:「青木氏の伝統 12」- 「青木氏の四家訓戒 1」
[No.329] Re:「青木氏の伝統 12」- 「青木氏の四家訓戒 1」
投稿者:福管理人 投稿日:2015/03/13(Fri) 05:55:43
「伝統 12」
> >前回の末尾
> 故に、(g)(h)から(i)
> (i) 「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」
>
> 故に、(a)(g)から(j)
> (a)「伝統」≒「理」」+「利」
>
> (j)「伝統の本質」≒{「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」}≒「理に叶う事」≒「利に叶う事」
>
> 故に、(a)(e)(f)(g)(h)(i)(j)から(k)
> (k)「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」≒「賜姓の氏族」≒「商いの氏族]≒「伝統の本質」
>
> 結果として、以上の論理が働くからだ。
>
> そもそも、即ち、この「数式論の関係式」は、普通の武家社会では起こらない事を示している。
> それは,「賜姓の氏族」(理)と「商いの氏族」(利)であると云う[特質な環境」を保有していた事に成るからこそ成り立っていた事であり、且つ、上記の”「伝統の原理]”が成り立つ”「不思議な環境」”を持ち合わせた「青木氏」”で在ったからこそ、”「伝統」は保障され維持されて来たのである。
>
> 故に、上記の数式論は、”「青木氏]”のみであり、「平安期-鎌倉期の48氏ある氏族」でも成り立たず、況してや「一般武家」では、決して成り立たない。
>
> 何れにしても、この「世の事」が、将又、「青木氏」にも、数式論通りに、”論理的に全てが働く”とは言い難いが、凡そ、その「流れ」は、この数式論での様に、確保出来ている事は証明出来る。
> 個々の末梢事は、兎も角も、”「流れ」の確保”がこの世に於いて重要な事なのである。
> ”「流れの確保」”のその「前提」は、少なくとも、最低限にも、”論理的に状況の骨組みを作り上げて置く事”にある。
> 「青木氏」のみならず、この世の全ての「事の流れ」には、この「前提」が必要なのである。
「青木氏の四家訓戒」
この「前提」の無いところには決して「河の流れ」は生まれない。
「河の流れ」が無いところには、「事の成就」(田畑の恵み)は生まれないのが、この「自然摂理」であり、「人の世」も例外なく「世の常理」である。
要は、”奈良期から進めて来た「二足の草鞋策」”が全てを物語る事である。
「青木氏密教の三相の理」の「時人場」(流れの確保)の何れもが大きく働いたと考えられるが、中でも、「流れの要」は、「時」ではなかったかと観ている。
奈良期から室町期までの「生存競争の激しい乱世」で「時の云々」が大きく左右した。
この「時の云々」を「機を観て敏」に導き働く「指導者と氏族」であってこそ生き延びられたのであり、「伝統」を護り通せたのである。
その「対照的存在」が、「青木氏」と比較対象に成る「源平橘」であった事に成る。
つまり、「源平橘」は、「上記の数式論」の「流れ」を無視した事に成り、依って、「伝統」が成し得なかったのである。特に、源氏は、上記した様に、「嵯峨期の詔勅」を無視して、「武」の身を押し通した事に「伝統」の破滅は勿論に滅亡の原因があった。
然りながら、「亡びた平家」は「宋貿易」を行い「二足の草鞋策」を採っていたが、伊賀本家を中心とする「宗家筋」は亡びた。その原因は、上記の数式論が成り立っていなかった事に在り、「青木氏」の「四家」に相当する「一族の統制システム」が上手く採れていなく、ただ一人の「個人の能力」に委ねていた事が原因していた。
しかし、大蔵氏等の同門一族は、上記の数式論が成り立ち、博多を中心に貿易を盛んにして「大蔵氏」を遺し得た。
一時、「同族の清盛」にその富を奪われて抑え込まれたが、その後、「九州自治」を前提に「子孫拡大性」を採り「九州全土」を網の目の様な「血縁の筋」で固めた。
秀郷一門とも血縁する等をし、「武」に頼らず、”広く薄く固める戦略”を採ったし、「後漢の末裔」「遠の朝廷」「錦の御旗」等の”「権威と象徴」”を保ち、「皇族の血縁」をも護った。
更には「博多貿易」とは別に、国内の「瀬戸内の富の権利」をも獲得して生き延びた。
同族の「平家」との違いは、「青木氏」と同じ「布位共生」を重んじ、「平家や源氏」の「布武」に頼らなかった事にある。
上記の「青木氏の数式論」に当てはめても、「四家方式」とは異なる「統制方式」を採用していて合致するのである。
「青木氏」の「祖先神 神明社」に対しても、北九州の「宗像神社」や「阿蘇神社」や「霧島神社」等ほとんどの「主要な神社」との関係を持ち「神社系氏族」を作り上げ、「神職」を入れて「一族一門」を固めた。現実に大蔵氏は「神職系氏族」が、幅を利かした。
更には、「後漢」からの「強力な職能集団の大蔵部」を従え、「大蔵種材」の様な「民の憧れの的」(「毘沙門天」のモデルにも成ったとされる”「民の味方」”の「豪傑の首魁」が出る等、「青木氏の御師」に相当する立場も持った。全く何れの面を捉えても「青木氏」との大きな違いは、「純潔性の維持」を除いては無かった。
むしろ、この点では氏子の領域までを血縁の範囲にする等全く「逆」であった。
元々、後漢から帰化した経緯が、「無戦」と民との「供生共存・技能供与」で「共生族の立場」を採っていた。
「平安期の氏族」の「48氏」の中で「子孫」を大きく遺したのは、「大蔵氏」だけである。
況や、上記の他氏との比較評価に於いても、”「伝統」”の無い処に”「子孫存続」”は成し得ないの条理であった。
その「共生共存」を旨とする「子孫存続」「伝統」を示す「上記の数式論」が「前提」と成り得ている。
この”「二足の草鞋策」”が成り立たなかった場合は、「青木氏」に執っては、この「数式論の環境」は「水泡]と成り得ていたのである。
この「数式論の流れの立場」を確保したからこそ、「商いの顔」と、「三つの発祥源の顔」と「賜姓五役の顔」を務めて来た「賜姓族の顔」(「五つの面」 「20の顔」)として「二流の顔」から ”「青木氏の伝統」”が生まれ護られて来た。
明らかに、”「二足の草鞋策」”が、”「伝統」”を生み出したものであり、その”「二足の草鞋策」”を実行するに必要と成る”「子孫存続」”を維持し護った。この為に、”「四家制度」”が敷かれたのである。
況や、「二足の草鞋策」=[四家制度」=「子孫存続」=「伝統」とも云える。
これは、古来より「青木氏」の中で容認されて来た「根本の概念」である以上、就中、現代でもこの数式論が成り立つ事が出来得れば”「伝統」”は保たれるとも考えられる。
但し、あくまでも、この”「子孫存続」=「伝統」”の上記の「数式論の環境」が維持されていればの事である。
(注釈 「青木氏」を調べている中で、”何で「青木氏」にだけこの”「古来の伝統」”が継承され続けて来たのか”に大いなる疑問を持った。
何かある筈で、 それを「紐解け」ば、”青木氏は判る”と考えた。
当然に、「血縁関係」を保持していた「布位共生」の「佐々木氏等の氏族」と「布武」の「源平藤橘」等の比較対象があって、この「生き様の差」を研究した。
その過程である”方程式の様なもの”がある事に気が付いた。
その研究の経緯を経て、生き残るに必要なこの方程式の数式論を導き出した。
つまり、「青木氏」とは、「多少の違い」はあるにしても、「佐々木氏」や「大蔵氏」や「藤原秀郷流一門」等、生き残った「氏族」の「共通項」があると考えた。
この「共通項」を調べるのに大変に苦労をした。この結果上記の様な数式論に辿り着いた。
例えば、”「商い」”とする場合、この「商い」そのものの「確証」探しや、それに類する”何かの糧類”などを見つけ出す事の「資料探し」が大変であった。
この様な研究は現在では「個人情報保護」や「著作権」等で縛りが出来て無理であろう。
現在、各地域の宗家筋の「青木氏の現状」を全て把握している訳ではないが、筆者のルーツも明治35年の松阪大火の出火元で950年以上続いた「福家の商家」も「倒産の憂き目」を受けた。
しかし、他の「四家の子孫」は、この「商家」と「家」を各地で引き継いでいるし、筆者の親族も「商い」をしている。
しかし、”「子孫拡大」”は果たされていて、ある程度の数式論の環境は保全されているが、”「伝統」”は、「時代の変化要素」の方が大きく、上記する”「合理性」=「継続」=「信念」=2”を失い「縮小する見込み」である。他氏も同じであろう事が調査の過程で判った。
果たして、「伊勢の秀郷流青木氏」は、兎も角も、「入間の秀郷流青木氏」も、この「伝統」を継承し得ているかは、一時は把握していたが、残念ながら、最早、判らなくなった。
「信濃青木氏の福家筋」は、未だこの”「伝統」”を何とか維持しているらしい事が確認できている。)
・「青木氏の四家訓戒」(氏是)
さて、そこで,「伝統の本質」の「合理性の血の質」と成り得た「四家方式」の上記の「子の定義」を護るには、”「氏の根本的な概念」”が必要であった事が判る。
況や、それが、”「氏是」とも云える概念” 況や、「血の質」である。
即ち、「氏是」=「血の質」である。
そもそも、”「お仏像様」の掌で育てよ”の「氏是」と成っている「訓戒」が、「大化期の発祥期」の頃から言い伝えられていたのである。
「氏是」の”世に晒す事無かれ、何れ一利無し”の「青木氏の訓戒 氏是」と共に、長く「子孫」に伝えられて来たこの「訓戒」もあったのである。
この「お仏像様」は「青木氏の護り本尊」である。
この「訓戒の意味」は極めて深いが、ここで、この”「青木氏の四家訓戒」”が、”お釈迦様の掌で・・云々”の言葉が世間でも云われている。
”何故にこの「氏是の言葉」が世間に出たのか”と云う一つの疑問がある。
そもそも、「青木氏密教の訓戒」で「氏是」と成っているものが、”世間に出たのか”には何か意味を、或は、”「青木氏の生き様」に関わる事が起こったいたのではないか”と云う疑問である。
「密教」なので外に出ると云う事がどうしても考え難い。
そもそも、「顕教」の”「宇宙仏の盧舎那仏」からの「教え」を、「お釈迦様」が伝える”とする”「顕教」の「お釈迦様の説」”である事から、”お釈迦様の掌で”の言葉は、「密教」では無く、「顕教」である。
明らかに「顕教」である以上は、「時代性」から観て、もっと後の「鎌倉期の時代」に最初に広まったと考えられる。
そうすると、伝えられる手段には、次ぎの事が考えられる。
”鎌倉時代の「浄土真宗」”に依って,「仏説」を「庶民」に判り易く伝える為に、”一般化して世間で使われた言葉”である筈である。
この「時代性」と、世間に伝わる「伝達手段」から観て間違いはないだろう。
「法然-親鸞の関係」と「親鸞の苦悩」の「歴史観」から観て、「民の領域」まで伝わるには、「浄土真宗」しか無い筈である。
(注釈 浄土真宗はその路線の考え方の違いから、四派に分裂した。しかし、この部分に於いては、「共通の仏説の説法手段」であり、路線には関係が無い。だとすると、鎌倉初期前後であり、親鸞そのものが伝えた可能性が考えられる。
だとすれば、「青木氏の浄土密教」-「密教浄土宗の法然」-「法然弟子 浄土真宗の親鸞」の流れの中での関係から伝わったものと考えれば、「密教の門外不出の掟」は開ける。
「奈良期」から「平安期」に掛けて、そもそも、「僧侶」は、「国家機関と朝廷が認める者」以外には成れなかったし、「僧侶」から自由に「仏教の教え」が「民」に伝われば、「国家の安寧」が脅かされるとして、「仏教の民への布教」を禁じていたのである。
況や、「密教」のみとした経緯がある。
然し乍ら、基本的には、この禁令の傾向は社会の中では、平安期末期まで続いたが、これに対して「民への布教」を実行したのは「行基」-「親鸞」であった。
ここで、「法然との軋轢」が生まれて、「真宗の宗派」を構築した。
従って、「法然と親鸞の軋轢」が起こらない前とすれば、この「言葉の伝承」は起こる。
ただ、「行基」(660-749)はこれを破って布教を続け、遂には、「行基」と「民の賛同」を得なければ一切の社会の工事も進まない状況と成った事から、「聖武天皇」は「行基」を許して大僧正の最高位の位を与え、「興福寺建立」等の責任者に指定し、これを成し遂げた経緯が在って、禁令の中でも「仏教」は民の中に浸透して行った経緯を持っている。
伝わった時期とすれば、730年頃の行基か、1180年頃の親鸞かに依る。
この環境の中で、「禁じられた仏説」の「青木氏密教」が民の中に浸透した事は異例なのである。
その意味で、”何かが青木氏との間であった”から伝わったのである。
”「青木氏と親鸞の親交関係」が在ったか”は、資料不足で不明であるが、「古来の和魂荒魂の宗教」と「古来仏教」とを融合させた「青木氏密教」と、後に、「浄土宗密教」をも取り込んだ「青木氏」とは、「法然」は深い関係があった筈である。
前段で論じた平安期に「仏舎や仏画や三昧耶形や毘沙門天像の関係」での事でも親交がない方がおかしいと考える。)
(注釈 宗教論争時に伊勢に移動している経緯がある事から、青木菩提寺で親交している筈である。
「親鸞の布教」にも伊勢にも旅している事からも、仏説に付いての議論もあったのではないかと推測できる。
何れ、「二人の逗留」の証拠は、残念ながら「菩提寺の消失」で資料は見つからない。
しかし、奈良期から平安期まで間に「伊勢の菩提寺」に「高僧の行基」を始として「複数の高僧の逗留」はあった事は判っている。
それは、「青木氏の口伝」でも、「紀州徳川氏の資料」の中からも認められるので、充分に考えられる。
「紀州徳川氏」の資料の中に「青木氏菩提寺建立」に「行基」が関わった事が書かれている。
筆者は、「本尊仏像」を根本的に嫌い、「釈迦如来像」や「大日如来像」や「毘沙門天像」の「本尊仏画」を採用した「親鸞の伝達説」を採っている。上段で論じた様に、この時の仏画は多くは「青木氏の僧侶」が多く書いていた関係から、”伝わり方が平準である事”から伝わったと観ている。
「青木氏」は「布位共生」を旨としての氏であった事から行基にしても親鸞にしても平易に親交があった可能性が観られる。)
「青木氏の密教浄土宗」の中で使われていたこの「四家三様の言葉」が、何らかの事から、この”「訓戒」”が「親鸞」に伝わり、そこで、布教の中で、顕教であるが故に ”「仏説」を判り易く伝える言葉”として用いられたと観ている。
その証拠は、特に「親鸞」は、その特定の階級に布教した「密教であった浄土宗」の「難しい説法」を、「顕教」として「庶民」に判り易い言葉で多くの事を云い換えて伝えている。
この「氏是」も、”「青木氏の「お仏像様」(密教)”が、”「お釈迦様」(顕教)”に変えて伝えられたと観られる。
その前に、既に、「青木氏」では、「密教」の「大日如来のお仏像様」は、”奈良期の賜姓時の賜物”であった事から、その時より”「お仏像様」(鞍作部止利の作)”を祭祀していて、「密教の考え方」を基本とした「平安期の家訓」までの間には、この”「訓戒の言葉」”は既にあった事が判る。
そもそも、「青木氏」で、この”訓戒として使われていた言葉”が、”浄土宗が「密教」から「顕教」に成った時点(鎌倉期初期)”で、「浄土真宗」から庶民に”「仏教の教え」”を判り易く布教する為の一つの「説法手段」に使われて伝わったものと観られる。
「密教浄土宗」が、正式に「顕教浄土宗」となり「密教」を解除したのは、家康に依る「江戸初期の浄土宗督奨令」からである。
しかし、この時も、”上級武士の宗派”として定められた為に、庶民に一般化したのは、矢張り、鎌倉期の「真宗」であると考えられる。
「浄土宗」は、「密教」であった事から、”何かと説法は判りにくい漢文の言葉”で伝えられている。
しかし、他宗、特に「真宗」は、この言葉以外にも、”多くの訓戒”を、庶民に”「仏説」を布教伝道する「云い換えの判り易い言葉」”を多く作り上げていた。
又、”「本尊とする仏像」も持たない戒律”の「浄土真宗」では、当然に、「判り易い言葉」を使ったと観ている。
有名な「真宗の教え」の”唯念仏をただ唱え信じよ。然れば汝は救われる。”は、当に、この”お釈迦様の掌の中で”の ”「換え言葉」”であった。
この事から、従って、「密教の訓戒]であったものが、”「お仏像様(大日如来)」”が、「顕教の訓戒」として ”「釈迦如来」の「お釈迦様」”に変えられて伝わったと筆者は観ている。
”「密教の訓戒」”が、”「顕教の訓戒」”に成った例は、”浄土宗系の宗派”には他にも多いのである。
話を戻して。「四家の嫁」は この”お仏像様の掌で育てよ”以下の通り育てるのである。
従って、「四家方式」の”「嫁」(養女)”は、「自分の子供」と、更に、「夫に成った息子」の「子」を育てる訳であるから、「祖父の親」から観れば、この、”「嫁」(養女)”は、最早、”「嫁」”では無く、「実娘」に相当する”「娘」”としての位置づけが必然的に起こる。
つまり、その「娘」と成った、”「嫁」(養女)”は、”「実娘」の扱い”と成った時点で、”「息子の親」に育てられる”とする考え方を採る事に成る。
この前提には、”「嫁」(養女)”は、「基本的な処置」として、”「女子の曾孫域」以上の縁籍の者”を幼少期より「氏の家」に迎えて”「養女」”として育てる。
この事から、”他氏から来た嫁”、”曾孫域(遠縁)から来た嫁(養女)”の二通り”「嫁」”が生まれる。
しかし、そもそも、”他氏から来た嫁”は、「青木氏」は「純血主義」(同族血縁)を前提とする為に、無理に「養女の形式」を採ら無い限り、原則はあり得ない事に成る。
「四階妻の制」と「四家妻の制度」
従って、「他氏の血」を入れる為に、次ぎの方式を採用した。
それは、「妻の定義(嫁)」に関わる。
この場合は、「一夫多妻の形式」を本来は採用している事に成る。
しかし、”「多妻」”と云っても、「賜姓族の範囲」では、ハーレムを作る程のイメージでは無く、「妾」を置く事の前提と成る。
上記するこのシステムを健全に進め維持する為に、奈良期から平安期に掛けて、「賜姓族」には「三つの発祥源」の「象徴氏」の責務宿命が在った。
「責務宿命」である事から、「象徴氏」を消滅させる事は国策上好ましくないとする政治上の判断理由があった。
そこで、それを護る為に、”絶対的子孫存続の使命”が課せられていた。
その事から、青木氏には、本来、「四階妻」(后、妃、嬪、妾)」の制」として認められていた。
(注釈 現実には、「青木氏」の「系譜添書の資料」から観ると、一人の先祖に対して、子の母の名前が、四人としては出て来ない。確かに「妾子」の記載はあるが、記録からは”四人”は無いので、「賜姓族」としては、現実は、実質は採用されていなかった事が云える。)
この注釈から観て、ではどの様にして、”「子孫」”を生み出していたのかが重大な疑問である。
この事に付いて次ぎに検証する。
・「四家の原則」と[福家方式」
それは、「四家の原則」にあったと観られる。
特に、「藤原秀郷流青木氏」の「特別賜姓族青木氏」は116氏に及んでいる。
従って、系譜から観て「伊勢の特別賜姓族青木氏」を除いては、この「四家の原則」は採用していなかった事が判る。
つまり、「皇族賜姓族青木氏」の場合は、この「四家の原則」を採用していた事に成る。
つまり、「青木氏」は「本家分家方式」を採用せず、上記に述べた様に「福家方式」を採用していた。
(注釈 「嵯峨期の詔勅」で、「皇族の配流孫」であるとして名乗った「青木氏」も在ったが、この氏は全く、「皇族配流孫」としての名跡を利用しての出自であった事から、一般の姓氏の国衆の武士として生き延びた。依って、本論の”「伝統」”と云うものとは違い、「武士の家の伝統」と成っている。 )
この「福家方式」は「四家制度」で構成していた。
そもそも、”「純血性」”を確保するには、”「本家分家方式」”では、事の次第に依っては、無制限に広がる「拡大性」を持っている。
