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青木氏と守護神(神明社)-14

[No.282] Re:青木氏と守護神(神明社)-14
投稿者:福管理人 投稿日:2011/12/25(Sun) 13:25:09


「青木氏と守護神(神明社)」-14

本文
「神明大社」との関係
先ず、神明社又は神明神社は青木氏に大いに関係する事ですので、これから始めたいと思います。
「神明社」とはそもそも、「天照大神」(「豊受大御神」)を祀る神社です。
  「経緯」
「豊受大御神」(とようけのおおみかみ)」を祭祀する「豊受大神宮」は、「皇大神宮」「天照大神」の内宮(ないくう)に対して外宮(げくう)とも云います。
「皇大神宮」「天照大神」は言わずもがな国民等しく日を照らす神であり「太陽神」であり「自然神」であり後の「鬼道」の基に成ります。つまり要するに「民の心の神」であります。

祭祀する経緯由来は、「雄略天皇」が、夢の中で「天照大御神」のご託宣を受け「豊受大御神」(外宮)を「丹波」の国から、内宮にほど近い「山田の原」に迎えたとされるものです。
この真偽の程は別として「雄略天皇」の「御託宣」とは、「心の神」に対して民には「生活の神」「物造りの神」が必要であるとしての行為であったと考えられます。人はこの「2つの基神」があってこそ「人の世の生の神」でありますが、当初は「心の神」だけを祭祀する事で「人の世の生の神」としていたのです。
しかし「夢のご託宣」の「丹波国」からわざわざ祭祀の場所を伊勢国に移して「天照大神」(内宮)と共に「豊受大御神」(「外宮」)を正式に合祀して「皇祖神」として「2つの基神」を祭祀した天皇家では、その最初に伊勢国の現在地に於いて祭祀し始めました。
その祭祀したのが「大化改新」(645年)の立役者の中大兄皇子です。後の天智天皇です。そして、この「2つの神」を「皇祖神」として祭祀しました。
ところが、この」「天照大神」の「皇祖神」として長い間の遍座(90社90地域90年)からやっと伊勢神宮に遷宮したのですが、ただこのままにしては政治的に、国家戦略的に布教を進めるには問題があるとしたのです。
(参考 伊勢大社建立期は他説あり 「大伯皇女」が「泊瀬の斎宮」に籠り、674年に伊勢大社の「斎王」として入るので、最終伊勢の周囲で更に遷宮した期間と建設期間と遍座期間と天智天武の在位期間内から判断すると650年頃と成る)

その原意となったのはそれは後漢の人「阿多倍王」が率いる技能集団の帰化人等がもたらした「技能」に依っての事であります。その結果は「物造り」が盛んに成り、「民の生活の豊かさ」が増し、この「豊かさ」を享受することで国家が安定し安寧に進んだのです。それまでは前記した様に、3世紀から始まった「邪馬台国」から「大化期」までは国内での騒乱が続き、その中で100年周期の「著しい気候変動」によって飢饉が発生して民は大疲弊していたのです。其処にこの「技能」に依る「豊かさ」に依って民を安寧に導く方法がある事を「大化改新」の立役者の中大兄皇子は知ったのです。
それまでは「自然神の鬼道」(邪馬台国の卑弥呼の「占い術」)が示す様に、民は「心の神」と「五穀豊穣」が叶う様に神に信心していたのです。
然し、そうではない事を「為政者」も「民」もこの「技能から来る豊かさ」を知る事に成ります。
この事が天智天皇の悟る処と成り、丹波国に「豊受大御神」を鎮座していたのですが「天照大神」と共に祭祀する必要性に目覚めさせたのです。
「やまと王権」の応仁大王から始まる神代の時代の3代目の雄略大王を引き合いに出し「夢の御託宣」として古さを誇示し「天照大御神」に継ぐ「2つの基神」として考え方を変えた事を意味します。
そして、この「皇祖神」に「天照大御神」を加えて「伊勢大社」に内宮と外宮として合祀する事になったのです。日向高千穂の地の「天岩戸神社」から発した90社90遍座を繰り返した「皇大神宮」「天照大神」を最終伊勢の地に遷宮する事を定めますが、この際にこの「2つの基神」をも伊勢に遷宮したのです。
伊勢豊川を中心に近隣地域にこの「2つの基神」を「皇祖神」として125社の分霊を行いますが、ここで政治的に国家統一の戦略的な意味合いから、この「2つの基神」の「皇祖神」だけでは成り立たなくなったのです。
「2つの基神」とは次ぎの様に成ります。
「自然神」+「鬼道」⇒「皇祖神」=「天照大御神」+「豊受大御神」=「心の神」+「生活の神」「物造りの神」
「生活の神」「物造りの神」=「豊受大御神」=「祖先神」=「神明社」
「祖先神」=「代替神」=「皇祖神」
∴「皇祖神」=「天照大御神」+「祖先神」


