青木[アオキ] 名字 苗字 家系 家紋 ルーツ 由来

青木[アオキ]という姓[名前・名字・苗字]・家紋・家系の由来・ルーツの研究

青木さんの情報 ルーツ データベース リンク集 http://www.aoki.cc/
青木氏氏[Enter]
├ 研究&重要データ ⇒ 青木氏氏 研究室
└ ルーツに関する質疑応答 ⇒ 青木ルーツ掲示板
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ

青木ランキング参加者募集中!!



≪前ページ | ホーム | 次ページ≫

:「青木氏の伝統 18」-「青木氏の逸話」 


[No.336] Re:「青木氏の伝統 18」-「青木氏の逸話」 
投稿者:福管理人 投稿日:2015/10/25(Sun) 07:33:56


> >「青木氏の伝統ー17」の末尾

> (注釈 各地の「青木氏の伝統」に関する資料関係が、青木氏と娘の血縁関係も含めて関係した20程度の「郷士の家」からももっと多く見つかれば、より詳細に「青木氏の広域の生き様」が描ける。
> 然し、、残念ながら、「伝統」どころか、他氏と異なり多くの「習慣仕来り掟」を持っていたにも関わらず全く消えて仕舞っている状況の様に見受けられる。
> 各地の神明社にある資料なども探究したが、残念ながら、今は阻まれた次第であった。
> 然し乍ら、「射和商人」と成った「郷士の家」からの資料、四家からの娘の嫁ぎ先の親族関係と成った郷士の家からの資料、伊藤氏等の「伊勢国衆」の家からの資料等からの情報が論文作成に大きく影響した。
> 更に、未、「手紙」や「報告書」の形でも遺されていると観られる。)
>
> これは、「商い」には、「事件の前後」の「雰囲気・小競り合い」からの「事前情報」が必要であって、それによって、“「商いを動かしていると云う戦略」”も在って、その事を主目として情報を獲得していたのである。
> その為にも、かなり前から、“伊勢で起こった騒動”に対して「伊勢衆」で前後に“「打ち合わせ 談合」”なども頻繁にしていた事が判る。
> (明治の終わり頃まで、年に2度の全ての関係する人々が大集合して親睦(運動会)を図っていた事が口伝で伝えられている。)
> 「商い」に大きく影響する事から、「伊勢シンジケート」や、各地の500にも上る「神明社」からの「情勢分析」の記録として情報が扱われていた事が判る。
> 何度と「談合」が重ねられている処から「他の伊勢衆」にもこの情報共有が行われていた事も判る。
> 特に、「伊賀の乱」は「青木氏」も「影の力」として「物資の供給」や「側面攻撃」や「夜間ゲリラ戦」などで合力したが、相当に「事前分析」も施され、長引いた「伊賀の乱」の収束前に紀州に一時避難などもしている。
> これも「事前情報の結果」であろう。
>
> (注釈 「青木氏の口伝」では、この100年間の間に二度に渡り「紀州新宮」に避難している。
> この「伊賀の乱」後の「新宮避難」は、「基本戦略」上から事前に引いた事は判り確認できるが、もう一つの「新宮避難」が何で避難したかは判らず記録が正確に読み取れなかった。)
>
> ただ、この時の「口伝」には「一つの逸話」が伝わっている。重要な判断要素の事に成るので次ぎの段で述べる。
>

「伝統-18」

「青木氏の逸話」
この避難した人物は、『福家の者』(1)で、“『鉄砲を巧みに熟し』(2)”、“『名人”と村民から呼ばれていた』(3)。
ある時、家臣を連れた人物が、『領地視察とタカ狩りを兼ねた形で巡視をした』(4)。
この時、この「福家の者」が猟をして道端で休んでいた。
そこに、この一行が来て、『福家の者に土下座する様に促した』(5)。
しかし、家臣の者が、『何度も往来を繰り返したが余りの往来であった事』(6)から、『福家は土下座を中止した』(7)。
そこで、この『家臣が鉄砲で威嚇した』(8)。
ところが、「福家の者」が、遠くの場所に居た『主君」の上に実っている「柿の実」を打ち落とした』(9)。
怒った家臣が『「無礼討」しようとした』(10)。
ところが、『「福家の従者」と「家臣」との間で「争い」が起こった』(11)。
これを観ていた「主君らしき者」が、止めて、難なく視察団は引き下がった。
『三日後に呼び出しが在り』(12)、福家の者は『「家紋付きの乗馬白装束」で出仕した』(13)。
ところが、門のところで、又、「白装束」を理由に「無礼者」として『「家臣の騒ぎ」と成った』(14)。
その「騒ぎ」を主君に伝えた。結末は、「主君の者」が門まで出て来て、この騒ぎの事態は逆転してしまった。
『主君が慌てて下座礼の姿勢を採った』(15)ので、家臣がひっくり変えて驚き、取り敢えず、『主君の姿勢に従って片膝下座の姿勢をした』(16)。
福家は、この後、『主君の案内で館内に導かれて行った。』(17)、 この様子を家臣の一人の者が、主君から『故事に付いて教えられて』(18)、周囲の家臣に伝えて、「福家の者」が誰であるかを知ったと云う事であった。
そこで、始めて事態を飲み込めた家臣等は、福家を『客間に通し、主君が座る上座に案内して、その上で改めて「挨拶の礼」を先に執った』(19)。
その原因は、『「白装束」に「家紋の笹竜胆紋」にあった』(20)。
ところが、「福家」は上座に座る事を儀礼で辞退したので、押し問答が主君との間で起こった。(21)。
そこで、共に上座で対面する事に成ったが、下座に控える家臣等は未だ頭を上げなかった。(22)。
それは、「福家]が敷物を使わなかった事にあった為に、家臣等は挨拶を戻さなかった。(23)。
「福家」は「儀礼作法」を治めて結局は敷物を用いて落ち着いた。
この後に「対談」は続いて、今後の多くの事が決められた。(24)。・・・・・。

この後も、この「逸話」は更に続くが、この後に“「付き合い」は続いたとされる「行りの逸話」”と成っているのである。

「逸話」はこの後も続く。
この「逸話」には、そもそも、『・・・』とする部分に意味が持たせて在って、“「青木氏の有り様」等の子孫に伝えるべき「伝統」”がまとめられて読み込まれているのである。
「逸話」には、子や孫に面白可笑しくして話し聞かせて、「家筋」などを判らせて伝える「重要な手段」で慣習でもあった。

因みには、“「白装束」”は、皇族位に準ずる「上位の者」が執る「最高礼意の朝廷衣装」での作法であるし、それに「紋付」を付ける事が出来る「家紋」は、「伊勢青木氏」しか使えない「禁紋の笹竜胆紋」であったとして、“そんな家なのだ”とする子孫に識らせる慣習であった。
この様な事を織り込んでの「過去の青木氏」にだけにある「伝統」を読み込んで伝えているのが、この室町期末期から江戸期初期頃に作られた「口伝に依る逸話」なのである。
この「逸話」は作られた時期は、確定は出来ないのではっきりと云えないが、「話の前後の内容」から「天正期から江戸初期」に作られたものでは間違いはないかと考えられる。
実は、「信濃青木氏」でも、これに似た「信濃の逸話」が伝えられている事から、少なくとも「本能寺の変」の後である事が判る。
この「信濃の逸話」では、良く似た事が「事件の記録」として「外部史実」にも成っている。
以前にも、記載したが、「信長」が武田氏を滅ぼした後の信濃甲斐巡察の際に起こった事件と類似する。
それは、重複するが、土豪で郷氏の清和源氏支流末裔が、この時、道端で「信長」を迎えた際に「白装束に乗馬姿」で最高礼に比する「朝廷作法」に則ったもので迎えたのであった。
それに気が付いき比例無礼として、勘違いした信長は烈火の如く怒り、自ら馬から引き釣り降ろし、叩きのめした。
朝廷作法に熟した家臣が止めに入り先ずは納まった。
これに良く似た「信濃の逸話」にもあり、「伊勢の逸話」とある意味で同じ事を伝えようとする「青木氏の意図」ではあったと判断され内容は類似する。
「信濃」でも何か「儀礼作法の問題」を起こしていたのではないかとも思われる程の事件である。

この他にも、幾つかの「逸話」があるが、この「逸話」が江戸初期に作られたとすると、この「逸話」には大きな意味を持っている事に成る。
そもそも、「逸話」がつくられると云うのは、その「逸話の内容」が、その「氏家」に執って極めて重要であるからこそ作られる「氏家社会の重要な慣習」であった。
これらは、”「青木氏の重要な事」を伝えようとするもの”には、それぞれの「内容の目的」は異なるが、「氏是」「家訓」「口伝」「逸話」「由来書」「等の方法で「全青木氏の仕来り」としてある。
この「逸話」が作られるくらいである事から、「青木氏」に執っては、この「逸話」に込められた事が如何に大きな事に「青木氏」の中で成っていたかと云う事に成る。
この「逸話の内容」が、“時事に合わせて「青木氏に執ってシンボル的な事」“ばかりを読み込んでいる。

つまり、その時期に「青木氏」の中に「シンボル的な出来事」が起こった事を示している事に成る。
これは、「青木氏氏是」の影響によると観られる。
前段でも何度も論じたが、「青木氏氏是」を護ろうとすると、「青木氏の行動」を誇示して強く遺す事は難しい。
「青木氏の事」を”世に晒す事”、「青木氏の事」で、”世に憚る事”を強く戒めている。
こう成ると、何もしないと云う訳には行かず「逸話」ででも「名誉や権威や格式}等を遺して置く事に成る。

「悠久の歴史」の中でも、平安初期に桓武天皇に「皇親族」としての存在は、“「律令政治の邪魔」“として圧力を掛けられて起こった「青木氏衰退期」に遺された「氏是」ではあるが、この時に匹敵する程の、「心機一転」を期した青木氏で『総代わり』する程の事がこの天正期に起こったと云う事を物語っている。
その為に、「青木氏氏是」を護ろうとして「青木氏の子孫」に是非に改めて言い遺そうとして「四家の福家」は作ったのではないかと思われる。
この人物は「当事者であった信定」であると観ている。
前段で詳しく論じた「伊勢三乱五戦」の時の扱いに依っては、平安初期に訪れた滅亡に匹敵する程の事が、又、「青木氏に訪れた危機」を感じ採った事の後に作られた「逸話」であったと解釈される。
この危機から何とか脱した時期の「1600年前後の逸話事」であろう事が判る。
と云う事は、この時期に、上記の様に、「信長―秀吉―家康」と変化して行く中で、“青木氏の存亡が危うく成る程の事が起こっていた“と云う事に成る。
「信長―秀吉―家康」は、「存亡の非常事態」が起こり、次第に危険度が低下して、遂には安定し発展の兆しを観たとする経緯を示している。
この「逸話」は、「安定」に入る時期の直前期の事を伝えているのである。
遂には、既に時代の社会状況は意味の無い程に著しく変化したが、この事の事を筆者が「解説する役目」を果たした事に成る。

(注釈 「桓武天皇」は、「伊勢王の施基皇子」の「第六子の白壁王」の「光仁天皇」の子供で、伊賀の「高尊王」の孫娘の「高野新笠」との間に生まれた子供で、「皇位継承者」の少なかった時に天皇に成った。
「伊勢青木氏」は第一子の「湯原王」の子孫で従兄弟の縁者関係にあった。
聖武天皇期に男系の皇位継承者が居なくなり、女系天皇が続いた結果、正規に皇位継承者が無く成り、それに「準ずる者」として「施基皇子の子供達」に順番は廻って来た。
継承者は皇奈良期末期の「皇親政治」の一員であった。)

この「逸話」から、この天正期に会った事に対して読み取れる事としては、先ず“「福家の人物」”と会ったのは、口伝では「徳川家康」と伝えられているが、「頼宣」(1602年-1671年)が紀州藩主に成ったのは正式には1619年頃に成るが、既に、この前に、「逸話」から観て、「主君」と成っている人物は「家康」であって、「家康」が駿府から「松阪」に来ていたのではないかと思われる。
この時に、新宮から尾鷲に掛けて紀州を下検分していた可能性があり、その時に、「四家福家の信定」との「逸話の行り」に成って会い、逸話の“「呼び出し」”が松阪であった。
そこで「談合の予備交渉」が家康と行われたと考えられる。
この時が1603年と成ると観られる。
1605年に「伊勢面談」とあるので、「伊勢青木氏」と「徳川氏」の間で「話し合い」をしていた史実(神明社等を徳川氏に譲り渡した)が有るので、この「逸話]の“「福家の者」“は、”1605年に新宮に引いて没した“とする史実から、「青木信定」の「伊勢の戦い」に当たった当事者と云う事に成る。
この”「松阪での面談」”の終わった後に、新宮で没したと云う事に成る。
依って、新宮に引いた年数は1603年と成る。
そうすると、この1619年に新宮に居る「福家」は無いので、「後継者の福家」は、この時は「松阪」に居る事に成る。
そうすると、紀州藩は1600年に先ず「関ヶ原の勲功」で「浅野氏」に与えられた。
そして、その後の1619年に「頼宣」に引き継いだ事に成っているので、「福家」が「新宮」に引いた時期は、「伊勢の状況」が安定した時期に成る筈である。
だから、依って、1601年に「青木氏内の騒ぎ」が安定し、「商い」もそれに合わせて盛り返したのは1602年以降と成る。

そうすると、前段の「青木氏年譜」の”「伊勢談合」”とある1603年に、「事の始末」を「伊勢衆」等と共に付けた「後始末」の後に成る。
つまり、1603年の「後始末」の後に「新宮」に隠居した事に成る。
1603年と成れば、その人物は、伊勢解決後の「秀吉の青木氏家臣説」で“「騒ぎとなった問題の責任」“を採って「四家の人事異動」をした。
そして、その後に引退していた「信定」と云う事に成る。
この「信定」は「新宮」に引きさがって2年後の1605年に没している。
とすると、1605年の「松阪面談」は、「青木氏の守護神と神明社-5」にも論じた「別の寺記録」から“「徳川氏との秘密会談」”を指していると思われるので、この会談が終わった直ぐ後に、「引退した事」に成る。
その年の内に「新宮」に戻り年末に没した事に成る。
そうする、この「逸話」に遺された「福家の人物」と「時期」と「場所」は、人物は「信定」で、時期は1603年で、場所は当然に「新宮」と成り、1605年の中頃(逸話の柿の行り)に新宮で家康と会い、その後の直ぐの“「呼び出し」”で、1605年に一度松阪に戻った事に成る。
その時に家康に面談した後に「四家の継承などの始末」をつけて「新宮」に再び帰って、その年の末の11月末に没した事に成る。

この「逸話」の内容を分析すると、上記の様に色々な「青木氏の行動の事」が詳細に判って来る。

この「逸話」の分析を続けると、次ぎの様に更に詳細が観えて来る。
先ず、「逸話」内の”「馬に紋付き袴の白装束」“には、特別な「皇位の慣習」であり、それには意味があって、先ず一つは「青木氏の家柄」を顕著に伝えている事に成る。
更に、この「逸話の行り」は、「青木氏の決定的将来」を決めた“「青木氏と徳川氏が面談した事」“を意味しているのであって、”「呼び出し」“とは成っている行りは、「新宮」から「松阪」に出て来るように表現した意味である。
この「逸話」には漢文的に”「三日」“の行りは、”「直ぐ後」“の事を意味する。
”「門前と書院の出来事」(伊勢館)“の行りの意味は、「面談の内容」を指し示す事に成る。
両氏の「氏と家の事」に付いて、話し合った事を意味している。
“「鉄砲と柿」”の行りは、手広い商いの「総合商社」と成っていた「二足草鞋策」を意味する。
これは明確に「青木氏の状況」を伝えている。
“「猟と民」”の行りは、南伊勢や南紀州が「旧領地や遠祖地」であった事を意味する。
“領地視察と鷹狩りを兼ねた形で巡視した”とする行りは、次ぎの様な事を意味していたと考えられる。
それは、「青木氏」が「悠久の歴史」を積み上げた“「賜姓五役のお役御免」”と、その“「社寺一切の財の権利移管」”、“「青木氏が建立した浄土宗寺の密教性の解除と寺引き渡し」”、「伊勢大和紀州域の土地権利の保全安堵」、等々の事に付いて面談した事が判る。
その後に、「事務的な話し合い」を続けた事が前段の「青木氏年譜」からも判る。
「寺記録」では、この時に「青木氏との血縁」に関する「秘密裏の話し合い」も持たれた事が表現されている。
恐らくは、これが「立葵紋の青木氏の事」に成った「話し合いの基」であったと観られる。
この時に、“「直近に決着を就け様としている問題(夏冬の陣)」“があるのに、「先の事ばかりを話し合う」”と云うのも可笑しなことで、「合力要請の話」は出ていた事は間違いはない。
“家臣が脅しをかけた道端“の行りは、「青木氏の氏是の姿勢」を物語っていて、何事にも動じず、媚びず、阿ず、晒さず、憚らず、の姿勢を毅然と持つ事を諭している。
「信定」没後の1年後の、1606年には“「伊勢談合」”とあるが、1605年の「松阪談合」の後続けられていた「話し合いの結果」が出たところを観て、「向後の事」に付いて、新旧合わせた「伊勢の一切の勢力」が集まって話し合ったと考えられる。
それが“「伊勢」“と云う表現に成ったと観られる。

筆者は、1605年の「松阪面談」には、伊勢を纏める事に付いても1年間を通じて事務方で話し合っていたと観られ、それが「伊勢談合」となったと考えられる。
その結果、「伊勢」を始として、「四家」も合わせて安定したと考えられ、「新四家福家体制」で「青木氏」は進んだと観える。
其れが、「1607年の表現」と成っていると考えられる。

「一つの逸話」は、その「氏家の事柄」を「物語風」にして「口伝」で伝える「古来の手段」として観れば、そこにその「氏の前後の歴史観」を加えて解釈すれば、この様に、紐解く事が出来る重要な手段と成り得るのである。

注釈 そもそも、「青木氏」は、“家康と伊勢松阪で会った事“は、初めてではない。
「夏の陣」の名古屋で、秀忠を待機中に、「青木氏に対して合力の打診」をしている。
この事は「青木氏年譜」にもあり、「伊勢衆」と談合して、「合力」とその「内容」を決めて、その答を「次の福家」は「家康」と名古屋城で直接面談して伝えている。
この事に付いての外部記録もある。
「家康との面談」が二度もあると云う事は、夏の陣で、書状で「合力要請」が在ったと云う事は、その前に「面識」が在って、“それなりの誼を通じていた事”を意味し、「二度目の書状」で済ませる事が出来たと考えられる。
「向後の青木氏の立場」のみならず、“直近に起こる決戦の合力”に付いても打ち合わされた事が読み取れる。

筆者は、全ての「口伝」は、その意味で、“その氏が自らの「氏家の事」の為に自らが証明する事が出来るもの”として重視している。
しかし、この「逸話」などの「口伝」等は、現代社会では兎角消えがちである。

この「江戸期の逸話」には、未だ続きがあって、これを紐解けば、更に、「青木氏の伝統」や「先祖の生き様」が未だ浮かび上がって来るのである。
“「昔の伝統」”を適格に伝える手段で見逃してはならない「四家の伝統」であったのだ。
この「逸話」は、「青木氏の守護神と神明社」等の論文にも記したが、敢えて、「四家の伝統」として「重要な史実」を掘り起こせる事としてここに記した。
「本逸話」の『24までの行り』ももっと掘り起こせば、先祖が「逸話に託した事」が読み起こせるかも知れない。

上記した戦略上では、「北畠氏」にしろ「伊賀氏」にしろ「青木氏」や「伊勢衆」に執ってしてみれば、あくまでも、「伊勢の混乱」を誘引した「招かざる北畠氏」「旧領を奪われた氏」とすると、仮に多少の「付き合い」は合ったにせよ、「命」を賭してまでの「相手」では無く、“「義理立て」の範囲”程度であった。
あるところでは引くべきが「本道」の「基本戦略」であった事から、「当初の戦略上」に則り、「紀州の遠祖地」に引いた事なのである。

この「青木氏」に遺されている幾つかの「青木氏逸話」と「青木氏年譜]と「青木氏遺資料」を組み合わせる観ると、「逸話」は「逸話」で無く成る。
これは明らかな「青木氏史実」である。
つまり、この「逸話」のある処には、年譜は兎も角も、それを物語る何らかの「青木氏遺資料」も不思議にあり、「青木氏の生き様」が観えて来るのだ。
「青木氏」も例外では無かった。
当初、この事に気が付かなかった。”ただある所に在る”と云うものでは無く、「青木氏」の場合だと、「二つの伊勢青木氏」に関係の深かった「郷士衆の家」に在る事が多かった。
これは、「氏家制度」或は「四家制度」と「郷士制度」と「部による職能制度」云う組織形態が確立していた証拠であろう。
長い間には災難があって概要は何とか遺せてもそれを証明する資料となると難しい。
それを”互いに組織を通じて都度やり取りする事”があるから遺資料などとして遺せたのであろう。
「青木氏には職能の独特の家紋制度」を採っていたので判るのだが、手付かずの職能集団の「部人の家筋」には未だ『重要な遺資料」が眠っていると観られる。
「職人集団の独特の逸話や口伝」があると観られる。
これを研究すれば、まだまだ「青木氏」を掘り起こせるだろう。
取り分け、「横の関係」が詳しく観えて来るかも知れない。
現在では、これらの「逸話」から”他の地域の青木氏の生き様”も予測する事には成るが、これを具現化出来るかも知れない。
他の地域の「逸話」も集めてはいるが、「史実の年数」が掴めなくてなかなか難しくて具現化までに至っていない。

同じく、この直前と観られる“「伊勢衆合」”とあるのは、「青木氏」等を含む「伊勢者」を集めて密かに「氏郷」が「伊賀の乱収束後の戦略」を打ち合わせていた事を物語るのではないと観られる。
当初の戦略上に則り、「本領安堵」に向けた「お膳立てとその内容」を打ち合わせたと観られる。
其れが、一度目の“「新宮避難」”(二度目は逸話の行り)と云う形に成ったと考えられるが、ところが「本能寺の変」が起こって、度重ねた「談合」“の「戦略の狂い」がここで狂ったのではないかと観られる。
それが「秀吉との絡み」で「青木氏の内部」で問題と成って騒ぎが起こった事も読み取れる。

つまり、「伊勢」に執って、“「秀吉に対する協力体制の如何」“で「意見の違い」が「四家」の中で起こったと観られる。
この「青木氏年譜」から「青木氏」には「明智光秀の賛否」は当初からなかった事を物語っている。
結局は、「伊勢収束」後に、「本領安堵」によって、上記する様な「秀吉」に依る「青木氏家臣騒動」が起こって、「青木氏内部」でも混乱していた。
丁度、その時に、「氏郷」が「奥州転封」(1590年)にて「青木内部」がより不安が広がった事に成っている様子が観える。
この様に「同族の氏郷の存在」が、「二つの青木氏」の“「内部の重石」”に成っていた事が観える。
結果、「関ヶ原」(1600年)で「青木氏内部の混乱」が収束し、逆に、「関ヶ原」や「冬夏の陣」で、“軍需に依る「商い」”が繁盛し上向いた事も判る。
それと共に、その時の「福家」(信定)が病没(1605年)して、「四家方式」で「組織の入れ替え」が起こった。
この為か、「新しい態勢」で「四家内部の結束」が戻った事が判る。

「近江の混乱」と書かれているが、これは「蒲生氏の氏郷の跡目の問題」(1600年)で近江が混乱状態(忠元の親の里)に陥っていた事が、「二つの青木氏」にも計り知れない「大きな影響」を与えていた事が判る。
既に、この時は、縁者でもあり、“「青木氏」を救ってもらったとする感謝の念”と共に、「氏郷」が「奥州に転封後」であったが、「近江伊勢の商い」(摂津店)での影響等も含めて、「商業関係のつながり」にもそれが「大きな憂い」と成って居た事を示している。

(注釈 秀吉が「蒲生氏郷の才覚」に嫉妬して遠ざけたとする説もあり、これを見抜かれない様に伊勢より知行を倍増、実態は約4倍にして転封したとする説もある。
この事は充分にあり得る事で、「二つの青木氏」ではこれで騒いだ事も考えられる。
「氏郷の恩義」だけでは、この「青木氏年譜」に描かないであろうし、「談合」と云う手段を重ねないであろう。
これは「家臣説」も含めて「秀吉に対する憤懣」が、「伊勢シンジケート」の内部も含めて起こっていた事を示すものであろう。)

これには、「豊臣-徳川の勢力図」が一挙に変わり、先の起こり得る「夏冬の陣」の混乱も見据えて、可成りに「青木氏の混乱」があった事が判る。
親睦な「伊勢シンジケート」などからの「突き上げ」が在って、“「北部談」”とあって「談合」を重ねていた様子があり、未だ混乱して居た事が読み取れる。
現実に、散会していた「伊賀のゲリラ衆」が城を一時的に奪還した記録が外部の別の記録で記録されている。
この事から、「青木氏」の「伊賀一部の本領安堵を受けた北部域」では、未だ騒がしく成って居た事から、「伊賀北部の郷士」等と談合を成されていた事が判る。
こんな中で、結局、「氏郷の恩義」に従って、「豊臣側に陣するかの問題」が提起されていた事も判り、「冬夏の陣」の前に、結局、「徳川氏に合力する談合」が成されている。
「外部記録」では、上記した様に、「家康」が名古屋にて「伊勢衆」に「合力の打診」が成され、この為に、三か月も答えをしなかった事が記録されている。
「青木氏年譜」の“「四日市談」”の意味が、何を意味しているのかは良くは分からないが、恐らくは、「南域の北畠」と「北域の伊賀」と「東域の長嶋」には、「外部記録」には観られない“不穏な「ゲリラ戦」”が未だ多く各地で散発していたのではないと考えられる。
それを「伊勢四衆」が集まって”どうするかの談合”をしていた事を意味していると考えられる。
ここには、“「紙屋」”とだけ「添え書き」されている。

この事から、「四家」の「四日市殿」が「仲介」で、「紙屋長兵衛」と「秀郷流青木氏の忠元」と「徳川氏との談合」が密かに事前に成されていた事も考えられる。
「徳川氏合力」に向けて未だ「不安定な伊勢域」の事も踏まえて答えの出せない「伊勢域」では、「合力」そのものも合わせて、“どの様な形の合力”をするかを苦慮して「談合」が行われたとも観られる。
「四日市談」と云う事は、「四日市殿」とは江戸期直前に新しく加えられた「四家」の一つであり、「忠元家の青木氏」と「信定家の青木氏」との「融合族」ではある。
この「四日市殿」が「談」と有るので、“何か話を持ち込んで来た事”を意味するとして、「忠元の青木氏」から「四日市殿」に「仲介の話」と成ろう。
その話は、「武蔵入間宗家の青木氏」からの話と成れば、当然に「関東の徳川氏」からの話を仲介した事に成る。
この「四日市殿の仲介話」は、当然に、「冬夏の決着」に向けての合力を「二つの青木氏」に通した事であり、「伊勢域の郷士」、つまり、「伊勢シンジケートの合力」を調略して来た事に成る。
この時期にも、散発的に「ゲリラ戦」が伊勢-紀州-河内域でまだ続いていたと成れば、「伊勢シンジケート」は、未だ、納得していなかった事に成る。

1583年に「北部談異変」。1583年に「四日市談」。1584年に「伊勢解決」。と「青木氏年譜」の記録にあるのは、「伊勢シンジケート」を最終的に納得させて、それを纏めて「合力」は定まった事を物語る。
現実に、それ以後、散発していた「ゲリラ戦」は「外部記録」では出て来ない事から収束している事に成る。
「冬夏の陣」に向けて、「北畠氏、伊賀氏、伊藤氏」の三氏傘下にあった郷士等は、「伊勢の一連の戦い」で各地に散会していたが、再び結集して、「伊勢シンジケート」の保護下に加わり、”再構築した”事を物語る事に成る。
この為に「ゲリラ戦」が収まった事のみならず、「統制のとれた環境」が伊勢に生まれた事に成る。
つまり、この談合は、詰まり処は、この「結集」と「合力」の話であった事に成る。
従って、「青木氏年譜」に“「伊勢解決」”とあるのはこの事を意味しているのであろう。
この解決に要した期間は、”「北部談異変」”から”「伊勢解決」”までに凡そ10か月程度、「話し合い」に入ってから三か月以上が掛かった事に成る。
結局、「夏の陣」には、本譜でも、「伊勢シンジケートを動かす談合」をしていて、「伊勢青木氏」の「別のある書」には、「伊勢路」と「大阪と伊勢間」の「沿道の警備」と、「食糧の準備」と、「傭員250人」で合力する事を決定している。
この「決定事項」に付いて、「松阪」で家康代理人と面談していて、それを代理人が家康に伝えた事が外部記録に記述されている。
そして、その後に、「四家の福家」と「伊勢秀郷流青木氏の者」(名は不明)が、上記した様に、この「決定事項」を以って「家康と二度目の面談」を「名古屋の館」(城とは書いていない)でした事に成っている。

注釈として、 「城」では、「家康の勢力図の武の傘下」に入った事に成るし、「青木氏氏是」に依って「武の戦い」は表向き出来ないし、「家柄官位官職」などは「徳川氏より上位」で、衆目上は「権威の象徴」である事から「徳川氏の段取り」として、配慮として「城」では無く『館』を選んだ事に成る。
記載されている「合力内容」も、見事に「戦いの範囲」を超えていない事が判る。
そもそも、道理から観てこの様な「合力の差配」は「談合」以外には上手く収まらないであろう。
この「青木氏」に対して、「二度の面談の徳川氏の配慮」が際立って観える。
この辺から、“「松坂面談」“を期に、「青木氏側」は、「徳川氏」に対して心底から傾注して行く様子が伺える様に観える。
「松阪面談」と、この上記の「天正期逸話」には、“江戸期に入る青木氏の立ち位置”が、明確に物語っている。

筆者は、「1605年の松坂面談」には、上記した事だけでは無く、可成り「人間的な信頼感」が相互に生まれたと観ている。
「青木氏」に執っては、“「第二期の皇親政治の到来」”とまで心勇んだのではないかと考えている。
現実に直接的に政治に関わる事は無くしても経済的な関わりを含めて間接的に大いに関わった。
中には「享保の改革」や「紀州藩の勘定方を指導」するなど「吉宗の親代わり」で育てた等その様に成って行くのである。

この「紀州藩への関り」に付いては、「逸話や口伝」が多くある。
「逸話や口伝」を、”敢えて恣意的に遺したものではない”と思われる。
恐らくは、「四家の福家」が恣意的に遺したのではなく、「四家の周囲や家人や郷士衆や部人衆」の間に「話の話題」として上り、”それが何時しか「物語風」に伝えられ始めた”とするのが「話の本道」と観られる。
それは、「四家に遺る逸話口伝」と、「家人の家に遺る逸話口伝」と、「郷士衆の家に遺る口伝逸話」と「部人の家」に遺されたものが、その意味するところが不思議に余り違わない事がそれを証明している。
作り上げられたものと云うよりは、何時しか家に伝わる「話の話題」が、「四家」や「家人」や「郷士衆」や「部人衆」の「家伝や家柄」を示すものとして自然に出来上がっていったと観られる。
普通はこの家柄などを誇張する手段とする場合は、[誇張や虚偽」が「逸話口伝」に兎角、目立つ。
これが目立たないのは、「四家、家人、郷士衆、^部人衆」との間柄が大正期まではっきりとしていた事から誇張や虚偽は出来なかったと観られる。
むしろ、「郷士衆の逸話口伝の話題」には、「射和商人の事」を始めとして「青木氏との関わり」を遺している事が目立つ。
上記した様に、「郷士衆の家」から発見された史実には、上記した様に「紙産業の殖産拡大」や「農業の改革」や「養蚕業の育成」の事が四家の逸話口伝を証明するかのように多く遺されていた。

「逸話口伝」と関わりのある事を更に分析を続ける。
そこで何はともあれ、この「関わりの決定的な証拠」は、“「立葵紋の青木氏の発祥」”が、これを大きく物語っている。
この事一つで、“「青木氏の全ての立ち位置」”を大きく換えたとも云える。

(前段の「伝統」で「立葵紋の青木氏の事」を論じているので詳しくは参照)

ただ、この様に「文章表現」にも、「外部記録」とは相違も観られるが、何も「外部記録」だけで「青木氏」を証明する必要は無く、「青木氏」に其れなりのものを持ち合わせていれば、「青木氏」に執っては意味を持つ。
大方は、「伊勢」と「青木氏」から観た表現と成ってはいるが、「青木氏の歴史観」をもっと伴わせれば、更なる「逸話の様な事」も持ち込んで、検証すれば史実を掘り起こせる事が出来ると感じられる。
「無形の伝統」を論じる場合、「青木氏」は「密教」であった事もあり、ただ一つ遺された「賜姓族」であった事もあり、ただ一つの「古代浄土宗」であった事もあり、そこに「生まれた伝統」には、「青木氏」自らが証明しなければならない「宿命」を持っている。
他氏にはない絶対に無い事のみならず理解されにくい事の”「青木氏だけの伝統」”でもある。
そこで、少し戻って、「青木氏年譜」から、更にこの”「青木氏だけの伝統」”を甦らせて試る。

「織田信長」との「面談による話し合い」と観られるのは、“「伊勢和合」”の表現と成っている。
“「伊勢」”と表現しているのは、「二つの青木氏」(信定と忠元)が、「伊勢衆」を含む「郷士集団」を代表しての事と観られる。
この時、「信長」と直接会ったか、その場所等は外部記録では不明記である。
しかし、場所は、“「寺修復」”の事で裏付けられる様に、”「伊勢菩提寺」”で会った事までは、この「青木氏年譜」でも、「寺資料」からも辿れるが、「信長本人」が出て来たかは今は辿れないので判らない。

もう一つは、「松阪の菩提寺」であろうとは思うが、「津市の分寺」の寺かは今は判らない。
状況からは、”「修理」”は両方であろうが、「信長面談の場所」は「松阪の菩提寺」であった事が頷ける。
この“「寺修復」”は、「信長の伊勢三乱」で“ある程度に焼き討ち等で攻撃された事”を意味している。
然し、筆者は、「有名な激しい殺戮戦」を受けた”「攻撃された避難民」”が、この「二つの寺」に「救い]を求めて逃げ込んだと観ている。
ある程度の「ゲリラの背後関係」が疑われていた事が読み取れるが、外部記録を参考にして、“「村人3000人が殺戮された」“とする記録もある事から、織田軍の激しい追跡で「ゲリラ」や「村人」が、遂には、「青木氏菩提寺」に逃げ込んだ事もあったと観られる。
それは、「青木氏の菩提寺」には、「蒲生氏郷」もいる事でもあるし、その「親族の伊勢青木」もいる事でもあるし、「信長」はある程度は「他の寺」よりも、”危害を加えないだろう”と云う「不入不倫の権」の「古来からの風聞」もあった事が影響して、追われた民は逃げ込んだのであろう。
「信長の激しい殺戮」は、「村人3000人」とすると、「6村」に値し、「1郡」に相当する。

そもそも、国は「5郡」程度と成っているから、事実とすると、例え様も無い凄い殺戮であった事に成る。
織田軍も不意を突かれて6000人が死んだと記録されている。
「総大将の信雄」も討ち死に仕掛けたと記録されている。
悉く「寺」は焼かれ、記録では僧侶は700人死んだと成っている。
この数字からは、「伊勢の殆どの寺」が焼かれた事に成る。
「生き残った村人や兵士の者」が、この「青木氏の菩提氏の寺」に逃げ込んだことを意味していて、そこを焼き払い、燻し出して出て来るものは悉く討ち取られた事に成る。

僧侶700人と成れば、古来の村郡国は4から5の構成から成り立っていた事から、最大で125村に成り、そこに寺が1村2寺とすると250寺、そこに僧侶が平均4人とすると、7割は殺戮された事に成り、「青木氏菩提寺」に逃げ込んで来る可能性は当然の事として10割と成るだろう。
「伊勢の寺」の「殆どの寺」は焼かれた事に成る。
この事から、奈良期から「不倫の権」で護られていた「青木氏菩提寺」を知っていた民衆や兵士は逃げ惑い乍らも護られると観て逃げ込んで来た事は間違いはない。
「青木氏菩提寺」は、上記した様に悠久の「不倫の権」にあった為に、「信長」でも手は出さないだろうとする「安心感」があったし、「ゲリラ戦」であった事から外に出ない「青木氏」には手を出さないだろうとする信頼も在った。
唯、「攻める事」はしなくても、“火を放って炙りだそうと脅しをかけた”事は否めない。
幸い記録から、「寺内の殺戮」は無かった事が寺資料から判る。

「伊勢の五戦」での「伊勢側での犠牲者」は、「村人3000人、寺関係者等700人」程度等となる。
これは、当時の村単位500人を前提とすると、何と伊勢北部人口の一割以上に相当するとすると、どれだけ「村人」は逃げ迷ったかは良く判る。
因みに織田側で、全体で兵士6500人程度の戦死者を出している。
最早、これは「ゲリラ戦」と云えども、両者は「戦い」から「殺戮修羅」に成っていた事を物語る。
つまり、「青木氏」が我慢しきれないで「表」に出る可能性のある“際どい戦い”に成っていた事を「青木氏年譜」からでも物語る。
普通なら表に出て仕舞っていただろう。
然し、「青木氏の氏是」がこれを押し込んだ。

「四家」にしても、「織田側」にしても、“何処かで終止符を打つべき時を見つけねばならない“とする考えはあって、「四家」でも議論に成っていた事が「青木氏年譜」でも判る。
結局は、「四家」では、そこで、強硬派を押えて「秀吉-氏郷の斡旋仲介」を試みたと考えられる。
その時期が、「北畠氏-伊藤氏-伊賀氏」と続いた「伊勢の最後の態勢」が決まる「伊賀の戦い」(1581年)のその時と観ていた事が判る。
兎に角iも、会う所の「場所設定」をした事に成るだろう。
その為にも「青木氏部」で「自ら修復した事」が判るし、“「寺修復」すると云う事”は、どんな形にしろ「信長」が来ると云う事も物語っている。
この事は、研究中であるが、「影のゲリラ戦」で応戦した「青木氏」であり、「直接敵対した相手」では無い事から、「第三次」と云われる「伊賀の乱」の終了後の1581年10月9日に、「信長」は現実に伊勢に入国して視察している。
この時に、「秀郷」と共に今後の「伊勢平定」で会っている可能性が充分に有る。
その意味では、“顔を出す程度”であった可能性が有る。
戦略的にはこれで良かったのであってそれ以外には無いだろう。
「伊勢の戦い」で「二つの青木氏」が直接会う大義が「ゲリラ戦」である以上は無い。
従って、「青木氏年譜」から観て、前後に何らかの「伊勢の談合」を繰り返している事から、「代理の可能性」が高く、「蒲生氏郷」に任して代理と成った可能性が読み取れる。
「ゲリラ戦」であった事は明明白白なので、その事から考えてそれ以上は、「信長の主戦者」はいない事に成ろう。

そこで、”「伊勢衆」”で主に構成している「伊勢シンジケート」に発言力を持つ「二つの青木氏」と会って、「会合と云う形」で間接的に話を着けようとした事が「青木氏年譜」の談合の様子で判る。
「事の次第」を治める為に談じる事を「談合」とすると、「談合」では無く「会合」であった筈である。
「信長」気に入りの同族の「蒲生氏郷」が全て自然に取り計らっていた事は云うまでも無いからだ。
当然に従って、「蒲生氏郷」に「青木氏の結論話し」を廻す事が必要と成る事からも、この時期、事前事後に、度々、「伊勢シンジケート」と談合している。

「伊賀の乱」は、外部資料では、「三次の乱」(伊賀城、比自山城、柏原城)であるが、最後の1581年末の「柏原城攻め」では、「伊勢域全体のゲリラ戦力」で「蒲生氏郷」は虚を突かれて苦戦するも、滝川氏に助けられ、何とか一応は形の上で解決した事が記録されている。
しかし、これを以って「伊勢周辺の戦い」は兎に角は収束に向かうが、その後も「ゲリラ戦の混乱」が散発的に続いていた事が「青木氏年譜」からも判る。
外部記録では第三次では終わっているが、更に戦いは続いている事も判る。
「ゲリラ戦」による「外部記録の柏原奪還戦」からも一致している事が判るので、この事からも、「信長の徹底戦法」とは異なる故に、「蒲生氏郷」であった事が伺える。
この時に、この「伊勢の指揮官」であったのは「近江蒲生氏郷」であって、「毛利攻め」の為にも、“「伊勢」“を兎も角も安定させる意味でも、「ゲリラ戦」を指揮していた「二つの青木氏」が仕掛ける「信長の影の背後脅威」をも取り除く意味でも、「二つの青木氏」の「縁籍族」の「蒲生氏郷」が最も“談合に最適な人物”として代理したと観られる。
「信長」除いてこの「氏郷」以外には代理は務まらない。
「外部記録」に載っていない事、“「四日市談」”や“「伊勢談合」”等が記録されていて、当時の「伊勢の状況」が読み取れる。

(注釈 「外部記録」が全て正しいとしての推理で理解される方もおられるが、筆者は、「外部記録」の論説は、「我田引水の論調説」が多いと観ていて、それを恣意的に通説化して正当化している傾向が強いと感じている。)

本論の様に、「内部資料」から観てみると、「外部記録」には矛盾が目立つ事が云える。
特に、室町期末期から江戸中期までの資料は、幕府が容認する姿勢を見せている様に、権威確立の政治上の配慮から“「搾取偏纂」”が殆どであり、歴間で突き詰めると矛盾が浮き出る。
通常は、その「外部記録」や「資料」の「信頼性」を100としての論調が殆どだが、まじめな論説者は“「後勘に問う」”としている。

(注釈 一方の「外部資料」による第三次とする「伊賀攻め」には、一方では、“信長は、「伊賀氏の大将」を「武にある者」は斯くあるべしとして務めたものを誉めそやし許した”として、自説に肯定的に都合よく偏纂している。
しかし、全く同じ場面を、他方の「外部記録」は、“信長は、村人を含む数千人を皆殺しにした”として、「伊賀氏」を全滅にしたと否定している。
伊賀氏のみならず「長嶋の戦い」も同じ偏纂が起こっている。)

(注釈 そもそも、「本願寺石山城外のゲリラ戦」との区別がつかなかった事からの、「伊勢の悲惨な戦い」と成ったと観られる。)
(注釈 敵対した「三氏殲滅」の「信長の戦い方」は、“誰が敵で味方か判らない「二つのゲリラ戦」の混合であった”為に、敵味方共に全滅に期した事は確かで、後者は正しいのだが、この様に、歴史家の自説を通説化する為の偏纂が目立つ。)
(注釈 幸い、「青木氏」には、他氏と異なり、何とか搔き集めた「自己資料」も何とか遺されているので、「外部資料との差異」を具に発見できる。依って、「恣意的、故意的な通説化」が見抜けるが、況や、これらの「青木氏年譜」をも踏まえての「本論の論調」と成っている。)
(注釈 信長自身が「毛利攻め直前」で「武田氏」を滅ぼしたが、未だ「伊勢の事」を放置して「高松攻め」には移動しなかった筈で、この時を境に「当面の打開策」は見出せたと観られる。 しかし、「本能寺の変」(“・「美濃騒動」”)が起こって一時中断し、その後に「氏郷」に「伊勢の収集整理」を任したと成る。「青木氏年譜」の“「美濃騒動」”の表現としたのは、「氏郷の父」が「美濃の守備隊」であった事から間接表現としたと観られる。)

その後の変の後に、この「面談事」が下で、「権威」のみならず、その「絶大な影の力」をも、「秀吉自信」が取り込み、“ 青木氏と関係ある豊臣家”として誇張して、実のところは、“青木氏族の形で取り込もうとした行為“であって、遂のところは、「本領安堵」を根拠に「秀吉の青木氏家臣説と親族説」の元と成ったと考えられる。

(注釈 それを、後刻、“「秀吉」“を信望する歴史家が、「青木氏」が反対しない事を知った上で、所謂、上記した矛盾を多く含む「福井逃避説」等を編み出して、「自説」を正当化する為に歪曲して、世間に「通説化」を成し遂げたものであろう。
「青木氏」からすると、明らかに「歪曲の搾取偏纂」である。)

そこで、話を戻して、これらに反論する意味でも、「青木氏の立場」をもう少し検証して観る。

「青木氏の立場の検証」
つまり、これらの長期戦化した“「ゲリラ戦」”では、四家の”「5つの面 20の顔」”がある事に依って、相手から観れば、”誰が敵かが判らない”と云う事が起こっていた。
「信長側」では、「本願寺城外のゲリラ戦」か、影で図らう「青木氏のゲリラ戦」のどちらの敵であるのかは判らなかった筈であり、この「周囲の影響」を受けて長期戦に落ち至っていた。
「信長側」では、1580年に「顕如」が和睦を認めたにも関わらず、納まる筈の「ゲリラ戦」が続く事に疑問を持っていた事に成る。

(「外部記録」は一つにして論じている。ここにも「人時場所)の「矛盾」が出ている。)

この時、丁度、「石山本願寺との戦い」が城外戦化して起こっていて、周囲では、「一揆」も頻発して、「石山一揆」(1580年-1581年)なのか、「伊勢衆の反撃」なのか、「紀州衆の反抗」なのか混在して、まさしく”誰が敵なのか”は、「信長側」では判らなくなっていたと観られる。

(注釈 外部記録から観ると、何れ「ゲリラ」なのかは判別が就かない証拠として、織田側は、「寺僧侶の皆殺し」や「ゲリラ村の村民を皆殺し」にする等の殺戮を繰り返している。
1562年から1584年までの12年間、特に後半には焦りから激しさを増した。本願寺の顕如が抵抗を止めた結果、これらの全ての「ゲリラ戦」がぴったと止んだかの様に記載されているが、青木氏等の多くの記録では、実際は散発して長く続いていたのである。)

「青木氏」の「伊勢シンジケート」は、然りとても、「ゲリラ戦」を有効的にする為に、多くの資料から「紀州-伊勢の石山一揆」と連動させていたと考えられ、内部で内通していたと考えられる。

(注釈 歴史上では、“石山から「檄文」が紀州の「農民信徒集団」に発せられている史実”が見つかっていて、この存在も無視した「外部記録」となっている。紀州の「三つの傭兵軍団」はこの「檄文」に参応して動いている。
「外部記録の編者の歴史家」が、この「檄文の存在」を知っていれば、「外部記録の様な通説化」の論説には絶対に成らない事に成る。)

その証拠と成るものを探索した結果、偶然に遺された「商業記録」の一部には、この時期の「堺店」での「船の動き」があって、それが少し状況から観て変である。
そこで、当時の事の背景を検証して観ると、「青木氏」としては、「河内のシンジケート」と「ゲリラ戦」で連携しょうとすれば、陸では「信長軍の独断上」であり、そうすると、当然に「山間部」を「ゲリラ戦」では使う事に成る。
そうすると、「織田軍の秀吉」はこの「山間部のゲリラ戦」を突破して「物資の供給」をしなくては成り立たない。
そうすると、南北朝の足利軍と楠木正成の戦いで、足利軍の10万の中で、この山間部のゲリラ戦で食糧不足に陥り2万の軍勢が餓死寸前と成った戦歴もある。
「織田軍」は、この戦歴を知っていて油断は出来ない。
其れには、「陸」は無理であるとすれば、「船」を使う以外には無い。

中部の「今宮シンジケート」は「陸のシンシンジケート」、「河内シンジケート」も「陸のシンジケート」、そこで、唯一、「港と船」を重要拠点に持つのは「伊勢シンジケート」と成る。
この「堺港の不思議な船の動き」は、この事から来ていると観られる。
寄港していた「紀州中部の漁港」は、未だ信長の勢力外で、「伊勢青木氏」の「家人の定住地」にも成る。
「秀吉の紀州征伐」が1584年に行われて形式上は一応収拾がついているが、伊賀では残存兵が集まり未だ遺っていた。
この深い下津港のリアス式港に大船は入れられる。
現在は石油コンビナートの港にも成っている位である。
ここは、紀州北部の中間地の沿岸道からの「熊野古道の入り口」でもある。
ここから紀伊山脈の山岳部に入れる。(高野山にも入山可能な港)
上記した様に、「石山本願寺城外」の「ゲリラ戦」に「浄土真宗の座主の顕如」は、紀州伊勢領域の農民信徒に“「檄文」“を飛ばしているが、この事から、「信長」に対抗する「河内の土豪集団」の「河内シンジケート」は、ここからであれば、この紀州河内一揆に援護が出来る。

(最初、「河内シンジケート」は、取り分け「傭兵鉄砲集団で雑賀忍者族」等は、上記した様に、「秀吉の仲介」で信長と仲が良かったが、「石山本願寺攻め」等の事からの「路線の違い」から、反抗した。その後最終戦を行い討伐される。)

これが、「伊勢青木氏」が「堺支店」のここで連携を採っていたと観られる資料である。

しかし、そもそも「今宮シンジケート」は、戦略上、「秀吉」を強力に援護している事から、情報が漏れる恐れがある。
「伊勢青木氏」は、「今宮シンジケート」との連携には、秀吉が絡んでいる事は承知していたので、その「動き」には注意を払わなくてはならない筈であり、現実には難しく、連携には、それを示す証拠類は全く見つかっていないし、「青木氏年譜」にも出て来ない。
「今宮シンジケート」は、郷士土豪などの「武の集団」を使っての行動する集団では無く、「神社系の組織」を主に使って、「土地の氏子集団」と関連の縁故から、「情報」や「斡旋」を裏ルートで行う「シンジケート」である。
一方、「青木氏」に執っては、全国レベルの500社にもなる日本最大の「神明社と云う直接集団」のみならず、直接的な連携の「武の土豪や郷士との連携」を持っていて、「経済的な連携」も直接に持つ総合的な「シンジケート」であった。
又、更に広域的にも、「信濃青木氏」と連携する「伊勢シンジケート」であった事や、「甲斐青木氏との繋がり」を持っていた事から、紀州を通して伊勢から東域の横にその「シンジケート網の勢力図」を構築していた。
従って、「今宮シンジケートの情報と斡旋」は全く必要としていなかったのである。
むしろ、一部に食い込んでいた範囲であった。

この様な「背景」の事から、連携はしていなかったと観られる。
見つからないのは、そもそも、「シンジケートのゲリラ戦」は「秘匿」を前提としているので見つかり難い。
「今宮シンジケート」は、紀州の「鉄砲製造族で傭兵軍団の雑賀族」や「山岳ゲリラ戦の傭兵軍団の根来族」や「柳生傭兵集団」や「甲賀傭兵軍団」等の傭兵軍団とは、「情報提供」や「斡旋」等の連携を採って居た事は資料から見つかっている。
だとすると、「伊勢青木氏」が背後から「ゲリラ戦」で「山間部」より攻撃を行うには、どうするか問題である。

それには極めて効果的な方法がある。
それは、「伊勢秀郷流青木氏」(忠元)を通じて、「州浜紋、片喰紋、沢潟紋」の中部の「三つの秀郷一門」との連携を採る事が出来る。
「信長」が最も恐れていた「背後」の“「尾張三勢力」”である。
(織田軍の美濃守備隊」は「蒲生氏郷の父」)
“毛利討伐に遠征する信長”の“手薄と成った背後”を、この「尾張三勢力」で突けば簡単に落とされる事を懸念していた。

(注釈 現実に、織田側で議論している記録がある。
「美濃岐阜」は、「蒲生氏郷の父親」(賢秀)が護っていた。
それだけに「伊勢の指揮官の氏郷」に執っては「気に成る勢力」で、その勢力は「秀郷一門の同門の有力三氏」である。
もし、背後を突かれた場合は、「一族争いの悲惨な戦い」と成る。
その意味で、親族の「伊勢の忠元」の出方が気に成る。
先ずは、絶対に刺激しない方が得策である。「信長」も同じ意見であった。)

幸い「今宮シンジケート」は、“「神社系統」を使ったシンジケート”で、「シンジケート」を維持するには、先ずは「経済力」である。
その連携に必要とする「経済力」は「今宮シンジケート」には元より無かった。
依って、その「シンジケートの主力」は直接、「武の土豪集団」を配下にしていない為に、「ゲリラ戦での影の武力」を使う事より、各地の「土豪や傭兵集団」への「諜報活動を主力」としていたのである。
一種の「裏の斡旋業」であった。
「河内」と「今宮」は、「裏の斡旋業」のその意味で、「直接的な連携」は「武」で無い事とすれば、「青木氏」に執っては、これは下式の関係構築には都合は良かった。

「河内シンジケート」←「伊勢シンジケート」→「尾張の三勢力」

依って、「青木氏面談」に応じたのは、「信長」が、「伊勢-河内のゲリラ戦」を操る「伊勢青木氏」(「伊勢青木信定」)は元より、下記した様に、「伊勢秀郷流青木氏」を直接攻めなかった。
なのに、「伊勢青木忠元」との“「両者の面談」”に応じたのは、「信長の背後」で、「青木忠元」が「中部の三氏」を操るこの事に在った。
故に、「秀吉斡旋」(蒲生氏郷が仕切る)の「二名の面談」が起こったのであった。
「商業取引」からの記録としては、この事に付いての行動は「紀州の中部の漁港」に数度に寄港している事にあった。
「伊勢青木氏の商い」は、「海鮮業」は営んでいない事から、「紙問屋」を主力とする「総合商社」としては、何でこの港に出向いたのか不思議である。
それが「伊勢の港」ではない「紀州水軍」のお膝元の紀州下津の極めて馴染みの無い無い港である。
そもそも、「伊勢」では、その動きは織田側に知られる。
「今宮シンジケート」から秀吉に情報が洩れ通じる事が起こる。
元より「シンジケート」に依る「ゲリラ戦」は、その「秘匿性」が主戦術である。
「伊勢」から離れた地元の「常港の堺」では、その「秘匿行為」を起こしてもそうは目立たない。
しかし、もし「堺」で「戦いの作戦上の事」は出来ない事があるとすると、後は、一揆への“「物資補給」”と成る。
それは、「紀州中部の漁港」とする事でも判る。
紀州の山隣の「河内シンジケート」との連携として考えれば、この「不思議な行動」は納得出来る。

