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青木氏と守護神(神明社)-11

[No.278] Re:青木氏と守護神(神明社)-11
投稿者:福管理人 投稿日:2011/09/10(Sat) 15:54:01


 「青木氏の利点」

>阿多倍等が九州に上陸し中国地方まで無戦征圧した原因は、その「高い後漢の技能」を吸収して生活を高められる事があった為に「土地の民」が進んでその配下に入った事から起こっている現象だからで、その為に「間接的な氏の融合」が起こったからなのです。
>つまり「平族」に於いては、阿多倍一族としては奈良期から平安期(600年)までの「間接的な氏の融合」の拡大でありますが、たいら族としてはこの5代(或いは7代)(国香-貞盛より)による短期間(165年)の「氏融合」(その前は「民族氏」と「部氏」)であるが為に「直接的な氏の融合」の基盤が平安期には充分に出来ていなかった事に原因しています。(前回の末尾)

逆に、その点で全青木氏390氏は朝廷の奈良期と平安初期の「2つの詔勅」で発祥しましたが、青木氏の古代密教に導かれた「菩提寺」や「心の拠り処」としての「祖先神の神明社」が遺された事に因って書物が残り、している事から比較的にルーツが明確に成っていて、後に於いても「氏族の発祥源」が管理されて引き継がれて行った事が「子孫存続」の「生き残りの団結」(伝統の継承)に結び付いたと考えられます。
これは真に前記した通りの「4つの青木氏」の存在が起因しての事であります。
これは言い換えれば「青木氏の伝統の継承」が成されて行った事にも成ります。
「3つ発祥源の古氏」であり「高位の氏」であるが為に、「直接的な氏の融合」を主体としては少ないけれども、「間接的な氏の融合」にも力を注がれていた事に成ります。
取分けこの「紙一重の乱世」の中で「融合氏」として生き残れたのは「賜姓青木氏」では「伊勢青木氏」が29氏を主導し、藤原秀郷一門では特別賜姓族の「秀郷流青木氏」が「第2の宗家」として361氏を主導して「氏の融合」を成した事です。
その「氏」を室町期末期まで「管理統括」し、この「氏家制度」の管理統括された「2つの青木氏」390氏が氏家制度の根幹を守り、強く「相互間の助け合い」をしていた事の差によります。
そして、その基点となったのは「心の拠り所」の「祖先神の神明社」であり、「行動規範の拠り所」の奈良期からの「古代密教(浄土宗)の教え」であった事は云うまでもありません。

「2つの青木氏」の「3つの拠り所」
1「心の拠り所」=「祖先神の神明社」
2「行動規範の拠り所」=「古代密教の教え」(浄土密教)
3「人生の使命感」=「3つの発祥源」

この「3つの拠り所」の下での「相互間の助け合い」(互助・絆・氏家制度)では、武田氏滅亡で武田氏系青木氏と諏訪族青木氏を武蔵入間を中心に神奈川横浜の半径上に接続する勢力圏内に保護した事や、四国讃岐籐氏の勢力圏に保護した事、新潟-陸奥で保護した事等の例から観てもこの「氏の管理統括」が確実に成されていた事が証明出来るのです。
他にも鎌倉末期に「元寇の乱」の時に秀郷主要一門の青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏等は北九州に赴き、そこで一族の連携を採り互いに助け合い大蔵氏や肝付氏や北九州の主要豪族の菊池氏、宗像氏、佐伯氏、酒井氏等と積極的に血縁して一族の末裔を阿多倍一族一門の根拠地に遺しているのです。其の時の青木氏が主導して血縁をした資料が残されています。
北九州に地域的には限定されて少ないのですが、青木氏や永嶋氏や長沼氏や進藤氏や長谷川氏が秀郷一族の末裔が存在するのです。中でも秀郷流青木氏と大蔵氏系永嶋氏が大きく末裔を遺しています。この事が何よりの証拠と成ります。
これが「元寇の役」を切り抜ける為の「第2の宗家」の「青木氏主導の戦略」であったのです。

では、この「氏の管理統括の有無」とはどう云う事かと考えると次ぎの結論が出て来ます。
上記(3)の ”争いを伴なう時の「氏の融合」の「第2の条件」”とは、それは「氏の民の心を一つに纏める政策」でした。
そして、次ぎの数式が成り立ったからこそ「3つの発祥源」(氏の発祥源、侍の発祥源、武家の発祥源)が成し得て江戸期までに氏は2000までに成り得たのです。
この数式条件を整えず「青木氏」が「平族」や源氏の様な「生き様」をしていた場合は、現在の様な「氏の融合」は有り得ず、「氏融合」が成されなければ「雑種の優秀性と融合性」は成し得ず、「物造り日本」も有り得なかったと考えます。
では、この「第2の条件」を時代を通して維持させたのは、全て「青木氏の家訓10訓」の「教え戒め」に他ならず、遂には次ぎの「数式条件」を成し得たと考えます。

「3つの発祥源」=「氏の発祥源」+「侍の発祥源」+「武家の発祥源」
「青木氏家訓10訓」=「氏融合の第2の条件」
「氏融合の第2の条件」=「氏の管理統括」=「氏の民の心を一つに纏める政策」

この「数式条件」が本論の核心部分と成りますので、本論1より前記した事柄を前提にここより次第に本文に入ります。


  「氏の民の心を一つに纏める政策」
そこで、ではこの政策を更に詳しく検証して見る事にします。
そもそも、青木氏にはその政策として次ぎのような事が採用されています。

1「氏神の創設と創建」(神明社・祖先神・皇祖神・守護神)
2「氏寺の創建」   (菩提寺・浄土宗古代密教)
3「氏象徴の創設」  (象徴紋・綜紋・お仏像様)
4「氏の神木」    (青木の木)
5「氏の掟」     (総則 掟 家訓・添書 累代忘備録)
6「宗家の設定」   (一族一門を管理 総括者)
7「経済的背景」   (2足の草鞋策 経済的繋がり 古代和紙)
8「軍事的独立」   (皇族:近衛府軍、衛門府、兵衛府の左右六衛府3軍と左右衛士府軍、民部府を統率)
以上の8つの「青木氏政策」がありました。

これだけ「纏める政策」を整えている融合氏は他には全く見当たりません。

・8つの「青木氏政策」
1に付いて、「氏の人心を集める象徴-1」 「氏神」「神明社」(皇祖神)
特別賜姓族を含め賜姓青木氏はその賜姓に依って伊勢「皇祖神」の守護として成り、「氏の発祥源」の象徴として「神明信仰の対象」を定め、「人心」を集めて、その後に発祥した「賜姓地」(「氏融合地」)の各地にこの「神明社」を建立し、普及させて「神の加護の象徴」(19地域)を定めました。
奈良期の当時は、現在と違い「宗教に対する認識」は「生きる事」=「宗教」程の意味合いを持ち「絶対」であったのです。
「氏」が安寧に融合し存続して行くには「神仏」に「人心を一つに纏める事」が必要でした。
青木氏には伊勢神宮から発祥したそれが青木氏の「氏神」の守護神・「祖先神の神明社」であったのです。
平安期には、各地の安定域に成った天領地を始めとして、陸奥域を征討し鎮圧する毎に「神明社」を建立し、そこに青木氏が守護神を護る為に住職として移動定住しています。
この「皇祖神」と「祖先神」の「神明社」があるところには「青木氏」が、「青木氏」が定住しているところには「神明社」があるのです。
特に北陸関係には同族の近江皇族賜姓佐々木氏(天智天皇第7位皇子川島皇子始祖)もこの「神明社」と共に住職として移動定住しています。
青木氏だけでは務めきれなかった事から賜姓近江佐々木氏も奈良期の慣例に従い平安期にも「同族祖」として務めたと観られます。
平安期の古い「皇祖神と祖先神」の神明社には「社木」として「青木氏の神木」があり、又「神紋・笹竜胆紋」の幕が多いのはこの事から来ています。
「神明社」の多くは1400年以降の「社」が多く、このものに付いては特に天皇家が建立したのではなく主に当時の幕府か主要豪族が建立したものが殆どです。
領国の民を安寧に導く為に「伊勢宮の分霊社」として建立されたもので、平安期の目的とはやや異なっています。
奈良期-平安期の「氏の融合」が達成された目的とは別に、祖先神の「神明信仰」の色合が強いものでした。
荘園制に依って大豪族と成った「融合氏」等が「神明社」の慣習に習って別に「土地の守護神」を建立して「氏神社」を立て自らを氏子として並行して進んだのです。
そして守護神はただ一つではなく次ぎのような特徴ある歴史を持っているのです。

守護神は次ぎの形式に分けられます。
1 「自然神」
2 「産土神」
3 「祖先神」
4 「氏神」
5 「鎮守神」
以上「5つの神」に分けられます。(本文で詳細記述)

この「5つの神」は「神に対する考え方」が異なります。「4つの青木氏」は3の「祖先神」です。
各氏はぞぞれの上記の「5つの神」の内その「氏の成立ち」によりどれかを「神」として信仰しているのです。
そもそも、守護神は次ぎの形式に分けられます。
1 「神明」
2 「大神」
3 「大社」
4 「住吉」
以上の「4つの形式」に分けられます。

夫々の形式には「時代」と「宗教性」と「氏子対象者」の異なる「3つ要素」を持っています。
従って、夫々の「融合氏」と「姓氏」に依ってこの「4つの形式」のどれに入るかが決まって来ます。
「青木氏」は「皇族・賜姓族関係」であり、奈良期からの時代性を持ちますので「神明形式の守護神」と成り「祖先神」と成ります。
秀郷流青木氏は4番目の「氏神」でありますがこの神は別名「春日神」とも呼称されます。
秀郷流青木氏は「嵯峨期の詔勅」により発祥した氏でもあり、同時に賜姓青木氏を受けた特別賜姓族でもある事から皇族賜姓族の「祖先神」と藤原氏の「春日神」の両方を有する立場にあります。
勿論、「絆結合」の「2つの無血縁青木氏」も家人として郎党として「氏上」の守護神を「神」とします。
皇族賜姓族のみに限られた「守護神」の「祖先神」と成ります。

特に青木氏に関しては上記した様な他氏には決して観られない「血縁融合」-「絆結合」の関係で出来上がっていますから、「氏上-氏人-氏子の関係」を保持し同祖先神の守護神と成るのです。
「神」に対する考え方も次ぎの様に成ります。

「祖先神」
”自分と氏族の先祖を神として祭祀し、累代子孫までの守護神の性格的教義を持つ”。
以上と成りますので「2つの絆結合」も同じ守護神と成るのです。

この考え方に沿う為に「2つの血縁結合」の青木氏と「2つの絆結合」の青木氏、即ち「4つの青木氏」は他氏とは全く別の「氏の結合構成」をもとより持っているのです。
青木氏とそれを構成する族民は共に「祖先神」を守護神として崇める事になるのです。

例えば阿多倍一族一門は「民族氏」でありますので、「神」に対する考え方は次ぎの様に成ります。
「産土神」(うぶすなかみ)
”其の個人の生まれた土地の神で一生その個人の守護神として持ち続け子孫に伝播しない性格的教義を持つ”。
以上と成ります。(但し、現在では「氏神」と混同されている)
「産土神」ですので上記の「大社」形式と成ります。
(出雲大社、阿蘇大社、熊野大社、宗像大社等これに類する)

「5つの神」の「自然神」、「道祖神」、「皇祖神」を「祖神」として、「祖先神」(青木氏)と「鎮守神」(血縁氏)が「4つの青木氏」を守護したのです。

・8つの「青木氏政策」
2に付いては、「氏の人心を集める象徴-2」「氏寺」(秘匿)
そもそも「氏」は現在では親族を構える者は氏として扱われますが、氏家制度の中では鎌倉期以前は「氏」と「姓」に家柄が分けられていて、「武家」を構成する身分の者が「氏」として扱われ、武家を構成しない者を「姓」と呼称されていました。
「武家」とは「公家」(有品5位以上の貴族)に対しての「侍の呼称」で限られた「身分家柄」を認められた「氏」を云うもので、「公家の社会」から「武家の社会」に移った事で室町期からは「武士」を一般に「武家」と呼称するようになったのです。
本来は「武家」とは「有品の5位」以上身分を永代保証された者の一族に与えられた家柄でした。
この「武家」にはその一族一門を祭祀する「独善・排他的自営の寺」を営む事を許されてたのですが、これを「菩提寺」と称し、「3大密教」の「古代密教」の3宗派に限定されていました。
(青木氏は奈良期より古代密教を崇拝し、その考え方を継承したの浄土宗に帰依)
後の江戸初期にこの「密教方式」を解除して一般に開放奨励したことから「独善・排他的自営の寺」が無くなり「菩提寺」の呼称は一般的に適用されるように成ったのです。
本来は、「3大密教」外は「檀家寺」と呼称されていました。
室町期の「下克上・戦国時代」に発祥した「姓氏」には「独善排他的自営の寺」は持ちませんので、全て「檀家寺」と成ります。
従って、「姓氏」の祭祀は江戸初期の「密教方式解除」と「奨励督促令」を含み3宗派外の宗派の「檀家寺」と成ります。
3大密教の天台宗は「公家貴族」を対象とし、浄土宗は「氏」を構成する「上級の有品の武家」を対象とし、真言宗は「中級の武家」を対象としていました。
これ等の身分家柄階級は平安時代の身分家柄を定める令に従います。

中でも「2つの血縁青木氏」の「神仏の加護」として、「氏の発祥源」に対して初めて「氏の象徴寺」(氏寺)と云うものを正式に定めました。
これが「氏寺」であり賜姓族は当初伊勢松阪に「菩提寺」を建立し、「仏の加護」の象徴を定めました。
天智天皇から賜姓時に「氏融合の発祥源の象徴」として授与された「生仏像様」と称される「氏寺」の「護り本尊」として仏像を祭祀したのです。
その後、「護り本尊」の「生仏像様」を伊勢に置き「菩提寺」は分霊されて「神明社」と共に5家5流の国府に建立されました。(「青木氏ステイタスと生仏像様」のレポート参照)
「2つの血縁青木氏」の一つの特別賜姓族の秀郷流青木氏は、「有品4位」であり、母方の特別朝臣族でありますから「古代密教浄土宗」の氏寺の「菩提寺」を有することに成ります。
依って、「藤成-基景」にて発祥させた「伊勢特別賜姓族の秀郷流青木氏」は4日市に「菩提寺」を有していましたが、後に「2つの血縁青木氏」の結合の「融合青木氏」が発祥し、「賜姓族青木氏」と同じ「松阪の菩提寺」にも祭祀されていました。

「氏の発祥源」=「氏の象徴寺」(菩提寺)=「氏の信仰対象仏像」
これが全青木氏の「守護仏像信仰」即ち「人心を集める象徴」だったのです。

(注 「青木氏の氏寺」(菩提寺)を”秘匿”としたのは、江戸初期から明治35年までの間、青木氏とある特定氏の2氏の排他的な「専属の氏寺」であった為に、現在は青木氏外の「特定の寺」と「一般の檀家寺」とも成っている為に迷惑が掛かる事を避ける為)
(信仰対象の「象徴仏」の「お仏像様」に付いての詳細は「青木氏ステイタスと生仏像様」レポートを参照)

・8つの「青木氏政策」
3に付いて、「氏の人心を集める象徴-3」「綜紋」「笹竜胆」
青木氏はそもそも大化期より「3つの発祥源」(融合氏、侍、武家)です。
それ故、「青木氏の氏名」「氏の証のお仏像様」(大日如来坐像 皇祖神天照大神)を始め「氏の象徴の紋」を天皇より賜紋を授かり「正式な象徴紋」として世に定められたです。
この「象徴紋」は後に公家も使用する様に成り、平安期末には限られた朝廷より認可された数少ない「融合氏」等には、その証として「武家の家紋」として使用を許されたのです。つまり「武家の綜紋」です。
(同族である源氏11氏もこの象徴紋に準じる)
平安初期の「象徴紋」から「公家」や「武家」の「家の象徴紋」、即ち後には「家紋」(平安末期)と成ったもので、「笹竜胆紋」は「融合氏」の「最初の家紋」として全青木氏(4つの青木氏)はこの家紋を敬い、この家紋で「姓族」等をまとめる「綜紋」として「3つの発祥源」の誇りを以て結束したのです。
「象徴紋」を有するのは全ての8000氏の中でも青木氏だけです。
「笹竜胆紋」は「家紋」とする扱いよりはむしろ「融合氏発祥源」の全武家の「象徴紋」としての扱いが強かったのです。
これは「皇族賜姓族青木氏の綜紋」でもありますが、且つ、「融合氏の武家の綜紋」「笹竜胆紋」でもあるこの「象徴紋」の下に、その「母方血縁族 藤原秀郷流青木氏」としても自らの「融合氏」の「藤原秀郷一門」の「下がり藤紋」をも「綜紋」としていました。
この「2つの綜紋」を持つのが「血縁族の藤原秀郷流青木氏」なのです。
(秀郷青木氏は守護神も春日社の「氏神」と神明社の「祖先神」の2つを有する)

この由来は「藤花」の形に囚われて一般には余り知られていない事なのですが、「2つ目の綜紋」の「藤花の色の紫」をその「象徴紋の基調」としているものなのです。
その所以は、平安期は「紫」は「色の最高位」でもあり、「公家、武家、僧家」の「身分の色分け」にも使われたものです。ですから「下がり藤紋」は藤の花そのものより、その「紫」を以って「笹竜胆紋」の権威に続く「藤原朝臣族」の「最高権威の象徴紋」でもあるのです。
「花形」よりも「紫色」に意味を強く持つものなのです。
「氏家制度」の中ではなくては成らない「象徴紋」として、この様に「一族一門の人心」を「綜紋」に求めたのです。
これは他氏には無い「4つの青木氏」の誇りであり、且つ「人心」を集める「拠り処」であったのです。

「象徴紋」=「綜紋」→「家紋」→「人心の拠り処」

・8つの「青木氏政策」
4に付いて、「氏の人心を集める象徴-3」「氏の神木」
「青木氏の神木」のその由来は樹木の「青木」の木の性質にあります。
「青木」の木は常緑樹で常にその幹も枝も葉も青く、その木の勢いは他の木に見られない常に強い勢いを持ち、青長枝は1年に50-100センチにも伸び、その実は真紅の10ミリ程度の大きな実を付けます。
その葉には色調豊かに白、黄色、緑を有し四季に変じてその色合いを変化させます。
この事から、常に常緑で四季に応じた「色変化の特質」は「長寿」を意味し、「青い木」は体躯を表し、その「枝葉の成長」は子孫繁栄を成し、その「実」は健康な体の血液を表すとして、古代飛鳥より「神木」として崇められてきました。この「神木」を「3つの発祥源」の象徴としてこの木の持つ象徴の意味から、青木氏の「氏名」を賜姓される時に天智天皇から「臣下名」として授けられたものなのです。
そして、この樹木を「青木氏の神木」とする事を定めたのです。
この事から、この青木の「神木」は「神社の神木」から「青木氏の神木」として使われ、平安期末には「神社の神木」は「榊」と変化して行ったのです。この神木は仏教の仏木「槇の木」に当たります。

この様に他氏には言い伝えの様なものがあったにせよその「融合氏」を護りする正式な「神木」と云う習慣が無く天皇が認める青木氏に関わるものだけなのです。
「氏家制度」の中では他氏には認められなかった習慣です。一種の飛鳥期からの「自然神」の「自然信仰」の楠の様な「唯心の樹木信仰」でありました。
それだけにこの樹木には伝統的な「人心」の思いが込められているのです。
(「氏の神木」の詳細はレポートを参照)

・8つの「青木氏政策」
5に付いて、「氏の人心を集める象徴-4」「氏訓」「家訓10」
1365年以上とする歴史を持ち、この中で全青木氏が乱世を一致して生残る為には、その「生き様」から遺された経験を生かす事のみにしかありません。
家訓の内容からその時代に刻まれた苦難を省みると、少なくとも平安初期頃からの戒めであったと考えられます。青木氏に於いて大きな試練毎に追加されてきたと考えられ、凡そ1100年前半(1125年頃までに)に完成されていたものと観られます。
この事は経済的とも取れる内容もあり「2足の草鞋策」を採った時期に符号一致していると考えられます。普通「3つの発祥源」の「融合氏の祖」とすればがちがちの「侍気質の家訓」と考えられるのですが、そうでない内容と考えられます。かなり柔軟で「人の本質(性:さが)」を求めています。
特に「3つの発祥源」であった事から全融合氏のその「模範氏の責任」が求められていたと観られますが「侍、武家」と云うよりは「人として、氏長として」の責任を追い求めたと考えられます。
「3つの発祥源」の青木氏が「2足の草鞋策」を採ると云うことは当時としては世間では「奇想天外」な事であった事が予想できますが、青木氏5家5流がほぼ同時期に同商いで全て「古代和紙」を営んだ事から観て家訓の様にかなり「柔軟な考え方」を伝統として持っていた事が云えます。
この「柔軟な考え方」が生き延びられた原因の一つで他氏とは全く違う体質であった事が云えます。
それを示す端的な事件として、「武家の祖」であるにも拘らず「不入不倫の権」で護られた「貴族侍」と観られていた青木氏が「天正伊勢の3乱」「丸山の戦い」「伊賀の戦い」で信長を打ち破った「天下布武」を唱える「信長ただ一度の敗戦」(戦わずして負ける)のその時の「青木氏の戦略戦術」がこれを証明するものです。(伊勢のシンジケート戦略:青木氏に関わる全ての民の活躍)
言い換えれば、上記した「4つの青木氏の結束」(家臣、村民)の強さはこの「家訓10訓」に観られる「柔軟な考え方」が原因している事を証明します。他氏には観られない家訓で結束されていたのです。

・8つの「青木氏政策」
6に付いて、「宗家の活躍・設定」(一族一門を管理 総括者)
初期の「民族氏」として肥大化した大集団が「融合氏」化して行く過程では、必ずこの世の「万物万象」に観られる様に、その集団の「核・中心」と成るものが相互の「連絡の不足・絆の薄れ」に依って忘れ去られて無くなるという現象が起こります。
「濃い血縁関係」に依って集団化するのでは無く、「民族」と云う広義で「薄い血縁関係」で結ばれていたとすると、必然的に余程のリーダーシップの勢いが無くてはなかなか「中心・核」と成るものが生まれるものではありません。つまり、「民族氏」が「核家族化」ならぬ「核民族氏化」を起こすのです。

この摂理で行くと結局は、「核民族氏化」した集団が拡大過程を採り、「中集団化」を起し、「大集団化」へと繋がり、再び、「核民族氏化」が起こり「大集団化」へと繰り返し、あくまでも再び「核民族氏化」が起こり一つの「超巨大集団化」でまとまることは無くなる事になります。

「核民族氏化」→「中集団化」→「大集団化」→「分裂破壊」→「核民族氏化」」→「中集団化」→「大集団化」=「民族」の「薄い血縁関係」
このサイクルを繰り返すことに成ります。

「民族氏」では、氏の「細胞」の増殖が起こるがその細胞間の「同胞性」が無くなって遂には成長が留まり、時には「同胞」が戦い死滅する恐れさえ起こるのです。
つまり、ある大きさで収まりその「相互間の絆の薄れ」が起こる現象を繰り返す事に成ります。
これが阿多倍一族一門と呼ばれる「民族氏」の典型的な「経過形態」なのです。
本来、「民族性」を持つ渡来人であって「小集団」の渡来であれば少なくともその「民族性」も周囲に感化されて「時代の経過」に依って「民族性」が薄れて遂には「融合氏化」への方向へと進むのですが、この点に進まない原因を有していたのです。

「阿多倍一族一門」は当初から後漢「光武帝」と云う滅亡した漢国の一将軍が逃亡中に中国東地域を制圧し新たに「後漢国」を創建し、21代後に16国に分散しその中の「滅びた隋」と「建国した唐」に圧迫されて遂には後漢の漢民族は崩壊して、その国の「全17県民 200万人」と云う「国レベルの集団」が大和に渡来しているのですから、もとより「民族性」を強く持っていた事は否めません。
そして、それらは「血縁と云う結び付き」が希薄で「組織的な命令系統」を中心に依って形成されていた集団であったのですから、その「組織または国の首魁」が「核・中心」と成る「集団構成」であったのです。
「民族の坩堝」と呼ばれる中国大陸に於いて「優秀果敢な漢民族」とは云えど、それは全て「漢民族」で成り立っていた訳ではなく、「洛陽・東中国人」「中国系朝鮮族」等の民族が多く主に3つの「民族の混成集団」からそもそも成り立っていたのです。
そして、それらが既に約400年が経ち「民族氏」の「経過形態」が既に終わった超大集団であったのです。
(民族氏は中国の構成形態 前漢29-220:後漢220-618年滅亡 隋581-618滅亡 隋唐に圧迫)
その「構成形態」を以って「国レベル」で渡来したのですから「民族意識」は変えられる事は無理であったと考えられます。
彼らが良いと信じていた「民族氏の概念とその組織形態」を”「大和国」を「融合」と云う手段で一つにまとめ「国の安寧と安定」を図るのだ”と聞かされても、直ぐに換えられる事もなく渡来したとして「帰化」-「独立」も考えるところであったとも考えられます。
故に「朝廷の国策」の「融合氏3策」には根本的に馴染まなかった事を意味します。真に”何かが起こる”の所以であります。(例 「大隈隼人の戦い」)
しかし、反面、青木氏の「融合氏」は「集団化」してもそこには「血縁」を中心にした「核・中心」と成るべき生き抜くべき形態を保持していたのです。

「生抜形態」=「総宗本家」-「宗家」-「本家」-「分家」-「支流」-「分流」-「分派」
以上の氏家制度の管理された「組織形態」を造り挙げていてたのです。

「部曲・品部」←「生活絆」→「生抜形態」←「絆」→「無血縁結合」
この組織に「無血縁結合」の「絆」を基とする「姓氏」が夫々の枝葉に結合すると言う網の目の様な「組織形態」を造り、これに殖産(物造り)を加えて「生活絆」で結ばれた「部曲・品部」が土壌を支えていたのです。

この細部までに結び付いた「生活環境」中で一族一門が生きて行くに必要とする事を「相互扶助」で「護り合う形態」を作り上げていたのです。要するに「氏家制度」の形態の完成であります
そして、この「核・中心」と成る「氏の長(氏上)」の指揮命令系統を定めて「氏人」-「家人」-「部曲」「品部」「雑戸」の「融合・結合の結びつき」で「支えあう社会」、末端の民に至るところまでの「相互扶助」の組織、即ち「氏家制度」(一族一門を管理し総括し扶助する社会形態)を構築していたのです。
阿多倍一族一門との間には、ここに大きな違いがあったのです。
とりわけ、青木氏はその「悠久の歴史」が「血縁の力」を超えてむしろ「絆の社会優先」で結ばれていた「融合氏」であったのです。
「3つの発祥源」として範たる形態を敷いていたのです。「氏家制度」の範と成っていたのです。

(例 明治35年まで続いた皇族賜姓族5家5流の「紙の殖産と販売網」の組織 昭和20年まで続いた讃岐特別賜姓族の「回船問屋と殖産業網」の組織がこれを物語る。)

・8つの「青木氏政策」
7に付いて、「経済的背景」(2足の草鞋策 経済的繋がり)
阿多倍一族一門はその配下には実質「180品部」の大集団を持ち「公地公民」と成りながらもその売却益を「経済的な支え」として成り経っていました。
「公地公民」に成ったとは云え、彼等の「民族性」、「旧来からの支配形態」を直ぐには壊すことは出来ません。そこで、一度朝廷に納める方式を採るにしてもその収益の一部を彼等の集団に納め、その「部民」に関する詳細な指示配命令形態は彼らを「伴造」(ともみやつこ)に任じて管理させていたのです。
この「伴造」を管理する為に地方の行政末端役所の「郷戸・房戸」と行政局の「国造」(くにのみやつこ)を置いていたのです。
ところが次第にこれ等(伴造)が独自の「墾田」を造成して私腹を肥やし「私有財産化」へと進んだのです。
阿多倍一族一門はこの様に莫大な「経済的背景」を持っていたのに対して、「融合氏」らの経済的背景が主に「土地からの収益」があったにせよ「氏勢力拡大」に相当するものでは無く、阿多倍一族一門の「民族氏」の勢力に圧迫を受ける状況と成っていたのでした。
そこで、集団化した主な「融合氏」は「三世一身法」「墾田永代私財法」を境に徐々にその「守護の立場」を利用して「殖産・土地の産物」を商いとする「2足の草鞋策」を実行して行ったのです。

1 「守護王」の「行政権」     :(阿多倍一族一門:「行政担当」の「官僚権」)
2 「国造」の「権益」       :(阿多倍一族一門:「伴造」の「権益」)
3 「2足の草鞋策」の「経済的背景」:(阿多倍一族一門:「品部」の「収益」)
以上の「3つの権益」を獲得して彼等の「民族氏」の勢力に対抗する事が出来たのです。

「3つの権益」1と2は「相当の力」を保持していますが、3の「品部の収益」に匹敵する力を初期には保持していなかったのです。
それを拡大する「民族氏の勢い」に押された朝廷は、止む無く「公地公民制度」を緩めて「三世一身法」「墾田永代私財法」を発布したものですが、「融合氏」の頂点に立っていた青木氏の様な氏の一門は、これを逆手に取って「土地の産物」の「殖産と増産」(物造り)を営みそれを「商い」とする対抗策に出たのです。
「5家5流賜姓青木氏」は全て「古代和紙」の土地の殖産産業を興してこれを商いとして相互間の連絡を取り、後の織田信長(2万)との戦いに観られるように「1、2、3の総合力」で勝つ程に「大商い」としていたのです。
これで「民族氏」=「融合氏」と勢力均衡のバランスが成り立ち生残れたのです。

この「3つの権益」がとりわけ「2足の草鞋策」の「経済的背景」の努力が無ければ現在の青木氏は生残る事は100%考えられず、同族の賜姓源氏の様に11家もありながら「滅亡の憂き目」を受けていた筈です。(阿多倍一族末裔の平族の清盛さえも「2の特権」を生かして「宗貿易」も行った事でも証明出来る)

同族血縁族の藤原秀郷流青木氏も赴任地24地方では「3の商い補完対策」を大いに構じています。
資料の中には昭和20年まで続いた「讃岐安芸土佐の土地の殖産」とそれと結びついた「大廻船問屋」の「讃岐青木氏」様な「融合氏」が存在します。
「讃岐青木氏」の分布状況を観るとその商いの大きさが判ります。
讃岐を出て関西以西中国地方全域に小さいながらも「讃岐青木氏」の末裔が存在しているのです。
家紋から観た分布でこれは支店を設けていた事を物語ります。

因みに筆者の伊勢青木氏の宗家の商いは外国貿易の堺に2大店舗、松阪に2大店舗 玉城町8割を占める蔵群 千石大船3隻を有して明治35年(祖父)まで営み分家の商いは大阪で現在も続いています。

当時の平安期の環境からすると「民族氏」勢力=<「融合氏」勢力の判別関係式が成り立たなければ「弱肉強食」の中では生残る事は絶対にあり得なかったのです。
「3つの発祥源」「皇族」「賜姓族」の置かれていた立場からは”商いする”と云う事は「奇想天外な発想」であった筈です。これを成し得たのは悠久の歴史を持つ事から生まれた「4つの青木氏(血縁+絆)」の環境が他氏と違うところを作り出していた事に他ならないのです。
これは「2つの青木氏」の「祖先神」の考え方を「心の拠り所」として、一致結束して他氏に観られない「青木村」を形成して「2つの絆結合社会」を構築していたからに他なりません。

・8つの「青木氏政策」
8に付いて、「軍事的独立」(皇族:近衛府、衛門府、兵衛府の左右六衛府3軍と左右衛士府軍を統率)
皇族賜姓青木氏の臣下の目的は、そもそも天皇家の問題にあったのです。
それまでに皇族を護る「親衛隊」が無かった事が「弱体化の問題」と成っていて、それを解決させる為に”皇族の者に「臣下」と云う形で「武力」を持たす”と云う事を、天智天皇が「政策大転換」をさせた事です。
当時は皇族、貴族は”「武力」を持たない”と云うのがステイタスでした。
従って周囲の「民族氏」の豪族が力を持つとこれを背景に「軍事力、経済力」を高め挙句は「政治力」をも獲得すると云う方向に進み、「権威」のみに依って保護されている「皇族、貴族」をも凌ぎ、その立場を脅かすと云うところまでに発展してしまいます。恐らくは「貴族武力保持政策」は仰天倒置の騒ぎで合った事でしょう。
(「臣下の仕来り」は皇位継承順位と供に天皇の皇子順位が第6位皇子に当る者に任じる事を定めた。)
蘇我氏の例に観る様にこの弊害を無くす事から、更にはそれまでの身分制度(臣、連、君、直、造、首、史、稲置)の姓を見直し、弊害と成っていた飛鳥時代の大王家(天皇家)に繋がる「民族氏」の「臣族(蘇我氏等)」やそれに相当する勢力を保持している「民族氏」の「連族」等を解体して「八色の姓」の制度に依って大変更しました。
そしてその制度に基づいて新たな「皇族臣下族」を作り上げて「氏」の姓を与え、「皇族、貴族」でありながらも「武力」を持たせ、前記した「5つの俸禄制度」(功田、賜田等)を制定し「爵位」と「冠位」と「職務」を与えたのです。
それが「朝臣族」の「浄位」であり、「左兵衛門尉佐」「右兵衛門尉佐」「民部尉佐」の冠位と、総括「近衛軍六衛府軍」の指揮官の職務と成ったのです。

これまでの「臣連」を指揮官とし全国から「伴の労役」に従事する民を集めての朝廷軍(後に阿多倍一族軍が加わる)を編成していましたが、それとは別に天皇の身辺を護り任す「近衛軍」を創設したのです。
これを任されたのが「皇親政治」」を担った初期の賜姓族5家5流の青木氏一族一門であり、900年ごろからは「同族賜姓源氏」と「同族母方血縁族」の「藤原秀郷一族一門の特別賜姓族青木氏」もこれに任じられたのです。
これに依って、それまでは「臣連」の「民族氏」の参政による「政治体制」から、彼らに揺さぶられる事無く、天皇家の身内による「独自の軍事力」を背景に身を護り、青木氏等による「皇族貴族」が主導する「皇親政治」を敷き、当時としては全く新しい「画期的な政治体制」を確立したのです。
今までに無かった「政治体制」が樹立したのです。
従って、恐らくは奈良期社会はこの時「天変地異」の出来事であったと観られ、周囲は相当に紛糾し、反対者も多く天皇と云えども身の危険は保証されていなかった筈です。
蘇我氏が潰れたとしても従兄弟の蘇我氏一族「蘇我仲麻呂」や「蘇我赤兄」の「民族氏」の豪族は温存されていて脅威の一つであったのです。
天皇家の中でも彼らと利害を一致し血縁性があり、その代弁者とする「反対皇族者」は居て、天皇の身内であっても事件後(日本書紀にも書かれている様に)これは粛清されて行きます。
当然に反対する「民族氏」の飛鳥時代の「臣」「連」の豪族等も「蘇我氏」と同様に潰されて衰退してゆきます。
歴史的には「皇位争い」を「通り一辺」と位置づけられていますが、この様に周囲の政治的な変化を考察すると、筆者は「皇位争い」はその「最終の始末の方便」であって、正味はこの「大化の異変の経過措置」としての「争い」と云う「決着の手段」であったと観ているのです。
この「決着の手段」の「捉え方」に依っては其処に起こる「見える画像」に対して著しく観方は違ってくる筈です。
「孝徳天皇」の皇子の「有間皇子」の例の様に、”「皇位争い」で抹殺する事”が、「中大兄皇子」から観れば”反対者には「抹殺の大義明分」に抗する大儀は無く程遠い”と考えていた筈だからです。
「中大兄皇子」はその順位からしてもトップであり何の問題も無く、まして蘇我氏を自らの刀で刺し自らの指揮下で蘇我氏の護衛雇い軍の東漢氏と交渉し蘇我氏の軍を解体させ、自ら「大化の政治改新」の具体策を発案し実行した唯一の人物なのです。
これだけの条件がそろっていれば、周囲の反対者がそれに取って代わると云う風に考える事そのものが異常とするものです。仮に取って代わったとしても他の周囲はそれを容認する事は100%有り得ず、「民」も天皇としてのそれを認めることは出来ない筈です。
まして、「中大兄皇子」が下した「抹殺を含む処置」をどうするかの問題もこれだけの条件が揃っていれば反対者が取って代わっても政治の実行は元々不可能です。
「有間皇子」(従者一人)は、家来一人を伴い同行し、蜜命を帯びた「蘇我赤兄」に直接後ろから熊野古道の藤白神社の直ぐ側の民家の横で考察されますが、その直前に(海の見える山越えが終わった実に神社横の一息つきたくなる様な景色の良い角の場所)座り民家から水を貰い飲み、そして読み遺したとされる「時世の句」から観ても「皇位継承争い」だけでは無いと観られます。
反対派の裏工作と知らずに会合に参加した事が原因(失敗)と観られます。
父の「孝徳天皇の弱体化」から観ても、「有間皇子」は皇位につける条件下に無い事ぐらい判って居た筈です。「天皇家の復権」を自らの力で成し遂げた「中大兄皇子の絶対優位の立場」から観ても取って代わる事が不可能である事くらい判る筈です。まして反対派も同様に「大儀」は失って居た筈です。
通説の「皇位継承争い」は立場を変えてみれば違う事に成ります。
「抹殺の殺意」とは別の”無意識に「事の流れ」に偶然に取り込まれていた”と成るのではないかと観られます。この世は意識、無意識に無関わらず「自然の流れ」に抗しきれない「流れ」に呑まれる事が有ります。

この様に大変厳しい政治環境の激動の「流れ」の中で、「生仏像様や神明社の加護」の下に巻き込まれることも無く護られ、平安中期には「2つの血縁青木氏」は天皇家の同族を護るために「自らの軍」を保持したのです。その「流れの自然渦」に巻き込まれる危険性は充分に有りながらも自立への道を歩んだのです。「融合氏の青木氏」が「3つの発祥源」を護り「氏」を育てる始めての持つ「自衛軍」であったのです。
そして、「天領地の守護王」として護る事も行ったのです。
ただ平安期にはこの「自衛軍」のみならず「4つの青木氏との絆結合」と「5家5流の連携」「4つの青木氏との絆結合」と「母方同族 特別賜姓族の藤原秀郷流青木氏」の力を背景に、「近江-伊勢-美濃-信濃-甲斐」の線上に存在する「融合氏の小集団との連携」、所謂「シンジケート」とが組合わさって「実数の軍事力」より遥かに大きい「巨大な相互防衛網」を構築して行ったのです。

1 「自衛軍」
2 「4つの青木氏との絆結合」
3 「5家5流の連携」
4 「4つの青木氏との絆結合」
5 「融合氏の小集団との連携」所謂「シンジケート」
この「5つの防衛線上」に途切れも無く「商いの経済力」が乗っているのです。

「5つの神」
「守護仏像信仰」
「象徴紋の基調」
「唯心の樹木信仰」
「4つの青木氏の結束」(家臣、村民)
「3つの発祥源」
「2つの絆結合社会」
「3つの権益」
「5つの防衛線上」

以上8つの「青木氏政策」の基に「9つの政策基調」を持ち得ていて、これ等が有機的に働いて生残れたのです。
これ等の「9つの政策基調」を「心と物」に分けて、「物」に付いてもう少し掘り下げて観ます。
とりわけ先ずは「物」の「防衛力」です。
その「防衛力」は次ぎの数式で成り立っています。

「青木氏の総合防衛力」
「近衛軍」+「4つの青木氏との絆結合」+「5家5流の連携」+「シンジケート」=「自衛力」
「自衛力」+「実数の軍事力」+「商いの経済力」=「巨大な相互防衛網」

そして、970年頃からは次ぎの防衛網のラインが構築されます。
1 伊勢青木氏-信濃青木氏の防衛網ライン
(伊勢秀郷流青木氏と信濃に隣接する美濃秀郷流青木氏が加わる)

2 「母方血縁族」の「藤原秀郷一族一門の青木氏」の「尾張-常陸」までの「東山道の防衛網ライン」
(武蔵入間を中心に片側相模の2幅)

3 「賜姓5家5流の青木氏」の「近江-甲斐の防衛網ライン」
以上3つラインが結合し「東山道」を常陸から近江の都まで繋いだ勢力圏を構築したのです。

4 「伊勢路防衛網ライン」
これに伊勢青木氏が奈良期から独自に持つ「近江-摂津-堺」までの「伊勢路防衛網ライン」が加わります。このラインは、「神明社」を伊勢神宮から近江まで円域の19の地域に建立し、そこに第4世族の「守護王」を置き、伊勢神宮からの神明社圏域を固める為に作り上げられた天皇家の独自の伊勢青木氏が護る防衛網ラインです。
そしてこの防衛網ラインに沿って平安期末期には「青木シンジケート」が敷かれているのです。

5 「瀬戸内防衛網ライン」(讃岐籐氏の秀郷流青木氏が独自に瀬戸内に構築した防衛網ラインで室町期には南北に日本海側まで延びたライン)

この事は青木氏の事以外にも歴史上ではなかなかこの「シンジケート」の事は扱われません。
しかし、平安期中期頃からでは戦いに敗れた「融合氏」や「姓族」や「民族氏」は生き延びなければ成りません。敗者は集団で家族共々逃亡する訳ですから、簡単に全て奴隷(「部曲や品部や賤民や俘囚や浮浪人」)には成り果てる事は出来ません。
当事(平安期から室町期末期までは)は有名な武田氏の有名な事件の様に打ち破った相手側の者を奴隷や戦利品として扱い売買すると言う歴然とした戦国の厳しい慣習があったのです。しかし、武田氏や上杉氏はこの慣習を禁止します。
これは室町期だけではなく平安期の安部氏の「前九年の役」「後三年の役」でも明らかの様に「俘囚民」(920年頃と1020年頃に公の仕組みは一時廃止される)と呼ばれ「奴隷」として「荘園の労働者」に送り込むという「陰」ではなく社会全体の正式な仕組みの一つに成っていたのです。
鎌倉期(豪族間の戦い)から江戸期中期(除封・移封)までにも「戦いや叙封」であふれ出た家臣や領民は下手をすると「醜民族」(明治末期まで残る)と呼ばれ「社会の陰の労働力」として扱われていたのです。
これから逃れる為に、敗退した氏や姓とその家臣領民は上記した様に山に逃げ込みこのシンジケートに入り生き延びると云う「陰の社会構造」が出来上がって行ったのです。
これが豪商などから経済的支援を受けて生き延びた「陰の力」の「シンジケート」なのです。
この様にそこで敗者は「海賊、山賊」、「山郷の隠れ土豪」、「兵の請負業」の様な事をやりながら、傍ら豪商からの「経済的支援」を受けて”いざ”と云う時には「互助の掟」で連携して役目を果す事をして生き延びたのです。(徳川家康はこの陰の力を戦略として大いに使った)
室町期の「下克上、戦国時代」には敗者が多く溢れ出て更にこの組織が拡大します。
鎌倉期の800あった融合氏は平安期の状態(80-200)まで減少するのですから、溢れ出た「融合氏」の家柄のある者等は家長・家人・郎党等が山を切り開き村を形成してこの組織に入ったのです。
「シンジケート」が山間部や山伝いにあるのはこの事から来ているのです。
(最たるものでは前回に記述した平家の落人がこの各地の「陰の仕組み」のシンジケートに入った)

