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:「青木氏の伝統 21」-「江戸の商業組合」 


[No.339] Re:「青木氏の伝統 21」-「江戸の商業組合」 
投稿者:福管理人 投稿日:2016/03/20(Sun) 11:46:43


>伝統シリーズ20の末尾


>それは、(イ)(ロ)(ハ)の「商業組合」とすると“「子孫の出店」”は、「自由」とする「発想外の事」と成り得て、兎も角も、全てとは言い難いが、「出店」として可能な「時代期間」と「江戸地区」を限定して考察すれば、「関係者の出店・暖簾分け」であった可能性が強く、現在で云う“「チェーンストア」”であった可能性が強い。

>(注釈 現実に「青木氏として氏名に関わる事」は、「享保の改革」を主導している理由から表に出せなかった。
>江戸に同行した「江戸の青木六兵衛」とその子供二代に渡りが「吉宗」に仕えたが、この「佐々木氏の資料」からこの事の注意が読み取れる。)

>特に「総合商社」から発展した”「伊勢屋の質屋」”が多いと云う事は、“「江戸の名物」”と云われた位に多いのはこの事を証明する。
>上記した「越後騒動の原因」と成ったのには、「質流地禁止令」が「江戸の金融問題」で出したのではあるが、「商業組合」として多く「江戸店」を出している越後国にも波及して、この「所以の事」から来ているものとも観ている。
>「伊勢屋の質屋」は、「享保の改革」を「商いや利益」と云うよりは金融面から支えた「金融システムの構築]に目的があった。


「青木氏の伝統 21」-「江戸の商業組合」


下記の「15地域」では、上記の確認の取れている「江戸出店」の「4店」(下記)の範囲に限らず、資料的に観ても少なくとも次の「15地域」の中からも動いたと考えられる。
その「経緯や所縁」から観て「吉宗や青木氏の呼びかけ」に動いたと観られる。

「江戸出店」の「4地域-2組」
「越前、若狭」(皇親族賜姓青木氏)
「越後、駿河」(秀郷流賜姓青木氏)
以上の「2氏―4地域」の「商業組合」が参加した。

「京出店」の「8地域-4組」
「讃岐」や「伊予」
「米子」や「安芸」
「尾張」や「阿波」
「伊豆」や「相模」

以上の「8地域-4組」からも江戸に出店している筈であるが“完全な確認”は取れない。
ところが、この「8地域-4組」は、どうも「特別な動き」をしている様である。
そこで、「8地域」を「地産型」で観て見ると、概ね、これも次ぎの様に分けられる。
「讃岐と伊予」
「米子と安芸」
「阿波と尾張」

「別枠組」
「伊豆と相模」
以上の「8地域-4組」は、“「地産型」”ではあるが、更に考察すると「別枠組」に分けられる。

兎も角も「地産型」で、且つ「特別な動き」をしたとして観ると、以上の「4組」に分けられる。
但し、「京出店」の事、「6地域-3組の出自」の事の「二つ事由」が異なる「伊豆と相模」(下記)はこの事由以外に特別に論じなくてはならない事柄があって「別枠」に成る。

ところが、この先ず「地産傾向」で観て見ると、「特別な動き」は「6地域-3組の出自」で「江戸」よりは「京」に出店している傾向にあった。

これには意味が存在している事に成る。
それは、“「吉宗の江戸出店の呼びかけ」“が「15地域」にあったにも関わらず、“「京に出店」をした“と云う事は、場合に依っては下手をすると「幕府反抗」と捉えられ兼ねない事に成る。
「幕府反抗」に及ぶ程の事は「吉宗や伊勢青木氏」との間には無かった筈である。
とするとこれは、“何を意味しているのか”疑問が残る。
又、「伊豆 相模」が江戸のお膝元であるにも関わらず“「別枠組」”に成っていると云う事には,“何かがあった事”にも成る。
つまり、この「京出店組」と「別枠組」には「吉宗-伊勢青木氏」との間で確実に何かがあった事に成る。
その何かを分析する事が出来れば、この時の“「15地域」がどの様な動きを示したか”が判る

そこで、その「出店の特徴」に付いて観て見ると、「6地域-3組」は、“「地元特産の出店」”であって、その最も多いのは“「地元特産品を加工した加工品」”であって、主に「和菓子」と「呉服」と「小間物」と「海産物」の“「加工品」”である。
つまり、“「原材料」”を持ち込むのでは無く、加工した“「完成品」”である事から、先ず、“「消費」”を目的とした”「販売戦略」であった事”が良く判る。
「否原材料-完成品」=「消費-販売-個人戦略」→「商店」の構図が描ける。

これは、明らかに全ての「職能集団」が動く「商業組合方式」での「江戸出店型」では無い事を意味している。
先ずは「商業組合の戦略」が根本的に違っていた事に成る。

ところが、一方のその対象と成る“「江戸出店型」”では、「原材料から加工」までのあらゆる「職種の統合的で総合的な出店」と成り、それに伴う「職能部(職人)の移動」であった事から、“「産業全体」“で“「商業組合」”を形成しての「出店」であった事に成る。
「原材料」-「加工」-「職能」-「組合」-「販売」=「組合戦略」→「商店」+「金融」の構図と成る。
上記の「個人戦略」に対して「組合戦略」であった事に成る。
「江戸出店型」=「組合戦略」=「経済機構戦略」であった事に成る。

ところが、この「8地域-4組」の「伊豆 相模」の一つを除いては、「6地域-3組」は“「加工品」で「京出店」”と成っている。

「江戸出店型」の全ての「職能集団」が動く「商業組合方式」ではなく、それをしないで済む「商い」であった事に成る。
明らかに違っているのであるから、「吉宗-伊勢青木氏」はそれで納得した事を意味している。
「享保の改革」の根幹を左右する「商業組合方式」であるのにも関わらず「大きな問題」に成らずに「納得した」と云う事は、「リフレーション政策」に執ってそれなりの「経済的な根拠」が他に有ったと云う事に成る。

それには、特徴として次ぎの「4つの要素」が働いている様だ。
つまり、「6地域-3組」の“「加工品」で「京出店」”の持つ次ぎの「共通点」である。
距離的な要素
出店先の要素
運送上の要素、
所縁の要素

以上の「共通点」の「4つの要素」が主な事に成り、それが“強く働いた”と云う事に成る。
この事は「職能集団」が動く「商業組合方式」を「押しのけるだけの力」が働いたと成るのだろう。
「商業組合方式」<「押しのけるだけの力」
と云う図式が出来上がっていた事に成る。
“これに納得した”と云う事に先ずは普通は成り得る。

前者の「江戸出店」の「4地域-2組」は、所謂、「職能集団」が動く「商業組合方式」の“「商業組合の江戸出店」”であったが、この「伊豆と相模」を除く「6地域-3組」は、上記の「江戸出店」とは明らかに根本的に異なっていた事に成る。

ところが、この後の「6地域-3組」(「伊豆と相模」除く)は、「吉宗の要請」でありながら、且つ、「商業組合」を持ちながら、“「商業組合」では無い「京出店」”であって、「商業組合の江戸出店」では無かったのである。
従って、「8地域-4組」の「6地域-3組」(「伊豆と相模」除く)には、“「商業組合」では無い「京出店」”には、“「吉宗の要請」”を跳ね除けるだけの共通する「相当な理由」があったと云う事に成る。
「幕府反抗」と成りかねない「6地域-3組」のそれが上記の「共通点」の「4つの要素」であった事に成る。
簡単に云えば,「吉宗」は次ぎの「4つの要素」の「理由」に“納得した”と云う事に成る。
この「納得」とは、「享保の改革」の根幹を左右する「商業組合方式」に反しないと考えた事に成る。
更に云えば、「リフレーション政策」に執ってそれなりの「経済的な根拠」があって、「4つの要素」の「理由」が「納得」と云う事に至ったのである。
では、どの様な理由なのかである。ここに付いて検証して観る。
「距離的な要素」に付いて
「6地域-3組」(「伊豆と相模」除く)の地域から江戸に出るには距離が在り過ぎる。
江戸までの「公道」を通ったとして、瀬戸内から京まで約233k 江戸まで692kである。
因みに、松阪から江戸まで441kと成る。
この「松阪から江戸」までの距離441kは、“「吉宗」に同行する”と云う絶対的な必然性があった。
そもそも、自発的意思により「松阪の青木氏」には「選択の余地」は無いが、ところが「讃岐青木氏」にはあったのである。
だとすると、江戸期のこの距離692kは「吉宗招請」と云えど「躊躇する距離」ではあった事に成る。
況して、瀬戸内から京は233kの1/3である。
先ず、先々江戸の経済が未だどの様に成るかは判らない状況にあったからこそ、当時の運輸環境から観てこの3倍は思考外にあってより躊躇することであろう。
「越後や越前」と違って、その途中には「摂津、京、難波」と云う「大経済圏」が控えている。
「越後や越前」には「江戸」に出る以外には周囲には「経済圏」と云う選択肢はないが彼等にはあった。

取り分け、前段でも論じたが、「讃岐藤氏」の「讃岐青木氏」には「純友の乱」の様に平安期より“政権に従わない”と云う「独立気風」があった。
この「独立気風」には、ただ単なる去勢では無く、古来からの「瀬戸内の経済力」と「地形的な軍事力」と「政治的な地域力」にある程度に「裏打ち」されていた事があった。
取り分け、「人の事」であり、「平安期の怨念」からも逃れられなくもあって更に躊躇する事であろう。
「具体的な理由」として、「選択しなかった要素」には次ぎの様な事が挙げられる。

「出店先の要素」に付いて
「出店先」は、平安期からの「最大消費地の京」であったとすると、「江戸リスク」を大きく負ってまで出るとする判断は、「相当な強制力」の無い限りは生まれないだろう。
“「摂津、京、難波」と云う「大経済圏」”で事は充分に足りる。
この事が、「リフレーション政策」に執ってそれなりの「経済的な根拠」に成っていたと考えられる。
「経済の解る吉宗」に執っては、“「江戸一極集中」“と云う事では無く、「摂津、京、難波」と云う「大経済圏」”の「二極構造の経済圏」を描いていた事に成る。
そもそも「吉宗」は、「将軍」に成った後にしても「幕府の権力や軍事力」を使っての「経済」に対して「強制力」を根本的には使わなかった。
況して、この事の「吉宗要請」は、「将軍」に成る前の「準備段階」であった事から、「吉宗要請」は根本的には元より「青木氏一族」に対する「協力要請」であった事に成る。
「強制力」を使えない「青木氏」に対して、「リフレーション政策」に執ってそれなりの「経済的な根拠」が成り立っていれば、「納得」どころかその様に要請して居た事も考えられる程である。
尚且つ、根本的には「伊勢青木氏」を通じての「吉宗要請」であったので、「讃岐気質の風習」から考えても「6地域-3組の讃岐側」では、「距離の要素」と共に「出先店」にも躊躇する事に成った事は間違いは無いであろう。

この様に「距離」と「出店先」の「二つの要素」からも、「江戸」(新参の消費地)か「京」(旧来の消費地)かと成れば疑う事無く「京」と成るであろう。
「江戸」に出て「伊勢や越前や越後の青木氏」と共に「新しい経済圏」を作る事には越した事は無いが、「一極集中政策」が「リフレーション政策」に合致するのかと云う事を考えた場合は、そうで無いと云う事は直ぐにでも解る事柄である。
そもそも、論理的には「リフレーション策」は、“「バランス」”を取る事に「経済政策の根本」が在る。
と成ると「江戸一極集中策」は「激しい経済格差」を生む欠点がある。
「激しい経済格差」は「バランス」を崩す。
この様な経済論は元より基本中の基本であり「吉宗-伊勢青木氏」は判って居た筈である。
当然の事として、「二極構造論」を取る方に舵を切る事に成る筈である。

「運送上の要素」については、
そもそも、瀬戸内の「讃岐青木氏」をベースとする「6地域-3組」であれば、「瀬戸内廻船」の外回りの「太平洋航路」を認可された「青木氏族」でもある。
運送上の防御等の「リスク」は少ないし、「コスト」は問題と成らないであろう。
唯、「リスクとコスト」に問題は無いとしてもその「商品の如何」に関わる事に成る。

ここは,要するに「瀬戸内」である。
江戸期のものとしては「海産物と酒」が主商品と成るだろう。
「讃岐と伊予」「米子と安芸」の「江戸期の産物」で出品出来るものには、「海産物と酒」を基本にして、当時、世間では、“「瀬戸内三白」“(讃岐、伊予、安芸の地域)と呼ばれていたものがあって、”「砂糖、綿、塩」”が主流であった。
それに二次的には「胡麻、大豆、煙草」の“「瀬戸内三品」”と呼ばれる物があって盛んに他国に売られていたのである。
“それを超えて敢えて江戸に”と云う発想は直ぐには生まれないであろう事は充分に判る。
それには、「江戸期の社会の慣習或は掟」として「特別な理由」があった。
それには「海陸の運送能力」が「幕府の政治的戦略」に大きく関わっていたからである。
阿波には、“「阿波味噌」”があって、尾張には、“「宮重大根」”があって、これらは、当時、関西では有名で“「江戸期の出品物」”であった事が記録されている。

そもそも、“「瀬戸内三白」”にしろ、“「瀬戸内三品」”にしろ、職能全体を「江戸には移せない商品」であって、「現地での加工品」に「仕上げての出荷」を余儀なくされるものであった。

「商業組合」として「職能部門から販売部門」までの「一連の移動」はその「藩経済の浮沈」に関わるものであって、「加工品」にして対価を獲得する事が当時の「当然の販売手法」であった。
元より“「人」は藩に所属するもの“であって”勝手な人の移動“は藩経済の低下を脅かす事にも成り、依って「国抜け罪」として極刑に処される掟があった。
従って、「瀬戸内三白」等の十八番の「物の移動」のみならず、「商業組合」としての「人の一連の移動」は原則としては一般的に無理な事であった。


「阿波と尾張」では、「江戸への出品」は下記の理由で無理であったのである。
“「阿波の味噌」”は、紀州人が阿波に移したものと考えられていて、阿波の生産は遅れて江戸期中期からのものであって、その「味噌と醤油」そのものは「開発元の紀州特産品」であって、それを「伊勢の商業組合」が「享保の改革」で「野田に殖産」していて、そこで生産され始めたものでもあった。
この様に「味噌と醤油」は、「享保期の典型的な商業組合の殖産」であったので、この事から後発の「阿波の味噌と醤油」は「関西圏商品」と成っていたのである。
そもそも、「味噌と醤油」は、当時の最大珍味で唯一の調味料として、需要に供給が追い付かず常態化していて、この様に必然的に「供給の塗り分け」が成されていたのである。
この事を度外視しての論調は成り立たない。

“「瀬戸内三白」”にしろ、“「瀬戸内三品」”にしても、急激な江戸の「享保の経済発展」に需要と供給が充分に追いつかず、更には、搬送能力にも廻船能力は元より、品物に依って廻船が限定されていて、どの廻船に積載しても良いと云う事では無く、更には過剰積載も船主側に拒否権が認められていて厳しく監視されていたのである。
「船主側」がこれを護らないと廻船権と株券も剥奪されると云う事が現実にも起こったのである。
“忙しい”からと云って、“勝手に別に船便を調達する事“も出来なかったのである。

そもそも、「水運」には「一種の統制経済の様なシステム」を採っていたのである。
それは、「市場の勢い」に任すと強い者が水運を独占して「江戸の経済」にバランスを大きく欠く事に成り混乱する。
且つ、これを押えれば幕府も倒せると云う手段とも成っていたのである。
それだけに「水運の権利」を株権で統制して「規制と制限」を掛けて安定を図っていたのである。

何度も前段や上記で論じている様に、「瀬戸内三白」等の十八番の「物の移動」のみならず、「商業組合」としての「人の一連の移動」は無理な事が出来たのは、「吉宗と伊勢青木氏」が江戸に「商業組合」を移すにしても、この「搬送能力」を「陸運と海運」を独自に持っていた事からこそ独自に出来た事でもあった。
堺摂津に三隻の大船と享保期には伊勢に三隻の新造船と伊勢水軍の株権、陸送は「伊勢信濃シンジケート」と独自持つ能力であったからこそ成し得た事であって、他地域の商業組合にはその能力は無かったのである。
野田に伊勢郷士の玉置氏等に依って「味噌と醤油の殖産」を移したのも「商業組合の殖産」と云う事のみならず、「需要と供給の問題解決の意図」もあったと考えられるし、更には「搬送能力」の「陸運と海運の独自能力」の所以があったからと考えるのが妥当であろう。

同然に「尾張大根」は、「現地生産」が基本であって、既に、江戸にも対抗する“「江戸三白」”と呼ばれるものがあって、それは「大根」、「米 」、「豆腐」であって、元より他国に積極的に販売されていた商品でもあった。
「江戸大根」は関東ローム層で培われる“「大蔵大根」”で有名であって、この為にこの「尾張大根」の競合先は矢張り関西方面での販売先とされていたのである。
この様に、「距離」と「出店先」の要素からも、「輸送上の要素」からも「江戸への主店」は不可能であった。
この「三つの要素」の「無理」を“押し出すだけの理由”は生まれていなかった。

「所縁の要素」の要素に付いて
「所縁」は、前段の「伝統シリーズ」で論じて来た事であって、最早、語るに値しないであろう。
「商業組合」としての「京主店」では,むしろ、江戸期初期の頃の社会構造からも「最大のメリット」と成るだろう。
「吉宗と伊勢青木氏」は「ごり押し」は出来なかったと観られる。
この要素一つ執ってしても,これを無視するだけの理由は無かった。
そもそも、この「所縁」は“「伝統」”そのものである。
「自らの過去」を示す「伝統」を壊してまで「京」に出る事は決して無い。
むしろ、逆に「京」を発展させて「伝統」を護ろうとするだろう。
「商業組合」が付いて来ない事でもあって、到底、「説得」は論外で、「説得」に依って逆効果を招いてしまう事に成る事は租借して承知している事でもある。
但し、「自由を前提」とするか限りの話である。
「伊勢の商業組合」は、上記の通り(イ)(ロ)(ハ)の自由を前提としての改革案である。
この事に依って,「伝統」は「犠牲」を負う。
「伊勢」では、この犠牲を負ってまでも立ち上がらなくてはならないのは、「破壊と荒廃」が室町期に起こされて仕舞ったからである。

勿論、「伊勢」は「京」に“勝るとも劣らない「伝統の国」”であった。
では、この「伝統」にしがみ付いて其の侭にしていれば戻るのかと云う「ジレンマ」があった。
何にせよ、その「伝統の先端」を走っていたのは「青木氏」で在る。
「伝統」を護ろうとするのが普通であった筈で、故にこの「伊勢を主導する青木氏」が「自由な商業組合」を発案して訴えたのである。
この「青木氏の発案」に対して「伊勢衆」は果たして反対をするだろうか。
当初は「伊勢衆」は疑心暗儀であった事は否めないであろう。
しかし、賛同をした。「家康」も「頼宣」も「吉宗」も共に賛同したのである。
故に「15地域」も動いたのであって、「讃岐青木氏」等も動く事は示したと観られる。
しかし、それを押し留める「4つの要素の理由」と次に論じる「五つ目の要素」に力が働いたのである。
何をか況や、それは、国内でのある程度の改革は成し得たとしても、「京と江戸の違い」に在った。

「四つの要素」の何れに執っても「江戸に押し出すに足りる要素」は無かったのである。

何れにしても「江戸出店」と成るには、「江戸の活況 1745年代頃」が確定的と成った処で、上記の「4つの要素」を乗り越えての出店と成るだろう。
現実に、1765年代末に単位で出店している。

「四つの要素」があったとしても、この「享保の改革開始の時」に合わせて、では、“「京出店」を何故に、この時に成しているのか”、これが疑問と成るであろう。
単に「四つの要素」だけで動いたとは思えない。
もし「京」を選ぶのであれば、普通は「享保の改革」(1788年終了)が全国に波及しての時期(1765年-1770年)を選ぶ事に成るだろう。

筆者は、「江戸出店」は、「吉宗と伊勢青木氏」等の伊勢組等には、上記の通り無理である事が理解されたが、「6地域-3組」(「伊豆と相模」除く)側としては、「吉宗と伊勢青木氏」等への縁者としての「義理と仁義」が在る。
これは、「当時の社会慣習」としては無視できなかったと観られる。
取り分け、この「6地域-3組」(「伊豆と相模」除く)をリードしていた「讃岐青木氏」は「伊勢青木氏」とは深い縁者関係にあった。
果たして「協力要請」を無下に無視できるか。
上記に論じた様に、「当時の社会概念」から絶対に出来なかったと考えている。

そこで、出店を「東の江戸」に対して「西の京」を選んだと考えられる。
この「二つの間」には「難波」を中心に「摂津堺」と「伊勢」の経済圏を持っている。
「東の江戸」と「西の京」の二つを発展させれば、一つのラインの「誘導経済圏」が生まれる。
「伊勢」と「江戸」の中間に一つの経済圏(「伊豆と相模」)を置くことで「東の江戸」と「西の京」の「経済ライン」は成立する。
そうする事には、「京出店」が必須条件として必要に成る。

この戦略からすると、「6地域-3組」(「伊豆と相模」)の「自発的意思」に依るものでは無く成る。
「4つの理由」を理解した上で、「吉宗と伊勢青木氏」が説得に掛かったと観る方が適切である。
或は、「談合」の中で「4つの理由」を知った上で、「時期」を「享保期」に合わせて「京出店」したとも考えられる。
そうすると、「伊勢の商年譜」には「何らかの談合の記録」があったと観られるが見つからない。
「堺摂津店」での事であったのかもと考えられる。
「堺摂津店」は、現在も何とか「紙問屋」として明治期の分家筋によって存在して居るが、「何らかの談合の記録」に相当するものが無いとの事であった。
(子孫の歴史的意識の低下で整理されて“無く成った“が正しい様である。)
「元禄期の浅野家の始末」(1703-5年)で前段でも論じた様に「廻船問屋の讃岐青木氏との協力」があった事から、それから、僅か10年近くの事である。
そもそも何らかのそれを物語る記録資料が無い事の方がおかしい。
「讃岐青木氏」は、そもそも「商い」と云うよりは「廻船問屋」が主体であった事もあるが、「紀州藩」が単独で進めたと云う事も無いし、「何かの形」である筈である。

唯、筆者の家には、この時代のものとされる「大きな京人形」(三月用と五月用の箱型二体)があって、恐らくは、この朽ちかけた「箱の添え書き」を観ると送られたと思える物である。

(注釈 「京人形」には「箱型と雛壇型」とがあるが、この「雛壇型」は享保の改革期に出て来たもので「享保雛」と呼ばれる人形が階段上に沢山並べられるタイプで、「箱型」は左右単体の大雛を単に飾る習慣があってそれ以前の古来からのタイプである。)

これで時代性等が解るので、従って、「讃岐青木氏」から享保期直前に送られたものである事が判る。
「箱型京人形二体」を送られる位の何らかの強い関係性を持っていた事は確実で、「商記録の年譜」には不思議に無いが、「青木氏要請」に応じて「京」に店を出した事は「京での店名」と共に「京人形」でも物語れる。

故に、「商業組合の江戸出店」は、その中心と成った「伊勢紙屋の青木氏」が「吉宗」と共に組んだ「改革戦略」であった事から、「江戸改革の中心」と成った「江戸の伊勢屋」(青木氏」)の「総合商・貿易商・金融業」が「商業組合の江戸出店」の全体を支えた事に成るのである。

だとすると、この「4つの要素の理由」に依って起こった「讃岐青木氏」等の「京出店」が、「4つの要素の理由」以外に「商業組合の出店形式」でも無かったのには、“「江戸での伊勢屋役」”を演じる位の「二足の草鞋策の氏」がいなかった事にも論理的には成る。
“果たして、そうであったのか”と云う疑問である。
否、“「氏」がいなかった事”では無い筈である。
「讃岐藤氏の讃岐青木氏」は「伊勢青木氏」とも「親密な氏の関係」と「商いの関係」を保っていて、その「保持勢力」は「伊勢青木氏」に「相当する程の勢力」を持っていた事は前段でも論じた。

では、「商業組合」として出る以上は、それを取りまとめる「氏の存在」はある筈で、それは「15地域の青木氏」にも同じ様に在った事は論じるまでも無い。
“では何であったのか”と云うと、前期の通り、“「原材料」では無く、加工した“「完成品」”である事から、先ず、“「消費」を目的とした「販売戦略」であった事。“が原因している。

地元で、「商業組合」を形成していながら、その「完成品」を出している以上は、「商業組合全体」を送り込む必要は無かった事に成る。
当然に距離的等の「四つの要素」でも無かった事に成る。
且つ、「京」が古来より主に「消費地」でもあったことから、「職能集団の移動」又は「商業組合全体」を受け付ける「土壌力」でも無かった事にも成る。

「土壌力・伝統」これは「絶対的な五つ目の要素」と成るだろう。
「絶対的な五つ目の要素」とは、これを出す事は,「京」と云うものをそもそも壊す事にも成って仕舞う。
「商業組合」が“「自由と云う前提」”に在る限りは、“「伝統」”と云うものに対して「根底からの破壊」に繋がる「悪の要素」とも成り得るし、避けなければならない「絶対の禁じ手」である。
「商業組合の出店」は、兎も角も、“「自由と云う前提」”が“「伝統と云う事」“では困るのである。

現実に、1470年代から存在した「京」に存在する“「会合衆」”も一種の商業組合の形である。
然し、「京の伝統」と云うものに馴染んだ形の「会合衆」であって、“「自由と云う前提」”では無かった。
「100年程度の歴史」しかない「江戸」との「根本的な大きな相違点」である。
“「伝統」”を活かしての“「京出店」”が必要であった。
この結果、“「京出店」”するとしても、元々は「伝統の消費地」である以上は、「商業組合」を取りまとめる「氏の必要性」は元より無く成る。

現実に出て来ない。
「京出店」の「6地域-3組」の「3組」(「伊豆と相模」除く)には、調べるが店名は出るとしても「氏名」がどうしても出て来ない。
但し、「江戸出店」の「2組」にも専門的には記録確認は出来るが、基本的には「江戸の地」にも「氏名」が出て来ないのである。
「江戸の伊勢屋」と屋号を明確にしながらも、敢えて、然し、「伊勢屋の青木氏」は表に出そうとしなかった。

この「氏名の疑問の答え」は、そもそも、「伊勢の紙屋」では無く「江戸の伊勢屋」を名乗ったのには、この「青木氏の氏是」と「改革の政治的配慮」が働いていたのである。
「青木氏の氏是」に付いては、前段で論じた通りで、根本的に何れの場合に於いても「氏名」を出さない事が「氏是」と定められている。
依って、この理由からも公に出さない事に成る。
もう一つの「改革の政治的配慮」に付いては、改革の背後で、“「青木氏が主導している」“と云う事が判れば、「江戸の民」は「青木氏の独善の利得」を疑って「改革」そのものは進まない事は必定である。

例えば、取り分け、「江戸の伊勢屋」は「青木氏」と成る事は絶対に避けなければならない。
「吉宗の勘定方指導は青木氏の六兵衛」であり、「伊勢屋も青木氏」と云う事に成ればどうしても「青木氏の為にある」と人は悪く観て仕舞う。
それは、況して、矢張り、「享保の改革の手段」の「商業組合」が「自由を前提としている事」から来ると成ると、“「青木氏」が政治と経済に介在する事は「自由」か、否、牛耳っている“と成るは必定である。
「単なる商い」と成れば、「自由を前提としている事」には異論は起こらないであろう。
何故ならば、「商い」は元来より「自由」である事に外ならないし、それでなくては発展しない。
ただ、「改革の手段」としての「商業組合」ともなれば、そこは充分な配慮が必要で異なる。
まして、「単なる社会」の中での改革を唱っている訳では無く、時の「幕府」が主導する主改革である。

ただ出すのは、唯一“「吉宗」”だけである。人々はこれは“吉宗が行う改革なのだ”と成る。
故に、「中興の祖 吉宗」と呼ばれた所以である。
これは、上記の事もあるが、「江戸ならではの事」(庶民混在の地)でもあって、「氏名」を出す事は「禁じ手中の禁じ手」であった。

然し、「佐々木氏の研究論文」の中には、「青木氏の遺された資料」よりも「享保の政治と経済の青木氏」が詳しく論じられている。又、「江戸の青木氏の論」の中でも述べられている。
これは、どう云う事なのか、ある部門には漏れていた事に成る。
その「ある部門」とは、「高級官僚」であった事に成る。
「藤原秀郷流一門一族」は江戸幕府に御家人と成って多く仕官した。
この中に、「縁籍の佐々木氏」が居たのである。その一族は「将軍の書記官」の役柄を務めていたのである。
この家に遺された資料等から主にまとめられて論じられた論文であった事が判ったのである。

因みに、将軍の書記官役には、次ぎの様な三役職が在る。
「奥祐筆」、「御小姓頭」、「小納戸役」が先ずある。
これらは「従五位下諸大夫の官位」を獲得できる「家柄身分の者」である事で、永代身分の家柄の者か、或は朝廷に金銭献納で幕府の認可を受けると、一代限りの一般の大名身分相当の扱いと成る。
旗本では最上位に成れ、同役としては「幕府の布衣の役」は六位相当の官位で旗本上位の家柄に成れる事にあった。
官位獲得は先ずは「幕府の推薦」もあり誰でもと云う事では無く中々認可は下りないが、何れも将軍と直接面談し、他の幕閣などとの調整役や記録や保管などの重要書類の事務役目を担っていた。将軍の密命で動く事が多く出張等の忙しい役柄であった。
「青木六兵衛」は「永代従三位上」の官位を持っていたが、六位に相当する勘定方指導の「布衣の役」を与えた。
「官位の届」を幕府に出す事で認められる仕組みであったことから、恐らくは、家臣では無かったが、「将軍」の「三役の立場」に居た事から、同族の多い周囲と合わせて敢えて「従五位下諸大夫の官位」の処遇で認められたと考えられる。
「加納氏の側用人」と同じ役柄でもあった事が判って居る。
この記録を遺した「佐々木氏」の縁籍は、「近江の佐々木氏の出自」で「永代従四位下」の官位を持ち「御家人」で「代々三役の家柄」(小姓、納戸、祐筆)であった事が書かれている。
その為に、記録が遺ったと観られる。
逆に「三役」(小姓、納戸、祐筆)であった事から「情報の秘匿」が護られたと観られる。
「青木六兵衛」(勘定方の布衣の役)とは同じ一族で同じ「三役の役職関係」の中にあった事から「青木氏」が持つ情報より詳細が記録されていたと考えられる。
「江戸の伊勢屋」との関係も有った事から「役務上から出入り」があった事が充分に考えられる。
実は、この「三役」(小姓、納戸、祐筆)には「江戸市中見廻り役の特権」が与えられ、「将軍外出」に同行したり、市中情報を「将軍」に伝えて特命を受けて秘密裏に処置する「露払いの役務権限」を有していた。
故に、「情報源」や「情報伝達」として「勘定方指導の布衣役の六兵衛」は元より「同役の佐々木氏縁籍の者」や「吉宗自身」も「江戸の伊勢屋への出入り」は充分にあった筈である。

この様に考察すると、「江戸」との「根本的な大きな相違点」があった事は頷けるが、次ぎの年譜を良く観て見ると「別の根本的な事」がある事が判る。
「前の4地域-2組」の「商業組合の江戸出店」と、「後の6地域-3組」の「京出店」とには、次ぎの様に「年譜」が物語っている様に、“「何かの影響」”が大きく働いていたのである。

注釈 「金融の年譜」
江戸初期1601年頃に「貨幣制度の整備」に着手
江戸で金座銀座で鋳造と貨幣制度開始
1609年に「三貨制度」の開始
1636年に「三貨制度」が完成
既存貨幣制度の併用の拡大 (本両替)
量替(1%)制度の開始と拡大 (脇両替)
1700年頃に「市場経済」の開始
1710年頃は、「本位貨幣制度」の拡大せず 概念なし。
「本両替」は「両替屋」― 「金銀兌換 大阪地域 大名・豪商の利用」
「脇両替」は「銭屋」― 「銭交換  江戸地域 農民・町人の利用」
1715年頃に、「併用の両替」が「京」に誕生。
1718年頃に、主に大阪で「両替組合」を形成して成長。
1730年頃に、両替屋は「両替株」として全国公認 600人に。
1736年頃に、江戸の「本両替組合」は僅か16人/600  「銭両替組(三組両替)」は27人
1755年頃に、「銭両替組」が「伊勢屋の質屋」の始めた「質屋」も兼務を開始。
1765年頃に、江戸と関東を始として「質屋」が全国に拡大

この「金融の年譜」で観る様に、確かに「享保の改革」で「新しい経済」が起こり始めた事が判るが、ところが、ここで“「不思議の事(“「何かの影響」”)」”が起こっていた事が判る。
それは、「金銀の両替制度」が、先ずは「江戸」に始まる筈であるが、“「何かの理由」”でそうは成らなかったのである。
この新しい「金銀の両替制度」が根付かなかったのは、それは何故なのかである。
この疑問が重要である。

「享保の江戸」は、未だ「既存の銭による経済」が一般的で、“「金座銀座の鋳造所」”が出来たにも関わらず、「金銀交換の貨幣経済」(両替経済)が江戸には余り根付かず、僅か16人と全体の2.5%と極めて低い状況であった。(江戸の人口比に比べて余りにも低すぎる。)
これは“「銭屋」”が行う「銭(銅銭)」による「既存の経済」が変わらなかったのだが、この理由は作為的に急に“「質屋経済」“が拡がった事にあった。

つまり、これには「享保の改革」の根幹の「商業組合」には「金融制度」が大きく左右する。
「リフレーション経済」には「需要と供給」を始めとして、“全て「バランス」を取る事を前提”とする為に、「金融」に於いても放置すると「デフレ」と「インフレ」の何れかに傾く事に成る。
そこで、“適量の管理された金融策”が求められる事に成る。
その必要性から「江戸の伊勢屋」が「質屋」というものを作為的に急いで敷いたのである。

「富裕層」だけでは無く、「銭」を使う「庶民層」までが使える「金融システム」が求められたのである。
従って、「江戸」には、この「商業組合」が入る事で、次ぎのシステムが構築されたのである。

「既存経済」+「質屋経済」=「金融システム」

以上の構造が新しく構築されたのである。
これが“「江戸の伊勢屋の質屋」”であって、「江戸の名物」と呼ばれて有名な事に成った所以なのであった。

筆者は、この図式の金融システムが、「江戸の社会」が“求めた“と云うよりは”論理的に必要“と求めて作為的に”敷いた”と云う方が正しかったのではないかと考えている。
「既存経済」=「金融システム」で放っておけば、上記の構造が出来るかと云う疑問である。
放置していると発展する方向に在れば「インフレーションの方向」に走るのが常道の経済論理で無理であろう。
それを押えて、「商業組合」で作意的に「リフレーション」に導こうとすれば、「自動車のハンドル操作」に匹敵する操作が必要である。
それが「質屋の特質」を生かした「金融操作」と成り、「両替屋の特質」では無理な論理と成る。

「単なる質屋の金融」では意味が無い筈で、未経験の「新しい商業組合」と云う経済行動で「リフレーション」を興そうとしているのであれば、要するに“「伊勢屋の質屋」”で無ければならない筈で、「江戸の伊勢屋」の「作為的な経済操作」であったとも考えられる。

(注釈 放置していた場合に果たして金融を充分に行える商家が出現したかと云う疑問があるが、享保前の江戸の経済状況からは商家は無かった。)

「二つ目の疑問」は、では、“何故、この「金融システム」が出来上がったのか”である。

それは、「難波と江戸と京都」の「経済状況の違い差」に依って起こった事に成る。
突き詰めれば、答えは“「商業組合の発展」”の差にあった。
「難波」は、「周囲の地域」から「産物」が入り、それを基に売買を前提とする“「商業経済」”を中心として発展した経済である。
「江戸」は、周囲全体を巻き込んだ「総合産業」を基にして、“「殖産経済」”を中心として発展した経済である。
「京」は、主に古来よりの「大消費地」で「消費経済」を中心に発展した経済である。

そもそも、「難波」は「会合衆」が発達した地域で、「自由な商業組合」が馴染まなかったし、大口の「大名と豪商」を相手としていた事から、「会合衆」から「三貨制度の両替屋」が発達した。
とすると、「江戸」には、論理的には「庶民」が作り上げた経済であって、それに適した「商業組合」が適した事に成る。
それが“「経済状況の違い差」”と成って表れた事に成る。
これが「銭屋と両替屋の数の差」と成って表れている。

そうなると、「江戸の銭屋だけの力」だけと成ると、「自由な商業組合」が発達すると、「庶民の金融」は遅れて成り立たなくなる。
そこで、下記で論じるが、「融資し物的担保を取る金融業」が必要に成る。
これが「江戸の伊勢屋の質屋」であった。

この論理からすると、論理的には金融業の「両替屋」は、「江戸」には「商業組合」が確立した以上は適しない事に成る。江戸には元より「銭屋の金融」であった。
「殖産に依る商業組合」に必要なのは、前記した様に「金融業」の“「質屋」”と云う事に成る。
これが、上記の「二つの疑問」の答えで、“「両替屋」”と“「質屋+銭屋」”の「金融業の違い」と成って表れたのである。
当然に、この「違い差」が「経済システム(土壌差)」に表れる事に成ったのである。

この「享保の江戸」には、本論の「商業組合方式」が、「総合産業と殖産産業」の中に組み込まれた事で、「士農工商の全ての民」が平均に使える「自由経済」が必要に成った。
この為には、「金銀銅の三貨の両替経済」は、「特定の金融システム」(豪商の手段)で有るので使えない。
それには、誰でもが使える「銭(銅銭)」に基づく「兌換の経済市場」が最適である事に成る。
そこに、この「商業組合の自由概念」が組み込まれたのであるから、「豪商」などが使う「三貨の両替屋」では無く、庶民誰でもが自由に直ぐ使える“「銭屋」”が必然的に発達する事に成る。
では“、「質屋」の金融業はどうであったのか“が疑問と成る。

そうすると、「金融のやり取り」には、“全ての民が自由で平等に使えるシステム”が必要であって、そうだとすると、これに合わせて「金銭を融通するシステム」の「質屋の金融」が経済的な論理としては必然的に発達する事に成り得る。
“必然的に発達する事に成り得る”のであれば、庶民がこの“「質屋」”をどう扱うかの発想が必要に成る。

「江戸」との「根本的な大きな相違点」(“「質屋」”をどう扱うかの発想)はここに出て来ていたのである。

さて、ところが、「商業組合」と云う観点から観ると、「伊豆と相模」、「讃岐と伊予」、「米子と安芸」、「阿波と尾張」の四組は地元には「商業組合」を構築したにも関わらず「商業組合の出店」では無かったのである。
当然に「商業組合」で無ければ、この“「質屋」”をどう扱うかの発想は生まれなかったのである。
「経済システムの発想」が違ったと云う事に成る。

