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青木氏と守護神(神明社)-9

[No.276] Re:青木氏と守護神(神明社)-9
投稿者:福管理人 投稿日:2011/07/07(Thu) 10:00:47


「武力的背景」の「抑止力」
「2足の草鞋策」の「経済的背景」
いつも思うのですが、何故間違った通説が実しやかに起こるのかは実は腹立たしいのですが、”虚偽でも時間が経てば虚偽で無くなる”はこの世の傾向 そこを他面から史実を積み重ねて解きほぐすのが面白いのですが。古来よりまともな資料に書かれている”後勘に問う”があるのは昔も同じ事を感じていたのですね。しかし、青木氏とそれに関る氏に対しては”後勘に問う”では困るのです。

結局は「未勘氏」によって支えられていた「名義上の権威」(源氏)ではその平安期と云う体制が維持されている間は勢力と見なせますが、「鎌倉」と言う体制になった時点では滅亡以外には無かったと観ているのです。この世は”権威が無くなれば取り巻きは霧散する”は常道です。
まして、室町期の「下克上」では、尚更に「未勘氏の動向」が左右しますので生き残りは無理であったと確信しているのです。
足利氏でさえ幕府開幕以来6つの家臣が力を持ち思う様に動かす事は出来なかった事からも如何に難しいかは判ります。
この事から考えれば幾ら皇族で「不入不倫の権」が与えられていたとしてもその気になれば潰されていた事は青木氏と源氏でも明らかです。
生き残れたは「2足の草鞋策」と云う「自立策」が源氏と違っていた事に成ります。ただ、これだけでは生き残りは無理で、「氏家制度」の社会の中では何らかの「武力的背景」を獲得する絶対条件が必要です。
この「武力的背景」の「抑止力」が無ければ、恐らく、隣人の「民族氏」の「たいら族」(京平氏・桓武平氏・賜姓平氏)にでは無く、源氏の様に、賜姓青木氏も第7世族の「ひら族」の「融合氏」の「坂東八平氏」に潰されていたと考えられます。(「たいら族」とは隣国で且つ「殖産・物造り 伊賀和紙」で親交が深かった)
それも自前の「武力的背景」を保持していた場合では「戦い」に誘い込まれていたと考えられます。

ただ「伊勢シンジケート」の反抗力では潰されていたかは判断が難しいところだと考えますが、「坂東八平氏族」と対峙する「武力的背景」とも成れば、「青木氏」も源氏の様に「未勘氏族」を味方にする結果と成った筈で源氏と同じ経緯を辿る羽目ともなりますし、室町期の「下克上」が起これば「武力的背景」に頼り、結果として「生き残り」は無理と成った筈です。
では、実質に抗する戦力と成る軍事力が殆ど無かった青木氏にとって、この「武力的背景」とは当然に「抑止力」の事であり、その「抑止力」は「2足の草鞋策」の「経済的背景」に裏打ちされていなくては成りません。
幸いに「青木氏」にはこの「大抑止力」には2つあったのです。
一つは血縁族の「藤原秀郷流青木氏の力」であります。
一つは経済的背景を基にした目に見えない影の「シンジケート」であります。
この2つがあったと遺された記録から考えているのです。
この5家5流賜姓族の「シンジケート」の件は遺された資料の史実から明治期の関西で起こった大一揆(伊勢暴動など明治4-9年の3騒動)まで維持されていた事が判っています。
この時代まで続いた事から観てかなり大きく堅実な組織であった事を物語ります。
記録から760年は続いた事になりますが、この年数から観て最早単純なシンジケートではなくかなり「家族性」を持った「陰の力」であった事を物語ります。

(これだけの長期間を堅持している処から、女系による血縁性は充分に考えられるが記録が発見出来ない。その存在意義を保つために故意的に遺さなかったと観られます。シンジケートと云う形態体質上、遺すと同族間の勢力争いが起こる 全ての関係をフラットに保つ必要がある為)

これは青木氏にとっては源氏の「未勘氏」の位置に相当するものでありますが、その関係する質的なものが青木氏の生き方と共に全く異なっていたのです。
社会体制が変わった明治期に入りその質的なものが変化した模様で、明治35年を境に解散しているところから、「伊勢-信濃シンジケート」はその特長を生かして多くは「商い」を補足する主に運送関係(陸海)に従事した模様が読み取れるのです。

さて、問題は秀郷一門に裏打ちされた「秀郷流青木氏の抑止力」の検証です。
それは下記に記する「青木氏の血縁状況の考察」で証明されるのではと考えているのです。

「抑止力」の検証
その前に、「抑止力の相手」の「ひら族」(坂東八平氏)は、元を質せば両氏共に奈良時代の「皇族第7世族」(ひら族)と賜姓青木氏の「皇族第2世族」との差です。
つまり、「源氏滅亡」では”奈良時代-平安初期の「皇族第7世族」が奈良時代-平安中期の「皇族第2世族」を潰した”と成るのです。
「ひら族」「第7世族」、即ち「坂東八平氏」は「源氏」を表向き先ず祭り上げて置いて、裏で潰す戦略に出たのです。ですから、鎌倉幕府には源氏を登用せずむしろ排斥し潰しやすくしていたのです。
それにはこの戦略を見抜いていた義経や伊豆大島氏を闇夜に襲うと言う戦術を露に使ったのです。
「坂東八平氏」にとっては、源氏跡目が入っている賜姓青木氏に付いても同じ考えの中にあった筈です。「武家の頭領・棟梁」の「源氏の幕府」が源氏を登用せず、排斥し、源氏を夜襲する等頼朝や義経に限らずどんな人物でも坂東八平氏の本音は何処にあるかくらいは直ぐに判る事です。
ましてこの行為は未だ幕府を開く会議の最中に起した事件です。
この現象を「民族氏」や「融合氏」の他氏から観れば、”皇族出身者で潰しあった”と受け取られます。
だとしたら、室町期の信長の様に信長の立場から観れば、”我々では問題ないだろう”と成ります。
故に通説の通りの”信長異端児”とする事には、多少の強引な傾向があった事は認められるが、全面的な事としては疑問を感じるのです。
だから信長が”「権威に対抗する行動」”を採ったとしても、同じ様な事を鎌倉幕府の「坂東八平氏」も行っていたのです。まして”「権威の象徴」の皇族出身者同士の潰しあいではないか”と成り、”信長異端児”とする通説には興味本位の云い過ぎと成ります。
何はともあれ、そもそも”主君を倒しての「下克上」”がこの時代のこの最たる争い事で、現在からの思考原理では”信長異端児”と観えても、この時代の思考原理からにすると普通であり、それは言い換えれば「権威への挑戦」に他成りません。
(通説の大きな欠点はこの時代の思考原理差の考慮なしの説になっているものが多い事なのです。)

鎌倉時代の「坂東八平氏の脅威」や、室町時代の「織田信長の社会への挑戦」の社会環境の中では「賜姓青木氏の盛衰」にとっては、「賜姓の権威」「源氏の跡目」等が付け添えられている事はそもそも「無用の長物」であって、その為に”極めて危険な状況”に落ち至っていた事に成ります。
取分け伊勢青木氏と信濃青木氏は「清和源氏頼光系の跡目」が入っている事に成る訳ですから、彼等が源氏を討ったとしてもそれだけでは終わらない極めて危険な位置に青木氏は置かれていた事に成ります。11源氏が「坂東八平氏」と「美濃平氏織田信長」に依ってその末裔は掃討作戦で全て潰されたのです。"賜姓青木氏は関係ない"とする事には何の保障も有りません。

現実にこの事の史実として2度歴史上で有名な事件が起こっているのです。
その一つが「美濃平氏織田信長」なのです。もう一つは「徳川家光」なのです。
この二つとも歌舞伎に成っています。
「権威への挑戦」事件1
「美濃平氏織田信長」が信濃に入って謁見した際に信濃青木氏の末裔が下馬せず白馬に乗り白の装束で乗馬のままで挨拶したとして烈火の如く怒り末裔をその後末梢させてしまうと云う事件が起こります。
これは皇族賜姓族等の「有品の氏」が執る正式な挨拶儀礼なのですが、平家の支流末裔の織田家の信長は武家である限り、この最高の挨拶儀礼を知らない筈は有りません。
恐らくは「有品の儀礼」が「権威の誇示」として受け取り知った上で衆目の前で敢えて潰す事を前提に否定する姿勢を見せたと観られます。
「織田家」は「美濃平家」の「織田木瓜」の家紋ですので、「有品の位」(美濃平氏本家は従五位下)では家柄として低くない氏でありますので、通説と成っている”知らなかった”は考え難いのです。
源氏の跡目を継承している信濃賜姓族を潰す目的があったからで、この行動、即ち「権威への挑戦」に出たのです。結局、その信濃の賜姓族は伊勢青木氏との「シンジケート連携の保護」と「信濃古代和紙による2足の草鞋策」で再び直ぐに息を吹き返し一時宗家衰退はあったが生き残ったのです。

「権威への挑戦」事件2
伊勢では、「坂東八平氏」からは「秀郷流青木氏の戦略的抑止力」で何とか生き残り、「織田信長」からは小さい勢力でありながらも「3つの発祥源」の「権威の象徴」として警戒されて、直接3度「伊勢信濃天正3乱」で戦っていますが2度勝利しています。この2度の戦いは伊勢と信濃末裔の密かなスクラムを古くから組んだ「伊勢-信濃シンジケート」と「伊勢長島の秀郷流青木氏の援護」で生き残ります。
最後の戦いは伊勢では秀吉に命じられた藤原秀郷一門の「蒲生氏郷との戦い」で「恣意的敗戦」をし新宮に落ち落延します。しかし、1年後に蒲生氏郷に松阪に呼び戻されます。
明らかに蒲生氏郷は秀郷流青木氏の仲立ちで青木氏を助けた事が判ります。
蒲生氏郷は秀郷流青木氏との強い血縁である事、又その上に松阪に政庁城を建設し特別に「家臣扱い」として「侍屋敷・99区画」の内の2区画も与えられる厚遇を受けている事からも秀郷流青木氏一門から保護を受けていた事がよく判ります。(融合青木氏が存在し血縁関係にあった)
(松阪には城を築いては成らないとする平安期の仕来りがあった為に蒲生氏郷はヨーロッパ風の政庁方式を採用した。)
(伊勢の青木氏は江戸から明治まで江戸幕府に同じ扱いで維持されている 家臣ではないが「紀州藩建て直し」や「吉宗享保の改革で勘定奉行布依扱い」として貢献)

現実に無傷で5家5流賜姓青木氏が生き残れているのはこの秀郷流青木氏の存在が大きかったと考えているのです。
(蒲生氏郷経歴:伊勢大河内城1569 伊勢長島攻め1574 伊勢松ケ島12万石1585 伊勢松阪城1588)

「坂東八平氏と秀郷流青木氏の戦略関係」 
平安期後半は「たいら族」の圧迫に喘ぎながらも耐え忍んで来ましたが、平安期に於いては「青木氏」には「天皇と朝廷の権威と保護」が働いていましたが、それが無く成った室町期には「自立」が余儀なくされ経済的には「2足の草鞋策」で生き、裏ではシンジケートを固めて身を護りました。
しかし、がそれだけでは行かないのがこの乱世の厳しさであります。
秀郷一門取分け「第2の宗家」を務める「秀郷流青木氏の背景」がこの様に大きく影響していたと観ているのです。
それは武蔵入間を中心に神奈川横浜を半径とする円状の圏内にいる秀郷流青木氏の位置が坂東八平氏の地理的な戦略的背景が左右していて彼等は手を出せなかった筈です。
坂東八平氏が勢力を大きく拡大してその全ての力で幕府が開けた訳ではないのです。
彼等の周囲は秀郷一門の領国に囲まれているために彼らを味方に引き入れる以外に幕府を鎌倉に樹立させる事は出来なかった筈です。そこで彼らに藤原秀郷一門と戦う力があるのかと云う事に成りますが、彼らには無かったのです。それはあくまでも鎌倉軍は頼朝の頼信系源氏の荘園の「源氏の未勘氏の集まり」であったからで「坂東八平氏」が顎で動かせる軍の実態ではなかったからです。
そもそも関西で起した源平の2回の戦いには現実には「軍監の坂東八平氏軍」は動いていないのです。
上記した荘園制の副産物の「未勘氏軍」「日和見軍」に他ならないのであって、故に義経や大島氏が主張していた藤原氏を背景とした確固とした「源氏軍の創設」と「源氏主体の幕府の創設」を主張したのです。その上で「朝廷の院政権威」と結びつくことが狙いであって「坂東八平氏」にとっては相容れない考え方であったのです。
源氏に取って代わるだけの「皇族朝臣族」として幕府を開ける立場にある賜姓青木氏はたとえ小さくても源氏に取って代わる危険極まりない存在であったのです。賜姓青木氏にその気が無くても担ぎ上げられると云う危険性は極めて高かったのです。
東海の海側が「東八平氏」の勢力圏域です。これを取り囲むように「東山道」を東は常陸-西は美濃のラインと、背後は越後-陸奥-出羽の秀郷の勢力圏域で押さえ込まれていれば、この様な事から戦うことは現実的に無理で味方に引き入れる戦略しかありません。
現実に平泉を落としたとしても勢いに乗った鎌倉軍は川を超えても深追いせずに直ぐに鎌倉に引き返したのです。もし、平泉の藤原氏が潰れかけ東山道域を勢力圏としている秀郷一族一門がこれに加わった場合は地形から戦略的に袋の鼠です。
これには「坂東八平氏」は更に「2つの弱点」があったのです。
一つは独自の水軍を持っていない事で背後を突かれた場合弱い事、
もう一つは下総上総の右翼と美濃-信濃の左翼が弱かった事です。

ただ問題は、この弱点に加えて頼朝が一層拡大に向わせる彼等秀郷一門の「旧来の土地」を「本領安堵」してしまったことが計算外であったのです。
頼朝にとってはやむ終えない措置であった事は頷けますし、この事から推測すると坂東八平氏の嫌がる事、或いは弱点を頼朝は実行したのですから、本音は義経と同じ考えで有った筈です。
自分はしがない「浮き草」である事くらいは聡明な頼朝であれば理解していた筈ですし、ましてこの2つの弱点は知っていた筈です。
せめて、滅ぼした「たいら族」の土地を余り戦功の無かった「ひら族」の「坂東八平氏」に残しておけば良かったのですが、頼朝は判っていて敢えてこれも「平家没官僚策」として元の持ち主に返してしまったのです。当然、それは美濃より東の各地に位置していた秀郷一門にです。
これは頼朝は「藤原秀郷一族一門」を味方に引き入れるには戦略上返さざる終えない立場にあった事を物語ります。また自分の身を護る為にも「秀郷一門の抑止力」を必要としていた事に成ります。
「頼朝」と「坂東八平氏」の激しい「鍔迫り合い」が起こっていた事が判ります。
結局、関東の秀郷宗家の政光(親)-朝光・宗政・朝政(子)等こぞって2度の「本領安堵策」と「平家没官僚」で勢力を復活して頼朝に仕えます。
これが「藤原氏を背景(抑止力)にする頼朝の狙い」であったのです。
だから、危険承知の2度もの「本領安堵策」と「平家没官僚策」なのです。
これでは「坂東八平氏」とっては弱点が更に弱点と成り、戦略的に最早、秀郷一門には一切手を出せなくなります。
この事から、結果的に源氏頼光系の跡目を入れている”4つの青木氏は難を逃れられた”と考えられます。義経や大島氏に夜襲をかけ、はたまた平泉を攻めたくらいです。”その青木氏を潰す可能性は充分にあったのでは”と考えていて、「頼朝の秀郷一門の平泉攻め」は本音ではなかったが”坂東八平氏に押されてしまった。”が真相ではと考えているのです。
そのためにも「本領安堵策」と「平家没官僚」で何としても武蔵入間の一門を温存して保護する為に身の危険も顧みずに遂に「対抗策」に出たと云うのが真相では考えているのです。
そもそも考えて見ると、何も平安期よりも秀郷一族一門の彼等の所領(武蔵・下野・上野)を大きくする必要は無かった筈です。それをわざわざ大きくしている(常陸・上総・下総)のはまさしく「頼朝の本音」の現われです。
特に、その安堵内容が史実として遺されている事として、頼朝に合力する彼等の条件として提示したのは旧領「下総安堵」で中でも「下総結城」です。彼等は旧領下総結城に拘ったのです。
現実に、その後、この下総結城に配置した結城氏(後に永嶋氏を名乗る)が著しく勢力を拡大して「関東屋形」(佐竹・宇都宮・小山・永嶋)と呼ばれるくらいに関東を押さえ込んだ重要拠点なのです。
秀郷一門が拘った下総結城は勢力拡大には欠かせない要衝の地であった事に成ります。
当然に「坂東八平氏」にとってもこの下総結城の位置は東の戦略上要衝の地であったところを藤原氏に抑えられたのです。これでは東西北を袋の様に藤原氏に抑えられた真に「袋の鼠」なのです。

この苦しさから坂東八平氏は秀郷一門の血筋を引く足利氏を何とか潰そうとして北を開こうとしますが成功しません。しかし、最終北条氏の執事の足利氏への裏切りで幕府は潰れることに成ります。
「元寇の役」が衰退の原因として通説に成っていますが、元よりこの秀郷一門の「袋の鼠戦略」がじわりと効を奏したのです。
(足利幕府に成ってこの孤児であった執事は足利氏の執事に成り、伊勢北部伊賀地方を知行地として「たいら族」に代わって与えられます。)

「坂東八平氏」からすれば、本来で有れば「源氏根絶やし」の仕打ちが「戦国の世の習い」であり、これは有り得ない出来事だった筈です。しかし、秀郷一門が頼朝に取らした「袋の鼠戦略」の結果、「坂東八平氏」は気に成る「青木氏」に対しても手を出す事が出来ずに「融合氏」として生き延びられているのです。
もし、「青木氏」に手を出した場合はこの「袋の鼠戦略」が動き反って自暴自棄に陥ります。
現実に、「坂東八平氏」は支流北条氏の「傍若無人な態度」に身の危険を感じてすべて引き上げてしまうのです。それが引き金に成って執権北条氏は弱体化が起こるのです。これを観た執事は足利氏に裏切りを起し始めたのです。
「経済的な自立」は「2足の草鞋策」に成し得たとしても「戦国の世の防御」はどの様に観ても「秀郷流青木氏の背景」しか無いのです。
そこで、この「強い絆」で結ばれた「2つの血縁の青木氏」は「母方血縁」以外にも鎌倉期-室町期には戦略的に観て「母方血縁」だけでは済まない「直接血縁」の縁組があったのではないかと考えていて研究中なのですが、現在のところかなり「親密な付き合い」があったと考えています。
それは次ぎの様な事から云えるのです。

 「3賜姓族融合戦略」(「室町期の秀郷流青木氏一門との付き合い」)
「融合青木氏-伊勢」
例えば、伊勢の秀郷一門の藤原基景を始祖とする伊藤氏を護衛する秀郷流伊勢青木氏(近江秀郷一門の蒲生一族末裔)が室町期に伊勢長島に定住しました。
史実からこの伊勢秀郷流青木氏は藤原秀郷の末裔の蒲生左衛門太夫高郷の末裔であります。(高郷は氏郷の祖祖父に当たる)
この高郷末男の青木玄蕃允梵純(伊勢の秀郷流青木氏を継承)なる者は常陸と陸奥の永嶋氏を援護して陸奥-常陸に転戦している史実もあります。
この青木氏が長島付近に住み分けしていたとされていますが、実は伊勢四日市青木村では「皇族賜姓伊勢青木氏」と「秀郷流伊勢青木氏」の判別区分けが付かなくなっているのです。
これは松阪の「皇族賜姓青木氏」と長島の「秀郷流青木氏」が血縁してその末裔一族が四日市に定住していたと考えられ、最終、四日市は両者の青木氏の賜姓族の「融合青木氏」の一つと成っているのです。
賜姓伊勢青木氏を救った氏郷は祖祖父の兄弟の末弟が秀郷流伊勢青木氏の祖でありますので、四日市での「融合青木氏」として繋がっているのです。
上記の「権威への挑戦」事件2の経緯はこの縁戚の繋がりから来ているのです。
信長-秀吉の「伊勢攻め3乱」の蒲生氏との戦いは結論は実は茶番劇です。
片方で表向き賜姓伊勢青木氏と戦い、裏では蒲生氏の伊勢秀郷流青木氏が縁戚の賜姓伊勢青木氏に味方するという構図が出来上がっていたのです。だから「示威的敗戦」を採ったのです。
だから、直接的な「藤原秀郷流青木氏の抑止力」が働いていたのです。
この事は全く同じ事が史実から「日野城蒲生氏」の領国の「近江青木氏」でも起こっているのです。(詳細は別途)だから賜姓青木氏は「秀郷流青木氏の抑止力」で生き残れたのです。

「融合青木氏+秀郷流青木氏」=「秀郷一門の抑止力」

(参考 秀郷流青木氏は「嵯峨期の詔勅」による「皇族青木氏」であるが、特別に天皇より認可を受けている事、その官位官職も皇族賜姓族と同じ六衛府軍の近衛であり、「有品の位」も同じ4位と5位に位置する事から特別賜姓族でもある。)

「融合青木氏-伊豆」
また、清和源氏頼光宗家の頼政の本領の伊豆の2つの皇族賜姓青木氏(信濃青木氏と伊勢青木氏)も神奈川横浜の秀郷流青木氏と血縁して村を形成して一つの「融合青木氏」を発祥させているのです。

参考 皇族賜姓伊勢青木氏に孫の京綱を跡目に入れている宗家頼光系の4代目源頼政の領国の伊豆地方は5つの青木氏の融合の坩堝域であります。これは鎌倉のお膝元であり「坂東八平氏」に襲われる危険性が高かった為に採った対抗策でもあります。

「融合青木氏-美濃」
美濃と信濃の国境にも「融合青木氏」が存在しているのです。美濃には美濃賜姓青木氏と秀郷流青木氏との血縁氏と観られる末裔青木氏が最終確認が取れないが「伊川津7党の青木氏」として存在します。
更に美濃には西より域の現在の愛知県清須市春日と名古屋市西区に秀郷流中沼氏系青木氏、東よりの域に豊田、新城、額田、設楽の各市に中沼氏の支流中沢氏系青木氏が定住していて、各々と美濃皇族賜姓青木氏及び伊勢皇族賜姓青木氏との「融合青木氏」が存在します。
これは鎌倉期-室町期に掛けての時代性に大きく左右された地域である事からかなり長い歴史的な背景での青木氏の融合氏の展開があったと考えられます。

「融合青木氏-土佐」
他に高知では武田氏滅亡後、甲斐武田氏系賜姓青木氏が讃岐籐氏を頼って定住し讃岐の秀郷流青木氏と血縁し村を形成しています。これは室町期の信長に対抗する防御戦略でもあります。

「融合青木氏-越後」
越後にもはっきりと見られる現象で、昔の越後国高井郡小阪金谷域滞には秀郷流青木氏が定住しています。現在の新潟市金屋-新発田町諏訪-阿賀野市金屋-村上市金屋の直線ライン上に青木村が形成されているのです。この直線上の新潟よりの新発田域には信長に追われて秀郷流青木氏を頼って逃げ延びた信濃賜姓青木氏と諏訪族系青木氏が集中して定住しています。
この越後の青木氏のライン上でも2つの判別の付き難い「融合青木氏」が存在します。
この地域は地理的な関係から室町期にかなり信長の勢力圏が及んだ地域でもありその為の「融合青木氏の展開」であったと観られます。