しかし、この「拡大性」には、「純血の度合い」が薄く成ると云う欠点を持っている。
それでも、「吊り合いの取れた血縁」に依っては、”ある程度の純血”を保てれば、「賜姓族」としての対面は保てる。
依って、関東の「特別賜姓族青木氏」は、止む無く”「純血」より「拡大性」”を重視していた事に成る。
その「役務の大きさ」と「24地域」と「116氏」から観て、これを維持するには、「四家方式(20家)」では、論理的(下記)に無理であろう。
この”「特別賜姓族」の考え方の概念”は、歴史的に観て、その「行動の発想基準」は、総じて、次ぎの様であった。
「子孫存続」=「純血性」<「拡大性」
以上の数式に従っていたのであった。
上記の「四階妻の制」を捉えて地道で行けば、確かに、この「拡大性」は担保できる。
これには、「経済性の保障」が前提と成るが、この条件をクリヤー出来得れば、戦乱期の室町期までは”「子孫存続」”の点では合理的である。
”「特別賜姓族青木氏」”の場合は、”宗家の護衛団の役目柄”で各地に子孫を送り、役目を果たさなくては成らなかった為に、”「子孫」”を確保する必要が絶対的にあった。
又、「祖先神 神明社」の建立の補完義務もあった。
従って、この「四階妻の制」を積極的に採用したと観られる。
(その意味では、「特別賜姓族の秀郷流伊勢青木氏」は入間宗家とは異なっていた。)
更には、「特別賜姓族」が「補佐役」としても、その責務(神明社建立)を果たさなくては成らなかった為にも、「子孫確保」は、”無制限”とも云っていい程に必要であった。
又、赴任先の現地に、政治的な戦略からも、”「現地末裔」”を発祥させている事からも、この「116氏」にも及んだ事にも成る。
しかし、ここで、「四階妻の制」には、「高位の氏」として注意しなければならない問題があった。
この為に、この事を認知していた為に、「四階妻の制度」を朝廷は、恣意的にも容認して、”反乱等の疑い”を取り除く為にも公認したのである。
「天皇家」が率先して、この制度を奈良期から敷いていた。
これらの事もあって、「拡大性」を含んだ「四階妻の制」は、「賜姓族」などの”国策実行の「認証氏」”に躊躇なく公認したのである。
ところが、「皇族賜姓族」でのこの”「四家」”では、「特別賜姓族」の様に、「四階妻の制」は敢えて採らなかったのである。
それは、当然の事として、”「子孫存続」=「純血性」>「拡大性]の概念”が在ったからである。
ここが、同じ身分、家柄、官位、官職を持つ「特別賜姓族」との”大きな概念の違い”として出て来る。
但し、”伊勢の「秀郷流青木氏の特別賜姓族」には、どの資料から観ても、この傾向を強く見られない。
この原因は、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」との血縁関係を強く持った所以であると考えられる。
何故ならば、親交血縁を進めば、”「子孫存続」=「純血性」>「拡大性]の概念”に関わって仕舞うからである。
「同地域」に於いて、「同一行動」を採り、深く「親族関係」を保っている立場に於いては、「子孫存続」=「純血性」<「拡大性」の概念は、極めて取り難いからであった。
この”取り難い”の範囲からは、時と場合に依っては”争い”の範囲にも成り得る。
現実には難しい差である。
「地域外」であれば、この「概念の差」は、”調整、仲介”と云う手段も取れるが、「地域内」では無理である。
それを象徴するのが、「伊勢四日市の融合青木氏」である。
「皇族賜姓族の伊勢青木氏」と「特別賜姓族の伊勢青木氏」の”「融合青木氏」”が存在する事である。
「跡目養子」、「婿養子」の何れにも「血縁混合」して「融合」を成し遂げた「青木氏」である。
又、一方で、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」と「特別賜姓族の伊勢青木氏」は、平安期よりの「女系での濃厚な血縁族」が存在するのである。
しかし、この”「融合青木氏」”は、「女系」のみならず「男系」の「血縁族」でもあって、両方の血筋を等しく持ち、尚且つ、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」の”「四家」”の一つに位置づけられているのである。
本論の”「跡目の子の定義」”が両方に働くと云う極めて有利な「氏族」が発祥していたのであった。
この「融合青木氏」と、「伊勢の血縁青木氏」(秀郷流伊勢青木氏)とが、「皇族賜姓青木氏の五家五流」と「入間の武蔵青木氏の宗家」との間での問題で、この「調整仲介の役目」を果たしていたのである。
取り分け、この「融合青木氏」が”「四家」”に位置する事は、この重要な「調整仲介役」の為に発祥させたと考えられる。
そして、「女系での濃厚な血縁族」の「秀郷流伊勢青木氏」(特別賜姓族伊勢青木氏)と共に、「武蔵の入間の秀郷流青木氏」の「宗家との調整」を図ったと観られる。
(「神明社建立の問題」や「同族血縁の仲介」等で数多くの問題があり、この調整仲介して進める大きな役目があった。)
この事で”「概念差の問題」”は解決した。
・「四家」「福家」「家人」
「四家制度」のシステムでは、[福家]の当主は、「子供」(息子域)の領域では、「四つの家」を構築出来る。
これ以上の家は構築出来ない。
仮に「子の嗣子」が、四人以上と成った場合は、「余人」(選抜された四人以外の子)は、”「家人」”と成るが、「新たな家」を興す事は出来ない。
「余人」の「家人」に成った「嗣子」であった「子」は、「家」をお興す事が出来た者の下の四家に配属される。
「嗣子の余人」が「家人」と成った以上は、「他氏」との血縁は自由に可能と成り、ここで「他氏の血」が入る事に成る。
この「嗣子の余人]であった家人と成った「家人の男子(息子)」が、四家に嗣子が不足する場合は、「四家副役の養子」と成り得る。
ここで、初めて四家の中に他氏の血筋が入る事に成る。
ここで云う「他氏」とは、「シンジケート」の事で、「家人の男子(息子)」は「伊勢シンジケートとの連携の血縁」に良く使われた。
この「嗣子の余人」の「家人(家臣に相当)」に成った者は、「家族」を持つ事は出来るが、この一族は永代で「家人の立場」で終わる。
そもそも、「家人」には、この「血縁のある家人」と「血縁の無い家人」(普通の家臣)とに分けられる。
この「血縁のある家人」は、「血縁の無い家人」の「格式下の跡目養子」として入る事が出来る。
この「格式下への養子縁組」は、最早、”「養子」”とは「賜姓族」である為に認めない。
「賜姓族」では、その”「純血性」が低下する”と云う事を前提に、”「賜姓族」より格式下への家柄”に男子が入る場合の縁組は、「賜姓族側」では”養子”としての呼称は採らず、”「家人」に成った”として呼称として扱われる。
つまり、「親族の範囲」から外れ、「他人の範囲」に入る事に成る。
しかし、この「格下の跡目」に入った[血縁の無い家人」の家は、この事に依って次ぎの氏を発祥させる事に成る。
”「絆青木氏」(1 男系)”
として発祥する事に成り得る。
この”「絆青木氏」”には、「五家五流の賜姓族青木氏」から「娘」が嫁いで、血縁氏を発祥させる。
”「絆青木氏」(2 女系)”
以上の2氏が発祥する事に成り得る。
以上の「二流の絆青木氏 A」(「絆青木氏 1」 「絆青木氏 2」)
”「血縁のある筋目」の氏”が在る。
更に、この「絆青木氏」には、”「家臣」に相当する「家人の氏」(侍)”がある。
「武士部」の「絆青木氏」(3)
「青木部の職能集団」(商人含む)「部人」に相当する「家人の氏」(部)がある。
「青木部」の「絆青木氏」(4)
以上の「二流の絆青木氏 B」(「絆青木氏 3」 「絆青木氏 4」)
”(血縁の無い筋目)が氏”が在る。
このAとBの「二つの絆青木氏」の「四流」は、「格下の跡目養子」を認めていない以上は、差別なく格式は同じとして扱われる。
「格下の跡目養子」として入る「4つの絆青木氏」は、「四流」の何れを問わない。
これを「賜姓族側」では、”「格下養子」”と呼称するが、元は「嗣子」であった者が、「格下の家人」と成る事に対する「一族の位置づけ」である。
「四家方式」の組織の運営上は極めて重要ではある。
しかし、ここで「青木氏」の「氏内の子供」と定義される者の意識の中には、ある程度の”自由意識”があって、次ぎの様に成っていた。
つまり、口伝とかでも判るのだが、「福家」がガチガチに命令で決めていた様では無かった模様であった。。
”「侍」として生きたい者(「氏人」)”と、”「家人」「職人]として生きたい者”の「嗣子」があって、多様であって、この何れにも”「特別の傾向」”は無かった模様で在った。
当然に、この「嗣子の意識」から、”「四家」に成る事”を敢えて断る者、「家人」や「職人」に臨んで成る事を好む者、があった模様で、比較的に自由意識が伝統的には認められていた。
恐らくは、好きこそものの上手成れ”の通り、「適材適所」を認めていた。
この事は、家訓にも述べられているので、積極的に認められた制度でもあった事に成る。
家訓にあると云う事は、”本人に才能が有る”からとして強制的に配置すると、本人にその「気概」がないと、”「四家の統制」が取れず良い結果を産まない”とした考え方を採用して居た事に成る。
最終は、”「福家」と「四家」の「最終判断」”で決められて ”「適材適所」”に配置されていた。
上記した「5つ面」「20の顔」があり、上記する「4つの絆青木氏」もあり、配置先としては多種多様があり、問題は無かった模様であった。
そもそも、「伊勢青木氏」の範囲で観ると、特に、”青木氏の遺伝による特質”か、むしろ、積極的に「職人」「商人」に成りたがる傾向を持っていた。
その「青木氏の遺伝傾向」は、「技術関係の者」と「商業関係の者」の特質に分けられる。
現在も伊勢ではこの傾向を持っている。
青木氏始祖を始めとして、奈良期では「軍略氏の血筋の家柄」ではあったが、不思議に政治家は出ていない。
(余談ではあるが、筆者は、兄弟親族の中でも、「技術者系の血筋」を引いているらしい。技術者の「先祖の逸話」が多く遺されている。
「機械」などを良く作り、「鉄砲」などを上手く操る名人が居て、紀州藩に依頼されて家臣に指導した事も伝わっている。現代の機械家電の大メーカーの初代の工場長を請け負った人物もいた。)
これらは口伝逸話でも多く伝えられている。)
「四つの環境」
そもそも、歴史的に次ぎの環境が物語る。
(1) 奈良期から「三つの発祥源」(武家、侍、氏)として位置づけられるも、”「猛猛しい武士の環境」”には無かった事
(2) 平安中期からの「二足の草鞋策」の長い間の「商いの環境」があった事
(3) 奈良期からの「国策氏」としての「青木部の職能集団」を独自に持った「技能の環境」があった事
(4) 奈良期から明治期まで「武家の環境」にはあったが、「戦い」を是としなかった「氏の環境」があった事
以上の「四つの環境」が、1300年程度の間に、「氏内の遺伝的傾向」が生まれていたと考えられる。
因みに、筆者は「技術系」の遺伝であるが、兄弟を含む親族には、「商業系」に分けられるが、「商才」を強く持つ「商業系の者」が一族には実に多いし、長く続けられた”950年続いた「伊勢紙屋長兵衛」”がそれを強く物語っている。
上記の数式論から、「二つの青木氏」には、この傾向が強かった事が判る。
「秀郷流青木氏」は、一族の「護衛団の役目」を担っていたが、各地24地域で殆どと云って良いほどに”「豪商」”が実に多く出ているのもこの事を物語っている。
(青木氏の守護神 神明社」の論文でも論じている)
深く同族血縁関係を持ち、明治35年までその関係を持ち続けた「信濃青木氏」に付いても同じ事が云える。
この事から、「甲斐青木氏」や「摂津青木氏」にも相当の血縁を始めとする親族関係を維持して来た事、当然に、少なくとも「伊勢秀郷流青木氏」との関係は、「融合青木氏」が発祥している事から観ても、”親族以上であった事からも”同じ傾向の伝統”を持ち得ていた事が云えるのである。
ここには、明治期まで続いた”「神明社建立や一族の菩提寺建立」”等の「職能集団の青木部」の「技能の遺伝」も見逃せない。
一族にこの「遺伝的潜在能力」を持ち得ていないと、”950年”は無理であろう。
これは何の保証もないが、「始祖の施基皇子」の「日本書紀」に記載されている活動から観る極めて”高い能力”が基礎と成って”遺伝している”と観られる。
況や、これは、最早、”「伝統」”の一つと成り得ているのである。
これらは、本論で論じている事を総括的に証明している。
・「主役(しゅえき)と副役(ふくえき)」
更に「四家方式」に付いて続ける。
「子の定義」が「孫域」までとしているので、「四家」は、”「家」を興した者”の下に、その子(孫)にも四家までを認める。
従って、「子域の四家」(嫡子四人 主役)と、「孫域の四家」(嫡子四人 副役)が生まれる。
結局は、最大「16の家」が興る。この範囲を超えない。
この「16の家」で、「5つの面」「20の顔」を熟す事に成る。
「福家」の「当主の親」(A)が没するか、病気や老化等の何らかの理由でその能力が低下すると退役すると、「子域の四家」から「四家の合議」によって「福家の当主」(B)を決める。
この時、「孫域の四家(副役)」が、「子域の四家(主役)」に昇格する。
所謂、「世代交代」が積極的に行われる。
「当主の親」(A)であった他の四家の三人は、一族の「子の定義」の域の中から選択されて「跡目継承」が可能に成り次第に主役を退役する。
代々これを繰り返す。
この様に、「福家」が何らかの理由で潰れても、一族は衰退しない事に成る。
このシステムを採用する事で、「拡大性」は制御され、「子孫数」も一定に保たれる。
又、「血縁の度合い」も一定に保たれる。
この「四家方式」では、当時の時代の寿命や医療環境から観て、「子孫数」を無理なく保てる事が出来る方式と成っていた。
「氏」の一族で「孫域」までを「子」として、男の「子域」を最低二人にし、女子を最低二人とし、その嫁ぎ先の子域までを二人とするとして、そこに平均25年経過後の「孫域の子」を加えた子孫数を「16人」と見込めば確保できる事に成る。
・「妻+妾」の前提
男子2 女子2の子
±2の許容範囲
男子15、女子10を出産最低限度
以上を前提にして「系統図」を作れば、次ぎの結果と成る。
最速20年、最遅32年で、平均26年の結果が得られる。
つまり、「福家の当主」と成った時点で、妻子で、25年後(最低20年-最高32年)には、最低でも16人(MAX24)以上の「子の定義」の子孫が生まれる事に成る。
これに「妾子」を同じ条件で加えれば、平均13年後(最低10年-最高16年)には、最低16人以上の「子の定義」の子孫が生まれる事に成り、無理なく確保出来得る。
この数式論は、次ぎの様に成る。
{(男子2±2)×4+(女子2±2)×4}+{(孫2×4)}>16
この「四家方式」で行けば、当時の「子の生存率」を考慮しても、16は、最低で「8の範囲(50%)」で確保できる事に成る。
これに、「養女方式」と「家人方式」から補完される事に成るので、上記の数式論は「8の範囲」は「2の範囲」で確保できる事に成る。
そこで、「±2」の「+2の範囲」で数式論が働けば、「2の範囲」は消えて、100%問題は無い事に成る。
注釈
資料から平均的に「高位の氏の生存率」を考察しても、最悪であった室町期の生存率(30%-35%)から観ても、確実に”安全領域”である。
しかし、「青木氏」は、そもそも”「氏是」”としても、「室町期の戦い」には”激しい戦乱の状況”はしなかった。
記録での”戦い”の全てを観ると、「シンジケートのゲリラ戦(撹乱戦法)」を展開した事が判っている。
この「四家方式」は、この「計算の前提」で敷かれたシステムである事がよく判る。
論理的に、逆説的には、「武家」では成り立たない事に成る。
そして、この「四家方式」が継続して始まったとすれば、最初の10年は削除されて、「15年の軌道」に乗る事に成るので、「妾子」無くしても、「妻の範囲」で、この「四家方式」は成立し続ける事に成る。
しかし、実際は、「継続中での継承」と成るので、「15年の軌道」は、殆ど、「0年の軌道」と成る。つまり、見習い中だった「四家副役の後継者」が代替わりして引き継ぐ事に成るので、「0年の軌道」は保障される。
更には、この安全率として、「四家方式」の継続中は、「妾子」に「子の定義」の範囲を拡げれば、「跡目継承の問題」は完全に霧消する。
(「妾子」を設けるかどうかは、四家のみならず、家人の跡目の問題も考え合わせて、状況に応じて判断する事に成る。)
これで、仮に、「氏是」外の範囲で、室町末期の「戦い」の様な事が起こったとしても、問題は無い事が判る。
要するに、この「四家方式」では、”「子孫存続」=「純血性」>「拡大性]の概念 ”は安定して保たれる事に成る。
逆に、「秀郷流青木氏」や「11流の源氏」では、”「氏是」”が違っていた事も含めて、「四家方式」は無理である事が判る。
「秀郷流青木氏」の存続は、「特別賜姓族」である事から、「源氏」の様に「戦いの氏是」は採らなかったし、「賜姓族」であった事から、上記する「子の定義」も含めて ”「青木氏」と類似する行動を採った事”に所以する。
故に、”「子孫」”を確実に現在までも遺し得たのである。
・「源氏の衰退理由」
では、”何故、全く「皇族系の同族」である「賜姓源氏」が、「滅亡の憂き目」を受けたのか”対比する意味で考察して観る。
(但し、ここでは「賜姓族でない源氏」、「同族でない源氏」もあるので、同族の”「賜姓源氏」”と表記して論じる。)
”「源氏」”と称するものには、そもそも次ぎの三つがある。
(イ)「嵯峨期詔勅」を受けて、「賜姓」を受けないで、「源氏」を名乗った「皇族」
(ロ)「荘園名義貸し」で名乗った、皇族でない地方豪族の「未勘氏の名義源氏族」
(ハ)「荘園制」で「遠縁の女系」と血縁して勝手に「源氏を名乗った地方豪族」
(ニ)正規の賜姓の手続きから外れて、特別に「賜姓の源氏」を強引に受けた「清和源氏」
但し、最も勢力を持ち、滅亡の引き金を引いた”「清和源氏」”も厳密に云えば「賜姓源氏」とは云い難い。
その理由を論じる。
「清和源氏」を名乗った「経基王」は、「清和天皇」の「第六位皇子」では無く、次ぎの陽成天皇の皇子である。この「陽成天皇」は、同族血縁の障害で、性格が破綻していて、皇子順位も低く、正規の「陽成源氏」が賜姓がされていて、既に、その「賜姓資格」が「経基王」には現実に無かった。
そこで、「経基王」は、先代の清和院の第六位皇子の貞純皇子の系列に入って、特別に賜姓を懇願した。この時、既に、清和天皇の正規の皇子の「賜姓源氏」が賜姓されていた。(二流)
祖父の位に当たる「清和院」は賜姓を嫌がった。
そこで、「武蔵介の役人」として終わる事を嫌って、何とか「賜姓の権威」を受けて、この”権威”を持ち伸し上がろうとして”野心”を掻き立てた。
そこで、手柄を立てる事で認めさせる様にして、「将門の乱」と「純友の乱」に対して、2度も讒言で事件を起こし、清和天皇に直訴して事件として取り上げさせて、手柄を作り上げた。
そこで、止む無く清和院は、渋々に「嵯峨期詔勅の意」を述べて、「賜姓」をした。
この時、既に、清和天皇の第六位皇子が賜姓を受けて源氏に成っていた。
しかし、「経基王」が清和天皇の第六位皇子として賜姓を受けて仕舞っていたので、結局、実皇子は、”賜姓の無い源氏”を名乗る事と成った。「清和天皇」の実皇子のこの二人は、結局、「賜姓の無い源氏」を名乗った。この二人には防御の背景が全くなかったことから、この「経基王」の勢力の圧迫を受けて衰退して滅亡する事に成った。
・「清和源氏の内情」
「大化期の詔勅」の「皇位継承の改革」で、「天智天皇」が定めた「賜姓族の規定」に外れた「清和源氏」は、この様な特異な経緯を持っていた。
「賜姓を受けられる定め」としては、次ぎの規定が在った。
a「第六位皇子」である事。
b「当代の天皇の皇子」である事