上記の「四つの要素の理由」でも「商業組合の方式」が合わなかった事は判るし、「上記の金融年譜」でも明らかに「難波と江戸の経済の中間」を採っている。
そうすると「商業組合」としては合わない事は判るが、それでは“「出店の合意形成」”が整わなかったのか、或は、「商業組合」にその能力に未だ欠けていたのかと云う疑問点の事も念の為に検証しなれば成らない。

そこで、筆者は、その規模から考察すると、先ず「讃岐と伊予」に付いては、その「出店能力」は充分にあったと観ていて、前段でも何度も論じたが、“瀬戸内を制する者は国を制する”と云われた程の「経済的な宝庫の地域」である。
「讃岐と伊予」は「廻船業」を主体として「総合職種」を営んでいた事から、前段でも論じたが、「伊勢域以上の総合能力」を充分に持ち得ていたと考えられる。

然し、ここで「青木氏の歴史観」として、古来より「讃岐藤氏」は、「藤原純友の乱」以来より「関東域への嫌悪感」を潜在的に持っていた。
故に、その意味でも最も近く縁故のある「消費地の京」を積極的に選んだとも考えられる。
少なくとも「選択肢」の一つには位置づけられていた事は考えられる。

四国域は前段で論じた様に、そもそも、江戸よりは「京との関係」を古来より深く持っている地域でもあったことから、「京の消費地」は「第二次と第三次の消費地」であった。
然し、「江戸の消費地」は「第一次から第四次の総合の消費地」であった事から、「京」への「商業組合全体での出店」とは成らない論理に成る。
依って、「讃岐と伊予」と「米子と安芸」と「阿波と尾張」は、上記の「四つの要素の理由」とは別に、職能部門の含まない「単数の販売組合の出店」と成り、「消費地の特徴」から「加工完成品の出店」と成ったと考えられる。

上記の金融年譜の「京」は、難波と異なり平安期より「本両替(金銀 大阪 大名・豪商)」と、「脇両替(銭屋 銭 江戸 町人)」の古来からの「両方が併存する経済圏」であった事からも、明らかでそれを物語っているので、それに適合する「京」を選択したのである。
これは経済理論として大きな理由でもある。
これを無視した出店はあり得ないであろう。

当然に、この「讃岐藤氏の商法」の影響を受け、且つ、「讃岐と伊予」の一族一門の「米子と安芸」は、「京」に出て「讃岐と伊予」と“タッグ”を組んだと観られる。
つまりは、「伊勢の商業組合」の「江戸の庶民の商い」を中心とする「組み方」と、「讃岐」の「京の氏の商い」を中心とする「組み方」とが存在していた事に成る。
そして、この「二つの組み方」は根本的に異なっていた事に成る。

果たして、この関係を解消して押し切ってまで「総合の商業組合」として「江戸出店」を選んだろうか。そんなことは考え難い。
取り分け、この「京との所縁と柵」を破る前に、「地理的なハンディー」(運搬に関する無理 下記)が別に在る。
故に、江戸の「総合の商業組合商法」では無く、地域別(京・名古屋)の「単位の商業組合の商法」を採ったと云う事に成る。

当然に、「阿波と尾張」の組の「阿波」は,そもそも、「片喰族と剣片喰族の一族」であり、「尾張藤氏の出自族」の「青木氏」である。
前段でも論じた様に、「讃岐と伊予」と同じ様に、「京」との繋がりが強い地域であって、室町期には「公家武家の西園寺氏」等が席巻した地域でもあり、且つ、この地域は古来より「公家の血縁族の地域」でもあり、「政争の逃避地」でもあった。
この「繋がりの無い江戸」より、「繋がりの強い地域」を求めて「京」に動いたと観られる。
その地域別の「単位の商業組合の商法」は、「讃岐と伊予」や「米子と安芸」に並ぶ結果と成るは必定である。
恐らくは、「讃岐と伊予」や「米子と安芸」と、それに加えて「阿波と尾張」の3組は,地域別の「単位の商業組合の商法」で連携した事が充分に考えられる。

故に、「伊勢」「越後」「越前」「若狭」の“「江戸の出店の4地域-2組」”とは別に成ったのである。「讃岐と伊予」や「米子と安芸」や「阿波と尾張」とが、不思議に“「京の出店の6地域-3組」“と云う事に成って行って、「商法」も同じと成ったと考えられる。

「古来の縁故」からの考察でも“「京の出店の6地域-3組」”と成り、不思議にこの様に分けられるのである。
この当時の「訪問販売」と「付け制度」とその「金融制度」から考えると、「京出店」は「江戸出店」よりは数段に最適であった事に成る。
例え「吉宗と伊勢青木氏の要請」があったとしても、これではどんな無理をしてでも“「江戸出店」”はあり得ず考え難い。

ところが、ここで“「江戸の出店の4地域-2組」”とは、行動を共にしなかったこれまた不思議な「伊豆と相模」が在った。

この「伊豆と相模」は、「源の頼光」以来の本領地で、「伊豆」は「伊勢と信濃の青木氏」がここに子孫を廻して「護衛役」として配置した地域でもある。
(注釈 前段でも論じているが、「伊勢と信濃の青木氏」は「清和源氏」の「摂津の頼光系四家」とは母方で養子縁組もしている唯一血縁族で、その縁から「護衛役」を受け持った。)

そして、この「相模」は、「藤原秀郷流青木氏の定住地」で、ここに「諏訪族青木氏」と「武田氏系青木氏」と「武田氏系諏訪族青木氏」の三氏が、「甲斐の武田氏」が滅亡時に逃避して来て「藤原秀郷流青木氏」を頼って定住した各氏の「青木氏の集結の土地柄」でもあった。

この経緯から、江戸期のこの時期に於いては、この「伊豆の二つの同族の青木氏」(伊勢と信濃)と、「相模の四つの青木氏」の「六つの同族血縁」が成されていて、その長い所縁から「伊豆と相模の青木氏」は「地域」も同じで「所縁」も同じであった事に依り「同じ行動」を採った。
「江戸出店」と「京出店」があったにも関わらず何れにも参加しなかった。

ところが、「江戸」を中心とする「総合の商業組合商法」に参画せずに、「京」を代表する地域別の「単位の商業組合商法」にも参画していないのであるが、それどころではなく、「独自の方法」を採ったのである。
明らかに、“「江戸の出店の4地域-2組」”( 江戸の「総合の商業組合商法」)、 “「京の出店の6地域-3組」” (京の「単位の商業組合商法」)の二つに分けられる。
しかし、これとは「別の行動」を採った「伊豆と相模の青木氏」の1組があったと云う事に成る。

当然に、「15地域」の「伊豆と相模」は「主要な商いの二地域」でもあって、「商業組合」は成されていた。
「吉宗」の「江戸店の呼びかけ」に対して、「伊勢信濃との古の縁故」が厳然と在りながら、“何故、「伊勢」や「越後」の「組」に入る事をしなかったのかである。
「入る事」は、充分に可能で有ったし、何処から観ても、“入って当然”と見做される位置に在った。
「15地域」の中でも、“最もリスクが無くメリット”が多い「伊豆と相模」の筈であった。
筆者も懸命に研究したが証拠と成る資料があまり出て来ない。

江戸期に於いても「伊豆と相模」は、そもそも、「伊勢信濃」以上に「大青木村」を形成し、「笹竜胆紋」を厳然と護る「平安期」からの「純血性」に近い「青木氏」で在った。
“「伊豆と相模」の関係”は、当に“「伊勢と信濃」の関係”と同じであった。

その前に現実に、「伊勢」や「越後」等の「総合の商業組合商法」の「組」に、“何故か「信濃」が入っていない事”に気付くであろう。
これが「伊豆相模」に通ずる答えに成るのである。
つまり、「伊勢と信濃」は、前段でも論じた様に、「伊勢―信濃」の関係にあって“「一身一体」の関係”にあったからである。
「伊勢」より始めた「商業組合」は「伊勢―信濃」の関係で行われていたのである。
「信濃」は「伊勢の補完関係の役目」を、」伊勢」は「信濃の補完の役目」を奈良期の古来より務めていた。
「氏の存立」や「商業の発展」にしても古来より継続されていてその役目を長く担っていた。
何事も“助け助けられての親族関係”にあった。
従って、「四家制度」にも観られる様に、“「一体」”に成る事に依って「氏の存立条件」を高めていたのである。

要するに、「享保改革」の「商業組合」は、そもそも「江戸の伊勢屋」は「江戸の信濃屋」であっても良かったのである。
然し、「伊勢」が「吉宗」との関りから主導し、「信濃」が「護り役」に廻ったのである。
どちらか一方が「主導役」になれば、片方は「護り役」に徹する。
明治期までこの関係が続けられていて,明治9年から明治13年まで続いた「伊勢騒動」にも「信濃」が「護り役」に共に動いたと記録として遺されている。
「信濃」は何と奈良期より1360年間以上にこの役目に徹していたのである。
これと同じで、「伊豆と相模」の関係も、この「伊勢と信濃の関係」と同じ状況を江戸期まで維持していたのである。

そこで問題は、この「伊豆と相模」の関係が、江戸の「伊勢と信濃」の関係にどの様に繋がっていたのかである。
結論から先にはっきり云うと、“答えが出て来なかった“と云う事に成ろう。
唯、「繋がり」としては一つあった。
そもそも、「伊豆」は兎も角も、「相模」は既に江戸に近く、武蔵入間を中心に横浜神奈川を半径とする「秀郷流青木氏の宗家の圏内」に在った。
注釈として、「相模」は、単独の「相模」を意味するものでは無く、「宗家武蔵」でもあり、「宗家の二足の草鞋策」を「補完する役目」を負っていた事で、「武蔵と相模」の意味として表現している。「伊勢と信濃との関係」と同じであった。

現実に、この「4地域-2組」に地元の本元の「江戸」である所に、“「信濃」“と同じ様に、“「武蔵」”も出て来ない事に気づくであろう。
「相模の商業組合」は、「海産物とお茶」を主体とした「商いの商業組合」を古来より構築していた。
当然に、以前より他の論文でも論じている様に、「平安期の秀郷流一門」である限り、“江戸を中心としての「商い」“を鎌倉期初期から堅持していたのであった。
家康以前からの400年前に遡る話でもある。
この事は多くの記録に遺る事で、江戸が栄えてからもその栄に沿って拡大していたのである。

態々、江戸を中心とする「総合の商業組合の商法」に参画せずとも、元々「地元の江戸」に「地域別」の「単位の商業組合の商法」を構築して居て、全く、態々,江戸に移す事の必要性が無く、「武蔵の宗家」と共に既に出来ていたのである。

要するに簡単に云えば、当に、“「地元」”なのであって、「総合の商業組合の商法」は古来からの関係をむしろ壊す事に成り、「得策」ではそもそも無かったのである。
どちらかと云うと、「武蔵」にしても「伊豆と相模」にしても「総合の商業組合の商法」は、“明らかに迷惑”と云える立場にあった。
「メリットが多い」と云う話だけではそもそも無かった。
その逆で、「商業組合の江戸出店」が出て来る事の事態が「最悪のリスク」と成っていたのである。

「江戸」が、「総合の商業組合の商法」で発展すれば、仮に、「武蔵と伊豆と相模の領域範囲」に入って来なければ、それは其れでむしろ「得策」であるが、当初は大いに懸念される事であった。
故に、「伊勢の秀郷流青木氏」が共に「商業組合」を推し進めるべく江戸に出ようとしている中に於いても、更には「紀州藩家臣」と成っていたにも拘らず、「関係性」も特段に持った記録が無かったのである。
確かに、「江戸の家臣団の官僚族」は、「武蔵宗家の秀郷一門の親族」でもあった。
にも関わらず「大きな関係性」を物語るものが観えないのである。

これは何か相当に「苦い思い」を宗家側が持っていた事にも成る。
筆者は、これはこの「江戸出店に関わる事」であったと観ている。
「伊勢や15地域の商業組合」に留まっている範囲では問題が何も無かったが、「幕府の政策」として押し出されれば、確実に武蔵一帯の「既存の商形態」は確実に破壊される。
「武蔵の一族」にして見れば、「痛し痒し」で、場合に依っては、出方を間違えれば「氏存続の根幹」を揺るがしかねない事にも成る。

江戸の「総合の商業組合の商法」の組は、この「伊豆と武蔵の相模」の関係の領域の範囲を崩さなければ“「争い」を起こさないで済む“と云う”「暗黙の事前判断」“があったのである。
当然に、この様に成れば、“「談合」を持った”とする資料か何かがある筈であるが、直接的な確かなものは未だ見つからない。
唯、この享保前の1714年から1716年までの間に「談合」と云えないが、「江戸」に動いている資料が「二つ」ある。

「一つ目」は、「吉宗」が、「嫡子外」として冷たく扱われていながら、「父兄弟と将軍綱吉との面会」に同行し「家来の控えの間」に居た。(1697年)
これより「江戸参府」は「1710年後」まで四回行われていて、「紀州帰還」は三回行われている。江戸と紀州の在籍期間は各々3年と云う事に成って史実と一致している。
この事から「13年の間」には「3年に一回」は「帰還と参府」を繰り返していた事に成る。
「参府四回」と「帰還三回」の間に「1709年末-1710年後」に江戸に出向いている事に成る。
何故、未だ無視された「控えの間の人」でありながら、三回も何故に「江戸滞在」に出ていたのかである。
「葛野藩の藩主」であった事も考えられるが、「陣屋館の形式」で家臣が15人ほど出向いて納めていた形式上の藩主で「紀州藩の支藩扱い」であった。
要するに、「吉宗の食い扶持藩」と云うものであって、三万石乍ら無役である。
つまり、単なる参勤交代では無く「何かの目的」で「江戸」に出向いていた事が判る。

「二つ目」は、「伊勢の紙屋」から二人、「江戸」に出向いている。
(1711年前頃 資料の記載が「宝永」か「宝暦」かは一部朽ちて判別できないが流れから「宝永」と考える。)
恐らくは、一人目は、その表現から息子の「福家の青木六兵衛」と観られる。
二人目は、人物の詳しい表現が無いが、「四日市殿」であると観られる。
この二人は「吉宗」にこの時に同行したのかは良くは判らない。
合わせて、「吉宗の事の一つ目の資料」と「青木氏の二つ目の資料」の接点は有るのか無いのかは、確定する資料は見つからない。

唯、「一つ目(1710年後頃)」と「二つ目(1711年前頃)」には、何かの意味があつた事に成るが、「時期的には同じ」であったが、「同じ行動」であったかは判らない。

この「二つ目の資料」は、「伊勢郷士衆」で「郷士頭」を務めた「遠縁の家」に遺されたものである。
「青木氏の福家」との間で交わされたもので、虫に食われて朽ちかけた「連絡文の様な書類」である。
この「連絡文の様な書類」の一部に書かれている文面から何とか読み取ったものである。
この「縁籍のある郷士頭」も「何かの理由」で同行する事に成っていて、その「打ち合わせ」の「連絡文」ではないかと観られる。

可成り前から、「吉宗」の「藩主擁立」か「将軍擁立」に向けて「青木氏と紀州藩」は密かに動いていた事は論じたが、その時に「青木氏」の中で「談合している事」は小記録からも判っている。
この「談合の後」に、その前に、未だ「享保の改革」が始まっていない時期に、“江戸で何かが起こったか”、或は、密かに交わした「武蔵入間宗家」に向けた書類に対する「返書」が来て、それに対する説明をする必要に迫られていたとも考えられる。
筆者は後者であると観ている。

唯、検証して観ると、一つの鍵は、“「四日市殿」”が出向く事に成っている様なので、これを租借すると、単なる説明では無い事は判る。
“何で四日市殿?“と云う事に成る。
考えられる事は、それは“「四日市殿の家筋格式」”を利用して、同行する事に成って「郷士頭」に連絡をして来た文脈と観られる。

「四日市殿の家筋格式」は前段でも論じたが、「初代紀州藩頼宣」の時に「徳川氏」より「立葵紋の使用」と「水戸藩孫の勝姫娘との血縁」を結んだ「徳川氏の縁籍筋」の家柄と成ったのである。
前段でも論じたが、「立葵紋」は「徳川氏の格式紋」として、「信濃善光寺」と「伊勢青木氏の四日市殿」にしか使用を認めていない家紋で、徳川氏宗家以外は一切使用を禁じている「最高格式紋」である。
「格式」としては江戸期では、「笹竜胆紋」に匹敵させている「最高の立葵紋の青木氏」で在ることから、この「縁籍の格式」を「青木氏」が是が非でも「利用しなければならない状況」が起こった事を示すものと先ずは解釈できる。

次ぎに、「次男の六兵衛の同行」であるが、「六兵衛」は共に育った「吉宗の幼友達」である。
これから考えれば、「嫡子外吉宗」、「継の間の吉宗」に同行したとも考えられるが、一方で「商業組合」を最も説明できる者とも考えられる。

更に、上記の「二つの事」に合わせて、三つ目として「縁籍の郷士頭」をどの様に捉えるかである。
「伊勢の商業組合」と「職能集団の実態の状況」を最も把握している「郷士頭」が補佐として同行すると云う事に成ると、“「説得工作の戦略」”とも考えられる。

この「三つの事」をこの1710年前後の時期の「伊勢の状況」とを総合的に考え合わすと、次ぎの様に成るのではないかと判断される。

「四日市殿」の格式を使って「徳川氏宗家へのコンタクトと幕閣への裏工作」として働いた。
「青木六兵衛」に依って「吉宗代行として秀郷流宗家への裏工作と経済対策の説明」に出向いた。
その上で、「伊勢の商業組合」と「職能集団の実態の状況」を最も把握している「郷士頭」が補佐として同行すると云う「説得工作の戦略」を採ったのではと読み取れる。

この「四日市殿の裏工作」から、「立葵紋」を利用して、「吉宗の幕閣や大奥お目見え」と繋がったのではないかとも考えられるが、これは少し年代がずれていて後の5年程後に成る。

将軍綱吉は、没年1709年2月で、丁度、その1年後の将軍家宣(没年1712年11月)の少し前の時期と成る。
「三年の治政」で「綱吉の悪政の修正」に務めた。「三代急逝去の時」である。
1710年後から1711年前頃とすると、徳川宗や家幕閣の中で「政治」「経済]「世継ぎ」の問題で紛糾していた時期でもある。

別の資料からは2年前(1714年)からの「幕府への説得工作の戦略」を展開したと成っている。
ところがこの資料からだと、幕府への「説得工作の戦略」は4年前(1711年前)と成るので、少し早すぎる事に成る。(当初、この説を採っていた。)

とすると、残るは、「武蔵入間宗家」への「説得工作の戦略」の説に成る。
その内容は、「商業組合に対する参加」に関する「説得工作」であった事に成る。
「享保の改革」とは別に、その前の“「15地域の一員」”に加わる様に、「伊豆と相模と宗家」への「商業組合に対する参加」を要請した事に成る。
つまり、そうすると、この段階で、“「地元」”と云う事も含めて、上記した様に、「武蔵」を始め「伊豆相模」の「経済に対する特殊事情」を考慮していた事を示すものと成る。

「青木六兵衛」と「郷士頭」は「全体の説明役」と「伊豆の説得役」に、「四日市殿」は秀郷一門との「パイプ役」に働いた事に成る。
「四日市殿」は、「伊勢青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」との「融合血縁族」である。
取り分け、この「四日市殿」には「大きな役目」があって、「秀郷一門の説得」には、「江戸の経済」に大きく影響する事から「幕閣」と「幕府高級官僚族」と成っている「一族一門の説得」と、「秀郷一門宗家の説得」と、「相模の説得」に掛かったと考えられる。

結果として、一応の説得は出来たが、その範囲は、「相模と伊豆」に限定したものであった。
この時の事が、上記の「伊勢側」の“「暗黙の事前判断」“と成っていたと観られる。

つまり、「江戸」に出ていざ改革を開始しようとした時に,「江戸への進出」には応じていなかった事に成る。
「伊勢側」では、“説得に応じた”と受け取ったが、その後に「武蔵-伊豆相模」側か、「幕閣官僚」側に“「蒸し返しの反対論」”が出た事もあり得る。
“「伊勢側」の“「暗黙の事前判断」“があったとする説は、「二つ目の資料」が見つかった事で「武蔵宗家-伊豆相模の説得説」に成ったのであるが、仮に、”「伊勢側」の“「暗黙の事前判断」“が無かったと成ると、強引に「享保の改革」の為に「伊勢の青木氏」は「江戸」に出て行けないであろう。
それこそ、「争い」と成る。
確かに、後の「将軍吉宗擁立」では、“「幕閣官僚の反対」”があった事は明白である事からも、恐らくは、後日に異議を唱えたのは、「幕閣官僚の反対」であった事は直ぐに判る。
「立葵紋の四日市殿の説得」には、流石に「反対の声」を直ちに上げる事は難しかったのは判る。
「武蔵宗家-伊豆相模の説得」は出来たと観て、一行は伊勢に戻ったのであろう。
「説得失敗」であれば、「何らかの談合」が伊勢で成されていて、且つ、「何らかの資料」が遺されていてもおかしくは無い筈であるが無い。
「15地域の商業組合の確立」は成功したと判断していた事に成る。

然し、「武蔵宗家-伊豆相模」側では、「武蔵宗家-伊豆相模」の「後日の異議」が発覚して、結局は形式上は、「江戸」には直接持ち込まずに「伊豆相模の範囲」で「一応の最低限の形」は整えた事に成る。
故に、何の行動も無しで「伊勢側」もその心算でいた事に成る。
1716年に蓋を開けてびっくりと云う処であったと観られる。
恐らくは、いざ、1716年に江戸に出て見ると、上記の様に、「武蔵-伊豆相模」は“食い違っていた”と云う事であろう。
大いに慌てたと観られる。大きな誤算であった事に成る。
結局は、「融合政策」に切り換えるほかは無かったと成ろう。
「裏の実態」は、そこで、慌てて談合して、“争いに成らない様に要領を定めた”と云う事に成ったのでは無いかと考えられる。
それが少し後で「吉宗の幕府」が出した「質流れ禁止令」と成ったと考えられる。

江戸に出した“「江戸町方の質流れ禁止令」”から、全国に向けても“「質流地禁止令」”を発したが思わぬ騒動と成った。
そこで、1年後に廃止したが、その代わりに、当然に、「吉宗の経済学の博識」から、この影響が他国に伝播する事を恐れて「葛野藩の割譲地」は“越前返却”として治めたと観られる。
現実に、この騒動は「15地域」の「越後」から一員の「越前方向」にも伝播しつつあったし、近隣の丹波北域でも防ぎきれずに起こって仕舞った。
そこで、「吉宗」は、“否を認める事の姿勢“として、「葛野藩の割譲地の返却」(3万石から4万石に質流地で増額に成っていた)として「返却手段」で治めたと観られる。

実は、「葛野藩の石高」は、当初の扶持米としての割譲時は「3万石」であったが、前政権の「質地取扱の覚」の令で一時的に「質流れ」を緩和した。
これで「騒ぎ」が起こったのであるが、この為の緩和で地権が放出されて葛野藩は4万石に増額していた。

(注釈 当時は、各地に起こる改革も何もしないで増える「支藩等の石高」に対して、葛野藩も一種の「質流れの象徴」の様に観られてしまっていた。享保の改革推進を進める吉宗としては真逆の事に成る現象が各地で起こって仕舞ったし、我が身も疑われて慌てた。)

そこで、「吉宗」は「否の証拠」と成る「葛野藩」を「越前藩」に返却をし、「質地取扱の覚」(1695年発令)も、「質流地禁止令」(1722年発令 1723年廃止)も廃止したのである。
これで各地で起こり始めていた騒動は納まった。

確かに「騒動」は納まったが、「伊勢」-「伊豆相模との問題」は納まった訳では無かった。
この侭で行けば、間違いなく「争い」が起こっていた筈であった。
この「争い」ともなれば「伊勢」と「伊豆相模」の「醜い同族争い」とも成り得る。

そこで、「町方」に多く出現させ始めていた“「江戸の伊勢屋」”の多くは、「江戸の名物」の“「金融業の伊勢屋の質屋」”であった事からも、「質流れの禁止令」( 「元の裏の目的」 「町方対象) 「要領書的な通達」)は、「武蔵と伊豆-相模の領域」を犯さない為にも発行されたものであった事が判る。
(前段で論じた鎌倉期から江戸初期にまでの間を経て確立していた「商い地盤」を崩されたくなかった。)
つまり、元を質せば“「犯す」“のは、”「金融の領域」“からであって、その「質流れ」の「担保の権利買取」の事で起こる問題で、それを防止する「要領」であった。
「担保の権利買取」は、旧来からの「銭屋経済」で生き残ろうとしていたのであった事から確かに「伊豆、相模、武蔵」に執っては明らかに困る。

商取引上では、「自由を前提とする商業組合方式」である限りは、公然と「武蔵と伊豆-相模の領域」は保護できない。
そこで、その起こる寸前の手前で「取扱要領」を決めたと云う事に成る。

「伊豆や武蔵や相模」などからは影響を強く受けていて、その「改革の勢い」で「質流れ」「手形」等を発行する事は多発していた。
そこで、これらを「江戸の伊勢屋の質屋」が「質流れ」で買い取る事は、「伊豆や武蔵の相模」の「地権」等の財産を獲得する事に成り、この「領域の範囲」を明らかに超える事に成る。
「氏存続」も危うい事にも成る。
従って、「形振り構わない不必要な反発」を受けない様に、これを「伊勢側」に約束させる事を前提としていた「質流れの禁止令」の事に成って行ったのである。

これで「伊勢」-「伊豆相模との問題」は争わずに収まりが一応は着いた。
「享保の改革」が進む保証が採れた事に成った。
つまり、「質屋の金融経済の経済」と、「銭屋の既存金融の経済」の“「共存」“は一応は成立したのである。
突き詰めれば、江戸には「両替制度の経済機構」が入りにくい「新しい経済機構」(銭屋と質屋)が出来た事に成る。
然し、新しい経済構造が出来上がりつつあったが、未だ“「融合」”と云う処までには至っていなかった。
それには、“「質屋金融」“に伴って起こる“「担保」”と云う処に問題が未だ在った。

この「享保期の当初の担保」は、「新しい町方の金融」を育てると云う「当初の目的」があって、未だ「地権」のみならず多彩に及んでいた事が判っていて、その多くは、“育てる事を目的”とする「信用貸付」(町方貸付)が多かった事が書かれている。

ところが、“「暗黙の事前判断」“の「食い違いの事件」で、「伊勢側」と「伊豆相模側」との互いの「信用」は戻ってはいなかった。
「信用貸付」である以上は、「商業組合」の「組合人」としての「伊勢側の信用貸付」が「伊豆相模の側」には起こり難かったのである。
それ故に、「銭屋による既存金融」の中にも居た事もあって、尚更に“「江戸出店」”は起こらなかった。
この傾向は1788年までの「享保改革のリフレーション政策」が続いた間は、遂に戻らなかった事に成る。
「初期の信用貸付」から「物的担保」に移行しても結局は戻らなかったのである。
結論的には、“「共存」”は起こっても“「融合」”は起こらなかった。
「伊勢信濃側」と「伊豆相模側」の関係も親族でありながらも、“「心の融合」”は明治期までも起こらなかったのである。
「食い違いの事件」は「相当な不信感」を招いた事に成る。

“「共存」”に依って「一応の安定」が得られた事から、「幕府」は、後にこの様子を観た結果、この要領(ルール)が護られていると判断し、取り敢えずは、“問題が起こらない事”を確認した事で、5年後に「令」を撤廃した。
つまり、この「5年後」には、先ず「共存」が出来上がった事に成り、“「伊勢側」の“「暗黙の事前判断」“の「食い違いの事件」は、”「要領(ルール)」“に依って解決した事に成った。
これは「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」と「勘定方指導の青木氏」の三方で「情報のやり取り」があった事を示している。

(注釈 「伊勢青木氏側」にはこの事に関する限りの記録は六度の火災で全消失。 「伊勢側の関係者」には上記の「二つ目の資料」だけ在り。“「暗黙の事前判断」“の内容と、「食い違いの事件」の内容は「商記録」で無い事から無い。「伊豆相模」までの調査は充分に出来ていない。「武蔵入間」に関しては、先の戦争や大地震等の自然災禍に依る影響か不思議に資料記録は一切無く、「伝統」も「菩提寺」も無い様な状況下で、伊勢側と佐々木氏の資料に頼る状況下にある。)

しかし、ところが思いがけなく、「商業組合」の活発な「越後」に於いて、「町方」では無く、「農地」に対して出していた「令」に依って、「1722年の越後大騒動」(他二か所)が起こって仕舞った。

(注釈 この農地対象の「質流地禁止令」は1年後廃止した。 基に成った俗称「質流れの禁止令」は5年後廃止した。)
(注釈 元々は「質地取扱の覚」で「享保期前の1695年」に発し、「禁止」から一転して「質流れ」を認める「覚令」であった。
混乱を招いた根源である。
豪商や豪農や大名や高級武士が新たな地権者と成って益々利益を挙げた。
「騒動の混乱」は「大きな格差」を招いた事が根本の原因であった。)

注釈の通りにこの「令の経緯」は極めて複雑で、次ぎの様に成っていた。
江戸初期の「田畑永代売買禁止令」 →町方対象の「質流れの禁止令」 →農民対象の「質地取扱の覚」 →農民等の「質流地禁止令」 →「田畑永代売買禁止令の緩和令」

以上が概要の遍歴である。
全て、「享保前の失政、悪政,稚政の付け」である。

この「越後騒動」(1722年)は、発令当初に、「誤解に依る大騒動」が起こって仕舞ったと云う事であって、且つ、「江戸での状況」も改善された事で、その後の解決期間を経て、「令」は中止されたのである。
この「令の事」は、“「暗黙の事前判断」“の内容と、「食い違いの事件」で「醜い同族争い」が江戸でも初期の頃は起こり始めていた事を示している。
単純に円滑に「商業組合」が浸透して行ったと云う事で決して無かった。
「享保の改革」を全国の「青木氏」から観た形で検証はして何とか描いているが、「同族争い」までして相当に苦労した事が判る。

(注釈 「談合」に入った形跡資料は見つからない。相当な不信感があった事が判る。当然に「商業組合)に対する「妨害や邪魔な行為」があった事が考えられる。それを押し切ったのが「伊勢山の質屋」であって、それに対する「リスク」を最低限に抑える為の「質流れの禁止令」の「要領書」であった事に成る。「青木六兵衛」から聞いて「幕府の吉宗」もこの「争い」を承知して気にしていた事が判る。)

この苦労が我々末裔に執っては何の影響もなく、今やロマンに過ぎないが、これ程に苦労して改革を背中に背負って果たしてどれだけの意味が在るのか疑問にも成る。

1788年以後は「青木氏と郷士衆」は紀州に引き下がって江戸での「ギクシャク」は納まったが、結局は、「次政権のインフレ策の失政」で「青木氏の功績」は霧消してしまったのである。
たった、72年間の夢幻かと成る。当に「諸行無常の極まり」である。
筆者は、掘れ起こせば掘り起こす程強い「空虚感」を抱くばかりである。
研究すればする程に、深く入れば入る程に、解き明かしてもその意味合いを他氏には理解され得ない事で、たった一つに成って仕舞った孤独な「遺された氏族の悲哀」を噛み締める事もある。
取り分け、この江戸の「伊豆相模」での事では強く感じる。

然し、この「部分の事」を解き明かして「青木氏の歴史観」にして置くのは、「青木氏」しか無く、他氏はしないであろう。
「商業組合と享保の改革」をより詳しくして遺すのは「歴史家」には出来ない研究事で、資料の持つ「青木氏」にだけ出来る事である。

恐らくは、「江戸の伊勢屋」も「伊勢の紙屋」も「江戸の六兵衛」も「伊勢紀州の郷士衆」も1790年の頃には感じ取っていた感傷であったであろう事が判る。
「越後、越前の青木氏」も同じであった事であろう。

江戸期前には「各地の青木氏の家」にもっと資料が遺されていた事が考えられ、現在でも「伝統」を護り「青木村」を形成している「伊豆」と「越後」にも遺されているものと考えられる。
今後の課題ではあるが「資料」が多く見つかれば「青木氏の歴史観」はもっと広がる事が間違いは無い。

兎も角も、「伊勢」では、「祖父の話」では、詳しくした「先祖伝来の由来書」成るものが「福家の青木氏」に在って、累代で「追い書」されていた事が判って居るので、「伊豆」と「越後」と「越前」にも在る筈であるから、「青木氏の歴史観」は更に広がる筈である。(伊勢は松阪大火で消失)
然し、「時間と時代との競争」であろう。

(注釈 「近江佐々木氏」の「青木氏に関する研究論文」が大いに役立っている。)

取り分け、「勘定方指導」と「江戸の伊勢屋」で動いた「享保の改革」の詳細については、「青木氏族」にしかわからないの“「誉れ」”には成るが、「伊豆、越前、越後」にも在るとは思われるが、「伊勢信濃側」から兎も角も判る範囲でまとめて続けて投稿して置く。




>この詳細は、 「伝統―22」に続く。
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「青木氏の伝統 20」-「商業組合」の発展 


[No.338] Re:「青木氏の伝統 20」-「商業組合」の発展 
投稿者:福管理人 投稿日:2016/02/09(Tue) 09:17:21


:「青木氏の伝統 19」の末尾


> 他には「武力的な援護」、「政治的な援護」と成るのだが、「青木氏の氏是」に依って「歯止め」が掛かっていて、直接の「武力的な援護」は無く、「経済的援護」の他に、「青木氏」が持つ「シンジケートに関わる援護」が多い傾向である。
> この「シンジケートの援護」であるが、「直接的な武力衝突」では無く、平穏時は「家族の身辺警護や食料の安全輸送」等に関わっていた模様である。
> 「一揆」を先ず根絶やしするには、為政者側の採る最初の作戦は、先ずは、「補給食料の断絶」や「家族への脅迫」や「調略作戦」から始まり、「武力に依る掃討作戦」は最後の手段であった。
> その前のこの作戦に「援護の対応していた役目」は、「郷士頭の家に遺る手紙」の資料から読み取ると、「青木氏」からの指示に基づき、その役目が危険であった事からこの「シンジケート」が手足と成って大いに働いていた様である。
>
> 「政治的な援護」の関りでは、「シンジケート」と関係していて、“「一揆後の立て直し援護」”と云った「援護の関り具合」に徹していた事が判る。
> 特に、「江戸期末期のシンジケート」は、時代と共に変化して「抑止力」と云うよりは「職能集団」と云った様変わりした「重要な役目柄」を演じていた事が判って居て、支配下に置いていた「伊勢水軍」の「職能集団」は、「海上輸送」で働き、各地域に配置していた武装集団は、「陸送輸送と警備担当」で働き、「大工等の職能部」は、神明社等を江戸幕府に引き渡した後は幕府から「関連企業」として受注を受けてこれを修理管理する事に働いていた。
>
> そして、明治期中期には、伊勢に於ける「青木氏のシンジケート」は、これら全てを解散して「企業」として独立させる手段を採った。
> 伊勢以外にも、例えば、「讃岐青木氏」の様に、本体は「商い部門」を瀬戸内に遺しながらも、「廻船業」として「新規航路」を作り、最終、蝦夷地にも支店を置いて大いに栄え、昭和20年まで続いていた。
>
> この様な例の様に、時代と共に体質変化させて生き延びていて、「青木氏の15地域」では、「伊勢、信濃,讃岐」は、勿論の事、有名な処では「新潟」や「富山」や「鳥取」等、多くは少なくとも昭和の初め頃まで「商業組合と提携商人」と共に存続した事が判っている。
>
> 要するに、江戸期末期に成っても依然として「賜姓族」として頑なに「地域の住民」を「賜姓五役」の「殖産や興業」に導いて、「商業組合と提携商人」は「本来の一揆の意味合い」としての貢献をしている。
>
> これらは前段の「伝統シリーズ」でも「関わり具合」を論じてはいるが、本論は「商業組合と提携商人」としての「15地域の青木氏の生き様」を「伊勢の例」を下に焦点を当てて論じた。
> これらの事は、決して、伊勢域だけの事では無く、「15地域」では、「商業組合と提携商人の組織」を形成する以上は、ほぼ同じ様な事が起こっていたのである。
> それを前提にご理解頂きたい。
>
> 次段は、矢張り、伊勢を以って、この「提携型商人」の「射和商人」に付いて例として詳しく論じる。




「伝統シリーズ-20」


そこで、江戸初期からの関係として、前段から論じている「青木氏と郷士衆と門徒衆との関係」で成立したのは「松阪商人と射和商人の商業組合」の経緯である。
この様な関係の経緯が時代毎に形を変えて上記の「一揆」には背後に必ずあった。

つまり、そこには上記の「関り具合」とは「別の媒体」としては、「青木氏の定住地」から発祥した有名な地域の「・・・商人」があった。
そもそも、「射和」(いわ)とは、現在では、「伊勢松阪の南域」に位置し、「玉城地域」との川を隔てた北側の処にある「古い町並みの地域」の事である。
この地域は、従って、この“「力の背景」”を得て「歴史の荒波」を得ても消失する事も無く、江戸期を経ても何と現存しているのである。
(当初の「古い街並み」そのものも遺っている。)
改めて、その「商業組合の拠点」となった「伊勢松阪」は、奈良期の古来よりの「伊勢青木氏の定住地」であった。
然し、戦乱後の室町期末期には、「秀吉の許可」を得て「蒲生氏郷の本領安堵策」で旧領も含めて認められた為に幸いに「安堵の経過」を経た。
これが「青木氏が関わる地域」の「伝統」を維持出来た大きな要素の一つであった。

「郷士衆や民」との「心のつながり」が悠久の時からのものとして維持出来たのである。
それは、前段で論じた「紀州伊勢で起こった一揆の関係」で証明できる。
この「心のつながり」が霧消して居れば、「青木氏」に「経済的背景と成る力」が在ったとしても、「一揆」までの援護をしていたかは大いに疑問である。
恐らくは、この事(本領安堵)が無ければ心は霧消していたと観られる。
その“「遺った心」”が此れから論じる“「商業組合と御師制度」”を結び付けて維持する事に成功したと考えられる。
唯、「松阪の氏郷の商業策」として「城郭整備」の為に移動し、「伊勢松阪の屋敷町」の9番地から11番地の「広大な3地域」を与えられ、そこを「青木氏の商業拠点」としたと伝えられている。

「蒲生氏郷」は、この1588年に飯高郡矢川庄四五百森(よいほのもり)で松阪城建築に伴い特別な「楽市楽座」と呼ばれる概念で「町の縄張り」も行った。
この時、「氏郷」は、寺社などの商業に関わらないものは町の外側に配置した。
そこで、戦乱を前提に町筋を直線ではなく“町角”を要所に造り“道幅”を変えて一度に多くの“敵兵”が攻め込めないようにした。
そして、「伊勢郷氏」や「伊勢郷士衆」や「伊勢商人」を強制的に移住させて「特殊な城下町」(湊町)を作り上げた。

(注釈 近江より「近江商人 日野町」を呼び寄せてまで「商人の町造り」をした。これが下記に論じる問題を起こした.)