「融合青木氏-信濃」
この現象は更に信濃北東部と甲斐の東部上野より域にも見られる「融合青木氏」の現象が起こっています。信濃の国府には皇族賜姓青木氏系が定住し、信濃北東部域と越後南部域国境域には、平安期の秀郷一門の陸奥赴任に伴ない陸奥から移動定住した秀郷流血縁族花房氏の末裔で土豪足利氏と成った一族がここに移り住んだものですが、この地域には更に信濃賜姓青木氏との血縁族土豪足利氏系青木氏が定住していたところでもあります。
そして信濃より上野北域と越後南より域の国境域には藤原秀郷流青木氏が定住しているところです。この信濃-上野-越後の3つの国境域にはこの2つの青木氏の「融合青木氏」が存在するのです。
この青木氏は鎌倉期-室町期に融合したのではと観られます。

「融合青木氏-甲斐」
甲斐-信濃-上野-武蔵の4国の国境域にも藤原秀郷流青木氏と甲斐皇族青木氏と信濃皇族賜姓青木氏との判別が着かない「融合青木氏」が存在します。
地理性や時代性から観て平安期-鎌倉期-室町期の判断が出来ないのです。何れの時代にも重要な政治関係があった事なので現在結論を得ていません。

これ等現在判っている9つの「融合青木氏」は、明らかに時代的に明治期の「第3氏」や「未勘氏」ではない事は判るのですが、調べると「家紋と土地と宗派と一部には古系譜等」に依って本来は判別が可能なのですが、鎌倉期-室町期にこれ等の判別要素がある規則を以て混在する青木氏が発祥して現在もその子孫が存在するのです。
現在では研究段階であるので確定的な事は云えませんが、平安期の「氏融合」は「住み分け主体」ですがそれと異なり違う点は次ぎの二つに成ります。

「国境域」
先ず一つ目は鎌倉期-室町期中期の「融合青木氏」の住み分けが大方「国境域」にあると云う事です。
しかし、ただ室町期中期以降の住み分けには国境域傾向より秀郷流青木氏の中に潜り込んでいると云う傾向を示しています。
論理的に考えれば、「国境域」は、平安期の直ぐ後の未だ氏家制度の社会慣習の強い鎌倉期の中では「藤原氏抑止力」を全面に押し出す事で「戦略的効果」を出し、相手に対して「威圧効果」を働かせ生き延びられる事が可能でした。
その為にその「前戦域」、つまり「国境域」に住む事でも防御が出来たし、「氏家制度」の重要な慣習の「住み分け」も護る事が出来たし、万が一にも攻め込まれても「融合一族」で護れる事が出来たのです。
そもそも「国境域」の位置付けは、比較的知られていない事なのですが、「戦略的国境域」には堅固な「氏寺や氏神」を建立し領内を城壁の様に取り囲み、領民の「心の安寧」を図ると共に、同時に軍事的な「要塞拠点」「情報収集拠点」として使う等の目的が主たるものであったのです。
(例えば伊勢青木氏で言えば名張には城が2つあり名張城ともう一つは青蓮寺城でお寺なのです。)

鎌倉期はまだ軍事政治の拠点は山城にあり(平時は平地の館に居住)、それだけに山間部の「国境域」に村を形成させて「融合青木氏」を置くことは「軍事的な抑止力」として充分に理に叶っていたのです。
しかし、室町末期の織田信長の様に「権威への挑戦」とも成れば、その上記する「場所的・地理的な戦略性」は問題ではなく「権威の抹殺」が目的であれば、その「場所的・地理的な戦略」を破壊してでも「権威の抹殺」を達成させる事に成ります。
政治的に絡んでいた「古来からの宗教権威の象徴」の比叡山や真宗本願寺や高野山や根来寺等の破壊に観られる様に、信長は「伊勢神宮」も直接破壊対象として挑む危険性があったのです。
それから逃れるには「敵対」しないで「抑止力」だけの中に溶け込み、そして見分け判断が着かない様にする事が必要であったのです。
「敵対」は衆目からすれば「伊勢神宮」を破壊すればいざ知らずただの戦いと見なされます。
信長にすれば「権威の象徴の抹殺」であって「伊勢神宮」そのものはただの物体であることに成ります。
その物体にまつわる権威を興している集団を潰す事がその抹殺になりその結果、「伊勢神宮」はただの「物体」と成り果てます。依って「敵対行為」は「目には目歯には歯」の結果を生み出し、この「物体」と「権威の集団」を潰す事に繋がってしまう事に成ります。
この「衆目の目」と「伊勢神宮」を保全するには極めて効果的な「抑止力」を使うことが必要です。
「強いだけの抑止力」は「目には目歯には歯」の結果を呼び込みます。

この意味で信長強みは「武力型戦術」ですから、彼に弱い戦術は「影の抑止力」の効果です。
「影の抑止力」は大義名分を青木氏側に呼び込み、且つ、「目には目歯には歯」の連鎖を起こしません。
先ず、それには「秀郷流青木氏の定住地」のそのものの中に「溶け込み」をし、その上で同じ「青木氏で融合」する事での「2段構え」で幅の広い「抑止力防御」で構える以外にありません。
しかし、ところが「伊勢青木氏」だけはこの信長に対してこの「2段構えの戦略」が採れない宿命があったのです。それは「伊勢神宮の皇祖神」を護り「祖先神の神明社」を護る為には「溶け込み戦略」は採れません。溶け込んだところで「皇祖神と神明社」が現存して目の前に存在するのです。
これを物体として放置する訳には行かないのです。
信長であれば先ずこれを破壊に掛り「権威の集団」の「青木氏」を引き出しに掛かるでしょう。
これは「青木氏」に採って許す訳には行かない仕儀です。
又、信長側から観れば「伊勢青木氏」の様な「見え見えの権威の象徴」は放置し見過ごす訳には行きません。
「青木氏」としてもいくら子孫を遺すとしても「3つの発祥源」の象徴の「祖先神の神明社」と「皇祖神の伊勢神宮」を放置してまでして子孫を遺す事は出来ない事に成ります。
仮に「子孫を遺す事」に舵を採った場合、世間は「伊勢青木氏」を認める事はしないでしょう。
氏家制度の中では社会に容認されない氏は源氏の様に滅びるしかなく生きて行けません。
少なくとも結果が同じであれば戦うが良策です。しかし、"ではどうすれば良いのか"と云う事に成ります。
そこで「伊勢青木氏の採った戦略」は、筆者の論点の前提 「2足の草鞋策」と「シンジケート」にこの「2段構え」で「幅の広い抑止力防御」を組み合わせる事だったと観ているのです。

「影の抑止力」の効果=「2足の草鞋策」+「シンジケート」+「2段構え」+「幅の広い抑止力防御」

この「数式戦略」に依って個々の弱点を補完し合って強力で重厚な予測の付かない不気味な防衛網が出来上がるのです。信長はこの戦略に弱いのです。
弱いからこそその証拠に「比叡山や真宗本願寺」の「目に見えない力」を押さえ込みに掛かったのです。
信長は秀吉にこの「目に見えない力」の存在の事を教わります。(今宮ジンジケート)

これを実証した最たる事件が有名な「丸山城の戦い」と「伊賀の戦い」の信長からの青木氏の勝利なのです。何と攻めて側の大将との血縁戦略を密かに行い、攻めて側の親族の伊勢秀郷流青木氏との血縁、この更には秀郷流青木氏を味方に引き入れて攻めて側と戦うと云う実に奇妙な戦略を駆使したのです。これでは攻めて側はうっかりと手が出せません。本腰入れて攻めた場合は全滅の憂き目を受ける事は必定です。例え総大将が信長の次男であって2万の軍を廻して来ても。
その証拠に信長に引き続いた秀吉はこの事を充分に承知していて「恣意的敗戦」を求めて1年後に松阪に引き戻す条件を密かに提示させ青木氏を新宮に引き上げさせたのです。(追走しなかった)
条件を護り1年後には「青木氏」の元の状態以上の扱い(上記の数式戦略の保全)をしたのです。
この事が解決した時点で秀吉は蒲生氏郷に伊勢松阪城と伊勢松ケ島12万石を与えた上で「陸奥攻め」に廻したのです。(陸奥黒川城も与える)

( 参考 伊勢青木氏は伊勢松阪の本領を引き渡し、名張郡一部-三重員弁桑名3郡-玉城町全域-新宮尾鷲の本領安堵となる 伊勢56万石 内訳 伊賀10万石 志摩2万石 名張2万石 松阪12万石 長島18万石 他社領、寺領等5万石相当等を50万石相当割譲 室町末期 )

当然に「伊勢神宮・皇祖神の権威の破壊」をする信長に対しても世間の目は向きません。少なくとも「伊勢神宮・皇祖神の権威の破壊」は「別のもの」を持っているのです。仮に全て破壊が成し得ても「信長政治」は成り立たなかった筈です。短命であった筈です。
「物質の破壊」で「権威の破壊」は成し得ても「人心の破壊」は出来ません。「人心、世間・周囲」が容認しない政治は「下の者」はこれを容認しないでしょう。取り分け少なくとも信長の周囲の人物に於いては。
それだけにこの「伊勢神宮・皇祖神」と「祖先神・神明社」を護る皇族賜姓青木氏が信長に挑み敗退したとしても、もう一つの「秀郷流賜姓青木氏」の「第2の宗家」は全国の秀郷一門を率いて立ち上がら無ければ成らない逃れられない宿命を青木氏として浴びている訳ですから、信長に取っては大きな賭けに成ります。
現実、信長は「共和性」を敷く政治体制を目途としていたと観られ、かなり危険な状況に落ち至っていたことに成ります。その「日本騒乱状態」に突入する前哨戦が伊勢で起こり始めた事を意味します。
筆者は「伊勢神宮・皇祖神」「祖先神・神明社」の「権威の破壊」は「共和性」(王性の共和制ではなく共和性としている)を意味すると捉えていて、行く末は朝廷の解体まで進む可能性があったと考えているのです。この時、「伊勢青木氏」もその様な「心構え」であったと観ているのです。
その「前哨戦の2戦」は勝利したものの「第3戦」の手前で信長は明智光秀に討たれ頓挫します。
筆者は明智光秀がこの認識(共和性)にあったと見ていて悩んだ末に自分の身を犠牲に信長を討ったと観ているのです。そもそも本能寺の謀反は短絡的過ぎると観ていて天下を掌握するのでは信長を討ったとしても天下は取れるわけでは有りませんし、無謀すぎるし軍略家の光秀にしては無知そのものです。
人時場所の三相を得ていません。単純に信長を討つ目的であったとするのが普通です。
矢張り信長にしても、光秀にしても無謀と言う面では世間の目・下の目が働いたと考えているのです。

「完全な共和制」を目途としている概念では無く未だ「共和性のある社会」の構築を目途としていたと考えます。その例の一つとして「楽市楽座」、「新城郭構築」、「キリスト教の布教」、「近代的な物造りの推奨」「近代的な戦力戦術」に力を入れていましたが、しかし、この推進に大きな壁として「権威への障壁」が起こっていたと考えるのです。
その後、秀吉に引き継がれた政治は幸いにも「権威への挑戦」「権威の破壊」ではなく、むしろ最もこの様に見られない人物の藤原秀郷一門の、賜姓青木氏とも繋がり縁戚関係を持つ、「蒲生氏郷」を差し向けてこの件を丸く治めた事は、裏を返せば秀吉も明智光秀と同じ認識の中に居た事を意味します。
「蒲生氏郷」は温厚で学者であり、家康とも仲がよく、当時天下一と謳われた軍略師でもあって秀吉に戦わずして勝つ戦略を指導していた事は有名な話です。
ただ一度秀吉の命で伊勢平定後に氏郷は陸奥で3000の兵で山城に籠られゲリラ作戦で長引きそこを無理押しして大失敗をします。(黒川城の戦い)その様な人物を間逆に選択したのです。
何も青木氏が信長に当初から敵対している姿勢を採っていた訳でも無く、「権威への挑戦」「権威の破壊」の対象として攻め込まれたのです。故に、止む無く「伊勢神宮・皇祖神」「祖先神・神明社」を護る為に、皇族賜姓伊勢青木氏と村上源氏支流伊勢北畠氏だけは信長に対して秀郷流伊勢青木氏の合力を得て戦いを挑んだのです。北畠氏は先ず乗っ取られて落とされ滅亡します。
しかし、伊勢青木氏は圧倒的戦力の差がありながらも「経済的戦略」を駆使し、伊勢-信濃シンジケート戦術で揺さぶり無戦で勝利します。
(丸山城の戦い、伊賀城の戦い 長島吉野の戦い-秀吉との材木調達戦 名張の戦い-青蓮寺の戦い 松阪の戦い)
しかし、最後に「松阪の戦い」で無戦に近い状態で新宮の飛地本領に引き上げて終わります。
何れも青木氏の背後には縁戚の「伊勢秀郷流青木氏(蒲生氏)」の合力を得ていたのです。
このままで行けば「伊勢の天正の3戦」は、信長・秀吉が強引に先走れば「秀郷一門と秀郷流青木氏の戦い」に発展して行く事は間違いなかったのです。
ところが「天の裁き」か信長が討たれる事で「伊勢神宮・皇祖神」「祖先神・神明社」「権威への挑戦」「権威の破壊」は免れたのです。
最早、この事が避けられれば青木氏としては「戦う目的」は無く成りますし、蒲生氏郷とは縁戚故知であったと伝えられている事からも尚更です。
この経緯が異なっていれば5家5流青木氏は少なくとも源氏と同じく滅亡していた事に成ります。

この様に鎌倉期の「坂東八平氏の脅威」は「秀郷流青木氏の抑止力」に依って、室町期の「美濃平氏織田信長」の「権威への挑戦」「権威の破壊」には「秀郷流青木氏の抑止力」と「天の裁き」で避けられて生き延びられたのです。

「政権運営」
二つ目は鎌倉期と室町期で、鎌倉期では「坂東八平氏」(北条氏)、室町期では「織田信長」の政権運営に関っている事です。
これは明らかに、本来は氏家制度の中では一族が「融合氏」を形成して住み分けして菩提寺と「祖先神の神明社」を建立してその下に助け合う社会制度の中です。
分布状況から観ると、「2つの血縁青木氏」の存在する全ての地域にこの「祖先神の神明社」が最も多く建立されているのです。(本文末尾の資料参照)
この「青木氏」ならではのこの特殊な現象は、その鎌倉期-室町期に成っての事であり、生き残りの為に懸命に「横の関係」(物心両面)を取ろうとしていたことを物語る出来事だと観ているのです。

大化期からの「融合氏の国策」は、平安末期の公領制の効果がタイムラグ的に働き何とか「荘園制の行き過ぎ」が室町期にはブレーキがかかり、結局、「荘園の争奪戦」が起こる事に成ります。
この結果として「融合氏の細分化」と供に「荘園も解体・細分化」して行き、それに連れて懸命に生き延びた「融合氏」の発祥源・象徴の「賜姓青木氏」は、「秀郷流青木氏」の力を借りて生き残りを果たして更に融合化へと進んだのです。

室町期の下克上と戦国時代に狙い撃ちされた青木氏は、「2つの血縁賜姓青木氏」と「賜姓源氏宗家頼光系の血筋」の3つを融合させて遺そうとしたと考えられます。(融合青木氏)
ただ特記すべき歴史的に見逃しては成らない事は、「2つの血縁青木氏」には「2つの絆結合の青木氏」が親密に存在し、その結果、他氏とは異なり”「下克上」を起こさなかった”と云う事実です。
この事が起こらなかった為にこの「3賜姓族融合戦略」が功を奏して生き残ることが出来たのです。

「3賜姓族融合戦略」で生まれた「融合青木氏」には、家紋は笹竜胆紋か下がり藤紋を綜紋とし、「祖先神の神明社」、「祖先神の八幡宮」、「鎮守神の春日大社」、「産土神の諏訪大社」、「浄土宗古代密教」、「浄土真宗、真言宗密教」等の混在する氏が地域を限定して上記の様に発祥しているのです。
「2つの血縁青木氏」と「2つの絆結合の青木氏」とは別の上記の「判別の確定要素」に迷う「融合青木氏」なのです。しかし、ある3つくらいの共通条件(地域・時期・歴史史実など)が存在して判別は可能です。

話を戻して、「坂東八平氏」の腹の中は”源氏を潰して自らの政権を”と考えていたのにこれでは目論見は無理と成ります。”源氏を潰した後は秀郷一門を潰す”と目論んでいたのではないでしょうか。
これを察知していた義経と大島氏が頼朝に警告するが無視、警告の夜に坂東八平氏に襲われたのです。この大した戦績のない「坂東八平氏」の行動は目論見が行き詰まっていたことを表すものです。
最終的に、この「坂東八平氏」は最終仲間割れを起こしてしまいます。
当初の目論見を捨て支流北条氏が勢力を持ち執権として坂東八平氏を廃して鎌倉幕府を主導することに成ります。「元寇の役」での通説衰退説は切っ掛けであって原因説ではもとより無いのです。

(経緯 水軍の無かった鎌倉軍の弱点を突くために、「たいら族」は水軍を立て直して瀬戸から出て鎌倉湾を突然に突きます。これを聞きつけた源氏頼信系の大島水軍は急遽三日で黒潮を乗り越えて三浦半島に運び水軍による最終決戦をして功績を挙げ頼朝軍を救ったのです。
しかし、最終会議の後に平家軍を敗退させた義経と鎌倉幕府を三浦湾で救った大島氏を襲う。大島水軍はその日の夜の内に大島に引き上げる。義経は平泉に逃れる。現在5家5流賜姓青木氏以外に傍系ではない綜紋の「笹竜胆紋」の大島支流源氏のみが現存し正式に遺されている。大島氏は庶流、傍系、未勘氏、第3氏ではない唯一の正式な支流源氏 大島と云う地理的要素が働いた為 更にこの大島氏の支流で富岡氏(富田氏)が静岡-埼玉の線上に分布している)

  「義家の不合理性」
まして、「3賜姓族融合戦略」を採っている中で上記する平安末期の「義家等の不合理な行動」です。
この事件行動の余波は全源氏に波及するのは確実です。波及すれば行動範囲が制約されていて生活圏範囲が狭ければ潰れる事は必定です。
我々「4つの青木氏」から観れば、源義家の行動は「世間の絶賛」とは別には「裏切り者、反逆者、うつけ者」でしかありません。
筆者は頼朝も義経の諌言を受けなかった事が義家に続いて2回続けての間違いの元でもあったと観ているのです。
頼朝も危機感はあったが止む無く義経を打った後に悟って「本領安堵策」を何と2度も、更に念を押して「平家没官僚策」を北条氏らの反対を押し切って実施したのです。
恐らくは現実思考性の持った戦略家の義経を潰した後に、北条氏等の態度が急変して初めて”アッ”と懸念を悟ったから「巻き返しの策」として命を掛けたのです。
傀儡政権の中ですから、命を掛けないのであれば始めからこんな危険な策に出ることはありません。
沈着冷静で戦略家の「義経の諌言」は歴史が物語る「世の無常」を悟っていたものであったと観ているのです。

参考雑学 義経はその武勇だけを賞賛されているが、平氏を瀬戸内で討った時に事前に味方を引き入れる為に関西域の各地を駆け回り粘り強く説得し「平氏水軍」に対抗する独自の「源氏水軍」を作り上げる為に奔走していた事がその水軍の氏の資料として多く遺されている。
源氏には水軍が無かった為に勝てない事が大きな戦略上の欠点であって「坂東八平氏」の軍には戦える水軍は無かったのです。
ましてこの時、軍監の「坂東八平氏」は義経をこの戦いで潰す目的ではなかったかと観ているのです。
その事を承知している義経は自らの軍2万を集め、自らの水軍を作る事に奔走する優れた緻密な戦略家であった事がこの時の資料から判るのです。「坂東八平氏」の軍は全く動かなかったのです。
義経はこれを無視して「紀伊水軍、熊野水軍、伊勢水軍、駿河水軍」を集めたのです。
そして、この水軍全て「海賊」のシンジケートだったのです。この「海賊」に意味があったのです。
瀬戸内の「平氏水軍」と同じ戦い方では「多勢に無勢」で負けるが必定であり、この事を補う為には「海賊的な戦い方」を用いたのです。「平氏水軍」は違った戦い方に面食らい慌てふためいて総崩れを起こしたのです。
義経はこれを狙ったのです。特に紀伊水道の紀伊海賊の説得に何度も粘り強い姿勢を示し義経の人間性に信頼を感じて味方をした事が資料に遺されているのです。その紀伊水軍が戦いの先頭に立ったと記録されているのです。ところが戦いに勝利すると直ちに引き上げたと記録されているのです。
(この時代の「海賊」とは海賊そのものだけではなく、海の安全航行の保障を前提とした「海利権」的なもので一種の海のシンジケートなのです。従わない場合は武力で潰される事は陸のシンジケートと同じなのです。義経は「氏存続の3つの条件(経営哲学)」を"斯くの如くあるべし"と云う事を都近くにいて清盛や藤原氏や青木氏から学んでいたのです。

「氏存続の経営哲学」
これは義経は偶然に勝てたのではなく「青木氏が採った戦略性」と「長としての青木氏家訓」とほぼ同じものを考え方として持っていたからと観られます。

(青木氏と類似する「氏存続の経営哲学」を持っていた。記録では現実に義経は平清盛に宋貿易等の教育を受けている。同族賜姓族5家5流の青木氏の「氏存続の経営哲学」を観ていた可能性が高いのです。頼政の跡目の入った「青木氏の伊勢松阪」と「平清盛の伊勢伊賀」の親密な関係から観ても考えられる事です。 義経と青木氏の関係を調査中)

この「義経の優れた特性」に対して頼朝はカーと成る「氏の性癖」と対比して「嫉妬と危険性」を感じたと観ているのです。
ところが、その義経を潰した時、頼朝は「坂東八平氏」の豹変に初めて気が付いたのです。
「頼朝」と「坂東八平氏」は頼信系の義家に続く清和源氏の分家子孫には観られない優れた「義経の優れた特性」を観たのです。
頼信系の清和源氏には、新宮太郎や木曽義仲等の一門の人物像の書物を読むと、義経を除くと何かこの様な「不合理な性癖」(カッと成る癖で突っ走る)があったとも取れる印象を持つのです。
その意味で賜姓同族で血縁性もある宗家頼光系4家の宗家頼政の血筋を受け継ぐ青木氏一族一門の「家訓10訓」は「生き延びる3条件」即ち「氏存続の3つの条件(経営哲学)」を前提にこれらの事を強く戒めているのだと感心するのです。先祖も同じ考えであったと観ているのです。

この義家末裔に観られる「不合理の性癖」は「融合氏」の賜姓青木氏側にも在ったのかも知れません。
或いは、頼信系一門を観ていて感じ採っていた事も考えられ、だから敢えて「長の務め」として戒めているのだと云えます。
恐らくは平成期の青木氏が検証している様に、平安期にも本文の様に検証していたのではないでしょうか。そして「3つの発祥源」の「融合氏」は家訓で”斯く在るべき”としたのです。
そして、室町期には「生き残り策」として「3賜姓族融合戦略」を展開したのです。
伝来の「家訓の背景」と観られる集大成「由来書」(大筋概要)の様なものを「平成の復元」で再び成し、明治35年の消失で無くなったものを筆者に復元させたのはここに子孫を思う先祖心があったのでしょう。
取り分け由来書成るものは「神明社」(「3つの発祥源」「物造り」「融合氏の由来」)に力が入っていたとされるのです。