平安期から江戸初期までの「氏家制度」の「陰の縮図」で、この「陰の縮図」が成り立たなかった場合は「氏家制度」も成り立っていなかったのです。
このシンジケートは「物心両面」の「陰の相互扶助」を「掟の旨」として存在し、況や、「氏家制度の縮図」で「陰の氏家制度」なのです。
「表の氏家制度」+「裏の氏家制度」=「社会構造」

「表の氏家制度」のみでは決して社会は成り立っていなかったのです。
そもそも論理的に成り立たないのです。
800あったものが80-200の1/4に成れば3/4は浮いてしまいます。
3/4は何らかの社会の「救済仕組み」が無くては社会が成り立ちません。
それが「俘囚民」、「醜民」の「悪い仕組み」であり、「良い仕組み」として「シンジケート」が「必然の理」に基づき「氏家制度」の社会の「救済の仕組み」「陰の仕組み」として公然として生まれてたのです。

因みに、南北朝の有名な楠木正成等は伊勢の集団の「青木シンジケート」の首魁の一人ですし、紀州九度山の真田氏も伊勢のこの「青木シンジケート」に組み込まれた一員で経済的な裏づけを採っていたのです。上田氏は信州上田郷の土豪が「夏冬の天下分け目の戦い」に生き延びる為に親子が二つに分けて両陣営に合力し親は九度山に配流され、生き延びる為に伊勢の「青木シンジケート」に加わります。しかし、真田幸村は豊臣側に付き「青木シンジケート」から外れ「滅亡」を選んだのです。
何れも軍師でありますが、「シンジケートの陰の力」を全面に受けての戦いに参加します。
結末も軍師を請われての同じ結末を辿ります。楠木正成は陰の力を背景にゲリラ戦を敷き10万の軍を餓死に追い込み勝利し、真田幸村は騎馬と軍馬を補助され、原野に配置した「陰の力」(シンジケートの野戦ゲリラ戦)2面の支援を受けて本陣の家康を完全孤立させる事に成功し討ち取る直前で止めて家康を生かして去りました。

この様に何れも本来外に出る事のない構成員が何れも表に出てしまった構成員です。表に出た以上は最早、構成員では無く成ります。何れ滅亡するしか無い事を意味します。表に出た構成員がシンジケートに戻ればシンジケートの「有り様」が変化してシンジケートは自然崩壊します。

この勢力圏は明治初期まで維持されたとする青木氏の記録と公開された史実が有り、「青木シンジケート」を使って各地に起こった殆どの一揆に対して「経済的支援」を行っていたと観られる記録が青木氏側の資料にも遺されています。

敗退した小集団の「融合氏」や「姓氏族」はこの様にして「シンジケートの陰の力」を背景に生き延びたのですが、これを用い保持しなかった大集団の源氏や平家は消え去ったのです。
しかし、阿多倍一族一門の平家(たいら族)の支流族は各地でこの真にこれを地で行く様にシンジケートの一員として生き延びたのです。

青木氏は次ぎの「4つのシンジケート」に関わっています。
「青木氏の3つの防衛網ライン」に構築されたシンジケート
1 「東山道の防衛網ライン」(藤原秀郷青木氏の勢力圏 東山道東側シンジケート)
2 「近江-甲斐の防衛網ライン」(皇族賜姓青木氏の勢力圏 東山道西側シンジケート)
3 「伊勢路防衛網ライン」(伊勢青木氏の勢力圏 伊勢路シンジケート)
4 「瀬戸内防衛網ライン」(讃岐籐氏秀郷流青木氏の勢力圏 瀬戸内海族シンジケート)

この「4つの青木シンジケート」に付いて歴史史実に残る証の事件が全てに有ります、表に出た主な有名な事件として次の様な事があります。
徳川家康は「天下分目の戦い」の為に甲斐武田氏系青木氏の3氏を殆ど家臣団に加えたのはこの1のラインの「勢力圏の確保」が目的であり関東とのその繋ぎ目を獲得します。
(柳沢氏もこの時の家臣団の一つです。「甲斐武田氏系青木氏]のレポート参照)
「関が原の戦い」を前にして家康は名古屋城にて本隊を待ちます。一方秀忠本隊は家臣と成った藤原氏秀郷一門の「防衛網ラインの東山道」を使い西に下りながら周囲の掃討作戦を展開している時、家康は名古屋で伊勢青木氏が抑える「伊勢路防衛網ライン」の獲得に動きます。
この時、伊勢青木氏は250の兵とシンジケートで護る伊勢-堺までの通行の保障作戦を展開することで約束します。
つまり、名古屋城に入る本隊の通行の安全を保障する「東山道西側ライン」は5家5流賜姓青木氏のシンジケートが保障したのです。
この「防衛網獲得作戦」でこれで大阪関西域の東は完全に押さえたのです。

又、武田氏が滅びた時、藤原秀郷流青木氏が諏訪族青木氏を含む甲斐武田氏系青木氏3氏の受け入れに成功したのは織田信長がこの「東山道防衛網ライン」に手を出せなかった事によります。
この時、甲斐のラインは一部崩れますがこの地に残る甲斐皇族賜姓青木氏が修復します。
他には次ぎの様な有名な事件がありますがこれ以外にも数え切れない記録が遺されています。
「壇ノ浦の源平合戦」、「楠木正成の南北朝の戦い」、「藤原純友の乱」、「甲斐の100年一揆」、「江戸末期から明治期の動乱一騎」、「信長の伊勢天正の3乱」等々。

それにはこれだけの「相互防衛網」を維持するには矢張り「経済的背景」が絶対に必要とします。
又、この様にどの場面から考察しても「奇想天外な近衛軍の政治改革」と「奇想天外な2足の草鞋策」の実行は歴史の必然として絶対的に必要であったのです。

「青木氏生き残り」→「3つの発祥源」→「シンジケート・防衛力」←「経済的裏づけ」←「2足の草鞋策」

「融合氏の青木氏の秘訣」
そこで源氏の様に「単一の軍事力」を必要以上に大きくするのではなく、「経済的背景」と「総合防衛力・軍事力」を組み合わせた「生き残り策」を構築する事であって、これが「融合氏」の「青木氏の秘訣」なのです。
その「青木氏の秘訣」を「戒め」として遺したのが、実に「柔軟性」に富みで「戦略的」な「青木氏家訓10訓」であると考えているのです。
何度も主張している様に「3つの発祥源」でありながらも、上記の様な「判別式の数式」から来た「侍、武家」らしくない家訓と成っている所以であると考えます。

多倍一族一門「6割統治」
この事から筆者の認識では「氏融合」と云う血縁で観ると、後漢の阿多倍王は、帰化以来、平安時代末までには遂にはその子孫を以って「政治(律令制度の完成)」、「経済(部経済制度)」、「軍事(朝廷軍制度の主力」)の3権の主要職の末端までを荷っていたのです。 (天皇近衛軍は青木氏と藤原氏)
実質、武力に依らず良い意味で他民族の「渡来人」が自らが民族の域を越えて積極的に「氏の融合」政策を推し進めて成功させ、「日本書紀」の”天武天皇の発言と舎人親王の編集に関わった官僚記述”にもある様に、少なくとも日本を「6割統治」し征圧していた事に実質成るのではないかと観ているのです。

「10割統治」では「革命・独立」か「謀反・乗っ取り」と成りますが、帰化後の早い時期に於いて阿多倍一族一門の「6割統治」では「反乱」とまでは行かなかったのではないでしょうか。
日本で生き延びる以上の「理解できる限界」であった事に成ります。
それ故に、阿多倍一族一門の「民族氏」の行動が、地域的に観て一族の「理解し難い行動」と成っているのではないでしょうか。
もしこれがどの地域で同じ行動を採っていて全て同じとした場合は「10割統治」の「革命・独立」か「謀反・乗っ取り」と成っていたと考えられます。
それを「民族氏」の主張をある程度通しながらも丁度良い所で押さえて「日本に融合」し「半自治」を勝ち取った事(1018年)に成ります。
故に「以西」-「中央」-「以北」の一族の行動に矛盾が生まれたと考えられます。

これは実に不思議な現象で、次ぎの様な現象が起こっているのです。
A 「九州の南北基地」の「南基地)(肝付氏)」では「融合氏」政策3策に「絶対服従せず」の態度
B 「北基地(賜姓大蔵氏)」では「自立」を主張した態度
C 「中国関西基地」は「本部基地に従う」という姿勢を採る態度
D 「伊勢本部基地」(賜姓平族)では官僚と成り「3策の立案推進する」の態度
E 「以東の関東」では「独立を主張」し「将門の乱」で終局引き上げる態度。
F 「以北の末裔(賜姓内蔵氏・阿倍・安倍・清原氏)では「犠牲に成る」と云う状況

以上、AからFと云う「シーソウの支点」を中心に「左高-右低」の傾きの「政治姿勢の戦略」を採っていたと成ります。日本人の「一族」と云う思考原理から見ると、実に理解し難いと云うか不思議な現象が起こっていたのです。真に「シーソウ」の「傾き程度の有利性」を表現しています。

筆者は「伊勢基地本部」から「都」を中心に「地理的要素」を配慮して帰化当事の方針の「6割統治」を執拗に成し遂げようとしていたのではないかと考えているのです。
EやFの様に多少の犠牲があったとしてもそれを切り捨てでも、”「目標達成」に拘った”のではないかと考えるのです。 「目標達成」>「義・大儀」 
日本人で有れば「義」「大儀」を重んじて「統一行動」して助けてでも”「目標達成」は二の次”とする行動に出る筈です。 「目標達成」<「義・大儀」
例えば、国家観に於いても同じ事が云えるのです。
阿多倍一門の「民族氏」は、「国家の目標達成」>「個人の目標達成」を重視する。
在来民の「融合氏」では、「国家の目標達成」<「個人の目標達成」であり、「個人の目標」の集約が「国家の目標」の集約となり行動する。
「民族氏」では、「国家の目標」又は「より大きい集団の目標」が成し得ない時は”「個人の目標」も成し得ず”と成ります。
「融合氏」では、「個人の目標の集約」が成し得ない時は”「国家の目標」も成し得ず”と成ります。
ここに「民族氏」と「融合氏」との「思考原理の違い」があり、尚且つ、それは「道教・儒教」と「仏教」の違いにあったのではないでしょうか。
更には、「産土神」と「祖先神」の「神様の有り様」の違いと観られます。

故に阿多倍一族一門と言う「大集団の目標」は、安部氏らの「小集団の目標」より多少の犠牲が出ても優先される事に成るのです。
その彼等の「民族氏の戦略」として「シーソウの原理」を採用したと見ているのです。
偶然にしては「民族氏」の「シーソウの原理(地理性戦略)」に一致し過ぎていると考えているのです。
この「考えの背景」には”「後漢系」の「民族氏」の「思考原理」にある”と決め付けているのです。

現在にも観られる彼等の姿勢、”カーと成るかと思いきや根気良く戦略戦術を実行する性癖・国民性”や、
 ”「三国志」にある様な゜中国人の姿勢」 ”や、”「六稲三略」の思考原理”、や”「法より人」「石は薬」”。
これは日本人に理解しがたい思考原理です。天智天皇が”「何かが起こる」”と観たのはここにあるのです。
筆者はこの「思考原理」に「彼等の行動原理」が加わり、彼らの行動を理解する上で大事な忘れてはならない「思考原理」と観ているのです。
それ故に、阿多倍一族一門の採った態度は”「これは偶然ではない」”としているのです。

彼等「民族氏」は朝廷内の「3蔵の政治機構」をも官僚の末端域まで、先ずは蘇我氏に代わって、「日本人」として牛耳り、取りも直さず、天皇家にも「桓武天皇」の母親の「高野新笠(阿多倍王の孫娘)」がは入り天皇を、そして「阿多倍王」の孫(曾孫)の「国香」と「貞盛」より始まって「清盛」までの「平氏(たいら族)の血縁」を天皇家の中に敷きます。蘇我氏以上の遥かな「専横の食込み状態」であったのです。
ただ彼等は「天皇の力」の「搾取や弱体化」を侵し脅かさなかった事にあります。
どちらかと云うと「協力体制」を確立したのです。
この2段階のルーツ(天皇ルーツと平族ルーツ)で「氏融合」をさせているのです。
これは「大集団の目標」の「帰化当初の目的達成」の為に行動していたものであって、「長期戦略」を執拗に採っていたのです。
これは別の面から観れば、真に”「後漢国」が日本に移動した”と観られるほどに、その200万人の末裔達の「氏の融合」は上から下まで完成させた事に相当するのです。
ただ問題は「九州南北の基地」(大蔵氏、肝付氏)の「民族氏」の「融合氏化」が900年頃から始まったが上記した様な背景(目標達成)で1018年頃まで100年間程度解決しなかったのです。
かなり腰の据わった粘り強い「目標達成」であった事が云えます。
「三国志」にもある様にこれも「民族氏の特徴」とも云える性質であります。
現在に於いてもこの中国と日本の「国家観の違い」如いては「思考原理の違い」による「摩擦」は歴然として発現しています。
これは別の面から観ると、阿多倍一族一門の200万人から拡大した融合末裔の3割近い人口の日本人は完全に「融合氏」と成り得ている事の証明でもあります。
この状況は、平安期中期950年頃から「渡来人」の言葉が書物より消え、その350年後の鎌倉期末期(元寇の役)では、最早、「民族氏」は完全に「融合氏」と成り得ていた事を物語ります。
その中間期が1020年頃(九州自治期)で、これを境にして「物心」の「心の部分」の「融合化」が起こり、上記した「考え方」の変革期でもあったと考えます。
「九州自治」を境にして彼等の「心の開放」が起こり、急速に「融合」が進み、故郷の中国から攻め込んできた「元寇の役」では、最早、生死を賭けて供に戦い、永嶋氏や青木氏や長谷川氏や進藤氏の大蔵氏との血縁に観られる様に、「心の開放」は頂点に達し爆発的な融合が進んだのです。
つまり、彼等の「心の開放」は「融合氏化」をも促進させたのです。
”何かが起こる”の天智天皇の645年の心配は1335年頃には霧散した事に成ります。

この意味で、筆者は「純友の乱」の時の自治約束の決断と1018年の大宰府の大蔵種材への自治決断は国家の存亡を救うに値する優秀な決断であったと見ているのです。
阿多倍一族一門の採った彼等の執拗な「民族氏」の「6割の目標達成」は「彼等の目標」だけではなく「日本の目標」と成り得た事を意味するのです。
同時に「民族氏と融合氏の軋轢」は間違っていなかった事をも意味します。
これは全て「産土神と祖先神」の「心の融合」を意味します。
大きく云えば、「祖先神」に導かれた「青木氏の生き残り策」は「物心両面」で「国家の進行方向」と合致していた事にも成り故に生残れたのです。

  「民の融合」(2階層の融合)
勿論、一方民「(民)品部」と観られる領域でも、彼等(阿多倍一族一門)の努力による「民の融合」は実は完全なのです。
「一般の民の領域」での「融合」(民の融合)は、2期に渡り入国した「後漢の民」の技能集団「部」が国内に広まります。これを朝廷は政治的に「部制度」政策(物造り政策)として主導して構築して行った為に、これらの配下に入り技能を享受した「国内の民」(在来民)は、「後漢の民」との障壁の無い「民の融合」が積極的に行われて行ったのです。
この為に「身分制度」を基調としていた朝廷は、慌てて「税や身分の混乱」を避けるために秩序ある融合を配慮して次ぎの3つの法を定めたのです。
1 「男女の法」
2 「五色の賤」
3 「良賤の制」
危機感を感じて以上「3つ身分法」等を定めたのですが、ところがこの法は次ぎに掲げる理由で902年で廃止されます。
この開放は一度に行ったのではなく混乱を避ける為に898-923年の25年間に徐々に行っています。
上記した様にこの点でも900年と云う一つの「荘園制の節目」や「融合の節目」が出てきます。

そして、平安期の「荘園制度」の確立に依って「朝廷の政策」のみならず「荘園内」での小単位の「部制度」が活発化して、「民の融合」は荘園に関わる「内外の民」の「2階層の融合」が起こったのです。
「民の域」では全ての「民の末端」まで行われましたが、その「部」単位(職能部の単位数 180)で起こった融合は、荘園に関わる「内外の民」の判別が困難な程に、「内外」を問わない緩やかな「完全融合」が起こりました。
「氏」としての構成では無いが「部の氏」と見なされる「単位集団」(日本の融合職能集団:「物造り集団」 「姓氏」)が誕生し構築されたのです。

「姓氏」の発祥
これが上記した初期に生まれた「海部氏」等の「姓氏」の「融合集団」なのです。
(丹後国 籠神社資料 海部氏の平安末期の「姓氏」の最古の記録 後に「融合氏」として拡大する)
この「融合職能集団」が室町時代初期から、この「民の集団」を背景に「部の姓氏」が正式に「姓氏」として乱立する結果(180-250)と成ったのです。

「組合職能集団化」の編成
これらの「民の融合」は当初は、「姓氏」として集団化したのではなく、室町文化(紙文化)発展によりその「職能域」をまとめるために「集団化」して行ったものなのです。
しかし、鎌倉期から室町期に成って「部制度」が解けて「部民」は自由開放と成り、この元の「部単位」での「組合」の様な「職能集団化」が起こり、その集団の内で「血縁融合」を繰り返す段階で有る程度の「緩い血縁性」が生まれます。
その「組合職能集団化」により実力のある者はその首魁と成り、鎌倉期-室町期の「文化の発展」に依って次第に「経済的潤い」を得て、「部」から発祥した彼等の呼称を「部民」として呼ばれ、集団化同士間の「無血縁の民」の「組織化」が起こりました。
「無血縁」で「異職能」の「集団」を取り纏めて行く必要からから「目標とルール」とを定めた「組織化」が起こったのです。
次第にそれが拡大化して勢力を持ちそれを背景に職能集団による「姓融合の集団化」(例:海部氏・陶氏)が起こったのです。
つまり、最終の形としては「氏融合」を主体としていた社会構造の中に職能集団の「姓融合」が食込んで行ったのです。この為に「既成の基盤」の上に胡座をかいていた「氏融合」と、新たな職能による「経済的潤い」を背景にした「姓融合」との間で「勢力争い」が起こります。
結局、”下が上を潰す” 「配下」であった「姓融合」は「主家」の「氏融合」を脅かし遂には乗っ取ると云う現象が起こったのです。
「氏融合」の「主家」に取って代わる事に因って「姓融合」は「融合氏化」への経緯を辿る事に成ったのです。この豪族となった「姓氏」を主体とする社会構造が出来上がり、「融合氏」は殆ど潰されて社会に対応出来得た数少ない「融合氏」のみが「姓氏社会」の中で「姓氏」と融合を繰り返す事で生き延びて行く結果と成ったのです。「融合氏」を主体とした「氏家制度」の中で上下逆転の社会が起こった事に因って「氏家制度」は「自然崩壊」へと進み、「姓氏」と「融合氏」とが入り乱れて「生存競争の戦い」へと突入して行く事に成ったのです。
況や「自然力」(流れの力)による「力と知恵」を駆使した「取捨選別の戦い」即ち「戦国時代の到来」が起こったのです。これは即ち「自然の摂理」(自然の流れ 時流)が起こった事なのです。

「融合氏の発祥源」(3つの発祥源)でもある「4つの青木氏」は、「知恵」は「2足の草鞋策」、「力」は上記した「陰の力と抑止力」と、それを支えるで「神明社・生仏像様」と供に、「自然の流れ」に逆らう事無く上手く「時流」に乗ったのです。その成し得た高度な英知は「青木氏家訓10訓」と秀郷流青木氏の上記して来た「戦略的知力」に有ったのです。

姓氏発祥の経緯(姓融合)
→「部制度」」[無血縁組織] (奈良期-平安期中期)
→「部民の開放」 (平安期末期)
→「職能集団化」[組合化] (鎌倉期初期)
→「血縁融合」[自由]→「経済的潤い」
→「部民」→「組合間の組織化」 (鎌倉期中期)
→「拡大勢力化」→「姓化」 (鎌倉期末期)
→「姓氏化」」[無欠縁組織]→「下克上」 (室町期初期)
→「融合氏化」」 (室町期中期)
→「融合氏の集団化」→「豪族」(「姓氏」)
→「戦国時代」
→「融合氏3」 (室町期末期)

「職能集団の青木氏」(無血縁)の誕生
この中には、前期の「4つの青木氏」以外に実はもう一つのこの「職能集団の青木氏」(無血縁)が存在しているのです。
前記まで「氏」は次ぎの様に論じて来ました。

「融合氏の種類」(鎌倉期以降の変化)
1「融合氏」-「融合氏間の血縁」→「血縁性を有する同族集団」(第1の融合氏) ⇒「融合氏1」
2「民族氏」-「血縁性の薄い民族集団」→(「融合氏1」と「姓氏」との血縁) ⇒「融合氏2」
3「姓氏」 -「無欠縁の部組織」→「血縁性の無い組合集団」 ⇒「融合氏3」

「部民」と同じ立場にあった「百姓」(おおみたから:部曲等)にとっては、「姓氏」に成る事は「下克上と戦国時代」の「立身出世による機会」によるもの以外には社会的に無かったのです。

これは次ぎの事によります。
1 「百姓の法制度・税制度」により土地に縛られそこから離れられない事
2 その基盤と成る「核・組織・集団」が無い事
3 「融合氏」「姓氏」に成る利点が無い事
4 更に「氏家制度」の「仕来り」や「仕組み」の中では反乱(一揆)と看做される仕儀となる事
以上から「4つの社会的拘束」により基本的には不可能であったのです。

しかし、「品部の民の解放と組織化」(898-923年)に感化されてその発展を観て、「百姓」(おおみたから)等は何とか「組織化」を図り、「意見の集約と主張」を前面に押し出そうとします。
この為に平安期の「元慶の動乱」に観られる様な「郡司」まで巻き込んだ事件が各地で頻繁に起こったのです。
そして、これが上記したシンジケートの経済的支援を受けた「百姓や賤民等の動乱」から、鎌倉期から室町期には今度は「一揆」と云う形に変化して起こします。
この一揆は、武士が起した゜乱や役や謀反や事件」と云った長くて5年程度の程度のものでは無く、100年間と云う途方もない「為政者に対する戦い」が甲斐や陸奥や美濃や伊勢や駿河に起こったのです。
中には”政治的権力を奪う”と云う所まで起こりました。
中でも「元慶の動乱」等は各地に飛び火して郡司等の地方の下級官僚の援護を得て組織化が起こったのですが、この一揆は「百姓」のみならず背後には「豪商や下級中級武士等」が控え援護して組織化を促していたのです。
どちらも「偶発的な動乱」「不満の爆発」等ではなく、援護関係が明確な「組織的な動乱」であったのです。
この動乱の目立ったものとして「徳政」、「播磨」、「正長」、「嘉吉」、「長禄」等の「百姓(商人・職人・武士等)」による「一揆動乱」がありますが、当初は資料や趣意書を調べると本来の目的は、「組織化(不満)」を目途としていたものが、通説と成っている「為政側」からは結果として「反乱・一揆」として扱われたものなのです。

上記の「部民」に認めたものが、”「部曲」(かきべ)には認めない”と云う不満から”おおみたから”達の「爆発的行動」と成ったのです。
地方行政官の「郡司(こおりつかさ)」が、中央行政官の「国司(くにつかさ)」に逆らってまでも「部曲」に賛同支持して動乱を起したのは、単に「賛同支持」と云う事だけでは命を賭けてまでの事には成らない筈です。
資料や趣意書などを具に調べると、其処にはその行動は「具体的信念」に基づいたものであり、其処には、「人間性の発露」が観られ、要約すれば”社会における部曲のあるべき姿”に疑問を抱き、”変革しなければ国の行く末は暗い”と考えての行動で有った事が云えます。
まして、豪商等が「商いの利益」の為に支援したのであれば100年など続きません。
動乱を100年も続けるには、其処には「豪商の理念」が存在していて、その「理念の実現」に経済的支援をした事を物語ります。
100年とも成れば、その経済的な支援額は彼等の生活を保護する事にも成りますので、天文学的な額に成る事は必定です。更に100年とも成れば、指導する人もされる人も3代も変わる事に成ります。
途中で頓挫する事も充分に有り得ます。しかし、続けたのです。これは「理念」の何物でもありません。
然し、歴史書の通説では「騒乱動乱」や「反発一揆」として「為政者側の言い分」をそのままに決め付けられています。(通説はこのパターンが大変多い事に注意)
然し、「騒乱動乱」と決め付けられても「2つの血縁青木氏」は歴史的に歴然として明確に「2足の草鞋策」を以って支援したのです。
特に「伊勢一揆や暴動」は上記した「4つのシンジケート網」を使って「戦術戦略」を指導し彼等の安全を護り、加納氏の「加納屋」と供に「青木長兵衛の紙問屋」は支援していた事が判っています。
(大きいもので6つ程度の事件が起こっている)

この事は”何を意味するのか”であります。
「3つの発祥源」の立場もある事も然ることながら、「家訓10訓」の「長」としての戒めを「為政者側」に着く事をせずに忠実に「戒めの真意」を悟っていた事を意味するのです。
上記した「時流」に押し流される事無く、冷静に「英知」を働かせたと同じく、ここでもその「英知」を働かせ本来あるべき「百姓」「部曲」の「社会に於けるあるべき正しい姿」を追い求めて支援した事を意味するのです。「利益追従」であれば「為政者」側に着く事が最大の効果を発揮します。
しかし、「郡司」と同じく「2つの血縁青木氏」は「為政者側」に居ながら「部曲側」にも居たのです。
上記した「陰の力」の「4つのシンジケート網」を使えば少なくとも「為政者側の無謀な行動」を抑える事は可能であった筈で、後は「経済的支援」を図る事で彼等を護る事が出来た筈なのです。
部曲の「組織化の要求」を実現させられるかは、革命を起さない限りその「決定権」は「為政者側」にあり、この点に対する青木氏には「決定力」は無くその「影響力」も無かったのです。
ここが「弱点」でもあり「青木氏の立ち位置」でもあったのです。
上記した「4つの社会的拘束」を開放し「組織化の要求」を実現するには其処に矛盾があったのです。
為政者側にとって観れば、「組織化の要求」だけを認める事は上記の「4つの社会的拘束」の秩序を崩壊させる事に成るからであります。
この事は「氏家制度」と「封建社会」や「身分家柄制度」等の「社会秩序」を変える事を意味するからです。
「部民の開放」はしたけれど「部曲の開放」までも認める事は「社会秩序の崩壊」と成るからであったのです。
果たして「4つの青木氏」は”この「時流」に正しく載り得ていたのか”の疑問と成ります。
平安期を経由して鎌倉期-室町期の「時流」は、「荘園時代-群雄割拠-下克上-戦国時代」の乱れた社会の中では、武家社会の「氏家制度の変異期・経過期間」であったのです。ですから本来であればこの「時流」は少なくともその「理念の根底」は「氏家制度の互助精神」であった筈です。
しかし、それは「武家」のみに対する「互助精神」であって「部民-部曲」のものではなかったものです。
それ故、其処に「品部」による上記した「姓氏の経緯」が起こった為にこの「社会構造」に矛盾が芽生えたのです。それは当然に「姓氏の経緯」が起これば必然的に「部曲の経緯」も起こる筈です。
しかし、偏向的に「武家社会の互助精神」はこれを許さなかったのです。大きな不平等な矛盾です。
そこで問題が起こったのですから、「時流」としては”「部曲の経緯」も認めるべきだ。”が社会の中に渦巻き始めたのではないでしょうか。
趣意書以外に確固たる確定する資料記録を見つける事は出来ませんが、「部曲の暴動」が「品部の開放」の経緯の期間中で現実に史実として連続して各地で起こっている訳ですから、この「時流」は渦巻いた事は確かなのです。
そして、この渦巻く現象を観て、「4つの青木氏」は「青木氏の理念・家訓」から”そうあるべきだ。それが正しいあるべき「時流」だ”と考えたのではないでしょうか。そして、”「4つの社会的拘束」は最早何らかの形で解くべき時代だ”と主張したのです。
しかし、それは100年も続く戦いと成ったのです。この「時流」は「時流」で正しかったのです。
この、”「4つの社会的拘束」は最早何らかの形で解くべき時代だ”の「流れ」は、最終的には、薩摩、土佐、長州に依る「明治維新」の「時流」に繋がって成功するのです。
しかし、その後「4つの社会的拘束」の社会は急激には変化を遂げられず、「2つの青木氏」と別に加わった伊勢の豪族の加納氏等の「2足の草鞋族」は、明治1-9年の近隣県を巻き込んだ「伊勢一揆」(櫛田川-真壁-小瀬-伊勢暴動 他3件)まで続ける事になり、遂にその「理念の暁」を見る事が出来たのです。
「2つの血縁青木氏」の観た「時流」は矢張り間違いなく「時流」であったのです。
(加納氏は吉宗の育ての親 紀州藩の家老 2つの伊勢青木氏と血縁)

「時流」
では、一体その”「時流」とは何なのか 「質的」なものは何なのか”と成りますが、筆者は”仏教が説く「三相の理」である。”と観るのです。
つまり、”「時、人、場所」の要素を複合的に一つにした形の流れ”を云うのだと考えているのです。
それには「時」の要素が強い場合、「人」、「場所」の要素が特質して強い場合があるが、それを見誤ること無く、事の「質と状況」を「見抜く力」が「長」には要求されたのです。
これ即ち「青木氏の家訓」の教えであります。故に青木氏は「時流」と見て利害を超え理念を信じ執拗に援護したのです。

さて話は戻してもう少し「時流の中味」を論じておきます。
その時代に起こる「時流」の「顕著な現れ」にはこの「3つの要素(3相)」が必ず持っているのです。
「部民の組織化」に対比して「部曲の組織化」は歴史の記録に載らないまでも明確になっていない地方動乱は数え切れません。ところが、通説では”単発的な一揆 不満の爆発”と云う形でしか論じられていないのです。平安期中期から底流に「時流」としての「部曲の組織化運動」が澱みなく流れていたのです。
中には甲斐の最長150年間も続いた百姓(おおみたから 商人・職人・下級武士の事)の「組織化した動乱」もあった位のものなのです。各地では短いものでも5年、長くて20-50年というものもありました。
この「150年動乱」と成ると最早一揆ではなく武田家の「偏狭・山岳の武士団」(武川12衆など)が参加する「政治体制」に対する反発の完全な「組織化集団」でした。
この「150年動乱」は「部曲」から「下級武士」まで「全ての身分の人」が参加する「人」の要素が大きく働いたもので、下地には「生活の困窮」などの事がありますが、この「時流」は「人」の「本来有るべき姿」即ち”人は皆等しく同じ扱いを受けるべし”とする理念を押し通そうとしたもので、この”特定階級に牛耳られる社会への反発”であったのです。
現在の完全な「平等論」とまで行かずとも、「身分制度」の社会の中でも最低限の「人としての扱いの等しさ」の「時流」は、この平安期から既に「明治維新」までの「流れの動き」の中に起こっていたのです。
上記した平安期中期の「男女の法」、「五色の賤」、「良賤の制」の「3つの身分法」の例に観られる様に、「天皇」から始まり「奴婢」の者までの幅広い階層に、その「人としての扱いの偏重」が余りにも大き過ぎたと考えられます。
これは根底に「仏教の教え」に影響していたのです。法然や親鸞の資料を観ると、この事に悩んだ事が書かれています。
特に「親鸞の悩み」は、庶民の中に入り余計に矛盾を感じて、その結果の彼の激しい遍歴を観ると判ります。
「宗教論争」で有名な法然、最澄、空海の3人による「密教論争」からも「密教の有るべき姿」の論争は、反して云えば「人の等しさ」を論じていることを意味します。
平安期から既に論争に成っていた事を物語ります。
”社会全体の体制の否定”ではなく、これを”もう少し緩やかにすべし”とする主張で有ったのです。
それの証拠に前回に論じた荘園制のところで「後三条天皇・後白河院」の頃に掛けてこの「身分法の見直し」が現実に危険を顧みずこの2人の天皇の決断で行われるのです。
「荘園制の行き過ぎ」に因ってこの問題が露見しそれに連動して1070年頃までに掛けて「法的修正」が行われています。

その一つが180にも及ぶ「大集団の階層」を持つ「品部の開放」の経緯なのです。
しかし、この時、「百姓」はこれでも納まらず「部曲の開放」「商職人の開放」「下級武士の開放」と次第に「全体の階層の偏り」(3つの開放/4つの開放)の修正も要求して行くのです。

(注意 「百姓」とは「おおみたから」と呼称され、その字の如く「百」は「全ての意」と「姓」の「民の意」から「全ての民」となり、「おおみ」は「百の古代語の意」、「たから」は「宝の意」となり、これも「全ての民」の意味に成り上級侍以上を除く民の事です。
現在の「百姓」とは江戸期の「士農工商」の身分制度から「百姓」は「農」の意味となった。)

(室町期までの「下級武士」とは、「農兵」の大意で「農業と兵」を兼ねた階層を云い、多くは氏姓、苗字、家紋等を持っていなかったのです。「甲斐武川12衆」は「氏姓、家紋」も持つ武士ではあったが「農」も兼ねていた「農兵」に近い身分として扱われていた。)

「富と扱いに対する不満」
これも「富と扱いに対する不満」の対象で弱者が集団化して子孫を護り対抗しょうとした現れです。
この様に鎌倉期から室町期末期まで「・・・衆」が全国的に拡大したのは「富と扱いに対する不満」の「流れ」を引き起こし始めた一つの現われなのです。
通説の様に、”「戦乱の世に身を護るだけの目的」”では無く、「富と扱いに対する不満」の表現であったのです。むしろ、「150年」も続いた「甲斐の騒乱」でも判る様に、甲斐の中での事であり他国から攻められてて「身を護るだけの目的」の必要性は無く、、「富と扱いに対する不満」の「150年間の表現」であったのです。
ですから各地の騒乱は長く50-100年というものが多かったのです。150年は例外ではないのです。
ただ、江戸期のものとは「時代」が「流れ」が進行して進化して年数は短くなる傾向にあって、その分「身を護るだけの目的」の必要性は無く成っている訳ですから、「富と扱いに対する不満」が増大し全てこの傾向にあったのです。この「流れ」の傾向が留まらずに結局は明治維新に繋がったと云う事に成るのです。

江戸期の時流=「身を護るだけの目的」→「富と扱いに対する不満」→(3つの開放)

「時流」=「身を護るだけの目的」+「富と扱いに対する不満」(平安期)→「身を護るだけの目的」(室町期)→「富と扱いに対する不満」(江戸期)→「明治維新」

鎌倉期から江戸初期までの集団化の形の一つの「・・・衆」を状況証拠から調べると、「身を護るだけの目的」よりは「富と扱いに対する不満」の方が8割を占めているのです。ただ室町期末期の「・・・衆」は「富と扱いに対する不満」は少ない事が認められますが、元々この時期の「・・・衆」の結束は最早事が遅く、数的には少ないのです。
上記する数式の武士階級の「身を護るだけの目的」の組織化に連動して、「氏や姓」を構成しない「農民-職人-商人」も集団を結成して、この2つが合体して「富と扱いに対する不満」のみのものとして主張した「時流」だったのです。

これを解決しようとしたのが江戸時代初期の身分制度「士農工商」なのであって、上記する「下級武士」(農兵)は「苗字、家紋、帯刀」の保持を正式に許されて、「武士」として正式に扱われて「家臣」として引き上げられたのです。身分が定められた結果、生活もある程度の範囲で確保され、その不満は解消されて行きます。
1 「品部の開放」(平安期末期)
2 「下級武士の安定化」(江戸期初期)
以下4つの内の2つが解決された訳です。

「品部の開放」
「部曲の開放」
「商職人の開放」
「下級武士の開放」

然し、百姓等の「富と扱いに対する不満」は結局は江戸に成っても解消されなかったのです。
(上記2に依って農兵は解消され江戸初期に多くの「家紋と苗字」が生まれた)

これを成したのが「明治維新」であり、「百姓問題」と「富と扱いに対する不満」」を解決し、且つ、一挙に「武」も解体したのです。平安中期から明治維新とすると凡そ「1000年の悲願」であった事が云えます。

「明治維新」は兎も角として、この「中間の経過処置」として、豊臣秀吉は、「兵農分離制度」を敷き、この「農兵制度」を禁止します。
然し、この禁止の目的は開放ではなく、「農兵」の主張を叶えたのではなく、「禁止する事」に依って各大名の勢力を削ぎ、「常設兵力」の削減と大名の「経済的な負担」を高めさせて弱体化を図ったのです。
然し、これも現実には殆ど護られず、「農民の命」を賭けた高額な「現金収入」が無くなる事に成ります。
むしろ、当然の結果として「陰の農兵制度」が生まれたのです。
この「陰の農兵制度」では、「農兵」を登録し集めて臨時に集団化して、終われば解体するシステムが陰で構築されて行くのです。それを職業とする集団や土豪が各地に生まれたのです。(雑賀族、根来族、柳生族、伊賀族、甲賀族、・・・)
そして、この一躍を担ったのが上記した青木氏の様な「2足の草鞋策」を敷く各地の豪商と繋がるシンジケートなのです。
本来は「戦いの負けた武士団の就職先」の様な「陰の集団」であったものに「農兵の臨時集団」が加わり更に拡大して行きます。
「2つの血縁青木氏」はこの「農兵の臨時集団の役目」と、「富と扱いに対する不満」とを結合させて「シンジケート」と云う手段を「時流」の上に載せたのです。

「敗戦の武士団の就職先」+「農兵の臨時集団の役目」=「シンジケート」(室町末期-江戸初期前)

現実の「農兵、農民の集団」に、別の「農兵の臨時集団」とを連結させ、これに「下級武士の集団」
と、「2足の草鞋策の殖産」と繋がる「職人商人の集団」の「4つの集団化」を促し、「時流」を更に勢いを付けさせて押し流そうとした「2つの賜姓青木氏」「2つの血縁青木氏」の「戦略」で有ったのです。
他氏の資料まで研究は及んでいないので正確には判りませんが、下記の数式の「4つの集団化」を成し遂げられる勢力図を持ち得ていて「シンジケート」を構築していたのは「2つの血縁青木氏」以外には無かったのではないかと考えられます。
それは「2足の草鞋策」を敷きその必要性から多少の「シンジケート」を持ち得ていた事は他の資料からも観られる事ですので否定はしません。然し、下記にも示す勢力(石高5万石)を有する「2足の草鞋策」の他氏とも成ると数的にも多くありませんし、青木氏の様に「3つの発祥源」程度の「社会的立場」を持つ武家とも成ると10本の指に入る程度でしょう。
その中でも、「陰の力」「シンジケート」に入る彼等の集団にとって観れば、「氏姓」を構成し「武士」である限りは「陰」とは云え、其処には「こころの支え」としての「大儀」が必要です。
「皇祖神と祖先真の神明社」と「3つの発祥源」の「2つの賜姓青木氏」が行う「富と扱いに対する不満」”下記で論じる「緩やかな富の分配」と「緩やかな人間の扱い」に挑戦する姿勢を観て、これに協力する事は彼等の最大の「大儀」と成ります。
故に平安期から明治期まで彼等はこの「2つの賜姓青木氏」が管理運営する「シンジケート」に加担していたのです。極端に云えば”「錦の御旗」を得た”とも思っていたのではないでしょうか。
この様な「大儀」を保持出来る得る「氏」ともなれば、「2つの賜姓族」の「2つの血縁青木氏」以外にはありません。
(故に同族縁戚の蒲生氏郷も徳川家康も「2つの賜姓青木氏」を上座に上げるほどに崇め擁護したのです。家柄身分が高い云うだけではなかったのです)

「農兵、農民の集団」+「農兵の臨時集団」+「下級武士の集団」+「職人商人の集団」=「4つの集団化」

「甲斐の騒乱」には源光の賜姓族青木氏が関わっていた資料は確認出来なません。甲斐の源光の賜姓青木氏の力が「甲斐の騒乱」を後押しするだけの勢力は無かったのです。
然し、無冠無位の皇族青木氏の時光系青木氏も困窮に喘ぎ農兵に近い状態であった「武川12衆」として自ら関わっていた事が資料からも判っています。

実は「甲斐の青木氏」に付いては、これまた通説には不思議に載らない甲斐らしい「複雑な問題」を持っていたのです。
甲斐青木氏は「青木蔵人別当」の冠位官職を持つ清和源氏 「源の源光」の「青木氏」が主流で、賜姓族に相当し、兄の時光系は無冠無位であったので武田氏の中では低く扱われたのです。
その石高も系譜添書より観ると、200-250石程度でありました。農業をしながら山間部に追い遣られ住まうと云う「極貧の生活」であったのです。”華やかに甲斐の青木氏の名家”と通説では囃し立てられていますが、これも武田氏の特質の資料に惑わされて信じて、通説は「源光の青木氏」と「時光の青木氏」と判別出来ていないのです。武田氏が書く嘘の多い資料をベースにして通説が造り上げられていて全く異なっています。
この虚偽の通説には留まらず、更には青木氏を名乗りながらも、且つ南北朝で山口や高知に逃げた貴族の公家一条氏をも”母方氏だ”として名乗ると云う家柄身分の搾取も公然として名乗られているのです。公然とした矛盾1です。それでいて山間部で農業をしていた「武川12衆」とて供に150年の「甲斐の騒乱」に加わっているのです。これも公然とした矛盾2なのです。
まだあるのです。上記した源光系賜姓甲斐青木氏は国府付近南に定住し本流として甲斐賜姓青木氏の子孫を拡大させているのに、兄の時光は弟の役職を使い「無位無官の青木氏」を勝手に届ける事も無く名乗っているのです。これも公然とした矛盾3なのです。
この様に下記にそれに必要とする勢力2.5万石等は到底無く、「後押しするだけの勢力」は時光系青木氏には元来から当然に無かったのです。
常光寺や源空寺や松源寺などの簡単な菩提寺を作りましたが、長く持たず室町末期には直ぐに維持に耐えられず荒廃し廃寺と成ってしまうのです。
(時光の子の常光が親との争いで獲得した常光寺は養子一族の青木氏が曹洞宗の力を借りて再建して維持した)
「富と扱いに対する不満」を実現させる為に「シンジケート」と云う手段の「時流」の上に載せるどころか自らが「時流」の中に入ってしまっている「自滅状態」であったのです。巻き込まれている状況です。

