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:「青木氏の伝統 24」-「享保後の課題」 


[No.342] Re:「青木氏の伝統 24」-「享保後の課題」 
投稿者:福管理人 投稿日:2016/07/02(Sat) 14:20:14


>伝統シリーズ23の末尾

> 「殖産」を興してそれを「システム化」して「経済」に結び付けて「藩政」が潤っていたのに、これを抑え込んで仕舞った事から、この影響を受けた「下級武士」は、「飢え」に喘いで仕舞った。
> その事から、田畑を耕し農業で産物を密かに売ると云う事で生き延びた。
>
> 「郷士の武士」も「仕官の武士」も「郷士」に真似て生きる事しか無く成り同じに成って仕舞った。
> むしろ、「殖産」を興した「郷士の方」が遥かに潤っていた事が記録されている。
>
> そして、今度は、享保期の「質流地禁止令」では、対象者が「仕官している下級武士」であった事から、幕府としては充分な対応は出来なくなっていたのである。
>
> ところが、「武士の農産物等の販売」には、各職能の「組合の壁」と云うものがあって、「自由」が利かず、結局、「農民の寄合」に入れて貰う等の事や、「農民の名義」を借りる等の事で対応した。
>
> 「幕府」のこの逆に跳ね返って来た思いも依らぬ「失政」に付いて、「藩」もただ観て見ぬ振りして黙認するのみであった。
> しかし、「紀州藩」の様に密かに裏で奨励した藩もあった位であった。
>
> この事から、「職能から販売までの商業組合」も「寄合組織」に変更して、自らも救い、地域の「下級武士や農民」らも救う事で「絆を基本とする寄合組織」に変更して生き延びた。
>
> 唯、この「寄合組織」では「発展」は望めないが「維持」は可能であった。
> それには、上記の「新-1から9までの副効果」までは幕府は潰しに掛かれなかった。
> 「新-2、3、5、7、9」は流石に「株権」を保障の前提としていた事もあって低迷した。
>
> 所謂、「新-1から9」の基本に成った幾つかの制度と組み合わせた「親商法」が、享保―宝暦―明和時代に掛けて「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」の「青木氏」が興した「商業組合」の「新しい改革商法」(1716年から1788年まで)へと繋がったのである。
>
> この経緯は、「伊勢の紙屋」が「伊勢の商業組合」を興してからは明和期(1788年頃)までの「185年間の悪戦苦闘の歴史」に成る。
>
> これ等の事は、「青木氏」だけの「重要な知っておくべき青木氏の歴史観」である。


「伝統シリーズ」-24に続く


注釈として、次ぎの内情であった。
紀州藩主では、吉宗後は全く縁の薄い6代「宗直」が藩主に成る。
享保飢饉で紀州藩55万石の半分を損出している。
この時、「幕府借料2万両」(計10万両の幕府借財)で一時凌いだが、その後の「借料」と共に「返済財政」で藩主13代まで続く。
「江戸の活況」と「紀州藩財政」は逆の状況に在った。

(注釈 四代藩主の吉宗時は、「伊勢の商業組合の活況」で今までの「借財10万両」を完済した。その後五代目は借財を続ける。)

(注釈 この為に「14代の幕末時」に請われて再び「青木氏は紀州藩勘定方指導」に入り立て直した。)

この状況の中で「紀州藩」を頼りにする事が出来ず、「紀州藩」としては少しでも生産量を高めなければならない状況下にもあった。
従って、民を動かす事の「紀州郷士」の「徒対策」を了解するかはかなり難しい状況の中にあった。
且つ、「紀州郷士の生活」も「疲弊の境」にあって難しい事であった。

(注釈 吉宗没後は、「青木氏の勘定方指導の役」も解けて「幕府の力」を借りられる状況には1765年前後は最早無かった。)

つまり、これをどう見るかに依るもので、むしろ、“「経済を活性化させる起爆剤」”とする議論と,この“「疲弊の状況」を更に悪化させる“とする議論が、対立したと資料の一部から読み取れる。
従って、「紀州郷士の徒対策」の課題は、「紀州藩から了解されたとする記録」は、どうしても発見されない。

この事から、この伊勢での「課題の解決」の「談合」は、資料の一端では“議論百出”であったとしている。
この表現から考えて、結局、記録が無い事から、江戸への“「充分な搬送対策」”は伊勢と紀州では取れなかったと観られる。

ところが「各種の関係する資料」から考察すると、この「対策」として使われたと観られる“ある変化”が一つこの時期にあった。
それは、前段でも論じたが、「伊勢青木氏」と「付き合い」の深かった瀬戸内を制していた「讃岐青木氏の大廻船業」が、古来の「日本海周りの廻船」(「北前船の西廻り」)に加えて、江戸初期には「太平洋周りの廻船」(「東廻りの航路」)を申請して新許可が出ている。

これは、大間から釜石より江戸を経由し、松阪に寄港して堺摂津を経て瀬戸内に入る帆船航路は,「江戸の経済」が活性化して「人の往来」も活発に成ると、「陸路」よりも「水路」の方が短期間で移動出来るとして、享保期には「便利な航路」として認可されたのである。

何にせよ「江戸の活性化」を高めるには根幹と成る「運輸の面」では、伊勢側では”「対策なし」”では成り立たない話である事から、この「太平洋周りの廻船」(「東廻りの航路」 荷物以外に人も運ぶ)の「航路の廻船」を敢えて使ったと観られる。
然し、これには難題があった。

と云うのは、当時は、「廻船」には「過当競争に依る廃船」を避ける為に「積み荷に対して幕府の条件」が付けられていたのである。
つまり、「統制令」(下記)があって「自由」では無かったのである。
「伊勢青木氏」の「伊勢の紙屋」が使いたいとしても、少量であれば問題も無いだろうが船全体を使う量の「積み荷」では許可は出ない。
「量」のみならず積荷の「質」と「種」も制限されていたのである。

恐らくは、「伊勢の青木氏」は、「伊勢の紙屋」を代表して、「青木氏」としては「話し」を通して“「讃岐青木氏」に「話」を付けた”と観られる。
この「海運の課題」は「享保の改革」と「15地域の商業組合」の浮沈に関わる事であり、「氏浮沈」に繋がる等の事が「状況証拠的」(下記)に考えられる。

何故ならば,当時の「海運」は、「幕府の監視」の「強い統制下」にあって、「荷積み」が過剰に成ると「船主側」から自動的に「排除される権限」を与えられる「仕組み」に成っていた。
この様な事では、「水運」は不安定に成り好ましくない事から、「伊勢青木氏」としては「話」を通す以外には無かった。
「伊勢の紙屋」としてでは「商いの範囲」で処理されるが、「同族の氏としての話」として持ち込んですれば、「讃岐の青木氏」の廻船業は無下に処理する事は出来ないと観たと考えられる。
つまり、「伊勢の氏存亡の危機」と受け取る事に成る。

「荷積みの種類」までも下記の様に、原則的に“「届け出通り」”に統制されていたのである。
従って、追加して認可を得るには、「荷主と荷種と荷量と荷先」が特定して固定している事が条件であった事から、これを「幕府」が認証するに足りるかの「裁定審査」が必要であった。

当然の結果として、「享保の改革」(1765年前頃)に期する事の内容であった事と、「吉宗」と「勘定方指導の青木氏」と「江戸の伊勢屋」であった事から、「荷主と荷種と荷量と荷先」は完全に補償された。
尚且つ、その「廻船主」は「同族の讃岐青木氏」と成れば「無条件」での通常の「荷積み」として扱われる様に「特別許可」されたと観られる。

実は、それには「特別の優遇と成る条件」が歴史的に「伊勢」にはあったのである。
これは「青木氏の歴史観」として重要な事である。

それは、次ぎの事である。
家康が1603年に青木氏に対して次ぎの裁定を下している。
「伊勢神宮の警備・遷宮の監督」
「特別に伊勢国幕府領の支配」
「伊勢鳥羽港、並びに関西圏の監視」

以上の「三つの役」を目的として次ぎの裁定を下した。
幕府の“「伊勢奉行所」(山田奉行所)”を特別に設置する事。

以上で全国に先駆けて幕府が未だ開かれていない時に、既に、「伊勢」には特別に設置の裁定を下した。

この1603年は、家康が「正二位内大臣兼右大臣」に叙任され、「征夷大将軍」に任じられた年であって、「実質の開幕」は、「260余りの武家大名と主従関係」を結び統率するに至った時期である。
家康没後の「1600年代の後半」に確立された。

この“「伊勢奉行所」(山田奉行所)”が中部以西を管轄する様に成ったが、後にこれを観て、“「遠国奉行所」”と呼ばれる「13カ所」(伊勢含む)を設置する様に成った。
全国の「統率」に至った「1600年代後半」に定められたものである。
依って、「家康」が特別に設置した「伊勢奉行所(山田奉行所 1603年)」は、唯一の「特別の権威」を持った“「特別の奉行所」(下記)“であったのである。
後に、「伊勢奉行所(山田奉行所)」は、“「遠国奉行所」”に組み入れられたが、その「権威」と「権限」は遥かに上格に位置づけられていた。

実は、これには「青木氏と特別な関係」があった。
江戸初期の「青木氏と家康の談合(1603年と1605年)」時に設置が決まったもので、「伊勢青木氏」より「今後の商いの拡大」を予測して設置を要望したのではないかと考えられる。

その証拠としては、次ぎの事が挙げられる。
・「遠国奉行所」としては、最も早く設置した事。(後に遠国奉行所に成る。)
・伊勢以外の「遠国奉行所」は「幕府直轄領」の範囲を前提としていた事。
・「伊勢奉行所」は「湾港の奉行総括権」も兼ねていたものである事。
・他の奉行所とは異なり「幕府」と云うよりは「家康」が定めた唯一の「特別奉行所」であった事。
・この名称として、特別に“「山田奉行所」”と正式に呼称された事。
・直轄領名の「伊勢奉行所」(後の俗称)”とは未だ成っていなかった事。

「遠国の奉行所」として、「幕府(征夷大将軍)の特権」を与え、「行政の特別総括権」を以てして当たって設置されていたのである。
その中でも“「伊勢奉行所」(山田奉行所)”は、特別に他の奉行所には無い“「海運権のを総括権」”を持っていたのである。
(大阪、京都、駿府、長崎、堺、新潟等の12地域の設置理由は以上であった。)

依って、この「青木氏からの念願」(「紀州郷士の徒の対策」の課題)の“「運輸の特別許可」”は直ぐに認可されたのである。
要するに、“「伊勢奉行所」(山田奉行所)”の“「お墨付き」”である。
従って、後の時期に設置された「12地域」の「遠国奉行所」は、この「お墨付き」に従う立場にあった。
況して、「海運に関する許可書」であれば、問答無用であった。

筆者の観る処では、上記の「享保の談合」で対策を採れなかった事を観て、所縁のある「伊勢奉行所」が「調停」に乗り出したのではないかと思われる。
それを得て“「讃岐青木氏」に「伊勢の青木氏」が了解を取る事に動いた”と考えている。

「談合の記録」しかないところを観ると、当初は「伊勢の商業組合」として何とか「解決策」を見出そうとして動いたが、「運輸の対策」が結局は取れなかったのであろう。
そこで、この問題は放置される事では無いので、「伊勢の紙屋」から「伊勢青木氏」が引き取って「行政上の問題」として対策を取る事に動いた。
「伊勢奉行所」に「対案」を持ち込んで「行政上」で結論を導き出したと考えられるのである。

それは、次ぎの理由に依る。
確実な折衝した資料が見つからないが、「商記録」から「船の動き」に変化がある。
「享保の談合後」に「堺摂津店」が「松阪」に態々船を帰港させている。
その船が再び摂津を経由して瀬戸内に向かっている。
これは「荷積み」も考えられるが、それならば「摂津」を経由するかの疑問がある。
「普通の荷積み」であれば、松阪からの「定期便」に使われている「常用の松阪用二艘」や「常用の伊勢水軍の船」を使う筈である。
態々、「堺摂津用の船」を呼び寄せる事は先ずは無い。

「堺摂津用の船」を呼び寄せる理由が発生した事が考えられる。
その「船」が一度、「摂津」に戻り、再び「瀬戸内」に出航しているのは変である。
「松阪」からの「荷積み」ならば「陸送」で摂津に向かい、そこから「瀬戸内」に向かう事が都合は良くて済む。
何故ならば、紀伊半島を一周しなければならない実に「地形上の不都合」が「松阪」にはあった。
故に、堺摂津港を「自前船の帰港先」と成っている所以の一つである。

つまり、「瀬戸内」の「讃岐廻船問屋の者」を伴い、「堺摂津店の者」を呼び寄せ、松阪で協議、奉行所とも協議、幕府とも協議、「一連の手続き」を経て、「お墨付き」を受ける事に成功、その足で関係者代表全員が讃岐に出向いて「最終調印」に漕ぎ着けた。
以上とする経緯と観るのが妥当であろう。

注釈として、重要で、江戸初期の「船の運航」には「幕府」が定める “「原則7ケ条の御定書」”と云うものがあって、「手続き」や「船の運航」には厳しく定められていた。
この上に“「奉行所の掟」”が課せられていた。
取り分け、この「定めの手続き」を怠ると刑罰が科せられた。
従って、「充分な証明と手続き」を「初期の段階」から行う事が義務付けられていた。
“書類を出して済”と云う事では無かったのである。
況して、「東廻り航路」には厳しかったのである。

その為には、この様な“関係者全員が出頭すると云う形式”が採られていたのである。
むしろ、「大口の積み荷主側」には「大きな義務」であった。
この為に、「大勢の関係者」が一度に陸で旅するよりは現実的である。

因みに、江戸初期の「江戸-大阪間」は、最速の帆船は、積荷無で最速3日、積荷有で最速12日、最遅で27日、平均で15日であったと記されている。
(注釈 徒歩では15日-20日-500キロ)

「江戸初期の帆船」で「紀州廻り」で「松阪から讃岐」までで、「丁度、699<=700キロ」であった。
「積荷無」で最速で4.5日、「徒歩」で最短22日と成る。

上記の仕事を熟すには、「不定期な充分な時間」が必要と成り、その為には「大勢の関係者」を「一度に最速最短で移動搬送すると云う条件」には、1/5で済む「調達船」の「船の搬送」以外には無い事に成る。
これが、堺摂津港から「特別に調達船」を廻した理由と考えられる。

これは「享保の改革」の「成否に関わる問題」である事から、他の「遠国奉行所」は「口出し無用」と成っていたと観られる。

それが「伊勢の商業組合組織」が、「荷積み」に対して“一部廻船を独占する事が充分に起こる事”から、これに対する“「特別許可」”の要る厳しい「東廻り廻船対策」であった。

当然に、“一部廻船を独占する事が充分に起こる事”は「讃岐青木氏の了解」も必要であった。
つまり、「青木氏の判断」だけでは出来ない関係者が充分に協議を必要とする“「政治的解決策」”であったのである。
故に、「海運奉行権」を持つ“「伊勢奉行所の調停」”が無い事では成し得ない解決であったからと観ている。

下記するが、何と「紀伊水軍」や「熊野水軍」を緊急時に「太平洋周りの廻船」(「東廻りの航路」)に廻す事等の対策を取るまでには、上記の「令」もある事も然ること乍ら、充分に関係者全員が協議する必要性は絶対にあった。
これらを最速で一度にまとめて移動させるには、「紀州周り」の「調達船」以外には無かったと観られる。

(注釈 「瀬戸内域」には「湾港の海運権」を持つ“「遠国奉行所」”はそもそも無かった。
この事から「伊勢奉行所」、即ち「山田奉行所の許可」を得る事で済んだ。)

そもそも、江戸時代には、それを物語る事があって、メインの「北前船の西廻り」と「東廻りの航路」があって、他にその内容別に「北国廻船」や「浦廻船」が在った。
以上、主に「四つの廻船航路」があった。

中でも、他に上記の「荷物の内容」で分離した「大阪―江戸間の廻船」としては、「菱垣廻船と墫廻船」とに分けられていた。
これを加えると「六つの廻船航路」と成る。

ところが、「荷物の内容別」にすると「経営の波」が起こる事から、途中からはこの「決まり」は護られなかった。
「幕府の7ケ条御定書」は形骸化したのである。
結局は、「激しい競合」が起こって常態化して仕舞った。
取り分け、1730年に関西から江戸に「灘酒だけを運ぶ墫廻船」が生まれたが、それだけでは成り立たない事が起こり、その後に「墫廻船」は酒以外も運んだ。
ところが、1770年には、「幕府」は、これを見兼ねて「過当競争」に依って「廻船」そのものが無く成る事を避ける為に、これを「排除の観点」から、これを見兼ねて再び厳しく「積荷の分離」が定められた。

再び、「樽廻船」は「酒だけ」と成って、「菱垣廻船」は「関西の綿糸」と、後には上記した「伊勢の白子湊木綿」などの「その他」と改めて決められる事に成った。

ところが、幕末近くの「天保期」に成って、「競合」から「両廻りの廻船」は「経営難」に陥り、幕府の裁定で「菱垣廻船」の方を押えて「株仲間」(組合株)から外されて廃止が決まった。
これは、天保期には、既に、この「江戸の活況」は低下していた事を物語るものである。

この「天保期」までは、この「大阪―江戸間」の「便利な菱垣廻船」の「廻船の荷積」が満載と成ると、「紀州からの配船」(熊野/紀伊水軍)をして運営する事を特別に許可されていた。
依って、「使う側」からは便宜が効いて享保期から明和期までは「便利な菱垣廻船」として繁栄を来した。(天保期には廃止)
これは、「海運奉行権」を持つ“「伊勢奉行所の調停」の「緊急対応策」であった。

この時期の荷には、「便利な菱垣廻船」は1765年代頃から“「伊勢木綿」と「伊勢菜種油」と「地酒」と「豆粉」”等を主に運んだとされる記録がある。
「伊勢の紙屋」は、この「菱垣廻船」を1765年に江戸に出店した「商人グループ近江」(松阪派)が使う様に手配したが、そして1843年までの期間を使用したがその後は経済も疲弊して廻船は無く成った。(伊勢屋は江戸を引き払った。)
そして、この「菱垣廻船」には、「開始から天保期(1843年)の廃止」に至るまでの「120年の間」は,廃止に成るまで臨時的に補助的に、“「紀州からの配船」(紀伊水軍と熊野水軍)”を「特別許可」を得て暫くは使われた模様である。

これは傍には「摂津水軍も瀬戸内水軍」も在りながら、態々、「紀伊水軍」等を指名して廻す事を許可しているのは、「紀伊と伊勢の積荷の産物」(「伊勢木綿」と「伊勢菜種油」等の殖産品)を運ぶ目的があった事から来ている。

(注釈 「紀伊水軍」を「積荷過剰」と成った時点で廻す権利を「太平洋廻船」に特別許可をしていた。)

この様に「地域限定している事」からも,明らかに「享保期(吉宗)」から「明和期(家治 吉宗の孫)」までの間に、「吉宗の経済改革」(実質1781年まで「享保の改革」)は継承され推進した事の証に成る。
そして、これは「吉宗後の血縁族の将軍」(家重 家治) の幕府(家重)が背後で配慮した処置であったとも充分に考えられる。

(注釈 1788年からの「水戸藩養子系の幕府」の「寛政の改革」は失敗した。)

これは明らかに次ぎの事が云える。
「伊勢のcの組」の分は許可の要らない「便利な菱垣廻船」を単独に使ったと観られる。
「伊勢のaの組」の分は「讃岐青木氏」の「東廻りの航路」を「特別許可」で使ったのである。

(注釈 元禄期の「浅野家断絶時の「家財買い取り」と「家臣の分配金」は「伊勢青木氏の紙屋」が行ったが、この時に「千石船三隻」を摂津から廻したが、「瀬戸内」を支配していた「讃岐青木氏の協力(船と金銭と交渉)」を得ている記録がある。)

この様に「商い」を興そうとすると、解決しなければならない「土地、資材、店、雇用、生活、運搬」の「業務と資金」の課題は、単独では到底解決し得ない柵があって、これに依って上記した様に解決したのである。
況や、「生活と土地」と「店と雇用」と「資材と運搬」の課題であり、「「生活と土地」は「伊勢の紙屋と江戸の伊勢屋」の連携で「小伝馬町」に、「店と雇用」は、「江戸の伊勢屋」の「名義借り」にて「内店組」として、「資材と運搬」は「伊勢の青木氏」と「山田奉行所」と「讃岐青木氏」の調整で、「青木氏の殖産品」を「商人グループ近江(松阪派」」の「知恵と努力」で「江戸」で売り捌く事が出来たのである。

上記した様に、その後の「短編の報告書」には、「江戸の伊勢屋の質」の「町方の質」には、先ずは、初期の「立ち上げ段階」は、“「伊勢者」の「信用貸付」(「商業組合人」)”が主体と成っていた様で、その後に「利潤」が出た処で“「手形貸付」”にし、「商い」が活況した時期には物の「担保貸付」に切り換えた事が書かれている。

1740年代前半から、江戸にやっと「本格的な活況」が生まれ、「店子」とは別に「一般の町方」もこの「商業組合」に参加して「伊勢屋の質屋」で「融資と指導等」を受ける事が起こった模様である。

この“「町方」”と云う表現には、「完全な町方」と云う意味が在るかは釈然としないが、「商業組合」に務めた「江戸の者」が、「一人前」に成り、改めて「組合員」に成り、「暖簾分け制度」で独立して行く者に対する「融資と指導等」であったと判断される。
これを“「町方」”と表現したと観られる。

その「担保貸付」で「7割の割賦 下記」を返して行く事で、「願株の組合員」に有能で頑張れば成れたのである。

(注釈 普通は、”「願株」”や”「御免株」”を持つ組合員の「名義借り」や「架空名義」で組合員に成る。)

実は、この“「町方」”の表現には、重要な意味合いが潜んでいる。
「青木氏の歴史観」には、この「重要な意味合い」が“「町方との関り」”には潜んでいるのである。

それは次ぎの事で判るのである。
この“「町方」”の「組合員」に成った者に対しては、中には、「店の現物」の“「商品担保」(現物担保)”もあった様で、何とか頑張らせようとする「知恵」を絞った興味深い「商い戦術」が伊勢に遺された資料から観える。
「全体の利益」に「担保利率」を総合的に負荷するのでは無く、「担保」に成っている「商品」が売れれば売れる程に「担保」が少なく成って行く原理を使った様で、一つの商品に「担保の利率の適度な返金分」を当てて、“頑張れば自動的に担保が減ると云う仕組み“を考えたのである。
担保が無い町方の者に「暖簾分け」で「店」を持たせ、「伊勢商法」で「一人前」にして行くには「完全な信用貸付」もあったが、「信用」を前提として、売れた商品の利益の中から一品ごとに形だけの利率分を引く事で、担保は自然と消えて行くと云う「安心感」を利用して「やる気」を引き出していたのである。

「店」を新たに持つ者に執っては「担保」と云うものがどれだけ気に成るものであるかを知った上でのシステムである事が判る。
返して云えば、当初は確かに「暖簾分け」の人物であると云う事から「完全な信用貸付」であったが、これでは「担保」と云うものに対する意識が無く成り、「緊張感」が低下して成功に導く事がなかなか難しかったらしく、苦労していたのである。
そこで考えられた手法であった。

これは、「伊勢屋の質屋」(江戸の伊勢屋)が考えたのだが、“「やる気」”を起こさせる事に主眼が置かれていた事が判る「仕組み」である。
「利潤」を「伊勢屋の質屋」が求めるのでは無く、先ずは、“「商い」を発展させる事”に主眼が置かれていた事がこの事でも判るのである。
この「担保方式のシステム」は、上記の「AからFの特徴」をより効果的にさせられる事に気づいた事であったと観られる。
「単なる品を売り買いする商人」では無く、「一つの経済的哲学を持った商人」を創りたかったのである。
それが「長続きする商業組合」と成るからである。
“「享保の改革」が本物と成る事を期待していた“のであって、「伊勢商法」とも云える「伊勢商業組合の確立」にあったのである。

この「伊勢商法」とも云える「伊勢商業組合」では、“「機関車(先導車)の商人」が頑張れば、必然的に「殖産の職能部門」も活性化して行き安定し潤う“と云う「商業概念」を確立させていたのである。

この「商業概念を確立」の為に、次ぎのシステムが敷かれていた。
この上記の「商人の仕組み」に合わせて、「殖産の職能部門」が「商人の生産要求」に応えられる様に、「一つの仕組み」が設けられていた様である。

それは、「商人」が直接に「殖産の職能部門」に「生産量」(注文量)を要求するのでは無く、その「扱い」として「手続き」として、その「商品の組合」に「注文量(仕入量)」を先ず申し込む。
これを「組合」が、その「商品」を扱う他の商店の「注文量(仕入量)」と合わせて、「合算量」を「江戸の伊勢屋」(総本店)に連絡をする。
「江戸の伊勢屋」は、この「合算量」の上に「加算量」を加えた上で「職能集団の組合」に発注する。
「職能集団の組合」は、規模に応じた量を「組合員」に伝達して個々の「職人の生産量」は決まる事に成る。

つまり、“「江戸の伊勢屋」が発注すると云う形“を採り、”その責任を「江戸の伊勢屋」が負う“と云うシステムに成る。
”その責任を「江戸の伊勢屋」が負う“と云う「システム」である限り「伊勢屋の質屋」は「信用貸付」が「当然の事」にも成る理屈に成る。
百々の詰まりは「責任を負うところ」は「江戸の伊勢屋」であった。

この結果、「江戸の伊勢屋」は、結果的に「全ての商業組合」の「全ての商品」を扱う事に成り、「総合商社」と成り、「売り上げ情報」が確実に掴め、その「大商い」が構築される。
これで、「商業組合」の「全ての状況」を「把握する事」が出来て、情報では「弱い組合」には「梃入れ」をすると云う事も可能に成り、それで「金融先」を見極めて「組合の業界」を誘導する事(AからF)に成って、「伊勢屋の質屋」が動く事に成る。
この結果、AからFの「伊勢屋の質屋」が「2800」も数多く出来た所以なのである。

この「梃入れ」が、それぞれの「経営状況」に合わす事に成る事から、上記の様に、(A)から(F)の「取り組み」が起こる事に成るのである。

「江戸の伊勢屋」がこれに依って“総合商社化する”と、当然に「江戸の伊勢屋本体」も「一つの商店」として「利益」を挙げる必要性から、“「貿易」と云う手段に出る事“に成る。
「商業組合からの薄利」を求めるのではなく、“「貿易」”と云う大きな手段で「利益」を挙げ、「商業組合の補償」としたのである。

この“「貿易」”は、「国内経済」(商業組合)に左右されないで、「生産量」を安定して「商業組合」に出す事が可能に成る。
強いては、「量」のみならず、「質」も経営が安定して向上させる事にも成り、「質」だけではなく、「人を育てる事の仕組み」も充実する事にも繋がるのである。

これで、「享保の改革」はこのシステムに依って全体的に回り始めたのである。

(注釈 逆に云えば、これが弱点と成る。つまり、「江戸の伊勢屋」の「貿易」が何らかの原因で縮小するか無く成るかに依って、「江戸」のみの「市場能力の範囲」と成り、次第に「活況」は低下する論理と成る。
「将軍吉宗」と「青木氏」と「伊勢の紙屋」や「江戸の伊勢屋」はこれに賭けたと観られる。)

ところが上記した様に、1781年から露に出て来た幕府の「商業組合の抑制策」に依って「江戸の引き上げ」を開始して「伊勢」等で行う様に成った事で、「江戸の活況」は低下し「インフレ不況」に進んだのである。

そこで、前段でも論じたが、そもそも、この「総合商社化」は、「伊勢」で既に平安期の1025年頃に始めていて、「宗貿易」を始めている。
「江戸」に出て始めた事ではそもそも無い。“貿易”のパイを江戸様に拡げたと云う事に成る。
「伊勢」で、「和紙と紙製品」を中心に始めたのであって、この時には既に「伊勢」には「商業組合」の様な「原型の組織」が出来ていた事に成る。
それでなくては「大量の和紙製品」をまとめて販売する事は出来ない。
この時は未だ、「自由市場」では無く、職能を部単位で組織し、朝廷を主にして一部で公家勢力が自らこの「部組織」を持っていて、この「部(べ)」で出来た商品を朝廷に収め、朝廷より「余剰品」が下げ降ろされた余剰品の物を市場に掛ける仕組みであった。

「青木氏」は「自らの青木氏部の職能集団」を持つ事が許された唯一の賜姓族で皇親族であった。
江戸期にも「青木氏」はまだこの「職能集団」を形を変えて持っていた。(青木氏部)
それが、前段でも論じたが、江戸初期までは“「青木氏部」”と呼ばれていたのだが、これが、江戸期初期からは、「神明社」等を幕府に収納する等の事が起こってから、「青木氏部」の「大勢の職能者」が「神明社」から外れた。
そして、先ずは「青木氏部」が「伊勢の紙屋」の中で、「幕府」などから神明社修復に対する「受注を受ける仕組み」が起こり、これが土台と成って「青木氏部」の「幕府-青木氏」間の「職能別に商業組合化」へと変化したのである。

(注釈 然し、「神明社」に関わっていた神職を始めとして「職能部の人々」は、江戸幕府が困窮を極めた為に影響を受けて、「社殿修復」は愚か生活も侭ならない様に成った。
この為、「商業組合」で「互助組織」を作り、「神明社外の仕事(造船・造形・大工・人形)」も熟したと記録されている。
中には「神職」は、元より「伊勢シンジケート」に関わっていた事から諜報業や搬送業に関わっている。)

この「伊勢シンジケートの組織」や「伊勢水軍等」も含めた「青木氏部の組織」が、更には、江戸期初期には独立をさせて「組合」を組織(御免株の株権化した組織)して、「伊勢の紙屋」が「7割の株」を持つ「株権組織」(「御免株))が出来上がったのである。

(注釈 前段で論じた様に、「家康との二度の談合」とは、この一連の話し合いであって、「青木氏の提案」により、「家康」は、「青木氏部の解体」とそれを「新しく組織化する提案」に対して、これを潰さずにむしろ推進させる事に認可したのである。
この時に「神明社」などは幕府に移転させたのである。)

(注釈 最終的には、明治初期に「地権」を含む「地租改正等の資産に関する法令」により、「伊勢青木氏」と「伊勢の紙屋」は、これらの「商業組合の株権」を全て廃棄して完全独立する事に至った。後記)

この江戸期初期の「独立した組織」が、前段で論じた“「商業組合」”と云う形にして、更に、「(イ)(ロ)(ハ)の自由性」を担保させて、新たに「伊勢から紀州の関係する郷士衆」もこれに加わり、これに「御師制度」を組み込んで組織化を成したと云う事である。

これを「伊勢」に主体を置いて、この組織を一部移して江戸に移動させたのである。
この時、拠点と成る「伊勢の紙屋」の代わりに、「江戸の伊勢屋」としたと云う事に成る。
ただ、ここで大きく違ったのが、「伊勢屋の質屋」(AからF)であった。
この事から来る苦労が伴ったのである。

そもそも「伊勢」は元より奈良期からの本来の「質の基盤」(「仏施の質」)が出来上がっていたが、「江戸」には無かったのである。

重要な注釈として、 重複するが、本来、「質」とは、元は6世紀頃に中国の仏教寺が困窮を極める信徒に対して食事を与え、職を与えて、人として導き施しを行う行為の事を呼ばれていた。
我が国では「青木氏等の皇族賜姓臣下族」に依って奈良期から行われていた「密教浄土宗の仏教行事」を指す。
これを「青木氏独自の催事」として長く「仕来り」として「伊勢の民」に成して来たものなのである。

ところが時代が進み、「青木氏の仕来り」とは別に、その使い方に変化が起こり、この事から「質の意」が”「元の意味」”を成す言葉」と成り、その後には更には”「成り立ちを表す言葉」”にも成り語源と「異なる言葉」へと変化して行った。
そもそも、「伊勢屋の質屋」が江戸で「質行為」を行うまでは主に”「土倉」”と呼ばれていた。

従って、伊勢だけで行う「質」は「青木氏だけの仏施の古式伝統」と成り得たのである。

この時に、「江戸」で発せられたのが、「江戸の町方」に出した「質流れ禁止令」(土倉・銭屋)であるが、これは、実は、幕府に執っては、前政権の“「質取扱い覚」”の「令」での「質流れの緩和策」で社会問題を起こしていた。
これが「享保の改革の進捗」の一つの阻害要因に成っていた。
この事に困った事からでもあるが、そこで、享保期には上記の全国に発した「農地」を対象としたものにも「質流地禁止令」も合わせて出したのであった。

上記する様に、当時、「質」と云うものに対する概念が、「享保期の為政者の概念」と「前政権までの為政者の概念」とは根本的に異なっていたと云う事であった。

「享保期の為政者の概念」=江戸の伊勢屋の質屋が行う仏教的発想の質行為
「前政権までの為政者の概念」=土倉が取る代替担保や銭屋が金融の担保行為

然し、上記した様に、AからFの「伊勢屋の質屋」は、「享保前の経済低迷の質屋(土倉)」から、「享保後の経済活況の質屋」に変わっていたのであったから、実質的には「AからFの令」は余り意味が無く、「町方」にも出した「質流れ禁止令」は、上記の事もあるが、主には江戸での「伊豆相模との争い」を避ける要領であった事が良く判る。

実は、この”「伊豆相模との争い」”とは、金融に関する土倉銭屋行為の既存経済と、享保期の商業組合による伊勢屋質屋の新経済との混在する江戸社会の中で、如何にもその代表戦の様相を呈する様に成って仕舞った。
「伊豆相模等に代表された勢力」と、「江戸の商業組合の伊勢屋勢力」との「二つの勢力争い」が起こっていたのである。

この「二つの勢力争い」があったと云う事は、「AからFを行う質屋」では、つまり、「商業組合」の中での「組合員」に成った「暖簾分け」の者の中では、「質取扱い覚」”の「令」や「質流れ禁止令」や「質流地禁止令」があって「既存経済のシステム」に頼る事が出来ない為に、職能から販売までの一切の工程は「伊勢」から持ち込んだ「独自の殖産システム」で運営されていた。
取り分け、その「発注と販売の責任」は「伊勢屋」が総括して持ち、一つの市場の中の組合員同士の「市場の奪い合い」は避けていた。
その為に必要な市場のその代替は「海外に広く販路」(伊勢屋・貿易)を設けた。
つまり、「富のシステム」で工程は出来上がっていた。

