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青木氏と守護神(神明社)-18

[No.286] Re:青木氏と守護神(神明社)-18
投稿者:福管理人 投稿日:2012/05/18(Fri) 19:20:00


> 「2つの青木氏」の「特別賜姓族青木氏」は秀郷一門を背景には「氏構成」の大きさは別格として、同族5家5流の皇族賜姓族(近江、美濃は支流末裔は何とか遺せた)が「源氏11代」と対比しても前段から論じている「祖先神-神明社」を通して上記するその「生き様」の違いがあり、それが適時適切であった事を物語っている事に成ります。
> (絶大な勢力を誇った「特別賜姓族の援護」が「賜姓青木氏の生き様」を救った)
> この他にも宗像大社、熊野大社、住吉大社、出雲大社、阿蘇大社、等の氏子集団を形成した「姓氏」の果たした充分な役目から考えると、「祖先神」を守護神としながらも概して源氏は本来賜姓族でありながら「祖先神の役目」に対してその果たした功績は極めて低いと云わざるを得ないのです。
>それが子孫を遺し切れなかった「生き様」に現れたと考えられます
>
> 「八幡社の議論」はデータからも明らかに成った事から、更に次ぎからは「本論の神明社」の分析に入ります。

「2つの青木氏」に依る「祖先神-神明社」の建立は「河内源氏の八幡社」の独自の行動に因って全国各地に特徴ある影響を受けました。然し、神明社は確固たる信念の下に「2つの青木氏の守護神」としても「生活の神」「物造りの神」を存在意義として等しく「民の守護神」としても全国各地でどんな環境の中でも受け入れられ何時しか「総神」として崇められました。
その神明社の建立地は「2つの青木氏」の定住地としても「完全一致の形」で成り得ているのですが、その定住地を広域で区分けして観ると「2つの青木氏」の特徴ある様々な「生き様」が観えて来ます。
「広域定住地」、又は「広域建立地」は「青木氏の歴史を物語る域」に成り得ていてそれは次の様に分けられます。
前段で論じた歴史的な生き様や他の論文でも論じて来た様々な事を想起して次ぎの数字を観てください。
その神明社の日本全国の分布は次ぎの様に成ります。

(Jの分布表)
特別賜姓青木氏の神明社分布
関東全域  7県-103-18.2%-本家域 

「青木氏の歴史を物語る域」を語るには先ずこの「関東域」を語る必要があります。
この域は秀郷一門の「第2の宗家の青木氏」(116氏)としての本領であります。武蔵入間の秀郷宗家を中心に伊豆の手前の神奈川・横浜を半径に円を描く様にその中心から青木氏本家を基点に外枠に至るところまで螺旋状に取り囲み護っていました。その為に青木氏としては他の地域に比べて定住地としての密度が極めて高く、ここから他の地域に戦略上の指揮を発していたのです。
その面積密度の高いこの「武蔵と下野本領」(後に上野が加わる)には、その「神明社の建立」は全体の2割程度を占める程に建立されていて、藤原氏北家の守護神「鎮守神の春日社」の本領の本家域に於いてでさえ、「神明社」が深慮する事無く深く取り込まれて建立されています。
これは「第2の宗家」である事と、「特別賜姓族」である事と、「生活の神」「物造りの神」の「全て民の守護神」である事の3つの事としても、一門の影響力の大きく及ぶところには、即ち、この関東域全域では無条件で受け入れられていた事に成ります。
故にこの数字はこの「青木氏の影響力の範囲」、或いは「青木氏の定住地の範囲や人口密度や末裔分布力」等様々なパラメータとして使う事が出来ます。
この様に関東域には他の域と違う特別な意味を持っていて「特別賜姓族青木氏」の「生き様の根幹」が読み取れるのです。

(Kの分布表)
特別賜姓青木氏-34県-418-73.8%
北陸道域   4県-104-18.4%-北陸域
東山道域   6県-105-18.6%-東北域
東海道域   8県-154-27.2%-中部域
移動先域  16県- 55- 9.7%-分布域
(関東全域の103は418に含む)

上記同然に、前段で論じて来た「鎮守府将軍としての赴任地域」であり、この域の「血縁域」としての「北陸道域」、その「北陸道域」から「東海道域」に繋ぐ末裔分布域の「東山道域」、「関西域」手前までの勢力伸張域の「東海道域」、それと各地赴任地24地方域に藤原氏の戦略的手法として遺して来た各地の土豪血縁族の「移動先域」の4つに分けられます。
これ等の域は夫々に特長ある秀郷一門の「生き残りの戦略上の役割」を持っています。
当然にその役割には「神明社建立」と云う事が大きく関わってくる事に成ります。
他の論文や前段で論じて来た様に、その「神明社の建立数」は秀郷一門の勢力のパローラメータとしても読み取れますし、「第2の宗家」の「特別賜姓族の青木氏」の勢力分布や末裔分布のパラメータとしても読み取る事が出来ます。
これ等の域の更に下記の県域毎の詳細な内容を観れば、各地に分布する「特別賜姓族青木氏」の勢力分布や末裔分布も読み取れるのです。

県単位で観てみるとこの戦略の役割の大きさや末裔分布力が明確です。
各種のパラメータ    戦略上の役割
北陸道域は28/県  赴任地として勢力拡大の基点域
東山道域は18/県  基点と本領を結ぶ戦略拠点域
東海道域は19/県  移動先域と本領を繋ぐ補給拠点域
移動先域は 3/県  前線の情報収集拠点
関東全域は15/県  本領の戦略指令拠点
(関東全域は北陸道域と東山道域と東海道域を結ぶ要として存在する)

「各種のパラメータ」の数字や「戦略上の役割」の具合を下に他の事柄に置き換えて考察する事が出来ます。
特に注目すべきは「東海道域」であり、関東域、北陸域、東山道域が如何にも調整したかの様に同率の2割弱を示す中で、段突の3割弱を示しています。これは関西域の手前の伊勢や美濃域を境に強力な防衛線を敷いていた事を示し、且つ、本領武蔵との環道を戦略的に強化していた事にも成ります。
事程左様に様々なパラメータとしても見る事が出来ますが、賜姓族の元締めの「伊勢の賜姓青木氏」と緊密な関係保持をしていた「特別賜姓族伊勢青木氏」の置かれている立場も戦略上重要視している事が良く判り増すし、又、都京と伊勢神宮との連携戦略拠点に成っていた事が判ります。

「移動先域」は1割で一県としてみれば前段で論じた様に「4社の神明社」/県を均等に配置していた事も判ります。恐らくはこれが戦略的に配置する一門の基準と成っていて、主要地の「関東域」、「北陸道域」、「東山道域」等にはその4-5倍/「移動先域」の戦略拠点を配置するとの基準の様なものがあったと観られます。勿論の事、為政的で政治的な戦略としても「生活の神、物造りの神」の「民の安寧の守護神」としても「神明社」を建立する基準とも成っていたと考えられます
この「移動先域」はその県毎のデータを観ると、地方の他氏の守護神などとの関係から前線基地としての地域毎の特長があり、その建立の目的にはかなり重要性が潜んでいて前段で論じた様子が具に覗える数字と成っています。
その「移動先域」の中国・四国域と九州域は、秀郷一門の「特別賜姓族青木氏」としての地域毎の繋がりある「戦略的な建立」は観られず、「移動先域」の前線基地的な県毎の範囲の位置に留まっています。
下記の県毎のデータにその県毎の歴史雑学を重ね合わせて考察すると、個々の数字の持つ意味がよく読み取れます。

(Lの分布表)
皇族賜姓青木氏-16県-148-26.1%
宗家主家域  5県-126-22.3% 
移動定住域  4県- 10- 1.8% 
二氏重複域  7県- 12- 2.1% 

「1/4の原則の保守」
実は上記の特別賜姓族のデータで、”4-5倍/「移動先域」/県での戦略拠点を配置する基準”の様なものがあるとしましたが、「特別賜姓族青木氏」の主要41県全域の418に対して、「皇族賜姓族青木氏」の148は凡そその「4倍弱」と成っていて、これは「皇族賜姓族青木氏」の29氏に対して「特別賜姓族青木氏」の116氏の4倍弱(1/4)と同じであります。
この事は「神明社建立」には上記した「4社の神明社/県の基準」と合わせて「皇族賜姓青木氏」/「特別賜姓族青木氏」の「1/4の勢力」に合わせていた事が判ります。
(412+148/566に対して九州域の6社が含まず)
建立範囲として観ると、「皇族賜姓青木氏」の16県の内「二重重複域」は「宗家主家域」「移動定住地」とは重なる所があるので実質9県程度と成り、「特別賜姓族青木氏」の34県との比も矢張り「1/4の勢力」と成ります。
つまり、この事から明らかに「皇族賜姓族青木氏/特別賜姓族青木氏」の関係には「1/4の勢力」であった事が判ります。やはり勢力に合わせた建立以上には建立する事は実質上無理が絡む事を考えると、この「1/4の原則」を護っていた事が判ります。

更に、これらは実質の「神明社建立数」の%から観ても 26.1/73.8≒1/3 に成っていますが、この数字は上記の八幡社の論議でも明らかな様に「特別賜姓族青木氏」の域に於いて室町期中期以降後に合祀などの流れが起っている事から変更(7.8%)されていますので、それを加算するとここでも「1/4の勢力」(1/4の原則)が働いています。
先ず「1/4の勢力」は「勢力」のみに留まらず全ての事柄が「勢力」に左右される事からの「原則」に成り得ていた事は間違いないと観られます。

ところで、この「1/4の勢力」以外にもこの「1/4の原則」が一部の生活習慣の中にも遺されている様で、筆者の家の盆暮れや法事や日常生活の所作等に至るまでの様々な「仕来り」や「日常の生活習慣」にも遺されている事から観ると、この「原則」が当り前の事として日常生活の中にも良く浸透していたと考えられます。
この「1/4の原則の仕来り」は筆者の家の歴史から観ると、明治35年頃まで充分に遺されていた事か判りますが、ところが現在では周囲には殆ど観られない「仕来り」ですので、最早、周囲習慣とは違い(違和感)が有り過ぎる事から守れない事が起っていて、又その意味や合理性や根拠が今や強く感じられ無い事から、次ぎの世代には引き継ぐ事が難しく且つ出来ない事と成っています。
(何か要領書の様なもので ”この様な「古式所作と仕来り」があった” として末裔に先祖記録として遺したいと考えている。)
これには周囲の習慣を具に観ると其処かしこに伊勢青木氏の我家にのみ遺されていたと観られる事から、平安当時に「何らかな基本的な思想」が働いての事と考えていて、賜姓族には伝統的に”中国の「五行思想」の様な思想があった筈”と見ていますが現在は研究中で確認は取れません。
これは研究過程での検証誤差で「1/4の原則」と成っているのか「五行思想」の「1/5の原則」であるのかは確定できないのですが、「青木氏の思考原理」としての「祖先神-神明社」をパラメータとして観ると、その様な「1/4の原則」の関係を恣意的に構築していた事が判り、又、勢力に沿って無規則に「神明社建立」を実行していた訳では無い事が判ります。
「生活の基盤」の基と成っている「祖先神-神明社」の考え方からもたらされた「1/4の原則」であると考えています。

(特記 「五」を超える事は思想的にタブーとして敢えて「四」に抑えていた事も考えられるが、古来の皇室の格式習慣として、例えば、”皇位継承権は4位までとし6位は継承権外と明確にし、その間の5位は4位に近くしながらもどちらにも属する”とする「皇室の格式慣習」が奈良期から平安期まであった事から考えると、又「皇族賜姓族」であった事からそれに従っていたと考えられ、又その一部が「祭祀や所作」の中にも遺されていたと考えられ、故に「1/4の原則」は正しいと考えている。
又、皇族枠の点でも4世族と6世族はこの「仕来り」に沿っている事等、公家は「有品の制」でも従4位と従5位にはこの4と5との原則が働いている事、官位官職勲功叙勲に関してもこの4の原則が働いている事等からも先ず間違いは無いと考えています。
「青木氏の生活習慣の仕来り」の「1/4の原則」の「根拠の口伝」は当り前の事としていた事からか慣習や仕来りは多くのところで遺されているが、正式な「根拠の口伝」は「青木氏家訓10訓」の様には無く確認出来ない。
これは恐らくは、これ程に遺されているところを観ると、「青木氏の格式」で、つまり「令外規則」の「要領書」の様なもので、下記の「三大格式・三大儀式」に習った「賜姓族格式・儀式」であった事が考えられる。
「2つの青木氏」はこれを守っていた事が考えられ、上記の「河内源氏」は守らなかった事に成り生き残りの手段としてその差が出た事に成る。)

(「格式」とは令外規則の一種の要領書の事  大化期の律令の基と成った施基皇子が編集した「善事撰集」や桓武期の律令完成を法令補足する為に作られた嵯峨期の「弘仁格式・弘仁儀式」を始めとして「貞観・延喜式目」の等の「三大格式」や「三大儀式」がある。日本独自の法令形式)

この生活の中まで浸透していた「4-6の原則」「1/4の原則」「4の原則」は、「青木氏の賜姓族」に密かに脈々と引き継がれて来た「仕来り」であった様で、「氏を構成する平安武家」に引き継がれていたかは「下克上と戦国時代」で殆ど滅亡してしまった為に定かでは無いが多少の伝承があったと考えられる。
尚、賜姓族の「2つの青木氏」は神明社の観点からこの「1/4の原則」の慣習に従っていた事から観ると、秀郷一門の「特別賜姓族の青木氏」は秀郷一門一族(藤原氏北家)の「第2の宗家」の役割を果しながらも「賜姓族側の立場」をより強くしていた事を物語ります。
「祖先神-神明社」の考え方から来た「賜姓族の行動規範」であってこれを守っていたからこそ等しく「民の信頼」を得ていた事の基に成っていたと考えられます。
故に秀郷一門は「特別賜姓族青木」に「賜姓族」として一目を置いていた事が判りますし、前段の「瀬戸内の純友の問題」でも論じた様に世間も信頼し一目は置かれていた事を物語ります。

言い換えれば ”必要以上の勢力拡大は反って逆効果である” として考えていた事であり、清和源氏のの「河内源氏」の様に無制限の勢力拡大をしたのでは無く、「青木氏式目」(「青木氏格式」「賜姓族格式・儀式」)を守り着実にある範囲に留めて勢力拡大に努めていた事も判ります。(個々に生き残りの大きな違いがあった)
と云うのは、「皇族賜姓族青木氏」は「3つの発祥源」としての範囲で武力を使っての勢力拡大は所詮のこととして無かったのですから、従って、「特別賜姓族青木氏」はその「4倍程度の勢力」の範囲に留めていた事が適当と考えていた事が判ります。
秀郷一門が拡大するに連れてその範囲を管理していた事を意味します。
「皇族賜姓族」が持つ組織力が成し得る統率を超える勢力拡大は無かった事を意味し、それは同時に「特別賜姓族」の勢力の抑止力を超えるものでは無かった事と成り、もう一つの抑止力の「伊勢-信濃シンジケート」も「2足の草鞋策」の範囲を超えるものでは無かった事に成ります。
これ等は「1/4の原則」に意識して沿っていた事が判ります。

「1/4の原則関係式」
青木氏の勢力拡大≦賜姓族の組織力≒「1/4の原則」←「賜姓族格式・儀式」
青木氏の勢力拡大≦特別賜姓族の抑止力≒「1/4の原則」
伊勢-信濃シンジケートの抑止力 ≦「2足の草鞋策」≒「1/4の原則」
∴「賜姓族の組織力」 ≦特別賜姓族の抑止力」×「1/4の原則」 

比較対照として ”氏が生き残れるか否かの違い” は前段の「河内源氏」の中にこの様な原則が存在したかは定かでは無いが、「荘園制と未勘氏族との武力を背景とした関係」から観て無かったと考えられ、伸びるだけ伸びた様な「生き様」であった考えられます。
青木氏式目」(「青木氏格式」「賜姓族格式・儀式」)を守らずに居た事が、これが前段で論じた”賜姓族にあるまじき姿”であって、 ”「賜姓族扱い」では無かった時期の姿を何時までも引きずった事から来ている”と考えられるのです。
源氏の名義だけを借りた「未勘氏族」にはこの「青木氏式目」(「青木氏格式」「賜姓族格式・儀式」)が無かった彼等に、更にその上に「清和源氏の賜姓未了の時期」に引きずられてしまったとも考えられます。

これは「たいら族」にしても「拡大する武力」に対してその裏付として「2足の草鞋策」を講じ戦略的には意識してバランスを採りながらも、「武力」に於いては”伸びに伸びた事”が滅亡を招いたと考えられます。
「伸びる事」を背景に無意識に「奢る態度」が必然的に生まれ、”平氏にあらずんば人にあらず” と世間から云われた所以では無いかと考えられます。
阿多倍一門で、且つ同じ「賜姓族の敏達天皇系」の「たいら族」にも「賜姓族格式・儀式」なるものが無かったと観られます。

前段で論じた様に「2つの青木氏」の原則に類似するものとして「ある程度の原則」は保ちつつも”奢れる者久しからず”の部分に引き込まれた滅亡であったと考えられます。
この引き込まれた原因は、”「諸行無常の世の条理」にあがなう事無く、知らず知らずの内に「河内源氏の生き様」に引きずられたものであった”と考えられます。
そう観ると、源平と同じ厳しい時代に生きた我等の先祖の「2つの青木氏」の「1/4の原則」に従っての「生き様」はすばらしいものであった事が云えます。
普通であるならば「源平」と全く無関係の立場には無かった訳ではないのですから、むしろ極めて近い立場にあった筈で、「諸行無常の世の条理」に引き込まれていた事は間違いない筈で、そうで無かったのはこの「1/4の原則」を懸命にして護っていた事ではないかと考えているのです。
ただ”偶然に生き残った”とするものでは無く「青木氏家訓10訓」と同じく「生き残りの戒め策」が「2つの青木氏一門」に働いていた事に成ります。
恐らくは、「特別賜姓族青木氏」は秀郷一門と云う組織で護られていた事も別の面で強く働いていた事もありますが、特に「賜姓信濃青木氏」や「賜姓甲斐青木氏」も厳然として本流、支流がと生き残っている訳ですから、「賜姓伊勢青木氏」との「1/4の原則」で緊密に結ばれていた事が云えます。
前段でも論じた、”出る釘は打たれる、地に竿させば流される等”の例えの通り、これを「1/4の原則」で以ってぎりぎりの所を維持させていたと考えられます。
”出る釘は打たれる、地に竿させば流される”等だけでは、むしろ消極的に成りこの”厳しい近い立場”の中では生き残る事は逆に困難であった筈です。
必要以上に消極的で無かったのは、真に「2足の草鞋策」と「2つの抑止力」を堅持していた事でも明らかです。
そうすると、この「1/4の原則」は 上記の”厳しい近い立場”に加え、前段の「2つの青木氏」の難しい立場、即ち「3つの発祥源」の立場に対して、この「2つの立場」の「2つの限界」を護る法則であったのです。
この上記の「2つの限界」(「2足の草鞋策」と「2つの抑止力」)と「1/4の原則関係式」を護る「心の支え」が「祖先神-神明社」に置いていたからこそ「青木氏の思考」をコントロールする「1/4の原則」を護り得たと考えているのです。

「青木氏の生き様関係式」
「2つ源平勢力」<「2つの青木氏」>「諸行無常の世の条理」
「2つの青木氏」=「2つの立場の2つの限界」
「2つの立場の2つの限界」=「3つの発祥源」+「2足の草鞋策」+「2つの抑止力」
「2つの青木氏」=「1/4の原則」+「祖先神-神明社」

さて、次ぎに皇族賜姓族青木氏の「宗家主家域」は何度も論じている近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の地域で5家5流青木氏の主家域で、夫々は国府を中心として拡がっています。
そして、土地の豪族との血縁賜姓族の近江の佐々木氏系青木氏、美濃の土岐氏系青木氏、信濃の足利氏系青木氏、諏訪族系青木氏、甲斐の武田氏系青木氏、武田氏系諏訪族青木氏、の支流族があり、夫々定住域を血縁氏側の国境方に拡げています。
美濃であれば西側の尾張域、信濃であれば北側の越中-越前域、西側の諏訪域、西域の尾張域、甲斐であれば東域と北域、諏訪族は東側の武蔵域に分布地を拡げています。
この地域の県域の分布域には神明社が必ずその末裔証拠として存在します。

(特記 比較的歴史的には不思議に知られていないが、事実は「信濃足利氏」は陸奥の斯波氏系足利氏で足利氏拡大の中心と成った足利氏で幕府を開いた関東の下野足利氏より勢力拡大とその貢献度は伯父に当る斯波氏足利氏の方が大きかった。室町期には11の国を治めたが「信濃足利氏」がその最大勢力を誇った。この信濃には斯波氏系足利氏のその血縁族は多い。
信濃諏訪族には甲斐諏訪族武田氏系青木氏があるが賜姓族ではない。足利氏系青木氏の一部は足利氏本家と秀郷宗家との血縁して後に主導権争いに破れ越前-米子-八頭に同行して末裔は移動定住した。斯波氏の足利氏は室町幕府衰退と共に衰退した。織田氏の主君に当る。)

「皇族賜姓青木氏」の「移動定住域地」は室町期中期までには西から・日向、土佐、・米子、八頭、・摂津、滋賀、越前、・越後、美濃、尾張、・伊豆、相模、下野、上野、武蔵鉢形、陸奥の北域(青森県北域)が記録として移動が確認出来る地域でありますが、移動して神明社を建立し末裔を大きく遺したとする主な移動定住域は・印の4県であります。(室町中期前の記録)

「二重重複域」は「皇族賜姓青木氏」と「特別賜姓青木氏」の同士の血縁融合域でありますがこの地域にも神明社が建立されているのです。
・近江、・摂津、・伊勢(四日市)、土佐、・美濃(桑名)、・伊豆、・相模、武蔵(入間)、武蔵(鉢形)、・越後(新潟)以上の地域に「青木氏融合氏」が定住していますが、古くから神明社と末裔子孫を大きく明確に確実に遺しているのは・印の7県域です。。(室町中期前の記録)

(但し、室町中期までの移動先域でこれ以後混乱期に入る為にデータとしては信頼性は寛政記録や家紋分析等から「第3青木氏の発祥」などがあり信頼性が低下して割愛するが上記の地域から歴史的経緯に基づいて拡大を見せている。)

これ等の個々の地域の「祖先神-神明社」の実情は次ぎの表から読み取る事が出来ます。

(Aの分布表)
「神明社の県域順位表」(八幡社と対比)
神明社の分布(県域分布/全国比) 八幡社の差  分布域の圏域     八幡社順位 順位差
1 山梨72  -12.7%       -69  2つの青木氏の圏域      29     28 
2 新潟61  -10.8%       -58  2つの青木氏の圏域      37     35 
3 東京30  - 5.3%       - 1  秀郷流青木氏と源氏の圏域   2    - 1 
4 愛知33  - 5.9%       -19  秀郷流青木氏と源氏の圏域   5      1 
5 富山33  - 5.8%       -28  賜姓青木氏の圏域       24     19 
6 秋田33  - 5.8%       -30  秀郷流青木氏の圏域      35     29 
7 岐阜31  - 5.5%       -19  賜姓青木氏の圏域        8      1 
8 千葉22  - 3.9%          1  秀郷流青木氏と源氏の圏域   4    - 4 
9 静岡18  - 3.2%       - 6  秀郷流青木氏の圏域       7       2 
10埼玉15  - 2.7%       - 6  秀郷流青木氏の絶対圏域   11      1 
11山形15  - 2.7%       - 8  秀郷流青木氏の圏域      17      6 
12長野15  - 2.7%       -13  賜姓青木氏の圏域        41     29 
13栃木14  - 2.5%       - 3  2つの青木氏の圏域        9    - 4 
14宮城14  - 2.5%       - 7  秀郷流青木氏の圏域      19      5 
15群馬14  - 2.5%       - 9  秀郷流青木氏の圏域      36     21 
16青森13  - 2.3%       -10  秀郷流青木氏の圏域      34     18 
17神奈川11 - 1.9%          1  秀郷流青木氏と源氏の圏域   6    -11 
18兵庫11  - 1.9%         13  清和源氏発祥地と賜姓青木氏  3    -15 
19岩手11  - 1.9%       - 7  秀郷流青木氏の圏域      28      9 
20福岡9   - 1.6%         30  八幡社発祥地と秀郷流青木氏  1    -19 
21茨城9   - 1.6%       - 2  秀郷流青木氏の圏域      20    - 1 
22福島9   - 1.6%       - 7  秀郷流青木氏の圏域      44    -22 
23福井8   - 1.4%       - 5  賜姓青木氏の圏域        38      15 
24広島6   - 1.1%       - 1  秀郷流青木氏(讃岐)      23    - 1 
25三重5   - 0.8%       - 4  皇祖神と神明社絶対神域    47      22 
26宮崎4   - 0.7%          2  皇祖神 天岩戸神社神域    22    - 4 
27高知4   - 0.7%       - 1  賜姓武田氏系青木氏      33       6 
28鹿児島3  - 0.5%          6  源氏未勘氏の阿蘇大社神域 13    -15 
29徳島3   - 0.5%          0  秀郷流青木氏(阿波) 30      1 
30滋賀3   - 0.5%       - 1  賜姓青木氏と源氏圏域     42     12 
31石川2   - 0.3%       - 1  賜姓足利氏系青木氏       46     15 
32愛媛2   - 0.3%          7  清和源氏未勘氏の圏域     12    -20 
33北海道2  - 0.3%          7  清和源氏未勘氏の圏域     14    -19 
34和歌山2  - 0.3%          6  清和源氏の圏域          16    -18 
35京都2   - 0.3%          2  神明社の絶対的神域       27    -12 
36大阪1   - 0.1%         10  賜姓源氏の圏域          10    -26 
37山口1   - 0.0%          8  清和源氏の圏域          15    -22 
38大分1   - 0.0%          6  清和源氏未勘氏の圏域     18    -20 
39香川1   - 0.0%          5  秀郷流青木氏(讃岐)圏域    21    -18 
40岡山1   - 0.0%          3  秀郷流青木氏(讃岐)圏域    25    -15 
41島根1   - 0.0%          3  出雲大社絶対的神域       26    -15 
42長崎1   - 0.0%          2  宗像大社の神域          31    -11 
43熊本1   - 0.0%          2  阿蘇大社と宗像大社神域    32    -11 
44佐賀1   - 0.0%          1  宗像大社神域           40    - 4 
45奈良1   - 0.0%          1  神明社の絶対的神域       43    - 2 
46沖縄1   - 0.0%          0                      45    - 1 
47鳥取0   - 0.0%          2  出雲大社の神域          39    - 8
 (神明社566社)       (八幡社354社)

「皇祖神-祖先神-神明社-2つの青木氏-特定地域」(「5つの連携した関連要素」)
ここで改めて上記の表から歴史的に観て特筆する圏域があります。それは九州域であります。
福岡9、長崎1、大分1、熊本1、佐賀1、宮崎4、鹿児島3でありますが、「特別賜姓族青木氏」としては末裔が福岡9を中心に、長崎、大分に拡がっています。末裔も神明社分布の程度であります。
「2つの青木氏」「祖先神-神明社」として、その建立域は特別な地位でありながら確実に古くからの建立根拠を持っているのです。然し、薩摩域3と日向域4は異なるのです。ここは改めて論じる事とします。

故にそもそも上記の経緯から論じた様に「神明社」は、「皇祖神」と「祖先神」の役割が「親子の関係」にある事から、その立場が何処の地域でも繊細で微妙で重要な処を保持しています。
そして、それが矢張り「神明社-2つの青木氏」を意味するものである事なので、それに繋がる史実が無ければなかなか以下のこの薩摩3と日向4の様に説明がつき難い事に成るのです。
今までの経緯から「皇祖神-祖先神-神明社-2つの青木氏-特定地域」の「5つの連携した関連要素」が成立しないと証明や説明が出来ない事に成ります。
前段でも論じ、又、他の論文でも論じて来た長嶋氏(ルーツ掲示板の九州長嶋氏のお便りも参照 長谷川氏も含む)が南九州で大きく出自している事が歴史的になんらかの唯一の繋がりでありますが、青木氏と長嶋氏や長谷川氏等の主要5氏が建てると成ると上記の戦略上の範疇から外れて「神明社」では無く「春日大社」が優先される事に成りますので難しい事と成ります。
確かに、日向4は「日向青木氏」として「神明社」か「八幡社」に繋がる歴史的史実がありますが、神明社を2社の説明が就くとして残りの2/4社を建立すると成ると相当強い関係がなくては成りませんし、前段で論じた様にそれ程建立する勢力は日向青木氏には無かったのです。

(特記 日向青木氏の経緯由来は、源頼光の4代目源三位頼政の孫で、仲綱の子の長男宗綱と次男有綱と伯父の高綱は、伊勢賜姓青木氏の跡目に入った三男京綱が伊賀平族に助命嘆して、平清盛に特別に許されて日向に配流となった。その地元廻村の廻氏に匿われ廻氏との子孫を遺すが再び日向警護の平族に挑み敗戦、その後、「薩摩大口村」の寺まで落延び、そこで住職の勧めで「嵯峨期の詔勅」により伊勢青木氏族を名乗り生き延びる事が出来た配流孫で、後に九州諸藩の農兵として生き延び「日向青木村」を形成した。1100年頃はある程度の勢力を保持したが薩摩の台頭で完全に衰退した。確かに伊勢青木氏の系列の賜姓族で「神明社族」ではあるが「神明社」を創建し維持管理するその勢力はなかった。大きく現存する)

(参考 日向青木氏は次ぎの地域に青木村を形成した。現存)
現在は鹿児島県北伊佐郡大口村・山野村・羽月村 の三村大合併した。
その大口村は更に次ぎの8村が合併した。この中に上記の青木村がある。
(大口村 ← 「青木村」,里村, 原田村, 大田村, 牛尾村, 木ノ氏村, 目丸村, 篠原村)

「日向の神明社4の考察」
そうすると、青木氏外に平安期の朝廷が「心の神」と「生活の神」「物造りの神」として建立したと考えるにも無理があります。ただ日向4の内の1社が年代は確定出来ないのですが平安初期前後頃の建立ではないかと観られる神明社です。
残りの神明社2社(天岩戸神社は除く)に付いて、日向の土地は「天皇家の皇祖神」に取って所縁の土地でもありますが、これに関係する何かの建立と観ることも考えられます。
「皇祖神の伊勢神宮」の分霊支社等の要件があるのかを調べましたが、何しろ南九州は資料の遺産と発掘が少ない土地柄であって困難を極めているのです。
この日向2社はこの「神明社1」が原因して分社したとも考えられますが、果たして誰が維持していたのかも現在までも判りません。

[天岩戸神社(1)]
そこでこれ等の解明は先ず日向4に対してその糸口とも成りますので4社の一つの[天岩戸神社]を考察をしてみます。
下記にその日向地域の神明社4を列記しましたがこれを調査すると次ぎの様に成ります。
云わずと知れた「天岩戸神社」は「天孫降臨」による地の「天皇家の神社」(国社)ですので先ずこの一つは外れます。
そこで、此処には「西本宮」と「東本宮」とがありますが、「西本宮」がこの「天孫降臨」の神社ですので、朝廷は、”この域には建造物成るものを建ててはならない”とする飛鳥の古来からの掟があります。
然し、この地の豪族の「大神族」が”夢のお告げにより建てた”とする神社があり、これを地元では「東本宮」と呼ばれています。
神社本庁は宮崎県西臼枡郡高千穂町にある「西本宮」のみを「天岩戸神社」、正式には「天磐戸神社」としています。この「天岩戸神社」では無い事は間違いありませんので残り3つの神明社です。
(「大神族」の「東本宮」と呼ばれる神社に付いては下記で関係する部分が詳細に出てきます。)
ところが、この同じ高千穂町にもう一つの神社があります。
それは「高千穂神社」(2)と呼ばれています。

[高千穂神社(2)と大神氏]
この「高千穂神社」は別名「十社大明神」と呼ばれています。この神社の祭祀する神は「神武天皇」の兄の家族10人を祭る「皇族神社」、つまり「神明社」です。
この10人を以って「十社大明神」と呼ばれているのです。この神社は神社本庁の記録の「別表神社」に登録されています。
「皇祖神」の「伊勢大社」系列の神社の「神明社」としては登録されている事を意味します。
ところが、ここで検証すべき問題が有ります。
この「高千穂神社」(2)にも上記の「天岩戸神社」の「東本宮」と呼ばれる神社を建てたと主張する地元土豪(豊後の大野郡)の「大神氏」がこの「高千穂神社」をも”管理していた”と主張しているのです。
その人物が「大神太夫惟基」だと主張しているのです。
さて、問題はこの豊後(日向)の「大神族」なのですが、氏発祥は地元の「地理纂考」の経緯より11世紀始め頃発祥した「姓氏」です。(大神氏は8世紀だと主張 疑問)

つまり、この「姓氏」は家柄を良く見せる為に過去に遡って系譜の搾取偏纂をして良く見せる様に造り上げた事で、それを現実化させる為に「天岩戸神社」の近くに掟破して「東本宮」を”夢お告げ”として掟を犯して建てて於いて信用させ、「高千穂神宮」をも如何にも「氏神社」の如く後(平安期末期)で仕立てた事になります。
これには矛盾があって平安期の末期の後の彼等の記述によると、「高千穂神社」を”建立した”とは明確には云っていないのです。”管理していた”と主張する部分もあり不可解な表現をしているのです。
もう一つは、「神明社」は「祖先神」で「青木氏か源氏」の「皇族賜姓族」か「特別賜姓族」の「朝臣族」しか建立する事は無いのですが、平安期の認証の「氏族」ではなく「姓氏」族であり、その「姓氏族」の豊後の土豪大神族には有り得ない事なのであります。
この為に「明治期の宗教改革(廃仏毀釈、神仏判然令等)」の混乱期の中で、明治政府は神社関係の整理を行った際に、この「高千穂神社」を「別表扱い」として「神明社」である事を判りながら、彼等の社説の言い分を聞き入れ「天岩戸神社」の「東本宮」と伴に「高千穂皇神」(後の高千穂神社)を上記する「氏神」の「氏社扱い」の中に組み込まれてしまったのです。

[高千穂神社の3説]
ところが、この神社の明治初期の整理の際に調べると書かれていた社歴にも”創建は1200年前”と書かれていて、そうすると812年頃と成ります。
そこでこの「高千穂神社」の説には次ぎの3つがあります。
A 垂仁天皇期創建-紀元前の神代の時代の天皇家の説
B 地元実話を基にした「続日本後記」「三代実録」より引用した10世紀後半頃の大神族創建説
C 神社資料古物の研究機関の分析より明治期1200年前の創建説
以上の3説があり現在はC説の1200年前説が有力 

特に「大神説」の大神氏と神社が主張する社説に依れば、「高千穂神社」も「天岩戸神社」と同じの「天孫降臨の社」ともあり「天岩戸神社」だけであるのに矛盾します。
更には「東本宮」と呼称させたものは812年創建と主張して於いて、「高千穂神社」では947年頃創建としていて、”この氏は何時の発祥なのか”と成り矛盾しています。
もし812年とすれば700年頃にこの氏は既に存在している筈ですが史実では存在していません。
つまり「神明社」である事を認めながらも”管理者が大神氏であるかも知れない”として「氏神」の「氏社扱い」になり、神社本庁の「社格」は「別表扱い」とされ「東本宮」が「氏神社」(姓氏族)であるので「高千穂神社」も「氏神」とされてしまったのです。
現在でも「東本宮」は余り知られていないのですが、「大神族」は自らの資料に812年に建立したと主張しているのですが、これがもしそうだとすると矛盾が起こります。
812年とすると大神氏はこの次期には「姓氏」は全く発祥していません。依ってそれはそれなりの「姓氏族」では無く立派な由緒ある「氏族」と成りますので、当然に朝廷の「八色の姓の制」から日本書紀などの書物には認可された「氏」として明らかに出てくる筈ですが、当時の豊後(日向)の豪族にはこの氏は記録にはありません。
(後の搾取偏纂で多くの知識を誤った)
まして、当時は「大蔵氏」や「肝付氏」の大勢力圏でもあり、ここは朝廷の5大官僚の一つ「伴氏」の「弁済使」の勢力圏に入っていましたのでこの時代には「大神族」は有り得ません。
結局、この明らかな矛盾から健在の「高千穂神社と天岩戸神社」の公的機関の研究からこの「大神族」は11世紀初頭の「姓氏族」である事が判明しています。(筆者の調査でも11世紀初頭)
このことから結局、豊後の大神族(おおがし:「姓氏」で大野郡の土豪)が「高千穂神社」であるとすると「神明社」で無い筈であります。しかし”「十社の明神」を祭祀する神社である”としています。これも矛盾しています。
そこで明治初期では神社本庁は「祖先神」ではなく「氏神」としたのですが、祭祀する神は皇族の十社ですので「皇祖神系列神明社」と成り明らかに矛盾します。
「高千穂神社」と「大神族」とをいろいろな資料の一説を引き出して結び付けて強引に作り上げた矛盾した自説である事が良く判ります。

「高千穂神社」も”「創建した」”と一方で示し、一方では”「村の守神」と崇めた”と記述していて、そしてその表現の言質を左右できる様に工夫している矛盾説であります。
中には「豊後大神氏」は「平家物語」に記している「緒方氏の祖、(緒方惟栄)」としていますが、ところが大和に全く別の由緒ある古氏の朝臣族の「大和大神氏」(おおみわし:「氏族」)があり、又、大和緒方氏もありこの家柄とを錯誤させる様に家柄を上手く利用しています。

11世紀初頭の「大神族」(おおがし:「姓氏」で大野郡の土豪)には、「筑前青木氏」までの不明期間100年から150年の間の歴史的空白期間を搾取偏纂により上手く利用され狙われたと考えられます。
利用された理由の一つは「青木氏か源氏」の存在がこの日向の神明社だけには唯一無い事であります。
その間100から150年の間は地元に派遣された累代の官僚族により維持されたからであります。
この事は3説ともに期間の間の維持管理は認めています。
(累代官僚による維持管理を認める事は「式内社」である事を認めている事に成りこれ又矛盾する)
この事に付いては記録が多くあります。
10世紀後半からの一時期はこの九州3国地域の神明社と伴に藤原一門とその青木氏が管理(寄進して補助行為)した事、鎌倉時代以降には頼朝も寄進したと記録が多くある事、歴代の知行藩主或いは領主の管理と伴に多くの豪族の氏からも少なくとも寄進にて賄われていた事は明記されている事等の資料史実からも確実です。この事は止む無く彼等が主張する社説も認めています。
これを認める事がそもそも矛盾する所です。
室町末期以降から江戸末期には土地の延岡藩等の歴代藩主等が、「天岩戸神社」と同じく由緒あり庶民からも尊厳されていた事もあって、これを認めて引き続き管理していた事が明記されています。
(明治以降は結局は余りの矛盾のために神社本庁の「別表扱い」と変更され最終は寄進で管理維持となった)
豊後大神族の社説は矛盾が多いことが判っていて当初から疑われていて「別表扱い」とすると問題に成るので採用されていなかった事を物語ります。
つまり「社説」と「寄進行為」は矛盾しています。明らかに「創建主」ではなく隣村のこの神社を崇めた事を誇大に言い合わせて如何にも「創建主」で在るかのように末裔に「搾取誇示する作為」で造り上げたと観られます。
(社説は後の社の所有権や地域興しの利害関係からこの様な大矛盾だらけの説を故意に採ったと観られます。 この様な搾取偏纂の偏在は悪い典型的見本で「姓氏族」に多い事に注意を要するのです。地方史録はこの様な資料をベースに偏纂されているので特段に注意を要する。)

