白石に807年「神明社の第2社」を坂上田村麻呂は建立しています。

C 平安末期には「最終掃討」(人物は不明)として仙台の中田に1171年「神明社の第3社」を建立しています。

制圧した証として「征討圏の象徴」として「融合政策の達成地」としての印として「神明社を建立」する事は平安期の仕来りと成っていたのです。
この様な史実を見逃しての定説にどの様な意味を持つのでしょうか。

  「安倍氏の掃討原因」
従って、「蝦夷」と呼ばれる族は「アテルイの北方民族」であって、明らかに「安倍氏」は阿多倍一門一族「阿倍氏」の末裔としての大化期からの有力氏ですから、最早「蝦夷民」では無いのです。しかし、「蝦夷民」でないのに陸奥を「蝦夷民」として攻めるには「大義名分」は希薄な「名文」と成ります。
だから、各地の「荘園主である豪族」たちから「大集団化の為の権威のある氏」として「源氏の棟梁」として祭り上げられた「義家」を、疎んじて天皇にその痛くない腹を探られる様な「飛び火の非難」を来ないように「私闘」として扱い防護策を効じて逃げたのです。
しかし、現実は世間では「皇親政治・院政・親政」を敷いた天皇を非難し、義家を英雄と持て囃したのです。「源氏の棟梁」とか「武家の棟梁」とか決め付けたのです。世間は拍手喝采です。
明らかに、これは藤原秀郷流青木氏を除く藤原氏と阿多倍一族一門の「荘園主」等の利害を考えた「宣伝戦略」で在った事が観えて来ます。
「希薄な名文」と「武家の棟梁」がセットに成っている事はこれを物語ります。

a 阿倍氏末裔の安倍氏を「蝦夷」として攻めたてた事、
b その「兵、家人、民」を「俘囚賤民」として関東域以西に配置した事、
c 各地で起こる「一般賤民、俘囚賤民の暴動」の原因矛先を安倍氏に向けた事

以上のa、b、cの本質は蝦夷掃討後の阿倍氏の末裔安倍氏、内蔵氏の末裔清原氏等により東北地方全域を勢力圏に納められた事に対して、同時期(713-723)に起こっていた難問の南九州基地が国策に従わない肝付氏を攻めた事と理由は同じである筈です。

一方の勢力(藤原氏)が、南北で阿多倍一族一門が国策に従わない程に勢力が大きくなり過ぎた為に難癖を付けて「潰そう」としたか、或いは少なくとも「勢力を削ぐ戦略」に出たと考えられます。つまり藤原氏の策謀では無いかと考えられます。朝廷内のウチゲバが起こっていたのです。
清原氏を裏切りをさせて安倍氏を打ち、大きくなった清原氏を今度はその後に義家に依って清原氏を潰す事をしたのは、この「削ぐ戦略」があった証拠に成ります。だから、この戦略に史実として藤原氏は手を貸したのです。
安倍氏-清原氏では到底潰せなかったのです。その勢力圏を観れば一目瞭然で、史実、彼等は青森、岩手、宮城、福島、秋田、山形、新潟北部、群馬北部の8県(全国1割)の勢力圏を保持していたのです。


(阿多倍一族一門は制圧期 関西以西32/66国であったが、常陸上総下総を加えて最終43/66国と成る)
(「清原氏」は朝廷の高級官僚として「清原夏野」等は「日本後紀」「令義解」の編集に関わった氏:782-837)

そこで「攻めて側」は各個攻撃の戦略を行った事に成り、最後にその名義荘園主として拡大する義家には、2つの大勢力の外に居た「天皇と院政」は「恩賞」も絶えず、「私闘」として扱い、「政治的」に疎んじます。
最後の決め手として義家に各地方の豪族の名義上の「荘園寄進を禁止令」まで発して疎んじて押さえ込み衰退させたのです。これで義家は天皇と院政の政敵と扱われたと同じです。
2つの青木氏の様に、身内であり正常な勢力として温存すれば天皇院政側に取ってはむしろ得策である筈なのに敢えて潰す戦略に出た事は身を切る思い出あった筈です。
逆に、九州に於いての阿多倍一門一族の勢力と行動からすれば、こちらを潰しておきたい筈です。
しかし、それが43/66の勢力で北と西で挟撃される懸念があり逆に民族氏の共和国が出来てしまう戦略上の事が起こる為に出来なかったのです。

では、これ程に不合理なことがありながら、ここで「天皇や院政」は本当に”攻撃を命じていたのか”と云う疑問が湧きます。確認をする必要があります。

これは先ず年代で明らかに判ります。
「後三条天皇」が天皇に成ったのは「前九年の役」後の6年後で、天皇の立場は「後三年の役」の前11年前であり明らかに命令してはいない事が判ります。
次ぎに、「白河天皇」が譲位後の11年後に「後三年の役」が起こっていて、退位3年前に「後三年の役」が始まっています。終わったのは退位1年後で、後は「堀河天皇」に譲位して院政を敷いています。
つまり終わるまで退位しない筈ですから命令していません。
まして、「白河天皇」は「後三条天皇」の「整理令-公領制」「荘園の行き過ぎ」国難の改革意思を引き継いでいるわけですから、改革に反する戦いの目的の命令書を出す訳はありません。
この時、「詔勅」「院宣」「令旨」以外に「宣旨」と云う特別の天皇が自ら書しての直命の「命令書」をわざわざ作ったくらいのです。この「命令書」がないのです。勝手に「詔勅」や「院宣」をひそかに作られるほどに危険な状態で在った事を物語ります。

ここで時系列で分析すると決定的な証拠が2つあるのです。
決定的証拠-1
それは、大改革を行う訳ですから、前期した様に「後三条天皇」は勝手に天皇の名前を使って為政に関わる荘園主でもある官僚豪族が都合よく何かを行う事を防止する為に天皇の命令を明確に伝える制度を制定して偽物が出されない様にしたのです。
それが「宣旨」というもので「書式」もわざわざ定めているのです。以後継続されました。過去からの「令旨」(法の執行命令書)を更に細分化して「宣旨」(執政の執行命令書)を新設したのです。
「令旨」と「宣旨」の中間の不詳のところを官僚たちに使われたことが起こっていた事を意味します。この事をわざわざ「後三条天皇」が定めたと云う事は前の天皇の時に「前九年の役」も恐らく令旨の盲点を使われて彼らに都合よく「荘園拡大」の為に起こされた戦であったかが判りますそれを天皇は知っていたのです。17歳から26歳の時の出来事ですから実情を把握できる年代です。

決定的証拠-2
つぎの証拠は前記した「九州南北基地」の大蔵種材に「錦の御旗」「遠の朝廷」と呼称して「九州自治」を認めた時期でもあるのです。後一条天皇の時1018-1020年です。
征西大将軍に命じられて、そして、この後、寛仁2年1019年頃に”異族九州に乱入する武装大襲来の由其の告あり、其の時大蔵種材これを向いて西戒を退治せしめる。”。その後、「院宣」を発して異族を退治せし・・・”と在りますので、引き続き押し寄せる異族の難民に対して1086頃前後に全ての難民を防止する命令を正式に大蔵種材に命じているのです。
恐らく、この内容から1018-1090年頃まで1019年の大事件より「難民流入」が次第に押さえ込まれていった事が判ります。
「荘園拡大」の「働き手」の「賤民の奴婢」の元と成っていた「難民」をここで政策的に押さえ込んでいるのです。その為に彼に「宿禰族-従五位下-岩門将軍-壱岐守-太宰大監」、最後には「征西大将軍」の関西以西の治安責任者の官職に任じているのです。
そして、それを権威付ける為に「錦の御旗」「遠の朝廷」を授けて、つまり、「九州全域の自治」と「難民」が大量に入国してくる「全地域の責任者」に任じているのです。
この最後に任じられた「征西大将軍」には大きな意味をもちます。
荘園主は「開墾の働き手」の根本を1018年から押さえられた為に、今度は「蝦夷」では無いのに「蝦夷」とされてしまった「安倍氏や清原氏」等を「令旨」「宣旨」「院宣」を抜きに、今までのルーズな慣習で以て「全国統一を名目」にして攻めて潰し、昔の「俘囚賤民」と見立てて頼義-義家親子は勢力拡大を図る為に「勝手な戦い」を始めたのです。そして荘園に送り込んだのです。名義上の荘園主になろうとしたのです。
其の為に荘園主側から観れば義家は「武家の棟梁」として持ち上げられたと云うのが本質であるのです。

しかし、天皇側から観れば、後三条天皇-白河天皇-白河上皇から観れば、「皇族賜姓族」でありながら、尚且つ、「後一条天皇」に「征夷大将軍」に任じられていながら最早「反逆者」の何物でもありません。「愚か」である事に成ります。恐らくは「皇族系」でなければ目先に起こっていた「平将門の乱」や「藤原純友の乱」や「平忠常の乱」と同じく「乱」として処理された筈です。
”知らなかった”は通らない周知であります。
これには「乱」にしなかったのは、宗家源頼光系4家と賜姓青木氏5家からの何らかの働きかけや取成しがあった事がなくては逃れられない事だと考えられます。

そうでなくては名指しの「義家に荘園寄進禁止令」は出さない筈です。反逆者になるよりはましで、正しく妥協の産物です。
まして、この時期は普通の時期ではありません。
「一般賤民、俘囚賤民の暴動」の鎮圧の時期
「安倍氏、清原氏の潰しの時期」
「整理令、公領制」の時期
以上に3つの国難に一致します。取成しに依って、この時期の事から院政側の大儀名文が成り立つのです。
義家が如何にこの「法」に対して、「融合氏の行き過ぎ」に対して、まして「3つの発祥源」で「賜姓族」でありながらも、全て無視し、氏拡大のみの「利得」だけの考えで「反行動的な態度」を採っていたかが判ります。これでは潰されます。
頼信系の分家は「3つの発祥源」であり模範とするべき「融合氏」でありながらその逆を行ってしまったのでは滅亡するしかありません。
歴史では”「不運な義家」””「武家の棟梁」”と成っていますが、この様に時系列で傾向分析等を行うと違う事が見えてくるのです。我々融合氏の発祥源側から観れば”何をやってんんだ。 源氏を潰す馬鹿なことを”となります。
歴史はその様な意味で先ず「定説や風評」に”オヤ 変だな”と一度疑問を持つ事が必要なのです。その疑問を解くのが楽しみに代わるのです。

  「予断雑学-1:邪馬台国の自分説」
さて、上記と離れてここで思い出した様に予断を出します。
予断
例えば、無邪馬台国の奈良説や佐賀説がありますが、これも自分なりに疑問を持つと自分説が出来ます。
私はこの件では両説を採っています。どちらにも「三国志」魏国の「魏志倭人伝」に書かれている事が「建物」や「祭祀方法」(鬼道)等が確実にあります。これ程最早、邪馬台国としての条件が確実に両方に存在すると云う事は両方なのです。
もし近畿説とすると佐賀説の国のは”何の国”となり、邪馬台国に匹敵する国がもう一つ在った事になりますよね。そんな国2つも在った事は無い事は判っていますから疑問です。
初期2世紀半頃から全国が繰り返しの飢饉にて食料不足で乱れ戦いが起こり、佐賀にても卑弥呼が鬼道を用いて祭祀を司り「お告げ」の方法にて夫々の国の決定事項を定めるうちに卑弥呼を佐賀の邪馬台国の国王として祭り上げて国の運営を連合方式(共立と記述)で行った。
遂には全国の王国もこのうわさを聞きつけこれに従い、余りにお告げが的中する卑弥呼を中心としてまとまった。
幸い100年周期で起こるとされる地球の気候変動期が過ぎて安定期へと入り飢饉は回避されて国はまとまり始めたのは卑弥呼の「鬼道」のお陰とした。
そこで大国の魏国の脅威に対して通交を行ったが、其の為、国が卑弥呼中心でまとまり始めた事から、列島の全国の中心付近にある奈良の国に政庁を移し、佐賀には魏国との通交の拠点とした。
奈良はその意味で遠すぎる為に佐賀の政庁には港から水路を引いて通交を容易にした。
通交拠点化した為に佐賀には「金印」が存在したとすれば疑問点は解消する。
その後、4世紀の始め佐賀の政庁は南九州からの民族に攻め込まれて北九州の国々も全滅したが南九州の族はここに留まらず南下して戻ったとされている。
故に奈良の政庁のみが残ったのである。その後、共立国の弥生時代の銅鐸による弥生信仰を主体としていた出雲の国等との争いがあり、弥生信仰はこの100年周期の気候変動に合わせることが出来ず祈祷の予言が当たらず弱体化しつつあった中で、大和の政庁にその立場を争いではなく話し合いで譲ったと考えられます。
そして、その後、朝鮮族応仁王の渡来と成り、戦いの末に話し合いと成り、応仁大王を主軸として連合国のヤマト王権が出来る。
その後に、北九州は征討されて奈良の政庁に集約される。ここまでが「ヤマト王権」で、ここからは「大和政権」となり本文の大和朝廷の領域と成るのです。

 「予断雑学-2:道教との関わり」(重要)
実は上記の「鬼道」は本文に記述した中国の「道教」の基とされその祭祀方法は酷似されるし、現在も中国奥地には未だ「鬼道」を行う地域があり、その「鬼道}の巫女には、古来から人間が「野生本能」を働かせる「複眼」と云うものを持つ女が多く、「透視能力、予知能力」を中国では未だ持っている地域があると云われている。
卑弥呼もこの「複眼」を強く残っていた人物ではないかと見られている。お釈迦様の額の中央鼻の上に「ほくろ」の様な丸いものがあるがあれが複眼なのです。
現在も人間の頭の中央の下の脳の真下に大脳と前頭葉が大きく成った事により押し下げられて10ミリ程度のものが人により存在し、特に女性に存在するが未だ僅かに使われている女性もあると云われています。
女性の「感情主観」取り分け「母性本能」としてのインスピレーションが強いのはこの複眼の遠因とされています。
本文による中国の特徴ある「民族性」は「鬼道-道教-儒教」へと発展し、日本人に理解し難い「固有の国民性や概念」が生まれたと観られ、「法より人」「石は薬」の中国人の共通概念はこの「鬼道」の「祈祷」の「宗教概念」が色濃くここに残っているのです。
ところが大和の国では「鬼道-神道-儒教-仏教・神道」へと進んだのであり、日本人の「融合氏」から来る「集団性」に関わる「固有の国民性と概念」がこの過程に依って生まれたのです。
この「鬼道」がある過程を経て「祖先神」と云う信仰概念が生まれねその代表とする「神明社」信仰が生まれたのです。
その意味で歴史的に学術的に未だ余り知られていないこの「鬼道」は日本の歴史を取り分け神明社に関わりその存在を大きく左右させているのです。
(詳細は研究室の「日本民族の構成と経緯」を参照)

義家のところに話は戻ります。
ただここでもう一つの「影の利得者」が居たのです。
”何故、その様な「愚か」と云える様な行動を採ってしまったのか”疑問が湧きます。
「相当虚け者」でなくてはこの様な行動は採る事は無いでしょう。
実は鍵はこの辺にあると考えているのです。

それは何と義家に合力した藤原氏北家秀郷一族一門なのです。
特に、平泉の藤原氏で、当初は清原氏と組み血縁して「清原清衡」と呼称する等一族に成り、最後は策略でこの清原氏に内紛を起こさせて裏切り、挙句は義家と共に滅ぼす等して3代の栄華を築いたのですが、義家の末裔頼朝に滅ぼされる始末です。
この最後に残ったのが「第2の宗家」の秀郷流青木氏に率いられる武蔵入間の秀郷宗家一門であったのです。
安倍氏や清原氏が滅ぶと上記の8県の圏域は戦略的に空に成り、結局、「鎮守府将軍」の懐に転がり込んだことに成ります。