この過当競争の無い「富のモシステム」とするならば、「伊豆相模」が行う「既存の経済システム」とその「銭屋の金融」に持つ市場に「障害と弊害」は起こらないし、新たに「江戸の伊勢屋の商業組合」が入ったとしても「市場の許す最低限の範囲」であった事に成る。

“それなのに、何故、「伊豆相模」は必要以上に騒いだのか”である。
(伊勢側から観ると騒いだと成る。)
その“騒いだ”の答えは、“「恐怖感」”であったと観られる。
「伊勢と紀州での商業組合の実績」が、「伊豆相模」を除いた「14地域の実績」が脳裏に在り、それが「余りの凄さ」に戸惑い、“江戸に来れば”と云う思いがあり、結果として「恐怖感」に結び付いたと考えられる。
確かに、この「恐怖感に結び付く原因」を持っていた事は否めない事に成る。

(注釈 その頃の「伊豆相模」は「銭屋」や「土倉」に代表されるこれを基本とする室町期からの既存の商慣習の古い経済体制を敷いていた事が原因している。)

然し、この程度では幾ら何でも三つもの「令」は出さないであろう。
少なくとも“形式上でも「令」を出すだけの事“が起こっていた事を示すものである。

これは、「情報」が入っている「伊豆相模」だけでは無く、情報の持たない「江戸の既存経済の商人達」も同様に「恐怖感」は図り知れないものがあって、当に「パニック」に陥ち至っていた事が判る。
取り分け、「銭屋」と「土倉」だけには相当な実質の影響が風潮に依って一時的にあったと考えられる。

誰が考えても、上記した様に、「伊勢の14万石の経済増加」と「紀州藩の10万両返済」と「14地域の活性化」を聞けば、その経済勢力に「恐怖感」を抱かない方がおかしい。
恐らくは、「江戸の伊勢屋」「伊勢屋の質屋」には、「嫌がらせ」や「デマ風潮」や「邪魔行為」が横行していたと観られる。

(注釈 佐々木氏の資料の中に、この時の風潮が風刺的に如実に描かれている。)

現に、この「騒ぎ」を見兼ねて出された「質流地禁止令」が誤解された。
何と江戸組の「越後の国」の何と「武士を含む半分の民」が反対運動を起こし「大騒動」に参加した事に成っている。
従って、この江戸での「嫌がらせ」や「デマ風潮」や「邪魔行為」が「越後」には伝わって居た事が判る。

この「大騒動」には、“誤解に依るものである事”が判っているので、他の普通の一揆や騒動と違って、騒動解決の為の「説得の役人」が江戸から態々派遣されているのである。
ところが、越前藩や幕府現地役人や幕府からも派遣されたが、“「役人の説得」に直ぐに応じなかった”と成っているので、「江戸の伊勢屋」「伊勢屋の質屋」に対する「嫌がらせ」や「デマ風潮」や「邪魔行為」が想像を絶していた事が判る。

ここまでの騒ぎに成るには「特定の煽動行為」が無くてはなら無い筈で、既存の「江戸商人の影の抵抗」があった事が云える。
其れも「15地域」であって、且つ、騒動の起こる事が最も低い「伊勢」に次ぐ「越後」である。
良し悪しに関わらず、「二つの伊勢屋の動き」を抑え込む為のもので、裏で「反対勢力」(「江戸商人の影の抵抗」)が効果的な場所を狙ったとしか思えないのである。

(注釈 前段で論じた様に、「保守的な官僚」を含めた「商業組合の進出」に対する「反対勢力」が動いた事が資料からの分析で判っている。)

現実に、吉宗没後の1760年代には「執政田沼の冥加金に依る抑制策」、1780年代には「執政水野の禁止令」と「反対勢力」は勢いを吹き返した。

そもそも、この「令」は、元の目的は「伊豆相模」の勢力等を宥めるのみならず、「江戸商人の騒ぎ」を納める為の令でもあったのであるから充分に考えられる。

このややこしい「三つの令」は、結局は、1年後と5年後に廃止に成り、元の1695年に出された「田畑売買の禁令」も緩和する事で1731年頃までで完全に納まったくらいである。
この間、何と15年間であった。

「土倉や銭屋」で出た担保物件が、金銭の持つ「商業組合の商人」に渡る事で「土地と市場」が寡占状態に成らない無い様に配慮した令の目的であった。

「江戸の伊勢屋の質」は「商業組合」の中で、「暖簾分け制度に依る融資」であって「庶民生活の融資」はしなかったし、「暖簾分け」での実質担保は採らなかった。
この「質」が危険視された。
出された「令」は、「商業組合」が「質」に依ってこれらの土地を含む担保の売買を禁止しているのである。
庶民に執って「担保を買う事」を奨励するのであればいざ知らず、禁止しているのである。

これを心配した庶民を保護した法令の目的であったのに、「丹波域三国」と「越後域三国」で逆に騒がれたのである。


然し、この事が元で、伊勢と伊豆の双方の感情の行き違いが起こり、互いの「信用」を失い「伊勢と伊豆」は、平安期から全くの同族縁籍でありながらも、明治期まで「完全な絶縁状態」と成って仕舞っていた。
(神明社の「御師、祐筆」が両者を取り持って解決し、「青木氏の奈良期からの賜物の護り本尊」の「大日如来坐像」を一時預かりして貰ている。)

(注釈 この事に付いて「青木氏四家の口伝」に遺る。
これは取りも直さず伊勢側から観れば「伊豆相模」が裏で煽ったと解釈した事を意味する。)

そもそも、“「伊勢屋の質屋」”が有名な「江戸の名物」として、“「江戸の犬の糞に伊勢屋の質屋」”に例えられている様に風刺する目的から、この時に生まれた模様である。
逆に観れば、風刺が出る程に「伊勢屋の本店」の「資金融資」に依り、「商品の商い」に限らず「質屋」の「質の事態」も「暖簾分けの各店舗」も大きく運営されていた事が判る風刺である。


注釈として、 話は逸れるが、この頃の「江戸の伊勢屋」を示す物が先祖遺品の中にあったので、当時の“「江戸の伊勢屋の理解」“を深める為にも、少しこの事に触れて置きたい。

それは、“「古今雛の京雛人形」”に、”「江戸の享保雛人形」”と云う風に呼ばれて、これも当時の世評を反映する様に有名であった。

この「江戸の享保雛人形」、通称、“「享保雛」”とは、「伊勢の紙屋」が「紙の殖産」として「京雛の習慣」を「江戸仕様」に改造して、「伊勢松阪」から持ち込んで「江戸で職能集団」で拡げた事からこの様に呼ばれる様に成った。

現在の「雛祭り」の「雛段」は、この時から興った「江戸の享保の慣習」なのである。

その意味で、”「箱雛」の「京雛」”に対して、“「雛壇」の「享保雛」”は、一つのこの時の「江戸の商業組合」を物語るものなのである。

現在は、何処でも“「雛壇」の「享保雛」”が一般的であるが、筆者の家では、この時の「享保雛」の「人形」が保存されていたが、明治35年に松阪大火で焼失した。
然し、「雛祭り」と云えば違っていた。

可成り大きい「三尺雛」(90センチ)と呼ばれるほどの「箱雛」の「京雛」は現在も遺されている。
この「箱雛」は「単体の雛人形」で「御雛と女雛の二体」から成り立っている。
それが「装飾された雛箱」に入っている事から「箱雛」と呼ばれていた。

この様な祭祀をする「専用の飾床」があって、中央に先祖を祭祀する「仏間」と、先祖の遺品などを飾る「床間」が右にあって、左にこの雛箱に毛氈の掛物を掛けてその上に「御雛と女雛の二体」が飾られ、高い「対の燈篭」と、高脚の「着いた梵燈」が設けられ、高瓶に菱餅と甘酒を捧げ、右の大花瓶には「桃花」を生ける。中央には祭り専用の「黒檀火鉢」が備わる。
この「黒檀火鉢」で香木を焚いて、人は集まる。
嫁ぎ先親族の人々が遣って来ては、一月間に入れ代わり立ち代わり香木を焚く事が起こり、隣の仏間に線香と蝋燭が灯される事か続く。

「飾床」の敷居には、「注連縄」が飾られ「象徴紋」の入った「紫色の幔幕」が張られ、祭りの初期は「甘酒」(弥生雛)が振舞われ、後半には「抹茶」(五月雛)が振舞われた。
そして、「仏間」の前の右に「毘沙門天像」と左右に「対の高燭台」が設けられる。
仏間の左には元より「対の高燭台」ともに「大日如来坐像」が安置されている。
全てが「床」には無く「机上の高さ」にあり、「祖先神の親神」の「皇祖神の主神」の「自然神の祭祀方法」の手順に一切沿っていると考えられる。

江戸の当時の庶民が、持てる「雛人形の箱雛」では未だ無かった様であるし、この祭祀もこの様に現在の様ではなかった。
これが「青木氏の習慣仕来り掟」に古くから遺されて「一つの祭祀の二つの催事」を維持されていたものである。
これを、“三月に一ケ月間も飾る習慣”であって、「女子の節句祭り(庶民化)」と云う事では無く、娘の「婚家一族」を中心に「四家一族」も「福家」に呼び寄せて、“「一族繁栄円満の祭り」”として、その際の「格式象徴物」として「雛人形の箱雛」は用いられて行われていた様である。

前段でも論じたが、「四家制度」の”孫域までを「子供」として一同に育てる「仕来り」”に沿ったもので、「女子」と云うよりは元より“「女系祭祀」”と云う目的が元々強かったものである。

(注釈 「青木氏」には、前段でも論じたが「青木氏家訓10訓」にもある様に「女系意識の概念」が強い。)

この全国の「青木氏」等が行っていた古式豊かなこの「弥生雛祭り」が、享保期には「吉宗と青木氏と伊勢屋」が江戸に広げ、それが世間に拡がりこの「上記の祭祀」が簡略化し庶民化し変化して華やかに「雛壇」に成り、「祭り」が「女子の祭り」と成ったと観られる。
(吉宗は伊勢で育っていたのでこの「青木氏の催事」を良く知っている。)

何をともあれ、「伊勢和紙加工に於ける殖産」を広める為に「弥生雛祭り」に託けて江戸に持ち込んだものが、「享保雛」と云う形で普及させて広まったものである。

この「弥生雛祭り」の古式豊かな「正式な祭祀」は、「全国青木氏」では、「伊勢」「京」「近江」の三地域のみならず、大正14年まで正式に行われていた記録が遺されているが、その後は衰退し一族の孫域まで呼び寄せた“「子供孫祭り」”の様な「子供の成長を祝う目的」の「小規模な単なる「お祝い事」に変化したものであった。
この「お祝い事」は昭和半ばまで続いた。

この昭和の時は、「享保雛の影響」を逆に受けて「京雛の箱雛」を用いた「雛壇の無い状態」ではあったが、「弥生雛祭り」(女子)と「五月雛祭り」(男子)の「二つの祝事」に成り、且つ、分割していたのである。

同じ「儀式の祭事」が「伊勢秀郷流青木氏」や「近江佐々木氏系青木氏」でも行われていた事が記録として遺されているが、ただ「箱雛に依る催事」は遺されていたかまでは不明である。

更に、この「雛祭り」は、上記の三月の祭りに加えて五月には、同じ「箱雛」で、江戸期には「義経と弁慶(侍と臣)」(モデル化)で、室町期では「毘沙門天像」を模写したと観られる大きな「二体の武者人形」を同じように飾り、「四家一族」と「婚家一族」に加えて、家人郎党全員を集めての「儀式の祭事」(“「五月雛祭り」”)が行われていた。
この時の祭事は、同様に「四家制度」に沿ったもので「一族発展の祭り」(男子の子孫存続)として「三月の祭り」(“「弥生雛祭り」”)に続けて行われていた様である。
「祭祀の期間」は同じ一ケ月間であり、この間は「弥生雛祭り」の「雛人形」なども飾り続けて仕舞わない仕来りである。
そもそも、「伊勢青木氏の口伝」によれば、“「弥生雛祭り」と「五月雛祭り」”の「箱雛の人形」を飾る目的が何であったかと云うと、本来は、“ある事を「擬人化したもの(格式の象徴物化)」”であって、「五月雛祭り」に付いては「四家制度」の思想から来る「健全な子や孫」(「男子や女子」)を表すものとして祀られていた事が判る。
然し、“「弥生雛祭り」に付いては、”ある事を「擬人化したもの(格式の象徴物化)」“と云う事が口伝ではっきりしている。

然し乍ら、この“「弥生雛祭り」と「五月雛祭り」”との間には筆者には何か釈然としないものがあった。

実は、筆者の「口伝」の記憶では、「三月祭り」(「弥生雛祭り」)から「五月祭り」(「五月雛祭り」)まで連続して行われていたとの「口伝記憶」(先祖の言い伝え)がある。
これは「二つの催事」では無く、「一つの祭祀の二つの催事」としての口伝による記憶が強い。
これは「旧暦の弥生」は新暦の3月下旬-5月初旬と成る事から、奈良期の古来の「弥生雛祭り」が元々の「祭りの期間」であったと考えられる。
これが新暦に成った事でより三月と五月の「二つの催事感覚」に何時しか勝手に成って仕舞ったと観られる。

二つの「三月祭り」(弥生雛祭り)から「五月祭り」(五月雛祭り)は、“ある事を「擬人化したもの(格式の象徴物化)」である”事の「古い催事」である。
この限りは、元々継続した「一つの祭り」であった筈で、その目的から考えて「弥生雛祭り」が原型であったと考えられる。
「青木氏」は、古くから独自にこの「古の伝統」を維持していた事に成る。

「二つの催事感覚」、取り分け、その中でも「五月祭り(五月雛祭り)」がはっきりと分離したのは、享保期の「伊勢殖産」に依って「享保雛」が出来た事から独立させて販路を拡大させようとした。
この事から、二つに恣意的に分けられたと観られる。
それが明治以降の新暦で、伊勢でも分離しての催事感覚に疑問を持たれない侭に当然の様に「二つの催事感覚」に成ったと観られる。

(注釈 然し「口伝」による元来のこの「催事の目的」からすると「二つの祭祀感覚」はおかしい。
これが釈然としない事であったが、「青木氏」が行う「弥生雛祭り」の目的と、その内容が、「絵」とで行う様な「祝事」ではそもそも無く、先祖への「尊敬の念」を認識させる「祭祀の催事」である。)

従って、「享保雛」の「雛段」に依る「庶民の二つに成った祝事」は、「青木氏の祭祀」(「弥生雛祭り」)とは異なっているのである。
つまり、その「異なり」とは、そもそも、「祭祀」と「祝事」に依る違いである。

(注釈 現在でも「京と近江」と、取り分け、伊勢域の「老舗での雛祭り」では、「青木氏」の「一つの祭祀の二つの催事」と似ているところがある。
これも矢張り、一ケ月間行う慣習で、「雛壇」の様なものが無く、”「供物」や「幔幕」や「注連縄」”もあって、この期間はこの「三つ」を降ろさない「仕来り」で、現在でも異なっている事が判っている。)

この「青木氏の二つの催事」は、即ち、「三月祭り(弥生雛祭り)」と「五月祭り(五月雛祭り)」は、何れも昭和半ばまで小規模ながら続けられていた。

然し、この上記の “ある事”とは、次ぎの事である。
「四家制度」の前提と成る「皇族賜姓臣下族」としての「賜姓五役」を忘れさせない為の「格式象徴物」を擬人化させての「青木氏独自の古来催事」であった。
以上と「口伝」で伝えられていて、又、その「催事の内容(祭祀)」からも筆者も理解している。
従って、根本は、「祝事」では無く、「祭祀」なのであった。

これが室町期の「室町文化」、即ち、“「紙文化」”と云われる位に栄えた事から「500万石」と云う「巨万の富」を獲得したが、これを同じ「二足の草鞋策」を敷く「青木氏」の「伊勢の紙屋」としての「仕来り」として捉えて、京や伊勢や近江の藤原氏系や佐々木氏系の「二足の草鞋の老舗の商家の習慣」としても採用され拡がったものであろう。
それが、江戸には「青木氏の殖産」で享保期に拡がったと云う事であろう。
唯、この時は「塑像」では無く、「雛人形」で広めたと云う事であろう。
それが当然の結果として、庶民に広げる限りは「祭祀」では無く「祝事」となり、「三月祭り(弥生雛祭り)」と「五月祭り(五月雛祭り)」の「二つの祝事」に変化したと考えられる。

江戸では、これに依り「新しい祝い事」として「二つの祭り」を作り出し、「享保雛」と「雛壇」と云う二つの新しい「雛人形」の形体を作り出したのである。

これも「青木氏の慣習」が「伊勢和紙加工の殖産」(射和衆 室町期の紙文化)を通じて江戸に広がったからである。

注釈として、そして、この「三月祭り(弥生雛祭り)」と「五月祭り(五月雛祭り)」の「青木氏の慣習」が、この時に、「商業組合」の「職能部門」も「融資と指導等」を受けて「暖簾分け制度」、所謂、「伊勢屋の質」で拡大して行ったのである。
この江戸に広まった「伊勢屋の質」が、同時に「伊勢和紙加工の殖産」(射和衆)に連動しているのである。
況や、「江戸の伊勢屋の質」(「享保雛」)も、「伊勢の紙屋の質」も、何れにも「伊勢和紙加工の殖産」が介在していたのである。
そして、それには奈良期からの「青木氏の慣習」が、「江戸の経済」の“「拡がりの媒体」”と成っていたと説いている。

「慣習も奈良期」、「和紙も奈良期」であり、「享保の文化」は、この二つを取り入れた「天皇家の様相を模写した雛人形」と云う事に成ったのである。

そもそも,「雛人形の歴史」には,次の様な歴史を持っていた。
下記の事を理解していないと、この「像の事」は好く理解しえない。

・「形代」(かたしろ)と云うものがあって,その「人形」(ひとがた)に「災い」を担ってもらって災難をさけると云う風習で、古来の祈願はこれが主体であった。

・「天児」(男子 あまがつ)・「這子」(女子 (ほうこ)と云う祈願方法は、「人形の原型」と云われ、その人形(ひとがた)に対して「願い」を込める方法である。
これが発展してより「ひとがた」に近い形が表現されて、平安期頃には「人形(にんぎょう)」と呼ばれる様に成った。

・「立雛(紙雛・たちびな)」と云う「色紙」で細工表現した「人形(にんぎょう)」から発展した「親王人形」を作り、それに「ある目的」を持たせて「祭祀人形」や「祝事人形」というものを創った。
この「ある目的」をより真実に近づけ「擬人化偶像」を成して慣習化を果たした。
然し、「祭祀人形」は、特定階級に催され「天児系・あまがつ」の「擬人化偶像の流れ」に、「祝事人形」は有る範囲の庶民に催され「形代系」の「人形(にんぎょう)」へと進んだ。
況や、「人形(ひとがた)」から「人形(にんぎょう)」へ変化したが、更には、目的を持たせ装飾させた「雛形(ひながた)」への分岐時代であった。

・「内裏雛(室町雛・だいりひな)」として「ある目的」が固定化して「親王人形」(しんのうにんぎょう)と呼ばれる現象が起こり、これが形式化して「立雛(たちびな)」が創造化された。
且つ、この「立雛」が「親王の雛人形」が複数化して飾られる様に成った。
「室町文化の紙文化」が、飛躍的に発展して「庶民化」に依って「祝事の人形化」がより進んだ。
ここで、初めて室町期末期頃には正式に「雛人形(ひなにんぎょう)」と呼ばれる様に成った。

・「寛永雛」とあるが、そもそも、これは「内裏雛」に含まれ、「立雛」では無く「座雛・すわりびな」で作られたものである。
「内裏雛」までは関西での文化であったが、開幕に依って江戸に向けて「江戸十組問屋」等の多くの「関西商人」が江戸に移住し「関西文化」を持ち込んだ。

その時、この「内裏雛」が持ち込まれ、やや「江戸風」に仕上げられた事から、「寛永雛・かんえいびな」と呼ばれる様に成り、「京文化や近江文化や伊勢文化」を思い出す「祝事の専用雛」として扱われた。
参勤交代で江戸に集まる「武士階級」からも、又、広くこの慣習を真似た「商人などの庶民階級」にまで催された。
この時に使われたものを「寛政雛」と呼んでいた。

唯、この「寛政雛」には、「人形・にんぎょう」としての装飾などには大きな変化は無く、「関西の風習」が「江戸の風習」にも成りつつあって広がった事の意味から「寛政雛」と呼ばれた。
最早、「人形・ひとがた」の慣習の影は無かった。
「雛人形」に対して特別の「幕府の締め付け」があって、且つ、国政も極貧状態で質素が求められた時代であって、大きな発展は起こらなかった。

従って、分類上では次ぎの「享保雛」で扱われている。

・「享保雛」は「内裏雛」(親王雛)が華やかに成り、「寛政雛」とは比べものにならない程に独特の「江戸庶民文化の花」を咲かせた。
「内裏雛」の「雛人形」は複数化し、大型化し、雛壇化し、装飾具化し、更には、幾つかの「親王雛」では無い「女官雛」等の「有職雛」が生まれる等に発展した。
全く異なる「内裏雛」の「雛人形」が生まれ、それが更に進化を遂げたのである。

この余りの進化は、逆に関西に流れ着き、何時しかその「享保の雛人形」を使った「祝事」は華やかで庶民的であった事から、「関西の内裏雛」に取って代わられたのである。
従って、幕末の「関西内裏雛」には「関東内裏雛」と混在する期間が続き、「青木氏等の慣習」として維持されていた「立雛」は、「特定の階級と地域」にのみ維持されるものと成った。

(注釈 これ以後、明治期まで、遂には朝廷の官位官職の「有職雛」や「古今雛」が追加されて華やかさが拡大し、関西にも逆波及し定着して仕舞ったのである。
幕府は懸命に成って、質素に祝う様に「御触れ」を出すが最早止まらなかった。
現在では、この逆波及の本論の「享保雛」が定着し、元の「内裏雛」さえも完全に忘れ去られているし、「立雛」等は存在さえ「文化の記憶外」に成っている。)

「京雛」と「近江雛」と「伊勢雛」の少しづつ異なる「立雛」は、勿論の事、形代(かたしろ)、「天児」(男子 あまがつ)や「這子」(女子 (ほうこ)の「祭祀や祝事の祈願方法」の「人形と雛の歴史」は学問的にも消えかかっている。
この事は、実に「青木氏の歴史観」として大事な事であり、「享保の改革」に執っては関連して前期した事を認識して置く必要である。

つまり、「祭祀人形」は特定階級に催され「天児系(あまがつ)」の「擬人化偶像の流れ」に、又、「祝事人形」は有る範囲の庶民に催され「形代系(かたしろ)」の「人形(にんぎょう)」へと進んだ。
この様に「人形(ひとがた)」から「人形(にんぎょう)」へと変化したが、更には、「祝事の目的」を持たせた事に依って装飾させた「雛形(ひながた)」へと進んだ分岐時代でもあった。

つまり、「青木氏の祭祀」は、「立雛」とは呼称するものの「雛」では無く、その真の姿は「人形(にんぎょう)」で、「祭祀人形」は特定階級に催され、何時しか「天児系」の「擬人化偶像の流れ」に居た「古式豊かな青木氏だけの慣習仕来り」に成っていたのである。
この「三月祭り(弥生雛祭り)」と「五月祭り(五月雛祭り)」の「青木氏」の「一つの祭祀に二つの催事」の慣習は、「弥生雛祭り」の「御雛と女雛」(正しくは親王人形)と呼ばれていたが、実は「人形(にんぎょう)」に依って作り上げられていたのである。

(注釈 「雛」の呼称の原因は、室町期頃の「立雛への進化の影響」と考えられる。
当初は「弥生祭り」と「五月祭り」と呼ばれていた様であり、室町期末期から江戸期初期に入ってから「雛」が着く呼称と成ったと口伝と資料の一端からと伺える。)

当然に「五月祭り(五月雛祭り)」の「毘沙門天像」は、「雛」では無い事は当然の事として、奈良期には「木彫像」の「擬人化偶像」(鞍作部止利作)での祭祀であった。
然し、室町期には「時代性」を強く反映して「塑像の特徴」を活かした「擬人化偶像」で祭祀されていたのである。

この「時代性」とは、「下剋上と戦乱期の乱世」で、且つ、この時期は乱世でありながらも「伊勢」は「不入不倫の権」で護られていた事や、室町文化で「巨万の富」を得た事から、「二つの青木氏の子孫拡大」(四家制度)は大きかった。

従って、最早、権威ある「木彫像」では「鞍作部の衰退」もあり、無理とも成る。
当然に拡大する「枝葉の子孫」の数に合わせるにも「子孫に与える像」は、「木彫像」では間に合わなく成り、「塑像」でなくては出来なかったと考えられる。
「乱世による損傷」も充分に考えられ、修理や量産の効く「塑像」に換えたと考えられる。

この古式豊かなこの「祭祀の慣習」は調べた範囲では、これに近い状態を「青木氏」と共に、「京」「近江」「伊勢」の藤原氏や佐々木氏等を祖とする数える程の“「老舗の商家」”のみで、昭和の時代まで維持していたと云う事である。

(注釈 伊勢では特定地域でも現在も遺されているが大半は元は老舗商家だったと云う。)

「老舗の商家」しかこの「古式の慣習」が文書にさえも遺されていない。
これは恐らくは、「立雛」さえも確認できない事から考慮すると、江戸期には、最早、「氏族」が其処まで衰退した事からだと観られる。

(注釈 「姓族」が主体を占めた。この「姓族」を以って「武士と云う環境」に成った。その為に擬人化像や偶像は衰退し「氏族の古式伝統」は消えた。)

何はともあれ、この典型的な現象は、それまでこの「古式慣習の文化」を維持していた階級であったのに、室町期末期に近江、京の関西域、伊勢、美濃域の中部域、土佐、讃岐、伊予、阿波の四国域、周防、安芸、伯耆の中国域に“「武家貴族」”が生まれて「貴族公家の勢力」を盛り返した。
然し、50-80年程度でこれらも短命で「姓族」に圧せられて、完全消滅して逆に共倒れして、「伝統」を保持していた可能性のある「郷士衆数」までも減らして仕舞ったのである。

この“消滅して数を減らした”と云う事が、多少なりとも痕跡を遺す筈であるが、「古式の慣習の痕跡」さえも無くす事に成って仕舞ったと考えられる。

それも、この「四つの地域」は、そもそも「古式の慣習」を維持していた「氏族の枝葉末裔の生存域」(家紋分析)であって、そこにこの「武家貴族」が安易に浸食し、安易に「貴族や公家」が「武家」としての力を持つ事が出来たのである。
この原因は、平安期末期から鎌倉期初期の「荘園制の弊害」であって、他の血気盛んな「新興姓族」の中に浸食する事は極めて危険であった事から、「西の政権」の「朝廷力」を吹き返す為に採った「安易な苦肉の手段」であった。


(注釈 これらの「武家貴族」と呼ばれる者の貴族や公家衆等は、「平安期の荘園制の名義貸主」であったが、それを根拠に貴族や公家衆等が室町の戦乱期で失職した武士を雇い、自ら「武家貴族」を名乗り、その勢力を使って過去の「名義貸し」を根拠に土地を奪い取った現象が各地で起こったものである。)

と云う事は、この現象が原因して、この「四つ地域の地元勢力、即ち、郷士勢力」さえも滅亡すると云う事に成り、当然に「古式の慣習」(祭祀の慣習)そのものが消え去る事と成ったのである。

(注釈 「弥生祭り」「五月祭り」は、「天児」(男子 あまがつ)・「這子」(女子 (ほうこ)と云う「祈願方法」に起因していて、奈良期、或は平安期からの「郷士衆」である場合は、この「祭祀の伝統」を保持していた。
この時代の「郷士衆」は、全て藤原氏、佐々木氏、源氏、平氏、青木氏等の「賜姓臣下族」で拡がった「母方族系」も含む枝葉の傍系支流族の末裔であった。
この「四つ地域」に、前段で論じている様に、それぞれの「荘園制等の名義貸し」や「血縁の定着理由」が在って主に分布していたのである。)

唯、この中でも、前段でも論じたが、数少ない「伊勢郷士衆」は、その元を質せば「母方の武家貴族」にも類し、「郷氏」でもある地元の「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢藤氏一門」は、「武家貴族の浸食」に耐え抜いた。

伊勢は、「京の北畠氏」が「武家貴族」と成り、一時、奈良、伊勢、美濃域、果てには西関東に浸食し、一時は、”「御所」”と呼ばれる程に勢力を持ったが、遂には平家の傍系末裔の尾張の織田氏に押し返され潰された。
然し,前段で論じた様に、「皇族賜姓臣下族の伊勢青木氏」の「不入不倫の権の笠」に入り、「縁者関係」を理由に「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢藤氏一門」には手が出せないと云う事が発生し生き残った。
そして、その結果、”「青木氏の古式の慣習」”は何とか遺ったのである。

(注釈 「皇族臣下族青木氏」の補完役を「円融天皇」時に「藤原秀郷」は命じられ、且つ、「青木氏の母方系」である事を理由に「同等の格式身分」を補償して、一族の第三子(千国)に永代継承する事を認め「青木氏の賜姓」を授けた。
これが「24地域-116氏」に拡がり、秀郷一門の「第二の宗家」と呼ばれて拡大する。)

中でも「伊勢秀郷流青木氏」は、「皇族臣下族青木氏の補完役」の中心に居て深い血縁関係にあり、秀郷一門にも「独自の古い慣習」が在りながらも「皇族臣下族青木氏」の「古式の慣習」をも保持していた。
取り分け、中でも「皇族臣下族青木氏」の「四日市殿」は、江戸時代には「最高の格式」を持つ「融合族青木氏」であった。

そこで、「青木氏」の「四家制度」の前提と成っている「皇族賜姓臣下族」としての「賜姓五役」を忘れさせない為に「格式象徴物」を作り「擬人化偶像」させて祭祀した。
それを「特定の期間」に祭祀する「青木氏独自の古来催事」であるとする前提には、「三月祭り(弥生雛祭り)」と「五月祭り(五月雛祭り)」との間には「重要な独特の繋がり」が「五月祭り(五月雛祭り)」側に在った事に成るのである。

では、その“「重要な独特の繋がり」とは一体何であるのか“と云う事に成る。

そこで、そもそも、「五月祭り(五月雛祭り)」には、口伝によると、室町期には何故か「毘沙門天像」であったが、これが「五月祭り(五月雛祭り)」の祭祀目的と成っている。
これが“「重要な独特の繋がり」である事に成る。
その“何故か”の「毘沙門天の根拠」が判れば、「一つの祭祀の二つの催事」であった事が判るし、次ぎの様に伝えられている「口伝」も納得のいく処である。

そもそも、別論でも論じたが、日本では「四天王の一尊」として扱われた場合は、“「多聞天」”で、「独尊像」として扱われた場合は、“「毘沙門天」”であり、「武神」としての「臣下族」の「守護神」として祀られていた。

(注釈 「三つの発祥源」として、「青木氏」がこの「武神の祭祀役」を唯一に持つ「特有の氏族」である。前段等で論じた事が大きく歴史観として出て来る。)

「賜姓族五家五流の青木氏」では、この「一つの祭祀の二つの催事」の中の「偶像擬人化物」として「毘沙門天像」が位置している。

(注釈 「藤原秀郷流青木氏」では、上記注釈でも記述したが「皇族賜姓臣下族」ではあるが、守護神は「春日神社」、主菩提寺は「西光寺」、始祖は「藤原鎌足」、家紋は「下がり藤紋」、「賜姓五家五流青木氏」の「補完族」で「母方族」である。
この事から「毘沙門天」は「武神」「戎神」「尚武神」の「守護神」では本来無い。
但し、「四日市殿」と「秀郷流伊勢青木氏」は「青木氏融合族」である事から両方の慣習を持つ。)

つまり、「一つの祭祀の二つの催事」の形体を観ると、「三月祭り(弥生雛祭り)」の目的は、次ぎの通りであった。
「皇族賜姓臣下族」としての役である「賜姓五役」を忘れさせない為に、それを与えてくれた始祖を擬人化させた「格式象徴物」の「偶像」を作り、一族にそれを「青木氏始祖」として崇めさせる掟である。
青木氏末裔に長く崇めさせるに至っては、又、守護させる為には、その「青木氏の意志」を最大限に具現化し、偶像化したものを「格式象徴物の偶像」に添える事で必要であって、それを「定期的な祭祀の形」で慣習化して遺す事にあった。

その「崇め護る意志」を表したのが「独尊像の毘沙門天像」であって、これを「格式象徴物の偶像」の横に配置した形態に成っていた。

(注釈 筆者が知る口伝範囲では、実際は、仏間の前面左に「大日如来坐像」、全面左に対の形で「毘沙門天像」が配置されていた様に聞き及んでいた。
然し、ところが資料に依れば「格式象徴物の偶像」の右横と成っている。
室町期末期の「秀吉に依る門徒衆狩り」で、人々は「青木氏の菩提寺と屋敷」に逃げ込めば秀吉は手出しはしないだろうとして列を成して逃げ込んで来た事が伊勢の記録で判っている。
この時、秀吉は武力を使えず「青木氏の菩提寺と屋敷」に「火付け」で応じた。
この時、「伊勢シンジケート」は「青木氏の菩提寺と屋敷」とを取り囲み人々を護ったとあり、「秀吉軍(門徒衆狩り)」は近寄れず、結局は全面破壊に至らず「青木氏の菩提寺と屋敷」は一部損傷で終わった事が記録されている。)

この注釈の様に、護る「伊勢シンジケート」の間で武力沙汰になれば朝廷を擁護する秀吉に執っては、“松阪殿にお構いなし“の「不入不倫の権」を犯した事に成り腹立たしくも好ましい事では無かった。