上記した様に神明社を建立する力は、日向国の隣の豊後の一地方一郡(大野郡)程度の土豪の大神族には隣の日向国に神明社を建立し維持する勢力は全くになかった筈です。
”大神族の「氏神」と定め村人はこれを崇めた”と室町期に於いて土地の「地理考」に書かれているが、「日向の西臼桁郡」にあるこの「高千穂神社」を「豊後の国隣の大野郡」の村人の「心の拠り所」の神社とした事を意味しますから、「豊後の大野郡」には適当な神社が無かった事を意味するか、”村人が「高千穂神社」を余りに崇めていたのでこの様な破天荒の矛盾だらけの姓説を作ってしまった”と考えられます。
現実に「豊後大野郡」にはこの時代までに創建された神社は2つであり、何れも時期は不祥とされていますが、平安中期頃で「八坂神社」と「西寒多神社」です。(高千穂の郷には多かった)
この建設地域は高千穂地域とは逆の東の臼杵地域側にあります。
「八坂神社」は850年頃に当社全国支社の本社神社として豊後に創建された事で有名な神社です。
(京の祇園神社で有名です)
実質の創建は平安中期頃と観られ、且つ「延喜式神名帳」に記されている事から927年頃前の平安中期創建されたと観られる「西寒多神社」(ささむた)は、豊後を支配した大友氏が応永15年(1408年)に別の場所に移したとあります。
「八坂神社」は「氏神社」(県社 式内社並扱い)であります。
「西寒多神社」は「式内社」で発祥は平安期中期頃であり、この何れの神社も臼杵郡側にあり早くても実質は平安期中期に成るが有名な神社と成りますので、”大神族の大野郡の神社”と云う事には成りません。依って、大野郡には「式内社」や「氏神社」や「別表社」は無かった事に成ります。
或いは、平安末期発祥の大神族が崇める神社は無くなってしまった事は、これは「豊後大神氏」が自らの力で神社を建立する力が無かった事を意味し、止む無く民は西隣国越えの日向国の西臼桁郡高千穂村の「高千穂神社」を崇める結果と成った事に成っていた事に成ります。
そこで、この「豊後大神氏」は平安末期に「直入郡」に発祥していますから、鎌倉期の後期頃にはこの大野郡を納めこの事から民を引き付ける必要性に迫られ、東域は大豪族の大友氏の反発を招く事から、西側の「天岩戸神社」を利用する意味から近くの洞窟に掟を破り「小さい祠」を造った事に成ります。
ところが、この「祠の策」は効果なく結局は民が始めから崇めていた「高千穂神社」を”自分の祖の氏神だ”として作為したと観られます。
(推測 矛盾のある社説がこれだけ主張する事は、上記の空白期間の戦乱混乱期をこの大神氏から武力的な保護を受けて護られていた事が予想できる。)
だからこの意を汲んだ「大神説を社説」とする神社は”建立した”とは充分に主張していないのだし「維持管理」の100年間を狙われたと観て正しいと観られます。
参考として「天岩戸神社」の近隣の「東本宮」の社屋は「祠並」で社領等一切無いのです。
(豊後大神氏は飛鳥大神氏の一部が豊後に移動してその後平安末期に末裔を遺したとする説がある。)

そもそも「歴史の紐解き」とは例外無くこの様な「矛盾・疑問」を如何に切り崩すかにあります。
しかし相当苦労致しましたが、「大矛盾の大神説」は削除されますので、この事から残り「2つの神社」は南端にありますし、建立年代が不祥で平安末期以降と考えられますので「栗隈王か武家王」の唯一青木氏の発祥と末裔の存在しない域での「神明社建設」はこの「高千穂神社」である事に成ります。

(注 明治維新4年には神社本庁はこの社説を採用し「氏神社」「村社」としながらも「別表扱い」として高千穂の郷の土地の土豪の三田井氏の名を採って「三田井神社」と改名し、その後、28年に変更し元の「高千穂皇神」を「高千穂神社」して戻した。そして「国の管理」の下に戻した。実質は間違いを訂正した形式に成っている)

事程左様で、この大神説は矛盾だらけで明らかに除外できますので、従って、上記の理由で「別表扱い」と成っていますが、由緒ある「高千穂神社」の「神明社」は年代の検証から大化期頃に立てられた「神明社」である事に成ります。
つまり、前段で論じた「19の神明社」の創建記録の通り「栗隈王」か「武家王」が「中大兄皇子」に命じられた「19の神明社」の一つである事に成ります。
この「時代考証」と「天岩戸神社の所縁の側域の建設」と「高千穂の地理考証」と「19神明社」と「祭祀の神の皇族系」と「肥後と日向と豊後の国境に建てられている事」や「3国北地域の守護範囲南端にある事」等や「戦略的な位置付け」等から「栗隈王か武家王」が建立した「神明社」である事がほぼ証明できます。

この「天岩戸神社と高千穂神社」の「分霊支社」としての伸張が”戦略上で何かあったのか”等を研究する必要が有りますが、この2社は「皇祖神-祖先神-神明社-2つの青木氏-特定地域」の要素関連が成立しませんが、青木氏に関係のない神明社関係の神社である事は間違いない事に成ります。
青木氏から観れば例外神明社の神社と成りますが、皇祖神から観れば「神明社の元祖社」と成ります。
そこで「宗像大社」や「阿蘇大社」の圏域や社領域の中で、”残りの日向2(下記下の2つ 江田神社 鳴戸神社)を含む薩摩3は一体何なのか”大いに疑問です。
この事に付いて青木氏としては神明社研究を進める必要が有ります。

日向国の神明社の4社
天岩戸神社(1) 西臼枡郡高千穂町 「式内社」
高千穂神社(2) 高千穂町      「村社」(別表扱い)

江田神社  (3) 宮崎市阿波岐原町 「式内社」
鵜戸神宮  (4) 日南市宮浦     「郷社」

上記の様に日向の残りの上記の江田神社(3) 鳴戸神社(4)の2つは確実に古い社である事は事実であり神明社に関わっている事も事実ですが、「皇祖神-祖先神-神明社-2つの青木氏-特定地域」の要素関連が成立しないし、全く青木氏には関わりが無いと観られ後に大蔵氏の影響を受けて「産土神」に変わっています。
この事から可能性として戦国時代に入り管理維持が困難と成り元より賜姓族の影響の低い九州域では鎌倉期末期から「祖先神-神明社」から九州中心とした大蔵氏の「産土神」に変えた事が充分に考えられますが確認は取れません。

「薩摩3の考察」
ただ薩摩3は下記のデータには0+3として記述していますが、筆者の研究の調査ミスかも知れませんが、上記大神氏の様に分霊である事の疑問の社で何か古く魅せている可能性があるのです。
そもそも薩摩と日向は、前段で論じた様に中央との間に「政治的隔壁」を奈良時代から明治維新まで長い間持ち続けた国柄でもあり、何事にも一段深慮する必要のある地域である事は間違いはないのです。
「賜姓族」という点ではこの隔壁のそのものであるのです。
故に日向の古いと観られる残りの2つの神明社は、平安期に皇祖神の伊勢大社の分霊により創建されたとはこの事情からさすが難しく、「祖先神の神明社」を建立したと考えられるのですが確定する資料は見付かりません。
もしそうだとして鎌倉期以降とりわけ室町幕府が管理維持を続けたのかと云う疑問もあります。
これを維持管理する豪族とも成ると肝付氏と島津氏以外には無い筈です。
阿蘇大社域では出来たとしても他社社領域と成り無理と観るのが普通であります。
(肝付氏26代はこの日向の諸県を支配しています。)
九州域、特に南九州域は江戸末期から明治維新の廃仏毀釈などの4つの令(神仏分離令、大教宣布、寺社領上知令)に基づく江戸末期から明治初期の激しい宗教改革で他県と比べ物にならない程に大嵐が吹いたのです。それ故に不明不祥と成っているのです。
この様に南九州域にはそもそも平安初期より「神明社域」ではありませんから室町期中期前には「神明社」は無かったと観て次ぎの論所に入ります。

「賜姓族の神明社の検証」
次ぎはもう一つの皇族賜姓族の指揮組織であります。
「皇族賜姓族」では次ぎの「3つの指令基地」の拠点が働いていたと考えられます。

(Bの分布表)
皇族賜姓青木氏-16県-148-26.1%
宗家主家域  5県-126-22.3% (Fの分布表)
移動定住域  4県- 10- 1.8% (Gの分布表) 16県
二氏重複域  7県- 12- 2.1% (Hの分布表) 11県

この「皇族賜姓青木氏」の本拠地は伊勢青木氏で、平安末期には「源平の争い」に巻き込まれて前段で論じた様に近江、美濃は衰退してその遂行する能力は最早無く成ったと考えられ、平安末期にはこの指令システムが一時崩れたと考えられます。
前段から論じている様に、そこで立て直す為にも領国から上がる年貢に頼る事無く乱世の中で経済的な自立の道を選んだと考えられ、「2足の草鞋策」を採用して再構築を成したと観られます。
武力に相当する抑止力等の構築の為にも「神明社の建設」を推し進めそれを基にシンジケートを構築して護ったのです。
ここでも、明らかに「心の神」「生活の神」「物造りの神」のもので有れば上記の「1/4の原則」から4社/県から観て16県の範囲で148もの神明社は多すぎると考えられ、何と神明社全体の1/3程度にも配置しているのです。
「心の神」「生活の神」「物造りの神」により民衆を味方に引き入れる事と同時にこれ等を守る意味としての「戦略的な建設」でもあったとも考えられます。
これは秀郷流と若干異なる戦略目的であったと考えられ、「2足の草鞋策」に軸足を掛けての事であり゜殖産・商い」と成ると彼等の賛同を確保する事が絶対的な必須条件と成ります。
これ等を護るためにも「武力」を捨て「抑止力」に頼った運営とも成ればこれまた「民衆の力」なくして維持する事は出来ません。その意味で各地の民衆が結集したこの「シンジケート」は「絶対的な戦略的手段」と成ります。
「シンジケート構築」にしてもその「核」に成るものが必要であり、それが「神明社」と云うものであったと考えられるのです。
勿論、上記した”それは何なのか”で論じた絶対的条件も備わっての事であります。
「宗家主家域」のデータの5県で126もの建立であります。
つまり「5家5流」の5つの国であります。5家と云っても実質3家で有りますが、甲斐の青木氏は特に武田氏系青木氏は、別の論文でも論じている様に「神明社建立」を実行する能力が無くなっていて、自らの守護神さえも侭成らない始末であった事が史実から判っているのです。
(甲斐武田氏系青木氏の論文で論じている)
後は「賜姓族甲斐青木氏」で有りますが一族を護るに限界で有った事が記述から読み取れます。
そもそも甲斐には「賜姓族青木氏」1と、この賜姓族と武田氏との血縁で生まれた「武田氏系青木氏」2と、甲斐の賜姓族青木氏と血縁した「諏訪族青木氏」3(信濃諏訪族青木氏の一部の移動定住)と、この諏訪族青木氏と血縁した「諏訪族武田氏系青木氏」4と、これから分流した「武田氏族諏訪系青木氏」5の賜姓族の1氏とその支流青木氏の4氏の計5氏が定住しているのですが、1と3の賜姓族青木氏を除き、2と4と5の武田氏系青木氏は武蔵国と越後国と土佐国に逃亡して存続しているのです。
依って甲斐は神明社の基地としての機能は果たせなかったと観られ、伊勢青木氏(2氏)-信濃青木氏(3氏)との連携により成り立っていたのです。其処に126であります。
従って、この伊勢青木氏-信濃青木氏の関係が緊密なものであった事が判ります。
賜姓族青木氏の95%は武力に頼らないだけにこの2つの地域に集中しているのです。
全体の神明社の23%程度が集中しているのです。賜姓族の5県-126-22.3% 特別賜姓族の7県-103-18.2%-本家域とほぼ%で相似する内容と成っています。
何れも本家域の圏域の及ぶ範囲には「4社/県」と「1/4の原則」を確実に守っていて、「特別賜姓族」は武力を保持する事からこのややその割合を抑えています。

移動定住域  4県- 10- 1.8%(Gの分布表)
二氏重複域  7県- 12- 2.1%(Hの分布表)

このデータから見逃す事が出来ない事があります。
それは確かに「移動定住先10」で力を盛り返し10もの神明社を建立したと云う事であり、その力を発揮したと云う事を物語るデータであります。4社/県から観れば10は少ないのですが、移動域とすれば”勢力を盛り返し建立した”とすると妥当と考えられます。
「二氏重複域」(Hの分布表)は主に逃亡先での秀郷流青木氏と同地域で生活している中で12もの神明社を自らの力で建設しているのです。
力を盛り返し地主等に成り、その力で管理維持したもので主に「心の神」「生活の神」「物造りの神」を目的として建設されたものである事が覗えます。
これは「移動定住域」の10も同じであったと考えられますが、戦略的意味合いもまだ乱世が続いている事からその目的も見逃せない筈です。ただ主体が何れにあるかの問題であると考えられます。

ここで、「移動定住域」(16県)と同じ比を示しているこの「二氏重複域」(11県)には「融合青木氏」(賜姓族青木氏と特別賜姓族青木氏の血縁族)が発祥していて、この存在がより「特別賜姓族」との連携を一層効果的に働かせたと観ているのです。
「移動定住域」があったからこそ「二氏重複域」が生まれた事に成ります。
その意味からすると計11県-22-4%は4社/県からすると2社/県は半分と小さいのですが、「移動定住域-二氏重複域」の意味合いからすると4社/県に相当する意味合いを持っている考えます。
そしてそれが「賜姓族」と「特別賜姓族」を特定地域に限らず”全体的なより強い絆で結ばれていた”と考えられます。親族以上のもので運命共同体とする関係を保持されていたと考えられます。
その意味で「二氏重複域」(11県)の神明社の2.1%は各地でかなり大きな役割を果していたことが判ります。姿としては「強い絆」「運命共同体」の象徴的なものと成っていたのです。
「宗家主家域」の神明社とは「強い絆」「運命共同体」の点でより強いものがあったと考えられます。

筆者はこの自然摂理と歴史的経緯から生まれた「移動定住域」-「二氏重複域」の関係が「2つの青木氏」の隠れた「生き残り」の基点(骨格)に成っていたと考えているのです。
4社/県に対して2社/県は「2社の肉の部分」を剥がした「骨格部分」の神明社であったと観ていて2社以下ではなく2社/県-2%であった事に意味があると観ているのです。
つまり、”この「2つの域」では「1/4の原則」に沿ってそれだけのものにしていた”と云う事なのです。
それは次ぎの地理性と青木氏の主要地から読み取れるのです。

実は「移動定住域」と「二氏重複域」がA:攝津、B:越後、C:美濃、D:伊豆、E:相模、F:武蔵の6県域で重なっていますが、この6県のそれは「融合青木氏」の子孫拡大が大きかった域を意味します。
即ち、これは前段でも論じた様に「賜姓族」と「特別別賜姓族」の何れにとっても重要で主要拠点であり、「賜姓族」と「特別賜姓族」の家柄身分の区別が最早この間の関係にはなかったと観られ、「完全な親族」としてその「仲介役的な働き」をしていた証拠であります。
それは地理性に応じた特徴ある次ぎの「血縁融合の仕方」に意味を持っているのです。

A 摂津は賜姓族を中心に特別賜姓族が血縁融合(1)と賜姓佐々木氏系青木氏と特別賜姓族との血縁融合(2)をした。
B 越後は特別賜姓族を中心に賜姓族(1)が、特別賜姓族を中心に諏訪族系青木氏3氏と血縁融合(2)をした。
C 美濃は西域は賜姓族を中心に特別賜姓族(1)が、東域は特別賜姓族を中心に賜姓族が血縁融合)(2)をした。
D 伊豆は5家の賜姓族の同族の複合の血縁融合(1)と、この賜姓族を中心に特別賜姓族(2)が、この2つの血縁融合氏と複合血縁の青木氏(3)、清和源氏摂津源氏頼光系との血縁した青木氏(4)の5氏が存在した。
E 相模は甲斐武田氏系青木氏1氏と賜姓族を含む諏訪族系青木氏3氏間との相互の血縁融合(1)とこれらと特別賜姓族の相互の複合の血縁融合(2)をした。
F 武蔵は特別賜姓族を中心に伊豆-相模の賜姓族を含む諏訪族系青木氏との血縁融合(1)し、鉢形に移住した甲斐武田氏系青木氏と特別賜姓族との血縁融合(2)をした。
(これらは歴史史実と家紋分析による総合判別の結果記録)

特に「融合青木氏」のメッカとして「伊豆-相模域」は複合血縁で伊豆よりは賜姓族を中心に、相模よりは特別賜姓族を中心に特別な複合血縁している傾向を持っています。
これは青木氏の歴史的な移動経緯に左右されていて、伊豆域は守護国であった事から頼光系清和源氏の嵯峨期詔勅による青木氏発祥と伊豆の賜姓3家の同族複合血縁族との青木氏が発祥しているのが特徴で「二氏重複域」の拠点にも成っているのです。全体の6%を占めています。
(この6県に付いて「神明社の県域順位表」を参照するとその特長が判る)
中には、土佐と滋賀が重なっていますが、土佐はその拡大が小さい事と全体の戦略的な位置付けは低い事もあり少し意味合いが異なる事が云えます。
滋賀は前段でも論じた様に近江青木氏が一時移動定住した地域でありますが、この滋賀青木氏は上山氏の青木氏であり、一部に近江-滋賀の秀郷一門との血縁族と観られる融合族が存在するが神明社とは別問題で時代性が室町後期から江戸初期に成る事から本論とは別にしています。
(この上山氏の青木氏の一部は江戸初期前後に三河駿河と流れ最終の千葉には子孫を遺している)
伊勢と信濃には秀郷流青木氏との血縁による「融合青木氏」が「仲介役」(接着剤)としても存在しているのですが、この「仲介役」の「融合青木氏」が全体の「2つの青木氏」の連携軸に成っていたのです。
(Kの分布表 家紋分析 参照)

そうすると、秀郷流青木氏の「4つの指令基地」に話を戻して、この「北陸道域」を戦略的前線基地とすると本拠地は陸奥域と成ります。
果たして、その様に神明社が配置されているのかと云う疑問が出ますし、もしなければ上記の説は覆されます。
そこで、陸奥域の神明社の状況を下記に示しますと次ぎの様に成ります。

(Cの分布表)
東山道-東北北陸 6県-105-18.6%
建設地域   社数  /地域%  /全国%
青森(陸奥) 13    12.4    2.3
秋田(羽後) 26+7  31.4    5.8
山形(羽前) 15    14.3    2.8
岩手(陸中) 11    10.5    1.9
宮城(陸前) 14    13.3    2.5
福島(岩代)  9     8.6    1.6

秋田を除いて間違いなくほぼ同じ程度の分布状況に成っています。
陸奥域は平安期の本来の域は青森-秋田-山形の領域を以って陸奥域とされていました。
これは明治2年に陸奥を磐城と岩代と陸前と陸中と陸奥とに分離したもので、出羽は羽前と羽後に分離したものです。(平安期の陸奥域は広域なのです。)
ですから、秋田26+7は北陸域との連携からも特別に平安期の陸奥域の西域に主力を置いていた事が判ります。神明社分布と末裔分布はこれに一致します。4社/県の原則は県域としては8倍程度の建立数を維持していますので東山道域では主要域であった事が頷けます。
ですから、平安期から室町期まででは、61-58%で、全国的に観ると61/566=11%と成り、平安期の陸奥の勢力圏域から観ると105-19%と北陸道の前線基地と遜色ない勢力を保持しいます。
この陸奥域は当然に平安期から室町末期まで北家の藤原秀郷一門の絶対的権域で、室町末期には永嶋氏が陸奥に拠点を置くほどに重要な「戦略上の拠点」でもあり「穀倉地帯」としても重要な地域でもあります。
この前線基地と本拠地を合わせると(北陸道域 4県-104-18.4%) (東山道-東北北陸 6県-105-18.6%)で併せて「10県-209-37%」と成り、全体の1/3以上が集中しているところであります。このデータは青木氏の分布と一致する数値でもあります。
殆どは、秀郷流青木氏の分布域でもあります。
下記の東海道域に比べてやや落ちますがこれが特別賜姓族の勢力の置き方であった事を意味します。
この東山道の東北北陸のデータから秀郷流青木氏と一部の賜姓族とその系列の青木氏の分布域に合致するのですが、更にこれを裏付けるデータが東海道域のデータがこれを物語ります。

(Dの分布表)
東海道域 7県-154-27.2% 
建設地域   戸数   /地域   /全国
茨城(常陸)  8+1   5.8   1.6
千葉(下総)  22   14.3   3.9
埼玉(武蔵)  31   20.1   5.5
東京(武蔵)  30   19.5   5.3
神奈川(相模 ) 9+2    7.1   1.9

静岡(駿河)   18    11.7   3.2
愛知(尾張)  33    21.4   5.8

特別賜姓族の本領であった武蔵域を中心に相模と常陸が両翼にしてやや下総側に伸びた神明社の分布状況となっているのは本領勢力圏の形に一致します。この本領から手足が伸びる様に街道沿いに本領勢力圏と同じ様にまた末裔分布圏と同じ様に伸びています。
上記の特別賜姓青木氏の神明社分布の関東全域 7県-103-18.2%-本家域(Jの分布表)は秀郷一門が領国とする関東域にして観たものですが、前記した様にこれに沿ってその延長線上の静岡と愛知は秀郷流青木氏が西の前線権域として大いに活躍した領域です。
全体比から観ても、この西域の静岡と愛知域は9%であります。
これに対して、A-103(関東域)、B-104(北陸道域)、C-105(東山道域)で312と成り合わせて55%と成り、これに静岡と愛知の分の51-9%を加算すると全体比では364と成り64%にも成ります。
東海道域と東山道域から観ると、街道沿いには209と成り、37%と成ります。

つまり、このデータの持つ意味は上記した様に戦略的な意味としては、街道沿いは皇祖神の神明社で4割は占めている訳ですから、藤原秀郷一門の秀郷流青木氏の特別賜姓族の勢力が街道沿いを中心に勢力を集めていてその勢力は如何に大きかったを物語るものです。
この神明社の勢力圏に加えて藤原氏の春日大社の勢力圏を加算すると8割程度の勢力圏を占めていた事が判ります。
この神明社の分布に依って藤原北家一族中でも「下がり藤紋」の一族がこの街道沿いの圏域を如何に大きい力で占めていたかを物語るものです。当然に末裔分布も一致しますので「勢力の内容」を実証するものと成ります。
”果たして、その様に神明社が配置されているのか”と云う上記の疑問はこれで配置されていた事が判り解消されます。

前記より東山道域圏と東海道の東域の主要街道域は、藤原一門で抑えられていて信長-秀吉-家康はこの勢力を無視できず信長-秀吉は現実に手を出せずにいました。そして、家康はこの秀郷一門の青木氏(「第2の宗家」)のこの力を無視できず、むしろ戦略的に積極的に家臣に取り入れた事が良く判ります。
故に、江戸初期の家臣団の初期の構成時には「武田氏の家臣団」と並んで「秀郷一門の旗本」が多い事はこの街道沿いの「秀郷一門の勢力」を取り込んだ家康の戦略から来ているのです。
これは家紋分析からもこの事が良く判ります。
そこで気に成る事ですが、”家臣そのものを取り込んだ”と云うよりは上記のデータで示す「街道沿いの勢力」、即ち、「賜姓族「神明社」も含む”「神明社圏域」を取り込んだ”と云う事が正しいと云う事なのです。
戦略家の家康であれば「家臣の人」より地に根付いたの考え方に基づいた「優れた組織」を取り込んだ筈です。当然にそうすると「祖先神-神明社」で構築された組織を取り込んだのです。
秀郷一門のみならず武田氏の赤兜軍団も「組織の取り込み」です。
武蔵鉢形に武田氏系の「青木氏全軍団」を根こそぎ村毎そっくり移住させているのもこの戦略の考え方から来ているのであり、この「2つの組織」を秀郷一門の本拠地の武蔵にわざわざ指定して移動させたのもこの「2つの優秀な軍団」を膝元に置き武蔵の江戸を固める事にあったのです。
つまり、この戦略である限り「人」では無いのです。
「祖先神-神明社」で「統率された組織」と「青木氏の思考原理」を取り込んだのです。
そして、その取り込んだ「祖先神-神明社の考え方」が江戸期以降の「武士道」の基盤と成り得たのです。
私はむしろ突き詰めると、”「祖先神-神明社の考え方」に重点を置いていたのではないか” と観ています。
それは江戸期の初期の侍社会を固めるには、農民から伸し上った下級武士や下克上からの武士を主体とする武家武士の多い社会を根本から構築する必要に迫られ、豊臣との戦乱後に幕府を開く以上は「社会の再構築」の「優先的な政治課題」に迫られていた筈です。
それには奈良期から日本の「民と武家の社会」に根強く根ざし受け入れられて来た上記で論じた「祖先神-神明社の考え方」を江戸期の封建社会の中に敷くには最適であると家康は観ていたと考えられます。
当然に「物造り神、生活の神」としても、「総神」として崇められてきた経緯を見逃す事は出来ない筈ですし、この「神明社の分布」が政治的にも効果的であり幕府樹立として利用しない訳には行かなかった筈です。他の守護神とはその位置付けは論じて来た様に大きく異なるのですから、「祖先神-神明社」に目を向けられた筈です。
その証拠には前段で論じて来た「八幡社」の「八幡大菩薩」を「下級武士の心の支え」として再び陽の目を見て掛け軸などにして床の間に飾る江戸期の下級武士の風習はこの証であり、その思考原理は「神明社」が室町以降に「未勘氏族」に依って「八幡社」に改宗された経緯もあり、故に総じて前段でも論じた「祖先神」に通ずるものとして扱われたのです。
つまり、江戸期には「下級武士には八幡社、上級武士には神明社」の仕来りの流れが起ったのです。
故に青木氏のみならず「神明社」も幕府の援護を受けて上記で論じて来た社会の主要なところに建立されていた「神明社566社 八幡社354社」が好都合として残り得たのです。
江戸期には「2つの青木氏」にはこの566社を充分に全て管理維持する能力が江戸期には遺されていたかは疑問でありますから、しかし現実に遺されている以上は江戸幕府の「祖先神-神明社」を「武士道の根幹」に取り込んだ事に因ると考えられます。偶然に残ったのではありません。それ程に江戸初期までは戦乱で甘い社会ではなかった筈です。それなりの遺し得る確実な理由があったのです。

「武士道の根幹」と「総神」
その証しの一つとして「祖先神-神明社」の青木氏族は「古代密教形式の浄土宗」を菩提寺とする事から、江戸初期の「浄土宗督奨令」の発布と江戸初期に行われた「寺社の宗教改革」はこの事から来ているのです。そして、その浄土宗は上級武士の宗派と成ったのです。
ですから、江戸初期に旗本と成った中には「祖先神-神明社」「浄土宗」の関係する青木氏の家紋群が多い事と、それに関連する類似家紋の支流分流分派の家紋が多いのはこの事から来ているのです。
前段で論じた江戸初期に発祥した多くの「姓氏族」の守護神の「氏神」が「神明社」と一部で間違われているのは、江戸初期の上記の経緯から来ているのであって、「神明社-総神-氏上-御師-総師」と崇められていた事から「氏神-総神-神明社」の流れが「下級武士の姓氏」と「民」の中に起ったのです。
これも「祖先神-神明社」を「武士道の根幹」のみならず守護神を離れて全民の「総神」として位置付けられていたのです。
この事の証拠に就いて前段で論じた様に「伊勢青木氏と信濃青木氏」は江戸初期から明治初期まで徳川氏から「賜姓族」として「特別な待遇と保護」(例 下記特記)を受けていた事でも判ります。

特記 前段で論じた事ですが、伊勢青木氏には、紀州が徳川氏直轄藩と成り飛地治領としての松阪での「賜姓族特別面談扱い」や、紀州藩初代徳川頼宣からの手紙や拝領品等が多く遺されていて、家臣では無いが明治初期まで特別に十二人扶持を与えられていた事や、幕末14代まで特別扱いの下で「師」としての深い親交があった事や、伊勢松阪で吉宗を親族の加納家と共に育て上げた事や、その8代将軍吉宗の有名な「享保の改革」を布依着用(大名扱い)で勘定方で断行し、合わせてその時の財政改革の世間への見本として同時期の紀州藩の財政改革を特別依頼されて断行に成功し享保の改革の反対者を押さえ込んだ事や、且つ幕末の「坂本竜馬と船沈没の事件」で高額の賠償金捻出での有名な幕末紀州藩の財政改革等を断行した等が記録として遺されている。松阪にある賜姓青木氏の氏の総菩提寺が江戸期には紀州徳川氏の菩提寺に成っている。
これ等は「祖先神-神明社」の上記の証しと成るものと考えます。

私はここが「2つの青木氏」のみならず徳川氏の「天下分け目の決め手」であったと考えていて、もっと遡れば徳川氏には信長が甲斐武田氏を潰した時に甲斐の戦後処理を家康に任した事が決めてであったと観ています。それに依っての結果として「神明社」が遺されたと云う事も云えるのですが、これよる勝敗が逆であった場合は「神明社の運命」は恐らく焼き討ちにあい無く成っていたと考えられ、強いては「2つの青木氏」の存在や上記するその関係が破壊されていた事が考えられます。

この様にDとJの分布表の神明社から観れば、「神明社の存在」そのものが「2つの青木氏の命運」が如何に関わっていたかが判ります。室町期中期以降の生き残りはこの分布表からも読み取れるのです。
武蔵入間を中心に神奈川-横浜を半径とする総宗本家の勢力圏はAからDまでの主要街道沿いを7割で抑え、次ぎのデータの都の畿内圏域に結び付けていた事が判ります。
更に、この勢力圏はお膝元の畿内の神明社とどの様に結び付いているかを次ぎに検証します。

(Eの分布表)
畿内域 6県-14-0.2%
建設地域   戸数   /地域   /全国
三重(伊勢)   5    38.5   0.0
奈良(大和)   1     7.7   0.0
和歌山(紀伊)  2    15.4   0.0
大阪(摂津)   1     7.7   0.0
京都(近江1)  2    15.4   0.0
滋賀(近江2)  3    23.1   0.0

比較的にAからDの分布に対してEの分布表の数字は少ないと観られます。
つまり、この少ない原因は神明社の質的な意味合いがこのデータは異なっているのです。
特に奈良域は1と成っていますが、神明社の奈良期の19の神明社は室町期から観たものである事とその遺跡の有無から1としたもので、この域の「神明社の環境」は域全体が神明社であり分離したものでは無く当然のものとして存在しているので別格的扱いとしましたが、伊勢5は「分霊扱い」では無く「支社扱い」のもので「神明社の本拠点」と見なされ、量的な意味合いではない事に成ります。
天智天皇が実行した天領地の主要地19の第4世守護王の配置域に神明社を建立したものを加えて計算すると32-5.7%と成ります。しかし一部この19の守護地は5家5流の中部域の3国(美濃、信濃、甲斐)を外しますと29-5.1%と成ります。
この6県は「質的な神明社」であって、量的な判別は困難であり、32-5.7%に修正すると4社/県の原則から観ても5-6社/県と成りますのでこの神明社の古来からの聖域としては「1/4の原則」の範囲にあり妥当なものと考えられます。
(「皇祖神の聖域」であり「神明社」を建立する根拠は祭礼格式により無かった)
そもそもこの6県全域が「皇祖神-伊勢神宮」の90年-90社の遷宮域で「皇祖神-祖先神-神明社の聖域」そのものである事から考えると「皇祖神宮90社」を加算して122と成り、むしろ20社/県となり、「1/4の原則」から観れば20社/16社と成りむしろ多い事と成ります。

民衆から観た「生活の神」「物造りの神明社」とは別に上記した様に「戦略的意味合い」も強くあった事から伊勢を始めとして畿内域はその意味合いが無い訳ですから当然に量的分布は別物であります。
故にこの様な分布状況を示しているのです。
従って、その建立地も戦略的意味合いの位置の山岳国境には無く平地の主要地に位置しています。
この事が神明社布教を前提として純粋に「生活の神」「物造りの神明社」としての役割を果たす事に主眼が置かれていた事が判ります。
この畿内域は「伊勢-大和域-紀伊」8と「近江-摂津-都域」6の2域に分類され、「伊勢-大和域-紀伊」8は「皇族賜姓伊勢青木氏」と「特別賜姓伊勢青木氏」の特別区域として管理運営されていた事が判ります。しかし「近江-摂津-都域」6は「賜姓近江青木氏」と「賜姓近江佐々木氏」の区域であり、平安末期には何れも衰退してその管理運営力を無くし室町期には朝廷の力も無くしていますので、室町期まで遺されていたのは「足利幕府の政治的な配慮」の畿内民衆の「生活の神」「物造りの神明社」の梃入れであったと考えられます。
「伊勢-大和域-紀伊」8は5家5流の賜姓青木氏との繋がりが問題であり、この繋がりは次のような傾向を示しています。

(Fの分布表)
賜姓青木氏-5県-126-22.3%(宗家・主家)
建設地域   戸数   /地域   /全国
三重(伊勢)  5      4.0    1.0
山梨(甲斐) 69+3   57.1   12.7
長野(信濃) 13+2   12.0    2.7
岐阜(美濃) 31     24.6    5.5
滋賀(近江)  3      2.4    0.0

この他の地域の賜姓族の建立状況をAの県毎の分布表からまとめ直してみると次ぎの様に成っています。
三重と滋賀は上記の通り「皇祖神の遷座地」である事から少ない事は納得できますが、中部3県の山梨69-3、長野13+2、岐阜31では、先ず山梨は5氏の青木氏内諏訪族系3氏の諏訪社を除くと2氏の賜姓族系で全国比13%程度の高比率を占めているのは高い神明社への信仰が高かった事のみならず武田氏滅亡の戦い以外に神明社の消失の原因が少なかった事が云えます。
特別賜姓族はこの山梨には存在しませんし、室町期中期以降武田氏滅亡以降に上記した家康の保護があった事と青木氏系列の柳沢氏の保護下にも成っていた事から存続の比率が高かったと考えられます。4社/県からすると12倍と成りますので多く建立した事もありますが、遺し得た事も一つの要因です。

長野は奈良期よりもとより賜姓族の拠点でもあり賜姓族2氏と前段と上記で論じた様に特別賜姓族の強力な存在もあり、また伊勢青木氏との強い連携もあり4社/県の3倍の神明社を残し得たと考えられます。特別賜姓族の存在は信濃足利氏のお家騒動に加担した事の大きな関わりであるので定住地では無い事からこの3倍程度は妥当なところで不必要な消失に巻き込まれなかった事が大きな要因とみなされます。それは「祖先神-神明社」が各階層から崇められていた事により護られ消失を免れて遺し得たと考えられます。

岐阜は賜姓族青木氏2氏と特別賜姓族系4氏流と融合青木氏とが存在する地域であり源平の戦いで土岐氏系の青木氏が滅亡した事もあって甲斐域に比べては少ないけれど特別賜姓族の支えにより戦乱の戦場と成った地域にしては遺し得たと考えられます。
4社/県から観ると8倍と成っていますので遺し得た地域とみなされます。信濃域とは少しその歴史的経緯が異なっていた事から特別賜姓族の存在からすると甲斐に比べて少ないと観られますが矢張り戦乱の戦場となり続けた地域でもあり消失は無視出来ないところであります。

下記の分布表でも判る様に、前段と上記でも論じた「皇祖神-祖先神-神明社-2つの青木氏-特定地域」(「5つの連携した関連要素」)が絡み、その地域県の「歴史的経緯と末裔分布と勢力図」の影響が特に左右して室町中期以降に「5つの連携関連要素」が緩んだ事で、その内容如何では「色々な形での消失」が働いている事は少なくとも否めません。
従って、上記の様に街道沿いの広域で相対的に論じているのですが、然し、多少のバイアスを持っている下記の県域に於いてでもその「歴史的経緯や末裔分布の生き様」等の息遣いの大まかな様子が垣間見る事が出来ます。

(Gの分布表)
賜姓青木氏-4県-10-1.8%(単独の移動定住先)
建設地域   戸数   /地域   /全国
鳥取(伯鰭) 1     10.0   0.0
島根(出雲) 0+1    10.0   0.0
高知(土佐) 4     40.0   0.0
宮崎(日向) 4     40.0   0.0

前段でも論じた鳥取は米子や八頭に移動定住した信濃賜姓族足利氏系の青木氏が勢力を拡大し島根との県境宍道湖周辺までその勢力を盛り返し信濃賜姓族の末裔として一族の結束の証しと象徴として建立したものです。
島根は讃岐青木氏の一門が2足の草鞋策で瀬戸内を越えて日本海に出て廻船問屋を手広く広げそれに伴って子孫末裔が宍道湖の西側域に定住地を確保して拡がったものでその証しと彼等の象徴として建立したものでは無いかと考えられますが、これには信濃賜姓族足利氏系青木氏が宍道湖を越えて西側にも拡がった事も家紋分析等から考えられるので、秀郷一門の讃岐青木氏との判別が難しいところです。
出雲大社域の中での神明社であるので余り西よりには建立は難しい筈であった事から、讃岐青木氏の定住地は宍道湖のやや更に西よりに青木村を形成している事から信濃足利氏系青木氏の米子域の青木村との2つの青木村の圏域の境界が判らないのです。
宍道湖付近で「融合青木氏」が存在していた事も考えられますが以前ルーツ掲示板のお便りからすると地主であったとして家紋分析からみると可能性があると考えられます。現在は確認が取れませんが家紋分析で研究中です。
宮崎は上記で論じた通りです。

(Hの分布表)力が良く判ります。
 秋田4.1 
重複域青木氏-7県-178-31.4%(移動定住先 秀郷流青木氏と重複域) 
建設地域   戸数   /地域   /全国
秋田(羽後) 26+7  18.5  5.8
新潟(越後) 55+6  34.3 10.8
福井(越前) 8      4.5  1.4
富山(越中) 32+1  18.5  5.8
神奈川(相模)9+2    6.2  1.9
静岡(駿河) 18    10.1  3.2
栃木(下野) 12+2   7.9  2.5


重複域の特別賜姓青木氏 -166  27.3%
重複域の賜姓青木氏    -12   2.1%
{(126+10)+418}-566=-12

東山道域の広域で論じた様に、重複域から観ても矢張り新潟55+6を中心に北側の秋田にパイプを広げて戦略的に連携を採っている事が判ります。
新潟55+6を中心に秋田側26+7に重複域を拡げています。
西側には福井側8と、富山32+1 と成りますが、パラメーターを統一して4社/県として観ると、新潟15.3、秋田8.3、福井2、富山8と成り、更に 福井2を1として新潟7.6倍、秋田4.1倍、富山4と成り重複域の分布力が良く判ります。
地理的に並べて見ると 秋田4.1 新潟7.6 福井1 富山4で北側には特別賜姓族を主体に、西側には賜姓族を主体にして伸びている事に成りますが、この分布力から「1/4の原則」を当て嵌めて見ると秋田はこの原則に丁度一致し、新潟は拠点としてあるので8は拠点分4として相当して考えられます。
恐らく7.6は、この「4社/県」と「1/4の原則」が完全に適用されていたとして観ると、0.4分のマイナス分は、「神明社の分析過程」の+6の判定が室町期中期内の+の可能性と観ているので、+9とすれば7.6が8に成ります。「重複域」である事と「八幡社」の宗派変え分(宗旨変え)による+3分の判定エラーが起こっている事が考えられますが、凡そ4:8:1:4で分布力の関係が出来ていたのです。
富山の4は歴史的経緯から観て、鎌倉末期から室町期中期までの建立のものが多いので定住地の地理的な要素から観ると、甲斐の避難族だけではなく、信濃足利氏本家筋との賜姓族青木氏血縁族のものもと一部には未勘氏族も含まれている可能性が考えられます。
(純粋に融合の判別要素が無い為には難しい 福井と同じ程度か)