そもそも、「伊勢松阪」は「伊勢神宮のお膝元」である事から、古来より「不入不倫の権」で護られ、城等を建築する事を「朝廷政権」、所謂、「西の政権」が室町期まで禁じていたが、「信長」に依ってこの慣例は破られていた。
現在で云う“「商業テナント」”を「街の中心」に据え、その周囲に近江より呼び寄せた「家臣集団」や伊勢の「主だった郷氏や郷士衆」や「主だった町衆」に敷地を与え「商業都市域の住宅街」を築き、当時としては画期的な“「特殊な城下町」”の基礎を構築したのである。

(注釈 唯、江戸期に入り「紀州藩の飛び地領」と成った事から、この「庶民の町屋構造」(西十町東九町)が不便と成り廃棄し廃藩をした。
その後、条理性のある「紀州藩武士の屋敷町構造」(殿町)に造り換えられた。この「屋敷町」には紀州藩支藩の田辺藩の家臣が赴任した。)

「青木氏」には、この「特殊な城下町」に与えられた3区画も、依然として紀州藩より安堵とされた。
そこで引き続き、与えられた区画のここを「商業組合の拠点」としても使われる様に成ったのである。
「紀州藩の安堵目的」には、事前の「談合の結果」(2度)として、「荒廃した伊勢の発展」の為に、「状況証拠と商業記録」だけで確定した記録が遺されてはいないが、「商業拠点」(青木氏提案)とする事があったと観られる。
そして、その「提案」に基づき、そこを、主に「伊賀和紙を扱う総合商社の紙屋」の下屋敷(拠点)にしたと考えられる。

注釈として、この時、「紀州藩」は不便な角部のある「幅狭の街並み」を態々と変えている。
この意味する処は何であったのかが問題である。
「何らかの目的」があってこそ「改善」をしたのである。
「金銭」をつぎ込んでここに新たに別に「西棟10戸 東棟9戸の家臣、即ち、紀州藩家老田所氏の家臣の武家屋敷町 一戸 間口5間 奥行5間」に編成し直した。
「青木氏の一区画300坪」とされているが、何と武士屋敷比35倍 「福家の一部住居」にも成っていた。

これは、明らかに「青木氏の提案」、即ち「商業組合の実現」を企画しての変更であったと観られる。
それでなくては、こんな「家臣の武家屋敷町」の真ん中に「強大な敷地の屋敷」を幾ら「旧来の郷氏」であったとしても与える事は無いであろう。

前段でも論じたが、「二足の草鞋策」で、「伊賀和紙」(伊勢和紙とも云う)を奈良期から殖産し興業化して作り始め、正式には925年頃に「商い」を営み、更に1025年頃には「総合商社の豪商」となり、歴史にも出て来る位の「商い」を松阪で営んでいた。(前段で論じた。)
そして、江戸期には、「紀州徳川藩」の「勘定方」を指導し、「吉宗」に同行して「享保の改革」(青木六兵衛)にも参加して、その「商法」を活かしていた。
江戸時代には、従って、地元の“「伊勢」“は「紀州藩飛び地領」として、特に力を入れ「松阪商人と射和商人などの伊勢商人」を多く輩出させた地域でもある。

ここまで「紀州徳川氏との関係」を成すには、根本に「何らかの特別な話し合い」が無くては無し得る事では無い。
この関係が「家康との談合時」の「商業組合の提案」にあったと観ている。
「西の大阪」に対して、「家康」と「青木氏」の両者は、「荒廃する伊勢」を立て直すには、「伊勢」には「試験的な自由な商業都市の実現」を目指したと観られる。
この事が次ぎに明らかに成る。

実は、前段の「商業組合」と共に、“「御師制度」”と云う「職能集団の組織制度」を「江戸幕府組織」に「吉宗」は持ち込み採用したが、この事に付いて特段で論じる必要がある。
そもそも、この“「御師制度」”とは、元は奈良期からの「伊勢神宮の職能集団の制度」であった。
そして、「伊勢神宮の皇祖神」の「子神の祖先神」(青木氏の守護神)の「神明社の神職」(青木氏族と佐々木氏族)などがこの「御師」(おし)に選ばれていた。
ところが、「御師の首魁の青木氏」は、この「御師制度」を「青木氏」の中にも持ち込んで、「二足の草鞋策」の維持に活用していたのである。
当然に、この「商業組合」の組織等にもこの「御師制度」を適用したのである。

前段で論じた(イ)(ロ)(ハ)の{身分・格式・職種」等の不必要な垣根を取り除いた”「自由な組織体」”にこの「御師制度」を適用したのである。
一見して矛盾する制度であるが、然し、その矛盾すると観られていた「御師制度」は、この「商業組合」に生きたのである。

では、”これは何故なのか”である。
それは、”「自由」”であるが故に、”完全に放置すれば飛散する”はこの世の条理である。
何処かで“飛散を止める仕組み”が必要であって、それは「内部の飛散」では無く、外側、況や、“「外郭の飛散」を留める仕組み”が必要であった。
「職能別」にまとめて放置すると、初期の段階では纏まるが、暫くすると“喉元過ぎれば熱さ知らず”の例えの通り、ある一つの職能別集団に何時かは「独立の機運」が蔓延して他の職能別集団との連携が上手く採れなくなる。
こうなると「全体の商業組合の効果」は半減低下し、何時かは離散するが条理であり、これが「自由を前提とする組織の欠点」でもある。
だとすると、“外に離散する事”を先ずは防げばよいと云う事に成る。
そうすれば、「外郭の範囲」の中で多少の「自由」は阻害されたとしても纏まる事が出来る。これがこの世の習いの条理である。
つまり、突き詰めれば、その「疎外のリスク」が「全体の享受メリット」に比して極小であれば組織は成り立つ。

「離散防止の役目」=「疎外のリスク」<「全体の享受メリット」=「御師制度」

この世は以上の数式論が成り立つ。

この「離散防止の役目」を果たしたのが「御師制度」であった。

この「単なる御師制度」では駄目であった様である工夫が成されている。
そもそも、この「商業組合」に持ち込んだ「御師制度」は、資料から読み取るに、可成り初期段階に持ち込まれていたと観られる。

幾ら「自由」の「商業組合」とは云え、「社会の自由」は「封建制度と氏家制度」とで出来ている限りふ「個人の概念」”は制限される範囲に在ったし、現在の様にそもそも体質的にそう「自由な発想の概念」を持ち合わせていなかった筈で、「社会全般の概念」がそうであった筈である。
むしろ、どちらかと云うと、「古式豊かな概念」の中に、他の者達より「新しい自由な概念」をより多く持ち合わせていたと云う事であろう。
この「新しい自由な概念」なるものは、現在の発想する「自由な概念」と云うものでは無く、「商業」と云うものから発展した概念であったと観られる。

伊勢には、昔から、”「近江泥棒に伊勢乞食」”と言う言葉が遺されている。
つまり、「近江商人」は“「がめつい商法」”、に対して「伊勢商人」は、「質素倹約の商法」の意味で呼ばれていた。
元より、この「質素倹約の商法」の“「商い」”をより豊かにするには、「質素倹約」の「固定概念」に捉われていては「商い」は成り立たない。
“「商い」”と云うものは、そもそもその「自由の原点」から発想されているものである。
この「質素倹約の商法」の「商いの概念」の中で発育した範囲からの“「自由概念」”であったと観られる。

当に、奈良期から行われていた「外国との貿易」はこの概念の範囲からのものであった筈である。

「質素倹約商法」+「自由」=「伊勢商法」+「商業組合」

以上の関係式が成り立つ商法であった。

遺された手紙の中の一節を読み取ると、「質素倹約の商法」の中での「商業組合」は、丁度、現在で云えば、”「産業別と職能別の共同連合会」の形式”に似ていると考えられる。
これに適合させた「御師制度」が、「単なる御師制度」では無かったと云う事の“もう一つの策”で有ったと観られる。

「質素倹約の商法」+「自由」=「伊勢商法」+「商業組合」+「御師制度」

この会、即ち、「御師制度」が「自由」から起こる“外郭の飛散を留める仕組み”を果たしていたと云う事に成る。

では、“一体、「商業組合と御師制度の関係」がどの様な仕組みに成っていたのか“と云う事である。
これが、”「単なる御師制度」では無かった“とする他の”もう一つの策“とは、「産業別と職能別の共同の連合会の様な類似形式の上に、この「個々の組織の頭」に”伊勢紀州の「郷士衆」を置いた”と云う事であった。

「質素倹約商法」+「自由」+「郷士衆」=「伊勢商法」+「商業組合」+「御師制度」

「個々の職能の組織の職人」をその「共同連合会の様な形式」と成っていた会の「会頭」に置くのでは無く、その「職能の責任者(差配頭)」としてその「地域の郷士」を置いて、その「組織」を纏めさせ「全体の生産工程」をも差配させていた模様である。

そしてこの「郷士の家人」がこの「事務的な実務」を担っていた事が判って居る。
この「郷士家人」とは、その「職能者の家筋の者」であった様である。
そして、身分格式を問わず「職能者全員」は「下級武士を含む農工の民」の広い範囲で構成されていたのである。
ここで「職能集団がまとまる糸筋」なるものを作り上げていた事に成る。

この「伊勢紀州の郷士」には、前段で論じた様に、“「郷士頭」”があって、「商業組合」とは別に、「青木氏との関係」で繋がっていた。
この事から、この“「郷士頭」”は、「青木氏四家との関係」と「職能集団の差配頭の郷士との関係」と「20近くあった青木氏部の頭」と「門徒衆との関係の頭」としての“「五つの責任」”を負っていた事に成る。

この様に前段でも論じたが、この「下部組織の長」と観られる“「郷士頭」”は実に重責な位置を維持していた事に成る。
この「郷士頭」は、資料の中では“「郷士頭」”と書かれているが、普通の呼称は、単に“「・・の長」等”と氏名を着けて「敬愛の意味」を込めて呼ばれていた模様である。
故に、現存する幾つかの「郷士頭の家筋」には、現在までも「青木氏の生き様」を証明し得る重要な手紙などの資料と成るものが保存されていたのである。

(注釈 筆者幼少の頃には南勢と南紀のこの何軒かの「郷士頭の家:縁者」に何日も泊まる旅をした事を覚えている。
中には現在でも南紀の老舗大旅館を営んでいる。)

これらの資料によると、年に「二度の全体会議(戦略会議)」と成る集会があり、上記の「五つの責任」の「組織」のそれぞれの部門集会は「四度の会議(営業会議)」が催され、それぞれの「職能部門の会議(工程会議)」は「毎月」に行われていた事に成っている。

ところが年に一度、秋の頃に「祭りの様な集会」が、「伊勢松阪青木氏の福家の屋敷と菩提寺」であって、「土産物」を貰って帰る等の催しの祭事で、職能者の作業者全員(組合員)が参加した様で、「遠祖地のある南紀」からも「伊勢松阪」までも二日掛けても参加している。
要するに、「伊勢運動会」であり、「二つある菩提寺」は「てんてこ舞い」であったと記されている。

この事は,「五つの責任」に加えて次ぎの「六つの組織」で構成されていた。
「青木氏の四家組織」(A)
「商業組合の組織」(B)
「御師制度の組織」(C)
「紀州伊勢郷士衆の組織」(D)と、
「郷士頭」が世話をしていた「門徒衆との組織」(E)

更には、次ぎの組織が加えられる。
「神明社の連携」と「伊勢信濃シンジケート組織」(F)

以上が有機的に関係を維持し動いていたと云う事を示している。

これが「商業組合」を効果的に存続させていた事の大きな要因であった。

当然に、この「六つの組織」で「15地域との関係」にも連携が取れ易かったのである。
「15地域」にもこれとほぼ似た組織形態を採っていた事が「越後青木氏」や「越前青木氏」の資料からも判っている。
この「15地域との関係」は「伊勢青木氏四家」が責任を持って維持していたのである。
「伊勢青木氏四家」が持つ組織を更に活用した「重層的な組織」を作り上げていた。
この「情報のやり取り」は「神明社」が行い、「連絡と搬送と護衛」は「伊勢信濃シンジケート」が行っていたのである。

そこで、「江戸幕府の組織」にこの“「御師制度」”を敷いたのには、次ぎの複雑な経緯の事があった。
若い時に伊勢で見聞きして経験していた「吉宗」が持ち込んだのには、ただ単に官僚が管轄する「職能集団の統括」と云う事の目的だけでは無く、「インフレ策」と「デフレ策」の中間とする「リフレーション」を目標とする「享保改革」には、“欠かせない制度“であったのだ。

そもそも、既に、開幕後100年近くも経っていて、官僚が管轄する幕府の職能集団の統括手段は前からもあって、遜色なくそれなりに機能していた。
それなのに新たに、この「御師制度」を態々、採用しているのには、「改革」である以上はそれを押しのけて“採用しなければならない必然性”があった事に成る。
むしろ、上記した様に、“「鷹司信子や天英院等の期待」“を背負って、“「商業組合の功績」を背景に世の中を変えられる”と云う事で「将軍」に成った以上は、“是が非でも”実行せねばならない「施策の一つ」でもあった。

それは概して、次ぎの関係式が成り立っていた。

「質素倹約商法」+「自由」+「郷士衆」=「伊勢商法」+「商業組合」+「御師制度」

以上の基本関係式の上に次ぎの数式論を展開させたのである。

「リフレーション策」=「享保改革」=「商業組合」=「御師制度の関係」

以上の「完全な二つの数式」と云っても過言では無かった。

それは「吉宗」に同行した「青木氏」が、前段で論じた「15地域」に採用している「商業組合」なる「改革的組織」を幕府の中に持ち込んで、“「リフレーション」で改革を進めようとする”には、上記した様に是非に必要とする「政策手段」であったのである。
要するに、伊勢紀州から始めて「15地域」に広めて成功した「商業組合と御師制度」を持ち込み、それを「リフレーション政策の基軸」に据えたのである。

その証拠には、「将軍」に成る為に行列をして江戸に向けて移動する隊とは別に、記録によると“「青木氏の別動隊」”として同行した中に、「御師制度の郷士頭」が数名参加している。
そこで疑問は、”何で「御師制度の郷士頭」が参加しているのか”である。

本来なら必要無い筈であるが、初めからその心算であった事を物語っている。
つまり、「上記の関係式」を描いての事であった事に成る。

況や、「将軍」に成る前提(鷹司信子や天英院等の期待)として据えていた事に成る。
確かに説得に納得した「鷹司信子や天英院等の期待」もあったが、筆者は、“宗家外からの将軍”と云う事に捉われて反対する「幕閣」を、ある理屈で「抑え込む手段」でもあったとも観ている。

(注釈 この内の「郷士頭」の1名が「隅切り角桔梗紋の職能青木氏」(「青木氏部」)を名乗って江戸に子孫を遺している。
明らかに「伊勢の職能集団」が同行していた証拠である。)

江戸初期1600年頃に松阪に「商業組合の拠点」を構え、「商業組合と提携商人の改革」を始めて、頼宣入城(1619年)を経て「商業組合」が「15地域」で成功しての成長期から、1716年までには約100年の「改革の熟成期間」があって、既に、この「システム」は確立して「15地域」を結ぶ「一つの商業圏」を構成して隆盛期に入っていた時期でもあった。
(1603年に家康は「征夷大将軍」に成る。)
ところが、この時期の享保期の前の「元禄期から宝永期」までは、「天変地異の飢饉」などが異常なまでに多発し、この為に経済が疲弊し庶民は飢餓していた。
合わせて、政治は次ぎの様に「失政」を重ねていた。

そこで「享保の前までの幕府」は,成熟していない”「三貨制度」”の下で「貨幣の鋳造比率」を変える等で逃げようとした。
然し、ところがこれが「逆効果]と成り、「15地域の経済圏」を除く他の地域の経済は、極めて疲弊し最悪の状況下であった。
むしろ、「幕府]はどうしていいか判らないと云う状況下に陥っていた。
ところが、「15地域」は違っていた。
従って、この「15地域の経済圏」は、隆盛を極め周囲から「譫妄の的」であって、周囲は「一揆」とは成らずとも「騒動」が各地で多発していた。
当然に、御三家の紀州藩は「吉宗」を盛り立てて「青木氏の勘定方指導」で経済も然ること乍ら「民の心」も平癒に成っていたのであった。

(注釈 どの程度の紀州藩の「善政」かと云うと、何と前政の「幕府からの借財10万両の返済」を一挙に成し遂げたのである。)

前段で論じた様に、「1619年頼宣入城」までは「紀州」は周囲と異なり「錯乱に近い状況」であったのに、この「商業組合の改革」で「殖産事業」が進み「豊潤な改革」で発展を遂げていたのである。
(前段で論じた下記の「一揆年譜」参照)

幕府の一部(鷹司信子と天英院)には、これを観て、「解決し得る次ぎの為政者]と成る「将軍」には、この「善政を成している伊勢紀州」から、又、「15地域を改革して成功裏に収めていた青木氏」が「親代わり」に成っている「吉宗」を適任として「周囲の反対」を押し切ってでも「将軍」に押し出したと思われる。

注釈として、公説の一説では、「家康との世代的近さ」や「綱吉の家系被弱」により「将軍」に成ったとされているが、真因は決まっていない。
社会はそんな説の様な生易しい状況では無かった。

市場では「後継者の決め方」では「幕府」は潰れるとさえ思われていて、ある「東西の二つの大大名」が「不穏な動き」を現実にしていたのである。
確かに「綱吉から綱継」まで続いて「三代急逝」が続いて偶然に起こったのであるが、そうであるとしたら、「御三家」と云う範囲の事では無くても他の「近親の松平氏」でも成り得る。
(筆者は[不穏な動き]を察知した幕閣による暗殺と観ている。)

そもそも、渦中の「尾張藩」は、元々は「紀州藩」と「水戸藩」を差し置いて「御三家の筆頭格」と位置付けられていた家柄で正式に格式も上位であった。
且つ、「将軍宗家」より次々と「養子」を入れて、「宗家血縁の筆頭家柄」として存続されていたものである。
尚又、「尾張藩」はこの務めを果たすべく“「御連枝族」”という特別の「分家族」を置き、「尾張藩の宗家」に「世継ぎ」が欠けた場合は、この「御連枝族」から充足する仕組みに成っていた。
且つ、「将軍家]から「庸氏族]が次ぎつから次へと「養子」が入る慣習に従っていた事から、その後に「将軍家」に戻すと云う組織が出来上がっていたのである。
絶対に「将軍家宗家の血筋」を男系女系に関わらず引き継ぐ事の出来る体制にあったのである。

これでは、「御三家」と云えども「水戸藩」と「紀州藩」は、実質は一種の「飾りの様な立場」にあった。
その為に、取り分け、「水戸藩」は事前に「初代遺訓」として、初めから「御意見番の立場」を護る事を云い伝えられていたのである。
又、その「尾張藩」では、「水戸藩」と同じ様に、「初代遺訓(「一族秘訓)」があって、“「王命に依って催さるる事」”とされていた。
これを護っていた「家臣団」には、“初代の家系からは将軍をだせない”と云う不満が強く、「維新の戦い」の際は官軍側に付いた「謂れの結果」となったのである。
「紀州藩」にしても、前段で論じた様に、「将軍家」から「紀州藩初代頼宣」が「謀反人の家」と云うレッテルを張られてしまった経緯があって、“尾張藩の様に将軍家との血縁のつながり”を持つ事が出来なかった。
「尾張藩の家臣団の不満」と同じ様に、「紀州藩の家臣団」と成った「藤原秀郷一門(伊勢藤氏等)」から成る伊勢紀州の「郷士衆の家臣団」にも只ならぬ警戒心が強かったのである。

この事から、この「掟」とも成っていた「慣習の基元」にある「尾張藩」を跳ね除けて「紀州藩」と成ったのである。
「尾張藩の継友」や家系には「将軍」に成るに決定的な欠陥があった訳でも何でもない。
むしろ、「三代急逝の偶然」があった後であり、この時にこそ「家康の遺訓」に従い“存在する藩”であって「成るべくして成れる立場」にあった。
ところが、これらの条件を覆して「古い慣習掟」を崩してまでも、「紀州藩」に「将軍が廻る事等の要素」は上記する以外にはこの段階では全くは無かったのである。
どちらかと云うと、「当然に成るべき立場」にあって、「尾張藩」に執っては当に「晴天の霹靂」と云える出来事ではあった。

これでは、普通に考えても、藩主側は兎も角も、元からの「家臣団」には更に「強い遺恨」が残るのは必定で、遺らない方が氏家制度の中では無気力と批判されても仕方がない諸行であろう。
現実には、「尾張藩」には幕末まで将軍を出す事は無かった。

「吉宗」が行う「享保の改革」に、上記した様に真っ向から反対した「尾張藩の姿勢」は、この「経緯の事」から来ていると考えられる。
従って、この「二つの説」では、この「幕府」としても、況して、“「宗家」”と云う意味を持つ「家系の形式」を採っている「徳川氏」である限りは、この上記する「重要な慣習・掟」をも完全に無視した説にも成っている。
況して、「家康の遺訓」では、それまでは嫡子は子供の誰でも選んで据えても良い事に成っていて、要するに、原則、“「宗家」で「嫡男」は「長男」と云う慣習“を決めたのは家康そのものであった。

「お万の方」がこの「家康]に「世継ぎ」で”「争い」になっている事“を相談した時に「家康」がこの原則を始めて作った人物である。
それ以後、これに従って、大名格を始として「武士の家」の「世継ぎ争い」を避ける為にこの「原則の慣習」を護り始めた事に成ったのである。
従って、「徳川宗家」は「尾張藩」に「純然とした初代の尾張藩血筋」を継承するのでは無く、「将軍家の血筋」を「養子」として事前に何度も入れて、万が一の場合に「将軍家に戻す仕来り」を作って置いたのである。

(注釈 「伊勢青木氏」と1600年の初め頃に二度に渡り「家康と談合」を重ねたが、この時に「青木氏」の「四家制度」を知って「御三家の制度」にして模擬したと観ている。
その「将軍家」が「福家」とし、「御三家」が残りの「三家」とし、「尾張藩」には「将軍家血筋の養子家」、即ち、前段で論じた様に、「青木氏」の「孫域」までを「福家の世継ぎ」の「“子供”の仕来り」を類似させて、「徳川氏の仕来り」を作り上げたと観ている。)

この経緯から,「長男」であるかは別として、“「宗家」”と云う「本血筋を護り通す本家の家筋」を定めたのであるから、「徳川氏」が絶対に護らなければならない「家康遺訓」にも反する事に成っているのである。
この事からこの「二つの説」は実に付け焼刃の具体性に欠ける説と成る。
もっと云い換えれば、これらの「二つの説」では“誰でも良かった”と云う事に成り得る。
そんな生易しい世継ぎの事では無かった。

あるとすれば、「綱吉(五代)」が行う当時の「幕府の政治状況」、取り分け、「経済状況」と「幕府の財政状況」は「瀕死の床」に在った。

(注釈 四代綱家は、多くの学者を登用して「政治的には多くの令制」を敷いて安定したが経済は全く疲弊していた。
「五代目の綱吉」は人物が良すぎて周囲に左右されてこの「政治」さえも低下させてしまった。)

そもそも、「吉宗」が、“「幕府中興の祖」”と云われている限りは、この「二つの説の論説」とは一致せず、この「将軍擁立説」は兎も角もおかしい。
唯、共通する事としては、「二つの説」は、「吉宗」が”紀州藩財政を立て直した“と云う事には否定はしていない。

上記する様に、「吉宗」は伊勢に育ち「青木氏と加納氏」が「親代わり」に成って22歳まで育てられて、「青木氏の商業活動」などの事に関わって見聞して経験を拡げて来た。
大変真面目で、論理性が強く、「経済の成り立ち」や「社会構造の成り立ち」や「歴史」などにも強く興味を持った「堅実な人物]で、「頭の回転の速い機敏な性格」であったと「青木氏」には伝えられている。
ところが、この「紀州藩」でも藩主と成るべき者が、これまた父、兄、次兄と不思議に三代続いて急逝して、成るべき立場に無かった身分の低い「吉宗」(嫡子外)に「藩主の座」が廻って来る運命にあって、「時代」が「吉宗」を「将軍」まで押し上げるべく動いた事では事実である。
この為に、他の兄弟と共に、態々、紀州の膝元に置かず、殆ど付き人となった下級家臣の実家先の「伊勢加納氏(祖先は伊勢秀郷一門の郷士衆)」と「二つの伊勢青木氏」に隠す様に預けた経緯を持っていたのである。
確かにこんな「二度の急逝の偶然」は考え難い。
設えたにしても起こり得ない“「偶然」”でもある。(今回は真因説は不問)
幾ら何でもこの“「二つの偶然」”が、“「将軍」にする”と云う事だけでは現実の世の中では起こらない。
この“「二つの偶然」”を利用して、それなりの「根拠」と「財力」とを以って「人」が動けば成し得るものである。
決してこの“「単なる偶然」”だけでは成し得ない。

この図式には、古来より次ぎの数式が成り立つ。

「偶然(運)」+「根拠(実績)」+「財力(背景)」+「地域力(基盤)」+「人(知力)」=「目的」(将軍)

以上の数式論が必ず働いている。例外はない。

但し、この“「二つの偶然」”を「動かす力」が必要なのである。
「動かす力」には上記の「六つの要素」が働く。

この「六つの要素」が大きければ大きい程に「目的」を「叶える力」は大きく成り成就する。
要するに、「吉宗」にはこの「六つの要素」が極めて高かった事を示している。

要素-1 「偶然(運)」=「二度の急逝」
要素-2 「根拠(実績)」=「15地域の商業組合策」
要素-3 「財力(背景)」=「青木氏の500万両の経済力」
要素-4 「地域力(基盤)」=「御三家」
要素-5 「人(知力)」=「郷士衆と御師制度」
要素-6 「目的」(将軍)=「改革の理想」

「全国の青木氏」はこの「二つの偶然」等の「六つ要素」の高さを観て、「総力」を挙げて“「吉宗」を「将軍」に”と「尾張藩の慣習・掟のある事の経緯」を知りながらも、現実には八方手を尽くして押し出した。
この時、“紀州藩から将軍に“と云う事があったのかと云う事で持つ意味が違うが、この記録は未だ見つからない。

筆者は、「頼宣謀反の経緯」があって、未だ、「紀州藩主四代の吉宗」(三代四代は急逝で実質三代 年数では100年間 実質は頼宣1671年-光貞1705年 10年間程度の経過期間)までである。
従って、この「遺恨」は全く消えていないと観ていて、「水戸藩」と同じく、この段階では「尾張藩の慣習・掟のある事の経緯」を知っていれば、“紀州藩から将軍を”と云う発想は、先ずは官僚からは普通では起こらないだろうと観ている。

「吉宗の意志」では、「将軍」に成ろうとするは「意志と行動」は,「吉宗の発言や行状の記録」から無かった様である。

「吉宗と官僚」からは無かったとすると、“「周囲の人」”と成って来る。
そうすると、「青木氏等の郷士衆」と「伊勢藤氏の青木氏を含む秀郷一門」であった事に成る。

依って、上記の数式論から、「要素-2345」と成り、この「4/6の事」は「周囲の要素」で占めている事に成る。

「紀州藩の家臣団の官僚」が、「4/6の事」から “将軍に押し出すと云う事”は無理と云う判断と成り得て先ず無い事は判る。

「吉宗が持つ要素」は、「要素-1と6」と成る。

ところが、次ぎの様に働く筈である。

「要素-4」では、「地域力(基盤)」=「御三家」では、次ぎの様に成る。
「家臣団の賛同」が得られない事(基盤)
「尾張藩の慣習・掟のある事の経緯」の事(御三家)、

「要素-6」では、次ぎの様に成る。
「目的と成る改革」を実行するには、これを「支える周囲」を含む「地域の力」(青木氏)の事

以上の「三つの事」から、「吉宗自身」には幾らかのものはあったと考えられるが充分には備わっていない。

結局は、「要素-6」が「決めて」と成るが、この「要素-6」はそもそも「個人」でそもそも成し得ない。
「家臣団、青木氏、郷士衆」、も含めて、“「周囲の力」”で「具体的」に作り上げられるものである。
とすると、「吉宗の持つ要素」は「要素-1」だけと成るが、実際はそうでは無かった。

確かに、「吉宗」には、記録によると、上記の通りの「器」としての資質では、人より「行動的」で、「判断力」が良く、「調整力」を持ち、「理解力」は特段優れ、「公平性」のある「持ち主」で、「人の話をよく聞く事」にあったと成る。
つまり、「人」を動かす「大きな組織集団の頭目資質」があったと云う事に成る。

故に、「要素-1」の「偶然」と、この「持って生まれた性格」が一致したのではないかと観られる。
ところが、唯、この「継友」にもこの「要素-1」の「偶然」が「吉宗」と同じく尾張藩に起こっているのである。

矢張り、兄の四代、甥の五代がこれも不思議に急逝していて、「部屋住み」であった「継友」に廻って来て第六代藩主と成った経緯を持っている。

「違っている点」が決定的に在った。
それは、混乱期に「将軍として成り得るの資質」にあった。
「継友」は異常なまでも「ケチで短慮」あって、尾張でも”「切干大根」”のあだ名があって有名な事であった。
この事があって、その質にあらずとして不満を持つ「在来の家臣団と重臣」は「遺訓」を理由にして、上記した様に「筆頭の将軍継承藩」であり乍ら、就任運動を全くしなかった。

何と「不文律な行動]も多く在り、その「資質」から家臣と庶民から信望が無かったのであり、その為に母方は公家で在りながらも「官位の申請(大納言)」もしなかった為に「将軍に成り得る資格」を失って仕舞ったのである。
家臣と重臣から全く反抗されていたのである。
つまり、「要素-6」は無かったとされている。

しかし、反面、一部擁立派はこの批判に抗する為に、「綱吉の放漫財政」を質す事無く、尾張藩では逆にこれを補う為に家臣の俸給と強引な人員整理を実行し出費を抑えて黒字を残した。
しかし、家臣からは完全に賛同と支持を失った。

「家人」や「家臣」が犠牲に成るこの強引な「財政立直し」であって、「市場の経済的改革」を経て市場から得た税の獲得では無かった。
ただ一人(異母弟)の「将軍擁立派」が誉めそやした「名古屋と云う局部的で一時的な実績」であって、況や「ケチと短気」から来る単なる「緊縮財政」を採っただけであった。
これで、「市場の力」を温存した為に、名古屋だけには緊縮財政での金が落ちて確かに名古屋は発展し人口も増えたし、「吉宗の享保の改革」で圧迫を受けた「江戸商人」の「三井家の越後屋」も後に名古屋で「インフレ策」を採る「継友」に協力をした。
ここは、「江戸商人」の「三井家の越後屋」で一見して「要素-3」には成るが、あくまでも、「経済的利益での結び付き」であり、決して「親代わりの立場」と「吉宗の資質」と「家臣の賛同と支持」を得てでの「強い結びつき」では無かった。


その「資質」を「周囲の者」(「要素-6」 青木氏等)が見抜いて、先ずは押し出したと成る。
この「性格的な資質」は、「吉宗」の「生みの親の母(湯殿女)」からのものであった。
先天的には母親の郷の「紀州巨勢氏」と、後天的には伊勢の「育ての親」の「青木氏と加納氏」から形成されたものであろう。

(注釈 「秀郷一門の伊勢郷士」であった「付人の加納氏」も「二足の草鞋策」で「加納屋」を営む。)

そこで、「継友」と「吉宗」には、「尾張藩」と「紀州藩」とには、“一体何が違ったのか”と云う疑問が出る。
上記の「六つの要素」で比較して観ると、結局はその違いは次ぎの結果と成り得る。

要素-1 「偶然(運)」=「二度の急逝」
要素-2 「根拠(実績)」=「15地域の商業組合策」
要素-3 「財力(背景)」=「青木氏の500万両の経済力」
要素-4 「地域力(基盤)」=「御三家」
要素-5 「人(知力)」=「郷士衆と御師制度」
要素-6 「目的」(将軍)=「改革の理想」

「吉宗」  「継友」
要素-1 「吉宗」<「継友」
要素-2 「吉宗」>「継友」
要素-3 「吉宗」>「継友」
要素-4 「吉宗」<「継友」
要素-5 「吉宗」>「継友」
要素-6 「吉宗」=「継友」

そこで、「吉宗側」では「要素-5」、「継友側」では「要素-4」は比べ物にならない程に相互に差違がある。
確かに、「要素-1」の「偶然(運)」では、吉宗には「紀州藩での三代急逝」があったが、これは吉宗が藩主に成れたと云う事に外ならない。(継友にもあった。)

従って、この「六つの要素」の比較に入れたと云う事であって「将軍」に直接的な要因とはならない。

吉宗自身としては別として、「吉宗側の周囲(要素-6)」に執っては「要素-1」は大きく働くと観た筈である。
そうすると、「継友側」に「要素-4」の上記した経緯がある事に依り、「要素-1」は「継友側」に有利に働く事に成る。
結局、「吉宗側」に「要素-2」と「要素-3」が有利と成る。

但し、「要素-5」は「要素-2」と「要素-3」に連動している。
従って、「要素-5」と「要素-4」の差違は、「要素-5」の「吉宗側」に有利に働く事に成る。
これは「吉宗の周囲要素」と成る事から、「要素-6」に連動する事に成る。

(「要素-2」+「要素-3」)←(「要素-5」+「要素-6」)

以上の数式論が起こって、「鷹司信子と天英院」は「説得」に応じたのであろう。
「幕閣」は「要素-4」だけでは「ごり押し」は無理と考え、「抵抗」をこの数式論から緩め、遂には、「鷹司信子と天英院の説得劇」で、「将来の事」から不利と観て、最終的に“黙った”と云う事に成る。

その「押し出す根拠」は、「青木氏等が行う経済改革」を経験していて「親代わり」に成って紀州藩(勘定方指導)を,そして、周囲も、遂には“幕府を”と成って、世間や経済に弱い筈の「鷹司信子や天英院」の幕政から遠く離れた女性陣に、この現状の世間の最悪の経済状況を説き知らしめ、改善し改革するには、「上記の実績」を説き「経済説論」を強力に陰から訴えたのであろう。

故に、そうで無ければ、常に「保守性の強い宗家論」に引きずられる幕府を変える事等は先ず考え難い。
両説の二説であるなら、「綱吉の後の処」でも良かった筈である。

偶然にも、五、六、七代と宗家には三代続いて不思議に急逝すると云う事が起こった。
一時的には幕府には決定する嗣子が無く成り、「世継ぎの決定者」は「遺族の女性陣と幕閣」と云う事に成る。
そうすると「幕閣」は、持論の「宗家論」が難しいと云う事に成れば、必然的に「将軍継承者」は、上記した様に遺訓に依り「ご意見番」に徹する「水戸家」は兎も角も「尾張家」から持ってこようとするは必然である。
決して「謀反の嫌疑」を掛けられた「紀州藩」と成る事は無い。

この時に、「幕閣」は、「尾張藩(継友)」を押し出す以上は、上記の「偶然(運)」+「根拠(実績)」+「財力(背景)」+「地域力(基盤)」+「人(知力)」=「目的」(将軍)の図式の比較が必然的に行われる事に成る。
然し、「吉宗」が持つこれに優越する「継承対象者」が尾張藩に無ければ、「要素-4」の「家康の遺訓」と成る“「御三家論」の展開”では、最早、難しく成ったのである。

その前に、この侭では「世間の不満」を背景に「北と南の雄藩」が動き「戦乱」に戻り、“「江戸幕府」が危ない”とも観たのではないかと思われる。(現実に動きが在った。)

結局、それには「幕府」や「幕閣」も、“現状を打破し脱し改革に至るまでの道筋の状態”に出来る事が「最大の対策」と成る。
果たして、「幕府」や「幕閣」の持論の「御三家論・宗家論」では「世継ぎ」が叶ったとしても“現状を打破し脱し改革に至るまでの道筋の状態”にするには誰が考えても無理である事は明明白白の状況と成っていた。
況して、「継友」には「将軍」としての“資質・器に欠けると云う批判”が高ぶる以上は、これを無理押しする事には、「北と南の雄藩」を抑えきれないと観たのであろう。

上記の図式から観て、「吉宗の優れる処」と「吉宗の背後の力」を認めて「宗家外の吉宗」を敢えて「将軍」にする事を渋々認めたのである。
結果としては、「御三家論(継友)」<「周囲論(吉宗)」が、“現状を打破し脱し改革に至るまでの道筋の状態”にする事が出来ると観たのである。

「次の課題」は、「世間に疎い女性の遺族」をどの様に説くかの難題で、それを誰がするかの問題もあった。
取り分け、「御三家論(継友)」には確固たる現状を打破し得る「経済政策論」が無かった。
確かに、「吉宗のリフレーション策」に対抗して、「継友」は「インフレーション策」を展開して「享保の改革」を批判した。
然し、「15地域の様な実績」は無かったし、「信長秀吉」が招いた「伊勢紀州の混乱」(門徒衆)を鎮めただけでは無く、他藩では出来ていなかった難題を事も無げに「青木氏の勘定方指導」で「紀州藩の財政の立て直し」にも成功させ、「商業組合と提携商人」で「15地域の地域経済」までも発展させると云う「離れ業」をも成し遂げた。

これを観ていた「北と南の雄藩」も矛先を納めるしか無かった。
当然に、「北と南の雄藩」は納まるとしたら、最後は“「次の課題」”と成る。
この手順を間違わずに踏めば納まり、“現状を打破し脱し改革に至るまでの道筋の状態”を論じられる「吉宗論」に傾く。
「紀州藩の重臣」と「全国の青木氏」がこれを担う事に成るだろう。

これを支えるのが拠点と成っている「商業組合と提携商人」と殖産を推し進める職能の「御師制度の伊勢紀州の郷士衆」である。
上段でも論じたが、これを担ったのが実績をベースに「財力と説得力」を持つ「二つの伊勢青木氏」にしかない。
何と「二つの伊勢青木氏」は押し出した。
そして、“世間や経済に弱い筈の「鷹司信子や天英院」の「幕政から遠く離れた大奥女性陣」”の説得に成功させたのである。
これで、「抵抗勢力」は「継友」だけと成り得て、「将軍資質」に欠け「家臣の信頼」を失っている藩主は「ただの人」に成り得る。

ここまで進むと「後の課題」は、「将軍にする為の吉宗側の段取り」に在った。
「経済改革の基幹」と成る「商業組合と提携商人」は「15地域」で「100年の実績」で出来ている。
後は、「御師制度の職能部門」を“「幕政仕様」”にどう仕立てるかその“「下準備」”に在った。

そこで、“「幕政仕様」”にする為の理解として「御師制度の職能制度」に付いてもう一度論じて置く。
そもそも、これは全国に配置された500社にも成る「神明社」に関わるあらゆる職能で成り立つ「大職能組織」は、この「職能」を「円滑に運営する方法」として古来から次ぎの(a)と(b)と(c)と(d)が採用されていた。

「指揮命令系統」(a)
「職能者養育」(b)
「情報伝達」(c)
「資材調達」(d)