但し、この「松阪の災禍」で「格式象徴物の偶像」と、「大日如来坐像」と、「毘沙門天像」を屋敷の外に一度救い出したが、口伝に依れば、「毘沙門天像」だけは「塑像」であって重い事もあって損傷し、再び「災禍の中」に放り込んだと伝えられている。

この後の江戸初期前後に、この事が理由と成って反省して「塑像」では無く、「毘沙門天像」は「義経像(武者像)」をモデルにした様な現存の「武者偶像人形」(三尺像)にした事が伝えられている。

ところが、現在は「格式象徴物の偶像」の右横に「武者偶像人形」が配置される習慣と成っている。
これは、この祭祀が終われば、この「二つの偶像」は安全を期して土蔵に仕舞う仕来りであった事からこの配置に変更したと考えられる。

「大日如来坐像」は仏間に常設して祭祀している事から、口伝よりも資料が「正しい仕来り」であった事が解る。
これは「二つの祭祀に一つの催事」に合して「古式仕来り」を江戸期に修正した事に成る。

「大日如来坐像」は「格式象徴物の偶像」よりも上格である事から、「毘沙門天像」を仏間に対に配置したと云う事であろう。
そもそも「大日如来坐像」も「毘沙門天像」も「仏像」であり、「格式象徴物の偶像」と「武者偶像人形」は擬人化の「偶像」であり、「仏像」では無い。
つまりは、この概念に”伝統を変更した”と云う事である。

注釈として、「武者偶像人形」に変更した根拠には、「二つの青木氏」は「皇族賜姓臣下族」ではあるが、平安末期の「以仁王の乱」の直前1182年頃、「源頼政の第三氏孫京綱」が跡目に入るし、「信濃青木氏」にも同時期に「源光国の子の源実国」が跡目に入った事で、「青木氏と源氏の同族融合族」と成った。

この事で、「武者偶像人形」に換える事には、「江戸初期の青木氏第23代目頃の青木氏末裔」は「問題無し」としたと考えられる。

これを未来永劫に「氏の生きる目的」として忘れさせない為の「一つの祭祀の二つの催事」であった。

唯、問題は「毘沙門天像」の「三つの格式」をどう見たのかと云う事が気に成る。
それが下記に論じる「三つの格式」を持たしているのである。

そもそも、「毘沙門天」を詳しく探れば解る。
「毘沙門信仰の発祥」は、平安時代の鞍馬寺で、鞍馬は北陸の若狭と山陰の丹波と京都とを結ぶ交通の要衝でもあり、古くから市場が栄え庶民の間でも、「武神」に依らずとも「毘沙門天」の神格である「財福の神」という面も強まった。
更に、本来の「武神」と「財福神」以外にも、九世紀頃からは「正月のお祓い行事」として、「疫病を祓う役」と「無病息災の神」という一面が加わった。
平安時代末期には「商いの神」の「戎神」ともされ、「武神の甲冑の毘沙門天」は主流であるが、この姿の「戎神」の古い形態も起った。
「財福の神」としての「毘沙門天」は、室町期中期には「大黒神」にならぶ人気を誇るようになった。
室町期末期には、インド伝来の「武神の毘沙門天」は、「日本独自の信仰」として「七福神の一尊」ともされ、江戸時代以降は「尚武様」として特に「尚武(勝負)神」にも崇められた。

この様に「庶民の仏教の信仰」も加わり、「武神」、「財福神」、「無病息災の神」、「戎神」、「七福神」、「尚武神」とも崇められる事は「青木氏」に執っても得策であった。

この事から、「青木氏」は「五月祭り(五月雛祭り)」には、「毘沙門天像の塑像」を「三つの発祥源」として「武神」に、「二足の草鞋策」から「戎神」に、「土地の氏上御師」として「尚武神」に崇めて、「格式象徴物」を護る為にも配置して祭祀していた事が解る。
これは当に「格式象徴物」に対して「賜姓五役」を果たす為に護侍している「青木氏の姿」を表現している事にも成る。

この「毘沙門天像」には、基本的に「七像型」があり、右手には法棒、左手には宝塔を持つ基本像があるが、どの像であったかは現在は判っていない。
唯、「賜姓五役」を司る事から「武神」「戎神」「尚武神」の「三表現の毘沙門天塑像」と成ると、右に「法棒」(イ)と、左に「宝塔」(ロ)と、光背に「操舵輪」(ハ)と、足元に「邪鬼」(ニ)で、立姿は鎧姿(ホ)の塑像と成る筈である。

現在、全国に遺されている「毘沙門天像」には、「七像型」の範囲で初期には、「60程度の造形」(型式に拘らなければ絵まで入れると江戸期までのものを入れると数万像ある)があるが、当時はその「氏族」の「七像型の範囲」で主張をして造形を鞍作部に依頼する習慣が許された。
その為にも「依頼主の主張の自由性」が効く「塑像」が主体と成っていた。

室町期までは少なくとも上記の「三月祭り(弥生雛祭り)」を基本に「五月祭り(五月雛祭り)」が「青木氏」の「二つの祭祀に一つの催事」であったとすると、(イ)から(ホ)の条件が備わっていた筈である。
現在は室町期の類焼で正確な立像姿は判らない。

イロハニホで描かれた「曼荼羅絵の毘沙門天像」が「近江の寺」にあるが、これに近いものであったと考えられる。
口伝によると、奈良期の「青木氏」の賜姓を受け臣下族と成った時の「大日如来坐像」と「笹竜胆文様の象徴紋」と「氏神木の青木の樹」と共に、「鞍作部止利作の木彫り」の「毘沙門天像の賜物」と伝えられていた。

「青木氏」には、元より「鞍作部止利作」の「黒檀に依る大木像造」の「賜物の大日如来坐像」が現在も保有している事から、この時に合わせて受けた「毘沙門天像の木彫賜物」であったと観られる。
その「室町期の模擬像」の「塑像」として保有していたと伝えられていた。

(注釈 「原型の毘沙門天像」の「木彫像の賜物」は、原因は不詳であるが、鎌倉末期に損傷し類焼したと伝えられている。
「近江」と「美濃」にも「塑像」はあった筈で、「青木氏の氏是」に反して「源平合戦」の近江と富士川の戦いで滅亡した事で消滅した。
「甲斐の塑像」(源源光系)も衰退した事で消滅している可能性は高い。

「信濃青木氏」が所有した「毘沙門天像の塑像」の如何は現在も掴めていないが、下剋上と戦乱で損失したと観られる。
その後、「塑像」を作りしが「不入不倫の権」に護られていた事から「伊勢青木氏」の四家が共有していたのではとも考えられる。
然し、これは「室町期初期に再現された塑像の模擬像」であって、その「塑像の模擬像」も「伊勢三乱」でも焼失している。
この時に「信濃青木氏の毘沙門天像」は類焼したと考えられる。

その後は、この「塑像」は、遂には、江戸期初期の「武者偶像人形」(義経像)と、それを護侍する「弁慶像の雛型人形」に変化している。

(注釈 「弁慶像の雛型人形」の「武者偶像人形」は「江戸期の後付」と観られる。
恐らくは、これは江戸歌舞伎の勧進帳十七番で有名と成り、「五月雛人形」として作られる様に成った。
ただ、「「武者偶像人形」(義経像)」とは「造り」が異なる。

「義経像モデルの「武者偶像人形」は「箱雛」としてあったが、その後に、明治期に「弁慶像の雛型人形」は、「後付のガラス箱」に収め直されている。
この事から、「特注特大の雛人形」の三尺物、普通は一尺半以下として作られている様である事から、時期が同じでは無く兎に角は「後付」であろう。

「義経像モデルの「武者偶像人形」は、「箱雛」では、「毘沙門天像」に比べて「三格神」の意味合いが薄く成る。
この事から、その「意味合い」を強める思惑から、当時、「八幡大菩薩」が「姓族の武士」の「護り本尊」として崇められていたので、「弁慶像」を添える事で「武神と尚武神」の「三格神」を強化したと観られる。

そもそも、取り分け、11の「賜姓臣下族」の中でも、「清和源氏」と「桓武平氏」は、この「八幡大菩薩」を「武神格」として崇め、その「義経像」を江戸期には「八幡神」の「武神格」に祭り上げた。
元々、この「八幡神」は、「天皇家」の「始祖応神天皇の神霊」であって、「皇祖神の伊勢神宮」に準じる神格を以って守護神の宇佐神社と石清水神社に与えたものである。

従って、「神仏融合」の「八幡と菩薩」は準ずる神格として、「武神の毘沙門天」に継ぐ「日本固有姓族の武神格」として新たに造り上げたのである。

そこで「皇祖神の子神の祖先神」を守護神とする「青木氏」としては、この認識の上に立って「毘沙門天」に換わって、「武者偶像人形」を「武神」とする事に踏み切ったと考えられる。

(注釈 そもそも「塑像」は、同じ物を幾つも造る時に用いる手法で藁や木枠を基本に粘土で塗り固め外側を色付けする手法であり、又、模擬像や修復が容易である。
「毘沙門天像」等の複雑な像に良く用いられるし、金属像にする時の鋳型にもする多様性の手法でもある。)

室町期初期からの「下剋上と戦乱」を反映して、「青木氏」では「氏の安寧」を祈願して護る「守護神像」を偶像擬人化した「大きな雛人形」であったと口伝されている。
その「偶像擬人化像」のモデルと成ったのは、実在の「大蔵種材」だと伝えられている説もあるが、「青木氏」との間の直接的な関連性は無い事からこの説は疑問視されている。

ところが、別の一説には、「坂之上田村麿像」であるとする説もあり、「施基皇子」の四男の「白壁王の光仁天皇」の妻の「高野新笠」の叔父に当たり、「山部王の桓武天皇」の母方の曾祖父に当たる事から、この説が「青木氏と関連性」があり、経緯から一部納得は出来るが確定は出来ない。

口伝に依れば、上記した様に、江戸期初期には「義経像のモデル」の「武者偶像人形」を模写し、「弁慶像」を付帯させて模写したものと変化していたと伝えられている。
これには理由があって、平安末期(1182年)の「摂津源氏四家の源頼政」の三男京綱が「伊勢青木氏の跡目」に入った事から、「河内源氏」の「源頼信系の義経」をモデルにして「氏の護り本尊」として「偶像化した」ものを創ったとも伝えられている。

江戸期には社会が安定期と成った事から「毘沙門天像」から変えたとする説もあり、現在は、この義経に似せた「義経像」(モデル武者偶像人形)と成っている。
「義経像」(モデル武者偶像人形)とするには、この「大きな雛人形」の横には「弁慶像」が付添させている事からその様な説に成っている。
(但し、「弁慶像」は後から付け添えたものかも知れない。)
尚、「毘沙門天像」から「義経像」(武家侍のモデルした像)の「武者偶像人形」に変わった原因、書き記されたものが無い処から「伝統」を変えた原因は焼失かも知れないが本当の処は判らない。
理窟としては、上記の認識に執って換えたと云う事と観られる。

唯、当初は、「三月祭り(弥生雛祭り)」が原型で「一つの祭祀」であった事から、「弥生雛の御雛」は「天智天皇」とその妻の「越道郎女」を「女雛」に模写して擬人化した像を「箱雛」にしている。

念の為に、但し、「雛」との呼称は、明治前後の呼称の様で、「御雛女雛」は「御祖様」(おしさま)と呼称していた様である。
この「御祖様」は四家の中で使われる呼称で、「御師様(おしさま)」との違いは、「青木側」では「御師様」は呼ばれる側としてはあり得ず使わない。
唯、「青木氏の神格」として、「社職の物事の発声方法」は古来より異なっていて、例えば、「あおき」の場合は「うぉーきぃ」と云う風に韻に籠って発声する“「韻法と云う発声」”を「古来の慣習」として祭祀に関する言葉には用いていた。
つまり、「古代の神」に接する際の発声は、つまり、「神明神社の詔」等は、この「母音四音のアオウエ」と「父韻八韻のチイキミシリヒニ」の組合せで「子音三十二韻法」で言葉が作り上げられる「古代の発声法」である。
主に「父韻」の後に「母音」を着ける発声が行われていたが、祭祀に関わる名等の場合はこの逆の発声にも成る。

この「御祖様」は、「うおーしウさま」、或は、「うおーそオさま」と発声される事から、「おしウさま」か、又は、「おそオさま」に聞き取れたもので、「そ」>「し」で聞き取りに依っては「そ」<「し」に取れる事にも成っていた。

(注釈 伊勢では、「祖」は「始の意」を持つ事から「そ」<「し」であった様である。
恐らくは、「祖先神」の「御師様(おしさま)」があった事から、「字」の使い方で「始」では無く、「祖」を使っての発音は「韻法」で用いていたと考えられる。)

従って、「御師様」とは呼称は異なっていた。
「全国の青木氏」は、守護神を「祖先神」としている事から、この御師の頭で「神職の禰宜」であった事から、況や、これも「祭祀用語」であった事から、恐らくは、平安期には「うおーしウさま」と呼称されていた筈である。


その箱雛の「御雛女雛」、即ち「御祖様(おしさま)」の二体に侍する「毘沙門天像」(「義経像」)であった事から、「毘沙門天像(仏像)」より「義経像」に似した「武者偶像人形」の方が「皇族賜姓臣下族」を表す意味からも正しい。

従って、室町期に本来あった筈の「毘沙門天像二体(一体は信濃青木氏分の所蔵)」は、伊勢三乱の松阪焼失で無くし、江戸初期前後頃まで其の侭にし、上記の認識に依り「義経像モデル」の「武者偶像人形」に造り変えたとする説が理解できる。

「雛人形」は、顔と姿が時代の変化を受けて異なっているので、その事からこの「義経像」に似した「武者偶像人形」は納得出来る。
(江戸初期の福家が認識して変えた。)
それから以後に、「三月祭り(弥生雛祭り)」と「五月祭り(五月雛祭り)」の「一つの祭祀に二つの催事」が、「四家とその一族郎党」と「血縁関係の伊勢郷士衆」等が執り行う“「二つの祝事」”の形に変化して行ったと考えられる。

この時から「雛の呼称」が使われた可能性が有るが、「四家の福家」ではあくまでも「一つの祭祀に二つの催事」であった様である。
「青木氏」に関わる全ての関係者を取りまとめる手段として利用したと考えられる。

恐らくは、江戸初期頃は、その意味でも「厳しい環境」に置かれていた事が、上段でも論じている様に、「伊勢の結束」を優先したのであり、その為にも「祭祀の偶像」も替え、「祭祀目的」も緩め呼称までも変える戦術に出た。
そして、「享保の改革」へと進む「戦略の筋道」を付けたと考えられる。
江戸初期の事で前段でも論じた様に、「第23代の信定」とそれを支える「秀郷流青木氏」の「忠元」の働きがあったのだ。

それには、上記の「三格式」は、上記した様に、最早、「武神」のみを以って良しとしたと考えられる。

そもそも、「戎神」は「二足の草鞋策」の所以であって、「伊勢の紙屋」の範疇として割り切り、「青木氏の祭祀の目的」から除外して「伊勢の紙屋の祭祀目的」だけに切り換えたと考えられる。

実は、何と、この「祭祀目的に切り換え」には手を打っているのである。
それは、この時、「青木信定」は、この「切り換え」時に「稲荷神」を「伊勢の紙屋」に採用しているのである。

この稲荷神の事は「伝統―5」で詳細を論じているが、その歴史的な一部を次ぎに重複させる。

「稲荷信仰体」
この「稲荷信仰体」は、自然の生活の中から生まれて来たもので、仏教の様に、概念の論理化された中での作法ものではない。
依って、「3世紀の卑弥呼の時代」から既に存在して居たと筆者はみている。
出雲から出た「弥生信仰の作法」では無く、それは「縄文信仰に近い作法」であるからだ。
つまり、土壌から這い出て来た「庶民信仰」と云うか「農民信仰」があった。
それは、「古代仏教」より少し前の古来より受け継がれて来た「古い信仰体」で、後に「伊勢神宮の外宮」の「豊受大御神」に影響をもたらし受け継がれてきた「民の信仰体」であるからだ。
むしろ、この「古い信仰体」は時代性から観て、「豊受大御神」よりやや早い時期に発祥している。

実は、この事に付いて書かれた「豊受大御神の定説」によれば、次ぎの様に成っている。

「雄略天皇」の時に、天皇の夢に「天照大御神(内宮祭神)」が現れ、”「自分一人では食事が安らかにできない。”
その夢の中で、”丹波国の「等由気大神(とようけのおおかみ)」を近くに呼び寄せるように”と神託した”とある。
そこで、同年、”内宮に近い山田の地に「豊受大御神」を迎えた。”とある。
つまり、現在の外宮である。

そもそも、この説は”神代の時代の話”で「後付」の話である事は判る。
ただ、ここで、矛盾が一つある。
そもそも、伏見の神社系の「稲荷信仰」は、「豊宇気毘売命(とようけびめ)」等の五主神格としている。
この「稲荷の豊宇気毘売命」と「稲荷の等由気大神」とは同神である。
依って「等由気大神」を勧請したのであるから、「稲荷神」の方が先と成る。

以上の様に、「稲荷信仰」は飛鳥期からの庶民の「農工商の営み」の神であり、大淀の地に生まれた何と「伊勢神宮の外宮」以前の神格なのである。
この認識を持っていた「福家の信定」と「伊勢藤氏の忠元」は、「印-中」と経由して来た仏神の「毘沙門天の三神格」の「戎神」に代えて、“「日本古来」”の「皇祖神の子神」の「祖先神」と共に、「豊受大御神」の祖神の「豊宇気毘売命(とようけびめ)」を祭祀したと云う事に成る。

上記で論じている様に、「信定と忠元」は「二つの青木氏の慣習」を統一して全てを“「日本古来」”と云う認識に立って、上記した「古式の習慣」の「青木氏の伝統」を思い切って切り換えて、「伊勢衆の結束」を図る事が必要だと考えた事に成る。


以上、当時の「青木氏の歴史観」を深めた処で、話しを元に戻して、「江戸の伊勢屋」の「質に関する事」に戻る。

「江戸の伊勢屋」は上記の様な「古式慣習の伝統」を持って江戸に臨み、「商業組合」を通じて“「職能部の質」”として普及させようとしたのである。
それが上記する「箱雛の慣習」から「庶民の享保雛」へと作り直して華やかにして、簡単に作れる職業を普及させて、庶民に「質」を広める事に依りそこから生まれる「職」を「江戸の民」に与えたのである。
あくまでも「青木氏の質」(仏施の質)であった。
この「伊勢屋の質」は、「金融」のみならずむしろこの「質」に重点を置いていた。

唯、ところが、これらの事が書かれた報告書の様な商業記録の“「伊勢の資料」”には、1731年頃には“「質業の利潤」“が生まれていたと云う風な行は不思議に無い。
これは「江戸の伊勢屋の質」(「享保雛」等)に依って、「利潤の元」を作り出そうとして懸命に広げられたものである事が判る。
本来であれば、「質素倹約」を旨とする「伊勢型商い」であれば、兎も角も「+」であろうが「-」の「利潤」であろうが、“書かれていない”と云う事は疑問である。

つまり、これは当初から、この時期の「享保の改革」(改革期間は1716-1788年頃まで)の中程まで少なくとも「-利潤」を覚悟した営業であった事を物語るものでは無いかと考えられる。
即ち、その意味で「質」は「享保の改革を成功させる先行投資」と考えられる。

(注釈 前段で論じた様に、此処で云う「質」とは、現在の「質の意」では無く、中国の古代の仏教寺が行った「仏施の質」の語源にある。)

本来は、「伊勢屋の質業」のこれは「江戸の商業組合」の「商い」を活発化させる為の「戦略的な手立て」であって、活発化させる事で「原資」は獲得できると考えていたのか、云える事は未だ「享保の改革」の中程では「投資的段階」であって、未だ「自発的活況」を得ていなかったと云う事であろう。

(注釈 但し、上記した様に、「貿易」に依って「江戸の伊勢屋」の収支は取れていたと観られる。
従って、「江戸の活況の収支」は、初期段階(1731年頃まで)は「先行投資」であったらしく、そこから次第に伸び始め1741年頃からの改革中期では「収支バランス」は取れ始めたと考えられる。
それ以後は、活況(1741年-1765年頃)を呈した事はあらゆる資料からも判る。

況や、「伊勢」から持ち込んだ「職能部の活躍」に依って「伊勢屋の質」が成功したことを示す。
前段でも論じたが、「伊勢」から「商業組合」が江戸に移動する時、各種の「商人集団」は当然の事として、紀州伊勢の郷士衆の「職能部の集団の百余人」と記している資料を観て、この伊勢屋の数に一時不思議さを感じた。
“「職能」を江戸に拡げる事”は良く判るが、然し、その意味で、“この何故この数なのか”と云う「不思議さ」を良く考察すると次ぎの資料の行が観られる。
南勢の「青木氏の旧領地」の「郷士頭の家」で見つかった「取り纏めの依頼と説得の手紙」からその「本質」が読み取れる。

「極貧の経済」から「江戸の経済」を高める「事の本質」は、突き詰めると「商人の活躍」と云うよりは、“「職能部の質」”にあると説いている。

つまり、“「職能」をどの様に広めるか”、その“江戸の庶民に対しての広め方“に掛かっていると観ていた事を示すものであった。
そもそも、「江戸の庶民」と云うものに対する評価を「紀州伊勢の者」等は、“異質で難しい”と受け取っていた証であろう。
“どの様に難しいのか”と云う事であるが、紀州伊勢域の様に長い歴史の年月の中で、血縁や主従や同族や仲間などの「何らかの絆」で固く結ばれていて、「事を成す時」はその「絆」で成せる容易さがあるし、「事の成就」が比較的に容易であった。
然し、「江戸」にはこれが無く比較的に「絆」は希薄である。

むしろ「良し悪し」は別として、開幕に依って各地から集まって来た地域である事から“「個人性」が尊重される環境にある”と認識していた事であろう。
「商いを広める」、或は、「自由な商業組合を広める」と云う面では、“逆に都合が良い環境である”と観ていた様である。
ところが然し乍ら、“「職能」”と云う面では、「技能伝承の徒弟制度」の等の事があって、この「個人性の環境」では難しいと理解していたと云う事であろう。

前段でも論じた「イロハの自由性を持つ商業組合」に於いてでさえもなかなか理解されず、「職能の広がり」には何らかの工夫が絶対的に必要と理解していた事である。

其処に、前段でも論じた様に、「商い」には室町期からの「古い貸付売り」で、新しい「店舗販売」は遅れていたし、「職能」も全国から商品を仕入れてそれを売ると云う形態であった事から、希薄で「独自の殖産」の定着は無かった。
享保前の江戸には、”「殖産に依る職能」”と云う概念は未だ広まっていなかった。

何はともあれは、「商人」は享保の直前に「江戸十組問屋」等を形成している様に、「地方」、取り分け、関西や中国地域からの者であったとすると、必然的に課題は、「職能の伝達方法」である事に成り、「難しい課題」と成るは必定であった。
然し、その「殖産の職能」を広めないと、「単なる商い」ではそれはそれで良いが、「江戸の享保の改革」ともなれば「組織的な職能の伝達方法の制度」を持ち込まなければ成し得ない。
それも難しい「江戸庶民と云う曲者」を相手にする事である。

そこで、考え出されたのが、「伊勢」で奈良期から「青木氏の浄土密教」が行っていた”「仏施の質」”にあり、これと連動させて「伊勢の殖産と興業」に用いていて、大いに成果を上げていた。
この制度を「仏施」そのものでは無く、「商業組合の質」(伊勢屋の質)にする事にあると考えていたのである。

(注釈 手紙は、その為には「伊勢の殖産の職能力」を落とさずに、「江戸庶民への広め方」を成し得るには「派遣する人材の選出」にあり、「数の事」もあるので「取り纏め」に付いて宜しく頼むと云う行であった。
伊勢の各地の郷士頭に事前にこの旨の事を説得していたと考えられる。)

上記した様に、この様に「古式豊かな伊勢の独特の慣習」が「享保の改革」に繋がっていたのである。

注釈として、この為からもその前に「青木氏だけの慣習」、「伊勢紙屋の慣習」から脱皮して「伊勢衆」に理解される「二つの祭祀」、或は、「二つの祝事」に換える必要があった。
「伊勢衆の結束」を図り「改革」に繋げて行くには、その「伊勢衆と云う集団」の「格式象徴物」が必要と成る。
即ち、「伊勢衆の心の御旗」としたのが、上記した「大日如来像」「格式象徴物の擬人化偶像」と「武者偶像」の「三つの偶像」であったのであろう。

この「享保期の頃」までは「商人」と云えども出自は、「郷士の武士」であり、取り分け、「伊勢」は奈良期からの「何らかの絆」で結ばれた数少ない「氏族に繋がる格式ある郷士衆」であって、他の地域の「姓族郷士」とは異なっていた。
それだけに「三つの偶像」が、彼等には「伊勢衆の心の御旗」は絶対に必要であった。
「伊勢商人」に成ったとしても、「職能部の頭」に成ったとしても、「伊勢郷士」であると云う「誇り」を忘れない為にも、自らの「三つの偶像」は必要であったのである。
取り分け、「江戸」に出るともなれば尚更の事であったと考えられる。

故に「江戸引き揚げ」の時も「商人」として残る事無く「伊勢」にきっぱりと引き上げているのである。

前段でも論じた様に、「伊勢」では「庶民の出自」の「商人の出現」は、1750年頃以降の「小津屋」からである。
他の地域の「姓族郷士の商人」は、1760年代と成ろうが、多くは1765年頃が殆どである。

実は、上記の「南勢の郷士頭の手紙」の一節の行には、文脈を要約すると、“・・・我ら伊勢者の誇りとして「如来様」の下に「源六様(吉宗)」を支え申そうでは無いか。・・と訴えている。
「伊勢」では、「頼方や吉宗」では無く、預けられた時の「源六の幼名」で呼ばれていた事が判る。

以上の事から、次ぎの様な経緯の数式論が成立していた事に成る。
最早、「伊勢文化の応用」に外ならない。

「古式豊かな伊勢の独特の慣習」*「伊勢屋の質」=「享保の改革」
「古式豊かな伊勢の独特の習慣」+「郷士衆の職能部」=「享保の庶民文化」

以上の図式が描かれていると云っても過言では無い。

この「伊勢屋の質」(伊勢屋の仏施」)についての初期段階の収支バランスを物語る明確な資料があったとは考えられるが、江戸より1781年頃に引き揚げた事もあって、「江戸の資料」は「伊勢」では流石に見つからない。

では、“「自発的活況の状態」に入ったのは何時頃であったのか”と云うと、「江戸の伊勢屋の質」の「金融対策」で、活況が本格的に成ったのは、結局は,「土地を含む担保の質流れ売買禁止令」(農村と町方に出された二つの禁止令)の“「緩和策」”を打ち出された10年後の矢張り1741年頃であった事に成る。

「資料の内容」から1731年頃より10年後と成り、改革開始から25年後と成る。
「享保の改革」の開始の1716年から、改革が続けられた1788年まで72年間、上向き始めてから57年間、自発的活況が47年間、欠損期間は6年間、準備期間は2年間、計画立案期間は10年間、合わせて、82年間と成り、「商業組合の開始」からは182年間と成る。

この「伊勢屋の質」の「中間報告の資料」から、「享保の経済」が上向き始めた時期(1731年頃)を見計らって、”今は「-利潤」ではあるが、必ず「質の屋」(金融業・コンサルタント)として成り立つ”との事の行の「報告内容」であったのである。

現実に、「182年間」のこの「読み」は流石に当たっていたのである。

“時代を大きく動かした”と云う点では、“「稀に見る氏」”であった事に成る。
この事で、「青木氏の氏是」と「改革の戦略的理由」に依り「青木氏」を表には出さなかった。
然し、現実には、江戸期中程には、「青木氏」が、最早、“「氏族」”としても“「稀に見る氏」”とも成っていた事にも成る。

「大化期647年発祥からの使命」は、あくまでも持ち続け、「楮和紙の開発」から始まって「古式豊かな伊勢の独特の慣習」*「伊勢屋の質」=「享保の改革」で、遂に1731年には「商業組合」と云う「改革の花」を再び咲かせたのである。

これまで上記した様に、「青木氏」は「新しい花」(和紙開発)を手掛けての連続であった。

実に“可憐でシンプルな花”と云うイメージを持つ。
「花と樹」で例えれば、云うまでも無く「象徴紋」にも成っている“「竜胆の花」”と「青木の樹」である。

前段でも論じたが、この“「竜胆の花」の様であれ、「青木の樹」の様であれ“として「賜語」を遺し「賜姓」したのは「天智天皇」である。
その「竜胆の花の印象」と「咲く環境の持つ印象」と「青木の樹の様な力強さ」が、「青木氏の氏是」とも成っているのである。
「二つの青木氏」はこれを護り続けて来たのである。

因みに、参考として、大化期から江戸期までの間には、次ぎの様な「改革」を成し遂げている。
全てではないが、思いつくままに拾い出してみる。

「自然神の継承」、「祖先神の創設と継承」、「神明社の創設と継承」、「浄土宗密教の創設と開始」、「侍の創設と開始」、「武家の創設と開始」、「国策氏の創設と開始」、「賜姓族の開始」、「氏族の開始」、「皇親族の開始」、「貿易の開始」、「総合商の開始」、「和紙、硯墨の開発」、「商業の開始」、「殖産・興業の開始」、「米・早場米の開発」、「養蚕の普及」、「紙加工の開発」、「商業組合の開始」、「徒弟制度の開始」、「暖簾分け制度の開始」、「質屋の創設と開始」、「職能部の開始」、「海陸の運輸業と護衛業の創設」等の全て「創始者」であった。

(文化面で「青木氏の慣習や仕来りや掟」が世に出て催事に成った事等は、「伝統シリーズ」でその都度、機会に触れて記述しているがその数知れない。)

この様に“「歴史に遺せる多くの大改革」”を成した。

これら一々に独特の「青木氏の文化」が生まれ、それを「伊勢青木氏」等や「郷士の職能部」が其の文化を「庶民用」に改良して、「殖産」にして、「仏施の質」として世の中に出す。
この行為を江戸で一機に咲かせたのである。
その複合の「仏施の質」が「享保雛」であったと説いている。

上記の様に、日本で最初に起こった「大火改新」で産まれた「青木氏」は、「二つの青木氏」の「命運」を掛けて「社会」の為に「江戸期の経済改革」の最後の「享保改革」(「リフレーション政策の創設」)に取り組んだのである。
これは、何をか況や、「青木氏の氏是」と「家訓10訓」のベースにも成っている「青木氏の浄土宗密教」の「般若心経の教え」を護っていた事からの発起である。


> 以下 「伝統シリーズー25」に続く。

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「青木氏の伝統 23」-「伊勢屋の引揚げ」 

[No.341] Re:「青木氏の伝統 23」-「伊勢屋の引揚げ」 
投稿者:福管理人 投稿日:2016/06/01(Wed) 14:08:40


>伝統シリーズ22の末尾

> 「殖産」を興してそれを「システム化」して「経済」に結び付けて「藩政」が潤っていたのに、これを抑え込んで仕舞った事から、この影響を受けた「下級武士」は、「飢え」に喘いで仕舞った。
> その事から、田畑を耕し農業で産物を密かに売ると云う事で生き延びた。
>
> 「郷士の武士」も「仕官の武士」も「郷士」に真似て生きる事しか無く成り同じに成って仕舞った。
> むしろ、「殖産」を興した「郷士の方」が遥かに潤っていた事が記録されている。
>
> そして、今度は、享保期の「質流地禁止令」では、対象者が「仕官している下級武士」であった事から、幕府としては充分な対応は出来なくなっていたのである。
>
> ところが、「武士の農産物等の販売」には、各職能の「組合の壁」と云うものがあって、「自由」が利かず、結局、「農民の寄合」に入れて貰う等の事や、「農民の名義」を借りる等の事で対応した。
>
> 「幕府」のこの逆に跳ね返って来た思いも依らぬ「失政」に付いて、「藩」もただ観て見ぬ振りして黙認するのみであった。
> しかし、「紀州藩」の様に密かに裏で奨励した藩もあった位であった。
>
> この事から、「職能から販売までの商業組合」も「寄合組織」に変更して、自らも救い、地域の「下級武士や農民」らも救う事で「絆を基本とする寄合組織」に変更して生き延びた。
>
> 唯、この「寄合組織」では「発展」は望めないが「維持」は可能であった。
> それには、上記の「新-1から9までの副効果」までは幕府は潰しに掛かれなかった。
> 「新-2、3、5、7、9」は流石に「株権」を保障の前提としていた事もあって低迷した。
>
> 所謂、「新-1から9」の基本に成った幾つかの制度と組み合わせた「親商法」が、享保―宝暦―明和時代に掛けて「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」の「青木氏」が興した「商業組合」の「新しい改革商法」(1716年から1788年まで)へと繋がったのである。
>
> この経緯は、「伊勢の紙屋」が「伊勢の商業組合」を興してからは明和期(1788年頃)までの「185年間の悪戦苦闘の歴史」に成る。
>
> これ等の事は、「青木氏」だけの「重要な知っておくべき青木氏の歴史観」である。



「伝統シリーズ」-23に続く

唯、「青木氏の歴史観」として、更にここで追記して置きたいことがある。
それは1765年以降には、「商業組合」に入らない上記の「新しい改革商法」の先導者の一つ“「伊勢商人」(「松阪商人」とは別に)”と呼ばれる豪商が他にも出た。

この「豪商」に伸し上がった者等は「伊勢の商業組合」に加入していなかったのである。
そして、「享保の改革」が成功した1765年頃を境に江戸に出て、要するに上記の1から9の「新しい改革商法」に参入して成功を納めた者等である。

従って、この何人かの「豪商等」に付いても、「商業組合との絡み」と「青木氏との絡み」で論じたかったが、下記に考察する様に、この「豪商等」が主張する系譜や由来等の「歴史観」が史実と全く一致しないので中止した。

是非に、取り分け前段の“「江戸の商業組合」の「新しい改革商法」”との「絡み」が在る事から是非に論じたかったが、無理に論じると「史実との矛盾」が生まれる事に成るので割愛したものである。
取りあえずは概要を触れて置く事とする。

