青木[アオキ] 名字 苗字 家系 家紋 ルーツ 由来

青木[アオキ]という姓[名前・名字・苗字]・家紋・家系の由来・ルーツの研究

青木さんの情報 ルーツ データベース リンク集 http://www.aoki.cc/
青木氏氏[Enter]
├ 研究&重要データ ⇒ 青木氏氏 研究室
└ ルーツに関する質疑応答 ⇒ 青木ルーツ掲示板
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ

青木ランキング参加者募集中!!



≪前ページ | ホーム | 次ページ≫

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 

名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒

青木氏と守護神(神明社)-12

[No.280] Re:青木氏と守護神(神明社)-12
投稿者:福管理人 投稿日:2011/10/13(Thu) 11:02:46

>以下 神明社の12に続く

>「2足の草鞋策」や「シンジケート」と云った「自由性を持つ組織」を保持しながらも、このスクラムは別の意味で「排他的環境」の傾向であった事も考えられます。この「氏」の青木氏も「姓化」をしようとする方も遠慮した事も考えられます。そもそも徒弟制度の中で「氏の継承」をしていた事もあって「姓化」は”「差別化に成る」”と考えたかも知れません。
>これは「商い」のみならず「3つの発祥源」と云う立場の印象から来るものが強く出ていて「2面性」を持っていた事による弊害とも考えられますが、これは「家訓10訓」で誡めているので考え難いのです。

>それはそれで当然に止む無き事として、これは「姓化」に依って起こる「商取引」が当時の「運搬・運送状況の環境」に影響して全体的に大きく関係している事から来ていると観ます。
>全体的に観ても、例えば鍛冶族は「金属の搬送」が可能な港と云う様に。上記した様に、その職能種の「殖産」の特長を生かす「地理性(環境)」を先ず優先し、「商い」に必要とする「市場性」は現在と異なり第2次的要素と成っているのです。従って、其処にはこの「地理性(環境)」-「市場性」の「2つの要素を結ぶ線上」の「運搬・運送」に適する地域に「姓化」が起こっているのです。
(前文末尾)

  「指導階層の融合:2階層の融合」
主に「民族氏」に所属していた「180もの職能集団」から「姓化」による「姓氏」が上記した様に起こっていたのですが、一方の「融合氏」にも一つではなく2階層に分離した「融合」が起こっているのです。そこで少しこの事にも触れて置きます。
そもそも「指導階層の融合」とは、平安末期の頃に最終的に「氏の優劣」は決まり鎌倉幕府へと移行しますが、「完全な氏融合」は更に「細分化」の途へと変化して行くのです。
(「第1融合氏」と「第2融合氏」)
そして、一方「民の融合」は鎌倉期からその「融合技能集団」の首魁を長として上記の経緯と背景から一大勢力を持つ様に成り、その勢いで「正式な姓氏」への過程を歩み始めるのです。
この様に日本には「指導階層の融合」(融合氏、民族氏)と「民の融合」(姓氏)の「2つの異なる経緯の融合」が分離して起こったのです。
それは「氏家制度」即ち「身分家柄制度」による結果から分離したのです。
「指導階層の融合」=(「融合氏」+「民族氏」)=「第1融合氏」+「第2融合氏」
「民衆階層の融合」=(「職能技能集団」の「姓氏」)=(「品部」と「部曲」の2つの融合)

前記した「移動、移民、難民、帰化人」の第0期から第5期までの経緯により頑なにその属性を護っていた「民族氏」が、鎌倉期以降は「第1融合氏」との血縁を積極的に進めた事から「第2融合氏」(融合2)へと変化して、国内では「完璧な2種の雑種融合」が起こったのです。
これは九州全域を勢力圏に置く阿多倍一族一門の「大蔵氏」が「自治」を獲得した事、又一門の「たいら族の滅亡」を切っ掛けに、「民族氏」としては先読みして最早このままでは生きて行く事は困難と観て「盤石な勢力」(「融合力」)を固める為に、その「自治の特権・自由性」(「融合要素」)を生かして、特に関東以北を征圧している藤原北家筋秀郷一族一門との血縁に踏み切ったのです。これに依って「民族氏」は「第2の融合氏」へと変化して行ったのです。
この「指導階層の2つ融合」(第1融合氏、第2融合氏)と、「民の融合」(「品部」と「部曲」の2つの融合)に分かれて行った事が後に「完全融合」を成した要因であったと考えられます。
もしこの「4つの階層」が混在一体と成って融合していたとすると、身分階層の境界が薄らぎ鎌倉期以降の社会体制は全く違ったものに成っていたと考えられますし、「共和国的な社会」に成っていた可能性があります。
これらの「融合」が「上層部の2つ」と「下層部の2つ」に分かれてそれなりの特徴を生かして「融合」が進んだ事と成ります。
ところが、この階級社会の中で「上層部」と「下層部」の間には、実は積極的な「融合」は起こらなかったのです。この状態は「士農工商」の身分制度と「氏家制度」の家柄身分の「吊り合い慣習」により歯止めがかかり原則として江戸時代中期まで続きました。(室町期の下克上、戦国時代の混乱期を除く)
況や、これは「下層部」の「民の融合」が国民の最低8割以上を占めていた事から、彼等の全てが「職能集団」の「品部の民」と「部曲の民」で主であった事から、「物造り」を「絆」にして「融合」が起こった事が原因していたのです。
「上層部の2つ」は身分家柄制度があった為に「横関係」で相互間の「融合」は進み、「下層部の2つ」では身分家柄制度が希薄であつた為に「縦横関係」で相互間の「融合」は進みましたが、「上層部」と「下層部」の間には「身分制度の垣根」が強く「融合」を起すだけの「力」つまり「融合力」とその基と成る「融合要素」が無かったのです。
「融合力」+「融合要素」=「異種間融合」
しかし、「下層部」の「品部」と「部曲」の間には「融合」を阻害するこの「身分制度の垣根」と成るものが無かった事に依って「自由性」(「融合力」)が発揮されて「限定した領域」で「融合」は進んだのです。
上記した「部曲の融合」は「品部の融合」に比べて「異なる融合の発展」を起こしますが、然しながらその「融合要素」となったのが、「部曲」は農業の傍ら「物造り」の「一つの工程」(原材料生産)をも一部で荷っていた事なのです。つまり、「融合要素」=「物造りの工程」であって、その「限定した領域」とは「物造りの工程」に関わった「重複部分での血縁融合」であったのです。
「物造りの工程」が縁と成って血縁して行ったのです。
総じて云えば、「品部の民」即ちその先祖は「後漢の民」と「在来民」(部曲)との「血縁融合」と云う事に成ります。
その証拠に平安期に使用されていた「百姓」(おおみたから)と云う「百のかばね」の言葉は、本来は、正しくは「皇族」と「賤民」を除く良民一般(公民、地方豪族含む)の総称(奈良大化期から平安末期)であったのです。「農」を意味する言葉ではなかったのです。
これは「品部」と「部曲」との階層の間には上記の「物造りの工程」の「融合」が有った事から一つとして見なされて区別せず相称して「百姓」と呼称されたのです。
(「品部」や「部曲」の中には姓を構築した「豪族」・「豪農」も存在していた。)
「百姓」の呼称が「農民」(部曲)のみと使用し限定されたのは室町末期から江戸期初期に掛けての事なのです。正式には「士農工商」の「封建社会の身分制度」が確立してからの呼称なのであって、平安期から室町末期までは「氏家制度」の下では「士農工商」の「士」の上層部「氏」を構成する「武家」階級を除く総称であったのです。「士」にも下記に述べる「3つの階層」(123)があって「農工商」に類する
結局、奈良期・平安期から室町末期までの「農」と、室町末期から江戸期中期までの「農」ではその質は異なるのです。
従って、因みにルーツ探求から観てみると、藤原秀郷一門が鎌倉期に成ると失職離散して「農」に携わった事は江戸期の「農」とその持つ意味合いは異なるのです。
鎌倉期以後から室町期末期の「農」は「兵農方式」が未だ主流の時代でもあった為に一時的に主体をどちらに置き変えたかの違いだけであったのです。身分的要素の低い呼称なのです。
 鎌倉期以後から室町期末期の「農」(兵農民)≠ 室町末期から江戸期中期までの「農」(農民)
(これ等の雑学はルーツ探求で資料を考察する時に特に注意する必要があり、時代考証に於いて大変な判断の間違いを起す。)

ところがこの「農」に関わったものとして分類するとそもそも次ぎの「4つの農」があるのです。
1 「武士」で有るが生活の糧として「農」も兼ねる者(兵農)
2 「農民」で「農兵」を兼ねている者(農兵)
3 「農民」で若者が「傭兵制度の組織」に組する者
4 「農民」として純然として「農」を営む者

そして1には次ぎの階層があったのです。
A 下級武士で姓名・家紋を保持しない「兵農民」である者
B 下級武士で地元の地侍の「郷士」である者(姓名・家紋を保持)
C 中級武士で土豪(郷士長・首魁)である「庄屋、名主」である者(平安期に豪族であった)
D 上級武士で豪族で「郷氏」で「大豪農、大地主」である者(室町期前期に守護等の氏上)

1のAと2と3が室町期の末期に「農兵」として働き「武士」として名乗りを挙げたのです。
1のAと2と3は元々姓名や家紋や氏を形成せず、江戸初期に成って仕官し改めて姓氏、家紋、等を持つ様に成ったのです。
因みに青木氏における「農の青木氏」と成るルーツは、1のB、C、Dで、多くは記録からCとDが主流と成りますが、「4つの青木氏」の「家臣団」の「未勘氏」と、前記した青木氏に所属する「部民」の「絆結合」の「第3氏」と、青木村の「4の農民」の3つが明治期に「姓氏」として発祥しているのです。
皇族賜姓族青木氏にはこの「農兵」は原則として存在しません。
皇族青木氏と特別賜姓族の藤原秀郷流青木氏の一部には「農兵」は存在していた事が添書などから僅かに観られますが、そもそも秀郷流青木氏には護衛集団(武装集団)を平安期から室町末期までそれを本職とする集団であって特段に「農兵」を傭兵する必要性が無かったのです。
(皇族青木氏の甲斐武田氏系青木氏や丹治氏青木氏の2氏は除く)
5家5流の賜姓青木氏は、源氏と異なりその「生様」は前記した様に抑止力(シンジケート、秀郷流青木氏、経済力)を全面に押し出し「戦い」を前提とした「農兵」を必要とする事に組しなかったのです。

上記した「品部の姓化の氏」と、上記1から3の「農民(部曲)の姓化の氏」が別系列で興った事に成ります。
実際は「百姓」の呼称は「農民」だけではなく山民や海民等を指す「調庸の税」の「被支配民一般」の用語として正式には平安期(現実は室町期)までに用いられた言葉なのです。
「農民」が「百姓」と限定して呼称され始めたのは資料の表現から観ると鎌倉末期から室町期に入ってからの事なのです。(タイムラグがありここでは奈良期-平安期の意味を採る)
これは、奈良期から鎌倉期末期(平安期)まで農業の傍らこの「品部」の集団に組み込まれて「物造り」の一工程(素材生産)を担っていた構造に成っていたからによります。
「物造り」の「原材料の生産と加工」、一部はそれを本業の農業として彼らに委ねられていたからなのです。
依ってこれ等の「物造り」の関係から「品部」と「部曲」の関係は切り離せない関係にあって「品部」と「部曲」の「融合」も当然に起こったのです。
しかし、実は平安期では「氏家制度の根幹」と成っている「身分制度」を護る為には5つある階層間の血縁を朝廷は嫌ったのですが、「下層域」では護られず「税の徴収体制」が崩れる事を恐れた為に法を定めて護ろうとしました。中でも「部曲」と「品部」の血縁には注意を払ったのです。この状況は鎌倉期まで維持され、室町期に入り群雄割拠が起こり次第に崩れ始め、この結果「下克上、戦国時代」の混乱期を招き、安土桃山からは引き締め始め、遂には江戸時代に入り再び「氏家制度と税の徴収制度」の根幹部分を護る為に「士農工商」ではなく「士・農・工商」の身分制度を確立しました。
この制度の中でも「物造り」の勢いが強く「融合力と融合要素」が働いて上記した限定部分で「品部と部曲」との間では血縁が続いたのです。
そもそも「後漢の品部」が渡来してその技能を最初に教わり吸収したのはこの「部曲」なのです。従って、そのような絆から血縁融合は止める事は出来なかったと観られます。
即ち、日本の「民の融合」は名付けて「物造り」を媒体とした「物造融合」であった事に成ります。
ですから、日本は「融合」と「物造り」は無縁ではないのです。
「民の融合」(品部、部曲)=「物造融合」=「雑種の優秀性」
この国民総出で「物造り」が進んだからこそ積極的な「融合」は起こったのであり、その「融合」が進んだからこそ「物造り」が顕著に進んだと云えるのです。そしてその「物造り」は当然に「雑種の優秀性」を生み出し増幅させて行ったのです。この「民の融合」即ち「物造融合」が自然の「サイクルの流」を生み出したのです。
しかし、其処にはサイクルから出る弊害も見逃せず、「荘園制の行き過ぎ」等前記する様に色々な角度から論じて来た様に「天智天皇」等数人の優秀な天皇が「国策3策」を命を賭けて「弊害の苦難」を乗り越えて遂行したからこそ成し得た優秀性をベースとする「物造り国家」が完成したのです。
そしてその「物心両面からの策」が後世から観ると理に叶っていたのです。此処に本文前節の力説部分があるのです。

 「現在が完全融合期」(「民の融合2つ」「指導階層の融合2つ」)
遂には、日本は「自然の摂理」により「渦中の芯」に向かって、室町末期では「下克上」と「戦国時代」の混乱に合わせて、次第にこの「民の融合2つ」と「指導階層の融合2つ」は更に一つに成る為の「完全融合」を重ねる過程へと辿るのです。
しかし、ところがこの過程を辿るものの「完全融合」を成す過程は「氏家制度」と「封建制度」の社会により「身分家柄」の「縛り」が起こり、その「縛り」により「指導階層の融合2つ」には更に階層に階層を何段も造るという「吊り合い」による血縁現象が生まれ、結局、江戸末期か明治初期まで緩やかな変化と成ったのです。
ですから重要な事は、「完璧な2種の雑種融合」の論理的な「完全融合」と言う定義では、未だそう遠くない100年程度前の明治初期(平等の契約社会)の過去に始まり起こって居るのです。
この過程で見る限りは様々な「縛り」が取れて「完全融合」は丁度、現在であるかも知れません。
論理的に云えば、日本に於いては現在が最大の「雑種による優秀性」が顕著に出て来る時期と観られます。
つまり、この様に明らかな様に、「日本人の優秀さ」は動物に見られる「雑種による優秀性」が顕著に出た事に依る結果以外には有りません。
そして、その「根源・基点」は天智天皇の「青木氏」から始まった「融合氏」(国策3策)の厳しい経緯から起こっているのです。我々「4つの青木一族一門」はこの「根源・基点の象徴氏」なのです。
「根源・基点の象徴氏」青木氏から始まった「融合氏」の現在の発展は天智・天武天皇の先見性に関わっていたとするも過言ではありません。

「研磨剤」(「3つの脳」)
論理的に云えば、現在がその「雑種による優秀性」が出る時期であると観られる事に成ります。
では、”その「優秀性」はどの様な処に出るのか”と云うことですが、特に、それは「融合」に切り離せなかった「物造り」と云う場面にあると観ていて、その「優秀性」を引き出す原石を磨く「研磨剤」(「3つの脳」)は家訓8にもある様に下記の事だと見て居るのです。
宝石(融合氏)も磨く事(思考訓練)なしでは成し得ませんが、故に其処に「力説点」を置いているのです。

「民の融合2つ」→「雑種による優秀性」←「3つの脳」→「物造り」←「指導階層の融合2つ」

「力説点」
その「融合氏」の「優秀性」(特技)が、”「3つの脳」(「思考訓練」「熟練技能」「熟練技術」)の努力”の「遺伝性特技」に現れたものであると青木氏の歴史的史観からの研究結果から主張しているのです。

「3つの脳」=(「思考訓練」「熟練技能」「熟練技術」)=日本人の「遺伝性特技」
”「物事」についてよく考え、それを何かに「応用」し卓越し、それを「文明の形」にして生かす。”
この特質です。

逆に云えば、「三国志」の中にも出ている様に劉備が立ち上がった理由の「中国の国民性」ですが、中国では今でもその気風は消えていません。
それは「法より人」「石は薬」「雑は良識」の中国の諺に物語ります。
日本の「遺伝性特技」=「3つの脳」の「思考訓練」の「物事に真面目に考える国民性」と、「法より人」「石は薬」「雑は良識」の考え方とは逆なのです。
此処に「中国との違い」があり決定的要素として差が出ているのです。
それは「7つの民族」の「融合の所以」であって、「民族氏」の「個人の志向」を重視するより「集団性」を重視する「融合氏」」(2+2=4の融合)から起こった「国民性」なのです。

その昔は中国は世界でも「物造り」は先進国であった筈ですが、それが1/10の国力も無い小さい日本が「物造り」の先進国に成って行ったのは、中国の支配民族がころころと変わった事でもあり、取分け主にその「物造り」を進めたのは、中でもそれをリードした「優秀とされる漢民族」で有った事によります。
日本には大きい意味で「支配民族」は無く「7つの融合単一民族」で支配されていた処に差異があります。しかし、其処に「漢民族」が日本に流入したのです。
「漢民族」は中国西側域(ヘトナム)にも武力難民と成り流れ「西国の民族」は押し出されて北九州と南九州に渡来する事と成ったのです。

その優秀な漢国が滅び16国に分散してしまい、その結果、中国では「物造り」の精神は衰退したと観られます。しかし、その「漢民族」の東の国を統制していた将軍の「光武帝」が東に勢力を伸ばし朝鮮半島の3韓を制圧して統合して「後漢国」を建国しました。
矢張り、この優秀な後漢の民は「物造り」を伸ばし、結局21代末帝の献帝の時に滅びます。その後、後漢は隋に徳化して行き618年に滅びますが、それまでは「物造り」は「180の職能集団」に分類されて強く政策的に継承され続けていました。
現在から観てもこの時代までには後漢の民は素晴らしい優れた文化財を遺しているのです。漢民族の「物造りの優秀さ」が証明されます。
その618年の時に末帝末裔の子「阿智使王」と孫の「阿多倍王」が後漢の民の17県民200万人を引き連れて日本に渡来し、帰化して来たのですが、青木氏の関係論文で論じている様に彼等がこの「物造り」の技能の下地を日本にもたらすした事でも明らかです。
しかし、この様に「三国志」頃から観ても、中国の国を支配した「民族同士の融合」は一つの融合民族を構成する程に起こって居ないのです。これは中国人は「個の意識」が強くその延長の「民族意識」も強くそれが下で中国の長安を中心として「民族の住み分け」で済ました事に依ります。
日本に帰化した彼らの神は「道教」-「産土神」であった事でも判ります。
つまり、「意識問題」として云えば、この頃の「民族の縛りの意識」は”一民族はその民族の中で暮らす”と云う事が常識であった事なのですが、日本では「7つの民族」が集まっていて不思議にその「縛り」は低かった事が「融合」を促進させたのです。
確かに、彼等が渡来した時は、色々な資料を観ても、上陸時の初期から奈良期の前半までは遺跡からこの傾向が観られましたが、大化期を境にそれなりの「縛り」はあるにしても中国の様に生活圏の全周囲に城壁を構えその中に「民族」を防御するまでには至っていません。
大化期付近から変化したしたのは数々の「天智天皇の施政」からも観ても判る様にこの「民族」の「縛り」を無くす「公地公民」等の「中央集権政策」を矢継ぎ早に実行した事が原因しているのです。
つまり、これ等の政策は全てその「融合政策」に通じているのです。
その「融合の象徴的代表」が「青木氏」なのです。つまり「青木氏」そのものが「民族の縛り」を無くす「象徴策」であったのです。
恐らく日本は山岳部の多い「国土の地形」が「縛り意識」を起す環境下に無かった事も原因していると観ます。
中国では、”一族が住む地域の周囲全域を城郭で広く囲み、その中に同一民族が暮らす”と云う、つまり、”城郭内に住む民は皆少なからず親族”と云う形の中国の都市構成を観ても解ります。
この「民族状態」では、地形から「民族の縛り」が起こらず開放された状態の日本の様には、中国では大きな「雑種交配」は起こりません。
「山岳地形による集団生活」と「平地での城郭による集団生活」との差が融合をより容易にしたのです。
とすれば、この住み分けと云う事等から考えれば、中国では「民族」、日本ではより小さい単位の「氏」の「住み分け」であった事であります。

中国=「民族」=「平地での城郭による集団生活」
日本=「氏族」=「山岳地形による集団生活」

この「氏」の社会の中に「異民族」が混入し来たのです。ましてや「国土の地形環境」の違う中に入ってくれば「自然の摂理」で「人心の拒絶反応」が起こるのは必然です。
しかし、この「拒絶反応」が「技能伝授」と云う形で「在来民」に福をもたらし事で大きく起こらなかったのです。「拒絶反応」-「技能伝授」=「在来民に福」
しかし、「拒絶反応」が起こらなかったとしても「民族性の思考原理」は依然として残っていたのです。何とも不思議な現象です。
「拒絶反応」と成る原因の基の「民族性の思考原理」がそのままに潜在したままで「技能伝授」がそれを押さえ込んだと云う事です。
普通ならば「拒絶反応」が起こり「民族性の思考原理」を排除してくれる筈です。
しかし起こらなかったのですから「民族性の思考原理」は社会の中にそのままに存在してしまったのです。丁度、「日本」の九州に「中国」が出来た事に成ります。
これでは中央の為政者は慌てます。”何とかしてこの「民族性の思考原理」を解消しないと危険だ””何か起こる”とする危惧を抱いた筈です。
それが前記した様に「民族氏」と「7つの民族融合」を成した「融合氏」とのその2つに問題が起こったのです。
当然に初期的に「7つの民族融合」が折角進んだ社会の中に腫瘍の様に再び危険な火種の「民族性」が出来てしまった様相です。こうなればもう一度中期的に「融合政策」を推し進める必要性が出てきます。
初期は恐らく「地形的環境」から自然淘汰が起こり「自然融合」が起こったと考えられ、中期は「自然淘汰」では行きません。政策的な解決策の実行が必要と成ります。
それが「大化の融合政策」であったのです。それには為政的にはシンボル的なものが必要と成ります。
つまりそれが「青木氏」で有ったのです。シンボルに位置づけられた「青木氏」にとっては国体の成否の如何を左右する任務であり宿命でありますが、嵯峨期(弘仁の詔勅)から発祥した源氏に取っては既に165年も経過してその任務の認識度は低下していた筈です。
前記した様にこの2つの賜姓族グループの間には根本的に認識度が異なっていた事に成り、清和源氏分家頼信系の義家等が採った「愚かな行動」はこの国体如何を左右すると云う「認識欠如」がその任務を全うする事も無く、更には「源氏滅亡」までを招いてしまったのです。

「融合氏の血縁性」
更には、日本では「国民思想」として「氏間の融合」を「子孫存続」の「血縁の前提」としていた事でもあります。
飛鳥、奈良、、平安期の記録から「融合」という観点で分析して観ると次ぎの様に成ります。
例えば、「氏の象徴」の天皇家で観てみると、現在では考えられない極めて高い「純血」を護りながらも一つのルールに従っていた事が解ります。
そのルールを検証すると、奈良期の子供の作り方で観ると、前半は2親等から4親等の近親婚を行って極めて高い純血婚で保持していたのですが、後半は大化の改新により、天智天皇が「氏の融合」とこの「近親婚の弊害」をより無くす為に、次ぎの様な改革を行ったのです。
例えば、純然たる「融合氏」の「発祥源」と成った天智天皇と天武天皇の間では、天智天皇(中大兄皇子)の子供は地方の豪族からの娘(いらつめ 郎女:妥女 人質)を仕組みとして入れて子供を作り、その子供(姪)を天武天皇の妻に迎えて「純血」を護ると云う慣習が採られています。
そして、その地方の豪族も同じ慣習に従っているのです。特に「八色の姓」族までの身分家柄の氏を構成する宗家、本家筋ではこの「純血」が維持されていたのです。
そして、この「妥女の制度」(うねめ)は「氏の融合」を推し進める為に全ての一般地方豪族からの郎女(いらつめ)を「人質」として朝廷に仕えさせ、その性質は「女官奴隷」とし、「純血」の中に制度的に「混血」を行う為の正式な「妻の制度」(皇后、妃、嬪)の補助身分として「妥女」(うねめ)制度を導入したのです。
その為に、妻は4段階にして、先ず、皇后と妃は2親-4親等の親族 嬪は大豪族とし、妥女は地方の小豪族の他氏の郎女とし、この前2段階で産まれた子供の中から近親婚の弊害を受けた皇子を除き4段階の妻の身分に順じて皇子順位が定められ、4世族王までそのルールに従う形を採っているのです。
そして4世族までも上記した「純血保持」のルールに従に従います。(大化期前は6世族まで)
皇子数が少ない場合は第5世族、場合に依っては第6世族まで引き上げてその皇子を定める皇族身分の継承を行い、「子孫の融合」を天皇家に入れる仕組みにしたのです。
この意味で「皇族関係者」のみならず「八色の姓」の範囲の各豪族の氏等はこの「仕来り」に従いますが、決して「性的目的」や「権力継承者」の保全目的からの「妻4段階の慣習」を保持したのでは無いのです。近親婚は定められた「仕来り」であって異常とされる慣習では無かったのです。
つまり、「氏融合」の政策が進むに連れて薄れる「純血低下」に対する「権威の低下」の防止策であった事に成ります。
「純血」は当時の社会体制から民を除く為政者の立場にある者の「権威保全システム」で有った事に成ります。
平安期までの「氏」はこの意味で鎌倉期以降の急激に増えた「氏」とは「純血保全」と云う点と、「氏として朝廷の承認」(「八色の姓制度」と「氏姓制度」で縛られていた)の有無も含めてこの2点が異なっているのです。
平安期に於いては無法治に「氏姓」が発祥したのではなく「血縁性の縛りや制度」に依ってある一定の「品格、資格、家柄、身分、勢力」などの条件に依って管理されていたのです。
「日本の民」も「中国の民」の様に「民」の段階に於いても、初期は地域を限定して「民族間血縁」であり、ある種の「近親婚」で有ったのですが、それが崩れて日本では、第2期頃(飛鳥期-大化期)からやや早く完全な「混血婚」と成って行きます。
少なくとも、平安末期までは「純血の保全」と「子孫融合」又は「氏の融合」を本来の目的としていた慣習だったのです。しかし、第4期の鎌倉期以後、爆発的、飛躍的に「氏の融合」が進んだ結果その目的が変化して「権力継承者の保全」へと変化していったのです。

「純血の保全」と「子孫融合」(「氏の融合」)⇒「権力継承者の保全」

その意味で第2期頃この「仕来り」と「慣習」で生まれた第6位皇子の皇族賜姓族を始めとする青木氏は「氏の発祥源」であった事を意味します。
平安末期の賜姓源氏(10代目頃)には、「氏の融合」よりは「武家」(公家に対する武家の意味)の「権力継承者の保全」に変化して、この意味合いは少し異なって行きます。
反して云えば、「氏の融合」が進みそれに連れて「純血保全」は低下して、その意味合いが社会の中で低下した事に成ります。

この様な「仕来り」で生まれた平安初期までの「氏の融合」に付いては、若干、この時には記録では「渡来人」と云う言葉が存在している事から観て、未だ確かに「幾つかの民族」を意識していた事に成ります。
日本書紀にも”蘇我入鹿が「中大兄皇子」のグループに粛清された時にこれを聞きつけた「古人親王」が[渡来人が殺された]と叫び奥に逃げた”とするその発言が記録では遺されています。恐らく、蘇我一族類縁の「古人親王」は「中大兄皇子」の宿敵であり、この粛清がどの程度に及ぶか判らない為に恐れて逃げた事が伺えます。
その時に発した言葉が30年後(675)の「舎人親王」の日本書紀編集時に記録されるという事は、その時の発言の意味が大きく「朝廷内の意識」の中に未だ残っていて継承されいた事に成ります。
つまり、この記録から観ても、皇族の一部が応仁期に渡来した蘇我一族の類縁でありながらも自らも「渡来人」の意識を持っていて、然りながら一方では「渡来人」で無いとする「不思議な過程域」(重複期)であった事を物語ります。
丁度、何年も経たないこの時期に「青木氏」が賜姓され発祥をした事もこの「不思議な過程域」即ち「融合意識」が「氏意識」へと「移行する時期」の中にあった事にも成ります。
そうすると日本書紀に”この記録を遺す”と云う事は50年後の700年頃にはかなり「氏への融合」が急激に進んでいた事を物語ります。
そして70-130年後頃には全体の書物の記録から「渡来人」の言葉が消えているのですから、「氏の融合」は爆発的に進んだ事を物語ります。「氏融合意識」で「渡来人意識」を消え去られる程度に融合が急激であったことに成ります。
この「不思議な過程域」が「氏融合の急激な変化」に依って「渡来人意識」が人心から消え去った事に成ります。
奈良時代末期は「初期の民族融合」が進む中で未だ在来民の「民族の意識」は多少残っていたことを物語り、「氏の融合」は上記した様に20程度の「民族氏」の中で、同じこの時期に発祥した伊勢青木氏や近江青木氏がその「氏の融合」の発祥基点と成った事を証明します。
(当時の一般の民は「民族氏」又は「氏」の構成員の立場にあり、「部」の職能集団での構成員でもあった。)

古代の「物造り」の「部」を管理統括する国の長官を「国造」(くにのみやつこ)、管理者「伴造」(とものみやつこ)と云う呼称であった事はこの政策を優先したと観られます。
(この下に現地で実務管理をさせた「伴造]: とものみやつこ、労役をする民を伴って朝廷の税外の仕事に出仕した事からの呼称)
”「物造り」即ち「部制度」を「国造」(国つくり)”としている事は、明らかに奈良期から朝廷は「優先政策」として「物造り」としていた事を物語ります。
これは「国造り」=「物造り」から来ています。
「国家の安定」とその根幹を成す「物造り」の政策を推し進める為には、日本の人民を一つにする必要があり、その為に「民族氏」から「融合氏」へ政策的に移行させる必要に迫られていたことを物語ります。
「物造り」は「国造り」であり「氏造り」(融合)であることに成ります。
逆に云えばこの事は「7つの民族」の「異民族国家」の認識が未だあった事に成ります。
この意味でも大化期から平安末期では、「国造り」=「物造り」を成すには「民族氏」から「融合氏への政策転換」に迫られていた事に成ります。

「国造り」=「物造り」=「氏造り」(融合)⇒「シンボル賜姓青木氏」〓(3つの発祥源)国策3策

そもそも筆者は「青木氏」を研究している中で、とりわけ本論の神明社の研究で”「青木氏の持つ意味」は何であったのか”と云う事に拘り研究して来ました。
それは、中大兄皇子は第6位皇子を臣下させる目的の「天皇自らを護衛する集団の構成」の目的と、もう一つの目的は「7つの民族」で構成される国からより民族同士での争いを無くす為により安定した国、又は「日本人」にするには「氏の融合」と云う「政治的テーマ」が有ったのだと考えて居るのです。
それを裏付ける次ぎの11の事柄が考えられます。

1「不思議な過程域」(融合意識が氏意識への移行期)であった事。
2「氏の発祥源の青木氏」と「嵯峨天皇による青木氏から源氏に変名」と云う「源」の氏名の賜姓を使った事。(青木氏から源氏まで16代も賜姓を続けた理由)
3「天皇の皇族」をしてこの「臣下」と云う手段を採った事
以上の主要3点に観られると考えているのです。

何も臣下せずしても護衛集団の目的は果たせる筈です。確かに皇族は「武力を持たず」の皇族の仕来りはあったにせよ第4世王の有名な「栗隈王」らは自ら武器を持っていた事は日本書紀の中の大友皇子と大海人皇子との争いの場面でも出てきますし、他の記録を観ると徹底されていなかったと見られます。わざわざ「臣下」という手段に出たのもこの「氏の融合」政策を押し進める目的があったと強く考えているのです。
更には、次ぎの事柄でも検証出来ます。

4「第6世族」までを皇族王としていたのを第4世族までとした事、
5「第7世族」を都より遠路の坂東に配置した政策の「坂東八平氏」と名づけられた事、
6「准賜姓」を許し彼等に地名の氏名を名乗らせ坂東守護を許した事、
7「嵯峨天皇」の以後の皇族が下族する際に使用する氏名を「青木氏」と詔で定めた事、
8「後漢の阿多倍王」の渡来子孫に坂上氏、大蔵氏、内蔵氏等の賜姓をした事、
9「敏達天皇」の孫の芽淳王の末裔をこの渡来人に娶らし融和策を講じた事、
10「後漢渡来人」等を「遠の朝廷」として「錦の御旗」を与え九州全土の政治を任せた事、
11「本文の神明社」の配置策などから観れば明らかに「氏の融合策」で有った事
以上の事が覗えます。

故に、この平安期初期までの「氏融合」の積極策が効を奏して、”「氏の融合」は爆発的に進んだ(100年間)”のだと観ているのです。
その「氏の融合」は文化・由来の括りで分ければ次ぎの「6つの族」に分類されます。ここでは「A~Dの族」を中心に論じています。
EからJまでは個々に異なる文化・由来の経緯を持っています。

青木氏の関係族の構成(守護神別分類)
A 皇族賜姓族の氏の発祥源青木氏(朝臣族 5家5流青木氏 25氏)
B Aの母方で繋がる藤原秀郷流青木氏(藤原秀郷流青木氏:嵯峨期詔勅の特別賜姓族青木氏116氏)
C 室町期と江戸初期にA、Bの縁類として発祥した青木氏(未勘氏 家臣団 徒弟制度)
D 明治初期の苗字令で発祥した青木氏(第3氏 村民 絆結合 職能集団)
E 宿禰族橘氏(葛城王始祖)の青木氏(石清水社社家 皇族1氏 A族別系)   
F 嵯峨期詔勅にて発祥した皇族系青木氏(多治彦王・島王配流孫青木氏2氏 甲斐青木氏4氏)
G 嵯峨期から花山天皇期までの賜姓源氏(賜姓同族源氏11氏 源氏系配流孫青木氏1氏)
H 皇族賜姓族佐々木氏(天智天皇賜姓氏 近江佐々木氏1氏 同族血縁氏青木氏1氏)
J 宇多天皇佐々木氏(嵯峨期詔勅氏 滋賀佐々木氏1氏)
K 上山氏系滋賀青木氏(近江賜姓青木氏の遠戚青木族1氏)
 
「4つの青木氏族」(A~D族)
(2つの血縁氏)-神明社
Aの5家5流25氏を発祥源とした青木氏
Aの藤原氏の母方で繋がる嵯峨期の「血縁的類」の116氏の青木氏、(神明社・春日大社)
(2つの絆結合氏)-神明社
A、Bの青木氏116氏に何らかの間接的な縁者関係にあったとされる「縁者的類」の青木氏、
A、B及びCの青木氏と郡村で「生活を共にした民」の「社会的縁類」の青木氏、

E族は、A族の慣習に基づき本来は朝臣族が務めるところ橘諸兄(葛城王)の母橘三千代が藤原不比等に嫁した為に橘諸兄は朝臣族となり、その末裔が橘氏の守護神の石清水社社家を務めた事からA族の慣習に基づき青木氏を名乗った橘系青木族1流 (石清水社)

F族は、関東丹治氏系青木氏1流と島氏系青木氏1流 甲斐の源源光系青木氏2流 源時光系青木氏3流

G族は、 Aの皇族第6位皇子の同族賜姓族の青木氏より変名した賜姓源氏族(Aと同族) 九州源有綱-高綱配流孫の源氏-廻氏系青木氏1流

H族は、天智天皇の特別賜姓族川島皇子始祖系近江佐々木氏1流と、近江賜姓青木氏との血縁族青木氏1流

J族は、嵯峨期詔勅に基づく賜姓族の滋賀賜姓佐々木氏1流 青木氏を賜姓せず同属H族に倣って佐々木氏を宇多天皇は賜姓した。

K族は、近江青木氏が滋賀に移動した時の遠戚末裔廃絶孫の名籍を伊賀上山郷の上山氏が盗籍し興し滋賀青木氏を継承氏1流(継承は戦いの末に承認)

つまり、AからKの「10の族」に対して「縁と云う関係」から観ると次第に緩やかな「縁的関係」を保持する青木氏に分類されるのです。

中でもA~D族は「悠久の歴史」が血縁に勝るとも劣らず強い頑強な「絆結合」を構築したのです。
(4つの青木氏)=(2つの血縁氏)+(2つの絆結合氏)←「縁的絆関係」
「悠久の千年歴史」→「縁的絆関係」

そして、「天智天皇」から「光仁天皇」まで、「桓武天皇」と「平城天皇」の続けて2代の天皇を除き、「Aの同族」としての「嵯峨天皇」から「賜姓源氏族」と変名して続けられたのです。
(この2代の天皇は賜姓を皇族にせず、自らの母方阿多倍王の孫娘の実家先を賜姓した。後の「たいら族」の「賜姓平氏」で5代後の太政大臣平清盛の一族一門である。)
この2代の親子の天皇の反動がもし無ければ、本来であれば皇族賜姓青木氏は続いていた筈なのです。
ただ、「律令国家」の完成を成した天皇としては実家先の青木氏等の「皇親政治族」の存在で国の運営が左右される事には問題であった事は確かに考えられますし、その完成を成し遂げ官僚を牛耳っている母方の阿多倍一族一門を賜姓して引き上げて”律令国家体制を軌道に乗せる”とする事も充分に考えられます。そうも物事が上手く進まないのもこれも「浮世の現実」でありますが、現実には賜姓青木氏源氏と云う氏名では続いているのです。
問題は上記した様にこの”賜姓源氏の採るべき態度が間違えていた”と云う事なのです。
源氏に観られない「4つの青木氏」の数式が物語る様に、「血縁の前提」(縁的絆関係)の考え方なのです。

「家紋の意味」
その証明する最たる「血縁の前提」の考え方は、主に平安期から顕著に始まった「氏の象徴」の「家紋」に重点を置いていた事で証明できます。
大別すると、2期に分けられます。
先ず1期目は、未だ「民族意識」の存在する中での「氏の融合期」、即ちこの平安期の時期「民族融合」の終了期(桓武期 1次800年頃-2次900年頃)です。
次ぎに2期目は、「民族意識」が無くなり其処からは鎌倉期からは積極的な純然たる「氏の融合」へと変化して行くのです。
つまり、日本は「民族融合」⇒「氏の融合」=(氏家制度)の過程を辿ります。
これに伴って上記数式の「氏家制度」は「数多くの仕来りが」生まれ確実に「氏の集団互助システム」として充実して行きます。そして、これには「氏の象徴」である「家紋」も連動して「数多くの仕来り」が生まれが並行的に増加して行くのです。(特に藤原氏は最も多い「仕来り」を持った。)
これらは時代毎の「氏の数の変化」(最大1500)と「家紋の数の変化」(最大8000)でも証明出来るのです。(研究室参照)
要するに「家紋の持つ意味」として、「民族融合」⇒「氏の融合」に依って「融合の単位」が「民族」からより小さい「氏」に変化した事に依って、その「氏」を判別する目的として「家紋」が用いられたのですが、この「家紋」が「融合」を助長する役目を大きく果たしたのです。
「氏の境目」がはっきりしなくて判別が出来なければ社会組織「氏の集団互助システム」の「氏家制度」は成立しなかったからです。「家紋」はその醸成された仕来りで「氏の境目」を明示させたのです。
はっきりとした氏間の「血縁融合」(血縁の前提と縁的絆関係)が判別出来た事に依ります。

ところが「民族性」の強い中国は現在に於いてもこの「氏の融合」が積極的に起こっていない事によります。つまり「家紋化」が起こらなかった事で、「血縁の前提」(縁的絆関係)の判別が観えなかったのです。自然発生的な「氏家制度の構築」が成されなかったのです。
結局、日本では突き詰めると「氏融合」が「家紋」に依ってより「雑種の優秀性」が助長されて発揮される様に成り、その優秀性は「氏と部曲、品部」との連携により「殖産・物造り」へと変化を興し、この「物造り」への変化は今度は「家紋」の変化に象徴される様に成って行ったのです。
そして其処に「家紋」のより「大きな役割」が生まれ、「家紋の持つ意味合い」が追加醸成されて行ったのです。
この様に当初は「家紋」は「3つの発祥源」の青木氏の「象徴紋」であったものが、何時しかそれが「氏の家紋」と成り、その「家紋」が「血縁雑種の優秀性」から「物造り」へと結び付き、又その事が逆に経路を辿る事で加速性のある「著しい融合」が進んだのです。
この様に「家紋」に於いても、「物造り」に於いてもその根源は「青木氏」に無関係ではないのです。従って「物造りの象徴紋」は「青木氏の笹竜胆紋」と云っても過言ではないのです。

「氏融合」=「物造り」=「笹竜胆紋」=「賜姓青木氏」

ただ、同族の「賜姓源氏」の「笹竜胆紋」は賜姓族として青木氏と並んで使用したのですが、本来、前記する「愚かな行動」からすると「笹竜胆紋」は相応しく無く単純な無味乾燥の「家紋」に過ぎないとしているのです。”その認識が薄かった”と考えているのです。
賜姓源氏は家紋に持つ「物造り」や「3つの発祥源」の崇高な意味合いに欠けていたのです。
此処に「青木氏の笹竜胆紋」は「家紋」とするよりは元来は「象徴紋」であって、その意味合いも次ぎの関係式が成り立つともしているのです。

「氏融合」=「物造りの象徴紋」=「青木氏の笹竜胆紋」(象徴紋)

当然、この「氏融合」は「祖先神」の「神明社」に繋がります。
「氏融合」=「神明社」(祖先神)となり、「神明社」(祖先神)=「物造り」の以上の数式の関係が生まれたのです。

1・・・「氏融合」=「神明社」
2・・・「神明社」=「物造り」
3・・・「3つの発祥源」=「賜姓青木氏」
4・・・ ∴「氏融合」=「物造り」=「笹竜胆紋」=「賜姓青木氏」=「神明社」=「3つの発祥源」

そして、この数式の過程を辿る中で次ぎの関係式が続けて起こります。

5・・・「氏間の血縁融合」(血縁の前提と縁的絆関係)=「4つの青木氏」

この幅広い関係式が成立し「氏家制度の成長」が氏の代表の青木氏の中で醸成されて行ったのです。

6・・・「氏間の血縁融合」(血縁の前提と縁的絆関係)=「氏家制度の成長」
7・・・ ∴「4つの青木氏」=「氏家制度の成長」

以上の7つの連立する関係式が起こり、その「氏家制度」には社会組織の必須条件の「物心両面の基盤」が醸成されて行ったのです。

上記7つの数式が中国と異なる処であり、これが「国民性の優秀さ」となって現われ、「物造り」は基を正せば中国でありながらもこの「国民性」が「物造りの基盤」の差異と成って現れたのです。

この頃から後漢からもたらされた「物造り」の経済活動と共に、後漢渡来人と彼等に育てられたと日本の民等の「技能集団」等が力を持ち、「氏」と「姓氏」を構成し、「2段階の氏家制度」を拡大させ、その「氏」と「姓氏」の家紋を象徴紋として拡げて行く経緯を辿るのです。

「氏名の持つ意味」
この様に「物造り」は「青木氏」と「家紋」に無関係ではないのです。
それは初代「青木氏」は647年頃に日本で初めて「皇族賜姓族」として発祥した「氏としての発祥源」ですが、この時に「象徴紋」として「笹竜胆紋」を氏の正式なものとして定められたものです。
それまでは「大和政権」時代の紀族、巨勢族、葛城族、平群族、物部族、蘇我族等20程度の族は「単位氏」では無く、「ヤマト政権」の初代「応仁大王」等の出自に観られる様に夫々は大半は南北の「韓民族」(3韓の中の集団名)の渡来人の「民族集団名」であり、むしろ、上記した「民族」の「小単位の氏名」であったのです。
応仁期(応神期)以前は「正式な民族」の「固有の氏名」はそもそも無かった事は歴史的に認められている事なのです。(以後 これを「民族氏」と記する)
しかし、この事から純然とした「正式な氏名」として分類すれば伊勢の「青木氏」から始まったとしても過言ではないのです。(以後 これを「融合氏」と記する)

その後の奈良期末期から平安期に掛けてこれに見習って主に地名や役職名等から採った氏名が自然発生的に「豪族の氏名」として広がりを示し、それらが朝廷の認可(八色の姓制度)の下に20から40程度に成ったものなのです。
この頃は「氏名」と言う確固たる習慣ではなく、「ヤマト政権」時頃の「族呼称」の20程度を除いてその「族の存在する位置関係」を固有名詞的に用いていたのです。「民族氏」
例えば、青木氏で云えば「越道君伊羅都女ー施基皇子」と成るのです。
「越」「道」「君」「伊」「羅」「都女」(「郎女」:「伊羅都女」は終局「妥女」の意味を持つ)

この「6つの要素」で、国、出自、身分、家柄、官職、立場、母筋などを明確にし「施基皇子」の位置関係を表していたのです。
奈良期の大化期からはこの「6つの要素」を「氏」として表したのです。後にこれに「象徴紋」を付け加えて「青木氏」の「氏名」で表現する様に成ったのです。
つまり、平安期以前の「氏名」にはこの「6つの要素」を持っていたのです。
平安期までは人は「青木」と聞き取る事に依って上記で述べました様に「青木の神木」の持つ意味から「氏の源」と云う事が判り上記「6つの要素」の意味を読み取ったのです。
そして、「八色の姓制度」と「有品の制」(蔭位の制)が加わりこの「6つの要素」の意味合いと共に「有品」「朝臣」の2つが付け加えられて正式な呼称として「青木三位朝臣・・・」と称する事に成ります。
これに永代の冠位官職を加えると「浄大1位 六衛府軍上佐 青木三位朝臣 民部上佐 左衛門佐信定」
(源氏で云えば青木氏に跡目に入った清和源氏頼光系4家の宗家では「源三位朝臣頼政・」と成る。)
これが「青木氏」の固有名詞として「呼称の氏名」とされていたのです。
人々は"「青木氏」"と名乗れば「八色、有品の祖」と「3つの発祥源」の「氏」である事を悟り理解したのです。
その慣習は現在は全く消えていますが、明治初期頃まで上層階級の人々の常識の中に遺されていたのです。当然に「青木氏」呼称の他に、「賜姓族」としてはその「象徴紋の笹竜胆紋」や「生仏像様」、中には江戸中期までは「伊勢紙屋長兵衛」等でも「氏」を物語るものとして通じていたのです。
特別賜姓族(秀郷流青木氏)としてもこれに順ずる「氏族」との認識が高く、且つ、藤原氏北家筋名門「第2の宗家」として人々の認識の中に深く遺されていたのです。
特に賜姓族と特別賜姓族の「2つの伊勢青木氏」には口伝によれば大正半ば頃(14年)まで遺されていた事が伝えられています。
(平成15年頃まで神仏職関係者にとりわけ菩提寺の住職には認識が遺されていた)
しかし、上記する呼称「青木氏」は1125年頃に「2足の草鞋策」を採用しますが、当時の人々は「3つの発祥源の青木氏」との認識が強かったところに、突然に「2足の草鞋策の青木氏」が現れたのです。
恐らくは、一時、「青木氏」と「殖産・物造り」(2足の草鞋策)との繋がりに戸惑ったものと観られます。
当然に、青木氏の中でも「笹竜胆紋」と「生仏像様」と「祖先神・神明社」の「青木氏」を物語るステイタスが厳然として存在しているのですから切り替えに戸惑ったと考えます。
人々はこの印象・認識がどの様な変化を示したかを記録から考察すると、次ぎの4段階に分かれている模様です。