以上を明確にした制度であった。

然し、室町期にはこれに付随させて次ぎの事(e)(f)を制度に組み込んだ。

「情報獲得源の組織」(e)
「シンジケートとの連携」(f)

以上としても活躍させていた。

「青木氏」は「伊勢神宮」を始めとする「神明社系」のその「御師の首魁」の位置にあった。
前段で論じた様に、自らも次ぎの「六つの組織」を奈良期から持っていた。
“「五家五流の青木氏の連携」(イ)“には、“「神明社等」(ロ)“を建設する“「青木氏部」(ハ)“と云う“「職能集団」(ニ)”、これらを保護すると「シンジケート(ホ)」との以上の「五つの組織」が存在していた。

ところが、「二足の草鞋策」を本格的に稼働させた時期の925年頃からの平安期には、次ぎの事が加えられた。
“「和紙殖産」を担う「職能集団」(ヘ)“もこの「青木氏部」に加わった。
そして、江戸期には本論の“「商業組合の組織」(ト)”に「御師制度」(チ)が加えられた。

「五家五流の青木氏の連携」(イ)
「神明社等」(ロ)
「青木氏部」(ハ)
「職能集団」(ニ)、
「シンジケート(ホ)」
「和紙殖産」を担う「職能集団」(ヘ)
「商業組合の組織」(ト)
「御師制度」(チ)

ところが(イ)に付いて平安中期には「近江と美濃」の「青木氏部」が「地域の抗争」が激化して、これに影響を受けて内部でも抗争が起こり衰退を興したのである。
唯、これを観た朝廷は、「朝廷の政治と経済」に大きく関わっていた「皇親族」としてのこの「青木氏の組織」を補完する事から、「皇親族青木氏の母方」であった事から「藤原秀郷一門」に青木氏と官位官職の一切を同格として名乗る事を命じたのである。
結局、残る勢力は「伊勢」と「信濃」と「甲斐」と成ったが、室町期に入ると、複雑な内部抗争が起こり、「甲斐の御師制度と殖産」は弱体して「伊勢と信濃の二流」と成ってしまった。

「青木氏の御師制度」には、次ぎの様な三つの御師があった。

「伊勢神宮の御師」(A)
「青木氏部の御師」(B)
「商業組合の御師」(C)

以上を務めていた事に成る。

この“「3つの御師の組織」“を「江戸幕府の職能集団」(1)に適用して「享保の改革の組織改革」(2)を実行したのである。

「江戸幕府の職能集団」にこの制度を必要だからと云う事で持ち込むにはそれなりの理由があった。

それは、「江戸幕府の職能集団」には「江戸商人との関係」を大きく維持していた。
ところが、この江戸組織は、前段でも論じた様に、(イ)(ロ)(ハ)をベースとする「商業組合の商人」では無かった。
むしろ、「保守的抵抗勢力」であった。

この「江戸幕府の官僚集団」がこの「江戸幕府の職能集団」の組織と繋がっている事は、「(イ)(ロ)(ハ)をベースとする商業組合」の「政策的な効果」は出る事は先ず無い。

この事から、先ず潰される事は必定で、況してや、「御師制度」と成れば尚の事である。
そうすると、「保守的抵抗勢力」の「職能部の官僚機構」と「江戸商人」を潰す事は経済には効果的では無く、混乱を招くだけで、むしろ今以上に「強烈な抵抗勢力」と成り得る。
それには、「懐柔策」を採る必要が戦略的には必要であって、何にしても「保守的抵抗勢力」の「江戸商人」を変える事は直接的に換える事は難しい。
従って、これは別にして、先ずは「職能部の官僚機構」を変える事で、必然的に問題と成る「江戸職人との関係」を軽減させて行くことが出来る。
そして、この過程で、伊勢紀州からこの専門家を呼び寄せて人事で入れて、その官僚の「職能部門を管理する長に据えて掛からせれば、次第に問題の「官僚機構」は変化を起こし、結果として職人との仲介役と成っている“「江戸商人」”は換わらざるを得ない結果と成り得る。
(三井家の越後屋名古屋に出店等)

では、“職能管理部門の長だけを変えれば換わるか“と云うとそんな簡単な事では無い。
当然にこの「長」は、“職能に熟知している事”は勿論の事として、その下に働く者も熟知し、上記する「御師制度」は勿論の事、「商業組合の経済機構の組織」の事も合わせて熟知している者ではならない。
だとすると、必然的に、「紀州藩の職能部門の家臣」と、これと連携して働いていた「郷士衆か郷士頭」を呼び寄せて「陪臣」にして、要所々に配置して働かせる事が必要である事に成る。

上記した様に、先ず「青木氏の別動隊」に「郷士頭」が同行していたのは、この為の先行隊であった事に成り、「吉宗の政治の履歴」を観ると、途中で「大量の紀州家臣団200人」を呼び寄せている。
この事で、元からいた「幕臣の反対(抵抗)運動」が起こっていて、それを押し切る形で大量に呼び寄せている。
彼の有名な大岡越前守等はその典型的な人事であった。

当然に、この「組織改革」には“「反抗勢力」”があり、その形の表れとして“「訴訟」”が起こるであろう。
現実に、記録を観ると、民間では無く「紀州藩」を相手に「幕府」が訴訟を多く起こしている。

それも、「御三家の紀州藩」に対してである。
その多くは、「寺社の領地」、「紀州藩の領地]、「紀州藩重臣の領地」や「伊勢紀州の郷氏の地権」や、挙句は紀州藩が管理する「天領地」の「地権争い」で主に争われている。

伊勢紀州は古来より「不入不倫の権」で護られていた事から、「遷宮地」でもあり旧来からの「天領地」や「青木氏や伊勢藤氏」等の「郷氏領地の地権」や「天皇家に由来する神社仏閣の領地」「熊野神社等の広大な社領」が戦乱に巻き込まれずに存続し、それが「紀州藩の管理」の下に置かれていた。
実質は「藩領」としては大きくなかったが、逆にこの事からこれらに対する管理費を投入せずとも「莫大な地権料」は紀州藩に固定的に安定して入る仕組みに成っていた。
「幕府」はこれを崩す事で“紀州藩を根底から弱める事が出来る”として抵抗して来たのであろう。

その一角の訴訟を「大岡」は、下記する様に、“「一切松阪有利の慣例」”の慣例を破ってでも、幕府側に裁定を下したのである。
有名な事である。
恐らくは、この「抵抗勢力」を弱めるために採った策であったと観られる。

“「一切松阪有利の慣例」”の慣例に従えば、上記の「訴訟の対象」と成った「地権問題」は紀州藩側に下る事に成り、益々、「幕府の抵抗勢力」は「反抗」を示す事に成り得る。
ところが、「吉宗」は、この「才知の効いた裁き」を”「大岡裁定」”を高く評価した。

「人」は変化に対して「不安」を持つ。
この「不安」を乗り越えてこそ進歩とその後に「改革」は起こる。
然し、不安其の侭では進歩は無いが、その不安を除こうとして「人」は「訴え」を起こす。
その「不安」を払拭させる事で乗り越えられるが、それには、「不安の訴えの声」を裁くには、この“「才知」”が事態を変化させて「改革」には「必須の必要条件」であるとして「大岡」を見込んだと観られる。
この事は、「大岡等の紀州家臣団」は、“「一切松阪有利の慣例」”の「裏側の実態」を熟知しているからこそ成し得た裁定である事に成る。

その証拠に、この“「一切松阪有利の慣例」”に従わず「見事な裁定」を下した殆どは、「天領地」や「青木氏」や「伊勢藤氏」等の平安期の古からの「郷氏領地の地権」や「天皇家に由来する神社仏閣の領地」と「遷宮地領」の四領地に対してであり、全て減額している。
明らかに、多くは「二つの青木氏が関わる地権の減額」とその「管理代行地」に成っている。

「幕府の抵抗勢力」の「反抗」を弱める手段として、「青木氏等の了解」の下で裁定を下したと観られる。
この事の詳細は、「青木氏」の全ての経緯を書いた「忘備録」は消失して無く成っている為に、残るのは「商業記録」であるが故に詳細は判らないが、不思議に極めて単純に記されているだけである。
これらの「地権消失」は「青木氏の経済と商業」に大きく左右する事でもあって、当然に「殖産地」と成っている「地領」である事から「商業組合」にも大きく影響を及ぼすものであった。
然し、この“「単純」”と云うのは「了解した」からこそ「単純」に書き記したと考えられる。

注釈として 唯、「青木氏の口伝」では、「明治期の地租改正」と共に「2度の地権放棄」で半分に成ったと伝えられているが、これは明らかに“「不満」”であったと観られる。
そもそも「二つの青木氏」を含む「伊勢紀州の郷氏郷士衆団(家臣含み)」等が主導する新しい商業の「吉宗の改革」である以上は我慢したと観られる。
この時には「氏郷」や「家康」の{本領安堵策の南紀南勢」の「本領の地権」は殆ど手放したと伝えられている。
結局は、「二つの青木氏」は北勢域領と成った。

明治期には「地租改正」でこの残された「北勢域領の地権」も半減した。
この時、「郷士衆の地権」もその「所有の権利範囲」を限定して、聞くところでは最大で「一畝内=300坪=990m.m」と定められた模様であった。
一般の「郷士で家臣」であった者の地権範囲は、5間・5間=81m.m=「3LDKに小庭付き」と成った。

この「幕府の激しさ」を物語るものとしては、紀州藩の筆頭家老の田辺藩の田所氏の藩領と所領にも手を伸ばし,その激しさは尋常では無かった。
この時の根拠では、伊勢と紀州は「伊勢神宮の膝元」で全国でも「遷宮地」で「遷宮寺社」が最も多いし、従って、「天皇家の天領地」が多く、松阪も代表的な天領地であったが、江戸初期に紀州藩に吸収させて「飛び地領」とした。
ところが「幕府」はこれらの「遷宮寺社」の全てを「幕府資産」として「幕領」として接収し様とした。
これに「関連する地領」は当然に幕領と成るとして、「紀州藩領の田辺域」も「天領地」として扱われるとする言い分で訴訟の対象とされた。
これに依って伊勢紀州に「幕領」を増やす事で「紀州藩」を弱めようとしたのである。
田辺域は相当量が接収され「大きな犠牲」を負った事は事実であった。

要するに「大岡裁き」はこれに導き実行したのである。
然し、「大岡裁きの才知」は、上記の様に、この「地権」を”「細分化」して「均一化」した事”で「幕領分」に接収される範囲を小さく抑えたのである。

注釈の通り、“「一切松阪有利の慣例」”を崩し、且つ、「幕領の言い分」にも配慮し、「郷士衆の地権」にも配慮したこの「才知」と「調整力」が優れていると観たのである。
この上で、この様に「大岡才知」の様に、更に、これを“「改革」“に向けて熟知する者が裁いて行く事が必要で、それでなくては”「改革の的」“が外れる。
つまり、改革の戦略上、“「最大のまとめ役」”と成り得るのである。
それだけに、「大岡裁きの才知」で、“歴史上に出て来る人物”と成り得たのである。
(結果は、吉宗が将軍と成った事で紀州藩領とする範囲は回復した。)

上記する才知無く、唯「法」を以ってして実直に裁くのであれば、「幕臣の官僚」でも無し得る。
(後に「公事方御定書」の「判例集」を作って「訴訟と審判」の「改革」へと進む「方向性」を定めた。)

前段でも論じた様に、「伊勢紀州の郷士衆」を紀州藩の「家臣の大半」に据えている「紀州藩士」の熟知する「大岡忠相」が必要であったのだ。

注釈として、因みに、「大岡忠助」は江戸に生まれる。
旗本無役(1702年)から出世、元禄地震の「復旧奉行」に、1708年には合わせて「目付」にも成る。
この後、実家先(祖先は「伊勢藤氏の伊勢郷士衆」)の紀州の「伊勢奉行」に任地就任、1714年まで紀州伊勢の職能部に最も関係する「寺社奉行」も経験している。
前段と上記でも論じたが、この時期には、“「紀州藩と幕府との間で係争(幕領の故意的な係争)」”が非常に多発しこれを裁く。
この時まで、奈良期の古来より「不入不倫の権」で「伊勢松阪」は護られていたが、その為にその詔勅令に従って古来より“「一切松阪有利の慣例」”があった。

ところが、この「慣例」を覆して裁定を下したので、「松阪」で育った「吉宗」は驚き、むしろ、その「心魂と才知」を信じて改革に必要として逆に「吉宗」に見出される。
この「裁定」で、「伊勢の二つの青木氏」は「大きく本領地権の影響」を受けた事の「商記録」が遺されている。
「吉宗」が「将軍」と成るに従って江戸に同行。
江戸赴任後、当に、「職能の長」として“「普請奉行」”と成る。
「寺社や武家屋敷の職能部門」を専門に指揮し「経済改革」を進めた。

江戸期には、「寺社」に関する事が現在のゼネコンに当たり、全ての職能に関わるメイン事業であった。
其れだけに、「普請奉行、寺社奉行」は国土交通省大臣の責に当たる。
「江戸の三代奉行の筆頭格」で「将軍直属の奉行」として改革をした。
「大岡」の「普請奉行、寺社奉行」と、「青木氏の布衣着用」の「勘定方指導役」を担っている事は「改革の双頭」を担っている事に成る。
これらの人事を観ると、「享保の改革」は、1716年から1746年(実質 院政は1751年 改革は1788年まで)とすると、約20人が担当し、「大岡」は第16番目で1739年から1751年と最も「改革の成果」が質される重要な期間の中ほどから担当し、何と「享保の改革」を6年も超えて勤めたのである。

更には、恐らくは、本来は「大名格の奏者番」を務めた上で「三大奉行」と成るが、ただ一人、例外的に「政治の柵」に左右されない様に「奏者番(現在の官房長官」」を勤めさせず、最終は「1万石の大名格」にし「破格の官位」も与え、「改革」を継続させる意味で吉宗隠居後も「寺社奉行」を務めさせたのである。
そして、「大岡}を除き19人は最大でも9年、平均でも2年間と云うのが多い中、15年と云う段突の期間を勤めたのである。

これらの事を観ても、「大岡」を以って周囲に「改革の模範」として見せつけた「政治的配慮」であったと観られる。
ただ、この為に「裁定」に偏りが起こらない様に「改革の後期」には「改革の方向性」を示す為に「公事方御定書」(現在の判例書)を定めて「改革の統一性」を図った。

江戸初期に「青木氏」は談合にて、「神明社」は、「伊勢神宮の皇祖神の子神」である事から「500社」に上る「全国の神明社」とその「社領及び資産」を幕府に引き渡した。
主要な「遷宮」に伴う各地に配置した「公的な神社の社領と資産」、並びに「公的な寺に関する寺領と資産」も幕府は接収したのである。

ところが、接収したものの江戸初期には全国的に天変地変が多発し、この為に経済が疲弊し、且つ、政治が稚政であった事からも、「伝統」の拠点とも成る「ゼネコンの基」と成る「寺社」は荒廃した。
この為に慌てた「幕府」は、各藩に「修理令」を出すが、各藩もこれを修理する能力は全く無く荒廃の一途を辿ったのである。
そこで、政権を引き継いだ「吉宗」は、要するに「ゼネコンの基」と成る「寺社」を復興させ、「商業組合」との連動政策を図った。
これを維持させる為に、これらの「寺社」には「様々な特権」を与える政策を採った。

それの一つが、”「寺請制度」”であって、”「商業組合」”の基と成る政策を実行した。

それには、先ず、この「社寺」を“民衆管理に任せる令”を作り、この「寺社」には“民間の檀家筆頭の補償”を要求した。
この事を「届制」にして義務化したのである。
そして、これを「寺社奉行の管轄下」に置いた。
その上で、この「寺社奉行」には、更には「幕領」を超えて「他藩の領内」までの「訴訟」までも担当させて「改革の障害と成る火種」を消す「大権限」を与えたのである。

従って、それまでは幕閣下にあった「寺社奉行」は、他藩の不満を押える意味で、「将軍直轄制」にしたのである。
「寺社領」以外にも、この「制度の効果」を観て、「関東域の民間の領地」までの「訴訟と審判と施工管理の確認」の末端行政までを任せたのである。

要するに、広大な権限を与えて「訴訟審判の行方」を「施工管理の確認」で徹底的に調べて疎かにしない様に監視したのである。

この事に依って、「藩領」と「幕領」と「民間域の地権」に広げる事で、「寺社関係の勢い]は再び息を吹き返して、「商業」は活発化して「商業組合の組織」は進んだのである。
要するに、「幕領と藩領」は当然の事として、「広大な寺社領の管理と運営と維持」を民間化させる事で「寺社」から出る修理や建設などの職能仕事は格段に増え続け、この事でそれを受けて「民間の商業の連合化」を促したのである。

これだけでは「商業組合の改革」は充分では無く、遂には、加速させる為に「民間の富豪町民」、「寺社富豪領民」、その他の「宗教団体の地権」までに「寺社奉行の権限」を拡げさせたのである。

しかし、この「見返り」として、「寺社」には、“民間の檀家筆頭の補償”に依って運営させて、「庶民の戸籍管理(人別帳)」と「訴訟と審判の権限」を一部与えて、これに依る「訴訟手数料」などの「金銭報酬力」を持たせたのである。
これに依って高まった「寺社の管理維持力」で「修理費などの経済的な捻出力」を持たせて、この「修理捻出力」から職能部門を活発化させたのである。

これを活発化させる為にも、これらを納めていた「名主制度の権限」が分散していたが、この内の「町名主制度」だけを廃止して、“民間の檀家筆頭らに依って「庶民の戸籍管理(人別帳)」と「訴訟と審判の権限」を「寺社」の中に置いて集中させる仕組み(況や、「寺請制度」)を組み立てたのである。

この事で、「幕府」が行うべき「司法」と「通産」の業務の莫大な事務費を省く事も出来たのである。
世間には「質素倹約」等を呼びかけ、「税」を「六公四民」を「五公五民」と増税する代わりに「幕府財政の健全化」もこの様に促した。
挙句は、「結婚、離婚の届け出」や「搬入搬出の届け出制」や「建設修理の届け出制」やこれに伴う「訴訟や審判や施工管理の確認」なども任せて「寺社の持久力」を高めさせて、そこから生まれる「職能の商業」を活発化させたのである。
これを「寺社奉行が見守る体制(監視体制)」を採ったのである。

(注釈 大訴訟や難審や長期の訴訟等は奉行が引き取って行った。)

この事に依って、全ての「民間の民」は、戸籍に関わる事から、他の地に移動するとか旅するとか婚姻で他の地に移動するなどの庶民生活の一切の繁多事務を寺社は担ったのである。
一種の現在の「簡易裁判所の役」「調停裁判所の役」を担わしたのである。
この事で全ての庶民は、必ず、何処かの寺社の管理下に入る必要が出て、要するに“「檀家方式」「氏子方式」が生まれたのである。
この時から、「武士」を除く「庶民」には今までになかった「墓などの慣習」がこの時から起こり、職能は比較に成らない程に拡大した。

今までは、「1割程度の武士階級の慣習(400万人)」が、結局は全体の残りの9割(3600万人)の慣習と成ったのである。
全ての民がこの”「慣習」”を持ったことに成るのであるから、「寺の収入」と此れから起こる「職能の産業と商業」は9倍と成った事に成る。
「慣習」を「特定の武士階級]のものにするのでは無く、平等にして自由に持たせると云う商業組合の概念に合わせたのである。
この事で、市場は反応して活性化したのである。

恐らくはこの慣習が、封建社会と云う考え方に拘泥して「武士階級」のものだけのものとしていた場合は、「市場」の中にこの「商業組合]の持つ「自由とする原理」が馴染まなかったであろう。
全て民が「同じ慣習」とする事に依って活性化したとのである。
「賢明な吉宗」は「伊勢」での生活の中で経験し、この事を見抜いていたのである。
故に、この「皆同じ慣習」にする為に、「奉行と寺社と檀家]の改革を手掛けたのである。
これは全て「リフレーション政策」を敷く為の「商業組合と云う概念」に従っての事であった。

これに関連して、「享保の幕府」には「経費の節減」と「地権料」と「税としての手数料」の「莫大な収入」が入った。
この「収入」を「寺社や河川」などの「維持管理費」や「新規や修理工事費用」に捻出した。
「一公の負荷税分」では、普通では一揆や騒動が起こる程度であった。
然し、次第に「周囲の環境」が良く成る方向に変化して行く事に納得して、「農民・庶民」は大きく反発を起こさなかった。
取り分け、これを不満の大きく成る筈の「紀州藩」の様に「武士階級」にも「地権の細分化と均一化」を起こしたのであるから、「姓の枝葉化(分家化)」が起こり、「400万人」は990/81でこの10倍の「職能の産業と商業」が新たに興した事に成る。
この事で納まったのである。

この「商業組合」と共に”「経済の復興」”は目覚ましいものがあって、「上級の武士階級」には「地権の減少」で多少の不満があったが懐事情は等しい結果と成って納まった。
「紀州藩家臣団」の大半は、元は「伊勢紀州の郷士衆」と「伊勢藤氏の郷氏衆」で構成されていた事からも収まったのである。

この「享保の改革」に結び付けた「驚くべき才知」等を、「吉宗」はこれを他藩にも全国的に見せて「行政指導」で行わせたのである。
資料の記録では、疲弊していた藩は、「幕府への借財]で何とか急場を凌いでいたが、行政指導に素直に載らない藩には厳しくあった事が判っている。

各藩は当に疲弊して“窮鼠猫を噛む“の状況下に於いて、”この様にすれば改善するよ”と見本を示した戦略であった。
現実に「賢臣の居る各藩」は模倣して改善を果たしたが、そうで無い藩は一揆が多発し、遂には、「廃藩や主君廃嫡の憂き目」を受けた。

この”「寺請制度」”などの”「寺社制度」”で起こる10倍近い全ての職能に関わる事業は、爆発的に活発化した。
然し、この効果を保ち安定させるには、「一つの職能」の“「まとめ役の制度」”が必要と成る。

上記した様に、「享保の改革のリフレーション政策」には、「偏り」、即ち「格差」が生まれては成り立たない。

「リフレーション」は「デフレ」と「インフレ」の中間政策である以上は、全てに「平均化を促す政策」が必要に成る。
そこで、採ったのが、内郭部は「商業組合」で、外郭部は「御師制度」で纏めようとしたのである。

全ての“職能に関わる集団”ごとに「組合」を作り、その「組合」に「取りまとめ役」として「御師」を置いて外郭にはみ出て「偏り」「格差」を生み出す行為の無い様に監視し調整し懲罰する役目を各段階(「御師 「寺社」に相当」)を置いた。
最終は、“「御師頭」(「寺社奉行」に相当)”で纏めさせる制度であった。

上記した「寺社の組織」と全く同じ事で、「寺社」のこの組織(”「寺請制度」”などの”「寺社制度」”)は、況や、この「御師制度」をそっくりと真似ての制度であった。

「ゼネコンの寺社組織(基幹部)」→「商業組合(内郭部)」+「御師制度組織(外郭部)」←「幕府内の御師制度」

「寺社組織」から生まれる「商業」は、「(イ)(ロ)(ハ)の商業組合」で、その「経済活動」から起こる「殖産の職能活動」は「御師制度の組織」であった。
(下記の「越後騒動」で「殖産商人」として出て来る。)
そして、これらを更に「幕府内の職能部の御師制度」で「監視する組織」を確立して“「偏りのない格式の産まない改革」“を押し進めたのである。

概要としてはまとめると、次の「四つの改革」が推し進められたのである。

「幕府の職能部」から建設と修理の職能の「公共事業」が出て来る事
「寺社」から建設と修理の職能の「半民間事業」が出て来る事
「商業組合」から建設と修理の職能の「完全民間事業」が出て来る事
上記三つから生まれる職能の「殖産企業」から「職能者の雇用」が出て来る事

注目するべきは、「四番目の殖産企業」であった。
これも前段で論じた様に、「商業組合」とは別に、「青木氏からの提案」(御師制度)に依るものであった。

「享保の改革」では、先ずは疲弊していた「既存産業」を“拡大させる事”のみならず、「新規産業」の「殖産」に関わる「興業」が重要な事であった。
これが、下記する「越後騒動」に「騒ぎ」として出て来たのである。

特に、江戸時代には、この「伊勢松阪」は「吉宗」が育った土地であり、「青木氏」と「加納氏」が「吉宗のバック」と成って幼子の時から養育し「将軍」に育て上げた。
江戸時代には、「青木氏の紙屋」と「加納氏の加納屋等」の豪商がより大きく成長し、その元下に育てられた「松阪商人」を多く排出した。

この「松阪商人」は「江戸幕府」とはその意味で無縁では無かった。
それは、実は、この「御師制度」と「松阪商人」の「商業組合」と云う「二つのキーワード」で繋がっていたのである。
これは別個に存在して居た組織では無かった。
先ず、「商業組合」は前段で論じた様に、(イ)(ロ)(ハ)を前提として“「あらゆる職種」“で構成されていた。
この“「あらゆる職種」“をまとめあげるには、「何かの制御の組織制度」が無ければ、幾ら「自由」としても「組合」としては成立は出来ない。
唯、そこには「ある要領(秘訣)」が在って、“無制限に制御すればよい”と云う事では無く、その「ある要領(秘訣)」は“「外郭部」を制御する事”に在る。
この「範囲」で制御すれば、“「人」が納得する自由”は保たれる。
これは、「密教の浄土宗」が説くこの世の条理である。
むしろ「自由」であるからこそ「外郭部」を覆って外には飛び出さない様にしなければ成らない。
その中での「自由の原則」である。
“「人」が納得する「自由」”とは、「人時場所の三相」に依って保たれる。

「人の相」は、江戸時代の人の持つ概念

「封建社会」では、「身分格式」のある「社会」を当たり前としていた中での“「人の自由」”は左右されて、その「自由の制限度」は大きい。
「青木氏」の「般若心経の密教論」で判り易く論じると、「人の自由」と「人の不満」の関係は「相対の関係」にあると説いている。
依って、仮に「完全自由」があるとすると、それを10とし、この「自由」に対する不満を爆発させるポイント(一揆-5>暴動-4>騒動-3>騒ぎ-2>事件-1)を5とし、全く自由がない社会を0ポイントとする。

そうすると、この「享保初期」は「騒動 -4」は、「起こるか起こらないかの位置」に在り、「自由の制限度」は6でもぎりぎり納得する「自由の概念」を持っていたと云う事に成る。。 

「時の相」は、戦乱から安定期に入ったその時期

享保期は、「人の相」では「6の位置」にあるとすると、「時の相」としては、戦乱期は上記の相関論から「一揆」より激しい「人の生存」に直接に関わる期であった事に成り、だから、3であった事に成る。
「3の戦乱」が終わる事で4と成り、それが、未だやや弱い「5の一揆」が多発する時期であった事に成る。
これが、「享保の改革」で前期の後始末の政策を打ち出した「初期の段階」では、上記した様に「5の一揆」が納まり、「5の位置」から「6の位置」に格上げされた時期であった事に成る。

「場所の相」は、疲弊から繁栄に向かおうとする場所

「各藩の配置」が目まぐるしく変化して、当然に、その「藩主・藩政」も変化して、その「地の領民」に執っては未だ安心した安定した地域では無く、「15地域」の様に、「大きな地域差」が生まれていた時期でもあった。
取り分け、「幕府」も含めて「各藩の悪政稚政」が目立っていた。
「人と時の相」と共に、「悪政」で「一揆」の起こっている場所=5、「圧政」で飢餓に苦しむ場所=4(騒動-3)、「稚政」で喘ぐ領民の場所=6(暴動-4)である事から、4~6の位置に在った。

これを「享保の改革」で 「前期の後始末の政策」を打ち出した「初期の段階」では、「商業改革と御師制度と幕府改革(寺社奉行等)」で乗り切ろうとした。
上記した様に、「越後騒動」の様に「各藩政」は「政治の的」を得て、これを真似て改善に向かう事と成った。
要するに、「場所」としての藩は4~6から6~7に向かったのである。

この様に、「自由の制限範囲」は、6~7のポイントを維持すれば「民の不満」も無く、「外郭部位」を「抑制する政策」を採れば成り立つ事が判る。
即ち、その“「あらゆる職種」“に、ある意味で「自由の抑制策」とも成る”「御師制度」“を持ち込めば、「社会と組織」の「まとまり」が着くと云うことが判る。

その個々の「まとまり」を「御師衆(御師頭)」でまとめて行けば、「郷士衆」(郷士頭)等の調整が出来る事に成る。
むしろ、「人間社会」では人の「意志」「発露」「尊厳」「思考」「能力」等の「差違」、即ち、況や、「エゴイズム」が在る限りは「完全自由10」はあり得ない。
当に「争いの世界」か「極楽の世界」に成る。
依って、現実には「9までの自由」とすると、現実の「6~7のポイント」で“「御師制度」“を敷く原理には無理は無い事に成る。
むしろ「必然性」に当たる。

筆者は「8の自由」はあると考えるが、「諸行無常」の世の中で「9の自由」は現実にはあり得るだろうか。
「般若心経の解釈」を基本とした「青木氏の密教の浄土宗」の「家訓10訓」などに反映している解説にあるこの論法からすると、“「無い」“と考える。

その「纏める情報」は、「御師衆の情報源」で採れ、この事で「組合員」が「高い高度な情報」で行動が執れる。
販売に対する「質・量の調整」、「競争相手への手立て」等もこの「二つの関係」で組み立てられる。

そもそも「享保改革」とは、在任期間の1716年から1745年の年号に由来するが、宗家以外の「御三家」の「紀州徳川家」から「将軍」に就任した「吉宗」は、先ず、「“先例格式”に捉われない改革」 を実行したのである。

前段で論じた「商業組合」を「頼宣入城1619年」の安定期から観ると、丁度100年、初期施行期から観ると、120年と成る。
上記で、丁度、67年間は社会は安定したと論じた。
その後、“「宗教」”が介在して難題の「一揆」が多発したと論じた。
この「一揆」の援護が出来る程に「商業組合と提携商人でのシステム」は維持されていた事に成る。

ところが、「享保の改革」以降は、下記の通り「青木氏」が関わった「一揆」は「天保騒動」まで100年間近くに発生していないのである。
「青木氏」が関わった可能性のある「一揆」では、80年間、関係の無い「一揆」では45年間は間違いなく起こっていない。
明らかにこれは「リフレーション政策」を誘導する「商業組合に依る改革」の「享保の改革の成果」が全国的に出た事を示している。

さて、ところが、唯一、問題と思える事があった。
唯、これは、「享保期前の社会的経済的な疲弊の影響」で起こった事か、「商業組合の改革」の」金融面での施策」の遅れなのかは判らないが、初期の段階で「農民」たちは「農地」を「質」に入れて凌いだ。
然し、質に入れるは何時の世の事でもあるが、この状況の問題は「質流れの農地」が多発した事にあった。

これは当時の武家社会や封建社会の根幹を揺るがす問題であったので困る事になった。
この「質流れ」が「他藩」や“「商人」”に移る事は、「江戸の社会構造」が崩れる原因と成り、好ましくないとして「農民」を保護する為に「質流れの移動」を禁止した。
つまり、”「緊急策」としての「質流地禁止令」”(詳細下記)を発行したのである。

そもそも、この「令」は吉宗の江戸幕府が1721年に発布した法令である。(享保の改革開始は1716年)
元禄期(1688~1704)以降、経済が著しく低迷し衰退し「農地」は放棄され荒廃したが,この時、幕府は一定の条件下で「田畑の質流れ」を公認していた。

そもそも、この施策は、元々は、“「江戸町方の屋敷地」”についての「質地の令」であった。
にも拘らず、これを享保期には「田畑」にまで適用したものであった。

ところが,越後などの米どころの地域では、この「令」に付いて誤解で「大騒動」が起こり、批判が高まり1年後に撤回したものである。
以後、兎も角も、「農地の荒廃」を防止する為に「田畑の質流れ」をも一切禁止するが、その場合は「質地取扱いの方針」を次ぎの様に定めた。

その内容は参考として概要は次ぎの通りであった。

(A)「質流れ禁止の方針」に基づき「質地手形」の書き直しを行っう事。
(B)「質地の小作料」の上限を「貸金」の一割半の「利積り」とし、超過分は「損金」とする事。

「滞納時の小作料」は、滞納額を一割半の「利積り」で「元金」に加え、「無利子の済崩」の形とし、「元利金の返済」の次第で「質地」を戻させる事。

(C)1717年以後の「質流の土地」は、先ず「元金」を返済し、「請戻願書」を提出すると、「質流の土地」が「質屋の手元」にある場合に限り請け戻させる事。
(D)今後、「田畑」を「質入れ」しての「借用金額」は、「田畑値段の2割引」とする事。

この法令の様に法令規準を変えて厳しくして抑え込もうとした。

然し乍ら、この「法令」は、昔の幕府の「田畑永代売買禁止令」(1695年)が元に成っていたのである。
ここに問題があって、基本的に目的とするところは、“「江戸町方の屋敷地」”の「質流れ禁止令」であった。
これを「農地」にも適用したのが誤りであり、「農地」と「町方」の「土地の価値や慣習」が異なる事から法令に「無理の問題」が起こった。

そもそも、経済が疲弊して農地が荒廃した中で、生活を護ろうとしても「令」により「農地の売買」が出来ないと成ると、遺される「苦肉の策」は「質」に入れる事しか無く成っていたのが享保期前の現状であった。
ところが、この「経済」が回復しない享保前は「質流れ」が多発して収拾が着かない事が起こる様に成って仕舞ったのである。
「農地」に関わらず「町方の土地」さえも連動して同じ現象が起こっていたのである。

そこで「享保の改革」では,「根幹の土地」に関わる事である為に”「前の失政」”を懸命に防ごうとした。

「吉宗の幕府」に執っては、とりあえず、この「質流れ」によって有名無実化するのを防ごうとするものであった。
ところが各地で起こる「1722年の越後騒動」等の混乱が生じたため1723年に直ぐに問題がある事に気付き撤回された。

ところが、「享保の改革」が進み「改善状況」を観て、今度は幕府は、改めて打つ手を変えて1741年に「質流れの売買禁止令」を基から緩和したのである。

何故ならば、この時の「商人」には、”「殖産を興す商人」”が多く介在をしていた。
「経済理論に賢い吉宗」は”「本来の解決策」”はここにあるとしてここに目を付けたのである。

何故ならば、「15地域の主要地の越後」では、「商業組合」と「提携商人」による「経済発展」から、「殖産」を興そうとする「既存の商人」には、その「殖産」を興す為には「新たな土地(「新地))」が必要であった。
そこで、「質流地禁止令」が出た以上は、そうするとところが、この「殖産商人」は「天領(藩領 天領)の農地」には手を付けられない。

この為に「幕府勘定方指導を務める青木氏」は、越後の「商業組合と御師制度の組織」を活用して「幕府策」として「前政の悪政の解消」の為に動いた。

これを納める為に、「農地」を利用する「越後」の「商業組合」の「殖産商人(越後青木氏と諏訪青木氏)」に「質流れの土地」を買い取る様に進めた。
ところが、越後の住民の1/3に当たる「理解力」の無くした「過激な農民」が誤解して暴動を起こして仕舞ったのである。
越後の「殖産商人(青木氏)」も説得に掛かったが、勢いづいた収拾の着かなくなった「一揆」は、捕縛を恐れて周囲の「他藩]に逃げ込んだのである。
周囲の各藩では、“同じ事の一揆が起こると拙い”として、遂には幕府の指示もあり捕縛をしてしまった。

所謂、「殖産商人」が「質地」を買い取る事で、「殖産農地」と成って「農民」も」土地」も現状を図られ生きて行ける事に成る筈であった。
然し、その様に受け取らなかった農民が居て民衆に向かって煽ったのである。

つまり、貧しさから「農地」を手放し放棄した「無宿者」と成る「農民」も「殖産農民」としてで生きられるとした「幕府の苦肉の対策」であった。
「地権者」であった「越後青木氏等」は、懸命に「地権主では無い土地の農民」を救おうとして幕府と協力して動いたのである。
ところが、これを充分な説明を「藩」そのものがしなかった事や、「現地に派遣されていた幕僚」が「過剰な説明(殖産農地の理解が低かった。)」をした事から、その「解釈」を間違えた「農民衆」が暴動を起こし、何と”「質屋」”を襲撃したのである。

結局は130日目に、再度、「幕府」が直接に「江戸の幕僚」が出向いて充分な説明が成され納まった事件であつた。
この事から、本来目的の「殖産商人の介在」でほぼ1年後(1623年)にこの令を直ちに廃止した。

この事でも判る様に、「享保の改革」の初期は、先ずは「前政の影響の始末政治」であって、基盤と成る「農民の保護」を主体として政治を進めた事が良く判る事例の特殊な「一揆」であった。

この事からより一層に”「農民保護」”の為に、上記の通り、”「寺社政治」”を実行して「組織固め」をした事が判る事例で有って、「税負荷」から来るものでは決して無かった。

「15地域の主要青木氏定住地」で起こった最も関係のあったこの“「越後騒動」”であるが、「享保の改革」を善く物語る典型的な事例である。
これは「農民の社会的、政治的、経済的な不満」からのものでは決して無かった。

「他藩の稚政の悪影響」で起こったものでは、「・1726年津山暴動」や「・1729年岩代農民暴動」や「・1739年元文一揆」の三件があった。
これも「享保の改革」の「前政治の影響(綱吉)」で起こったものであり、「藩内事情」での「藩政政治の低さからくる失敗」に依る事件であった。

この“「前政権のツケ」”である「四つの事件」を除けば、何れも1800年代までとして観れば、矢張り100年以上は納まっていると観る事が出来る。

前段でも論じた「一揆の年譜」から観ても次ぎの様に成っている。

関わった一揆
・1677年郡上一揆
・1722年越後騒動
・1761年上田騒動・1768年新潟騒動
・1836年天保騒動(郡内騒動、甲斐一国騒動)・1814年北越騒動
・1842年近江天保一揆

関わった可能性のある一揆
(殆どは重税による農民一揆)
・1652年小浜一揆・1686年加助騒動・1690年坪谷一揆
・1726年津山暴動・1729年岩代農民暴動
・1761年伝馬騒動
・1781年絹一揆・・1786年宿毛一揆
・1842年山城谷一揆

その他の一揆
・1739年元文一揆
・1753年摺騒動
・1771年虹の松原一揆・1771年虹の松原一揆
・1771年大原騒動1793年武左衛門一揆
・1804年牛久助郷一揆・1825年赤蓑騒動・1831年長州藩天保一揆
・1838年佐渡一国一揆・1847年三閉伊一揆・1856年渋染一揆

つまり、この100年の期間を維持させられたのは、この「御師制度」がこの「商業組合」に組み込んだ事からなのである。

一方で、「紀州藩」では、「青木氏」が手掛ける「伊勢和紙」だけでは無く、前段で論じた様に、「伊勢青木氏」の指導の下で、伊勢松阪地区から玉城地区に掛けて「伊勢の土地柄」を生かした「殖産」と「興業」を強力に押し進めた。
そもそも、注釈として、「享保の改革時」は、紀州の“「地元の藩政」”が上手く行かないのでは「改革の名分」が着かず、立場は無く成る。
これは最も大事な戦略で、上記に論じた様に「15地域の商業組合の実績」など説得材料として「将軍」に成り得たが、「紀州藩財政の立て直し」の為にも「殖産・興業」で「紀州藩勘定方」を懸命に指導した。