「院政」は頑固で律儀な「秀郷」を選んだのではないかと考えられます。
それは「平将門の乱」に在ったのではないかと考えられます。
藤原氏が「下がり藤紋」を”下がる”を忌み嫌い一族殆どが「上り藤紋」に変紋した経緯がある中で、秀郷一門9氏だけはこの「下がり藤紋」の伝統を護り続けたのです。それはこの背景には「義家と平泉藤原氏」の経緯があったのです。(平泉は秀郷一門とする説がある)
そして、秀郷一門の陸奥の「蝦夷鎮撫」の「鎮守府将軍」の任命は、その目的が明確に成っていないが恐らくは、最終、政界から外されたものの策略を擁した「藤原氏京の北家の本音」であって、安倍-清原氏をを押さえ込ませたものと考えられます。そして「俘囚賤民の暴動の首魁元」(1058-1062:1083‐1087)と陸奥域8県の大勢力を獲得するところに裏の目的・狙いあったのです。
結局、この結果、これに関わった「義家と京の北家筋(摂関家)」は衰退してしまった事から観るとこの二つの氏が策略的に仕掛けたことであったことが云えるのです。
その「陸奥域8県」は鎮守府将軍の秀郷一門に与えられる事に成った事から見ても明らかです。

もう一つは大きくなり過ぎた阿多倍一族一門の内、東北部の勢力を削ぐ事を朝廷や天皇と云うよりは藤原氏北家摂関家一族の思惑があったと考えられます。
この背景から観ても京の摂関家は後三条天皇(1068)に排斥されたのです。何も大したことが無ければ長い以前の実績のある摂関家であるのですから「排斥の責め」を受ける事は無い筈です。
「放置できない責め」があったからこそ義家と供に「過去の実績」を阻害されたのです。

まして、丁度、この時、「整理令、公領制」を実行していた時期なのです。それに逆らう行動を採ったのですから見逃す事は絶対に出来ない筈です。見逃せば矛盾を生じて「整理令、公領制」は有名無実に成り果てます。
その証拠にこの8圏域は義家が疎んじられて後は藤原氏北家秀郷一門の圏域と成るのです。

そうすると、矛盾点が一つ起こります。
「蝦夷の制圧」を名目にした敗北民と敗北兵を関東に「荘園の労役の働き手」として送り込んだのですが、その「俘囚」と呼称された民と兵は、元々「蝦夷」と云う意味の民ではないのです。
阿倍氏の末裔の安倍氏の「家人や兵や民」を、「荘園拡大」の為に「人手」を獲得するために(陸奥の以北の民等を)適当な理由を付けて強引に奪ったことに成ります。

初期の北方民族の「俘囚賤民」と制圧後(802)の「俘囚賤民」とは全く民族そのものが異なっているのです。つまり天皇が政治の国策の目途とする「融合氏」「融合民」なのです。
それを強引に「俘囚賤民」として扱うことには無理が伴っていた事に成ります。
天皇としても絶対に黙っている訳には行きません。「黙っている事」は「融合の国策の3策」を自ら無視した事に成ります。
「安倍氏」はそもそも阿倍氏の末裔で阿多倍一族一門の末裔ですが「俘囚」等の首魁である事は事実です。この支流末裔には安東氏-秋田氏等が居る歴然として名家の家柄の「民族氏」から「融合氏」になった氏なのです。

(鎮守府将軍:各地で起こる動乱を鎮撫し治安・経営をする軍政府の長官)
(清原氏:阿多倍一族一門の内蔵氏の末裔 陸奥出羽の古代の豪族)

とすると、この作戦は明らかに天皇が主導したのではなく、名義上の大集団化の荘園主となった阿多倍一族一門の官僚と、摂関家斎蔵の藤原氏北家等と、清和源氏頼信系義家等の「思惑」と駆け引きから密かに計画されたものと成ります。
「詔勅や宣下や院宣や宣旨」の命令書のない無断独断の大義名分だけを掲げた無謀な行動であったのです。天皇の権威や許可無く勝手にやった況や「私闘」と成ります。「私闘」にしてもこれだけの大きい戦いを「天皇治世」の中でやると云うのはどの様に考えても問題です。
あまり知られていない”義家のこの「戦いの戦費は自前」”としている史実からもこの事は許可を得ていない事は明らかです。
ただ、民に対して「蝦夷を制圧して国統一」の「大義名分」だけを作り宣伝して批判をかわしたのです。
この事だけは成功を収めたのですが、天皇だけはこれを見逃さなかった事を意味します。
義家への「名義荘園主の禁止令」を出されてからは頼信系及び頼光系の清和源氏全体が信用を失い各地に飛散衰退して行きます。
(結局、逆に阿多倍一族一門の「たいら族」の桓武平氏も関東の勢力を失いますが、朝廷内の勢力を伸ばす結果と成るのです。
朝廷内にいる阿多倍一族一門は、この駆け引きの為に一門の阿倍氏の末裔安倍氏(内蔵氏の末裔清原氏も犠牲に)を犠牲にした事になります。観てみぬ振りをした事に成ります。
これは失うものよりこの駆け引きの結果で得るものの方が大きいことを読み込んでいたのです。
つまり、これが前記した阿多倍一族一門の「民族氏」の特徴(法より人 石は薬の潜在的固定概念)を顕著に出た史実なのです。
つまり「伊勢本部基地」の徹底した戦略と成ります。しかし、この事で彼らも「関東の勢力圏」の常陸と上総と下総は全て失うのです。
秀郷一門はこの結果、武蔵、下野、上野の3県を入れると14県/66の大勢力となり藤原氏京宗家を凌ぐ北家最大勢力と成るのです。
この関東の全勢力圏は秀郷一門に下りますが、一門は兼光系の秀郷流青木氏、永嶋氏、長沼氏とそれらの支流の小山氏、織田氏、一部進藤氏の支流に護らせる結果と成ります。後に古来からの結城も戻ります。

安倍氏らは既に融合氏に成ってはいたが、伊勢基地の阿多倍一族一門は後漢中国人の「法より人」「石は薬」の概念がまったく抜けていないで居たのです。
時代が経ち、末裔が広がるも「血縁による絆」が「希薄に成る性癖」を諸に出した事に成ります。
安倍氏は融合氏と成っていて日本人と成っている事からこの「仕打ち」は理解できなかったし「怒り心頭」となり、故に各地に「俘囚の賤民・奴隷」として配置された者達に秘密裏に連絡を採り暴動を起こしたのであり、それに呼応して安倍氏と大化期からの古代豪族内蔵氏の末裔清原氏は立ち上がったが、清原氏が裏切り、結局、路線争いの内紛が原因で藤原清衡に乗じられて清原氏も潰される始末となったのです。

(歴史の定説をこの様に「融合氏」をキーワードで時系列的に立体的に傾向分析すると「矛盾」と「疑問」が多く出てくるのです。)


この上記の年代の出来事と前期の南九州とを比較して下さい。前記した様に全く同じ事が同時期に南九州にも起こっていたのです。違いは南九州の一族一門は「戦いに勝った」事で展開が変わったのですが、この様な「融合氏」の国策を進め「国の安寧と安定」の基盤を造るにはこれだけの「生みの苦しみ」があったのです。
右左に何時巻き込まれてもおかしくない混乱の流れの中でその中央に立ち、且つその混乱の中で「3つの発祥源」の重荷を背負う「4つの青木氏」はその範として立ち回るべき苦労が実に大きかったと考えられます。
「4つの青木氏」即ち「2つの血縁氏の青木氏と2つの絆結合の青木氏」の採るべき態度での出方如何では同族源氏と同じ道を歩んでいた事は間違いないのです。
勿論、そうなれば現在の「4つの青木氏」は存在しないのです。それは”何に依って滅亡の同じ道を歩まなかったのか”と云う疑問が湧きますが、それが解こうとしている本文とするもので、何か「精神を支える本質的なもの」が「4つの青木氏」の中にあったとする考え方なのです。
この様な厳しい融合氏の環境経緯の中で生き残れたのです。何かがあった筈です。

  「4つの青木氏」と「5つの伝統」
それが、次ぎのものだとしています。これは真に「青木氏7つの伝統」と云うべきものです。
4つの青木氏が「心の拠り所」加護としてのお仏像様
4つの青木氏が護る皇祖神、
4つの青木氏の祖先神の守護神の神明社 
4つの青木氏の人生の戒めの家訓10訓
4つの青木氏が集う象徴紋笹竜胆の家紋
4つの青木氏の堅い歴史のある絆
4つの青木氏の「2足の草鞋策」の生き残り策

以上「7つの伝統と殖産事業」が存在していたからです。

そして、この「7つのもの」で維持されていたのは「3つの発祥源」としての「誇り」です。
他の「民族氏」と「融合氏」との間にある違いはこの「7つの有無」にある筈です。
それが1千猶予年代々引き継がれて来た事他ならないのです。
古いとされる他氏でもせいぜい300年から多くて500年は超えていませんし、どの様に調べたもこれ程の条件は備わっていません。
時代の激しい遍歴を得て殆どは滅亡衰退してしまって「融合氏」としての形を保持していないのです。
その倍の悠久の中を生き抜いて来たのです。最早、物質的なものではないことは明らかです。
「生き抜きたい」としても生き抜けないのが「無常の世情」です。しかし、「4つの青木氏」は現に生き抜けているのです。
これを何とか「4つの青木氏」の「先祖の生き様」として描き、その時系列的に起こる現象の史実を用いて解こうとしています。
そして、この「青木7つの伝統」に依って構成される精神が「3つの発祥源」としての立場を護らせたのです。
同じ同族の源氏が翻弄される中で、「4つの青木氏」も頼光系の様に同じように観られて巻き込まれる可能性は十分にあったと考えられます。

  「550年の隣人」
しかし、上記した事も事実あったのですが、もう一つ「巻き込まれる事」が避けられた事があったのです。
それは、「伊勢」と云う地理的要素が働いたと観ています。
伊勢は賜姓青木氏の根拠地で、そこに半国国司として950年頃から藤原秀郷の祖父の藤成が伊勢の国司代を務めています。(伊勢はj天領地であり松阪・伊賀・長島の3つの半国に成っている)
そして、1050年頃にも基景が国司代として務め、その後、此処に伊勢長島以南域を藤原の伊藤氏として定住し、護衛役とし秀郷流青木氏も定住しています。
平家滅亡期の1185年前は此処伊勢北部伊賀地方が阿多倍一族一門桓武平氏の「たいら族」の半国領国でした。この様に同じ伊勢の住人として550年間の「隣人付き合い」が在ったのです。
実は伊勢の「たいら族」とは血縁的には無関係ではないのです。
伊勢の青木氏の始祖の施基皇子の子の光仁天皇と伊勢の阿多倍の孫娘「たいら族」の「高野新笠」との間に生まれた桓武天皇は母方の「たいら族」を引き上げ賜姓した訳ですから、「たいら族」とは縁者関係にあったのです。
この事で上記しましたが「以仁王の乱」の時、源京綱を跡目として入った伊勢青木氏を中心に「4つの青木氏」は主謀者の頼政の子供1人と孫2人の除名嘆願をしますがこれに清盛は応じます。
また、4つの青木氏の殖産の「古代和紙」は伊賀地方の伊賀産で繋がっていたのです。
伊賀の「たいら族」は「宗貿易」で栄え、それを観ての「4つの青木氏」も「商い」で子孫を繋ぐと云う「死生感」は同じで有ったからも知れません。
織田信長の「伊勢攻めの3乱」で桓武平氏の末裔伊賀が攻められますが、この時、伊勢青木氏と伊勢秀郷流青木氏は、2度も大群を相手に織田信勝軍の大軍の側面を突きます。織田勢から突然責められる危険性もあり、名張の城に一族一門を護る為に集結した「4つの青木氏」は伊賀城落城寸前で急遽城から出て織田軍の不意を突き敗退させ助けたのです。
これは「たいら族」とは政治的には相反する立場に置かれていたとしても、この様に「550年の隣人付き合い」は政治を超えていたのです。この様な史実があって、「4つの青木氏」は源氏の渦中から逃れられたのです。
もとより、「4つの青木氏」の「死生感」なるものを「たいら族」は「550年の隣人付き合い」から判っていたのではないかと考えられ「脅威感」はおろか「親近感」を持っていたと考えられるのです。
どの点から考えても渦中に巻き込まれる可能性は無かった事と、「平清盛」と云う人物が上記の背景を考慮して助命嘆願に応じ渦中に巻き込まなかったことから考えて大きかった事ではないでしょうか。
人物が小さければ上記の経緯が有ったとしても潰しに架った事ではないでしょうか。

  「決定的な失敗」
ところで話を元に戻して、この事件を更に詳細に追及すると、更に次ぎの事が起こっているのです。
この頃の政治を牛耳っていた彼等の「思惑」のこの政策には、「決定的な失敗」が潜在していたのです。
900年の前から上記した様に徐々に「大集団が小集団を吸収する現象」が起こっていたのですが、この現象が益々急速に起こってしまったのです。

それは、次ぎの「2つの失敗」です。
イ 「奴婢戸籍」をも廃止し「戸」を形成出来なくしたのです
ロ イを根拠に「賎民」取分け「難民」「俘囚」「不浪人」「放棄人」から成る「奴婢」は「売買」の対象として許可されたのです。(戸籍があれば手続上出来ない)

   イ「戸籍廃止」
荘園大集団は、上記123を背景に「荘園力」を高め、その高めた力で今度は小集団の「労役の担い手」「奴婢」を買い占める現象が起こったのです。「奴婢戸籍」を無くせば荘園主は「奴婢隷属」であるので自由に扱える事が出来る様に成ります。
これで益々小集団は「労役の担い手」「奴婢」を失い大集団に吸収されてしまいます。これで荘園を継続する事が困難と成ってしまったのです。止む無く「小集団」はその「大集団」に吸収されて行く「加速度的な循環」が起こってしまったのです。こうなれば「流」が出来て止める事は誰にも出来ません。
そもそも荘園に対して「税と労役」の負担分を算定する為に「奴婢戸籍」なる特別の人別帳の様なものを造っていました。しかし、それを廃止する事は荘園が拡大しても「税と労役」の負担分を算定できず大きくなった分の税と労役は免除されて終います。この為に益々収益がが上がり拡大の一途を辿ります。

むしろ、無届に「難民や放棄人」を集め勝手に力ずくで連れてきた「俘囚」等を囲って荘園経営をする様に成り把握出来なくなった事が一番の要因であり、次ぎには源氏や阿多倍一族一門や藤原氏や橘氏や一部の皇族貴族等に「名義主」に成って貰ってその政治的力で「税と労役」を逃れ、その分を「名義主」に支払うと云う巧妙な手口を作り上げたのです。
「名義主」はその力で更に拡大し、更にその名義料の拡大を図る為に「難民、放棄人、俘囚」を更に獲得しようとして政治力を使って巧妙に無届の戦いを起こしたのです。
名義主になった大豪族には更に別の利得が生まれるのです。名義料のみならずその実質荘園主が無血縁の一族として名を連ねて其の荘園主の勢力を加えて益々拡大して行ったのです。未勘氏の「源平藤橘」族等が新しく出来上がったのです。(平:阿多倍一族一門)
こんな「戸籍廃止」の問題だらけの政策を誰が見ても事前に「荘園拡大の行き過ぎ」や「俘囚問題」や「放棄人の流失」の難問が起こる事は承知できる筈です。しかし、実行されたのです。
これも「源平藤橘」族等の「政治的な裏工作」によるものであり、観てみぬ振りをする公家貴族等の傀儡政権であるからです。
戸籍を押さえておけば「税と労役」を課して抑制する事も出来たのですが、最早、全く歯止めが利かなくなったのです。
源頼時-義家親子は真にこの典型的な行動をしたのです。
清和源氏のみならず源氏一族11家は少なからずこれに同調したのです。
しかし、清和源氏頼光系4家と2つの血縁氏青木氏はこの流れに同調せずに同族血縁して「2足の草鞋策」へと回避したのです。「3つの発祥源」としての立場を守ったのです。
古代豪族で皇族賜姓佐々木氏2家(天智天皇近江佐々木氏、宇多の滋賀佐々木氏)は立場を守り「2足の草鞋策」を近江青木氏(摂津青木氏 近江商人)の様に積極的に採らずこの為に衰退したのです。