ところが筆者には「経済的自立」と「3賜姓族融合戦略」とに依って「生き残り」は成し得た事は事実ですが、何かもう一つ納得行かないものがあるのです。
それは「蒲生氏郷」から「江戸幕府」徳川頼宣までの青木氏に対する保護はこの「3賜姓族融合戦略」には無関係です。これは何かがあった筈です。
それは何か青木氏に「人を引き付ける要素」があったと観ているのです。
それが、「旧来の人の心に遺されている伝統」、即ち「祖先神の神明社」にあったのではと観ているのです。人はこれを否定する者はいないだろうと考えます。
例え、ヨーロッパの影響を受けた「権威に挑戦」した信長でも。その信長の行動は「政治的な権威への挑戦」であって、「人の心」に存在する「伝統」と、その「象徴・権威」でもある「皇祖神」や「祖先神の神明社」そのものには幾ら信長でも否定と破壊はしないであろうと思うのです。また出来ない筈です。
その「伝統から発する権威」が「政治的色合い」を強く示した時には、信長は挑戦するのであって、単に内に秘める「心の権威」のみを否定する事は、それこそ社会の「異端児」と成り果てあり得ない事です。
それは人ではなく「鬼」に過ぎない事です。其処まで信長は異端児ではなく、やや人より「共和性の考え方」に富み進んでいた事から、当時では氏家制度の中では異端児的に観られているのであって、現在から観れば極めて合理性に富んだ当れ前の考え方であります。
この「心の権威」の「伝統の祖先神」を守り通してきた「健やかな姿勢」の青木氏を人は認めたのではないのでしょうか。止む無く戦ったとしてもその上記した「戦い方」そのものにあったと考えるのです。
それが源氏分家頼信系の宗家の義家一族に無かったものであり、”政治的な権威と軍事力の上に胡座をかいていた”から潰されたのです。
青木氏の家訓に強く戒めている「長のあるべき姿勢」は「心の伝統」を重んじる「祖先神の神明社」に結び付いているのです。まして「絆」結合を重視した青木氏一門郎党ですから尚更の事では無かったかと観られます。「生き方が穏やか」であります。
「氏家制度」の社会の中では「3つの発祥源の青木氏」ならばもっと積極的な生き方もあったとも考えられます。しかし、違ったのです。
信長はこの「心の権威の伝統」の範囲に留まっていれば伊勢への「権威の挑戦」は無かったと考えられます。しかし、如何せん「氏家制度」の社会慣習の中では「伊勢神宮・皇祖神」「祖先神・神明社」は「心の権威」と当時に、それを「政治の権威」の基点とする「旧来からの政治体制」であった為に、信長は止む無く「神社の伊勢神宮」「寺社の比叡山天台宗」「真宗本願寺」等に類するものを攻撃したのです。
しかし、青木氏の立場として止む無く関わらなければならなかった下記の戦いには信長の対応は少し異なっていたのです。

1564年から始まり1584年まで「伊勢攻めの主要三乱」は各地で大小の戦いが続いたのですが、この内青木氏に関わる戦いとしては次ぎの通りです。
「長島攻め」の3乱(1568-1575)の内北畠氏攻め(1575)
「伊賀攻め」の4乱(1565-1581)の内第2次丸山城(1578)と第4次伊賀城の戦い(1581)
「松阪攻め」の2乱(1583-1588)の内松阪無戦引渡し(1588)
以上4戦に関わったのです。
(参考 信長没1582年)

「権威の守人」
ところが、社会がまだ信長の「共和性」には理解が届かなかったのです。むしろ、逆に義家の様に振舞うのではなく、信長に執って、青木氏の行動が「権威の守人」として穏やかに振舞うところに引かれ、故に「伊勢神宮・皇祖神」「祖先神・神明社」である「心の権威」の「守人の青木氏」にむしろ「畏敬の念」を抱いていたと考えます。
その証拠に伊勢神宮を焼き討ちせず、伊賀と長島の周囲を先ず攻め最後に松阪を攻めようとしていた矢先に「本能寺の変」(1582)が起こったのです。
「伊勢攻め 丸山城事件」(1578)に対して、”何故に海側の先端の丘に丸山城を建て様とした”のでしょうか、地形から観て疑問が残ります。また「伊勢攻め」の前哨拠点にしては大げさで必要性と地形に疑問が残ります。
第一に、城を建てなければ成らないほどに信長に抗戦する力(最大9千)が青木氏と伊賀氏と北畠氏等にあった訳では有りません。北畠氏は信長の調略(1575)に先ず落ちていますし、青木氏にはシンジケートの危険性だけ、伊賀氏は信長の始祖の「末裔たいら族」であり、縁戚でもあり内部に名は裏切りもあり実質小さい勢力です。他に伊勢には土豪勢力の屋形か陣屋か寺城程度の平城が10程度ある程度のものですがこの程度で出城の建設には疑問が残るのです。
(注意 本論は青木氏に関わた事として限定して論じている。天正の伊勢3乱として歴史は大きく「戦い」として書きたてているが筆者は結末が大きくても内実は違っていると観ている。信長はこの戦いを通して結果として大軍を擁したがその間「村民と城兵」には傷つけなかった事は有名な事で盟約まで結んでいるし、伊勢の土豪との戦いは殆どは裏切りで解決している。)
そもそも”何の為に岬の先端にわざわざ建て様としたのか”不思議です。前線基地として建てるのであれば好適地がある筈です。北畠の城も既に獲得していた筈です。
この疑問を解決する要素はただ一つです。それは全青木氏に関しての戦いでは、「権威の守人」を遺そうとしたか、それとも秀郷流青木氏の背後を気にしたかの2つではないでしょうか。(伊勢土豪の小戦は不問)
いずれにしても武力を全面に押し出さない穏やかな「権威の守人」の「青木氏の陰力の抑止力」が働いていた事は事実です。しかし、敢えて信長はこの「権威の守人の青木氏」一門を残そうとして、「抑止力」を果たす「監視城」を目指そうとしていたと考えられます。
石山本願寺の悲惨な戦いの様にならない様にする為に、その差として「門人」と違う所と云えば、「守人青木氏」の「氏柄」の所以であったと考えられます。
それを理解できずに次男信雄が大金を使い果たし建設時期を大幅に遅らせやっと出来た挙句は青木氏の影の力シンジケートに燃やされてしまうと云う失態を繰り返しこの建設に失敗するのです。
故に、「青木氏の戦状況」は伊勢3乱の1564-1588年の間にはどの「表の歴史資料」には出て来ないのはこの「青木氏の陰力の抑止力」の働いた穏やかな「権威の守人」の行動からなのです。

最終それを引き継いだ秀吉は青木氏と縁戚である蒲生氏を差し向けて穏やかに納めたと観ているのです。
秀吉をそうさせたのは「信長の真意」を汲み取り、矢張り秀吉も「心の権威」の「守人の青木氏」(伊勢を始めとする2つの血縁青木氏)に「畏敬の念」を持っていた証と観ているのです。
(2つの血縁青木氏 5家5流賜姓青木氏と賜姓藤原秀郷流青木氏)
しかしながら、現実には信長とすると「政治の権威」と結び付いている「守人の青木氏」を一時攻めると云う事が起こったのであって、、伊勢を支配下に入れるにはそれには土豪の押さえ込みの「監視城」の必要性がありますので、奈良時代からの長い歴史来の禁手の天領地伊勢神宮の伊勢松阪に「松阪城」(蒲生氏郷 松阪松ケ島十二万石等計44万石の割譲後、 松阪城に移す)を建てたと考えているのです。
この「監視城」とは松阪の平城は政庁舎の趣が強く築城の配置形態が資料から観て「戦城」とは異なっていたのです。
伊勢路の松阪は尾張から京に出るには軍事上要衝の地である事からも戦略上ここに戦略基点を設ける絶対的な必要性があって、平安期からの「禁手」(不入不倫の権)では戦国時代では最早済まなく成っていた事も明らかです。
従って、信長は未だこの「戦略基点」を丸山に置いたとする事は、伊勢の「土豪潰し」は行ったが、伊勢松阪の「伝統」を護る「戦略的配慮」があったからの事であります。
そこで、秀吉は「禁手」を犯してでもそれをもっとはっきりとした形態を採りたかった為に一挙に松阪としたのであって、そのはっきりとした行為を和らげる為に青木氏縁戚の蒲生氏郷を配置し、且つ氏郷の人柄を表に出し、城より政庁の赴きを付けさせ、「権威の守人の青木氏」に「没本領」として氏存続の為に「割譲残石高」程度を与え残し、現状を維持させ残したと考えられます。
これで「神明社破壊への民衆の動揺」をも抑えたと観られます。
信長-秀吉-家康の時代を通して生き延びられたのはこの「皇祖神-神明社」背後にを控えた「氏柄」の生き様の所以だったのです。
これが、疑問の答えの「穏やかな権威の守人」「伝統の氏」が人を引き付けたのです。

常にその生き様を対比する「源義家」一門はこの「心の権威」の「守人の源氏」の姿勢を採らなかった事に所以しているのです。
源氏の「祖先神・八幡社」の精神「守人の氏」(2つの血縁青木氏の様に)に徹せず「荘園制」に「氏の命運」を掛けて「氏世拡大」を夢見てしまって「人を引き付ける要素」を失って「滅亡の流」を源氏の中に作り出してしまったのです。
筆者はこの「義家の生き様」と「信長の生き様」は「人を引き付ける要素」に一面欠けていたと観ているのです。

そこで、この「青木氏」をより深く検証するために話をもう一度大きく戻します。
 「部曲と民部:(かきべ)」
本来、上記の義家の例に観られる様に「源平藤橘」や「荘園主」の「融合氏」の「氏族」は多数の「部民」を「隷属民」として支配していたのですが、この「部民」は「部曲」として、又、朝廷に命じられる労役に「氏族」に代わって従事したのです。
荘園に組する氏姓には血縁性は全く無く、「部民」間も血縁性が無く、「部民」の「品部」も同様で天皇家の「部民」、後に豪族も「部民」を持つ様になります。
皇族賜姓青木氏は「天領地」を管理する守護王ですから、この5地方の天皇家の「部民」が「青木氏の部民」であることになります。
皇族賜姓青木氏の永代官職名は「民部」を管理監督する「民部上尉」であるのはここから来ているのです。
(平安期末には荘園が大集団化するにつれて荘園の「百姓」を「部曲」(かきべ)と、朝廷直属の「百姓」を「民部」(かきべ)と呼称される様に代わった。
(字は異なるが何れも呼称は「かきべ」 、「品部」「部曲」「民部」の3つを合わせて「部民」と呼称された)
これ等の「部民」が後に勢力を持ち「姓」を名乗る事になります。
ところで、「氏名」では無くこの「姓名」に付いてどの位の種類で出来たのかを調べてみると次ぎの9つの種類の「姓名」があります。
1 血縁的同族が形成する「氏」の姓名(奈良期)
2 大和朝廷の統一過程における「部の制度」の姓名(平安期末期)
3 名田制度から起こった名字の姓名(平安期末期)
4 皇族が臣下した賜姓よる「氏」の姓名(奈良期)
5 4の分家分派分流が名乗った「氏」の姓名(平安期後期)
6 4の官職、役職の一部と組み合わせた「氏」の姓名(平安期中期)
7 知行する土地の名称を名乗った姓名(鎌倉期以降)
8 武士の集団移住分封より宗家とは別の土地の名を採り分家が名乗った姓名(室町期以降)
9 江戸期初期と明治初期の苗字令により名乗った姓名
以上9つの「姓名」から成り立ちます。

但し、9は更に次ぎの分類が出来ます。
明治初期の姓名は2つに分けられます。
9-1 1と4と6の生活圏を共にした民の「絆結合」で名乗った姓名(絆結合の第3氏)
9-2 地名等自由な形で名乗った明治期の苗字令の姓名(否絆の第3氏)
江戸初期
9-3 1と4と6が生活圏を共にした家臣の「絆結合」で名乗った姓名(絆結合の未勘氏)
(4に付いては賜姓族[青木氏と源氏]と「嵯峨期弘仁五年の詔勅むの[青木氏]に2つに分けられる)
(8に付いては大日本史に多く掲載されている姓名。)
(8に付いては宗家が先祖伝来の「名字地」と「家名」と「伝統」と「子孫」を護る役目に対して宗家の統制に従わない者は除名追放が頻繁に行われた。この為に一族であっても違う姓名を興して名乗った。)

「参考 (重要)」
「賜姓」は次ぎの通りです。
1つは「類聚三代格」賜姓の皇族賜姓青木氏(弘仁格式、貞観格式、延暦格式に記載)
2つは「嵯峨期詔勅」賜姓の皇族青木氏と賜姓源氏に分けられる。

1つ目の「類聚三代格」
初回賜姓氏は8皇子皇女で内5人が青木氏(5家5流)、1人が佐々木氏の皇子で、他2名の皇女は斎王、宮王で不明死滅。
2つ目の「嵯峨期詔勅」
嵯峨期からは対象者17人 内皇子15人皇女2人で、青木氏は4人 源氏11人 他2人は比叡山門跡僧は斎王(宮王)と門跡尼に成り死滅

(注 徳川氏はこの2名皇子(門跡院僧)の内の1名が南北朝の時に三河にて托鉢中に松平氏に逗留して還俗し子孫を遺したとして朝廷に認証を求めたが2名とも「門跡院僧」に成っている史実からなかなか認めなかった。 この時源氏を16代として拡大したが実際は花山天皇までの11代) 
(注 上記計25人の皇子末裔で有る事を朝廷の認証を得て証明されなければ「征夷大将軍」になれず幕府を開けない。)

「4つの青木氏」=「鶏の卵関係」
上記の4と1の「氏名族」(2つの血縁族)と、9-1と9-3の「姓名族」(2つの絆族)から成る「2つの血縁族と2つの絆族」に付いてもう少し次ぎの事を論じておきます。
「2つの血縁族」
「2つの絆族」
「鶏」は「卵」から「卵」から「鶏」に、卵は黄身と白身はどちらにも優劣なしにて成り立ちます。
「鶏と卵のどちら」の論争は化学的に「卵が先」と判りましたが、その位置付けの「卵」(氏)の中味(血縁と生活の絆)の「構成関係」と「4つの青木氏の構成関係」と同じと考えています。

「卵(黄身と白身)の構成関係」=「4つの青木氏の構成関係」
「卵」=「氏」

そこで其の前に果たして”「氏融合」とは何なのか”と云う疑問が湧きます。
先ず「氏融合」は少なくとも「子孫存続」があってこそ成り立つものです。
この「卵の構成関係」は、「氏融合」が可能となる「子孫存続」の「重厚な基」と成っていますが、これが”「4つの青木氏」の関係にあるのだ”と考えているのです。
つまり、数式では次のように成ると考えています。

「鶏の卵関係」=「氏融合」=「子孫存続」=(「血縁」と「生活の絆」)=「4つの青木氏」
「2つの血縁融合」+「2つの無血縁融合」=「子孫存続」の条件

そもそも最低はこの判別式の「数式条件」が成り立つ事こそが「氏融合」では無いでしょうか。
上記した「3つの発祥源」と成る青木氏(390氏)は最大1365年以上の古い歴史を持つ事からこの条件が充分に醸成されて、この様な他氏に絶対に観られない「卵の構成関係」に観る様な「融合状態」が成立したのです。
この「絆結合」は最大1365年の「有品悠久の歴史」と「日常の生活」を共にし「村」を形成して代々子々孫々暮らして感情を持てばむしろ「血縁以上」となるのは必定です。
大化期から江戸期までその土地に住む「全ての民」はその「土地に対して所属」し、「氏家制度」に依って「互助社会」が成立し、その土地の「環境の中に生き抜く」のが定めです。

現在の様に「契約社会」の中でその「契約の範囲」に限り「移動を含む自由」が成立するのですが、氏家制度の社会は、それだけに「村」を形成し、その「村」の中の人間関係(絆)は身分家柄上下の関係を問わず現在から見れば想像を絶する「強力な絆」で結ばれていた筈です。
現在、我々が感じ云う「絆」の持つ意味が質、量共に異なっていたのです。

例えば、ここで「第3氏の青木氏」と使えば殆どの人は3者の間には完全な溝が横たわり繋がりを持ち得ない関係の一方を意味するものと考えますが、明治期を除いてこれが違うと云うのです。
室町期の「第3氏の青木氏」には確かに溝らしきものがあるが、その溝には他方を冷やす水が流れていないのです。溝があってそこを行き来出る状態の概念を持っていたのです。
かと云って、今で云う「自由な往行」を意味するものではないのです。「自由」の中に「けじめ」を大きく占めた「自由」なのです。
名づけて「けじめ自由」と云うべきものであったのです。つまり「けじめ社会」であったのです。
つまり、「けじめ社会」=「氏家制度」であります。これが「発展の基盤」となるのが「融合氏」であります。
この「けじめ社会」のレベルはその「環境の歴史」に左右される筈です。
「融合氏の青木氏」は上記する様に「3つの発祥源」として最大1365年もの「有品悠久の歴史」を保持している訳ですが、この環境下ではその「けじめ社会」の概念が緩やかに成り、かと云って「けじめ」が疎かになるのではなく、丁度、充分に熟成した日本酒の「円やかさ」が生まれるのです。
麹菌が加糖になりブドウ糖になり熟成してアルコールに変化してアルコールが更に細部まで分解して度数が上がるが逆にアルコールの「ビリッ」としたものが無くなり、円やかで独特な芳香が豊かになるのと同じなのです。
室町期発祥の「100年の融合氏」の場合は、未だこの「けじめ」の部分が強すぎて身分家柄上下の関係が醸成されていない状態なのです。真さしく造ったばかりの日本酒なのです。年代が過ぎると徐々に変化してよい日本酒になるのと同じなのです。
ここが他氏と異なる違いだと云っているのです。「4つの青木氏」はこの関係にあったのです。
「4つの青木氏」の関係は”熟成された「けじめ」であった”と云っているのです。

この熟成されたものが「青木氏」の「権威の守人」の穏やかな衆目を引き付ける「氏柄」を有していたのです。戦国時代を生き抜ける青木氏の「根本の氏柄」であったのです。
故に「3つの発祥源」でありながら「家訓10訓」の様な「真意の戒め」と成っているのです。
ここが同族賜姓源氏と異なっている所なのです。
「嵯峨期の詔勅」が「皇族賜姓族の氏柄」を変えてしまっていたのです。


青木氏と守護神(神明社)-10に続く。
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青木氏と守護神(神明社)-8

「美濃秀郷流青木氏の系列」

では”この美濃の秀郷流青木氏はどの系列の青木氏か”と云う問題がでます。
9系列116氏の青木氏が各地に定住していますが、116氏の中で「五つ木瓜紋」の青木氏ですから先ず美濃の中では9つ系列のどの青木氏かを確定します。
この青木氏は答えから「長沼氏系列-中沼氏系青木氏」(地理分布の詳細下記)です。
A 美濃の地理的条件と時代性の一致度
B 116氏中の「五つ木瓜紋」の位置付け
C 上記した伊勢「たいら族」と「秀郷流青木氏」
以上の3つの関係からも可能性は極めて高い事に成ります。

美濃で伊勢より側と成りますと、下記に詳細を記述しますが、現在の地名で云いますと次ぎの2つです。
一つ目は「愛知県清須市春日中沼」と云う地名があります。
もう一つは「愛知県名古屋市西区中沼町」とあります。(現在と昔との国県域は異なる)

この美濃の伊勢より西側域一帯では、この2地域に「長沼氏系列-中沼氏系青木氏」の秀郷流青木氏が幾つかの家紋を異にして集中して定住しているのです。
この場合は「五つ木瓜紋」とすると主に前者の地域と成ります。
2地域共に近接していますが、家紋での領域が異なっているのです。
この事を証明するものとして実は家紋では無く系譜から次ぎの2氏がこの「越前-美濃-尾張-伊勢東ライン上」に存在するのです。
イ 「織田氏族長沼氏」
ロ 「桓武平氏系長沼氏」

先ず、イの氏はこの「美濃-尾張地域一帯」には長沼氏族主要9氏の一つ「織田氏族長沼氏」が定住しているのです。(長沼氏に付いては研究室レポート参照)
この長沼氏は家紋を異にしていますが織田氏の血筋の入った長沼氏です。
この「織田氏族長沼氏」は「美濃平氏系長沼氏」が正しい表現と成ります。
この氏は織田氏系図に記載があります。
この「織田氏族長沼氏」は後の織田氏が系図を作った時にこの一族の事を織田氏側から命名した事によって呼称されています。
学術的には内容から「美濃平氏系長沼氏」とするべきところですが、織田氏は「越前の清盛-重盛系列」の本筋を元祖として主張している事から、一段下げた弟の教盛系列の通盛の「美濃平氏系長沼氏」とする訳には行かなかったのです。
そこで「織田氏族長沼氏」として虚勢を張ったのです。それも「系」とはせずに「族」とした自己中心的な表現にしたのです。
そして、それもこの「長沼氏」は「永沼氏」と表現されていたのですが、研究に依って「飯尾定宗」の孫「宗康」成る者が「永沼左馬進」と同一人物と学説的に判明したのです。
この者が過去の先祖の血縁した長沼氏(永承の頃1050年頃)を継承して部屋住みから脱して独立し名乗ったもので美濃に定住する一族であった事が判ります。
この者は信長の祖父信定と兄弟定宗の孫に当たります。
ところが秀郷流長沼氏はこの「永沼」を使用していないのです。
後にこの長沼氏系である「飯尾宗康」が「永沼左馬進」を名乗る際に織田氏側がある種の虚勢で敢えて「永沼氏」とした事になります。この事から学術的には「美濃平氏系長沼氏」と成るのです。

次ぎはロの氏の「伊勢平氏系長沼氏」或いは「桓武平氏系長沼氏」です。
これは諸に「氏と地域性」を明確に指定しています。
つまり、明らかに「美濃平氏系長沼氏」なのです。
この長沼氏は「新撰会津風土記」に記述されています。
会津地域一帯に分布していた長沼氏です。
呼称は「たいら族」、「京平氏」を指定し中立的に学術的な呼称を採用しています。
地域を指定していませんが、会津から判断して長沼氏と血縁できる「たいら族」は美濃平氏と成ります。
この血縁の時期は明記していませんが、この長沼氏は鎌倉期直後に会津に来たと記述されていて、その前に”何処かの「たいら族」と血縁して赴任して来て土地の豪族と成った”と成っています。
さて、その”何処か”ですが、下野国結城長沼地区(元祖は長沼五郎家政と解明)である事が文脈から判ります。
この時期に「たいら族」の血筋を得ていた事を意味し、この家政の先祖は伊勢東-美濃-尾張の地域一帯の住人である事が判明します。つまり、この地域の「たいら族」は前記した様に「美濃平氏」だけです。
この2つの「織田氏族長沼氏」と「桓武平氏長沼氏」は結局は「美濃平氏長沼氏」なのです。

前記した様に伊勢北部伊賀地方の「たいら族」の宗家は「北-東域」に勢力を伸ばそうとしていた事がよく判ります。
つまり、「長沼氏系列-中沼氏系青木氏」の秀郷流青木氏の考証は「家紋」と「地理性」と「2系図」から長沼氏本家が率先して長沼氏系列の美濃域の青木氏を援護して美濃平氏との関係を維持しようとしていた事が良く判るのです。
家紋から観て、この2系列の長沼氏からは出て来ないのは徳大寺氏の「四つ木瓜紋」との血縁をしていない事からです。依って織田氏の「五つ木瓜紋」と繋がらないのです。
恐らくこの2系列の家紋は「揚羽蝶紋」を綜紋とする平家一族の家紋群と成ります。
何れも男系継承に依って長沼氏の歴史を持ちながらも平氏族の系列に入った長沼氏であるからです。

「美濃平氏の実態」
ではこの2系列の”この「美濃平氏」とは一体何者”と成ります。
前記した様に滅亡前の「平教盛-通盛系列」の支流平氏である事を論じましたが、更に詳しくは、つまり、織田氏の「美濃平氏」には上記した様に最近判別した資料からは次ぎの「3流」ある事が判っています。

織田氏が主張する搾取偏纂の資料ではなく別の信頼できる資料から観ると次ぎの様に成ります。
「美濃平氏の3つの流れ」
1 清須地域による平家一族 (Aの地域 平常昌)
2 岩倉地域による平家一族 (Bの地域)
3 平左馬頭敏隆を祖とする平家一族(地域不明 平敏隆)

この1、2、3の内、信長は2の系列と云われています。
この「3つの集団」が個別に活動し農兵となり仕官口を求めて越前まで次第に移動し、そして遂に1の集団の「平常昌」なる人物が首領として働き先に仕官口を切り開いたのです。