実は、この時には、奈良期から納めていた「先祖伝来の本領とその地権」を自ら放出すると云う「激痛」もあったし、「不入不倫の権」も実質は破棄されてしまった事にも成った。
実質は何の利益も無かった完全に足元を掬われた形であった。

この時の「四家の福家」は苦しい立場であった事は判るし、南勢の遠縁の縁家に遺された資料によれば、矢張り意見が分かれた事が書かれている。
ところが、唯、多くの資料が遺されていた「郷士頭の家の資料」では、“意気込みさえ感じる事”が読み取れる内容であった。

“これは一体何なのか”を、この時の関係者の末孫に「関係する口伝等」が在るかも知れないとして意見を聞いて観た。
まぁ、口伝等を含めて総合すると、伊勢紀州の「旧領地の郷士衆」に執ってみれば、紀州藩の家臣、将又、江戸向行に伴って、“世に出て働ける”と云う武士の気概もあった。
確かに、「郷士の地権」は減らされた家筋もあるが、「御師制度の頭」と[郷士頭」が調整(金銭に依る地権差額調整)した事が原因していると云う事であった。
「訴訟の差配」が「標準平均化の前提」に成っていたと観られ、殆どは現状より増えた家筋の方が多いと云う事もあって、結局は「損益の差」は「旧領地の郷士」の中でも“青木氏と血縁を結んだ縁者関係に多く出ていた”と云う事の結論に成った。

と云う事は、「訴訟の差配」の裏では、表は“「一切松阪有利の慣例」”を破った事にして大義を世間に示し、「金銭に依る地権の差額調整」をして収めたと云う事に成る。
では、“その財源は何処から出たのか”と云う事に成るが、口伝と資料から読み取ると、“「御師様」と「氏上様」”と云う言葉が出て来る事や、「損益の差」は“青木氏と血縁を結んだ縁者関係に出た。”と云う事なので、これも「青木氏」が負担した事に成る。
「自らの土地の地権」を放棄した上で、「調整金」も自ら拠出した事に成る。

しかし、上記した様に、「青木氏の遠縁関係」でも江戸中期から明治初期に掛けて「旅館」を営んだり、「松阪商人」「射和商人」と呼ばれたり、与えられた「農地」を生かした「殖産の商人(前段で論じた養蚕・紙加工・米加工等)」に成る等と云う事があって、“却って豊かに成った”とする結論に落ち着いた。
確かに「本論の射和商人」はその「典型的な現象」である事は事実である。
「紀州藩の藩財政」が立ち直ったのも多くは、この「伊勢紀州の郷士衆」の「射和商人」に語られる様に、「郷士衆の不満」は確かに無かった事は頷ける。

それでなくては、「享保の改革の基盤」と成った位であるから“「藩財政」が立ち直った”とは云わないであろう。

ところが、筆者は唯一部納得出来ない事があった。
1716年に「吉宗江戸向行」と成ると、約1年前の1714年にこの「松阪裁定」が下されたとすると、1715年では「将軍擁立運動」は既に行われていた事に成る。
「青木氏と紀州藩」では、その為の「準備計画」が成されている筈である事から、「郷士衆の江戸同行」(「紀州藩の同行組」と「青木氏の同行組」)に付いて検討されていた事に成る。
「紀州藩士」は藩命である事から問題ないとして、「青木氏の同行組(別働隊)」の「御師制度の郷士衆」の賛同を得ておく必要がある。
この為の「納得」を容易にする「下準備の手立て」であった事と考えられる。

だとすると、上記の通りに「地元の郷士衆や農民」は、兎も角も、「江戸同行組の郷士」は、“その後にどうなったのか”である。
調べた結果では、「郷士の家」では「郷士家族の家」の全体で江戸に移動した訳ではない事は判って居る。
「一族の者」を差し向けた事は判っていて、その子孫が江戸に遺って子孫を拡大している事も判って居る。
判る範囲では、7割近くが地元に戻っている。
「残りの3割」は、「紀州藩の江戸詰め」で残った事に成っている。
結局は、「青木氏の別動隊(18の郷士衆と青木氏部)」は伊勢に戻った事に成っている。

そこで、この「享保の改革」に貢献した「7割の郷士達の帰還組」は果たしてどう成ったのかであって、ところがこの部分に於いては、「紀州藩士」では無かった事から「完全な資料」と成るものが無く良く判っていない。
(青木氏側では記録消失)
唯、「郷士家の口伝と一部の資料」に依ると、「紀州藩の家臣」と成って、「熊野、田辺、名張、伊勢三領(松坂・田丸・白子)」の“「六地域」“に配置された事が読み取れる。

これが事実とすると、伊勢紀州と江戸での“豊富な政治経験を有する者”である事から、“何故、ここに配置したか”の理由がある筈である。

この「六地域」には一つ共通点がある。
恐らくはこの「共通点」が原因していると観られる。

・「熊野」は、江戸期には日本一有名な「熊野檜の名産地」で「港町」で貿易港
・「田辺」は、江戸期には「日本最大の遠洋漁業」の拠点で「港町」で貿易港
・「名張」は、大和国と伊勢の国境域の位置しで「青木氏の旧領地」で、古来より伊勢和紙(伊賀和紙)の名産地であった。
次ぎの「松阪や白子域」を更に発展させるべき「和紙生産の拠点」であった。
・「松阪」は、本論の「商業の町」で港町で貿易港
・「田丸」は、玉城地区で「射和商人」が住む「商業組合」の元と成る「殖産と商い」の拠点で、「河川と港」を有する便利な地域である。「軍略的要衝地」でもあった。
・「白子」は、鈴鹿の南東部に位置し、「伊勢湾の港町」であり、且つ、「伊勢和紙」を利用した「伊勢型紙」で「有名な殖産地域」で、「松阪と田丸」と共に、特別に「藩の保護」を受けて発展した「伝統工芸の町」と「紡績の町」でもあった。

この「比較対象」として、そこで、何故、紀州の最も大きな良好な大港町である「下津港」と、本城のある「若山港」に配置しなかったのかと云う疑問が湧く。
この「疑問の答え」が、「江戸戻りの郷士」の「配置された理由」と成る。

それは、次の通りである。
・「下津」は、「港」としては大きいが、此処は「蜜柑の里」で、直ぐに三方が山岳地で周囲は山に囲まれる山岳部で、平地が少ない事に成っていて、それが「地形の所以」で「段々畑の蜜柑の郷」と成っている所以なのである。
一つ山を越えた隣には、「有田川の大洲域」があるが、浅瀬で湾口としては向かない。
「殖産と商業」の経済を発展させ得る地形では無い。

・「若山」は、港、地形、経済圏、何れも遜色ない要衝地で、紀川大洲の広大な平地を持ち、古来より伊勢に決まる前は「遷宮地」でもあった位に「歴史」にしても寺社仏閣等の数にしても何れの点に執っても伊勢松阪に匹敵する全てに類似の地である。
依って、古来より製鉄所を有し、鉄砲などの工業生産も盛んで、且つ、堺に隣接し、殖産と商業の経済を発展させ得る最大の地形地域でもある。
恐らくは、ここに配置しなかった理由は、既に、ここは発展している地域であって、藩のお膝元である事から「人材は豊富」であって、江戸での「彼らの知識と経験」を活かしての「発展」を期待するには既に充分地域であった。

“「更なる発展」”は、“「紀州藩飛地領」を開発する事が必要“であった事を、この「二つの地域」から比較対象として浮き上がる事が「答え」であった筈である。
故に、「上記の六領」に配置した事に成ったと観られる。

この結果を示すデータが在る。
当初、蒲生氏郷前は「8万石」、蒲生氏期は「12万石」、徳川氏吉宗期は「18万石」、その後の「江戸戻り組」が配置された宝暦から明和期は「22万石」と成っている。
この「8-12-18-22」/150の「変化の数字}は、伊勢の「紀州藩飛地領」の前段から論じている「商業組合」に依る“「商業と殖産」“に依る”「成果の変化」“を指し示している事に成る。

何と150年程度で、「紀州藩飛地領(六地域)」では、“「14万石の改革」”が起こったのである。

では、因みに、この「飛地領の14万石差」とは、“どの程度のものであるか“と云うと次ぎの様に成る。
「江戸期の大名石高」と比較して観ると、全国186国中の27番目に相当し、伊勢域の大名の石高では、長島は2万石、亀山は6万石、桑名は11万石、津は32.3万石であるから、「飛地領の14万石差」は「驚くべき発展」である。
伊勢全体の石高は、約55万石と云われていて、(14/55)・100≒25%と成る。

「飛地領の14万石差 25%」の「商業組合とその殖産」と、これを「まとめる事」の「御師制度の総合効果」はどんなものであったかは、最早、説明を必要としない。
何と27番目/186の国が一国出来た事に成るのである。

「享保の改革」の時期中にしても「10万石」(100年)も増やしている事は、前期した様に「他藩の手本」と充分に成り得ていた事に成る。
これを他藩が観ていたとして、「15地域外」の「真似しない藩」がもし居たとしたら、それは当に“「稚政藩」”であって、この“「稚政藩」(幕閣の抵抗勢力の藩)”を観ると確かに「真似」をしていない。

この事から、「江戸戻り組」は、その「享保の知識と経験」を活かして、「商業と殖産の地」を更に生かして発展させるには、“「貿易の出来る地域」”を選び、そこで“「海外貿易」”をさせる事の為に明らかに配置したと観られる。
「飛地領の14万石差」の“「貿易の出来る地域」”は、「販売する商業」とその「商品を生産する殖産」の二つがあるからこそ成し得る手段である。
そして、その“「貿易」”は「安定した生産」を要求されるが、これは“「御師制度」”で管理して行くことで成り立つ。

この事から、むしろ、「江戸戻り組の郷士」は、「自発的意思」では無く、「紀州藩」として、紀州藩士に関係する「郷士衆」は、兎も角も、「青木氏の別動隊」の「御師制度の郷士衆」には、是非に、「探しても紀州藩には必要な人材」であった。
「帰還」は喉から手の出る程の者であって、依って、江戸に掛け合ってでも命じて返したと判断するのが正しいと考えられる。
故に、「吉宗一族」が「徳川氏の宗家」となる「保科氏」として継承する以上は、10割は難しく、交渉の結果の7割であると観られる。


その結果、前記の殖産の養蚕や米改良に加え、新たに「和紙に依る紙箱などの紙製品」や「伊勢焼きの陶器」や「白粉等の産物」や「伊勢木綿の生産」を作り出し、「青木氏の紙問屋(総合商社)」からこれらを全国展開して販売し、初代頼宣から第四代藩主と成った「吉宗の頃」には、危機に陥っていた「紀州藩の財政」の立て直しに成功したのである。

特に「初代頼宣」から引き継いだ「吉宗」は、前期した様に、「青木氏」と共にこの「殖産事業と興業」に力を注ぎ、この育てた「松坂商人(射和商人等)」を江戸に店を構えさせるなどの便宜を図り育て上げたのである。

因みに、「伊勢の店」以外に、この時の結果として、“「江戸店」”として、主な商人は、「江戸の伊勢屋」(伊勢青木氏の「伊勢の紙屋」)、後に殖産による「松阪木綿」の「越後屋」(近江の人 1679年)、近江から「丹波屋」(近江の人)、「小津屋」(近江の人)の「伊勢商人」が有名である。
前段と上記した様に、「吉宗」が「商業組合」を江戸に持ち込んだ結果から、歴史に残る大豪商が生まれた。

そもそも、注釈として、 この“「江戸の伊勢屋」”は、“江戸の名物 犬の糞と伊勢屋” と呼ばれていた程に、江戸時代中期前後の日本で一番多い「商人の屋号」であった。
享保期初期の「江戸の伊勢屋」は、「伊勢青木氏」(「伊勢の紙屋」)で明和期までの商業記録が完全に遺る。
「忠臣蔵伝」にも登場する「商人」であった。
その後の安永期以降には、一度に全国的にこの「屋号」が更に拡がるが「青木氏」とは無関係である。

しかし、この様に“「江戸の伊勢屋」の屋号”が一番に拡がると云う事は、如何に享保期の「青木氏の商い」が、「15地域」にも広がりを見せ、且つ、“「疲弊」”から脱しさせた「享保の改革」を認めていた事を示す事に成る。
つまり、これを目の当たりに見た庶民は、“「江戸の伊勢屋」”をその代名詞の様に扱っていたと云う事にも成る。
「幕府の職能部の御師制度」と「青木氏の御師制度」と「商業組合の発達での御師制度」、「寺社関係の御師制度」等の広範囲に社会に広がった“「商業組合と御師制度」”が、「江戸」のみならず全国の「庶民」にどれだけのインパクトを与えていたかが判るパラメータの「屋号」である。

この「伊勢屋の屋号」の中には、伊勢紀州域と同じ様に「吉宗」の呼びかけで「15地域」から「江戸店」を出した「青木氏」の判る範囲では4店もあった。

「伊勢、信濃(総合商・貿易商)」は別として次ぎの4店である。

「越前、若狭」(皇親族賜姓青木氏)
「越後、駿河」(秀郷流賜姓青木氏)

以上の2氏―4地域店の「商業組合」が参加した。

この「伊勢屋」が、後に子孫に依って次ぎの様に広げられた。
「越前屋」(酒屋・呉服屋)
「若狭屋」(海産物屋・小間物屋)
「越後屋」(穀物屋・小物屋)
「駿河屋」(粉屋・菓子屋)

以上の「屋号」と「職種」も拡げたのである。

ここから「江戸の豪商」が出ているが、この豪商の単独の出店では無く、「原材料の生産」は別として、この「加工職種に関わる職能者」も江戸に同行して「一種のコンビナート」を形成しての「江戸店の出店」であった。

この「江戸出店」が「商業組合(コンビナート)」であったからこそ未だ成り立つ「商い」であった。

そもそも、「運輸手段」も発達していないし、社会も疲弊し運送に危険性も大きく、この享保初期の時期に一切を「商品」(加工品)にして遠方から搬送して売り捌くには「経費と危険」が伴い、「大商い」は到底困難であった。
故に、“「商業組合」“としての行動でなくては成り立たない「商い」であった。

この結果が江戸に多くのあらゆる職種の職人が集まる社会が構築されたのであって、下記に論じる「庶民経済」の「銭屋と質屋の金融業」が発達した所以でもある。

(注釈 「江戸の職人」と呼ばれる中には「伊勢紀州の出自の姓名」が多い。「享保の改革」の「商業組合の影響」と観られる。)

ここには、是非に追記しておかなければならない歴史的に表に出て来ない「影と成っている職能集団」が在った。

それは、”「運輸の安全」を担う「職能集団」”であった。
これ無くして絶対に「江戸出店」は無し得ない事であった。

それは、「シンジケート」であった。
この「シンジケート」を独自に持ち得ない「大商い」は決して成り立たなかったのである。
前段でも論じた事ではあるが、「荷駄を護る武力集団」である。
搬送中は「荷駄と搬送人」を周囲を取り囲むように「旅人」を装って護り、少し離れた場所からも移動しながらも「擁護する形体」を採っていて,国境(シンジケートの勢力圏境)では、「隣のシンジケート」との「渡り交渉」(金銭授受)を着けての搬送であった。
恐らくは、この「シンジケート」を持っていない「15地域の中の商業組合」は「江戸出店」は不可能であったと考えられる。

(注釈 従って、地域的な形で「京出店の原因」の一つとも成ったが、つまり、「江戸の伊勢屋」が、この「護衛集団を補完させられる地域」までは「江戸出店」は可能であったと観られる。
然し、「関西以西」は現実的に不可能であったと観られる。
伊勢は「摂津堺店」があって「伊勢水軍」を管轄していたし、「讃岐 伊予」や「安芸 米子」も「廻船問屋」を主体としていて「水運」は強く、「淀川」や「日本海」を経しての運搬が可能で有ったが、「陸運」は無理であった事も、京に動いた原因でもあった。)

以上の「2氏―4地域」の店の「商業組合」の主催者(青木氏)は、「有名なシンジケート」を古来より確かにこれを持ち得ていたのである。
唯、筆者の観る処では、最大は「伊勢 信濃」の明治期までその機能が遺った「二つのシンジケート」ではあったが、それと同じ様に「2氏―4地域」の「シンジケート」が,「江戸まで護衛力」を成し得る程に充分では無かった。

この事から、「伊勢 信濃」の「二つのシンジケート」が連携してこれを補完していたと観ている。

何故ならば、「伊勢 信濃」は「本職としてのシンジケート」としての働きが「地元の商業組合」でも有ったことから、この「シンジケート」を勢力拡大させて「専門の護衛集団」(職能集団)を形成していたのである。

(注釈 「総合商 貿易商 金融商の伊勢屋」が成し得る護衛集団であった。)

(注釈 江戸の1760年代後半の頃には、「護衛」のみならず「荷駄の搬送全体」を受け持つ「一種の運送集団」として「商業組合」の中で本格的に位置づけられる様に変化して行った。)

「江戸の伊勢屋」がこの「裏方の護衛」を差配していた事が判って居る。
資料では、この「護衛」の事を、未だ「享保期初期の頃」であった事から、「古い概念」が残っていて「裏の影の職能集団」を表に出す事の「弊害」を懸念してか“「護衛」”と云う表現を採っていなかった模様である。
資料の中には,「去る人(サル 忍者)」と隠語を使って表現されている。


話しを戻して、ところが、そして、享保後の「宝暦明和期頃」からの後期の「伊勢屋」では、「江戸の伊勢屋」では無く「庶民の屋号(質屋)」と成っている。
明和期に享保の改革が成功して伊勢より江戸出店して豪商と成った数人の者等が、「利益を追求する金融業」を始めた「質屋の伊勢屋」であった。(次段で詳細に論じる。)

これは、(イ)(ロ)(ハ)の「商業組合」の所以であって、“「組合」“と云う中での「同屋号の広がり」を見せたものとして解釈できる。

その意味からしても、この「4店の職種」から観ても、「伊勢屋の総合商」は「質屋の金融業」の様に、全て「元の職種」の「発展先の職種」で店を出している傾向にある。
「発展先の職種の店」に付いては、その「何らかの子孫」か「関係者の出店・暖簾分け」であるかまでは充分な“確認”が取れていない。
然し、「享保の改革」で江戸に拡がった「商業組合」としては、享保期から宝暦明和期までの間の「江戸店」の「同屋号の出店」は、「青木氏の子孫の出店」(「暖簾分け制度」である。)では無い。

それは、(イ)(ロ)(ハ)の「商業組合」とすると“「子孫の出店」”は、「自由」とする「発想外の事」と成り得て、兎も角も、全てとは言い難いが、「出店」として可能な「時代期間」と「江戸地区」を限定して考察すれば、「関係者の出店・暖簾分け」であった可能性が強く、現在で云う“「チェーンストア」”であった可能性が強い。

(注釈 現実に「青木氏として氏名に関わる事」は、「享保の改革」を主導している理由から表に出せなかった。
江戸に同行した「江戸の青木六兵衛」とその子供二代に渡りが「吉宗」に仕えたが、この「佐々木氏の資料」からこの事の注意が読み取れる。)

特に「総合商社」から発展した”「伊勢屋の質屋」”が多いと云う事は、“「江戸の名物」”と云われた位に多いのはこの事を証明する。
上記した「越後騒動の原因」と成ったのには、「質流地禁止令」が「江戸の金融問題」で出したのではあるが、「商業組合」として多く「江戸店」を出している越後国にも波及して、この「所以の事」から来ているものとも観ている。
「伊勢屋の質屋」は[享保の改革」を「商いや利益」と云うよりは金融面から支えた「金融システムの構築]に目的があった。


「青木氏の伝統 21に続く。 
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:「青木氏の伝統 19」-「商業組合と提携商人」(「青木氏と郷士衆との関係」)」 


[No.337] Re:「青木氏の伝統 19」-「商業組合と提携商人」(「青木氏と郷士衆との関係」)」 
投稿者:福管理人 投稿日:2015/12/30(Wed) 08:27:51


>「青木氏の伝統ー18」の末尾

> これから察すると、江戸時代では、“「氏の背景力」”と成ったが、この「荷駄頭」と「物見頭」の繋がりで、その「シンジケートの首魁」に連絡を通して、その首魁から、土地の「領主」に話が通り、組織を必要な様に動かした事に成ったらしい。
> 「伊勢シンジケート」の出自は、多くは、「室町期の豪族」や「土豪族」や「郷士族」が戦いに敗れ、海山に逃亡して「裏の社会」で生き延びた者達であり、これらに「経済的支援」をしてその見返りに警備や運送屋や廻船業や殖産や営業等の手助けを請け負って貰い定期報酬とは別に、その都度の報酬を渡し連携をしていた。
> 次第に血縁関係も結ばれ、何時しか「青木氏族」の一員化して生き延びた者と、その配下や農民やあらゆる職能の人たちで、江戸期には、「ある程度の経済的潤い」と「必要な力」を持ち合わせて「表の社会」の一員の立場も持ち合わせ乍ら「二つの顔」を以っても働くように成った。
> この「組織の範囲」(「松阪組」と「射和組」)は、明治期の初めまでの結果として観てみると、美濃から信濃を経由して、諏訪から甲斐の領域までを範囲としていた事か判る。
>
> これは「和紙」と「神明社」と「青木氏菩提寺」の関係からは元より、各地に起こった「農民一揆」の「経済的支援」をしていた事の記録からも頷ける。
> 取り分け、「宗教絡み」の「甲斐百年一揆」と呼ばれる一揆にも「伊勢シンジケート」を通して「経済的支援」をしていた記録からでも判る。
> 傾向として可成り「中部東域」にそのルートを伸ばしていた事も判る。
>
> 中には、「伊豆勢力」(伊勢信濃青木氏族の末裔集団)と、滅亡した「駿河源氏の末裔族」が編成していた「駿河水軍」との連携を持っていた事も記録から読み取れる。
> これは「伊勢水軍」が、「伊勢シンジケート」の一員であった事からの平安期からの連携が遺ったものと観られる。
> 連携で云えば、多くの「商い記録」が遺る“「瀬戸内の支配権」”の持つ廻船業を中心とした「秀郷流讃岐青木氏」との連携が目立つ。
> 「伊勢シンジケート」を全網羅するには、「別の論文」が充分に成り立つのでここでは、下記に「松阪商人」の「(射和商人) 射和組」に付いて触れて置いてこの程度の範囲とする。


伝統―19

・「商業組合と提携商人」(「青木氏と郷士衆との関係」)
この「商業組合」と「郷士衆との関係」(「射和商人」)に付いては、前段で論じた経緯から観ても、江戸期からの「二つの青木氏」の「生き様」を説くには決して欠かす事の出来ない要素なのである。
(唯、前段までの「伝統シリーズ」をお読み頂く事がより理解を深められ事に成りますので是非先ずはそちらからお読みください。)

取り分け「伊勢域」のみならず、「美濃」を除いて「信濃」、「甲斐」、「摂津(近江系)」(美濃と近江は平安末期滅亡)域に定住する「二つの青木氏」と、「武蔵国域」を始めとする「秀郷流青木氏の主要な15地域の青木氏」に執っては、「欠かす事の出来ない要素」又は「伝統」であった。
江戸初期からこの「射和商人(伝統シリーズ-20)」と同じ立場を持つ「関係商人の集団」が主要な「青木氏定住地」には「青木氏」と連携しながら必ず存在して居たのである。
他にこの事に付いて「青木氏」の何らかの記録に遺る地域では、この記録から観ると、「連携地域」は「15地域」も在った。
その下記する「青木氏」が始めた「商業組合」とその「連携商人」は、次ぎの通りである。

「15地域」
讃岐、伊予、安芸、尾張、駿河、伊豆、相模、越前、若狭、越後、米子、阿波、筑前、肥前、陸奥(伊勢 紀州は除く)

以上の「青木氏」に関わる「15地域(A)」に、「青木氏」が自ら「商人」と成ったものも含めて、この“「提携商人」(関係商人の集団)”が存在して居た。

そもそも、この「15地域」に付いては、”アッそうか“と云う事に成るかも知れないが、それはとんで無い勘違いなのである。
では、「青木氏」を語る上で “どれだけの意味を持つのか”と疑問を持つが、当時としては他を圧倒する“「大変な地域数」”とその“「大変な地域力」”と「地権力」であった。
その“「地域数」と「地域力」「地権力」”と云うものに付いて下記に論じて行くが、「商業組合の提携商人と青木氏」とが「地域に与える影響力」は相当なものであったのだ。
それが、江戸期初期の前後の社会に大きな影響を与えたのであって、これを「青木氏の者」は決して見逃してはならない事なのであり、当に“「江戸期の決定的な伝統」“と云えるのだ。

あくまでも、これ(「15地域」)の設定は、発見された“何らかの資料・記録を遺している”とする事を前提としているので、遺していない地域もあったので、推測では、「青木氏の出自構成」から観て、「20地域程度(B)」には成ると観られる。
更に、他の論文でも論じた“「主要青木氏族 8氏の地域」“として観れば、「提携商人」は、全て「8地域」にも在って、計23地域(A-1)、28地域(B-1) と成る考察である。

そうすると、兎も角も、先ずはこの「15地域」を前提とすると、「特別賜姓族」の「秀郷流青木氏116氏」が大きく定住する“「24地域」“と、「皇族賜姓族五家五流24氏」の”「19地域」“(室町期 最終19地域)とである。
合わせて43地域中、現在、記録に遺る地域として、「約30%-15地域」に、この“「提携商人」(関係商人の集団)”が確実に存在して居た事に成る。

この「30%-15地域」の「提携商人」が、「青木氏」と共に“地域に対して“「経済的背景」”と成っていたのである。
とすると、これを下記に示す通りに、同じ様に地域(21)に対して“「経済的背景」”と成っていた「青木氏」が関わる“「一揆地域」(下記)”と重ねて考察すると、更に「証拠力」が増すだろう。

そこで、詳細は下記に論じるが、明治期までの”「一揆」”と云う観点からで観ると、「21地域」と成る。

何故、この”「一揆」”と云うものが「15地域」と同じ様にパラメータに成り得るのかと云うと、”「一揆」”には、”「一揆」”と云うと「空腹」では無し得ない。
それを実行するには、必ず「経済的背景」が無くては無し得ない。
つまり、従って、この”「一揆」”も「青木氏」が「経済的背景」と成って援護していた環境下にあって、上記の「提携商人」で観ると「15地域」、「一揆」で観ると「21地域」と成る。(下記)

これらも「同じ地域環境」で「何らかの形」で強く“「経済的背景」“と成って”「民の行動」を援護していた“のであるから、”この差は一体どうなのか”と云う事に成る。
依って、これに「青木氏」が関わっていたのであるから、本来であれば数字的には同じ程度である筈である。
然し、同じ様にこの地域に対して「経済的背景」と成って居乍ら、この差の「6地域」(21-15)は、何で起こっているのかである。
本来であるならば同じ程度である筈だ。

結論から云うと、この「6の地域差」は、“「提携商人の定義」の差”であって、つまり、「定義外の形」(下記)で提携していた「商人」が居た事に成る。
所謂、「定義外の形」,これが他氏には観られない「青木氏」だけに関わる「提携商人の特徴」なのであって、「重要な伝統」の「一つの差」なのである。

何はともあれ、この「21地域の一揆」とは、上記の「推測の20地域」≒「一揆の21地域」とほぼ既に一致している。

従って、この「推測とした地域」(定義外の地域)は、上記の通り「5地域」である事に成る。
つまり、「推測していた地域」が含んでいた事に成る。

要するに、「推測5地域≒地域差6地域」の「関係差」と成っている。

恐らくは、この「関係差」が出ていると観られる。

そうすると、次ぎに、この“「推測とした地域 5地域」”とは、“一体何か”という事に成る。

その前に、15地域には、「青木氏定住地、即ち、青木村」がある事を述べて置く必要がある。

然し、この“「青木村」”は、何度も論じているが、そもそも「嵯峨期の詔勅」と、「青木氏」の50程に成る「慣習仕来り掟の使用の禁令」で、この「慣習」の一つと成る「地名」に対して、一般に対して使用を禁じた。
且つ、「氏名」を元とする「地名の使用」も禁じられていた。
そして、共に「青木氏の氏名の使用」も禁じられていて、明治3年までこの原則は護られた。

従って、“「青木村」”があるところには、“「真の青木氏」”が必ず存在し、且つ、この“「商業組合」と「提携商人」”も存在して居たのである。

この「青木村」の詳細は、「地名地形データベース参照」としては次ぎの様に成る。

「古史資料ベース」としては、「青木村」は「75地域」、「現地図の地名ベース」では「109地域」である。

この内訳は次ぎの通りである。

(注意 現在の都道府県名で呼称するので「地名」が分断している事がある。
「数字」は必ずしも大きさを示さない。
「複数」は「青木村」が本家地域と分家地域で「複数の村」があった事を示す。
「1の数」には、複数地域よりも「広さ」では大きい事もある。)

青森 1、岩手 2、宮城 17、福島 2、茨城 2、栃木 1、群馬 1、埼玉 3、千葉 3、
神奈川 1、新潟 5、・富山 1、・長野 8、岐阜 2、静岡 3、愛知 21、滋賀 1、京都 2、
・兵庫 3、和歌山 1、鳥取 1、岡山 1、広島 3、山口 1、徳島 4、香川 2、高知 長崎 1、 福岡 4、熊本 1、・宮崎 1、鹿児島 1 

以上の「101の青木村」が「現在の地名」で在る。

(注意 「三重 6(地名含む)」と「南和歌山 2」は除く。・印は、「皇族賜姓族青木氏」の「伊勢と信濃と近江」の「商人 2」を含む。 計「全109村」)

「秀郷流青木氏の特別賜姓族116氏」に、「皇族賜姓族青木氏の19氏」で、「二つの青木氏」とは、そもそも「135氏」である。
然し、現実には「二つの青木氏」は、室町期末期では最終「121氏」であった事から 現在地名の「全109村」(三重南紀含む)とすると、「青木氏」では「氏=村の関係」があったので、室町期末期では「12の差(121氏-109村)」が出ている。

平安末期から観ると、「26の差(135-109)」、 古地名では「60の差(135-75)」であるので、「嵯峨期の詔勅と禁令」に依り「青木氏」にだけ限られる「氏=村の関係」から「消滅」が「最大 26村」があったと観る事が出来る。
この主原因には、「源平合戦」にて「青木氏氏是」に従わず、二度も「戦い」に参加して「近江と美濃と滋賀と駿河の青木村」が消滅した事に在るだろう。

「青木氏]と云う「特定の氏の共通する村」が全国にこれだけある事の事態が稀を超えて特異である。先ずは無いだろう
それだけに、この「109村、或は、75村」の持つ意味は計り知れなく大きい。

兎も角も、現在地名では「青木村」は、正式に「109村」で、江戸期前の地名では「75村」、現在の地名で、「青木氏族」を含めた形で観ると、上記した様に、計23地域(A-1)、28地域(B-1) に成る。
従って、平安期末期と江戸期初期の両方から観ても、「村の地域」と云う点から少なくとも「26地域」には「青木村」があった事に成る。

計23地域(A-1)<「村 26地域」<28地域(B-1) 

唯、考察での問題は、「永嶋氏」の様に、この「青木氏族の絡み」が、“「109村」、或は、「75村」にどれだけ組み込んでいるのか”は,なかなか判定が難しいのである。
と云うのも、「秀郷流青木氏」の「青木氏族」は、「商業の関係」でも可成り「親密な関係」にあって、分離して判別する事が難しいのである。
中でも、前段でも論じた様に、「伊勢の長嶋氏」、「薩摩の肝付氏系長嶋氏」等では明らかに「青木氏」と「商業の関係」を持っていた事が資料から判っている。
そもそも、他の論文でも論じた様に、「青木氏」が「第二の宗家」で「青木氏族」を取り仕切って居た事にあるからである。
取り分け、筆者が観る処では、「永嶋氏」が最大に「青木氏」と関わっていた事に依ると観ている。

資料にしても「青木氏と永嶋氏の関係資料」が最も多く在り、且つ、「親密度」も互いに出自が同じで「兼行系」であった事から親交が高かった。
又、「青木村」の存在する処には、必ず「永嶋氏」が定住している史実が在る事から、更には、主要5氏の中でも「子孫拡大」でも最大である事からで、本論の「提携商人の関係」にしても「商い」で繋がっていたのである。

(注釈 「永嶋氏」はその意味でも「関東屋形」と呼ばれていた。)

(注釈 事例として前段でも論じた様に、秀吉から攻められた「結城氏(永嶋氏)」の「陸奥の戦い」にも「伊勢秀郷流青木氏」が、「伊勢長嶋氏」と共に参加して、背後から攻め立てて「永嶋氏系白河結城氏」を秀吉から救っている。
この戦いは「秀吉最大の失敗」と呼ばれた。)

前段で論じた様に、その「典型的な証拠」に「伊勢」があり、全ての上記の要素を持っている。
「佐々木氏の資料」を観ても、「青木氏と永嶋氏の関係」に付いても論じている位である。

最南端の鹿児島でも「氏」として「二つの青木氏と永嶋氏の関係」があって、「大蔵氏族肝付氏系永嶋氏」が「薩摩藩の御用商人」としても働いていて、「材木商」や「雑貨関係」としても「二つの青木氏」とは“「横の関係」”で繋がっていた事が判って居る。
関西と中部域で「青木氏との商い関係」でその行動記録がある。
唯、内容から薩摩側では、「御用商人」が大手を振って「商い」をしているのではなく、特別に配置された、所謂、“「永嶋氏の者」(要するに「本論の提携商人」に成り済ました)”が動き、「姓」(長嶌姓)等を変えても「隠密行動の様な商いの仕方」をしていたと観られる。
それだけに事態は掴みにくい記録であった。

(注意 ここでは、兎も角も「青木氏の提携商人」として単独で論じているが、お読み頂く場合は是非に重層してこの“「横の関係」”があったとして幅広く想起しながらご判断頂きたい。)

(注意 依って,現地名「109村」には、「市町村合併」や「歴史的変化」にても「青木村」、或は、「青木の地名」が、残念ながら少なくとも”「12の消滅」”をさしている事が確認できる。
これが、上記の「近江と美濃と滋賀と駿河の青木村の消滅」と成るだろう。)

但し、現在の47度道府県として、この「26地域」(135-109)には、「青木氏」に関わりの無い「青木村」があり、「村」では無い「単なる地名」もあり、明治後の「第三青木氏」の「青木村」もある。
依って,これ以上の結果とは成らず、「26地域-地域差6地域」と成る。

この「三つの要素」を取り除くと、江戸期の「66国」中では「75村」と成るから、これも同じ“「26地域の村」”と成る。
この「26地域」は、「青木氏族」を加味した数字の「28地域」に一致する。
依って、この「青木村の数」は、明らかにこの「28地域」を超えない事が判る。
「一揆の地域差6」を勘案すると、「22地域の村」と成る。

つまり、「26地域から22地域」と成り、この中間として「秀郷流青木氏の定住地」の「青木村」の「24地域」は定まる事に成る。
これに「皇族賜姓族青木氏」の「青木村 6地域」を加算しても「28地域」を超えない事が判る。
このデータの信憑性は極めて高い事に成る。

この「26地域から22地域」の「青木村」には、それぞれの“「青木村の由緒」”があるので、一概には言えない。

然し、但し、次ぎの6県は「15地域」の中でも特別である。

愛知 21、宮城 17、長野 8、新潟 5、福島 2、埼玉 3

以上の6県は、確かに「青木氏の主要地」であることもあって、「複数村/県」で、「多数」あって、大きさも「広大」(地権力)であった。

この「6県」の「青木村」の持つ「地域力」、又は,「地権力」というものが如何に大きかったかが判る。
つまりは、「商業組合」「提携商人」の「存在と活動」が半端では無かった事を意味する。

その「大きさ」の持つ意味を一つの形に表すならば、一種の“「青木氏聖地」の様相を呈していた“と云っても過言では無い模様であった。

そうすると、これだけ大きければ、「正規の藩主」では無いが、軍事的に、経済的に、政治的にも握っていたのである。
この「青木氏」が“「民」を援護した”と成ると、伊勢域の「射和商人」の様な「商業集団」を作り、これが「商業組合」を作ったと成ると、「為政者」にとっては「最大の脅威」であった筈である。

この6県の「江戸初期の藩数」で観て見ると次ぎの様に成る。

6県の江戸初期の藩数
愛知 5(尾張藩)
宮城 2(仙台藩)
長野 18
新潟 18
福島 9
埼玉 20

如何に小藩がひしめいているかが判る。
因みに、御三家の「尾張藩」と、伊達氏の「仙台藩」を除き、6県の「江戸期初期の藩」は以上の様に「小藩」がひしめき合って配置されていた。
これでは、「青木村の青木氏の地域力」、又は、「地権力」を凌ぐ程の藩は無かった事に成る事は明らかである。

そこで問題は、「愛知の尾張藩」と成る。
検証して観ると次ぎの様に成る。

そもそも、御三家の「紀州藩」と対抗したのは「尾張藩」であった事は有名で、「伊勢青木氏」が吉宗に同行して「享保改革の政策」を押し進めたが、これに異議を唱えたのは「尾張藩」で明治維新まで「伝統的な関係」にあった事は有名である。
その関係に在りながらも、それでも「地域力」や「地権力」を示す「青木村」は「5村」も在った。

では、その「5村」とは、1郡に相当し、1郡は1国5郡とすると、「1/5の面積=地権」に「地域力」「地権力」を持っていた事にも成る。
この「地域力」「地権力」は、例え「藩主」であってもこの“「地権」(地主)”を持つ地域に対しては「治外法権的な意味合い」を持ち、この「地権」に対する税を納めれば「自由な差配」できなかった制度であって、現在の「固定資産税」に近いものであった。
多くは「青木氏」の様に江戸初期で観れば、平安期からの歴史を持つ「20弱程度の氏族の郷氏」にあった。
「地権料」を支払う代わりに「土地」に対する「自由権」を補償されていた。
要するに、民から観れば、先ずは「藩主様」より「地主様」であった。

この「地権」の無い所は役所に届けて承認を得なければならない。
そうすると、果たして、この「尾張藩」は、この「1/5の面積=地権」で占められていた事に成る。
例え藩主であっても自由にはならない地域が1/5あったのである。
ここに、「商業」から得られる「莫大な経済力」も持ち得ていると成ると、これでは明らかに「藩主以上」と云う事に成る。
民に執っては、心情的には「経済的」に何だかんだと面倒を看てくれ援助してくれる「地主様」の方が親近感が湧くが、税を採られる「藩主様」では無かった事に成る。
それが「御三家尾張藩」である。(紀州藩と藩政が違う)
「自尊心」と「権勢欲」が強い藩主であれば、夜も眠れない事に成るだろう。
「尾張藩」を除いては最早問題では無い。