上記の広域で論じた様に、神奈川、静岡、栃木の3県で観ると、神奈川11 静岡18 栃木14は伊豆の複合融合最大域を中心に東西にバランスよく分布していて、2.8:4.5:3.5 として 0.7:1:0.8の関係に成っています。然し、静岡は複合融合データ域なのでこれを1としているので、若干低めに成る筈で東西に(0.4-0.5)のバランス関係を保持していた事が判ります。
東西に賜姓族の融合の重複域を採っていた事に成りますが、ここでも「1/4の原則」はほぼ守られていた事に成ります。  

「重複と融合の戦略の存在」
総じて重複域での特別賜姓族と賜姓族との比が、166:12(社)  27.3:2.1(%)と成り、重複域のここでも特別賜姓族が27-28%台を持っていた事は重複域の「融合青木氏の存在の効果」が大変に大きかった事のパラメータに成ります。
重複域も例外ではなく、上記したエラーを重複域ではこの関係分を含みますので、これを考慮するとやや低めのほぼ「1/4の原則」が成立しています。
広域と境域の重複域の関係を観て来ましたが重複域期で起る「融合青木氏の仲介役、接着剤の役割」を改めて認識する事に成ります。
むしろ、これ等のデータから ”戦略的に恣意的に「重複域」を造り「融合青木氏」を発祥させて「2つの青木氏」の結束を強化していたのではないか” と考えられます。
だから危険を顧みず時代毎に起った歴史的な事件や経緯からの移動逃亡先の各種の青木氏を即座に迷う事無く受け入れたと観られます。
そして、その行動が関西-中部域は賜姓族側が、関東以北域は特別賜姓族側が中心となっていた事を物語ります。
上記の様に広域と境域共に重要なポイントの域には漏れる事無く「重複と融合」が高い割合で間違い無く行われているのです。
これは”「重複と融合の戦略」なるものが、「祖先神-神明社」の考え方を根幹にしてその存在意義を護る為にも、「3つの発祥源の2つの青木氏」にはあった”と考えているのです。

だから上記で論じた様に、抽象的なものでは無く、 ”この確固たる論理的な行動の戦略に基づいた「固い祖先神-神明社の組織」を家康は取り入れた” という事なのです。
だから「伊勢青木氏」に遺されている様な徳川氏が上座を譲るほどに「青木氏を崇める記録」が存在するのであって、「3つの発祥源の2つの青木氏」の古い賜姓族氏だからと云って簡単単純に江戸期に成って今更に崇める事はしない筈です。伊勢だけではなく信濃国府や武蔵入間の青木氏宗家にも何がしかの記録があると観ています。

(Iの分布表)
(移動定住先)
(関東以北の主要地を除いた移動定住地を除く 全24地域)
藤原秀郷流青木氏-16県-58-9.7%
建設地域   戸数   /地域   /全国
栃木(下野) 12+2   25.5   2.5
群馬(上野) 12+2   25.5   2.5

この2県域は移動定住地でもあるが本領でもある。しかし「祖先神-神明社」の特別賜姓族から観ると主要地と異なり「移動定住先」に成るのです。
因ってここに加えましたが、本領としてのそれなりのデータを示しています。
本領である以上は「4社/県」「1/4の原則」は完全に保持していて下記の地域とは完全に異なっています。

京都(近江3)5     9.0  0.0
岡山(美作) 1     1.8  0.0
広島(安芸) 2+4  11.0  0.0
山口(周防) 1     1.8  0.0
島根(出雲) 0+1   1.8  0.0

広島は下記の讃岐青木氏の勢力圏でもあり、本領の宗家からの赴任移動先でもある事からたの移動定住先とは若干異なりそれなりのデータを保持していますが、神明社の検証に+4は確定出来ないものであり、歴史的経緯と地理性からもう少し多いのではないかと考えられるのです。恐らくは、神明社が増える可能性よりも「八幡社の宗旨変え」(5 4社/県)が起っていると観られます。この地域の未勘氏族や疎遠の河内源氏が八幡社5を建立維持したとは考え難いのです
そうすると2+4+(5)=11と観ると、本領移動域の下野、上野域に比適する事と成り納得出来るデータと成ります。

徳島(阿波) 4     7.3  0.0
香川(讃岐) 1     1.8  0.0
愛媛(伊予) 2     3.6  0.0
高知(土佐) 4     7.3  0.0

福岡(筑前) 1     1.8  0.0
佐賀(筑後) 1     1.8  0.0
長崎(肥前) 1     1.8  0.0
熊本(肥後) 1     1.8  0.0
大分(豊前) 1     1.8  0.0
(京都は丹波などの3国とする)

以上の9県域は移動定住域としては納得出来るデータです。

(Jの分布表)
藤原秀郷流青木氏の神明社分布
関東全域  7県-115-20.3%-本家域 

(Kの分布表)
特別賜姓青木氏-34県-418-73.8%
北陸道域   4県-104-18.4%-北陸域
東山道域   6県-105-18.6%-東北域
東海道域   8県-154-27.2%-中部域
移動先域  16県- 55- 9.7%-分布域

(Lの分布表)
皇族賜姓青木氏-16県-148-26.1%
宗家主家域  5県-126-22.3% 
移動定住域  4県- 10- 1.8% 
二氏重複域  7県- 12- 2.1% 

(JからLの分布表は上記で論じた)

以下はその末裔分布の融合青木氏の定住地域別にまとめて見ました。

(Kの分布表 家紋分析による)
融合青木氏-賜姓青木氏(A)と特別賜姓青木氏(B)との融合血縁氏
伊勢域  四日市域、員弁・桑名域 (A)賜姓族系1 (B)特別姓族系 
美濃域  伊勢側域 尾張側域 (A)特別賜姓族系 (B)特別賜姓族系 
信濃域  愛知国境域 越後国境域 越中国境域 (A)賜姓族系2 (B)特別賜姓族系 (A)(B)複合
武蔵域  鉢形域 八王子域 (A)賜姓族系1 (B)武田氏系1 (B)特別賜姓族系
越後域  全域 越中側域 越前側域 (A)諏訪族系2 (B)武田氏系2 (B)特別賜姓族系
土佐域  伊予国境域 讃岐側域 阿波国境域 (A)武田氏系1 (B)武田氏系1 (B)特別賜姓族系
鳥取域  鳥取国境域 (A)足利氏系1 (B)特別賜姓族系 (A)(B)複合
伊豆域  全域 (A)賜姓族系2 (B)特別賜姓族系 (A)(B)複合
栃木域  全域と下野国境域 (A)諏訪族系2 (A)武田氏系1 (B)特別賜姓族系
神奈川域 全域 (A)諏訪族系2 (B)武田氏系2 (B)特別賜姓族系

注 越後域は越後を中心に日本海側に広域で判定困難な(A)(B)複合が多く存在する。
  ・・系1、2の表示は・・系の氏の複数氏を意味する。
  室町期末期と明治初期の第3氏系の家紋群は除く。

次ぎに祖先神の親神の皇祖神の遍歴に付いて改めて論じる事にします。
「祖先神-神明社」に至るまでの基の皇祖神の経緯などに付いて論じて基礎知識を拡大させたいと思います。
「皇祖神」は90年-90編座の大変な遍歴と経緯を持っていて、その為に色々な仕来りと掟が生まれています。それは同時に「祖先神-神明社」の存在意義にも左右しているのです。

「大化期までの鎮座地の遍歴」
1 「皇大神宮」は理想的な場所を求めて各地に移動します。この間2人の姫皇女に依って神霊を祭祀されました。
最初は「自然神」(「鬼道」)の為に皇居内に祭祀されていましたが、崇神天皇が畏怖し遍歴させ続いて垂仁天皇がこれを引き継ぎます。
この2代の天皇の姫皇女が斎王として祭祀して現在地に至ります。

2 この伊勢市の豊川に定まる前は最初の鎮座地は大和の国「笠縫巴」33年間です。
ここから鎮座地を86又は87の地に遷座しています。
国にして13国、年数にして90年の遍歴をしています。
現在も殆どの関連した神社は残っていますが、記録だけのものが5ケ所と成っています。

3「豊受大神宮」の鎮座地は丹波国3-伊勢国1として現在地に鎮座します。

4「皇大神宮」は次ぎの遷座地を遍歴した。
大和8-丹波4-大和4-紀国2-吉備6-紀国2-大和7-伊賀10-近江14-美濃3-尾張5-伊勢5-安野国(伊勢安野郡)1-伊勢19-現在地1

地域別に観てみると次ぎの様に成ります。
 大和域      19
 近江滋賀域    18
 美濃尾張域     8
 伊勢域      37
 紀伊域       4
 瀬戸内域       6

これから観ると、伊勢が特別に多く遷座地と成っています。然し、全体の年数90年間と云う年数から観て大和が全体の3割以上を占めています。
恐らくは、この事は当初から朝廷のある大和域にしたいと考えてはいたが、当時は未だ大和域は盆地で現在の「猿沢の池」が4世紀前半には大湖の中央付近であって盆地の縁の地形にあったのですが、後に次第に水が退き隆起して現在の様な完全盆地と成ったのです。
この事から「水利事情」や「地形状」から鎮座地としては問題があると悩んでいた事が判ります。
そこで、飛鳥を中心にして西域の寒冷地の「近江滋賀域」と、東域の中間平地の「伊勢域」と、南域の温暖な「紀伊域」が考えられたと観られます。
結局は東域の中間平地の「伊勢域」を選定した事をこの遍歴が物語っています。
この選定の悩みを示す事として「吉備の瀬戸内域の遷座」であります。ここにはある歴史的な大きな経緯があるのです。
飛鳥を中心として東西南北とは別の地域で「吉備」を選んだのは、「吉備」の当時の国域は瀬戸内全体を指し、吉備朝臣氏(下道氏 吉備真備)は「関西域の勢力」と対峙する位に勢力を張っていたのです。
それがこの遷座の現われなのです。
当時、藤原氏(仲麻呂 恵美押勝)との争いを起していましたが、矢張り地理的な原因で選定されなかったのではないかと考えられます。
ただ、この吉備は計画上の選定だけではないのです。現実に他の神宮と同じく建設して神宮として祭祀されているのです。
つまり、上記の「地理的要素」だけではなく「民の信仰」そのものに「歴史的な変化」があったのではないかと考えられます。

実はこの域は「出雲大社」の強い影響を受けていて、その為に「弥生信仰」の象徴の「銅鐸」が多く発掘される域でもあります。
この事から吉備域はこの旧来からの全ての「民の信仰の対象」であった「弥生信仰」が特に強かった地域でもありますが、其処に遍座していると云う事なのです。何かの特別な理由があった筈です。
当時、「邪馬台国の卑弥呼」の「占術」-「占道」-「鬼道」が大きく政治に影響を与え始め、「宗教王朝の出雲国」が主導する「弥生信仰」が低下していた時期でもありました。
その現れとして、それまでは「弥生信仰の象徴」の「銅鐸」が、丁度、この時期のものとして飛鳥地区で何と多く限定して破壊されていて、まとめて捨てられた状態で発見されているのです。
これは”「弥生信仰」に何かあった事”を意味します。その発掘の遺跡からこの時期のものとして多く発見されているのです。
この事は「神具の銅鐸」が飛鳥のみならず「廃却される現象」が関西近辺でも起っていた事を物語ります。
これは宗教的には大変異常な事です。普通ではありません。

実はこの「出雲大社」の御告げによる「弥生信仰」の「神具の銅鐸」が、大変数多く全て細かく破壊されて捨てられていた事に真の問題があり、特に更には歴史学的に珍しく「破壊」そのものに問題があるのです。これを紐解く事が歴史を解明できるのです。それも3世紀頃から5世紀頃の歴史をです。

「銅鐸の破壊のメカニズム」
そもそも、この青銅の銅鐸は鋳物で出来ています。この青銅の銅鐸を「細かく破壊する事」は青銅の金属的な粘りのある特性から無理であり出来ないのです。
科学が進んだ現在に於いてもある「冶金的な処理」を施さなくては絶対に出来ないのです。
但し、それを解決出来る方法がただ一つあるのです。
それは青銅を一度溶融点より下の7割程度以上の温度に先ずは過熱して、それを6割程度の温度に戻しある温度域で、ある一定の時間を保ち、それからある程度の速さで冷却をし、常温で一定時間保つと云う「熱処理」です。
この様な「熱処理」をしないと銅鐸や青銅品は「細かく破壊する事」は絶対に出来ないのです。
つまり、青銅の粘性のある性質を逆の脆い性質に変化させないと出来ないと云う事なのです。
遺跡から出てきた銅鐸の破壊された破面を見てみると道具を使って破壊されていないのです。何かで叩いて細かく破壊した「急進破面」と云う破面なのです。脆くなければ絶対に出ない破面です。
つまり、金属的に調べると間違い無く上記の熱処理を施しているのです。
現在でもこの熱処理は金属の特性を色々変化させるのに使用されています。
普通はこの熱処理は他の物質を粘りのある均一な特徴を出すのに使われるのですが、粘りのある青銅だけは逆に成るのです。これを「焼準 ならし」と云います。
3世紀頃にはこの技術が在った事を示すもので、それはそれで大変な発見なのですが、青銅の銅鐸をこの熱処理で破壊していた事にも大変な意味を持っているのです。
この進んだ冶金技術が飛鳥に合った事を意味します。これも「魏志倭人伝」に出てくる”100枚を送った”とする記述に就いても「三角縁神獣鏡」の「鋳造技術」が飛鳥に有った事にも成ります。
つまり”魏国から送られた”との記述は、日本で製造して゜総称の邪馬台国」に送った事に成ります。
魏国ではこの種の鏡の使用の習慣文化は無い事と、鋳造した場所が発見されていない事からも関西域での鋳造と成ります。
全国(関東域まで)からこの「三角縁神獣鏡」が発見されている事から、この100枚が関東域までの「鬼道信仰」で繋がる「緩い政治連合体」のあった事の印であり、魏国から政治連合の全国の国々に対して ”「魏国との国交」があった事を知らしめる様に”との記述がある事からも、緩やかな北九州域から関東域までの「緩やかな政治連合体」の総称とする「邪馬台国」の女王は指示通りに配った事を意味します。

そうすると、果たして、この「三角縁神獣鏡」にせよこの「銅鐸破壊」にせよ”何処からこの進んだ冶金技術を導入したのか”と云う疑問に到達します。
この3世紀の時期は北九州の朝鮮半島に近い博多付近に集中して進んだ冶金技術はあった事が判っていますので、ここから導入した事は間違いありません。
恐らくは多くの関西域の商人や職人がこの博多付近に「買い付けや技術習得の人々」は往来した事は間違いない事に成ります。
博多付近と朝鮮半島の先端には日本人の貿易商の「倭人」が常駐して住む任那国があり、この当時の先端技術が彼等に依ってもたらされた事は判っていますので、「緩やかな北九州域-関西域政治連合体」の充分な条件は揃っていますので、その大決断を「卑弥呼」は全国的な300年周期目の「大飢饉の解決」を目論んで「鬼道占術」で実行した事が充分に考えられます。
恐らくは、「女王」であった事がこの決断に踏み切らせたと考えます。その卑弥呼の前は「倭国大乱」と記述が「魏志倭人伝」にありますから、この事から「飢饉大乱」を解決する事からも論理的な「鬼道信仰」の普及で解決する事も込めて決断したと考えられます。
「銅鐸破壊から読み取れる経緯」と「冶金的技術から読み取れる経緯」から「邪馬台国の全体像」がはっきりとして来ます。

(特記 そのはっきりとした中からその真髄を捉えたこの経緯を踏まえて、その「自然神」-「鬼道信仰」が基盤と成って引き継いだ「皇祖神」は、90年-90ヶ所の遍歴を繰り返した後に、6-7世紀の大化期前後頃には「皇祖神-祖先神-神明社」の青木氏による推進と成って始まったと考えられるのです。
他氏には決してない「2つの青木氏」だけに取って「皇祖神-祖先神-神明社」の氏である限りこの歴史的経緯は無関係ではないのです。見逃す事の出来ない経緯なのです。)

この様な経緯から、ですから、この事は明らかに ”「恣意的に故意的」に「ある目的」を以って「事前」に「計画」して「熱処理」をして「破壊」した” と云う事に成ります。
一時的な感情からはこの面倒な熱処理はしない筈です。それも誰でも出来ると云う熱処理ではありません。
それも大量ですから何か「特定の目的」を持った「集団」が「計画的」に行った事を意味します。
それも「弥生信仰の最たる神具」です。
本来ならば、古来の信仰性からすると、宗教的には”罰が当る”として決して行う事の絶対に無い行為です。
然し、大量に破壊されて出雲ではない飛鳥の一箇所に廃棄されていたのです。この「場所」にも問題があって青銅の銅鐸が大量に破壊されている事も問題なのです。
つまり、この「破壊行為」は何を意味するかと云うと、”「飛鳥と云う場所」で「弥生信仰を否定した事」”を意味します。
では、これ程の専門的な熱処理をすると云う事は「一時的な感情的な行為」ではない事が判ります。とすると、この”「恣意的に故意的」に、何故、「弥生信仰」を否定したのでしょうか”大いなる疑問と成ります。
それも「一個人の行為」では無く、量的な「神具の破壊」と成ると”飛鳥の最高権力者からの命令”と云う事に成ります。ではそれは ”飛鳥の最高権力者に何かがあった事”に成ります。
実はそれには「弥生信仰」を否定される事件がこの次期に起っていたのです。
その「事件」と云うか「国難」と云うかこの丁度、同時期に起っているのです。
そして、その一方では北九州域では、その事件、国難を救う「別の宗教」が起こり、その宗教が多くのこの国難を救っているのです。それも国レベルです。対照的な宗教異変です。

その救っている宗教は実に論理的な根拠のある宗教なのであり、日本の宗教の根幹に成った宗教です。
現在もこの「宗教の仕来り」を「国の祭祀」(国事行為)の根幹として皇室に於いて定期的に維持されています。
それを次ぎに詳しく論じますが、それが本論の根幹なのです。
つまり、「皇祖神-祖先神-神明社」の根幹部なのです。(下記の「重要な特記」を参照)

大和の国の近隣の諸国では当初は「弥生信仰」で有ったのですが、3世紀後半から突然に北九州域に於いて「占術」-「占道」-「鬼道」が広がり、逆に「弥生信仰」は急激に衰退して行きます。
それを示す証拠がこの銅鐸の破壊と廃却の遺跡発見なのです。

これの大きな原因は、根本から検証すると、次ぎの様に成ります。
「300年大周期の気候変動」
この時期(300年頃)は歴史的に観る(気象学的に観る)と、「300年大周期の気候変動」と云うものがありその大気候変動期は第3期に分けられる特長を持っています。この時平準でない気候の為に「大飢饉」が起こるとされています。それによる「第1期の100年目周期の大飢饉」が丁度この次期に重なり続いていた時期に当ります。
世界的に「長期間の飢饉」が起こり農業や生産物に大影響を与えていたのです。
(詳細l理論は次段で論じる)
その為に全国的に祈祷などをするにも拘らず既に全国的に広まっていた「弥生信仰」の「占術の御告げ」が当らない事等の不満が民衆に起こりました。
この「弥生信仰」に向けられた「不満の政治的な行動」がこの「銅鐸の破壊」というセンセーショナルな行動と成って現れたのです。「飛鳥の連合王朝」の中に起ったのです。
ところが、一方では北九州では(邪馬台国)、「卑弥呼」が始めた「自然神」の中でも「自然現象」を中心とした「占術や占道の御告げ」が良く当るとの事で、北九州域から「鬼道信仰」なるものが広まっていたのです。
この出雲国の「弥生信仰」と邪馬台国の「鬼道信仰」との大きなギャップが「一つの流れ」と成って爆発的に起ったのです。

つまりは、「自然現象」の「占術や占道の御告げ」とこの「周期的気候変動期」とが一致した事が「鬼道信仰」が爆発的に広まった原因事に成ります。逆に「弥生信仰」は衰退した事を意味します。
そもそも「卑弥呼」が王と成ったのもこの「鬼道信仰」が基であり、国の乱れも「鬼道」の「占術の御告げ」を中心に置いた処 ”良く当り解決する”と言う現象が起こったのです。
その結果、周囲の互いに争って食料を確保しようとしていた北九州の豪族達は緩い「政治連合体」を造り、この良く当る「自然神」を中心として「鬼道占術」を採用した「連合体の政治組織」を北九州域で造り始めたのです。
「鬼道信仰」を政治の中心に置く事で飢饉の中での「食料の調達」も「政治的な勢力争い」も「占術や占道の御告げ」で解決する事が出来るとして瞬く間に広がりを示したのです。
結局、この「自然現象」を読み取る「自然神」から来る「鬼道信仰」の「占術や占道の御告げ」を中心と成った事からその「占い師の卑弥呼」を「政治の連合体の王」と定めたのです。
その事が更により一層に九州域の緩い「政治連合体」にはまとまりを示し「食料の調達」も「政治的な勢力争い」も円滑に解決へと進む様に成ったのです。
その流れは、同じ飢饉から逃れようとして「鬼道占術」に縋り次第に関西域にも飛び火の様に広がり、そこから飛鳥へと移動してきました。

(恐らく、博多には中国を経由して朝鮮半島から入る鉄や青銅や食料品や生活必需品の調達の為に全国各地から商人が買い付けに来ていた。この事からその「鬼道信仰」の噂が広まったと考えられる。関西域との緩やかな政治連合体もこれらの商人の働きがあったと考えられる。)

(「鬼道信仰」の詳細な論理的概論は次段で論じる)

重要な特記
この時の「自然神に対する祭祀」が「朝廷の基本行事」として遺されたものなのです。
この「祭祀の思考原理」が大化期の「皇祖神-伊勢大社」と成り、その基と成った「食料の調達」も「政治的な勢力争い」の祭祀のそれをも具現化したのが「物造りの神と生活の神」を根幹とする「祖先神-神明社-豊受大明神」であり、「政治的な争い」の祭祀が「国家鎮魂の八幡社」として祭祀されたのです。
この「根幹の祭祀」を各地に広げる為にも大化期に「皇祖神」の子神の「祖先神」を創造し、それに伴なう祭祀社を建立する政治的な事業を展開したのです。それを引き継ぐ「氏」として朝臣族の皇族賜姓族を基とし「青木氏」を継承させるに相応しく新しい「融合氏」として伊勢に発祥させたのです。
この任務を施基皇子に任じたのです。この時、この青木氏に祭祀に相応しい「3つの発祥源」としての任務も与えたのです。
これを補足する事として近江の佐々木氏が特別に同時期に賜姓したのです。
そして嵯峨期にはこの「2つの祭祀族氏」にも「五穀豊穣と国家鎮魂」と「物造りの神と生活の神」を祭祀し「拡大する神明社」を継承するに等しい力が不足し、これに変わる特別の賜姓族として皇族外遠戚の藤原秀郷の第3子の千国にこの任務を特別に与えて青木氏を発祥させたのです。
これが前段で論じた「神明社と八幡社」はそもそもその根幹(自然神-鬼道信仰)はここにあったのです。
然し、その一つの「八幡社」はその存在意義を「河内源氏と未勘氏族」に依って「武神」にして異にしてしまったのです。

そして、紀元300年代には、この卑弥呼の「占術や占道の御告げ」を基とし「自然の変化」を読み取る事に長けていた「鬼道信仰の流れ」が全国的(関東域にも緩やかな政治連合体)には派生して行った時代でもあったのです。
恐らくは、この関東にまで派生した「政治連合体」は「大飢饉」の解決が主な目的と理由であったと考えられ、緩やかなものであって、後に飛鳥期から奈良期に掛けて「ヤマト王権-ヤマト政権-大和政権」とに掛けて関東域までの「緩やかな政治連合体」は次第に踏破され征討されて大和政権化して行くのです。
その後、「卑弥呼」の死により「邪馬台国」が崩壊しこれが基で飛鳥を中心とする「鬼道占術の連合体」が勢いを増し、これが「出雲信仰・弥生信仰・出雲国」を中心とする連合体の衰退に繋がったのです。

(特記 ここで、「卑弥呼の鬼道信仰」は出雲域を越えて関西域まで緩やかな「政治連合体の拡大」が起り、それに依って「卑弥呼」は飛鳥に呼び寄せられてか「自然現象」の「占術や占道の御告げ」を中心として政治連合体と成ったとする信頼できる学説があるのです。
北九州の政治連合体と関西の政治連合体との緩やかな広域的政治連合が起ったと考えられます。
それには北九州域で起った「大飢饉の解決」と青銅文化から中国を経由して北朝鮮域(3韓)からもたらされる「鉄文化の発展」の供与が主目標として関西域の政治連合体が吸収すると云う事に成ったのです。
この時この「北九州域-関西域の緩やかな政治連合体」を「邪馬台国」と総称したのではないかと考えられます。
北九州域の「吉野が里遺跡」(山門)と関西域の「マキ向遺跡」(大和)から「魏国の魏志倭人伝」にはこの2つのヤマトを「邪馬台国」と呼称したのではないかと考えられます。
この関西域には、”「鬼道信仰」が「緩やかな政治連合体」の誼からどのような形で伝達されたのか”が問題ですし、当然に「卑弥呼」はどちらの域にいたのかの疑問も出て来ます。
「魏志倭人伝」に記されている「国王の印鑑」は日本では北九州志賀島で見付かっているのですが、中国の魏の国からの国交の使者が到着するとした場合、先ず北九州の山門の吉野が里遺跡の政庁に立ちより、続いて関西の大和のマキ向遺跡の方に移動したのではないかと考えられます。)

(特記 王印の印鑑は死去すると送られたものであれば返却する古式習慣がある。この倭王印の印鑑は竹島や志賀島等幾つかの特定の地域 即ち発見は4箇所で見付かっている為にこれは複製品と成るが、古来には複製品の仕来りがあった。つまり、北九州と関西域の「緩やかな政治連合体」(緩やかな政治連合体である為に各主要国が保持していた事を意味する)にこの印鑑を両方の側が所持していた事を物語る。つまり構成国であった竹島の任那国、邪馬台国や奴国等が所持 故にこの連合国家の総称として「邪馬台国」を物語る要素と成る。)

(特記 「魏志倭人伝」には「83ヶ所の記載」があり、北九州の地名の「壱岐国」「奴国」等の9つほどの国名と移動に所要した陸と水利の距離の表現の記載があり、この記載からこの北九州域と関西域の緩やかな政治連合体を移動した場合にはこの距離間が一致します。又、水利とは博多付近から吉野が里までは河に船の水路を開き両岸から人が引っ張る方式を採っていた事が判っていますから、この水利の距離は瀬戸内海を通った水路の距離と合わせるとほぼ大和までの距離間に成ります。陸は吉野が里から瀬戸内海に面した大分付近間での陸路の距離と摂津から大和路までの陸路の距離を合算するとほぼ一致します。)

(特記 陸路の記述1月は瀬戸内沿岸で陸行すると関西域間、水路は上記の牽き舟方法で邪馬台国には10日と、瀬戸内海路を関西域までの20日の二つが記載されている。この記述から北九州域 8国 関西-関東域までの凡そ22国の計30国の緩やかな政治連合だった事が考えられる。
投馬国だけが不明だが関西域の位置にある筈で、”出雲を含まない中国地方の当時の広域の吉備国を云う”と考えると、出発点が問題には成るが、最短距離で「関西域の政治連合」の入り口部吉備国に当り、最長距離で大和盆地の”ヤマト国”に成る。
「投」の呼称は馬にヤリで投げる姿勢から”ヤ”と呼称していた事が考えられ、「馬」は”マ”又は”マト”であるので関西域の政治連合の「ヤマトコク」の呼称に成ったと考える。但し、「邪馬台国」以外に緩やかな政治連合国家の中に「遠絶地」として書かれた「投馬国」を含む22国の中に「邪馬国」と云う国がある事に注意。 ”ハリマ・播磨・兵庫”を含む後の吉備国域の関西域の緩やかな政治連合体の入り口を総称として「投馬国」か。30国中に「馬」の入れた国は4国 「奴」の入れた国は8国あるのは「緩やかな政治連合体」の証しである。)

上記の特記事項も考慮に入れると、「自然神-鬼道信仰」の根幹を継承している「青木氏-皇祖神-神明社-神明社」の立場から敢えて考証すると次ぎの様に一応検証しています。、
根幹部の「鬼道信仰-邪馬台国」の検証問題は、故に上記の「銅鐸事件」や後の「皇祖神の遍座地」や奈良期までの「歴史的経緯」に附合一致する事に成ります。
後の問題は「卑弥呼の扱い」と「鬼道信仰の習得方法」と成ります。
「鬼道信仰の問題」は大和の習得はこの「銅鐸の破壊」で証明されますので、後は卑弥呼の問題です。
「卑弥呼」の死の前に既に飛鳥に呼び寄せられたか(イ)、「政治連合の形」で飛鳥にも出長していたか(ロ)、北九州に人員を派遣して「鬼道占術」を卑弥呼に師事したのか(ハ)のところは未だ解明されていませんが、この説は最近この銅鐸破壊の遺跡発見から俄に有力説として持ち上がり、飛鳥の邪馬台国の卑弥呼説(大和国=邪馬台国)と成っているのです。
(「政治連合体」の全国的な歴史的経緯は確認されている。)
この大飢饉の中での「鬼道信仰」と「政治連合体」から観て「卑弥呼移動説」(イ)が可能性が高いと観られます。ただ、(ハ)の説も北九州説と飛鳥説の疑問をバランスよく説明が就き易く、その為に捨てがたいのです。(本論の「祖先神-神明社」の論処からは(ハ)説に近いと考えています。
その証拠と云うか説明の根拠と出来る事として、更に史実として次ぎの事があるのです。
それは先ず一つは大化期より朝廷には「藤原氏の斎蔵」の配下にこの「祭祀と占術」を司る官僚として行う氏があるのです。それは阿倍氏です。阿倍氏は前段でも論じた様に阿多倍の子孫です。
つまり、後漢の「鬼道」を引き継いでいる職能集団の首魁であります。
その職能集団は「阿部」で「鬼神の鬼道」を行う部民の集団で、「阿」の語意は「鬼道の鬼神占術」の基神を意味し、インドの鬼神の「阿修羅」の「阿」でもあります。
更にはこの分派の「鬼道の占術」を行う職能集団の「卜部」(うらべ)があり古代鬼神信仰の占師です。
後に「阿部氏」や「卜部氏」の「姓氏」発祥しています。
前段で論じた陸奥の安倍氏は阿倍氏の末裔でこれ等の首魁です。前段で論じた阿倍氏や安倍氏はこの立場の背景があったのです。この様な立場や背景が大きく彼の幾つもの陸奥事件に影響していたのです。

そしてこの様に、その子孫は平安朝期の官僚の「鬼道師」の有名な「安陪晴明の陰陽師」です。
「鬼神」を占術の中心に据えたものですが、奈良期頃から官僚として引き継がれている「自然神-鬼道信仰」の国事行事の極めて古い職能集団です。問題の時期の「ヤマト王権」期頃からあったものと考えられます。
この様に邪馬台国の卑弥呼の「鬼道信仰」は「朝廷の祭祀」の中の一つの「占術の職務」としてとして引き継がれているのです。そして、それを引き継ぐその「皇祖神の祭祀」の根幹から「゜祖先神の考え方」が生まれ、且つその事からその一部が上記上段で論じた「神明社の祭祀行事」と成ったのです。

(特記 卑弥呼の死後は”弟が王となったが納まらず一族の宗女の壱与が立ち納まる”とある事から(イ)説にも疑問があり、この一節からも(ハ)説で納まりが就く)
この事を配慮すると(ハ)説が最も現実味を帯びて信頼度を増します。

それまでの「弥生信仰」からの決別と伴に、「北九州域-関西域の政治連合体」が成立して「卑弥呼」の移動に伴ない「弥生信仰」からのはっきりとした決別の意味を込めて ”銅鐸破壊の行為に出た”と考えられているのです。
この事により飢饉から免れた事を期に、飛鳥に「卑弥呼の常駐」が起ったと考えられます。
何か「卑弥呼の常駐」か、或いは「北九州域と関西域の広域政治連合体」を祈念しての儀式であったのでは無いかと考えられます。兎も角も「弥生信仰」から「鬼道信仰」への遍歴を祝う国家行事の大儀式行為であった事は間違いないと考えられます。

(特記 「緩やかな政治連合体」を祝う国家行事であるとして、 「関西域の緩やかな政治連合体」の祝事行為だけか、「九州域の緩やかな政治連合体」との総称「邪馬台国」の「緩やかな政治連合体」での国家の祝事行為であったかは難しいが、「銅鐸の破壊行為事件」から見て後者と判断出来る。そうすると九州域にもその祝事行為に当る何かがあった筈と観ているが未だ不明。)

ところで、この飢饉は次第に時代と共に気候変動も収束すると共に一時収まりより一層に「鬼道信仰」の流れは爆発的に益々高まりを示します。
ところが、この100年後(第2期の200年目 第2期 紀元500年頃)には、再び気候変動期が再来しましたが、この事は、この頃にむしろ”吉備に遷座した”と云うのは、”出雲信仰・弥生信仰・出雲国衆の勢力衰退”をより狙い、更には連合体に参加した「北九州域-関西域」の中間域から衰退した出雲域の中国域を安定化させようとする政治的意味合いがあったとも考えられています。
この事は歴史的な経緯としては確認が取れています。(出雲の国の無戦による崩壊劇)
この拡がる「飛鳥連合体」を配慮しながら鎮座する位置を見据えていたとも考えられます。
最終的に勢力圏の関西・中部域の中でその中間の位置にあった「伊勢域」が大化期に良いと決められましたが、その後に於いてでも「伊勢域」の中でも伊勢松阪を半径に飛鳥までの円域の領域を更に「適地」を選んで小遍歴を繰り返したのです。
(この時には中部域は飛鳥連合体と政治連合を組む事が成立していた。)
如何に悩んで神が鎮座するべき位置を、上記する気候変動の飢饉の繰り返しで弱体化した「政治的な環境」(A)や「自然や地理の環境」の条件(B)のみならず「自然神の占道での御告げ」(C)等のこの「3つの状況」を合わせて考えられていたかが判ります。

筆者は飢饉に依って混乱が続く「政治的な環境」(A)に重点が置かれ、中でも鎮座させ建立する事で「国体の安寧と安定化」を図ったのではないかと観ていますが、表向きは「民の心の拠り所」として「鬼道信仰」の「宗教的布教」の目的(D)も強かったと考えられるのです。

参考 詳細理論
地球の気候変動の周期理論
1 紀元0年頃が「300年の大周期の第1期」の気候大変動期で紀元頃の大飢饉
2 邪馬台国の卑弥呼期が「300年の大周期の第2期」の気候変動期で300年目頃の大飢饉
3 推古天皇期が「300年目の大周期の第3期」の気候変動期で大飢饉の600年目頃の大飢饉。
4 この300年大周期に対して100年小周期の気候変動期が繰り返し訪れる。
5 大化期頃(645年頃)は後50年で次ぎの100年周期の第1期気候変動期に入り飢饉が起こる。
6 つまり700年頃の平安遷都期に第2期目の小気候変動期が訪れ大飢饉や洪水などが繰り返された。
7 その邪馬台国の頃(300年頃)が第1期で300年目の大周期の気候変動期で大飢饉期があった。
8 この周期で必ず自然災害の飢饉が必ず起っている。
9 この周期では大気候変動期の周期では、900年-1200年-1500年-1800年-2100年の大周期が訪れる計算に成る。
A 丁度2010年はその100年目の小周期帯に入っている時期である。
B この気候変動は地球の回転運動と第一成層圏までの「空気層のズレ」が起す変動であって、当然に地C 球内の地殻変動にもタイムラグを起こしながら影響を与えるので、地震等の災害が強く起る。
D 地殻変動は更には地球の磁場の変動を誘発し更に相乗的に気候変動を引き起こす要因と成る。
E この変動期間は一定では無く、多少のバイアス変化を起すとされ確定は出来ないが±25-30年程度と観られ後は収束に向かうと考えられている。
F この「空気層のズレ」は「単純な空気層のズレ」と共に「地場の変動」に大きく左右されているのではないかと考えられている。
G この「ズレ」の「自然修正の変動」が成す「気候変動周期」と成って現れると考えられているのです。

因みに現在で云うと、2000年の100年の最後の周期とすると、1975年から起り始めて2000年頃にピークを向かえ2025年頃に向かって収束に向かい2075年まで徐々にある小さい巾で安定期に向かい、再び2075年頃から変動巾を大きくして荒れ始め2100年頃に大変動を起し始めると云うサイクルを繰り返すのです。
尚、この「変動幅の上下」の原因は、「地球の重量」の増加で「地球の公転」が多少の「楕円運動化」を起こしており、このために回転に必要とする地軸が450年程度の間に0.5度傾きが起っていて、これが更にこの「気候変動周期」と「気候変動幅」を大きくしているのではないかと考えられているのです。
そして、この気候変動のサイクルは、この世の全ての物質と全ての自然が織り成す変化の特性には、必ず其の特性変化を物理的に観ると、「SパターンとNパターン」を示します。
例外はこのパターン外には発見されていないのです。

Sパターンは、丁度、電波などの振動波などの様に半円状に近い形で上下に起す形状で均一的な変動特性を起す様な振動で、お椀を上下にひっくり返した特性変化です。
Nパターンは、2等辺三角形を長辺を下にして寝かした形が上下に起す形状で、不均一な変動特性を起す振動で、この気候変動がNパターンであります。

日本の歴史は上記する気象学的特性と併せて考える事が必要絶対条件で、其の当時の遍歴や事変の大きな原因の一つに成っているのです。それは日本の風土全体が政治や経済に大きく影響を与える体質であるからです。
この鎮座地を86又は87の地に遷座して、国にして13国、年数にして90年の遍歴は気象学的特性から逃れる事は出来ないのです。
「自然神」を崇める「鬼道信仰」は尚の事であり、この特長を何らかの「自然の異変」でその周期的な特徴を官能的で感応的に鋭く読み取っていたのです。
真に卑弥呼はこの特技を持っていた事を意味します。
この特技は女性の性の「直感力」に起因しますが、「自然神の鬼道信仰」はあながち無根拠な占術ではなく科学的(脳医学的)な裏づけがあるのです。
問題はその確率の問題であって下記に示す論理的な裏づけが取れるのです。

「論理的な裏付」
別の論文でも論じた事ですが、現在人は脳が大きくなった為に「動物的な本能」である「予知直感力」の部位は頭の奥深くほぼ中央に押しやられて、額中央にあった「複眼機能」が退化せずに持ち得ていた証拠であります。
「卑弥呼の鬼道」には周囲に特定の果物と野菜類が並べられていた事が判っていて、特長なのは「野生の桃」の種が何千何万と遺跡から発掘されているのです。
恐らくはこの「野生の桃」から発する強く甘い香りの成分の「アルコール系芳香性」の刺激成分が脳を集中させて「複眼」を再起させ休んでいる右脳を使いベータ波を出して「占術のお告げ」を出す能力を保持していたのではないかと考えられます。

(現在の中国の山岳民族の田舎でこの「鬼道信仰」が未だ残っていて桃が使われているし、この山奥深い山岳民族にはまだ「複眼機能」を有する女性が多く、道教に至る前の「鬼道信仰」は村人から信じられていると云う研究が発表されている。「複眼機能」を使う環境がいまだ多く遺されている所以です。
(次ぎの-19の根幹概論を参照)