問題は、秀吉と通じている「今宮シンジケート」との連携である。
同時期に「石山本願寺城外一揆」や「紀州伊勢の信徒動乱」が起こっている事から、「河内と伊勢のシンジケート」との連動が充分に在ったと観ている。
「秀吉」は「毛利攻め」の準備で忙しいが、この「戦況の情報」を「今宮シンジケート」から具に入手していたと観られる。

(注釈 信長を「毛利攻め」に引き出すには、伊勢と大阪と紀州一帯で起こっている背後を脅かされる「ゲリラ戦の解決」が必要であるが、「信長の過激な有岡城の問題」もあった。
況してや「武田氏」を掃討した直後(1582年3月)でもある。
「伊勢」も、否、社会も信長に批判的に成っていた筈である。
下手をすれば、「尾張三勢力」の「藤氏」に間違いなく背後を突かれる。そう簡単では無い事は充分に判る。)

その「シンジケート」との「内通の目的」は、「青木氏」に執っては、「四家」の「5つの面 20の顔」を使って、「織田軍の軍事品や食料品の調達」に関わり、「調達費の高騰」や「調達品の遅配」や「雑務夫の差配」などで撹乱して、長期戦に持ち込んで「織田軍の枯渇」を狙っていたのである。

(注釈 上記の五戦の内で、「丸山城の戦い」が、最も完全に「織田軍の枯渇」に成功したが、「長嶋の戦い」では「調達費の高騰」、「清蓮寺城戦い」では「雑務夫の差配」、「伊賀の戦い」では織田軍から「城の兵糧攻め」を受けた為に、「調達品の遅配」で応戦した。
然し、「影の戦い」は其れなりに成功している。従って「織田軍枯渇の状況」は当に進んでいた。)

(注釈 「織田軍」へは、「伊勢シンジケート」は「山岳部のゲリラ戦」や「夜間のゲリラ戦」で「疲労戦」を展開した。
結果として、何れも北畠、伊賀、長嶋も「長期戦」に持ち込み、何れもが「第一次、二次、三次の戦い」と成って長引かせた。
「織田軍」を苦しめ、「作戦の計画」が狂い、その影響で、「秀吉」が指揮する「毛利攻め」では「著しい狂い」が出て来た。
秀吉は焦った。何とか「武田氏」は解決したが、「伊勢域」が問題に成っていた。
以上の事柄が上記の「商い情報資料」からも読み取れる。)

「青木氏年譜」では、1582年中に「松阪修復」とあるが、その後に1582年に・「美濃騒動」とある。
「本能寺の変」の直前であり、一体何を意味しているのか疑問である。
年譜の「伊勢談合」の後である。
そもそも、「青木氏年譜」が「松阪の事」、つまり、「四家の事」に直接触れているのは珍しい。
年譜の「伊勢談合」の前に、「ゲリラ戦」も収束の方向にあり、シンジケート内部も納まりも付いて来た時期にあり、「話し合い」も就いた。
特筆する問題は表向きには見当たらない。
何か「伊勢シンジケート」からの「極秘の情報」が「松阪」に在って、「四家の福家」が対応策について考えていて、この時、丁度、「シンジケート」から「毛利の高松城支援の失敗(1582年5月/21日)情報」で、その「毛利勢力」に陰りが観えて、“「織田天下の様相」”が明確に成った事の「極秘情報」であったと観られる。
その直前には「伊勢談合」もあった事も合わせて考えると、“「反織田の方向」”に付いて修復、つまり、“「反織田」は中止する“を「伊勢衆と伊勢シンジケート」にも図った事が成功したと考えるとこの事は納得出来る。
この検証の問題は、高松城の状況を、逸早くどの様にして「情報」として入手したかの問題である。
放っておけば1ケ月くらいで入る情報であるが、後勘でみると、年譜からそんな時間は無かった筈で、急いで入手している。

これは、恐らくは、黒田氏からの情報であったと観ている。
黒田氏は青木氏守護神の近江神明社の住職の家柄で、近江佐々木氏の支流末裔であり、佐々木とは近江佐々木氏系青木氏があり、元を質せば兄弟の同族であった。故に神明社の親族であったのだが、この黒田氏も「御師」と云う立場から「諜報活動」をしていた事は黒田氏の記録史実から明らかである。
依って、「神明社」を通じて、「松坂の四家の福家」と「伊勢シンジケート」に、この「毛利の後退」で、“「信長天下の情報」”が逸早く入ったと観ている。
場合に依っては、「黒田氏」が「伊勢の懸念」が「毛利攻めの信長出陣」の妨げに成っている事を憂慮して、敢えて、「伊勢衆」との和解に動かす為に青木氏側に送った情報ではないかとも考えられる。
とすれば、「同じ情報」が信長側に届いていなければならない事に成る。“届いていた”と観る。
故に、「毛利攻め出陣」に対して「信長」が腰を上げた事に成る。
それで、総指揮官の「織田信雄」が討死に成りかけ、「蒲生氏郷」も全滅の直前に滝川一益に助けられると云う程に、双方に1万人の多くの死者を出す無理押しの「伊賀の激戦」と成ったと観ている。
そこで、残るは「背後の憂い」を無くする事を目的として、“「伊勢衆との面談」”と成ったと観ている。

(注釈 ところが、1ケ月後に光秀謀反の異常事態が発生した。
その前にも石山本願寺は毛利の支援の撹乱戦法化で反抗していたが、その「本願寺」そのものは、紀州域でゲリラ戦が散発していたが、ほぼ1年前に顕如と正式には1580年に敗戦講和していた。
つまり、大方の「勝負の方向性」が就いた事を意味する。)

この「ゲリラ戦の伊勢情報」を「秀吉」は、逸早く「今宮シンジケート」から入手していて、“戦況に危機感“を抱いていて、この侭では”「毛利攻め」“の発端を掴めないとして、「青木氏のゲリラ戦の深意」も「今宮シンジケートの情報」から掴めたところで、「伊勢の指揮官の蒲生氏郷」を通じて「青木氏との面談」の合策を先ずは果たし、遂には「信長面談」に持ち込む事に成功したものであると観られる。
恐らくは、この事で、「伊勢攻めの大将」の「蒲生氏郷との連携」を採った事が読み取れる。

(注釈 「蒲生氏郷」の「伊勢」は、1568年、1569年、1571年、1574年、1575年、1578年、1579年、1581年、1582年の「伊勢攻め」全てを任されている。
1583年の「賤ケ岳戦」後に、改めて「秀吉」より「伊勢」を任され、1588年には「松阪城完成」させるも、1590年に陸奥転封に成る。
1582信長没後に「蒲生氏郷」は「秀吉の配下」に入り「伊勢」を続けて任される。)

「秀吉の毛利攻め」と「氏郷の伊勢攻め」は、織田氏に執って戦略上は、「最大の相関関係」にあって、「秀吉」は「氏郷」と「交渉」を重ねていた。
その為に、「氏郷」は第三次の最後の「伊賀問題」の解決直前に、苦肉にも、敵としているも「相互血縁関係」(「氏郷の祖父」と「忠元の父」は兄弟の親族関係」)にあった「伊勢衆との談合」を何度も重ねていた事が「青木氏の年譜」からも判る。

この資料の解析から観て、丁度、この「四家制度」は、この様に、「ゲリラ撹乱戦法」と「伊勢シンジケート」と云う「特殊な抑止力の組織力」は元より、「青木氏」に“「網を被せた様な役目」”を果たしていた事に成っていた。
この為に「伊勢三乱の五戦」の戦いの「表の記録」には、「青木氏」は一切出て来ないのはこの事に依る。
しかし、マニアや小説家を含む「歴史家」の中には、この「裏記録」を持っていて、「青木氏」は出て来る。
これを調べると、伊勢域の土豪や郷士集団から成る「伊勢シンジケート」を通じての「手紙類」が遺されて、それが、所謂、「歴史家」の手に渡っている事から出て来ている。

(注釈 現在の「ネット社会」や「歴史マニア」なども含めて、この様な「裏記録」が「表記録」として研究材料に一際広がっている傾向があり、特に、戦国時代と江戸期中期までの資料が出て来る。
興味深い事で、取り分け、“搾取偏纂で通説化を謀った記録“には、「裏記録の真偽」を確認した上でのその「矛盾」が露出し始めている。
上記の「本願寺檄文」などは当にそれであろう。
「古の歴史家」が遺した資料には、この「恣意的な通説化」は行わず、必ず、“後勘に問う。“とする”正しい態度の発言“が徐々に動き始めた気がする。
ただ、この”「裏記録」が「表記録」に成らなければならない“とする「杓子定規な考え方」は残念ながら筆者は持たない。
それは本論であれば、”「青木氏の範囲」で留めればよい“し、それは、”「ロマンの範囲」で遺せれば良い“と考えている。
”より「歴史観」に富んだもの“で有って欲しいとするもので有る。
尚且つ、この事に付いて論じられる立場は、「青木氏」にだけしかない。
「青木氏」にしか出来ないであろう。
「青木氏」が黙ればその範囲で終わるが、それだけに幸いに「自らが持ち合わせている資料」との「突き合せ」にて、より真実に近い「先祖の生き様と伝統」を遺す事に意味を持っている。)

ところが「秀吉」だけは、「今宮シンジケート」から、「二つの青木氏の事」を情報入手して知っていた。
つまり、「織田軍」に執っては、そもそも、「青木氏」が前面に出て戦っている様には観えていなかったのである。
この様に「青木氏の戦い方」は、“「丸山城の戦い」”の例に観る様に、「四家の20の顔」と「伊勢シンジケート」を使っての徹底した「ゲリラ戦」であった事から、「織田側」では、見分ける事は全く出来なかった筈である。
何れにしても「織田側」では「不毛の敵」であった。

(注釈 「青木氏のゲリラ戦法」は、「青木氏の記録」から観ると、「僧侶・神職」、「楽師」、「郷士」、「商人」、「村主・豪農」、「職人・大工」で「織田側」と何らかの形で接している。
「青木氏の顔」は一切出て来ない。
「外部資料」では、「北畠氏、伊賀氏、伊藤氏、永嶋氏」の「伊勢四氏」に関わる「伊勢攻め」に出て来る人物は、「僧侶・神職」は二人、「楽師」は一人、「郷士」は三人、「村主」は一人、「豪農」は一人、「職人大工」は二集団、「四氏の家臣」は二人、以上の10人と二集団である。詳細は別途)

これらの内容は、外部資料から観ると、次ぎの三つに成る。

(イ)「談合、裏切り、仲介」
(ロ)「伝言、案内、敗戦処理」
(ハ)「商談、道案内、城修築」

以上の三つ内容に関わっている。

これらの人物は、「青木氏の資料」からは、次ぎの関係種に成る。

青木氏の「内部」の「20の顔の仮装人物」(A)
青木氏の「意向」で動いた「関係人物」(B)
青木氏の「関係」で働いた「郷氏・郷士」(C)

以上の三パターンに分けられる。

(A)は、「四家人物」
(B)は、「四家家人」
(C)は、「伊勢シンジケート」

以上で役割を演じていた事が判る。

外部資料には、次ぎの様に成っている。

「戦況」 (イ)  に関わった人物は、(C)の「伊勢シンジケート」
「準戦況」(ロ) に関わった人物は、(B)の「四家家人」
「戦備」 (ハ) に関わった人物は、(A)の「四家人物」

以上で、突き合せて観ると完全とはいかないが、以上の傾向であった事が読み取れる。

外部記録に出て来る(A)(B)(C)の人名は、内部記録にある「伊勢シンジケートの郷士」や「四家の人物」である事が酷似し確認できるので、明らかに「ゲリラ戦」を展開していた事が判る。
取り分け、「織田軍の軍需品等の調達」には、明確に「伊勢豪商紙屋長兵衛」や「堺の紙屋」の固有名詞が出て来る。
これらを「駆使してのゲリラ戦」であった事から、結局は、「秀吉-氏郷の青木氏の仲介面談」に繋がったのだが、しかし、「ゲリラ戦」で、戦局は長引いた結果、結局、面談後の直ぐ後の1582年に「本能寺の変」が起こった。
その後を引き継いだ「秀吉-氏郷」に依って「伊勢の戦い」は打ち切られ、「青木氏」と「一部伊藤氏」は「本領安堵」されて伊勢松阪に戻ったのである。

(注釈 続けていれば、[殺戮のゲリラ戦]と成るし、「氏郷」としては、縁者関係族である事からも打ち切りたい事の意向と内情の説明をして秀吉を説得したと観られる。)

現に、1583年から1584年の間の「賤ケ岳戦」と「小牧の戦い」「北の庄戦い」には静かにしていた。
ゲリラ側がやろうと思えば、秀吉の背後を突けるし、「戦況不利」に成っていたが、そうでは無かった。
光秀は期待していたかも知れないが、「伊勢衆」は動かなかった事の意味は極めて大きかった。
「氏郷の説得」にも、事前の「青木氏等処置」も効果的に働いて、それを「伊勢衆の深意」として秀吉は租借し、「殺戮」をも避ける事としてもより大きい「本領安堵の形」へと進んだと観られる。)


行動としては、「青木氏」と「一部伊藤氏」等は、先ずは南伊勢に近接する紀州新宮に引いていたが、その後に“本領安堵された“と云う事は、秀吉は、”「五戦のゲリラ戦の正体」”を、秀吉に協力した「唯一の情報パイプ」であった「今宮シンジケート」からも知っていた事に成る。
そして「新宮」に引いていた事そのものが、「秀吉」に執って「本領安堵」し易かったことに成った。
恐らくは、「近江秀郷一門」の「蒲生氏郷」(「秀郷流伊勢青木氏」の同門縁籍)の意見も入れての行動を採った可能性が高い。

(注釈 「伊勢秀郷流青木氏」は、「蒲生高郷」の子の「梵純」が「伊勢青木氏の跡目」に入り、その子の「忠元」が引き継ぐ。
「蒲生氏郷」は、「蒲生高郷」の曾孫に当たる。)

つまり、「高郷」から観れば、「孫の忠元」と「曾孫の氏郷」の関係で、全くの親類であり、「氏郷の祖父(定秀)」と「忠元の父(梵純」」は兄弟の関係にあった。
この事が、「伊勢の収拾」に全ての面で大きく関わったのである。
この関係が無ければ、「二つの青木氏」も「伊勢の戦い」に巻き込まれてどうなっていたかは判らない。
恐らくは、「伊勢シンジケート」を巻き込んで上記の双方に影響の出る「ゲリラ戦に依る殺戮戦」に成っていたとも考えられる。
全国に配置されている秀郷一門を巻き込んだ歴史上に遺る最大の戦いと成った可能性がある。
唯、必ずしも、”青木氏は潰れていた”とは思わない。
筆者は、勝っていたと観ている。
”勝っていた”とすると、”歴史は変わった”と普通は考えられるが、勝は勝が、唯、”天下を差配していた”とは思わない。
それは「青木氏氏是」にある。
青木氏は、向かってくる敵を排除するが、結果として「織田氏」を排除する事には成るが、「天下の考え」は全く無かった事から、「織田氏」は負ける事で衰退し、結局は「他の反対勢力」に潰されていた事が考えられる。
筆者は、その勝者は「徳川氏」であったと観ている。

結局は、「二つの青木氏」の描いていた絵図通りに成ったのであるが、この程度の絵図の事は覚悟していたと観られる。
それだけに、上記した様に、「本論の徳川氏との関係」に惑わずに走ったのである。

つまり、この絵図の為にも、逸話の意味の通り「新宮避難」を実行したのである。
この絵図の違いは、間に「秀吉」と云う人物が入った事に成るだけである。
この絵図の塗り替えに「新宮避難」の「絵図の修復」で書き換えたのである。
その程度のことであったと観られる。
故に、「青木氏の親族の氏郷」と共謀して「高松城攻めの食糧調達」に合力したのである。
何も、”秀吉政権に胡麻をすった”と云う事では無かった。
又、「松阪城の変革」にも「経済的な改革」で協力したのであるが、「伊勢の発展」に尽くす事のいみがあった事に依るだろう。
「商業組合の結成」に進んだのである。
何一つ、「秀吉の為」には成っていない。
むしろ前段でも論じたが、余計な事に多少は振り回された事は否めない。
何も無かったと云う事は無かろう。

一時、「青木氏」等は、「北畠氏と伊賀氏の戦乱」を避けて先ずは”新宮に避難した”と見せかけて、「秀吉」に、“「青木氏等」を救う「絶好の口実」を与えた“と観るのが正しい。
「遠祖地の新宮」に避難したとするのは、あくまでも「四家の福家」の行為であって、「青木氏全体」の事の為では無い事がこれを証明している。
この「新宮」は「悠久の青木氏の遠祖地」でもある。
「長嶋攻め」の「伊藤氏」の末裔は、必要以上に「戦い」を避け同調して「青木氏」と共に南伊勢の縁籍地の「尾鷲」に避難した。
この「避難地」でも「戦い」を避ける「口実の地」である事が判る。

(注釈 「青木氏年譜」では「伊藤氏」は「青木氏」と打ち合わせている。)

「蒲生氏郷」が伊勢松阪で採った「武と商の融合城郭都市構想」に「青木氏四家」を救う理由を見出させる事が出来る。
「避難地」から戻った「四家の福家」は「青木氏年譜」からもこの構想に邁進している。
これで、「秀吉政権」に対しても一応の対応は出来た事に成り、「避難の口実」は成り立ったのである。
其処には秀吉に対して「氏郷の調整」が充分に働いていたと観られる。
「避難」だけの戦略効果だけでは無く、「氏郷の調整」が相伴って効果を発揮したと観られる。

「四家制度の強み」
その効果かを発揮したところで、何故、「青木氏」がこの強みを発揮したのかは、その基礎的な無形の要素を見つけるには、逸話や口伝とそれに伴う資料の発覚と分析に在る。
資料の発覚と分析では、この「無形の事」を描きたせる事は難しい。
其れには、本論の「逸話と口伝」との照合は「青木氏だけの史実」を浮き彫りにするには「必要不可欠な資料」である事に在る。

そこで、考察して置く必要があるのは、「ゲリラ戦の長期戦」が続いていた場合、果たして、「伊勢衆」はどうなっていたのか疑問を持つところである。
つまりは、「四家制度」で持ち堪えていたであろうか。
結果としては、上記でも論じたが、この“「四家制度」”は、1000年の中で、「二度目の存亡危機」の「青木氏」を救った事に成るのだが、実はその答が明確に出ているのだ。

それは次ぎの事にある。
「青木氏」の「逸話や口伝」を照合の為に全て書き出す事は難しい。
「元禄の時の紙屋の行動」や「室町期末期の豊臣家との夏冬の戦い」や「源平時の青木氏の取り組み具合」等多くある。
「逸話や口伝」を遺す上で重要である事は承知しているが、如何せん「個人情報」も中には含んでいて公的にする事は憚られる事もある。
結果として、「逸話口伝」と照合していると云う事でお読み頂きたい。
取り分け次に論じる、「丸山城の戦い」には二つの小説の様な逸話が遺されている。
「一つは、「四家の家」と、もう一つは、「郷士衆の家」に伝わる。何故か内容の物語の筋は良く似ている。
「郷士の家の逸話」は最早小説である。
この「郷士の家」の誰かが、この「逸話」を「逸話形式」を超えて「小説風」に仕立て直したのではないかと観られる。

(註釈 この「徳川氏の合力」に際して、「沿道警備」と「沿道食糧準備」に付いて「郷士の家」には「逸話」が遺されていたが、どの様に伝えられていたかは判らない。)


・「忠元の行末」
その後の「秀郷流青木氏」の行く末を決める大事な事が起こっていたのであり、ここで特記しておく必要がある。
唯、ここで、先に述べておくとすれば、この“「伊勢衆」”の中に、“「不思議な現象」”が起こっていたのである。
それは、伊勢の「特別賜姓族の秀郷流青木氏」も、“「権威の象徴」の「氏族」”であり、その最も色濃いところに居た。
にも関わらず、「信長」には、”手厳しい扱い”を受けていないのである。
「伊勢賜姓青木氏」と「同じ行動」を採っていた。何故なのかである。
「信長」は、この「伊勢秀郷一族」を攻めた場合、東から「尾張の秀郷一門の州浜族等の三勢力」が背後から襲い掛かられ、南から「紀州の州浜族」が動き、伊勢の「結城長嶋族」も、更には、関東からも秀郷一門の本隊が、西の関西の近江滋賀域からも別働隊が襲い掛かって来る事は必定である。
もし、この行動が起これば「織田軍」に執っては苦戦していた「伊勢の戦い」と「石山の戦い」を抱えていては、幾ら何でも「織田軍」は耐えられない事は判る。
まして、何れも、戦績のはっきりとしない「消耗戦のゲリラ戦」であった。

(注釈 「丸山城の戦い」も然ること乍ら、「南北朝の足利氏との戦い」も「10万の軍」の二万の軍勢に餓死に近い状況を経験させる等させる程の「ゲリラ戦の消耗戦」でも、歴史上は有名であり、その「ゲリラ戦歴の恐ろしさ」は例え「信長」でも充分に知っていた筈である。)

「第二の宗家」とする「秀郷一門の護衛軍団の青木氏」の「秀郷流大軍団」を相手にするのではなく、「伊勢の戦い」は、要するに、「各個攻撃」と「謀略」で攻め落としたかったのであろう。
その為にも、「伊勢の特別賜姓族青木氏」と同族と成っている「皇族賜姓族の青木氏」を含めて敢えて攻める事はしなかった。
その証拠に、信長没後に、秀吉は、“伊勢の長嶋の始末”は一応は就けたものの、親族縁者関係にあった秀郷一門の「近江の蒲生氏郷」を続けて差し向けて、伊勢は“お構いなし”として「本領安堵」したのである。
「蒲生氏郷」も「伊勢の指揮官」とは云え、敵対する相手の主力は、縁者親族一族といった「本来の味方」そのものであった。
その意味で、「同族の殺戮」を苦汁を呑みながらも攻めなければ成らなかった事からすると、「秀吉」に味方する事の意味は大きく、続けての「伊勢守護」(27万石/55万石)として、新型の城郭建設などの「伊勢建設」には、「伊勢衆の力」を結集する事に成功したのである。
ところが、実は、「秀吉自身」に執っては逆であって、この「伊勢衆」の「秀郷一門の恐ろしさ」を良く知っていた。
それは、この直後(1590年)に、「秀郷一門の勢力」を弱める為に、陸奥勢力(結城一門白河氏)から攻め落としにかかったが、「秀吉の戦歴上」で、慌てて「無理押し」して「最悪の戦死者」を出しても潰した。
しかし、「背後から白河援護」に迫り来る関東の「結城の秀郷一門」を横目にしながら大阪に慌てて逃げ帰った戦歴を持っていた。
この時(1590年)、「伊勢の秀郷流青木氏」の「青木玄審允梵純」(忠元の父)成る者が、伊勢から「陸奥応援」に駆け付けていて、「下総結城」からの援軍も近づいた事から、背後を突かれた豊臣軍が、これを察知して軍を本道では無く「北陸道の商道」を使って大阪に慌てて引いた。
この事を知って、「伊勢青木玄審允」(忠元の父)は「結城」に立ち寄り「伊勢」に戻っている。

(注釈 「青木玄審允梵純」には、「正没不詳」(1530年―1598年頃)で、「近江蒲生高郷」の子で、「近江一族の跡目争い」から敗れ、遂には「母方の伊勢青木氏」の氏名を名乗って、「伊勢秀郷流青木氏の跡目」を継いだ。
この子供が上記の跡目の「青木忠元」である。
「氏郷」とは「高郷」の「孫の忠元 曾孫の氏郷」の「親族」である。
この事は「二つの伊勢青木氏」に執っては「生き様」から最も重要な要件であった。)

この事でも、「伊勢秀郷一門」を攻め落とす事は、難しいと観て避け、改めて同門の「近江秀郷一門」(蒲生氏)を差し向けて“「取り込みの作戦」”に出たのである。
つまり、この「経緯の事」もあって、「伊勢」は、“「お構いなし」”として処理したのである。

(注釈 “「青木氏」を前面に押し出した戦い方”をしていれば、局面は、放置する事は出来ず、恐らくは間違いなく違った形には成っていただろう。
しかし、“顔の観えない「商い」を利用した「ゲリラ戦の攪乱消耗戦」”であった為に、且つ、「青木氏氏是」に依って、「権威」を必要以上に利用して、“「時の勢力」に抗する態度“は採らなかった事により、政権側に「本領安堵の機」を与えた可能性が有った。)

それは、この事に付いて詳しく口伝されていて、且つ、其れらしき諸書があって、これ等の総合的な遺記録から観ると、大きくは”「蒲生氏郷の進言」“にあった事が察せられる。
「蒲生氏郷」は、「伊勢松阪」に「ヨーロッパ型の商業都市」と「武家を集めた官僚都市」の「融合城郭都市」(1588年)を構築した。
これは記録から観ると、「経済学者」で「歌人」で「軍略家」で「豪傑」であって、その人柄は「律儀」で、依って、「人望」も極めて高く、誰一人否定するものはいなかったと云わている。
且つ、家臣の中でも若い頃から最も「難しい信長」に信頼され、婚約して娘を嫁がせた程の「秀才氏郷」も、“没した信長の思想”と一致していたのであった。


(注釈 「信長自身」が「経済学者」の“「氏郷の考え方」の影響”を受けていたと観られる。
「青木氏口伝」にも「氏郷の人柄成」は遺されている。)

その勲功から「知行倍増の目的」からの「1590年奥州転封」の影響は図り得ないほどであった事を物語っている。
その意味で、“「青木氏の恩人」”とする言葉が遺されているが、「二つの青木氏」は、「本領安堵」のみならず、「青木氏の四家制度」を積極的に容認した人物としても評価していた。
そして、「伊勢秀郷流青木氏の土台」をも築いた人物としても評価していた。
それは、後に「頼宣」によって「紀州藩の主要家臣団」に採用される等の“「青木氏拡大の恩人」”としても評価していた。
「頼宣」も「最高の政治力」を発揮したが、「家康のお膝元に置いて徹底教育を受け信頼されていた「10男の頼宣」は、「青木氏の官僚団」を活用し、その才を発揮した。
しかし、これが元で「将軍から妬嫉」で謀反の疑いが掛かる程であった。

「紙屋長兵衛」も「頼宣」よりの依頼で、「紀州藩勘定方指導の役目」を引き受けて、「主要家臣団の秀郷流青木氏」を助けた。

(注釈 「二つの青木氏」に執っては、この「蒲生氏郷」と「徳川頼宣」は、「青木氏の恩人」とする口伝が遺されている。)

「不倫の地の伊勢神宮」のお膝元に、この前例のない聖地に「新しい形の城郭都市」の建築を提案し、それだけに「秀吉」はそれを容認した。
この事は、「信長」も、それなりに「青木氏」に対して容認していた事を示す事にも成り、その為にも、”「商業と武家」の両面を持ち、“「惹け」し「利得」を主張しない「権威の象徴」”としての「青木氏」(「二足の草鞋策」の「伊勢賜姓青木氏」)”を是非にも安堵する事が最適として利用した事を意味するものである。
勿論、「氏郷」にしてみれば、「親族の伊勢の秀郷流青木氏」と、遠縁に当たる一族の「伊藤氏」と「長嶋の戦い」で敵対はした。
しかし、本領安堵する事は当然の事として、彼らも「城郭都市構築」に導いた。
「伊勢の青木氏」は、この「城郭都市」の中心部の三区画(9番から11番区画)をも与えられ、且つ、「南紀州の旧領地」と「北と南伊勢の管財」を含む全ての「本領安堵」の「破格の扱い」を受けたのであった。
「伊勢秀郷流青木氏」も改めて「東伊勢の本領安堵」(郷氏)を受け「氏郷の配下」に入った。
つまり、「青木氏の四家制度」(商と武を併せ持つ氏の制度)は、「信長の岐阜城郭都市」に匹敵する「氏郷の伊勢の城郭都市構築」に向けて是非に必要とされ、「四家制度」は「氏郷」に容認され維持されたのである。

この「氏郷と二つの青木氏」との関係を観ていた「家康」は、開幕時、逆手に取って、「伊勢の秀郷流青木氏」を“「紀州藩の骨格」”に据え、関東では「御家人」「旗本」「幕府官僚」に積極的に取り立てて、自らも「藤原朝臣の姓」を名乗って、“「権威」”を獲得して“取り込んでしまった”くらいでもある。

(注釈 「伊勢青木氏」は、初代頼宣より「二足の草鞋策」を更に進める事の容認と共に、改めて、臣下ではないが、頼宣より「紀州藩勘定方指導役」を請けた。)

(注釈 「秀吉」は、「伊勢秀郷流青木氏」をその恐れから家康の様には積極的には無く「取り込み方」が異なった。
この間、一時期「秀郷流青木氏」は「氏郷配下」に成り得たが「伊勢郷氏」として生きた。)

秀吉の権勢中は、「関東の青木氏」を含む「秀郷一門」も出来る限り関東より東に追いやった。
それと同時に、「秀吉」の「徳川氏の関東へ転封」では、この「秀郷一門との調和」が取れないだろうとの「秀吉の見込み」から「徳川氏の衰退」を狙った。
しかし、「家康」はその逆手を使って「秀郷一門一族」の「取り込み」に成功したのである。
開幕後は、紀州藩は、「家康の意向」から「伊勢秀郷流青木氏」を従って「紀州藩骨格」に据えたのである。
これは非常に「重要な事柄」で、これで「伊勢の秀郷流青木氏」は生き延びられて「氏の安穏」は約束されたのであり、歴史上の最大の良好な事件であった。

この様に、“「伊勢衆」“は護られたのだが、長引いたとしても、戦略上、”「伊勢衆」“を取り込む以外には結果的には無かったと観られる。
誰にも抗らう事の出来ない“「世の流れ」“はその方に向いたと観られる。
「北畠氏」の様に、朝廷と繋がり「武力」で「織田勢力」に立ち向かう者が元より居ない「権威の伊勢四衆」であったが、同じ“「権威」”であっても、「比叡山」や「石山本願寺」の様に“「権威」”を楯にその「利権」を護ろうとして抗した者でもあった。
「織田側」にしてみれば、「北畠氏」と「伊賀氏」と「伊藤氏」は、兎も角も、伊勢には“「嫌う権威」”はあるにせよ“「抵抗勢力」”とは成らなかった。
且つ、「氏族」を前面に押し出して戦うのではなく、「シンジケート」を使って「ゲリラ戦」の「消耗戦」を仕掛ける戦法であったことから、「雌雄を決する必要性」は織田側にはむしろ無かった事に成る。
依って、「武力」を前面に押し出した「北畠氏」と「伊賀氏」と「伊藤氏」のみを抑え込み、或は、潰せば、「織田勢」としては、「初期の目的」は達し得て居た事に成る。
この“「青木氏面談」”と云う行為が「伊勢の方向性の流れ」を決めた事に成る。
その意味で、「秀吉-氏郷」の“「青木氏面談」“は「伊勢」に於いては大きな意味を持っている。
「秀吉家臣説」は、その「単なる過程の事」に過ぎないし、利用された“「青木氏四家」”には上記の「青木氏年譜」で観る様に、確かに「騒ぎの種」には成っているが、大きな被害の結果は無かった。

(注釈 「伊勢の戦い」は、“「青木氏四家」”に執っては、「時の流れ」に引き込まれ、止む無く「時の流れ」に身を任せながらも、“「信長」に依って発奮し強く成り、「秀吉」に依って「流れ」を止める土台を築き、そして、幸いにも「氏郷」に出会った事が、この「流れ」から這い出せる事が出来た。
そして、「家康」に依って息を吹き返した” と云っても過言では無い。
江戸期は、更に「紀州藩」に依って、保護の下での「四家制度」では、更に、「商い」を基に250万石以上と云われた財を築き、永遠のパートナーと成った「伊勢シンジケート」と共に大きな成長を遂げた。)

・「立葵紋の青木氏の意味」
この事から、この時の「四家制度」は、次ぎの「三つの機能」を以って、次ぎの様に成って護られたのである。
(A)「子孫存続」の「安定システム」
(B)「賜姓五役」の「実行システム」
(C)「氏の存続」の「防護システム」

本来の目的(A、B)の外にも、上記の様に、「時代の変化」にも対応する(C)の機能も働いていたのであり、“「流れ」を引き寄せる働き“をしていた事が良く判る。
但し、上記する「青木氏の氏是」(「権威」を「武器と利得の対象」とはしない)を前提とする事に在った事も見逃せない。

(“世に晒す事無かれ、何れ一利無し、世に憚る事無かれ、何れ一利無し。”)

先ずは、(A)の「子孫存続」の「安定システム」では、「子の定義」に依って即座に「跡目」に成ると云う事では無く、「婿養子」と云う形で入る等の「外部からの侵攻」を「防ぐ能力」を保持していた事が判る。
江戸時代までの社会構造の「氏家制度」の中では、この頻繁に行われていた社会現象の“「婿養子」(婿入り)”は、「青木氏」では「社会の傾向」とは一致せず“「取捨選択される仕組み」”ではあった。
ただ、必ずしも「青木氏」に執っては排他的なものでは無かったが、上記した“「四家方式」”の中で「純血性」を護りながら、「嗣子」を作り上げ、それを「5つの面 20の顔」の継承者としていた。
その為に、結果として、下記の注釈の「入り婿:婿養子」制度は、採用されていなかったのである。
況や、社会とは異なった制度を、“「賜姓族」と云う「権威の象徴」の立場”を護る為に採用して居た事に成る。

(注釈 室町期では多くは、「嫡子外」は、「部屋住み」か多くは「僧侶」に成る等の風習であったが、下剋上や戦乱に依って、武家社会では、“「横の関係」“が重視され、「縁籍関係」を縦横に組んで、「氏」を護ろうとする「社会構造」に変化して行った時代でもあった。
云い換えれば、「氏家制度」の成長期とも云える時代でもあって、その為には、「縦横の縁籍関係」を構築する手段として、「嫡子外」の嗣子を“「入り婿制度」:「婿養子」”と呼ばれるもので生かして、社会の中に構築されたのである。)

前段までにも論じたが、ただ、「四家方式」の内の「子の定義」に関わる「嗣子」は、全てが”「跡目の前提」である”と云う事では無かったが、“「特殊な立場」”にあって、“「四家制度の弱点」”であると云う判断もあった様で、この為に、「一定の距離」を置いてのものとして扱われていた。
「跡目養子」も「婿養子」も「子の定義」に晒されて、「四家主役の福家」に取捨選択されて、「家」を任される事に成る仕組みで、「現在の人事制度」に類似するものでもあった。
そして、江戸時代には、この「四家制度」は、むしろ“成長遂げる源”と成って行った。
明治期の激しい社会構造の中でも、他氏とは異なり成長を遂げた。
要するに、弱点とする「婿養子の縁組」は、上記の様な「世間の荒波」に晒され、「青木氏氏是」を犯す事にも成りかねない事が起こりやすい事から、避けていたのであった。
依って、「青木氏氏是」を護る事では、ここで、要するに、“「世間の謀略」”に晒される事は無く成る事に成った。
「江戸時代の250年」の「安定した存続」はこの事を物語っている。

逆に云えば、「四家制度の弱点」とも云えたが、「青木氏」を一切断絶させる事も無く、「笹竜胆紋の家紋変更」の事態に成る様な事も一切興らなかった事は、「1440年間の純血性」を護れた事を意味し、“稀に見る氏族”を護った事に成る。
(明治35年を以ってこの任を解いた。)

次ぎは、(C)の「氏の存続」の「防護システム」では、「四家方式」の「子の定義」で、先ずは「婿養子」として入ったとしても、その「人物評価」が先に成される等のシステムが働き、上記に論じた事態が起こっても微動だにしなかった。
況して、これは、「世間の慣習」とは異なり、「四家方式」が在る為に、直接に、”四家を牛耳る”と云う事にはも成らなかったし、周囲とは異なり絶対的な“「本家制度」”を採らない“「青木氏の四家の合議制」”が「防護の根幹」に成っていたのである。
現在に観る「社会システム」が、「二つの青木氏」に於いては、「奈良期からのシステム」であって、そのシステムが「古い氏家制度」の「封建社会」の中でも、大いに働いていた事を示している。
恐らくは、「四家制度」に示す“「青木氏の伝統」”は、他に類を見ない「賜姓族」としての「古めかしい氏」であって、「密教」と云う「50程の慣習仕来り掟」に「縛られた概念」を持ち、それを実行し維持して来た「唯一の氏」である。
然しながら、この様な「新旧を併せ持つ氏」は、“日本広しと云えど無い”と考えられる。
これは、「封建性の高い氏家制度」の中で、且つ、「密教性の高い概念」を持ちながら、“「四家の合議制」“を採用して居た事は、異質にはなるが、これを“融合していた処”にその強みがあったと観られる。
一見して論理矛盾とも観られるが、現実には、ここに生き延びている「青木氏」である。

(注意 1565年から1569年までの「伊勢の織田氏の調略」では、資料では“「入り婿」”と表現されている。
「戦乱の中」では、「子孫存続」の為には、周囲は「跡目」が不足する状況からこの“「入り婿」“に総力を注いでいた事が読み取れる。
しかし、「青木氏」では逆に避けていたのである。
恐らくは、「婿養子」を取り込んでいた場合は、上記する荒波に呑まれて「滅亡の憂き目」を受けていた事は間違いはないだろう。
その理由は、「青木氏氏是」が壊れ、「シンジケート」が崩壊し、「権威」が低下して、遂には”「四家制度の根幹が崩壊する」”と云う「自然瓦解」が起こった事に成ったと観られる。)

「青木氏」は、世の「武家社会」とは反対に、“「婿養子」”に頼らず、これを「子の定義での制度」(四家制度)で達成しようとしていたのである。

最後は、(B)の「賜姓五役」では、「頼宣との松坂の会談」で、全て江戸幕府に引き継がれたが、「徳川氏」に無かった“「権威の象徴」“を作り上げる上でも、「二つの青木氏」を始めとする「伊勢衆二氏」は、国体上で必要であった。
「徳川氏」は、前段でも論じたが、この「二つの青木氏の権威」を下記の「立葵紋の青木氏」や「勝姫との血縁」等で大いに利用した。
その証拠に、その後の江戸初期には、伊勢には「立葵紋の青木氏の発祥 二氏」も興り護られた。

(注釈 「伊勢三乱 五戦」で、“「権威」”を護ったのは、結局は「二つの青木氏」と成った。
「伊藤氏」の一部が「長嶋の乱」で子孫を遺す目的から一部を尾鷲に引かせて遺した。
「長嶋氏」も一部を「尾張三勢力」に逃げ込み、それと共に子孫の一部を遺したが、「伊勢四衆」の「伊勢の権威」からは遠ざかった。
結局は、“「伊勢藤氏」“は「秀郷流青木氏」のみと成った。
その意味で、「権威の象徴」は、より社会全体から”重きを置かれる結果“と成った。)

この“重きを置かれる様に成った”上に、更に、“「立葵紋」”と云う「新しい力の権威」が着け備わったのである。
実は、この“「立葵紋の青木氏」”には、“大変な意味”を持っていたのである。
江戸初期に発した「葵紋の禁令」では、徳川氏一門以外では、“「立葵紋の使用」は、「伊勢青木氏(四日市殿)」”のみに限られており、「笹竜胆紋」と「下り藤紋」の「二つ権威紋」を「総紋」とする「氏族」でなければ、許されなかったのである。
“「葵紋」、取り分け「立葵紋」の使用に関しては、例え、「徳川一門」でも使用を禁じる「類似家紋の法度」を発していた。
それほどの”「徳川氏の権威」“の「家紋文様(格式紋・式紋)」であった。
「青木氏」がこの格式紋の「立ち葵紋」を使用できるにはそれなりの理由があった。
それは「立葵紋の経緯」にあった。
そもそも、この“「立葵紋」”とは、「徳川氏」の最高の「権威象徴紋」(格式紋・式紋類)として位置づけられて作られていて、「笹竜胆紋」(嵯峨期詔勅)と「下がり藤紋」(力の制圧)と同様に同格としての意味合いを持たす事にあった。
この使用を「全ての姓氏」に対してのみならず、「徳川氏」「松平氏」にも「類似家紋」を含めて一切を禁じた。
「御三家」にも禁じた文様であった。
仮に、「徳川本家」から嫁入りをした場合に於いてでさえ、「立葵紋」は一切使えず、特例許可得ても「1年の限度」を以って、「葵紋紋類」さえ使用を禁じた。

元より、「伊勢衆の二つの伊勢青木氏」との繋がりをも重視して、幕府に秀郷一門を含む「青木氏」の多くの重臣を抱えた「徳川氏」は、「紀州徳川氏との関わり」を“「立葵血縁族」”としても重視させていたのである。
この「立葵紋の使用」を「伊勢秀郷流青木氏」に特別に許し、「葵紋」と「立葵紋」の「青木氏二氏」を伊勢と云う聖域に発祥させたのである。
「紀州藩」さえ使えない女系血縁族として「立葵紋の青木氏」が発祥しているのである。

「立葵紋の伊勢青木氏」は、この様に“徳川氏の青木氏に対する姿勢”が読み取れる行為なのである。
この為に、「世間の謀略」が在ったとしても、「青木氏の四家制度」では、次ぎの様に扱われていた。

(イ)「ろ過装置の様な役目」を果たす事に成ってはいた。

しかし、江戸期に入っては、一層に上記する「徳川氏の保護の背景」もあって、最早、その「四家制度の確実性」は高まったのである。
この“「立葵紋の青木氏」“の存在する「伊勢衆」と「伊勢域」は、朝廷より、永代で「不入不倫の権」で護られてはいたが、「徳川幕府」に依っても、「不可侵の権」が、これ(立葵紋)に依って与えられた。
そして、この事は引き続き「安寧の聖域」として定められたことに成った事を意味したのである。

上記した様に、室町期末期までは、「5の面 20の顔」を持つ「ゲリラ戦」を展開する為に、誰が敵味方かわからなくする方法が採られた。

(ロ)「網を被せた様な役目」の果たす事にも成った。

この「(イ)(ロ)の効能」がより働き、「四家制度」と云う「青木氏独特の防御システム」は構築されていたのである。
そして、この(A)と(C)が次ぎの様な数式で相乗的に働いて、江戸期にも続けて「生き残り効果」は発揮された。

「青木氏防御システム」=(イ)「ろ過装置の様な役目」+(ロ)「網を被せた様な役目」=(C)
「生き残り効果」=(A)+(C)=「四家制度」

この「三つの目的」(ABC)は、「悠久の歴史」を通して、この”「伊勢シンジケート」の存在”が、相互に働き、「(A)+(B)+(C)」の「接着剤の働き」をしていた事に成る。

(注釈 「伊勢シンジケート」の“「伊勢衆との関係」を持つ事の意味“は、現在感覚で理解しきれないところがあろう。
現在では「血縁関係」を以ってしても、そこで起こる「親近感」とは比べものには成らないし、恐らくは「理解の外」の事であろう。)

恐らくは、その感覚の範囲は、「助け合う事」=「知り合いに成る事」であろう。

しかし、江戸期以前の社会の、つまり、”「氏家制度」“の深意は、何らかの「血縁関係」か、或は、深い「経済関係」を持つ事で繋がる「社会構造」に付いては、時には、”「氏」や「家」や「命」を投げ出しても合力する概念“であって、その上での「相互に助け合う構造」であった。

つまり、次ぎの様な関係にあった。

”「助け合う事」”=“「氏家命の契約」“であった。

全く異なっている上で、”「伊勢シンジケートの持つ意味」“を昔の「歴史観」として理解が必要である。

本来の目的(A、B)の外にも、次ぎの様な数式が働いていた。

”「助け合う事」”=“「氏家命の契約」“

所謂、(C)の事も江戸期を通して有機的に上手く働いていたのである。

要するに、奈良期から江戸期末期まで、この“「四家制度」”には、”「助け合う事」”=“「氏家命の契約」“の”「伊勢シンジケート」“が、「絶対条件」として無くてはならない「防御システム」であった事に成る。

突き詰めると、「四家制度」とは次の様な数式論と成る。

「四家制度」=「伊勢シンジケート」+「立葵紋の青木氏」=「氏の背景力」

以上とも云える。

この数式論では、「立葵紋の青木氏の勃興」が前提に成っている。

そもそも、「徳川氏」と「青木氏」には、これに依って“「権威の相互関係」”が生まれていたのである。
「二つの青木氏」自らが持っていた、江戸期まで “「賜姓族」であったとする名誉“が、氏の“「悠久の権威の象徴」”であった。
これは、少なくとも「紀州、大和、伊勢の域」では、「氏上さま」「御師様」等と呼ばれ敬われ親しまれて、自他共に認められている事であった。
その“「権威」”を「徳川氏」に上手く利用され乍ら、逆に、“「徳川氏の武の権威」”を受けながら、「青木氏の権威の象徴」も成り立つと云う “「呉越同舟 一蓮托生の構図」”が出来上がって居た事に成る。
この構図は、「徳宗家の紙屋」と呼ばれていた様で、地場産業」の育成に私財を投げ出していて、「農業の発展」にでも「早場米の研究」に取り組み、「絹の織物産業」を信濃から持ち込み「地場産業」を大いに発展させて成功させた。
これは既に江戸期を過ぎて大正末期頃まで続いていた記録が多く遺されている。
この事で、最近の青木氏の研究で、「天皇家」を通じて「徳川氏」を経由して「感謝状の手紙」が遺されている事が判った。
恐らくは、何故に「天皇家の感謝状」と云う事に成るのかと云うと、文章から「伊勢の発展」と云う事であった事が判った。
これに関係する手紙の記録は、三通見付かった。
一つ目は、「筆者の家」、二つ目は、「青木氏と関係する郷士の家」、三つ目は、「紀州徳川家」からの事前連絡文である。

因みに、余談であるが、中ても、「筆者の家」の「感謝状の記録」は、在る事は口伝で知っていたが、当初は発見できなかった。
ところが、引っ越しに際して、仏壇を解体したが、その仏壇の奥の過去帳等を仕舞う物の中から出て来た。
とても見つかる所では無い。可成り几帳面な性質を持つ家柄であるが、何故か、ここにあったのかは判らない。

「郷士の家」の記録では、この時の状況と地場産業育成に貢献した事柄が詳しく記載された手紙などを含む資料が廃棄されずに保存されていた。
この「郷士の家」は、「射和の商家」で、恐らくは、「郷士頭の差配家」であったらしく、地元からの推薦に動いた家であった模様である。
元々は、「青木氏に関する資料」が多く出て来た家柄であった。

「紀州徳川氏」とは、前段でも論じているが江戸初期から大正14年(徳川頼倫)まで親交があった。

「青木氏」の内には、この様に、”「助け合う事」”=“「氏家命の契約」“が働き、外には、徳川氏との “「呉越同舟 一蓮托生の構図」”が働いていたのである。

“「悠久の青木氏の権威の象徴」”+ “「徳川氏の武の権威」”=「社会の最高権威」

「天皇の絶対的権威」と「徳川氏の武の権威」との「相互権威」には、一つの「初期の恐れ」が「徳川氏」にあって、「権勢を握った」と云う事で、「社会の反発」が起こり、施政上で「徳川氏の権威」が下位に来て低下を招く恐れがあると懸念された。
そこで、敢えて、「天皇家の絶対的権威」に変えて、“「悠久の青木氏の権威の象徴」”を緩やかに据えて、そこに同類とする「立葵紋」を加える事で“「徳川氏の権威の仕組み」”を構築しようとしたのである。

「秀吉」が採った「権威の構築」は、「天皇の絶対的権威」を「豊臣家」と云う背景に押し当てて、その背景で、次ぎの様な数式論に様な「政治体制」を構築した。

「為政」=「天皇の絶対的権威」+「豊臣家の力の権威」=「権威の構築」

補足として、「天皇家の末孫氏」や「藤原氏末孫」と搾取して、更には「青木氏」の「伝統の権威」をも利用しようとして闇雲に持とうとしたが、上記した様に、強引に搾取偏纂して失敗したのである。

しかし、これでは、その「為政=0」の形、況や、「為政者の力」が没すると「長期政権」を望めないとしていたが、「徳川氏」には、「力の権威」は同じ様に持つ事が出来たが、“「伝統の権威」”は未だ無かった。

「笹竜胆紋」(青木氏)+「立葵紋」(青木氏 藤原氏)=「伝統の権威」

この数式論の構図を作り上げたのである。

(注釈 そもそも、「家紋」では、そもそも、“「立」”は、“「たつ」”の意味から、「家紋文様」の上に位置する物として使われ、「立・・・紋」は、その「家紋の権威性」や「発展の縁起性」を着ける時に使われる。 
この慣習は、葵紋 沢潟紋 梶紋 銀杏紋 杜若紋 枡紋 杉紋 鶴紋 柊紋等の枝葉を拡げた「大きい氏姓の家紋」に多く観られ、主に”「氏姓族の総紋扱い」“として利用された。)

江戸時代には、上記の数式論に観られる様に、「青木氏側」にしてみれば、「伊勢シンジケート」が無ければ、「立葵紋の青木氏」が無ければ、この「四家制度」は成り立たない構図に成っていたのである。
故に、その重要な位置にあったからこそ、積極的に「嗣子の余人」を敢えて「家人」として継承させ、「伊勢シンジケート」と血縁させて、「一族性」を確保していたのである。

(注釈 「伊勢シンジケート」を構成する「伊勢郷士」等を含む各職能部等の「伊勢衆」の多くには、影の「経済的な繋がり」のみならず、「青木氏の血」が流れていて、上記した「伊勢の戦い 三乱五戦」の時には、「姿名」を変えて「敵側」との折衝の「水際の夫」を演じたのである。)

「四家制度」の中に、「青木氏融合族」の「四日市殿」を組み入れていたのもこの強みに起因する。

江戸期には、既に、次ぎの様な数式論の」青木氏」が成り立っていた事を示す。
これは最早、「二つの青木氏」の「完全融合化」が起こって居た事に成る。

「四家制度」=「伊勢シンジケート」+「立葵紋の青木氏」=「伊勢青木氏」

「立葵紋の青木氏」=「四日市殿青木氏」=「秀郷流青木氏」

「二つの青木氏」=「伊勢青木氏」+「秀郷流青木氏」=「融合青木氏」=「四日市殿青木氏」

(注釈 筆者は、この数式論から観て、むしろ、選抜して「伊勢シンジケート」に成り得る人材を「四家の嗣子」の中から積極的に配置していたと観ている。)

つまり、最も変化した「伊勢シンジケート」の意味が、江戸期には、「他氏に対する防御の抑止力」から、上記の数式論を維持させる“「氏の背景力」”というものに変化して行ったと観る。

「防御の抑止力」<「氏の背景力」=「伊勢シンジケート」 

だからこそ、「徳川氏」に対しては、「損得の利害」は別にして、「吉宗育親」を演じ、裏方で巨額の金銭を使い「将軍」に仕立て、「紀州藩」と「幕府の勘定方」を「250年の間」を主導する等の“「青木氏総力」を挙げての取り組み”に成ったと「累代の四家福家」は考え続けていた事に成る。
それほどに、「紀州藩初代頼宣」に対する「青木氏の尊敬の念」は大きかった事を意味しているのである。

(注釈 口伝でも詳しく伝えられていて、筆者の祖父の代の大正14年までの親交であった。多くの親書が遺されている。)

奈良期初期の「皇親制度」、奈良期末期の「皇親制度」、平安初期の「皇親制度」の三期の経験を経て、その江戸期には、再び花が咲き、姿形は変えたにしても、「政治経済の骨格」を直接的に支えた事に成るだろう。
この後も、この“「四家制度」“は、「上記のABCシステム」に依って、「室町期の状況」-「江戸期の状況」をも耐え抜けたのである。

「二つの青木氏」=「青木氏」=「四家制度」と云って過言では無い。

(注釈 江戸初期以降は、「伊勢シンジケート」は、夫々、「土地柄や生き様」を活かして、「商いの企業」と「海陸の運送・警護業」と「殖産業・農業(和紙」」の“「パートナー」”に当たった事が記録されている。この“「パートナー」”と成り得た“「伊勢シンジケート」”を以ってして、江戸初期には「総合商社」の形が出来上がっていたのである。
恐らくは、「日本初代の総合商社」であったと観られる。)


これも、「事の流れ」では、事と次第では、危険視されて潰されていた事も考えられるが、「立葵紋の青木氏の存在」がこれを押し留め、且つ、成長させたと観られる。

(注釈 「立葵紋と葵紋の青木氏」は、千葉と三重に現存し、「本サイト」を支えて頂いている。)

何故ならば、平安期から江戸期までの「他の豪族や豪商」には、そもそも、この「血縁族」とも云える“「シンジケート」”を持ち得ていなかったからである。
「青木氏密教概念」の中にあり乍らも、「商いの概念」が「青木氏の生き様」を大きく左右させ支えた。
つまりは、時代に即応して“「四家制度」”をより確立させて行ったのである。
現在から観て、「子の定義」を社員に置き換えて考えれば、「現在の企業」でも成り立つシステムと観られる。
それだけに「氏家制度」の中では、「最も古い氏」であり乍らも「最も新しい生き方」で有ったと観られる。

その意味でも、「信長の考え方の概念」には、「流れ」の中では、“敵対はしたが理解していた”と観ているのである。
江戸の歴史上には、中でも、「元禄の浅野家取潰し」の際には、この「パートナー」の「伊勢シンジケート」が、「四家福家の指示と援護」を得て、多くは「海運業」と成った。
「世間の目」を気にしていた幕府に代って、難しい「開城と管財の一切の始末」に対して、その「総合商社の特徴」を活かして、混乱の中で瀬戸内の中を配送して、更には、「陸送業」をも運営して「管財の処分」に当たり、穏便に事を運んだ事は、特に有名な事で記録にも遺されている事でもある。
現在でも通ずる「四家制度の差配」であったろう。

そこで、“幕府が何故に「伊勢青木氏」にこの「始末」を委託したのか”と云う疑問が起こるだろう。
「商い記録」では、「紀州徳川氏」からの「紙屋長兵衛」に対しての「委託」であった事が判っている。
この幕府の最大の事件は、難しい難問であった。
扱い方に依れば非難が幕府に集中する。
それを総合的に解決できるのは、「紙屋長兵衛」しかないと観た事に依る。