「埼玉の20」は、秀郷一門一族の武蔵の地元である。論外であり、当然の結果であり、「地主様」である。

これで、他の9県もどの様な状況であったかは推して知るべしで判る筈である。

では、「紀州藩」が推し進める「商業組合-提携商人策」に対して「藩主側」が反抗し得る立場を持っていたかは疑問である。
とすると、「反抗勢力の吟味」と云うよりは、下記する「家康のお墨付き」「地士制度策」にどの程度の「効き目」があったかの「検証問題」だけは残る。
然し、現実には推し進めたところを観ると、矢張り黙認せざるを得なかった事に成る。
下記する「7年」から推し量ると「最大効果の効き目」があった事に成る。

況して、「尾張地域の周囲」は、他県と異なり「秀郷一族一門」と「片喰族と州浜族の秀郷流青木氏」で固めていたのであって、「家臣の大半」はこの一族であった事から、なかなか難しかったと考えられる。
「尾張藩」としても「金子借料の件」もあって「青木氏の豪商」に文句を附ける事などは難しかったと観られる。

(注釈 「吉宗の経済政策」に尾張藩は異議を唱えたが無謀が過ぎて、結局は「藩主退陣」に追い込まれている。)

因みに、この「6県の範囲」で観て見ると、「尾張藩」を含めて「72の各藩主」が、これを無理に抑え込もうとした場合は次ぎの様な事が起こる。
果たして、この様な事をするであろうか。
それこそ「藩政未了」として幕府から潰されるが落ちであったであろう。

その「典型的な最大事件」が、同じ江戸期初期に讃岐伊予域の「青木氏の定住地」で起こっていたのである。

その「典型的な事件」が、「山内一豊の土佐事件」である。歴史的にも有名である。
「伝統シリーズ」でも論じたが、土佐に平安期の古くから住む「讃岐藤氏の青木氏等」の「郷士や郷氏」が此処に定住している。
その「地権」や「商業」などの「地域力」「地権力」を持つ「郷氏や郷士」を、思うが侭に「支配権」を獲得しようとして藩主と成った「山内氏」は、これらに対して「武力に依る攻撃態勢」を採った。「自尊心と権勢欲」が強くて夜も眠れなかったのであろう。
そこで「激しい抵抗戦」が長く起こり、結局は、「最終談合」と云う形で城に一族を含む「郷士と郷氏」の全員を招き入れて、そして何と閉門して「騙し討ちの殲滅作戦」を採り全滅させた事件が起こった。
これに依り土佐に「抵抗勢力」は無く成ったが,本拠の讃岐域では「讃岐青木氏」は健在であった。
この遺恨は「讃岐青木氏」に遺った。

この様に、「移封藩主」と主に「地権を大きく持つ郷氏」との間は「犬猿の仲」であった。
何処でも例外なくその原因は、藩主に取っては「地権と商業と結びついた地域力や地権力」が邪魔であったのである。
この「15地域」でも例外では無く、上記の「主要6域」(6県)は当に特別であった。
この様な事件は「15地域の青木氏」でも例外では無かった。
むしろ、「地権力と地域力」のみならず、更には、もう一つあった。
それは“「氏の格式」”には「格段の差」があった為に,「移封藩主」にとっては手の出し様が無かったのである。

(注釈 この「格式差」が物語る事としては、前段でも論じたが、「伊勢青木氏の口伝」で伝わっている様に、紀州徳川氏の頼宣さえも面談時は、上段の座)を外した作法を採ったくらいのものであったのである。)

下手をすれば、特に、上記した愛知 21、宮城 17、長野 8、新潟 5、福島 2、埼玉 3の6国では、江戸期初期であっても、藩主側は、未だ「賜姓族」としての「不倫の大権」をかざされて「朝敵の汚名」を被る恐れもあった。

そこで、その「移封藩主の脅威のレベル」では、「秀郷一門」は,前段でも論じたが、家康が一目置くほどに全国規模で展開する「軍事力」を持っていた中で、「秀郷流青木氏」はその「第二の宗家」と呼ばれる様に「一門の指揮権」を備えながら、「二足の草鞋策」としても「商業」にもその「地域力と地権力の勢力」を振り向けていたのである。

これに、平安期から「古氏」であった事から、その「広大な土地利権」をも持っている“「郷氏」”でもあったのである。
そして、それが“「商業組合」”として、“「提携商人」”を作り出して、「軍事力」は元より「経済力」にも「途轍もない幅」を利かせていた事に成る。
「単なる大名」や「豪族」が、例え「為政者」として「藩主」と成ったとしても、これでは到底、力の及ぶところでは無かった。
その「青木氏」が幅を絶大に利かした地域が「15地域」もあったと云う事に成る。
但し、全国の30%程度に、この「勢力」、即ち“「地域力」「地権力」”を誇示して居た事に成る。

中でも「最大の地域力と地権力」を示しているのが下記の県である。

愛知 21、宮城 17、長野 8、新潟 5、福島 2、埼玉 3

その以上の6県は、次ぎの様に成る。

「尾張(三河)」、「 陸奥(陸前)」、・「信濃」、・[越後]、 「下野(岩代)」・「武蔵の国」

以上とは成るが、元よりここは「秀郷流青木氏の主要国」でもある。

如何にこの地域にその“「地域力」「地権力」”が及んでいた事かが判る。

これで、前段の「秀吉-家康の関係」から関東に移封された「家康」が、採った秀郷一門に敷いた施策の妥当性が良く判り、「武力」では無く、「青木氏の提案」の「商業組合の提携商人の創設」を戦略的にも目論んだ事でも判る。
山内氏の様に「武力」に依らず、前段でも論じたが、この“「地域力」「地権力」“を利用する”「懐柔策」“に出たのである。
然し、この“「地域力」「地権力」”に対して、これに対してどんなに大きな「藩主」であっても、公然と軋轢を掛けて潰そうとしても出来ない事であり無理であった。
この事は、“「商業組合」”の基と成る“「提携商人の創設」”は、「伊勢紀州」から「15地域」に「短期間」で広がった理由でもあった。
資料の範囲では、最大で観て見ると何と“「7年間」”である。

この“「7年間」”を吟味すると、先ず「商業組合」を伊勢で始めたのは、「蒲生氏郷」が嵯峨期から禁令で有った地域の松阪に禁令を敢えて破り、先ず「政庁の松阪城」(1588年)を作り、その城下を商業都市化した時に、「青木氏の本領安堵」と共に「屋敷町の3区画」をも与えられた時からである。
先ず、ここで「商業組合の基礎作り」が始まり、この城郭を引き継いだ「家康」が、この「頼宣」(1619年)に「紀州と伊勢」の統治を任せる直前に、「青木氏との談合」を数度重ねている。

前々段でも論じた「青木氏の商業年譜」から観て見ると次ぎの様に成っている

1612年に「合力談合」。
1614年に「伊勢衆談合」。
1615年に「伊勢衆動員」。
1615年に「堺摂津盛況」。
1619年に「松阪会談」。

1612年に「夏冬の陣」で「家康の要請」に応じて「談合」で徳川氏に合力する事を決めている。
既に、「家康」とは既に1603年と1605年にも「談合」があった。
「頼宣」が紀州藩に正式に入城したのは1619年で、その前から既に「浅野氏の紀州の政情」を調査するなどの“「事前行動」”を、家臣を秘密裏に送って数年前から探って採っている。
つまり、この事から、「家康」は「夏冬の陣」の頃から「頼宣」にここを任す事を密かに決めていた事に成る。
勝利したから決めたと云う事では無い事が良く判る。
つまり、「戦略的地域の要衝」であった事に成る。

五大老に成り「征夷大将軍」に成った時点で、「徳川氏盤石の礎」を築く為に、「地理性と環境性」(青木氏等の地域力)から判断して、この「紀州伊勢域」に一族を置く事を企てていて、「事前調査」(政情調査)をした事に成る。

だとすると、この結果から観て、従って、1615年までには「青木氏の提案」を受けている筈である。
この直前(1613年頃)の時前に、この「青木氏の提案」があったと観られる。

その後に「家康」が没する1616年までに,この計画は既に進められていた事が年譜から判っている。

1603年に「伊勢談合」。
1605年に「松阪面談」。
1606年に「伊勢談合」。
1607年に「四家安定」。
1612年に「合力談合」。

依って、「初期計画」は1588年頃に始まり、1603年に「伊勢談合」により、1605年「松坂面談」の頃には「暗黙の了解」が得られ、1606年に「伊勢談合」で、伊勢紀州域の郷士衆や商人や農民や職能者に説得工作を開始して、1607年に「四家安定」で氏内が混乱していたが、説得が効を奏して、上記の1612年の「合力談合」では、「伊勢紀州の態勢」は「商業組合」を暗黙で容認する「徳川氏」に決まり、この結果として、家康没直前の1613年後半期には本格稼働させ、「頼宣入城」の1619年で、15地域に「頒布稼働」させ終わって居た頃に成る。
従って、1612年から1619年の“「7年間」”で大方広め終わっていた事に成る。

つまり、この期間から観て、“「頼宣入城」までには、整えておく”と云う「密談事項」が家康と在ったと観られる。
それが、資料からすると、これ以外には談合は無い所から「1612年の時」の「合力談合」で行われていた事に成る。
「合力」と同時に行われたとすると、「家康」は豊臣側に勝つ事を前提にして事前に打ち合わせていた事に成る。
「青木氏側」にしても、「合力の見返り」が、“何もない”では周囲を説得し押えられなかったと観られる。

だから、「1607年の四家安定」とある事に成るから、四家が急激に安定する事は無い筈で、徐々に1612年に向けて「安定」と云う方向に向かって繋がっていったのではないかと観られる。
これは、明らかに「提案」が、「商いに繋がる事」として、“「合力の見返り」”に在ったと考えられる。

この「初期計画」から観て、その期間は31年で、「中期計画」までは14年とは成るが、この時期では「商業組合の体制」が、”充実した状態で完全に整った”とは云い難く、それはこの「商業組合の提携商人」の「関わり方」に未だ問題があった様な印象である。

つまり、“充分では無かった”と関係する各種の資料、取り分け、「越前からの手紙」からの判読で読み取れる。
“「1619年頼宣入城」までに間に合わす”と云う「大前提」があった事から、「7年」と云う形である程度の上記した様な読みもあったが、それにしても“いざという時の「怪我」”を覚悟で急いだと観られる。
可成り急いでいるが、この時の「青木氏や郷士衆等の生き様」が読み取れる。

其れの決定的な証拠としては,下記に論じる“「江戸初期の一揆の様子」”である。

「江戸初期頃の青木氏」が関わった「一揆」(下記)を抜き出すと次ぎの通りである。
・1603年滝山一揆
・1608年山代一揆
・1614年北山一揆
・1615年紀州一揆
・1677年郡上一揆

先ず、1603年の土佐で起きた「滝山一揆」で、上記した「讃岐藤氏の末裔郷士」と「讃岐青木氏」が関わった「郷氏 郷士連」と伊予讃岐を挟み「土佐の農民の一揆」が在った。
要するにその最終は、上記した「山内一豊の事件」である。
この「一揆」で「讃岐青木氏」は大きな痛手を負った。
そして、後々にまでこの遺恨は遺ったのであり、その後に「小競り合いの問題」も伊予と讃岐で起こしている。

ところが、この後、続いて「讃岐青木氏」に影響を与えたのが年を置かずに起こった1608年の「山代一揆」である。
そもそも、この1608年の「山代一揆」は、安芸国の国境で起こった「農民の一揆」で、毛利氏の農民に対する重税率(73% 本来は40%程度 四公六民)が異常であった事から3年間も起こったもので、「讃岐青木氏の勢力」が安芸に延び,その「末裔の商人」とその関連する「地域の住民」に影響を与えた。
結果として、これが「商業的な地盤」に影響を与えるとして重視して、経済的に背後に居たと云われている。

次ぎには、少し開けて3年後に起こった紀州南紀の1614年の「北山一揆」は,特に「南紀の熊野全域」で起こった「一揆」であり、結局は南紀から南伊勢の全般に拡がった農民を巻き込んだ地域の土豪の「一揆」(乱)であった。
要するに、「秀吉の紀州征伐の反動」である。
この反動は「頼宣入城」の直前の何と1619年頃まで続いたのである。

起こった地域が一般には「南紀」としているが、現実には紀州全域と伊勢全域に影響を及ぼしていた。
それは、この「一揆」を制圧しようとして派遣された「秀長の掃討軍」(紀州領主)が、伊勢紀州の地場産の「材木の販売」に加担して莫大な利益を上げていた事から事件が拡がったのである。
「一揆軍討伐」どころか「商い」をしてしまったのである。
それも最初に派遣された「秀長(秀吉の弟)の討伐軍」、そして、天正の二度目に派遣された秀長家臣の吉川の「紀州征伐の討伐軍」も何と共にである。
この事で結局は「一揆討伐」はひとまず放置された。
この不思議な“「猶予期間」”が起こり、更には後に、秀長から改めて討伐を命じられた家臣で「紀州湊の領主」も同じ事に成ってしまった。

(注釈 この天正末期の行為が「秀吉」に伝わり「弟秀長」は「蟄居」、家臣の吉川は「打ち首」(さらし首)と成って、一揆は一応は挫折した。
この後の慶長期にも燻り続けていて「北山域山岳部」で直ぐに紀州一揆が再発し起こる。天正期からこの一帯で起こり続けた一揆は「北山一揆」と仮称されてはいるが正式な呼称では無く、総じて「紀州一揆」であり各地に継続して飛び火して行ったものである。)

これは、“材木販売等が二度も何度もある”というのは“何かおかしい”。何か策略を感じる。

そこで、この“何かおかしい”を説く為には、前段でも論じたが、次ぎの事を思いだす必要がある。
この一帯は、そもそも「伊勢青木氏の遠祖地」でもあり、「和紙の素材」等を栽培している地域でもあって、且つ、その地の「南勢の郷士衆」は「伊勢青木氏」に大きく関わっていた事からも、又、所謂、「青木氏部の郷」でもあって、「一揆に加担した南勢郷士衆」が「青木氏」に大きく関わっていた事から「伊勢青木氏」は絶対に放置できなかった。

一方では、青木氏は「商業組合の問題」も抱えていて“てんてこ舞い”であったが、「一揆」を“後回し”と云う事には成らない出来事であった。
それだけに、「一揆の経済援助」だけでは済まなかったと考えられる。
先ず足元を固める事が専決事項であった。
「青木氏」は、先ず「伊勢シンジケート」を熊野山岳部に動かし牽制して、この「紀州の一揆」を側面から援護しながら「討伐軍」を牽制して一計を案じたと観られる。

そもそも、これは、最早、紀州で起こった全てこの一連の「一揆」は“「一揆」”と云うレベルでは無かったのである。
最初は秀長や吉川等の重臣等が多く討ち死にすると云う程のもので、「伊勢シンジケート」に依る山岳部や河川域で起こる「ゲリラ戦」も含めて「完全な軍と軍との戦闘」であった。

それが、地域を限定した「反抗の一揆」ならば、「伊勢シンジケート」で牽制してまでは行わないだろう。
要するに、そもそも戦い方が一揆では無い。当に「乱」であった事から、「青木氏」が採るべき事は決まっている。
それは「否戦闘の常套戦術」である。
この「常套戦術」が、この「伊勢紀州の地場産」の「材木の販売」等が「青木氏の戦術」であったと観ている。

当時、記録で観て見ると、「一揆」と時を同じくして、世の中は安定化に向かっていて、材木等の資材が“「大阪堺摂津」“で高騰し始めたのである。
取り分け、不思議に「紀州の檜の材木」が一挙に高騰し始めたのである。
当時では、未だ、武士や市民の住宅建設」までの安定期には至っていない。
にも拘らず「堺摂津域」では高騰している。

これは「信長の伊勢攻め」の「丸山城の焼失作戦」と明らかに同じ手口である。
つまり、前段でも論じたが、「伊勢青木氏の商業記録」に遺る史実であるが、「堺摂津の紙屋」が資材を織田軍に調達する役目を請け負ったが、この時に採った「丸山城築城に伴う資材高騰の作戦」があった。
同じ様に、この時も「信長」の息子の「信雄」が、「信長」に重臣面前で罵倒され蟄居を命じられている。
つまり、「掃討軍」に「商い」に誘い込み「利益」を挙げさせて、遂には「表沙汰」にして「失脚させる戦法」に出たと観られる。
両方は全くそっくりである。

この「青木氏の常套戦術」の其れに依って、起こった「一揆」(乱)に対して「青木氏」としては「短期にして最小限度の被害」に留めようとしたものであったと考えられる。

これは、1603年から始まり長引いた“「天正の紀州討伐」”に続いて、燻り続け「小競り合い」の続く中で、この1614年に再燃した“「北山一揆」”に続き、再び続いて起こった同じ紀州で別の1615年の「北山域」を含む“「紀州全域の一揆」(紀州一揆と呼称)”は,未だ「紀州征伐」の「憤懣の爆発」が解消せず、「各地の郷士から農民全般」に紀州から伊勢の一部に掛けて全土に拡がった「大一揆」(乱であった)であった。

そもそも、この「南紀州域と南伊勢域」は、前段でも論じた様に、「龍神域」から「戸津川域」、そして、「北山域」等の「紀伊山脈山岳部」は、「平家落人の里」として鎌倉期からも「有名な山岳地域」で、ここに“「紀州郷士衆」”が住んでいた処である。
この「地域の農民」と云えども元はれっきとした“「平安鎌倉武士」”である。
寄せ集めで武士に成った「豊臣家の武士」では無い。
戦えば、当時も「一騎当千の力を持つ戦闘集団」であった。
時には常に鍛錬して「傭兵軍団」に成った経歴を持つ。
(現在でも「戸津川郷士の剣道」と云えば全国優勝する程である。)

この「一揆側」には、上記の「郷士集団」が結集し「3千の兵力」で当たり、これに「農兵軍 一千」が加わり、更には「「伊勢シンジケートのゲリラ戦闘員 一千」が加わったとされている。

これは「一揆の戦力」を理解する上で、どれ程の「郷士」が集まったかと云えば、「一人の郷士」に「20人の家人」が居たとして、「150人の郷士」が集まったと云う事に成る。
前段でも論じたが、この「伊勢紀州域」は、奈良期からの悠久の歴史を持ち、「遷宮のお膝元」として「不倫」で保護されていた事もあって、「争い」は少なく、「郷士衆」も少ないのである。
他国の平均が500強と論じたが、それから観ると少ない伊勢紀州域ではほとんどの「郷士衆」が参加した事に成る。

それに、元は「平家家人」であった「元武士の者」等が「農兵」として参加した数が一千とすると、一郷士の下に6人が加勢している事に成る。
「郷士」も「農業の環境下」にあって、「青木氏に依る殖産」に中心と成って従事していたのであるから、「農兵と成る6人」は、「村の農民」の戸主半数が参加した事に成る。
「農兵の村の農民」は「村を護る事」から全員が加勢する事は出来ない。

この「二つの吟味」から、伊勢南域と紀州域とすると、要するに、“「総掛かり」”であった事に成る。
これに、「伊勢シンジケート」が伊勢紀州域から非常事態として集合した「常時戦闘要員の一千戦力」とすると、「伊勢シンジケート」は、信濃域を除いて、「7軍団」居たとされている。
各地に配置している「一軍団」に「200人から250人のプロの戦闘員」(伊賀忍者の様な集団)が居たと成っているので、5軍団/7軍団の相当で集合した事に成る。
「留守居」を置いて「伊勢紀州域の全軍団」がこの時とばかりに集合した事に成る。

恐らくは、最近、「郷士の家」から発見された手紙に依れば、「信濃域」からも合力している事は確実である。

(注釈 これらの「物資補給」や「シンジケートの特別手当」などの「賄い」は「青木氏の資力」からの援護に依る。)

「青木氏」は、片手に「15地域の商業組合の推進」、一方ではこれを覆す程の事が起こったのだが、これを観ると、「500万両と云われる総力」を掛けた事に成る。
「伊勢水軍」と「熊野水軍」が海部域から牽制して動いたと成っている。
何れ「一揆掃討軍」とすれば、山岳域と海部域から挟みこまれれば、補給は陸部だけと成る。
この「陸部の補給」だけでは1万と云われる具の補給は困難で、それを「ゲリラ戦」に持ち込まれれば、「戦費」は嵩み、「掃討」と云う事までは行かないだろう。

況してや、例え、「一万弱の討伐軍」であったとされているが、“「戦力」”としては「平家落人の一騎当千」から“一揆側の方”が遥かに上であったと観られる。
(戦い場所を選ば無くてはならない程に切迫し、「河原の野戦」に持ち込もうとしたと書かれている。)
この事から、秀長の家臣の「湊の住人吉川の戦力」では到底力の及ぶところでは無かったのであって、それだけに出来るだけ「直接的な戦い」を避け,何とか時間を掛けたと観られる。
そこで、秀吉より督促され焦りを見せた秀長が援軍を出し無理押しを強いたのである。
それだけに、記録に遺されている様に、重臣とその家臣が多く討ち死にすると云う「天正末期の一揆」にしては前代未聞の“豊臣側に大きな犠牲”が出した事に成っている。

これを観た「青木氏」は、当然に長期戦になれば遠征側の秀長側に「戦費に対する心配」が必ず起こるとして、この市場で「材木の高騰」を故意的に起こさせて置いて、紙屋が「材木の販売」を持ちかけたと観られる。
「一揆掃討の作戦中」でありながら、その時に何と膨大な”「数万本(2万本)もの材木」”を売れば、罰せられることぐらいは誰でも判る筈なのに、売却したのである。

これはどう見てもおかしいし、「掃討軍の戦費」であって明らかに「青木氏が採った戦略」であった事が判る。
これに載った「秀長と吉川」は、結局は、この件が発覚し秀吉に罰せられたのである。
こうなれば、「一揆処の話」では無い。

そもそも、秀長側は、この仮称「北山一揆」の「上記した様な経歴と背景」は既に知っていた筈で、有名な事である以上知ら無い訳は無い。
何故ならば、上段で論じた様に、この様な事は、既に「秀吉」は「青木氏」との間で「伊勢長嶋の戦い」でも経験しているのであるし、「信雄の丸山城建設の資材暴騰と消失」を目の当たりに経験している事でもある。
未だ、35年前の話でもある。そう忘れる程の昔では無い。

それだけに「持久戦」に成る事は承知して居た事で「戦費」が気に成っていたし、「犠牲」も普通の「一揆の範囲」では無い事ぐらいは判って居た筈である。
秀長は浅野氏の前の紀州領主である。知り過ぎていた筈である。
そして、この地域が「伊勢青木氏の遠祖地」で「関連地域」である事も重々承知していた筈である。
背後には「伊勢青木氏」が居る事ぐらいは知っていた筈である。

同じように「一揆側」にも「戦費の問題」が発生している。
然し、これを誰かが背後で援護している事ぐらいは判る。だから一揆は続く。
又、「相当な財力」を持った者である事も判るし、それを出来るのは「地権者」でもあるし、「伊勢青木氏」である事も当然に判る。
そうすると、ここで“何が起こるか”は予想できた筈で、上記した様に、況して、「青木氏」が持つ「伊勢シンジケート」が動くと「山岳部の補給路」は塞がれる事で犠牲は続出する事ぐらいは判って居た事に成る。
又、「海部域」も「青木氏」は「二つの水軍」を持っている事ぐらいは判っていた筈で、補給路に問題出る事も判る。
だから、「一揆側」を積極的には討伐せずに「九州征伐」に出て一時放置したのであって、秀吉の再三の催促に「三度の遠征」と成り、一時は「首謀者の犠牲」で納まったかの様に観えた。

ところが、放置して「根本的な掃討」としなかった事から、「小競り合い」は永遠と続き、結局は再び大きく成った四度目の1614年と1615年の「紀州一揆」までの「紀州討伐の結果」は長引いて仕舞ったのである。
これは直接戦に成った処か、前哨戦に成った処からの何処からの状況で観るかに依るが、最大で27年 最小で11年と成る。

「青木氏側」から観れば、「小競り合い」が続く範囲で治められていたが、結局は、“長引かせてしまった”と観る方が正しいと観られる。
それは次ぎの年譜でも判る。

「青木氏の商業年譜」では次ぎの様に成っている。

1614年に「伊勢衆談合」。
1615年に「伊勢衆動員」。
1615年に「堺摂津盛況」。
1619年に「松阪会談」。
1620年に「伊勢藤氏談合」。

上記でも論じたが、“1614年に「伊勢衆談合」”でも判る様に、紀州で起こる先の「三つの一揆」でも判る様に、何とか引き伸ばし「一揆不問」の様な形を採ったと思われたが、結局は、又、「一揆」が起こった事に対してどうするかを一堂に集まって「談合」を進めている。
当然に、これは「商業組合と一揆」に付いてどうするかを議論したと観られる。
そして、「一揆の事態」が「小競り合い]から更に拡大した。
そこで、「商業組合」にも直接影響すると観られた事から、1615年に「伊勢衆動員」が行われた。

「天正の一揆」で採った「長引かせる戦略」に対して、1614年の「談合の予想」に反して、「商業組合」と「一揆」に、特に「商業組合」の方に何か「事態悪化」が起こったと観られる。
そこで、兎にも角にも、これらの「一揆」も過激さを増して来た事から、早急に解決する必要に迫られ、「伊勢紀州の伊勢衆の郷士」に「南勢南紀の処置」に、“より援護をする様に”と直接関わる様に督促したのである。
この時に、「一揆」を主導していた首謀者に対し、「伊勢郷士衆」を動かして不満と成っていた検地に依って起こった「環境悪化」に対して、「青木氏」としては「生活環境の改善」などの事を約束しながら「周囲環境」を整えて置いて、「事態の収拾」と「首謀者自首」を説得したと観られる
従って、当然に相手側にも引くように圧力を掛ける為に、奥の手の「伊勢シンジケート」も積極的に強力に動かしたのである。
これで動く事は間違いは無いと観て採った。

それは「南北朝の足利軍に執った2万の飢餓作戦」でも「戦歴史実」が遺っている様に、この「掃討軍」がどう成るかは直ぐに判る。
それを実行したのは当にこの「伊勢シンジケート」である。経験者である。
これで、相手側も、これ(伊勢シンジケート)が動く事は、「補給路」を断たれ、「ゲリラ戦」に持ち込まれるし、事は収拾が着かず「戦費」は莫大に成り、自滅する事は充分に判る。

つまり、“「伊勢は総力」を上げた“と云う事を相手に示したのである。

これに依って、“1615年に「堺摂津盛況」“にもある様に、上記でも論じた様に、それが「青木氏の拠点」の「伊勢松阪」では無く、紀州の下津港等で「物資補給」なども行っていた「水軍」など紀州各地に配置して紀州域を管轄する拠点の「堺摂津」で“「盛況」”が起こった事に成ったのである。
これで「一揆」が終結して、懸念していた「商業組合」にも方向性が戻った事から、再び“「盛況」“を戻した事に成る。

「平家落人の郷士衆(紀伊山脈の山岳部)」の「一揆場所」と、「門徒衆」が中心と成った日高、有田,名草の郡域の平地域での「一揆場所」に参加していた「門徒衆」等と、これを支援していた「北紀州域」と「北伊勢域」をも含む「伊勢と紀州の全郷士衆」が関わった戦いであった。

これで上記で論じた様に、「伊勢の商業組合」の「射和域」で生き延びて行くことが本格的に出来る様に成ったのである。

この間の1603年から1615年まで「上記の戦略」で「紀州の一連の一揆」は何とか下火にさせられたので、「商業組合の推進」は「頼宣入城までの約束」を護る為に進められて行った。

この「紀州一連」の一揆を無理に区切るとすれば、「計五度の一揆」は、天正期から観ると、何と「31年間と云う期間」を経たのである。

これは当に“「青木氏の戦略」”であって、結局は、「1619年の頼宣入城」までの直前まで燻り続けたが、「戦略の目的通り」に結局はぎりぎり解決させて、「地域の民」を護り、「最低限の犠牲」で終わらせて、“「商業組合の推進」に本腰を入れられる結果と成った“のである。

これで「豊臣―徳川の決着」も就き、「家康の目論見」の通りに「筋書き」は動き始めたのである。

(注釈 この31年の間には、最終局面で、一揆側に「利害に違い」の出た「海側の一揆一団」が調略に会い、「裏切り行為」をし、それが「山岳部の一揆一団」に被害が及ばない様に、この事態を納める為に「山岳部側の一揆側の首謀者」が自首する形で処罰され終わる。
この時、「一揆の門徒衆」たちは伊勢松阪に救い出す。この時に海側の集団に参加した漁民らが騙し内に会い大きな犠牲を負った。
然し、「青木氏」の力の及ぶ地域の「全郷士の門徒衆」を保護する為に一時伊勢に移動させて護った。
この護った「門徒衆の一部」は、頑固に1619年直前まで燻り続けたが、結局は「商業組合の効果」と、当に上記した「頼宣の地士制度」で収まったのである。

この様に、既に記録にもある様に、根本的には「戦い方」が普通の「反抗勢力の一揆」とは異なっていたのである。

「伊勢青木氏」は「正式な商業記録」や「郷士家に遺る資料」に遺こされている程に「経済的背景」と成っているのはこの事から来ているのである。

ところが、これから「伊勢青木氏の関わった地域」には、不思議にも「一揆」としては「62年の間」に「一揆・事件」が起こっていないのである。
“何故なのか”である。

それは、「伊勢青木氏」が始めた室町期末期からの「商業組合の効果」が徐々に出始め、「一揆」に関わった「紀州と伊勢の全郷士衆」が、この「商業組合」に参加して、この「商い」に依って潤い始め、これに伴って「殖産」と「興業」が進み、強いては「農民」を始めとして「庶民」までその「潤い」が浸透して行ったのである。
「青木氏」と深い関係を持っている「伊勢郷士衆」が、故郷に戻った「紀州全域の郷士衆」にこの「商業組合」に参加する様に約束通りに働きかけたと観られる。

この事、即ち、「商業組合の効果」を「一揆首謀者」に「伊勢郷士衆」は苦汁を呑んで説得したと観られる。当初は「収拾の提案」が画期的であった事からなかなか納得されず、一部の「門徒衆」は1619年まで燻ったが、他の者が潤い始めたのを観て、「頼宣」も「地士制度」でこれを支援していることを観て、参加し始めたので「一揆」は遂に収束したのである。)

「伊勢郷士の家」に「紀州郷士との手紙のやり取り」の記録が遺されている事から先ず間違いは無い。

「頼宣入城前」の前には、この様に、「青木氏の存続の成否」が掛かる事が直前で起こり、上記の「青木氏の大決断」の「取り組み」で、解決して、この結果として、何とか「7年と云う短期間」で「商業組合」は進み「効果」を出し始めたのである。

前段でも論じたが、取り分け、当時、「国外不出の慣例」のあった「米栽培の新技術」を一族の者を特別に派遣して一族の「信濃青木氏」から学び、それを「伊勢紀州域」に広め,「青木氏の投資」の下で研究して、日本で最初に「新品種」と「早場米」を作り出して、これを「商業組合と提携商人のシステム」を活用して「15地域」に広め、年間を通じて農民は潤う事に成った。

(国外不出の「信濃栽培法の習得」は、その前提に伊勢での「品種改良と早場米の研究」があって、その成果を戻す事で了解が得られたと観られる。)

又、「紙箱」や「紙用紙」等の「紙製品の殖産と興業」を進めた事に依って、家内工業的に副職として農民は元より庶民までも広く潤う事に成った。
例えば、前段でも論じたが、「伊勢青木氏」は同族の「信濃青木氏」から進んだ「養蚕や米栽培の技術」を習得して、これを「商業組合の組織」に結び付けた事に依って「15全域」に広まった原因となったのである。
然し、これを広めるだけでは、この“「潤い」”に繋がらないのは必定で、“「商いの組織」”に結び付ける事があって潤うものである。
更にはこれでもダメであり、これではその「潤い」は偏る。
そこで、この「偏り方」を取り除いてこそ,そこに「真の潤い」と「民の安寧」が生まれるのである。
それがこの「青木氏の目的」とする「商業組合の(イ)(ロ)(ハ)」であって、この目的とする「商業組合の効果」で「民の信頼」が生まれ「底堅い商い」の為に急激に頒布して行ったのである。

その為に、「青木氏の提案」と「頼宣の事前調査」でと、その後の「商業組合」と合わせて行った「頼宣の地士制度」で「一揆」が起こら無く成る策が、この「商業組合」にある事を頼宣はより深く知ったのである。

(注釈 この「頼宣からの伝統」が「育て親の青木氏」から「吉宗」は学び「享保の改革」へと結びつく事に成ったのである。「吉宗」が将軍に成った背景はここに在ったと筆者は観ている。
だから、江戸に同行し、且つ、「紀州藩の勘定方指導の立場」もここに在ったと観ている。)

つまり、「1619年頼宣入城」より「談合」が進められ、これを契機に“「家康の暗黙の了解」”から“「頼宣の周知の了解」”へと変化して行ったのである。

その証拠に、“1615年の「堺摂津盛況」”とする「商業記録の年譜」は、何事に付けても、この時の「経済活動の活況ぶり」を表していると観られる。
因みに、前段でも論じているが、「事前調査」の後、1619年に「頼宣入城」に伴い「伊勢青木氏」は「紀州藩の勘定方指導の役」をも同時に務めたのはこの事から来ている。
「青木氏と紀州藩」は、敢えて、当時の世間で「禁策」として考えられていた「政経分離策」を採らずに、「政経合併策」を敢えて採ったのである。

さて、そこで視点を変えてみる事にする。
これは、「商業組合」を押し通すと、必ず、「為政者」との対立は生まれる事は必定で、地域救済策として、「危険を承知して採った策」で有る以上は、この「政経合併策」は「合理的手法」であった事に成る。
「デフレーション策」と「インフレーション策」の中間の一種の「リフレーション策」に近い策を採った事に成る。
多分、「商業システム」としては、「イノベーション策」と成るだろう。

(注釈 その後も紀州藩では代々この手法を取り続けた。「青木氏」は幕末の「紀州藩の財政立て直し」にも「伊勢郷氏」として「勘定方指導役」を務めた。)

この時、前段でも論じたが、「伊勢域と紀州域の秀郷流青木氏」とそれに関わる「伊勢郷士衆」「伊賀郷士衆」から「紀州郷士衆」までを含めて家臣に「丸抱え」(幕府から謀反の嫌疑)したのもこの時である。
この新しい「リフレーション策」を実行する為に大きく観れば「青木氏」に関わる一族を「丸抱え」したともとれる。筆者はそう見ている。

この様に「伝統シリーズ」の前段等で論じた「個々の要素」に付いての「事柄の関係性」を一つにしてまとめるのは「至難の業」ではあるが、ここに全て通じているのである。

筆者は、上記したが、そこで「1615年までの伊勢―紀州域で起こった一揆」の裏には、先ず最初の「一揆掃討」が「掃討軍の賄賂問題」で潰れたのは、「二つの伊勢青木氏の裏工作」では無かったかと観ていると論じた。

前段で論じた様に、これは当に「信長の伊勢攻め」の「信雄の丸山城消失の事件」と同じ手口であるが、「信長の織田―秀吉の豊臣」とは、何と二度に渡り、“「青木氏」の「商い」“に依る同じ手口」に載せられていた事に成る。これは先ず間違いは無いだろう。

そこで、当然に、下記に論じる様に「商業組合」を推し進め、それと「提携商人を作る事」に対して、これは「リフレーション策」の「イノベーション」と成る(イ)(ロ)(ハ)に繋がる事を述べていた事に成る。

これを事前に説明をした上で、1603年頃から“「影の要請」(暗黙の了解)”が、「家康」から受けていたとする事は、影で「15地域の各藩主」は、この「噂の情報」は耳に入っていた事である。
「15地域の藩主」は“「手の出し様」が無かった“が「本音」であったと観られる。
結局は長く続いていた「一揆」が納まり、「納まった要因」が、この「商業組合」に在ったと「15地域の藩主」は周知した上で、「1619年頼宣入城」で「暗黙」から少し進んで“「商業組合衆知」”と成ったのである。
全国に先駆けて紀州藩は、これらの事に関連した藩政の“「地士制度」(下記)”と云うものを敷いた事でも証明は充分である。
これを遣られては、「青木氏の地権力と地域力と不倫権」に、この「商業組合と提携商人策」が加われば、最早、「手の出し様のレベル」では無く、黙認以外には無い筈である。

この様に、「商業組合を創設した経済力」では、例えば、「伊勢青木氏」は「500万両以上」と云われていた事から考えると、「為政者の勢力」は、たった1/100にも過ぎない事に成る。
それに度々効果を挙げる「伊勢と信濃のシンジケート」を独自に持っているのであるし、「15地域」の「同族の結束」があり、「青木氏族との横の関係」が密であるとすると、歯を剥いて戦う馬鹿はいないであろう。
故に、7年と云う“「短期間」“で創設されたのである。

況して、「室町期末期の戦乱」で「経済的な余裕」は豪族大名には無かったし、むしろ、「重税」で「農民」や地域の「郷士衆」を苦しめていた。
下手をすると、「一揆」である。
「一揆」が頻繁に起これば「治政の責任」を幕府から問われる。
つまり、更には、{藩の財政}を維持するには「青木氏の様な豪商」に借金をせねばならない「絶対的環境」にあって、文句を附ける等の事は到底出来なかった筈である。
どちらかと云うと、“体制にそぐわないとか、どうのこう“のではなく、兎も角も、何でも好いから「商業組合」で潤って貰って「地域の安定」と「地権から来る税の収入増」を期待するのが「当面の策」であった筈である。

(注釈 結局は、「権勢」を無理に押し出せば「山内氏の様な事件」に成り、「治政」に怨念が遺る結果と成る。)

では、“この「15地域」ではどうなっていたのか”と云うと、話しを戻して、そこで、特記すべき地域がある。
それは先ず、「青木村」の「福岡 4」には、この「要素」が多分に在った。
領民には、取り分け「商業組合」「提携商人」には深い理解を示し、安定した治政を施した代表的な地域である。
所謂、「模範的要素」を持っていたのである。
筑前黒田藩は「如水の軍師」の家筋で、「質素倹約策」「柔軟対応策」を「治政の根幹」に置いていた事、況して、前段でも論じている様に、「近江佐々木氏の支流末裔」で「近江青木氏」とは縁籍関係にあって、更には「黒田氏」は、伊勢神宮の「神職の御師の立場」にもあって「伊勢青木氏」とも「浅からぬ関係」を保持していた。

(注釈 如水の父の一族末裔は、「二足の草鞋策」を敷いた家柄であったし、「伊勢シンジケート」とも繋がっていた。)

その事から「摂津店」とも繋がりを持っていて、遠からず“「青木氏族」とも云える縁籍関係”にあった。
況して、この縁籍関係から「日向青木氏」は、「黒田藩の傭兵軍団(陸海に渡る旗本に近い黒田藩常用傭兵軍団)」を務めていた。