それは、前記で論じて来た様に「民の声」が「豊かさ」を享受してくれる「生活の神」「物造りの神」の要求度が大きくなった事によります。
その為には天皇は急務として「大化改新」の一つとして「皇祖神」に繋がる「代替神の創設」が必要と成り、別の国策「3つの発祥源」としての「賜姓臣下」の「融合氏」の青木氏に、この「代替神」を創設させる事に成ります。そして上記の関係式の通りのその「代替神」を「皇祖神」に継ぐ「祖先神」としたのです。
その「祖先神」を祭祀する「代替社」を「神明社」としたのです。

「3つの発祥源」+「皇祖神の代替神(神明社)」=「青木氏の象徴」⇒「4つの発祥源」

この青木氏が「守護神」とする「神明社」は上記の経緯から、「豊受大御神」を主神として「生活の神」「物造りの神」として「民から信仰」を集めたのです。
この「皇祖神」の「伊勢大社」のある伊勢国に「神明の社」を創設して松阪の地に定めました。
この時、「伊勢大社」の125社と同じく近隣地域に先ず19社の神明社を建立します。
そしてそこには「皇族第4世王皇子」を配置して守護させました。
後にこの天領地の主要守護地(5地域:東山道域+東海道域)には「第4世王内」の「第6位皇子」を賜姓臣下して配置したのです。
然し、ここに至るまでには「皇大神宮」は大変な経緯と遍歴(90年-90箇所)が伴ない、最終的に天智天皇が伊勢を鎮座地として定めるには簡単ではなかったのであり、かなりの時間と複雑な経緯を要したのです。

そこで、この事に付いて「皇祖神の伊勢大社」と「祖先神の神明社」との関わりに付いて理解を深める為にも先に触れて置く事にします。
先ず、日本人に於ける「神」は悠久の歴史の中で一つであったと考えがちですが、ところがそうではないのです。
日本は、”世界に稀な「7つの融合単一民族」だ”として、その「由来や経緯」に付いて今までいろいろな角度から詳細に既に延々と論じてきました。
そこでそれらの「神の事」に付いて取り纏めますと次のように成ります。

「氏神の種類 4神」(下記に詳細説明)
0 「自然神」(しぜんしん)
 山海・草木・湖沼・岩石等の自然物や雷・風雨・地震・火などの自然 現象に宿る神とし「否特定の神」

1 「産土神」(うぶすながみ) 
その「人」の「生まれた土地の神」であり、一生来その「人」の「土神」とする「人(単独)の神」

2 「祖先神(祖霊)」(そせんしん)
「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、 自分の集合である一族一門の子孫の「守護神」であり「人と氏の重複性も持つ神」

3 「氏神」(うじがみ) 
「人の神」ではなく、「氏のみの一族一門の神」で、氏永代に守護する「氏(独善)の神」

4 「鎮守神」(ちんじゅのかみ) 
「現在住んでいる土地の守り神」であり、「土地・地域」を守る「土地・地域の神」であり、「人」は土地に吸収されるとした「土地・地域優先の神」

(注 0は1から4の基本に成る。 不特定にて独立して祭祀されている部分もあり 其の一つとして「天皇家の祭祀」はこれに当る。)