美濃の資料からは賜姓青木氏は出てくる事もなく、衰退していて「殖産と美濃和紙との関係」から僅かに資料に残る程度と成っています。(女子供の末裔は隣の桑名や員弁の伊勢青木氏の居留地に逃げ込んだ可能性が高い (ただ一つ「伊川津7党の青木氏」がある完全滅亡した土岐氏系青木氏か)
その分美濃は前回信長のところで論じた様に特別賜姓族の5つの秀郷流青木氏の独壇場です。ほぼ入間の「第2の宗家」の援護を受けて5万石程度の綜合勢力を以って一致結束して何とか「富と扱いに対する不満」を実現させ様として働きます。それだけに一揆などは国内で最も多かった地域でもあります。それ故に美濃から駿河の5つの秀郷流青木氏は地元の信任を得て大地主として明治期までその勢力維持させたのです。

近江も「近江和紙」で資料に出てくる程度の勢力であり甲斐との生活はほぼ同じですが、一時一族挙って滋賀に移動定住するなどして、再び近江に戻り、更には摂津に移動定住するという移動の遍歴を繰り返します。これは「源平の美濃の戦い」に源氏と供に参加して敗れ「完全滅亡の憂き目」を受けた事が原因しています。「完全滅亡の憂き目」から美濃と近江は「和紙の殖産」を通じて伊勢青木氏や信濃青木氏は賜姓族として何らかの血縁を通じて生き延びさせようとしたと観られます。(添書には美濃や近江の地域を示すものがある)

前回より論じている青木氏と源氏の歴史の歩調論が異なる事を論じましたが、その歩調の違う源氏と一時の判断ミスにより合わしてしまった事が大きなミスであります。
前回織田氏のところで論じた近江源氏滅亡後に伊勢-信濃の「2つの血縁青木氏」の援護(殖産和紙で支流援護)を受けながら何とか「完全滅亡」を避けられ、賜姓族ではなくて再び「和紙と殖産」の範囲で末裔を広げたのです。
(伊勢秀郷流青木氏は近江の日野の秀郷流蒲生氏の跡目が入っていて近江青木氏とは無関係でない)

下記に数式から解析している様に、伊勢-信濃の「2つの血縁青木氏」の綜合勢力は10-12万石を有する勢力を保持していますから、近江+美濃+甲斐の賜姓青木氏を援護し「殖産和紙」で支える勢力は充分にあり、「シンジケート」で護り「商いの利益」を補填すれば子孫を拡大させられる事は容易でったのです。武蔵入間の「第2の宗家」の支援を受けて、特に近江-美濃は秀郷一門の大居留地でありますのでその末裔を遺してきます。

信濃-伊勢間の一揆には「2つの血縁賜姓青木氏」はこの「4つの集団」との関係を保ちシンジケートを使って援護したのです。凡そ、この「時流」の初期の頃平安末期から観ると700年程度援護した事に成ります。
この年数から判る様に「氏」として25代以上援護している訳ですから、これは「理念の何物」でもありません。
「2つの血縁青木氏」は、、「3つの発祥源」の氏で有りながらも、片方ではほぼ近代の「平等主義」を意味する「富と扱いに対する不満」を援護すると云う一見して相矛盾する行動をとって来た事を意味します。
恐らくは、「平等主義」と云うよりは、”もっと「公平」とまで行かなくても「緩やかな富の分配」と「緩やかな人間の扱い」を求める”と云うものであったと観られます。”「体制破壊」までの考えは無かった”と観られます。
果たして、天智天皇や村上天皇はこの様に成るとは考えても居なかった筈です。
然し、天皇側にしてみれば3つの発祥源」の末裔であり潰す事は望んでいなかった筈です。しかし、源氏が”親の心子知らず”で独走してしまって「事の流れ」最早止める事も出来ずに11代も続いた賜姓源氏は滅亡の道を辿ります。
この源氏滅亡でも判る様に、「農兵、農民の集団」+「農兵の臨時集団」+「下級武士の集団」+「職人商人の集団」=「4つの集団化」=「時流」の数式を構築する努力をしなかったからなのです。
「3つの発祥源」の立場を護り子孫を生き延びさせるには「時流」を観て行動する以外にはそもそもなかったのです。これが「正しい青木氏に課せられた姿」であったのです。
決して、”「時流」に迎合する。利益を挙げる”と云う事では無いのです。
もしそうだとしたら、「時流」に載る事だけすれば。、最もリスクの少ない商いである筈で、「時流」に載り、、「時流」を支え、「時流」を押し上げ、「時流」を護るところまでする事は、余りにリスクが大きすぎ危険であり、且つ、経済的負担は「商いの利益の範疇」を超え母体そのものが持たない事に成っていた筈です。
700年も続ければ、幾ら「陰の力のシンジケート」を持っていたとしても、「体制側からの潰し」が働き、場合に依っては「直接の戦い」ともなり得た事もあった筈です。

(「楠木正成の戦い」(半間接)と「天正の3乱」(直接)と「伊勢大社移転反対運動」(直接)以外は記録から発見出来ない。)
然し、一揆に類するものとして古い記録の確認が出来ないが、各種の関係する添書類などの状況判断からすれば、「4つの集団化」=「時流」は「陰の力」に留めた全て「間接的な行動」であったと観られます。
”「緩やかな富の分配」と「緩やかな人間の扱い」を求める”であったから、「陰の力」に対する攻撃戦いは無かったと考えられます。
まして、一方ではその「陰の力」のシンジケートを使って同じ程度以上に”「殖産」を促進させる”と云う逆の行動もあったのですから、体制側からの直接攻撃は論理的に無い事も考えられます。
当時の体制側にとっても敗残兵の俘囚現象は好ましくなく、「4つの集団化」=「時流」は利益の上がることであり、「陰の力」は社会としての規制の事実とし承知した「救済手段」でもあったのですから、否定する事は不可能であった事に成ります。
もし、この「陰の力」を否定するとなれば、社会に3/4に相当するの「多くの難民・俘囚民」が生まれ、「国の崩壊」にまで繋がる国難と成って居た筈です。どの面から考えても有り得ない攻撃であったことに成ります。
筆者はむしろ、表彰される位の立場に置かれていたと考えています。
それを物語るものとして何度も記述してきましたが、伊勢3乱の「蒲生氏郷」からの特別厚遇や家康の次男頼宣との直接面接と300年間の親交、吉宗の「享保の改革」や「紀州藩の財政建て直し」に家臣ではない青木氏が請われて関わる事等は無かった筈です。
然し、一つ間違えば逆に成る事も有り得て「事の大儀」を無くし、かなり「難しい立場の操作」が必要であったと観られます。それだけに歴史を通して「長」の「有るべき姿と資質」を「家訓10訓」で青木氏に求めたと観られます。その「家訓10訓」の理念を守り通す力と成ったのが「祖先神」であり「神明社」であったのです。「陰の力」でありながらも「4つの集団化」=「時流」はこの「祖先神」・「神明社」の理念に護られていたのです。いわずもがな「賜姓源氏」と違うところであります。
”三相に依って時代時流の良悪は異なる”ので、[良悪]ではなく「利益」を追い求めた賜姓源氏と「人間の理念」を追い求めた「青木氏との差」によります。

(参考 後に武田氏が滅んだ時、現地の戦後処理の指揮官の家康は、この「山岳武士団」を武蔵国鉢形と八王子に移住させて解決します。この中に武田氏系皇族青木氏の支流一族が含まれます。
逆に、この事で武蔵領国の秀郷流青木氏とこの武田氏系皇族青木氏との「融合青木氏」がこの地域で発祥しています。 甲斐-武蔵の国境と下野-常陸-磐城の国境に発祥)

しかし、この様な厳しい状況の中でも、この様に着実に「融合」は進んで行きますが、実はこの百姓(商人・職人・下級武士等)の「組織化」が明治期まで「姓氏化」には進まなかったのです。(「部民」は集団化・組織化・姓氏化であった。)

この各地で開放された「部民集団」の「集団化」→「姓氏化」を起こるのを観て、「百姓集団」は「氏家制度」の中では「反体制の組織」となる為に「姓氏化」は起こらず衰退します。
これはその「集団化」が起こるには「経済的背景」が低かった事が原因しています。
体制側にとっては「経済的潤い」を常時獲得する事は好ましいことではない事から「政治的」に故意に低くさせられていた事の方が正しいと考えられます。
「部民集団」の「集団化」→「姓氏化」には「殖産物造り」と云う「経済活動」が背景にあり、その「経済活動の底流」に存在する事が、これが豪商等との繋がりを強く生み動乱を通じて「姓氏化」の融合が起こったのです。
しかし、この事から学習した「百姓の集団化」は室町期から明治期に掛けて豪商等の「経済的援護」と「シンジケート勢力」の2つを得て再び盛り返します。

ここで「百姓の集団化」と異なるのは、一方の「品部」の「姓族」が「姓氏化(集団化)」したのは、上記した「荘園の問題」が主因で有ります。898-923年の「身分の開放策」に依って「部組織」から「改めて職能集団」としての「組織化」を成し、繋がりのある豪商等の「経済的援護」に基づき、それが更に複合的に「姓氏化」→「融合氏化」へと繋がったのです。
この点が異なっているのです。つまり「部民の集団化」には「融合のサイクル」を興したのです。

つまり、この「2つの集団の融合化」の違いは次ぎの有無が異なりました。
第1は集団化の経緯の中での「身分の開放」の有無が大きく左右したのです。
第2は援護関係に「豪商とシンジケート」の有無が左右したのです。
これが江戸期までの「農と工商」の「自由性の違い」に繋がったのです。

そこで部民に付いて、家紋等から確認できる範囲として、この事(「組織化・集団化」)に依って興った青木氏は大別すると次ぎの様に成ります。
A 「宮大工の青木氏」(氏)
B 「仏具・彫物、襖絵・天井絵・仏画・絵画の青木氏」(氏・姓氏)
C 「紙殖産の青木氏」(姓氏)
以上の青木氏にかかわる職能集団の「絆融合」による「氏・姓氏」が現在も確認されて居ます。

これは「皇族賜姓青木氏」と「藤原秀郷流青木氏」の2氏が独自の「氏神」と「氏寺」を有する事を許され、「浄土密教宗」であった事から、「独自の氏」から「宮司、住職」を出して運営していたことに始まります。
その配下の職人を職能の跡継ぎとして指名し「青木氏」の「氏名」を与えたのです。(姓氏ではない。)
多くは「氏名」を与えるだけではなくて、正式に[別家養子縁組]をして一族の氏の中に取り入れたのです。
その為、「神社仏閣」の建設や彫り物、仏像等の内部の装飾品の類一切までを伝統的に保全する必要性が求められました。そこで自らの神社・寺社の青木氏に関わる集団が結束して(5家5流賜姓族、藤原秀郷流青木氏24地方)これ等の「職能者」を養成する為に「経済的援助」をし、その職能を継承する首魁には伝統ある「青木氏」を名乗らせ「4つの青木氏」の「氏の集団」に組み込んだのです。
(別家の養子縁組が基本であった模様 中には青木氏縁者娘と血縁させる事もあった。)。

上記した「品部の職能集団」による「姓氏」とは別に、青木氏には祖先神の「氏の神社」、密教の「氏の寺社」関係から、保全・管理・運営の為に独自の職能集団を抱えていた。この為にこれらは「物造りの神」でもある「祖先神」であるが為に「姓」ではなく氏上の「氏」を名乗ったのです。

「品部」の職能集団→「姓氏」→「融合氏」
「青木氏」の職能集団→(別家養子縁組・氏)→「融合氏」

つまり、上記した長い1000年以上に及ぶ他氏には決して観られない「祖先神の独自の考え方」に依って築かれた「歴史的な絆」があるからこそ生まれた「無血縁の絆結合」の青木氏の一つなのです。
この様に「祖先神の神明社の存在」が「4つの青木氏」の根幹に成っていて、「絆」を作り上げる強い「接着剤的働き」を果たし、「より良い融合」が興り生き残りを果たせたのです。
その「より良い融合の発展」は何と「4つの青木氏」同士の「融合青木氏」をも生み出すところまで発展したのです。
高位の身分家柄を持ちながらもこれを守る中で、これに拘ることなく更なる「融合」を果たしたのです。
これは全て「4つの青木氏」のみが持つ「祖先神の考え方」に由来するのです。
その「祖先神」の教義が「殖産・物造り」に基づいている事のそのものが、「4つの青木氏」の中で接着剤・潤滑済として働き、更なる発展を遂げたのです。
結局はその「4つの青木氏」の「集約する拠り所」は「祖先神」を祭祀する「神明社」にあったのです。
そして、更にはその「神明社」が「皇祖神」の「伊勢神宮」に直接に繋がっている事が「衰退することの無い推進力」を生み出していたのです。

「神明社」+「皇祖神」=「推進力」

(部の氏の類に付いては研究室に詳細レポート)
この外に、「2足の草鞋策」として「物造り」を「殖産」して、それを販売し商いとする為に、上記の同じ根拠で職人を養成してその者には「青木氏」を与えたとする記録も残っていて、特に先ず「古代和紙」から発祥した青木氏が確認できます。これも「無血縁の絆結合」の一つです。
これ等の「職能に関わる青木氏」は室町初期と江戸初期に多くが発祥しています。
何れの時代も「紙文化」が発展した時期であります。

「紙文化」+「殖産物造り」=「無血縁の絆結合・職能青木氏」

記録では、「神明社、氏神、氏寺」の「建設と保全」の為に必要とするこれらの青木氏の配下にある職能集団が、伊勢や信濃から陸奥や越後にまで「青木氏の神職・住職」と共に出かけて定住もしています。
(皇族系のこの様な「特定の民」を「民部」と云う)
各地の「天領地」にある「神明社」を含む神社仏閣の「建設・保全の職能集団」が「青木氏の配下」にあったのです。
この「職能集団の青木氏」の優秀な若い中心と成る配下等も、その集団の首魁から宗家の許可を得て「別家養子縁組」をさせて「青木氏」の襲名を許し名乗らせた事が記録されています。(孫襲名にまで)
氏上宗家筋の娘との縁組血縁と成ったその頂点にいる職能の頭領「大首魁の青木氏」が更に信頼できる配下にも「別家養子縁組」を行い、一つの職能によるピラミッド型の「青木氏の集団化」が興ったのです。
「添書や忘備禄」などから具に調べ辿ると、氏上宗家筋の遠縁の縁者からも娘を探し出して一度宗家筋に養子とし入れた後に、首魁・頭領に嫁がせて血縁関係を築き青木氏を襲名させる努力をしています。

(これ等の子孫の方からのお便りも「ルーツ掲示板」には多く寄せられています。 筆者の家にも職能による3氏の「別家養子縁組」の青木氏を承知し、宗家筋よりむしろ多く子孫を遺している 現在、筆者の家を本家と発言している。)

添書から辿ると「孫襲名」までの確認は何とか出来るのですが、恐らくは、曾孫・夜叉孫までも職能による「青木氏襲名」は興っていたと考えられます。

ここが他氏と大いに異なるところであります。
これは青木氏の排他的な「氏神・氏寺」と「祖先神」の考えに基づく「神明社」にあり、「氏神の管理保全」や「紙の殖産」の「職能集団」を保持していた事が長い歴史の間には極めて「強い絆」で結ばれた「4つの青木氏」が構築された得たのです。血縁以上のものがあったのではないかと考えられます。

何度か記述しましたが、因みに例として、青木氏の「表の規模(勢力)」に付いて、次ぎの通りです。
他の青木氏に付いては個人情報の領域に入りますので、筆者の伊勢松阪の紙問屋で見て観ます。
伊勢青木氏の「表の規模(勢力)」
250名の店子と、玉城町の8割を占める蔵群、2つの寺と1つの神社所有、3隻の大船、松阪、堺、攝津に5つの大店、5つの城館、装飾職人、専属の宮大工、紙職人等を有し、運送職人、保養地、これ等の職人・店子の住居群が玉城町にあって、これ等に全て各種の店子・職人が付いていたことが明治35年までの記録と口伝と祖父からの伝聞とで存在していた事が確認出来ます。また、松阪、名張、四日市、員弁、桑名の線上には一族一門が地主として青木村の居を構えていた事が判っています。
恐らくは商いに伴なう支店や大地主で土地管理などの施設があったものと考えられます。

伊勢賜姓青木氏の勢力の経緯
当初は平安期初期に56万石程度、寺社領で51万石 中期には北部伊賀割譲で41万石、名張西部域割譲で39万石 末期には志摩領割譲で37万石 伊勢東部長島地方割譲で19万石、室町期には伊勢南部地方割譲で8万石、他秀郷一門伊藤氏等の所領の割譲で5万石、と変化して行きます。合わせて51万石割譲と成っているので、江戸期初期には最終5から6万石弱が伊勢賜姓青木氏の石高・支配地と成り、大地主として活躍、明治7-9年の地租改正で2割程度に縮小、明治35年には「松阪の大火」の出火元として上記の資産権利等全財産の売却で賠償し解散、大店倒産 新宮の許容地のみと成った。
伊勢秀郷流青木氏は蒲生氏郷の跡目にて15万石の内12万石が氏郷支配下に成っている事から実質3万石程度有していた模様です。(2足の草鞋策の「経済的利益」と「シンジケートの力」は除く)
(徳川氏は伊勢賜姓青木氏が遣って行けるぎりぎりの石高を選んで決めたと観られる。)

「調査要素の項目」
(地主、豪商、郷氏、豪農、庄屋、名主の存在 系譜の添書、菩提寺の有無、神明社の数、鎮守神の数、城館、城郭寺、地名、家紋種、資料記録から調査 各地域性でその調査の項目が異なる 所有する資料は以上の項目毎で下記数式の条件を加味してそれを1として石高を割り出した 非公表の添書にも家臣としての石高は記述照合して判定 )

明治以降の履歴は兎も角として、この一つの例からも伊勢を含む5家5流の賜姓族青木氏と24地域の特別賜姓族の「2つの血縁青木氏」に就いても「添書や資料」を解析すると読み解く事が出来ても、、5家5流は天領地でありますので天皇家の室町期から江戸期に掛けての困窮状況から観て、少なくとも同じ割譲状況が大小起こっていた筈です。

信濃と甲斐は豪族足利氏と豪族武田氏が存在していましたので、添書や資料・記録では青木氏の勢力を読み取れませんが、1-2万石程度の融資産で有った模様です。

美濃と近江は源氏側に合力して「平族との戦い」で滅亡に近い勢力低下が起こりましたので、正味0.1から0.5万石程度のものであったと観られます。
特に美濃は激しい「源平の戦い」の場と成った事で(土岐氏の滅亡等が興った事で)賜姓族の石高は無いに等しいか低かった模様で、「大地主の青木氏」を確認する事は難しいのです。
この後、この地で勢力を高めた秀郷流青木氏が美濃の地盤を固めました。
美濃と駿河西域には主要5氏の系列の「5つの秀郷流青木氏」が住み分けています。
(然し、「2足の草鞋策」を採用していない青木氏も居て判定は難しい。採用していれば5氏の総合を1と見なす事が出来るが2氏が確実 豪商の家紋から判定可)
これ等の石高が(0.1)-0.5万石(1氏分)と観られます。当然、この程度の構成で存在していたのです。
5家5流近隣の秀郷流青木氏と24地域の秀郷流青木氏(116氏にも及んでいることから不明)も細分化していて判断が難しいが、判る範囲の歴史の史実として残っている秀郷一門の「豪族の石高」から観て伊勢秀郷流青木氏のは平均(0.5)-1万石程度の融資産であったと考えられます。

(当時の石高は米だけでは無く海産物などの産物も石高に換算して合わせて土地の石高を表現していた)

上記した様に、つまり、「2つの血縁青木氏」と「2つの絆結合青木氏」とには「首魁青木氏」を通じて結ばれていて「4つの青木氏」が「1つの青木氏」と成り得ていたのです。
これが生残れた団結力の「強い基盤」に成っていたのです。

余談ですが、研究の当初、忘備禄に簡潔に書かれていて何気なく読み過ごしていた事なのですが、調査しているある時、「4つの青木氏」の「系譜添書」に「通名」でない「異質の名」が出てきて疑問が湧き、ハッと気が付いて忘備禄の意味が判り調べて行く内に繋がり始めて、「職能による孫襲名」まで判明する事に成り、その仕組みを読み解く事が出来たのです。(伝聞では承知 強い意識化は無かった)
そして、これが特別賜姓族青木氏(秀郷流青木氏)にもあり、その「2つの血縁青木氏」を繋ぐ「融合青木氏」が存在する事までが判ったのです。丁度紐を解くように。
この傾向は「賜姓族の血縁関係」と「職能集団」と「和紙の殖産」と「シンジケートの存在」で通じた信濃、近江、甲斐、美濃にもこのシステムが及んでいる事が紐解けたのです。
何れにも其処には「特別賜姓族青木氏」と「融合青木氏」が「伊勢と同条件」で存在している事が判ったのです。
「神明社」+「建設・保全」=「無血縁の絆結合・職能青木氏」

青木氏の官職の一つ永代の「民部上尉・民部上佐」はこれ等の集団の統率者であったのです。
これは「伊勢神宮」の「皇祖神」、「祖先神」の「神明社」を「守護神」とする「融合氏・2つの賜姓族」であった事からこそ「永代民部府」の責任者になったのです。
(伊勢青木氏は他に永代「左兵衛門上佐・上尉」と永代「民部上佐・民部上尉」の官職名を持ってい
ます。其の為に「世襲名」として宗家は「長兵衛」を継承しています。
分家は「右兵衛門」・「次左兵衛門」、支流は「作左衛門」を世襲している。
信濃青木氏には「右兵衛門上佐・上尉」が観られる。同様に特別賜姓族秀郷流青木氏も「左・右兵衛門上佐・上尉」の官職を担っている)

( 注:江戸時代に朝廷の経済的裏づけとして家柄、身分、出自に無関係に一代限りのこれ等の官職名を金品と引き換えに朝廷から名目上の上で名乗る事を許された経緯がある事に注意。後に誰で無許可で使う様に成った。)

遺されている資料・記録の上では初期には次ぎの様な「姓氏」と成った族が確認できます。
阿多倍一族一門の品部の「姓族」
「九州地方」では「鍛冶族」「佐伯族」(和歌山に一部移る)
「中国関西地方」では「海部族」「陶族」「武部族」
「関東中部地方」では「服部族」「磯部族」
「関西地方」では「秦族」、「司馬族」、「土師族{設楽氏}」、「鍛冶族」、「綾部族」

以上等が早く平安期末期頃に遺された資料で「姓氏」として勢力を持った事が判ります。実際は記録で確認できない為に判断が付きませんが「小さい姓族」としては存在していたと観られます。

鉄鋼関係、海産物関係、衣料関係、食器関係の「姓族」が記録として残っているところを観ると、矢張り市場性から必需品の関係族に下記した数式条件を持つ大きな勢力が付き「集団化・融合化」が起こっていた事に成ります。
当然に、これ等には青木氏の様に「商い」を「2足の草鞋」としている「融合氏集団」が、「殖産」・「物造り」から来る「産物の安定供給」を目論む背景もあって、それらの後押しで「姓氏化」したものと考えられます。
「品部」が物を生産するだけでは経済力が着きません。販売してそれも大きく商い出来なければ成り立ちません。それには「商いの強力な背景」を持つ必要があり、これを搬送するにもある程度の「武力を持つ強力な背景」の「2つの背景」が絶対条件として「姓化」には必要となります。

「商いの強力な背景」+「武力を持つ強力な背景」=「姓氏化」

「氏族」と異なり単独で「姓氏」を構成する事は「経済的、武力的」に困難です。
恐らく「シンジケート」との繋がりが必要で、これ等を獲得した職能集団が「姓氏化」が出来たものと成ったのです。
「シンジケート」つまり、「氏族」の「2足の草鞋策」と繋がりに成るのです。

「2足の草鞋策と繋がり」+「シンジケートとの繋がり」=「姓氏化」

「姓族」+「氏族」(「2足の草鞋策」)=「姓氏」

ですから、この数式から「姓氏」が発祥している地域が特定できるのです。
「2足の草鞋策」を採った「氏族」を特定すればそこには必ず「姓氏」が存在するのです。
そうなると、平安期からの「氏族」で「2足の草鞋策」で室町期を乗り越えて生き残れた「氏族」と成れば限定されてきます。80-200の氏族の中からこの氏族を特定するのは簡単です。
「2足の草鞋策」には広域の「シンジケート」と「運送運搬」と「適度の武力」を持っているのですから、阿多倍一族一門の「2足の草鞋策」を採った「氏」の発祥している地域には、その配下の「姓氏」が発祥している事に成っているのです。その「姓氏」はその「職能種」に依って「地域性」が強く出ている事に成ります。
「姓氏から地域」、「地域から姓氏」、「姓氏から職能」、「職能から地域」、「地域から歴史」等の判別が可能に成ります。当然に「氏族」との関係もありますが、その「氏族」もほぼ同じ関係性を保持しているのです。
例えば、鍛冶部の様に鉄と水と港の所、綾部の様に染料と水の地域、土師部や陶部であれば良い粘土、と云う風にルーツ探求の判別には雑学として大変重要な要素と成ります。
180と言われる部でそのルーツや歴史や由来など判別が出来ます。
他に瀬戸内から起こった最も早く「姓氏」に成ったとされる「海部氏」が記録上で最初とされるのも「海産物の生活品」のものであったからと考えられます。

「青木氏と関係した部」
この様に「青木氏」で有れば「2つの血縁青木氏」の存在する近隣地域には必ずその特長を持った「姓氏」が発祥しているのです。
工部(くべ) 土木職人・建築職人  ・伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏  
紙梳部(かみすきべ) 紙職人  ・近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の青木氏
楮作部(こうぞべ) 楮職人・素材職人  ・近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の青木氏
土師部(しがらきべ) 素焼職人・土器職人  ・近江、伊勢の青木氏 秀郷流青木氏 
金作部(かねさくべ) 金工職人・金細工職人  ・伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
石作部(いしつくりべ) 石細工職人・造園職人  ・伊勢、信濃の青木氏
玉造部(たまつくりべ) 仏壇仏具職人・装飾職人  ・伊勢、信濃の青木氏
服部(はっとりべ) 職機・機械製作職人・機織機職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
錦織部(にしきごりべ) 錦織職人・錦職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏
倭文部(しどりべ) 文書職人・書物職人・印刷職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
史部(ふみべ) 文書職人・記録保管職人・事務職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
来米部(くめべ・くるめべ) 鉱山開発職人・情報伝達職人  ・伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
綾部(あやべ) 綾編職人・布織職人  ・近江、伊勢の青木氏
馬部・馬飼部(うまべ・まべ) 飼育馬職人・輸送職人  ・伊勢、信濃、甲斐の青木氏 秀郷流青木氏
麻績部(おみべ) 麻布紡績職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
衣縫部(いぬいべ) 衣服縫製職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏
赤染部(あかそめべ) 染色職人  ・近江、伊勢、甲斐の青木氏
茜部(あかねべ) 茜染職人・染色職人  ・近江、伊勢の青木氏
鞍造部(くらつくりべ) 馬鞍造職人・仏像職人・木工細工職人  ・近江、伊勢の青木氏 秀郷流青木氏
弓削部(ゆげべ) 弓製作職人・竹細工職人  ・近江、伊勢、信濃、甲斐の青木氏 秀郷流青木氏
矢作部(やはぎべ) 矢製作職人・竹細工職人  ・近江、伊勢、信濃、甲斐の青木氏 秀郷流青木氏
山部(やまべ) 山林職人・木材職人・山警備職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
鵜飼部(うかいべ) 鵜飼職人  ・近江、信濃の青木氏
舎人部(とねりべ) 付人・秘書・警護人・番頭職・代理人・御用人 ・伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
佐伯部(さえきべ) 警備職人・警備兵・情報職人  ・伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏 
硯部(すずりべ) 硯石製作職人・砥石製作職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏
墨部(すみべ) 墨職人・砥職人・(方氏)  ・近江、伊勢、信濃の青木氏
作部(さくべ) 墨作職人・砥石職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏


以上が平安期から室町期までの遺された資料から発見できる青木氏の定住地で関わった職人集団で全てではありませんが確認出来る「部民」と成ります。
・印の職能集団が確認出来る地域です。
但し、近江、美濃は平安末期に衰退し滅亡していて記録は無く成っているが、佐々木氏の資料などから奈良期から平安期初期の各種資料から存在を判断したものと、室町期以降の伊勢青木氏との関係資料から判断したものです。甲斐の資料は少なく又搾取偏纂が多いので推測域を出ません。
秀郷流青木氏は各地の青木氏の系譜の添書からと、伊勢青木氏と信濃青木氏の親交からの繋がりからと、源氏の関係資料や佐々木氏の関係資料から割り出したものです。
藤原氏は荘園制度に大きく関わっていた事からこれ以外にも職能集団との関わりは最も大きく持っていたと考えられます。その中の青木氏に関するものを抜粋したものです。
伊勢青木氏と信濃青木氏と伊勢秀郷流青木氏とは共に深い連携をして生き残りましたので、同じ職能集団を持ち、且つ、中には共通する職能集団としていた事が覗えます。

「部」の本来の職が時代毎に少しづつ関係する職種に変化しているので上記した内容から広範囲な関係職種に成っているのです。
これ等は「5家5流の商関地域」と「秀郷流一門の24地域」に関わる地域と成ります。
これを観ると、青木氏の「2足の草鞋策」の「商い範囲」と「商い規模」と「商い組織」と「氏と姓」が観えて来ます。上記で論じた「4つの青木氏」の「絆の成り立ち」もなるほどと観えて来ます。
又、「3つの発祥源」としての役務を務めた奈良期からの舎人部、佐伯部、倭文部、史部もあり青木氏の旧来からの絆が観えます。
「神明社と菩提寺」を物語る職能集団が青木氏の部の多くを占めています。
これで観ると、奈良期からの「部」が「絆」と成って「青木氏の別家養子の徒弟制度」に繋がっている事等なるほどと理解できます。
未勘氏の青木氏の家臣団、姓化した青木氏の家臣団、室町期末期、江戸期初期、明治初期に発祥した「姓名」が良く判ります。
この内容を観ると、奈良期から江戸期までの「青木氏の総合的な立場」を物語る職人集団である事が良く判ります。又、奈良期と平安末期頃までの青木氏の置かれていた立場や勢力がよく観えて来ます。

(青木氏ルーツ雑学に大きく影響する基礎資料に成るので都度調査続行している。 「部」や「阿多倍一族一門」に関する資料と研究資料が殆どないので苦労している。最近では墨部の氏、硯部の氏、作部の氏と方氏のその所在と歴史上の史実が判明した。)

工部(くべ) 土木職人・建築職人
この職能集団の「工部」の存在は、青木氏にとって大変重要な歴史上の史実の判断要素に成るのです。特に、「神明社との関係」が密接に繋がっているので、その各地の5000にも及ぶ寺社の建設と維持管理にはこの職能集団が青木氏の神官や住職と供に移動しますのでその広がり状況を判断する事が出来るのです。
奈良期から平安初期に「古代密教と祖先神の神明社」を崇拝し、その後、平安中期の密教浄土宗と神明社を、青木氏に関わる地域に青木氏の自らの力で建て育てていた事を物語ります。、
その「神明社や菩提寺」の「建立と維持管理」に専門的に携わっていた事を意味しこれを物語る記録が多く遺されています。
この「部」は伊勢青木氏に記録されているので、全国各地の全ての青木氏には持ち得ていなかったと観られ、記録は信濃以外には見つけ出す事がまだ出来ないのです。
武蔵の秀郷一門宗家にもこの職能集団を持っていたと観られる記録があります。
伊勢青木氏と武蔵秀郷一門の宗家がこの集団を抱えていて要請に応じて派遣していたと考えられます。特に、武蔵では平安期末期から永嶋氏一門がこの集団を統括していて朝廷の官職も務めていました。
永嶋氏は兼光系3氏一族青木氏と長沼氏と永嶋氏ですが、その最初の氏を発祥させた「第2の宗家」と言われ千国を始祖とする特別賜姓族青木氏から、平安末期に朝廷の官職を譲って永嶋一門に委ねたと考えられます。それまでは添書から観ると「大工頭」」(木工寮・木工頭 こだくみのかみ・むくみのかみ)は青木氏に書かれていて、ある時期からこの官職を成長した永嶋氏に成っていますので譲ったと考えられます。永嶋氏は元は「結城氏」を名乗り「酒井氏」を名乗り、次に「永嶋氏」と名乗っています。
(青木氏発祥から結城氏は朝光7代目、長沼氏は考綱5代目 永嶋氏は行長12代目)
「結城」の字の通り、最初はこの役職を一族の青木氏から譲り受けてそれを「氏名」にした事が判ります。秀郷一族一門の組織が余りに大きくなり、且つ、「特別賜姓族青木氏」は、賜姓族と同じ「官職と身分家柄」と「3つの発祥源」の役目を与えられ、且つ、賜姓族青木氏を護る為にもそれを全うする目的から、戦略上担当域の整理を行ったと考えられます。時期がほぼ一致しています。
その後、鎌倉期の後もこの職域を護り、他氏との建設も請け負っていて九州の大蔵氏の末裔永嶋氏も土木建設業を営んでいた記録が残っています。
問題の未解決な点は、伊勢青木氏外に信濃の青木氏から東北北陸各地に神官、住職、工部を移動させている記録があります。この末裔が工部に関しては徒弟養子制度で青木氏を名乗って新潟、陸奥(青森、岩手)に定住している事が判っています。(この3つの末裔の方からもお便りがあります)
つまり、伊勢青木氏とはこの「工部」に就いてどの様な仕分けであったのかが明確ではないのです。
その記録の内容から読み取ると次ぎの様に成るのではと観られます。
”総元締めは伊勢青木氏、神社は伊勢大社分霊と神明社関係は伊勢青木氏、寺社の密教菩提寺浄土衆は信濃青木氏が主に担当し建築維持管理するシステムを採っていた。神官と住職の派遣は総元締めから移動辞令を各地の神社・寺社に命じていた。工部の管理は2つに分けていた”と読み取れます。
これ等の細部の事務管理は下記の舎人部と佐伯部が専門に行っていた事に成ります。
当時、記録保管管理は氏の神社、寺社が行っていた事から比較的に下記にあるような事が青木氏の場合はよく把握されているのです。

紙梳部(かみすきべ) 紙職人 
楮作部(こうぞべ) 楮職人・素材職人
紙関連職人の存在は、奈良期から楮や三叉の植物を育てて殖産し、それを加工して紙を梳き、紙製品としての一環した殖産事業を成し遂げ、平安期にはそれを販売し、商いとしていた事が証明出来ます。この事は5家5流の皇族賜姓青木氏が5古代和紙の生産地として殖産していた事を意味し、平安末期には「2足の草鞋策」を採用していた事をも意味します。
この職能地域は甲賀-伊賀-松阪であった事が記録から判断できます。
同時に伊勢の伊賀地方は奈良期末期に阿多倍に割譲しますが、その後も続けて殖産され続けていた事に成りますので、阿多倍一族「たいら族」との深い交流も有った事を意味します。
「紙屋青木長兵衛」としていますので、先ずは紙が主要製品・商品であった事と成ります。
5家5流の青木氏を繋ぐ和紙であった事に成ります。伊賀・伊勢和紙から信濃、近江、美濃、甲斐とこの職能集団を移動させて殖産を拡げて行き戦略的に青木氏の基盤を確立させて行った事に成ります。

土師部(しがらきべ) 素焼職人・土器職人
この職能集団は近江青木氏と美濃青木氏の資料から観られる事ですが、奈良期から器類の職能集団を抱えていた事は「2足の草鞋策」の商品に成っていたことを意味します。平安末期からはこの2つの青木氏の衰退滅亡で地元に根付いた産業(信楽焼きとして)として育って行ったと観られます。
ただ、神明社や菩提寺の仏具類には欠かせないものとして伊勢-信濃青木氏はこの集団を室町期まで抱えていたか援助していた事を物語ります。信濃にも焼き物や陶器類が現在も生産されていますが信濃青木氏が関わっていたかは不明です。それの元は奈良期から近江青木氏の土師部であったのです。「信楽」は元は「土師」なのですが、この土師部が源平の戦いで近江と美濃の青木氏が衰退滅亡した事等により土師部は主を失い「地元産業」として生き延びてきたと考えられます。

金作部(かねさくべ) 金工職人・金細工職人・金具職人
この職能集団は、「皇祖神の伊勢大社」と「神明社や菩提寺」の「神器・仏具類」には欠かせないものとしてその職能集団を抱えていた事に成ります。平安末期からは「2足の草鞋策」としての商品としても扱っていた事を物語ります。伊勢青木氏の資料と、越後(陸奥)の青木氏に遺された仏教資料から覗えます。

石作部(いしつくりべ) 石細工職人・造園職人
玉造部(たまつくりべ) 仏壇仏具職人・装飾職人
この職能集団は、「金作部」と同じ事で、伊勢青木氏と信濃青木氏と美濃秀郷流青木氏に観られる事です。55地域にも及ぶ各地の青木氏の定住地の神明社菩提寺の建立と維持管理に携わっていた事に成ります。

服部(はっとりべ) 職機・機械製作職人・機織機職人・(情報収集職人)
この職能集団は、神明社・菩提寺の建立と維持管理とその「神器・仏具類」の製作に必要とする事でかなり大量に生産していた事を物語ります。間違いなく、「2足の草鞋策」の商いの主用品としていた事を意味します。近江青木氏と伊勢伊賀地方と美濃秀郷青木氏の私有古文書や神社の古文書に観られる記述です。伊勢伊賀はルーツの服部氏の発祥地ですが、伊賀氏と伊勢青木氏との関係資料から観察できます。
下記の織物職人等の織機関係を担当していたのです。織機そのものを商品として扱っていたのです。
青木氏の部の職能集団の中で来米部の影響受けて情報収集職人(忍者)もかねていた事を意味します。
服部に関わらず部の相互間でも有機的に働いてい事を物語ます。
服部が何故情報収集の役目を担っていたかは不明ですが、織機器の販売輸送から各地を移動すると云う事から来米部の手助けをしたと考えられます。各地に平均的に服部の「姓氏」が多いのはこの事を物語ると考えます。(信濃が目立ちます)

錦織部(にしきごりべ) 錦織職人・錦職人
この職能集団は、近江に多い所で近江青木氏が抱えていた職能集団であったと見られ、この職能は「神器・仏具類」の製作・装飾に用いられるもので、伊勢青木氏が神明社・菩提寺の建立と維持管理の為には必要として平安期末期頃に移動させた物ではないかと考えられます。近江青木氏の平安末期の衰退滅亡に関わっていると考えられます。服部部に織機を作らせて「2足の草鞋策」の商いの一つに成っていたと考えられます。

倭文部(しどりべ) 文書職人・書物職人・印刷職人
史部(ふみべ) 文書職人・記録保管職人・事務職人
この職能集団は、奈良期から江戸期末期までの「神明社・菩提寺の建立と維持管理」の事務職・記録保存・家系図・祭祀等の職務に付いていたと観られます。製本や印刷技術や果てはお守り札類・暦までの一切を担当していたと考えます。全国の青木氏への「神明社・菩提寺」に関わる膨大な量の事務・雑務を担当していたと観られます。伊勢青木氏の資料に観られますが、「2足の草鞋策」の商いに関係していたかは不明です。無関係であったと観ます。

来米部(くめべ・くるめべ) 鉱山開発職人・情報伝達職人
この職能集団は、実は重要な内容なのです。本職は鉱山開発の山師ですが、全国を歩き回り鉱山を発見し開発する職人なのです。しかし、別の面で各地の「戦略上の情報」や「商いの情報」なども集めて逸早く対応する体制を採っていて青木氏の生き残りに重要な役割を果たしていたと見られます。
平安期初期より既にこの「2つの面」を持っていたと記録されています。
鉱山開発では、秀郷流青木氏の越後青木氏の職能集団として関わっていた事が記録されています。
伊勢青木氏や信濃青木氏にもそれらしき鉱山開発の表現が見られますので、鉱山開発はしていたとしても、むしろ、伊勢青木氏と信濃青木氏が鉱山に大きく関わる明確な資料が見つから無い事から、古くから主に「情報伝達収集」の職能として活躍していたと観られます。
この事等から秀郷流青木氏と伊勢・信濃青木氏との間で「情報伝達収集」のやり取りをしていたのではないかと考えられますが、それを物語る何らかの確実な記録が現在発見出来ていません。
「3つの発祥源」と「2足の草鞋策」の両面を支えていた「情報伝達収集」の職能集団で、職務上の役目履行の為に「忍者」の様な能力も持ち合わせていたものと考えます。これは鉱山開発に必要とする能力であったと考えられます。この「忍者的技能」は青木氏の「来米部」が始祖と考えられます。
伊勢青木氏の「来米部」は、日本書紀の中にも全青木氏の始祖施基皇子が天智天武から命じられて全国各地を争い事の調停や平定や国情調査で飛び回っていた時に、警護役や先行掃討役で動いていた事が書かれています。
平安初期と中期の古い資料からもそれなりの表現で警護役で動いていた記述が観られますが、伊勢の伊賀地方と隣接する滋賀の甲賀地方は、後にこの「忍者」でも有名なったのはこの青木氏の職能集団の「来米部」のところから来ていると観られます。これは鉱山開発で培った各地の地理を含む知識や技能や各地の豪族やシンジケートとの繋がりから、その上記する役目に合わせて任じたと考えられます。
その証拠に施基皇子は、持統天皇に命じられて「律令制度の基本」と成るものを作る為に、上記の経験から彼等からの話も聴集して全国各地の細かい国情から見た「人の行い」を纏めた「善事撰集」の編集をしています。これが日本最初の律令の「大宝律令」の基礎に成ったと云われています。
この時に陰で活躍したのが鉱山開発の「来米部」であった事が文面から観て判っています。
全国を駆け巡った「伊賀忍者の服部半蔵」は服部の織物器機製作職人の古来からの青木氏の「部」でありますが、同じ伊勢青木氏の職能集団の「来米部」の影響か血縁を受けてか「情報伝達収集」をも兼ねていた事と観られます。
そもそも忍者には3つの階層があり、上忍は「郷氏」と中忍は「郷士」であるので「来米部」より姓化した「姓氏」です。上忍の郷氏は青木氏の徒弟制度の別家養子制度の「来米部」の首魁の氏、中忍の郷士は農兵の地侍であるので姓化して姓氏を名乗った配下の中の来米部、下忍は農兵組の来米部と成ります。
忍者の階層から観ても伊勢青木氏-信濃青木氏の「来米部」は「情報伝達収集」の役目を荷っていたのです。この事は伊勢-信濃「シンジケート」との結びつきでも証明できます。
平安期末期から「2足の草鞋策」の一つとして「シンジケート」が考えられるのですが、筆者はこの「来米部」から考えると、既に奈良期から、近江青木氏、伊勢青木氏、美濃青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏の5家5流の間では各氏が抱える「来米部」の役目としてシンジケートに近い状態のものが存在していたと考えているのです。それが平安末期から「2足の草鞋策」となった事から「来米部」の役割は大きくなり「情報伝達収集」の役目に重点を置く様になって行ったと観ています。
奈良期末に滋賀の甲賀に接する伊勢北部は、阿多倍の伊賀割譲と室町期に室町幕府執事の所領となった経緯がありますが、その後も青木氏の「来米部」として続けられていました。
そして、室町末期からは「シンジケート」が戦乱で拡大し、その役目も激しさを増し、更に急激な「情報伝達収集」の役目が増して、所謂「忍者」成るものとして一部が活躍するように成ったのです。この時に服部が借り出されて忍者と成ったと観ています。甲賀、伊賀が後にこの影響で「忍者村」となったと考えられます。
伊勢青木氏の勢力圏域は室町期には名張-松阪-玉城-四日市-員弁-桑名のライン上(伊勢の中央より北部域)にあり、この「来米部」の末裔居住地は名張付近ではなかったかと観ています。
玉城の8割は蔵群と家臣や雇い人や職能集団の居住地と仕事場であった事は記録から判っています。
即ち、「来米部」の役割は青木氏にとって無くてはならない「抑止力」であり「商いの手段」の「シンジケート」の維持運営管理を担ったのです。