重要: 常昌は斯波義重の家臣に成る-常昌の子常勝が尾張守護代に成る。

これに伴い2および3がこの配下に入った事に成ります。
1、2、3を加えれば150年間の末裔の枝葉の拡大で大変大きな集団になった筈です。
彼等の末裔数で最低は500とその近隣村の農兵を加えれば最大1000人の兵と成る可能性はありますから、凡そ騎馬将20と云う凄い集団であった筈です。
仕官叶えば「即戦力」があり任せられ直ぐに上級家臣団に成れる力を持っていた筈です。
足利氏の斯波氏であっても勢力拡大期の時期ですから喉から手が出るほどの集団であった筈です。
「兵数」はもちろんの事、「即戦力」に大いに魅力があったと考えられます。
事の次第によっては全国の「たいら族」の残兵に号令を掛けて集めれば一戦国大名の力はあった事に成ります。
この勢力拡大中の斯波氏の家臣に成った人物は「美濃平氏」の初代と観られる人物から9代目の「平次郎四郎常昌」と成っています。
(1300年頃)恐らくは尾張の守護代(常勝)に成った1339年には全てそれだけの家臣団を養える力が付いた訳ですから西国から集めたと考えられます。
(他に後述する尾張尾藤氏系長谷川氏の系譜から証明できる)
この人物(常昌)は信長より10代前の人物であり、この1の美濃宗家は代々隣の総宗本家筋の伊勢守(伊勢北部伊賀地方の守護防御を命じられていた事を示す 清盛の弟教盛の系列子孫であったから信頼があった)であったことが記述されていますので「美濃平氏」であった事を裏付けます。
この人物から9から10代前は丁度1150-70年頃で「平家の最盛期」で150年間程度前と成りますので、それより少し前の時代(1025)の人物まで読み取れます。
上記の検証と150年は一致します。

(参考 長沼氏はこの美濃で青木氏と共に懸命に「美濃平氏」と「美濃源氏」とのバランスを取ろうとして「美濃土岐氏系流長沼氏」が同時期に発祥しています。この美濃地域は如何に微妙な関係地域にあった事が物語ります。)

(参考 この地域の分布 伊勢-美濃-尾張の伊勢よりにも秀郷流青木氏が、美濃三河より東側にも4地域に秀郷流青木氏が、中央部域にも秀郷流青木氏が家紋を異にして存在します。当然に尾張-三河-駿府域にも秀郷流青木氏の定住地があります。 片喰紋など7-8の家紋類群)

この美濃の木瓜紋類の秀郷流青木氏は7つ青木氏が家紋から観て、徳大寺氏一門との血縁関係を持っているので、普通ではないかなり親密な重複で同族血縁・縁者関係にあった事を物語ります。
(氏家制度の中では特に珍しい事ではない。)
この家紋から観て徳大寺氏と秀郷流青木氏とは親密な親族関係にあった事が判りますから、「四つ木瓜紋」か「五つ木瓜紋」の秀郷流青木氏と「たいら族」(京平氏・桓武平氏・伊勢平氏)の「美濃平氏」との血縁があった可能性がここでも極めて高い事に成ります。
しかし、「美濃平氏」側はどの程度の支流分流分派であるかは判別できませんが、「阿多倍一族一門」「たいら族」の東側の最前線ともなれば分派では済まない筈です。
一族の命運に関わる地域であり、清盛の弟教盛の末裔通盛に委ねた事から観て、恐らくは支流の範囲であろう事が判りますし、美濃源氏とのバランスの中で東側前線を護るには弟しかないでしょう。
もしここが破られたら伊勢伊賀の本拠地が前線に成ってしまい、又伊勢神宮のお膝元で争い事の問題を起こす訳には行かない筈です。
源氏、藤原氏、青木氏を巻き込んだ大事に繋がって行く筈です。越前からのライン上にあるこの美濃は護らなければならない一線であった筈です。戦略上要衝の地であります。
だから、美濃がバランスを崩して美濃源氏が動いた時、すぐさま大軍(富士川の戦い等)を動かして騒ぎの源氏を大きな犠牲を犯してでも潰しにかかったのです。そして支流(教盛-通盛)を護る為にもそれを清盛の弟(教盛)の子供(通盛)にやらせたのです。
(越前南-美濃・尾張西一帯の平氏は通常は「美濃平氏」と呼称される 地名も遺されている)

そこで美濃の秀郷流青木氏が現在の愛知県清須市春日中沼地域に定住していた事にと成りますが、その理由はこの木瓜紋の家紋13を観てみると判ります。
使用しているこの文様の地理性は越前(南)-美濃-尾張-伊勢東のライン上域に分布しています。
これは室町守護大名の足利氏系斯波氏の勢力圏(11国)と重複します。
つまり、鎌倉期末期ごろから斯波氏は足利氏の為に勢力拡大で各地に奔走します。
1339年頃が斯波氏の勢力の絶頂期で尾張など2国が転がり込んで来ます。当然に急に守護兵が必要となります。その結果、実力、即戦力のある織田氏を取り立てて尾張守護代に据えたのですが、ところが斯波氏の領国運営の欠点は、一族は京に居て陸奥を始めとする11国に守護代を置いて任し放しにしたのです。この事が原因して最終それが実力が付き主家の云う事を聞かなくなり「下克上」が起こり滅亡したのです。
斯波氏はつまりこの「守護代方式」の欠点に気がついた時にはもう遅かったのです。必死に奪回しようとしますが事は遅し、結局、一番可愛がっていた織田氏に逃げ込み最後は尾張の織田氏に面倒看て貰っていたのです。しかしその織田氏も1554年に謀反します。
織田氏も守護代に成った事から当然に急激に拡大した為に兵を揃えなくてはなりません。
越前(南)-美濃-尾張-伊勢東のライン上域に分布している「美濃平氏」の末裔(3集団)を早急に呼び集めなくてはなりません。
本家、分家、支流、分派、縁者とそれぞれのその村の農兵等も含めて集めて尾張国を戦国時代から護らねばなりません。
一国を護るには常備兵として50騎は最低必要と云われていて、戦い時はその戦いにもよりますが国に依っては100騎は必要とされていてこれは周囲から農兵を集めて来るのです。

この様にして、「美濃平氏」の末裔は、越前-美濃-尾張-伊勢東域に「五つ木瓜紋類」が分布している事は斯波氏の動向に合わせて参戦しながら、仕官口を求めて同じく奔走して仕官口を得て来たことを示す事になります。その中の一つのグループが越前織田郷で(1の常昌)仕官が叶った事を意味します。
その時が丁度1300+30年代となります。このグループが尾張の守護代になるまでに織田一族はこの経路を辿って来た事を示しています。
その為に本家と分家と支庶流のこの3家紋類が分布したのです。現実に織田氏は大別すると3流、細分すると5流と成っています。
そもそも「五つ木瓜紋」の類似紋の元と成る藤原秀郷流青木氏の場合はこの移動経路を辿っていないのです。
秀郷一門は平安期の旧来からの勢力圏が鎌倉幕府や室町幕府に拠って一時は混乱しますが、多くほとんどは「本領安堵」されていたので、仕官口を探して参戦して奔走すると云う経緯を辿らなかったのです。
依ってこの越前から伊勢東までのライン域での分布は「美濃平氏」の末裔等の織田氏3流等の行動分布に一致するのです。この木瓜紋の分布が織田氏の移動経路と成るのです。
( 参考 伊勢の秀郷一門伊藤氏もこの文様です。)
つまり、そもそも藤原氏等の「融合氏」族の出世形態と、織田氏等の「姓氏族」等の出世形態が根本から異なっているのです。
秀郷一門は鎌倉期には失職しますが、戦いに依って失職の憂き目を受けた訳では無く、依然として24地方の勢力は保全されていますし本領安堵されています。
仮に失職したとしてもその土地に新たに守護・地頭として赴任して来た姓氏等の家臣に積極的に勧奨されて成ると云う云わば「勧奨固定型」で、ところが「姓氏」は「移動行動型」と云う事に成ります。当然に家紋も前者は「枝葉伝播」と成り、後者は「移動伝播」が主流と成るのです。

ここで恐らく、確かに150年間の「伝統継承」で「五つ木瓜紋類」(藤原北家筋)である事は確かであるので、織田氏は上記1の藤原説と当初はしたものの上記の様にこの搾取偏纂には無理があるとして、今度は「美濃平氏」側の2の平氏本筋論を引き出して来たが、当時の社会の「家紋考証力」が低く始祖を特定出来ずにこれも1と同じく搾取偏纂をしてしまった事に成ります。
要するに織田氏が主張する1と2の説は論理的に間違いは無いのですが、始祖とする人物特定に搾取偏纂をしてしまった事に成るのです。
上記する様に美濃-尾張の木瓜紋類の秀郷流長沼氏-中沼氏系の秀郷流青木氏(青木氏116氏主要9氏の一つ)であり特定する事が出来るので間違い無い所です。
一方、又、「美濃平氏」支流として、且つ始祖も上記する様に時代考証と家紋考証から通盛系の支流末裔である事も特定出来るのです。
「長沼氏-中沼氏系青木氏」には他に片喰紋と剣片喰紋と沢瀉紋の秀郷流青木氏が定住して居ます。
愛知県清須市春日中沼と愛知県名古屋市西区中沼町の地域に存在します。
この両氏の人物特定はどの年代のところを以って始祖とするかの問題もありますが、1150-70年代の系譜人物で特定が可能と考えますが本論の目的が異なる為に個人情報となり敢えて指定しません。

  「類似7文様の存在」
さて、次ぎの問題は「五つ木瓜」の文様の判別困難な「類似7文様」が何故存在するかです。一部上記しましたが、これを念の為に付加して説明して置く事で確実な考証は観えて来ます。(下記)

B 長谷川氏と美濃平家(織田氏)
Bの説から、直接に「織田木瓜紋」との血縁族を持っている事に成りますが、問題は何時血縁したかその時期が問題です。
”a「織田木瓜紋」と成ってから長谷川氏と血縁時期なのか”
”b「織田木瓜紋」とした長谷川氏の家紋の呼称の時期は何時なのか”
以上と成ります。
平家の支流「美濃平氏」系(尾張)織田氏が「織田木瓜紋」とした後に血縁したとなれば室町期であり本論から除外となります。
しかし、この家紋が「後呼称」の系譜とすれば、青木氏を長谷川氏に置き換えての経緯とすれば青木氏よりより高い可能性が出て来ます。ただ青木氏も「五つ木瓜」紋と血縁していますのでこの「五つ木瓜」紋が「織田木瓜」紋とするかしないか問題はありません。青木氏の可能性は美濃と云う地理性で1150-70代の仲介の史実でも確定していますし上記した事の様に男系継承跡目により家紋変異が起こりますので一致します。
しかし、「たいら族」との関係では長谷川氏の「美濃」と云う地理的要素が青木氏に比べて可能性が低い事が揚げられます、その他は青木氏と同等です。依って長谷川氏の血縁性の必然性が無く成ります。
そこで、念の為に「後呼称」の件を検証しますと、実は後世の「織田木瓜」又は「織田瓜」紋は「後呼称」なのです。これには特別な事情があります。

「織田木瓜の後呼称」
正式にはこの家紋は上記した様に総じて「5瓜に唐花線陵紋」が正しいのです。
ところが、この「五瓜に唐花紋」には素人で判別困難な紋が7文様もあるのです。正直殆ど判別は出来ません。
そこで、その「7つの家紋」(五つ木瓜紋)を使っている氏名をその家紋の前に付けて後で呼称するように成ったのです。
その判別はその「線陵の太さ」と「背景の黒の多さ」に依ります。と云われても直ぐに見分けられない判らない範囲です。
依って、徳大寺氏の家紋も「木瓜」紋とはせずに正式呼称は「四瓜に唐花線陵紋」と呼称します。
そもそも上記した様に瓜や木瓜(ぼけ)を紋様化したものではないので、「唐花紋」が正しい呼称なのです。依って、長谷川氏に付いては「織田木瓜紋」は後呼称なので地理的要素だけの問題です。

美濃には秀郷一門の戦略的な住み分けに依って長谷川氏が少なく、この辺域一帯は上記した様に兼光系3氏(青木氏、長沼氏、永嶋氏)主体ですので、文行系進藤氏と同様に長谷川氏は関東北陸東北域が主体と成ります。従って、長谷川氏との関係は美濃平氏(織田氏)の行動域から判断すると血縁の必然性は無く可能性が低い事に成ります。
平安期「たいら族」の圏域は、当初は関東の常陸と下総域まででしたが、上記した事件より西の美濃域まで引き下がったのです。この地域に定住していた平氏を「美濃平氏」と呼ばれます。
まあ、血縁ともなれば文行系の権域まで伸びる事は問題はないと考えられますが、”平安期末期30年の間にそれがあり得たのか。”と云う疑問が湧きますが先ずはその必然性が無いと考えます。
ところが、ただ一つ大きい当時の可能性が認められるのは「京域での血縁」とすればこの30年の間には充分に考えられます。
秀郷流文行系長谷川氏は北家族秀郷一門の主要5氏の一つですので一門は秀郷流青木氏と同様に「京」に赴任して詰めています。
「圏域の安定や拡大」を目途として地理的に血縁するのではなく、「権力の安定」を図る目的で行った京域での血縁であると考えられるのです。
経緯としては次ぎの様に成ります。
京に居た長谷川氏が「美濃平氏」と養子縁組で血縁をした。しかし、嫡子が生まれず男系跡目が叶わず男系の養子先の家紋の「五つ木瓜紋」「美濃平氏(後の織田郷の土豪美濃平氏支流末裔の氏)」の長谷川氏が新たに発祥した。ところが「美濃平氏」が滅亡して飛散し越前-美濃山岳部に逃げ込み「物造りの技能職」で糧を凌いだが、時期を得て再び美濃-越前域ライン上の土豪となり勢力を盛り返して尾張守護代と成って家紋を上記した経緯で一部修正して類似変紋で「織田木瓜紋」を独自に作り上げた。織田氏の天下統一期に乗じて長谷川氏のこの末裔が「織田木瓜紋」に戻したと考えられます。だから13の家紋のある中で長谷川氏だけ「後呼称」に成っているのです。
但し、この場合は「五つ木瓜紋」の「美濃平氏」が既に発祥していた事に成りますので、青木氏と同じく長谷川氏の中で「四つ木瓜紋」から「五つ木瓜紋」が発祥していた事に成りますが、長谷川氏の中に「四つ木瓜紋」は有りませんので、この仮説は地理的要素と合わせて無く成ります。
結局は青木氏との血縁以外に必然性は無く成ります。

 「美濃での生き延びられた背景」(「美濃秀郷流青木氏の背景力」)
ここで問題なのは、この「たいら族の一部の平氏」が紀州、四国、北九州の地域にに逃げ込まずに、”何故、美濃と云う主要衝の土地で残り無事に生き延びられたのか”が疑問です。
何らかの「背景の力」が働いていなければ少なくとも鎌倉幕府からは逃れて「美濃」で生き延びる事は不可能です。

だとすると、その「背景の力」は血縁した鎌倉幕府の家臣の中でも厳然として幕府に対する威圧勢力を保持していたのは藤原秀郷一門と言う事に成ります。ではこの地域にその勢力を持っていたのは紛れも無く長谷川氏では無く青木氏と云う事に成ります。矢張り地理性を見逃す事は不可能です。
秀郷流青木氏であれば全く問題はありません。
この美濃-尾張に勢力を張っていた秀郷流青木氏は、「系列9氏を持つ中の長沼氏」の血筋を引き継いでいる「秀郷流兼光系長沼氏系-中沼氏青木氏」と、更に東側域にその「支流中沢氏系青木氏」とが主流と成ります。
この青木氏の縁者一族の保護が有ったからこそ「美濃平氏」の支流の「織田氏3集団」が1300年までの間150年間を戦略的に生き延びられたのです。
他の逃亡域では3集団も終結していればいくら山間部に隠遁していても追及の手はめだっ事で免れぬ筈です。つまり背景力を意識して事が彼等の行動が幕府に対して大きくならなければ”この美濃に付いては戦略上鎌倉幕府は観て見ぬ振りをした”と成ります。幕府としても他の逃亡地域と違い藤原秀郷一門の「袋の鼠戦略」にはまる事は避けたいところです。
つまり追求の手を緩めて「坂東八平氏」は藤原氏北家一門の目色を伺ったと成ります。まして秀郷一門の「第2の宗家」ですから指令一つで動きます。まして「116氏護衛軍団の武力専門集団」を相手にするのです。一豪族の武力と桁が違うのです。
家紋から観れば「四つ木瓜紋-五つ木瓜紋の政治的背景とその戦略」(13家紋の威力)がちらついていた筈です。もしそれを鎌倉が犯して強行突破した場合何が起こるかです。それは当然に前記した「袋の鼠戦略」に引き込まれる可能性があったからです。他はこの「袋の鼠戦略」と「藤原秀郷一門の勢力圏」から外れていて鎌倉はつぶれる可能性は無かったのです。
その意味でもこの秀郷一門の青木氏と長沼氏の血縁戦略は利いていたのです。美濃の源平籐と勢力バランスと共に後の鎌倉幕府に対しても、源氏は滅びて立ち上がれなくなりましたが美濃平氏の生き残りには大きく影響していたのです。その証拠があります。
それは「伊勢北部伊賀地方」の「たいら族」の本拠地です。この地域の平氏は逃亡をしなかったのです。
その理由は恐らく次ぎの事に成ります。
一つはここは藤原秀郷一門の袋の鼠戦略の圏域末端のところです。
二つは伊勢の「不入不倫の権」の国で朝廷を重視していた鎌倉幕府は手が出し難かった事。
三つは賜姓青木氏の武力は無視できる範囲だがその「青木氏の経済力」と「伊勢シンジケートの影響力」が大きかった事。
「参考 シンジケートの威力」
(現に鎌倉幕府軍と楠正成の伊勢シンジケート作戦で対10万軍の勝利がある。この時に伊賀兼光は楠正成に合力している。「元弘の役」)
(天正の乱の丸山城の戦いでは2つの伊勢青木氏が率いる伊勢シンジケート作戦でも織田軍に勝利する。)

結局は、伊賀地方は伊賀和紙と伊賀忍者で知られ生き残り、美濃は殖産と織田氏で生き残った事で知られる事に成ります。
そして、皮肉にもこの生き残った2つの「たいら族」は最後は「天正の乱」の戦いで相い戦うことに成るのです。この時、更に皮肉にも伊勢賜姓青木氏と伊勢秀郷流青木氏は共に伊賀を助けます。
この段階で美濃と伊勢の秀郷流青木氏は最早一人歩きした制御の利かなくなった血縁族の「美濃平氏」の織田氏を見放したのです。
しかし、行き着くところは”伊賀は負け生き残り、織田氏は勝ち滅びる”の宿命を負っていたことに成ります。(青木氏と戦った時の大将織田信雄だけは負けた為に信長から追放されて子孫を残す)

この「2つのたいら族」は「2つの青木氏」と大いに関わりその資は「生きる糧」を「殖産物造り」に求めたからなのです。方や和紙であり、方や陶器・家具(家紋から判断 仕官するまで期間150年)であったのです。

他の地域での「たいら族」掃討作戦は執拗に行われた事が歴史史実と逃げ込んでいる山間部から判りますが、伊勢ではこの3つが働き動かず、美濃では越前-美濃間では隠遁逃亡はしたが逃れられ上記する秀郷一門青木氏の「背景力」が作用していたと考えられるのです。

先ず美濃平氏論が間違いはないと云う事と成りますと、後の信長が過去の恩義を忘れて秀郷流青木氏と繋がりを持つ皇族賜姓青木氏を「権威への挑戦」として倒しにかかった事に信長の序しきれない性格(共和性への信念)が垣間見えてきます。
どうしても「3つの発祥源」の「権威の象徴」の「青木氏の存在」と「伊勢神宮の政治的権威」の存在は比叡山と同じく見逃す事が出来ない「挑戦」であった事に成ります。
「4つの青木氏」の関係を持つ側からすると”「伊勢伊賀の戦い」で「たいら族の宗家」を縁浅からずの隣人として助けたのに、更には昔の宗家を攻めるとは恩知らずめ”となりますが、そこがこの世の諸行無常です。
まぁこれが前記した「後漢の民」の阿多倍一族一門の「民族氏」の持つ遺伝子的な潜在的思考原理です。
この家紋考証から「藤原秀郷一門とした経緯」と「美濃平氏とした経緯」の2つが観えて来ます。
秀郷一門とする経緯は論理的にありえませんが、家紋とする「五つ木瓜紋」の「7つの文様」の経緯から観れば関わり具合は否定出来ません。しかし「秀郷一門とした経緯」は「第2の宗家」青木氏として室町期までも一族管理されていますので有り得ません。
家紋から観て関わっている事は事実ですが要は「人物考証」と「時代考証」に矛盾が生まれるのです。また、織田氏系譜から観てその時期の人物を「某」として記し、その後の人物は一門の中に無くその人物の出自は「遺子」(系譜外の不明落子)と成っています。
出来るとすると「美濃平氏とした経緯」の方が可能性があります。確かに「出自」には無理があり「人物」は間違えているが「時代考証」、「地理考証」には間違いはありません。
「人物考証」は恣意的、作為的に違えたのでは無く、設定する際の「考証力」の不足から錯誤したものと考えられます。この部分を修正すれば矛盾は完全に払拭されますので、「美濃平氏とした経緯」は正しいことに成ります。藤原説から平氏説に変更した事には問題は無い事に成ります。
要は「錯誤修正」で収まるのです。

 「類似7文様」
そこで「五つ木瓜の7文様」の件ですが、この元は長谷川氏のところで書きましたが、四つ木瓜の徳大寺氏の支流紋として「五つ木瓜紋」が生まれたものなのです。これが「何らかの理由」(下記)にてその支流関係を表現する為に線陵の太さと黒の領域差で区別したものです。
それが7つ産まれたことに成ります。その一つが上記の経緯から織田氏はこの支流紋「五つ木瓜紋」の線陵違いを付けて「織田木瓜紋」を案じた事に成ります。
元の徳大寺氏の「四つ木瓜紋」から秀郷流青木氏支流の「五つ木瓜紋」は次ぎの家紋と成ります。
1「五瓜に唐花」紋」(主紋)
2「変わり五瓜に唐花紋」
3「陰五瓜に唐花紋」
4「中陰五瓜に唐花紋」
5「石持ち地抜き五瓜唐花紋」
6「丸に五瓜に唐花紋」
7「織田木瓜紋(五瓜)」
別枠「五瓜に桔梗文」

1と2と7は判別困難でこれが更に変化している
3と4は陰紋ですが2つは判別困難
5は丸付き紋で判別が出来ますが1と2と7にも丸付き紋があり判別は困難
別枠は気が付かなければ1と2と7と判別はやや困難

結局、織田氏は室町期の初期に1に対して「美濃平氏」として藤原氏の家紋系列から離れて独自性を出す為に7の文様としたと観られます。
しかし、この様に検証を深く進めると意外なところに「青木氏との関係」が出てくるものです。
故に通説の検証には疑問が多くあるのです。
この様に検証を多面的に進めると青木氏と関わった「信長の生き様」即ち「たいら族」がより鮮明に見えてきます。

この徳大寺氏は下記の経歴から策謀家として有名な一族で、平家との権力保全の為に近づいて行動した史実が多く残っているのです。この事から可能性から観て地理的要件ではなく、京に於ける長谷川氏との血縁の可能性やあの手この手を使い策謀していた事がよく判る様に成ります。
筆者は「秀郷流青木氏」(五つ木瓜紋)と「長谷川氏」との間での養子縁組の血縁が行われ「五つ木瓜紋」に成ったと観ていて、その「五つ木瓜紋」に成った長谷川氏が今度は「たいら族」(美濃平氏)との血縁をしたと観ているのです。徳大寺氏などを介してかなり政略的な血縁を早期に合作したと観ています。
本来の家紋掟に拘らずに”長谷川氏に遠縁の養子の分家を「美濃」に作りそれを更に養子に出す”と云う事を実行したのです。当時には良くある政略結婚方式です。