c「皇子」として「品行方正な人格」を有する事
d「皇子」は嬪までの者とし「妾子」の皇子でない事
「経基王」は、「嵯峨期の詔勅・禁令」に鑑みて、更に、この「四つの定」に適合していなかった為に「清和院の賜姓」を一時、拒まれた。
(「経基王」には、「賜姓の権威」を獲得して、この「権威」で「荘園制度」を利用して、「莫大な財力」を獲得を狙った思惑や野心が在った。暴君の悪名高い「陽成天皇」の皇子では、せいぜい「国司下」の「介の役柄」で終わる事を嫌う思いがあった。)
つまり、「四つの定」に対して、外れた「特別な賜姓」であった。(普通では賜姓は先ず無い。)
この事があって、野心旺盛な「経基王」も、その子の「満仲」も、賜姓後は、河内で色々「争い事」を起こしたり、他国の「土地を奪う」などの「過激な行動」を起こし、更には「民事の問題」を起こしたりして、「嵯峨期の詔勅・禁令」に反して、”「賜姓族」にあるまじき振舞い”として、「天皇の怒り」を受けて蟄居を命じられたりした。
(恐らくは、”「賜姓族の伝統」”を重んじ、”「三つの発祥源」の立場”を護り、”「民の模範」”としている”「皇族賜姓青木氏」”との比較をされたと観られる。同じ「清和源氏」ながらも「皇族賜姓青木氏」と同じ行動を採る「宗家頼光系摂津清和源氏四家」との比較もあったと充分に観られる。)
その後も、全く逆の行動を採った「義家」を始めとする「子孫」(頼宣系河内清和源氏系列)も、矢張り、”強引な行動(私闘)”を起こして、遂には、「源氏の幕府」を樹立したものの「頼朝」のところで、結局は、短期間で裏切られて、利用された「坂東の北条氏等」に依って滅亡に至たらされた。
(この「坂東八平氏」とは、桓武天皇が母方の一族に賜姓して発祥させた「桓武平氏:たいら族 阿多倍一門」である。 天皇家より出る代々の「第七世族」の「臣下族」で、同じ関東に配置された「皇族系第七世族のひら族」とは出自は全く異なる。
この「桓武平氏:伊勢平氏と京平氏の支流族」には、「千葉,上総,三浦,土肥,秩父,大庭,梶原,長尾」の八豪族があり、幕府樹立に貢献した「北条氏」や「熊谷氏」はこの支流族である。
「国衙官僚,荘園開発主,荘園官」として坂東西域の在地を支配した。)
結局は、通説では小説的に構成されて描かれて、”「源氏」が勢力を盛り返し幕府を開いた”の様に観えているが、結局は、百々の詰まりは、同じ同族の「清盛の京平氏の支流族」に、”5年後に奪い返された形”に成っているのである。
(筆者は、「清和源氏」が開いたとは観ていない。何故ならば、この”開幕”で、”他の源氏は潤ってはいない。「源平の決戦の場」では、この「坂東八平氏」は、「合戦」では”軍監として”として動いただけである。
当然の事として、同族として「坂東の支流」が、直接に「本流の一族」に”戦い”を挑む事はしない。「事前承知の戦略」で在った。だから、「5年後」の「平氏政権の蘇り」なのである。
結局、「義経」が全国からかき集めた「源氏の未勘氏族」らの集団と、伊勢、熊野、紀州、摂津の「水軍の合力」と、「大島源氏の水軍」とに依って主に合戦に勝っている。)
・「源氏の流れ」
矢張り、取り分け、上記の様に、「清和源氏」の「人時場の要素」を配慮して「行動パターン」を考え合わせると、「四段階の妻方式」を採りながら、”無制限に子孫を増やす事”が明らかに必要であった事が判る。
「11流11家」も在り1流がこの四段階の妻方式を採ったとすれば、11流ともなれば相当な子孫数に成る筈である。
しかし、源氏全て滅亡に至ったともなれば11流全てがこの方式を採っていなかった事が判る。
調べた範囲では、確実に「6流」は、「嵯峨期の詔勅禁令の趣旨」を確実に護っていた事が判り、やや疑問の状態が「3流]あった。
平安末期から鎌倉期までの状況から考察すると、この5流の中には、次ぎの様な流れで在った。
「農業」をしながら民と共に生活をした「村主」(すぐり)の源氏の流れ(A)
「山伏や神職」などをして「郷氏の生活」をしていた源氏の流れ(B)
「皇族賜姓青木氏」(5流)と関連して生活を営んでいた源氏の流れ(C)
「漁業関連の長役」をしていた源氏の流れ(D)、
「治承・保元の乱」以降の源平の戦いで衰退した源氏の流れ(E)
後の3流は、強弱はあるが、次ぎの様な流れで在った。
(B)の傾向を持った「荘園制」(神社系荘園)に絡む生き方をしていた源氏の流れ(F)
結局は、「11流の源氏」の殆どは、「嵯峨期の詔勅・禁令の趣旨」を護った[賜姓族」で、「清和源氏」の様な過激な動きをしていなかった。
この「清和源氏」の中でも、各地に飛散した源氏は、上記の(E)で、その生活の状況は(B)(D)であった。
これから観ると、”「源平の戦い」”と云っても、”「11流の総合の力」”と云うよりは、「2流の戦力」が中心と成って動いたと事が判る。
その「初期の主戦力」は、「義経」が全国から集めた「荘園制」に伴う「源氏の未勘氏族」と、「義経の説得」に応じた「各地の水軍」(5水軍)と、家臣と成った豪族の「関連氏族」で主に構成されていたのである。
そして、僅かであるが全国に飛散していた源氏(E)が率いて来た「合力の戦力」が加えられた状況であった。義経が頼朝と坂東八平氏に排斥されてからは、この義経が構成した軍団は、坂東八平氏のを警戒して飛散した。
結局、最終決戦時の頼朝が集めた戦力は、日和見的な各地の豪族の烏合集団で在った。
この様にあるインターバルで観ると、源氏には、上記した「青木氏」の様に、細部までも”「氏を纏める為のルール」”を定めて子孫を遺そうとする”「氏間の調整」”が採れていなかった事が判る。
況や、「嵯峨期の詔勅・禁令の趣旨」は、「青木氏」の様に積極的には護られていなかった事に成る。
「清和源氏」の「河内の頼宣系」の末裔が、結局は、「朝廷の調略」に載せられて、”走り過ぎた結果”であって、更には、これを承知で動いた「たいら族」の「桓武平氏」の「関西以西の本流族」と「坂東の支流族」の「タッグでの謀略」でもあった事に成る。
ただ、桓武平氏の「本流族」には大きな計算違いが、3つ興った事に成る。
一つは、「義経の能力」の読み違いで初戦をおとした事
二つは、「支流族の裏切り」とその「戦力の読み違い」が起こった事
三つは、「清盛」を失って「統率」を失った事
この三つの内、後二つは、「伝統」を基盤とする「氏是」から来る「慣習仕来り掟の規則」の有無の如何に依っている事に成る。
源氏も平家も、子孫存続の氏是の弱さにあった事が物語っている。
その根本は「戦い」に対する氏是の違いにあった。
その”「戦い」”は、朝廷が”「社会規律の弊害」を起こす”として嫌う「荘園制」に起因していた事である。
(注釈 一方で、この「荘園制の弊害」と、「源平藤橘の氏の勢力」を削ごうとして、最初に手掛けた「後三条天皇」は、この「荘園制から来る権力基盤」を護ろうとした藤原氏や源氏族の子孫ではなかったのである。それだけ、「命の危険」が極めて迫っていたにも関わらず、1068年に果敢にもこの策謀に取り掛かったのであって、その後、5代の天皇に依って成し遂げられた。
この事で、「経済的基盤の低下」で焦った「清和源氏頼光系一族」は、基盤獲得の為に、益々、「戦い」へと突き進むここと成り、20年後には、「源平の合戦(1185年)」へと突き進んだのである。
この為、「後鳥羽上皇の策謀の院政政治」が始まるが,「朝廷-京平家-坂東平氏-源氏-藤原氏」の何れ五者共に、その「思惑」は外れ、遂には「策謀合戦」が始まったのである。)
この様な、”策謀渦巻く周囲”の真直中にあっても、「二つの賜姓族青木氏」は、「氏是」を前提に一族を固め、この環境に加担しなかったのである。
これは、なかなか難しい事である。
単なる「氏是の信念」だけでは決して成し得ない。現世には、”「流れ」”と云う不可思議なものがあって,この”流れに抗する事”が出来るものは誰一人いない。「神仏」のみである。
況してや、「賜姓族青木氏」には、「悠久の歴史」を持ち、且つ、”「賜姓族」と云う稀なる権威”を持ち続けて来た「氏族」である。
況して、「二足の草鞋策」で”絶大なる経済的な財力”を持っている。
「戦う側」にとっては、この”「賜姓族青木氏の権威」”を獲得する事に依って、これは「戦いの大義」が絶対的に獲得できる。これは”流れを作る最大の要素”でもある。
最早、源氏は(A)から(E)の立場に既に追いやられている中で、「賜姓族」で在っても、その「権威」は明らかに低下している。
だとすると、「賜姓族青木氏の権威」を利用しようとして策謀する筈である。
しかし、「二つの賜姓族青木氏」は、この「策謀」に、加担しなかった。
”「策謀の流れ」”から逃れられたのは何故なのか疑問である。
それは、次ぎの条件にあった。
(a)”「四家と云う小範囲」”
(b)”「純血の濃い血縁範囲」”
(c)”「絆青木氏で家人末端まで組織化」
以上で、成し得た「一族の一致団結」にあったと考えられる。
”小さい組織”にして「意思の疎通」を徹底し、”濃い血縁度”で「離散」を防ぎ、それを”絆”で「結束」させたのである。
”千の石垣も一つの石から”の例えの通り、”一つの離反や裏切り”は、全てを壊す。
「二つの賜姓青木氏の権威」を獲得するには、並大抵の事では無理であり、そこには「策略、謀略、調略」が渦巻いて働いていたのである。
これには、”「一人の軽薄」が全てを壊す”は、この「世の定め」であり、現代も過去の世界も同じである。
これには、上記した様に「青木氏の氏是」(イ)とそれを実行する「システムの充実度」(ロ)に関わる。
筆者は、上記に論じた”「賜姓族」の「シンジケートの存在」”がこの二つ(イとロ)を基盤として支えて大きくこれに関わっていたと観ている。
つまり、”「情報と抑止力」の要素”が上手く働いたのである。
当時、未だ、”「シンジケート」(情報と抑止力)”を維持出来得る程の能力を持っていた「氏」はいなかったし,組織を維持させる為の確固とした確立化した概念も無かった筈である。
何故ならば,鎌倉期までとして、「朝廷が認可した歴史を持つ80氏程度」の氏”には「二足の草鞋策」は「禁じ手」であった事から、この「経済力」を必要とする「影の力」の「シンジケート」は持ち得ない。又、当時としては、”「忍者」程度の様なもの”はあった事が、資料から伺える範囲では確認できない。
奈良期から活躍していた「青木氏のシンジケート」は、「組織的な総合力」を持った「新しい考え方」であった。
注釈
(そもそも、「影の力」の「シンジケート」が,”「伝統」”に関わっていないと考えるのが、普通であるが、[青木氏」に取ってはそうでは無いのだ。”「青木氏の伝統」”は、この”「シンジケート」”に依って支えられたのだ。それは”「青木氏の役目柄」”にあった。
この「役目=賜姓五役」が、なければ、シンジケートは「二足の草鞋策」の為には必要であったが、しかし、”「成熟」はしなかった”と考えられる。
「賜姓五役」と「二足の草鞋策」が進むに連れて、時代と共に進化して、その「役目」も増え、それを構成する「組織体制」も整備された。
それは、先ず、「奈良期」から始まった「青木氏の二足の草鞋策」が、平安初期には大きく発展し、「和紙」に依り「他の賜姓族青木氏」にも広がり、それと共に平安中期には、「特別賜姓族青木氏の補完」もあって、「守護神の神明社建立」もが進むに連れて、これを利用して確固とした「組織体制」が確立して広範囲に広がったのである。「5家5流賜姓族」の「独自のシンジケート」が互いに連携して大きく成ったが、「源平の戦い」で、結局は、衰退した「3つのシンジケート」は「伊勢-信濃シンジケート」に吸収された。
この「影の力」の「伊勢-信濃シンジケート=神明社シンジケート」の存在と「青木氏との関連」は、室町期末期の頃で、「伊賀丸山城の戦い」から、社会的に知られる様に成った。
(第一次丸山城の前線基地の築城は失敗に終わり信雄らは敗退)
これは「信長逆鱗-信雄蟄居(蟄居は二回 信長逆鱗と秀吉不仲)」で「有名な事件」で、公に成った。
その時、秀吉が、世の中に、”「シンジケートの存在」”を信長に強く進言した事は有名で、次ぎの「長嶋攻め」を命じられた秀吉は、この失敗は繰り返さなかった。
この時、この「シンジケートの存在」と「高位の氏族」の関連の事を知った「信長」は、”鉄砲獲得”の為には、”「今宮神社シンジケート 皇族系神職 愛知」”を通さなくては確保できない事をも知り「秀吉-蜂須賀氏の斡旋:今宮シンジケート一員の山族土豪 河並衆」で、ここから入手した経緯の史実がある。
注釈
(資料から垣間見れるはっきりとした「本格的なシンジケート」は、鎌倉中期頃から「姓族」が出て来た室町期中期頃である。
最初は,「青木氏」が、国策として極秘裏に、「神明社建設」を通じて、奈良期からの「皇族逃避地」を構築する為に、現在の福井との間にこの組織を作り上げた事が最初であると観られる。)
「小さい姓族」が乱世で各地に発祥して、この「姓族」が浮沈を繰り返し、生き延びる為に、青木氏等が作り上げたこの組織の中に入って互いに連携して生き延びた。「姓族」はこれを機に成長を遂げ、遂には、「姓武士集団」を構築したのである。南北朝には大きな「影の力」として働いた。
その例として、有名な「南北朝の楠正成」は、河内千早赤坂村に住んでいて、「10万の軍」に「シンジケートの影の戦力」で挑んだ事は、歴史的に有名で、「ゲリラ作戦」で餓死させる直前までに痛めつけて勝利したのである。
この地域には、「伊勢青木氏のシンジケート」があった事から、この組織に入っていたと観られる。
江戸期初期には、これらの武士は「氏族」からこの「姓族」に取って代わられ、「旗本」「御家人]や「各地の豪族」や「大名」に伸し上がって世の中を席巻してしまった。
その各地に発祥した「姓族」と「青木氏」は繋がっていて、江戸期には情報を獲得していた事が判っている。)
しかし、この様な「青木氏」に比べて、「源氏一族」は、総じて、同じ「宗家の頼光系」の様に、「青木氏」と同じ方式を採用して、子孫を「四家」に定めて身を固めたのでは無かった。
”「賜姓族」で在りながら「万民の範」”とする「賜姓族」で無かった事が、「累代の天皇」の反発を招いた結果である。
「他の源氏」は、この”「戦う源氏の流れ」”に引き込まれて滅亡した。
それだけに、「他の源氏」には、本論の様な「青木氏の様な備え」(伝統 家訓 慣習仕来り掟)が無かったことに所以する。
要するに、歴史上では”「戦う賜姓族」(戦う源氏)”を演じた事に成る。
「青木氏の氏是」にある様に、”世に晒す事無かれ、何れ一利無し、世に憚る事無かれ、何れ一利無し。”の「不戦の賜姓族」(伝統重視)では無かったのである。
”「戦う」”は、”「氏の伝統」”と、それを護ろうとする”「氏のルール」”を壊すが、”「不戦」”は、”「氏の伝統」と「氏のルール」”を維持させる事が出来る。
”「戦う」”は、一時的には「氏の発展」を示すが、その程度では、”「氏の伝統」”は生まれないし、”「子孫」”と云う長い「見方」では、「衰退の道」を進む。
ただ、「青木氏」だけが「不戦」を「氏是」として唱えたとしても、周囲が「不戦」でなければ成り立たない。
「自らの長い努力の積み重ね」があったとしても、「棚の上の牡丹餅、絵に描いた餅」に成る。
そこで、「青木氏」には、「不入不倫の権」が認められていた事も大いにあったが、それを有効的に働かせたのは、「影の力」の「シンジケートの抑止力」にあった。
表に観えない、彼の権威に対して抵抗した「織田信長」でも潰せなかった「影の力」(政治経済軍事の力)である。
この「影の力」=「シンジケート抑止力」を支えたのが、奈良期から殖産を進めて「民の力」と共に生きた「青木氏」で在ったからこそ、成し得た「氏是の戦略」であった。
「源氏の生き方」として選んだ「戦いの発展」は、「人間の最大の目的の子孫存続」としては不要で危険なのである。
その「民と共に生きた組織」には、”「氏の伝統」”と云う”「氏のルール」”が絶対条件として必要であるのだ。
「氏の存続」の為の”「必要不可欠な抑止力」”を構築するのは、先ずは ”「氏の伝統」”である事が云える。
その意味から考えると、つまり、”「氏の命題」の「子孫存続」”と云う事から考えると、その「生き様」は明らかに間違っていた事に成る。
結局は、”「賜姓族」”としての”「氏の伝統」”を護っていた”「摂津の頼光系四家」”も、「四代目の頼政」が「異端行動」を採った事から、「不入不倫の権」が無い「賜姓族」は、引き込まれて「潰れる憂き目」を受けた。
その意味で一族の中に、”「大きな流れ」”を作られては、”飲み込まれる事”に成る。これは「世の習い」として必定である。
一時は、「河内源氏頼信系の頼朝」と共に成功したかの様に観えて、”各地の源氏の同族の勢力争い”を起こさせて、結局は、たった”5年の短期間”で「源氏」は、「四段階の妻方式」で作られた「数多い子孫」をも”「戦い」”で少なくして、遂には、毒殺や暗殺などの策謀で滅亡した。
その”11家の源氏”の最終は、僅かに4氏に成った「末裔」までも、室町期末期に信長に依って、完全抹殺されてしまった。(一部に1氏の「傍系の配流孫の現地末孫」が生き延びている。)
しかし、ここで大きな”「救い」”が一つあった。
この事を戦前に察知し熟知していた「摂津頼光系四家の福家の頼政」は、「以仁王の乱」の直前に、「子孫の一人(京綱)」を「伊勢青木氏の跡目」に入れて最悪を避けるべく策を講じていた。
これは、「同族である青木氏」が、「不入不倫の権」に護られながらも、「賜姓族の氏是」を頑なに護り、それに基づき、且つ、「四家方式」に依って、「源平の戦い」でも、”必ず「子孫」を累代まで遺す”と理解しての配慮の事であった。
故に、”「跡目」”であった為に、「源氏」が「青木氏」の中に流れている事に成る。
「信濃青木氏」にも、”戦い”の直前に、「跡目」か「跡目」に類する形で「青木氏」に入れている。
「信濃青木氏」には「源光国-血縁」と「源実国-跡目」を、滅亡した「土岐青木氏」には、「源光国」の子の「源光信-跡目」を、「甲斐青木氏」には、「源源光-跡目」を跡目等に入れている。
甲斐武田氏系青木氏には、「源源光」の兄の「源時光」が跡目に入っている。
故に、”源氏11家”は、完全な「滅亡の憂き目」を辿ったのであるが、「清和源氏宗家の四家」からだけ、「血筋」としては、「青木氏」の中に遺した事に成る。
取り分け、”滅亡した源氏”そのものは、当然に滅亡する”宿命のシステム”を敷いていた事に成る。
「伝統 13」に続く。
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:「青木氏の伝統 11」-「血縁の伝統と概念」
[No.328] Re:「青木氏の伝統 11」-「血縁の伝統と概念」
投稿者:福管理人 投稿日:2015/02/14(Sat) 07:40:49
「伝統 11」
>前回の末尾
>論は「密教の道標行燈」に関わる「密教作法]の処から「毘沙門天像」と「三宝荒神像」の処までの「密教性のある伝統所作」を論じて来た。
>これだけの範囲ではあるが、「可成りの伝統」が未だ「青木氏」には遺されている。
>更に続けて、既に若い頃の論文原稿が有るので、修正を加えて生活に密着した「草の根の密教の伝統」を論じる計画である。
>”「密教性のある伝統所作」”としては、次ぎの事も大きく作用していると考えられる。
>それは、”「血縁の伝統」”と位置付けられる。
・「血縁の伝統と概念」
「青木氏の跡目」に関する「子孫定義」として論じる。
そもそも、「青木氏」には、”「子孫」に対する考え方”の定義が、古来より特別に持っていた。
これには、”「高位の家筋」”を継承する為の「慣習仕来り掟」(純血主義の概念)から来る”「特別な条件」”が在った。
この”「子孫概念」”では、その定められた”「氏の慣習仕来り掟」”により異なるが、「二つの賜姓族青木氏」では、ほぼ同じ「慣習仕来り掟」を用いていた。
(特に,「特別賜姓族伊勢青木氏」は、同等の慣習仕来り掟を敷いていた事が判る。)