その信頼は、江戸初期からの付き合いによるが、何よりも、紀州藩の「立葵紋の青木氏」を全面的に押し出して、幕府であるが、幕府では無いとして、成功裏には、“どうだ 「立葵紋」が解決したのだ” “幕府が解決したのだ“と威勢を張る事に成る。
それを“総合的に成し得る能力”を持っているのが、唯一日本の中で「立葵紋を持つ伊勢青木氏」なのだ。
(「信濃善光氏」が「立葵紋」である。)
「紀州藩の官僚族」の指揮者と成っていた「立葵紋の青木氏」と「四家の四日市殿」と「八代将軍吉宗の育親」で「享保の改革」の主導者であった「四家の紙屋長兵衛」は動いた。
全ての「取り仕切り」は成功した。
「世の批判」は起こらず、「幕府の威厳」は“さすが”と持て囃されたのである。

(注釈 大船 荷台 家人 要員 日数 金銭等の「商い」が記帳されていて、「伊勢シンジケート」の構成員が、転身した「海陸の運送業」、現在の「警備保障業」、「警護・警備業」等の事も兼ねていた事が記されていて、江戸時代でも、「商いの輸送」には未だ大きな危険が伴っていた事が判る。
そして、家財処理の事、骨董品の取り扱いの事、江戸時代でもリサイクル品の中古転売の事も盛んであった事、金銭交渉等の事件のつながりの末の始末でも興味深い事が記載されている。
{青木氏}に委託した記録は遺されていないのは、この{商業記録}によるもので、[青木氏の福家}に送られた記録であった事から、「松阪大火」の「消失」で遺されていない。)

その意味でも、その勲功を成した「伊勢シンジケート」が、形を変えて、“「商いのパートナー」“として働きながらも、江戸時代も更に「四家制度」を支える”「防御システム」(背景力)”として、“「情報活動の面」”でもまだ働いていた事が判るのである。
「伊勢シンジケート」を構成している「郷士や農民や庶民の集団」、要するに“「伊勢衆」”と呼ばれる集団は、共に潤ったと記録されていて、「物語風の口伝」が遺されていて興味深い。

(参考 因みに、「商品輸送」に対して、面白い事が書かれていて、多くは大船での搬送であったらしく、止む無く「陸送」の時、例えば、越後に搬送する時、「商品の安全」を図る意味から、別のシンジケートに連絡を取って、陸送の安全を依頼する。
この時、他の「シンジケート」との打ち合わせは、「陸送する頭目」が「旅の旅館」で密かに「打ち合わせ」金銭授受などの契約をして、搬送時は、別のシンジケートの者が、忍者の様に陸送の周囲に寄り添って見張りを続ける仕組みで、終わるとその影の様に付き目立たない様に従った「忍者の物見」が、いつの間にか消えると云う仕組みであった様である。
その姿が、色々な姿に身を変えての保護であったらしい。
イザと云う時には、一斉に何処からか出て来て荷駄を護り、相手を攻撃すると云う当に“「忍者」”であったらしい。
土地の暴力集団(やくざ)や山賊もあって、実際は危険であったらしい事が書かれている。
確かに、シンジケートの存在する地域には、必ず「山岳の忍者集団」か「山岳の郷士集団」が存在する。
伊勢や河内であれば、「伊賀忍者」や「雑賀忍者」や「十津川郷士」や「龍神郷士」の様にである。
実際には、「荷駄頭」が打ち合わせた「シンジケート」の指揮する「物見頭」の顔しか知らなかったらしい。
この「物見頭」の周囲には、観えない「十数人の梃子組」がいて護っていたらしい。
「シンジケート」の中でも、同じ仕組みであったらしく、このシステムで繋いで行く方式を採っていたのである。)

(注釈 「伊勢シンジケート」の「内部組織」が、状況に応じて、この様なパートナーに合わせて編成され直された様で、これが「輸送業」や「警備業」や「殖産業」や「金融業」や「廻船業」などの「伊勢紙屋長兵衛商店」と「二つの青木氏」の「企業パートナー」(「射和商人」 「射和組」)にも成ったのである。)

これから察すると、江戸時代では、“「氏の背景力」”と成ったが、この「荷駄頭」と「物見頭」の繋がりで、その「シンジケートの首魁」に連絡を通して、その首魁から、土地の「領主」に話が通り、組織を必要な様に動かした事に成ったらしい。
「伊勢シンジケート」の出自は、多くは、「室町期の豪族」や「土豪族」や「郷士族」が戦いに敗れ、海山に逃亡して「裏の社会」で生き延びた者達であり、これらに「経済的支援」をしてその見返りに警備や運送屋や廻船業や殖産や営業等の手助けを請け負って貰い定期報酬とは別に、その都度の報酬を渡し連携をしていた。
次第に血縁関係も結ばれ、何時しか「青木氏族」の一員化して生き延びた者と、その配下や農民やあらゆる職能の人たちで、江戸期には、「ある程度の経済的潤い」と「必要な力」を持ち合わせて「表の社会」の一員の立場も持ち合わせ乍ら「二つの顔」を以っても働くように成った。
この「組織の範囲」(「松阪組」と「射和組」)は、明治期の初めまでの結果として観てみると、美濃から信濃を経由して、諏訪から甲斐の領域までを範囲としていた事か判る。

これは「和紙」と「神明社」と「青木氏菩提寺」の関係からは元より、各地に起こった「農民一揆」の「経済的支援」をしていた事の記録からも頷ける。
取り分け、「宗教絡み」の「甲斐百年一揆」と呼ばれる一揆にも「伊勢シンジケート」を通して「経済的支援」をしていた記録からでも判る。
傾向として可成り「中部東域」にそのルートを伸ばしていた事も判る。

中には、「伊豆勢力」(伊勢信濃青木氏族の末裔集団)と、滅亡した「駿河源氏の末裔族」が編成していた「駿河水軍」との連携を持っていた事も記録から読み取れる。
これは「伊勢水軍」が、「伊勢シンジケート」の一員であった事からの平安期からの連携が遺ったものと観られる。
連携で云えば、多くの「商い記録」が遺る“「瀬戸内の支配権」”の持つ廻船業を中心とした「秀郷流讃岐青木氏」との連携が目立つ。
「伊勢シンジケート」を全網羅するには、「別の論文」が充分に成り立つのでここでは、下記に「松阪商人」の「(射和商人) 射和組」に付いて触れて置いてこの程度の範囲とする。



> 「伝統―19」に続く。
関連記事
 

名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒

:「青木氏の伝統 17」-「伊勢衆の本音戦略」 

[No.334] Re:「青木氏の伝統 17」-「伊勢衆の本音戦略」 
投稿者:福管理人 投稿日:2015/08/31(Mon) 11:11:14


>「青木氏の伝統ー16」の末尾


> 「比叡山焼き討ち」等に観る様に、「信長」は「武家勢力」を始として、「各地の戦い」には、各地ならではの「条件」を入れ替えて、この[四つの思入れ」に適合するかを確認したのではないかと観られる。
>各地の戦いの「信長の発言」を考察すると、この傾向が読み取れる。

>これは、まさしく、「青木氏の氏是」の意味する処でもある。

>”何時の世も、「青木氏」を世に晒す事無かれ、何れにも一利無し、然れども「青木氏」を世に憚る事無かれ、何れにも一利無し。”

>「信長」は、”「伊勢者」”の当初から出方を警戒(婿養子の策謀失敗)しながらも、元より”「悠久の歴史」を持つ「伊勢者」”の「伊勢の青木氏を攻める意志」は無かった事を意味する。

>「この世」の「何事」も、排除されるのは突き詰めれば、「信長」も、「青木氏」もここに来る事を教えている。


>これ等が、「伝統」を語る上で、「青木氏」に執って忘れてはならない「四家の背景と経緯」である。
>何れにせよ「我々の先祖の青木氏」は、この中で生きて来たのである。
>その「生き様」そのものが”「青木氏の伝統」”であった。



伝統―17


「伊勢衆の本音戦略」
そもそも、“何で「伊勢衆」と「伊勢四衆」が「招かざる北畠氏」のこの「行動」に合力したのか”と云う疑問が湧く。
「青木氏」として、“本気で合力したのか”と云う疑問が湧く。
「不倫の聖地」に「武」に変身した「公家の北畠氏」が入る事は、「聖地の存続」に「危機」を生じさせる事に成る。
この事は「武」を背景とする以上は、「争い」は目に見るより明らかであるのに、むしろ、「伊勢衆」「伊勢四衆」に執っては、「平穏な悠久の歴史」を続けて来ただけであった。

然し、唯単に「悠久の歴史」を続けて来て訳では無い。
「賜姓五役」として、「三つの発祥源」と「国策氏」としての”「伊勢国」”を作り上げて来た。
財源的補足としての「二足の草鞋策」や、伊勢国と民を豊かにする為に「和紙殖産」を作り上げ、抑止力としての「伊勢シンジケート」を構築して護って来た。
「青木氏」に執っては、この苦労を水の泡にする様に、「武」で乱されるのでは、“排除するに値した行為”であった筈ある。
況して、「悠久の氏是」も在った。

確かに、「源氏」と云う縁もあったが、それだけで「合力」はするか疑問である。
「聖地の存続の危機」と云う事に成れば、「縁如何」では解決できない。
況して、北畠氏が”「源氏」”とはいわれているものの、正規の「賜姓源氏」では無い。
何より、「悠久の絆」で結ばれた「伊勢衆」の「土地」とその「生活基盤」を「武」で奪った相手でもある。
「二つの青木氏」は「北畠氏」に対して真当に合力したとは到底思えない。
そんな「愚人の四家福家」はいないであろう。もし、そうであれば、とっくに滅亡している筈である。
そもそも、この現状事を認めて仕舞うと「自らの氏の立場」「子孫の行末」も危うく成るは必定である。
「家訓」もあり、其れ等を「無視する行動」を採るとは到底考えられない。

とすると、「青木氏」に執っては「抑止力」で対抗する方法もあった筈である。
然し、”「抑止力」を使った”とする記録が全く見つからない。
何か変である。「抑止力」を使えない”「何か」”があって、仕方なく”「何か」”が策謀された気配がする。

然し、現実には、「青木氏年譜」や「口伝」や「添書」や「商記録」などからも”「合力」”は明らかである。
この「合力の如何」は別として、疑い無く“「合力」”はしているのである。
ただ、反面、「武による合力」でも無い事も明らかである。
だとすると、考えられるのは、”「北畠氏の出方」に「青木氏の抑止力」を使えない「大義」があった”事に成る。

そこで、”どの様な「大義」であったのか、どの様な「合力」”であったのかを明らかにしたい。
そこから、「二つの青木氏」の「生き様」が観えて来る筈である。

問題は、「北畠氏」の伊勢での短い期間の「生き様の特徴」に在る。

鎌倉末期の「建武中興」にて「親房」が勢力拡大、その末裔の「顕房」は、戦国時代に無防備な伊勢の北畠に武力で進出し勢力拡大、遂には「国司」に成るとあるが、この室町期末期の戦国期に「国司」の意味がどけだけあるかは疑問である。
あるのであれば、室町期は「国守護」であり、「国司」では無い。如何に「天皇家の権威」を利用したかはこれ一つで判る。
況してや、最大時は「南伊勢五郡の勢力」で、「全伊勢」では無かったし、「勢力」だけが裏打ちされたものであった。
この「勢力頼み」を利用する事であった。

然し、「顕房」には、「朝廷との繋がり」は確認できない。
要するに、衰退している「天皇の権威」を利用した「戦国公家大名」である。

それは「北畠氏の態度」が次ぎの様な事にまとめられる。

「特徴 A」- 「御所」と云う館名を盛んに使っている。
「特徴 B」- 「朝廷」との連携を強くしている。

この「特徴 A」は、「御所」、即ち、「天皇の意」を戴して、”「伊勢国」を統治している”と云う「戦略」を採った事に成る。 
次ぎに「特徴 B」は、困窮していた「天皇家」に貢ぎして「パイプ」を作り上げ、「特徴 A」を補完した戦略を採った事に成る。
要するに、「天皇家」を利用して「伊勢」に侵入した「大義」を作り上げた事にある。

果たして、「天皇家」が、その様に「北畠氏」に、 ”「密命を出した」”と云う事もあり得るが、これは確認出来ないところである。
そもそも、「伊勢国」は「皇祖神の聖地」で数少ない「天領地」でもある以上は、その「天領地」から上がる「税」をより高くしようととして「北畠氏」を差し向けたと成る。
「税」だけで「天皇家]が「皇祖神の聖地」を危険に晒すかの無謀をするかの疑問がある。
「青木氏」も「税」は納めているが、これを無視する行為を天皇家がするかの疑問がある。
「巨万の富」で「税」は高く成っている状況の中で、「青木氏」を無視するは自らの首を態々絞める事にも成るがそうするかの疑問がある。
確かに「北畠氏」は、「村上源氏の流れを汲む源氏」で、「朝廷の学問処」の家柄に在ったが、この密命を下すかの疑問がある。

「青木氏」は、「特徴A」と「特徴 B」があった事で、これを「北畠氏の大義戦略」であった事から、直ちに「抑止力」などの手が使えなかった事にあったと観られる。

この為に、青木氏は、次ぎに論じる「青木氏の本音戦略」で対抗した事に成ったのである。

「北畠氏の大義戦略」><「青木氏の本音戦略」

「北畠氏の大義戦略」><「青木氏の本音戦略」であったとすると、「青木氏」は「天皇家」から罰せられていた筈であったが罰せられていない。
とすると、「皇祖神の聖地」を汚す様な「密命」では無かった事に成る事から、後は「合力の有り様」で解明できる。


「合力の有り様」から観た検証
“「ゲリラ」“と云う言葉は当時は無いが、資料にも依るが、「撹乱」「調略」「策謀」「知略」の4文字が出て来る。
そして、「商人の姿」は観えるが、四つも持っていた「四家」の「館城」「寺城」などの表現は「直接的表現」としては無い。
取り分け、「商記録」には、「伊勢シンジケート」からの情報と観られるものとして、「簡潔に要点を書き記した情報」からも総合すると、”「直接交戦歴」”も浮かんで来ない。

何よりも、一揆等の行動に「裏からの経済的支援」をしていた事は判り、記録から「紀州」、「伊勢」、「信濃」、「甲斐」の「四大一揆」の事が記載されている。
中には、この「一揆」に絡んで、「青木氏の密教浄土宗の菩提寺の存亡」に関わっている。
又、「信濃や甲斐」では、「曹洞宗との争い」に、又、「伊勢や美濃」では、「真言宗との宗教争い」の様な事もあった事が記されている。

これはつまり、「伊勢丸山城の戦い」や「名張清蓮寺の戦い」の「戦い方」がはっきりしていて明らかに“「ゲリラ戦」をした”と云う事が判る。
「一揆等の経済的支援」等の戦い方は、一体、”どの様に見るのか”で変わって来る。
唯、”単なる経済的支援”とは、一方に支援をしている以上は、行かないであろう。
問題は、後から来た「武力による支配者」に対して、「青木氏」等は苦々しく思っていた事は、長い間、悠久の歴史を伴にして来た「民」がそう簡単に納得したであろうか。
「悪政」を敷いていたのなら別にして、「悠久の歴史」を共にしていた事は、「悪政」では無かった事に成ろう。
「土地の権利」は「青木氏」が「地主」として持ち得ていたとしても、「政治の支配権」は「後からの支配者」にある。
「郷氏」としての地主で無いところは、支配を受ける事に成る以上、「民」は反発をする事は充分に考えられる。
「経済的支援」をしている事は、「民の生活困窮」では無かった事に成る。
況して、「地主」である事から、「直接の税」は「青木氏」にある。「税問題」であるのなら「青木氏」との問題である。
「政治的反発」であった事に成る。
”「伊勢に武に依る支配がもたらすリスク」”を嫌ったと云う事に成る。
従って、「一揆等の経済的支援」は、この「青木氏の背後からの突き上げ」であったと観ている。

その証拠には、明治9年までの伊勢で起こった一揆を含む一切の動乱には、「青木氏」は「商人の立場」から支援をしている。
北畠氏等は、背後に青木氏が見え隠れしている事は充分に知っていたと考えられる。
然し、”手は出せない”と云う柵に縛られていたのである。(「二面作戦」を採った。)
公然と青木氏として表に出れば又別であろうが、「商人の立場」を利用した事が「商記録」からも判る。
「長兵衛等の四家の名」を夫々に使っていた事が記録に残されている。

上記した様に、「招かざる北畠氏」が「採った行動」に対しては、「伊勢の聖地」を「護る役目」のある「青木氏」は、「武に化した北畠氏」を直ぐに排除出来なかった。
当然に、「武力」を使えない為に「悠久の絆」で結ばれた「土豪や郷士の伊勢衆」を充分に護れなかった。
それだけに「経済的支援」は伊勢には急務であった。

それは、次ぎの理由があった。
(イ)「北畠氏」が南北朝より「朝廷の意」を反映させている事(西の公家政権)
(ロ)「青木氏」が「氏是」に依って「武」を以って「北畠氏」を排除できない事
(ハ)悠久来に「賜姓族と云う立場」があり、「直接交戦」が採れない事
(ニ)「権威の象徴」は崩せない事

しかし、「二つの青木氏」に執っては、時間が掛かっても、何とかして排除するか弱める事が絶対的に必要である。
そうすると、「二つの青木氏」に執って考えられる手段は、「直接手段」は出来ないと成れば、取れる手段は、唯一つ「間接手段」しかない。

ではその「間接手段」と成れば、次ぎの「二つの戦略」に成る。

戦略1 「北畠氏」を煽り「武」に立たせ、悟られない様に「外部勢力」で弱めさせるか潰させる事
戦略2 そこで、室町末期の最大勢力の「信長勢力」を招き入れて、弱めさせるか潰させる事

「第一段階」
それには、「北畠氏」に「商い」などを通じて取りあえずは「経済的な利得」を得させて「勢い」を持たせる事が必要と成る。
「信長を引き込む」の戦略の為には、この「勢い」に依って「権威を惹けら課し、その利得を獲得する形」が出来れば、「信長」は必ず来ると判断した。
この“信長に遣らせる戦略”を第一段階とした。

その「信長」には「天下布武」で「天下号令の野心」があると踏んだ。そうすれば、「京」には「伊勢」は背後に位置すると「北畠氏」を叩く必要が必ず出て来る。
その為の「条件づくり」「環境づくり」をする事にあると見込んだ。
其れには「権威だけを惹けら課す北畠氏」に「経済的潤い」と「軍事的勢い」を付けさせる事が必要である。

「第二段階」
そこで、「元伊勢衆」と「伊勢四衆」が結束して、これに当たる方向性を付ける。
「伊勢青木氏(信定)」は「長野青木氏」等の「全国の青木氏」に呼び掛けて「ゲリラ戦」に応じる様に主に呼びかけると共に、「元伊勢衆」から成る「伊勢シンジケート」と共に、「ゲリラ戦の攪乱消耗戦」を仕掛ける。

「第三段階」
当然に、伊賀氏、伊藤氏、長嶋氏等は、領地を奪われる事から「独自の方法」で「信長」に戦いを挑む事に成る。
そこで“「信長の遣り過ぎ」“を制御する為に、「伊勢青木氏(忠元)」は、「伊勢青木氏(信定)」と共に「ゲリラ戦」を展開しながら、全国の「秀郷一門361氏」に援護を依頼して「信長」に「東の背後圧力」を掛ける事にする。

「第四段階」
「信長」は、この「伊勢青木氏(忠元)の行動」を観て、“「伊勢藤氏」”には手を出せない様に仕向ける。
この事で、「伊勢の戦い」は限定して拡大しない事に成る。

「第五段階」
この戦略で、「北畠氏と伊賀氏」が潰れる事で解決して、「信長」を以って、この二氏を弱めさせ潰させる事が出来る。
この段階で「伊勢シンジケート」の「ゲリラ戦」を引く事とする。
そこで、「伊勢衆の代表」として「信定と忠元の青木氏の二人」は「織田氏との談合」で決着をつける。

「第六段階」
これは、結果として、「本領安堵」を最終目的とする事であり、「元伊勢衆」の「北伊勢の土地」と、「伊賀氏」が支配していた「伊賀の土地」と、「北畠氏」が支配していた「南伊勢の土地」と「東奈良の土地」は帰って来る事に成る。
これで「所期の目的」は「伊勢者」に執って達成させられ、「伊勢の聖域」は護られる。

この「六段階の戦略」が、集めた記録から観ると、「元伊勢衆」と「二つの青木氏」の描いた「基本戦略」であった様だ。

ところが、ここで「戦略の見込み違い」が起こった。

この”「戦略ズレ」”は、何れにも起こるは必定の事であり、これを「臨機応変」で処理するのが「戦いの常套手段」である。
「基本戦略」以上を超える「戦略ずれ」は拙いがこの範囲であれば問題がない。

その「戦略ずれ」とは、「伊藤氏と伊賀氏」の「伊勢藤氏の二氏」が「自らの勢力」を超えて突っ込み過ぎたのである。
(長嶋氏は室町期の新参であった事から「基本戦略の範囲」を護って激しい交戦態度は避けた。)
結果として、「長嶋の戦い」が長引いてしまった。

そこで、止む無く、「二つの青木氏(信定と忠元)」は、”顔を出さない「ゲリラ戦」”で合力する事に成ったのである。
しかし、「戦略ズレ」を無くす事から、「談合」が進められ、結局、この「伊勢藤氏の両者」は、慌てて、子孫を遺す事を目的で、「伊藤氏」は尾鷲に、 「長嶋氏」(州浜族)は「尾張の秀郷一門」の「三勢力」(州浜族、片喰族、沢潟族)に、軍を引かせて早期に戦いを終わらせた。
この事で、「ゲリラ戦」が遺る程度に成った。
この時、「忠元の依頼」もあって、「武蔵の秀郷一門」が「救いの手」を打ったのである。
事を大きくしない為にも、「軍」を送らず、「名策の窮策」を講じた。

それは、「尾張三勢力」と「伊勢青木氏(忠元)」で、「信長の背後」を牽制した。
「信長」に、「信長子飼い」の「伊勢青木氏」と親族である「近江蒲生氏郷」を「伊勢戦域」に就かせる事にあった。

(注釈 上記した様に、「信長と氏郷」は、「京平家の同じ家筋(揚羽蝶紋)」の末裔で在る。
且つ、「信長」が其の優れた才覚を認め、家臣の中で最も信頼していた人物で、幼少期から信長の次女の梅姫を婚約させ嫁がせた関係にあった。
「信長」に執っては、「毛利攻め」の事も有って、「背後」を大きく混乱させ長引かせたく無く、事を穏便に始末したいと考えていた。
そして、現実には、”「策謀」”に依る各個攻撃に出ていた。

そこで、「二つの青木氏」は「背後牽制」をして、“早期から「氏郷」を伊勢に引き出す戦略“には成功した。
そもそも、「忠元の父」と「氏郷の祖父」は兄弟であった事から、この「作戦」は成功して、「伊勢藤氏」の「二勢力」は何とか生き延びたのである。

(注釈 そもそも、「信長」が、「北畠氏と伊賀氏」を潰せば、その目的は達成している事を物語る。
もし「伊勢藤氏」を潰す目的であれば、「信長の戦法」であれば、「同族の蒲生氏郷」を差し向ける事はしない筈である。
「徹底して潰す戦術」を採っている「信長」であれば、「伊勢藤氏の三勢力」を遺さなかった筈である。
これは、むしろ“潰せなくて”、且つ、“潰す目的が無かった事”を物語る。

”「信長の権威への挑戦」”にしても「闇雲の挑戦」では無い事くらいは判るであろう。
そもそも、「伊勢衆」と「伊勢藤氏」や「伊勢青木氏やシンジケート」には、「信長」に「敵対の意志」はそもそも無かった。
「後世の子孫」から観て、「信長の行動」に敵対するに値する根拠は何処を探しても見つからない。
「北畠氏や伊賀氏の行動」に「青木氏の命運」を掛ける程の根拠もなかった筈なのである。
むしろ、「招かざる者」として位置づけられていた。

(注釈 伊賀氏には長い歴史の中で幾つかの出自の異なるルーツが生まれた。
ここで云う「伊賀氏」とは、「藤原北家秀郷一門」の「宗家」で、鎌倉期に「頼朝」より「旧領地の結城の地」を本領安堵され、「結城氏の祖」と成った「朝光」が、その後、鎌倉期に、「伊賀の守護職」を務めた。
この「現地孫の末裔」が「伊賀氏」を名乗って、その後に鎌倉幕府の中枢に位置した。
その勢力を最大に伸ばした「氏族」で在る。
その後に、この末裔が「伊勢伊賀」に住し、伊勢の土豪、郷士を押え勢力を伸ばした。
厳密には、「伊勢藤氏の四氏」の内の一氏ではあるが、「他の三氏」とは、「秀郷一門」とは云えど、その血縁による「血流性」が低く、若干、その「生き様の方向性」に「武力性」が強く異なっていた。
時には、「傭兵軍団」等で生き延び、その氏は二派に分かれた。
その一派が「甲賀族」である。)

(注釈 従って、「伊勢藤氏四氏」と呼ばれるも「伊勢藤氏三氏」と呼ばれる事もあった。
この地の前身は、「伊勢京平氏の祖」の「後漢から帰化した阿多倍王」、又は「高尊王」、「平望王」で、朝廷より「伊勢青木氏の土地」の「伊勢北部伊賀地方」を「半国割譲」を受け定住した。
その子の「国香」と「貞盛」の親子から五代後の「平清盛」に繋がり、その後、清盛は「伊賀の地」を朝廷に返却して「播磨」に移動した。
然し、この時、一部末裔は、「平家滅亡後」にも「伊賀の地」に遺って、「伊勢青木氏」と共に「和紙」等の殖産を引き継ぎ、「伊賀郷士」等と成って生き延びた。
この「伊賀氏」には、この「平家の血」も流れているが、その主血流は「秀郷一門流」である。
主筋は秀郷一門で占められ、「家臣」には、この「平家の血筋」の持つ者、「民」には「後漢の職能部」を祖とする者等から成る。
「青木氏」とは、取り分け、室町期には、「伊賀氏」に成っても、「奈良期からの絆」で、「和紙殖産」を通じて、この「郷士の家臣や民」との繋がりの方が強かった。)

従って、この上記の注釈の経緯があるとすれば、「北畠氏や伊賀氏への合力」と云うよりは、“「流れ」の中で仕掛けられた「謀略」程度“と観える。
そもそも、「青木氏の基本戦略」の範囲では、「北畠氏や伊賀氏への合力」をしたとは云え、上記の「注釈の経緯」もある。
取り分け、この「二氏」とは「生きる方向性」の事もあり、「信長」を「伊勢」に呼び込む為の「誘導煽動策」に過ぎなかった。
(青木氏側からの見解)
そもそも、「伊勢藤氏 四氏」とは云え、鎌倉期の「武力に頼る毛色の違う伊賀氏」、平安期の「武に依る突っ込み過ぎた伊藤氏」、室町期の「武蔵の永嶋氏に頼る長嶋氏」とは違い、同族の「伊勢秀郷流青木氏」とは、血縁はあるにせよ、その「生き様」が根本から異なる。
又、「青木氏」は「賜姓族」である事も踏まえ、「三氏の顕教」では無く、「密教の概念」をも符合させて、「一族性」を完全一致させる事はそもそも難しかったのである。

ただ「北畠氏」(1569年没)だけは、「二つの青木氏」に執っては、「本音」では当に“「招かざる者」”であった。
この「本音」の「招かざる者」との「付き合い」は、結果として、1536年からの「30年間」に及んだ。
しかし、「実質の付き合い」は、「後半の10年程度」に過ぎ無い。
前半は、「悠久の絆」で結ばれた「伊勢衆の混乱」を観て、“「旧来の聖地の伊勢」を引っ掻きまわれた”と云う感覚でしか無く、”「付き合いの範囲」を超えていた”と考えられる。

北畠氏と「後半の10年」は、「過激な戦乱」を呼び込む衰退傾向にあった。
況や、「二つの青木氏」に執っては、当に、「招かざる者」への「基本戦略の範囲の行動」(上記)であった事に成る。

「青木氏年譜」によると、中盤の1549年頃に一度、「伊勢の衆」を集めた事が在って、後半の1559年頃に再び衆合している。
この後に、1560年に「堺支店」に船を廻す記録がある。

この「3つの記録」から、「北畠氏の動向」を観て、先に「伊勢衆との談合」を進めていて、「基本戦略の策」を講じている事が良く判る。

”堺港に船を廻す事”の意味は、恐らくは、“過激化する北畠氏”に悟られぬ様に危険に曝されている「伊勢衆」に「物資の供給」を試みたと観られる。

依って、この関係も勘案すれば、「四家」は、所謂、「伊勢シンジケート」を使った“顔の観えない「ゲリラ戦」”で応戦する「基本戦略の範囲」で事は進んで行った事に成る。
然りせば、“「青木氏」を前面に出して敵対していない“と成れば、「信長側」では、「潰しきれない背景」が生まれる。
且つ、織田側に、”「潰す大義」”も生まれないだろう事が判る。
況して、“「青木氏の商い」”は、「潰し対象」とは成っていないし、むしろ、織田氏の「軍需品調達」の大店とも成っていた。
一見して「商い」では「味方」である。
これが「青木氏の基本戦略の前提」なのである。

仮に、「賜姓族の青木氏」の正体が表に出て潰されるとしても、「商いの青木氏」が存続して居れば、「賜姓族の青木氏」は、当に「不死鳥」であった事に成る。
「商いの青木氏」には、其れだけの力は有り余る程に充分に有った。
況して、“「室町文化の紙文化」”と呼ばれる時代に「巨万の富」を築いていたのである。
この時には、「伊勢シンジケート」を組み入れれば、“「信長以上の総合力」”であったと観ている。
要するに、「表の勢力の信長」か「裏の勢力の青木氏」かの「勝負差」であった。
この「勝負差」では「二つの青木氏」は勝っていた事は明らかである。
その「勝負差」を以って、“顔の観えない「ゲリラ戦」で来る”と成ると、例え、「信長」でも、人より優れた「軍略家」であったればこそ、“「恐怖の対象」”そのものであった筈である。
それだけに、「顔の観えないゲリラ戦」に“「窮地発生」“とも成れば、「恐怖」から「過激」(パニック)に走る可能性は充分にあった事は認められる。
これは「信長」のみならず「青木氏」でも起こり得る「人間の性癖」であり、「上に立つ者の宿命」であろう。

そもそも、これが「不死鳥」と成るその為の「四家制度」(5つの面 20の顔)でもあった筈である。
「過激 パニック」を防ぐ「四家制度」(下記 ABCの態勢)であった。

「北畠氏や伊賀氏への合力」と伝えられる「口伝の戦況」と、「青木氏の商い記録の資料」からでは、次ぎの事が判る。
「北畠氏本家」が潰された後に「北畠氏の分家」が一族を結集し直した事である。
これに依れば、”「果敢に挑戦した」”と云う事に成っている。
勝敗は別として、これは「信長」に挑戦したものであったし、「伊賀氏」も「分家の残存兵力の結集」で最後に果敢に挑んだものであったらしい。
この「戦いの結末」は、“ゲリラ的に長引いた”とされているので、この事から観察すると、「青木氏の基本戦略」は兎も角も戦略ずれ等もあったが「成功裏」には終わっている。

兎に角、「青木氏の行動」は、“「徹底したゲリラ戦」”であった事が口伝や資料からでも判る。

結局は、「青木氏に残される大義」は唯一つである。
それは、奈良期より「不倫の聖地」とされているところに、不徳にも「不毛の騒ぎ」を持ち込んだ「北畠氏の如何」に在った。
この「北畠氏」だけに関わらず、“「不倫の聖地への挑戦」”に対する“「悠久の責務」”からの「最大の抵抗」であった事に成る。
故に、「如何なる場面」や「挑戦の流れ」の中に於いても、「四家制度」と「伊勢シンジケート」を駆使した“「徹底したゲリラ戦」の域を超えなかった”と云う事に成る。
故に、上記に論じる「基本戦略」を採った事に成る。

この事を後世から観ても、上記の前後の「戦略と戦況」から観ても、これを“「青木氏の大義」”として捉える事で納得し得る。
「村上源氏」や「学問処の公家」を標榜する「北畠氏」には、この“「大義」”に欠けていた事を物語る。
「青木氏」から観れば、”戦国”と云えばそれまでだが、無理やりに”「不倫の聖地」”に「武の勢力」を持ち込んで、「国司面」して「大義」を一時作り上げたに過ぎない。
故に、”「信長」を以てして「滅亡の憂き目」を受けた”と解釈できる。
そこで、この「青木氏側の基本戦略」の論調で行けば、“「信長」”は単なる「その使い」であった事に過ぎない事に成る。
依って、後付の「通説化」は論理的に符合しないのである。

「青木氏」の史実から観れば、当に次ぎの様に成る。(口伝でも同評価)

”「権威」を惹けら課し、「権威の利得」を食む「社会の悪弊」の「排除の使」”と捉えられる。

上記した様に、その経緯から「多少の過激さ」はあったにせよ、これは「人」が戦う「戦の如何」であり、“理想通り”には行かないのが「世の常道」である。
その行動に「事の平癒」を急ぐ余り、「若干の過激さ」が伴った事は否めないだろう。
故に、その“「若干の過激さ」“を以ってして、「通説」の様に「信長」を評価するは疑問である。
要するに、「青木氏」は、“「伊勢への挑戦」”の“「流れ」“に組み込まれたのである。
否、”青木氏の基本戦略“に組み込んだのである。

(注釈 この“「流れ」“には、その前に、次ぎの様な事が起こっていたのである。
然し、ここにも「石山本願寺の檄文」に依って火が付いた様に起こった「ゲリラ戦」と「一揆」が、「伊勢の三乱 五戦」にも、「上記の戦略」以上の”「思いがけない荒々しさの殺戮」”が、「信長側」にも「伊勢側」にも呼び込んで仕舞ったのである。
其処に、「秀吉の毛利攻め」にも「信長側」に「焦り」を起こした事が、この「荒々しさの殺戮」へと進んだ事も否めない。
この「檄文の存在」を通説化した歴史家が認知していれば、この「通説化」は作り得なかったと観られる。)

そもそも、実際には、1563年頃には、伊勢に動揺が起こり、実記録から観ると、1565年頃から、平定された「伊勢の北畠氏」の多くの「旗下」や「幕下」が、「信長」のこの「策謀の手」で乗っ取られて行った。
有名な伊勢の「神戸氏の乗っ取り事件」や「工藤氏の乗っ取り事件」等が起こり、次々と「武の伊勢勢力」は「信長」に乗っ取られて「内部崩壊」を起こし始めていたのである。
あくまでも、「信長」も、「伊勢勢力 北畠氏 西の公家政権再興」に対しては、初期には「撹乱戦法」で潰す事が「所期戦略」であった筈である。
その「所期戦略」は、全て内部に「内通者」を置き、「武力の攻め落し」では決して無かった。
上記した「入り婿策」で「乗っ取り」が起こって行ったのである。(青木氏もこの策謀に掛かった。)

そして、1569年頃を最後に、この「北畠家没落の仕上げ」として「信雄」に依って「北畠氏の内部撹乱戦法」の「初期戦」から始まった。
「所期の戦略の目的」よりも、「事の次第」が変化して、「氏郷」が指揮する次ぎの「中期戦」の「伊勢三乱」に突入して行ったのである。
つまり、「青木氏の基本戦略」での範囲ではあったが、「伊藤氏や伊賀氏」等の「伊勢藤氏の武の合力」の「始末戦」に突入したのである。

「伊勢長嶋攻め 伊藤氏」(1573年)
「伊勢北畠氏攻め 北畠氏」(1576年)
「伊勢丸山城攻め 青木氏」(1578年)
「伊勢伊賀氏攻め 伊賀氏」(1578年 1579年/9 1581年/9 1581年/10)
「名張清蓮寺攻め 青木氏」(1579年)
「石山本願寺攻め 顕如」(1578年-1579年-1580年一揆等)
「紀州征伐」(秀吉) (1585年)

この時に乗じて、伊勢外に起こっていた「石山本願寺の乱」が長引き、「伊勢-紀州の農民」の信徒に対して、石山側は「檄文」を飛ばした為に、“「城外でのゲリラ戦」”が「伊勢-紀州の周囲」の各地で起こって行った。

(注釈 この「石山問題」が、「青木氏のゲリラ戦」の「紀州域と東大和域と伊勢域」と重なった為に「青木氏の基本戦略」にも影響を与えて仕舞ったのである。)

「石山本願寺の乱」と称される「顕如の反抗」は、「毛利側の謀略」であったが、毛利軍が「高松城の支援」に失敗して、結局は、「顕如」に「檄文」を飛ばさて「城外戦」に持ち込んで「信長」を牽制した「長期戦」に持ち込む作戦でもあった。
これが「伊勢三乱」と重なった為に「三者」に激しさを助長させたのである。
ただ、「伊勢側」と「毛利側」とには“「連携」”の「実態記録」は発見されていない。

「城外の紀州信徒一揆」を支援する「河内シンジケート」と「伊勢シンシジケート)間の連携はあった事は、「青木氏年譜」の一部に其れらしき「堺港の配船記録」がある。
「青木氏の氏是」が有る事から「直接の連携」は無かった筈である。

「青木氏」は、“「不戦の禁」”を「氏是」としていたが、「上記の婿養子の事件」は、周囲でも「乗っ取り事件」が多発していた様に、実は「青木氏」にも仕掛けられた「記録がある。
「青木氏側」では、「信長の政略的謀略」として判断していたが、謀略の罠に陥ったのである。

この“「流れ」”の中で、そもそも、“「悠久の禁」”を破ったのである。
その意味で、最早、紀伊半島全体が「ゲリラ戦の戦場」と化して仕舞ったのである。

「青木氏側」では、「伊賀氏と伊藤氏の反抗・合力」、「毛利側と本願寺側」では「檄文に依る城外戦化」のこの「二つの事」が、「青木氏の基本戦略」と異なった事で、「予想外の戦場化」と成って仕舞った。
これは同時に「信長の基本戦略の狂い」でもあった。
「青木氏」も「信長」も、「伊賀氏と伊藤氏の反抗」は、「伊勢藤氏」を指揮していた「伊勢秀郷流青木氏」が動かない事から、「伊賀氏と伊藤氏の伊勢藤氏」も動かないだろうとする「読み間違い」がそもそも在った。

「青木氏年譜」(下記)から観ると、詳細は不詳ではあるが、「青木氏側」では北畠氏の前後に盛んに「談合の意味合い」の持つ“「会合、衆合、談合、衆議、不穏」等の文字が出て来る。
又、「青木氏」の「船等の廻船」にも活発な記述とも成っている。
「伊勢シンジケートの情報」で、“何らかの形”で盛んに「談合と準備」が進んでいたと観られる記述が何度も観られる。
しかし、結果としては、「何度の談合」にも拘らず、“動いてしまった”と云う事でないかと推測される。

この“動いてしまった“とする原因は、「伊勢藤氏の出自の差」が結果として出て仕舞ったと観られる。
その「出自の差」とは、「伊藤氏」は「秀郷より九代目基景」が始祖、「伊賀氏」は「秀郷より八代目朝光」が始祖であり、何れも分流族である。
「第二の宗家」と呼ばれる「秀郷流青木氏の直系族」と比べれば、「高い家柄の藤原氏」と云えども「家柄差」が格段に低いし、その”家柄から来る「生き様の柵」“は殆ど無い。
要するに、最早、この二氏は「柵の無い武家」であったとも云える。

恐らくは、何度も「談合」を重ねていた様ではあるが、柵の無い「主戦派・交戦派」と、柵を護ろうとする「保守派・知略派」に意見が分かれた。
結果として、この二氏は“突っ込み過ぎた“のである。
新参であった事もあり、「下総の永嶋宗家」の意向も配慮して「長嶋氏」は中間派を採ったと観られる。
依って、”「信長の権威の象徴への挑戦」”の“「流れ」“の中で、「伊勢四衆」に執っては、最早、避けて通れない事態に陥ったのである。
これが「青木氏の基本戦略の狂い」と成って、それが「青木氏存亡にかかわる事態」と成って仕舞ったと云う処である。

これは何も「青木氏側」だけでは無く、「信長側」に執っても、同じく「城外ゲリラ戦と一揆」が「基本戦略に狂い」を生じさせたのである。
「武」で抗する「北畠氏と伊賀氏」を潰す事で「伊勢の始末」は終わる事と成っていた。
取り分け、「謀略に依る各個攻撃」で「北畠氏の排除」で終わる筈であった。
そこに、「本願寺問題」と「伊賀氏の合力」、果てには「伊藤氏の合力」等が計画を狂わしたのである。

「何れの大義の良悪如何」は、別として、両者に執っては、”「流れ」“の中で、”決着を監る“しか無く成っていたのである。

(注釈 「四家」は、「信長の権威への挑戦」に対しては、「北畠氏」とは違った受け取り方をしていたのではないかと観ていて、元々「信長への敵対性」は低かったと考えられる。
それは、「賜姓族」であるとする“「権威の象徴」”では確かにあるにしても、片方では、「商いと云う立場」と云う、“「権威」”とは「真逆の立場」にも在り、それも、厳然と「悠久の歴史」を持つ「併合の立場」にもあったのである。)

況してや、そもそも、「青木氏の権威」は、「信長が嫌う権威」には無かった。

“「権威」を以って「惹けら課す事」はせず、「権威」を以って「利得」を獲得する概念“すら無い「氏族」であった。
当初より「利得の獲得」は、“「商い」と云う「正当な行為」を以って成す概念”を持っている「氏族」である。
正しく、それが“「賜姓族の権威」”そのものであって、それを構築しているのが「四家制度」で有った。

“「惹けら課す事」”に付いても、その“「惹ける」”と云う本質は、“「主張する」”の拡大語である。
だとすると、「商い」は“「品」を以って主張する行為“であり、”「自己」を以って主張する行為”の「惹けら課す事」に一部では確かに通ずる。

ただ、「氏家制度の社会」、或は、「信長の概念」の中では、”「自己」(権威)を以って主張する行為”の「惹けら課す事」には、強い「抵抗感、強いては罪悪感」があったのであろう。
「信長」のみならず、「二つの絆青木氏」、「二つの血縁青木氏」、「青木氏の職能部」、「伊勢シンジケート」、「御師 氏上」、「商い」の「四家制度」を敷く「青木氏」も全く「同じ概念」の中にあった。
「信長」は、特に、この行為が“社会発展に悪弊を及ぼす“、即ち、その「悪弊」とは”「閉鎖性」を誘発する“と考えていたのであった。

ただ、同時に、「閉鎖性の排除」の姿勢は、”「楽市楽座」“を容認し、推奨する「積極的立場」も採っていた事に通じていて、この姿勢は、「二足の草鞋策」の「青木氏の姿勢、概念」と一致しているのである。

「事の次第」は、「品」と「自己」にあり、間接的に「品」、直接的に「自己」の「主張の差」による事に成り得る。
「青木氏」としては、「商品」を以って間接的に「惹け行為」を「正当な行為の概念」として「悠久の時」の中で育まれていたのである。

「賜姓の権威」については、“「賜姓五役」の実行を熟す事”にあって、「権威」から「利得」を獲得する事には無かった。
それは、“「四家制度」”がそのものが、「惹けら課す事」と「利得の獲得する事」を阻止する機能(合議制度)を果たしていたのである。
「信長」も「楽市楽座」を推奨することは、「青木氏の商い」の「正当な行為の概念」に通ずる。

そもそも、この事から「信長」が標榜する「布武の共和政治」とは、むしろ、「商いの青木氏」とは符号一致する目標でもあったからで、特段に「氏存続に対しての信長への敵対性」は全く無かったと考えられる。
その意味でも、“氏を前面に押し出す敵対”は採らず、故に、“「流れ」“の範囲で有るが故に、下記に示す敢えて「青木氏」の観えない ”「ゲリラ戦」“を敷いたと観られる。

「信長の理解」
では、「招かざる北畠氏」(1569年)が亡びた後に、“「信長」には、何故に、この「青木氏の姿勢」が理解されていなかったのか“と云う率直な疑問が湧く。
筆者の答えは、残念ながら“理解されていなかった“である。

何故ならば、その答えは簡単である。
「商いの青木氏」と「賜姓族の青木氏」とは、悠久の中で結び付けていなかった事が原因であった。

敢えて、「青木氏」自らが,奈良期からの「悠久の時間」の間を、「商い」と「賜姓」は「別物」として、「公然の事実」とし乍らも演じて来ていた事にあった。
それは、朝廷から、”「紙屋院」”として「和紙の殖産」とその「普及の役」を命じられた事に在った。
従って、「商いと云う行為」が分離してのものでは無く、「賜姓五役」に同化して居た事に在った。

「商いと云う概念」の感覚が、「分離した感覚」に成ったのは江戸期に成ってからで、それまでは、「特定階級が行う職業」(武家)の概念が強かった。
取り分け、「青木氏」は、「賜姓五役の紙屋院」であった事から、全く「別感覚」は無かったと考えられる。
「二足の草鞋策」の感覚は、室町期末期までは「氏自体」としては、”薄かった”と考えられる。

幸か不幸か、「信長」は、その「二足草鞋策」を率先した氏の「平家末裔の出自」であるにも関わらず、残念ながら「理解外」であった事に由来する。
要するに、「初期の段階」では、「楽市楽座令」を敷くまでは「無知」で有った事に成る。

(注釈 信長自身は「平家出自の末裔」である事は承知していたと観られる。
それは、同じ「京平家の血筋」を引く家臣の「近江秀郷一門の末裔蒲生氏郷」を、未だ幼い信長の次女を婚約して於いて、嫁がせる等の「特段の扱い」をしたのは、この「京平家の同じ家」の流れの汲んでいた事にあった。)

それは、ただ「天正の時代」にしても、「織田氏分家の信長」には、詳細な“「伝統の継承」が途切れていた事”に在った。
“分家の所以”で有ったのかも知れない。
そもそも、「織田氏」の「出自氏」とされる先祖の「京平家の清盛」は、当に「三権の権威」と「宋貿易」の「二つの利得」を持ち、且つ、その全ての“「権威」”で以って周囲を威圧させた人物でもある。

「信長」自らの「出自の先祖」は、“「惹けら課す事」”の“自らが排除しようとしている考え方”を持った「最大の氏族」であった。
この事すらも放念して居た事に成る。

この時、同じく「賜姓族」として「青木氏」は、隣の伊勢の守護であって、半国割譲した「伊勢北部伊賀」(平氏実家)とは「隣国の付き合い」をしていた間柄でもあった。
「青木氏の商い」の「伊賀和紙の殖産」でも深く繋がっていた。
未だ室町期でも続いていたこの「歴史」さえも忘却していた事に成る。
依って、「以仁王の乱」の時は、「青木氏の跡目」の「京綱」の兄弟の「二名の助命嘆願」にも応じてくれた「氏族」でもある。
その“「家の伝統」“は、「清盛の末孫娘」の「高野新笠」は、「青木氏」の始祖の「施基皇子」の「第三男の白壁王」(光仁天皇)の妻でもあり、縁深き間柄にあった。
そして、「青木氏」と「二足の草鞋策」を採用していた所も同じであり、共に「氏が持つ概念」には極めて「類似性」を持った「縁深き氏族」でもあった。
しかし、「青木氏」には、この「伝統逸話」は「悠久の時」を経ても伝わっているにも関わらず、「織田氏」、取り分け「信長」には「伝統逸話」は伝承されていない知識なのであった。
(分家とはこの様なものであるのかと思い知らされる。)

もしあったとすれば、この様にどの「検証の面」から考えても、「北畠氏壊滅」の為に、「伊勢衆」の「青木氏を攻撃の対象」(内部撹乱)にする根拠はなかったであろう。
結局は、「青木氏」も「信長」も、「北畠氏や伊賀氏や伊藤氏の掃討」に連れては、この“「流れ」”に沿う以外には無かった事に成る。
ここに筆者の“「流れ説」”を採る所以でもある。

しかし、ここでただ一人、「織田側」であった「秀吉」は、伊勢東部に存在した「今宮シンジケート」の一員でもあった「土豪の蜂須賀小六」から、この事を聞いていて承知していたのである。

(注釈 「秀吉」は、若い頃に一時、「山族土豪の蜂須賀小六」の配下で働いた経歴を持つ。
「信長」にも後に「鉄砲入手」と、その「技能傭兵集団の雑賀族」にコンタクトするには、「今宮シンジケートの存在」を教え、この「今宮シンジケート」を通じなければ「鉄砲は入手」は出来ない専売品である事を教えた。
この記録が遺されている。)

この様に、「秀吉」が「信長」に「商い」には「今宮シンジケートの存在」を説明して居る記録がある。
その後に、認知して「楽市楽座令」を発したのであり、初期は、”知らなかった事”に成る。
とすれば、説明して居れば、”「伊勢シンジケートの存在」”をも説明していたとも充分に考えられる。
「秀吉」がもう少しこの事を信長に早く知らしめていれば「伊賀攻め」は変わっていたかも知れない。


「秀吉の青木氏出現」
実は、その証拠と観られる外部記録が在る。
1581年の末当初に「秀吉の紹介」で、「一名の青木氏」なる者が、「信長]に面会している。
1583年に秀吉に合力し、秀吉より1598年に厚遇 この「青木氏」が在る。
これが、この時の「伊勢での経緯」ではないかと推測できる。
これは「青木氏の経緯」(商記録の年譜)とほぼ一致する。

但し、「伊勢青木氏」が、「自らの意志」で、「自らが面談した」とする事では無く、記録も無い。(矛盾1)

これを基に「青木氏側」から検証すると、この”「伊勢攻め」全般に”於いては、“「秀吉執り成し」に依る面談“に依って「本能寺の直前」に解決に向かっていた事に成る。
これが「秀吉-氏郷」の「伊勢の本領安堵」に繋がったのである。
確かにこの時に、「紀州」と「伊賀」等の「旧領地」を受けたが、その後、「徳川氏」(1605年頃)に「青木氏の賜姓五役」(神明社等)などと共に「返納の経緯」を辿った。
この時の談合で、その代わりに、”「家臣扱い」”として「紀州藩初代頼宣」より「扶持米12人分」(1万石弱程度)が付加された事の経緯に成っている。

この”「秀吉執り成し」”とは、「外部記録」では成っているが、これは“「秀吉の搾取偏纂の行為」“であり、「青木氏」には記録はない(矛盾2)。

但し、「青木氏の記録」(下記)では、「伊賀の戦い」後に、「蒲生氏郷」との「数度の談合」によって、”「信長の伊賀査察」“の時に、「蒲生氏郷」と共に面談があった。
ところが、「佐々木氏の別の資料」では、外部記録では「一名」と成ってはいるが、この「二名の青木氏」に成っている(矛盾3)

夫々「越前北庄八万石」(1)と「丸岡四万石」(3)を受けたと成っている。
内一人(1)は「秀吉の家臣」と成るも、これも「1年間の俸禄」(1598年から1600年)と成っている。
この「越前の俸禄」は、1600年に徳川氏(徳川除封禄 巻の一)にて「除封]を受けている。(矛盾4)

この者の身内が家康の側室で後に本多氏の正室に成るとある。(実際は別の丹治氏系青木氏 )(矛盾5)

しかし、「もう一つの青木氏」(3)に付いては、外部記録では触れていない(矛盾6)。


「青木氏の記録」では、この「蒲生氏郷」と共に面談したと成っているのは、この二名(2)(3)である。
これは「佐々木氏記録」(2)(3)と一致する。
外部記録(豊臣家の記録)では、この内の「秀吉の家臣」で「縁者」と記録されている「紀伊守」で「越前北庄の人物の記録」(1)が「青木氏」には全く無い(矛盾7)。

確かに、「没年数」が類似する人物(2)は「青木氏福家」に居た。
これは「豊臣氏のある思惑」を込めた「形式上の内容」ではないかと観られる。
更に、実は、他にも極めてこの「人物(1)」の詐称には矛盾が多い。

何故ならば、「人物(1)」の与えられた「官職」は、確かに「紀伊守」であって、この地は、実際は「伊勢の乱」での「北畠氏の領地」で在る。
つまり、「北畠氏の南紀州」であった。

ここは、現実に明治期まで「青木氏」が「大地主」で有って、後に「紀州徳川氏」からも認知されていた。
確かに、「秀吉」に依って「伊勢の地」を「本領安堵」されたが、この「二つの地」は平安期までは「青木氏の旧領地」でもあり、「青木氏の家人」が「和紙殖産」の為に奈良期から元々代々住み続けていた土地柄でもあった。

この「南伊勢 南紀州」の地は、「青木氏」では、“「遠祖地」”と呼ばれていた土地でもあって、歴史上は、奈良期と平安期と鎌倉期の三期に伊勢を三分割したもので、平安期中期から朝廷から「半国割譲された土地」でもあった。
(日本書紀にも明記)
この「旧領地の遠祖地」も確かに「秀吉」に依って「本領安堵」されたのである。

この「人物(1)」には、この「紀伊守の官職」を与えて、「北庄藩」を与えたとする「豊臣家の記録」にある。

しかし、これには疑問がある。
その与えた時期は、1598年とあるが、この地が「豊臣家の領地」と成った「賤ケ岳の戦い」は1583年である。
与えたとしても少なくとも、1584年には与えている筈で、それも、15年後の豊臣政権の晩年5年前の「混乱時期」でもある。(矛盾8)。

更には、その2年後の1600年には、この「俸禄知行」は、たったまる1年で「徳川氏」に除封されて終わっている。
つまりは、其れも「1年限りの俸禄」であり現実にはあり得ない。(矛盾9)

仮に「人物(2)」が受けたとしても、この「秀吉の家臣」と成ったとされる「青木氏」(佐々木氏記録の1と2)には、「八万石」や「四万石」ものそれを維持する「武力」と「家臣」を元より持ち合わせていない。
無理なことである事ははっきり判る。(矛盾10)

況してや、「豊臣家の記録」には、「何処の青木氏」であるかも記されていない。(矛盾11)