「印象・認識の経緯」
第1期(平安期末期)
平安末期50年前頃は知る者と知らない者との区別がはっきりしていたと観られます。
和紙に関る者が知る範囲であったと観られます。恐らくはこの時期には「2面作戦」に出たと考えられます。時代は「融合氏政策」を実行している中で、「青木氏」が「2足の草鞋策」を採ったとすれば世間の批判は無条件で「青木氏」に向けられ、強いては朝廷への批判となり国策推進に影響を及ぼす事に成ります。もし、そうなれば終局、愚かな行動を採り朝廷から疎んじられ民から見放された滅亡に向かった源氏一門の様に存続そのものが難しく成っていた筈です。
丁度、「荘園制の行き過ぎ」による粛清がなされていた時期でもあり、平族の繁栄期でもあります。先ずは納まらなかったと考えられます。
同じ平族も伊賀和紙の殖産紙に共に関わり海外に殖産貿易を行っていた時期でもある事から、内々で黙認されていた筈です。依って恐らくはこの事態を避ける為に「2面作戦」で挑む以外には無かった筈です。
その証拠となる事が起こっています。丁度50年後に「以仁王の乱」が起こって主謀者の源頼政が敗退に依って滅亡を避ける為に事前に「平族」との親交のある伊勢青木氏に京綱を跡目として入れて遺します。
この事は5家5流の賜姓青木氏が「清和源氏宗家」を武力では無い形で継ぐだけの力が備わっていた事を意味します。
それは和紙などで繋がっている事で「平族」に潰される事が無く、且つ裏面の「2足の草鞋策による経済力」に裏打ちされていて安定していたからです。
「商家と青木氏」(2足の草鞋の家筋)が表立っていてはっきりしていれば、家柄前提とする氏家制度の中では「清和源氏宗家の跡目」を継ぐ事は出来ませんが、あくまでもこれは賜姓族「青木氏」だけであって出来る事です。取りも直さずこの行動は、つまり「商家」は衆目には未だ「陰」であった事を物語ります。

第2期
しかし、鎌倉中期から室町期初期にはこの「2面作戦」は長くは続けられる事は有りません。
北条氏の執権により青木氏の守護地は本領安堵されたとしてもその職務は地頭等により管理される事に成ります。「2足の草鞋策」が続けられるとしても守護職は失職しますので「殖産・商い」に主力を移す事に成ります。平安期と比べ限られた本領の中での事に成ります。まして、伊賀の平族は滅亡して伊賀一族は武装放棄の状態で取り敢えずは残りますが、「青木氏」と同じよう「殖産・和紙」で生き延びなければならない状況に陥りました。
この時期は「2面作戦」の一面は縮小した状態で「3つの発祥源」のステイタスを保た無くてはならない状況と成っていたのです。しかしこの時期でも「氏家制度」は保たれながらも「武家社会」と云うより「2足の草鞋策」は平安期にまして厳しいものと成った筈です。
その証拠として残されているものとして「青木氏の家訓10訓」の内容で、その家訓はこの時期の影響を色濃く繁栄していると見ているのです。
しかし、この「2面作戦」は「本領の一面」は縮小した分だけ「殖産・商い」は「鎌倉期」-「室町文化」のハシリから「紙文化」が拡大して行き大きく繁栄拡大を果たした事に成ります。
「3つの発祥源」のステイタスと「本領安堵」の中では「2面作戦」は続けねば成りません。
「本領安堵」により当然に為政者領域では認知の範囲と成ります。
拡大する「商家」は衆目には”知る者は知る、知らぬ者は知らぬ”の状態の「半陰」であったと観られます。

第3期
室町期初期から江戸初期前までには「2足の草鞋策」も「室町文化」の発展で「2面作戦」の「武家の一面」が弱く成ったもののそれを補い超える力を持つ様に成ります。それは「殖産・商い」の経済力を補完し、その「青木氏」を防御する為の目的で採った対応策が厳然として「陰の力」(シンジケート)として働き始めたのです。何とその力は10万の軍をも餓死させ敗退させるだけの「陰の力」と成っていたのです。
それは和紙の「殖産・商い」で生きる5家5流の青木氏(背景には特別賜姓族の青木氏が存在)の連携を守ったのです。
それはシンジケートなのです。「大商い」には「陸海の利権と安全」の問題が伴ないますが、他の既存の勢力に頼らず自らがその経済力を背景に創り上げた「絆」に依って成り立つ、真に「2面作戦」による「陰の軍事力」なのです。
例えば何度も例に挙げていますが、この下記の2つの事件は「青木氏」にとってその「生き様」を如実に物語るものであるからです。
南北朝の北条氏と楠木正成の戦いでも3千の軍が10万の軍を餓死に追いやり勝利したのはこの青木氏が持つ伊勢-信濃の「陰の軍事力」が楠木軍の裏に控え「ゲリラ作戦」で勝ったのです。
周囲の食料調達網の遮断作戦、深夜の局地的攻撃による兵の疲労作戦が働いたのです。
織田信長が「伊勢の3乱」で青木氏が採ったこの「陰の軍事力作戦」で織田信雄と軍監滝川一益の2万軍を敗走させるだけの力を持っていたのです。
この時、信雄はこの青木氏の「陰の軍事力」を知らなかったのです。しかし秀吉は知っていたのです。その為に信長に叱責され蟄居させられる事件まで起こります。
何れも戦場と成る周囲の村全域がこの「絆による陰の力」として協力したのです。
この「陰の力」(シンジケート)は「絆で結ばれる互助組織」であり、これは「氏姓」や「血縁性」や武家や身分家柄に無関係の新たな「氏家制度」に変わる「絆互助制度」を広域に構築したのです。
この段階では、この例に観る様に、既に衆目の知るところでありながら、未だ公然としたものではなかったのです。衆目は「3つの発祥源」の「青木氏」と認めながらも「2足の草鞋策」も積極的に認めると云う不思議な印象と認識を持っていた事に成ります。
それは公然とした目に見える「いかつい軍事力」を背景にするのでは無く、武士から一般の民衆(衆目)の「絆」を「陰の力」として身分家柄に拘らない「互助・協力の体制」を構築したからだと考えられます。真にこれが「青木氏の家訓10訓」に観られる真意だと考えられます。
「絆」を「陰の力」として身分家柄に拘らない「互助・協力の体制」の「長の戒め」を解いたものなのです。その「青木氏は」もとより「悠久の絆」で結ばれた「4つの青木氏」なのです。
この様に最早、特定の範囲ではなく一般の範囲での「半透明な陰」であったと観られます。

第4期
江戸初期から明治期までには「半透明な陰」では無くなり、それは衆目全てが衆知する「2足の草鞋策」と成っていたのです。
そして、それは5家5流の土地の「殖産・和紙」を含む「商い」と「総合商社」を兼ねた「大商い」で摂津堺に大店を構える「海外貿易」をこなす豪商に成長していたのです。
むしろ、最早、小さなながらも本領を護りつつある「3つの発祥源」の「青木氏」から「豪商青木氏」の印象の方が勝る処まで繁栄していたのです。
しかし、衆知の史実と成っていたにも関わらず「3つの発祥源」の「青木氏」は「2面作戦」の形は守っていた様で、「菩提寺」と「青蓮寺」等「3つの寺」を維持していた事と「4つの城」を維持していた事がこれが物語ります。この「3つの寺」と「4つの城」は本領だけでは維持困難であり「商い」には無関係の拠点でありますが、この維持は商いからの補完で成り立っていたのです。
この目的は「2面作戦」の「青木氏の結束の拠点」であった模様である事が記録から判断出来ます。
例えば、これも何度も例として記述していますが、大阪の陣の時、徳川家康は名古屋城で本陣秀忠の東山道掃討軍を待ちますが、この時、この青木氏に対して「合力参戦」を促します。
軍事力としては保持しない「青木氏」に対してわざわざ正式に促したのです。これは明らかに第3期、第4期の記述する「2面作戦」の計り知れない「両方の力」を期待したのです。
3日後に合力を伝えますが、この時、伊勢-信濃のシンジケートと250の手勢(兵ではない)で信濃-伊勢-近江までの進軍路(東山道と伊勢路)の安全確保と食料の補給調達を担当したとあります。(青木氏の分家は豊臣軍に参戦した事実もあり、伊勢より以西は豊臣軍の勢力範囲で極めて危険で真田軍等の戦略が働いていた地域であった)
「軍による力攻め」をするのではなく「青木氏の陰の力」で押さえ込んだのです。
(1) 秀郷一門近江の「蒲生氏」本家
(2) 伊勢の蒲生氏郷
(3) 末裔の特別賜姓族でもある秀郷流伊勢青木氏
(4) 賜姓伊勢青木氏の「2つの青木氏」の融合縁戚力
(5) 東山道は藤原秀郷一族一門の勢力ライン(第2の宗家青木氏の指揮下)
(6) この近江-東山道ライン上に働くシンジケート
以上を確保した事に成ります。
この「6つの勢力」の確保は「2つの青木氏」の「2面作戦」の「陰の力」をオープンに相当に評価していた事を示します。
この後、家康は次男の頼宣を遣わし伊勢松阪で代表の伊勢青木氏と会見をしたと記録されています。
この後、「2足の草鞋策の商い」の「青木氏」は、8代将軍吉宗の「享保改革」の勘定方の協力貢献(吉宗の親代わり伊勢加納氏と伊勢青木氏は縁戚関係で育てる 伊勢加納氏も「2足の草鞋策」で伊勢加納屋を営む)、徳川紀州家の財政建て直しに勘定奉行として協力貢献している事(大正14年まで親交)等を挙げると、これは最早、衆目は”知らない者はない”「透明な陰」と成ります。

ここで、だとすると当然に青木氏の由来や経緯の中に、この「2面作戦」の「殖産・物造り」の何がしかの軌跡があったと考えられます。
それが、上記した通り、即ち「青木氏の家訓10訓」全体の真意であり、とりわけ「家訓8」が、何故に家訓と成っているかはこの事で理解出来るのです。
「家訓8」は武家的でもあり商家的でもありその誡めは両面に渡ったものと成っているのはこの軌跡であると観ています。(家訓8の詳細に付いては「青木氏の家訓10訓」を参照)
特に印象的な事として上記した青木氏の「3つの発祥源」の立場を特別に恣意的に強調していない事です。本来ならばその立場を意識して守ろうとして家訓とするのが普通の常識ですが、そうではなく確かに「立場」に重きを置いている事は認めますが、それが「長」と云うあるべき「人間的姿」を追い求めているものに成っています。
「3つの発祥源」そのものを戒めとするのではなく、突き詰めるとその中の共通する真意である「長:人間的成長の姿」を戒めとしていると観ているのです。
平安初期の頃であれば真に「3つの発祥源」の立場に重点が置かれていた可能性があったと考えられます。平安初期から中期頃に家訓があったかは確認出来ませんが、「象徴紋 笹竜胆紋」と「生仏像様」の「青木氏の遺産の存在」とがある事は何がしかの「戒め」的なものがあったとするのが普通であると考えます。青木氏から光仁天皇が出ていることも考え合わせると無い方がおかしいと観られます。
しかし、明治35年に家訓的なものの資料や口伝や物語る遺品も消失し全く確認は出来ません。
恐らくは1125年代頃に「2足の草鞋策」を採った事に依って、それまであった家訓的なもの(古代家訓とする)が合わなくなった事から見直されて、「殖産・物造り」が加わり「3つの発祥源」を基とする「古代家訓」は論理的に意味を生さなくなったと考えられます。
子孫存続に厳しい時代を生き抜いてきた先祖からすると、この時かなり思い悩み、終局、”「長」と云うあるべき「人間的姿」を追い求めた”ものと成ったと考えます。
この時、同じ立場にあった他の4家4流の皇族賜姓青木氏は「和紙の殖産・物造り」でより強く結び付き連携し、「3つの発祥源の古代家訓」らしきものは霧散して、伊勢青木氏に遺されていた「家訓10訓」が「笹竜胆紋、生仏像様」の下に「青木氏の共通認識」に成って行ったのではと考えられます。
伊勢青木氏以外の賜姓族に補足的な個別の家訓的なものがあったのかは確認出来ませんが、「青木氏」の上記1~4期の経緯から察するところがある限り「伊勢青木氏」に遺された「家訓10訓」が同族全青木氏の家訓に成っていた可能性が高いと観ており、生活基盤の「殖産・物造り」と思考の規準とする「皇祖神・神明社」を共通認識に成っていて、「3つの発祥源」の立場、「笹竜胆紋と生仏像様」のステイタスを持つ家柄からすると大きく異なる家訓的なものは考え難いのです。
一致結束して「悠久の1千年」を共に全く「同じ道と同じ糧」を求めての「4つの青木氏」と生き抜いてきた事からしてもあり得ないと考えているのです。
伊勢-信濃-甲斐では「笹竜胆紋、生仏像様」、「殖産・物造り」に関わる関係資料が多く遺されているのですが、ただ近江と美濃に於いてはそれを物語る資料が「和紙と殖産」以外には佐々木氏の関係資料以外に信頼出来て裏付けられるものが矢張り見付からないのです。
逆説的に考えれば、同族賜姓族である源氏11代は上記した本道を通らず異なる道を歩んで400年で滅んでいるのです。5家5流がばらばらに源氏の様に異なる道を歩んでいたとすると厳しい環境の中では滅亡は必至であったと考えられます。

「美濃青木氏の疑問」と「紀伊守の検証」
ただ、秀郷流青木氏は兎も角として、5家5流が全て上手く行っていたかは保障が困難なのです。
実は「美濃賜姓青木氏」の末裔が少ない事には多少の疑念を持っているのです。
上記した様に同じ道を歩んだ事は事実であるのですが、少ないとする原因が何なのかを研究したのです。この事から、前回での「たいら族」の「織田氏の研究」にも論じましたが、美濃は不安定地域であって、美濃での源平の激しい戦いに巻き込まれた可能性が一応は高いと観ているのです。
”源氏のような体質的な何かがあったのであろうか”と疑問が湧きます。
此処では最後に遺された3つの源氏(近江、美濃、尾張源氏)さえもが滅んでいる事からして一部の「美濃青木氏」も源氏方に味方した事が原因しているのではないかと考えられるのです。
美濃と近江の賜姓青木氏は、何れも清和源氏の宗家根拠地として近江摂津源氏、全11流源氏の集積地域として美濃-尾張源氏であった事から大きな影響を受けていた事があるからです。
源平の初期の戦いで平族に滅ぼされて近江源氏の一族郎党が美濃-尾張に逃げ込んでいますし、他の関西中部域の圧迫された源氏は美濃の富士川決戦に備えて集結・集積していますので、同族として近江美濃青木氏も同行していて壊滅に近い状態で滅亡した可能性が高いのです。
「近江-美濃」と「伊勢-信濃-甲斐」との間には「笹竜胆紋、生仏像様」、「殖産・物造り」、「家訓10訓」
の多少の「生き様に温度差」があり、「同族源氏との親交差」があったと考えられます。
これは「藤原秀郷流青木氏との親交さ」に起因していると考えられるのです。
数式に纏めると平安末期には次ぎの様な関係式にあったと結論付けています。

「伊勢-信濃-甲斐」→「藤原秀郷流青木氏との親交差」>「同族源氏との親交差」
「近江-美濃」→「藤原秀郷流青木氏との親交差」<「同族源氏との親交差」

「伊勢-信濃-甲斐」→「シンジケート」+「2足の草鞋策」+「藤原秀郷流青木氏」=「抑止力」
「近江-美濃」→「2足の草鞋策」+「同族源氏」=「抑止力」

「伊勢-信濃-甲斐」→「神明社」+「伊勢社」+「笹竜胆紋、生仏像様、家訓10訓」
「近江-美濃」→「八幡社」>「神明社」>「笹竜胆紋、生仏像様、家訓10訓」

この「3つの関係数式」から「源氏力」が低下すれば「近江-美濃」は崩れることに成ります。
その意味では「不入不倫の権」で護られていた事から「伊勢と信濃と甲斐」はその「源氏力」の影響力が少なかったのです。有ったとしても「分家頼信系」ではなく「清和源氏本家頼光系」の守護代地であった事、「2足の草鞋策」、「伊勢-信濃シンジケート」等から独立性が高かったのです。
(甲斐とは無冠の源時光系武田氏系2流ではなく、賜姓信濃青木氏と血縁した別当蔵人の源源光系賜姓青木氏2本流の事)
此処美濃には「秀郷流青木氏」が「源平の緩衝氏」として武蔵を背景に以西に対して最前線でその総力を傾けていた地域であります。その緩衝環境の中で「秀郷流青木氏」以外に一方の源氏に肩入れをする事はそれだけに危険性を孕んでいます。
「源平の緩衝地帯」として止む終えない仕儀であった事とは考えられますが、氏性の「源平の緩衝氏」と地理性の「源平の緩衝地帯」との2つの事を考えると、戦略上”生き延びる”と云う最大使命からは「氏性の緩衝氏藤原氏」に組する事は兎も角も、”「伊勢-信濃-甲斐」-「近江-美濃」の関係強化を「2足の草鞋策」のみならず図るべきではなかったのか”と云う疑問が湧きます。
結果的には、”「藤原秀郷流青木氏」との関係強化”と云う事にも成りますが。
近江には秀郷一門の蒲生氏の定住地であり藤原一門が無かった訳では無く、この蒲生氏は伊勢青木氏と血縁性を持つ「伊勢秀郷流青木氏の祖」でもあるのであり、当時は伊勢にも勢力を伸ばしていたのです
(後に大河内、松ケ島、松阪と3ケ所に勢力圏を伸ばす)。
近江は「たいら族」の東勢力圏内であった事もあり、逸早く「たいら族」に抑えられる宿命を背負っていた事は否めませんが、美濃に引きずられて滅亡の憂き目を受けた事はその「生き様」に間違いがあったと考えられます。むしろ「不入不倫の権」の領域の「伊勢青木氏」に逃げ込むべきであったと考えられ、「たいら族」は伊賀本拠地と青木氏との親密な関係もあり手は出せなかった筈です。
(現実に以仁王の乱の時には手を出さなかったし、主謀者頼政の孫の2人を助命嘆願を受けているし攻めなかった 頼政さえも松阪に向けて逃亡しているし、孫京綱を伊勢青木氏の跡目に入れた事は「たいら族」は攻めないと観ていたからだ)
では、”何故逃げ込まなかったのか”疑問と成ります。
それは美濃に集結した事で、未だ、「美濃-尾張-甲斐」などの青木氏と源氏と坂東勢力の秀郷一門も味方して美濃域で「たいら族」と戦い支える事が出来ると観ていた事に成ります。確かに坂東八平氏を背景に支えて勝利しますが、その前に現実には「富士川の大激戦地」となり、集結した近江-美濃-尾張-木曽-新宮等の多くの源氏と近江-美濃の青木氏は潰されてしまうのです。
源氏に大きな犠牲を払い過ぎてその5年後に頼朝は勝利します。
結局、殆どの源氏が滅亡して立ち上がることさえ出来ない程に勢力低下を起こし、その2年後に全源氏族は皇族第7世族の坂東八平氏に抹殺されるのです。
「近江-美濃」の青木氏は何とか、”「伊勢-信濃-甲斐」の青木氏と秀郷一門の伊勢秀郷流青木氏と近江蒲生氏の援護・保護の下にて本流は滅亡しましたが末孫は生き延びる事が出来たのです。

この一帯には「皇族賜姓美濃青木氏」とその流れの「土岐氏系青木氏」の2流が定住している筈ですが、この2つの系統では明確には存在は確認出来ないのです。土岐氏は、未勘氏や第3氏は別として、史実として明らかに完全滅亡していますので、同系列と成った賜姓族の土岐氏系青木氏も先ずは滅亡としたと考えられます。

「皇族賜姓美濃青木氏」の確認
問題は「皇族賜姓美濃青木氏」の確認が取れないのです。筆者は存在していると確信しています。
それは「和紙」の関係調査から「みの和紙」は平安期から明治期まで「有名な和紙」で和紙に関係する人であればよく知っている和紙です。「みの和紙」の商人の青木氏は確認出来ていますのでまず間違いはないと考えられますが「笹竜胆紋」の「皇族賜姓美濃青木氏」の確認が取れません。
家紋などの氏家制度の仕来りから考証には一部に疑問が残る事と、この地域は「下克上、戦国時代、一揆」など混乱の大きかった事から伝統や資料や遺品や記録が青木に関して存在しないと云うのが現状です。土岐氏系の伊川津7党の青木氏等がありますが未勘氏とも観られます。
そこで戦略上で観て岐阜と愛知の国境域に賜姓美濃青木氏の末裔が現存していると観られる事から、本流は別として、伊勢と美濃と尾張の秀郷流青木氏の影響が背後に働いていたので支流末裔が生き延びられたのではないかと考えられるのです。

実はこの域には前記した「皇族賜姓美濃青木氏」と「秀郷流青木氏」の血縁氏の「融合青木氏」現象の強く起こっている地域でもあるからなのです。
家紋から観ると、多くの「秀郷流青木氏」が最もこの地域に集中している事もあり、その結果、つまり判別が付かなくなっている事もあるのです。
「皇族賜姓美濃青木氏」は集中する秀郷流青木氏に吸収されていて「融合青木氏」と成っている地域であると観ているのです。
むしろ平安末期から鎌倉期に生き延びる為に大勢力の秀郷流青木氏の中に戦略的に溶け込んで行った、或いは最も生き延びるには厳しい地域であった事から秀郷流青木氏が保護したと観るのが妥当では無いかと考えていて家紋考証からこの説が納得できるのです。

もう一つ美濃には、西側で隣接するは「員弁や桑名」には伊勢青木氏が集団で多く存在しています。
場合に依っては「源平の混乱期」に末裔が伊勢青木氏を頼って逃げ延びて来た事が充分に有り得ます。それは平安末期からのシンジケートの存在がこの事を裏打ちしている筈です。最も肝心な事にシンジケートが動かない筈は有り得ません。又伊勢-信濃の青木氏が動かすのが普通です。
特に、信濃青木氏や近江青木氏との繋がりが「和紙」と云うキーワードで調べると明治期まで強く確認出来ることから連携はかなりのものであったと考えられます。
江戸中期から明治初期に掛けて起こった伊勢-美濃-尾張の大一揆には、「2足の草鞋」の青木氏と伊勢加納氏が経済的背景としてシンジケートとして関わっていた事は記録から明らかですので、上記の2つの説は何れも同時に動いたと考えられます。
美濃の青木氏は和紙に関わっていた青木氏である事は間違いはないと考えられます。

調査の疑問点は「融合青木氏」の特長ですので生き延びていた事を実証出来るのではと考えます。
美濃-尾張では源氏系列は滅亡していますが、矢張り「殖産・物造り」の青木氏は生き延びていた事に成ります。明治35年まで美濃-近江との「和紙」で付き合いがあった事が確認出来ていますので、この相手が美濃と近江の「賜姓青木氏の末裔」である可能性ありますが、青木氏に関わる「家臣団の未勘氏」か「絆による第3氏」か「徒弟制度の青木氏」か「融合青木氏」かの判別が付かなくなっているのです。
家紋からある程度の判別が就きますが確定は困難な状況です。

問題は室町末期の美濃境に定住していた伊勢青木氏とも観られる「青木紀伊守一矩 従五位左衛門佐」が確認出来ます。秀吉に任じられて越前府中北の庄8万石の領主(徳川除封禄記載 末裔は若狭-越前-越後-陸奥等に逃亡)の存在から観て、この本家筋の問題は兎も角も支流としては確認出来ますので、伊勢青木氏の「融合青木氏」の可能性も高い事が認められます。

(青木紀伊守一矩の検証)
(紀伊守には諸説あり搾取偏纂に多く利用されていますのでここで青木氏として一度整理しておきます)
先ず丹治氏と言う説もありますが、丹治氏系青木氏は徳川方に味方して麻田藩摂津4万石を獲得しているのでこの説は搾取偏纂説であることは間違いありませんし、この丹治氏はこの従五位左衛門佐の冠位官職位は得られません氏、家紋も丹治氏は青木富士山に三鱗主紋(霧紋もある)で異なります。

筆者は鎌倉期以降に美濃境の員弁域に定住していた「青木紀伊守」は、その冠位官職の「従五位左衛門佐」の六衛府軍の永代最高職を持っています事から、これを前提とすると伊勢青木氏系以外には無いと考えますが、美濃青木氏は宗家本家は滅亡していますのでこの冠位官職は本来は継承できません。
伊勢青木氏一族で、豊臣方に分家筋の形で「紀伊守」として合力したとした青木氏の資料には記録があり、これと同時に伊勢青木氏の「青木伊賀守忠元」が合力し越前坂井郡丸岡4.6万石を領し豊臣に味方したと記録もあります。また「青木民部上尉信定」が徳川方に合力したと記録があるところから、伊勢青木氏本家筋は徳川方、伊勢青木分家筋として忠元が豊臣方に合力し、伊勢-美濃青木氏(融合青木氏)が豊臣方に味方した事に成ります。
つまり、信長の時は伊勢青木氏本家筋は「3つの発祥源」の立場から千年もの間常に中立を保っていたが攻められ、秀吉が柴田氏を滅ぼした時には秀吉に「紀伊守」と「伊賀守」は合力しました。この時、立場上、伊勢青木氏本家筋は二つに分けて「青木民部上尉信定」は中立を保ち、天下分け目では徳川方に味方したと事に成ります。

又、別説の清和源氏の義光流系青木氏がありまして、近江甲賀郡照養寺には義光より16代青木下野守祐清は足利幕府に仕え、その末裔青木紀伊守8万石は豊臣に仕えたとする説もあります。、
更に別説では近江甲賀青木氏の女がいて、その女は武田勝頼の嫡男信勝の妾となり、懐妊して近江に甲賀に帰り青木新五郎を産み、この者は豊臣に仕えて四国に任じられたとする説もありこれを紀伊守だとしています。

この3つ説には系譜の繋がりの確証が取れない事と家紋が異なります。
義光流青木氏の場合、武田氏の系譜には多くの疑問矛盾が定常的ありますのでの俄に信じ難いのです。特に義光系青木氏とは何なのか不明です。義光系青木氏には源の源光なのか源の時光なのかはたまた誰なのかはっきりしません。
青木別当蔵人は確かに源の源光ですが、源光ルーツは明確ですので「紀伊守」は疑問ですし、もしそうだとしたら家紋は笹竜胆紋ですが、「丸に揚羽蝶木一文字」と違っています。
これは源氏と青木氏の家紋継承の慣習に一致しません。当然に搾取偏纂で寛政系譜や寛永史でも第3氏とされています。
時光系は無官の青木氏ですので、上記の冠位官職は得られませんので異なりますし、時光系青木氏も武田氏系ルーツが完全に解明されていますので異なりますので搾取偏纂は明らかです。
「紀伊守」の末裔と観られる子孫が越前を中心に各地に分布していますが家紋は全て異なっていて統一していませんが、その中でも越前の末裔が主家と見られます。この家紋が「丸に揚羽蝶木一文字」です。
(越前には「丸に違い鷹の羽」系もあります。)
「紀伊守」は新五郎説とする説は余りにも唐突で家紋、冠位官職、発祥地、出自、生没も全て合いません。この手は搾取偏纂には良く使われる手で全く信用根拠がありません。
「青木紀伊守」が持つ史実を無視しての我田引水のこの様な多くのルーツ説が室町末期から江戸初期にかけて実に多いのです。
恐らく当時の社会がそれを「チェックする機能」や「人心の無関心さ」があったものと観られ、搾取偏纂する側も”ある限定した範囲での家柄搾取が通ればそれでよい”とする安易な感覚もあったと考えられます。
「寛政系譜」等では比較的この点を厳しく査定している様で当時としては珍しい書籍です。
社会のこの様な風潮が充満しこれを厳しく批判していたのではないでしょうか。
その証拠に信頼出来うる史書や書籍には疑わしきは”「後勘に問う、後勘に備える」”と記述追記しているか「添書」を添えています。

(何度も論じている事ですが、例えば、個人の系譜を自分の家柄に都合良く見せる為に搾取偏纂した。それを暫くは一族に隠して公表せず何代か後に遺品整理していたら箱から出てきた。子孫は身内を疑う事も当然に無く、疑うだけの歴史雑学の知識も無く、これを信じ切って後生大事に更に末裔に伝える。これでこの系譜は末裔にとっては実しやかに史実と成る。「姓氏」の処まで系譜が掴めない情報量の無い社会であったのに、まして菩提寺や守護神も持たない「姓氏」のルーツをどの様に管理できたのかも考えずに、江戸期を越えて鎌倉期までこの様に系譜を搾取している状況を観る事が多い。
現在では中には最たるものとしては書籍やマスコミも時代考証と検証をも行わずそれを信じて演出しているものも多く見かける。「姓氏」は最古でも海部氏と室町期後期発祥であるのに。 云いたい事は近江青木氏と美濃青木氏はこの搾取に惑わされてしまった事なのです。これを元に戻すには資料も無くなりつつある中で最早自らの努力で青木氏が行う以外に無くなっているのです。)

そこで、伊勢-美濃青木氏の「融合青木氏説」を採る筆者の説では、”では何故、親族の「紀伊守」がいる伊勢青木氏を信長は「伊勢丸山攻め」をしたのか”が唯一疑問と成ります。
美濃域の伊勢-美濃青木氏(紀伊守)の定住地は美濃の織田氏との国境域である為に織田氏に家臣と成り合力体制を採っていましたが、この攻めると云う事は、信長が「紀伊守」を「伊勢青木氏」とは見ていなかった事を意味します。
然し、実際は直接に伊勢青木氏を攻めてはいないのであり、丸山に前線基地の城を築き伊勢一帯の征圧に乗り出したもので、伊勢青木氏側も伊勢-信濃シンジケートがゲリラ戦でこれに対抗した戦いであったし、「伊賀攻め」も「永嶋攻め」も「北畠氏攻め」も「松阪攻め」も伊勢青木氏は「シンジケート」による「間接的参戦の合力」であったのです。最終、信長没後に秀吉の命にて蒲生氏郷による「松阪攻め」の「直接戦」も伊勢の秀郷流青木氏は氏郷末裔であり、且つ、伊勢秀郷流青木氏は伊勢青木氏とは親族関係にあることから「一時無戦撤退」の形を採り1年後に戻され5万石程度の本領安堵されています。
信長-秀吉の「伊勢攻め」に関しては実態は「直接抗戦」は無かったのです。
そもそも信長に取ってみれば伊賀は信長のルーツの「たいら族」の根拠地でありながら攻めたのですからそのような関係には無頓着な戦略を採っています。織田氏親族をも意に背けば滅ぼすのが彼の常道でまして家臣の親族ともなれば論外と成ります。
(「伊賀攻め」の際には実戦は落城寸前に名張の側面からシンジケートの軍が側面を突いたのみ)
依って、この疑問は解けます

「紀伊守検証」(纏わる諸条件)
次ぎはそもそも「紀伊守」の家紋とする「丸に揚羽蝶木一文字」は主紋の揚羽蝶は伊賀を根拠地にする「たいら族」の綜紋ですが、「丸付き紋」は家紋継承の慣習では「たいら族」は採用していません。類似副紋方式を採用していますので疑問です。そうなると、美濃-伊勢域の「たいら族」の血筋を一部に受けて家紋掟にて変紋を余儀なくされた事を意味しますが、この時、「たいら族一門」ではない為に「丸付き紋」とした事が考えられます。
「笹竜胆紋」は、美濃青木氏が滅亡して傍系支流分流の血縁末孫(木一文字紋)の伊勢青木氏との血縁氏であった事から継承できずに、「たいら族」の血筋の揚羽蝶の家紋に丸を付けて類似副紋を木一文字として採用したとすれば「伊勢-美濃の融合青木氏」の家紋とする事が出来ます。
「紀伊守」は織田氏(信長)にも仕えた事から織田氏の綜紋「たいら族」揚羽蝶紋とも何らかの血縁による因縁があったとも推測されます。
柴田氏の領地(49万石)の府中8万石、北の庄の20万石を秀吉から与えられる身分であった事等のこの因縁は否定出来ません。同様に伊勢青木氏の青木伊賀守忠元も越前の坂井郡丸岡4.6万石を秀吉から与えられている事を考え合わせると、「青木紀伊守一矩」は伊勢-美濃の青木氏以外にはこれだけの領地を2度に渡り与えられる事はあり得ません。織田家家臣一統の中でも相当な立場と軍功が無くては有り得ない事です。依って揚羽蝶の家紋は織田家との因縁は完全否定は出来ません。少なくとも何らかの関わりがあった事を意味します。
それには「住域は伊勢伊賀のたいら族隣」、「美濃のたいら族の織田氏」、「員弁桑名の伊勢-美濃国境域の住人」、「美濃南域の木一文字の土豪の家紋分布域」、「丸付き蝶紋は織田揚羽蝶の使用」、「祖先神神明社」の伊勢-美濃に纏わる条件が附合します。
(判別条件)
揚羽蝶紋の見分け方はその「足の数」、「輪郭」、「姿勢」、「羽根模様」の4つで判別しますが、この丸付き紋にはこの「4つの判別条件」をいろいろ組み合わせた文様が多くあります。
そこでこの「丸に揚羽蝶紋」は「織田蝶」ではなく「伊賀たいら族」の文様そのものでして「判別条件」の4つが全一致採用しているのです。
正真正銘の「伊賀たいら族宗家筋の揚羽蝶紋」なのです。
このところから「丸付き紋」はそもそも直系孫ではありませんが、何らかの関係性を持つ青木氏である事が云えます。
(丸付き紋)
丸付き紋使用は「家紋掟」により「6つのパターン」があります。
例えば、「笹竜胆紋」も「丸付き紋」は使用しません。然し、「丸に笹竜胆紋」が存在する理由として次ぎの事があります。
青木氏宗家のその末裔が直系孫ではないとして次ぎの4つがありえます。
A 嗣子であるが罪などを犯して除籍された者の場合
B 妾子や配流孫である場合
C 血縁子であるが一族として認めがたい事情がある場合
D 5つは未勘子や第3氏や明治期の不特定氏の使用の場合です。
以上の場合に宗家本家が「丸付き紋の使用」を強制する事に成ります。

この場合のその青木氏の見分け方は竜胆の花の下の軸の部分を正紋と区別する事に成ります。
同様に、丸付き紋の揚羽蝶紋もこの掟に従いますので、「4つの判別条件」が揃っていますし、それが「たいら族」の一門の者では無く「伊勢青木氏」ですから、Cの場合に成ります。

「伊勢青木氏の分家」が経緯として「伊賀のたいら族の分家」から養子を迎えたが嫡子が出来ずに女系と成り、結局家紋掟により変紋を余儀なくされた。しかし、「青木氏」と「たいら族」は平安末期に敵対関係にあり、一族の手前上、養子先の「たいら族宗家」は「揚羽蝶の家紋」の使用は認める事が出来ないと判断し、妥協案として「丸付き紋使用」を許した事に成ります。(当然許さない時もあり得る。)
この場合は普通は「4つの判別条件」のどれか或いは全てを変える事に成ります。
然し、この「紀伊守」の「丸付き紋」は4つ共に全く変えていないのです。
これは相当な信頼関係が成り立っていた事を意味します。
「紀伊守」は”「従五位左衛門佐」の六衛府軍の永代最高職”の平安期初期からの青木氏だけそのものの冠位間職位を保持している事からもこの「血縁関係」の仕儀は納得出来得ます。
伊勢青木氏の宗家筋の者であればAからCに関わらず「笹竜胆紋」を継承し続ける掟ですが、変紋は名張や伊賀や員弁や桑名や脇出や四日市の分家筋一門と云う事に成ります。
これに上記の「伊勢-美濃に纏わる条件」を加味すると、伊勢-美濃の「融合青木氏」である事に成ります。
(「冠位官職位」を継承)
そうすると、伊勢青木氏の宗家嫡子が「冠位官職位」を継承する事に成りますから、もう一つ”「従五位左衛門佐」を名乗っている事はもう一つ先祖伝来の「冠位官職位」を継承しているものが伊勢青木氏系の中にある事を意味します。つまり、これが伊勢青木氏系の美濃青木氏(「融合青木氏」)が継承していた事を意味します。と云う事はこの事から、美濃青木氏が「源平の戦い」の「富士川の激戦」前で「美濃青木氏」の一族が滅亡したのですが、この中から「伝統の永代冠位官職位」を継承し得る「嗣子の者」が隣の伊勢青木氏に逃げ込んだ事を物語ります。伊勢青木氏だけが「源平の戦い」の追手から逃れられます。
(信濃青木氏に逃げ込むのも一策と考えられますが、知行国越前より「美濃のたいら族」を助けに主力が南下して来ていますので帰る方向の信濃方向には危険であったのです。)
当然に信長の8-20万石を領する家臣に成り得る勢力を持ち得ていたのですから、この時この嗣子を護って美濃青木氏のかなりの数の重臣も同行していた事に成ります。向後、伊勢青木氏と同族血縁をして伊勢青木氏の中に組み入れられ鎌倉期から室町期中期まで生き延びていた事が判ります。
そして、前記で論じた織田氏の勢力経緯で美濃尾張の守護代と成った時に美濃境界に住していたこれ等の家臣団は嗣子を押し立てて織田氏に合力して独立した事に成ります。
恐らく、伊勢青木氏に逃げ込んだ時から織田氏に合力した時の家臣や兵力までも伊勢-信濃シンジケートに擁護されての事であった事が考えられます。
この「融合青木氏」は鎌倉期から室町末期まで350年間は「伊勢青木氏」の扱い受けてその保護下いた事に成ります。伊勢青木氏は前記で論じた様に当然に伊勢秀郷流青木氏と美濃秀郷流青木氏の抑止力を受けて護られていた事からこそ、故に「伊勢青木氏」や「近江佐々木氏」や「伊勢秀郷流青木氏」の資料に何らかの形で遺されているのです。(「伊勢青木氏」に組み込まれていた事を物語る)
そうなるとこの記録からは、「伊賀たいら族」と関係性を強く持っていたのは唯一伊勢青木氏でありますので、他に関係性を持ち得るのは後は「美濃青木氏」ですが、「源平の美濃戦い」で滅亡しているし、「美濃青木氏」の「生き延び方」としての「たいら族との独自の血縁」は、一食触発の緩衝地帯でもあったし、厳しい敵側であったのでこの血縁は難しいことに成ります。依って家紋検証と記録との矛盾が起こりこの件は消えます。
故に、これが筆者が伊勢青木氏系に入れている根拠の一つなのです。
つまり「員弁-桑名域の伊勢青木氏系」と成りますが、「系」としたのは「伊勢青木氏」は、この家紋は直系孫では慣習上あり得ませんので、南の四日市の秀郷流青木氏との「融合青木氏」と同じく、「家紋掟」により家紋は近隣豪族の家紋と成っています。依って慣習に一致しない事から「美濃青木氏」との「融合青木氏」である事に成ります。家紋から観た場合美濃に纏わる条件に完全に一致するのです。

(「皇祖神の神明社」)
そこで他氏と判別でき得る絶対条件として、「青木氏の守護神」の「祖先神の神明社」の存在です。
美濃青木氏は後述しますが「美濃の源平の戦い」で神明社を消失しています。
依って鎌倉期から室町期末期までの間は美濃の神明社は建立する事はその勢力、能力、立場からもありえません。伊勢の四日市の神明社の2社と本宮伊勢神宮3社が守護神になっていた筈です。
そうすると、その後、信長に合力したのは尾張守護代の頃1545年代から北の庄の時代30年間程度、北の庄から関が原までの間20年間程度の何れかに成ります。
後述するデータから全期30年間の定住地にはこの年代に立てられたと観られる神明社は発見できないのです。次ぎは後期20年間の北の庄でこの時代までに建立された北の庄には分霊神明社は2社確認されます。
(現在の福井市域に祠を含む神明社関係大小23社あり、建立地域は5ブロックに分けられている。 この時代までの福井市近効で主な分霊社は8社と観られ、該当するのはこの2社のみ。 データは後述)
建立する能力としては後期20年間にしかないと考えられますが、5年程度を建立に要します。
この2社の内一つは924年代の平安期に建立されています。(福井市宝永)
もう一つは明確ではないが建物形式より1585-1595年代と見られます。(福井市・)
関が原は1600年ですからせいぜい豊臣方の趨勢は見えていた筈ですから、1590年以降には立てられない事が判ります。北の庄に赴任して直ぐに建てたと成ります。1585年はぎりぎりの年代と成ります。
2者択一で難しいのですが、そうすると”何故同じ所にもう一つ神明社を建てたのか”と言う疑問が重要に成ります。
924年代の越前のこの分霊神明社は、陸奥に865年に陸奥征圧を記念して阪上田村麻呂が桓武天皇に命により、桓武天皇と阪上田村麻呂の同没の直前に建てたものに継ぐ最も古い神明社で、これ以後その全国統一した証しとして主要各国に建立したものです。この50年後に建立した分霊神明社は、伊勢神宮の正式な分霊による朝廷の命による下克上の洗礼や戦国時代の焼き討ちにも逃れられた有名な「越前神明社」です。歴史上に遺された「祖先神の神明社」です。
依って、この分霊神明社を紀伊守の美濃青木氏が「氏の守護神」として復活して使う事には問題が出ます。
そうすると、守護神として同地域内にもう一つ建立する事以外に無く成りますので、1585年代の神明社が紀伊守の美濃青木氏の分霊神明社と考えられるのです。現在では「不祥扱い」にされている為に最終の確認が採れませんが間違いはないのでは無いかと見られます。
(しかし、神社はなかなか建立者や建立年代等を明確にしないのが慣習なのです。又古社はそれまでの歴史的混乱にて殆ど不祥に成っている事由もあるのです。)
そうすると、紀伊守説を搾取引用している多くの他説の氏は「姓氏」ばかりですから、現実に「祖先神」ではありませんので搾取で完全排除出来ます。
(青木伊賀守も坂上郡丸山に同時期に分霊神明社を建立している)
ところが、氏として観られる佐々木氏系の「滋賀丹波青木氏説」に付いては、この様な検証は行われず、且つ重要な青木氏のみが持っている情報がありませんので、家柄搾取偏纂の行為の説に成ります。
特に、「祖先神の神明社」の条件を検証する事で以下の全ての説には青木氏にとっては「紀伊守の件」では検討するに値しません。

(搾取偏纂の真意)
神明社の事でも明らかですが、これには次ぎの別の意味を持っているのです。
秀吉立会い面前にて200の兵を以って近江青木氏と滋賀青木氏が「滋賀青木氏の名籍」をめぐって「争いの決着」をつけました。勝利した側の青木氏が滋賀青木氏の名籍を獲得継承する事が出来る事としたのですが、結局、滋賀青木氏を名乗る側が勝利します。これは元上山氏の青木氏と近江青木氏との戦いで近江青木氏は滋賀の断絶名籍を奪われる事となったのですが、この戦いが秀吉との関係からこの青木氏が「紀伊守」と間違われているのです。否、ある目的を以って恣意的に間違っているのです。
又、豊臣側系譜作成上で「従兄弟説」に付いても恣意的に上手く利用されて搾取偏纂されたのです。何れも弱味につけ込まれたのです。
これは豊臣家をより良く思わせる為の工作劇であったと観ていて、鎌倉期にあった過去の事件に模して戦わせて、”「青木氏の名籍」が豊臣家のルーツの中にあるのだ”と印象付ける演出であったのであって、その為には「戦い」をわざわざゲームの様に仕立て自らが立ち会うと云う演出までしてのけたのです。
何処にでも常に起っている「名籍争い事件」であれば秀吉自らが立ち会う必要など全く無い筈です。
其処が「朝臣族青木氏」と云う所に意味があったのであって、それを縁者と見せていた家臣の元上山氏にさせたのです。この時点では上山氏は衆目の知る範囲ではなったのであって、”縁者”と衆目に思わせてる為に足軽であった者を秀吉に取り立てられてわざわざ現地の丹波に住まわせて準備万端にして「青木美作守家頼」と名乗らせていたのです。
(上山郷の農民であった事は「丹波志」の資料から判明 丹波青木氏は元は上記した佐々木氏系近江青木氏)
これに更に柴田氏の所領跡にわざわざ「青木紀伊守」と「青木伊賀守」の青木氏ばかりを宛がい与えて、更には上記の滋賀丹波には上山氏の青木氏を与え宛がえて演出して強く青木氏を衆目に印象付けたのです。主だったところに皇族賜姓族と衆目から見られている青木氏を配置したのです。その上で皇族に繋がる系譜上の演出の為に、又、秀吉は、天皇の子供を湯殿女であった母が懐妊して里に戻り産んだ遺子であるとする系譜さえ作る程の搾取偏纂に徹していたのです。周囲の親族も近江青木氏や近江佐々木氏等の断絶名籍を狙って系譜の中に入れる事は当たり前の仕儀であったのです。
ここに紀伊守が持ち込まれて美濃青木氏の鎌倉期滅亡後の後の出自がややこしくなってしまったのです。

(注 滋賀青木氏の名籍は近江青木氏が滋賀に移動定住した時の断絶名籍であった。滋賀青木氏を元上山氏を名乗る者がこの名籍を奪った事件 よく似た事件が鎌倉期にもあり、近江青木氏と美濃青木氏に限りこの「断絶名籍」を狙った事件は室町期から江戸初期までに数度起こっている。
実は、平安末期からこの類似事件が起こっていて、元上山氏が美作守家頼の時に丹波にて青木氏を名乗った搾取事件があり、その後には関西のこの元上山氏の青木氏と関東の元上山氏のこの青木氏が名籍争いも起している。他に元上山氏の青木氏だけによる本家名籍争いも他に2件も起こっている。)

この青木氏は佐々木氏より出自した佐々木氏系青木氏で、佐々木氏が北陸、越後、近江、山城、大和、淡路、阿波、土佐、伊予、石見等11の守護地を建仁3年から承久3年の19年に掛けて守護職歴任、この時に各地に同行したこの佐々木氏系青木氏の一族の末裔一部が残留したものでこの中には名籍断絶もあります。丹波氷上郡友政城はこの末裔青木久政の居城ですが、この様な名籍が四国地方に多く残されているのです。この佐々木氏系青木氏の一族からは更に枝葉として「多々良姓青木氏」が出自しています。
この佐々木氏系青木一族が各地で実に「名籍争い」を起こされていて、記録から室町期末期から江戸初期に架けて他に5件も確認出来ます。秀吉面前での近江青木氏の名籍争いはこの中の一つであります。
紀伊守の「秀吉の従兄弟説」があるのはこの事件より拡大解釈した搾取偏纂説で賜姓青木氏か特別賜姓青木氏以外には名乗れない「従五位左衛門佐」と、この氏の家紋は「丸に揚羽蝶に木一文字」である事から従兄弟説等は、”みえみえの明らかな搾取偏纂説”であるのです。”みえみえ”を承知の上で搾取偏纂しているのです。
(川島の皇子を祖とする近江佐々木氏の事で、宇多天皇系の滋賀佐々木氏より青木氏は出自なし これも間違われている)
依って、この家紋などからも明らかに「青木紀伊守」は伊勢-美濃の「融合青木氏」である事に成ります。
青木氏としては乱され搾取された部分を自らこれ等を紐解きなおして解明しておく必要があると考え、敢えて分類では、今まで筆者は「伊勢青木氏」として論じていますが、「青木紀伊守」は青木氏資料からも佐々木氏資料からも「源平の戦い」で滅亡又は衰退した美濃としての青木氏と観る事が出来るのです。
敢えて、ここで論じました。
(加賀前田氏を頼った越前にて本家現存 分家筋は越後、陸奥、土佐、讃岐、阿波、安芸、中には肥前に避難 主に鎌倉期以降の近江佐々木:近江佐々木氏系青木氏の守護職の赴任移動先に叙封後逃亡している)

(近江青木氏の背景力」)
「美濃青木氏」と「近江青木氏」とが組み込んだ搾取偏纂説が多く起るほどなのですが、何れも一族か衰退して「断絶名籍」が起りそれを狙われたのです。しかし、近江は近江で別なのです。
「近江青木氏」の方は、上記した様に「名籍争い」が多く起こり、合わせて「名籍の搾取偏纂」も多く起こっています。
親族の「近江佐々木氏系青木氏」が「近江佐々木氏」の助けで宗家である「近江青木氏」の名籍を護ろうとした事件です。現実には一時は平安期には「近江佐々木氏」と「近江青木氏」が同族争いを起し、滋賀に一族が移動しますが再び戻ったのです。この後、摂津に定住しますが、「近江佐々木氏」が「近江青木氏」を護った事件なのです。この滋賀移動時の「断絶名籍」を巡って元上山氏に食いつかれて搾取の事件が幾つも起こったのです。