特に、「青木氏」と「藤原氏北家秀郷一門」(特に本家筋での仕来)には、次ぎの様な「慣習仕来り掟」を持っていた。
現在から観れば、”特別な血族維持の概念”である。
従って、各地の秀郷一門の関東の秀郷一族一門等を含む「青木氏族」も異なるところもあるが応分にこれに従っていた。
少なくとも、室町期の「下剋上」や「戦乱期」があって、”「悠久の伝統」を持った氏”が、次々と消滅し衰退し、逆に、「姓氏」(農民庶民の武士 かばね)や、「勃興氏」(下級の武士)が発祥するまでの室町期末期までは、この”血縁に関する伝統”(奈良期からの「氏の純血性」の保全システム)はほぼ保たれていた。
ところが、江戸初期の時点では、ほぼ200氏程度あったこの「伝統」を誇る”「氏族」”も、遂には「青木氏]や「藤原氏」や[佐々木氏」等を除く20氏にも満たない「氏族」に成って仕舞っていたのである。
この”20氏にも満たない「氏族」”のこの”「根本的な氏の純血性」”を頑なに保全しようとする考え方は、次ぎの通りと成っている。
(注釈 平安初期に「公家」に対して、「侍」として発祥し、”「家」”を興した事から、”「武家」”として発祥した。
しかし、「一族の子供」は、”「孫の領域」”までを、全て”「子供」”として定義して扱うが、本来は、江戸期に云う”全ての武士の家”を”武家”と呼称する”「家」”の意味では無い。
平安期の”「公家の身分」を呼称する家柄”に対して、同じ身分と家柄を持つ”「氏族」”の”「侍の家柄]”を呼称したものである。
況や、ある”「子孫存続のルール」”を持ち、且つ、それに依って「伝統を興した氏族」として区分けするのが妥当であろう。
これが江戸期には”「武士の家」”から”「武家」”として呼称した。即ち、”「姓族」”を一般化した呼称と成ったのである。
資料から観て、室町期初期に瀬戸内から発祥した「海部氏」が「最初の姓氏」と成っている。
そもそも、「武家」を構成したこの”「氏族」”とは、「平安期の朝廷」と、「鎌倉期の幕府」の認可を得て、「氏」と「家」を構成したものの呼称で、所謂、「江戸期の呼称」とは質的に異なる。)
・「子の定義」
先ず、この「武家」の「氏族」の「子の定義」は、次ぎの通りと成っていたのである。
家には三代あるとして、「祖父母の親」から観て、「子供」とは、”「子」と「孫」”をこの範囲のものとする。
純然として ”跡目の権利”を持った前提として、「子と孫」は、”「氏の子供」”として扱われる。
況や、室町期からの「姓族」が敷いた ”本家-分家の「独占的な家の子供」”を定義しない。
そして、区別して”「孫」”を敢えて「孫扱い」とはしない。
つまり、「孫」を「孫」として、”特別な扱い”はせず、「跡目の権利」を持った「氏の子の範囲」として扱われる。「孫」=[子」「孫」≠「孫」と云う事である。
つまり、「跡目の可能性」が、当初から「孫域の者」までに無ければ、つまり、「跡目」を継ぐ必要性が無ければ、それは ”現在と同じ意味の「本来の孫」”の範囲にあるとするのである。
つまり、「孫」=「孫」と成り得る。
しかし、”跡目を継ぐ必要性が無い”と云う事のその様な現象は、”「氏家制度」”の中では、”大きな「氏族=武家」”である程に絶対に無い。
つまり、”「跡目継承の必要性」が無い”と云う事は、”「氏の滅亡」”を意味するので、あり得ないのである。
これが「氏家制度の社会」であり、この社会の中で生きている限りは、「跡目」の「数と質の確保」に徹する社会である。
それを成し得る手段として、「青木氏」であれば、表記した「四家制度」であり、「福家制度」であり、「氏是 訓戒」「慣習仕来り掟」の類の「伝統」なのである。
未だ、これでも、現実には、室町期以降の「氏族」と「姓族」には、実質は、「必要とする跡目数と質」では、”足りない位”の社会環境であった。
そこで、”「氏族=武家」”の範囲では、定義範囲の「孫域」では無く、”「曾孫域」”までに、「子の定義」は及び、「曾孫域の子孫」を ”「養子や養女」”としての定義を取り付けて、”「跡目の権利」”を、更に拡大させたのである。
しかし、”定義づけた”とは云え、「曾孫域」まで、その定義を広げる事は、当時の氏家制度の社会で、且つ、何時潰されるかわからない乱世の世の中では、並大抵の事では出来ない。
其処には、「氏の権力」や「氏の制度」を充分に及ばすことは難しく成る。
「氏家制度」とは云え、関係する氏の末端までに完全に制度は届かない。
むしろ、逆に、「遠縁」に成れば成る程に、多くの氏が「横の血縁」で関わり、「氏の独立」の感覚は必然的に強く成り、「賜姓族」としての「権威」を中心とした「青木氏の発言力」が届かなくなる。
しかし、更に、”「曾孫域」まで「青木氏の養女養子」”としても、そう簡単ではない。
せいぜい「孫域」までの「青木氏の発言力」「青木氏の統制力」であろう。
では、”「青木氏」としてはどうすればよいのか”と云う事に成る。
上記した「青木氏」の「賜姓族の権威力」だけでは最早、無理である。
”武力で抑え込む”とする方法もあるが、「青木氏」には、正式な表向きの”「武力」”は持ち得ていない。
謂わば、総じては「賜姓族」としての「権威」だけである。
「特別賜姓族」にしても、”「賜姓族」”と云う立場に於いては、「絶大な武力」は持ち得ていても、「賜姓族の氏の範囲」に於いては、「権威と力」を”表向きに放れ課す事”は無理である。
後は、「残された力」は、「経済力」にある。
この「経済力」は、「武力の行使の弊害」(力の連鎖)の様な事を無くする事が出来る。
しかし、「税に依る経済力」の範囲では到底無理である。
「民」に「税」として「負担」を強いるだけで、「永代」に続けなければならない制度であれば有るほどに、後に「弊害」を生む。
況してや、「青木氏」は「賜姓族」であり、「二つの絆青木氏」とも強く関係を持つ立場に於いては、”民の反感反発を買う事”は絶対に避けなければならない事でもある。
むしろ、絶対に使ってはならない「禁じ手」である。
(注釈 明治9年まで何度も「一揆等の支援」をしての「経済的背景」に成ったし、一族に「二つの絆青木氏」を持ち、「民」を含む「シンジケートの首魁」でもあった。
「民」と共に生きる、当に”「共生氏族」”であった。)
注釈として、 この”「共生氏族」”である事は、”世に晒す事無かれ 何れ一利無し 世に憚る事無かれ 何れ一利無し”の意に通じ、結果として、”「共生氏族」であれ”と宣言している事にも成る。
この「青木氏の氏是」は、「共生」を宣言している事を物語る。
”晒せて”世に積極的に「青木氏」が出る事は、社会に”阿る事”に成り、去りとて”憚ればれば”社会に萎縮する。
これは「賜姓族としての範たる姿勢」を失い、”民との間の解離”を生み出す。
依って、共生して生きる事が必要であった。
これは”「賜姓族」である”とする「宿命の所以」である。
この「氏家制度」の中で、この”「青木氏の氏是]を持つと云う事”を理解される「氏」はいなかった筈である。
有るとすれば、「共生族の民」であった筈である。故に、”民が作る和紙の殖産業”であった。
・「青木氏の発言力」
では、どうしたのかである。
終局は、「氏存続」の為にも、「共生」の為にも、この”「曾孫域の定義」を押し通さなければならない”と成れば、後は、残された手段は、”「二足の草鞋策」の「経済力」”と成り得る。
この他に「定義を押し通す力」と成り得るものは無い。
”「曾孫域」や「遠縁域」”とは言え、未だ薄い血縁の”「青木氏に関わる縁続き」”でもある。
この「経済力」をこの範囲に浸透され得れば、この”「発言力」”は、「縁続き+経済力」の関係で無理が無く、”「弊害」”を取り除いて達成させることは可能に成る。
従って、後は、”この数式論をを如何に浸透させるか”に関わる。
「定義を押し通す力」=「氏の発言力」=「経済力」
要は、上記の「力」そのものより、その”「浸透方法」”であったであろう。
恐らくは、”馬の鼻に人参”のやり方で”金品を放れ課す事”では、一時的な効果に終わる。
つまり、ギブアンドテイクに終わり、”「永代の発言力の浸透」”は無理である。
そこで、重要な事で有るので、”どの様な方式を採っていたのか”を調べて観た。
つまり、「二足の草鞋策」の「商いの範囲」が、”どの辺まで「組織力」を使っていたのか”を調べた。
(比較的、「商いの資料」は残されている。)
その結果から観て、「曾孫域」から「夜叉孫」までの領域の”「縁者」”と見做される家が、「商いの末端」までに充分に関わっている事が判る。
そうすれば、後は、その”家筋”を特定すればよい事に成る。
(注釈 「青木氏」は、そもそも、奈良期から「役務」から始まって、「商い」とした平安初期から、 ”「和紙」”を中心として”「殖産興業」を持つ「総合商社」”であった。
それ故に、数多く出て来る「特定の氏名、姓名」と「屋号」の出自の調査研究をした。)
即ち、”「四家の副役」”の範囲を超えて、”大きく関わっている「氏名」、或は「姓名」と「屋号」”が、「遠縁筋」に当たる事から、この範囲に絞り込めば、実質の「商いの青木氏の組織力」は広がっている事に成るし、その”「組織力の浸透範囲」”が判る筈である。。
つまり、「商い」を通じて、これに依って、「青木氏の発言力」は浸透していた事に成る筈である。
既に、明らかに「広域の和紙殖産の商い」が、「悠久の歴史」を以って成り立っている事である事からも、間違いなく「発言力」は浸透していた事に成る。
この「青木氏の発言力」無くして遠縁までに「商い」が成り立つ道理はない。
つまり、間違いなく、”「遠縁」とする領域までの「適切な発言力」”は確かにあった事に成る。
そうすれば、後は、”「商い」”を通じての”「経済力との関係」”を強化すればよかった筈である。
”「経済力」”をベースとして深く繋がれば、「遠縁の者」に取っても、「縁続き」が深く成り、且つ、永代に「家」は潤い成り立つ事に成り、両者に執っても間違いなく「利得」である。
恐らくは、むしろ、「遠縁」の方から”「青木氏」の「跡目の状況」”を具に分析して、「福家」に「積極的な働き」を事前に示していたと考えられる。
(「特別賜姓族の伊勢青木氏」もこの「商い」と「伊勢シンジケート」に大きく関わっていた。)
この結果、中には、調べると、「青木氏との関わり」が想定できない”不思議な「姓名」”が、「商いの譜」の中に出て来る。
この「姓名」は、”歴史的に他の事変”でも時々出て来る「姓名」でもあった。
そうすると、この”「不思議な姓名」”とは、これは、恐らくは、「シンジケートの組織」の中との ”「氏外の縁組」”をして、”「養女での血縁力」”を高めていた事を物語る”「姓名」”である筈である。
つまり、「四家」や「家人」 (「商い」に従事し、「青木氏の嗣子」が「家人」と成った家筋) の中に、この”「姓名の血筋」”を入れて、「血筋のある遠縁の縁組」を積極的に作り上げて、所謂、”「曾孫域」(養女養子)”を敷いていたと観られる。
この事は、この様に、「曾孫域」までとする「養子養女システム」は、「縁続き+経済力」で、充分に成り立っていた事を物語っているものである事が判る。
・「曾孫域 遠縁組の組織化」
これらの”「遠縁組」”が、「四家」や「家人」と繋がって、「二つの血縁青木氏」と「二つの絆青木氏」と ”どの様に組織化されていたか”の調査をして見たが、判らないと云うよりは、”判別が就かない”であった。
そもそも、”判別が就かないと云う事”は、普通は「商社」であればおかしい。
逆に、”「商社」だからこそ「判別」を就き難くしている事”も考えられる。
”「賜姓族の商社」であるから、”強いて隠しておかねばならない事”と云う事が、「紙屋の青木長兵衛」に在ったのか”と云う事に成る。
在った筈である。
何故ならば、そもそも、根本的に「青木氏」には、”「賜姓族」と云う「民」の範たる立場”の保全の宿命を負っている。
世間から観て、”範としておかしい”とされる事は、”表向きにする事”は無理であり、常に配慮しなければならない立場にあった。
では、その”隠しておかねばならない事”とは何なのかである。
”隠す”と云う事は、陰鬱である。要は、世間に対して”公然”と云う事に成らなければよい事である。
そもそも、”「賜姓族」と「商い」の関係”は、”隠す”と云うよりは、”公に出来ない「既成の史実」と云った処であろう。
これは「悠久の歴史」を持った「公然の史実」で問題とは成らない。
故に、これ以外にあった事に成る。
”「青木氏」にだけ”に在ったものとして、次ぎの二つが出て来る。
考えられるのは、”「影の組織」”とそれを”「補完し合った組織」”である。
一つ目は、「影の組織」の「青木氏」に良く資料の範囲に出て来る「伊勢シンジケート」である。
二つ目は、各地に建立し続けた500社以上の「祖先神 神明社」である。
・「戦略上の手段」
そもそも、「祖先神 神明社」は、”「国策氏」としての役務”でもありながら、「青木氏の守護神」でもあり、「青木氏の諸々の戦略上の手段」でもあった。
「戦略上の手段」であるのなら、何等かのものとは繋がっていた筈である。
態々、500社にも成る程の「膨大な神明社」を、幾ら「国策」であるからと云って、全国に「自前の財力」で建立する事は先ず無い。
その”「財力投資」に見合った利得”が無ければ、建立する事は無いし、朝廷も”「特別賜姓族」を以ってして補完させる事”もしない筈である。
その「膨大な財力」を「商い」で賄っていたのであるから、「青木氏の最大の目的」(子孫存続の手段)に関わらさせない事は先ずあり得ない。
(注釈 「三つの発祥源」、「賜姓五役」など極めて難しい立場を熟さなければならない「青木氏」の「福家」と成り得る者は、多くの子孫の嗣子の中から ”「氏存続」の目的を成し得る能力がある”と見込まれた者が、選択されて成り得ている。
ここを見逃す「愚鈍な者」は成り得ていない。況して、累代の「福家」と成る者が”愚鈍であれば”ここまで子孫を遺さずに滅亡している。
”商才や一芸に長ける者”では無く、「指導力」のみならず、「指導」に必要とする”「権謀術策の才」”を持ち得ている大組織を動かし得る”「総合力のある者」”が「福家」に成り得ているのである。
世間が好む”通り一遍の綺麗事だけの指導者”では成し得ない難しさであった。
「青木氏の訓戒」に出て来る”「知略」に長ける事”が、”要求される「福家」”であったと考えられる。
これは、「総合力の在った者」かどうかは、「氏是」や「慣習仕来り掟の書」や「家訓添書等」の内容の意を読み取り観れば良く判る。
当に、「天地、天武、持統」の「天皇三代」に仕えた始祖”執政「施基皇子」の所以”でもある。
況や、その為の「四家制度」や「子の定義」が構築されている所以でもある。
(注釈 これだけの多くの「重要な役目」を同時に果たさなくてはならない「福家」は「一人顔」で社会に対して押し通す事が出来るかは実に疑問である。
幾ら「絆青木氏」を持ち、「共生氏族」であって、”「民」との繋がり”を強く持っていたとしても”理解し得ない「矛盾」”が生まれる。
「二つの絆青木氏」=「共生氏族」の数式論が成り立っていたのである。
これを理解してくれる程に社会は甘くはない。
従って、「一人の福家」が「幾つかの顔」を持っていたと考えられる。
その端的な証拠として有名な「歴史的に記録」として遺されている。
それは、室町期末期の「伊勢三乱」である。
「伊賀丸山城の戦い」は、一面では「豪商の紙屋長兵衛の出番」であった。武力は一切使わず出城築城の資材の手配商人として表に出て交渉し、資材調達の期間を遅延させ挙句は暴利を獲得して相手を弱らせると云う手段に出た。
更に、継続して二面では、裏で築城を大工組等で請負、「シンジケート」の「ゲリラの大工」を大量に潜入させて築城の邪魔をした。
三面では、時には、「織田信雄軍」に山岳部で正体不明の「シンジケート」の「ゲリラ戦」と食糧調達の邪魔を仕掛け疲れさせて、遂には、築城完成間近で、潜入した大工組が焼き討ちを掛けて燃やしてしまうと云う「三面の陽動作戦」を展開して勝利した。
この乱には、一切、指揮は執っていたが、「伊勢青木氏」の顔は表に出て来ないのである。
名張の「清蓮寺城の戦い」と「伊賀城の戦い」では、恣意的に態と「伊勢青木氏の顔」を表に出して、中立を保っている事を見せ、落城寸前に織田軍を油断させて清蓮寺側の側面の弱点を付いて突いて、敗走させた上で清蓮寺城の戦略上の拠点を護った。
更には、「伊勢北部の伊賀氏」を援助して、「シンジケート」を使って山岳部や平地のゲリラ戦で長期戦に持ち込み、一時的に「伊賀氏」を逃がす時間稼ぎの作戦を採ったのである。
これは「伊勢青木氏の長兵衛の顔」を表に、「シンジケートの顔」を裏にして使い分けたのである。
「丸山城の戦い」とは「逆の陽動作戦」であった。
信長軍は、「押せ押せの戦い」は強かったが、「商い」を駆使した戦いや「シンジケート」を使った「ゲリラ戦」には弱かった。
(注釈 後を引き継いだ秀吉はこの事を良く承知していた。伊勢の秀郷一門の「伊勢青木氏」と「伊勢伊藤氏」の協力を得ていたが、「青木氏」は、唯一遺された「村上源氏の支流北畠氏」を救う事が出来ず、「永嶋の戦い」では、この「陽動作戦」に持ち込めず早期に敗退し新宮に後退した。
「詰め」として、秀郷一門の「近江の蒲生氏郷」に「伊勢の後始末」を命じたが、「伊勢秀郷流青木氏」や秀郷の遠祖の「伊勢伊藤氏」との繋がりを持つ事から、「青木氏の伊勢」を本領安堵して松阪に戻した。)
結局は、奈良期-平安期-鎌倉期-室町期-江戸期の五つの期を通じて次ぎの様な「数多い顔」が「二つの青木氏」には出来上がっていた。
・「5つの面」「20の顔」
次ぎの「5つの面」と「20の顔」を持っていて、これを使い分けなければならなかった。
・権威
「賜姓族の顔」-「権威と象徴」を「民」の前で「範」として通さねばならない立場
「衣冠の顔」-「最上の位階」の立場
「朝臣族の顔」-「天皇を護る身分家柄」の立場
「三つの発祥源の顔」-「武家、護衛侍、氏族」として「権威と象徴の範」としての立場
「賜姓五役の顔」-「国策氏」として政策を実行する立場
・家柄
「青木氏の顔」-「二つの青木氏」との連携を図る立場
「四家の顔」-「青木氏一族一門の福家」としての立場
「郷氏の顔」-「地域の村主地主」の立場
「氏族の顔」-「姓族と民」の範と成る「氏上」の立場
「共生族の顔」-「民」側に位置して共生する立場
・宗教
「祖先神の顔」-「青木氏の守護神 祖先神」を護り通す立場
「神職の顔」-「神明社」を維持する立場
「住職の顔」-「氏の菩提寺」を護る立場
「密教の顔」-「慣習仕来り掟」の伝統を守る立場
・首魁
「御師の顔」-「皇祖神(伊勢神宮)の職能集団」を統率指揮する立場
「職能の顔」-「青木部の首魁」の立場
「商いの顔」-「紙屋長兵衛」として商いを統率指揮する立場
「首魁の顔」-「伊勢シンジケート」を統率指揮する立場
・血縁
「同族の顔」-「血縁関係」(佐々木氏等)を繋ぐ立場
「氏外の顔」-「他氏との関係」を繋ぐ立場
以上の様に、「20の顔」を使い分けなければならない「青木氏」に執っては、一人で成し得ていたかは疑問で、「主役の四家の福家」に全てを頼らず、「主役の四家の当主」が、「5つの面」を事と次第で「福家」に成り切って、代役を演じていたのではないかと考えている。
結果として、「主役の四家の福家」の差配で動いていたが、「氏存続」と云う目的からは、”知略”
が「氏是の概念」の様にしていた事から、相手と成る周囲は、「主役の四家の当主」を「主役の福家」と思い込ませていたと考えられる。
これの方が、「福家」に何らかの「異変」が在ったとしても、「組織」は乱れず、「身内」や「周囲」に対しても”「組織の安定感」”として印象付ける事が可能である。即座に、異変なく「継承」が進む事に成る。
(注釈 室町期の中頃に、「長兵衛」、「次左衛門」、「作左衛門」、「高右衛門」、の「四家の当主」の四人が重要な処に名の記述が同時に出て来る。これは”「福家の長兵衛」”の代役で、上記の「四つ面」で「福家長兵衛」として務めていた事を物語る。