そもそも、「伊勢」は室町期末期には、前段でも論じた様に、「近江の秀郷流藤原氏の蒲生氏郷」が治めた。
「近江」は「蒲生氏郷の出自郷」であった事から、「近江から商人」を伊勢に呼び集めたが、この内、「豪商」と成り得た者等は、多くは「藤原氏末裔」を先祖と名乗っている。
然し、その根拠は全く無い。
端的に云えば、「蒲生氏郷」に呼び集められた事から、それをネタに家系を良く見せる為に「藤原氏末裔」としたと観られる。
そこで、彼等の「先祖の移動」に付いて調べて観たが、大方は次ぎの様な筋書きに従っている。
共通する「近江商人の移動経路」
『近江0-松阪0』-『京1』―『近江1』―『松阪1』―『江戸1』―『松阪2』-『京2』-『松阪3』-『江戸2』-『名古屋・京3』

これを観ると、何故か「京と松阪と江戸」を繰り返して移動している。
先ず、『京1』に付いては、「近江0」で「蒲生氏郷」に「松阪0」に招かれた後、「氏郷」が移封と成った後に、一度、「京」に出ている。
この事は歴史的に意味を持っていて重要である。
伊勢にある幾つかの「郷土の史」の記録に依れば、この「京」の記録の部分は無く、彼等の「系譜上」からの記録だけである。
其処の「京」から、更に元の「近江」に戻って、再び「松阪1」に戻っている。
この『京1』―『近江1』―『松阪1』が、先ず、「共通の系譜」と「郷土の史」と異なっている点である。

さて、注釈として此処に「筆者の疑問点」があって、下記に“「作為的な出来事」があった”としている「着眼点」である。

概して、以上として移動しているが、「近江から松阪」に当初は、系譜が主張する“「武士」”では無く間違いなく、“「商人」”として移動しているのである事から、ところが、何故か、「青木氏の商記録の年譜」には出て来ないと云う疑問点なのである。
『京1』―『近江1』―『松阪1』の移動の事と、「商記録年譜」に出て来ない事の「二つの事」から租借すると“「作為的なある出来事」“が浮かび上がる。

仮に主張する“「造られた由来書」”の通りとすると、「二つの青木氏」の何れかの記録には出て来なければならないが不思議に出て来ない。
「伊勢の青木氏」、或は「伊勢の紙屋」のミスに依るものかは調べたがそうでもないらしい。
何か、伊勢紀州の関係する全域に遺資料や口伝や逸話らしきものがあるかと観て調べたが何故か確証するものは無い。

そこで、取り分け、“「大名格の武士」”であったとしている「豪商」等の事に付いては、もしそうであるとすると、「伊勢の歴史の記録」の中にも出て来る筈であるが無い。
これらの「豪商系譜」に依れば、だとすると、殆どは「藤原秀郷流青木氏」との関わりは“「親族」”に当たる事に成るがその記録は無い。
「主張する内容」であれば、「伊勢藤氏」(青木氏、伊藤氏、長嶋氏、藤原氏の四氏)の中にも出て来なければならないし、室町期末期には「松阪の高級武士」であったとすれば、後に一族の者が「紀州藩」に抱えられていた可能性が高い筈なのに全くそうでは無い。
この「伊勢の史実」の「青木氏の歴史観」が完全に無視されている。

その中の「筆頭と見做される豪商の系譜」では、「親政族の伊勢青木氏」とも、「伊勢藤原氏との縁籍」とも主張している。
とすると、これまた「伊勢」に江戸期まで居るのであれば、「付き合い」は無い事は絶対に無い。
又、「伊勢の動乱」の時は、室町幕府の「主要な家臣」であったとしている事は、前段までに論じた「松阪の経緯」には全く合わない。
且つ、「藤原氏」と「源氏族」の“「二つの賜姓族」の「氏族の出自」を主張した系譜を持つ“としながらも、「商人」でもあったのであるから「二足の草鞋策」を採った以上は、その出自は「朝廷承認」に依る“「氏族」”で無ければならないが、記録には出て来ない。
況して、“態々、何で格式の低い方の「姓族名」にしたのか“と云うのも「青木氏の歴史観」に全く合わない。
むしろ、「姓名」は江戸初期前後の当時の「格式を求める社会慣習」から逆であった筈である。
当時の高位族の「慣習仕来り掟」に合致しない主張である。

更には、ある「豪商」の家の「家紋」が“「目結紋」”等としていて、“「近江佐々木氏族」と同じと主張している事”に付いて、主張の“「公家貴族の藤原氏(近江族)」で在る“としながらも、一方で”「賜姓族の源氏」(清和源氏 河内族)と主張する“共通する不思議さも目立つ。
そんな「二つの青木氏」以外に「完全皇族賜姓の氏族の系譜」は、この「伊勢地域」には他にあり得るのか。
然し、名は完全な「姓名」であり、上記の様に系譜では「氏族」だとすると、豪族の「伊勢郷氏」だったと成って仕舞っているのである。
考え着くのは、「北畠氏」ではあるが有名な歴史上の「室町期の氏族名」である。

だとすると、「清和源氏」の「家紋」が「象徴紋」の分類では無い「目結紋」とはおかしいし、貴族の斎蔵族が「目結紋」は全くあり得えず理解できない。

そして、その宗派が「真宗」であるとしているが、この「二つの氏族」とするならば「浄土宗」か少なくとも「天台宗」である筈である。
「宗派」も「家紋」も「格式」も何もかも「慣習仕来り掟」に合致しないし、門徒系の「真宗」は前段でも論じた様に明治初期であり、「時代性」が全く一致していない。
この様に「家紋と格式と宗派」等が一致しないし、「時代性」も一致しない。
この経緯から“「真宗」”としている事から、幕末か明治初期の「後付系譜」に成る。

そもそも、「近江佐々木氏」は、大化期の「伊勢の施基皇子」の弟の「近江の川島皇子」の「近江の賜姓族」であるので、「象徴紋」(賜姓紋)である以上は変紋をしない「笹竜胆紋」の筈である。
なのに「目結紋等の佐々木氏」は、「不詳の傍系支流族」(江戸期の氏姓譜の史書にある第三佐々木氏)の「家紋」となる事にも無理がある。

何にしても“「河内族」”であるとしていながら“「近江族」”と云うのも「歴史観」が理解できない程に矛盾だらけである。
又、「氏族と姓族の混同」が系譜で混在しているが、この「族の違い」の「歴史観の認識」が無かった事に成る。
「武士」として存在して居たのは、全て室町期中期から発祥した「姓族」のみであると認識していた事に成る。

これでは、“一体どうなっているのか”と云う疑問が湧き、江戸期中期頃から明治初期までに流行った「寄せ集めの後付系譜」の“「総花説」”に成っている事には「解決し得ない矛盾」が多いのも事実である。

これは、後に“「氏郷に伊勢に招かれた商人者」“であるとして、1765年以降頃に「豪商」に成った暁に、その流れを汲む一族一門で有るかの様に「蒲生氏郷一門の系譜」に肖り無理に真似たとも観られる。

(注釈 伊勢に同伴した「家臣の二足の草鞋策」か「近江商人」か。「氏郷」は源氏の血筋を母方に持つ「藤原秀郷一門の近江藤原氏」である。)

何はともあれ、「時期」は同じなので「伊勢」を「商業組合」で仕切っていた「青木氏の資料」の中には出て来ないのは何よりの不思議である。

(注釈 「伊勢紀州」は、取り分け伊勢松阪域は、前段でも論じている様に、そもそも「奈良の古来」より「悠久の歴史と絆」で深く結ばれた“「特殊な地域」”であり、上記の様な他の地域で起こる様な搾取の出自で飾る事の事態が難しい地域であった。
この地域は農民の末端まで知り尽くした“戸籍簿の様な地域”であった。
“何処の誰かわからない”と云う風な理屈が通る「場所柄」では全く無かったのである。
搾取偏纂するのであれば、江戸では通ずるかもしれない感覚で「歴史観の無視」で作られたものである事は一目瞭然で判る。)

何れにしても「近江から来た者」としても、少なくとも、最低で「伊勢の商業組合」の中には出て来ても良いと思うが無い。

この事に付いて筆者は、豪商等の「類似する系譜論」から観て、何かこの時にこの様にしなければ成らない“「作為的な出来事」があった“のではないかとも観ているのである。

では、その“「作為的な出来事」があった“とするのは何なのかである。
「上記の矛盾」を背景に、「京1」-「近江1」-「松阪1」の移動の事と、「商記録年譜」に出て来ない事の「二つの事」を解決でき得る「筋書き」は唯一つである。


「青木氏の資料」と「史実」と突き合わせて考察すると、江戸期末期に成った「豪商」等は、次ぎの様に成る。
そもそも、「蒲生氏郷」は、「近江日野城主」、次に「伊勢松阪城主」、最後に「陸奥黒川城主」(「会津鶴ヶ城主」42-92万石)で移封する事に成った。
この時、「伊勢の松阪城主」の時に、「近江」より”「日野の商人」”を確かに呼び寄せた。
そして、「陸奥の黒川城主」(会津鶴ヶ城主)に成った時に、この”「日野の商人」”と”「松阪の商人」”を引き連れて、或は「会津」に呼び寄せて「楽市楽座」を開設した事が有名で間違いなく記録されている史実である。

つまり、この事から、「松阪」に呼び寄せられた「近江の商人」は、その後、二派に分かれた事を意味する。
一つは、「氏郷」に従って「会津に移動した派」(会津派)と、二つは、「京」に移動し後に「近江日野に戻った商人の派」(日野派)があった事に成る。

問題は、この「近江日野に戻った商人」(日野派)が、「陸奥会津」に移動した可能性と、又、「伊勢松阪」(松阪派)に戻った可能性が有る事に成る。

筆者の検証では、次ぎの様に検証している。
直接、松阪から「氏郷の移封」に従って「会津」に移動したのでは無く、一端「京」に移動した後に「近江日野」に移動し、その後に、「会津に移動した派」(会津派)と「伊勢松阪に移動した派」(松阪派)に成ったと考えている。
つまり、「日野派」=「会津派」であって、これと「松阪派」の二派に別れた事に成る。

・1568年前の頃に「蒲生氏郷の政策」で「近江」より「商人」を呼び寄せて「伊勢」に移動させて「座の開設」をした。(実際は1588年)
・1590年過ぎ頃に「蒲生氏郷の移封」で一度「京」を経由して「近江日野に戻った商人」(日野派)を「会津」に呼び寄せて「楽市楽座」を開設した。(実際は1592年)
・1620年前頃(頼宣入城の頃)には、「松阪派」は「伊勢の松阪」で「松阪の楽市楽座」で「木綿等の加工品販売の小商い」をした。(実際は1630年)
・1635年前後頃に「江戸」に現在で云うと「小売業の店」を開いた模様とする。(実際は1675年頃)
然し、この時の開幕後の初期の江戸移動では失敗して「松阪」に戻る。
・1765年頃に再び「江戸」に出て「新副効果1-9」に参加してこの商法で「伊勢の殖産」の「木綿や酒」等を販売して大成功を納めてここで初めて「豪商」と成る。

(注釈 重複 前段末尾に論じた「江戸商業組合の新副効果」を見計らって参加(1765年頃)したのである。
新-1 “「店舗販売」”が起こる。
新-2 “「御師制度の徒弟制度」”が起こる。
新-3 “「暖簾分け制度」”が起こる。
新-4 “「関連店舗の連携店」”が起こる。
新-5 “「チェーンストア」”が生まれる。
新-6 “「バーゲンセール商法」”が起こる。
新-7 “「金銭を融通するシステム」”として「金融業の質屋制度」が起こる。
新-8 “「三貨制度」の「貨幣経済」”が進んだ。
新-9 “「商品の開発」”の機運が進んだ。
「享保の改革」の成功の「新副効果」に乗じて江戸に出て成功した豪商達である。)

(注釈 この時期は江戸の初期頃で、この様な商法は江戸では許されなかったし、そもそも無かった。それ故に、この「新副効果」に依って成功して「豪商」と成り得たとすると、その系譜は
“累々の系譜で作り上げた”と云うよりは、「極めて低質な周囲の者」等の相当の後の時代の時期の「後付行為」では無いかと観られる。
当時は「搾取の系譜」は「金のある者」が専門の「寺や神社等に頼み込んで作っていた為にこの様な余りの「ずれ込み」は無かった筈である。)

この説も「時代のずれ」があり、系譜に無理に合わしたと観られる。
現実には江戸での移動で成功を納めて豪商と成り得て、世間に知れ渡ったのは少なくとも1765年頃以降の事である。
その知れ渡った原因は、「上記の新副効果」に参加して“「換わった商法」で成功を納めた”とする事にあった。

とすると、上記の「系譜の事」は兎も角も、此処で“ある史実との整合性”を検証する必要がある。
それは、“「吉宗と継友」の「経済論争」”の時(1720年-1745年)の事である。
これには、彼等(「1765年豪商」とする)は、「継友側の経済論」に味方して「名古屋と京に商店」を出して移動したとする説が、系譜上では「有名な史実」として捉えられてこれが「一般説」に成っているのである。
然し、もし、この「有名な史実の一般説」が事実だとすると、「吉宗と継友」の「経済論争」時(1720年-1745年)には、既に江戸で成功して「豪商」であった事に成る。
未だ、「吉宗の享保の改革」を始めた頃には、既に「豪商」であった事に成る。
つまり、そうすると「享保前」(1716年)には「伊勢の豪商」であった事に成るので、「伊勢豪商」に成るには「何かの商い」に成功して財を成してそれから最低でも15年から20年は必要である。
とすると、逆算して既に1700年頃には「相当な商人」であって、江戸初期の頃(1665年頃)に既に「近江の商人」では無く、「一般説」が云う「伊勢商人」と成っていた事に成る。

つまり、「蒲生氏郷」が「近江」より「近江商人」を呼び寄せてから「70年後の頃」には「伊勢商人」であった事に成る。
然し、そうすると、この「70年後の頃」には、上記の「共通する近江商人の移動経路」の時系列では次ぎの様に成る。
『近江0-松阪0』-『京1』-『近江2』-『松阪1』-『江戸1』-『松阪2』-『京2』-『松阪3』-『江戸2』-『名古屋・京3』

『近江0-松阪0』 =1568年頃
『京1』-『近江1』-『松阪1』=1595年頃
『江戸1』=1615年頃
『松阪2』=1635年頃
『京2』-『松阪3』=1710年頃
『江戸2』=1765年頃
『名古屋・京3』=1775年頃

「享保の改革」の開始は1716年頃とすると、「吉宗と継友の経済論争」中に「名古屋出店」と、その後の「京出店」と成ると、『松阪1』=1590年頃か、『江戸1』=1615年頃に成る。
この時、「江戸」より「名古屋出店」と成っているので、『江戸1』=1615年頃と成り、この時は未だ論争前の事で「享保改革の100年前」と云う事に成り、時代性が明らかに一致しない。
少なくとも「名古屋出店」が成し得るには、『名古屋・京3』=1775年頃しか無く、それでも時代的に少なくとも“+120年位以上のずれ”が出る。
「松阪派の系譜」と「時系列」と「一般説」には修正出来ない「大きなずれ」がある。

「松阪派の系譜」の『京1』-『近江1』-『松阪1』=1595年頃に付いては恐らくは信憑性があり正しいと考えられる。
それは、「氏郷」に近江より呼ばれ、「氏郷移封」(1590年)で陸奥に移動する事に成った事で、彼等は「松阪」に居づらく成ったと考えられる。
それは、前段でも論じた様に、当然に地元には大和で最初と見做される「和紙の開発と殖産と販売」を職務として担った「商人の祖」でもあって、平安期には「宋貿易」まで手掛けた「青木氏等の松阪商人」でもあって、厳然として奈良期からの「悠久の歴史」を以って「商い」を納めて来ていたのである。
況してや、「伊勢秀郷流青木氏」で「藤原秀郷の末裔」の「蒲生左衛門太夫高郷」の末裔であり、この「高郷」は「氏郷の曾祖父」に当たり、この高郷末男が「青木玄蕃允梵純」であり血縁先の親族でもある。

そもそも、そこに、「氏郷」は「近江」から、態々、「近江の商人」(1588年)を招いたのである。
この“「松阪」“と云う「特殊な環境」に“「商人」を招いた“とする事が問題視とされる。
上記の様に、「招いた事」は事実でありながらも、又、これだけの関係に在りながらも、「記録」がそもそも遺されていない事はそれだけに「あまり良い関係」には無かった事を物語るものと見做される。
「1600以降の商業組合」にも参加していないのである事から少なくとも良い関係にあったとは言い難い。
そうなれば、「招かれた近江の商人」は「氏郷を頼り」に「商い」を広めていた事に成り、とすれば、「近江派」と「松阪派」の「派閥に近い勢力圏」が出来ていた筈で、「青木氏」が勢力圏を作らなくても「近江派」の“「彼ら」“が、それに応じて「松阪派」の“「周囲」“が作って仕舞う「事の流れ」と成るだろう。
1568年(1588年 +20年)から1590年ではあるが、「商人を招いた時」からは22年、その前の「伊勢三乱」からの関係を加えると30年、「秀郷流伊勢青木氏玄審」の頃からの関係で「氏郷」が認知していた頃からでは60年と成るので、“「派閥に近い勢力圏」”が充分に出来ていた事に成る。

(注釈 「松阪在留期間22年」としながらも充分に在り得る筈であるが、「招かれた近江の商人」との血縁関係を示す物さえも出て来ない。格式差からか判らないが不思議である。)

そうなれば“「頼りの氏郷」”が移封で「松阪」に居なくなるとすると、“近江に戻るか”、“氏郷に同行するか”、“松阪に残留するか”の選択が迫られる事と成る事は必定だろう。

「上記の系譜」で論じた様に、“「近江の商人との記録」が無い“ところを見ると、「松阪残留組」は無かった事を物語る事に成る。
「系譜の主張」の「近江帰参組」と、記録が示す「氏郷同行組」に成った事に成る。
「京」から「近江」までの経過は、「氏郷」が会津に城郭を決めて「楽市楽座の縄張り準備」が整うまでの「経過期間」と成るだろう。

結局は、「1590年の移封」からの「会津鶴ヶ城(黒川城の改名)」の増改築開始1592年の第一期完成3年間であって1595年、第二期工事までは1611年完で21年間である。
(徳川政権確立1615年の前の1611年には意味を持っている。)
「楽市楽座の縄張り準備」が整うまでには、最低で「3年」で最大でも「5年」は要するであろう。
従って、直ぐに呼び寄せられる状況では無かった事が判る。
これが『京1』-『近江1』の「経過期間」と見做されるが、従って、『京1』-『近江1』-『会津』=1595年頃から1597年頃と云う経緯が成立する。
(移封後の「氏郷没」の「会津の蒲生氏」は、「お家騒動」で結局は転封した1598年までと成る。)

場合に依っては、呼び寄せられる期間としては、完全に「徳川氏の勢力下」に傾くまでのものとしては、『京1』-『近江1』-『会津』=1598年頃と云う「経過期間 最大8年」までも成立する状況下にあったとは考えられない。
「蒲生氏の氏神」の「近江の若松森」に因んで「若松」と名付け「松阪」と同じく「商業に依る城郭」としたのだが、この事から、「松阪の近江の商人」は、大半は一時「近江」に戻ったと観られ、松阪からの「氏郷同行組」は「伊達氏」を排除しての上記の築城状況から観て無かったと観られる。

「氏郷の移封の目的」は、「広域陸奥の警戒」と「伊達氏の警戒」にあって、「築城」が完成するまでの期間は危険であった筈で、「秀吉」もこの時の状況を「氏郷」に諭す様に現地で語っている位である。
「氏郷の現地の記録」には、「近江」は勿論の事、“「松阪」からも呼び寄せた“と記されているのだが、「松阪の彼等の系譜」では、上記した様に、『京1』-『近江1』-『松阪1』の行から
この「近江」には、新たに「近江」から「会津」に呼び寄せた「近江商人0」と、『京1』-『近江1』の「近江商人1」があって、“「松阪」からも呼び寄せた“の「松阪」は「近江商人1」を指している事に成る。
そして、『京1』-『近江1』の「近江商人1」の全てが「会津」に行かず、一部再び「松阪」に戻った組があった事を指す事に成る。
「松阪」に戻った組が更に「会津」に出向いたとする考え方は、「松阪の彼等の系譜」の何れの中にも「会津の氏郷との行」には一切観られないし、次ぎの理由でも証明できる。

前段で論じた様に、1600年以降の松阪は商業組合を結成して頼宣入城の1619年には一応の成功を納め15地域に拡大していた時期でもあった。
この「商業組合」を観た「松阪派の系譜」の『京1』-『近江1』-『松阪1』=1595年頃は、「松阪」に再び戻ったのであり、一方では「会津」での新たな「楽市楽座」に期待して『京1』-『近江1』-『会津』=1595年頃に移動したと云う事に成ったのである。

この「江戸出店の商業組合」に入らなかったこの「松阪派の豪商」等は、その後に力を貯めて江戸での新副効果に期待して、再び、現実には1765年頃以降に江戸に出店したのである。
“+120年位以上のずれ”は、この豪商(「1765年豪商」)等の「搾取の系譜」に合わせて、“「史実」までを「系譜」に合わせた“と成っている事に成る。
そこで、この「一般説」が“「史実」までを「系譜」に合わせた事”と成っているが、それにしても”何かそれに見合うもの“が無ければならない。
「間違い」を起こしたのか、「恣意的」に設えたのかは判らないが何かあった筈である。
つまり、1716年から1720年頃に都合のよい何かがあったのではないかと云う事に成る。
この時、既にそれなりに「店を大きく構えられる商人」であった事に成るので、時代的には「1700年の頃の商人」と成る。
「豪商」とまでは行かなくとも利用できる業績を上げていた「商人連」が居た事に成る。
そうなれば、この元禄の政治と経済が極貧の状態で、江戸に出て来ていた豪商らは輸送費の低減と、江戸の薄利多売の過当競争を避けて、組合を創って「利益の確保」に躍起と成っていた。
そこで「荷積主」等は、経費の大半を占める輸送の統一化を図る為に“「江戸十組問屋」(1694年)”と呼ばれる「関西商人の積荷主の組合い」(10商家)が結成された。

それが次ぎの商人である。
泉屋平右衛門、大阪屋伊兵衛、小津屋清左衛門(小津氏)
桝屋源之助,井筒屋善治郎,大坂屋孫八,駿河屋長兵衛。絹川屋茂兵衛。三河屋長九郎,山崎屋勘兵衛,池田屋喜右衛門,笹屋豊次郎、岩出屋惣兵衛、井筒屋伝右衛門,枡屋喜右衛門
次ぎの組である
塗物店組(塗物類),内店組(絹布・太物・繰綿・小間物・雛人形)
通町組(小間物・太物・荒物・塗物・打物),薬種店組(薬種類),釘店組(釘・鉄・鍋物類)
綿店組(綿),表店組(畳表・青筵,河岸組(水油・繰綿)
紙店組(紙・蝋燭),酒店組(酒類)

他に、この時期に活動した商人
紀伊国屋、讃岐屋、越後屋、長谷川 長井
(注釈 この時「浅野家の問題」が勃発した。)

ところが、これに対抗して、前段で論じた政治と経済低迷の中で「元禄期の廻船問屋の商人」等は、経済低迷で「積荷の競合」に依る倒産を避ける為に、廻船問屋の大阪と江戸に「廻船二十四組」と呼称される「廻船問屋の組合」が組織された。
然し、この「廻船問屋の組合」は「享保の改革」までには10問屋に激減していたのである。

そもそも、「享保の改革」の直前までは各の如しで「極貧経済」で、そもそも「名古屋」に店を構える等の事の余裕は無く不可能な事であった。
「極貧の経済」であったから、この様な組を作って当面の利益を確保して「競合倒産」を避けたのである。
遠隔地に出店が可能とするほぼこれが江戸の当時の「豪商」と呼ばれる者等であった。

そこで、このリストから仮に「一般説」に該当する商人と成れば、「伊勢と江戸と綿・酒・紙」をキーワードとすると、「小津屋清左衛門」だけと云う事に成る。
この「小津屋清左衛門」のある系譜に依れば、「北畠家の媒臣」で北畠滅亡後、江戸に出て1653年頃に大伝馬町に「商い」を営み、伊勢の和紙と繰綿業で利益を挙げ豪商と成ったとある。

(注釈 この説は、1658年に伊勢松阪本町に住んだとする記録と矛盾する。)

一方の系譜では、松阪の近郊の小津村から「油屋源右衛門」という商人が松阪に移り住んで、小津姓を名乗って、 一族の者の中で「小津」を家名とする人が多く出たといわれている資料説もあるので、1765年代後と成る。
この説によれば、この「小津姓」を名乗った「初代の油屋源右衛門」より店子であった「清左衛門」は融通を受け、「商い」を始め1658年に衣料店を本町に構え、その後の44年後の1711年頃に「商い」の為に江戸に出たとしている。
その後に「商い」は「店前商法」で成功を納め、1755年に「紀州藩御用達」と成り、「15人扶持」を与えられる。
この時、「初代清左衛門」より四代目である。

「小津村」の町人の「油屋源右衛門」が最初に名乗り、その後の誼で清左衛門が小津姓を引き継ぎ名乗ったと成っていて、その出自が矛盾なく記述されている。
そうすると、先ず町人の身分で「小津姓」を名乗れるには、つまり、町人が「苗字帯刀」(15人扶持米)を許されるには、「紀州藩御用達」(1755年)の後に許される事(或は明治初期)に成った後の事と成るので、「北畠家媒臣説」の1716年代の江戸の「小津清左衛門」の呼称は時期的にずれて早すぎて矛盾する事に成る。
この段階では「小津屋清左衛門」が正しいのであって、時代的には「小津姓」は「清左衛門」の四代目後(1756年)が名乗れる姓であった事に成る。
従って、「商人」として成功を納めた時期が1755年前後と成り、1716年代には未だ豪商とは成っていない。

(注釈 この説では「一戸の商人」に成るまでの経緯に付いて謙虚に苦労した経緯が書かれていて、「由来」には通所に観られる「歴史観の誇張」が無い。)

「本説の町人説」は時代性と出所を明確にしているが、「北畠家媒臣説」は時代性等の根拠は薄く疑問である。
「町人説」では、「紀州藩 江戸御用達」と成った時の事と、紀州藩に依って「豪商」に成れた事が詳しく書かれていて、「享保の改革」後の1760年代後半に「商人」としてやっと成功を納めたが、紀州藩の度重なる「御用達の御用金拠出」には大店が成り立たない程に相当無理をしたと如実に書かれている。
唯、“「紀州藩の御用商人」として「大商い」が出来て、「商人」として成功したとして感謝している”としている。
この恩に報いる為にも「御用金」を無理して出したとした記述も観える。


つまり、「近江派」や「松阪派」では無い「松阪商人」は出店可能な「小津屋」であり、矢張り、この「小津屋」も享保後であり、「近江の商人」の「松阪派」が江戸に出た1765年頃とほぼ一致する。
従って、この「松阪出自の小津屋」も「名古屋出店」は「物理的」に起こり得ない事に成る。
記述から観ても、仮に時代性が一致したとしても世話に成ったとしている以上は紀州藩を裏切って、論争中の尾張藩の名古屋に出店する事は先ず無いだろう。

上記の「近江派」の「松阪派」に属していたとする「江戸の越後屋」では「時代性の疑問」があって論じ難いが、「1673年出店」で「店前売り・掛け値なし定価売り」の商法で成功している事から、成功時期を明確にしていないが、上記の「新副効果1-9」に依って成功しているので、この新商法が生まれたのは1760年代と成り、この後に「新副効果1-9」の「商業組合方式」に習って、「京」にあくまでも衣料呉服の“「仕入れ店」“を設けたのであって「販売店」ではなかった。
従って、「一般説」が強調する「吉宗-継友論争期」の「名古屋出店」は、「越後屋も含めての「近江の松阪派」では起こり得ないのである。

「伊勢」では資料からの読み取りでは、「伊勢商人」や「射和商人」としての「扱い」では良ければ何か出て来る筈であるが、「郷士の家に遺る手紙資料」等に依れば、「松阪派」は、“人の評判は確かに悪かった様”(「付き合い」が少ない。)で何も出て来ないのである。
又、何処かで「青木氏の商記録」と「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢藤氏」の資料の中にも出て来なければならないが出て来ない所以である。

“「作為的な出来事」”があった事と、「資料との突き合せ」が出来ない事のこの二つに付いて、これは一体、何故なのかであると云う疑問点の結論は、「松阪の商業組合」と「会津の楽市楽座」が共に興った事に依り、それに合わせての「出来事」と云う事に成る。

そこで、唯、一つ気に成る事が「郷士の家」の「手紙の資料」等の中にあって、「射和地区」の「射和商人」としての“「伊勢郷士衆」の「扱い」”で、「・・・郷士三井殿・・・」の表現で「郷士の姓名」が1件出て来る。
これとの確実な相関関係が取れないが、要するに、「近江人か伊勢人の出自なのかの判別」で「答え」は決まるが、これでは「近江人」としながらも「伊勢人の出自」と成っている。
そして「伊勢人の出自」では、その文面の行から「伊勢の松阪郷士衆」と成ると、下記の様に資料的にはっきりしている「伊勢郷士衆 20(18→11)衆」に、文面が正しいとすればこの「新たな郷士」が一つ加わる事に成り、「青木氏の記録」とも一致して来ない事に成る。

(注釈 「伊勢の出自」では、“訳が判らない”と云う事は、「不入不倫の権」で護られていて「変わらない悠久の歴史」を以っている為に先ず無い。)

「幾つかの説」で公に主張されている「豪商等の由来書」と成るものは、“果たして真実か“の疑問が湧くが、上記の様にそれも余りの矛盾で確認が出来ない。

従って、次ぎに考えられ事としては、「伊勢の松阪郷士衆」で無ければ、「射和商人の郷士」と成るが、この多くは「松阪の郷士頭」の中での「差配事」であるのでこの説は無理と成る。

そうすると残るは、その中でも「射和商人」に加わった“「門徒衆」”と云う事に成る。
“「射和商人」に加わった「門徒衆」”と成れば、前段で論じた様に、「室町期以前の歴史」では、「論理的矛盾」が土台的に在り過ぎて無理である。
然し、「江戸期初期からの歴史」では、上記した様に後に「豪商」と成り得た事は事実であるので「江戸期の遍歴」はほぼあり得るが、主張する「時代性」だけではとも多少のズレがあってもほぼ一致して来るが系譜姓を絡めると大きく差が出て仕舞う事に成る。
そこで、彼らがこの「江戸期初期からの歴史」での「射和商人」に加わった“「門徒衆」”とすれば、「射和の・・郷士三井殿・・・」も「時代性と系譜姓」での「歴史観」からある程度で納得出来る。
つまり、前段で論じた様に、系譜姓を無視すれば「射和商人と成った門徒衆」が、“「射和の郷士」に加えられる事と成った”としている事で一致させられる。
そこで、では果たして“「彼の頑な門徒衆」“に正式に加えられたかは別である。
この“加えられる”と云う事が、“一緒に仕事をする様に成った”とする意味なのか、“正式に「郷士衆」に加えられた”とする意味なのかは、この「射和の・・郷士三井殿・・・」の「書き様」では定かでは無い。
普通に考えれば、元々「門徒衆」は「北紀の郷士」である事から“郷士衆に加えられた”とする「書き様」には成るだろう。

従って、前段でも論じたが、この事を「悠久の歴史」を持つ「伊勢郷士衆」が、後に江戸期に生まれた“「伊勢の殖産事業の背景」”と成った「門徒衆」を、“「射和商人」として認めた“のであるから、これ以上は,「伊勢郷士衆」の中の“「射和郷士」としても彼等を認めていた“と云う事でも理解はできる。
「突き合せの記録」が見つからないのは、恐らくは、正式な“「射和郷士」”ではそもそも無く、「扱い上」を“「射和郷士並」”としたと観られる。

これは前段で論じた様に、「四日市殿の門徒衆との経緯」を論じたが、この事からも、「門徒衆」の“「扱い」”には充分に気を使っていた事からも、“「射和郷士並説」”としては良く判る。

さて、そうすると、“「作為的な出来事」”があった事と、“「資料との突き合せが出来ない事」”の関連する二つに付いての疑問であるが、筆者は現在、状況証拠から次ぎの様に推論している。

ところがこの「推論」を証明するものが未だ充分に発見されない。
その「推論」とは、先ず、“「作為的な出来事」”ではあるが、この事が原因して“「資料との突き合せが出来ない事」”に繋がっていると観ている。

では、その“「作為的な出来事」”とは、具体的には次ぎの様に分析できる。
(A)「青木氏」が始めた「商業組合」に参加しなかった「商人グループ」が居た事
(B)「商人グループ」とは「氏郷」が招いた「近江」から来た「商人グループ近江」であった事
(C)「通称 伊勢商人」には「商人グルーブ近江」と「商人グループ伊勢」に別れていた事
(D)「商人グループ近江」には「奈良、難波域」と「京、近江域」の「商人衆」が背景であった事
(E)「商人グループ伊勢」には「松阪域全域」と「伊勢紀州域」の「郷士衆」が背景であった事
(F)「商人グループ伊勢」>「商人グループ近江」のはっきりした関係にあった事
(G)「商人グループ近江」は「近江郷士」の「外様格式」で、1600年前豊臣政権時代の商人、
(H)「商人グループ伊勢」は「伊勢郷士」の「譜代格式」で、1600年後徳川政権時代の商人

以上の事から、「商人グループ近江」(近江派と松阪派)は、江戸初期に「商人グループ伊勢」が興した「商業組合」には参加せず、互いに「商い」に依る「近江-伊勢の勢力争い」が伊勢で起こっていたと観られる。
その結果、明らかに(D)(E)(F)の関係で、「商人グループ近江」は江戸期(1760年代まで)には衰退したと観られる。
(注釈 上記に論じた「氏郷の陸奥会津移封」に依る原因)