「徳川氏の源朝臣」の搾取
この様に「断絶名籍の搾取」はみえみえの搾取偏纂であっても、”時代が過ぎるとそれは正当化する”と云う傾向があります。
因みに徳川氏は、幕府樹立の条件として「源氏」か「青木氏」の朝臣族で無くてはなりませんが、これを獲得する為に南北朝の第6位皇子を作り出し、その皇子が比叡山門跡僧侶となり全国托鉢の旅に出て三河の松平氏の門前に立ち逗留して娘との間に子供が生まれた。それが16代目の源氏遺子だとしていてその3代後子孫が家康だとしているのです。このストリーは明らかに搾取偏纂である事は判ります。
そもそも源氏は11代目花山天皇までであり、その以後の第6位皇子は皇子数が少なく無く天皇に成る者等も少なく苦労している時で、まして「南北朝」でもめている時です。且つ、松平氏と「時代性」をあわす為に採った苦肉の策で源氏賜姓の意味は最早この時期は南北朝では無く成っていたのです。
その為には12代から16代までの賜姓源氏を作り出す事が必要に成りますが、この12から16代までは現存しない人物で、幕府樹立際にこの旨を申請して天皇家から搾取である事が明らかであるので却下されます。
これに対して天皇家に対して生活も侭成らないほどに徹底した経済的圧力を掛けて認めさせます。
嵩に掛かって、更に2つ目の条件の「武家の頭領」も認めさせようとしますが、さすが天皇家も頑としてこれを認めませんでした。そこで徳川氏は「武家の長者」で妥協して認められ幕府は樹立します。
時代が過ぎると、この事は人々の意識から遠ざかり恰も「源氏朝臣」が「搾取」から「事実」の様に成ります。これが世の常であり、現在に於いては「時代考証力」の低いマスメディアはこの「搾取の時代遍歴」を信じて「正」として「源氏朝臣」と徳川氏が成っているが現状です。
注 然し、この事に付いては少し違うのです。
徳川氏側はこの搾取偏纂には自らは酔ってはいない事実があるのです。その証拠を伊勢青木氏だけが掴んでいるのです。
実は、家康の次男扱い頼宣が紀州徳川氏と成り、飛地領伊勢松阪で伊勢青木氏と面談した時に頼宣は上座から下座し座布団を外し儀礼の挨拶を伊勢青木氏に採ったと伝えられていて、この慣習は筆者祖父の代の大正14年まで続いたと聞かされています。
普通なら「源氏朝臣」であると信じていれば、否、信じていなくても、「時の最高権力者」であり、天皇家に認めさせた直後でもり、まして唯一遺されている青木朝臣族の賜姓伊勢青木氏で有っても、むしろ逆に無理にでも「源氏朝臣」を威圧的に認めさせて世に知らしめたい処です。正式な面談ですから少なくとも同位であるので、同座か又は”無礼者”で処理される筈です。家臣も黙ってはいなかった筈です。
しかし最初から家臣も平伏して「上座下座の問題」が解決する長い間を頭を上げなかったと伝えられていて、面談の間までの家臣の扱いは”極めて鄭重過ぎた”と伝えられているのです。
家康が最も信頼した紀州藩初代次男扱い頼宣がそのようにしたのです。それも伝え聞く一癖のあった頼宣がその様にしたのです。これは頼宣個人の思惑では無かった事を意味しています。兎も角も先祖は少なくとも座布団を外し同座を主張して押し問答と成ったとあり、この間、列座する家臣は平伏のままであったと伝えられていて、結局、同座で落ち着いたとあります。
以後、先祖は頼宣以降15代まで、南画、禅問答、俳句、漢詩、和歌、茶道の師を務め、政道の話し相手を祖父の代まで累代で務め、この時の慣習が引き継がれたとあります。
つまり、完全に違って逆だったのです。だから、筆者先祖も驚き「稀有と尊敬の念」を抱きその事を後世に伝えんとしたのだと思うのです。
また特に、8代将軍吉宗の代には伊勢青木氏と伊勢加納氏は「育ての親代わり」(伊勢青木氏と伊勢可能氏は親族関係にある)として関わった事もあり、また吉宗の「享保の改革」の裏方(直接の経済学の相談相手 御側用人扱い 加納氏と同等)として江戸で経済改革を主導したと伝えられ青木氏と紀州家に記録に残っていますし、吉宗の郷里の「紀州藩の財政改革」も平行して伊勢青木氏が依頼されて断行したと記録にあります。これも「2足の草鞋策」の所以であり、徳川氏の家臣でなかった為に家臣面前でも「布衣」をつけての特別待遇であったと伝えられています。謝礼として「十二人扶持」を5万石の大地主で紙問屋を営む襲名伊勢青木長兵衛は代々受けていたと記録と口伝で伝えられています。
この「享保の改革」の時に伊勢青木氏と共に信濃青木氏も協力して江戸にその子孫を送り遺しています。

この様に吉宗も「伊勢-信濃の関係」をも掌握していた事が判ります。(江戸6流の青木氏が定住 有名な青木六左衛門は筆者の先祖)
この事(徳川氏の上記経緯:源朝臣)は「幕府樹立」と云う「国の安定」の為の「権威擁立手段」に過ぎなかった事を意味します。「源朝臣」と成った以上は源氏11代は滅亡しているので、上位は傍系化した近江と美濃を除き伊勢、信濃、甲斐の賜姓青木氏と藤原秀郷流の特別賜姓族青木氏のみがそのルーツを保全維持していた事に成ります。
逆に言えば、上記の事は、徳川氏は、源氏の様に武力的権威に溺れず「家訓10訓」を護り「表の氏」に成るのではなく「3つの発祥源」として「神明社」を護り「悠久の年月」を「地道」で歩んで生残った「特別賜姓族」を含む青木氏の立場を認めていた事を物語ります。
故にこの儀礼を敢えて江戸時代末までに成っても徳川氏は守った事を意味します。特に頼宣と吉宗の代が最もその関係が強化されていた事が判ります。

「時代の慣習癖」
この様に「時代の慣習癖」を見越した上で、各氏は室町末期から江戸中期頃まで恣意的、故意的にこの「時代習性癖」を悪用して家柄呼称や系譜に搾取偏纂が横行したのです。そして、現在では何がほんとで何が嘘なのかも判らない様に成ってしまっているのです。
特に「系譜」に付いては「個人所有の系譜」は殆ど搾取偏纂であり、本来はその「氏の菩提寺」が所蔵保管しているもので過去帳と共に個人が書き記して行くのではなく寺が間接的に書き記して行く方式が本来の形なのです。「姓氏」の不特定の姓の「檀家寺」ではなく「氏」を形成し「氏の菩提寺」か青木氏の様に「氏の祖先神の神明社」を保有する処に保管されている系譜は信用できるのです。
「個人書き」には当然にその書き記した「人物の思惑と歴史知識」に左右されてしまいます。「個人書き」には過去に遡るだけの資料の保全が当時には無い訳ですから「過去に遡った系譜の作成」は論理的に有り得ません。まして上記して来た「姓氏」には江戸初期にやっと系譜の人物故人が出来る程度であり、人数的にも慣習的にも平安期まで遡っての系譜は物理的、論理的に有り得ない訳でありますのに、実しやかに「系譜」を全面に押し出して家柄を誇張する「氏」や「姓氏」が殆どです。
そもそも「氏」は下克上、戦国時代で滅亡して遺されている氏は1%にも満たないのです。全て室町期末期の「姓氏」であります。その事から考えて、「氏の菩提寺」と「氏の神の社」を持ち信頼できる系譜などを保有する氏は青木氏や藤原氏一門など全国20にも及ばない筈です。(8000の姓氏の中で)
「姓氏」に於いても「個人書きの系譜」で信用し得るものには、必ず、”「個人書き」した者の明記”と”後勘に問う”と”歴史上の箇条添書”が存在しています。信用出来ない推測領域には書き及んでいないのが定番です。この様な系譜「3つの条件」に合致しない系譜には必ず「搾取の系譜3つのパターン」があり史実雑学に照合すると間違いなく「矛盾」が生まれます。
事程左様に、信用できない「時代の慣習癖」を経た系譜の多くの通説では、例えば「近江青木氏」と「近江佐々木氏系青木氏」との様に混同していますし、又、同じく「佐々木氏」も「天智天皇(川島皇子)系近江佐々木氏」と「宇多天皇系の滋賀佐々木氏」とも混同している傾向を持つのです。
(近江と攝津にて2家青木氏の末裔家現存 摂津は「近江青木氏」 近江は「近江佐々木氏系青木氏」 滋賀は「上山氏系滋賀青木氏」)
(家訓と神明社)
奈良期から始まった「青木氏」は平安期の藤原氏系の「青木氏」へと繋がりそして明治期の「青木氏」へと広がりを示し変化して行く過程から、この佐々木氏や秀郷一門に支えられて互いに助け合い地道に生き抜いた青木氏の行動指針の「家訓10訓」は大きな効果を発揮しました。
これは「祖先神の神明社」と「家訓10訓」が連動していたからに他ならないのです。
(源氏とはここが異なっていたのです。 同じ賜姓族の「近江佐々木氏」も「近江青木氏」を支えていた事から観て、青木氏側からは近江佐々木氏に付いてその研究は大きくは進んでいませんが、青木氏と同じ様な生き方をしたと観られます。  近江佐々木氏資料から平安期の全青木氏の事が多く出てくる事は鎌倉-室町期には藤原一門と同じ位に同族の関係性を強く維持していたのではないかと推測していて、今後の研究課題と成っています。  
その証拠が多くあるのです。例えば神明社の神職に佐々木氏、春日社にも佐々木氏、八幡社に佐々木氏、青木氏菩提寺に住職として佐々木氏、青木氏の村主に佐々木氏等が資料から観られるのです。 於佐々木氏資料より考証)

青木氏とほぼ同じ時代経緯や祖先神や宗教や由来や末裔の地域性や藤原一門の特別賜姓族との関係などほぼ一致している佐々木氏の資料などからも考証すると、上記した様に「氏の融合期」の初期頃(平安末期:「民族融合」の終了期後 1125年頃)にこの家訓は定められたと考えて居るのです。
幅広い関係性の中で定められたと考えられます。
恐らく、奈良期に「中国後漢の民」からもたらされた第1次産業がこの頃に飛躍的に進化して日本全土に拡大し、そして質的にも醸成され始めた「初期的な物造り」の「社会の気風」が起こり、それが更に強くなり民にその意識が高まったと観ています。この頃からむしろ「平安文化」「鎌倉文化」「室町文化」の「3つの文化」(紙文化)の発展に支えられて「生活の糧」の目的から「文化」の目的に質的量的にも拡大進化して変化を遂げます。
この「文化の基盤」が出来た「殖産・物造り」は基盤と成った「文化」の「心の余裕」がより「神明社信仰」へと結びつき、「神明社」は「青木氏の祖先神」から「庶民の神明社」へと変質して行きます。
結果として「民は生活の糧」のよりよい発展を期待して「民の物造り」の「神」の対象として崇める様に成って行くのです。
この時、「神明社」の変化は「氏から民まで巻き込んだ信仰体」と成って行った事から「3つの発祥源」の青木氏はその正しい行動とより高い規範の維持を要求されて来たのです。
その結果、平安期末期の「源平の戦い」で衰退し「青木氏」として生残るには家訓10訓の中でも特により高い「家訓8の考え方」が物心両面で大きく左右して行ったのではないかと見て居るのです。
その結果、「神明社」の維持と相俟って、「殖産・物造り」を最初に「5つの和紙」を扱う青木氏の「2足の草鞋策」は(青木氏口伝からも含めて)伊勢の青木長兵衛(民部上尉)が主導して互助組織の氏家制度を通して、この時に各地の秀郷流青木氏を巻き込んで一族一門を通して一斉に「商い」を起したのではないかと観ています。(1125年頃)
「物造り」とそれに関係する「民の信仰対象」と言う要素が付加されて青木氏の「2足の草鞋策」は前記したように「色々なしがらみ」が1125年頃に一度に増え続けて絡み、結局は「時代の渦と流れ」が青木氏を「2足の草鞋策」へと押しやったと考えます。
ここを的確に「渦と流れ」を捕らえたからこそ生き残れたのです。
しかし、ほぼ同じ環境にあった同族の嵯峨期からの11家の賜姓源氏はこの「渦と流れ」を短絡的に履き違えて捕らえ「滅亡の道」へと押し進んだのです。(荘園制)
そして、その異なる要件の一つとして、彼等の源氏の守護神の「八幡社」に「物造り」=「八幡社」の構図が出来ず「民との絆」が生まれなかった事なのです。
前記した「絆」に基ずく「4つの青木氏」の関係に類する様な「11つの源氏」には生まれなかったのです。
青木氏と対比対象となる同族の「源氏の生き様」は”「皇族」と云う身分家柄に始終し民との間には溝を構えた為に「絆」は出来なかった”のです。
(渦と流れの入り口で最早如何ともし難くなり頼信系に引きずられて止む無く清和源氏頼光系4家は伊勢-信濃-甲斐の賜姓青木氏に跡目を遺したのです。)
つまり、源氏には「重厚な生きる力」=「絆」は生まれなかった事に成ります。
(近江佐々木氏との関係)
特筆するは研究が進んでいない「近江佐々木氏」が「源平の戦い」に巻き込まれて「近江青木氏」と共にこの時から衰退し、一時は江戸期には滅亡を危惧されるまで衰退を起しますが、然し、末裔は生き残り拡大して現在に至っています。(近江佐々木氏末裔の剣豪佐々木小次郎の頃 )
「近江佐々木氏」は「2即の草鞋策」-「祖先神」を連動させたのか等は不祥で、青木氏から観た事では判る事は「神職住職」が大変多い傾向を持っていて、全国各地にくまなくその子孫を遺している特長を持っている事なのです。
「神職住職」が青木氏と藤原氏の寺社神社にも多い事が気に成るのです。「祖先神の神明社」を論じる場合内心は欠かせない事ではないかと危惧している処です。未だ其処まで研究が行っていせんが今後の課題とします。
つまり、何故かと云いますと、皇族と藤原氏の両方の血縁族を得ている事から「祖先神」と「鎮守神」を守護神とし、「神明社」と「春日社」を護ってきた事が生き残りの根幹と成っていたのではと観ているからです。更に源氏滅亡後に同族であった事から「八幡社」も「近江佐々木氏」が祭祀続けたのではないかと考えられます。(特に近江攝津に拠点を置く頼光系清和源氏系の八幡社に対して)
結局、江戸期に入って「神明社」と「春日社」と「八幡社」の信仰が盛んになった事で、各地に存在するこの3つの全国の社を合わせると3-5万社と成り、この内の2割程度から3割程度が佐々木氏で有ったとすると、全国各地に末裔が広がる事の大きな要因に成ります。
(明治期の神明社で観ると大概に3割程度弱 特に関東以北に多く観られる)
まして、当時の神職の慣習は「氏の守護神」(「氏の菩提寺」)であった事から、上記した様に「4つの青木氏」の職能集団を抱え、その神職は室町期までは青木氏、佐々木氏、藤原氏が多く、他氏の誰でもが成れると言う慣習ではなかったのです。(住職も同じ。)

(注 江戸期から明治期にかけては神社仏閣の宗教改革は幾度と行われたためにこのシステムは消えた。浄土督奨令 神仏分離令 大教宣布 寺請制度 廃仏毀釈 寺社領上知令、地租改正等で「特定の氏」の「独善的排他性の組織体制」は国体に好ましくないとして解体されて行った。 これに対して反発の混乱が長く続いた。これ等に関する一揆も含む混乱は江戸初期から始まり明治9年頃にほぼ納まった。この終息期の明治3年の苗字令から明治8年の督促令がこの「仕上げの政治」であった。「特定の氏」と「宗教」は深く関わりあっていたので「特定の氏」の「特権とその勢力」を削ぐ為に「宗教分離」と「土地の剥奪政策」を明治6年までに実行した。これで氏家制度の氏は根本から解体された。)

青木氏と異なり佐々木氏はこの3つの守護神(氏の菩提寺も含む)に関わっていた事が生き残りの要因に成っていたのではないかと考えているのです。青木氏の「2足の草鞋策」の様な役割を果たしていたのではないでしょうか。青木氏は「2足の草鞋策」で回避できたとしても、「近江佐々木氏」は江戸初期から始まった上記の経緯で「江戸期の衰退」が起こったと観られ、研究はこの辺にポイントがあると観ています。
然し、この混乱期で最も資料が遺されていると観られる寺社の改革である為に資料が遺されていない事が考えられ、更には寺社は「霊験新たか」を前提にする為その資料を積極的に公的にしない傾向があり研究は困難が予想されます。
しかし、。研究が進めば、更に発展してこの「3つの賜姓族の氏」が鎌倉期以降「三つ巴のスクラム」を組んでいたのではないかと観ていますが今後の研究課題です。
「近江佐々木氏」が幅広く「青木氏」を研究している事から観れば大きく関係性がある事を意味します。
青木氏の「生き様」がより幅広く蘇させられるのではないかと観ています。

青木氏と守護神(神明社)-13に続く。


関連記事
 

名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒

青木氏と守護神(神明社)-11

[No.278] Re:青木氏と守護神(神明社)-11
投稿者:福管理人 投稿日:2011/09/10(Sat) 15:54:01


 「青木氏の利点」

>阿多倍等が九州に上陸し中国地方まで無戦征圧した原因は、その「高い後漢の技能」を吸収して生活を高められる事があった為に「土地の民」が進んでその配下に入った事から起こっている現象だからで、その為に「間接的な氏の融合」が起こったからなのです。
>つまり「平族」に於いては、阿多倍一族としては奈良期から平安期(600年)までの「間接的な氏の融合」の拡大でありますが、たいら族としてはこの5代(或いは7代)(国香-貞盛より)による短期間(165年)の「氏融合」(その前は「民族氏」と「部氏」)であるが為に「直接的な氏の融合」の基盤が平安期には充分に出来ていなかった事に原因しています。(前回の末尾)

逆に、その点で全青木氏390氏は朝廷の奈良期と平安初期の「2つの詔勅」で発祥しましたが、青木氏の古代密教に導かれた「菩提寺」や「心の拠り処」としての「祖先神の神明社」が遺された事に因って書物が残り、している事から比較的にルーツが明確に成っていて、後に於いても「氏族の発祥源」が管理されて引き継がれて行った事が「子孫存続」の「生き残りの団結」(伝統の継承)に結び付いたと考えられます。
これは真に前記した通りの「4つの青木氏」の存在が起因しての事であります。
これは言い換えれば「青木氏の伝統の継承」が成されて行った事にも成ります。
「3つ発祥源の古氏」であり「高位の氏」であるが為に、「直接的な氏の融合」を主体としては少ないけれども、「間接的な氏の融合」にも力を注がれていた事に成ります。
取分けこの「紙一重の乱世」の中で「融合氏」として生き残れたのは「賜姓青木氏」では「伊勢青木氏」が29氏を主導し、藤原秀郷一門では特別賜姓族の「秀郷流青木氏」が「第2の宗家」として361氏を主導して「氏の融合」を成した事です。
その「氏」を室町期末期まで「管理統括」し、この「氏家制度」の管理統括された「2つの青木氏」390氏が氏家制度の根幹を守り、強く「相互間の助け合い」をしていた事の差によります。
そして、その基点となったのは「心の拠り所」の「祖先神の神明社」であり、「行動規範の拠り所」の奈良期からの「古代密教(浄土宗)の教え」であった事は云うまでもありません。

「2つの青木氏」の「3つの拠り所」
1「心の拠り所」=「祖先神の神明社」
2「行動規範の拠り所」=「古代密教の教え」(浄土密教)
3「人生の使命感」=「3つの発祥源」

この「3つの拠り所」の下での「相互間の助け合い」(互助・絆・氏家制度)では、武田氏滅亡で武田氏系青木氏と諏訪族青木氏を武蔵入間を中心に神奈川横浜の半径上に接続する勢力圏内に保護した事や、四国讃岐籐氏の勢力圏に保護した事、新潟-陸奥で保護した事等の例から観てもこの「氏の管理統括」が確実に成されていた事が証明出来るのです。
他にも鎌倉末期に「元寇の乱」の時に秀郷主要一門の青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏等は北九州に赴き、そこで一族の連携を採り互いに助け合い大蔵氏や肝付氏や北九州の主要豪族の菊池氏、宗像氏、佐伯氏、酒井氏等と積極的に血縁して一族の末裔を阿多倍一族一門の根拠地に遺しているのです。其の時の青木氏が主導して血縁をした資料が残されています。
北九州に地域的には限定されて少ないのですが、青木氏や永嶋氏や長沼氏や進藤氏や長谷川氏が秀郷一族の末裔が存在するのです。中でも秀郷流青木氏と大蔵氏系永嶋氏が大きく末裔を遺しています。この事が何よりの証拠と成ります。
これが「元寇の役」を切り抜ける為の「第2の宗家」の「青木氏主導の戦略」であったのです。

では、この「氏の管理統括の有無」とはどう云う事かと考えると次ぎの結論が出て来ます。
上記(3)の ”争いを伴なう時の「氏の融合」の「第2の条件」”とは、それは「氏の民の心を一つに纏める政策」でした。
そして、次ぎの数式が成り立ったからこそ「3つの発祥源」(氏の発祥源、侍の発祥源、武家の発祥源)が成し得て江戸期までに氏は2000までに成り得たのです。
この数式条件を整えず「青木氏」が「平族」や源氏の様な「生き様」をしていた場合は、現在の様な「氏の融合」は有り得ず、「氏融合」が成されなければ「雑種の優秀性と融合性」は成し得ず、「物造り日本」も有り得なかったと考えます。
では、この「第2の条件」を時代を通して維持させたのは、全て「青木氏の家訓10訓」の「教え戒め」に他ならず、遂には次ぎの「数式条件」を成し得たと考えます。

「3つの発祥源」=「氏の発祥源」+「侍の発祥源」+「武家の発祥源」
「青木氏家訓10訓」=「氏融合の第2の条件」
「氏融合の第2の条件」=「氏の管理統括」=「氏の民の心を一つに纏める政策」

この「数式条件」が本論の核心部分と成りますので、本論1より前記した事柄を前提にここより次第に本文に入ります。


  「氏の民の心を一つに纏める政策」
そこで、ではこの政策を更に詳しく検証して見る事にします。
そもそも、青木氏にはその政策として次ぎのような事が採用されています。

1「氏神の創設と創建」(神明社・祖先神・皇祖神・守護神)
2「氏寺の創建」   (菩提寺・浄土宗古代密教)
3「氏象徴の創設」  (象徴紋・綜紋・お仏像様)
4「氏の神木」    (青木の木)
5「氏の掟」     (総則 掟 家訓・添書 累代忘備録)
6「宗家の設定」   (一族一門を管理 総括者)
7「経済的背景」   (2足の草鞋策 経済的繋がり 古代和紙)
8「軍事的独立」   (皇族:近衛府軍、衛門府、兵衛府の左右六衛府3軍と左右衛士府軍、民部府を統率)
以上の8つの「青木氏政策」がありました。

これだけ「纏める政策」を整えている融合氏は他には全く見当たりません。

・8つの「青木氏政策」
1に付いて、「氏の人心を集める象徴-1」 「氏神」「神明社」(皇祖神)
特別賜姓族を含め賜姓青木氏はその賜姓に依って伊勢「皇祖神」の守護として成り、「氏の発祥源」の象徴として「神明信仰の対象」を定め、「人心」を集めて、その後に発祥した「賜姓地」(「氏融合地」)の各地にこの「神明社」を建立し、普及させて「神の加護の象徴」(19地域)を定めました。
奈良期の当時は、現在と違い「宗教に対する認識」は「生きる事」=「宗教」程の意味合いを持ち「絶対」であったのです。
「氏」が安寧に融合し存続して行くには「神仏」に「人心を一つに纏める事」が必要でした。
青木氏には伊勢神宮から発祥したそれが青木氏の「氏神」の守護神・「祖先神の神明社」であったのです。
平安期には、各地の安定域に成った天領地を始めとして、陸奥域を征討し鎮圧する毎に「神明社」を建立し、そこに青木氏が守護神を護る為に住職として移動定住しています。
この「皇祖神」と「祖先神」の「神明社」があるところには「青木氏」が、「青木氏」が定住しているところには「神明社」があるのです。
特に北陸関係には同族の近江皇族賜姓佐々木氏(天智天皇第7位皇子川島皇子始祖)もこの「神明社」と共に住職として移動定住しています。
青木氏だけでは務めきれなかった事から賜姓近江佐々木氏も奈良期の慣例に従い平安期にも「同族祖」として務めたと観られます。
平安期の古い「皇祖神と祖先神」の神明社には「社木」として「青木氏の神木」があり、又「神紋・笹竜胆紋」の幕が多いのはこの事から来ています。
「神明社」の多くは1400年以降の「社」が多く、このものに付いては特に天皇家が建立したのではなく主に当時の幕府か主要豪族が建立したものが殆どです。
領国の民を安寧に導く為に「伊勢宮の分霊社」として建立されたもので、平安期の目的とはやや異なっています。
奈良期-平安期の「氏の融合」が達成された目的とは別に、祖先神の「神明信仰」の色合が強いものでした。
荘園制に依って大豪族と成った「融合氏」等が「神明社」の慣習に習って別に「土地の守護神」を建立して「氏神社」を立て自らを氏子として並行して進んだのです。
そして守護神はただ一つではなく次ぎのような特徴ある歴史を持っているのです。

守護神は次ぎの形式に分けられます。
1 「自然神」
2 「産土神」
3 「祖先神」
4 「氏神」
5 「鎮守神」
以上「5つの神」に分けられます。(本文で詳細記述)

この「5つの神」は「神に対する考え方」が異なります。「4つの青木氏」は3の「祖先神」です。
各氏はぞぞれの上記の「5つの神」の内その「氏の成立ち」によりどれかを「神」として信仰しているのです。
そもそも、守護神は次ぎの形式に分けられます。
1 「神明」
2 「大神」
3 「大社」
4 「住吉」
以上の「4つの形式」に分けられます。

夫々の形式には「時代」と「宗教性」と「氏子対象者」の異なる「3つ要素」を持っています。
従って、夫々の「融合氏」と「姓氏」に依ってこの「4つの形式」のどれに入るかが決まって来ます。
「青木氏」は「皇族・賜姓族関係」であり、奈良期からの時代性を持ちますので「神明形式の守護神」と成り「祖先神」と成ります。
秀郷流青木氏は4番目の「氏神」でありますがこの神は別名「春日神」とも呼称されます。
秀郷流青木氏は「嵯峨期の詔勅」により発祥した氏でもあり、同時に賜姓青木氏を受けた特別賜姓族でもある事から皇族賜姓族の「祖先神」と藤原氏の「春日神」の両方を有する立場にあります。
勿論、「絆結合」の「2つの無血縁青木氏」も家人として郎党として「氏上」の守護神を「神」とします。
皇族賜姓族のみに限られた「守護神」の「祖先神」と成ります。

特に青木氏に関しては上記した様な他氏には決して観られない「血縁融合」-「絆結合」の関係で出来上がっていますから、「氏上-氏人-氏子の関係」を保持し同祖先神の守護神と成るのです。
「神」に対する考え方も次ぎの様に成ります。

「祖先神」
”自分と氏族の先祖を神として祭祀し、累代子孫までの守護神の性格的教義を持つ”。
以上と成りますので「2つの絆結合」も同じ守護神と成るのです。

この考え方に沿う為に「2つの血縁結合」の青木氏と「2つの絆結合」の青木氏、即ち「4つの青木氏」は他氏とは全く別の「氏の結合構成」をもとより持っているのです。
青木氏とそれを構成する族民は共に「祖先神」を守護神として崇める事になるのです。

例えば阿多倍一族一門は「民族氏」でありますので、「神」に対する考え方は次ぎの様に成ります。
「産土神」(うぶすなかみ)
”其の個人の生まれた土地の神で一生その個人の守護神として持ち続け子孫に伝播しない性格的教義を持つ”。
以上と成ります。(但し、現在では「氏神」と混同されている)
「産土神」ですので上記の「大社」形式と成ります。
(出雲大社、阿蘇大社、熊野大社、宗像大社等これに類する)

「5つの神」の「自然神」、「道祖神」、「皇祖神」を「祖神」として、「祖先神」(青木氏)と「鎮守神」(血縁氏)が「4つの青木氏」を守護したのです。

・8つの「青木氏政策」
2に付いては、「氏の人心を集める象徴-2」「氏寺」(秘匿)
そもそも「氏」は現在では親族を構える者は氏として扱われますが、氏家制度の中では鎌倉期以前は「氏」と「姓」に家柄が分けられていて、「武家」を構成する身分の者が「氏」として扱われ、武家を構成しない者を「姓」と呼称されていました。
「武家」とは「公家」(有品5位以上の貴族)に対しての「侍の呼称」で限られた「身分家柄」を認められた「氏」を云うもので、「公家の社会」から「武家の社会」に移った事で室町期からは「武士」を一般に「武家」と呼称するようになったのです。
本来は「武家」とは「有品の5位」以上身分を永代保証された者の一族に与えられた家柄でした。
この「武家」にはその一族一門を祭祀する「独善・排他的自営の寺」を営む事を許されてたのですが、これを「菩提寺」と称し、「3大密教」の「古代密教」の3宗派に限定されていました。
(青木氏は奈良期より古代密教を崇拝し、その考え方を継承したの浄土宗に帰依)
後の江戸初期にこの「密教方式」を解除して一般に開放奨励したことから「独善・排他的自営の寺」が無くなり「菩提寺」の呼称は一般的に適用されるように成ったのです。
本来は、「3大密教」外は「檀家寺」と呼称されていました。
室町期の「下克上・戦国時代」に発祥した「姓氏」には「独善排他的自営の寺」は持ちませんので、全て「檀家寺」と成ります。
従って、「姓氏」の祭祀は江戸初期の「密教方式解除」と「奨励督促令」を含み3宗派外の宗派の「檀家寺」と成ります。
3大密教の天台宗は「公家貴族」を対象とし、浄土宗は「氏」を構成する「上級の有品の武家」を対象とし、真言宗は「中級の武家」を対象としていました。
これ等の身分家柄階級は平安時代の身分家柄を定める令に従います。

中でも「2つの血縁青木氏」の「神仏の加護」として、「氏の発祥源」に対して初めて「氏の象徴寺」(氏寺)と云うものを正式に定めました。
これが「氏寺」であり賜姓族は当初伊勢松阪に「菩提寺」を建立し、「仏の加護」の象徴を定めました。
天智天皇から賜姓時に「氏融合の発祥源の象徴」として授与された「生仏像様」と称される「氏寺」の「護り本尊」として仏像を祭祀したのです。
その後、「護り本尊」の「生仏像様」を伊勢に置き「菩提寺」は分霊されて「神明社」と共に5家5流の国府に建立されました。(「青木氏ステイタスと生仏像様」のレポート参照)
「2つの血縁青木氏」の一つの特別賜姓族の秀郷流青木氏は、「有品4位」であり、母方の特別朝臣族でありますから「古代密教浄土宗」の氏寺の「菩提寺」を有することに成ります。
依って、「藤成-基景」にて発祥させた「伊勢特別賜姓族の秀郷流青木氏」は4日市に「菩提寺」を有していましたが、後に「2つの血縁青木氏」の結合の「融合青木氏」が発祥し、「賜姓族青木氏」と同じ「松阪の菩提寺」にも祭祀されていました。

「氏の発祥源」=「氏の象徴寺」(菩提寺)=「氏の信仰対象仏像」
これが全青木氏の「守護仏像信仰」即ち「人心を集める象徴」だったのです。

(注 「青木氏の氏寺」(菩提寺)を”秘匿”としたのは、江戸初期から明治35年までの間、青木氏とある特定氏の2氏の排他的な「専属の氏寺」であった為に、現在は青木氏外の「特定の寺」と「一般の檀家寺」とも成っている為に迷惑が掛かる事を避ける為)
(信仰対象の「象徴仏」の「お仏像様」に付いての詳細は「青木氏ステイタスと生仏像様」レポートを参照)

・8つの「青木氏政策」
3に付いて、「氏の人心を集める象徴-3」「綜紋」「笹竜胆」
青木氏はそもそも大化期より「3つの発祥源」(融合氏、侍、武家)です。
それ故、「青木氏の氏名」「氏の証のお仏像様」(大日如来坐像 皇祖神天照大神)を始め「氏の象徴の紋」を天皇より賜紋を授かり「正式な象徴紋」として世に定められたです。
この「象徴紋」は後に公家も使用する様に成り、平安期末には限られた朝廷より認可された数少ない「融合氏」等には、その証として「武家の家紋」として使用を許されたのです。つまり「武家の綜紋」です。
(同族である源氏11氏もこの象徴紋に準じる)
平安初期の「象徴紋」から「公家」や「武家」の「家の象徴紋」、即ち後には「家紋」(平安末期)と成ったもので、「笹竜胆紋」は「融合氏」の「最初の家紋」として全青木氏(4つの青木氏)はこの家紋を敬い、この家紋で「姓族」等をまとめる「綜紋」として「3つの発祥源」の誇りを以て結束したのです。
「象徴紋」を有するのは全ての8000氏の中でも青木氏だけです。
「笹竜胆紋」は「家紋」とする扱いよりはむしろ「融合氏発祥源」の全武家の「象徴紋」としての扱いが強かったのです。
これは「皇族賜姓族青木氏の綜紋」でもありますが、且つ、「融合氏の武家の綜紋」「笹竜胆紋」でもあるこの「象徴紋」の下に、その「母方血縁族 藤原秀郷流青木氏」としても自らの「融合氏」の「藤原秀郷一門」の「下がり藤紋」をも「綜紋」としていました。
この「2つの綜紋」を持つのが「血縁族の藤原秀郷流青木氏」なのです。
(秀郷青木氏は守護神も春日社の「氏神」と神明社の「祖先神」の2つを有する)

この由来は「藤花」の形に囚われて一般には余り知られていない事なのですが、「2つ目の綜紋」の「藤花の色の紫」をその「象徴紋の基調」としているものなのです。
その所以は、平安期は「紫」は「色の最高位」でもあり、「公家、武家、僧家」の「身分の色分け」にも使われたものです。ですから「下がり藤紋」は藤の花そのものより、その「紫」を以って「笹竜胆紋」の権威に続く「藤原朝臣族」の「最高権威の象徴紋」でもあるのです。
「花形」よりも「紫色」に意味を強く持つものなのです。
「氏家制度」の中ではなくては成らない「象徴紋」として、この様に「一族一門の人心」を「綜紋」に求めたのです。
これは他氏には無い「4つの青木氏」の誇りであり、且つ「人心」を集める「拠り処」であったのです。

「象徴紋」=「綜紋」→「家紋」→「人心の拠り処」

・8つの「青木氏政策」
4に付いて、「氏の人心を集める象徴-3」「氏の神木」
「青木氏の神木」のその由来は樹木の「青木」の木の性質にあります。
「青木」の木は常緑樹で常にその幹も枝も葉も青く、その木の勢いは他の木に見られない常に強い勢いを持ち、青長枝は1年に50-100センチにも伸び、その実は真紅の10ミリ程度の大きな実を付けます。
その葉には色調豊かに白、黄色、緑を有し四季に変じてその色合いを変化させます。
この事から、常に常緑で四季に応じた「色変化の特質」は「長寿」を意味し、「青い木」は体躯を表し、その「枝葉の成長」は子孫繁栄を成し、その「実」は健康な体の血液を表すとして、古代飛鳥より「神木」として崇められてきました。この「神木」を「3つの発祥源」の象徴としてこの木の持つ象徴の意味から、青木氏の「氏名」を賜姓される時に天智天皇から「臣下名」として授けられたものなのです。
そして、この樹木を「青木氏の神木」とする事を定めたのです。
この事から、この青木の「神木」は「神社の神木」から「青木氏の神木」として使われ、平安期末には「神社の神木」は「榊」と変化して行ったのです。この神木は仏教の仏木「槇の木」に当たります。

この様に他氏には言い伝えの様なものがあったにせよその「融合氏」を護りする正式な「神木」と云う習慣が無く天皇が認める青木氏に関わるものだけなのです。
「氏家制度」の中では他氏には認められなかった習慣です。一種の飛鳥期からの「自然神」の「自然信仰」の楠の様な「唯心の樹木信仰」でありました。
それだけにこの樹木には伝統的な「人心」の思いが込められているのです。
(「氏の神木」の詳細はレポートを参照)

・8つの「青木氏政策」
5に付いて、「氏の人心を集める象徴-4」「氏訓」「家訓10」
1365年以上とする歴史を持ち、この中で全青木氏が乱世を一致して生残る為には、その「生き様」から遺された経験を生かす事のみにしかありません。
家訓の内容からその時代に刻まれた苦難を省みると、少なくとも平安初期頃からの戒めであったと考えられます。青木氏に於いて大きな試練毎に追加されてきたと考えられ、凡そ1100年前半(1125年頃までに)に完成されていたものと観られます。
この事は経済的とも取れる内容もあり「2足の草鞋策」を採った時期に符号一致していると考えられます。普通「3つの発祥源」の「融合氏の祖」とすればがちがちの「侍気質の家訓」と考えられるのですが、そうでない内容と考えられます。かなり柔軟で「人の本質(性:さが)」を求めています。
特に「3つの発祥源」であった事から全融合氏のその「模範氏の責任」が求められていたと観られますが「侍、武家」と云うよりは「人として、氏長として」の責任を追い求めたと考えられます。
「3つの発祥源」の青木氏が「2足の草鞋策」を採ると云うことは当時としては世間では「奇想天外」な事であった事が予想できますが、青木氏5家5流がほぼ同時期に同商いで全て「古代和紙」を営んだ事から観て家訓の様にかなり「柔軟な考え方」を伝統として持っていた事が云えます。
この「柔軟な考え方」が生き延びられた原因の一つで他氏とは全く違う体質であった事が云えます。
それを示す端的な事件として、「武家の祖」であるにも拘らず「不入不倫の権」で護られた「貴族侍」と観られていた青木氏が「天正伊勢の3乱」「丸山の戦い」「伊賀の戦い」で信長を打ち破った「天下布武」を唱える「信長ただ一度の敗戦」(戦わずして負ける)のその時の「青木氏の戦略戦術」がこれを証明するものです。(伊勢のシンジケート戦略:青木氏に関わる全ての民の活躍)
言い換えれば、上記した「4つの青木氏の結束」(家臣、村民)の強さはこの「家訓10訓」に観られる「柔軟な考え方」が原因している事を証明します。他氏には観られない家訓で結束されていたのです。

・8つの「青木氏政策」
6に付いて、「宗家の活躍・設定」(一族一門を管理 総括者)
初期の「民族氏」として肥大化した大集団が「融合氏」化して行く過程では、必ずこの世の「万物万象」に観られる様に、その集団の「核・中心」と成るものが相互の「連絡の不足・絆の薄れ」に依って忘れ去られて無くなるという現象が起こります。
「濃い血縁関係」に依って集団化するのでは無く、「民族」と云う広義で「薄い血縁関係」で結ばれていたとすると、必然的に余程のリーダーシップの勢いが無くてはなかなか「中心・核」と成るものが生まれるものではありません。つまり、「民族氏」が「核家族化」ならぬ「核民族氏化」を起こすのです。

この摂理で行くと結局は、「核民族氏化」した集団が拡大過程を採り、「中集団化」を起し、「大集団化」へと繋がり、再び、「核民族氏化」が起こり「大集団化」へと繰り返し、あくまでも再び「核民族氏化」が起こり一つの「超巨大集団化」でまとまることは無くなる事になります。

「核民族氏化」→「中集団化」→「大集団化」→「分裂破壊」→「核民族氏化」」→「中集団化」→「大集団化」=「民族」の「薄い血縁関係」
このサイクルを繰り返すことに成ります。

「民族氏」では、氏の「細胞」の増殖が起こるがその細胞間の「同胞性」が無くなって遂には成長が留まり、時には「同胞」が戦い死滅する恐れさえ起こるのです。
つまり、ある大きさで収まりその「相互間の絆の薄れ」が起こる現象を繰り返す事に成ります。
これが阿多倍一族一門と呼ばれる「民族氏」の典型的な「経過形態」なのです。
本来、「民族性」を持つ渡来人であって「小集団」の渡来であれば少なくともその「民族性」も周囲に感化されて「時代の経過」に依って「民族性」が薄れて遂には「融合氏化」への方向へと進むのですが、この点に進まない原因を有していたのです。

「阿多倍一族一門」は当初から後漢「光武帝」と云う滅亡した漢国の一将軍が逃亡中に中国東地域を制圧し新たに「後漢国」を創建し、21代後に16国に分散しその中の「滅びた隋」と「建国した唐」に圧迫されて遂には後漢の漢民族は崩壊して、その国の「全17県民 200万人」と云う「国レベルの集団」が大和に渡来しているのですから、もとより「民族性」を強く持っていた事は否めません。
そして、それらは「血縁と云う結び付き」が希薄で「組織的な命令系統」を中心に依って形成されていた集団であったのですから、その「組織または国の首魁」が「核・中心」と成る「集団構成」であったのです。
「民族の坩堝」と呼ばれる中国大陸に於いて「優秀果敢な漢民族」とは云えど、それは全て「漢民族」で成り立っていた訳ではなく、「洛陽・東中国人」「中国系朝鮮族」等の民族が多く主に3つの「民族の混成集団」からそもそも成り立っていたのです。
そして、それらが既に約400年が経ち「民族氏」の「経過形態」が既に終わった超大集団であったのです。
(民族氏は中国の構成形態 前漢29-220:後漢220-618年滅亡 隋581-618滅亡 隋唐に圧迫)
その「構成形態」を以って「国レベル」で渡来したのですから「民族意識」は変えられる事は無理であったと考えられます。
彼らが良いと信じていた「民族氏の概念とその組織形態」を”「大和国」を「融合」と云う手段で一つにまとめ「国の安寧と安定」を図るのだ”と聞かされても、直ぐに換えられる事もなく渡来したとして「帰化」-「独立」も考えるところであったとも考えられます。
故に「朝廷の国策」の「融合氏3策」には根本的に馴染まなかった事を意味します。真に”何かが起こる”の所以であります。(例 「大隈隼人の戦い」)
しかし、反面、青木氏の「融合氏」は「集団化」してもそこには「血縁」を中心にした「核・中心」と成るべき生き抜くべき形態を保持していたのです。

「生抜形態」=「総宗本家」-「宗家」-「本家」-「分家」-「支流」-「分流」-「分派」
以上の氏家制度の管理された「組織形態」を造り挙げていてたのです。

「部曲・品部」←「生活絆」→「生抜形態」←「絆」→「無血縁結合」
この組織に「無血縁結合」の「絆」を基とする「姓氏」が夫々の枝葉に結合すると言う網の目の様な「組織形態」を造り、これに殖産(物造り)を加えて「生活絆」で結ばれた「部曲・品部」が土壌を支えていたのです。

この細部までに結び付いた「生活環境」中で一族一門が生きて行くに必要とする事を「相互扶助」で「護り合う形態」を作り上げていたのです。要するに「氏家制度」の形態の完成であります
そして、この「核・中心」と成る「氏の長(氏上)」の指揮命令系統を定めて「氏人」-「家人」-「部曲」「品部」「雑戸」の「融合・結合の結びつき」で「支えあう社会」、末端の民に至るところまでの「相互扶助」の組織、即ち「氏家制度」(一族一門を管理し総括し扶助する社会形態)を構築していたのです。
阿多倍一族一門との間には、ここに大きな違いがあったのです。
とりわけ、青木氏はその「悠久の歴史」が「血縁の力」を超えてむしろ「絆の社会優先」で結ばれていた「融合氏」であったのです。
「3つの発祥源」として範たる形態を敷いていたのです。「氏家制度」の範と成っていたのです。

(例 明治35年まで続いた皇族賜姓族5家5流の「紙の殖産と販売網」の組織 昭和20年まで続いた讃岐特別賜姓族の「回船問屋と殖産業網」の組織がこれを物語る。)

・8つの「青木氏政策」
7に付いて、「経済的背景」(2足の草鞋策 経済的繋がり)
阿多倍一族一門はその配下には実質「180品部」の大集団を持ち「公地公民」と成りながらもその売却益を「経済的な支え」として成り経っていました。
「公地公民」に成ったとは云え、彼等の「民族性」、「旧来からの支配形態」を直ぐには壊すことは出来ません。そこで、一度朝廷に納める方式を採るにしてもその収益の一部を彼等の集団に納め、その「部民」に関する詳細な指示配命令形態は彼らを「伴造」(ともみやつこ)に任じて管理させていたのです。
この「伴造」を管理する為に地方の行政末端役所の「郷戸・房戸」と行政局の「国造」(くにのみやつこ)を置いていたのです。
ところが次第にこれ等(伴造)が独自の「墾田」を造成して私腹を肥やし「私有財産化」へと進んだのです。
阿多倍一族一門はこの様に莫大な「経済的背景」を持っていたのに対して、「融合氏」らの経済的背景が主に「土地からの収益」があったにせよ「氏勢力拡大」に相当するものでは無く、阿多倍一族一門の「民族氏」の勢力に圧迫を受ける状況と成っていたのでした。
そこで、集団化した主な「融合氏」は「三世一身法」「墾田永代私財法」を境に徐々にその「守護の立場」を利用して「殖産・土地の産物」を商いとする「2足の草鞋策」を実行して行ったのです。

1 「守護王」の「行政権」     :(阿多倍一族一門:「行政担当」の「官僚権」)
2 「国造」の「権益」       :(阿多倍一族一門:「伴造」の「権益」)
3 「2足の草鞋策」の「経済的背景」:(阿多倍一族一門:「品部」の「収益」)
以上の「3つの権益」を獲得して彼等の「民族氏」の勢力に対抗する事が出来たのです。

「3つの権益」1と2は「相当の力」を保持していますが、3の「品部の収益」に匹敵する力を初期には保持していなかったのです。
それを拡大する「民族氏の勢い」に押された朝廷は、止む無く「公地公民制度」を緩めて「三世一身法」「墾田永代私財法」を発布したものですが、「融合氏」の頂点に立っていた青木氏の様な氏の一門は、これを逆手に取って「土地の産物」の「殖産と増産」(物造り)を営みそれを「商い」とする対抗策に出たのです。
「5家5流賜姓青木氏」は全て「古代和紙」の土地の殖産産業を興してこれを商いとして相互間の連絡を取り、後の織田信長(2万)との戦いに観られるように「1、2、3の総合力」で勝つ程に「大商い」としていたのです。
これで「民族氏」=「融合氏」と勢力均衡のバランスが成り立ち生残れたのです。

この「3つの権益」がとりわけ「2足の草鞋策」の「経済的背景」の努力が無ければ現在の青木氏は生残る事は100%考えられず、同族の賜姓源氏の様に11家もありながら「滅亡の憂き目」を受けていた筈です。(阿多倍一族末裔の平族の清盛さえも「2の特権」を生かして「宗貿易」も行った事でも証明出来る)

同族血縁族の藤原秀郷流青木氏も赴任地24地方では「3の商い補完対策」を大いに構じています。
資料の中には昭和20年まで続いた「讃岐安芸土佐の土地の殖産」とそれと結びついた「大廻船問屋」の「讃岐青木氏」様な「融合氏」が存在します。
「讃岐青木氏」の分布状況を観るとその商いの大きさが判ります。
讃岐を出て関西以西中国地方全域に小さいながらも「讃岐青木氏」の末裔が存在しているのです。
家紋から観た分布でこれは支店を設けていた事を物語ります。

因みに筆者の伊勢青木氏の宗家の商いは外国貿易の堺に2大店舗、松阪に2大店舗 玉城町8割を占める蔵群 千石大船3隻を有して明治35年(祖父)まで営み分家の商いは大阪で現在も続いています。

当時の平安期の環境からすると「民族氏」勢力=<「融合氏」勢力の判別関係式が成り立たなければ「弱肉強食」の中では生残る事は絶対にあり得なかったのです。
「3つの発祥源」「皇族」「賜姓族」の置かれていた立場からは”商いする”と云う事は「奇想天外な発想」であった筈です。これを成し得たのは悠久の歴史を持つ事から生まれた「4つの青木氏(血縁+絆)」の環境が他氏と違うところを作り出していた事に他ならないのです。
これは「2つの青木氏」の「祖先神」の考え方を「心の拠り所」として、一致結束して他氏に観られない「青木村」を形成して「2つの絆結合社会」を構築していたからに他なりません。

・8つの「青木氏政策」
8に付いて、「軍事的独立」(皇族:近衛府、衛門府、兵衛府の左右六衛府3軍と左右衛士府軍を統率)
皇族賜姓青木氏の臣下の目的は、そもそも天皇家の問題にあったのです。
それまでに皇族を護る「親衛隊」が無かった事が「弱体化の問題」と成っていて、それを解決させる為に”皇族の者に「臣下」と云う形で「武力」を持たす”と云う事を、天智天皇が「政策大転換」をさせた事です。
当時は皇族、貴族は”「武力」を持たない”と云うのがステイタスでした。
従って周囲の「民族氏」の豪族が力を持つとこれを背景に「軍事力、経済力」を高め挙句は「政治力」をも獲得すると云う方向に進み、「権威」のみに依って保護されている「皇族、貴族」をも凌ぎ、その立場を脅かすと云うところまでに発展してしまいます。恐らくは「貴族武力保持政策」は仰天倒置の騒ぎで合った事でしょう。
(「臣下の仕来り」は皇位継承順位と供に天皇の皇子順位が第6位皇子に当る者に任じる事を定めた。)
蘇我氏の例に観る様にこの弊害を無くす事から、更にはそれまでの身分制度(臣、連、君、直、造、首、史、稲置)の姓を見直し、弊害と成っていた飛鳥時代の大王家(天皇家)に繋がる「民族氏」の「臣族(蘇我氏等)」やそれに相当する勢力を保持している「民族氏」の「連族」等を解体して「八色の姓」の制度に依って大変更しました。
そしてその制度に基づいて新たな「皇族臣下族」を作り上げて「氏」の姓を与え、「皇族、貴族」でありながらも「武力」を持たせ、前記した「5つの俸禄制度」(功田、賜田等)を制定し「爵位」と「冠位」と「職務」を与えたのです。
それが「朝臣族」の「浄位」であり、「左兵衛門尉佐」「右兵衛門尉佐」「民部尉佐」の冠位と、総括「近衛軍六衛府軍」の指揮官の職務と成ったのです。