故に気候変動を素早く察知してそれの基に「殖産の生産物」のみならず、それに併せての「政治的な行動」も才知を働かせて考え併せて「お告げの伝達」をしていたと考えられます。
300年の大気候変動期にこの卑弥呼の自然神を基にした鬼道による占術に人が集まる根拠が納得できるものです。
そしてこの「流れ」はこの大化期に定められるこの「皇祖神」の90年と90所の諸遷座と共に「神明社」の建立が同時期、同場所にほぼ起っているのです。

9世紀始め(100年目の小周期帯の気候変動期)の征夷大将軍の阪上田村麻呂の陸奥征圧(806)でも判る様に、その移動経路の「征圧地」には伊勢青木氏の遠戚の桓武天皇の命により「皇祖神」ではなく次々と「祖先神」の「神明社」(最終806年)を建立していっている事(神明社は分布は下記参照)

「皇祖神」の遷座域と成った関西・中部域の内の主要地の19地域(上記)には第4世皇子の守護王を置き其処に神明社を建立していっている事等です。

この「神明社の建立根拠」が、丁度100年目の気候変動の小周期に入っていたのであって、桓武天皇は平安都への遷都事情も然ることながら、「皇祖神」を各地に分霊建立する事のみならず「神明社建立」を征討地に建立を命じているのもこの事情の基にあったのです。

特にこの征討地の建立は東北北陸6県に主に集中しているのです。(神明社の付録データー参照)
恐らくは荒れて乱れた征討地の戦後処置として民衆に対して「生活の神」としての「神明社」を建立し安定を図ろうとした観られ、この背景根拠はこの6県は主に日本の穀倉地帯でもあった事から上記の気候変動期に合致していた事もあった為に積極的に政策として実行したと考えられるのです。

上記の複眼機能や気候変動の論理的な根拠に就いて-19では更にその議論を深く進めます。

青木氏と守護神(神明社)-19に続く。


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青木氏と守護神(神明社)-17

[No.285] Re:青木氏と守護神(神明社)-17
投稿者:福管理人 投稿日:2012/04/10(Tue) 15:34:03


さて、そもそも日本には次ぎの守護神があります。
日本に於ける守護神はその「7つの融合民族」の構成に由来します。
この「7つの融合民族」(◆日本民族の構成と経緯 - 01/21-15:25 [No.117])に付いては研究室のレポートでも詳しく論じていますし本論でも述べています。詳しくはそれを参照して頂くとしてここでは読んで頂いたと云う事で進めます。
この7つの夫々の「民族性」が下記の0~4を造り上げているのですが、この「民族性」が社会の中で「身分や家柄」を発生させて、加えてその「身分や家柄」から来る「氏の構成」に分類されているのです。
この「氏」(後の「姓氏」も含む)のその立場から来る「生き様」に合わした考え方を生み出し、そこに「守護神の存在」を想像したのです。勿論、これ等は0の「自然神」を根幹としているのですが、この「自然神」に対するその立場からの「多種多様な考え方」が生み出されたのです。
言い換えれば、この時代に於いても「氏の構成」から来る「氏の多様性」と共に「生き様の考え方」(「思考原理」とする)もこれだけもあった事を物語るものです。突き詰めれば、「現在の人」の「生き様の考え方」とあまり違っていない気がします。ただ違いはその「生き様」の中に占める「守護神」の割合です。
前段で論じた様に政治的な事までも「神に占う」と云う習慣であり、次第に時代が進むに連れて低下したとは云え生活の中に溶け込んでいた事は間違いは無く、その氏の行動に大きく左右していた事は間違いはないのです。

丁度、前段でも論じた様に昭和と平成の時代に「氏の構成」から来る「身分や家柄」(士農工商)の縛りが明治維新に解けて150年経ってやっと人々の「自由な交配」が今起っているのです。
その意味では、未だ”この「5つの守護神の考え方」が解けた”と考えられる時期でもあり、そう古い事でもないのです。つまり、この今、新しい「生き様の考え方の自由化」が起っている時期とも云えるのです。
この「考え方の自由化」の時期から約600年以前に遡った事を「祖先神の神明社」として論じているのですが、2000年の日本の歴史から考えると約600年以前から約1600年以前までの1000年の間として、この「瀬戸内」の時代(1000年頃)はその「生き様の考え方」の真っ只中に有った事が云えます。
恐らくは、その「生き様の考え方」の違いが社会の中に「大渦」として渦巻いていた考えられます。
その一つとして、各地の大神社がこの時期に系列の神社を各地に挙って「建立競争」をしているのです。この時期では「熊野神社」の「熊野蟻の詣」(本論付録末尾にデータ添付)と呼ばれた事でも有名で、「姓氏の発祥」とも重なって「自らの氏や姓氏の生き様の考え方の象徴」を荘園制に乗じた勢力拡大に伴なってその領域を各地に広げていった時期なのです。

現在ではその「生き様の考え方」は「個人の自由」として何の不思議も無く容認されていますが、この1000年の後半の「大渦」はその「生き様の考え方の是非」を巡っての争いと成っていたと考えられます。
言い換えれば、この時代の社会の中では、「5つ守護神の自由性」は無く、”どの「生き様の考え方」が「生残れるのかの戦い」”でもあったと考えられます。
従って、「累代の天皇」や「2つの青木氏」の苦闘は、「皇祖神」に繋がる「祖先神の神明社」の有り様として、「生残れるのかの戦い」の中での「祖先神の考え方の創建」であった事が云えます。
つまり、言い換えれば「祖先神の青木氏の考え方」で生残れる事が出来るのかの戦いであったのです。
その為にも、「3つの発祥源の青木氏」として何としても生き残り「祖先神の神明社の建立」を成し遂げなくては成らなかったのです。
油断すれば「祖先神-神明社」と云えどもその考え方として抹殺されていたとも考えられる程であったのです。発祥当初は問題は無かったとしても、この頃は皇族系・賜姓族系として限られた小さい氏の構成の中での考え方と成っていたのですのでありますから、多勢に無勢で多くは「3の氏神」と「4の鎮守神」の環境の中でです。埋没してしまって神明社を建立しても忘れ去られていた事に成っていた筈です。

前段でも論じた様に「祖先神-神明社」の生き残りは「3つの発祥源」の生き残りに成るのです。
その意味で、この「八幡社の問題」やこの「瀬戸内の問題」は根底にはこの「守護神の大渦」(ブラックボックス)に呑込まれる現象でもあったのです。
「神明族」としてはその意味でも「源氏の協力」は是非必要な時でもあったのです。然し、「河内源氏」は「八幡社」に走ってしまったのです。それだけに「2つの青木氏」の「祖先神-神明社の建立」に取っては大きな痛手でその立場は困難であった事が覗えます。
恐らくは、「氏家制度」の厳しい観衆の中では 源氏に対しては ”何にをやってんだ。皇族賜姓族でありながら”の批判が渦巻いていた筈です。一方「未勘氏族側の立場」からすると ”良くやった。 古い体質から脱却して大したものだ。 武家の鏡だ”と囁かれていた事でしょう。だから「武家の棟梁」の呼称が生まれたのですがこれには大きな代償を払った事に成ります。
この意味で、この「5つの守護神」に付いても前段で論じた来ましたが、改めてこの問題を大きく潜ませている「瀬戸内事件」を鮮明にする為に論じます。
ただこの事件に付いては上記の背景(守護神の大渦)が社会の中の根底に渦巻いていた事は特に留意して頂きたいのです。

人は「行動規範」の根底には、この”「生き様の考え方」が無意識の内に大きく左右しているものである”と云う事なのです。その一つの表れが今では無くなった「守護神」と云う事に出て来るのです。
現代人はこの感覚を無くしていますので、通説などを考察すると ”上辺の判断や理解” と成ってしまっていますが、当時の人々の思考の中には無くてはならない「人の芯」の様なもので在ったのです。
その「5つの守護神」の考え方の”「人の芯」のぶつかり合い”がこの「瀬戸内の事件」の背景にあるのです。
(守護神そのものの詳細は下記でも論じます。)
この「0から4の守護神の考え方」は「氏」を考える上で非常に大切な事で、決して思考の中に除外してはならないものなのです。現在では「氏」そのものを同一として論じられていますが、そもそも「氏の考え方の根幹」が異なるのです。
「祖先神の神明社」は”単なる「神明社」ではない””単なる神社の違いだけではない”と云う事なのです。
何度も云う様ですが「生き様の考え方」が異なると云う事なのです。そうなると、当然にそこには”民族の違いの軋轢や争い”が生まれのは必然です。
まして、ここにあたらしく発祥してきた「姓氏」が加わると、同じテーブル上で論じられた場合には、「氏家制度」の中で当事の歴史の出来事を正しく評価判断できなくなるのです。
「青木氏」は「皇祖神」に繋がる唯一の「祖先神の神明社」ですが、神社そのものを論じているのではなく「考え方」の歪を無くて正しく論じて「真の生き様」の掘り下げ遺そうとしているのです。
当然に、その時にはこの考え方に更には「八幡社」が関わってくるのですが、本段ではそれがどの様に関わて来るのかを掘り下げて行きます。
「姓氏と八幡社」と人の根底と成る思考の「5つの守護神」が絡んで来ると論じるのには大変です。
そこで先ずはその「守護神の違い」から論じる事にします。

「日本の守護神」
「守護神の種類 5神」は次ぎの通りです。
0「自然神」(しぜんしん) 山海・草木・湖沼・岩石等の自然物や雷・風雨・地震・火などの自然 現象に宿るものを神とし「否特定の神」

1「産土神」(うぶすながみ) その「人」の「生まれた土地の神」であり、一生来その「人」の「土神」とする「人(単独)の神」

2「祖先神(祖霊)」(そせんしん)「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、 自分の集合である一族一門の子孫の「守護神」であり「人と氏の重複性も持つ神」

3「氏神」(うじがみ) 「人の神」ではなく、「氏のみの一族一門の神」で、氏永代に守護する「氏(独善)の神」

4「鎮守神」(ちんじゅのかみ) 「現在住んでいる土地の守り神」であり、「土地・地域」を守る「土地・地域の神」であり、「人」は土地に吸収されるとした「土地・地域優先の神」

そもそも前段でも論じましたが、0の「自然神」は全ての共通する「守護神の根源」となる「神」で、全ての民の「思考の基準」と成るものです。
ただ、「後漢の民」の帰化人の末裔(阿多倍一族一門)には若干違和感がある筈です。しかし、その違和感もそもそも後漢の帰化人は「道教」を根源としているのですから、「産土神」であっても前段でも論じた様にその「道教の根源」も結局は「自然神」を根源としている事には違いは無い事に成ります。
この「5つの守護神」の中でも特に「産土神」がその考え方としては異質です。然し、この考え方が阿多倍一族一門によってすごい勢いで全国に伝播して行ったのです(前段で論じた 32/66国)。
(この時、職能集団の鞍造り部の首魁の司馬達等に依って仏教も同様に私伝されていたのです。)
中でも関西以西では彼等から「職能の享受」を受けていた民に取ってはこの「産土神の考え方」に当然に牽かれて行ったのです。また牽かれなければその職能の享受と豊かさを授かる事は不可能であった筈です。
それだけにこの「瀬戸内」の事を語る時この「産土神の考え方」を度外視出来ないのです。
その「産土神」の柵のあるところに「祖先神」は兎も角も「八幡社」で「源氏の自分の世界」を構築する事はかなり困難な環境下にあったのです。瀬戸内の事は、血縁で地元に根付いた「讃岐籐氏」であり、彼等の伝統である持ち前の柔軟さからこそ成し得た事であったのです。
まして、当初、清和源氏は「産土神」や「祖先神」ではない「海の神の住吉神社」に傾注していたのです。もとよりそもそも策謀を労しても難しい事であった筈なのです。

「産土神」
先ずは、その1の「産土神」は「瀬戸内」の問題でも「純友神社」に大きく関わって来る重要な要素なのです。依ってここでは先ずは「産土神」に付いて特に掘り下げて論じます。
上記の1の通り、”その人が生まれた「土地の神」を「その人の神」とし、同じ「氏」の者でも生まれた土地が異なれば「その人の神」は異なる”とするものです。
当時の社会は同じ族を成す者等が集まり集団で身を護る習性を持っていたのですから、人は確かに多くの者は集団で住む事に成りますから必然的に同じ神を守護神とする傾向が起こります。
しかし、これらの末裔が時間と共に広がり融合し枝葉化すると、当然にその生まれた「土地と環境」が異なって来ますから、「守護神」と云う意味ではこの場合はある程度の「自由性」を保持している事に成ります。
従って、親と子供が守護神が異なると云う事が起こるのも当然ですから、親や支配者や氏との守護神が異なり考え方が違うと云う事も起こる事に成ります。つまり、「自由性」と「個人性」を強く持つ守護神なのです。
つまり「その人(単独)の神」であって、「祖先神」の様に「氏の神」は「氏」に属する自分であるから当然に「自分の神」は「氏の神」とする「集団性を持つ守護神」では絶対性は無いのです。
依って「産土神」では「祖先神」の様な「拘束性」が無い事に成ります。

「氏の神」=「自分の神」と、「自分の神」≠「氏の神」の考え方の違いなのです。

前者は「氏の神」は「直接的な神」となり、後者は「氏の神」は「間接的な神」と成ります。
そうすると、後者は「自分」と「周囲の者」はある場所に於いて同じに成り、又そうで無い事が起こります。
それは「産土」(うぶすな 生まれた土地)ですから環境が変われば「周囲の者」は必ずしも同じとは成り切りません。
末裔の先祖は当初は「氏の神」=「自分の神」が成り得ていたとしても「人と場所の変化」は勿論の事として「時の変化」に依ってもこの関係は崩れる事に成ります。
「瀬戸内」で生まれたとすると家族・親戚は「同じ神」を信じる事に成りますが、家族構成の範囲である場合が殆どと成ると「氏の神」が「自分の神」と云う事には成り切りません。
前段で論じて来た様に、この考え方の主は、そもそも奈良期に彼等の全ては後漢から来た阿多倍一門の「職能集団」の考え方であり、この瀬戸内の沿岸に住みついた「後漢の民の帰化人」のものであり、且つ、その民を海の上に起こる海事から護る「阿多倍の海の兵能集団」のものでもであるのですから、「民族氏」であり「海部氏」等の様な列記とした「品部の姓氏」(かばねうじ)のものでもあります。
然し、この考え方はこの間、既に600年近く経過しています。

この間にこれ等の「海の兵能と職能集団」が「姓氏」として独立したのが「海部氏」であるのです。
そして「陸」では「陸の兵能集団」の「武部氏」と、「職能集団の陶部」の「陶氏」が「姓氏」として独立して勢力を拡大したのです。
この「海部氏」や「武部氏」や「陶氏」などはそもそも元来の地は「職能集団」であり、武力を持たない集団であったのですから、「姓氏」として成り立ち勢力を持つには「海の兵能集団」と「陸の兵能集団」の協力が不可欠で絶対的必要条件です。
瀬戸内で発祥した日本最初の「品部」から生まれた「姓氏」で、これ等の「姓氏」に成り得たのはこのまさしく「海の兵能集団」(海部)に護られていたからであり、その海から得られる富を背景に勢力を拡大し「姓氏」と成り得たものなのです。
陸の「姓氏」の「陶部氏」も「武部氏」もこの「海の兵能集団」に護られていたからこそ室町期には中国全土を支配する「陶氏族」となったのです。
ただ、互いの部の異なる者達の間には、問題は上記する”産土神の関係がどの程度思考の中に遺されていたか”と云う疑問が湧きます。

「産土神の影響」
「場所の要素」は瀬戸内である事は帰化当初からは同じとすると、「人の要素」は”海族””海部族”として存在しているとこから多少の変化を起していたと観られますが、この族の「産土神」は依然として存在していたと考えられます。しかし、この各海族の「族間」は「海部族」を「姓氏」として「海の兵能族」として生存し維持し互いに相互保護していた事から多少希薄には成っていたとしても存在していた事は確実です。
多少の希薄に成っていた分は、職能関係で ”相互間には「経済的条件の関係」の要素で補われ成り立っていた”事と観られます。
「海部氏」は他の「海族」から身の安全を保つ「武力的な保護」を受け、「海族」はその見返りとして「経済的な保護」を受けて成り立っていたのです。特に上記した様に「産土神の考え方」がこの「相互関係」、即ち、「自由性」と「個人性」-「否拘束性」を持つ事から、この「経済的な相互関係」を強く持つ事が特徴とするのです。各海族の族間の「希薄の分」は「経済的な結付き」で補完されていたのです。
つまり、「祖先神」が持つ「経済的な相互関係」は「当然の義務の事」として優先的に成立するのに対して、「産土神」では「義務の事」は「補助的な要件」として存在するのです。つまり「相互依存の関係」で成り立っていた事です。

経済的な相互関係→祖先神・・義務的要件  「産土神」・・補助的要件(相互依存)

実は、戦略上の常道として、「陸戦力」は海からの攻撃に弱いのです。その弱点を「瀬戸内の兵能集団」が護っていたから「陸での勢力伸張」が可能だったのです。
例えば、ここにその事例があるのです。前段で論じた事ですし、上記の義経が平家水軍を瀬戸内で破った直ぐ後、平家は最終決戦を挑む為に、「敗残兵」を集め水軍を建て直し集めて密かに頼朝の根拠地の鎌倉沖の海に三々五々終結したのです。水軍の持たない慌てた陸戦軍の頼朝軍は弱点を突かれて逃げ始めたのです。ところがこの事を察知した伊豆沖の大島群島の大島源氏の水軍が黒潮を乗り越えて不眠不休で3日で到達したのです。既に頼朝は海から攻められて敗走しているところであってこれが一日遅かった場合は鎌倉幕府は無かった事に成ります。
大島水軍が伊豆沖を通る船の多さに疑問を抱きこれを「察知」した上で、且つ「3日」以内で到達しなければ頼朝軍は滅びると観たのです。そこで来るとは予想もしなかった計算外の平家水軍は今度は船団の背後を突かれて、これを観た勢いついた陸戦軍との挟撃に合い殲滅してしまったのです。
大島水軍が動く事と頼朝軍の掃討は5日と見込んでの「秘密戦略行動」であったと記録されているのです。これが本当の源平の最終結末なのです。

事程然様に、「瀬戸内の海族の背景」が無くしては「陶部氏」にしろ「武部氏」にしろ自らの力ではその勢力の拡大は例え「海の富」があるとしても「姓氏」には成り得ないのです。
この「海の族」即ち「海族」の力が伴っている事が「姓氏としての絶対条件」なのです。それは現在の軍備においても戦略上同じです。
この証拠に室町期には「瀬戸内の兵能集団」は「陶部氏の配下」に入ります。
瀬戸内の「陸の兵能集団」は「武部氏」、「海の兵能集団」は「海部氏」等です。

(注釈  他に奈良期に蘇我氏と戦い滅亡した「兵能集団」として「物部氏」がある。実は「海部氏」と「磯部氏」の職能の境界が不祥で、「海部氏」は兵能と海産物の職人、「磯部氏」は海産物と兵能の職人の両方が記録から出て来る。先ず「海の領域」が異なっていた事ではないか、「海部氏」は外海側 「磯部氏」は内海側 従って「海部氏」は外海から互いに内部で役割分担して兵能役に重点を置いて居たとも考えられ、同様に「磯部氏」は内海であっても職能に重点を置いていたとも考えられる。 恐らくは「海部氏」の場合は家族が海産物の扱いも演じていたと考えられる。時代の変化と共に「生活の糧」の為に区分しなく成ったと考えられる。)

(注釈  前記したが、「武」と「兵」の違い 「武」の”もののふ”は「氏家制度」に依って発祥した武装集団でその「氏の宗家・武家」を主とする組織の支配形態化にある「武の士」を云う。
「兵」の”つわもの”はその集団の首魁の下に兵能職として集合し集団の首魁の直接的支配形態にはなくほぼ「兵能請負形態」に近い軍団の「兵の職人」を云う。
後に「武の士」は「武士」と呼ばれその「武の道」としての規律を養い育成した。下克上が起り主家宗家が逆転した事から江戸時代にはこの「武士」までを「武家」と呼称する様に成った。
「兵の職人」は奈良期に後漢の民の職能集団が帰化してからこの中の兵能の集団が「兵」”つわもの”として職能者として定着したもので、歴史的には漢氏や東漢氏や物部氏がこれに当る。室町期には雑賀集団、根来集団、柳生集団等の兵能集団がある。室町後期には”もののふの武士”と”つわものの兵”が「農兵」も加わり一つに成って行きます。)

この「二つの海と陸の兵能集団」を配下にしたからこそ室町期の下克上では陶部の「陶氏」中国域全域を制覇出来たのです。
この「海部氏」は「海の兵能」と共に沿岸部の末裔一族やその家族集団等が営む「海産物全般」をも取り仕切って販売しその富を得てその船団の輸送力(造船力含む)と武力を使って勢力を拡大したのです。
これ等の意味も考慮に入れて「産土神の純友神社」と云うものの存在はただの”神社”の意味だけでは無い事がよく判り、大いに生活に関わる事でもあります。
そもそもその行動は上記する「思考の根幹」にも通ずるものであって、その「純友神社の存在」の判断は「思考」と「生活」とに直接に関わる事であり、彼等の共通する「集団の象徴」でもあります。
現在、我々が感ずる神社・”お宮さん”のそのものの単純な事では無いのです。
(通説ではこの様な時代考証が無視される傾向がある)
これは上記した様に「祖先神-神明社]も「氏の神」=「自分の神」の関係にあった訳ですから、尚更に同じ以上により強いものであった事に成ります。
そして、この様な事の記録資料が彼等の「産土神」の「純友神社」系を含む神社に所蔵されているのです。
この絵巻などを含むいくつかの所蔵資料を総合する事で「海族」としての「海の族の活動具合」が読み取れるのです。

又、全く同じ時期で同じパターンが美濃から駿河の海域でも起こっており、上記した「駿河水軍」に護られて「海の族」の「磯部氏」が「海部氏」と同時期に中部地方の「姓氏」として勢力を拡大したのです。
又、やや異なるかも知れませんが、前段で論じた「伊勢-信濃の賜姓青木氏」も「伊勢シンジケート」の一つの「伊勢水軍」を背景にしていたからこそ「2足の草鞋策」が成し得たもので、生き残りの大きな背景に成っているのです。
当然に「瀬戸内の水軍」の「産土神」の「純友神社」(仮称)と同じく、「祖先神の神明社」は関西以東のその陸海の「シンジケートの象徴」でもあったのです。
そもそも何処に於いても「氏」の生き残る構成は突き詰めれば同じなのです。”ある物に共通する象徴を求める”と云う人の「本能的習性」があるのです。
勿論、「神明社の特別賜姓族の青木氏」に於いても前段でも論じている様に寸分違わぬ構成に成っているのです。これは最早、「氏家制度の古氏の条理」ともされる絶対条件なのです。
(この判断要素が通説には多く欠落している。)

その彼等の「瀬戸内と云う海域」に祭祀する伝統的な守護神は「瀬戸内の産土神」であります。
対比して「祖先神」は環境には無関係で遠くに居ても「氏の守護神」は「自分の守護神」でもある事に成ります。従って、「瀬戸内の産土神」の環境の中に於いてでも「祖先神-神明社」の存在は「生活の神」「物造りの神」である為に彼等に受け入れられる事が可能と成り得ますので、この「瀬戸内」にも「神明社」が存在している事に成ります。
(その反面、八幡社は上記した問題があり彼等に受け入れられ難い環境にあった)
そもそも前記したように「神明社の存在意義」は「祖先神」と云う括りがあったとしても、「豊受大神宮」を祭祀しているのですから「物造りの神」「生活の神」の「存在意義」があり、「産土神」に限らずどんな「守護神」の中に於いてでも「民の生活の営み」が存在するところには敬愛され信心される事が可能という事に成るのです。これは「産土神」と「未勘氏族が作り上げた八幡神」との融合とは異なるところなのです。

さて、そうすると、「瀬戸内の産土神」を守護神とする環境の中に、「讃岐籐氏」の「藤原秀郷流青木氏」の「特別賜姓族」としての「祖先神の神明社」は少なくとも抵抗無く受け入れられる事を意味しています。
つまり、「藤原純友」の周囲(讃岐籐氏護衛団の秀郷流青木氏)には彼等の「海族」を説得出来得る条件はもとより「思考原理」としても備わっていた事を意味します。
この事は ”純友が海族に成ったとする通説”には「純友-海族」の生きる世界の間には”「大きな隔たり」が存在している”とする前提条件が論理的に付いている筈です。
”解離しているから同じに成ったとする事が変質である”としていて、それを非難されているのですからこの事から考えてもこの「海賊の通説」は全くおかしいのです。

(特記 上記の矛盾考証以外に、伊予住人、伊予三等官、有品官位保持、令外官追捕使、一族讃岐籐氏、特別賜姓族護衛団、瀬戸内利権、瀬戸内血縁族、父は大宰府少弐-上野守国司、藤原北家秀郷一門等のこれ以上無い「絶大な生活環境」を保有する人物であり、一転してこの環境を捨てて「海賊」に成り得なければならな利点が無い。むしろ「瀬戸内海賊」をその環境の一つに加えての「全瀬戸全域の利権」と「血縁絆」をも収めてしまった事による為政者側(朝廷)の「怨嗟」と「危険視」の発露であった。つまりは”出る釘は打たれる”の例えの通りなのです)

然し、「産土信徒」の海族側と「神明社信徒」の同じ瀬戸内に住む「讃岐青木氏」等の純友側には「物造りの神」「生活の神」としての「共通項」が存在していたのです。この「共通項」が触媒と成って海族側の「拒絶反応」が霧散した事を意味します。

「瀬戸内の讃岐青木氏」
「讃岐籐氏」を支えていた「第2の宗家」の「讃岐青木氏」が下記の「融合条件の関係方程式」に大きく関わっていたとしているのです。
「讃岐籐氏」の護衛団は「讃岐青木氏」です。この「瀬戸内の海族団」との交渉に無くてはならないのはこの護衛団です。仮に「海族団側」と談合が付いたとしても「彼等を護る力」が純友側には保障として絶対に必要です。

(特記 丁度、真にこの時期に秀郷一門の「武士の護衛団」は秀郷第3子千国を長として「特別賜姓族の青木氏」として朝廷より「青木氏」を賜りその任務に任じられる。秀郷は「将門の乱」を平定する条件として「2つの条件」を朝廷に提示 [貴族に任じられる事 武蔵下野を領国とする事]。 「公家の藤原氏」に成る事により自ら「秀郷正規軍」はもてない事から千国にその「正規軍」の任務を与え、その「護衛軍」に成った「武家の青木氏」の賜姓を特別に受けて「貴族の護衛団」らしく権威付けた。公家は護身用の武士は持てたが戦い用の武士団は持てない慣習がある。この経緯より「秀郷流青木氏」は939年から940年の発祥と観られる。純友事件の直前に「純友の護衛団」は「特別賜姓族」の名誉と「青木氏」の名籍を獲得して純友は「追捕使の任」と共に彼等を説得する事に勢い付いたと考えられ、同時に「瀬戸内の民」も信頼する条件が生まれた筈です。当初は朝廷も「秀郷勲功」と「祖先神-神明社建立」に配慮した事が「純友任務」にも影響を大きく及ぼしたのです。 余りの影響に「朝廷怨嗟」が生まれた。
この時期の朝廷は「将門の乱の鎮圧」に誰も手を挙げなかった程に信任を落としていた。結局は平貞盛と藤原秀郷の2人が条件付で手を挙げた程であった。体裁を保つ為にやっと経基等の「追討軍」を編成して関東に送ったが既に鎮圧後の対面策であった。)

(特記 上記した様に「特別賜姓族」に任じられた理由には皇祖神に繋がる「祖先神-神明社」の普及建立など幾つかあるが、筆者はその一つとして「朝廷内の勢力争い」の中で北家筋は瀬戸内に勢力を伸ばしていた「讃岐籐氏の純友」を背後からバックアップする意味で、全国の藤原氏北家の中でも最大勢力を誇っていた「讃岐籐氏」のその「護衛団」に「特別賜姓族」とする「権威付け」をさせて事を上手く図れる様にこの期をわざわざ選んだと見ているのです。政治的経緯から観て全国的にもその権威付けの必要性の機運は北家筋としては高かった。「令外官追捕使」の任命もその一つであった。)

「令外官追捕使」の純友にはもとより彼等を護り抜くだけの兵力は与えられていない訳ですから、護衛団の「讃岐青木氏の武力」が絶対的に必要です。
そして何と云ってもこの「讃岐青木氏」はただの護衛団ではありません。
「特別賜姓族」と云う「朝廷のお墨付き」を持っています。「物造りの神」「生活の神」の「神明社」を各地に建立し続けている特別賜姓族です。彼等海族も「物造りの職能集団」の末裔です。
瀬戸内沿岸と山陰までの土豪との血縁による「幅広い血縁族」を有しています。
更には、秀郷一門の116氏の中でもトップクラスの「2足の草鞋策」の「経済力」とそれに伴なう「廻船力」を有しています。
これだけの「裏付と権威」があれば「瀬戸内の海族」に取っては信頼は出来て文句はなかった筈で、武力に依る彼等の「身の安全」の確保と「海産物の販路」の拡大の点に於いても彼等の「生活の安定」に繋がります。一方「讃岐青木氏側」に取っても「瀬戸内の富と利」に大いに繋がる事です。

貴族の「讃岐籐氏」はとりわけ「藤原北家」の「下がり藤紋」の一族は自らが武力を保有せず「秀郷流青木氏」(朝廷より特別賜姓族としての特権を与えられている)を「武力の護衛団」とするのが朝廷より認められた氏であり貴族です。
依って、「瀬戸内の海族」との交渉には、少なくとも彼等には「秀郷流青木氏」(特別賜姓族としての特権を与えられている)が背後にあるとして「純友」を観て居た筈です。
「瀬戸内の令外官の追捕使」として、又、「純友の個人的な信頼」も然ることながら「特別賜姓族としての特権」を背後にあったからこそ交渉に応じたと考えられます。
「純友の個人的な信頼」は直ぐに醸成され得ないし、「令外官の追捕使」はその役目柄から海族側に取ってみれば「敵対の立場」にある訳ですから直ぐに容易に交渉に入れる事は先ず在り得ません。
其処には、何かかれらを交渉の場に入らせた何かが在った筈です。
その背景には”それが「讃岐青木氏」の存在だ”と考えているのです。
この「讃岐青木氏」のこの「瀬戸内の活躍」にあり、四国はおろか山陰までの血縁による広い関係保持が「瀬戸内の彼等」を信頼させたと観ているのです。
安芸や美作の「瀬戸内の沿岸族」との枝葉血縁の中には彼等との血縁もあった事が「讃岐青木氏」の枝葉の家紋分析から考えられるのです。この安芸と美作の瀬戸内の沿岸部には上記した海部氏や武部氏や陶氏等の「姓氏」を始めとする「土豪の集団防衛態勢」が特に起っていたのです。そしてその連合体と「讃岐青木氏」は血縁関係を結んでいるのです。
これが「讃岐籐氏」の特筆する事柄なのであって、”この血縁によるこの深く浸透した人間関係が直ぐに交渉に入れた背景だ”と観ているのです。
更には古来より天皇から信任を得ていて「特別賜姓族青木氏」として「祖先神-神明社」の「物造りの神」「生活の神」を民の為に建立する氏であったからこそ信頼して「瀬戸内の海族」の兵能集団の彼等は話し合いに応じたのです。
何時の世も何も無しには幾ら何でも難しいのは”この世の定め”で、其処には「信頼と絆」とが先ずは醸成されていてこそ交渉事は成り立つものです。
それだからこそ何よりの証拠としてこの「瀬戸内の関係」は時代の荒波の遍歴にも関わらず四度も蘇る事が出来たのです。
突き詰めると、その「思考原理の根幹」は「瀬戸内の産土神」にあったと考えているのです。
この瀬戸内の彼等にはこの「産土神の思考原理」であったからこそ下記する関係式が成り立ったのです。
「産土神の思考原理」が無ければこの談合は成り立たなかったのです。

(特記  前段で「亀甲集団」など論じた様に、「讃岐青木氏」の讃岐宗家の家紋は「下がり藤紋に副紋雁金紋」としている事でも明らかで、秀郷流青木氏116氏の主要紋には亀甲文様を副紋としている青木氏は3つもあり、亀甲紋に限らずその枝葉の支流文様からはこの安芸-美作の土豪や姓氏の家紋を副紋としているものが実に多いことでも判る。 特に平安時代中期頃から用いられた古い文様群であり、「亀甲文様族」は中国地方の全域で「集団防衛態勢」を古くから強いていた事で有名で、それの文様の3つもの「亀甲紋様族」と血縁し、尚且つ、四国側沿岸族の「雁金紋」との血縁をしていることは「瀬戸内沿岸族」と網の目の様に血縁族で結んでいた事が判る。 「雁金紋様類」は瑞祥紋である為に「神紋」としては奈良期からあり、「象徴紋」としては平安初期からあり、「姓氏」としての文様としては四国よりこの平安末期頃に発祥し、問題の「瀬戸内沿岸族」の海部氏一族や海野氏一族や亀田氏一族等がある。海野氏や亀田氏等は「瀬戸内の兵能集団」の「海族末裔」かは確実な確認は取れていないが「武力と経済力の姓発祥条件」から観て可能性が極めて高い。
瀬戸内の兵能集団を獲得して「絶大な武力」を保持し「瀬戸内の利権」と「青木氏の名誉」と「産土神族」を味方にした伊予讃岐の三等官の完全な聖域を超えてしまった)

「融合条件の関係方程式」
海族=産土神
讃岐籐氏+讃岐青木氏=神明社
産土神=共通項(「物造りの神」「生活の神」)=祖先神-神明社
共通項=触媒
「産土神」+「触媒・共通項」+「祖先神-神明社」=「純友神社」

「大蔵氏と瀬戸内海族との関係」
そうすると、讃岐籐氏との「純友神社」として関係が成り立つ事が判ったとして、元主筋に当る九州の「大蔵氏」と彼等の「瀬戸内の海の族」との関係はどの様に成るかの問題です。
当然に確かに阿多倍一門の大蔵氏は主筋であっても、何れも「産土神」である事から考え方に関しては両者とも異なり縛られない考え方に成ります。
当然に、「場所、時、人」の要素は長い間に変異している訳ですから、同じ「産土神」でも異なってしまう事に成ります。まして「産土神」には血縁に関する「家柄、身分、血筋の縛り」が希薄で在りますから、融合する範囲は変異すると、”「産土神」で繋がると云う関係”は希薄に成る事は必定です。
ただ、この「大蔵氏」の場合は他の「3つの守護神」と異なり「産土神」とする考え方には、つまり周囲の土着民の考え方には融合し難い所があった事は現実には九州に於いて史実から観て否めません。
当然、そこで、九州に居ても大蔵氏が彼等の「理解」と「利害」と「安全」を護ってやっていればそれはそれで主筋として「瀬戸内の民」はたとえ「兵能集団」であるとしても「儀」を護るでしょう。
しかし、そうでなければ時代を経て「瀬戸内」で生まれた者達は「産土神」の考え方から、「瀬戸内」で生まれた異神の「純友」であり主筋としては「身の安全」を護ってくれる「讃岐藤氏」である事に成りますし、彼等の「理解」と「利害」と「安全」が叶えられれば、大蔵氏の「主筋の儀」を捨てても良い考え方に成ります。

「神明社」の考え方ではそれは不可能で「不儀」と成ります。ですから「河内源氏」の「八幡社の行動」に問題が出てくるのです。「河内源氏」が「産土神」であれば問題はありません。しかし、「皇族賜姓族」である限りでは「祖先神」でありますから永遠に不可能であります。しかし、「河内源氏」の「未勘氏族」とした者達の多くは九州の土豪が多いのです。
つまり、「産土神」の考え方を「思考の根源」に持っている「後漢民の末裔」の土豪なのですから、彼等からすると「未勘氏族全体の守護神」を「八幡社」としてもそこには何等問題は無い事になります。
そうすると、「河内源氏」が守護神の処で「賜姓族の生き様」として問題を起している事に成ります。
だから「未勘氏族」が「国家鎮魂の八幡社」を自らに都合良く「弓矢の八幡社」に変異させて、勝手に自らの守護神であるかの様に吹聴しても何ら問題が無い事に成りますから、自由奔放に全国に広まった事に成るのです。「河内源氏」はこの現象を承知して故意的、恣意的に放置して利用した事に成ります。
その利用した「河内源氏の目的」は「未勘氏族の武士団の形成」にあって、それに依って得られる利益・利得を享受する事にあったのです。それが「瀬戸内の利権」を獲得出来なかった「腹癒せ」と云うか「見返り部分」で、「たいら族」と異なり源氏は「産土神」を守護神とする同民族の「兵能集団」を元から持ち得ていた訳ではなく、「賜姓族」として武力を持つには「未勘氏族の武士団の形成」以外には無かった事に成ります。従って、「武力」を優先する限りは「賜姓族」としての「祖先神」を不義であっても捨てる以外になく成る事に成ります。
これは「河内源氏」がこのジレンマに落ち至っていた事を意味します。当然その結果として、朝廷や天皇から「3つの発祥源」としての勤めを果せなく成る事から排斥や軋轢を甘んじて受けなくてはならない羽目に陥ります。因果応報で在ります。
同じ立場にあった「2つの青木氏」は「3つの発祥源」の立場を護り、このジレンマから脱する為にも「武力」ではなく、前段で論じた「抑止力」とそれを経済的に裏付ける「2足の草鞋策」を採ったのです。
「たいら族」に取ってみれば「武力」に対する苦労は「産土神」を守護神とする「兵能集団」を当初から備わっていた事に成る訳ですから、後は経済的裏付を採る事(宗貿易)で一族一門の発展は直ぐに成り立ちます。故に更には大蔵氏等の一族一門の背景も「官僚の職能集団」として朝廷内にあり、たった5代で太政大臣に上り詰めた事に成ったのです。ここに源氏との大きな違いが在ったのです。「氏発祥の差異」とも云うべき違いです。

(特記 「阿多倍一門」(坂上氏、大蔵氏、内蔵氏系)は敏達天皇系の女系の血筋と光仁天皇-桓武天皇系(たいら族、阿倍氏系)の女系の血筋を引く賜姓族の出自 大化期より兵能・職能集団が配下にある。「産土神」グループである。
「源氏一門」は嵯峨期以降の累代天皇の第6位皇子の臣下賜姓族 その内、「清和源氏」は例外皇子順位の賜姓臣下族の出自 兵能・職能集団は配下になく、荘園制を利用して「名義貸しの未勘氏族」を組織化して配下に治めた。「祖先神」グループである)