この時期の「青木氏の出自」は明確である。

青木氏は、「悠久の歴史」を持っている「氏族」で、「姓族」の様に急に勃興して来た「姓」ではない。
現に、「伊勢」で戦っていたのである。
“何処の青木氏か判らない“と云う事は絶対に無い。

そこで、この「室町期の時期」では、「秀吉」と関係を持てたとする「青木氏」ともなれば、「伊勢の二氏」の 「二つの青木氏」と「信濃、甲斐、讃岐」の「三氏の青木氏」に限られる。

そこで、上記の「紀伊と伊賀」ともなれば、「紀伊」と「伊賀」に土地を持ち、本領安堵された「伊勢の二氏 青木氏」以外には無い事に成る。

「近江と美濃」は滅亡していて、「近江」は傍系が摂津で農業、美濃は、完全滅亡の体の状況にあったし、「他の秀郷流青木氏の116氏」は、伊勢を除いてはその対象とは成らない。
つまり、「豊臣家」が遺したとされるその地理的範囲を超えていてその対象にはならない。

「丹治氏系青木氏」が確かにあり、「信濃国衆」と成るが、関ヶ原で「徳川氏」に味方して摂津に1万石が与えられている。

「紀伊守」とする「秀吉の家臣」とされる「人物(1)」は、西軍に味方して除封を受けているので、摂津藩と成った「丹治氏系」では無い。
この様にこの「人物(1)」の「青木氏の出自」が明確に成らない。(矛盾12)

何故ならば、秀吉は、「自らの家筋」をよく見せる為に次ぎの様な搾取をしている。

この「紀伊守とする人物(1)」は、「豊臣家の記録」では「養父の竹阿弥」の「遠縁の青木氏」として記録されている。
そして、「従兄弟」であるとしていて”「偽系譜」”を作り上げている事に成る。

(実はこの事は、全くの無根拠ではないのである。下記)

「青木氏」と云う「賜姓族」の“「出自の権威」”を利用したのであろう。

この事を理由に、「豊臣家」が作り出した記録に依れば、次ぎの様に成る。
1578年頃に「秀吉の家臣」と成ったとしている。
1583年頃に勲功を挙げたとしている。
1587年頃に突然に引き揚げて、突然に「従五位上左衛門佐」とした事に成っている。

以上とする3記録が豊臣家に遺されている。

この事もおかしい。この3つに付いて検証する。

そもそも、「出自」も判らない人物に、「朝廷の格式式目」の定めでは、この「官位」は絶対に受けられる「官位」では無い。(矛盾13)

出自格式が良くても、最高でも、「従五位下」が与えられる最高官位であり,官職は「右衛門下尉」が限界と成る。(矛盾14)

「国家的勲功」が在り、その「勲功」を以って次第に「格式」が高められる様に厳しく定められいる。
その「身分」に依って「限界の格式」が定められている。
その「勲功」も「五段階」に定められていて、一足飛びに得られるものでは無い。(矛盾15)

(参考 「青木氏の守護神と神明社-4」と「古書 類聚三代格等参照」)

(注釈 因みに、「徳川家康」は、幕府を開くに必要とした官位官職が足りなく、天皇家に食事も出来ない位に貧させ圧力を掛けてやっと無理やりに「公家身分」より低い「従五位下」と、「武家の棟梁」(「武門之棟梁」)の呼称も与えずに、過去にあった「源氏長者」と云う身分を引用し作り出して「征夷大将軍」に成り得る格式がやっと与えられた経緯があった位である。)

それが、「氏素性」「出自」のはっきりしない「行きずり者」には、先ず「官位官職」はあり得ない。(矛盾16)

しかし、現実に記録されている事から、少なくとも、“「永代の官位官職を持つ青木氏」”でなくては無理な事に成るのである。
だとすると、「伊勢の二つの青木氏」と「信濃青木氏」の三氏に限られる。
「紀州」と「伊賀」と云う事から観ると、明らかに「伊勢の二つの青木氏」と成る。

しかし、「伊勢の二つの青木氏」か「信濃青木氏」には、永代の「浄大一位 正二位左衛門上佐」と「従四位上左衛門上佐」の家柄であり、既に「永代の官位」を持っている。
大きなあり得ない[矛盾」である。

この官位は、そもそも、本来”「宗家筋」”に与えられるもので、「分家筋」の他の地域の青木氏には与えられるものでは無い。
全く突然に受けられる立場には元来ない。
況して、「伊勢の乱」の後ともなれば、“「青木氏」”としては、「伊勢の二つの青木氏」以外には、「豊臣家の記録」を確定するに類する氏は無い。
然し、この事を完全に証明する記録は「二つの青木氏」側にはない。(矛盾17)

この事から、「豊臣家の家筋」を挙げる為に、それに見合う様に、画策した事に成る。
第一には、「形式上の官位官職」を作り上げた事
第二には、「形式上の藩主」とした事
第三には、「形式上の俸禄」として作り上げた事
第四には、「身内に家臣一人を仕立てた事

以上の矛盾だらけの「4つの事」で、「豊臣家」の中で「搾取偏纂の記録」としたものと観られる。

この「4つの事」で先ずは“権威づけた”と観られる。

そして、この「4つの事」に見合う類似する青木氏の「人物(2)」を、“家臣一人に仕立て上げた”事に成る。


「青木氏側の記録」との差は、”「形式上」”に作り上げられた「藩主」と「俸禄」と「竹阿弥」と「官位」と「官職」だけで偽飾したのである。
後は類似し、時期も伊勢の1565年頃から1600年までの事としての5年の範囲にあるに収めたのである。

“「繋ぎ」”による“「竹阿弥」”を除けば、四つ共に「青木氏の記録」に対する“「誇張」の範囲”で記録されている事に成る。
「藩主」は「伊勢衆」、「俸禄」は「大地主」、「官位」は「永代官位」、「官職」は「紀州伊賀の旧領地」から誇張したものである事に成る。


これで、矛盾は解ける。

さて、そこで、“「繋ぎ」の「竹阿弥」”の“「能楽師」”に付いては、ある意味を持っている。
上記した様に、「能楽」「猿楽」等の「楽師」は、古来より「公家」や「賜姓族」の「ステイタス」の趣向であった事から、”「直接の血筋」”とは云わずとも、“「遠縁」”として印象付けたのである。

つまり、“遠からずとも縁筋”に当たる事があったろうとしたのである。(矛盾18)

現実に、“遠からずとも縁筋”に当たると搾取した記録が、「二つの青木氏側」には確かに遺されている。

それは、「秀郷一門の末裔」で、近江の「蒲生左衛門佐大夫高郷」の末男の「青木玄審允梵純」(1548年頃で、母は伊勢青木氏)が居た。
この末裔で、「青木忠左衛門忠英」(松平氏扶助)なる者は、元は「猿楽」の「春藤源七郎」の弟子で、その「技」を学び、それを以って、一派を率いたと記録されている。

(「春藤氏」は「公家衆御馳走能組番」で「公家等の階層」の者に「能楽」を教える「楽師役職番」であった。)

この伝承の一派は、「伊勢秀郷流青木氏の末裔」が代々引き継いで、中には江戸時代の「四代将軍綱吉」に召し出され、「御廊下番」(百五十表)として正式に「徳川幕府の楽師指導方」と成った家柄でもある。

その意味で、「秀吉の養父」の“「楽師の竹阿弥」”が、「青木氏と遠縁」とする根拠は無いではない。
この経緯を利用したのである。

要するに、民衆を信用させる為に必要な信用させられる”「繋ぎ」”を作り上げたのである。


(注釈 伊勢の「青木長兵衛の四家」も「能楽」を古来より「賜姓族」として嗜む伝統があった。)

つまり、二人目の「伊勢秀郷流の青木伊賀守忠元」とする「青木玄審允梵純」の子の人物が、「秀吉家臣説」に利用された根拠は、ここにあるのである。


実は、「伊勢秀郷流青木氏」の「青木忠元」は、「蒲生左衛門佐大夫高郷」の末男の「青木玄審允梵純」(伊勢)の子である。
更に、その「二代後の末裔」で「青木忠左衛門忠英」は、代々青木氏の「楽師の指導方とその才」を以って、遂には「楽師の師匠」として「徳川氏の正式な楽師指導方」に成った経緯を持っていたのである。
この事を利用して、「秀吉」は、“養父の「竹阿弥」“と結び付けたのである。

これで「二人(紀伊守と伊賀守)」を形式上は「家臣」に仕立て、「紀伊守」と「伊賀守」を結び付ける事で「秀吉」が「青木氏との関わり」を搾取偏纂したのである。

この「身内の者」か「家来」か「青木氏」に仕立て上げられた者の一族が、伊予と讃岐と土佐の西国境に「ある村」(匿名)を与えて住まわせていた事が判って居る。
この者の一族は、その後の「徳川氏の除封」作業で、この「青木の土地」が没収されて、「青木の地名」と共にその後、一族は行方は判ら無く成っている。

恐らくは、「北の庄」は豊臣家の所領でダミーとして扱い、この「青木氏」を名乗らせた者には、実際は四国の伊予土佐の国境の西山間部に小さい村を与えて一族を住まわせていた事に成る。

結局は、「秀吉」は、伊勢の「青木氏の本領安堵」の時の状況に合わせて、「誇張」はするも、「類似性」を持っている事から、これをチャンスに乗じて間違いなく「豊臣家の権威付け」をしたと観られる。

以上の様に、“誇張に依る「豊臣家の記録」”である事から、「徳川除封禄」では、正式に関ヶ原の1600年の「除封」と云う形で、「徳川氏の力」で、「1年後」に明確にこの搾取の記録を抹消しているのだ。

そこで、この二人に類するものを「青木氏系譜」から追ってみると、“「紀伊守」”とする者の幾つかの俗名に関する対象者はない。
「俗名」は異なるが、「没年数と月と死因」が大体一致する者が、四家の中に現実に一人存在する。

上記 「青木氏の記録」の模擬にされた人物は、「信秀」、或は「信定」である。

記録の「中心人物」(1)の為に、“「後付」”で出自の無いこの「人物(1)」を正当化させる為に、その良く似た出自を、間違えての搾取偏纂で、後付で“「一矩」“に変えたと観られる。

ところが、ここで、又、「決定的な間違いの矛盾」を起こしたのである。

そもそも、この“「一矩」の名”は、「徳川氏」に味方して「家臣」に成り、その勲功で同時期に「摂津麻田藩」を与えられた「丹治氏系青木氏」の通名である。
本人の有形無形は別として、”豊臣に味方した”として、実際に徳川氏より除封された人物である事から、出自を明確にし良く見せる為に行った「後付」である事が明白である。

名前と出自を偽作する為に、”「豊臣家に味方」”と”「徳川氏に味方」”のとんでも無い間違いを起こしたのである。

注釈 「秀吉」が付けた「元々の俗名」は、別資料から「青木秀以(ひでもち)」である。

「伊勢青木氏」の「信定人物(2)」の最初の俗名「信秀」の「秀」を使って「類似の秀以」としたのではないかと観られる。
「秀吉」の“「秀」“を使ったとする説もある。

しかし、兎も角も、”「秀」“を使われた事から、伊勢の「青木氏側」では、”「秀吉の青木氏」“を否定する形を採る為にも、”「信秀」“から”「信定」“と改めたと観られる。

と云う事は、「秀吉の記録」時には、当初は、この「人物の俗名」が、はっきりとした記載には無かった事にも成る。
10もある名なので、何れが本当か判らなかった事に成る。

(注釈 本当は判っていたが、「一矩」とした通説化を謀った人物が、この「秀以の情報」を持っていなかった。)

依って、「一矩」にして、信憑性を高める為に、「麻田藩の丹治氏系青木氏」の「通名」を「後付」で付けた事に成る。(矛盾19)
 
(注釈 実は、この人物には「後付」と観られ俗名が何と10もある。詳細下記。これこそが搾取偏纂が行われた証拠である。)

そもそも、「嵯峨期詔勅」に依って、一般は「青木氏」を名乗る事は禁じられていた。
然し、この“「秀吉の青木氏」”の名は、出自が明確でなかった事から、この名を使って名乗る事は可能であった。
この事は「江戸寛政期の歴史書」にも記載されている。
各地で家柄身分をよく見せる為に江戸期と明治期に名乗った「第三の青木氏」と云われるものである。

「各地の郷土史」は、これを記載する事で「土地の知名度」と「歴史性」を上げる事と成る。
従って、この“青木氏の子孫だ”とする形で「俗名」が増えたと観られる。

更に、「秀郷流伊勢青木氏」の中に、「伊賀守」とする者の「俗名の類似」と「没年数に近い者」が矢張り一人存在する。

上記の「青木忠元」であるが、上記の“「竹阿弥」”を通じて「青木氏」との「繋ぎの役目」の為に其の侭に使用したと観られる。

この事から読み取れる事は、「伊勢青木氏の本領安堵の条件」に、“「豊臣家のこの搾取偏纂」を容認する事“が付加されていた事を物語る。

つまり、別に本領とする地外に、「南伊勢から南紀州の地」と「伊賀の地」の「旧領の本領安堵」した事を根拠に、「豊臣家」の為に「本領安堵の付加した土地」を「紀伊守」と「伊賀守」として、先ず、誇張して「権威づけた」のである。
ただ、この二名の内の「紀伊守(1)とする「伊勢青木氏の末裔子孫」が、奈良期からの“「福井の青木氏の逃避地」に移動した”とする記録が、後に付加されてある。

現実に、この「青木氏の子孫」が福井に現存し、「商い」を営んだとする記録が確かに青木氏側にもあり、末裔も現存する。

これには、「除封」にて、”福井に逃げ込んだとする説“と、”「氏是」を無視したと云う批判説”とが確かにある。
しかし、更に研究調査を進めた結果、実際には、上記した“「豊臣の記録の範囲」”であり、「青木氏側」では、「豊臣家の知行」を実際に受けていないし、「除封」の5年後にこの本人(信定)は病死にて紀州新宮で没している。(矛盾20)

上記した「室町期の紙文化」で「巨万の富」を得ていて、250万石以上とも云える「商財」を築き、且つ、「伊勢、紀州の大地主」(家人が奈良期から定住)にあって、「豊臣家の記録」が“「誘い」“であったとしても、”「誘い」“に乗る者は「青木氏」には居なかった筈である。
むしろ、この“「誘い」”が「青木氏」に「利得」と働くは、論外であって、「賜姓族」「御師様・氏上様」として「悠久の民からの信頼」を失い、「青木氏の悠久の氏是」がある中で、何れの事からも「全くの不利益」と成ろう。
そんな「愚者」は、そもそも“「四家制度」”の中に存在し得ない。
それが「四家制度の所以」の一つでもある。(矛盾21)

「四家福家の批判説」によると、この者が「福井移動説」の元となった。この元福家が福井に移動して商い(酒造業)をしたと観られる。
この者が「後付」で「出自の明確化」の為に利用されたのである。


故に、「出自」が出せない者で、除封された者の娘を「家康の側室」(蓮華院)にし、後に「本多氏の正妻」にするかの疑問が遺る。(矛盾22)

この様に、矛盾が22にも上り、可成りにして「通説化した説」には無理な無茶が目立つ。

「秀吉」は始めからの「家柄や権威の獲得」の為に、「伊勢青木氏」に関わるかの様な人物を家臣の中に作り出し、それに「伊勢の本領安堵」の時の処理に乗じて、似せて誇張させて「記録」で演じた事に成る。
その「搾取の人物の娘」を、秀吉から家康は政略的に側室として、後に家臣の本多氏に下げ渡したとする説にした事に成るだろう。
しかし、この娘は別ルートの「麻田藩の丹治氏系青木氏の娘」である。人質である。

故に、それに合わせる為に、俗名を「秀以」から丹治氏系の通名の「一矩」に変えたと観られる。(矛盾23)

そもそも、この「秀吉の家臣説」の「類似する人物」は、「二つの伊勢青木氏」には存在はするが、“この人物に似せた青木氏”を作り出した事に成る。
ただ、それが、“搾取偏纂した事に依る「無茶な矛盾」が、余りにも出てしまった”と云う事である。

「秀吉」自信が、初め、“この事に「青木氏」が載ると観ていた”と考える方がおかしく、“「青木氏の権威」“を主張するのであれば、”「青木氏の出自」“が最も大事であり、記録に”不明である事”にした事は、元々、秀吉は、“この事に青木氏は応じる”と観ていなかった事に成る。

「二つの伊勢青木氏」は、「四家の人物」を、“「家臣」とする事“には、「青木氏氏是」で応じなかった事に成る。
従って、「搾取偏纂の結末」として、説明の就かない「大矛盾の結果」が起こった。

故に、「徳川氏」もこの事を事前に充分に承知していて、速やかに1年後に「除封処置」を講じたのである。
そして、“如何にも血縁づけたかの様に見せかけた「娘」”も、その手には載らないとして速やかに本多氏に“下げ渡した”のである。

(注釈 「秀吉信望の歴史家」は、「福井逃避説」(下記 矛盾24)と同じく、「通説化」を是認する様に、別の「娘の偽工作話」を作り上げている。)

ただ、“世に晒す事無かれ、何れ一利無し“の「氏是」から、”前代未聞の事“であった為に、”豊臣家に乗じられた“とする”一族からの批判“が、「青木氏年譜」(商譜)でも、確かに「騒ぎ」が起こっている事でも判るであろう。
「伊勢青木氏」に執っては、この事態は止むを得ない仕儀ではあるが、この始末をした「福家の末裔」(信定)にしてみれば、「一族の非難」から、“福井に追いやられた”として受け取っている可能性は充分にある事も考えられる。
この“「隙」“に乗じられたものである。

これは、現実には、資料より「四家制度」にて、病死にて、制度上、上記した「四家の入れ替わり」が起こった。
この「利用された青木氏の人物 (信定」」は、「福家の人物」であったが、この「福家の家族」が、「福井への営業所に人事異動した事」が起こったのであった。
この人事に関する「添書書きの記録」は特段無いが、一族から“秀吉に乗じられた事への非難”から、遠ざけて「非難」から避けさせる為に配慮した事であったのであろう。(後付説の矛盾24)

この「歴史家の後付」と観られるこの「福井などへの逃避説」は、一部の歴史家の「豊臣家記録」を恣意的に肯定する為に乗じられた事に依る。
且つ、通説化する為に仕掛けられた搾取偏纂のものであると観られる。

(秀吉母の出自も信じられな程の脚色搾取偏纂が目立つ事例と同じ偏纂。)(外説 矛盾25)
これを「逃避説」にすり替える事で、より「家臣説」に深意性を仕立てて正当化しょうとした「後付の論調」と観られる。

(注釈 この説を読んだ「福井の青木氏末裔」、つまりは、「四家の福家の伊勢青木氏の末裔」が、この「後付説」を読んで「口伝」していたと観られる。
「福井定住」のこの末裔子孫は、「避難説の口伝」に成っている事を承知している。)

そもそも、この「福井逃避説」を「後付」するには、この“「福井」”と云う地が、“「青木氏の奈良期からの逃避場所」”であった事を歴史的に知っている者でなければ、作り出せない「後付説」である。(歴史家)

この関ヶ原後の「逃避場所」を、“「福井」”と云う場所に持ち込めば、「秀吉家臣説の人物(1)」をより「真実化」させられる。
“如何にも「伊勢青木氏」であるかの様に見せかけられる”として、「搾取偏纂」し「通説化」を謀ろうとしたと観られる。
「後付説」を脚色した人物は、ある程度の知識の歴史家であった事が云える。

ところが、「青木氏側の記録」では、上記の様に明確に成っている。
この「豊臣家」が記録する人物は、「伊勢青木氏等」に存在しない。
且つ、「避難」では無く、「後付」で「乗じられた人物」の家族に付いては、“「四家人事の移動」”と成っている。

豊臣政権崩壊後(下記 「青木氏年譜」 1619年)に、「紀州徳川氏の頼宣」と「家康」は、「青木氏の役務返納」(全国神明社や密教寺等の私財の返納事 縁籍問題等)に付いて、初期には家康と、後期には“「伊勢松阪での頼宣との交渉」“を行った事が記録されている。
この時に合わせて、「伊勢伊賀の本領の認知(大地主と村主)」と合わせて、上記の「除封分に相当する知行分」として、「特別扶持米12人分」と「南紀州の遠祖地」(計1万石弱相当程度)を付加した記録が遺されている。

(注釈 平安時の「旧領や遠祖地」も含めて「本領安堵」された「青木氏」は、その結果を以って次ぎに「伊勢青木氏」は、「伊勢シンジケート」を構成する「元伊勢衆」の「旧領地の地権」も認めて安堵して「平時の状態」に戻したとある。
もう一人「人物(3)」の「伊勢秀郷流青木氏」(伊賀守 :忠元)の方は、その後、「御家人」と成って、“「立葵紋の青木氏」”として紀州藩に代々仕えた。
この事に付いての詳細は、「青木氏の分布と子孫力の-5、16」等を参照の事。)

もし、豊臣家が記録する“「秀吉の青木氏二氏」“であるとするならば、「除封」も受けている事から、「紀州徳川氏の家臣」には成り得ない。
そして、況して、“「立葵紋の青木氏」”は到底にあり得ない事に成る。

通説化には一般には騙せても、歴史の有知識のある者には隠しても隠せない余りにも無理で多くの「論理矛盾」を起こしている。

(注釈 下記に論じるが、「紀州藩の家臣」は、「伊勢秀郷流青木氏」等を始めとして「伊勢藤氏」と呼ばれる「秀郷一門」をベースにして“「藤氏家臣団」”を「頼宣」は構築した。
そして、この事が「将軍家の嫉妬」に合い「在らぬ謀反説」で大変な事に成った有名な事件に成った位の事である。)

この事でも、「二名の青木氏」(紀州守と伊賀守)が記載されているにも関わらず、「豊臣家の記録」では、「紀伊守の人物」(1 :一矩)だけと成っている。
上記の様な「徳川氏の紀州藩の処置」から観ても、「秀吉家臣説」であればあり得ない事である。

現実には、二名で在り、[豊臣家の記録]に矛盾する。 
もう一人(3)の家臣説から観ても矛盾である。(矛盾25)

明らかに、“「伊勢の本領安堵」の時に、二名が乗じられた事である。
その経緯は次ぎの様に成るだろう。

「搾取偏纂の経緯」 
「秀吉」は、「二名」を家臣化して置いて、内一名(1)を縁籍化した形で家臣の中にその人物を作り上げた。
この「人物の出自」を「伊勢青木氏」から得られず、「出自不明の架空の青木氏」を、それに見合う「権威の誇張」を付帯して作り上げた上で記録化した。
ここまでは「秀吉の功罪」である。(矛盾23まで)

そこで、この「豊臣方の青木氏の人物(1)の娘」とする者を「徳川氏の側室」にした。
この側室は「梅殿」と呼ばれ、「蓮華院」と称したが、この「娘の出自」は、「丹治氏系青木氏」が、人質として差し出した「麻田藩丹治氏系青木氏の娘」である記録がある。
全く違う氏の「徳川方の青木氏」である。

ここからが、通説化為の秀吉信望の歴史家の「後付の説」の矛盾に成る。

ここで、「豊臣家の記録」に“「説明の就かない後付大矛盾」”が生まれたのである。

(A)この人物は「豊臣家の家臣」で、「越前北庄八万石大名」で、「徳川氏から除封」とされている。
(B)この「丹治氏系青木氏」は、逆に、「徳川氏の家臣」で「摂津麻田藩一万石大名」で「徳川氏から俸禄」と成っている。

明らかに史実が混同している。この「矛盾」は、最早、秀吉には問題はない。
明らかに「後付の通説化」を謀った時の「歴史家の矛盾」であり、「福井逃避説」と共に、「故意的な矛盾」と観られる。

この「人物の疑義」には、他に、上記した様に、“「俗名」”が沢山使われている事である。(矛盾26)

本名 -「秀以」、

麻田ルーツの偽名類  ー (一矩、一興、重治、重正)、
通名ルーツの偽名類  ー (勘兵衛、源右衛門)、
俗称ルーツの偽名類  ー (平輔、磨太)、

以上等がある。

前者の「秀以」がこの人物の本当の「俗名」で秀吉の搾取偏纂の結果である人名である。

先ず、次ぎの様に成る。
麻田ルーツの二つ目から五つ目までの四つは、「丹治氏系青木氏」(麻田藩)が使っている「通名」の「混同名」
その後の通名ルーツの二つは、「搾取名」と呼ばれるものである。
その後俗称ルーツの二つは、「騙名」(かたりな)と呼ばれるものである。

以上に分けられるのである。

後ろ四つは、「家柄」をよく見せようとして、非常に良く使われた「江戸初期」か「明治初期」の「騙りの名」の部類で論外である。

この二つの時期には、公然と「搾取偏纂」が行われた。

むしろ、幕府は黙認するどころか、武士と成った者は「権威」を持たない「立身出世の姓氏」である事から、「武士の権威付け」の為に、「知行俸禄」を定める「黒印状」を出す事を前提として、この「偏纂」を半強制した経緯があった。

従って、他にもこの「人物」に群がる様に「騙名」や「偽系譜等」が使われている。

この人物として見せかけて使ったのであるが、少なくとも「自らの出自」を「丹治系青木氏」と、この「秀吉の青木氏」に搾取した事は明らかである。

(注釈 江戸期の寛政、寛永期に書かれた「二つの資料」に記載されている「第三青木氏」と呼ばれる「青木氏」は、この「秀吉の青木氏」と、「麻田藩の藩主」と成った「丹治氏系青木氏」の「二つの出自」が多い。
中に酷いのが有って、この二つに、更に「秀郷流青木氏」と「藤原氏」と「皇族賜姓族青木氏」(二家分)に「江戸期の官位官職」を付けてのやりたい放題の「4つを組み合わせた青木氏」が「地方史書」(下記)に観られる。
その「地方史書」も流石、気が引けたか「注意の特記」をしているものもある。
これらの多くは、室町期以降には、取り分け江戸初期には「神社や寺社の秘密の副業」であった。)

「歴史観のある人」でも、判別が就かないほどに極めて多く酷似するのが、この「騙名」で、これも何れかに矛盾が出る。
この様に「秀吉の青木氏」には「搾取偏纂の俗名」も然ること乍ら“「騙名」”まで使われている。(外 矛盾27)

その「矛盾」の代表は宗派である。
宗派は長い慣習と仕来りと掟があり、「密教と顕教の違い」があり、「密教」でも「古代密教」と「平安密教」の違いがあり、顕教でも大乗仏教との違いもある事からその出自で判る。
「氏族」と「姓族」からでも、判別が可能で有る。
この宗派だけは明治以前では絶対に搾取出来ない。

この「二つの青木氏」であれば、確実に「古代密教」の「浄土宗密教」である。
しかし、一名(人物 1)の者は「浄土真宗」としている。
明らかに「後付の矛盾」である。(矛盾 28)

実は、室町期までは、未だ、「浄土宗」に入信するには、ある「特定の氏」しか入信出来なかった。
「出自分け」していた事から、認めて貰えない「仕来り」であった。
要するに、そもそも、「密教」を前提とし、その氏で寺を独自に自主運営していたのである。

従って、部外者や氏の宗家本家の「認定保障」の無い者には、自らの宗派と出来ない仕組みであった。
この「仕来り」が、江戸初期に密教の禁止令があって、全て「顕教」と成ったが、表向きは別として、依然として「氏族」と「高級武家」は、この慣習を護った。
従って、況して、「出自」もはっきりしないし、「青木氏の保障」が無ければ信徒には成れない仕組みであった。

従って、この氏(「人物 (1)」)が「浄土宗」を宗派とする事は出来なかったのである。
“出来なかったと云う事“は、「伊勢青木氏の出自」と出来なかった事を意味するのである。
つまり、「伊勢青木氏の出自」と認められれば、当時の「宗教社会」は、それを基に「浄土宗」に入信出来る仕組みであった。
つまり、「氏家制度の本家」の「意向の仕来りの所以」である。
平安期-鎌倉期-室町期から江戸期まで「氏家制度中心の社会」であった。

この事は、況や、「伊勢青木氏」は認めなかった事を意味する事に成るのである。

「二つの青木氏」の「361氏」に繋がる者として保障されれば、「浄土宗」に入信できる仕組み、況や「密教」であった。
これが、「氏家制度の所以」なのである。

新しく独立して家を興す末裔は、都度出るが、「宗家本家筋」に認めて貰えれば、その氏の一族一門が運営する菩提寺の「達親」と認められる仕組みであった。
認めて貰えなければ「宗派」のみならず「家紋」も「定住地」も定まらない事になる仕組みである。

この「二つの青木氏」には、奈良期から「青木氏が定住する地域」には「ある菩提寺名」で「青木氏の専用の寺」が建立されていた。(寺名は秘匿とする)
「寺名」が正規に伝承されていて達親族であれば「青木氏」を証明される事に成る。

(注釈 しかし、この仕組みの「密教の浄土宗」は、家康に依って江戸初期に解除され、「密教性の排除」を目的として禁令を発した。
但し、表向きは完全に解除したが、実態は、秀郷一門等の御家人や高級家臣団の事もあって、「高級武家」等が任意に入信出来る「顕教」で「檀家方式で運営する浄土宗」とした。
「一つの寺」に「幾つもの氏姓の檀家」が入る方式としたのである。)

これ以外は、「顕教の浄土真宗」に入信するか、庶民が自由に入信し得る日蓮宗などの宗派に入る事に成るのである。
従って、殆どの武士は真宗に入信しているのであり、下級武士は日蓮宗に、大きな末裔を持たない公家などは、結局、「顕教的密教」を標榜する「天台宗」か「真言宗」に入信する事に成ったのである。(前段の「伝統10」を参照)

この事からも、この「宗派の事」だけは変えられない事から「矛盾」は露出しているのである。

後は、その「偽名」が使われている経緯から、本人外が行った完全な「搾取偏纂の騙名」であると観られるので論外に成るのである。

この「人物(1)」に、これだけの「騙り」が起こる事は、この「人物の出自」が無い事の「架空」から起こっているものであり、全体としても「豊臣家の搾取偏纂」である事を物語る事でもある。

ここでも、この「人物の名」でも“(A)と(B)を強引に結び付けた「後付け矛盾」”が生まれているのである。

(注釈 「丹治氏系青木氏」は、「徳川方」に着き、その功で、「摂津麻田藩1万石」を受けていて、「別系の青木氏」である。
この「青木氏」は、武蔵の土豪集団の連合体の「武蔵七党」の「丹党」から出た「丹治氏」が、平安期に罪を得て朝廷より関東に配流された「丹治彦王」が、「現地の土豪」との間に生まれた「配流孫」だとしている。
「嵯峨期の詔勅」に従い、遅れて「室町期」に名乗りを上げた者で、立身出世を夢見て、一時、「信濃の国衆」と成り、その後、甲斐、美濃を経て、関ヶ原の戦いに参戦、関東武蔵を里としている為に、「徳川方」に味方して「摂津麻田」に「領地1万石」を家康より受ける。
弟に4000石を分けて「武蔵丹治氏系青木氏」と共に「三流の流れ」を作る。
この「磨田藩支流の弟系」には、上記した「秀吉の青木氏」の「伊予土佐の国境」の「青木の村」をこの磨田藩支流に後に下げ渡された。
この「丹治氏系青木氏」が「通名」として、「重、一、矩」が使われている。)

然し乍ら、「搾取人物策」を用いた「豊臣家」は、斯くの如しで「権威」を作り上げようとして、後勘から観ると、矛盾(28)だらけだ。

然し、ところが、反面、同じ「権威の持たない土豪」であった「松平氏・徳川氏」はその対応が異なった。
下記の「青木氏の年譜」にもある様に、既に1605年頃から、数度に渡り「青木氏」と談合していた様で在る。
1620年頃の後には、正式な「勝姫との政略血縁」(立葵紋青木氏)を以って「吊り合いの取れた縁続き」とした。
「正式な権威の獲得」を「青木氏」と成し得たものである。

この後、「伊勢の青木氏」(青木長兵衛 福家)は、この「知行付加」(家臣外の知行)を以って、「紙屋長兵衛の商いのノウハウ」を「紀州藩」と「将軍吉宗」に提供した。
そして、江戸初期から末期まで家臣では無かったが、「紀州藩の勘定指導方の役目」を務めた。
「初代頼宣の時」、「吉宗の時」、「江戸末期の時」の三期には、直接に人を送り出し、実務の「勘定方」を務めた。
「吉宗将軍時」には、「吉宗育親」として、「福家の長男六兵衛」は共に育った経緯から、江戸にも向行して「布衣着用の立場」(直接将軍に面談出来る「大名扱い」)で「享保の改革」を主導した。
この事からも、「徳川氏」は、この“「青木氏との向後の付き合い」“から観て、上記の「秀吉の搾取偏纂」を充分に承知していた事を物語るものである。


では、何故この様な「流れ」に成ったかと云う事であるが、それは次ぎの様な重大な事象が起こったからである。

(注釈 実は、上記の“「今宮神社」“には、「大きな意味」を持っていて、平安初期に「疫病平癒祈願の神社」として各地に創建されたが、「室町期の戦乱」に巻き込まれ衰退し荒廃した。
その為に生き延びる糧として、「全国の社の組織」を使って「シンジケート」を構築して生き延びた。
この事を知っていて政権獲得の時に、この「今宮シンジケート」の世話になった秀吉は、豊臣政権下に、この全国の「今宮神社の再建」を果たし、京に再び「総社本殿」を創建し保護した事は有名である。
そして、その更には「末社」としても、更に、”「若宮神社」“を全国の「天皇家の所縁の地」に創建して、”「皇族者の下族の保護地」“を名目に構築し強化した経緯を持っている。
この時の「今宮神社」は、「秀吉の権勢」を背景に相当な「社勢」を誇った事は有名である。)

(注釈 中部以西で、社勢を示す様に「今宮神社と若宮神社」は有名である。)

これは、「青木氏」の「500社に近い神明社組織」を使った「伊勢シンジケート」の「諜報活動」等に習って、秀吉は「今宮神社-若宮神社の組織」を構築して「諜報活動」の拠点ともしたのである。
この事は、「シンジケートの力」がどれだけのものであるかを「秀吉」は、「青木氏の事」でも「今宮シンジケート」の事でも、承知していた事を示すものである。
その「伊勢シンジケート」を「青木氏」が持ち、有効活用して「自分以上の陰の勢力」をも持っている事を承知して居た事を示すものである。
この事からも、この「秀吉の家臣云々の記録」は、“「矛盾の塊」の様であり、勝手なもので有る事を、秀吉自身が充分に承知していた事“を物語るものであるが判る。

参考として、 実は、「信長-秀吉」の「家臣」と「美濃・尾張」と云うキーワードから研究すると、次ぎの様な資料が「新編美濃志」の記録にある。
真偽は別として、この記録によると、美濃に「青木刑部卿法印浄憲」、或は、 「加賀右衛門尉藤原直重」なる人物が居て、「美濃安八郡青木村」に住し、土岐氏―斉藤氏―信長―秀吉に仕え、大阪城にて戦死したとある。
しかし、 この系譜には、“「出自」が混在し、「時代性」の矛盾がある”としているので、「江戸期の史書の青木氏」とは「異流の青木氏」と記されている。

これから観ると、「官位官職の持てない僧侶」や、「賜姓族の村」や、滅亡した「美濃土岐氏系青木氏」や、あり得ない「美濃の秀郷流青木氏」の末裔や、「北家筋の京藤原氏」や、室町期と江戸期にはあり得ない「二つの官位官職」等、を混合して組み合わせた「青木氏」を作り上げたと観られる。
「秀吉の青木氏の人物」に似せてはいるが別である。
この記録の真偽は「美濃志」そのものが云う様に“疑問”である。
混在が起こる「時代性経緯」から、この郷土史は江戸期初期に偏纂されたもので、この上記した所謂、「秀吉の青木氏」に類似させて家柄をよく見せる為に「偽書と系譜」を作り上げたものである。

上記した様に、各地の郷土史には、この様な「騙名」の様に「系譜」にも「偽譜」が起こっているのである。
「美濃志」が、これだけの「矛盾」が在るのに、“良く載せたものだ”と「地方史書」そのものにも驚くがこれが現実なのである。
それだけに地方に「歴史の所縁」を作りたかったのであろう。

この地方史や郷土史の編集期の江戸末期にも、これは”「氏家の家柄搾取」”から”「地域の地柄搾取」”も起こって居た事を示す事例である。

(注釈 「青木氏」と「同族血縁族の近江佐々木氏」の「傍系末裔の黒田氏」も、元は「近江佐々木氏の傍系末孫」で、「青木氏」の「祖先神の神明社」の「御師役の立場」にあった。
この「神明社」をベースとする「伊勢シンジケートの組織」を使って「独自の諜報活動」をした事も有名である。
その「黒田氏」を家臣としていた「秀吉」であれば尚更の事で、「青木氏と伊勢シンジケート」の事は充分に承知していた事に成る。 
更には、事前知識として、「南北朝の戦い」(赤坂千早村の山城戦い)で「多勢の幕府軍」が「伊勢河内シンジケートゲリラ戦」で餓死し敗走した事は、直前の歴史として、「秀吉」のみならず「信長」も事前に「歴史的な史実」として知っていた筈でもある。)

(注釈 「赤坂楠木氏」は「伊勢河内シンジケート」の一員で、「河内-伊勢-今宮」までの「三シンジケートの連合体」を構成して対抗した戦歴を持っている。)

その為に、「秀吉」は全て承知していたとすれば、「不承知の信長」生存中は、強力な連合組織から成る「伊勢シンジケート」を持つ「青木氏」の事は知っていたと考えるのが普通ではないか考えられる。
この「伊勢三乱 五戦」には、全て「合力」し、全て、「伊勢シンジケート」を前面に押し出しての「ゲリラ戦」で応じていたこの事に付いては、この「戦況」の成り行きに付いては、秀吉は、“非常に懸念していた事”であったと考えられる。


話しを元に戻して、

”1581年の末当初に「秀吉の紹介」で、「一名の青木氏」なる者が、「信長]に面会している。”

以上を論じた。

この結論として、上記した”「信長との面談の青木氏」”の人物は、誰かと云う事に成る。

上記した「秀吉の青木氏」論から、”逆説的”に検証すると、「人物(1)」は、「人物(2)」の「信定」であった事に成る。

何故、この様な「秀吉配慮」をしたのかと云う問題である。

そうなると、“「二つのシンジケートの連合組織」の「協力体制」”を得ていた時期があった。
その、「本能寺直前」の時期に「秀吉」は、この事を知らしめて、何とか「信長」にこの「伊勢青木氏」の「人物(2)」と合わせて、速やかに“「事態収拾」“を図ろうとした行為と先ずは考えられる。
即ち、「高松攻め」の「膠着状態」の時に「秀吉」は、再三に「信長」の元を訪れている。
つまり、通説では、「信長」に依る武田氏滅亡の直後に、「毛利討伐」に出陣依頼しているのである。
もし、この通説通りとして、この為にも 伊勢域での“「ゲリラ戦の長期化の伊勢」”を何とか解決しなくてはならない。
背後が危険と成るし、二兎は到底負えない現状であった。
依って、この時に「信長-青木氏面談」(1581年末頃 「青木氏の記録」では、1582年初と成る)を図ったと観られる。

そもそも、「青木氏」に降りかかった”「秀吉の青木氏」の事件”は、「伊勢国の事(紀州討伐)」が一段落して、その後の「豊臣政権樹立」に際し、この時の「所縁」を通じて「人物(1)」を用いて「秀吉の青木氏」を発祥させようとした事に依る。

この時の「秀吉紹介」に依る「信長面談」(信長-青木氏面談)には、次ぎの説が浮かぶ。
第1説の「人物(1)」で応じたのか、
第2説の「人物(2)」(信定)で応じたのか

第1説か第2説かは何れにしても”信長を納得させられる「面談理由」”が必要である。

この時は未だ、「秀吉の青木氏」は無い。
従って、実態は、「人物(1)」=「人物(2)」であるのだが、「青木氏」の”「信長面談」”には、”「何らかの工作」”をした事が「状況証拠」から充分に考察される。
その”何にか”が判らない。”判らない”と云うよりは、”確定できない”と云う事である。

考えられる事として、”信長の印象”を和らげる為に、”「秀吉の遠縁仕立て」の「人物(1)」で会した”と云うものである。

実は、「青木氏年譜(下記)」から次ぎの様な事が読み取れる事が出来る。
それは、”この時から、秀吉は「秀吉の青木氏」”を考えていた節が有る。
そもそも、秀吉は、「青木氏の存在」を「蜂須賀小六の配下」であった頃に「今宮シンジケート」の組織の中でいた事から、「シンジケートの横の繫がり」から接触が在った。
何故ならば、「今宮シンジケート」と「伊勢シンジケート」が連携していた時期がこの時期であった。
その為に「青木氏の存在」とその詳細を知り得た筈である。
当然に、それに合わせて「神明社との関係」もそれを通じて知っていた事は充分に考えられる。

「伊勢シンジケート」と「神明社組織」の「二つの組織の頭]、つまり、「御師」の「二つの伊勢青木氏」と「信濃青木氏」が背後にいる事は充分に知っていたと考えられる。
知っていたからこそ、「鉄砲入手」の為には、「信長」に「今宮シンジケート」を紹介した記録があるのである。

この「シンジケートの存在」の「紹介記録」そのものが、「秀吉」の「青木氏の存在」」をも認知して居た事を証明するものである。

立身出世して行く秀吉に執っては、この時から”「出自誇張」”が必要である事は痛感していた筈である。
その「最高のシナリオ」は、この「シンジケートの青木氏」であった筈で、「出自の誇張」に選んだと観られる。

「青木氏」が持つ「悠久の伝統」と「家柄格式」と「民からの信頼」に繋がる事は、周囲に対して「武の権威」では得られない”「温厚な権威」”を獲得する事に成り得る。
「天皇家や公家や藤原氏」が持つ”「優雅で気高い権威」”とは異なる”「温厚な権威」”をこの時期の秀吉には好んだと観られる。
現実に、「天皇の落胤」「公家の姻戚」「藤原氏の末裔」の三出自は、後に「偽系譜」で搾取している事は有名である。
故に、太閤官位を奪取出来た所以でもある。
従って、何も青木氏との血縁関係を持つ必要は何も無く、要は「青木氏の氏名」を使えれば良い筈であった。
その”「青木氏の出自」が何処であるか”は系譜上に記載する等の必要性も関係が無い事に成る。
それが、上記した「長嶋の戦い」から始まって6度に渡る「青木氏との親交」の中から、「定信の青木氏」をモデルに自らが名乗るのではなく、一族の中に「ダミー青木氏」を創り上げられれば「出自誇張の目的」は達成されるのである。

(注釈 現実に、この”「ダミー青木氏」(遠縁の家臣)”を作り上げて、表向きには「北の庄8万石と紀伊守」を与えて置いて、「伊予今治南部」(青木の里)に小さな所領(寺二つ分程度の敷地)を与えている。1600年の「徳川除封処置」で「里」共々飛散した。)

これは、”「出自誇張」”のみならず、下記した様に、”「シンジケート確保の魅力」”にも「大きな興味」を持っていた筈である。

故に、「豊臣政権樹立」後に、「自らの守護神」として先ず「今宮神社」を全国に再興して「自らの守護神」であるかの様に保護した事は有名である。
そして、その「シンジケート」をも保護し、その「下部組織」として全国に「若宮神社組織」までを作り上げた。
「青木氏の神明社」の様に、「情報収集源」として大いに利用した事は「誰もが知る歴史記録」の示すところである。
中でも、この”「若宮神社」”には、多くの貴族を取り込み抱え込み保護して、如何にもルーツであるかの様に「見せ掛けの出自誇張」にも利用した。

明らかに、この時の「信長面談時頃」から「伊勢シンジケート連携」と「出自誇張の氏」として近づいていたと考えられる。

「青木氏」の「信長面談」に至るまでの「事前工作」では、どの様にして「青木氏と接触」を果たしたのかの疑問がある。

これは、実は「蒲生氏郷の記録」にある。
「蒲生氏郷」は、「伊勢の乱の指揮官」であった事から「伊勢の乱」に付いての「秀吉とのやり取り」が遺されている。
恐らくは、この時に、同族である「蒲生氏郷」から「青木氏」にコンタクトがあった事が伺える。
では、”「蒲生氏郷からのお膳立て」かとする”発想も考えられない事は無い。
然し、絶対に「信長面談のお膳立て」は出来ない。
それは指揮官と同族と云う立場が邪魔をして、「信長」に良い印象を与える事は無い。
「怠惰、身贔屓」と受け取られる事は間違いは無い。口を避けても云えない。
そうすると、「楽市楽座」を「引き合い」に出して、「秀吉」が考えて紹介した事に成る。


この時は、未だ無かった。「秀吉と青木氏の直接接触」は、1573年「第二次長嶋の戦い 9/26」が最初である。
「青木氏側」は、この「戦い」で出城建築の為に必要とする「材木」を「買い占め」した事で「掛け合い」に成った事があったが、これが最初である。
「青木氏の材木買い占め」に対抗して、「秀吉」は窮地に陥り、結局、兵が吉野より材木切り出して吉野谷から流して対抗した記録が遺っている。

(注釈 「青木氏の記録」にも在り、敵対はしたが既に認知している関係にはあった。)

以後7年間の「秀吉との接触関係」に付いては「商記録の資料」に次ぎの様な事が書かれている。
1580年頃に「紀州討伐」と「備中廻船」の2件記述が確実に発見出来る。
明らかに「接触があった事」を物語る。
(参考 他に2件関係あるのではと観られる「不明な記述」も在る。)
ところで、この2件はどの様な接触であったのかを調べた。

「紀州討伐」では、「伊勢-紀州」の最後の「始末掃討戦」であった。
「南紀州」には、「青木氏の遠祖地」(和紙楮生産地)が多くあり、「秀吉」と決着を就けた事が「別の資料」に詳細に記録されている。

(参考 「別の資料」とは、「伊勢青木氏」と関係の深かった「伊勢衆」の主家に「青木氏の手紙」が遺されていた。
この中の一節に書かれている内容である。「伊勢衆」と談合している事は「青木氏年譜」でも判るが、この時の結果を連絡して合意を求めている手紙である。)

「備中廻船」(1581年)は、直接表現は無いが「商記録の記述」から「備中攻め」の「資材搬送」であった。

1568年の「第二次長嶋戦い」では、「商いの形」では「伊勢国衆」に対し「合力の約束」を果たした。
「青木氏」として「表向き」には、織田勢とは敵対はしていないが、明らかに「商いの形」では敵対はしている。
堺店から長兵衛が、織田軍から資材調達を請け負い、伊勢に戦いが続いていた事を背景に高騰を理由に圧力を掛け続けた事が記録されている。
当然に「秀吉」ならば「青木氏の二つの顔」は経験者で知っている。

然し、その後に和解している。何故、和解に成ったのか不思議である。
「二つの顔」は知っている「秀吉」が、”何故に和解に応じたか”は解決しておかねばならない疑問である。
明らかに、秀吉側に何らかの「メリット」があった事に成る。
つまり、その「メリット」が判れば「和解の疑問」は解ける。

それは、上記した様に、”「出自誇張」”のみならず”「シンジケート確保の魅力」”に有ったからで在る。
其れを物語る事は下記に示す”「紀州討伐」”でも明らかに成っている。
「青木氏」としても、「秀吉の出自誇張」は、この時から感じ執っていた事を物語る。
直接、間接に関わらず、「何らか縁組」などの話があったのかの詳細は未だ判らない。
記録の資料が出るとすれば、恐らくは、「伊勢郷士」か「伊勢衆」からであるが資料がまだ見つからない。

この「秀吉側から観た和解」は、「青木氏の四家問題」となった数年後に発生した”「秀吉の青木氏」”以外には無い。

両者から観ると、次ぎの事が「和解の主因」であろう。
この「紀州討伐」は、1577年から1585年までの間に行われた三期に分かれたが、主に”「門徒衆の一揆掃討作戦」”であった。
相当に色々な複雑な勢力が入り組んでの反抗であって、その「掃討作戦」であった。
概して、一般には当時は、「門徒衆一揆の掃討作戦」と位置付けられた。

(注釈 伊勢紀州域では少なくともその様に観られていたのである。「紀州」では,これを「門徒一揆」と呼ばれていた。
その後、昭和20年頃までの浄土真宗の家筋を普通は、「真宗」と呼称される事が多いが、紀州では「特別な意味合い」を込めた呼称で”「門徒」”と呼ばれる様になった。)

この反抗は、「石山本願寺の影響」を受けた事が原因で、昔からある「独特の紀州気質」が表に出て来たとされている。
それは、「伊勢気質」と同様に、”「独立性」が強い気質”に有った。

この「門徒衆」の主の「石山本願寺の顕如」は、「自らが始めた戦い」から早々に勝手に身の危険から引いてしまった。
足元をすくわれた「門徒の紀州人」は怒って、この「紀州気質」を出して「反抗姿勢」を採った事が原因していた。
依って、その立場立場で”反抗”は複雑を極めたのである。

この「反抗した勢力」は「門徒衆に関係する反抗」であった事から”「門徒一揆」”と地元ではそう呼ばれていた。
これを整理すると、次ぎの様に整理される。

この「反抗地域」では、「北紀州」と「南紀州」に分けられる。
この「反抗内容」では、「織田氏への反抗勢力」と「門徒衆の生活不満勢力」に分けられる。
この「反抗勢力」では、更に「宗教武装集団」と「国人の武装集団」に分けられる。
この「国人武装勢集団」は「領国化」と「独立覇権」を狙った勢力に分けられる。
ところが、「反抗集団の指導者」を除き、全て「隠れ門徒」も含めて「門徒衆」が主で動いた。


「北紀州の掃討作戦」は次の通りである。
雑賀衆を中心とする反抗勢力、
畠山氏の領国化勢力、
高野山衆の反抗勢力、
根来衆と雑賀衆の傭兵軍団の反抗勢力、

「南紀州の掃討作戦」は次の通りである。
南紀州の農民の門徒衆一揆

これらは複雑に入り組んでいて、各勢力の反抗明文も多様であったが、「根底の共通点」は、矢張り、「門徒衆」であった。
ところが、「反抗集団の指導者の思惑」は、別にあり、要するに、”門徒”を利用して「反抗の勢力」を大きくしたのである。

「武装反抗勢力」の「雑賀衆,根来衆、畠山衆、高野山衆」は、当初は「信長」に傭兵軍団(鉄砲)として雇われ、「信長」の「天下の路」に大きく貢献した程のものであった。
然し、「石山の戦い」から波及しての「門徒衆」であった事から、1576年末頃から内部分裂で反抗し始めた。
(第一段階)

この混乱(1584年頃)を利用して「国衆」の「畠山氏」は、「独立性気質の意識」を表に出して混乱に乗じて紀州を「領国化」し始めた事が発端で、「家臣の門徒衆」もこれを利用して反抗した。
(第三段階)

第二段階となった「南紀州」は、「青木氏の遠祖地」であり、「和紙楮生産地」の南紀で散発する「門徒衆の最終掃討作戦」であった。
この為に、「青木氏」は民の一揆の「経済的な支援」をしていた事から、責任者の立場上、”ある条件”を下に、この何れにも利益の無い一揆を収束させる目的から「秀吉」と話し合った。
この事から、早期に一揆を収束させたが、この時(1580年)から「秀吉」と親交を深めた事に成っている。
この時は「伊勢青木氏の顔(信定)」と「紙屋長兵衛の顔」の「二つの顔」での面談であった。
この事が確かにより「秀吉と親交」を高めた事が「郷士の内資料」から伺える。
又、その後の「伊勢での青木氏に対する厚遇」でも充分に判る。

この第二段階の「青木氏との収束策(”ある条件”)」が、第三段階までの「全門徒衆」の一揆に大きく影響を与え収束した。

(注釈 「紙屋長兵衛」は、全力を挙げてこの「全門徒衆の経済的不満”「ある条件」”」を解決する策を講じたことが「郷士衆と国衆」の「家に遺された手紙」に遺されている。)

この時の「門徒衆との約束」として、多くの事(”「ある条件」”)が実行された事が記録されている。

主にその”「ある条件」”とは、次ぎの「四事業」と成っている。

その「約束一つ」として、”「家内生産」”が出来る様にと、”「各種の紙箱や紙袋」等の殖産”を進めた事が「青木氏の記録」や「郷土史」にも地域貢献した事が記載されている。
昭和20年代まで、「北伊勢の特産品」であった。

その「約束二つ」として、この室町期末期の時から、新たに、どの立場の門徒衆も家内工業的に出来る「櫨の実(ナナカマド・ハゼ科)」から作る「ローソク」の生産にも入った事が「商記録」を辿ると記述されているし、「口伝」にも「他記録」にもある。

その「約束三つ」として、「信濃青木氏」から「養蚕技術」を四家の者が留学して学び、その「養蚕と布衣品の生産」も伊勢紀州域に広めたと「伊勢の郷土史」と「商記録」にも口伝にも記されている。

”「ある条件」”の極めつけは、「約束四つ」として、室町期には、未だ「早場米」は無かった。
ところが、「門徒衆の農民」の為に、「青木氏の莫大な私財」を投入して研究して何とか「早場米」を作り上げる事に日本で最初に成功した。
この事に付いては、「郷土史」には詳細に記載されている。
この「早場米」は、「早稲光」、或は、「光稲」と呼ばれていて、「青木氏四家」の「光三郎」の「先祖名」が付けられて呼ばれいて、その後、全国的にこの、「早稲光」、或は、「光稲」は「全国の青木氏」を通じて広まった事が郷土史にも記録されている。
この事で、「伊勢紀州の門徒衆」のみならず「伊勢紀州の農民」からも大いに尊敬され、昭和初期まで「尊農家」としても郷土史にも記録されていた。

以上、「第二段階の約束」として、「和紙楮殖産の拡大」は元より、上記の「四事業」を私財を投じて実行した。
旧来より「御師様」「氏上様」と崇められていたが、更に「門徒衆」からも神の様に崇められ、不満は一掃されて納まったと記述されている。

(注釈 昭和30年頃まで「蝋燭の生産」は「紀州特産品」であった。
衰退した現在も紀伊山脈の山にはこの樹木が多く遺っていて、秋山は当に赤黄で一色である。)