これまでの「臣連」を指揮官とし全国から「伴の労役」に従事する民を集めての朝廷軍(後に阿多倍一族軍が加わる)を編成していましたが、それとは別に天皇の身辺を護り任す「近衛軍」を創設したのです。
これを任されたのが「皇親政治」」を担った初期の賜姓族5家5流の青木氏一族一門であり、900年ごろからは「同族賜姓源氏」と「同族母方血縁族」の「藤原秀郷一族一門の特別賜姓族青木氏」もこれに任じられたのです。
これに依って、それまでは「臣連」の「民族氏」の参政による「政治体制」から、彼らに揺さぶられる事無く、天皇家の身内による「独自の軍事力」を背景に身を護り、青木氏等による「皇族貴族」が主導する「皇親政治」を敷き、当時としては全く新しい「画期的な政治体制」を確立したのです。
今までに無かった「政治体制」が樹立したのです。
従って、恐らくは奈良期社会はこの時「天変地異」の出来事であったと観られ、周囲は相当に紛糾し、反対者も多く天皇と云えども身の危険は保証されていなかった筈です。
蘇我氏が潰れたとしても従兄弟の蘇我氏一族「蘇我仲麻呂」や「蘇我赤兄」の「民族氏」の豪族は温存されていて脅威の一つであったのです。
天皇家の中でも彼らと利害を一致し血縁性があり、その代弁者とする「反対皇族者」は居て、天皇の身内であっても事件後(日本書紀にも書かれている様に)これは粛清されて行きます。
当然に反対する「民族氏」の飛鳥時代の「臣」「連」の豪族等も「蘇我氏」と同様に潰されて衰退してゆきます。
歴史的には「皇位争い」を「通り一辺」と位置づけられていますが、この様に周囲の政治的な変化を考察すると、筆者は「皇位争い」はその「最終の始末の方便」であって、正味はこの「大化の異変の経過措置」としての「争い」と云う「決着の手段」であったと観ているのです。
この「決着の手段」の「捉え方」に依っては其処に起こる「見える画像」に対して著しく観方は違ってくる筈です。
「孝徳天皇」の皇子の「有間皇子」の例の様に、”「皇位争い」で抹殺する事”が、「中大兄皇子」から観れば”反対者には「抹殺の大義明分」に抗する大儀は無く程遠い”と考えていた筈だからです。
「中大兄皇子」はその順位からしてもトップであり何の問題も無く、まして蘇我氏を自らの刀で刺し自らの指揮下で蘇我氏の護衛雇い軍の東漢氏と交渉し蘇我氏の軍を解体させ、自ら「大化の政治改新」の具体策を発案し実行した唯一の人物なのです。
これだけの条件がそろっていれば、周囲の反対者がそれに取って代わると云う風に考える事そのものが異常とするものです。仮に取って代わったとしても他の周囲はそれを容認する事は100%有り得ず、「民」も天皇としてのそれを認めることは出来ない筈です。
まして、「中大兄皇子」が下した「抹殺を含む処置」をどうするかの問題もこれだけの条件が揃っていれば反対者が取って代わっても政治の実行は元々不可能です。
「有間皇子」(従者一人)は、家来一人を伴い同行し、蜜命を帯びた「蘇我赤兄」に直接後ろから熊野古道の藤白神社の直ぐ側の民家の横で考察されますが、その直前に(海の見える山越えが終わった実に神社横の一息つきたくなる様な景色の良い角の場所)座り民家から水を貰い飲み、そして読み遺したとされる「時世の句」から観ても「皇位継承争い」だけでは無いと観られます。
反対派の裏工作と知らずに会合に参加した事が原因(失敗)と観られます。
父の「孝徳天皇の弱体化」から観ても、「有間皇子」は皇位につける条件下に無い事ぐらい判って居た筈です。「天皇家の復権」を自らの力で成し遂げた「中大兄皇子の絶対優位の立場」から観ても取って代わる事が不可能である事くらい判る筈です。まして反対派も同様に「大儀」は失って居た筈です。
通説の「皇位継承争い」は立場を変えてみれば違う事に成ります。
「抹殺の殺意」とは別の”無意識に「事の流れ」に偶然に取り込まれていた”と成るのではないかと観られます。この世は意識、無意識に無関わらず「自然の流れ」に抗しきれない「流れ」に呑まれる事が有ります。

この様に大変厳しい政治環境の激動の「流れ」の中で、「生仏像様や神明社の加護」の下に巻き込まれることも無く護られ、平安中期には「2つの血縁青木氏」は天皇家の同族を護るために「自らの軍」を保持したのです。その「流れの自然渦」に巻き込まれる危険性は充分に有りながらも自立への道を歩んだのです。「融合氏の青木氏」が「3つの発祥源」を護り「氏」を育てる始めての持つ「自衛軍」であったのです。
そして、「天領地の守護王」として護る事も行ったのです。
ただ平安期にはこの「自衛軍」のみならず「4つの青木氏との絆結合」と「5家5流の連携」「4つの青木氏との絆結合」と「母方同族 特別賜姓族の藤原秀郷流青木氏」の力を背景に、「近江-伊勢-美濃-信濃-甲斐」の線上に存在する「融合氏の小集団との連携」、所謂「シンジケート」とが組合わさって「実数の軍事力」より遥かに大きい「巨大な相互防衛網」を構築して行ったのです。

1 「自衛軍」
2 「4つの青木氏との絆結合」
3 「5家5流の連携」
4 「4つの青木氏との絆結合」
5 「融合氏の小集団との連携」所謂「シンジケート」
この「5つの防衛線上」に途切れも無く「商いの経済力」が乗っているのです。

「5つの神」
「守護仏像信仰」
「象徴紋の基調」
「唯心の樹木信仰」
「4つの青木氏の結束」(家臣、村民)
「3つの発祥源」
「2つの絆結合社会」
「3つの権益」
「5つの防衛線上」

以上8つの「青木氏政策」の基に「9つの政策基調」を持ち得ていて、これ等が有機的に働いて生残れたのです。
これ等の「9つの政策基調」を「心と物」に分けて、「物」に付いてもう少し掘り下げて観ます。
とりわけ先ずは「物」の「防衛力」です。
その「防衛力」は次ぎの数式で成り立っています。

「青木氏の総合防衛力」
「近衛軍」+「4つの青木氏との絆結合」+「5家5流の連携」+「シンジケート」=「自衛力」
「自衛力」+「実数の軍事力」+「商いの経済力」=「巨大な相互防衛網」

そして、970年頃からは次ぎの防衛網のラインが構築されます。
1 伊勢青木氏-信濃青木氏の防衛網ライン
(伊勢秀郷流青木氏と信濃に隣接する美濃秀郷流青木氏が加わる)

2 「母方血縁族」の「藤原秀郷一族一門の青木氏」の「尾張-常陸」までの「東山道の防衛網ライン」
(武蔵入間を中心に片側相模の2幅)

3 「賜姓5家5流の青木氏」の「近江-甲斐の防衛網ライン」
以上3つラインが結合し「東山道」を常陸から近江の都まで繋いだ勢力圏を構築したのです。

4 「伊勢路防衛網ライン」
これに伊勢青木氏が奈良期から独自に持つ「近江-摂津-堺」までの「伊勢路防衛網ライン」が加わります。このラインは、「神明社」を伊勢神宮から近江まで円域の19の地域に建立し、そこに第4世族の「守護王」を置き、伊勢神宮からの神明社圏域を固める為に作り上げられた天皇家の独自の伊勢青木氏が護る防衛網ラインです。
そしてこの防衛網ラインに沿って平安期末期には「青木シンジケート」が敷かれているのです。

5 「瀬戸内防衛網ライン」(讃岐籐氏の秀郷流青木氏が独自に瀬戸内に構築した防衛網ラインで室町期には南北に日本海側まで延びたライン)

この事は青木氏の事以外にも歴史上ではなかなかこの「シンジケート」の事は扱われません。
しかし、平安期中期頃からでは戦いに敗れた「融合氏」や「姓族」や「民族氏」は生き延びなければ成りません。敗者は集団で家族共々逃亡する訳ですから、簡単に全て奴隷(「部曲や品部や賤民や俘囚や浮浪人」)には成り果てる事は出来ません。
当事(平安期から室町期末期までは)は有名な武田氏の有名な事件の様に打ち破った相手側の者を奴隷や戦利品として扱い売買すると言う歴然とした戦国の厳しい慣習があったのです。しかし、武田氏や上杉氏はこの慣習を禁止します。
これは室町期だけではなく平安期の安部氏の「前九年の役」「後三年の役」でも明らかの様に「俘囚民」(920年頃と1020年頃に公の仕組みは一時廃止される)と呼ばれ「奴隷」として「荘園の労働者」に送り込むという「陰」ではなく社会全体の正式な仕組みの一つに成っていたのです。
鎌倉期(豪族間の戦い)から江戸期中期(除封・移封)までにも「戦いや叙封」であふれ出た家臣や領民は下手をすると「醜民族」(明治末期まで残る)と呼ばれ「社会の陰の労働力」として扱われていたのです。
これから逃れる為に、敗退した氏や姓とその家臣領民は上記した様に山に逃げ込みこのシンジケートに入り生き延びると云う「陰の社会構造」が出来上がって行ったのです。
これが豪商などから経済的支援を受けて生き延びた「陰の力」の「シンジケート」なのです。
この様にそこで敗者は「海賊、山賊」、「山郷の隠れ土豪」、「兵の請負業」の様な事をやりながら、傍ら豪商からの「経済的支援」を受けて”いざ”と云う時には「互助の掟」で連携して役目を果す事をして生き延びたのです。(徳川家康はこの陰の力を戦略として大いに使った)
室町期の「下克上、戦国時代」には敗者が多く溢れ出て更にこの組織が拡大します。
鎌倉期の800あった融合氏は平安期の状態(80-200)まで減少するのですから、溢れ出た「融合氏」の家柄のある者等は家長・家人・郎党等が山を切り開き村を形成してこの組織に入ったのです。
「シンジケート」が山間部や山伝いにあるのはこの事から来ているのです。
(最たるものでは前回に記述した平家の落人がこの各地の「陰の仕組み」のシンジケートに入った)

平安期から江戸初期までの「氏家制度」の「陰の縮図」で、この「陰の縮図」が成り立たなかった場合は「氏家制度」も成り立っていなかったのです。
このシンジケートは「物心両面」の「陰の相互扶助」を「掟の旨」として存在し、況や、「氏家制度の縮図」で「陰の氏家制度」なのです。
「表の氏家制度」+「裏の氏家制度」=「社会構造」

「表の氏家制度」のみでは決して社会は成り立っていなかったのです。
そもそも論理的に成り立たないのです。
800あったものが80-200の1/4に成れば3/4は浮いてしまいます。
3/4は何らかの社会の「救済仕組み」が無くては社会が成り立ちません。
それが「俘囚民」、「醜民」の「悪い仕組み」であり、「良い仕組み」として「シンジケート」が「必然の理」に基づき「氏家制度」の社会の「救済の仕組み」「陰の仕組み」として公然として生まれてたのです。

因みに、南北朝の有名な楠木正成等は伊勢の集団の「青木シンジケート」の首魁の一人ですし、紀州九度山の真田氏も伊勢のこの「青木シンジケート」に組み込まれた一員で経済的な裏づけを採っていたのです。上田氏は信州上田郷の土豪が「夏冬の天下分け目の戦い」に生き延びる為に親子が二つに分けて両陣営に合力し親は九度山に配流され、生き延びる為に伊勢の「青木シンジケート」に加わります。しかし、真田幸村は豊臣側に付き「青木シンジケート」から外れ「滅亡」を選んだのです。
何れも軍師でありますが、「シンジケートの陰の力」を全面に受けての戦いに参加します。
結末も軍師を請われての同じ結末を辿ります。楠木正成は陰の力を背景にゲリラ戦を敷き10万の軍を餓死に追い込み勝利し、真田幸村は騎馬と軍馬を補助され、原野に配置した「陰の力」(シンジケートの野戦ゲリラ戦)2面の支援を受けて本陣の家康を完全孤立させる事に成功し討ち取る直前で止めて家康を生かして去りました。

この様に何れも本来外に出る事のない構成員が何れも表に出てしまった構成員です。表に出た以上は最早、構成員では無く成ります。何れ滅亡するしか無い事を意味します。表に出た構成員がシンジケートに戻ればシンジケートの「有り様」が変化してシンジケートは自然崩壊します。

この勢力圏は明治初期まで維持されたとする青木氏の記録と公開された史実が有り、「青木シンジケート」を使って各地に起こった殆どの一揆に対して「経済的支援」を行っていたと観られる記録が青木氏側の資料にも遺されています。

敗退した小集団の「融合氏」や「姓氏族」はこの様にして「シンジケートの陰の力」を背景に生き延びたのですが、これを用い保持しなかった大集団の源氏や平家は消え去ったのです。
しかし、阿多倍一族一門の平家(たいら族)の支流族は各地でこの真にこれを地で行く様にシンジケートの一員として生き延びたのです。

青木氏は次ぎの「4つのシンジケート」に関わっています。
「青木氏の3つの防衛網ライン」に構築されたシンジケート
1 「東山道の防衛網ライン」(藤原秀郷青木氏の勢力圏 東山道東側シンジケート)
2 「近江-甲斐の防衛網ライン」(皇族賜姓青木氏の勢力圏 東山道西側シンジケート)
3 「伊勢路防衛網ライン」(伊勢青木氏の勢力圏 伊勢路シンジケート)
4 「瀬戸内防衛網ライン」(讃岐籐氏秀郷流青木氏の勢力圏 瀬戸内海族シンジケート)

この「4つの青木シンジケート」に付いて歴史史実に残る証の事件が全てに有ります、表に出た主な有名な事件として次の様な事があります。
徳川家康は「天下分目の戦い」の為に甲斐武田氏系青木氏の3氏を殆ど家臣団に加えたのはこの1のラインの「勢力圏の確保」が目的であり関東とのその繋ぎ目を獲得します。
(柳沢氏もこの時の家臣団の一つです。「甲斐武田氏系青木氏]のレポート参照)
「関が原の戦い」を前にして家康は名古屋城にて本隊を待ちます。一方秀忠本隊は家臣と成った藤原氏秀郷一門の「防衛網ラインの東山道」を使い西に下りながら周囲の掃討作戦を展開している時、家康は名古屋で伊勢青木氏が抑える「伊勢路防衛網ライン」の獲得に動きます。
この時、伊勢青木氏は250の兵とシンジケートで護る伊勢-堺までの通行の保障作戦を展開することで約束します。
つまり、名古屋城に入る本隊の通行の安全を保障する「東山道西側ライン」は5家5流賜姓青木氏のシンジケートが保障したのです。
この「防衛網獲得作戦」でこれで大阪関西域の東は完全に押さえたのです。

又、武田氏が滅びた時、藤原秀郷流青木氏が諏訪族青木氏を含む甲斐武田氏系青木氏3氏の受け入れに成功したのは織田信長がこの「東山道防衛網ライン」に手を出せなかった事によります。
この時、甲斐のラインは一部崩れますがこの地に残る甲斐皇族賜姓青木氏が修復します。
他には次ぎの様な有名な事件がありますがこれ以外にも数え切れない記録が遺されています。
「壇ノ浦の源平合戦」、「楠木正成の南北朝の戦い」、「藤原純友の乱」、「甲斐の100年一揆」、「江戸末期から明治期の動乱一騎」、「信長の伊勢天正の3乱」等々。

それにはこれだけの「相互防衛網」を維持するには矢張り「経済的背景」が絶対に必要とします。
又、この様にどの場面から考察しても「奇想天外な近衛軍の政治改革」と「奇想天外な2足の草鞋策」の実行は歴史の必然として絶対的に必要であったのです。

「青木氏生き残り」→「3つの発祥源」→「シンジケート・防衛力」←「経済的裏づけ」←「2足の草鞋策」

「融合氏の青木氏の秘訣」
そこで源氏の様に「単一の軍事力」を必要以上に大きくするのではなく、「経済的背景」と「総合防衛力・軍事力」を組み合わせた「生き残り策」を構築する事であって、これが「融合氏」の「青木氏の秘訣」なのです。
その「青木氏の秘訣」を「戒め」として遺したのが、実に「柔軟性」に富みで「戦略的」な「青木氏家訓10訓」であると考えているのです。
何度も主張している様に「3つの発祥源」でありながらも、上記の様な「判別式の数式」から来た「侍、武家」らしくない家訓と成っている所以であると考えます。

多倍一族一門「6割統治」
この事から筆者の認識では「氏融合」と云う血縁で観ると、後漢の阿多倍王は、帰化以来、平安時代末までには遂にはその子孫を以って「政治(律令制度の完成)」、「経済(部経済制度)」、「軍事(朝廷軍制度の主力」)の3権の主要職の末端までを荷っていたのです。 (天皇近衛軍は青木氏と藤原氏)
実質、武力に依らず良い意味で他民族の「渡来人」が自らが民族の域を越えて積極的に「氏の融合」政策を推し進めて成功させ、「日本書紀」の”天武天皇の発言と舎人親王の編集に関わった官僚記述”にもある様に、少なくとも日本を「6割統治」し征圧していた事に実質成るのではないかと観ているのです。

「10割統治」では「革命・独立」か「謀反・乗っ取り」と成りますが、帰化後の早い時期に於いて阿多倍一族一門の「6割統治」では「反乱」とまでは行かなかったのではないでしょうか。
日本で生き延びる以上の「理解できる限界」であった事に成ります。
それ故に、阿多倍一族一門の「民族氏」の行動が、地域的に観て一族の「理解し難い行動」と成っているのではないでしょうか。
もしこれがどの地域で同じ行動を採っていて全て同じとした場合は「10割統治」の「革命・独立」か「謀反・乗っ取り」と成っていたと考えられます。
それを「民族氏」の主張をある程度通しながらも丁度良い所で押さえて「日本に融合」し「半自治」を勝ち取った事(1018年)に成ります。
故に「以西」-「中央」-「以北」の一族の行動に矛盾が生まれたと考えられます。

これは実に不思議な現象で、次ぎの様な現象が起こっているのです。
A 「九州の南北基地」の「南基地)(肝付氏)」では「融合氏」政策3策に「絶対服従せず」の態度
B 「北基地(賜姓大蔵氏)」では「自立」を主張した態度
C 「中国関西基地」は「本部基地に従う」という姿勢を採る態度
D 「伊勢本部基地」(賜姓平族)では官僚と成り「3策の立案推進する」の態度
E 「以東の関東」では「独立を主張」し「将門の乱」で終局引き上げる態度。
F 「以北の末裔(賜姓内蔵氏・阿倍・安倍・清原氏)では「犠牲に成る」と云う状況

以上、AからFと云う「シーソウの支点」を中心に「左高-右低」の傾きの「政治姿勢の戦略」を採っていたと成ります。日本人の「一族」と云う思考原理から見ると、実に理解し難いと云うか不思議な現象が起こっていたのです。真に「シーソウ」の「傾き程度の有利性」を表現しています。

筆者は「伊勢基地本部」から「都」を中心に「地理的要素」を配慮して帰化当事の方針の「6割統治」を執拗に成し遂げようとしていたのではないかと考えているのです。
EやFの様に多少の犠牲があったとしてもそれを切り捨てでも、”「目標達成」に拘った”のではないかと考えるのです。 「目標達成」>「義・大儀」 
日本人で有れば「義」「大儀」を重んじて「統一行動」して助けてでも”「目標達成」は二の次”とする行動に出る筈です。 「目標達成」<「義・大儀」
例えば、国家観に於いても同じ事が云えるのです。
阿多倍一門の「民族氏」は、「国家の目標達成」>「個人の目標達成」を重視する。
在来民の「融合氏」では、「国家の目標達成」<「個人の目標達成」であり、「個人の目標」の集約が「国家の目標」の集約となり行動する。
「民族氏」では、「国家の目標」又は「より大きい集団の目標」が成し得ない時は”「個人の目標」も成し得ず”と成ります。
「融合氏」では、「個人の目標の集約」が成し得ない時は”「国家の目標」も成し得ず”と成ります。
ここに「民族氏」と「融合氏」との「思考原理の違い」があり、尚且つ、それは「道教・儒教」と「仏教」の違いにあったのではないでしょうか。
更には、「産土神」と「祖先神」の「神様の有り様」の違いと観られます。

故に阿多倍一族一門と言う「大集団の目標」は、安部氏らの「小集団の目標」より多少の犠牲が出ても優先される事に成るのです。
その彼等の「民族氏の戦略」として「シーソウの原理」を採用したと見ているのです。
偶然にしては「民族氏」の「シーソウの原理(地理性戦略)」に一致し過ぎていると考えているのです。
この「考えの背景」には”「後漢系」の「民族氏」の「思考原理」にある”と決め付けているのです。

現在にも観られる彼等の姿勢、”カーと成るかと思いきや根気良く戦略戦術を実行する性癖・国民性”や、
 ”「三国志」にある様な゜中国人の姿勢」 ”や、”「六稲三略」の思考原理”、や”「法より人」「石は薬」”。
これは日本人に理解しがたい思考原理です。天智天皇が”「何かが起こる」”と観たのはここにあるのです。
筆者はこの「思考原理」に「彼等の行動原理」が加わり、彼らの行動を理解する上で大事な忘れてはならない「思考原理」と観ているのです。
それ故に、阿多倍一族一門の採った態度は”「これは偶然ではない」”としているのです。

彼等「民族氏」は朝廷内の「3蔵の政治機構」をも官僚の末端域まで、先ずは蘇我氏に代わって、「日本人」として牛耳り、取りも直さず、天皇家にも「桓武天皇」の母親の「高野新笠(阿多倍王の孫娘)」がは入り天皇を、そして「阿多倍王」の孫(曾孫)の「国香」と「貞盛」より始まって「清盛」までの「平氏(たいら族)の血縁」を天皇家の中に敷きます。蘇我氏以上の遥かな「専横の食込み状態」であったのです。
ただ彼等は「天皇の力」の「搾取や弱体化」を侵し脅かさなかった事にあります。
どちらかと云うと「協力体制」を確立したのです。
この2段階のルーツ(天皇ルーツと平族ルーツ)で「氏融合」をさせているのです。
これは「大集団の目標」の「帰化当初の目的達成」の為に行動していたものであって、「長期戦略」を執拗に採っていたのです。
これは別の面から観れば、真に”「後漢国」が日本に移動した”と観られるほどに、その200万人の末裔達の「氏の融合」は上から下まで完成させた事に相当するのです。
ただ問題は「九州南北の基地」(大蔵氏、肝付氏)の「民族氏」の「融合氏化」が900年頃から始まったが上記した様な背景(目標達成)で1018年頃まで100年間程度解決しなかったのです。
かなり腰の据わった粘り強い「目標達成」であった事が云えます。
「三国志」にもある様にこれも「民族氏の特徴」とも云える性質であります。
現在に於いてもこの中国と日本の「国家観の違い」如いては「思考原理の違い」による「摩擦」は歴然として発現しています。
これは別の面から観ると、阿多倍一族一門の200万人から拡大した融合末裔の3割近い人口の日本人は完全に「融合氏」と成り得ている事の証明でもあります。
この状況は、平安期中期950年頃から「渡来人」の言葉が書物より消え、その350年後の鎌倉期末期(元寇の役)では、最早、「民族氏」は完全に「融合氏」と成り得ていた事を物語ります。
その中間期が1020年頃(九州自治期)で、これを境にして「物心」の「心の部分」の「融合化」が起こり、上記した「考え方」の変革期でもあったと考えます。
「九州自治」を境にして彼等の「心の開放」が起こり、急速に「融合」が進み、故郷の中国から攻め込んできた「元寇の役」では、最早、生死を賭けて供に戦い、永嶋氏や青木氏や長谷川氏や進藤氏の大蔵氏との血縁に観られる様に、「心の開放」は頂点に達し爆発的な融合が進んだのです。
つまり、彼等の「心の開放」は「融合氏化」をも促進させたのです。
”何かが起こる”の天智天皇の645年の心配は1335年頃には霧散した事に成ります。

この意味で、筆者は「純友の乱」の時の自治約束の決断と1018年の大宰府の大蔵種材への自治決断は国家の存亡を救うに値する優秀な決断であったと見ているのです。
阿多倍一族一門の採った彼等の執拗な「民族氏」の「6割の目標達成」は「彼等の目標」だけではなく「日本の目標」と成り得た事を意味するのです。
同時に「民族氏と融合氏の軋轢」は間違っていなかった事をも意味します。
これは全て「産土神と祖先神」の「心の融合」を意味します。
大きく云えば、「祖先神」に導かれた「青木氏の生き残り策」は「物心両面」で「国家の進行方向」と合致していた事にも成り故に生残れたのです。

  「民の融合」(2階層の融合)
勿論、一方民「(民)品部」と観られる領域でも、彼等(阿多倍一族一門)の努力による「民の融合」は実は完全なのです。
「一般の民の領域」での「融合」(民の融合)は、2期に渡り入国した「後漢の民」の技能集団「部」が国内に広まります。これを朝廷は政治的に「部制度」政策(物造り政策)として主導して構築して行った為に、これらの配下に入り技能を享受した「国内の民」(在来民)は、「後漢の民」との障壁の無い「民の融合」が積極的に行われて行ったのです。
この為に「身分制度」を基調としていた朝廷は、慌てて「税や身分の混乱」を避けるために秩序ある融合を配慮して次ぎの3つの法を定めたのです。
1 「男女の法」
2 「五色の賤」
3 「良賤の制」
危機感を感じて以上「3つ身分法」等を定めたのですが、ところがこの法は次ぎに掲げる理由で902年で廃止されます。
この開放は一度に行ったのではなく混乱を避ける為に898-923年の25年間に徐々に行っています。
上記した様にこの点でも900年と云う一つの「荘園制の節目」や「融合の節目」が出てきます。

そして、平安期の「荘園制度」の確立に依って「朝廷の政策」のみならず「荘園内」での小単位の「部制度」が活発化して、「民の融合」は荘園に関わる「内外の民」の「2階層の融合」が起こったのです。
「民の域」では全ての「民の末端」まで行われましたが、その「部」単位(職能部の単位数 180)で起こった融合は、荘園に関わる「内外の民」の判別が困難な程に、「内外」を問わない緩やかな「完全融合」が起こりました。
「氏」としての構成では無いが「部の氏」と見なされる「単位集団」(日本の融合職能集団:「物造り集団」 「姓氏」)が誕生し構築されたのです。

「姓氏」の発祥
これが上記した初期に生まれた「海部氏」等の「姓氏」の「融合集団」なのです。
(丹後国 籠神社資料 海部氏の平安末期の「姓氏」の最古の記録 後に「融合氏」として拡大する)
この「融合職能集団」が室町時代初期から、この「民の集団」を背景に「部の姓氏」が正式に「姓氏」として乱立する結果(180-250)と成ったのです。

「組合職能集団化」の編成
これらの「民の融合」は当初は、「姓氏」として集団化したのではなく、室町文化(紙文化)発展によりその「職能域」をまとめるために「集団化」して行ったものなのです。
しかし、鎌倉期から室町期に成って「部制度」が解けて「部民」は自由開放と成り、この元の「部単位」での「組合」の様な「職能集団化」が起こり、その集団の内で「血縁融合」を繰り返す段階で有る程度の「緩い血縁性」が生まれます。
その「組合職能集団化」により実力のある者はその首魁と成り、鎌倉期-室町期の「文化の発展」に依って次第に「経済的潤い」を得て、「部」から発祥した彼等の呼称を「部民」として呼ばれ、集団化同士間の「無血縁の民」の「組織化」が起こりました。
「無血縁」で「異職能」の「集団」を取り纏めて行く必要からから「目標とルール」とを定めた「組織化」が起こったのです。
次第にそれが拡大化して勢力を持ちそれを背景に職能集団による「姓融合の集団化」(例:海部氏・陶氏)が起こったのです。
つまり、最終の形としては「氏融合」を主体としていた社会構造の中に職能集団の「姓融合」が食込んで行ったのです。この為に「既成の基盤」の上に胡座をかいていた「氏融合」と、新たな職能による「経済的潤い」を背景にした「姓融合」との間で「勢力争い」が起こります。
結局、”下が上を潰す” 「配下」であった「姓融合」は「主家」の「氏融合」を脅かし遂には乗っ取ると云う現象が起こったのです。
「氏融合」の「主家」に取って代わる事に因って「姓融合」は「融合氏化」への経緯を辿る事に成ったのです。この豪族となった「姓氏」を主体とする社会構造が出来上がり、「融合氏」は殆ど潰されて社会に対応出来得た数少ない「融合氏」のみが「姓氏社会」の中で「姓氏」と融合を繰り返す事で生き延びて行く結果と成ったのです。「融合氏」を主体とした「氏家制度」の中で上下逆転の社会が起こった事に因って「氏家制度」は「自然崩壊」へと進み、「姓氏」と「融合氏」とが入り乱れて「生存競争の戦い」へと突入して行く事に成ったのです。
況や「自然力」(流れの力)による「力と知恵」を駆使した「取捨選別の戦い」即ち「戦国時代の到来」が起こったのです。これは即ち「自然の摂理」(自然の流れ 時流)が起こった事なのです。

「融合氏の発祥源」(3つの発祥源)でもある「4つの青木氏」は、「知恵」は「2足の草鞋策」、「力」は上記した「陰の力と抑止力」と、それを支えるで「神明社・生仏像様」と供に、「自然の流れ」に逆らう事無く上手く「時流」に乗ったのです。その成し得た高度な英知は「青木氏家訓10訓」と秀郷流青木氏の上記して来た「戦略的知力」に有ったのです。

姓氏発祥の経緯(姓融合)
→「部制度」」[無血縁組織] (奈良期-平安期中期)
→「部民の開放」 (平安期末期)
→「職能集団化」[組合化] (鎌倉期初期)
→「血縁融合」[自由]→「経済的潤い」
→「部民」→「組合間の組織化」 (鎌倉期中期)
→「拡大勢力化」→「姓化」 (鎌倉期末期)
→「姓氏化」」[無欠縁組織]→「下克上」 (室町期初期)
→「融合氏化」」 (室町期中期)
→「融合氏の集団化」→「豪族」(「姓氏」)
→「戦国時代」
→「融合氏3」 (室町期末期)

「職能集団の青木氏」(無血縁)の誕生
この中には、前期の「4つの青木氏」以外に実はもう一つのこの「職能集団の青木氏」(無血縁)が存在しているのです。
前記まで「氏」は次ぎの様に論じて来ました。

「融合氏の種類」(鎌倉期以降の変化)
1「融合氏」-「融合氏間の血縁」→「血縁性を有する同族集団」(第1の融合氏) ⇒「融合氏1」
2「民族氏」-「血縁性の薄い民族集団」→(「融合氏1」と「姓氏」との血縁) ⇒「融合氏2」
3「姓氏」 -「無欠縁の部組織」→「血縁性の無い組合集団」 ⇒「融合氏3」

「部民」と同じ立場にあった「百姓」(おおみたから:部曲等)にとっては、「姓氏」に成る事は「下克上と戦国時代」の「立身出世による機会」によるもの以外には社会的に無かったのです。

これは次ぎの事によります。
1 「百姓の法制度・税制度」により土地に縛られそこから離れられない事
2 その基盤と成る「核・組織・集団」が無い事
3 「融合氏」「姓氏」に成る利点が無い事
4 更に「氏家制度」の「仕来り」や「仕組み」の中では反乱(一揆)と看做される仕儀となる事
以上から「4つの社会的拘束」により基本的には不可能であったのです。

しかし、「品部の民の解放と組織化」(898-923年)に感化されてその発展を観て、「百姓」(おおみたから)等は何とか「組織化」を図り、「意見の集約と主張」を前面に押し出そうとします。
この為に平安期の「元慶の動乱」に観られる様な「郡司」まで巻き込んだ事件が各地で頻繁に起こったのです。
そして、これが上記したシンジケートの経済的支援を受けた「百姓や賤民等の動乱」から、鎌倉期から室町期には今度は「一揆」と云う形に変化して起こします。
この一揆は、武士が起した゜乱や役や謀反や事件」と云った長くて5年程度の程度のものでは無く、100年間と云う途方もない「為政者に対する戦い」が甲斐や陸奥や美濃や伊勢や駿河に起こったのです。
中には”政治的権力を奪う”と云う所まで起こりました。
中でも「元慶の動乱」等は各地に飛び火して郡司等の地方の下級官僚の援護を得て組織化が起こったのですが、この一揆は「百姓」のみならず背後には「豪商や下級中級武士等」が控え援護して組織化を促していたのです。
どちらも「偶発的な動乱」「不満の爆発」等ではなく、援護関係が明確な「組織的な動乱」であったのです。
この動乱の目立ったものとして「徳政」、「播磨」、「正長」、「嘉吉」、「長禄」等の「百姓(商人・職人・武士等)」による「一揆動乱」がありますが、当初は資料や趣意書を調べると本来の目的は、「組織化(不満)」を目途としていたものが、通説と成っている「為政側」からは結果として「反乱・一揆」として扱われたものなのです。

上記の「部民」に認めたものが、”「部曲」(かきべ)には認めない”と云う不満から”おおみたから”達の「爆発的行動」と成ったのです。
地方行政官の「郡司(こおりつかさ)」が、中央行政官の「国司(くにつかさ)」に逆らってまでも「部曲」に賛同支持して動乱を起したのは、単に「賛同支持」と云う事だけでは命を賭けてまでの事には成らない筈です。
資料や趣意書などを具に調べると、其処にはその行動は「具体的信念」に基づいたものであり、其処には、「人間性の発露」が観られ、要約すれば”社会における部曲のあるべき姿”に疑問を抱き、”変革しなければ国の行く末は暗い”と考えての行動で有った事が云えます。
まして、豪商等が「商いの利益」の為に支援したのであれば100年など続きません。
動乱を100年も続けるには、其処には「豪商の理念」が存在していて、その「理念の実現」に経済的支援をした事を物語ります。
100年とも成れば、その経済的な支援額は彼等の生活を保護する事にも成りますので、天文学的な額に成る事は必定です。更に100年とも成れば、指導する人もされる人も3代も変わる事に成ります。
途中で頓挫する事も充分に有り得ます。しかし、続けたのです。これは「理念」の何物でもありません。
然し、歴史書の通説では「騒乱動乱」や「反発一揆」として「為政者側の言い分」をそのままに決め付けられています。(通説はこのパターンが大変多い事に注意)
然し、「騒乱動乱」と決め付けられても「2つの血縁青木氏」は歴史的に歴然として明確に「2足の草鞋策」を以って支援したのです。
特に「伊勢一揆や暴動」は上記した「4つのシンジケート網」を使って「戦術戦略」を指導し彼等の安全を護り、加納氏の「加納屋」と供に「青木長兵衛の紙問屋」は支援していた事が判っています。
(大きいもので6つ程度の事件が起こっている)

この事は”何を意味するのか”であります。
「3つの発祥源」の立場もある事も然ることながら、「家訓10訓」の「長」としての戒めを「為政者側」に着く事をせずに忠実に「戒めの真意」を悟っていた事を意味するのです。
上記した「時流」に押し流される事無く、冷静に「英知」を働かせたと同じく、ここでもその「英知」を働かせ本来あるべき「百姓」「部曲」の「社会に於けるあるべき正しい姿」を追い求めて支援した事を意味するのです。「利益追従」であれば「為政者」側に着く事が最大の効果を発揮します。
しかし、「郡司」と同じく「2つの血縁青木氏」は「為政者側」に居ながら「部曲側」にも居たのです。
上記した「陰の力」の「4つのシンジケート網」を使えば少なくとも「為政者側の無謀な行動」を抑える事は可能であった筈で、後は「経済的支援」を図る事で彼等を護る事が出来た筈なのです。
部曲の「組織化の要求」を実現させられるかは、革命を起さない限りその「決定権」は「為政者側」にあり、この点に対する青木氏には「決定力」は無くその「影響力」も無かったのです。
ここが「弱点」でもあり「青木氏の立ち位置」でもあったのです。
上記した「4つの社会的拘束」を開放し「組織化の要求」を実現するには其処に矛盾があったのです。
為政者側にとって観れば、「組織化の要求」だけを認める事は上記の「4つの社会的拘束」の秩序を崩壊させる事に成るからであります。
この事は「氏家制度」と「封建社会」や「身分家柄制度」等の「社会秩序」を変える事を意味するからです。
「部民の開放」はしたけれど「部曲の開放」までも認める事は「社会秩序の崩壊」と成るからであったのです。
果たして「4つの青木氏」は”この「時流」に正しく載り得ていたのか”の疑問と成ります。
平安期を経由して鎌倉期-室町期の「時流」は、「荘園時代-群雄割拠-下克上-戦国時代」の乱れた社会の中では、武家社会の「氏家制度の変異期・経過期間」であったのです。ですから本来であればこの「時流」は少なくともその「理念の根底」は「氏家制度の互助精神」であった筈です。
しかし、それは「武家」のみに対する「互助精神」であって「部民-部曲」のものではなかったものです。
それ故、其処に「品部」による上記した「姓氏の経緯」が起こった為にこの「社会構造」に矛盾が芽生えたのです。それは当然に「姓氏の経緯」が起これば必然的に「部曲の経緯」も起こる筈です。
しかし、偏向的に「武家社会の互助精神」はこれを許さなかったのです。大きな不平等な矛盾です。
そこで問題が起こったのですから、「時流」としては”「部曲の経緯」も認めるべきだ。”が社会の中に渦巻き始めたのではないでしょうか。
趣意書以外に確固たる確定する資料記録を見つける事は出来ませんが、「部曲の暴動」が「品部の開放」の経緯の期間中で現実に史実として連続して各地で起こっている訳ですから、この「時流」は渦巻いた事は確かなのです。
そして、この渦巻く現象を観て、「4つの青木氏」は「青木氏の理念・家訓」から”そうあるべきだ。それが正しいあるべき「時流」だ”と考えたのではないでしょうか。そして、”「4つの社会的拘束」は最早何らかの形で解くべき時代だ”と主張したのです。
しかし、それは100年も続く戦いと成ったのです。この「時流」は「時流」で正しかったのです。
この、”「4つの社会的拘束」は最早何らかの形で解くべき時代だ”の「流れ」は、最終的には、薩摩、土佐、長州に依る「明治維新」の「時流」に繋がって成功するのです。
しかし、その後「4つの社会的拘束」の社会は急激には変化を遂げられず、「2つの青木氏」と別に加わった伊勢の豪族の加納氏等の「2足の草鞋族」は、明治1-9年の近隣県を巻き込んだ「伊勢一揆」(櫛田川-真壁-小瀬-伊勢暴動 他3件)まで続ける事になり、遂にその「理念の暁」を見る事が出来たのです。
「2つの血縁青木氏」の観た「時流」は矢張り間違いなく「時流」であったのです。
(加納氏は吉宗の育ての親 紀州藩の家老 2つの伊勢青木氏と血縁)

「時流」
では、一体その”「時流」とは何なのか 「質的」なものは何なのか”と成りますが、筆者は”仏教が説く「三相の理」である。”と観るのです。
つまり、”「時、人、場所」の要素を複合的に一つにした形の流れ”を云うのだと考えているのです。
それには「時」の要素が強い場合、「人」、「場所」の要素が特質して強い場合があるが、それを見誤ること無く、事の「質と状況」を「見抜く力」が「長」には要求されたのです。
これ即ち「青木氏の家訓」の教えであります。故に青木氏は「時流」と見て利害を超え理念を信じ執拗に援護したのです。

さて話は戻してもう少し「時流の中味」を論じておきます。
その時代に起こる「時流」の「顕著な現れ」にはこの「3つの要素(3相)」が必ず持っているのです。
「部民の組織化」に対比して「部曲の組織化」は歴史の記録に載らないまでも明確になっていない地方動乱は数え切れません。ところが、通説では”単発的な一揆 不満の爆発”と云う形でしか論じられていないのです。平安期中期から底流に「時流」としての「部曲の組織化運動」が澱みなく流れていたのです。
中には甲斐の最長150年間も続いた百姓(おおみたから 商人・職人・下級武士の事)の「組織化した動乱」もあった位のものなのです。各地では短いものでも5年、長くて20-50年というものもありました。
この「150年動乱」と成ると最早一揆ではなく武田家の「偏狭・山岳の武士団」(武川12衆など)が参加する「政治体制」に対する反発の完全な「組織化集団」でした。
この「150年動乱」は「部曲」から「下級武士」まで「全ての身分の人」が参加する「人」の要素が大きく働いたもので、下地には「生活の困窮」などの事がありますが、この「時流」は「人」の「本来有るべき姿」即ち”人は皆等しく同じ扱いを受けるべし”とする理念を押し通そうとしたもので、この”特定階級に牛耳られる社会への反発”であったのです。
現在の完全な「平等論」とまで行かずとも、「身分制度」の社会の中でも最低限の「人としての扱いの等しさ」の「時流」は、この平安期から既に「明治維新」までの「流れの動き」の中に起こっていたのです。
上記した平安期中期の「男女の法」、「五色の賤」、「良賤の制」の「3つの身分法」の例に観られる様に、「天皇」から始まり「奴婢」の者までの幅広い階層に、その「人としての扱いの偏重」が余りにも大き過ぎたと考えられます。
これは根底に「仏教の教え」に影響していたのです。法然や親鸞の資料を観ると、この事に悩んだ事が書かれています。
特に「親鸞の悩み」は、庶民の中に入り余計に矛盾を感じて、その結果の彼の激しい遍歴を観ると判ります。
「宗教論争」で有名な法然、最澄、空海の3人による「密教論争」からも「密教の有るべき姿」の論争は、反して云えば「人の等しさ」を論じていることを意味します。
平安期から既に論争に成っていた事を物語ります。
”社会全体の体制の否定”ではなく、これを”もう少し緩やかにすべし”とする主張で有ったのです。
それの証拠に前回に論じた荘園制のところで「後三条天皇・後白河院」の頃に掛けてこの「身分法の見直し」が現実に危険を顧みずこの2人の天皇の決断で行われるのです。
「荘園制の行き過ぎ」に因ってこの問題が露見しそれに連動して1070年頃までに掛けて「法的修正」が行われています。

その一つが180にも及ぶ「大集団の階層」を持つ「品部の開放」の経緯なのです。
しかし、この時、「百姓」はこれでも納まらず「部曲の開放」「商職人の開放」「下級武士の開放」と次第に「全体の階層の偏り」(3つの開放/4つの開放)の修正も要求して行くのです。

(注意 「百姓」とは「おおみたから」と呼称され、その字の如く「百」は「全ての意」と「姓」の「民の意」から「全ての民」となり、「おおみ」は「百の古代語の意」、「たから」は「宝の意」となり、これも「全ての民」の意味に成り上級侍以上を除く民の事です。
現在の「百姓」とは江戸期の「士農工商」の身分制度から「百姓」は「農」の意味となった。)

(室町期までの「下級武士」とは、「農兵」の大意で「農業と兵」を兼ねた階層を云い、多くは氏姓、苗字、家紋等を持っていなかったのです。「甲斐武川12衆」は「氏姓、家紋」も持つ武士ではあったが「農」も兼ねていた「農兵」に近い身分として扱われていた。)

「富と扱いに対する不満」
これも「富と扱いに対する不満」の対象で弱者が集団化して子孫を護り対抗しょうとした現れです。
この様に鎌倉期から室町期末期まで「・・・衆」が全国的に拡大したのは「富と扱いに対する不満」の「流れ」を引き起こし始めた一つの現われなのです。
通説の様に、”「戦乱の世に身を護るだけの目的」”では無く、「富と扱いに対する不満」の表現であったのです。むしろ、「150年」も続いた「甲斐の騒乱」でも判る様に、甲斐の中での事であり他国から攻められてて「身を護るだけの目的」の必要性は無く、、「富と扱いに対する不満」の「150年間の表現」であったのです。
ですから各地の騒乱は長く50-100年というものが多かったのです。150年は例外ではないのです。
ただ、江戸期のものとは「時代」が「流れ」が進行して進化して年数は短くなる傾向にあって、その分「身を護るだけの目的」の必要性は無く成っている訳ですから、「富と扱いに対する不満」が増大し全てこの傾向にあったのです。この「流れ」の傾向が留まらずに結局は明治維新に繋がったと云う事に成るのです。

江戸期の時流=「身を護るだけの目的」→「富と扱いに対する不満」→(3つの開放)

「時流」=「身を護るだけの目的」+「富と扱いに対する不満」(平安期)→「身を護るだけの目的」(室町期)→「富と扱いに対する不満」(江戸期)→「明治維新」

鎌倉期から江戸初期までの集団化の形の一つの「・・・衆」を状況証拠から調べると、「身を護るだけの目的」よりは「富と扱いに対する不満」の方が8割を占めているのです。ただ室町期末期の「・・・衆」は「富と扱いに対する不満」は少ない事が認められますが、元々この時期の「・・・衆」の結束は最早事が遅く、数的には少ないのです。
上記する数式の武士階級の「身を護るだけの目的」の組織化に連動して、「氏や姓」を構成しない「農民-職人-商人」も集団を結成して、この2つが合体して「富と扱いに対する不満」のみのものとして主張した「時流」だったのです。

これを解決しようとしたのが江戸時代初期の身分制度「士農工商」なのであって、上記する「下級武士」(農兵)は「苗字、家紋、帯刀」の保持を正式に許されて、「武士」として正式に扱われて「家臣」として引き上げられたのです。身分が定められた結果、生活もある程度の範囲で確保され、その不満は解消されて行きます。
1 「品部の開放」(平安期末期)
2 「下級武士の安定化」(江戸期初期)
以下4つの内の2つが解決された訳です。

「品部の開放」
「部曲の開放」
「商職人の開放」
「下級武士の開放」

然し、百姓等の「富と扱いに対する不満」は結局は江戸に成っても解消されなかったのです。
(上記2に依って農兵は解消され江戸初期に多くの「家紋と苗字」が生まれた)

これを成したのが「明治維新」であり、「百姓問題」と「富と扱いに対する不満」」を解決し、且つ、一挙に「武」も解体したのです。平安中期から明治維新とすると凡そ「1000年の悲願」であった事が云えます。

「明治維新」は兎も角として、この「中間の経過処置」として、豊臣秀吉は、「兵農分離制度」を敷き、この「農兵制度」を禁止します。
然し、この禁止の目的は開放ではなく、「農兵」の主張を叶えたのではなく、「禁止する事」に依って各大名の勢力を削ぎ、「常設兵力」の削減と大名の「経済的な負担」を高めさせて弱体化を図ったのです。
然し、これも現実には殆ど護られず、「農民の命」を賭けた高額な「現金収入」が無くなる事に成ります。
むしろ、当然の結果として「陰の農兵制度」が生まれたのです。
この「陰の農兵制度」では、「農兵」を登録し集めて臨時に集団化して、終われば解体するシステムが陰で構築されて行くのです。それを職業とする集団や土豪が各地に生まれたのです。(雑賀族、根来族、柳生族、伊賀族、甲賀族、・・・)
そして、この一躍を担ったのが上記した青木氏の様な「2足の草鞋策」を敷く各地の豪商と繋がるシンジケートなのです。
本来は「戦いの負けた武士団の就職先」の様な「陰の集団」であったものに「農兵の臨時集団」が加わり更に拡大して行きます。
「2つの血縁青木氏」はこの「農兵の臨時集団の役目」と、「富と扱いに対する不満」とを結合させて「シンジケート」と云う手段を「時流」の上に載せたのです。

「敗戦の武士団の就職先」+「農兵の臨時集団の役目」=「シンジケート」(室町末期-江戸初期前)