ある「神宮の寄付帳」には、「紙屋」と「青木氏」と「御師」と「青木部」の名で、この「四人の名」が記されている。又、「伊勢神宮の大灯篭」にも、本来は「青木氏」として一つとして寄付する処を、この四人の名で、「四灯篭」が別個に「青木氏」として寄付がされている。
奈良期から伊勢神宮の守護は青木氏が務めていた。”「伊勢神宮」の「御師」”は、その「称号」。
世間の殆どは、”「福家襲名の長兵衛」”が”「四家の福家」”とは承知していなかった事を物語る。)
・「二つの組織と範囲」
事ほど左様の環境下に於いて、この「二つの組織」は、互いにそれぞれの「役目・目的」を持ちながらも繋がっていたのである。
故に、”「遠縁組の組織化」”にも、この「二つの組織」が大きく関わっていた事に成る。
(「青木氏の守護神 祖先神 神明社」の論文参照)
つまり、”「青木氏の組織」”と”「シンジケート組織+神明社の組織」”とが、”横で繋がっていた”のである。
ここから、「孫域」とは別に、”「養女(養子)」”と成る ”「曾孫域+遠縁域」の「組織化」”が、案にして出来ていた事に成る。
・・「シンジケートの範囲」
そこで、参考として、”「シンジケート」”の「範囲」を明確にする為に、「青木氏の資料」に出て来る「氏名」「姓名」から、その「定住地」を押えて観ると、その分布は次ぎの様に成っている。
「伊勢シンジケート」は若干東域に外れる傾向はある。
・「分布が集中している地域」
東西に、播磨・摂津-美濃・尾張
南北に、和泉・紀州-若狭・但馬
以上に「集中」して分布している。
外れるものとして、次ぎの様に成っている。
・「分布が点在している地域」
西域に、因幡、北域に、越前、
南域に、尾張、東域に、信濃
以上に「点在」するものがあった。
これが、「伊勢シンジケートの活動範囲」と成る。
この事から、凡そ横に長い「関西域」で、一部突出の「中部域]と成っている。
この分布から、次ぎの事が云える。
(1)「神明社」の分布域 45%
(2)「青木氏」の定住域 25%
(3)「関連した姓族」の分布域 15%
(4)「佐々木氏」の分布域 8%
(5)「源氏(郷士)」の逃亡分布域 5%
(6)「平家(郷士)」の逃亡分布域 2%
以上の順での比率で分けられる。
(2)の「青木氏の定住地」は、当然の事として、5家5流賜姓族地は勿論の処、特別賜姓族地の青木氏の24の定住地の中でも次ぎの地域では連携していたと観られる記録がある。
・・「特別賜姓族関連地」
「5家5流の青木氏」が戦乱での逃亡地 「越後」「越前」「相模」「下野」「土佐」
時の朝廷幕府より役務等で配置転換された土地 「広域陸奥」「上野」
特別賜姓族の定住地 「讃岐」「土佐」「尾張」「常陸」
・・「賜姓族外の関連地」
源氏の守備隊として移動定住した土地 「伊豆」
勢力争いで逃亡した土地 「因幡」「安芸」「美作」
役務や住職等の移動関連地 「陸奥」「紀州」「但馬」「摂津」
以上の地域での活動が観られるが、上記外の「24赴任地定住地」との連携では特段に記録が見つからない。
矢張り、(1)の「神明社」が、分布量から観て、最も関係が深かった事が判る。
恐らくは,「神明社の組織力」を使っての「情報拠点と保護役割」を果たしていたと観られる。
(4)の「佐々木氏」は、「近江」を中心にして、その「子孫」は全国各地、主に北の「陸奥域」までに、殆ど「神職」(八幡宮と神明社)として分布している事から、”「佐々木氏一門の組織力」との連携”を広域に図っていた事が判る。
(注釈 「近江佐々木」の始祖は、「天智天皇第七位皇子の「川島皇子」で、特別に賜姓を受け地名から佐々木氏を賜った正式な氏族 「青木氏」とは、血縁関係も深く「佐々木氏系青木氏」が発祥している。「特別賜姓族伊勢青木氏」も「近江佐々木氏」とは血縁関係が深く、秀郷一門とも近江国司守護であった関係から血縁関係を持っている。「近江秀郷流藤原氏」も出ている。)
(注釈 「陸奥域」には、信濃から、「青木氏」は数は少ないが、平安期初期に「坂之上田村麿の陸奥域制圧」後の「現地守備隊」の僧侶(住職)として役目を命じられて移動し定住した。この「浄土宗の菩提寺住職」の末裔が子孫をある程度に拡げ現存する。
これと共に、「桓武天皇」が「神明社」を「青木氏」に代わって「20社程度」建立した。
そこに「信濃青木氏」と「近江佐々木氏」の「神明社の神職」も移動している。
ここが「佐々木氏」との「情報伝達の中継点」に成っていたのであろう。)
「天智天皇」時の同族の「佐々木氏」は、「陸奥域」までその勢力は及んで子孫を拡大させて遺している事から、「伊勢シンジケート」外の「影響力」の及ばない「他の地域」に対しては、
主に次ぎの通りである。
1 「各地の神明社経由」
2 「伊勢から直接経由」
以上の「二つのルート」で、「佐々木氏]の「八幡宮の組織」を使ったと観られる。
取り分け、「摂津」(紙屋支店と摂津青木氏定住)に「八幡宮本宮」があった関係から、次ぎのルートがあった。
3 「伊勢からの近江摂津経由」
以上の「ルート」もあって、内容に依って三つのルートを使い分けしていた事が判る。
つまり、このルートは「広域ルートの拠点」として働いていた事が判る。
(5)の「源氏」では、全て滅亡したが、その「傍系流の逃亡末孫」は、「関西東域から中部の山間部」で僅かに生き延びたが、これらの者が「影の組織」を形成して「姓族」と成り、「伊勢シンジケート」で関わり「経済的な糧」を得ていた事が判っている。
(注釈 近江源氏、美濃源氏、木曽源氏、新宮源氏、駿河源氏の「傍系末孫」が、「源平富士川の戦い」で敗退滅亡し、山岳部に逃げんで生き延びた。平家と同じ末路。)
「青木氏」は、これらに対して「商い」を通じて陰で手を差し伸べて支援していたのであって、「商い」に関わる援護と、”いざ”と云う時には、「伊勢シンジケートの一員」として働いたのである。
(注釈 「福井」は、その意味で、元々、奈良期からの「皇族系の避難地」を「青木氏」は形成していた。従って、「神明社の建立数」も「最多の地域むであり、これらの「避難者」には「商い」を営ませ、ここに「避難者」を集めた上で「連絡の拠点」としていた。)
(注釈 ここで、特筆すべき事が沢山ある。「滅亡した京平家」が、主に「紀州山間部」と「四国山間部」に逃げ込んで、山を切り開いて生き延びたが、これらは、土地の「郷士」と成って「地域集団」を形成し、下界との関係を持つ為に、「シンジケート」に入り、”「経済的な繋がり」と「情報獲得」”の為に働いた。
時には、「室町期の戦乱期」には、山から下りて来て「雇兵」として活躍し、「地域の豪族」の配下に入って参加した。
平常時は「伊勢シンジケート」の一員として連絡を受けて働いて「生計の糧」を立てた。
この「伊勢シンジケート」での「面白い事件」があって,「紀州の北側」には「平家方落人」が、「紀州南側」では「源氏方落人」が、山間部で「郷士」として住み分けて生活していた。
これらの「二つの郷士集団」が、「伊勢シンジケート」として活躍していて、「秀吉」は、[伊勢-長嶋攻め三乱」で、戦いを有利にする為に、これらの「郷士集団」を味方に引き入れようとして働きかけたが失敗し、結局は、自らの家臣を使って「吉野-熊野の材木」を「シンジケートのゲリラ戦」に耐えながらも運んで山から降ろし、やっと「出城の建築」に成功し戦いに勝利した歴史上の有名な戦いがあった。)
特に、(3)の「姓族の分布域」には、特徴が観られる。
鎌倉期から室町期末期に掛けて亡びたとされる元は「氏族」で、「姓族」として土地の名に変えて名乗った土豪や、その「家臣で在った姓族」の地域が殆どである。
これらの多くの「姓族」は、次ぎの限定地域に散在して「小族」を形成して住み着いていた。
集中すると警戒されて潰される為に散在して、”いざ”と云う時には集会して事に当たった。
・「姓族の定住地」
山間部に住みついた「山族」
漁村に住み着いた「海族」
平地山際の過疎地域の「野武士族」
特定の寺の周辺地域の「山伏集団」
鉱山地域の「土豪」
以上の順での比率で分けられる。
この「二つの組織」が、「祖先神 神明社」は、「民」に+に捉えられるであろうし、「心の支え」としても民に働く。
しかし、”「シンジケート」は、戦乱などの事変で社会の隅に追いやられていた小さい組織が、この組織に入って「経済的な糧」を得て、再び生きて行く事が出来ているのである。
本来は、+に働いているのであるが、”「影の力」”と云う印象から、民にとっては、”得体の知れない組織”と捉えられいて、その組織を構築している「賜姓族の青木氏」には、”「民の範」”としての印象を低下させる結果と成る。
・「氏族=武家」の「純血性保全」
従って、「曾孫域と遠縁の組織」として存在したとしても”「影の力の抑止力」の範囲”であり、これを「諸々の弊害」を「抑え込む手段」としては「表向き」には使えない。
あくまでも、「影の力」である。
「影の力の組織」で「表向き」には、「使えない組織」である限り、この”組織との「縁組」”の一切は表には出せない事に成る。
その為に、「皇祖神の子神」の「位置づけのある権威」を誇る”「祖先神 神明社」”との「横の繋がり」を持たす事で、「シンジケート」の「影の-の印象」を相殺させていると観られる。
「シンジケート」を「商いの手段」や「周囲への抑止力」などとして使う限りは、完全に「影」だけでは成り立たない筈である。「表」に出る事は充分にあり得る。
そこを、「横の関係」を保ちながらも補うのが、”「祖先神 神明社」の「権威と善意」”なのである。
仮に知ったとしても、「利」に成る事に聡い「民」はむしろ黙認する。
そもそも、「青木氏」には、”「民の二つの絆青木氏」”が存在することから、表に出る事は必然である。
(注釈 筆者は、むしろ「隠す」と云うよりも、公然と「表に出る事」を狙っていた事もあったと考えている。ただ、あまり「記録」は残したくないとしていたのであろう。それの方が「リスク」は少ないし、”「四家」”から「嗣子や娘」をこの組織に入れて、”「組織力」”を強化した方がやり易い筈である。
その証拠がある。江戸末期から明治9年まで続いた「伊勢一揆」と、それに連動した「信濃、岐阜、栃木、茨木」等の「大農民一揆」や、室町期の「甲斐100年一揆」と呼ばれる一揆の背後に、各地の「青木氏」が「シンジケート」と「経済的支援」を使って関わって居た事が記録でも残されていて有名な事である。)
依って、「曾孫域」「遠縁域」の「養女養子制度」の「青木氏の発言力」は成り立っていたのである。(「養女」が基本に成っていた。)
故に、「氏族=武家」の範囲では、”「嗣子や嫡子」”に充分に恵まれながらも、敢えて、「曾孫域」「遠縁域」での”「養女養子」”が盛んに行われた理由なのである。
これには、”「氏族=武家」の「純血性保全」”の為に、積極的に並行して行われた”絶対条件の慣行”なのである。
「青木氏」に執っては、この「曾孫域」「遠縁域」の「養女(養子)」は、”「世間との接着剤の役割」”を果たしていたもので、極めて重要であった。
・「養女の定義」
そこで、「子の定義」の説明を更に進める。
この「養女養子の制度」が「絶対条件の慣行」として在ったとしても、従って、そこで、”「祖父に位置する者の親」”は、”「子の定義」”である以上は、最低限に”「孫の領域」”までの「養育の総括責任」を負う事に成る。
それならば,「孫域」とするなら、「曾孫遠縁」に位置する”「養女養子」”をどの様に「制度」として扱うかの疑問である。
つまり、「親の責任の範囲」なのか、「息子の責任の範囲」なのかの”「位置の問題」”がある。
「曾孫遠縁」とすれば、「親の責任の範囲」である。
しかし、「養女養子」とすれば「息子の責任の範囲」である。
幼少からの”「養女」”としてすれば、「子の嫁」として将来扱われる事に成る。
この事からすると、”「嫁」を迎える事”は、「氏家制度」では、”「親の責任の範囲」”と成る。
そうすると、「青木氏」は、「孫域」までを”「子」”として定義して二段階を一段階として扱う以上は、次ぎの様に成る。
「子」の”「子」”としては、「養女」は「息子の位置」に成る。
「孫」の”「子」”としては、「養女」は「息子の子の位置」に成る。
つまり、”「養女」の「迎え方の如何」”に左右される事に成る。
「四家方式」を次ぎの方式を採用している。
「主役の四家」(4)
「副役の四家」(16)
以上の「二つの四家」(20家)で構成している。
「副役の四家」は、「主役の四家」の「予備軍的存在]で、「見習い的な位置」であり、「世代交代」で「主役の四家」に成る仕組みである。
その仕事は、原則として、「主役の四家」が「全体の差配」を仕切り,その仕事の「下部の差配」を実行する位置にある。時には、「上部の差配」を「見習い」として任されて成長する。
その「仕事の種類」は、上記の「5面-20の顔」に関わる。
その「主役の親」に位置する「福家」は、一族の”「四家」”を纏めて行く以上は、出来るだけ早くこの制度を完成させなければならない責任を負っている。
”「一族存亡の責任」”と云っても良い筈である。
(4+16)=「20家」を見渡して、「ブランク(空白)」に成っている部分(家)を早めに埋めて体制を確立させなければ成らなくなる。
この時に、「ブランク部分」を埋めるのが、”「養子」”なのか、将又、”「養女」”なのかに依って決まって来る。
この時、”「養子」”の場合は,「子の実娘」又は、「孫の実娘」のこの「遠縁の養子」として入るが、多くは、「子・孫の娘」の婿養子は、「四家」の中に「女系」が発生してしまう可能性がある事に成り得る。
その為にも、一族の「四家20家」の「孫域」までを”「子」”として定義して、このブランクの出た家の跡目に、四家の子の中から入れる事に成る。
これに依って「女系」に成る事が防げるのである。
其れは、「四家方式」としては「弱点」であって、この「曾孫、遠縁の養子」は「四家の組織」を弱め、或いは、壊す事にも成りかねないので、「子の実娘」「孫の実娘」は「他氏に嫁ぐ事」が原則に成る。その「嫁ぎ先」の男児・女児(孫)は、「子の定義」で、実家に「跡目に成り得る子」(男児)として、「跡目に嫁ぐ子(女児)として、扱われる事に成る。
従って、”「跡目の非常事態」”を除いては、この「曾孫と遠縁の縁組」は、主には ”「養女」”であるのだが、「四家」(主役)の「ブランク」に入れる「養女」なのか、「四家(副役)」の「ブランク」に入れる”「養女」”なのかに依って、変わる事に成る。
(注釈 「跡目の非常事態」は「戦禍」に依る事が殆どの原因である事から、”「遠縁の養子」”を避ける為に、”「氏是」「慣習仕来り掟」「訓戒」等”に依って、この「戦禍の原因」を作らさせない策の一つとしているのである。)
”「子」と「孫」”を”「一つの子」”にして、扱う以上は、次ぎの「二つの事」に成る。
「四家の主役」の「ブランク」の場合は、「親の責任の範囲」
「四家の副役」の「ブランク」の場合は、「息子の責任の範囲」
以上と成る。
「四家の主役」の「福家]が中心と成って仕切り、「四家の副役」の「福家」と「親」とで合議してこの事を進める事に成る。
「四家制度」(方式)を敷く以上は、この”「ブランク」”を埋めて支障の無い様に進めなければならない。
この”「ブランク」”は、”「20家の範囲」”では常時に起こる。
従って、”「ブランク」が出来たから”と云って動くようでは間に合わない。
故に、「幼少の頃」から「養女の子」を引き取り、何れかの「四家」の「福家」で事前に養育する事に成る。
「跡目」が「成人」と成っていれば、「養女」が「成人」すれば、直ちに「20の四家」の何れかの当主に成る前にも、”先に結婚させる事”と成る。
依って、「四家の戦略上の観点」から、傾向としては、必然的に”「早婚」”を前提と成る。
この”「早婚」”は、より”「青木氏」”の”「氏是」「慣習仕来り掟」「訓戒」「伝統」”に充分に「馴染ませる事」が可能に成り、「嗣子の特性や能力」を図り、育成する事の長所が逆に生まれる。
”「四家の弱点」”の”「遠縁の養子」”を避ける様に原因を除いて、”「早婚」”を促せば、逆に”「四家の長所」”と成り得るのである。
それには、上記した様に、 ”「幼少期」を前提とした「養女」”と成るのである。
百々の詰まりは、「幼少期」を外せば、「四家の戦略上の効果」は半減して、全体の「子孫存続」の「青木氏の態勢」は、弱体化に進むのである。
「幼少期の養女」は、「青木氏の要」なのであった。
この「四家制度」(方式)に依って、早めに「青木氏」に馴染み、且つ、「嗣子」として「優秀な者」を見極めて、この中から、適材適所に「四家」に選ばれる事に成る。
(注意 ”「四家」”の意味は大きいので、「制度」の字句は”全体”、「方式」は”各所”と定義して使い分ける。)
・「養育の責任」
但し、「四家の戦略上の効果」だけでは事は済まない。
ここで、”「養育方法の責任の問題」”が生まれる。
”放置しておけば育つ”と云う事では済まない。
”「四家方式」”を敷く以上は、つまり、”「養育の仕方」”によって左右されてはならない訳である。
この”「養育の仕方」で左右すると云う”事は、”「四家の一致団結」”が成されない事に成る。
そもそも、「四家方式」は、”「四家」”と云う小範囲に留めて、”「血縁性」”を高めて、”遺伝的に思考概念の統一”を狙ったもので、その結果、”「同じ方向性」”を獲得して「一致団結」が図られるとしたものである。更には、「福家方式」で「子の範囲の定義」を行って、「四家」から”はみ出す危険性”を排除したのである。
そこで、この危険性を排除した上は、この”「養育責任」”に対する範囲の”「歯止め」”を設けたのである。
つまり、その範囲は、”養育に関する「抹消的な養育発言」”と、”その「養育の基本行動」”には、「親」は、”「基本的な口出し」を「法度」とする”と成っていたのである。
「青木氏」の養育に関する「伝統的な訓戒」であった。
あくまでも、「跡目継承の範囲」で ”「総括責任」に徹する事”に成る。
つまり、”「息子」と「孫」までを子供”としての「子の定義」として「位置づけ」をした。
・「四家訓戒と法度」
”息子である子供”は、「成人期」までを ”「祖父母の親」”が育てる。
「成人後」の”息子である子”は、その”息子の嫁”が育てる”
以上とする「養育の思考概念」である。
世間から観れば異質の概念であろう。
つまり、”「養育の概念」”を分離したのである。
守るか守らないかとする「訓戒」のみならず”「四家の法度」”としてより厳しくしたのである。
これは一種、「20家」を[家族制度」にまとめた「四家方式」だからこそ出来る事であろう。
”「賜姓族」と云う特異な立場”にあるからこそ、”納得して守られる方式”である。
”「子と孫」を「子の定義」として「四家」が育てる”とするからこそ、この「訓戒法度」は成り立つ事である。
”「息子の嫁」”に依って、”「息子である子供」”が育てられるとする「養育の定義」である以上は、「養育権」は、「息子」即ち、「子」でありながらも、「祖父母の親」に無く、当然に”嫁側にある”としたのである。
この様な、”「跡目の歯止め」”として、「賜姓族」には、”特別な仕来り”を持っていたのである。
従って、「祖父母の親」は、家に「嫁」を娶ると、”息子に口出しならぬ”とする家訓が生まれたのである。
世間から観て、”「祖父母の親」の行動”は、一種の”息子に対して「放任主義」の育て方”と観られがちである。
そこで「青木氏」では、この所謂、この一種の「放任主義」は、「良し悪しの問題」では無いとしている。
「家訓十訓」を観れば、そうで無い事は一目瞭然である様に、下記の「家訓の考え方」に従っているのである。
・「四家訓戒」
”自らの「経験」を通じて「才」を獲得して成長を得させる。”
これは、”「経験=才能」”としての ”「経験重視」の「養育方針」”である。
世間では”「放任」”と観えるけれども、”「四家」”と云う範囲で、「20の顔の範囲」で、むしろ、”徹底して幼少期から嗣子として鍛えられる”「養育方針」なのである。