(注釈 現在でも「北紀州域(奈良域から堺や若山までの地域)」には、「紙箱などの紙製品の特産品地域」として遺っている。
その中には、この時に最初に商人に転身した「門徒武士」の家筋の500年以上にもなる「紙箱の老舗」が現在も顕在して生産している。)

この流れに沿って、遂には、これを観た多くの「門徒武士」からも、雪崩を切る様に積極的に”「商人の路」”へと「転身」をした。
これの「受け皿」と成って彼等を導いたのである。
そして、「青木氏」は、彼らに「商いのイロハ」から教え、独立させて、この「四事業」を専門に扱う多くの「射和商人」に育って上げたのである。
そして、育った彼等の「四事業」に携わった人々を「商業組合」に入れて保護したのである。

そこで、筆者は、この「四事業」を成功裏に導く為に、前段で論じた様に、「伊勢松阪」にその「自由な商業組合」を主に創設した、と観ている。
「四事業の事業種」も然ること乍ら、「武士、民、農民」等の各層からの人々、「自由な立場」での参画、「生産から販売」までの「仕事の内容」を様々にも持つ事から、”「自由」”をモットーに組合を構成する必要に迫られたと観られる。
更には、恐らくは、「秀吉」手引きの「信長面談」での「楽市楽座の約束」でもあった事と考え合わせていて、”「伊勢復興の策」”としてこの新しい形の「商業組合組織」を構築したと判断している。

この「趣旨の事」を書いた「青木氏四家」から”「郷士頭」”に宛てた手紙も発見されている。

当初は、「会合衆」の組合として、伊勢松阪で発足させた形跡(青木氏の資料)があった。
ところが、「紀州討伐での影響」で、この「四事業」が思わぬ方向へと発展した事から、「伊勢の会合衆」の考え方から「伊勢の自由商業組合」へと舵を切ったと考えられる。
何れも「大商人だけの会の会合衆」の組織では、最早、成り立たなく成り、そこで「発想の転換」から、彼等を救う為にも上記の云う「全階層」の「自由商いの組合」の組織に変更したのである。
兎にも角にも、何れも「日本で最初である組織」と成ったのである。

実は、上記で、”「門徒衆論」”の中で、”「郷士頭」”と書いたが、この「郷士衆」(郷士頭)が、この「紀州討伐」と「四事業の推進」に大いに関わっていたのである。
決して、本論を解くときに見逃してはならない一点である。
唯、「伊勢紀州域」の「門徒衆論」に、「郷士衆論」の「絡み」を解くのが難しいのである。
(実は、当初、試みたが失敗した。整理して挑戦した。)

この組織以外にも、「青木氏」は、「青木氏」と共に「悠久の歴史」を労苦を共にして築いてきた「伊勢域と紀州域と奈良域」に存在した「20の郷士衆」との「連合組織」も新たに”結成している”のである。
”結成している”と云うよりは、「時代の変化」とこの「状況の変化」に合わせて、”結成し直した”と云う方が正しいだろう。

この組織は、遺された記録には、”「伊勢郷士衆」(「18郷士衆」)”と記載されていて、その原型は、「和紙殖産商い」を始めた925年頃の平安期から始まっている。
鎌倉期を経由して室町期の「紙文化」と成った頃からは、以前の「助合組織の郷士衆」から、「運命共同体組織の郷士衆」へと変身しているのである。
資料からは、前段でも論じたが、平安期から「20の郷士衆」から伊勢紀州域は成り立っていたが、前段でも論じた様に、「伊賀の乱」で「二郷士」が「裏切り行為」をした事から「18郷士衆」と成った。
この「18郷士衆」(中には「18人衆」と記録した資料もある)に「郷士頭」を置いて、一切を取りまとめていた事に成っている。
この「郷士頭」は、「持ち回り制」を採用していた様で、「郷士頭名」が資料年代で異なっている。

資料から観ると、この「郷士頭」と「青木氏」が互いに「縦の連絡」を取り合っていた様である。
然し、かと云って、時々、「頭外の郷士」との「やり取り」も観られるので、ある程度の「専門担当」を決めていたと観られる。
それを「郷士頭」が全般を取り仕切っていた組織に成る。

その前に、この「18郷士衆」と「青木氏四家」との関係に付いてもう一度論じて置く。
「青木氏四家制度」は、「三つの発祥源」と「賜姓五役」と「国策氏」と{皇族賜姓族}の家筋を護る為に、「純血性」を前提として、この「四家制度」を平安期初期の直前に敷いた。
この時、「四家の福家」から観て「孫域」までを「子供」として扱い、娘の嫁ぎ先の子供(孫)を「正式な跡目権利」を与えて、幼少期から引き取って育てると云う制度を敷いていた。
この「娘の嫁ぎ先」が、元々は、「伊勢紀州の20の郷士衆」であった。

従って、この「四家制度」が続く限りは、「「伊勢紀州の20の郷士衆」には、時代毎に「古い縁籍筋」から「新しい縁籍筋」の関係が出来上がる事に成る。
「古い縁籍筋」が「新しい縁籍筋」に成り得る事は、{四家制度}が「代替わり」する度に当然に起こり得る。
「伊勢紀州の20の郷士衆」の限られた範囲の中では、この縁籍関係は繰り返される事に成る。

この時、「超大地主の青木氏四家」から「20の四家」から嫁ぐ娘に対して「地権」を持たして嫁がせる事に成る。
逆に、「嫁ぎ先の孫」が「20の四家の跡目」に成る事も起こる事から、これを繰り返す事に依って、この「郷士衆の地権」は「重層化した地権」が起こる事に成る。
この「郷士衆の地権」では、その「地の殖産」を「仕事」として担う事に成る。

「青木氏四家」には、”「20の四家」”が生まれるが、「四家の地権」の範囲で、それには「四家に与えられた仕事」を直接担う事に成る。
この「下部組織」として「20の郷士衆」の与えられた「郷士の地権」の範囲で、「仕事」が熟される。
この「地権の範囲での仕事」は、その「仕事」に従事する「民までの差配」に「責任」を負う事に成る。

つまり、「青木氏四家」には、結局、「40の仕事」が、「四家地権」と「郷士地権」で動く事に成る。
但し、「20の郷士衆」の家筋範囲の事は、「青木氏四家」は関知しない。
その「郷士地権の範囲」の経済力で「子孫」は拡大する事に成る。

この自由を持つ「20の郷士衆」の「20系譜」から、「青木氏四家」に「新しい血筋」が入る事で「純血の弊害」を無くしていたのである。
従って、「時代の変化」と「四家の変化」で、「20の郷士衆」の「地権」には差が出て来る事に成る。
従って、この「20の郷士衆」に執っては、「青木氏四家との関わり具合」の如何は「男女の子孫」を如何に増やすかに関わって居た事に成る。
且つ、その発展は「四家からの娘嫁」にも大いに関わる事に成っていた。

この背景にある「20の郷士衆」は、その為には当然に、「紀州伊勢域」の「他家の家臣」と成っている「門徒衆武士」との血縁関係も大いに持つ事に成る。

前段で論じた様に、「20の郷士衆」が、「伊賀の乱」で合力したのは、主にこの「伊賀氏との血縁関係」が深かった事にあった事を物語る。
故に、「伊賀氏」が窮地に陥った時に、青木氏は約禁を破ってでも、「織田氏攻撃」に対してはそれまでは「中立姿勢」を保っていたが、「名張の清蓮寺城」から突然に「側面攻撃」で虚を突き一時を稼ぎ、この合力した「18の郷士衆」を”深夜に救い出す”と云う「離れ危険技」を遣ってのけたのである。
然し、織田軍は、この「二つの青木氏」に対しても、「18の郷士衆」に対しても、一切の「報復処置」は採らなかったのである。
「一切お構いなし」と成っている。

更には、「各地に離散した伊賀者追討」と「1年後に伊賀帰参者討伐」も「不問処置」としたのである。
「一切お構いなし」も「不問処置」になる理由は何も無い。
あるとすれば、つまり、これは上記した様に、「秀吉手引きによる信長面談」の「約束事にあった事」を物語るものである。

前段でも論じた「18の郷士衆の救い出し作戦」の根底には、「青木氏との深い繋がり」の所以があったのである。
この「18の郷士衆」の「伊賀合力」に対しては、上記した様に、「二つの青木氏」とは「運命共同体、一心同体の関係」にあった事から放置出来なかったのである。

従って、上記した「門徒衆の裏工作での説得」が、「20の個々の郷士」で、その「伊賀合力」に観られる様に、その「広い血縁関係」を利用して「懸命な説得」が行われたのであるし、この説得が効を奏した事に成ったのである。
そして、今度は、救出された2年後には「18の郷士衆」は、「青木氏援護」の下に立ち直り、何と「門徒衆救出」に出たのである。

この「門徒衆救出作戦」には、この「門徒衆の武家」と違って、「20郷士衆の武家」側には、「青木氏からの地権基盤」(経済的基盤)を持っていた事から、この「説得」には、暫定処置を講じて一時保護して説得を行い易い力が備わっていた事に成る。
そこに、「青木氏四家」からの「四事業の裏付け」があれば、「門徒衆武士」としても納得に応じ易い事に成る。
其の侭では、「秀吉」に殲滅される宿命があったとすれば、「20の郷士衆」との関係を持つ「門徒衆武士」は全て応じた様に記録から読み取れる。


これを観た血縁の持たない関係の無い「門徒衆武士」も説得に応じて来て、救助した事が判って居る。

この「紀州討伐」では、実は「門徒衆」と裏で折衝していたのは、この「18の郷士衆」(20から2氏脱退で正式には18に変化)であった。
この「紀州討伐」の時の「青木氏」が、この時、この「郷士頭」(前田氏)との「手紙のやり取り」(他一通)をしていて、これが詳細に遺っているのである。

(注釈 「2氏脱退」は「伊賀の乱の裏切り行為」、つまり、「織田軍道案内」からであるが、脱退は青木氏として容認した。
然し、その「2氏の地権」は青木氏に戻る事から、「青木氏の娘嫁先」のその子孫を保護して続けさせた事に成っている。
この「脱退2氏の跡目」は外したが、跡目が育つまでの間4年間は不籍にして維持させた事に成っている。
この「離反行為の2氏」には、「娘嫁関係」が暫く途絶えていて不満があった事が記されている。
昔は「郷士頭」も務めた家筋であったが、「地権」も小さく成り織田側に付いて「一挙逆転」を狙った事に成っている。)

この時、要するに、”「門徒衆組織」”を影で収めたのは、この”「18の郷士衆組織」”なのである。
実は、ここで、前段の補足として、論じて置く事が在って、それは「二つの青木氏」の”「御師制度」”である。

この「青木氏に関わる職能集団」の「御師制度」には、次ぎの「二つの組織」があった。
A 青木氏の内部に持つ職能集団-「内御師制度」
B 青木氏の外部に持つ職能集団-「外御師制度」

実は、全青木氏は、この二つの制度で構成されていたのである。今までは主に「内御師制度」の中味に付いて論じていたが、「外御師制度」もあったのである。
前段で、「青木氏の総陣容」は、「88700人」としてその規模を数値にして見て論じて来たが、これには、「外御師制度」を加えての論では無かった。
何故、論じなかったのかと云うと、下記で論じるが「外御師制度」は、この”「20の郷士衆」”に「差配」を委ねていた事による為で「別枠の論」として敢えてここで論じる。
「娘嫁先」と「地権」と「郷士頭」と「職能」と「民の集団」と云う「特別の論点」が別にあった事から、外の関係性が強く影響する事から、論が複雑に成る事を避けて、「郷士関係」の処で論じる事としていた。

(現実には、論じたが、モニターの方から”複雑すぎる”と云うNGが出て失敗した。”複雑”も然ること乍ら”詳細”過ぎる事もあって相当割愛した。ここから次ぎの「18の論」へと分別して随時に論じる事とする。)

さて、上記Aに付いては前々段で瑠々に論じた「神明社」などを始めとする「四家」が受け持つ”「内御師」”である。
そこで、問題なのは、このBの「外御師」の「御師制度」は何であったのかは敢えて論じなかった。

この「外御師制度」とは、実は、この「20の郷士衆」の事である。

「20の郷士衆」は上記した様に、「郷士頭」を置いて、その「20の郷士衆」の「地権の範囲」で行う仕事に従事する「民の職能集団」を差配していた。
この職能には、和紙に生産する漉職人、楮を生産する楮職人、紙製品を生産する紙職人、材木を生産する木職人、木製品を作る工職人、農製品を作る農職人等、資料から観ると、凡そ32の職人の集団から構成していた。
これらを差配するのが、要するに、地権の範囲で担当するのが「20の郷士衆」であったのである。
つまり、「20郷士衆」=「外御師」であった。
「地権の範囲」で耕作する農民も商人も含めて「民の職能集団」の「外御師」の中に全て置かれていた。

それぞれの職能には「外御師」の「御師頭」が置かれていて、その「御師頭」がこの「20郷士衆」が務めていた。
「御師頭」=「20の各郷士衆」で、この「御師頭」達を「郷士頭」が差配していたのである。

要するに、この組織は、「各職人のまとめ役」=「御師頭」=「職能集団の組合長」=「各郷士衆」 「各郷士衆の理事長」=「郷士頭」と云う構図に成っていた。

そして、この「郷士頭」は、「娘嫁先の20の郷士衆」の中で、次ぎの条件で選ばれていた様である。

最も青木氏との血縁度が高い事
最近の娘嫁の郷士の家筋である事
地権範囲と職能種を多く持つ家筋の事

以上のこの「三つの条件」に適う「郷士の家」から選ばれていた様である。

「外御師の職能種」が32程度にも及んでいた事から、「20の郷士衆」の範囲では、複数の職能を持つ家筋も起こっていた。
ここに、上記の「四事業種」の職能が加算されたのである。
この「四事業」から「職能種」は10程度は増える事に成り、1郷士は平均で2つの職能種を持つ事に成ったと観られる。

当然に、「外御師制度」を拡充して、この「20の郷士衆」で管理差配して行くことに成る。
従って、これに見合う「地権」が必要と成り、それを上記した様に、「本領安堵策」を用いて「青木氏の旧領地」が「秀吉」に依って加算加増された所以なのである。


この様に、伊勢に遺る資料から観ると、この「門徒衆」等が集まる新しい商いの組織の”「自由な商業組合」”の結成に付いては、この「18の郷士衆」と「青木氏」を中心に連携を採っていた事に成る。
この「門徒衆」などで構成された「自由な商業組合」は、「20の四家」(内御師制度)と「20の郷士衆」(外御師制度)に依って支えられ続けたのである。
故に、明治期 大正期に成っても遺ったのである。

「伊勢商人」の中に「新しい商業組合」が構築され、その下にこれらの「青木氏」が始めた”「四事業」”を専門に扱う”「射和商人」”を専門に育てたのである。
要するに、「計画(四家)から生産(郷士衆)そして販売(門徒衆)までの組織」を一連にして確立したのである。

「門徒衆」の多い「南紀州」には、「紙文化と云われる室町文化」と相まって、「北紀州地域の紙製品の殖産化」で、「紙文化」が一挙に進んだ事から「和紙の原料」と成る「南紀州での楮の増産」をも大いに進んだ事が記載されていて、我家の口伝にも伝わっている。

(参考 筆者幼少の頃、父に連れられて、南紀州の「和紙楮殖産」を営む「門徒衆の伊藤分家」に長く滞在宿泊した事があり、その生活雰囲気は今でも脳裏に蘇るし、又、「北紀州の紙製品」の「老舗の岡氏」等を始めとして、「古参門徒衆の家」や「古参郷士衆の家」の様子も、現在は代替わりで親交が途切れている「幼少期の記憶」がある。)

この為に殆どの「門徒武士」を含む「一般の民」の一揆は早期に収束した。
つまり、背後に「18の郷士衆」が存在していた事から収まりが着いたのではと考えている。
だから、盛んに”「郷士頭との手紙のやり取り」”をしていたと考えられる。
これは、取り分け、農民や民は兎も角も、「武装集団」と絡んでいる「門徒武士の説得」に苦労した事を物語る事に成る。
これには、日頃から「伊勢紀州武士」として行動する立場と絡から、「郷士衆の説得」がこの問題の解決に絶対的に必要であった事に成る。
故に、「説得」が、「彼らの矛を収める」だけでは無く、「転身」と云うところにまで突き進んだ事に動いたと云う事であろう。

「武力集団」側も、流石、この「門徒の家臣」の離反に驚いたは勿論の事、制裁をも加えられなかったのであろう。
本来なら、命に関わる離反転身である。勿論、説得する郷士側も危ない。
「門徒衆の家族」や「郷士衆の家族」も護らねばならない。
何せ相手は「プロの傭兵軍団」「忍者軍団」である。
相当に用意周到にして、”「手出し」は無いだろう”とする事を承知確認の上で、「説得」に掛かった事が記述されている。

この「制裁」に出られなかったのは、「戦域」を拡げると背後に「青木氏と18郷士衆」が持つ「伊勢シンジケート」の「同質同格の勢力」が控えていた事にあったからである。
この時、既に伊賀は滅亡し、浪人と成って各地に離散していた伊賀者は、「20の郷士衆」の手引きで、1年程度で伊賀に戻り、「伊勢シンジケート」の組織の中に加えられて保護されていたのである。
ところが、歴史では、”「離散した伊賀者」は再び集まって反抗を続けた”と成っているが、個々に集まって来たとしても、「生活の糧の補償」が無ければ、反抗など成し得ない筈である。
その「補償の裏付け」が、「20の郷士衆」が手引きして、「外御師集団の警護役」として補償としたと記録されているので、間違いは無い。

筆者は、この資料から、”「20の郷士衆」”の「郷士頭」が中心に成って下記の理由で呼び寄せたと観ている。

「青木氏の関係族」から見つかった「二つの資料」では、上記の「絡み」から「20の郷士衆」の「御師集団」に夫々組み込まれ、「職人を警護する職能」として働き、いざと云う時には、「伊勢シンジケート」の中でも働いて「糧」を得ると云う形式を採っていた模様である事が判る。
”「警護」”と云う「一つの職能集団」を、「青木氏]の中で形成していた様で、「軍」とは別の意味で、あくまでも「外御師組織」の一種の自治的な「警察機構的な組織体」を作っていたと観られる。
この「伊賀衆」等から成る”「警護職能集団」”が、「門徒衆の家族」や「郷士衆の家族」等を護っていた事が記述されいる。

「伊賀衆」を助けて保護し、その直ぐ3年後には、今度は「門徒衆救護」に出たのである。
「青木氏」が出した「郷士頭」の手紙の中には、「門徒衆救護」の為に、早急な手配方を「郷士頭」に依頼している事も書き込まれている。
如何に緊迫した中で、行われていたかが判る。

「郷士頭」は、「伊賀衆」と「門徒衆」と立て続けに救護したのであるから、如何に大変な仕事であったかは判る。
「伊賀衆」は、同じ助けられた者として「門徒衆救護」には大いに力を発揮したと観られる。
その意味でも、「武力集団側」は当然に知っている事であるので、”「伊賀衆」が背後にある事の「危険性」を大きく感じていた”と考えられる。
むしろ、”逆にゲリラ戦を仕掛けられる恐怖があった”と観られる。
その「伊賀者の底力」には、「背後の青木氏」が観えているのである。
「青木氏の経済力」は前段でも論じた通りで衆知であった。
「他の勢力族」とは、体質的に異なる当時としては「異質の絶大な勢力」であったからこそ、「武装集団側」には余計に警戒されたと観られる。
警戒しない方がおかしい事に成る。

この様に強力に動く「20の郷士衆」が、構成する「外御師」のこの「郷士頭の存在」は、「青木氏」の「外のまとめ役」として無くてはならないものであった事が判る。
「二足の草鞋策を採る青木氏」は、「外の事」は、この「20の郷士衆」の”「郷士頭」”に「伝言一つ」で済むと云う関係にあった事が判る。
最早、「20の郷士衆」=「青木氏四家」であった。


話しを戻して。
「秀吉」は、この「一連の統治組織」の中での事を観て、この「青木氏に対する信望」を更に高めたと考えられる。

「室町期の戦乱」の中で、「武力集団」の「大名や豪族」の上に立つ”「三つの発祥源」”であるなら、本来なら「武の威力」を「優先する立場」にあり、それを率先してでも祖の立場を護った筈である。
然し乍ら、「武」の上位に立ち、「武」を持ちながらも、「武」を使わない稀有な「高い統治組織の青木氏の存在」を改めて知った「秀吉」は、この「秀吉の青木氏発祥」へと突き進む「決定的要因」となったと観られる。

この事も含めて、後に「秀吉」に依る「旧領地の本領安堵」の決定要因とも成ったと観られる。
多くの「旧領の本領」を安堵しても、「武」に依らない高い「統治能力」を有する「青木氏」であれば、問題は無く、むしろ、「紀州伊勢域」により「大きな地権」を与えて「地域の繁栄」に貢献させるべきと考えた筈である。
然し、敢えて「旧領の範囲での本領安堵」だけを受けたのである。
仮に、「旧領地外に地権」を得たとして、その得た「地権」を前提として「事業」を拡大しても、それに伴う「より良い組織」と「統括統治能力」が育成しなければ、結局はこれを護ろうとして無理に「武」に頼る結果と成り得る。
これでは「青木氏氏是」に反する繁栄と成り得る。
「氏是の諭し」に従うは、序に記している「氏是」が求める”「抑止力」にあるとする考え方”にあったからである。

実際に、資料から観ると、摂津西域、近江一部、名張西域、伊賀北域、南紀西域に、旧領地外の新規領地の安堵の話があった事が読み取れる。
この「5地域」は、「旧領地のほぼ隣接地域」であるが、然し、現実は受けていない。
何故なのかは、確定した理由は判らないが、次ぎの事では無かったかと考えられる。

(イ) 「氏是」を護り「旧領地外の地権」を受ける意志が無かった事。
(ロ) 「20の郷士衆」の外域と成る事から避けた事。
(ハ) 「秀吉の思惑」が「旧領地から離れた隣接域(伊勢大和紀州の全域 約1.5倍/旧領地)」にも事業を拡大させて繁栄を図る事にあった事。

以上にあるとして、内々に断ったとする見方が出来る。

何れにしても、(ハ)を受けたとしても、(ロ)が届かない事に成ると、「新規の家人」を新たに差し向けねばなら無く成り、「内御師」の中で運営と成る。
結局、これは「外御師制度」では難しく成り、組織運営に無理と混乱が伴う事が、(イ)の氏是に関わって仕舞う。
「保守的な思考」が左右したのであろう。
「商記録の青木氏年譜」に、”1582年末に「伊勢安堵」”。”1584年の「伊勢解決」”。等の記述がある事から観ると、この結論は「青木氏」と「全関係者」で「伊勢の福家」で話し合った結果であろうと思われる。
その結果を観ると、”更に拡大させる「意志」”と云うよりは、”旧領安堵以上の「欲」”が無かった事に成る。
「難しい判断」であったと観られる。

”何故、「欲」が無かったのか”と云う素朴な疑問が浮かぶ。
その事で調べたのが、この加増される「地権範囲」が、3倍も4倍も拡大するのには確かに抵抗と成る。当然に「無理と混乱」が伴うし、「旧領地外」の加増される「地権の領民」との間には共有する「歴史と伝統」は無い。
その地権が「約1.5倍/旧領地 の地権が増える」は、筆者の感覚では、「無理と混乱」の「許容の範囲」であると考えられる。
その「旧領地外の加増地権」の範囲は、「隣接域」に相当し、「飛び地領]でも無い。
”「欲が無い」”は、「青木氏」「家人頭」「内御師衆」のみならず「20の郷士衆」や「外御師衆」や「職人衆」や「シンジケート頭」や「神明社権禰宜頭」にも無かった事に成る。
この「多くの関係衆」に執って、果たして「地権がより広まる」は、「生活が高まるの条件」なのかにある。
「衆合しての話し合い」は、結局は、「共通する議題」は、必然的に「地権拡大」=「生活向上」に関わる事に成るだろう。
と云う事は、取り分けこの談合は「二つの立場」に判れる。
「青木氏」や「内御師衆」や「20郷士衆」の立場と、「外御師衆」や「職人衆」の「長」の立場に成る。
この「二つの立場」が集まったのであるから、この「二つの立場の考え方」が、”それ以上の飛躍した生活を望まなかったまでに豊かであった”と云う事にも成る。
つまり、議論の末は、「地権拡大=生活向上」と云う結論に至らなかった事に成る。

「旧領地までの拡大」は、”妥当な豊かさである”として否定せずに、必要以上の欲を出さなかった事に成る。
「旧領地」は、共に1000年以上に生きて来た伝統を遺して来た土地でもあり、当然に否定する者は居ないであろう。
「旧領地」には、夫々立場で例外の無く「縁者や親籍の一族」が、帰属を希望して200年以上も我慢をして来て、これを否定する者はいない。
その「旧領地」には、「新たな四事業」が敷かれて、”「近隣の門徒衆」と共に、「旧領地の親族の生活」が潤うのであれば、充分だ”とする考えが支配したのであろう事が判る。
これは”「欲」が無い”と云うよりは、”「親族の帰属」への満足” 即ち「一族愛」であった。

その証拠と成ることが一つある。
それは、「四事業」の一つ未知の「早場米の開発」(早稲光)にある。
仮に、「旧領地の地権」が回復しても、そこには「青木氏地権全域」に及ぼす「豊かさ」を保つには「主食料の確保」(米の増産)を成し得なければならない必須の条件である。
それは、新たに必要と成る「門徒衆の食糧分」と、事業拡大に伴う他の地域からの「新たな人員の確保分」も賄ねばならない。
其の侭では、絶対量は不足する。互いに分けあえば苦しく成るは必定である。然し、「地権範囲」は限定されている。
と成れば、「二毛作が可能な稲の開発」と云う「未知の難題」に「衆議の議論」は陥ったと観られる。
そこで、宗家の「青木氏福家の責任」として、「和紙殖産」から未経験のこの開発に取り組んだのである。
現在の様な「農業試験所」がある訳でも無く、当時としては発想そのものが特異であったし、その様な経験者も無かった。
「稲の開発」だけでは済まない。「気候や土壌の解明」など全て「未知の世界」である。「青木氏」だけが未知である訳では無い。日本全国未知なのである。
況して、「戦乱期の中での開発」である。
「並外れた気力」と「莫大な財力」が無ければ成し得ない。
「青木氏の衆議」は、この「厳しい未知の選択」を選んだのである。

「旧領地外の地権拡大」は、「旧領地」と異なり、更にこの問題が伴う事に成り、その意味でも議題は進まなかったのであろう。
そもそも、「1000年の歴史と伝統」を共にしなかった人を動かす自由度が異なる。
「成功裏の裏付け」は取れないし、「独立性癖の強い風土癖」も重なって「反発」も覚悟をしなければ成らない。
「衆議の議論」が紛糾したと観られる。
「旧領地外の地権拡大」には、この「未知の難題」に議論が傾いたと云う事は、”「欲」が無い”では無く、”「余裕」が無い”と衆議は決まった事に成る。
それよりは、この”「早場米の開発」”に衆議が決まった事は、”「親族の帰属への満足」「一族愛」を優先するべき”と決まった事にも成る。
「青木氏福家の責任」を果たす「最大の課題」で「未知の難題」であったことが、「光三郎の家の資料」からも発見されているし、「青木氏の最大の誉れ」としての口伝が伝わっている。


さて、この様な経緯の中で、多くの「門徒衆」を救ったが、この「青木氏の誘い」に乗らなかった勢力がいた。
これが、「武装勢力」の「指導者衆」であった。

然し、唯、雑賀氏と根来氏と畠山氏の「国衆」の「武力集団」だけは完全には解決しなかった。
この領域の問題は、「青木氏」には無関係であった事から、この「武力集団」だけが浮き上がった形に成った。

然し、この配下にあった「門徒衆の家臣」等の多くは、「武力集団との争い」から身を引いたのである。
勇気の要った事であったと観られ、この浪人と成った「門徒衆の家臣集団」を「上記の四事業」へと導いたのである。
そして、独立させて「専属の商人」(射和商人)として教育して「店」を持たせたのである。

従って、「秀吉」は、この不満の異なる一揆では無い「武力の反抗集団」に対しては、あくまでも”「戦い」”で臨んだ。
その事があって「殲滅作戦の方針」で「根絶やし」を図った為に2年程度かかったのである。
結果は下記の状況で完全解決と成った。

「青木氏の勧誘」に乗らなかった全ての人々は、家臣を無くし、遂には窮地に陥り、内部で勢力争いが起った。
最後には「根来寺」に全て逃げ込んだのである。
そこでも依然と抵抗を緩めなかったのである。
そこで、「秀吉」は、この「根来寺」に対して民衆を解放する様に再三要求したが抵抗を緩めなかった。
挙句は、民衆を楯に立て籠ったのである。
結局、秀吉に依る「根来攻め」が起こり、歴史に遺る「殲滅作戦」が展開され、「反抗勢力」は紀州から完全に霧消した。

結局は、この「殲滅作戦」を観て恐れを成した高野山の「真言宗騒動」だけは、一時「浮き彫り」には成ったが、これを期に矛を収めた。


「豊臣政権樹立後」に「伊勢青木氏」に対して、「旧来の伊勢の土地」に加え追加の本領安堵された。
この地域の全て、奈良期に朝廷の命で半国割譲した土地柄である。日本書紀にも記述がある地域である。


「伊賀一部」
「南紀州の遠祖地」 
「北紀州一部」
「名張域一部」
「摂津堺地区一部」
「伊勢北部地域一部」

以上等が旧領地の本領安堵された地域で上記の「四事業地域」に匹敵する。

恐らくは、これは、「秀吉」が、上記の解決の発端は「青木氏」にあるとして、「二つの青木氏」に対して「特段の恩義」を感じて、「南紀州域」は、勿論の事として、「伊勢域」を始めとして「北紀州全域」の「門徒衆の不満」を更に解消する為に、「伊勢青木氏」を政治的に保護した。
「伊勢青木氏」に依って民衆に「職」を与えさせて、その「経済的安定」を図らせる為の素地を確定させる為にも、「秀吉からの旧来地の本領安堵策」であった事が書かれている。

「会合衆」から更に発展した日本で最初の「伊勢の自由な商業組合」は、上記したこの「四事業の経緯」からより、”自由さを持つ商業組合”と成って、この「自由商業組合」が発展したのである。
これが、象徴する”「射和商人」”と呼ばれるものである。

この為に、「秀吉」は、”「民の門徒騒ぎ」は「一切不問」”として、この「事業の推進」を政治的に図った事が「青木氏の資料」に書かれている。
前段でも論じたが、「徳川氏」もこの「本領安堵策」を踏襲した為に「伊勢商人」と「射和商人」は江戸末期まで遺ったのである。
(「徳川氏との談合」は、「500社に及ぶ神明社」と「その領地の返却」で決着した。)


「備中廻船」では、その結果、「高松攻め」では、「資材調達」を一手に引き受けた事が判る。
「二つの顔」を持つ「青木氏」は、「秀吉」に執っては、戦略上、極めて都合が良かったと観られる。
「紀州討伐」では、その[反乱の根本」に成っていた「門徒衆の説得」で事態が大きく進展した事で、個人的にも相当に意気投合していたと観られる。
「人たらしの秀吉」ならではの事である。
”「出自誇張」の腹積もり”は、これをきっかけに「秀吉本気モード」に成ったのはこの時期(「紀州討伐」「備中廻船」「信長面談」)からであろう。
「第二次長嶋の戦い」後には、未だ無かったが、この直後あたりから意識し出した感じがする。

そもそも、この為に瀬戸内海と中国道での「毛利氏による補給路断絶作戦」の動きが在った。
「商記録」(1581年に「摂津会合」。松阪記)によると、「神明社の御師組織」から「摂津の店」が、「毛利氏の動き」としてこの「重要情報(商情報)」を既に把握していた模様である。
この「事前情報」は「摂津水軍」と「伊勢水軍」にも伝えられていた様で、この為に、「補給の商い」を受けた時に、「摂津の店」で関係者が集まって「事前協議」していた事に成る。
「秀吉軍の補給」も然ること乍ら、瀬戸内が混乱する中で「商の運搬」も含めて「二つの水軍」が「海路の確保」の為に「抑え込み」に入っていたと観られる。
名目は「青木氏の商船保護」の「誇示行動」であったらしい。
この商記録の”「廻船」”の「言葉の意味合い」は、意味が深くこの事から来ていると観られる。
(「商記録」の「細かい取引内容」を更に詳細に分析すれば、よりはっきりとした「行動の答え」が出て来ると観られる。)

「秀吉」に執っては歴史上、「毛利進出」は「最大の命題」で「信長の督促」があった状況下で焦っていた。
然し、「高松攻め」に付いて「秀吉」に執っては、最大の課題は「軍事力」では無かった。
その危険で弱点であったのは、「中国域の毛利勢」に依る「補給路の断絶作戦」であった。
この「命題の補給」を「請け負える豪商」はそうは無い。

その為には、「秀吉」のみならず補給の「豪商」自らも「毛利に対抗できる抑止力」を持ち得ていなければならない。
又、敵対する「毛利氏」も”「伊勢青木氏と紙屋長兵衛」”を知り得ていなければ「抑止力の効果」は低い。
と成れば、「摂津や堺にも大店」と「海のシンジケート」と「陸のシンジケート」を持ち、「瀬戸内の讃岐青木氏」との関係を持ち得ていなければならない。
そうすると、「秀吉の弱点の補給路の弱み」を狙っている周囲勢力を押えられるのは「伊勢青木氏」しかない。
「毛利氏」が「紙屋長兵衛の実態」を知る得るには、取り分け「讃岐青木氏の存在」が大きく影響した。

何故ならば、「毛利氏」は強力な「瀬戸内水軍(「平家水軍」からの「陶水軍」を元にした「毛利水軍」、後の「村上水軍」)を保有している。
この事から、「毛利氏」は「讃岐水軍」(讃岐)も「伊勢水軍」(伊勢 摂津水軍)も古い歴史を持つ水軍である事から、「存在]は勿論の事、その「勢力や位置関係」は充分に承知していた。
この事からも、「伊勢青木氏、紙屋長兵衛、伊勢シンジケートの存在と実力」も充分に承知していたと考えられる。
この「二つの青木氏の水軍」がタッグを組まれる事は毛利水軍には辛い事に成る。
何故ならば、過去に一度戦っている様に、下記の「義経の敗戦の経験」を持っているからだ。

この「毛利勢を抑え込む目的」で、「戦略上の安全」から”摂津港から海送した”と記されている。
上記した様に、「瀬戸内の示威行動に依る事前準備」が働いたと考えられる。
この事は、「伊勢」からでは無く、瀬戸内海の「摂津」から出る事で、「毛利側」に敢えて「補給船団」の「出船」を知らしめる事で牽制する目的があった事に成る。
そして、「補給」が順調に出来ている事を認識させて、”「毛利の戦意」を低下させる狙い”があったと考えられる。

仮に、この「補給」を止めようすると、「讃岐青木氏」と「伊勢青木氏」を敵に廻す事に成り、結果として全国にその子孫を拡げ展開している「藤原秀郷軍団」を呼び込んで仕舞う事に成る。
これは、結果としては戦域が広まる事から「高松攻め」は成功させる事に成る。
従って、「毛利側」には「戦域拡大」は絶対に得策では無かった。

従って、この事を意味する事として、「毛利氏側」は「和解条件」として、安国恵瓊が「五国割譲案」を提示した位である。
「戦域拡大」は戦域拡大は絶対不利と考えていての和解条件であり、出来なかった。

その為には、「伊勢水軍の護衛船団」(摂津水軍は同族で弱小の商船団)は誇張する意味でも絶対に必要であった。
これは「水軍力」のみならず「水軍の背景」を誇示しているのである。

何故ならば、そもそも、「水軍」とは、元来、「横の組織」で出来ているのだ。
つまり、「伊勢水軍」は、「駿河水軍、熊野水軍、紀伊水軍、摂津水軍」の「横の組織」で構成されている。
血縁関係も「縦横」に結んでいて、海の上での互いに護り合う「連合軍団」をも構成しているのである。

(注釈 毛利水軍の前身の平家水軍と戦った義経は、この「五水軍の軍団」を使っての「独自の水軍編成」で戦った事で勝利した。
この時、義経に反抗的に出ていた「北条氏の相模水軍」を当てにしなかった。)


(注釈 中でも「紀伊水軍」は、全国の水軍仲間からも恐れられていて、その「尖鋭さ」は有名であって、通常の水軍戦闘方式を取らない事が恐れられ、「ゲリラ戦法」であった。
この「紀伊水軍」を引き出すと他の水軍は戦力を無くすとまで恐れられていた。)

”「伊勢水軍」”を見せる事で、「背後の連合軍団」を想起させる目的があり、更には、「讃岐青木氏」が率いる海部氏等から成る「瀬戸内の讃岐水軍」をも想起しなくてはならない事に成る。
「伊勢水軍」は、当然に「伊勢青木氏」を想起しているから、先ず「毛利側の補給路攻撃」は控えて来る。

そして、この「備中の戦い」の時、「伊勢水軍のシンジケート」が「船団の護衛団」として動いた事が書かれている。
当然に「讃岐青木氏との談合」も読み取れる。
恐らくは、これでは「毛利軍の得意とする瀬戸内水軍」の「海からの戦略」は容易に手が出せなかったと観られる。

話題性があって「高松城水攻め」に現在は焦点が当たっているが、現実の作戦上の問題は「秀吉の背後」は弱かったのである。
「裏切り」が起これば、「秀吉軍]は陸に於いても「内部崩壊」を起こす。
それは、取り分け、「秀吉軍2万の軍勢」に物資補給するには、「陸路」は「背後の政情不安と勢力」から危険であった。
一応は敵か味方か判らない「宇喜多氏」は「戦況形成上」では抑えた形で「1万の軍勢」を動かす事に成ってはいたが、何時裏切りが起こるかは判らなかった状況にあった。
「陸路補給」を採っていたとしたら「秀吉軍弱点」を見せた事に成って、「秀吉軍弱点」を突けば勝てるとして「裏切り」は起こったと考えられる。


そこで、「独自の水軍」を持たない「秀吉軍」(織田軍)は、「毛利軍」が抑える瀬戸内での「水路による補給路確保」が「最大の弱点」であった。
この「弱点」を悟られると、各地で「裏切り」が起こり、「東の背後補給路」を断たれて、それこそ「水攻め」どころか、逆に「枯渇攻め」(兵糧攻め)で滅亡する。

現に、この「高松攻め」の前には、秀吉は「枯渇攻めの鳥取城」「日干し攻めで三木城」で勝利して西に進軍したのである。
そこで、戦略上、この”「補給路の弱点」が無い”と云うところを敢えて絶対的に誇示する必要があった。
それは「水路の安全確保」であった。
ところが、逆に「毛利氏」は「瀬戸内水路の西半分」を押えて得意とする戦法でもあった。
そこで。本来なら、水軍を味方に付けて、軍略上のバランスを採って、誇示する必要に迫られていた。
然し、「毛利水軍」に対抗できる味方に出来る水軍は「秀吉」には無かった。
従って、最低限でもこの”「水路の補給路」”だけでも「毛利水軍に対抗できる勢力」を味方に付けて「物資輸送路の確保」をする絶対的な必要に迫られていた。
「秀吉」に執っては、軍略以上に余計に誇示する必要に迫られていたのである。
そんな「商人」がどこに居るのかである。
”そんな「商人」”が居たのである。「秀吉」の「紀州討伐の経験の記憶」の中にいたのである。
それが、「伊勢の青木氏」であった。
絶対的に上記の「紙屋長兵衛と讃岐青木氏」の「速やかな協力」を得る事に在ったのである。

筆者は、「信長面談」には、この「問題の解決」には「秀吉」に執っては「信長の前での談合」もあったと考えている。
その為に、事前に「紙屋長兵衛 伊勢青木氏」の協力を得る必要があるが、「伊勢の問題」を早期に解決しなくては到底に協力は得られない。
つまり、督促されている「高松攻め」は無し得ないというジレンマに陥ち至ってい事に成る。

それは、少なくとも、「紙屋長兵衛」と「信定と忠元の伊勢青木氏」とその「配下の郷士衆」に”不必要な危害”を加えない様に進言しなくてはならない状況に陥ち至っていたのである。
(「水路の補給路確保」のみならず、上記した様に「戦略上の水軍」の「示威行動」にも成り得る特典があった。)
1581年の「紀州征伐の恩義」や、この「補給路の事」にも成功して、恩に感じた「秀吉」は、自ら進んで”知古に成った”のではないかと考えられる。
これが、最終的には「信長面談」に繋がって行ったと観ている。

「青木氏」が求める「悠久の時代」に戻す”「伊勢平穏」”を助け、「秀吉を助ける事」は、「信長」には絶対に不足は無かった筈である。

然し、独自行動を採る「伊勢衆」(伊賀氏、伊藤氏、長嶋氏、畠山氏等)までの話は出来なかった筈である。

この「信長面談」が「1581年の高松攻め」の直前である。
この準備も兼ねて、先ず「長兵衛と談合」し、「氏郷と談合」をし、その結果から、「信長面談の運び」と成ったと観ている。
「話された議題」は上記の通りである筈である。

そもそも、「秀吉の青木氏」に付いては、正式には「本能寺の変」後の「伊勢国と紀伊の国の始末後」から正式に出て来た問題であった。
「1581年の佳境である時期」に「武田氏を滅ぼした後の信長」に会わせるのであるとすると、次ぎの様に成るだろう。

「秀吉の遠縁仕立て」の「人物(1)」では、「人物(2)」の「信定」ではあるが、其れと判る様に敢えて伏せて、「佳境の意味合い」を悟らせる様に工作した。
そして、「秀吉配慮」の「ゲリラ戦の長期化の伊勢」の「事態収拾」を信長に間接的に促した。


第2説の直接に「伊勢の青木氏」として「人物(2)」で会した。
とすると、何かの面会の理由が必要である。
それも、”穏便に”である。

(上記に論じた事を複写)
”1581年の末当初に「秀吉の紹介」で、「一名の青木氏」なる者が、「信長」に面会している。”

この場合は、直接面会の議題の「ゲリラ戦の長期化の伊勢」の「事態収拾」に行き成り入る事に成る。
この場合、「秀吉の行為」は「信長」に対して”烏滸がましい事”に成る。
この時期、通説でも判る様に「信長の精神」は過敏に成っていた。
これを和らげる何かの”「表向きの議題」”が秀吉には必要であった。
況して、「高松攻めの遅れ」もあった。
簡単には行かない。それでも面会は断行されたのである。

上記の様に、裏には思っていても、決して表には出せない「高松攻め問題」もあり、「伊勢の問題の絡み」だけでは無く、”それなりの絶対的な理由”が必要であった筈である。
そこで、「信長」が1568年に美濃や近江に「楽市楽座の令」を発している事に「秀吉」は着目していた。
「信長」は、「形や慣習」に捉われずに「新しい形の経済改革」等に積極的考え方を持っていた事を考え合わせた。
従って、「伊勢」にも「伊勢平定後」には、「楽市楽座の令」を発する為にも、”「ゲリラ戦の長期化の伊勢」に付いて、早期に「事態収拾」を成さしめ、「混乱の後」を豪商「伊勢青木氏」を以って遣らしめる事”を提案したのではないかと考えられる。
この事で、「伊勢青木氏」を混乱から解放させて、「高松攻めの戦略」に巻き込む事が出来ると考え、その事を「敏い信長」に「悟らせる戦法」を採ったのである。

「青木氏の資料」と「公的に成っている記録」から総合的に「状況判断」すると、”青木氏に委ねた”と考えられる。
当然に、悠久の「歴史を持つ伊勢での立場」や旧来からの「郷士」や「伊勢衆」を束ねている事や、「二足の草鞋策」から生まれるその「巨万の富の経済力」を基にして、納めさせれば「不入不倫」で保護されていた「旧来の環境」に戻す事が出来ると見込んでの談合である。

これは「信長」に執っても「反意のない話」であるし、充分に説得できる「表向きの議題」が出来るし、「関連付けられる議題」でもあった。
平定後に「徹底した殲滅作戦」を行った「北畠」「伊賀」「長嶋」「伊勢」「紀州」「雑賀」「畠山」「根来」である。
何れが正しいか悪いかは別として、「皆殺しの殲滅作戦」には、伊勢と紀州には「敵意」を抱いていた事は間違いは無い。
抱くなと云う方が無理であろう。
従って、”武力では無い誰か”を以って安定させて居なければ、又、「一揆や反乱」でも起こる事は避けられない。
これは、後の統一戦略の「九州討伐」を控えて背後が好ましくない。

「青木氏」と共に「20の郷士衆」を中心に、救出した「門徒衆」「伊賀衆」と共に、「武力集団であった末裔」を「和」を以って接し、「生活の糧」を補償させる事で、「乱世での空しい敵意」は次第に霧消に向かうであろう。
「一族の氏郷」と「秀吉と信長」は考えたのである。
この為に、「秀吉」のみならず「本領安堵」は、推測の域を超えないが、「信長」も”「伊勢収拾」後には”と考えていたのではないかと観られる。

「信長」は「秀吉の案」に全く反意無く完全に同意したと観られる。
その証拠に、現実に、「伊勢平定」の直後に「秀吉と氏郷」は、松阪に「城郭」を創り、「ヨーロッパ式の商業都市」を構築した。

(皇祖神の神聖な地を護る為に「城郭」等は禁令で有ったが、敢えて「西洋式の城郭」を創建した。)

これは、その時の結果を如実に反映させた事に外ならない。

前段で論じた様に、「青木氏」は「約束通り」に新しく出来た「侍屋敷町(殿町)」の三区画を特別に譲り受けた。
そして、ここにそれまでの「座」では無く、日本で初めて「解放された自由な商業組合」を構築したのである。
(現在でもその組合であった「四日市商人」や「射和商人」として遺っている。)

この「伊勢の後の始末」から鑑みても、明らかに「楽市楽座の令」を議題に、”「ゲリラ戦の長期化の伊勢」の「事態収拾」”を信長に暗示させたと考えられる。

そこで、「経緯の網羅」は出来たが、次ぎは「青木氏」に執っては、後勘から、この時の「面談に応じた人物」を確定しておかねばならない。

第1説も「信定」であり、第2説も「信定」ではあるが、間接的か直接的かの何れかである。
確定は出来ないが、「平定後の伊勢の状況」から鑑みると、筆者は第2説の「人物(2)」の「信定」と談合したと考えている。
然し、下記の点から第1説の間接的に”「人物(1)」の信定”で面談した可能性が高い。

そこで、この談合が成立すれば、当然に、この第1説も第2説も「人物(3)」の「忠元」に繋げねば何もならない事には成る。
然し、この時は、「秀吉」は、「信定」だけを呼んだのであった。

そもそも、一挙に解決させたいのであれば、両方で会せるのが先ずは”「常道の戦略」”と云うものでは無いか。
況して、「北畠氏の後始末」より当面は「伊賀の始末問題」と「長嶋の当面問題」に移っている。
1581年末と成れば、「伊賀の始末問題」と「長嶋の当面問題」の二つを解決させるには、どちらかと云うと、「人物(3)」の「忠元」である筈であった。
然し、「秀吉の判断」は全く違った。”「信定」”を面談の相手として指定した。
恐らくは、これは「伊勢の乱の責任者」の「氏郷との談合」の末である事は間違いは無い。
とすると、「氏郷」も「秀吉」と同じ判断をしていた事を物語る事に成る。
「常套手段」では無くて、”「何か」”があってこの判断に落ち着いたと云う事である。

では、その”「何か」”とは、この「何か」を解く必要がある。
その「解明の糸口」は「人物(1)」の「信定」であれば解ける。
それは、”「伊賀と長嶋を解決する」”と云う事だけでは無く、”「伊勢全体を解決する」”と云う事に焦点が最早移っていたのであろう。
”「伊賀と長嶋を解決する」”と云う事に成れば、その「伊賀長嶋の解決」の「責任者」は「氏郷」である。
とすると、「秀吉」では無く、「氏郷」がお膳立てしなくてはならない問題で在る。
「秀吉]が出て来る問題では決して無い。

況して、”「伊賀長嶋の解決の問題」”を「信長」に直接に「氏郷」が訴える事は、「責任逃避」と成って「信長の叱責」を受ける事にも成りかねない事は明らかである。
最早、既に、「伊賀散発の騒動」は解決に至るは必定で、「長嶋問題」も第三次で解決する方向に戦略は出来ている。
敢えて、騒ぎ立てる事は好ましくない。まして、「秀吉」がである。
その上で、「伊勢をどの様にするかの議題」として面談する事に成ったと考えられる。
それ以外には唯一つを除いて無い。その唯一つは何かである。

唯、この為には、「伊賀散発の抵抗」と「長嶋の後始末」は、何れも一族の長の「忠元に責任」がある。
その為には、「信定」で先ず「伊勢全体の有り様」を討議した上で、この時に、細部に「伊賀と長嶋の最終始末問題」には、「忠元」との面談も必要であった事から後日に必ずセットする面談と成り得る。
そうで無ければ、この「面談の目的」は達成され得ない。
その証拠に、「細部の始末問題」として”「紀州討伐」”をも計画されていたのである。

故に、1581年末の面談は「信定」で「人物(1)」としてお膳立てされたのである。
つまりは、「唯一の何か」は、「人物(1)」は、”「伊勢紙屋長兵衛」と「青木信定」”であった事に成る。
故に、「人物(2)」の「青木信定」では無かった。
それでなくてはこの面談は成立しないし、「信長」から”要領が得ない”として大叱責を受ける事に成るだろう。

「青木氏の年譜」にも、「信長との面談前後」に「伊勢衆」が集まって数度に談合している事からも判る。
「事前打ち合わせ」と「事後の報告」であった事に成る。


その要領の一つとして、「秀吉」がお膳立て手配した「信長との談合」の中では、「忠元との談合」は必ずセットされる要領事には成るだろう。
「秀吉の高松攻め」の「裏の目的」からすると、「忠元」は秀吉には関係が薄い事に成る。
然し、「信定」を「高松攻め」に引き出すには、「伊勢安定」が必要と成れば、必須条件で、当事者の「忠元」とも合わせて「伊勢収拾」に向けての談合を「信長」ともセットして置く必要がある。
”付帯する必須の条件”としてあった。
これを”誰がお膳立てしたか”の調査では確定する資料が出ないが、「青木氏の商記録による年譜」からは、「秀吉」がお膳立て手配した「信長との談合」の時に、「伊勢収拾策」の「必須条件」として決まった事と観られる。
「秀吉」や「信定」や「氏郷」等が、この話が上手く行けばと、”「事前腹積もり」”はしていた事と考えられる。
と云う事は、この「忠元との面談」の「話を出せる環境」とは、”「聡明な信長」が「秀吉提案の伊勢収拾策」を暗に納得して居た環境”であった事を示す事と成る。

その証拠は次ぎの事であきらかである。
「人物(3)」の「忠元との面談」は、間違いなく下記の通りに実行されている。

それも”4度”もである。
この”4度と云う回数”に重要な事態を物語る意味を持っている。
「聡明な信長」は、「秀吉お膳立て手配の談合」の「裏の暗示の意味」を完璧に理解して居た事を意味する。
前段でも論じたが、後勘から観れば、その「面談のタイミング」が戦略上、適示適切で申し分ない。
更に云えば、「面談場所」も戦況から観ても実に効果的であり申し分ない。
「信長」は、「秀吉の暗示」で動いた事は動いたが、明らかに本気である。
その「信長本気」が、「高松攻め」でなのか「伊勢収拾策」でなのかは、「高松攻め」の前に「光秀謀反」で判ら無く成っているが、「信長」が「青木氏等に採った平穏な伊勢状況」から観て、「伊勢収拾に主眼」にあったと考えられる。
”「伊勢収拾策」”を確定して押える事で、”「高松攻め」”は「青木氏」に依って「水路補給」が可能に成れば勝負は決まったものであり、「流れ」の中で解決する。
つまり、「九州討伐」に向けて”背後を安定させる事”に「主戦略」があったと観られる。
「高松攻め」は、その「経過の戦い」であって、「主戦」では無い。
この「高松攻め」を取りあえず収めて置けば、「毛利勢」と「日和見勢」は時間の問題で収まりが着く。

「讃岐青木氏」と「伊勢青木氏」で「瀬戸内の制海権」を、「織田軍」が「中国地方の2/3の覇権」を押えた事に成り、「九州討伐への道筋」は着く。
「讃岐青木氏」の「水陸の勢力」とその「商いの経済力」と、「伊勢青木氏」の「水軍力とシンジケート抑止力」と「商いの経済力」とは、「秀吉」のみならず「信長」には「魅力」であった筈である。
「味方」でも無いし、「合力」でも無い勢力の存在が、”勢力範疇”にある事に、「信長の考え方」と合致したと観られる。
それは、「信長の楽市楽座の令」の「考え方」が「伊勢収拾策」の全てを証明する。
この”「面談 4度」”は全てを物語っているのである。

「人物(3)」の「忠元」は、前段でも論じた様に、「信長との面談」は次ぎの通りであった。
「伊賀の乱」の第一次と第二次の途中の2期  (第一次は氏郷か、第二次は秀吉か 「忠元の信長面談 1」 )
「敗残兵の散発乱」の末期             (第三次は、「忠元の信長面談 2」 1581年)
以上の2度が先ずセットされた。

「伊勢長嶋収束直前」の時の2度         (「忠元の氏郷面談 3」 1581年-「忠元の信長面談 4」 1582年) 

下記に記載しているが、この期間の商記録の「青木氏年譜」から観ると、この時の状況が次ぎの様に読み取れる。

1581年に「摂津会合」。 「瀬戸内海路確保」などの件で関係者を集めて情報交換と今後の打ち合わせをしている。
1581年に「伊勢衆合」。 「信定の信長面談」を控えて郷士衆等の関係者を集めて打ち合わをせしている。
1581年に「伊賀騒乱(ホ)」。 この時前後に「氏郷立合い」で「忠元の信長面談 3」をしている。
1581年に「員弁桑名騒動」。 岐阜に近い伊勢北域で騒ぎが、「忠元本家」の中で意見の違いか。
1581年に「紀州避難」。  「福家の信定」が一時新宮に引いている。意見集約を図る為か。
1581年に「本寺修復」。  「面談場所」の為に修復か 「菩提寺」が門徒衆等の逃げ込みで一部災禍あり。
1582年に「伊賀収束」。  この時前後に「氏郷立合い」で「忠元の信長面談 4」をしている。
1582年初に「長嶋衆合」。 この時前後に「忠元の信長面談(代理人か) 5」をしている。