現実の「農兵、農民の集団」に、別の「農兵の臨時集団」とを連結させ、これに「下級武士の集団」
と、「2足の草鞋策の殖産」と繋がる「職人商人の集団」の「4つの集団化」を促し、「時流」を更に勢いを付けさせて押し流そうとした「2つの賜姓青木氏」「2つの血縁青木氏」の「戦略」で有ったのです。
他氏の資料まで研究は及んでいないので正確には判りませんが、下記の数式の「4つの集団化」を成し遂げられる勢力図を持ち得ていて「シンジケート」を構築していたのは「2つの血縁青木氏」以外には無かったのではないかと考えられます。
それは「2足の草鞋策」を敷きその必要性から多少の「シンジケート」を持ち得ていた事は他の資料からも観られる事ですので否定はしません。然し、下記にも示す勢力(石高5万石)を有する「2足の草鞋策」の他氏とも成ると数的にも多くありませんし、青木氏の様に「3つの発祥源」程度の「社会的立場」を持つ武家とも成ると10本の指に入る程度でしょう。
その中でも、「陰の力」「シンジケート」に入る彼等の集団にとって観れば、「氏姓」を構成し「武士」である限りは「陰」とは云え、其処には「こころの支え」としての「大儀」が必要です。
「皇祖神と祖先真の神明社」と「3つの発祥源」の「2つの賜姓青木氏」が行う「富と扱いに対する不満」”下記で論じる「緩やかな富の分配」と「緩やかな人間の扱い」に挑戦する姿勢を観て、これに協力する事は彼等の最大の「大儀」と成ります。
故に平安期から明治期まで彼等はこの「2つの賜姓青木氏」が管理運営する「シンジケート」に加担していたのです。極端に云えば”「錦の御旗」を得た”とも思っていたのではないでしょうか。
この様な「大儀」を保持出来る得る「氏」ともなれば、「2つの賜姓族」の「2つの血縁青木氏」以外にはありません。
(故に同族縁戚の蒲生氏郷も徳川家康も「2つの賜姓青木氏」を上座に上げるほどに崇め擁護したのです。家柄身分が高い云うだけではなかったのです)

「農兵、農民の集団」+「農兵の臨時集団」+「下級武士の集団」+「職人商人の集団」=「4つの集団化」

「甲斐の騒乱」には源光の賜姓族青木氏が関わっていた資料は確認出来なません。甲斐の源光の賜姓青木氏の力が「甲斐の騒乱」を後押しするだけの勢力は無かったのです。
然し、無冠無位の皇族青木氏の時光系青木氏も困窮に喘ぎ農兵に近い状態であった「武川12衆」として自ら関わっていた事が資料からも判っています。

実は「甲斐の青木氏」に付いては、これまた通説には不思議に載らない甲斐らしい「複雑な問題」を持っていたのです。
甲斐青木氏は「青木蔵人別当」の冠位官職を持つ清和源氏 「源の源光」の「青木氏」が主流で、賜姓族に相当し、兄の時光系は無冠無位であったので武田氏の中では低く扱われたのです。
その石高も系譜添書より観ると、200-250石程度でありました。農業をしながら山間部に追い遣られ住まうと云う「極貧の生活」であったのです。”華やかに甲斐の青木氏の名家”と通説では囃し立てられていますが、これも武田氏の特質の資料に惑わされて信じて、通説は「源光の青木氏」と「時光の青木氏」と判別出来ていないのです。武田氏が書く嘘の多い資料をベースにして通説が造り上げられていて全く異なっています。
この虚偽の通説には留まらず、更には青木氏を名乗りながらも、且つ南北朝で山口や高知に逃げた貴族の公家一条氏をも”母方氏だ”として名乗ると云う家柄身分の搾取も公然として名乗られているのです。公然とした矛盾1です。それでいて山間部で農業をしていた「武川12衆」とて供に150年の「甲斐の騒乱」に加わっているのです。これも公然とした矛盾2なのです。
まだあるのです。上記した源光系賜姓甲斐青木氏は国府付近南に定住し本流として甲斐賜姓青木氏の子孫を拡大させているのに、兄の時光は弟の役職を使い「無位無官の青木氏」を勝手に届ける事も無く名乗っているのです。これも公然とした矛盾3なのです。
この様に下記にそれに必要とする勢力2.5万石等は到底無く、「後押しするだけの勢力」は時光系青木氏には元来から当然に無かったのです。
常光寺や源空寺や松源寺などの簡単な菩提寺を作りましたが、長く持たず室町末期には直ぐに維持に耐えられず荒廃し廃寺と成ってしまうのです。
(時光の子の常光が親との争いで獲得した常光寺は養子一族の青木氏が曹洞宗の力を借りて再建して維持した)
「富と扱いに対する不満」を実現させる為に「シンジケート」と云う手段の「時流」の上に載せるどころか自らが「時流」の中に入ってしまっている「自滅状態」であったのです。巻き込まれている状況です。

美濃の資料からは賜姓青木氏は出てくる事もなく、衰退していて「殖産と美濃和紙との関係」から僅かに資料に残る程度と成っています。(女子供の末裔は隣の桑名や員弁の伊勢青木氏の居留地に逃げ込んだ可能性が高い (ただ一つ「伊川津7党の青木氏」がある完全滅亡した土岐氏系青木氏か)
その分美濃は前回信長のところで論じた様に特別賜姓族の5つの秀郷流青木氏の独壇場です。ほぼ入間の「第2の宗家」の援護を受けて5万石程度の綜合勢力を以って一致結束して何とか「富と扱いに対する不満」を実現させ様として働きます。それだけに一揆などは国内で最も多かった地域でもあります。それ故に美濃から駿河の5つの秀郷流青木氏は地元の信任を得て大地主として明治期までその勢力維持させたのです。

近江も「近江和紙」で資料に出てくる程度の勢力であり甲斐との生活はほぼ同じですが、一時一族挙って滋賀に移動定住するなどして、再び近江に戻り、更には摂津に移動定住するという移動の遍歴を繰り返します。これは「源平の美濃の戦い」に源氏と供に参加して敗れ「完全滅亡の憂き目」を受けた事が原因しています。「完全滅亡の憂き目」から美濃と近江は「和紙の殖産」を通じて伊勢青木氏や信濃青木氏は賜姓族として何らかの血縁を通じて生き延びさせようとしたと観られます。(添書には美濃や近江の地域を示すものがある)

前回より論じている青木氏と源氏の歴史の歩調論が異なる事を論じましたが、その歩調の違う源氏と一時の判断ミスにより合わしてしまった事が大きなミスであります。
前回織田氏のところで論じた近江源氏滅亡後に伊勢-信濃の「2つの血縁青木氏」の援護(殖産和紙で支流援護)を受けながら何とか「完全滅亡」を避けられ、賜姓族ではなくて再び「和紙と殖産」の範囲で末裔を広げたのです。
(伊勢秀郷流青木氏は近江の日野の秀郷流蒲生氏の跡目が入っていて近江青木氏とは無関係でない)

下記に数式から解析している様に、伊勢-信濃の「2つの血縁青木氏」の綜合勢力は10-12万石を有する勢力を保持していますから、近江+美濃+甲斐の賜姓青木氏を援護し「殖産和紙」で支える勢力は充分にあり、「シンジケート」で護り「商いの利益」を補填すれば子孫を拡大させられる事は容易でったのです。武蔵入間の「第2の宗家」の支援を受けて、特に近江-美濃は秀郷一門の大居留地でありますのでその末裔を遺してきます。

信濃-伊勢間の一揆には「2つの血縁賜姓青木氏」はこの「4つの集団」との関係を保ちシンジケートを使って援護したのです。凡そ、この「時流」の初期の頃平安末期から観ると700年程度援護した事に成ります。
この年数から判る様に「氏」として25代以上援護している訳ですから、これは「理念の何物」でもありません。
「2つの血縁青木氏」は、、「3つの発祥源」の氏で有りながらも、片方ではほぼ近代の「平等主義」を意味する「富と扱いに対する不満」を援護すると云う一見して相矛盾する行動をとって来た事を意味します。
恐らくは、「平等主義」と云うよりは、”もっと「公平」とまで行かなくても「緩やかな富の分配」と「緩やかな人間の扱い」を求める”と云うものであったと観られます。”「体制破壊」までの考えは無かった”と観られます。
果たして、天智天皇や村上天皇はこの様に成るとは考えても居なかった筈です。
然し、天皇側にしてみれば3つの発祥源」の末裔であり潰す事は望んでいなかった筈です。しかし、源氏が”親の心子知らず”で独走してしまって「事の流れ」最早止める事も出来ずに11代も続いた賜姓源氏は滅亡の道を辿ります。
この源氏滅亡でも判る様に、「農兵、農民の集団」+「農兵の臨時集団」+「下級武士の集団」+「職人商人の集団」=「4つの集団化」=「時流」の数式を構築する努力をしなかったからなのです。
「3つの発祥源」の立場を護り子孫を生き延びさせるには「時流」を観て行動する以外にはそもそもなかったのです。これが「正しい青木氏に課せられた姿」であったのです。
決して、”「時流」に迎合する。利益を挙げる”と云う事では無いのです。
もしそうだとしたら、「時流」に載る事だけすれば。、最もリスクの少ない商いである筈で、「時流」に載り、、「時流」を支え、「時流」を押し上げ、「時流」を護るところまでする事は、余りにリスクが大きすぎ危険であり、且つ、経済的負担は「商いの利益の範疇」を超え母体そのものが持たない事に成っていた筈です。
700年も続ければ、幾ら「陰の力のシンジケート」を持っていたとしても、「体制側からの潰し」が働き、場合に依っては「直接の戦い」ともなり得た事もあった筈です。

(「楠木正成の戦い」(半間接)と「天正の3乱」(直接)と「伊勢大社移転反対運動」(直接)以外は記録から発見出来ない。)
然し、一揆に類するものとして古い記録の確認が出来ないが、各種の関係する添書類などの状況判断からすれば、「4つの集団化」=「時流」は「陰の力」に留めた全て「間接的な行動」であったと観られます。
”「緩やかな富の分配」と「緩やかな人間の扱い」を求める”であったから、「陰の力」に対する攻撃戦いは無かったと考えられます。
まして、一方ではその「陰の力」のシンジケートを使って同じ程度以上に”「殖産」を促進させる”と云う逆の行動もあったのですから、体制側からの直接攻撃は論理的に無い事も考えられます。
当時の体制側にとっても敗残兵の俘囚現象は好ましくなく、「4つの集団化」=「時流」は利益の上がることであり、「陰の力」は社会としての規制の事実とし承知した「救済手段」でもあったのですから、否定する事は不可能であった事に成ります。
もし、この「陰の力」を否定するとなれば、社会に3/4に相当するの「多くの難民・俘囚民」が生まれ、「国の崩壊」にまで繋がる国難と成って居た筈です。どの面から考えても有り得ない攻撃であったことに成ります。
筆者はむしろ、表彰される位の立場に置かれていたと考えています。
それを物語るものとして何度も記述してきましたが、伊勢3乱の「蒲生氏郷」からの特別厚遇や家康の次男頼宣との直接面接と300年間の親交、吉宗の「享保の改革」や「紀州藩の財政建て直し」に家臣ではない青木氏が請われて関わる事等は無かった筈です。
然し、一つ間違えば逆に成る事も有り得て「事の大儀」を無くし、かなり「難しい立場の操作」が必要であったと観られます。それだけに歴史を通して「長」の「有るべき姿と資質」を「家訓10訓」で青木氏に求めたと観られます。その「家訓10訓」の理念を守り通す力と成ったのが「祖先神」であり「神明社」であったのです。「陰の力」でありながらも「4つの集団化」=「時流」はこの「祖先神」・「神明社」の理念に護られていたのです。いわずもがな「賜姓源氏」と違うところであります。
”三相に依って時代時流の良悪は異なる”ので、[良悪]ではなく「利益」を追い求めた賜姓源氏と「人間の理念」を追い求めた「青木氏との差」によります。

(参考 後に武田氏が滅んだ時、現地の戦後処理の指揮官の家康は、この「山岳武士団」を武蔵国鉢形と八王子に移住させて解決します。この中に武田氏系皇族青木氏の支流一族が含まれます。
逆に、この事で武蔵領国の秀郷流青木氏とこの武田氏系皇族青木氏との「融合青木氏」がこの地域で発祥しています。 甲斐-武蔵の国境と下野-常陸-磐城の国境に発祥)

しかし、この様な厳しい状況の中でも、この様に着実に「融合」は進んで行きますが、実はこの百姓(商人・職人・下級武士等)の「組織化」が明治期まで「姓氏化」には進まなかったのです。(「部民」は集団化・組織化・姓氏化であった。)

この各地で開放された「部民集団」の「集団化」→「姓氏化」を起こるのを観て、「百姓集団」は「氏家制度」の中では「反体制の組織」となる為に「姓氏化」は起こらず衰退します。
これはその「集団化」が起こるには「経済的背景」が低かった事が原因しています。
体制側にとっては「経済的潤い」を常時獲得する事は好ましいことではない事から「政治的」に故意に低くさせられていた事の方が正しいと考えられます。
「部民集団」の「集団化」→「姓氏化」には「殖産物造り」と云う「経済活動」が背景にあり、その「経済活動の底流」に存在する事が、これが豪商等との繋がりを強く生み動乱を通じて「姓氏化」の融合が起こったのです。
しかし、この事から学習した「百姓の集団化」は室町期から明治期に掛けて豪商等の「経済的援護」と「シンジケート勢力」の2つを得て再び盛り返します。

ここで「百姓の集団化」と異なるのは、一方の「品部」の「姓族」が「姓氏化(集団化)」したのは、上記した「荘園の問題」が主因で有ります。898-923年の「身分の開放策」に依って「部組織」から「改めて職能集団」としての「組織化」を成し、繋がりのある豪商等の「経済的援護」に基づき、それが更に複合的に「姓氏化」→「融合氏化」へと繋がったのです。
この点が異なっているのです。つまり「部民の集団化」には「融合のサイクル」を興したのです。

つまり、この「2つの集団の融合化」の違いは次ぎの有無が異なりました。
第1は集団化の経緯の中での「身分の開放」の有無が大きく左右したのです。
第2は援護関係に「豪商とシンジケート」の有無が左右したのです。
これが江戸期までの「農と工商」の「自由性の違い」に繋がったのです。

そこで部民に付いて、家紋等から確認できる範囲として、この事(「組織化・集団化」)に依って興った青木氏は大別すると次ぎの様に成ります。
A 「宮大工の青木氏」(氏)
B 「仏具・彫物、襖絵・天井絵・仏画・絵画の青木氏」(氏・姓氏)
C 「紙殖産の青木氏」(姓氏)
以上の青木氏にかかわる職能集団の「絆融合」による「氏・姓氏」が現在も確認されて居ます。

これは「皇族賜姓青木氏」と「藤原秀郷流青木氏」の2氏が独自の「氏神」と「氏寺」を有する事を許され、「浄土密教宗」であった事から、「独自の氏」から「宮司、住職」を出して運営していたことに始まります。
その配下の職人を職能の跡継ぎとして指名し「青木氏」の「氏名」を与えたのです。(姓氏ではない。)
多くは「氏名」を与えるだけではなくて、正式に[別家養子縁組]をして一族の氏の中に取り入れたのです。
その為、「神社仏閣」の建設や彫り物、仏像等の内部の装飾品の類一切までを伝統的に保全する必要性が求められました。そこで自らの神社・寺社の青木氏に関わる集団が結束して(5家5流賜姓族、藤原秀郷流青木氏24地方)これ等の「職能者」を養成する為に「経済的援助」をし、その職能を継承する首魁には伝統ある「青木氏」を名乗らせ「4つの青木氏」の「氏の集団」に組み込んだのです。
(別家の養子縁組が基本であった模様 中には青木氏縁者娘と血縁させる事もあった。)。

上記した「品部の職能集団」による「姓氏」とは別に、青木氏には祖先神の「氏の神社」、密教の「氏の寺社」関係から、保全・管理・運営の為に独自の職能集団を抱えていた。この為にこれらは「物造りの神」でもある「祖先神」であるが為に「姓」ではなく氏上の「氏」を名乗ったのです。

「品部」の職能集団→「姓氏」→「融合氏」
「青木氏」の職能集団→(別家養子縁組・氏)→「融合氏」

つまり、上記した長い1000年以上に及ぶ他氏には決して観られない「祖先神の独自の考え方」に依って築かれた「歴史的な絆」があるからこそ生まれた「無血縁の絆結合」の青木氏の一つなのです。
この様に「祖先神の神明社の存在」が「4つの青木氏」の根幹に成っていて、「絆」を作り上げる強い「接着剤的働き」を果たし、「より良い融合」が興り生き残りを果たせたのです。
その「より良い融合の発展」は何と「4つの青木氏」同士の「融合青木氏」をも生み出すところまで発展したのです。
高位の身分家柄を持ちながらもこれを守る中で、これに拘ることなく更なる「融合」を果たしたのです。
これは全て「4つの青木氏」のみが持つ「祖先神の考え方」に由来するのです。
その「祖先神」の教義が「殖産・物造り」に基づいている事のそのものが、「4つの青木氏」の中で接着剤・潤滑済として働き、更なる発展を遂げたのです。
結局はその「4つの青木氏」の「集約する拠り所」は「祖先神」を祭祀する「神明社」にあったのです。
そして、更にはその「神明社」が「皇祖神」の「伊勢神宮」に直接に繋がっている事が「衰退することの無い推進力」を生み出していたのです。

「神明社」+「皇祖神」=「推進力」

(部の氏の類に付いては研究室に詳細レポート)
この外に、「2足の草鞋策」として「物造り」を「殖産」して、それを販売し商いとする為に、上記の同じ根拠で職人を養成してその者には「青木氏」を与えたとする記録も残っていて、特に先ず「古代和紙」から発祥した青木氏が確認できます。これも「無血縁の絆結合」の一つです。
これ等の「職能に関わる青木氏」は室町初期と江戸初期に多くが発祥しています。
何れの時代も「紙文化」が発展した時期であります。

「紙文化」+「殖産物造り」=「無血縁の絆結合・職能青木氏」

記録では、「神明社、氏神、氏寺」の「建設と保全」の為に必要とするこれらの青木氏の配下にある職能集団が、伊勢や信濃から陸奥や越後にまで「青木氏の神職・住職」と共に出かけて定住もしています。
(皇族系のこの様な「特定の民」を「民部」と云う)
各地の「天領地」にある「神明社」を含む神社仏閣の「建設・保全の職能集団」が「青木氏の配下」にあったのです。
この「職能集団の青木氏」の優秀な若い中心と成る配下等も、その集団の首魁から宗家の許可を得て「別家養子縁組」をさせて「青木氏」の襲名を許し名乗らせた事が記録されています。(孫襲名にまで)
氏上宗家筋の娘との縁組血縁と成ったその頂点にいる職能の頭領「大首魁の青木氏」が更に信頼できる配下にも「別家養子縁組」を行い、一つの職能によるピラミッド型の「青木氏の集団化」が興ったのです。
「添書や忘備禄」などから具に調べ辿ると、氏上宗家筋の遠縁の縁者からも娘を探し出して一度宗家筋に養子とし入れた後に、首魁・頭領に嫁がせて血縁関係を築き青木氏を襲名させる努力をしています。

(これ等の子孫の方からのお便りも「ルーツ掲示板」には多く寄せられています。 筆者の家にも職能による3氏の「別家養子縁組」の青木氏を承知し、宗家筋よりむしろ多く子孫を遺している 現在、筆者の家を本家と発言している。)

添書から辿ると「孫襲名」までの確認は何とか出来るのですが、恐らくは、曾孫・夜叉孫までも職能による「青木氏襲名」は興っていたと考えられます。

ここが他氏と大いに異なるところであります。
これは青木氏の排他的な「氏神・氏寺」と「祖先神」の考えに基づく「神明社」にあり、「氏神の管理保全」や「紙の殖産」の「職能集団」を保持していた事が長い歴史の間には極めて「強い絆」で結ばれた「4つの青木氏」が構築された得たのです。血縁以上のものがあったのではないかと考えられます。

何度か記述しましたが、因みに例として、青木氏の「表の規模(勢力)」に付いて、次ぎの通りです。
他の青木氏に付いては個人情報の領域に入りますので、筆者の伊勢松阪の紙問屋で見て観ます。
伊勢青木氏の「表の規模(勢力)」
250名の店子と、玉城町の8割を占める蔵群、2つの寺と1つの神社所有、3隻の大船、松阪、堺、攝津に5つの大店、5つの城館、装飾職人、専属の宮大工、紙職人等を有し、運送職人、保養地、これ等の職人・店子の住居群が玉城町にあって、これ等に全て各種の店子・職人が付いていたことが明治35年までの記録と口伝と祖父からの伝聞とで存在していた事が確認出来ます。また、松阪、名張、四日市、員弁、桑名の線上には一族一門が地主として青木村の居を構えていた事が判っています。
恐らくは商いに伴なう支店や大地主で土地管理などの施設があったものと考えられます。

伊勢賜姓青木氏の勢力の経緯
当初は平安期初期に56万石程度、寺社領で51万石 中期には北部伊賀割譲で41万石、名張西部域割譲で39万石 末期には志摩領割譲で37万石 伊勢東部長島地方割譲で19万石、室町期には伊勢南部地方割譲で8万石、他秀郷一門伊藤氏等の所領の割譲で5万石、と変化して行きます。合わせて51万石割譲と成っているので、江戸期初期には最終5から6万石弱が伊勢賜姓青木氏の石高・支配地と成り、大地主として活躍、明治7-9年の地租改正で2割程度に縮小、明治35年には「松阪の大火」の出火元として上記の資産権利等全財産の売却で賠償し解散、大店倒産 新宮の許容地のみと成った。
伊勢秀郷流青木氏は蒲生氏郷の跡目にて15万石の内12万石が氏郷支配下に成っている事から実質3万石程度有していた模様です。(2足の草鞋策の「経済的利益」と「シンジケートの力」は除く)
(徳川氏は伊勢賜姓青木氏が遣って行けるぎりぎりの石高を選んで決めたと観られる。)

「調査要素の項目」
(地主、豪商、郷氏、豪農、庄屋、名主の存在 系譜の添書、菩提寺の有無、神明社の数、鎮守神の数、城館、城郭寺、地名、家紋種、資料記録から調査 各地域性でその調査の項目が異なる 所有する資料は以上の項目毎で下記数式の条件を加味してそれを1として石高を割り出した 非公表の添書にも家臣としての石高は記述照合して判定 )

明治以降の履歴は兎も角として、この一つの例からも伊勢を含む5家5流の賜姓族青木氏と24地域の特別賜姓族の「2つの血縁青木氏」に就いても「添書や資料」を解析すると読み解く事が出来ても、、5家5流は天領地でありますので天皇家の室町期から江戸期に掛けての困窮状況から観て、少なくとも同じ割譲状況が大小起こっていた筈です。

信濃と甲斐は豪族足利氏と豪族武田氏が存在していましたので、添書や資料・記録では青木氏の勢力を読み取れませんが、1-2万石程度の融資産で有った模様です。

美濃と近江は源氏側に合力して「平族との戦い」で滅亡に近い勢力低下が起こりましたので、正味0.1から0.5万石程度のものであったと観られます。
特に美濃は激しい「源平の戦い」の場と成った事で(土岐氏の滅亡等が興った事で)賜姓族の石高は無いに等しいか低かった模様で、「大地主の青木氏」を確認する事は難しいのです。
この後、この地で勢力を高めた秀郷流青木氏が美濃の地盤を固めました。
美濃と駿河西域には主要5氏の系列の「5つの秀郷流青木氏」が住み分けています。
(然し、「2足の草鞋策」を採用していない青木氏も居て判定は難しい。採用していれば5氏の総合を1と見なす事が出来るが2氏が確実 豪商の家紋から判定可)
これ等の石高が(0.1)-0.5万石(1氏分)と観られます。当然、この程度の構成で存在していたのです。
5家5流近隣の秀郷流青木氏と24地域の秀郷流青木氏(116氏にも及んでいることから不明)も細分化していて判断が難しいが、判る範囲の歴史の史実として残っている秀郷一門の「豪族の石高」から観て伊勢秀郷流青木氏のは平均(0.5)-1万石程度の融資産であったと考えられます。

(当時の石高は米だけでは無く海産物などの産物も石高に換算して合わせて土地の石高を表現していた)

上記した様に、つまり、「2つの血縁青木氏」と「2つの絆結合青木氏」とには「首魁青木氏」を通じて結ばれていて「4つの青木氏」が「1つの青木氏」と成り得ていたのです。
これが生残れた団結力の「強い基盤」に成っていたのです。

余談ですが、研究の当初、忘備禄に簡潔に書かれていて何気なく読み過ごしていた事なのですが、調査しているある時、「4つの青木氏」の「系譜添書」に「通名」でない「異質の名」が出てきて疑問が湧き、ハッと気が付いて忘備禄の意味が判り調べて行く内に繋がり始めて、「職能による孫襲名」まで判明する事に成り、その仕組みを読み解く事が出来たのです。(伝聞では承知 強い意識化は無かった)
そして、これが特別賜姓族青木氏(秀郷流青木氏)にもあり、その「2つの血縁青木氏」を繋ぐ「融合青木氏」が存在する事までが判ったのです。丁度紐を解くように。
この傾向は「賜姓族の血縁関係」と「職能集団」と「和紙の殖産」と「シンジケートの存在」で通じた信濃、近江、甲斐、美濃にもこのシステムが及んでいる事が紐解けたのです。
何れにも其処には「特別賜姓族青木氏」と「融合青木氏」が「伊勢と同条件」で存在している事が判ったのです。
「神明社」+「建設・保全」=「無血縁の絆結合・職能青木氏」

青木氏の官職の一つ永代の「民部上尉・民部上佐」はこれ等の集団の統率者であったのです。
これは「伊勢神宮」の「皇祖神」、「祖先神」の「神明社」を「守護神」とする「融合氏・2つの賜姓族」であった事からこそ「永代民部府」の責任者になったのです。
(伊勢青木氏は他に永代「左兵衛門上佐・上尉」と永代「民部上佐・民部上尉」の官職名を持ってい
ます。其の為に「世襲名」として宗家は「長兵衛」を継承しています。
分家は「右兵衛門」・「次左兵衛門」、支流は「作左衛門」を世襲している。
信濃青木氏には「右兵衛門上佐・上尉」が観られる。同様に特別賜姓族秀郷流青木氏も「左・右兵衛門上佐・上尉」の官職を担っている)

( 注:江戸時代に朝廷の経済的裏づけとして家柄、身分、出自に無関係に一代限りのこれ等の官職名を金品と引き換えに朝廷から名目上の上で名乗る事を許された経緯がある事に注意。後に誰で無許可で使う様に成った。)

遺されている資料・記録の上では初期には次ぎの様な「姓氏」と成った族が確認できます。
阿多倍一族一門の品部の「姓族」
「九州地方」では「鍛冶族」「佐伯族」(和歌山に一部移る)
「中国関西地方」では「海部族」「陶族」「武部族」
「関東中部地方」では「服部族」「磯部族」
「関西地方」では「秦族」、「司馬族」、「土師族{設楽氏}」、「鍛冶族」、「綾部族」

以上等が早く平安期末期頃に遺された資料で「姓氏」として勢力を持った事が判ります。実際は記録で確認できない為に判断が付きませんが「小さい姓族」としては存在していたと観られます。

鉄鋼関係、海産物関係、衣料関係、食器関係の「姓族」が記録として残っているところを観ると、矢張り市場性から必需品の関係族に下記した数式条件を持つ大きな勢力が付き「集団化・融合化」が起こっていた事に成ります。
当然に、これ等には青木氏の様に「商い」を「2足の草鞋」としている「融合氏集団」が、「殖産」・「物造り」から来る「産物の安定供給」を目論む背景もあって、それらの後押しで「姓氏化」したものと考えられます。
「品部」が物を生産するだけでは経済力が着きません。販売してそれも大きく商い出来なければ成り立ちません。それには「商いの強力な背景」を持つ必要があり、これを搬送するにもある程度の「武力を持つ強力な背景」の「2つの背景」が絶対条件として「姓化」には必要となります。

「商いの強力な背景」+「武力を持つ強力な背景」=「姓氏化」

「氏族」と異なり単独で「姓氏」を構成する事は「経済的、武力的」に困難です。
恐らく「シンジケート」との繋がりが必要で、これ等を獲得した職能集団が「姓氏化」が出来たものと成ったのです。
「シンジケート」つまり、「氏族」の「2足の草鞋策」と繋がりに成るのです。

「2足の草鞋策と繋がり」+「シンジケートとの繋がり」=「姓氏化」

「姓族」+「氏族」(「2足の草鞋策」)=「姓氏」

ですから、この数式から「姓氏」が発祥している地域が特定できるのです。
「2足の草鞋策」を採った「氏族」を特定すればそこには必ず「姓氏」が存在するのです。
そうなると、平安期からの「氏族」で「2足の草鞋策」で室町期を乗り越えて生き残れた「氏族」と成れば限定されてきます。80-200の氏族の中からこの氏族を特定するのは簡単です。
「2足の草鞋策」には広域の「シンジケート」と「運送運搬」と「適度の武力」を持っているのですから、阿多倍一族一門の「2足の草鞋策」を採った「氏」の発祥している地域には、その配下の「姓氏」が発祥している事に成っているのです。その「姓氏」はその「職能種」に依って「地域性」が強く出ている事に成ります。
「姓氏から地域」、「地域から姓氏」、「姓氏から職能」、「職能から地域」、「地域から歴史」等の判別が可能に成ります。当然に「氏族」との関係もありますが、その「氏族」もほぼ同じ関係性を保持しているのです。
例えば、鍛冶部の様に鉄と水と港の所、綾部の様に染料と水の地域、土師部や陶部であれば良い粘土、と云う風にルーツ探求の判別には雑学として大変重要な要素と成ります。
180と言われる部でそのルーツや歴史や由来など判別が出来ます。
他に瀬戸内から起こった最も早く「姓氏」に成ったとされる「海部氏」が記録上で最初とされるのも「海産物の生活品」のものであったからと考えられます。

「青木氏と関係した部」
この様に「青木氏」で有れば「2つの血縁青木氏」の存在する近隣地域には必ずその特長を持った「姓氏」が発祥しているのです。
工部(くべ) 土木職人・建築職人  ・伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏  
紙梳部(かみすきべ) 紙職人  ・近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の青木氏
楮作部(こうぞべ) 楮職人・素材職人  ・近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の青木氏
土師部(しがらきべ) 素焼職人・土器職人  ・近江、伊勢の青木氏 秀郷流青木氏 
金作部(かねさくべ) 金工職人・金細工職人  ・伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
石作部(いしつくりべ) 石細工職人・造園職人  ・伊勢、信濃の青木氏
玉造部(たまつくりべ) 仏壇仏具職人・装飾職人  ・伊勢、信濃の青木氏
服部(はっとりべ) 職機・機械製作職人・機織機職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
錦織部(にしきごりべ) 錦織職人・錦職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏
倭文部(しどりべ) 文書職人・書物職人・印刷職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
史部(ふみべ) 文書職人・記録保管職人・事務職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
来米部(くめべ・くるめべ) 鉱山開発職人・情報伝達職人  ・伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
綾部(あやべ) 綾編職人・布織職人  ・近江、伊勢の青木氏
馬部・馬飼部(うまべ・まべ) 飼育馬職人・輸送職人  ・伊勢、信濃、甲斐の青木氏 秀郷流青木氏
麻績部(おみべ) 麻布紡績職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
衣縫部(いぬいべ) 衣服縫製職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏
赤染部(あかそめべ) 染色職人  ・近江、伊勢、甲斐の青木氏
茜部(あかねべ) 茜染職人・染色職人  ・近江、伊勢の青木氏
鞍造部(くらつくりべ) 馬鞍造職人・仏像職人・木工細工職人  ・近江、伊勢の青木氏 秀郷流青木氏
弓削部(ゆげべ) 弓製作職人・竹細工職人  ・近江、伊勢、信濃、甲斐の青木氏 秀郷流青木氏
矢作部(やはぎべ) 矢製作職人・竹細工職人  ・近江、伊勢、信濃、甲斐の青木氏 秀郷流青木氏
山部(やまべ) 山林職人・木材職人・山警備職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
鵜飼部(うかいべ) 鵜飼職人  ・近江、信濃の青木氏
舎人部(とねりべ) 付人・秘書・警護人・番頭職・代理人・御用人 ・伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
佐伯部(さえきべ) 警備職人・警備兵・情報職人  ・伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏 
硯部(すずりべ) 硯石製作職人・砥石製作職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏
墨部(すみべ) 墨職人・砥職人・(方氏)  ・近江、伊勢、信濃の青木氏
作部(さくべ) 墨作職人・砥石職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏


以上が平安期から室町期までの遺された資料から発見できる青木氏の定住地で関わった職人集団で全てではありませんが確認出来る「部民」と成ります。
・印の職能集団が確認出来る地域です。
但し、近江、美濃は平安末期に衰退し滅亡していて記録は無く成っているが、佐々木氏の資料などから奈良期から平安期初期の各種資料から存在を判断したものと、室町期以降の伊勢青木氏との関係資料から判断したものです。甲斐の資料は少なく又搾取偏纂が多いので推測域を出ません。
秀郷流青木氏は各地の青木氏の系譜の添書からと、伊勢青木氏と信濃青木氏の親交からの繋がりからと、源氏の関係資料や佐々木氏の関係資料から割り出したものです。
藤原氏は荘園制度に大きく関わっていた事からこれ以外にも職能集団との関わりは最も大きく持っていたと考えられます。その中の青木氏に関するものを抜粋したものです。
伊勢青木氏と信濃青木氏と伊勢秀郷流青木氏とは共に深い連携をして生き残りましたので、同じ職能集団を持ち、且つ、中には共通する職能集団としていた事が覗えます。

「部」の本来の職が時代毎に少しづつ関係する職種に変化しているので上記した内容から広範囲な関係職種に成っているのです。
これ等は「5家5流の商関地域」と「秀郷流一門の24地域」に関わる地域と成ります。
これを観ると、青木氏の「2足の草鞋策」の「商い範囲」と「商い規模」と「商い組織」と「氏と姓」が観えて来ます。上記で論じた「4つの青木氏」の「絆の成り立ち」もなるほどと観えて来ます。
又、「3つの発祥源」としての役務を務めた奈良期からの舎人部、佐伯部、倭文部、史部もあり青木氏の旧来からの絆が観えます。
「神明社と菩提寺」を物語る職能集団が青木氏の部の多くを占めています。
これで観ると、奈良期からの「部」が「絆」と成って「青木氏の別家養子の徒弟制度」に繋がっている事等なるほどと理解できます。
未勘氏の青木氏の家臣団、姓化した青木氏の家臣団、室町期末期、江戸期初期、明治初期に発祥した「姓名」が良く判ります。
この内容を観ると、奈良期から江戸期までの「青木氏の総合的な立場」を物語る職人集団である事が良く判ります。又、奈良期と平安末期頃までの青木氏の置かれていた立場や勢力がよく観えて来ます。

(青木氏ルーツ雑学に大きく影響する基礎資料に成るので都度調査続行している。 「部」や「阿多倍一族一門」に関する資料と研究資料が殆どないので苦労している。最近では墨部の氏、硯部の氏、作部の氏と方氏のその所在と歴史上の史実が判明した。)

工部(くべ) 土木職人・建築職人
この職能集団の「工部」の存在は、青木氏にとって大変重要な歴史上の史実の判断要素に成るのです。特に、「神明社との関係」が密接に繋がっているので、その各地の5000にも及ぶ寺社の建設と維持管理にはこの職能集団が青木氏の神官や住職と供に移動しますのでその広がり状況を判断する事が出来るのです。
奈良期から平安初期に「古代密教と祖先神の神明社」を崇拝し、その後、平安中期の密教浄土宗と神明社を、青木氏に関わる地域に青木氏の自らの力で建て育てていた事を物語ります。、
その「神明社や菩提寺」の「建立と維持管理」に専門的に携わっていた事を意味しこれを物語る記録が多く遺されています。
この「部」は伊勢青木氏に記録されているので、全国各地の全ての青木氏には持ち得ていなかったと観られ、記録は信濃以外には見つけ出す事がまだ出来ないのです。
武蔵の秀郷一門宗家にもこの職能集団を持っていたと観られる記録があります。
伊勢青木氏と武蔵秀郷一門の宗家がこの集団を抱えていて要請に応じて派遣していたと考えられます。特に、武蔵では平安期末期から永嶋氏一門がこの集団を統括していて朝廷の官職も務めていました。
永嶋氏は兼光系3氏一族青木氏と長沼氏と永嶋氏ですが、その最初の氏を発祥させた「第2の宗家」と言われ千国を始祖とする特別賜姓族青木氏から、平安末期に朝廷の官職を譲って永嶋一門に委ねたと考えられます。それまでは添書から観ると「大工頭」」(木工寮・木工頭 こだくみのかみ・むくみのかみ)は青木氏に書かれていて、ある時期からこの官職を成長した永嶋氏に成っていますので譲ったと考えられます。永嶋氏は元は「結城氏」を名乗り「酒井氏」を名乗り、次に「永嶋氏」と名乗っています。
(青木氏発祥から結城氏は朝光7代目、長沼氏は考綱5代目 永嶋氏は行長12代目)
「結城」の字の通り、最初はこの役職を一族の青木氏から譲り受けてそれを「氏名」にした事が判ります。秀郷一族一門の組織が余りに大きくなり、且つ、「特別賜姓族青木氏」は、賜姓族と同じ「官職と身分家柄」と「3つの発祥源」の役目を与えられ、且つ、賜姓族青木氏を護る為にもそれを全うする目的から、戦略上担当域の整理を行ったと考えられます。時期がほぼ一致しています。
その後、鎌倉期の後もこの職域を護り、他氏との建設も請け負っていて九州の大蔵氏の末裔永嶋氏も土木建設業を営んでいた記録が残っています。
問題の未解決な点は、伊勢青木氏外に信濃の青木氏から東北北陸各地に神官、住職、工部を移動させている記録があります。この末裔が工部に関しては徒弟養子制度で青木氏を名乗って新潟、陸奥(青森、岩手)に定住している事が判っています。(この3つの末裔の方からもお便りがあります)
つまり、伊勢青木氏とはこの「工部」に就いてどの様な仕分けであったのかが明確ではないのです。
その記録の内容から読み取ると次ぎの様に成るのではと観られます。
”総元締めは伊勢青木氏、神社は伊勢大社分霊と神明社関係は伊勢青木氏、寺社の密教菩提寺浄土衆は信濃青木氏が主に担当し建築維持管理するシステムを採っていた。神官と住職の派遣は総元締めから移動辞令を各地の神社・寺社に命じていた。工部の管理は2つに分けていた”と読み取れます。
これ等の細部の事務管理は下記の舎人部と佐伯部が専門に行っていた事に成ります。
当時、記録保管管理は氏の神社、寺社が行っていた事から比較的に下記にあるような事が青木氏の場合はよく把握されているのです。

紙梳部(かみすきべ) 紙職人 
楮作部(こうぞべ) 楮職人・素材職人
紙関連職人の存在は、奈良期から楮や三叉の植物を育てて殖産し、それを加工して紙を梳き、紙製品としての一環した殖産事業を成し遂げ、平安期にはそれを販売し、商いとしていた事が証明出来ます。この事は5家5流の皇族賜姓青木氏が5古代和紙の生産地として殖産していた事を意味し、平安末期には「2足の草鞋策」を採用していた事をも意味します。
この職能地域は甲賀-伊賀-松阪であった事が記録から判断できます。
同時に伊勢の伊賀地方は奈良期末期に阿多倍に割譲しますが、その後も続けて殖産され続けていた事に成りますので、阿多倍一族「たいら族」との深い交流も有った事を意味します。
「紙屋青木長兵衛」としていますので、先ずは紙が主要製品・商品であった事と成ります。
5家5流の青木氏を繋ぐ和紙であった事に成ります。伊賀・伊勢和紙から信濃、近江、美濃、甲斐とこの職能集団を移動させて殖産を拡げて行き戦略的に青木氏の基盤を確立させて行った事に成ります。

土師部(しがらきべ) 素焼職人・土器職人
この職能集団は近江青木氏と美濃青木氏の資料から観られる事ですが、奈良期から器類の職能集団を抱えていた事は「2足の草鞋策」の商品に成っていたことを意味します。平安末期からはこの2つの青木氏の衰退滅亡で地元に根付いた産業(信楽焼きとして)として育って行ったと観られます。
ただ、神明社や菩提寺の仏具類には欠かせないものとして伊勢-信濃青木氏はこの集団を室町期まで抱えていたか援助していた事を物語ります。信濃にも焼き物や陶器類が現在も生産されていますが信濃青木氏が関わっていたかは不明です。それの元は奈良期から近江青木氏の土師部であったのです。「信楽」は元は「土師」なのですが、この土師部が源平の戦いで近江と美濃の青木氏が衰退滅亡した事等により土師部は主を失い「地元産業」として生き延びてきたと考えられます。

金作部(かねさくべ) 金工職人・金細工職人・金具職人
この職能集団は、「皇祖神の伊勢大社」と「神明社や菩提寺」の「神器・仏具類」には欠かせないものとしてその職能集団を抱えていた事に成ります。平安末期からは「2足の草鞋策」としての商品としても扱っていた事を物語ります。伊勢青木氏の資料と、越後(陸奥)の青木氏に遺された仏教資料から覗えます。

石作部(いしつくりべ) 石細工職人・造園職人
玉造部(たまつくりべ) 仏壇仏具職人・装飾職人
この職能集団は、「金作部」と同じ事で、伊勢青木氏と信濃青木氏と美濃秀郷流青木氏に観られる事です。55地域にも及ぶ各地の青木氏の定住地の神明社菩提寺の建立と維持管理に携わっていた事に成ります。

服部(はっとりべ) 職機・機械製作職人・機織機職人・(情報収集職人)
この職能集団は、神明社・菩提寺の建立と維持管理とその「神器・仏具類」の製作に必要とする事でかなり大量に生産していた事を物語ります。間違いなく、「2足の草鞋策」の商いの主用品としていた事を意味します。近江青木氏と伊勢伊賀地方と美濃秀郷青木氏の私有古文書や神社の古文書に観られる記述です。伊勢伊賀はルーツの服部氏の発祥地ですが、伊賀氏と伊勢青木氏との関係資料から観察できます。
下記の織物職人等の織機関係を担当していたのです。織機そのものを商品として扱っていたのです。
青木氏の部の職能集団の中で来米部の影響受けて情報収集職人(忍者)もかねていた事を意味します。
服部に関わらず部の相互間でも有機的に働いてい事を物語ます。
服部が何故情報収集の役目を担っていたかは不明ですが、織機器の販売輸送から各地を移動すると云う事から来米部の手助けをしたと考えられます。各地に平均的に服部の「姓氏」が多いのはこの事を物語ると考えます。(信濃が目立ちます)

錦織部(にしきごりべ) 錦織職人・錦職人
この職能集団は、近江に多い所で近江青木氏が抱えていた職能集団であったと見られ、この職能は「神器・仏具類」の製作・装飾に用いられるもので、伊勢青木氏が神明社・菩提寺の建立と維持管理の為には必要として平安期末期頃に移動させた物ではないかと考えられます。近江青木氏の平安末期の衰退滅亡に関わっていると考えられます。服部部に織機を作らせて「2足の草鞋策」の商いの一つに成っていたと考えられます。

倭文部(しどりべ) 文書職人・書物職人・印刷職人
史部(ふみべ) 文書職人・記録保管職人・事務職人
この職能集団は、奈良期から江戸期末期までの「神明社・菩提寺の建立と維持管理」の事務職・記録保存・家系図・祭祀等の職務に付いていたと観られます。製本や印刷技術や果てはお守り札類・暦までの一切を担当していたと考えます。全国の青木氏への「神明社・菩提寺」に関わる膨大な量の事務・雑務を担当していたと観られます。伊勢青木氏の資料に観られますが、「2足の草鞋策」の商いに関係していたかは不明です。無関係であったと観ます。

来米部(くめべ・くるめべ) 鉱山開発職人・情報伝達職人
この職能集団は、実は重要な内容なのです。本職は鉱山開発の山師ですが、全国を歩き回り鉱山を発見し開発する職人なのです。しかし、別の面で各地の「戦略上の情報」や「商いの情報」なども集めて逸早く対応する体制を採っていて青木氏の生き残りに重要な役割を果たしていたと見られます。
平安期初期より既にこの「2つの面」を持っていたと記録されています。
鉱山開発では、秀郷流青木氏の越後青木氏の職能集団として関わっていた事が記録されています。
伊勢青木氏や信濃青木氏にもそれらしき鉱山開発の表現が見られますので、鉱山開発はしていたとしても、むしろ、伊勢青木氏と信濃青木氏が鉱山に大きく関わる明確な資料が見つから無い事から、古くから主に「情報伝達収集」の職能として活躍していたと観られます。
この事等から秀郷流青木氏と伊勢・信濃青木氏との間で「情報伝達収集」のやり取りをしていたのではないかと考えられますが、それを物語る何らかの確実な記録が現在発見出来ていません。
「3つの発祥源」と「2足の草鞋策」の両面を支えていた「情報伝達収集」の職能集団で、職務上の役目履行の為に「忍者」の様な能力も持ち合わせていたものと考えます。これは鉱山開発に必要とする能力であったと考えられます。この「忍者的技能」は青木氏の「来米部」が始祖と考えられます。
伊勢青木氏の「来米部」は、日本書紀の中にも全青木氏の始祖施基皇子が天智天武から命じられて全国各地を争い事の調停や平定や国情調査で飛び回っていた時に、警護役や先行掃討役で動いていた事が書かれています。
平安初期と中期の古い資料からもそれなりの表現で警護役で動いていた記述が観られますが、伊勢の伊賀地方と隣接する滋賀の甲賀地方は、後にこの「忍者」でも有名なったのはこの青木氏の職能集団の「来米部」のところから来ていると観られます。これは鉱山開発で培った各地の地理を含む知識や技能や各地の豪族やシンジケートとの繋がりから、その上記する役目に合わせて任じたと考えられます。
その証拠に施基皇子は、持統天皇に命じられて「律令制度の基本」と成るものを作る為に、上記の経験から彼等からの話も聴集して全国各地の細かい国情から見た「人の行い」を纏めた「善事撰集」の編集をしています。これが日本最初の律令の「大宝律令」の基礎に成ったと云われています。
この時に陰で活躍したのが鉱山開発の「来米部」であった事が文面から観て判っています。
全国を駆け巡った「伊賀忍者の服部半蔵」は服部の織物器機製作職人の古来からの青木氏の「部」でありますが、同じ伊勢青木氏の職能集団の「来米部」の影響か血縁を受けてか「情報伝達収集」をも兼ねていた事と観られます。
そもそも忍者には3つの階層があり、上忍は「郷氏」と中忍は「郷士」であるので「来米部」より姓化した「姓氏」です。上忍の郷氏は青木氏の徒弟制度の別家養子制度の「来米部」の首魁の氏、中忍の郷士は農兵の地侍であるので姓化して姓氏を名乗った配下の中の来米部、下忍は農兵組の来米部と成ります。
忍者の階層から観ても伊勢青木氏-信濃青木氏の「来米部」は「情報伝達収集」の役目を荷っていたのです。この事は伊勢-信濃「シンジケート」との結びつきでも証明できます。
平安期末期から「2足の草鞋策」の一つとして「シンジケート」が考えられるのですが、筆者はこの「来米部」から考えると、既に奈良期から、近江青木氏、伊勢青木氏、美濃青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏の5家5流の間では各氏が抱える「来米部」の役目としてシンジケートに近い状態のものが存在していたと考えているのです。それが平安末期から「2足の草鞋策」となった事から「来米部」の役割は大きくなり「情報伝達収集」の役目に重点を置く様になって行ったと観ています。
奈良期末に滋賀の甲賀に接する伊勢北部は、阿多倍の伊賀割譲と室町期に室町幕府執事の所領となった経緯がありますが、その後も青木氏の「来米部」として続けられていました。
そして、室町末期からは「シンジケート」が戦乱で拡大し、その役目も激しさを増し、更に急激な「情報伝達収集」の役目が増して、所謂「忍者」成るものとして一部が活躍するように成ったのです。この時に服部が借り出されて忍者と成ったと観ています。甲賀、伊賀が後にこの影響で「忍者村」となったと考えられます。
伊勢青木氏の勢力圏域は室町期には名張-松阪-玉城-四日市-員弁-桑名のライン上(伊勢の中央より北部域)にあり、この「来米部」の末裔居住地は名張付近ではなかったかと観ています。
玉城の8割は蔵群と家臣や雇い人や職能集団の居住地と仕事場であった事は記録から判っています。
即ち、「来米部」の役割は青木氏にとって無くてはならない「抑止力」であり「商いの手段」の「シンジケート」の維持運営管理を担ったのです。

綾部(あやべ) 綾編職人・布織職人
この職能集団は、綾編職人・布織職人である事は事実でありますが、実はこの綾部(あやべ)の存在は歴史上である事を意味しているのです。それは「シンジケート」なのです。シンジケートの者はこの綾織の手作業をして綾紐などを「家内工業的」にしていたのです。勿論、伊勢-信濃青木氏の商いの一環として戦略上繋ぎの仕事なのです。シンジケートの一員で信濃甲斐の国境の真田郷より配流になった九度山の真田氏の「真田の綾織」でも有名ですが、「綾織」はその伊勢シンジケートの一員の証しなのです。
倭文部や史部や来米部等と連携しながら情報収集のシステムを構築していたのです。
忍者の来米部と供にこのシンジケート間を駆け巡っていたのです。