そうすると、今、論じている各地域の「未勘氏族」が九州から関東域まで存在しますから、当然に「未勘氏族」の考え方は「産土神」だけではなくなる事は起こります。
「産土神」では西の分布域は兵庫県の西域までです。ですからそこから東域は「産土神」ではない「未勘氏族」と成ります。殆どは「姓氏の守護神」の「3の氏神」ですから、当然に同じ「未勘氏族」であっても「心の考え方の根源」は異なります。
この事が上記で論じて来た様に地域による「八幡社の建立」の「位置づけと差異」と成って現れてくる事に成ります。
西域では「弓矢」でも東域では「家内安全や身の安全や生活の神や物造りの神や国家鎮魂」と変異し、北域では最早”総神の神明”と成り得てしまうのです。
しかし、因みに中部域の駿河域や信濃域や甲斐域では「産土神」であった阿多倍の職能集団が一度中国地方に配置され再び直ぐにこの「3つの域」に配置移動させられているのです。
「磯部」や「馬部」や「鞍作部」等の関係の職能集団が移り住み「放牧を中心とする開拓」等に従事しています。
前段で論じた様に信濃では彼等は後には日本書紀に出てくる「諏訪族」等と成っています。
当然に「産土神」と成りますが、少し違うのです。確かに「諏訪神」はその「心の思考の根源」は排他的傾向である事では幾らかは明確に産土神の考え方を遺してはいますが、例えば信濃の馬部や鞍作部の彼等の多くは「諏訪神」と成っているのです。つまり、これは「産土の考え方」そのものなのです。
先ずは「生まれた土地の神」を前提に成りますから、恐らくは奈良期にはつまり移動配置時には「産土神」であった事が考えられますが、「産土神」は何時しか「諏訪神」としてその土地の生活環境から「独自の守護神」「諏訪神」を創建して変異したのです。それはここには「阿多倍一門の主筋」が無くなっているからなのです。
彼等の「理解」と「利害」と「安全」が当初より叶えられ無く成った環境下に置かれた結果なのです。
故に「中部域」は「瀬戸内」とは違い、「八幡社」は勿論の事で、全て「別の歩み」を起こしたのです。
この事の様に「時代考証」を良く配慮した上で「純友神社」の「歴史的な民族的な経緯」を論じなくては正しい答えは出て来ないのです。
ですから、その考え方の上で上記の様に「中部域の変身した諏訪神の諏訪社」や「北陸東北域の変身した祖先神の神明社」と同じ様に、「瀬戸内域」の彼等は「産土神」を変身させた「仮称 純友神社」をこの期に建立したのです。
この建立した「純友神社」の意味が「産土神」の考え方と融合して「純友や讃岐藤氏」に対する姿勢が理解出来るのです。
新たに「彼等の考え方」では心から主筋を「純友や讃岐藤氏」に決め、その決心としてその「主筋と守護神」を合致させた事を意味するのです。だから身命を賭して戦い、敗れても乱れること無く何度も再び集結し「瀬戸内」の「海の族」を歴史的に長く護り通したのです。他の地域には観られない独特な産土神の考え方の生き方であります。
そして、その結果が多くの遍歴を受けながらも持ち直して昭和20年までの「瀬戸内の利権」を保守したのです。
大蔵氏500年という長い期間を経てはその意味で九州に住する限りに於いて「氏」とは成り得なかった事に成りますし、又、「瀬戸内の彼等」の「理解」と「利害」と「安全」が叶えられ無かった事は歴史上に於いても史実です。しかし、上記した様に遍歴を得て後に阿多倍一門の伊勢伊賀の宗家筋の末裔の「たいら族」がこの「海域支配」と「生活の基盤」をこの「瀬戸内」に置き、「瀬戸内の彼等」の「理解」と「利害」と「安全」が叶えられた事に依って「産土神の彼等の条件」は全て叶えられ、「たいら族」の支配下に戻る事は抵抗無く当然の結果と成り得たのです。その中でもそこには結果として「瀬戸内の彼等」の「変異し融合した純友神社」が彼等の産土の守護神として祭祀続けられたのです。
何もこれは偶然の事ではないのです。要するに源平で戦った有名な彼の無敵の「平家水軍」なのです。
”元の鞘に納まった”と云う事だけなのです。
そこでこれだけの「産土神の考え方」の中で「儀・義」を通していたこの「海族」の末裔の100年後の「平家水軍」は果たして「海賊」でしょうか。
この「産土神」の「平家水軍」の元は「純友」がまとめた「産土神」の「海の兵能集団」の「海族」なのです。
これ等の行動に「儀」に近い「産土神の考え方」の「一貫性の義」が働いているし、それを100年も持ち続けているのです。そして「たいら族」滅亡後は阿多倍の職能集団の「陶部」の支配下に入った室町期に於いても、その更には室町期末期の「村上水軍」にしても、この「義」に類する「儀」を堅持しているのです。
凡そこの間1400年間です。”これが何処が「海賊」なのでしょうか。”陸の土豪族に勝るとも劣らずであります。
この様に現実にはこの「純友」にまとめられた「海の土豪」は1200年代までその主筋の「たいら族」の支配化に入っていて、「たいら族」滅亡後、その末裔は後の「瀬戸内」を再再編して制した歴史にも出てくる「村上水軍」に成るのです。
この事に関しての出回る通説がこの歴史経緯の「民族的な判断」の欠落で大きな間違いを起こしているのです。

「瀬戸内と大蔵氏」
まして、話を戻しますが、その意味でこの事を熟知する阿多倍一門の次男の同族子孫の「大蔵春実」はこの「純友問題解決」に指名されているのです。
その立場にある「大蔵春実」は「ある意味での見事さの功績」で、天皇から万来の信頼を受け「海賊問題解決」にしては考えられない程の「破格の勲功」であって、それは「錦の御旗」「天国刀授受」と「太宰大監」「太宰大貫主」「対馬守」の役職「瀬戸内の追捕使」の役を獲得しているのです。
現在に於いてでさえも個人に「錦の御旗」「天国刀」等を与えられた者はいないのです。まして、「地方の事件」に等しい問題に対する「一度の勲功」にです。
単なる「地方の事件」であり別に国や朝廷を揺るがす程の問題でもないのです。
その「瀬戸内の海賊の問題」に「国が滅ぶかどうか」で与えられる勲功を周囲に判る様に”これでもか”と云う風にわざとらしく与えているのです。
上記した様にこの「時代の社会の慣習」から「海族と海賊との違い」と「社会の成り立ち」を承知していれば、もし「海賊」とすれば何時の世も社会の巷に起こる単なる「盗人か盗賊」に過ぎない問題です。これに朝廷や天皇や大蔵氏や藤原氏が出て来てそもそも騒ぐ問題ではありません。
何か他に意味を含んだ異常としか考えられない勲功なのです。それも「大蔵春実」だけにです。
つまり、史実を辿れば、元々「経基」が欲していたのは ”「北九州から瀬戸内と南海海域の圏域の確保」”だったのです。勲功は別にしてもそれを「純友」を倒したならば普通ならこの「地域の支配権」を「讒言讒訴の経基」に与える筈ですが、ところがその様にせずにただの「豊後水道」から「紀伊水道」までの「海域の警察権」のみを「大蔵氏」に任せ、「瀬戸内全般の警察指揮官」だけを命じる結果と成ったのです。

大蔵氏は勿論の事、天皇朝廷が上記した「海賊」と看做する「彼等の歴史的な経緯」と「産土神の考え方」と「彼等の主筋との支配関係等」の事と「彼等の不満解消」事等を、彼等の末裔6割を占める官僚が存在しているのですから、この情報は充分継承されて事前にも承知していて判っていた筈です。
従って、事前に「解決シナリオ」は出来上がっていた事は充分に考えられます。それに沿った解決が出来た事に満足して、且つ「向後の憂い」がなくなった事に満足して、一挙に九州自治、北陸の問題、関東の問題も解決に向けて拍車を掛けたのでないかと考えられます。

つまり大蔵氏に「讃岐藤氏の圏域の利権」は与えなかったのです。実態には変化は無いです。
つまり、この事件の決着方法を間違えば「藤原氏」にも「大蔵氏」にも一門の勢力を大きく左右する事であったのです。それだけにこの「海域の利権」(藤原氏)の大きさと「警察指揮権」(阿多倍一門)の重要さが物語るものであったのです。

「瀬戸内の経緯」
ここで大筋の経緯をまとめて論じたいと考えます。この大筋の経緯が「神明社と八幡社」の根幹の判断に大いに関わる事なので取り纏めて論じます。
この「二つの権利」を一時、「純友問題」に代表される様に「讃岐藤氏」が持っていた事に対して、それを獲得する為に清和源氏が合策したのです。何度も前段からも論じますが、中国域の南沿岸部全般は奈良期からの「阿多倍一門とその支配下にある姓族・品部」の無戦に拠って得た支配地域でした。
そこに「讃岐藤氏」が得意とする「血縁手法」で食い込みその圏域を脅かしていた時期でもあったのです。そしてこの「瀬戸内」はほぼ「純友」が圏域に納める事を成し得た丁度その時に、これを契機にこの「圏域の奪取」と「経基の讒言讒訴」が起こり、阿多倍一門の大蔵氏も「圏域の奪還」を図る良い機会と狙ったのではないかと思われます。
しかし、朝廷や藤原摂関家に執っては清和源氏にこの「瀬戸内の圏域」を引き渡す事は政治バランスや経済的打撃等から好ましく無く、結局は朝廷の官僚の6割を占める阿多倍一門の末裔からすると面と向かって政治的に軍事的に藤原氏と対峙する事が得策なのか選択を迫られたものと考えられ、結局は藤原氏と大蔵氏の両者は懐の痛む「痛み分け」で談合したのです。
当然に経基王の野望目論みは排除とする談合がなされたものと観られます。この事により天皇と朝廷の政治的経済的な痛手は無くなります。
当然にこの成り行きのキーマンは九州全域と豊後水道と中国域を制する大蔵氏であり、その出方如何では天皇と朝廷と藤原北家とその主家の摂関家の運命は決まる事にも成ります。
当然に経基王の今後の命運も決まるものであった筈です。
結局は、経基王はこの圏域の野望から排除されその富の獲得の為に禁止されている「荘園制」に走ってしまったのです。
そこで天皇朝廷は先ずキーマンと成っている大蔵氏を納得させる為にも何か特別のものを与えなくては納まらない事に成ります。
そこに先ずこの「事件の勲功」として、「2つの水道域間の警察権」のみを与え、「瀬戸内の圏域の利権」は「純友の捕縛」を条件に据え置きにして「讃岐藤氏」に与え、それ以外に「九州域の自治権の内示」と「破格の勲功」をプレミヤとして与える事で「向後の決着」を図ったものと考えられます。
この事の決着内容に付いて天皇は大蔵氏の姿勢に対して信頼し納得してこの決着案に同意したと考えられます。
場合に依っては「九州自治」から更には「中国自治」にまで主張を広げてくることに成るのではと懸念したのです。
この瀬戸内の圏域を大蔵氏に奪われたら、”瀬戸内を制するものは国を制する”と云われている事から、”中国域の自治まで与えてしまう事に成りかねない”と心配していた筈で、まして独立国を標榜している「将門の乱」と重なると、場合に依っては国は分裂する可能性を秘めていたのです。

この時、前段で詳しく論じていますが、北方域では「蝦夷地での問題」、関東では「平将門の乱」と「たいら族の伸張」、「西では大蔵氏の自治問題」、朝廷内では「藤原氏と阿多倍一門との軋轢問題」と「荘園制の行き過ぎの問題」が起こっており、天皇にとっては「四面楚歌の状況下」にあり、かなり「神経質な環境下」にあったのです。
しかし、歴史的な時系列で観てもこの事件を機会に一挙にこれ等の問題は解決の方向に向かうのです。
恐らくは天皇はこれ等の問題を解決の方向に進めるには ”この時が好機”と捕らえたと観られ、その証拠に前段で論じた「後一条天皇」から引き継いだ「後三条天皇」(藤原氏と無血縁天皇)の命を掛けた「政治的な粛清」に入り「白河天皇」と「その後の院政」がこれを引き継いだのです。
真にこの事件を契機に上記した問題は全て解決して行きます。
勿論、藤原氏系ではない天皇系が誕生したのですから、母方で繋がる清和源氏も摂関家も衰退し排斥されてしまいます。
そして、この期に乗じて東では「たいら族」の貞盛が父の国香を犠牲にしても同族の異端児の将門を討ち果たし、朝廷内で徐々に基盤を築き始めるのです。
それに併せて大蔵氏がこの海域の警察権を保持した事と、朝廷内の大蔵の権限を専有し、朝廷内の軍事の権限では同族の坂上氏が掌握し、内蔵の権限は同族の内蔵氏が専門官僚として占める状況の中で、伊勢伊賀の一族一門の本拠地からは遅れていた賜姓「たいら族」がこの事件を契機に台頭して行くのです。
そして、阿多倍子孫の賜姓を受けた「坂上氏」、「大蔵氏」、「内蔵氏」、天皇の補佐役を手中にした親族の阿倍氏、そして遅れて賜姓を受けた桓武平氏の貞盛の「たいら族」等は、「瀬戸内の海族」を次第に弱まった讃岐籐氏から一部を奪い反し、「海賊掃討」を理由に帰化以来に戻りその「兵能の職能集団」を再び配下に入れてしまうのです。
これで「瀬戸内の海族」の彼等は本来の帰化当時の本主筋の伊勢伊賀の本拠地の「たいら族」の下に戻ったのです。これが解決の道筋なのです。
殆ど朝廷内は阿多倍一門一族に依って占められたも同然です。院政の一局態勢が確立して思うような制改革が断行できる事に成り懸案事項であった事柄が解決して行く流れに成ったのです。

本来であれば朝廷は「たいら族」のこの行為(海族を支配下に戻した事)を容認する事は藤原摂関家との関係から無い筈です。しかし、この摂関家もこの頃は弱体化していて強く主張する事が出来ない状況にあり、源氏と摂関家の勢力を押さえ込み朝廷の権力(院政)を最大限にする狙いがあり、この為にも大蔵氏への勲功を必要以上に大きして「九州自治」の下地を構築したのです。
そして大蔵氏からその「瀬戸内の圏域」を任せ、それが同族の「たいら族」に移動するかは院政に採ってみれば大した問題では無くむしろ好都合であった筈です。「たいら族」を引き上げ力を持たせ一門体制を確立しようとしたのです。
だから、「大蔵春実」のこの事件の解決に対して「院政の意」を汲み取ったとして上記の様な勲功と成り得たのです。
「大蔵春実」が「国内解決の道筋」を作ったとする満足感が院政にあったのです。
東北の問題も「内蔵氏」、関東の問題も「たいら族」、九州の問題も「大蔵氏」、朝廷の勢力も源氏と摂関家が弱体化させられた事から前の「3つの問題」の同族大元の大蔵氏を取り込めば一挙に解決に向かう事は間違いありません。
この大蔵氏を始めとする阿多倍一門一族の勢力を引き上げてこれを支配すれば源氏と上級官僚の摂関家を押さえ込めると観たからであり、且つ、彼等阿多倍一門一族の勢力圏は中級官僚にまであり、それを掌握出来る訳ですから、親政族の源氏と上級官僚の摂関家を押さえ込める事は確実であったのです。
軍事は坂上氏、政治顧問は阿倍氏と成れば全て朝廷と「院政」の周りは阿多倍一門一族で占められた事に成ります。
この態勢が出来上がれば「院政」は”鶴の一声”の政治体制が出来上がる事に成ります。
「大蔵春実」の功績は、事件をきっかけに「院政による政治体制」を完全に構築する事に成った事を意味します。そしてこの後、直ぐに「遠の朝廷」の「太宰大監」の「九州自治」を宣言する事から始めたのです。
これで国が二分する事無く解決に向かうことに成ります。
親政の源氏や摂関家の藤原氏を頼る事では複雑な柵みの中ではこの危機の回避は不可能であり、阿多倍一門一族を朝廷側に取り込む事により前段で論じた様に危機は去り、朝廷・天皇・院政は安泰と云う事に成る訳です。

この先の見えた状況の中で、この期に乗じてこれで「たいら族」は一挙に「圏域と利権」を獲得し「武力と経済力の氏発祥条件」を備わり勢力を伸ばし続けるのです。そして逆にこの圏域と利権獲得に失敗した「河内源氏」は「荘園制の方向」に走り、「白河院」の前段で論じた「軋轢」を受ける事に成るのです。
源氏、取分け「河内源氏」と対比して「たいら族」は真逆の方向へと進むのです。
「河内源氏」は危険な「荘園制」に、「たいら族」はこの「利権の宝庫」の「瀬戸内」を基点として「宗貿易」に進み富を獲得します。危険な「荘園制」に向かった「河内源氏」は朝廷と院政から「軋轢」を受け、一方の「たいら族」は朝廷と院政から「信頼」を勝ち取るのです。どれを捉えても真逆です。
この様に「瀬戸内の海域」には「圏域と利権」が大きく絡み、且つ「政治的な動きの起点」に成っていた地域なのです。
これ等の「瀬戸内の経緯」が「河内源氏」の「八幡社-神明社」の判断に無視出来ない大きく関わる問題なのです。
丁度、この期の直ぐ後に「2足の草鞋策」を敷いた「祖先神の神明社」の「2つの青木氏」も「賜姓族」、「親政族」として影響を受けない訳には行かなかった筈です。
然し、「2つの青木氏」の元締め「伊勢青木氏」と秀郷流の元締めの「伊勢秀郷流青木氏」は、伊勢伊賀の阿多倍一門一族の本拠地「たいら族」と和紙で繋がり、隣国の親密な関係を保持し最悪の状態を免れたのです。

(「2つの青木氏の立場」 この後に起る源頼政の「以仁王の乱」では伊勢青木氏[頼政の孫の三男の京綱が跡目]と秀郷流伊勢青木氏[朝廷に働きかけた形跡あり]は頼政の孫の2人の助命嘆願に成功した事からも明らかです[日向青木氏]。
「伊勢青木氏」は摂津に2店を構え3艘大船で「瀬戸内の利権」を一部「たいら族」から認可を受けての「中国貿易」の記録有り。初期には和紙 後期には総合商社 恐らくは少なくとも伊勢青木氏等5家5流の青木氏は「荘園制の方向」に走っていた場合は「たいら族」は保護し切れなかったと考えられます。
「隣国」で「和紙」で繋がり「商い」で「たいら族」と同じ方向に向いていたからこそ親近感を醸成していたと考えられ、又、政治的にも「朝廷の信頼」を「親政族・賜姓族」として勝ち得ていたのでと考えられ、「たいら族」も擁護し助命嘆願に応じられたと考えられます。
その「象徴の姿」が「皇祖神」の「祖先神-神明社」の「創建と維持」に懸命に働いていた事が、「朝廷と天皇」と時の権力者の「たいら族」と政治家の「摂関家」と官僚の「大蔵氏」から共感を得ていたと考えられます。
それは「親政・賜姓族」が「2足の草鞋策」を採用する事が本来であれば ”親政・賜姓族が何事か あるまじき行為だ”と罵られた筈でありながら「共感」を得ていたのは不思議な事であった筈ですし、”反乱者の孫を助命嘆願など以っての外だ”と成った筈です。
又、「瀬戸内の利権」の一部を譲渡されて瀬戸内に入り「商い」をする事が許されていたのです。
しかし、現実にはこれ等全てが認められているのです。まして「慣例や仕来り」の厳しい社会の中です。
これ等は特別な信頼があったからこそで、それが「皇祖神」の「祖先神-神明社の努力」で在った事が判ります。その「神明社」の「経済的な裏づけ」を取る為の「2足の草鞋策」は容認されていたと考えられます。だから「助命嘆願」の無理も聞き入れ潰さなかったのです。そして生き残れたのです。
「2つの青木氏」はだから天下を2分した「源平の戦い」にも合力していないのです。普通本来であれば源氏側に合力するのが同族である限りは本筋である筈です。
筆者は、「青木氏家訓10訓」や「生仏像様」の処で論じた様に、”世に晒す事無かれ”の「遺戒」がこれらの「氏の姿」、つまり「在様や生様」の全てを物語っていると観ているのです。「意味深い遺戒」と観ているのです。「世に晒す事無かれ」に付いては家訓10訓の10で論じる)

再び話を戻して、そして遂には大蔵氏はこの「2つ水道の警察権」と共に「九州自治の下地」(孫の種材の代で完全自治:1018年)を構築したのです。
この時、讃岐・伊予を押さえていた「藤原氏の圏域」は警察権は大蔵氏に奪われたけれど、結局は元の「海域の利権」は護られ「純友」は終局捉えられ抹殺されましたが、その一族一門は依然として「讃岐藤氏末裔」は抹殺されていないのです。この事は本来であれば朝廷が云う罪状であれば一族一門は罰せられた筈で「純友個人」で行動した訳ではなく「2つの役職」を以って動いた訳ですから免れなかった筈です。
然し、「純友」だけなのです。朝廷のこの罪状の付け方から観てもその目的は明らかに違っていた事を意味しますし、「純友の行為の正当性」も認識して居た筈です。
「純友の非」を敢えて云うとすれば、真に”世に晒す事無かれ”で在ります。
俗世に云う ”河に竿させば流される” ”雉も鳴かずば撃たれまい” ”前に出過ぎれば潰される” ”出る釘は打たれる”の例えの通りであります。”現世は諸行無常”であります。”上手く纏めすぎた”と云うところであったと考えられます。
(関東の争い事を調停役を買って出て懸命になって働いた「平の将門」に付いても同じ)
それが「瀬戸内の利権と圏域」を独り占めの形に成る事を造り上げて、それを恐れたつまり経済的にも然ることながら「海族」の力も手中に入れる事が出来たとすると、最早、”「瀬戸内」に叶うもの無し”であります。この「勢力拡大」を朝廷、源氏、同族の藤原摂関家、阿多倍一門から怨嗟の声が上がり渦巻いた事は間違いない事であります。(この頃朝廷内ではこの体質が渦巻いていた)
それを”この海域の利権を目論んでいる「経基王」に言わしめさせた”とするところであり、要するに”出すぎた”のです。それ程にこの「瀬戸内」と云う地域は、”瀬戸内を制する者は国を制する”の言葉通りで重要な所でそれだけに難しい地域でもあったのです。
この様に重要で難しい地域で、この「海域の利権」を「讃岐藤氏」から奪って仕舞えば、中国地方と四国の対岸では結局は百々のバランス条件は崩れ、とどのつまりは再び「覇権争い」を起こす事に成り、却って「大蔵氏は警察権の務め」が果たせなく成る事に成ります。この瀬戸内問題の「落し処」が重要で在ったのです。

「経基王」に勲功を与えず、考えられない程の勲功を「大蔵氏」のみに与える事は、朝廷は「経基王」の目的を知っていた事を物語ります。それ程にこの「瀬戸内の圏域」は政治的に重要な意味を持ち、朝廷はこの「讃岐藤氏」のこの「圏域の体制」をある程度の範囲で崩したくなく、ここから挙がる「租税の恩恵」と「政治体制」を乱したく無かった事を意味し、そもそも朝廷が「九州自治」で苦しんでいる時にわざわざ源氏に与えて問題を大きくする事はしない筈ですし、その行動で「荘園制」で睨まれている清和源氏(河内源氏)には決して与える事はしなかったのです。まして祖先神の神明族として本来の責務を果たさない清和源氏に対しては尚更であります。(清和源氏の出自と行動に蔑視と懐疑の念が朝廷にあった)
(前段で論じた様に「経基-満仲」はその意味でも「荘園を利用した武家の集団化」を始めて図って朝廷に圧力を掛けていたのです。)
それを天皇と朝廷は政治的にはっきりさせる為にも大蔵氏に破格の勲功を与えて、”これでもか”と清和源氏の「経基王」を押さえ込んだのです。
そもそもこの人選を天皇に進言したのは藤原摂関家であったのです。この時の海賊問題は形の上での処理であってある意味で無傷なのです。
そもそもこの「瀬戸内」を挟んだ四国域と中国域の圏域に絡んだ複雑な勢力バランスで構築された地域を「純友の乱」の処置等で崩す事は出来ない筈です。
更に前段でも論じて来ましたが、そもそもこの中国域は阿多倍一門の32/66国の「たいら族」「大蔵氏族」「陶族」等の一門の圏域でもあるのですから、「大蔵春実」に「警察権」等を与えたとしても何の不思議も無い事なのです。
むしろ「讃岐藤氏」の純友等に「警察権」そのものを与えていた事の方が問題です。先に「有品の制」の官位を与え、且つ任命した「令外官追捕使」に「令外官追捕使」を送り込む事の矛盾をどの様に言い訳するのかが問題に成った筈で、その為には”海賊に成った”とする以外に言い訳が無くなるし、それを天皇が言い訳する事が 出来ないので、「将門の讒訴」の件もあり、又、「経基王」に言わしめる様に仕向けたのです。(瀬戸内の利権を狙っていた経基は関東で失敗した後だけに飛びついたと観られる)
前段で論じた「平の将門の乱」が”独立国(前段がある)を標榜した”として、丁度、この時に起こっていて、「平の国香」や「平の貞盛」の「たいら族」はこの乱を契機に俄かに勢力を拡大し始めた時期でもあります。
依ってこの地域はまだ「たいら族」の支配地域には成っていない丁度その中間域にあって、特にこの海域は「讃岐藤氏の圏域」の中に未だあったのです。
「大蔵氏」に代わって「たいら族」がこの「海域の警察権行使」は難しいところだけに未だ難しい勢力化にあったのです。
この事件を契機にこの瀬戸内全般を「大蔵氏の警察権」として取り戻し「たいら族」が勢力を拡大するに伴い大蔵氏は「たいら族」にその警察権を移して行くのです。
そして「平貞盛」より4代目の「平忠盛」(清盛の父)の代頃からこの「海域の利権」が「讃岐藤氏」と「たいら族」の「2局体制」に成って行くのです。
所謂、この様に「産土神族」と「出雲神族」の中に「春日神族」の「讃岐藤氏」が「血縁的」に「経済的」に食い込んだ微妙なバランスで成り立っている地域なのです。
前段でも論じた「美濃の源平の勢力バランス」と良く似ていて、この「瀬戸内」でも同時期に藤原氏と大蔵氏の勢力バランスの坩堝の中にあったのです。
まして、藤原氏北家は当然の事として「たいら族」と「大蔵氏」はこの様な状況の中では「経基王の伸張」を絶対に許す事は政治的な戦力として無い筈です。ましてこの瀬戸内の坩堝の中に一分家の河内源氏の源氏勢力を入れる事はしない筈です。(入れる事そのもの行為は最早政治ではなく成り政治家ではない)
その後も勲功で大蔵氏が警察権を持ったとしても上記した「たいら族」が伸張して来るまでは暫くは「讃岐藤氏の圏域」であった事は朝廷にとっても”政治的にも、戦略的にも”最も重要な地域である事を物語っているのです。
つまり、「経基王」はこの「瀬戸内の圏域確保」に結局は失敗し、関東に於いても行く先々の所で問題を起こし、結局は行き詰まり、「勢力拡大」に必要とする「財力源」は無く、止む無く「後一条天皇」(1018年)から「後三条天皇」(1068年)までの「荘園に関する禁令と抑制令」を無視して、「荘園制」を逆に煽る「荘園の名義貸し」の「財源・利権獲得」の方へと動いたのです。
これが「経基-満仲-頼信-義家」と続いた経緯なのです。
「瀬戸内の覇権」を狙っていた取分け「経基-満仲」の親子は「海の神の住吉大社」を信心していた事でも判ります。
(「経基王」が「瀬戸内の覇権」に失敗したことから「源満仲」は途中から「たいら族の兵能集団」に対抗して「荘園制の未勘氏族」を摂津から移動して河内で組織化して武家集団を構築したのです。
途中まで出世したが、晩年この為に満仲は朝廷から危険視され無視され軋轢を受ける破目と成り摂津に帰り蟄居する。)

(特記 ) 「源経基の経緯」(八幡社問題と瀬戸内事件の根幹)
武蔵介として赴任(938)し、直ぐに検地を実行しようとして地元土豪の地方官の郡司武蔵武芝に慣例により拒絶された為に争を起した末にその財を略縛した。経基は危険を感じて京に逃げ戻り、逆恨みして仲裁者の平将門等を讒訴。その2月後に平将門は事実無根として告訴、経基は拘禁されるがその更に半年後に朝廷の態度(勲功の評価に対して)に将門は不満を持ち朝廷に圧力を掛けた。その結果、真面目で評判の良い将門は決起して本当に乱を起したので、逆に「怪我の功名」から「経基讒訴」を認められて「有品の制」の最下位の「従五位下」に任じられた。朝廷はこの失敗を経基に官位を与える事で取り敢えず対面を繕った。
(本来、賜姓源氏は有品の制では賜田を受け従四位下に任じられる筈)
(将門は関東の各地で起る「地方豪族と国衙との争事」の「調停者」を積極的に務めた人物であったが、逆に経基に「逆恨み」」を買い讒訴、反乱者とみなされてしまった。この後直ぐに起った事件でも「純友」も将門と同じ「勲功の闘争」を朝廷に起したのです。伊予の三等官で瀬戸内の追捕使として、難しい上記の瀬戸内圏域を纏め上げたが、矢張り将門と同じく勲功に対して評価しなかった。これを「国衙怨嗟」の為に朝廷は勲功否認したので軋轢が発生 「将門の乱」と全く同じ周囲の地方豪族と国衙を追捕使の立場で掃討して朝廷に圧力を掛けたが、矢張り将門の件と同じく「朝廷の怨嗟」で逃げた。
(この「2つの怨嗟の讒訴」は経基が演じた。)
そして経基は「平将門追討軍」に参加するも既に鎮圧済み、仕方なく京に戻り、今度は「純友の行状」を又もや讒訴(941)し、その功から「西国追捕凶賦使」に任じられて、「純友の乱」の平定に向かうが又もやこれも既に鎮圧済み、挙句に果てに豊後の純友の家来「桑原生行」を襲い、これも又その財を略暴したが黙認された。(この略暴行為は歴史上有名な事件)
(「2つの経基讒訴事件」は出陣の際は既に「鎮圧済み」の後に出陣した事に意味がある)
その後、武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には「鎮守府将軍」に昇進するも、後にその出自と上記の事柄等が問題に成り「臣籍降下」の処置を受ける。
(経基も本人資料の中で不満を述べている。藤原氏と阿多倍一門の巻き返しに遇った為。 後に「将門や純友の勲功」に対して正等に評価しなかった事への朝廷の修正[次期の円融天皇]が起った。)
この事は清和天皇の第6位皇子の孫(上記説明 ゜六孫王」の呼称があるが当時の正式記録には出て来ない 未勘氏族による後付)で無かった事から第4世第7位皇子王以下は規定に基づき臣籍降下された事を意味するが、「正規の源姓(賜姓族)」に付いては、発見された摂政の実力者「藤原実頼」の遺した「日記記録資料」から判明し、現在では経基の源姓は「跡付け」と考えられていて、経基王は「嵯峨期の詔勅」(青木氏 源氏)を利用した「非賜姓の源姓族」(清和天皇第9位と12位の皇子が非賜姓源氏族)と見なされた事に成る。つまり、これは清和天皇の賜姓源氏族(第6位皇子)ではなく「狂気の陽成天皇」の皇子で賜姓族外の例外皇子王であった事を意味する。
その後の頼光からは資料からは「賜姓源氏」とみなされた資料が残っている。これは仕えた藤原氏の歴史上の最大実力者藤原道長の執り成しである。
(経基王は上記した”賜姓を強く望んでいた”とする事はそもそも賜姓に関しては規定外の例外王である事の証であり、この事からも判る。依って「蔭位の制」「有品の制」の「賜田」等の扱いの正式確認が取れない。)

(青木氏と源氏の様に「賜姓」であるかどうかは家柄・身分や官位官職や経済的な扱いや世間の扱いは大きく異なったのです。
「嵯峨期の詔勅」に基づく非賜姓の「青木氏」と「源氏」は清和天皇系と陽成天皇と冷泉天皇系が殆どで、この時期の「賜姓」の有無には皇族や世間の目は特に異なっていた。)

(その意味で上記の立場から陽成天皇の皇子の「経基王」は”焦りから来た波乱”に満ちた人生を送り子供の満仲もその経基王の影響を受けて同じ様な波乱に満ちた生き様を示した。然し3代目の頼信の頃からは兄の頼光の勲功と主君の藤原道長の計らいで憧れのやっと正式な「有品の制」の扱いも受けて立ち直りの傾向にあった。)

この過程で「瀬戸内の圏域」を狙っていたこの「河内源氏」は、その為に信心していたそれまでの守護神「海の神の住吉大社」から「荘園本領策」に方針を切り替えてからは、今度は「荘園の神」とも云っても過言ではない「八幡社」にのめり込んでいったのです。
少なくとも3代目の分家の頼信の頃までは時系列的には本来の「国家鎮魂の神」であった事が資料から読み取れるのです。
つまり、この後に「八幡社」が何らかの理由(未勘氏族との絡み)で「荘園の神、武家の神」と次第に変質させられて行く事に成ります。
この「八幡社」(国家鎮魂)が「神明社」の様に管理氏が明確で無かった事からと、朝廷の財政的な理由も伴って荒廃していた事が記録に遺されていて、この修復に「清和源氏の宗家」摂津源氏に対して修復を命じています。
全国の「八幡社」(国家鎮魂)に対してまで修復は財政的に困難であった模様で遂次と進まなかった事が記されています。恐らくは「田地・俸禄・褒章に関る制度の経緯」-(前段4)の処で論じた様に「賜田」等の禄を充分にその出自から多く受けられなかった「摂津源氏の宗家」に対して、「河内源氏」が「荘園制」を利用して「名義貸し」を行い「武家の組織化」と「財源確保」に走ったのです。
この荒廃した「国家鎮魂の八幡社」を何時しか「組織化の象徴」(弓矢の神)として宗家に取って代わり利用して八幡社修復を代わったと考えられます。
そして手段としてその「組織化の未勘氏族」(無血縁の非賜姓河内源氏族として)に修復を命じた事から、その結果として本来の「国家鎮魂」から「荘園制の神、武家の神」として勝手に変質させて行ったと観られます。
後勘からすれば上記した発祥時の経緯から「蔭位の制・有品の制」に恵まれず「武力と財源」の無い「賜姓族・神明族・親政族」の「清和源氏」にして観れば、”「宿命の自然の流れ」”とも考えられ、”止むを得ない仕儀”とも考えられます。然し、何度も云う様に「生き延びられる道」は全く無かった事では無いのです。
この「八幡社の経緯の背景」にはこの「瀬戸内の圏域」の大失敗が背景にあったのです。

(「経基-満仲」の経緯と「頼信-義家」の経緯とそれに伴なう「八幡社の問題」があったから各地の神明社の建立がこれ程進み、取分け「産土神」の環境の中でこの難しい「瀬戸内域」での「神明社の建立」が可能と成ったのです。)

「神明社」の「2つの青木氏」は「2足の草鞋策」と秀郷一門青木氏の「抑止力」で生き延びましたが、最終、大蔵氏から「2つの水道域の圏域」を引き継いだ「たいら族」もこの「瀬戸内の圏域」を大いに使って「2足の草鞋策」から更に発展させて前段で論じた「瀬戸内水軍」を使っての「宋貿易」へと進め、その莫大な「財力源」を生み出したのです。「院政」はこの「たいら族」から上がる「潤い」を受けます。
この意味では、「清和源氏の武力の背景と財源の背景」には、上記の「たいら族」に比べて元々リスクが大きかった事は否めませんし、「朝廷への潤い」でもその貢献度は大きく異なっていたのです。
それが阿多倍の一門の一方の関西域を基盤とした伊勢伊賀の後発の「たいら族」が5代で伸張し上り詰めるだけの勢いがあって拡大に繋がったのです。これも「瀬戸内の圏域」のお蔭なのです。

(重要参考 義経は清盛よりこの「宋貿易の経済学」を教えられていたとする資料が遺されている。 
これによると「経基-義家」と引き継いだ「荘園制よる財力源」と、清盛から教授された「貿易による財力源」の考え方の違いが清和源氏の中に起こったのです。
後者を選んだ同じ賜姓族で神明族で親政族の「2つの青木氏」と藤原氏北家筋は生き残り、後者側に主力を置いた「たいら族」と、前者側に主力を置いた「清和源氏」は互いにその考え方の違いから生き残りを掛けて火花を散らし両者共倒れに近い形で滅亡したのです。
しかし、前段で論じた様に、「瀬戸内問題」と同時期に「同族の関東での不始末」を起した「たいら族」は、結局は「源平の緩衝地帯」の「美濃-尾張域」まで後退し、そこで「緩衝」のバランスが崩れ源平の本格的な争いが起こりました。
(美濃-尾張地域は「源氏」と「たいら族」と「秀郷流青木氏」との3氏の緩衝地帯であった)

同じ様にこの「瀬戸内地域」でも、大蔵氏は「讃岐籐氏の圏域」にあった「瀬戸内の問題」を藤原氏との争いを避けて上手く解決し、一時、瀬戸内警察権を大蔵氏の支配下の中に入れて次第に同族の関東問題で弱っていた「たいら族」にそれを移して行きます。
この結果、「たいら族」は関東からこの瀬戸内へと伸張し財力と政治力も確保しながらも美濃-尾張での初戦に続き「瀬戸内の源平の争い」で敗退したのですが、この「瀬戸内のお蔭」から来る「商いと物造りの基盤」から基礎力は生かされて、前段でも論じた「たいら族」の織田氏の「末裔の美濃・尾張」で蘇り復活に繋がったのです。
(全国に分散した阿多倍一族一門の生き方が時代をうまく捉えている。 陸奥安陪氏が犠牲。)
しかし、前者の生き方を採った「八幡社族」の「河内源氏」は遂に復活しなかったどころか近江-木曽-美濃-尾張の戦いで11代{中4代の源氏は生き残る}の源氏一族を滅亡に引き込んでしまったのです。遺したのは名義借りの「無血縁の未勘氏族」ばかりなのです。
この残った源氏の「未勘氏族」が「八幡社」を別の方向へと誘導し「河内源氏」を殊更に誇張し史実と異なる誤った印象を後勘に与えてしまったのです。
「未勘氏族」が別の方向へ誘導していなければ「河内源氏の悪名」は生まれなかったと考えられます。
「河内源氏の義家」はこの「未勘氏族」を「軍事力と経済力」の為に配下にしていた事から止む無くも煽られた事から源氏一門を巻き込み滅亡に追い遣ったと考える事が出来ます。
そして「神明社族」は生き残り「八幡社族」は滅亡したのはここに根源があったのです。
確かに、直接原因は経基王のこの「海域の奪取」の間違いに始まるのですが、間接的には「未勘氏族の八幡社の煽り」(後付論)にあったと考えられます。

”何もこの「海域の奪取」に関わる事なくしても「2つの青木氏」の様に「2足の草鞋策」と「神明社」で生きる道を選んでいれば全源氏は滅亡に走らなくても良かった”と考えられ、後勘として源氏と同族血筋を汲む「4つの青木氏」の立場から観ると 上記の様に時系列的に考察すると”判断の無理が大きく存在していた”と現在でも構成する一人として結論付けているのです。これが「青木氏家訓10訓」に表されているのです。と云うのはこの期にその論者が居なかった訳ではないのです。
現にこの義家の孫の義経は上記した様に遺された資料の文書の一節から観ても青木氏と同じ論者であったのです。
頼朝が鎌倉会議の際に「義経の方向」に舵を切っていれば第7世族の「坂東八平氏」に頼らなくても生き残れたと考えられます。
(舵を切っていれば確かに「坂東八平氏との戦い」に成った事は否めません。秀郷一門を味方に引き込んでいれば同じ関東の勢力図から観て先ず負ける事は無かった筈です。)

