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:「青木氏の伝統 25」-「「伊勢殖産と古式伝統」


[No.343] Re:「青木氏の伝統 25」-「「伊勢殖産と古式伝統」 
投稿者:福管理人 投稿日:2016/08/05(Fri) 07:44:33


>>伝統シリーズ23の末尾

> > 「殖産」を興してそれを「システム化」して「経済」に結び付けて「藩政」が潤っていたのに、これを抑え込んで仕舞った事から、この影響を受けた「下級武士」は、「飢え」に喘いで仕舞った。
> > その事から、田畑を耕し農業で産物を密かに売ると云う事で生き延びた。
> >
> > 「郷士の武士」も「仕官の武士」も「郷士」に真似て生きる事しか無く成り同じに成って仕舞った。
> > むしろ、「殖産」を興した「郷士の方」が遥かに潤っていた事が記録されている。
> >
> > そして、今度は、享保期の「質流地禁止令」では、対象者が「仕官している下級武士」であった事から、幕府としては充分な対応は出来なくなっていたのである。
> >
> > ところが、「武士の農産物等の販売」には、各職能の「組合の壁」と云うものがあって、「自由」が利かず、結局、「農民の寄合」に入れて貰う等の事や、「農民の名義」を借りる等の事で対応した。
> >
> > 「幕府」のこの逆に跳ね返って来た思いも依らぬ「失政」に付いて、「藩」もただ観て見ぬ振りして黙認するのみであった。
> > しかし、「紀州藩」の様に密かに裏で奨励した藩もあった位であった。
> >
> > この事から、「職能から販売までの商業組合」も「寄合組織」に変更して、自らも救い、地域の「下級武士や農民」らも救う事で「絆を基本とする寄合組織」に変更して生き延びた。
> >
> > 唯、この「寄合組織」では「発展」は望めないが「維持」は可能であった。
> > それには、上記の「新-1から9までの副効果」までは幕府は潰しに掛かれなかった。
> > 「新-2、3、5、7、9」は流石に「株権」を保障の前提としていた事もあって低迷した。
> >
> > 所謂、「新-1から9」の基本に成った幾つかの制度と組み合わせた「親商法」が、享保―宝暦―明和時代に掛けて「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」の「青木氏」が興した「商業組合」の「新しい改革商法」(1716年から1788年まで)へと繋がったのである。
> >
> > この経緯は、「伊勢の紙屋」が「伊勢の商業組合」を興してからは明和期(1788年頃)までの「185年間の悪戦苦闘の歴史」に成る。
> >
> > これ等の事は、「青木氏」だけの「重要な知っておくべき青木氏の歴史観」である。
>


>伝統シリーズ24の末尾

> 実に“可憐でシンプルな花”と云うイメージを持つ。
> 「花と樹」で例えれば、云うまでも無く「象徴紋」にも成っている“「竜胆の花」”と「青木の樹」である。
>
> 前段でも論じたが、この“「竜胆の花」の様であれ、「青木の樹」の様であれ“として「賜語」を遺し「賜姓」したのは「天智天皇」である。
> その「竜胆の花の印象」と「咲く環境の持つ印象」と「青木の樹の様な力強さ」が、「青木氏の氏是」とも成っているのである。
> 「二つの青木氏」はこれを護り続けて来たのである。
>
> 因みに、参考として、大化期から江戸期までの間には、次ぎの様な「改革」を成し遂げている。
> 全てではないが、思いつくままに拾い出してみる。
>
> 「自然神の継承」、「祖先神の創設と継承」、「神明社の創設と継承」、「浄土宗密教の創設と開始」、「侍の創設と開始」、「武家の創設と開始」、「国策氏の創設と開始」、「賜姓族の開始」、「氏族の開始」、「皇親族の開始」、「貿易の開始」、「総合商の開始」、「和紙、硯墨の開発」、「商業の開始」、「殖産・興業の開始」、「米・早場米の開発」、「養蚕の普及」、「紙加工の開発」、「商業組合の開始」、「徒弟制度の開始」、「暖簾分け制度の開始」、「質屋の創設と開始」、「職能部の開始」、「海陸の運輸業と護衛業の創設」等の全て「創始者」であった。
>
> (文化面で「青木氏の慣習や仕来りや掟」が世に出て催事に成った事等は、「伝統シリーズ」でその都度、機会に触れて記述しているがその数知れない。)
>
> この様に“「歴史に遺せる多くの大改革」”を成した。
>
> これら一々に独特の「青木氏の文化」が生まれ、それを「伊勢青木氏」等や「郷士の職能部」が其の文化を「庶民用」に改良して、「殖産」にして、「仏施の質」として世の中に出す。
> この行為を江戸で一機に咲かせたのである。
> その複合の「仏施の質」が「享保雛」であったと説いている。
>
> 上記の様に、日本で最初に起こった「大火改新」で産まれた「青木氏」は、「二つの青木氏」の「命運」を掛けて「社会」の為に「江戸期の経済改革」の最後の「享保改革」(「リフレーション政策の創設」)に取り組んだのである。
> これは、何をか況や、「青木氏の氏是」と「家訓10訓」のベースにも成っている「青木氏の浄土宗密教」の「般若心経の教え」を護っていた事からの発起である。



「伝統シリーズ-25」に続く。

「伊勢殖産と古式伝統」

「伊勢殖産と古式伝統」が連動して出来たこの「伊勢文化」を「享保の改革」の為に持ち込んだ「江戸の伊勢屋」に話しを戻す。
この為にも、その前に「青木氏の歴史観」としての「伊勢殖産と古式伝統」を詳しく考察して置く必要がある。

この「伊勢の殖産事業の背景」には、次ぎの様な経緯があった。
そもそも、「青木氏の伝統」と云うものを理解するには、その前後に起こった「背景や経緯」を理解した上での事であって、「正しい伝統」はその時に獲得できる。
「伝統」に限らず「物事」とは、その「前後の背景と経緯」を理解しなければ「正しい結果」を獲得できない。

「歴史」と云うキーワードで云えば、それは「三相の人時場」(青木氏密教の説)に左右される“「歴史観」”と云うものである。
そこで、此処ではその「人」に関わる歴史観である。

「人」、即ち、“「伊勢出身の他の豪商」との関係に付いても論じて置く必要がある。
実は、この関係が複雑で難しいのである。

伊勢の中での「柵」(しがらみ)が見えて来て、それが「江戸の伊勢屋」の事に左右して来ているのである。
従って、前段で論じて来た様に、そこで「江戸の伊勢屋」と共に、他の“「伊勢出身の他の豪商」等の事をも“組み込んで論じる必要があると考えられる。
ところがその場合は、「伊勢の青木氏」から観ると、この“「青木氏の歴史観」との一致が起こらない「典型的な事象」であった“と云う事である。
その意味で,不思議に思うかも知れないが、この新しい「青木氏の歴史観」(「背景と経緯」-「伝統」)を獲得する為にも、次の事を敢えて重複して詳しく列記する。

それには享保期の「江戸」では無く「伊勢」に問題があった。
「江戸の初期」の「伊勢の背景と経緯」のそれには「大きな政治的な意味合い」が関わっていた。
そこで、政治の中心人物と成った“「伊勢の吉宗」”は、謂わば、その「功績」(紀州藩を藩制改革を断行して救った。)を買われて、番外から将軍に成り得たと云っても過言では無い。
其れは、そもそも、この“「伊勢の吉宗」”は、「二代目の藩主」の「湯殿女」(巨勢氏)から生まれた「番外の子 嗣子外」であった。

(注釈 前段で論じた様に、奈良期は「応神大王」を中心としての「ヤマト政権」は、「五つの豪族の連合政権」であったが、その中の一つが「巨勢氏」(巨勢族)で在った。
現在でも、紀州紀ノ川沿いの北紀州東部に定住している。)

そこで、二代目の「紀州藩主」は、これに「養育係の加納氏」を付けてその養育係の郷の伊勢に隠して預けた。

(注釈 「公家族出身の二人の兄弟」が居たが、それぞれの「お付きの家臣争い」が当時は強く命の危険性があった。)

其れが「養育係の下級武士」の「100石の加納氏(4000石の御側用人と成る)」であった。

(注釈 頼宣入城時(1619年頃)に家臣と成った「加納氏」は、前段で論じた様に「伊勢藤氏の末裔の支流傍系族」の「大量の仕官事件」が起こり、この事が原因で頼宣に「謀反嫌疑」が掛かった。
然し、その時に「伊勢藤氏」(青木氏含む)は「紀州徳川氏の家臣」と成った。)

注釈として、そこでこの紀州藩家臣と成った「加納氏の身分」がどの様な位置にあったかを先ず知っておくことが必要である。
事に大きく左右するのでこれから論じる。

其れには先ず、そもそも、“「一石一年一人食の原則」”と云うものが昔からあって、その原則から、「最低五間間口の武家屋敷の家持ち」が「下級武士の上位」の身分とされていた。
その原則では、当時は、最低で「150石」が必要であった。

(注釈 但し、諸々の家臣に課せられた義務を果たすには、150石では済まず200石から250石は総合で必要とされた。これが下級家臣の俸禄の規準であった。)

この原則から観て、「若い加納氏 100石」には預けられても「吉宗 (源六)」を「育てる能力」は当初から全く無かった。
災害と飢饉で藩財政も逼迫し、幕府から2万両の借財で食いつないでいた状況であって、到底、養育費は出せない状況であった。
結果として、「家康-頼宣」と伊勢で関係を保っていた「郷氏の伊勢青木氏」が、「養育」のこれら全てを支えたのであるが、当初からその心算では無く、且つ、「家臣」でも無い「伊勢郷氏の青木氏」が養育係を務める事は本来は出来ず、「伊勢藤氏の末裔」の「100石の加納氏」に形式上は預けた形を執っていた。
そもそも、慣例から云えば、「伊勢」に持ち込まれた問題の解決は「伊勢郷氏の役目」でもあり、「伊勢藤氏との絆」からも、江戸初期の「家康との付き合い」もあって、この件は青木氏に執っては放置できる事では無かった。

その「歴史観」の一つを述べる。

因みに、「伊勢の郷士」で「紀州藩の家臣」に成った家に遺された資料をまとめると、当時の「下級武士の家計」は次ぎの様であった。

「最低収入」では、家臣の「俸禄の高」は、「70俵-28石-21両」+「5人扶持-9石-7両」 計 「28両(札差変換)-37石」が「年収(標準と観られる)」であったと記されている。
各藩の勢力に依っても異なるが、これが「紀州藩の規準」であったらしい。

「最低支出 (武士長屋住 家族3人 家人1人)」では、その内訳は次の通りであった。
生活費 3000文~4000文=1両~1.5両
諸経費 2000文=0.5両~1両   
家人給金等 4両(最低 男仕一人、女仕一人雇用)
衣服費 2両
交際費 4両
その他 2両
合計 14~15両

(注釈 江戸社会は武士の「身分と格式」に応じて「慣習仕来り掟」が定められていて、「家人等の雇人」も「国内の経済対策」の為に「御定書」で決められていた。)

実際は、これが役人等を務める「下級武士の生きる為の最低額」であった様で、「武士」ともなれば後継の為に男子が必要と成り、男子の子供を産む事に成り、産めなければ親族から養子を取る事にもなるので、それには「金子」が必要であって、これには「貯蓄」等もあってこれでは済まない事に成る。
当時は、このほぼこの2倍が必要であって、28両≒29両と成り、これが「ぎりぎりの生活」であった。
前段でも論じたが、この不足分は家族に依る「借田畑の工作と内職」(「農民の寄合形式」に参加)で凌いだ。
従って、これらの「慣習仕来り掟」に関わる余計な事が町方の「町人」には無かった事から、生活は「町方の普通の者」より悪かった事が書かれている。

従って、この一段上の「家持身分」では、当時の「普通の標準」は、「家族6人 家人5人」/(家族3人 家人1人)=4倍と成り、最低で37石・4=148石が必要と成った家計であった。

この事から「伊勢の加納氏」(100石)は、この様に「吉宗 (源六)」を「隠し子」の様に「嫡外子」として預けられたが,養育して行く能力は当初から全く無かった。
二代藩主もこの事は充分に承知であった筈で極秘に預けたと云う事に成るから、当然に、当初から「援護者」を当初から期待していた事を示す。
従って、「伊勢域」の一切の差配は、“「郷氏の役務」”であった事から「伊勢青木氏」が支援し養育したとある。

(注釈 平安期の「南勢の旧領地」の一部が、江戸初期に幕府から本領安堵されたのはこの「郷氏の役務の所以」の一つとも観られる。
況や、この「南勢の旧領地」には「和紙に関わる楮生産」と「和紙生産と紙の殖産」を進めていた。
上記手紙の主の「母方縁者の郷士頭」と、その「一族郎党」の定住地でもあって「不入不倫の権の影響」でも護られていた。
それ故に「青木氏」に執っては重要な資料が遺されていた。)

(注釈 紀州藩からは「隠子」で「嫡外子」であった事から援助は無かった。
この時期、紀州藩は財政難から幕府から「10万両の借財」に取り分け喘いでいた時期でもあって、借財は藩財政の半分に達していた。
その事から援助は元々全く出せる状況では無かったし、隠していた事から出せなかった所以でもある。)

そもそも、「伊勢の青木氏」は、「奈良期からの郷氏」である事には間違いは無く、その役務の所以と云えばそうでもあるが、「隠子の嫡外子」であるとするならば「郷氏の役務」かとも成る。
果たして、“何の義理も無いのに何故に養育したのか“と云う疑問が湧く。
「資料」は明確に書いていないが、先ず「青木氏の口伝」に依ると、前段で論じた様に、その背景と成った「江戸初期の家康との二度の談合」と、その後の「頼宣までの諸々の付き合い」で、「政治的な厚遇」と「商いを続けるための経済的厚遇」を受けたが、何よりも“「本領安堵された事への義理返し」(伊勢での「氏存続と現状維持」)”であったと口伝で強くその恩義に付いて伝えられていた。
その口伝の中での“「源六殿養育」の一節”であったが、「源六殿と六左衛門の稚児逸話」も遺されていたらしい。

(注釈 「伊勢藤氏の末裔の加納氏と伊勢青木氏」は「伊勢藤氏や伊勢秀郷流青木氏等」により「数度の母方縁籍関係」にあり、筆者の父方曾祖母は加納氏の娘である。
「加納氏」は、その後、生計を立てる為に、「青木氏の指導」の下で「二足の草鞋策」の「商家の加納屋」(青木氏の殖産事業)を立てて「養育能力」を高めた。)

その後は、その「意味合い」が、上記した様に、「吉宗将軍擁立」と「享保の改革」までへと変化して行った事に成る。
その経緯が下記に記した通りであるが、この経緯に青木氏が関係する問題(事件)があった。

前段で論じたが、「伊勢青木氏」が「家康―頼宣との親交」があった事から、頼まれて伊勢で「養育掛かり」を務め、経済的支援をし、「藩主として持つべき能力」、取り分け「経済的な知識」等を「青木氏の商いの仕事」を通じて実地に教え込んだ。
ところが、二代目後の「紀州藩の跡目」で揉める中、三代目と四代目(公家出自)の二人が僅か半年間を経て没し、この間、「吉宗 源六」の生誕から僅か21年であった。

(注釈 青木氏の資料では、父病死後、三ケ月で兄の一人は病死、見舞いの弟は江戸からの旅の疲れで、父病死後半年後(兄病死後3ケ月)に没したとする理由に成っている。
これは「藩内の廃嫡騒動」の所以と観られる。)

其の結果として、例外的に、上記した様に、その「資質と能力」を買われて22歳で、「越前葛野藩の三万石割譲の扶持藩主」 「紀州藩の支藩」から「紀州藩の五代目」に、この時、「松平氏から養子の話」が出ていたが、「葛野藩の経緯」からも「綱吉の意向」も陰にあって偶然に話しは着いた。
実は「綱吉の意向」が問題なのである。
実質の処は、3ケ月ごとに藩主三人が没した事は、「吉宗」は「光貞の跡目」の「三代目」である事に成る。

(注釈 「越前葛野藩」の件は、松阪定住で、「准支藩扱い」で、一万石以上は「大名扱い」ではあるが「吉宗資格無し」で、元は「嗣子外扱い」であったが、「部屋住み」から「世継権」を持つ立場にしても貰った事を意味する。
「大名城」を構える事を許されない「陣屋館」の「越前葛野藩」の影響が「紀州藩」に大きい影響を与えていた。)

そこで、この様な経緯の中で藩主と成ったか「上記の改革」を推進し成果が上がった。
ところが、ここで徳川氏の「将軍家の世継ぎの問題」が浮かび上がった。
ところが「将軍家の世継ぎ」もなかなか決まらず、突如、「紀州藩の吉宗・頼方」の名が挙がった。
折しも、「経済政策の失政」と「大きな飢饉」が続き社会は酷く疲弊していた。
其れを救えるのは、「紀州藩財政を立て直した功績 10万両返済」を買われて「将軍」に成った。
「青木氏等」はその財力で「吉宗・頼方・源六」を将軍に押し上げたのである。
ここで、「享保の改革」の「質素倹約」と「殖産興業」と「組織改革」を実行する「リフレーション政策」を提唱した。
しかし、「御三家」等から大反対が出た。
周囲は「インフレーション政策案」が主流であった。
そこで、これらを説得するには、「紀州藩」を「モデル」にして、先ずは「紀州藩財政」をこの「リフレーション政策」で立て直す事であった。

(注釈 紀州藩は、1707年と1708年の二度に渡り「M7クラスの南海地震」の大地震に見舞われて、その対応費用に「藩財政の半分の拠出」を余儀なくされ財政は破綻で困窮していた。)

これには、注釈の様な「不慮な災難」があって、「育て親の伊勢の紙問屋青木長兵衛」に依頼して、「紀州藩勘定方」の「指導役」を依頼し「藩財政の立て直し」を実施した。
その後、1716年頃までに「借財等の返済」は完了し何とか持ち直した。
それまでの前藩主の「幕府借用の計10万両の返済」を成し、「家中差上金の賦課」、「藩札の停止」、藩内各地で甚大な被害を発生させていた「1707,8年の災害の復旧費」などで悪化していた「藩財政の完全な再建」を果たした。

何とこの間、1707-1710年からの8年間で「藩財政の立て直し」を成し遂げたのである。
これを観た「幕府」を始めとして各藩は、「驚きと羨望の目」で「青木氏が行う商業組合に依る対策」を見たのである。
この時、「紀州藩の結果」だけでは無く、「15地域にも改革」は進んでいたのであった。
然し、「享保の改革」の実行の為に、「青木氏」は紀州藩から一部が江戸向行の為に1716年に引き上げたが、「伊勢青木氏」が「紀州藩勘定方指導」から手を引いた少し後の1730年頃前を境に、「血縁の無い支藩」からの「養子の藩主」が行った「三貨制度の普及」等により、藩の信用が無い中で「藩札再発行」や「銅銭鋳造」等の「経済対策」を採ったものだから、あまり効果は無くて逆に悪影響を及ぼし藩財政は再び酷く下降した。

それは、「青木氏の勘定方指導」の「リフレーション政策」を継承せずに、積極的な「インフレ政策」を採った事から起こった事である。
そして、遂には1740年頃から再び「藩財政55万石」は1/2程度(32万石)に極端に悪化したのである。

(注釈 「災害と震災と飢饉」の時には、「25/55万石の財政状況」であったが、災害や飢饉でもないのにそれに近い財政状況と成って仕舞っていた。
これは完全な「藩主の失政」である。
そこで、結局は、この「失政」を回復させられない侭に、窮地に陥り「幕末」に「青木氏」が請われて再び伊勢より出向して「紀州藩の勘定方指導」をして立て直した。
この時の「藩主とのやり取り」を書いた手紙等が遺されている。
つまり、紀州藩は初代頼宣期と吉宗期と幕末期以外は藩財政は全て失政であって借財に喘いだ。)

1716年に成って、一方、幕府方では伊勢で兄弟の様に共に育った「青木六兵衛左衛門」を下向させて「布衣着用」(将軍に直接面談できる大名格)を許し、「享保の改革」(商業組合での改革)を主導させたのである。

(注釈 家臣が周りにいない時は、兄弟の様に呼び合っていたと口伝で伝えられている。)

そして、上記で論じた様に、この「伊勢の改革」を「江戸の改革」へと移す事に成ったのである。
結果は、上記に論じた様に成功し、その「リフレーション政策」の効果を証明した。
これを観て「反対派」は沈黙して、大反対をしていた「尾張藩藩主」(旗頭は継友)などは立場が無く成り、恥じて酒に酔いつぶれて家臣団からも信頼を失い、遂には暗殺直前に自ら蟄居して仕舞ったのである。
これを「勢い」にして「反対派」を抑え込み「享保の改革」は、「上記の様な経緯」を経て更に進んだのである。

ここで注釈として、更に「青木氏の歴史観」として、次ぎの事を知っておく必要があり、余り知られていない「重要な事」がある。

そもそも、“「紀州藩支藩の越前葛野藩」(幕府からの扶持 吉宗の知行地)”は、「青木氏」とは全く無関係では無かったのである。

実は、この「越前の葛野」は、前段でも論じた様に、奈良期から「皇族賜姓族臣下族の青木氏等の逃避地」で、「現在の越前市地域」」にあって、ここに「神明社」を他国に比べてより多く創建し,ここに青木氏一門を匿い保護していた地域であった。

(注釈 「五家五流賜姓青木氏」内に起こる「一切の混乱」に際する「避難・逃避の地」として定められていた場所で、ここにその救済の手配を担う「神明社」を多く配置して体制を整えて「仏施の質」として構築された制度の地である。)

(注釈 「仏施の質」とは、本来は「青木氏の菩提寺」が行う「質」ではあるが、守護神の神明社がこれに代わって行っていた。
菩提寺は古来より密教であった事から、本寺と分寺が原則であって定住地には数が少ない事から神明社が前段で論じた様な制度で行っていた。
然し、「青木氏の資料」の行では「仏施の質」と表現されている。「社施の質」とは成っていない。)

主にこの「逃避地」(越前国丹生郡等 3万石 実質4万石に 葛野域館)で生き残る為に、問題を起こした「五家五流の皇親族の青木氏一族」を「仏施の質」により葛野域のここに導き保護し、「青木氏の商い」を通じて「商人」と成って、多くの「青木氏」は長く生き延びさせた当に当該地域であった。
その末裔が「越前商人」の一部を形成していたのである。

紀州藩跡目の「二人の兄弟」からの身の危険を感じる程に「吉宗 頼方・源六」には「激しい軋轢」があって、この時は「吉宗 頼方・源六」」は、紀州藩の「伊勢松阪」に匿われていた。
(「嫡外子」に扱われた。)
「伊勢松阪」は生まれた幼少の頃から滞在していたので、この「逃避地」(葛野域)との関係は「親代わりの青木氏」から聞いて充分に承知していた。

敢えて、「幕府」は、所縁ある「越前の国」は幕府に執っては「重要な政治経済軍事の要衝地」でもあり米所でもある。
此処を敢えて割譲してまで、“「嫡外子」に扱われている「吉宗・頼方・源六」”までに新たに「葛野藩三万石」(「支藩扱い」の「陣屋館造り」)を、態々、作り、「知行地」として授与したのだが、これも「吉宗・頼方・源六」が望んだ理由は、「青木氏の所縁」からものとして考えての事であり、その「証拠」である。

(注釈 実は、これには「歴史的に記録」があって、「先代頼宣」が「謀反の嫌疑」を「三代目将軍の家光」に掛けられてからは、二代目までは幕府とは「疎遠の状態」であった。
そこで、これを修復する為に紀州藩の「二代目光貞と世継ぎ二人」が「五代目綱吉」に江戸に招かれたが、その時,“「吉宗・頼方・源六」”は「付き添い」として同行し、「会見の間」では無く「控えの間」で「跡目外嗣子」(「部屋住み))の扱いで控えていた。
ところが「将軍綱吉」は、「吉宗」が「経済学」等の「博学の徒」である事を知っていたので、その「吉宗・頼方・源六の人物」に興味を持ち密かに「面会」を特別に許した。

(注釈 周囲が驚くほどに特段に「経済学」に優れていた事が公的資料から判っていて評判に成っていた。
これを将軍「綱吉」は事前に老中や側用人から聞いていたとある。
将軍に成っても周囲にこれを超える家臣はいなかったとされている。)

「他の兄弟二人」では無く、「綱吉」はこの「吉宗・頼方・源六の人物」を認めた結果、「知行」を与える事を特別に決めた。
これは「二人の兄弟」を差し置いてであり、「嫡子外扱い」と成っているにも拘らず兄弟には立場は無かった。
(次兄にも直ぐ後に同地に与えた。)
「紀州藩」を通じて藩外の「遠国特別支藩」として「要望通り」の「葛野の所領」(知行地)の「越前割譲」が認められた経緯を持っているのである。

そして、此処を「紀州藩の支藩扱い(「陣屋館造り」」」としたのも、この“「古来の逃避地」”を持っていた“「青木氏との関係」”からではないかと考えられる。
そこで、「吉宗 頼方・源六」は、「知行」を幕府から特別に与えられるとして、敢えてこの「越前の所縁地」の「葛野」を指定要望したのではないかと推測される。

つまり、「伊勢」に居て培った知識から、「知行地」の「安定した土地柄」は、“「商い」にある”と考えていたからであって、その「知行地」を思う様に管理するには、「育て親の青木氏」の一門が「商い」で栄えている事は何かと行政上都合が良いと観ていたのである。
そうで無ければ、態々、幕府は新しく「知行地」(扶持)を造る事も無い筈で、遠国の「葛野」でも無かった筈である。
この「葛野」には、この様な「所縁」があったのである。

(注釈 この葛野は将軍に成った後に越前に返却した。)

つまり、この「伊勢」には、江戸期に「紀州藩の吉宗同意」の下で、この育った「松阪商人」を「青木氏」と共に、「松坂組」と「射和組(後期の殖産)」とに分離させ、編成させて、「職能分業の組合組織」(商業組合)を造り「経済の活性化」に成功させたのである。
(近江組は不参加)
この通称、「松阪商人(「松坂組」と「射和組」と「近江組)には、実は、これには数人のもう一つの「葛野商人(越前商人)」が組み込まれていたのである。

「陣屋館造り」の「葛野支藩」から「吉宗と青木氏」に“「招かれた商人」”として加わっていた。
前段で論じた様に、越前の「青木氏の商人」は、中でも「越前商人」と呼ばれる者の仲間入りをしていたのが、「酒造業」(越前酒)を営んで大成功していた。
それは「近江青木氏」で、秀吉の家臣であった越前八万石「青木一矩と久矩」の子孫も「天下分け目の戦い」で「福井葛野」に逃げ込んだ事は判っている。
「葛野商人」はこの末裔と観られる。

江戸初期の当時は、“「四大杜氏」”と云われた「丹後杜氏」、「丹波杜氏」、「但馬杜氏」に並んで「越前杜氏」が在った。
そこで、この「越前杜氏」を雇って「青木一矩(逃亡二か月後没)」の子の「俊矩」は「酒造業」等を手広く商って成功した。
そして、「越前の酒問屋の豪商」と成り、”「越前商人」”と呼ばれる様に成った。

この「越前青木氏の酒造業」の「二人の商人達」(越前杜氏含む越前商人)を招き、この「酒造り」を「伊勢米の殖産」として「伊勢」で持ち込んだ張本人達であった。

(注釈 この「伊勢の酒造りの殖産」を新しく起こすには、この「越前の職人」を「伊勢」に招く必要がある。
それには、ここを「支藩」として「吉宗の知行地」にする必要があって、それを思惑に幕府に掛け合ったのであろう。
取り分け、「杜氏等の職人」等は、「他国の移動」は当時は厳禁されていた。
何故かと云うと、それは元より「領民」は、「藩主の支配下」にあり勝手な移動は「国抜け」と云う斬罪になり、且つ、「杜氏等の高い能力」の技能者は、取り分け、国のその権益を護る為に「国の殖産」が他国に流れる事を禁止していた。
中でも、「関西の四大杜氏」の「杜氏」は厳禁であって、「国で開発した殖産」は「国の宝」と観られていた。)

「青木氏」は、前段で論じた様に,「信濃青木氏」から学び「米の新種と早場米の開発」(江戸初期)に成功したが、「余剰米と成った米」を「酒造に生かす事」を考えての処置であった。

この「葛野」を「吉宗知行地の所領」と要望したのには、上記した様に、この「越前の酒造業」を「所縁のある葛野」から「伊勢」に持ち込む「吉宗と青木氏の戦略」で在ったと観られる。

と云う事は、「吉宗と青木氏」は、伊勢に「酒造業の殖産」(伊勢酒米の大和)を興そうとしたとすると、「伊勢の殖産」のみならず、ここの「伊勢の経済力」を背景に「将軍」に成れるかは「時の運」が左右する事は必定ではある。
然し、これは少なくとも、「疲弊する全国の経済」と「幕府の経済知識の治政」に大いに疑問を持っていた証拠である。
「御三家」として何とかしたいと云う「気概」は、「嫡子外」でありながらも持っていた可能性が有る。
むしろ、「嫡外子扱い」で育ったからこそ持ち得た「気概」であっただろう。
少なくとも、幕府に「紀州藩の影響力」を誇示して幕府を動かしたかったと云う「気概」は持っていた事は、この「葛野の一件」でも伺える事である。
(その様に「資質と知識」の持った「養育」を「青木氏」はした事は確実である。)

「吉宗」が「堅実な性格」であったと云う事は、そもそも「青木氏の家訓」と「氏是」に通じているからであり、上記した様に、「伊勢商人の気質」に通じている事でもあった。

上記のaとcの「江戸出店と商業組合の不参加の商人」が、後の1760年代に「江戸出店」を果たすが、この「江戸出店」を果たすには「新たな売り」にする「伊勢の殖産品」が必要で、ただ単に江戸に出れば成功すると云う甘いものでは無かった。
この時の「商い」には、上記した「新たな殖産」を興した「伊勢の酒」と、伊勢伝統品の「伊勢の白子木綿」と、紀州伊勢でも起こった害虫全国被害にミカン畑に「搾りかす油」をまいたところ大効果があり、これを逆手に「殖産商品」とした「南勢の菜種油」”が主であった事が判っている。

(注釈 この事は「墫廻船」と「菱垣廻船」の「積荷資料」にも記載有る。)

取り分け、上記した様に、1745年以降の「樽廻船」の「酒」には、この“「伊勢の酒」”があった事が判って居る。

(注釈 「灘の酒」等は特に厳格に管理されていて「廻船の搬送」は「樽廻船」として限定されていた。)

この事は、「吉宗知行地の葛野」から招いた「葛野商人」に依って興った「伊勢の酒造業」は、1697年から凡そ50年で江戸に販売できるまでに育った事に成る。
「酒に適合する米の生産」から始まり、「酒造販売」に至るまでの工程としては、納得出来る期間である。
前段で論じた「信濃から学んだ米の生産」は、「伊勢に合した米種」も然ること乍ら、「酒に合う米種」に改造する事にそもそも「所期の目的」があったのではないかと考えられる。
故に、確かに「伊勢の難しい気候」に合わした「米の増産」もあるが、「日本初の早場米」(青木氏が開発した「早稲光」、或は、「光稲」)には、「良酒に合った伊勢米」にするには「季節的な理由」が在って「早場米」にしたのではないかとも考えられる。

注釈として、「伊勢」は地形的に「中部山脈」と「中国山脈」の中央構造線の「中間の切れ目」から吹き降ろす山瀬(やませ)に依って「伊勢平野」は常に荒れる。
平均気温は15度前後と「低温域」と成り、又、「堆積平野」であるが為に「砂泥岩質の土壌」で出来ているし、この事に依る「海水堆積」が起こり、従って「米の生産」は古来より全く難しかった。
これを「寒冷地の盆地の信濃」から「米の生産」を学び、上記の土壌に適した「米種の開発」に「青木氏の資産」(殖産)を投入して取り組んだ。
更には、「やませの低温域」の季節を避けた「全国初の早場米」まで開発した。

そこで「酒米種」にするには、「低温米」は甘みが在ってまろやかであるが、「海水の浸み込み」を起こす「砂泥岩質の土壌」が問題であったらしく、これに「合わせた米種」にするのには大変に苦労した事が「青木氏の資料」の一部に書かれている。

この資料から読み取ると、概して云うと、「砂泥岩質の土壌」は低温に成ると、「土壌の水分量」が低下して、「米質」が脆く、「粘り性」が低下するとの事で、結局は、激しく成る「やませの時期」を後ろにずらして、海水の浸透期をずらし、早めに「種植え」をし、「米質が出来る時期」に、要するに地形から来る「山瀬 やませ」に合せる事で収穫すると云う試みを重ねた。
この結果、前段で論じた適合した「早場米」が出来上がったと云う事である。
これが「酒米種」にも一致させたと云う事であった様である。
この「早場米」が同じ気候と土壌を持つ信濃より西域の「大阪平野」や「灘平野」や「美濃平野」までに広まった原因である事が書かれている。(事実と一致している。)

そこで、更に調べた結果、「幕末の前頃」の1780年末から1800年前半代に開発された“「伊勢錦」”、と、その後の“「山田錦」”は「伊勢の酒米」として開発された。
然し、、その「伊勢の酒米」の全ての元と成ったのは「多気郡」で開発された幻となっていた“「大和」”であった。

1700年代後半期に開発されたとするこの“「酒米の大和」”は、1700年代初期に多気郡で開発された「日本初の殖産による早場米」(「早稲光」、或は、「光稲」)より改良された上記の“「酒米」”と書かれている。
そして、この「早季種米」に観られる「米の味」から、“「芳醇な味」の「早稲光の米質」”に一致している事が判る。

この越前から呼び寄せて造った「伊勢酒」(伊勢錦と山田錦)の元と成った「伊勢の酒米」の“「大和」”も、「芳醇な味」を醸す「酒米」として生産されていたものである。
その後、近畿圏に多く生産される様に成った事でも一致しているのである。

この”「早稲光」”から開発された”「酒米の大和」”は、昭和初期には完全に消えた“「幻の米」”として最近、「伊勢」で復元したと伝わっている。
「50年の経過」を経て「酒造販売」に至る開発された時期から考察しても、この「早場米」の「早稲光」を先祖に持つ“「大和」”の「酒米」を使って造った「伊勢酒」(青木氏の殖産事業)である事には先ず間違いは無いだろう。(明治35年の資料の焼失 口伝)

そこで「陣屋の葛野藩(1705年)」は、「吉宗将軍(1716年)」と成った後の1725年頃に最終「廃藩-越前藩返却」の経緯と成るが、この「20年間の短期間の知行地藩主」であった事から、「葛野藩割譲」と「酒造業の伊勢移入」は、明らかに「吉宗-青木」側の「当初からの戦略的な計画」であった事に成る。

当時は「酒造技術」は「藩財政」の安定した「財源の要」とも成るもので、その為に酒造元を持つ藩は技能と技術は厳しい管理の下で「門外不出」であった。
当時は上記した様に「四大杜氏の関係」から、各藩は何とかしてこの「四大杜氏」から人を招いて「藩財政の安定化」の為に「酒造業」を興そうと懸命に成っていた。
「四大杜氏」は徒弟制度で組織されていて、簡単に「難しい酒造技術」が流出する事は出来なく独自の努力にも財源と技術に限界があって、喉から手が出る程であった。