綾部(あやべ) 綾編職人・布織職人
この職能集団は、綾編職人・布織職人である事は事実でありますが、実はこの綾部(あやべ)の存在は歴史上である事を意味しているのです。それは「シンジケート」なのです。シンジケートの者はこの綾織の手作業をして綾紐などを「家内工業的」にしていたのです。勿論、伊勢-信濃青木氏の商いの一環として戦略上繋ぎの仕事なのです。シンジケートの一員で信濃甲斐の国境の真田郷より配流になった九度山の真田氏の「真田の綾織」でも有名ですが、「綾織」はその伊勢シンジケートの一員の証しなのです。
倭文部や史部や来米部等と連携しながら情報収集のシステムを構築していたのです。
忍者の来米部と供にこのシンジケート間を駆け巡っていたのです。

馬部・馬飼部(うまべ・まべ) 輸送職人・飼育馬職人
この職能集団は、当時の陸上の輸送手段として、戦いの騎馬として、移動手段として最も重要であったのですが、その大量の馬の飼育と管理を専門にしていた職能で、「戦い」には馬の貸し出しも行い、飼育も請け負うなどの商いと、その商いの物資の輸送手段にも用いました。当然にシンジケートのイザという時の戦力にもなったのです。この部は信濃青木氏、伊勢青木氏、近江青木氏に確認され、特に信濃青木氏の馬部は日本書紀の記述にも出て来ます。

麻績部(おみべ) 麻布紡績職人
衣縫部(いぬいべ) 衣服縫製職人
赤染部(あかそめべ) 染色職人
茜部(あかねべ) 茜染職人・染色職人
この4つの職能集団は神明社・菩提寺の建立と維持管理とその「神器・仏具類」の製作に関わっていたのですが、青木氏に大きく関わる事では無く、主に商いの殖産と産品の一つとしての意味合いもあったのです。もう一つはこの職能は伊勢-信濃シンジケートの殖産にも関わっていたのです。
シンジケートは経済的裏付とを受け、そして、それを商品化していたのです。
自らもこの職能集団の能力を受け生きる糧ともしていて、それを青木氏の商いの「4つの元締め」に収めると云う仕組みを持っていたのです。一種の家内工業の組織であったのです。縫い-染めるの連携組織です。表向きは「家内工業」で、裏は「シンジケートの一員」で構成されていたのです。

鞍造部(くらつくりべ) 馬鞍造職人・仏像職人・木工細工職人
弓削部(ゆげべ) 弓製作職人・竹細工職人
矢作部(やはぎべ) 矢製作職人・竹細工職人
この職能集団は、神明社・菩提寺の建立と維持管理とその「神器・仏具類」の製作に関わる根幹に成る職能で、その技量の範囲を生かして神社や仏閣の欄間や仏像等を彫る事をしていました。
弓削部や矢作部は武器を作る傍ら、鞍造部に協力して細工物を作り「神器・仏具類」の製作にも関わったのです。これ等のものは商いの商品としても扱われていた模様でその殖産は山部と供に連携していたのです。これ等も上記した麻績部等と同様にシンジケートの組織に載せて彼等の家内工業的な生産をし収め商いの商品として販売し経済的な潤いと糧としていました。

山部(やまべ) 山林職人・木材職人・山警備職人
この職能集団は、山や山林の維持管理が主体ですが、神明社・菩提寺の建立と維持管理とその「神器・仏具類」の製作に関わる素材を提供するのが目的です。上記した色々な殖産に関わる材料の育成管理も行います。青木氏は信長の伊勢攻めの際に材木の買占めなどをこの山部を使って行い丸山城の戦いを征しました。また楠木正成の南北朝の戦いにもこの山部の山を知り尽くした力を使って山の山道通過阻止や飲料水の阻止をし10万の軍に対して勝利を導き出しました。
山賊の排除などにも役立ちました。この山部を通じてシンジケートとの連絡を図る等の役目も荷っていたのです。山部そのものもシンジケートの一員でもあったのです。伊勢-信濃青木氏の天正の3乱でもこの働きがよく出てきます。

鵜飼部(うかいべ) 鵜飼職人
この職能集団は、信濃青木氏の関係資料の中に出てくる事ですが、鵜飼だけの職能ではなかったのではないかと観ています。それは「河川の輸送」に対する役と各河川の道案内役ではなかったかと観られるのです。単純に鵜飼では河川産品だけでは青木氏に執って大きな意味を持ちません。山部と同じ様な役目をも持たしていたと観ているのです。山部-鵜飼部の連携を構築していたと考えます。

舎人部(とねりべ) 付き人・秘書・警護人・番頭職・代理人・御用人
佐伯部(さえきべ) 警備職人・警備兵・情報職人
この職能集団は、上記した職人を抱えて有機的に「3つの発祥源」と「2足の草鞋策」と「氏神の祖先神 神明社」と「氏寺の菩提寺」を持つ「青木氏」を支えていたのですが、青木氏の氏上の長一人が全体を仕切る事はそもそも困難です。そこで参謀本部や司令部の様なシステムを構築し、其処から指揮する体制を敷いていたのです。それには多くの番頭が必要となりこれを専門的に行っていたのです。
指揮、作戦に関する専門的知識や情報収集分析能力を要求されますし、当然に長に対する身の危険も伴ないますのでそのガードマン的働きも併せ持つ警備本部の役割も果たしていたのです。
「2足の草鞋策」の両面に必要とする最も重要な能力です。
この本部の仕事を「舎人部」(指揮)と「佐伯部」(警備)に分けていたのです。この2つを複合的に青木氏は統括していたのです。全青木氏との連携なども此処から行っていたと考えられます。
上記した一揆などへの援護等もこの本部機構を動かしていたことに成ります。

硯部(すずりべ) 硯石製作職人・砥石製作職人
墨部(すみべ) 墨職人・砥職人・(方氏)
作部(さくべ) 墨作職人・砥石職人
この職能集団は、青木氏の商いの「和紙」に関わる職能種です。
この集団は近江と奈良と紀州と信濃に存在し、主に奈良から紀州に掛けての産品が良品とされ平安初期から生産していた事が判っています。当初は紀州の産品は累代の幕府の専売・販売品で紀州は徳川時代まで徳川氏に納めていました。この4つの地域は時代毎にその産出量が異なり、又品質も異なっていました。この3つ共にその職能の産地は紀州だけで後は墨だけでした。
伊勢青木氏紀州産品は累代の幕府から平安時代からの歴史もあり伊勢を中心に生産とその販売権を確保していたのです。奈良は松煙墨で荒く粒にばらつきがあり色合いが悪いとして、その品質から紀州に劣る事から途中で専売を解除されています。紀州産(藤白墨)は万葉集にも出てきます。
近江、奈良、信濃は専売から外れていて紙と合わせて商いの対象と成っていたのです。
紀州産の硯石や砥石は高級紫石として平安期は朝廷に納めた後に市場に出回るものとして重宝されていました。
当時墨は大和では生産できずに輸入に頼っていました。そこで朝廷は作氏・方氏を平安期にわざわざ中国から呼び寄せた専門の墨職人です。朝廷の資料にも出てきます。最初は近江、信濃、次ぎに奈良、そして最後に紀州となり輸入品より優れたものが生産できるように成りました。調査に依って、その定住地は紀州の「下津」という港の近くで「方」という地名にも成っています。姓氏として硯氏や(作氏)・方氏として現在でも末裔は村を形成しています。
実は伊勢青木氏には、平安時代の朝廷の専売品であったもので、明治の末期に天皇家よりその時代の「藤白墨」をその所縁で拝領していたのですが、然し、平成の世までこの3つの職能集団の末裔の行方が不明でした。青木氏の職能集団であるので、その責任上調査を進めていましたが、つい最近判明しました。(研究室にレポート済み)


青木氏の職能集団の疑問
以上の青木氏の職能集団に付いては記録から確認出来るのですが、凡そどの様な商い(商品や営業方法)をしていたかはこの部でも判ります。然し、幾つかの疑問点があり、先ず海の部が確認出来ないのです。(生活上の職能集団の膳部等は除いた)
つまり、「海部」・「船部」等です。「海上輸送」は伊勢青木氏では堺、摂津の港で4店舗を持ち貿易をし、輸送手段として千石船3艘を有していたことは判っていますし、越後、尾張、三河、陸奥には大きな港があります。「2足の草鞋策」を敷く以上は無くてはならない職能集団です。
ただ、瀬戸内の秀郷流青木氏には廻船問屋を営んでいるので「海部」・「船部」(海族・海人族)等が確認出来るのですが、5つの地域は港を持っていますのでなくては成らない筈です。
尾張と三河では「磯部」が確認出来ますが、歴史的な職能域が少し異なります。
考えられる事として、「海産物」の商いは別として、「海上輸送」は讃岐籐氏の秀郷流青木氏がその専門職の廻船問屋を営んでいる事から、「貿易」ともなればかなりの操船の専門域となり合わせて海利権の問題もある事からこの瀬戸内の青木氏に一切契約して任していた事が考えられます。確かに、江戸末期の浅野氏滅亡時に伊勢青木氏の3隻と瀬戸内の秀郷流青木氏とが連携して浅野氏等の骨董品などの買取をした事が記録で判っています。
連携していた事は確認は出来ますが、常設する程の連携であったかは不祥です。
そこで、不思議にこの記録が無い事に付いて、考えられる事として「2足の草鞋策」で殖産と商いをしたのが1125年頃ですから、部の職能集団は985年から1025年頃の身分制度は開放されています。しかし、法的な「身分制度の開放」であって部の職能集団を解体した訳ではありません。
部の職能集団はこれ以後集団化して行くのですが、その所属する氏での中での職業の継続は雇用人としてされているのです。この時に青木氏に所属する職能集団は雇用人として法的開放から丁度100年位立っています。これ等の集団の雇用を支えて行くにも「2足の草鞋策」でこの職能集団の生産する産品とその技能を保持し、且つ、乱れの生じてきた社会の中で逸早く「青木氏の衰退滅亡」を防ぐにも、「商い」以外には無かったのではないかと考えられます。
つまり、その時に抱えていたのが上記の集団であってその時には疑問点の海上に関する職能集団は抱えていなかったと考えられます。そもそも和紙を主体として始めた「商い」であった為に海上に関する職能集団は必要なかったと成るのです。それほどまでにこの商いが大きくなかったと考えられます。陸上輸送の範囲で事足りていたのです。
然し、鎌倉時代と室町時代には「紙文化」の花が咲き、真に「青木氏の商い」そのものの文化が開いたのです。そこで「商い」は大成功を遂げて拡大し、更に職能集団の体制をこれに合わせて「組織化」して確立させたと考えられます。その中には「氏の徒弟制度」もあって、「家臣による未勘氏」と「絆による第3氏」の「4つの青木氏」が出来上がって行ったのです。
(上記青木氏の部の職能集団では家臣に成った部、絆で結ばれた部に構成されて行ったのです。)
この時に拡大した「商い」の輸送手段に問題が生じ、海上手段として大船を保有したと考えられますので部としての職能集団が記録には出て来ないと観られます。
「神社と寺社」は青木氏の独自のものを保有していたのですから、各地55地域の青木氏の記録は遺されていた筈です。然し、見つからないのです。
当時は「神社と寺社」が「氏の記録と保管」の職能を荷っていたのですが、平安末期の「源平の戦い」から室町期の「下克上、戦国時代」によりその戦いの最前線となった「神社と寺社」の城郭としての役目の為に焼き討ちに真っ先に会うという憂き目もあり、記録の多くは消失してしまっているのです。
江戸期から明治期にあっても「一揆」の拠点として使われた為にも記録は消失と成った為に、特に海上に関する史料関係が発見出来ないのでは無いかと考えられます。
何か海上に関する「特別な慣習」があって遺し難かったのではないかと観られます。「海利権」と「独特な慣習」に有るのではと観られます。
「陸上のシンジケート」は旧来からの経緯で育て克服出来たとして、「海上のシンジケート」、つまり、各地に存在する「水軍」です。駿河、三河、大島、伊豆、伊勢、熊野、紀伊、瀬戸内、村上、陶、豊後、(青木氏が関わった水軍)等の主要な水道には水軍が存在していて「シンジケート」を構成していたのです。即ち、「海賊」までも抑えた「海族」(海人族)です。(源氏は前8つの水軍で、後3つの平家水軍に勝利した)
この「海族」に「繋がり」を持てたとしても支配に及ぶまでの力は勢力は無かった事を意味します。
(同族の源氏は平家との戦いの際に義経は前4つは源氏に味方し、中の4つは義経が再三出向いた味方する様に働きかけ最終的に味方した位で勢力圏に無かった記録がある事から全く青木氏も無かったと観られる。)
それ故に、「讃岐籐氏」の秀郷一門の讃岐青木氏はこの瀬戸内水軍を支配し、横の水軍にも「繋がり」を効かせられる事が出来、日本海側にも進出していた「廻船問屋」として「大商い」を営んでいた事から、他の「2足の草鞋策」を採る青木氏は大口の商いにはこの瀬戸内の青木氏に「海上輸送」を一括して委ねていたと観ているのです。


そこで、これ等の「青木氏の基盤の支え」になった青木氏が一体どのくらいの「勢力」を保持していたのかを検証して観ます。
これには次ぎの数式論が成立する筈です。

A(固定条件)=「殖産」+「地場(土地)」+「広域シンジケート」+「運送・運搬」+「適度の武力」
「2足の草鞋策」=「商い」+「A」
「神明社・菩提寺密教」=「職能集団」+「2足の草鞋策」+「A」

∴「神明社・菩提寺密教」=「職能集団」+「商い」+2「A」

「神明社・菩提寺密教の維持」
上記の数式から果たして「神明社・菩提寺密教」を維持しょうとすると、どの程度の力が必要に成るのかは疑問です。
それは上記の数式から判ります。
それは「商い」と「職能集団」を維持し、固定条件の2倍の力が必要という事に成ります。
独自の「守護神と氏寺」を所有する事は大変な勢力が必要である事が判ります。
では、”どの程度のものか”と成りますが、次ぎの様に成ります。
因みに、この数式論を展開すると、伊勢青木氏は「神明社・菩提寺密教」を持っていたのですから、2「A」以上に相当する「綜合的な力」を有していた事を意味し、これが上記する5万石程度と成ります。
2「A」ですので固定条件の「A」(固定必要経費に相当)は2.5万石程度は少なくとも最低で必要で、この程度の場合は「商いの利益」だけでは”「神明社・菩提寺密教」は維持出来ない”と云う事に成ります。
伊勢と信濃以外の美濃や甲斐や近江は、単独では室町期以降には「神明社・菩提寺密教」は持てない事に成ります。現実には単独では持っていなかったのです。
A=2.5万石として、”「商いによる利益」で「職能集団」を何とか維持する事が出来る”と云う判断も出来ます。
秀郷流青木氏は「地域の幾つかの同族の青木氏」を綜合することで持てる事に成りますので、現実にはその様に成っているのです。
又、「2足の草鞋策」=「商い」+「A」では、「商いの利益」と供に少なくとも2.5万石を保持する勢力を持っていれば「2足の草鞋策」を続ける事が出来ます。
「3つの発祥源」を護り、「A」(シンジケート等)を維持し、「商い」を維持するには2.5万石程度の勢力が必要という事にも成る訳です。
この様に「神明社・菩提寺密教」の有無を確認すればその石高を知り勢力を知る事も出来るのです。又逆の事も知る事にも成ります。菩提寺があり、神明社が近隣にありとすると2.5万石以上の勢力を持っていた事を示し、「2足の草鞋策」を採っていた事も判る事に成ります。
この雑学の判別式はルーツ解明に大変役立つものです。
この事から2.5万石は大名か大郷氏、大豪族・大地主・大庄屋の扱いと成りますから、その氏ではそれに見合う遺品が存在する事にも成ります。この勢力では一軍(4-5騎 1騎50人)を指揮する事に成りますので、「軍配」、「馬盃」、「床机」等の指揮官が持つ物が遺品としてある事にも成りますし、宗派、仏壇や墓形式、戒名、邸、館、門構え等も全て違ってきます。

推して知るベしで、この数式以外にも上記した幾つかの数式条件を満たす為にはある一定の「上記した勢力」が必要と成ります。これらの「数式論の解析」で色々な状況を判別検証する基準にも成ります。
奈良期から明治期までの筆者が論じて来た菩提寺など「青木氏の力」に付いての多くの判定要素はこの様な「数式論の解析」から「史実の数値」などとを照合し駆使して割り出しているのです。

資料が遺されているので判断基準にしている「伊勢青木氏の経緯」として、平安期初期には伊勢北部、平安期中期には伊勢東部、平安期末期には東南部、室町期末期には伊勢松阪の一部の割譲、江戸期初期には「青木氏の5万石」の土地を残して細部地域の割譲が起こりますが、江戸期中期の5万石でこれを維持するのに限界で有った事に成ります。
56万石から上記の様に「伊勢青木氏の勢力」の時代事の推移を観る事も出来ます。
各地の天領地の青木氏は、天領地割譲が天皇家の衰退の経緯を示しています。依ってほぼこの推移と類似していますので、各国の「特別な国情」を加味して全体の石高を当て嵌める事で判断が可能です。
伊勢国のみならず各地の史実からも(データーの少ない近江、美濃、甲斐等も)割り出せますし、判れば逆に判別して行く事も出来るのです。この数式解析論をよく採用して判断に用いています。
算数論の様に1+1=2には成らずとも、より多くの判定要素を組み入れて行けば感覚的に観るよりは史実と真実に近い「類似性の答え」が出て来ます。

(近江、美濃、は上記した「源平の戦乱の有名な激戦地」で滅亡状態になります。甲斐は戦国の戦乱で滅亡状態に有った事から消失や衰退で独自で保有する事は出来な区成っていました。
従って、和紙を通じて伊勢-信濃から経済的援助を受けていたと観られる)

「神明社・菩提寺密教」を基本として「和紙」と「職能」と云う事で繋がっていた「5家5流青木氏」と「秀郷流青木氏」にはそれなりの上記の「数式条件」の「神明社・菩提寺密教」=「職能集団」+「商い」+2「A」が備わっていなければ連携も成り立たない事を意味します。
筆者の計算では、室町期から江戸期の55に近い地域の青木氏各氏の勢力領を観て見ると、石高で表現すると少なくとも1万石程度の勢力を持ち得ていなければ「2つの血縁青木氏の関係」は成立しない事が云えます。

「青木氏のパラメータ」
つまり「2つの血縁青木氏」には青木氏の添書等の資料から平均的に次ぎのパラメータが出来るのです。
「姓氏の発祥地域」=1万石
「青木氏の地域」=1万石
「1万石の地域」=青木氏
「1万石の青木氏」=「2足の草鞋策」
「2足の草鞋策」の地域=「姓氏の発祥地域」
「姓氏の発祥地域」=「青木氏の地域」

(平均1万石:バイアスB=±0.2万石で、R=0.01~5万石)
以上等の論調が成立する事に成ります。

(基準を1万石(0.5)の多くの氏の勢力を調べて平均化してそれを1として、「青木氏の勢力」を計算した。この数式論に「調査要素の項目」を照合して「青木氏の表の勢力」を検証調査した。)

大体青木氏1氏の1万石は「40人の家臣団」(常設期、 戦乱期は常設・5、 4-5騎)と成ります。
そうすると、勢力圏の程度を考察して観ると次ぎの様に成ります。

「美濃一帯」では5氏の同族の秀郷流青木氏がいましたから、5万石の勢力を保持していた事に成りますので、「200人の家臣団」で「1000人の集団」となります。

「伊勢」では秀郷流青木氏は3万石でしたから「120人の家臣団」で「600人の集団」と成ります。賜姓青木氏では1氏で5万石でしたから「200人の家臣団」(実際の記録は250の家臣団)で「1000人の集団」と成ります。伊勢では合わせて「320人の家臣団」で「1600人の集団」と成ります。

「信濃」では4氏から構成されていて5万石ですから、「200人の家臣団」で「1000人の集団」と成ります。
「近江」では3氏で構成されていて0.5万石程度でしたから「20人の家臣団」で「100人の集団」と成ります。

秀郷一門青木氏24地域の中では次ぎの様に成ります。
「関西-中国域」では「讃岐籐氏」の秀郷流青木氏は大勢力でしたので讃岐、瀬戸内・(土佐)、阿波、安芸、伯鰭の勢力(8)を合わせると10万石程度の勢力圏を有し、「400人の家臣団」で「2000人の集団」はあったものと考えられます。(8地域/8は「2足の草鞋策」の確認地)

「武蔵・関東域10と東北北陸3」では根拠地ですので、各地域毎に5~8万石程度の勢力圏/地域(13)で「320の家臣団」(常設)で「1600の集団」であったと観られます。(8地域/13は「2足の草鞋策」の確認地)

九州は肥前、筑前、豊前の3地域では土地柄から資料は少ないし末裔の拡大は低いが、北九州の豪族の酒井氏、佐竹氏、菊地氏、佐伯氏等の武蔵・関東域との秀郷一門青木氏との度々の交流(荷駄等)の痕跡資料があり、この結果として、この4氏の末裔が関東の秀郷一門地域に認められjます。
この事から秀郷流青木氏の「2足の草鞋策」の痕跡が認められます。
石高は算出は困難であるが平均値に等しいと考えて3万石程度とすると、「120人家臣団」で「600人の集団」と成ります。

これに「商いの勢力」と「シンジケートの勢力」が加算されますので、上限は別として、この程度が「最低限の勢力圏」を常設保持していた事に成ります。
「シンジケートの勢力」は別として、「商いの勢力」を全額計算する事は出来ませんが、上記の「常設勢力」の「10倍位の勢力」を以って「非常時の勢力」と見なされます。

その根拠は「関が原の戦い」の時に家康より伊勢青木氏は(信濃青木氏と共に)合力を打診された時の資料として”250の兵(食料調達と安全確保)と信濃-伊勢-京都路の進路の安全確保を担保した”と記されていますので、「非常時兵力」(警備傭兵)の1000程度の兵(暗に示唆)と1万人程度以上の進路側面確保に「伊勢-信濃シンジケート」(暗に示唆)を動かしたことが判っています。(これにより伊勢と信濃は本領安堵された)
恐らくは、「信濃」と共に「近江」と「美濃」の青木氏はこれに加わり「援護兵」「1000の兵」としたのではないかと観られます。(上記Aの要員を加えていた可能性がある)
(ぴったり1000の兵としたかは当時の書き方として漠然とする習慣がありますので不明ですが2000は超えていなかったと考えられます。依ってほぼ8-10倍と見られます。250は記録にある)
一般の他氏の大名クラスも非常時は農兵の傭兵役10倍にしてを集める慣習が出来上がっていた事に成ります。

「武士の生活費」
そこで、その根幹の武士の生活し得る最低の石高が問題に成ります。
江戸時代初期前後の武士の生活は次ぎの様に云われています。
1石高/人/年で、一般諸経費はこの最低5倍/人され、家族5人の生活費は25石/年必要 雇人5人を要するとされ 150石。これに一般管理費に相当する維持費50石加算で最低の200石/年 その他の雑費の最低出費50石 総合の250石が江戸時代初期の限界石高ですので、これに多少なりとも余裕を持たせるには兼農となります。
故に上記した甲斐の武田氏系青木氏は巨摩郡山間部で農業を営んでいたのです。

これからすると、上記伊勢青木氏は250人の雇人があったので、「商い」では最低で2A=5万石以上の収入であった事が云えますので、少なくともこの10~15倍の商いの実績がなくては成りません。
依って最低で50~75万石以上の実質勢力があったと観られます。(上限は判らない)

上記した経緯から平安期末期(1125年)に「2足の草鞋策」を実行した立ち上がり時期にはこの程度の勢力が必要であった事に成りますので、この事からその時の実績46万石/56万石に相似します。
伊勢青木氏は割譲が続く状況の中で、41-46万石に成った衰退時点で不足分を補う事で和紙による「2足の草鞋策」に踏み切った事が伺えます。同様の運命が近江、美濃、信濃、甲斐にも起こっていた事に成ります。しかし、この過程で近江、美濃と甲斐に「時流」に押し流されてしまう判断ミスを起こしてしまった事を物語ります。
伊勢と信濃の賜姓青木氏は何とか助けようとして余力を作り出すために「2足の草鞋策」に連携して力を入れた一つの理由にも成ります。
それ以後、「鎌倉文化と室町文化」の「紙文化」の花が運良く開きましたので次第に大商いを拡大させています。遂には、室町期には「総合商社的な商い」も認められますので、充分に美濃、近江、甲斐を援護し、上記の数式は元より「理念追求の行動」は可能に成った事に成ります。
室町期にはいち早く火薬を扱っていた事が記録で判っています。

(実は伊勢の松阪の大火の火元になった原因はこの火薬庫の爆発によります。明治期には一応は「花火」とされていますが、鉄砲や発破の原材料の火薬であったと観られます。)

この事から、長く続く「紙文化」と「戦国鉄砲」の「大商い」は明治期まで続きますから、外国貿易とあわせるとこの利益は計り知れない利益であった事が予測できます。
伊勢-信濃の青木氏と伊勢の秀郷流青木氏の「3氏の青木氏連携」によって徳川氏に匹敵する位以上に「総合勢力」はあったと考えられます。
この「総合勢力」に近江、美濃、甲斐の「2つの血縁青木氏」は連動して生き延びたとする上記の「勢力説」から観た説を筆者は採っています。

(伊勢青木氏と同様に、瀬戸内は阿多倍一族一門の平族の根拠地であり、天下の平族でさえ「殖産」を推進し、それを「宗貿易」で大商いを推進していた。 矢張り「殖産・商い」無くしては平族を維持しその中で配下の「姓化」を起こさせるには困難である事を物語ります。これに依って「宗貿易」を行い富みを獲得し、それを背景に海産物を扱う海部氏の他に「姓氏」と成った陶器の陶部の「陶氏」が室町末期まで中国地方全土を制覇していたのです。 九州では大蔵氏の佐伯部の佐伯氏も同じです。「たいら族」の栄枯盛衰はこの商いのここから始まっていたのです。)

伊勢青木氏を例とすれば「信濃の青木氏」や秀郷一門の「2足の草鞋策」を採用した各地の「秀郷流青木氏」の勢力は上記した様に推して知るべしです。

その意味では、上記した勢力を持つ青木氏の「古代和紙」の「殖産・商い」は、「品部」ではなく「部曲・民部」(かきべ)の職能域でもあった事、勢力から観ても充分な環境でありながら現地では「姓化」は起こらず、又上記した「氏名の継承」の徒弟制度があった事の為に、更には天領地の「民部」の「かきべ」であった事、「神明社」で固く結ばれた4つの青木氏の集団があった事等からなかなかその中に溶け込めずにその各地の「青木氏の地」に発祥しなかったのです。
総じて「3つの発祥源」の「氏」の地には「姓」を発祥させる事に躊躇したと観られ、又、発祥そのものも少なく有ったとしても「館」ではなく「2足の草鞋策」の方の離れたこの商取引の関係地(主に港、主要宿)に発祥させているのです。
「嵯峨期の詔勅」と「祖先神の神明社と菩提寺」と「4つの青木氏」が護る整えられた領域の中に「姓化」が興し難くかったと観られます。
「2足の草鞋策」や「シンジケート」と云った「自由性を持つ組織」を保持しながらも、このスクラムは別の意味で「排他的環境」の傾向であった事も考えられます。この「氏」の青木氏も「姓化」をしようとする方も遠慮した事も考えられます。そもそも徒弟制度の中で「氏の継承」をしていた事もあって「姓化」は”「差別化に成る」”と考えたかも知れません。
これは「商い」のみならず「3つの発祥源」と云う立場の印象から来るものが強く出ていて「2面性」を持っていた事による弊害とも考えられますが、これは「家訓10訓」で誡めているので考え難いのです。

それはそれで当然に止む無き事として、これは「姓化」に依って起こる「商取引」が当時の「運搬・運送状況の環境」に影響して全体的に大きく関係している事から来ていると観ます。
全体的に観ても、例えば鍛冶族は「金属の搬送」が可能な港と云う様に。上記した様に、その職能種の「殖産」の特長を生かす「地理性(環境)」を先ず優先し、「商い」に必要とする「市場性」は現在と異なり第2次的要素と成っているのです。従って、其処にはこの「地理性(環境)」-「市場性」の「2つの要素を結ぶ線上」の「運搬・運送」に適する地域に「姓化」が起こっているのです。

青木氏と守護神(神明社)-12に続く。


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青木氏と守護神(神明社)-10

No.277] Re:青木氏と守護神(神明社)-10
投稿者:福管理人 投稿日:2011/08/13(Sat) 10:57:42


  「平族の融合形態」

生き残るために必要とした「3つの条件」がどれだけ「大変な事異」であったかを判る為にはこの「たいら族」を含む阿多倍一族一門がどれだけの勢力を保持し青木氏を圧迫していたかを上記した事件性とは別に間接的なデータを以って検証する必要があります。
なかなかこの阿多倍一族一門まで掘り下げて研究している論文が不思議に無いので青木氏と大いに関わった一族だけに本サイトで掘り下げてみます。
本文に入る前に、この「融合氏」青木氏に対して対比する為にもう少し「民族氏」阿多倍一族一門の直系子孫と平族「たいら族」を掘り下げてみます。

「鶏の卵関係」=「氏融合」=「子孫存続」=(「血縁」と「生活の絆」)=「4つの青木氏」
「2つの血縁融合」+「2つの無血縁融合」=「子孫存続」の条件

一方、上記の「青木氏と守護神(神明社)-9」に記した「数式条件」を有する「青木氏」に対して、「平族」(たいら族)と阿多倍一族一門は、平安期では「民族氏」的な色彩の濃い集団で、後(本格的には鎌倉期以降)に関西圏と九州全土を「融合」で広め多くの「融合氏」を広範囲に構成しています。その九州に起こった氏では殆どがこの大隈の「首魁 阿多倍」の血縁を受けていて次ぎの6つに分類されます

「氏の基本数」は「約55」もありこれから次ぎの支流分流が起こっています。
1 本宗の血筋から輩出した氏族 18
2 支流に属しているが出自が不明な氏族 5
3 同族であるが出自が不明な氏族 14
4 同族であるが基本氏に相当するか不明な氏族 4
5 何らかの血縁があると観られる未勘氏族 4
6 鎌倉期と室町期の「未勘氏」と「第3氏」と観られる氏族 推定10 
(関係文書と家紋群より算出)

資料より確認出来ませんが、支流、分流、分派はこの5倍以上「280程度」に及ぶのではないかと観られます。(歴史的に観て多くは支流、分流、分派の分家は3~6の倍数にある。)
九州に於いてこの数ですが、家紋と氏の資料から分析すると定住地域は次ぎの様に成ります。

「定住地域」は「概ね5地域」に成ります。
1 中国地方 陶族や海部氏や武部氏等の支援豪族と平氏に成って広めた一族の大きな末裔基盤地域
2 四国地方 讃岐籐氏の基盤地域であるが平族に成ってからの末裔分布地域
3 近畿中部地方 阿多倍の伊勢領国と阿倍氏に関係する本領末裔基盤地域
4 東北北陸地方 内蔵氏に関係する末裔基盤地域
5 関東地方 国香-貞盛親子時代の赴任地基盤地域
以上の何らかの「末裔血縁族」を合わせると最終「大小550超」には成ると観られます。

 比較 鎌倉期以降 藤原秀郷一族一門361氏 550/361≒1.5

鎌倉期から室町初期に掛けては家紋から観ると日本の全氏では約800氏(姓族含まず)}と観られますから何と「65%(家紋)以上」がこの「阿多倍一族一門」の「末裔血縁族」で占められていた事に成ります。
平安期後半からこの傾向が強く「平氏にあらずんば人にあらず」はこの事から来ていると観られます。
国レベルでは「平安初期 48% :32/66」、「平安末期 66% :45/68」 氏数

これは源氏や藤原氏等よりは遥かに大きな「末裔血縁族」を有していた事は明らかです。
これに彼等の配下で「後漢の民」の末裔であった「品部180」が「氏姓族」に平安末期から成って行きますが、これを合わせると勢力と云う点で観ると「7割弱程度」730になるでしょう。

最早、この「鎌倉期以降 7割 :730」という数字は「帰化末裔氏」阿多倍一族一門の国と成り、「在来氏」30%は「異民族」であるとしても過言では無いでしょう。
(子孫繁栄力がそれまでの在来民の3倍と云うことも出来ます。)
800年ごろから「渡来人」と云うの言葉は書物から消えていますので、納得できる数字で「日本人」と成っている事を端的に物語ります。
ただ問題は「民族氏」の「物事に対する概念」が前記の様に「法より人」「石は薬」に代表する様に異なっていた事なのです。
天皇は帰化は認めたがこれでは”何かが起こる”と悩んでいた事はこの数字の検証からも明らかです。

例えば、此処では本基盤地で本末裔血縁族を有する九州地域を観てみると、此処には大蔵氏を筆頭に菊池氏や酒井氏や佐伯氏や宗像氏等の大きな古氏が存在します。
「産土神」の神社を中心とした古い「歴史性」があり、幅広く「事件性」を持っている北九州から南九州の肝付氏、廻氏等、同じく南九州の島津氏等の発祥源を検証すると、奈良期と平安期には少なくとも「平族」の始祖源となる「後漢阿多倍一族」の血縁を受けている事が明らかに観られます。

この関係を地名、家紋、関係資料から重複する氏族を洗い出しますと、多くは「大隈の首魁」であった奈良期頃の阿多倍一族が関係した地域には、必ず「阿智使王」や「阿多倍王」の「阿智」や「阿倍」「阿多」(現在も遺す)等の「地名」が古代に在った事や、何がしかの「証拠物件」が遺されているのです。
(阿多や阿倍は現在も存在します)

例えば、「阿倍」(あばい)から奈良期と平安期には「阿倍氏」(あばい-あべ)が生まれ、この「阿部氏」から一族から「生贄」にされた問題と成った以北の末裔「安倍氏」の氏が誕生し清原氏が発祥し、九州はもとより各地(関西-中部以北-陸奥)に分散し「氏の融合」が起っています。
彼ら末裔血縁族は、その地域の豪族との3倍の繁殖力の血縁があり、当時の「生活慣習」から明らかに「彼等の生活圏」にあった事を意味します。
平安時代末期に地方の豪族のみならず九州には朝廷から「弁済使」として派遣された都の豪族官僚5大氏の一つ「伴氏」(伴兼貞-兼俊)が九州各地で肝付氏(大隈国肝属郡)等を始めとして融合しているのです。(肝付氏の関係族 末尾の氏姓族参照)
九州全土が彼等の繁殖力で占められますが、中央の都とは「伴氏」(弁済使)等を「接着剤」として繋がります。(弁済使は税の官僚 今で云う税務官)
この「接着剤」なしでは「独立」の形に事が成り得ず、上記の数字で示す様にこの「接着材」を背景に爆発的に「自然力」で進んでいた事が判ります。
当時はこの「接着剤」が大きな意味を持ち、故に中央で力を持っていた事を物語ります。
(官僚の6割は彼等の末裔と品部の職能集団(史部等)で構成されていた事が日本書紀にも記述されています)
「伴氏」等の5大官僚が何故力を持ったかの理由が明確ではありませんが、恐らくこの「接着剤」であって、むしろこれは朝廷が採った「何かが起こる」の戦略であった事が原因している事を意味します。
日本の国の「軍事、経済、政治」のどの面から見ても「65-70%の力」を持った一族一門と「5大官僚」との血縁でこれを「背景力」にし、朝廷内では「5大官僚族」として巾を効かせる事で「天皇力」を彼等に持たせたのです。
「5大官僚」を「背景力」=「接着剤」=「仲介役」として存在させ大蔵一族とのバランスを保っていたのです。
しかし、これも根本的な解決戦略ではありません。「何かが起こる」の一時的な彼等に対する「抑止力」としての効果に過ぎなかったのです。

最終的には、1018年九州全域を「3権の自治」を認め、「遠の朝廷」として「太宰大監」の任を与え、「大蔵種材」に「錦の御旗」を与え「統治権」を委ねる結果で納まったのです。
そして「民族氏」から「融合氏」へと巨化(進化)して行く事に成ります。
最終は何とか八方を成功に収めたのですが、累代の天皇が懸念していた「何かが起こる」は大きい「国家の分裂的事件」へと成らなかったのです。
後勘から観れば、「3権」と「民族融合」の観点からも”これ以上のバランスの採れた解決策はなかった”と成ります。しかし、それは国が危機一髪の状態で下記に示す「汚職、腐敗、騒乱」の「大荒れの状態」から立ち直ったものであったのです。

「融合事件(繋がり)」
依って、「民族氏」から「融合氏」へと変化していったことで成功裏に納まったのですが、これを「融合」という観点から更に調べて行くと、阿多倍の根拠地九州にはその経緯として青木氏にも関係する一つの「融合事件(繋がり)」が此処にもあるのです。
青木氏は間接的ではありますが、「氏融合の最低条件」を成り立たせる実に密接に各地に「氏融合」を進めている事件の例が数多くあります。

(青木氏の融合形態の例)
因みにその例の一つを記述します。
1180年清和源氏の宗家頼光系4家と本家筋の源三位頼政が平族に対して旗揚げをして失敗します。(以仁王の乱 1180)
この時、伊勢青木氏が領する伊勢国の北部伊賀を(大隈の首魁阿多倍一族 平族に)朝廷から奈良期に割譲され定住していました。
隣の松阪の伊勢青木氏は次ぎの深い親交から京綱(伊勢青木氏に跡目 頼政-仲綱の子3男)を通じて助命嘆願します。
(桓武天皇の母の「高野新笠」(伊勢伊賀の阿多倍の孫娘)は、伊勢青木氏の祖の施基皇子の子供の「光仁天皇」の妻です。 即ち、桓武天皇にとってみれば、父方は伊勢青木氏、母方は伊勢阿多倍の一族、跡目青木京綱の3つの関係があった)
平族は伊賀の「阿多倍一族」宗家からの助命嘆願を受けて「頼政」の孫の「仲綱」の子の3人の内2人と叔父(宗綱、有綱と叔父高綱:京綱は伊勢青木氏に事前に跡目)が処刑されずに九州日向国の廻村に配流されます。(除名嘆願は有名な事件)
この時、肝付氏一門の廻氏等の支援を受けて城を築き再び「九州平族」と戦います。
敗退して敗死、廻氏との間に生まれた末裔と廻氏と共に、本家の阿多倍の血縁を受けていた肝付氏の領内薩摩大口村の山寺に逃げ込みます。
この時、この末裔は「嵯峨期の詔勅」に基づき、又、清和源氏の頼光系頼政本家(宗綱、有綱)を同族伊勢青木氏(京綱の跡目)に移した事等の2つの理由から寺の僧侶に勧められて追手から逃れる為には「日向青木氏」しかないとして名乗ります。(嵯峨期の詔勅に基づき名乗る)
(後に日向青木村を形成してこの末裔を抱えて農兵民になり黒田藩の領民となります。明治3年8年の苗字令に基づき青木氏を復活させる)

賜姓青木氏は「永代不入不倫の件」が認められているので、その末裔とすれば平家は手を出せない事になります。又、九州南部の周囲は阿多倍の肝付氏の本拠地 敵地の本拠地の中では青木氏を名乗ること以外になかったのです。九州全体が敵地でありだから配流先として選ばれたのです。
阿多倍の領国薩摩国(大隈地方を割譲地:平族の始祖の割譲地)の懐に逃げ込みます。
”雉子懐に入らずんば猟師これを撃たず”の言葉通りに隼人の本拠地近くに逃れたのです。
(この事でも判る様に阿多倍一族一門の族間の絆は薄い事が判ります。)
「平族」の本領でもこの関係でこの青木氏末裔(日向青木氏 現存)を結局は討つ事は出来なくなり子孫を遺しました。(後に九州に唯一の青木村を形成し「兵農」として黒田氏に仕える)
この様に「廻村の民」の様に地元に根ざした「生活、社会の絆」から新たに「氏の融合」が生まれ子孫の存続拡大が青木氏には起こっているのです。
しかし、この考察から観られるように特長が出て来ます。
「平族」即ち「阿多倍一族一門」にはそれは殆ど「血縁」が明らかですが、その元となる「出自」が明確でない事です。ここにもこの一族一門の特徴が出ているのです。
これだけの本流氏34にも成る肝付氏の一族でも「民族氏」の概念が色濃く引き継がれているからに過ぎません。
これでは近隣は兎も角も国を超えては時代が進むと、情報社会が低かった時代では一族一門が「互助」「合力」は働きません。