「義経」はこの「瀬戸内」の「海域の利権」を「たいら族」から全てを奪取しているのですから最早、何も「坂東八平氏」に頼らなくても「純粋な源氏の力」で「武家の幕府政権」も造れていたのです。
現に、”瀬戸内を制する者は国を制する”と言われていたこの「瀬戸内」を基盤に「たいら族」は栄華を誇ったのです。
当然に、関東以北に勢力圏を持つ「藤原北家秀郷一門の協力」(平泉・入間・常陸・陸奥越前等)を得ているのですし、資料からも弱体化し衰退していた摂関家も同調していた事が判っている訳ですので、政権の大本は義経は構築していたのです。同じ「神明族、賜姓族、親政族」である「2つの青木氏」も「2足の草鞋策」でこれを補完する事に成る筈です。
(院政側も利用するつもりであった事は否めませんが院政の利害からも義経に同調していた。)
この「義経の戦い」の瀬戸内の海域の成果は「最大の幕府樹立の条件」にも成っていて、義経が目指す「神明社族」としての方向性は決まっていたのです。
ともあれ、全国に「566の神明社」を建立して配置していた事からも「河内源氏の八幡社」や闇雲に「未勘氏族」や第7世族の「坂東八平氏」に頼らずとも「神明族」としてこの「瀬戸内の海域」はもとより全国の「民の心」は掴めていた筈です。
(義経は「八幡」を決して名乗らなかった。頼朝は鶴岡八幡宮を信仰し八幡を主神とした。)

「四国域・中国域」
さて、この様に「瀬戸内の圏域」を挟んだ「四国域・中国域」の「神明社と八幡社の建立時期」に起ったものとして、後勘から観れば「象徴的な事件」が2つも起こっていたのです。
そんな環境の中でも根強く「祖先神の神明社」は瀬戸内の民に招かれて建立されていたのです。この意味は「祖先神-神明社」を理解する上で大きい事であり、特段にその状況を論じたのです。
それ故に、この「事件の背景」からも判る様に河内源氏の深く関わる「弓矢の神の八幡社」のこの地域での伝播は本来無い筈なのです。(氏家制度の環境下では以下の「5つの要素」が不備 )
「産土神」の環境の中で「祖先神-神明社」が認められているとすればこの様な背景を持つ「弓矢の八幡社」が認められるかという問題です。殆ど有り得ないと考えられます。
この時の上記する讃岐と阿波の「2つの秀郷流青木氏」の「勢力の如何」を物語る事件であったのです。
その意味でこの数字考察には一考しなければなら無い大きな意味を持っているのです。

従って、故に、此処には下記の「5つの要素」
A「地理性」
B「経済性」
C「歴史性」
D「圏域性」
E「武力性」
以上の「5つの要素」の条件が影響しますが「祖先神-神明社」に関しては相互に連動して達成構築されているのです。
なかなかこの「5つの要素」全てを連動して構築している氏は少ないのです。

そうすると、「讃岐青木氏」と「阿波青木氏」が「生活の神明社」を建立し、一方で逆の「弓矢の八幡社」を建立する事が「信義的に可能な行為」であったのかと云う疑問です。

”「弓矢は武士の守護神」とする事であり、ましてや「頼信系源氏とその未勘氏族の守護神」とするものに、「皇祖神」の代わりに「祖先神の神明社」の「特別賜姓族」が建立する事が信義的に可能なのか”と云う信義的な矛盾が生まれます。
この事は関西域・中部域・関東域・北陸東北域でも特別賜姓族と賜姓族の衰退期間に於いて勅命により明確に可能です。
そもそも「特別賜姓」は前段で論じた「3つの国政の遂行」の為に衰退していたこの時期に「賜姓族青木氏」に代わって「勅命での行為」そのものであったのです。

この四国には上記する様に、「讃岐と阿波の2氏」を除き14氏の豪族にはこの「頼信系源氏とその未勘氏族の守護神」の「八幡社」を守護神とするのは「三好氏」の1氏しか存在しないのですから、この三好氏が゜秀郷流青木氏」の圏域をはるかに超えて建立する事は可能かと云う事に成り、”何も源氏に媚して八幡社を建立する事”は無い筈ですし勢力的にも不可能です。

(愛媛9に付いては、「清和源氏の経基と頼信」は若い頃に短期間「伊予」に赴任していますが、未だこの頃は「八幡社」は朝廷の命に基づく「国家鎮魂の八幡社」であった事と、この頃は頼信は「海の神」の「住吉社」を信仰していたので無関係と成ります。
ただ経基王と頼信が赴任していた事もあり源氏性が強い地域であった事は否めませんが、領主と成り得る未勘氏族が無いのです。上記の「純友の乱」での経緯で「河内源氏の勢力圏」をこの地域に伸ばす事が出来なかったのです。)

まして、その環境の中で”「讃岐と阿波の青木氏」が建立するのか”は信義的な面から観て大いに疑問であります。
しかし香川6 徳島3 愛媛9 高知3で建立されているのですから、考えられる事は他の地域で観られる”「八幡社の存在意義」の如何”に関わる事以外に無い事に成ります。
当初、「讃岐、阿波の2氏」により平安期の内に、全てこの21の「八幡社」が「神明社」として建立され、その後の四国に於いてそっくり室町期中期以降に豪族が入れ替わりますが、この時にこの21の「神明社」が「八幡社」に変えられてしまったとすると、鳥居やお社の形式は平安期のそのままでも成り立ちます。
因みに江戸初期の四国の豪族は讃岐3氏、阿波1氏、伊予7氏、土佐2氏の戦国の立身出世の豪族に入れ替わりますし、当然にこの中には「清和源氏頼信系」はありません。
どちらかと云うと室町期中期とはそっくり入れ替わった7割近くは、何らかの直間の縁の藤原氏北家の流れを汲む戦国時代の豪族であります。
しかし、この「戦いの神」の意味合いの強い「弓矢の神」の守護神から、時代を経て源氏が滅亡し「下克上と戦国時代」を経た室町期中期以後は「戦いの神」の影は潜み、”単純に「武士の守護神」としての「総合的な守神」や「武士の魂」だけを守護する神に変異したものとなった”と考えられます。

その為に、この”「後詰めの豪族14」が「神明社の30の内21」を「八幡社」に変えた”と考えられます。
この証拠と成るものが現在発見されないのですが、上記する状況証拠から他に建立できる能力とその義務か必要性を持った氏は讃岐と阿波の青木氏以外にはこの四国域には見付かりません。
「7つの域の神明社と八幡社の関係」は上記する「5つの要素」で特徴ある関係が出来上がっているのですカラ、この四国・中国域の八幡社との関係は「歴史の雑学」の判断の重要な基礎になるデータとも成ります。

「神明社」
従って、此処より「神明社」に付いてより理解力・判断力を深める為に更に研究を進めます。
そもそも「八幡社」が「弓矢の神」を主神とする以上、「河内源氏」は「皇祖神」の「祖先神-神明社」の賜姓族としての義務は無関心であった事が覗えます。
この四国・中国域の圏域も平安末期までのものであり、僅かに鎌倉期のものも含まれている模様で室町期初期の「下克上と戦国時代」へと突入する前兆現象であったのです。
「弓矢の神」に信心する「侍社会の風潮」がここから読み取れます。
恐らくは「祖先神-神明社」の「生活の神」「物造りの神」は「民の信心」と成り、侍階級は「生活の神」「物造りの神」からこの「八幡社」の「弓矢の神」に鎌倉期に向けて浸透して行ったと考えられます。
そこで、これが「第1次の空白期間」の始まりに成った原因点であったと考えられ、次ぎの「4つの経緯」に繋がって行くのです。

(1)上記した様に「祖先神-神明社」と「祖先神-八幡社」の「最悪の事態」の「競合合戦」が無かった事が次ぎのデーターで顕著に表れています。
(2)「神明社-八幡社」の「競合合戦」が無かった事は、「八幡社」が初期には「国家鎮魂」であった事と、後に「特定の氏と未勘氏族の守護神」と変質して行った事(2)は「2つの証拠」でもあります。
このデーターから「賜姓源氏」(河内源氏も含めて)は、同族である「賜姓青木氏」や「特別賜姓青木氏」が行う「3つの発祥源」としての責務と「政治的、戦略的」な「国策の神明社」には、ある程度の理解を示していた事とも考えられます。
(3)「賜姓源氏」が置かれている立場、即ち「たいら族」との「勢力争い」から目を逸らす事が出来ずに「清和源氏頼信系の一族」(河内源氏)だけは「勢力争い」にのめり込んで行った事が覗え、最終は11代の源氏を巻き込む事(4)に成り、遂には滅亡を招いてしまったのです。
(4)「2つの青木氏」が行う「生活の神」「物造りの神」の「神明社建立」域には「弓矢の神」の「八幡社建立」は明らかに避けている事が判ります。言い換えれば「2つの青木氏」が定住する地域には「八幡社の建立」は避けている事にも成ります。これは「同族争い」だけは敢えて避けたと観られます。

「神明社と八幡社の2つの差」
「八幡社の県毎の分布」と「神明社の県毎の分布」のデーターです。
この「2つの差」が表示しています。

「八幡社 354社」 「神明社 566社」に対して%は全体比です。
(八幡社から観たデータはこの表 神明社から観たデータは次表記)

「神明社-八幡社の対比表」
八幡社の分布( 県域分布)   神明社の分布(県域分布) 差 分布域の圏域
1  福岡  39 -11.1%    9 - 1.6%     30  八幡社の発祥地
2  東京  29 - 8.4%   30 - 5.3%    - 1  秀郷流青木氏と源氏の圏域
3  兵庫  24 - 6.9%   11 - 1.9%     13  清和源氏の発祥地
4  千葉  23 - 6.7%   22 - 3.9%      1  秀郷流青木氏と源氏の圏域
5  愛知  14 - 4.1%   33 - 5.9%    -19  秀郷流青木氏の圏域
6  神奈川 12 - 3.5%   11 - 1.9%      1  秀郷流青木氏と源氏の圏域
7  静岡  12 - 3.5%   18 - 3.2%    - 6  秀郷流青木氏の圏域 
8  岐阜  12 - 3.5%   31 - 5.5%    -19  賜姓青木氏の圏域
9  栃木  11 - 3.2%   14 - 2.5%    - 3  2つの青木氏の圏域
10 大阪  11 - 3.2%   1  - 0.1%     10  賜姓源氏の県域
11 埼玉  9  - 2.6%   15 - 2.7%    - 6  秀郷流青木氏の圏域
12 愛媛  9  - 2.6%   2  - 0.3%      7  清和源氏未勘氏の圏域
13 鹿児島 9  - 2.6%   3  - 0.5%      6  清和源氏未勘氏の圏域
14 北海道 9  - 2.6%   2  - 0.3%      7  清和源氏未勘氏の圏域
15 山口  9  - 2.6%   1  - 0.0%      8  清和源氏の圏域
16 和歌山 8  - 2.3%   2  - 0.3%      6  清和源氏の圏域
17 山形  7  - 2.0%   15 - 2.7%    - 8  秀郷流青木氏の圏域  
18 大分  7  - 2.0%   1  - 0.0%      6  清和源氏未勘氏の圏域
19 宮城  7  - 2.0%   14 - 2.5%    - 7  秀郷流青木氏の圏域
20 茨城  7  - 2.0%   9  - 1.6%    - 2  秀郷流青木氏の圏域 
21 香川  6  - 1.7%   1  - 0.0%      5  清和源氏未勘氏の圏域
22 宮崎  6  - 1.7%   4  - 0.7%      2
23 広島  5  - 1.4%   6  - 1.1%    - 1      
24 富山  5  - 1.4%   33 - 5.8%    -28  賜姓青木氏の圏域 
25 岡山  4  - 1.1%   1  - 0.0%      3   
26 島根  4  - 1.1%   1  - 0.0%      3   
27 京都  4  - 1.1%   2  - 0.3%      2  神明社の絶対的神域 
28 岩手  4  - 1.1%   11 - 1.9%    - 7  秀郷流青木氏の圏域  
29 山梨  3  - 0.8%   72 -12.7%    -69  2つの青木氏の圏域  
30 徳島  3  - 0.8%   3  - 0.5%      0  
31 長崎  3  - 0.8%   1  - 0.0%      2      
32 熊本  3  - 0.8%   1  - 0.0%      2   
33 高知  3  - 0.8%   4  - 0.7%    - 1    
34 青森  3  - 0.8%   13 - 2.3%    -10  秀郷流青木氏の圏域
35 秋田  3  - 0.8%   33 - 5.8%    -30  秀郷流青木氏の圏域
36 群馬  3  - 0.8%   14 - 2.5%    - 9  秀郷流青木氏の圏域   
37 新潟  3  - 0.8%   61 -10.8%    -58  2つの青木氏の圏域 
38 福井  3  - 0.8%   8  - 1.4%    - 5  賜姓青木氏の圏域
39 鳥取  2  - 0.5%   0  - 0.0%      2  
40 佐賀  2  - 0.5%   1  - 0.0%      1   
41 長野  2  - 0.5%   15 - 2.7%    -13  賜姓青木氏の圏域
42 滋賀  2  - 0.5%   3  - 0.5%    - 1  賜姓青木氏と源氏の圏域 
43 奈良  2  - 0.5%   1  - 0.0%      1  神明社の絶対的神域
44 福島  2  - 0.5%   9  - 1.6%    - 7  秀郷流青木氏の圏域   
45 沖縄  1  - 0.1%   1  - 0.0%      0
46 石川  1  - 0.1%   2  - 0.3%    - 1  
47 三重  1  - 0.1%   5  - 0.8%    - 4  2つの青木氏の圏域
      A:354 (/354)  B:566 (/566)   (A-B) 


「賜姓源氏」の重要拠点には「八幡社」が、「2つの賜姓青木氏」の重要拠点には「神明社」が建立されている事がこれ程に明確に成っている事に驚きです。
これを「神明社」から観たデータ(下記の表)からも読み取れる事から、上記の表の八幡社データからは「賜姓源氏」の姿勢が読み取れます。
彼等は朝廷が行う国策に逆らいながらも、賜姓族の立場にも逆らいながらも、自らの力で建てたかは別にして「八幡社の建立」を何と「354社」も建立している事は一つの大きな意味を持っています。
彼等にしてみれば、この数字から観れば、確かに皇族ながら「朝廷の意向」を無視し、立場を違えながらも「彼等の主張」をそれなりに持っていた事が判ります。
それは ”時代に即応した「弓矢の神」を普及させる事で台頭する「侍集団の集約」が国策として肝要だ” と主張していた事に成るのではないでしょうか。(朝廷は「公家社会」から「武家社会」の到来を危惧)
然し、矢張りそれが「自らの存続」を危うくさせ、且つ、「侍の力」を強くしてしまう結果を招いたのです。
結局は、この流れは「鎌倉幕府の樹立」と成ってしまうのですが、しかし、天皇側や朝廷側からすると、むしろ、”国全体として「生活の神」「物造りの神」を全面に押し出し、”国民を豊かにする事で「侍の集団の必要以上の台頭」を抑えて安定した「国造り」をするが大事な事なのだ。”と当然に主張するでしょう。
そもそも「侍集団」と云うものが台頭するのは、”その「生活の安定」と「身の安定」に対して不安があるから集団化する”のであって、これは「人間の本能」であります。
それを「天皇側」からすると、「生活の神」「物造り神」の政治的、戦略的な上記の様な主張となるは必定であり、「源氏側」からすると、「身の安全」を優先にして「武」に頼る主張と成るでしょう。
一見して「二者択一」と観られますが、何時の世も”「武に頼る安全」”は長く続けられる手段ではありません。元来、「武に頼る安全」は「第二次的な手段」であって「第一次的手段」で無い事は衆知の史実であります。
当然に「武」の位置に居ない「天皇側」からすると、「生活の神」「物造り神」の「神明社」であり、「源氏側」にすれば「弓矢の神」の「八幡社」と成ります。
これを「源氏」は時代性を長く観過ぎた事から ”「第2次的な手段」を「第1次的な手段」と考え違いをしてしまった” と解釈出来ます。
何時の世も「武に頼る安全神話」は例外無くよくある議論です。
然し、「2つの青木氏」は明らかに”何も「神明社」側だから”と云って天皇の推し進める「神明社」に関わっただけではないのです。その証拠はこの時期に作られたと観られる「青木氏家訓10訓」にあると説いています。
この「青木氏家訓10訓」に於いて「2つの青木氏」は「同族の源氏の主張」に賛成していない事をはっきりと物語っているからです。
賛成ではなく否定に近いもの感じます。それはこの「家訓」のみならず1125年頃に「2足の草鞋策」を実行した事でも証明しているのではないでしょうか。
「弓矢の神」の「武の力」に頼らず「経済的な力」、即ち、「生活の神」「物造りの神」に舵を切っているからです。つまり「第1次的な手段」を採用しているからです。然し、「第2次的な手段」も無視してはいないのです。
それは前記に縷縷述べてきた「伊勢-信濃シンジケート」と「藤原秀郷流青木氏、特別賜姓族の抑止力」を使っているからです。
現に、この「武の力」に脅かされた時、この「第1次的な手段」と「シンジケートと特別賜姓族の抑止力」を使って撃退しているのです。(幾つかの史実がある)だから生き延びられたのです。
それを「青木氏家訓10訓」として ”真の生きる様は此処にあり” として子孫に遺したのです。
その「生きる様」は「祖先神の考え方」に沿った”「祖先神-神明社」”に凝縮されているのです。
そして、その結果が上記の表の数字的な証拠として出てきているのです。

今や歴史は「清和源氏の分家頼信系源氏」を「武家の鏡や魂」の様に持て囃されていますが、「2つの青木氏側」から観ると、「最悪の同族氏と八幡社」と観えるのです。
これが「1650年近い悠久の歴史」を持つ青木氏の変わらざる一貫した姿勢であり「生き様」なのです。
凝縮すると、上記した「源義経の主張」と「源頼朝の主張」の差であります。
「源義経」は上記した様に青木氏と同じ道を歩もうと「鎌倉会議」で主張したのです。
”「清和源氏宗家頼光系四家」の様に「祖先神-神明社側」として生きよう”と主張したのです。然し、この考え方は「八幡社」側には生かされなかったのです。
「源義経の主張」は単に空論では無く身近に上記前記する「青木氏の生き様」が見えていたのです。
「たいら族の清盛」さえも「武の力」に対して「安定の社会」に疑念を抱き「宋貿易」を開始しているのです。
資料の記録では ”義経は清盛の教訓・遺訓を受けた”と記録されていますから、当然に前記で論じた様に義経は「伊勢伊賀の清盛」と隣の同族の「2つの伊勢青木氏」の「生き様」も見ていたのです。
義経は「弓矢の八幡社」を「生活の神」「物造りの神」の「神明社」に変えようとしていた事も考えられます。
「商と殖産」に力を入れていた「平泉の都」を頼った「真の根拠」はここにあったのではないかと観ているのです。

そもそもその「侍集団」は、天皇自らの子供を「融合氏」として臣下させて国策としてそれを推進し天皇自らが作り出した政策であります。
その「3つの発祥源」として自らの分身から「2つの青木氏」を作ったのですが、その「2つの青木氏」はその立場を良く護り”良好な国策だ”と見えたのです。
ところがこの「青木氏の親政族」を、「桓武天皇」が完成させた「律令国家の完成に障害」と成るとして「皇族系の賜姓族」を取りやめ、帰化人の大集団の阿多倍族を「たいら族」として賜姓したのです。賜姓したのは阿多倍の孫娘を母に持つ本人の「桓武天皇」なのです。
(伊賀の阿多倍は敏達天皇の孫の芽淳王の娘を娶る。 光仁天皇 第6位皇子であった伊勢の施基皇子の長男 青木氏始祖)
「阿多倍」には天皇家と血縁させて大蔵氏等の他「4つの末裔」(民族氏: 大蔵氏、坂上氏、内蔵氏、平族、阿倍氏)を作り出した事が、余りにも大きくなり過ぎて、結果として彼等阿多倍一族一門は青木氏と同じ立場を採らなくなってしまったのです。
挙句は、この「侍集団の統制」が取れなくなって、累代の天皇が危険視していた「行過ぎた荘園制」に結びつき、自らの天皇家の足元さえも危うくさせてしまったのです。その事に気づいた時には”事は遅し”であります。(荘園制の問題は前段で論じた)
藤原一門の血縁を受けていない唯一の「一条天皇」から「後三条天皇」-「後鳥羽上皇」まで必至になって彼等の経済源に成っているこの「荘園制」を潰しに掛かりますが事は最早抑えきれ無く成ってしまったのです。
時系列的に観て見ると、「大化改新」「賜姓制度」「帰化政策」「民族氏政策」「阿多倍と血縁政策」「融合氏政策」「祖先神-神明社政策」「皇祖神-伊勢大社政策」「生活の神、物造りの神政策」「侍集団政策」「弓矢の神政策」「荘園制政策」「律令国家完成政策」「藤原氏摂関政策」「親政族 青木氏排除政策」「源氏賜姓政策」「祖先神-八幡社政策」「たいら族賜姓政策」「九州自治政策」「荘園潰し政策」等、これ等に付随する政策が次々実行されました。
そして、政策そのものは「適時適切」であったと考えられるのですが、「後三条天皇」が身の危険を顧みず「荘園制の制限と中止」を思い切って断行した事でも判る様に、当時の政治的権力者との”しがらみ”から”天皇が「政治的欠陥の有無」を承知しながら「政治的欠陥」を取り除く勇気が無かった事による”と筆者は考えているのです。(前段で論じた)
この発端を作り出したのが「桓武天皇」であって、それを悪化させてしまったのが「清和天皇」であって、それを直したのが「後三条天皇」であったと読み取れます。
(適時適切に特別賜姓の青木氏を発祥させた円融天皇、瀬戸内問題や阿多倍一族一門問題を解決に導いた判断力の一条天皇等の英断が「皇祖神-祖先神-神明社」を遺せたのです。)

この渦中にいて清和源氏は歪んだ政治状況の中で、その立場から「弓矢の神」を”床に油”の如くで勢力を拡げてしまったのです。その勢力を使って「八幡社」を建立して行った事を物語っています。
それは11代の源氏が定住していない地域に多くの「八幡社」がある事なのです。
そしてその由来を調べると、「源氏姓」を名乗る「未勘氏族」が多く関係している事なのです。
データから観て全体の8割程度がこの「八幡社」です。
つまり、データでは354社ですが、”自らの「弓矢の神」としての彼等の主張”とすると、”少し違う”と云えるのでは無いかとも考えます。
その「八幡社の建立」は「未勘氏族」が、”自らの立場(源氏族)を鼓舞し自らの荘園を護ろうとしてのもの”であった事を意味します。それが8割のデータです。
場合に依っては「源氏」が「未勘氏族」に対して「名義貸しの条件」であった事も考えられます。
「名義」だけではその宣伝効果は低い事から「目に見える形」として、その「象徴としての八幡社建立」であったと考えていて、一部の地域の「未勘氏族」の資料の中にそれと観られる記述があるからです。
恐らくは、”「荘園」の周囲にその勢力圏を誇示し縄張り範囲を明確にする目的”で「戦略拠点」を ”これ見よがしに”「名義主からの許可」、或いは「条件」として建立したと考えられます。
むしろこの目的の方が強かったのではないかと観られます。
結局、「源氏」の主張する”時代に合わせた「弓矢の神」”の理屈は、この事(侍集団と源氏姓の名乗り)に反発する天皇家に対する取って付けた「大義名分」であった事が云えます。
ここが「神明社」と実質的に異なる点で「生活の神」「物造りの神」は「民に直結する神」である事から、その「建立の行為」は「天皇の施政に対する国策」に合致し、「3つの発祥源」の立場と責任にも合致する事から信任を得え、尚且つ「民の信望」を深めたからこそ民から自然発生的に「氏上様」の呼称が生まれたと考えられます。

「弓矢の疑問」
そこで、”天皇が「弓矢の神」を推奨する事が政治的にあり得るのか”の疑問です。
確かに、「融合氏」を国策とし、「賜姓族」を臣下させたのは天皇であった事は否めませんが、そもそも天皇は「臣下-侍」の政策が「弓矢の神」まで祭祀する程の目的として実行したのではない筈です。
「侍の神」を祭祀する事は「侍集団」に結びつき、それは同時に天皇家の実権を弱くする事にも成ります。
「侍集団」は、「朝廷軍」(坂上氏等)が既にあり、青木氏の「六衛府軍」の「近衛軍」がありさえすれば政治的には成り立つ範囲で無用であります。
むしろ「侍集団」が闊歩すればするほどに「朝廷軍」と「六衛府軍」を強化せざるを得なくなります。
「侍集団」と「朝廷軍」+「六衛府軍」の勢力バランスは物理的に逆転して朝廷権力、強いては天皇の施政権は低下する事は必定の条理です。
どんな愚脳な天皇でもまして側近(藤原氏)もあればこそ、この程度の条理は即座に判る範囲の知恵であります。つまり、「弓矢の神」「侍集団」はもとより望んでいなかった事に成ります。
そうなれば、必然的にも「源氏」に対して、特に「清和源氏」に、更には「河内源氏」に軋轢が加わる事は目に見えています。
故に「河内源氏」と「未勘氏族」が作り上げた「変質の八幡社」は望まれて期待されていなかった事に成ります。
その証拠に「桓武天皇」は、わざわざ父方の実家先を衰退させた青木氏に代わってでも、「神明社」を天皇の自力で20社も建立しているのです。「弓矢の神の八幡社」は建立していないのです。
(確かに清和源氏宗家に修復は命じている。)
この事は、実の所は「青木氏-神明社」は期待されていた証拠であります。
ここで際立ってくる事は「青木氏の行為」が「賜姓の本来の姿勢」であって、”天皇が望んでいた事の「侍の姿」である事”に成ります。
だから「桓武天皇」の「神明社建立」であって、現実問題として挙がった事として、「賜姓族青木氏」の末裔の数に対して、「神明社建立推進」には不足の状態となり、又「河内源氏」等の「侍集団」の増加に対応する為にも母型族の「特別賜姓族を賜姓」(940年頃 円融天皇 藤原秀郷流青木氏)したのです。
まして、「桓武天皇」の子供の「嵯峨天皇」は「青木氏族」を増やそうとして賜姓を「源氏」として慌てて立てたとしてもそれが「清和天皇」の頃には「侍集団」を逆に大きく造り上げる始末と成ったのです。
まさしく”火に油”であります。其処に問題と成っていた”「荘園制」が悪用されてしまった”と成れば ”冬の大火事災害”です。
(清和天皇のところでおおくの問題が噴出する)
然し、それも「清和源氏」までの源氏では「2つの青木氏」と同じ道を歩んでいたのです。
中でも「清和源氏」の宗家の「頼光系宗家の四家」は頑なにも青木氏と同族血縁してまでも「同じ道」を歩んでいたのです。
その藤原道長に使え国司を多く務めた「頼光」に付いては「資質剛健」の性格であった事が資料として遺されていて「河内源氏」のような行動を取る人物では無かった事が判ります。
又4代目の「頼政」に付いても「保元平治の乱」後も一人源氏の中でも朝廷内に残り何とか源氏を立て直す事に努力しなかなか昇格出来ずにいたのです。
その時、清盛の計らいでやっと正三位まで遂には上りますが、然し、資料には清盛は彼を酷評しています。この頼政は強く出られない難しい立場であった事からと考えられます。
「源平の戦い」のきっかけと成った「以仁王の乱」を起した事を聞いた清盛は”あの頼政が!”と驚いた事が遺されています。この事から4代目頼政は「頼光」(宗家)に似て資質剛健であった事が覗えます。
恐らくはこれ等の資料から、この「清和源氏」の宗家の「摂津源氏」側と次男の「大和源氏」側と、三男の分家の「河内源氏」側とを朝廷や清盛等が対比していた事を物語り、この「河内源氏」は清盛等から危険視されていた事が判ります。
全てはこの様に歴史の姿を顧みると、”頼信系の分家が事の道を違えてしまった”のが原因であった事に成ります。
この下記のデータをも含めてより詳しく観てみるとこの事を裏付けています。

「遺戒の意味」
何度も延々と前記から繰り返しますが、「青木氏家訓10訓」はこの”「道の採り方」を間違えてはならない”として ”人のあるべき姿”を、むしろ、進む道を指し示す ”「長」としてのあるべき姿”を説き誡めているのだと考えます。丁度、この頃に「2足の草鞋策」は採られ、家訓の根幹は造られたと考えられます。
「青木氏家訓10訓」そのものが「清和源氏の滅び行く姿」を物語り、それを観て危機感を感じ頼政の孫の京綱とその末裔は「青木氏家訓10訓」としたのではないかと観ています。
恐らくは、この家訓はこの清和源氏の四家の宗家頼光系頼政の孫京綱が「伊勢青木氏」の跡目に入り生き残った事から、この家訓を最初に作ったのではと考えているのです。

(この時かなり緊迫した状況に「2つの伊勢青木氏」は追い詰められていたと考えられます。場合に依っては伊勢手前名張辺り(伊勢は「不入不倫の権」で保護されている)まで攻めてくる事も考えられ、その時は「特別賜姓族の伊勢青木氏」も深く血縁を結んでいる以上は秀郷一門を背景に「たいら族」と一戦を交える事を覚悟していた筈です。然し、さすが「たいら族」は伊賀和紙で青木氏と深く繋がった古い深い絆を配慮して攻めて来なかったのです。それどころか”主謀者の孫の助命嘆願に応じる”と云う前代未聞の態度を採ったのです。)

宗家側は河内源氏の破天荒な生き様を批判していた事を物語るもので伊勢青木氏のみがこの事を証明出来る事なのです。
そして、その「行動の現われ」として「力みのある力」に頼らず、「2足の草鞋策」を採り「特別賜姓族」との極めて親族以上の親密な交わりを採ったと考えています。
そして、賜姓族29氏と特別賜姓族116氏とは結束を強くする戦略構築に邁進したのです。

(参考 特別賜姓族青木氏の賜姓族青木氏に対する援護働き 
前段で論じて来た事ですが、四日市には「賜姓伊勢青木氏」と「特別賜姓族の秀郷流伊勢青木氏」の「融合族」が定住している。この助命嘆願の恩義に対して「信長の伊賀攻め」の時、「2つの青木氏」は伊賀一門末裔と民を名張から側面を突いて出て助ける。 然し、信長は「たいら族支流末裔」で伊賀一門もその支流末裔の同族だが血縁の意識は薄らぎ攻めた。 それは「たいら族」は忠盛の時、摂関家に対して伊賀一部の知行を具納した事から血縁意識は薄らいだと考えられる事と、室町幕府初期に元北条氏の執事に対してこの伊賀の知行を味方した勲功により与えたなどの経緯があり薄らいだと考えられる。 美濃-尾張では「源平の戦い」で「美濃の特別賜姓族青木氏」は一部生き残った「美濃青木氏」と「近江青木氏」を残そうとして奔走するが失敗する。又、室町期に美濃-尾張では織田軍に対して「美濃の特別賜姓族青木氏」が仲介を採り「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と一部生き残った「美濃青木氏の末裔」を護った。武田氏滅亡時の諏訪族青木氏と武田氏系青木氏の逃亡を各地で助けた等の一心同体の様な関係の歴史史実がある事に留意。)

前段で論じた「4つの青木氏の結束」はこ「の祖先神-神明社」の強い絆の経緯事から生まれたのです。そして現在に生き残れたのです。
そして、その生き残れた思考の根源はまさしく「祖先神-神明社」にあったと考えているのです。
この「祖先神-神明社の考え方」だからこそ ”世に晒す事なかれ” の「遺戒」は遺され、護られた、又は護らせたと云えます。
実は、前記しましたが、「生仏像様」の処で書いた ”世に晒す事なかれ” の「遺戒」はこの「河内源氏の失態」を「青木氏家訓10訓」とは別に「総訓」として言い残したものと解釈しているのです。
恐らくは、清和源氏頼光宗家の4代目頼政の孫に当る青木氏の跡目京綱は分家の行状を観て「誡めの言葉」を「青木氏末裔」に残したと観られます。
つまり、どう言う事かと云うと、宗家側はこの「河内源氏の行状」を強く批判していたのではないでしょうか、しかし、反面では”世に晒された為に道を間違えた”とも観ていて、(”「未勘氏族」に「源氏の棟梁」と煽られた”として) ”世に晒す事の危険や意味の無さ” に疑問を持っていたと考えられます。
現在でも、”世に出る事”が”何か発展に繋がる”と考えれがちですが、当時でも同じであったと考えられ、この事に疑問を持っていた事が判ります。
そもそも、源氏は清和源氏だけでは無く11代もの源氏があり、決して「源氏の棟梁」でも無く「武家の棟梁」でもないし、まして上記した様に「経基王」は賜姓にも問題があり、「賜姓族の源氏」で無い事でもあり、まして、「河内源氏」は三男の分家筋であり、この「呼称の意味」は空虚で世の中の勝手な利益に振り回された事であり、まさしく”世に晒された事”を物語ります。
仮に、「源氏の棟梁」とするのであれば、筋論からすると初代の源氏で最後まで残った「嵯峨源氏」が「源氏の棟梁」である事に成ります。
更に強いて云えば、青木氏を加えた同族16代として見ると、「3つの発祥源」で皇祖神に繋がる「祖先神-神明社」であり、「氏上様」の呼称があり、「御師」の呼称があり、大化期からの「融合氏族」の末裔であるのですから、「青木氏」が「棟梁」である事に間違いはありません。「生仏像様」「笹竜胆の象徴紋」「象徴の青木神木」等を以ってすれば「分家の河内源氏」が”源氏の棟梁”などとする事は極めて論外です。
それどころか、”棟梁族でない”とすれば清和源氏の分家の「河内源氏」が最も無い同族であるのです。
基より青木氏から観れば「遺戒」の通り ”棟梁”とする事には!”以っての外”であります。
この事は当時で在れば「衆知の事実」であった筈で、まして「清和源氏」には上記した様に賜姓と出自に問題を持っていた事も衆知の事で在った筈です。この様な世の中の様子を「嵯峨源氏」や「2つの青木氏」からすると苦々しく思っていた筈です。まして現在と異なり一族一門が集結している氏家制度の中ではこの掟を守る事やこれ等の「情報の伝達」は社会の重要な要素であった筈です。
しかし、つまりは”「源氏の棟梁」”と世の中では勝手に自らに都合良く「河内源氏の未勘氏族」が中心に成って晒されてしまったのです。「八幡社」もこの流れの中での事だと考えられます。
この事を宗家側の京綱は伊勢から河内に向けてつぶさに観ていたのです。
助命嘆願の日向の宗綱と有綱の兄の二人も同じ印象を持っていたと考えられます。研究を進めば日向青木氏にも何か遺しているのかも知れません。
当然に、同じ行動を採っていた「特別賜姓族伊勢青木氏」にも、極めて親族付き合いにあった「信濃青木氏」にも何がしかの遺訓が遺されているのではと考えられます。この事は青木氏ならではの判る事であります。
伊勢青木氏の宗家にこの「遺戒」の言葉が現在までも長く口伝されている事はそれを明らかに物語っています。大した意味の無い事は「遺戒」として代々に口伝されることは無い筈です。意味の無いものは何時か消えるものです。
このデータを分析してみた時に数字からもその事を物語っている事に驚いたのです。
「神明社-八幡社」の上記の関係表からもこの「生き様」が読み取れのです。

「源氏の棟梁」と「八幡社の弓矢」
「源氏の棟梁」の呼称や「八幡社」の弓矢の守護神の事は、強いて云えば、上記で論じた経緯から見ても「河内源氏の頼朝」までのものであって、その後は「河内源氏の未勘氏族」に依って自らの系譜や出自を正当化しようと利用した「源氏の棟梁」や「八幡社」であった筈です。
(「荘園制の名義借り」の「未勘氏族」からすればこの「2つの事」は生き残りのためには止むを得ない仕儀であった事は否めませんが。)
上記に述べた結論より、その為に明らかに「八幡社」を政治的・戦略的な事として利用されたのであって「祖先神-神明社」の「生活の神」「物造りの神」としての普及には明らかに寄与していなかったのです。
青木氏側から見れば、河内源氏は要するに”世に晒された、又は世に晒した”のです。
どちらかと云えば、筆者は”「源氏の棟梁」と「八幡社の弓矢」の「2つの事」を使って全国の「無血縁の未勘氏族」に依って世に晒された”とする説を採っています。その理由は上記した様に”この「2つの事」は何れも根拠が無い”からです。
とすると、場合に依っては「源平の勢力争いと決戦の必要性」は無かった事に成りますし、当然に同族賜姓族の源氏と近江青木氏、美濃青木氏を滅亡に追いやる必要性は無かった事に成ります。
「無血縁の未勘氏族」がこの「2つの事」を殊更に利用しなければ生き残れたのです。
それは「無血縁の未勘氏族」が形の上では「源氏の主力戦力」であったからです。義家の時も義経の時も頼朝の時も”イザ衰退”と成ると”蜘蛛の子散らす様に”彼等は霧散したのです。そして、その後はこの根拠のない「2つの事」を喧伝する「後付態度」を示したのです。真に世に晒される事の無責任さであります。
場合に依っては、この「無責任な大きな渦」に青木氏も巻き込まれていた可能性があったと考えられ、そうでなかったのは「秀郷一族一門の抑止力」と「特別賜姓族の青木氏の絆と背後」と「青木氏のシンジケート」があったからなのです。

(注記 「未勘氏族の存在」は専門的に研究している人か書物以外に一般には意外に知られていない。
源氏と云えば河内源氏が源氏だと思われているし清和源氏でも8氏もあるし、まして源氏は11代もあるとは思っていない傾向がある。公的な情報機関のドラマでも「河内源氏」を「源氏の棟梁」としていた程である。「桓武平氏や京平氏や伊勢平氏」として知られている「たいら族」と「皇族第7世族末裔」の「坂東八平氏」の「ひら族」との区別が付かない事とは「不思議の大間違い」です。酷いものには伊勢の秀郷一門の藤原氏の伊藤氏を「たいら族」とした歴史ドラマがあった。
この「2つの事」はテレビ、簡易書物、ネット解説等の情報機関でもこの充分な「時代考証」が出来ていない事が実に多いレベルであり、これが少なくとも青木氏に関係する「通説と云う本質」なのです。)

データから観ても「八幡社の弓矢の神」としても「河内源氏」が純粋に建立したと観られるのは、全体の2割程度弱に過ぎないのです。
後の八幡社は「未勘氏族と荘園制との結びつきの建立」に過ぎない事なのです。
彼等の「弓矢の神」の役目があったとしても国全体では「神明社+八幡社」920社の中で僅かに7%に過ぎないのです。
これでは河内源氏を除く11代もの源氏が氏を成した事として考えても、「祖先神-神明社の建立」に対して賜姓族として、”その責務や目的を充分に果たしていない”と成ります。
その様な果しているとする資料が多くが見付からないのです。
そもそも11代の源氏の内、室町期まで豪族で直系の氏として生き残ったのは「嵯峨源氏」、「宇多源氏」、「村上源氏」、「清和摂津源氏」の4氏(他に醍醐源氏と花山源氏は豪族・直系氏の要件が低く未勘氏族の可能性が強い)に過ぎない事から良く言えば ”賜姓族らしく質素に生きた”、又は、別に言い換えれば、多くは「武力と経済力」の運用の無さが「河内源氏」の様に「適時適切」ではなかった事に成ります。!”その「生き様」に弱さが在った”から「賜姓族源氏の4氏」は”直系子孫を青木氏の様に現在に遺しきれなかった”と考えられます。

「2つの青木氏」の「特別賜姓族青木氏」は秀郷一門を背景には「氏構成」の大きさは別格として、同族5家5流の皇族賜姓族(近江、美濃は支流末裔は何とか遺せた)が「源氏11代」と対比しても前段から論じている「祖先神-神明社」を通して上記するその「生き様」の違いがあり、それが適時適切であった事を物語っている事に成ります。
(絶大な勢力を誇った「特別賜姓族の援護」が「賜姓青木氏の生き様」を救った)
この他にも宗像大社、熊野大社、住吉大社、出雲大社、阿蘇大社、等の氏子集団を形成した「姓氏」の果たした充分な役目から考えると、「祖先神」を守護神としながらも概して源氏は本来賜姓族でありながら「祖先神の役目」に対してその果たした功績は極めて低いと云わざるを得ないのです。それが子孫を遺し切れなかった「生き様」に現れたと考えられます