この「越前杜氏」の持つ「酒造技術」を伊勢に持ち込み「殖産」として「伊勢酒」を造るには、この酒造地域元の「葛野」を支配下に治める必要がある。それ以外には無い。
とすると、松阪で育った「吉宗・頼方」は「伊勢殖産で酒造業」をより図る必要があると認識する。
そうするには、この「葛野」は、「青木氏の所縁の土地」でもあり、且つ、「酒造業で成功した近江青木氏の青木俊矩の葛野」でもある。

ここをどんな形でも良いから、「吉宗の扶持の知行地」に最低で作り上げれば出来る事に成る。
後は、「早場米」の「早稲光」の経験を活かして「酒米」に改良する事が出来れば、同族の「青木俊矩の葛野」の「越前杜氏」の出番で酒造は直ぐに「青木氏の殖産」に移せる。

注釈として、「綱吉」も当初からの「吉宗頼方の戦略的な計画」であるこの事を「側近の大久保氏」から知らされていて大方は察知していたのではないか。
「記録」には「側近大久保」は「高い経済学知識」のある「嫡外子の吉宗・頼方」に興味を持った所以を「綱吉」に取り次いだとする記録が遺されている。
この“「高い経済学知識」“とするのはこれらの事に在ったのではないかと観られる。
葛野の「頼方知行地付与の件」での「申し出」では、「御三家」の紀州藩安定の為には必要と認めていたと考えられる。
幕府としては、「紀州藩の安定」は戦略上欠かせない条件でもあると考えた事からの配慮と考えられる。
そもそも、「紀州藩」は元は「浅野藩の不毛の領地」であり、「越前国の様に経済的な戦略的地域」ではなく軍事的地域と見做されていた事も事実である。

そもそも、この「殖産」を営む「伊勢商人」とは、「松阪組」と「射和組」と「葛野組」と「日野組(松阪組と会津組)」と成るのだが、その組は次ぎの様に成っている。

「松阪組」には、氏姓名としては、「青木氏の商業組合」や「殖産で拡がった組」や「縁故関係組(「加納氏」等)」がある。
「葛野組」には、数は少ないが「葛野青木氏」等の「酒米の殖産組」と「杜氏等の酒造組」がある。
「日野組」には、元の「近江組」が一度日野に戻るが、その後、「松阪戻組」と「会津組」の二流に成る。

前段でも論じた様に、秀吉に依る「氏郷の移封」で二分流し、「松阪戻組」が「射和組」と合流する事に成る。

これらを主導する「射和組」の「伊勢郷士衆11氏」(筆者説18氏)に付いて論じて置く。

この「射和組」には、氏姓名としては、「・玉置氏、富山氏、国分氏、森田氏、河村氏、山下氏、新川氏、三井氏、下村氏、竹川氏」、所謂、射和組の「伊勢郷士衆11氏」(筆者説18氏)が確認できる。
これに前段でも論じたが「門徒衆」が加わる。

(注釈 但し、「日野組」の「松阪戻組」と「射和組の門徒衆」の二派は「青木氏」と行動を共にしなかった。)

以上等の「伊勢郷士衆11氏」(筆者説18氏)が中心と成って繁栄させたのである。
この「射和組」には、伊勢紀州の「門徒衆」が入る。

注釈として、この「射和組」に加え、全体の「伊勢郷士衆」は次ぎの通りである。

清水、山尾、辻、・佐々木、・加納、・小林、 満田、中村、福岡、西田、島、松山、家喜、喜早、本城、福西、谷村、徳山、金子、友田、藤村、滝野、千賀地、吉住、村田、新川、
(紀州は除く 最大時の計26氏)

「親交・縁籍先」の五氏
清水「松阪組」 山尾「松阪組」 辻「松阪組」 三井氏「射和組」 下村氏「射和組」

「娘嫁先」と「家人跡目先」の確認できる五氏
・佐々木「松阪組」 ・加納「松阪組」 ・小林「松阪組」 ・玉置氏「射和組」 ・小野田氏「射和組」

注釈として、この「伊勢郷士衆」との血縁では、現在の研究では、「青木氏」からの「娘嫁ぎ先」と「家人跡目先」としては「五氏」(・印)が確認できる。

「青木氏へ嫁入り先」は、確実には全て確認が取れないが、ほぼ同じ程度の「六氏」で,大正末期までの「長い付き合い」(親交)のあった「伊勢郷士」は血縁の有無は別として「五氏」が確認できている。
(恐らくは血縁はしている。江戸期中期で計11氏)
然し、更に資料が見つかれば、少なくとも「伊賀郷士衆等11氏(18氏)」とは、清蓮寺などの資料からと、その前後の経緯から観て何らかの関係があった事が頷ける。
(室町期からでは計29氏)

(注釈 平安期と鎌倉期の状態は度重なる消失で資料が見つからないので状況証拠以外には掴み切れない。)

伊勢の「櫛田川」を挟んで、「射和」の南側の玉城村(現在の玉城市)の全域は、「伊勢青木氏」が大地主(地権者)で、「伊勢紙屋の蔵群」と「松坂組の職人の職場と長屋群」と「射和組の職人の職場と長屋群」として成り立っていた。
この状態は、「農地」では無かったことから、上記で論じた様に、「資産・地権」として筆者祖父の代の明治35年(38年頃)まで続いた。

実は、「伊勢松阪」は、江戸期から明治期まで、「数十件以上の大火」として扱われる「火災」は何と「6度の大火」に見舞われた。
従って、縁籍関係のこの種の資料は特段に遺らないし何らかの方法で追跡が困難に成っているのである。

(注釈 これは上記した中央構造線の「地形上の吹き降ろしの影響」で大火が起こり易い。
この内の1件は「青木氏の伊勢紙屋」からの松阪の出火元に成る。)

(注釈 この為に「古来の資料」が残念ながら多く消失しているが、「商記録」は別であった事と「菩提寺」や関係する「郷士衆の家」には「末梢の記録」が細かく遺されている事から、「充分な読み込み」をすれば「青木氏の歴史観」と繋ぎ合わせての経緯が生まれる。)

江戸末期にも2度の「大火」に見舞われ、「室町期末期の戦乱」に依る「焼き討ち」からも「大火」に依る「伊勢庶民の感覚」は、大火には特別なものがあり大変なものであった。
それだけに、商家界隈の何度も繰り返される「災難」には、そこから何とか立ち直ろうとする気概が強く、「伊勢四衆」の「生き残りの二氏」(二つの血縁青木氏)が立ち上がったのである。
(伊藤氏一族と伊賀氏一族は衰退)

江戸期までに生き残った「氏族」の「伊勢秀郷流青木氏」は、「紀州藩の官僚」として、「伊勢青木氏」は「郷氏の地主」として、「豪商」として、「殖産」を新たに興し立て直らせようとした。
其れには、上記した「室町期末期の殺戮」と「度重なる大火」で「伊勢衆」は、上記の様に激減して仕舞ったのである。

“「紀州藩の記録」”に依れば、この「伊勢衆」が他国に比べて特に少ない事を理由に、「伊勢の二つの青木氏」との「談合」を再三にしていた事があり、“「青木氏の年譜」”にもこの事が一部記載されている。

注釈として、「伊勢」の生き残りの「郷士衆」は、同じ時期の「土佐郷士数」の「全階級500」に比べて、50程度である。
何と1/50に過ぎない。

「伊勢三乱」に参加した「郷士数」は、記録から凡そ「35程度」で、それが、最終は20以下に成っている。
「伊賀の乱」に参加した「郷士衆35」が、前段でも論じた様に、清蓮寺城からの「青木氏に依る救出劇」で生き残ったのは何と最終11氏(18説)と記録されている。
(殆どは何らかの縁者関係にあった。)

(注釈 普通は、その地域の「歴史的な経緯」も左右するが、原則の平安期からの「四六の原則」により「一国五郡制」であるので、一郡に興せる「郷士数」はせいぜい「25から30程度」が生存競争により限界と成る。
そうすると、藩主と成った者は、これでは元より「規定の家臣数」では賄えない事から、一国に「郷士数」は150程度に拡がりこれが限界数と成る。
これでは、藩主に課せられた「責任兵数」では足りない事に成る。
そこで、既定の格式を下げた“「準下士」”として「農民から傭兵方式」を採用する事に成るのである。
これでこの約3倍が用意される事に成る。
ただ、これには、「人様」を用意するに当たり “「ある仕来り」”が有って、「傭兵と成る者」(“「準下士」”)、つまり、主に「農民」には、“「元郷士」”であったとする証明が必要であった。
これを扱う「専門の仲介人」の「斡旋職業」が存在した。
これらが、この“「証明」”を作り上げて藩主に届けられたが、殆どは搾取であった。
藩主もこの事は充分に承知していて「暗黙の了解」であった。
そこで始めから、紀州伊勢地域にはこの様な「傭兵軍団」が各地に編成していたのであった。

有名なのは「関西域」では、大きい「傭兵軍団」を職としているものとしては、次ぎの通りである。
伊賀軍団、甲賀軍団、雑賀軍団、根来軍団、柳生軍団、河内軍団、十津川軍団、龍神軍団、橋本軍団、日高軍団、北山軍団と、「熊野六軍団」等
以上の各地の“「郷士衆」”から成る「17軍団」があった。
紀州伊勢はこの様な背景から実に傭兵軍団の多い地域である事が判る。
(臨時的に農民を集めた炊事などの雑務を担当する農兵の「農兵軍団」は除く。)

他に、「伊勢紀州域」では、重要な水軍による「傭兵の軍団」が次ぎの様にあった。
熊野水軍、伊勢水軍、紀伊水軍、摂津水軍、堺水軍、と別格で駿河水軍
以上の「水軍の傭兵軍団」の「五軍団」が在った。

(注釈 「鎌倉期、室町期の戦い」までは、戦略上、「水軍の軍団」が無ければ、“戦いは負ける”と云われていた程に「重要な戦力」であった。
「駿河水軍」は、関東域の水軍と成るが、資料から「平安期からの戦歴」を観ると、「関西域の戦い」に参加している傾向にあり、これはこの「駿河水軍」は「源氏方水軍」と云われ、「青木氏」(伊勢水軍と摂津水軍)とは、「青木氏の平安末期の跡目」に入った「摂津源氏の源京綱」との繋がりから大いに関係のあった水軍である。
伊勢青木氏の同族一門の伊豆青木氏との血縁関係もあって、その勢力は「青木氏」を平安期から伝統的に補完していたのである。)

そもそも、「水軍」とは、港域の海域を封鎖し、「食料の搬送」に敵味方に大きく影響し、「港からの攻込み」で側面を突かれる事があって、圧力を掛ける戦術にも成る事で水軍を確保する事は必須に重要視されていた。
更には、その意味でこの「水軍を持てる軍力」は、当然に「姓族」では先ず無く、「氏族」を構成する集団で無くては持てない状況であった。
この様な「水軍」を持てるには結局はどうするかであって、「絆柵」の中で持てる「軍事力」であった。
其れには況や“「歴史」”が左右するものと成る。
「青木氏」はその意味で関西では、「郷氏」乍ら、この「五軍団」との強い絆柵を持っていた。其れに「陸の水軍」とも云える「シンジケート」を持っていたと成ると、例え、「不入不倫の権」で護られていたとしても、その「影の脅威」は「姓族」の大豪族の比では無かった。)

「青木氏」では,九州の黒田藩に傭兵していた「日向青木軍団」、自由軍団の中部域の「伊川津七党の青木軍団」や関東域の「武蔵七党の丹治氏系青木氏の軍団」がある。
中国域の地方では、「讃岐青木氏系」の「出雲亀甲軍団」、関東では「武蔵丹生党軍団」がある。
これらは全て組織化された「郷士身分」の「表の組織」である。

「伊勢」は、この事から観ると、この「軍団の影の脅威」があって、明らかに矢張り全国の平均より1/3と少ない事が判る。むしろ少なくても良かったのである。
丁度、「青木氏の同族」で親交を最大にしていた水軍の無い「信濃」では、この「平均の郷士数500」であった。
重要な事としては、「伊勢」は1/3であった事から、この様に少ないだけに「強い絆柵」で繋がった「伊勢水軍」「摂津水軍」や「伊勢シンジケート」と云う「影の組織」で固まっていたのである。
前段でも論じたが、「シンジケート」とは、平安期から室町期に戦乱で敗退して山岳地に逃亡した「武士衆」で、中には勢力を持ちなおして「郷士」と成った者もあって、それらが「生活の糧」として「青木氏等の豪商」と繋がり、契約をして経済的に生き残った。

(注釈 完全な経済的支援をする。常時は「荷駄の護衛」や「地域住民の護衛や警備」を担当し、「戦い」と成ると戦闘員として働く「影の軍団」である。
資料を観ると、この水陸の「軍団の活動」は目が廻る位に煩忙であったらしい。)

それが各地に存在する「少数の集団」であった事から、上記の「傭兵軍団」には参加せずに、「伊勢シンジケート」に組み込まれて「青木氏から経済的な裏付け」を取って、“「戦いそのものの傭兵の仕事」”では無く、“「経済的な傭兵の仕事」”を選び、それを「生きる糧・仕事」として働いたのである。

時には、元は名だたる「氏族の郷士」もいて、「武家」であった事からも「護衛や威圧」等の「武力的な仕事」も伴わせて働いた。紀州藩などの家臣の道を態々選ばなかった。
「郷氏の各地に持つ地権」を「護る役目」を負って、そこで土地活用して生きる道を選んだのである。
主には、上記の藩主では無く、「青木氏」等の「大郷氏の護衛役の軍団」が中心であった。
「郷氏」は「地権」を大きく持つ「古来の地主の格式のある武家」で、また勃興してきた「姓族の藩主」とは違った経済的背景を持った、況や“「地域力」”を持っていた「影の大勢力」であった。そこに水軍等を持っていたのであるから、「姓族の藩主」は下手をすると潰されると云う脅威が在った。

(注釈 前段で論じたが、勃興してきた「姓族の藩主」の「山内氏」はこれに悩まされた典型的な事例である。)

(注釈 江戸期は、「藩主の石高」に応じて参戦する兵数が決められているが、これを全て家臣(上士)では賄えきれない。
そこで、「下士」として「土豪の郷士」を「二つの身分」に分けて抱えた。
この事を実行したのが彼の有名な処世実に長けた藩、江戸期に出世した「土佐藩」である。
この新興の土佐藩は、標準的な「495の郷士数」であった。
この事から「伊勢」は如何に少なかったかは判る。)

同じく元農民から出世した「自由郷士」の「伊勢の藤堂氏(55万石)」も、「土佐藩」と同じ環境に置かれていた事から、「伊勢の郷士衆」が少ない故に、農民からも「下級の郷士」として扱い、“元郷士であった事を証明できるもの“があれば、「郷士の下士身分」として臨時採用した。
恐らくは、土佐藩(49万石)と石高は同じ程度であった事が伺えるが、そもそも戦乱で滅亡したと云う事よりも、元よりそれに見合う「伊勢郷士」は、室町期中期から興った「姓族の郷士」としては「伊勢」には極めて少なかったのである。
これは「姓族」が少ない事も含めて「奈良期からの不入不倫の権」で護られた「遷宮地伊勢の歴史的な環境」から生まれた現象である事に成る。

(注釈 筆者説では、戦乱に関わらず伊勢は最大70程度以下で、 矢張り、元々、歴史的に「聖地」とされていた事もあって生きる糧と成る「殖産」も少なかった事に依ると観られる。
それは「不入不倫の権」で護られていて、ここで「武力」を発揮して周囲を押え「土豪」と成り、遂には「郷士」と成るには出来なかった環境にあった事が云える。
何故ならば,「聖地」で有るが故に、成ろうとすれば、それは「逆賊の罪」に曝されるからである。
依って「伊勢衆」と呼ばれる「郷士衆」と違い、「天正期末の伊勢郷士」と呼ばれる多くは、上記した「伊勢御所時代」を強引に築いた「公家武家の北畠時代」からの「各地から集めた郷士」であり歴史は浅い。)

「公家大名」と成った北畠氏は、上記の通り「武力を持たない事が原則の公家」で在るが故に、従って、各地から家臣を急ごしらえで募った事は有名で、関東の秀郷一門の名門の「工藤氏」等も家臣に成っている位である。
その「工藤氏」等も「北畠氏」がその勢力を関東中部地域に伸ばした時に滅ぼした「氏族」であり、それだけにこの「伊勢」には「歴史の長い郷士衆」は少ないのである。
それだけに室町期中期頃からの「伊勢郷士」と呼ばれる「土地の土豪」から育った同じ「郷士」で有っても「青木氏との付き合い関係」も少ない「伊勢の郷士」もあるのである。

「紀州藩の記録」には、その「意味合い」としては、伊勢では、“「郷士」が少ない故に反対運動や騒動が無く、やり易いと云う事もあって、「彼等の糧」を確保する為にも「伊勢の郷士」等に影響する”「土地」“とか、”「水」“を利用した”「殖産」“を進めるべき”との意味合いの文略がよく観える。
「土地」が、「勢力拡大の道具」として使わず、事を構える事無く「本領安堵」されている「青木氏」に執っても同じ考えであった事が、これはこの時期に何度も繰り返されている「談合」の意味からでも判る。

そもそも、上記した「郷氏の地域力」を有史来を持っている事から「伊勢の事」を考えている「青木氏」を「本領安堵」する以外には無かったとは思われる。
然し、それにしても「伊勢の国力」を高めるには、「伊勢衆」と「伊勢郷士」の「二つの郷士の力」を結集した「殖産と興業」が必要であった。
従って、その「力の源」に成るには、「新しい藩主」にしても「地域力」を持つ「郷氏の青木氏」にしても、矢張り、「少ない郷士の力」を使う以外には方法は無かった。
その「二つの郷士」が室町期末期の戦乱で激減し、その僅かに遺された「伊勢郷士」も、「伊勢シンジケート」の中に存在したと云う“ジレンマ”にあった。

元々、上記した「紀州藩との関係」から観ても、結局は「郷氏の青木氏」が前面に出る事しかなく、「伊勢シンジケートの郷士」から観ても、頼れるには「藩主」では無く、矢張り、“「実質的な地域力」”を持った「郷氏の伊勢青木氏」であった。
然し、その期待を背に、この「郷氏の伊勢青木氏」も「自らの力」だけでは“不安”であったと観られ、当然の事ではあると思われるが、「古来の親族」の“「信濃青木氏」”に「助け」を更に求めた事にも成る。

と云う事は、「伊勢」は、「室町末期の伊勢三乱」の「戦乱の影響」を強く受けていた事だが、「親族の信濃」はその意味では中部地域であった事から、「信濃青木氏」は「郷氏」であって「国衆」では無かった事から伊勢程ではなかった事に成る。

そこで、紀州藩から「5万石相当の支藩的扱い」を受けていた“「地域力」”を持つ「郷氏の伊勢青木氏」は、「前段や上段や上記の背景」であったが、ところが、この当時、「伊勢の殖産」を紀州藩自らが進めるには下記の「諸範の事情」から無理であった。

何故ならば、上記した様に「財政的な問題」を大きく抱えていた。
(「10万両の借財 55万石の1/2の財政」=廃藩寸前の財政)

その中での「青木氏の商年譜」のこの時期(二代目後半と三代目初期)の記録(1705年6月)には、“「紀州殿談合」”と記されている部分が在る。

(注釈 この「談合」の「殿」とは、書き方から「藩主」とは限らない模様で、 藩主就任1年後 喪中開け後の事である事から活発に動く事は無理であった筈である。
これは「19歳の源六殿」の意味合いが強い。)

この記録にある様に、“「殖産」”で“「紀州藩立直し」”を「青木氏」が主張する様に、「伊勢青木氏」の「経済力」と「地域力」と「二つの郷士の土豪を動かす能力」を期待しての”「伊勢殖産」に対する談合“では無かったかと考えられる。
揉め事を避ける意味でも「伊勢と紀州の民」を動かしての「殖産」に対する「紀州藩の同意」を事前に獲得する戦略の「談合」であったと考えられる。

前段で論じた様に、これは「初代頼宣と五代目吉宗の持論」でもあったが、「二代目光貞」も、この”「殖産」“を、「吉宗」を「伊勢青木氏」に預ける位である事から、主張していた事にも成る。

注釈として、確定する資料が無く、筆者の「青木氏の歴史観」と「状況証拠に依る推測」の範囲を超えないが、場合に依っては、密かに「幼児の吉宗・頼方(源六」」を隠す様に「伊勢」に預けた時から、「二代目の光貞」はこの「腹つもり」であった事が考えられる。

“「殖産」”に依って「紀州伊勢を立て直すしか方法」は無く、それを「青木氏の財力」と「藩主に相当する地域力」を使っての「殖産」を考えていたとも取れる。
何故ならば、この「考えて実行に移した時期」が、伊勢(1684年)に預けられてから22年後に「“偶然?」が重なり「藩主」に成る”のだが、この「吉宗19歳の後頃」では無かったかと考えられる。

実は、「藩財政の悪化」以外に「外部要因」として、この時に、“「元禄大地震」(1703年)”が起こっていて幕府は火の車に成った。火の車以上であろう。
これで「紀州藩」も幕府から「毎年2万両の借財」をしていたが、この借財が出来なく成って仕舞った。
ところが、紀州藩に「殖産」を興して立て直す必要に迫られたが、その「殖産を興す財力」は、最早、元より無かった。
そこで、「青木氏の財力と地域力」に目を付け、そこに「吉宗 頼方 源六殿」が居る事で19歳に成った「吉宗 源六殿」により経済的な知識を付けさせて、より「青木氏」との「育ての親の関係」を深くさせて、何時しか「殖産」を興しての「藩政」を任せようと考えたと観られる。
ところが、「藩政」は公家系の知識力の無い「二人の兄弟」が継承する事に成っていた。
これでは「改革」は出来ないで藩は潰れる当に瀬戸際に至っていた。

そこで、「二代目の光貞」は、「嫡子外扱い」としていた「吉宗の源六殿を藩政に据える密かな遺言」を遺していたのではないかと「状況証拠の積み立て」から考えられる。
それを「御育用人の加納氏」と1697年に葛野藩主に成った「吉宗(頼方 源六)14歳」に伝えていたのではないかと考えられる。

この時1697年、光貞と兄弟二人は、綱吉に拝謁を受けた。
そして、嫡子外と云う事で、「吉宗(頼方)」が控えの間に、ところが老中の「大久保忠朝」に特別に便宜が働いた。
この事で「父親の光貞」は、「吉宗(頼方)」が幕府に認められたと解釈し、更に「先の事」に暗示が掛けられたと解釈したと観られる。
そして、特別拝謁から8年後、「元禄大地震」の2年後に光貞(1705年5月)は没したのだが、
そもそも、紀州藩の支藩は6藩あり,その内、「越前国の葛野藩」1697年は吉宗に、「越前国高森藩」1697年は、次男の頼職に割譲、後は時代は異なっていて家臣や家老が納めている。
つまり、「葛野」は「吉宗(頼方)」に、「高森」は「頼職」に、ところがこの「高森域」は「頼職」が短期間の紀州藩主と成った時に返却し、一部は「吉宗(頼方)14歳」が受け取っている。
(短期間の知行地 高森支藩)

「嫡子外扱い」でありながらも、「頼職の兄」と知行が同高で、予想外にも、破格の扱いで“兄より厚遇を受けた“と「光貞」は受け取り、「吉宗(頼方)14歳」を”「紀州藩の跡目」にと暗に「綱吉」に諭された“と受け取ったと観られる。
故に、注釈として、紀州藩では次ぎの様な「不思議な事」が起こったのである。

「二代目光貞」は1705年5月没と、「三代目頼教」は1705年8月没と、「四代目頼職」は1705年9月没と成っている。
二代目と三代目は「病気説」、四代目は1月後に江戸から駆けつけて「疲労説」、 三代目はそれまでは元気で、病名不明の突然死は疑問である。
四代目は江戸から船で最速で3日の船便を使えば着く。
三日で着いたとしているので船便である。従って、死亡する程疲労はないし若い。

(注釈 陸旅では15日所要する。「見舞い」には間に合わない。)

況して、「江戸」から「伊勢」に旅して疲労で死んだとは前代未聞で、そもそも「伊勢参りの慣習」もある位なのに、事も不思議である。「付焼刃理由説」に外ならない

何度も記するが、其処に、「追い打ち」をかける様に、1707年と1708年の紀州沖の「宝永大地震」が起こって仕舞った。
何と「25万石/55万石の災禍」と成ったとされている。

最早、これで紀州藩は「財政破綻」で間違いなく「廃藩」に成る。
これでは「幕府」は困った。従って、拝謁時の「幕府の意向」を強力に推し進めて来た。
そこで「郷氏の青木氏」は、藩主に代わって独自に「伊勢紀州の郷士衆」等を集めて談合している(1705年)。
その前に前段でも論じたが、中でも「紀州藩」は立藩時にそもそも「伊勢藤氏の青木氏族」等を「家臣の大半」にしている。
この事から、そこで焦った縁籍関係にある「伊勢紀州の郷士衆家臣団」と「青木氏族の紀州家臣団」は、上記の件(幕府の意向)もある事から“「ある決断」”をしたと考えられる。

これらを受けて、次ぎの様な事が課題と成った。
問題は、次ぎの事で談合が進められた。

「10万両の借財」と「未曽有の災禍」で、藩は崩壊寸前、現藩主の能力で切り抜けるられるか。
拝謁時の「幕府の意向」を推し進めるにはどうするか、
推し進めた場合のリスクをどう処置するか、
誰がどの様に「ある決断」を実行するか、
決行した場合の援助体制をどうするか、

以上を課題として「縁故の家臣団」は「青木氏」を巻き込んで「松阪」で検討されたと考えられる。
「二つの青木氏」が、この“「談合」”を実行したと云う事は、ある程度の“「ある決断」”の実行を容認し、その後の「支援援護」も覚悟しての事であろう。
「ある決断」を実行するかどうかと云う事は、最早、そのレベルでは無かった筈である。
“「ある決断」”を1705年に実行されたと云う事であろう。
“「ある決断」”を実行するについては、目だった事は逆効果で幕府が観ている中では、政治である以上はその建前を作り上げなくてはならない。
しかし、「事を荒立てる事」は、幕府に執っては「お家騒動の形」で逆に処分をしなくてはならない口実に成る。
最悪でも「世間の見本藩」にも置かれている「幕府の御三家」としては絶対に避けなければならない事である。
暗に示した「幕府の意向」である限りは、無難な形で、且つ、円滑に措置する事が課せられている。
ともなれば、その措置は決まって来る。
「嫡外子」であって「知行地」を受けたとしても、「吉宗・頼方・源六」を他の兄弟二人を飛び越えて、行き成り「紀州藩主」に仕立てる訳には行かない。
仮に”「ある決断」”が、「廃嫡」しかないとしても、先ず、「跡目の形」を二人の兄弟に取らせた上での事に成る。
二代目光貞没後、三代目、四代目を跡目継承させた上で五代目の跡目として「吉宗・頼方・源六」が継承すると云う形に導かねばならない。
これで世間と幕府を納得させられる事に成るし、御三家としての立場を保てるし、「幕府の意向」を実現できる。

では、その”「ある決断」”の「理由づけ」と「時期」が問題と成る。
この「時期」は、上記の通り切羽詰まって猶予は全く無い。
恐らくは、密かに幕府老中からの「秘かな催促」が在ったであろう。
「理由」は、世間の藩の廃嫡で使われるのは「病死届」「隠居届」が主流であった。
そこで「紀州藩」は二人を廃嫡しなければならない事から、「尾張藩の家臣団」が行った「隠居届」は出来ない。
遺されるは「病死届」、然し、三人目は「理由づけ」として幕府は無難で円滑である事を見込んでる以上は、「幕府届出」には三人ともに“「病死」”と云う事には成らない。
故に、「苦肉の策」で聞いた事のない様な記録にも無い「理由づけ」の“「疲労死」”で済ましたのであろう。

この「ある決断」は、1705年の5月8月9月と成ったと考えられる。

(注釈 今でも和歌山城の城下には、「伊勢藤氏の青木氏族」の家臣であった青木家が多いし、藩に馬等で通える範囲の近隣の市町村にも多く、如何にも定住地であったかの様に拡大している。
彼等の家筋の家紋分析では全て「伊勢藤氏」の「秀郷流青木氏の末裔」である。)

そこで注釈として、この“「談合」”に付いて参考と成るものがあった。
この「談合」に参加した「郷士頭の家の遺資料」には、この「談合」の直後に「御城役の縁籍の者(本家)」で催事が在って、その催事に対する返礼の手紙の中に“「城の行く末を案じている内容」”が書かれているものがあった。
この事に依ると、この家臣もこの「談合」に参加していたらしいのだが、詳細は書かれていないが、“城では可成り緊迫した状況”の中にあった事が判る。
この「青木氏の商年譜」に書かれている“「紀州殿談合」”には「吉宗・頼方・源六」が参加していたかは充分な確認が取れないが「非公式の参加」は先ず間違いは無いだろう。

そこで注釈として、 この「紀州殿」とは、果たして“どの様な意味なのか”と云う事に成る。
当時、伊勢と紀州の郷士間の呼称には、「伊勢衆の郷士」には「伊勢殿」と、「紀州の郷士」には「紀州殿」と云う一般呼称の方法が在った。
「紀州殿」とは、伊勢から観れば、紀州に居る紀州藩の家臣と成っている「郷士」、即ち、「紀州の郷士」と、紀州に居て家臣と成った「伊勢の郷士」の事を表現した呼称である。
従って、「吉宗 頼方・源六」がこの「談合」に直接に参加していたかは疑問である。

然し、次ぎの記録から江戸に居たとも取れるが、「伊勢」に居たとも成っている。
藩主に就任する際(1705年10月)に、幕府から呼び出しがあり、「藩主の黒印状授与」と合わせて「仕来り」に依り、「綱吉」より“「偏諱(へんき)」”として「綱吉の吉の通名」(1705年12月)を与えて「吉宗」とする様に「改名」を命じられた事が記録として在り、この時は「江戸」に居たと考えられる。
これからすると、未だ藩主にも成っていない部屋住みが次兄の要る江戸にいる事は無い。
従って「伊勢」に居た事に成る。
「紀州」には藩主と成った4年後に入国しているので「伊勢」に居た事に成る。

そこで、此処で、重要な事が起こっているのである。
それは、「青木氏の歴史観」と紀州藩に執って見逃せない事柄である。
先ずは、それを先に論じて置く。

重要な注釈 (偏諱 へんき)
この「偏諱 へんき」と云う言葉には、「青木氏の歴史観」に執って前段で論じた「青木氏」しか引き継がれていない「達親」と同様に、実は、この“「偏諱(へんき)」”も元は「青木氏だけの慣習」であったのである。

江戸期では武士の家柄では、これに代わるものとして“「通名」”と呼ばれるものがあるが、中には「武士出の豪商」なども「世襲名」の「襲名」という言葉でこの「通名的」に使う様に成った。
ただ「通名」や「世襲名」のこれらには、これを実行するに儀式的で一つの伝統的な慣例なものでは無い処が異なる。

然し、この“「偏諱(へんき)」”の根源は、「青木氏等の皇族賜姓族臣下族」が、「通称の通名」に一定のシステムを加えて奈良期から引き継がれて来た実に古式豊かな「古い仕来り」なのである。

「天智天皇」が「大化の改新」で定めた「第四世族の第六位皇子」が臣下する際に、天皇から「皇族賜姓族臣下族」に対して、「氏名」、「象徴紋」、「守護神」、「神木の氏木」、「官位官職」等の「象徴」を与えたが、この一つとして、「氏名」に続く、「権威の仕来り名」も与えた。
これが“「偏諱(へんき)」”と呼ばれた儀式だが、「皇族賜姓族臣下族」だけの「儀式・仕来り」で在った。
そして、この“「偏諱(へんき)」”も含めて、「嵯峨期の詔勅」に伴う「禁令」に従って「青木氏」が行う「慣習仕来り掟」を真似てはならないとする事が発せられた。
「青木氏の氏名の使用とその慣習仕来り掟」と同様にこの“「偏諱(へんき)」”もその一つであった。
況や、それは、「賜姓」に伴う「一つの仕来り」であった。

「賜姓」は「氏名」(姓)であり、それに続く“「偏諱(へんき)」”は「名」であり、古来ではこの「名」を「二つの使い分け」をした。
それには、「字名(あざな)」も一つであって、「賜姓」を権威付ける為に設けられた「仕来り」であった。
「賜姓」と共に使われる“「偏諱(へんき)」”のこの“「字名(あざな)」”は、室町期末期頃からはその「人の愛称」として“「あだな」”として用いられる様に成った。
例えば、「正規の偏諱名」で呼称する事を憚れる時は、「院殿などの屋敷名」や「町名」や「通路名」や「門跡名」等が使われた。
「嵯峨期の禁令」などでは一般にはこの「字名」も使われる事無く、「公家」等がこの「字名」を使ってよく呼称された。

この“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”が、その「賜姓」と共に護られて来た「青木氏の古式伝統」なのである。
「天皇等の上位の者」、即ち、「権威者」が、自らの「名」、或は“「字名(あざな)」”の一字を「世襲名」の一字に加えて名乗らせると云う方法の儀式である。
この「賜姓」に続く「催事」のものである限り「正式な催事・儀式」として、「賜姓」に関連する“「偏諱(へんき)」”と呼ばれる「仕来り」を敷いていたのである。
平安期末期までに天皇より「賜姓」を受けた「高位の者」は、この“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”の「仕来り」に従う義務があった。

20程度から始まったものが最大時は200もあった「正式認証の氏族の賜姓族」は、室町期末期には壊滅状態で、この“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”の「仕来り」に従う義務に従って催事を執り行うだけの「氏力」を持っていたのは、筆者の研究では「青木氏と藤原氏と佐々木氏」等を除くと、たった「4氏の氏族の賜姓族」に留まっている。

この様な「皇族賜姓臣下族」等の用いる「慣習」や「仕来りや掟」を「嵯峨期の詔勅」と当時に出された禁令で、この「皇族賜姓族臣下族」の“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”も含めて「氏名、象徴紋、守護神、神木の氏木、氏名の村名、氏名の地名」等を使う事を一般に禁止していた。
この禁令の原則は明治3年に解除されるまで護られていた。

ところが、室町期中期頃から将軍や大豪族等の家で「嵯峨期の禁令」が、中でもこの“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”が護られなくなった。
むしろ、末期にはこの“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”を利用して衰退した室町幕府の権威の継続に利用されたのである。
これが変化して一般の武士社会に広まったと考えられる。

さて、そこでこの“「偏諱(へんき)」(「名」と「字名」)”に付いてどの様に利用したのかと云う点である。

そこで、「青木氏」を「育ての親」としている「頼方」を江戸に呼び寄せて、「綱吉の吉の字」を与えて「吉宗」とする催事を態々儀式として興したのである。
この「偏諱(へんき)の儀式」と云うものがどの様なものであるかが判れば、「偏諱」そのものが行われた事が、「幕府の意向」を「紀州藩に対しての態度」を如実に物語るものであるかが解る事なのである。
普通は、「偏諱(へんき)の儀式」が「嵯峨期の禁令」が掛かっている以上は、無視してまで矢鱈と「将軍」が周りに頻繁に行われない催事なのである。