つまり藤原氏北家秀郷一門の兼光系と文行系から主要氏が代表して「たいら族」との血縁を図ったと観ていて、特に「たいら族」支流末裔の織田信長に関するルーツは文行系長谷川氏にも家紋考証通りにあったと観ています。
青木氏に付いては検証通りで兼光系中でも長沼氏が猛烈に青木氏を補足していた事でもより明白に成ります。

「参考特記 長谷川氏の仮説と検証」
徳大寺氏の経歴を記録して置きますが、政治を自らの手で動かしている事が判ります。
この人物と同族と云えど秀郷一門の「第2の宗家」として繋がり平氏とのバランス関係を美濃で保つには絶対不可欠な人物であった事が云えます。この事から既に先に起こる「源平の戦い」を予想していていてトップの政治家として藤原氏を介在させて何とか防ごうとしていたのです。
ただ地元美濃の平家と血縁する事のみで争いの無いバランス関係を保持する事は無理で、その大元のところ「政治の場」との関係(清盛のたいら族との関係)を血縁保持してこそ成せる業であります。
下記の経歴から明らかに為政者の徳大寺氏はこの「美濃の状況」に対して何かを合策した事は十分伺えます。関東下総から引き上げてきた時から美濃は乱れる争いが起こると見込んでいて何とかおさめる手立てを講じる様に考えて行動している事は読み取れます。又、為政者トップにいる者としてしなくては成らなかった筈です。それが既に青木氏と長沼氏といちぶ永嶋氏もは動いている中でより新たな関係を敷く為にも長谷川氏の血縁の策であったと観ているのです。
つまり、藤原秀郷一門が美濃の周囲を固めている中で、長谷川氏とも血縁関係を作り関東東北関係にも押さえの網を張ったのではないでしょうか。それが、家紋掟による「五つ木瓜紋」では無く「織田木瓜紋」と明確に後呼称で血縁の深さを印象付けたのではないでしょうか。
「後呼称の時期」
そうすると問題は「後呼称の時期」が何時なのかです。
「織田木瓜紋」を作り上げた時期は1300年の斯波氏仕官が叶った時期から織田氏が尾張守護代に成った1339年までの少なくとも40年間の間と成ります。それまで滅亡逃亡期より150年は家紋に関する必要性そのものが無かったのですから、又逃亡中に血縁する事は無い訳ですのでこの期間は外すとして、この40年間に果たして血縁する必要性があるかの問題ですが無い筈ですし京に於いて徳大寺氏の政略はない訳であり鎌倉幕府に成っているのでそのものは起こりません。
そうすると、「滅亡前の平安末期」か「40年後の後呼称」と成ります。
「滅亡前の平安末期」では「織田木瓜紋」が存在しない筈です
下記の経歴から「四つ木瓜紋」から「五つ木瓜紋」の分家が発祥する程度が限界ですので「織田木瓜紋」は有り得ません。この段階では未だ美濃平氏(織田氏)の家紋は「五つ木瓜紋」の範囲です。。(織田姓は1300年まで未だ存在しない) 従って、「40年後の後呼称」と成ります。

「美濃平氏」が再び行きを吹き返して斯波氏に仕官し家紋を必要と成り守護代に成った時期に類似紋として織田木瓜紋を作り上げた。これを観て、美濃平氏と血縁(養子)した長谷川氏の「五つ木瓜紋」の一族は天下を取りそうな勢いの血縁先の縁者の「美濃平氏の織田氏」に合わして一族である事を誇示する為に「織田木瓜紋」に修正したと見られます。そして、後日にその末裔が呼称を織田木瓜紋と呼称するようにしたと考えます。
上記した様に徳大寺氏の政略に依って「五つ木瓜紋」の美濃平氏に跡目養子に入った長谷川氏の者が平氏滅亡を期に実家先を頼り長谷川氏に匿われ一時150年程度を長谷川氏として生き延びるが、「美濃平氏」の宗家が斯波氏に仕官し織田氏を名乗り息を吹き返した事から、「美濃平氏」の跡目養子の末裔一族は再び織田氏に合流したのです。つまり、守護代とも成れば縁戚関係を呼び集めて信頼できる縁戚家臣団をつくる必要性が出ますので、この時、縁戚の長谷川氏は旗下に入ったのではないかと考えます。各地から生き残った平家一族一門を呼び寄せたと考えられます。この中の一つが「美濃平氏織田氏族長谷川氏」の一団ではなかったかと考えられます。そして合わせて「織田木瓜紋」にして一族縁戚である事を誇示したのではないでしょうか。

111氏もある膨大な長谷川氏の資料の中から次ぎのこの仮説を立ててこれと同じと観られる織田木瓜紋とする系譜が必ずある筈として忍耐強く調べた結果、これを発見する事が出来ました。
(「調査」はより「現実性のある仮説」を立てる事が発見に結びつく秘訣なのです。)
この仮説とする長谷川氏は尾張の尾藤氏族長谷川氏である事になります。この「流れ」は秀郷7代目左衛門尉公澄ルーツの末裔となります。この公澄の孫の知昌-知忠より10代目宗重の時に長谷川氏を別にこの宗重長谷川氏を発祥させたものです。
この宗重の枝葉庶流(丹後)15代目宗茂にも別流長谷川氏を発祥させているのです。
この様に長谷川氏は各枝葉のところから何らかの事由により長谷川氏を発祥させている一門の中では特長を持っているのです。
その長谷川氏概流としては7つになるものと観られます。
織田氏、或いは美濃に繋がる長谷川氏は下記の流れのみです。
この流れの末裔守知よりの後は枝葉国であり、矢張り美濃の東隣の尾張(尾藤氏)からの宗重の長谷川氏を美濃に作り発祥させ、上記する「美濃平氏の政略跡目養子」を図ったと考えられます。

実はこの流れに仮説を考証する現象が起こっているのです。
この尾藤氏族長谷川氏系譜には「宗重」から「宗的」までの間の世系が本図から消えているのです。この間年代的に19-20代程度以内と成ります。"消える"というよりは"外す"が表現としては適切で、この尾張尾藤氏の系譜の本ルーツより外し、「宗重」の前の「宗継」で止め、別書で「宗重」を記しそこからこの流れを別に沿えているのです。
この「世系中断」は秀郷一門361氏の中に比較的観られる現象です。恐らく一門はこの仮説の様な「政略血縁」の手法を多く用いていたと観られます。
氏家制度の氏の武家での世襲の仕来りで「嫡子」外は「部屋住み」と成り、分家を興すか、養子に出るか、跡目養子に出るか、別家を興すか、部屋住みで終わるか、僧侶に成るか、武士を捨てるか等に迫られます。当然、藤原氏の場合は家柄が良い為に「政略的な血縁」と云う「道具」に使われる可能性が高い事に成ります。
この「宗重」は次男「部屋住み」で美濃域(場所不明)で藤原秀郷一門の尾藤氏から長谷川氏を継承して興すと成っています。
添書に特定年代が明記している「秀仁」(1312)より7代目前です。つまりこの間(175-196年間)とすると(1137-1116)年頃と成り、消えているのはこの10-20年前の頃に成りますので15として設定すると、1131-1151年頃から「世系中断」と成ります。
この「美濃平氏の政略跡目養子」と成った仮説時期との時代考証が年代一致しますので「美濃平氏の政略跡目養子」の長谷川氏を興したのは「宗重」であると観られます。経緯が完全一致します。
そして上記した徳大寺氏の政略の分家を作った初代は「宗重」で、養子本人は「宗重本人」かその子供の「宗有」が「美濃平氏の政略跡目養子」と成った事に成ります。筆者は「宗有」と観ています。
平氏滅亡後、長谷川氏を頼って逃げこの「系譜の有様」の長谷川氏を遺す形式を採っている事からその長谷川氏は「宗重」のところであるのが自然です。あくまでもこの長谷川氏は美濃の「平氏」族なのですから本来は「平氏」を名乗るが順当ですが、現実、あくまで逃亡なのですから名乗れる事は有り得ません。「長谷川氏」としているのはこの地域では美濃の実家の「宗重」のところしかありません。尾張の尾藤氏と成っていません。
(系譜は本家筋の尾藤氏の中にありますが 尾藤氏族長谷川氏系譜)
依って、「宗有」と状況判断から自然に成り得ます。
完全に時代・地理・経緯状況から系譜はこの仮説に一致します。

又、この流れの長谷川氏の「添書」にある年代からも織田氏の斯波氏への仕官年代とも一致します。
この「宗重」・・「宗的」の世系を本図から外している事は事実なのですが、しかしこの事の表示は系譜上には別書きし「添書」に"宗重―宗的まで世系から中絶し外す"と記されているのです。
これは「美濃平氏の政略跡目養子」に成った事から来ていると考えます。
もし「宗有」が養子であれば「宗重」の長谷川氏は「中絶」と成ります。
故に添書の文と成ったと考えます。
しかし平家滅亡により「宗有」か「有経」が再び藤原一門に帰って来た事で元の長谷川氏を継承した事に成ります。この時「宗重」が存続していたかは不明ですが、この間30-50年ですので「宗重」長谷川氏は生きていたことは充分に考えられます。当然に「宗有」も存命であった可能性があります。そして後、「美濃平氏」が仕官するまでの150年間は長谷川氏で生きた事に成ります。
添書の如く「秀仁」が織田氏本家に1312年に今度は「美濃平氏」として仕官した事に成ります。

平家滅亡からこの上記の「美濃平氏の政略跡目養子」の一族は本家尾藤氏-長谷川氏(駿河-尾張 下記移動経路)を頼って150年間生き延びたとしていますが、この間、尾藤氏族の長谷川氏の系譜の中にこの一族を「一つの流れ」として扱い追加され、その後の末裔は150年間も生活を共にして来た経緯から「美濃平氏族」として扱うのではなく「長谷川氏」として扱われたのだと考えられます。
その時に形式上平氏である事からこの「宗重」・・「宗的」を一応は系譜から消してその系譜の位置に添書で遺したと考えます。
つまり、この「宗重」から「宗的」までが「美濃平氏の政略跡目養子」の一族の系譜と言うことに成りますが、平家滅亡により長谷川氏に逃げ延びて難を逃れた。その後、「秀仁」-「宗仁」の信長仕官まで別系譜の形を保護した尾藤氏族長谷川氏側では採ったものと考えます。
故にこの「美濃平氏の政略跡目養子」の「流れ」の末裔の「宗忠」が1340年頃(尾張の守護代)尾張織田氏本家に仕官しています。これも仮説と一致しますし、「宗仁」も信長に仕えています。
系譜の添書にありませんが、「秀仁」(1312)も美濃平氏が斯波氏に仕官した時期に一致していますので織田氏を名乗った際に戻ったのではないでしょうか。それが以後「守知」も信長に仕えています。その後はこの末裔(秀真)は秀吉の家臣に成っています。

「宗重長谷川氏系譜」
秀郷-・7・-公澄-・?・-知昌-知忠-・10・-「宗重」-・?・-宗有-・6a・-秀仁(1312)-「宗忠」-満兼(1368)-・6b・-宗的-宗仁(1578)-守知-正尚-守俊・

(・・)は添書に明記
・6a・有経-秀光-秀宗-宗昌-宗郷-秀久-
・6b・秀知-基昭-知経-宗茂-宗常-宗的-

秀郷より19代目に当たる宗重なる者がこの流れの長谷川氏を名乗る。
宗有は美濃平氏に跡目養子となる(1131-1151)
秀仁は元弘の役後に越前の織田氏に仕える(1312)
宗忠-満兼は尾張織田氏本家に最初に仕える。(1339-1368)
宗仁-守知は尾張織田信長に最初に仕える。(1578)

「長谷川氏の主家筋尾藤氏の移動経路」
尾張-丹後-下総-駿河-大和-駿河-尾張
尾張は最初と最後に、駿河が2度戻っている事が仮説として重要です。
尾張で尾藤氏を興し、後に赴任により各国守を歴任し最後故郷に戻る。
この間下記の枝葉の末裔国が広がっています。

枝葉国(尾藤氏族長谷川氏を含む全長谷川氏の分布地域 17地域)
丹後、美濃、下総、大和、岩代、越後、上野、常陸、羽後、武蔵、相模、駿河、尾張、越中、紀伊、肥前、越前、
長谷川氏の主要氏 7氏-111氏

この様に織田木瓜紋の家紋考証が同時に美濃平氏の時代考証をも証明するものと成ります。
その意味でも特筆しましたが、ここで「青木氏の生き様」、「平氏の生き様」、この「二つの氏の関わり具合」、対比して「源氏の生き様の欠点」を描き、そこに存在する「生き残れた絶対的条件」を浮き彫りにしたいのです。
それは前回まで論じてきた「物造り」「心の拠り所」「融合氏」の「3つの有様」が左右しているのですが、更に検証を進めます。

参考 徳大寺氏の経歴(政略家を示す経歴具合)
長治元年(1104年)従五位下。
元永元年(1118年:娘璋子が鳥羽天皇の中宮)中宮権亮。
天治元年(1124年:璋子院号宣下)待賢門院別当。
保安3年(1122年)権中納言。
同年に左兵衛督・右衛門督・検非違使別当。
長承2年(1133年:長女・幸子(22歳)を藤原頼長14歳と結婚)、摂関家と関係を強めた。
保延2年(1136年)正二位権大納言。
永治元年(1141年)の崇徳天皇の退位
康治元年(1142年)の待賢門院の出家、閑院流は低迷期。閑院流は異母兄の三条実行。
頼長と親交の実能は、実行を名誉職である太政大臣に棚上げして空席にする。
久安6年(1150年)に内大臣。
久寿2年(1155年:幸子が逝去 頼長から離れて美福門院に接近。
皇太子・守仁(後の二条天皇)の東宮傅。
保元元年(1156年)9月、左大臣。
保元2年1157年正月、従一位。7月に出家して法名を真理。9月に仁和寺の小堂(徳大寺)で薨去。
歌人、家人の西行と親交があった。

「木瓜文様の全般的なルーツ傾向」
実はこの文様を使うルーツには、この衣服や車や家財道具に入れる文様職人に多いのです。そのルーツを調べると綜紋を平家綜紋の「揚羽蝶紋」とする姓氏に多いのです。真偽は別として”昔は平家一門であった”とする氏が多い事に成ります。
つまり、平家一族落人がその技能を活かして平家滅亡後、この技能職人として生き延びたと観られるのです。これは和紙などの殖産物の職人にも観られる傾向です。
そもそも元を正せばその技能は阿多倍が後漢から率いてきた200万人の技能集団が持ち込んだものであり、その宗家の6或いは7代末裔の清盛はこの事を承知していて「たいら族」一族一統の配下の者にまでその伝承を指示していたと観ているのです。
清盛が朝廷内の反対を押し切って「宋貿易」を行った背景には一族一門の配下に荘園時代からのこの昔からの技能集団を抱えていた事を示すものです。
この事のその御蔭でその「技能伝承」が効を奏して滅亡を免れたのです。
ここでも「青木氏」や「たいら族」と比較して、明らかに「11家の源氏の生き様」の拙さが如何に悪かった事が頷けます。清盛は極めて聡明な人物であってこの程度の気配りは出来ていたと考えているのです。
上記した美濃平氏は生き延びられたのであり、全く同時期に生き残っていた3つもの源氏が滅亡してしまうのです。
滅亡しても「美濃平氏」の様に生き延びた氏、滅亡しても「美濃源氏」の様に死に絶えた氏、これは偶然では無い大きな違いなのです。
「美濃平氏」に比べて「美濃源氏」の方が周囲状況から観て殺されると云う事は無かったのですから生き残れる確率は高かったと考えられます。
その差は清盛から絶やさず築かれていた「美濃平氏の技能集団」にあったのです。それは力説する「物造り」なのです。「自力、自立の精神」なのです。
それは阿多倍が定住していた清盛の実家の「伊勢伊賀和紙」の青木氏と関った殖産がそれを物語ります。
5家5流の賜姓青木氏の定住地は全て「5大古代和紙」の産地で、「伊賀の伊勢和紙」を含む「近江和紙」、「美濃和紙」、「信濃和紙」、「甲斐和紙」は夫々特徴ある紙質を持ち1千年の歴史を持つ古代和紙の殖産地です。現在でもこの紙に関る職業の人なら誰でもが知ることです。
これを5家5流の賜姓青木氏に依って「2足の草鞋策」として引き継がれて来たのです。
青木氏は「物造りと2足の草鞋策」が結びついた結果です。
”物を作って売り捌く”の経済理論が成り立っていたからなのです。
全く同じ事が云える「たいら族」一門も滅亡から生き返ったのは、家紋から観ると矢張り「殖産(物造り)と交易」が氏の基本にあったのです。
中でも織田氏と云うキーワードでそれが「現実の生き様」として証明できるのです。
仕官後もこの「殖産(物造り)と交易」が無ければ「家臣の知行」だけでは天下統一まで成し遂げられなかった筈です。普通の見聞きする歴史からするとあまり知られていない事柄なのですが、もう一段歴史を掘り下げると、この「たいら族」配下一門の家紋から見るとこの「殖産(物造り)と交易」の努力があったからなのです。
「信長の派手なドラマティクな行動にスポットライトが当たり過ぎて、この美濃平氏配下の「殖産(物造り)と交易」に当たっていませんが、別の面の「家紋考証」から観るとドラマティクな面が消えて現実の姿が観えて来るのです。
(通説は兎角このドラマティクなストーリーが前提に成っている傾向が強いが現実はもっと泥臭いものです)
「たいら族」には「自力・自立」の精神が一門の末端まで浸透していたのです。矢張り後漢の帰化人の所以です。源氏11家にはなかなか観られない「自力、自立」の精神なのです。
其の証拠には、「義家の荘園拡大」を利用した様に「氏存続」を図ったとしても、この「自力・自立」精神が無くしては鎌倉-室町期には、結局は「坂東八平氏」に滅ぼされるまでもなく、「自然」に或いは「下克上」で滅亡していたのではないかと考えられます。
そして「たいら族」の様に再び各地で末裔が草の根からよみがえる事も無かったのです。

「自力、自立の精神」
考えて観れば、室町期初期の「下克上」の乱世では「自力・自立の精神」無くしては「悠久の絆の青木氏」であったとしても、その結末は「下克上」が起こって無血縁の家臣や民に取って代わられていた事も有り得た筈です。
しかし、「4つの青木氏」の中には「下克上」は起こらなかったのは、この「自力・自立の精神」が原因していたと考えているのです。「自力・自立の精神」(物造り殖産)は生き延びる事の糧、のみならず「下克上」も起さず、更にはより「絆結合」は強くして他氏には絶対に観られない何と「1千年の歴史」を刻む「4つの青木氏」の根幹を構築したのです。
「下克上」は下が上を廃して「氏」または「姓」を維持しようとする事件です。
「上」が長として確固たる「氏姓」を維持する能力があれば「下」はその「氏姓」の傘下で安寧に生き延びて行く事が出来ます。要は「戦国」と云う「姓氏乱立」と「潰し合い」の中での自分の「氏姓がどうなるのかと云う事に対する不安感」に基づいている訳です。
従って、「氏長」が「氏姓」を「自力」で「自立」させられる資質を有している事がその「基本の要件」であり、「2足の草鞋策」はそれを叶えている事に成ります。
故に賜姓青木氏には起こらなかったのであり、「伊勢青木氏 家訓10訓」の「長のあるべき戒め」をくどくどと詳細に解き求めているのです。
その証拠に源氏では僅かに遺されていた最後の支流末孫と観られる村上源氏では「下克上」が起こって室町期に滅亡しています。それは室町期に成っても荘園に頼り「氏の長」としての「自立・自力の資質」が無く「下」が不安となり取って代わったのです。その弱点を信長が見抜いていてそこ突いて滅ぼしてしまいます。美濃平氏の末裔の織田信長はこの「自力、自立の精神」が阿多倍からの「先祖伝来の精神」として遺伝子的に継がれていて、信長に滅ぼされた氏姓にはそこを突かれたのだと考えます。最後に残った伊勢「村上源氏の北畠氏」はその典型的な氏であったのです。学問を主とする貴族型源氏であったのです。この様にこの「自力、自立の精神」の無い「上」の氏も「下」の姓氏も結局は乱世に飲み込まれて滅亡します。

「自力、自立の精神」=「物造り」「心の拠り所」「融合氏」
「物造り」=「2足の草鞋策」 「心の拠り所」=「神明社」 「融合氏」=「祖先神」

この様に「下克上」が起こった社会の中では、平安期では「源氏の実力」と見せていた「未勘氏」が蟻の子散らす様に源氏から離れて行き、遂には「荘園の未勘氏族の反動」が起こり争いで雌雄を決する以外には無く成っていたと考えられます。
義家一門の力は権威に包まれた「名義上の力」であり、現に「たいら族」を破った義経の2万の軍でさえ「頼朝との争い」で御旗を失えば「くもの巣」を散らす様に2000を遺して飛散してしまっているのです。
1198年には源氏11家もあった同族の源氏は「氏の運営」の悪さで全て滅亡しています。1氏も蘇る事も無く完全滅亡です。
支流と見られた僅かな掃討作戦で逃れられた支流傍系末裔も上記する「下克上」で滅亡して「氏」は当然「姓」も滅亡してしまったのです。
残るのは前回までに論じた「荘園制」での血縁性の無い「未勘氏」と血縁性の薄い「傍系氏」です。
現在、ドラマ等で通説と成っている「源氏」と呼ばれている足利氏や新田氏や武田氏や多田氏や太田氏等はこの「未勘氏」か「傍系氏」であり、室町期の混乱期に名乗った氏で少なくとも家紋が異なり宗派や系譜にも疑問があり正式な源氏ではないのです。足利氏や武田氏は間違いなく傍系です。
上記した様に織田氏等の「たいら族」の例に観る様には源氏に「生残れる術}=「自力、自立の精神」=「物造り」「心の拠り所」「融合氏」は無かったのです。
少なくとも平安期の氏家制度の中では「総宗本家」から認められる必要があるのですが、上記の氏源氏と目される一族にはこれが現実にはありません。つまり、家紋の異なる勝手かわずかな縁で名乗った氏なのです。徳川氏等はその最たるもので見え見えで甚だしいのです。

因みに徳川幕府開府の際に朝廷から認められなかった明確な経緯があるのです。
朝廷は経済的圧力に屈し取り敢えずは「征夷大将軍」の呼称は渋々認めはしたものの義家から名乗る事に成った「武家の棟梁・頭領」は認めませんでした。結局、「武家の長者」で妥協したのです。
又源氏を名乗っていますが、足利氏も同様の事が起こり認めはしたものの正式には、そのルーツには2流あって本流の宗家は陸奥の花房氏で秀郷一門と血縁した血縁族で、その後、信濃足利の土豪となり土豪足利氏を名乗り勢力拡大したのですが、この「陸奥花房氏の姓氏」の足利氏が云う事を聞かない為を理由に藤原秀郷一門がこの宗家を難癖をつけて廃嫡して、断絶した分家筋を持ち出し其処に秀郷一門より跡目を入れて立てたのが後の足利氏で藤原氏の秀郷血筋を受けた所に後に源氏頼光系の跡目を入れ足利氏の元を作り出したのです。直系源氏子孫では仕来り外の氏と成り宗家認証は無く当然に家紋も異なる事に成ります。(元の花房氏系足利氏は米子、八頭に逃げて定住します。)


青木氏と守護神(神明社)-9に続く。
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中国列車事故に関してレポート(潜在的欠陥)

中国列車事故に関してレポート
福管理人
2011/07/28 13:59 - パソコン
  中国の新幹線脱線事故
(潜在的欠陥)