「八幡社の議論」はデータからも明らかに成った事から、更に次ぎからは「本論の神明社」の分析に入ります。


青木氏と守護神(神明社)-18に続く。


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青木氏と守護神(神明社)-16

[No.284] Re:青木氏と守護神(神明社)-16
投稿者:福管理人 投稿日:2012/03/02(Fri) 08:10:36


:「北陸東北域」の続き
>八幡社の分布順位(地域分布・重複)
>1 関東域    7県-94-26.5%(全体比)-平均13/県 清和源氏勢力圏域
>2 九州域    8県-70-19.8%(全体比)-平均 9/県 未氏族の圏域
>3 関西域    6県-52-14.7%(全体比)-平均 7/県 氏の出自元の圏域
>4 中部域    8県-52-14.4%(全体比)-平均 7/県 清和源氏・秀郷一門圏域
>5 東北北陸域 8県-38-10.7%(全体比)-平均 5/県 反河内源氏の圏域
>6 中国域    5県-24- 7.9%(全体比)-平均 5/県 源氏空白域・讃岐藤氏圏域
>7 四国域    4県-21- 5.9%(全体比)-平均 5/県 讃岐藤氏圏域・源氏空白域
>(詳細データは本論末尾添付)

「3つの守護神の神明社」
前段で論じてきた論処の通り、この「八幡社38+神明社97」=135と成る数字は疑う事無く「神明社」そのものなのです。しかし、では”何故に「八幡社」としているのか”についての疑問です。
それは「4の中部域」では「神明化八幡社」と発展させてましたが、この「北陸東北域」では「八幡化神明社」と成り得たのです。そしてこの八幡化した「八幡社」はこの地域では最早「弓矢の神」では無く、「4の中部域」の「農兵」の「身の安全を護る神」から、更に発展させて「家内安全の神」の守護神として考えられていたのです。
それは、「神明社」の「生活の神」「物造りの神」は勿論の事、前段で論じた様に「400年に及ぶ苦難」の末にこの地域では弓矢に変えて民は「家内安全の神」を求めたのです。
それは「合祀」ではなく「神明社」そのものに「3つの守護神」を求めたのです。
この「3つの守護神」を持った神明社の一部が鎌倉期に成って「家内安全の神」を強く主張する「神明社」が現れ、その「神明社」が室町期に入っての「下克上と戦乱」を背景に「創建主の勢力」が衰退し「管理維持」が困難に成り、「神社経営」の為に「神明社」と区別して「八幡社」と呼称されるように成ったものなのです。
これは呼称の範囲のものであってその元は「3つの守護神の神明社」であり続けたものなのです。

「3つの守護神」
>神明社の存在意義=「生活の神」「物造りの神」+「身の安全を護る神」→「家内安全の神」→「万能の神」

「八幡社呼称の経緯」
地域の「八幡社」の現在の呼称の経緯としては、鳥居の形や社屋の形状は多くは「神明造り」であり、元は「神明社」としての建立であった傾向が有り、室町期に入ってからの呼称と観られるのです。
その結果、「3つの守護神」の傾向が更に進み「家内安全の神」をそのものを求めたのです。
この地域は「生活の神」「物造りの神」として上記したように古くから神明域であった事から、当然の事として「時代の背景」が影響して武士も民も全ての民が「生活の神」を発展させて「家内安全の神」を「主の守護神」として民は求めたのです。
その為に「神明社」が一部「八幡社」に単純に変名したと云う事なのです。
「八幡社」と云っても此処では「弓矢の八幡社」で無い「神明社的な家内安全の八幡社」であった事から変名の抵抗は最早無かったと観られます。
「生活の神」「物造りの神」に、そして「家内安全の神」に、遂には八幡社の本来の「国家鎮魂」を加えた神を創造したのです。そしてそれは「神明社」のみならず「八幡社」との距離感を殆ど無くし、何れも「民の守護神」として崇める風習が生まれたのです。
その証拠に次ぎのような事がこの地域に限って起こったのです。
そして、そもそもこの地域の「神明」とする呼称は、「3つの守護神」の意味を持ち、それを単純に”「神様」を「神明」”と古くから呼称されていて、”神明”と云えば”神様”の総称の事であったのです。
それには「雄略天皇の八幡社」の意味合いも含んでいて、一応は「八幡社」の呼称はあるとしても根本的に「応神天皇」の「神明」であったのです。
>「民の”神様”」=「民の守護神」=「”神明”の呼称」
つまり、全ての守護神の総称を”「神明」”と呼称したのです。
「神明社」「八幡社」に分ける事に大した意味は無く全て大まかに”「神明」”であって、その”「神明」”は「神明社」なのです。
神社の経営的な意味のみであるのであって「民の心の区分け」を意味するものでは無かったのです。

北陸東北域の「神明社-八幡社の関係式」
>「神明社」≒「八幡社」→「神明社」+「八幡社」→「神様」=「神明」=「民の守護神」
>「生活の神」+「物造りの神」+「家内安全の神」+「国家鎮魂」+「身の安全神」=「八幡社+神明社」

実は「神明社」には「2つの通説」があるのですが、この中の一つの「神明=神の説」は此処から来ているのです。強ち、関東以北ではこの「神明=神の説」は間違いないのです。

ところが関西以西では八幡社、神明社、鎮守社、春日社、住吉社、出雲社等の前段で論じた自然神に繋がる「5つの守護神」を祭祀する社はその存在意義は又明らかに別なのです。
特に「氏の神」の神に代表される春日社等は区別化は当然の事として、上記した様に以西に行くに従い「八幡社の区別化」は明確に成って行くのです。
それは「荘園と未勘氏族」のあり方に起因しているのです。
「荘園に依って酷い苦しみを受けた地域と未勘氏族」と、「荘園に依って利益を受けた地域と未勘氏族」との「パラメータの差」が「八幡社と神明社の区別化」を促しているのです。
そして、その「荘園と未勘氏族」の有様は、平安期中期、平安後期、鎌倉期、室町期初期、室町期中期、室町期後期の「6つの期」になって現れ、それは「政治的な施策」と「戦乱の影響」に依って変化して行くのです。それが関西を中心に「以西と以北との変化」に差として生まれて来たのです。
この「八幡社と神明社の区別化」の差が次ぎの様な関係を示しているのです。

>”「以西・大>関西>以北・小」の関係”
が生まれて行ったのです。

この事は「4の中部域」で論じた様に、「圏域の勢力数」の関西を基準にした関係表(冒頭の表 上記の重複表)でもこの傾向を顕著に示しています。

実はこの事が次ぎの数にも表れているのです。

「北陸東北域のデータの検証」
「4の中部域の論説」の通りこの「北陸東北域」はそもそもそれ以上の地域であり、それからするとこの下の数は更に少な過ぎるのです。

関西域に対して1.8倍は低すぎるし、神明社3.9も低すぎると考えられます。
つまり、「関西域の八幡社」が概ね15%であるとすると、この地域の八幡社38は多すぎ、全国比1割を占める事は考えられずもっと低い筈です。
当然に神明社は「関東域115」に対してこの地域での「神明社97」は少なすぎ、「関東域の全国比20%」に比べて「北陸東北域の全国比17%」は低すぎると考えられます。
もし、このままの数字であるとするならば前段で論じた様な事件が ”歴史的に何も無かった”と云う事に成ってしまいます。
既に関西から関東に掛けて「八幡社」は勿論の事、「神明社」もその「歴史的な経緯」による変化を起こして来ていて、その様にデーターの変化を起こしています。”何も無かった”はあり得ずそんな事は絶対に無い筈です。
この「北陸東北域」に於いて現実に厳然と「特異な歴史的な経緯」を持っているのに ”何も無かった”と云う事をこのデータは示している事に成ります。「八幡社」だけならいざ知らず「神明社」も歴史的な状況に一致しないデータなのです。

”現世は移ろい去り行く”の例えの通りの如く歴史につれて「人の営み」は変化するものです。
つまりは「八幡社」の数は(+)であり「神明社」の数は(-)である事から、これは明らかに「時間の経過」に伴い「神明社→八幡社の変化」を起こした事を意味します。

そこで、では、どの様なデータならこの地域のデータに成り得るのかを検証します。
次ぎの表を参照して下さい。

>総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
>1.8倍    3.9     0.7

>八幡社 7県-38-10.7%(全体比)-平均5/県
>神明社 7県-97-17.1%(全体比)-平均14/県 

>関西域八幡社 6県-52-14.7%(全体比)-平均 7/県  源氏の出自元の圏域
>関西域神明社 6県-14- 0.2%(全体比)

>八幡社 秋田3  山形7  宮城7  青森3  岩手4  福島2 北海道9
>神明社 秋田33 山形15 宮城14 青森13 岩手11 福島9 北海道2

上記する経緯から、「以西・大>関西>以北・小」の関係から考えると、”中部域の「5割域の分布」の自説は「46.6%の計算値」”に匹敵する位の「神明社の数」である筈です。
この「八幡社38」を加えて135として観ると24%となり、関西域を基準として観ると5.4倍と成ります。
「関西域25」を基準としたこの地域の神明社の97の倍率3.9ですので、5.4はそれなりの比率と観られます。
しかし、「地理的要素」と上記の「歴史的要素」を考慮した場合、少なくとも秀郷一門の「関東域の数字」位は少なくとも保有していると考えられますので、因って「関東域の倍率4.6」に対し「5.4」は納得出来る倍率と考えられます。
そうすると、比較すると次ぎの様に成ります。

>関東全域 神明社 7県-115-20%(全体比)-平均16/県 本家域
>北陸東北 神明社 7県-135-24%(全体比)-平均19/県

神明社の全体比として考えれば20%/24%は、遜色なく相当として納得出来る数字と成ります。
それに「関東域」と「北陸東北域」の人口比(1/2と試算)から考えれば、48%程度と成り「中部域46%」に匹敵することに成ります。
これを下の表の通り「県分布」で考察すると、この地は”越後域から陸奥域に掛けて神明社の勢力圏が移動し構築されている事”が良く判ります。
他の6県域ではほぼ一定で変化が無い事等は、真に「歴史的な青木氏の経緯」と一致します。
つまり、この地域の「八幡社」は全て「神明社」と観て検証する必要があるのです。
そうすると次ぎの様な「北陸東北域の総合分布」に成ります。.

「北陸東北域の総合分布」
>神明社 秋田36 山形22 宮城21 青森16 岩手15 福島11 北海道2

以上と成ります。

「統治経路と末裔分布経路」
上記の事は秀郷一門のこの域の「統治経路」か「末裔分布の経路」を調べる事で判る筈です。
これはこの域の「八幡社」を「神明社」として観てしまうと、明らかに「青木氏の末裔分布、又は勢力分布」に極めて酷似しています。
前段で論じたこの地域の立役者である「特別賜姓族」の「越後青木氏」は、歴史的な幾つもの戦乱から「賜姓青木氏を保護」し受け入れて護り、且つ陸奥への「戦略的ルートを構築」し、陸奥域の「青木氏の基盤」を護った地域でもあり、越後はその拠点と成った所であります。
そして、その陸奥より南下の岩手に勢力圏を伸張して同門の「進藤氏などの力」を借りて「山形の勢力圏」を築いたのです。つまり、次ぎの表の経路を示しているのです。

>「新潟の拠点」→「青森域」→「岩手域」→「山形域」→「秋田域」→「宮城域」

以上の順で勢力圏を拡大しそれに伴って「神明社の分布」は拡大したのです。

本来であれば、「北陸ライン」を北に採って、統治経路を造るのが戦略上では理想的です。

>「新潟の拠点」→「山形域」→「秋田域」→「青森域」→「岩手域」→「宮城域」

以上と成る筈です。

しかし、この圏域全般は阿多倍一門の「産土神」の「内蔵氏」や「阿倍氏」の「末裔の勢力分布域」であった地域です。この域を抜くのは大戦闘を意味しますので戦略上得策ではありません。

この事から「鎮守府将軍」として秀郷一門が先ず「陸奥域」に赴任して、その地を統治するには「越後」を拠点とするも「出羽の山形域と秋田域」は直ぐには「越後域の一門」と結ぶ事(北陸ライン)は困難であったのです。
そこで先ず「陸奥域」の「東北ライン」の「岩手域」を統治し、そこから左隣国の「山形域」を「越後域」の拠点と結んで統治し、その勢いで上の領域に伸張して「秋田域」を制圧して、最終には「宮城域」の北側を統治する勢力圏と成ったのです。それに伴い「神明社」が分布するのです。
この経路で「神明社」が分布する事は、前段でも論じた神明社の第2の別の目的の「戦略拠点」なのですから、この「分布経路」に沿って「統治経路」の戦略を採った事を意味します。
つまり、これには平安初期からのこの地域は阿多倍一門の「内蔵氏」等の勢力圏でも在った事から、未だこの地には「産土神の地盤」でもあったのです。「敵対地域」だけではなかったのです。
それが200年の間に秀郷一門の統治により阿多倍一門の末裔は、思考の根底には「産土神」の考え方も在っても次第にこれを変化させ、「秀郷一門の青木氏」の影響を受けて「祖先神-神明社」へと変化させて行ったのです。
返して云えば、「産土神」から「祖先神-神明社」に変化させるだけの「秀郷流青木氏の影響力」が実に大きかったかを物語るものです。少なくとも大なり小成りに ”思考の根源を変えさせた”と云う事を意味します。これはある条件が揃わなくては成し得る事ではありません。少なくとも争いの連鎖を生む「武力」ではない筈です。
本来ならば、上記した「統治経路」は進藤氏や一部長谷川氏等の協力を得ているのですから、間違いなく「春日社」と成る筈です。
ところが、それどころか「春日社」勢力圏に成らず、のみならず「産土神」さえ殆ど消え去り「祖先神の神明社」と成って行ったのです。そうなると人の思考を変え得るのは唯一つです。考えられるのは「血縁力」と成ります。

(参考 明治2年 陸奥→磐城、岩代、陸前、陸中の東北圏に分ける 出羽→羽前、雨後の北陸圏に分ける それまでは北陸東北域は陸奥と出羽であった)

「進藤氏の活動経緯」
特にこの地域の「神明社の分布」の発展は、真にこの「進藤氏の活動経緯」と一致しているのです。
前段で論じたこの”進藤氏の歴史に残る秀郷一門の中での活動行動”が無くして「神明社の分布発展」は無かったのです。
これは”神明社を直接に進藤氏が建立した”と云う事ではなく、建立に必要とする「秀郷流青木氏の勢力保持」をこの地域に於いて側面からバックアップしたと云う事なのです。
恐らくは、この地域に於いて上記した「歴史的経緯」があったからこそ「秀郷流青木氏の力」だけではなく陸奥域から関東以北全般に掛けての「進藤氏の圏域」が必要であって成し得たものであります。
「人の心」は武力に頼らない「鎮守府将軍」の方に向いた事を物語ります。
その中心と成って働いたのが「第2の宗家」と成っている「特別賜姓族」で「秀郷流青木氏」であります。
又、一門の中でその「調整役の立場」にあった「進藤氏」は為政の為に自らの氏を犠牲にしても積極的に出て来た結果であると考えられます。
上記の”ある条件”とは、民から慕われる神明社建立の役目を担う「特別賜姓族」と「進藤氏」と「血縁力」の3つにあった考えられます。故にこの様な総合分布の分布データを示しているのです。

一族一門が束に成って掛かって初めて成し得るもので、「特別賜姓族」だけではたとえ「勅命」があったとしても、平安時代の「氏家制度」の柵の中ではなかなか簡単に成し得るものではありません。
そもそも「神明社」とは「生活の神」「物造りの神」「家内安全の神」「身の安全の神」とは云えど、別の面で前段で論じた「戦略的拠点の役目」も担っていた訳ですから、”これだけの広範囲の中に「神明社」を建立する”と云う事は他氏との関係から観て無理やりに建立する事は不可能です。
しかし、ただ一つ可能な方法と云うか戦術戦略と云うか解決する方法があったのです。
それは他氏との大小濃淡に関わらず「血縁関係の輪」を構築する事です。
それが氏家制度の社会の中では最も大事で効果的な手法である筈で、断りきれない柵に填まる筈です。それを演じたのが”進藤氏だった”と云うのです。
勿論、前段で論じた様に小田氏や小山氏や花房氏の様に秀郷流青木氏の努力はあるのですが、「武力的」、「経済的」、「政治的」な手法に因らない進藤氏の「人間関係の構築」によるものなのです。
秀郷一門の中で主要5氏の系譜・添書を調べても、進藤氏ほど上下左右に血縁関係を広げている一門は無いのです。
例え一門の取りまとめ役の「第2の宗家」と呼ばれる青木氏でも進藤氏程ではないのです。
前段で論じた様に自らの氏の跡目を犠牲にする位に分家・分派・支流の末端の処までを使って大小の血縁関係を結んでいるのです。
秀郷流青木氏は116氏に対して進藤氏は48氏で1/3なのですが、「進藤氏の血縁関係」は殆どが相手先に出す「養子縁組」なのです。
(この養子縁組枝葉を入れれば青木氏と遜色ない氏数になると観られます)
これは「進藤氏の影響力」を強めることには効果的でありますが、自らの本家の氏は逆に跡目が無くなり一門から跡目を入れて継承すると云う形であって、本家のこの方針に対して内紛が度々起こる程であったのです。
これは一門の中で「自らの役目」を認識しての事で、「添書」を観ると、実に詳しく記述されているのです。
「系譜書」と云うよりは「添書綴り」と云うものと成っていて、他の一門と比べ物にならない程でその役目の一端の認識具合が確認できます。
恐らく、それだけにこの「添書の形式」は、一門の中で「自らの氏の役目」の必要性を末裔に理解させる為に、又、”その務めを先祖がどの様に苦労して来たのか”を知らしめる為に添書に書き記す事に重点を置いていたと考えられます。
「自らの氏」は「自らの力」で護るのは普通ですが、血縁関係を推し進める為に進藤氏はこのぎりぎりの所にあり、「秀郷流青木氏」に護ってもらっていた事が添書から読み取れます。
その証拠に冠位等のものが他の一門に比べて少ないのです。役目に徹していた事が良く判ります。
その役目の血縁は主にどちらかと云えば「小党との血縁関係」が主流と成っているのです。
血縁を豪族や貴族や公家に結んでいれば更に自らの氏の発展に繋がっていた筈ですが「小党との血縁関係」に徹していたのです。(青木氏の様に「賜姓」と云う特別の立場にない進藤氏にとっては難しかったかも知れないだけに役目に徹したと観られます。)
陸奥域から関東域では「武蔵7党」、「丹治党」等、西は美濃域の「伊川津7党」等までの秀郷一門が定住する地域の「土豪の自衛集団」との関係保持が目立ちます。
(この事は中国域に於いても亀甲氏子集団等に観られる)
これは「中部域」とは異なる”「神明社の建立」に関わる「基盤づくり」”であり、特に北陸東北域の特徴を大きく反映した一門の戦略であったのです。
(「神明社建立」は「統治拡大」に伴う「民の人心の掌握戦術」や「戦略的拠点」と共に同じく「統治戦術の象徴」でもあった)
恐らく、他の地域と異なり「関東以北-北陸東北域」に掛けての「歴史的な経緯」から観て秀郷一門には戦略的にこれ以外には無かったと考えられます。余りにも惨く辛い醜い仕打ちを受けていたからです。
そして、この地域の「民の心」はこの穏やかに応じる特別賜姓族青木氏に向いて行ったのです。
故に血縁も成し得たのであってこの「血縁の輪」がまた「民の心」を神明に向けたのです。
進藤氏の成す「血縁の輪」と特別賜姓族の成す「血縁の輪」が連動して民の「心の輪」に波状しその象徴とする「神明社」の「生活の神」「物造りの神」に向いて行ったのです。
それだからこそ”神明=神様 神様=神明の言葉”が生まれたのです。
>”神明=神様 神様=神明の言葉”
これは「2つの血縁の輪」 がこの呼称のみに終わらず「民の心の有様」全てに波及して云った事を物語っているのです。
筆者は、”秀郷一門に朝廷が特別賜姓族を委ねた”その要因の一つには、一門が持つ各地のこの「血縁の輪」と「戦略的な背景」を見込んでの施政に対する「賜姓」であったと考えているのです。
返して云えば、実質12代も「鎮守府将軍」が続いたのですが、青木氏を始めとする「鎮守府将軍」の役目に対して朝廷は信頼評価していた事を物語ります。
その「最高の手段」が ”「賜姓青木氏の神明社建立」を担わせる事にあった”と観ていて、総合的な力を保持しているし真摯な姿勢で対応すると見込んでいたのです。
故に”全く賜姓青木氏と寸分違わない冠位、官位、官職の諸待遇の全てを同じとした”と観ています。
”全て同じ”と云う事は総簡単な事ではありません。そこには ”それだけに相当に秀郷の行動に対して信頼していた”と云う事に成ります。
桓武天皇が推し進めた神明社20の上に、さらに特別賜姓族が推し進めた神明社97-135が存在するのです。この信頼は「2つの心の輪」と結びついた神明社の数に依って評価されるのです。

秀郷第3子千国の秀郷流青木氏が入間の秀郷宗家以上の扱いを受け「家柄、身分、官位、冠位、官職」が全て上と成っているのです。”宗家以上”とは宗家の立場もあり一門で問題を起こす事もあり得ますが宗家もこれで納得したのです。
これだけ与えて河内源氏の様に振舞われては「朝廷の権威」にかかわる恐れがありますが万来の信頼で与えて行った事に成ります。
「11代の源氏」の「やり過ぎ」と対比して「賜姓青木氏の生き様」が「民の心」を捉え、そしてその特別賜姓族青木氏がそれに勝るとも劣らずの氏であった事が「民の心」を和ませ信頼して行った結果であると観られます。それを自らの身を削って補完して行った進藤氏が居たからこその成し得た功績であったと云えるのです。秀郷一門「青木族」の一つ「進藤氏」ならではの行為であります。
(我々青木族は末裔として同族の進藤氏に対して尊敬せねば成りません)
その意味で、神明社もこの様な非常な努力の上に成り立つものであり、初期の「国家鎮魂の八幡社の建立」を担う「皇族賜姓族」が元々無かったのは、「朝廷の勅命」に頼る以外には建立する方法が無かったのであって、それだけに神社建立は一筋縄ではいかない非常に難しい事であった筈です。
(源氏の様にカーとならずに沈着冷静に人の道を外さずにそれを成し得た事の結果なのです。)
まして、後の「弓矢の神の八幡社」とも成れば、武士階級に限られ歴史的な辛い経緯から観て少なくともこの地域に於いては全く不可能であった筈で、そもそもこの地域には余りにも「民の心」にすっきりと浸透して行った神明社があったのですから、「国家鎮魂の八幡社」さえをもそもそも建立する必要性は無かった事が云えます。
ここが重要で、奈良期から「神明社」がどんどん建立が増えて行きながらも、同じ奈良期からの「八幡社」の方は「再建などの勅命」が無ければ荒廃して行ったのです。
「神明社と八幡社の明暗」はこの北陸東北域に於いて顕著に出たのです。論じている7つの地域には「神明社と八幡社の明暗」はそれぞれ又違う明暗を示しているのです。
「神明社」と「八幡社」の大きな違いはここにあるのです。「2つの賜姓族青木氏」と「11代の源氏」との明暗と極めて類似しているのです。

「神明社」は「2つの青木氏」が「皇祖神-祖先神」のつながりの中で建立する、「八幡社」は豪族への勅命による建立と成っていたからなのです。その違いの大本は「守護神の存在意義」であって、「生活の神」「物造りの神」としての民に直結する意義であり、八幡社は国家的な「国家鎮魂」の意義であって民に直接的な意義ではなかった事にあります。なかなか勅命とは言え豪族にその建設を命じる事は何かの適宜な根拠か理由が無ければ難しい事に成ります。普通ではあれば朝廷自らの財力で建設する以外には無いところです。せいぜい出来たとしても修理が関の山ではないかと考えられますし、現実にはその様であったのです。
河内源氏や未勘氏族がこれに目をつけたと考えられ、その「存在意義」を歪曲して ”国家鎮魂は武士の弓矢により成し得るものだ”とする理屈を付けて、”八幡社を自らの氏の守護神”の様に扱ったとする傾向が見られるのです。
そうかと云って”自らの氏の守護神”と宣言豪語するには「皇族系の祖先神」の立場にある以上難しかったと考えられます。

それは「神明社」がその役目を同じ立場にいた「皇族系の祖先神」の「2つの青木氏」が担っていて、且つ「桓武天皇期の建立」(伊勢青木氏の末裔-光仁天皇の父施基皇子の皇孫)に観られる様に天皇自らが積極的に担っていたからです。

「八幡社の現実」
この事から逆に言えば「河内源氏」の大きく関わった地域のみに「弓矢の八幡社の建立」が可能であった事が云えます。
現に調べて観ると、因みに河内南隣の最も近い紀州では上記した様に「八幡社」は極めて少ないのです。「弓矢の八幡社」は限定された局部地域に於いてであり、室町期後期以降の後付のものである事が傾向として云えるのです。矢張り相当後ろめたい気を使っていた事を物語る事象です。
そもそも隣国である紀州であれば「河内源氏の荘園」が出来ている筈です。すぐ隣で都合が良い筈です。
しかし、出来ていなくて「藤原北家筋」(藤原脩行)の荘園」と「熊野大社の系列」が殆どです。
返して云えば「神明社建立」で成り立つ事であるからです。
前段で論じて来た様に、紀州はそもそも古来より「皇祖神の遍歴地域」でもあり、ここに「河内源氏」が食い入って「荘園や八幡社」を建立する事は朝廷に対しても歴史的にも皇族の立場上も難しかった事が考えられます。これ以上朝廷との軋轢を悪化させられなかった背景が観られます。
地形的にも紀伊半島と云う地理条件と温暖な環境からすると荘園としては最高の立地条件であります。
”喉から手が出るほどで”あった筈です。しかし、ここにはこの「弓矢の八幡社」は極めて少ないのです。
殆ど無いと云っても過言ではありません。
「熊野大社の社領」と云っても主体は南紀であり、北紀は平安期は藤原北家の所領で、現在でも特に「春日社」が多い地域なのです。「伊勢神宮の社領域は勿論の事と、この神宮を中心とする一定の円系内には一切の社物は禁止されていた事もあって、少なくとも北紀州の領域は「皇祖神遍歴地域」であった為にいくら「河内源氏」でも出来なかったと考えられます。
少なくとも平安時代には伊勢を中心として「南に向かっての太陽の昇る方向の地域」に対しては避ける配慮があって「不入不倫の権」の解釈拡大で護られていた事もあると考えられます。
故に太陽の昇る方位地域の「熊野詣で」の30年間の間に65回も累代天皇が詣でる地域であった南紀も然ることながら、”八幡神社”の呼称すら余り聴かない地域なのです。
事程然様に、紀州の如くにそもそも「勅命による国家鎮魂の八幡社」はいざ知らず「河内源氏の弓矢の八幡社」としての建立は極めて難しかった筈です。
それは、上記のように「古来からの環境」がある中でも紀州の様に難しいものであっただけでは無く、別には「神明社の氏上様」は「賜姓青木氏」でもあったからです。
つまり、「神明社=青木氏」と観られていた地域であって、且つ「3つの発祥源」であったからで、元々「神明の意味」を普通に解せば、「生活神」「物造神」「家内安全神」「身安全神」「国家鎮魂神」「武神」は「皇祖神」に繋がり、「自然神」に繋がり、「応仁神」に繋がり、「雄略神」に繋がり、あまつさえ「皇祖神」の「天照大神」の「伊勢神宮」の2神に繋がる「総合神」としての「祖先神の神明社」であるからです。
だから、この関西域の”「神明=青木」”と同じく、北陸東北域の ”「神様」と云えば「神明」、「神明」と云えば「神様」”の呼称が生まれ慣わしと成っていたのです。この「呼称の意味」が神明社を大きく物語ります。
何も「国家鎮魂・弓矢の八幡社」に殊更に信心する必要性は無かったのです。

「神明社は総神」
隣国国境の北紀州に於いてでさえも「国家鎮魂や弓矢の八幡社」は無かったのですから、北陸東北域に於いてでは、上記の通りの「環境と歴史の経緯」から観ても ”「神様」=「神明」”以外には無かった筈です。
まして、上記した様に、歴史的な民族の経緯に因って「産土神の思考原理」が奥深く潜んでいる「祖先神の神明社」です。
こう成るとこの地域の「祖先神」には、「皇祖神」は勿論の事として、「産土神」「八幡神」、強ち地域性から観ても「春日神」や「鎮守神」の「存在意義」も潜んでいる事を否定出来ないのですから、最早、「慣わし」の域を超えて当然の「総神」である事は否めません。
そもそも平安期から「氏家制度」は「社会の慣習」を「伝統」として重んじる社会構成である中では、突然に「勅命」による為政の「国家鎮魂の八幡社」も、あまつさえ「弓矢の八幡社」は相当な事で無いと新規建立は出来ない慣習です。
筆者は「氏家制度」が強く慣習として護られていた室町紀中期・下克上・戦国時代以前の社会の中では慣習的にも論理的にも有り得ない”と観ています。

この考え方からすると「弓矢の八幡社」は殆どは「未勘氏族」による「後付の行為」であって、それは「氏家制度」が緩んだ室町期後期からの事であり、徳川家康-家光の3代に渡る「宗教改革の一環」として「武士の社会」を安定化と固定化するために打ち出した「八幡社奨励令」(浄土宗督奨令)にて拡がったものと考えているのです。

この考え方と上記した「藤原一門の組織形態」が関東から北陸東北の神明社建立に大きく貢献しているのです。何も「八幡社」に拘る必要性はこの地域では、上記の通り「総神」である以上、最早、無かった事を意味します。
この様な背景の中で秀郷一門の行動が上記した「神明社-八幡社の関係式」を作り上げたのです。

「神明社の分布進路」
それが「以北方向」からと他方「関東方向」からの2つの方向から進み、宮城では常陸や武蔵から下野、上野へと北に伸張し、保護した諏訪族青木氏の立ち直った力を借りて仙台の直前までその勢力圏を伸張したのです。
つまり「神明社の分布進路」の経路は2つの方向から起こったのです。
その意味で、「北陸東北域の総合分布」の表は、”「秀郷流青木氏の活動」があったからこれだけの建立が出来た”と云うのではなく、何時の世も「特段の事」を成すには何がしかの「特段の要素」が働いて成し得るものですが、この「特異な経緯」を持つこの地域では、前段で特筆している「進藤氏の活動」があっての事であって、その行動とこの総合分布の結果と真に一致するのです。
青木氏と進藤氏の「活動分布」とこの「分布の比率」が一致するのです。
つまり、「秀郷流青木氏(特別賜姓族)」の真にこの「勢力分布」と「青木氏末裔分布」に「神明社建立分布数」が相対しその進路さえも相対しているのです。
とりも直さず、「越後を前線基地の拠点」として働き、「特別賜姓族」「第2の宗家」「秀郷流青木氏」の夫々の「3つの役目」が的確に進められていた事を物語ります。
戦略的に観て、これには「進藤氏の活躍」と「越後の前線基地」としての働きが大いに功を奏したと考えています。
そして、それは「桓武天皇期の20の神明社」と「義家事件の直後の時期」の条件が合致した結果(566)と考えられます。
この様な確固たる基盤に護られていたからこそ「関東域」にも勝るとも劣らず、「最大勢力圏8.5の中部域」にも逼迫する分布が成されたものであります。

「6の中国域」
・「6の中国域」は「7の四国域」と共に「たいら族」の圏域でもあった事や「出雲大社」の圏域でもあり、「源氏の勢力圏の外」にありますが、「荘園制」による「未勘氏族」の多い所で在った事から日本海側の北域の多くは「未勘氏族」に依って建立されたものと成ります。
この域は神明社のデータを観ても「神明社の完全な圏域外」でもあります。
しかし、極めて微妙な地域でもあり、「瀬戸内」に限っては日本最大の利権が潜む地域を有しているのです。
”「瀬戸内を制する者は国を制する」”と云われて来た地域でもあり、その影響を受けて日本海側の北域にも少なからず影響を与えた地域なのです。
古来より醜い政治性が渦巻く地域を有しているのです。その中に「神明社と八幡社」が存在しているのですから無影響である筈はありません。
関東域と北陸東北域の状況と大きく異なる処があるのです。その意味で対比して論じる必要が出てきます。

>6の中国域は「八幡社24+神明社9」=33

>総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
>0.4倍    0.4     0.5

>6 中国域 八幡社 5県-24-7.9%(全体比)-平均5/県
>  中国域 神明社 5県- 9-1.6%(全体比)-平均2/県

>八幡社 山口9 広島5 岡山4 島根4 鳥取2
>神明社 山口1 広島6 岡山1 島根1 鳥取0 

「県別分布の現実」
この域の青木氏は前段で論じた様に、平安初期から「讃岐藤氏」の「秀郷流青木氏」の絶大な圏域で、「讃岐」は元より「瀬戸内」、「土佐の一部」、「安芸や美作」には土地の土豪との間に血縁族を作り、「出雲大社の氏子集団」の「亀甲衆団」との血縁も進め、その勢力を宍道湖のところまで伸張して、其処には「2足の草鞋策」を足懸りに「讃岐藤氏の勢力圏」を構築したのです。
その為に県別分布では広島域が神明社が最も多い事でも証明できます。
ただ「亀甲衆団」との血縁族で広げた圏域は、「神明社」を一つ作る勢力が精一杯のものであったと観られ、広島は八幡社でも神明社も同じ勢力ですが、ここの「神明社」は「讃岐青木氏」が「未勘氏族の八幡社」の中に食い込んだ事で、室町末期の中国域の豪族から「八幡社勢力」と成ったと観られます。

「八幡社」の山口9、つまり「長州の八幡社」は納得出来ます。
実はこの中国域には、因みに「源氏の未勘氏族」は3氏があり、この3氏とも清和源氏頼信系で小笠原氏(山口9)と安芸武田氏(広島5-安芸4)と山名氏(島根4)ですが、この「3氏の圏域範囲」のみに「八幡社」の分布と成っています。
島根と鳥取の神明社は、此処には秀郷一門に追い出された土豪足利氏の本家一族とこの一族と血縁した「足利氏系青木氏」の賜姓族の一部末裔が秀郷一門に追い遣られて八頭と米子に移動定住し、その後、宍道湖東まで定住域を広げていますが、この末裔が神明社を1社程度建立する勢力圏を構築していて、その「勢力分布」と「末裔分布」であった事を示しています。
神明社の広島6は「讃岐青木氏の血縁族」を広げての「勢力分布」であり「末裔分布」で在った事になります
この地域は「神明社」の「生活の神」「物造りの神」の守護神であり、「八幡社」は単純に「弓矢の神」の「八幡社」であったのです。
この中国域は奈良期から「阿多倍が引き連れてきた職能集団の土地柄」で室町末期までその最大勢力を誇り、中国域全土を制覇した「陶部」の「陶氏族の土地柄」です。
依って、元より阿多倍一門の西の九州は大蔵氏、北の北陸東北には内蔵氏、中部北には阿倍氏、この中国域には「たいら族」の圏域と成っていて、他の勢力が食い込む事はなかなか困難な土地柄で、そもそも、”蟻の隙間も無い”くらいに「神明社や八幡社」が食い汲む事の事態が珍しい事なのです。

このデータは、其処に「讃岐藤氏」がうまく「血縁による戦略的な方法」で食い込んだ事の意味や、問題と成る「清和源氏頼信系義家」の「荘園制拡大で未勘氏族を広めた事」の勢力のパラメータの数字としても吟味できるものなのです。
まして、この「中国域」には古来より「出雲大社」と「厳島神社」の「2つの神域」でもあります。
其処にこれだけの「神明社9と八幡社24」の33は「関西域77」に匹敵する位の意味合いを持っています。
それだけに中部域の「神明化八幡社」や「北陸東北域」の「八幡化神明社」の様な「存在意義の変異」は起こり得なかったのです。
むしろ「弓矢の八幡社」をより鮮明にしてその背景に対峙したと考えられます。
「神明社の存在意義」も元より「陶氏」に観られる様に「職能集団の地場」であった事から「生活の神」「物造りの神」はそのままに新鮮に受け入れられたのです。それは真に「陶部の陶氏」が物語ります。
この中国域は「瀬戸内」を四国域と挟んでいる限りには分離して論じる事には危険があり、次ぎに合わせて「瀬戸内」を中心に論じる事にします。
それだけに「瀬戸内」は両域に取って大きな意味を持っていて「接着剤の役割」または両域の特徴の重複する部分なのです。

「7の四国域」
・先ず「7の四国域」は「讃岐藤氏の讃岐青木氏」と「阿波の阿波青木氏」で何れも秀郷一門の「秀郷流青木氏」の土地柄です。ここに特別賜姓族の青木氏が建立した「神明社」より「2倍の八幡社」が建立されているのですが、この「神明社」が建立されている背景は、この「讃岐青木氏」の香川1と愛媛2と高知3の6神明社で、この建立地の範囲が「下がり藤に雁金紋」の「讃岐青木氏」の丁度、その勢力圏でもあります。
徳島3は「剣片喰族」の「阿波青木氏の勢力圏」です。讃岐と阿波の6対3の比率に相似する末裔分布でもあり、この「2つの青木氏」は秀郷一門の中でも主要な青木氏で、「主要8家紋」の一つでもあり、かなりの「第2の宗家」としての「発言力」を占めていた事が判ります。
特に「讃岐青木氏」は家紋に示す様に綜紋である「下がり藤紋に副紋付き」の家柄で「第2の宗家」の本家筋に相当する力を持っていたのです。
平安期の関東の「平将門の乱」と呼応して起こった「瀬戸内」の「海賊騒動」の「藤原純友の乱」(多説あり)に観られる様に、「清和源氏の祖の経基王」に「海賊の嫌疑」を掛けられたほどに、「瀬戸内の制圧権と利権」をめぐる「朝廷との軋轢」はすさまじいものがあり、その中での「神明社建立」とそれに伴なうその「讃岐藤氏」の「勢力伸張」は警戒されていたのです。
藤原氏北家の中では「田舎の藤原氏」と蔑まれ、しかしその田舎者が「瀬戸内」と云う地域で「利権と権力」を拡大させていたのです。その中で瀬戸内の「海の族」を纏め上げて行ったのです。


>八幡社 香川6 徳島3 愛媛9 高知3
>神明社 香川1 徳島3 愛媛2 高知3
(下記重複)

この高知を除いた香川と徳島と愛媛の計「神明社6」は「関西域の25」に対してその「立場と勢力」から観て小さいと考えられます。しかし、「讃岐青木氏1氏」の実力から観ると、「中国域9の神明社」も合わせると「15の神明社」と成りますので、関西域は3氏として観ると25/3対15/1と成り、「讃岐青木氏」は他の秀郷流青木氏と比べて約「2倍の力」を持ち得ていた事が「神明社」を1つのパラメータとして観ると良く判ります。「瀬戸内の富」を背景に「田舎者藤氏」は「入間の宗家」に匹敵するくらいに財力と利権と勢力を拡大していたのです。「妬み」が生まれるのはこの世の常です。警戒をしなくてはなりません。
この事から観ると、「武田氏滅亡」により「讃岐青木氏」を頼って逃亡して来た土佐に住み着いた「甲斐賜姓族」の「武田氏系青木氏」を匿う能力が十分にあったとされます。
依ってこの高知3の神明社はこの「讃岐青木氏」の援護の下に建立された事が判ります。
恐らくは、他の地域の逃亡先の「神明社自力の建立能力」は「神明社1程度」が相当と成っていますので、高知3の内の1は青木村を形成している事も考え合わせると「土佐の青木氏」が建立したと成ります。