実は、注釈として、この「綱吉」の行った「偏諱の儀式」には、ある「思惑」があった事が判るのである。
それは「幕府」のみならず「紀州藩」の社会への「権威」と云うものを見せつける目的があったと観られ、禁令と成っている「賜姓臣下族」の行う「古式豊かな偏諱儀式」を行える格式を「幕府と紀州藩」は持ったのだと云うデモンストレーション(示威誇示意識)を天下に指示すと云う思惑があったのである。
また「紀州藩」で起こった上記する「廃嫡」に観られた「ある決断」の事件(急逝事件)を穏便に納めると云う思惑もあったのである。

然し、現実に「幕府」は他の二人の兄弟に「母方公家」にあったにも関わらず行わず、公然と「頼方」に対してだけ「偏諱 へんき」は行ったのである。
然し、他の親兄弟に対してたとえ「藩主」に成ったとしてもこの「偏諱 へんき」は行っていないのである。
だとすると行う以上は、何がしかの「大義名分」が整っていなければ、「将軍家」と云えども「禁令無視」は社会に対して出来ない催事の「偏諱(へんき)の儀式行事」である。
「令」を護らせる立場の者が自ら「令」を破る事は出来ない。

そこで先ず次ぎの条件を整えたと思われる。
(A)「催事主」は、「武士の長者」で筆頭の将軍の「徳川氏宗家」
(B)「吉宗育親」は、「皇族賜姓族臣下族」の「青木氏」
(C)「授与者」は、嫡外子であったが「紀州藩の藩主」に成った「徳川頼方」

つまり、「征夷大将軍」「皇族賜姓族臣下族」「賜姓族育親の子頼方」で「偏諱の仕来り」の「三つの条件」は整っている事に成る。
これで「嵯峨期禁令」を破る事には成らない条件が整うのみならず「権威を指し示す格式」を幕府が持った事をも意味する。

そこで、そもそも、「吉宗」の「宗の字」の「偏諱」は、「育ての親の伊勢青木氏」の祖で「摂津源氏源頼光四家」の「宗家頼政」の「子仲綱の子の三男京綱」が「青木氏の跡目」に1180年に跡目に入っている。
この「頼光四家」の「偏諱」(通名)が「宗」である。
この「育親の筋目」を使って「宗」を以って「吉宗」と特別に偏諱したと観られる。
ところが、これには、故意的に一つ「偏諱の仕来り」に従っていない事が在った。
これは「高級武士」で行う”「通名」”の「仕来り」にも従っていないのである。
これにはある意味を持っているのだ。故意に従っていないのである。
それは「親役の名」の「下字(後字)」を「前字」にしないと云う奈良期からの「鉄則の仕来り」である。
この「鉄則の仕来り」を護らなかった事は、“一体何を示すか”と云うと、“お前は俺の下に在る者だ“と「見下している態度」と成る。
そもそも、この「偏諱 へんき」と云う「名誉な儀式」が「見下しの儀式」と成っているのである。

何故なのかである。
それは「綱吉」の「吉」が「吉宗」の前に来ている。
”「偏諱 へんき」”や”「通名」”の「仕来り」から、本来であれば、格式から“「宗綱」”が筋であって、譲っても「綱宗」となる筈である。
これでは「偏諱 へんき」では無くて、普通の武士慣習の親子の命名時に行う作法に過ぎない事に成り、態々、「偏諱として儀式」を行う事では無い。
然し、現実は「偏諱 へんき」として行われたと記録されているのだ
つまりは、表には「偏諱の仕来りの儀式」を見せて、世間には”「権威」”を誇示し、裏では“将軍家が上なんだ”と誇示したかったと云う事と一説では取れるであろう。
良く云えば、これは“「綱吉の子供」の様にして「破格の扱い」にした“と示すものでもあって、「紀州藩」では「嫡子外の扱い」を受けていたにも関わらず、「葛野藩割譲」と同様に極めて名誉と周囲から観られていた筈である。
「嫡子外の呼び出し」や「控えの間からの拝謁」や「葛野藩の割譲」やこの「偏諱 へんき」の好意や配慮から考えると、「綱吉の子供説」も充分に考えられる事であろう。
何れかと問われれば、簡単に云えば「両方の意味合い」を以って、“政治的に利用した”と云う事であろう。

この「偏諱(へんき)」とは、云い換えれば上記した様に、そもそも、元は「賜姓族」等の「皇位族」の中で行われる「跡目継承の慣習」の催事で、上位の者が「氏の一族」である事を証明する為に跡目時に「一族の通名」の一時を与えて「跡目名」とすると決められた「慣習と仕来り」でもある。
それで以って世の中に宣言する一つの手段でもあった。
この「偏諱(へんき)」は、「青木氏」も「官位官職を表す世襲名」と共に「朝廷の奈良期」から続くもので、前段で論じた様に“「達親」”に続く極めて“「古い伝統」”である。
そもそも、この「偏諱(へんき)」は、「青木氏」等の「氏族の臣下族」の中で「仕来り」として「特定の高位格式」の範囲で「古式伝統」として密かに引き継がれて来たものであった。

然し、何処で漏れたかは判らないが、恐らくは足利幕府と考えられるが、この慣習に似た「通名」と云う呼称で、この慣習が室町期の中頃から大名と成った「姓族の武士」等にも用いられる様に成った。
室町期中期から発祥しした「権威や伝統」を持たない「姓族」であった事もあって、「室町幕府」の採った「偏諱」に似せたこの「通名」は効果が大きかった。
恐らくは、上記の通りこの慣習が世間に知られて一部変更が加えられて伝わったのには、室町幕府の「賜姓源氏」であった「足利氏の勢力」が低下した事から、採った苦肉の策に外ならない。
「足利氏」が、この「偏諱(へんき)」を使って臣下に名を与えて「将軍の権威」を保った事から来ていると観られている。

丁度、幕府が「官位官職」を朝廷に推薦申請して授与して「臣下族」を引き付ける目的として用いられる様に成ったと同じである。

(注釈として、「偏諱(へんき)」が「足利氏」に用いられていた事は「清和河内源氏の氏族」であった事から来ている。
ただ「清和源氏」には、「本流四家の摂津源氏」と「支流頼宣系の河内源氏」に分けられるが、本来は「本流の宗家筋 (摂津源氏頼光系四家」」で維持されて行くものであるが、「頼宣の支流系」にもこの「偏諱(へんき)」が敷かれていた事に成る。
それも、「本流の信濃足利氏」では無く、「関東の足利氏」に引き継がれていた事に成る。
つまり、「宗家筋」と云う枠を超えて「分家筋」にまでも、この「偏諱(へんき)」だけでは無くそれに伴うこの「古式の仕来りや慣習」が正確に引き継がれて来た事を示している。
従って、この「仕来り」そのものの原点は、“「賜姓」”から来ている「一連の仕来り」であった事から、唯、「賜姓族」ではない「足利氏」が「賜姓源氏の河内末裔」であるので、況して、本来であれば「宗家四家」の「摂津源氏」が「賜姓の仕来り」を引き継いで入る事には成るが、この室町期には、最早、「臣下族」だけである事の理由で、この「偏諱(へんき)」を使う事に成って居た事を示す。
「偏諱(へんき)」を使う事には問題は別にない。
この「偏諱(へんき)」の「仕来り慣習」を「源氏」であり「嵯峨期の禁令」には触れない事から引き継いではいけないと云う事は無いので、それは「清和源氏」の中での伝統の問題である。)

(注釈 執権北条氏の鎌倉幕府は、「賜姓族」では無く、「皇族第七位族の坂東八平氏族」の支流族である事から、この慣習と仕来りは「嵯峨期の禁令」で使えない。)

(注釈 「嵯峨期の詔勅」での「青木氏」の後の「臣下族の源氏」には、正式には「賜姓」を受けた「11家11流」あり、「賜姓」を受けないで「源氏」を名乗った皇位族も多く在る。)

そこで、この様に「偏諱(へんき)の儀式性」がどの様なものであったかを理解する事で、「綱吉」が「頼方」に行った「偏諱の目的」が良く観えて来る。
その前に、この「偏諱(へんき)」に付いて「青木氏」に伝わる「偏諱の儀式性」では、次ぎの様に成る。

先ず、「偏諱の儀式性」としては次ぎの「三つの基本条件」が成立している事である。

即ち、「第一の基本条件」である。
次ぎの「三つの役務環境」がある権威を以って整っている事である。
「権威役をする者」と、「親役をする者」と、「子役に成る者」とを先ず決める事を定める。

更に、「第二の基本条件」である。
次ぎの「三つの基本環境」が成立している事である。
基本環境の1
「15歳以上に成った事」に合せる事(一種の成人式)」とで「四家の一員」として認められる事に成れる時に行う。
基本環境の2
「大きい実績を氏にもたらした事(功績式)」で「四家」に成れて、「四家制度の16家」の一家を構えられる時に行う。
基本環境の3
「四家」の中から「福家」に選ばれて「氏族」を率いる時に行う。

最後に、「第三の基本条件」である。
更に、次ぎの「三つの基本儀式」が成立している事である。
基本儀式の1
「偏諱」の「授与の記念物」には「短刀一式」を授与する事
基本儀式の2
「烏帽子とその蔡装服(礼服・儀式)一式」を授与する事
基本儀式の3
下記の「五つの名」を授与する事
以上の基本儀式が先ず決められている。

この基本儀式のが成立した上で、次ぎの「名(字名)の作法」が行われる。
名の「前字」は、「氏の福家」に伝わる「権威の名」、
名の「後字」は、「四家の長」に伝わる「伝統の名」
以上を与える。

念の為に前段で論じたが、「青木氏」には次ぎの「名(字名)の呼称の変化」をさせる習慣を持っていた。
「幼名」 15歳以下の呼び名
「俗名」 15歳以上未婚時の呼び名
「通名」 四家の一員と成った時の呼び名(既婚)
「跡名」 四家と成った時の「跡目名」で「偏諱」で与えられた呼び名(字名)
「格名」 氏族が持つ朝廷より与えられた永代の「格式名」があり「福家」が引き継ぐ公の呼び名。

以上が資料から取りまとめた「三つの基本条件」である。

付帯する条件として次ぎの事が書かれている。
・「行われる時期」
これらの「偏諱の儀式」は、口伝に依れば、平安期から鎌倉期末頃まではその都度行われていた様である。
然し、室町期に入ると戦乱期でもあった事からか、上記の「弥生祭り 五月祭り」の「一つの祭祀二つの催事」で合わせて行われていた様である。
この時、祭りの後期の「五月祭り」に合わせて、上記の条件下で「偏諱式」が行われたと伝えられている。
・「行われる場所」
これらの「偏諱式」は「一族の長」である「福家」が行い、一族の郎党が一堂に集まり、「偏諱の条件」がすべて整う「始祖祭り」でもある「弥生祭り 五月祭り」に合わせて「偏諱式」を執り行う様に成った。
・「行われる具」
上記の「偏諱の儀式」が、後期の「五月祭り」に行われる事に成った事から、「短刀一式(格式)」や「烏帽子(役務)」と「蔡服一式(制服)」を与える等の「三つの儀式性」が併用して行われていた。

これは「四家制度」の中で「家人や縁籍や周囲の伊勢衆」に対して、その「存在の確認と権威とその責務の有無を明示する手段」でもあった。

・「飾短刀一式(格式)」とは、現在で云えば、「職位」を示す「制具」の様なもので、「短刀」に個別に装飾が施されて、その「格式や身分」を表す「色文様を用いた装飾」でこの「職位」を明確に表した。(八色姓の制)
・「烏帽子(役務)」とは、現在で云えば、「職務」を示す「制帽」の様なもので、どの部署に所属するかを明示する手段で、「烏帽子」の右に色識別して表示した。
・「蔡服一式(制服)」とは、現在で云えば、「職場」に合した統一した「制服」の様なもので、冠婚葬祭の様な「一切の催事」の際に服し表した。

以上の「偏諱の儀式」にこれら「三つの儀式制」が加えられた。
これらの「偏諱に伴う儀式性」は、「朝廷で行われている儀式性」を全面的ではないが、「青木氏」の「賜姓五役」をより確実に履行推進する為の「四家制度」の中で、これに合う様に編集してある程度踏襲していたものである事が判る。

この「偏諱の儀式」として用いられた「三つの儀式性の伝統」の事から観て、後に、世間には簡略化されて「男の節句」と受け取られ何らかの形で世間に広まったと考えられる。


さて、「室町幕府と江戸幕府」は、この上記の「偏諱の仕来りの儀式性」を「武士様」に編集してそれを以ってして行う事にしたのである。

(注釈 室町幕府と江戸幕府の「偏諱の使い方」、況や「偏諱の儀式性」が異なっている。
これは上記した様に「清和源氏の支流族」と「徳川氏の姓族」との差の違いからであろう。)

その為には、“「朝廷(権役)」”を利用して「偏諱」を使い「儀式的」として「権威を示す慣習」として「将軍(親益)」に引き継がれ、その“「授者(子益)」”にして、「朝廷の賜姓儀式」に代わる「幕府の偏諱儀式」を形式的に政治的に用いる様にして与える様に恐らくは成ったものであろう。


ここで「重要な注釈」として、次ぎの事柄がある。
この「偏諱の青木氏の資料」には、「親役・子役」とあるもの、別に「親益・子益」と書かれたものも有って、「元の本来」の目的は、この書かれた内容の古さから“「役」”では無く、“「益」”と云う「語源」に在ったと思われる。

つまり、そもそも、後に使われた「役の意味」の“「役割」”と云う意味では無く、“「益」”の元の語源は「中国の八卦(論理的な占い)」から来ていて、“「ふえる」「めぐみ」「ために」”から来ていて、“「めぐみをもたらす」”や“「ためになる」”の意味に使われていた。

この「偏諱の親や子」に成る事が、“自らの恵みに成る事”であり、“自らの為に成る事である“の意味が儀式的に強く、「親に成る者」も「子に成る者」も周囲に対して「親・子」に成れる事が「権威や名誉」を獲得する儀式でもあった事を示していたのである。
この「偏諱の儀式性」の意味する事から、「単なる役目」とする意味では無かった事が判る。

「権役(ごんえき)」は、既に、その「権威や名誉」を何度も獲得している者が司る「仕来り」であった。
普通は、一族一門の「長の福家」が司るが、中には、縁籍関係の「公家」に依頼して司っている記録もあり、その上記の「偏諱の条件」にも依るのではないかと考えられる。

上記にある様に、この「偏諱(へんき)」には、上記の「偏諱の儀式性」の一つでその「15歳の成人」に成った事を祝う「烏帽子式」と、「四家の一員」に成った事で「蔡服一式」(衣冠の儀/青木氏では「蔡装の儀」)を着せられる儀式も兼ねていて、この時も「烏帽子親」、「烏帽子子」と云う“「益」”があって、世間でこの「烏帽子親」、「烏帽子子」と後に呼ばれた事も、この「偏諱の中の儀式」から来たものであると考えられる。

「短刀一式」(束帯の儀/青木氏では「帯刀の儀」)は、15歳に成った事で、一人前の「賜姓臣下族」の「賜姓五役」を務める「武家侍」に成った事を証明する儀式で、その「侍の心魂」として「短刀(飾太刀)」を「烏帽子と蔡装」と共に帯刀する事が出来る様に成った事も祭祀する儀式であった。
そもそも、この“「飾太刀」”と呼ばれる「短刀」は、朝廷では皇族や高位の者が「儀式様」に携える刀であって、「飾太刀の帯刀」のこれを認められる事は、「氏の象徴紋」と共にその者の「権威と格式身分」の「証明の象徴物」としてあるとしたもので、「帯刀の儀式」には用いられた。

ところが、平安末期に至ると「皇族下俗者」や「臣下族等の高位の者」が多く成り、その結果、その貧富とその財力に差が出ると、「儀仗用太刀」として極めて限られた「賜姓族」などにのみ用いられる様に成った。

(注釈 この「飾太刀の短刀」とは武士の脇差の事では無い。刀の形も帯刀の仕方も異なる。
朝廷では「飾太刀」は「長刀」であり武士の様に腰に差すものでは無く、「飾紐で携え形式」のものである。
この「飾太刀」では無く同じく紐で携える「飾短刀」としている。これは朝廷に儀式の模倣に対して「賜姓臣下族」としての分を弁えた形を採ったものである。
他の資料にも「皇族武官」がこの「飾短刀」を儀式の際に携えて用いている事が書かれている。恐らくは、これは「八色姓の制」に沿った「朝臣族」(皇族賜姓臣下族)の「当時の仕来り」であったと観られる。)

(注釈 前段でも論じたが、この「儀式性の観点」から検証すると、平安末期では、「賜姓源氏」では11流11家、「賜姓族」で40氏、「賜姓族」では無い「貴族源氏族」は18家、「皇族下俗者と還俗者」は男系族25家で女系族8家、「門跡族」は不詳数であった。
但し、男系族と女系族の内18家が「青木氏」を名乗り、「五家五流青木氏の跡目」に入った。
鎌倉期には、幕府のある程度の財政的な保護が成され多少の増加傾向にはあったが、室町期には激減し、江戸期に至っては、政策として「西の朝廷」への弱体化を謀って「経済的締め付け」もあって合計で数える程に満たない数と成った。
その数は筆者の調べた範囲では、江戸期初期には「青木氏」を含めて5氏以内に留まっている。
この時の「古式の伝統」も、この「激しい変異」に伴って変化し、僅かに遺されたこの「氏族」の中では殆ど消滅した傾向にある。
消滅したのには、主に「子孫の減少、伝統の伝承力、経済力」にある。
但し、これには「姓族」の「偽類の儀式性」は含まず。)

(注釈 江戸期の近江の人剣豪の佐々木小次郎は、お家再興を願って仕官先を求めて全国行脚の旅に出た事が佐々木氏の資料等で判っている。
これは当に「僅かに遺された氏族」のこの「近江佐々木氏」の「激しい変異」に見舞われていた典型的な事象である。
この同じ「近江佐々木氏系の黒田氏」の始祖も室町期末期に神明社と関わりを持ちながら「薬売り」として行脚の旅に出ている事象も同じで、「黒田藩」として再興を遂げた伝統継承の成功例である。
近江佐々木氏の多くは黒田藩家臣団として加わって再興したが、佐々木小次郎の佐々木氏の宗家筋は江戸期に成っても再興は成らなかった事に成る。)

注釈にある様に、「佐々木氏の生き残りの足掻き」とは別に、これらが「青木氏の氏の存続」が成されて、何とか「古式の伝統」として維持され、「青木氏の偏諱の儀式性」に伝わっていたのである。

「衣冠束帯」は「朝廷儀式」だが、「青木氏」は「三つの発祥源」であった事から「蔡装の儀」と上記の「帯刀の儀」として二つに分離されて呼称されていて「武家様の儀式」に成っていた。
尚、注釈として、朝廷が行う「朝廷の衣冠束帯」も「文官様と武官様」に分かれていた。
この「青木氏の儀式性」は、勿論、「文官様」ではないが、かと言って「武官様」でも無く、「四家制度」に依る「賜姓五役」としての役目を果たす目的から「武家様」に編集されている様である。

(注釈 「武家様」とは「公家」に対する「武家格式」で呼称される「氏族」で、室町中期後の姓族の武士では無い。)

さて、室町期と江戸期の「二つの幕府」は、この「偏諱の名授与」を採用した事から、「朝廷の衣冠束帯」の「武官様」を選ばずに「青木氏」の「蔡装の儀」と「帯刀の儀」として「武家様の儀式」の本体を採用した事に成るが、江戸幕府はより「武士様」であろう。
「武官様」では無く「武家様」でもない“「武士様」”とも云える事と成った事で、よりこの「儀式性」が庶民に近づいた事から、それが基と成って世間に世襲名や通名としての慣習が広まったと考えられる。

注釈として、「衣冠の儀」とは、本来、“「宮中の装束(ぎぬ)」”で「勤務服」として用いられたもので「青木氏」ではこの「装束(ぎぬ)」を用いたものを「蔡装の儀」と呼んでいた。

(注釈 江戸幕府では、将軍に面接出来る身分を「布衣着用(きぬい着用)」が条件と成っていて、この武士の「布衣(きぬい)」は、この朝廷の「装束(ぎぬ)」から来ている。
「青木氏」は「三つの発祥源」と「賜姓五役」の身分格式を持ち、「永代浄大一位の格式家」である事で「天皇との拝謁」が叶うが、幕府でも「享保の改革」の時は、この「布衣着用(きぬい着用)」の資格を持ち将軍と面談していた。
この「布衣着用(きぬい着用)」は、限られた「上位の姓族の大名格」に許されていた「特別の権限」である。)

「帯刀の儀」とは、種々の儀式に用いる「装束(ぎぬ)の礼服」で「武家様」があった。
この「武家様」を用いて一人前に成ったとする象徴として合わせて上記の「飾短刀(飾太刀)」の「帯刀」を許されるが、この儀式を「青木氏」ではこれを「帯刀の儀」と呼んでいた。

この事から、「偏諱の儀式」の呼称は、「呼称名・字名」を与える事のみならず「烏帽子式」、「帯装式」(「蔡装」)、「帯刀式」を兼ねていた事が判る総称であった。

何をか況や、前段で論じた「五月祭りの人形」は、「三つの発祥源」のこの「侍の象徴の姿」を現していたものである事が判る。
故に、江戸初期に福家は、「毘沙門天像」から「武者人形偶像」に変えたのも、上記する様に「偏諱の儀式性」でも解る様に、「本来の目的」に帰する事の「青木氏としての所以」でもあった。

そもそも、この「偏諱(へんき)」から来た「姓族」の「武士衆の慣習」が本格的になったのには、この室町期末期に使っていた「青木氏等の四家制度の慣習」の中での「偏諱とその儀式」だけを真似たものである事から来ていると当初は思われていた。
ところが、この「姓族」の「武士衆の慣習」を良く調べて観ると、足利幕府が用いた「偏諱(へんき)の儀式性」に良く類似する事が判った。
それは上記した一連性を持つ「青木氏の儀式性」が無く、「名の偏諱」だけのものに成っている事である。
これが江戸期の中頃には、室町期中期頃から発祥した「武士階級の姓族」(海部姓が始め)には、既に「三世代以上の歴史性」が生まれ、子孫末裔の“「跡目の問題」”も出て来ていたのである。
そこで、新たに上記の「儀式的な習慣」を削ぎ落し無くして、簡素に「高級武士の通名制度」として「跡目の世襲の仕来り」として用いられる様に成って行ったのが経緯である。

この時に、幕府はこの「偏諱(へんき)」を次ぎの事に結び付けて利用したのである。
それは姓族が勃興して大名と成り、その「大名」の「跡目承認」を示す“「黒印状の授与」”と、これと連動して、この「偏諱(へんき)」と呼ばれる“「通名の授与」”の「二つ催事」を「仕来り」とする事に成って行ったのである。

幕府は、大名に発行する“「黒印状」”のみならず、“「偏諱(へんき)」”で「名」を与えられる事で名誉として、「幕府との繋がり」の強さを誇示する「一種のお墨付き」の様なものを与えて「幕府の権威性」を謀った。
それが御三家の「紀州藩」の「吉宗の偏諱」が最初としたのである。

この時の室町期末期から江戸期にかけて、「青木氏の偏諱」をする「四家の者」に対しては、同時に「朝廷」から永代に授与された「官位官職の世襲名」も与えていた事が起こっている。
唯、この記録で観ると、「青木氏」は、「八色姓の制」では「氏の格式」では「浄大一位」で、官位官職は「左衛門上佐 正二位」であるが、中には記録によると「福家」以外の16家の中の四人に対して「右衛門上尉 従四位」と「民部正」(民部上尉)とする者もあって、特別に朝廷に申請して「一代限りの官位官職」が与えられたものが有った様である。

当時の幕府の朝廷への軋轢状況から観て、朝廷は経済的に困窮していたので、永代の最高位の官位官職を以っていながら、この「一代限りの官位官職」を受けているのは、密かに「賜姓臣下族青木氏」として「朝廷の経済的援助」をしていた事からの授与であろう事が容易に解る。これを「偏諱の儀式」に乗じて便宜をはかっていたのでは無かったかと考えられる。

(注釈 「青木氏」以外に持ち得ていない「伊勢王」の「始祖の施基皇子」が持っていた「浄大一位の永代格式」(青木氏の四家制度の「福家」が持つ)として持っている。
従って、この「偏諱の儀式」に於いても“「権益(ごんえき)」”として、「四家制度の福家」に成る者が25-30年程度に一度は起こり得る訳である事から、「福家に成る者」の“「権益(ごんえき)」”を務められる者としては、永代格式以上の「朝廷」で無ければこの儀式は成り立たない事に成る。
そこで、「青木氏」に執っては「偏諱の仕来りの儀式」を続ける以上は、密かに「朝廷」に対して支援を続けておく必要があり、「賜姓臣下族」であると云う事も含めて「絶対的な避けられない支援の義務」があった筈である。
其れには、「浄大一位」の「青木氏の永代格式」が無ければ、幾ら「義務」だからと云っても「格式」を重んじる朝廷としては、「青木氏の要請」(”「権益(ごんえき)」”)に応じる事は先ず無かったと観られる。
「福家」以外に歴代で四人もの「右衛門上尉 従四位」や「民部正」(民部上尉)等の「官位官職」を受けている事がそれを物語っている。
恐らくは、天皇自ら出向いて来る事は無かったと観られるが、代行の「縁籍筋の公家族」がこの“「権益」”を演じたと観られる。

(注釈 "朝廷の「権益(ごんえき)」"の「代行役」は、何度も縁籍筋と成っている京の「叶氏筋」では無かったかと考えられる。
その証拠に筆者の祖母は、「京の公家族」の末裔の「叶氏の出自」である。)

恐らくは、江戸幕府は「嵯峨期の詔勅と禁令」を破って、“「家康」”が「青木氏等の賜姓臣下族の慣習や仕来り」を“「権威造り」”の為に利用して「幕府権威造り」の為に真似たとも考えられる。

(注釈 徳川幕府は開幕依頼一貫して権威造りの政策を実行した経緯がある。
例えば、「三河の勃興姓族」でありながら強引に「藤原姓を名乗る」、「源氏姓を名乗る」、「征夷大将軍の頭領の称号事件」など数多くある。)

”「姓族の武士家」が行う「偏諱の催事」“としても「権威造りの制度」としたのである。
この事(「姓族の通名」)が、結果として、広く他の大名などにも受け入れられて引き継がれる様に成ったものである。

江戸幕府は、「朝廷との関係」が上手く行っていなかった事から、この「偏諱 (へんき)」を「吉宗の偏諱」を通じて利用して、「幕府自らの権威」を造り上げ高め、「朝廷の権威」に頼る事の無い様にした政策の一つである。
「大名の跡目」などの時にも、この「武士様の偏諱」の「偏諱 (へんき)」に近い事をして「権威付け」をしたと観られる。

これには、江戸幕府には、“「ある目的」”があって、無暗に与えるのでは無く、「幕府の意向」に沿って実現した者に、この「武士様の偏諱の儀式」を行って、その「見返り」に「幕府の権威名」を貰ったと云う事にして、従わせて行く政策を展開したのである。
実に安価安易で行えて貰った大名側は、一種の「幕府のお墨付き」を貰ったとして「勢いづく事」に成る政策と成ったのである。

筆者は、この“「ある目的」“のこの「表の目的」は、上記した様に、「幕府の権威造り」に利用された事もあるが、「裏の目的」は、「紀州藩」への「幕府の意向」を”「ある決断」“で実行させた事への「信任状の意味」もあったと観ている。
幕府主導でこれを表裏一体として連動させたと云う事であろう。

>
> 「伝統シリーズ」-26に続く
>

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:「青木氏の伝統 24」-「享保後の課題」 


[No.342] Re:「青木氏の伝統 24」-「享保後の課題」 
投稿者:福管理人 投稿日:2016/07/02(Sat) 14:20:14


>伝統シリーズ23の末尾

> 「殖産」を興してそれを「システム化」して「経済」に結び付けて「藩政」が潤っていたのに、これを抑え込んで仕舞った事から、この影響を受けた「下級武士」は、「飢え」に喘いで仕舞った。
> その事から、田畑を耕し農業で産物を密かに売ると云う事で生き延びた。
>
> 「郷士の武士」も「仕官の武士」も「郷士」に真似て生きる事しか無く成り同じに成って仕舞った。
> むしろ、「殖産」を興した「郷士の方」が遥かに潤っていた事が記録されている。
>
> そして、今度は、享保期の「質流地禁止令」では、対象者が「仕官している下級武士」であった事から、幕府としては充分な対応は出来なくなっていたのである。
>
> ところが、「武士の農産物等の販売」には、各職能の「組合の壁」と云うものがあって、「自由」が利かず、結局、「農民の寄合」に入れて貰う等の事や、「農民の名義」を借りる等の事で対応した。
>
> 「幕府」のこの逆に跳ね返って来た思いも依らぬ「失政」に付いて、「藩」もただ観て見ぬ振りして黙認するのみであった。
> しかし、「紀州藩」の様に密かに裏で奨励した藩もあった位であった。
>
> この事から、「職能から販売までの商業組合」も「寄合組織」に変更して、自らも救い、地域の「下級武士や農民」らも救う事で「絆を基本とする寄合組織」に変更して生き延びた。
>
> 唯、この「寄合組織」では「発展」は望めないが「維持」は可能であった。
> それには、上記の「新-1から9までの副効果」までは幕府は潰しに掛かれなかった。
> 「新-2、3、5、7、9」は流石に「株権」を保障の前提としていた事もあって低迷した。
>
> 所謂、「新-1から9」の基本に成った幾つかの制度と組み合わせた「親商法」が、享保―宝暦―明和時代に掛けて「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」の「青木氏」が興した「商業組合」の「新しい改革商法」(1716年から1788年まで)へと繋がったのである。
>
> この経緯は、「伊勢の紙屋」が「伊勢の商業組合」を興してからは明和期(1788年頃)までの「185年間の悪戦苦闘の歴史」に成る。
>
> これ等の事は、「青木氏」だけの「重要な知っておくべき青木氏の歴史観」である。


「伝統シリーズ」-24に続く


注釈として、次ぎの内情であった。
紀州藩主では、吉宗後は全く縁の薄い6代「宗直」が藩主に成る。
享保飢饉で紀州藩55万石の半分を損出している。
この時、「幕府借料2万両」(計10万両の幕府借財)で一時凌いだが、その後の「借料」と共に「返済財政」で藩主13代まで続く。
「江戸の活況」と「紀州藩財政」は逆の状況に在った。

(注釈 四代藩主の吉宗時は、「伊勢の商業組合の活況」で今までの「借財10万両」を完済した。その後五代目は借財を続ける。)

(注釈 この為に「14代の幕末時」に請われて再び「青木氏は紀州藩勘定方指導」に入り立て直した。)

この状況の中で「紀州藩」を頼りにする事が出来ず、「紀州藩」としては少しでも生産量を高めなければならない状況下にもあった。
従って、民を動かす事の「紀州郷士」の「徒対策」を了解するかはかなり難しい状況の中にあった。
且つ、「紀州郷士の生活」も「疲弊の境」にあって難しい事であった。

(注釈 吉宗没後は、「青木氏の勘定方指導の役」も解けて「幕府の力」を借りられる状況には1765年前後は最早無かった。)

つまり、これをどう見るかに依るもので、むしろ、“「経済を活性化させる起爆剤」”とする議論と,この“「疲弊の状況」を更に悪化させる“とする議論が、対立したと資料の一部から読み取れる。
従って、「紀州郷士の徒対策」の課題は、「紀州藩から了解されたとする記録」は、どうしても発見されない。

この事から、この伊勢での「課題の解決」の「談合」は、資料の一端では“議論百出”であったとしている。
この表現から考えて、結局、記録が無い事から、江戸への“「充分な搬送対策」”は伊勢と紀州では取れなかったと観られる。

ところが「各種の関係する資料」から考察すると、この「対策」として使われたと観られる“ある変化”が一つこの時期にあった。
それは、前段でも論じたが、「伊勢青木氏」と「付き合い」の深かった瀬戸内を制していた「讃岐青木氏の大廻船業」が、古来の「日本海周りの廻船」(「北前船の西廻り」)に加えて、江戸初期には「太平洋周りの廻船」(「東廻りの航路」)を申請して新許可が出ている。

これは、大間から釜石より江戸を経由し、松阪に寄港して堺摂津を経て瀬戸内に入る帆船航路は,「江戸の経済」が活性化して「人の往来」も活発に成ると、「陸路」よりも「水路」の方が短期間で移動出来るとして、享保期には「便利な航路」として認可されたのである。

何にせよ「江戸の活性化」を高めるには根幹と成る「運輸の面」では、伊勢側では”「対策なし」”では成り立たない話である事から、この「太平洋周りの廻船」(「東廻りの航路」 荷物以外に人も運ぶ)の「航路の廻船」を敢えて使ったと観られる。
然し、これには難題があった。

と云うのは、当時は、「廻船」には「過当競争に依る廃船」を避ける為に「積み荷に対して幕府の条件」が付けられていたのである。
つまり、「統制令」(下記)があって「自由」では無かったのである。
「伊勢青木氏」の「伊勢の紙屋」が使いたいとしても、少量であれば問題も無いだろうが船全体を使う量の「積み荷」では許可は出ない。
「量」のみならず積荷の「質」と「種」も制限されていたのである。

恐らくは、「伊勢の青木氏」は、「伊勢の紙屋」を代表して、「青木氏」としては「話し」を通して“「讃岐青木氏」に「話」を付けた”と観られる。
この「海運の課題」は「享保の改革」と「15地域の商業組合」の浮沈に関わる事であり、「氏浮沈」に繋がる等の事が「状況証拠的」(下記)に考えられる。

何故ならば,当時の「海運」は、「幕府の監視」の「強い統制下」にあって、「荷積み」が過剰に成ると「船主側」から自動的に「排除される権限」を与えられる「仕組み」に成っていた。
この様な事では、「水運」は不安定に成り好ましくない事から、「伊勢青木氏」としては「話」を通す以外には無かった。
「伊勢の紙屋」としてでは「商いの範囲」で処理されるが、「同族の氏としての話」として持ち込んですれば、「讃岐の青木氏」の廻船業は無下に処理する事は出来ないと観たと考えられる。
つまり、「伊勢の氏存亡の危機」と受け取る事に成る。

「荷積みの種類」までも下記の様に、原則的に“「届け出通り」”に統制されていたのである。
従って、追加して認可を得るには、「荷主と荷種と荷量と荷先」が特定して固定している事が条件であった事から、これを「幕府」が認証するに足りるかの「裁定審査」が必要であった。

当然の結果として、「享保の改革」(1765年前頃)に期する事の内容であった事と、「吉宗」と「勘定方指導の青木氏」と「江戸の伊勢屋」であった事から、「荷主と荷種と荷量と荷先」は完全に補償された。
尚且つ、その「廻船主」は「同族の讃岐青木氏」と成れば「無条件」での通常の「荷積み」として扱われる様に「特別許可」されたと観られる。