「氏の神の種類 4神の経緯」
上記の説明を前提に次ぎの経緯・背景に付いて先に論じます。
上記の”一つでは無い”と云う事のその大元は「7つの融合民族」が原因しているのです。
先ず最初にはこの「7つの民族」の「融合過程」から起る「ある程度の集団化」が起こります。
それは先ず最も血縁する一族一門の「小さい集団化」の「氏の形成」であったのです。
その「小さい集団化」の形が「氏家制度」(氏の形成)と云う形で「規則化」が起こった訳です。
その「氏の形成」が奈良期から室町期までの事として、大別すると幾つかの氏の種類が起るのですが、最初は「7つの民族」の小さい範囲で「集団化」が起ります。
それが先ずは「民族氏」Aであったのです。
次ぎにこの「民族氏」Aのある種の弊害の事由により政策的に推進して「融合氏」Bが発祥します。
要するにその「融合氏」Bの最初は青木氏であります。
更に、この「民族氏」Aと「融合氏」Bとの血縁化による「血縁氏」Cが誕生します。
次ぎにこの「融合氏同士」の血縁化による枝葉化した「枝葉氏」Dが誕生します。
これ等の支配下にあった者等が勢力を勝ち取りそれらの血縁化が起こり「姓氏」Eを構成します。
この「5つの集団化」(A~E)が当然に遺伝子的に各々の立場から来る考え方で”自らを守護し信じる神”を構築し祭祀する事に成ります。
この立場から来る「守護神」が上記(下記にも詳細記述)に示す「5つの神」であります。
これが一つに纏まらなかった経緯なのです。
ところが、この「5つの神」(0→4)は「支配する族側」の「守護神」であり、「民衆の守護神」ではなかったのです。
それは「支配される側」の民衆は「氏家制度」と言う「身分制度」の中で拘束されていた事から生まれ得なかったのです。しかしながら彼らもそれなりに「心の拠り所」としての「何がしの行動」を採ったのです。
民衆の「心の拠り所」としての「神」に対する考え方には「2つの形」があるとしています。
1つは”人は迷うものである”とする仏教の教えから来る救いの神を「心の神」としてこれを「神仏」に求めたのです。-(「心の神」)
2つは”安寧と安定はその生活の豊かさにある”として「五穀豊穣と物造りの願い」として「生活の神」を求めたのです。-(「生活の神」)
この「民衆の支え」(「心の神」+「生活の神」)は”国の安寧と安定に繋がる”として「支配する側」はこの「2つの神」の形の実現を目指したのです。
彼等の民衆は大まかには「部曲と民部」に分離され、その「部曲と民部」の「支配される側」の民衆は「殖産」と云う形で「共通項」(接点)を持ち得ていて、そこにその「共通項」(接点)の「共通の神」を求めたのです。
「共通項」(接点)=「殖産」
「支配される側」の民衆には、「守護神」」(「心の神」+「生活の神」)を単独で維持管理する勢力は当然に到底持ち得ていない訳ですから、単独では無く「支配する側」の「神」にその神を定めたのです。
中でも下記に記述する様に、「国の神」でもあり「万世一系」に通ずるとして天皇家の「皇祖神」に信心しそれを「心の神」としたのです。

(”万世一系に通ずる”は「7つの融合民族」である限りあり得ない事で全ての万民を皇祖神に結び付ける為の「政治的方便」であり、「皇祖神」=万民の「心の神」とするものであった)
そして、「皇祖神」=万民の「心の神」とする以上はその「皇祖神」に繋がる「祖先神」に対して、「共通の神」「共通項」(接点)としての「生活の神」即ち「殖産の神」を求めたのです。

「2つの基神」
「皇祖神」=万民の「心の神」
「祖先神」-「生活の神」(殖産の神)