序文
現在、以前より強気の発言が話題に成っていましたが、中国の表向きの威信を掛けての事だっただけに衝撃的な問題と成っています。筆者は当初よりこの問題には危険なものが潜んでいると技術者として疑念を抱いていました。図らずも中国が何と”日本に進んだ新幹線の技術供与をしますよ”と虚勢と威しを掛けてきたその直ぐ後にこの事件が起こりました。真実味の無い無知な国民を騙す共産党の国威高揚が招いた事件です。恐らくは真因をぼやかした原因説を出す事は判っていますので、そこで筆者の前からの疑念を敢えてこの際に披露しようと考えました。なかなか特別な領域の技術問題ですのでこの様な真因を判断出来る技術情報を把握している人は少ないと考えて投稿します。
多少、専門的内容を記述せさることに成りますが「潜在的欠陥」をより詳しく網羅させる必要からとご理解ください。
本件は今投稿中の「青木氏と神明社」のレポートに記述した「物造り」に真に関係する内容の決定的な例としても取り上げられるものですので敢えて論じます。
実はこの問題は歴史的な専門的立場からも観ると、明らかに「石は薬」「法より人」の中国の思考規準に影響した「潜在的な事故発生要因」が大きく潜んでいるのです。

「事故の相関性」
そもそも車や列車の高速化は常時ブレーキの制動力と相関していて命です。
後のパーツは常時の直結の人命の事故には繋がる可能性は有りません。せいぜい複合要因にての結果と成るでしょう。しかし、この事故は明らかに高速化=ブレーキ制動力=命の関係にあります。
それだけにこの事故には幾つかの要因がある中で、主に中国の「潜在的欠陥」の体質が働いた「ブレーキ制動力の事故」と云ってよいものです。
従って、真因を解析して判断するにはかなり専門的な工学領域の高度な幅広い綜合技術知識が必要と成ります。それも開発担当域の限られた技術者のノウハウの領域と成ります。
つまり、技術的に政治的に真因が解明され難い事故ともなり、且つ中国の置かれている立場と国民性が更に左右してしまう事故と成ります。

そこで、「青木氏と神明社」の論文に「物造り」の事として記述している事が真に一つの事例として現れてしまいましたが、当初より何か起こると気にしていた事なのです。

「高速化制御システム」
さて、上記した様に、それは高速化を制御する「列車管理システム」と「高速列車のブレーキ制動力」との相関問題にあるのです。中国はこの領域までの知識は到底ないと考えますが、全体として外国技術を習得し切れていない「付け焼刃的な現状」にあると考えられます。
中国はこの高速列車を主にドイツ、カナダ、日本の3国の列車技術の殆どの部分で導入しています。
外国技術は高度であり、且つ寄せ集めの先端技術である為に余計に複雑化して充分に短期間(4年)では習得は出来ていないと考えられます。列車の操作力は勿論の事、列車生産に関わる3国の異なる技術的ノウハウ等の取得は皆無に等しいと考えられます。そもそも教える方もこの短期間では困難です。
それだけの基礎力が元々無かったのですから、この短期間で扱いこなすにはこの複雑化した現場では習得し難いものと成り得ている筈です。「四苦八苦」が正しいのではないでしょうか。
中でも本文の「列車管理システム」のノウハウと「ブレーキ制動力」のノウハウの2つは最も命に関わる事でありながら、それだけに理解し習得に至るまでには最高度の難しいノウハウと成る筈です。
先ず無理であろう事が判ります。
中国当局がどんなに「虚勢」を張って国内向けに発言しても我々技術部門に直接携わった者から見れば「空虚」そのものであります。
先ずは、中国の「列車管理システム」はヨーロッパ統一の「ETC管理システム」を導入していますが、日本の列車(川崎重工)は異なる「ATC管理システム」で出来ています。
何れも「自国製」と発言していますが、この「虚偽の発言」そのものが無形の「潜在的欠陥」ではないでしょうか。

「高速化ブレーキ制動システム」
次ぎに、事故の追突された列車はカナダ製です。後ろの追突列車は日本の川崎重工の列車です。
ここでこの2つの列車には運用具合に依っては決定的な命に関わる違いがあるのです。
それはカナダ製のブレーキの制動力は山形制動の方式です。日本の列車は全て楔鍵形制動です。( 〕印を左横に倒した楔形の制御)
同じ線路上で、同じ列車管理システム上で、2つの列車の高速時のブレーキ制動力が著しく異なり、且つ、その制動方式も全く異なるシステムと云う極めて危険な運行状況です。考え難い組み合わせと成ります。
今だヨーロッパも日本も開発しきれていない相当な極めて最先端の「列車管理システム」でなくては安全運行は出来ないのではないでしょうか。
まして、この「2つの方式」の制動力の持つ中で、且つ外国から購入したこの混成列車の中国では、それまでは列車の管理は殆ど人為的に行われていたのですから、この複雑な条件をこなすシステムの開発は到底無理である事は云うまでもありません。

そもそも、つまり高速に成るほどブレーキは制動力が落ちますが、「2つの方式」の制動力が同じと言うことで有れば問題ありませんが、諸外国製のブレーキは高速に於いてはそもそも効き(制動力)が悪いのです。その為によほど手前からスピードを落としながら制動しないと停車位置に止まらないのです。
次第に速度を上げ最高速度に到達すると今度は次第に問題の起こらない速度まで落としてブレーキを制動して停める山形制動です。
日本はすぐに速度をピークに上げてそのままに維持し停車直前でブレーキを制動して定位置に停める楔鍵型です。(くさびかぎ形)
これは「方式」が違う、「制動力」が違うの話では無く、「技術力の差」なのです。
これはブレーキの技術力の開発差から来ています。つまり、殆どは金属冶金工学の技術力の差で日本は段突に進んでいます。

「摩擦熱400度と350K/Hの関係」
そこで上記した「問題の起こらない制動ポイント」とは、技術的に「摩擦熱が400度」のところを限界としています。これは大変に重要な要素なのです。
高速での制動は摩擦熱などによりかなり高温(日本は400度限界)に成りますので、普通の冶金学と機械工学の範疇では本来はブレーキそのものが造れないのです。ところが日本のブレーキはこれを解決していてこの相当な企業秘密ノウハウを占めています。
ところでこの「400度と云う温度」が金属にとって非常に厄介で問題の多い温度域で、金属の結晶に大きく質的変化を与える温度域なのです。
更に高速でブレーキを制動するとしますと当然に低速のものより摩擦熱が数倍に上がりますので、その400度の薄赤くなった金属には、溶接やボルト締め等の普通の機械的な処置が強度的に低下してしまい、使えないし加工は出来ない事になります。
ではどの様にしてブレーキの「焼結パット」を取り付けるか、又列車本体に取り付け固定するか普通の既存の技術的な方法では通用出来ない範囲なのです。
金属が温度が上がれば柔らかくなるのは当り前ですから普通の固定方式では成り立ちません。
この400度と云う温度は、鉄系の金属にとっては金属の性質(特性)が変わる限界点で、これ以上高く成ると金属の結晶構造が変わるので、普通の金属では機械的強度は絶えられません
鉄系の金属では500-650度の範囲までは「特性温度域(再結晶温度域)」と呼ばれ鉄系の中に含まれる炭素と融合(溶融結合)して「結晶構造」も変わり、それに伴ない更に別の性質(特性)に変わって行きます。この中間温度域(特性温度域)はそれなりに熱処理として多くの使い道があるのですが、ブレーキには柔らかくなる事も然りながら、絶対的に好ましくない「臨界的な温度域」であります。
逆説的に云えば、「摩擦熱」などにより上昇するこの直前の「400度と云う温度」が「ブレーキ構造方式の限界域」で、これ以上に摩擦熱が上がりますと「臨界的温度域」(特性温度域)に達する為に、リニヤーなどの列車の走行方式等の別の方式に変えなければならない温度域と云う事に成ります。
この「400度と云う温度」に達する速度とすれば350K/Hを限界としているのです。
これ以上の速度でブレーキ制動するとブレーキは破壊する温度域なのです。たとえ350K/H以上出せたとしてもです。400度=320K/Hを順守する必要があるのです。
ですから世界の先進国はより高速制動にする為には500K/Hのリニヤーの開発と成っているのです。

「400度の問題点と解決技術」
そこで開発の限界点とも云える高速350K/H以上の列車を開発するのは摩擦熱が上昇し著しい欠陥が露出する為に物理的(冶金学的)に困難ですが、この限界の手前の400度の温度域(高速320K/H以下)でブレーキ構造方式とするには次ぎの特別な解決手法の開発が必要となります。
解決手法
主に4つの部品に研究を加えなくては成りません。焼結金属のパッド、パッドを取り付けるプレート、このプレートを摺動移動させる案内プレート、この案内板を固定するプレートです。
この「焼結金属の組成配合」と「3つのプレート」に「400度」の上下の熱影響を繰り返し受ける事に成りますので、この「4つの部品」を先ずはどの様にして固定するかとなります。「固定の問題」です。
それと「金属的に、組成的に、機械的」にも解決する必要が出て来ます。
溶接やボルト締めでは熱で軟らかくなり使えないと共に、且つ繰り返しの「高温の熱疲労」で直ぐに金属疲労破壊してしまう欠点を持っています。
まして「400度」なので最も厄介な難問の「低温の脆性破壊」も起こります。
(脆性の怖さ)
鉄系の金属の脆性破壊には次ぎの3種類があります。
A:-20~-80℃の「臨界域脆性」、B:300~400℃の「低温脆性」、C:850~900℃の「高温脆性」
Aは寒冷地で起こります。Bは本論 Cはこの温度域で加工して常温、低温域に戻した時に起こります。
Cは「鍛造」や「鋳造」や「熱処理」や「圧延」の加工の時に起こります。
Cはこの脆性をなくす為に上記した「特性温度域」(再結晶温度域)で熱処理を施してなくす事が出来ます。

A~Cは常温と発生温度域を繰り返し上下すると著しく脆性現象が強くなります。
従って、「熱の繰り返し疲労破壊」と「脆性破壊」が同時にダブル発生してしまうのです。
高速列車の「ブレーキ部品」はこの「3つの脆性域」に関わっているのです。(Cは処理済)

「取り付け方」と「熱の繰り返し疲労破壊」と「低温域の脆性破壊」(A、B)の「3つの問題点」が露出して来ますのでこれを解決しなくては成りません。

(「3つの問題点」と「3つの脆性域」)
この「低温脆性」の温度の上限が400度(下限300度)ですが、制動していない時の低温の温度域が何度に成るのかは列車の「操作のノウハウ」に大きく関わることなのです。
当然に操作が未熟であれば400度を超える場合が有ります。この温度を超えると云う事、「操作が未熟」と云う事はそれは単純な話ではありません。
何度か走行中に常習的に繰り返すと上記の「3つの問題点」が露出して即「ブレーキ制動力の低下」のみならず「ブレーキ破壊」へと繋がるのです。
今回この事が確実に起こっていて大事故と成った事も考えられます。
例えば、「未熟」とは車で長い下り坂道でブレーキを踏み続けると熱を持ちブレーキが効かなく成ります。その為に上手くエンジンブレーキを加えながらスピードを落としてカバーします。この概してこの操作ノウハウと同じ理屈です。
中国は未だこの「未熟の領域」にあると考えられます。
場合に依っては「中国の国民性」が影響してここにも「潜在的な欠陥」とも成り得ている可能性も有り得ます。筆者はこの説を採っています。

「3つの問題点」と「速度超過」
当然に上記「3つの問題点」と同じ現象を示す「320K/H以上の速度」を超えての操作を繰り返し摩擦熱が400度以上を超えて上昇し過ぎた事でも起こる訳ですから、この「操作の未熟さ」と「限界速度オーバー」は同時に起こる事に成りますので両方から痛めつけられて「極めて危険な状態」が起こっていた事に成ります。
(この「3つの問題点」は専門的な立場からすると金属面に特徴ある破面が出ていますので比較的簡単に目視でも解析できます。誰でも判る事では有りませんが専門の「破面工学」を取得した技術者であれば観れば直ぐに判ります。)
中国は”常速 350K/H以上で走行する世界一の新幹線”と虚勢を張りと鼓舞していましたから列車のブレーキに「3つの問題点」のダメージを確実に与えていた事に成ります。証拠の事実です。
中国のこの発言は、専門的に見ると”何時大事故が起こっても不思議でない状況である”と発言している事と同じなのです。

「寒冷地仕様の欠陥」
この摩擦熱の400度に加えもう一つ問題があるのです。
それは自然環境です。中国は冬は極寒の地(-50度)がありますので、この400度との「温度差域」が500度以上に成ると技術的に耐えられない領域と成る特性問題を持っています。
勿論、極寒温度でも上記したAの問題でもこの「温度差500」と並行してがダブルで起こる事に成ります。
金属の組成上からの臨界点(-80度)に近くなり、この「熱差」と「繰り返し」による「金属疲労の発生率」が極めて高く成るのです。先ず本件の対策を加えないと全く使えないのが普通です。
ところが全く鉄系の金属は、ある限界の範囲で「特殊金属」を加えないと使えないのですが、この特殊金属の添加が逆効果になるのがこの「寒冷地仕様」なのです。極めて難解なのです。先ず”諦める”が常識です。今は未だ発生していませんが、日本の環境とは違うために中国国内では事故の発生率は明らかに高い筈です。(日本では高速化の東北地域は-20前後ですから一応の対策は可能)
この問題(高速化寒冷地仕様)も中国では到底解決していませんし、その開発手法と能力は中国には基よりないのですから確実な「潜在的な欠陥」と成っています。
まして日本でさえも何ともし難い技術問題の「潜在的欠陥」が潜んでいるくらいなのです。
日本では輸出用には自動車や生産機械でも「寒冷地仕様」として開発していますが、精度問題は別として、高速列車では中国では現在この「寒冷地仕様」の問題は未だ起こっていませんが、必ず冬には起こる筈です。その証拠に自動車は必ず起こっている現状なのです。
この「寒冷地仕様」では、高速のみならず「ブレーキ制動前の時の寒冷地温度」から「ブレーキ制動後の温度差」が「500度差域」に成ると、鉄系金属では金属内の結晶構造が変化する為に応力差が生まれる為に、更に重複して避けられない欠陥に成るのです。
車のブレーキの制動でも起こりますが、これと異なり高速列車の場合は温度差が余りにも大きくなるので必ず起こる問題なのです。
そこに「未熟度のエラー」が加わると「寒冷地の欠陥」のみならず通常の「500温度差域による欠陥」も重複して平行して起こりますので事故に繋がる事は必定と成ります。

(日本側は所定の期間1年の講習を要求したがたった10日間で打ち切ってしまったと発言していますので、習熟度は先ず「無い」事に成ります。つまり「未熟度エラー」は確実に起こっている事を意味します。)

依って、詳記した「500温度差欠陥」、「400℃欠陥」、「350K/H欠陥」、「寒冷地欠陥」、「脆性欠陥」、「3つの問題点」「高速化ブレーキ制動システム」「サージ欠陥」等の充分な習得はまず無い筈ですからこれらの欠陥は必ず起こっている事は間違いありません。
これに「高速化の習熟度によるエラー」が加わりますので疑う余地はありません。

高速化に依って高温差化するとこれを繰り返すと「熱疲労と脆性の疲労破壊」が避けられないほどに極めて高くなるのです(逆に熱暑地仕様もあるが中国では問題ない)。
自動車の領域で起こる問題と比べられない程に極めて危険な問題となるのです。
因みにロシアの自動車が、あれだけ進んだロケットや人工衛星など高度なものを造れる国が自動車がまともに開発製造販売が出来ていないのです。
中古を含む日本車90%に頼っている現状ですから、それは「寒冷地仕様」の対策が極めて高度な技術力を駆使しなければ成らないからで、それを充分に解決し得るノウハウの開発が出来ていないからなのです。「寒冷地仕様」は基より物理的に難しいのです。
中国も奥地はこの「寒冷地仕様」に準じます。
高速列車の「寒冷地仕様」は、今までに輸出と云う形態までに至っていなかった事から中国に輸出する分に対しては、日本での寒冷地仕様の範囲である筈で、明らかに「未開発の部分」では無いかと考えられます。やろうとすれば日本の輸出自動車は完全に「寒冷地仕様」は完成していますので直ぐに応用する事は可能ですが、中国用のものには未だ開発し適用していないと考えられます。

(開発メーカーは列車メーカーではないし、開発と試験が難解で短期間である為に現在では困難)

この「寒冷地仕様」が施されていない高速列車では冶金・金属工学上から観てブレーキ関係は云うまでも無く、本体そのものの鉄系車軸や伝道軸や鋳物や鍛造等の熱処理部品に対して上記の「3つの問題点」が顕著に現れることは必定です。少なくとも軸が折れるか変形する等の問題が出てくる筈です。
これからは寒冷地の「潜在的欠陥」の露出として出てくる事が考えられます。
より「潜在的欠陥」に対して厳しさが増します。
この「寒冷地の欠陥」は冬場に部品に破壊が起こり潜在して、これを過ぎて気温が高く成る直前で事故に繋がる欠陥が露出して来る傾向があります。
高速ブレーキ制動の分野に限らず全体で起こると考えられます。つまりこれも恐ろしい中国の「潜在的欠陥」であります。
恐らくは、日本の寒冷地仕様より-30度程に厳しい環境にある事を承知していますから、日本側は何らかの条件を付加して「列車運行の条件」として伝えている可能性が考えられます。
問題はそれを理解して護るかによると考えられ、国民性や国威高揚などの政治状況から観て疑問を感じます。
しかし、もとよりこの「寒冷地仕様」によって起こる欠陥を見抜き解析して対策まで持ち込むノウハウが中国にあるかは大いに疑問です。
確かに”日本の東北で走る列車仕様の前形式を技術移転した”と伝えられていますから、ある程度の寒冷地仕様が施されていた仕様になっているかも知れません。
ただ問題は上記した「未熟操作」が更に「3つの問題点」の危険性を著しく高めますので安心できる範囲ではありません。
又、何れにしても寒冷地による「脆性疲労破壊」がブレーキは元より列車本体までにも働く可能性が有りますので、それがブレーキ制動力にどれだけの影響力を与えるかの問題もあるのです。
恐らくはこの現象は「激しい振動」と云う形で露見してくる筈で、それがブレーキの制動力とその部品構造に特化されてくる筈です。
現象としては、主に「振動疲労」による「ミクロクラック」が発生して、最後には「疲労破壊」に繋がることが考えられるのです。
(この欠陥は特長ある破壊破面を呈し目視でも確認出来る。日本の専門家に見せれば一目瞭然で判定できるので見せないでしょう。)
それを防ぐ「高速化の管理保全」が出来ているかによりますが、短期間の間に成せる保全問題ではありませんから無いと考えます。

「寒冷地の現象と欠陥」
寒冷地は金属の分子運動が止まるか緩やかに成る為に金属の弾性力が低下して破壊に直接繋がるのです。最も怖い欠陥で、幾つかの技術的な方法が専門的にはあるのですが、何せ分子運動が止まるとなる事は金属の仮死状態を意味しますので、処置の施し様が暖めると云う方法以外に有効的な方法は無い事を意味します。

(過剰にすると逆に成りますが、ニッケルを加えて結晶を細分化する方法や、500度から650度で熱処理を施して結晶を均一にして細かくする方法で加工して使う方法もありますが、完璧な方法とは云えず暖めて400温度差に保つ事が最も簡単で効果的なのです)

この対策が中国に於いて成されているかは問題で先ず無いと考えられます。
そもそも特に上記の高速の対策として用いた「特殊金属」は寒冷地に対しては金属の仮死状態が起こって「弾性力の低下」が起こりますので、「特殊金属の弾性力の低下」と合わさって逆の現象を引き起こすのです。従って高速列車のブレーキ制動力に主眼を置いているので「寒冷地仕様」は完全ではない筈です。
日本に於いては寒冷地対策は車、列車、工作機械、等には施されています。東北新幹線と山陽新幹線の走っている列車が混在させずに異なるのはこの事から来ているのです。
日本などでは一定率の「列車管理システム」を保つ為に「寒冷地の列車」には充分な仕様で設計されて管理されているのです。

「部品の固定方式の開発」
兎も角も、寒冷地に於いてでさえもブレーキ制動ではその最たる影響を受けますが、先ずは日本環境の範囲として「普通仕様」で考察すると、そうすると後は機械的、物理的に考えられるのは「圧入方式」か「焼バメ方式」ですが、「焼バメ方式」はもとより同じ400度ですので締まらず使えません。
(温度差は500度以内が仕様限界)
残るは「圧入方式」だけですが400度の温度に上がっては圧入は緩み効きません。
この2つの加工技術の使用温度がこの400度であるのはこの領域を超えて加工すると金属の組成上(パーライト)の強度的問題が冶金学上で出るからなのです。
この制動で発生する摩擦熱も偶然にも400度です。従って、高速350K/H以上でのブレーキの掛け方如何ではこの400℃は更に上がりますので、限界の制動領域を超え開発能力以上の限界を超えますので、著しい制動欠陥を露出する事に成ります。
果たして中国の「未修得の操作能力」が低い場合はここでも「潜在的欠陥」を潜んでいるのです。
実質1年程度のトレーニングという事で計画されていたすのですが、それを”10日程度で切り上げた”との情報を考えると、此処暫くは「未修得」が「潜在的欠陥」と成り得ます。
(350K/Hの意味)
日本の新幹線は350K/Hの下の320K/Hとしている一つの根拠はここにあるのです。
何も350K/H以上を出せないとする訳ではなく、ブレーキ制動の限界点だからなのです。
”350K/H以上の高速で走った”として自慢下に誇示していましたが、この事の技術問題を知らない事を自ら露呈したのです。全体のノウハウの未熟度を自ら認めた見苦しい虚勢です。
確かこの限界を超えた速度で走行して本体が耐えられない激しい振動に見舞われ列車に亀裂が入りなどして指定の速度に下げたとしているのです。
まだまだ上記した「潜在的欠陥」が露出してくる事は間違いは有りません。日本からの早期に技術指導を受けない限りは大事故と成るでしょう。
恐らくはこの振動の原因の一つはブレーキの制動を超えたところで摩擦熱が400度を超えて限界温度500度に達してブレーキ制動が空効きになり、その振動のパラセーションがタイヤ(車輪)に加わり車体本体を激しく刺激したと考えられます。
恐らく、この時、摩擦熱500度以上に達して後続のブレーキ制動力が破壊するか等を起し効かなく成っていた可能性があります。
謳い文句の350K/Hを取り下げてその高速をその事故の為に運行走行速度を250-300K/Hに下げたとしています。ブレーキ制動における設計限界である事を知らずに。とりあえずは一時的速度では欠陥を出さずに成った事に成りますがブレーキ制動のノウハウの未修得で起こる問題は解決していません。
これは上記する高度な基本設計の冶金的知識の習得は先ず無く、感覚的に激しい振動が何かを引き起こすと考えたものと観られ、変更を余儀なくされたものであろう事が判ります。
この行動は真に知識の底を露呈した愚かな醜態に他なりません。

速度を上げれば何でも上げられると云う「石は薬」「法より人」の感覚から出た中国人らしい論理性のない発想です。
恐らく、日本人から観ればこの雑な感覚は、直ぐには直らず今後も続くだろう事から、これからもこの様な国民性に潜む「潜在的な欠陥」の醜態を示す事に成ると観られます。
兎も角も、ですから「潜在的欠陥」に関しては中国は「事故の情報」のそのものを隠す以外に方法が無い事を物語ります。

「技術開発点」
そこで、中国の怠惰な実情を気にかけながらも、兎も角も日本の技術開発の努力とその経緯から考察して観ます。
中国に日本の次のような開発努力を知るまともな技術者が少ないのかも知れないけれど居た筈です。
(筆者も冶金に関する実習留学生を承知しているが、小さい力のために基本の技術習得が無視され「政治力」が優先されたのではないか)