実は、それには「特別の優遇と成る条件」が歴史的に「伊勢」にはあったのである。
これは「青木氏の歴史観」として重要な事である。

それは、次ぎの事である。
家康が1603年に青木氏に対して次ぎの裁定を下している。
「伊勢神宮の警備・遷宮の監督」
「特別に伊勢国幕府領の支配」
「伊勢鳥羽港、並びに関西圏の監視」

以上の「三つの役」を目的として次ぎの裁定を下した。
幕府の“「伊勢奉行所」(山田奉行所)”を特別に設置する事。

以上で全国に先駆けて幕府が未だ開かれていない時に、既に、「伊勢」には特別に設置の裁定を下した。

この1603年は、家康が「正二位内大臣兼右大臣」に叙任され、「征夷大将軍」に任じられた年であって、「実質の開幕」は、「260余りの武家大名と主従関係」を結び統率するに至った時期である。
家康没後の「1600年代の後半」に確立された。

この“「伊勢奉行所」(山田奉行所)”が中部以西を管轄する様に成ったが、後にこれを観て、“「遠国奉行所」”と呼ばれる「13カ所」(伊勢含む)を設置する様に成った。
全国の「統率」に至った「1600年代後半」に定められたものである。
依って、「家康」が特別に設置した「伊勢奉行所(山田奉行所 1603年)」は、唯一の「特別の権威」を持った“「特別の奉行所」(下記)“であったのである。
後に、「伊勢奉行所(山田奉行所)」は、“「遠国奉行所」”に組み入れられたが、その「権威」と「権限」は遥かに上格に位置づけられていた。

実は、これには「青木氏と特別な関係」があった。
江戸初期の「青木氏と家康の談合(1603年と1605年)」時に設置が決まったもので、「伊勢青木氏」より「今後の商いの拡大」を予測して設置を要望したのではないかと考えられる。

その証拠としては、次ぎの事が挙げられる。
・「遠国奉行所」としては、最も早く設置した事。(後に遠国奉行所に成る。)
・伊勢以外の「遠国奉行所」は「幕府直轄領」の範囲を前提としていた事。
・「伊勢奉行所」は「湾港の奉行総括権」も兼ねていたものである事。
・他の奉行所とは異なり「幕府」と云うよりは「家康」が定めた唯一の「特別奉行所」であった事。
・この名称として、特別に“「山田奉行所」”と正式に呼称された事。
・直轄領名の「伊勢奉行所」(後の俗称)”とは未だ成っていなかった事。

「遠国の奉行所」として、「幕府(征夷大将軍)の特権」を与え、「行政の特別総括権」を以てして当たって設置されていたのである。
その中でも“「伊勢奉行所」(山田奉行所)”は、特別に他の奉行所には無い“「海運権のを総括権」”を持っていたのである。
(大阪、京都、駿府、長崎、堺、新潟等の12地域の設置理由は以上であった。)

依って、この「青木氏からの念願」(「紀州郷士の徒の対策」の課題)の“「運輸の特別許可」”は直ぐに認可されたのである。
要するに、“「伊勢奉行所」(山田奉行所)”の“「お墨付き」”である。
従って、後の時期に設置された「12地域」の「遠国奉行所」は、この「お墨付き」に従う立場にあった。
況して、「海運に関する許可書」であれば、問答無用であった。

筆者の観る処では、上記の「享保の談合」で対策を採れなかった事を観て、所縁のある「伊勢奉行所」が「調停」に乗り出したのではないかと思われる。
それを得て“「讃岐青木氏」に「伊勢の青木氏」が了解を取る事に動いた”と考えている。

「談合の記録」しかないところを観ると、当初は「伊勢の商業組合」として何とか「解決策」を見出そうとして動いたが、「運輸の対策」が結局は取れなかったのであろう。
そこで、この問題は放置される事では無いので、「伊勢の紙屋」から「伊勢青木氏」が引き取って「行政上の問題」として対策を取る事に動いた。
「伊勢奉行所」に「対案」を持ち込んで「行政上」で結論を導き出したと考えられるのである。

それは、次ぎの理由に依る。
確実な折衝した資料が見つからないが、「商記録」から「船の動き」に変化がある。
「享保の談合後」に「堺摂津店」が「松阪」に態々船を帰港させている。
その船が再び摂津を経由して瀬戸内に向かっている。
これは「荷積み」も考えられるが、それならば「摂津」を経由するかの疑問がある。
「普通の荷積み」であれば、松阪からの「定期便」に使われている「常用の松阪用二艘」や「常用の伊勢水軍の船」を使う筈である。
態々、「堺摂津用の船」を呼び寄せる事は先ずは無い。

「堺摂津用の船」を呼び寄せる理由が発生した事が考えられる。
その「船」が一度、「摂津」に戻り、再び「瀬戸内」に出航しているのは変である。
「松阪」からの「荷積み」ならば「陸送」で摂津に向かい、そこから「瀬戸内」に向かう事が都合は良くて済む。
何故ならば、紀伊半島を一周しなければならない実に「地形上の不都合」が「松阪」にはあった。
故に、堺摂津港を「自前船の帰港先」と成っている所以の一つである。

つまり、「瀬戸内」の「讃岐廻船問屋の者」を伴い、「堺摂津店の者」を呼び寄せ、松阪で協議、奉行所とも協議、幕府とも協議、「一連の手続き」を経て、「お墨付き」を受ける事に成功、その足で関係者代表全員が讃岐に出向いて「最終調印」に漕ぎ着けた。
以上とする経緯と観るのが妥当であろう。

注釈として、重要で、江戸初期の「船の運航」には「幕府」が定める “「原則7ケ条の御定書」”と云うものがあって、「手続き」や「船の運航」には厳しく定められていた。
この上に“「奉行所の掟」”が課せられていた。
取り分け、この「定めの手続き」を怠ると刑罰が科せられた。
従って、「充分な証明と手続き」を「初期の段階」から行う事が義務付けられていた。
“書類を出して済”と云う事では無かったのである。
況して、「東廻り航路」には厳しかったのである。

その為には、この様な“関係者全員が出頭すると云う形式”が採られていたのである。
むしろ、「大口の積み荷主側」には「大きな義務」であった。
この為に、「大勢の関係者」が一度に陸で旅するよりは現実的である。

因みに、江戸初期の「江戸-大阪間」は、最速の帆船は、積荷無で最速3日、積荷有で最速12日、最遅で27日、平均で15日であったと記されている。
(注釈 徒歩では15日-20日-500キロ)

「江戸初期の帆船」で「紀州廻り」で「松阪から讃岐」までで、「丁度、699<=700キロ」であった。
「積荷無」で最速で4.5日、「徒歩」で最短22日と成る。

上記の仕事を熟すには、「不定期な充分な時間」が必要と成り、その為には「大勢の関係者」を「一度に最速最短で移動搬送すると云う条件」には、1/5で済む「調達船」の「船の搬送」以外には無い事に成る。
これが、堺摂津港から「特別に調達船」を廻した理由と考えられる。

これは「享保の改革」の「成否に関わる問題」である事から、他の「遠国奉行所」は「口出し無用」と成っていたと観られる。

それが「伊勢の商業組合組織」が、「荷積み」に対して“一部廻船を独占する事が充分に起こる事”から、これに対する“「特別許可」”の要る厳しい「東廻り廻船対策」であった。

当然に、“一部廻船を独占する事が充分に起こる事”は「讃岐青木氏の了解」も必要であった。
つまり、「青木氏の判断」だけでは出来ない関係者が充分に協議を必要とする“「政治的解決策」”であったのである。
故に、「海運奉行権」を持つ“「伊勢奉行所の調停」”が無い事では成し得ない解決であったからと観ている。

下記するが、何と「紀伊水軍」や「熊野水軍」を緊急時に「太平洋周りの廻船」(「東廻りの航路」)に廻す事等の対策を取るまでには、上記の「令」もある事も然ること乍ら、充分に関係者全員が協議する必要性は絶対にあった。
これらを最速で一度にまとめて移動させるには、「紀州周り」の「調達船」以外には無かったと観られる。

(注釈 「瀬戸内域」には「湾港の海運権」を持つ“「遠国奉行所」”はそもそも無かった。
この事から「伊勢奉行所」、即ち「山田奉行所の許可」を得る事で済んだ。)

そもそも、江戸時代には、それを物語る事があって、メインの「北前船の西廻り」と「東廻りの航路」があって、他にその内容別に「北国廻船」や「浦廻船」が在った。
以上、主に「四つの廻船航路」があった。

中でも、他に上記の「荷物の内容」で分離した「大阪―江戸間の廻船」としては、「菱垣廻船と墫廻船」とに分けられていた。
これを加えると「六つの廻船航路」と成る。

ところが、「荷物の内容別」にすると「経営の波」が起こる事から、途中からはこの「決まり」は護られなかった。
「幕府の7ケ条御定書」は形骸化したのである。
結局は、「激しい競合」が起こって常態化して仕舞った。
取り分け、1730年に関西から江戸に「灘酒だけを運ぶ墫廻船」が生まれたが、それだけでは成り立たない事が起こり、その後に「墫廻船」は酒以外も運んだ。
ところが、1770年には、「幕府」は、これを見兼ねて「過当競争」に依って「廻船」そのものが無く成る事を避ける為に、これを「排除の観点」から、これを見兼ねて再び厳しく「積荷の分離」が定められた。

再び、「樽廻船」は「酒だけ」と成って、「菱垣廻船」は「関西の綿糸」と、後には上記した「伊勢の白子湊木綿」などの「その他」と改めて決められる事に成った。

ところが、幕末近くの「天保期」に成って、「競合」から「両廻りの廻船」は「経営難」に陥り、幕府の裁定で「菱垣廻船」の方を押えて「株仲間」(組合株)から外されて廃止が決まった。
これは、天保期には、既に、この「江戸の活況」は低下していた事を物語るものである。

この「天保期」までは、この「大阪―江戸間」の「便利な菱垣廻船」の「廻船の荷積」が満載と成ると、「紀州からの配船」(熊野/紀伊水軍)をして運営する事を特別に許可されていた。
依って、「使う側」からは便宜が効いて享保期から明和期までは「便利な菱垣廻船」として繁栄を来した。(天保期には廃止)
これは、「海運奉行権」を持つ“「伊勢奉行所の調停」の「緊急対応策」であった。

この時期の荷には、「便利な菱垣廻船」は1765年代頃から“「伊勢木綿」と「伊勢菜種油」と「地酒」と「豆粉」”等を主に運んだとされる記録がある。
「伊勢の紙屋」は、この「菱垣廻船」を1765年に江戸に出店した「商人グループ近江」(松阪派)が使う様に手配したが、そして1843年までの期間を使用したがその後は経済も疲弊して廻船は無く成った。(伊勢屋は江戸を引き払った。)
そして、この「菱垣廻船」には、「開始から天保期(1843年)の廃止」に至るまでの「120年の間」は,廃止に成るまで臨時的に補助的に、“「紀州からの配船」(紀伊水軍と熊野水軍)”を「特別許可」を得て暫くは使われた模様である。

これは傍には「摂津水軍も瀬戸内水軍」も在りながら、態々、「紀伊水軍」等を指名して廻す事を許可しているのは、「紀伊と伊勢の積荷の産物」(「伊勢木綿」と「伊勢菜種油」等の殖産品)を運ぶ目的があった事から来ている。

(注釈 「紀伊水軍」を「積荷過剰」と成った時点で廻す権利を「太平洋廻船」に特別許可をしていた。)

この様に「地域限定している事」からも,明らかに「享保期(吉宗)」から「明和期(家治 吉宗の孫)」までの間に、「吉宗の経済改革」(実質1781年まで「享保の改革」)は継承され推進した事の証に成る。
そして、これは「吉宗後の血縁族の将軍」(家重 家治) の幕府(家重)が背後で配慮した処置であったとも充分に考えられる。

(注釈 1788年からの「水戸藩養子系の幕府」の「寛政の改革」は失敗した。)

これは明らかに次ぎの事が云える。
「伊勢のcの組」の分は許可の要らない「便利な菱垣廻船」を単独に使ったと観られる。
「伊勢のaの組」の分は「讃岐青木氏」の「東廻りの航路」を「特別許可」で使ったのである。

(注釈 元禄期の「浅野家断絶時の「家財買い取り」と「家臣の分配金」は「伊勢青木氏の紙屋」が行ったが、この時に「千石船三隻」を摂津から廻したが、「瀬戸内」を支配していた「讃岐青木氏の協力(船と金銭と交渉)」を得ている記録がある。)

この様に「商い」を興そうとすると、解決しなければならない「土地、資材、店、雇用、生活、運搬」の「業務と資金」の課題は、単独では到底解決し得ない柵があって、これに依って上記した様に解決したのである。
況や、「生活と土地」と「店と雇用」と「資材と運搬」の課題であり、「「生活と土地」は「伊勢の紙屋と江戸の伊勢屋」の連携で「小伝馬町」に、「店と雇用」は、「江戸の伊勢屋」の「名義借り」にて「内店組」として、「資材と運搬」は「伊勢の青木氏」と「山田奉行所」と「讃岐青木氏」の調整で、「青木氏の殖産品」を「商人グループ近江(松阪派」」の「知恵と努力」で「江戸」で売り捌く事が出来たのである。

上記した様に、その後の「短編の報告書」には、「江戸の伊勢屋の質」の「町方の質」には、先ずは、初期の「立ち上げ段階」は、“「伊勢者」の「信用貸付」(「商業組合人」)”が主体と成っていた様で、その後に「利潤」が出た処で“「手形貸付」”にし、「商い」が活況した時期には物の「担保貸付」に切り換えた事が書かれている。

1740年代前半から、江戸にやっと「本格的な活況」が生まれ、「店子」とは別に「一般の町方」もこの「商業組合」に参加して「伊勢屋の質屋」で「融資と指導等」を受ける事が起こった模様である。

この“「町方」”と云う表現には、「完全な町方」と云う意味が在るかは釈然としないが、「商業組合」に務めた「江戸の者」が、「一人前」に成り、改めて「組合員」に成り、「暖簾分け制度」で独立して行く者に対する「融資と指導等」であったと判断される。
これを“「町方」”と表現したと観られる。

その「担保貸付」で「7割の割賦 下記」を返して行く事で、「願株の組合員」に有能で頑張れば成れたのである。

(注釈 普通は、”「願株」”や”「御免株」”を持つ組合員の「名義借り」や「架空名義」で組合員に成る。)

実は、この“「町方」”の表現には、重要な意味合いが潜んでいる。
「青木氏の歴史観」には、この「重要な意味合い」が“「町方との関り」”には潜んでいるのである。

それは次ぎの事で判るのである。
この“「町方」”の「組合員」に成った者に対しては、中には、「店の現物」の“「商品担保」(現物担保)”もあった様で、何とか頑張らせようとする「知恵」を絞った興味深い「商い戦術」が伊勢に遺された資料から観える。
「全体の利益」に「担保利率」を総合的に負荷するのでは無く、「担保」に成っている「商品」が売れれば売れる程に「担保」が少なく成って行く原理を使った様で、一つの商品に「担保の利率の適度な返金分」を当てて、“頑張れば自動的に担保が減ると云う仕組み“を考えたのである。
担保が無い町方の者に「暖簾分け」で「店」を持たせ、「伊勢商法」で「一人前」にして行くには「完全な信用貸付」もあったが、「信用」を前提として、売れた商品の利益の中から一品ごとに形だけの利率分を引く事で、担保は自然と消えて行くと云う「安心感」を利用して「やる気」を引き出していたのである。

「店」を新たに持つ者に執っては「担保」と云うものがどれだけ気に成るものであるかを知った上でのシステムである事が判る。
返して云えば、当初は確かに「暖簾分け」の人物であると云う事から「完全な信用貸付」であったが、これでは「担保」と云うものに対する意識が無く成り、「緊張感」が低下して成功に導く事がなかなか難しかったらしく、苦労していたのである。
そこで考えられた手法であった。

これは、「伊勢屋の質屋」(江戸の伊勢屋)が考えたのだが、“「やる気」”を起こさせる事に主眼が置かれていた事が判る「仕組み」である。
「利潤」を「伊勢屋の質屋」が求めるのでは無く、先ずは、“「商い」を発展させる事”に主眼が置かれていた事がこの事でも判るのである。
この「担保方式のシステム」は、上記の「AからFの特徴」をより効果的にさせられる事に気づいた事であったと観られる。
「単なる品を売り買いする商人」では無く、「一つの経済的哲学を持った商人」を創りたかったのである。
それが「長続きする商業組合」と成るからである。
“「享保の改革」が本物と成る事を期待していた“のであって、「伊勢商法」とも云える「伊勢商業組合の確立」にあったのである。

この「伊勢商法」とも云える「伊勢商業組合」では、“「機関車(先導車)の商人」が頑張れば、必然的に「殖産の職能部門」も活性化して行き安定し潤う“と云う「商業概念」を確立させていたのである。

この「商業概念を確立」の為に、次ぎのシステムが敷かれていた。
この上記の「商人の仕組み」に合わせて、「殖産の職能部門」が「商人の生産要求」に応えられる様に、「一つの仕組み」が設けられていた様である。

それは、「商人」が直接に「殖産の職能部門」に「生産量」(注文量)を要求するのでは無く、その「扱い」として「手続き」として、その「商品の組合」に「注文量(仕入量)」を先ず申し込む。
これを「組合」が、その「商品」を扱う他の商店の「注文量(仕入量)」と合わせて、「合算量」を「江戸の伊勢屋」(総本店)に連絡をする。
「江戸の伊勢屋」は、この「合算量」の上に「加算量」を加えた上で「職能集団の組合」に発注する。
「職能集団の組合」は、規模に応じた量を「組合員」に伝達して個々の「職人の生産量」は決まる事に成る。

つまり、“「江戸の伊勢屋」が発注すると云う形“を採り、”その責任を「江戸の伊勢屋」が負う“と云うシステムに成る。
”その責任を「江戸の伊勢屋」が負う“と云う「システム」である限り「伊勢屋の質屋」は「信用貸付」が「当然の事」にも成る理屈に成る。
百々の詰まりは「責任を負うところ」は「江戸の伊勢屋」であった。

この結果、「江戸の伊勢屋」は、結果的に「全ての商業組合」の「全ての商品」を扱う事に成り、「総合商社」と成り、「売り上げ情報」が確実に掴め、その「大商い」が構築される。
これで、「商業組合」の「全ての状況」を「把握する事」が出来て、情報では「弱い組合」には「梃入れ」をすると云う事も可能に成り、それで「金融先」を見極めて「組合の業界」を誘導する事(AからF)に成って、「伊勢屋の質屋」が動く事に成る。
この結果、AからFの「伊勢屋の質屋」が「2800」も数多く出来た所以なのである。

この「梃入れ」が、それぞれの「経営状況」に合わす事に成る事から、上記の様に、(A)から(F)の「取り組み」が起こる事に成るのである。

「江戸の伊勢屋」がこれに依って“総合商社化する”と、当然に「江戸の伊勢屋本体」も「一つの商店」として「利益」を挙げる必要性から、“「貿易」と云う手段に出る事“に成る。
「商業組合からの薄利」を求めるのではなく、“「貿易」”と云う大きな手段で「利益」を挙げ、「商業組合の補償」としたのである。

この“「貿易」”は、「国内経済」(商業組合)に左右されないで、「生産量」を安定して「商業組合」に出す事が可能に成る。
強いては、「量」のみならず、「質」も経営が安定して向上させる事にも成り、「質」だけではなく、「人を育てる事の仕組み」も充実する事にも繋がるのである。

これで、「享保の改革」はこのシステムに依って全体的に回り始めたのである。

(注釈 逆に云えば、これが弱点と成る。つまり、「江戸の伊勢屋」の「貿易」が何らかの原因で縮小するか無く成るかに依って、「江戸」のみの「市場能力の範囲」と成り、次第に「活況」は低下する論理と成る。
「将軍吉宗」と「青木氏」と「伊勢の紙屋」や「江戸の伊勢屋」はこれに賭けたと観られる。)

ところが上記した様に、1781年から露に出て来た幕府の「商業組合の抑制策」に依って「江戸の引き上げ」を開始して「伊勢」等で行う様に成った事で、「江戸の活況」は低下し「インフレ不況」に進んだのである。

そこで、前段でも論じたが、そもそも、この「総合商社化」は、「伊勢」で既に平安期の1025年頃に始めていて、「宗貿易」を始めている。
「江戸」に出て始めた事ではそもそも無い。“貿易”のパイを江戸様に拡げたと云う事に成る。
「伊勢」で、「和紙と紙製品」を中心に始めたのであって、この時には既に「伊勢」には「商業組合」の様な「原型の組織」が出来ていた事に成る。
それでなくては「大量の和紙製品」をまとめて販売する事は出来ない。
この時は未だ、「自由市場」では無く、職能を部単位で組織し、朝廷を主にして一部で公家勢力が自らこの「部組織」を持っていて、この「部(べ)」で出来た商品を朝廷に収め、朝廷より「余剰品」が下げ降ろされた余剰品の物を市場に掛ける仕組みであった。

「青木氏」は「自らの青木氏部の職能集団」を持つ事が許された唯一の賜姓族で皇親族であった。
江戸期にも「青木氏」はまだこの「職能集団」を形を変えて持っていた。(青木氏部)
それが、前段でも論じたが、江戸初期までは“「青木氏部」”と呼ばれていたのだが、これが、江戸期初期からは、「神明社」等を幕府に収納する等の事が起こってから、「青木氏部」の「大勢の職能者」が「神明社」から外れた。
そして、先ずは「青木氏部」が「伊勢の紙屋」の中で、「幕府」などから神明社修復に対する「受注を受ける仕組み」が起こり、これが土台と成って「青木氏部」の「幕府-青木氏」間の「職能別に商業組合化」へと変化したのである。

(注釈 然し、「神明社」に関わっていた神職を始めとして「職能部の人々」は、江戸幕府が困窮を極めた為に影響を受けて、「社殿修復」は愚か生活も侭ならない様に成った。
この為、「商業組合」で「互助組織」を作り、「神明社外の仕事(造船・造形・大工・人形)」も熟したと記録されている。
中には「神職」は、元より「伊勢シンジケート」に関わっていた事から諜報業や搬送業に関わっている。)

この「伊勢シンジケートの組織」や「伊勢水軍等」も含めた「青木氏部の組織」が、更には、江戸期初期には独立をさせて「組合」を組織(御免株の株権化した組織)して、「伊勢の紙屋」が「7割の株」を持つ「株権組織」(「御免株))が出来上がったのである。

(注釈 前段で論じた様に、「家康との二度の談合」とは、この一連の話し合いであって、「青木氏の提案」により、「家康」は、「青木氏部の解体」とそれを「新しく組織化する提案」に対して、これを潰さずにむしろ推進させる事に認可したのである。
この時に「神明社」などは幕府に移転させたのである。)

(注釈 最終的には、明治初期に「地権」を含む「地租改正等の資産に関する法令」により、「伊勢青木氏」と「伊勢の紙屋」は、これらの「商業組合の株権」を全て廃棄して完全独立する事に至った。後記)

この江戸期初期の「独立した組織」が、前段で論じた“「商業組合」”と云う形にして、更に、「(イ)(ロ)(ハ)の自由性」を担保させて、新たに「伊勢から紀州の関係する郷士衆」もこれに加わり、これに「御師制度」を組み込んで組織化を成したと云う事である。

これを「伊勢」に主体を置いて、この組織を一部移して江戸に移動させたのである。
この時、拠点と成る「伊勢の紙屋」の代わりに、「江戸の伊勢屋」としたと云う事に成る。
ただ、ここで大きく違ったのが、「伊勢屋の質屋」(AからF)であった。
この事から来る苦労が伴ったのである。

そもそも「伊勢」は元より奈良期からの本来の「質の基盤」(「仏施の質」)が出来上がっていたが、「江戸」には無かったのである。

重要な注釈として、 重複するが、本来、「質」とは、元は6世紀頃に中国の仏教寺が困窮を極める信徒に対して食事を与え、職を与えて、人として導き施しを行う行為の事を呼ばれていた。
我が国では「青木氏等の皇族賜姓臣下族」に依って奈良期から行われていた「密教浄土宗の仏教行事」を指す。
これを「青木氏独自の催事」として長く「仕来り」として「伊勢の民」に成して来たものなのである。

ところが時代が進み、「青木氏の仕来り」とは別に、その使い方に変化が起こり、この事から「質の意」が”「元の意味」”を成す言葉」と成り、その後には更には”「成り立ちを表す言葉」”にも成り語源と「異なる言葉」へと変化して行った。
そもそも、「伊勢屋の質屋」が江戸で「質行為」を行うまでは主に”「土倉」”と呼ばれていた。

従って、伊勢だけで行う「質」は「青木氏だけの仏施の古式伝統」と成り得たのである。

この時に、「江戸」で発せられたのが、「江戸の町方」に出した「質流れ禁止令」(土倉・銭屋)であるが、これは、実は、幕府に執っては、前政権の“「質取扱い覚」”の「令」での「質流れの緩和策」で社会問題を起こしていた。
これが「享保の改革の進捗」の一つの阻害要因に成っていた。
この事に困った事からでもあるが、そこで、享保期には上記の全国に発した「農地」を対象としたものにも「質流地禁止令」も合わせて出したのであった。

上記する様に、当時、「質」と云うものに対する概念が、「享保期の為政者の概念」と「前政権までの為政者の概念」とは根本的に異なっていたと云う事であった。

「享保期の為政者の概念」=江戸の伊勢屋の質屋が行う仏教的発想の質行為
「前政権までの為政者の概念」=土倉が取る代替担保や銭屋が金融の担保行為

然し、上記した様に、AからFの「伊勢屋の質屋」は、「享保前の経済低迷の質屋(土倉)」から、「享保後の経済活況の質屋」に変わっていたのであったから、実質的には「AからFの令」は余り意味が無く、「町方」にも出した「質流れ禁止令」は、上記の事もあるが、主には江戸での「伊豆相模との争い」を避ける要領であった事が良く判る。

実は、この”「伊豆相模との争い」”とは、金融に関する土倉銭屋行為の既存経済と、享保期の商業組合による伊勢屋質屋の新経済との混在する江戸社会の中で、如何にもその代表戦の様相を呈する様に成って仕舞った。
「伊豆相模等に代表された勢力」と、「江戸の商業組合の伊勢屋勢力」との「二つの勢力争い」が起こっていたのである。

この「二つの勢力争い」があったと云う事は、「AからFを行う質屋」では、つまり、「商業組合」の中での「組合員」に成った「暖簾分け」の者の中では、「質取扱い覚」”の「令」や「質流れ禁止令」や「質流地禁止令」があって「既存経済のシステム」に頼る事が出来ない為に、職能から販売までの一切の工程は「伊勢」から持ち込んだ「独自の殖産システム」で運営されていた。
取り分け、その「発注と販売の責任」は「伊勢屋」が総括して持ち、一つの市場の中の組合員同士の「市場の奪い合い」は避けていた。
その為に必要な市場のその代替は「海外に広く販路」(伊勢屋・貿易)を設けた。
つまり、「富のシステム」で工程は出来上がっていた。

この過当競争の無い「富のモシステム」とするならば、「伊豆相模」が行う「既存の経済システム」とその「銭屋の金融」に持つ市場に「障害と弊害」は起こらないし、新たに「江戸の伊勢屋の商業組合」が入ったとしても「市場の許す最低限の範囲」であった事に成る。

“それなのに、何故、「伊豆相模」は必要以上に騒いだのか”である。
(伊勢側から観ると騒いだと成る。)
その“騒いだ”の答えは、“「恐怖感」”であったと観られる。
「伊勢と紀州での商業組合の実績」が、「伊豆相模」を除いた「14地域の実績」が脳裏に在り、それが「余りの凄さ」に戸惑い、“江戸に来れば”と云う思いがあり、結果として「恐怖感」に結び付いたと考えられる。
確かに、この「恐怖感に結び付く原因」を持っていた事は否めない事に成る。

(注釈 その頃の「伊豆相模」は「銭屋」や「土倉」に代表されるこれを基本とする室町期からの既存の商慣習の古い経済体制を敷いていた事が原因している。)

然し、この程度では幾ら何でも三つもの「令」は出さないであろう。
少なくとも“形式上でも「令」を出すだけの事“が起こっていた事を示すものである。

これは、「情報」が入っている「伊豆相模」だけでは無く、情報の持たない「江戸の既存経済の商人達」も同様に「恐怖感」は図り知れないものがあって、当に「パニック」に陥ち至っていた事が判る。
取り分け、「銭屋」と「土倉」だけには相当な実質の影響が風潮に依って一時的にあったと考えられる。

誰が考えても、上記した様に、「伊勢の14万石の経済増加」と「紀州藩の10万両返済」と「14地域の活性化」を聞けば、その経済勢力に「恐怖感」を抱かない方がおかしい。
恐らくは、「江戸の伊勢屋」「伊勢屋の質屋」には、「嫌がらせ」や「デマ風潮」や「邪魔行為」が横行していたと観られる。

(注釈 佐々木氏の資料の中に、この時の風潮が風刺的に如実に描かれている。)

現に、この「騒ぎ」を見兼ねて出された「質流地禁止令」が誤解された。
何と江戸組の「越後の国」の何と「武士を含む半分の民」が反対運動を起こし「大騒動」に参加した事に成っている。
従って、この江戸での「嫌がらせ」や「デマ風潮」や「邪魔行為」が「越後」には伝わって居た事が判る。

この「大騒動」には、“誤解に依るものである事”が判っているので、他の普通の一揆や騒動と違って、騒動解決の為の「説得の役人」が江戸から態々派遣されているのである。
ところが、越前藩や幕府現地役人や幕府からも派遣されたが、“「役人の説得」に直ぐに応じなかった”と成っているので、「江戸の伊勢屋」「伊勢屋の質屋」に対する「嫌がらせ」や「デマ風潮」や「邪魔行為」が想像を絶していた事が判る。

ここまでの騒ぎに成るには「特定の煽動行為」が無くてはなら無い筈で、既存の「江戸商人の影の抵抗」があった事が云える。
其れも「15地域」であって、且つ、騒動の起こる事が最も低い「伊勢」に次ぐ「越後」である。
良し悪しに関わらず、「二つの伊勢屋の動き」を抑え込む為のもので、裏で「反対勢力」(「江戸商人の影の抵抗」)が効果的な場所を狙ったとしか思えないのである。

(注釈 前段で論じた様に、「保守的な官僚」を含めた「商業組合の進出」に対する「反対勢力」が動いた事が資料からの分析で判っている。)

現実に、吉宗没後の1760年代には「執政田沼の冥加金に依る抑制策」、1780年代には「執政水野の禁止令」と「反対勢力」は勢いを吹き返した。

そもそも、この「令」は、元の目的は「伊豆相模」の勢力等を宥めるのみならず、「江戸商人の騒ぎ」を納める為の令でもあったのであるから充分に考えられる。

このややこしい「三つの令」は、結局は、1年後と5年後に廃止に成り、元の1695年に出された「田畑売買の禁令」も緩和する事で1731年頃までで完全に納まったくらいである。
この間、何と15年間であった。

「土倉や銭屋」で出た担保物件が、金銭の持つ「商業組合の商人」に渡る事で「土地と市場」が寡占状態に成らない無い様に配慮した令の目的であった。

「江戸の伊勢屋の質」は「商業組合」の中で、「暖簾分け制度に依る融資」であって「庶民生活の融資」はしなかったし、「暖簾分け」での実質担保は採らなかった。
この「質」が危険視された。
出された「令」は、「商業組合」が「質」に依ってこれらの土地を含む担保の売買を禁止しているのである。
庶民に執って「担保を買う事」を奨励するのであればいざ知らず、禁止しているのである。

これを心配した庶民を保護した法令の目的であったのに、「丹波域三国」と「越後域三国」で逆に騒がれたのである。


然し、この事が元で、伊勢と伊豆の双方の感情の行き違いが起こり、互いの「信用」を失い「伊勢と伊豆」は、平安期から全くの同族縁籍でありながらも、明治期まで「完全な絶縁状態」と成って仕舞っていた。
(神明社の「御師、祐筆」が両者を取り持って解決し、「青木氏の奈良期からの賜物の護り本尊」の「大日如来坐像」を一時預かりして貰ている。)

(注釈 この事に付いて「青木氏四家の口伝」に遺る。
これは取りも直さず伊勢側から観れば「伊豆相模」が裏で煽ったと解釈した事を意味する。)

そもそも、“「伊勢屋の質屋」”が有名な「江戸の名物」として、“「江戸の犬の糞に伊勢屋の質屋」”に例えられている様に風刺する目的から、この時に生まれた模様である。
逆に観れば、風刺が出る程に「伊勢屋の本店」の「資金融資」に依り、「商品の商い」に限らず「質屋」の「質の事態」も「暖簾分けの各店舗」も大きく運営されていた事が判る風刺である。


注釈として、 話は逸れるが、この頃の「江戸の伊勢屋」を示す物が先祖遺品の中にあったので、当時の“「江戸の伊勢屋の理解」“を深める為にも、少しこの事に触れて置きたい。

それは、“「古今雛の京雛人形」”に、”「江戸の享保雛人形」”と云う風に呼ばれて、これも当時の世評を反映する様に有名であった。

この「江戸の享保雛人形」、通称、“「享保雛」”とは、「伊勢の紙屋」が「紙の殖産」として「京雛の習慣」を「江戸仕様」に改造して、「伊勢松阪」から持ち込んで「江戸で職能集団」で拡げた事からこの様に呼ばれる様に成った。

現在の「雛祭り」の「雛段」は、この時から興った「江戸の享保の慣習」なのである。

その意味で、”「箱雛」の「京雛」”に対して、“「雛壇」の「享保雛」”は、一つのこの時の「江戸の商業組合」を物語るものなのである。

現在は、何処でも“「雛壇」の「享保雛」”が一般的であるが、筆者の家では、この時の「享保雛」の「人形」が保存されていたが、明治35年に松阪大火で焼失した。
然し、「雛祭り」と云えば違っていた。

可成り大きい「三尺雛」(90センチ)と呼ばれるほどの「箱雛」の「京雛」は現在も遺されている。
この「箱雛」は「単体の雛人形」で「御雛と女雛の二体」から成り立っている。
それが「装飾された雛箱」に入っている事から「箱雛」と呼ばれていた。

この様な祭祀をする「専用の飾床」があって、中央に先祖を祭祀する「仏間」と、先祖の遺品などを飾る「床間」が右にあって、左にこの雛箱に毛氈の掛物を掛けてその上に「御雛と女雛の二体」が飾られ、高い「対の燈篭」と、高脚の「着いた梵燈」が設けられ、高瓶に菱餅と甘酒を捧げ、右の大花瓶には「桃花」を生ける。中央には祭り専用の「黒檀火鉢」が備わる。
この「黒檀火鉢」で香木を焚いて、人は集まる。
嫁ぎ先親族の人々が遣って来ては、一月間に入れ代わり立ち代わり香木を焚く事が起こり、隣の仏間に線香と蝋燭が灯される事か続く。