「支配される側」の民衆は「心の神」の「皇祖神」と、「生活の神」の「祖先神」とに分離して信仰し祭祀を重ねたのです。
これが平安期までの「神の姿」であり、国民は総じてこの「2つの基神」に信心する形が出来上がったのです。
そもそも平安期末期までは、朝廷により「八色の姓制度」などで「氏規制」され制限されていた為に、初期には20からせいぜい末期80までの「氏」での構成であり、「氏毎の守護神」を作るまでには至らず、国民全ての「共通の神」は「自然神」であり、帰化人が持ち込んだ「産土神」と、「融合氏」を始めとする「在来民」の「皇祖神-祖先神」との構成に成っていたのです。
「民の共通の神」は「自然神」⇒「皇祖神-伊勢大社」

ところが鎌倉期に入り平安末期の「融合氏」の青木氏を始めとする「武家の台頭」により朝廷からの許可規制と八色等の法の規制が外れて、氏数が200に乱立し到達し、その氏は「武家の独善の守護神」を求めるに至ったのです。その結果、次ぎの様な類別される守護神の考え方が出来上がったのです。

「武家の守護神」の誕生 →「自然神」「産土神」「皇祖神」「祖先神」に変化

此処で、「支配される側」の民衆は「支配する側」の個別の独善的な「守護神」に対して無視する事が出来ず、上記した様に「2つの基神」の使い分けを試みたのです。

「自然神」→「支配される側」の民衆→「心の神」の「皇祖神」→「武家の守護神」

然し、「支配される側」の「生活の神」の信心は強く、「支配する側」の個別の独善的な「守護神」に対してはその信心は強くは生まれず、結局は旧来からの悠久の歴史を有する「皇祖神-祖先神」に対して”霊験新たか”の心を捨てる事はしなかったのです。
それは、全ての神の「共通神」の「自然神」に通ずる「神」である事、更には台頭した氏の歴史の無い「守護神」には「生活の神」までの「霊験」を主張する事は出来なかったのです。

(守護神 阿蘇大社、宗像大社、出雲大社、住吉太守、熊野大社等を背景として氏子集団が台頭して「姓氏」が乱立した)

結局は「支配される側」の民衆は「生活の神の祖」としての「皇祖神-伊勢大社」、現世の「生活の神」の「祖先神-神明社」に信心を求め続けたのです。

「生活の神」の「皇祖神-伊勢大社」⇒「祖先神-神明社」

その時代の経緯の中でも、台頭する他氏と異なり、われ等の「融合氏の青木氏」は身分の別があるにせよそこに「溝」を求めずして「4つの青木氏」を構築し、「支配する側」と「支配される側」が一体と成って民衆が求める「祖先神」を祭祀し続けたのです。(詳細下記)
その一体化は国民は皆等しく「生活の神」の「皇祖神-伊勢大社」⇒「祖先神-神明社」に求めたからであって、「3つの発祥源」としても求められた事に由来するのです。
その求めに応じて働いたのが「神明社」の「管理・建立の職能集団」や「青木氏の神職」等の前回より論じている青木氏の「部」との掛け合いであったのです。

青木氏=「2つの血縁族の青木氏」(賜姓族、特別賜姓族)+「2つの絆族の青木氏」(未勘氏族、職能族)

この行為が下記する「物造りの氏上」と成った所以なのであって「氏神様」の呼称の所以でもあるのです。

(室町期以降の書物には”「氏神様」”と呼称の字あるが、筆者は上記する「4つの青木氏」の事から平安期までは”「氏上様」”の呼称であったと考えていて、江戸期前には「御役」(御師)の呼称もある処から間違いは無いと考えています。この変化は平安期まであった「民族氏」と「融合氏」は衰退し室町期に多くの「姓氏」が発祥し、その結果、彼等の「守護神」とする「氏神」の呼称と「物造りの氏上」の呼称が重なった事から次第に間違われて行ったと考えられます。)