(注:この時の令の慣習は江戸時代まで持ち込まれ「百姓」(:現在の意味と異なる 兵農の下級武士も含む)に適用されたのです。戸籍の代わりに村ごとの「人別帳」(履歴を有しない帳簿)を設けたのです。従って、700年以上の間は姓名も墓の概念もなくなったのです。中級以上の武士は「融合氏」を形成して独自の菩提寺を定めてその寺が本家筋の過去帳と戒名で管理したのです。江戸末期まで。
「良賤民の制」と「五色の賤」が「士農工商」に)

(参考:近江佐々木氏末裔 佐々木小次郎は衰退して剣術修行に 直系子孫は遺して現存する。 結局、阿多倍一族一門や関東の坂東八平氏[7世族:ひら族]等の掃討作戦で潰されて11家の源氏は直系子孫の「融合氏」を遺せなかった。 遺したのは未勘氏と第3氏である)
(「源平藤橘」以外にも佐々木氏や賜姓族も含む代表語とする)

  ロ「賎民の売買」
天皇側にはこの「賎民の売買」の禁止も合わせて行わなかった失敗があったのです。
ここで敢えて「天皇側」としましたが、この事は阿多倍一族一門の官僚と藤原氏の摂関家等の官僚即ち「大集団の名義上の荘園主」は知っていた筈です。しかし、敢えて知らぬ振りをして123の「政策実行」を、如何にも「氏融合」の[国策3策の効果」を推進するかの様に見せかけて、実は123が荘園力を増す事を知っていたのです。否、この時期の天皇側もこれ位の事は理解し知って居た筈です。
それも「奴婢売買」の事を「傀儡の天皇」に隠して「大集団の荘園力の拡大」を狙っていたのです。
123に限らずイ、ロも内容的には天皇もそこそこの頭脳があれば理解できる筈です。無能であったか、何も云えなかったか何れであろうが「可笑しな政策」である事くらいは理解出来ていた筈です。
まして、各地で下級官吏を巻き込んだ「暴動や反乱」が頻発しているのです。判らないのでは゜馬鹿」を通り越しています。
”何も云えなかった”、つまり無能であった事に成ります。だから、1068年の「後三条天皇」の行動に繋がったのです。国難と察し実に「有能果敢、洞察力、戦略性のある天皇」であった事が判ります。
天智、天武天皇の「大化改新」に続くものである事が判ります。
その後に力を持った「大集団の首魁、荘園主」は血縁の無い他の集団をも征服して土豪として君臨し、その「吸収された集団」もその「氏(融合氏)」の中に組み入れられて、同じ「融合氏」を名乗りながらも「血縁性」のある「正系」と「血縁性」の無い「傍系」と云う形で統合されて行きました。
(ここに正系と傍系の呼称が残ったのです。)
この「血縁性」の有無は元よりその「血縁濃度の高低」をも意味します。

  「正系、傍系」(融合氏の氏詳細)
例えば、清和源氏などの「正系、傍系」はこの形から来ているのです。
「甲斐源氏」は、正式には「清和源氏」には頼光系本家(4)と頼信系分家がありますが、この「頼信系分家」の「摂津源氏」の支流「河内源氏」の「傍系」となっているのです。「足利源氏」も同様ですが藤原秀郷一族の仲介で清和源氏と血縁しています。甲斐は河内源氏の傍系一族の放追者が常陸に逃げ甲斐に到達して甲斐の土豪と血縁して勢力を高めたとされていて真偽は定説としては武田氏の言い分を聞けば真であるとしているのです。
系譜は義家の弟三男義光を祖とし義清より分岐し清光-信義と成っている。ここから上記の物語が生まれて武田に行き着いた事に成るので義光系の系譜と成っています。しかし一方藤原秀郷一門が鎮守府将軍として陸奥で務めそこで血縁した小田氏が次ぎの赴任地甲斐に同行して勢力を高め土地の土豪と成りその事から地名から武田を名乗ったとされる説もあります。前者は清和源氏説で後者は藤原説です。

では、源氏説となれば家紋から見れば「笹竜胆紋」で「副紋と変紋」は一切使わないのが賜姓族の慣習です。主に平安期に於いては各地に分布する源氏11家と青木氏29氏と藤原氏北家主要9氏と佐々木氏2家の合わせて概ね55氏×5程度の中から血縁族を求め同族血縁を主体として主系正系を保っていました。その為に武家の「家紋掟」に従う事無く象徴紋(家紋)が保たれていたのです。
これ等の融合氏では「武家の発祥源」でありながらも「家紋」の扱いは「家紋」と云うよりは「象徴紋」的扱いの習慣であったのです。
これは天智天皇期から賜姓青木氏が「融合氏」のその「象徴紋」として、又「3つの発祥源」のその「象徴紋」として、「正系」の象徴紋としての扱いのもので在ったところから家紋感覚は低く、因って「副紋、変紋」が生まれなかった事によります。
これ等の事から武田氏は「4つ割菱紋」である事は「源氏説」は異なっている事に成り、仮に源氏で在ったとしても「傍系」であり、その「傍系」も上記した「大集団化」の「融合氏」の「未勘氏族」の可能性大であるのです。まして、河内から各地を流浪して常陸に行き甲斐に来た者としているところは未勘氏の源氏説に使う手でありその可能性が強いのです。甲斐に到達した時に名乗ったとするだけでの心証ですので疑問が残ります。恐らくは河内源氏とするのであれば氏家制度に基づいて河内の宗家に対して家紋の認証と呼称の認証を採っている筈です。見つかっていません。
もしこの系譜であれば笹竜胆紋である事に成ります。伊豆の源氏や木曽の源氏や新宮の源氏や近江の佐々木氏や滋賀の佐々木氏等直系の系譜を持つ源氏は全て笹竜胆紋です。この様に歴史の定説には矛盾を多く含んでいます。
つまり、「源氏」を名乗った時に上記の「賜姓族の仕来り」を知らずに名乗り後勘にて矛盾を孕んでしまったのです。間違いなく「傍系」であり「未勘氏源氏」の可能性が大であると観られます。
現実に源氏が滅亡しているのですから後から適当な系譜を作り上げても何も文句を言う者が居ません。其の内、「搾取と編纂」が実しやかになるのです。
室町期の殆どは仕来り無視の名乗りでこの類なのです。
其の点で藤原説では、足利氏と同様に、藤原秀郷一門の陸奥の血縁族の「小田氏の末裔」と考えられ、地名より武田氏を名乗ったと成っています。この小田氏の一部が常陸に移動して「関東屋形」と呼ばれる氏(結城永嶋氏、佐竹氏、小田氏、宇都宮氏、小山氏)の一つの大豪族小田氏(秀郷一門支流一族)と成っています。後に秀郷一門宗家の圧力仲介により清和源氏より跡目に入っています。
この陸奥小田説を採り難い理由は「蝦夷」で無いのに「蝦夷」と呼称されて義家に征討され安倍氏と清原氏の俘囚民か支流末裔と観られる事に対する懸念からではないかと観られます。
むつの土豪の花房氏、小田氏、小山氏等は阿倍氏や安倍氏か清原氏の支流末裔であると観られます。その根拠は秀郷一族一門が陸奥の鎮守府将軍として赴任し、「現地の騒動」を鎮めたのは武力に因らず「血縁関係」による「政略」を主体としていたからです。
それを主導したのは秀郷一門の護衛団の秀郷流青木氏だからで、各地の赴任地の治世では歴史上大きな戦いは無く24地方の政略婚が藤原氏の主戦略でした。この意味で陸奥安倍氏との繋がりを持っているのです。治世策で観てみると、藤原氏の「政略戦法」に対比して源義家は余りにも違ったのです。秀郷一門の政略婚は真に「融合氏」の国策に順じているのです。ここでもこの「荘園の行き過ぎ」には秀郷一門は加担していないことが判ります。秀郷一門の彼等の勢力はこの「義家らの荘園行き過ぎ」行動の始末に依って天皇より与えられ獲得した領国です。
実は足利氏は同じく陸奥の花房氏で秀郷一門と血縁しその花房氏の血縁氏が同行し足利に秀郷一門として赴任しました。その後、信濃足利(栃木ではない)の土豪と成り勢力を拡大し足利の地名を採って足利氏と名乗りました。
この土豪の足利氏の本家は秀郷一門に反発して云う事を聴かなかった為に秀郷一門はこの土豪足利氏の分家に秀郷一門の宗家から跡目を入れて後盾の後見人となり、この分家を以て本家を追い出しに掛かります。結局、この土豪足利氏の本家は足利氏系青木氏(賜姓信濃青木氏の血縁族)と共に米子八頭方面に逃亡して定住します。残った分家を本家として信濃足利氏となるのです。この足利氏に清和源氏の跡目が入ります。故にこの史実より足利氏も源氏の傍系の支流一門と成ります。

(この時、秀郷一門は東山道域の中部地域に勢力圏を延ばしたのです。そうしなければ伊豆を基点として頼信系清和源氏の関東伸張と対峙する事に成ります。最終、清和源氏衰退後秀郷一門の勢力圏に成ります。)
武田の土豪小田氏は足利氏と同じ事件が起こり小田氏はこれを受け入れたのです。その代わりに青木氏系小田氏の一部を常陸に移し秀郷一門を背景に「関東屋形」と呼ばれる小田氏一門を拡げたのです。
従って、武田氏は全体の経緯から「藤原説」を採るか途中から「源氏説」を採るかによりますが定説は中間の折衷説を採用しているのです。
常陸からの流浪説もこの常陸と関係させておく配慮であったとみられます。恐らくは、武田の小田氏に跡目が無くなり一族の常陸小田氏から跡目を採ったのではないかとみられます。結局は足利氏と全く同じ源氏傍系支流一門と成る筈です。
この地名を採った武田氏はその家柄をより誇張するために「一条氏の末裔」だと名乗っているのですが、この時、貴族血縁がある事を誇張する風潮が流行っていて四国などに逃げた一条氏の末裔と名乗る事が各地の豪族で流行ったのです。名乗るほどの一条氏に人物数が無いにも名乗ったのです。
これでも武田氏のルーツ説の疑問があります。源氏と異なり藤原説は一族一門は厳然として残っている訳ですから変な名乗りをすれば周囲の藤原氏から潰される事は必定です。「第2の宗家」青木氏が絶大な武力を以て潰される事は判っていますから源氏の様な事は無いのです。

(青木氏も秀吉の時代に摂津青木氏(近江青木氏)が元上山氏の滋賀青木氏(近江青木氏断絶分家を乗取り再興)に対して秀吉了解の下で2度戦い元上山氏の滋賀青木氏が勝ち名乗る事件等があった。各地でこの様な事が室町期末期から江戸初期前に頻繁に起こる)

  「定説の疑問」
この様に「定説」と成る資料は氏家制度の習慣、掟、仕来り、取り決めを考慮せずに現在的な感覚で一面的に考察して検証しているのです。だから主に各氏の作る搾取編算の系譜を正としての説が多いのです。ですからルーツ解明となるとこの時期の「融合氏」の研究には特に注意が必要なのです。
藤原秀郷一門からのルーツを観ると定説に対する搾取の疑問が多く観えて来るのです。
この定説に影響を与えているのは「義家と安倍氏と清原氏」の事が見え隠れしているのです。
殆どは定説の義家を「正」としての事から始まっているのです。
しかし、本文の様に研究していると「義家の性善説」に疑問が出てくるのです。

嵯峨期の「新撰姓氏録」には、古くから地方豪族であった氏が旧来の名字を捨て、中央で勢力のある豪族の氏に「何らかの縁」を求めて属し、その傘下に入り、その代償を払いその「氏名」を名乗る事に依って地方豪族が中央の官職を獲得する事が出来たのですが、その様子を観る事が出来ます。
特に、この事(「正系、傍系」)を集大成したものが「南北朝期」に出来た「尊卑分脈」です。
要するに「未勘氏現象」と呼ばれるものですが、「縁結合」のその一つです。
その代表的な「氏」として中央に繋がる「源平藤橘」(阿多倍一族一門含む)がその「対象氏」と成ったのです。
これ等が大勢力に成った主な原因は、主にこの事(正系傍系の未勘氏現象)に依るのです。
しかし、この「結合氏」の「絆」(縁結合)は緩いものがあり、「橘氏」の様に藤原氏に押されて衰退すると直ぐに鞍替えして霧散するという現象が起こったのです。
「橘氏」(4家)はこの判断(実力を過信)を誤った為に滅亡の憂き目を受けたのです。
「源氏」(11家)も「義家の幻想」を理解損ない実態は左程に大きくなく院政から疎んじられると脆くも同じく滅亡の憂き目を諸に受けたのです。
その点で「桓武平氏、平族」は上記した様に血縁による阿多倍一族一門が余りに大きく成り過ぎた為に「氏間」の結束が取れなくなった事と、「民族性」の強い互助の働き難い「氏姓性」を持っていた事等の別の原因で滅亡したのです。
しかし、反面、「融合氏の集団化」による「未勘氏現象」が起こり「吸収と離反」を繰り返すと云う事が記録から少なかった事が云えます。
平将門、平忠常、安部氏の事件等は乱世を生き延びる為の政略であったのです。日本人が求める「融合氏」の様に「氏姓」を同じくする「同族血縁」を深める等の事は比較的少なく”「薄く結合する」”と云う概念であったのです。だから安部氏の様な「トカゲの尻尾切り」の様な事は逆に頻繁に起こるのです。
例えば日本人に理解し難い事として伝わる現在の中国の山岳地で起こる騒動の鎮圧の政治的措置に観られる現象と同じです。
この様な大化期から入ってきた「民族氏の概念」が国内に蔓延すれば「在来民族」との間で遊離現象が起こり国は再び2分する結果となる事は「自然の摂理」として必定です。
邪馬台国の卑弥呼を中心とした「国家共立体制」が「ヤマト王権-大和政権-大和朝廷」と引き継がれ802年にほぼ統一した国家が、再び阿多倍一族一門とその集団200万人の帰化に依って分裂すると云う事態に遭遇していたのです。既に九州では独立自治の動きがあり国政に従わずそこに「荘園の行き過ぎ」が起こったのですから危険極まりない状況に陥っていたのです。

初期の天智天武天皇期の皇親政治、中間期の嵯峨期の皇親政治、そして末期の後三条天皇の親政院政政治の国を預かった天皇の悩みは計り知れないものがあったと考えられます。
取り分け初期の皇親政治に関わった青木氏中間期の秀郷流青木氏には計り知れない悩みがあった事は間違いない史実であり、それ故に青木氏側から観れば源氏頼信系の義家等の行動は容認する事は出来ないものであります。「正系傍系の未勘氏現象」を起こして大きくなる等は言語道断であります。