「飾床」の敷居には、「注連縄」が飾られ「象徴紋」の入った「紫色の幔幕」が張られ、祭りの初期は「甘酒」(弥生雛)が振舞われ、後半には「抹茶」(五月雛)が振舞われた。
そして、「仏間」の前の右に「毘沙門天像」と左右に「対の高燭台」が設けられる。
仏間の左には元より「対の高燭台」ともに「大日如来坐像」が安置されている。
全てが「床」には無く「机上の高さ」にあり、「祖先神の親神」の「皇祖神の主神」の「自然神の祭祀方法」の手順に一切沿っていると考えられる。

江戸の当時の庶民が、持てる「雛人形の箱雛」では未だ無かった様であるし、この祭祀もこの様に現在の様ではなかった。
これが「青木氏の習慣仕来り掟」に古くから遺されて「一つの祭祀の二つの催事」を維持されていたものである。
これを、“三月に一ケ月間も飾る習慣”であって、「女子の節句祭り(庶民化)」と云う事では無く、娘の「婚家一族」を中心に「四家一族」も「福家」に呼び寄せて、“「一族繁栄円満の祭り」”として、その際の「格式象徴物」として「雛人形の箱雛」は用いられて行われていた様である。

前段でも論じたが、「四家制度」の”孫域までを「子供」として一同に育てる「仕来り」”に沿ったもので、「女子」と云うよりは元より“「女系祭祀」”と云う目的が元々強かったものである。

(注釈 「青木氏」には、前段でも論じたが「青木氏家訓10訓」にもある様に「女系意識の概念」が強い。)

この全国の「青木氏」等が行っていた古式豊かなこの「弥生雛祭り」が、享保期には「吉宗と青木氏と伊勢屋」が江戸に広げ、それが世間に拡がりこの「上記の祭祀」が簡略化し庶民化し変化して華やかに「雛壇」に成り、「祭り」が「女子の祭り」と成ったと観られる。
(吉宗は伊勢で育っていたのでこの「青木氏の催事」を良く知っている。)

何をともあれ、「伊勢和紙加工に於ける殖産」を広める為に「弥生雛祭り」に託けて江戸に持ち込んだものが、「享保雛」と云う形で普及させて広まったものである。

この「弥生雛祭り」の古式豊かな「正式な祭祀」は、「全国青木氏」では、「伊勢」「京」「近江」の三地域のみならず、大正14年まで正式に行われていた記録が遺されているが、その後は衰退し一族の孫域まで呼び寄せた“「子供孫祭り」”の様な「子供の成長を祝う目的」の「小規模な単なる「お祝い事」に変化したものであった。
この「お祝い事」は昭和半ばまで続いた。

この昭和の時は、「享保雛の影響」を逆に受けて「京雛の箱雛」を用いた「雛壇の無い状態」ではあったが、「弥生雛祭り」(女子)と「五月雛祭り」(男子)の「二つの祝事」に成り、且つ、分割していたのである。

同じ「儀式の祭事」が「伊勢秀郷流青木氏」や「近江佐々木氏系青木氏」でも行われていた事が記録として遺されているが、ただ「箱雛に依る催事」は遺されていたかまでは不明である。

更に、この「雛祭り」は、上記の三月の祭りに加えて五月には、同じ「箱雛」で、江戸期には「義経と弁慶(侍と臣)」(モデル化)で、室町期では「毘沙門天像」を模写したと観られる大きな「二体の武者人形」を同じように飾り、「四家一族」と「婚家一族」に加えて、家人郎党全員を集めての「儀式の祭事」(“「五月雛祭り」”)が行われていた。
この時の祭事は、同様に「四家制度」に沿ったもので「一族発展の祭り」(男子の子孫存続)として「三月の祭り」(“「弥生雛祭り」”)に続けて行われていた様である。
「祭祀の期間」は同じ一ケ月間であり、この間は「弥生雛祭り」の「雛人形」なども飾り続けて仕舞わない仕来りである。
そもそも、「伊勢青木氏の口伝」によれば、“「弥生雛祭り」と「五月雛祭り」”の「箱雛の人形」を飾る目的が何であったかと云うと、本来は、“ある事を「擬人化したもの(格式の象徴物化)」”であって、「五月雛祭り」に付いては「四家制度」の思想から来る「健全な子や孫」(「男子や女子」)を表すものとして祀られていた事が判る。
然し、“「弥生雛祭り」に付いては、”ある事を「擬人化したもの(格式の象徴物化)」“と云う事が口伝ではっきりしている。

然し乍ら、この“「弥生雛祭り」と「五月雛祭り」”との間には筆者には何か釈然としないものがあった。

実は、筆者の「口伝」の記憶では、「三月祭り」(「弥生雛祭り」)から「五月祭り」(「五月雛祭り」)まで連続して行われていたとの「口伝記憶」(先祖の言い伝え)がある。
これは「二つの催事」では無く、「一つの祭祀の二つの催事」としての口伝による記憶が強い。
これは「旧暦の弥生」は新暦の3月下旬-5月初旬と成る事から、奈良期の古来の「弥生雛祭り」が元々の「祭りの期間」であったと考えられる。
これが新暦に成った事でより三月と五月の「二つの催事感覚」に何時しか勝手に成って仕舞ったと観られる。

二つの「三月祭り」(弥生雛祭り)から「五月祭り」(五月雛祭り)は、“ある事を「擬人化したもの(格式の象徴物化)」である”事の「古い催事」である。
この限りは、元々継続した「一つの祭り」であった筈で、その目的から考えて「弥生雛祭り」が原型であったと考えられる。
「青木氏」は、古くから独自にこの「古の伝統」を維持していた事に成る。

「二つの催事感覚」、取り分け、その中でも「五月祭り(五月雛祭り)」がはっきりと分離したのは、享保期の「伊勢殖産」に依って「享保雛」が出来た事から独立させて販路を拡大させようとした。
この事から、二つに恣意的に分けられたと観られる。
それが明治以降の新暦で、伊勢でも分離しての催事感覚に疑問を持たれない侭に当然の様に「二つの催事感覚」に成ったと観られる。

(注釈 然し「口伝」による元来のこの「催事の目的」からすると「二つの祭祀感覚」はおかしい。
これが釈然としない事であったが、「青木氏」が行う「弥生雛祭り」の目的と、その内容が、「絵」とで行う様な「祝事」ではそもそも無く、先祖への「尊敬の念」を認識させる「祭祀の催事」である。)

従って、「享保雛」の「雛段」に依る「庶民の二つに成った祝事」は、「青木氏の祭祀」(「弥生雛祭り」)とは異なっているのである。
つまり、その「異なり」とは、そもそも、「祭祀」と「祝事」に依る違いである。

(注釈 現在でも「京と近江」と、取り分け、伊勢域の「老舗での雛祭り」では、「青木氏」の「一つの祭祀の二つの催事」と似ているところがある。
これも矢張り、一ケ月間行う慣習で、「雛壇」の様なものが無く、”「供物」や「幔幕」や「注連縄」”もあって、この期間はこの「三つ」を降ろさない「仕来り」で、現在でも異なっている事が判っている。)

この「青木氏の二つの催事」は、即ち、「三月祭り(弥生雛祭り)」と「五月祭り(五月雛祭り)」は、何れも昭和半ばまで小規模ながら続けられていた。

然し、この上記の “ある事”とは、次ぎの事である。
「四家制度」の前提と成る「皇族賜姓臣下族」としての「賜姓五役」を忘れさせない為の「格式象徴物」を擬人化させての「青木氏独自の古来催事」であった。
以上と「口伝」で伝えられていて、又、その「催事の内容(祭祀)」からも筆者も理解している。
従って、根本は、「祝事」では無く、「祭祀」なのであった。

これが室町期の「室町文化」、即ち、“「紙文化」”と云われる位に栄えた事から「500万石」と云う「巨万の富」を獲得したが、これを同じ「二足の草鞋策」を敷く「青木氏」の「伊勢の紙屋」としての「仕来り」として捉えて、京や伊勢や近江の藤原氏系や佐々木氏系の「二足の草鞋の老舗の商家の習慣」としても採用され拡がったものであろう。
それが、江戸には「青木氏の殖産」で享保期に拡がったと云う事であろう。
唯、この時は「塑像」では無く、「雛人形」で広めたと云う事であろう。
それが当然の結果として、庶民に広げる限りは「祭祀」では無く「祝事」となり、「三月祭り(弥生雛祭り)」と「五月祭り(五月雛祭り)」の「二つの祝事」に変化したと考えられる。

江戸では、これに依り「新しい祝い事」として「二つの祭り」を作り出し、「享保雛」と「雛壇」と云う二つの新しい「雛人形」の形体を作り出したのである。

これも「青木氏の慣習」が「伊勢和紙加工の殖産」(射和衆 室町期の紙文化)を通じて江戸に広がったからである。

注釈として、そして、この「三月祭り(弥生雛祭り)」と「五月祭り(五月雛祭り)」の「青木氏の慣習」が、この時に、「商業組合」の「職能部門」も「融資と指導等」を受けて「暖簾分け制度」、所謂、「伊勢屋の質」で拡大して行ったのである。
この江戸に広まった「伊勢屋の質」が、同時に「伊勢和紙加工の殖産」(射和衆)に連動しているのである。
況や、「江戸の伊勢屋の質」(「享保雛」)も、「伊勢の紙屋の質」も、何れにも「伊勢和紙加工の殖産」が介在していたのである。
そして、それには奈良期からの「青木氏の慣習」が、「江戸の経済」の“「拡がりの媒体」”と成っていたと説いている。

「慣習も奈良期」、「和紙も奈良期」であり、「享保の文化」は、この二つを取り入れた「天皇家の様相を模写した雛人形」と云う事に成ったのである。

そもそも,「雛人形の歴史」には,次の様な歴史を持っていた。
下記の事を理解していないと、この「像の事」は好く理解しえない。

・「形代」(かたしろ)と云うものがあって,その「人形」(ひとがた)に「災い」を担ってもらって災難をさけると云う風習で、古来の祈願はこれが主体であった。

・「天児」(男子 あまがつ)・「這子」(女子 (ほうこ)と云う祈願方法は、「人形の原型」と云われ、その人形(ひとがた)に対して「願い」を込める方法である。
これが発展してより「ひとがた」に近い形が表現されて、平安期頃には「人形(にんぎょう)」と呼ばれる様に成った。

・「立雛(紙雛・たちびな)」と云う「色紙」で細工表現した「人形(にんぎょう)」から発展した「親王人形」を作り、それに「ある目的」を持たせて「祭祀人形」や「祝事人形」というものを創った。
この「ある目的」をより真実に近づけ「擬人化偶像」を成して慣習化を果たした。
然し、「祭祀人形」は、特定階級に催され「天児系・あまがつ」の「擬人化偶像の流れ」に、「祝事人形」は有る範囲の庶民に催され「形代系」の「人形(にんぎょう)」へと進んだ。
況や、「人形(ひとがた)」から「人形(にんぎょう)」へ変化したが、更には、目的を持たせ装飾させた「雛形(ひながた)」への分岐時代であった。

・「内裏雛(室町雛・だいりひな)」として「ある目的」が固定化して「親王人形」(しんのうにんぎょう)と呼ばれる現象が起こり、これが形式化して「立雛(たちびな)」が創造化された。
且つ、この「立雛」が「親王の雛人形」が複数化して飾られる様に成った。
「室町文化の紙文化」が、飛躍的に発展して「庶民化」に依って「祝事の人形化」がより進んだ。
ここで、初めて室町期末期頃には正式に「雛人形(ひなにんぎょう)」と呼ばれる様に成った。

・「寛永雛」とあるが、そもそも、これは「内裏雛」に含まれ、「立雛」では無く「座雛・すわりびな」で作られたものである。
「内裏雛」までは関西での文化であったが、開幕に依って江戸に向けて「江戸十組問屋」等の多くの「関西商人」が江戸に移住し「関西文化」を持ち込んだ。

その時、この「内裏雛」が持ち込まれ、やや「江戸風」に仕上げられた事から、「寛永雛・かんえいびな」と呼ばれる様に成り、「京文化や近江文化や伊勢文化」を思い出す「祝事の専用雛」として扱われた。
参勤交代で江戸に集まる「武士階級」からも、又、広くこの慣習を真似た「商人などの庶民階級」にまで催された。
この時に使われたものを「寛政雛」と呼んでいた。

唯、この「寛政雛」には、「人形・にんぎょう」としての装飾などには大きな変化は無く、「関西の風習」が「江戸の風習」にも成りつつあって広がった事の意味から「寛政雛」と呼ばれた。
最早、「人形・ひとがた」の慣習の影は無かった。
「雛人形」に対して特別の「幕府の締め付け」があって、且つ、国政も極貧状態で質素が求められた時代であって、大きな発展は起こらなかった。

従って、分類上では次ぎの「享保雛」で扱われている。

・「享保雛」は「内裏雛」(親王雛)が華やかに成り、「寛政雛」とは比べものにならない程に独特の「江戸庶民文化の花」を咲かせた。
「内裏雛」の「雛人形」は複数化し、大型化し、雛壇化し、装飾具化し、更には、幾つかの「親王雛」では無い「女官雛」等の「有職雛」が生まれる等に発展した。
全く異なる「内裏雛」の「雛人形」が生まれ、それが更に進化を遂げたのである。

この余りの進化は、逆に関西に流れ着き、何時しかその「享保の雛人形」を使った「祝事」は華やかで庶民的であった事から、「関西の内裏雛」に取って代わられたのである。
従って、幕末の「関西内裏雛」には「関東内裏雛」と混在する期間が続き、「青木氏等の慣習」として維持されていた「立雛」は、「特定の階級と地域」にのみ維持されるものと成った。

(注釈 これ以後、明治期まで、遂には朝廷の官位官職の「有職雛」や「古今雛」が追加されて華やかさが拡大し、関西にも逆波及し定着して仕舞ったのである。
幕府は懸命に成って、質素に祝う様に「御触れ」を出すが最早止まらなかった。
現在では、この逆波及の本論の「享保雛」が定着し、元の「内裏雛」さえも完全に忘れ去られているし、「立雛」等は存在さえ「文化の記憶外」に成っている。)

「京雛」と「近江雛」と「伊勢雛」の少しづつ異なる「立雛」は、勿論の事、形代(かたしろ)、「天児」(男子 あまがつ)や「這子」(女子 (ほうこ)の「祭祀や祝事の祈願方法」の「人形と雛の歴史」は学問的にも消えかかっている。
この事は、実に「青木氏の歴史観」として大事な事であり、「享保の改革」に執っては関連して前期した事を認識して置く必要である。

つまり、「祭祀人形」は特定階級に催され「天児系(あまがつ)」の「擬人化偶像の流れ」に、又、「祝事人形」は有る範囲の庶民に催され「形代系(かたしろ)」の「人形(にんぎょう)」へと進んだ。
この様に「人形(ひとがた)」から「人形(にんぎょう)」へと変化したが、更には、「祝事の目的」を持たせた事に依って装飾させた「雛形(ひながた)」へと進んだ分岐時代でもあった。

つまり、「青木氏の祭祀」は、「立雛」とは呼称するものの「雛」では無く、その真の姿は「人形(にんぎょう)」で、「祭祀人形」は特定階級に催され、何時しか「天児系」の「擬人化偶像の流れ」に居た「古式豊かな青木氏だけの慣習仕来り」に成っていたのである。
この「三月祭り(弥生雛祭り)」と「五月祭り(五月雛祭り)」の「青木氏」の「一つの祭祀に二つの催事」の慣習は、「弥生雛祭り」の「御雛と女雛」(正しくは親王人形)と呼ばれていたが、実は「人形(にんぎょう)」に依って作り上げられていたのである。

(注釈 「雛」の呼称の原因は、室町期頃の「立雛への進化の影響」と考えられる。
当初は「弥生祭り」と「五月祭り」と呼ばれていた様であり、室町期末期から江戸期初期に入ってから「雛」が着く呼称と成ったと口伝と資料の一端からと伺える。)

当然に「五月祭り(五月雛祭り)」の「毘沙門天像」は、「雛」では無い事は当然の事として、奈良期には「木彫像」の「擬人化偶像」(鞍作部止利作)での祭祀であった。
然し、室町期には「時代性」を強く反映して「塑像の特徴」を活かした「擬人化偶像」で祭祀されていたのである。

この「時代性」とは、「下剋上と戦乱期の乱世」で、且つ、この時期は乱世でありながらも「伊勢」は「不入不倫の権」で護られていた事や、室町文化で「巨万の富」を得た事から、「二つの青木氏の子孫拡大」(四家制度)は大きかった。

従って、最早、権威ある「木彫像」では「鞍作部の衰退」もあり、無理とも成る。
当然に拡大する「枝葉の子孫」の数に合わせるにも「子孫に与える像」は、「木彫像」では間に合わなく成り、「塑像」でなくては出来なかったと考えられる。
「乱世による損傷」も充分に考えられ、修理や量産の効く「塑像」に換えたと考えられる。

この古式豊かなこの「祭祀の慣習」は調べた範囲では、これに近い状態を「青木氏」と共に、「京」「近江」「伊勢」の藤原氏や佐々木氏等を祖とする数える程の“「老舗の商家」”のみで、昭和の時代まで維持していたと云う事である。

(注釈 伊勢では特定地域でも現在も遺されているが大半は元は老舗商家だったと云う。)

「老舗の商家」しかこの「古式の慣習」が文書にさえも遺されていない。
これは恐らくは、「立雛」さえも確認できない事から考慮すると、江戸期には、最早、「氏族」が其処まで衰退した事からだと観られる。

(注釈 「姓族」が主体を占めた。この「姓族」を以って「武士と云う環境」に成った。その為に擬人化像や偶像は衰退し「氏族の古式伝統」は消えた。)

何はともあれ、この典型的な現象は、それまでこの「古式慣習の文化」を維持していた階級であったのに、室町期末期に近江、京の関西域、伊勢、美濃域の中部域、土佐、讃岐、伊予、阿波の四国域、周防、安芸、伯耆の中国域に“「武家貴族」”が生まれて「貴族公家の勢力」を盛り返した。
然し、50-80年程度でこれらも短命で「姓族」に圧せられて、完全消滅して逆に共倒れして、「伝統」を保持していた可能性のある「郷士衆数」までも減らして仕舞ったのである。

この“消滅して数を減らした”と云う事が、多少なりとも痕跡を遺す筈であるが、「古式の慣習の痕跡」さえも無くす事に成って仕舞ったと考えられる。

それも、この「四つの地域」は、そもそも「古式の慣習」を維持していた「氏族の枝葉末裔の生存域」(家紋分析)であって、そこにこの「武家貴族」が安易に浸食し、安易に「貴族や公家」が「武家」としての力を持つ事が出来たのである。
この原因は、平安期末期から鎌倉期初期の「荘園制の弊害」であって、他の血気盛んな「新興姓族」の中に浸食する事は極めて危険であった事から、「西の政権」の「朝廷力」を吹き返す為に採った「安易な苦肉の手段」であった。


(注釈 これらの「武家貴族」と呼ばれる者の貴族や公家衆等は、「平安期の荘園制の名義貸主」であったが、それを根拠に貴族や公家衆等が室町の戦乱期で失職した武士を雇い、自ら「武家貴族」を名乗り、その勢力を使って過去の「名義貸し」を根拠に土地を奪い取った現象が各地で起こったものである。)

と云う事は、この現象が原因して、この「四つ地域の地元勢力、即ち、郷士勢力」さえも滅亡すると云う事に成り、当然に「古式の慣習」(祭祀の慣習)そのものが消え去る事と成ったのである。

(注釈 「弥生祭り」「五月祭り」は、「天児」(男子 あまがつ)・「這子」(女子 (ほうこ)と云う「祈願方法」に起因していて、奈良期、或は平安期からの「郷士衆」である場合は、この「祭祀の伝統」を保持していた。
この時代の「郷士衆」は、全て藤原氏、佐々木氏、源氏、平氏、青木氏等の「賜姓臣下族」で拡がった「母方族系」も含む枝葉の傍系支流族の末裔であった。
この「四つ地域」に、前段で論じている様に、それぞれの「荘園制等の名義貸し」や「血縁の定着理由」が在って主に分布していたのである。)

唯、この中でも、前段でも論じたが、数少ない「伊勢郷士衆」は、その元を質せば「母方の武家貴族」にも類し、「郷氏」でもある地元の「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢藤氏一門」は、「武家貴族の浸食」に耐え抜いた。

伊勢は、「京の北畠氏」が「武家貴族」と成り、一時、奈良、伊勢、美濃域、果てには西関東に浸食し、一時は、”「御所」”と呼ばれる程に勢力を持ったが、遂には平家の傍系末裔の尾張の織田氏に押し返され潰された。
然し,前段で論じた様に、「皇族賜姓臣下族の伊勢青木氏」の「不入不倫の権の笠」に入り、「縁者関係」を理由に「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢藤氏一門」には手が出せないと云う事が発生し生き残った。
そして、その結果、”「青木氏の古式の慣習」”は何とか遺ったのである。

(注釈 「皇族臣下族青木氏」の補完役を「円融天皇」時に「藤原秀郷」は命じられ、且つ、「青木氏の母方系」である事を理由に「同等の格式身分」を補償して、一族の第三子(千国)に永代継承する事を認め「青木氏の賜姓」を授けた。
これが「24地域-116氏」に拡がり、秀郷一門の「第二の宗家」と呼ばれて拡大する。)

中でも「伊勢秀郷流青木氏」は、「皇族臣下族青木氏の補完役」の中心に居て深い血縁関係にあり、秀郷一門にも「独自の古い慣習」が在りながらも「皇族臣下族青木氏」の「古式の慣習」をも保持していた。
取り分け、中でも「皇族臣下族青木氏」の「四日市殿」は、江戸時代には「最高の格式」を持つ「融合族青木氏」であった。

そこで、「青木氏」の「四家制度」の前提と成っている「皇族賜姓臣下族」としての「賜姓五役」を忘れさせない為に「格式象徴物」を作り「擬人化偶像」させて祭祀した。
それを「特定の期間」に祭祀する「青木氏独自の古来催事」であるとする前提には、「三月祭り(弥生雛祭り)」と「五月祭り(五月雛祭り)」との間には「重要な独特の繋がり」が「五月祭り(五月雛祭り)」側に在った事に成るのである。

では、その“「重要な独特の繋がり」とは一体何であるのか“と云う事に成る。

そこで、そもそも、「五月祭り(五月雛祭り)」には、口伝によると、室町期には何故か「毘沙門天像」であったが、これが「五月祭り(五月雛祭り)」の祭祀目的と成っている。
これが“「重要な独特の繋がり」である事に成る。
その“何故か”の「毘沙門天の根拠」が判れば、「一つの祭祀の二つの催事」であった事が判るし、次ぎの様に伝えられている「口伝」も納得のいく処である。

そもそも、別論でも論じたが、日本では「四天王の一尊」として扱われた場合は、“「多聞天」”で、「独尊像」として扱われた場合は、“「毘沙門天」”であり、「武神」としての「臣下族」の「守護神」として祀られていた。

(注釈 「三つの発祥源」として、「青木氏」がこの「武神の祭祀役」を唯一に持つ「特有の氏族」である。前段等で論じた事が大きく歴史観として出て来る。)

「賜姓族五家五流の青木氏」では、この「一つの祭祀の二つの催事」の中の「偶像擬人化物」として「毘沙門天像」が位置している。

(注釈 「藤原秀郷流青木氏」では、上記注釈でも記述したが「皇族賜姓臣下族」ではあるが、守護神は「春日神社」、主菩提寺は「西光寺」、始祖は「藤原鎌足」、家紋は「下がり藤紋」、「賜姓五家五流青木氏」の「補完族」で「母方族」である。
この事から「毘沙門天」は「武神」「戎神」「尚武神」の「守護神」では本来無い。
但し、「四日市殿」と「秀郷流伊勢青木氏」は「青木氏融合族」である事から両方の慣習を持つ。)

つまり、「一つの祭祀の二つの催事」の形体を観ると、「三月祭り(弥生雛祭り)」の目的は、次ぎの通りであった。
「皇族賜姓臣下族」としての役である「賜姓五役」を忘れさせない為に、それを与えてくれた始祖を擬人化させた「格式象徴物」の「偶像」を作り、一族にそれを「青木氏始祖」として崇めさせる掟である。
青木氏末裔に長く崇めさせるに至っては、又、守護させる為には、その「青木氏の意志」を最大限に具現化し、偶像化したものを「格式象徴物の偶像」に添える事で必要であって、それを「定期的な祭祀の形」で慣習化して遺す事にあった。

その「崇め護る意志」を表したのが「独尊像の毘沙門天像」であって、これを「格式象徴物の偶像」の横に配置した形態に成っていた。

(注釈 筆者が知る口伝範囲では、実際は、仏間の前面左に「大日如来坐像」、全面左に対の形で「毘沙門天像」が配置されていた様に聞き及んでいた。
然し、ところが資料に依れば「格式象徴物の偶像」の右横と成っている。
室町期末期の「秀吉に依る門徒衆狩り」で、人々は「青木氏の菩提寺と屋敷」に逃げ込めば秀吉は手出しはしないだろうとして列を成して逃げ込んで来た事が伊勢の記録で判っている。
この時、秀吉は武力を使えず「青木氏の菩提寺と屋敷」に「火付け」で応じた。
この時、「伊勢シンジケート」は「青木氏の菩提寺と屋敷」とを取り囲み人々を護ったとあり、「秀吉軍(門徒衆狩り)」は近寄れず、結局は全面破壊に至らず「青木氏の菩提寺と屋敷」は一部損傷で終わった事が記録されている。)

この注釈の様に、護る「伊勢シンジケート」の間で武力沙汰になれば朝廷を擁護する秀吉に執っては、“松阪殿にお構いなし“の「不入不倫の権」を犯した事に成り腹立たしくも好ましい事では無かった。

但し、この「松阪の災禍」で「格式象徴物の偶像」と、「大日如来坐像」と、「毘沙門天像」を屋敷の外に一度救い出したが、口伝に依れば、「毘沙門天像」だけは「塑像」であって重い事もあって損傷し、再び「災禍の中」に放り込んだと伝えられている。

この後の江戸初期前後に、この事が理由と成って反省して「塑像」では無く、「毘沙門天像」は「義経像(武者像)」をモデルにした様な現存の「武者偶像人形」(三尺像)にした事が伝えられている。

ところが、現在は「格式象徴物の偶像」の右横に「武者偶像人形」が配置される習慣と成っている。
これは、この祭祀が終われば、この「二つの偶像」は安全を期して土蔵に仕舞う仕来りであった事からこの配置に変更したと考えられる。

「大日如来坐像」は仏間に常設して祭祀している事から、口伝よりも資料が「正しい仕来り」であった事が解る。
これは「二つの祭祀に一つの催事」に合して「古式仕来り」を江戸期に修正した事に成る。

「大日如来坐像」は「格式象徴物の偶像」よりも上格である事から、「毘沙門天像」を仏間に対に配置したと云う事であろう。
そもそも「大日如来坐像」も「毘沙門天像」も「仏像」であり、「格式象徴物の偶像」と「武者偶像人形」は擬人化の「偶像」であり、「仏像」では無い。
つまりは、この概念に”伝統を変更した”と云う事である。

注釈として、「武者偶像人形」に変更した根拠には、「二つの青木氏」は「皇族賜姓臣下族」ではあるが、平安末期の「以仁王の乱」の直前1182年頃、「源頼政の第三氏孫京綱」が跡目に入るし、「信濃青木氏」にも同時期に「源光国の子の源実国」が跡目に入った事で、「青木氏と源氏の同族融合族」と成った。

この事で、「武者偶像人形」に換える事には、「江戸初期の青木氏第23代目頃の青木氏末裔」は「問題無し」としたと考えられる。

これを未来永劫に「氏の生きる目的」として忘れさせない為の「一つの祭祀の二つの催事」であった。

唯、問題は「毘沙門天像」の「三つの格式」をどう見たのかと云う事が気に成る。
それが下記に論じる「三つの格式」を持たしているのである。

そもそも、「毘沙門天」を詳しく探れば解る。
「毘沙門信仰の発祥」は、平安時代の鞍馬寺で、鞍馬は北陸の若狭と山陰の丹波と京都とを結ぶ交通の要衝でもあり、古くから市場が栄え庶民の間でも、「武神」に依らずとも「毘沙門天」の神格である「財福の神」という面も強まった。
更に、本来の「武神」と「財福神」以外にも、九世紀頃からは「正月のお祓い行事」として、「疫病を祓う役」と「無病息災の神」という一面が加わった。
平安時代末期には「商いの神」の「戎神」ともされ、「武神の甲冑の毘沙門天」は主流であるが、この姿の「戎神」の古い形態も起った。
「財福の神」としての「毘沙門天」は、室町期中期には「大黒神」にならぶ人気を誇るようになった。
室町期末期には、インド伝来の「武神の毘沙門天」は、「日本独自の信仰」として「七福神の一尊」ともされ、江戸時代以降は「尚武様」として特に「尚武(勝負)神」にも崇められた。

この様に「庶民の仏教の信仰」も加わり、「武神」、「財福神」、「無病息災の神」、「戎神」、「七福神」、「尚武神」とも崇められる事は「青木氏」に執っても得策であった。

この事から、「青木氏」は「五月祭り(五月雛祭り)」には、「毘沙門天像の塑像」を「三つの発祥源」として「武神」に、「二足の草鞋策」から「戎神」に、「土地の氏上御師」として「尚武神」に崇めて、「格式象徴物」を護る為にも配置して祭祀していた事が解る。
これは当に「格式象徴物」に対して「賜姓五役」を果たす為に護侍している「青木氏の姿」を表現している事にも成る。

この「毘沙門天像」には、基本的に「七像型」があり、右手には法棒、左手には宝塔を持つ基本像があるが、どの像であったかは現在は判っていない。
唯、「賜姓五役」を司る事から「武神」「戎神」「尚武神」の「三表現の毘沙門天塑像」と成ると、右に「法棒」(イ)と、左に「宝塔」(ロ)と、光背に「操舵輪」(ハ)と、足元に「邪鬼」(ニ)で、立姿は鎧姿(ホ)の塑像と成る筈である。

現在、全国に遺されている「毘沙門天像」には、「七像型」の範囲で初期には、「60程度の造形」(型式に拘らなければ絵まで入れると江戸期までのものを入れると数万像ある)があるが、当時はその「氏族」の「七像型の範囲」で主張をして造形を鞍作部に依頼する習慣が許された。
その為にも「依頼主の主張の自由性」が効く「塑像」が主体と成っていた。

室町期までは少なくとも上記の「三月祭り(弥生雛祭り)」を基本に「五月祭り(五月雛祭り)」が「青木氏」の「二つの祭祀に一つの催事」であったとすると、(イ)から(ホ)の条件が備わっていた筈である。
現在は室町期の類焼で正確な立像姿は判らない。

イロハニホで描かれた「曼荼羅絵の毘沙門天像」が「近江の寺」にあるが、これに近いものであったと考えられる。
口伝によると、奈良期の「青木氏」の賜姓を受け臣下族と成った時の「大日如来坐像」と「笹竜胆文様の象徴紋」と「氏神木の青木の樹」と共に、「鞍作部止利作の木彫り」の「毘沙門天像の賜物」と伝えられていた。

「青木氏」には、元より「鞍作部止利作」の「黒檀に依る大木像造」の「賜物の大日如来坐像」が現在も保有している事から、この時に合わせて受けた「毘沙門天像の木彫賜物」であったと観られる。
その「室町期の模擬像」の「塑像」として保有していたと伝えられていた。

(注釈 「原型の毘沙門天像」の「木彫像の賜物」は、原因は不詳であるが、鎌倉末期に損傷し類焼したと伝えられている。
「近江」と「美濃」にも「塑像」はあった筈で、「青木氏の氏是」に反して「源平合戦」の近江と富士川の戦いで滅亡した事で消滅した。
「甲斐の塑像」(源源光系)も衰退した事で消滅している可能性は高い。

「信濃青木氏」が所有した「毘沙門天像の塑像」の如何は現在も掴めていないが、下剋上と戦乱で損失したと観られる。
その後、「塑像」を作りしが「不入不倫の権」に護られていた事から「伊勢青木氏」の四家が共有していたのではとも考えられる。
然し、これは「室町期初期に再現された塑像の模擬像」であって、その「塑像の模擬像」も「伊勢三乱」でも焼失している。
この時に「信濃青木氏の毘沙門天像」は類焼したと考えられる。

その後は、この「塑像」は、遂には、江戸期初期の「武者偶像人形」(義経像)と、それを護侍する「弁慶像の雛型人形」に変化している。

(注釈 「弁慶像の雛型人形」の「武者偶像人形」は「江戸期の後付」と観られる。
恐らくは、これは江戸歌舞伎の勧進帳十七番で有名と成り、「五月雛人形」として作られる様に成った。
ただ、「「武者偶像人形」(義経像)」とは「造り」が異なる。

「義経像モデルの「武者偶像人形」は「箱雛」としてあったが、その後に、明治期に「弁慶像の雛型人形」は、「後付のガラス箱」に収め直されている。
この事から、「特注特大の雛人形」の三尺物、普通は一尺半以下として作られている様である事から、時期が同じでは無く兎に角は「後付」であろう。

「義経像モデルの「武者偶像人形」は、「箱雛」では、「毘沙門天像」に比べて「三格神」の意味合いが薄く成る。
この事から、その「意味合い」を強める思惑から、当時、「八幡大菩薩」が「姓族の武士」の「護り本尊」として崇められていたので、「弁慶像」を添える事で「武神と尚武神」の「三格神」を強化したと観られる。

そもそも、取り分け、11の「賜姓臣下族」の中でも、「清和源氏」と「桓武平氏」は、この「八幡大菩薩」を「武神格」として崇め、その「義経像」を江戸期には「八幡神」の「武神格」に祭り上げた。
元々、この「八幡神」は、「天皇家」の「始祖応神天皇の神霊」であって、「皇祖神の伊勢神宮」に準じる神格を以って守護神の宇佐神社と石清水神社に与えたものである。

従って、「神仏融合」の「八幡と菩薩」は準ずる神格として、「武神の毘沙門天」に継ぐ「日本固有姓族の武神格」として新たに造り上げたのである。

そこで「皇祖神の子神の祖先神」を守護神とする「青木氏」としては、この認識の上に立って「毘沙門天」に換わって、「武者偶像人形」を「武神」とする事に踏み切ったと考えられる。

(注釈 そもそも「塑像」は、同じ物を幾つも造る時に用いる手法で藁や木枠を基本に粘土で塗り固め外側を色付けする手法であり、又、模擬像や修復が容易である。
「毘沙門天像」等の複雑な像に良く用いられるし、金属像にする時の鋳型にもする多様性の手法でもある。)

室町期初期からの「下剋上と戦乱」を反映して、「青木氏」では「氏の安寧」を祈願して護る「守護神像」を偶像擬人化した「大きな雛人形」であったと口伝されている。
その「偶像擬人化像」のモデルと成ったのは、実在の「大蔵種材」だと伝えられている説もあるが、「青木氏」との間の直接的な関連性は無い事からこの説は疑問視されている。

ところが、別の一説には、「坂之上田村麿像」であるとする説もあり、「施基皇子」の四男の「白壁王の光仁天皇」の妻の「高野新笠」の叔父に当たり、「山部王の桓武天皇」の母方の曾祖父に当たる事から、この説が「青木氏と関連性」があり、経緯から一部納得は出来るが確定は出来ない。