上記する「3つの問題点」を解決するには次のような開発をしたのです。
日本の開発はそれはこの400度の限界を超えない範囲で要は温度がどんなに上がっても緩まずむしろ締まるようになり、且つ金属に関する疲労、脆性等の問題を起こさない様にしなくては成りません。
上記する金属的に起こる問題を色々な「特殊金属」(下記)を組成に加えて特殊金属板を造り熱に対する欠点を解決して、且つその加えた「特殊金属」によって逆に熱が掛かると一定以上の圧入力(取付力)が増加する様にしなくては成りません。この領域は真に自然物理の矛盾です。
「特殊金属」の「種類とその配合率」と、「圧入代」と、「熱膨張係数の差」と、「耐熱性の向上」とこれ等処置による「組成上の競合欠陥の防止」を解決して、丁度良いポイントの探求が必要に成ります。途方も無い総合知識の研究です。
その難しさはこの「競合欠陥」です。
「特殊金属」はある種の特性を引き出す手段によく用いますが、この金属を加える事に依って「鉄系金属」には、同時に逆の事も起こる特質を持っています。
この「鉄系金属」にはこの種の「特殊金属」は「人間の拒絶反応」と同じ現象を起す性質を持っていて、ある一定の範囲までしか受け付けないのです。一定を超えるとあらゆる機械的な強度や特性の低下を引き起すのです。

(「特殊金属」とはマンガン、モリブデン、クローム、コバルト、マグネシューム、タングステン等でこれに対応してニッケルを補填して「特殊金属」の弊害を少なくする為に同時に適量を加えます。
例えば、18-8ステンレスにクロームを加えて強く錆びなくしていますが、これに対してニッケルを加えて弊害を抑えているのはこの為です。この特殊金属は夫々特徴を持っているのです。)

この「特殊金属」を適材適量に加えるだけでは解決しません。
実はこの世の全ての物質には温度を上げ再び下げて来ると「スパークーリング現象」と云う特殊な現象を起す特質を持っています。同じ上昇したライン上を温度を下げると別のライン上で下がって来るのです。
その為に「ズレ」が2ポイント発生します。この2つのポイントの一定の温度間隔域に金属の組成を納められれば下記の「研究課題」を解決する事が出来る事に成ります。

(現象の発生メカニズム)
この現象は”何故起こるのか”と云うと次ぎの様に成ります。
温度が上昇するとある温度域で結晶構造が変化します。この為にその変化のために必要とするエネルギーが奪われて一時温度が下がります(ポイントA)。 そして変化が終わると又上昇します。
今度は上昇したラインに沿って温度が下がって来ると元の上昇して変化した「ポイントA」で同じ現象が起こる筈ですが、ところが起こらずある温度範囲がズレて「ポイントB」で変化が起こるのです。
そしてその変化が終わると再び元の上昇のラインに沿って下がって来ます。
このポイントAとポイントBには一定の温度差域が出来ます。この温度差の領域を上手く使えば温度上昇に依って緩むものが締まる事にも成ります。
本来は論理的にポイントA=ポイントBである筈ですが、このポイントが物質に依って顕著に出るものとそうで無いものがあります。
且つ、この温度域にも大小のものがあります。特に金属には顕著に表れるのですが、この特性に着目してその「温度域の巾」を大きくすれば使えることに成ります。
特殊金属(ニッケル等)を投入して結晶を微細化させるとそれが顕著に表れるように成りますので、そのポイント域(A-B)を上手く使えば上記した研究課題が成功するのです。(現場ではノックピン方式と呼称)
このポイント域(A-B)では、上記した別の変化、つまり、その「金属の特性変化」でも「結晶の中間域」(特性の中間域)が発生しますので、金属は安定し変質化しないのです。
この「ポイント域(A-B)」即ち「中間域」では上記した特殊金属の特性が効果的に働きます。そして「拒絶反応的な事」が起こり難いのです。
つまり、「ブレーキ制動」に依って摩擦熱で温度が上昇し、又下降すると云う現象を繰り返しますので、この「スーパークーリング現象」が常に起こる事に成ります。
鉄系で云えば普通はポイントAは500度付近で起こります。そしてポイントBは400度にズレます。
ところが上記の特殊金属等を入れますとこのポイントが変わるのです。
この特殊金属は鉄より溶融点が高い事等の理由の為にポイントAが下に下がり合わせてポイントBも下がります。
そうするとポイントAを400度にし、ポイントBが300度の付近に持ち込めばこの研究課題は成功する基本に成ります。
この熱エネルギーの「温度の変化の中間域B」と共に、上記した結晶構造が変化する過程でも「特性の変化の中間域A」が起こります。
この「中間域A」でも特性変化する為に多少変化のタイムラグ域が起こります。このタイムラグ域も含めて「2つの中間域A,B」はほぼ同様の温度域で起こりますのでポイントAとポイントBを解決する事で「2つの中間域の活用」は解決する事に成ります。
以上の様にかなり特域の専門的な冶金金属の技術です。

(現在では、この「中間域A、B」の領域の特性を精密機器の部品によく用いられる様に成っていますが、「特殊合金鋼」として当時は未だ開発に依って「企業内規格化」される程度でしたが、現在は細分化して一般規格化されています。 故に、これによりブレーキに限らず今やこの合金鋼板を使って日本の全ての精密機器や工作機械は超高精度の品質や高速化や寒冷地の対策用として作り出せるのです。)

(中国の国家戦略)
何時、中国がこの「技術ノウハウ」等を盗み出して獲得できるかに掛かっています。
つまり、自ら研究する事では無く他国のノウハウの盗作で日本や先進国に追いつこうとしている「中国の国家戦略」と成っているのです。
真に「自国製」と言われるものは今だ少なく、列車やジェット機を始めとする超高度な綜合先端技術のものは事ごとく失敗をしている中で、本論の「新幹線」は盗用の成功例と思ったのではないか。 その意味での挫折は”又か”で大きかったのではないか。”いざ”と成って見れば原因追求の技術さえも無い事を知り焦った行為であったと観られます。
要は「中国の狙い」は、この総合力の研究では、現在は未だ中国では明らかに無理でありますが、高速-制動力の関係を知っていて何時かノウハウを盗み出し自国の物にする事にあり、そのためにも故に優れている日本を代表する川崎重工のこの「制動ノウハウ」のある列車が中国には絶対に国家戦略上必要なのです。
ところが、共産国には「貿易管理令」により「高度な電子部品機器」や「高度な精密機器」の輸出は禁止されていて、悪質と観られる様な裏ルートの方法で機器を入手して分解してノウハウを盗み出そうとしているのです。分解して解析して何かを見つけ把握しようとする為にも国家的課題としてもこの列車は国家戦略上で代表的なものとして必要なのです。
その為には、中には日本の中小企業の倒産先からスクラップとして精密機器を頻繁に入手して持ち帰り研究しているとの情報もあり、又、中国に生産拠点を移転した中小企業が契約期間が過ぎると別の場所に移転させて生産設備を強引に奪い取り、言う事を聞かない時は移転先を認めないと云う荒手の裏手を使うと云う事まで起こっているのです。(経験談) ニュースに成っている”中古の空母をベースに自国製の空母を製作している”との情報もある位に、 「石は薬」「法より人」の思考規準に沿って、”何事何物も利用した者が勝ち”、”模倣や盗用はした者が勝ち”の考え方が徹底しているのです。
これ程に況や”喉から手が出るほど”の中国の「国家戦略」は実行されているのです。
先進国に追いつこうとすれば、韓国が日本のプラント輸出を受け、後に激しい労働争議で追い出し日本の三菱の車や家電製品のノウハウを盗み出したと同じ様にです。
韓国には、同じ儒教でありながら、違うところは「石は薬」「法より人」の思考規準が無い事です。
だから韓国の手法は成功しているのです。

「研究課題」
戦後から始まった新たな日本の成長は中国の「石は薬」「法より人」の思考規準と異なり「雑種の優秀性」を基に「研究開発」から始まった「物造り」であります。
当初戦後10年程度は「安かろう 悪かろう」でありましたが「模倣」をベースにしてはいなかったのです。。
「模倣」の裏には必ず「研究」が伴なっていたのです。ここが中国と異なる処です。
それは、日本の「国民性」が大きく働いたこの金属の「質的変化と機械的な処置の探求」(2つのノウハウ)であり、「3つの問題点」(「3つの新たな研究課題」)を解決する事に動いた結果であり、本論を理解する上ではその認識が必要であります。
これ等の「研究開発の積み重ね」の結果で掴んだ「最先端の総合的技術力の駆使」が必要であったのです。
この開発経緯は、丁度戦後20年後から始まったものでその5年後には何と成功しているのです。
戦後の「安かろう 悪かろう」の時代が10年間で、残りの10年間は「自国製」の開発研究段階に入っていた事に成ります。
ブレーキに関してはアメリカのベンディクスがトップメーカーでありましたが、戦後25年後には早くもベンディクスを追い越して日本のメーカーの方が品質的に優れていた事に成ります。
この時期20年後に高難易度の新幹線ブレーキの開発に入っていた事に成るのです。
当時はブレーキ部品に使う鉄鋼板には特殊金属を組み込んだ規格品は未だ少なく、新幹線ブレーキに耐えられる上記に記する規格品は無かったのです。

この高度な研究開発は列車のみならず自動車や他の高精度の生産機器などにも使える研究開発だっただけに「新幹線」の国家プロジェクトとして鉄鋼メーカの積極的な協力を得て進め成功裏に納めたのです。
これ以後、この研究成果は専用鋼板として準規格化され、後半には順次細分化されて規格化されましたが、この開発の効果は瞬く間に他の産業にも広がりを見せこの開発の特長を生かした日本の高精度の高能力の製品が生み出されて行きました。
(開発技術とその加工技術)
中国は現在 ”どの鋼板をどの様に使えば良いか”の上記した専門的技術が無い為に規格品の選定の判断までにも至っていないのが現状では無いかと判断されます。
選定できれば専用鋼板としてだけは日本から輸入で入手する事が可能です。しかし、現実に適切な鋼板を選べばそれで済む簡単な話ではありません。
この鋼板を加工する技術(プレス技術や熱処理技術や生産加工技術)等のノウハウは中国にはありません。
そもそも特殊金属が含有する鋼板は普通の加工技術では難易度が高く「加工ノウハウ」も大きく伴なうのです。
概して云うと、含有する上記した特殊金属は加工する刃物先よりそれ以上の硬さや強靭性を有しているか、或いは同じ程度の硬さ程度である為に加工の刃物先が耐えられないのです。まともな品質では加工出来ないのです。(全ての刃物先にはこの同じ特殊金属の「タングステン」が焼き付けられている)
依って、研究は次ぎに刃先角度や加工速度や加工温度を研究して見つけ出して、量産できるものに開発したのです。この開発にはトップ技術を駆使したのです。
又、難加工の精度を上げるにはそれを0.01ミクロンまで測定出来て、且つ、加工面の画像解析出来る超高度の「三次元測定機」を使い加工面を画像にして解析して特長のある部分を特定し修正する技術も必要とするのです。
この「三次元測定機」は日本の独断場で、よく違反問題になっている物で「貿易管理令」に触れて共産国は入手出来無いのです。
鋼板を選定でき輸入する事が出来ても、この多くの「加工ノウハウ」はブレーキメーカー側のノウハウですので入手する事は不可能です。つまり「中国の戦略方式」では要するに不可能なのです。
依って、知らない人や庶民を相手に虚勢発言を張っていますが、厳密に云えば「中国製のアセンブリー列車」の域を越えないのです。
手芸品等の類似品や模倣品を作る事が出来ても、工業品を越えない範囲では類似品や模倣品は中国では未だ不可能なのです。まして、「高速化や寒冷地」などの難易度の高いものは「技術ノウハウ」と「加工ノウハウ」の2つのノウハウから類似品や模倣品は無理であります。

重要参考 此処には「加工ノウハウ」等の上記「2つのノウハウ」とは別に、決定的な冶金技術のもう一つの無理があるのです。
それは自動車(高速列車等にも)に使用する鋼板は「自動車専用薄板鋼板」(ラミネーション)と云って世界の自動車に使用されていますが、この「ラミネーション」は日本の独断場で外国では現在でも造れないのです。
それは精錬過程で鋼板を圧延で薄くすると、鋼板の板圧の中央部分に「不純物の帯」即ち「バンドストラクチャー」と呼ばれる「ゴースト」現象が必ず出来るのです。
それは鋼板に含まれる極少ない分散した不純物や攪拌され難かった炭素やイオウやリンやシリコンが薄板にする為に圧延しますが、この圧延の振動エネルギー(リミングアクション)で板圧の中央部に帯状と成って必ず集まる現象なのです。
日本の自動車の発達や高精度の精密機器や列車の高速化等の必要性に迫られて苦労して同時に他のプロジェクトがこれを解決したのです。
普通の材料として使う分には問題はありませんが、上記した本論の「高速化や寒冷地」などの仕様では破壊に繋がる振動や加速度のエネルギーが大きい為に影響してしまうのです。
これが存在するとこの破壊エネルギーが欠陥となって働き始め、突然に自動車の鋼板が2枚に「剥離分解」して破壊したり、部分的に起こる「局所疲労破壊」に繋がる亀裂が多数発生するのです。
(当然に高速列車でも使用されているので起こる)
特には箱型の車体などでは別として、プレス加工の多い「流線型の形状」の自動車などに現れて「高速化や寒冷地」では大事故に成ります。(曲げたり絞ったりしたコーナー部分に出現する)
この欠陥を解決したのが世界に冠たる日本の冶金技術なのです。
このゴースト現象は精錬中に炭酸ガスなどを入れて溶融した金属の攪拌を行うのですが、この攪拌不良が主な原因で中にある炭素との反応で連動して起こります。大変に難しい精錬技術です。
外国鋼板では自動車や高速列車に使用する薄板のものにはこの欠陥の無い鋼板を作り出す事が必要があるのですが、今だ難しくて出来ないのです。(日本製を使っている)
一部では自動車や高速列車の「車体内部の鋼板」にもプレス加工して利用されています。
ブレーキ部品も車体内部にも使用されている事で、もし欠陥と成って出た場合にはブレーキ部品にもその影響が出てくることにも成りますので、車体や外板にもこの日本のラミネーションを使う以外には本来はないのです。しかし、中国のものはこれを使っているかは技術知識が無い為に疑問であります。

情報によれば”車体に「大きな振動」と共に「大きな亀裂」が発生した”と伝えられていますので、上記したブレーキ制動の欠陥が露出して起こったと考えますが、このラミネーションを使わなかった事から起こっていることも考えられます。兎角起こりがちな現象ですが、両方が「競合欠陥」を引き起こしたかも知れません。(破面工学で判定が出来る)

(「2つのノウハウ」)
この参考例でも、これで「日本の技術力」がどれほどのものであるか判り、逆に「中国の虚勢の発言」の意味合いがどの程度の虚勢かがよく判ります。
勿論、中国の基礎技術力の無さの程度もこの発言や情報からも判るものです。
これは日本の冶金金属工学の優れている程度の証とも成ります。
これは決して「技術ノウハウ」のみならず日本の「加工ノウハウ」も同時解決して「高速化の列車ブレーキ制動」は始めて可能に成るのです。この「2つのノウハウ」は連動しているのです。
兎角、「技術ノウハウ」だけで論じられている様ですが、中国が模倣するとしても「2つのノウハウ」を解決しなければ物にはならないのです。中国の事毎くの「模倣の失敗」は此処に原因があるのです。
「2つのノウハウ」が絡む高速列車やジェットや自動車の様な高度なものには基礎力の無いままに簡単な期間や設備では元々が無理なのです。
”普通列車の延長が高速列車である”とする認識はそもそも間違いなのです。
ここには論じている高い「2つのノウハウ」の溝が厳然として存在しているのです。
高速列車は同じではなく別物なのです。
高速列車は「レール」と「莫大な重量物」によって比較にならない「莫大な加速度」が働くからなのです。
この加速度は”重量に対して2乗に比例する”のです。例えば50Kの物が加速度が働くと2500Kのダメージを受ける計算に成ります。

列車の車体重量を考えてください。これに高速が働きますので、考えられないエネルギーであり、このエネルギーが悪い方向に働けば「一点のミスや欠点」も「時間の間隔」なしに瞬時に「拡大破壊」を起す要素を持っているのです。「破壊」ではない「爆発」に近いと云えるでしょう。
ですから上記した金属や冶金的な欠陥が少しでも潜んでいると破壊・爆発に成ってしまうのです。
高速300K/Hは本当は怖いのです。
日本は「怖い」は「品質の良さ」に裏打ちされて安心して乗っています。中国は「怖い」は「知らない」で裏打ちされて安心して乗っています。これそのものが「潜在的国家欠陥」では。
「知らない」「知らせない」は本来あるべき姿ではありません。中国は「知らない」「知らせない」は「品質の良さ」に特化させるべきです。
この事無くして中国の高速新幹線はまた大事故を招きます。本論の危険性を悟ら無ければ今その上記した欠陥が進んで行く事になります

そもそも自動車の場合は、普通であり高速であり一帯で一連化していますが、しかし、現実にはありませんが自動車もレールの上を走り連結すると同じ事が起こるのです。
中国にはこの自動車の延長・普通列車の延長の認識にあったと考えられます。
そこにこれまた「認識不足」の中国の「潜在的欠陥」が存在するのです。
つまり、「国家戦略の政治ミス」(政治環境)が事故を誘発させているのです。

「開発技術の姿勢と方針」
これ等の認識の基に、正しい政治環境下の基で、これを解決する為に柔軟な発想と思考が確保されて、次のような学問的に「極めの発想と思考判断」での技術が確保されたのです。これは日本ならではの仕事なのです。(中国では現政治体制下では無理であり模倣も困難と成ります。)

日本のブレーキは急速に速度が上がり停車位置のかなり直前で高速で制動しても停車ポイントに5ミリとずれないのです。良く効くと云う事なのです。約400度くらいに成りますのでどんな機械的なブレーキの取り付け構造にしてもこの温度には耐えられません。
これを日本はこだまの初期の新幹線開発の時にこれを金属的に冶金学的に解決したのです。(開発経験)この「特殊金属」には夫々特徴を持っていてそれを如何に使いこなすか、先ずその特長を作り出す金属の結晶の組成形状をどの様にするかの研究と、中に入れる特長を持っている「特殊金属」の選定とその配合割合をどの様にするかの研究で、この400度と云う難しい難題を解決したのです。
因みにとりわけこの温度域には低温脆性現象(ステッドブリットネス)と云う厄介な問題が発生するのです。
金属が中に含まれる僅かな不純物(セグレゲーション)とP(リン)やS(イオウ)と結合してそれに依って脆く成ると云う温度域なのです。

これ等は普通の発想では出て来ないものでありますし、それを実現しょうとする気力も芽生えない筈です。

(300度以下では分子運動、結晶運動が低い為にその変化するエネルギーが無く起こらない)
この状態のものにブレーキを掛けるとその「繰り返しの動作」で「脆性破壊」と「熱疲労破壊」が顕著に発生します。先ず機械的な取り付け方法とは別にこの必ず起こる欠点を上の2つの研究で克服する必要があるのです。)
(未熟な操作技術で劣悪な線路状態では不定期振動とそれによる加熱現象が倍加する為にこの物理的な破壊現象は数倍と言う形で起こる危険性が潜んでいます。最終、破壊して”ブレーキが効かない”と云う現象と成ります。恐らくはこの極めて危険であるとする知識もないと考えられます。)

「技術課題の難問と国民性」
上記の”金属や冶金的な欠陥が少しでも潜んでいる”とする「怖い事」を続けます。
最大の難関はこの欠点と研究課題は相反する矛盾する特質を持っているのです。
つまり対策を講ずれば反対のこの欠点が増幅するというジレンマにあるのです。
普通で考えれば「絶対無理」の答えなのですが、その何れにも入らない中間のところを見つけると云う根気のいる研究開発です。
どんな金属にも必ずこの特性域の中に「中間域」の発生する「小さい域」(ポケットゾーン)を持っています。上記した「スパークーリング現象」の2ポイントと共にこれを見つけ出す事なのです。恐らくは共に自然現象の為に同じ「小さい領域」付近に出て来る事に成ります。
これは日本人ならではの根気の要る研究です。脆くなれば逆にブレーキどころの話でなくなりますから、欧米は合理的思考が強いので危険性から観て”この領域に入らない方がベストだ”とする考えに到達するのです。納得出来るし一理はあります。
要は上記した様にブレーキ制動の限界に立ち居るか否かの問題です。
しかし、これは上記した中国人の国民性と異なる日本人のかなしきかな国民性のさが(性)です。
この性の違いで何から起こるかは「青木氏と神明社」の中で詳しく論じている事です。
本来、「物造り」の技術とその精神は6世紀始め頃から6世紀中頃に掛けて後漢の漢民の阿多倍王等の技能集団がもたらしたものでありながら、今やその立場は逆転しているのです。
「石は薬」「法より人」の思考規準とそれを構築した「民族性結合」の継続の所以がこの差と成って現れているのです。

「開発の判断可否」
現在はこのブレーキ制動は当初の新幹線はMAX250K/HであったものがMAX320K/Hに常時制動できる様になっていますから、更に超限界に挑戦して改善され、技術開発されて完全に確立して無事故の35年は経過していますが、まだ諸外国は高度な総合力の為にこれに全く追いついていません。
ョーロッパ諸国では多分無理でその内に問題を起こすのではないかと考えていた節があります。
しかし、限界のブレーキ制動と高速化の2つを連動させて成功したのです。
と云うのも、この時フランスは高速化のギリギリのところの500のK/H試験走行を成功させたと発表したのです。もちろん、ブレーキは普通の制動力の範囲です。ですから、高速後100K/H程度にスピードを落としての山形方式の制動です。
この事から考えると、むしろ35年の経過でも、この領域の高速化の制動技術を合理的な判断として採用しないとしている可能性も確かにあります。それ程に難題なのです。判断の分かれる技術開発だったのです。
当然にその根拠は列車や自動車はブレーキ制動力が命ですから、高速になれば成るほどに危険は増します。しかし列車が”1時間程度遅れても何の問題もない、安全であれば問題なし”とするヨーロッパ系の国民性からすれば”そんなに急いで何処へ行く。 その間、速いのだから問題なし”と成るでしょう。
これの探究心は「良悪の問題」、「優劣の問題」から離れた日本人の「融合単一民族」の「雑種の優秀性」とその「性」から起こる「国民性」から来ているものであります。「究極を求める性」であります。
ヨーロッパ諸国の列車の運用については「判断の違い」であると観ていますが、では中国人は何れにある国民性なのでしょうか。それに依ってもこの「潜在的欠陥」がどのような形で顕著に出てくるかはこれから見るべき問題です。
筆者はこれまでの史実に基づかない中国の虚勢と国威高揚の発言から観ても、又伝統の思考規準の「石は薬」「法より人」からしても「潜在的欠陥」に成るとみているのです。

因みに韓国は日本人の全体の3割を占めている縁戚の民族ですから、儒教の宗教観は異なりますが、全体として酷似していますから、この「ノウハウ」を吸収する方式で克服したと見られます。
中国も韓国と同じく「ノウハウの吸収と克服」は可能と観ているのでしょうか。観ていると考えます。
そして、その時期を”この新幹線で出来た”と見ていてそこで一挙に喜び勇んで「虚勢」を張り世界に「鼓舞」した節があります。それが脆くも崩れたのです。”そんなに甘くは無かった”と反省しているのでは。
今回の事故の原因の出し方で判断できます。
「雷と信号」で逃げれば原因究明どころか対策もままならない立場にあることを知り、”韓国の様には行かない”と悟った事の発言と成ります。この「雷と信号」の根拠を明らかにしないままに終わると観られます。
だとすると、中国はこれを機会に多くの上記する「有形無形の潜在的欠陥」を持って居る事に成りその事に気が着き始めたのかも知れません。
しかし、「中国の国民性と政治体制とその体質」がどの様に作用するかが疑問です