(注釈 「日向青木氏」は「日向肝付氏」の血筋を持つ「伊勢青木氏京綱」の兄弟末裔である。)

然し乍ら、「定住地名」が、「江戸期初期の氏姓令の禁令」により、これに従った「筑前」には「青木氏外」の「姓族の青木姓」には、「青城や青樹」(「商業組合から関係族」と観られる。)などに名乗り変える事を命じた事から多いのである。
従って、筑前には必ずしも「青木村」を使っていない村もある。
然し又、明治3年と8年の苗字令でも「青木村」(青木氏の「職能の関係族」と観られる。)を付けた「村 3」も存在していた。

正規には、本来は無いが、「日向青木氏の傭兵軍団」が、江戸時代には「黒田藩の常用傭兵軍団」として働いた事から、その「事務所的な土地、又は館屋敷」に「青木村 1」を付けた事が判って居る。
この黒田藩は「商業組合 提携商人」には「積極的な治政」を実施した。
この様に、「黒田氏」は「山内氏」とは「真逆の施政」を敷いた事でも特記に値するのである。

従って、「遠い九州の頒布」には、7年の間に「商業組合の頒布」が難しい筈であるが、上記の様な事から、本来は「準村扱い」としては、「福岡 1」と成る状況にあったのである。

この様に、この「109村」の中には、その“「歴史的な由緒」”を充分に検証して判断する必要があって、この様な判別が難しい「青木村」もあるが、結論としては明確に次の事が云える。

“上記の「推測の20地域」≒「一揆の21地域」とほぼ一致する“に対して、この「青木村 23地域の村」を考察すると、上記の関係式は、次ぎの様に成る。

「推測の20地域」≒「一揆の21地域」≒「青木村の23地域」

以上の関係式が成立する。

以上で、ほぼ一致する事が云え、これで上記の「5地域」と「6地域差」は論じる事は出来る。

つまり、従って、「青木村」=「青木氏」=「提携商人」と云う完全定義の上に成り立っていた事が出来る。
そこで、この“「青木村」”を定義の一つとして据えて本論を研究していた。

然し、その“「青木村」”には、下記に示す様に、重要な「二つの定義外域」があるのである。
「定義外」としても、「青木氏」に執っては“「氏の特徴を示す伝統」”であるからで、これを度外視出来ないのである。

定義外域-A

そもそも、「伝統シリーズ」や「他のテーマ」の論文でも論じている様に、「青木氏の定住地」の基と成る“「青木村」”が在りながら、然し、その「青木村」に「青木氏」が正規に定住しない地域があるのである。
所謂、この「青木村」に永住定住せずに、「青木村」=「青木氏」=「提携商人」と云う定義の下に、「本領に戻る制度」を持っていた地域に住した「青木氏」が居て、そこに「商人の青木氏」か「提携商人」が在ると云うことである。
つまり、「準定住地」と云える地域での「別の商人」が在ると云う事である。

例えば、これに相当する地域とすれば、「肥前-筑前」、「阿波-淡路」、「広域陸奥」、(「紀州」-「伊勢」)の「3地域」などがある。

但し、「紀州北部の有田区域の「青木村」には、この「青木氏」は最終的に南北朝後に戻らなかった。
前段で論じた「近江秀郷流脩行系青木氏」で、「南北朝の戦い」で、「青木氏氏是」に従わずにこの「青木氏」は意見が「交戦主戦派」と「消極的派」の二派に分かれ、「青木氏氏是」を破った「主戦派」が敗退して、「讃岐藤氏秀郷流青木氏」を頼って四国に逃避すると云う事が起こった経歴があって、「紀州伊勢の青木村」の一村内でありながらも、「有田の青木村」を捨てたのである。
然し、一方、「紀州南部域」の「青木村」は、旧来より「青木氏の遠祖地」としてあった事から、「伊勢域」として定義している。

定義外域-B

もう一つは、「青木氏」と何らかの関係を持った“「縁者関係」”で、正規の制度に則って「青木氏」を名乗って、後に「準定住地の青木村」の外側の「外郭域」に村を形成して永住した「商人の青木氏」が多く在る。
これは「否定住地」ではあるが、「職能集団の制度」で「青木氏」を名乗ることを許された「商人の青木氏」が在る。(第三青木氏とは別)
これは「伝統シリーズ」等でも論じて来た「神明社等の各種の職能集団の差配頭」や、土地の「郷士衆を差配する郷士頭」や、「各地域に出店している商人の差配頭」等は「青木氏」を名乗る事を許可する事を定めていた。
この中には許可だけでは無く「女系で繋ぐ事」もあって「青木氏組織」を固めていた。
これらの「差配頭の青木氏」が、その「職能の立場」で「各種の商人」と成っていて、これが「商業組合」を編成してこれらが「経済的背景」と成っていた。

例えば、これも相当地域とすれば、「安芸-蝦夷」、「讃岐-伊予」、「筑前-筑後」,(「紀州-伊勢」)などの「3地域」がある。

但し、「紀州と伊勢域」は、上記の「定義と定義外」の2つの何れにも存在して居るので定義の範囲で論じる。
それだけにこの「紀州と伊勢域」は一つに成って「全ての面」で体制が固まっていた。

以上の二つの定義外域のAとBは、合わせて結局は「地域差の6域」と成る。

この定義外域ABの「6域」が、「推測5地域≒地域差6地域」と成っているのである。

つまりは、「推測の20地域」≒「一揆の21地域」≒「青木村の23地域」
以上の関係式が成り立つ。

「推測の20地域」≒「一揆の21地域」)とほぼ一致するとして、故に、上記の「提携商人」で観ると「15地域」、「一揆」で観ると「21地域」と成るとすると、間違いなく「青木氏」は、「提携商人」と共に「経済的背景」として「民の側」に立ち動いていた事を示す事に成る。
「青木氏」が「二足の草鞋策」を敷いた平安期初期から明治期まで一貫して護り通した「定型の生き様」であり、“「定型の伝統」”なのである。

この「民」を中心とする”「定型の生き様」と「定型の伝統」”があったからこそ、稀に見る「大きな氏」として、「大きな伝統」を持つ「特異な氏」として、一千有余年を生き遺れたのである。

これは、そもそも「一種の青木氏が存在し得た定型パターン」と云って良いものであった。
況や、この「定型パターン」は、「二つの青木氏」がより力を発揮出来る態勢でもあった。
ここでは、この様な要素の“「商人」”に焦点を当ている。

「15地域」の「全ての地域」のこの「定型パタンの商人集団」との関係を論じるのは難しいので、「江戸期に観られる定型パターン」の「伊勢の射和商人」を例に次段の下記に取り上げて論じるが、上記の地域でも同じ様に働いていたのである。(何時か詳しく論じる事とする。)

恐らくは、前段でも論じたが、「伊勢の二つの青木氏」が、江戸初期に「徳川氏との関係」から伊勢で始めた「伊勢松阪の商人組合」(会合衆から新組織を発展)を「原点」として、上記の各地域の「青木氏」にもこの「新しい組織形態」を作り上げた。

「推測の20地域」≒「一揆の21地域」≒「青木村の23地域」の関係式で、”「7年の短期間」”で広めたと観られる。

前段で論じた様に、むしろ“広めた”と云うよりは、(「青木氏の形態維持」と云うよりは)、「新しい経済機構の形態維持発展」の為として、「青木氏発案」に依るものではあるが、“「徳川氏の指導要請」(協力要請)”が基盤にあったと観られる。
その様に、資料から読み取れる。

この“「徳川氏の指導要請」(協力要請)があった“とした事に付いては、下記で論じるが、これは考えられない程の「画期的な事」であって、「青木氏」に遺されている資料から読み取ると、この資料は、「紀州徳川氏からの手紙」である事から考えると、「紀州藩との内談」で進めたと考えられる。
つまり,「内談」とは云え、「家臣と成った伊勢秀郷流青木氏等」と「商業組合」を松阪で推進する「賜姓族青木氏」の“一族内々の打ち合わせの形”に成ったと観られる。
この「1619年の入城予定」の「頼宣」は、事が事だけに「家康からの内諾」を得ていた筈である。
故に、数年も前の早くから「事前調査」や「地域査定等」を行い、入城後は直ちにこれに関連した「藩政の地士制度」の構築に掛かっている。
「家康の了解」無くしてこれだけの事は到底無理である。

と云うのは、何故ならば、この事は「幕府の施政の根本方針」から観て、「公的に指導要請」を出し難い内容であった。
然し、江戸期初期から暫くして紀州藩が管轄した「伊勢紀州」は、上段でも論じたが、「室町期末期からの「著しい混乱地域」であった。
(伊勢の多くの地域は「天皇家天領地」であった。)
取り分け、その理由から「伊勢松阪」は、「紀州藩飛び地領」と成った。
「地権力と地域力と提携商人」の「郷士郷氏の状況」と、「信長-秀吉の圧政」があった事から、又,「山内氏の事例」もある事から、「事前調査」を綿密に、「頼宣」は紀州と伊勢に対して行っていた。
普通であるならば、これを解決するには、上記した様に、「信長秀吉の武力に依る強硬策」や「山内氏の様な対抗策」に頼らねば出来ない事と成る。

この態々「事前調査」をすると云う事は、「反抗の連鎖の繰り返し」と成ると判断した事に成る。

この「事前調査」は、「青木氏の商業年譜」から観て、「1615年の伊勢談合」があって、その後の1年後の1616年家康没があり、それから「頼宣入城1619年」があって、この1619年に、「1615年の提案」を下に行った「事前調査」を踏まえて、1619年の「松阪会談」として最終的に会談が行われているので、この1年前の1618年の間である事に成る。
結果として「1617年」と成り、最低、“頼宣入城 「2年前」”と成る。
この“「2年前」”に、この問題の「事前調査」が行われた事に成る。

恐らくは、「青木氏の商業年譜」の「伊勢衆動員」(上記の一揆処置や事前調査の協力の事もあって総動員を掛けて事に当った。)はこの事も示しているのではないかと考えられる。

1615年に「伊勢衆動員」。
改めて、上記の「二つの事」で「事態の急激な変化」に対応して、改めて事に当たる為に「郷士衆の役割」や「日程や調査」の「家臣団との調整」「作戦調整」等などを綿密に決め計画を進めたと観られる。

1615年に「堺摂津盛況」。
前段で論じた様に、「紀州討伐」での「堺摂津の行動」は元より、「討伐軍の賄賂事件」で紀州産の材木などの売買利益の不当獲得(二度の討伐軍の指揮官の秀吉弟秀長と家臣の吉川氏の二人の指揮官が不正利得)で、取引は繁盛した事は盛況原因でもあるが、下記に論じる「商業組合」が動き出した事でも盛況と成った。
既に進められていた「青木氏の提案」に対して「事前調査」に依って「最終的な紀州藩の協力体制」(1619年に「松阪会談」に向けて)などを打ち合わせたと観られる。

つまり、「青木氏商業年譜」の年代から観て、「青木氏}から事前に知らされ提案されていた状況を、再確認する事も含めて、「紀州藩」としてそれを解決する方法が無いかとして、「事前調査」を行った。
ところがこの直前で、紀州域全域に思わぬ「激しい一揆」が再燃し拡大した。
この事も含めて、事前に改めて「調整談合」を行ったのではある。

この時、既に「家康との談合」で進めていた「新しい商業組合」を「青木氏の提案」で、先ずはこの「伊勢紀州域」に模索したと観られる。

そこで、2年前の事前に伊勢紀州の一揆等の混乱状況を調査する家臣は、これを目前に観たと考えられる。
それが、「頼宣の事前調査」の結果で、「全域の郷士衆」を引き込んで、上記の「(イ)(ロ)(ハ)の商業組合」と組み合わせて、これと連動させる「施策」として導き出したとされるのが、紀州藩の“「地士制度」“と云うものであると考えられる。

一つは、この紀州藩の“「地士制度」“には、他にも幾つかの施策が組み込まれていて、”「地士制度」“として前段でも論じたもので、一つは「伊勢の青木氏」等を含む全ての「郷士や郷氏」を家臣にして「官僚の中心」に据えた事であり、これを以って「紀州討伐」まであった「武士の不満問題」は解消させたのである。

二つは、論理的には「庶民の中にあった不満問題」を解決するものとして、これに関わる「本論の青木氏の提案」(商業組合)があった事に成る。

前段でも論じたこの”「地士制度と商業組合」”は、「武士と庶民の相互間に潜む問題」も補完する「優れもの」であって、「紀州伊勢の混乱」を見事に鎮めた「頼宣の最大の功績」と呼ばれていた。

「伊勢紀州の秀郷流青木氏等の郷士衆」は、「紀州藩家臣」に殆ど全員据えられたが、「郷氏の賜姓族伊勢青木氏」は、「紀州藩勘定方の指導役」として「地士制度と商業組合」を推進する為に内政面から支えたのである。

「青木氏の定住地」として資料から確認できる「15地域」、即ち、「推測の20地域」≒「一揆の21地域」≒「青木村の23地域」の関係式には、必ず、この「定型パターン」の「提携商人」の存在が観られる。

下記に論じる“「独特の関係」(射和商人)”が出来ていた事からも充分にこの事は考えられる。

この事は、上記の主だった「15地域」の「青木氏の定住地」に在るとすると、この「青木氏の提案」が、伊勢で効果があるとして、江戸初期の混乱期の後の施策として“「地域安定策」”を狙って、各地に「商業組合の頒布」を“暗黙(下記(イ)(ロ)(ハ)が在って公認はできない)”で容認された事に成る。

下記に示す「江戸期初期の一揆」からも多発していた事が判り、これを「武力」で抑圧させるのでは無く、「青木氏提案に依る奇策」の「安定策」で乗り越えようとした事が良く判る。
「紀州徳川氏」からの「伊勢青木氏の福家」に出された「数通の手紙」からそれが読み取れるが、それで無ければ、当時としては、各地にこの「商業組合の組織」が拡がる事は、体制上からはこの下記説明の(イ)(ロ)(ハ)“は全く好ましくない事”に成る。

況して、幕府の御家人や旗本に据えられて、官僚の中心と全国各地に豪族として定住する「秀郷流青木氏」の「二つの青木氏」の地域に対して“頒布”と成ると、誰が考えても余計に危険であった事に成る。

この時の事を物語るものとして先に例を述べて置く。
この「複数の手紙」の中には、この“「青木氏の貢献」”に対して「天皇家」に対して紀州藩より「伊勢青木氏」に対して「格式授与の提案」をしていて、これを「青木氏」が「青木氏の氏是」に依って体よく断っている。
その紀州徳川氏一通目の手紙には、「青木氏の貢献」に付いて、前段で論じた「射和商人」などを例に挙げて“「地域貢献」(前段の殖産と興業)“に付いて書かれている。
そして、その後の手紙で、朝廷の「賜姓族の役処」の「紙屋院の青木氏」の管轄下にあった「絵師処」としても、自らが描いた「和歌浦と那智熊野を描いた墨絵の南画の絵」を献上する事で解決して献上している。

天皇家に献上すると云う事はそもそも「素人の絵」は献上する事は無い。
従って、この事から「紙屋院の紙屋」であった事から、その和紙を扱う関係上で、本職では無かったが、本職に類する程の絵師(土佐派)でもあった事を物語っている。
口伝では、代々、「紙屋」としての義務資質に相当する「伝統的な役処」であった。

前段でも論じたが、後に、江戸期末期に土佐に移動した「脩行系青木氏の末裔」でもあった「朝廷絵師の土佐光信」(公家系の青木氏族)に師事して江戸末期には正式に本職とした。
この頃、「墨絵の南画」は、衰退し朝廷の中でのみ存続していた。

この事は、「紙屋院の管轄下」としての「絵師処の朝廷絵師」に直接に「青木氏」が務めていた事が判る。
この「近江脩行系青木氏」は「紀州有田の青木村」にその祖は住していた。

(注釈 「南北朝の乱」に参加して敗退して移動、「末裔の光信」は、土佐村の「土佐氏の養子」として入った。)

この為の「天皇家からの返礼」(大臣の内右大臣代書)が紀州徳川氏経由で届いている。
この時の「複製画」と共に、この「箱入りの返礼書 二通」と「賜品の藤白墨と紫硯石」が遺されている。

恐らくは、この「絵の献上」の意味する処は、「国策氏の賜姓族」である事の上に、“「青木氏の貢献」”を、“「朝廷」”と云う「権威の象徴」を重ねて使う事で更に権威化させて、「幕府の保守勢力」を抑え込んだと観られる。
故に、「近江脩行系青木氏」の「土佐光信」の様に「伊勢青木氏」が「絵師処」では無いにしても、「国策氏」としての「紙屋院の伊勢青木氏」が献上する事が出来たのである。

そこで、先ず、この「商業組合」と「提携商人」と云うものが、“幕府体制上好ましくない“としているのはどの様な事であるかを明確にする。

本論を理解するには欠かす事の出来ない大変重要な予備知識である。

「商業組合の内容」
従って、この「射和商人の背景」と成っている“「伊勢衆の郷士」と「松阪商人」の関係”に付いては、他の「定住地地域の状況」を理解する上でも、是非、ここで明確にしておく必要がある。

そもそも、その大元は、前段でも論じた様に、「1619年の頼宣入城」の前から「紀州伊勢域の門徒衆」に対して、「青木氏の説得」に応じた者等とを救済し政権から保護した。
然し、そして、この「救済保護した門徒衆」と「伊勢郷士衆」との「連携や連帯」を興し、これで以てこの「二つの関係」(商業組合と連携商人のシステム)を発展させたものであった。

そして、その上で彼等(反抗勢力の門徒衆)を“「政権側の圧力」(1619年まで)“から保護する為にも「青木氏」が主導して国内で初めての全く「新しい形態」の”「商業組合」“が構築された事から来ている。

勿論、「室町期の戦乱期」から「江戸期の安定期」に入る時代に即応した態勢であった事は云うまでも無い。

要するに、下記で詳細に論じる「一揆」(孟子論の中の漢語:ある勢力から互いに「政治的結社」をして、ある条件の下に一つに成り、我が身を護る集団の事)、即ち、要するに、本来の意味の「鎌倉期に存在した一揆」であり、これを室町期末期から江戸期初期に掛けて新たに改善を加えて創設したものである。
この「商業組合」は、即ち、この「反抗勢力」を意味しない“「本来の一揆」”の一つの形である。
これが出来たのは、「青木氏」ならではの事であり、「青木氏」で無ければ出来なかった事である。
その根拠は下記で瑠々論じるが、「鎌倉期の一揆」と、「江戸初期の一揆」(商業組合)とには、そもそも大きな違いがあった。

それは下記でも論じるが、“「鎌倉期の一揆」“は、”「階級と身分」“を股が無い「武士だけの軍事的結社」であって、この結社は、「軍事勢力と政治勢力」に対抗したものであった。

それに比べ、「青木氏」の「江戸初期の一揆」の「青木氏の結社」(商業組合)は、この「階級」や「身分」や「氏」や「姓」や「職業」や「宗教」などの一切の「出自格」(イ)を一切取り除いた事であって、それを“「商業」(ロ)”と云う「経済的結社の自由勢力」(ハ)を使って、「軍事勢力と政治勢力」に対抗したところにあった。

この“(イ)、(ロ)、(ハ)”が後の「徳川幕府態勢」(氏家制度と封建制度の社会)に執っては“「真逆の体制」“であった。

「鎌倉期の一揆」には、未だこの(イ)、(ロ)、(ハ)の概念は無かった。
「諸法度」を定めて、それまでの平安期からの“「氏家制度」”を完成させ、徹底した「身分格式」による“「封建制度」”を敷いた「格式社会」の江戸期としては、この“「商業組合の組織」“は、当に”「逆行する体制」の組織“であって、到底、江戸期としては考える事が出来ないほどの「画期的な事」であった。

逆に「幕府」に執っては絶対に許す事が出来ない「危険極まりない組織体制」に成る。
この組織が「力」を持つと、丁度、「明治期の維新勢力」と同じ様相を呈する事に成り得る。
ところが、これが、江戸期初期に何と「15地域」まで広がったのである。(根拠-1)

本来なら、これでは放置できない事で、保守派に執っては「幕末の新選組の行動」とも成る事でもあったし、丁度、「反動の象徴」の「一向一揆」が「15地域」に一機に拡がった事にも成り得るので「初期の幕府」は慌てた筈である。
田舎の一地域の「一向一揆」でも放置しなかった幕府は、体制に影響する(イ)、(ロ)、(ハ)の「商業組合組織」が「15地域」に拡がったと成ると、絶対に放置していなかった事に成る。
然し、黙認したのである。

然し乍ら、この「立役者の家康」は、上記した様に、何とこれを、況や「(イ)、(ロ)、(ハ)の「商業組合」を「青木氏」に「暗黙の内」で認めたと云う事なのである。(根拠-2)
普通で考えればあり得ない事である。

その頃、未だ、1600年頃からの“「会合衆」”は、20年程度しか経っていない組織で、「大店の商人」(A)に限定していて、「政治勢力」(B)と結託していた組織であった。
だが、「青木氏の商業組合」(イ)、(ロ),(ハ)は、“結社する商業組合の関係する職能者”までも含めたもので、「青木氏部の職能集団」や「末端の殖産者」(農民や庶民)までも囲い込んだのであった。(根拠-3)

唯、違う処が実は一つあった。
それは、「青木氏」が持つ“「シンジケート」”であった。(根拠-4)
前段でも論じたが、この「シンジケート」は、記録から読み取ると、江戸期では「青木氏部の職能集団」に組していた。(前段の「伊賀の郷士衆」にも話が通ずる事)
従って、「表向き」は、その主務は、「荷駄護送の職能集団」と「保守勢力」から「青木氏」を初めとして「全組合員」を護る「組合組織の警護役」であった。
「商業組合」と成った事から「広範囲の職能部」に対する「商品の流通」と「荷駄の搬送」は活発化する。
これ、即ち、「組合組織の警護役」無くして成り立たないであろう。

故に、何人も持ち得ない“「シンジケート」”を持つ「青木氏以外」には無し得ない“「商業組合」”であった事も明白である。
この「職能集団」は、仮に武力で攻撃された場合には、これを「排除する力」を組織的に充分に持ち得ていたのである。

前段で論じた内容の様に、極めて恐れられていた。
狙撃以外には武力で対抗してくる組織は無かった筈である。例え幕府でもある。
その意味で、幕府と保守勢力の体制側は、“「政治的な力」”で阻止する以外には無かった。
その為には、この遺された手段の“「政治的な力」“を阻害させる為には、推進側(頼宣と青木氏)は、上記した様に”「権威」(絵の献上などに依る「朝廷権威」と上記した様な「家康のお墨付き」)“を使ったと観られる。(根拠-5)

周囲は、上記した様に、この「新しい商業組合」に対して、「保守的な抵抗勢力」の存在は当然に否定できない。
ところが世の中の事は一筋縄では行かない。
例え、「家康や紀州藩」の「暗黙の了解と要請」があったとしても、この「保守的な抵抗勢力」には公然と対処は出来ないであろう。
先ず、聞く耳を持たないであろう。
「商業組合の良し悪しの問題」では無く,あくまでも「目的」は「出る杭は討つの保守」なのである。
事件等が起こって「公の問題」と成った時には、「青木氏」が勝手にやった事だと処理されるが結末だろう。
それには、何事にも何時の世も初期には、“自らを護る強力な抑止力を持つ警護集団”が必要である。

況して、大阪では、依然として「会合衆と云う組織」が存在して居るのである。
この「会合衆」に執ってみれば、明らかにのこの「保守的な抵抗勢力」と云えるし、保守的な周囲も、体制に大きく違っていない「会合衆」の方が容認するであろうし、「幕府の官僚」も政治勢力と組する「会合衆」の方が何かと利得があって都合は良い筈である。
これは、「(イ)、(ロ),(ハ)の要素」を持っている限りは、絶対に「青木氏」に執っては「公の問題」とは仕難い事に成る。

丁度、平安期初期の「賜姓五役の国策氏」として“「紙屋院」”をしながら、暗にこれを認めていた「朝廷」と同じであり、況や「青木氏」の「二足の草鞋策」と同じあり、江戸期も「伊勢郷氏」で在って「二足の草鞋策」を続けていた事から起こった「類似現象」と云う事に成る。
それだけにそれまでの「難しい伝統」は生きて来ている筈である。
当に、「平安期の紙屋院」と、この「江戸期の商業組合」とは、「新しい事」、即ち、「改革」(イノベーション)に通じて同じである。
「青木氏の本質」の「伝統」は、ここに在って、依然として遺されていた事に成る。。(根拠-6)

とすれば、平安期にも在った様に、況や、「幕府官僚」も「保守的な抵抗勢力」と云える。
ただ違う処は、「天皇の発言の絶対性」と「和紙と云う未開の産物の開発」に携わった事から、官僚に於ける「保守勢力の抵抗勢力の強弱」は比較すれば在った筈である。
況してや、官僚より数段上位の立場と格式にあった「賜姓五役の国策氏」であった事から大義が青木氏側に在り、当然の事として官僚は黙る事しか無かった事に成る。
「違う処」とすれば、それは「平安期の社会性の強弱の差」にあった。(根拠-7)

江戸期は、「会合衆と幕府官僚」が最大の「保守的な抵抗勢力」であった筈である。
唯、「幕府官僚」に付いては、前段でも論じた様に、官僚の中は「秀郷流青木氏」等が「御家人と上位の旗本衆」で占めていた。
中々、他の官僚や大名は、大拡げに問題視する事は出来なかったであろう。
この「歯止め」は効いていたかも知れない。(根拠-9)

少なくとも、「紀州藩」に於いては、前段の通り、「藩主頼宣」は「伊勢紀州の秀郷流青木氏と伊賀の郷士衆」と、「青木氏が導いた門徒衆」(「仕官」と「商い」に別れた)を「まる抱え」で家臣にして、それを公の形の“「地士制度」”に採用しているのであるから、これが「謀反」と疑われ位であった事から、「紀州藩の官僚」からの「抵抗勢力」は無かったと観られる。
むしろ、「紀州藩の官僚」は、別の「二つの青木氏の同族同門」の一族が行っている事である以上は、裏で「推進していた行動」を採っていた事は間違いは無い筈である。(根拠-8)
況して、“「紀州藩勘定方指導」”と云う立場にあったとすれば、「抵抗」どころの話では無く「謀反」と観られるのが落ちであった。

その証拠に、“「地士制度」”と関連付けた「吉宗の伊勢親代わり」、「紀州藩の勘定方指導役」、「享保改革の立役者」であったのであるから、とすると、ただ一人“「光国の抵抗勢力」と「江戸商人」”であったと考えられる。
「頼宣謀反の嫌疑」は、「秀郷流青木氏の家臣丸抱え」だけでは無く、筆者は、この各地の「青木氏の定住地」に広がる“「商業組合」”にも確実にあったと観ている。

然し、「家康の内示」と「頼宣の要請」が陰にあって、これを理由に「直接の攻撃」は出来なかったのであったと観ている。
これでは「青木氏」も公的に、“「家康」や「紀州藩のお墨付き」がある”とは言い難い事に成る。
従って、上記した地域には、少なくとも室町期末期からの各地で起こった「顕如の煽動」による「門徒衆の動乱」から来る“「門徒衆」”の事とか、「青木氏と連携を図っていた郷士衆」の事とかの同じ様な“「事件」と「連携関係」“が、各地(「15地域」)の「青木氏定住地」で江戸初期にはあった事が認められる。

後は、「地域環境に持つ抵抗勢力」であった。
「商業組合」を浸透させるには、その土壌と成る「地域環境の整備」が必要であって、その先ずやらねばならないのは、「地域の混乱の平癒」であった筈である。
「伊勢紀州」は、上記の通り、「地域の混乱」は極めていた。
それ(「地域の混乱」)が、取り分け、“伊勢紀州人は独自性が強い”と云われている原因となっていた“「門徒衆」”であると論じている。

つまり、判り易く云い切れば、先ずは「青木氏の採った采配」は、「反動性の強い門徒衆」をこの「商業組合」に抱え込んだと云う事なのである。
明らかに紀州藩に執っては、この事は「体制の弊害処の話」では無く、“「地士制度」”に伴う重要な施策であった筈である。
場合に依っては、「青木氏の商業組合の(イ)(ロ)(ハ)の反体制性」については、確証は発見されないが、この“「地士制度」の中の「一環政策」”と云う事にして、「幕府の追求」を「頼宣謀反の範囲」で留めてこれを逃れたとも考えられる。

この「門徒衆」を抱え込んで「地域の混乱を治めた策」としての「商業組合」を創設した形を採り追求をかわしたともとれる。

唯、一つこの“「地士制度」”に付いて、それら上記で論じた様な事を証明する、或は、物語る「意味合い」がこの呼称に持っている事が判る。

それは、「地」と「士」と[制度」の字句の意味である。
先ず、紀州藩の官僚は、“「制度」”と云う風に言葉を選んだことである。
普通は「策」であろう。
「制度」と成れば、可成り広域の範囲での複数の政策から成り立つ組織制度で、その体制の根幹を指し示す言葉と成る。
例えば、「封建制度」と云う風に、然し、「武家諸法度」とかに成れば「策」であり、つまり、政策の範囲である。
この“「地士制度」”は、そもそも紀州藩での位置づけは「政策」であって、「制度」での定義では必ずしも無い。
然し、あくまでも“「制度」“と呼称しているのである。
何かこれに「特別な思惑」が介在している事は明明白白である。

次に、もっと不思議な事は、「地」と「士」の言葉の使い方である。
「地」は「地域」「土地」を意味する「環境域の言葉」である。
「士」は「武士階級」を指し示す「身分域の言葉」である。
つまり、この「地士」は、“環境域と身分域に付いての制度だ”と云っている事に成る。
然し、紀州藩は、この「環境域と身分域の事」に付いて全く触れていない。
“触れてない“と云うよりは、そもそも限定して確定してはっきりとさせていないのである。
なんの説明も何もない。
あるのは「地士制度」と云う政策の「言葉の存在」だけである。

ところがそれには、この「地士制度」には「大きな矛盾」が潜んでいた。
「環境域と身分域」に付いては、江戸幕府(1600年 征夷大将軍)に「士農工商」の制度(1603年)があって、その詳細を「武家諸法度」(1615年)等で決めている。
これでは、頼宣(1619年)ははっきりとさせられないであろう。
況して、この「地士制度」には(イ)(ロ)(ハ)が在る。

筆者は、上記の論より、これは、先ず「地」は「紀州藩領」、そして「士」は「その紀州藩の環境」の中にいる「定住する武士」、即ち、「郷士、郷氏」を指していると観ている。
そうすると、この「地士制度」の「士」が、幕府では、そもそも“「士」”は、孔子論に沿って、本来は“定義上は「官僚」”を意味している。(孔子論の定義である。)
ここには、「郷士 郷氏」と「官僚」との「格式差」、「言葉」の定義の異議が起こっていた。
ところが、正しくは「士]は、元来、”「領地を持つ大夫」の下で働く職能者”と云う定義であって、そこで、日本の慣習に充てると、この「中国の周時代の大夫階級」に相当するのが「地域の地権」を有していた「郷氏」に当たる。
そして、この「郷氏」のその下で働く「家人階級」を「士」と云う事に成る。

そもそも、「士」が「武士域」を指し示す様に成ったのは、「江戸期の前半」(1630年~1640年頃)であって、未だ、この時期までは”「官僚」に従事する者”だけを指し示していたのである。

(注釈 この定義は孔子論に基づいているが、日本では平安時代にこの職能の職域の者を「部人」と呼んでいた。)

(注釈 決して、「幕府]が云うのは、定義上の「地権」を持つ土地の「郷士や郷氏」を差し示すものでは無かった。下剋上で「氏族を含む対象族」が激減した事に依っている。
中国の周では、「小領主の大夫階級]が「官僚]と成り、その下に「士」が所属して位置していたが、これを無視して「士」が「官僚」と無理に位置付けたのである。)

そもそも、江戸期では定義を「官僚」としなければ成らない理由があった。
「姓族」の「士」クラスが台頭して武人(具人)に成り、逆に「氏族の郷氏」が衰退して激減したので、この「士族」(姓族)と呼ばれる者が大半を占めた事から起こったのである。

(注釈 日本の最初の姓族は室町期初期の安芸の海部姓が最初と観られている。海産物等を作る職能人であった。)

それを「士」を幕府が定めていない階級の「郷士郷氏の領域」まで、「紀州藩の地士制度」で定めようとしたのであるから、四角四面の「保守派」は黙って居られないであろう。
「保守派の抵抗」は、この「商業組合(イ)(ロ)(ハ)と、「地士制度」の「士」に付いても追及に及んだのは間違いは無い事である。
この事からも「謀反の嫌疑」も充分に掛けられたと考えられる。

前段で論じた「紀州藩の家臣」は、「伊勢紀州の郷士衆」を全て殆ど家臣に仕立てた経緯を説明した。
ところがここに問題があったのである。

その問題と云うのは、幕府では「士」は「官僚の定義」と成っている。
云い換えれば、この「官僚」は元々は「士」である事に成るのに、紀州藩は「士」を家臣にせずに幕府が定める「士」の範囲では未だ定めていない「郷士や郷氏」を大量に家臣にして「官僚」にした事からも「矛盾の問題」が起こったのである。
況して、その「郷士や郷氏」が「(イ)(ロ)(ハ)の商業組合」を創設し、尚の事、「携帯商人」を仕立てて連携したと成ると看過できないとして「幕府の保守勢力」は騒いだのである。

ところが、幕府は、1615年に「武家諸法度」を定めた際の数年後に「士農工商」に入らない「郷士郷氏」をどうするのかと云う「矛盾問題」が矢張り勃発してしまった。

そもそも、「郷士郷氏」は、「悠久の歴史」を持ち「格式、家柄、身分」は奈良期と平安期に定めた身分制度に依って、「士」より遥かに高いと成っていて、朝廷が認証する”「公家」”の“氏を構成する「家」”と共に、本来の”「武家」”は「公家」と「同格の家」であって、平安期より「士」(姓族)では無く“「侍」”の「呼称と格付け」の「身分で氏族」であると成っていた。
そして、この「侍」は“「天皇にさぶろう者」”として位置づけられ「付き従う=さぶろう」の身分階級として位置付けられていた。

そもそも、上段で論じたが、「宮廷警護」と共に、「天皇を警護する皇族の賜姓族」が専属で務める権威ある「北面武士の立場」にもあった。
そもそも、この「士」は、奈良期の「八色制度の階級」や、「表彰や俸給や官位」を与える制度や平安期の「官位格式制度」の範囲には全くは入って来なかった階級であった。

「侍」は「従五位下」(即ち武家)の身分に最低でもあった。
「士」には、「官位官職の授与」のみならず「天皇にさぶろう位置」には全く遥かに無かったのである。
そして、そもそも「士」とは,「侍」(さぶろう者)の下で手足と成って働く”「戦闘員」”の意味を持っていた。
「侍」(さむらい)が「天皇」に「武」を以って”さぶろう事”から”武の家”であって、”「武家」”と成り得て、「士」には「家」を作る事を認めていなかった。
「士」はあくまでも”侍の武の代行者”の位置づけに在った。

「士」とは、そもそも、「阿多倍」が引き連れて来た200万人の「後漢の職能集団」が奈良期に帰化し、その”「職能」”を務めたが、この時に、”朝廷の中で「職能士」”としての”「士」の位置づけ”を行ったものであった。
故に、「朝廷に詰める士」を以って「孔子論の官僚」と位置づけ、皇族出自の多い「侍」は、そもそも「官僚」では無く、「身分格式の位置づけ 氏家」であった。

その後、平安初期に阿多倍の「長男の坂上田村麿」が、「桓武天皇の背景」を下に「征夷大将軍」と成った事に依って、「士」が「職能士」だけでは無く、”「武家」にも成り得る者”としての概念が広まったのである。
その後に、室町期初期に成って「下剋上」が起こり、「士」が「武」に執って代る事を世間に示した事から来ている。
この時から、「武の立場」と「士の立場」の二つからなる造語の”「武士」”という言葉が生まれた。
次第に「武」と「士」の融合の階級が起こった結果、「氏族」の「武を持つ武」と、「姓族」の「具を持つ士」との「役務の統一化」が起こったのである。

ところが、江戸期に「武家諸法度」を決めた際に、“そもそもの「武家」”の持つ意味が、「公家」に准ずる階級であって、「士」が対象とは成り得ていないものであった。
つまり、正しくは「幕府]が云う”「士」”では無いと云う矛盾で問題視された。

結局は、この「矛盾」を解決する為に、数年後に「郷士郷氏の武家」を含む「士」をも以って“「武家」”と呼ぶと云う事に成り、“「士」”も“「侍」(さむらい)”とも成ったのである。
要するに、「武の家」と「士の家」の「身分の区切り」を取り除く「融合策」を採った。
結果として、「氏族」と「姓族」の融合も起こった。
つまり、況や「朝廷が認定した氏族」(武家)と、「幕府が黒印状で認定した姓族」(士家)を区分けせずに統一化したのである。

其処から、江戸期で呼称される「士」の通称の“サムライ”はこの時(1630年代)から呼称される事に成った。
これは「頼宣入城1619年」の後に見直された事に成って、結局は「整合性]がとれた事に成ったのである。

「天皇」と「公家」の「公家諸法度」(1615年)を定めるに当たって、この「融合策」を採るしか無かった事に成る。
そして、これらの「矛盾」もを更に見直して新しい矛盾や問題を抱えていた「公家諸法度」(1632年)と、上記の「武家諸法度の整合性」も含めて密かに見直して制定した。
これ以後、「整合性」が取れた事から「保守派の抵抗の根拠」の一つは無く成った。

従って、この間に、この「幕府の保守派」から問題視され警戒された「地士制度」は、従って、燻って議論に成っていた期間を含めて約6年間程度以上(最長12年間)の間に文句を言い続けられた事に成った。
つまり、この時期を経て「商業組合の頒布」が佳境を呈した時期にあった。

これが、この見直しによる「融合策」が確立した時期の頃から「保守派の抵抗」に大義が消滅して、「15地域」の「商業組合」も佳境に入ったのである。
そこで、結局は、「士」は家臣に成った「郷士衆の連」を含む「伊勢紀州の全域」の「郷士衆」を指している事に成って「整合性」が採れて進んだと考えられる。

「紀州藩の地士制度」の方が正しいと成って,その「妥当性」が認められる事に成った事に対して「士」に対する嫌疑も無く成った。

然し、未だ保守派は完全に「無駄な抵抗」を諦めなかったのである。
この時の「抵抗」は,遺された資料では特定はしていないが、青木氏の手紙関係に遺されている文面から読み取ると明らかに関西域では無い事は判るが、これは「幕府の官僚」では無く成り,「江戸域の商業関係の商人」であった様である。
そもそも、前段で論じた様に、「幕府官僚」の多くは、一族の「関東の秀郷流青木氏」である事から、この「執拗な抵抗」を続けるのは、それ以外の利害に関する官僚族であって、それに「関連する関東域の商人」である事は,「手紙の絡み(抵抗しているとは書いていない)」の中に出て来る「商人名」から判る。
要するに、関東域の「抵抗の目的」は、「地士制度に基づく関西発祥の新しい商業組合」が関東域の各地に拡大すると、「関東域の商いの商慣習」に「悪い影響」を与えるとする「懸念と嫉妬」に近いものであった。