ところが、この「未勘氏現象」を上手く利用して勢力を戦略的に運用して生き延びたのは、政権の中枢に居て「同族4家の族争い」を起こした中でも「藤原氏の北家」、中でも「秀郷一族一門」なのです。
不思議な現象です。「融合氏」の青木氏等の「正道」-「民族氏」の阿多倍一族一門の「逆道」に対してその中道を歩んだのです。「頭脳的な生き様」と云う以外にはありません。
なかなか何時の世も「中道派」は生き難い筈です。「衰退の道」が世の常です。ところが「繁栄の道」なのです。
「繁栄の道」になるとすると何かシステム(緻密な戦略戦術と組織の掟と司令塔の存在)が必要です。
現在まで繁栄を遂げて来たのですからシステムが在った事を意味します。「それは何なのか」です。
既に論じましたがその主因は「秀郷流青木氏」の「第2の宗家」としての「緻密な戦略的行動」にあったのです。当然にこの「未勘氏現象」が起こりましたが、それを「判別する仕組み」を採用して「血縁性の有無」を明確にし、「実力の過信」を起こさない様に「管理統括監督」していた事が生き残りの原因です。
その仕組みは次の通りです。
一つ目は「藤原氏の呼称方法」です。
青木氏と血縁性の高い主要5氏を除き、分けて「藤」の前に「24の地名と斎蔵の数種の官職名、役職名」を付けて一族一門の「血縁の関係性」の判別を明確にしていたのです。(主要5氏:青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏)
二つ目はその枝葉の「氏の象徴」となる「象徴紋または家紋」を明確にして「正系の系列」と未勘氏の「傍系」を判別出来る様にしていたのです。
例えば、次ぎの様な方策を採りました。
一つ目の仕組みには、秀郷一門は「副紋方式」を採用し「丸紋」は使わず「藤紋の変紋」も限定していてそれも判別出来る様にしたのです。
二つ目の仕組みには、「氏掟」が存在していて「融合氏」が拡大するに連れて監視監督が困難に成る事を避けて一族一門が結束できる方法を考え出していたのです。
ここに阿多倍一門一族との大きな違いがあったのです。
甲斐の武田氏が信長に滅ぼされた時、甲斐の武田氏系の「3つの賜姓青木氏」が各地の藤原秀郷一門の青木氏を頼って逃げ延びる事が出来たのはこの「2つの仕組み」のお陰で血縁関係が明確に把握されていた事によるのです。特に青木氏に関しては母方での血縁関係が明確に把握されていたのです。

これは「融合氏」として氏神の守護神(春日大社)と氏寺の菩提寺(興福寺)等の支社を各地に置きそこで系譜、戸籍などを管理記録されていたのです。
この記録は「3つの発祥源」としての認識があったからこそと考えられます。
全藤原氏においては「傍系未勘氏族」の判別が完全に出来るのはこの仕組みから来ているのです。
「正系、傍系」の違いは「未勘氏」である事のみならず、この「3つの発祥源」にあり、これを護る認識の有無によります。それは「血縁性の有無」と「有品認識の有無」にあり「正系、傍系」は根本的に大きな違いを持っているのです。この「血縁性」が在っても氏家制度の中では「本家分家の差」に於いても分家は本家の指示行動に従うと云う仕来りから「義家の勝手な不合理な行動」(義家は頼信系分家筋の直系)の差として出て来るのです。
結局は、最終は「有品認識の有無」が左右する事になるのです。(頼信-義家は本家と違い有品の認識が薄かったことに成ります。)

このシステムを管理監視認可など場合によっては血縁の紹介と段取りもして居た事が判っています。これをする秀郷流青木氏が「第2の宗家」と呼ばれる所以なのです。青木氏の指示に基づいていたのでしょう。

(甲斐の3つの賜姓青木氏:武田氏系青木氏、武田氏系諏訪族青木氏、諏訪族青木氏 これ等の氏は甲斐賜姓青木氏の末裔で家紋掟により分家となった。)

青木氏と守護神(神明社)-7に続く


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青木氏と守護神(神明社)-5

[No.272] Re:青木氏と守護神(神明社)-5
投稿者:福管理人 投稿日:2011/04/01(Fri) 12:06:03


青木氏と守護神(神明社)-5


  「5つのキーワード」
青木氏と守護神(神明社)-4で述べて来た様に、つまり、どの歴史事件や史実を観ても、「国の安寧と安定」-「氏融合」-「物造り」-「農業」-「神明社」(寺社)の「国策関係」が連動して生まれているのです。融合氏の歴史には必ずこの「5つのキーワード」で史実を検証して立体的に論じる必要が不可欠なのです。

ところが、人は間違いを起こすのです。歴史には殆どその間違いを起こしていて、指導者と為政者は「三相の理」を極める事無く、遂にはその勢いに押されて「妥協策」まで必ず打ち出す始末と成るのです。
これを俗に「流れ」と云いますが、故に「事件と事件の間」には必ず「経過期間」として評価できる「妥協策」が存在しているのです。
有るとなれば、先ずこの「妥協策」が何処にあるのかを発見する事がその事(例えば荘園制度とすると)の正しい評価(分析、考察、検証)が出来るものです。
この「経過期間」=「妥協策」がもし見落としての「評価」(分析、考察、検証)は史実と異なってしまうのです。
「大化期、嵯峨期、後三条期」の「3期の皇親政治」には「衆知の知恵」を生かしてこの「三相の理」が良く働いているのです。故に、前代未聞の大改革が達成されているのです。
ただ「皇親政治」には危険性も認められますが、「皇親政治」を敷いた時はある「特定の条件・環境下」に必ずあり、この「独走する危険性」は低くなるのです。
傾向分析にて調査すると、この「独走する危険性」が低くに成るには次ぎの3つの要因が認められるのです。
先ず、一番目として、この「特定の条件・環境下」とは「国難」となっている大問題があって、それに強い「流れ」が起こり止められない状況と成っている事なのです。つまり、その国難の「限定された問題」に集中する為に「独走」は起こらないのです。
政治課題が広範囲で長期間で有れば特定の共通する手法が用いられる為に「個性的な偏り」が全体に及ぶ事から起こる現象ですから、「限定された問題」に「著しい個性的な偏り」とはならないのです。
そして、二番目には、その「独走する危険性」が低く成る要因として、その国難がほぼ解決すると「危険性が高くなる直前に「皇親政治」を開放している事なのです。
次に三番目として、「皇親政治」の政治手法に「合理性」が強く働いている事なのです。つまり、「相対の理」と「三相の理」と「構成の理」で処理されている事なのです。
補佐する「皇親方」が「優秀」であってこの「合理性の理」に聡い人物で有ればこの一貫してその合理性のある政治手法が貫かれます。しかし、これが長期に及び他の聡くない人物に引き継がれるなどを起こすとこの合理性を欠く「独走する危険性」が起こります。だから開放するのです。

この「3つの要因」が「3つの皇親政治」に傾向として働いているのです。
この事は当然に読み取れる事として、「皇親政治」を強いた天皇には、或いは天皇家には伝統として”「皇親政治」は「通常の政治手法」ではない”と云う思考原理があった事を意味します。
それは、「皇親政治」によって問題解決までの一時的期間には良いがその課題・国難が解決すると今度は「自然の摂理」(「相対の理」と「三相の理」と「構成の理」)で「人民の反動」の現象が「良し悪し・好み好まず」に拘らず起こる事を悟っていて「皇親政治の短期的な開放思考」は伝統的に引き継がれていた事を意味します。
主に中でも+-の「相対の理」が働く事を家訓的に引き継がれていたと観られます。
国難が解決してもこの「現世の条理」には必ずその後には「負」の反動がある事を悟っていたのです。
これは「青木氏の家訓」に示す様に「相対の理」による「負の反動」は、”先ず「人」の優劣に左右し、次ぎに「時」の長短に左右し、最後には「場」の有様に左右する” と云う「戒め」がある事からすると、同じ伝統を共有する天皇家にもその「伝統思考」が充分に「長の戒め」として引き継がれていた事が考えられます。

この様に「3つの理」は扱い方に依っては「悪」にも成り「善」にも成る事なのです。
特に「政治の世界」に於いては通り一遍では無く「人心の不確定さ」が大きく左右するのです。
”良ければ飽きが起こり増長して不満を述べ立て、悪ければ騒ぎ立て不満を述べる”と云う厄介な「人間の性」がある限り、”「良は良で有り続けない」”のです。仏教の認めるところです。
だから、「色即是空 空即是色」「色不異空 空不異色」なのでしょう。
この様に日本の歴史には「相対の理」と「三相の理」と「構成の理」が連動している限りは論理的に次ぎの判別式が必ず成り立って行くのです。

「事件」-(経過期間)-「事件」→「妥協策」
「大改革」=「3期の皇親政治」=「三相の理」+「相対の理」+「構成の理」

  「整理令の反発事件」
「三相の理」の「人の要素」の欠如から起こった過程では当然次ぎの過程を色々と生むのです。
「融合氏」に成って大きくなった豪族等が「大集団氏」の翼傘下に入り好き勝手な行動を採り1050年頃から挙句は「荘園同士の潰しあい」にまで発展して行く過程を必ず採るのです。(相対の理)
実はこの「荘園整理令」(1070年発布)の少し前から起こり始めた「荘園問題」(1028年頃)の象徴とする事件が東国にも起こっていたのです。「相対の理」として西を(+)とすると必ず原理に基づき東の(-)にも何か起こっていると云う事です。
「三相の理」の「人」で起こっているものとすると「人の心理」は無意識の内に「相対の理」の対の現象をある時間を置いて起こすものなのです。
史実として「氏吸収の大集団化」と「荘園力」に依って余りに大きくなり過ぎた東国の「平忠常」の「氏勢力」に対して朝廷は史実「恐怖」を感じてこれを清和源氏3代目源頼信に潰させたのです。
1051-1062年には「安倍氏」の陸奥方面の超大勢力を5代目源義家に、更に源義家に1083-1087年の奥羽で清原氏の事件等の巨大化した氏に対して潰させ、これらの事件を潰した清和源氏頼信から孫の義家の源氏も大きくなり過ぎたと観て皇族の同族でありながらも、挙句は朝廷から警戒されて無視される始末事となる等の事件が起こりました。
この様に歴史の経緯を観ると、朝廷による同じ「潰し作戦」に掛かる事件が各地で頻繁に起こる様になるものなのです。現実に頻繁にこれ以外にも大中の集団の氏が潰されて行きます。
天皇が「朝廷軍」で自ら潰すのではなく大きくなり過ぎた「融合氏」で先ず潰させ、今度は「天皇の権力」でその「氏」を「政治的に潰す」と云うことが起こります。
先ず、この時の後三条天皇と白河天皇とその院政は、阿多倍一族一門の「官僚勢力」と「摂政藤原氏勢力」を先ず首脳から外して無視してから、用意周到にこれ等の官僚氏に対して「無血縁の皇族」による「親政-院政政治」に依って「整理改革」が起こされたのです。これらの天皇は極めて頭脳的であります。

この様にしてから、「荘園整理令」から始まり「知行国制」「院宮分国制」「荘園公領制」と40年間で「経済的な建て直し」と「権力の取り戻し」と「巨大化融合氏の潰し」を図り、内部には「大きな不満」を抑えながらも成功します。 (この不満が後に「負の反動」の元凶となる)

  「同時期の東西の始末策」
この時期を同じくして、以西では九州の大蔵氏問題(1018年の巨大化した大蔵氏)の「九州自治統治」の時期が一致しています。つまり、日本の国左右で「巨大化氏」の「大集団化」が起こっていたのです。
つまり、以西の九州では「民族氏」の「独立始末策」、九州より以東では「融合氏」の拡大の「荘園始末策」が起こっていた事に成ります。
これでは阿多倍地族一門末裔の国策に従わない彼等に対して(九州基地の「民族氏」の「独立懸念」に向けての騒ぎに)は朝廷としては手を出す余力がありません。
この様に以後に打ち出された国策を「相対の理」に従って予測し調べだしてそれを系統化して並べてみると、「朝廷」と云うよりは「天皇家」の「皇親政治族」は最早九州では「自治」を認める以外に無かった事が判ります。
もし、仮にこの「自治」を認めなかったとすると左右からの「阿多倍一門一族の圧迫」により天皇家は無くなる事は間違いないと考えられます。
東西から同族で挟撃されていて、尚且つ「軍事、経済、政治」の官僚6割を占めていた為に阿多倍一族一門に「政権の座」もしくは「天皇の座」も取って代わられていた可能性が大いにあったと考えられます。
朝鮮族の蘇我入鹿の時にもあった様に、今度はそりよりも遥かに大きい後漢民族に。

以西-「独立始末策」+以東-「荘園始末策」=「阿多倍一族一門」

この様に同時期に東西の「2つの始末策」には両方に阿多倍一族一門が最大に関わっていたのですから。
実はそれだけでは無いのです。以北の地域には実は大きく忍び寄っていた勢力があったのです。
源義家らに依って鎮圧された以北には無傷の大勢力があったのです。
それは何と阿多倍の3男の賜姓「内蔵氏」が以北の半部近くを占める大勢力の「融合氏集団」を既に形成していたのです。(以北の小集団の土豪連合と血縁した:民族氏ではなかった)
そして、以北と中部、関東の境界付近には阿多倍の一族一門の「阿倍氏」も「融合氏集団」を同じように形成していたのです。
しかし、「親政-院政」の歴代天皇はこれに手を着ける事は「火に油」に成り出来なかったのです。

以北-「内蔵氏」+以北-中部-関東-「阿倍氏」=「阿多倍一族一門」

東西に問題を持っていたにも関わらず関東と以北のこの融合氏にも手を出さなかった事に成ります。
関東は藤原秀郷一門です。以北は「内蔵氏」と「阿倍氏」の一門です。

”一体何故なのか”疑問です。
この「2つの大集団」融合氏に共通する条件を観る事で判別出来ると考えます。
次ぎの4つがあると考えます。
1 全てを潰すと逆に乱れ全体の「力関係バランス」が崩れる事
2 1の中でも「温厚な氏」「経済的な具納する氏」「朝廷の主要官僚氏」を温存する事
3 東西の阿多倍一族一門(直系兄弟、従兄弟)に挟撃される戦略上の事
4 天領地と穀倉地の地域帯であり「食糧問題」に直結する事
この4つの共通理由で平安末期この二つの「一門一族」は温存されたと考えられます。
その歴史的な史実が多く遺されています。
例として有名な秀郷一門の平泉の藤原三代の朝廷への「金の御調」等があります。

皇族賜姓族の源氏でさえも押さえ込まれたのですが、不思議な事にこの中間にいた「日本最大の融合氏」361氏にも成る藤原氏北家族秀郷一門が院政に依って関白から外されても温存されたのです。
この時点での「親政-院政」の皇族は賜姓青木氏とは殆ど無血縁であったのですが、皇族賜姓青木氏も温存されていますが、これは又何故なのか2つの疑問が残ります。

  「皇親政治の意味」
その前に論じておくべき事があります。
1020-1050年を境に「融合氏政策」の「国策3策」も有名無実と成りつつあったのです。
恐らくはこの「後三条天皇」が大化の志を完遂する為に勇気を振り絞って命を掛けての「平安期の最後の抵抗」を試みたのです。
孤軍奮闘の中で3度目の「皇親政治」そのものを敷く事自体難しい事とであった筈です。しかし、この問題を解決するには「皇親政治」を敷く事は避けられません。
「律令政治」が熟成域に達していた時の彼等の末裔が要職を占めている環境下で、その彼等の最も利害の高い彼等の根幹と成る荘園に手を出したのです。