口伝に依れば、上記した様に、江戸期初期には「義経像のモデル」の「武者偶像人形」を模写し、「弁慶像」を付帯させて模写したものと変化していたと伝えられている。
これには理由があって、平安末期(1182年)の「摂津源氏四家の源頼政」の三男京綱が「伊勢青木氏の跡目」に入った事から、「河内源氏」の「源頼信系の義経」をモデルにして「氏の護り本尊」として「偶像化した」ものを創ったとも伝えられている。

江戸期には社会が安定期と成った事から「毘沙門天像」から変えたとする説もあり、現在は、この義経に似せた「義経像」(モデル武者偶像人形)と成っている。
「義経像」(モデル武者偶像人形)とするには、この「大きな雛人形」の横には「弁慶像」が付添させている事からその様な説に成っている。
(但し、「弁慶像」は後から付け添えたものかも知れない。)
尚、「毘沙門天像」から「義経像」(武家侍のモデルした像)の「武者偶像人形」に変わった原因、書き記されたものが無い処から「伝統」を変えた原因は焼失かも知れないが本当の処は判らない。
理窟としては、上記の認識に執って換えたと云う事と観られる。

唯、当初は、「三月祭り(弥生雛祭り)」が原型で「一つの祭祀」であった事から、「弥生雛の御雛」は「天智天皇」とその妻の「越道郎女」を「女雛」に模写して擬人化した像を「箱雛」にしている。

念の為に、但し、「雛」との呼称は、明治前後の呼称の様で、「御雛女雛」は「御祖様」(おしさま)と呼称していた様である。
この「御祖様」は四家の中で使われる呼称で、「御師様(おしさま)」との違いは、「青木側」では「御師様」は呼ばれる側としてはあり得ず使わない。
唯、「青木氏の神格」として、「社職の物事の発声方法」は古来より異なっていて、例えば、「あおき」の場合は「うぉーきぃ」と云う風に韻に籠って発声する“「韻法と云う発声」”を「古来の慣習」として祭祀に関する言葉には用いていた。
つまり、「古代の神」に接する際の発声は、つまり、「神明神社の詔」等は、この「母音四音のアオウエ」と「父韻八韻のチイキミシリヒニ」の組合せで「子音三十二韻法」で言葉が作り上げられる「古代の発声法」である。
主に「父韻」の後に「母音」を着ける発声が行われていたが、祭祀に関わる名等の場合はこの逆の発声にも成る。

この「御祖様」は、「うおーしウさま」、或は、「うおーそオさま」と発声される事から、「おしウさま」か、又は、「おそオさま」に聞き取れたもので、「そ」>「し」で聞き取りに依っては「そ」<「し」に取れる事にも成っていた。

(注釈 伊勢では、「祖」は「始の意」を持つ事から「そ」<「し」であった様である。
恐らくは、「祖先神」の「御師様(おしさま)」があった事から、「字」の使い方で「始」では無く、「祖」を使っての発音は「韻法」で用いていたと考えられる。)

従って、「御師様」とは呼称は異なっていた。
「全国の青木氏」は、守護神を「祖先神」としている事から、この御師の頭で「神職の禰宜」であった事から、況や、これも「祭祀用語」であった事から、恐らくは、平安期には「うおーしウさま」と呼称されていた筈である。


その箱雛の「御雛女雛」、即ち「御祖様(おしさま)」の二体に侍する「毘沙門天像」(「義経像」)であった事から、「毘沙門天像(仏像)」より「義経像」に似した「武者偶像人形」の方が「皇族賜姓臣下族」を表す意味からも正しい。

従って、室町期に本来あった筈の「毘沙門天像二体(一体は信濃青木氏分の所蔵)」は、伊勢三乱の松阪焼失で無くし、江戸初期前後頃まで其の侭にし、上記の認識に依り「義経像モデル」の「武者偶像人形」に造り変えたとする説が理解できる。

「雛人形」は、顔と姿が時代の変化を受けて異なっているので、その事からこの「義経像」に似した「武者偶像人形」は納得出来る。
(江戸初期の福家が認識して変えた。)
それから以後に、「三月祭り(弥生雛祭り)」と「五月祭り(五月雛祭り)」の「一つの祭祀に二つの催事」が、「四家とその一族郎党」と「血縁関係の伊勢郷士衆」等が執り行う“「二つの祝事」”の形に変化して行ったと考えられる。

この時から「雛の呼称」が使われた可能性が有るが、「四家の福家」ではあくまでも「一つの祭祀に二つの催事」であった様である。
「青木氏」に関わる全ての関係者を取りまとめる手段として利用したと考えられる。

恐らくは、江戸初期頃は、その意味でも「厳しい環境」に置かれていた事が、上段でも論じている様に、「伊勢の結束」を優先したのであり、その為にも「祭祀の偶像」も替え、「祭祀目的」も緩め呼称までも変える戦術に出た。
そして、「享保の改革」へと進む「戦略の筋道」を付けたと考えられる。
江戸初期の事で前段でも論じた様に、「第23代の信定」とそれを支える「秀郷流青木氏」の「忠元」の働きがあったのだ。

それには、上記の「三格式」は、上記した様に、最早、「武神」のみを以って良しとしたと考えられる。

そもそも、「戎神」は「二足の草鞋策」の所以であって、「伊勢の紙屋」の範疇として割り切り、「青木氏の祭祀の目的」から除外して「伊勢の紙屋の祭祀目的」だけに切り換えたと考えられる。

実は、何と、この「祭祀目的に切り換え」には手を打っているのである。
それは、この時、「青木信定」は、この「切り換え」時に「稲荷神」を「伊勢の紙屋」に採用しているのである。

この稲荷神の事は「伝統―5」で詳細を論じているが、その歴史的な一部を次ぎに重複させる。

「稲荷信仰体」
この「稲荷信仰体」は、自然の生活の中から生まれて来たもので、仏教の様に、概念の論理化された中での作法ものではない。
依って、「3世紀の卑弥呼の時代」から既に存在して居たと筆者はみている。
出雲から出た「弥生信仰の作法」では無く、それは「縄文信仰に近い作法」であるからだ。
つまり、土壌から這い出て来た「庶民信仰」と云うか「農民信仰」があった。
それは、「古代仏教」より少し前の古来より受け継がれて来た「古い信仰体」で、後に「伊勢神宮の外宮」の「豊受大御神」に影響をもたらし受け継がれてきた「民の信仰体」であるからだ。
むしろ、この「古い信仰体」は時代性から観て、「豊受大御神」よりやや早い時期に発祥している。

実は、この事に付いて書かれた「豊受大御神の定説」によれば、次ぎの様に成っている。

「雄略天皇」の時に、天皇の夢に「天照大御神(内宮祭神)」が現れ、”「自分一人では食事が安らかにできない。”
その夢の中で、”丹波国の「等由気大神(とようけのおおかみ)」を近くに呼び寄せるように”と神託した”とある。
そこで、同年、”内宮に近い山田の地に「豊受大御神」を迎えた。”とある。
つまり、現在の外宮である。

そもそも、この説は”神代の時代の話”で「後付」の話である事は判る。
ただ、ここで、矛盾が一つある。
そもそも、伏見の神社系の「稲荷信仰」は、「豊宇気毘売命(とようけびめ)」等の五主神格としている。
この「稲荷の豊宇気毘売命」と「稲荷の等由気大神」とは同神である。
依って「等由気大神」を勧請したのであるから、「稲荷神」の方が先と成る。

以上の様に、「稲荷信仰」は飛鳥期からの庶民の「農工商の営み」の神であり、大淀の地に生まれた何と「伊勢神宮の外宮」以前の神格なのである。
この認識を持っていた「福家の信定」と「伊勢藤氏の忠元」は、「印-中」と経由して来た仏神の「毘沙門天の三神格」の「戎神」に代えて、“「日本古来」”の「皇祖神の子神」の「祖先神」と共に、「豊受大御神」の祖神の「豊宇気毘売命(とようけびめ)」を祭祀したと云う事に成る。

上記で論じている様に、「信定と忠元」は「二つの青木氏の慣習」を統一して全てを“「日本古来」”と云う認識に立って、上記した「古式の習慣」の「青木氏の伝統」を思い切って切り換えて、「伊勢衆の結束」を図る事が必要だと考えた事に成る。


以上、当時の「青木氏の歴史観」を深めた処で、話しを元に戻して、「江戸の伊勢屋」の「質に関する事」に戻る。

「江戸の伊勢屋」は上記の様な「古式慣習の伝統」を持って江戸に臨み、「商業組合」を通じて“「職能部の質」”として普及させようとしたのである。
それが上記する「箱雛の慣習」から「庶民の享保雛」へと作り直して華やかにして、簡単に作れる職業を普及させて、庶民に「質」を広める事に依りそこから生まれる「職」を「江戸の民」に与えたのである。
あくまでも「青木氏の質」(仏施の質)であった。
この「伊勢屋の質」は、「金融」のみならずむしろこの「質」に重点を置いていた。

唯、ところが、これらの事が書かれた報告書の様な商業記録の“「伊勢の資料」”には、1731年頃には“「質業の利潤」“が生まれていたと云う風な行は不思議に無い。
これは「江戸の伊勢屋の質」(「享保雛」等)に依って、「利潤の元」を作り出そうとして懸命に広げられたものである事が判る。
本来であれば、「質素倹約」を旨とする「伊勢型商い」であれば、兎も角も「+」であろうが「-」の「利潤」であろうが、“書かれていない”と云う事は疑問である。

つまり、これは当初から、この時期の「享保の改革」(改革期間は1716-1788年頃まで)の中程まで少なくとも「-利潤」を覚悟した営業であった事を物語るものでは無いかと考えられる。
即ち、その意味で「質」は「享保の改革を成功させる先行投資」と考えられる。

(注釈 前段で論じた様に、此処で云う「質」とは、現在の「質の意」では無く、中国の古代の仏教寺が行った「仏施の質」の語源にある。)

本来は、「伊勢屋の質業」のこれは「江戸の商業組合」の「商い」を活発化させる為の「戦略的な手立て」であって、活発化させる事で「原資」は獲得できると考えていたのか、云える事は未だ「享保の改革」の中程では「投資的段階」であって、未だ「自発的活況」を得ていなかったと云う事であろう。

(注釈 但し、上記した様に、「貿易」に依って「江戸の伊勢屋」の収支は取れていたと観られる。
従って、「江戸の活況の収支」は、初期段階(1731年頃まで)は「先行投資」であったらしく、そこから次第に伸び始め1741年頃からの改革中期では「収支バランス」は取れ始めたと考えられる。
それ以後は、活況(1741年-1765年頃)を呈した事はあらゆる資料からも判る。

況や、「伊勢」から持ち込んだ「職能部の活躍」に依って「伊勢屋の質」が成功したことを示す。
前段でも論じたが、「伊勢」から「商業組合」が江戸に移動する時、各種の「商人集団」は当然の事として、紀州伊勢の郷士衆の「職能部の集団の百余人」と記している資料を観て、この伊勢屋の数に一時不思議さを感じた。
“「職能」を江戸に拡げる事”は良く判るが、然し、その意味で、“この何故この数なのか”と云う「不思議さ」を良く考察すると次ぎの資料の行が観られる。
南勢の「青木氏の旧領地」の「郷士頭の家」で見つかった「取り纏めの依頼と説得の手紙」からその「本質」が読み取れる。

「極貧の経済」から「江戸の経済」を高める「事の本質」は、突き詰めると「商人の活躍」と云うよりは、“「職能部の質」”にあると説いている。

つまり、“「職能」をどの様に広めるか”、その“江戸の庶民に対しての広め方“に掛かっていると観ていた事を示すものであった。
そもそも、「江戸の庶民」と云うものに対する評価を「紀州伊勢の者」等は、“異質で難しい”と受け取っていた証であろう。
“どの様に難しいのか”と云う事であるが、紀州伊勢域の様に長い歴史の年月の中で、血縁や主従や同族や仲間などの「何らかの絆」で固く結ばれていて、「事を成す時」はその「絆」で成せる容易さがあるし、「事の成就」が比較的に容易であった。
然し、「江戸」にはこれが無く比較的に「絆」は希薄である。

むしろ「良し悪し」は別として、開幕に依って各地から集まって来た地域である事から“「個人性」が尊重される環境にある”と認識していた事であろう。
「商いを広める」、或は、「自由な商業組合を広める」と云う面では、“逆に都合が良い環境である”と観ていた様である。
ところが然し乍ら、“「職能」”と云う面では、「技能伝承の徒弟制度」の等の事があって、この「個人性の環境」では難しいと理解していたと云う事であろう。

前段でも論じた「イロハの自由性を持つ商業組合」に於いてでさえもなかなか理解されず、「職能の広がり」には何らかの工夫が絶対的に必要と理解していた事である。

其処に、前段でも論じた様に、「商い」には室町期からの「古い貸付売り」で、新しい「店舗販売」は遅れていたし、「職能」も全国から商品を仕入れてそれを売ると云う形態であった事から、希薄で「独自の殖産」の定着は無かった。
享保前の江戸には、”「殖産に依る職能」”と云う概念は未だ広まっていなかった。

何はともあれは、「商人」は享保の直前に「江戸十組問屋」等を形成している様に、「地方」、取り分け、関西や中国地域からの者であったとすると、必然的に課題は、「職能の伝達方法」である事に成り、「難しい課題」と成るは必定であった。
然し、その「殖産の職能」を広めないと、「単なる商い」ではそれはそれで良いが、「江戸の享保の改革」ともなれば「組織的な職能の伝達方法の制度」を持ち込まなければ成し得ない。
それも難しい「江戸庶民と云う曲者」を相手にする事である。

そこで、考え出されたのが、「伊勢」で奈良期から「青木氏の浄土密教」が行っていた”「仏施の質」”にあり、これと連動させて「伊勢の殖産と興業」に用いていて、大いに成果を上げていた。
この制度を「仏施」そのものでは無く、「商業組合の質」(伊勢屋の質)にする事にあると考えていたのである。

(注釈 手紙は、その為には「伊勢の殖産の職能力」を落とさずに、「江戸庶民への広め方」を成し得るには「派遣する人材の選出」にあり、「数の事」もあるので「取り纏め」に付いて宜しく頼むと云う行であった。
伊勢の各地の郷士頭に事前にこの旨の事を説得していたと考えられる。)

上記した様に、この様に「古式豊かな伊勢の独特の慣習」が「享保の改革」に繋がっていたのである。

注釈として、この為からもその前に「青木氏だけの慣習」、「伊勢紙屋の慣習」から脱皮して「伊勢衆」に理解される「二つの祭祀」、或は、「二つの祝事」に換える必要があった。
「伊勢衆の結束」を図り「改革」に繋げて行くには、その「伊勢衆と云う集団」の「格式象徴物」が必要と成る。
即ち、「伊勢衆の心の御旗」としたのが、上記した「大日如来像」「格式象徴物の擬人化偶像」と「武者偶像」の「三つの偶像」であったのであろう。

この「享保期の頃」までは「商人」と云えども出自は、「郷士の武士」であり、取り分け、「伊勢」は奈良期からの「何らかの絆」で結ばれた数少ない「氏族に繋がる格式ある郷士衆」であって、他の地域の「姓族郷士」とは異なっていた。
それだけに「三つの偶像」が、彼等には「伊勢衆の心の御旗」は絶対に必要であった。
「伊勢商人」に成ったとしても、「職能部の頭」に成ったとしても、「伊勢郷士」であると云う「誇り」を忘れない為にも、自らの「三つの偶像」は必要であったのである。
取り分け、「江戸」に出るともなれば尚更の事であったと考えられる。

故に「江戸引き揚げ」の時も「商人」として残る事無く「伊勢」にきっぱりと引き上げているのである。

前段でも論じた様に、「伊勢」では「庶民の出自」の「商人の出現」は、1750年頃以降の「小津屋」からである。
他の地域の「姓族郷士の商人」は、1760年代と成ろうが、多くは1765年頃が殆どである。

実は、上記の「南勢の郷士頭の手紙」の一節の行には、文脈を要約すると、“・・・我ら伊勢者の誇りとして「如来様」の下に「源六様(吉宗)」を支え申そうでは無いか。・・と訴えている。
「伊勢」では、「頼方や吉宗」では無く、預けられた時の「源六の幼名」で呼ばれていた事が判る。

以上の事から、次ぎの様な経緯の数式論が成立していた事に成る。
最早、「伊勢文化の応用」に外ならない。

「古式豊かな伊勢の独特の慣習」*「伊勢屋の質」=「享保の改革」
「古式豊かな伊勢の独特の習慣」+「郷士衆の職能部」=「享保の庶民文化」

以上の図式が描かれていると云っても過言では無い。

この「伊勢屋の質」(伊勢屋の仏施」)についての初期段階の収支バランスを物語る明確な資料があったとは考えられるが、江戸より1781年頃に引き揚げた事もあって、「江戸の資料」は「伊勢」では流石に見つからない。

では、“「自発的活況の状態」に入ったのは何時頃であったのか”と云うと、「江戸の伊勢屋の質」の「金融対策」で、活況が本格的に成ったのは、結局は,「土地を含む担保の質流れ売買禁止令」(農村と町方に出された二つの禁止令)の“「緩和策」”を打ち出された10年後の矢張り1741年頃であった事に成る。

「資料の内容」から1731年頃より10年後と成り、改革開始から25年後と成る。
「享保の改革」の開始の1716年から、改革が続けられた1788年まで72年間、上向き始めてから57年間、自発的活況が47年間、欠損期間は6年間、準備期間は2年間、計画立案期間は10年間、合わせて、82年間と成り、「商業組合の開始」からは182年間と成る。

この「伊勢屋の質」の「中間報告の資料」から、「享保の経済」が上向き始めた時期(1731年頃)を見計らって、”今は「-利潤」ではあるが、必ず「質の屋」(金融業・コンサルタント)として成り立つ”との事の行の「報告内容」であったのである。

現実に、「182年間」のこの「読み」は流石に当たっていたのである。

“時代を大きく動かした”と云う点では、“「稀に見る氏」”であった事に成る。
この事で、「青木氏の氏是」と「改革の戦略的理由」に依り「青木氏」を表には出さなかった。
然し、現実には、江戸期中程には、「青木氏」が、最早、“「氏族」”としても“「稀に見る氏」”とも成っていた事にも成る。

「大化期647年発祥からの使命」は、あくまでも持ち続け、「楮和紙の開発」から始まって「古式豊かな伊勢の独特の慣習」*「伊勢屋の質」=「享保の改革」で、遂に1731年には「商業組合」と云う「改革の花」を再び咲かせたのである。

これまで上記した様に、「青木氏」は「新しい花」(和紙開発)を手掛けての連続であった。

実に“可憐でシンプルな花”と云うイメージを持つ。
「花と樹」で例えれば、云うまでも無く「象徴紋」にも成っている“「竜胆の花」”と「青木の樹」である。

前段でも論じたが、この“「竜胆の花」の様であれ、「青木の樹」の様であれ“として「賜語」を遺し「賜姓」したのは「天智天皇」である。
その「竜胆の花の印象」と「咲く環境の持つ印象」と「青木の樹の様な力強さ」が、「青木氏の氏是」とも成っているのである。
「二つの青木氏」はこれを護り続けて来たのである。

因みに、参考として、大化期から江戸期までの間には、次ぎの様な「改革」を成し遂げている。
全てではないが、思いつくままに拾い出してみる。

「自然神の継承」、「祖先神の創設と継承」、「神明社の創設と継承」、「浄土宗密教の創設と開始」、「侍の創設と開始」、「武家の創設と開始」、「国策氏の創設と開始」、「賜姓族の開始」、「氏族の開始」、「皇親族の開始」、「貿易の開始」、「総合商の開始」、「和紙、硯墨の開発」、「商業の開始」、「殖産・興業の開始」、「米・早場米の開発」、「養蚕の普及」、「紙加工の開発」、「商業組合の開始」、「徒弟制度の開始」、「暖簾分け制度の開始」、「質屋の創設と開始」、「職能部の開始」、「海陸の運輸業と護衛業の創設」等の全て「創始者」であった。

(文化面で「青木氏の慣習や仕来りや掟」が世に出て催事に成った事等は、「伝統シリーズ」でその都度、機会に触れて記述しているがその数知れない。)

この様に“「歴史に遺せる多くの大改革」”を成した。

これら一々に独特の「青木氏の文化」が生まれ、それを「伊勢青木氏」等や「郷士の職能部」が其の文化を「庶民用」に改良して、「殖産」にして、「仏施の質」として世の中に出す。
この行為を江戸で一機に咲かせたのである。
その複合の「仏施の質」が「享保雛」であったと説いている。

上記の様に、日本で最初に起こった「大火改新」で産まれた「青木氏」は、「二つの青木氏」の「命運」を掛けて「社会」の為に「江戸期の経済改革」の最後の「享保改革」(「リフレーション政策の創設」)に取り組んだのである。
これは、何をか況や、「青木氏の氏是」と「家訓10訓」のベースにも成っている「青木氏の浄土宗密教」の「般若心経の教え」を護っていた事からの発起である。


> 以下 「伝統シリーズー25」に続く。

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「青木氏の伝統 23」-「伊勢屋の引揚げ」 

[No.341] Re:「青木氏の伝統 23」-「伊勢屋の引揚げ」 
投稿者:福管理人 投稿日:2016/06/01(Wed) 14:08:40


>伝統シリーズ22の末尾

> 「殖産」を興してそれを「システム化」して「経済」に結び付けて「藩政」が潤っていたのに、これを抑え込んで仕舞った事から、この影響を受けた「下級武士」は、「飢え」に喘いで仕舞った。
> その事から、田畑を耕し農業で産物を密かに売ると云う事で生き延びた。
>
> 「郷士の武士」も「仕官の武士」も「郷士」に真似て生きる事しか無く成り同じに成って仕舞った。
> むしろ、「殖産」を興した「郷士の方」が遥かに潤っていた事が記録されている。
>
> そして、今度は、享保期の「質流地禁止令」では、対象者が「仕官している下級武士」であった事から、幕府としては充分な対応は出来なくなっていたのである。
>
> ところが、「武士の農産物等の販売」には、各職能の「組合の壁」と云うものがあって、「自由」が利かず、結局、「農民の寄合」に入れて貰う等の事や、「農民の名義」を借りる等の事で対応した。
>
> 「幕府」のこの逆に跳ね返って来た思いも依らぬ「失政」に付いて、「藩」もただ観て見ぬ振りして黙認するのみであった。
> しかし、「紀州藩」の様に密かに裏で奨励した藩もあった位であった。
>
> この事から、「職能から販売までの商業組合」も「寄合組織」に変更して、自らも救い、地域の「下級武士や農民」らも救う事で「絆を基本とする寄合組織」に変更して生き延びた。
>
> 唯、この「寄合組織」では「発展」は望めないが「維持」は可能であった。
> それには、上記の「新-1から9までの副効果」までは幕府は潰しに掛かれなかった。
> 「新-2、3、5、7、9」は流石に「株権」を保障の前提としていた事もあって低迷した。
>
> 所謂、「新-1から9」の基本に成った幾つかの制度と組み合わせた「親商法」が、享保―宝暦―明和時代に掛けて「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」の「青木氏」が興した「商業組合」の「新しい改革商法」(1716年から1788年まで)へと繋がったのである。
>
> この経緯は、「伊勢の紙屋」が「伊勢の商業組合」を興してからは明和期(1788年頃)までの「185年間の悪戦苦闘の歴史」に成る。
>
> これ等の事は、「青木氏」だけの「重要な知っておくべき青木氏の歴史観」である。



「伝統シリーズ」-23に続く

唯、「青木氏の歴史観」として、更にここで追記して置きたいことがある。
それは1765年以降には、「商業組合」に入らない上記の「新しい改革商法」の先導者の一つ“「伊勢商人」(「松阪商人」とは別に)”と呼ばれる豪商が他にも出た。

この「豪商」に伸し上がった者等は「伊勢の商業組合」に加入していなかったのである。
そして、「享保の改革」が成功した1765年頃を境に江戸に出て、要するに上記の1から9の「新しい改革商法」に参入して成功を納めた者等である。

従って、この何人かの「豪商等」に付いても、「商業組合との絡み」と「青木氏との絡み」で論じたかったが、下記に考察する様に、この「豪商等」が主張する系譜や由来等の「歴史観」が史実と全く一致しないので中止した。

是非に、取り分け前段の“「江戸の商業組合」の「新しい改革商法」”との「絡み」が在る事から是非に論じたかったが、無理に論じると「史実との矛盾」が生まれる事に成るので割愛したものである。
取りあえずは概要を触れて置く事とする。

そもそも、「伊勢」は室町期末期には、前段でも論じた様に、「近江の秀郷流藤原氏の蒲生氏郷」が治めた。
「近江」は「蒲生氏郷の出自郷」であった事から、「近江から商人」を伊勢に呼び集めたが、この内、「豪商」と成り得た者等は、多くは「藤原氏末裔」を先祖と名乗っている。
然し、その根拠は全く無い。
端的に云えば、「蒲生氏郷」に呼び集められた事から、それをネタに家系を良く見せる為に「藤原氏末裔」としたと観られる。
そこで、彼等の「先祖の移動」に付いて調べて観たが、大方は次ぎの様な筋書きに従っている。
共通する「近江商人の移動経路」
『近江0-松阪0』-『京1』―『近江1』―『松阪1』―『江戸1』―『松阪2』-『京2』-『松阪3』-『江戸2』-『名古屋・京3』

これを観ると、何故か「京と松阪と江戸」を繰り返して移動している。
先ず、『京1』に付いては、「近江0」で「蒲生氏郷」に「松阪0」に招かれた後、「氏郷」が移封と成った後に、一度、「京」に出ている。
この事は歴史的に意味を持っていて重要である。
伊勢にある幾つかの「郷土の史」の記録に依れば、この「京」の記録の部分は無く、彼等の「系譜上」からの記録だけである。
其処の「京」から、更に元の「近江」に戻って、再び「松阪1」に戻っている。
この『京1』―『近江1』―『松阪1』が、先ず、「共通の系譜」と「郷土の史」と異なっている点である。

さて、注釈として此処に「筆者の疑問点」があって、下記に“「作為的な出来事」があった”としている「着眼点」である。

概して、以上として移動しているが、「近江から松阪」に当初は、系譜が主張する“「武士」”では無く間違いなく、“「商人」”として移動しているのである事から、ところが、何故か、「青木氏の商記録の年譜」には出て来ないと云う疑問点なのである。
『京1』―『近江1』―『松阪1』の移動の事と、「商記録年譜」に出て来ない事の「二つの事」から租借すると“「作為的なある出来事」“が浮かび上がる。

仮に主張する“「造られた由来書」”の通りとすると、「二つの青木氏」の何れかの記録には出て来なければならないが不思議に出て来ない。
「伊勢の青木氏」、或は「伊勢の紙屋」のミスに依るものかは調べたがそうでもないらしい。
何か、伊勢紀州の関係する全域に遺資料や口伝や逸話らしきものがあるかと観て調べたが何故か確証するものは無い。

そこで、取り分け、“「大名格の武士」”であったとしている「豪商」等の事に付いては、もしそうであるとすると、「伊勢の歴史の記録」の中にも出て来る筈であるが無い。
これらの「豪商系譜」に依れば、だとすると、殆どは「藤原秀郷流青木氏」との関わりは“「親族」”に当たる事に成るがその記録は無い。
「主張する内容」であれば、「伊勢藤氏」(青木氏、伊藤氏、長嶋氏、藤原氏の四氏)の中にも出て来なければならないし、室町期末期には「松阪の高級武士」であったとすれば、後に一族の者が「紀州藩」に抱えられていた可能性が高い筈なのに全くそうでは無い。
この「伊勢の史実」の「青木氏の歴史観」が完全に無視されている。

その中の「筆頭と見做される豪商の系譜」では、「親政族の伊勢青木氏」とも、「伊勢藤原氏との縁籍」とも主張している。
とすると、これまた「伊勢」に江戸期まで居るのであれば、「付き合い」は無い事は絶対に無い。
又、「伊勢の動乱」の時は、室町幕府の「主要な家臣」であったとしている事は、前段までに論じた「松阪の経緯」には全く合わない。
且つ、「藤原氏」と「源氏族」の“「二つの賜姓族」の「氏族の出自」を主張した系譜を持つ“としながらも、「商人」でもあったのであるから「二足の草鞋策」を採った以上は、その出自は「朝廷承認」に依る“「氏族」”で無ければならないが、記録には出て来ない。
況して、“態々、何で格式の低い方の「姓族名」にしたのか“と云うのも「青木氏の歴史観」に全く合わない。
むしろ、「姓名」は江戸初期前後の当時の「格式を求める社会慣習」から逆であった筈である。
当時の高位族の「慣習仕来り掟」に合致しない主張である。

更には、ある「豪商」の家の「家紋」が“「目結紋」”等としていて、“「近江佐々木氏族」と同じと主張している事”に付いて、主張の“「公家貴族の藤原氏(近江族)」で在る“としながらも、一方で”「賜姓族の源氏」(清和源氏 河内族)と主張する“共通する不思議さも目立つ。
そんな「二つの青木氏」以外に「完全皇族賜姓の氏族の系譜」は、この「伊勢地域」には他にあり得るのか。
然し、名は完全な「姓名」であり、上記の様に系譜では「氏族」だとすると、豪族の「伊勢郷氏」だったと成って仕舞っているのである。
考え着くのは、「北畠氏」ではあるが有名な歴史上の「室町期の氏族名」である。

だとすると、「清和源氏」の「家紋」が「象徴紋」の分類では無い「目結紋」とはおかしいし、貴族の斎蔵族が「目結紋」は全くあり得えず理解できない。

そして、その宗派が「真宗」であるとしているが、この「二つの氏族」とするならば「浄土宗」か少なくとも「天台宗」である筈である。
「宗派」も「家紋」も「格式」も何もかも「慣習仕来り掟」に合致しないし、門徒系の「真宗」は前段でも論じた様に明治初期であり、「時代性」が全く一致していない。
この様に「家紋と格式と宗派」等が一致しないし、「時代性」も一致しない。
この経緯から“「真宗」”としている事から、幕末か明治初期の「後付系譜」に成る。

そもそも、「近江佐々木氏」は、大化期の「伊勢の施基皇子」の弟の「近江の川島皇子」の「近江の賜姓族」であるので、「象徴紋」(賜姓紋)である以上は変紋をしない「笹竜胆紋」の筈である。
なのに「目結紋等の佐々木氏」は、「不詳の傍系支流族」(江戸期の氏姓譜の史書にある第三佐々木氏)の「家紋」となる事にも無理がある。

何にしても“「河内族」”であるとしていながら“「近江族」”と云うのも「歴史観」が理解できない程に矛盾だらけである。
又、「氏族と姓族の混同」が系譜で混在しているが、この「族の違い」の「歴史観の認識」が無かった事に成る。
「武士」として存在して居たのは、全て室町期中期から発祥した「姓族」のみであると認識していた事に成る。

これでは、“一体どうなっているのか”と云う疑問が湧き、江戸期中期頃から明治初期までに流行った「寄せ集めの後付系譜」の“「総花説」”に成っている事には「解決し得ない矛盾」が多いのも事実である。

これは、後に“「氏郷に伊勢に招かれた商人者」“であるとして、1765年以降頃に「豪商」に成った暁に、その流れを汲む一族一門で有るかの様に「蒲生氏郷一門の系譜」に肖り無理に真似たとも観られる。

(注釈 伊勢に同伴した「家臣の二足の草鞋策」か「近江商人」か。「氏郷」は源氏の血筋を母方に持つ「藤原秀郷一門の近江藤原氏」である。)

何はともあれ、「時期」は同じなので「伊勢」を「商業組合」で仕切っていた「青木氏の資料」の中には出て来ないのは何よりの不思議である。

(注釈 「伊勢紀州」は、取り分け伊勢松阪域は、前段でも論じている様に、そもそも「奈良の古来」より「悠久の歴史と絆」で深く結ばれた“「特殊な地域」”であり、上記の様な他の地域で起こる様な搾取の出自で飾る事の事態が難しい地域であった。
この地域は農民の末端まで知り尽くした“戸籍簿の様な地域”であった。
“何処の誰かわからない”と云う風な理屈が通る「場所柄」では全く無かったのである。
搾取偏纂するのであれば、江戸では通ずるかもしれない感覚で「歴史観の無視」で作られたものである事は一目瞭然で判る。)

何れにしても「近江から来た者」としても、少なくとも、最低で「伊勢の商業組合」の中には出て来ても良いと思うが無い。

この事に付いて筆者は、豪商等の「類似する系譜論」から観て、何かこの時にこの様にしなければ成らない“「作為的な出来事」があった“のではないかとも観ているのである。

では、その“「作為的な出来事」があった“とするのは何なのかである。
「上記の矛盾」を背景に、「京1」-「近江1」-「松阪1」の移動の事と、「商記録年譜」に出て来ない事の「二つの事」を解決でき得る「筋書き」は唯一つである。


「青木氏の資料」と「史実」と突き合わせて考察すると、江戸期末期に成った「豪商」等は、次ぎの様に成る。
そもそも、「蒲生氏郷」は、「近江日野城主」、次に「伊勢松阪城主」、最後に「陸奥黒川城主」(「会津鶴ヶ城主」42-92万石)で移封する事に成った。
この時、「伊勢の松阪城主」の時に、「近江」より”「日野の商人」”を確かに呼び寄せた。
そして、「陸奥の黒川城主」(会津鶴ヶ城主)に成った時に、この”「日野の商人」”と”「松阪の商人」”を引き連れて、或は「会津」に呼び寄せて「楽市楽座」を開設した事が有名で間違いなく記録されている史実である。

つまり、この事から、「松阪」に呼び寄せられた「近江の商人」は、その後、二派に分かれた事を意味する。
一つは、「氏郷」に従って「会津に移動した派」(会津派)と、二つは、「京」に移動し後に「近江日野に戻った商人の派」(日野派)があった事に成る。

問題は、この「近江日野に戻った商人」(日野派)が、「陸奥会津」に移動した可能性と、又、「伊勢松阪」(松阪派)に戻った可能性が有る事に成る。

筆者の検証では、次ぎの様に検証している。
直接、松阪から「氏郷の移封」に従って「会津」に移動したのでは無く、一端「京」に移動した後に「近江日野」に移動し、その後に、「会津に移動した派」(会津派)と「伊勢松阪に移動した派」(松阪派)に成ったと考えている。
つまり、「日野派」=「会津派」であって、これと「松阪派」の二派に別れた事に成る。

・1568年前の頃に「蒲生氏郷の政策」で「近江」より「商人」を呼び寄せて「伊勢」に移動させて「座の開設」をした。(実際は1588年)
・1590年過ぎ頃に「蒲生氏郷の移封」で一度「京」を経由して「近江日野に戻った商人」(日野派)を「会津」に呼び寄せて「楽市楽座」を開設した。(実際は1592年)
・1620年前頃(頼宣入城の頃)には、「松阪派」は「伊勢の松阪」で「松阪の楽市楽座」で「木綿等の加工品販売の小商い」をした。(実際は1630年)
・1635年前後頃に「江戸」に現在で云うと「小売業の店」を開いた模様とする。(実際は1675年頃)
然し、この時の開幕後の初期の江戸移動では失敗して「松阪」に戻る。
・1765年頃に再び「江戸」に出て「新副効果1-9」に参加してこの商法で「伊勢の殖産」の「木綿や酒」等を販売して大成功を納めてここで初めて「豪商」と成る。