「二重の信心構造」
他氏の支配下にあった「部曲と民部」の民衆は、支配される「守護神」に信心する事は当然としても「皇祖神」に繋がる「祖先神」の「神明社」にも信心すると云う「二重の信心構造」を持っていたのです。
何れに重点を置いていたかは”「5つの神」の何処に所属するか”とか、「氏家制度」の中でその氏の「勢力」「環境」「身分・家柄」に依って異なっていて判定が困難ですが、大別すると筆者は「心の神」は其の「氏の守護神」に求め、「五穀豊穣や物造り」等の「生活の神」には最終的に平安期末期頃には「皇祖神-祖先神」に置いていたと考えられます。
「皇祖神」の天皇家では「自然神」から来る新嘗祭等の祭祀を司り、全国に125社の伊勢大社の分霊を置き、「祖先神」の青木氏の「神明社」(566社程度)には朝廷もこれを推進し、中でも「桓武天皇」は積極的で全国を征討する旅に「神明社」の建立を命じて行った背景があります。
平安期末期までには「式内社」として凡そ500社-600社に上る支社・分霊を置いて民衆の「生活の神」に応えています。室町期末期では「式内社」外の「氏社」として1000社、江戸末期では5000社位にも成っています。各土地の累代の守護や領主が神明社のないところや新たに村の形成で必要となった領域には「民の安寧と安定」を願って積極的にその資力で建立して行ったものです。
特には江戸期全般を通じて「他教の布教」が目立つ事もあって「神仏分離令」などを発して奨励したのです。
「伊勢信仰」と「神明信仰」を始めとして「熊野信仰」や「諏訪信仰」や「阿蘇信仰」や「出雲信仰」や「宗像信仰」や「住吉信仰」や「八坂信仰」や「八幡信仰」や「大神信仰」等多くの「大社信仰」を競わせて各地に布教を奨励したのです。(末尾の付録データ参照)

そもそも神社は其の信仰の利害を配慮して”神社は本来古いもの”として信じさせて、各地の「神明社」の由来を明確にしない傾向があり、正しいカウントがなかなか出来ない処があります。
しかし、「鳥居や社舎の建造形式」や「建設地の地形」や「古い土地の豪族」や「神紋」などから判定する事が可能であり、その判定方式からすると凡そ566社として全国的には以上の様に成ります。
(下記 素データは付録記録参照)
しかし、これには正式な支社・分霊社かどうかは判別できないし、室町期末期の以降頃に各国の豪族は「心の神」は氏の「氏神」に求められるが、「生活の神」には出来得ない事から「象徴と権威」の「祖先神の神明社」に求め、青木氏が建てるのではなく上記する様に江戸期には土地を支配する大名大豪族自らが独善的に建立すると云う現象が起こったのです。
(依って本文はこの室町末期から江戸期のものに付いては除外した)
その前兆は「氏の拡大」と「姓氏の発祥」で、その家柄、身分、由来などを誇張し搾取すると云う現象が起った事で、その影響を受けて平安末期頃から徐々にその「社寺の由来や寺社歴」に対して「搾取偏纂の横行」が起ったのです。中でも「皇祖神」125社に繋がる神明社600社が多く狙われたのです。
その原因は「平安末期の混乱」と「武家社会誕生」に依って「2つの青木氏」の勢力が一時混乱し衰退した事でその「150年程度の間隙」を狙われたのです。
青木氏のそれを阻止する勢力はこの時期には最早無くまた方針も意思も無く、むしろ黙認し放置していたのです。
青木氏に於いては「氏の存続」に対してその「利害の損傷」は余り無かったと観られるのですが、その傾向は広く主に関東域と関西より以西の地域で起りました。(付録データ参照)
その意味で「神明社の検証」はこの搾取に付いては深慮な考察が要求されるのです。
これは鎌倉幕府以降から室町期中期までは「武家の社会」となり「関東域の豪族」が勢力を拡大させた事によると観られ、武家社会の家柄身分の誇張現象の風が吹いたのですが、その影響で「民の信任」を引き付ける為に「民の生活の神」としての「神明社」を独善的に建立したと考えられます。
この傾向が調査により131社-全国比 23%にも成ります。1/4もです。無視出来ない勢いです。