ところが幸いこの天皇は次ぎの様な特長を持っています。
  「目的達成の手順と特長」
1 藤原氏と血縁関係が無い事
2 藤原氏を退けた事
3 親政を敷いた事
4 融合氏として成長した優秀な中小集団の大江氏等を登用した事
5 多少の血縁性のある中流級貴族層を起用した事
6 耕地調査やそれを監督する官僚を阿多倍一門から外して任命した事
7 命令を徹底させる為に「宣旨」制度(天皇の直接命令書を制定)を矢継ぎ早に実行した事
8 身の安全を守る為に「北面武士団」を創設して皇族身内族で固めた事
9 後三条天皇の奮起により1070年から134年間「親政と院政」の土壌を敷いた事
10「公地公民」を変化させて親政で目的とする「荘園の公領制」に道筋を開き戻した事

史実を考察すると、この目的とする事の為に「的確に状況判断」をし、自分の取り巻く「条件の強弱」を見定め、必要とする「論理的な手順」の順序を間違いなく執行して達成しています。
この10項目を考察すると、真に「相対の理」「三相の理」を会得していた人物である事、天智天皇の再来の人物である事が云えます。だから成し遂げられたのです。
逆に云えばそれまでの天皇は、既に荘園制度が朝廷の圏域も脅かされる状況に成り、国策の行き過ぎが認識されていた筈でありながらも、改革を実行できなかった事はそれだけの「気構えと知力」が備わっていなかった事を物語るものであります。(長としての欠如)
以西には九州の彼等の末裔大蔵氏が自治を始めた時(1020)でもあり、これだけ悪い条件の中では先ず「後三条天皇」と云えど命の保障は間違いなく無かったと観られます。
周囲の大勢力阿多倍一族一門や藤原氏は大利害が伴う敵であります。

  「氏融合(国策3策)」<「荘園制度」
「氏融合策」の「国策3策」の余りの勢いを抑えようとして採った政策が、想わぬ逆の方向へと走り結局は自分で自分の首を締めて、朝廷と天皇の力を弱め最早留める事が出来なかったのです。(荘園と云う強い流れが起こっていた)
歴氏的に観ると、その「流れ」のピークは「園地宅地法」でその切っ掛けを作り、「墾田永年私財法」で完全な失政をしたと観ています。(「流れ」を作り出したのは「班田収授法」と成ります。)
「荘園整理令」を、「天皇第2期皇親政治」(嵯峨天皇期)で一致結束して更に続けて、「文徳-清和天皇期」に発令する事が適切な時期と考えられ、「三相の理」から観てもう少し早く出すべきであったと観ています。そして諸般の事情を鑑みると「私有財産化」は鎌倉期前に出すべき事と考えられます。
しかし、朝廷内では阿多倍一門一族平族を廃し藤原氏を外した為に結果として「3つ巴の争い」と成りました。誰が敵で味方か判らない状況と成り遂には天皇側の「賜姓族」「藤原氏」と「阿多倍一族一門末裔」側との「武力の戦い」に成り、「自然の摂理」にて「争い」以外に解決する方法が無く成って「決着」へと発展して行きます。

  「皇親政治院政」
(第1期:天智天皇671没-天武天皇686没-持統天皇697没) 52年間 皇親政治
(第2期:嵯峨天皇823没-淳和天皇840没-仁明天皇850没) 41年間 皇親政治
(第3期:後三条天皇1072没-白河天皇1086-堀河天皇1107没) 60年間 親政政治
(第4期:鳥羽天皇1107-白河上皇1129没-鳥羽上皇1156没) 49年間 第1期院政政治
(第5期:後白河天皇1158-後白河上皇1192没 5代院政)34年間 第2期院政政治

  「同時代の経緯」
 大蔵氏九州南北の自治1018
(清和源氏全盛期-源頼光1021没-平家台頭160年間-源頼政1180年没 源頼朝1195没)
(以西で大蔵氏1018-都で源氏1021-平族960-1180)

  「大集団化への融合」
1018年頃で皇親政治の国策(融合政策)はほぼ完成しましたが、その後は1180年までの160年間は姓氏(11824氏)にも成った「小集団の融合氏」が、上記の経緯の様に今度は「大集団の融合氏」に吸収されて行き「無血縁の大集団の融合氏化」へと変化して行くことに成ります。
つまり、「血縁の融合氏」が大きくなるのではなく、ある力のある「一つの融合氏(A)」に無血縁の小さい融合氏が群がる様に吸収され、その大集団と成った氏名は融合氏(A)を呼称する事に成ります。吸収された「無血縁の小融合氏」もその氏名(A)を名乗る現象が起こってしまったのです。
これが極めて多い通称「未勘氏」と呼ばれる氏なのです。

丁度、「渦の現象」で周りのものを事ごとく巻き込んでしまう現象でそれがあちこちで起こりその渦も更に一つの氏に成りつつ最後には収拾できないほどの渦が出来てしまい、遂にはその環境を破壊し爆発さしてしまう現象なのです。この環境の破壊は朝廷・天皇家の体制を壊し共和性の政治体制へと変化する事を意味します。

この事は天皇が考える「国策の融合氏政策」にとって目的とする現象では有りません。
尚、更にこの難題「大集団化」には大きな弊害が起こったのです。
「部曲、品部」などの「農業生産力」や「物造り生産力」の富がこの大集団に吸収され著しい富の偏りが生まれ、逆に民は疲弊したのです。
何時の世も富の偏りが生まれれば当然に一局に「権力の集中」も起こり、腐敗等が横行して「政治の渋滞」が起こる事に成ります。
終局、民の信頼を失い「天皇の権力」と如いては「朝廷の権力」の低下も起こり「悪の循環渦」を誘発して果てしない止める事のできない「政治の混乱」と成って行きます。
累代の天皇はこの現象に憂慮していたのですが、この津波の様な「渦の流」を誰も止める事が出来なかったのです。少なくとも1018年の「後一条天皇」か1068年の「後三条天皇」までは何も出来ずこれ等の勢力に思うが侭に漂うのみだったのです。
「第3期の皇親政治と親政・院政」で何とか留める事が出来たのですが、事は既に遅く「渦の流れ」は緩やかに成ったとしても、上記した「相対の理」による「負の反動」が皮肉にも「国策3策」の「融合氏」の発祥原の「侍」・「武家」に依って起こってしまったのです。
「融合氏」の発祥原の「侍」・「武家」を育てようとして「荘園制の行き過ぎを留めたのですが、肝心の大集団の荘園主では無く、その「融合氏」の発祥原の「侍」・「武家」に依って憂慮して居た事が起こされてしまったのです。
最早、天皇朝廷の権力の低下は避けられず、「決着」をつける意外には方法は見出せず遂に「大集団の荘園主」と「融合氏」の発祥原」(「侍」・「武家」)との争いへと発展して行ったのです。

「小集団の融合氏化」(645-1018)→「大集団の融合氏化」(1020-1300)→「第1期の室町期混乱期-下克上-戦国時代」(1350-1570)

しかし、実は「渦の流」の中で、天皇側は憂慮した事が起こらない様にそれまでに働いた形跡があるのです。
その証拠に「天地・天武期」の「第1期皇親政治」と、桓武天皇の官僚による「律令政治」と対峙し「戦いを含む争い」を起こしてまでも嵯峨天皇は「嵯峨期の第2期皇親政治」を採用しているのです
この「2つ実績経緯」を詳しく調べると、”燻っている朝廷内の不満を抑えようとした”とも見方も充分に採れるのです。
現に、皇族外(たいら族:阿多倍一族)に賜姓した桓武天皇の「官僚による律令政治」を一部緩めて、第2期皇親政治の嵯峨天皇は第牟6位皇子による「賜姓制度」を再び皇族に戻し「賜姓源氏」にして「融合氏」国策を継承させ、更には「元の青木氏」を皇族出身者の「氏名」としての「融合氏」策も更に継承させ、又、上記した「八色の姓と爵位制度」の「柔軟な運用」も実施して優秀な官僚を登用した事も然る事ながら、荘園主には上位の姓と爵位を与えて不満の解消に当たった事にも成り得るし、天皇家一族自らも「氏の模範」として継承させて行く姿勢を内外に示した事等の事から観ても積極的に不満を抑えようとしていた事が史実から数多く観察出来ます。
その総合的な姿勢を示す最たるものとして「嵯峨期の詔勅」(弘仁の詔勅)が発せられた事なのです。
普通の安定した政治状況なら内容から観てこの詔勅は違和感を感じます。
何かの政治的背景が有っての詔勅です。それは上記の「官僚による律令政治」の「初期の弊害」が生まれていたからなのです。
何故、此処に来て嵯峨天皇がわざわざこの詔勅を発したのかを考えると納得が行きます。
一方で「不の反動」の切っ掛けと成る「不満」を抑え、他方で天智天武期からの「国の安寧と安定」の国是の”「民族氏」から「融合氏策」”を推進させようとしていたのです。
一方、「国の安寧と安定」は”律令政治の完成から”を主張する桓武天皇は律令国家を推進し完成させた日本で最初の天皇ですが、この2つの「政治路線」の違いが起こっていて、子供の嵯峨天皇は「律令政治への弊害」を問題視していたのです。
この弊害は一つ目は「荘園制への憂慮」であって、二つ目は「官僚主導による政治体制」から「皇族の疎外感」が大きく燻っていたのです。
この2つともに「天皇家の存在感の低下」とその「政治体制の崩壊」を招く材料です。
まして、その官僚の6割を占めていた阿多倍一族一門の「民族氏」の台頭は、当然にも「天皇家の存在感の低下」とその「政治体制の崩壊」に直接結びつく要因であり、尚且つ、以西と以北の彼等の勢力(32/66)を度外視する訳には行かなくなっていた環境下だったのです。
殆ど国ごと乗っ取られる可能性を占めていたと考えられ、そのきっかけは最早、荘園の行き過ぎを押さえること以外に無くなっていたと観られます。
(現実に1018年以西域を含みと九州全域を大蔵氏に自治を委ね、以北は源氏の力を上手く使って制圧させて何とか国難を避けたのです。)

このこれだけの「3つの要因」が存在していれば誰でもが憂慮することに成ります。
しかし、「桓武天皇」は頑として譲らなかったのです。だからこの「路線争い」で「親子の争い」まで発展したのです。
そこで「血みどろの親子争い」を何とか避ける為に「桓武天皇」は賛同者の子供の長兄の「平城天皇」に譲位します。しかし、「平城天皇」は病気で退位せざるを得なくなります。
皇族側の態勢も「嵯峨天皇」の主張する側に優勢となり、結局、「嵯峨天皇」に譲位せざるを得なく成ります。
この結果、”「民族氏」から「融合氏策」”の推進派が主導権を握ったのです。
そして改革断行の為に第2期の「皇親政治」を実行したのです。
これ等の事を実行するには勢いづいた「桓武天皇の官僚の律令政治」の時期に、それを押し留め天智・天武からの国策「融合氏政策の推進」に舵を切り直すのです。
”今更何だ”の反対の怒号が官僚や大集団の氏からは、利害が左右するのですから、当然にして聞こえてきそうです。
何せ政権は確保したにせよ厳然と阿多倍一族一門の勢力とその配下の6割の官僚は無傷で存在しています。

参考
桓武天皇は母方(高野新笠)の「賜姓平族」(たいら族:781~)を引き上げ育て味方にし、嵯峨天皇は第6位皇子の「賜姓源氏」を皇親族として育て味方にしていたのです。
当初は嵯峨天皇の皇親族の源氏が勢力を高め、特に清和源氏(858~)が台頭しましたが、この頃からは「たいら族」(桓武平氏)も台頭して来ます。この頃、朝廷、或いは天皇家と云った方が適切であると思いますが、再び「賜姓たいら族」(桓武平氏)派と賜姓源氏・皇親族派に二分されて行きます。
そして「たいら族」の清盛(1167太政大臣~81)の代に成り遂には清和源氏を圧倒します。
この経緯の変化に伴い荘園も拡大をしながらも、清和源氏の皇親族が勢力を保持していた時期には押さえ込まれていました。一時、後三条天皇期(1068~)の皇親政治と白河天皇の院政期では押さえられます。しかし、清和源氏義家の失敗(1087~)を契機に再び荘園拡大が後三条期の歯止めが外れて起こり始め、これとは逆に「たいら族」の勢いも増し、荘園制も再び勢いを得て完全に「たいら族」の清盛の時代となるのです。
この様に荘園の経緯は丁度、「清和源氏」と「桓武平氏」の勢力の経緯に一致しているのです。
この様に逆に「融合氏の経緯」の障害と成って行くのです。

参考から話を戻して、これは態勢が嵯峨天皇側に傾いたとしても明らかに難題です。
それ故に「皇親政治」を敷きこの勢いの中を突っ走る政治体制が必要に成ります。
荘園制度の初期の行き過ぎを感じ、国是とする「民・国の安寧と安定」に欠かせない「融合氏政策」が未だ道半ばであると受け取っていた事を意味します。
その証拠に「国内の姓氏数の実態」の調査(「新撰姓氏録」)をわざわざ嵯峨天皇は突然に行っているのです。

この「2つの制度で直接権威付けられた事により「姓」から外れる「下部層の小集団」にも正式な「姓」として「小さい融合氏」が生まれて行ったのです。
(「2つの制度」とは「八色の姓」と「爵位制度」の運用と、青木氏と守護神(神明社)-4の俸禄褒章制度の運用)
そして、それら「小集団」が「無血縁」でありながらも「権威」を基に結合して中集団へと拡大して行き、そこで「血縁関係」を結びして、遂には「姓族」から「融合氏」として拡大して行くのです。

この様に大小の集団が互いに「血縁」と「権威」とを相互に絡めながら「融合氏」が新たに生まれて行きます。「融合氏」としての認可はこの「権威」が裏打ちされて氏数は増大し、それに伴なって「八色の姓」の姓の身分家柄を獲得し増して行きます。

この事(姓氏)は詳しく日本書紀等の多くの史籍にも記録されていて、斯く正式な朝廷行事にこれ等の「姓氏」の首魁を呼び出して権威付けの儀式が頻繁に行われています。

例えば、日本書紀で観てみると、天智-天武-持統期代の期間を大まかに筆者なりに確認すると次ぎの様に成ります。

天智期では、集団では初期であるので少なく「個人-数人単位」での「新規の姓」の授与をしていてその数は25程度です。
天武期では、23年間も経っている事もあり「氏融合政策」がある程度に軌道に乗ったと観られます。
一挙に10以上の集団単位では6回で合計185、数人単位で5回程度で20、合わせて205位と増大しています。
持統期では、天智期と同じ程度で個人授与25程度、集団単位の授与は見当たリません。

全体として、大化改新の「融合氏」政策を採用してから65年間に合わせて回数で30回程度で250の姓に氏として授与しています。

その授与された「姓」を観て見ると、殆どは「地方の中小の集団の長」で所謂、「土豪」と観られます。

これで観ると、大化期の「氏融合政策」にどれだけの力を入れていたかが良く判ります。

そして、文武-桓武を経て、嵯峨期の「新撰姓氏録」の調査では1182と成っています。
この推移を考えると次ぎの様に成ります。
この間180年間で250から1182まで増えている事に成ります。4から5倍に拡大しています。

つまり、天智期から持統期まででは今までの氏数(20-40)から姓氏が250程度増えて、52年間で1年間に平均で「5融合氏」(姓氏)を認証している事に成ります。

持統期より嵯峨期まででは935程度増えた事に成り126年間で1年間に「8融合氏」」(姓氏)が認証されていることに成ります。

天智期から嵯峨期の全体では1年間に「八色の姓制度」で認められるもので180年間で1年間に 「7融合氏」」(姓氏)と成っています。

以上の事から「融合氏」(姓氏)Ave5-8/年間と成り一定と見なされる集団が生まれて行く事に成ります。

天智期-持統期 氏数20-40 姓数250  5融合氏/年間  倍数8.3  52年間
持統期-嵯峨期 氏数40-80 姓数935  8融合氏/年間  倍数15.6 126年間
天智期-嵯峨期 氏数20-80 姓数1182 7融合氏/年間  倍数23.6 180年間