馬部・馬飼部(うまべ・まべ) 輸送職人・飼育馬職人
この職能集団は、当時の陸上の輸送手段として、戦いの騎馬として、移動手段として最も重要であったのですが、その大量の馬の飼育と管理を専門にしていた職能で、「戦い」には馬の貸し出しも行い、飼育も請け負うなどの商いと、その商いの物資の輸送手段にも用いました。当然にシンジケートのイザという時の戦力にもなったのです。この部は信濃青木氏、伊勢青木氏、近江青木氏に確認され、特に信濃青木氏の馬部は日本書紀の記述にも出て来ます。

麻績部(おみべ) 麻布紡績職人
衣縫部(いぬいべ) 衣服縫製職人
赤染部(あかそめべ) 染色職人
茜部(あかねべ) 茜染職人・染色職人
この4つの職能集団は神明社・菩提寺の建立と維持管理とその「神器・仏具類」の製作に関わっていたのですが、青木氏に大きく関わる事では無く、主に商いの殖産と産品の一つとしての意味合いもあったのです。もう一つはこの職能は伊勢-信濃シンジケートの殖産にも関わっていたのです。
シンジケートは経済的裏付とを受け、そして、それを商品化していたのです。
自らもこの職能集団の能力を受け生きる糧ともしていて、それを青木氏の商いの「4つの元締め」に収めると云う仕組みを持っていたのです。一種の家内工業の組織であったのです。縫い-染めるの連携組織です。表向きは「家内工業」で、裏は「シンジケートの一員」で構成されていたのです。

鞍造部(くらつくりべ) 馬鞍造職人・仏像職人・木工細工職人
弓削部(ゆげべ) 弓製作職人・竹細工職人
矢作部(やはぎべ) 矢製作職人・竹細工職人
この職能集団は、神明社・菩提寺の建立と維持管理とその「神器・仏具類」の製作に関わる根幹に成る職能で、その技量の範囲を生かして神社や仏閣の欄間や仏像等を彫る事をしていました。
弓削部や矢作部は武器を作る傍ら、鞍造部に協力して細工物を作り「神器・仏具類」の製作にも関わったのです。これ等のものは商いの商品としても扱われていた模様でその殖産は山部と供に連携していたのです。これ等も上記した麻績部等と同様にシンジケートの組織に載せて彼等の家内工業的な生産をし収め商いの商品として販売し経済的な潤いと糧としていました。

山部(やまべ) 山林職人・木材職人・山警備職人
この職能集団は、山や山林の維持管理が主体ですが、神明社・菩提寺の建立と維持管理とその「神器・仏具類」の製作に関わる素材を提供するのが目的です。上記した色々な殖産に関わる材料の育成管理も行います。青木氏は信長の伊勢攻めの際に材木の買占めなどをこの山部を使って行い丸山城の戦いを征しました。また楠木正成の南北朝の戦いにもこの山部の山を知り尽くした力を使って山の山道通過阻止や飲料水の阻止をし10万の軍に対して勝利を導き出しました。
山賊の排除などにも役立ちました。この山部を通じてシンジケートとの連絡を図る等の役目も荷っていたのです。山部そのものもシンジケートの一員でもあったのです。伊勢-信濃青木氏の天正の3乱でもこの働きがよく出てきます。

鵜飼部(うかいべ) 鵜飼職人
この職能集団は、信濃青木氏の関係資料の中に出てくる事ですが、鵜飼だけの職能ではなかったのではないかと観ています。それは「河川の輸送」に対する役と各河川の道案内役ではなかったかと観られるのです。単純に鵜飼では河川産品だけでは青木氏に執って大きな意味を持ちません。山部と同じ様な役目をも持たしていたと観ているのです。山部-鵜飼部の連携を構築していたと考えます。

舎人部(とねりべ) 付き人・秘書・警護人・番頭職・代理人・御用人
佐伯部(さえきべ) 警備職人・警備兵・情報職人
この職能集団は、上記した職人を抱えて有機的に「3つの発祥源」と「2足の草鞋策」と「氏神の祖先神 神明社」と「氏寺の菩提寺」を持つ「青木氏」を支えていたのですが、青木氏の氏上の長一人が全体を仕切る事はそもそも困難です。そこで参謀本部や司令部の様なシステムを構築し、其処から指揮する体制を敷いていたのです。それには多くの番頭が必要となりこれを専門的に行っていたのです。
指揮、作戦に関する専門的知識や情報収集分析能力を要求されますし、当然に長に対する身の危険も伴ないますのでそのガードマン的働きも併せ持つ警備本部の役割も果たしていたのです。
「2足の草鞋策」の両面に必要とする最も重要な能力です。
この本部の仕事を「舎人部」(指揮)と「佐伯部」(警備)に分けていたのです。この2つを複合的に青木氏は統括していたのです。全青木氏との連携なども此処から行っていたと考えられます。
上記した一揆などへの援護等もこの本部機構を動かしていたことに成ります。

硯部(すずりべ) 硯石製作職人・砥石製作職人
墨部(すみべ) 墨職人・砥職人・(方氏)
作部(さくべ) 墨作職人・砥石職人
この職能集団は、青木氏の商いの「和紙」に関わる職能種です。
この集団は近江と奈良と紀州と信濃に存在し、主に奈良から紀州に掛けての産品が良品とされ平安初期から生産していた事が判っています。当初は紀州の産品は累代の幕府の専売・販売品で紀州は徳川時代まで徳川氏に納めていました。この4つの地域は時代毎にその産出量が異なり、又品質も異なっていました。この3つ共にその職能の産地は紀州だけで後は墨だけでした。
伊勢青木氏紀州産品は累代の幕府から平安時代からの歴史もあり伊勢を中心に生産とその販売権を確保していたのです。奈良は松煙墨で荒く粒にばらつきがあり色合いが悪いとして、その品質から紀州に劣る事から途中で専売を解除されています。紀州産(藤白墨)は万葉集にも出てきます。
近江、奈良、信濃は専売から外れていて紙と合わせて商いの対象と成っていたのです。
紀州産の硯石や砥石は高級紫石として平安期は朝廷に納めた後に市場に出回るものとして重宝されていました。
当時墨は大和では生産できずに輸入に頼っていました。そこで朝廷は作氏・方氏を平安期にわざわざ中国から呼び寄せた専門の墨職人です。朝廷の資料にも出てきます。最初は近江、信濃、次ぎに奈良、そして最後に紀州となり輸入品より優れたものが生産できるように成りました。調査に依って、その定住地は紀州の「下津」という港の近くで「方」という地名にも成っています。姓氏として硯氏や(作氏)・方氏として現在でも末裔は村を形成しています。
実は伊勢青木氏には、平安時代の朝廷の専売品であったもので、明治の末期に天皇家よりその時代の「藤白墨」をその所縁で拝領していたのですが、然し、平成の世までこの3つの職能集団の末裔の行方が不明でした。青木氏の職能集団であるので、その責任上調査を進めていましたが、つい最近判明しました。(研究室にレポート済み)


青木氏の職能集団の疑問
以上の青木氏の職能集団に付いては記録から確認出来るのですが、凡そどの様な商い(商品や営業方法)をしていたかはこの部でも判ります。然し、幾つかの疑問点があり、先ず海の部が確認出来ないのです。(生活上の職能集団の膳部等は除いた)
つまり、「海部」・「船部」等です。「海上輸送」は伊勢青木氏では堺、摂津の港で4店舗を持ち貿易をし、輸送手段として千石船3艘を有していたことは判っていますし、越後、尾張、三河、陸奥には大きな港があります。「2足の草鞋策」を敷く以上は無くてはならない職能集団です。
ただ、瀬戸内の秀郷流青木氏には廻船問屋を営んでいるので「海部」・「船部」(海族・海人族)等が確認出来るのですが、5つの地域は港を持っていますのでなくては成らない筈です。
尾張と三河では「磯部」が確認出来ますが、歴史的な職能域が少し異なります。
考えられる事として、「海産物」の商いは別として、「海上輸送」は讃岐籐氏の秀郷流青木氏がその専門職の廻船問屋を営んでいる事から、「貿易」ともなればかなりの操船の専門域となり合わせて海利権の問題もある事からこの瀬戸内の青木氏に一切契約して任していた事が考えられます。確かに、江戸末期の浅野氏滅亡時に伊勢青木氏の3隻と瀬戸内の秀郷流青木氏とが連携して浅野氏等の骨董品などの買取をした事が記録で判っています。
連携していた事は確認は出来ますが、常設する程の連携であったかは不祥です。
そこで、不思議にこの記録が無い事に付いて、考えられる事として「2足の草鞋策」で殖産と商いをしたのが1125年頃ですから、部の職能集団は985年から1025年頃の身分制度は開放されています。しかし、法的な「身分制度の開放」であって部の職能集団を解体した訳ではありません。
部の職能集団はこれ以後集団化して行くのですが、その所属する氏での中での職業の継続は雇用人としてされているのです。この時に青木氏に所属する職能集団は雇用人として法的開放から丁度100年位立っています。これ等の集団の雇用を支えて行くにも「2足の草鞋策」でこの職能集団の生産する産品とその技能を保持し、且つ、乱れの生じてきた社会の中で逸早く「青木氏の衰退滅亡」を防ぐにも、「商い」以外には無かったのではないかと考えられます。
つまり、その時に抱えていたのが上記の集団であってその時には疑問点の海上に関する職能集団は抱えていなかったと考えられます。そもそも和紙を主体として始めた「商い」であった為に海上に関する職能集団は必要なかったと成るのです。それほどまでにこの商いが大きくなかったと考えられます。陸上輸送の範囲で事足りていたのです。
然し、鎌倉時代と室町時代には「紙文化」の花が咲き、真に「青木氏の商い」そのものの文化が開いたのです。そこで「商い」は大成功を遂げて拡大し、更に職能集団の体制をこれに合わせて「組織化」して確立させたと考えられます。その中には「氏の徒弟制度」もあって、「家臣による未勘氏」と「絆による第3氏」の「4つの青木氏」が出来上がって行ったのです。
(上記青木氏の部の職能集団では家臣に成った部、絆で結ばれた部に構成されて行ったのです。)
この時に拡大した「商い」の輸送手段に問題が生じ、海上手段として大船を保有したと考えられますので部としての職能集団が記録には出て来ないと観られます。
「神社と寺社」は青木氏の独自のものを保有していたのですから、各地55地域の青木氏の記録は遺されていた筈です。然し、見つからないのです。
当時は「神社と寺社」が「氏の記録と保管」の職能を荷っていたのですが、平安末期の「源平の戦い」から室町期の「下克上、戦国時代」によりその戦いの最前線となった「神社と寺社」の城郭としての役目の為に焼き討ちに真っ先に会うという憂き目もあり、記録の多くは消失してしまっているのです。
江戸期から明治期にあっても「一揆」の拠点として使われた為にも記録は消失と成った為に、特に海上に関する史料関係が発見出来ないのでは無いかと考えられます。
何か海上に関する「特別な慣習」があって遺し難かったのではないかと観られます。「海利権」と「独特な慣習」に有るのではと観られます。
「陸上のシンジケート」は旧来からの経緯で育て克服出来たとして、「海上のシンジケート」、つまり、各地に存在する「水軍」です。駿河、三河、大島、伊豆、伊勢、熊野、紀伊、瀬戸内、村上、陶、豊後、(青木氏が関わった水軍)等の主要な水道には水軍が存在していて「シンジケート」を構成していたのです。即ち、「海賊」までも抑えた「海族」(海人族)です。(源氏は前8つの水軍で、後3つの平家水軍に勝利した)
この「海族」に「繋がり」を持てたとしても支配に及ぶまでの力は勢力は無かった事を意味します。
(同族の源氏は平家との戦いの際に義経は前4つは源氏に味方し、中の4つは義経が再三出向いた味方する様に働きかけ最終的に味方した位で勢力圏に無かった記録がある事から全く青木氏も無かったと観られる。)
それ故に、「讃岐籐氏」の秀郷一門の讃岐青木氏はこの瀬戸内水軍を支配し、横の水軍にも「繋がり」を効かせられる事が出来、日本海側にも進出していた「廻船問屋」として「大商い」を営んでいた事から、他の「2足の草鞋策」を採る青木氏は大口の商いにはこの瀬戸内の青木氏に「海上輸送」を一括して委ねていたと観ているのです。


そこで、これ等の「青木氏の基盤の支え」になった青木氏が一体どのくらいの「勢力」を保持していたのかを検証して観ます。
これには次ぎの数式論が成立する筈です。

A(固定条件)=「殖産」+「地場(土地)」+「広域シンジケート」+「運送・運搬」+「適度の武力」
「2足の草鞋策」=「商い」+「A」
「神明社・菩提寺密教」=「職能集団」+「2足の草鞋策」+「A」

∴「神明社・菩提寺密教」=「職能集団」+「商い」+2「A」

「神明社・菩提寺密教の維持」
上記の数式から果たして「神明社・菩提寺密教」を維持しょうとすると、どの程度の力が必要に成るのかは疑問です。
それは上記の数式から判ります。
それは「商い」と「職能集団」を維持し、固定条件の2倍の力が必要という事に成ります。
独自の「守護神と氏寺」を所有する事は大変な勢力が必要である事が判ります。
では、”どの程度のものか”と成りますが、次ぎの様に成ります。
因みに、この数式論を展開すると、伊勢青木氏は「神明社・菩提寺密教」を持っていたのですから、2「A」以上に相当する「綜合的な力」を有していた事を意味し、これが上記する5万石程度と成ります。
2「A」ですので固定条件の「A」(固定必要経費に相当)は2.5万石程度は少なくとも最低で必要で、この程度の場合は「商いの利益」だけでは”「神明社・菩提寺密教」は維持出来ない”と云う事に成ります。
伊勢と信濃以外の美濃や甲斐や近江は、単独では室町期以降には「神明社・菩提寺密教」は持てない事に成ります。現実には単独では持っていなかったのです。
A=2.5万石として、”「商いによる利益」で「職能集団」を何とか維持する事が出来る”と云う判断も出来ます。
秀郷流青木氏は「地域の幾つかの同族の青木氏」を綜合することで持てる事に成りますので、現実にはその様に成っているのです。
又、「2足の草鞋策」=「商い」+「A」では、「商いの利益」と供に少なくとも2.5万石を保持する勢力を持っていれば「2足の草鞋策」を続ける事が出来ます。
「3つの発祥源」を護り、「A」(シンジケート等)を維持し、「商い」を維持するには2.5万石程度の勢力が必要という事にも成る訳です。
この様に「神明社・菩提寺密教」の有無を確認すればその石高を知り勢力を知る事も出来るのです。又逆の事も知る事にも成ります。菩提寺があり、神明社が近隣にありとすると2.5万石以上の勢力を持っていた事を示し、「2足の草鞋策」を採っていた事も判る事に成ります。
この雑学の判別式はルーツ解明に大変役立つものです。
この事から2.5万石は大名か大郷氏、大豪族・大地主・大庄屋の扱いと成りますから、その氏ではそれに見合う遺品が存在する事にも成ります。この勢力では一軍(4-5騎 1騎50人)を指揮する事に成りますので、「軍配」、「馬盃」、「床机」等の指揮官が持つ物が遺品としてある事にも成りますし、宗派、仏壇や墓形式、戒名、邸、館、門構え等も全て違ってきます。

推して知るベしで、この数式以外にも上記した幾つかの数式条件を満たす為にはある一定の「上記した勢力」が必要と成ります。これらの「数式論の解析」で色々な状況を判別検証する基準にも成ります。
奈良期から明治期までの筆者が論じて来た菩提寺など「青木氏の力」に付いての多くの判定要素はこの様な「数式論の解析」から「史実の数値」などとを照合し駆使して割り出しているのです。

資料が遺されているので判断基準にしている「伊勢青木氏の経緯」として、平安期初期には伊勢北部、平安期中期には伊勢東部、平安期末期には東南部、室町期末期には伊勢松阪の一部の割譲、江戸期初期には「青木氏の5万石」の土地を残して細部地域の割譲が起こりますが、江戸期中期の5万石でこれを維持するのに限界で有った事に成ります。
56万石から上記の様に「伊勢青木氏の勢力」の時代事の推移を観る事も出来ます。
各地の天領地の青木氏は、天領地割譲が天皇家の衰退の経緯を示しています。依ってほぼこの推移と類似していますので、各国の「特別な国情」を加味して全体の石高を当て嵌める事で判断が可能です。
伊勢国のみならず各地の史実からも(データーの少ない近江、美濃、甲斐等も)割り出せますし、判れば逆に判別して行く事も出来るのです。この数式解析論をよく採用して判断に用いています。
算数論の様に1+1=2には成らずとも、より多くの判定要素を組み入れて行けば感覚的に観るよりは史実と真実に近い「類似性の答え」が出て来ます。

(近江、美濃、は上記した「源平の戦乱の有名な激戦地」で滅亡状態になります。甲斐は戦国の戦乱で滅亡状態に有った事から消失や衰退で独自で保有する事は出来な区成っていました。
従って、和紙を通じて伊勢-信濃から経済的援助を受けていたと観られる)

「神明社・菩提寺密教」を基本として「和紙」と「職能」と云う事で繋がっていた「5家5流青木氏」と「秀郷流青木氏」にはそれなりの上記の「数式条件」の「神明社・菩提寺密教」=「職能集団」+「商い」+2「A」が備わっていなければ連携も成り立たない事を意味します。
筆者の計算では、室町期から江戸期の55に近い地域の青木氏各氏の勢力領を観て見ると、石高で表現すると少なくとも1万石程度の勢力を持ち得ていなければ「2つの血縁青木氏の関係」は成立しない事が云えます。

「青木氏のパラメータ」
つまり「2つの血縁青木氏」には青木氏の添書等の資料から平均的に次ぎのパラメータが出来るのです。
「姓氏の発祥地域」=1万石
「青木氏の地域」=1万石
「1万石の地域」=青木氏
「1万石の青木氏」=「2足の草鞋策」
「2足の草鞋策」の地域=「姓氏の発祥地域」
「姓氏の発祥地域」=「青木氏の地域」

(平均1万石:バイアスB=±0.2万石で、R=0.01~5万石)
以上等の論調が成立する事に成ります。

(基準を1万石(0.5)の多くの氏の勢力を調べて平均化してそれを1として、「青木氏の勢力」を計算した。この数式論に「調査要素の項目」を照合して「青木氏の表の勢力」を検証調査した。)

大体青木氏1氏の1万石は「40人の家臣団」(常設期、 戦乱期は常設・5、 4-5騎)と成ります。
そうすると、勢力圏の程度を考察して観ると次ぎの様に成ります。

「美濃一帯」では5氏の同族の秀郷流青木氏がいましたから、5万石の勢力を保持していた事に成りますので、「200人の家臣団」で「1000人の集団」となります。

「伊勢」では秀郷流青木氏は3万石でしたから「120人の家臣団」で「600人の集団」と成ります。賜姓青木氏では1氏で5万石でしたから「200人の家臣団」(実際の記録は250の家臣団)で「1000人の集団」と成ります。伊勢では合わせて「320人の家臣団」で「1600人の集団」と成ります。

「信濃」では4氏から構成されていて5万石ですから、「200人の家臣団」で「1000人の集団」と成ります。
「近江」では3氏で構成されていて0.5万石程度でしたから「20人の家臣団」で「100人の集団」と成ります。

秀郷一門青木氏24地域の中では次ぎの様に成ります。
「関西-中国域」では「讃岐籐氏」の秀郷流青木氏は大勢力でしたので讃岐、瀬戸内・(土佐)、阿波、安芸、伯鰭の勢力(8)を合わせると10万石程度の勢力圏を有し、「400人の家臣団」で「2000人の集団」はあったものと考えられます。(8地域/8は「2足の草鞋策」の確認地)

「武蔵・関東域10と東北北陸3」では根拠地ですので、各地域毎に5~8万石程度の勢力圏/地域(13)で「320の家臣団」(常設)で「1600の集団」であったと観られます。(8地域/13は「2足の草鞋策」の確認地)

九州は肥前、筑前、豊前の3地域では土地柄から資料は少ないし末裔の拡大は低いが、北九州の豪族の酒井氏、佐竹氏、菊地氏、佐伯氏等の武蔵・関東域との秀郷一門青木氏との度々の交流(荷駄等)の痕跡資料があり、この結果として、この4氏の末裔が関東の秀郷一門地域に認められjます。
この事から秀郷流青木氏の「2足の草鞋策」の痕跡が認められます。
石高は算出は困難であるが平均値に等しいと考えて3万石程度とすると、「120人家臣団」で「600人の集団」と成ります。

これに「商いの勢力」と「シンジケートの勢力」が加算されますので、上限は別として、この程度が「最低限の勢力圏」を常設保持していた事に成ります。
「シンジケートの勢力」は別として、「商いの勢力」を全額計算する事は出来ませんが、上記の「常設勢力」の「10倍位の勢力」を以って「非常時の勢力」と見なされます。

その根拠は「関が原の戦い」の時に家康より伊勢青木氏は(信濃青木氏と共に)合力を打診された時の資料として”250の兵(食料調達と安全確保)と信濃-伊勢-京都路の進路の安全確保を担保した”と記されていますので、「非常時兵力」(警備傭兵)の1000程度の兵(暗に示唆)と1万人程度以上の進路側面確保に「伊勢-信濃シンジケート」(暗に示唆)を動かしたことが判っています。(これにより伊勢と信濃は本領安堵された)
恐らくは、「信濃」と共に「近江」と「美濃」の青木氏はこれに加わり「援護兵」「1000の兵」としたのではないかと観られます。(上記Aの要員を加えていた可能性がある)
(ぴったり1000の兵としたかは当時の書き方として漠然とする習慣がありますので不明ですが2000は超えていなかったと考えられます。依ってほぼ8-10倍と見られます。250は記録にある)
一般の他氏の大名クラスも非常時は農兵の傭兵役10倍にしてを集める慣習が出来上がっていた事に成ります。

「武士の生活費」
そこで、その根幹の武士の生活し得る最低の石高が問題に成ります。
江戸時代初期前後の武士の生活は次ぎの様に云われています。
1石高/人/年で、一般諸経費はこの最低5倍/人され、家族5人の生活費は25石/年必要 雇人5人を要するとされ 150石。これに一般管理費に相当する維持費50石加算で最低の200石/年 その他の雑費の最低出費50石 総合の250石が江戸時代初期の限界石高ですので、これに多少なりとも余裕を持たせるには兼農となります。
故に上記した甲斐の武田氏系青木氏は巨摩郡山間部で農業を営んでいたのです。

これからすると、上記伊勢青木氏は250人の雇人があったので、「商い」では最低で2A=5万石以上の収入であった事が云えますので、少なくともこの10~15倍の商いの実績がなくては成りません。
依って最低で50~75万石以上の実質勢力があったと観られます。(上限は判らない)

上記した経緯から平安期末期(1125年)に「2足の草鞋策」を実行した立ち上がり時期にはこの程度の勢力が必要であった事に成りますので、この事からその時の実績46万石/56万石に相似します。
伊勢青木氏は割譲が続く状況の中で、41-46万石に成った衰退時点で不足分を補う事で和紙による「2足の草鞋策」に踏み切った事が伺えます。同様の運命が近江、美濃、信濃、甲斐にも起こっていた事に成ります。しかし、この過程で近江、美濃と甲斐に「時流」に押し流されてしまう判断ミスを起こしてしまった事を物語ります。
伊勢と信濃の賜姓青木氏は何とか助けようとして余力を作り出すために「2足の草鞋策」に連携して力を入れた一つの理由にも成ります。
それ以後、「鎌倉文化と室町文化」の「紙文化」の花が運良く開きましたので次第に大商いを拡大させています。遂には、室町期には「総合商社的な商い」も認められますので、充分に美濃、近江、甲斐を援護し、上記の数式は元より「理念追求の行動」は可能に成った事に成ります。
室町期にはいち早く火薬を扱っていた事が記録で判っています。

(実は伊勢の松阪の大火の火元になった原因はこの火薬庫の爆発によります。明治期には一応は「花火」とされていますが、鉄砲や発破の原材料の火薬であったと観られます。)

この事から、長く続く「紙文化」と「戦国鉄砲」の「大商い」は明治期まで続きますから、外国貿易とあわせるとこの利益は計り知れない利益であった事が予測できます。
伊勢-信濃の青木氏と伊勢の秀郷流青木氏の「3氏の青木氏連携」によって徳川氏に匹敵する位以上に「総合勢力」はあったと考えられます。
この「総合勢力」に近江、美濃、甲斐の「2つの血縁青木氏」は連動して生き延びたとする上記の「勢力説」から観た説を筆者は採っています。

(伊勢青木氏と同様に、瀬戸内は阿多倍一族一門の平族の根拠地であり、天下の平族でさえ「殖産」を推進し、それを「宗貿易」で大商いを推進していた。 矢張り「殖産・商い」無くしては平族を維持しその中で配下の「姓化」を起こさせるには困難である事を物語ります。これに依って「宗貿易」を行い富みを獲得し、それを背景に海産物を扱う海部氏の他に「姓氏」と成った陶器の陶部の「陶氏」が室町末期まで中国地方全土を制覇していたのです。 九州では大蔵氏の佐伯部の佐伯氏も同じです。「たいら族」の栄枯盛衰はこの商いのここから始まっていたのです。)

伊勢青木氏を例とすれば「信濃の青木氏」や秀郷一門の「2足の草鞋策」を採用した各地の「秀郷流青木氏」の勢力は上記した様に推して知るべしです。

その意味では、上記した勢力を持つ青木氏の「古代和紙」の「殖産・商い」は、「品部」ではなく「部曲・民部」(かきべ)の職能域でもあった事、勢力から観ても充分な環境でありながら現地では「姓化」は起こらず、又上記した「氏名の継承」の徒弟制度があった事の為に、更には天領地の「民部」の「かきべ」であった事、「神明社」で固く結ばれた4つの青木氏の集団があった事等からなかなかその中に溶け込めずにその各地の「青木氏の地」に発祥しなかったのです。
総じて「3つの発祥源」の「氏」の地には「姓」を発祥させる事に躊躇したと観られ、又、発祥そのものも少なく有ったとしても「館」ではなく「2足の草鞋策」の方の離れたこの商取引の関係地(主に港、主要宿)に発祥させているのです。
「嵯峨期の詔勅」と「祖先神の神明社と菩提寺」と「4つの青木氏」が護る整えられた領域の中に「姓化」が興し難くかったと観られます。
「2足の草鞋策」や「シンジケート」と云った「自由性を持つ組織」を保持しながらも、このスクラムは別の意味で「排他的環境」の傾向であった事も考えられます。この「氏」の青木氏も「姓化」をしようとする方も遠慮した事も考えられます。そもそも徒弟制度の中で「氏の継承」をしていた事もあって「姓化」は”「差別化に成る」”と考えたかも知れません。
これは「商い」のみならず「3つの発祥源」と云う立場の印象から来るものが強く出ていて「2面性」を持っていた事による弊害とも考えられますが、これは「家訓10訓」で誡めているので考え難いのです。

それはそれで当然に止む無き事として、これは「姓化」に依って起こる「商取引」が当時の「運搬・運送状況の環境」に影響して全体的に大きく関係している事から来ていると観ます。
全体的に観ても、例えば鍛冶族は「金属の搬送」が可能な港と云う様に。上記した様に、その職能種の「殖産」の特長を生かす「地理性(環境)」を先ず優先し、「商い」に必要とする「市場性」は現在と異なり第2次的要素と成っているのです。従って、其処にはこの「地理性(環境)」-「市場性」の「2つの要素を結ぶ線上」の「運搬・運送」に適する地域に「姓化」が起こっているのです。

青木氏と守護神(神明社)-12に続く。


関連記事
 

名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒

青木氏と守護神(神明社)-10

No.277] Re:青木氏と守護神(神明社)-10
投稿者:福管理人 投稿日:2011/08/13(Sat) 10:57:42


  「平族の融合形態」

生き残るために必要とした「3つの条件」がどれだけ「大変な事異」であったかを判る為にはこの「たいら族」を含む阿多倍一族一門がどれだけの勢力を保持し青木氏を圧迫していたかを上記した事件性とは別に間接的なデータを以って検証する必要があります。
なかなかこの阿多倍一族一門まで掘り下げて研究している論文が不思議に無いので青木氏と大いに関わった一族だけに本サイトで掘り下げてみます。
本文に入る前に、この「融合氏」青木氏に対して対比する為にもう少し「民族氏」阿多倍一族一門の直系子孫と平族「たいら族」を掘り下げてみます。

「鶏の卵関係」=「氏融合」=「子孫存続」=(「血縁」と「生活の絆」)=「4つの青木氏」
「2つの血縁融合」+「2つの無血縁融合」=「子孫存続」の条件

一方、上記の「青木氏と守護神(神明社)-9」に記した「数式条件」を有する「青木氏」に対して、「平族」(たいら族)と阿多倍一族一門は、平安期では「民族氏」的な色彩の濃い集団で、後(本格的には鎌倉期以降)に関西圏と九州全土を「融合」で広め多くの「融合氏」を広範囲に構成しています。その九州に起こった氏では殆どがこの大隈の「首魁 阿多倍」の血縁を受けていて次ぎの6つに分類されます

「氏の基本数」は「約55」もありこれから次ぎの支流分流が起こっています。
1 本宗の血筋から輩出した氏族 18
2 支流に属しているが出自が不明な氏族 5
3 同族であるが出自が不明な氏族 14
4 同族であるが基本氏に相当するか不明な氏族 4
5 何らかの血縁があると観られる未勘氏族 4
6 鎌倉期と室町期の「未勘氏」と「第3氏」と観られる氏族 推定10 
(関係文書と家紋群より算出)

資料より確認出来ませんが、支流、分流、分派はこの5倍以上「280程度」に及ぶのではないかと観られます。(歴史的に観て多くは支流、分流、分派の分家は3~6の倍数にある。)
九州に於いてこの数ですが、家紋と氏の資料から分析すると定住地域は次ぎの様に成ります。

「定住地域」は「概ね5地域」に成ります。
1 中国地方 陶族や海部氏や武部氏等の支援豪族と平氏に成って広めた一族の大きな末裔基盤地域
2 四国地方 讃岐籐氏の基盤地域であるが平族に成ってからの末裔分布地域
3 近畿中部地方 阿多倍の伊勢領国と阿倍氏に関係する本領末裔基盤地域
4 東北北陸地方 内蔵氏に関係する末裔基盤地域
5 関東地方 国香-貞盛親子時代の赴任地基盤地域
以上の何らかの「末裔血縁族」を合わせると最終「大小550超」には成ると観られます。

 比較 鎌倉期以降 藤原秀郷一族一門361氏 550/361≒1.5

鎌倉期から室町初期に掛けては家紋から観ると日本の全氏では約800氏(姓族含まず)}と観られますから何と「65%(家紋)以上」がこの「阿多倍一族一門」の「末裔血縁族」で占められていた事に成ります。
平安期後半からこの傾向が強く「平氏にあらずんば人にあらず」はこの事から来ていると観られます。
国レベルでは「平安初期 48% :32/66」、「平安末期 66% :45/68」 氏数

これは源氏や藤原氏等よりは遥かに大きな「末裔血縁族」を有していた事は明らかです。
これに彼等の配下で「後漢の民」の末裔であった「品部180」が「氏姓族」に平安末期から成って行きますが、これを合わせると勢力と云う点で観ると「7割弱程度」730になるでしょう。

最早、この「鎌倉期以降 7割 :730」という数字は「帰化末裔氏」阿多倍一族一門の国と成り、「在来氏」30%は「異民族」であるとしても過言では無いでしょう。
(子孫繁栄力がそれまでの在来民の3倍と云うことも出来ます。)
800年ごろから「渡来人」と云うの言葉は書物から消えていますので、納得できる数字で「日本人」と成っている事を端的に物語ります。
ただ問題は「民族氏」の「物事に対する概念」が前記の様に「法より人」「石は薬」に代表する様に異なっていた事なのです。
天皇は帰化は認めたがこれでは”何かが起こる”と悩んでいた事はこの数字の検証からも明らかです。

例えば、此処では本基盤地で本末裔血縁族を有する九州地域を観てみると、此処には大蔵氏を筆頭に菊池氏や酒井氏や佐伯氏や宗像氏等の大きな古氏が存在します。
「産土神」の神社を中心とした古い「歴史性」があり、幅広く「事件性」を持っている北九州から南九州の肝付氏、廻氏等、同じく南九州の島津氏等の発祥源を検証すると、奈良期と平安期には少なくとも「平族」の始祖源となる「後漢阿多倍一族」の血縁を受けている事が明らかに観られます。

この関係を地名、家紋、関係資料から重複する氏族を洗い出しますと、多くは「大隈の首魁」であった奈良期頃の阿多倍一族が関係した地域には、必ず「阿智使王」や「阿多倍王」の「阿智」や「阿倍」「阿多」(現在も遺す)等の「地名」が古代に在った事や、何がしかの「証拠物件」が遺されているのです。
(阿多や阿倍は現在も存在します)

例えば、「阿倍」(あばい)から奈良期と平安期には「阿倍氏」(あばい-あべ)が生まれ、この「阿部氏」から一族から「生贄」にされた問題と成った以北の末裔「安倍氏」の氏が誕生し清原氏が発祥し、九州はもとより各地(関西-中部以北-陸奥)に分散し「氏の融合」が起っています。
彼ら末裔血縁族は、その地域の豪族との3倍の繁殖力の血縁があり、当時の「生活慣習」から明らかに「彼等の生活圏」にあった事を意味します。
平安時代末期に地方の豪族のみならず九州には朝廷から「弁済使」として派遣された都の豪族官僚5大氏の一つ「伴氏」(伴兼貞-兼俊)が九州各地で肝付氏(大隈国肝属郡)等を始めとして融合しているのです。(肝付氏の関係族 末尾の氏姓族参照)
九州全土が彼等の繁殖力で占められますが、中央の都とは「伴氏」(弁済使)等を「接着剤」として繋がります。(弁済使は税の官僚 今で云う税務官)
この「接着剤」なしでは「独立」の形に事が成り得ず、上記の数字で示す様にこの「接着材」を背景に爆発的に「自然力」で進んでいた事が判ります。
当時はこの「接着剤」が大きな意味を持ち、故に中央で力を持っていた事を物語ります。
(官僚の6割は彼等の末裔と品部の職能集団(史部等)で構成されていた事が日本書紀にも記述されています)
「伴氏」等の5大官僚が何故力を持ったかの理由が明確ではありませんが、恐らくこの「接着剤」であって、むしろこれは朝廷が採った「何かが起こる」の戦略であった事が原因している事を意味します。
日本の国の「軍事、経済、政治」のどの面から見ても「65-70%の力」を持った一族一門と「5大官僚」との血縁でこれを「背景力」にし、朝廷内では「5大官僚族」として巾を効かせる事で「天皇力」を彼等に持たせたのです。
「5大官僚」を「背景力」=「接着剤」=「仲介役」として存在させ大蔵一族とのバランスを保っていたのです。
しかし、これも根本的な解決戦略ではありません。「何かが起こる」の一時的な彼等に対する「抑止力」としての効果に過ぎなかったのです。

最終的には、1018年九州全域を「3権の自治」を認め、「遠の朝廷」として「太宰大監」の任を与え、「大蔵種材」に「錦の御旗」を与え「統治権」を委ねる結果で納まったのです。
そして「民族氏」から「融合氏」へと巨化(進化)して行く事に成ります。
最終は何とか八方を成功に収めたのですが、累代の天皇が懸念していた「何かが起こる」は大きい「国家の分裂的事件」へと成らなかったのです。
後勘から観れば、「3権」と「民族融合」の観点からも”これ以上のバランスの採れた解決策はなかった”と成ります。しかし、それは国が危機一髪の状態で下記に示す「汚職、腐敗、騒乱」の「大荒れの状態」から立ち直ったものであったのです。

「融合事件(繋がり)」
依って、「民族氏」から「融合氏」へと変化していったことで成功裏に納まったのですが、これを「融合」という観点から更に調べて行くと、阿多倍の根拠地九州にはその経緯として青木氏にも関係する一つの「融合事件(繋がり)」が此処にもあるのです。
青木氏は間接的ではありますが、「氏融合の最低条件」を成り立たせる実に密接に各地に「氏融合」を進めている事件の例が数多くあります。

(青木氏の融合形態の例)
因みにその例の一つを記述します。
1180年清和源氏の宗家頼光系4家と本家筋の源三位頼政が平族に対して旗揚げをして失敗します。(以仁王の乱 1180)
この時、伊勢青木氏が領する伊勢国の北部伊賀を(大隈の首魁阿多倍一族 平族に)朝廷から奈良期に割譲され定住していました。
隣の松阪の伊勢青木氏は次ぎの深い親交から京綱(伊勢青木氏に跡目 頼政-仲綱の子3男)を通じて助命嘆願します。
(桓武天皇の母の「高野新笠」(伊勢伊賀の阿多倍の孫娘)は、伊勢青木氏の祖の施基皇子の子供の「光仁天皇」の妻です。 即ち、桓武天皇にとってみれば、父方は伊勢青木氏、母方は伊勢阿多倍の一族、跡目青木京綱の3つの関係があった)
平族は伊賀の「阿多倍一族」宗家からの助命嘆願を受けて「頼政」の孫の「仲綱」の子の3人の内2人と叔父(宗綱、有綱と叔父高綱:京綱は伊勢青木氏に事前に跡目)が処刑されずに九州日向国の廻村に配流されます。(除名嘆願は有名な事件)
この時、肝付氏一門の廻氏等の支援を受けて城を築き再び「九州平族」と戦います。
敗退して敗死、廻氏との間に生まれた末裔と廻氏と共に、本家の阿多倍の血縁を受けていた肝付氏の領内薩摩大口村の山寺に逃げ込みます。
この時、この末裔は「嵯峨期の詔勅」に基づき、又、清和源氏の頼光系頼政本家(宗綱、有綱)を同族伊勢青木氏(京綱の跡目)に移した事等の2つの理由から寺の僧侶に勧められて追手から逃れる為には「日向青木氏」しかないとして名乗ります。(嵯峨期の詔勅に基づき名乗る)
(後に日向青木村を形成してこの末裔を抱えて農兵民になり黒田藩の領民となります。明治3年8年の苗字令に基づき青木氏を復活させる)

賜姓青木氏は「永代不入不倫の件」が認められているので、その末裔とすれば平家は手を出せない事になります。又、九州南部の周囲は阿多倍の肝付氏の本拠地 敵地の本拠地の中では青木氏を名乗ること以外になかったのです。九州全体が敵地でありだから配流先として選ばれたのです。
阿多倍の領国薩摩国(大隈地方を割譲地:平族の始祖の割譲地)の懐に逃げ込みます。
”雉子懐に入らずんば猟師これを撃たず”の言葉通りに隼人の本拠地近くに逃れたのです。
(この事でも判る様に阿多倍一族一門の族間の絆は薄い事が判ります。)
「平族」の本領でもこの関係でこの青木氏末裔(日向青木氏 現存)を結局は討つ事は出来なくなり子孫を遺しました。(後に九州に唯一の青木村を形成し「兵農」として黒田氏に仕える)
この様に「廻村の民」の様に地元に根ざした「生活、社会の絆」から新たに「氏の融合」が生まれ子孫の存続拡大が青木氏には起こっているのです。
しかし、この考察から観られるように特長が出て来ます。
「平族」即ち「阿多倍一族一門」にはそれは殆ど「血縁」が明らかですが、その元となる「出自」が明確でない事です。ここにもこの一族一門の特徴が出ているのです。
これだけの本流氏34にも成る肝付氏の一族でも「民族氏」の概念が色濃く引き継がれているからに過ぎません。
これでは近隣は兎も角も国を超えては時代が進むと、情報社会が低かった時代では一族一門が「互助」「合力」は働きません。

「互助」「合力」
「平族」が滅亡した理由の一つが、次ぎの事となります。
中国地方と九州全土のこの「氏族」を味方にして、更に中部北陸から挟撃して戦えば100%で勝てて居た筈で氏を遺せた筈ですが、しかし、平安末期には余りにも一族の「氏の融合」が進み、その結果、自らの氏が「平族」に血縁している事が不明(出自不明)と成っている為に末裔は味方する事に躊躇した事が原因の一つとして観られるのです。
恐らくは歴史的経緯から彼らは薄々は末裔と承知していたとは考えられますが。平安末期-鎌倉期-室町期には末尾の資料の様に「姓族」は爆発的に融合拡大します。
其の為にそれなりに中心氏と成る者がいて「氏寺、氏神」で管理されて居れば一族一門性の「融合氏」の「互助の結束」は成り立ち出来るのですが、それが無った事から「民族氏」の形態の「無関心の感覚」だけが残り、その「他の民族性」は消え去ったのです。
ただ鎌倉中期-室町期には関西から関東域に掛けての「菩提寺による集団」の形態は殆ど無く、その代わりに九州-中国域には「氏神による氏子集団」としての連合結束する傾向が生まれて来たのです。
日本の融合氏はその経緯から次ぎの2つに分類されます。
関西から以北に掛けては「氏神の守護神」-「氏寺の菩提寺」を中心とした「融合氏」を「第1の融合氏」とすれば、関西から以西の中部九州域は「第2の融合氏」とでも云うべきものに変化していったと考えられます。
「第1の融合氏」 関西以北 「氏神・鎮守神・祖先神の守護神」-「氏寺の菩提寺」の2つを標榜する融合
「第2の融合氏」 関西以西 「産土神の守護神」を主体 神道系 「民族氏」系「融合氏」
参考
神道系融合氏の例
阿蘇神社・宗像神社-菊池氏、酒井氏、佐伯氏等 
出雲大社-亀甲氏子集団等

資料からこの一族一門の「34の姓氏」に共通するものとしては次ぎの事が挙げられます。
A 上記の氏子集団化が加えられている事
B 「家紋:三雁金紋、支流は丸に桔梗紋」である事
C 襲名の名を「兼・・」と関係する事
D 地名を「姓名」としている事
以上4つが共通項です。
これを慣習として「一族である事の印」としていたのではないかと考えられます。
つまり、それを「一族一門性の証」としていたと観られます。
ところが時間の経過と共にこの「一族一門性の認識」が不思議に薄れていったと観られます。
何故なのでしょうか。

鎌倉期-室町期の変化
関西-関東域には「氏神・菩提寺による集団」「互助の概念」-「融合氏の形態」「弟1の融合氏」
九州-中国域には「氏神による氏子集団」「無関心の概念」-「民族氏の形態」「弟2の融合氏」

「源平合戦」では、「平族」は意外に上記した「1から5の血縁族」が味方に成らなかった事に大いに悩んだ筈です。
原因(下記1から3)は判らないままにうすうす知っていたのかも知れません。
それは奈良期、平安初期と古く成りそれが血縁を確認出来なくなってしまった結果なのです。
逆に云えば、むしろこの現象が本来の「氏の融合」でありそれが著しく進んだ結果から来るものかも知れません。
しかし、重要な事は此処には「平族」には更に「青木氏」と違うもう一つ大きな欠点(下記)を持っていたのです。
「平族の非融合の欠点」
これを見逃しては成らない事なのです。
この後漢「大隈の首魁阿多倍」が引き連れてきた職能集団「部」の氏族も同じ傾向を持っています。

例えば、室町期の中国地方全土を制覇していた「陶氏」は後漢16ヶ国の「陶部」(平安末期の記録有)の頭領です。他には、「品部」(180)の中で最も早く「姓氏族」を発祥させた海部(平安末期の記録有)、武部、村上氏等多くはこの血縁を受けています。
「平族」はこれ等の末裔「村上水軍」等の中国地方の氏豪族を背景に戦ったのですが、九州の中部より南の氏族は味方しなかったのです。
筆者はむしろこれらの無数に近い「品部」(雑戸含む)等の「血縁族」が一門と強く認識していた場合は源平の「たいら族」は勝利するか、又は1018年以前に九州全域を明らかに「独立国」と出来ていたのではないかと観ています。
事実、過去(150年前)にその「独立」と云う歴史を史実として下記に示す5度の経緯を「平族」は持っていたのです。

「独立への経緯」
先ずその5度の中で最も有名な挑戦事件として、「平族」の初期の「国香、貞盛」の頃、関東に「独立国」を目指した一族の「平将門の乱」が起こっています。
この時「国香」が同族「将門」に殺されたのですが、「貞盛」は父の仇でありながら最初は観て見ぬ振りをして放置していたのです。”何故見ぬ振りしたのか。”の疑問1が残ります。
未だ、始祖「阿多倍王の没」より余り時間が経っていない時期でもあり、「後漢の意識・感覚」が強く残っていて、上記した勢力(70%)の一族を終結させれば、朝廷より遠く離れたところで関東域でも「たいら族の将門」も「独立国」を造れるのではないかと観ていた反乱ではないかと考えています。
”何故、親族の国香を殺さなければならなかったのか。”の疑問2が残ります。
歴史の通説では”土地をめぐる一族の争い”となっていますが、これはおかしいのです。
そもそもここは2人の「領国」ではありません。「知行国」で国香・貞盛親子と将門は押領使と追捕使等を務める朝廷派遣の令外官の役人です。通説の”土地争い云々”の話ではありません。(国香は将門の叔父)
それならばその役目上で貞盛自身自分で解決しなくてはならない筈で、様子見などはもっての外であります。そもそも勲功の対象にはならないのです。土地の奪い合いをしても何の得にも成りません。
朝廷より赴任地変えを受ければそれで終りで、犠牲を負うだけ損です。通説の論調が矛盾しています。

(「通説」への注意 「後勘に問う」)
歴史の通説は第1には前後の「時系列の検証」が欠けているのが殆どです。
実は第2にはこの「知行国」と「領国」の判断の間違いの通説が実に多いのです。(前記の「源平の美濃の戦い」の通説も全く同じ間違いを起していました。)
”何故この様なミスをするのか”と云うと、次ぎの第3の事が原因しているのです。
それと第3には朝廷側から観た「不都合な事」は「事件の反抗者・当事者への罪人扱い」としての決め付けが偏纂資料に書かれているのを前提に通説として用いているのが多いのです。
この第3の事が原因して第2の矛盾が生まれるのです。
ミスと云うよりは「承知の上でのミス」なのです。
これ等は資料に忠実であればある程に起こる問題です。
第1 「時系列の検証」
第2 「知行国」と「領国」の判断の間違い
第3 「不都合な事の偏纂記録」
第4 「承知の上でのミス」

この「4つの要素」(第1から第4)の配慮の判断ミスが通説の間違いの主因です。
要するに”歴史を読み解く側がこの矛盾を判断すればよい”の考え方であり、当時の「慣習」なのです。
つまり、系譜・系図のところで書いた”後勘に問う”の慣習であるのです。
ですから、”後勘に問う”で”読み取る側が修正すればよい”と云う事に成るという「日本の歴史の慣習」であるのです。

ルーツなどを調べる場合は、この4つの事に配慮しながら進めますが、第2の場合は調べればすぐに判ることです。しかし、この第2には色々な「歴史的意味合い」を多く持っているのです。「時代考証」が大きく絡んでいて当時の「慣習や仕来り」の雑学を必要とします。実は作業は簡単ですがこの間違いが一番多いのです。向後の資料の殆どは「現代感覚」で判断してしまっている場合が多いのです。
第3は記録に残すものは「よい事はよりよく書く」、「悪い事はより悪く書く」の人間の性が起こります。
これをより正しくするには「ギャップ差」を見抜く事が必要に成ります。
それが第1の「時系列の検証」なのです。「前後関係」から観て”その「事象」があり得るのか”を推理し判断し検証して確定をしなければならないのです。特にその差を必要とする場合は筆者は下記に記述する「自然の摂理」による技法を用いています。
この第1から第3まで判れば第4は自然に判ります。
これが歴史資料が求める「後勘に問う」の作業と成ります。

当事とすれば資料も少なく、時代の環境も厳しく、”承知でこの様に書かざるを得ない”と云う事もあり、まともな資料は上記した様に、だから「書き記した人」と「後勘に問う」の「2つの語句」を記するのです。
しかし、「搾取偏纂の系譜」などは”ばれては困る”の訳ですからこの「2つの語句」を書かないのです。
「書き記した人」の事を調べられて搾取が判るし、「後勘」に問われては嘘がばれてしまい末裔が大恥を掻き困る訳ですから書かないのです。