「商人グループ近江」は、上記でも論じたが、“「商業組合」に参加せず“と云うよりは、むしろ、この状況下では”参加出来なかった“と判断できる。
其処に、「吉宗と青木氏との関係」が更に構築された結果、上記の様に、『近江0-松阪0』-『京1』-『近江2』-『松阪1』-『江戸1』-『松阪2』-『京2』-『松阪3』-『江戸2』-『名古屋・京3』の様な「松阪-江戸」の「二度の遍歴」の経緯を「商人グループ近江」は共通して持つ事に成ったと観られる。

つまり、「越後屋」等を目標にしていたが、衰退して江戸には出たものの未だ江戸には充分に“自由”が受け入れられる商環境では無かった。
そこで、失敗して再び「江戸」から「松阪」に戻った時には、「三井氏等の記録」や「門徒衆の資料」では殆ど「商人」では無かった模様である。
「武士」を捨てて「松阪」でも大変苦しい貧困の生活状況で暫くして「小間物屋」等を営んだと成っている。
そもそも、1600年頃から1840年頃までの期間では、“郷士や浪人の「下級武士」等が「商い」を営む”には、前段でも論じたが、「座、組合、寄合、株、等の障壁」が在ってなかなか難しく、殆どは農産物で凌いだが、多くは“「名義借り」や「架空名義」“で「寄合」に入れて貰ったり、農民に助けて貰っていた。
簡単に店を構える事は難しかったので、その事から、「名義借り」や「架空名義」で「商い」をした事から、その「貸手の名義人」や「架空名義(実在)の系譜」を搾取や偏纂して系譜を作ったとするのが普通の事であった。

(注釈 「名義借り」は実在する商い等の「権力者」の名を賃貸借りする方法。
「架空名義」は商いとは直接無関係な実在する「世話人」等の名義を賃貸する方法。
1781年以降は、「商業組合」の組織に対して「幕府の抑圧策と解散令」が出た事から、何らかの形で殆どはこの何れかに入らないと難しく成っていた。
従って、「保護される組合」にはなかなか入れずに「農民の村郷寄合」に入れて貰う事が多く起こった。この為に結局は「半農民」に成る者が増えたのである。
「彼等の系譜」はこれを隠すための搾取偏纂であった。)

そこで、“「小間物屋」を営んだ”とした場合でも、「半農民」では無く、“「名義借り」(半商人)か「架空名義」(半武士)”で「寄合か組合」に入り、営んだ事に成る。
これが「極貧状況」でいた時の伊勢のみならず関西での現実であった。
この様な「半農民」「半商人」「半武士」の歴史観が構築される「特徴ある時代背景」があった事から、上記で論じている系譜は殆どは疑問視と成るのである。
それを押し通すだけの力が、『京1』-『近江2』-『松阪1』の「浮浪の日々」の「氏郷移封後の彼等」の中にあったとは到底考えられない。在れば『京1』-『近江2』-『松阪1』のこの「浮浪の日々」は起こり得ないのである。

そうすると、前段でも論じた様に、1765年代以降は「組合」への「幕府の抑圧策」が次第に強まり、「小間物屋」から大きくする事は相当に難しかった筈である。
彼等の系譜では、年代を伏せて簡単に主張しているが、何にしても大きな成功を納めるには“何かの準備されたチャンスに載ること”以外には無かった筈である。
それが「享保の改革」での「新副効果1-9」であると論じている。
1600年頃から1840年頃までの期間では、“「店」を構える“と云うよりは、普通では、殆どは”「行商」“と云う程度であった筈である。
故に、この「障壁の狭間」で生きようとすると、同じ「江戸-松阪への遍歴」を二度も繰り返したのではないかと考えられる。

(注釈 そもそも、何度も論じているが、「享保改革前」は、「政治と経済が極貧の状態」であって、「彼等の系譜」が主張している様には行かなかったのである。
「新副効果1-9」が「享保の改革」で敷かれたからこそ成し得た事で、だからこそそれを恐れて「冥加金制度」や「商業組合禁止令」で、勢いづく商人を観て抑えにかかったのである。)

ところが、これとは反対に、「商人グループ伊勢」が、「15地域でも商業組合」を拡げ、更には「吉宗」を「将軍」に仕立てた上に、「享保の改革」で「商人グループ伊勢」の「商業組合」は江戸に出て大活躍した。(1745年頃を頂点に活躍)

これを観た「商人グループ近江」の一部は、この時より「地場産業の青木氏が始めた殖産商い」で「伊勢」で再び潤い、15年-20年程近く後で、資金を貯めて再び、「商人グループ近江」として単独で江戸に出て行ったと成る。

注釈として、「伊勢の商業組合」とは別に、「青木氏の資産と差配」で興している伊勢の“「青木氏の殖産」”があったので、この「青木氏の殖産」に関わると、上記の「商障壁」は無いので「商業組合」とは別に成る。
「青木氏の認可」、つまり、「伊勢青木氏」の「伊勢の紙屋の販売」を手伝うと云う形(名義借り)で「商い」は出来た。(木綿、地酒、養蚕、豆等があった。)
「1600年-1899年」まで青木氏独自で数多くの新しい「伊勢殖産」を独自に興し続けていた。
要するに、これらは未だ「殖産」を興したばかりの物で興業化に至っていない産物で、伊勢で「商業組合化出来なかった殖産」が、“「青木氏の殖産」”として維持し続けたのである。
(後の幕末期には江戸に持ち込まれた物もある。)
取り分け、1781年以降の「抑圧策と解散令」で、全て「商業組合方式 1605年」から、再び、「1605年前の商形式」の「青木氏殖産方式」に切り替えている。

唯、この時(1760年前頃)、「商人グループ近江」は何れも「豪商」では無く、全てこれらの殖産品を扱う「貧困の小間物屋」等であった。
上記した様に、この時(1760年前頃)には、「享保の改革」の江戸では、「商人グループ伊勢」の努力に依って、「江戸の商業組合」で画期的に「環境変化」(「新副効果1-9」)を興していて、“「自由」”にして“「知恵」”を働かせば「商い」として成功する「柵の少ない土壌環境」が出来上がっていたのである。

この「自由な商いの環境」を観て、これを観た「松阪」に帰っていた元の「商人グループ近江」(松阪派)は、“「自由と知恵と商い」”を以て「江戸」に再び挑戦したと云う事に成ったと考えられる。

それが「直接販売」の「店頭販売(店前販売)」で、これに加えて「銭兌換」で「小間物屋」等の「路上販売」の「小売安売り商法」(木綿の衣類 地酒 豆粉)を展開したのである。
「商業組合の自由」をベースに、更に、当時としては「自由性を発揮した画期的な商法」(上記 「新副効果1-9」)で挑んだのである。
これが「江戸の庶民」に大当たりして成功を納めたが、これだけでは「商人グループ近江」の一部は納まらなかった。この成功を元手に次ぎの手を打った。
それが「商人グループ伊勢」が始めた“「江戸の暖簾商法」”を真似た“「チェーンストア商法」”であった。

ここで、この「商法」に失敗した「商人グループ近江」の一部は脱落し、伊勢からは「小津屋」(松阪町人)や「越後屋」(近江派の松阪派)を始めとする「数人の豪商」と成った。

この経緯から、上段で論じた様に、より発展して生き残る為には、上記する様に「商人グループ近江」の「数人の豪商等」は、「吉宗―継友の経済論争」に乗じて“「継友側に参画する」(インフレ策)“と云う「大掛け」をした。

(注釈 「チェーンストア商法」であった事から、この「商法」で拡大させるには「インフレ策を採る尾張側」に味方したと観られる。
つまり、「吉宗のリフレーション策」には同調しなかった。
元々、「商業組合」に参画しない「商人グループ近江」であったから、同調は無い事は判るが、「伊勢」では、「青木氏殖産」で生き延び、それを元手に江戸で成功を成したが、「義理≠商い」の「変わり目」は「青木氏」に執っては間尺に合わない。)

そして、「名古屋と京に出店する事の経緯」(尾張御三家の背景で)に繋がったのである。
故に、「総合の商業組合商法」に参画せずとも、これで「独自の商法」を構築して居て、この状況が成功する「商環境」は、「享保の改革」の後期(田沼の組合抑圧策期)の「1765年前後の時期」であって、故に、+「10-30年」の「タイムラグ」が起こっているのである。

ところが、「商業組合」に依って「格式」が保障されない事から、成功した暁の後刻に「暖簾」に合わせて「豪商の格式」を作り上げる環境が起こった。
結局、共通する様な上記(“「名義借り」か「架空名義」の系譜搾取”)の様な「商人グループ近江の系譜由来」を作り上げたと云う事だと観られる。
従って、“「作為的な出来事」”とは、上記の事(「名義借り」か「架空名義」の系譜搾取)であった。

この事が原因して「青木氏」の“「資料との突き合せが出来ない事」”に成ったと考えられる。
「商業組合」として江戸に出る120年後の時点での「商人グループ近江」は衰退期であった事から伊勢記録には出て来なかったのである。
その結果、この時、「江戸出店組商人」等の「出世頭」で「リーダー役の越後屋」(出店時期が異なる)の「由来書」に真似て作ったとも考えられる。
この様な「搾取の系譜」が出来る事には、「当時の社会風潮」であった事から全く疑問が無く、当然の結果として「氏郷」に招かれた「近江出自の者」である限りは起こる事は当然であって、上記する様に「矛盾」を大きく孕んだ「共通する様な系譜」が出来たと考えられる。
従って、「矛盾」を大きく孕んだ「共通する様な系譜」では論じられないのである。
何はともあれ、下記の共通する「近江商人の移動経路」である
『近江0-松阪0』-『京1』―『近江1』―『松阪1』―『江戸1』―『松阪2』-『京2』-『松阪3』-『江戸2』-『名古屋・京3』の様な共通する「複雑な移動経緯」がそれを大きく物語るものである。

この結果から、「吉宗-継友論争」で「商人グループ近江」は過去の(A)から(H)の背景があっての因縁(恨み辛みも含む)が、その「名古屋・京の出店」に指し向けたとも考えられる。
唯、前記でも論じたが彼らが主張する「享保期の名古屋の出店」は検証できなかったが、
「京の出店」は「商人グループ近江」である以上は元の故郷と成るので当然の事とも考えられ、呉服や酒等の「仕入先店」として是非に必要であって現実に検証で出店は記録されている。

この推論をベースとすると、上記で論じた“「射和商人」に加わった「門徒衆」”とすれば、「射和の・・郷士三井殿・・・」も「歴史観」からも納得出来る。
とするとこの一説は、上記の移動経緯の「松阪」―『江戸』の「直前の事」、つまり、「名義借り」や「架空名義」を語っている事に成る。
「商人グループ近江」が何とか生き残る為に、当時の「商慣習」から「射和衆」としての「名義借り」や「架空名義」で「商い」をしていた事から、「扱い」を「射和の・・郷士三井殿・・・」の「射和郷士並」にしていた事に成る。
そうしなければ「限られた範囲の生産量」の「仕入れ」である以上は勝手には領域を犯す事に成って出来ない慣習であった。
この感覚は、即ち、”「射和郷士並の扱い」“が「四日市殿の経緯」で明治期まで引きずられていた事を示す。

(注釈 当時は、生産をする「作り手集団」も「売り手集団」に依って「生活の保全」を約束されている限りは「飛び込みの買い手」は排除する慣習であった。
取り分け「伊勢」は奈良期より「作り手集団」も「売り手集団」の結束が強く、それが発展して江戸初期に「商業組合」に発展した日本で最も古い株組合で形成されていたのである。
特記として置くことは、前段からも論じている様に、「青木氏の歴史観」として「青木氏の伊勢の紙屋」はこの両方を「青木氏部」と云う形で奈良期から持っていた。)

この事に付いての一般説の問題は、「商人グループ近江」は、「近江人の商人」か「伊勢人の商人(門徒衆)」かの論議では、矢張り、この議論でも起こるが、良く区分けせずに「近江人の商人」(越後屋等)の中には「伊勢の商人」(小津屋等)が含まれて議論されていたと云う事である。
中には、「商業組合の商人」迄も同じ括りで「商人グループ近江」「近江人」(「松阪派)として喧伝して「松阪派」を必要以上に「伝統のある商人」であるかの様に誇張している説があって、「伊勢商人(松阪派)」と「松阪商人(商行組合)」と「射和商人(門徒衆含む)」を区別しないこの「一般説」もこの類である。

(注釈 「名義借り」や「架空名義」の慣習の中にあった為に、上記する「歴史観の問題」を起こしている「一般説」は、「伊勢商人(松阪派)」を「松阪商人(商行組合)」と「射和商人(門徒衆含む)」までを同じ「伊勢商人」と観て仕舞う間違いを起こしている可能性がある。)

そもそも、「商人グループ近江」とは、“全てが「近江人」(「松阪派))か”と云うと、“そうでは無かった事”は記録からでも判る。
先ずは、「伊勢の商業組合」には、“「近江人の商人」(「松阪派))”は、当然の事として、つまり、先ずは、“「門徒衆の商人」(射和衆の商人、小津屋等の商人)”も参加しなかったと云う事が判る。
この伊勢で救われ「青木氏の殖産商人」と成った「門徒衆」が参加しなかった事は、この「門徒衆」が「商人グループ近江」に加わっていた事は充分に考えられる。
それは、「門徒の宗派」での繋がりであったと考えられる。
要するに、“行動を共にする”と云う意味での「グループ」であって遺された記録を補完している。
“行動を共にする”と云う事は、“「伊勢の商業組合」に参加しない“と云う行動を選んだことに成る。 
この“参加しない”と云う事が、この「門徒衆」が組合化していない「殖産」に従事して居た事もあるが、「組合化の有無」とは別に、“江戸に向けての商業組合の行動に行動を共にしなかった”と云う事の方が主であろう。
「記録の意味合い」からすると、判り易く言えば、“参加に反対した”と云う事では無いかと考えられる。

(注釈 「射和の研究資料」の中に「江戸初期からの射和の商人の街並み」を頑なに遺したとある。「秀吉の圧政」から「紀州の門徒衆」を「青木氏と伊勢郷士衆」が救い出して射和に保護したものであるが、従って、「門徒衆」は「射和地区」では古くは無い。)

その後、“この射和域を護ったとする”には、論理的にこの射和での「定住年数」から無理があり、従って、「江戸への移動」は、一族全員が江戸に移動(国抜け)と云う事では無いので、未だ「近江人の子孫」や「門徒衆の子孫」を遺しきれるほどに拡大し充実していない事からも物理的ら江戸への移動は困難で不可能である。
従って、参加せずに残ったからこそ明治期まで射和の江戸初期からの「古い商店街」は遺されたのである。

それは,又、前段でも論じたが、「門徒衆の強い宗教的概念」にもあったからである。
「(イ)(ロ)(ハ)の自由を前提」とする「商業組合の概念」には,本来は「浄土真宗の概念」は一致しない事でもあった。
もし、「浄土宗密教の色即是空の解釈」の「拘り無くす事」では、「自由を前提とする商業組合の概念」は成り立つが、「門徒衆」の「浄土真宗の概念」の「一念発起」からすると、「拘りを持って意志を貫くとする考え方を優先するのであるから、未だ成功していない「射和での商いの成功」を先ずは選択するであろう。
従って、記録と一致して、“「近江人の商人」と観られていた「門徒衆」“は、商業組合に参加せず、且つ、「残留組」を間違いなく記録と一致して選択したと考えられる。

そもそも、「門徒衆」には、前段でも論じたが、彼らには「浄土真宗の概念」から特段に「集団性」を強く持っていて、この「集団性の概念」がある事で、「移動や移住」は避けられる「足枷」と成る。
彼らに執っては、この理由から結果として、“「江戸移動」”は先ず避ける事に成る。
更には、「江戸と云う土地柄」は彼らには「避ける地域」と成り得ただろう。

依って、彼等は“参加しなかった”のであり、「参加しなかった事」に依り、「松阪派の近江人」と同じ行動を採った事で、伊勢での「商人グループ近江」の「近江人」と「門徒衆」の「伊勢で繋がり」も生まれる事は必定となったのである。

これに依って“「近江人の商人」と観る「門徒衆」“の説が生まれたのである。
そもそも、「門徒衆」と同じ様に「商人グループ近江」の「近江人(松阪派)」は、「商業組合」に参加せず、「伊勢郷士衆」とも「深い馴染み」の「繫がり」が起こらず、「時代の変化」で衰退して仕舞って、「伊勢」では「苦難の生活」を送る事に現実には成って仕舞ったのである。
「射和の門徒衆」も「伊勢郷士衆」に救われたが、なかなか「馴染み」が起こらず、時々その生きる為の「概念の違い」から、或は「慣習差」から揉めることにも成っていた事は前段でも論じて事実でもある。

この様に「射和の門徒衆」と「近江人の商人」の両者は良く似た境遇にあった事から、“互いに助け合っていた”とも観られる。
それが、「射和の・・郷士三井殿・・・」の「互助」に関する“やや心情的な手紙の内容”に成っていたと観られる。(「手紙の内容」を個人情報により詳細に伝えられないが)
この「射和の・・郷士三井殿・・・」の文面に付いては、その意味で「射和の門徒衆」は「近江人の商人」を「同じ郷士」と認識していた事に成る。

因みに「松阪派」の江戸で豪族と成った「ある家の系譜、由来書」には、“近江より1568年に松阪に逃避した”とある。
1588年代に「蒲生氏郷」は「松阪」に「近江商人」を呼び寄せている。
つまり、「20年前の話」に成り年代がずれている。
普通はこの様な事は“「国抜け」“となつて「一族斬首の刑」で起こらない。
普通は届け出て許可を得て、移動後は「5年程度」で戻らなくてはならない事に成っている。
内容では、この許可の要る“移動”では無く、「国抜け」の“逃避”に近い引っ越しの様な表現に成っている。

最初の江戸にこのある一族の長兄と次男は1635年に出店(小間物屋)して、一時成功して、次男は1649年に母看護で松阪に戻るとある。
このある家は、この時、1649年に「松阪」で「武士」を捨て「町人」として「商い」(「名義借り」)をしたとしている。
次男病死後の同年に、三男も1649年に松阪に戻り、「母看護」と「松阪の商い(小間物)」を続ける。 (後に小銭貸業を営む)
この三男は「江戸に出て1673年に「長兄の跡」をとり、再び「江戸店」を継承(呉服屋)したとする。

この経緯からすると、次ぎの様に成る。
「武士であった事」
武士が「二足の草鞋策」を採る場合は、「名義借り」か「架空名義」で「商い」を始められるが、何の繋がりも面識もない他の国の伊勢では無理である。
・「1568年に松阪に出た事」
その松阪は、「伊勢三乱」が完了して統治できる状況に成って初めて1588年に「蒲生氏郷」が座を松阪に広める為に近江より「商人」を呼び寄せたが、その20年前と成ると、松阪に呼び寄せる前に松阪に来た事に成るし、この時は町中そのものが混乱中の混乱で到底、凡そ「商い」など無理な状況であって、「武士であった事」の「自由の行動」は不可能でこの疑問も含めてそもそも無理である。
況して、「北畠の家臣」であったとしている事なのに、この時、北畠氏は一時の勢力は低下するも1630年に正式に滅亡しているが、1568年頃は未だ健在であって「二足の草鞋策」は出来ない状況であった筈である。
要するに全く「歴史観」が成立していない。

・「1649年に松阪に戻った事」
1619年は「頼宣入城」で、松阪もやっと落ち着きを取り戻し始めた時期でもある。
その前の1590年に、『京1』-『近江1』-『松阪1』の行の事があるから1620年頃には既に江戸にいた事に成る。
こんな時期にそれだけに「金子を貯め込む程の商いに余裕」があったのかと云う事に成り、この時期に金子あったとするならば、何も『松阪1』に立ち寄らず『近江1』から「江戸」に出れば良い事である。
そもそも、「松阪」で金子が貯められたとしたら、それを放り投げて『京1』-『近江1』-『松阪1』の行は起こらないし、「商人」である限りはしない行為である。
『近江0-松阪0』は、「22年間の短期間」であって、金子を大きく貯める程の「近江人の商い」に大成功を納めた訳ではない。
逆算すると、『近江1』から『松阪1』に入ったらすぐに、又、江戸に出たと云う事に成る。
「松阪」に入った根拠は、そもそも「商業組合」に依る「松阪の活況」が魅力で「会津派」には参加せずに戻ったのに直ぐに江戸に出ると云う事が疑問である。
徳川氏が天下をとり正式に開幕した時の江戸は確かに「未知の期待」が広がっていた。
決して活況であったと云う事では無い。
「江戸」に出かけるとしても海千山千の「未知の期待」である以上は「大きな賭け」である。
「商人」が出かける以上は、江戸期の市場環境には「販売の仕入れ元」を確保した上での事で成り立つ話であり、『京1』-『近江1』-『松阪1』-『江戸』では、尚更、「繰綿業販売」であるので無理なのである。
この状況を捉えて「商いの系譜」も時代性に合わせて、“「長い伝統ある商い系譜」“を作り上げる為に「江戸の商い」を開始した事にして脚色偏纂したと観られる。
前段で論じた様に、幕府が「黒印状」を発効する条件とした事で「武士の系譜」にも起こった様に、この時期には権威と云う事が社会的なテーマと成っていた様に、どの「豪商の系譜」にも洩れなく観られる様に、「商い」を始めた「始祖」を“権威付ける脚色”から後付で偏纂したのである。
「商いの系譜」を「時代性」に合わせている事は、相当後の事では出来ないし、「自由の行動性」の概念をベースに「系譜」を作り上げている時代の二つからその時期と成れば、明治期の苗字令後の15年頃の中程に起こった「庶民の出自誇張の搾取」の現象期と観られる。

・「許可なく江戸に出た事」
現在の時代の様に、「自由行動性」が許されている充分に社会では無かったのに、「自由行動性」が許されている様に自由に出入りしている。
況してや、仕官しないで「土着の生業」で生計を立てているのに「郷士」と書かずに「武士」だとしているにも関わらず、更に自由に移動している。
江戸社会には武家や公家のみならず農民(慶安御触書)にも法度を定めて厳しく管理監視下に置いていたし、全ての庶民にも「共同体」(寄合制)を作らせて「行動指針の様な規則」を作りその中で管理監視下に置いていたのである。

(注釈 村には「庄屋」(名主-関東・肝煎-東北)の「村三役」を置き、街中には「町名主」(或は「家持」)を置いて奉行所の下で行政を行っていて、この「ある家の系譜」の様に主張する様な「自由」は決して無く、ある規則の範囲での自由であって厳しい管理下に置かれていたのである。罰則も命を落とす程の厳しいものであった。
取り分け、「国抜け」は「一族斬首の刑」とも取れる文脈で記されているし、現実には記録がある。
従って、この様な「系譜の主張」は先ず起こらないし、「商人」などの庶民は特に原則4-5年で先ず一度国元に戻らなければならなかった。
この様な主張は明治期に成らなければ出来なかった事である。
恐らくは、成功後に何度か偏纂され、やや後の「明治期の中程」に大きく偏纂されたと観られる。)

(注釈 農民の行動を規制する為に「1649年慶安御定書」が定められたが、この前にもそれの元と成る規範が各郷村に在って庄屋らに依って運営されていたが、これを慶安期にまとめて整理する事を幕府では行ったが、これが評判が良く各藩に広まって終局は正式に幕府の御定書と成った。)

・「江戸で勝手に呉服商を営んだ事」
町人にも上記の管理監視下にあり、「商い」だからと云って自由に観えて勝手に出来る事では無かった。
取り分け、「商人」は物を売ると成ると「製品」を「仕入れる」と云う事から始める必要がある。
然し、当時は生産体制があふれる程の量では無く、その為に組織を作って管理され、その手段として何重にも「卸問屋組織」を作り、安定して「商い」が出来る様に常に監視されていたのである。(この日本独特の問屋制度の組織は昭和期まで続いた。)
つまり、「生産力の絶対量」が在りその中から“「仕入れる」”と云うと先ずは組員に成る必要があり、「名義借り」や「架空名義貸し」等の処置をして株組員に成り、「信頼」を得て始めて「卸問屋」から「仕入れる事」が出来るのである。
中でも、「呉服や酒や繰綿」などの様に生産に加工を伴う商品は管理監視が厳しく、「仕入れ店」を設け「卸問屋」との固い信頼関係を構築する必要があった。
取り分け、江戸は「呉服や酒や繰綿」とかの「加工品」は他の国から運んでくる必要があって、前段でも論じたが、これに「輸送の利権」を獲得する必要があり、「廻船」を使っての「船輸送」では「組合」だけでは無く「幕府の管理監視」の中で運営されていたので、この組合にも「入り株権」を獲得し幕府の「認可」も受けなければならなかったのである。
これは武器輸送などにも使われる恐れの「謀反の懸念」や、市場の「製品の偏り」を無くして江戸の「市場バランス」を保つ事にも繋がる事にも成り、従って、政治性と連動していた事もあって幕府の目が光り厳しく管理されていたのである。
中には、これを護らなかった豪商が居て取り潰しに成った記録もある位であった。
従って、「豪商」と成り得るにはこの政治システムと経済システムに加入しなければ、最低限で「豪商」には成り得ない様に「政治的な枠」が填められていた。
享保期後の「執政田沼の抑制策」や「執政水野の禁止令」などの様に豪商が多く成って寡占状態に成る事を警戒されていたのである。
享保期前でも「質地流売買禁止令」の様に商人がこれを買い占めて土地の「地権」が商人に渡る事を恐れていたのである。
“呉服商を営んだ“とすると、この幕府に依って填められた「絶対的な難枠」を超える必要があって、系譜に主張する様に簡単に「商い」は出来なかった。
この「絶対的な難枠」を超えるには、『京1』-『近江1』-『松阪1』-『江戸1』から、『松阪1』が松阪派1611年頃であった事は、会津の「会津派の記録」から判るので、そこから蓄財して信頼を得て上記する数々の利権を獲得して江戸に出て江戸の利権を獲得して商いをするには最低でも100年は掛かる。
1711年頃以降の出店と成り、上記する様にその様な活動の記録も無いし、「伊勢の商業組合」にも享保期の江戸の商業組合にも参加していないで江戸に出る事は不可能である。
結局は、「伊勢側の記録」から「1765年頃の江戸出店」がやっと始まった事に成る。
つまり、120年が掛かっている事に成り極端な時代性のズレが有る事に成る。
それには、伊勢での「名義借り」か「架空名義」の「最大の課題」をクリヤーする必要が無ければこの120年でも成し得ない。
では、この「最大の課題」の「名義借り」か「架空名義」は、誰かと成れば、唯一人伊勢の「紙屋長兵衛(伊勢青木氏が保証人)」「総合商の問屋」の「お墨付き」以外には無い筈である。
これさえあれば「仕入先」と「各種利権」は獲得できる。
「総合商の問屋」の「お墨付き」で江戸でも「新副効果1-9」に参加すれば全て解決する。


以上等に詳細に見ると「歴史観」と一致しない事が起こり、この「ある家」の主張する系譜と時代性を合わせて検証すると「蒲生氏郷の近江商人」では無い事に成って仕舞う。
又、更には、「享保の改革」(1716年)の「商人グループ近江」、及び「商人グループ伊勢」の何れの「商家」でも無い事にも成る。
然し、「松阪から出ている事」は事実であるとすると、何処かに「後付の脚色の矛盾」があった事に成る。
この様に「総合商の問屋」の「お墨付き」で江戸でも「新副効果1-9」に参加して「商い」が成立したのだが、然し、これを明記しないで置く為には「松阪派」として戻った1611年頃から1765年までの江戸出店期までの空間期間を、「自立自助に依る商人としての努力」の系譜を作り上げる事が必要と成り、「ある家」の「主張する系譜」を後付でこの空間期間を無理に偏纂したと云う事に成る
其処には、上記の様に「誇張」も「時代性」も「慣習」も「記録」との整合性等の歴史観にも矛盾する事に成ったと云う事だ。
「主張する系譜」をどの様に作るかは、その「家」の自由であるが、「青木氏」側で折角の伊勢出との「繫がり」が確認できるのに真摯に論じようとすると、矛盾が露出して仕舞う事に成る。

そこでもう少し掘り下げて論じて観る。
そもそも、「商業組合」に参加しなかった組には、次ぎの様に成る。
a 「商人グループ近江」(「商人グループ近江」)
b 「射和商人の門徒衆」(「商人グループ伊勢」)
c 「単独の商人(小津屋等)」(「伊勢商業組合」に不参加組)

結局は、「射和の・・郷士三井殿・・・」の文面は、bとcの関係の中からのものと見做され、早期、つまり、1568年(正しくは1588年)に松阪に移動していると主張している事から、正式に「武士」を捨てた時期が共通する様な系譜から読み取ると、81年後の1649年頃であるので、1610年代の約50年後頃には、「門徒衆」からは、未だ「射和の郷士」と観られていた事に成る。
更に、依って、4代から5代後の150年後の1716年頃の江戸出店期には、既に、「代換わり」も著しい事から「武士」を完全に捨てていた事に成る。
現実に「射和の門徒衆」も江戸初期1640年代頃に武士を捨てていた。

唯、「ある家」の系譜に付いては、上記した様に“「伊勢郷士」の「正規の射和衆」であったか”は別問題ではある。
「伊勢青木氏と伊勢郷士衆」が興した「伊勢殖産」の“「白子湊の木綿(伊勢の殖産品)」”を江戸で扱った「越後屋」等(他10店)に関しては、「商人グループ近江」と同じ様な行動を採りながらも、「享保の改革」の活況(1765年)を利用して更に発展させた云う事に成る。

そこで、「吉宗―継友論争」は、別としても、本論とは別に論じる必要がある。
唯、「商業組合」を推進している「青木氏」に執っては、aとbとcが起こる事は何事にもこの世の条理ではあるが、「氏」を上げての「難儀な事」ではあった。
然し、江戸に「江戸店の伊勢屋」を出しながら、「江戸の拠点の伊勢屋」を経営する中で、「彼らとの付き合い」では非常に「苦労の種」であったと考えられる。
つまり、この「a、b、c」は、この時代では「15地域」を成功裏に収めていた事は事実でありながら、未だ、「商業組合」と云う概念に「賛成できない勢力」が相当あった事を物語るものであるからだ。

然し、実態は上記した様に、「賛成できない勢力」であっても,そこは「格式の青木氏」では無く「伊勢の紙屋」の「商人」ならではの事で、その「成功」に魅力を感じて「単独で参加する勢力」が現れたと解釈したのである。
何れにしても結局は,「失敗した商人」はあったにしても、「京に出た者」、「江戸に残った者」、「伊勢に残った者」が在って、「商人としての路」を歩めた事は「青木氏」に執っては良かったと考えられる。
普通ならば、戦略上大事業を成す上で「大きい障害」と成るのは必定で、「伊勢」を実質上で「経済的に導いていた力」を以ってすれば、これらの「賛成できない勢力」を何らかの形で潰していたとするのが、戦乱後100年程度しか経っていない当時の社会慣習からは常道であった筈である。

然し、「賛成できない勢力」に対する “「青木氏の姿勢」”が、古来からの持ち続けた、“排除するのではなく、「見守り、その流れに導く」“とする「姿勢」にあった事には、「青木氏としての誇り」を感じる。
結局は、当に、“「江戸の経済の改革の流れ」”に「伊勢のa、b、c」を導く事にあったのである。
「青木氏」自らは、「伊勢」に居て「紙屋問屋」の「商い」を営み、「伊勢郷士衆」と共に「商業組合」を推進しながら、江戸には「次男六兵衛」を送り、「幕内」では「享保の改革」を主導し、幕外では「青木氏」を伏せて「伊勢屋」を主導して「江戸の経済」を改革したのである。
その「伊勢」を拠点とする限りは、「伊勢残存組のa、b、c」に対しては「直接の感覚」で接しなければならない苦難が在った。

恐らくは、「伊勢残存組のa、b、c」だがらと云って「伊勢の紙屋(青木氏)」が「伊勢の郷氏」である限りは放置する訳には行かず“「説得」”を続けて試みたと考えられる。
場合に依っては、aの「江戸戻り組」に対しては、記録は消えているが、「商いの援助」をしたと観られる。
「伊勢」が「拠点」である以上は、「伊勢の商いの低下」は「江戸の伊勢屋の低下」に繋がり、「幕外の政策」は破綻する事も充分に懸念される事であった。
それ故に、「享保の改革」の1746年までの「改革中の間(1741年が活況期点)」では無く、「1756年以降の成功」が確定した時期を見計らっての「aとcの江戸再出店が集中した」と成っているのである。
この“集中”とは、下記にも論じるが、出店と成ればそう簡単な事では無いし一店ならいざ知らず“集中しているところ“を見ると、「保証人に成る事」や「名義貸し等」の便宜を図る事を提示して説得に掛かる以外に起こり得ないであろう。
況してや、更には、執政田沼等の「江戸商業組合への圧政」(冥加金の抑圧策)があって、彼らが嫌う組合に入らなくても冥加金を納められれば「単独で商い」が出来ると云う環境に成りつつある時期でもあった。(一商人でこの冥加金を納める事には未だ無理な状況であった。)

これは、何も「商業組合の享保の改革」に載らなくても、「改革成功後の江戸の商い」に参加する事でも成り立つ話であって、依って、辛抱強く“「説得をする事」”と“「流れに載せる事」”にあったのである。

それには、唯、「商い」をするには、先ずは“「資金」”が前提であって、「困窮する伊勢の小間物屋」では“「江戸出店」”は簡単に成り立つ事では決してない。
“「説得をする事」”と“「流れに載せる事」”だけではそれほどに生易しい事では無い。
「伊勢」から遠い活況している「江戸」に対して、「大商い」を成すには「土地、資材、店、資金、雇用、生活、運搬、情報」等の条件を満たす事を成すには「仕入先確保」や「名義借り」も含めて全て“「資金」“なしでは決して成り立たない。
それには、“「資金」“を供給するには”「金融」“に外ならない。
“「金融」”と云っても、「元手」が無い事では成り立たない。
(小津屋が江戸で成功したのは油屋源右衛門の融資を受けたと書いている。)
そこで、この「金融」をどうしたのかと云う問題がある。
これには「伊勢の殖産で資金を貯めた」とする説もあるが、確かに「資金」は貯めたのであろう事は資料からも否めない。
「江戸の伊勢屋」に対して指示して“「質屋」”に指導させて彼等の「金融手段」(「白子組の内店組)としたとも考えられるのであるが、それには先ず「組合」に入る必要があって無理であろう。