(注釈 「忠元の面談」には、「公的に成っている記録」は兎も角も、「青木氏の資料」のみならず、「佐々木氏の青木氏関連資料」にも、「時期ズレ」「場所ズレ」「内容ズレ」はあるにしても詳細な記載がある。)

以上の確実には計4度に、確定できない「小面談」もあるが、兎も角は「面談の大小」は別として、公的な資料とが合致する明確なものとしては、「信長」と「岐阜の館」と「伊勢の寺」で談合している事は判っている。

「伊勢収拾の方向」に向けて進んではいるが、「面談の前後」に「信定の福家」と「忠元の本所」で、”何か騒ぎの様な事”が起こっている事が判る。
面談には「直接の信長面談」と、「信長の意を伝える氏郷との面談」と、「信長の意を代理人との面談」と、「織田事務方との面談」があった事が判る。

(注釈 前段でも論じた。「小面談」とは、”この資料は正式にではないが会っているな”と判別出来るもの。
この「小面談」には、全て「氏郷との面談」が絡んでいて、”「信長」もこの場に居たな”と想起させられるものが多い。
同じ事が、「信定の場合」もあって、美濃に近い「青木氏の伊勢北域の分寺」と、「伊勢北域の神明社」での面談があったのではと観られるものがある。
恐らくは、「氏郷」と同席して、岐阜から出かけて来た「代理の者」ではないかと観られるものを含めると、「青木氏や佐々木氏の資料」と合わせると8度に成る。
これらから観ると、「事務方」と裏で盛んに「伊勢収拾策」に向けて談合している事に成る。)

この記録は、「忠元の家の実記録資料」は見つからないので含まず、「信定が獲得した情報収集」である。
「佐々木氏の忠元の記録」は、「近江の佐々木氏系青木氏の家」から見つかった資料と観られる。
この事は、「青木氏の資料」でも「上記の面談要領説」を証明している事に成る。

これらは「信長」が「伊勢収拾策」に、”どれだけ本腰を入れていたか”が証明できるものである。

「ゲリラ戦の長期化の伊勢」の「事態収拾」を成さしめ、且つ、「混乱の後」を「豪商伊勢青木氏」を以って「伊勢平癒策」を遣らしめる事を提案したのである。
兎に角、先ずは、「楽市楽座の令」”を議題に、”「ゲリラ戦の長期化の伊勢」の「事態収拾」”を信長に暗示させたと考えられる。
その結果として、「事前打ち合わせ」の「高松攻め」の「備中廻船」が成し得ると考えて面談を実行したのである。
結果から観て、「聡い信長」であれば、「暗示の委細」を充分に承知していた事に成る。

(この後に「本能寺の変」が起こるのだが、「青木氏の後勘」から観て、「光秀の愚劣さ」を痛感する。)


「人物(1)」の「信定と長兵衛」と、「人物(3)」の「忠元」が、「信長」に会い、「今後の伊勢の事」に合意したとすれば、この「談合」は一挙に成立する事と成る。
実際、その様に成った。


この様に、「青木氏側」から観れば、「信長の評価」は、「秀吉家康と性格の違う者」との比較から「荒くれ指導者」と考えられる傾向があるが、決してそうでは無いと観られる。
「青木氏の本音部分を教える密教浄土宗」で云う”「人を観て法を説け」”で行けば、この「信長」も「普通の人」である。
「秀吉家康の時代」も同じ事で、「人を観て法を説け」の「本音の生き方」をする事で生き残れた。

一見して、「人を観て法を説く」は、差別意識があって卑怯とも思えるかも知れないが、果たしてこの「差別意識」が生きる事の真理であろうか。
青木氏は上記した様に、この「人を観て法を説く」での「本音の生き方」をしたが、むしろ、民を救い共に生きたではないか。
悠久の中で、民と共に生きなかった事は無かった。
「氏是」を護り、「家訓」を護り、「人を観て法」を説き、「民の側」に立ち助け、「本音の生き方」をしたからである。

結果として、後勘から観れば、「紆余曲折」はあったにせよ、「二つの青木氏」に執っては、全てその様な「本音の思惑」に沿って運んだ。
「室町期の混乱期」から、「秀吉-氏郷」の「安定期」を経て、「家康-頼宣-吉宗」と引き継がれて成長期に移り、「伊勢」は「元の平穏」を取り戻した。
そして、江戸中期以降はより「悠久の歴史]の中で最も発展と繁栄を更に遂げる事と成ったのである。
これは、「本音の生き方」に所以していた事に成る。
当に、「和紙と楮の殖産」は勿論の事、上記の「四事業」の事などは、この「本音の生き様」を如実に物語るものである。



この「経緯の解明」には、主に「商記録」による「青木氏年譜」の分析と関係資料の調査が、高い成果を上げた。
[前段」と合わせて、「二つの青木氏」の「本音の部分」の「室町期末期の生き様」を解明出来た。


実は、筆者は裏資料として、「商い記録」をベースとし、他の遺資料と組み合わせて、約100年間のこの伊勢に関わる関係の事柄を抜粋してまとめあげたものを「青木氏年譜」として作り上げてその年譜に込められいる「意味合い」を読み取り、それを検証して常に論文にしている。
「商い記録」をベースにしての事だけに余計な事が記載されていて、取捨選択してまとめる作業をして作ったものである。
必ず毎回100年程度に区切って偏纂しているものである。

この遺資料は「青木氏」に関係する「広域の地域」からの情報を書き印したものである。
恐らくは、「500社の神明社」や「支店」や「伊勢シンジケート」からの「情報源」で、その目的は“商いに資する事“が目的とされていて、その表現が簡略化して多少暗号化した様な書き方に成っている。
恐らくは、”観る者が観れば判る範囲の事“として、恣意的に作成し続けられて来たものであろう。
それを何とか投稿する以上は判り易くするために租借した「裏資料」である。

実は、「伊勢青木氏」には、この「商い記録」では無い「青木氏」としての”「四家の事」”を詳細に書き遺した本来の「青木氏年譜」が在った。
「青木氏由来書」と呼ばれていたが、祖父の代の明治35年の「松阪の大火」で消失した。
「松阪の青木氏菩提寺」(主寺)も消失したが、菩提寺(分寺)は玉城域と津域の二地域にあった為にある程度の資料は遺されている。
「商記録」は、店が別の地域にあった事から遺ったものである。

これ以外に、現在も残っている「伊勢衆の末裔」(20家程度)の家からも関係する手紙などの興味深い資料が時々出て来る。
残念ながら、相当に「消失の憂き目」を受けている。
筆者も、研究で関係する資料の有無が無いかを問い合わせたりしている。
本論も数度お願いをして効果を上げた。
唯、「個人情報」である事から迷惑が掛かる事と成り、理解と賛同を得て「青木氏の範囲」に留める事を約束して公表は避けている。

これらの資料等からも「青木氏年譜」を作り上げている。
下記の「青木氏年譜」には、約束を順守する事から全てが書き込まれてはいない。

「青木氏年譜」(1520年-1625年)

(注釈 「青木氏の資料」)
1525年に「丹波会向」。1532年に「摂津会合」。1536年に「南伊勢地」。1538年に「伊勢港」。
1541年に「摂津廻船」。1549年に「伊勢衆談」。1553年に「南紀衆騒」。1559年に「伊勢衆議」。
1560年に「堺廻船」。1562年に「伊勢不穏」。1563年から「南伊紀不穏」。1564年に「伊賀騒乱(イ)」。
1565年に「北畠不穏」。1569年に「北畠騒動」。1573年に「堺不穏」。1573年に「長嶋騒乱」。
1575年に「伊賀騒乱(ロ)」。1576年に「北畠混乱」。1578年に「丸山騒動」。1578年に「伊賀騒乱(ハ)」。
1578年に「紀州騒動」。1579年中頃に「堺平穏」。1579年に「伊賀騒乱(ニ)」。1579年に「名張騒動」。
1579年に「脇坂騒動」。1580年に「清蓮寺騒動」。1580年中に「伊勢紀州一揆」。1580年に「備中廻船」。
1581年に「摂津会合」。1581年に「伊勢衆合」。1581年に「伊賀騒乱(ホ)」。1581年に「員弁桑名騒動」。
1581年に「紀州避難」。1581年に「本寺修復」。1582年に「伊賀収束」。1582年初に「長嶋衆合」。
1582年に「伊勢和合」。1582年中に「松阪修復」。1582年に・「美濃騒動」。1582年末に「伊勢安堵」。
1583年に「北部談異変」。1583年に「四日市談」。1584年に「伊勢解決」。1588年に「青木混乱」。
1590年に[青木不定]。1592年に「青木騒動」。1598年に「伊勢騒乱」。1600年に「家内騒動」。
1600年に「近江騒動」。1601年に「青木安定」。 1602年に「商い盛況」。1603年に「伊勢談合」。
1605年に「松阪面談」。1606年に「伊勢談合」 1607年に「四家安定」。1612年に「合力談合」。
1614年に「伊勢衆談合」。1615年に「伊勢衆動員」。1615年に「堺摂津盛況」。1619年に「松阪会談」。
1620年に「伊勢藤氏談合」。1620年に「旧領安堵合議」。 1621年に「紀州藩方」。
1622年に「紀州藩縁籍」。・・・・・

(参考 以上の「青木氏年譜」は「研究室の論文」などを書く時に、その「内容の必要性」に応じて、「青木氏」に遺された「商資料」や」遺産諸書」から編集して使うものであり、本来は記述しない「裏資料」である。
又、「青木氏の氏是」もあり、投稿するに抵抗があるが、要約しての内容であれば容認できるのではと考えて投稿した。
「青木氏の中の事」(商いの事も含めて)として、江戸初期までの“「伝統」“としての資料を取りまとめると、この事から「外部史実」と照らし合わせれば、未だ「青木氏の多くの生き様」が蘇るが、先ずは、以上の事と次ぎの事が読み取れる。
この他にも、この「青木氏年譜」には、“他にも商業の事”が多くの事が書かれていて、本論にまとめて抜粋したが、更に、詳しく内容毎に整理してまとめると、更に「細かい生き様」が読み取れる筈である。)

(参考 今回の様に、その都度の「必要な年譜」を「・・年譜」として編集しているが、これを一つに整理すると完全な「青木氏年譜」が出来て蘇るが、整理してまとめる年数が足りない。
今後の研究課題であり、多くは「商い」から観ているので、編集するには、「青木氏」に関する「歴史観に伴った租借」がより可成りの高情報が必要である。
故意的に「代名詞」が使われず、「間接表現」であり、「現代語」では無いのも進捗の妨げに成る。
これは当時は「商い情報」の「情報源の秘匿」を護っていたと観られる。)

ただ、「外部記録資料」を全面的に使った内容は筆者は採らない。
「青木氏」から観れば、ほぼ「内容」は可成り一致するが、「人ずれ」も「時期ズレ」も「場所ずれ」も観られる。
これは殆どは、「伊勢シンジケート」からの“「事前情報」”や”「裏情報」”を得ての結果であろう。
「外部記録」よりも先に騒動が起こっていて、後も、伊勢で起こった何らかの「騒動」が完全に収束状態では無かったことも判る。
「内容のレベル」も違って、「ゲリラ戦の様相」も違っている。
「外部資料」に依っては、「ゲリラ戦」は、“遠からずとも縁筋”に当たる事も匂わせる表現をも採っている説も観られる。

(注釈 各地の「青木氏の伝統」に関する資料関係が、青木氏と娘の血縁関係も含めて関係した20程度の「郷士の家」からももっと多く見つかれば、より詳細に「青木氏の広域の生き様」が描ける。
然し、、残念ながら、「伝統」どころか、他氏と異なり多くの「習慣仕来り掟」を持っていたにも関わらず全く消えて仕舞っている状況の様に見受けられる。
各地の神明社にある資料なども探究したが、残念ながら、今は阻まれた次第であった。
然し乍ら、「射和商人」と成った「郷士の家」からの資料、四家からの娘の嫁ぎ先の親族関係と成った郷士の家からの資料、伊藤氏等の「伊勢国衆」の家からの資料等からの情報が論文作成に大きく影響した。
更に、未、「手紙」や「報告書」の形でも遺されていると観られる。)

これは、「商い」には、「事件の前後」の「雰囲気・小競り合い」からの「事前情報」が必要であって、それによって、“「商いを動かしていると云う戦略」”も在って、その事を主目として情報を獲得していたのである。
その為にも、かなり前から、“伊勢で起こった騒動”に対して「伊勢衆」で前後に“「打ち合わせ 談合」”なども頻繁にしていた事が判る。
(明治の終わり頃まで、年に2度の全ての関係する人々が大集合して親睦(運動会)を図っていた事が口伝で伝えられている。)
「商い」に大きく影響する事から、「伊勢シンジケート」や、各地の500にも上る「神明社」からの「情勢分析」の記録として情報が扱われていた事が判る。
何度と「談合」が重ねられている処から「他の伊勢衆」にもこの情報共有が行われていた事も判る。
特に、「伊賀の乱」は「青木氏」も「影の力」として「物資の供給」や「側面攻撃」や「夜間ゲリラ戦」などで合力したが、相当に「事前分析」も施され、長引いた「伊賀の乱」の収束前に紀州に一時避難などもしている。
これも「事前情報の結果」であろう。

(注釈 「青木氏の口伝」では、この100年間の間に二度に渡り「紀州新宮」に避難している。
この「伊賀の乱」後の「新宮避難」は、「基本戦略」上から事前に引いた事は判り確認できるが、もう一つの「新宮避難」が何で避難したかは判らず記録が正確に読み取れなかった。)

ただ、この時の「口伝」には「一つの逸話」が伝わっている。重要な判断要素の事に成るので次ぎの段で述べる。

「伝統―18」に続く。



関連記事
 

名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒

:「青木氏の伝統 16」-「「四家の背景と経緯」 

[No.333] Re:「青木氏の伝統 16」-「「四家の背景と経緯」 
投稿者:福管理人 投稿日:2015/07/15(Wed) 10:20:03


>「青木氏の伝統ー15」の末尾

>仮にあったとして、「円融天皇期」には、「目論見策の実行中」である事から、この期間は「天皇に対して不敬不遜の不作法な行為」と成り、あり得ない行為である。
>依って、984年以後の事に成る。そうすると、両者の関係からあり得る合致点は、「貞盛と嫡子四男維衡の前半期」(998年前頃)までの事に成る。
>ただ、これ以後の「貞盛-維衡」とその族は、「同族争い」と「配流」を何度も繰り返し血縁は不可能である。

>(注釈 以後の末裔にも年数的、経歴的にも無い。この14年の間の前半行為であり、上記の矛盾を打消し、且つ、「受領家側の経緯の関係」と考え合わせると、その前半期984年から988年に絞られて来る。)


>「たいら族」と「ひら族」の「混同説の策」も含めて、「歴史的な矛盾」が多い説(後付説:1180年代頃)が生まれる事と同様である。
>この事の結果を「後付説(氏姓の隆盛期に家系を作り上げる作業を行う)」で補おうとしたのである。

>(注釈 当時は、この様な「後付説」は、通常化していて、特に江戸期には武家の命に値する”「黒印状」”を獲得する為に公然と行われ、幕府もこれを黙認した。
>この事を放念してこれらの資料を「是」とした説が多い為に起こる「矛盾」なのである。
>返して云えば、この「後付説」を「是]として「青木氏]を論ずると,「青木氏」は存在し得ない事に成り得る。)

>故に、この説の様に「年数の矛盾」等の多説が生まれる所以なのである。
>本論の様に、事実に即して「青木氏」では、これを無くすべく日々研鑚し「歴史観」を高めて検証している。

> 「青木氏の伝統ー16」の「四家の背景と経緯」に続く 




「四家の背景と経緯」

前段で、「1の天智期の青木氏」との絡みを観乍ら、「2の円融期の青木氏」の「青木氏の発祥」の経緯を室町期末期まで論じた。
(1と2の青木氏を、以後、「二つの青木氏」又は「二つの血縁青木氏」と表現する。)

この室町期の時期は、「二つの青木氏」は「商い」のみならず、「賜姓族としての役目」、取り分け「神明社建立」も活動期でもあった。
しかし、反面では、この社会は、同時に、「下剋上」と、生存競争の激しい「戦乱」の時代でもあった。
必然的にも、この「激動期」に対応するには、上記した様に、「青木氏」の「四家制度」による「5つの面 20の顔」には「人材」が不足してくる。
しかし、かと云って、「同族による血縁性の概念」は崩す訳には行かない。
そうなれば、終局は“「婿養子」”の手立てしか「青木氏」には無く成る。
ここに所謂、前段で述べた「四家制度」の“「弱みの隙」“が生まれたのである。

「二つの青木氏」に執っては、実に悩ましい時期であった。
「二つの青木氏」では、「本所」(伊勢松阪)では、「自由な商いの商業組合」を結成して「巨万の富」を築いていた時期でもあった。
「相互の血縁」を積極的に進めるにも、そこに「隙間」なるものがが起こり、そこから「四家制度の崩壊」に関わる「菌」が蔓延して仕舞う危険があり、其れには限度があった。
その対策として採った「四日市の融合青木氏」が発祥している。
その中でも、未どうしても「四家制度」の「5つの面と20の顔」を護りながらも、何とか「子孫力」を増大し確保しなければならないジレンマに陥っていた。
「本所の伊勢秀郷流青木氏」は,「四家制度」を「伊勢の秀郷流青木氏の氏内」に採用して側面から「本所役」として支える様にした。
それにしても、「武蔵の本家」との兼ね合いもあって、「難しい立場」に置かれていた。

(注釈 「本所」(伊勢 松阪)、「本家」(武蔵 入間)は,その「賜姓五役の役務」の「分けあい」をして、平安期からこの様に呼ばれていた。)

(注釈 平安時代の同時期から開かれ始めていた「公家や寺や神社や荘園等」で開かれた市の「特権の座」も後には「本所」(ほんじょ)と呼ばれた。
「青木氏」は自ら殖産と興業を興して、この「座」には組しなかった。)

(注釈 恐らくは、「伊勢青木氏の本所(ほんどころ)」の呼称は、「秀郷一門の青木氏」が、「武蔵」にでは無く「賜姓五役の役務柄」だけを「伊勢」に「根拠地」を置いた事から呼ばれる様に成った。
室町期には、この事からこれを真似て、この「特権の座」を”「本所」”と呼ぶように成ったと観られる。)

(注釈 当初の頃は、「・・・座」と単に呼ばれていたが、後に、室町期には「職能集団の組合」も「座」と呼ばれるものを創った事から「座の数」と「座の種」が拡がった。
その為に、その事務所等を置く「根拠地」を”「本所」”と呼ばれる様に成ったと観られる。)

(注釈 ”「本所」”と呼ばせる事やその印象を持たす事に依って「他の勢力」を旧来からの「本所の持つ権威」で排除しようとした。)

(注釈 「伊勢青木氏の本所」は、「伊勢不入不倫の権」で保護されていた特権を持ち、「国の為に働く五役」を果たす名誉の地域を”「本所」”と呼ばれていた事を物語る。
各地に「本所」の地名が大変多いが、元来、この「意味合い」を持っていたが、この「本所」も「青木氏の伝統」の形である。)

(注釈 本来は、「嵯峨期詔勅」に伴う禁令の中に「青木氏の慣習仕来り掟」を真似てはならないとする禁令があり、この禁令に反する事ではあったが、「呼称方法」を変えて護られなかった事に成る。)

(注釈 「公家や寺や神社や荘園」=「青木氏」と置き、 「楽市の特権の座」=「賜姓五役の役務」と位置付けて、”「本所」”と云う呼称を使った事に成る。
つまり、「座」は、「本所の呼称」を使う以上は、「公家や寺や神社や荘園」の”「本来の役務」”であると云う事を主張していた事に成る。)

(注釈 信長の自由な経済活動を奨励する「楽市楽座の令」やそれを推し進めた「秀吉の楽市令」により、旧来の「座の禁令」は実行されたが、「下記に論じる信長が嫌った社会風土」これに対する反発であったと観られる。
所謂、「座の勢力」は、”「権威の惹けらかし」”と”「その利得を食む勢力」”と映ったのである。
況や、”「平安時代の荘園制の再来」”と見做されて「禁令」が出たのである。)


ところが、同じ「自由な商業組合」を追い求めていた「青木氏」のこの“「隙」”に上手く就き行ったのが、“「権威への挑戦」”を標榜するもの「信長」であった。
これは、そもそも、「武」には「武」を以って応じ、「智」には「知略」を以って抗らう室町期の「信長の謀略」であった。

古来より伊勢の「二つの青木氏」は、「青木氏の氏是」に依って、“「武」には応じない姿勢”を採ってはいた。
そこで、「青木氏」は「知略のある武」や「絶大な抑止力」を持ちながらも、絶対に「武」に応じない姿勢を採っていた。
この応じて来ない相手(青木氏)に対して、「信長」側には「武」で応じる事は、「戦いの大義」が立たない事から、出来ない。
然し、、そこで、恐らくは、「信長」としては、「知略」を使ったのである。

この初期の段階(1550年頃)では、「伊勢」を「武」と「知」に依って支配下に入れようとし、未だ「北畠氏側」にあると疑われていたと考えられる。

先ず、“「婿養子」“で「間接的な撹乱戦法」の「初期戦」を「伊勢域の土豪」を使って味方に引き入れて仕掛けたと観られる。
その初戦として、「南伊賀」に入り込んだ「武」を用いた「貴族武家の北畠氏」を潰す事から始めた。

(注釈 青木氏には、周囲の土豪を取り込んで、前段で論じた”「婿養子の策謀」”で仕掛けて来た。
結果は「青木氏」が直前で見抜き事無きを得た。)

(注釈 「貴族武家」と成って室町期初期から京から伊勢に浸食して来た「北畠氏」がこの謀略に載せられた。)

本来、”「武」を禁令とする「貴族・公家」”が、その格式の立場で「武家」と成った[北畠氏」でありながらも、「武を標榜した氏族の弱点」を逆に突いたと云う事であろう。
その「伸長族の領域」と成って仕舞った「聖なる伊勢域」に対して、「信長」には、「伊勢の二つの青木氏」までもを果たして「潰す気持ち」があっての戦略であったのか興味の湧くところである。

この「信長の戦略上の深意」に付いて、そこで、それにいち早く、“「青木氏側」は気が付いた”と云う事であろう。

「青木氏側」にとっては、「子孫存続」の為にも、この「隙に付きいる障害」を早期にこの芽を摘んで置くことが必要であった筈である。

筆者は、「信長」は、「武には武、知には知の基本戦略」を採っている事から、「伊勢の二つの青木氏」を「潰す事」は考えていなかったと観ている。
それは、次ぎの事で証明できる。

「本所の青木氏」には、上記した様に、「信長」は「伊賀守」を「忠元」に任官して家臣にして取り込みを図ったのである。
「武より知を用いる青木氏」であれば「信長の天下布武の戦略」に害は無い。
むしろ、「楽市楽座」を敷く「信長」であるとすると、むしろ、既に、組織的に「殖産と興業」を以って「巨万の富」を持つ「二つの青木氏」には、生きて貰わねばならない「政治戦略」があった事に成る。
それでこそ、「天下布武の戦略」が生きて来る。
つまり、「信長」にとっては、そもそも、「楽市楽座」は、「天下布武」の”「車の両輪」”の様に”「相対の位置」”にあったのである。

「信長]の考えの中には、”「天下布武」(武)>=「楽市楽座」(知)の数式論”が成り立っていたと観られる。

この「忠元」は、「青木氏の氏是」を破ってでも、「二つの青木氏」を体して、この「信長の深意」に逸早く応じたと云う事であった。
そもそも、”「臣官に就く」”は、「三つの発祥源」と「国策氏」と「賜姓五役」の「役務柄」から護らねばならない宿命の「青木氏の氏是の禁令」である。
奈良期より「伊勢の郷氏 国人 地主」で有り続ける事が「賜姓五役の遂行の根幹」であった。
然し、「忠元」は、この”「信長の臣官」”に応じた。それは「禁令」を破ってでも応じなければ成らない「子孫存続の最大の危機」であったからだ。
「忠元」には、この”「危機感」”は完全に「信長の場合」(天下布武)にはあった。
然し、忠元は、”「危機感」”と云うよりは、「天下布武」と相対の位置にあった”「楽市楽座」の方に掛けた”のではないかと観ている。
それが、「二つの青木氏」のむしろ「氏是」であるからだ。況や、「生き残れる道」であったからだ。
何故ならば、「家訓」にも成っている”「知略」”に関わる事だからである。

「戦い」に依って起こる「氏のリスク」>「臣官」に成って起こる「氏のリスク」

以上の数式論をここでは考えた事に成る。

それは「信長」の上を行く「青木氏の知略」であったと観られる。
「信長」の”「相対の知略」”に載ったと云う事である。

何故、上記の数式論の思考をここで敢えて用いたかと云う事は、”「武」と「知」の両方の思考を持つ「信長」”を見抜いていたのである。

それは、どう云う事かと云えば、そもそも、「青木氏家訓10訓」が教える様に、次ぎの様に成る。

「武」は”「敵対」”に通じ、「知」は”「共合」”に通ずる。

以上と悠久の歴史を持つ「青木氏の家訓10の意」は教えている。

「武」は「武の差」によって相互に「敵対の心」を必然的に産む。
この「敵対」は、「命の危機」に繋がり、「不幸」に結びつく。

「知」は「利の差」によって相互に「利対の心」を必然的に産む。
この「利対」は、「生活の利得」に繋がり、「幸せ」に結びつく。

依って、「人」はこの「利]を求めようとしては”共に合する事”へと集約に至る。

然し、「知」は追い求める過ぎると、「武」を使って「大利」を得ようとして「武」に帰する。

「武と地」は、況や、「善悪」に依らず、「相対の位置」にある。

所謂、「人の世」は、「知」は「武」の上に立つ。

以上の事を「青木氏の家訓」は教えている。

これは、古来からの「青木氏の密教浄土宗の教義」に基づいているのである。

(注釈 「三つの発祥源」「賜姓五役」「国策氏」に対して、”「二足の草鞋策」の「商いを営む根拠」”に成っている。)

「二つの青木氏」は、この「青木氏の密教教義」に従って思考し、「信長」を考察したと観られる。

そこで、「信長の深意、或は翻意」は、「武家社会」であることから「基本戦略」は、「天下布武」としているが、むしろ、この”「知の共合」の考え方に重きを置いている”と見抜いたのである。

(注釈 通説の「信長評価」は、この「青木氏の様な密教教義」を持ち得ていない事から起こったものと観られる。)

そもそも、何れの時代にも、”「民族」”と云う単位で「国家や社会」を維持するには、”「武」の「敵対」に通じる社会”を先ず創る。
その上で、”「知の共合」の社会をより豊かに作り上げるか”に関わる。
これは”「民族」で構成される社会”である限りは、「人の性」から来る「生存への敵対本能」からは逃れる事は出来ないからである。
あくまでも、「理想社会」は、所詮、「りそう」なのである。
”「理想」”と云う「言葉」があるからこそ、その元には「敵対」があって生まれる言葉である。
この逆の事も云える。

つまり、「人の社会」に於いては、より良い、”「知の共合」の社会”を大きくするかに関わっているのであって、「理想の社会」では構成出来得無い。
”「理想」”は、あくまでも「良し悪しの判断の基準」とするに留まり、「良し悪しだけで決まる人の社会」では決して無い。
あくまでも「理想の範囲」で終わる。
より「「理想に近い社会」と感じるのは、「知の共合の社会」をより豊かに作り上げるかに関わり「理想の程度」では決して無い。

”「人の生きる社会」の「組織の主たる者」に成る者には、この「概念」を持ち得ている事が必要である”と説いている。


つまりは、「忠元」を含む「二つの青木氏」の「長」は、”「信長」も「長」としてのこの「基本的な概念」を持ち得ている”と観て採ったと云う事である。

(注釈 記録に遺されている「信長の発言」の中に、要約すると、”国が収まれば、世界に旅する”と発言している。
これは、「世界」の進んだ国には、”「武」<「知」の社会”がある事を知って居た事を意味していると観ている。)

注釈 
1576年 北畠氏は滅亡
1576年 伊勢国を信長支配
1577年 忠元伊賀守任官
1577年 伊賀一揆

前段で論じた様に、「伊賀」に侵入した「足利系の外部勢力」の三氏は、1576年を境に「信長」に依って放逐され滅亡した。
その後に「伊勢」を支配した時に、「信長」は「実質支配」していた上記の「伊勢秀郷流青木氏の忠元」に「伊賀守」を任官させて家臣として取り込んだ。

然し、その後に、「伊賀衆」は「伊賀の郷士11衆」と「伊賀住人衆」を巻き込んだ一揆で「ゲリラ戦」(第一次と二次)で反旗を翻した。
この時、「伊勢」の中では、特に「伊賀の国人衆」が「連合体」を結成して「伊賀域」を治めていた。
民や僧侶を巻き込んだ「伊賀一揆」が「第一次」で収まったとして「忠元」を任官させたが、「信長」が「燻り抵抗を見せる伊賀者」に見せしめとして激しい「第二次掃討作戦」を展開した。
この時は「忠元」は苦しい立場に陥った。

上記する、「武」より「知」に掛けた「忠元」を始めとした「伊勢衆」は、思いもよらぬ方向に流れが進展した”「伊賀」”では窮地に陥っていた。
「伊勢衆」は「伊賀衆」を説得に掛かったと観られる。
然し、「事の次第」は、感情的に進み収まりが着かなく成って仕舞った。
それは、この「伊賀衆」が起こした「感情論の原因」は、地獄の修羅戦と成った「石山本願寺の門徒衆」が、何とこの”「伊賀域」”には多かった事が云える。
紀伊半島と紀州全体も殆どこの”「門徒衆」”であって、現在でも「門徒衆が多くその慣習の強い地域」でもある。

この時、「伊勢皇族賜姓青木氏」が「伊勢の抑止力」を使って「援護」に入ったのである。
これが「丸山城の攪乱作戦」や「比自山城」や「上野城」の「伊勢衆が行った救出作戦」であった。

恐らくは、「信長」は「伊賀」に「支配権」を持っている「忠元」を「伊賀守」にして収めようとしたが、ところが、[忠元の翻意」に反して、”「忠元」が「織田方」に付いた”と受け取られて、逆に”「裏切り」”と捉えられたと観られる。
そこで、「門徒の事」もあり、それに煽られて”「伊賀者」”が収まりが着かなく成り、「燻り抵抗」を尚示す様に成ったと観られる。

(注釈 ”「門徒の事」”とは、「石山本願寺の事変」の3年程度前から起こっていた紀伊半島全域で「門徒衆の信長への抵抗」があった。)

その為に、其の侭に放置すると、全国で「門徒衆」が尚騒ぐ事と成ると観た「信長」は、見せしめの為に「第二次の殲滅作戦」に「信長」は出たと考えられる。
実際は、第一次、第二次共に、「伊賀衆」から「裏切者」が出て「織田軍道案内」等を申し出ている。

(注釈 当時、”「道案内」”とは、「裏切り」の「武士」が使う「換え言葉」であった。
ある意味で、当時の室町期は戦乱期であって、「裏切りと云う行為」は必ずしも「悪徳の見本」では無く、「生き残り」の為には「最低限の必要不可欠な手段」と認められていた。
然し、この「裏切りの悪の概念」は、主に「江戸期の安定期」に入ってからは、「武士魂」の「発露の規準」となったものである。)

これは、「伊勢衆」と「伊賀守」と成った”「忠元の説得」”から動いた事ではないかと観られる。
この事で場合に依っては、”「伊賀者滅亡」”と云うシナリオも描いていたとも考えられる。
現実には、第二次は其れに近い「修羅の状態」と成った。
あらゆる「門徒衆」の「抗した村民」やこれらを「庇護した僧侶」をも殲滅し、「伊賀」だけには収まらず「紀州全域」に及び、更には「堺」から「伊勢松阪」の「伊勢神宮手前」までにその「火の粉」は飛んで来た。
(寺等の記録あり)
その「殲滅の被害範囲」と「門徒の勢力域」とがラップする事から、矢張り、”「門徒勢力」”と観ての行為に及んだ事に成っている。

この事に付いて検証して置く。
通称、”「門徒勢力」”と現在まで云うが、この「宗教武装勢力」との争いは、1567年頃から1582年頃まで続いたのである。
もっと云えば、「秀吉の紀州攻め」の「掃討作戦」までの事と成る。

(参考 「伊賀の戦い」は、第一次は1578年-1579年 第二次は1580年-1581年)

「石山本願寺の戦い」は、あくまでもその「一本戦」であって、その期間は1570年から1580年と成ってはいるが、そうでは無い。
然し、比叡山を含む「宗教武装勢力」との戦いの一端であった。
多説の様には、「一戦い」では無かったのである。
つまり、上記した様に、「信長」が目指す「天下布武」にせよ、「天下布知」にせよ、この「宗教武装勢力」が二つを実行するには「大障害」と成っていたのである。
その戦いの中での「伊賀の戦い」と成った。
疑う事無く、「伊賀者」は、全て「下級武士の宗教」の「門徒信者」である。
これは、「民の門徒の宗徒」では無く、「忍者と云う武力の専門の勢力の宗徒」である。
「石山本願寺」の”「宗教武装勢力」”と云うよりは、「伊賀衆」は、一種の「宗教の武装の専門勢力」であった。

現実に紀州半島の「雑賀傭兵軍団」「根来傭兵軍団」「十津川傭兵軍団」「柳生傭兵軍団」と同じく、伊勢の「伊賀傭兵軍団」と呼称されたものであった。
「比叡山の僧兵」などと違い、プロ中のプロである。

「信長の目線」はここにあった。
依って、このプロ中のプロの「伊賀門徒勢力」への「象徴的戦い」なのである。
ここを叩いておかないと、「石山本願寺の比」では無いと観たのである。
「紀州の傭兵軍団」が「伊賀」と結びつけば、不得意な『ゲリラ戦の長期戦」は覚悟しなければなら無く成る。
「長期戦」は、「宗教との戦い」と成っている以上は、”評判の悪い信長”に執っては極めて不利である。

唯、「信長」は、この「プロ中プロの伊賀衆軍団」を「感情的敵視」をしていなかったのである。
「門徒勢力の撲滅」の「象徴的集団」と戦略的立場から観ていただけの事であった。
その証拠には、その「特殊技能の軍団」の「存在価値」を認めていた。
何故ならは、「第二次の殲滅作戦」後に、この「伊賀の特殊技能」を「織田軍団」に取り入れる為に、多くを「家臣」として仕官させているのである。
普通なら、徹底した「掃討作戦」で殲滅させている筈である。
況して、全国に散った「伊賀者の掃討作戦」もしていないのである。
1年後に徐々に「伊賀者」が戻ってきたが、これも掃討していない。
むしろ、戦後に「諜報役の家臣」として重用している。

何と、「信長」が直接家臣としたのは数名で、この一名が「伊賀の青木氏の五代目」が入っているのである。
家臣と成った者の殆どは、秀吉などの重臣に家臣として仕官させている。
中でも「秀吉」や「蒲生氏」とその配下の家臣に特に目立つ。

普通は「人」であれば、「修羅の戦い」と成って「恨みも憎みも骨髄に達する」に成った筈である。
にも関わらず、「信長側」は元より、「伊賀者」側も家臣に成ったとする現象には、”戦国時代の何かが働いていた”事を物語る。

(注釈 明らかに、上記の事は、”信長の伊賀に対する考え方”が現れている現象である。
以下に論ずる事もこの「歴史観」を以って「青木氏」の方だけはお読み頂きたい。)

ところが、この「注釈の歴史観」を「伊勢衆と忠元」は読み取っていたかは別として、この「事の流れ」に依っては、異なる方向に走ると観ていたと観られる。
これは「密教浄土宗」の「伊勢衆」のみならず、「伊賀」を治める「忠元」に執っては、単なる「伊賀の戦い」とは捉えていなかったのである。
場合に依っては、”「伊賀滅亡」”と云うシナリオも考えたのも当然であった。

(注釈 後の「青木氏の記録」から「信長の評価」が世間と違っていた事からすると、この段階では,注釈の事は考えていなかった事に成る。
後刻、戦後に「信長の態度」を観て、この事を理解したと観られる。)

筆者は、もっと「厳しい心構え」をしていたと考えている。
そうなった場合、「事の流れ」に抗して「青木氏の氏是の範囲」では収まらない事に成ると観ていたのである。
「二つの青木氏」と「伊勢衆全体」が、奈良期からの「青木氏の氏是の禁令」を破って、「500万石の勢力」と「伊勢の抑止力」のみならず、「関東の秀郷一門」と「秀郷流青木氏116氏」を巻き込んだ戦いをも覚悟していたと観ている。
上記した「忠元の伊賀守任官」も{伊賀の戦い」の際中の事である。
この「氏是」を破ってでも「伊賀守任官」を受けて、「最悪の流れ」(伊勢の伝統の崩壊と伊勢者の滅亡)に成る事を止めようとしたと考えられる。
逆に、「信長」も同じ事で起こる「最悪事態」を避けようとして、「忠元」を「臣官」させたと云う事も云える。
この事を考えると、少なくとも、「事の流れ」は[伊賀守任官」だけでは止められず、むしろ、逆に「第二次戦」に成った時に、「信長出方と解決具合」では、「本戦」も覚悟していたと観られる。

現実に、戦えば全国的な勢力の結集では上回る。
戦略上では確実に劣るところは無い。むしろ有利であった。
要は、「戦い方の如何」に関わる事に成る。
「ゲリラ戦」を駆使する事に成ろう。
当時の「信長の勢力範囲」は関西に限定され、その拠点は美濃に集中している。
周囲から「物資の供給」を止め、拠点に「ゲリラ戦」を掛ければ落ちる。
「信長の弱点」は水軍にある。「海と陸の供給」を止めれば攻略できる。
「水軍」は「伊勢衆の古来から所縁」から「三つの水軍」(伊勢水軍 駿河水軍 摂津水軍)を擁している。
従って、「水陸」の補給路をこれで押えれば、物資は「伊勢衆の商いの強み」でもある。

現に、「丸山の戦い」では、「信長六万の軍事力」では無く、この「物資」を止めて「物資高騰」を高め軍資金を枯渇させ上で、拠点を「ゲリラ戦」で抑えて勝った。

(注釈 「足利氏との戦い」も「伊勢シンジケート」が「ゲリラ戦」を展開して、10万の軍を枯渇させ2万と云う餓死者を出した。
この有名な戦史を信長は知っていた筈である。)

全国的に、これをすれば「信長の軍」は「内部崩壊」を起こす。
元より「信長軍」は「内部分裂の要因」を潜んだ「軍事力」であった。
現に、依って、「信長」は、「長期戦」と成り、「物資供給路」は絶たれる事に成る。
「伊勢シンジケート」は[美濃信濃の範囲」までを「連携の勢力圏」としていた。
依って、未だ弱かった関西以西から背後を突かれる恐れがある。
この事があって、「戦域」を関東に拡げる事は出来無い。
これは「信長」が、「秀郷一門の勢力」の強い関東以東には、実戦に依る手を出さなかった所以でもある。

恐らくは、「信長」もこの事を考えての範囲の「ギリギリの線」を選んだと観られる。
最後には、調停工作に応じて停戦したし、各地に散った「伊賀者の掃討作戦」もしなかった。
終戦後、これらの「伊賀者」は帰ったが、掃討はしなかった。
手っ取り早く言えば、その火元に成る「伊勢」には手を”出さなかった” 出したくなかったのである。
伊勢には、煩わしい「不入不倫の権」もあり、「戦いの大義」が採れず手を”出せなかった”のである。
故に、「伊賀と云う特異な門徒拠点」とも云うべきところだけを突いたのである。
然し、「伊勢」では、青木氏等が「影」で色々としていた事は其れなりに充分に情報活動で知っていた筈である。
況して「伊勢衆」は、「北畠氏」(1576年)の時には、明確に「合力」を表明している。
明らかに「準に抗する勢力」と観えていた筈である。

従って、「ギリギリの線」の「忠元」も含む「伊勢衆」(青木氏等)には決して手を出していない。
依って、「ギリギリの線」を護る「信長」に対して、「忠元」も「伊勢衆]も、「ギリギリの線」で直接交戦する姿勢は採らなかったのである。
明らかに、「信長」は、「忠元と伊勢衆」を除いた全て「抗する者の範囲」に留めたのは、「門徒衆の撲滅」と「伊勢衆の影の抑止力勢力」のこの二つの事から来ていると観られる。

そこで、それを証明する「伊賀の内情」は次ぎの通りであった。

第一次は、20郷士の内、18氏参戦 2氏が道案内 下山氏、他1氏
第二次は、18郷士の内、11氏参戦 4氏が道案内 福地氏、耳須氏、他1氏、滝野氏
調停役は、「猿楽師」(嶋崎殿の青木氏との関係)の仲介、大倉氏 他介添え役2氏

(1氏が不明 「調停役」に参加と観られる。)

この記録から観ると、少なくとも「忠元の言い分」を理解した者は、少なくとも当初9氏はあった事に成る。
自発的にこの9氏が戦いの裏付けと成る軍資金や物資の補償が無いのに動いたとは到底思えない。
全体の半分は「忠元の説得」に応じた事に成る。
結局は、記録にある様に、感情的に成って走り「籠城餓死寸前」と成って、「忠元」と「伊勢衆」が救いに入ったのである。
その後、「伊勢衆の援護」に伴って「忠元」に味方する者が殆どと成った事で「仲介の段階」に至った事が良く判る。

ところで、前段で論じた様に、矢張り、ここで「伊賀の青木氏」の”「猿楽師」”がこの記録に出て来るのである。
これは「青木氏」に執っては極めて重要な事である。
歴史上の有名な事(「猿楽師の調整役])として、記載されている史実に繋がっているのである。

実は、この「猿楽」に付いて調べると、そもそも,中国から入り遂には大和で広がり、「大和猿楽」と「近江猿楽」と成った。
この「大和猿楽」から有名な「観阿弥 世阿弥の時代」と成るが、「大和猿楽」には四座があった。
ここで、「嶋崎殿の青木氏 伊賀の青木氏」の「五代目」が最初に学んだ事が添書に書かれている。
「七代目」がこれを高めて「猿楽師範」と成って、「徳川氏の諜報役」として働いた。
しかし、この「五代目」が同座で「猿楽師の某氏(大倉氏)女系の血縁先」と学んでいた事が添書に記載が在って、後にこの者は「織田氏」に仕官している。
時を同じくする事から、この「某氏」が「この時の状況」に関わったと観られる。

前段でも記述したが、この「五代目」もこの少し後の1581年に「織田氏」に仕官している。

この「五代目」が「信長」に仕官した事にも大きな意味を持っている。
明らかに上記の事を物語っている。

「信長」に抗した「伊賀者」を家臣にしているのである。

この様に、これで明らかに、「伊勢衆」と「忠元」が動いた事が証明できる。


「嶋崎殿の青木氏」の「猿楽師の調停役」は、この様に「猿楽師の面識」を利用して「信長」に近づいたと観られる。

(注釈 その後は仕官したが、直接に「信長」に調停を申し出る事は無理であろう。
この間に「所縁の者」が関わっていたのである。)

以上の事から、この経緯の事に成っている処を観ると、「忠元」が「仕掛けた戦略」であった事は間違いはないと考えられる。

実は、この「調停役」と成った背景を更に調べると次ぎの様に成っている。

この「伊賀」の「嶋崎殿の青木氏(猿楽師範)」を通じて、直接に「信長」に面接してはいない。
確かに、奈良に住していた「猿楽師(大倉氏)の面識」で「信長への仲介役」を演じた。
然し、ここで、次ぎの人物が「大倉氏の仲介の意」を受けて「信長」に直接仲介した人物が何とあったのである。

前々段で論じた「秀吉と信長」に信任の厚かった二人の内の一人である。

その「仲介者」は、「青木紀伊守一矩」(従五位左衛門佐 越前北庄八万石 1598年)に列せられた者と成っている。

秀郷一門の伊勢の「青木忠元」は、全く同時期に「伊賀守」(1577年)に任じられていて、「越前坂井郡丸岡四万六千石」に列せられている。

「青木伊賀守忠元」と「青木紀伊守一矩」は共に「信長」に仕えた。

重要
実は、この後、「伊賀の青木氏」の主家の「五代目」の子供の娘(次女)が、この「紀伊守の嗣子の政寿の妻」と成っている。
更に、この100年後位宝暦九年にも両家は「伊賀青木氏」から「娘女の縁組」をしている。
然し、この時期は「紀伊守の一族」が、既に,福井に逃避し、「伊賀の青木氏」は江戸に移動していている事に成っている。

これはどの様な意味を成すのであろうか。

つまり、「前の血縁」で観ると、添書内容から考察するに、1581年に「伊賀青木氏の五代目」が「織田家」に仕官した後の事である様である。
この事から、「織田家仕官執り成し」は、この「紀伊守一矩」であった事が判る。
「信長の仲介役」もこの事で裏付けと成る。

然し、「後の血縁」で観ると、「伊賀の青木氏」の「主家の系譜枝葉」では、再び江戸(御家人)と越前(商人)との間の取り持ちとも考えられる。
唯、「奈良の六郷」に[青木一矩の一族子孫」が残留していて、その一族と、故郷の「伊賀の跡目」を再興した「戻り組」とが血縁したのかは詳細は判らない。

現実に、「主家」であるし、「伊賀の青木氏」は江戸期にも伊賀に定住している事、「大番役」でもある事からも江戸だけでは留まらない。
恐らくは、添書には”六郷に嫁す”あるところから、江戸からの支持の下で「大和と伊賀の地での縁組」が交わされたと観られる。

とすると、「伊賀」は,前段で論じた様に、「三氏」と成っていて江戸に移動している事に成っている。
然し、「伊賀本領」にも留守居役として一家を設けていた事を示す事に成る。
これで、現実には、現在も「伊賀の青木氏」が現存する事から、この事で証明できる。

唯、家紋が、前段で論じた様に、「伊賀の青木氏」の主紋の”「一文字紋」である。
果たして、「伊賀の青木氏の枝葉」の「伊賀」に定住した”「青木氏の立場」”はどの様に成っていたのかは不明である。
現実的には、”全て「三氏」を江戸に移してしまう”と云う「戦略」は採れないであろう。
況してや、「大番役」と云う役務から観ても、「本領の役務」も「伊賀」にもそのままに成っている事から、一族を遺すのが筋である。

とすると、この「系譜」は、「三氏の主家の系譜」から観ているのであるから、確かに「主家の一人」を遺したと考えられる。
唯、この「伊賀の主家枝葉の格式」には、「伊賀青木氏の格式」は江戸に集中していた事から、再度、格式を高める手段に出たと考えられる。
恐らくは、この「格式を高めた手段」として、この「主家の系譜」には分析未了であるが、この一つが「女系の嫁」で再び繋いだと観られる。

そうすると、越前に移動したと観られる「一矩系統(久矩)の一族」のこの”「六郷」”は、普通は「現地残留孫」と考えられる。
「大和と伊賀の地での縁組」との縁組と成るが、確定はし切れていない。

と云うのも、そもそも、この”「六郷」”とは、元々、”「一矩一族の呼称」であった”のではないかとも考えられる。
実際に、この「系譜」には、この”「六郷」”の使用が「三か所」に出て来る。
何れも、「六郷の十左衛門・・矩」と云う様に代名詞が付いている。
この事から、「一矩一族(久矩)」が「越前」に移動その後も残留して居た事も考えられる。

現在、この名張域の「大和 六郷」には、「一矩一族の青木氏の痕跡」は、その後に絶えたと観られて確認できない。

(注釈 「奈良の六郷地区」は、R25沿いの「名張」の直ぐ左横の地区である。
「名張」は「皇族賜姓族伊勢青木氏の拠点」であった。
ここに「清連寺城」の館城があった。「伊賀衆救出作戦の拠点」であった。
この一帯は「青木氏所縁地域」である。)

ただ、「大和の六郷」には”絶えた”としても、「六郷」に「一矩の子孫」が居た事は「青木氏の記録」の”「近江青木氏」を庇護した”と云う事が、「青木氏の記録」に明確に有る。
”絶えた”の説では無く、”庇護”の説であると考えている。
つまり、この二つの意味の選択は、「青木氏の商記録」と、「佐々木氏の研究記録」に”「庇護」”と記した意味にあると考えられる。

元々、この「大和 六郷」の地の持つ意味が大きく左右している筈である。

そうすると、この「庇護の経路」を検証して観ると次ぎの様な事が云える。

「庇護の経緯」は、先ず、「本流」は越前に庇護した。
そして、「残留組」は、「三河 額田」より集め、「大和 六郷」より集めて、最後に「摂津」に庇護した事に成る。

この「摂津庇護」は次ぎの様に成る。
先ず、「源平合戦時」に「美濃の富士川の戦い」で、「近江の戦い」で敗れて「美濃の地」に決戦を求めて移動した。
この「近江青木氏」は、結局、「美濃青木氏 土岐青木氏」と共に滅亡したが、この「生き残り」は「三河 額田」に逃避した。
この「子孫の家族」等は、「伊勢青木氏」は近江より摂津に庇護した。
その後、「三河 額田」に逃避した「一矩」が信長に仕官し、出世し「大和 六郷」に子孫を定住させた。
その後、「北の庄」の「八万石の大名」に成り移動した。
「関ヶ原の戦い」から続く「冬夏の大阪の陣の敗退」で、「一矩の孫の久矩」等は越前に逃避した。
その一部末裔を「大和 六郷」に遺した。
これらの「大和 六郷」に遺された子孫を「摂津」にそっくり「庇護」した事に成る。

そこで、「近江青木氏」は「源平近江の戦い」の時に敗退したが、一時、「伊勢青木氏」が、ここ「名張の勢力域」の「大和六郷」にその家族を匿った事も考えられる。
従って、「一矩」は、後に「三河 額田」より仕官後に「大和 六郷」に「三河 額田」で出来た子孫をここに移したと観られる。

その根拠として、「青木氏の記録」(商記録)では、”「近江青木氏庇護」”と簡単に記載されているだけである。
「伊勢の商記録」である事から、何も地名も書かずに”「庇護」”とだけ記する以上は「伊勢青木氏の勢力域」に「庇護した事」に成ろう。

尚、「近江佐々木氏の研究記録」に依れば、「同族縁者の近江青木氏」に付いては、共に戦った。
この近江での「源平合戦敗退時の庇護」には、”伊勢並びに越前に庇護した”と記されている。
恐らくは、この「二つの記録」の”「伊勢」”は「名張域」の「大和 六郷」であった事に成ろう。
故に、その関連から越前までの一連の”「一矩の行動」”に繋がったのである。

元々、この「大和 六郷」は「近江青木氏」に執っては、あくまでも”「逃避地」”であった事に成る。
「近江青木氏の定住地」では無かったのである。
「伊勢青木氏」が採り計らった「逃避地」であった。
近江は最早、他の勢力圏と成り、無理で「摂津の勢力圏内」に庇護した事に成る。
従って、”絶えた”のでは無く、全て”そっくり移して庇護”した事に成る。

「大和 六郷」に”痕跡”が無いのは、「伊勢青木氏」が、江戸期に成って「時勢」が落ち着いたところで、”一族郎党を摂津に移した”と云う事に成る。

そもそも、「青木氏商記録」や「佐々木氏の研究記録」にこの事が記されている。

では、この”「摂津」”とは、”どう云う処なのか”と云うと、改めて述べて置く。
元々、この”「摂津」”とは、「伊勢青木氏」の「大店の二店舗と屋敷」と「伊勢青木氏所有の三隻の千石船」の「堺港」と共に「主係留地」である。
且つ、「平安期からの遠祖地」で「大地主」である。
この”「摂津」”には、当然の事として「伊勢青木氏」が平安期から駐留していた。

「越前の逃避地」と同じく、この”「摂津」”は古来より水軍(伊勢水軍の第二係留地)も備えた”「青木氏の防御の拠点」”でもあった。

この意味からも「近江」に近い旧来の”「摂津」”に庇護したのである。

(注釈 歴史的に参考に成る記録によると、この「摂津(伊勢)の青木氏(駿河水軍と伊勢水軍)」と、近江北部から降りて来た「残存の佐々木氏」等が、摂津西の「渡辺水軍」と共に「摂津水軍」を形成して、「義経の壇ノ浦戦い」の時に側面から平家水軍を突いて「戦況」を変えたと記されている。
味方の「北条軍(梶原氏)の恣意的な邪魔(妬み 嫉み)」を受けて「不利な戦況」と成り得ていた矢先に、この「摂津水軍の側面攻撃」で義経側に形勢が傾いたとする有名な戦史である。
戦い前の「軍略会議」で義経と梶原氏等が切り合い寸前の激論を交わした。
この事から、事前に梶原氏等の邪魔が入る事で戦況が悪化する事を予想した義経は、戦略を変えて、「身内の摂津水軍」にこの作戦を命じていたのである。
これを契機に、義経専属自前の「熊野水軍 紀伊水軍 伊勢水軍 駿河水軍」が「ゲリラ戦の攻撃」に転じて勝利した。
その後、この「摂津水軍」はこの役目を終了後に戦場から直ちに引いたとされている。

その様な重要な「青木氏の商業拠点」であって「陸海の防御の拠点」でもあったのである。
常時は、貿易の「商船団の護衛船」として伊勢と摂津を拠点に働いていた専属の水軍である。

(注釈 この「ゲリラ戦」とは,「軍船と軍船の弓火矢の戦い」では無く、直接に「軍船」に横付けして「船上」で戦う当に虚を突いた「海賊戦の戦法」の事を云う。
この「海賊戦」を提案したのが、当時、蛮勇で有名な「紀伊灘の海賊」の「紀伊水軍」であった。
「義経」は「圧倒的な平家水軍の優勢]から観て、この「紀伊水軍」を味方にするかは「勝敗の決めて」と考えていて何度も説得を試みた事が記されている。
この「ゲリラ戦」が「紀伊水軍の条件」として味方する事に同意した経緯が記録されている。)