これは仏教の精神構造から来ているもので、その思考の根底は”「三相」(人、時。、場)により事の真偽は変わるのだ”とするもので、とりわけ「武士の精神構造」を成していた「禅宗の問答」にあるのです。
心理の追求の問いに対して何度も追及され、最後に、窮すると”答えは後勘に問うものなりー”と交します。 ”仏教の教えの「三相の原理」により、今、答えを出すものではない”と交すのです。
「後勘に問う」は仏教の教えに従い正しい姿勢なのです。
”物事をこうだと決め付ける事はよくない事である” ”何事も拘ってはいけない”と云う仏教の最大の教えを護っていたのです。
”「後勘」から観れば今は多少の矛盾があっても良いのだ それは「後勘」が正してくれる”なのです。
”今はそれなりの理由があって書き記しているのだから正しいのだ”としているのです。
故に、”多少の矛盾と疑問はあって良いのだ”としているのです。
例えば、”「日本書紀は矛盾があって信用できない。”と主張する学者もいますが、この主張そのものが間違えているのです。当時の「後勘に問う」の精神が理解出来ていないのです。
「後勘に問う」は「色即是空 空即是色」「色不異空 空不異色」の解釈の当時の社会の忠実な実践でした。仏教精神が希薄に成った現在の一文の間違いも許されない社会と違い、当時は仏教精神がそもそもが大きく社会の規範に成っていたのです。

だから「歴史の研究」にはこの事(「後勘に問う」)で大変惑わされ時間を要するのです。
しかし、「歴史の探求」が面白いのはこの「後勘に問う」があるから”見つける事の楽しさ”が湧き出でてくるのでしょう。
普通は、そのままに信じて行くと上記の「将門の乱」の様に必ず、”アレ”と云う風に疑問矛盾に突き当たってしまうのです。
(疑問1と疑問2の共通する応え)
ともあれ、この「後勘に問う」で行くと、疑問1と疑問2の共通する応えは”味方するのを待ったが、結局しなかった。だからこの独立国の計画はその内に頓挫すると将門は考え殺してしまった。”とすると納得できます。この様に要は第1位の「時系列」の紐解きが重要に成るのです。「時系列」は真に「後勘に問う」の役目です。
”南の九州でも自治か独立に近づいている”と考えていて、”関東で成功すれば九州の大蔵氏でも反乱を起こす”と戦略を描いていたのです。
(ところが、朝廷もしたたかで大蔵氏を褒章冠位官位など出来る事全て賭けて宥め行く末に自治を約束します。大蔵氏の資料 純友の乱の指揮者に任命)

(九州は「自治圧力」のその直前の状況であったし、「荘園制の行き過ぎ」で国内全域の不満と混乱はもとより、北の一門の阿部一族末裔の「長い騒乱状態」が背景にあった。
その結末の事件はずれていますが、全ての事件には「前兆現象」の期間が10-20年位はあるのです。)

この背景の下では、”その鍵は伊勢伊賀の国香の動きが戦力的にキーと成っていた。” として動かなかった親族の国香を抹殺したのです。そうなってしまった貞盛は困惑し「将門の乱」の行く末と自らの一族の行く末を見計らっていたのです。
現に九州全域、特に南部(肝付氏:713-730に戦う)は殆ど朝廷の力が及び難い地域であった事から既に「自治国」的状況であった。(1018年自治)
陸奥では既に阿倍一族と内蔵一族も勢力を高め東北北陸一帯は既に勢力圏にしていて騒乱状態下にあつたのです。
この3つがこれを期に動けば最早日本は阿多倍一族一門の国に成っていた筈です。

この様に一族の者が関東で「新皇」と呼称して関東に「10年間は独立国の覇者」として君臨した経緯を一族は持っているのです。

しかし、そこで誰もが日本全国の大勢力「平族」の「末裔血縁族の動き」を見計らっていたのです。
この動かない状況を観て危機感を感じた朝廷が西の大蔵一族の動きと北域の阿倍内蔵の一族の動きを横目に見ながら困って先ず関東の乱に特別な条件を出します。
やっと名乗り出たのが何と一族の伊勢伊賀の宗家「平貞盛」と、予想外のこの地方の下野の押領使「藤原秀郷」だったのです。だから平定に5年以上も掛っているのです。西と北の動き見守って焦らずにすすめたのです。しかし、大蔵氏は乱を避け「自治獲得」を考えていた為に動かなかった、いや動けなくなったのです。
と云うのは、九州全域が”他人事のように争いを好まず積極的に動かず”であって、その背景には技能を求めての在来民の民が180の部に大きく関わっていたからなのです。それと「民族氏の融合の形(第2の融合氏)」がそれを拒んでいたのです。
(「何かが起こる」の疑念の元になっている「民族」の感覚と「融合の氏」の感覚の違いから起こる「国民性の差異」が露骨に民に引き継がれて出ていたのです。)

朝廷は8世紀前半の大隈での反乱での敗退で、その反省から西の動きが自治を認める事で解決するのではと観察していたので、先ず関東の乱を鎮める事に専念したのです。
この時は既に天皇は西の問題は「自治」で解決する腹づもりであったことが伺えます。
”北はまだ反乱には至らない時間がある”と踏んでいたのです。
関東から始まり西、北の事件はほぼ50年間隔で起こっているのですが、天皇家の内心は「体制の崩壊」の危機感でいっぱいに成っていたのです。
実は「何かが起こる」はこの様な経緯の中で「荘園問題による崩壊の危機」も含めて400年の間で起こっていたのです。その強い危機感が累代の天皇にあったのです。

そもそも、両者共に「押領使」と「追捕使(令外官)」に任命されていたのであれば「警察権と治安権」を持っているのですから鎮圧出動するべき立場にあり、まして統治の国司から進言があって、その為に特別に派遣された「令外官」なのですが、観て見ぬ振りをしていたのです。
近くに居て旧領地の下総を奪われている秀郷にしてみれば ”一族の貞盛が居るではないか”と成るでしょう。”今下手な出立てをすると平族を敵に廻す事に成る”と考えたでしょう。
「貞盛」にしてみれば「将門」は一族なれど分家支流となれば”そんなの知るもんか”の「民族氏」の感覚が湧き出てくるでしょう。”場合によっては”とそれなりのゼスチャーを見せながら見据えていた可能性があります。
そもそもその証拠に事前にこの地域が「不穏な危険域」として観て「国司」や「郡司」から強い要請があって朝廷は「2つの令外官」を派遣していたのですから始めからこの傾向があった筈なのです。
更に、そもそも「押領使」は当初は「軍事上の兵員移動の担当官」であったのが、この乱の前から権限を大幅に広げて「反乱鎮圧(警察権併権)」にわざわざ変わったのです。
又、「追捕使」は「凶賦を追捕する役目」を持っていて「臨時任務」であったのですが、この状況を観てこの時から常置するようになったのです。全て符号一致しているのです。
「鎮圧平定」まで「切っ掛け」から観れば5年ですが、実際は前の混乱期から観ると少なくとも10年-15年程度の前兆期間になっていた筈です。
この乱以降はこの「令外官」は要請ある地域には各地に常駐する事に成ります。
ですから、「50年前後」で10年から15年程度を重複しながら「何かが起こる」の事件は進んでいたのです。

この「押領使と追捕使(令外官)の状況」を観ても”観て見ぬ振りをし、下手な手立てをすると、そんなの知るもんか”が働いていた事は明らかです。
間違いなく一族であり且つ事前に追捕使で派遣されている貞盛にはその役目があった筈です。
まして「融合氏」の秀郷にしてみれば”急に治安警察権への変更と云われても困るし貞盛が居るだろうが”と成ります。
ここでも阿多倍一族一門の「民族氏」の抜け切れない「民族氏」の「遺伝子的で無関心な感覚」が出ているのです。これが平族等の「彼等の特徴」なのであり概念ですから間違っているとは考えないのです。

この時期の背景も背景なのです。同時期1年後に瀬戸内から北九州に掛けて「純友の乱」の「独立反乱」が起ったのです。急に起こったのではなく「3-5年の潜伏重複期間」があって起こっているのです。
何か繋がりがある筈です。
「将門」は何らかの「純友」との繋がりを持ち「反乱」を共に呼応したのではないかとも観られます。

資料をよく考察すると、何れも「清和源氏の始祖の源経基」が関わっている事が判ってくるのです。
「将門の乱」は経基は「武蔵介」在任中に「郡司」(地方の行政長で地方豪族)と対立し、「追捕役」として仲介に出た将門に不満を持ち朝廷に告訴するのです。要するに逆恨みです。
「純友の乱」は大蔵氏と共に源経基は乱を鎮圧した事が大蔵氏の資料から判明します。
ところが通説は異なっているのです。源経基と小野好古の二人と成っています。
経基が朝廷に告訴(讒訴の傾向あり)します。
(朝廷記録の疑問)
ところが、何故、朝廷はこの事を書き記さなかったのか疑問が湧きます。
それはこの「2つの事件の経緯」と「朝廷側の苦しい思惑」が働いていたのです。
要するに歴史始まっての大褒賞と大勲功をした上で大蔵氏を指揮官に命じて置いたのだから当然そちらの方で記録が残る。片方で多少朝廷側の「立場事情」があって、「経基の讒訴」から事を歪曲させて「事件」から「乱」に仕上げたのだから、記録上は大蔵氏の事は別の意味もある事だし「後勘に問う」で逃げたのです。
「朝廷側の立場事情」とは「九州大蔵氏の自治独立の難題」と「以北の騒乱状況」でこの件で「純友や将門の事件」が引き金に成って収拾がつかなく成る事を恐れた事なのです。
そこで、先ず九州大蔵氏の「自治独立」の問題を無くす事の目的から、この事件を利用して「九州自治」を約束する形で「褒章勲功」などできる事全てを行う式典を行った上で指揮官を命じたのです。
指揮官の任命は名目です。
官僚からすると名目上は「別の式典」として記録する事を避けたのです。
「指揮官を命じる事」は「名目上の手立て」であり、同時に「中国以西の管理統括権」を与え約束する式典にも成る訳ですから、「純友や将門の事件」は質的に違う事から、官僚は記録を切り離して「褒章勲功」の方で別に記録して「後勘に問う」で逃げたのです。
その証拠に、「純友や将門の事件」の讒訴者でもあり、事件発端の当事者でもある経基の追捕の立場を「次官」として責任者の立場を与えなかったのです。また、逆恨みもはなはだしい将門告訴の当事者の経基は追捕とその責任者に指名されなかったのです。この事でも経基の立場と行為は見えて来ます。
責任者に任じられる事は鎮圧後にはその勲功とその地域の管理統括者に成れるのです。
しかし、経基にはその権利を与えなかったのです。
(経基には第6位皇子でありながら長い間源氏の賜姓を受けられなかったのです。事件解決後やっと受けた時の喜びの記録が遺されています)
「後勘に問う」から観れば”経基の行動少し変だな”と感じる筈です。
その”変だ”に対して直ぐに誰でもが察することですが、”事件を讒訴させ解決して勲功を挙げさせ賜姓の根拠にする”と受け取るでしょう。そうすると、これで ”アレ、責任者は誰”と「後勘に問う」で気付く筈だとしたのです。
「責任者探し」で「別の記録」(勲功幇助の記録と大蔵氏の記録)から大蔵氏が責任者であり、その時に責任者として事後は瀬戸内中国以西の管理統括権を大蔵氏に委ねる事で「九州の自治独立の問題」は解決する方向に動いた事が判明する事に成ります。芋づる式に判明します。
それでなくてはこんな事件の責任者任命に何も大げさに下記に示す要に「錦の御旗」と「国刀」と「従五位下の官位」等の現在までの有史来の誰一人も与えられていない様な勲功授与式典にする訳がありません。
誰が見てもここが「後勘に問う」で”変だな”と気が着く点の筈です。
さすれば朝廷としては「九州の自治独立の問題」は歴史上に遺す記録としては避けなければなりません。
少なくとも「後勘に問う」で判明したとしても絶対に避けるべき記録事であります。
 
とすると、「大蔵氏の自治独立」の方に主眼を置いて利用した事ですから、「純友や将門の事件」の内容には多少事件の歪曲が事件の取り扱いと記録上で働いている事に成ります。
そこで、何れも朝廷側から見ての罪状認否は次ぎの様に成っています。
将門は関東の賊に仕立てられ、純友は瀬戸内の賊・海賊に仕立てられている事になっています。
2人は何れも元役人。純友は「海賊」を取り締まる役人。その役人が海賊に成って反乱したとする朝廷側の言い分です。
将門は役目柄で藤原玄明を匿まったが常陸の国府を襲撃したとの朝廷側の言い分です。
経基は清和天皇の孫皇子でなかなか「源氏賜姓」を受けられなく功を焦っていたのです。
ところが疑問・間違いがここにあるのです。

「当時の海賊」(瀬戸内の海賊)とは、海の盗賊の意味での「海賊」そのものではなく、陸上にもある様に海上の「海利権」を糧として海上に「運行の安全」を保障し君臨した荒々しい仕儀する豪族の事ですから、明らかにわざとらしい間違いがここにあるのです。
そもそも、瀬戸内は讃岐藤氏の青木氏が海利権を持ち、対岸の中国側は「たいら族」の水軍(後に村上水軍)が持っていたのです。この事で海の海運の運行や漁業・海産物の殖産の安全の管理責任を負いパトロールなどの行為で「海の賊」等の掃討に働いていた「海の族」の「海族」(海のシンジケート)と称されていたのです。
それを「海賊」とわざと決め付けて記録したのです。明らかに当地の豪族によって管理統括されている海域で「海賊」がこの「乱」と呼称するほどの力は到底無く青木氏らによって押さえ込まれていたのです。
これ等の事を承知していれば明らかにこの矛盾と偏纂は「後勘に問う」であります。
瀬戸内の秀郷流青木氏は丁度この80年後頃の時期に「2足の草鞋策」で回船問屋を営み対岸から伯鰭の日本海沿岸までその圏域を伸ばします
「藤原純友」(藤原氏の養子とも言われ多説あり)は「海賊追捕使」(この事件に初めて派遣された「令外官」なのです)を務めていたのです。
これも「恣意的事件の根拠」としている事と明らかに矛盾しています。

(将門が上野を攻めた時の「上野介」は純友の父。 中央から派遣された行政長官の階級は 守「かみ」、介「すけ」、掾「じょう」、目 「さかん」と成っている。国司では介が実質の長官 )
(「藤原純友の乱」の主謀者純友は「上野介の父」がこの乱に関わっていた事から「将門の乱」をよく知っていた筈。)
(中央の行政官「国司」と地方の行政官「郡司」とは立場は必然的に異なりこの2つの事件の発端は源経基の「武蔵介」と土地の豪族の「郡司」との立場の違う「勢力争いの諍い」が原因している)

この時以降、「将門の事件」を含み各地に申請により「令外官」は派遣されるように成ります。
(国司が令外官の派遣申請の目的と郡司の申請はその目的とするところは異なる)
そもそもこの「海族」は各地にもあり、紀伊水軍、熊野水軍、伊勢水軍、駿河水軍、摂津水軍などがあります。(この5水軍は源平合戦の時義経に味方して、「たいら族」の水軍を破ったのです。)

又、当然、役目柄で過剰な行為に対する事に対して取り締まるにも「硬軟の戦術」があります。
見方によれば「純友の行為」は「海賊に成った」と成るでしょう。これを経基にこれまた讒訴の告訴をされ止む無く戦う事に成ったとするところでしょう。
将門も役目柄仲介しているのに郡司に恨みを持たず仲介役の自分を恨み、挙句は告訴される。
止む無く争いの藤原玄明の当事者を役目から安全上匿うことに成りますが、それを告訴されれば”何だ朝廷と経基と郡司は”、”経基等にしてやられた”となります。(玄明は常陸介末裔-父と将門は親交)
それを理由に攻めてきますが実力で応戦し周囲の朝廷軍を潰し回った。これに応戦出来る者なく、”それならば腐敗した朝廷に代わって関東の自治を九州の一族大蔵氏と同じ様に独立国にする”と成って反逆的な様相となった。そこで一族の国香に同調を求めたが反対された。結局は国香を潰す事に成ってしまった。以上と成りますが朝廷側の片方の言い分が先行していて何か変です。

「新王」とかの決め付けは朝廷側の言い分の罪状認否の明文構成ですので、「後勘に問う」からすると、朝廷側の言い分に上記した様に「時系列的史実」として傾向としては無理矛盾が多く出てくるのです。
後世に残す記録としては朝廷側を正とした大義名分が必要と成ります。この事から無理矛盾が出てくる事が多いのです。
この事から世の争いの「讒言讒訴の常」で、どちらにも同時に関係していた経基の動きから当時の朝廷内部の政治の何かが読み取れます。
(因みに海賊の意味の例としては、源義経はこの関西の4海賊軍で「たいら族」の瀬戸水軍に勝った。もし海族が悪とするならば義経は悪の親分に成ります。そうなのでしょうか。変ですし無理が伴います。)

その理由は「瀬戸内」と「坂東」どちらも「平族」の平安期中期までの基盤地域であり、同時期であり、「役職的な立場」と「反乱の根拠」の行動に持ち込む為の手法が全く同じである事です。

「歴史の時系列」と「史実の列記」から考察するとこの様に見えぬものも見えてくるのです。真にこの様に矛盾が出て「後勘に問う」と成るのです。
(3つ巴の構図と朝廷の思惑)
この2人(純友・将門)に何か親密な繋がりがないか調べていますが確定するに足りるものは現在確認出来ないのですが、あるとすれば”純友の親を将門は攻撃した”とするもの位です。
対立構図は「藤原氏」対「平族」の形でも、或いは「源氏」対「平族」の形でも、「藤原氏」対「源氏」の形でも、全く「3つ巴の構図」であったのかも知れません。
(筆者は「3つ巴の構図」と見ていて朝廷内の勢力分布の丁度狭間にあったと考えています。)
と云うのは、広域で云えば、朝廷から命じられた追捕使と押領使の「平族」の統括域とは云え、藤原氏北家の進出基盤地域でもあった処に「平族」の「将門の乱」(935-940)、「平族」の基盤地域に「藤原氏」の「純友の乱」(936-941)、共に相手先で起し合った「乱」とも観えます。これに経基が絡んだ「乱」とも観えます。
だから、誰も手を挙げない中で「平族」から「貞盛」 「藤原氏」から「秀郷」が名乗り出たのです。

源氏は何故名乗り出なかったのか疑問です。”潰す勢力が源氏になかったのか”と云うとこの後直ぐに清和源氏と成った3代目頼信系の源義家は以北勢力に力を注いでいますので「鎮圧の勢力」は無かったとは云い難いのです。
確かに頼信は兄頼光に守護代を譲り受けて兄の領国の伊豆を拠点に関東に勢力を伸ばしていました。手を出すと「藤原北家-たいら族平氏-頼信系源氏」の争いの構図が出来て共倒れが起こると観たと考えられます。
(天皇の思惑)
そこでこの事で”誰が得をするのか”と成ります。
それは、この事件の背景がそもそもそれが3氏の「潰しあい目的」が天皇の策略であったからです。
九州の大蔵氏には朝廷は最早歯が立たないところまで来ている事から以西は「自治」にして解決し。、東は3氏のどれかを遺す戦略です。そして”以北の阿部氏等の勢力は義家に潰させ私闘とする”を描いていたのです。
現に、この2つの乱・事件と思しき事件は、結局は朝廷にとっては「汚点の事件」でありますから、事件中は仲裁が入り私闘とする事の旨を将門側に史実正式に出していますので、「私闘」として裁かれ記録される結果と成っています。この時から天皇と朝廷は「私闘」の方針を持っていたのです。
「私闘」であれば「恩賞」「論功行賞」はしないのが普通ですが、この場合は秀郷と貞盛の約束がある為に特別の事はせず辞令により約束を護るだけの行為は果たします。
経基には源氏の賜姓を行いました。貞盛には官職の引き上げの約束をしますが、一代遅れの惟盛で行いました。
結局はここで「漁夫の利」を得たのは秀郷で、以後、関東域全域を獲得し支配下に入れますし、この時以降秀郷一門は藤原氏の北家一族として他の3家を潰して最大勢力に伸し上がります。
ただもう一人何もしないで利得を獲得したのは大蔵氏で中国以西と九州全域の自治権と貴族の身分と氏の誉れを獲得するのです。
結局、天皇はこの「2つの氏」(源平)を遺し、残りの2つ(大蔵氏と藤原氏)は潰す事を狙ったのではないでしょうか。この事件後の仕打ち・仕置きを見ると判ります。
「たいら族」は”美濃に下げられる”と云う事で最も危険な「源平の緩衝地帯」に追いやられます。
この事で「源平の潰しあい」を起こさせたのです。
この天皇家が描く戦略によって「たいら族」は滅亡し、11家あった源氏と義家等は「私闘扱い」とされ、且つ天皇から疎んじられて衰退し、遂には頼朝の反抗で一時的に蘇ったかの様に観えた事も静かに力を蓄えていた第7世族の坂東八平氏に3年も経たぬうちに完全滅亡させられるのです。
天皇の描いたシナリオは成功します。
更には普通なら地元の豪族集団の皇族7世族(ひら族)「坂東八平氏」が土地を奪われているのですから手を挙げる筈です。しかし、「将門」を潰すだけの勢力は「平族」と「藤原氏」と「源氏」の3勢力とに押されて「7世族の坂東八平氏」と云えども其の勢力は無かったのです。
この事が皇族7世族(ひら族)「坂東八平氏」にとっては、結局、”棚から牡丹餅”の結果となるのです。
結局、「たいら族」がこの結果、朝廷の懲罰を受けて一族は上総下総を残して平族(たいら族)は中部(美濃域)まで下がり勢力圏を以西の美濃にまで戻されて、この時以来、関東域にはきっぱりと勢力は無く成るまでに下げさせられたのです。
(この時から美濃秀郷流青木氏が大きく関わってくるのです)
(これが原因して緩衝地帯の美濃で源平の対立激化が起こり、美濃秀郷流青木氏が何とか仲介を図りバランスを取り戻そうとします。)
(秀郷一族の先祖伝来の上総と下総結城は取られたままに成っていたが、平氏退場後は実質支配の形であったが、最終的に頼朝により旧領と本領は安堵される。)

秀郷には恩賞の2条件が叶えられて「武蔵国、下野国」を与えられ、結果、関東は秀郷が押し出してその勢力権域を取り戻す事に成ります。
実はこの事から裏では大きく「純友の乱」を鎮めた大蔵氏を含む「5つの勢力」がうごめいていた事に成ります。

「2つの事件と青木氏の関係」
この思惑の働く混乱の中間に居て「3つの発祥源」の立場を護った2つの青木氏は巻き込まれる事無く子孫を遺し、「2つの賜姓族青木氏」は清和源氏の頼光系四家の血筋も受け継ぐと言う事を成し遂げます。これには秀郷流青木氏のバックアップがあった御蔭であり間一髪の「生き残りの戦略」であったと考えられます。一つ判断を間違えれば生き残れなかった筈です。
この「2つの事件」も1180年には「頼政の乱」もあった中です。
この「2つの事件」後と「頼政の乱」との間に生き残りの難しさを身に染みて感じていた「2つの賜姓族青木氏」は「2足の草鞋策」を実行するのです。
天皇も同族源氏を翻弄させていながらも青木氏には何も手を出さなかったのです。不思議です。
確かにその「武力的な勢力」は小さいのですが、「3つの発祥源」の「立場や権威」を源氏と共に発揮すれば源氏以上に武門を動かす力は充分にあったと考えられ、天皇もその事を充分に承知していた筈です。
もし天皇が「青木氏の力と行動」に疑問を抱いた時には「2つの事件」と同じ様な事の「引き込み戦略」に巻き込まれていた筈です。しかし、天皇と朝廷は賜姓青木氏5家5流と特別賜姓族秀郷流青木氏には手を出さなかったのです。
それは「3つの発祥源」を他に影響を与える事なくその「静かな立場」を厳守した事にあると考えられます。
故にそのままでは飲み込まれ結局じり貧すると読み、その為には「たいら族」と同じ様に「2足の草鞋策」で生き延びる事を決意したのです。
それにはこの時代を生き抜くには無力では無理であります。その為には「影の力」が必要であり、それを「2足の草鞋策」の経済力を基に「陰の力シンジケートの構築」に力を注ぎ、表に対しては「秀郷流青木氏の抑止力」を戦略として用いたのです。
これで「表向きの武力」は見えず巻き込まれる事は無くなります。
この事が朝廷と天皇に安心感を与えたと考えられます。

この様に「青木氏の外的要因」を主に描きその中で「青木氏の置かれている立場」を網羅しようとして論じていますがまさしく”紙一重であった”と云う事が判ります。
では、”何故に紙一重を守り通す事が出来たのか”と云う疑問が湧きます。
それは「紙一重の判断」を成し得たのはそれは”沈着冷静に研ぎ澄まされた精神構造”にあった訳ですからそれを人間に成し得るには「心の拠り所」と「仏の導き」以外にはありません。
それは有史来の先祖伝来の「祖先神の神明社」と「守り本尊の生仏像様」以外にはありません。
「4つの青木氏」が「固い絆」で結ばれていてこそ「心の拠り所」は守り通せるものであります。
この構図は他氏には決して見られない構図であります。
だから天皇と朝廷はこの「祖先神の神明社」と「守り本尊の生仏像様」の2つを決して潰さなかったのです。「4つの青木氏」を潰そうと思えばこの2つを潰す事で成し得ます。自然崩壊してゆく筈です。
現に各地に存在した神明社は現在では5000程度(主に江戸期建立)と成っていますが、当事の神明社は200程度であったと見られますが多くは消失焼き討ちされずに残存しているのです。
(この乱世の中でも「社会」もこの事の意味や青木氏の姿勢を評価していて、その神明社の尊厳を守り遺したのです。)
それは「4つの青木氏」がこの2つを護る事は強いては天皇家を護る事にも成るからです。
「祖先神の神明社」は「皇祖神の伊勢大社」を護る事と同じであるからです。
「祖先神の守人」とは「皇祖神の守人」であったからです。
「紙一重」としても「4つの青木氏」はその立場を沈着冷静に護り通したのですが、況や「天皇家の心の拠り所」でもあったからなのです。その沈着冷静な行動に対して天皇に深い感銘の安心感を与えたからなのです。つまり、天皇家の立場も東西南北で阿多倍一門に脅かされている天皇家をも護っている氏の青木氏であったからなのです。孤立無援の天皇家にとって唯一の味方と受け取っていたからなのです。
これはまさしく「天智天皇の初心」を忘れずに「天皇家の護衛団・近衛六衛府軍」の「2つの血縁青木氏」と「2つの絆結合の青木氏」が頑なにも200の神明社と共に護り通していたからなのです。

敢えて対比して、11代の同族の賜姓族の源氏を観ても判る様に天皇に疎んじられ社会から抹殺の憂き目を受ける等して潰されているのです。
朝廷と天皇は11代の源氏族を護ろうとはしなかったのです。何故でしょうか。
それは上記の事の「有無の差」なのです。その「生きると云う姿勢」の違いにあったのです。
社会も源氏に対して”武士の頭領”と誉めそやしながらも、他面ではその存在を認めていなかったのです。だから1氏も残らず11代もの源氏が抹殺滅亡させられたのです。

話を戻して、つまり、「2つの事件」より120年後の青木氏の「後勘に問う」の効用が大きく発揮されたのです。
その史書では、通説では”「純友の乱」には「源経基」と「小野好古」とが当たった”と成っていますが、ところが大発見で青木氏の研究範囲の中で、大蔵氏の資料史実から「大蔵春実」と云う阿多倍の10代目の子孫の人物が、天皇から直接に正式にこの乱の指揮官を命じられていたのです。(上記注釈の件)
経基は”追捕次官に任命”と成っています。そうすると指揮官が居た筈です。
その指揮官は誰なのか疑問が起こります。そこで上記の経緯から大蔵氏が絡んでいる筈としてここで「後勘に問う」の慣習から調べました。

この時938年、「純友の讒訴事件」に関して天皇より「錦の御旗」と「国刀」と「従五位下の官位」が与えられて指揮官を命じられている事が判りました。その人物が何と九州の大蔵春実でした。
この人物は更に1018年に自治を認められた大蔵種材の祖父に当たります。
孫の大蔵種材も1018年に「錦の御旗」と「国刀」と「従五位下の永代官位」と「岩門将軍」と「太宰大監」と「征西将軍」と「九州菅領」と「弓馬達者の栄誉号」と「遠の朝廷の称号」を与えられます。
自治に伴う全ての権限の政治、経済、軍事の3権と最高位の身分官職を与えられた事に成ります。
”与えられるだけ与えた”と云う感じで現在までにこれ程に与えられた人物はいません。
あってもせいぜい一つの称号程度の範囲です。春実にしても種材にしても驚異の勲功授与です。
歴史的にこの2人の勲功授受の史実の意味するところは大変大きい事に成ります。
「後勘に問う」そのものです。
将門と純友の恣意的な「讒訴事件」に対して朝廷は史実と違う事を正式な朝廷の記録に残さねばならない事に成ります。讒訴でありながら賊として反乱として扱い記録しなければならないことから矛盾疑問が出る事は承知していた筈で、後勘から観れば史実判明は必定です。

(後勘の史実)
1 940年頃の将門の乱や純友の乱の時に既に「九州全域」と「中国西域」を大蔵氏に委ね自治を認める事を決意しての天皇の行為と成ります。天慶3年5月3日の日付と成っています。
2 「錦の御旗」と「国刀」と「従五位下の官位」を与えた事は現在までの有史来で一氏と個人に与えたのはこの大蔵春実が始めてで最も信用している氏と成ります。
3 「従五位下の官位」は貴族に列する事を意味し、藤原秀郷一門と同じ身分となり、「錦の御旗」と「国刀」を与えられた事は藤原氏には与えられていませんので、藤原氏以上の身分と家柄となり「源氏-平氏-籐原氏<大蔵氏」で公に認めた事を意味します。
4 関東の阿多倍一族一門の「将門の乱」と連動しない様に以西は自治を約束して押さえ込んだ事を意味します。
5 「純友の乱」が通説とは異なる事を意味します。この「小さい反乱」と見られる「事件」の鎮圧に「錦の御旗」と「国刀」をわざわざ与える事ではありませんし、大蔵氏が出てくる事ではありません。
この乱はあくまでも「讒訴事件」である事を意味し、これを利用して大蔵氏を指揮官としたこの契機に関西以西と関東の安定を図ろうとした事を意味します。要するに経基の「2つの讒訴」を上手く利用した事を意味します。
6 大蔵氏の引き出しで成功した独立問題は別の反乱へと繋がってゆくのです。残るは以北の阿部氏一族等の解決と荘園制行き過ぎ問題の解決と成って行きます。ところが関東の問題を解決して「たいら族」を関東から引き上げさせたのですが引き上げたところが美濃で、その美濃での源平緩衝地帯の最前線のバランスが崩れて「源平の乱」が併発して始めたのです。
そして源義家がこの以北問題と荘園問題に大失敗を起こして以北は大混乱に成ります。

  「輪状の鎖の対立」
後勘の史実として、この時代の事件関係を並べて考察すると全て輪状の状態で夫々の立場で原因関係が繋がっているのです。
A 九州全域に”独立か自治か”で争っている時に。
B 以北陸奥域の安倍氏では”蝦夷と見立てられて”潰される苦労している時に。
C 関東域では「将門の独立の乱」で。
D 瀬戸内・中部地方域には「純友の独立の乱」で。
E 「国司苛政上訴・国司愁訴」が郡司や百姓等により各地で多発で。
(記録 尾張国郡司百姓等解文988)
F 賤民の難民、流人、放棄人、俘囚の反乱多発で。
G 朝廷内の官僚の腐敗
 
これは同時期の大きな出来事ですが、これ以外に典型的なこの時期の事件(E)が全国的に起こっているのです。それは上記の「4つの乱」の原因となる基なのです。
「以北問題」と「荘園問題」は関連しているのですが、国の代理施政官の「国司の苛政(非法行為)」を「郡司」や「百姓」等に依って朝廷の中央政府に訴えられる事件が多発していたのです。
朝廷に訴えても取り扱う官吏が腐敗の中にあるのですから無駄と言えば無駄な行為ですが、それだけに不満の限界に来ていたのです。
要するに「国司の政治」が良くなかったのですが、余りに「酷い状況」であって宮廷の大内裏の陽明門の前で直訴したのです。この行為は当事の慣習から異例中の異例で遠い地方から集団で歩いて出てくるのです。現在の「国会デモ」か「皇居の正門」でデモ行進するのです。民が国を離れる事態がそもそも異常な前代未聞の行為であったのです。
どれだけの「酷い社会環境」であったかが、現在の民主主義のデモではありませんので、この行為で判ります。”最早、誰に訴えていいのか判らない 何でもいいからやるしかない”の「民の心情」であったのです。まして、国司の下の「郡司」が参加しているのです。異常です。

AとBは国司の行政を無視した態度に不満
CとDは「将門・純友の乱」も戦いの元は国司に対する不満
となるのです。

丁度、この時期は「荘園の集団化」がピーク時(900年)に成り、これより行き過ぎの過程へと進む時です。
最早社会の横暴の流れを誰もが止められない状況と成ってしまっていたのです。

「対立の輪」「輪状の鎖」
この流れの輪は次ぎの様に成っていたのです。
7つの輪がぐるぐる廻る「酷い社会環境」と成っていたのです。
⇔の印の間には「苛政」(苛立つ酷い政治行為)が往行していたのです。

(天皇・皇親側)⇔(朝廷・上級官僚側)⇔(武家・武士団側)⇔(下級官僚・国司側)⇔(荘園主・地方豪族側)⇒(郡司・百姓側)⇔(賤民・俘囚側)⇔(天皇・皇親側)

AからFの経緯を調べると、これ等の7階級族が互いに隣の階級族と「輪状の鎖」で対立し腐敗していたのです。
これでは「対立の輪」が起こっている世情ですから、最早「融合の行き過ぎ」・「氏大集団化」・「荘園化」が誰にも止める事が出来ません。

特に(E)ですが、現場の治世を担当する国司が不法行為をして私腹を肥やしているのでは「国が腐敗」している事は確実です。
そもそも「政治腐敗」とはこの様な各階層の「対立の輪」「輪状の鎖」の連鎖が起こる事ではないかと思われます。
奈良-平安期の時代毎にこの階層の状況で調べてもこの様な完全な「対立の輪」は他にはありません。
私の方法として、”この「輪状の鎖」がどのくらいの程度で起こっているか”を「史実」を探し出し「時系列」で並べその「傾向分析」で調べると其の時代の乱れ具合が下記した様に判るのです。

全ての階層(要因)でこの「対立の輪」が起こっていれば「政治腐敗」、「輪状の鎖」の輪がところどころで切れていれば「部分的に腐敗」とか云う風にレベルの程度を判断して行く方法です。

(検査などに用いる統計手法の一種:技術手法です 逆に安定している場合にも要素の設定の仕方で可能)

注釈として、「3つの発祥源」の青木氏側から観れば、尚更にこんな「輪状の鎖」「対立の輪」中で上記の融合過程の「義家の不合理な行動」には同族として納得できませんし、また別の面で観ると、これ程の「輪状の鎖」の「世情の流」を止めた事は、「天智・天武天皇」「嵯峨天皇」に並ぶ「後三条天皇」はすばらしい逸材で在った事が云えます。先ず自然の摂理に任して行く所まで行く以外に止められない筈です。
しかし、主に優秀な3人の天皇が出現して止めたのです。
これには「洞察力」と「勇気」と「決断力」と「戦略的思考力」の4つを兼ね備えた崇高な人物であらねば成りませんが、天は味方してこの3人にそれを与えたと考えられます。

だとすると、累々と前記している様に「阿多倍一族一門」が全階層に何らかの形で深く関っている事は明らかですから、彼等の「独特な行動」、或いは「法より人」「石は薬」の考え方が「階層の対立」を直接、間接に影響して「対立の輪」を起こしていたのかも知れません。現在の中国の様に。私はこの説を採っています。これは阿多倍一族一門の利害の害の一点で天智天皇の「何かが起こる」現象の根源に成っていたのです。

「天智天皇」が「融合氏の国策」の3策を断行したのは実はこの「何かが起こる」の「懸念事」に在ったと観ているのです。
つまり、この「輪状の鎖」「対立の輪」が国民の間に連鎖的に起こり、国が場合に依っては割れ、全階層に「法より人」「石は薬」の考え方の影響力を蔓延らせて行くのを観て懸念して、「阿多倍一族一門」の”「独立自治」が「武力的独立」に因らずとも自然に雪崩の様に必然的に起こってしまう”と考えたのではないでしょうか。
この「天智天皇の考え方」が累代の天皇の難題の一つとして引き継がれて、「後一条天皇」の時に「九州の自治」(1018年)に対して最早逃れられないとして止む無く改革を決断したのではないかと考えられます。
片方では「荘園の行き過ぎ」から「融合氏の行方」が「行き過ぎ」になり、止められない状況と成って来ていたのです。
この「輪状の鎖」の対立の中で「阿多倍一族一門」に日本の精神の「互助」が働けば、尚更にそう難しい事ではなかったのではと考えられます。
日本列島南北で戦略的に揺さぶれば3箇所は一族一門に必ず有利に働いた筈です。
恐らくこんな政治状況の中で、天皇側は、”後漢が日本に移したような形が出来てしまう”と冷や冷やしていた筈です。幸いに「法より人」「石は薬」から「互助」が働かないのです。

簡単に渡来後に瞬く間に「無戦制圧」して行って突然に「帰化」の手段を採った理由は”史実的に何かあったのか”と調べましたが史実として遺されている事件性はありません。
天智天皇は「何かが起こる」から早々と先手必勝で先ず「帰化」の決断をしたと考えられるのです。

「品部180」から「在来民」が「物造り」の「技能伝授」があり「急速な経済的な潤い」を得た事が”「無戦に成った唯一の理由」”とされているのは事実なのですが、”帰化する、しない”は”直接の理由にはならない”のではと考えているのです。
「潤い→無戦→帰化」の「流れ」の中で「無戦」と「帰化」の間には”何かあった”と考えるのが普通ではないでしょうか。

「何かが起こる」の考えは「帰化」を認めた以上は「国策3作」「融合氏のへの転換」によって「石は薬」「法より人」の考え方を変える又は無くするの唯一の手段と成ります。
それでなくては ”国体は成り立たないし、その安寧と安定はありない”と成ります。
この事は言い換えれば、「融合氏:3つの発祥源」の「青木氏の存在」は「国の国体の安寧と安定」と等しい事を意味します。

つまり彼等の神の「産土神」を押さえ、別に「融合氏の青木氏」には新たに祭祀させた「祖先真の神」にする以外には ”国体は成り立たないし、その安寧と安定はありない”とする天智天武天皇の「手立て」であった事が判ります。
即ち、「祖先神 神明社」はその時より「融合政策のシンボル」と成り得たのです。

「皇族賜姓青木氏」と「特別賜姓秀郷流青木氏」はこの「対象氏」としてこの考え方を体現しこの紙一重の時代を沈着冷静に行動判断したのです。

中でも、「特別賜姓秀郷流青木氏」の立場は極めて難しく重要で事の可否を決め得る立場であった事が覗えます。
皇族賜姓族を護りながらも、秀郷一門の中での「経緯」や「第2の宗家」の立場もあり、この2つの難しい立場を護ると云う「至難の業」に挑んだのです。
それには”「皇族賜姓青木氏」と全く同じ官位官職名誉を与える”と云う「嵯峨期の詔勅」の範疇を遥かに超えて天皇は決断したのです。

(「嵯峨期の詔勅]による青木氏の名乗りは、皇族の朝臣族又は場合に依っては例外的に宿禰族であることが朝廷に依って承認されれば賜姓無くして名乗れるだけのもので、前記の青木氏と守護神(神明社)-4での「俸禄と褒賞制度」の授受一切と官位官職等の授受は無関係です。
秀郷流青木氏はこの「嵯峨期の詔勅」により特別に賜姓を受けて青木氏を名乗った氏であり、その時、賜姓族と同じ身分・家柄・官位・官職等を同じく保持した氏です。大きな違いがあります。記録からは「青木氏の名乗り」だけでこれ等のものは申請していないのですが与えられたのです。この事からも以下の数式の天皇の思惑が良く判ります。)

「2つの青木氏の存在」=「国の国体の安寧と安定」
「産土神」<「祖先神」=「国の国体の安寧と安定」
「2つの青木氏の存在」+「祖先神 神明社」=「融合政策のシンボル」

「阿多倍一族の考え」
反対にこの時の渡来時に”阿多倍一族は何かを考えた。”とすると、”ではそれはどんな考えなのか”となります。
先ず、全体の置かれている環境・経緯から観て、筆者が阿多倍の置かれている立場であれば次ぎの戦略・戦術を採るでしょう。経緯から見てこれ以外に「首魁・長」としてないのではと考えます。

想像する経緯
国を追われてぞくぞくと入国してくる漢族の難民の「衣食住の手当て」等の安定の担保が成されなくては戦いは難しいし、下手な出方をすると17県民200万人の大難民は大混乱に陥る。後漢の首魁としては無茶な事は出来ず「戦略」が必要となる。かと云って滅びたとは云え優秀だといわれていた「漢民族の自負」がある。
国が違うのだから考え方も違う。何とか柔軟に対処したい。幸い人民の進んだ技能がある。在来民も慕っている。ここは戦いを避けて何とかこれを生かす先ずその算段が必要だ。状況を観ながら上手く行けば次の戦略で行こう。ただ場合に依っては朝廷側から何らかの方法で潰しにかかることも有り得る。その手立ても考えて置く必要がある。と首魁・長である阿智使王と阿多倍王は考えた。
そこで次ぎの戦略を立てた。

基本戦略
1「潤い→無戦→帰化」の「流れ」の考え方を「基本方針」として踏襲する。
2「民族氏」>=「融合氏」の体制を構築する。
3「独立か自治か」を獲得する。

戦術1 全国に上から下まで自前の力を浸透させる。先ず「限定地域」(九州南北地域にする)を定めて「安住の地」を作り上げる。その為に「在来民」との融和を図り「職能集団」を全面に押し出す。

戦術2 入国地の北九州から南九州に拠点を移して朝廷から遠隔地にしておく必要がある。
大隈の隼人を本拠地として200万人を指揮する。

戦術3 「潤い→無戦→帰化」の「流れ」の中では、在来民の賛同を得られないし孤立する恐れがあり「食料武器調達」は「長期戦」になると困る。続々と入国してくる「後漢の民」に対して危険である。支配下に入った在来民にも大犠牲が出る。仮に独立しても長く続かない。
故に今すぐに「独立戦」は困難と判断。

戦術4 一度帰化して上から下までの階層に勢力を浸透させて基盤を造る。天皇家に血縁で繋げ朝廷に政治基盤(政治、経済、軍事)を伸ばして為政力を着ける。
其の力で国内を幾つかに分けて子孫とその配下と品部を配置する。

戦術5 状況に応じて7つのブロックの自治か独立を政略的に基本方針に従い達成する。
一族一門の「多少の犠牲」が予想されるが政敵(源・藤・橘・皇親族等)を政略的に潰す。

戦術6 政敵日本全国統一する為の国策「融合氏」に対して、「私有化」に誘導して「民族氏」である「後漢人民」の「安寧の地」を確保する。

現実には帰化(645)から概ね100年間位で次ぎの様な初期基盤が構築された。
これ等の「戦略戦術」に際しては次ぎの基地を構築して実行した。

「7つの基地」
関西伊勢本部  阿多倍王の一族(後漢王族の直系子孫 桓武賜姓平族・京平氏 たいら族 品部)
九州北地域基地 大蔵氏の一族 (皇族血縁族 賜姓族 品部 上級官僚為政族 品部)
九州南地域基地 肝付氏の一族 (大蔵氏末裔 皇族賜姓族支流 官僚伴氏と血縁族 品部)
中国地域基地  坂上氏の一族 (平族末裔1一族 皇族血縁族 賜姓族 官僚軍務族 品部姓族)
関東地域基地  平族支流一族 (平族末裔2一族 後漢王族の血縁族 下級官僚族 品部) 
中部地域基地  内蔵氏-清原氏(皇族血縁族 賜姓族 上級官僚為政族 品部)
陸奥地域基地  阿倍氏-安倍氏(後漢王族支流族 中級官僚為政・軍務族 品部)

「基地のその後の経緯」
関西伊勢本部は1185年 平族滅亡 伊賀氏として遺す
九州南北基地は1018年 自治権獲得 大蔵氏・肝付氏等繁栄する
中国地域基地は1185年 陶部氏滅亡 村上氏・海部・武部の姓氏族で遺す 
関東地域基地は950年  関東平族衰退 関西以東に後退 磯部氏等姓氏族で遺す
中部地域基地は1062年 内蔵氏・阿倍氏衰退 支流族で遺す
陸奥地域基地は1087年 安倍氏・清原氏滅亡 支流族で遺す

平安末期に最終の段階で関東、中部、陸奥地域は最終的に犠牲の予期はしていたが、思わぬ事件が起こり失敗し戦略を見直し後退させます。しかし、鎌倉期-室町期から観れば常識的に首魁が採る「基本方針と判断1-5」の全ての「基本方針と6つの戦術」の内容は完全一致しているのです。

筆者が最初に描いた「戦略・戦術」通りにほぼ進んだと観ています。
「無戦」と「帰化」の間には”何かあった”と”阿多倍一族は何かを考えた。”は真に「基本方針と判断1-5」と考えたのです。
それを判断通りに「150年程度」(初期100年)で完全に実行したのです。
(阿多倍はかなり長寿であったことが記録から判明する)

史実から領土の確定時期
645年に正式な帰化許可 北九州域(大宰府付近)に定住を許可
650年頃には薩摩大隈隼人に定住地移す 「阿多」にも定住地
675年頃には伊勢北部伊賀地方の半国割譲
685年頃には賜姓授受 賜田賜る
723年頃には薩摩大隈が攻められ護る 大隈地方を半国割譲
728年頃には功田で飛鳥高市郡を治領する
730年頃には近江-安芸の以西地域を治領する(大領)
780年頃には北九州の以北の正式な領主に(檜前領主・・)
802年頃に蝦夷地征討 内蔵氏と阿倍氏 奥羽7国全域と越後一部を治領する
833年頃には「7つの地域」を発展させた功労で例外的に特別に一族の賜姓族を「宿禰族」に昇格
(この時に軌道に乗っているので帰化から最大185年程度経過) 
938年に「純友の乱」(清和源氏始祖経基王と共に)で朝廷軍として「錦の御旗」の下に「天国刀」を賜り鎮圧の責任者として命じられる。中国以西と九州の自治を約束
940年頃に暫定にて瀬戸内と長門国域まで鎮圧し治領する
941年以降 鎮圧後、中国12全域と北九州全域を治領する
1018年以降 九州11全域の自治の「院宣」を受ける
1070年頃以降 長門国・岩戸(出雲)・岩門を治領する。

阿多倍一族一門は・「帰化後425年」で国の大半と一部地域を正式に領地としているのです。
正式の前には既に無戦征圧しているので帰化後は20年程度で完全に勢力圏に納めているのです。
だから、この後の内蔵氏・阿倍氏末裔の「安倍氏・清原氏等の事件」や平族の「将門の事件」や「純友の事件」(大蔵氏・平族等で鎮圧)やAからG等もこの判断の中での出来事なのです。
安倍氏や清原氏等の「辛い犠牲」も「大事の前の小事」として予期していた事で首魁・長の判断の中であったと観られます。

「概念の違い」
これは在来民持つものと比べると、「戦い方」或いは「目標達成」に対する根本的に異なる「感覚・概念」の違いとして出て来るものなのです。
これが「融合氏」と異なる「後漢の民」の「民族氏」の一見「無関心主義」と観られる概念なのです。
彼等の中では「通常の思考規準」として割り切れて出てくる概念なのです。
「融合氏」であれば躊躇なく”それ助けよ戦いだ”と成るでしょう。
「融合氏」であるならば「身内を犠牲」にしての「戦略戦術」であるなら大いに悩むところである筈です。
「身内を犠牲」にすれば「因果応報」の概念が湧き出でて”何時か自分も同じ目に会う”と考えて「通常の思考規準」としないのが「武家の習い・武士道」として「伝統」と成っている筈です。
ここが「融合」と云う言葉の意味なのであり、”溶け合う”に依って”同一”と成り、”身内は自分””身内を見放せば自分を滅ぶ”と成る概念なのです。
これが「民族氏」と「融合氏」の概念の根本的な違いなのです。

「民族氏」の概念=「無関心主義・漢民道」(民族制度の思考)
「融合氏」の概念=「武家の習い・武士道」(氏家制度の思考)
「民族氏」は「大陸的概念」
「融合氏」は「家族的概念」
その違いは以上と成ると考えられます。