この様にこの四国地域の「神明社の建立」は良く判るし、室町期中期頃までの守護神の社を建立出来る豪族となると、藤原氏を除くとこの四国域では14の豪族と成ります。
この14の豪族の内、藤原氏の血縁族は家紋分析から6割を占めます。
しかし、この中で「八幡社」を建立する「清和源氏頼信系の豪族」はただ1氏で「阿波の三好氏」だけであります。
徳島3はこの三好氏に因って建立されたと考えられますが、「八幡社」では愛媛9の伊予とすると4氏の豪族、香川6の讃岐とすると3氏の豪族、高知3の土佐は6氏の豪族と成ります。
これは”平安末期に「清和源氏頼信系一門」の影響(主に荘園制)を受けた豪族は少ない”と云える事に成りますし、或いは海を越える地理的な要素を勘案すると、「讃岐藤氏」の「瀬戸内」を跨ぎ中国域も勢力圏に納める大圏域の影響等から考察すると、この域では「河内源氏の荘園名義貸し」の難しさが大きく働いていたのでは無いかと考えられます。

「八幡社の疑問」
そうすると、では”誰が八幡社を建立したのか(イ)”、又”「弓矢の神」を守護神にしたのか(ロ)”と云う疑問が出て来ます。現実には吟味したデータでは21社が室町期中期までには建立されている筈です。
この「建立する能力」を持った豪族は藤原氏宗家と讃岐と阿波の秀郷流青木氏16氏とすると、残るは「2つの秀郷流青木氏」と「小さい未勘氏族の集合体」以外には無い事に成ります。
幾らこの讃岐と阿波の「2つの秀郷流青木氏」が建立したとしても「春日社」、「神明社」、「八幡社」の ”「3つの守護神」を建立する事は可能なのかどうか”(ハ)です。

そこでこの3つの疑問(イ)(ロ)(ハ)に付いて検証する必要があります。
先ず、下記の通り「八幡社と神明社」の合計31と「春日社」を合わせても、下記の関西域との比の総合倍率0.4をパラメータとして使ったとして、「春日社」は30社と成りますから併せて61社と成ります。
これに「中国域の建立分33」と「春日社」の同じく総合倍率0.4ですのでこれを積算したとして66社となります。
これを合わせて全127社と成ります。
上記の「2倍の勢力」(15)を持つ「讃岐青木氏」と、徳島3の「阿波青木氏」の勢力を同倍率からほぼ0.3と観て、2.3倍率と成ります。
これを合わせたとしての127社の建立は、他の域のデータと比較すると、「関東域の115社」と「北陸東北域の135社」の丁度その中間の勢力を保持していれば可能と云う判断に成ります。
そうすると下記の表の通り「関東域の勢力」2.7と「北陸東北域の勢力」1.8と成ります。

>           総合倍率  神明社倍率 八幡社倍率
>A 関東域      2.7     4.6     1.8
>B 北陸東北域   1.8     3.9     0.7
>  (A/B)     (1.5)   (1.2)    (2.5)
>C 四国域      0.4     0.4     0.4
>D 中国・四国域  [2.3]   (0.8)    (0.9)   

以上の表より次ぎの関係式が成立します。

>「関東域の勢力」(2.7)>「四国域の勢力」(2.3)>北陸東北域(1.8)

丁度、「関東域の勢力」と「北陸東北域」との「中間の勢力」を保持している事が云えます。
中国・四国のこの総合調整倍率[2.3の勢力]と云う事のみでは、”建立する能力はあるか”と云う事に成ります。
そこで、個別の「神明社倍率」と「八幡社倍率」の(A/B)の比1.5から観て「神明社倍率」もほぼ同比率1.2である為に1.5≒1.2と成り「建立可能」と成ります。

次ぎに「八幡社倍率」は2.5/1.5ですから確かにハンディーがある事は認められますが、この「中国域の八幡社建立」は、山名氏や武田氏や小笠原氏の大豪族3氏の清和源氏頼信系の豪族と、その「未勘氏族」に依って建立されているので、このハンディーは抹消されますので問題はなく成ります。
むしろこのハンディー(2.5/1.5)は「余力」1.0と観る事が出来ます。
そうすると次ぎの要件がこの地域にありますのでこれを吟味する必要が出てきます。

>7の四国域は「八幡社21+神明社10」=31

>「関西域基準比」
>四国域                    (中国域)
>総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率  (総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率)
>0.4倍    0.4     0.4      (0.4倍    0.4     0.4)

>「全国比」
>7 四国域 八幡社 4県-21-5.9%(全体比)-平均5/県
>  四国域 神明社 4県-10-1.7%(全体比)-平均3/県

>「県域数」
>八幡社 香川6 徳島3 愛媛9 高知3
>神明社 香川1 徳島3 愛媛2 高知3

この検証の問題には次ぎの「5つの要素」が働きます。
A「地理性」
B「経済性」
C「歴史性」
D「圏域の広さ」
E「武力」
以上の「5つの要素」が影響します。

「5つの要素」
この「5つの要素」は次ぎの様に成ります。
・Dの「圏域の広さ」は中国域5+四国域4で9県であり、ほぼ一致しますので問題は無いと観られます。
・Cの「歴史性」は比較は難しいですが、平安末期は「関東の動乱」と「瀬戸内四国の動乱」は一致しますし、その後も「下克上と戦国戦乱」は同じであったとほぼ考えられます。
・Eの「武力」は「神明社」と「八幡社」を他氏から侵食を防ぐには必要な要素ですが、平安中期からのこの地域での「長期間の経緯」を背景にすれば、この「2氏の秀郷流青木氏一門の勢力」を持ってすれば可能と考えられます。(下記 藤原の純友の乱以外は現実に護られて来た。)
・Bの「経済性」は日本海側まで出た瀬戸内全体の廻船業の権勢を誇っていますので「2足の草鞋策」から全く問題は無い事に成ります。

そこで筆者はこの「5つの要素」のキーポイントは最後に残る大きく「地理性」に関わっていると観ているのです。
この「地域の特徴」は”「地理性」そのものにある事だ”と考えていて、それは”「瀬戸内」”と云う要素だと云う事なのです。
この”瀬戸内”は10国の沿岸部を持ち、これに依って「姓氏」の始祖の「海部氏」等に代表されるように「海鮮業」が盛んに成り、当然にこれに伴い「造船業」や「廻船業」も起こります。
ましてこの海は古来より中国域を制していた陶部の「陶氏」に代表される様に「物造り」の盛んな地域でもあったのです。「総合産業域」といっても過言ではない「瀬戸内」圏で、その圏域や勢力が廃り侵食される事は100%無い事が判りますし、現在でも健在です。
現実に昭和20年までこの圏域は「総合経済圏」で保たれていたのです。
因って、この海域を制することは「莫大な経済的な富」(a)と「海利権などの威力」(b)を獲得します。
この「2つの富」(a)(b)を以って勢力圏を高めれば上記する関係式の[2.3]の「勢力の基盤」の構築は可能と成ります。
この「経済的な基盤」(a)(b)の裏打ちが可能と成る事に依って「八幡社の建立能力」は出て来ます。
それは「武力」に依って得られる「税的な経済的基盤」だけではなく、自ら営む「商業」、つまり「2足の草鞋策」に依っても充分に成り立つものです。
この「讃岐青木氏」と「阿波の青木氏」はこの”「瀬戸内の海域の廻船業と造船業」”を営み、取り分け「讃岐青木氏」はこの力を以って安芸、美作を越え石見、出雲の北の海まで伸張しているのです。
それは「商い」のみならず「血縁関係」までを構築して末裔を定住させると云う実に「高度な戦略的手法」に観ても「三相の理」を得る「完璧な戦略」を駆使しているのです。
この結果、記録によると昭和20年頃までこの廻船業・造船業を営んでいるのです。
又、「阿波青木氏」も史資料によると、その末裔も淡路までの範囲で「廻船業・造船業」を営み「紀伊水道域」を征し手広く北の海まで出かけている事の資料が多く遺されています。
この2氏はこの様に「2足の草鞋策」を手広く営んでいたのです。
これらの検証から(イ)(ロ)(ハ)の疑問は説明できます。

「瀬戸内」と「2つの鍵」
「讃岐と阿波の2氏の青木氏」が「瀬戸内」と「紀伊水道」を制していた事は「政治的・戦略的」に観て「清和源氏頼信系の八幡社」の勢力伸張は難しかった事が判ります。
筆者は前段で論じた清和源氏の祖の「経基王の讒訴」「藤原純友の乱」の「海賊嫌疑」はこの「勢力圏の拡大」の「嫉み」に依るものと観られ、裏を返せば ”この地域の利権の獲得を狙っていた”と観ているのです。それは清和源氏の「勢力拡大の基礎力」にしたいとする狙いであったと考えられます。

実は「瀬戸内」のこの「海賊(海族)の正体」と「勢力伸張の難しさ」とを顕著に現れている事件があります。
それはこの「瀬戸内」で起った「源平の2つの戦い」の「義経の行動背景」にあるのです。
ここにはこの「瀬戸内」と云うものを説明する「2つの鍵」が隠されているのです。
その「2つの鍵」とは一つ目は「海賊・海賊」と云うものであり、二つ目は「財力・利権」なのです。
それは関西域の海域圏の東側の沿岸沿いにこの「摂津水軍」と「紀伊水軍」と「熊野水軍」と「伊勢水軍」と「駿河水軍」が制していて、これに対して義経は「源氏への合力」の為に半年を掛けて懸命に数度の談合を試み、遂にはその合力を獲得する事が出来た歴史史実があるのです。
この「談合」にはその「合力の目的」として「2つの鍵」が義経の腹中にあったのです。
その「2つの鍵」は「平家側」には存在し「源氏側」には無かったものなのです。
この「2つの鍵」に必要とするものは、つまり「海族」を意味する「水軍」なのです。

(資料に因れば、「たいら族」の忠盛は密かにこの水軍を使って禁令の「宋貿易」を始めていて莫大な利益を獲得していて清盛に成って本格的に貿易を行った。朝廷からも疑われていて藤原氏もこの事は讃岐藤氏からの情報で承知していた。大蔵氏も承知していた。)

先ずは勝利の為には「水軍の獲得」であり、その水軍を獲得した暁には勝利し、そして遂には当面の目的として2つ目の「財力・利権」を平家から奪取し、その「財力・利権」に依って最終目的として「清和源氏の繁栄」と「生き残り」であったのです。
それには先ずは「平家と同じ戦力」に到達させる事であり、「同じ戦力」に到達させた上で相手の弱点を突く戦術を構築して戦いの前哨戦を制する事であって、その後は同等の戦力で常套作戦で挑む戦略を描いていたのです。
その元と成るのは「水軍」であったのです。その為には平家と同じ「兵能水軍」ではなく弱点を突ける水軍でなくては成りません。それを持っているのが上記の「5つの水軍」であり、弱点を突ける共通する武力を保持していたのです。
この「5つの水軍」の中でも「紀伊水軍」はその能力を最大に持った水軍であったのです。
中でも、瀬戸内に明るい「摂津水軍」(摂津を中心とする大阪湾海域の水軍)と最大の能力を持った「紀伊水軍」(大阪湾から淡路から紀伊水道海域)に対しては「合力嘆願」には苦労を重ね、記録によると時には義経が襲われると云う事の中から得られた強烈で強力なものでした。
この「弱点を突ける能力」とは「海族」の中に潜む「海賊の戦闘術」であったのです。
この「5つの水軍」にはそれぞれの地域の海域の違いにより大小があるにしてもこの「海賊の戦闘術」を必要性として保有していたのです。
平家水軍は職能集団の海の「兵能集団」でこの海賊性はもとより保有していないのです。「陸の兵」に対して高度で常套な操船術を保有した「海の兵」なのです。

「義経の行動と瀬戸内」
平安時代は「武」に従事する者として、「源氏」の様に「武家」を組織して兵とする集団と、「平家」の戦力の様に組織化されない「兵能」の兵とする集団との2つが混在していたのです。
「源平の戦い」は別の意味でこの2つの異なる覇権をめぐる「兵の集団の戦い」でもあったのです。
義経はこの「2つの違いの弱点」を突く発想であったのです。
この事に付いてはその「2つの水軍」の末裔の「私史資料」が発見され、共通する事としてその中に詳細に記録されているのです。
その2つの資料に共通する事は「義経の人柄、将の力量」とこの「源平の海上戦」の「義経勝利の秘訣」であって、そのつまりはその「戦い方」にあるとして、それは「水軍の野戦的戦法」(海族的戦法)と記録されているのです。
この「瀬戸内」と「紀伊」の「2つの水軍」は不慣れな「平家水軍の通常戦の常套的戦法」(後の村上水軍)様な戦い方を嫌い ”海族的な「野戦的戦法」なら合力する”との双方の考え方の合意が得られたからなのです。この様に記録されているのです。
「義経の人柄、将の力量」を見抜くに時間を掛けたとする「末裔の忘備禄」が発見されたのです。

「八幡社・神明社」を論じる時にこの「瀬戸内」に於いては、この「義経の行動」が「瀬戸内」を語る上で欠かす事が出来ない事なのです。
上記した様に”「瀬戸内を制する者は国を制する」”の事に大いに関係してくるのです。
そして、その「義経の戦略」が平家を倒し「源氏体制」を確立する為には「絶対条件の瀬戸内」であったのです。
そして「義経」はその「2つの鍵」を念頭に綿密にその様に行動したのです。そして”その判断(2つの鍵)に賛同したからこそ合力した”と記されているのです。
紀伊水軍は”この「2つの鍵」が理解されていないと合力しても敗退し却って自らも滅ぼす”と考えていた事に成ります。
そして彼等の水軍は”それを理解できているか”の”「将としての力量」があるか”の「瀬踏み」をした事に成ります。
そしてその「瀬踏み」では、実に「用意周到な性格」で「勇猛果敢」で実に「沈着冷静」の「源氏の将」と記録されているのです。資料から観て筆者の印象も同じです。
そして、戦いでは、特に「紀伊水軍」は真に「海族的戦法」で奈良期からの阿多倍の「職能集団の平家水軍」を戦いの勝負が決まる前哨戦で打ち破ったのです。
そして、この「紀伊水軍」は海戦終了後、恩賞を受け取らず直ちに紀州に戻った事が記録されているのです。
他の合力した「3つの水軍」は一つは前段の青木氏の「伊勢シンジケート」の水軍、後の2つは「熊野源氏」と「駿河源氏」方の水軍です。
この「2水軍の戦力」と「5つのライン上の5水軍」が整えられていれば「神明社と八幡社」の勢力圏を揺るぎ無いものにしていた事が判ります。

(参考 紀伊水軍の「海賊的野戦戦法」と3つの水軍の「常套戦法」の「2段構え戦法」であった事が記録されていて、この戦法に「海賊的な紀伊水軍」がやっと賛成し「義経個人」を信頼して個人に合力したと記録されている)

日本全国何処の海域でも上記した「5つの水軍」の様な「海族」が「陸の土豪」と同じ様に存在します。
これ等が「海の支配権」を持ち「海域」の「勢力バランス」を保っているのです。全く陸と同じなのです。
「海・陸」何れにしても、この「海域支配権」「領地の支配権」を無視し、或いは軽視する場合は攻撃されるは当たり前の事で、これを「海賊」とすれば、陸の土豪・豪族も「山賊」と成ります。世に俗に云う「一所懸命」なのです。
もし「海賊」がいるとすればそれはこれ等の「海族」が掃討し自らの海域を護るのです。これは海と陸は同じであって、それに依って船舶の「航行の安全」がより保てる海域となるのです。
そして、何時か多少の荒くれがあるとしても海賊の類は結局は掃討されて、秩序としてこれ等の「海族」の支配下に置かれるのです。
現在の契約社会から観れば「海賊」であっても、当時の時代考証からはこれ等は当然の事であって、「一定の支配権」の下にその「安全の契約」を「暗黙の社会のルール」の中で保てばむしろ逆に安全な手法となるのです。これは陸も同じです。
前段でも論じてきた「大規模な商い」を行おうとすれば、この「安全の契約」が必要に成り輸送などの事が行えるのです。多くは「自らの経済力」にてシンジケートを構築すればよい事に成ります。
これも一つの「安全の契約」で現在でも同じ「安全の契約」は必要であるのと同じです。

「安全の契約」と「水軍・海族」
現在と過去の「安全の契約」の違いは直接的に保障されるのか、はたまた間接的に保障されるのかの違いであります。
過去の場合はこれ等の海の「海族」と陸の「山族」を一つの組織の中に取り込み、各地の勢力の届く範囲でそれをシンジケートとして構築する直接的な「安全の契約」の保障制度を採用していたのです。
要するに現在の様に「律令制度」(契約社会)が未だ完備されていない中では、「氏家制度」の中の「社会の秩序」を保つ為の当然の「安全の契約の保障制度」であって、この「シンジケート」にして纏め上げる「慣習システム」は一つの「社会の暗黙の慣習制度」なのです。
これを現在感覚の契約社会感覚で「海賊や山賊」と見てしまえばそれはそれまでの事であり、少なくとも明治以前の社会は「シンジケート」はある意味で「社会の暗黙了解」のある「治安維持機構」であり、「警察機構」でもあり、「職業更正機構」でもありして、本質的に「善悪の考え方の量と質」が違うのです
要するに「純友」は海の族を「海族と海賊」を一つにまとめ「水軍」として統括し、これを武力に頼らず義経の様に「政治的」に行っただけの行為であったのです。
むしろ、当事の世情と時代背景から考えると、武力による解決は武力の連鎖が起こり、この結果の「恨み辛みの怨念」が渦巻く社会世界が生まれます。
しかし、純友の様にして要するに「海のシンジケート」を構築する事は「恨み辛みの怨念」は霧消します。
彼等にも家族先祖伝統の普通の社会生活があるのですから、むしろ、「理想的とするべき処置」でもあったのです。
その行為がより伊予・讃岐の土豪の藤原一族一門の「安全の契約の保障制度」になっていたのです。
当然にこの「安全の契約」によってそこには「莫大な利権と勢力の圏域」が生まれるは何時の世も同じです。
上記した「2つの鍵」を紐解く「義経の行動」を述べましたが、実は下記に述べる様にこの事には大きな意味を持っていたのです。

注釈 「水軍と海族の論処」
これには多くの通説があって大別すると、土豪が海賊に味方して首領に成ったとする説と、筆者が採用する上記の「シンジケート説」の2つに成ります。青木氏から観たシンジケート説です。
遺された資料からよく調べると、「海賊」と云っても「1000艘以上の大船団」を持ち、当事としては全国トップの勢力を誇り、「複数の自港」(日振島等)を持ち、その船団の組織化された首領格には正式な「藤原氏」が多く存在し、船団以外にも「地上戦」も行い強く各沿岸部の地域を奪取していて、北九州から紀州域までの海域と陸地も豊後や伊予や讃岐や安芸や紀伊の「地域を領有する豪族」と成り、「純友神社」や「純友城」等も有する「海と陸の両方を有する豪族」で、「叙位従5位下の下級貴族」なのです。
更には”周囲の沿岸部の民からも慕われていた”とする「神社の記録」複数が残されていて、その記録を信じるとして、「純友」が納めている間は「穏やか」であったとしているのです。
上記の「恨み辛みの怨念」は”何処吹く風”でむしろ”民から慕われていた”のです。
これはどう観ても「海賊」ではありません。上記した様にまさしくこの地域の荒くれをまとめて組織化し成し遂げた「海族」なのです。
まして「自らの神社」(大きな意味を持っている)を持つ者など陸にも少ないのです。これは下記に論じますが本論の本質を意味しているのです。
この純友の「神社・城」はただの「神社・城」の意味だけではなく、「神明社・八幡社」で論じている様に、これには「歴史的な生き様」が遺されているのです。絶対に見逃してはならない要素なのです。
つまり、そこには「神明社の青木氏」と同じく ”それは組織から崇拝されていた事”を色濃く示す事にも成ります。
その「組織の局部」を捉えれば荒くれである以上は「海賊的な要素」も見え隠れするでしょうが、それを捕らえればそれはその様に見えるかも知れません。しかし、「神社・城の存在」は「神明社」で論じている様に”「何がしかのその儀」”を有している事に成る訳ですから、それを基下に組織化している限りは「陸の豪族」とは内容は異なりません。
その「何がしかの儀の如何」と「局部の荒くれ」であるかどうかの違いだけです。「局部の荒くれ」であるからと云って”「海賊だ」”とするにはそれをその様に決め付けた側の ”何か「裏の意」”が感じられます。
その”「裏の意」とは一体何なのか”です。
そもそも「海賊説」とそれを発端とする「出自説(複数)」等を良く調べると、兎も角も、先ずは当時の社会の「時代考証」が不十分なのです。これらの「海賊説」は古くは無く「跡付け」と観られる近代の説であります。(通説にはこの類が実に多い)
これをもし「海賊説」とすると上記した駿河、伊勢、熊野、紀伊、大島、伊豆等の「主要な水軍」も同じ要素を大なり小なりに持っているのですから、この論理で行けば全て「海賊」に成ってしまいますし、その大きさもトップで組織化されているのですから、日本の古来水軍は全て「海賊」に成ります。
この事を知り得ていて「海賊説」とした「朝廷の記録」には、「政治の世界での政争」に使われる「醜い常套手段」の「大きな裏の意」がある事を匂わせています。
何時の世も盗人、盗賊、山賊、海賊の類はありますが、上記した様にその内容と時代の社会構造の慣習はそもそも違うのです。
古来より”勝てば官軍 負ければ賊軍”の日本人の「悪い慣習」がこの様な通説を生み出して、史実を歪め、「正しさ」を記録として遺さない「日本人の性癖」には「歴史の掘り起こし」に於いても充分注意しなくては成らない事なのです。何等現在でも変わらない性癖です。

本論でも何度かこの事に付いて論じていますが、その意味で「公的な資料」に類するものには「判断の参考」とする場合は、ここが雑学フィルターを通して観て特に「注意する点」なのです。
又、「本論の神明社」に関わるとして論じている「八幡社」の場合も「未勘氏族の資料」には”身内を良くする背景や経緯を作り出し、はたまた搾取偏纂しているところを雑学を駆使して見抜き矛盾点を掘り出す事が大切なのです。
「青木氏の歴史」の「生き様の掘り起こし」にはこの作業の繰り返しに時間がかかるのです。
特に筆者は先祖たちの性癖を受け継いでいるのか”勝てば官軍 負ければ賊軍”が肌が受け付けれないと云うか嫌悪を感じるのです。”判官びいき”とまでは云わなくてもその元の本質の姿を知りたくなるのです。

「”瀬戸内を制する者は国を制する”」
古来から言い伝えられていたこの言葉には瀬戸内の地域の「神明社と八幡社」を論じる時には大きな意味を持っているのです。全てはこの言葉に事象は左右されるのです。
故に、「純友海賊説」に関わるものも例外ではないのです。
恐らくは「源経基の讒訴」は、藤原氏等が制するこの”「5つのライン上の絶大な圏域」を清和源氏側に獲得しようと画策したものであった”と観ているのです。
そもそも古来に於いて”瀬戸内を制する者は国を制する”の言葉がある様に、この「地域の利権と安定の確保」は無視できる話ではない筈で、その状況を「為政者」や「利権者」の側は上記した様に本音では純友に変えられては困る訳です。
ましてや民に人気があり人が出来ない事を成し遂げたと成ると、”人は嫉妬の念にとらわれる”は「仏説」の通りであります。
この世に於いて例外なくこの情理を脱した者は居ない筈です。
まして「為政者と利権者」とも成ると「自己顕示欲」の強い者でありますから、、”人は嫉妬の念にとらわれる”は必定であります。それが朝廷とも成ればこれ等の者の集合場所でもあります。要するに巣窟であります。
そこで、何時の世も海賊や山賊の類の存在は有るのがこの世の無常の定めであり、それを声高に剥きに成って事に当たるは「為政の範疇」ではない訳で殊更に取り掛かる政治問題では無い筈です。
むしろ”瀬戸内を制する者は国を制する”の言葉の通り「海域の利権」が大きく絡んでいれば、「海賊」を懐柔して纏め上げられれば、「利権者」と「為政者側」取り分け「為政者」にとって見れば困ることに成ります。
それは純友側にこの”瀬戸内を制する者は国を制する”の権利を与えてしまう事に成ります。
まして「民を味方」にして「何がしかの儀」を重んじ「民の暮らしを安定にし安寧にする守護神」を持っている以上はこの権利を確実に保障する事を意味します。本音では放置できません。
表向きでは「海賊の騒動」は困るが、本音のところで「海賊」を懐柔されて「利権」が「純友」の方に全て移れば、「為政者」にとっては ”この世の無常の定め”どころの話では無くなり死活問題であり、更に実に困るのです。
これがそもそも「大儀と本音」の政治です。口では態度では”海賊が騒ぐのは困る”と云いながらも、本音は”利権がなくなるのはもっと困る”のです。この2つは最早、天秤にかける問題ではないものです。
そこで、困る側の為政者側は、国、即ち天皇や朝廷から観れば「大儀」を自分の方に引き寄せるには ”純友を「海賊」の仲間とする”事に決め付ける事が必要に成り、「表向きの海賊問題」を解決して、且つ、「邪魔な純友」を抹殺して、「地域の利権と安定」を確保するには「海賊」と決め付ける方が都合が良い訳です。むしろそれしかなかった筈です。
”そう成るとどうすれば良いのか”と成りますが、簡単な事です。
上記した”勝てば官軍 負ければ賊軍”を行える立場に為政者が特権として持っている訳ですから全く問題は無い訳です。そしてそれを世に知らしめる為には、まずそれとして「勅命」や「宣旨」や「院宣」を発し、且つ、為政者側には資料や証拠類や風説をそれに合せた様に搾取し偏纂して遺す事に務めるのが偏纂役の務めでそれを密かに命じれば事は済みます。
それにはその事の内容を公文書外にも関係する役所や神社や寺等に遺させる手立てを講じる事だけです。「公文書の類」に密かに書けばそれで充分なのです。利権者もこれに習うでしょう。これで大儀は利権者や為政者に移ることは必定です。
そしてそれが史実の形として後勘に触れてそれを信じ史実が歪み、公文書を正として通説が生まれるのです。
(しかし、事の真偽を歪めているのですから矛盾と疑問が必ず生まれるのです。これを正すのが「後勘の役目」です。「青木氏の歴史」はこの事に努めている。)
これは上記した様に「未勘氏族問題」でも同じで、「自らの側」の良い様に後勘に遺す事は当たり前の事なのです。
問題はそれを雑学で「見抜く側の読解力」に関わる能力なのです。現代でもこの世に於いてはこの事は同じです。
前段で論じた「陸奥の安部氏の奴婢の問題」でも安部氏等には非は無く蝦夷・征夷として処理されたのもこの「純友問題」と全く同じです。その意味で「河内源氏」の”義家に対する白河院の策謀説”も殆ど同じです。”安部氏に無常な嫌疑を掛けた上で義家に陸奥での利権を潰させておいて今度はその義家を潰す”これが「為政側の常套作戦」なのです。(前段でも論じた様に義家にも禁令を無視した無理があった。)

「為政者側の矛盾」
この”瀬戸内を制する者は国を制する”の「2つの圏域」はデータでも上記した様に「河内源氏」のみならず「清和源氏の圏域外」(荘園本領・未勘氏族)にあったのです。
経基が、平安期に伊予まで及んだ讃岐藤氏の藤原氏を讒訴に落としいれてそれを獲得しようとした画策であったのです。
これは「3つ巴、否4つ巴の事件」なのです。讃岐藤氏・清和源氏・大蔵氏・朝廷天皇の利権争いそのものの事件であったのです。結局、下記に論じます様に純友が旨く”勝てば官軍 負ければ賊軍”の策に掛けられたのです。
その証拠に詳細に調べれば上記した事も含めて矛盾が多すぎるのです。上記した様に「矛盾が多い事」が何よりの証拠なのです。
因みに、先ずこの「瀬戸内の海族問題」(純友・伊予国司代・瀬戸内追捕使の令外官)を朝廷が解決させたのは、前段で論じた”阿多倍一門の九州自治”を狙っていた「大蔵春実」(小野好古・藤原正衡・橘遠保:源経基も参加説もある)であります。
そもそもこの「海域の問題」を最初に特別に朝廷から任命され派遣された「治世権と警察権」を与えられた者は「令外官の純友」なのです。その「純友」を討伐する又令外官を送る事のそのものの事態がおかしいのです。
(この順序と任官そのものを ”あやふやにした記録”を根拠とする為政者・利権者側の説もある。 「海賊」とするには矛盾を消す為にした偏纂行為と観られる。)

これ等の資料に基づくと、為政者側の特権で色々な資料が遺されていて複数の説が生まれているのですが、この説の中で先ず信頼できる史実は、「純友」はこの地域(伊予・讃岐)の「瀬戸内の政治」を任された国司代(3等官・伊予掾)で、且つ、当初は「海賊問題解決」の「令外官」(特別問題解決の為に任命された官)であった事ですから、「3等官・伊予掾」と「瀬戸内海賊掃討追捕使令外官」の「両方の任務」を持っていた事に成ります。
この事の意味は「伊予と讃岐」と中国域を含む「瀬戸内沿岸域」の「為政に関する全権」を任された事を意味します。先ずは”任した”とする矛盾があります。普通は任す以上は純友の事は承知している筈です。
摂関家と同じ一族一門で藤原氏北家なので「讃岐藤氏」と呼称されるくらいに都にも聞こえた一族です。
知らないとは云えない筈です。この事件の前に別件で仕事をしていますし、国司代(3等官・伊予掾)です。何も経基に云われなくても知っているのです。事件直前に令外官追捕使として任じられているのです。
それが急に「海賊呼ばわり」とは笑止千万はなはだしい事であります。
つまりそもそも瀬戸内の「全権大使」であり、そうすると、その「全権大使」を「海賊」と決め付けるには「朝廷側の失態」が表に出てきます。
そこで「順序と任官」の部分の記録を”あやふや”にして置く必要が出てきます。その処置を朝廷側と利権者側は行った事を証明します。
ですから、「純友」は「全権大使」として、「令外官の任務」の「海賊掃討」だけを任務とするのであれば「武力」により解決して根絶やしは無理としても押さえ込める事は可能であり任務は全うします。
しかし、地元の為政権を持つ「3等官・伊予掾」で、地元の住人の讃岐藤氏でもあります。
彼等はこの富を生む瀬戸内の国策に対して大貢献しているのです。

「海賊」と看做されている「瀬戸内沿岸地域の民」とは敵対している訳では無くむしろ絆を持っているのですし、「藤原氏の戦略」の「血縁関係」で中国域までその圏域を広めている訳でもあり、尚且つこの海域の「廻船業や造船業」やこれを基にした「大商い」の「2足の草鞋策」を敷いている土地柄でもあります。
そうなると、解決方法は唯一つ瀬戸内の住民が無傷に解決できる方法は決まって来ます。
純友にしてみれば「絆」を基に「談合」により解決するしか無い筈です。
しかし、この「談合解決」は本音のところでは、「為政者」と「利権者」と「敵対勢力側」からすると、最も好ましくない解決方法です。
何故ならばますます純友を大きくしてしまう結果になる訳です。
大水軍を控えて「政治」「経済」「軍事」の「3権」を掌握した訳ですから、上記した「瀬戸内を制する者は国を制する」事と成りこれに対抗する者は無く成ります。放置する訳には行きません。
”早い内に何とかしなくては”と「為政者」と「利権者」と「敵対勢力側」は考えるが必定です。
それには「純友」から「大義名分」を無くす事で潰すしか無く成ります。それが「海賊」なのです。
そして、「為政者」と「利権者」は自ら手を汚さずに、それを「利権」を欲しがっていて「清和源氏の勢力」を伸ばそうと野心に漲っていた「敵対勢力側」の経基に言わしめた事に成ります。

「純友」もこの事は充分に読めていた筈です。しかし、解決方法は一つです。
”「絆」を採るか” ”権力側3者に迎合するか”の二者選択を迫られた事に成ります。
何れにしても後は出方を観る仕儀と成ります。
そこで「絆」を選んだのです。現実には彼にはそれしかなかった事に成るでしょう。
「純友」にすれば、後者の「権力者3者」を選ぶ事は、信義の上で ”死に値する”事に成り、結果しても「権力者3者」は ”彼を生かす事”は解決には成らない筈で、”向後に憂いを残す事”に成りますから、機会を観て ”何らかの嫌疑を作り出して葬る事”にする筈です。
何れにしても ”死を決意しなくては成らない事”に気が付いては居た筈です。
周囲の者達もその事は”百も承知”であり、だとすれば”「絆」を選ぶ事”を勧めたと考えられます。
”では、どうすればよいのか”と云う事に成ります。考える戦略は唯一つです。
「絆」を選ぶ限りは ”例え純友死しても絆は遺す。”であり、その為には ”絆の中に「讃岐藤氏」を遺す。”つまり言い換えれば、”「絆組織」の「次ぎの継承者」を生き残らせる事”にあります。
そして、それを盛り立て蘇させるには「結束の象徴」を造る事に成るでしょう。
それが、”「純友神社」であった”のです。だから1度ならずも2度、否5度の蘇りを興して昭和まで生残れたのです。仮称の「純友神社むは神社だけの意味ではなかったのです。
何時の世も、現世の事象(事件、問題、乱、変など)森羅万象には、「諸悪」(5悪)が巣食うのです。
仏説の通りです。「為政者」と「利権者」と「敵対勢力者」と「無関心者」と、そして「被者」です。
(被者は「純友」ですが、仏教では”一分の非がある”と説いています。”「完全無欠」ではない”と云う事です。「諸行無常」です。)
この”「5悪」の何れに「大儀」が来るか”は、”その「5悪」の「質」に因る”と解いています。
”決して「権利や富の大小」ではない”とするのです。
では、この海賊問題は真にこのパターンに填まります。この場合は「質」を得ていたのは憤死した「純友」にあったのです。”純友に大儀があった”事を意味しています。
後勘から観れば、「被者」の純友以外の「3悪」(「為政者」と「利権者」と「敵対勢力者」)は200年後には滅びているのです。
浄土宗を思考の原理としている平安期の武家では、純友とその周囲と讃岐藤氏はこの事を承知していた筈です。
とすると、現世は「諸行無常」であって憤死しても「絆」を護れば「後勘」は「大儀の者」となる事を覚悟して次ぎの行動に出たのです。「純友の志」は昭和まで「海の族」として引き継がれたのです。

「純友」は「争いの連鎖」を起こす「武力」に因らず、無数の海賊団と談合し説得してこの問題を見事に解決したのです。
そしてこの無数の大小の海賊団の民とその瀬戸内地域の民衆から信頼され崇められて神社が建立されたのです。その神社の建立時期は不明ですが状況証拠から生前の前後の直前と観られます。
「純友神社」(産土神)と云うよりは当初は「海族」と成った集団の「心の拠り所」と、その集団結束の「象徴の守護神」であって、没後に地域住民に慕われて「純友神社」と呼称されたと観られます。
純友は乱後の暫くしての後に捕まり斬首に成りましたが、純友の憤死没後に難を逃れた「讃岐の藤原氏末裔」が再結成してからもこの”瀬戸内は穏やかであった”と記されていて、明らかに海賊ではなかった事が良く判ります。
それを讒訴して”海賊に成った”と告訴され、現在発見された資料よりその資料を基にすれば「経基王に讒訴密告された経緯」となるのです。
但し、ましてこれは「海賊」では無く「海族」であり、古来よりこの瀬戸内に住する「海の土豪集団」であったのです。そもそもその末裔は、つまりこの「海族の末裔」は「後漢の阿多倍の海の兵能集団」で「奈良期初期の帰化人の末裔」(陸は東漢氏・物部氏などがある。)であります。
その特徴は「海利権」を護らない場合は襲う事がある土豪なのです。この事は「陸の土豪」も「陸の支配権」を護らないと同じ目にあう事は同じであって、そもそもこの「海利権」を護らない側からするとその見方は「海賊」と成るでしょう。
当然にこの「海利権」を護らない側は伊予と讃岐の分布する讃岐藤氏と「瀬戸内で覇権争い」をしている大小の中国と四国と北九州の集団となるでしょう。

「兵能・職能集団」の主筋
ここで面白い現象が起こっている事に成ります。
それはこの「瀬戸内沿岸の海族」の多くは上記した「阿多倍の兵能集団と職能集団の末裔」です。
しかし、利権を護らない覇権争いをしている主要集団はこれも阿多倍一門中でも最大の大蔵一門です。
500年経過後の「兵能・職能集団」の主筋に当たる訳です。
彼等は ”忘れられたのか忘れていないのか”は不明ですが、室町期のこの「瀬戸内水軍」を保有し中国域を制した「陶氏」と、「海部氏」や「武部氏」等の彼等の職能集団の末裔が現存している事から考えると忘れていなかったと考えられます。
彼等の守護神は「産土神」であり、その考え方からすると不思議な現象が起こっていた事に成ります。
そもそも官僚を専守している為政者側と利権者側にある「大蔵氏の主筋」に味方せずに「讃岐藤氏」の「純友に合力」した事に成ります。
この事には大きな意味を持っているのです。本来であれば「儀」と「利害関係」から観ても普通は主筋の大蔵氏を選ぶ筈です、しかし敢えて利害関係にある「讃岐藤氏」をわざわざ選んだのですからここには何か大きな意味がある事に成ります。
それもこの瀬戸内の全ての海の族の大小の集団が挙って集まり「儀と利害」を捨てるだけの何かが在った事に成ります。
”それは何であったのか”解明する必要があります。
それは色々な資料から「2つの共通するもの」としての答は出ています。
それは一つは「純友神社」であり、二つは「純友個人」だけではなく「讃岐藤氏の一族」がこの水軍の「海族」には入っていると云う事です。
そうと成ると、彼等への「理解」と「利害」と身の「安全」を護ってくれる「者」、或いは、「氏」は「大蔵氏」か「讃岐藤氏」かと云う事に成りますが、彼等は「讃岐藤氏」を選んだと云うことに成ります。
勿論、その「氏」を支配し統治する「讃岐藤氏」の実質の信頼できる支配者・頭の「純友」の「個人的魅力」に魅かれた事をも意味します。
「好みや利害」ではいざ知らず単に複数の「海の族」が集ったのではないのです。
瀬戸内の全ての海の族が挙って集ったのです。ここに意味があってこれはまさしくそれを護ってくれる「氏の選択」とそれを指揮する「棟梁の魅力」が伴っての命を懸ける彼等の「選択」を主筋から替える大決断をした事に成ります。
当然に少なくとも大小の多くの「瀬戸内の海の族」が集って協議した結果でなければこの様な事には成りません。故にこの「意思表示」を「純友神社」と云う形で表し且つそれを「集団の象徴」とした事に成ります。
この裏を返して云えば”大蔵氏に対する何がしかの共通する不満が在った事”を意味します。
古来からの主筋の大蔵氏が彼等の「理解」と「利害」と「安全」を護ってやっていれば「儀」を捨てて主筋を外すような事は「氏家制度」の社会慣習の中では絶対に無かった筈です。
そうすると奈良期から500年の経過が主筋感覚が薄れたのかと云う事に成ります。
実は違うのです。原因は彼等の守護神「産土神」にあるのです。
守護神の「産土神」に付いては前段で論じてきましたが、後段でも改めて詳細に論じます。
ここでは「海の族」の「行動の根源」となる「産土神の位置づけとその考え方」に付いて次ぎに論じます。


青木氏と守護神(神明社)-17に続く。
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