そもそも韓国は日本の三菱グループから「製造プラント輸出」して獲得したものでありますが、このブレーキは列車メーカーではなくブレーキメーカーの領域ですので、韓国始めとして中国には当然にこのノウハウは渡っていませんし、中国自身この間これほどに難しい総合技術力の把握と操作技術は専門的に観て開発とそのノウハウの取得は到底に無理と成ります。そもそも部品調達のアセンブリー生産しかないのです。
これは高速列車を走らせるという事とを考えると、ブレーキと云う事からするとそれは恐ろしい事になり、特に日本の高速列車を走らせるという事は「潜在的な欠陥」と成り、「基礎的な技術力不足」と成り得ます。
ヨーロッパの形式も別の意味ではそれなりにブレーキ制動域のノウハウもそれなりに難しいことに成ります。この異なる二つの技術の習得は専門的な立場から見ても短期間で成し得るものでは決してありません。

「人為的操作の必然性」
さて、そうするとこの様な「劣悪な未熟の環境」の中であるとすると、戻して事故を検証すると、本来前方を走るべき列車が後方を走る管理システムはどこから生まれたのかと言う疑問が生まれます。
実はこれが上記するブレーキ制動力に起因しているのです。
全くの制動力の精度の違う高速の列車を走らせると成ると、何処かの駅のポイントでその違いを吸収させる為に、混成の為にかなり複雑な「入れ違い」を列車管理上で「人為的」に頻繁に起させる必要性が起こります。
混成であるが為に完成された追加管理ソフトが改良されて持っているとは考えらず、ヨーロッパ方式でもヨーロッパでは充分に出来ていないという現状を考えると、多くは中国人の「人為的な操作」に委ねている事である筈です。
本来前に走るべき川崎重工の列車が前を高速で走ると後ろのカナダの制動力の悪い列車との間に大きな間隔が発生してしまい、列車管理システムに大きな「タイムラグ」が起こりすぎて、追突の危険で運用できません。
そこで、この危険な間隔を解決させる為にある駅の手前で後続の列車がスピードを落として次ぎの駅に向かいます。後ろにした制動力のよい高速の川崎重工の列車をこの駅でやり過ごしますと管理は可能に成ります。
(日本の在来線に特急列車が走ると普通列車は最寄の駅で停車して「やり過ごし」をします。ブレーキ制動力による走行の速度変化の差ですが大まかにはこれと同じです)
前方にいた列車はより正しく早く次ぎの切り替え駅まで到達しておく必要が起こりますが、何らかの理由で(雷か人為操作ミス)低速40キロであったとしていますから追突の危険性は最大に成った事に成ります。
この直前で事故が起こった事に成ります。恐らくこの時にブレーキ制動の限界を超える「未熟な操作」が重なっていた可能性があります。

「混成システムの矛盾欠陥」
ところが、更に問題が生まれます。ここでETCヨーロッパシステムは「制動力の悪い列車群」と「異なる形式の各国列車」を一定としてこれを前提としていますので、川崎重工の制動力のよい列車が介在する事はこの「やり過ごし」方式には矛盾が生じることに成ります。
事故が起こったとして後方にブレーキをかけますが、後ろは制動力のよい川崎重工の列車です。管理システムで後方に制動をかけても最早間に合いません。その管理システムの速度管理では走っていないのですから。この矛盾を避けるべき手立てとしての其処に「やり過ごし」現象のポイントが差し掛かったのです。二重の矛盾点が重なるべきポイントと成ります。

「雷、サージ対策の欠陥」
更に、3重の自然災害がここに加わったのです。雷です。雷により停止する可能性もある為に前方を走るカナダの列車は制動力が悪いので速度を落とす事になってしまったのです。
ところが後ろは制動力のよい川崎の列車ですので、然程に速度は落とさずに走っていた事に成りますのでより追突の危険性が余計に増したことなります。
更に雷対策(サージ対策)も諸外国に比べて日本は段突に良く出来ていますので速度を落とさずに走らせます。ところが、ここでも技術力の差が出たのです。

実は日本製の列車は「サージテスト」と云う大変厳しいテストを課せられているのです。
気象変動の多い環境のために外国列車と段違いのテストを通過させなければ成りません。
これに更にメーカー独自の「過酷テスト」(パーチェイステスト)が掛けられますので、まず、サージつまり雷では信号や制御に問題は起こらなくなっているのです。
”雷で事故が起こる事は考えられない”との日本側の関係者の発言は此処から来ています。
相当なサージに対するノウハウなのです。先ず回路上のノウハウですから中国では真似は困難でしょう。
ただその分CPU回路等を強くする為に安全回路を幾つもの回路ラインに組み込む事に成りますので値段が多少高く成ります。
半導体の耐力アップや、コンデンサーCの追加と、抵抗Rと、電磁コアーやサージチップ等の組み込みを行います。
ところがヨーロッパの列車と列車管理システムは平地の多い比較的環境の良い所を走りますので、サージテストには比較的緩いのです。
サージテストでは普通の弱いサージ対策なら列車には管理CPUソフト基盤が入っていますのでこれがやられてしまう懸念があるのですが、ところがこれでは基盤そのものが壊れてしまいますので制御回路が無くなりそれこそ列車は暴走しますので大変な事に成ります。
そのためにサージ対策は主にこの回路入口にセットして内部の回路の中に入らなくするように設計しますし、仮に入っても内部にもサージチップ等の対策を施して最悪の状態が起こらないように基本的な設計がなされます。故に内部までサージのカレントの電流が入る事は有りませんが、仮に中に入ると回路が壊される前に基盤そのものがサージの電流が強い為に焼けてしまいます。
事故を起こったものを見れば一目瞭然で基盤を観ればすくに判ります。そもそも基盤がバーンアウトする事の事態がおかしいのですから、中国はそれを見せる事さえもしない筈です。
サージ対策とは主な方法としては、カレント電流を上記のサージ対策部品で主に電磁コアーを通して熱に変えてしまう仕組みに成っています。要するに判りやすく説明すると電子レンジの原理と同じなのです。
サージが鍋と考えればよい事に成ります。磁場の中に電流を含む異物が入ろうとするそれを拒む形で異物に誘導起電流が流れて熱に代わる原理です。
雷は電流ですのでこれを熱に変えるか、途中でコンデンサーに溜めてしまうか、別の非難回路に流してしまうか3つの方法の何れかを採れば問題はなく成ります。
この原理を回路の色々なポイントに問題が起こらないようにセットする事なのです。この3つの方法の使用は回路の内容に依っても異なります。

ですから、そもそもサージに依って信号が赤から青になるなどの内部の回路の変化の問題ではないのです。
先ずCPU回路の入り口の問題で厳しいサージであれば殆ど手前の電源回路でOFFさせる事に成ります。当然にこのサージ対策にも高度なノウハウが伴なっているのです。何故ならばサージ対策をする事に依って逆にその弊害(バグ)が起こるので、セットする場所やその部品の選択などの極めて高度な電気設計のノウハウが必要なのです。
中国がこの高度のトップクラスの設計能力をもった技術者が先ずいないと考えられます。
中国としても仮にこれが原因であったとしても何ともし難いことに成ります。
サージテストする専用の高度なテスター設備が必要なのです。このテスターに基のプリント基板を覚えさせ対策した回路をセットすると其処に問題点が検出させそれを解析しながら進めて行くのです。そしてそのテストをする専門の試験環境室チャンバーが必要と成ります。
中国にそれがあるかの問題ですし、そのチャンバーとテスターの専門メーカーは日本が独占的に段突なのです。
(高速化は始めて間もない時期ですからこのサージテストの高度なチェックシステムとノウハウは無い筈です。)
そもそも大抵は電磁コアーかサージチップで熱に変えられますので問題は起こる事はありません。
日本の全てのものはこの国の規格テストに合格していますので全く考えられないのです。
(参考 4K程度から14K程度の差 外国のものは確定は出来ませんが4-6K程度か 日本は8K-12K程度)

雷の中で前方のカナダの列車は「横ハシリの雷」のこのかなりきついサージに耐えられなかったとも考えられますが、しかし、サージ説はこれ以外にも考え難い事があるのです。つまり仮に入り口で耐えられなかったとしたら、当然に前方のカナダ製列車のCPUと列車内の搭載管理システムのCPUが破壊された事が考えられるのですが、ところが、しかし、列車は避雷針を保持し、且つ電線と線路の両方に上下並行に避雷針に成り得る伝導体が走っている構造と成っていますので、元々ヨーロッパの管理システムの回路でも殆どカレントの過電流を抑える事が出来る構造に成っています。
仮にカレント電流が流れても上記のサージに対するある程度の保護回路があればこれをブロックする事に成りますのでヨーロッパのものにしろ日本のATCのCPUは破壊しません。
諸外国のものも線路と電線ケーブルと列車は元々耐えられる構造ですが、中国が勝手に変えてしまったとすると別問題で耐えられるかのきわどい危険性が高まります。
ところが回路上の変更はプリント基板で出来ていますので回路変更はまず出来ないと考えます。
変更するとなると、上記のサージテストを繰り返して変更によるバクの問題が出ないか調べなくては成りませんし、プリント基板の回路内部まで把握できるかの問題が出ます。
量産システムでプリント基盤は造られ手作りではありませんので変更は先ず無理です。中国が部品調達していることから考えると回路変更は無理であります。
先ず、変更が出来得るハード回路ではありませんので、先ずその基盤の設計者程度の技術者でなくては専門的に観て無理です。依って変更は先ずは無理と判断できます。

この3重の技術的矛盾が引き起こした事故と成ります。
サージにたいするソフトに組み込む高い技術力も到底中国には無いと考えられますので、恐らくは中国で出来る範囲としては色々なCPUとCPUの間をソフトに依って繋ぐ回路程度の基盤程度と成ります。
これを「中継基盤」といいますがこの程度でしょう。
恐らくは、この少なくとも前記2つの矛盾は各所に必然的に起こる筈です。避けられない必然性のあるシステムと成ります。
少なくとも異なる制動力とスペックの川崎重工の列車が2つのメーカーの列車の中で走る限りに於いて起こる事に成ります。
現在の混成列車を編成する選択を採った中国に於いてこの4つの矛盾を解決するほどの技術力は専門的に観て有り得ない事でありますので潜在的に持つ欠陥と成ります。
ましてヨーロッパでも日本並のものが出来ていないのですから。
結論的には対策は「混成の列車システム」である限りは無い事を意味します。
日本を除いて世界の技術力ましてや中国に於いては「無い」と成ります。

ですから、終局は「雷」に原因を押し付けて対策が出来ない欠陥列車システムであるので慌てて証拠隠滅のために「埋める」と云う行動に出てしまったのです。と云う事は自らその原因究明と対策立案の能力が無い事を暗に認めている事に成ります。しかし、かといって日本などにその協力を求める事は虚勢を張っている以上は求める事は立場上出来ない事を物語ります。
まして証拠が出る事がこの「4つの潜在的欠陥」が露出する事に成り、外国のメーカーに「おんぶに抱っこ」の何も出来ない姿を露見させてしまいますので、虚勢を張っている手前それこそ中国にとっては「恥じの上塗り」の国難で有ります。
技術問題の解決というよりは最早一連の経緯から政治的な問題としての重要度がましている事に成っています。日本とヨーロッパの力を借りない限り「原因追求と対策」をも出来ない立場にあることが判ります。

「真因対策の解決策の検証」
そこで、では、本気で解決しようとすれば、中国に方法が無いのかと言う事ですが、論理的には問題の優秀な川崎重工の列車をラインから外す事で解決する可能性があり、列車種を統一する事で論理的に危険率は低くなる筈です。
ヨーロッパの列車管理システムの良悪の中で起こる事故の可能性の範囲で留まりますが、しかし、このヨーロッパ(EU)の混成式の列車管理システムはヨーロッパでは現実に不完全なシステムとして上記した様にまだ管理しきれない混成の欠点が出て現実にはあまり採用されていないのです。

そこで、では”川崎重工の列車を外す事が出来るか”の問題です。
出来ない筈です。この性能の良い列車を以って高速としての中国の”鼻息ばかりの謳い文句”にしているからです。国威高揚の為に。
川崎重工の列車を走らせるには本来は列車管理システムを日本のATCにする事と、列車主体を川崎重工を始めとする日本製の列車にする事で事故の起こる確率は極めて低くなり、制動力の悪い列車は早い日本製の列車を「やり過ごし」の方式でプールするソウトを日本製で組めばクリヤーする事が出来ます。

第1は制動力の悪い諸外国の列車を主体とするから良い列車が原因してシステムに矛盾が生まれるのです。
第2は制動力の悪い列車は時間帯に応じてある駅で「やり過ごし」の方式でカバーできますが、この逆は論理的に困難です。そもそもこの世の構成は第2の構成で成り立っています。この世に限らず分子構造の中までこの第1の構成で成り立っていますからこれは最早この世の自然の摂理です。
第1と第2を混在させるから問題が起こるのです。
第1を導入する以上は第1を主体として行えばそれはそれで第2と成る事に成りますから問題は無く成る筈なのですが、第1も第2も混成の主体は何れにも着かず問題を起すのです。
中国の大きな判断ミスでありこれを続ける限り「潜在的欠陥」に結びつくものです。

「時刻表のタイムラグ欠陥」
ここで、更に問題が出てくるのです。列車の制動力の良悪の問題ですが、制動力が良いと云う事は「時刻表」をより正しく守れることを意味します。
停車位置も定位置で停車する事が可能となりそれだけに「事故の確率」は低く成ります。
ヨーロッパの列車の制動力であれば山形∧ですのでかなり手前から速度を落としてブレーキを掛けながら停車位置に止まろうとしますから「時間ロス」が起こり「時刻表」が正確に守れなくなります。
これが走っている幾つかの列車群に起こりますので其処に起こる「時間のズレ」が重なると最悪「衝突と接近の危険性」が高まる事に成ります。
(ヨーロッパのようにゆったりとした大きい「時間ロス」が発生してもそれを吸収し得る余裕ある「時間表」を作ればよいことに成ります。)
更に其処に制動力の良い日本の列車が介在すると余計に「衝突と接近の危険性」は高く成ります。
この現象が各区間で起こる事に成ります。依って、「時刻表」にも列車の前後が逆になるなどの問題が起こってくる事に成るのです。其処に過密が重なれば「衝突と接近の危険性」は更に増します。
そうすると列車管理システムの信号の精度良い管理ソフトが必要に成りますが、これは混成システムですので、確実にしようとすれば列車の「完全な固体認識」が必要と成ります。
しかし、先ず相当にこの「固体認識」はソフトと機械的に困難です。
依って中国の現場では此処の部分を「人為的操作」で逃げる以外に有りまんので「衝突と接近の危険性」のズレが常に発生していたと考えられます。「人為的な潜在的欠陥」となります。
依って、この技術力が無いがためにもともと人為的にする為により早く「やり過ごし」のポイントまで行かせる為に「青信号」であったのであって、「固体認識」の無さと「サージ対策」で赤に変え得るノウハウが無かった事を意味しますので、上記した「衝突と接近の危険性」の矛盾から衝突が起こったのです。

日本の新幹線の様にくさび鍵形〔印の制動能力であると、直前でブレーキを掛けて停車できる同じ制動力と同じ速度と同じ時間帯が守られて初めて高速鉄道は維持出来るのです。高速化=ブレーキ制動の前提に於いて。
この事も加えると中国の混成列車システムであると最終4重の矛盾を持つ事に成りますから、衝突を含む事故は”必ず起こるシステム”と云えるのです。
ところがこの4重の矛盾の解消策は、中国では上記のこの解決案を実行する事は政治的に国民高揚を図る目的があり、且つと技術的に低く混成である限り無理であります。

因みに、ところが、韓国の高速列車もフランスの方式ですので混生システムではない為にこの様な3つの矛盾の事故は起こらないのですが、もとより列車管理システムと制動力はヨーロッパ方式で走らせている限りは「時間のロス」と「小さい事故」は現在も起こっています。これを証明しています。
ところが、これを補う為に韓国は三菱系の新幹線の列車を別に三菱OEM方式で製造して韓国製として輸出しようとしているのです。日本の三菱の製造単価を下げる目的です。
何時か韓国は日本のシステムに変わる事を意味しています。車や家電の三菱プラント生産方式で日本のノウハウを模倣で獲得した時と同じ様に、又、三菱系のものを韓国製とするでしょう。
因みに台湾は全て日本の新幹線ですので問題は起こっていません。
しかし、この様に中国がどの様な列車を自国の物として喧伝しても絶対的に技術的に造り出す事が出来ないのです。

「アセンブリー生産の弱みと欠陥」
上記した様に現在技術力が進んだヨーロッパ諸国でも日本のシステムと金属関係の2つの技術力には追いついていないのです。ましてや中国にはこれを実行できる全てを賄えるだけの総合の基礎力の技術力と生産力はないのですから、部品は全て外国から買取調達する事に成ります。要するにアセンブリー生産です。
その意味で列車一つを売るよりは部品単位で売却する方が欧米と日本のメーカーはより利益率は上がります。ですから、日本を含む先進技術の諸外国は損はしないのです。
戦略的にも政治的な問題が起これば部品の供給をとめる事で「首根っ子」を抑える戦略が採れることに成ります。
日本を含む諸外国は当初からこの「潜在的欠陥」を承知していて戦略的優位がある為に落ち着いて今回の問題に対処出来ます。
この事は政治的に承知している中国は、つまり、国威高揚の切迫条件に迫られて慌てる余り中国は言葉で国民向けに大きなことを言っていますが、実は「首根っ子」を抑えられているのです。
これを外国に輸出するも日本に執っては部品売却益が増える事を意味します。問題が起これば解決する能力の無いままに中国が責任を負う事に成ります。
責任はまともには負えないでしょう。上記した様に対策力がそもそも無いのですから。中国の事ですから政治的にどの様な難癖を付けて来るかの危険はありますが、「首根っ子」の事から”事を荒立てる事”は決して出来ない筈です。
専門的に観ればこれだけの決定的潜在欠陥を持っていれば導入する国は限られてきます。
価格を落としての販売と成りますが、部品が先進技術国から購入する生産体制そのものが変わらなければ大きく価格を下げる事は困難です。況して売却先にこの欠陥システムの列車を運用する能力がある事が疑問視されます。あくまで「国威高揚の道具」に使う目的でしょうが、今回はその問題点をさらけ出してしまった事から難しく成ったと考えられます。
そこで、中国らしく「雷」と「埋める」で「臭い物には蓋」で逃げようとしたのです。
技術問題点を解明してもこの4つの矛盾をさらけ出す事に成り余計に中国としては問題を大きく広げてしまう事に成ります。
仮に技術的問題として原因が解明されても中国では解決で出来ないのですから。下手をすると拗れて購入先と政治問題化して「部品の供給」が止まる事も充分に予想できます。それこそ中国にとっては基も子もありません。

「過去の開発失敗の経緯」
そもそも中国は国威高揚の為に1990年頃から10年間ほど独自の列車を開発し始めたのですが、結局、無理である事が判り4年間で今回の外国から購入しての混成システムと成ったのです。
この事からでも潜在的な問題がある事が判ります
ロシアの技術導入を基本にロケットや戦闘機開発も行いましたが全て失敗に終わっているのです。
話題に成ったジェツト戦闘機はロシア式のもので19機作りましたが上空で激しい振動を起こして飛んでいられない有様で即時開発は中止したのです。表向きは成功したように国民に見せていますが。
人工衛星のロケットもロシアのものを基本にして2段目を類似の自己開発をしたのですがこれも2段目爆発で失敗に終わっています。それだけにこの高速列車は後に引けない国威のものと成っていて何とか混成でもよいから成功したかに受け取り、喜び勇んで必要以上の虚勢を張り国民に鼓舞したのですが1月もしない内に上気する「潜在的欠陥」から決定的な失敗を招いてしまったのです。
幸いに国民にはこの「潜在的欠陥」を見抜くだけの知識と理解力の不足と情報の不足があるから技術問題として発展しない事が伺えますし、補償と関係者への不満だけに収まると考えられます。
まして、一般の中国人の「石は薬」「法より人」の思考規準から真因追究の要求までに発展しないと考えられます。
上記の通り中国当局は真の原因追求は政治的に戦略的にもとより技術的に外国の力を借りない限り出来ない筈で見せ掛けの行為に終わると見られます。
現に、そもそもこの様な列車事故の矛盾を指摘し解明できる国民が居ないことそのものが問題なのです。ここでもその技術力の無さが露見しているのです。日本では何もかも考えられない事です。
日本では国民がメーカーと相当する以上に技術力を保持しているのです。それだからこの様な優秀な制動力とATCとが生み出されているのです。専門的な立場から見て中国にはこの「潜在的欠陥」の改善は急激に成される技術力ではありません。
混生システムのアセンブリー列車です。原因が判っても対策を採る能力が備わっているかは疑問で、結局は原因究明は関係国の協力なしでは現実には無理と成る筈です。
依って中国は戦略的に原因を雷説か信号説にする事以外に無い事に成ります。
「サージテスト」の事実を無視して。しかし、混成システムは4つの矛盾を潜ませたままで。

「今後の中国」
現実問題として政治的に国民の知識力を高める事は現体制の共産党の言論統制や格差等に対する批判に繋がり、政府の不安定さに繋がっていく事に成り痛し痒しの問題となります。
韓国の様に技術力を吸収して経済力につなげる事は喉から手が出るほどでしょう。しかし、急激に経済力を上げる事は「民度」が上がり国民意識も高く成りますので政府の倒壊にも繋がるのです。
だからある意味で戦略的に混成にする必要に迫られた事も有り得ます。
日本製の物に統一させる事は国家防衛に対する戦略的な意味で日本に技術支配される事にも成りますので、せめて数カ国にその支配性を分散させる事も必要です。この判断のミスが招いた事故といえます。
何にしても他国の基本をベースにして自国製として見せつけ国威を高揚させねば成らない国情に至っているのです。今後も著作権の盗用問題に見られる様にこの様な状態が続くと見られます。
しかし、それでもロシアの戦闘機や人工衛星を始めとしてベースにしてでも失敗している技術力の無さですから、その基礎力の範囲は見えています。
故に原因追求はおろか対策までも成し得ず、たとえ成し得たとしても仕様内容が異なっていますので部品へのフィードバックは論理的に不可能ですし、また、下手をすれば部品の停止ともなれば国難と成ります。
先ずは、専門家でなくては判らない「雷か信号」でお茶を濁す事の程度で真因の証拠を見せずに終わらせるつもりで有ろう事がよく判ります。
その様な列車に乗らなくてはならない中国の人々の心境はいかばかりか。同情に耐えません。
実情や真因を”知らない知らせない”の中ではその怖さも半分では何か矛盾を感じ割り切れないものがあります。
共産主義の一党独裁の計画的市場経済の「潜在的欠陥」の一端を露見した事に成ります。
本事故の一連の列車計画もバブル破綻経済を恣意的に起こしている延長線上にあるのです。
中国経済全体がそうであるようにオリンピック以降の経済は「恣意的バブル経済」にして維持しています。
政治も何もかもが共産党の一党独裁が「潜在的矛盾」を引き伸ばしている事に過ぎない事に気が付きます。

兎にも角にも、それらを解決するには中国は先進国を見習ながら国民の民度を上げなくては成りません。これは中国の伝統的な思考規準の「石は薬」「法より人」の考え方が無く成るかに掛かっています。
どの様に無くすのでしょうか。「知らない知らせない」の範囲では中国国民には事の問題意識も無いかも知れません。
つまり、中国の「他民族性の国情」から日本の様な「融合民族性」の国情により近づく事、近づかせる事が「雑種の優秀性」を発揮させ、「石は薬」「法より人」の考え方が変える事に成ります。そしてそれが世界に通ずる認識力と物造りの国が生まれるものと考えます。
しかし、反面それは現体制の崩壊に繋がる最大要因とも成り得ます。このシーソウの原理の中にある事が判ります。
これからも「この種の事故」と「事故の処理」と「中国の国民への虚勢」がしばらく続く事が予想できます。
要するに技術も然ることながらこの国情も「潜在的欠陥」を持っている事に成ります。
今回の処置もこの思考規準と国情が根底にありそれが大きく左右されていると観られます。


(中国の技術的な物造りの現状のレポートは「青木氏と神明社」の関連レポートとしてそれに基づき詳細を記述していますので不明なところは「青木氏と神明社」を参照してください。)

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