阿多倍一族一門(惣領・家人・郎党)と其の配下は全てのこの8階層(「対立の輪」「輪状の鎖」)
に関わっていますので「大義名分」はどの階層からも出せます。しかし、これ程の「独立自立」を押し立てる名文があるのにも拘らずこの様に阿多倍一族一門にはまだこの「姿勢や態度」の「民族氏」の抜け切れない「無関心の感覚概念」が存在するのです。
「中国大陸」と云う「多種多様民族」の中では「無関心の感覚概念」でなくては生きて行けないのであり、概念の「良し悪し」では無いのです。
同様に日本においても”「7つの民族」を一つにまとめて「国の安寧と安定」を図る”と天皇が考えた以上は「融合民族」(・民族)をより進めるには「思考の単位」を小さくして矢張り「融合氏」(・氏)の国策を採る以外には無い筈で、ここに阿多倍一族一門との帰化後の「激しい対立」があったのです。

上記の様に66国中の40国程度が彼等の治領範囲であるのですから、彼等の影響は影響の範囲を超え上記する「民族氏」の「大陸的な感覚・概念」が日本と云う「小さい島国」に蔓延こる事は誰が考えても当然の事です。
そして蔓延った場合は”国は滅びる”(現在の国体は消える)と考えるのも当然の事でしょう。
「天智天皇」(「何かが起こる」)から「嵯峨天皇」と「後三条天皇」の優秀な為政者と、その後の「院政」(天皇・上皇)では充分に考えられる「感覚・概念の差」である事でしょう。
だから、彼等の「基本方針と6つの戦術」に比較して、対峙する天皇の「国の安寧と安定」の基本方針である以上は「融合氏の3策」を絶対的に推進しなくてはならないと成るのは必然です。
両者ともに当面採らなければ成らない「必然の戦略戦術」だったのです。
普通から考えればこの状況では「争い、戦い」は起こる事は間違いありません。

「帰化と治領の理由」
では、国が「融合氏」の「国策3策」を掲げていながら、それに反する事を何故したのかが疑問です。
”それならば、「帰化と治領」をしなければ良いではないか””何故、帰化を許し上記する国の40国の治領を許したのか”矛盾です。
それは次ぎの6つの理由によるのです。
イ 疲弊していた国を「物造り」の「技能集団」が在来民を誘って国を豊かにしてくれた事、
ロ 優秀で豊富な知識官僚(6割)として働き国体の根幹とする「国家体制」を近代化し「律令国家」にしてくれた事、
ハ 治領する国々の安定化を任せられる力を持ち対処してくれた事、
ニ 統一されていない日本の国を彼等の進んだ武力で鎮圧してくれた事、
ホ 対外国の脅威から国を護ってくれた事、
ヘ 入国後、無戦征圧で実効支配している事、

これだけも一民族氏の彼等に「勲功や治領」を許す事があれば認めない方が国が乱れる筈です。
これが彼等の「基本戦略ーイ~ヘ」であったのです。
天皇は”しかし「民族氏の思考原理」は問題だ”のジレンマに陥っていたのです。

そのジレンマが今度は”余計に危険だ、「融合氏」にしなければ”と「天皇の悩み」は逆行して行ったのです。そして一時は天皇はこの「判断の過ち」(隼人の戦い)を犯したのです。
当然にこれには歴史的に史実として上記し前記する「戦い」を含む激しい「やり取り」があったのです。
「民族氏の思考原理」が働き、国策に従わない713年-723年の「隼人の戦い」の例に観るように。
しかし、朝廷は上記した勢力では勝ち目など始めから有りません。
しかし、余りのジレンマの酷さから”潰しにかかるミス”を犯してしまったのです。
それ以後、冷静に成り「戦いのミス」はしなく成ったのです。
むしろ、上記「史実から領土の確定時期」の様に「取り込む作戦」に切り替わったのです。
「排除作戦」→「取り込み作戦」
その決定的な流れの重要な判断をしたのが「後一条院」の寛仁2年(1018)の「九州全域の統治権自治」を認めた事なのです。これでほぼ決着した事に成ります。無闇に認めた訳ではありません。それだけの綜合的な実力を持ち得ていたからでねむしろ朝廷よりあるのではと考えられる位です。判断はその直前の「純友の事件」の時に事前通告する(938年)手立てを講じていて冷静です。
これは「民族氏」と「融合氏」の妥協案と成ったのです。
阿多倍一族一門からすれば「基本方針と5つの戦術」に合致し「独立」に成るには及ばすとも充分とは行かずとも納得できる結果です。
「32国の統治権」を獲得しているし、天皇家とも血縁族と成り子孫末裔は遺せたし問題は少ない筈です。ほぼ達成できたからこそ”「大事の前の小事」”として「陸奥の一族」を「無関心主義」をここで発揮し見放したと云う事に成ります。

清和源氏や藤原氏と戦っていた場合は帰化時ではなく40国の勢力ですし、天皇より九州地域の自治権を認められて40年後の事ですし、「錦の御旗」と「遠の朝廷」と「天国刀」を授かっているのですから、上記する様に大儀名文は充分あります。
軍事力から云っても格段の差、阿倍比羅夫や阪上田村麻呂の実績もあります。
内蔵氏、阿倍氏、安倍氏、清原氏を救い出す事は簡単であったし、天皇も文句は出せない事であった事から犠牲をわざわざ払う事無く基本方針を貫く事は充分に出来たと観られます。
そうなれば関東と中部と関西の3地域を残して両サイドは独立まで待ちこむ事は出来た筈です。
この両サイドの力からすれば関東や中部や関西を獲得する事は時間の問題です。
軍事だけではなく政治の6割を末裔一族が占め、経済は品部180とその姓族が各地で育っているのです。問答無用です。
しかし、彼等は何とそうしなかったのです。後一条院の正式な「自治認可の裁可」に対する「交換条件」として。

彼等の基本方針は
1「潤い→無戦→帰化」の「流れ」を踏襲する。
2「民族氏」>=「融合氏」の体制を構築する。
であったからだと考えられます。
この基本方針が賄えていたからです。
しかし、2の基本方針は朝廷側からすると「民族氏」<「融合氏」成っている筈です。
朝廷はこの「折り合い」をこの段階では「民族氏」=「融合氏」にほぼ等しいとして踏み切った事に成ります。朝廷の基本方針にするには「2つの青木氏の存在」の今後の如何に関わっていたのです。
ですから、上記した「青木氏の存在」=「国の安寧と安定」の数式が成り立つのです。

問題は”その後の荘園問題の絡みから来る「融合氏」はどうなるのか”です。
答えは次ぎの政治改革の断行にあるのです。
「後三条天皇」の1068年の「荘園整理令」
「白河天皇」の1072年の「荘園公領制」
以上2つの改革を導いた英断にあると観ます。

恐らくはこの英断を観て”阿多倍一族一門は引いた”と観ていて、上記の「基本方針」に沿ったと見て居るのです。
「九州全域の自治」に対し「国策に従う事」(荘園整理令と荘園公領制)と「戦いを起さない事」を条件に纏まったと考えられ辻褄が合うのです。

源義家一族の「前九年の役」と「後三年の役」を天皇が「私闘」としたのはこの「協議の妥結案」に逆らうものであったからです。
「義家等の行動」そのものが「国の行く末」、「融合氏の行く末」、「青木氏の行動」を破壊や波乱に導く可能性があったから「私闘処置」のみならず「疎んじる」(源氏を潰す)と云う決断の行為に出たのです。
「青木氏」に対する扱いとは源氏の扱いは間逆であったのです。

天皇は場合に依っては阿多倍一族一門が「契約違反」として動く事を懸念してハラハラしたのではないでしょうか。そして、「民族氏」の彼らの冷めた様な冷酷無比と観られる「無関心主義」に対して「融合氏」の欠点として、”周囲の実情も考慮せず「カーと成る性癖」”を天皇は憂いたのではないでしょうか。
それが「融合氏の象徴」の源氏に出ていたからなのです。「融合氏」を進めなければならない立場にありながら「間逆の行動」を採っている源氏を許す訳には行かなかったのです。

これが「後勘に問う」の当時の実情であって、「荘園整理令」「荘園公領制」の実行に依って、”最早「事の流れ」は決まった”と観て、単に「私闘」と片付けたのではないかと考えます。
しかし、この事を救ったのが「真逆の立場」にあった懸念していた阿多倍一門であって、幸いにも上記した様にこの「民族氏」は鎌倉期-室町期の「弟2の融合氏」と進み、結果として「民族氏」の「阿多倍一族一門」と「融合氏」との両方に執って丁度良い「結びの結果」と成った事に成ります。
この事から、青木氏と同じ立場にありながらも「源氏の判断ミス」の行動が際立ってしまったのです。
これでは最早、天皇のみならず社会は「源氏を遺す根拠」が無く成ったと成るのではないでしょうか。
武士階級では「源氏の頭領」と表向きには褒めはやしていたが、一面では「青木氏の存在」即ち源氏に匹敵する力を持っていた藤原氏の秀郷一門の「特別賜姓族の青木氏の背景」と「皇族賜姓族青木氏」を片方で見ながらも認めていなかった事が判ります。
それは「社会の民」は当事、民自身で「心の拠り所」の神社を建立する力は無く、多くは青木氏が建立する「皇祖神の伊勢大社」に繋がる「神明社」に「敬いの心」を持ちながら「心の拠り所」を求めていた事でも判ります。
(源氏の八幡社より神明社の方が段突に信心は高くこの傾向は明治期まで続きます。伊勢参りの形で神明社に詣でた。)
源氏が持て囃される事で民から「特別の氏」と見なされ、必然的には源氏の守護神の「八幡社」は武士以外には「特別な神社」と扱われてしまったのです。その反面、青木氏は「特別な氏」でありながらも、「神明社」を通じて慕われ崇められていたのです。平安期以降は「2足の草鞋策」としても生活は民の下まで降りて行き民と一体と成って行ったのです。それには「絆結合」で結ばれた民の「第4の青木氏」の功績が大きかった事が覗えます。この様に青木氏は源氏と異なり「生活の面」でも「民と一体」で生き延びてきたのです。

この民まで繋がる「融合氏」「3つの発祥源」としての青木氏を護り支えた平安時代の累代の天皇はその意味では”ぶれ”ていなかった事が判ります。
(平安以後は特別賜姓族の秀郷流青木氏が天皇の代わりを勤め賜姓族を懐に抱え、秀郷一門も護りその役割を果たしたのです。特別賜姓族の秀郷流青木氏あっての「4つの青木氏」であった。)
その意味で「後勘に問う」から観れば、秀郷第3子の千国を申請外で特別賜姓族として「村上天皇」が容認した事の判断も優れていた事に成ります。
その天皇の中でも「後一条天皇」「後一条院」も「後三条天皇」と並んで優れた先を観た判断の「先見の明」の「通眼の持ち主」であった事が云え、「逸材の天皇」として認める必要があった事に成ります。

しかし、この平安期の「民族氏」の冷めた「感覚概念」は現在も引き継がれていて日本人の政治に対するアンケートでも出て来る4割にも上る数字の「無関心族」「無所属派」としてこの感覚の持っている人が多いのは此処から来ているのでしょう。又、”周囲の実情も考慮せず「カーと成る性癖」”も同等に多いのも此処から来ているのでしょう。
現在でも「民族氏」が消え「第2の融合氏」と成ったけれど「7つの民族融合」の日本の国民の3割程度は中国系の日本人ですので、この「感覚・概念」を執拗に遺伝子的に引き継いでいるのかも知れません。
「氏的」には7割程度に融合していればまあ殆どの「融合の国民」と云っていい筈です。

  「融合の必然性」
本文で云う日本人の「7つの民族」の「融合氏」を分けるとすると、鎌倉期以降では「第1の融合氏」と「第2の融合氏」がある事に成りますが、この「2つの融合氏」を成そうとすると、初期には「血縁」で緩やかに拡がりますが、必然的に「氏間の競い合い」が起こり、この様に最後期には「争い」で決着をつける事が起こるのは「自然の摂理」です。
「2つの融合氏」=「血縁」→「氏間の競い合い」→「争い」→「融合」=「自然の摂理」

平安末期に起こり始めた「源平」(民族氏と融合氏)の様な「争い」は各地で起こっていますが、「民族氏」問題から危機を感じて「国の安寧と安定」を国是として、この様に「天智天皇」が政策として始めた「3つの発祥源」の「青木氏」を模範として、それを進化させ発祥させ推進させました。

それが第1(融合氏)と第2(民族氏)の「融合」の経緯を辿り、遂には、この様な融合は「争い」を誘発させ、下の氏(姓族)が上の氏を潰す「下克上の争い」の現象(姓氏誕生)へと繋がり、それが全国的に広がり「氏の潰し合い」(氏間と姓間と氏姓間の争い)の「戦国時代」へと繋がっていくのです。
この時、多くの氏は「平安期の氏数」まで入れ替わり激減して潰れてしまったのです。
つまり「融合氏」としての弱点が原因したのです。
「弱点を直す努力無し」では生き残れずこれはこの世の「氏融合の必然性」です。

この様に「後勘で問う」で観ると、この中で「氏」を遺せるには、(「源平」の様に成らないようにするには)「決定的な何か」が必要な筈です。
それが(証拠)「1千年以上の悠久の時を過ごして来た生き残りの歴史」を持つ「青木氏」に観えているのです。
それが前記した次ぎの数式で表されると考えています。

「鶏の卵関係」=「氏融合」=「子孫存続」=(血縁と生活の絆)=「4つの青木氏」
「2つの血縁融合」+「2つの無血縁融合」=「子孫存続」の条件

「争い」を伴なう「氏融合」ではこの条件(「鶏の卵関係」・「血縁と生活の絆」)を伴なわなくては「滅亡の憂き目」を受けるのです。
しかし、これは「青木氏の歴史と期間」から観た証明の条件ですから「融合氏」全体から観た集約される条件としてこれ以外に他に何かがある筈です。
それを検証する為に次ぎに更に検証進めます。

  「氏融合の第2の条件」
阿多倍一族一門以外にも実は中国地方と北九州地方一帯にも藤原純友による「独立国反乱」が起こっており、これには阿多倍一族一門の「大蔵春實」と賜姓族の清和源氏の祖「源経基」が当たりました。
1年早く起こった「将門の乱」も夫々を代表する「平貞盛」も「藤原秀郷」の2人も上記した全国の「阿多倍一族一門」の出方を観たと考えられます。しかし、「貞盛」と「秀郷」の両者と共に上記する理由(融合が進み過ぎた)で「阿多倍一族一門」も「将門の乱」の方では直ぐには動かなかったのです。
この「両方の乱」の発生場所は何れも阿多倍一族一門の根拠地・土地柄で共通しています。
「純友の乱」の方は根拠地として重要度の高い地域であり、相手は「藤原氏」でありすぐさま大蔵氏が敵対したのです。
「将門の乱」の方は「関東たいら族」の根拠地(上総下総)で「将門」は伊勢伊賀の桓武賜姓族(781)の支流平族の身内ですので「無関心」を装ったのです。
そして、結局は「純友」には「阿多倍」の次男の「大蔵氏」(賜姓族・北九州)の末裔10代目「春實」が当たり、5年の後に鎮圧させ、春實には中国地方と北九州地方を正式に領地とする事を許されます。
「将門」には「阿多倍」の伊勢伊賀の末裔賜姓「平国香」(将門に殺された)の子4代目の平貞盛(賜姓族・伊賀)が当事者(事件の追捕使・押領使でもある)でありながら暫くは無関心を装い様子を伺ったのです。
何れも阿多倍一族一門の地域帯で起こり、阿多倍一族一門が対応したのです。
将門の乱は身内が起こしたのです。
そこで、今度は二人は逆に痺れをきらした天皇から出された条件に吊られて、「貞盛」は身内の拡大を、「秀郷」は潰されることが無いと見て身内の拡大を考えて苦しい5年の戦いに挑んだと観られるのです。

特筆・注意
ここで理解を深める為に先に「たいら族」と青木氏との関わりを知っておく必要があります。
「たいら族」とは「氏」としては敵対する立場にありながら「血縁・隣人・人」としては不思議でかなり親密な関係にあったのです。
「青木氏とたいら族の関り」
「桓武平氏」・「京平氏」・「伊勢平氏」と呼ばれる桓武天皇より賜姓された氏です。
関東の「皇族第7世族」の「ひら族」(平氏・坂東八平氏)に準えて「伊勢伊賀」に住する事に成った後漢から帰化した大隈の首魁「阿多倍王」にその功(技能普及で国を富ました)に対して慣例を破り「たいら族」(平家・伊勢平氏)を賜姓し伊勢北部伊賀地方を青木氏から外し半国割譲して与えたのです。
本来は賜姓は4世族内の者で第6位皇子に与えられる天智天皇からの慣例でそれまでは青木氏として賜姓していたが、「光仁天皇」(伊勢青木氏の始祖施基皇子の子)の子の「桓武天皇」は自分の母の「高野新笠」(阿多倍の孫娘・光仁天皇の妻)の祖父阿多倍王(伊勢伊賀在住)に対して賜姓したのです。
伊賀の高齢の「阿多倍王」又の名の「高望王」「高尊王」、朝廷側の名の「平高望」「平望王」「平尊王」として、死亡後に”生きている”として伊賀に出向き賜姓したとされています。
そして「辻褄と帳尻」を合わせる為に「桓武天皇の曾孫」として処理したのです。

しかし、伊勢北部地域の伊賀にはこの様な「桓武天皇の曾孫」とするものは皇族の記録には確認されないし、伊勢伊賀地方に第4世族の皇子の「王」とすることもおかしいし、「曾孫」とするも年数が合わないのです。
後漢の王の「阿多倍王」と極めて酷似の名であるところから、又経緯からも「高」を「たいら族」(平族)とした事から真実味を出す為に「平」に変えたと観られています。
これに対して「阿多倍王」は「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王」の孫娘と血縁して3人の男子を産みこの子供に賜姓をうけ「坂上氏」、「大蔵氏」、「内蔵氏」を発祥させたのです。
つまりは、この事により「皇族出自」としてその父親も同扱いにして第7世族の「ひら族」(坂東八平氏)に準えたのです。
記録上は阿多倍の名に似せた名を作り出し「皇族出自の曾孫」として扱ったのです。
その「平氏」の賜姓を受けた事によりその「阿多倍」の孫より「賜姓伊勢平族」として「平国香」-「平貞盛」より以降の平清盛までの末裔等の記録が残っています。
(末裔の国香以前は不明で、国香は年代から孫か曾孫に当たる)
大蔵氏等3賜姓族は天皇家の血筋を保持し、賜姓「たいら族」と阿多倍の縁戚族「阿倍氏」等は無血縁です。
これを強引に孫或いは曾孫としているのです。
この「平国香」より6代後が「平清盛太政大臣」であり、「阿多倍」の孫としたのは「阿多倍」の子は坂上氏(806年没)、大蔵氏、内蔵氏の3人であるので「平族」の2代目(国香の親)は誰なのか不明です。(記録上では高望王としている)
一説によれば孫とする「平国香」はこの3人の内の一人の子の推測説もあり妥子の説もあるが、元々阿多倍王は超高齢(85歳以上-735年頃没?)であった事は事実で、死んだ後(35-45年後)の事で無理で強引な桓武賜姓であるので、不明としていると考えられます。
「桓武天皇」が生まれた737年頃が最大時期で「阿多倍王」が没した時期前後とほぼ一致すると考えられます。
95歳-100歳であればぎりぎり母親の実家の祖父の阿多倍を何とか知っているのが限界であると観られます。(当時の平均年齢は45-50です)
桓武天皇生誕期≒阿多倍王没期 桓武天皇位781-生737=44年後に賜姓した事に成ります。
この44年を埋めるには阿多倍を強引に孫(又は曾孫)とする以外に無くなります。
これが矛盾の通説の根拠なのです。
従って、阿多倍から次に判っている平族の人物は国香であり、国香は将門に殺されたので935年没で依って生誕不明としているのです。この国香の行動ははっきりしていて同年代の者の生誕日は明確に成っている事から観ると何も不明と成る理由は見付かりませんから明らかに伏せたと観られます。
しかし、計算から当時の平均年齢から観て、「国香」は885年頃(895年頃)が生誕と成りますと(885-735)=150年前後位経った人物と成り、「孫か曾孫」と成りますので、実際はこの阿多倍から国香までの間には少なくとも「2人の人物」が存在する筈ですが判っていません。
「国香」を始めとして「2人の人物」には賜姓するにはその功績が認められませんので、どうしても始祖である「阿多倍王」に戻り賜姓する必要があります。
既に阿多倍の子供の大蔵氏等3氏には賜姓をしていますのでその父親だけは准大臣に任じてはいるものの賜姓は受けていません。
そこで桓武天皇は母方の没祖父に何としても賜姓をしたかったのです。
確かにそれだけの勲功は充分にあります。そこで、これは奈良期の「身内外の賜姓仕来り」により中臣鎌足の「藤原氏」の賜姓も没直前か直後とされているのに準えたものと観られます。
これはその天智天皇が採った賜姓の仕方とも同じです。前例の”慣例に従った”と成ります。
依って、「国香の生誕」を明確にすると「慣例の賜姓」の矛盾を露出させてしまいますので終えて消したのです。
「桓武天皇」は、「阿多倍」の長男の「征夷大将軍」の「坂上田村麻呂」とは母方の伯父に当る事もあり極めて「知友」であった事は史実として残されていて、桓武天皇と同じ同没806年であり、伊勢の阿多倍の実家の内容は手にとるように実に良く知っていた筈です。知った上での行為でありその賜姓の目的が明確であります。(父方は伊勢青木氏の施基皇子の子供の光仁天皇)

桓武天皇は「律令国家」政治を完成させる為に父方の「皇親政治」族側の実力氏「2つの血縁青木氏」に対する対抗勢力(母方族)を作り出しました。その勢力が阿多倍一族一門なのであり官僚の6割を占め彼等の勢力なしでは律令国家は成し得なかったのです。
「阿多倍勢力」による「律令国家完成」か、義の実家先の「皇親政治」側青木氏を採るかの決断に迫られたのです。
父方族の青木氏では無く、上記した様に国の6割から7割を有する実力充分のその「対抗勢力(母方族)」に自分の律令体制の維持の意思を継がせたかったと観られます。
「律令政治」と「皇親政治」は相反する体制で、現実に後にも天皇家はこの勢力に二分されて政争が起こって入るのです。
事実、この「桓武天皇」(737-806・位781-806)のこの慣例を破った無茶な賜姓(天智天皇からの第6位皇子の青木氏を賜姓しなかった事)に対して、後の「嵯峨天皇」(桓武天皇の次男)と「政治手法」で争いを起こして対立するのです。
結局は、「嵯峨天皇」は元の「天智天皇」の「皇親政治」に戻したのです。
そして直ちに「弘仁の詔勅」を発して「賜姓の方法」を戻してこの様なことの無い様に規律を作った経緯なのです。
以後、11代に渡り実行された「賜姓源氏」と変名して「青木氏」は皇族の者が還俗する際に用いる氏名として一般に使用を禁じ江戸末期まで原則守られました。
結局、その「賜姓の意思」の決断は「融合氏の国策」に執って400年と云う間の「融合氏」を啓蒙する「民族性の強い相手」であった事に成ります。
「桓武天皇」は身内の実家先の「3つの発祥源」の伊勢青木氏を、良い方で考えれば”強い氏として鍛え末代までに残る氏”に天智天皇の意思に従い遺したかったのかも知れません。
何も「皇親政治」族として政治に関る事が目的だけでは無く未来の事を考えた場合「3つの発祥源」として生き残らせるべき事が本筋であります。
それがと天智期からの”「国策3策」に合致するのだ”と考えていたと観ているのです。
その為に結果としてはこの時の仕打ちで鍛えられて青木氏は衰退浮沈してもそこから這い出し生き残ったのです。
桓武天皇は争いまでして「苦渋の選択」をした事に成ります。
「たいら族」は「青木氏」(伊勢青木氏と信濃青木氏)とは直接に血縁性は無いにしても、「何れも伊勢の住人」「青木氏と光仁天皇の末裔の桓武天皇・父方族」の「関り・隣人絆」から「親心」から強い「母方」を使って「皇族」と云う「ひ弱さ」を克服させる為に採った戦略では無かったかとも考えているのです。
それでなくてはこの様な突拍子もない事をしなかったのではないでしょうか。
それでなくては余りにも”平族賜姓の目的が単純すぎる”のではないでしょうか。
恐らく、その時の父方の実家の青木氏は「皇親族」として「奢っていてひ弱さが目立っていた事」を示唆していたとも考えられます。

現実に「嵯峨天皇」から同族として発祥した11代の源氏は「桓武平氏」を滅ぼしたけれど自らも共倒れする様に全て11代は完全滅亡しているのです。
その意味で「平清盛」と接し「政治、経済、軍事」に付いて教授されていた「源義経」は兄頼朝に”諫言した事は正しかった”と観ているのです。
既にこの時には直系の「近江源氏」「美濃源氏(賜姓美濃青木氏も滅亡)」「尾張源氏」「駿河源氏」は「たいら族」に因って「美濃の戦い」で完全に潰され子孫は滅びているのです。

(最早、皇族賜姓族の青木氏や佐々木氏などの嵯峨期前の賜姓族と村上源氏支流(北畠氏等) が遺された。しかし:最終村上源氏も室町期に滅ぶ。特別賜姓族の秀郷流青木氏は5家5流の青木氏と佐々木氏を護る。 村上天皇は第6位皇子を源氏として賜姓するが、秀郷第3子も特別賜姓する。)

「2足の草鞋策の強み」
特に記録では義経は「清盛の宋貿易」に付いて「貿易経済と物造り」(商い)に感動したと記されています。皇族賜姓族の「生き残り策」は「武力」では無く、「荘園」で無く、領地を生かした「商いと物造り」つまり「殖産策」である事を「義経の感性」で感じ採っていたのではないでしょうか。
「武家が商い」には感覚的に抵抗があったと観られますが、論より証拠で同族の「2つの血縁氏の賜姓族青木氏」と「平家の清盛」さえも悟っていて実行したのです。

”「税と権力」を基盤とする「勢力繁栄」は何時か「栄枯盛衰」のたとえの通り滅びるは必定”と見抜いていたのです。しかし、「清盛のたいら族」は滅びたのです。

その原因は次ぎの事が働いたと考えられます。
1 「税と権力の基盤」>「商いと物造りの基盤」であった事
2 関東での治領の運営に失敗し撤退した事
3 「荘園の行き過ぎ」にも肩入れし過ぎた事
4 阿多倍一族一門の援護が無かった事
以上の4つから起こった滅亡です。

室町期の状況として分析すると、特に3の平族の未勘氏と家紋分類から見ると源氏には及ばないが姓氏含みで373もあり、これも”いざとなった時”には逃避離散する為に戦力には成らなくなる事も原因しているのです。(源氏では判明できないくらいでこの数倍となる)
平族の氏力の約10倍程度と成っています。平族の実際の氏力は見た目より1/10程度の力しかなかったのです。これを清盛は間違えたのです。
1に付いては「知行国と領国の比」から領国では殖産し産物を拠出することが出来るので「商力」(宋貿易額)とし、知行国は「知行と権力」に依って得られる「基盤力」とすると、「商力/基盤力」または「領国/知行国」から概算すると凡そ1/2程度と計算できます。
2と4に付いては上記した通りであり、これら1から4を考察すると外見の方が大き過ぎた事に成ります。
ここに落とし穴があり、人間の性(さが)でもある誰しも起す”思い上がり”が起こり「思考と判断の間違い」を引き起こしたものと考えられます。
勿論、生き残る事が出来た特別賜姓族の藤原秀郷流青木氏も「殖産・商い」を各地で積極的に行ったのです。確かに秀郷一門は荘園にも加担していたのですが、「秀郷流青木氏」だけには「特別賜姓族の立場」があり、一族一門の「護衛団の役割」から行動を抑えたと観られ、家紋から観るとこの荘園名義上の未勘氏が極めて少ないのです。
この荘園に対する加担の証拠が見付からないのです。その大きな証拠として秀郷流の他の一族一門は未勘氏が大変多いのです。(源氏とほぼ同じ程度かそれ以上と観られます。)
つまり藤原氏の名義を貸し名義上の荘園主として間接的に利益を挙げ、その代わり「無血縁の藤原氏」を名乗らせる要するに「未勘氏」族なのです。
361氏の家紋群外の藤原氏は名義上の未勘氏族であったと観られ、室町末期、江戸初期、明治初期の何れかで名乗り変えをしたと観られます。
しかし、秀郷流青木氏にはこの未勘氏族が極めて少ないのです。物理的に出来なかったか故意的にしなかったかは筆者は両方であったと考えています。
恐らく、故意的にしなかった事としては、特別賜姓族の青木氏であると云う立場を貫いた事、勿論、それに見合う「2足の草鞋策」(殖産策)を採用した事(24地域の15程度で沿岸沿い地域)、その一門の「第2の宗家」としての権威も護った事の3つにあると考えられます。
物理的に出来なかった事としては一門の護衛団であった事と成ります。
この4つの事を護り維持するとすると、かなりの「財力を確保」をしなければ成りません。
その証拠に室町期と江戸期の多くの「豪商のルーツ」を探ると本流支流は別として「藤原秀郷流一門の出自」である事が判るのです。中でも秀郷流青木氏の比率が高い事が家紋群の比率で判ります。
一族一門の24地域にも上る各地の藤原氏の勢力と縁故を使って栄え、そこで蓄えた財力を一門の基礎としていたのです。

ここに少し違う事があって、傾向として九州北、瀬戸内、日本海側、静岡の地域の秀郷流青木氏の方は「2足の草鞋策」を明確に採っているのですが、他の一門は判らない様にして運営していた傾向が認められるのです。これは「公家貴族」と言う立場を大きく気にしての計らいであったと見られます。
(この分を補足すると24地域の殆どと考えられる)
そこには、「政治の公家貴族」と「護衛団の武家」との差が歴然としてあった事を物語っています。
この「商い」は何処から他人が作ったものを集めて売り捌く「小商い」ではなく、自らが「殖産」に財力をつぎ込みそこから生まれる物産を大量に計画的に売り捌く「大商い」を秀郷流青木氏は行っていたのです。
他の一門は前者の形式を採用して財力(資本投下)を拠出する事のみとして、その配当利益を獲得くして表には「公家貴族の商い」として出ない様にしていたのです。
要するに「計画殖産」と「集約生産」との「商い方の違い」があったのです。
前者はそれだけに各地の一門の力を集める必要があったと見られます。
後者は自らの財力で各地のシンジケートを育成しての商法であったのです。
ここに大きな違いがあったのです。

この商法が「子孫繁栄」と「生き残り」の将来に大きな影響の差となって現れるのです。
鎌倉期を過ぎ室町に入ると各地で下克上が起こり、更に戦国時代へと突入して行きますが、この事に依って各地は乱れ各地の産物の生産力は落ちます。産物を運送するにしても相当な武力を要します。
しかし、公家貴族の藤原氏はこの武力を保有し使う事は出来ません。また産物を集約して調達している一門も自らの身を護る事に精一杯と成ります。次第にこの形式の商いは成立せずに衰退して行きます。
公家貴族の藤原一門は当然に貧して来ます。
反面、秀郷流青木氏らが採用する殖産の商いは、繁栄を果たし強固なものに成って行ったのです。
それは「下克上や戦国時代」で潰され敗退した各地の土豪集団が生活に困りこのシンジケートに入り豪商から経済的支援を受け、尚且つ、豪商の青木氏から殖産作業に従事させて貰え生活は安定し潤いを得るように成って行ったのです。
そして、いざと云う時は、「シンジケート」として「影の武力」として「戦費の充足」を受けて「活躍の場」を獲得する事が出来る様に「商いの組織」は順調に繁栄へと働いて行ったのです。
今までは荘園制の中で名義の荘園主の背景の下に細々と生き延び来たものが「活躍の場」「水を得た魚」の如くであったのです。

「殖産策の大商い」の青木氏一門の中では、彼等を助け、益々その「発言権」を増し「第2の宗家」としての活躍を果たす事が出来るように「良のスパイラル」が起こり成長していったのです。
結果、藤原一門は室町期に成っても勢力は衰えず、むしろ中には永嶋氏等の様に「関東屋形」と呼ばれる日本一の豪族として伸し上がったのです。その勢力は遂には東山道と東海道を勢力圏に治め以西は中部地方西域伊勢地域まで拡大する事に成ります。
その勢力は留まるところを知らず、秀郷流青木氏の仲介で日本一最大勢力の大蔵氏と結びつき血縁して九州全域の長嶋氏まで勢力を拡大したのです。
この永嶋氏と長嶋氏は旧来より土木建築業を配下に収めて繁栄を続け、これを基に「2足の草鞋策」を採用し青木氏からも「大商い」に基づく経済的な支援を受けたのです。(平安時代は永嶋氏の本職)
今で言う青木氏は殖産企業もグループ化に納めた総合企業兼商社であろうかと思います。

(青木氏の構図とその解析手法)
「後勘に問う」からすると日本の2大勢力の「西の大蔵氏」、「東の藤原氏」とが血縁し、その間に有った「たいら族」と「源氏」の2つは共に栄え争い消えて、「東西の2大勢力」が血縁する事で日本の混乱の収拾が着いたと云えます。その意味からすると「荘園制の行き過ぎ問題」も「中央の2大勢力」が消える事で霧散して「自然の摂理」の通りに収まった事が云えます。
「中間子」(中央の2大勢力)の「核分裂」を起こす中間子の持つエネルギーは何かに依って補われねばなりません。それが「武家社会の誕生」であったのです。
この構図からする「2つの賜姓青木氏」はこの「中央の2大勢力」の間の「核」に成る部分に居たと見ているのです。「核」が東西の勢力や中央の勢力の様に動いては「核」は「核融合」を起して爆発します。それこそ国が朝廷が崩壊するでしょう。
その「核」が沈着冷静に働いたからこそ「臨界点」に達せず「放射能」(大混乱)を放出する事無く「核爆発」は起こらなかったのです。「青木氏の採った判断と行動」は極めて「自然摂理」に叶っているのです。
その「2足の草鞋策」は「核」が持つエネルギーと成り、周囲の「中間子」(中央の2大勢力)や「中性子」(東西の2大勢力)を引きつけていたのです。そして、その「中間子」「中性子」に引き連れられた「氏末裔」は「電子」(エレクトロン)と成り働き、その「電子」に引き付けられたプラトン(姓・民)は飛散する事なく「融合」して物質(融合氏)を構成し続けたのです。
これは真に「自然物理の理」に叶った「構図」に成っているのです。
筆者はこの「構図論理」を採用しているのです。核、中間子、中性子、エレクトロン、プラトン、等がどの様に動き働きするかに依って「臨界点」や「核エネルギー」がどの様な「反応」を示す事に成るかの判断をしているのです。
(構図の構成要素が増えれば「分子量や質量や電位量」等の要素を加えて適性に応じて使う。物事の構図によっては別の自然摂理を使う。)

そうする事で累代の天皇評価や乱・事件や歴史的な出来事やあらゆる所業の如何の判別が凡よその形で着く事に成ります。推理する際もその位置から”恐らくこうではないか”と考察することも出来るのです。
この事は後勘に於いて多くの歴史史実からこの論理に当てはめての「分析・考察・検証」は真に「後勘に問う」の行為そのものであります。
この筆者の「分析・考察・検証」の前提は、”この「世の所業・諸業」が「自然の摂理の構図」に基づいている”と云う思考原理(仏教理論と相似)にあります。(「後勘に問う」の手段=「自然の摂理の構図)
この思考原理からすると、「皇祖神 神明社」は「青木氏の心の拠り所」「心の有様」と成りますので、「核の有様」つまり「核の持つ性質」を意味し、周囲に「不可抗力の恐怖」を撒き散らす放射能の出さない物質の「核」である事に成ります。差し詰め人間や生物の根源(3つの発祥源)の「ミネラル元素」の人体や生物への働きにあると考えられます。(「皇祖神 神明社」=「ミネラル元素 NaKCaMg)」と成ります。)
そうすると、真に天皇又は朝廷はこの構図では「核」ではないかと云う考え方もありますが、これは「天皇」と云う存在の位置付けの考え方に依り異なりますが、筆者はこの「核や中間子等」を含む全体を含有する本体つまり「水素原子」ではないかと判断するのです。
水素原子は自らの構図に影響し、尚且つこの世に存在する全元素に影響し左右させ得る基点であります。全体の「構図を左右させ得る影響力」を持っていて、かと云って直接的関係を持たないと云う事に重点を置いたのですが、当然構図が壊れれば歪めば本体は破壊し弱体化するのですから、天皇に指揮される朝廷の判断は構図そのものの行動や活動を決定付けることに成ります。
そこでもう少しこの自然摂理の論理を展開してみたいと思います。
では、自然摂理で云えばこの「中間子の行動を抑制する物質」がある筈ですね。出なければ物体は社会を破壊する怖い放射線を放出し続けて最後に核爆発を起こします。何かあるのです。
実はあるのです。
それは「放射線同位元素」と云うものなのです。「ハロゲン同位元素」と云うものなのです。2種類あって、フッ素、塩素、臭素、ヨ-素、Atとこれに関連するネオン、キセノン、クリプトン、ラドンがあり、それぞれ特徴を持っています。
特に、中でもヨー素はこの中間子の活動を抑える能力を強く持っています。中間子が暴れればこのヨー素を放出して押さえ込む事が出来ます。
では、中間子は「中央の2大勢力」の位置づけでしたが、この「放射線同位元素」は社会の何に当たるのかと云う事に成ります。他の原子を持ってくる訳ですので、本体の原子は「天皇」と位置づけしましたので天皇がこれらの中間子」(中央の2大勢力)と中性子(東西の2大勢力)を監視して、場合に依っては「他の原子の力」(「政策」)で抑制する手を打つ訳です。従って、「政策」「抑制策」がこの「放射性同位元素」の働きと成ります。
「放射性同位元素」→「政策」「抑制策」、「原子の力」→「天皇の力」
どの「放射性同位元素」(政策 抑制策)をどの様に使うかに依って効果的に抑制できるかが決まります。
原子に当たる天皇が「放射性同位元素」の(政策 抑制策)を「三相」を以ってどの様に使うかに決まる事に成ります。
中間子の「中央の2大勢力」は「放射性同位元素」の(政策 抑制策)で抑制し押さえ込まれたのですからその結果、拒絶反応として必然的に自然摂理が変位した中間子が生まれ事に成ります。
この変化の力が働き「武家社会」と云うものに変化して生まれる事に成ります。
「変位中間子」→「武家社会」
このヨ-素の抑制では「原子の力」即ち「天皇の力」、つまり、「原子の力」が弱まる事ですから、放出された「放射性同位元素」の「政策 抑制策」は何かが保有しなければ原子は保てない事に成ります。
弱体化して持ちきれなくなったこの放出され浮遊し遊離している「放射性同位元素」の「政策 抑制策」の力は、過剰反応したのですから、「武家社会」の力に吸い寄せられて必然的に「中間子の変位」が起こることに成ります。つまり中間子の「中央の2大勢力」から「変位の形」即ち「武家社会」が「政策 抑制策」の力を合わせ持つ事に成リます。
そこで、この「武家社会」とはこの「原子構造」では”何に当たるのか”という事に成ります。
それが新しい形の中間子の形即ち「融合氏」に当たるのです。
「中央の2大勢力」→「融合氏」
中間子の「中央の2大勢力」は「中間子の形を融合」と言う形に変位して、2の数字が消えて「別の力」(「放射性同位元素」(「政策 抑制策」)を持つ「融合氏」即ち、新しい形の進化した「武家社会」(幕府)が誕生した事に成ります。
これに因って原子構造の内部エネルギーバランスは保たれた事に成ります。

この様に観てみると、「社会が起こす森羅万象」は突き詰めれば「原子構造の自然摂理」に合致している事が判ります。合致しないと云う論理があるとするならば、それは「自然摂理」の全ての成り立ちを理解されないままでの論調と成ります。”この万象の出来事の成り立ちは自然摂理に合致する”は「仏教の教え」でもあります。

(現在の最新物理学では我々が良く知るこの「エレクトロン構造」の宇宙体の他に宇宙の成り立ちが解明されて来て反対の「プラトン構造」を主体とした宇宙体があるとの学説が進んでいます。)

(この様に構図を考えてそこに構成要素を当て嵌めて物事の解析をする事そのものも面白いのですが、推理案もこの構図の成り立ちや性格から観て”恐らくこう成っているのでは”と浮かび易いのです。この推理案で史実の発見も確率が高まります)

その意味ですると、「放射性同位元素」の「政策 抑制」を効果的に使った事に成り、平安期のこの時期の「後一条天皇」の「自治の英断」と「後三条天皇」の「荘園制の停止」の英断は日本を救ったことに成ります。そして、その原子の英断は自然摂理に合致していた事を意味し冷静沈着の判断であった事に成り、尚且つ、「核」に相当する「2つの青木氏」が採った行動もこの「自然の摂理」に合致し「沈着冷静」の判断であったと云えます。

それが故に、青木氏の「2足の草鞋策」も繁栄する事が出来たのですが、平安中期から末期に掛けて「荘園制の拡大」で、その増産された「産物の処分」を「殖産・商い」(紙問屋)の方向へと進んで行ったのではないかと考えられます。(資料から垣間見える)
そして、其の証拠に鎌倉文化から室町文化(「紙文化」とも云われる)の全盛期に繋がったのです。
(青木氏5家5流は有名な「5大古代和紙」と呼ばれる「伊賀和紙、近江和紙、美濃和紙、信濃和紙、甲斐和紙」の「紙」を「2足の草鞋」の基とした。)
「文化」は樹木と同じで其の「下地」が無くては華は開きません。この下地が「荘園」過程であり「融合氏」過程から来ているのです。
これも「後勘に問う」から観ればそもそも「自然摂理」に合致した判断であった為に起こり得た繁栄であったのです。

この面で「荘園拡大と行き過ぎ」問題は「自然摂理」に合致してしていた為に悪いことばかりでなかったとも考えられます。
考えて見れば本来「平清盛」は対立する「源氏の者」にわざわざこの様な事を教授する事は無い筈です。
何か「桓武天皇」の意思を継いで「親側」の天皇家は「青木氏や源氏」を鍛え様としたとも考えられますが、賜姓源氏はこの「貿易経済と物造り」(商い)に関らなかった事が滅亡へと進んだのでしょう。
まして、其処に「分家の源義家の不合理な行動」(荘園制肩入れ)が拍車を掛けたと観ているのです。
(本家清和源氏の頼光系宗家4家は賜姓青木氏3家に跡目を入れて日向青木氏と共に遺した。)
「殖産・物造り-商い」以外にも、この様に「融合氏」の発祥源として生き残れた原因の一つは少なくとも「桓武平氏」の「伊勢伊賀平氏:伊賀和紙の発祥」にもあったと考えられるのです。

以上の事の「たいら族」の検証は青木氏のみに大きく関わる事以外には他氏がこの件に関して検証は無いものと考えられるので敢えてここで記しました。

再び話を戻します。
「氏融合の第2の条件」
「将門の事件・乱」の始末に対して、その天皇が苦しい環境下で提示した条件とは「無条件」であって「望んだ事を叶える」であり、二人(平貞盛と藤原秀郷)は「貴族の身分」と「領国を取得」の条件を提示し叶えられます。これが大勢力拡大に繋がったのです。
この時、更に「秀郷」には第3子(千国)に天皇の許可を得て「特別賜姓」で青木氏を名乗らせて「天皇近衛六衛府軍」に成る事の条件を付与されたのです。秀郷一族一門の護衛軍として勤めさせると共に賜姓青木氏と同じ役目と扱いと身分と家柄を与えたのです。
天智天皇が天皇家一族が天皇を護る役目を作ったのですが、村上天皇は母方が同じ藤原氏と言うことで特別に青木氏を賜姓して母方同族氏による「六衛府軍の役目」なども同扱いとしたのです。
この意味は大きいのです。これは真に「3つの発祥源」の「賜姓青木氏」を護ろうとした事に他成りません。

「貞盛」は朝廷に直に仕えられる「身分の保証」と「常陸、上総下総、下野」を要求しますが最終関東での「たいら族」の醜態を理由に撤退(追い出し)の憂き目を受けます。
この様に、「平族」の動きの中では理由はともあれ「独立国」を狙っていた事は明確で、少なくとも一度は「平将門」も「独立国」の行動を目指したのです。普通の在来の融合氏はこの様にはならない筈で「民族氏」ならではの事であります。奈良時代の蘇我氏しかりであります。
しかし「後勘に問う」から観ると「将門の事件・乱」以外に彼等にはこの独立に関する絶好のチャンスは5回も訪れているのです。

独立の経緯
・第1回目の32国/66を無戦征圧して帰化した時 奈良、平安初期
・第2回目の「遠の朝廷」「錦の御旗」「太宰大監」「大蔵種材」の時 平安期中期
・第3回目の前九年の役と後三年の役の安倍氏と清原氏の征討(義家の私闘)
・第4回目の「平族」の「源平の戦い」
・第5回の「平族」の傍系支流の血縁族「織田信長」の「天下布武」

この1、2回の時は日本全国が彼等一族一門を絶賛している訳ですから100%「独立国」は出来た筈ですが、軍事、経済、政治の3権を手中に収めながらも何故かしなかったのです。
第3回目の時も同じ状況下にありながら、何故かこの血縁族を集結させなかったのです。

しかし、これだけの力がありながらはたいら族の「直系子孫」は実質的には遺せたのですが、首魁一族の宗家「平族」は結果として宗家は遺し得なかったのです。(支流一族のみ)
むしろ「宗家としての認識」が上記した「平族の発祥経緯」もあって「九州血縁族」と共に無かった可能性が強いのです。これは明らかにこの一門には余りの「民族氏」からの「間接的な氏の融合」が進み過ぎた結果と見なされます。
その証拠に、次ぎの5回目の事で判ります。

・第5回の「平族」の傍系支流の血縁族「織田信長」の「天下布武」の時もこれ等血縁族は全く動かなかったのです。(レポート9記述)
品部や部曲の「姓族」の「下克上」と、「姓族」と「氏族」入り乱れての戦国により末裔である事の事態が無くなったか、最早、無意味なものと成っていたかによりますが筆者は両方であったと考えます。
むしろ、この時も家紋から観ると、味方と敵対した氏を調べると末裔でありながらも平族末裔に対する「敵対状況」の方が大きかったのです。
「姓族」の様な「氏形態」の未だ持たない族の台頭に加えて次ぎの様なことが挙げられます。

 「第2の条件」
「氏の血縁融合」(1)が進み過ぎた事
「青木氏」の様に「4つの氏の構成」(2)が観られない事
「青木氏」の様に「氏の管理統括の有無」(3)が無かった事(下記)
この3点なのです。

この(3)が上記した”「争い」を伴なう時の「氏の融合」の「第2の条件」”と成ります。

むしろ、青木氏の「社会と生活の結合氏」とは違う点は、「民の結合」が「職能の部」と言う形で形成した為に「部氏」(職能氏・姓氏・海部氏等)の形で独立して行った事に依るのです。

「民の結合」=「職能の部」(品部)=「部氏」=「姓氏」

(「姓氏」も平安末期から「海部氏」「陶氏」などが中国地方の部民の集まった豪族となって発祥しているが、「たいら族」に組しなかった。)

青木氏の「未勘氏結合」(「社会的結合」)、「第3氏結合」(「生活圏結合」)の「結合氏」と異なり、阿多倍一族一門と「職能・部氏・姓氏」との間には、即ち、「民族氏の形体」を進化させなかった事の違いがあったのです。

「平族」の間接的な「氏の融合」とは、上記したデータから観ても、直系氏孫で固めて「氏融合」の拡大をさせて行く方法よりは、「各地の土豪」との「母方血縁」の方法が多かった事を物語ります。

これは阿多倍等が九州に上陸し中国地方まで無戦征圧した原因は、その「高い後漢の技能」を吸収して生活を高められる事があった為に「土地の民」が進んでその配下に入った事から起こっている現象だからで、その為に「間接的な氏の融合」が起こったからなのです。

つまり「平族」に於いては、阿多倍一族としては奈良期から平安期(600年)までの「間接的な氏の融合」の拡大でありますが、たいら族としてはこの5代(或いは7代)(国香-貞盛より)による短期間(165年)の「氏融合」(その前は「民族氏」と「部氏」)であるが為に「直接的な氏の融合」の基盤が平安期には充分に出来ていなかった事に原因しています。


青木氏と守護神(神明社)-11に続く。
関連記事
 

名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒

≪前ページ | ホーム | 次ページ≫
副管理人 写真館
一時癒場、季節の写真

人気記事ランキング

ホーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 全表示

この人とブロともになる

aokicc

Author:aokicc
青木のルーツを研究しています。世界中の青木さん、ご連絡ください。
監修 : 副管理人 青木研究員さん

逆アクセスランキング
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。