では”その豪族は何氏なのか”と云う事に成りますが、「神明社」を建立すると云っても「維持管理」に対してそれだけ「財力と勢力と維持力」が必要であり、豪族と云うだけでは過去の慣習から建立は不可能であります。又、其の建設に必要とする「職能の保持」と「神職が氏に有する氏」ではなくては困難であり、「氏家制度」を確実に構築している豪族が可能と成ります。
「皇祖神」に繋がる「祖先神」の「神明社」ですし、他氏(殆どが氏神)が建立すると成ると、「青木氏」の「祖先神」の「神明社」としても矛盾が起り許可を得る事の必要性もあり、皇族や朝廷の許し無くしてはなかなか難しい筈です。勝手に進めれば「朝敵」の汚名を受ける事にも成りかねないし下手をすると衰退の道を歩む事にも成ります。
少なくとも天皇朝廷との強い繋がりを有する豪族氏である事に成ります。依ってその氏は必然的に限られます。
当然に、この領域は平安期からは北家筋の藤原秀郷一門の領域ですから、この地域の支配者としての建立に必要とする条件は藤原秀郷一門には全て備わっている事に成ります。
この様な背景がある以上はこの室町中期前、又後期に於いてもこの「神明社の建立」は間違いなく「藤原秀郷流青木氏」による建立と考えられます。(下記のデータでも証明)
藤原氏は「鎮守神」の「春日大社」であり、この関東領域に「祖先神の神明社」を建立する事が出来るのは中でも青木氏のみであります。
「特別賜姓族」であり「賜姓族」と全く同じ「家柄、身分、官位、官職」を持つ氏であるからです。
もし他氏が建立するとしても争いが起こりますし、青木氏の存在する領域に建てる事は上記の慣習に伴なう条件を備える事はなかなかに難しいと考えられます。
ただ群馬北域に付いてはこの室町期中期以前には特別賜姓族と賜姓族の青木氏の定住は少なく建立する条件が備わっていたかは疑問でありますが、隣接する国境域の建設は有り得ると考えられ確認したところ「神明社建立地」は越後、信濃、甲斐、武蔵、下野に隣接する国境の領域が殆どです。依って群馬域は可能であったのです。
この隣接する国域は全て「2つの青木氏」の領域であり、その領民は「4つの青木氏」のスクラムの所以であります。
このデータから観ても「4つの青木氏」のその「スクラムの強さ」をも証明する事が出来ます。
依って、特別賜姓族で藤原秀郷流青木氏の影響から観ると、117/566と成り、全国比21%を占めるものと成ります。仮に群馬を外したとしても、103-地域比 79%-全国比 18%も占めます。
全国の1/4の神明社を伊勢ではなく武蔵の領国に建立すると云う事は「秀郷流青木氏」は「特別賜姓族青木氏=賜姓族青木氏」の考えを以って心魂からその責務を果たそうとしていた事に成ります。

更には下記のデータから顕著に出ている事は、「/地域」でも「/全国」でも「神明社の分布比率」は特別賜姓族で「秀郷流青木氏の末裔分布」の比率に完全に沿っています。
(これは賜姓族の末裔分布比率も同じ 下記])

「神明社の分布比率」=「青木氏末裔の分布比率」
「神明社の建立地」=「青木氏の定住地」

そして武蔵国だけでも全国比10.8%強の高い比率で関東域の中心に成っています。
「秀郷流青木氏」の「第2の宗家」と呼ばれる所以がこれでも良く判ります。

本来で有れば「春日大社」の完全領域ですが、61にも成る「神明社」がある事は、「心の神」は「春日大社」にあるとしても、「生活の神」「物造りの神明社」としての特長が色濃く出ています。
藤原一門としても「神明社」に対する「心入れ」は相当なものであった事が云えます。
これは「戦略的意味合い」と云うよりは「政治的な民に対する姿勢」であった事が云えます。
「秀郷流青木氏」と「特別賜姓族」の立場を持ちながら「第2の宗家」としての立場をも揺るぎ無いものにしていた事を物語ります。
恐らくは本領にこれだけの「祖先神」の考え方を入れられては「鎮守神」の考え方が霞む事も在り得て一門から反発は本来であれば出る筈ですがむしろ積極的な姿勢とも読み取れます。
更には藤原一門の「春日大社群」の中で「秀郷流青木氏」は「2つの青木氏」側にその軸足を強く置いていた事が良く判ります。又、これだけの「神明社」がある事からもこのデータから甲斐の青木氏が「秀郷流青木氏」を頼って逃げ込んだ史実の事が良く判ります。
「春日大社群」の中では逃亡生活も躊躇する事もあると考えられますが、これだけの「青木氏の神明社」がある事が身を寄せる気に成った条件でもあったと考えられます。
又「氏家制度の青木氏」という仕来りを「秀郷流青木氏」は厳格に護っていたことを意味します。
むしろ藤原氏よりは青木氏側に軸足が掛かっていた事が伺えます。
しかし、其の中でも「第2の宗家」と呼ばれていた事は相当な一門からの信頼を受けていた事も判ります。