この事は氏数は60増加に対して姓数は922増加となり姓数は「小集団単位での融合」が盛んに行われその集団が朝廷に認められる力を持った集団に成った事を意味します。

氏と姓の比率は15姓数/氏数となります。

結局、氏数は4倍に、姓数は4.1倍で同倍数と成り、比率15はこの期間比例的に一定で伸びた事に成ります。
そして、全体として4倍速で増え続けた事に成りかなり速に伸びた事にも成ります。

以上の数字の実績から観ると、明らかに大化期から執った「融合氏の国策3策」は効果を発揮したことに成ります。

朝廷は1:15のこの比率を保って何とか問題を認識しながらも政策的に認可して居た事が判ります。
その変化(天智期-嵯峨期)の間は重要な事として「小集団単位から大集団単位」(15比)に成って行った事に成ります。
嵯峨期前までは少なくとも「大集団が小集団」を吸収して行って大きく成って行った事が主流の経緯ではない事も判ります。
しかし、この思わしくない傾向(荘園制の行き過ぎ)が起こっていた事は次ぎの数字で判ります。

天智期-持統期の倍数 8.3倍-52年間 
持統期-嵯峨期の倍数15.6倍-126年間 

以上で拡大していてその差が2倍(15.6/8.3)になっていますが、年数比から観てみると同比率とで伸びたとすると嵯峨期前頃の倍数は本来は20に成らなければ成りません。
この倍数は(15.6/20)下がっていますので大集団の荘園による吸収化が起こっていた事に成ります。

全体として大集団に吸収されてゆく経緯では、数字的には4の倍数は低く成り、15の比率は低く成り、同倍数の現象は起こらず崩れる事に成りますので、「大集団の吸収化」問題は未だこの期間では本格的に起こっていないか見えていない事の近い状況で在った事になります。

これでも明らかに「国策」として衰えていない事がこれで判りますが、しかしピークには達していないが徐々に「私物化-私有化-荘園化」の「経過期間」が静かに起こっていた事が数字的にも理解できます。

しかし、遂に嵯峨源氏等が生まれ阿多倍一族の平族が台頭する時期(900年前頃:清和源氏)からは逆の現象が起こります。

天皇が考えている本来あるべき姿として生まれて来る小集団が「自立する方向」に行くのではなく、明らかに顕著に大集団に吸収されて行くのです。
この頃から「清和源氏や京平氏(桓武平氏)」は「武家の棟梁」と呼ばれる様に成り、各地方に生まれた「融合氏の小武士団」は「清和源氏や京平氏」の「皇族の権威」の下に入ったのです。
つまり、第1期の「未勘氏」の大量発生となります。

この無血縁の大集団化で、ある一つの大きい氏の下に繋がる現象が起こった事から、無血縁でありながらもその大集団の氏の中に入った事から、無血縁であっても仮に清和源氏であれば”源氏一門の誰々・・”と名乗る現象が起こったのです。
その為にその清和源氏は「公家」に対して「武家」の身分であった事から、大集団であった清和源氏を「武家の棟梁」と呼ばれる様に成ったのです。
この様に「武家の棟梁」の呼称は「大集団への吸収」の代名詞と成ったのです。

参考
この事が結果的に源氏滅亡を招いたのです。特に清和源氏の分家頼信の末裔の義家がこの現象に累代の天皇が追い求めている「国策の融合氏」政策とは逆の荘園制に肩入れしてしまったのです。
この事が原因で天皇から無視される羽目に陥り、次第に「武家の棟梁」ともて囃されながらも「衰退の道」を辿り始めるのです。
本家頼光系4家4流と青木氏5家5流は皇族賜姓族の身分」と「3つの発祥源」を弁えてこの「荘園主の路線」を採らなかったのです。
この「路線の違い」は5家5流の賜姓青木氏と賜姓清和源氏の本家頼光系4家4流は血縁関係を保持している事でも判ります。分家頼信系とは血縁を結んでいないのです。
しかし、本家もこの余波に飲み込まれて、ただ一人朝廷内に源氏の立場を残された総宗本家筋の源三位頼政は孫の京綱を伊勢青木氏に跡目を入れて、源氏を絶やさない為にも皇族賜姓族の本家血筋を天智期からの青木氏本筋に一本化にした上で、負けを覚悟の上で源氏再興のキツカケを作る目的で「以仁王の乱」に突入して行くのです。


参考より話を戻して、この事は「氏数と家紋」から観ると、つまり、上記した「氏の経過形態」では、「大集団の権威」の中に「無血縁で小集団」が入り、その「権威勢力」の下に「氏の安全と重職」を獲得しようとする「流れ、動き」が「融合氏」間に起こり始めたのです。
所謂、綜紋、家紋、血縁の異なる「未勘氏」の発生です。
つまり、「280年間で1182」をピークとしてこれを境に「融合形態」がやや危険な「成熟期」に入った事を意味します。
この事は「第2皇親政治」の嵯峨期の「政治の動き」が良く判る数字です。
年表、氏数、家紋数、計算、史実、用語などから集約する「氏融合」は次ぎのような経過を辿った事に成ります。

-天智期「融合化」20-(成長期)
-嵯峨期「成熟化」80-(最高期:ラップ期)
-清和期「荘園化」200-(過剰期:吸収化)
-後三条期「整理化」+200-(滞留期)
-後白河期「公領化」-200-(低下期)
-鎌倉期「無秩序化」800-(拡大期)
-室町初期「混乱化」1200-(混乱期:潰合期)
-室町末期「減少化]80-(回帰期)

中国・関西地方以北で主に起こっていた「融合氏形態」が「成熟期」(「荘園化」の形で後に行き過ぎが起こる)に入ると、一方中国・九州地方ではこのピークに上記とは逆の現象(この融合時の国策3作に抗して)が起こっていたのです。
上記した阿多倍一門一族の「独立」「民族氏」の大問題が以西地域でクローズアップしていたのです。
真にこの世の万物万象の何事にも観られる様に成熟期とする「変極点に起こる自然現象(YP)」(ピーク時)が「融合氏」問題にも嵯峨期には起こっていたのです。如何に大変な国難であるかが判ります。
上記した判断を一つ間違えると国は滅びる事にも成りかねない「東西の大問題」です。青木氏の血縁祖の一人嵯峨天皇の苦労が判ります。

  「融合氏数の変化」(民族氏の変化)
この間には(桓武期から始まった阿多倍一族の「民族氏」の問題)上記で論じた「負の反動」の「反発現象」もあり一時的に「停滞期」も認められます。
しかし、900年頃から「負の反動」のこの反発も解決の方向に向かい、「九州域自治」を認めた頃の1020年頃から阿多倍一族一門が、遂に天皇の妥協条件を受け入れて周囲との血縁を進め「融合氏」になっていつた事から急激に増える事に成ります。
つまり、以西以北の脅威と憂いは一応解決に向ったのです。ただ問題は「荘園の行き過ぎ」を解決せねば成りません。
その間「融合氏」の政策はどの様に成ったのかを観てみると次ぎの様に成ります。
恐らくは阿多倍一族一門の「末裔550」と配下の「品部180の部民氏」」を合わせて「730」がある短い期間を経て一度に融合氏と成った事に成ります。

「氏数」が200から鎌倉期800に成ったのはこの要因であり、この時期、「藤原秀郷一族一門361氏」、「賜姓青木氏29氏」と、「以北の民族氏の約30程度」が加算されて行きますので、平安末期-鎌倉期では「姓氏」で観ると一度に1230-50が増え合わせて2400には成っていた事に成ります。

「氏」クラスで観ると、この1割程度の200-240と成り、平安末期の象徴紋と家紋から観た「氏数200」と完全に一致します。
つまり、平安末期までには順調に伸びて「物造り」策と共に連動して「荘園行き過ぎの問題」があったとしてもマクロで観れば「氏融合策」は成功していた事を意味します。
そして、「桓武天皇」の「律令政治の国家」政策路線は「皇親政治」で一時滞留していたが「皇親政治の開放」に依って復活する訳ですから、「嵯峨天皇」は国内の「融合氏政策の効果」をわざわざ調べたのです。
そして「皇親政治」に依っての上記の様な充分な実績を確認して「新撰姓氏録」を発表したのです。
つまり、「1182の姓氏」が生まれている事を認識して、後は自然増に委ねる事で進むと観て、「荘園の行き過ぎ」問題が起こる事を懸念しながらも、最早、これ以上「皇親政治」を続ける事は国家にとってむしろ不必要な弊害を生むとして「開放」を決断したのです。
現実に懸念通りに「荘園行き過ぎ問題」は「国家体制を揺るがす問題」と成って行ったのです。

その後、200年程経って「嵯峨天皇の意思」を継いでいた「後一条天皇の院政」と「後三条天皇の第3期の皇親政治」と「白河天皇その院政」で、再び天皇家の「伝家の宝刀」を抜き「皇親政治」を敷き「国難の解決」に当たる事に成ったのです。
天智期からの3期の「皇親政治」は何れも「国家の安寧と安定」を目標とする「氏融合の国策3策」を成し遂げるためにそこに起こる「国難」を解決し排除する政治体制を採ったのです。
「荘園の行き過ぎ問題」は放置すれば最終は「国家体制の危機」を招かないとも限らず、再び「国策の融合氏政策の3策」に舵を切り直したのです。
決して、俗説の天皇家の牽制の為ではなかった事がこの様に傾向分析により経緯をつぶさに調べると判って来るのです。

  「氏名と姓名」
現在では「氏名」(しめい)と「姓名」(せいめい)は同じに扱われていますが、本来は1080-1100年頃の鎌倉前期までは違っていたのです。嵯峨期の「新撰姓氏録」では殆どはこの「姓名」です。
本文で論じているのは「氏領域」の「氏名」です。
当時では「姓氏」が幾つか集まって氏を形成していたものを分けて考えていて、この集まる条件が「血縁性」、「民族性」、「未勘氏性(大集団吸収族)」に依って違っていた事から「氏」と「姓」を使い分けしていたのです。
そして、主に「氏」とは血縁性を主体としてのものを云っていたのです。「民族性」「未勘氏性」のものは「姓」として使い分けをしていました。更には「姓」は「小さい集団」と云うが概念が存在していました。

皇族賜姓青木氏は「3つの発祥源」で「天皇護衛団(親衛隊)」である事から「氏」が青木氏で「姓」は無しと云う事に成ります。従って、青木氏から他の「氏」や「姓」が分派分流してはいません。
ただ、母方青木氏の特別賜姓の認可を受けての藤原秀郷流青木氏も同様で、矢張り准皇族系として「青木氏の仕来り」を護ったことに成ります。
これが皇族関係氏の「仕来り」で家紋もそもそもの家紋ではなく、元々の「象徴紋」で有る事から「家紋掟」による変化は起こりません。又起こさない様にする務めがあります。これが「3つの発祥源」としての「固い仕来り」だったのです
嵯峨期の詔勅による「皇族青木氏」も仕来りを守り、「皇族関係者」と「賜姓源氏」から青木氏が発祥していますが、他の「氏」と「姓」は分流分派していません。この「2つの氏」は合わせて29氏と成ります。

嵯峨期の詔勅で特別に名乗った藤原秀郷流青木氏は、理屈上は藤原氏から見れば「氏」が藤原氏で「姓」が青木氏と云う事に成りますが、秀郷流青木氏からは他の氏や姓は分流分派していません。
故に116氏と大きな氏と成っています。
これは賜姓青木氏と母方血縁族であり、天皇を護衛する六衛府軍の役目と藤原秀郷一族一門の護衛団と云う2つの役目があった事によります。
又、宮廷の近衛軍団の六衛府軍になる資格を持っていてその役職を皇族賜姓青木氏と供に務めました。
皇族賜姓青木氏は「蔭位の制」の有品の位は3位か4位、藤原秀郷流青木氏は4位か5位であった事からも判ります。
この「血縁性」のある「2つの青木氏」は高い「有品の立場」からその権威を基にした平安期の「大集団吸収過程」の「名義荘園主の手段」を採らなかったのです。

その裏返しとしてこの「2つの血縁性のある青木氏」に仕えた「血縁性が無い2つの青木氏」には血縁にも勝るとも劣らず「強く古い絆」を基とした「家臣団の未勘氏」と「部曲、品部」の「生活結合の青木氏」(第3氏)が「2つの氏」が存在するのです。
他氏の「未勘氏」や「第3氏」とはその結合そのものが違っていたのです。他氏には観られない「有縁結合」であったのです。1千年を超える「歴史の所以」の所作が成し得た「特異な融合体」(絆氏)であったのです。
故にこの「2つの無血縁族青木氏」は「大集団吸収過程」の「姓族」ではなく「氏」そのものを呼称しているのです。
ところが藤原秀郷一門は361氏でありますが、24地方に分散して子孫を遺したことから血縁性のある大集団と成り、24の姓氏名を有しています。これに血縁性の無い平安期の「大集団吸収過程」に発祥した「姓氏」からの「未勘氏」と、「絆氏」とも見られない「第3氏」が大変多い氏と成っています。

調べてみると、藤原秀郷一族の「未勘氏」と「第3氏」は青木氏の様な「絆結合」の判別が現在でも出来ないのです。恐らくは他氏に比べて格段に多い「未勘氏と第3氏」の姓数は全体の5%程度ではないかと考えられます。
その「判別条件」が現在は研究が進んでいないので不明ですが、「5%の根拠」は平安期の荘園に隷属した「部曲、品部」(貴族奴婢を除く呼称の百姓)の比率がこの数字であった事が記録より判明しています。秀郷一族一門は「源平藤橘」大集団の一つであった事から間違いないと観られます。

その条件は各地に存在する秀郷一門と「場」の「地理性」、「時」の「時代性」、「人」の「人為性」、「宗教性」のより近いものを有している「未勘氏」と「第3氏」を選択する事で判別できるのです。
特に「宗教性」で1-2割程度に絞れるので、「地理性」と「時代性」と「人為性」とで5%に近づけます。
しかし、これにはより幅広い「歴史概念」とか「史実の把握」とかの雑学が必要とされますが、何はともあれ秀郷一門より数倍も多い「未勘氏と第3氏」なのでかなり難しいと観られます。
ですから個人でルーツを探索するには、思い立ったら直ぐには「ルーツ探索」がこの様な事から難しいのです。それ程に上記の様に個人の事に付いて書き遺した殆ど資料はありませんので、その意味でもせめて本文の内容でも参考にすると「ルーツ雑学」に貢献し効果が出て来るでしょう。

  「諸蕃の氏系列」(雑学)
「氏」と「姓」がはっきりとした「姓族」が多く「血縁性」があっても血縁による結びつく事を積極的にせず「自立、独立性」が強く働き日本の「氏家制度の仕来り関係」が薄いのが阿多倍一族一門の特徴です。
これは「儒教道教」を宗旨とする「中国人」ならではないかと考えられ、帰化当初からの持ち込んだ概念を遺し強く「民族氏」から脱却する事が出来なかった観られるのです。