これに依って、「士」は、当然に「紀州藩の家臣(官僚)」に成った者も含む事に成り、「地士制度」はある程度の大義を獲得するに至ったのである。
然し、(イ)(ロ)(ハ)の事があって「商業組合との連動」では完全に疑念は拭えなかった。

そうすると、その「郷士衆」が持っているあらゆる問題を政策的に解決する上記で説明した様な「総括的な制度」として敷いた事に依る策と成り得た。
然し、「地士制度の正当性」は、(イ)(ロ)(ハ)の事は除いて明確にしていない以上は「士の定義上」では意味を持った事に成った。

そして、この「地士制度」は,「限定した形」の採れない「個々の問題の政策」では無い、融通の利く、その都度、追加で定める「政策の手段」であった事から、より抵抗する方向性を変えて来たと考えられる。

この「地士制度」は、「頼宣の事前調査」や「青木氏の提案等」で「混乱する伊勢紀州と云う環境域」を、何らかの制度、或は、条令に依る「決まり」や、新たな「掟や仕来りや慣習」を以って安定させるシステムを敷くとしたもので、試行して効果あるとした時には、都度、決まり次第に、この「地士制度」の中に組み込んでいった制度として行ったものであったと考えられる。

これで、「幕府の追求」を逃れたと云うよりは、「余計な口出し」を出させなかったと云う事の方が正しいと考えられる。

上記に論じた様に、場合に依っては効果的であれば、「商業組合」の様に「幕府体制に反する事」も出て来る事もある筈で、一々紀州藩のする事に“「口出し」”されては伊勢紀州は納まらない筈である。
全てこの“「地士制度」の中の事である“としておけば、これでこの「地士制度」は”「家康の了解」“を得ていたとして突き跳ねれば、引き下がる事に成る。
要するに、俗に云えば、“無礼者 下がれ。これが目に入らぬか。”の“「水戸黄門の印籠」”である。
“権現様の成せる事に口出しするのか”と一括すれば引き下がるのである。
「家康」に特段で可愛がられた「頼宣」であったからこそ、このゼスチャーで納められたのである。
其れには、関連する確立した政策が必要で、それを“「地士制度」(印籠)”と名付けて示唆したと考えられる。

さて、話を戻して、然りながらも、”完全に安定していたか”と云うと、そうでは無く、ある一定期間を経て、下記に記する様に、この「紀州藩」にも例外なく「反抗一揆」はある時期より多発した。
この“「地士制度」”で、江戸期初期から何とか57年間(1603年からすると73年間)は納められたが、再び、半世紀後に再発したのである。
では、「地士制度」で「色々の決まり」を作り上げたが、「印籠の効き目」が無く成って来たのかと云う事に成るがそうでは無かった。

この「地士制度」の効果を発揮している「商業組合」があり、「提携商人」がある「15地域」には、1680年以降では、「7つの一揆」と、関連性の高い一揆が「9つの一揆」が発生した。
これには、「共通する特徴」があった。
その特徴が、「時代の変化」で、”ある事”に依って「効き目」が阻害され低く成った事だと観られる。
果たして、“それは何なのかである。”
答えから先に云えば、それは、「宗教」である。

「青木氏」が、「商業組合」を「15地域」に浸透させ、効果を挙げ、約半世紀以上は確かに民に潤いを与えた。
然し、此処で、如何なることをしてもこの「商業組合の潤い」では解決できない事がある。
それは”「民の心」”である。
この「民の心」を「経済的な潤い」で一時的に平癒させても、”「宗教力」”と云うものが強く成れば、”「民の心」”は変化を興す。
これは「世の常」である。
”「宗教力」は強く成った”のである。

それは、マンネリから来る「支配側の施政の悪さ」からも来ている。
社会が戦乱から安定すると、支配側には、「利に対する欲」が、「政に対する慣れ」が出てそれが「庶民の生活環境」に圧迫を加える。
これに対して、「民の心の支えと不満」を「宗教」に求め、「宗教側」もこれに乗じてこれを扇動する環境が起こる。
「宗教側」は民を救うとしての大義で以て「支配側の悪政」を云い募る。
結局、この煽動で民は「反抗」と云う形で集団で訴える。
これが、上記で論じた「一向宗」(浄土真宗系)が大きく動いた事なのである。

「下級武士」も伴って「民の心」が叶えられるとして「一向宗」は爆発的に拡大した。
それが、「頼宣入城後」から約60年後の所謂、江戸期の1680年頃からの現象と成って現れたのである。

そこで、これらの事を理解するには、先ず“「一揆」”と云うものにより理解を深める必要がある。

そもそも、“「一揆」”とは、現在、一般的に「言葉の意味」として云われているものとは根本的に異なっていたのである。
それは下記に論じる「一揆」の事からも判る。
元より、「伊勢と紀州」では、特別に“「門徒衆」”と呼ばれ、この宗徒が恐れられる位に多いところであった。
それ故に、特別に「門徒勢力」の強かった地域でもあったが、上記した「15地域」の「浄土真宗の布教の強い地域」では、強弱はあるにしてもこの現象(“「事件」と「連携関係」“)が必ず認められる。
特に、「加賀一揆、越前一揆、鯖江一揆」等の有名な「大小の反抗」は、数えれば限りがないが、全て「青木氏の定住地」の域で起こっている事である。
「15地域」とは、云い換えれば、「門徒衆の何らかの強い行動」が認められる地域でもある。

「信長」から引き継いで「秀吉の時代」も、有名な「鯖江の誠照寺の事件」を初め、下記の「紀州勢力」のこの組織化された「門徒衆の勢力」を「根絶やし」にしようとしたものであった。
取り分け、紀州の北部域では、“「紀州討伐」”と云う形で“「門徒衆」の背景”と成っていた「雑賀衆」と、これと連携していた“「根来衆」”にも攻撃を加えて、歴史上に遺る庶民を巻込んだ「熾烈な作戦」を展開した。
この「雑賀衆と根来衆と高野山真言宗」とは、下記に論じる一種の「二期の一揆」で結ばれていた。(高野山は僧兵を初め早々と脱退した。)

この様な事が主要な「青木氏定住地」で起こっていて、「二つの青木氏」の様に、「密教系浄土宗の家」では、反抗勢力の「門徒衆」に陰陽に「経済的な背景」を与えながらも、敢えて、“「密教」”と云う事を表に出さない様にして“憚っていた事”が伝えられている。
信長後の「門徒衆の勢い」は依然として強く、これを徹底的に削ぐために採った「秀吉の数度の紀州討伐」はあったにせよ、要するに“「門徒衆の反抗」“は、その後(1620年頃まで)も続いていた事を物語っている。

結局は「門徒衆の反抗」が納まったのは、それまでの政権が採って来た「武力」では無く、「青木氏の提案」、つまり、「飛散した門徒衆」に徒党を組まさずに「商業組合」に囲い込んで「射和商人」と云う「独り立ちの商人」に仕立て上げた事に依って納まり、末端の社会も「徒党の争い」を排除する社会へと変化した事に在った。

(注釈 「15地域の青木氏定住地」でも、「門徒衆 浄土真宗」と「一向衆の一向宗」の強い反抗があった。)

伊勢紀州は、「高野山の真言宗」と「伊勢神宮」のお膝元でありながら、又、「根来寺の宗教僧兵」の地域でありながらも、「紀州と伊勢と奈良の土豪集団」は、殆どが「門徒衆」であって、それほどに“「門徒衆」“は強かった「不思議な地域」なのである。

そもそも、“何が強かったか“と云うと、それは「揉め事などの事件」が起こると、この「門徒衆」の性癖は、”「集団」“で事に当たった事にあってそれが怖かったのである。
それは、「浄土真宗の最大の教義」にあった事に依る。

「青木氏」は、「御師様」や「氏上様」と慕われて呼ばれ、「信長-秀吉」から「門徒衆」を保護したりするなど「地域の民」の為に貢献して居た事もあって、“先ずは攻撃はされない”とは観ていた様であったが、それでもその“「集団」“で仕掛けられる事に、「権威を重視する象徴族」であった事から「必要以上の摩擦」を避けていた事がこれでよく判る。

ところが、こんな中で在りながらも、「伊勢青木氏の四家」の中でも、「四日市殿の末裔」は、何故か特に気にしていた事が伝わっていて、筆者の「福家の家」のみならず「四日市殿」の最近までの口伝にもはっきりと遺っている。
“密教と発言や慣習を表には出して成らない”とする「口伝」とでも云うか、要するに「戒め」であって、両家や「郷士衆」の家筋にまで伝わっているところを観て見ると、何か激しい「宗教的な揉め事」が江戸中期頃にあったと観られる。(下記)
不思議にこの「口伝や戒め」の多くは、「員弁殿」や「桑名殿」の伊勢北部域には無く、「名張殿」の西部域と紀州域を含む南部域に観られる現象である。

ある大きな「二つの事件」から考察して、“これは何か変である。”
そこで、確実に確証とれるものとしては判ってはいないが、江戸初期からこの期を通じて長い間に“何かの事件”が発生し、つまり、気にしなければ成らないほどの事が起こっていた。
「門徒衆」を救った側からすると、主に“「四日市殿」の南部域にあった”と観られる。
ただ「門徒衆側」の方では、「浄土真宗の宗教教義」に没頭している事からすると、当たり前の事であったかも知れない。
この“没頭する事“、これが「門徒衆」の「最大の教義」であったからである。

そもそも、この「四日市地域」というのは、この「射和商人」の「家族が住む集合住宅」が集まっていた地域(青木氏の地権地域)でもあった事から、共に同じ所で生活し仕事をする事に成った「門徒衆の商人」も住む事に成った地域でもあった。
彼等を刺激しない様に、「伊勢郷士衆」から密かに言い渡されていたのではないかとも観られる。
この口伝が必要以上に明治期まで遺されていると云う事は、その「配慮不足」で、“拗れて折角囲い込んだ「門徒衆」が、再び離散して反動に出るのではないか“と云う懸念が初期の頃に充満していたと観られる。
そもそも、それは「浄土宗」の「伊勢青木氏」に関わった「20程度の浄土宗徒」の「伊勢郷士衆」からすると、「浄土真宗」は「異教徒」と云う事に成るが、それだけに昔からの「伝説的な事」もあって気にしていたのであろう。

室町期中期から江戸期初期頃までは、少なくとも「異教徒」は,「身分格式家柄の差」で判別されるので、現在感覚の「異教徒」では無かった。
この「異教徒」では、歴史観として必要な知識では、本来は、「宗教的な慣習差」で「不必要な争い」を避ける為にある程度の「棲み分け」をしていた。
正規の慣習の“「棲み分け」”をしていたと云うよりは、一地域にその宗派の布教が広範囲に頒布する事に成る事から、況して、一族で固まる「棲み分け」から、結果として、「宗派の棲み分け」が起こった形に成ったと云う事に成る。


要するに、民は領主に所属するものとしての概念が確立していて、「国抜け」と云って[自由移住」は認められていなかった事から起こる現象である。
そこで、この「異教徒」(門徒衆)が玉城地域中心に川を隔てて“「混在する事」”になった事態そのものが江戸初期には「新しい事」であった事からそれだけに気を配っていたのである。
これは“「混在する事」”が無ければ、「商業組合の(イ)(ロ)(ハ)」と云う組織を成し得ない「商業組合の原則」でもある。
これは、「異教徒」に対して「青木氏の氏家制度の慣習仕来り」に従わず、この「棲み分けの概念」を無くし、「商業組合」として「同じ域」に囲い込んだ事から起こる「慣習仕来りの摩擦」であったと観られる。

「一人前の商人」に仕立てようとすれば「異なる域」に住しては、その域や氏や姓の持つ慣習や仕来りや掟に縛られて、自由にその知識やノウハウを教える事は不可能である。
「青木氏と伊勢郷士衆」に執っては、絶対に乗り越えなければならない「最大の課題」であった事に成る。
それだけに“「苦しみの口伝」”として長く遺されて来たのであろう。
当にこれは「青木氏の生き様」の所以が伝わるものである。
それが「門徒衆の性癖」が、せめて「穏健」であったならば問題も無かったのであろうが、彼らは「最大教義」でもあった「一念一途」から来る「集団抗議」であった事から収まりが着かない事に成っていた事なのである。

確証は得られないが、調査から観て見ると、更に「浄土真宗」には、下記に示す「浄土宗」との間には、“歴史的なある謂れ”があったと観られる。
恐らくは、この事も大きく影響していたのではないかと読み取れる。

それは、そもそも「浄土真宗」には、江戸初期に当時世間を騒がせていた「一向俊聖」が率いる「一向宗」と云う別派が在って、この「一向宗」は、その「教義の所以」から「反抗性」と云うか、世の「理不尽性」に対する姿勢が強くて、各地で集団で「一向一揆」を多発さしていた。
この門徒は、「浄土宗徒」でありながら、「浄土真宗」の「親鸞の教義」を慕う“「一向衆」”と呼ばれる別派の一派があって、この信徒は「下級武士と農民」に広まり、それ故に本来の「浄土宗信徒」とは違う行動を採っていた。
この“「一向衆」”に対しては、本来の「門徒衆」とは、この“ある謂れ”があって区別されていた。
どちらかと云うと、ドラマ的に捉えると、「門徒衆」から云えば、この親鸞を慕う「一向衆」は「異端児」と云う関係にあった。
「浄土宗徒」からすると「裏切者」であった。
ところが、この上記の“ある謂れ“を説くには、先に次ぎの事を述べて置かねばならない事に成る。


そもそも、この「一向宗」には、「二つの流れ」があって、「浄土宗」を発祥源とした「一向宗」と、上記した「浄土真宗」から出自した「一向宗」とがあった。
この“ある謂れ“には、この経緯が影響したと読み取れる。
この「一向宗」の本元は、「浄土宗の別派時宗の一向宗」ではあるが、この「一向宗の門徒」には「法然の浄土宗」でありながら、“ある教義”を信じて「親鸞」を慕う「門徒衆」(一向衆)が多く、そこで「浄土宗」からは、この「親鸞信仰」の「浄土宗一向門徒」とは区別して“「一向衆」”と呼ばれ差別していた。
この呼称を嫌う親鸞の「浄土真宗側」からは、“「一向」”と云う言葉さえも使わず、これを禁句として当初は相手にしなかった。
この「浄土真宗側」では、“使うと破門する”とまで書かれた文章が遺されているのである。
この「一向宗」を、「浄土真宗側」の一派は、「信徒」に入れると“「親鸞の教義」を歪める”として嫌ったのである。
「浄土真宗側」からすると、教義布教の「浄土宗の浸食作戦」であると疑って観て採ったのであろう。
この思いが手紙としての記録に遺されている。

元々、「浄土真宗」と、この「浄土宗教義」の「本宗争い」が長く在って、江戸期初期に「家康」は、「密教浄土宗の顕教令」を発する際に、この問題があっては困るので、この「争い」に裁定を下し、この「一向宗」を全体像からは正式な宗派とは認めずに“「浄土真宗一派」”と定めた。
「顕教令」の為には、「親鸞崇拝の一向衆の信徒」を「浄土宗の信徒」とは認めなかったのである。

ところが、この「家康裁定」でも、「浄土真宗派の一部」(門徒衆派と一向衆派の両派)は、納得しなかったので明治期までこの「争い」は燻っていたのである。
この「顕教令」と共に出された「家康裁定」で両方の宗派では一応は騒ぎは収めたが、ところが、「浄土真宗側」の「一向衆」は、浄土真宗の一派の「一向宗」としては認めて貰えなかった事から納得せずに、信徒の下級武士も含んで各地での「農民に対する税に対する圧政」も重なる事にも成って、反発して、要するに、「反抗」を意味する“「一揆」”を各地で起こす様に成ったのである。
この頃から、“「一揆」”と云う意味合いは、「反抗を意味する一揆」へと変わって行ったのである。

そこで歴史的に注意しなければ成らないのは、この“「一揆」”が元々の「浄土真宗」の「門徒衆」と、「浄土真宗系」の「一向衆」の二つによる「一揆」が起こっていた事である。
上記の“何か変だ”とするのはここに在った。
つまりは、伊勢を始めとする「15地域の青木氏」は、“一体,「どちらの衆の一揆」を援護していたのか”と云う事である。

江戸期初期の「家康裁定」では、「浄土真宗の信徒」であるが、室町期末期頃からはこの信徒に依る「農民一揆」が各地で起こっていた。
その為に長く引きずったこの問題に対して、今度は「明治政府」は、この「一向宗」を宥める為に、この「一向衆の浄土真宗」を単なる“「真宗」”としての呼称で認めて、妥協案の「真宗」と呼称する様に裁定を下した。

要するに、「密教」を含む「法然の教え」を護る「浄土宗」と、「親鸞の教え」に傾注する「浄土真宗」との「宗教派閥の争い」であって、そこにはその「教えの差」の違いがあった。
法然の「浄土宗」からすると、親鸞の「浄土真宗側」に走った信徒に憤懣があって圧力を掛ける為に、差別した事にも成る。
況して、その信徒が全国で“「反抗の一揆」”を起こしたのである。

この様な行動に出る教義では無い「浄土宗派の密教」は、この「一向宗の行為」を許される事では無かった。
「浄土宗派側」からすると、“親鸞に傾く裏切り行為”の上に、且つ、“反抗の一揆”までを起こすと云う信じられない事が起こったのである。
そもそも、「浄土宗」は、江戸初期の家康の「浄土宗の密教」を改宗して誰でもが信心できる「顕教令」を発した事から、爆発的に不満が噴出して起こった事からの事件である。
その所属には基本的には「江戸期の以前」は、若干の動きはあったが、未だ「浄土宗派の一向宗」であった。
ところが「浄土真宗」の信徒の一部が、「浄土宗の信徒」に不満を爆発させて「布教戦争」を仕掛けた事から起こったのである。
そこで、上記した様に、家康の一向宗を「浄土真宗」と裁定をした経緯に発展したのである。
その事は“「教えの差」”にあるとして、これを嫌う「浄土宗」からは、「浄土真宗」に対する「差別待遇の呼称」として扱った事にあった。

つまり、そもそも、この“「教えの差」”の“「一向」”とは、一体、“何か”である。
この“「一向」”と云う言葉には、”一筋に、一途に、一念に“の意味があり、これを「主たる教義」としていたことから起こった事ではある。

(注釈 教組の「一向俊聖」は、「越後国の草野氏」の末裔の「草野俊聖」の事であり、後に、「一向俊聖」と名乗った。)


これは、浄土真宗の「一念発起の教義」にある様に、“「集団」「一途」“で事に当たる「浄土真宗の最大教義」に一致していた事から起こったのである。
「親鸞の教え」の「阿弥陀経」の一節の“「南無阿弥陀仏」と一途に念ずれば、汝は救われる。”の所以である。
「浄土宗の一向宗の教え」と、「浄土真宗の親鸞の教え」が一致している事から来ているので、「一向衆と云う信徒」が興った事に成ったのである。
「江戸初期の顕教令」に依って、「密教」から「顕教」に成った事から、この「一向」「一途」「一筋」「一念」が、「庶民の信心の心」を掴んだ事から起こったのである。

ところが、「浄土宗」は、“全ては「自らの悟り」に通じる“としていて、「顕教」に成って新たに「浄土宗信徒」と成ったが、農兵(半農下級武士)や農民には、この教義は、その生活環境からは現実には生活環境に直結せず、且つ「悟りの教え」は難しいことでもあった。
然し、そこで、“唯、念仏を一念に念ずる事で幸せが来て極楽浄土に行ける“とするとこんな楽は無いし判り易い。

元を質せば、前段でも論じたが、「密教」は「大日如来仏」を「宇宙仏」とし、直接、如来が下界に降りて来て民に「教え」を伝え悟らせると云うもので、「顕教」は「盧舎那仏」を「宇宙仏」として、直接下界には降りず、「下界仏の釈迦」を通じて直接、言葉で教えを伝え導くとするものである。
先ずは上記するここに大きな“「教義の原理の差」”があった。
「顕教」で「浄土宗信徒」になったものの、結局は「民衆」は、「判り易さ」とこの「安易さ」に引かれた「浄土宗」から離れて行ったと云う処であったと観られる。
この事から、「浄土宗」は、「顕教」に成ったものの「新しい信徒」は完全に離れて行って衰退の一途と成って、寺は荒れ果てた。
幕府は寺の修理令を出すが進まなかった。
残るは、青木氏等の密教を続ける寺のみの現状と成った。
そこで、高級武士階級に入信を進めて浄土宗は何とか生き残れたのである。

ところが、その「青木氏の密教」では、「般若心経」を前提として、その「青木氏氏是」や「青木氏家訓10訓」にもその考え方を反映さしている。
「色即是空 空即是色」「色不異空 空不異色」は、「密教の主教義(概説:「拘りの否定」と「悟りの前提))」として従っている事から、「浄土真宗」と「一向宗」は、到底相容れるものでは無かったのである。
「時宗派の一向宗」は、「浄土宗系」とするも浄土宗の中では異端扱いと成っていた。

この為に、江戸期には「顕教」に成っても続けていた「密教派」の「浄土宗の青木氏」には、「浄土真宗」の元来の「門徒衆」からは、「浄土宗」である事と「密教」である事に付いて敵視されたのである。
当然に、この様な考え方の持たない「密教の青木氏」は、「一向衆」からも「密教」の有り様が「一向宗派の敵」として逆に敵視されたのである。
各地の「二つの青木氏」は、室町期から「浄土宗派の一向宗の一揆」には「経済的支援」をし、室町末期からの「門徒衆の一揆」や明治期の「一向衆の一揆」(民としての前提)にも「経済的支援」をしながらも、“「密教」”と云う事では、「一向、一途、一筋、一念」で苦しめられたものと考えられる。

果たして、”「浄土宗派の一向宗の一揆」には「経済的支援」”と「ある手紙の資料」では成っているが、疑問である。
要するに、”「支援の仕方」”に大きな違いがあったのではないかと考えられる。
その「支援の違い」が未だ判って居ない。
「警戒していた宗派」であった事から、「積極性援助」は先ずは考え難いとすると、依頼されるが侭に「周囲との関係上」から「寄付的行為の範囲」で留まったと観られる。

唯、この「強い懸念」が、「四日市殿の末裔」に強く伝えられていたと観られる。
つまり、「四日市殿」は、立場上から「一向衆」にしても「門徒衆」にしても「反抗する宗教勢力」には「反対姿勢」を鮮明にしていた事も考えられる。
どう考えても、確かに「青木氏」に執っては、実に、“間尺に合わない事”ではあった。

前段でも、又、上記した様に、「地域の民」からは“「氏上様」”と呼称され敬われ、「郷士衆や職能部の人」からは“「御師様」”と呼称され敬われていたが、江戸初期から明治期まで地域や宗派を超えて“「近い存在」”と成ったにも関わらず“「門徒衆」”からは、この「敬いの呼称」は無かったのである。
本来であれば、有ったと考えられるが、口伝から観て無かった事は、相当に“「密教」”と云う事に対する「懸念の心」や上記した「歴史的な拘り」が「門徒衆」にあった事に成る。

昭和の初め頃までは、結局、「地域の指導者の所以」として、この「門徒衆」に対しては「密教の発言と慣習や仕来り」には気を使い、出来るだけはその様に振舞ったと「伊勢青木氏の口伝」では伝わっている。

江戸期に於いては伊勢紀州では門徒衆に対しては明確であったが、「一向衆」に対してはどうであったかは定かでは無い。
唯、伊勢紀州では前段でも論じた様に「一向衆」が出る土地柄では本来は無く少ない。

「宗教的な経緯」が経緯だけに幾ら「青木氏」でも「民の為」としても資料を残す程の事は出来なかったと考えられ、依って「資料口伝の類」は見つからないのであろう。
その前に、上段でも論じた様に、「青木氏」は「郷氏」であり、「地域の地権者」であって、且つ、唯一「氏の青木村」を形成出来る立場にあった事から、独自に「浄土宗の菩提寺」を持つ「氏村」には、「青木氏に関わる郷士衆」やその「職能部の民」は、この菩提寺の下で導かれる事に成っていて、「一向宗の布教」は起こる事は必然的に無かった。

(注釈 前段に論じた様に「僧侶」は「青木氏」で、祭祀は福家を中心に「達親方式」に依る「青木氏形式」を以って行われていたので、入る余地そのものが無かった。)

従って、宗徒に関する資料や口伝は勿論の事として無い事に成る。
「門徒衆」の事に付いては、上記の「特段の経緯」から起こった事であるから、「青木氏」も間尺に合わないとしても大変に気を使った事に成ったのである。

唯、他に考えられる事として、「江戸初期の顕教令」に従わずに「密教の慣習と伝統」を維持して居た事への配慮に付いては、「紀州徳川氏との親交」から配慮しなければならないが、特段で意識している資料は見つからないのである。
依って、「門徒衆への配慮」だけと云う事に成る。

実は、この事に付いて、「江戸初期の浄土宗の顕教令」では、結局は,「浄土宗」は誰でも信心できるとしたが、実際は、“「誰でも」”は、確かに“「誰でも」”ではあったが、「氏族」に限らず「姓族」にも門徒を開いて「特定された高級武士」に限定して入信出来る宗派と結果として成ったのである。
従って、この「特定される高級武士」の間では、完全とは云わずとも“ある程度の密教性のある浄土宗の教義”が維持された事に成っていたのである。(「達親方式」等)
この事が、「青木氏の密教の慣習仕来り掟の伝統」に付いては、特段で問題視されなかった事に成った。
況してや、紀州藩とは上記する「商業組合」や「勘定方指導」や「地士制度」などの連携した関係からも問題視されなかったと考えられる。

ところが、「四日市殿の末裔の青木氏」には、この事に付いての事が多く伝わっている事から考えると、江戸期初期前後からの出来事では、“何か事件性があったのではないか”と考えられる。
江戸期初期前後では、「四日市殿」が、前段でも論じた様に、「立葵紋の使用」や「勝姫との血縁」などでも判る様に、「紀州徳川氏との親交」も取り分け深かった事もあって、出来るだけ「密教性」を表に出さない様に「摩擦」を避けていたと観られる。
取り分け、「門徒衆との事」で「諍い」が起こると、“集団性で動かれる事”があるので、それが表に出て仕舞う結果と成る事に気にしていたのである。
ここでは、四日市殿に関しては「紀州徳川氏への配慮」は否定できない。
況して、一筋縄では行かない「門徒衆」の集まった地域の「四日市地域」であるから、他の四家とはこの面では、上記の通り異なった事に成っていたのであろう。

そもそも、それが、「信長と秀吉の締め付け」で「顕如」が例の如く裏切った事から、「門徒衆」は背景を失い、結局は「青木氏」と「郷士衆」に縋って来た事にあっても、然りながら、伊勢紀州に多い「生粋の門徒衆」には、唯一つ気に入らない事では無かったかと観られる。

この「口伝の伝わり方」(宗教行事から密教性を覆する態度)から観て、「青木氏」の下に共に仕事をする中で、この“「立場の差」”が表に出て揉め事に成って、“集団で抗議された事”が原因していたかと観られる。
恐らくは、記録が見つからない程度の事件性であった事で、場合に依っては遺さなかった事も考える。
実は、この「四日市殿の末裔」のお二人の女性の方が信濃に定住していて、その方の情報では「事件性の事」が家に伝えられていたと聞いているので、筆者は、敢えて“遺さなかった”と観ている。(ルーツ掲示板にもお便りがある。)

“何も斟酌せずに毅然として「伝統の密教」を表に出して行動すれば“とする考え方もあるが、これは地域住民をリードする「青木氏の立場の所以」とも観られる。
これも、「色即是空 空即是色」「色不異空 空不異色」、即ち「密教の主教義(概説:拘りの否定)」に繋がったことでもあった事から、「伝統の密教」を必要以上に出さなかった事にあったと観られる。

(注釈 筆者の家には、この様な事に関する事を書いた鎌倉期末期の「古い長文の漢詩の掛け軸」が遺されている。)

江戸期には、時代も異なり「500にも上る守護神の神明社」も幕府に引き渡した等もあって、「賜姓族としての立場の緩み」が出ていたのであろう。
“「緩み」”と云うよりは、“時代性に即した行動“と云う事であったと考えられ、「正しい判断」であったと筆者は考える。
それが「青木氏の生き様」の一つとして「潜在的な意識」に成っていたのであろう。(今も調べている。)
しかし、この後も、この「門徒衆の慣習」は、江戸期を通して大正期まで引き継がれていた。
それだけに、逆に云えば、この「門徒衆と郷士衆」から成る「商業組合」は栄えたのである。
結局は、上記した様に、この「商業組合」に依って江戸期の初期前後頃には、「一揆の反動」は、一時は80年間近く低下したが、「門徒衆」の「商人化」で「門徒衆の勢い」は戻し、この「勢い」からその「門徒の慣習」も維持されたものと観られる。
この「門徒衆の商人化」に関わった「青木氏」や「郷士衆」でさえも、“「密教」である事”を憚った模様で手紙と口伝の記録に遺されている。

そこで、上記した様に、“何か変だ“に付いてであるが、室町期末期に起こった「一向一揆」、明治初期に起こった「一向一揆」に付いて、果たして、全国で起こった「全国の青木氏」が経済的に援護したのは、”どちらの「一向信徒の一揆」であったのか“である。
要するに検証する上で「三種の一向衆」がある事に成る。
この何れなのかである。解明して置かないとそうしないと「矛盾」が生まれる。

その前に、先ず、「一揆」と云う言葉は、中国の孟子論の中に使われている言葉から、平安期に入り、これを鎌倉期に使われた言葉であった。

第一期
その言葉は、本来は、武士の小土豪が政治的に結集して[政治連合体]を作って契約した上で互いに護り合う「連合結社」に使われるものであった。
これを「士一揆」や「徳政一揆」と呼ばれた。
これには「出雲大社の下に纏まった亀甲集団」などがある。

第二期
ところが、室町期に入ると、「戦乱」で「下剋上」が起こり、この「結社の内容」が変化して行って、言葉の内容は,下級武士の政治体制に対する「契約した上での反抗勢力」の言葉として使われる様に成った。
この時期は「国一揆」や「荘家一揆」と呼ばれた。
有名な処で「1465年の額田郡一揆」がある。

第三期
室町期末期に成ると、下級武士の不満や農民の不満を訴える不契約の烏合集団化した「不満勢力」の言葉として使われた。
この時期は「百姓一揆」と呼ばれた
有名な処で、「加賀一向一揆」が在る。

第四期
そして、江戸初期になると、更に、この結社が、社会が安定して「武士の結社」の必要性が無く成り、上記した様に、ある「影の大勢力」が背景と成って、「農民や宗徒」に関わる不満から集団化した「不満勢力」の言葉として使われる様に成った。
この時期は主に「百姓一揆」や「一向一揆」と呼ばれた。
要するに、上記で論じている一揆である。

第五期
最後に、「明治維新の政治体制」が変わり、「社会体制の変化」も起こり、これを嫌う「保守勢力」として結集して、ある「政治的主張」を実現させようとして、士族を失った者や農民らの重租税の改善の集団化したものに使われた。
「伊勢騒動」などがある。
この時期は、「地租一揆」や「世直一揆」と呼ばれた。

この「五つ期の一揆」に付いては、殆ど各地に定住する「二つの青木氏」が関わっている。
そこで、「青木氏」に何らかの関係で関わった各地の主な一揆を下記すると次ぎの様に成る。

鎌倉期
青木氏が関わった主な一揆
1368年武蔵平一揆、相模平一揆、白旗一揆

室町期前半期(徳政一揆)
青木氏が関わった主な一揆
・1418年上総本一揆・1465年額田郡一揆・1485年山城国一揆

その他の一揆
1428年正長の土一揆・1441年嘉吉の徳政一揆・1462年寛正の土一揆
1400年大文字一揆・1429年播磨国一揆

室町期後半期
青木氏が関わった主な一揆
・加賀一向一揆・法華一揆・雑賀一揆・伊賀惣国一揆
・1563年三河一向一揆・1587年肥後国人一揆・1585年祖谷山一揆・1586年北山一揆

その他の一揆
・1589年天草国人一揆・1589年葛西大崎一揆
・1590年和賀一揆・1590年仙北一揆・1592年梅北一揆・1600年岩崎一揆
・1600年浦戸一揆

江戸期
青木氏が関わった主な一揆
・1603年滝山一揆・1608年山代一揆・1614年北山一揆・1615年紀州一揆
・1677年郡上一揆・1722年越後騒動・1761年上田騒動・1768年新潟騒動
・1836年天保騒動(郡内騒動、甲斐一国騒動)・1814年北越騒動
・1842年近江天保一揆

関わった可能性のある一揆
(殆どは重税による農民一揆)
・1652年小浜一揆・1686年加助騒動・1690年坪谷一揆
・1726年津山暴動・1729年岩代農民暴動・1761年伝馬騒動
・1781年絹一揆・・1786年宿毛一揆
・1842年山城谷一揆

その他の一揆
・1739年元文一揆・1753年摺騒動
・1771年虹の松原一揆・1771年虹の松原一揆
・1771年大原騒動1793年武左衛門一揆
・1804年牛久助郷一揆・1825年赤蓑騒動・1831年長州藩天保一揆
・1838年佐渡一国一揆・1847年三閉伊一揆・1856年渋染一揆

明治期
青木氏が関わった主な一揆
・1869年ばんどり騒動(富山県)
・1872年悌輔騒動(新潟県)
・1876年伊勢暴動(三重県)

その他の一揆
・1873年筑前竹槍一揆

この「五期の一揆」から、「青木氏が関わった一揆」は、次ぎの通りである。
鎌倉期は第一期である。
室町期前半では第二期である。
室町期後半では原則は第三期である。
但し、室町期後半の前期では、第三期で、後期の第四期に移行する時期と成る。
江戸期では原則は第四期である。
但し、江戸期の前期では、第四期で、後期から第五期に移行する時期と成る。
明治期では初期の第五期である。

つまり、“何か変だ”とした疑問は、「青木氏」が「経済的背景」として援護したのは、果たしてどの「信徒」であったのかである。

「浄土真宗の門徒衆」・・・・・・・・鎌倉期・・・・・・・・・・・・・・・・・主に武士階級
「浄土宗の一向宗の信徒」・・・・室町期前半 室町期後半・・主に武士階級
「浄土真宗の一向宗の信徒」・・室町期後半・・・・・・・・・・・・・農民階級
「浄土真宗の門徒衆」・・・・・・・・室町期後半 江戸期前期・・武士階級と農民階級
「真宗の一向衆」・・・・・・・・・・・・江戸期後半 明治期・・・・・・農民階級

この記録から完全に判別する事は困難だが、「関わり方」には多く在って、地域に依って異なっているが、“「経済的援護」”としては大方は以上と成っている。

唯、「江戸期の一揆」に付いては、「家康の顕教令」もあって、「家康裁定」もあって、「商業組合」があって、紀州藩から「商業組合」と共に「15地域の青木氏の定住地」に広がりを見せた「地士制度」などもあった事から、「宗派」に関係なく、“「地域の民衆」を支える為の「経済的行動」”であった事に成る。
“「地域の民衆」を支える為の「経済的行動」”とは、上記で論じた様に“「商業組合」「提携商人」の考え方”に一致し、この「考え方」が「根底にある理念」であった事に成る。
これが、長い歴史を持つ継続された「青木氏の理念」であって、継続された「生き様」であった。
それを顕著に表しているのが,「青木氏」(伊勢青木氏と信濃青木氏)がそれまでの関わり方と違い公然と直接的に関わった明治初期から長く続いて起こった、最後の「1869年ばんどり騒動(富山県)」と「1876年の伊勢暴動」の二つの一揆が大いに物語っていると云える。
「越後の秀郷流青木氏」が関わった「1872年の悌輔騒動(新潟県)」も同様である。

他には「武力的な援護」、「政治的な援護」と成るのだが、「青木氏の氏是」に依って「歯止め」が掛かっていて、直接の「武力的な援護」は無く、「経済的援護」の他に、「青木氏」が持つ「シンジケートに関わる援護」が多い傾向である。
この「シンジケートの援護」であるが、「直接的な武力衝突」では無く、平穏時は「家族の身辺警護や食料の安全輸送」等に関わっていた模様である。
「一揆」を先ず根絶やしするには、為政者側の採る最初の作戦は、先ずは、「補給食料の断絶」や「家族への脅迫」や「調略作戦」から始まり、「武力に依る掃討作戦」は最後の手段であった。
その前のこの作戦に「援護の対応していた役目」は、「郷士頭の家に遺る手紙」の資料から読み取ると、「青木氏」からの指示に基づき、その役目が危険であった事からこの「シンジケート」が手足と成って大いに働いていた様である。

「政治的な援護」の関りでは、「シンジケート」と関係していて、“「一揆後の立て直し援護」”と云った「援護の関り具合」に徹していた事が判る。
特に、「江戸期末期のシンジケート」は、時代と共に変化して「抑止力」と云うよりは「職能集団」と云った様変わりした「重要な役目柄」を演じていた事が判って居て、支配下に置いていた「伊勢水軍」の「職能集団」は、「海上輸送」で働き、各地域に配置していた武装集団は、「陸送輸送と警備担当」で働き、「大工等の職能部」は、神明社等を江戸幕府に引き渡した後は幕府から「関連企業」として受注を受けてこれを修理管理する事に働いていた。

そして、明治期中期には、伊勢に於ける「青木氏のシンジケート」は、これら全てを解散して「企業」として独立させる手段を採った。
伊勢以外にも、例えば、「讃岐青木氏」の様に、本体は「商い部門」を瀬戸内に遺しながらも、「廻船業」として「新規航路」を作り、最終、蝦夷地にも支店を置いて大いに栄え、昭和20年まで続いていた。

この様な例の様に、時代と共に体質変化させて生き延びていて、「青木氏の15地域」では、「伊勢、信濃,讃岐」は、勿論の事、有名な処では「新潟」や「富山」や「鳥取」等、多くは少なくとも昭和の初め頃まで「商業組合と提携商人」と共に存続した事が判っている。

要するに、江戸期末期に成っても依然として「賜姓族」として頑なに「地域の住民」を「賜姓五役」の「殖産や興業」に導いて、「商業組合と提携商人」は「本来の一揆の意味合い」としての貢献をしている。

これらは前段の「伝統シリーズ」でも「関わり具合」を論じてはいるが、本論は「商業組合と提携商人」としての「15地域の青木氏の生き様」を「伊勢の例」を下に焦点を当てて論じた。
これらの事は、決して、伊勢域だけの事では無く、「15地域」では、「商業組合と提携商人の組織」を形成する以上は、ほぼ同じ様な事が起こっていたのである。
それを前提にご理解頂きたい。

次段は、矢張り、伊勢を以って、この「提携型商人」の「射和商人」に付いて例として詳しく論じる。


「伝統シリーズ-20」に続く。
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