この世間には無い ”厳しい「行動範囲の歯止め」”が効いているのである。
況して、”「嫁」に養育を委ねる”としているのであるから、世間が観える「放任」では無い事が判る。
何もしなければ「放任」とは成るが、”嫁に養育を委ねる”としている事は、これは正当な「一つの養育の考え方」なのである。
何も、”嫁も放任して育てる”としていないのである。
其処には、青木氏は、下記に示す様に、”「育て方の概念」”を指し示しているのである。
むしろ、この方が考え方としては難しいのではないだろうか。
故に、”「経験=才能」とする概念”を重視した結果であって、「親」に執っては「放任」と観られる育て方に成るのだが、むしろ、「青木氏」に執っては、正当に次ぎの様に捉えているのである。
・「四家訓戒」
”「放任」は「豊かな経験」を産み「豊かな才能」を開花させる”
そもそも、この訓戒の”「放任」”とは、”[四家の範囲で」”とする「四家の伝統の考え方」なのである。
恐らくは、この”「四家の伝統の考え方」”は、”「青木氏密教の所以」”であろう。
この”「四家の放任」”には、「育て方の概念」(下記)が付加されている。
そうで無ければ、この「子の定義」の方式(システム)は上手く行かない。
世間から観ると、この「概念の影響」から”「日常の生活慣習」”も一般と異なり、一般から観れば、”異質”或は、”特別”と観られる事に成る。
つまり、この”「息子の養育」”の、その後は、”結婚の段階”の契機を経て、”「嫁」に引き渡す”と云う考え方を採る事に成るのである。
この場合、”「嫁」(殆どは、「曾孫域の養女」、或は、「遠縁の養女」)”に対して、必ず、この”「嫁(養女)」”に言い渡さなくてはならない一つの”伝統的な申し伝え”があった。
・「育て方の概念」
それは、次ぎの事である。
・訓戒
”「お仏像様」の掌で育てよ”
以上とする考え方を伝達する事にある。
そもそも、”育てよ”とは、「息子」とその「息子の子供」(孫)までの「養育の事」であって、取り分け、”「息子の夫」”としての「成人後の養育の事」を意味するのであろう。
(当時は寿命の関係から「早婚」であった。)
”掌”とは、実に意味が深い。
当然に、「妻-夫の関係」にありながら、相対的な関係に置くよりも、広く長く穏やかに優しく厳しくして「心」を保ち、 ”「女」として操れ”。 ”如何にも「母性愛」を以って「子」に接する様に操れ”と云う意味であろう。
家訓などにこの様な「添え書きの解説書」は無い。
決して、”「対立的な相対関係」に持ち込んではならない。とする意味合いが存在するのであろう。”故に、「子供の定義」になっているのである。
あくまでも、「概念の扱い」は、”「子」”なのである。
”全ての扱いは、「子の域」を一切脱してはならないと捉えよ”と成る。
そして、この「訓戒」は、次ぎの事と成る。
・「四家訓戒」
”「人の継承」、就中、「家の継承」は、本来は「女」にある”
以上とする「青木氏の考え方」に由来している事を告げていると観られる。
(この考え方は、「青木氏家訓十訓」の「家訓一」と「家訓二」に表れている。)
”「お仏像様」”とは、「氏の護り本尊」であり、「氏の象徴仏」であり、「氏の権威」であれ、それを支える「氏の賜仏像」である。
依って、そもそも、「お仏像様」は、「青木氏」の「単なる仏像」では無く、「擬人化した人」、つまり「絶対的な人」なのであった。
つまり、”「氏」そのものの「有り様」”を一つにして物語るものであった。
この”「擬人化した人」の「絶対的な人」の掌”とは、次ぎの様に成るだろう。
・「四家訓戒」
況や、”「氏の環境」に身を委ねて、「氏是」や「家訓」を信じて、その「氏の心」に従って、その範囲で育てよ”としているとも考えられる。
・「青木氏三様」
つまり、次ぎの「青木氏の三様」を物語っている。
”お仏像様”とは、考え方の「基準の様」
”掌で”とは、考え方の「持ち方の様」
”育てよ”とは、考え方の「扱い方の様」
確かに、この「三つの様」を以ってすれば「世の事」「氏の事」は成せる事は判る。
何れの世界にしてもこれは当に「条理」であろう。
「青木氏」は、これを「青木氏密教の教え」として”「青木氏三様」”としての「四家訓戒」の一つとしている。「青木氏の家訓」にも記述されている訓戒である。
取り分け、”「賜姓五役」を務める「賜姓族」”に執っては、「世間の普通の考え方」では、何事も成し得なかったであろう。
恐らくは、「子孫存続」の為の”「四家」や「福家」の制度”を敷く”「賜姓族」”であるとし、その”「模範」”と成るに「必要な環境」は、周囲には極めて少なかった事が挙げられる。
従って、”「三様」「三相」の提示”が、「必要条件」として、「息子の養育」を任した”「嫁」”に、「何かの規準と成る考え方」を、是非に「申し伝える事」は必要であった筈である。
そうで無ければ、この「訓戒」を以ってしなければ、この難しい環境では”「嫁の位置」”は明らかに果たし得ない事が判る。
況して、”「賜姓族の四家」”である。この「難しい環境下」で、所謂、”「夫と成る子」”を育てなければならないのである。
それ故に、”幼少期からの「養女」「養子」の制度”を敷いて、”「氏家の環境」”に馴染ませる必要性もあった筈であり、その”「馴染んだ上での訓戒」”として申し伝える様にした「四家制度」の「特異なシステム」であった事が云える。
注釈 これは、現在感覚から観ればであるが、当時は、社会は「氏家制度」の中での事であった為に、周囲や氏内も当然の事と納得していた筈である。況して、その当時でも”「賜姓族」”と云う立場であった事から、「一族一門」と「縁者遠縁」と「家人郎党」は、”「当たり前の事」”と認識していたと考えられる。
即ち、”「当たり前の事」=「伝統」”である。
そもそも、”「伝統」”とは”「当たり前」”として認識して納得しての事だからこそ、 ”長く歴史を経て「継承できる事」”であろう。
”特異”として認識していた「娘」や「嫁」は、既に「氏内」に存在する事さえも出来ない事であった筈で、況して、そのような者が「嫁」には成り得なかった事であろうし、一族郎党は認める事さえなかった筈である。むしろ、”特異”と考える事自体が”特異”と見做される「四家の社会」であった事に成る。
故に、「幼少期」からの「養女」であり、「娘」であり、「嫁」であったのである。
結果としては、”早婚中の早婚”であった事に成る。
恐らくは、筆者は、”「嫁」”と云う感覚は、”無い”とは言い難いが、最早、極めて薄かった意識であったと観ている。要するに、”「娘」で「子」”の概念の中にあった方が強かったと考えている。
この方が、”「四家方式」の[子の定義]の趣旨”を逸脱していないだろう。
その意味で、この「早婚」と成り得る”「早婚方式」(「幼少期の養女」)”は四家の中では”理に叶う事”に成っていたと考えられる。
そうすれば、「深い理解」は可能と成ろう。
そして、「氏の純血の目的」”もあったが、より”「氏の環境」”が多少なりとも理解できている”事に成り、依って、”「縁者」”の”「娘の範囲」”を画したと観られる。
そもそも、全くの ”「他氏の嫁」”では、”「物心」の就かない「幼少期の養女」”とする事は、青木氏に「謙る事の印象」を与えかねず「社会的立場」から難しく成る。
しかし、上記した様な「四家方式」の背景から「青木氏」に執っては、100%と”「幼少期の養女」”としなければ成し得ない環境事であった。
それ故に根本的に「四家」の中では無理な事であった筈である。
つまり、”血縁の無い「他氏の娘」の「嫁」”では、この「娘域の血縁」からでは成し得ず無理と成っていた事に成る。
況や、「四家の概念」としては、”「無血縁」<「四家方式」の感覚”の方が優先されていた事であっただろう。
(4)については下記に論じる処ではあるが、「概念」としては次ぎの様に成るだろう。
(1)「無血縁」<「四家方式」>「血縁弊害」
(2)「純血性」=「四家方式」>[無血縁]
故に、(1)(2)から(3)
(3)「無血縁性」<「純血性」>「血縁弊害」
(4)「子孫存続」=「純血性」>「氏拡大性」
故に、(3)(4)から(5)(6)
(5)「無血縁性」<「子孫存続」>「血縁障害」
(6)「無血縁性」<「子孫存続」>「氏拡大性」
故に、(2)(4)(6)から(7)(8)(9)
(7)「四家方式」=「子孫存続」>「無血縁性」
(8)「四家方式」=「子孫存続」>「血縁障害」
(9)「四家方式」>「氏拡大性」
故に、(7)(8)(9)から(10)
(10)「無血縁性」≒「血縁障害」≒「氏拡大性」
「3リスク」
「無血縁性」で起こるリスク
「血縁障害」で起こるリスク
「氏拡大性」で起こるリスク
即ち、「青木氏」には、この「3リスク」を持っている事に成る。
∴ 「四家方式」に依って、この「3リスク」は克服できる事に成る。
以上の様に、「社会との接点」に必ず発生する「3リスク」には、「青木氏」が採っている「四家方式」は論理的に矛盾は無く打ち勝つ事が出来る事が判る。
故に、矛盾が無くして、「賜姓族」として生き延びて来られたのである。
・「理と利の融合」
この「3リスク」を克服できる「四家方式」を更に次ぎに検証する。
”他氏の娘の嫁”を入れて「同族血縁の障害」を取り除く事には問題はない。
しかし、上記の数式論で説明できる様に、確かに ”理は叶ってはいる”が、敢えて、”「四家の制度」”として選ばなかった理由の一つには、ここにもあったのである。
特筆して、この「四家方式」の”「縁者 遠縁の養女方式」”には、強い”「氏の合理性の環境」”が青木氏の氏の中に働いていた事が読み取れる。
可成り強かった事が読み取れる。
先ず、何はともあれこの「四家制度」を考え出した事そのものに驚く。
(注釈 実は、平成に成っても、筆者も、この事は、現在の感覚や医学的な遺伝子の判断からも、”理に叶っている”として、この「伝統」の「訓戒の二つ」を「ある家の祝宴」に祝辞の中で申し上げたことがあった。
しかし、その”「嫁」”は、始めは ”きょとん”としていたが、上記の「子の定義」の事を、後に、”「青木の伝統の考え方」”として説明してからは、ある時間を経て経験して理解される様に成った。理に叶っていると納得したと観られる。
今は、この「青木氏の訓戒」を”「笑い話」”の様にして何とか馴染んでいる。
生活の中で、成程と「合理性」を感じたのではないかと観られる。
何時しか「孫」にも「曾孫」等にも、この”「笑い話」”成るものを伝えてくれるものと思って、うれしく成っている。意外に、現在では、家族関係では希薄に成っている中で、”理解されやすい感覚”であるのかも知れないと思った。これが長く続けられる”「伝統の本質」”なのではないかと考えられる。何時しか「子孫」も、その「時期」、その「心根」が来れば「ロマン」を感じてくれると信じている。)
実は、筆者は、そもそも、”「伝統の本質」=「理に叶う合理性」”だと判断している。
所詮、”「理の無い伝統」”は消えるのであろう。
依って、最早、筆者が、この様な”「伝統」”を後世に伝えられるのも限界であろうと考えている。
この”「伝統」”は、何度も書くが ”ロマン”でも良いのであるが、この”「伝統の不継承」”が「現代社会の歪」を生み出しているとも観ている。
”「理に叶う事」”がなかなか難しく成った社会に於いては、現代風に”「利に叶う事」”でも敢えて良いと観ている。
一挙に、現代社会を、”「理に叶う事」>「利に叶う事」”に変える事は、幾ら、”「伝統」は大事だ”と云ってもそれは無理な事である。
「利に叶う事」の社会には、それなりの「理由と根拠」とが在って、その様に成っているのであるからして、無理に換える事は反って問題を生み出す。
”「伝統」”を少なからしめる”「利に叶う事」”であるとは云え、決して、”「利に叶う事」は短絡的に悪い”と云う事では決して無い。むしろ正しい。
逆に、”「理に叶う事」”が、”何事に付いても正しい”と云う事でもないし、「理に叶う事」が逆に弊害や問題を産む事もある。
それの「理と利の境」は、「青木氏密教の氏是」とも云える「仏説」である[三相の理」(人、時、場)に従っていると教えられているのである。(家訓に記載)
({家訓]にあると云う事は、先祖は、「理に叶う事」「利に叶う事」に付いて、全てを知り得ていた事を証明する。)
「理」より「利」に聡く成った「現代社会」であるならばこそ、ここで、この数式論で、”「伝統」”をもう一回生み出して行く事も必要であろう。
ただ、この”「伝統」”とは、青木氏の賜姓族が継承して来た「慣習仕来り掟」を云う物では決して無く、”人間の本来のこの世に存在している根拠”、即ち、次ぎの事であると考える。
この「世の万物の目的」である”「子孫存続」”に対して、この世に生を得た「生きる者」の「尊敬の念」の「表現と行動」を云う。
この結果、”この念が継続的に維持されたもの”を”「伝統」”と云うのであろう。
これが、「希薄」に成っていると云う現象であろう。
つまり、現在社会の構成の中では、本来は、次ぎの数式論が働く筈である。
「理に叶う事」≒「利に叶う事」
この環境の中にあると考える。
しかし、この数式論が、次ぎの様に成っていると考えられる。
「理に叶う事」<「利に叶う事」
この環境に成っている事だと考える。
依って、この数式論では、次ぎの様に成るだろう。
(X) ”「伝統の本質」=「理に叶う合理性」」+「利に叶う合理性」”
そもそも、”「伝統の本質」”とは、何なのか。
この世に”「伝統]”と云うものが存在するには、”「理」”だけでは成り立たず、”「利」”が在ってこそ成り立つ。
何故ならば、”「伝統」”は、「生活」の中に存在する限り、”「利」”が無くては困難である。
従って、丁度、「理と利」は、”「骨と肉」の「一対の関係」”で成り立ち、”「理と利の和の相乗効果」”で以って成り立つと考えられる。
その”「伝統」”が持つ”「本質」”とは、何で構成されているかと云う問題である。
それは”「合理性」”であると考えられる。
”意味を持たず、無理の絡むもの”には、人は反応しないは常理であり、従って「継続性」も無い。
在っても一時的にものに終わる。それは、最早、”「伝統」”では無い。一時の”形式ばった戯れ”に過ぎない。
そこに、”納得出来得るもの”、即ち、”「合理性」”が求められる。
この”「合理性」”は,[骨と肉」に対して「血の質」に相当する。
故に、[骨と肉」それに「血の質」が相まってこそ”「伝統」”の「本質」は生まれる。
これを、数式論に置き換えたとして、次ぎの様に成るだろう。
「合理性」=(「理」+「利」)・「継続」=(骨+肉)・「血の質」
「継続」とは、「理と利」を「力強い信念」を以って進める事にある。
だとすれば、数式論は次ぎの様に成る。
「継続」=(理+利)・「信念」
そうすると、「継続」は、「理と利」に対して、その”「信念」=「2倍の力」”程度を発揮する事で達成される事に成る。
「信念」=「継続」=2
故に、次ぎの数式論の関係式が成立する
「合理性」=(「理」+「利])・2
依って、以上の数式論の関係式が成立する筈である。
「過去の青木氏」の「四家」の中では、この「数式論の環境(状態)」が、既に、当然の様に成り立っていたのではないかと考えられる。
その根拠は、”「奈良期からの生き様」”がこの数式論の環境(状態)を裏付けている。
(X)「伝統の本質」=「理に叶う合理性」」+「利に叶う合理性」
「合理性」=(「理」+「利])・2
(A)「商いの氏族」+「賜姓族の氏族」=「二足の草鞋策の氏族」
この”「二つ環境」(4つの状態)”の数式論の中にあったからである。
即ち、”「二足の草鞋策の氏族」の形”が、奇しくも、”「伝統の本来の環境」”を作り上げていた事に成る。
(a)「伝統」≒「理」+「利」
(b)「理に叶う事」≒「伝統」≒「利に叶う事」
(c)「商いの氏族」=「利に叶う事」
(d)「賜姓の氏族」=「理に叶う事」
(X)「伝統の本質」=「理に叶う合理性」」+「利に叶う合理性」
「合理性」=(「理」+「利])・2
(A)「商いの氏族」+「賜姓の氏族」=「二足の草鞋策の氏族」
以上であるから、従って、次の数式論が成立する。
故に、(b)(c)(d)から(e)
(e)「商いの氏族」≒「伝統」≒「賜姓の氏族」
「商いの氏族」≒「賜姓の氏族」
故に、(A)(c)(d)から(f)
(f)「理に叶う事」+「利に叶う事」=「二足の草鞋策の氏族」
故に、(A)(X)(e)から(g)
(g) 2×「理に叶う事」≒「伝統の本質」≒2×「利に叶う事」
(2×「理に叶う事」と2×「利に叶う事」は、(「理」+「利])・2=「合理性」を表す。)
故に、(A)(f)から(h)
(h) 2×「理に叶う事」≒「二足の草鞋策の氏族」≒2×「利に叶う事」
(2×「理に叶う事」≒2×「利に叶う事」→「理に叶う事」」≒「利に叶う事」)
(現在まで伝統が継承された事は、「信念」があった事に成る。依って[2]は数式論として削除)
故に、(g)(h)から(i)
(i) 「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」
故に、(a)(g)から(j)
(a)「伝統」≒「理」」+「利」
(j)「伝統の本質」≒{「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」}≒「理に叶う事」≒「利に叶う事」
故に、(a)(e)(f)(g)(h)(i)(j)から(k)
(k)「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」≒「賜姓の氏族」≒「商いの氏族]≒「伝統の本質」
結果として、以上の論理が働くからだ。
そもそも、即ち、この「数式論の関係式」は、普通の武家社会では起こらない事を示している。
それは,「賜姓の氏族」(理)と「商いの氏族」(利)であると云う[特質な環境」を保有していた事に成るからこそ成り立っていた事であり、且つ、上記の”「伝統の原理]”が成り立つ”「不思議な環境」”を持ち合わせた「青木氏」”で在ったからこそ、”「伝統」は保障され維持されて来たのである。
故に、上記の数式論は、”「青木氏]”のみであり、「平安期-鎌倉期の48氏ある氏族」でも成り立たず、況してや「一般武家」では、決して成り立たない。
何れにしても、この「世の事」が、将又、「青木氏」にも、数式論通りに、”論理的に全てが働く”とは言い難いが、凡そ、その「流れ」は、この数式論での様に、確保出来ている事は証明出来る。
個々の末梢事は、兎も角も、”「流れ」の確保”がこの世に於いて重要な事なのである。
”「流れの確保」”のその「前提」は、少なくとも、最低限にも、”論理的に状況の骨組みを作り上げて置く事”にある。
「青木氏」のみならず、この世の全ての「事の流れ」には、この「前提」が必要なのである。
「伝統 12」に続く。
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:「青木氏の伝統 10」-「密教概念」(毘沙門天から観る概念)
[No.327] Re:「青木氏の伝統 10」-「密教概念」(毘沙門天から観る概念)
投稿者:福管理人 投稿日:2015/01/13(Tue) 09:14:13
> 前回の末尾
>「密教氏青木氏」としては、「賜姓五役の遂行」と「子孫存続」であったと理解している。
>それが「毘沙門天」の「三神格の武神、守護神、財福神」であって、別の顔の「商いの氏」としては、「戎神、無病息災神、勝負神の三神格」であった事に成る。
>「毘沙門天」にこの願いを込めたのであろう事が判る。
>「毘沙門天像」には、この様な「酌量の余地」を残しているのは、「密教性を自由に表現できる余地」を残している事に成る。
>これは、「毘沙門天像」が「和魂荒魂の古代宗教」との「習合性」を持たす事に依って「仏教の浸透力」を高めようとした所以であろう。(現実に「三宝荒神像」と同化した。)