(注釈 伊勢では「商業組合」に入らなかった事から、「江戸の伊勢屋」の「AからFの指導」は拒絶する筈である)

“組合に入らないとか“、“名義借りしない“と成ると、そうすると残るは旧来からの「銭屋」か「土倉」を利用する事に成るしかない。
ここで、利用したとする「面白い史実」が江戸で起こっていたのである。
それは、江戸では「質素倹約令」で木綿が不足し、「木綿」、或は「木綿古着」が「銭屋」か「土倉」で「質草」として珍重され高値で引き取られる事が起こっていたのである。

因みに、高値で取り扱われる根拠があったのであるが、ここで「伊勢の紙屋」「江戸の伊勢屋」に関わる事に重要な“「青木氏の歴史観」”がこの「木綿の事」にあった。
それをここで論じて置く。
江戸初期(享保期初期)頃では、活況で関西圏から木綿を集める“「引請問屋」”と云うものが難波や伊勢にあって、それを江戸に送る“「江戸積問屋」”と云うものの二つの問屋があった。
伊勢から江戸に出た「木綿問屋」には、この二組があって、先ず初期には、“「江戸積問屋」”から集めた「木綿」を扱う「江戸の伝馬町」に、“「伝馬町組」”と云われる「伊勢青木氏」の「伊勢の紙屋」等が営む「商業組合の木綿問屋」があった。
「伝馬町」に「大の字」を付けて“「大伝馬町」”と呼ばれる程に「商業組合の木綿問屋街」を形成していた。
況や、“「伝馬町」”と云えば“「木綿問屋」”の問屋街の事であった。

その後の後期(1765年-1780年)頃には、上記した伊勢から出て来た“「十組問屋」”の一つで呼ばれる“「内店組の白子組」”と云う「江戸の木綿問屋」が出来た。
この「内店組の白子組」は1800年代に上記に論じた高額(年間1000両)の「冥加金」を幕府に納めて「商いの問屋権利」(内店方式)を買い取っていた

そこで、この「大伝馬町組」が「江戸の伊勢屋」等の「江戸の商業組合」の「木綿関係の問屋」(「御免株」を取得)であって、「内店組の白子組」が「伊勢の殖産の白子木綿」(「小伝馬町))を出した「江戸の木綿問屋」(10店)であった。
(この「商業組合」の「木綿地域」を「伝馬町組」と総称されていた。)

つまり、「殖産の白子組」の「内店組」とは、「商業組合員」(「御免株」「願株」)に入らない上記の「伊勢屋等の名義」を借りて出店する「名義借り商人」の「商人グループ近江」の「江戸出店組の事」である。
要するに、「御免株」「願株」以外にこれらの「店の権利」の“「名義借り」で出店する「支店扱い」”での店が1765年以降に起こった「第三の店」の事である。

取り分け、「伝馬町組」(「小伝馬町」と「大伝馬町」の総称)が扱う木綿以上に、「江戸社会の活況」で「木綿」が「需要と供給のバランス」と「幕府の質素倹約令」により、「木綿衣類」が多く使用される事に成り不足して「高値扱い」されていた。
「古着」を元に戻して綿糸にして再生すると云う職業(繰綿業)も江戸では活況した。
この綿糸類を「質草」にして集めて「土倉」も利益を挙げる程に成っていたのである。
これに「銭の兌換屋」の「銭屋」も参加すると云う現象が起こった程である。
そこで、上記のa-「商人グループ近江」は、関西圏でこの「木綿古着」を集めて江戸に送ったと云う事に成る。
現実に「商人グループ近江」の資料によると、「木綿古着」を送って「土倉」と「銭屋」で「資金」にしたとある事は史実である。
これが、「資金を貯めた」とする説の根拠に成っているのであろう。
然し、土倉であり銭屋である以上それ以上の資金は獲得は出来ない筈で店を興す資金には成り得ない。(伊勢屋の資金源をあくまで隠す為にも「こじつけた」と観られる。)

それには、この「綿古着」を「土倉」「銭屋」に入れて「質草」にして「当座の資金」を得ていた事は否めないが、この事のみならず未だ「伊勢殖産の産物」であった「白子湊木綿」(白子綿)も送る事で「販売での資金源」としていた事に成る。
つまり、唯、これでは“「当座資金源」”の程度である。
これでは「伊勢」から出て江戸で「大口商いの仕入金」は出来ないし、「冥加金」も納められないし、「名義借り賃」も払えないし、だとすると問題は“「運用資金源」”はどうするかである。

「運用資金源」の「資金」と「金融」は、「改革の司令塔の拠点」と成っている「伊勢の紙屋」が「江戸の伊勢屋」に供給し指示したとしても、他の「土地、資材、店、雇用、生活、運搬」はどうするかの問題もある。

(注釈 当時は「海運」に関しては幕府に依って統制されていて、大口の積荷や船便や船主を勝手に選ぶ事は出来ない「令による仕組み」で「届出」と「許可」を取る仕組みであった。下記)

これに付いては、下記に論じる「金融業務」に入る前提として、彼等の「運用資金源」として「江戸の伊勢屋」と「伊勢屋の質」が後口の江戸出店の彼等に「相談」に載っていた事が判って居る。
と云う事は、この上記の「当座資金の獲得」で取りあえず江戸に出たが、「土地、資材、店、雇用、生活、運搬の問題」と「運用資金の調達」で「江戸の伊勢屋」に掛け合っていた事に成り、「司令塔の拠点」と成っている「伊勢の紙屋」に指示を仰いだと云う事に成る。

(注釈 然し、上記の「第三の店」(「名義借り」)の「内店組・支店扱い」に対するものであって、「願株などの組合員」には成っていない。)

「土地、資材、店、雇用、生活、運搬」の「業務と資金」は、「幕府の許可」を得ていて、既に、「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」がその権利を持っている事で、“「彼等の相談」”は、「第三の店」の「内店組・支店扱い」(「名義借り」)で処置する事が出来るので左程難しい事では無かった様である。

享保期の「改革期後半期」には、上記した様に、「商業組合の寡占」が「寡占不況」を招いていると云う幕府の判断もあって、「厳しい冥加金献納」等の抑制策で、「販売に依る商い」にも「届出と保証人」と、場合に依っては「冥加金前納の認可」が必要と成っていた事もあったのである。

「伊勢」では、「商人グループ近江(松阪派)」は「反組合の行動」を採ったにも拘らず、その彼等に対して「伊勢の紙屋」は「江戸の伊勢屋」に対して「相談を受ける事の指示」を出している。
この様に「商人グループ近江(松阪派)」に対しては、上記の様に、「小伝馬町の二つの問屋組」で出店前の(松阪派)には「伊勢の紙屋」と、出店後(松阪派)には「伊勢屋の本店」と、出店中(松阪派)には「伊勢屋の質屋」で対応していた事が判って居る。

これは「総司令の伊勢の紙屋」は、「商人グループ近江(松阪派)」の“「反組合の行動」”を超越して居た事に成る。
未だ、「殖産の木綿」や「殖産の地酒」や「殖産の豆粉」等が「組合化に至っていない殖産品」であって、それを「伊勢青木氏」としては、兎も角も、「伊勢の紙屋」の「商い」として観れば、彼らの努力に依って、“江戸に出せる事”での「利点の判断」を優先した事にも成る。

下記に論じる「江戸の伊勢屋」からの「伊勢の紙屋への報告書」では、「資金と金融の指示」に対しての“「経過報告の返書」”があった。
然し、この返書の中の一行には、上記の様にこの「相談業務と斡旋業務」に関する「簡単な業務報告」が成されている。
取り分け、“「資材と運搬」が難題”として取り上げている。
「江戸の伊勢屋」の「商業組合の資材」みならず「江戸出店」を説得し斡旋した組の分(「商人グループ近江」(松阪派))までの“「大量の資材」の「運搬能力」”とその“「過程の安全性の確保」”に苦慮している事が書かれている。

(注釈 この手紙の内容が既に在ると云う事は、その「流れ」からすると1765年頃には当面、「伊勢の紙屋」の「海運能力と陸運能力」と、「株権利」と「幕府許可」を初期の段階で当面の策として「商人グループ近江」(松阪派))用としても利用していた事を物語る事に成る。
1760年代には「海運と陸運」に関して未だ完全に解決に至っていない。
この時期に「江戸十組問屋」(1749)年が設立され、大阪で廻船二十四組問屋が設立されたが、この段階では「商人グループ近江(松阪派)」は十組問屋の中には系譜では既に連ねていなければならないが1749年では名は連ねていない。)

これを担当していたのが、陸運担当の「伊勢信濃シンジケート」ではあったが、確かにこの“「大量の資材」の「運搬能力」”に付いては、「伊勢の商業組合の範囲」と「江戸の伊勢屋と商業組合の範囲」での能力の限界の範囲にあった。
これが可成り難題であった様で、享保期の「初期段階1730年代」までは、社会には未だ相当の「運送の危険性」を大きく孕んでいた模様である。
「中期段階1745年頃」を経てから、「a、cの出店期」の「後半期の1760年代」では危険性に於いては可成り収まってはいた。

然し、この報告書は、「伊勢屋の質屋問題」などの事に付いて述べられていたのは1731年の頃であったが、この時のたった一行に指摘されていたのが、この「搬送問題」であった。
その頃には、「aとcの江戸出店問題」が未だ起こっていない時期(1765年前)にも,それでも既に「搬送人員と搬送危険性」には問題があった様である。
この時は、これに対する対策(堺摂津の三船の応急対応)は取られていた様であったが、この時に指摘されていた事が更に起こると成ると、「伊勢信濃域の中での事」では済まなく成ったらしい。

そこで、「伊勢の紙屋」では、どの様に対策したのかを調べると、この時期の「青木氏の商年譜」に「伊勢郷士頭と紀州郷士頭」(シンジケートの差配頭が参加か)全員を集めての「談合(1762年)」を行っている。
この年代は、「a、cの出店組の初期段階」、取り分け、「aに付いての初期段階」であった。
「商年譜」なので詳細は判らないが、これがその時の「搬送人員様と搬送危険性」の問題については、「江戸の伊勢屋」と「商業組合の搬送」だけの「工程能力」が限界に在ると云う事が判るが、これに「aの工程」が加わると無理である事は判っていて、その為に「工程能力の向上」に付いての解決策を模索していたのではないかと観られる。

(注釈 「伊勢郷士頭」等の家を含めて「江戸報告」が何か無いかを調べたが出て来ない。
何れかに在ったと思われる形跡(口伝)があったが、資料が三度消失しているので見つからない。)

大きくは「伊勢水軍の能力(大船21隻所有)」に、上記で論じた様に、頼っていた事が判るので、この「水運の能力」が限界に来ていたと云う事では無いかと考えられる。
1730年代までの「初期の運送能力」は、「商業組合の江戸出店」が、「将軍擁立」当初からの計画であった事から、事前に「水運能力の向上」を図った事が判って居る。

(注釈 「水運能力の向上」は、「造船と水夫の仕様」で数年の期間が必要である。
元禄期までには、「伊勢の紙屋」独自に「三隻の千石船(堺摂津港係留)」を所有していたが、享保初期には、「松阪係留の船二隻」の資料が発見されているが、この大きさは判らない。
計五隻である。
この船は主に「貿易」に使っていた様で、「江戸用」では無かったと考えられる。)

従って、“「水運能力」”だけではなく、より“「陸運の能力」”も早急に上げる必要があって、「郷士頭」に遺された手紙の資料によると“「伊勢衆」(この様に表現 「伊勢シンジケートの頭衆」の事か)“を集めて「談合」をしたと観られる。

ある文面からの推測ではあるが、陸運の「伊勢郷士の徒」は、上記でも論じたが、既に、「享保の江戸出店」の「初期の段階」から就労していた。
従って、「余裕な徒」は無かった筈である。
そこで、次ぎに頼れるのは「南伊勢の民」と繋がりを持つ「紀州郷士の徒」に「協力を仰ぐ算段」であったと観る。
それには「紀州藩の了解」が必要と成る。
故に、充分に「伊勢」で検討する必要があって、“それを「交渉する郷士頭」を誰にするか”を検討するに付いて集めたと考えられる。

ところが、この「aとcの出店期」には次ぎの事が起こっていて難題であった。
先ず、「吉宗が没した後(1751年没)」に成るし、「商業組合への圧政」が徐々に始まった時期でもあった。

(注釈 「吉宗の血縁族」は「没後二代続き」まで「三代目は水戸藩養子」である。)

従って、江戸同行で活躍していた「200人の家臣団」と「次男青木六兵衛」や「伊勢郷士衆」(別動隊)等が、伊勢に「帰参の検討」(1781年開始)を考え始めた時期でもあった。
1765年前後より15年程度の期間は、「江戸の伊勢屋」と「勘定方指導の青木氏」では難しい時期でもあった。






> 以下「伝統シリーズー24」



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名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒

:「青木氏の伝統 22」-「江戸の伊勢屋」 

[No.340] Re:「青木氏の伝統 22」-「江戸の伊勢屋」 
投稿者:福管理人 投稿日:2016/04/29(Fri) 11:12:33


>伝統シリーズ21の末尾


>兎も角も、「伊勢」では、「祖父の話」では、詳しくした「先祖伝来の由来書」成るものが「福家の青木氏」に在って、累代で「追い書」されていた事が判って居るので、「伊豆」と「越後」と「越前」にも在る筈であるから、「青木氏の歴史観」は更に広がる筈である。(伊勢は松阪大火で消失)
>然し、これも「時間と時代との競争」であろう。

>(注釈 「近江佐々木氏」の「青木氏に関する研究論文」が大いに役立っている。)

>取り分け、「勘定方指導」と「江戸の伊勢屋」で動いた「享保の改革」の詳細については、「青木氏族」にしかわからないの“「誉れ」”には成るが、「伊豆、越前、越後」にも在るとは思われるが、「伊勢信濃側」から兎も角も判る範囲でまとめて続けて投稿して置く。


以下「伝統シリーズー22」


さて、「質流れ」の「令」は、当初、「青木氏」に関わらず「新しい商業組合の商法」と「古来からの商法」の混在する江戸での“「争い」”を避ける為に対策されたものであった。
然し、皮肉にも「青木氏」に対しては、「江戸の名物」とされる「伊勢屋の金融業の質屋」が多かった事から、「質流れ」に関する要領を示した「令」を発した。
(改革中期以降は主に市民の土地の地権や家屋の物的担保が多かった。)
これは「享保の改革の活況化」が始まった中では、「阻害要因」に成らない様に、「不必要な混乱」を避ける為にも当初特段に発せられたものであった。

ところが、享保期前の政権の失政で、主に「15地域の各地」でも同様な事が起こり始め、取り分け、「経済の疲弊」により「広大な土地の地権」が「質担保」と成っていたのである。
この事により、この事から「商業組合」で成功していた「15地域の商人」の多くがこの「質流れ」に成った「地権の担保買い取り人」と成って居た事もあって、「社会の混乱」を避ける為にも、要するに「農地の地権」に対する「質流地禁止令」と成って仕舞ったのである。

これが、「当初の発令の目的」に対する理解が幸いに得られ、結局は、「改革」に影響しない程度に収束して行き、「地権の令」は1年後に廃止と成ったのである。
然し、幕府は、改めて「問題点の部分の要領」(下記)を決め直して、「元令の修正」を5年後に図り、更に「令」を緩和した事に依って何れの「質流れ問題」も実体経済に納まったのである。

そこで、「質流れ問題」の基と成った「伊豆と相模」側にも、誰にも主張する事が出来ないもう一つの「人生の悲哀」を感じる「役目」が課せられていたのである。

・「伊豆と相模」の「伊豆」には、前段や上記した様に「伊勢―信濃の関係」と同じく、“「伊豆-相模」の関係”に在ったのである。
筆者は、「伊豆」を語る時には、特別に論じて置かなければ成らない“「青木氏だけの歴史観」”があって、これ無くして「真意」が伝わらないし、「正しい青木氏の歴史観」が構築され得ないと考える。

「伊豆」は「信濃」と同じく、「もう一つの目的」があったと観ている。
それは、未だ江戸期初期の事である。
上記で論じた「密教論の概念」の6か7の位置に居たとすると、“「血縁と云う概念」”も未だ強かった時期でもあった。
それ故に、「信濃」も「伊豆」も、“この「概念を護る役目」を果たした”と観るのが妥当であろう。
「江戸」に出て「新しい商法」が「江戸」で成功するかは、「新しい商業組合の商法」と「古来からの商法」の混在する「江戸」ではそもそも「完全な未知数」であった。
「完全な未知数」と云うよりは、江戸では、吸収する土壌はあったにせよ、“「庶民金融」の「銭屋」”が発達していたとすると,むしろ、“「危険」“と云った方が適切な事であった。
そんな中その事から、「信濃と伊豆の同族」(笹竜胆紋族)は、この「江戸の事」に於いても密かに“「この役目(人生の悲哀」を感じる「役目)”を懸命に果たそうとしたと考えられる。

要するに成果を求める事が出来ない「賜姓五役」の“「子孫存続の務め」”である。
これは人間に課せられた逃れ得ない「諸行無常の務め」である。
尚更に、「青木氏」には「無常の役」と成ろう。
他氏には「理解され得ない役」、或は「古式豊かな概念」であろう。

現実に、その証拠と成る「笹竜胆紋」は、「伊豆と信濃の青木村」には、明治期33年の頃でも「青木村の村全体」で遺されているのである。

(注釈 家筋・墓所・神社・菩提寺が笹竜胆紋である。「賜姓五役」の“「子孫存続の務め」”)

そもそも、“「青木村の村全体」”と云う事は、この“「賜姓族」”と云う「存続概念」が無ければ、「1100年間の継続」と云う事は絶対に起こらない事である。

“「将軍擁立と商業組合」を江戸で起こす”と云う事は、「一種の大賭け」であって、下手をすると「子孫滅亡の憂き目」も受ける事にも成り得る。

(注釈 最悪の場合の「青木氏」を出さないその為の“「伊勢屋」”の屋号でもあった。
先祖が営々と築いてきた「1千年の歴史の青木氏」に汚名を着せる事は絶対に避けなければならない宿命であった。)

その中での事として、「信濃と伊豆の役目」の事は、決して見逃してはならない「青木氏の生き様の姿」を示しているものである。
(相模は武蔵宗家の一端)

「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」の「屋号」しか出ずに様々な「公に成る記録」に遺されないのは、「皇親族・賜姓族」と云う“「格式」“を護ろうとする、且つ、“日本で一つしかない氏族”と云う「古式概念」からの事であった。
依って、「本領や旧領地」を除いて、“「青木氏」”と云う「氏の名」を「公に晒す事」は「氏是」で憚られたのである。

(注釈 「青木氏の氏是」 “日本で一つしかない氏族”と云う事で、「青木氏以外」には、最早、“理解はされ得ない概念”と成っている。
否、「伝統」が、希薄に成って忘却し消えて、“何を無駄な事を”と「青木氏」でも理解され得ない事とも成っている事もあり得る。
現在では、「身分とか格式」とか云うものでは無く、「単なる伝統の継承(ロマン)」を期待しているのだが。
明治期中頃までは単なる「ロマン」では無かった。「生きる為の概念」の一つであった。)

「15地域」の「地域の商業組合」と云う「自由を前提」とするものから進んで、上記で論じている「江戸」での「幕府の享保の改革」に用いられた「公的な商業組合」に成った状況下でも、「違和感」を感じる程に「賜姓族の氏の古式概念」が護られていたのである。
この“「賜姓族の氏の古式概念」が護られていた“とするのは、江戸の当時としても、明らかに「二律相反」であった事に成る。

(注釈 この事は「佐々木氏の資料」にも論じられている。
この資料から観れば「幕閣の三役」の「累代家柄」でありながらも、“奈良期からの氏族を遺す”と云う「古式概念」とにも社会との間に「乖離」が生まれていた事を示す証拠である。
「氏が持つ古式概念」と「社会が持つ概念」とには明確な「乖離」が生まれ始めていたのである。
「近江佐々木氏」も同じ「乖離」に対する疑念を持っていた事を意味する。
「自由を前提とする商業組合」を改革の中心に据えて「江戸の経済」を変えようとしている「青木氏」なのである。
「完全な概念の矛盾」が佐々木氏以上に青木氏にはあった事が頷ける。)

当然に、「江戸の社会」では、「古式概念」を護ろうとする「保守の概念」が一方でより無意識に働く事は云うまでも無い。
況してや、「賜姓族」であると云う「氏族存続を役目」として生まれて来ている族であるとすると尚更であろう。

これは、同じ同族である「秀郷流青木氏」との「二つの青木氏」の持つ宿命の「二律相反の掟」であった。
最早、この享保期では、現実に日本には「二律相反の掟」を持っているのは「二つの青木氏」しか存続していなかったのである。
関東の「賜姓族秀郷流青木氏」や「賜姓族近江佐々木氏」等は、逸早く「家臣の路」を選んだが、「皇族賜姓族青木氏」は「賜姓族の路」を外さず「郷氏の路」を選んだ。
そして、「徳川家の家臣」では無いのに「商業組合」と「享保の改革」に突き進んだ。
「二律相反」処の話では無い。これは「完全矛盾」そのものであろう。

そもそも、室町期初期では「40の氏族」、室町期末期には「20の氏族」が、江戸初期には急激に「12の氏族」を切り,200年が経った享保期には無理に考えても、「血縁性」を維持していると云う事では「4の氏族」に成っていたのである。
最大時は鎌倉期の200が何時しかその内の「賜姓族」は「二つの青木氏」だけと成り得ていた。

調べた範囲では、他の「氏族」では、「氏族」としての「格式の慣習」は一応は保たれていたが、“「氏族」のあり得る「慣習仕来り掟」を維持せず”の名ばかりの「姓化した氏族」であった。
取り分け、「家紋(象徴紋は変紋しない)」は、確実に変化していて、「氏族」としての最低条件の「血流」と「家紋」と「氏名」と「古式習慣」では無かった。

この様な「数少ない氏族]と成った中で、「古式概念と伝統」を維持していた「信濃」と「伊豆と相模」が、前段で論じた「四家制度」で「伊勢と武蔵」の「伝統」をも護っていたのである。
周囲の氏族が衰退、滅亡、断絶、姓化して行く中で、持ち堪えようと懸命に護ろうとしていたと観られる。
そんな苦しい環境の中で、「享保の改革」の[商業組合」が江戸に来ると云う事である。
最早、「伊豆と相模と武蔵」の関東勢は「終わりか」と考えたかもしれない。
その「攻め手」の「伊勢側の勢い」では同じ意識を持つ同族では処置の仕様がない。

恐らくは、この事は「伊勢側」では知っていた筈で、[護ろうとする戦略」が異なっていたと云う事であろう。
「攻めて護ろうとする戦略」と、「固めて護ろうとする戦略」の違い差であったのである。

従って、「攻めて護ろうとする戦略」を採る「伊勢側」に執っては、「自由を前提とする商業組合」の「中心の位置」にありながらも「世間」には、決して「青木氏」を表には“出さなかった”のである。
“出せなかった”と云う事が真実であろう。
出せば「江戸の商業組合」と「江戸での享保の改革」は、「庶民性の強かった江戸」では、「強い反発」を招き崩れていたと考えられるし、「青木氏」も「唯一つの氏族」では無く成っていたとも観られる。
「固めて護ろうとする戦略」とする「同族」が江戸にいる限りは、醜い「同族争い」が起こり「青木氏の氏是」は護れなかった事に成っていた筈である。

それだけに、「伊勢側の信濃と武蔵側の相模」と、「何れにも属する伊豆」の三者は、「共倒れの同族争い」を避ける様に必死で「影の役処」を護り通したのである。

(注釈 「伊勢-信濃-伊豆」は完全な同一ルートの完全な一族であり、相模とも血縁を持つ。 その「相模」は四日市殿と同じで青木氏同士の融合族でもある。)

それだけでも「伊豆と相模」は、取り分け、「武蔵」は、「自由な商業組合」には参加する事は概念的にもあり得ない事と成る。
これは“「伝統の生き様」”の一つからでもあった。

当然に、これは前段でも論じた事ではあるが、要は「商業組合」が推進している中でも、絶対に「青木氏の氏是」に固く縛られていたのである。
それが、「伊豆、相模、武蔵」との、「共倒れの同族争い」を避ける要でもあった。
当然にして、直接触れる「江戸庶民」にもであり、それは”「江戸の伊勢屋」”が精一杯の線で、「伊勢の紙屋」や「勘定方指導の青木氏」は論外であった。
(現実には、「佐々木氏の資料」や「公の記録」に遺されているので洩れていた事に成る。)

そもそも、当時の江戸の「享保の改革前の商法」は、「商業組合」とは{真逆の商法」であった。
主に“「縁故」”を頼りに「営業」を拡げ、大名や御家人・旗本の家等に出向いての「店開き」をして注文を取り、年に「二回の付払いの商法」が主流であった。
概して云えば、「伊豆相模の商法」は「商業組合」を一方で組ながらも、一面では一族(361氏)の大縁故を頼りにした「古式商法」にも頼っていたのである。

「藤原氏と青木氏と佐々木氏の一族一門」をコネにして「古式商法」で、「商業組合」にせずとも充分に成り立つ社会の中に居た。
これが、「享保の改革の商業組合」で庶民を巻き込んで「自由性」が高まった事から、この「縁故商法」は影を潜め始めたのである。
一時、江戸は「混在する状況」が続き、明和期の頃の1765年頃から「菓子商」などの“「個別商法」”でなくては出来ない“「自由な商い」“が拡がりを見せた。
逆に、この「古式商法」の“「縁故商法」”は無く成って行ったのである。

つまり、「自由店舗」の「店舗先販売」(「個別商法」)が一般的に主流に成った事で、それも原因して「青木氏」を隠して「同屋号の支店」を拡げて「営業力」を高めたと考えられる事も出来る。
(しかし、これが「成功要因」の一つに成った。)
これに依って、「越後屋の商法」であった“「縁故商法」”では出来ない「自由店舗」の「店舗先販売」(「個別商法」)の“「バーゲセール商法」”と“「チェーンストア商法」”が当たり、京都や名古屋や大阪などにも出店する「別の形の大豪商」が出現したのである。
(現在のコンビニ商法に類似の勢いに近い。)
これは、即ち、「自由性」の高い「商業組合の発展」がもたらした結果であって、「江戸」は「画期的な発展」と成った。
然し、この様に“「商業の改革」”が、「享保の改革」の中で「将軍擁立時の約束」の通り達成されたのである。

(注釈 「大きな賭け」であった。失敗すれば必ず叩かれ、「青木氏」そのものが存続は難しく成っていた。「青木氏の歴史観」はここで消えていた筈である。)

筆者は、「伊豆と相模武蔵の問題」を解決できたのには、この“「質流れ禁止令」”が、両者が生き残れたその“「象徴」”であったと観ている。

つまり、“「江戸の名物」”と呼ばれた“「伊勢屋の質屋」”が多かったと云う事が“「享保の象徴」“を物語っていると観ている。

そもそも、注釈としてこの“「質流れ禁止令」”の発端と成った「伊勢屋の質屋」に付いて特に先に詳しく論じて置く必要がある。

この「令」の出す以前は、“「質業の商いの屋」”は、通称は“「土倉」(「石倉」)”と呼ばれていたのである。
この事から、態々、「土倉」(「石倉」)と云う呼称が在りながらも、「土倉」の呼称が無く成り、“「質屋」”と呼ぶ様に成った経緯の意味が良く判る。
そして、この「令の持つ意味」や「質屋の仕事内容」も変わっていた事も良く判る。

この様に“「土倉」(「石倉」)”から“「質屋」”に成った経緯の事からも、“多かった”と云うよりは、正しくは“多くした”とする方が適切であった。(理由は下記)
“「土倉」(「石倉」)”に無い“「異なった新しい内容」”を持っていたからこそ、それを認めて“違う”と認識して、江戸の庶民は、別に“「質屋」”と表現したと云う事に成る。

(注釈 結果として、江戸の庶民は「質屋」と呼称する事には成ったが、「呼称の元」に成ったのは”「質屋」”では無く”「伊勢屋」”である。故に呼称は”「伊勢屋の質屋」”なのである。下記)

当時の感覚では、“「違う」“は「質屋」を意味していた事に成る。
その“「違う」“の内容は何なのかである。「青木氏の歴史観」に執っては実に重要な事なのである。

それは「違うの根拠」を下記に詳細を論じるが、つまり、ベースには次ぎの関係が働いていたのである。

「金融」→「土倉」≠「違う」≠「質屋」
「江戸の商業組合」=「伊勢屋の質屋」=「質流れ禁止令」=「享保の象徴」

以上の数式論が働いたのである。

何故ならば、この「令」は「短期間の単なる令」ではあったが、享保期前には「土倉」で、未だ未開発部門の“「質屋」”(金融業)であって、「常套手段」としての「庶民の経済的手段」では未だなかった。

注釈として、そもそも、この「土倉」とは、「担保」を預けて「金銭」を借りると云う「単なる金融業」で「銭屋」とは「一種の共同体」であった。

そのシステムは、「質受」を得る時には「担保受け」と「利子を支払う仕組み」で、「担保」の保管期間を過ぎると「質流」として他に「売却」する仕組みであった。
その「担保」を保管する「倉庫」が「土の倉」、或は「石の倉」であったことから鎌倉期末期からこの呼称と成った。
この「一時的な短期金融」の「単なる当座の金融の仕組み」であった。
(現在の質屋と類似する)

ところが、享保の「伊勢屋の行った質屋」は、
「土倉」の上(A)に、
「組合業」(B)と、
「銀行業」(C)と、
「相談業」(D)と、
「教育業」(E)と、
「保険業」(F)と
以上を組み込んだものであった。

しかし、「享保の改革」が進み、「自由な商業組合」を形成した以上は、必然的に当然の事として、「自由の概念」の下に「新しい形の投資」が起こった。
そして、この形の「金融の流れ」(A-B-C-D-E-F)が活発に成り始めた。

(注釈 “「新しい形の投資」が起こり“と表現したが、”興した“が適切である。理由は下記)

これを観た「享保の改革」を「市中町方」で進める”「江戸の伊勢屋」”は、これを支える為に「次ぎの手」を打った。

「商い」に対する“「総合的なノウハウ」“を持つ「総合商・貿易商・金融業の伊勢屋」(指令は「伊勢の紙屋」)は、”「担保を取って融資する金融業」“から”「融資し担保を取る金融業」“に変換したのである。

所謂、「商いを広める経済」を活発化させる「融資業の伊勢屋の質屋」を当然の事として江戸に広めようとした。
これは当に妥当な「経済的な理屈」であった。

この「総合商・貿易商・金融業」の「江戸の伊勢屋」が行う目的には、未だ「江戸人」に執って“「不慣れな自由」”を前提とする“「商業組合」の「商い」”を拡げる為でもあった。
元々、その商業組合が根付く土壌が無い江戸市中に、「根付かせる」にはその「組合人」に対する“「商法の伝授」”が必要でそれが主目的であった。

先ず、これ、即ち、「教育手段」が主体(「商法の伝授」)であって,この「商い」を興す場合、それに伴う当然に必要と成る“「貸付融資」”に主体が在った。

つまり、“「担保」”で利益を挙げる事は、「商い」としてはその後の話であった。
未だ、「両替商」も存在する事の中であり、況して、「金銭の預け借り貸し」を前提とする「銀行的発想」(明治期)だけでも無かった。

「江戸の伊勢屋」が営む「伊勢屋の質屋」は、その為に、初期は“「信用貸付」”が主体であって、「育てる事」が目的であって、「教育手段」=「商法の伝授」でもあった。
この「伊勢屋の質屋の影響」が江戸にどう出るかは、“「商業組合の経済」”に及ぼす「良悪の内容の事」から考えると、「未知数」で「未経験の部分」が多かった。
「伊勢以上」の「全く新しい経験」であった筈で、「江戸の伊勢屋」は、勿論の事、「享保の改革」を主導する「吉宗と青木氏」にとっても、あくまでも「経済理論上の領域」でしか無かった。
資料は見つかっていないが、「吉宗と六兵衛と伊勢屋」は何度も集まって非公式に「充分な検討」を加えたと考えられる。
(「佐々木氏の資料」からも読み取れる。)
それは況して、「銭屋を基本とする既存経済」がある中での理論であった事が原因していたのである。
「銭屋の如何」で「江戸の経済」は大混乱に陥る事も充分に考えられた。
「江戸の伊勢屋」と「勘定方指導としての青木氏」に執っては、「既存の銭屋」を活かしての「質屋の金融」である事が大前提であった。

これは極めて難しい経済理論であった事が判る。
当に「未知数」で「未経験の部分」である。
そこでこの「三者」は考えた挙句に「ある事」をこの「伊勢屋の質屋の仕組み」(上記BからF)に付け加えたのである。
これが「画期的な手段」であった。現在でも画期的である。
それは、要するに判り易く言えば、”「組合式コンサルタント金融」”であった。
この”「組合式コンサルタント金融」”の初期には、“「信用貸付」”であった事から“「商い」”を育てる事に主眼が置かれていた。(詳細下記)
これは、この「享保時代の経済の有様」を物語る「重要な金融要素」であって「パラメータ」であった。

この事から考えると、結果として、「享保期」は、「町方」に喜ばれる「良質の経済手段」であった事に成るのだ。

もし「良質の経済手段」であったとするならば、それはどの程度であったかを検証すると次ぎの様に成る。

それを顕著に物語る事がある。“「江戸の伊勢屋の質屋」と「犬の糞」”は”「江戸名物」“と庶民から呼ばれ、「江戸川柳」にも出て来る程であった。
ここで、この事に付いて更に検証して観ると次ぎの様に成る。