「互助」「合力」
「平族」が滅亡した理由の一つが、次ぎの事となります。
中国地方と九州全土のこの「氏族」を味方にして、更に中部北陸から挟撃して戦えば100%で勝てて居た筈で氏を遺せた筈ですが、しかし、平安末期には余りにも一族の「氏の融合」が進み、その結果、自らの氏が「平族」に血縁している事が不明(出自不明)と成っている為に末裔は味方する事に躊躇した事が原因の一つとして観られるのです。
恐らくは歴史的経緯から彼らは薄々は末裔と承知していたとは考えられますが。平安末期-鎌倉期-室町期には末尾の資料の様に「姓族」は爆発的に融合拡大します。
其の為にそれなりに中心氏と成る者がいて「氏寺、氏神」で管理されて居れば一族一門性の「融合氏」の「互助の結束」は成り立ち出来るのですが、それが無った事から「民族氏」の形態の「無関心の感覚」だけが残り、その「他の民族性」は消え去ったのです。
ただ鎌倉中期-室町期には関西から関東域に掛けての「菩提寺による集団」の形態は殆ど無く、その代わりに九州-中国域には「氏神による氏子集団」としての連合結束する傾向が生まれて来たのです。
日本の融合氏はその経緯から次ぎの2つに分類されます。
関西から以北に掛けては「氏神の守護神」-「氏寺の菩提寺」を中心とした「融合氏」を「第1の融合氏」とすれば、関西から以西の中部九州域は「第2の融合氏」とでも云うべきものに変化していったと考えられます。
「第1の融合氏」 関西以北 「氏神・鎮守神・祖先神の守護神」-「氏寺の菩提寺」の2つを標榜する融合
「第2の融合氏」 関西以西 「産土神の守護神」を主体 神道系 「民族氏」系「融合氏」
参考
神道系融合氏の例
阿蘇神社・宗像神社-菊池氏、酒井氏、佐伯氏等 
出雲大社-亀甲氏子集団等

資料からこの一族一門の「34の姓氏」に共通するものとしては次ぎの事が挙げられます。
A 上記の氏子集団化が加えられている事
B 「家紋:三雁金紋、支流は丸に桔梗紋」である事
C 襲名の名を「兼・・」と関係する事
D 地名を「姓名」としている事
以上4つが共通項です。
これを慣習として「一族である事の印」としていたのではないかと考えられます。
つまり、それを「一族一門性の証」としていたと観られます。
ところが時間の経過と共にこの「一族一門性の認識」が不思議に薄れていったと観られます。
何故なのでしょうか。

鎌倉期-室町期の変化
関西-関東域には「氏神・菩提寺による集団」「互助の概念」-「融合氏の形態」「弟1の融合氏」
九州-中国域には「氏神による氏子集団」「無関心の概念」-「民族氏の形態」「弟2の融合氏」

「源平合戦」では、「平族」は意外に上記した「1から5の血縁族」が味方に成らなかった事に大いに悩んだ筈です。
原因(下記1から3)は判らないままにうすうす知っていたのかも知れません。
それは奈良期、平安初期と古く成りそれが血縁を確認出来なくなってしまった結果なのです。
逆に云えば、むしろこの現象が本来の「氏の融合」でありそれが著しく進んだ結果から来るものかも知れません。
しかし、重要な事は此処には「平族」には更に「青木氏」と違うもう一つ大きな欠点(下記)を持っていたのです。
「平族の非融合の欠点」
これを見逃しては成らない事なのです。
この後漢「大隈の首魁阿多倍」が引き連れてきた職能集団「部」の氏族も同じ傾向を持っています。

例えば、室町期の中国地方全土を制覇していた「陶氏」は後漢16ヶ国の「陶部」(平安末期の記録有)の頭領です。他には、「品部」(180)の中で最も早く「姓氏族」を発祥させた海部(平安末期の記録有)、武部、村上氏等多くはこの血縁を受けています。
「平族」はこれ等の末裔「村上水軍」等の中国地方の氏豪族を背景に戦ったのですが、九州の中部より南の氏族は味方しなかったのです。
筆者はむしろこれらの無数に近い「品部」(雑戸含む)等の「血縁族」が一門と強く認識していた場合は源平の「たいら族」は勝利するか、又は1018年以前に九州全域を明らかに「独立国」と出来ていたのではないかと観ています。
事実、過去(150年前)にその「独立」と云う歴史を史実として下記に示す5度の経緯を「平族」は持っていたのです。

「独立への経緯」
先ずその5度の中で最も有名な挑戦事件として、「平族」の初期の「国香、貞盛」の頃、関東に「独立国」を目指した一族の「平将門の乱」が起こっています。
この時「国香」が同族「将門」に殺されたのですが、「貞盛」は父の仇でありながら最初は観て見ぬ振りをして放置していたのです。”何故見ぬ振りしたのか。”の疑問1が残ります。
未だ、始祖「阿多倍王の没」より余り時間が経っていない時期でもあり、「後漢の意識・感覚」が強く残っていて、上記した勢力(70%)の一族を終結させれば、朝廷より遠く離れたところで関東域でも「たいら族の将門」も「独立国」を造れるのではないかと観ていた反乱ではないかと考えています。
”何故、親族の国香を殺さなければならなかったのか。”の疑問2が残ります。
歴史の通説では”土地をめぐる一族の争い”となっていますが、これはおかしいのです。
そもそもここは2人の「領国」ではありません。「知行国」で国香・貞盛親子と将門は押領使と追捕使等を務める朝廷派遣の令外官の役人です。通説の”土地争い云々”の話ではありません。(国香は将門の叔父)
それならばその役目上で貞盛自身自分で解決しなくてはならない筈で、様子見などはもっての外であります。そもそも勲功の対象にはならないのです。土地の奪い合いをしても何の得にも成りません。
朝廷より赴任地変えを受ければそれで終りで、犠牲を負うだけ損です。通説の論調が矛盾しています。

(「通説」への注意 「後勘に問う」)
歴史の通説は第1には前後の「時系列の検証」が欠けているのが殆どです。
実は第2にはこの「知行国」と「領国」の判断の間違いの通説が実に多いのです。(前記の「源平の美濃の戦い」の通説も全く同じ間違いを起していました。)
”何故この様なミスをするのか”と云うと、次ぎの第3の事が原因しているのです。
それと第3には朝廷側から観た「不都合な事」は「事件の反抗者・当事者への罪人扱い」としての決め付けが偏纂資料に書かれているのを前提に通説として用いているのが多いのです。
この第3の事が原因して第2の矛盾が生まれるのです。
ミスと云うよりは「承知の上でのミス」なのです。
これ等は資料に忠実であればある程に起こる問題です。
第1 「時系列の検証」
第2 「知行国」と「領国」の判断の間違い
第3 「不都合な事の偏纂記録」
第4 「承知の上でのミス」

この「4つの要素」(第1から第4)の配慮の判断ミスが通説の間違いの主因です。
要するに”歴史を読み解く側がこの矛盾を判断すればよい”の考え方であり、当時の「慣習」なのです。
つまり、系譜・系図のところで書いた”後勘に問う”の慣習であるのです。
ですから、”後勘に問う”で”読み取る側が修正すればよい”と云う事に成るという「日本の歴史の慣習」であるのです。

ルーツなどを調べる場合は、この4つの事に配慮しながら進めますが、第2の場合は調べればすぐに判ることです。しかし、この第2には色々な「歴史的意味合い」を多く持っているのです。「時代考証」が大きく絡んでいて当時の「慣習や仕来り」の雑学を必要とします。実は作業は簡単ですがこの間違いが一番多いのです。向後の資料の殆どは「現代感覚」で判断してしまっている場合が多いのです。
第3は記録に残すものは「よい事はよりよく書く」、「悪い事はより悪く書く」の人間の性が起こります。
これをより正しくするには「ギャップ差」を見抜く事が必要に成ります。
それが第1の「時系列の検証」なのです。「前後関係」から観て”その「事象」があり得るのか”を推理し判断し検証して確定をしなければならないのです。特にその差を必要とする場合は筆者は下記に記述する「自然の摂理」による技法を用いています。
この第1から第3まで判れば第4は自然に判ります。
これが歴史資料が求める「後勘に問う」の作業と成ります。

当事とすれば資料も少なく、時代の環境も厳しく、”承知でこの様に書かざるを得ない”と云う事もあり、まともな資料は上記した様に、だから「書き記した人」と「後勘に問う」の「2つの語句」を記するのです。
しかし、「搾取偏纂の系譜」などは”ばれては困る”の訳ですからこの「2つの語句」を書かないのです。
「書き記した人」の事を調べられて搾取が判るし、「後勘」に問われては嘘がばれてしまい末裔が大恥を掻き困る訳ですから書かないのです。

これは仏教の精神構造から来ているもので、その思考の根底は”「三相」(人、時。、場)により事の真偽は変わるのだ”とするもので、とりわけ「武士の精神構造」を成していた「禅宗の問答」にあるのです。
心理の追求の問いに対して何度も追及され、最後に、窮すると”答えは後勘に問うものなりー”と交します。 ”仏教の教えの「三相の原理」により、今、答えを出すものではない”と交すのです。
「後勘に問う」は仏教の教えに従い正しい姿勢なのです。
”物事をこうだと決め付ける事はよくない事である” ”何事も拘ってはいけない”と云う仏教の最大の教えを護っていたのです。
”「後勘」から観れば今は多少の矛盾があっても良いのだ それは「後勘」が正してくれる”なのです。
”今はそれなりの理由があって書き記しているのだから正しいのだ”としているのです。
故に、”多少の矛盾と疑問はあって良いのだ”としているのです。
例えば、”「日本書紀は矛盾があって信用できない。”と主張する学者もいますが、この主張そのものが間違えているのです。当時の「後勘に問う」の精神が理解出来ていないのです。
「後勘に問う」は「色即是空 空即是色」「色不異空 空不異色」の解釈の当時の社会の忠実な実践でした。仏教精神が希薄に成った現在の一文の間違いも許されない社会と違い、当時は仏教精神がそもそもが大きく社会の規範に成っていたのです。

だから「歴史の研究」にはこの事(「後勘に問う」)で大変惑わされ時間を要するのです。
しかし、「歴史の探求」が面白いのはこの「後勘に問う」があるから”見つける事の楽しさ”が湧き出でてくるのでしょう。
普通は、そのままに信じて行くと上記の「将門の乱」の様に必ず、”アレ”と云う風に疑問矛盾に突き当たってしまうのです。
(疑問1と疑問2の共通する応え)
ともあれ、この「後勘に問う」で行くと、疑問1と疑問2の共通する応えは”味方するのを待ったが、結局しなかった。だからこの独立国の計画はその内に頓挫すると将門は考え殺してしまった。”とすると納得できます。この様に要は第1位の「時系列」の紐解きが重要に成るのです。「時系列」は真に「後勘に問う」の役目です。
”南の九州でも自治か独立に近づいている”と考えていて、”関東で成功すれば九州の大蔵氏でも反乱を起こす”と戦略を描いていたのです。
(ところが、朝廷もしたたかで大蔵氏を褒章冠位官位など出来る事全て賭けて宥め行く末に自治を約束します。大蔵氏の資料 純友の乱の指揮者に任命)

(九州は「自治圧力」のその直前の状況であったし、「荘園制の行き過ぎ」で国内全域の不満と混乱はもとより、北の一門の阿部一族末裔の「長い騒乱状態」が背景にあった。
その結末の事件はずれていますが、全ての事件には「前兆現象」の期間が10-20年位はあるのです。)

この背景の下では、”その鍵は伊勢伊賀の国香の動きが戦力的にキーと成っていた。” として動かなかった親族の国香を抹殺したのです。そうなってしまった貞盛は困惑し「将門の乱」の行く末と自らの一族の行く末を見計らっていたのです。
現に九州全域、特に南部(肝付氏:713-730に戦う)は殆ど朝廷の力が及び難い地域であった事から既に「自治国」的状況であった。(1018年自治)
陸奥では既に阿倍一族と内蔵一族も勢力を高め東北北陸一帯は既に勢力圏にしていて騒乱状態下にあつたのです。
この3つがこれを期に動けば最早日本は阿多倍一族一門の国に成っていた筈です。

この様に一族の者が関東で「新皇」と呼称して関東に「10年間は独立国の覇者」として君臨した経緯を一族は持っているのです。

しかし、そこで誰もが日本全国の大勢力「平族」の「末裔血縁族の動き」を見計らっていたのです。
この動かない状況を観て危機感を感じた朝廷が西の大蔵一族の動きと北域の阿倍内蔵の一族の動きを横目に見ながら困って先ず関東の乱に特別な条件を出します。
やっと名乗り出たのが何と一族の伊勢伊賀の宗家「平貞盛」と、予想外のこの地方の下野の押領使「藤原秀郷」だったのです。だから平定に5年以上も掛っているのです。西と北の動き見守って焦らずにすすめたのです。しかし、大蔵氏は乱を避け「自治獲得」を考えていた為に動かなかった、いや動けなくなったのです。
と云うのは、九州全域が”他人事のように争いを好まず積極的に動かず”であって、その背景には技能を求めての在来民の民が180の部に大きく関わっていたからなのです。それと「民族氏の融合の形(第2の融合氏)」がそれを拒んでいたのです。
(「何かが起こる」の疑念の元になっている「民族」の感覚と「融合の氏」の感覚の違いから起こる「国民性の差異」が露骨に民に引き継がれて出ていたのです。)

朝廷は8世紀前半の大隈での反乱での敗退で、その反省から西の動きが自治を認める事で解決するのではと観察していたので、先ず関東の乱を鎮める事に専念したのです。
この時は既に天皇は西の問題は「自治」で解決する腹づもりであったことが伺えます。
”北はまだ反乱には至らない時間がある”と踏んでいたのです。
関東から始まり西、北の事件はほぼ50年間隔で起こっているのですが、天皇家の内心は「体制の崩壊」の危機感でいっぱいに成っていたのです。
実は「何かが起こる」はこの様な経緯の中で「荘園問題による崩壊の危機」も含めて400年の間で起こっていたのです。その強い危機感が累代の天皇にあったのです。

そもそも、両者共に「押領使」と「追捕使(令外官)」に任命されていたのであれば「警察権と治安権」を持っているのですから鎮圧出動するべき立場にあり、まして統治の国司から進言があって、その為に特別に派遣された「令外官」なのですが、観て見ぬ振りをしていたのです。
近くに居て旧領地の下総を奪われている秀郷にしてみれば ”一族の貞盛が居るではないか”と成るでしょう。”今下手な出立てをすると平族を敵に廻す事に成る”と考えたでしょう。
「貞盛」にしてみれば「将門」は一族なれど分家支流となれば”そんなの知るもんか”の「民族氏」の感覚が湧き出てくるでしょう。”場合によっては”とそれなりのゼスチャーを見せながら見据えていた可能性があります。
そもそもその証拠に事前にこの地域が「不穏な危険域」として観て「国司」や「郡司」から強い要請があって朝廷は「2つの令外官」を派遣していたのですから始めからこの傾向があった筈なのです。
更に、そもそも「押領使」は当初は「軍事上の兵員移動の担当官」であったのが、この乱の前から権限を大幅に広げて「反乱鎮圧(警察権併権)」にわざわざ変わったのです。
又、「追捕使」は「凶賦を追捕する役目」を持っていて「臨時任務」であったのですが、この状況を観てこの時から常置するようになったのです。全て符号一致しているのです。
「鎮圧平定」まで「切っ掛け」から観れば5年ですが、実際は前の混乱期から観ると少なくとも10年-15年程度の前兆期間になっていた筈です。
この乱以降はこの「令外官」は要請ある地域には各地に常駐する事に成ります。
ですから、「50年前後」で10年から15年程度を重複しながら「何かが起こる」の事件は進んでいたのです。

この「押領使と追捕使(令外官)の状況」を観ても”観て見ぬ振りをし、下手な手立てをすると、そんなの知るもんか”が働いていた事は明らかです。
間違いなく一族であり且つ事前に追捕使で派遣されている貞盛にはその役目があった筈です。
まして「融合氏」の秀郷にしてみれば”急に治安警察権への変更と云われても困るし貞盛が居るだろうが”と成ります。
ここでも阿多倍一族一門の「民族氏」の抜け切れない「民族氏」の「遺伝子的で無関心な感覚」が出ているのです。これが平族等の「彼等の特徴」なのであり概念ですから間違っているとは考えないのです。

この時期の背景も背景なのです。同時期1年後に瀬戸内から北九州に掛けて「純友の乱」の「独立反乱」が起ったのです。急に起こったのではなく「3-5年の潜伏重複期間」があって起こっているのです。
何か繋がりがある筈です。
「将門」は何らかの「純友」との繋がりを持ち「反乱」を共に呼応したのではないかとも観られます。

資料をよく考察すると、何れも「清和源氏の始祖の源経基」が関わっている事が判ってくるのです。
「将門の乱」は経基は「武蔵介」在任中に「郡司」(地方の行政長で地方豪族)と対立し、「追捕役」として仲介に出た将門に不満を持ち朝廷に告訴するのです。要するに逆恨みです。
「純友の乱」は大蔵氏と共に源経基は乱を鎮圧した事が大蔵氏の資料から判明します。
ところが通説は異なっているのです。源経基と小野好古の二人と成っています。
経基が朝廷に告訴(讒訴の傾向あり)します。
(朝廷記録の疑問)
ところが、何故、朝廷はこの事を書き記さなかったのか疑問が湧きます。
それはこの「2つの事件の経緯」と「朝廷側の苦しい思惑」が働いていたのです。
要するに歴史始まっての大褒賞と大勲功をした上で大蔵氏を指揮官に命じて置いたのだから当然そちらの方で記録が残る。片方で多少朝廷側の「立場事情」があって、「経基の讒訴」から事を歪曲させて「事件」から「乱」に仕上げたのだから、記録上は大蔵氏の事は別の意味もある事だし「後勘に問う」で逃げたのです。
「朝廷側の立場事情」とは「九州大蔵氏の自治独立の難題」と「以北の騒乱状況」でこの件で「純友や将門の事件」が引き金に成って収拾がつかなく成る事を恐れた事なのです。
そこで、先ず九州大蔵氏の「自治独立」の問題を無くす事の目的から、この事件を利用して「九州自治」を約束する形で「褒章勲功」などできる事全てを行う式典を行った上で指揮官を命じたのです。
指揮官の任命は名目です。
官僚からすると名目上は「別の式典」として記録する事を避けたのです。
「指揮官を命じる事」は「名目上の手立て」であり、同時に「中国以西の管理統括権」を与え約束する式典にも成る訳ですから、「純友や将門の事件」は質的に違う事から、官僚は記録を切り離して「褒章勲功」の方で別に記録して「後勘に問う」で逃げたのです。
その証拠に、「純友や将門の事件」の讒訴者でもあり、事件発端の当事者でもある経基の追捕の立場を「次官」として責任者の立場を与えなかったのです。また、逆恨みもはなはだしい将門告訴の当事者の経基は追捕とその責任者に指名されなかったのです。この事でも経基の立場と行為は見えて来ます。
責任者に任じられる事は鎮圧後にはその勲功とその地域の管理統括者に成れるのです。
しかし、経基にはその権利を与えなかったのです。
(経基には第6位皇子でありながら長い間源氏の賜姓を受けられなかったのです。事件解決後やっと受けた時の喜びの記録が遺されています)
「後勘に問う」から観れば”経基の行動少し変だな”と感じる筈です。
その”変だ”に対して直ぐに誰でもが察することですが、”事件を讒訴させ解決して勲功を挙げさせ賜姓の根拠にする”と受け取るでしょう。そうすると、これで ”アレ、責任者は誰”と「後勘に問う」で気付く筈だとしたのです。
「責任者探し」で「別の記録」(勲功幇助の記録と大蔵氏の記録)から大蔵氏が責任者であり、その時に責任者として事後は瀬戸内中国以西の管理統括権を大蔵氏に委ねる事で「九州の自治独立の問題」は解決する方向に動いた事が判明する事に成ります。芋づる式に判明します。
それでなくてはこんな事件の責任者任命に何も大げさに下記に示す要に「錦の御旗」と「国刀」と「従五位下の官位」等の現在までの有史来の誰一人も与えられていない様な勲功授与式典にする訳がありません。
誰が見てもここが「後勘に問う」で”変だな”と気が着く点の筈です。
さすれば朝廷としては「九州の自治独立の問題」は歴史上に遺す記録としては避けなければなりません。
少なくとも「後勘に問う」で判明したとしても絶対に避けるべき記録事であります。
 
とすると、「大蔵氏の自治独立」の方に主眼を置いて利用した事ですから、「純友や将門の事件」の内容には多少事件の歪曲が事件の取り扱いと記録上で働いている事に成ります。
そこで、何れも朝廷側から見ての罪状認否は次ぎの様に成っています。
将門は関東の賊に仕立てられ、純友は瀬戸内の賊・海賊に仕立てられている事になっています。
2人は何れも元役人。純友は「海賊」を取り締まる役人。その役人が海賊に成って反乱したとする朝廷側の言い分です。
将門は役目柄で藤原玄明を匿まったが常陸の国府を襲撃したとの朝廷側の言い分です。
経基は清和天皇の孫皇子でなかなか「源氏賜姓」を受けられなく功を焦っていたのです。
ところが疑問・間違いがここにあるのです。

「当時の海賊」(瀬戸内の海賊)とは、海の盗賊の意味での「海賊」そのものではなく、陸上にもある様に海上の「海利権」を糧として海上に「運行の安全」を保障し君臨した荒々しい仕儀する豪族の事ですから、明らかにわざとらしい間違いがここにあるのです。
そもそも、瀬戸内は讃岐藤氏の青木氏が海利権を持ち、対岸の中国側は「たいら族」の水軍(後に村上水軍)が持っていたのです。この事で海の海運の運行や漁業・海産物の殖産の安全の管理責任を負いパトロールなどの行為で「海の賊」等の掃討に働いていた「海の族」の「海族」(海のシンジケート)と称されていたのです。
それを「海賊」とわざと決め付けて記録したのです。明らかに当地の豪族によって管理統括されている海域で「海賊」がこの「乱」と呼称するほどの力は到底無く青木氏らによって押さえ込まれていたのです。
これ等の事を承知していれば明らかにこの矛盾と偏纂は「後勘に問う」であります。
瀬戸内の秀郷流青木氏は丁度この80年後頃の時期に「2足の草鞋策」で回船問屋を営み対岸から伯鰭の日本海沿岸までその圏域を伸ばします
「藤原純友」(藤原氏の養子とも言われ多説あり)は「海賊追捕使」(この事件に初めて派遣された「令外官」なのです)を務めていたのです。
これも「恣意的事件の根拠」としている事と明らかに矛盾しています。

(将門が上野を攻めた時の「上野介」は純友の父。 中央から派遣された行政長官の階級は 守「かみ」、介「すけ」、掾「じょう」、目 「さかん」と成っている。国司では介が実質の長官 )
(「藤原純友の乱」の主謀者純友は「上野介の父」がこの乱に関わっていた事から「将門の乱」をよく知っていた筈。)
(中央の行政官「国司」と地方の行政官「郡司」とは立場は必然的に異なりこの2つの事件の発端は源経基の「武蔵介」と土地の豪族の「郡司」との立場の違う「勢力争いの諍い」が原因している)

この時以降、「将門の事件」を含み各地に申請により「令外官」は派遣されるように成ります。
(国司が令外官の派遣申請の目的と郡司の申請はその目的とするところは異なる)
そもそもこの「海族」は各地にもあり、紀伊水軍、熊野水軍、伊勢水軍、駿河水軍、摂津水軍などがあります。(この5水軍は源平合戦の時義経に味方して、「たいら族」の水軍を破ったのです。)

又、当然、役目柄で過剰な行為に対する事に対して取り締まるにも「硬軟の戦術」があります。
見方によれば「純友の行為」は「海賊に成った」と成るでしょう。これを経基にこれまた讒訴の告訴をされ止む無く戦う事に成ったとするところでしょう。
将門も役目柄仲介しているのに郡司に恨みを持たず仲介役の自分を恨み、挙句は告訴される。
止む無く争いの藤原玄明の当事者を役目から安全上匿うことに成りますが、それを告訴されれば”何だ朝廷と経基と郡司は”、”経基等にしてやられた”となります。(玄明は常陸介末裔-父と将門は親交)
それを理由に攻めてきますが実力で応戦し周囲の朝廷軍を潰し回った。これに応戦出来る者なく、”それならば腐敗した朝廷に代わって関東の自治を九州の一族大蔵氏と同じ様に独立国にする”と成って反逆的な様相となった。そこで一族の国香に同調を求めたが反対された。結局は国香を潰す事に成ってしまった。以上と成りますが朝廷側の片方の言い分が先行していて何か変です。

「新王」とかの決め付けは朝廷側の言い分の罪状認否の明文構成ですので、「後勘に問う」からすると、朝廷側の言い分に上記した様に「時系列的史実」として傾向としては無理矛盾が多く出てくるのです。
後世に残す記録としては朝廷側を正とした大義名分が必要と成ります。この事から無理矛盾が出てくる事が多いのです。
この事から世の争いの「讒言讒訴の常」で、どちらにも同時に関係していた経基の動きから当時の朝廷内部の政治の何かが読み取れます。
(因みに海賊の意味の例としては、源義経はこの関西の4海賊軍で「たいら族」の瀬戸水軍に勝った。もし海族が悪とするならば義経は悪の親分に成ります。そうなのでしょうか。変ですし無理が伴います。)

その理由は「瀬戸内」と「坂東」どちらも「平族」の平安期中期までの基盤地域であり、同時期であり、「役職的な立場」と「反乱の根拠」の行動に持ち込む為の手法が全く同じである事です。

「歴史の時系列」と「史実の列記」から考察するとこの様に見えぬものも見えてくるのです。真にこの様に矛盾が出て「後勘に問う」と成るのです。
(3つ巴の構図と朝廷の思惑)
この2人(純友・将門)に何か親密な繋がりがないか調べていますが確定するに足りるものは現在確認出来ないのですが、あるとすれば”純友の親を将門は攻撃した”とするもの位です。
対立構図は「藤原氏」対「平族」の形でも、或いは「源氏」対「平族」の形でも、「藤原氏」対「源氏」の形でも、全く「3つ巴の構図」であったのかも知れません。
(筆者は「3つ巴の構図」と見ていて朝廷内の勢力分布の丁度狭間にあったと考えています。)
と云うのは、広域で云えば、朝廷から命じられた追捕使と押領使の「平族」の統括域とは云え、藤原氏北家の進出基盤地域でもあった処に「平族」の「将門の乱」(935-940)、「平族」の基盤地域に「藤原氏」の「純友の乱」(936-941)、共に相手先で起し合った「乱」とも観えます。これに経基が絡んだ「乱」とも観えます。
だから、誰も手を挙げない中で「平族」から「貞盛」 「藤原氏」から「秀郷」が名乗り出たのです。

源氏は何故名乗り出なかったのか疑問です。”潰す勢力が源氏になかったのか”と云うとこの後直ぐに清和源氏と成った3代目頼信系の源義家は以北勢力に力を注いでいますので「鎮圧の勢力」は無かったとは云い難いのです。
確かに頼信は兄頼光に守護代を譲り受けて兄の領国の伊豆を拠点に関東に勢力を伸ばしていました。手を出すと「藤原北家-たいら族平氏-頼信系源氏」の争いの構図が出来て共倒れが起こると観たと考えられます。
(天皇の思惑)
そこでこの事で”誰が得をするのか”と成ります。
それは、この事件の背景がそもそもそれが3氏の「潰しあい目的」が天皇の策略であったからです。
九州の大蔵氏には朝廷は最早歯が立たないところまで来ている事から以西は「自治」にして解決し。、東は3氏のどれかを遺す戦略です。そして”以北の阿部氏等の勢力は義家に潰させ私闘とする”を描いていたのです。
現に、この2つの乱・事件と思しき事件は、結局は朝廷にとっては「汚点の事件」でありますから、事件中は仲裁が入り私闘とする事の旨を将門側に史実正式に出していますので、「私闘」として裁かれ記録される結果と成っています。この時から天皇と朝廷は「私闘」の方針を持っていたのです。
「私闘」であれば「恩賞」「論功行賞」はしないのが普通ですが、この場合は秀郷と貞盛の約束がある為に特別の事はせず辞令により約束を護るだけの行為は果たします。
経基には源氏の賜姓を行いました。貞盛には官職の引き上げの約束をしますが、一代遅れの惟盛で行いました。
結局はここで「漁夫の利」を得たのは秀郷で、以後、関東域全域を獲得し支配下に入れますし、この時以降秀郷一門は藤原氏の北家一族として他の3家を潰して最大勢力に伸し上がります。
ただもう一人何もしないで利得を獲得したのは大蔵氏で中国以西と九州全域の自治権と貴族の身分と氏の誉れを獲得するのです。
結局、天皇はこの「2つの氏」(源平)を遺し、残りの2つ(大蔵氏と藤原氏)は潰す事を狙ったのではないでしょうか。この事件後の仕打ち・仕置きを見ると判ります。
「たいら族」は”美濃に下げられる”と云う事で最も危険な「源平の緩衝地帯」に追いやられます。
この事で「源平の潰しあい」を起こさせたのです。
この天皇家が描く戦略によって「たいら族」は滅亡し、11家あった源氏と義家等は「私闘扱い」とされ、且つ天皇から疎んじられて衰退し、遂には頼朝の反抗で一時的に蘇ったかの様に観えた事も静かに力を蓄えていた第7世族の坂東八平氏に3年も経たぬうちに完全滅亡させられるのです。
天皇の描いたシナリオは成功します。
更には普通なら地元の豪族集団の皇族7世族(ひら族)「坂東八平氏」が土地を奪われているのですから手を挙げる筈です。しかし、「将門」を潰すだけの勢力は「平族」と「藤原氏」と「源氏」の3勢力とに押されて「7世族の坂東八平氏」と云えども其の勢力は無かったのです。
この事が皇族7世族(ひら族)「坂東八平氏」にとっては、結局、”棚から牡丹餅”の結果となるのです。
結局、「たいら族」がこの結果、朝廷の懲罰を受けて一族は上総下総を残して平族(たいら族)は中部(美濃域)まで下がり勢力圏を以西の美濃にまで戻されて、この時以来、関東域にはきっぱりと勢力は無く成るまでに下げさせられたのです。
(この時から美濃秀郷流青木氏が大きく関わってくるのです)
(これが原因して緩衝地帯の美濃で源平の対立激化が起こり、美濃秀郷流青木氏が何とか仲介を図りバランスを取り戻そうとします。)
(秀郷一族の先祖伝来の上総と下総結城は取られたままに成っていたが、平氏退場後は実質支配の形であったが、最終的に頼朝により旧領と本領は安堵される。)

秀郷には恩賞の2条件が叶えられて「武蔵国、下野国」を与えられ、結果、関東は秀郷が押し出してその勢力権域を取り戻す事に成ります。
実はこの事から裏では大きく「純友の乱」を鎮めた大蔵氏を含む「5つの勢力」がうごめいていた事に成ります。

「2つの事件と青木氏の関係」
この思惑の働く混乱の中間に居て「3つの発祥源」の立場を護った2つの青木氏は巻き込まれる事無く子孫を遺し、「2つの賜姓族青木氏」は清和源氏の頼光系四家の血筋も受け継ぐと言う事を成し遂げます。これには秀郷流青木氏のバックアップがあった御蔭であり間一髪の「生き残りの戦略」であったと考えられます。一つ判断を間違えれば生き残れなかった筈です。
この「2つの事件」も1180年には「頼政の乱」もあった中です。
この「2つの事件」後と「頼政の乱」との間に生き残りの難しさを身に染みて感じていた「2つの賜姓族青木氏」は「2足の草鞋策」を実行するのです。
天皇も同族源氏を翻弄させていながらも青木氏には何も手を出さなかったのです。不思議です。
確かにその「武力的な勢力」は小さいのですが、「3つの発祥源」の「立場や権威」を源氏と共に発揮すれば源氏以上に武門を動かす力は充分にあったと考えられ、天皇もその事を充分に承知していた筈です。
もし天皇が「青木氏の力と行動」に疑問を抱いた時には「2つの事件」と同じ様な事の「引き込み戦略」に巻き込まれていた筈です。しかし、天皇と朝廷は賜姓青木氏5家5流と特別賜姓族秀郷流青木氏には手を出さなかったのです。
それは「3つの発祥源」を他に影響を与える事なくその「静かな立場」を厳守した事にあると考えられます。
故にそのままでは飲み込まれ結局じり貧すると読み、その為には「たいら族」と同じ様に「2足の草鞋策」で生き延びる事を決意したのです。
それにはこの時代を生き抜くには無力では無理であります。その為には「影の力」が必要であり、それを「2足の草鞋策」の経済力を基に「陰の力シンジケートの構築」に力を注ぎ、表に対しては「秀郷流青木氏の抑止力」を戦略として用いたのです。
これで「表向きの武力」は見えず巻き込まれる事は無くなります。
この事が朝廷と天皇に安心感を与えたと考えられます。

この様に「青木氏の外的要因」を主に描きその中で「青木氏の置かれている立場」を網羅しようとして論じていますがまさしく”紙一重であった”と云う事が判ります。
では、”何故に紙一重を守り通す事が出来たのか”と云う疑問が湧きます。
それは「紙一重の判断」を成し得たのはそれは”沈着冷静に研ぎ澄まされた精神構造”にあった訳ですからそれを人間に成し得るには「心の拠り所」と「仏の導き」以外にはありません。
それは有史来の先祖伝来の「祖先神の神明社」と「守り本尊の生仏像様」以外にはありません。
「4つの青木氏」が「固い絆」で結ばれていてこそ「心の拠り所」は守り通せるものであります。
この構図は他氏には決して見られない構図であります。
だから天皇と朝廷はこの「祖先神の神明社」と「守り本尊の生仏像様」の2つを決して潰さなかったのです。「4つの青木氏」を潰そうと思えばこの2つを潰す事で成し得ます。自然崩壊してゆく筈です。
現に各地に存在した神明社は現在では5000程度(主に江戸期建立)と成っていますが、当事の神明社は200程度であったと見られますが多くは消失焼き討ちされずに残存しているのです。
(この乱世の中でも「社会」もこの事の意味や青木氏の姿勢を評価していて、その神明社の尊厳を守り遺したのです。)
それは「4つの青木氏」がこの2つを護る事は強いては天皇家を護る事にも成るからです。
「祖先神の神明社」は「皇祖神の伊勢大社」を護る事と同じであるからです。
「祖先神の守人」とは「皇祖神の守人」であったからです。
「紙一重」としても「4つの青木氏」はその立場を沈着冷静に護り通したのですが、況や「天皇家の心の拠り所」でもあったからなのです。その沈着冷静な行動に対して天皇に深い感銘の安心感を与えたからなのです。つまり、天皇家の立場も東西南北で阿多倍一門に脅かされている天皇家をも護っている氏の青木氏であったからなのです。孤立無援の天皇家にとって唯一の味方と受け取っていたからなのです。
これはまさしく「天智天皇の初心」を忘れずに「天皇家の護衛団・近衛六衛府軍」の「2つの血縁青木氏」と「2つの絆結合の青木氏」が頑なにも200の神明社と共に護り通していたからなのです。

敢えて対比して、11代の同族の賜姓族の源氏を観ても判る様に天皇に疎んじられ社会から抹殺の憂き目を受ける等して潰されているのです。
朝廷と天皇は11代の源氏族を護ろうとはしなかったのです。何故でしょうか。
それは上記の事の「有無の差」なのです。その「生きると云う姿勢」の違いにあったのです。
社会も源氏に対して”武士の頭領”と誉めそやしながらも、他面ではその存在を認めていなかったのです。だから1氏も残らず11代もの源氏が抹殺滅亡させられたのです。

話を戻して、つまり、「2つの事件」より120年後の青木氏の「後勘に問う」の効用が大きく発揮されたのです。
その史書では、通説では”「純友の乱」には「源経基」と「小野好古」とが当たった”と成っていますが、ところが大発見で青木氏の研究範囲の中で、大蔵氏の資料史実から「大蔵春実」と云う阿多倍の10代目の子孫の人物が、天皇から直接に正式にこの乱の指揮官を命じられていたのです。(上記注釈の件)
経基は”追捕次官に任命”と成っています。そうすると指揮官が居た筈です。
その指揮官は誰なのか疑問が起こります。そこで上記の経緯から大蔵氏が絡んでいる筈としてここで「後勘に問う」の慣習から調べました。

この時938年、「純友の讒訴事件」に関して天皇より「錦の御旗」と「国刀」と「従五位下の官位」が与えられて指揮官を命じられている事が判りました。その人物が何と九州の大蔵春実でした。
この人物は更に1018年に自治を認められた大蔵種材の祖父に当たります。
孫の大蔵種材も1018年に「錦の御旗」と「国刀」と「従五位下の永代官位」と「岩門将軍」と「太宰大監」と「征西将軍」と「九州菅領」と「弓馬達者の栄誉号」と「遠の朝廷の称号」を与えられます。
自治に伴う全ての権限の政治、経済、軍事の3権と最高位の身分官職を与えられた事に成ります。
”与えられるだけ与えた”と云う感じで現在までにこれ程に与えられた人物はいません。
あってもせいぜい一つの称号程度の範囲です。春実にしても種材にしても驚異の勲功授与です。
歴史的にこの2人の勲功授受の史実の意味するところは大変大きい事に成ります。
「後勘に問う」そのものです。
将門と純友の恣意的な「讒訴事件」に対して朝廷は史実と違う事を正式な朝廷の記録に残さねばならない事に成ります。讒訴でありながら賊として反乱として扱い記録しなければならないことから矛盾疑問が出る事は承知していた筈で、後勘から観れば史実判明は必定です。

(後勘の史実)
1 940年頃の将門の乱や純友の乱の時に既に「九州全域」と「中国西域」を大蔵氏に委ね自治を認める事を決意しての天皇の行為と成ります。天慶3年5月3日の日付と成っています。
2 「錦の御旗」と「国刀」と「従五位下の官位」を与えた事は現在までの有史来で一氏と個人に与えたのはこの大蔵春実が始めてで最も信用している氏と成ります。
3 「従五位下の官位」は貴族に列する事を意味し、藤原秀郷一門と同じ身分となり、「錦の御旗」と「国刀」を与えられた事は藤原氏には与えられていませんので、藤原氏以上の身分と家柄となり「源氏-平氏-籐原氏<大蔵氏」で公に認めた事を意味します。
4 関東の阿多倍一族一門の「将門の乱」と連動しない様に以西は自治を約束して押さえ込んだ事を意味します。
5 「純友の乱」が通説とは異なる事を意味します。この「小さい反乱」と見られる「事件」の鎮圧に「錦の御旗」と「国刀」をわざわざ与える事ではありませんし、大蔵氏が出てくる事ではありません。
この乱はあくまでも「讒訴事件」である事を意味し、これを利用して大蔵氏を指揮官としたこの契機に関西以西と関東の安定を図ろうとした事を意味します。要するに経基の「2つの讒訴」を上手く利用した事を意味します。
6 大蔵氏の引き出しで成功した独立問題は別の反乱へと繋がってゆくのです。残るは以北の阿部氏一族等の解決と荘園制行き過ぎ問題の解決と成って行きます。ところが関東の問題を解決して「たいら族」を関東から引き上げさせたのですが引き上げたところが美濃で、その美濃での源平緩衝地帯の最前線のバランスが崩れて「源平の乱」が併発して始めたのです。
そして源義家がこの以北問題と荘園問題に大失敗を起こして以北は大混乱に成ります。

  「輪状の鎖の対立」
後勘の史実として、この時代の事件関係を並べて考察すると全て輪状の状態で夫々の立場で原因関係が繋がっているのです。
A 九州全域に”独立か自治か”で争っている時に。
B 以北陸奥域の安倍氏では”蝦夷と見立てられて”潰される苦労している時に。
C 関東域では「将門の独立の乱」で。
D 瀬戸内・中部地方域には「純友の独立の乱」で。
E 「国司苛政上訴・国司愁訴」が郡司や百姓等により各地で多発で。
(記録 尾張国郡司百姓等解文988)
F 賤民の難民、流人、放棄人、俘囚の反乱多発で。
G 朝廷内の官僚の腐敗
 
これは同時期の大きな出来事ですが、これ以外に典型的なこの時期の事件(E)が全国的に起こっているのです。それは上記の「4つの乱」の原因となる基なのです。
「以北問題」と「荘園問題」は関連しているのですが、国の代理施政官の「国司の苛政(非法行為)」を「郡司」や「百姓」等に依って朝廷の中央政府に訴えられる事件が多発していたのです。
朝廷に訴えても取り扱う官吏が腐敗の中にあるのですから無駄と言えば無駄な行為ですが、それだけに不満の限界に来ていたのです。
要するに「国司の政治」が良くなかったのですが、余りに「酷い状況」であって宮廷の大内裏の陽明門の前で直訴したのです。この行為は当事の慣習から異例中の異例で遠い地方から集団で歩いて出てくるのです。現在の「国会デモ」か「皇居の正門」でデモ行進するのです。民が国を離れる事態がそもそも異常な前代未聞の行為であったのです。
どれだけの「酷い社会環境」であったかが、現在の民主主義のデモではありませんので、この行為で判ります。”最早、誰に訴えていいのか判らない 何でもいいからやるしかない”の「民の心情」であったのです。まして、国司の下の「郡司」が参加しているのです。異常です。

AとBは国司の行政を無視した態度に不満
CとDは「将門・純友の乱」も戦いの元は国司に対する不満
となるのです。

丁度、この時期は「荘園の集団化」がピーク時(900年)に成り、これより行き過ぎの過程へと進む時です。
最早社会の横暴の流れを誰もが止められない状況と成ってしまっていたのです。

「対立の輪」「輪状の鎖」
この流れの輪は次ぎの様に成っていたのです。
7つの輪がぐるぐる廻る「酷い社会環境」と成っていたのです。
⇔の印の間には「苛政」(苛立つ酷い政治行為)が往行していたのです。

(天皇・皇親側)⇔(朝廷・上級官僚側)⇔(武家・武士団側)⇔(下級官僚・国司側)⇔(荘園主・地方豪族側)⇒(郡司・百姓側)⇔(賤民・俘囚側)⇔(天皇・皇親側)

AからFの経緯を調べると、これ等の7階級族が互いに隣の階級族と「輪状の鎖」で対立し腐敗していたのです。
これでは「対立の輪」が起こっている世情ですから、最早「融合の行き過ぎ」・「氏大集団化」・「荘園化」が誰にも止める事が出来ません。

特に(E)ですが、現場の治世を担当する国司が不法行為をして私腹を肥やしているのでは「国が腐敗」している事は確実です。
そもそも「政治腐敗」とはこの様な各階層の「対立の輪」「輪状の鎖」の連鎖が起こる事ではないかと思われます。
奈良-平安期の時代毎にこの階層の状況で調べてもこの様な完全な「対立の輪」は他にはありません。
私の方法として、”この「輪状の鎖」がどのくらいの程度で起こっているか”を「史実」を探し出し「時系列」で並べその「傾向分析」で調べると其の時代の乱れ具合が下記した様に判るのです。