「伝統 10」
「密教概念」(毘沙門天から観る概念)
記録によると、「阿多倍王」の子孫の九州の太宰大監の「大蔵種材」は、当代の豪傑であった事からこの”「毘沙門天像」のモデル”と成ったと記録されている。
又、実質にもそのような人物であったとして、朝廷と歴代天皇は、「錦の御旗」と「遠の朝廷」を個人に与えた唯一の人物でもあった。
古今東西で、正式に個人と団体にこの称号を賜ったものは現在までいないのである。
例えば、仏教の「両界曼荼羅」の絵では、の「大蔵種材」がモデルと成って、甲冑に身を固めて、右手は宝棒、左手は宝塔を捧げ持つ姿で描かれている。
これは「古代密教浄土宗の様式」である。
然し、ところが「東大寺」(戒壇堂)の「四天王像」では、逆に右手に宝塔を捧げ持ち、左手で宝棒を握る姿で造像されている。
これは「古代密教浄土宗」と異なる宗教概念であった事を物語る。
奈良の「當麻寺」でも同様に右手で宝塔を捧げ持っている。
他に、西洋の影響を受けて「三叉戟」を持つ造形例もある。
例えば、京都の「三室戸寺像」などは、「宝塔」を持たず片手を腰に当て片手に「三叉戟」を持つ姿である。
これは明らかに外来の「大乗仏教」の影響を受けている事が判る。
これらは、「密教像」であったことが、「3大密教の考え方」を受けて、その表現方法が大きく変わったと観られる。
中でも真言宗高野山の「毘沙門天像」は外来の「大乗仏教」のその宗派の影響を強く受けている。
ここで、これらの「密教の考え方」をはっきりさせる事がある。
それは「宝塔」の意義である。
そもそも、「宝塔」とは、本来は「経典」を納める塔で、円筒の塔に一重庇の持つ塔で、BとCでは、この円筒の中に「釈迦の法華経典」が納められる。
(Aは異なる)
これは、「宇宙仏の毘盧舎那仏の教え」を「釈迦」が仲介して教え伝えると云う事から、「釈迦の法華法典」を「宝塔」に納めると云う教義を採っていて、これは殆ど「顕教」である。
しかし、これが「天台密教」だとしている。
しかし、「天台宗」は「宇宙仏」の「毘盧舎那仏」を本尊としている限りは「顕教」である。
「顕教」だけれど、「密教」だとする中間説であろう。
当時、平安期には、「天台宗」は「顕教」では「高位の信者」を集められないところから、「密教の考え方の概念」も交えて「門跡者」や「公家衆の信者」を多く獲得していた。
一方、「Aの密教浄土宗」では、「宝塔」には「仏教に関わる珍物」を入れた。
「宝塔」には、Aでは「仏舎」を形採ったとして”「仏教の珍物」”即ち、その氏が指し示す概念の物を入れた。
多くは「密教氏の武家」が入信したのである。
「青木氏」等「密教氏」では、「宇宙仏」の「大日如来仏」である事から、「自然物としての宝」即ち「玉」(青木氏は黄玉石)」を入れた。(現有)
そして「達親の論文」でも論じた様に、完全な「密教概念のシステム」を採った。
「Aの密教浄土宗」では、この「宝塔」を形採ったものをこれを”「左」”に持つ。
「左」と云う字句に意味を強く持ち、その「宝塔」の中味にも意味を強く持たしたのである。
この「宝塔の作法」として現在も遺されているのは、法事などに戒名等を書き示される「塔婆」はこの作法の一つである。
「塔婆」に書き記された「戒名」を”「密教の毘沙門天」が守護する”と云う意味合いを持っている。
(顕教に成った現在でも、この塔婆の仕来りは護られている)
従って、この「宝塔」は、その氏が「主張する概念」を指し示す。
これが「密教」である。”主張出来る得る仏教概念”と云える。
更に、「宝棒」は「悪」を打ち据える「棒」を意味する。
これを「右の手」に持つ事は「右」の意味を重視しているに関わる。
つまり、概して次の様な論説に成る。
仏教では、「左右」は、「左」を優位とし、「右」をその「相対の位」にあるとする。
つまり、「天台宗密教」では、左に「法華経典」を持つ事は、「法華経典」で以って優位して「現世」を治め、左に持つ「法棒」(宝棒)で以って「現世の悪」を打ち砕くと説いている事に成る。
その「神格」が「毘沙門天」であるとする考え方である。
この様に、「宝棒」や「宝塔」の持つ方が左右の何れにか依って治める優位が変わる。
「左右」のみならず「持つ物」と「持つ物の有無」に依っても、「その意味の度合い」が変わってくる。
要するに、「法華経」の「法」(宝塔)を以って「令」を成し、世を治め、「罰」(宝棒)を以って「律」する。と云う概念である。
事ほど左様に、別論文の「伝統2」で論じた様な「密教の仏法作法」が遺されている所以なのである。
故に、「賜姓青木氏」では、「古代密教浄土宗」であった事から、「大日如来坐像」の「お仏像様」を「護り本尊」の主尊(法華)として、「毘沙門天像」を「武神・守護神」の側尊(悪を罰する武)の「独尊像」として一対としていたのである。
「青木氏の密教概念」は、次ぎの通りである。
左に「宝塔」、右に「宝棒」、足元には「邪鬼」を踏みつけ、「大蛙」を「使い」として仕えている「造像」である。
そして、この「宝塔」には「玉」を納めている。
要するに、「地上の玉」(宝塔)を以って世を治め、「罰」(宝棒)を以って「悪」を捉え律し、「如来の使い」を通して「法華」を指し示す。と云う概念である。
つまり、「地上の玉」(宝塔)、即ち「天皇の威徳光」を以つて世を治め、「罰」(宝棒)を以って「邪悪」を抑え込み、依って律する世を作り、「如来使」(大蛙)の法華(「令」)で「現世」を作る。
そして、その「法華の世」は「現世の者」と「彼世の者」とに依って治められる。
これが「青木氏の毘沙門天像」が指し示す「青木氏の密教概念」であると「古代密教」は説いているのである。
況や、「古代宗教」の「習合化の影響」が働いて「自然神の概念」に近い。
これが「古代密教浄土宗の概念」でもある。
既に、他の密教との差違はお判りと思うが、上記した様に、これに比して、天台宗系列の「毘沙門天像」が指し示す「天台宗密教の概念」とは、現世を治める概念が著しく異なっている。
ここには、次ぎの違いがある。
「古代宗教」(自然神と和魂荒魂との習合)が他二つの密教には無い事。
「法華経」が存在するが、「玉」としての「天皇の位置づけ」は無い事。
「律と令」の「律の処し方」と「令の治め方」も異なっている事。
「令」には「如来の万能神の使い」の有無が異なる事。
要するに、「天台密教の概念」は、「法華経」の「法」(宝塔)を以って「令」を成し、世を治め、「罰」(宝棒)を以って律する。と云う概念である。
これは、「釈迦」が説く「法華経」を下に単純な「律令の世の概念」である。
「外来の概念の影響」を受けて合理的に成った概念に近く、最早、「顕教」でもある。
ここで、疑問点がある。
「天台密教」が指し示す概念には、次ぎの様な事の違和感の差違がある。
”「天皇の威徳」が概念の中に無い事。”
”且つ、顕教的密教である事。”
しかし、この”信者の多くは「公家」と「門跡者」である事。
当に、体制側を構成している者達である。
「天皇の威徳」のを概念の中央に据えていない天台宗密教である。
その密教の信者とは納得がいかない。自らの立場を”密教と云う立場”で否定している事に成る。
本来であるのなら、「真人族」と「公家」と「門跡者」等は、自らの体制派側にある筈である。
そうであるとするならば、”宝塔に玉”の「浄土宗密教」に入信する筈である。
ところが、「釈迦側・顕教側」に付き、「玉・密教側」の天皇側に入信していない。
これはおかしい現象である。
確かに、「朝臣族」は、「浄土宗密教」、「真人族」でも、皇位継承から外れ臣下した「青木氏族」は「浄土宗密教」に入信している。
もっと分けるとして、体制の「護り側」は「浄土宗密教」、「護らせ側」は「天台宗密教」と成る。
密教では逆の現象が起こっていた事に成る。一種の矛盾である。
確かに、この現象が起こっていたが在る。
例えば、「平等院」は「天台宗」と「浄土宗」の何れの密教宗派も院殿の形で取り入れている。
「信濃善光寺」も「天台宗」と「浄土宗」の密教宗派も院殿の形で取り入れている。
僧侶もこの比で抱えているのである。その僧侶もはっきりと分けられていて「公家や門跡者」は「天台宗側の僧侶」に、「朝臣族や真人族や宿禰族」からは「浄土宗側の僧侶」と成っている。
遺された記録からこの事が読み取れる。
では、何故に、密教の中で、この現象が明確に起こるのであろうか。
概念の中で何かがあるから起こっている。
この矛盾を解くとするならば次ぎの様に成る。
天台宗密教側から観た優位点
イ 「法華経」と云う物: ”「生きる道標」”を 文書で明文化して指し示していた事。
ロ 「釈迦像」と云う人: 現実にこの世に生きた神格仏の”「現実の崇拝偶像」”があった事。
天台宗観密教から観た劣位点
ハ 「天皇の威徳」:現実には天皇の象徴性が”「不完全な人間性」”を暴露している事。
ニ 「自然理」:自然の中から自らの切磋琢磨で”「理を悟る事」”には不安がある事。
「天台密教側を信じる者」には、「イとロの導き」があり、「ハとニには疑問と不安」が残る。
とすると、人は「天台密教」に傾くは必定であろう。
況や、「生きる道標」に ”自ら努力して苦労して悟れ”の「浄土密教」より、それの全てを「経」の文書として書き記されれる「天台密教」の方に傾くは「人の性」である。
ところが人の中には少ないが、「浄土密教側を信じる者」には、”「不完全な象徴」でもそれを盛り立て、「理想を描く文書」では無い「現実の社会」を見据えて、自らを磨き、「理」を悟り高めてこそ成し得る現世である”として「密教」を信じたとされる者もいる。
元より、”この世は、諸行無常、不完全、不条理である”とする前提を考える者が、信じる「浄土密教概念」である。況や、「積極的な概念」であろう。
元より、”この世は諸行無常、不完全、不条理である”からこそ、より確かな世を求めて「釈迦の法華経」を信じた「天台密教」である。況や、「消極的な概念」であろう。
この「世の態勢」は、「積極的概念」<「消極的概念」 であることは否めない。
突き詰めれば、「密教概念」<「顕教概念」である事にも成る。
「公家」「門跡者」も「人の子]右側に傾くはこの「世の常理」である。
況して、突き詰めて云えば、「門跡院」は天皇に成った者でもあるにせよ、将又、「公家」も「世の荒波」に「揉まれていない者」の「成れの果て」であろう。
何れの者であろうと、揉まれていない者達の辿る道は右辺側になるは必定である。
何れの側に生きようともそれは良し悪しでは無く「個人の裁量の範疇」であろう。
故に、「個人の裁量」を許してそれを概念とした「密教の所以」でもある。
ここが、”経典で人はこうであるべきだ”と諭す「顕教」とは異なる所以でもある。
我々青木氏は、上記数式の左辺側に居て生き延びて来た事を意味する。
その「個人の裁量の考え方、即ち、「密教概念の生き方」では大きく間違っていなかった事を指し示す。
そして、多くの殆どの氏族が完全滅亡した中で、その貴重な「子孫と伝統」を遺し得たのである。
「伊勢青木氏」に遺された「両界密教曼荼羅絵」から「密教曼荼羅絵の毘沙門天像」は「本来の密教の造像」である。
「伊勢青木氏」に遺された「両界密教曼荼羅絵」の中には、「真言宗高野山の曼荼羅絵」も遺されている。
「曼荼羅絵」は矢張り違っている。
仏画では「仏教の世界観」のその違いがはっきりと判る。
江戸期には高野山との付き合いがあり、その時に入手した「真言曼荼羅絵」で江戸中期から末期のものであろう。(先代まで総長との深い付き合いがあった)
多くの場合、「各仏の持物」がそのままその仏を象徴する「三昧耶形」となる。
「宝塔」の様に、意味を持っている。
例えば、次ぎの様に成る。
「不動明王」なら利剣(倶利伽羅剣)
「聖観音」なら蓮華、
「虚空蔵菩薩」なら如意宝珠
などの持意味のある持ち物の「仏具」(三昧耶形)を持っている。
また、「密教浄土宗」の「曼荼羅絵」では、通常、”持物を持たないとされる如来像”の場合は、特別の象徴物が「三昧耶形」とされる場合もある。
「大日如来仏」が「宝塔」を持つこともあるし、「印相」を以て「三昧耶形」とする場合もある。
何れの「密教の曼荼羅」などの「仏画」では、この様に「仏の絵姿」の代わりに「三昧耶形」(密教仏具)で描く事が多い。
つまり、「描く三昧耶形」でその「仏説」は異なるのである。
「密教曼荼羅絵の仏画」は、その「宗派の仏説」を良く表現出来るとして、上記した様に、「両界曼荼羅絵」が盛んに用いられる様に成った。
特に、上記で論じた様に、「浄土真宗」は、「密教」に拘らずその概念を最大限に表現でき自由に表現できるとして、この「曼荼羅絵」を全面的に用いた。
「仏画」が描く「仏像」が持つ「三昧耶形」にはそれなりの意味を持っている。
(しかし、これを全て説明していては文面に際限が無く成る。)
因みに、有名な処では次ぎの様なものがある。
安置形態
A 「毘沙門天」を中尊とし「吉祥天」と「善膩師童子」を脇侍とする「三尊形式の像」がある。
例えば、次ぎの様なものがある。
奈良の「朝護孫子寺」、
日本最初の毘沙門天の出現霊場の「信貴山奥の院」
京都の「鞍馬寺」
六甲山の「多聞寺」
高知の「雪蹊寺」
以上がある。
B 毘沙門天と吉祥天を一対で安置するもの
奈良の「法隆寺金堂像」
C 毘沙門天と不動明王を一対として安置するもの
高野山の「金剛峯寺像」
などがある。
D 天台宗密教系の寺院では、「千手観音」を中尊として、両脇に「毘沙門天・不動明王」を安置す る事も多い。
明王院像、京都の「峰定寺像」
などがある。
E 但し、真言宗系寺院でもDの傾向が強い。
個々に解説する事は敢えて割愛するが、夫々の像の構成に依ってその宗派の「仏説概念」を持っている。
「青木氏の造像」は上記でも論じたが、次ぎの様に成る。
「伊勢青木氏」の「毘沙門天像」は、”「大日如来座像」と同時に一対”として、成り立っている。
これは「賜姓族の役」として、その意味を込めて「天智天皇」より賜姓時に賜ったものである。
「鞍作部止利」作の「大日如来座像」は、賜姓時に賜った事が記録されている。
恐らくは、この記録に付いての後の時代に描かれた「解説添書」(青木氏の事を知るに必要とする添書)には、「毘沙門天像」の事が書かれていない事への短い添え書きがある。
ここには「先祖の判断間違い」があったことが判っている。
この記録の文面の前後の文脈からよく見ると、「毘沙門天像」に付いての「単独記録」としてでは明確に成っていない事を懸念している内容であった。
しかし、これは上記の様に、各宗派の各寺の「仏像の保存の形態」から観ても判る様に、”その宗派の「仏説概念」を表すもの”である。
そうすると、 必ず”一対像”としての「仏説判断」から、当然の事として「青木氏の記録」が成されているのであって、「毘沙門天像」としての”単独の記録”は本来決して無いのである。
(世間では「毘沙門天像」が変遷の中で平安期には「独尊像」としての扱いを一時受けていた事が判る)
そもそも、「青木氏」は、「賜姓五役を果たす立場」にあって、「古代宗教(和魂荒魂)」と「古代仏教」とを習合させた「古代密教を形成する唯一の氏族」である。
従って、「独自の密教概念」を持つ「氏族」として、
イ 「青木氏密教」の「宇宙仏の大日如来仏」の造像
ロ 「青木氏密教」を守護する「代表的守護神の毘沙門天像」の造像、
このイとロの二つが「完全一対」である事が前提と成る。
ハ これに「邪鬼像」と「大蛙像」が付添する構成である。
(「密教概念の全体造像」としては「独尊像」としては構成しないのである。
但し、「守護神類の造像」としては「独尊像の形態」を採っている。
青木氏以外の多くは吉祥天像等の7天像と組んで安置構成するのが普通。)
況や、上記で論じた様に、「顕教の釈迦三尊像」の様に、その「宗派の概念」はセットで構成されるものである。
後刻「解説添書」に追記した「先祖」の「判断間違い」はここにあったのである。
(但し「判断間違い」かは定かでは無い。”「毘沙門天像」に特記するものは無い”として記しているのみである。)
「大日如来座像」は、「宇宙密教仏」である限りは論理的に「本来独尊像」は無いのである。
「青木氏」では、判り易く云えば、「毘沙門天像」が「顕教が構成する脇侍像」の役割として、同じ意味で祭祀されているものである。
同時に賜ったものを累代の先祖の誰かが、後に{独尊}として租借錯誤したとも観られる。
重複させるが、「青木氏密教」は、上記の通り、「大日如来座像」「毘沙門天像」「邪鬼像」「大蛙像]の「四つの造像」がセットになって成り立つ「密教概念」である。
「青木氏の密教」は「独尊」は成り立たないのである。
平安末期から「古代仏教の密教性」は「法然」によって普通の「密教」に変えられた。
鎌倉期に入って「密教氏」が滅亡衰退する中で「密教浄土宗」も当然に衰退して、「親鸞」によって顕教化されて「浄土真宗」に変化して布教がやっと広まった。
しかし、その時は、最早、「顕教」であった。
「青木氏の毘沙門天像」は「古代密教仏教」の「造像」であって、「甲冑」と、右手は「宝棒」、左手は「宝塔」の「古式の三昧耶形の造像」であった。
この事から、この「様式の造像」は、少なくとも「法然」の前の「古代密教」の「仏教の造像」であった事に成る。
とすれば、時期的には平安期前と成り、「大日如来座像」と同じく奈良期の「鞍作部止利」の作と成る。
つまり「3つの発祥源」として、その「三役」に合して「武神」:(侍)」「守護神」:(武家)」「財福神」:(臣下族)」の象徴としての同時に送られた「賜像物」と成る。
更には、「神仏習合の三宝荒神信仰」が、「青木氏」に成されている事は、奈良期から平安初期までの間となる。
従って、この「三宝荒神信仰」と「毘沙門天信仰」が、「神仏合体の象徴」として「重複習合」している事は、同時期である事が極めて高い事に成る。
注釈
「三宝荒神信仰」は、”「自然発生的に生まれた宗教概念」”とは思え無い。
筆者は、その「宗教の概念」の「合理性」や、「古代宗教」に合わせた「古代仏教」の「習合性」、などから観て、誰かがそれを主導して生まれ、上級階層の中に取り入れられたものと解釈している。
とすれば、その「主導役」を成せたのは明らかに”「賜姓五役」の「青木氏」”であったと観ている。
むしろ、「国策氏」として「その役」にあった。
「国策氏」として青木氏が存在するのに、「別の氏」が主導するとは、考え難い。
況してや、「朝廷機関」が公に「古代宗教」に新しく入った「古代仏教」を集合させる事を主導する事などあり得ない。
然りとて、「国家戦略」としては当面の「政情の事態」を安定化させる為には、「青木氏」をして「習合」を裏で画策する以外には無い。
だとすれば、「習合の大元」にあった「青木氏の毘沙門天像」は極めて重要な位置にあった事に成る。
「毘沙門天像」をも持ち得ていない氏がこの習合策を主導する事は先ずはあり得ない。
依って、「大日如来坐像」は「象徴像」であって、その意を戴して「毘沙門天像」が概念の実行を促す「尊像」であったと解している。
当に、この事は、「雄弁の仏」の「密教論理」が構成されていた事に成る。
つまり、「対の造像」なのである。
この「対の造像」を「賜姓物」として持ち得ていたからこそ、「錦の御旗」の様にして、「習合の主導役」を成し得たと考えられる。
平安期から起こり始めた「毘沙門天信仰の変遷」に対して、危機感を強く抱き、「古代宗教の和魂荒魂」から「三宝荒神信仰」を習合させて改めて興したのは、矢張りこれも「青木氏」であった事に成る。
「古代仏教に古代宗教」の「習合」の産物=「毘沙門天信仰」
「古代宗教に古代仏教」の「習合」の産物=「三宝荒神信仰」
「毘沙門天信仰」>=<「毘沙門天信仰」←「密教青木氏]
以上の数式論が成り立っていたと考えられる。
注釈
何故、この上記の注釈事項が極めて重要であるのに、これを「添書」などにどこも遺さなかったのかが疑問であった。
何かの形か書物や記録資料で遺されてはいたが、消失した可能性が高い。「密教性の高い慣習と仕来り」は遺されていたが、現在は判らない。