遺された記録から、その「質屋の数」も全体で「2800軒弱」であって、「江戸の伊勢屋」が経営する「伊勢屋の質屋」は、その7割程度以上であったとしている事から、「約1950軒」と成る。
残りは、江戸の伊勢屋の質屋では無い質屋であった事に成る。
実は、この残りの質屋に付いては訳があって下記に別に論じる。
江戸には、「江戸の民100万人」と俗に呼ばれている。
恐らくは、無宿者を除けば「80万人弱」であったとしているので、80万/2800 ≒286 80万/1950≒410 と成る。
そうすると、「江戸の質屋一軒」に対して庶民286人から410人の範囲を対象にする程の驚くべき「質屋の数」であった事に成る。
つまり、云い換えれば、「一町」に対して「3から4軒」があった事に成る。

これでは普通の経済状況ではどう考えても多すぎて経営は無理であろうが、存在したのは事実である。
とすると、その無理を成し得る程に経済収支が極めて盛んであった事に成る。
当に、パラメータであった。

そこで、「全国の人口」は「4000万人」と云われていた事から、「主要国66国」と観て、平均で「一国に55万人」、そうすると、江戸は25万人以上が単純平均より多い事に成る。(支藩小藩含まず)
然し、大小の国の「国の石高差」から観ると、平均で32万石から33万石が平均であった。

江戸期は「1石-1年-1人の原則」に従っていたので、当時は「バイアス最大10万」があったとされていて、「人口比」(55万人)と「石高比」(33万石)が一致せずに「平均通り」には成っていない。
平均比では22万石、或は、22万人の差額が生まれる。

ところが、「江戸」は80万人(無宿 100万人)に対して、「実質の石高」は102万石であった。
「1石-1年-1人の原則」に合致するので、平均比で「+25万人分」多いのに無理な都市では無かった事が判る。

(注釈 「幕府」は、直轄領を含めて450万石(享保期)で、武蔵、伊豆,相模、上野、下野、上総、下総の7国から成り立っていて、250万石であった。
「家康」が実際に支配していたのは、当初は全体で100万石で、後に200万石に、綱吉時は400万石、吉宗時は450万石、最終は463万石に成った。
後の213万石分は家臣に分け与えた。
その「江戸」の範囲では「102万石」であった。)

(注釈 分布は、関東103万石、畿内68万石、東海道73万石、北陸28万、東北37万石、中国41万、 四国九州12万石と成っている。
これに御家人と旗本領が存在し、300万石、大名領貸地と奉行支配領とで、概して合算石領は800万石であった。)

従って、(無宿100万人・80万人-102石 「1石-1年-1人の原則」に合致)の「江戸」には石高では、平均差での人口では、「最大47万人」は多い事に成る。
然し、「単純平均差25万人」にすると、「バイアス最大10万(人・石)」で「35万人目安」と定められる。

そうすると「江戸の質屋 1軒」に対して、286人から410人の範囲では、「35万人-47万人」として、最大で「35万/286人」と「47万/410人」では、「1250軒から1150軒」分である筈である。
これに対して、「江戸の質屋」(2800軒 伊勢屋の質屋1980軒)は、全国平均より明らかに多い事に成る。

「江戸の質屋 1軒比」は、「多い事を前提」としている数字なので、恐らくは「平均」に対して1150軒/国の程度以下と見做され、2800軒/1150軒=2.5倍と成る。
「人口比」=「石高比」であった事からでは、80万人/33万人=2.5倍と成る。

従って、「質屋比」=「人口比」=「石高比」=2.5倍であった事に成り、検証は2.5倍で一致する。

「質屋」としては、全国平均は、上記した様に、関西と関東の経済機構が異なっていたので、実際は、「関西<関東」と成る。
この差が「バイアス10万」(人・石)とされていたので、関西では、550軒程度、関東では、900軒程度(土倉含む)であったと観られる。

(注釈 関西では主に「土倉」が主体であった。地方に依って、「石倉」と呼んでいる地域もある。)

注釈として、この「吉宗時の250万石」は、土地面積が同じであるのに、綱吉時より「+50万石」の「幕府財政力」が20%も増加していることが判る。

「享保の改革」で「市場の力の活性化」を成しただけではなく、「幕府の財政力」も増やしたのである。
「家康の時期」からすると、これも2.5倍に成る。

これで異常なほどに如何に「江戸の質屋」(伊勢屋の質屋 AからF)が多かったかが判る。
更に云えば、経済が活性化していた証拠でもある。
最早、「享保のリフレーション経済」は「伊勢屋の質屋経済」と云っても過言では無かった。

注釈として、1765年以降には、3割弱程度の内には「伊勢屋の質屋」ではない「質屋 A 土倉」が再生したとあるが、この3割の店舗と云うのは「町方の衣服」などが「質担保が主流」であった事から、当に「町方金融」であった筈である。
公的記録説は「土倉と質」との判別が付いていない様で、これは元から存在した「土倉」ではないかと観られる。

多くは「屋号」を「伊勢屋の質屋」に肖って先ずは何らかの理由があって「伊勢屋」に変更したと観られる。(下記)

結局は、BからFでは無い「一般金融の町方金融」は、「850軒程度-950人/軒」であった事に成る。

これでは、逆に間違いなく「過当競争」と成り得る筈で、倒産して淘汰される数になった筈であるが、淘汰の結果がこの数字であるのだ。
この数字が保たれたと云う事は、享保時代には如何に経済が活性化していたかは判る。

享保期前の疲弊した経済の中では、「土倉」の「質入れ」で事を凌いだにしても「質流れ禁止令」があれば「買戻し」が無い限りは「質業」は成り立たない話である。
従って、現実に成り立たなかったが、これは「享保期の活況化」の中でこそ成り立ったのである。

上記した様に、江戸期には三度全国の全国石高調査をしているが、1633年、1644年、1702年では、「最大100万石差-70年間」と成っていて、この差は主に生産高の増大では無く、
絵図面による「申告調査の査定差」に依るものであった。
ところが、享保期の改革期間40年とすると、実質の「+50万石」も生産増加させている。
何と一国以上の石高(平均32万石)を増やしたのである。
この様に「享保期前の石高」では全く変化していない事から、“経済が疲弊し続けていた事”が判る。

上記の数字は、「商業組合方式」に依る「享保の経済」が如何に「活況」を末端まで取り戻したかの「パラメータ」と成る。
つまり、如何に「良質の経済手段」であったかを物語る事の証明と成り得る。

故に、「初期の信用貸付」で「損失」を興しても経済を活況させ得れば、後期は「地権などの物的担保」で「損失」は取り戻せる理屈と成っていたのである。

ところが、「青木氏の伊勢屋の質屋」は、「本来の目的」から「損失覚悟」で市場に金銭を放出したのである。
この「金銭・金融」は「指令所の伊勢の財産放出」(伊勢の紙屋)であった事に成る。

これだけの「財貨」を市場に放出出来る者は、享保前の不況から居なかった筈で、15地域に「商業組合」を構築した「伊勢の青木氏・伊勢の紙屋」しか無かった筈である。

これは、「伊勢屋の質屋」が行った事は、一見して「初期の段階」では明らかに「インフレ政策」である。
「リフレーション策」では無い様に観える。

ところが、これには一つだけ違っていた。
それは、”「質屋」(AからF)”である。

単純に「市場活性化」の為に、元より「金銭」を放出するだけでは無く、「質屋」と云う「金融-担保」の“「質草」”を取る事に在った。
この「土倉」に無い“「ある種の質草」“に意味があったのである。
「初期の段階」では、確かに「信用貸付」で放出したが、これには実は「ある手立て」を講じて居た事が判って居る。
それは、一件毎に“「商い指導」”をしていたと云う事であった。
「本拠の本店の伊勢屋」が行っていた事が資料より判って居る。

つまりは、本拠本店の“「伊勢屋」”の“「AからFの質屋」”なのであって、故に、根本的に「土倉(A)」と違うところから、“「伊勢屋の質屋」”と呼ばれた所以なのである。
「伊勢屋の質屋」「質屋の伊勢屋」と態々呼ばれる確固たる理由があったのである。

これには「単なる屋号」だけでは無かったのであり、「伊勢屋が経営する質屋 (AからF)」に意味があって、1765年以降の「質屋の伊勢屋」の意味では決して無かったのである。

この意味から、「信用貸付」の対象は、「生活に困った事からの質屋」では無く、新たに「商い」をする、或は、「拡張すると云う商い」や「生産を増大する」や「人を雇う」等に対して「融資」をし、その「信用貸付」の代償として「商業組合の組合人に成る事」を前提としていた事が判っている。

融資しこの「組合人」に成る以上は、放漫経営で倒産と云う事は防がねばならない。
当然に、「未知の江戸商業組合」である以上は、その「商法を教えて導くと云う手段」を採っていたのである。
その「訓練」として「教材」として、全ての「職能集団を含む商業組合」である限りは、その「商い」に関わる「仕入れ」から「販売」等までは、この「組合の中」で保障される事になり、「商い」は安定する事に成る。

その「教育と訓練と指導」を受けて頑張りに依って“「商い」”が安定すれば「利益」が出て、「利息分」は当然に支払える事に成る。
又、「教育と訓練と指導」の成績が良い場合に依っては、「融資」を放免して「暖簾分け」と云う手段で「グループ企業の伊勢屋ホールディング」を形成する一員にも成れる仕組みでもあった。

これは、「販売の商い」だけではなく、その元に成る「商品」を作る「職能集団」にも適用される仕組みであって、「販売の商い」だけが先行しても「商品」を作る職能の工程も同じように成らなければ成り立つ話では無い。
「職人を育てる」と云う事でも同じなのであった。
その「組合人」に成った彼らに“金融をするというシステム”を広く構築したのである。
その為に、江戸は「匠の町」と呼ばれる様に成った。
念の為にこの「匠の職人」の「姓名」(家紋)を調べると、「伊勢紀州の姓名や家紋」が多いのは、この「享保の時の職能集団」の所以なのである。(下記に列記)

この様に、「単なる金融業」では無く、「コンサルタントも行う金融業」で、「商業組合の組合員」として扱われ、「商い」を裏で支える「教育機関と補償機関」の役目も「伊勢屋の本店」は担っていたのである。
だから、“「土倉」「石倉」”では無く、“「質屋」”なのであって、本来は「伊勢屋が営む質屋」には先ずこの意味を成していた。

ここで、上記の事もそうであるが、もう一つこれに関連して「青木氏の歴史観」として知っておくべき重要な事がある。
前段の「達親の論」の処でも、一部を論じたが、これに繋がっている「重要な歴史観」なのである。

本来、この「質の語源」は、中国の五世紀初めに仏教寺が行った「仏事」から来ている。
その「仏事の事柄」から、“「形あるもの」”という行為の語源から発していて、その仏事行為を”「質」”と呼んだとされている。
その”「質と云う仏事行為」”が、後に大和では「物」とか「本元」とか「内容」とかに広域に広がって行った言葉である。
その元は全てこの”「形ある物」”の言葉から来ているのである。
そこで「仏教伝来」によって、「五世紀の大和」でも、この「仏事行為」が「青木氏」等の「氏族の主宰する密教」に依って行われる様に成った。

この「寺が行う密教の仏事」とは、「貧困の民」を集めてに食事を与え、職を与え、心を癒し導き、「人」として自立さる事であった。
これを「質」と「奈良期の仏教界」では呼ばれていた。
つまり、“「人」”として“「形あるもの」”に導く事、所謂、“「人」として本来あるべき姿にする事“と云う意味の事で、「人の質」を作り上げると云う事から、この「仏事行為」を「質」と呼ばれる事と成った所以なのである。

これは「密教の古代浄土の教え」であり、「仏教行為」を行うに当たり、「密教の富裕者」(福家)から「浄財」を得て続けられた「質」であった。
この「質の考え方」を「皇族賜姓族の青木氏」の「密教の教え」の中に継承されていたのである。
この「浄財」を「青木氏の達親」(「青木氏の密教浄土宗」)が行っていた。

(注釈 「青木氏」は一族から「仏教僧侶」を出し、その「青木氏の僧侶達」で「古代浄土の教え(浄土宗の原型)」を解釈して「青木氏密教論」を作り出し、一族一門を導く役目を負っていて、その「密教の仏事」の「とりまとめ役」の「達親」(一族総代)を務めるのが「福家・宗家」であった。

「青木氏の記録」では、この「質に依る仏事行為」は、鎌倉期後期まで続けられていた事が判って居て、公的に成っている仏教の「密教の達親」に依る「仏事行為の質」の記録も鎌倉期末期と成っている。
然し、「青木氏の密教」の中では「青木氏の慣習」としては生きていたが、他氏の密教では「下剋上と戦乱」にて「質の仏事行為」は衰退したと記録されている。

そもそも、依って、元来は、この”「質」”とは「金融手段」そのものを意味するものでは無く、室町期末期まではほぼ消えていた言葉の意味であった。
江戸期初期に入り、「密教」を廃止させる「顕教令」で、世間にはこの「密教の仏事行為と達親」は無く成った事に成った。
然し、「青木氏」の中では「密教」は密かに維持され、「質による仏事行為」と「達親の慣習」は維持されていた。
中でも「伊勢の二つの青木氏」の中では、取り分け、維持され「伊勢紀州域の本領域」には、この慣習が江戸末期まで敷かれていた事が判っている。

「伊勢の商業組合」の根源は、この「密教の達親」に依る”「質による仏事行為」”であったと考えている。

(注釈 前段でも論じたが、年に一度、伊勢紀州の全本領から松阪の菩提寺と福家に集まって運動会の様な大集会を行った事は判っているが、この「質の行為」によるものから「密教慣習」として維持されていたものであった。
それには、「中国の寺」が「質の仏事行為」として行った慣習の中に、記録に依れば、寺に民が大勢一度に何度も集まって慈善行為をしたと記録されているので一致している。
この荷車に積む程の「土産物」を持たすなどの事をした「松阪での大運動会」が「質に依る仏事行為の祭事」であった事に成る。)

「伊勢屋の質屋」の“「AからFの行為」“が、即ち、”「形あるもの」“にして行く「工程の行為」であって、これが「質・しち」が持つ「正しい意味の事」であって、「5世紀頃の密教浄土宗寺」が「氏の民」に行っていた「救済事業」(質と呼んでいた)から来た言葉であることは間違いは無い。

これを「商業組合」と共に「伊勢」から「江戸」にも持ち込み、「商業組合」と組み合わせた施策として江戸市中に敷いたのである。
それには、「銭屋」と「土倉」と云う既存の「金融構造」を壊さない様に考えた挙句の施策であって、故に、上記で論じた様に、異常なほどの数(2800)の「伊勢屋の質屋」が江戸市中に50年の間に急激に拡げたのである。

筆者は、ところで、店舗数は、当初は「店開き」での「2800店舗」では無かったと観ている。
つまり、「江戸の伊勢屋」そのものが、各地でこの「仏事行為の質」を開催した事から始まったと観ていて、その内に、「質効果が高い地域」から「伊勢屋の店舗」を出して行く形に変えたからこそ“「伊勢屋の質」”と呼称される様に成ったと考えられる。
各地に拡販した「伊勢屋店舗に依る質」が“「伊勢屋の質屋」”の呼称に変わったと考えられる。
「単なる仏事行為の質」と「商業組合」との「組み合わせ」の結果として「質・屋」としての表現に変わったと成る。

「伊勢の紙屋」等の「青木氏密教の質」は、奈良期から長い間の土地に根付いた「共通の慣習」として、又、「伊勢郷氏の役」として果たして来たものであって、その「質の結果」として強い“「伊勢絆」”が生まれ、「郷士衆や本領民の賛同」も得られて「商業組合」なども成す事が出来た。
然し、“「商業組合」”を押し出した“「江戸」”には根幹と成るこの“「絆」”が無かった。
「江戸の伊勢屋」との間には全く“「江戸絆」“が無かった。
異質の「江戸」に「商業組合」を敷いて「享保の改革」を成すには、“「江戸絆造り」”が必要であった。
「江戸の伊勢屋」は、先ず「仏事行為の質」の“「伊勢概念」”で「江戸の民」に合った“「江戸絆造り」”を試みようとした。
「商業組合」を通じて、上記のAからFに依る事で“「質」”を敷いて溶け込んで“「質の絆」”を試みたのである。
上記した様に、「青木氏経済論」のみならず「青木氏概念論」としても「異質の江戸の民」に於いても“「伊勢概念」”は浸透し、最早、“「伊勢概念」”は“「江戸概念」”と成り得て、難しいと観られた「享保の改革」でも“「江戸絆」”が構築されたのである。
これは“「伊勢の質」”では、「伊勢」の表は「青木氏」で、裏は「紙屋」であった。
ところが“「江戸の質」”では、「江戸」の表は「伊勢屋」で、裏は「青木氏」であった。

要するに「青木氏の位置」を逆転させていた。
これは、まさしく上記の「青木氏の氏是」にもよるが、「異質の江戸の民」には「江戸絆」としては「青木氏」は馴染まないし、馴染む所縁は「青木氏」には全く無い。
当然に、「江戸の反対勢力」は、この辺の“馴染まないし、馴染む所縁は全く無い”を信じて、“何時かは失敗するだろう”と観ていた。
これは、「青木氏」のみならず「吉宗」にも向けられていた事が反対勢力と観られる商家に記録として遺されている。
「江戸の反対勢力」は「異質の江戸」には「商業組合」は「経済論」のみならず「概念論」としても“「絆の概念」として浸透しない“と観て多寡を括っていたのである。

ところが、「反対勢力側」からすると、“「思いがけない秘策」が持ち込まれた”と云う事であったろう。
それが、「仏事行為の密教の質行為」であった事は、彼等にとっては概念外で理解外の「未知の事」であった。
既に「氏族の密教」の中であって、「姓族の顕教」には無い事でもあり、且つ、「質の慣習」としても遺されているものであれば別だが、既に鎌倉期には消えている「特定の慣習」であった。
然し、「15地域の密教の青木氏」に執っては、極めて氏の中では当たり前の「古来からの絆構築の慣習」であったが、「江戸の反対勢力」にとっては思いも依らない「発想行為」であったのだ。
唯、この事は、「伊豆と相模と武蔵の青木氏」は「氏の慣習」としては知り得ていた。
然し、「銭屋と土倉」の中での「既存経済」として発展してきていて、上記した様に参画していない立場では黙秘する以外に無かった筈である。
「伊豆と相模と武蔵の青木氏」に執ってもまさか「生活の一部」に成っているこの「仏事行為の質」までを敷いて来るとまでは思わなかった筈である。
これを敷かれた時には、「伊豆と相模と武蔵の青木氏」のみならず「江戸反対勢力」も“勝負は決まった”と考えた筈である。

この“「江戸絆造り」”は、これより進み、“「伊勢絆」”とは違った“「江戸絆」”が一挙に進み始め、1740年頃までには「江戸庶民」の間には、完全に“「江戸気質」”と云う形で“「独自の絆」”が「江戸文化」として“「江戸概念」”として確立していたのである。
約25年程で大急激に広がった事を示し、まさしく「すごい事」であって「江戸市中町方」に大賛同を如何に得ていたかが解る。
それが、この頃に詠まれた「江戸川柳」にまでにも遺されて読まれる程に成っていたし、流行語としても庶民の中に浸透した“江戸の名物 「伊勢屋の質屋」と「犬の糞」”である。

ところが、吉宗没後の1788年以降は、「江戸の伊勢屋」から離れた処で、一般が「伊勢屋を真似た金融業」を出したのだが、この上記の「意味合い」が全て削除されている「単なる質屋」(Aの土倉に誤解した)に変わって行った事が遺された資料から判っている。
その為に、「リフレーション」に必要な「経済サイクル」が無く成り、安定を崩し、「リフレーション」から「インフレーションへ」と変化して行ったのである。
これが、吉宗没後(1761年)は、「享保の改革」(1751年)の「路線の勢い」は1781年頃まで続いた。
然し、ところがこの時期から伊勢から来た「青木氏や郷士衆や一部家臣団」が伊勢紀州に引き上げ始め約7割が帰省して仕舞ったのである。

(注釈 1781年頃から1788年頃までに7割もの「改革」に携わって来た者等の民間と家臣が一斉に帰省して仕舞うと云う現象はどうみてもおかしい。
取り分け、「吉宗」が見込んだ「孫の家治」が晩年に政治を放り出し田沼に任した事に疑問が残る。
普通なら残る筈であろうし、不思議な事は「紀州藩」も「紀州改革」に成る様に正式にこれらの者の帰国後の専門職を生かした「適切な職場」を用意していた。
何かがあった筈である。)

吉宗没後、「吉宗の改革意志」を引き継いだ「家重(1760年)-家治(1786年)」と二代続いたが、取り分け、「家治」は「吉宗」に直接に経済の教育を受けた。
然し、晩年に成って「田沼意次」に政治を任せ、「株権」で出来ている「商業組合から冥加金」を取るなどして「折角の商業」を低迷させ、経済状況は更に悪化させ失政した。
結局は「意志薄弱な家治」は「改革意志」を体現しない「一橋家」より養子を迎えて「家斉」(1787-1837)に任した結果、遂には、1788年以降には「経済不況」に陥ったのである。

それは「吉宗の後」を引き継いだ「幕府」には、「享保の改革」の「商業組合の根底」にはこの「伊勢概念の伊勢絆の質」から変化した「江戸概念の江戸絆の質」が存在していた事を充分に理解できていなかったのである。(記録に遺されている。)
故に、この記録から租借すると、一見して「伊勢屋の質」の策は、「吉宗以降の為政者」には“市場に金銭を放出するだけなら「インフレーション政策」だけ“と観られていた様で、執政の田沼は「冥加金」を採って「商業組合の動き」を抑え込んだし、続けて執政の水野(1841年)はインフレに成るのは「商業組合の独占」に依る原因として「商業組合の解散」を命じたのである。

然し、「吉宗の享保の改革」では、「AからFのコンサルタント等も行う金融業」で、「商業組合の組合員」を育てて、「販売と消費」の「バランス」を重視する「リフレへション政策」であって、それを強化される結果と成っていたのが「江戸絆の構築策」であった。
然し、この事が、「商業組合方式」は、未だ、矢張り、治政の後継者には「思考外の事」であって、「能力外の事」でもあり、「理解外の経済理論」であった事から理解されていなかったのである。
当然に、この理論を見落とせば、堰を切った様に「インフレーション」に走るは必定であって、現実に間違いなく不況に陥ったのである。
享保期前の1640年から1670年頃は、「楽市楽座の組合」の株権に依る経済が幕府の脅威に成るとして「願株」に対して統制する様に動き遂には「株権の禁令」を発していたのである。
ところが、享保期は逆転して、禁止されていた「願株」(届出の民間株)に加えて、「低い冥加金」を納める「御免株」(幕府の承認株)も認めて奨励した歴史を持っていたのである。

そうして、上記の組合の禁令政策の傾向の事から、「政治の方向」は1788年以降は、幕府は「家斉」を擁して「水戸藩の影響力」(インフレ策派)に入れ替わった事が、「帰省派」が起こった最大の原因と観られる。
この事に依って、「江戸の景気」は1781年、「全国の景気」は1788年を境に急激に低下したのである。
従って、上記の疑問の答えは、「リフレーション策派」が「田沼政治」の時から一掃されると云う力が働いたと観られる。
上記した様に、この時の「紀州藩の対応」も不思議であるが、この時には未だ「吉宗の血縁を持つ藩主」であった事から、「インフレーション派」の水戸藩の一橋家が「将軍家」と成った時点で「紀州藩」は態度を明確に決めたと云う事であった。
結局、江戸執行組の者は、“「家臣の引き上げ」”の帰省を正式に実行したと云う事に成った。

この「家臣団の引き上げ」が起こる前に、「勘定方指導」の「青木氏一団」も引き上げに伴って、「江戸の伊勢屋」の一団と「郷士衆の一団」も引き上げる事と成った。
江戸に残ったとされる3割は、「吉宗の田保家と保科家の家臣」として残留した「若い末裔」であった。
又、「伊勢屋を任せた家人」としての「若い末裔」であった。
更に、「職能集団の差配頭の郷士衆」として「若い末裔」であった様である。
「江戸の伊勢屋」では、終局、「江戸末期の1840年後半」(株権に依る商業組合の禁止)に規模を縮小して、「125年間の江戸の歴史」を閉じている。(幕末1866年)

この事から考えると、「江戸の伊勢屋」の「商業組合」は「商いとしての主店」では無かった事に成る。
そうするとあくまでも、「伊勢の紙屋」が存在する限りは、“「享保の改革で江戸で日本を救った」“と云う事に成るだろう。

この様に成ると、現在の「日本銀行的な役目」以上の「政経的な事」も「民間の商家」の「伊勢の紙屋」と「青木氏の伊勢屋」と「伊勢屋の質屋」が“「幕府」に代わって果たしていた”と云う事に成る。
とすると、「青木氏の伊勢屋」を引けば、つまり“「日本銀行」”が無く成った経済は成り立たなく成るのは必定である。
それが「家斉後の幕末までの政治と経済の衰退」に繋がった事に成る。

もう少し話しを戻して、これに追随し、「京」や「難波」等もこれに見習って発展する様に成って、「1740年-1766年前後」には、遂に時期は今として、“「京の出店」の「6地域-3組」”が本格的に動いたのである。
記録を観ると、この時期から様子が変わり“「本格的出店攻勢」“に出たのである。
取り分け、「讃岐青木氏」には顕著であった。

つまり、上記の“「伊勢屋の質」”に依って“「江戸絆」”が確立した時期に動いた事に成る。
この様に、この「京の出店の時期」で観て見ると、少しずれていて享保期の1741年頃から1766年頃の出店が多い。

ここで「京の老舗名店」の由来を調べると、次ぎの様に成っている。
「6地域-3組」に関わる老舗はこの時期前半に集中している。
これは間違いなく「江戸の様子」を観ていた事に成る。
「讃岐青木氏」は、直接に「伊勢の紙屋」との「専用廻船」を借りての「江戸輸送」をしている事から、「100%の生情報」を持っていたのである。
逆に云えば、15年程度遅れている事から観ると、「江戸の反対勢力」と同じ理由で「江戸の成功」を当然とは考えられるが若干疑っていた事にも成る。

これは、「教育手段」=「商法伝授」が浸透して整い一段落して、次ぎの段階の「活用手段」(手形貸付)へと移行期に入った時期でもあった。

移行期
「教育手段」(信用貸付)=「商法伝授」→「活用手段」(手形貸付)=「商法実地」

つまり、「伊勢屋の質」が効果を発揮し始めた時期でもあった。
「組合員の教育」が整い「暖簾分け制度」も軌道に乗り始めた時期でもあった。

これは全国的な改革の波及が進み、その成果が「京」にも「難波」にも少し出始めたと観たと云う事にも成る。

因みに、江戸で「伊勢屋の質」が効果を発揮して大きく影響を受けたのが、「6地域-3組」であったが、この現象を顕著に表した「讃岐青木氏」を例にしてその影響具合を論じて観る。

唯、「讃岐青木氏の京出店」には、論じて置かねばならない不思議な事があった。

それは、「商業組合の単独の京主店」である事は前記で述べたが、「出店の商売種」が違っていた。

普通は、“「瀬戸内三白」や「瀬戸内三品」を活かしての出店”と先ずは考えるが違っている。

それは、「和菓子」等の今まで云う、所謂、「チェーン店」(商業組合の連携店)である。
(個人情報 詳細不記載)

これは“「瀬戸内三白」や「瀬戸内三品」”からは予想が着かない。

これは、“何故なのかである。“
「瀬戸内三白」や「瀬戸内三品」は上記した様に、「需要と供給の関係」からこれ以上に「商い」する事には意味が無いし無理が伴う。
何故ならば、既に、江戸期に起こった「地域別出荷」に沿って「需要>供給」に成っていた事から、「出荷出店」は「商業組合」に無理な生産を強いる事に成るである。
従って、「出店の商品種」を調べて観ると、「京出店」が「瀬戸内三白」や「瀬戸内三品」そのものでも無く、又、これを完全に生かしたものからも「京出店」されてはいないのである。

この「京出店」した“「チェーン店」(商業組合の「関連店舗の連携店」)”の「菓子本舗」の大元(老舗元 296年)に成った店舗は、何と、”瀬戸内の「海産物の加工品」(天草 寒天商品)”からであった。

そして、「老舗の年数」を追う毎に、それ(寒天)を多く使う「菓子製品」に店舗拡大が拡がった様である。

これらの店舗は、「屋号」を同じにして、その「関連店舗の連携店」を「商業組合員」(主に讃岐と安芸 伊予は一店舗)が受け持つシステムに成っていた様である。

(注釈 「関連店舗の連携店」とは、「ある品」を基にそれを使った関連する「各種の商品」を開発して連携付けて出店した店舗群の事)

確かに「同屋号」ではあるが、「扱い品」も関連はするが異なっているし、何より「関連店舗の連携店」の店主が「讃岐青木氏一族」(寒天店の最老舗296年から和菓子店舗265年)だけでは占めてはいない事である。

唯、結果としては「店舗拡大」では、「讃岐」は「安芸と伊予」の「商業組合との連携」を図ったと観られる。

そこで、もう一度この「関連店舗の連携店」(チェーン店)の個々の「扱い商品」を良く観て見ると、次ぎの様に成っている。

「瀬戸内三白」(「砂糖、綿、塩」)の「砂糖・塩」と、「瀬戸内三品」(「胡麻、大豆、煙草」)の「胡麻と豆粉」が生かされる商品と成っている。

「砂糖・塩」が基本調味料に、「米粉」を基本に「胡麻粉と豆粉」が原材料にした商品群で、これに「寒天」が「つなぎ材」と成っている。

(注釈 「寒天」を「単一商品」として「ハチミツ」や「酢」や「醤油」や「胡麻」や「きな粉」や「カツオブ粉」等の各種の調味料を塗した商品を大元店で出していて、当時として「大ヒット商品」と成った事が絵画や川柳や狂句等にまで詠まれているのである。)

そもそも、「寒天」そのものは、「トコロテン」(心太)から改良されたもので、残る記録では、京伏見の旅館で1685-1690年頃に商品化されたと一般に云われている。
然し、この説は「後付説」の商い上の「偽飾説」であろう。

それは、「天草の歴史」を調べれば違うと云う事が直ぐに判る。

そもそも、その「天草(テングサ)」は、平安期の初めころから使われていた「海草(海藻)」で「江戸の末期」までは当初は”「肥料」”に使われていたのである。

当時は、“「平安言葉」が遺る地域”、況や、“「京の文化の影響を受けた地域」”、即ち、 「瀬戸内全域」、と「紀州伊勢奈良域」では、「天草」の事を“「てぐさ」”や“「おごのり」”と呼ばれていた。
古代の三史書の「延喜式目録」にも記録されている事である。

つまり、この「平安言葉が遺る地域」が「良質の天草生息地」であったからこそ、この古い「てぐさ」や「おごのり」の言葉が遺されて来たのである。
上記の「天草-心太-寒天の経緯」の通り、“「肥料」”として土地に捲かれていた「天草」が次第に変化して「雨水と寒暖差」で「心太」(産地では“ごり”と呼称 ゲル状より固めの「植物性たんぱく質」)の様に成っていたものを工夫して「困窮時の食料」として「瀬戸内全域」、と「紀州伊勢奈良域」では一時、使われたりしていたとある。

そもそも、この「天草」は江戸期までは日本全国で、関西域では「紀州伊勢域」が、関東域では「伊豆半島域」が良質の「主要の天草生産地」で、「黒潮の流れる暖流域」が生産地であった。
ここは、云わずとも「二つの青木氏の本領地」である。

(注釈 「天草」に付いての「口伝や資料や伝説や慣習や経験や資料や商品」の宝庫で「二つの青木氏」が情報として持つ以上の氏は無い。
筆者の幼少の頃の「天草」には、「自家製の肥料」に、「自家製の天草から心太」にして食する等は珍しい事では無かった。
寒天以外にも多くの使い道は有った。
平安期から「蜜柑、柿、桃、筍等の主産地」であった事から、これらの「畑の下地」に「肥料」として理に叶っている事から昭和期まで盛んに使われていた。)

この「黒潮の流れる暖流域」の「主要の天草生産地」では、この「享保期前の50年前」から起こった“「飢饉」”にも食された事が記録や口伝で判っている。

そこで、江戸期に成ってこれを「各地の庶民」は「料理」に使える様に色々と工夫して試みたらしい。
その「試み」が良かったと観られ、各地に広がり「食」に煩い「京の庶民」にも人気に成った。

この「試み」で、“臭みも無く極めて総合的な栄養が豊富であった事”から瞬く間に好まれたが、その海産物の「天草」の「第二の生産地」の「瀬戸内の三地域」では、これを契機に紀州伊勢(肥料)に代わって「食料用の良質の生産」に着手した。
そして、「株権(願株 冥加金)」に依る「商業組合」を結成して大量生産を開始した。

この「安定した量産」を期するため「三地域」が集まった「連合の商業組合(株権)」を結成して、遂には、この「勢い」に載って1720年頃に「寒天の専門店」を「京伏見」に出した。
これが、少し遅れて「吉宗や青木氏の要請」に応じた「出店の経緯」であった様である。

つまり、「吉宗や青木氏の要請」(1716年前)から、「食料用の良質の生産」に着手し、「株」に依る「商業組合」を結成して「大量生産を開始」し、出店までに先ず4年掛かった事に成る。
そして、「関連店舗の連携店の出店」までにはそれより2年を要した事と成る。
合わせて計6年である。
唯のこれは単なる「寒天店」では無く、上記した様に「寒天」に更に工夫を加えた「寒天菓子」として出したのである。


これが大ヒット(1740年頃)したのだが、「讃岐青木氏」が先ず出資して「讃岐屋」を伏見に出した。
(合わせて計22年経過と成っている。)
この時、この栄養豊富な「寒天」を「京の有名な萬福寺」など各地の「寺の精進料理」にも使われる事に成り、この話は瞬く間に広がり「寒天の勢い」は最早、「京」だけに留まらなかった。
(ここまで計14年掛かっている。ピーク時までにはここから8年後である。)
1780年頃境には「生産地」に関しても海に面した「寒天の材料(天草)」としては、「瀬戸内摂津域」から「南関東域や東北域(生産地の三郡)」にも拡大したのである。

(注釈 ピーク時1740年から約40年後で、この関東以北への遅れた理由は「肥料」であった事に成る。)