中国の「三国志」にも観られる様に、広大な大陸の多様種な民族がその民族毎にその民族を中心として政権が度々入れ替わる中国に於いて派、人民を纏めるにはその集約する「民族」と云う大きい概念で括る以外に統一した概念が生まれないは必定であり、「集約」とした概念は生まれることは大きく広すぎて困難と成ります。
その真逆の環境にある日本に於いては「民族」→「氏」→「姓」と成り、当然に括る概念は小さく成るのはこれまた必然であり、そこに生まれる集約した小さい概念の「掟」「規範」が生まれ「人より法」となり「掟規範」を先ず守りその上での「人」と成り「薬は薬」は当然の概念として生まれるのも必然と成ります。
(中国の共通概念は「法より人」「石は薬」の考えに集約出来るのです。全てこの概念の運用で彼等の思考原理や行動が判別できます。)
16国を成し得ている漢民族を含む中国では、「民族」と云う大きい概念で「族」を構成する為に(大きい順で「民族-氏-姓族」となる為に)、「氏族」-「姓族」が「多様種の民族集団」であるが為に必然的に形成されない結合と成ってしまうのです。
従って、集団で入国した漢民族の内の「後漢民」の阿多倍一族一門とその「品部」達には「氏と姓の関係」が、個人で入国しない限りは観られない原因であったと考えられます。
阿多倍一族一門は上記した「3つ基地」と「1つの本部」を持ちながらも、基地夫々が独自の「別の行動」を採ったのもこの事から来ているのです。

矢張り、故に現在でも観察出来る様に、「民族」と云う事で熱を上げて日本攻撃のデモやスプレヒコールで直ぐに騒ぎたてる帰来のある「中国人」なのです。
しかし、日本と中国と戦った過去4度の「民族」で戦った「戦争の内容」を調査すると必ず共通して見られる現象があり”苦戦になると「戦場放棄」する”と云う性癖事が起こっているのです。
この性癖の良し悪しは別として、「民族」だけでは固まるが「横の関係」「末端の関係」況や「兵の関係」で固まらない国民性の性癖なのです。
そこに「法より人」「石は薬」の彼等の共通概念が更に「兵の関係」を弱くさせているのです。「人」を重視するのであれば「兵同士の関係」を重視する筈です。
しかし、この「人」には「石は薬」の概念が加わり日本の「氏家制度」の「相互扶助」の様な考え方が起こらないのです。
この「2つの概念」は個別の概念では使用するのではなく連動しているのです。そうすると彼等の思考は理解できるのです。
「法より人」は「戦線離脱」は「兵の法」、しかし苦戦となると「兵の法より人」と云う概念が先行するのです。そして「兵の法より人」の言い訳には「石は薬」の理屈が付け加えられるのです。
筆者も中国人の実習生を長い間受け持った経験があるが、日本人から観ると明らかに就業違反なのだが、当初から知ってはいたが、あぁ又かとこの「2つの概念」を必ず持ち出し言い訳を等々と述べだすのです。彼らは述べだすと留まらないと云う印象で「儒教の教え」が染み付いているのか大声で喚き立てるという印象であったのです。日本では大声は悪い習慣ですが彼らには普通の事なのです。
彼らには全く発言、行動、態度は異常ではないのです。彼等の概念に従っていますから。そこで”郷に入りて郷に従え”と氏家制度の「融合氏と姓関係」で生まれた日本人の概念で彼らに説得を試みるのですが、納得せず「法より人」「石は薬」は思考の最上位にあると云う論理なのです。
「郷に入りて郷に従え」は確かに「融合氏 氏と姓」の関係を正常に維持する為のものとして生まれたものではあるが、”その国に居てはその国の法律に従う”は当然の「世界の概念」です。
その時は(彼らには現在でも未だ「民族氏」から脱却できていない程度の)「民度」と云う結論になったのです。
この筆者の経験と同じ事を、天智天皇や天武天皇は彼らと話していて感じとっていた筈と思うとその時の苦労が判り天智天武の天皇に親近感を沸く感じであったのです。
だから、天皇や我等青木氏の始祖たちは”このままでは国体が危険””「民族氏」を放置していては危険”と観ていたと予測出来るのです。

(余談 この実習2年後、中国に企業進出した時の最新鋭のマシニング機械と全ての生産設備をこの2つの理屈で奪い取られるという前代未聞の事件が起こり、それを実行させる無法なサボタージュが起こったのです。恐らくも尖閣諸島の領有権問題もこの「2つの概念」で更にエスカレートさせて来る事はあきらかです。直ぐにこの染み付いた彼等の国民性の「2つの概念」は帰化したとしても直ぐには変わらないだろうから。同様に大和の民にも云える事ですが。)
日本人も「氏家制度」「氏と姓」から生まれて来る日本人独特の概念「相互扶助と上下主従」がある様に。(最近はこの概念も変わりつつあるが。)

これらの正しいと信じている中国の独特の概念が帰化しても消える事がなく、「天智期」から「後一条院-後三条天皇」まで「民族氏の思考基準」で「独立-自治」の主張が特に九州に蔓延り、天皇を悩まし続けた問題であった筈で、それは避ける事が殆ど出来なかったものと観られます。
つまり「氏と姓の関係」は「氏家制度」(相互扶助)を充実させ”郷に入りて郷に従え”の例の様に、結果として日本人には「良い概念」を生み出しているのです。それが「民族氏」には無い「融合氏」に観られるものと成ります。累代の天皇は{律令国家体制」を成し遂げながらも「国の安寧と安定」の国是の為にこの「政治路線」を採ろうとしていたのです。

阿多倍一族一門:「民族氏」→「法より人」「石は薬」→「民族氏」→「独立-自治」

「日本の氏と姓」
「郷に入りて郷に従え」←「氏と姓関係」→「相互扶助と上下主従」
「氏と姓関係」→「郷に入りて郷に従え」→「相互扶助と上下主従」

故に「融合氏の形成」が国策として採用された背景の最大の国難の一つなのです。彼等の思考原理に対してこのままでは「政治体制」が維持できなくなると云う危機感が生まれ、彼らを含む民族を融合して一つの民族に造り換える以外に方策は無いと考えていたのです。
天智天皇-天武天皇が始めた”国策「民族氏」から「融合氏」に変換した国体を造る”と云う判断は現在に於いても理解できる驚くべき優秀さを保持していたのです。取り分け累代の天皇の中で「如何に優秀な2人の天皇」であったかと考えているのです。
この判断だけではなく、上記(1~4)で紹介した様に検証すると「具体的に、詳細に、綿密に、適切に、大胆に、合理的に」策が打ち出されている事も驚きでそれを証明しているのです。一分の隙もないくらいです。
これを策案実行し主導して補佐したのは他でもない「融合氏の発祥源」と「皇親政治」の我等青木氏の始祖なのです。

  「皇別系」「神別系」
ところが、更に難しさを増していたのは、この「諸蕃」(外国人 他民族)に対しては日本には入国した族は「一つの発祥族」ではなかったのです。それらの族は「皇別系」と「神別系」に分けられるのです。
「皇別系」と「神別系」とは、「質」を異にする「諸蕃」の中で、阿多倍一族一門の「渡来人の首魁族」を除くその配下の「渡来人の集団」を指し、180もの「部」で構成されていたのです。
それが次ぎの様に成ります。

「諸蕃」→「神別系」(1+2)+「皇別系」(3+4)

「神別系」(180)
1 「中国系」では秦部の秦氏、漢氏、司馬部の司馬氏、海部の海部氏、磯部の磯部氏、等々
2 「朝鮮系」では、百済部の百済氏、物部の物部氏、等々
「皇別系]
3 「朝鮮系」では「朝鮮族首魁」との血縁を有する「天皇家の族」(応仁大王時から)
4 「天皇家」その「血縁氏」の蘇我氏、平群氏があります。

上記した様に「民族氏」の形態は次ぎの様に分類できます。
0 後漢民「阿多倍一族一門」 (賜姓)坂上氏、大蔵氏、内蔵氏、阿倍氏、肝付氏、平族→「民族氏」

1 後漢の「職能集団」200万人 第1期渡来民+第2期渡来民 →180「品部」→「融合民」

朝鮮からの「渡来民」  第1期飛鳥期+第2期奈良期+第3期平安期
2 第1期飛鳥期  「応神大王」が引き連れた集団 百済部氏 物部氏→「民族氏」   

3 第1期飛鳥-奈良期  「天皇家」と「渡来応神一族」の血縁第7世族→「融合氏」 
4 第1期飛鳥期  「応神大王一族」と「豪族」血縁族-武内宿禰の末裔族→「民族氏」

民の難民(1-4の期間に次ぎの難民が流入)
5 第2期奈良期 朝鮮半島の動乱難民→「融合民」
6 第3期平安期 朝鮮半島の難民 中国からの難民→「融合民」

(参考 3は天皇系族 4は応神大王系-蘇我氏、平群氏、紀氏、葛城氏、巨勢氏)

注釈
「神別」の2とは「ニギハヤヒノミコトを末裔(ミコト)とする事から歴史的に神別としているが伝説域である。「神別」とされる「民族氏」は全て「・・部」を氏としている事から「漢」と「後漢」に制圧され圧迫され「弁韓域方面の民族」が百済の応神王と共に難波港に渡来した4世紀時代の「部民」である。

この「物部氏」は応神期の兵部関係の「武力職能集団」であるに対して、「百済部」は飛鳥期の応仁王が渡来した時に百済の民族(民)が一箇所(難波と飛鳥の境付近)に集団で生活した事からその集団を「百済部」と呼ばれ「百済氏」の「民族氏」と成ったのです。
この「百済部」の「民族氏」の存在はその後、荘園期(900年頃)までの記録がある。

「神別」の「ニギハヤヒノミコトを末裔(ミコト:神)」とした事は「蘇我氏」が「応神王」の「王族末裔」であるのに対して、物部氏等の「民族氏」はその時の「渡来軍の民末裔」である事から伝説域の「ミコト末裔」と虚勢を張り主張した事に因ると考えられます。

(これは嵯峨期の「新撰姓氏録」の分類であるが、現在の判明史実から観るとルーツはこの様になる)

飛鳥期から奈良期に掛けて渡来した外国の民族には阿多倍一族一門の首魁末裔と、1のその後漢の職能集団180部が「在来民族」との融合で発祥した「融合民」があります。

上記の様に「首魁末裔」の「民族氏」としての「行動、考え方」に付いて論じて着ました。

しかし、遥かに多いその配下の「180部の民」はどの様な考え方や行動を採っていたのか検証する必要があります。それは次ぎの2つです。

a それは「融合氏」にどのような影響を与えていたか、
b それに依って天皇を始めとする為政者にどの様な問題を投げかけていたのか、

以上aとbの「2つの問題」を知る事で「皇親政治」を主導する青木氏の「生き様」をより詳しく立体的に網羅する事ができます。
そこで、この上記1から4の異民族がどの様な位置関係にいたのかを考察してみる事にします。

渡来人の大半はその数から、又その影響度から観ても、阿多倍一族一門の末裔のものである事は云うまでもありません。しかし、この1から4もかなりの影響を及ぼしていたのです。

先ず1に付いて。
1の180の部の「品部」と「雑戸」は比較的自由にあり、後漢の民族性(「法より人」「石は薬」)に固守していたのではなく「集団生活」をして居た事は事実としてあり、首魁の支配を受けていた事も事実であるのですが、「融合」と云う点では極めて緩やかで「在来民」との血縁を行っていた事が「奈良期」の「法の制定」の内容で観えて来ます。
これは「在来民」が積極的に「180の部」の技能を吸収しようとしてその配下に入った事からそこに「民族」と云う「垣根」が消滅して行ったと考えられます。
そして、その結果「血縁」が垣根の制限も少なく積極的に行われたのです。

その史実として、かなり多くなった「民の種類」に因って「税」と云う観点からこの民を区分けしてそれに応じて「税を課す体系」を見直しているのです。

先ず、「民は」一つであったところを大化期645年に直ぐに次ぎの様に分けました。

  「4つの法令」
「民」→「良民」と「賤民」に大別しました。
「五良民の制」  「良民」→貴族、官人一般、百姓(部曲)、品部、雑戸
「五色の賤制」  「賤民」→「奴婢」→陵戸、官人、家人、公奴婢、私奴婢  901-923解体
「俘囚の制」    「俘囚」→蝦夷の討伐民(奴婢外下扱い) 
「男女の法」   良民5と賤民5と良賤民の間とに生まれた子供の所属を決める法

「品部」の配下の「雑戸」は良民であるが「雑戸籍」で管理されていた。(賤民扱い) 890解体
「良民」と「賤民」は原則的に通婚は禁止
「俘囚」蝦夷民は「公民」として認めず 討伐後収容して関東以西に配置し直した
「男女の法」子の所属の法(良民男女の子は父に 良民と奴婢の子は奴婢に 奴婢間の子は母に)

上記の様に、大化期には余りに増えた「民の種類」に驚き「男女の法」(645)を慌てて定めましたが、次ぎの2つの問題が起こりました。

A 「民の身分」の区分けが出来なくなった事です。
B 「民」に付加する「税と労役」に狂いが生まれたのです。

その原因はこの「自由な民の融合」が起こりそれまでの「税と労役」の配分が困難と成ったのです。
そこで、これでは拙いと観た朝廷は、先ず、大化改新後直ぐに645年の「男女の法」の法を定めて「民の身分」の「区分け」を行ったのです。
それまで怒涛の様に入国する後漢の民(1)、それに朝鮮半島の乱れから朝鮮族難民(5、6)が続出していたのです。
そこに少し前に入国した「朝鮮族の在来民」と成りつつあった渡来人(2、3、4)があり、夫々の「族間の争い」も絶えず収拾が付かなくなっていたと考えられます。

「日本書紀」にもこの時の様子としてこの「民の配置」や「犯罪」などの問題が記録されている程です。中には本国に送り返される「民」もあって混乱状態が起こっていたのです。
そこで上記の「4つの制度」を施行して大化の改新として融合氏政策と供にこの改革を早々に踏み切ったのです。

イ 4世紀までの7つの民族の「従来の在来民」
ロ 5世紀の朝鮮族の「新規の在来民」(2、3、4)と成った族
ハ 6世紀-7世紀(後漢の0、1)の帰化渡来人、
ニ 7世紀以降(5、6)の朝鮮半島とアジア大陸難民族

これだけ(イからニ)が飛鳥期から奈良期までの約200年間に入国していて主に「民」の領域を構成し始めたのです。
特に大化期はそのピークと成っていましたが、もし現在この様な事が起こった場合の事を考えても、その混乱さは図り知れない程のものであったと観られます。

  「民の人口の考察」
人口は後漢の民17県民200万人以外には正式に記録にはありませんが、「従来在来民」(450万)を除外しても500万人以上には成っていたことが予想できます。
この500万人と云う数はどの様な意味を持っているのか、国政にどれだけの負担となっているかを考察してみますと次ぎの様に成ります。

後漢の民が入国帰化した時にも「唐の征討」により朝鮮半島からも同時難民の入国が起こっていたのです。この時の賤民が人口の5%で合ったとする記録がありますので、江戸時代で4000万人とする記録からすると、大化期では食料事情や寿命から概ね1000万人弱前後となり、何と国民の25%に上る入国があったと事に成ります。恐ろしく急激に増えた事に成ります。
後漢200万人で25%と成り、それまでに身分として存在しなかった「賤民」が大化期に設定されて5%とする記録があるところから観ると25%は納得出来る数字である事が判ります。
これに加えて厳寒地で人口は少ないが統治できていなかった「蝦夷の民」が入ります。
恐らくは次ぎの事が起こっていたと考えられます。

「部曲の生産力」と「品部の生産力」が確実に不足した事に成ります。
「居住地の面積」が不足していた事が予測出来ます。

この為に未開発地域に良民と賤民、難民と帰化人全てを配置し直して自立開墾させる事に成ります。
現実に日本書紀には九州に居た多くの品部を各地に配置した事の関連記録が観られます。
現在から観るとその土地柄を生かしている配置で在った様で、その地方域から多くの部民の融合氏が出ています。全て「部名」を「姓氏」にしています。
次の様な主な配置が行われています。