ただ、「仏画の曼荼羅絵」にその意味を認めている可能性があると観ている。
その理由は、注釈の通り、”「毘沙門天信仰」と「三宝荒神信仰」は「青木氏」が主導した”とは描き難い事で在ったのかなとも思える。
”先導した”又は、”扇動した”の立場は「当然の役」であった事に成るし、”扇動した”とも書き難かったとも思える。
恐らくは、この感覚は否定できないだろうから、だとすると、「仏画の曼荼羅絵」に表現したとするのが”順当の流れ”と成るだろう。
上記した様に「仏画曼荼羅絵」は、そもそも、青木氏は得意とするところであった。
その場合に描き込むとした場合は,”どうするであろうか。
役割からすると、”主導、先導、扇動の表現方法”は、絵では「起点」や「基盤」や「土台」の表現に、「青木氏の象徴」を絡めるものと成るのではないだろうか。
その目で、遺された二つの「両界曼荼羅絵」を観てみると、この密教の二つの絵に共通するものがある筈である。
「荒神像」と「毘沙門天像」とには、共通する画像には、”足元に雲海を漂せている事。”
もう一つは、「青木氏の象徴」を意味するものは何か。先ずは「笹竜胆紋」であろう。
その「雲海」の横には、鮮やかな水色の「竜胆の花葉」が掛かれている事。
以上、この2共通点である。
確かに、青木氏の描いた数多い「仏画の曼荼羅絵」を調べると、「淡雲」と「桔梗の花」か「水色竜胆の花」は描かれている事が多い。
これが、”青木氏の「主導」「先導」「扇動」の表現”ではないかと考える。
筆者は、”「左の宝塔に宝玉或は宝珠」の様な物を書き記しているのでは”と観ていたが、ところが、「青木氏の描いた多くの仏画曼荼羅絵」には出て来ない。
書き記し遺したとするならば、この「2共通点」であろう。
この「竜胆の花葉」が強く物語っていると観ている。
全体が、「薄茶色の色調」の中に、「水色の竜胆の花葉」は際立っている印象である。
「雲海」は、「両界」を描き表す時の画法でもあるが、敢えて「色調」が故意的に違う。
そもそも、この「曼荼羅絵」には、上記でも論じたが、「曼荼羅絵」には酌量の範囲が大きく認められている。
(a) 「三昧耶形の曼荼羅絵」 概念を仏具に表して描き込んでいる。(三宗の手法で表現)
(b) 「密教曼荼羅絵」 概念を立体的絵画的に概念の描き込み方をする。(浄土宗の手法)
(c) 「神道曼荼羅絵」 概念を風景や植物なども使って風景画の様に描き込んでいる。
(d) 「法曼荼羅絵」 概念を代表する文字等に特化し図案化している。(天台宗の手法)
(e) 「羯磨曼荼羅絵」 概念を平面に図案化せず彫刻化する。(真言宗の手法)
「天台宗密教や顕教系の曼荼羅絵は、釈迦と弟子達の図案化が主に描かれる。
しかし、「釈迦」を描かない「大日如来仏の密教」、中でも「浄土密教曼荼羅絵」には、「三次元的な空間」、或は、「立体的」に表現するのが特徴で、「絵画的表現性」を強く持っている。
ところが、「古代宗教」と「古代仏教」の影響を持つ「青木氏の浄土密教曼荼羅絵」には、ある特徴がある。
それは、「古代宗教の影響」を習合として受けているので、風景と植物を描く「神道曼荼羅絵」の(c)を加え、(a)も表現され、(b)で「立体的」に「絵画的」に表現されている。
従って、「青木氏の曼荼羅絵」は、「宝塔・宝玉」とか「風景」を描く様に、「雲海」とか「竜胆の花葉」が「立体的」に描かれているのである。
この様に「浄土宗曼荼羅絵」には、他の宗派の「曼荼羅絵」とは根本的に異なり、且つ、「神道曼荼羅絵」の影響を描かれる事に成るのである。
つまり、他の宗派の「曼荼羅絵」には、「雲海と竜胆の花葉」を描かれる事は根本的に無いのである。
「浄土宗曼荼羅絵」でも、普通は何時も「雲海と竜胆の花葉」を基本的に描かれると云う事は無意。
「桔梗の花」とか密教氏(青木氏)に関わる「風景」等も「立体的」に「絵画的」に描く事にも成る。
依って、「青木氏」が現有している遺された「二つの曼荼羅絵」(毘沙門天像と三宝荒神像)には、「雲海と竜胆の花葉」には「特別な意味」を持っている事に成るのだ。
「密教概念」のみならず先祖が伝える”「隠し言葉」”をも含んでいるのである。
これを子孫が、この「隠し言葉」をどの様に読み取るかの度量が試されるのだ。
当に、”判らなければそれは其れまで”、”自らが悟り真理を会得する事”が「密教の所以」そのものである。
これは、千利休が説く「茶道の境地」でもあり、これは「浄土密教」から引き出した「密教の概念の極意」でもある。
上記でも記述したが、筆者の家の唯広い客間の片隅に「茶道具一式」が常にいつでも使える様にし、「香]を漂わせていたのは、この「浄土密教の作法の所以」でもあったのである。
千利休が「茶道」を導いたのは、「伊勢信濃青木氏」らの「商い」は、平安初期から「摂津」や「堺]にも支店を設けていたが、そこでの青木氏の古式豊かな「浄土密教の作法の所以」を観ていて、それの所作の一つの茶所作を「茶道」として引き出したものであると観ている。
注釈
(時代性から観ても、「茶道の根幹」は、下記の数式論の通り「浄土密教の概念の根幹」でもあり、その歴史は900年も古く延々と受け継がれて来たものである。
当然に、その「所作」も、「所作」の全てから得られる「情緒」も、その「情緒」からそこから獲得する「自然の悟り」も「青木氏の浄土密教」から受け継がれて来たものである。
他の宗派には「曼荼羅絵」を観てもこの概念は無い。
「隠し言葉」の様なものは一切なく、あくまでも「宗派の概念」のみを訴える「曼荼羅絵」と成る。
「他の宗派の曼荼羅絵」には、「密教」と唱えていながら、この「密教性を表現する裁量」は無いのである。
要するに、「顕教」に外ならない。)
平安初期から、「客間の茶の所作」からも、又「仏間の浄土曼荼羅絵」を眺めては、”累代の先祖は何かを会得しょうとしていた”事が理解できる。
「密教概念の極意」=「浄土密教の作法の所以」=「浄土曼荼羅絵」→「累代先祖の悟り」
「青木氏の家訓10訓」はその結実の一端と云う所では無いだろうか。
筆者は、この様に受け取っている。
これは、曾祖父と祖父には 明治期に”氏を象徴するこれを消失させたとするショック”は大きかったのではないかと察せられる。
故に、恣意的に添書等の記録には、縁起上からもあやふやに敢えて伏せたとも観られる。
”伏せた”と云うよりは、消失時は賠償に依って「老舗紙屋の倒産」も伴った事から、その「添書」などに改めて記録する余裕も無かったもと考えられる。
ただ、「毘沙門天像」の代わりか「義経ー弁慶像」(二代目 現有)に依って何とか祭祀されて「密教作法」だけが遺されたのである。
この「伝統3」(青木氏の分布と子孫力-12)の調査で、「毘沙門天の経緯」が明確に成った事から、この部分に付いては、曾祖父、又は祖父が「詳細記録」は成されていなかった。
「歴史的な詳細な経緯の伝承」等までには至らず「節会作法の伝承」で留まった。
父と祖父は「大火の後遺症」もあって、「添書、由来書」などの完全な復元までに至らず、「節会作法の伝承」さえ判れば、後は調べられるであろうとの計算があったのであろう。
筆者は、これをあらゆる資料から読み解き、あらゆることへの知識化を図り、その総合力を以て系統化して長くは掛かったがまとめあげられた。
殆どは「知識の不足」と「理解力の不足」に依る行き詰まりの連続であった。
痛感するは、若い頃の判断には、「略」が不足していた。
若い頃にまとめた論文には、この「略」が不足していて、歳をとってから見直すと、この「略」で判った事も多くあり、書き直す部分も多かった。
上記で記した「武」ではなく、「青木氏の密教」が諭す”「知略」の如何”を痛感した。
「青木氏の密教曼荼羅絵」にも「隠し言葉」として描き込まれている可能性が有る。
若い頃には、「毘沙門天像]、「三宝荒神像」も像として、「曼荼羅絵」も単なる「密教の宗教画」で書き方が違う程度の差としか見ていなかった。
しかし、見方を「略」にして見てみると「違った筋道」が観え来る。
そして、その「筋道」から「人の生き様」が”立体的に創造出来て”、その「生き様の証拠」を見つけようとした。
見つかれば、更に「人の生き様」が、今度は「静止の状態」から「動の状態」として描き出せてくる。
観えていない事も、見えない事も観えて来る事に成る。
「人の生き様」を描くには、「検証」ー「装具立て」ー「検証]ー「装具立て」の工程の繰り返しである。
(大変で時間のかかる作業ではあるが、「装具立てー推理」が当たると実に愉快である。
実のところは、この「愉快さの経験」が「楽しみ」で続けられる。)
この最も注意しなければならない点は、「検証」の工程には、多くの資料に基づく「歴史史実」が使われるが、大抵は諸説紛々である。
中でも「郷土史」などを使うと、殆どは、”郷土に有利な様に説”を拡大させて作り上げているので苦労するし、その前提とする資料に疑問が湧く。
その作者が「略」を配慮せずに一説の自説に信じ込んでいるので、筆者は「搾取偏纂の延長資料」として観て余り使わないし、「青木氏」には本論の様に「特異性」が有る為に「略の配慮」がなされない限りは使えない。
しかし、そもそも、この「二つの工程」には「略]が伴わないと、「真のルーツ」は元より「先祖の生き様」も好く描く事は出来ない。(若い頃はこれが希薄であった。)
「略]が無いと単なる「歴史の記録の羅列」に終わる。
ある程度のところまで描くと、後は「先祖の生き様」が、”恐らくはこの様な考え方や悩みや苦悩や哀楽が在ったのであろうな”と、頭の中で立体的に「夢の想像」が出来る様に成る。
ここまで来れば、”先ずは「成功」である”と考えている。
何とか、この「夢の想像」が出来るところまで描ければと何時も思って論じている。
(しかし、現実には、頭の中では「夢の想像」の「創造」でいっぱいなのだが、筆者の「文章力」がそれを阻害している。)
依って、「青木氏の生き様」から観て、「毘沙門天像」と「三宝荒神像」の神格の「武神」「守護神」「財福神」の「武・”つよい”」の「裏意」には、”「知略」”の「隠し言葉」が「二つの曼荼羅絵」に必ず描き込まれている筈である。
「知略」は、当に「青木氏の訓戒」である。
この「訓戒」を「浄土曼荼羅絵」には必ず読み込んでいる筈である。
それは何なのか判らない。
”「強さ」”を極端に「絵の表情」に表現する事に依って、その「反意」として裏に「知略」を匂わしているのではないだろうかとも考えている。
然し「訓戒の知略」とすれば、「青木氏の浄土曼荼羅絵」としては、”何を以て表しているのか”を模索しているが、判らない。
しかし、ただ傍に「本尊の大日如来座像」が、逆に、”瞑想して静かに鎮座している事”での”「聡」”でもあるのかも知れない。
ここで「二つの工程」の内の「装具立て」で考えて観るとする。
そもそも、「曼荼羅絵」は「密教の概念」を表現する手法の一つである。
この「密教」とは、「宇宙仏の大日如来仏」の「雄弁の仏」である。
この「雄弁の仏」が直接説く事が「知」を説いている事である。
「現世と彼世の知」を説いている事に成る。
この「二つの世」を生きて行く上での[知」は、「密教仏説」の「人、時、場所の三相」が絡む「知」であるとすると、この「知」は三相に於いて使える「知」と成る。
そうなのであるから、「人の知」と「時の知」と「場所の知」との「三相」が絡めば、これは「立体的事象と成り、要するに「三略」と成り、「知略」と成り得る。
「大日如来仏」の「雄弁の仏」が発する「教え」、即ち、「知」は、この世が三相で成り立っている限りは、それは「知略」である。
云い換えれば、論理的には「大日如来仏像」そのものが「知略」である事に成る。
「大日如来座像の造像」が「知略」を物語っているとするならば、「大日如来坐像」の「浄土宗密教の曼荼羅絵」が在って然るべきである。
然し、無い。消失したのかも知れない。
「大日如来坐像」の「造像の存在」が「知略」そのものを物語るが、依って「酌量」を許された「浄土曼荼羅絵」としても存在しなくてはならない。
「毘沙門天信仰」と「三宝荒神信仰」の”青木氏の「主導」「先導」「扇動」の表現が ”「曼荼羅絵」はある事が確認できたとすれば、当然に、青木氏には、ある筈である。
「青木氏」の「大日如来座像」の「曼荼羅絵」が無い事が、「訓戒の知略の表現」が無い事に成ってはいるのではと考えている。
「青木氏一族」の何処かに、この「大日如来坐像の曼荼羅絵」がある筈である。
宗家が大火で消失させたとしても、必ず何処かにある筈である。
何故ならば、そもそも、上記した様に、「青木氏一門」が仏画での「密教概念の表現」を主導したのである。
自らが描いたのであるから、「一族一門」に宗家が祭祀する「大日如来座像」の造像の代わりに、「仏画」にして121氏の一族一門に配布していた事は間違いはない。
ところが、今のところ、「伊勢青木氏」の一門には見つからない。
”見つからない”と云うよりは、流石に、「伊勢青木氏」でも、「昭和の戦後」の「時代の荒波」に押し寄せられた感が高い。
筆者の家もかなりの「伝統品」が、「我らの教育費」として金銭に替えられたので例外では無かった。
恐らくは、「青木一族一門」もこの「大日如来坐像の曼荼羅絵」を処分した可能性が高い。
金銭に替えやすい事もあり、殆どは寺関係に売却された事が伺える。
実は、他の「伝統品」も、この「骨董品の売買」を副業とする京都在住の”知り合いの寺関係者”から各地の各寺関係に渡った事が判っている。
特に、「悠久の歴史を持つ青木氏」の「密教浄土宗の曼荼羅絵」であるから、支障の無い各地の「浄土宗関係の寺」に移動したと観られる。
それは其れで、「曼荼羅絵」を含む売却した骨董品にとっては、大した意味も理解されない無関係のマニアに渡るよりは、「最上の条件」であり良かったと考えている。
先祖に対して申し訳が立つ。
今後も、”「曼荼羅絵」に依る「知略」の実証”は恐らくは無理であろう。
最近、存在が漏れると極めて危険な状態に成り、窃盗団が横行していて、親から聞いていたある予想される「寺関係者」に確認を依頼したが警戒されて体よく断られた。
他の「大日如来坐像の曼荼羅絵」の存在の確認も諦めた。
筆者の代では、親の「知古」の繋がりは、最早、効かないし、相手も代わりしていて無理である。
”断られた事”は”ある事”を意味しているし、「絵の落款」からも「青木氏の出物」である事も住職は知っていて否定しない事からも、存在の確認は充分である。
「青木氏の大日如来坐像の曼荼羅絵」には、独特の「青木氏の落款」もあり、証明は就くし、「写真」でも撮れる事を期待していたが、「写真」で未来には残せなかった。
「青木氏の守護神 祖先神の神明社」の全国の500社程の神社にも、「神道曼荼羅絵」がある筈である。
しかし、この「神明社」の所属は、江戸初期に江戸幕府に引き渡したことから、全くの縁故は無く、「神道曼荼羅絵の確認」は元より存在すらもより難しい事であった。
そこで、「歴史鉄道マニアの団体」に各地にあると観られるところの「掘り出し」を依頼したが、無理であった。
そもそも、「神道曼荼羅絵」は、存在そのものが少なく、且つ、「神道曼荼羅絵」は、「神明社関係」にしか使用した形跡か無意。
況して、一般に遺されていない事もあって、貴重品中の貴重品で表には出て来ない歴史遺産であろう。
特に「神道曼荼羅絵」は、その「在所の特徴」を風景に収めるている事もあって、移動も無い筈である。
特に、「神仏併合の動き」が歴史的に2度も起こっている事からも歴史価値も考えず無暗に取り壊しなどを行った形跡からも消失している可能性が極めて高い。
依って、”「曼荼羅絵」に依る「知略」の実証”は、間接的に成された事には成るが、最早、この範囲が限界であろう。
参考
(この様に、最近は公的なネット上に写真など載せると、窃盗団により狙われて遺品のみならず身の危険も伴うので極めて危険である。
筆者の家も昭和から考えると、詐欺師の範囲も含めて過去五度も災禍を受けている。
日本最古の「藤白墨」も詐欺師に依る実に巧妙な手口で盗難に会った。
そもそも、保管場所のみならず、保管している事も限られた人にしか知られていないのに盗難に会っている。
盗難であれば売買で表に出て来る筈であるが出て来ないし、証拠と成る写真は持っているので、その物を見極める者・筆者の存在がカギを握っているので待っている可能性が有る。
調査には、「郷土史」を使う手もあるが、ここまでの研究は「郷土史]には無く、最近は、郷土を売り込む為に、歴史史実を「歪曲」し、「拡大解釈」をし、「他説創設」までして、「歴史ロマン」を作り上げて売り込もうとする「郷土史」も極めて多く成っている。
「歴史の検証」も充分しない”「諸説手法」”が横行していて、それも準備周到で、それを護ろうとする「郷土史万能」の”洗脳されたマニアグループ”が構築されていて、この「組織バリャー」があって、「諸説」を真実化させて、何とか護ろうとして近づく事も出来ない現状である。
「青木氏氏」でも九州のある「郷土史」のこのグループに、「時代考証」はどこ吹く風で、「諸説を作り上げる手法」で攻撃されたことがある。今でも続いている。
「膨大な情報力」を持つ「青木氏」に「歴史上の矛盾」を突かれない様にバリャーを張るのである。
故に、研究資料には値しないのが現状である。)
この様に「伝統の維持」の為の研究は、「物心両面」で極めて難しく成っている。
兎も角も、「青木氏の密教浄土曼荼羅絵」は、何かを「青木氏」にだけ今も教えてくれている。
然し、「青木氏関係一族121氏」の情報が保護法で入らない現状では、「伊勢青木氏や信濃青木氏」と、[近江佐々木氏と近江青木氏」の資料以外には最早、困難である。
故に、遺された遺品は何としてでも護らねばならない。
そして、それを「自らの範囲」で何とかして、研究し解析して「伝統」を掘り出し、子孫のロマンの為に「記録」に替えて置きたいと云う思いは募る。
「ルーツ掲示板」に御投稿される方の「歴史情報」が殆ど消失しているのも、この”「現状」”から来ているものと考えられる。
ご先祖が「武士」とか、「・・の家臣」とかであれば、本家筋では ”何がしかの遺産が遺されている”筈なのに、”口伝だけ”と云うのも不思議な話である。
そのくらいに、「伝統や遺産の伝承」は無く成っているのである。
故に、上記の様な、ある思惑を込めた「郷土史」が、その間隙を突いて誰も異議や抗議が出ない事を好い事に、郷土売り込みの為の「歴史ロマン」を「大義名分」に「驚くべき他説」が生まれて来るのである。
そう云う事を仕掛ける職業の歴史家も存在すると云う。
「青木氏」は、そもそも、数少ない認証の「氏族」である。
「郷土史」は、室町期中期からの「姓族」の事を記載しているので、元々「時代考証」は室町期中期前のものである事を認識すれば無関係と成る。
今や、歴史を調べるには、自己の範囲の記録が無く成り、怪しい「郷土史」しか無く成っているのも現実で、頼ろうとする気持ちは判るし、信じるのも自由である。
ただ、狂信的に成る事だけは避ける事を忠告したい。
上記の事もあって「真の答え」は出ないし、特に、「青木氏の訓戒」 ”世に晒す事無かれ、何れ一利無し”とされていて、”郷土史に遺る事”は本来はないのである。
そもそも、この事も含めて我々「青木氏」は”「氏族」”である事を認識しておく必要がある。
本論は「密教の道標行燈」に関わる「密教作法]の処から「毘沙門天像」と「三宝荒神像」の処までの「密教性のある伝統所作」を論じて来た。
これだけの範囲ではあるが、「可成りの伝統」が未だ「青木氏」には遺されている。
更に続けて、既に若い頃の論文原稿が有るので、修正を加えて生活に密着した「草の根の密教の伝統」を論じる計画である。
”「密教性のある伝統所作」”としては、次ぎの事も大きく作用していると考えられる。
それは、”「血縁の伝統」”と位置付けられる。
> 「伝統1」に続く
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