(注釈 「水軍船団の弱点」の”「側面攻撃」”が「予想外の戦略的な目的」であったと観られる。
そもそも、逆に船は後退できない為に一度側面攻撃で攻めた後は、自らが的中に突っ込む為に逆に「側面攻撃」を受ける事に成る為に危険度も大きい。)

(注釈 清和源氏の全青木氏と繋がりを持つ「頼光系四家」もこの「摂津」を拠点としていた。)

(注釈 「近江佐々木氏」も「源平近江の戦いの敗戦」で、「伊勢青木氏」は家族を近江から救い出して「摂津」に保護している。近江佐々木氏の軍は美濃に移動転戦し滅亡した。
この経緯が「佐々木氏の研究記録の資料」では詳しく研究されている。)

(注釈 一矩の長男の「俊矩」は東軍に味方した「前田氏の人質」になった。 越前に逃避した「一矩」は2月後に没する。)


恐らくは、「近江青木氏の出自」である事から、この”「摂津」”は元より「額田」にても、その後に、添書から読み取るところでは、未だ僅かに「一族残留組」が居て定住していたのではないかと観られる。

「氏家制度」の中で、「五家五流の宗家の役目」としては、「青木氏の記録 近江氏の庇護(近江,越前、摂津、額田)」の記録にある様に、これには明らかに「伊勢青木氏の仲介」があった。

(注釈 「大和 六郷」の事に付いては、「豊臣家の淀君に関する資料」の中に、”大和(六郷)よりいずる青木氏なる者(一矩-俊矩-久矩)・・”として面会して、大坂方に味方する事を約している。)

この事から、「一矩一族」は、この「大和 六郷」にも子孫を遺していた事が判る。

(注釈 この「大和」は、「家康」が「淀君」に対して「片桐案三案」の,「大阪城退去」を条件に「大和国55万石」を与えるので、そこで「豊臣家」を改に興す様に説得した経緯がある。)


ここで、この「系譜」に記されているこの事に関する「決定的な事」を記すると、次ぎの様に成る。

この「一矩一族」に嫁した「伊賀の青木氏」の「主家の子女(娘B)」の母は、「六郷 十左衛門正明の女」と成っている。
「主家の系譜」では、その夫は「政長」と成っている。つまり、五代目である。


その夫(政長)は、 十三歳で跡目に成っている。
その後、江戸初期に、前段で論じた通り、「小姓組」 「西ノ丸勤仕」等と大出世している。
この「系列の以後」には、他氏からの養子縁組で何代か跡目が継承されている。

その最初の「婿養子の政行」(六代目か)は、特記すべきは、この者は最高官位は「従五位下 豊前守」叙任と記されている。

つまり、上記の通り、「伊賀の青木氏」の「主家の子女」(娘B 伊賀の戦い後)が「一矩の一族の嗣子(久矩の子)」に嫁している。

ところが、その前に、この「娘Bの母親」は、何と「一矩の一族」(久矩かは判らない)から「伊賀の青木氏の主家」に入っているのである。

「一矩の嗣子」の「娘A」(伊賀の戦い前)が、「伊賀の青木氏の主家」に嫁し、その「娘A」の子の「娘B 次女」を「一矩の嗣子一族の妻」に嫁している事に成る。
要するに、「相互間に同族血縁」をしていた事に成る。

次ぎの驚きは、この「娘A」の子供と成った「婿養子の政行」は、「一矩の出自」の「近江青木氏」の「永代官位」を引き継ぎ、「従五位下 豊前守」の「叙任の栄」を受けている。
これは、”一体、どう云う事なのか”である。


そこで、この「近江青木氏の永代官位」を「伊賀の青木氏」は、「一矩一族」から、”何故、受け継いだのか”である。
普通は受け継げない家柄である。
この者は「六代目」と成るので、当に、江戸初期と成る。

「一矩一族」は、次ぎの様に判断したのではないかと考えられる。

越前に逃避した事
除封を受けた事
商人に成った事
五代目で「深い縁続き」に成った事

以上の事が起こり、”最早、奈良期からの「永代官位」を引き継ぐ格式の意味が消滅した”と考えたのではないかと観られる。

そこで、「五代目の努力」で「縁続き」と成った事から、この名誉ある「徳川氏の御家人」と成った「伊賀の青木氏」の将来の発展を期して永代官位を移したと考えられる。

何れも、「近江青木氏」も「四家制度」を敷く家柄、「伊賀青木氏」も秀郷一門下に成り「四家制度」を敷く家柄に成った事から、「青木氏跡目方式」は、男女孫域までの嗣子は差別無く「跡目」と成り得る仕来りである。
従って、「親子の女系」で「相互血縁」をした事で、「伊賀の青木氏」が「近江青木氏」に成り得る。

(注釈 婿養子の「政行」は「山角藤兵衛親詮の六男 義父政長の「娘C 長女」を妻としている。
「娘B]と[娘C」は姉妹である。)

この「四家制度」で、「娘C」の子は、「近江の青木氏」のみならず「伊賀の青木氏」の正当な「主家の跡目」と成り得る。

依って、この「青木氏の四家制度の仕来り」から「伊賀の青木氏」は「永代官位」を引き継ぐ事に成った事を意味する。

(注釈 「豊前守」は名誉官位であった。「永代官位」であるが、その後には「二代」で終わっていて、その後の系譜には官位は不思議に書かれていない。
恐らく、「大番役」で通した事から、”役柄にその官位そのものの必要性が無い”と末裔は判断して返還したと観られる。むしろ「大番役旗本」には邪魔と考えたのではないかと観られる。)

この「永代官位移行」で「近江の青木氏」=「伊賀の青木氏」の深い関係が生まれたのである。
その血縁の「象徴的な手段」としたと考えられる。

(注釈 「伊賀の青木氏」は、前段で論じた様に、「たいら族」の「貞盛の宗家の跡目」から出自した形を採っているが、[天皇への不敬不遜の至り」から作法的に採った繁盛ルーツである。
依って、その官位は正式には無い。)

この二人は「伝統シリーズ]等の論文で何度も論じている「青木氏の話題の人物」である。
この「青木紀伊守一矩」(従五位左衛門佐 越前北庄八万石)の「青木氏の出自」は確定していないが、近江青木氏である事は上記した様に「青木氏の資料」からは明らかである。

(注釈 この一族には他説が多く、上手く歴史の事柄を繋ぎ合わせた搾取説が殆どで矛盾だらけであり信用できない。
「青木氏の資料」から論じている。)

然し、「官位」や「官職」や「家紋」などから総合的に考察する処では、「1の天智期の近江青木氏」であると観られる。

この「青木氏」は、「源平合戦」の「美濃の富士川の戦い」の際に滅亡した「近江の皇族賜姓族青木氏」ではないかと考えられている。
この「青木氏」は、滅亡後、[伊勢の皇族賜姓族青木氏」の末裔とその血縁族が住む「三河国額田郡青木村」に逃避した。
現地近江に遺された一族の末裔の一部は、一度、近江で過ごし、その後に、摂津に移動して「伊勢青木氏の庇護」の下に入って生き延びた。

「源平合戦」で各地の「青木氏の庇護」の下に散った残党を「額田の青木氏」が呼び集めて、「信長」に若い頃に仕官(1559年頃)した事に成る。
その後、上記した様に、「奈良の六郷」と云う処に住まいを構えていたと観られる。

その時、「1598年前頃の青木氏の中での呼称」は「六郷の紀伊守殿」と上記した様に呼ばれていた模様である。(伊賀の青木氏の系譜)

(注釈 額田での「若い頃]の信長の「遊び友達」では無かったかと観られる。)

史実としても、確かに「信長」や「秀吉」にもに重用されて勲功を挙げている。

この「青木紀伊守一矩」と「青木伊賀守忠元」の二人は、その後、信長死後、「秀吉」にも仕えた。

ただ、この「青木紀伊守一矩とその子孫(俊矩-久矩)」は、「秀吉の家柄作り」に利用されて、「秀吉の青木氏」の発祥の元に使われた。
「秀吉」に「我が従兄弟」とも発言される等して、取り込まれ、その「母方末裔」と称して二代目(実質四代目)を秀吉の母方親族と観られる者に継承させて「秀吉の青木氏」を作った。
この「秀吉の青木氏」のその所領は、豊臣政権中は「伊予」や「土佐」の二郡を所領した。

然し、「豊臣政権滅亡」にて、この「青木紀伊守一矩」は、徳川氏に依り除封(「徳川除封禄」)され、「青木忠元」と異なり、その結果、その一族(久矩)は福井越前の「青木氏の庇護地」に逃げ込んで商いをして生き延びた事が「青木氏の資料」で判っている。
(現存している。)
「忠元」の様に「遠祖地の持ち主」であったならば、除封されたとしても、何らかの「遠祖地の支配権(地権持ち)」に戻されている筈である。
然し、福井越前に主流が逃避しているところから、「近江青木氏系」の「額田郡」に住していた「遠祖地」を失した「青木氏」である事が判る。

(注釈 他説は矛盾が多い。「従五位左衛門佐」のこの官位は、「賜姓五役」に役する「皇族賜姓族青木氏」にしか与えられない最高官位で永代官位である。
そもそも、一地方の土豪の「丹治氏系」には与えられる資格は無いし、「丹治氏系青木氏の説」ならば、越前に逃避する必要が無く、徳川方に味方した勲功で「摂津麻田藩」を家康から与えられている事から逃げる必要も無い。
そもそも、豊臣方に味方している。
他の説は,何れにせよ「宗派,家紋、官位、官職」の全てに完全矛盾する。
そもそも、この「永代官位」は勿論の事、丹治氏はその家柄では無い。)

(注釈 況して、「丹治氏」ならば麻田藩に加わる事が出来、「除封」は受けず、追われる事は無い。
他説は後付説で論外)

この青木氏に執っては忌まわしい「伊賀の戦い」は、結局は、「約3年の戦い」と成るが、「忠元」はこの様に懸命に説得工作に出たと考えられる。


「本所役の忠元」は、「皇族賜姓族の伊勢青木氏・信濃青木氏」に沿う以上は、「伊勢国人」として、「伊勢郷氏」として生きねばならない宿命に縛られている。
従って、この「仕来り」から、何れの家臣にも成れない柵があった。
しかし、「信長」に「抗う事」は「青木の氏是」に反して、”「戦い」”を仕掛けなければならない填めに成る。

第一次の「丸山の戦い」(1578年-1579年)では、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」の「青木氏の顔」を隠しての「ゲリラ戦」で応じて勝利した。
然し、何時までもこの姿勢を保つ事は出来ない。
「伊勢三乱」に発展する事の前に、そこで、「本所の宗家忠元」は、「皇族賜姓族の伊勢青木氏・信濃青木氏」に代わって止む無くこれを受けた。

つまり、出来る限り「伊勢の青木氏への衝撃」を押えたのである。

「名張戦、伊賀戦」では、「青木氏の記録」では、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」側は、名張城から「窮地に陥って伊賀者18郷士」を救い出す事に限定して「救出戦」(1581年)で応戦して救出した。
(この伊賀衆を青木氏の定住する地域の「神明社組織」で保護した事が判っている。)

「本所役の忠元」は、上記した様に”「紀伊守の仲介」”で何とか難を逃れた経緯があった。

この様な事もあって、江戸期に成って「家康」から「忠元」は”「除封」”は受けたが、「遠祖地の支配権」は安堵された。
この時、「伊勢の紙屋の青木氏」の「家康への執り成し」であったと観られ、共に「伊賀と伊勢と紀州と堺と摂津」の一部を「本領安堵」されたのである。
(前段等で論じた 参照)

(注釈 「紀伊守」は、平安期に「遠祖地」を失っている事と、”「秀吉との関り具合」”から”敵対した”と観られて許されなかった。
この「紀伊守の動向」を考察すると、特段に「徳川氏に対しての功罪」は無い。
「除封の憂き目」を受けるものとして唯一つあった。
それは、上記の”「秀吉の関り具合」”とは、”「秀吉の青木氏」の事”だが、それが”「豊臣家一族」”と見做されて許されなかったのである。)

そこで、この様な「秀吉の青木氏」に観られる様な典型的な「家柄格式の引き上げ」の為に利用された”「婿養子」”に類する縁組が「二つの青木氏」にあった。
これは、「姓族」をはじめとして、他氏の場合は、”「権力」”に裏付けされた”「家柄の吊り合い」”の「引き上げの為の縁組」は、常である。
然し、「二つの青木氏」の場合は違った。
それは、”「権威」”に基づく悠久の「歴史と伝統」を持つ”「格式の獲得」”にあった。

そこで、従って、「伊勢青木氏」を始めとして、他の「二つの青木氏」の調べられる範囲での「系譜添書の内容」から、果たして、どの様に成っていたのかを調べた。


ここで、その一つの例として、先に一つ疑問があるので、検証して観る。
それは、上記の様に「近江青木氏と伊賀の青木氏」との血縁は進んだ。
然し、”「近江青木氏」と「忠元一族」との血縁が何故起こらなかったのか”である。
実際は、「血縁」が起こっていない。
普通なら、上記の様に成っているのであれば、「忠元一族との関係」もあったと考えるのが普通であろう。
確かに、「織田側の重臣」に対し、一方は敵対する「伊賀側の支配者で指揮官」である。
大見栄きって出来ない事は判る。然し、「伊賀青木氏」とは出来ている。

何か出来ない理由があって出来なかったのか。「100年後の末裔」にも起こっていない。
その理由が調べるが記録に出て来ない。

唯一つ考えられる経緯の事が次ぎの経緯に在る。
「青木氏の柵具合」が判る出来事であると観られる。

上記に経緯として、「近江青木氏」の一部を論じたが、「近江の源平合戦」「美濃の源平合戦」の何れにも敗退して滅亡した。
辛うじて、「一矩の先祖の一族」は「伊勢青木氏」等に依って「額田の青木村」に救出された。
この時、「近江青木氏」の「滅亡の憂き目」の原因は、「秀郷流青木氏」が、”「近江や美濃」で助けに入らなかった事”が敗退したと受け取っていたと考えられる。
何れの地にも「秀郷流一族」は存在した。
況して、「賜姓五役補完」としての役目もある。

つまり、”「近江青木氏」が「存亡の危機」の時に、その役目を、何故、果たさなかったのか”と云う不満である。

確かに、その事は云える。
平家もこの事(出て来ないと云う事)を知った上での「戦い」であった筈である。
何故ならば、「二つの青木氏」には、「青木氏の氏是」がある事を知っていたからである。
主導役の「伊勢の皇族賜姓青木氏」が動かなければ、「特別賜姓族の青木氏」も動かないであろう事は誰が考えても判る。
況して、「近江青木氏系一族」と「美濃青木氏系一族」は「青木氏の氏是」の「奈良期からの禁令」を破った事でもある。
同族と云いながらも、「氏族」の生きる前提は、「嵯峨期の詔勅」に依って決まっている。
「賜姓五役」や「三つの発祥源」や「国策氏」等の「生きる目的の為の役務」は与えられていない「氏族」である。
この「異なる生き方をする源氏」に対して、「同族の賜姓源氏」に引きずられて禁令を破っている。
後勘の者として観ると、「近江青木氏等」は「氏の歴史的な事柄」を鑑みても、「思考原理」が短慮であり、根本的に間違っている。
「先祖の伊勢側」もこの様に受け取っていたと観られる。

これだけでも、当然に同じ考えに立つ「特別賜姓族秀郷流青木氏」も参戦する事は先ず無い事は判る。

然し、「近江青木氏側」は、”「五家五流]の内の「三家」(甲斐も行動を途中まで行動した)が動いたのだから助けるのは当然であろう”と考えた事に成る。
つまり、この事は、「近江青木氏」が、「二つの伊勢青木氏」に対して、奈良期から務めて来た”「主導役」”を素直に認めていなかった事に成る。
そもそも、「四家制度」に依っては、確かに「五家五流」は「平等の格式家柄」にある事は史実である。
何か特別に「二つの伊勢青木氏側」に「朝廷の賜姓のお墨付き」が在った訳では無い。
それは「647年の発祥時の経緯」の差だけであり、伊勢の「皇祖神の地の守護の経緯」の違いだけである。
後は同じである事も事実である。

「近江」にして見れば、”朝廷との直接の繋がりの場にいた自負”もあった事も事実であろう。
「青木氏の氏是」にしても、”「危機存亡」の折に「氏是」に拘るのか”と云う考え方もあった様でもある。
況してや、この”「青木氏の氏是」は、「施基皇子(伊勢青木氏)の遺言」でもあるだけではないか”と考えた事も事実である。
そもそも、「川島皇子の血筋(近江佐々木氏始祖)」も持つ「近江青木氏」に執っては、「青木氏の氏是」がある事は認めるも、「伊勢青木氏」が思うほどの「絶対性]は無かった事も否めない。
(資料にもそれと読み取れる一文もある。)
この点から考察した場合は、末裔としての「後勘の判断」としては、納得はしないにしても「近江青木氏の言い分」は排除でき得ない。
「二つの伊勢青木氏」もその分での配慮もあったと考えられる。

然し、雌雄を決して、最悪全ての「青木氏」が「滅亡の憂き目」を受ける事は避けなければならない。
役務である以上は、「近江青木氏」等の様に、”一か八か”は成り立たないと考えた筈である。
これは、”「青木氏の問題だけでは無い。事は朝廷まで及ぶ」”と租借していたと考えられる。
従って、「伊勢側」は、”「知略」を使って遣るだけの事はしよう”と考えた筈である。
現実に、上記した様に「知略」の限りの「援護と庇護」を行った。


現実に、記録にある様に、「平家軍」も「信濃域」に転戦していた「軍勢」をこの「美濃の戦い」に呼び寄せての戦いであった。
これで、場合に依っては「秀郷一門」が出て来る事も予測して「平家軍」も準備はしていた事が判る。
近江には、「近江の蒲生氏」(後の「伊賀の戦い」の指揮官 西の公家政権の監視役)、「美濃」には、「州浜紋類]と「片喰紋類」の「秀郷流青木氏」が定住地である。
この「秀郷軍(主軍は青木氏)」が動けば、「平家軍」は明らかに「挟み撃ち」に合う。
「持久戦」に持ち込まれれば、「平家軍の全軍餓死全滅」である事は間違いは無い。
故に、そこに至る前に慌てて「富士川合戦」に持ち込んだのである。
そして、形勢が決まると直ぐに軍を引いたのである。
当時の「三大組織的軍事力」は、「源氏力、平家力、秀郷流青木氏力」であった。

「近江青木氏」が考える事とすれば、”何故、「合力」は別としても、「滅亡」までに至らなくても手前での「援護なり救援」が無かったのかである。
”あれば、「滅亡」までには至らなかった”と考えていたのではないか。

況してや、歴史を通してみれば、「伊賀の件」でも、又しても、同僚の秀郷流「蒲生氏郷」が指揮官であった。
この釈然としないものが代々あったのではないかと考えられる。
然し、「伊勢側」から観れば、”何を勝手な事を”と成る。

「関ヶ原戦い」、「大阪の陣」共に助けは無かった事から、又しても「裏切られた感」を持っていたと観られる。
[富士川の戦い」の時にせよ、「伊賀の戦い]の時にせよ、「大阪三戦」の時にせよ、「徳川除封」の時にせよ、”「賜姓五役」で繋がる青木氏同族”でありながらも、何れも「秀郷一門の合力」は一切無かった。
「同族青木氏」と観れば、普通は合力程度はある。
現に、「伊勢の皇族賜姓族の青木氏」の賢明な側面からの「救援と庇護」はあった。
「人心」としては比較されるは常道である筈である。

(注釈 「青木氏の氏是」は、「賜姓五役と三つの発祥源と国策氏」の「役務」から、”「他氏への仕官」”は「最も厳しい禁じ手」である。
あくまでも、”朝廷が認める「永代地権」を持つ「郷士、国人の範囲]で留めなくてはならない。”
故に、「五家五流青木氏」は、永代の「不入不倫の権」に護られていたのである。 
この「掟」も「近江青木氏」は「信長秀吉の家臣」と成って破っている。
「伊勢青木側」から観れば、”何をか況や”である。
実際も、矢張り、「援護 支援 庇護」はするも、その範囲では一応の「付き合い」はするも、「血縁の範囲」では、出所進退ははっきりしている。
然し、室町期から江戸期には至っても何も無い事もあり、付き合い難ったのではないだろうか。)

「史実」として、この様に成るが、調査研究を進めているが、的確な資料は「青木氏」の中では「直接の血縁」と成るものは出て来ない。
恐らくは、筆者の観方は、「伊勢側」が後に末裔がこれらの歴史を恣意的に”隠した”のではないかと観ている。
当時の慣習としては、何らかのものがあるのが普通なのであるが無い。

唯、「忠元側」にして見れば、「賜姓五役の補完」としての「青木氏の氏是」に縛られていた事が在る。
非常に難しい立場であった事も判る。
然し、”「伊勢の皇族賜姓族の青木氏」の賢明な側面からの「救援と庇護」(知略)はあった” 程度の事は出来た筈と観られた事も考えられる。
逆に、この「救援と庇護」が目立った事も考えられる。


そこで、別の方向で次ぎの研究をした。
「皇族賜姓族」では、「伊勢青木氏」、「信濃青木氏」、「近江・摂津青木氏」の三氏と、「特別賜姓族」では、「伊勢秀郷流青木氏」、「関東秀郷流入間青木氏」、「讃岐秀郷流青木氏」の三氏に付いて調べた。
その結果、その「家柄格式」からして、一寸、”「不思議な血縁」”と観られるものがあった。

それは「本家、分家、支流」の如何に関わらず各所に存在していた。
特に、その傾向として、秀郷一門一族の中でも、「関東の秀郷流青木氏」に多く存在していたのである。

むしろ、「秀郷一門宗家」よりも「第二の宗家」と呼ばれていた「青木氏」に起こっている。
これは、「秀郷一門宗家の血流」を護る為に、防護していたと観られる。

唯、その中でも”「青木氏の分家筋」”が「青木氏宗家」に代って「他氏との血縁関係」を結び、その「政略的な働き」をしていたと云う事に成っている。
つまり、「他氏の血流」を入れていると云う事である。
その「血流の入れ方」には色々な方法があるが、特徴的な方法は、”「婿養子」”が断然に多い。
この”婿養子”は、「秀郷一門の主要八氏」までが採用している「類似の四家制度」を超えている。
「四家制度の範囲」に無いところからの”「婿養子」”に成っている。
添書に書かれている内容からではあるが、ただ、「氏名」からの判断で観ると、「藤原氏北家筋9氏」からは超えていない。


唯、「類似の四家制度」を厳格に採用している「秀郷一門主要五氏」も、”ある面”で「他氏との血縁関係」の血流を護りながらも適度に行っていた模様である。
しかし、それには、無規則に行われているのでは無く、ある歯止めの様なものがあった。
その中でも、その”「婿養子の血縁」”には、”「主要五氏の調整役の進藤氏」”が頻繁に関わっている事が判る。

この「秀郷一門の主要五氏」の「文行系の進藤氏」は、“他氏との血流を広く入れる役割”を果たしていたと考えられる。

ところが、その割には、「文行系の進藤氏の本家筋」が、目立って「跡目」に苦労している系譜に成っている。
矛盾している。これが「不思議の一つ」であるのだ。
ここには、”何か婿養子の血縁に隠された何があった事””が云える。

その”隠された何かあった”と云う事が判れば、重要な青木氏の生き様の判断要素に成り、当時の「青木氏が持つ歴史観」と成り得る。

”何か不思議”で、先天的に”「女系族」”なのかもしれないが、そもそも、この”「婿養子の跡目」”が頻発している。

するとこの結果、他氏から入る事に依って”「一族の血流性」”(純血性)が低下して、結果、「子孫力と組織力」が低下していたのであろう事が判る。

「女系性」が進藤氏の一族枝葉全般に起こる現象でも無い筈である。
依って、問題は「女系性」では無く、「一族枝葉全般に起こる確定的な現象」と成る。

それは、そもそも、「四家制度」の様には行かずに、「嗣子のやり繰り」が一族内で効かなくなる傾向があった事に成る。
その結果、挙句の果てには、「血流性」が三代内で低下する事に成って、「他人性」が増して、”「一族争い」”が起こる事に成った。
そして、益々、”「跡目継承者が少なく成る現象」“を起こす傾向が頻発して、それが常態化して仕舞った。

恐らくは、この現象が起こっていた事が判る。

この傾向は、「文行系の一族」にも観られる現象ではないかと判断できる。
添書には、娘の嫁子、他氏養子、婿養子、跡目養子、養女、養子等の形であるが、婿養子の血縁が多い事が云える。
「一族存続の在り方」に付いて一つの「文行系の考え方」が在ったと観られる。
それが、「文行系進藤氏」の様に、はっきりとして「秀郷一族一門の中での役目」であったかは判らない。

重要 これが”「婿養子の最大の欠点」”とされていた。

「調整役」を務めいた「進藤氏一族」が典型的な見本である。「青木氏」はこの「進藤氏」を観てこの事を
充分に承知していたと観られる。
その為にも、「主要八氏」内で採用した「伊勢の四家制度」に類似した「秀郷流青木氏の四家制度」の理由の一つと成ったと観られる。

(注釈 この「進藤氏」に付いては、前段でも「円融期の青木氏発祥」に大きく貢献を受けた事を書いた。)

そこで、この「秀郷一門」の「調整役の進藤氏」が、この「近江の青木氏」の事に関わっていないか調査した。

そうすると、この「近江青木氏の血筋」を受けた”「脩行系青木氏」の存在”が出て来たのである。

実は、この「脩行系青木氏」は、「秀郷一門の4代目文行の流れ」の「文行系の青木氏」である。
「伊賀の青木氏」と同じく「特別の青木氏」である。
「秀郷流青木氏」は「4代目兼行系の青木氏」である。
前段で論じた様に、本来は「青木氏」が出ない仕来りに成っている。
然し、出ている。
実は、この「脩行系青木氏」は、ある背景があった。
京に在し”「公家青木氏」”と云われ「公家の血筋」を引く「青木氏」である。
この「脩行系青木氏」は、「文行系の進藤氏」の系列に入る系である。
この「脩行系青木氏」は、「近江青木氏との血筋」を持つ事から、特別に「青木氏」を名乗ったとされる。

この「公家青木氏の脩行系青木氏」は、南北朝末期まで「紀州北部の大掾位」を務め、「若山3000町歩」を所有していた。
ところが、南朝に加担した事から「紀州掾の除役」と成った。

一部は「讃岐秀郷流青木氏」を頼り「伊予土佐域」に逃避、主流は本領の美濃に戻った。
美濃と三河域を勢域とする主要の「秀郷一門の州浜紋族」である。
現在も、「和歌山県有田市」にこの「青木村」の地名は残っている。
ここには「脩行系青木氏」の末裔子孫はある僧侶の一族末裔を除いて定住していない。
唯、紀州には女系で繋がる傍系土豪の玉置氏等が現存する。
室町期に在住した「藤原族青木明恵僧侶」が開いた「明恵温泉」で有名な地域である。
この「青木明恵上人」は、紀州の「藤原族の頭目」として地元の民から慕われ、後に剃髪して上人と成った紀州、伊勢、奈良域では有名な人物である。

これが、「調整役の進藤氏」の採った「仲介」ではないかと考えている。

唯、この「近江青木氏の血筋」の受けた「紀州の脩行系青木氏」の「明恵青木氏の発祥期」が「室町期の何時」であるかは確定する資料が無いので現在は判らない。
「脩行系青木氏」は平安末期である。
若干、時代性にズレの疑問もあるが、然し、「明恵上人」として存在し、その末裔は有田近隣に遺しているので、この時期の事である事には間違いは無い。

考えられる事は、この「明恵上人一族」と「忠元の一族」が女系で繋がったかは不明なのである。
この事が確定されれば、「近江青木氏」と「忠元の青木氏」との関係があった事が証明できる。
然し、、現在は判らない。

(注釈 近江青木氏の一矩」が「紀伊守」に任じられたのも、この上記する紀州との所縁から来ている。)

筆者は、資料有無は別としても,或は消去にしても、「両氏の何らかの血縁」は無かったと観ている。
上記した様な意識の違いの事も長い歴史の中ではあり得る。
「進藤氏の仲介」があったとしても近江側が「拘り続けた事」もあり得る。
何せ「商記録」に出て来ないと云う事は、「伊賀の事件」以後にしても、「一矩末裔一族」は「伊勢青木氏の庇護」の下に「商い」をしているのである。
共に「商い」をしている立場でもあり、何かがあって当然である。
ここまでの”「消去」”は無いであろうから、”無い”と云う事は無いのであろう。

それは、「伊勢青木氏と信濃青木氏」は血縁を繰り返し、「和紙や商い」は元より明治35年まで深い親族付き合いをしていた。
この事を鑑みると、「近江青木氏」とも”ある”のが当たり前であるが、これは無いのである。

不思議に、「青木氏の商記録」には「近江青木氏」の事は出て来ない。

上記に記した様に、「越前」で「商い」を紹介し庇護しているし、直ぐ近くの「商いと防御の拠点の摂津域」にも庇護している。
何も出て来ないのは「不思議な事」なのである。普通は何かしら出て来る。

(注釈 史実としては、平安期末期には、滋賀で伊勢の上田郷から出て来た「荒くれ者」が滋賀に残留した「近江青木氏の跡目」の途絶えた「老婆とその娘」の家を襲い、その家を奪い滋賀青木氏を名乗った。
この近江に帰った本筋の「近江青木氏」が、この搾取の「滋賀青木氏」と「[青木氏奪還戦」を繰り広げ敗退した。
更に、秀吉の時代に再び、秀吉立ち合いの下で、この「滋賀青木氏」と青木氏奪還戦」を展開し勝利した。
この時の「近江青木氏」とは、「近江の青木一矩」であった可能性がある。この二件がある。)

解き明かせない疑問なのである。何か変である。
越前で「神明社」を通じて「商い」を指導し、紹介して江戸期中期には「大店」を営むまでに成った事も判って居る。
「近江の青木氏の血筋」を受けている「仲介役の進藤氏系」の「脩行系青木氏」が伊勢近くに居たにも関わらず無いのは不思議なのである。


上記の様に、「一族一門の血縁」に関しては、その「氏の存続」に大きく関わっている事は判る。
然し、血縁で解決できない何かも働いている事も「青木氏」の中で起こっていたのである。
これらの事は、「自然の成り行き」で起こる事は先ず無い。

一族一門の誰かが、一族一門を繁栄させる為に、仲よく護り合う体制を作り上げる為にも、その役目を演じているのである。

それが、下記に論じる「秀郷流文行系進藤氏」がこの役目を演じていたのである。

依って、この「進藤氏の動き」を調べれば、何かが判って来るのである。
現に、「九州の永嶋氏等」この事から判った事でもある。
従って、ルーツを調べる時には「進藤氏の動きや系譜」などを調べるのが通例である。

現に、上記の「脩行系青木氏」はこの「進藤氏系の一族」である。
このことから多くの事が判るのである。
「青木氏のルーツ」を調べる時には、この「進藤氏の検証」は欠かせない。
それにこの「進藤氏の系譜」には,特徴があって、「系譜」よりも「添書」の方が大きいのである。
従って、一見「系譜」では無く「歴史本」と観える。
読み込むには漢文の技量も必要として大変である。
読むだけでも大変なのに、その上にその文章に持つ意味合いなども読み取らねばならないのである。
「秀郷一門の歴史」を知るには、「古い時代の歴史観」なども会得するには、「佐々木氏の研究資料」と共に「青木氏の参考書」なのである。
避けて通れない「進藤氏」なのである。


この「進藤氏の系譜」は、この典型的なパターンを起こしていて、結局、「進藤氏の本家」が二つもある様な現象が起こっている。
そもそも、血縁を進めるこの”「婿養子」や「嫁子女」“には、この問題が「潜在的」にあり、「四家制度」では、「婿養子」を他氏から積極的には採らない仕来りに成っていた。
この理由には、更に、”「本家割れ」”のこの事も懸念していたのである。

「信濃足利氏系青木氏」でも、「信濃足利氏」でも、「甲斐青木氏」でも、「甲斐武田氏系青木氏」でも、「美濃土岐系青木氏」でも起こっている。
「青木氏族の関係族」にはこの様に起こっているのであるから、一族を上手く取りまとめる役割の族が必要に成っていたのである。
これが進藤氏と云う事である。

この「調整役の進藤氏」が強い影響の受けたこの“「婿養子の弱点」”とも云うべき現象を無くす目的から、次ぎの様な手立てを講じていた。

前段で論じた「円融天皇の目論見策」から、「秀郷一門」の「青木氏宗家」には、“「秀郷一門宗家」の「第三子」を優先的に跡目に入れる事” を、朝廷から「賜姓時」に命じられていた。
その「跡目」は、“宗家並に守られる仕組み”の中にあったのである。
この「仕組み」が、「第二の宗家」と呼ばれる所以でもある。
これで、「婿養子の弱点」を防ぐ事をしていたのである。
と云う事は、当時の時代の皇位族でも起こっていた事を物語るものであり、「天皇」も知って居た事に成る。

この様に「氏家が割れる現象」が出れば、「宗家」から強引に跡目廃嫡をしても「跡目」を入れる事で、「氏族の筋目」は又基に戻る事に成る訳である。

(注釈 「秀郷宗家の出自」と成っている「佐野氏」から跡目を受けていた。佐野氏は秀郷出自氏であり、一門の中でも主要五氏の中でも最高位の位置にいた。)

「秀郷流青木氏」の「始祖の千国」は、「千常」を嫡子として「秀郷の嗣子の第三子」である。
この系譜で、四代目の「兼行系の青木氏」に限って、殆ど、「婿養子の跡目」は無い。
その為に、「116氏」からの「嗣子の跡目」で繋いできている。
その中に、「秀郷一門宗家筋」から平安期から江戸初期までに「4回程度の跡目」が入っている。

これは、恐らくは、次ぎの様に成る。

「母方」で繋がる「賜姓族の補完と云う立場」を護ろうとする意志が働いていた事。
「第三子の掟」もあり、“「四家」“と同じ様な”「何らかの仕組み」“を採って居た事。

以上で判る。

「家紋分析]で観ると、「116氏」と云っても「本家筋」を中心に「跡目」に据えている。
中には、一度、「本家筋の嗣子」にした上で「青木氏の跡目」に成っている。
この場合は、「跡目」は「青木氏の本家筋の跡目」に成っている。

この様に、「秀郷流青木氏の四家方式」は、次ぎの様に成っている。
「秀郷流青木氏の宗家(本家)」は、「伊勢」の「四家方式の二段方式」に類似していた。
「伊勢秀郷流青木氏(本所)」は、「本所役」として、「賜姓五役の補完遂行の役目」がある事から、「五家子流の皇族賜姓族青木氏」と同じ「四家方式」に従っていた。


先ず、「主役の四家」(宗家 主要五氏)がある事。
その下に繋がる「副役の四家」(本家 主要八氏)がある事。
以上の「13氏の役柄」は「主役と副役」から構成されている事
「副役」は「16家」(本来32家 本家筋)から構成される事。
「主役の四家」と合わせると「計20家」(45家)の範囲で構成される事。

以上として「四家制度」に「類似する方式」であった事が判る。
唯、五番目の「計20家」(45家)は実際は厳密に護られていない。

「秀郷流青木氏」は、この「類似の四家制度」に伊勢以外は一般の氏族と同じく「本家分家制度」を採用していた。
これが全体で116氏に成る。
秀郷一門宗家の赴任地に護衛団として同行する事から、赴任地の24地域には現地孫などの枝葉末裔が発祥する。
この事から、「末裔の枝葉」は拡大するので、「本家-分家-支流-傍系」が必然的に生まれる。
「45家」が厳密に護られていなかった理由は、「現地孫の枝葉末孫」が原因していた。
要するに、「現地孫」は「現地の土豪勢力」が主体であった。
この「現地孫」は、前段で論じた様に、朝廷の「青木氏賜姓の暗黙の条件」であった事から、避けて通れない仕来りであった。
その為には、必然的に護れないシステムであった事に成る。
「赴任地」の「土豪の影響」を強く受ける「現地孫」である事から、論理的にも現実に護る事が無理であった事が判る。

この、現地の役務上から発祥する「末裔枝葉」には「四家制度」は一切採用されていない。

類似制の「四家制度」は、武蔵入間の「総宗本家-宗家-本家」の範囲までで引き継がれていた。


この部分を綿密に調べると、類似制の「四家制度」が護れる範囲に於いては、明らかに“不釣り合いな「政略上の血縁」だな“と云う縁組が出て来る。

「総宗本家-宗家-本家」までは入間に定住する事に成るので、長い期間の「慣習仕来り掟」は護れる。
然し、これ「以下の枝葉」は現実には上記した様に難しく、この様な、「不釣り合い」の婚姻が生まれたと観られる。
既に、調べた範囲では、「45家の範囲の末端位」までは影響を受けていた事が判る。
家紋分析と主要八氏の系譜の添書からはっきりと分析できる。
恐らくは、時代が進めば、更に「45家」を超えて、「32家」、更には「13家」と進む可能性が有ったと観られる。
現実に「家紋や系譜」では、最早、辿れない処の江戸末期では、起こっていたのではないかと考えられる。

故に、116氏もありながら「あらゆる伝統」が不思議に遺されていないのはこの事から来ていると考えられる。
「ルーツ掲示板のお便り」にもよくこの事が現れている。
最早、殆どである。

比較対象として、「四家制度の伝統」を頑なに遺した「伊勢青木氏」と「信濃青木氏(諏訪族含)」と「近江佐々木」には、その”「伝統」”は比較的遺されているのはこの事から来ていると観ている。

(注釈 「甲斐青木氏」は僅かに子孫を遺したが、「甲斐賜姓族青木氏」は僅かに遺しているが、兎も角も、「武田氏系青木氏」は、「武蔵の鉢形」に家康に集団移住させられた事もあって遺されていない。)
この「四家制度」が「伝統のパラメータ」と成り得ている。
依って、この「上記三氏」も恐らくは同じと観られるが、伊勢は、最早、筆者の代で間違いなく「終わり」である。
「四家の背景」と成る「慣習仕来り掟」と相対の位置にある。
「伝統の価値観」が全く異なる。個人では支えきれない「事の流れ」の中では仕儀無き事と考える。

「秀郷流青木氏の系譜の状況」に話しを戻す。

例えば、この中には、「時の政権」の「京平家」との「直接血縁」に関わる「縁組」らしきものが、五代の内に四代も続けて起こっている事が読み取れる。

「平家一門からの婿養子の縁組」
一つは、「関東の京平家筋」(平氏の岡田氏 武蔵青木氏に)
二つは、「関西の伊勢域筋」(平氏の嶋崎氏 武蔵青木氏に)
三つは、「京平家の近江域筋」(平氏の本家 蒲生氏経由、伊勢青木氏に)
四つは、「武蔵の京平家筋」(平氏の本家 千常の宗家経由、武蔵青木氏に)


以上の四ルーツである。

ここで、興味深いのは、「三つ目の京平家」から秀郷一門の「近江蒲生氏」に入り、その末裔の一人が「秀郷流伊勢青木氏」に入ったとしている事である。
そうすると、この人物は下記する「青木玄審梵純」である事に成る。

先ず、その第一点が、その子孫が前段と上記で論じ、下記でも論じる”「青木忠元」”である事に成る。

次に、その第二点は、下記するが、「京平氏の支流末裔」の「信長」は、この「京平氏の血筋」を引く「蒲生氏郷」を特段に可愛がった理由がここで一つ観えた事に成る。
「京平家」の中の「同じ家筋の血筋」を引いていた事である。
信長の家紋は、総紋を「揚羽蝶紋」にして、美濃の地域に分布する「たいら族」の「織田木瓜紋」である事からも判る。
この二点が大きく働いていた事に成るのではないかと観られる。


とすると、この「忠元」は、次ぎの様な関係に成る。
「京平家A(女系)」-「青木玄審梵純」-「青木忠元」
「青木玄審梵純」-「蒲生氏郷」
「京平家A」-「織田信長」

この三つの式から、次ぎの関係式が生まれる。

「青木忠元」=「蒲生氏郷」=「織田信長」

以上の関係式が生まれる。

以上の系譜から観ると、「伊賀の戦い」の根底が読み取れる。

前段で論じた「信長」の「青木忠元の扱い方」と「伊賀の戦い方」が明確に読み取れる。

合わせてこの事で、上記で”「疑問」”と成った「近江青木一矩一族と青木忠元の一族との血縁」が難しかった事がこれで判る。

(注釈 これは、「調査資料の有無如何」にも左右されているので、四件に関わらず、他にも多く観られる筈である。)

この「血縁の現象」は、矢張り、主には、「鎌倉期末期から室町期初期」と、「室町期末期から江戸初期」の二期に集中している。

何れ二期ともに、例外なく”「勃興氏の発祥期」”である。
「青木氏側」では、「24地域」に定住した「青木氏の跡目」を護る必要から、より“隙間の出る時期”でもあった。
この事からも符合一致している。

実は、「青木氏の歴史観」から観て、この4つの”「不思議な血縁」”と観られるものは、次ぎの様に成る。

鎌倉期末期の「太平記」(1318-1368年)には三か所
平安末期の「東鑑」(1180-1266年)には二か所
平安期中期の「承久記」(1221年)には二か所

以上の事が、「青木氏の事」(生き様)に付いて書かれていて「何かの縁組」があった事が読み取れる。

他に、「地方の古書」(東作志 因幡志 伊川津志 額田志など)にも”何等かな形”での「青木氏の生き様」が描かれている。

特に、「伊川津志」や「額田志」は「青木氏の定住地」でもあり、且つ、歴史的にも「額田」は、「青木氏の生き様」の大きく有った処で、「有名な史実」が遺された地域でもある。

この事が「古書」に態々書かれていると云う事は、それだけに、“青木氏の血縁に掛かる関心”が、「氏家制度」であった為に一般社会にも強かった事を意味している。
つまり、周囲からは「青木氏」と血縁する事が、“将来を約束された様な「羨望の目」”で見られていた事に成る。

これらの読み取れる「生き様」から観ても、他氏は、“「青木氏」に何らかの形で取り入った血縁関係に関わるもの”である事が記録されている。

その多くは、「遠縁」と目される立場の要するに“「縁籍筋」”からである。
要するに「四家方式」、又は、「本家方式」の”「縁籍筋婿養子」”で入ったと観られる縁組で興った「青木氏」である。

つまり、「純血性の血縁」と「吊り合いの取れた血縁」を基本にして「縁籍筋の血縁筋」で子孫を繋いでいた事が判る。
そして、時々、「政略上の婿養子」を“他氏から入れる”と云う「仕来り」で運営されていた事に成る。

そもそも、「四家制度」とは、ただ恣意的に“「政略的な婿養子」‘を排除したところが異なるだけある。
そこで、「秀郷流青木氏」の本家筋までは、ほぼ同じ「子孫存続の方式」、況や、「慣習仕来り掟」で「氏」を運営していた事に成る。

実は、この「四家制度」を敷く「伊勢青木氏」でも、上記した様に、当に、この“サンプル”とも云うべき出来事が現実には系譜を調べると起こっているのである。

伊勢が混乱に巻き込まれた天正期に、「青木氏の遠縁」が持つ縁籍筋から、この“「政略的な婿養子」”が入っている。
つまり、「家紋分析」でも判るのだが、完全に「血縁性の無い他氏」で「東隣国の豪族」からである。
普通、本来は、「四家方式」では、明らかに「縁外」である。対象外の血縁と成り得る。

ただ、上記の様な「20の顔の問題」があって、この「縁籍外」の形で入ったこの“「婿養子」”は、「放蕩三昧」にて問題を起こした。
そして、「四家の福家」からの注意も聞かずに、遂には、「四家主役の福家」から「養子縁組」を早期に外されて「追放の処置」を受けている。
この者は、「青木氏部」を統括する「四家の5の面 20の顔」の一つに組み込まれていた。
どの「部の者」かは不明であるが、「青木氏部」は、そもそも「技能技術の必要性」から「長年の経験」を必要とし、「欠員」が起こる可能性が高かった事がある。
そこで、「遠縁」を通してここに付けいられた事に成る。

恐らくは、調べた範囲では、”「神明社建築」に関わる「絵画の部」”に問題が起こったものと考えられる。
この者は「職人」で「高い仕事知識を持つ者」が、「他氏]に居て、それが「遠縁筋の配下」に潜入した。
そして、主家に取り入り、その後に優秀であった事から「四家」に最初は「弟子入りの形」で入った。
後に“「婿養子の形」“で廻された事に成るらしい。
この者が放蕩三昧で外された後も、この「養子縁組の青木氏」は、「明治3年の苗字令」で、その末裔は引き続き「青木氏」を名乗っていて「子孫」を拡げている。
現在も、関西の和歌山南部と大阪のある地域で「伊勢青木氏の末裔」と名乗っている。(元は藤田姓)

矢張り、これは「自らの家の名声」を高めようとする行為であって、“除名追放された汚名”が在るにも関わらず、「姓名」を基に戻さなかった事が証明されていて、現在でも“末裔だ”とも吹聴している位である。
「当時の内容」から観て、「福家」も驚くほどの非常に才覚の訊く有能な人物であったらしく、“撹乱して跡目を乗っ取る手順”であったが、上記する“「四家制度」”の「チェック機能」が「四家の青木氏」に働いた。
そして、この時期に伊勢周囲の他氏の乗っ取り成功例の様には行かなかったと云う事であろう。

(注釈 9件も伊勢域で興っている。 主に「信長」が郷士や土豪に仕掛けた「伊勢謀略」の「北畠氏関係」で、 歴史上で有名な事件になったのが2件も起こっている。
この内の1件であった。)

これは、恐らくは、失敗に終わったのは、“「四家制度の中味」”が充分に理解されていなかった事に成る。
これは、史実でも明確に成っているが、“「信長の伊勢策謀」”の一つであった事ではあった。
しかし、失敗したにも関わらず、この除名追放の後、「青木氏」を「姓名」として名乗り続けたのは、その者が「信長の威光」を恐れて、その後も「最低限の策謀」を続けていたと観られる。
この「四家」に対して、この「策謀」を潰し続けていた事が、「南伊勢」」と、「桑名」と「脇坂」と「上田」の「青木氏」の「三つの出城のある地域等」で、「青木氏の土地の混乱」が同時期に起こされている。

「南伊勢地域」を含む土地(地主)には、「青木氏の和紙の楮の殖産地」が在った地域である。
この記録から観ると、「出城・寺城への直接攻撃」が記録の中には無い事から、「伊勢シンジケートの反撃」を恐れての事であった。
その「攻撃対象」は、「殖産地の畑地の破壊工作」などに向けられての「撹乱」が連発して起こされている。
「信長」からその様な指示を受けていたと観られる。

この様に、“「四家方式」”では成り立たない縁籍が、「東隣国」(家紋から信長の影響を受けた土豪)から組まれていてた。
この排除後も「小さい混乱」が続いているところから、明らかに何らかの「政略的な謀略」が働いていたと観られる。

「青木氏の四家制度」の中では、「婿養子の策謀失敗」でも判る様に、「乗っ取りに依る内部撹乱戦法」は通用しない事が判って、「乗っ取り」を止め、「家臣を含む北畠氏関係族」に仕向けた様に、「周囲の攪乱戦法」に出て来たと観られる。

(注釈 実は、先祖は、「信長」には理解を示しながらも、取り分け「秀吉」に対して余り良くない人物評価をしていた様である。
これが口伝にて良く伝わっている。)

(注釈 役無き事とは思うが、末裔の筆者の「織田信長」評は、「青木氏由来書」の再現を担った事から「様々な歴史観」が生まれてか、先祖とは異なっている。)

そもそも、「猪突猛進 直実激情型 無悲無情」と評価され通説化されているが、決してそうでは無意。
筆者は、元より口伝に依る先祖も、これほどでは無く、“極めて戦略家”であったと観ている。
その「信長が描く戦略」が、「人の数倍」もの領域までの“「読み計算」”が、頭の中に“絵に観る様”にまとめ描かれていて、これを「凡人」から観れば、それが「異常の領域」と映っていた事であろう。
「偉人賢人の信長」からすると、 “何でこんな程度の事が判らないか”と観ていた事の、その”「落差の行動」“が通説化したものと観ている。
「秀吉」はそれを理解していたのであろう。

通説化した「猪突猛進 直実激情型 無悲無情」の程度の人格を持つ人物が、室町期の戦国の中で、人を動かす事が出来なければ、一土豪の支流から天下を取るまでの者に成る事は不可能である。
これは現世においても同じである。“「社会の通説化」に論理矛盾”が生まれている。
その論理から観ると、「明智光秀の堅物」は、通説では逆に「賢者」の様に云われているが、「伊勢青木氏の論理」では”「愚者」“と成る。

(注釈 関西の言葉で、一々の事は”賢い”のだが、常に結果として良い結果が生み出されない人物の事を、”かしこあっぽ”と云う言葉で呼ばれる。)
 
故に、「信長」を理解していた”秀吉は天下が採れた“とする論調である。
確かに、「伊勢の信長仕儀」を具に観れば、通説では成し得ない事が良く判る。
「信長」に最も信頼された“「蒲生氏郷の治世」”からでも「信長」の考えていた事が良く判る。(下記)
依って、「二つの伊勢青木氏」は、この“「信長の仕掛け」”に早めに気が付いて手を打った事で難なく終わった。

この事は、先祖が「信長評」に対して、「稀にみる戦略家」と観ていた事を物語る。
それだけに「婿養子」を含め「伊勢衆の周囲に起こる事」に付いては、“警戒をしていた”と云う事であろう。
其れが「早目」と云う処置に出られたと観ている。
そもそも、「四家制度」から選ばれて、「伊勢シンジケート」から「信頼された福家」である。
それほどの「愚人」では無かった筈である。
「通説化の様な人物」ではなかった事を意味するし、もし「通説化の様な人物」であれば、“婿養子”は採らない程度の才覚は充分に持ち得ていた筈である。

然し、その後は、この「乗っ取り」に依る「撹乱戦法」の「初期戦」から、「名張の清蓮寺城」の「中期戦」に持ち込まれて、最早、手を引く事は出来ずにいた。
そして、この“「流れ」”に委ねる事以外には無く、「悠久の禁」を破ったのである。

(注釈 「伊勢シンジケート」を使った「ゲリラ撹乱戦法」を採った。)

この“「ゲリラ戦法」を採った“と云う事に大きな意味を持つ。
「通説化の様な人物」であるとすれば、「ゲリラ戦法」は、最早、適応する事は出来ないし通用しない。
もし、「通説化の様な人物」とすれば、「子孫存続」を前提とすれば、「商いの部」や「青木氏部」を遺したままで、一時、新宮に早急に、”「青木氏」“だけは引く以外には適用する方法は無かった。

そもそも、「二つの青木氏」は「賜姓族」として、「子孫存続」が「絶対命題での氏是」でもある。
確かに「三つの発祥源」ではあるが、「武士」の様な「武の仕儀」は採れない立場にある。
「ゲリラ戦」を採らずに必ず引いた筈である。
然し、「ゲリラ戦」を採った事は、「通説化の様な人物」ではないと観ていて、先祖は“「戦略家の評価」“を持っていた事に成る。

「戦略」、即ち、「知略」である。
「知略」には「知略」を以って応じるが「戦いの常道」である。
この「ゲリラ戦」には、この様な意味が含まれているのだ。

実は、この全く同時期に、「村上源氏」(「具平親王」の「公家源氏流」の支流末裔)の「伊勢北畠氏」に「織田信長」の次男の「信雄」が「跡目養子」(1569年)に入った。
然し、「北畠氏」の内部(1575年)を撹乱して、北畠氏(1576年)を潰している。
当に「武」では無く「知略」を以ってして応じている。
この事で、「通説化の人物」では無く、「戦略家」である事に間違いはない。
つまり、「先祖の判断」は正しかったと観ている。

そもそも、この「北畠氏の村上源氏」には、他に「致平親王」の正規の「賜姓村上源氏」がある。
つまり、「嵯峨期詔勅」による「第六位皇子による賜姓族」ではない「公家源氏」で「武家源氏」では無い。
「公家源氏」である。
この”「公家源氏」”には、そもそも大きな性質上の意味を持っているのだ。

この事の意味が、後に「大きな意味」を持つ事に成る。

「青木氏」はこの事を読み込んでいたと観られる。(下記)

その後、この「信雄」は「織田氏」に戻している「撹乱の戦法」の有名な事件である。
室町期末期には、「信長」の“「京の権威」に対する挑戦”、即ち、「比叡山焼き討ち」「石山本願寺攻め」等があった。
しかし、その前に、この「公家の北畠氏」は、「建武中興」にて伊勢が「不倫の権」で護られている「伊勢」に恣意的に移動した経緯があった。
そして、「他の土豪勢力」を排除して、遂には「南伊勢国司」(1555年以降 具房)として勢力を張っていた。

(注釈 当時、鎌倉期から室町期中期までは、西東に「政権」があり、西には「公家政権」、東には「武家政権」と云うものがあった。
夫々役割を決めて政権を維持していた。然し、実質は「東の武家政権」から人を廻し、監視していた。
江戸期まで現実にはあったが、「有名無実の状態」であって、上記した「名誉官位の授与」だけのもので、「武家諸法度」で縛られて無力と成った。)

この「西の公家政権」から「国司」に任じられた「北畠氏」は、この「政権力回復」を狙う「裏工作」と観られていた。

(注釈 他にも四国なども「武装勢力化した公家」が50年程度の間支配した期間があった。)

(注釈 鎌倉期から戦国に成って、益々、「天領地」が奪われ減少して行く中で、「聖地の伊勢」は唯一の「天領地」であった。

そこで、何とかこの「天領地」を護る事の為に、「朝廷の意向」を受けての伊勢移動であった可能性が高い。

この時期、全国各地で、「公家勢力」に依るこの様な「領地略奪の行動」が起こっていた。
殆どは、室町期に成って、平安末期に禁止された「荘園制度の名義貸し制度」を利用した「公家側」の無茶な「背任行為」であった。
室町期の末期に成って、「名義を貸した地方の荘園」であった土地は、「名義貸人」のものだとする一種の「略奪横領」であった。
この現象が「有力な公家族」によって「朝廷の権威と威光の力」を背景に全国各地で起こった。
多くは、平安期には天皇や公家等の「名義貸しの土地」も含む、所謂、“「天領地」”が殆どであった。