全ての階層(要因)でこの「対立の輪」が起こっていれば「政治腐敗」、「輪状の鎖」の輪がところどころで切れていれば「部分的に腐敗」とか云う風にレベルの程度を判断して行く方法です。

(検査などに用いる統計手法の一種:技術手法です 逆に安定している場合にも要素の設定の仕方で可能)

注釈として、「3つの発祥源」の青木氏側から観れば、尚更にこんな「輪状の鎖」「対立の輪」中で上記の融合過程の「義家の不合理な行動」には同族として納得できませんし、また別の面で観ると、これ程の「輪状の鎖」の「世情の流」を止めた事は、「天智・天武天皇」「嵯峨天皇」に並ぶ「後三条天皇」はすばらしい逸材で在った事が云えます。先ず自然の摂理に任して行く所まで行く以外に止められない筈です。
しかし、主に優秀な3人の天皇が出現して止めたのです。
これには「洞察力」と「勇気」と「決断力」と「戦略的思考力」の4つを兼ね備えた崇高な人物であらねば成りませんが、天は味方してこの3人にそれを与えたと考えられます。

だとすると、累々と前記している様に「阿多倍一族一門」が全階層に何らかの形で深く関っている事は明らかですから、彼等の「独特な行動」、或いは「法より人」「石は薬」の考え方が「階層の対立」を直接、間接に影響して「対立の輪」を起こしていたのかも知れません。現在の中国の様に。私はこの説を採っています。これは阿多倍一族一門の利害の害の一点で天智天皇の「何かが起こる」現象の根源に成っていたのです。

「天智天皇」が「融合氏の国策」の3策を断行したのは実はこの「何かが起こる」の「懸念事」に在ったと観ているのです。
つまり、この「輪状の鎖」「対立の輪」が国民の間に連鎖的に起こり、国が場合に依っては割れ、全階層に「法より人」「石は薬」の考え方の影響力を蔓延らせて行くのを観て懸念して、「阿多倍一族一門」の”「独立自治」が「武力的独立」に因らずとも自然に雪崩の様に必然的に起こってしまう”と考えたのではないでしょうか。
この「天智天皇の考え方」が累代の天皇の難題の一つとして引き継がれて、「後一条天皇」の時に「九州の自治」(1018年)に対して最早逃れられないとして止む無く改革を決断したのではないかと考えられます。
片方では「荘園の行き過ぎ」から「融合氏の行方」が「行き過ぎ」になり、止められない状況と成って来ていたのです。
この「輪状の鎖」の対立の中で「阿多倍一族一門」に日本の精神の「互助」が働けば、尚更にそう難しい事ではなかったのではと考えられます。
日本列島南北で戦略的に揺さぶれば3箇所は一族一門に必ず有利に働いた筈です。
恐らくこんな政治状況の中で、天皇側は、”後漢が日本に移したような形が出来てしまう”と冷や冷やしていた筈です。幸いに「法より人」「石は薬」から「互助」が働かないのです。

簡単に渡来後に瞬く間に「無戦制圧」して行って突然に「帰化」の手段を採った理由は”史実的に何かあったのか”と調べましたが史実として遺されている事件性はありません。
天智天皇は「何かが起こる」から早々と先手必勝で先ず「帰化」の決断をしたと考えられるのです。

「品部180」から「在来民」が「物造り」の「技能伝授」があり「急速な経済的な潤い」を得た事が”「無戦に成った唯一の理由」”とされているのは事実なのですが、”帰化する、しない”は”直接の理由にはならない”のではと考えているのです。
「潤い→無戦→帰化」の「流れ」の中で「無戦」と「帰化」の間には”何かあった”と考えるのが普通ではないでしょうか。

「何かが起こる」の考えは「帰化」を認めた以上は「国策3作」「融合氏のへの転換」によって「石は薬」「法より人」の考え方を変える又は無くするの唯一の手段と成ります。
それでなくては ”国体は成り立たないし、その安寧と安定はありない”と成ります。
この事は言い換えれば、「融合氏:3つの発祥源」の「青木氏の存在」は「国の国体の安寧と安定」と等しい事を意味します。

つまり彼等の神の「産土神」を押さえ、別に「融合氏の青木氏」には新たに祭祀させた「祖先真の神」にする以外には ”国体は成り立たないし、その安寧と安定はありない”とする天智天武天皇の「手立て」であった事が判ります。
即ち、「祖先神 神明社」はその時より「融合政策のシンボル」と成り得たのです。

「皇族賜姓青木氏」と「特別賜姓秀郷流青木氏」はこの「対象氏」としてこの考え方を体現しこの紙一重の時代を沈着冷静に行動判断したのです。

中でも、「特別賜姓秀郷流青木氏」の立場は極めて難しく重要で事の可否を決め得る立場であった事が覗えます。
皇族賜姓族を護りながらも、秀郷一門の中での「経緯」や「第2の宗家」の立場もあり、この2つの難しい立場を護ると云う「至難の業」に挑んだのです。
それには”「皇族賜姓青木氏」と全く同じ官位官職名誉を与える”と云う「嵯峨期の詔勅」の範疇を遥かに超えて天皇は決断したのです。

(「嵯峨期の詔勅]による青木氏の名乗りは、皇族の朝臣族又は場合に依っては例外的に宿禰族であることが朝廷に依って承認されれば賜姓無くして名乗れるだけのもので、前記の青木氏と守護神(神明社)-4での「俸禄と褒賞制度」の授受一切と官位官職等の授受は無関係です。
秀郷流青木氏はこの「嵯峨期の詔勅」により特別に賜姓を受けて青木氏を名乗った氏であり、その時、賜姓族と同じ身分・家柄・官位・官職等を同じく保持した氏です。大きな違いがあります。記録からは「青木氏の名乗り」だけでこれ等のものは申請していないのですが与えられたのです。この事からも以下の数式の天皇の思惑が良く判ります。)

「2つの青木氏の存在」=「国の国体の安寧と安定」
「産土神」<「祖先神」=「国の国体の安寧と安定」
「2つの青木氏の存在」+「祖先神 神明社」=「融合政策のシンボル」

「阿多倍一族の考え」
反対にこの時の渡来時に”阿多倍一族は何かを考えた。”とすると、”ではそれはどんな考えなのか”となります。
先ず、全体の置かれている環境・経緯から観て、筆者が阿多倍の置かれている立場であれば次ぎの戦略・戦術を採るでしょう。経緯から見てこれ以外に「首魁・長」としてないのではと考えます。

想像する経緯
国を追われてぞくぞくと入国してくる漢族の難民の「衣食住の手当て」等の安定の担保が成されなくては戦いは難しいし、下手な出方をすると17県民200万人の大難民は大混乱に陥る。後漢の首魁としては無茶な事は出来ず「戦略」が必要となる。かと云って滅びたとは云え優秀だといわれていた「漢民族の自負」がある。
国が違うのだから考え方も違う。何とか柔軟に対処したい。幸い人民の進んだ技能がある。在来民も慕っている。ここは戦いを避けて何とかこれを生かす先ずその算段が必要だ。状況を観ながら上手く行けば次の戦略で行こう。ただ場合に依っては朝廷側から何らかの方法で潰しにかかることも有り得る。その手立ても考えて置く必要がある。と首魁・長である阿智使王と阿多倍王は考えた。
そこで次ぎの戦略を立てた。

基本戦略
1「潤い→無戦→帰化」の「流れ」の考え方を「基本方針」として踏襲する。
2「民族氏」>=「融合氏」の体制を構築する。
3「独立か自治か」を獲得する。

戦術1 全国に上から下まで自前の力を浸透させる。先ず「限定地域」(九州南北地域にする)を定めて「安住の地」を作り上げる。その為に「在来民」との融和を図り「職能集団」を全面に押し出す。

戦術2 入国地の北九州から南九州に拠点を移して朝廷から遠隔地にしておく必要がある。
大隈の隼人を本拠地として200万人を指揮する。

戦術3 「潤い→無戦→帰化」の「流れ」の中では、在来民の賛同を得られないし孤立する恐れがあり「食料武器調達」は「長期戦」になると困る。続々と入国してくる「後漢の民」に対して危険である。支配下に入った在来民にも大犠牲が出る。仮に独立しても長く続かない。
故に今すぐに「独立戦」は困難と判断。

戦術4 一度帰化して上から下までの階層に勢力を浸透させて基盤を造る。天皇家に血縁で繋げ朝廷に政治基盤(政治、経済、軍事)を伸ばして為政力を着ける。
其の力で国内を幾つかに分けて子孫とその配下と品部を配置する。

戦術5 状況に応じて7つのブロックの自治か独立を政略的に基本方針に従い達成する。
一族一門の「多少の犠牲」が予想されるが政敵(源・藤・橘・皇親族等)を政略的に潰す。

戦術6 政敵日本全国統一する為の国策「融合氏」に対して、「私有化」に誘導して「民族氏」である「後漢人民」の「安寧の地」を確保する。

現実には帰化(645)から概ね100年間位で次ぎの様な初期基盤が構築された。
これ等の「戦略戦術」に際しては次ぎの基地を構築して実行した。

「7つの基地」
関西伊勢本部  阿多倍王の一族(後漢王族の直系子孫 桓武賜姓平族・京平氏 たいら族 品部)
九州北地域基地 大蔵氏の一族 (皇族血縁族 賜姓族 品部 上級官僚為政族 品部)
九州南地域基地 肝付氏の一族 (大蔵氏末裔 皇族賜姓族支流 官僚伴氏と血縁族 品部)
中国地域基地  坂上氏の一族 (平族末裔1一族 皇族血縁族 賜姓族 官僚軍務族 品部姓族)
関東地域基地  平族支流一族 (平族末裔2一族 後漢王族の血縁族 下級官僚族 品部) 
中部地域基地  内蔵氏-清原氏(皇族血縁族 賜姓族 上級官僚為政族 品部)
陸奥地域基地  阿倍氏-安倍氏(後漢王族支流族 中級官僚為政・軍務族 品部)

「基地のその後の経緯」
関西伊勢本部は1185年 平族滅亡 伊賀氏として遺す
九州南北基地は1018年 自治権獲得 大蔵氏・肝付氏等繁栄する
中国地域基地は1185年 陶部氏滅亡 村上氏・海部・武部の姓氏族で遺す 
関東地域基地は950年  関東平族衰退 関西以東に後退 磯部氏等姓氏族で遺す
中部地域基地は1062年 内蔵氏・阿倍氏衰退 支流族で遺す
陸奥地域基地は1087年 安倍氏・清原氏滅亡 支流族で遺す

平安末期に最終の段階で関東、中部、陸奥地域は最終的に犠牲の予期はしていたが、思わぬ事件が起こり失敗し戦略を見直し後退させます。しかし、鎌倉期-室町期から観れば常識的に首魁が採る「基本方針と判断1-5」の全ての「基本方針と6つの戦術」の内容は完全一致しているのです。

筆者が最初に描いた「戦略・戦術」通りにほぼ進んだと観ています。
「無戦」と「帰化」の間には”何かあった”と”阿多倍一族は何かを考えた。”は真に「基本方針と判断1-5」と考えたのです。
それを判断通りに「150年程度」(初期100年)で完全に実行したのです。
(阿多倍はかなり長寿であったことが記録から判明する)

史実から領土の確定時期
645年に正式な帰化許可 北九州域(大宰府付近)に定住を許可
650年頃には薩摩大隈隼人に定住地移す 「阿多」にも定住地
675年頃には伊勢北部伊賀地方の半国割譲
685年頃には賜姓授受 賜田賜る
723年頃には薩摩大隈が攻められ護る 大隈地方を半国割譲
728年頃には功田で飛鳥高市郡を治領する
730年頃には近江-安芸の以西地域を治領する(大領)
780年頃には北九州の以北の正式な領主に(檜前領主・・)
802年頃に蝦夷地征討 内蔵氏と阿倍氏 奥羽7国全域と越後一部を治領する
833年頃には「7つの地域」を発展させた功労で例外的に特別に一族の賜姓族を「宿禰族」に昇格
(この時に軌道に乗っているので帰化から最大185年程度経過) 
938年に「純友の乱」(清和源氏始祖経基王と共に)で朝廷軍として「錦の御旗」の下に「天国刀」を賜り鎮圧の責任者として命じられる。中国以西と九州の自治を約束
940年頃に暫定にて瀬戸内と長門国域まで鎮圧し治領する
941年以降 鎮圧後、中国12全域と北九州全域を治領する
1018年以降 九州11全域の自治の「院宣」を受ける
1070年頃以降 長門国・岩戸(出雲)・岩門を治領する。

阿多倍一族一門は・「帰化後425年」で国の大半と一部地域を正式に領地としているのです。
正式の前には既に無戦征圧しているので帰化後は20年程度で完全に勢力圏に納めているのです。
だから、この後の内蔵氏・阿倍氏末裔の「安倍氏・清原氏等の事件」や平族の「将門の事件」や「純友の事件」(大蔵氏・平族等で鎮圧)やAからG等もこの判断の中での出来事なのです。
安倍氏や清原氏等の「辛い犠牲」も「大事の前の小事」として予期していた事で首魁・長の判断の中であったと観られます。

「概念の違い」
これは在来民持つものと比べると、「戦い方」或いは「目標達成」に対する根本的に異なる「感覚・概念」の違いとして出て来るものなのです。
これが「融合氏」と異なる「後漢の民」の「民族氏」の一見「無関心主義」と観られる概念なのです。
彼等の中では「通常の思考規準」として割り切れて出てくる概念なのです。
「融合氏」であれば躊躇なく”それ助けよ戦いだ”と成るでしょう。
「融合氏」であるならば「身内を犠牲」にしての「戦略戦術」であるなら大いに悩むところである筈です。
「身内を犠牲」にすれば「因果応報」の概念が湧き出でて”何時か自分も同じ目に会う”と考えて「通常の思考規準」としないのが「武家の習い・武士道」として「伝統」と成っている筈です。
ここが「融合」と云う言葉の意味なのであり、”溶け合う”に依って”同一”と成り、”身内は自分””身内を見放せば自分を滅ぶ”と成る概念なのです。
これが「民族氏」と「融合氏」の概念の根本的な違いなのです。

「民族氏」の概念=「無関心主義・漢民道」(民族制度の思考)
「融合氏」の概念=「武家の習い・武士道」(氏家制度の思考)
「民族氏」は「大陸的概念」
「融合氏」は「家族的概念」
その違いは以上と成ると考えられます。

阿多倍一族一門(惣領・家人・郎党)と其の配下は全てのこの8階層(「対立の輪」「輪状の鎖」)
に関わっていますので「大義名分」はどの階層からも出せます。しかし、これ程の「独立自立」を押し立てる名文があるのにも拘らずこの様に阿多倍一族一門にはまだこの「姿勢や態度」の「民族氏」の抜け切れない「無関心の感覚概念」が存在するのです。
「中国大陸」と云う「多種多様民族」の中では「無関心の感覚概念」でなくては生きて行けないのであり、概念の「良し悪し」では無いのです。
同様に日本においても”「7つの民族」を一つにまとめて「国の安寧と安定」を図る”と天皇が考えた以上は「融合民族」(・民族)をより進めるには「思考の単位」を小さくして矢張り「融合氏」(・氏)の国策を採る以外には無い筈で、ここに阿多倍一族一門との帰化後の「激しい対立」があったのです。

上記の様に66国中の40国程度が彼等の治領範囲であるのですから、彼等の影響は影響の範囲を超え上記する「民族氏」の「大陸的な感覚・概念」が日本と云う「小さい島国」に蔓延こる事は誰が考えても当然の事です。
そして蔓延った場合は”国は滅びる”(現在の国体は消える)と考えるのも当然の事でしょう。
「天智天皇」(「何かが起こる」)から「嵯峨天皇」と「後三条天皇」の優秀な為政者と、その後の「院政」(天皇・上皇)では充分に考えられる「感覚・概念の差」である事でしょう。
だから、彼等の「基本方針と6つの戦術」に比較して、対峙する天皇の「国の安寧と安定」の基本方針である以上は「融合氏の3策」を絶対的に推進しなくてはならないと成るのは必然です。
両者ともに当面採らなければ成らない「必然の戦略戦術」だったのです。
普通から考えればこの状況では「争い、戦い」は起こる事は間違いありません。

「帰化と治領の理由」
では、国が「融合氏」の「国策3策」を掲げていながら、それに反する事を何故したのかが疑問です。
”それならば、「帰化と治領」をしなければ良いではないか””何故、帰化を許し上記する国の40国の治領を許したのか”矛盾です。
それは次ぎの6つの理由によるのです。
イ 疲弊していた国を「物造り」の「技能集団」が在来民を誘って国を豊かにしてくれた事、
ロ 優秀で豊富な知識官僚(6割)として働き国体の根幹とする「国家体制」を近代化し「律令国家」にしてくれた事、
ハ 治領する国々の安定化を任せられる力を持ち対処してくれた事、
ニ 統一されていない日本の国を彼等の進んだ武力で鎮圧してくれた事、
ホ 対外国の脅威から国を護ってくれた事、
ヘ 入国後、無戦征圧で実効支配している事、

これだけも一民族氏の彼等に「勲功や治領」を許す事があれば認めない方が国が乱れる筈です。
これが彼等の「基本戦略ーイ~ヘ」であったのです。
天皇は”しかし「民族氏の思考原理」は問題だ”のジレンマに陥っていたのです。

そのジレンマが今度は”余計に危険だ、「融合氏」にしなければ”と「天皇の悩み」は逆行して行ったのです。そして一時は天皇はこの「判断の過ち」(隼人の戦い)を犯したのです。
当然にこれには歴史的に史実として上記し前記する「戦い」を含む激しい「やり取り」があったのです。
「民族氏の思考原理」が働き、国策に従わない713年-723年の「隼人の戦い」の例に観るように。
しかし、朝廷は上記した勢力では勝ち目など始めから有りません。
しかし、余りのジレンマの酷さから”潰しにかかるミス”を犯してしまったのです。
それ以後、冷静に成り「戦いのミス」はしなく成ったのです。
むしろ、上記「史実から領土の確定時期」の様に「取り込む作戦」に切り替わったのです。
「排除作戦」→「取り込み作戦」
その決定的な流れの重要な判断をしたのが「後一条院」の寛仁2年(1018)の「九州全域の統治権自治」を認めた事なのです。これでほぼ決着した事に成ります。無闇に認めた訳ではありません。それだけの綜合的な実力を持ち得ていたからでねむしろ朝廷よりあるのではと考えられる位です。判断はその直前の「純友の事件」の時に事前通告する(938年)手立てを講じていて冷静です。
これは「民族氏」と「融合氏」の妥協案と成ったのです。
阿多倍一族一門からすれば「基本方針と5つの戦術」に合致し「独立」に成るには及ばすとも充分とは行かずとも納得できる結果です。
「32国の統治権」を獲得しているし、天皇家とも血縁族と成り子孫末裔は遺せたし問題は少ない筈です。ほぼ達成できたからこそ”「大事の前の小事」”として「陸奥の一族」を「無関心主義」をここで発揮し見放したと云う事に成ります。

清和源氏や藤原氏と戦っていた場合は帰化時ではなく40国の勢力ですし、天皇より九州地域の自治権を認められて40年後の事ですし、「錦の御旗」と「遠の朝廷」と「天国刀」を授かっているのですから、上記する様に大儀名文は充分あります。
軍事力から云っても格段の差、阿倍比羅夫や阪上田村麻呂の実績もあります。
内蔵氏、阿倍氏、安倍氏、清原氏を救い出す事は簡単であったし、天皇も文句は出せない事であった事から犠牲をわざわざ払う事無く基本方針を貫く事は充分に出来たと観られます。
そうなれば関東と中部と関西の3地域を残して両サイドは独立まで待ちこむ事は出来た筈です。
この両サイドの力からすれば関東や中部や関西を獲得する事は時間の問題です。
軍事だけではなく政治の6割を末裔一族が占め、経済は品部180とその姓族が各地で育っているのです。問答無用です。
しかし、彼等は何とそうしなかったのです。後一条院の正式な「自治認可の裁可」に対する「交換条件」として。

彼等の基本方針は
1「潤い→無戦→帰化」の「流れ」を踏襲する。
2「民族氏」>=「融合氏」の体制を構築する。
であったからだと考えられます。
この基本方針が賄えていたからです。
しかし、2の基本方針は朝廷側からすると「民族氏」<「融合氏」成っている筈です。
朝廷はこの「折り合い」をこの段階では「民族氏」=「融合氏」にほぼ等しいとして踏み切った事に成ります。朝廷の基本方針にするには「2つの青木氏の存在」の今後の如何に関わっていたのです。
ですから、上記した「青木氏の存在」=「国の安寧と安定」の数式が成り立つのです。

問題は”その後の荘園問題の絡みから来る「融合氏」はどうなるのか”です。
答えは次ぎの政治改革の断行にあるのです。
「後三条天皇」の1068年の「荘園整理令」
「白河天皇」の1072年の「荘園公領制」
以上2つの改革を導いた英断にあると観ます。

恐らくはこの英断を観て”阿多倍一族一門は引いた”と観ていて、上記の「基本方針」に沿ったと見て居るのです。
「九州全域の自治」に対し「国策に従う事」(荘園整理令と荘園公領制)と「戦いを起さない事」を条件に纏まったと考えられ辻褄が合うのです。

源義家一族の「前九年の役」と「後三年の役」を天皇が「私闘」としたのはこの「協議の妥結案」に逆らうものであったからです。
「義家等の行動」そのものが「国の行く末」、「融合氏の行く末」、「青木氏の行動」を破壊や波乱に導く可能性があったから「私闘処置」のみならず「疎んじる」(源氏を潰す)と云う決断の行為に出たのです。
「青木氏」に対する扱いとは源氏の扱いは間逆であったのです。

天皇は場合に依っては阿多倍一族一門が「契約違反」として動く事を懸念してハラハラしたのではないでしょうか。そして、「民族氏」の彼らの冷めた様な冷酷無比と観られる「無関心主義」に対して「融合氏」の欠点として、”周囲の実情も考慮せず「カーと成る性癖」”を天皇は憂いたのではないでしょうか。
それが「融合氏の象徴」の源氏に出ていたからなのです。「融合氏」を進めなければならない立場にありながら「間逆の行動」を採っている源氏を許す訳には行かなかったのです。

これが「後勘に問う」の当時の実情であって、「荘園整理令」「荘園公領制」の実行に依って、”最早「事の流れ」は決まった”と観て、単に「私闘」と片付けたのではないかと考えます。
しかし、この事を救ったのが「真逆の立場」にあった懸念していた阿多倍一門であって、幸いにも上記した様にこの「民族氏」は鎌倉期-室町期の「弟2の融合氏」と進み、結果として「民族氏」の「阿多倍一族一門」と「融合氏」との両方に執って丁度良い「結びの結果」と成った事に成ります。
この事から、青木氏と同じ立場にありながらも「源氏の判断ミス」の行動が際立ってしまったのです。
これでは最早、天皇のみならず社会は「源氏を遺す根拠」が無く成ったと成るのではないでしょうか。
武士階級では「源氏の頭領」と表向きには褒めはやしていたが、一面では「青木氏の存在」即ち源氏に匹敵する力を持っていた藤原氏の秀郷一門の「特別賜姓族の青木氏の背景」と「皇族賜姓族青木氏」を片方で見ながらも認めていなかった事が判ります。
それは「社会の民」は当事、民自身で「心の拠り所」の神社を建立する力は無く、多くは青木氏が建立する「皇祖神の伊勢大社」に繋がる「神明社」に「敬いの心」を持ちながら「心の拠り所」を求めていた事でも判ります。
(源氏の八幡社より神明社の方が段突に信心は高くこの傾向は明治期まで続きます。伊勢参りの形で神明社に詣でた。)
源氏が持て囃される事で民から「特別の氏」と見なされ、必然的には源氏の守護神の「八幡社」は武士以外には「特別な神社」と扱われてしまったのです。その反面、青木氏は「特別な氏」でありながらも、「神明社」を通じて慕われ崇められていたのです。平安期以降は「2足の草鞋策」としても生活は民の下まで降りて行き民と一体と成って行ったのです。それには「絆結合」で結ばれた民の「第4の青木氏」の功績が大きかった事が覗えます。この様に青木氏は源氏と異なり「生活の面」でも「民と一体」で生き延びてきたのです。

この民まで繋がる「融合氏」「3つの発祥源」としての青木氏を護り支えた平安時代の累代の天皇はその意味では”ぶれ”ていなかった事が判ります。
(平安以後は特別賜姓族の秀郷流青木氏が天皇の代わりを勤め賜姓族を懐に抱え、秀郷一門も護りその役割を果たしたのです。特別賜姓族の秀郷流青木氏あっての「4つの青木氏」であった。)
その意味で「後勘に問う」から観れば、秀郷第3子の千国を申請外で特別賜姓族として「村上天皇」が容認した事の判断も優れていた事に成ります。
その天皇の中でも「後一条天皇」「後一条院」も「後三条天皇」と並んで優れた先を観た判断の「先見の明」の「通眼の持ち主」であった事が云え、「逸材の天皇」として認める必要があった事に成ります。

しかし、この平安期の「民族氏」の冷めた「感覚概念」は現在も引き継がれていて日本人の政治に対するアンケートでも出て来る4割にも上る数字の「無関心族」「無所属派」としてこの感覚の持っている人が多いのは此処から来ているのでしょう。又、”周囲の実情も考慮せず「カーと成る性癖」”も同等に多いのも此処から来ているのでしょう。
現在でも「民族氏」が消え「第2の融合氏」と成ったけれど「7つの民族融合」の日本の国民の3割程度は中国系の日本人ですので、この「感覚・概念」を執拗に遺伝子的に引き継いでいるのかも知れません。
「氏的」には7割程度に融合していればまあ殆どの「融合の国民」と云っていい筈です。

  「融合の必然性」
本文で云う日本人の「7つの民族」の「融合氏」を分けるとすると、鎌倉期以降では「第1の融合氏」と「第2の融合氏」がある事に成りますが、この「2つの融合氏」を成そうとすると、初期には「血縁」で緩やかに拡がりますが、必然的に「氏間の競い合い」が起こり、この様に最後期には「争い」で決着をつける事が起こるのは「自然の摂理」です。
「2つの融合氏」=「血縁」→「氏間の競い合い」→「争い」→「融合」=「自然の摂理」

平安末期に起こり始めた「源平」(民族氏と融合氏)の様な「争い」は各地で起こっていますが、「民族氏」問題から危機を感じて「国の安寧と安定」を国是として、この様に「天智天皇」が政策として始めた「3つの発祥源」の「青木氏」を模範として、それを進化させ発祥させ推進させました。

それが第1(融合氏)と第2(民族氏)の「融合」の経緯を辿り、遂には、この様な融合は「争い」を誘発させ、下の氏(姓族)が上の氏を潰す「下克上の争い」の現象(姓氏誕生)へと繋がり、それが全国的に広がり「氏の潰し合い」(氏間と姓間と氏姓間の争い)の「戦国時代」へと繋がっていくのです。
この時、多くの氏は「平安期の氏数」まで入れ替わり激減して潰れてしまったのです。
つまり「融合氏」としての弱点が原因したのです。
「弱点を直す努力無し」では生き残れずこれはこの世の「氏融合の必然性」です。

この様に「後勘で問う」で観ると、この中で「氏」を遺せるには、(「源平」の様に成らないようにするには)「決定的な何か」が必要な筈です。
それが(証拠)「1千年以上の悠久の時を過ごして来た生き残りの歴史」を持つ「青木氏」に観えているのです。
それが前記した次ぎの数式で表されると考えています。

「鶏の卵関係」=「氏融合」=「子孫存続」=(血縁と生活の絆)=「4つの青木氏」
「2つの血縁融合」+「2つの無血縁融合」=「子孫存続」の条件

「争い」を伴なう「氏融合」ではこの条件(「鶏の卵関係」・「血縁と生活の絆」)を伴なわなくては「滅亡の憂き目」を受けるのです。
しかし、これは「青木氏の歴史と期間」から観た証明の条件ですから「融合氏」全体から観た集約される条件としてこれ以外に他に何かがある筈です。
それを検証する為に次ぎに更に検証進めます。

  「氏融合の第2の条件」
阿多倍一族一門以外にも実は中国地方と北九州地方一帯にも藤原純友による「独立国反乱」が起こっており、これには阿多倍一族一門の「大蔵春實」と賜姓族の清和源氏の祖「源経基」が当たりました。
1年早く起こった「将門の乱」も夫々を代表する「平貞盛」も「藤原秀郷」の2人も上記した全国の「阿多倍一族一門」の出方を観たと考えられます。しかし、「貞盛」と「秀郷」の両者と共に上記する理由(融合が進み過ぎた)で「阿多倍一族一門」も「将門の乱」の方では直ぐには動かなかったのです。
この「両方の乱」の発生場所は何れも阿多倍一族一門の根拠地・土地柄で共通しています。
「純友の乱」の方は根拠地として重要度の高い地域であり、相手は「藤原氏」でありすぐさま大蔵氏が敵対したのです。
「将門の乱」の方は「関東たいら族」の根拠地(上総下総)で「将門」は伊勢伊賀の桓武賜姓族(781)の支流平族の身内ですので「無関心」を装ったのです。
そして、結局は「純友」には「阿多倍」の次男の「大蔵氏」(賜姓族・北九州)の末裔10代目「春實」が当たり、5年の後に鎮圧させ、春實には中国地方と北九州地方を正式に領地とする事を許されます。
「将門」には「阿多倍」の伊勢伊賀の末裔賜姓「平国香」(将門に殺された)の子4代目の平貞盛(賜姓族・伊賀)が当事者(事件の追捕使・押領使でもある)でありながら暫くは無関心を装い様子を伺ったのです。
何れも阿多倍一族一門の地域帯で起こり、阿多倍一族一門が対応したのです。
将門の乱は身内が起こしたのです。
そこで、今度は二人は逆に痺れをきらした天皇から出された条件に吊られて、「貞盛」は身内の拡大を、「秀郷」は潰されることが無いと見て身内の拡大を考えて苦しい5年の戦いに挑んだと観られるのです。

特筆・注意
ここで理解を深める為に先に「たいら族」と青木氏との関わりを知っておく必要があります。
「たいら族」とは「氏」としては敵対する立場にありながら「血縁・隣人・人」としては不思議でかなり親密な関係にあったのです。
「青木氏とたいら族の関り」
「桓武平氏」・「京平氏」・「伊勢平氏」と呼ばれる桓武天皇より賜姓された氏です。
関東の「皇族第7世族」の「ひら族」(平氏・坂東八平氏)に準えて「伊勢伊賀」に住する事に成った後漢から帰化した大隈の首魁「阿多倍王」にその功(技能普及で国を富ました)に対して慣例を破り「たいら族」(平家・伊勢平氏)を賜姓し伊勢北部伊賀地方を青木氏から外し半国割譲して与えたのです。
本来は賜姓は4世族内の者で第6位皇子に与えられる天智天皇からの慣例でそれまでは青木氏として賜姓していたが、「光仁天皇」(伊勢青木氏の始祖施基皇子の子)の子の「桓武天皇」は自分の母の「高野新笠」(阿多倍の孫娘・光仁天皇の妻)の祖父阿多倍王(伊勢伊賀在住)に対して賜姓したのです。
伊賀の高齢の「阿多倍王」又の名の「高望王」「高尊王」、朝廷側の名の「平高望」「平望王」「平尊王」として、死亡後に”生きている”として伊賀に出向き賜姓したとされています。
そして「辻褄と帳尻」を合わせる為に「桓武天皇の曾孫」として処理したのです。

しかし、伊勢北部地域の伊賀にはこの様な「桓武天皇の曾孫」とするものは皇族の記録には確認されないし、伊勢伊賀地方に第4世族の皇子の「王」とすることもおかしいし、「曾孫」とするも年数が合わないのです。
後漢の王の「阿多倍王」と極めて酷似の名であるところから、又経緯からも「高」を「たいら族」(平族)とした事から真実味を出す為に「平」に変えたと観られています。
これに対して「阿多倍王」は「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王」の孫娘と血縁して3人の男子を産みこの子供に賜姓をうけ「坂上氏」、「大蔵氏」、「内蔵氏」を発祥させたのです。
つまりは、この事により「皇族出自」としてその父親も同扱いにして第7世族の「ひら族」(坂東八平氏)に準えたのです。
記録上は阿多倍の名に似せた名を作り出し「皇族出自の曾孫」として扱ったのです。
その「平氏」の賜姓を受けた事によりその「阿多倍」の孫より「賜姓伊勢平族」として「平国香」-「平貞盛」より以降の平清盛までの末裔等の記録が残っています。
(末裔の国香以前は不明で、国香は年代から孫か曾孫に当たる)
大蔵氏等3賜姓族は天皇家の血筋を保持し、賜姓「たいら族」と阿多倍の縁戚族「阿倍氏」等は無血縁です。
これを強引に孫或いは曾孫としているのです。
この「平国香」より6代後が「平清盛太政大臣」であり、「阿多倍」の孫としたのは「阿多倍」の子は坂上氏(806年没)、大蔵氏、内蔵氏の3人であるので「平族」の2代目(国香の親)は誰なのか不明です。(記録上では高望王としている)
一説によれば孫とする「平国香」はこの3人の内の一人の子の推測説もあり妥子の説もあるが、元々阿多倍王は超高齢(85歳以上-735年頃没?)であった事は事実で、死んだ後(35-45年後)の事で無理で強引な桓武賜姓であるので、不明としていると考えられます。
「桓武天皇」が生まれた737年頃が最大時期で「阿多倍王」が没した時期前後とほぼ一致すると考えられます。
95歳-100歳であればぎりぎり母親の実家の祖父の阿多倍を何とか知っているのが限界であると観られます。(当時の平均年齢は45-50です)
桓武天皇生誕期≒阿多倍王没期 桓武天皇位781-生737=44年後に賜姓した事に成ります。
この44年を埋めるには阿多倍を強引に孫(又は曾孫)とする以外に無くなります。
これが矛盾の通説の根拠なのです。
従って、阿多倍から次に判っている平族の人物は国香であり、国香は将門に殺されたので935年没で依って生誕不明としているのです。この国香の行動ははっきりしていて同年代の者の生誕日は明確に成っている事から観ると何も不明と成る理由は見付かりませんから明らかに伏せたと観られます。
しかし、計算から当時の平均年齢から観て、「国香」は885年頃(895年頃)が生誕と成りますと(885-735)=150年前後位経った人物と成り、「孫か曾孫」と成りますので、実際はこの阿多倍から国香までの間には少なくとも「2人の人物」が存在する筈ですが判っていません。
「国香」を始めとして「2人の人物」には賜姓するにはその功績が認められませんので、どうしても始祖である「阿多倍王」に戻り賜姓する必要があります。
既に阿多倍の子供の大蔵氏等3氏には賜姓をしていますのでその父親だけは准大臣に任じてはいるものの賜姓は受けていません。
そこで桓武天皇は母方の没祖父に何としても賜姓をしたかったのです。
確かにそれだけの勲功は充分にあります。そこで、これは奈良期の「身内外の賜姓仕来り」により中臣鎌足の「藤原氏」の賜姓も没直前か直後とされているのに準えたものと観られます。
これはその天智天皇が採った賜姓の仕方とも同じです。前例の”慣例に従った”と成ります。
依って、「国香の生誕」を明確にすると「慣例の賜姓」の矛盾を露出させてしまいますので終えて消したのです。
「桓武天皇」は、「阿多倍」の長男の「征夷大将軍」の「坂上田村麻呂」とは母方の伯父に当る事もあり極めて「知友」であった事は史実として残されていて、桓武天皇と同じ同没806年であり、伊勢の阿多倍の実家の内容は手にとるように実に良く知っていた筈です。知った上での行為でありその賜姓の目的が明確であります。(父方は伊勢青木氏の施基皇子の子供の光仁天皇)

桓武天皇は「律令国家」政治を完成させる為に父方の「皇親政治」族側の実力氏「2つの血縁青木氏」に対する対抗勢力(母方族)を作り出しました。その勢力が阿多倍一族一門なのであり官僚の6割を占め彼等の勢力なしでは律令国家は成し得なかったのです。
「阿多倍勢力」による「律令国家完成」か、義の実家先の「皇親政治」側青木氏を採るかの決断に迫られたのです。
父方族の青木氏では無く、上記した様に国の6割から7割を有する実力充分のその「対抗勢力(母方族)」に自分の律令体制の維持の意思を継がせたかったと観られます。
「律令政治」と「皇親政治」は相反する体制で、現実に後にも天皇家はこの勢力に二分されて政争が起こって入るのです。
事実、この「桓武天皇」(737-806・位781-806)のこの慣例を破った無茶な賜姓(天智天皇からの第6位皇子の青木氏を賜姓しなかった事)に対して、後の「嵯峨天皇」(桓武天皇の次男)と「政治手法」で争いを起こして対立するのです。
結局は、「嵯峨天皇」は元の「天智天皇」の「皇親政治」に戻したのです。
そして直ちに「弘仁の詔勅」を発して「賜姓の方法」を戻してこの様なことの無い様に規律を作った経緯なのです。
以後、11代に渡り実行された「賜姓源氏」と変名して「青木氏」は皇族の者が還俗する際に用いる氏名として一般に使用を禁じ江戸末期まで原則守られました。
結局、その「賜姓の意思」の決断は「融合氏の国策」に執って400年と云う間の「融合氏」を啓蒙する「民族性の強い相手」であった事に成ります。
「桓武天皇」は身内の実家先の「3つの発祥源」の伊勢青木氏を、良い方で考えれば”強い氏として鍛え末代までに残る氏”に天智天皇の意思に従い遺したかったのかも知れません。
何も「皇親政治」族として政治に関る事が目的だけでは無く未来の事を考えた場合「3つの発祥源」として生き残らせるべき事が本筋であります。
それがと天智期からの”「国策3策」に合致するのだ”と考えていたと観ているのです。
その為に結果としてはこの時の仕打ちで鍛えられて青木氏は衰退浮沈してもそこから這い出し生き残ったのです。
桓武天皇は争いまでして「苦渋の選択」をした事に成ります。
「たいら族」は「青木氏」(伊勢青木氏と信濃青木氏)とは直接に血縁性は無いにしても、「何れも伊勢の住人」「青木氏と光仁天皇の末裔の桓武天皇・父方族」の「関り・隣人絆」から「親心」から強い「母方」を使って「皇族」と云う「ひ弱さ」を克服させる為に採った戦略では無かったかとも考えているのです。
それでなくてはこの様な突拍子もない事をしなかったのではないでしょうか。
それでなくては余りにも”平族賜姓の目的が単純すぎる”のではないでしょうか。
恐らく、その時の父方の実家の青木氏は「皇親族」として「奢っていてひ弱さが目立っていた事」を示唆していたとも考えられます。

現実に「嵯峨天皇」から同族として発祥した11代の源氏は「桓武平氏」を滅ぼしたけれど自らも共倒れする様に全て11代は完全滅亡しているのです。
その意味で「平清盛」と接し「政治、経済、軍事」に付いて教授されていた「源義経」は兄頼朝に”諫言した事は正しかった”と観ているのです。
既にこの時には直系の「近江源氏」「美濃源氏(賜姓美濃青木氏も滅亡)」「尾張源氏」「駿河源氏」は「たいら族」に因って「美濃の戦い」で完全に潰され子孫は滅びているのです。

(最早、皇族賜姓族の青木氏や佐々木氏などの嵯峨期前の賜姓族と村上源氏支流(北畠氏等) が遺された。しかし:最終村上源氏も室町期に滅ぶ。特別賜姓族の秀郷流青木氏は5家5流の青木氏と佐々木氏を護る。 村上天皇は第6位皇子を源氏として賜姓するが、秀郷第3子も特別賜姓する。)

「2足の草鞋策の強み」
特に記録では義経は「清盛の宋貿易」に付いて「貿易経済と物造り」(商い)に感動したと記されています。皇族賜姓族の「生き残り策」は「武力」では無く、「荘園」で無く、領地を生かした「商いと物造り」つまり「殖産策」である事を「義経の感性」で感じ採っていたのではないでしょうか。
「武家が商い」には感覚的に抵抗があったと観られますが、論より証拠で同族の「2つの血縁氏の賜姓族青木氏」と「平家の清盛」さえも悟っていて実行したのです。

”「税と権力」を基盤とする「勢力繁栄」は何時か「栄枯盛衰」のたとえの通り滅びるは必定”と見抜いていたのです。しかし、「清盛のたいら族」は滅びたのです。

その原因は次ぎの事が働いたと考えられます。
1 「税と権力の基盤」>「商いと物造りの基盤」であった事
2 関東での治領の運営に失敗し撤退した事
3 「荘園の行き過ぎ」にも肩入れし過ぎた事
4 阿多倍一族一門の援護が無かった事
以上の4つから起こった滅亡です。

室町期の状況として分析すると、特に3の平族の未勘氏と家紋分類から見ると源氏には及ばないが姓氏含みで373もあり、これも”いざとなった時”には逃避離散する為に戦力には成らなくなる事も原因しているのです。(源氏では判明できないくらいでこの数倍となる)
平族の氏力の約10倍程度と成っています。平族の実際の氏力は見た目より1/10程度の力しかなかったのです。これを清盛は間違えたのです。
1に付いては「知行国と領国の比」から領国では殖産し産物を拠出することが出来るので「商力」(宋貿易額)とし、知行国は「知行と権力」に依って得られる「基盤力」とすると、「商力/基盤力」または「領国/知行国」から概算すると凡そ1/2程度と計算できます。
2と4に付いては上記した通りであり、これら1から4を考察すると外見の方が大き過ぎた事に成ります。
ここに落とし穴があり、人間の性(さが)でもある誰しも起す”思い上がり”が起こり「思考と判断の間違い」を引き起こしたものと考えられます。
勿論、生き残る事が出来た特別賜姓族の藤原秀郷流青木氏も「殖産・商い」を各地で積極的に行ったのです。確かに秀郷一門は荘園にも加担していたのですが、「秀郷流青木氏」だけには「特別賜姓族の立場」があり、一族一門の「護衛団の役割」から行動を抑えたと観られ、家紋から観るとこの荘園名義上の未勘氏が極めて少ないのです。
この荘園に対する加担の証拠が見付からないのです。その大きな証拠として秀郷流の他の一族一門は未勘氏が大変多いのです。(源氏とほぼ同じ程度かそれ以上と観られます。)
つまり藤原氏の名義を貸し名義上の荘園主として間接的に利益を挙げ、その代わり「無血縁の藤原氏」を名乗らせる要するに「未勘氏」族なのです。
361氏の家紋群外の藤原氏は名義上の未勘氏族であったと観られ、室町末期、江戸初期、明治初期の何れかで名乗り変えをしたと観られます。
しかし、秀郷流青木氏にはこの未勘氏族が極めて少ないのです。物理的に出来なかったか故意的にしなかったかは筆者は両方であったと考えています。
恐らく、故意的にしなかった事としては、特別賜姓族の青木氏であると云う立場を貫いた事、勿論、それに見合う「2足の草鞋策」(殖産策)を採用した事(24地域の15程度で沿岸沿い地域)、その一門の「第2の宗家」としての権威も護った事の3つにあると考えられます。
物理的に出来なかった事としては一門の護衛団であった事と成ります。
この4つの事を護り維持するとすると、かなりの「財力を確保」をしなければ成りません。
その証拠に室町期と江戸期の多くの「豪商のルーツ」を探ると本流支流は別として「藤原秀郷流一門の出自」である事が判るのです。中でも秀郷流青木氏の比率が高い事が家紋群の比率で判ります。
一族一門の24地域にも上る各地の藤原氏の勢力と縁故を使って栄え、そこで蓄えた財力を一門の基礎としていたのです。