(注釈 重複 前段末尾に論じた「江戸商業組合の新副効果」を見計らって参加(1765年頃)したのである。
新-1 “「店舗販売」”が起こる。
新-2 “「御師制度の徒弟制度」”が起こる。
新-3 “「暖簾分け制度」”が起こる。
新-4 “「関連店舗の連携店」”が起こる。
新-5 “「チェーンストア」”が生まれる。
新-6 “「バーゲンセール商法」”が起こる。
新-7 “「金銭を融通するシステム」”として「金融業の質屋制度」が起こる。
新-8 “「三貨制度」の「貨幣経済」”が進んだ。
新-9 “「商品の開発」”の機運が進んだ。
「享保の改革」の成功の「新副効果」に乗じて江戸に出て成功した豪商達である。)

(注釈 この時期は江戸の初期頃で、この様な商法は江戸では許されなかったし、そもそも無かった。それ故に、この「新副効果」に依って成功して「豪商」と成り得たとすると、その系譜は
“累々の系譜で作り上げた”と云うよりは、「極めて低質な周囲の者」等の相当の後の時代の時期の「後付行為」では無いかと観られる。
当時は「搾取の系譜」は「金のある者」が専門の「寺や神社等に頼み込んで作っていた為にこの様な余りの「ずれ込み」は無かった筈である。)

この説も「時代のずれ」があり、系譜に無理に合わしたと観られる。
現実には江戸での移動で成功を納めて豪商と成り得て、世間に知れ渡ったのは少なくとも1765年頃以降の事である。
その知れ渡った原因は、「上記の新副効果」に参加して“「換わった商法」で成功を納めた”とする事にあった。

とすると、上記の「系譜の事」は兎も角も、此処で“ある史実との整合性”を検証する必要がある。
それは、“「吉宗と継友」の「経済論争」”の時(1720年-1745年)の事である。
これには、彼等(「1765年豪商」とする)は、「継友側の経済論」に味方して「名古屋と京に商店」を出して移動したとする説が、系譜上では「有名な史実」として捉えられてこれが「一般説」に成っているのである。
然し、もし、この「有名な史実の一般説」が事実だとすると、「吉宗と継友」の「経済論争」時(1720年-1745年)には、既に江戸で成功して「豪商」であった事に成る。
未だ、「吉宗の享保の改革」を始めた頃には、既に「豪商」であった事に成る。
つまり、そうすると「享保前」(1716年)には「伊勢の豪商」であった事に成るので、「伊勢豪商」に成るには「何かの商い」に成功して財を成してそれから最低でも15年から20年は必要である。
とすると、逆算して既に1700年頃には「相当な商人」であって、江戸初期の頃(1665年頃)に既に「近江の商人」では無く、「一般説」が云う「伊勢商人」と成っていた事に成る。

つまり、「蒲生氏郷」が「近江」より「近江商人」を呼び寄せてから「70年後の頃」には「伊勢商人」であった事に成る。
然し、そうすると、この「70年後の頃」には、上記の「共通する近江商人の移動経路」の時系列では次ぎの様に成る。
『近江0-松阪0』-『京1』-『近江2』-『松阪1』-『江戸1』-『松阪2』-『京2』-『松阪3』-『江戸2』-『名古屋・京3』

『近江0-松阪0』 =1568年頃
『京1』-『近江1』-『松阪1』=1595年頃
『江戸1』=1615年頃
『松阪2』=1635年頃
『京2』-『松阪3』=1710年頃
『江戸2』=1765年頃
『名古屋・京3』=1775年頃

「享保の改革」の開始は1716年頃とすると、「吉宗と継友の経済論争」中に「名古屋出店」と、その後の「京出店」と成ると、『松阪1』=1590年頃か、『江戸1』=1615年頃に成る。
この時、「江戸」より「名古屋出店」と成っているので、『江戸1』=1615年頃と成り、この時は未だ論争前の事で「享保改革の100年前」と云う事に成り、時代性が明らかに一致しない。
少なくとも「名古屋出店」が成し得るには、『名古屋・京3』=1775年頃しか無く、それでも時代的に少なくとも“+120年位以上のずれ”が出る。
「松阪派の系譜」と「時系列」と「一般説」には修正出来ない「大きなずれ」がある。

「松阪派の系譜」の『京1』-『近江1』-『松阪1』=1595年頃に付いては恐らくは信憑性があり正しいと考えられる。
それは、「氏郷」に近江より呼ばれ、「氏郷移封」(1590年)で陸奥に移動する事に成った事で、彼等は「松阪」に居づらく成ったと考えられる。
それは、前段でも論じた様に、当然に地元には大和で最初と見做される「和紙の開発と殖産と販売」を職務として担った「商人の祖」でもあって、平安期には「宋貿易」まで手掛けた「青木氏等の松阪商人」でもあって、厳然として奈良期からの「悠久の歴史」を以って「商い」を納めて来ていたのである。
況してや、「伊勢秀郷流青木氏」で「藤原秀郷の末裔」の「蒲生左衛門太夫高郷」の末裔であり、この「高郷」は「氏郷の曾祖父」に当たり、この高郷末男が「青木玄蕃允梵純」であり血縁先の親族でもある。

そもそも、そこに、「氏郷」は「近江」から、態々、「近江の商人」(1588年)を招いたのである。
この“「松阪」“と云う「特殊な環境」に“「商人」を招いた“とする事が問題視とされる。
上記の様に、「招いた事」は事実でありながらも、又、これだけの関係に在りながらも、「記録」がそもそも遺されていない事はそれだけに「あまり良い関係」には無かった事を物語るものと見做される。
「1600以降の商業組合」にも参加していないのである事から少なくとも良い関係にあったとは言い難い。
そうなれば、「招かれた近江の商人」は「氏郷を頼り」に「商い」を広めていた事に成り、とすれば、「近江派」と「松阪派」の「派閥に近い勢力圏」が出来ていた筈で、「青木氏」が勢力圏を作らなくても「近江派」の“「彼ら」“が、それに応じて「松阪派」の“「周囲」“が作って仕舞う「事の流れ」と成るだろう。
1568年(1588年 +20年)から1590年ではあるが、「商人を招いた時」からは22年、その前の「伊勢三乱」からの関係を加えると30年、「秀郷流伊勢青木氏玄審」の頃からの関係で「氏郷」が認知していた頃からでは60年と成るので、“「派閥に近い勢力圏」”が充分に出来ていた事に成る。

(注釈 「松阪在留期間22年」としながらも充分に在り得る筈であるが、「招かれた近江の商人」との血縁関係を示す物さえも出て来ない。格式差からか判らないが不思議である。)

そうなれば“「頼りの氏郷」”が移封で「松阪」に居なくなるとすると、“近江に戻るか”、“氏郷に同行するか”、“松阪に残留するか”の選択が迫られる事と成る事は必定だろう。

「上記の系譜」で論じた様に、“「近江の商人との記録」が無い“ところを見ると、「松阪残留組」は無かった事を物語る事に成る。
「系譜の主張」の「近江帰参組」と、記録が示す「氏郷同行組」に成った事に成る。
「京」から「近江」までの経過は、「氏郷」が会津に城郭を決めて「楽市楽座の縄張り準備」が整うまでの「経過期間」と成るだろう。

結局は、「1590年の移封」からの「会津鶴ヶ城(黒川城の改名)」の増改築開始1592年の第一期完成3年間であって1595年、第二期工事までは1611年完で21年間である。
(徳川政権確立1615年の前の1611年には意味を持っている。)
「楽市楽座の縄張り準備」が整うまでには、最低で「3年」で最大でも「5年」は要するであろう。
従って、直ぐに呼び寄せられる状況では無かった事が判る。
これが『京1』-『近江1』の「経過期間」と見做されるが、従って、『京1』-『近江1』-『会津』=1595年頃から1597年頃と云う経緯が成立する。
(移封後の「氏郷没」の「会津の蒲生氏」は、「お家騒動」で結局は転封した1598年までと成る。)

場合に依っては、呼び寄せられる期間としては、完全に「徳川氏の勢力下」に傾くまでのものとしては、『京1』-『近江1』-『会津』=1598年頃と云う「経過期間 最大8年」までも成立する状況下にあったとは考えられない。
「蒲生氏の氏神」の「近江の若松森」に因んで「若松」と名付け「松阪」と同じく「商業に依る城郭」としたのだが、この事から、「松阪の近江の商人」は、大半は一時「近江」に戻ったと観られ、松阪からの「氏郷同行組」は「伊達氏」を排除しての上記の築城状況から観て無かったと観られる。

「氏郷の移封の目的」は、「広域陸奥の警戒」と「伊達氏の警戒」にあって、「築城」が完成するまでの期間は危険であった筈で、「秀吉」もこの時の状況を「氏郷」に諭す様に現地で語っている位である。
「氏郷の現地の記録」には、「近江」は勿論の事、“「松阪」からも呼び寄せた“と記されているのだが、「松阪の彼等の系譜」では、上記した様に、『京1』-『近江1』-『松阪1』の行から
この「近江」には、新たに「近江」から「会津」に呼び寄せた「近江商人0」と、『京1』-『近江1』の「近江商人1」があって、“「松阪」からも呼び寄せた“の「松阪」は「近江商人1」を指している事に成る。
そして、『京1』-『近江1』の「近江商人1」の全てが「会津」に行かず、一部再び「松阪」に戻った組があった事を指す事に成る。
「松阪」に戻った組が更に「会津」に出向いたとする考え方は、「松阪の彼等の系譜」の何れの中にも「会津の氏郷との行」には一切観られないし、次ぎの理由でも証明できる。

前段で論じた様に、1600年以降の松阪は商業組合を結成して頼宣入城の1619年には一応の成功を納め15地域に拡大していた時期でもあった。
この「商業組合」を観た「松阪派の系譜」の『京1』-『近江1』-『松阪1』=1595年頃は、「松阪」に再び戻ったのであり、一方では「会津」での新たな「楽市楽座」に期待して『京1』-『近江1』-『会津』=1595年頃に移動したと云う事に成ったのである。

この「江戸出店の商業組合」に入らなかったこの「松阪派の豪商」等は、その後に力を貯めて江戸での新副効果に期待して、再び、現実には1765年頃以降に江戸に出店したのである。
“+120年位以上のずれ”は、この豪商(「1765年豪商」)等の「搾取の系譜」に合わせて、“「史実」までを「系譜」に合わせた“と成っている事に成る。
そこで、この「一般説」が“「史実」までを「系譜」に合わせた事”と成っているが、それにしても”何かそれに見合うもの“が無ければならない。
「間違い」を起こしたのか、「恣意的」に設えたのかは判らないが何かあった筈である。
つまり、1716年から1720年頃に都合のよい何かがあったのではないかと云う事に成る。
この時、既にそれなりに「店を大きく構えられる商人」であった事に成るので、時代的には「1700年の頃の商人」と成る。
「豪商」とまでは行かなくとも利用できる業績を上げていた「商人連」が居た事に成る。
そうなれば、この元禄の政治と経済が極貧の状態で、江戸に出て来ていた豪商らは輸送費の低減と、江戸の薄利多売の過当競争を避けて、組合を創って「利益の確保」に躍起と成っていた。
そこで「荷積主」等は、経費の大半を占める輸送の統一化を図る為に“「江戸十組問屋」(1694年)”と呼ばれる「関西商人の積荷主の組合い」(10商家)が結成された。

それが次ぎの商人である。
泉屋平右衛門、大阪屋伊兵衛、小津屋清左衛門(小津氏)
桝屋源之助,井筒屋善治郎,大坂屋孫八,駿河屋長兵衛。絹川屋茂兵衛。三河屋長九郎,山崎屋勘兵衛,池田屋喜右衛門,笹屋豊次郎、岩出屋惣兵衛、井筒屋伝右衛門,枡屋喜右衛門
次ぎの組である
塗物店組(塗物類),内店組(絹布・太物・繰綿・小間物・雛人形)
通町組(小間物・太物・荒物・塗物・打物),薬種店組(薬種類),釘店組(釘・鉄・鍋物類)
綿店組(綿),表店組(畳表・青筵,河岸組(水油・繰綿)
紙店組(紙・蝋燭),酒店組(酒類)

他に、この時期に活動した商人
紀伊国屋、讃岐屋、越後屋、長谷川 長井
(注釈 この時「浅野家の問題」が勃発した。)

ところが、これに対抗して、前段で論じた政治と経済低迷の中で「元禄期の廻船問屋の商人」等は、経済低迷で「積荷の競合」に依る倒産を避ける為に、廻船問屋の大阪と江戸に「廻船二十四組」と呼称される「廻船問屋の組合」が組織された。
然し、この「廻船問屋の組合」は「享保の改革」までには10問屋に激減していたのである。

そもそも、「享保の改革」の直前までは各の如しで「極貧経済」で、そもそも「名古屋」に店を構える等の事の余裕は無く不可能な事であった。
「極貧の経済」であったから、この様な組を作って当面の利益を確保して「競合倒産」を避けたのである。
遠隔地に出店が可能とするほぼこれが江戸の当時の「豪商」と呼ばれる者等であった。

そこで、このリストから仮に「一般説」に該当する商人と成れば、「伊勢と江戸と綿・酒・紙」をキーワードとすると、「小津屋清左衛門」だけと云う事に成る。
この「小津屋清左衛門」のある系譜に依れば、「北畠家の媒臣」で北畠滅亡後、江戸に出て1653年頃に大伝馬町に「商い」を営み、伊勢の和紙と繰綿業で利益を挙げ豪商と成ったとある。

(注釈 この説は、1658年に伊勢松阪本町に住んだとする記録と矛盾する。)

一方の系譜では、松阪の近郊の小津村から「油屋源右衛門」という商人が松阪に移り住んで、小津姓を名乗って、 一族の者の中で「小津」を家名とする人が多く出たといわれている資料説もあるので、1765年代後と成る。
この説によれば、この「小津姓」を名乗った「初代の油屋源右衛門」より店子であった「清左衛門」は融通を受け、「商い」を始め1658年に衣料店を本町に構え、その後の44年後の1711年頃に「商い」の為に江戸に出たとしている。
その後に「商い」は「店前商法」で成功を納め、1755年に「紀州藩御用達」と成り、「15人扶持」を与えられる。
この時、「初代清左衛門」より四代目である。

「小津村」の町人の「油屋源右衛門」が最初に名乗り、その後の誼で清左衛門が小津姓を引き継ぎ名乗ったと成っていて、その出自が矛盾なく記述されている。
そうすると、先ず町人の身分で「小津姓」を名乗れるには、つまり、町人が「苗字帯刀」(15人扶持米)を許されるには、「紀州藩御用達」(1755年)の後に許される事(或は明治初期)に成った後の事と成るので、「北畠家媒臣説」の1716年代の江戸の「小津清左衛門」の呼称は時期的にずれて早すぎて矛盾する事に成る。
この段階では「小津屋清左衛門」が正しいのであって、時代的には「小津姓」は「清左衛門」の四代目後(1756年)が名乗れる姓であった事に成る。
従って、「商人」として成功を納めた時期が1755年前後と成り、1716年代には未だ豪商とは成っていない。

(注釈 この説では「一戸の商人」に成るまでの経緯に付いて謙虚に苦労した経緯が書かれていて、「由来」には通所に観られる「歴史観の誇張」が無い。)

「本説の町人説」は時代性と出所を明確にしているが、「北畠家媒臣説」は時代性等の根拠は薄く疑問である。
「町人説」では、「紀州藩 江戸御用達」と成った時の事と、紀州藩に依って「豪商」に成れた事が詳しく書かれていて、「享保の改革」後の1760年代後半に「商人」としてやっと成功を納めたが、紀州藩の度重なる「御用達の御用金拠出」には大店が成り立たない程に相当無理をしたと如実に書かれている。
唯、“「紀州藩の御用商人」として「大商い」が出来て、「商人」として成功したとして感謝している”としている。
この恩に報いる為にも「御用金」を無理して出したとした記述も観える。


つまり、「近江派」や「松阪派」では無い「松阪商人」は出店可能な「小津屋」であり、矢張り、この「小津屋」も享保後であり、「近江の商人」の「松阪派」が江戸に出た1765年頃とほぼ一致する。
従って、この「松阪出自の小津屋」も「名古屋出店」は「物理的」に起こり得ない事に成る。
記述から観ても、仮に時代性が一致したとしても世話に成ったとしている以上は紀州藩を裏切って、論争中の尾張藩の名古屋に出店する事は先ず無いだろう。

上記の「近江派」の「松阪派」に属していたとする「江戸の越後屋」では「時代性の疑問」があって論じ難いが、「1673年出店」で「店前売り・掛け値なし定価売り」の商法で成功している事から、成功時期を明確にしていないが、上記の「新副効果1-9」に依って成功しているので、この新商法が生まれたのは1760年代と成り、この後に「新副効果1-9」の「商業組合方式」に習って、「京」にあくまでも衣料呉服の“「仕入れ店」“を設けたのであって「販売店」ではなかった。
従って、「一般説」が強調する「吉宗-継友論争期」の「名古屋出店」は、「越後屋も含めての「近江の松阪派」では起こり得ないのである。

「伊勢」では資料からの読み取りでは、「伊勢商人」や「射和商人」としての「扱い」では良ければ何か出て来る筈であるが、「郷士の家に遺る手紙資料」等に依れば、「松阪派」は、“人の評判は確かに悪かった様”(「付き合い」が少ない。)で何も出て来ないのである。
又、何処かで「青木氏の商記録」と「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢藤氏」の資料の中にも出て来なければならないが出て来ない所以である。

“「作為的な出来事」”があった事と、「資料との突き合せ」が出来ない事のこの二つに付いて、これは一体、何故なのかであると云う疑問点の結論は、「松阪の商業組合」と「会津の楽市楽座」が共に興った事に依り、それに合わせての「出来事」と云う事に成る。

そこで、唯、一つ気に成る事が「郷士の家」の「手紙の資料」等の中にあって、「射和地区」の「射和商人」としての“「伊勢郷士衆」の「扱い」”で、「・・・郷士三井殿・・・」の表現で「郷士の姓名」が1件出て来る。
これとの確実な相関関係が取れないが、要するに、「近江人か伊勢人の出自なのかの判別」で「答え」は決まるが、これでは「近江人」としながらも「伊勢人の出自」と成っている。
そして「伊勢人の出自」では、その文面の行から「伊勢の松阪郷士衆」と成ると、下記の様に資料的にはっきりしている「伊勢郷士衆 20(18→11)衆」に、文面が正しいとすればこの「新たな郷士」が一つ加わる事に成り、「青木氏の記録」とも一致して来ない事に成る。

(注釈 「伊勢の出自」では、“訳が判らない”と云う事は、「不入不倫の権」で護られていて「変わらない悠久の歴史」を以っている為に先ず無い。)

「幾つかの説」で公に主張されている「豪商等の由来書」と成るものは、“果たして真実か“の疑問が湧くが、上記の様にそれも余りの矛盾で確認が出来ない。

従って、次ぎに考えられ事としては、「伊勢の松阪郷士衆」で無ければ、「射和商人の郷士」と成るが、この多くは「松阪の郷士頭」の中での「差配事」であるのでこの説は無理と成る。

そうすると残るは、その中でも「射和商人」に加わった“「門徒衆」”と云う事に成る。
“「射和商人」に加わった「門徒衆」”と成れば、前段で論じた様に、「室町期以前の歴史」では、「論理的矛盾」が土台的に在り過ぎて無理である。
然し、「江戸期初期からの歴史」では、上記した様に後に「豪商」と成り得た事は事実であるので「江戸期の遍歴」はほぼあり得るが、主張する「時代性」だけではとも多少のズレがあってもほぼ一致して来るが系譜姓を絡めると大きく差が出て仕舞う事に成る。
そこで、彼らがこの「江戸期初期からの歴史」での「射和商人」に加わった“「門徒衆」”とすれば、「射和の・・郷士三井殿・・・」も「時代性と系譜姓」での「歴史観」からある程度で納得出来る。
つまり、前段で論じた様に、系譜姓を無視すれば「射和商人と成った門徒衆」が、“「射和の郷士」に加えられる事と成った”としている事で一致させられる。
そこで、では果たして“「彼の頑な門徒衆」“に正式に加えられたかは別である。
この“加えられる”と云う事が、“一緒に仕事をする様に成った”とする意味なのか、“正式に「郷士衆」に加えられた”とする意味なのかは、この「射和の・・郷士三井殿・・・」の「書き様」では定かでは無い。
普通に考えれば、元々「門徒衆」は「北紀の郷士」である事から“郷士衆に加えられた”とする「書き様」には成るだろう。

従って、前段でも論じたが、この事を「悠久の歴史」を持つ「伊勢郷士衆」が、後に江戸期に生まれた“「伊勢の殖産事業の背景」”と成った「門徒衆」を、“「射和商人」として認めた“のであるから、これ以上は,「伊勢郷士衆」の中の“「射和郷士」としても彼等を認めていた“と云う事でも理解はできる。
「突き合せの記録」が見つからないのは、恐らくは、正式な“「射和郷士」”ではそもそも無く、「扱い上」を“「射和郷士並」”としたと観られる。

これは前段で論じた様に、「四日市殿の門徒衆との経緯」を論じたが、この事からも、「門徒衆」の“「扱い」”には充分に気を使っていた事からも、“「射和郷士並説」”としては良く判る。

さて、そうすると、“「作為的な出来事」”があった事と、“「資料との突き合せが出来ない事」”の関連する二つに付いての疑問であるが、筆者は現在、状況証拠から次ぎの様に推論している。

ところがこの「推論」を証明するものが未だ充分に発見されない。
その「推論」とは、先ず、“「作為的な出来事」”ではあるが、この事が原因して“「資料との突き合せが出来ない事」”に繋がっていると観ている。

では、その“「作為的な出来事」”とは、具体的には次ぎの様に分析できる。
(A)「青木氏」が始めた「商業組合」に参加しなかった「商人グループ」が居た事
(B)「商人グループ」とは「氏郷」が招いた「近江」から来た「商人グループ近江」であった事
(C)「通称 伊勢商人」には「商人グルーブ近江」と「商人グループ伊勢」に別れていた事
(D)「商人グループ近江」には「奈良、難波域」と「京、近江域」の「商人衆」が背景であった事
(E)「商人グループ伊勢」には「松阪域全域」と「伊勢紀州域」の「郷士衆」が背景であった事
(F)「商人グループ伊勢」>「商人グループ近江」のはっきりした関係にあった事
(G)「商人グループ近江」は「近江郷士」の「外様格式」で、1600年前豊臣政権時代の商人、
(H)「商人グループ伊勢」は「伊勢郷士」の「譜代格式」で、1600年後徳川政権時代の商人

以上の事から、「商人グループ近江」(近江派と松阪派)は、江戸初期に「商人グループ伊勢」が興した「商業組合」には参加せず、互いに「商い」に依る「近江-伊勢の勢力争い」が伊勢で起こっていたと観られる。
その結果、明らかに(D)(E)(F)の関係で、「商人グループ近江」は江戸期(1760年代まで)には衰退したと観られる。
(注釈 上記に論じた「氏郷の陸奥会津移封」に依る原因)

「商人グループ近江」は、上記でも論じたが、“「商業組合」に参加せず“と云うよりは、むしろ、この状況下では”参加出来なかった“と判断できる。
其処に、「吉宗と青木氏との関係」が更に構築された結果、上記の様に、『近江0-松阪0』-『京1』-『近江2』-『松阪1』-『江戸1』-『松阪2』-『京2』-『松阪3』-『江戸2』-『名古屋・京3』の様な「松阪-江戸」の「二度の遍歴」の経緯を「商人グループ近江」は共通して持つ事に成ったと観られる。

つまり、「越後屋」等を目標にしていたが、衰退して江戸には出たものの未だ江戸には充分に“自由”が受け入れられる商環境では無かった。
そこで、失敗して再び「江戸」から「松阪」に戻った時には、「三井氏等の記録」や「門徒衆の資料」では殆ど「商人」では無かった模様である。
「武士」を捨てて「松阪」でも大変苦しい貧困の生活状況で暫くして「小間物屋」等を営んだと成っている。
そもそも、1600年頃から1840年頃までの期間では、“郷士や浪人の「下級武士」等が「商い」を営む”には、前段でも論じたが、「座、組合、寄合、株、等の障壁」が在ってなかなか難しく、殆どは農産物で凌いだが、多くは“「名義借り」や「架空名義」“で「寄合」に入れて貰ったり、農民に助けて貰っていた。
簡単に店を構える事は難しかったので、その事から、「名義借り」や「架空名義」で「商い」をした事から、その「貸手の名義人」や「架空名義(実在)の系譜」を搾取や偏纂して系譜を作ったとするのが普通の事であった。

(注釈 「名義借り」は実在する商い等の「権力者」の名を賃貸借りする方法。
「架空名義」は商いとは直接無関係な実在する「世話人」等の名義を賃貸する方法。
1781年以降は、「商業組合」の組織に対して「幕府の抑圧策と解散令」が出た事から、何らかの形で殆どはこの何れかに入らないと難しく成っていた。
従って、「保護される組合」にはなかなか入れずに「農民の村郷寄合」に入れて貰う事が多く起こった。この為に結局は「半農民」に成る者が増えたのである。
「彼等の系譜」はこれを隠すための搾取偏纂であった。)

そこで、“「小間物屋」を営んだ”とした場合でも、「半農民」では無く、“「名義借り」(半商人)か「架空名義」(半武士)”で「寄合か組合」に入り、営んだ事に成る。
これが「極貧状況」でいた時の伊勢のみならず関西での現実であった。
この様な「半農民」「半商人」「半武士」の歴史観が構築される「特徴ある時代背景」があった事から、上記で論じている系譜は殆どは疑問視と成るのである。
それを押し通すだけの力が、『京1』-『近江2』-『松阪1』の「浮浪の日々」の「氏郷移封後の彼等」の中にあったとは到底考えられない。在れば『京1』-『近江2』-『松阪1』のこの「浮浪の日々」は起こり得ないのである。

そうすると、前段でも論じた様に、1765年代以降は「組合」への「幕府の抑圧策」が次第に強まり、「小間物屋」から大きくする事は相当に難しかった筈である。
彼等の系譜では、年代を伏せて簡単に主張しているが、何にしても大きな成功を納めるには“何かの準備されたチャンスに載ること”以外には無かった筈である。
それが「享保の改革」での「新副効果1-9」であると論じている。
1600年頃から1840年頃までの期間では、“「店」を構える“と云うよりは、普通では、殆どは”「行商」“と云う程度であった筈である。
故に、この「障壁の狭間」で生きようとすると、同じ「江戸-松阪への遍歴」を二度も繰り返したのではないかと考えられる。

(注釈 そもそも、何度も論じているが、「享保改革前」は、「政治と経済が極貧の状態」であって、「彼等の系譜」が主張している様には行かなかったのである。
「新副効果1-9」が「享保の改革」で敷かれたからこそ成し得た事で、だからこそそれを恐れて「冥加金制度」や「商業組合禁止令」で、勢いづく商人を観て抑えにかかったのである。)

ところが、これとは反対に、「商人グループ伊勢」が、「15地域でも商業組合」を拡げ、更には「吉宗」を「将軍」に仕立てた上に、「享保の改革」で「商人グループ伊勢」の「商業組合」は江戸に出て大活躍した。(1745年頃を頂点に活躍)

これを観た「商人グループ近江」の一部は、この時より「地場産業の青木氏が始めた殖産商い」で「伊勢」で再び潤い、15年-20年程近く後で、資金を貯めて再び、「商人グループ近江」として単独で江戸に出て行ったと成る。

注釈として、「伊勢の商業組合」とは別に、「青木氏の資産と差配」で興している伊勢の“「青木氏の殖産」”があったので、この「青木氏の殖産」に関わると、上記の「商障壁」は無いので「商業組合」とは別に成る。
「青木氏の認可」、つまり、「伊勢青木氏」の「伊勢の紙屋の販売」を手伝うと云う形(名義借り)で「商い」は出来た。(木綿、地酒、養蚕、豆等があった。)
「1600年-1899年」まで青木氏独自で数多くの新しい「伊勢殖産」を独自に興し続けていた。
要するに、これらは未だ「殖産」を興したばかりの物で興業化に至っていない産物で、伊勢で「商業組合化出来なかった殖産」が、“「青木氏の殖産」”として維持し続けたのである。
(後の幕末期には江戸に持ち込まれた物もある。)
取り分け、1781年以降の「抑圧策と解散令」で、全て「商業組合方式 1605年」から、再び、「1605年前の商形式」の「青木氏殖産方式」に切り替えている。

唯、この時(1760年前頃)、「商人グループ近江」は何れも「豪商」では無く、全てこれらの殖産品を扱う「貧困の小間物屋」等であった。
上記した様に、この時(1760年前頃)には、「享保の改革」の江戸では、「商人グループ伊勢」の努力に依って、「江戸の商業組合」で画期的に「環境変化」(「新副効果1-9」)を興していて、“「自由」”にして“「知恵」”を働かせば「商い」として成功する「柵の少ない土壌環境」が出来上がっていたのである。

この「自由な商いの環境」を観て、これを観た「松阪」に帰っていた元の「商人グループ近江」(松阪派)は、“「自由と知恵と商い」”を以て「江戸」に再び挑戦したと云う事に成ったと考えられる。

それが「直接販売」の「店頭販売(店前販売)」で、これに加えて「銭兌換」で「小間物屋」等の「路上販売」の「小売安売り商法」(木綿の衣類 地酒 豆粉)を展開したのである。
「商業組合の自由」をベースに、更に、当時としては「自由性を発揮した画期的な商法」(上記 「新副効果1-9」)で挑んだのである。
これが「江戸の庶民」に大当たりして成功を納めたが、これだけでは「商人グループ近江」の一部は納まらなかった。この成功を元手に次ぎの手を打った。
それが「商人グループ伊勢」が始めた“「江戸の暖簾商法」”を真似た“「チェーンストア商法」”であった。

ここで、この「商法」に失敗した「商人グループ近江」の一部は脱落し、伊勢からは「小津屋」(松阪町人)や「越後屋」(近江派の松阪派)を始めとする「数人の豪商」と成った。

この経緯から、上段で論じた様に、より発展して生き残る為には、上記する様に「商人グループ近江」の「数人の豪商等」は、「吉宗―継友の経済論争」に乗じて“「継友側に参画する」(インフレ策)“と云う「大掛け」をした。

(注釈 「チェーンストア商法」であった事から、この「商法」で拡大させるには「インフレ策を採る尾張側」に味方したと観られる。
つまり、「吉宗のリフレーション策」には同調しなかった。
元々、「商業組合」に参画しない「商人グループ近江」であったから、同調は無い事は判るが、「伊勢」では、「青木氏殖産」で生き延び、それを元手に江戸で成功を成したが、「義理≠商い」の「変わり目」は「青木氏」に執っては間尺に合わない。)

そして、「名古屋と京に出店する事の経緯」(尾張御三家の背景で)に繋がったのである。
故に、「総合の商業組合商法」に参画せずとも、これで「独自の商法」を構築して居て、この状況が成功する「商環境」は、「享保の改革」の後期(田沼の組合抑圧策期)の「1765年前後の時期」であって、故に、+「10-30年」の「タイムラグ」が起こっているのである。

ところが、「商業組合」に依って「格式」が保障されない事から、成功した暁の後刻に「暖簾」に合わせて「豪商の格式」を作り上げる環境が起こった。
結局、共通する様な上記(“「名義借り」か「架空名義」の系譜搾取”)の様な「商人グループ近江の系譜由来」を作り上げたと云う事だと観られる。
従って、“「作為的な出来事」”とは、上記の事(「名義借り」か「架空名義」の系譜搾取)であった。

この事が原因して「青木氏」の“「資料との突き合せが出来ない事」”に成ったと考えられる。
「商業組合」として江戸に出る120年後の時点での「商人グループ近江」は衰退期であった事から伊勢記録には出て来なかったのである。
その結果、この時、「江戸出店組商人」等の「出世頭」で「リーダー役の越後屋」(出店時期が異なる)の「由来書」に真似て作ったとも考えられる。
この様な「搾取の系譜」が出来る事には、「当時の社会風潮」であった事から全く疑問が無く、当然の結果として「氏郷」に招かれた「近江出自の者」である限りは起こる事は当然であって、上記する様に「矛盾」を大きく孕んだ「共通する様な系譜」が出来たと考えられる。
従って、「矛盾」を大きく孕んだ「共通する様な系譜」では論じられないのである。
何はともあれ、下記の共通する「近江商人の移動経路」である
『近江0-松阪0』-『京1』―『近江1』―『松阪1』―『江戸1』―『松阪2』-『京2』-『松阪3』-『江戸2』-『名古屋・京3』の様な共通する「複雑な移動経緯」がそれを大きく物語るものである。

この結果から、「吉宗-継友論争」で「商人グループ近江」は過去の(A)から(H)の背景があっての因縁(恨み辛みも含む)が、その「名古屋・京の出店」に指し向けたとも考えられる。
唯、前記でも論じたが彼らが主張する「享保期の名古屋の出店」は検証できなかったが、
「京の出店」は「商人グループ近江」である以上は元の故郷と成るので当然の事とも考えられ、呉服や酒等の「仕入先店」として是非に必要であって現実に検証で出店は記録されている。

この推論をベースとすると、上記で論じた“「射和商人」に加わった「門徒衆」”とすれば、「射和の・・郷士三井殿・・・」も「歴史観」からも納得出来る。
とするとこの一説は、上記の移動経緯の「松阪」―『江戸』の「直前の事」、つまり、「名義借り」や「架空名義」を語っている事に成る。
「商人グループ近江」が何とか生き残る為に、当時の「商慣習」から「射和衆」としての「名義借り」や「架空名義」で「商い」をしていた事から、「扱い」を「射和の・・郷士三井殿・・・」の「射和郷士並」にしていた事に成る。
そうしなければ「限られた範囲の生産量」の「仕入れ」である以上は勝手には領域を犯す事に成って出来ない慣習であった。
この感覚は、即ち、”「射和郷士並の扱い」“が「四日市殿の経緯」で明治期まで引きずられていた事を示す。

(注釈 当時は、生産をする「作り手集団」も「売り手集団」に依って「生活の保全」を約束されている限りは「飛び込みの買い手」は排除する慣習であった。
取り分け「伊勢」は奈良期より「作り手集団」も「売り手集団」の結束が強く、それが発展して江戸初期に「商業組合」に発展した日本で最も古い株組合で形成されていたのである。
特記として置くことは、前段からも論じている様に、「青木氏の歴史観」として「青木氏の伊勢の紙屋」はこの両方を「青木氏部」と云う形で奈良期から持っていた。)

この事に付いての一般説の問題は、「商人グループ近江」は、「近江人の商人」か「伊勢人の商人(門徒衆)」かの論議では、矢張り、この議論でも起こるが、良く区分けせずに「近江人の商人」(越後屋等)の中には「伊勢の商人」(小津屋等)が含まれて議論されていたと云う事である。
中には、「商業組合の商人」迄も同じ括りで「商人グループ近江」「近江人」(「松阪派)として喧伝して「松阪派」を必要以上に「伝統のある商人」であるかの様に誇張している説があって、「伊勢商人(松阪派)」と「松阪商人(商行組合)」と「射和商人(門徒衆含む)」を区別しないこの「一般説」もこの類である。