本来、「公家」は「武力を持つ事」は「天智期からの禁令」であるが、“室町幕府の統治力の低下“でこの様な現象が起こった。

そこで、「伊勢神宮の遷宮地」の「伊勢の聖地」は、「伊勢四衆」に依って護られていたが、朝廷は「最後の砦」の伊勢を護る為に、早々と鎌倉期末期に「公家源氏」(北畠氏と呼称)を差し向けた。

この様に「伊勢」に限らず、「武家社会」に成り、全国各地で「天領地」や「公家地」が益々奪われて行く中で、「天皇の権威」だけでも護れなく成った事から「天皇の意向」を受けた公家自らが武力化して「実質支配」を図ったのである。

(注釈 この時の潰された伊勢の土豪や郷士等の多くが、「青木氏」の「伊勢シンジケート」に入った。下記)

ところが、この「伊勢」には、この「北畠氏」とは「生き様」が異なり、且つ、「信長」が嫌うこの“「権威の象徴」”とされる数少ない「氏族」があった。
即ち、“「伊勢四衆」”が、古来より定住して「聖地」を護る為に集中して居た。
従って、「後口の衆」と成った「公家で武家を演じる北畠氏」が居る事で、伊勢域は、「紫の色」から「紅の色」に成った。
この現象を「信長」にも周囲の社会からも観られる事に成って仕舞った可能性が有る。

「紫の色」は、そもそも「最高権威を指し示す色」で、伊勢は奈良期より”「紫の聖地」”と定められていた。
その「紫の聖地」が「紅」に変化したと万葉歌にも詠まれ云われていた。
当時の様子を端的に物語る「色言葉」である。

其処に、室町末期には、この「特定の権威社会」を潰しに掛かった「信長」が、「伊勢の勢力」北畠氏や六角氏等の排除に掛かったのである。
その「標的」と見做されたのは、上記の背景で伊勢に入った「北畠氏」であった。

(注釈 「特定の権威社会」に付いて、“「布武」”を唱える「信長」は、そもそも、“「権威」”そのものを全面否定するのでは無かった。

それは「権威の支配」の中の“「絶対制」”だけを除き、“「武」を背景とする「共和制に近い支配体制」”を確立させたかったと観ている。

「朝廷」や「天皇」や「宗教階層」の“「権威」”そのものは認めるも、その「権威」が持つ“「絶対制」”の「排除」を狙ったものである。

況や、如何なる「共和制」も、結局は、“「上に立つ者の力の権威」”を少なくとも前提としているからで、“全く「権威」の無い処には「国家」は生まれない”が、「現世の条理」であるからだ。
「人の性:さが」はその様に出来ている。
この時代までの「社会の権威」は、「人の社会」、況してや「氏家制度」の中では、そもそも必要であっても良い。
しかし、その「権威」を以ってして “惹けらかし”、“「自らの利得の対象」“とする処に問題があった。

天正期までは、これを「当たり前の事としての概念」が社会にあった。
その「当たり前の概念」を良い事の様に利用する階層があった。
それが、“社会の発展に害を及ぼしている”と「信長」は受け取っていたのであろう。
(現在社会にも形は変わってはいるが未だ存在する。)

「信長」は、この事を嫌って、その対象を排除して、その代わりを以って“「布武の権威」”で統制して正しい社会構造を確立しようとしたのである。

結局は、「明治維新」には、この“「絶対制の権威」”を排除して、“天皇制に観る「形式上の権威」”は妥協として認めるも、上記する“「権威の弊害」”を排除した“「民主の共和制」”が敷かれた。
後勘からの事として、「信長の目指す社会体制」は正しかったと考えられる。

「信長」は、更に、これに「楽市楽座」の様に、“「交易社会」”を築こうとしたことが資料からも判る。
これは、まさしく「天正の300年後」に、“「信長の考え」”に近いもの“が出来上がったとは云える。
それだけに「300年前」の「凡人愚者」には、当に、“変人奇人の云う事“と受け取られものであって、”「理解の外」“であった事から起こった事であった。
その現象を短絡的に捉えて”間違った通説化“が起こったものであると考えられる。

そもそも、「伊勢」は、主に「奈良期からの氏族」である「伊勢青木氏」、「伊勢伊藤氏」、「伊勢秀郷流青木氏」の「伊勢三衆」にて収められていた。
そして、そこに平安期の「伊勢北畠氏」(天皇家の学問処の家柄)と、鎌倉期の「伊勢伊賀氏」(北条執権と血縁)と、新参の「伊勢長嶋氏」(室町期の「関東屋形」)が参入した構図であった。

そして、この「六つの氏」から「北畠氏」を除き、「五氏」は江戸期には“「伊勢藤氏」”と呼ばれた。
しかし、「伊賀氏」の前身を加えて、“「伊勢四衆」”とも云われた時期があった。
この「伊勢勢力」は、“「伊勢藤氏」”と“「伊勢四衆」”、そして、その配下に生きる「郷士や土豪」の“「伊勢衆」”が存在して居た。
しかし、この「北畠氏」は,そもそも「朝廷の学問処」でありながら、“「村上源氏の末裔」(実際の「源氏族」では無い)である事”を理由に、“「公家」”が事もあろうに「公家大名」を標榜した。
そして、あろうことか、「武」を以って伊勢の周囲の他の勢力(伊勢衆)を次々に排除して行ったのである。

ところが、その「勢いを背景」に、室町期末期には、この「村上源氏の傍系末裔」のこの「公家源氏」は、「伊勢」では「信長の伸長」に対し「武力」を更に伸ばし、それを背景に益々身を護ったのであった。
そこで、上記する考え方を持つ「武」には「武」で応じる「信長」は、これらの「伊勢藤氏」「伊勢四衆」と「伊勢衆」の「氏姓族」を潰しに掛かった。
これが有名な「天正の伊勢三乱 五戦」である。

「信長」の「所期の目的」は、この「武」に方より、「権威の悪弊」を生み出している「象徴たる北畠氏」を排除する事にあった。
ところが、この「権威の悪弊の北畠氏」に「伊勢四衆」の内の「伊賀氏と伊藤氏」が合力し「信長」に抗したのである。
そこで、「信長」はこの「伊勢四衆」に初期戦として、「撹乱戦法」で「圧力」を掛けたが、思いも寄らず「伊賀氏と伊藤氏」は引き下がらず「武力戦の激しい戦い」と成ったのである。
他の「伊勢四衆」の「二つの青木氏」と「新参長嶋氏」は、上記した「青木氏の基本戦略」に基づき徹して“表に顔を出さなかった”のである。

当に、奈良期からの「悠久の歴史」を持ち、「権威の象徴」の「氏族」であった「二つの青木氏」や、「伊勢藤氏」の過激に成った「伊藤氏」や「伊賀氏」等があった。
この事で、鎌倉期から伊勢は、「不倫の聖地」で有るにもかかわらず、下記する「招かざる者」の「武の北畠氏参入」に依って、“「策謀の渦」”の中に巻き込まれて行ったのである。

そもそも、「呼称北畠氏」は、京から移動して“伊勢の北畠に隠居所を設ける”と云う大義で、「不倫の伊勢」に移動して来た事から、「村上源氏の公家支流族」は、「公家」を標榜するも「武家の北畠氏」を名乗った。

「不倫の伊勢」にあって、乱世にあっても“「太平の地」”を築いて来た。
この「太平の地 伊勢」を「武」で以って「武家の勢力」を拡大させる事は、赤子の手を捩じるが如しで、極めて容易であると観た。
そして、ここに“「権威の公家」”から転身して“「富の武家」”の「氏」を興そうとした事が本音なのである。
そして、南北朝期に乗じて「伊勢全域」、特に、「青木氏」等の「伊勢四衆」か定住する「北伊勢」を極力避け、「南伊勢域」と「大和東域」に渡り「無戦」に近い形で平定して仕舞ったのである。


 「青木氏の本音」
この時に、多くの「土豪」と「郷士」等は排除された。
この時に「僧侶」や「修験道師」や「忍者」に身を変えて「伊勢シンジケート」に入り、「経済的背景」を確保して「生活の糧」を得て生き延びた。
後の「信長の伊勢三乱 五戦」でも生き残った「土豪」や「郷士」までも、又、土地を奪われた「農民や庶民」等までも、二度も「憂き目」を受けて「伊勢-紀州-奈良域」では「壊滅」に近い状態と成った。
「二つの青木氏」は、その立場から「元伊勢衆」と「悠久の長い付き合い」の「絆関係」にあったことから、「裏ルート」で「経済的支援」を行った。
そして“「伊勢シンジケート」”で“「元伊勢衆」“を保護した。
元々、「和紙や殖産」などでも繋がっていて、最早、「青木氏家人と青木氏部」との「血縁関係」でも繋がる”「徒ならぬ絆」“の関係にあった。
更に、「青木氏」に執っても、これらの「元伊勢衆」が消滅させられる事は「青木氏の衰退」を意味する事に成り、耐えられる事では決して無かった。

「信長と北畠氏」は、「聖地に住む伊勢衆」全てに執っては絶対に“「招かざる者」”と見做されていた。
「伊勢シンジケート」の「ゲリラ戦」で応じた「大きな背景」はここにもあった。(下記)
そして、室町期に成ると、事もあろうか、「招かざる者 北畠氏」は、「不入不倫の権」に守られた「伊勢の聖地」に、何と、ここに「京」に似せて、“「北畠三御所」”と呼称させて「館城」を建築した。
その結果、「南部の権勢」を誇っていて、遂には、その「財」を朝廷に注ぎ、その朝廷から「南伊勢の郡と大和二郡の五郡の半国司」に任じられる等したのである。
当に「公家族」が野心の侭に「戦国大名」化したのである。

ところが、全く「同じ時期」に、全く「同じ方法」で、「同じ理由」で、「同じ事」が、「讃岐秀郷流青木氏」が定住する「伊予、讃岐、土佐地域」にも起こっていた。
そこで、「京藤原氏」の「公家西園寺氏」が、平安末期から鎌倉期までの間、「伊予の名義荘園主」であったが、それを理由に伊予に乗り込み、強引に「讃岐藤氏」や「郷士」等の土地を押領し、挙句は「武力」を以って「土地」を奪い取って、遂には「伊予の戦国大名」と成った。
「北畠氏」と寸分違わずそっくりである。

(注釈 この時代の「京の公家族の背景」であった。西園寺氏、一条氏、二条氏等の「公家族」が各地でこのあらゆる形のこの行動を採った。
「朝廷」やこの「公家族」から云えば、「天領地とその関連地の奪還」と主張する筈で、室町幕府弱体の「武による権威の低下」で、この主張が表に行動として吹き出して来た現象と捉える事が出来る。
平安期の状況から観てみれば、その「主張と行動」にはある範囲では理解できる。
本論は“青木氏から観たもの”として論じている。)

(注釈 上記した様に、鎌倉時代の中頃から東に「武家政権」、西は「公家政権」が所轄する政治体制が採られた。
しかし、実際は、「武家」に、「公家族が支配する土地」が奪われる事が多発していた。
室町期に成っては、京都に置いた「幕府の守護職」や「土地の土豪」等によって、最早、「西域の公家政権」は「有名無実」の事と成った
それらに依って、公然と「荘園や天領地」とその「管理権」は次々と奪われて行った。)

室町期末期には、この事を理由にして「公家の力を持つ者」等は各地で「奪還作戦」が展開された。
「北畠氏」は、この鎌倉末期の変化に対して敏感に反応して、「伊勢地には持つ荘園を護る為に移動した。
そこに館城を建てて護ろうとし、それが結局は、管理地以外の伊勢域に勢力拡大としたものであった。
そこに「朝廷の意向:西域の公家政権」を反映する“「御所」”と呼称する「館城:政庁」を三か所も建設したのである。

この「西域の公家政権」は、江戸期には「幕府の公家諸法度」を作られて、無力化した。
その上で、形式上だけは江戸時代まで続けられた。
室町期には、この「有名無実」と成っていた「西域の公家政権」(京)を、「北畠氏の勢力拡大による武力」に依って、“「伊勢」にもう一度、再現復興しようと企てたものである。
そして、そこに”御所“なるものを造り、ここから”西域に勢力を伸ばそうとした“のである。
この為に、「北畠氏」は朝廷と連携を図った。
確定するに必要とする資料が見つからない為に出来ないが、鎌倉期にこの「西域の公家政権」の「監視役」として派遣されたのが秀郷一門の蒲生氏の祖であったことは間違いは無いと観られる。
「秀郷一門宗家」の「朝光]は、「頼朝」に合力して本領安堵(1192年)され、奈良期からの「遠祖地の結城」の地も戻る等し、自らも前段で『論じた様に「伊賀守」としても務めた。
この時に一門の者が「京の公家政権の監視役」(初代は脩行 近江掾)としてに配置されたのである。
(注釈 これが期に後に「秀郷流近江蒲生氏」の祖と成り、その役務柄から更に室町期に足利氏に仕え勢力を伸ばし蒲生[貞秀]氏を名乗る。)

しかし、そもそも、この「伊勢域」は、ここは奈良期から「皇祖神の聖地」であって、「政治や権力の場」には出来ない。
この事は、「伊勢の聖地」を護ろうとする「二つの青木氏」に執っては、到底、容認する事は出来なかった。
当然に、「布武」を標榜する「信長」も、上記する様に、“「権威を惹けら課す者」で「権威の利得を食む者」”としても認めなかった。

そして、この傾向は、四国にも起こったと云う事なのである。
この「西域の公家政権」の管轄域の特に四国には、「公家族」のこの「荘園や公領、天領地」が大変多くあった。
殆どは「土地の武家勢力」によって奪われていた。
そこで、公家の「一条氏」や「西園寺氏」等が奪還を図ったのである。
更には、これに便乗した「秀郷一門」の分家筋の“「関東屋形」”と呼ばれた「宇都宮氏」も、同族一門の「讃岐藤氏の讃岐青木氏」が支配する「讃岐」に入った。
「西園寺氏」と「宇都宮氏」は結託したが、その後に地元の豪族の「長曾我部氏」と「讃岐秀郷流青木氏」の抵抗にあい、攻められて排除され衰退した。
1584年には、「秀吉の四国攻め」で、何れも最後は掃討され潰される事が起こって50年程度で失敗した。

尚更、伊勢の「二つの青木氏」は、「信長の深意」がどうあろうと『布武』を唱える限りは警戒をしなくてはならないし、素直に容認する事は出来なかった。
「北畠氏の目的」は容易に判って居たが、この「聖地」を「政権の場」に引き込まれる事には容認できなかった。
では何れに味方するかにある。「青木氏]は悩んだ。
既に、「北畠氏」に関わらず伊勢は「新勢力の三氏」で浸食されている現実がある。
そもそも、「青木氏の役務と氏是」がある中でどうするかに関わる。

結局は、追い込まれて表向きは”「北畠氏に合力」(1569年)”と云う形を採ったのである。
かと云って、この「合力の形」に問題があった。
本来であれば、「軍」を所定の部署に廻し、「指揮官」が本陣に控える事に成る。
然し、記録では何れも処置していない。
然し、「商記録」には「合力した内容」となる事が書かれている。
「商記録」なので、「戦い準備」に関する「商いの内容」から記述されているとも考えられる。
この時の商記録の別の記録には、「福家」(指揮官)が新宮(1574年)に移動している事に成っている。
とすると、「指揮官」が本陣に詰めて控えていない事に成る。
つまり、「合力」が成り立っていない。

直前に「信雄の北畠氏の跡目入りの策謀」(1575年)が起こり敢えて控えた事も考えられるが、それにしてもおかしい。

「北畠氏」と「信長」との「戦いの初期」は、「具房との小競り合い」から観ると、1567年頃から始まっているので、福家が新宮に引く事は「信雄策謀」で引いた事には成らない。

そもそも、青木氏に執ってみれば、”「合力」”として仕舞えば、「近江青木氏」と同じに成る。
従って、「青木氏の氏是」に反する。
そこで、「反しない合力」の姿形を模索する必要があった。

然し、「抗する者」が、”如何なる者も容赦しない”とする「信長」に対し、どの様に対処するかに「氏是の知略」が当に必要とした。
”攻め滅ぼされる”と云う恐怖では無く、「整域」をどの様に護るかに心はあった。
戦えば、長期戦に持ち込めば先ず負ける事は無いし、この事は過去に「織田軍」に痛いほど示している。
後は「抑止力」を前面に見せつけた上で、幸いに「信長」が差し向けた「指揮官」が幸いに「青木氏」で繋がる「蒲生氏」であった事から、戦略は決まった。
「蒲生氏」を差し向けた「信長の翻意」を察した「二つの伊勢青木氏」は、「反しない合力」の姿の「戦略」は決まった。

それは、「合力」としながらも、一時、「遠祖地の紀伊」の「新宮の地」に「宗家の福家」だけ引く事にして、後は全てを残し、「敗退の体」を作り上げて時期を待つ事にした戦略であった。
この時に、戦いが本格化したした時(1576年頃)を見計らって「蒲生氏」との間で「裏話」が出来ていた。
そして、”数年後(1年後)に戻して、本領を安堵する”と云う「取り決め」であった事に成る。

(注釈 この経緯で考察すると、「商記録」は商上からのものである為に、年数に付いては公表されている「史実の年数」と比べると「緩やか」で記載されている傾向があるが、ほぼ一致して来る。)

指揮官の「蒲生氏」に執っても事が大事に成らなくて済み「伊勢での役務」は円満に片づけられる。

(注釈 「信長の思惑」以外に「蒲生氏郷の個人的な思惑」も働いていた。)

結局、その約束はそっくり護られ、且つ、それ以上に、松阪に城郭を築いた後には、「侍屋敷町(9町12町)」の上位武士が住む一画(9から11区画)を与えられた。

(注釈 可成り広大な土地に成る。「侍屋敷町(殿町)」である事から、ここには「店」は構えられないことから「屋敷」である。「屋敷」にしては大き過ぎる。)

「松阪城郭」は、「楽市楽座」に似せて「商業区画」も設けて、ここ松阪に巨万の富を持つ「青木氏の商い場」をも設けて、周囲の「青木氏の配下」の「旧来の商人の拠点 (伊勢商人と射和商人と伊勢伊賀の郷士衆」)とさせたのである。
ここに、後の「青木氏の動き」(射和商人などの事)を観ていると、「伊勢の商業組合」(「伊勢会合衆」)の様なものを最初に造ったのではないかと観ている。
これで、「青木氏と蒲生氏」は、経済で「伊勢の復興」を狙ったのである。

(注釈 「伊勢の商業組合」(「伊勢会合衆」)の歴史的な「創始者説」を証明する資料の発掘に取り組んでいるが、「状況証拠」だけの範囲に留まっている。
時代背景から考えても、「確定するキーワード」は「大豪商」に成る。
そうすると、これ以前にこの様な「商業組合的な組織」を「創設し得る古豪商」は数える程も無い。
この事から、歴史的に「会合衆」は伊勢から始まった事は確定している事も踏まえて、先ず間違いは無いと考えられる。
その前身と成る”「商業組合の組織作り」”は「蒲生氏郷の手配」で「侍屋敷町」を与えられ事務所を開設した事も青木氏の資料では証明出来ている事も合わせて、「青木氏」と成り得る。)
上記した様に「伊勢三乱の氏郷との裏工作」でも、松阪発展の為ににて「本領安堵」が約されていた事も証明されている事からも、間違いは無いと考えられる。)

平安期からの「摂津、堺」に大店を構えていた事から、安土桃山期からの「摂津堺の会合衆」にも参加している事から考えると、ここ「伊勢」に「青木氏」が最初に「伊勢会合衆」を創ったと観られる。

この「初期の商業組合の組織」は、前段でも論じたが、「伊勢の御師制度」から発想されたものである。

(注釈 平安期から起こった荘園内の商いの「座」があったが、寺や神社等で営業権を認めてもらって「本所」と云う場所を構築しそこで営む「限定された商い」があった。
然し、室町期にはこの「座」はあったが、「本所内での統制」を取る為の「組合」であった。
”「自由な商業組合 会合衆」”の記録は他に発見されない事から、「伊勢」が最初であると観られる。)

(註釈 実は、この時、秀吉に依って、実質の廃止令に成る「楽座令 1685年」が出された。
つまり、寺や神社や荘園を太らすだけの、即ち、「本所」による特権を持った「座」は禁止された。
この為に「自由な商業組合 会合衆」が見直され発展した。
この時に秀吉-氏郷の下に松阪でこの「新しい組合」を「青木氏」に依って始めさせたと観られる。)

その後に、桃山期には、「伊勢会合衆」は、地域を、「商人の出身地別」に二つに分けて、「山田会合衆」と「大湊会合衆(近江商人)」に分離したと観られる。
つまり、「松坂侍屋敷の三区画を与えられた史実」は、この「伊勢会合衆」を最初に創ったのは「青木氏」であった事を証明する。
「氏郷」は積極的に「楽市楽座」を築く為に、出身地の近江からも商人を大湊にも集めた。

その後、この「伊勢の商業組合」は次ぎの様に変化発展した。

イ 室町期末期(1578年頃)には、「松阪」に「青木氏」を中心とした地元の大小の「松阪商人」を集めて「松阪地区」には、初期に「松坂商人組合」を構築した。
ロ その後(1582年頃)には、松坂に「商人」に依る自治組織の「会合衆」を最初に構築した。
ハ 室町期末期(1583年頃)には、玉城の東横の内陸部の「山田地区」には、「青木氏部」から成る地元の「職人等の年寄り」による「自治組織」の「山田会合衆」が構築した。
ニ その後(1613年頃)には、「松坂会合衆」は、「玉城域」と「射和域」にも「射和商人」を養成して「商人」に依るによる「射和会合衆」を構築した。
ホ 安土桃山期には、玉城の東横の沿岸部の「大湊地区」には、この「元近江商人」に依る「自治組織」の「大湊会合衆」を構築した。
ヘ 安土桃山期には、「摂津堺域」にも「商人」による二つの「堺会合衆」を発展させた。

これらが発展して「伊勢商人」を始めとして、鎌倉期から興した「近江商人」「博多商人」「酒田商人」「伊予商人」「讃岐商人」「越前商人」「阿波商人」「米子商人」「松江商人」「摂津堺商人」等に依る多くの「会合衆」等が出来た。
これらは、江戸初期には、歴史的に「・・・商人」と呼称される地域には、全て「青木氏の定住地」と成っているのである。

この特徴には、戦略上の重要な意味があった。
「秀郷流青木氏の定住地24地域」には、例外なく「・・・商人」(豪商)と呼称されていた事実がある。
これは「赴任地の定住地」は、「重要域」でもあり、そこから「豪商」が出ていると云う事もあるが、そうでもないのである。
何故ならば、この「豪商」は全て出自が「武士」である事、多くは「二足の草鞋策」で「商い」を営んでいた。
室町期から、「豪商」に成るには、その背景を絶対的に必要とする。

一発勝負で「豪商」とも成り得るが、これは江戸期の安定期の話であり例外として、「商人」は別として[豪商」と成り得るには、この「室町期の戦乱期」では、殆どはその「資本力」や「商品力」や「調達力」や「運送力」や「安全力」等を必要とした。
これらを担保し得る「バック・背景力」を持っている事が「絶対条件」である。
それを獲得している事が必要があって、これ無しには「豪商」とは決して成り得なかった。
取り分け、「戦乱期」では、「運送の安全確保」が必須で、これなしには手広く「商い]は無し得ない社会状況であった。
「青木氏」は、その「安全確保手段」として、”「伊勢シンジケート」と「神明社組織」”の二つの手段を持ち得ていた。
これを有機的に使って「輸送の安全確保」を図っていた。

そもそも、「広域範囲」で「商品」を調達してそれを輸送しなければ「商い」は拡大しない。
即ち、「商人」には成り得ても”「豪商」”とは成り得ない。
故に、「安全確保手段」を広域に持ち得ているのは、特に室町期の「商人」の殆どは、「武家の氏族」の「二足の草鞋策」であった。
但し、「武家」であって、「武士」では無い。

「シンジケート」では、各地域にある”「シンジケートとの相互連携」”で「安全確保」をして行き、500社に上る「神明社」では、その「安全確保の情報確保」や「神明社間やシンジケート間の調整役」を演じた。
当然に、この「組織」を使って「商品の情報」も確保していたのである。

これは「陸送手段」であるが、「海上輸送」の場合の「安全輸送の手段」は、「伊勢水軍」が配下にあり、「青木氏」自らも「千石船の大船三艘」を以って海運し、この「護衛船役」として働いていた事が判っている。
記録には、”「駿河水軍」”の名が出て来るが、互いに連携して、「伊勢水軍の護衛船」で間に合わない場合は、「駿河水軍」が「護衛船」に入った事が書かれている。
時には、「荷駄運送」も務めていた模様である。
江戸期の初期の商記録の中に、「讃岐青木氏が営む廻船業との連携」もあった模様である。
この事から考えると、独自の「伊勢水軍の護衛船兼輸送船の必要性」が良く判る。

「青木氏の資料」には、この「輸送中の安全確保の手段(要領)」が実例として詳細に書かれた記録が遺されていて、この組織が有機的に活躍して居た事が判る。

「護衛役の人数」やその「役目柄の種目と配置」、「金銭のやり取り」の「取り決めや場所柄」まで実に詳細に書かれている。
「二つの青木氏の二つの組織」を有機的に動かせば「豪商」等何でも出来ると読み取れる。
本論で論じて来た事が、明らかに、大名ごときでは無いことが良く判る。
論を待たずとも遥かに超えている。
況や、「青木氏の実力の如何」が良く判る。
極論すれば、「佐々木氏」や「青木氏」や「秀郷一門」以外には無いのではないかとも思われる程である。
「豪商の出自」を調べれば、これを確定できるが、現在ある程度までは調査は進んでいるが論文には仕切れない。

(注釈 例えば、この輸送の大変さを物語る資料が「伊勢の青木氏の家人」であった家に遺されいる。
資料には、関東(江戸)に向けて荷駄搬送中、この荷駄には11人の警護の者が付き、6人が「警護頭役」を先頭に「荷駄警護」、5人が各役目を持ち「周辺警護」に関わっていた。
ところが、駿河山中で盗賊集団に襲われた。10人が戦闘に入り、1人が連携する警戒中のシンジケートに連絡、戦闘の結果、3人が負傷したが殲滅した。
その後このシンジケートは、この盗賊団根拠地を掃討したのだが、丁度、「シンジケート」と「シンジケート」の境目の地域で襲われたと成っている。
旅館一室で支払を済ました。とある。
この荷駄の「警護頭の家人」が「献務禄(報告書)」として書き記したものが遺されている。
良く、この状況を物語っている。
この「荷駄頭の名前」が普通では無く、”「俗称」(特別呼称名)”で書かれている。
この資料を遺した「伊賀武士」の家人は「伊賀青木氏」の配下の「伊賀者」ではないかと予想され、「青木氏家人」であった。
つまり、これは「伊賀青木氏」が「警護役」を一族として担っていた事を意味する。
この”「献務禄」”には、当時の事を物語る興味深い事が多く書かれている。
これ等を使って「室町期の伊勢商人の青木氏」の「豪商の程度」が読み取れる。)

(参考 豪商程度の概算
伊勢青木氏とそれに関わった関係族に遺された資料より算出
(  )内は各資料からの最大値を表す。
「商い」の関係部門を「四部門」にして限定して算出。

四家   20部門(青木氏の役数)
家人   数百人(最大 250人 直接の家人)
配下   数十名(最大 22人 支配の家人)
      小計a  最大 5500人

護衛役  数十組(最大 23組)
一組人  数十名(最大 20人)
      小計b  最大 4300人

他の役  19役(護衛役×19)
      小計A  最大 81700人

青木氏部 数十部(最大 12部)
一部人数 数百人(最大 250人)
      小計B  最大 3000人

水軍    3+数十隻(最大 24艘)  
      小計C  最大 1500人

神明社  488社(最大 500社)
      小計D  最大 2500人

「伊勢青木氏の豪商」=小計A+小計B+小計C+小計D=88700人

室町期の「青木氏の紙屋長兵衛」の「豪商」と云われる所以は、次ぎの「通りと成る。

「直接人容」から観ると、結局、最大で「88700人態勢」であった事に成る。

但し、これ以外に次ぎの部門も加算されるが、算出は出来ない。
イ 「伊勢シンジケートとの契約」
ロ 「秀郷流青木氏116氏」からの「本所の役柄の補完援護」
ハ 「菩提寺関係の人容」
ニ 「遠祖地の人容」
ホ 「殖産と興業の人容」

取り分け、イとロは計り知れない「人容と人様」と成り得る。

(注釈 何とか論じる事が出来ないかイからホに付いて研究したが、論じるだけの資料が出ない。)

唯、中でも最高と観られるロの「讃岐青木氏」の「瀬戸内の経済力」(主は廻船業)は比較的に資料が遺されている。
恐らくは概算では、1/5程度はあったと観られる。

ロの「関わり具合」を資料から物語るものとして、次ぎの様に成る。
「商い警護」と「商い情報」に「役目」として関わっていた事が記録されている。
つまり、「本所補完の範囲」を超えず、「商いの範囲」にも「補完」を上手く適用して運用していた事を示している。
「ロの青木氏の商人」の場合でも、この範囲を超えていない模様であった。
恐らくは、この事は資料から読み取るに、各地の「赴任地の護衛役」と云う”「威力」”を周囲に誇示させ、”「危険集団」”に対して「強い抑止力」を働かせていたと観られる。
その手段として、伊勢との「関連シンジケートの勢力」が届かない範囲では、敢えて何らかの形の「軍事行為」の”「デモンストレーション」”をしていたのであろう。
これが「資料の書かれていた内容」ではないかと考えると、文章表現と符号一致する。

(註釈 現在と違い「古文系の文章」は、「直接表現」は良しとせず「間接表現」によってその「文章の持つ意」を知らしめる文章方式であるだけに慣れないと難しい。)

故に、これが「豪商が生まれる地域=二つの青木氏定住地」と云う数式論が生まれた所以であろう。

”「豪商」 「500万石超」”と記されている事から、強ち、誇張では無い事が云える。

「88700人態勢」と「イからロ」を維持管理するには、逆に「500万石」は必要であろう。

「88700人態勢」=「500万石」と基準に観て、「研究室の論文」の「青木氏」を論じている。
(研究室論文の各所に記述 参照)


因みに、同時期の比較対象として、次ぎの事を参照。

全国の石高 「3000万石」
徳川氏の石高 「幕府直轄領 400万石]+「旗本領 400万石」=「800万石」

最裕福な「加賀藩」の石高 「102万石」(届出高)
「伊勢国」の石高 「55万石」

(米石高と産物を加算した石高)


(注釈 例えば、調査中の中で、「佐々木氏」の出自を持つ「豪商」には、全国的に不思議に「酒造業」が多い。
何故なのかは確定は出来ないが、恐らくは、”「灘酒」「近江酒」”の歴史(日本書紀等)を辿れば判る。
これは奈良期から「定住地の米」に関わる「租役と庸役と調役」の賦役を、「佐々木氏」が「守護」としてこれを「活用する役目」から生まれた「酒造」であったと考えられる。
それが末には「摂津商人」「近江商人」と成って行った。
これが「青木氏の和紙の経緯」のその「二足の草鞋策」から来ていて、古くから「佐々木氏の氏の組織力」を使って全国展開していたのではと観られる。

(注釈 そもそも「佐々木氏の研究」に「青木氏の部分」が、多く研究されているのは「同族である事」は元より、古来よりこの様な”「繋がり関係」”を深く持っていた証拠である。)

この様に、一発勝負や一朝一夜では無し得ない「これらを持ち動かし得る商人」を”「豪商」”と云う。

(注釈 前段の「伝統シリーズ]と「青木氏の分布と子孫力」の論文にも一端を論じた。)

これが、更には「赴任地の定住地」に”「豪商」”が生まれる所以なのであった。
つまり、其れ等は後に組織化されて連携して、「伊勢商人の青木氏」が「担保し得るバック・背景力」と成って行ったのである。

前段でも何度も論じている「博多商人」「越前商人」等を始として、上記に記述した「地域の商人」は、この「担保し得るバック・背景力」を持った「典型的な豪商」で当に「青木氏」である。
「商記録」に記載されている地域である。

つまり、伊勢の「二つの青木氏」が互いに連携しながら、「伊勢の本所」を中心にして、各地の「青木氏定住地の安定化」を謀る事を目的として、戦略的に「二足の草鞋策」を採用して安定化させたのである。
そして、この「24の商い組織」を使って、「相互間の商い」を発展させ、「青木氏の経済面」での「底上げ」と「氏力強化」を図った事に成る。

然し、かと云ってすべてが”「豪商」”とは成り得ていず、夫々、記録を観るに各地赴任地の「商人規模」には、大小がある。
この「商人規模の大小の原因」は、「特段の要因」は確認できない事から、矢張り、この様に「豪商に成り得る条件」が備わっていたとしても「商い力の如何」が影響してい事が観られる。

この「商い力の如何」とは、「商いに必要とする確固たる考え方」とか「横との繋がり」(立地条件)が必要とする。
所謂、「伊勢青木氏の和紙に関する殖産と興業」がそれを大きく物語っている。
これには,「讃岐青木氏」も”「瀬戸内”と云う海産物に関する同じ条件」を確立していた事が云える。
これらの「商い大小」には、上記する様に、「近江や越前や越後等の豪商」と成り得た「青木氏の共通する条件」であった。

前段でも論じたが、代表して特筆するは、当時の最大の経済拠点であった「瀬戸内」を中心とした「讃岐青木氏の松山・松江商人」は、「廻船業」等の総合商社を営んでいた。
それは「蝦夷地域の貿易」や「日本海の内回り船」に加え「太平洋の外回り船」をも始めて許可された江戸期最大の「総合商社」であった。

上記で論じた「近江青木氏」の「青木一矩と久矩」の子孫も「酒造業」等を手広く商ったこの「豪商」であり、”「越前商人」”と呼ばれる「豪商」と成った一人でもある。
恐らくは、上記した「近江佐々木氏の酒造業」に観られる様に、この同族の「近江佐々木氏ルーツの背景」を通じて営んだと観られる。

「青木氏の博多商人」も「ルーツ掲示板」にも論じている「大豪商」である。
「越後商人」でも歴史的に「秀郷流青木氏の豪商」が有名である。
中には、港では無い「内陸部の商人」として異色の「諏訪商人の青木氏」がある。
例を挙げれば、限が無いが、「長崎商人」として「長崎青木氏」からも「豪商」が出ている。
これ等は、決して自然の形で「豪商」に成ったのではない。
上記の「室町期からの豪商」等の研究でも判る事ではあるが、明らかに「室町期から江戸期の青木氏の戦略」として敷かれたものである。

そもそも、歴史を遡れば、「日本書紀」と「二つの歴史書」に次ぎの様な事が記載されている。
それは、奈良期に「信濃青木氏と諏訪族」は「租」を兌換する為に、「信濃の産物」を駿河の海側に運び、「海側の海産物」と物々交換して、「信濃に持ち帰る商い」をしていた事が書かれている。
この時に、「信濃側(諏訪)」は「馬部の職能集団」と、海側(駿河)の「磯部等の職能集団」がこれに関わったと記されている。(諏訪商人)
この奈良期から交易を始めていた事が「日本書紀」等の「歴史書」に書かれている。


今後、詳細に研究を進めて歴史的に観た「商人シリーズ」で論じられる位の興味深い充分なテーマでもある。

(注釈 そもそも、この様な「青木氏に関わる史実事」は、「史実」として「歴史上の表」には出て来ない。
依って、これらの情報を全ての「青木氏に知らしめる術」は生まれない。
「商業組合や会合衆」の「創始者としての青木氏の貢献」等の重要な事も、「青木氏」自らが研究して子孫に云い伝えなければならない。
「近江佐々木氏」も「膨大な氏の研究」を成しているが、「歴史上の表」(ネット)には出ていない。
ただ、「伊勢青木氏や紙屋院」の事で、研究されて脚本家で歴史研究家の某氏等が、「NHK大河ドラマ」の三つのドラマに「青木氏の商人の事」を表している。
「歴史研究の専門者向け単行本」でも5刊発表されてはいる。
又、「青木氏」とはルーツでは無縁の「5人の歴史研究家小説家」も「青木氏の研究論文」で公的にしている。

(注釈 全てこの5刊は、別の研究の過程で、この「青木氏に関わる事」が在って、その時の「青木氏に関わる研究」を別刊で「非買限定版」として「関係者」に有償で発刊したもの。
「佐々木氏の研究論文」の本体も同様の発刊である。「佐々木氏の青木氏に関する本」も別刊扱い。)

但し、「ネットに出る事」が「公的」とは決して思わない。
それは「ネットの根拠」の多くは、「江戸初期頃の搾取偏纂の資料」をベースにして「断定」している為に、「青木氏側」から観れば立ち位置が異なる為に信じ難い。
その意味で、「歴史研究家の単行本や発刊本」は、その説の論処を明確にした上で論じていて信じられる。
結局は、「単行本と発刊本」(非売品)は、「青木氏」に執っては極めて貴重である。
「ネット社会」とも成れば、真の「青木氏の伝統」に関して、そんなに簡単に発表される事はこれからは無いと考えられる。
依って、”「青木氏の伝統」”が霧消し資料が消失する中で、「青木氏」自らが研究して「青木氏用」に論じること以外には無く、これは宿命である。)


これ等の「経緯と背景」に依って、そして、この室町期からの「商業」が発展するに従って、江戸期に成って”「信長の楽市楽座」”が組織化され著しく変化したのである。
そして、「伊勢」を始めとして、全国各地に”「青木氏]が始めた「商業組合」”から発展して、遂には、「職人」や「商人」や「郷士」等のあらゆる階層から成る「自治組織の会合衆」が出来上がった。
この「自治組織」は、前段でも論じたが、「武家社会」にも発展した。

この「武家社会の組合的要素」は、「職能別」にその組織の中で発生する問題は組織内で解決させる”と云う制度が徳川幕府に創設された。
これが”「御師制度」”と云われるものであり、「武士階級」から成る「自治組織」が出来上がったのである。
これは「伊勢」から持ち込んだ「吉宗」によって「享保の改革」で制度化されたものである
(注釈 筆者は、むしろ、この奈良期からある「青木氏の御師制度」が、「伊勢」に関わりの深い「徳川吉宗」によって「幕府の武家」に採用された。
この事がきっかけで、「武家出自の商人域」に浸透して行ったと観ている。)

(注釈 「伊勢青木氏」は、「幼少期の伊勢での吉宗の育ての親」で、「家臣」では無いが「享保改革や紀州藩の財政改革」に「布衣着用の身分」(主大名格)で大きく関わった。)

これ等が、当に「信長」の「天下布武」<「楽市楽座」、所謂、「布武」<「布知」で目指した「理想に近い社会」であった。
その「信長の思い」を最初に実現させ発展させたのは、何と「蒲生氏郷と二つの青木氏」であった事に成る。
これを更に発展させたのは「安土桃山期の秀吉-江戸期の家康」と云う事に成る。

「信長の理想」は、初期の構築段階は、皮肉にも、伊勢混乱の苦労の末に「二つの青木氏」に依って進められた事に成る。
これは、「信長の理想」を理解し、「青木氏の本音」がこれに一致していた事を物語るものである。

「会合衆までの経緯」ここに至るこの「生き残り戦略」が、当に”「青木氏の本音」”であった。

歴史は幸いにも当にその様に成った。

上記する”「室町期の苦しいトンネル」”を突き出て、「江戸期の青木氏の将来」をここで構築したのである。
これが、「苦境」を「青木氏の知略」で乗り越える事、況や、これが「二つの青木氏の本音」であった。

筆者が考察する”「青木氏の本音」”はなかなか言い尽くせないが、上の経緯も含めての事と成る。

纏めれば、”「武]では無く、 ”「知略」”を使った”「戦略」”に云い尽くせる。
「武」はあくまでも「抑止力」に留め、「知略」を「補完するツール」とした事にある。
これが、無傷で「生き残り」を果たした「本音」であったと考えている。

そもそも、「人時場所」が変われば「本音」も異なるが、変化する何時の世もこの一点だけは「普遍」であり変わらない事を示している。

然し乍ら、唯、別次元で「或る条件」が働けば、この「戦略の本音」も永代では無い。
その「或る条件」とは、”「伝統」”が消えると無く成る。
つまり、”「伝統」と云う土台の上に成り立っている事”に成る。
そして、この「伝統の内容」も時代毎に代わる。
従って、「青木氏の本音」を維持するには、”時代毎に代わる事”に対応しなければならない事に成る。
この「対応」とは、時代に対応した”「体質改善」”である。
この”「体質改善」”が、”「青木氏の本音」”に従う事に成る。
これが、上記した様に、「室町期の混乱期」に対応した「二つの青木氏の行動」であった。

然し、この「対応の変化」も「仕儀無きこと」であって、「変化する」としても少なくともその「伝統の基本」は変えてはならず是が非でも護らなければ、「生き残りの本音」は霧消し得る。

(注釈 現在の「青木氏の基本伝統」は、最早、護り切れていない。依って、明治期まで先祖が護って来た「青木氏の本音の概念」は霧消している。「伝統シリーズの記録」に遺すのみと成っている。)

上記で論じた「青木氏に関わった氏族」の「生き様」も、それは其れなりの「生き様」で「良し悪しの前提」とは成り得ない。
然し、”子孫を如何に遺せたか”は論じられても良い筈である。
「伊勢の二つの青木氏族」(伊賀の青木氏を含む)は「青木氏の氏是」を頑なに護った「生き様」を示した事は云える。
これに依って、与えられた「氏の役柄」を果たした事は、”「青木氏の誇り」”であり、”「誇れる伝統」”である。

そこで、この「時期の伝統」はどんなものであったろうかと云う事に成る。
それが、「上記の論」である。

そこで論じたのが「青木氏の経緯と背景」と成るが、続けて、「伝統-17」でも論じる事に成る。


次ぎに続ける事としても、「伝統-17」を論じる前に、先に述べておかねばならない事が在る。
そもそも、この時期は、「南北朝の影響」を受けて、「京公家族」の間に、次ぎの様な事が起こっていた。
この問題を解決しなければ「武」で抑えて掃討をしても何れにも解決には成らない。

「武による富の獲得の機運」
「朝廷の天領地の奪還と確保」
「西域公家政権の復興」

この時期には以上の反動が起こっていた事を物語るものである。

上記した様に、況や、「聖地伊勢」も「北畠氏」に依って “撹乱されていた”と観る事が出来るのである。
「信長」は、この「悪い機運」が広がると社会は、更に乱れるとして潰しに掛かり、その代表者を手厳しく潰す事で、社会に“見せしめ”として抑え込もうとしたとも判断できる。
況して、「信長」は「天下布武」を標榜していたが、「公家勢力の復興」は「信長」の目指すところと「真逆の行為」であった。

この“「権威を惹けら課す者」で、「権威の利得を食む者」”とは、「無力化した京の公家政権」と「結託した勢力」の事だと名指していた。
それだけに「信長の事の次第」は、“厳しく当たった”と云う事に成るたろう。


「信長の心の中」には、「青木氏の心の中」には、資料を通して具に鑑みるには、次ぎの様な「信念」があったと考えられる。
これは、何時の世も「天下を治める者」、或は「大きい組織を動かす者」、「指導者たる者」、「上に立つ者」の「孤独の苦しみ」であろう。

つまり、伊勢の「北畠氏等の横暴」を「信長」が観ていて、これは、当に”「権威の惹けらかし」”と”「その利得の食む勢力」”の何物でもないとした。
その「北畠氏等の伊勢三氏」(北畠氏と伊賀氏、伊藤氏)が「象徴族」として苦々しく観られていた事を物語るものであった。

(注釈 但し、「伊勢者C」は、他地域から伸長して来た勢力で”「伊勢者」”では正式には無い。資料には使い分けされず「伊勢者」として扱うものもある。)

但し、”「伊勢者」”と呼ばれた氏は、時代別に三つに分けられる。
「伊勢者A」の「青木氏」から観れば、資料から読み取ると「伊勢者BとC」は「別者の意識」があった。

「伊勢者A」は、「伊賀青木氏を含む二つの青木氏」     江戸初期まで 950年-650年間程度 
「伊勢者B」は、「北畠氏」「伊藤氏」「伊賀氏」「長嶋氏」   江戸初期まで 150年-100年間程度
「伊勢者C」は、「仁木氏」「六角氏」「山名氏」         江戸初期まで 100年-50年間程度 

(注釈 「伊勢者」 「伊勢衆」 「伊勢国人」 「伊勢郷氏」は「歴史的な呼称」(者、衆、人、氏)としてその「範囲差と格式差」により使い分けがされている。)
 

況して、その勢力が”「聖地の伊勢」”にいると成れば,「信長」は放置する訳には行かないとなった。

(注釈 筆者の考察では、 ”「信長」は「伊勢者BとC」を”「伊勢者」”としては観ていなかった” と考えている。
自分と同じ「室町期の伸長勢力」だが、「信長」には「たいら族」の「末裔の自負」があった。
故に、「名籍の桔梗紋の明智光秀」に対して「織田家の格式」は「上位」と観ていた事から起こる「家柄の確執葛藤」があったと観られる。)
況してや、この「伊賀域」は、元は祖先の「たいら族の故郷」であったし、「伊勢和紙の殖産」に従事する「残留族]もいる地域でもあった。
ここを、”「伸長族」に犯されたくなかった”と云う意識も内心あったと観られる。

「信長」は、上記の鎌倉期からの経緯を観て、当に、この「北畠氏」が、”「権威を惹けらかし利得を食む勢力」”(西域公家政権の復活)と映っていて、“その勢力を先ず潰しに掛かった“と云う所であった。

しかし、これに対して、”「権威を惹けらかし利得を食む勢力」”(西域公家政権の復活)であるにも関わらず、この事を理解せずに、これに対して、意外にも無暗に「武」で合力し、敵対して来た北伊勢の「伊賀氏」「伊藤氏」等があった。
「信長」に執っては、これは驚きであって、”間尺が合わない”と感じとったのである。
況して、世間では、「賢者 智者」としての”「伊勢者」”と云われながらも、何でこの事が判らないのかと悔しがっただろう。
結局は、恐らくは、”縁無き衆生動し難し”として、討伐に踏み切った。

結局は、「信長」は、彼等を”「抗する者」”として扱い、討伐する事に成り、拡大して”「伊勢四衆」“を纏めて排除するに掛かったのである。

然し、同じ”「伊勢者」”でありながらも、「伊勢の二つの青木氏」だけは動かなかったのである。
”それは何故なのか”である。
それは、後から侵入してきた彼等は、”「権威を惹けらかし利得を食む勢力」”(西域公家政権の復活)である事を承知して居た事を意味するものである。
それは古くから”「伊勢者」”として生きて来た「二つの青木氏」は、「青木氏の氏是」に基づきこの態度を取る事は無かったからである。

唯、「信長」が行う「抗する者への挑戦」には、一定の限度があった。
それは、”「無暗に挑戦」”では無く、その「前提」は次ぎの事にあったのだ。
それは「限度=前提」である。
「信長」の目指す「天下布武」には、この「前提」(限度)があったのだ。

 ”「権威の惹けらかし」”と”「その利得を食む勢力」”

唯、「単に抗する者としての討伐」をし続ければ、この世の人間は半減する。

何故ならば、「善悪の理」に関わらず、「賛同の結果」はこの理に従っていないのも又この世の条理である。
「善」であるからと云って、「万民全人」が「賛同すると云う条理」には、「仏教の説法」に云う様に、従ってはいない。
「人」には、仏説「四つのみ」が「人の性」としてあり、そして、この「人の性」はこの仏説「四つのみ」に惑わされる。
依って、「善」は必ずしも「賛」を得られる前提では無い。
それが、「人の世」では「仏説 四の理」に従うと成っている。
つまり、四割程度は何がしかの形で「善」は、「悪」としては兎も角も、「善」として扱わない条理の中にあるとしている。

それでは、「善」は「善」としてより多く扱われる世の中にするには、それは「人の悟り」にある。
それを得られるのは「仏教」だとしている。

その得られる「手段とされる仏教界」が、何のこの世の因果か、”「権威の惹けらかし」”と”「その利得を食む勢力」”の世界と成り果てている。
況してや、「宗教武装勢力」と成り果てている。

そもそも、「抗する者は全て討伐」とそんな事を考える人間はこの世にいない。
そもそも、不可能であろう事は誰でも判る。
然し、遣らねばならないと成れば、何処かに「規準」なり、「限界」なりを設けての事に成る。

従って、その「討伐」をしなければ成らない「細目の規準」は、「信長」に執っては、、”「権威を惹けらかし利得を食む勢力」”に規準を置いていたと云う事であろう。
それは、「人時場所」の「三相の理」によって異なるは、必然の事だが、この「必然と成る規準」は、「何時の世」もこれが「最低限の条理」であると考えられる。
この「三相」は、”「戦国」”と云うキーで括れる。
「人」は「過激]に成り、「時」は「短絡」に走り、「場」は「戦場」に成る。
其処から導き出される「規準」或は「限度」は、”「権威の惹けらかし」”と”「その利得を食む勢力」”と成り、「其れを阻む者」と成る。

それに、この「勢力」が”「事の解決に”武力”を以って立ち向かう」”と成ると、尋常では無い。
「国を治める志を持つ者」としては「信長」でなくても放置は出来ない。
この「勢力」が社会に蔓延れば当に「修羅」であろう。
何の信念も持たない「愚能な将軍」が頂点に立ちながらも「治世」するこの「修羅社会」を放置したのが「足利幕府の四代目以後の有様」であったのだ。

(注釈 幕府とは、本来は「将軍-御家人-守護」から成り立つが、鎌倉幕府は将軍と御家人の主従関係組織で難く維持されたが、ところが、室町幕府は当初この組織を敷いた。
然し次第に統制が効かなくなり、この「将軍-守護-御家人の関係式」が出来上がって仕舞った。
この為に内覧が多発して統制が効かなくなり「治政」は乱れ始めた。
この時期が4代目から顕著に成る。
鎌倉期の組織では、本来であれば、「御家人-家臣-守護-豪族」と成っていた。
然し、室町期は4代目五代目以降から乱れ、「直臣の御家人」を飛ばして「将軍と守護が主従関係」を結んでしまった。)

その「修羅」を救う「宗教]が、況してや「武家」にも勝るとも劣らない「絶大な宗教勢力」と成れば、最早、論外である。
云えばきりがない。その「宗教」が「城郭]を持つと云うのである。

「戦乱の社会」の中で、「盗賊や山族等の脅威」が散在する中では、”「宗教]が非暴力であれ”と云う事までは云わないにしても、「最低限の自己防衛の範囲」に留めるべきであろうことは疑う余地は無い。
超えれば、出る釘も打たれるは必定である。
況してや、その「信徒」を先導してその道具に使うは論外中の論外である。

(注釈 「青木氏]はそもそも戦乱で「糧を失った者」を「経済的範囲」に於いて救い、その「自発的行為」に依る歯止めの効いた「伊勢シンジケートの抑止力」に留めた「最低限の自己防衛の範囲」を越えなかった。)

「信長」は、他の国の討伐の如何は別として、”「伊勢」”に対しては、この「規準の考え方」を前提とした。

つまり、”「伊勢」”に対してである。この”「伊勢」”に意味があった。
況や、”「伊勢」”には、”「信長成りの思い入れ」”があった事を物語る。
その「信長の思い入れ」とは、どんなものかと云えば、次ぎの規準に持つ意味であろう。

(伊勢の事を含む「信長に付いて」を書いた信頼できる資料から物語るものは次ぎの事と観た。)

纏めると次ぎの様に成るだろう。

限度=前提

”「権威の惹けらかし」”と”「その利得を食む勢力」”

「伊勢」は、「万民の聖なる場所」である。その「聖なる場所」には”「権威」”が求められる。
その「権威の地に住する者」は、「権威」に溺れず、「謙虚」でなくてはならない。
その「権威]に託けて「利」を食んではならない。
「権威の利に縋る者」には「万民の信頼の範」と成れない。

「信長」に関する資料から読み取るに、”「信長思い入れ」”はこの様なものであった。

「比叡山焼き討ち」等に観る様に、「信長」は「武家勢力」を始として、「各地の戦い」には、各地ならではの「条件」を入れ替えて、この[四つの思入れ」に適合するかを確認したのではないかと観られる。
各地の戦いの「信長の発言」を考察すると、この傾向が読み取れる。

これは、まさしく、「青木氏の氏是」の意味する処でもある。

”何時の世も、「青木氏」を世に晒す事無かれ、何れにも一利無し、然しども「青木氏」を世に憚る事無かれ、何れにも一利無し。”

「信長」は、”「伊勢者」”の当初から出方を警戒(婿養子の策謀失敗)しながらも、元より”「悠久の歴史」を持つ「伊勢者」”の「伊勢の青木氏を攻める意志」は無かった事を意味する。

「この世」の「何事」も、排除されるのは突き詰めれば、「信長」も、「青木氏」もここに来る事を教えている。


これ等が、「伝統」を語る上で、「青木氏」に執って忘れてはならない「四家の背景と経緯」である。
何れにせよ「我々の先祖の青木氏」は、この中で生きて来たのである。
その「生き様」そのものが”「青木氏の伝統」”であった。

「近江佐々木氏」がした様に、「青木氏」も子孫にこの「伝統の如何」(先祖の生き様)を遺しておきたい。

> 「青木氏の伝統ー17」の「」に続く 
関連記事
 

名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒

≪前ページ | ホーム | 次ページ≫
副管理人 写真館
一時癒場、季節の写真

人気記事ランキング

ホーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 全表示

この人とブロともになる

aokicc

Author:aokicc
青木のルーツを研究しています。世界中の青木さん、ご連絡ください。
監修 : 副管理人 青木研究員さん

逆アクセスランキング