その結果、関東でも取り分け「伊豆地方」にも良く産出して「肥料」として使用していた事から、この「京や難波」まで広がった「寒天のブーム」を観た幕府は、ここで、関西域とはやや遅れて「天草の肥料としての使用」(1780年頃)を全国的に「全面的に使用制限の令」を出したのである。

(注釈 幕府の禁令を出す位であるから、幕府は「寒天ブーム」で米に代わる「主要な食糧」と成る事に注目した。
中でも「伊豆相模域の青木氏」等が扱う「伊豆地方」は、関東では「最大の肥料生産地」であって、「肥料の商いの対象 商業組合」と成っていて「使用禁令」を出すのが遅れて1798年頃にやっと「禁令」に従った記録が遺っている。
関東向けに「畑肥料」としての出荷もあったが、地元の「蜜柑等の肥料」には欠かせなかった理由もあった。)

「京文化」や「難波の商文化」の影響を受けていた「関西以西の地域」では、早くて1725年頃からは地域ごとに「肥料使用の禁令」が出ていた。
この様に「肥料から食品の寒天」に成った事で、関東や東北部でも「原材料の産地拡大」で、「讃岐屋」は、時期を見計らい「天草肥料全面禁止令」が出された直後の1800年頃には「江戸」にも「関連店舗の連携店」の出店をしているのである。
これは「伊豆の肥料使用の禁令」が発せられた事を見計らっての「江戸出店」と成ったと普通は考えられる。
この時期は、既に「江戸の伊勢屋」と「青木氏と伊勢郷士衆」と「紀州家臣団」等は引き上げた後であった。
この時に合わせて「伊豆相模の組」と「讃岐屋の組」の青木氏が連携したのかと云う発想が生まれる。
と云うのは、「関連店舗の連携店」の「江戸出店」をするには、安定した大量の「天草」から「寒天」に仕上げた原材料が必要である。
瀬戸内からは「江戸用」に「原材料」を横取りする事は、量と距離と共に確実に無理であった筈である。
そうなると「調達先」を「一族の相模」に求める事は普通はあり得る。
年代も1年も空かずして、且つ、一度に「関連店舗の連携店」のチェーン店の出店をしている事は、関東に対して「800年の昔の怨念」を捨てて「原材料調達」で確実に談合したと観られる。
然し、この件については両者に資料がありそうで何故か見つからない。

そもそも、「瀬戸内の3地域の商業組合」は、1722年前後のこの時期を逃さず「京や摂津」に「関連店舗の連携店」(チェーン店)を「讃岐屋の同屋号」で出店して、この「チャンス」を逃さなかったのである。
その意味で関東に於いても逃す事は無いであろう。
その「勢い」は、「伊勢の紙屋」(青木氏 松阪摂津堺店の商記録)が「外国貿易」で出荷される程に成り、当時、“「100万石商品」”と呼ばれるに至っていたのである。

それにしても、1740年頃を「京出店」を成功させて、その「勢い」をピークに持ち込んでいるが、「江戸出店」が1800年とは遅すぎる。
普通なら、この“「勢い」を逃さないのが「商い」である”とするならば、戦略上は少なくとも1745年頃には「出店の段取り」が付いて「江戸出店」は果たしているだろう。
況して、1745年頃は「享保の改革」を「江戸の伊勢屋」が軌道に乗せる事に成功している。
チャンスとしてはこれほどのタイミングは無いだろう。
然し、“60年後”とはこれまた遅すぎる。

確かに、「江戸への怨念」(1)や「天草-心太の原材料」の「調達の問題」(2)もあっただろうが、それにしても“何か変で遅すぎる”と感じる。
この上記の「二つの問題」(1、2)の他に、“「肥料」と云う「地域感覚」(3)”が働いていたと観ている。

もう一つは、「執政の田沼」が、「インフレ要因」は「株権の商業組合」にあるとするとする説を採った事から圧力(4)を加えたが、この事が原因している事も考えられる。

“「肥料」と云う「地域感覚」(3)”では、関西地域は「余り拘りがない性癖」に比べて、関東地域では「肥料」は“食料に出来ない“と云う「強い庶民等の拘り」が強かったと云う事も考えられる。
だから、1788年以降「インフレーション」に入り景気が悪く成り、「肥料の天草」を改良すれば「有望な食糧(植物性タンパク質)」と成り得る事を関西域で実証している事を観て、この「拘り」を捨てさせる為に、敢えて最も遅れて「関東一の生産地の伊豆」に「制限令」では無く、“「全面禁止令」”を発したのであると考えられる。
“「全面禁止令」であると「肥料」としては使えない“と云う説破詰まった問題が起こる事を承知の上で”背に腹は代えられない“と云う「緊迫の令」であった事に成る。

(注釈 この為の解決策として、「3年間の税の軽減適用」と、「天草肥料」から「干鰯や菜種油粕」の「肥料の転換奨励」で対応していた事が書かれている。)

実は、享保から寛政期に掛けて関西以西の各地で「イナゴ大被害」が蔓延し、米の収穫が著しく低下した。
特に紀州や瀬戸内沿岸部の地域では飢饉が発生した。
そこで、「クジラ油や菜種油や魚油」の「油散布」で凌いだところ「イナゴ被害」は軽減した事が記録されている。
そして、この時の経験から、この「搾粕」を肥料として使う事にも成功して相乗効果を果たしたとある。
取り分け、この「イナゴ被害」の大きかった「瀬戸内一帯の飢饉」では、“天草を肥料から食料にする”という発想が瀬戸内ではより強く働いたと考えられる。
「瀬戸内全域」と「紀州伊勢奈良域」は、早くから「肥料も心太も寒天」も含めて重要な「商いの対象」として扱っていた事からも禁令は発せられていた。

取り分け、当時の「紀州伊勢の天草生産量」は記録にも残る様に桁が外れている。
「伊勢の紙屋」等の動きに依って「新たな殖産」として「商業組合」(天草肥料)も結成して生産量も「肥料用」としては飛躍的に増大していた。
一部では「寒天用」もあった筈で、「イナゴ被害」で「米の収穫量」が落ちて喘いでいたが、肥料としては紀州から調達出来て、代替食料としての「瀬戸内用の天草」は、、全て「寒天用」に廻しても成り立つ状況下にはあった。

実は、「伊勢の商記録」(1783年)の中に、「江戸帰りの郷士衆」の「働き先」として「伊勢海産物の殖産」が記録されている。
恐らくは、「伊勢」では以前から「肥料」として生産していたものであって、これに「伊勢の紙屋」はこの殖産に投資して「江戸帰りの彼等の受け入れ先」としても、この「天草から寒天までの殖産」の事を推し進めたが、この事を意味していると考えられる。

(注釈 「青木氏の殖産」として資本投資して商品として販売する方法を採ったが、「商業組合」にしていない。あくまでも「青木氏が興した殖産」であった。)

合わせて「紀州藩」も「江戸帰りの家臣団」を「伊勢」に廻しているのである。
この殖産の何をさせたかは判らないが、この事で下記にも論じるが、この「殖産」であったと考えられる。

(注釈 幕末にも「伊勢の紙屋」は「紀州藩の勘定方指導」を再び務め藩財政を救っている。
この時、「坂本龍馬の海援隊の商船」を間違えて沈めて仕舞った事で賠償を求められていたが、賠償する程に回復していた。)

(注釈 「萬福寺」の「隠元和尚」は、インゲン豆の名付け親 「瀬戸内の大豆」の「加工品発展の基礎」を築いた人物でもある。寒天とインゲンや大豆と組み合わせる精進料理にも使われて更にヒットした。有名な隠元和尚の名を使った事もヒットに繋がった事もある。
名付け親の隠元和尚から「寒い空に晒す天草の心太」から「寒天」と名付けたとされる説がある。)

これで、「讃岐と伊予と安芸の三商業組合」の「主材料」を安定して供給して、それを使った「加工品の関連商品」を個々に開発して「京と難波と江戸」で連携していた事に成る。
これが「6地域-3組」の「商業組合方式(株方式) 関連店舗の連携店方式」であった。
明らかに「江戸の伊勢屋」の「4地域-2組」との「商業組合方式(会員方式)」 職能集団方式」とは根本的に全く異なっている。

そこで、上記の経緯は兎も角も、“何故、「屋号」(讃岐屋)を同じにしたか”と云う疑問が起こる。

最終、先ず、「讃岐の商業組合」が背景と成って「讃岐青木氏」が「京」に動き、地盤が出来た処で「商業組合」が組合として動き、続けて「伊予と安芸」の「商業組合」が「加工品店舗」を「関連加工商品」で出店して「同屋号の連携で食品の菓子店舗」を拡大させた事が確かに判る。

(注釈 「享保の改革後」は、「冥加金」を納めた「願株」の「商業組合」であった。
参考として、 同屋号の「関連店舗の連携店」の中で、“「安芸の讃岐うどん」”もその代表の一つである。
“「讃岐うどん」”なのに「安芸の讃岐うどん」と成っているが、実は、この時の「関連店舗の連携店」に依って「讃岐屋」の組合に参加した「安芸の店」が、“讃岐産のうどん”を味付けや添え物などで「一つの加工品」として営んだ事が「京や難波」と云う「宣伝経済圏」で名が広がった事からこの様な呼称と成った典型的な代表例の所以である。)

これは1722年頃に「京」に先ず「讃岐青木氏」(寒天商品)が出店し、1740年頃からは「商業組合方式」が採用され拡大し、各地の「連携店方式」で1766年頃に最盛期と成った事に成る。
この様に「6地域-3組の商業組合」は「江戸の商業組合」とは、結局、全く異なる「商業組合方式の活用戦略」と成っている。
当然に、上記した様に「越後越前の組」は残存したが、「江戸の伊勢屋」の1781年からの「伊勢引き上げ」で、「出店目的」と「商いの目的」が違っていた事に成る。
「江戸の伊勢屋」は「青木氏の役」として「吉宗の為政」に協力した事に成る。
「吉宗の前」の「為政の失政」から国を救う為に「15地域の商業組合」を以て働いたのである。

結局は、「6地域-3組の商業方式」の「讃岐屋」と、「4地域-2組の商業方式」の「伊勢屋」の東西の特徴を活かした「二極構造」で経済を立て直した事に成るのである。

突き詰めれば、「江戸の伊勢屋」は「伊勢の紙屋」の「組合の移動」だが、「京の讃岐屋」は「讃岐の讃岐屋」の「組合の出店」であったから「組合の移動」は無かったと云う事に成る。
つまり、両組は「商業方式」と「その目的」が根本的に異なっていた事に成る。

参考 「15地域」
讃岐、伊予、安芸、尾張、駿河、伊豆、相模、越前、若狭、越後、米子、阿波、筑前、肥前、陸奥(伊勢 紀州は除く)

「京の讃岐屋」も確かに「商業組合の讃岐屋」であったが、「江戸の伊勢屋」も「商業組合の伊勢屋」で何れも「青木氏」を表に出す戦略方法では無かった事には違いは無い。
上記の様に、「江戸の伊勢屋」の金融業(AからF)は、「単なる質屋」(A)の金融業とは根本的に異なるが、裏に「青木氏」が存在する事を隠して「同屋号の支店」を拡げて「営業力」を高めたが、これには実際に次ぎの方法が採用された。

「讃岐屋」は「商業組合」の「元から店主」(構成員の出店)そのものであった事から、「店の責任」は「店主側」に元より有って「店の運営の仕方」も店主側に在った。
唯、「原材料の仕入れ」は、「組合に依る一括仕入れ方式」で運営される方式であって、「讃岐屋」として「商業組合の株権」により構成していた。
「讃岐屋」の「関連店舗の連携店」には、「暖簾分け制度の採用」や「株権の措置」については、個々の連携店の自由の裁量範囲に任される事であったが、下記に論じる「江戸の伊勢屋の質」が行った「江戸での商業組合」では、先ず「株権を有しない組合員の出店」に成った上で、それは「店員の暖簾分け出店」であった。

「伊勢から出て来た職能別の商業組合の組合員(構成員)」は、「株権を持つ構成員」であって、江戸の「質の指導」で新たに「暖簾分け制度」などで「認可された店員」が、独立して「組合員」として「構成員が作る組合」には先ず入るのだが、この「江戸の組合員」に成った者には「株権の持つ構成員の組合員」には本来成らない仕組みであった。
但し、空席の出た「限られた株権」(「親方株」)を「構成員の継承者」として取得し購入しない限りは、要するに「構成員の組合員」には成らない仕組みであった。

(注釈 「商業組合」に敷かれた「御師制度」は、「組合」を「維持し管理監督する制度」であるが、上記の江戸で「新規組合員に成る者」は、この御師の支配下で「知識や技能」を始め「慣習仕来り掟」の指導管理管轄を厳しく受ける仕組みに成っていた。)

「江戸の伊勢屋」と「質屋の伊勢屋」も同じで、この「店員」の「暖簾分け制度」に依って拡げたのである。
従って、「讃岐屋の仕組み」の「関連店舗の連携店」での拡大とは異なっていた。

(注釈 上記の「仕組み」で人材を育てた。「店員」は「暖簾分け出店」を受ける場合は、「組合員」に成った上での事で、又、新規に出店を希望し融資を受ける者である場合は、先ずは「店員」に成り「見習い経験」をして「組合」に加入する「仕組み」であった。
「見習経験-認可-組合員-出店-指導」のプロセスが要領であった。)

ここで実は、「伊勢屋の屋号」が上記した様なシステムで「2800輔」と成ってはいるが、”その内の「3割程度」に付いては疑問である”と観ていると上記したが、公的記録では、“一般が店舗詐称した“とする説にしている。
この説には合理性が欠けていて納得出来ない。
これに付いて改めて検証して観た。
そこで、先ず、”そう簡単に「店舗名詐称」が出来たのか”と云う事である。
僅か1-3%では無く、「3割もの搾取の伊勢屋の質屋」が出れば「経営の方針」の違いから「享保の改革の信用問題」にも繋がるし、江戸の伊勢屋」にしても「青木氏」にしても放置する事は絶対に出来ない筈である。
「江戸の慣習」が其処まで、「簡単に詐称を許す社会」であったのか、又、「伊勢屋の力がそれを簡単に許す程度」であったのか、「享保政治の影の力」として「布衣の役の勘定方指導の青木六兵衛」が許し得るか、「享保の改革」を進める上で「吉宗(1761年没)」はそれを許す事が出来るのか等々考えた場合、「享保の改革」の戦略上は先ずあり得ない事と判断できる。

だとすると、“これは一体何なのか”である。
そこで、最も解明のポイントに成るのは、この「暖簾分け以外」の「出店の制度」に付いてであると観ている。
そこで、更に調べたところ、次ぎの様な結論と成る。

唯、享保期後の宝暦明和後(1770年頃以降)には、「商業組合」に入らないで「一般の庶民」、つまり、「3割程度の店舗」は、「店舗名詐称」が出来ないと成れば、「暖簾分け制度」から“「外れた者」”であったかも知れないと観て調べた。
この「店舗名詐称」とするものが、“ある時期に集中して”、この「伊勢屋」の「屋号」を“正式な許可なく”使って、“「店」を持っていた事”が多く起こっていた事が判ったのである。
そこで、幾ら「店舗名詐称」としても、“3割もの詐称が一度に集中して起こるか”の問題が出る。

これには「江戸の犬の糞と伊勢屋の質屋」の有名な川柳に相当する数(上記2800店舗)のこの“「伊勢屋」”の名(1781年頃から江戸撤退)に肖ろうとする「表れ」での意味があった事は否めないが、それだけに“「伊勢屋」”は、或は、“「伊勢商人」”は「憧れの的」や「庶民の目標」にも成って居た事を示すものでもある。
確かにこれは頷けるが、唯、だからと云って、1770年から1781年の“「10年程度の間」に一度に集中するか”と云う事である。

「店舗名詐称」が起こるとすれば、江戸撤退前後の1781年以降と成る事から、次ぎの様に成る。

そこで、「3割」とすれば「約640店舗」で、10年間-「64店舗/1年」で建設したと成る。
では、「7割」の「2160店舗」は、1716年から1770年の54年間の間に、平均的に仮に建設されたとすると、54年-「40店舗/1年」で建設したと成る。

「3割」-「64店舗/1年」:「7割」-「40店舗/1年」

> この理屈は成り立たない。一般説を唱えている説はこの理屈である。
>
> そもそも最も経済力のある処で、「7割」-「40店舗/1年」でありながら、「3割」-「64店舗/1年」は「最も経済力の無く成った時期」である。
> 「3割」-「64店舗/1年」である。
> 個人にそんな“「伊勢屋以上の1.5倍」もの「経済力」はあったのか“と云う事に成る。
> 明らかに「一般説の論理」は成り立たない矛盾である。
>
> 然し、現実には集中して起こっている。では何なのか。
> とすると、一般説の「自然発生的な事」では無く、”何かの「作為的な事」で起こった”と観る事が妥当である。
>
> 先ず、第一義的に「拠点」と成った「江戸の伊勢屋の総本舗」は、「伊勢屋の呼称」が“活性化に繋がる事”である限りは、“「伊勢屋の屋号の使用」”については、考え方として作為的にはこれを拒まなかったのであろう。
> 恐らくは、この頃、つまり1770年頃から、「享保の改革」は「成功裏」に終わり、「江戸の伊勢屋の総本舗」は1781年頃から伊勢などに引き揚げ始めている事から、時間的にはこの時期頃から“「引き上げの準備」”に入っていたと観られる。
>
> そこで、「引き上げの準備」としては、先ず手掛けなければならない事は、先ずは「資産整理」である。
> つまり、「暖簾分け」の「伊勢屋」と「質屋」の整理に入る事である。
>
> つまり、この“「3割の店」“の「3割」-「64店舗/1年」(7割が譲渡)が、「「資産整理の対象」(資本引上)と成った店である。
>
> その後の事は、取り分け「伊勢屋の屋号」の使用に付いては、特に拒まず、「経営の継続」は自由にしたのではないかと考えられる。
>
> この「資産整理の対象」(資本引上)と成った「3割」-「64店舗/1年」の店に付いては、“「株権」の「有無と比率」”で判別した様である。
>
> そこで、「商業組合の構成員(親方株)の本店」は、「御免株」が定める「組合株の株権の令」に従い、店側が「7割株」を保有し、「3割株」が「伊勢屋総本舗」が所有していた事か判っている。
>
> つまり、「「資産整理の対象(資本引上)と成った店」は、「江戸での暖簾分け出店」で、上記の「質」に依って経営途中の「伊勢屋ローン支払い中の店」であった事に成る。
>
> 「7割ローン払済店」は、「3割の株権の無償譲渡」で独立した。
> 「ローン未払店」では、7割に達する「残存分の店側買い取り」で、「3割の株権の無償譲渡」をした。
> 「残存分店側買い取り」が出来なかった店は「資産整理の対象」とした。
> 但し、この「資産整理の対象とした店舗」には、「10年間の猶予期間」を与えた。
>
> 資料から読み取ると以上と成っている。
>
> これが“集中的に発生した「伊勢屋」”の「店舗名詐称」と観られたもので、「「資産整理の3割店の伊勢屋」(「3割」-「64店舗/1年」)であると考えられる。
>
> 所謂、「10年間の間の資産整理」の準備期間中に出た純然とした“「伊勢屋」”であって、全て「元々の暖簾分け制度」に依って出来た「伊勢屋」であった事に成る。
>
> 従って、上記の通りで「一般説」は全く当たらない。
>
> (注釈 この様に前段からも何度も論じて来たが、「青木氏」が関わった事で詳細部分に付いては「青木氏」自らが論じないと俗説化されていて「真実の青木氏の歴史観」はなかなか引き出せず「一般説」で終わって仕舞う事が多いが解る。
> 「青木氏に関わる事」だけでも「青木氏の歴史観」として遺したい。)
>
> その後の「10年間の猶予期間」の状況に付いては、システムとしては判っているが、経理上の事であり「伊勢の紙屋への支払い」と成るが、「松阪の大火」で焼失してこの事に付いての「直接の記録」が無い。
> その事からその後の詳細は良く判らない。
> 況や、「残存分の店側買い取り」の「ローン」は果たして済んだのかは判らない。
> 「支払済」で「組合員」に成ったかはその後の「3割の店舗」に付いては判らない。
> その後の「幕府」の「組合」に付いての対応は、禁令も含めて厳しいものであった事からも、この「3割の店舗」の事は気にかかる。
> 「佐々木氏等の由来書」によると、「近江佐々木氏」一族一門の系列が手掛けた「佐々木氏の店舗」の殆どは「寄合」に移行したらしいが、遂には「明治初期の政府の施策」で閉店に追い込まれた事が書かれている。
> この事からも、「青木氏」の「3割の店舗」も、「7割の店舗」は引き上げている事からも、頼る所も無く寄合も侭ならず難しい事に成ったと考えられる。
>
> 「伊勢-信濃」や「越前-越後」での「地元の商業組合」は、健全であった以上、「商慣習」から考えて「支払い済み」に成ったと考えたいが督促そのものが可能であったかは疑問であると観られる。
>
> 上記の記録資料は、この「3割店の事」に付いて直接に触れて書いた資料のものでは無く、「商業組合の構成」の事に付いて触れた資料から判断したものである。
> 時系列的に観て、その資料の総合的状況から割り出した結論である。
>
> そもそも、その判断根拠の一つには、前段と上記で論じた様に、「享保期前の大店」は、全てと云って良い程に「中級武士階級以上」に依る「二足の草鞋策の商い」が殆どであった。
>
> ところが、享保期後は、「江戸の商業組合の自由商法」の前提で、「市民」の「徒弟制度」から起こる“「暖簾分け」”と云う制度を作って成り立った。
> そして、次第に「市民」が上記の「質制度」に依って「商い」を覚え、「能力のある者」は「経済的力」を得て「構成員の親方株」を買い取り、「商業組合」の中でも上位の位置に来て組織を動かす様に成長したのである。
> 最早、「江戸の伊勢屋」の「地元引上期」の1781年頃には「郷氏衆>市民衆」の比率に“「逆転現象」“が起こっていたのである。
> 「郷氏衆<市民衆」の比率に成っていたのである。
>
> 確かにこの「逆転現象」が起こってはいたが、幕府の「商業組合への抑圧策」が厳しく成っていた時期でもあった。
>
> 上記の「伊勢屋の屋号」を正式に引き継いだ「7割」の中には、「暖簾分け制度」で「市民」から成った「伊勢屋」は、「全部」とはいかずとも「4割程度(/7割)以上の相当数の店」に成っていた事に成るらしい。
>
> 「江戸の商業組合」を「伊勢の範囲」で観ると、この事は「武士、つまり、郷士衆」が「二足の草鞋」で確かに「3割」(/7割)は残っていた事に成る。
>
> 然し、「7割-1960(2800)もの伊勢屋の店舗」の「元からの店舗」、つまりは、「伊勢郷士衆の店舗数(親方株の構成員)」は、「1割程度(200人)(/3割)」である筈(伊勢から江戸への第一次二次の移動団は200人と成っている。)である。
> そうすると、残りの2割(/3割)は、「郷士衆の末裔」で拡げた店舗と成る。
>
> そこで、1781年頃の「地元引上期の整理状況」から観ると、「伊勢屋の否正式店舗の3割」も加えると、「暖簾分けの正式店舗の4割」とで、「市民の伊勢屋」は結局は合わせて「7割」であったと云う事に成る。
>
> 「武士の伊勢屋」:「市民の伊勢屋」=3 : 7 であった事に成る。
>
> これは「江戸の伊勢屋」から観たと云う比ではあるが、「商いの屋号」を使わなかった「職能集団の加工」から「商品の販売」までの“「商業組合」”として観ても取り分け大きな違いの要素はなかったので同じである。
>
> 唯、「職能集団の加工部門」の「商業組合」には、厳しく「御師制度」が敷かれていた事から、元より「郷士衆配下」の「伊勢の家人」が多く、比較的に「郷士衆」が少なかった事もあるので、次ぎの様に成る。
>
> 「武士の商業組合」:「市民の商業組合」=2 : 8
>
> 結論としては以上の比と云う事に成るだろう。
>
> 「青木氏の氏是」に依って“「青木氏」が表に出ないと云う事の手段”に対して、「商業組合の対策」では、次ぎの対策を採った。
>
> “「御師制度」の「徒弟制度」”(1)と、上記した“「暖簾分け制度」”(2)
>
> 以上の「新しい制度」(「二つの組織体」)を作り上げて維持したのである。
>
> その事から、それが原因して“「庶民」からの「出店」”が多く起こった事にも成るのである。
> 当然の事乍ら、恣意的と云うか戦略的と云うかその様に仕向けたのである。
>
> 然し乍ら、この事で「江戸の経済」が活性化して「享保の改革」は進んだのであって、その意味でも「自由」を据えて「青木氏の出現」は抑えたのである。
> 上記する様に、「青木氏と吉宗」は、それまでの慣習であった「郷士衆の武士による商いの慣習」からの「市民の商いに切り換える経済社会」が必要であると考えていた。
> だから、「江戸の伊勢屋」の可成り「質制度」に依って「変革」は果たしたものの「武士の商業組合」:「市民の商業組合」=2 : 8の数式論では未だ不足であると考えていたのである。
>
> 従って、1650-1700年の享保期前の頃では、この進みつつある「商人の組合」の勢いは、先ず“「幕府の脅威」”と受け取られた。
> ”「自由」を身に着けた「町方台頭」が、遂には「町方の経済」が「武士の政治」を超える”と云う「未知の恐怖」があったと考えられる。
>
> そして、この「未知の恐怖」から、“「願株」”で「冥加金」を賦課して抑制し様とした。
> 最終の享保期前には、「会号式の組合」には「禁止令」が出された経緯があった。
>
> ところが、この「未知の恐怖」から、一転して「享保期」は、前段や上記でも論じている様に、逆に、「吉宗の幕府」は、新しい(イ)(ロ)(ハ)の「商業組合」を奨励し、「願株権式」(届出制度)に加えて「御免株権式」(認可制度)とを設けて二段階に分けて本制度化した。
>
> 上記の「一般の暖簾分け」の「市民の店舗」の多くは、この「願株」(上記の7割)であり、「構成員の親方株の店舗」は「御免株」であった。
> 「株権」に「権威」を付加させたのである。
>
> 但し、「跡目継承」で「郷士衆」等が持つ「親方株」を継承した場合は、「御免株」の「組合店舗」と成り得た。
>
> 「郷士衆の末裔」の跡目は、「御免株」の継承と成るが、「跡目末裔」に欠けた場合では、「店員の優れた者」が継承した場合は、殆どは「養子策」にて届け出て「御免株」を取得した様である。
>
> 全く関係の無い家筋からの「養子策の跡目継承」には「許可」は出なかったし、「御師制度の許可」を前提としていたので、「組合」に対しても「お披露目の式」もする等衆目が認める「優秀な者」以外には「幕府」もこの「許可」を出さなかった。
>
> 「暖簾分け制度」に依って起こる「一代限り」の「組合員の願株」に付いても「届出」に依るもので、「幕府の認可制」では無かったので余計な干渉は無かったが、これに代わって「商業組合」と「御師制度の監視」と「3割株権」を有する「江戸の伊勢屋の総宗本家」の干渉を受けていた。
>
> 何れにしても「江戸の伊勢屋の総宗本家」や「享保期の幕府」は、「御免株」では「商業組合」の累代の「世襲制」に依って「質の低下」を招く事を極力嫌ったのである。
>
> 「願株」に付いても「一代限り」ではあるが、資料から読み取ると同じく「質の低下」を嫌った様である。
>
> ところが、更に一転して享保後の1770年頃からの「執政田沼」に依って、「インフレ不況の原因」は、”「享保改革の商業組合」の「経済の独占」に在る”として「冥加金の献納策」で厳しい抑制策が採られた。
> 「執政田沼」のその根拠は、「享保期前の未知の恐怖」(経済>政治)では無かった。
>
> 恐らくは、享保期に比して「経済」が急激に低下して仕舞って、その「責任の転嫁」を「商業組合」に押し付けた上で、「冥加金」まで取ると云う「離れ業」を成し遂げたのである。
>
> 遂には、その「論調の傾向」を受けて続けて、次ぎのステップに移行させると云う政策を「執政水野の天保期」では遣って退けた。
>
> 要するに、「執政水野」は、今度はその一切の原因は「株権」にあるのだとして、「商業組合の存在」は兎も角も、「一切の株権式の商業組合」の「解散」を命じたのである。
>
> 注釈として、この様に”猫の目の様に変わる幕府”に対して、これでは「江戸の伊勢屋」(青木氏)は「江戸での存続」は不可能と成った。
> 遺された「江戸の伊勢屋」等は、取り敢えずは平安期から鎌倉に採られていた「寄合形式」で何とか逃げようとした。
>
> この「寄合形式」とは「農民の組合」として遺されていたもので、多くはこの「名義を借りると云う窮策」に出て存続を図った。
>
> 「享保の改革」の「(イ)(ロ)(ハ)の商業組合」は、この様な「禁令」の全く逆の「二つの狭間」にあって、成長した経済であったのであった。
>
> この結果として、苦しい場面に知恵を出した事により、新たに「副効果」として次ぎの様な「新しい事」が起こった。
>
> 新-1 “「店舗販売」”が起こる。
> 新-2 “「御師制度の徒弟制度」”が起こる。
> 新-3 “「暖簾分け制度」”が起こる。
> 新-4 “「関連店舗の連携店」”が起こる。
> 新-5 “「チェーンストア」”が生まれる。
> 新-6 “「バーゲンセール商法」”が起こる。
> 新-7 “「金銭を融通するシステム」”として「金融業の質屋制度」が起こる。
> 新-8 “「三貨制度」の「貨幣経済」”が進んだ。
> 新-9 “「商品の開発」”の機運が進んだ。
>
> 以上も何と歴史的に「新しいシステム」が、”「市民参加の組合」”に依って「江戸の社会」に「副効果」として始動し始めたのである。
>
> 殆ど、社会の根底には「古式概念」がまだ強い「江戸の社会」ではあったが、何と「現在の経済システム」に近づいていたのである。
> これでは活性化しない方がおかしいものと成った。
>
> 注釈として 然し、「江戸の商業組合」には、この様に留意して置く重要な「青木氏の歴史観」があるのだ。
>
> この「新しい商システム」に対して、「宝暦明和」以降から「幕末まで」の「執政の為政者」には、この「新しいシステム」が、“幕府を脅かす”とか“不況の原因”と見做されて、現実にはこれも抑圧を受けた。
>
> 「享保後の幕府」は、全ての事に直ぐには「抑圧策」が現実には採れない事から、「商業組合」を構成している「株権」に対して「解散を含む抑圧策」で規制する事に至った。
>
> ところが、この結果、「商業組合」は、注釈の通り“「寄合」”と云うやり方に換えて「知恵」を出して何としても存続を図った。
>
> そもそも、この事は「幕府」としては思いも依らない事ではあった。
> この“「寄合」”とは、平安末期から鎌倉期に用いられた組織であって、その後、室町期末期までは新たに「座」に変化して、江戸期には「株」(願株と御免株)に変化して、幕末期には、止む無く「一村郷にある農民組織」に見習って、再び「商業組合」は“「寄合」”に戻したのである。
>
> これには、実は、理由があって、「宝暦明和」後に「不況」と成った事で、その影響が、実は、皮肉にも最も「仕官の下級武士」に出て仕舞ったのである。
> これも「寄合に逃げた事」と同じく「幕府の計算違い」でもあった。
>
> 享保後の幕府が主張する「商業組合」や「株権の寡占」で経済が低下したとする主張は違っていたと云う事に成り、「間違った政治」を敷いた事がその歪が最も弱い所に出たと云う事であろう。
> 商家の中で育った「吉宗」と違って「リフレーション経済」と云う「学問的な知識」にその後の為政者は完全に不足していた事から起こった事である。
> 当時としては彼等に執っては、”止む終えない”と云えばそうであるかも知れない。
> それほどに「吉宗等の経済学の知識」が如何に高かったかを物語るものである。
>
> 「殖産」を興してそれを「システム化」して「経済」に結び付けて「藩政」が潤っていたのに、これを抑え込んで仕舞った事から、この影響を受けた「下級武士」は、「飢え」に喘いで仕舞った。
> その事から、田畑を耕し農業で産物を密かに売ると云う事で生き延びた。
>
> 「郷士の武士」も「仕官の武士」も「郷士」に真似て生きる事しか無く成り同じに成って仕舞った。
> むしろ、「殖産」を興した「郷士の方」が遥かに潤っていた事が記録されている。
>
> そして、今度は、享保期の「質流地禁止令」では、対象者が「仕官している下級武士」であった事から、幕府としては充分な対応は出来なくなっていたのである。
>
> ところが、「武士の農産物等の販売」には、各職能の「組合の壁」と云うものがあって、「自由」が利かず、結局、「農民の寄合」に入れて貰う等の事や、「農民の名義」を借りる等の事で対応した。
>
> 「幕府」のこの逆に跳ね返って来た思いも依らぬ「失政」に付いて、「藩」もただ観て見ぬ振りして黙認するのみであった。
> しかし、「紀州藩」の様に密かに裏で奨励した藩もあった位であった。
>
> この事から、「職能から販売までの商業組合」も「寄合組織」に変更して、自らも救い、地域の「下級武士や農民」らも救う事で「絆を基本とする寄合組織」に変更して生き延びた。
>
> 唯、この「寄合組織」では「発展」は望めないが「維持」は可能であった。
> それには、上記の「新-1から9までの副効果」までは幕府は潰しに掛かれなかった。
> 「新-2、3、5、7、9」は流石に「株権」を保障の前提としていた事もあって低迷した。
>
> 所謂、「新-1から9」の基本に成った幾つかの制度と組み合わせた「親商法」が、享保―宝暦―明和時代に掛けて「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」の「青木氏」が興した「商業組合」の「新しい改革商法」(1716年から1788年まで)へと繋がったのである。
>
> 仔の経緯は、「伊勢の紙屋」が「伊勢の商業組合」を興してからは明和期(1788年頃)までの「185年間の悪戦苦闘の歴史」に成る。
>
> これ等の事は、「青木氏」だけの「重要な知っておくべき青木氏の歴史観」である。
>
> 伝統シリーズ-23に続く。

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