ここに少し違う事があって、傾向として九州北、瀬戸内、日本海側、静岡の地域の秀郷流青木氏の方は「2足の草鞋策」を明確に採っているのですが、他の一門は判らない様にして運営していた傾向が認められるのです。これは「公家貴族」と言う立場を大きく気にしての計らいであったと見られます。
(この分を補足すると24地域の殆どと考えられる)
そこには、「政治の公家貴族」と「護衛団の武家」との差が歴然としてあった事を物語っています。
この「商い」は何処から他人が作ったものを集めて売り捌く「小商い」ではなく、自らが「殖産」に財力をつぎ込みそこから生まれる物産を大量に計画的に売り捌く「大商い」を秀郷流青木氏は行っていたのです。
他の一門は前者の形式を採用して財力(資本投下)を拠出する事のみとして、その配当利益を獲得くして表には「公家貴族の商い」として出ない様にしていたのです。
要するに「計画殖産」と「集約生産」との「商い方の違い」があったのです。
前者はそれだけに各地の一門の力を集める必要があったと見られます。
後者は自らの財力で各地のシンジケートを育成しての商法であったのです。
ここに大きな違いがあったのです。

この商法が「子孫繁栄」と「生き残り」の将来に大きな影響の差となって現れるのです。
鎌倉期を過ぎ室町に入ると各地で下克上が起こり、更に戦国時代へと突入して行きますが、この事に依って各地は乱れ各地の産物の生産力は落ちます。産物を運送するにしても相当な武力を要します。
しかし、公家貴族の藤原氏はこの武力を保有し使う事は出来ません。また産物を集約して調達している一門も自らの身を護る事に精一杯と成ります。次第にこの形式の商いは成立せずに衰退して行きます。
公家貴族の藤原一門は当然に貧して来ます。
反面、秀郷流青木氏らが採用する殖産の商いは、繁栄を果たし強固なものに成って行ったのです。
それは「下克上や戦国時代」で潰され敗退した各地の土豪集団が生活に困りこのシンジケートに入り豪商から経済的支援を受け、尚且つ、豪商の青木氏から殖産作業に従事させて貰え生活は安定し潤いを得るように成って行ったのです。
そして、いざと云う時は、「シンジケート」として「影の武力」として「戦費の充足」を受けて「活躍の場」を獲得する事が出来る様に「商いの組織」は順調に繁栄へと働いて行ったのです。
今までは荘園制の中で名義の荘園主の背景の下に細々と生き延び来たものが「活躍の場」「水を得た魚」の如くであったのです。

「殖産策の大商い」の青木氏一門の中では、彼等を助け、益々その「発言権」を増し「第2の宗家」としての活躍を果たす事が出来るように「良のスパイラル」が起こり成長していったのです。
結果、藤原一門は室町期に成っても勢力は衰えず、むしろ中には永嶋氏等の様に「関東屋形」と呼ばれる日本一の豪族として伸し上がったのです。その勢力は遂には東山道と東海道を勢力圏に治め以西は中部地方西域伊勢地域まで拡大する事に成ります。
その勢力は留まるところを知らず、秀郷流青木氏の仲介で日本一最大勢力の大蔵氏と結びつき血縁して九州全域の長嶋氏まで勢力を拡大したのです。
この永嶋氏と長嶋氏は旧来より土木建築業を配下に収めて繁栄を続け、これを基に「2足の草鞋策」を採用し青木氏からも「大商い」に基づく経済的な支援を受けたのです。(平安時代は永嶋氏の本職)
今で言う青木氏は殖産企業もグループ化に納めた総合企業兼商社であろうかと思います。

(青木氏の構図とその解析手法)
「後勘に問う」からすると日本の2大勢力の「西の大蔵氏」、「東の藤原氏」とが血縁し、その間に有った「たいら族」と「源氏」の2つは共に栄え争い消えて、「東西の2大勢力」が血縁する事で日本の混乱の収拾が着いたと云えます。その意味からすると「荘園制の行き過ぎ問題」も「中央の2大勢力」が消える事で霧散して「自然の摂理」の通りに収まった事が云えます。
「中間子」(中央の2大勢力)の「核分裂」を起こす中間子の持つエネルギーは何かに依って補われねばなりません。それが「武家社会の誕生」であったのです。
この構図からする「2つの賜姓青木氏」はこの「中央の2大勢力」の間の「核」に成る部分に居たと見ているのです。「核」が東西の勢力や中央の勢力の様に動いては「核」は「核融合」を起して爆発します。それこそ国が朝廷が崩壊するでしょう。
その「核」が沈着冷静に働いたからこそ「臨界点」に達せず「放射能」(大混乱)を放出する事無く「核爆発」は起こらなかったのです。「青木氏の採った判断と行動」は極めて「自然摂理」に叶っているのです。
その「2足の草鞋策」は「核」が持つエネルギーと成り、周囲の「中間子」(中央の2大勢力)や「中性子」(東西の2大勢力)を引きつけていたのです。そして、その「中間子」「中性子」に引き連れられた「氏末裔」は「電子」(エレクトロン)と成り働き、その「電子」に引き付けられたプラトン(姓・民)は飛散する事なく「融合」して物質(融合氏)を構成し続けたのです。
これは真に「自然物理の理」に叶った「構図」に成っているのです。
筆者はこの「構図論理」を採用しているのです。核、中間子、中性子、エレクトロン、プラトン、等がどの様に動き働きするかに依って「臨界点」や「核エネルギー」がどの様な「反応」を示す事に成るかの判断をしているのです。
(構図の構成要素が増えれば「分子量や質量や電位量」等の要素を加えて適性に応じて使う。物事の構図によっては別の自然摂理を使う。)

そうする事で累代の天皇評価や乱・事件や歴史的な出来事やあらゆる所業の如何の判別が凡よその形で着く事に成ります。推理する際もその位置から”恐らくこうではないか”と考察することも出来るのです。
この事は後勘に於いて多くの歴史史実からこの論理に当てはめての「分析・考察・検証」は真に「後勘に問う」の行為そのものであります。
この筆者の「分析・考察・検証」の前提は、”この「世の所業・諸業」が「自然の摂理の構図」に基づいている”と云う思考原理(仏教理論と相似)にあります。(「後勘に問う」の手段=「自然の摂理の構図)
この思考原理からすると、「皇祖神 神明社」は「青木氏の心の拠り所」「心の有様」と成りますので、「核の有様」つまり「核の持つ性質」を意味し、周囲に「不可抗力の恐怖」を撒き散らす放射能の出さない物質の「核」である事に成ります。差し詰め人間や生物の根源(3つの発祥源)の「ミネラル元素」の人体や生物への働きにあると考えられます。(「皇祖神 神明社」=「ミネラル元素 NaKCaMg)」と成ります。)
そうすると、真に天皇又は朝廷はこの構図では「核」ではないかと云う考え方もありますが、これは「天皇」と云う存在の位置付けの考え方に依り異なりますが、筆者はこの「核や中間子等」を含む全体を含有する本体つまり「水素原子」ではないかと判断するのです。
水素原子は自らの構図に影響し、尚且つこの世に存在する全元素に影響し左右させ得る基点であります。全体の「構図を左右させ得る影響力」を持っていて、かと云って直接的関係を持たないと云う事に重点を置いたのですが、当然構図が壊れれば歪めば本体は破壊し弱体化するのですから、天皇に指揮される朝廷の判断は構図そのものの行動や活動を決定付けることに成ります。
そこでもう少しこの自然摂理の論理を展開してみたいと思います。
では、自然摂理で云えばこの「中間子の行動を抑制する物質」がある筈ですね。出なければ物体は社会を破壊する怖い放射線を放出し続けて最後に核爆発を起こします。何かあるのです。
実はあるのです。
それは「放射線同位元素」と云うものなのです。「ハロゲン同位元素」と云うものなのです。2種類あって、フッ素、塩素、臭素、ヨ-素、Atとこれに関連するネオン、キセノン、クリプトン、ラドンがあり、それぞれ特徴を持っています。
特に、中でもヨー素はこの中間子の活動を抑える能力を強く持っています。中間子が暴れればこのヨー素を放出して押さえ込む事が出来ます。
では、中間子は「中央の2大勢力」の位置づけでしたが、この「放射線同位元素」は社会の何に当たるのかと云う事に成ります。他の原子を持ってくる訳ですので、本体の原子は「天皇」と位置づけしましたので天皇がこれらの中間子」(中央の2大勢力)と中性子(東西の2大勢力)を監視して、場合に依っては「他の原子の力」(「政策」)で抑制する手を打つ訳です。従って、「政策」「抑制策」がこの「放射性同位元素」の働きと成ります。
「放射性同位元素」→「政策」「抑制策」、「原子の力」→「天皇の力」
どの「放射性同位元素」(政策 抑制策)をどの様に使うかに依って効果的に抑制できるかが決まります。
原子に当たる天皇が「放射性同位元素」の(政策 抑制策)を「三相」を以ってどの様に使うかに決まる事に成ります。
中間子の「中央の2大勢力」は「放射性同位元素」の(政策 抑制策)で抑制し押さえ込まれたのですからその結果、拒絶反応として必然的に自然摂理が変位した中間子が生まれ事に成ります。
この変化の力が働き「武家社会」と云うものに変化して生まれる事に成ります。
「変位中間子」→「武家社会」
このヨ-素の抑制では「原子の力」即ち「天皇の力」、つまり、「原子の力」が弱まる事ですから、放出された「放射性同位元素」の「政策 抑制策」は何かが保有しなければ原子は保てない事に成ります。
弱体化して持ちきれなくなったこの放出され浮遊し遊離している「放射性同位元素」の「政策 抑制策」の力は、過剰反応したのですから、「武家社会」の力に吸い寄せられて必然的に「中間子の変位」が起こることに成ります。つまり中間子の「中央の2大勢力」から「変位の形」即ち「武家社会」が「政策 抑制策」の力を合わせ持つ事に成リます。
そこで、この「武家社会」とはこの「原子構造」では”何に当たるのか”という事に成ります。
それが新しい形の中間子の形即ち「融合氏」に当たるのです。
「中央の2大勢力」→「融合氏」
中間子の「中央の2大勢力」は「中間子の形を融合」と言う形に変位して、2の数字が消えて「別の力」(「放射性同位元素」(「政策 抑制策」)を持つ「融合氏」即ち、新しい形の進化した「武家社会」(幕府)が誕生した事に成ります。
これに因って原子構造の内部エネルギーバランスは保たれた事に成ります。

この様に観てみると、「社会が起こす森羅万象」は突き詰めれば「原子構造の自然摂理」に合致している事が判ります。合致しないと云う論理があるとするならば、それは「自然摂理」の全ての成り立ちを理解されないままでの論調と成ります。”この万象の出来事の成り立ちは自然摂理に合致する”は「仏教の教え」でもあります。

(現在の最新物理学では我々が良く知るこの「エレクトロン構造」の宇宙体の他に宇宙の成り立ちが解明されて来て反対の「プラトン構造」を主体とした宇宙体があるとの学説が進んでいます。)

(この様に構図を考えてそこに構成要素を当て嵌めて物事の解析をする事そのものも面白いのですが、推理案もこの構図の成り立ちや性格から観て”恐らくこう成っているのでは”と浮かび易いのです。この推理案で史実の発見も確率が高まります)

その意味ですると、「放射性同位元素」の「政策 抑制」を効果的に使った事に成り、平安期のこの時期の「後一条天皇」の「自治の英断」と「後三条天皇」の「荘園制の停止」の英断は日本を救ったことに成ります。そして、その原子の英断は自然摂理に合致していた事を意味し冷静沈着の判断であった事に成り、尚且つ、「核」に相当する「2つの青木氏」が採った行動もこの「自然の摂理」に合致し「沈着冷静」の判断であったと云えます。

それが故に、青木氏の「2足の草鞋策」も繁栄する事が出来たのですが、平安中期から末期に掛けて「荘園制の拡大」で、その増産された「産物の処分」を「殖産・商い」(紙問屋)の方向へと進んで行ったのではないかと考えられます。(資料から垣間見える)
そして、其の証拠に鎌倉文化から室町文化(「紙文化」とも云われる)の全盛期に繋がったのです。
(青木氏5家5流は有名な「5大古代和紙」と呼ばれる「伊賀和紙、近江和紙、美濃和紙、信濃和紙、甲斐和紙」の「紙」を「2足の草鞋」の基とした。)
「文化」は樹木と同じで其の「下地」が無くては華は開きません。この下地が「荘園」過程であり「融合氏」過程から来ているのです。
これも「後勘に問う」から観ればそもそも「自然摂理」に合致した判断であった為に起こり得た繁栄であったのです。

この面で「荘園拡大と行き過ぎ」問題は「自然摂理」に合致してしていた為に悪いことばかりでなかったとも考えられます。
考えて見れば本来「平清盛」は対立する「源氏の者」にわざわざこの様な事を教授する事は無い筈です。
何か「桓武天皇」の意思を継いで「親側」の天皇家は「青木氏や源氏」を鍛え様としたとも考えられますが、賜姓源氏はこの「貿易経済と物造り」(商い)に関らなかった事が滅亡へと進んだのでしょう。
まして、其処に「分家の源義家の不合理な行動」(荘園制肩入れ)が拍車を掛けたと観ているのです。
(本家清和源氏の頼光系宗家4家は賜姓青木氏3家に跡目を入れて日向青木氏と共に遺した。)
「殖産・物造り-商い」以外にも、この様に「融合氏」の発祥源として生き残れた原因の一つは少なくとも「桓武平氏」の「伊勢伊賀平氏:伊賀和紙の発祥」にもあったと考えられるのです。

以上の事の「たいら族」の検証は青木氏のみに大きく関わる事以外には他氏がこの件に関して検証は無いものと考えられるので敢えてここで記しました。

再び話を戻します。
「氏融合の第2の条件」
「将門の事件・乱」の始末に対して、その天皇が苦しい環境下で提示した条件とは「無条件」であって「望んだ事を叶える」であり、二人(平貞盛と藤原秀郷)は「貴族の身分」と「領国を取得」の条件を提示し叶えられます。これが大勢力拡大に繋がったのです。
この時、更に「秀郷」には第3子(千国)に天皇の許可を得て「特別賜姓」で青木氏を名乗らせて「天皇近衛六衛府軍」に成る事の条件を付与されたのです。秀郷一族一門の護衛軍として勤めさせると共に賜姓青木氏と同じ役目と扱いと身分と家柄を与えたのです。
天智天皇が天皇家一族が天皇を護る役目を作ったのですが、村上天皇は母方が同じ藤原氏と言うことで特別に青木氏を賜姓して母方同族氏による「六衛府軍の役目」なども同扱いとしたのです。
この意味は大きいのです。これは真に「3つの発祥源」の「賜姓青木氏」を護ろうとした事に他成りません。

「貞盛」は朝廷に直に仕えられる「身分の保証」と「常陸、上総下総、下野」を要求しますが最終関東での「たいら族」の醜態を理由に撤退(追い出し)の憂き目を受けます。
この様に、「平族」の動きの中では理由はともあれ「独立国」を狙っていた事は明確で、少なくとも一度は「平将門」も「独立国」の行動を目指したのです。普通の在来の融合氏はこの様にはならない筈で「民族氏」ならではの事であります。奈良時代の蘇我氏しかりであります。
しかし「後勘に問う」から観ると「将門の事件・乱」以外に彼等にはこの独立に関する絶好のチャンスは5回も訪れているのです。

独立の経緯
・第1回目の32国/66を無戦征圧して帰化した時 奈良、平安初期
・第2回目の「遠の朝廷」「錦の御旗」「太宰大監」「大蔵種材」の時 平安期中期
・第3回目の前九年の役と後三年の役の安倍氏と清原氏の征討(義家の私闘)
・第4回目の「平族」の「源平の戦い」
・第5回の「平族」の傍系支流の血縁族「織田信長」の「天下布武」

この1、2回の時は日本全国が彼等一族一門を絶賛している訳ですから100%「独立国」は出来た筈ですが、軍事、経済、政治の3権を手中に収めながらも何故かしなかったのです。
第3回目の時も同じ状況下にありながら、何故かこの血縁族を集結させなかったのです。

しかし、これだけの力がありながらはたいら族の「直系子孫」は実質的には遺せたのですが、首魁一族の宗家「平族」は結果として宗家は遺し得なかったのです。(支流一族のみ)
むしろ「宗家としての認識」が上記した「平族の発祥経緯」もあって「九州血縁族」と共に無かった可能性が強いのです。これは明らかにこの一門には余りの「民族氏」からの「間接的な氏の融合」が進み過ぎた結果と見なされます。
その証拠に、次ぎの5回目の事で判ります。

・第5回の「平族」の傍系支流の血縁族「織田信長」の「天下布武」の時もこれ等血縁族は全く動かなかったのです。(レポート9記述)
品部や部曲の「姓族」の「下克上」と、「姓族」と「氏族」入り乱れての戦国により末裔である事の事態が無くなったか、最早、無意味なものと成っていたかによりますが筆者は両方であったと考えます。
むしろ、この時も家紋から観ると、味方と敵対した氏を調べると末裔でありながらも平族末裔に対する「敵対状況」の方が大きかったのです。
「姓族」の様な「氏形態」の未だ持たない族の台頭に加えて次ぎの様なことが挙げられます。

 「第2の条件」
「氏の血縁融合」(1)が進み過ぎた事
「青木氏」の様に「4つの氏の構成」(2)が観られない事
「青木氏」の様に「氏の管理統括の有無」(3)が無かった事(下記)
この3点なのです。

この(3)が上記した”「争い」を伴なう時の「氏の融合」の「第2の条件」”と成ります。

むしろ、青木氏の「社会と生活の結合氏」とは違う点は、「民の結合」が「職能の部」と言う形で形成した為に「部氏」(職能氏・姓氏・海部氏等)の形で独立して行った事に依るのです。

「民の結合」=「職能の部」(品部)=「部氏」=「姓氏」

(「姓氏」も平安末期から「海部氏」「陶氏」などが中国地方の部民の集まった豪族となって発祥しているが、「たいら族」に組しなかった。)

青木氏の「未勘氏結合」(「社会的結合」)、「第3氏結合」(「生活圏結合」)の「結合氏」と異なり、阿多倍一族一門と「職能・部氏・姓氏」との間には、即ち、「民族氏の形体」を進化させなかった事の違いがあったのです。

「平族」の間接的な「氏の融合」とは、上記したデータから観ても、直系氏孫で固めて「氏融合」の拡大をさせて行く方法よりは、「各地の土豪」との「母方血縁」の方法が多かった事を物語ります。

これは阿多倍等が九州に上陸し中国地方まで無戦征圧した原因は、その「高い後漢の技能」を吸収して生活を高められる事があった為に「土地の民」が進んでその配下に入った事から起こっている現象だからで、その為に「間接的な氏の融合」が起こったからなのです。

つまり「平族」に於いては、阿多倍一族としては奈良期から平安期(600年)までの「間接的な氏の融合」の拡大でありますが、たいら族としてはこの5代(或いは7代)(国香-貞盛より)による短期間(165年)の「氏融合」(その前は「民族氏」と「部氏」)であるが為に「直接的な氏の融合」の基盤が平安期には充分に出来ていなかった事に原因しています。


青木氏と守護神(神明社)-11に続く。
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青木氏と守護神(神明社)-9

[No.276] Re:青木氏と守護神(神明社)-9
投稿者:福管理人 投稿日:2011/07/07(Thu) 10:00:47


「武力的背景」の「抑止力」
「2足の草鞋策」の「経済的背景」
いつも思うのですが、何故間違った通説が実しやかに起こるのかは実は腹立たしいのですが、”虚偽でも時間が経てば虚偽で無くなる”はこの世の傾向 そこを他面から史実を積み重ねて解きほぐすのが面白いのですが。古来よりまともな資料に書かれている”後勘に問う”があるのは昔も同じ事を感じていたのですね。しかし、青木氏とそれに関る氏に対しては”後勘に問う”では困るのです。

結局は「未勘氏」によって支えられていた「名義上の権威」(源氏)ではその平安期と云う体制が維持されている間は勢力と見なせますが、「鎌倉」と言う体制になった時点では滅亡以外には無かったと観ているのです。この世は”権威が無くなれば取り巻きは霧散する”は常道です。
まして、室町期の「下克上」では、尚更に「未勘氏の動向」が左右しますので生き残りは無理であったと確信しているのです。
足利氏でさえ幕府開幕以来6つの家臣が力を持ち思う様に動かす事は出来なかった事からも如何に難しいかは判ります。
この事から考えれば幾ら皇族で「不入不倫の権」が与えられていたとしてもその気になれば潰されていた事は青木氏と源氏でも明らかです。
生き残れたは「2足の草鞋策」と云う「自立策」が源氏と違っていた事に成ります。ただ、これだけでは生き残りは無理で、「氏家制度」の社会の中では何らかの「武力的背景」を獲得する絶対条件が必要です。
この「武力的背景」の「抑止力」が無ければ、恐らく、隣人の「民族氏」の「たいら族」(京平氏・桓武平氏・賜姓平氏)にでは無く、源氏の様に、賜姓青木氏も第7世族の「ひら族」の「融合氏」の「坂東八平氏」に潰されていたと考えられます。(「たいら族」とは隣国で且つ「殖産・物造り 伊賀和紙」で親交が深かった)
それも自前の「武力的背景」を保持していた場合では「戦い」に誘い込まれていたと考えられます。

ただ「伊勢シンジケート」の反抗力では潰されていたかは判断が難しいところだと考えますが、「坂東八平氏族」と対峙する「武力的背景」とも成れば、「青木氏」も源氏の様に「未勘氏族」を味方にする結果と成った筈で源氏と同じ経緯を辿る羽目ともなりますし、室町期の「下克上」が起これば「武力的背景」に頼り、結果として「生き残り」は無理と成った筈です。
では、実質に抗する戦力と成る軍事力が殆ど無かった青木氏にとって、この「武力的背景」とは当然に「抑止力」の事であり、その「抑止力」は「2足の草鞋策」の「経済的背景」に裏打ちされていなくては成りません。
幸いに「青木氏」にはこの「大抑止力」には2つあったのです。
一つは血縁族の「藤原秀郷流青木氏の力」であります。
一つは経済的背景を基にした目に見えない影の「シンジケート」であります。
この2つがあったと遺された記録から考えているのです。
この5家5流賜姓族の「シンジケート」の件は遺された資料の史実から明治期の関西で起こった大一揆(伊勢暴動など明治4-9年の3騒動)まで維持されていた事が判っています。
この時代まで続いた事から観てかなり大きく堅実な組織であった事を物語ります。
記録から760年は続いた事になりますが、この年数から観て最早単純なシンジケートではなくかなり「家族性」を持った「陰の力」であった事を物語ります。

(これだけの長期間を堅持している処から、女系による血縁性は充分に考えられるが記録が発見出来ない。その存在意義を保つために故意的に遺さなかったと観られます。シンジケートと云う形態体質上、遺すと同族間の勢力争いが起こる 全ての関係をフラットに保つ必要がある為)

これは青木氏にとっては源氏の「未勘氏」の位置に相当するものでありますが、その関係する質的なものが青木氏の生き方と共に全く異なっていたのです。
社会体制が変わった明治期に入りその質的なものが変化した模様で、明治35年を境に解散しているところから、「伊勢-信濃シンジケート」はその特長を生かして多くは「商い」を補足する主に運送関係(陸海)に従事した模様が読み取れるのです。

さて、問題は秀郷一門に裏打ちされた「秀郷流青木氏の抑止力」の検証です。
それは下記に記する「青木氏の血縁状況の考察」で証明されるのではと考えているのです。

「抑止力」の検証
その前に、「抑止力の相手」の「ひら族」(坂東八平氏)は、元を質せば両氏共に奈良時代の「皇族第7世族」(ひら族)と賜姓青木氏の「皇族第2世族」との差です。
つまり、「源氏滅亡」では”奈良時代-平安初期の「皇族第7世族」が奈良時代-平安中期の「皇族第2世族」を潰した”と成るのです。
「ひら族」「第7世族」、即ち「坂東八平氏」は「源氏」を表向き先ず祭り上げて置いて、裏で潰す戦略に出たのです。ですから、鎌倉幕府には源氏を登用せずむしろ排斥し潰しやすくしていたのです。
それにはこの戦略を見抜いていた義経や伊豆大島氏を闇夜に襲うと言う戦術を露に使ったのです。
「坂東八平氏」にとっては、源氏跡目が入っている賜姓青木氏に付いても同じ考えの中にあった筈です。「武家の頭領・棟梁」の「源氏の幕府」が源氏を登用せず、排斥し、源氏を夜襲する等頼朝や義経に限らずどんな人物でも坂東八平氏の本音は何処にあるかくらいは直ぐに判る事です。
ましてこの行為は未だ幕府を開く会議の最中に起した事件です。
この現象を「民族氏」や「融合氏」の他氏から観れば、”皇族出身者で潰しあった”と受け取られます。
だとしたら、室町期の信長の様に信長の立場から観れば、”我々では問題ないだろう”と成ります。
故に通説の通りの”信長異端児”とする事には、多少の強引な傾向があった事は認められるが、全面的な事としては疑問を感じるのです。
だから信長が”「権威に対抗する行動」”を採ったとしても、同じ様な事を鎌倉幕府の「坂東八平氏」も行っていたのです。まして”「権威の象徴」の皇族出身者同士の潰しあいではないか”と成り、”信長異端児”とする通説には興味本位の云い過ぎと成ります。
何はともあれ、そもそも”主君を倒しての「下克上」”がこの時代のこの最たる争い事で、現在からの思考原理では”信長異端児”と観えても、この時代の思考原理からにすると普通であり、それは言い換えれば「権威への挑戦」に他成りません。
(通説の大きな欠点はこの時代の思考原理差の考慮なしの説になっているものが多い事なのです。)

鎌倉時代の「坂東八平氏の脅威」や、室町時代の「織田信長の社会への挑戦」の社会環境の中では「賜姓青木氏の盛衰」にとっては、「賜姓の権威」「源氏の跡目」等が付け添えられている事はそもそも「無用の長物」であって、その為に”極めて危険な状況”に落ち至っていた事に成ります。
取分け伊勢青木氏と信濃青木氏は「清和源氏頼光系の跡目」が入っている事に成る訳ですから、彼等が源氏を討ったとしてもそれだけでは終わらない極めて危険な位置に青木氏は置かれていた事に成ります。11源氏が「坂東八平氏」と「美濃平氏織田信長」に依ってその末裔は掃討作戦で全て潰されたのです。"賜姓青木氏は関係ない"とする事には何の保障も有りません。

現実にこの事の史実として2度歴史上で有名な事件が起こっているのです。
その一つが「美濃平氏織田信長」なのです。もう一つは「徳川家光」なのです。
この二つとも歌舞伎に成っています。
「権威への挑戦」事件1
「美濃平氏織田信長」が信濃に入って謁見した際に信濃青木氏の末裔が下馬せず白馬に乗り白の装束で乗馬のままで挨拶したとして烈火の如く怒り末裔をその後末梢させてしまうと云う事件が起こります。
これは皇族賜姓族等の「有品の氏」が執る正式な挨拶儀礼なのですが、平家の支流末裔の織田家の信長は武家である限り、この最高の挨拶儀礼を知らない筈は有りません。
恐らくは「有品の儀礼」が「権威の誇示」として受け取り知った上で衆目の前で敢えて潰す事を前提に否定する姿勢を見せたと観られます。
「織田家」は「美濃平家」の「織田木瓜」の家紋ですので、「有品の位」(美濃平氏本家は従五位下)では家柄として低くない氏でありますので、通説と成っている”知らなかった”は考え難いのです。
源氏の跡目を継承している信濃賜姓族を潰す目的があったからで、この行動、即ち「権威への挑戦」に出たのです。結局、その信濃の賜姓族は伊勢青木氏との「シンジケート連携の保護」と「信濃古代和紙による2足の草鞋策」で再び直ぐに息を吹き返し一時宗家衰退はあったが生き残ったのです。

「権威への挑戦」事件2
伊勢では、「坂東八平氏」からは「秀郷流青木氏の戦略的抑止力」で何とか生き残り、「織田信長」からは小さい勢力でありながらも「3つの発祥源」の「権威の象徴」として警戒されて、直接3度「伊勢信濃天正3乱」で戦っていますが2度勝利しています。この2度の戦いは伊勢と信濃末裔の密かなスクラムを古くから組んだ「伊勢-信濃シンジケート」と「伊勢長島の秀郷流青木氏の援護」で生き残ります。
最後の戦いは伊勢では秀吉に命じられた藤原秀郷一門の「蒲生氏郷との戦い」で「恣意的敗戦」をし新宮に落ち落延します。しかし、1年後に蒲生氏郷に松阪に呼び戻されます。
明らかに蒲生氏郷は秀郷流青木氏の仲立ちで青木氏を助けた事が判ります。
蒲生氏郷は秀郷流青木氏との強い血縁である事、又その上に松阪に政庁城を建設し特別に「家臣扱い」として「侍屋敷・99区画」の内の2区画も与えられる厚遇を受けている事からも秀郷流青木氏一門から保護を受けていた事がよく判ります。(融合青木氏が存在し血縁関係にあった)
(松阪には城を築いては成らないとする平安期の仕来りがあった為に蒲生氏郷はヨーロッパ風の政庁方式を採用した。)
(伊勢の青木氏は江戸から明治まで江戸幕府に同じ扱いで維持されている 家臣ではないが「紀州藩建て直し」や「吉宗享保の改革で勘定奉行布依扱い」として貢献)

現実に無傷で5家5流賜姓青木氏が生き残れているのはこの秀郷流青木氏の存在が大きかったと考えているのです。
(蒲生氏郷経歴:伊勢大河内城1569 伊勢長島攻め1574 伊勢松ケ島12万石1585 伊勢松阪城1588)

「坂東八平氏と秀郷流青木氏の戦略関係」 
平安期後半は「たいら族」の圧迫に喘ぎながらも耐え忍んで来ましたが、平安期に於いては「青木氏」には「天皇と朝廷の権威と保護」が働いていましたが、それが無く成った室町期には「自立」が余儀なくされ経済的には「2足の草鞋策」で生き、裏ではシンジケートを固めて身を護りました。
しかし、がそれだけでは行かないのがこの乱世の厳しさであります。
秀郷一門取分け「第2の宗家」を務める「秀郷流青木氏の背景」がこの様に大きく影響していたと観ているのです。
それは武蔵入間を中心に神奈川横浜を半径とする円状の圏内にいる秀郷流青木氏の位置が坂東八平氏の地理的な戦略的背景が左右していて彼等は手を出せなかった筈です。
坂東八平氏が勢力を大きく拡大してその全ての力で幕府が開けた訳ではないのです。
彼等の周囲は秀郷一門の領国に囲まれているために彼らを味方に引き入れる以外に幕府を鎌倉に樹立させる事は出来なかった筈です。そこで彼らに藤原秀郷一門と戦う力があるのかと云う事に成りますが、彼らには無かったのです。それはあくまでも鎌倉軍は頼朝の頼信系源氏の荘園の「源氏の未勘氏の集まり」であったからで「坂東八平氏」が顎で動かせる軍の実態ではなかったからです。
そもそも関西で起した源平の2回の戦いには現実には「軍監の坂東八平氏軍」は動いていないのです。
上記した荘園制の副産物の「未勘氏軍」「日和見軍」に他ならないのであって、故に義経や大島氏が主張していた藤原氏を背景とした確固とした「源氏軍の創設」と「源氏主体の幕府の創設」を主張したのです。その上で「朝廷の院政権威」と結びつくことが狙いであって「坂東八平氏」にとっては相容れない考え方であったのです。
源氏に取って代わるだけの「皇族朝臣族」として幕府を開ける立場にある賜姓青木氏はたとえ小さくても源氏に取って代わる危険極まりない存在であったのです。賜姓青木氏にその気が無くても担ぎ上げられると云う危険性は極めて高かったのです。
東海の海側が「東八平氏」の勢力圏域です。これを取り囲むように「東山道」を東は常陸-西は美濃のラインと、背後は越後-陸奥-出羽の秀郷の勢力圏域で押さえ込まれていれば、この様な事から戦うことは現実的に無理で味方に引き入れる戦略しかありません。
現実に平泉を落としたとしても勢いに乗った鎌倉軍は川を超えても深追いせずに直ぐに鎌倉に引き返したのです。もし、平泉の藤原氏が潰れかけ東山道域を勢力圏としている秀郷一族一門がこれに加わった場合は地形から戦略的に袋の鼠です。
これには「坂東八平氏」は更に「2つの弱点」があったのです。
一つは独自の水軍を持っていない事で背後を突かれた場合弱い事、
もう一つは下総上総の右翼と美濃-信濃の左翼が弱かった事です。

ただ問題は、この弱点に加えて頼朝が一層拡大に向わせる彼等秀郷一門の「旧来の土地」を「本領安堵」してしまったことが計算外であったのです。
頼朝にとってはやむ終えない措置であった事は頷けますし、この事から推測すると坂東八平氏の嫌がる事、或いは弱点を頼朝は実行したのですから、本音は義経と同じ考えで有った筈です。
自分はしがない「浮き草」である事くらいは聡明な頼朝であれば理解していた筈ですし、ましてこの2つの弱点は知っていた筈です。
せめて、滅ぼした「たいら族」の土地を余り戦功の無かった「ひら族」の「坂東八平氏」に残しておけば良かったのですが、頼朝は判っていて敢えてこれも「平家没官僚策」として元の持ち主に返してしまったのです。当然、それは美濃より東の各地に位置していた秀郷一門にです。
これは頼朝は「藤原秀郷一族一門」を味方に引き入れるには戦略上返さざる終えない立場にあった事を物語ります。また自分の身を護る為にも「秀郷一門の抑止力」を必要としていた事に成ります。
「頼朝」と「坂東八平氏」の激しい「鍔迫り合い」が起こっていた事が判ります。
結局、関東の秀郷宗家の政光(親)-朝光・宗政・朝政(子)等こぞって2度の「本領安堵策」と「平家没官僚」で勢力を復活して頼朝に仕えます。
これが「藤原氏を背景(抑止力)にする頼朝の狙い」であったのです。
だから、危険承知の2度もの「本領安堵策」と「平家没官僚策」なのです。
これでは「坂東八平氏」とっては弱点が更に弱点と成り、戦略的に最早、秀郷一門には一切手を出せなくなります。
この事から、結果的に源氏頼光系の跡目を入れている”4つの青木氏は難を逃れられた”と考えられます。義経や大島氏に夜襲をかけ、はたまた平泉を攻めたくらいです。”その青木氏を潰す可能性は充分にあったのでは”と考えていて、「頼朝の秀郷一門の平泉攻め」は本音ではなかったが”坂東八平氏に押されてしまった。”が真相ではと考えているのです。
そのためにも「本領安堵策」と「平家没官僚」で何としても武蔵入間の一門を温存して保護する為に身の危険も顧みずに遂に「対抗策」に出たと云うのが真相では考えているのです。
そもそも考えて見ると、何も平安期よりも秀郷一族一門の彼等の所領(武蔵・下野・上野)を大きくする必要は無かった筈です。それをわざわざ大きくしている(常陸・上総・下総)のはまさしく「頼朝の本音」の現われです。
特に、その安堵内容が史実として遺されている事として、頼朝に合力する彼等の条件として提示したのは旧領「下総安堵」で中でも「下総結城」です。彼等は旧領下総結城に拘ったのです。
現実に、その後、この下総結城に配置した結城氏(後に永嶋氏を名乗る)が著しく勢力を拡大して「関東屋形」(佐竹・宇都宮・小山・永嶋)と呼ばれるくらいに関東を押さえ込んだ重要拠点なのです。
秀郷一門が拘った下総結城は勢力拡大には欠かせない要衝の地であった事に成ります。
当然に「坂東八平氏」にとってもこの下総結城の位置は東の戦略上要衝の地であったところを藤原氏に抑えられたのです。これでは東西北を袋の様に藤原氏に抑えられた真に「袋の鼠」なのです。

この苦しさから坂東八平氏は秀郷一門の血筋を引く足利氏を何とか潰そうとして北を開こうとしますが成功しません。しかし、最終北条氏の執事の足利氏への裏切りで幕府は潰れることに成ります。
「元寇の役」が衰退の原因として通説に成っていますが、元よりこの秀郷一門の「袋の鼠戦略」がじわりと効を奏したのです。
(足利幕府に成ってこの孤児であった執事は足利氏の執事に成り、伊勢北部伊賀地方を知行地として「たいら族」に代わって与えられます。)

「坂東八平氏」からすれば、本来で有れば「源氏根絶やし」の仕打ちが「戦国の世の習い」であり、これは有り得ない出来事だった筈です。しかし、秀郷一門が頼朝に取らした「袋の鼠戦略」の結果、「坂東八平氏」は気に成る「青木氏」に対しても手を出す事が出来ずに「融合氏」として生き延びられているのです。
もし、「青木氏」に手を出した場合はこの「袋の鼠戦略」が動き反って自暴自棄に陥ります。
現実に、「坂東八平氏」は支流北条氏の「傍若無人な態度」に身の危険を感じてすべて引き上げてしまうのです。それが引き金に成って執権北条氏は弱体化が起こるのです。これを観た執事は足利氏に裏切りを起し始めたのです。
「経済的な自立」は「2足の草鞋策」に成し得たとしても「戦国の世の防御」はどの様に観ても「秀郷流青木氏の背景」しか無いのです。
そこで、この「強い絆」で結ばれた「2つの血縁の青木氏」は「母方血縁」以外にも鎌倉期-室町期には戦略的に観て「母方血縁」だけでは済まない「直接血縁」の縁組があったのではないかと考えていて研究中なのですが、現在のところかなり「親密な付き合い」があったと考えています。
それは次ぎの様な事から云えるのです。

 「3賜姓族融合戦略」(「室町期の秀郷流青木氏一門との付き合い」)
「融合青木氏-伊勢」
例えば、伊勢の秀郷一門の藤原基景を始祖とする伊藤氏を護衛する秀郷流伊勢青木氏(近江秀郷一門の蒲生一族末裔)が室町期に伊勢長島に定住しました。
史実からこの伊勢秀郷流青木氏は藤原秀郷の末裔の蒲生左衛門太夫高郷の末裔であります。(高郷は氏郷の祖祖父に当たる)
この高郷末男の青木玄蕃允梵純(伊勢の秀郷流青木氏を継承)なる者は常陸と陸奥の永嶋氏を援護して陸奥-常陸に転戦している史実もあります。
この青木氏が長島付近に住み分けしていたとされていますが、実は伊勢四日市青木村では「皇族賜姓伊勢青木氏」と「秀郷流伊勢青木氏」の判別区分けが付かなくなっているのです。
これは松阪の「皇族賜姓青木氏」と長島の「秀郷流青木氏」が血縁してその末裔一族が四日市に定住していたと考えられ、最終、四日市は両者の青木氏の賜姓族の「融合青木氏」の一つと成っているのです。
賜姓伊勢青木氏を救った氏郷は祖祖父の兄弟の末弟が秀郷流伊勢青木氏の祖でありますので、四日市での「融合青木氏」として繋がっているのです。
上記の「権威への挑戦」事件2の経緯はこの縁戚の繋がりから来ているのです。
信長-秀吉の「伊勢攻め3乱」の蒲生氏との戦いは結論は実は茶番劇です。
片方で表向き賜姓伊勢青木氏と戦い、裏では蒲生氏の伊勢秀郷流青木氏が縁戚の賜姓伊勢青木氏に味方するという構図が出来上がっていたのです。だから「示威的敗戦」を採ったのです。
だから、直接的な「藤原秀郷流青木氏の抑止力」が働いていたのです。
この事は全く同じ事が史実から「日野城蒲生氏」の領国の「近江青木氏」でも起こっているのです。(詳細は別途)だから賜姓青木氏は「秀郷流青木氏の抑止力」で生き残れたのです。

「融合青木氏+秀郷流青木氏」=「秀郷一門の抑止力」

(参考 秀郷流青木氏は「嵯峨期の詔勅」による「皇族青木氏」であるが、特別に天皇より認可を受けている事、その官位官職も皇族賜姓族と同じ六衛府軍の近衛であり、「有品の位」も同じ4位と5位に位置する事から特別賜姓族でもある。)

「融合青木氏-伊豆」
また、清和源氏頼光宗家の頼政の本領の伊豆の2つの皇族賜姓青木氏(信濃青木氏と伊勢青木氏)も神奈川横浜の秀郷流青木氏と血縁して村を形成して一つの「融合青木氏」を発祥させているのです。

参考 皇族賜姓伊勢青木氏に孫の京綱を跡目に入れている宗家頼光系の4代目源頼政の領国の伊豆地方は5つの青木氏の融合の坩堝域であります。これは鎌倉のお膝元であり「坂東八平氏」に襲われる危険性が高かった為に採った対抗策でもあります。

「融合青木氏-美濃」
美濃と信濃の国境にも「融合青木氏」が存在しているのです。美濃には美濃賜姓青木氏と秀郷流青木氏との血縁氏と観られる末裔青木氏が最終確認が取れないが「伊川津7党の青木氏」として存在します。
更に美濃には西より域の現在の愛知県清須市春日と名古屋市西区に秀郷流中沼氏系青木氏、東よりの域に豊田、新城、額田、設楽の各市に中沼氏の支流中沢氏系青木氏が定住していて、各々と美濃皇族賜姓青木氏及び伊勢皇族賜姓青木氏との「融合青木氏」が存在します。
これは鎌倉期-室町期に掛けての時代性に大きく左右された地域である事からかなり長い歴史的な背景での青木氏の融合氏の展開があったと考えられます。