「180品部の部民の主な配置状況の概要」
信濃地方には馬部関係、鵜飼部関係、山部関係を
美濃尾張地方に矢作部関係、磯部関係を
甲斐上野地方には山部関係、服部関係を、
尾張遠江駿河地方には磯部関係、漁部関係を
肥前肥後地方には弓削部関係、来米部関係を
筑前筑後地方には鍛冶部関係、鍛師部関係、金作部関係、鏡作部関係を
豊前豊後地方には佐伯部関係を
長門周防地方には武器部関係、武部関係、陶部関係を
安芸地方には舟部関係、海部関係を
奈良紀州地方には史部関係、倭文部関係、鞍造部関係、墨部関係、硯部関係、鍛冶部関係を
摂津難波には錦織部関係、石作部関係、玉作部関係、工部関係を
近江滋賀には土師部関係、矢作部関係、綾部関係、舎人部関係、和気部関係を
関西西域には麻績部関係、衣縫部関係、赤染部関係、茜部関係、紙部関係を
(部民180品部全てを記述する事は困難な為にこの内記録的に配置状況が明確なものを記録した。「・・関係」とはその部を行うに必要とする関連の職能集団の部を云う。)

後に記録としてこれ等が最も速く「融合氏」として集団化したのは890-900年の頃で「品部の廃止」(890)からで、その勢力の強い「品部」から「姓氏」を構成したのです。
最も古い記録では確認できる「融合氏」の「姓氏族」は「陶氏」「海部氏」と「和気氏」と「弓削氏」等で記録が遺されています。

この土地の特徴を生かした「配置状況」からその土地の当時の「生活環境」が観えて来ます。
例えば、土地の環境に合わせて「山部」で「植林材の生産」や「まゆの生産」をしその絹の織物に必要な機械も甲斐の「服部」(はっとり)で織物の機械を作る品部が配置されています。
産業が一定の周囲の環境から連携して生産できる様に配置に対して考慮されています。
そして「民の融合化」が進む様に生活品の調達が出来る様に盆地地域と海岸地域の産物の交換が盛んに行われていた事が記録されていて、例えば海産物の加工品の「磯部氏」が信濃、甲斐にも彼等の「融合氏」「磯部氏」が観られるのです。この様に土地や集団域を越えて「品部」の「民の融合」は現在と殆ど変わらない程度に盛んに行われていたと観られます。

ここで問題なのは「部曲」「民部」「奴婢」の”農業に従事する「民」の融合はどの様であったのか”に付いて疑問が出ます。
これ等の「3つの農業民」は土地に属する「民」であって「公民、荘園民」がありますが、土地から移動する事は「品部」と異なり出来ない事ですから、「融合」と云う点ではリスクを負っています。
上記の開墾地域では初期は品部自らが農業に従事し開墾を進めた事が日本書紀にも信濃の事の関連記録として書かれていてその様子が読み取れます。
しかし、5、6の「流入難民」や「俘囚」を関東中部地域のこの開墾地域に配置したと記録されていますので、これ等が「部曲」「民部」の下位の「奴婢」と品部の下位の「雑戸」と成って農業に携わったのです。
そして、この各地の開墾地の「流入難民」や「俘囚」が「奴婢」「雑戸」としてシステム化されて行き「部曲」「民部」「奴婢」「雑戸」間の「民の融合」が「男女の法」「五色の賤」の法令を定めなければ成らない程に進んだ事を物語っています。

この「農業に携わる民の融合」は900年の「品部の廃止」から一挙に開放的に成り「流入難民」「俘囚」の「奴婢、雑戸」身分の「垣根」が無くなり「部曲」として融合が加速的に進んだのです
この時点で「品部」の「民の融合」と「部曲」の「民の融合」は「開墾」を通じて爆発的に進んだのです。
筆者は、逆に云えば、「俘囚」は初期の段階では、この美濃、信濃、甲斐等の青木氏が守護を務める「新規開墾地域」に「部曲、奴婢、雑戸」として送り込む目的で「蝦夷地域」を討伐したと観ていて「蝦夷」の蔑視する呼び名からも読み取れます。
しかし、900年頃の「法の廃止」からその目的が達成されて代わって「全国統一」の討伐に成ったと観られます。
「荘園の経緯経過」の法の時系列から観ても、阿倍比羅夫から坂上田村麻呂820年頃の討伐までは初期の目的の「開墾の働き手の確保」であったと考えられます。
「品部」の生産には「食料供給」とは別に「部曲」の生産が素材等で必要で「品部-部曲」間には切り離せない中間工程が伴うのです。
つまり初期、後期共にこの工程人として「部曲、奴婢、雑戸」を「俘囚」で補ったのです。
ただ、藤原秀郷一族の鎮守府将軍や源義家の征夷代将軍からは主目的は「全国統一」に代わったのです。

「品部」生産-「中間工程」-「部曲」生産
「俘囚」の目的→「新規開墾地域」(890-923)→「全国統一」(1020-1060)

  「4つの民の融合化」
「品部間の民の融合化」
「部曲間の民の融合化」
「品部と部曲間の民の融合化」
「奴婢と雑戸の部曲化」

この「4つの民の融合化」が余りの速さの融合で起こった為に判別が困難と成り上記の「男女の法」「五色の賤」の法(890-923年)は最速、意味を成さなくなったと云えるのです。
「氏の融合」(私有化荘園)や「姓氏の融合」(集団化荘園)や「民の融合」(氏・姓荘園化)は矢張りここでも一致して「法の廃止」から観ても「3つの融合」のピーク期である事が判ります。

大化期から平安期までは「荘園問題」でも物語る様に、また上記の「渡来人、帰化人、難民問題」でも判る様に、更に「品部」の各地への配置でも判る様に、各地殆どで漏れなく「開墾」は著しい速度で進み、それに合わせて「民の融合」も起こったのです。

故に第6位皇子を臣下賜姓してわざわざ未開の開墾に皇子を守護王(青木氏)として送り込んだのです。それだけの「融合」が進み「治安統治」の必要性が急激に出てきた事を示しています。
そして、その地を直轄領の天領地として認定したのです。政治的な意味がある事を示す事柄です。
上記した開墾地は全て「天領地」或いは直轄地なのです。
特に青木氏5家5流が配置されたと5地域は全て「穀倉地帯」に成り「要衝の地」で成り「主要街道」と成って行ったのです。

この事でも如何に「開墾」と「民の融合」が短期に爆発的に進んだかこれで判ります。
これは「品部」の「物造り」が「民の融合」(後には「氏の融合」「姓氏の融合」に変化)でも連動している事と成りその事の証明となります。

参考
(「日本書紀」に系図一巻が在った事が「釈日本紀」に記されている。これは「融合氏」の国策が国家的優先課題であった事を物語ります)
(融合氏の事を系譜的な形で記録したものとして、他に「古事記」「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「文徳実録」「三大実録」「氏族志」(未完)がある)

以上の様に配置し主要地のその開墾に守護王として皇子を送ったとあります。
ここに後に守護王として第6位皇子を臣下させ青木氏を賜姓して送り込んだのです。奈良期には阿倍比羅夫が蝦夷を掃討してその時にその土地の「民」(俘囚:ふしゅう)等をこの3つの地域に送り込んだのです。その後も平安期に坂上田村麻呂や源義家らも「俘囚」を送り込んだことは有名な事件として語られています。(この時は「荘園の開発」を目的としていた)
朝廷はこの「蝦夷の民」を征討する度にその地の「民」を「俘囚」と呼称して政策的に関東より西の各地に移動させて配置したのです。

  「上位の融合氏」「中位の姓氏」「下位の融合民」
上記「4つの法令」取り分け「男女の法」と「五色の賤」の法制定から観ても、後の荘園の経緯経過状況が理解できます。
又、その「二つの身分制度」が890-923年間の間に「法の廃止と解体中止」が行われた事から観ても、更に「俘囚の配置」処置から観ても、上記した様にこの「民の融合」の経緯からも観ても、荘園の「加速」と「行き過ぎの経緯」は何れも900年頃から確実に起こっていた事がはっきりと判ります。

上記した様に征夷討伐完成は「阿倍比羅夫」(660)から始まり「坂上田村麻呂」(820)に続き、「鎮守府将軍の藤原秀郷一門」(960)と最後の「征夷代将軍の源義家」(1087)で終わった事に成りますので年代的に「俘囚の配置」もこの荘園の開発手段として移動させた事が判ります。

この事でも「後三条天皇」までの「整理令・公領制令」(1068)まで「阿多倍一族一門の官僚方」が故意的に恣意的に政策誘導していた事が証明できます。
その後の院政「後醍醐天皇」の「義家冷遇」の原因も「荘園の行き過ぎ」を押さえる措置の一つであった事が判ります。
つまり、無血縁で小集団の荘園主の豪族武士たちは賜姓源氏権威の傘下に入り荘園を護る意図として源氏を「武家の棟梁」と呼称して祭り上げていた所以である事が判ります。(その意味で義家は後醍醐天皇の意思に反した行動を採ったことに成ります。その事から義家は冷遇されたのです。)

兎も角も問題視される「荘園」が「上位の融合氏」と「中位の姓氏」と「下位の融合民」を誘発させて拡大した事が云えるのです。ただ900年以降の「荘園行き過ぎ」が「氏、姓、民」融合の政治状態に大きく影響を及ぼした事が問題と成るのです。

  「3つの発祥源の族」と「皇族賜姓族の立場」
「融合氏」の国策3策を主導した天皇と「皇親政治族」には当時の「社会制度」とりわけ「身分制度や人口」などの考察からも「人間の能力を超える政治的課題」であって大変な精神的圧力であったかが良く判るのです。「悩む生き様」が観えて来ます。
「3つの発祥源」として位置づけられた青木氏はそれだけに難しい立場に追いやられていた事が良く判ります。900年以降の身分制度がある程度解けて氏家制度が確立し成熟期に入った時に、「荘園行き過ぎ」が起こったのですから、2つの青木氏は「3つの発祥源の族」と「皇族賜姓族の立場」もありその権威を下に顕に「荘園」に直に組する事も出来ず苦しい立場にあった事が伺えます。
まして、美濃、信濃、甲斐の国の開墾時の守護王であり「民の融合」の立役者でもあったのですから直接荘園に手を出す事は出来なかった筈です。
その点で同族である賜姓源氏が取り分け清和源氏分家頼信系の末裔は勢力拡大を狙いこの「荘園」の「行き過ぎ過程」に手を染めてしまった事が後に滅亡の宿命を負ってしまったと考えられます。
ここが青木氏の「3つの発祥源」の認識の有無の差が左右して頼信系源氏はその認識が欠けていたところであったと考えられます。
その証拠にその代表的な清和源氏頼信系の義家は功績は実に大きかったにも拘らず「院政と天皇」に排斥され疎んじられた原因であると考えられるのです。
確かに頼信系の清和源氏は「荘園の集団化」に権威を利用して無血縁の未勘氏を闇雲に増やした事は事実であり、それが同族の賜姓青木氏の様にその「皇族賜姓族の立場の認識」と「3つの発祥源の認識」に欠けていたと判断され、天皇家からは賜姓青木氏と比較されて排斥され疎んじられたと考えられます。
元々清和源氏は青木氏の様に「開墾と民の融合」を成し遂げる守護王としての苦労を成していないのです。ただ蝦夷を鎮守府将軍の藤原秀郷一門に代わって征夷代将軍として制圧しただけなのです。
その制圧も阿倍氏末裔安倍氏と清原氏を制圧し、最後は首魁を「だまし討ち」にした程度の功績なのです。それを背景に、「荘園」の「行き過ぎ」を懸念していた「院政の悩み」に対して、院政政治に逆撫でするか様に、逆の「行き過ぎの荘園」に手を貸して自らその旗頭(武家の棟梁)に成ってしまったのです。
(祭り上げられた)
清和源氏は頼信系だけでは決してないのです。宗家の頼光系(4家)が主役として厳然として勢力を張っていたのです。同族の皇族賜姓青木氏の守護地の代理守護として源頼光は開墾地の近江、摂津、美濃、信濃、甲斐の国を歴任し「荘園の行き過ぎ」の「未勘氏の集団化」には手を染めていないのです。
「武家の棟梁」の呼称は、源氏の「未勘氏」になろうとしていた地方の小集団の武士達から、分家の頼信の子孫の義家に言われたものなのです。
実は「頼光系4家」と「同族青木氏5家」とは「同族血縁関係」を保っていますが、頼信系と同族青木氏は血縁関係を結んでいないのです。

これは何故なのか疑問です。
「分家の頼信系の路線」と「宗家の頼光系の路線」が異なっているからで、つまり”「3つの発祥源族」と「皇族賜姓族の立場」を認識した立場を護っていたか”の有無の差なのです。
本来であれば、この様な「路線の違い」がなければ当時の習慣から「同族血縁」を結んでいる筈です。
(路線の違い:融合氏国策3策の「行き過ぎ」を制御→整理令-公領制→900年前の正常状態に戻す。)

恐らくは、これは清和源氏宗家頼光系と賜姓青木氏等は頼信系との間には血縁を結ばない程に「路線の違いの軋轢」が起こっていた事を物語るものです。
簡単に云えば、”立場を弁えないで品が無い”と云う事を囁かれていたのではないだろうか。
だから”院政は「比較する同族」(頼光系と青木氏)が居たからこそ余計に苛立ち、皇族として蔑視され、まして「氏融合の国策」にも逆らい、「行き過ぎ」を助長させ得る頼信系を疎んじた”と観るのが正しい事に成ります。決して”理解が出来なかった、知らなかった”と云う訳では無い筈です。
1068年以降に続けて「整理令と公領制」(1068)を発布し、「後三条天皇」「白河天皇」等が藤原氏等主要な為政者等を完全排斥する事件を起しながらも決死の覚悟で実行したのですから、源頼信(968-1048)も直前の状況は把握していた筈だし、孫の源義家(1039-1106)はその渦中に居た人物だあるし”知らなかった”は当たらない筈です。
兄源頼光(948-1021)に甲斐の守護代理(国司)の基盤を譲ってもらった部屋住みの身分の河内の源頼信は伊豆の兄の領国の勢力を背景に関東へ「勢力拡大」に邁進したのです。
その結果、関東上総下総方面に基盤を持っていた「平族」(たいら族 桓武平氏)と対立する方面に勢力を拡大した為に争い(平忠常の乱をきっかけに平族を押さえて勢力拡大)となり、反面中央の平族の勢力拡大に伴いこれを援護する朝廷から余計に政治的な軋轢を受け疎んじられる事となって行ったのです。

この様な全体の経緯があるからこそ「蝦夷制圧」(安倍氏清原氏)の戦いも下命して置きながらも朝廷は「私闘」として片付けたのです。
歴史は「拡大しすぎた義家」として「疎んじた」と成っていますが、上記する融合氏の経緯等から全体的に時系列で観て史実を詳細に傾向分析するとこの様に真の答えが出てくるのです。

結果として、頼信系は青木氏に跡目を入れずに衰退し「頼朝で源氏滅亡」と成り、「融合氏の集団化」を利用しながら極めて拡大させながら皮肉にも逆の結果が起こってしまったのです。
その意味でこの難しい時代を生き残る術を見抜き、”立場を弁えた「品位」”のそれこそ「品位3位」と「品位4位」(有品の制)の「有品の融合氏」(源氏頼光系と青木氏の同族血縁の一本化として)を遺したのです。勿論、「有品の制」の「品位4位・5位」の藤原秀郷流青木氏にも頼光系源氏との一本化をさせたのです。


青木氏と守護神(神明社)-6に続く

以上
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