(注釈 「名義借り」や「架空名義」の慣習の中にあった為に、上記する「歴史観の問題」を起こしている「一般説」は、「伊勢商人(松阪派)」を「松阪商人(商行組合)」と「射和商人(門徒衆含む)」までを同じ「伊勢商人」と観て仕舞う間違いを起こしている可能性がある。)

そもそも、「商人グループ近江」とは、“全てが「近江人」(「松阪派))か”と云うと、“そうでは無かった事”は記録からでも判る。
先ずは、「伊勢の商業組合」には、“「近江人の商人」(「松阪派))”は、当然の事として、つまり、先ずは、“「門徒衆の商人」(射和衆の商人、小津屋等の商人)”も参加しなかったと云う事が判る。
この伊勢で救われ「青木氏の殖産商人」と成った「門徒衆」が参加しなかった事は、この「門徒衆」が「商人グループ近江」に加わっていた事は充分に考えられる。
それは、「門徒の宗派」での繋がりであったと考えられる。
要するに、“行動を共にする”と云う意味での「グループ」であって遺された記録を補完している。
“行動を共にする”と云う事は、“「伊勢の商業組合」に参加しない“と云う行動を選んだことに成る。 
この“参加しない”と云う事が、この「門徒衆」が組合化していない「殖産」に従事して居た事もあるが、「組合化の有無」とは別に、“江戸に向けての商業組合の行動に行動を共にしなかった”と云う事の方が主であろう。
「記録の意味合い」からすると、判り易く言えば、“参加に反対した”と云う事では無いかと考えられる。

(注釈 「射和の研究資料」の中に「江戸初期からの射和の商人の街並み」を頑なに遺したとある。「秀吉の圧政」から「紀州の門徒衆」を「青木氏と伊勢郷士衆」が救い出して射和に保護したものであるが、従って、「門徒衆」は「射和地区」では古くは無い。)

その後、“この射和域を護ったとする”には、論理的にこの射和での「定住年数」から無理があり、従って、「江戸への移動」は、一族全員が江戸に移動(国抜け)と云う事では無いので、未だ「近江人の子孫」や「門徒衆の子孫」を遺しきれるほどに拡大し充実していない事からも物理的ら江戸への移動は困難で不可能である。
従って、参加せずに残ったからこそ明治期まで射和の江戸初期からの「古い商店街」は遺されたのである。

それは,又、前段でも論じたが、「門徒衆の強い宗教的概念」にもあったからである。
「(イ)(ロ)(ハ)の自由を前提」とする「商業組合の概念」には,本来は「浄土真宗の概念」は一致しない事でもあった。
もし、「浄土宗密教の色即是空の解釈」の「拘り無くす事」では、「自由を前提とする商業組合の概念」は成り立つが、「門徒衆」の「浄土真宗の概念」の「一念発起」からすると、「拘りを持って意志を貫くとする考え方を優先するのであるから、未だ成功していない「射和での商いの成功」を先ずは選択するであろう。
従って、記録と一致して、“「近江人の商人」と観られていた「門徒衆」“は、商業組合に参加せず、且つ、「残留組」を間違いなく記録と一致して選択したと考えられる。

そもそも、「門徒衆」には、前段でも論じたが、彼らには「浄土真宗の概念」から特段に「集団性」を強く持っていて、この「集団性の概念」がある事で、「移動や移住」は避けられる「足枷」と成る。
彼らに執っては、この理由から結果として、“「江戸移動」”は先ず避ける事に成る。
更には、「江戸と云う土地柄」は彼らには「避ける地域」と成り得ただろう。

依って、彼等は“参加しなかった”のであり、「参加しなかった事」に依り、「松阪派の近江人」と同じ行動を採った事で、伊勢での「商人グループ近江」の「近江人」と「門徒衆」の「伊勢で繋がり」も生まれる事は必定となったのである。

これに依って“「近江人の商人」と観る「門徒衆」“の説が生まれたのである。
そもそも、「門徒衆」と同じ様に「商人グループ近江」の「近江人(松阪派)」は、「商業組合」に参加せず、「伊勢郷士衆」とも「深い馴染み」の「繫がり」が起こらず、「時代の変化」で衰退して仕舞って、「伊勢」では「苦難の生活」を送る事に現実には成って仕舞ったのである。
「射和の門徒衆」も「伊勢郷士衆」に救われたが、なかなか「馴染み」が起こらず、時々その生きる為の「概念の違い」から、或は「慣習差」から揉めることにも成っていた事は前段でも論じて事実でもある。

この様に「射和の門徒衆」と「近江人の商人」の両者は良く似た境遇にあった事から、“互いに助け合っていた”とも観られる。
それが、「射和の・・郷士三井殿・・・」の「互助」に関する“やや心情的な手紙の内容”に成っていたと観られる。(「手紙の内容」を個人情報により詳細に伝えられないが)
この「射和の・・郷士三井殿・・・」の文面に付いては、その意味で「射和の門徒衆」は「近江人の商人」を「同じ郷士」と認識していた事に成る。

因みに「松阪派」の江戸で豪族と成った「ある家の系譜、由来書」には、“近江より1568年に松阪に逃避した”とある。
1588年代に「蒲生氏郷」は「松阪」に「近江商人」を呼び寄せている。
つまり、「20年前の話」に成り年代がずれている。
普通はこの様な事は“「国抜け」“となつて「一族斬首の刑」で起こらない。
普通は届け出て許可を得て、移動後は「5年程度」で戻らなくてはならない事に成っている。
内容では、この許可の要る“移動”では無く、「国抜け」の“逃避”に近い引っ越しの様な表現に成っている。

最初の江戸にこのある一族の長兄と次男は1635年に出店(小間物屋)して、一時成功して、次男は1649年に母看護で松阪に戻るとある。
このある家は、この時、1649年に「松阪」で「武士」を捨て「町人」として「商い」(「名義借り」)をしたとしている。
次男病死後の同年に、三男も1649年に松阪に戻り、「母看護」と「松阪の商い(小間物)」を続ける。 (後に小銭貸業を営む)
この三男は「江戸に出て1673年に「長兄の跡」をとり、再び「江戸店」を継承(呉服屋)したとする。

この経緯からすると、次ぎの様に成る。
「武士であった事」
武士が「二足の草鞋策」を採る場合は、「名義借り」か「架空名義」で「商い」を始められるが、何の繋がりも面識もない他の国の伊勢では無理である。
・「1568年に松阪に出た事」
その松阪は、「伊勢三乱」が完了して統治できる状況に成って初めて1588年に「蒲生氏郷」が座を松阪に広める為に近江より「商人」を呼び寄せたが、その20年前と成ると、松阪に呼び寄せる前に松阪に来た事に成るし、この時は町中そのものが混乱中の混乱で到底、凡そ「商い」など無理な状況であって、「武士であった事」の「自由の行動」は不可能でこの疑問も含めてそもそも無理である。
況して、「北畠の家臣」であったとしている事なのに、この時、北畠氏は一時の勢力は低下するも1630年に正式に滅亡しているが、1568年頃は未だ健在であって「二足の草鞋策」は出来ない状況であった筈である。
要するに全く「歴史観」が成立していない。

・「1649年に松阪に戻った事」
1619年は「頼宣入城」で、松阪もやっと落ち着きを取り戻し始めた時期でもある。
その前の1590年に、『京1』-『近江1』-『松阪1』の行の事があるから1620年頃には既に江戸にいた事に成る。
こんな時期にそれだけに「金子を貯め込む程の商いに余裕」があったのかと云う事に成り、この時期に金子あったとするならば、何も『松阪1』に立ち寄らず『近江1』から「江戸」に出れば良い事である。
そもそも、「松阪」で金子が貯められたとしたら、それを放り投げて『京1』-『近江1』-『松阪1』の行は起こらないし、「商人」である限りはしない行為である。
『近江0-松阪0』は、「22年間の短期間」であって、金子を大きく貯める程の「近江人の商い」に大成功を納めた訳ではない。
逆算すると、『近江1』から『松阪1』に入ったらすぐに、又、江戸に出たと云う事に成る。
「松阪」に入った根拠は、そもそも「商業組合」に依る「松阪の活況」が魅力で「会津派」には参加せずに戻ったのに直ぐに江戸に出ると云う事が疑問である。
徳川氏が天下をとり正式に開幕した時の江戸は確かに「未知の期待」が広がっていた。
決して活況であったと云う事では無い。
「江戸」に出かけるとしても海千山千の「未知の期待」である以上は「大きな賭け」である。
「商人」が出かける以上は、江戸期の市場環境には「販売の仕入れ元」を確保した上での事で成り立つ話であり、『京1』-『近江1』-『松阪1』-『江戸』では、尚更、「繰綿業販売」であるので無理なのである。
この状況を捉えて「商いの系譜」も時代性に合わせて、“「長い伝統ある商い系譜」“を作り上げる為に「江戸の商い」を開始した事にして脚色偏纂したと観られる。
前段で論じた様に、幕府が「黒印状」を発効する条件とした事で「武士の系譜」にも起こった様に、この時期には権威と云う事が社会的なテーマと成っていた様に、どの「豪商の系譜」にも洩れなく観られる様に、「商い」を始めた「始祖」を“権威付ける脚色”から後付で偏纂したのである。
「商いの系譜」を「時代性」に合わせている事は、相当後の事では出来ないし、「自由の行動性」の概念をベースに「系譜」を作り上げている時代の二つからその時期と成れば、明治期の苗字令後の15年頃の中程に起こった「庶民の出自誇張の搾取」の現象期と観られる。

・「許可なく江戸に出た事」
現在の時代の様に、「自由行動性」が許されている充分に社会では無かったのに、「自由行動性」が許されている様に自由に出入りしている。
況してや、仕官しないで「土着の生業」で生計を立てているのに「郷士」と書かずに「武士」だとしているにも関わらず、更に自由に移動している。
江戸社会には武家や公家のみならず農民(慶安御触書)にも法度を定めて厳しく管理監視下に置いていたし、全ての庶民にも「共同体」(寄合制)を作らせて「行動指針の様な規則」を作りその中で管理監視下に置いていたのである。

(注釈 村には「庄屋」(名主-関東・肝煎-東北)の「村三役」を置き、街中には「町名主」(或は「家持」)を置いて奉行所の下で行政を行っていて、この「ある家の系譜」の様に主張する様な「自由」は決して無く、ある規則の範囲での自由であって厳しい管理下に置かれていたのである。罰則も命を落とす程の厳しいものであった。
取り分け、「国抜け」は「一族斬首の刑」とも取れる文脈で記されているし、現実には記録がある。
従って、この様な「系譜の主張」は先ず起こらないし、「商人」などの庶民は特に原則4-5年で先ず一度国元に戻らなければならなかった。
この様な主張は明治期に成らなければ出来なかった事である。
恐らくは、成功後に何度か偏纂され、やや後の「明治期の中程」に大きく偏纂されたと観られる。)

(注釈 農民の行動を規制する為に「1649年慶安御定書」が定められたが、この前にもそれの元と成る規範が各郷村に在って庄屋らに依って運営されていたが、これを慶安期にまとめて整理する事を幕府では行ったが、これが評判が良く各藩に広まって終局は正式に幕府の御定書と成った。)

・「江戸で勝手に呉服商を営んだ事」
町人にも上記の管理監視下にあり、「商い」だからと云って自由に観えて勝手に出来る事では無かった。
取り分け、「商人」は物を売ると成ると「製品」を「仕入れる」と云う事から始める必要がある。
然し、当時は生産体制があふれる程の量では無く、その為に組織を作って管理され、その手段として何重にも「卸問屋組織」を作り、安定して「商い」が出来る様に常に監視されていたのである。(この日本独特の問屋制度の組織は昭和期まで続いた。)
つまり、「生産力の絶対量」が在りその中から“「仕入れる」”と云うと先ずは組員に成る必要があり、「名義借り」や「架空名義貸し」等の処置をして株組員に成り、「信頼」を得て始めて「卸問屋」から「仕入れる事」が出来るのである。
中でも、「呉服や酒や繰綿」などの様に生産に加工を伴う商品は管理監視が厳しく、「仕入れ店」を設け「卸問屋」との固い信頼関係を構築する必要があった。
取り分け、江戸は「呉服や酒や繰綿」とかの「加工品」は他の国から運んでくる必要があって、前段でも論じたが、これに「輸送の利権」を獲得する必要があり、「廻船」を使っての「船輸送」では「組合」だけでは無く「幕府の管理監視」の中で運営されていたので、この組合にも「入り株権」を獲得し幕府の「認可」も受けなければならなかったのである。
これは武器輸送などにも使われる恐れの「謀反の懸念」や、市場の「製品の偏り」を無くして江戸の「市場バランス」を保つ事にも繋がる事にも成り、従って、政治性と連動していた事もあって幕府の目が光り厳しく管理されていたのである。
中には、これを護らなかった豪商が居て取り潰しに成った記録もある位であった。
従って、「豪商」と成り得るにはこの政治システムと経済システムに加入しなければ、最低限で「豪商」には成り得ない様に「政治的な枠」が填められていた。
享保期後の「執政田沼の抑制策」や「執政水野の禁止令」などの様に豪商が多く成って寡占状態に成る事を警戒されていたのである。
享保期前でも「質地流売買禁止令」の様に商人がこれを買い占めて土地の「地権」が商人に渡る事を恐れていたのである。
“呉服商を営んだ“とすると、この幕府に依って填められた「絶対的な難枠」を超える必要があって、系譜に主張する様に簡単に「商い」は出来なかった。
この「絶対的な難枠」を超えるには、『京1』-『近江1』-『松阪1』-『江戸1』から、『松阪1』が松阪派1611年頃であった事は、会津の「会津派の記録」から判るので、そこから蓄財して信頼を得て上記する数々の利権を獲得して江戸に出て江戸の利権を獲得して商いをするには最低でも100年は掛かる。
1711年頃以降の出店と成り、上記する様にその様な活動の記録も無いし、「伊勢の商業組合」にも享保期の江戸の商業組合にも参加していないで江戸に出る事は不可能である。
結局は、「伊勢側の記録」から「1765年頃の江戸出店」がやっと始まった事に成る。
つまり、120年が掛かっている事に成り極端な時代性のズレが有る事に成る。
それには、伊勢での「名義借り」か「架空名義」の「最大の課題」をクリヤーする必要が無ければこの120年でも成し得ない。
では、この「最大の課題」の「名義借り」か「架空名義」は、誰かと成れば、唯一人伊勢の「紙屋長兵衛(伊勢青木氏が保証人)」「総合商の問屋」の「お墨付き」以外には無い筈である。
これさえあれば「仕入先」と「各種利権」は獲得できる。
「総合商の問屋」の「お墨付き」で江戸でも「新副効果1-9」に参加すれば全て解決する。


以上等に詳細に見ると「歴史観」と一致しない事が起こり、この「ある家」の主張する系譜と時代性を合わせて検証すると「蒲生氏郷の近江商人」では無い事に成って仕舞う。
又、更には、「享保の改革」(1716年)の「商人グループ近江」、及び「商人グループ伊勢」の何れの「商家」でも無い事にも成る。
然し、「松阪から出ている事」は事実であるとすると、何処かに「後付の脚色の矛盾」があった事に成る。
この様に「総合商の問屋」の「お墨付き」で江戸でも「新副効果1-9」に参加して「商い」が成立したのだが、然し、これを明記しないで置く為には「松阪派」として戻った1611年頃から1765年までの江戸出店期までの空間期間を、「自立自助に依る商人としての努力」の系譜を作り上げる事が必要と成り、「ある家」の「主張する系譜」を後付でこの空間期間を無理に偏纂したと云う事に成る
其処には、上記の様に「誇張」も「時代性」も「慣習」も「記録」との整合性等の歴史観にも矛盾する事に成ったと云う事だ。
「主張する系譜」をどの様に作るかは、その「家」の自由であるが、「青木氏」側で折角の伊勢出との「繫がり」が確認できるのに真摯に論じようとすると、矛盾が露出して仕舞う事に成る。

そこでもう少し掘り下げて論じて観る。
そもそも、「商業組合」に参加しなかった組には、次ぎの様に成る。
a 「商人グループ近江」(「商人グループ近江」)
b 「射和商人の門徒衆」(「商人グループ伊勢」)
c 「単独の商人(小津屋等)」(「伊勢商業組合」に不参加組)

結局は、「射和の・・郷士三井殿・・・」の文面は、bとcの関係の中からのものと見做され、早期、つまり、1568年(正しくは1588年)に松阪に移動していると主張している事から、正式に「武士」を捨てた時期が共通する様な系譜から読み取ると、81年後の1649年頃であるので、1610年代の約50年後頃には、「門徒衆」からは、未だ「射和の郷士」と観られていた事に成る。
更に、依って、4代から5代後の150年後の1716年頃の江戸出店期には、既に、「代換わり」も著しい事から「武士」を完全に捨てていた事に成る。
現実に「射和の門徒衆」も江戸初期1640年代頃に武士を捨てていた。

唯、「ある家」の系譜に付いては、上記した様に“「伊勢郷士」の「正規の射和衆」であったか”は別問題ではある。
「伊勢青木氏と伊勢郷士衆」が興した「伊勢殖産」の“「白子湊の木綿(伊勢の殖産品)」”を江戸で扱った「越後屋」等(他10店)に関しては、「商人グループ近江」と同じ様な行動を採りながらも、「享保の改革」の活況(1765年)を利用して更に発展させた云う事に成る。

そこで、「吉宗―継友論争」は、別としても、本論とは別に論じる必要がある。
唯、「商業組合」を推進している「青木氏」に執っては、aとbとcが起こる事は何事にもこの世の条理ではあるが、「氏」を上げての「難儀な事」ではあった。
然し、江戸に「江戸店の伊勢屋」を出しながら、「江戸の拠点の伊勢屋」を経営する中で、「彼らとの付き合い」では非常に「苦労の種」であったと考えられる。
つまり、この「a、b、c」は、この時代では「15地域」を成功裏に収めていた事は事実でありながら、未だ、「商業組合」と云う概念に「賛成できない勢力」が相当あった事を物語るものであるからだ。

然し、実態は上記した様に、「賛成できない勢力」であっても,そこは「格式の青木氏」では無く「伊勢の紙屋」の「商人」ならではの事で、その「成功」に魅力を感じて「単独で参加する勢力」が現れたと解釈したのである。
何れにしても結局は,「失敗した商人」はあったにしても、「京に出た者」、「江戸に残った者」、「伊勢に残った者」が在って、「商人としての路」を歩めた事は「青木氏」に執っては良かったと考えられる。
普通ならば、戦略上大事業を成す上で「大きい障害」と成るのは必定で、「伊勢」を実質上で「経済的に導いていた力」を以ってすれば、これらの「賛成できない勢力」を何らかの形で潰していたとするのが、戦乱後100年程度しか経っていない当時の社会慣習からは常道であった筈である。

然し、「賛成できない勢力」に対する “「青木氏の姿勢」”が、古来からの持ち続けた、“排除するのではなく、「見守り、その流れに導く」“とする「姿勢」にあった事には、「青木氏としての誇り」を感じる。
結局は、当に、“「江戸の経済の改革の流れ」”に「伊勢のa、b、c」を導く事にあったのである。
「青木氏」自らは、「伊勢」に居て「紙屋問屋」の「商い」を営み、「伊勢郷士衆」と共に「商業組合」を推進しながら、江戸には「次男六兵衛」を送り、「幕内」では「享保の改革」を主導し、幕外では「青木氏」を伏せて「伊勢屋」を主導して「江戸の経済」を改革したのである。
その「伊勢」を拠点とする限りは、「伊勢残存組のa、b、c」に対しては「直接の感覚」で接しなければならない苦難が在った。

恐らくは、「伊勢残存組のa、b、c」だがらと云って「伊勢の紙屋(青木氏)」が「伊勢の郷氏」である限りは放置する訳には行かず“「説得」”を続けて試みたと考えられる。
場合に依っては、aの「江戸戻り組」に対しては、記録は消えているが、「商いの援助」をしたと観られる。
「伊勢」が「拠点」である以上は、「伊勢の商いの低下」は「江戸の伊勢屋の低下」に繋がり、「幕外の政策」は破綻する事も充分に懸念される事であった。
それ故に、「享保の改革」の1746年までの「改革中の間(1741年が活況期点)」では無く、「1756年以降の成功」が確定した時期を見計らっての「aとcの江戸再出店が集中した」と成っているのである。
この“集中”とは、下記にも論じるが、出店と成ればそう簡単な事では無いし一店ならいざ知らず“集中しているところ“を見ると、「保証人に成る事」や「名義貸し等」の便宜を図る事を提示して説得に掛かる以外に起こり得ないであろう。
況してや、更には、執政田沼等の「江戸商業組合への圧政」(冥加金の抑圧策)があって、彼らが嫌う組合に入らなくても冥加金を納められれば「単独で商い」が出来ると云う環境に成りつつある時期でもあった。(一商人でこの冥加金を納める事には未だ無理な状況であった。)

これは、何も「商業組合の享保の改革」に載らなくても、「改革成功後の江戸の商い」に参加する事でも成り立つ話であって、依って、辛抱強く“「説得をする事」”と“「流れに載せる事」”にあったのである。

それには、唯、「商い」をするには、先ずは“「資金」”が前提であって、「困窮する伊勢の小間物屋」では“「江戸出店」”は簡単に成り立つ事では決してない。
“「説得をする事」”と“「流れに載せる事」”だけではそれほどに生易しい事では無い。
「伊勢」から遠い活況している「江戸」に対して、「大商い」を成すには「土地、資材、店、資金、雇用、生活、運搬、情報」等の条件を満たす事を成すには「仕入先確保」や「名義借り」も含めて全て“「資金」“なしでは決して成り立たない。
それには、“「資金」“を供給するには”「金融」“に外ならない。
“「金融」”と云っても、「元手」が無い事では成り立たない。
(小津屋が江戸で成功したのは油屋源右衛門の融資を受けたと書いている。)
そこで、この「金融」をどうしたのかと云う問題がある。
これには「伊勢の殖産で資金を貯めた」とする説もあるが、確かに「資金」は貯めたのであろう事は資料からも否めない。
「江戸の伊勢屋」に対して指示して“「質屋」”に指導させて彼等の「金融手段」(「白子組の内店組)としたとも考えられるのであるが、それには先ず「組合」に入る必要があって無理であろう。

(注釈 伊勢では「商業組合」に入らなかった事から、「江戸の伊勢屋」の「AからFの指導」は拒絶する筈である)

“組合に入らないとか“、“名義借りしない“と成ると、そうすると残るは旧来からの「銭屋」か「土倉」を利用する事に成るしかない。
ここで、利用したとする「面白い史実」が江戸で起こっていたのである。
それは、江戸では「質素倹約令」で木綿が不足し、「木綿」、或は「木綿古着」が「銭屋」か「土倉」で「質草」として珍重され高値で引き取られる事が起こっていたのである。

因みに、高値で取り扱われる根拠があったのであるが、ここで「伊勢の紙屋」「江戸の伊勢屋」に関わる事に重要な“「青木氏の歴史観」”がこの「木綿の事」にあった。
それをここで論じて置く。
江戸初期(享保期初期)頃では、活況で関西圏から木綿を集める“「引請問屋」”と云うものが難波や伊勢にあって、それを江戸に送る“「江戸積問屋」”と云うものの二つの問屋があった。
伊勢から江戸に出た「木綿問屋」には、この二組があって、先ず初期には、“「江戸積問屋」”から集めた「木綿」を扱う「江戸の伝馬町」に、“「伝馬町組」”と云われる「伊勢青木氏」の「伊勢の紙屋」等が営む「商業組合の木綿問屋」があった。
「伝馬町」に「大の字」を付けて“「大伝馬町」”と呼ばれる程に「商業組合の木綿問屋街」を形成していた。
況や、“「伝馬町」”と云えば“「木綿問屋」”の問屋街の事であった。

その後の後期(1765年-1780年)頃には、上記した伊勢から出て来た“「十組問屋」”の一つで呼ばれる“「内店組の白子組」”と云う「江戸の木綿問屋」が出来た。
この「内店組の白子組」は1800年代に上記に論じた高額(年間1000両)の「冥加金」を幕府に納めて「商いの問屋権利」(内店方式)を買い取っていた

そこで、この「大伝馬町組」が「江戸の伊勢屋」等の「江戸の商業組合」の「木綿関係の問屋」(「御免株」を取得)であって、「内店組の白子組」が「伊勢の殖産の白子木綿」(「小伝馬町))を出した「江戸の木綿問屋」(10店)であった。
(この「商業組合」の「木綿地域」を「伝馬町組」と総称されていた。)

つまり、「殖産の白子組」の「内店組」とは、「商業組合員」(「御免株」「願株」)に入らない上記の「伊勢屋等の名義」を借りて出店する「名義借り商人」の「商人グループ近江」の「江戸出店組の事」である。
要するに、「御免株」「願株」以外にこれらの「店の権利」の“「名義借り」で出店する「支店扱い」”での店が1765年以降に起こった「第三の店」の事である。

取り分け、「伝馬町組」(「小伝馬町」と「大伝馬町」の総称)が扱う木綿以上に、「江戸社会の活況」で「木綿」が「需要と供給のバランス」と「幕府の質素倹約令」により、「木綿衣類」が多く使用される事に成り不足して「高値扱い」されていた。
「古着」を元に戻して綿糸にして再生すると云う職業(繰綿業)も江戸では活況した。
この綿糸類を「質草」にして集めて「土倉」も利益を挙げる程に成っていたのである。
これに「銭の兌換屋」の「銭屋」も参加すると云う現象が起こった程である。
そこで、上記のa-「商人グループ近江」は、関西圏でこの「木綿古着」を集めて江戸に送ったと云う事に成る。
現実に「商人グループ近江」の資料によると、「木綿古着」を送って「土倉」と「銭屋」で「資金」にしたとある事は史実である。
これが、「資金を貯めた」とする説の根拠に成っているのであろう。
然し、土倉であり銭屋である以上それ以上の資金は獲得は出来ない筈で店を興す資金には成り得ない。(伊勢屋の資金源をあくまで隠す為にも「こじつけた」と観られる。)

それには、この「綿古着」を「土倉」「銭屋」に入れて「質草」にして「当座の資金」を得ていた事は否めないが、この事のみならず未だ「伊勢殖産の産物」であった「白子湊木綿」(白子綿)も送る事で「販売での資金源」としていた事に成る。
つまり、唯、これでは“「当座資金源」”の程度である。
これでは「伊勢」から出て江戸で「大口商いの仕入金」は出来ないし、「冥加金」も納められないし、「名義借り賃」も払えないし、だとすると問題は“「運用資金源」”はどうするかである。

「運用資金源」の「資金」と「金融」は、「改革の司令塔の拠点」と成っている「伊勢の紙屋」が「江戸の伊勢屋」に供給し指示したとしても、他の「土地、資材、店、雇用、生活、運搬」はどうするかの問題もある。

(注釈 当時は「海運」に関しては幕府に依って統制されていて、大口の積荷や船便や船主を勝手に選ぶ事は出来ない「令による仕組み」で「届出」と「許可」を取る仕組みであった。下記)

これに付いては、下記に論じる「金融業務」に入る前提として、彼等の「運用資金源」として「江戸の伊勢屋」と「伊勢屋の質」が後口の江戸出店の彼等に「相談」に載っていた事が判って居る。
と云う事は、この上記の「当座資金の獲得」で取りあえず江戸に出たが、「土地、資材、店、雇用、生活、運搬の問題」と「運用資金の調達」で「江戸の伊勢屋」に掛け合っていた事に成り、「司令塔の拠点」と成っている「伊勢の紙屋」に指示を仰いだと云う事に成る。

(注釈 然し、上記の「第三の店」(「名義借り」)の「内店組・支店扱い」に対するものであって、「願株などの組合員」には成っていない。)

「土地、資材、店、雇用、生活、運搬」の「業務と資金」は、「幕府の許可」を得ていて、既に、「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」がその権利を持っている事で、“「彼等の相談」”は、「第三の店」の「内店組・支店扱い」(「名義借り」)で処置する事が出来るので左程難しい事では無かった様である。

享保期の「改革期後半期」には、上記した様に、「商業組合の寡占」が「寡占不況」を招いていると云う幕府の判断もあって、「厳しい冥加金献納」等の抑制策で、「販売に依る商い」にも「届出と保証人」と、場合に依っては「冥加金前納の認可」が必要と成っていた事もあったのである。

「伊勢」では、「商人グループ近江(松阪派)」は「反組合の行動」を採ったにも拘らず、その彼等に対して「伊勢の紙屋」は「江戸の伊勢屋」に対して「相談を受ける事の指示」を出している。
この様に「商人グループ近江(松阪派)」に対しては、上記の様に、「小伝馬町の二つの問屋組」で出店前の(松阪派)には「伊勢の紙屋」と、出店後(松阪派)には「伊勢屋の本店」と、出店中(松阪派)には「伊勢屋の質屋」で対応していた事が判って居る。

これは「総司令の伊勢の紙屋」は、「商人グループ近江(松阪派)」の“「反組合の行動」”を超越して居た事に成る。
未だ、「殖産の木綿」や「殖産の地酒」や「殖産の豆粉」等が「組合化に至っていない殖産品」であって、それを「伊勢青木氏」としては、兎も角も、「伊勢の紙屋」の「商い」として観れば、彼らの努力に依って、“江戸に出せる事”での「利点の判断」を優先した事にも成る。

下記に論じる「江戸の伊勢屋」からの「伊勢の紙屋への報告書」では、「資金と金融の指示」に対しての“「経過報告の返書」”があった。
然し、この返書の中の一行には、上記の様にこの「相談業務と斡旋業務」に関する「簡単な業務報告」が成されている。
取り分け、“「資材と運搬」が難題”として取り上げている。
「江戸の伊勢屋」の「商業組合の資材」みならず「江戸出店」を説得し斡旋した組の分(「商人グループ近江」(松阪派))までの“「大量の資材」の「運搬能力」”とその“「過程の安全性の確保」”に苦慮している事が書かれている。

(注釈 この手紙の内容が既に在ると云う事は、その「流れ」からすると1765年頃には当面、「伊勢の紙屋」の「海運能力と陸運能力」と、「株権利」と「幕府許可」を初期の段階で当面の策として「商人グループ近江」(松阪派))用としても利用していた事を物語る事に成る。
1760年代には「海運と陸運」に関して未だ完全に解決に至っていない。
この時期に「江戸十組問屋」(1749)年が設立され、大阪で廻船二十四組問屋が設立されたが、この段階では「商人グループ近江(松阪派)」は十組問屋の中には系譜では既に連ねていなければならないが1749年では名は連ねていない。)

これを担当していたのが、陸運担当の「伊勢信濃シンジケート」ではあったが、確かにこの“「大量の資材」の「運搬能力」”に付いては、「伊勢の商業組合の範囲」と「江戸の伊勢屋と商業組合の範囲」での能力の限界の範囲にあった。
これが可成り難題であった様で、享保期の「初期段階1730年代」までは、社会には未だ相当の「運送の危険性」を大きく孕んでいた模様である。
「中期段階1745年頃」を経てから、「a、cの出店期」の「後半期の1760年代」では危険性に於いては可成り収まってはいた。

然し、この報告書は、「伊勢屋の質屋問題」などの事に付いて述べられていたのは1731年の頃であったが、この時のたった一行に指摘されていたのが、この「搬送問題」であった。
その頃には、「aとcの江戸出店問題」が未だ起こっていない時期(1765年前)にも,それでも既に「搬送人員と搬送危険性」には問題があった様である。
この時は、これに対する対策(堺摂津の三船の応急対応)は取られていた様であったが、この時に指摘されていた事が更に起こると成ると、「伊勢信濃域の中での事」では済まなく成ったらしい。

そこで、「伊勢の紙屋」では、どの様に対策したのかを調べると、この時期の「青木氏の商年譜」に「伊勢郷士頭と紀州郷士頭」(シンジケートの差配頭が参加か)全員を集めての「談合(1762年)」を行っている。
この年代は、「a、cの出店組の初期段階」、取り分け、「aに付いての初期段階」であった。
「商年譜」なので詳細は判らないが、これがその時の「搬送人員様と搬送危険性」の問題については、「江戸の伊勢屋」と「商業組合の搬送」だけの「工程能力」が限界に在ると云う事が判るが、これに「aの工程」が加わると無理である事は判っていて、その為に「工程能力の向上」に付いての解決策を模索していたのではないかと観られる。

(注釈 「伊勢郷士頭」等の家を含めて「江戸報告」が何か無いかを調べたが出て来ない。
何れかに在ったと思われる形跡(口伝)があったが、資料が三度消失しているので見つからない。)

大きくは「伊勢水軍の能力(大船21隻所有)」に、上記で論じた様に、頼っていた事が判るので、この「水運の能力」が限界に来ていたと云う事では無いかと考えられる。
1730年代までの「初期の運送能力」は、「商業組合の江戸出店」が、「将軍擁立」当初からの計画であった事から、事前に「水運能力の向上」を図った事が判って居る。

(注釈 「水運能力の向上」は、「造船と水夫の仕様」で数年の期間が必要である。
元禄期までには、「伊勢の紙屋」独自に「三隻の千石船(堺摂津港係留)」を所有していたが、享保初期には、「松阪係留の船二隻」の資料が発見されているが、この大きさは判らない。
計五隻である。
この船は主に「貿易」に使っていた様で、「江戸用」では無かったと考えられる。)

従って、“「水運能力」”だけではなく、より“「陸運の能力」”も早急に上げる必要があって、「郷士頭」に遺された手紙の資料によると“「伊勢衆」(この様に表現 「伊勢シンジケートの頭衆」の事か)“を集めて「談合」をしたと観られる。

ある文面からの推測ではあるが、陸運の「伊勢郷士の徒」は、上記でも論じたが、既に、「享保の江戸出店」の「初期の段階」から就労していた。
従って、「余裕な徒」は無かった筈である。
そこで、次ぎに頼れるのは「南伊勢の民」と繋がりを持つ「紀州郷士の徒」に「協力を仰ぐ算段」であったと観る。
それには「紀州藩の了解」が必要と成る。
故に、充分に「伊勢」で検討する必要があって、“それを「交渉する郷士頭」を誰にするか”を検討するに付いて集めたと考えられる。

ところが、この「aとcの出店期」には次ぎの事が起こっていて難題であった。
先ず、「吉宗が没した後(1751年没)」に成るし、「商業組合への圧政」が徐々に始まった時期でもあった。

(注釈 「吉宗の血縁族」は「没後二代続き」まで「三代目は水戸藩養子」である。)

従って、江戸同行で活躍していた「200人の家臣団」と「次男青木六兵衛」や「伊勢郷士衆」(別動隊)等が、伊勢に「帰参の検討」(1781年開始)を考え始めた時期でもあった。
1765年前後より15年程度の期間は、「江戸の伊勢屋」と「勘定方指導の青木氏」では難しい時期でもあった。






> 以下「伝統シリーズー24」



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