「融合青木氏-土佐」
他に高知では武田氏滅亡後、甲斐武田氏系賜姓青木氏が讃岐籐氏を頼って定住し讃岐の秀郷流青木氏と血縁し村を形成しています。これは室町期の信長に対抗する防御戦略でもあります。

「融合青木氏-越後」
越後にもはっきりと見られる現象で、昔の越後国高井郡小阪金谷域滞には秀郷流青木氏が定住しています。現在の新潟市金屋-新発田町諏訪-阿賀野市金屋-村上市金屋の直線ライン上に青木村が形成されているのです。この直線上の新潟よりの新発田域には信長に追われて秀郷流青木氏を頼って逃げ延びた信濃賜姓青木氏と諏訪族系青木氏が集中して定住しています。
この越後の青木氏のライン上でも2つの判別の付き難い「融合青木氏」が存在します。
この地域は地理的な関係から室町期にかなり信長の勢力圏が及んだ地域でもありその為の「融合青木氏の展開」であったと観られます。

「融合青木氏-信濃」
この現象は更に信濃北東部と甲斐の東部上野より域にも見られる「融合青木氏」の現象が起こっています。信濃の国府には皇族賜姓青木氏系が定住し、信濃北東部域と越後南部域国境域には、平安期の秀郷一門の陸奥赴任に伴ない陸奥から移動定住した秀郷流血縁族花房氏の末裔で土豪足利氏と成った一族がここに移り住んだものですが、この地域には更に信濃賜姓青木氏との血縁族土豪足利氏系青木氏が定住していたところでもあります。
そして信濃より上野北域と越後南より域の国境域には藤原秀郷流青木氏が定住しているところです。この信濃-上野-越後の3つの国境域にはこの2つの青木氏の「融合青木氏」が存在するのです。
この青木氏は鎌倉期-室町期に融合したのではと観られます。

「融合青木氏-甲斐」
甲斐-信濃-上野-武蔵の4国の国境域にも藤原秀郷流青木氏と甲斐皇族青木氏と信濃皇族賜姓青木氏との判別が着かない「融合青木氏」が存在します。
地理性や時代性から観て平安期-鎌倉期-室町期の判断が出来ないのです。何れの時代にも重要な政治関係があった事なので現在結論を得ていません。

これ等現在判っている9つの「融合青木氏」は、明らかに時代的に明治期の「第3氏」や「未勘氏」ではない事は判るのですが、調べると「家紋と土地と宗派と一部には古系譜等」に依って本来は判別が可能なのですが、鎌倉期-室町期にこれ等の判別要素がある規則を以て混在する青木氏が発祥して現在もその子孫が存在するのです。
現在では研究段階であるので確定的な事は云えませんが、平安期の「氏融合」は「住み分け主体」ですがそれと異なり違う点は次ぎの二つに成ります。

「国境域」
先ず一つ目は鎌倉期-室町期中期の「融合青木氏」の住み分けが大方「国境域」にあると云う事です。
しかし、ただ室町期中期以降の住み分けには国境域傾向より秀郷流青木氏の中に潜り込んでいると云う傾向を示しています。
論理的に考えれば、「国境域」は、平安期の直ぐ後の未だ氏家制度の社会慣習の強い鎌倉期の中では「藤原氏抑止力」を全面に押し出す事で「戦略的効果」を出し、相手に対して「威圧効果」を働かせ生き延びられる事が可能でした。
その為にその「前戦域」、つまり「国境域」に住む事でも防御が出来たし、「氏家制度」の重要な慣習の「住み分け」も護る事が出来たし、万が一にも攻め込まれても「融合一族」で護れる事が出来たのです。
そもそも「国境域」の位置付けは、比較的知られていない事なのですが、「戦略的国境域」には堅固な「氏寺や氏神」を建立し領内を城壁の様に取り囲み、領民の「心の安寧」を図ると共に、同時に軍事的な「要塞拠点」「情報収集拠点」として使う等の目的が主たるものであったのです。
(例えば伊勢青木氏で言えば名張には城が2つあり名張城ともう一つは青蓮寺城でお寺なのです。)

鎌倉期はまだ軍事政治の拠点は山城にあり(平時は平地の館に居住)、それだけに山間部の「国境域」に村を形成させて「融合青木氏」を置くことは「軍事的な抑止力」として充分に理に叶っていたのです。
しかし、室町末期の織田信長の様に「権威への挑戦」とも成れば、その上記する「場所的・地理的な戦略性」は問題ではなく「権威の抹殺」が目的であれば、その「場所的・地理的な戦略」を破壊してでも「権威の抹殺」を達成させる事に成ります。
政治的に絡んでいた「古来からの宗教権威の象徴」の比叡山や真宗本願寺や高野山や根来寺等の破壊に観られる様に、信長は「伊勢神宮」も直接破壊対象として挑む危険性があったのです。
それから逃れるには「敵対」しないで「抑止力」だけの中に溶け込み、そして見分け判断が着かない様にする事が必要であったのです。
「敵対」は衆目からすれば「伊勢神宮」を破壊すればいざ知らずただの戦いと見なされます。
信長にすれば「権威の象徴の抹殺」であって「伊勢神宮」そのものはただの物体であることに成ります。
その物体にまつわる権威を興している集団を潰す事がその抹殺になりその結果、「伊勢神宮」はただの「物体」と成り果てます。依って「敵対行為」は「目には目歯には歯」の結果を生み出し、この「物体」と「権威の集団」を潰す事に繋がってしまう事に成ります。
この「衆目の目」と「伊勢神宮」を保全するには極めて効果的な「抑止力」を使うことが必要です。
「強いだけの抑止力」は「目には目歯には歯」の結果を呼び込みます。

この意味で信長強みは「武力型戦術」ですから、彼に弱い戦術は「影の抑止力」の効果です。
「影の抑止力」は大義名分を青木氏側に呼び込み、且つ、「目には目歯には歯」の連鎖を起こしません。
先ず、それには「秀郷流青木氏の定住地」のそのものの中に「溶け込み」をし、その上で同じ「青木氏で融合」する事での「2段構え」で幅の広い「抑止力防御」で構える以外にありません。
しかし、ところが「伊勢青木氏」だけはこの信長に対してこの「2段構えの戦略」が採れない宿命があったのです。それは「伊勢神宮の皇祖神」を護り「祖先神の神明社」を護る為には「溶け込み戦略」は採れません。溶け込んだところで「皇祖神と神明社」が現存して目の前に存在するのです。
これを物体として放置する訳には行かないのです。
信長であれば先ずこれを破壊に掛り「権威の集団」の「青木氏」を引き出しに掛かるでしょう。
これは「青木氏」に採って許す訳には行かない仕儀です。
又、信長側から観れば「伊勢青木氏」の様な「見え見えの権威の象徴」は放置し見過ごす訳には行きません。
「青木氏」としてもいくら子孫を遺すとしても「3つの発祥源」の象徴の「祖先神の神明社」と「皇祖神の伊勢神宮」を放置してまでして子孫を遺す事は出来ない事に成ります。
仮に「子孫を遺す事」に舵を採った場合、世間は「伊勢青木氏」を認める事はしないでしょう。
氏家制度の中では社会に容認されない氏は源氏の様に滅びるしかなく生きて行けません。
少なくとも結果が同じであれば戦うが良策です。しかし、"ではどうすれば良いのか"と云う事に成ります。
そこで「伊勢青木氏の採った戦略」は、筆者の論点の前提 「2足の草鞋策」と「シンジケート」にこの「2段構え」で「幅の広い抑止力防御」を組み合わせる事だったと観ているのです。

「影の抑止力」の効果=「2足の草鞋策」+「シンジケート」+「2段構え」+「幅の広い抑止力防御」

この「数式戦略」に依って個々の弱点を補完し合って強力で重厚な予測の付かない不気味な防衛網が出来上がるのです。信長はこの戦略に弱いのです。
弱いからこそその証拠に「比叡山や真宗本願寺」の「目に見えない力」を押さえ込みに掛かったのです。
信長は秀吉にこの「目に見えない力」の存在の事を教わります。(今宮ジンジケート)

これを実証した最たる事件が有名な「丸山城の戦い」と「伊賀の戦い」の信長からの青木氏の勝利なのです。何と攻めて側の大将との血縁戦略を密かに行い、攻めて側の親族の伊勢秀郷流青木氏との血縁、この更には秀郷流青木氏を味方に引き入れて攻めて側と戦うと云う実に奇妙な戦略を駆使したのです。これでは攻めて側はうっかりと手が出せません。本腰入れて攻めた場合は全滅の憂き目を受ける事は必定です。例え総大将が信長の次男であって2万の軍を廻して来ても。
その証拠に信長に引き続いた秀吉はこの事を充分に承知していて「恣意的敗戦」を求めて1年後に松阪に引き戻す条件を密かに提示させ青木氏を新宮に引き上げさせたのです。(追走しなかった)
条件を護り1年後には「青木氏」の元の状態以上の扱い(上記の数式戦略の保全)をしたのです。
この事が解決した時点で秀吉は蒲生氏郷に伊勢松阪城と伊勢松ケ島12万石を与えた上で「陸奥攻め」に廻したのです。(陸奥黒川城も与える)

( 参考 伊勢青木氏は伊勢松阪の本領を引き渡し、名張郡一部-三重員弁桑名3郡-玉城町全域-新宮尾鷲の本領安堵となる 伊勢56万石 内訳 伊賀10万石 志摩2万石 名張2万石 松阪12万石 長島18万石 他社領、寺領等5万石相当等を50万石相当割譲 室町末期 )

当然に「伊勢神宮・皇祖神の権威の破壊」をする信長に対しても世間の目は向きません。少なくとも「伊勢神宮・皇祖神の権威の破壊」は「別のもの」を持っているのです。仮に全て破壊が成し得ても「信長政治」は成り立たなかった筈です。短命であった筈です。
「物質の破壊」で「権威の破壊」は成し得ても「人心の破壊」は出来ません。「人心、世間・周囲」が容認しない政治は「下の者」はこれを容認しないでしょう。取り分け少なくとも信長の周囲の人物に於いては。
それだけにこの「伊勢神宮・皇祖神」と「祖先神・神明社」を護る皇族賜姓青木氏が信長に挑み敗退したとしても、もう一つの「秀郷流賜姓青木氏」の「第2の宗家」は全国の秀郷一門を率いて立ち上がら無ければ成らない逃れられない宿命を青木氏として浴びている訳ですから、信長に取っては大きな賭けに成ります。
現実、信長は「共和性」を敷く政治体制を目途としていたと観られ、かなり危険な状況に落ち至っていたことに成ります。その「日本騒乱状態」に突入する前哨戦が伊勢で起こり始めた事を意味します。
筆者は「伊勢神宮・皇祖神」「祖先神・神明社」の「権威の破壊」は「共和性」(王性の共和制ではなく共和性としている)を意味すると捉えていて、行く末は朝廷の解体まで進む可能性があったと考えているのです。この時、「伊勢青木氏」もその様な「心構え」であったと観ているのです。
その「前哨戦の2戦」は勝利したものの「第3戦」の手前で信長は明智光秀に討たれ頓挫します。
筆者は明智光秀がこの認識(共和性)にあったと見ていて悩んだ末に自分の身を犠牲に信長を討ったと観ているのです。そもそも本能寺の謀反は短絡的過ぎると観ていて天下を掌握するのでは信長を討ったとしても天下は取れるわけでは有りませんし、無謀すぎるし軍略家の光秀にしては無知そのものです。
人時場所の三相を得ていません。単純に信長を討つ目的であったとするのが普通です。
矢張り信長にしても、光秀にしても無謀と言う面では世間の目・下の目が働いたと考えているのです。

「完全な共和制」を目途としている概念では無く未だ「共和性のある社会」の構築を目途としていたと考えます。その例の一つとして「楽市楽座」、「新城郭構築」、「キリスト教の布教」、「近代的な物造りの推奨」「近代的な戦力戦術」に力を入れていましたが、しかし、この推進に大きな壁として「権威への障壁」が起こっていたと考えるのです。
その後、秀吉に引き継がれた政治は幸いにも「権威への挑戦」「権威の破壊」ではなく、むしろ最もこの様に見られない人物の藤原秀郷一門の、賜姓青木氏とも繋がり縁戚関係を持つ、「蒲生氏郷」を差し向けてこの件を丸く治めた事は、裏を返せば秀吉も明智光秀と同じ認識の中に居た事を意味します。
「蒲生氏郷」は温厚で学者であり、家康とも仲がよく、当時天下一と謳われた軍略師でもあって秀吉に戦わずして勝つ戦略を指導していた事は有名な話です。
ただ一度秀吉の命で伊勢平定後に氏郷は陸奥で3000の兵で山城に籠られゲリラ作戦で長引きそこを無理押しして大失敗をします。(黒川城の戦い)その様な人物を間逆に選択したのです。
何も青木氏が信長に当初から敵対している姿勢を採っていた訳でも無く、「権威への挑戦」「権威の破壊」の対象として攻め込まれたのです。故に、止む無く「伊勢神宮・皇祖神」「祖先神・神明社」を護る為に、皇族賜姓伊勢青木氏と村上源氏支流伊勢北畠氏だけは信長に対して秀郷流伊勢青木氏の合力を得て戦いを挑んだのです。北畠氏は先ず乗っ取られて落とされ滅亡します。
しかし、伊勢青木氏は圧倒的戦力の差がありながらも「経済的戦略」を駆使し、伊勢-信濃シンジケート戦術で揺さぶり無戦で勝利します。
(丸山城の戦い、伊賀城の戦い 長島吉野の戦い-秀吉との材木調達戦 名張の戦い-青蓮寺の戦い 松阪の戦い)
しかし、最後に「松阪の戦い」で無戦に近い状態で新宮の飛地本領に引き上げて終わります。
何れも青木氏の背後には縁戚の「伊勢秀郷流青木氏(蒲生氏)」の合力を得ていたのです。
このままで行けば「伊勢の天正の3戦」は、信長・秀吉が強引に先走れば「秀郷一門と秀郷流青木氏の戦い」に発展して行く事は間違いなかったのです。
ところが「天の裁き」か信長が討たれる事で「伊勢神宮・皇祖神」「祖先神・神明社」「権威への挑戦」「権威の破壊」は免れたのです。
最早、この事が避けられれば青木氏としては「戦う目的」は無く成りますし、蒲生氏郷とは縁戚故知であったと伝えられている事からも尚更です。
この経緯が異なっていれば5家5流青木氏は少なくとも源氏と同じく滅亡していた事に成ります。

この様に鎌倉期の「坂東八平氏の脅威」は「秀郷流青木氏の抑止力」に依って、室町期の「美濃平氏織田信長」の「権威への挑戦」「権威の破壊」には「秀郷流青木氏の抑止力」と「天の裁き」で避けられて生き延びられたのです。

「政権運営」
二つ目は鎌倉期と室町期で、鎌倉期では「坂東八平氏」(北条氏)、室町期では「織田信長」の政権運営に関っている事です。
これは明らかに、本来は氏家制度の中では一族が「融合氏」を形成して住み分けして菩提寺と「祖先神の神明社」を建立してその下に助け合う社会制度の中です。
分布状況から観ると、「2つの血縁青木氏」の存在する全ての地域にこの「祖先神の神明社」が最も多く建立されているのです。(本文末尾の資料参照)
この「青木氏」ならではのこの特殊な現象は、その鎌倉期-室町期に成っての事であり、生き残りの為に懸命に「横の関係」(物心両面)を取ろうとしていたことを物語る出来事だと観ているのです。

大化期からの「融合氏の国策」は、平安末期の公領制の効果がタイムラグ的に働き何とか「荘園制の行き過ぎ」が室町期にはブレーキがかかり、結局、「荘園の争奪戦」が起こる事に成ります。
この結果として「融合氏の細分化」と供に「荘園も解体・細分化」して行き、それに連れて懸命に生き延びた「融合氏」の発祥源・象徴の「賜姓青木氏」は、「秀郷流青木氏」の力を借りて生き残りを果たして更に融合化へと進んだのです。

室町期の下克上と戦国時代に狙い撃ちされた青木氏は、「2つの血縁賜姓青木氏」と「賜姓源氏宗家頼光系の血筋」の3つを融合させて遺そうとしたと考えられます。(融合青木氏)
ただ特記すべき歴史的に見逃しては成らない事は、「2つの血縁青木氏」には「2つの絆結合の青木氏」が親密に存在し、その結果、他氏とは異なり”「下克上」を起こさなかった”と云う事実です。
この事が起こらなかった為にこの「3賜姓族融合戦略」が功を奏して生き残ることが出来たのです。

「3賜姓族融合戦略」で生まれた「融合青木氏」には、家紋は笹竜胆紋か下がり藤紋を綜紋とし、「祖先神の神明社」、「祖先神の八幡宮」、「鎮守神の春日大社」、「産土神の諏訪大社」、「浄土宗古代密教」、「浄土真宗、真言宗密教」等の混在する氏が地域を限定して上記の様に発祥しているのです。
「2つの血縁青木氏」と「2つの絆結合の青木氏」とは別の上記の「判別の確定要素」に迷う「融合青木氏」なのです。しかし、ある3つくらいの共通条件(地域・時期・歴史史実など)が存在して判別は可能です。

話を戻して、「坂東八平氏」の腹の中は”源氏を潰して自らの政権を”と考えていたのにこれでは目論見は無理と成ります。”源氏を潰した後は秀郷一門を潰す”と目論んでいたのではないでしょうか。
これを察知していた義経と大島氏が頼朝に警告するが無視、警告の夜に坂東八平氏に襲われたのです。この大した戦績のない「坂東八平氏」の行動は目論見が行き詰まっていたことを表すものです。
最終的に、この「坂東八平氏」は最終仲間割れを起こしてしまいます。
当初の目論見を捨て支流北条氏が勢力を持ち執権として坂東八平氏を廃して鎌倉幕府を主導することに成ります。「元寇の役」での通説衰退説は切っ掛けであって原因説ではもとより無いのです。

(経緯 水軍の無かった鎌倉軍の弱点を突くために、「たいら族」は水軍を立て直して瀬戸から出て鎌倉湾を突然に突きます。これを聞きつけた源氏頼信系の大島水軍は急遽三日で黒潮を乗り越えて三浦半島に運び水軍による最終決戦をして功績を挙げ頼朝軍を救ったのです。
しかし、最終会議の後に平家軍を敗退させた義経と鎌倉幕府を三浦湾で救った大島氏を襲う。大島水軍はその日の夜の内に大島に引き上げる。義経は平泉に逃れる。現在5家5流賜姓青木氏以外に傍系ではない綜紋の「笹竜胆紋」の大島支流源氏のみが現存し正式に遺されている。大島氏は庶流、傍系、未勘氏、第3氏ではない唯一の正式な支流源氏 大島と云う地理的要素が働いた為 更にこの大島氏の支流で富岡氏(富田氏)が静岡-埼玉の線上に分布している)

  「義家の不合理性」
まして、「3賜姓族融合戦略」を採っている中で上記する平安末期の「義家等の不合理な行動」です。
この事件行動の余波は全源氏に波及するのは確実です。波及すれば行動範囲が制約されていて生活圏範囲が狭ければ潰れる事は必定です。
我々「4つの青木氏」から観れば、源義家の行動は「世間の絶賛」とは別には「裏切り者、反逆者、うつけ者」でしかありません。
筆者は頼朝も義経の諌言を受けなかった事が義家に続いて2回続けての間違いの元でもあったと観ているのです。
頼朝も危機感はあったが止む無く義経を打った後に悟って「本領安堵策」を何と2度も、更に念を押して「平家没官僚策」を北条氏らの反対を押し切って実施したのです。
恐らくは現実思考性の持った戦略家の義経を潰した後に、北条氏等の態度が急変して初めて”アッ”と懸念を悟ったから「巻き返しの策」として命を掛けたのです。
傀儡政権の中ですから、命を掛けないのであれば始めからこんな危険な策に出ることはありません。
沈着冷静で戦略家の「義経の諌言」は歴史が物語る「世の無常」を悟っていたものであったと観ているのです。

参考雑学 義経はその武勇だけを賞賛されているが、平氏を瀬戸内で討った時に事前に味方を引き入れる為に関西域の各地を駆け回り粘り強く説得し「平氏水軍」に対抗する独自の「源氏水軍」を作り上げる為に奔走していた事がその水軍の氏の資料として多く遺されている。
源氏には水軍が無かった為に勝てない事が大きな戦略上の欠点であって「坂東八平氏」の軍には戦える水軍は無かったのです。
ましてこの時、軍監の「坂東八平氏」は義経をこの戦いで潰す目的ではなかったかと観ているのです。
その事を承知している義経は自らの軍2万を集め、自らの水軍を作る事に奔走する優れた緻密な戦略家であった事がこの時の資料から判るのです。「坂東八平氏」の軍は全く動かなかったのです。
義経はこれを無視して「紀伊水軍、熊野水軍、伊勢水軍、駿河水軍」を集めたのです。
そして、この水軍全て「海賊」のシンジケートだったのです。この「海賊」に意味があったのです。
瀬戸内の「平氏水軍」と同じ戦い方では「多勢に無勢」で負けるが必定であり、この事を補う為には「海賊的な戦い方」を用いたのです。「平氏水軍」は違った戦い方に面食らい慌てふためいて総崩れを起こしたのです。
義経はこれを狙ったのです。特に紀伊水道の紀伊海賊の説得に何度も粘り強い姿勢を示し義経の人間性に信頼を感じて味方をした事が資料に遺されているのです。その紀伊水軍が戦いの先頭に立ったと記録されているのです。ところが戦いに勝利すると直ちに引き上げたと記録されているのです。
(この時代の「海賊」とは海賊そのものだけではなく、海の安全航行の保障を前提とした「海利権」的なもので一種の海のシンジケートなのです。従わない場合は武力で潰される事は陸のシンジケートと同じなのです。義経は「氏存続の3つの条件(経営哲学)」を"斯くの如くあるべし"と云う事を都近くにいて清盛や藤原氏や青木氏から学んでいたのです。

「氏存続の経営哲学」
これは義経は偶然に勝てたのではなく「青木氏が採った戦略性」と「長としての青木氏家訓」とほぼ同じものを考え方として持っていたからと観られます。

(青木氏と類似する「氏存続の経営哲学」を持っていた。記録では現実に義経は平清盛に宋貿易等の教育を受けている。同族賜姓族5家5流の青木氏の「氏存続の経営哲学」を観ていた可能性が高いのです。頼政の跡目の入った「青木氏の伊勢松阪」と「平清盛の伊勢伊賀」の親密な関係から観ても考えられる事です。 義経と青木氏の関係を調査中)

この「義経の優れた特性」に対して頼朝はカーと成る「氏の性癖」と対比して「嫉妬と危険性」を感じたと観ているのです。
ところが、その義経を潰した時、頼朝は「坂東八平氏」の豹変に初めて気が付いたのです。
「頼朝」と「坂東八平氏」は頼信系の義家に続く清和源氏の分家子孫には観られない優れた「義経の優れた特性」を観たのです。
頼信系の清和源氏には、新宮太郎や木曽義仲等の一門の人物像の書物を読むと、義経を除くと何かこの様な「不合理な性癖」(カッと成る癖で突っ走る)があったとも取れる印象を持つのです。
その意味で賜姓同族で血縁性もある宗家頼光系4家の宗家頼政の血筋を受け継ぐ青木氏一族一門の「家訓10訓」は「生き延びる3条件」即ち「氏存続の3つの条件(経営哲学)」を前提にこれらの事を強く戒めているのだと感心するのです。先祖も同じ考えであったと観ているのです。

この義家末裔に観られる「不合理の性癖」は「融合氏」の賜姓青木氏側にも在ったのかも知れません。
或いは、頼信系一門を観ていて感じ採っていた事も考えられ、だから敢えて「長の務め」として戒めているのだと云えます。
恐らくは平成期の青木氏が検証している様に、平安期にも本文の様に検証していたのではないでしょうか。そして「3つの発祥源」の「融合氏」は家訓で”斯く在るべき”としたのです。
そして、室町期には「生き残り策」として「3賜姓族融合戦略」を展開したのです。
伝来の「家訓の背景」と観られる集大成「由来書」(大筋概要)の様なものを「平成の復元」で再び成し、明治35年の消失で無くなったものを筆者に復元させたのはここに子孫を思う先祖心があったのでしょう。
取り分け由来書成るものは「神明社」(「3つの発祥源」「物造り」「融合氏の由来」)に力が入っていたとされるのです。

ところが筆者には「経済的自立」と「3賜姓族融合戦略」とに依って「生き残り」は成し得た事は事実ですが、何かもう一つ納得行かないものがあるのです。
それは「蒲生氏郷」から「江戸幕府」徳川頼宣までの青木氏に対する保護はこの「3賜姓族融合戦略」には無関係です。これは何かがあった筈です。
それは何か青木氏に「人を引き付ける要素」があったと観ているのです。
それが、「旧来の人の心に遺されている伝統」、即ち「祖先神の神明社」にあったのではと観ているのです。人はこれを否定する者はいないだろうと考えます。
例え、ヨーロッパの影響を受けた「権威に挑戦」した信長でも。その信長の行動は「政治的な権威への挑戦」であって、「人の心」に存在する「伝統」と、その「象徴・権威」でもある「皇祖神」や「祖先神の神明社」そのものには幾ら信長でも否定と破壊はしないであろうと思うのです。また出来ない筈です。
その「伝統から発する権威」が「政治的色合い」を強く示した時には、信長は挑戦するのであって、単に内に秘める「心の権威」のみを否定する事は、それこそ社会の「異端児」と成り果てあり得ない事です。
それは人ではなく「鬼」に過ぎない事です。其処まで信長は異端児ではなく、やや人より「共和性の考え方」に富み進んでいた事から、当時では氏家制度の中では異端児的に観られているのであって、現在から観れば極めて合理性に富んだ当れ前の考え方であります。
この「心の権威」の「伝統の祖先神」を守り通してきた「健やかな姿勢」の青木氏を人は認めたのではないのでしょうか。止む無く戦ったとしてもその上記した「戦い方」そのものにあったと考えるのです。
それが源氏分家頼信系の宗家の義家一族に無かったものであり、”政治的な権威と軍事力の上に胡座をかいていた”から潰されたのです。
青木氏の家訓に強く戒めている「長のあるべき姿勢」は「心の伝統」を重んじる「祖先神の神明社」に結び付いているのです。まして「絆」結合を重視した青木氏一門郎党ですから尚更の事では無かったかと観られます。「生き方が穏やか」であります。
「氏家制度」の社会の中では「3つの発祥源の青木氏」ならばもっと積極的な生き方もあったとも考えられます。しかし、違ったのです。
信長はこの「心の権威の伝統」の範囲に留まっていれば伊勢への「権威の挑戦」は無かったと考えられます。しかし、如何せん「氏家制度」の社会慣習の中では「伊勢神宮・皇祖神」「祖先神・神明社」は「心の権威」と当時に、それを「政治の権威」の基点とする「旧来からの政治体制」であった為に、信長は止む無く「神社の伊勢神宮」「寺社の比叡山天台宗」「真宗本願寺」等に類するものを攻撃したのです。
しかし、青木氏の立場として止む無く関わらなければならなかった下記の戦いには信長の対応は少し異なっていたのです。

1564年から始まり1584年まで「伊勢攻めの主要三乱」は各地で大小の戦いが続いたのですが、この内青木氏に関わる戦いとしては次ぎの通りです。
「長島攻め」の3乱(1568-1575)の内北畠氏攻め(1575)
「伊賀攻め」の4乱(1565-1581)の内第2次丸山城(1578)と第4次伊賀城の戦い(1581)
「松阪攻め」の2乱(1583-1588)の内松阪無戦引渡し(1588)
以上4戦に関わったのです。
(参考 信長没1582年)

「権威の守人」
ところが、社会がまだ信長の「共和性」には理解が届かなかったのです。むしろ、逆に義家の様に振舞うのではなく、信長に執って、青木氏の行動が「権威の守人」として穏やかに振舞うところに引かれ、故に「伊勢神宮・皇祖神」「祖先神・神明社」である「心の権威」の「守人の青木氏」にむしろ「畏敬の念」を抱いていたと考えます。
その証拠に伊勢神宮を焼き討ちせず、伊賀と長島の周囲を先ず攻め最後に松阪を攻めようとしていた矢先に「本能寺の変」(1582)が起こったのです。
「伊勢攻め 丸山城事件」(1578)に対して、”何故に海側の先端の丘に丸山城を建て様とした”のでしょうか、地形から観て疑問が残ります。また「伊勢攻め」の前哨拠点にしては大げさで必要性と地形に疑問が残ります。
第一に、城を建てなければ成らないほどに信長に抗戦する力(最大9千)が青木氏と伊賀氏と北畠氏等にあった訳では有りません。北畠氏は信長の調略(1575)に先ず落ちていますし、青木氏にはシンジケートの危険性だけ、伊賀氏は信長の始祖の「末裔たいら族」であり、縁戚でもあり内部に名は裏切りもあり実質小さい勢力です。他に伊勢には土豪勢力の屋形か陣屋か寺城程度の平城が10程度ある程度のものですがこの程度で出城の建設には疑問が残るのです。
(注意 本論は青木氏に関わた事として限定して論じている。天正の伊勢3乱として歴史は大きく「戦い」として書きたてているが筆者は結末が大きくても内実は違っていると観ている。信長はこの戦いを通して結果として大軍を擁したがその間「村民と城兵」には傷つけなかった事は有名な事で盟約まで結んでいるし、伊勢の土豪との戦いは殆どは裏切りで解決している。)
そもそも”何の為に岬の先端にわざわざ建て様としたのか”不思議です。前線基地として建てるのであれば好適地がある筈です。北畠の城も既に獲得していた筈です。
この疑問を解決する要素はただ一つです。それは全青木氏に関しての戦いでは、「権威の守人」を遺そうとしたか、それとも秀郷流青木氏の背後を気にしたかの2つではないでしょうか。(伊勢土豪の小戦は不問)
いずれにしても武力を全面に押し出さない穏やかな「権威の守人」の「青木氏の陰力の抑止力」が働いていた事は事実です。しかし、敢えて信長はこの「権威の守人の青木氏」一門を残そうとして、「抑止力」を果たす「監視城」を目指そうとしていたと考えられます。
石山本願寺の悲惨な戦いの様にならない様にする為に、その差として「門人」と違う所と云えば、「守人青木氏」の「氏柄」の所以であったと考えられます。
それを理解できずに次男信雄が大金を使い果たし建設時期を大幅に遅らせやっと出来た挙句は青木氏の影の力シンジケートに燃やされてしまうと云う失態を繰り返しこの建設に失敗するのです。
故に、「青木氏の戦状況」は伊勢3乱の1564-1588年の間にはどの「表の歴史資料」には出て来ないのはこの「青木氏の陰力の抑止力」の働いた穏やかな「権威の守人」の行動からなのです。

最終それを引き継いだ秀吉は青木氏と縁戚である蒲生氏を差し向けて穏やかに納めたと観ているのです。
秀吉をそうさせたのは「信長の真意」を汲み取り、矢張り秀吉も「心の権威」の「守人の青木氏」(伊勢を始めとする2つの血縁青木氏)に「畏敬の念」を持っていた証と観ているのです。
(2つの血縁青木氏 5家5流賜姓青木氏と賜姓藤原秀郷流青木氏)
しかしながら、現実には信長とすると「政治の権威」と結び付いている「守人の青木氏」を一時攻めると云う事が起こったのであって、、伊勢を支配下に入れるにはそれには土豪の押さえ込みの「監視城」の必要性がありますので、奈良時代からの長い歴史来の禁手の天領地伊勢神宮の伊勢松阪に「松阪城」(蒲生氏郷 松阪松ケ島十二万石等計44万石の割譲後、 松阪城に移す)を建てたと考えているのです。
この「監視城」とは松阪の平城は政庁舎の趣が強く築城の配置形態が資料から観て「戦城」とは異なっていたのです。
伊勢路の松阪は尾張から京に出るには軍事上要衝の地である事からも戦略上ここに戦略基点を設ける絶対的な必要性があって、平安期からの「禁手」(不入不倫の権)では戦国時代では最早済まなく成っていた事も明らかです。
従って、信長は未だこの「戦略基点」を丸山に置いたとする事は、伊勢の「土豪潰し」は行ったが、伊勢松阪の「伝統」を護る「戦略的配慮」があったからの事であります。
そこで、秀吉は「禁手」を犯してでもそれをもっとはっきりとした形態を採りたかった為に一挙に松阪としたのであって、そのはっきりとした行為を和らげる為に青木氏縁戚の蒲生氏郷を配置し、且つ氏郷の人柄を表に出し、城より政庁の赴きを付けさせ、「権威の守人の青木氏」に「没本領」として氏存続の為に「割譲残石高」程度を与え残し、現状を維持させ残したと考えられます。
これで「神明社破壊への民衆の動揺」をも抑えたと観られます。
信長-秀吉-家康の時代を通して生き延びられたのはこの「皇祖神-神明社」背後にを控えた「氏柄」の生き様の所以だったのです。
これが、疑問の答えの「穏やかな権威の守人」「伝統の氏」が人を引き付けたのです。

常にその生き様を対比する「源義家」一門はこの「心の権威」の「守人の源氏」の姿勢を採らなかった事に所以しているのです。
源氏の「祖先神・八幡社」の精神「守人の氏」(2つの血縁青木氏の様に)に徹せず「荘園制」に「氏の命運」を掛けて「氏世拡大」を夢見てしまって「人を引き付ける要素」を失って「滅亡の流」を源氏の中に作り出してしまったのです。
筆者はこの「義家の生き様」と「信長の生き様」は「人を引き付ける要素」に一面欠けていたと観ているのです。

そこで、この「青木氏」をより深く検証するために話をもう一度大きく戻します。
 「部曲と民部:(かきべ)」
本来、上記の義家の例に観られる様に「源平藤橘」や「荘園主」の「融合氏」の「氏族」は多数の「部民」を「隷属民」として支配していたのですが、この「部民」は「部曲」として、又、朝廷に命じられる労役に「氏族」に代わって従事したのです。
荘園に組する氏姓には血縁性は全く無く、「部民」間も血縁性が無く、「部民」の「品部」も同様で天皇家の「部民」、後に豪族も「部民」を持つ様になります。
皇族賜姓青木氏は「天領地」を管理する守護王ですから、この5地方の天皇家の「部民」が「青木氏の部民」であることになります。
皇族賜姓青木氏の永代官職名は「民部」を管理監督する「民部上尉」であるのはここから来ているのです。
(平安期末には荘園が大集団化するにつれて荘園の「百姓」を「部曲」(かきべ)と、朝廷直属の「百姓」を「民部」(かきべ)と呼称される様に代わった。
(字は異なるが何れも呼称は「かきべ」 、「品部」「部曲」「民部」の3つを合わせて「部民」と呼称された)
これ等の「部民」が後に勢力を持ち「姓」を名乗る事になります。
ところで、「氏名」では無くこの「姓名」に付いてどの位の種類で出来たのかを調べてみると次ぎの9つの種類の「姓名」があります。
1 血縁的同族が形成する「氏」の姓名(奈良期)
2 大和朝廷の統一過程における「部の制度」の姓名(平安期末期)
3 名田制度から起こった名字の姓名(平安期末期)
4 皇族が臣下した賜姓よる「氏」の姓名(奈良期)
5 4の分家分派分流が名乗った「氏」の姓名(平安期後期)
6 4の官職、役職の一部と組み合わせた「氏」の姓名(平安期中期)
7 知行する土地の名称を名乗った姓名(鎌倉期以降)
8 武士の集団移住分封より宗家とは別の土地の名を採り分家が名乗った姓名(室町期以降)
9 江戸期初期と明治初期の苗字令により名乗った姓名
以上9つの「姓名」から成り立ちます。

但し、9は更に次ぎの分類が出来ます。
明治初期の姓名は2つに分けられます。
9-1 1と4と6の生活圏を共にした民の「絆結合」で名乗った姓名(絆結合の第3氏)
9-2 地名等自由な形で名乗った明治期の苗字令の姓名(否絆の第3氏)
江戸初期
9-3 1と4と6が生活圏を共にした家臣の「絆結合」で名乗った姓名(絆結合の未勘氏)
(4に付いては賜姓族[青木氏と源氏]と「嵯峨期弘仁五年の詔勅むの[青木氏]に2つに分けられる)
(8に付いては大日本史に多く掲載されている姓名。)
(8に付いては宗家が先祖伝来の「名字地」と「家名」と「伝統」と「子孫」を護る役目に対して宗家の統制に従わない者は除名追放が頻繁に行われた。この為に一族であっても違う姓名を興して名乗った。)

「参考 (重要)」
「賜姓」は次ぎの通りです。
1つは「類聚三代格」賜姓の皇族賜姓青木氏(弘仁格式、貞観格式、延暦格式に記載)
2つは「嵯峨期詔勅」賜姓の皇族青木氏と賜姓源氏に分けられる。

1つ目の「類聚三代格」
初回賜姓氏は8皇子皇女で内5人が青木氏(5家5流)、1人が佐々木氏の皇子で、他2名の皇女は斎王、宮王で不明死滅。
2つ目の「嵯峨期詔勅」
嵯峨期からは対象者17人 内皇子15人皇女2人で、青木氏は4人 源氏11人 他2人は比叡山門跡僧は斎王(宮王)と門跡尼に成り死滅

(注 徳川氏はこの2名皇子(門跡院僧)の内の1名が南北朝の時に三河にて托鉢中に松平氏に逗留して還俗し子孫を遺したとして朝廷に認証を求めたが2名とも「門跡院僧」に成っている史実からなかなか認めなかった。 この時源氏を16代として拡大したが実際は花山天皇までの11代) 
(注 上記計25人の皇子末裔で有る事を朝廷の認証を得て証明されなければ「征夷大将軍」になれず幕府を開けない。)

「4つの青木氏」=「鶏の卵関係」
上記の4と1の「氏名族」(2つの血縁族)と、9-1と9-3の「姓名族」(2つの絆族)から成る「2つの血縁族と2つの絆族」に付いてもう少し次ぎの事を論じておきます。
「2つの血縁族」
「2つの絆族」
「鶏」は「卵」から「卵」から「鶏」に、卵は黄身と白身はどちらにも優劣なしにて成り立ちます。
「鶏と卵のどちら」の論争は化学的に「卵が先」と判りましたが、その位置付けの「卵」(氏)の中味(血縁と生活の絆)の「構成関係」と「4つの青木氏の構成関係」と同じと考えています。

「卵(黄身と白身)の構成関係」=「4つの青木氏の構成関係」
「卵」=「氏」

そこで其の前に果たして”「氏融合」とは何なのか”と云う疑問が湧きます。
先ず「氏融合」は少なくとも「子孫存続」があってこそ成り立つものです。
この「卵の構成関係」は、「氏融合」が可能となる「子孫存続」の「重厚な基」と成っていますが、これが”「4つの青木氏」の関係にあるのだ”と考えているのです。
つまり、数式では次のように成ると考えています。

「鶏の卵関係」=「氏融合」=「子孫存続」=(「血縁」と「生活の絆」)=「4つの青木氏」
「2つの血縁融合」+「2つの無血縁融合」=「子孫存続」の条件

そもそも最低はこの判別式の「数式条件」が成り立つ事こそが「氏融合」では無いでしょうか。
上記した「3つの発祥源」と成る青木氏(390氏)は最大1365年以上の古い歴史を持つ事からこの条件が充分に醸成されて、この様な他氏に絶対に観られない「卵の構成関係」に観る様な「融合状態」が成立したのです。
この「絆結合」は最大1365年の「有品悠久の歴史」と「日常の生活」を共にし「村」を形成して代々子々孫々暮らして感情を持てばむしろ「血縁以上」となるのは必定です。
大化期から江戸期までその土地に住む「全ての民」はその「土地に対して所属」し、「氏家制度」に依って「互助社会」が成立し、その土地の「環境の中に生き抜く」のが定めです。

現在の様に「契約社会」の中でその「契約の範囲」に限り「移動を含む自由」が成立するのですが、氏家制度の社会は、それだけに「村」を形成し、その「村」の中の人間関係(絆)は身分家柄上下の関係を問わず現在から見れば想像を絶する「強力な絆」で結ばれていた筈です。
現在、我々が感じ云う「絆」の持つ意味が質、量共に異なっていたのです。

例えば、ここで「第3氏の青木氏」と使えば殆どの人は3者の間には完全な溝が横たわり繋がりを持ち得ない関係の一方を意味するものと考えますが、明治期を除いてこれが違うと云うのです。
室町期の「第3氏の青木氏」には確かに溝らしきものがあるが、その溝には他方を冷やす水が流れていないのです。溝があってそこを行き来出る状態の概念を持っていたのです。
かと云って、今で云う「自由な往行」を意味するものではないのです。「自由」の中に「けじめ」を大きく占めた「自由」なのです。
名づけて「けじめ自由」と云うべきものであったのです。つまり「けじめ社会」であったのです。
つまり、「けじめ社会」=「氏家制度」であります。これが「発展の基盤」となるのが「融合氏」であります。
この「けじめ社会」のレベルはその「環境の歴史」に左右される筈です。
「融合氏の青木氏」は上記する様に「3つの発祥源」として最大1365年もの「有品悠久の歴史」を保持している訳ですが、この環境下ではその「けじめ社会」の概念が緩やかに成り、かと云って「けじめ」が疎かになるのではなく、丁度、充分に熟成した日本酒の「円やかさ」が生まれるのです。
麹菌が加糖になりブドウ糖になり熟成してアルコールに変化してアルコールが更に細部まで分解して度数が上がるが逆にアルコールの「ビリッ」としたものが無くなり、円やかで独特な芳香が豊かになるのと同じなのです。
室町期発祥の「100年の融合氏」の場合は、未だこの「けじめ」の部分が強すぎて身分家柄上下の関係が醸成されていない状態なのです。真さしく造ったばかりの日本酒なのです。年代が過ぎると徐々に変化してよい日本酒になるのと同じなのです。
ここが他氏と異なる違いだと云っているのです。「4つの青木氏」はこの関係にあったのです。
「4つの青木氏」の関係は”熟成された「けじめ」であった”と云っているのです。

この熟成されたものが「青木氏」の「権威の守人」の穏やかな衆目を引き付ける「氏柄」を有していたのです。戦国時代を生き抜ける青木氏の「根本の氏柄」であったのです。
故に「3つの発祥源」でありながら「家訓10訓」の様な「真意の戒め」と成っているのです。
ここが同族賜姓源氏と異なっている所なのです。
「嵯峨期の詔勅」が「皇族賜姓族の氏柄」を変えてしまっていたのです。


青木氏と守護神(神明社)-10に続く。
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