(Aの分布表)
建設地域   戸数   /地域   /全国
関東域  5県-103-18.2%  
茨城(常陸) 8+1    6.9  1.6
千葉(下総) 22    16.8   3.9
埼玉(武蔵) 31    23.7   5.5
東京(武蔵) 30    22.9   5.3
神奈川(相模)9+2   8.4   1.9

この傾向は次ぎの地域(Bの分布表)でも同じで一層「2つの青木氏」(皇族賜姓青木氏と特別賜姓青木氏)の結びつきを証明しています。(特別賜姓青木氏とは藤原秀郷流青木氏である)
”埼玉入間を中心に半径神奈川で円を書いた領域に青木氏が螺旋状に取り囲んでいた”と云う記述は良く証明されています。この数から観ても分布から観ても切れ間無く神明社を建立していた事が観えて来ます。
「生活の神」「物造りの神」と当時に藤原秀郷一門の戦略的な役目も充分に果たしていた事が観えます。
「祖先神」「鎮守神」の二つが混在する中で一種不思議な現象とも取れますが、これが藤原氏の「生き残りの戦略」であって ”何事にも融合する”と云う適合性をこの「融合氏」は遺伝子的に天性として持ち得ていた事が云えます。
明らかに「赴任地戦略」として”血縁子孫を赴任地に残してくる”と云う事を採用している事にこの事からも伺えます。故に源氏と異なり状況に順応して生き残れたと考えられます。
これは秀郷一門の性格を物語る大事なデータであります。
「生きる為の考え方」に付いて「2つの考え方」をしていた事に成ります。なかなか難しい事であります。
それは”人は物事に拘泥する性質を持っている”と仏教では教えていますが、この「融合氏」はそれを克服して”2つを一つにする思考原理”を造り上げていた事を意味します。
故に”不思議”と云っているのですが、その先頭に立っていてその両方を責務義務として生き抜いている特別賜姓族の秀郷流青木氏がいるのです。
どちらかと云うと、「賜姓青木氏」より難しい世の中を難しい考え方で行き抜いたと云えるのではないでしょうか。
大化前の蘇我氏の専横の為政者の蘇我氏の行き方よりは遥かに優れていて為政を担う立場に於いては数段に優れていると筆者は断じているのです。
むしろ「日本の政治史上」に於いて最も優れた為政族であったと考えます。
日本の現在の「物造りの下地」と「律令の下地」を作った「産土神」の「民族氏」の「阿多倍一門」と、それに勝るとも劣らずその2つを上手く運用した同じく「政治的な下地」を構築した「融合氏」の「藤原氏北家」がこの「日本の基礎」を造ったと考えられます。
この「縦横無尽な性格」の所以であり日本の歴史上の喜事であります。

(Bの分布表)
北陸道域 4県-104-18.4%
建設地域   戸数   /地域   /全国
新潟(越後) 55+6 58.7 10.8
富山(越中) 32+1 31.7  5.8
石川(能登) 1+1   1.9  0.0
福井(越前) 8     7.7  1.4

ここには「秀郷流青木氏」の中に「3つの青木氏」(皇族賜姓美濃青木氏と信濃青木氏と甲斐武田氏系青木氏)が逃亡した地域でもあります。
「豊臣-徳川の戦い」と「織田-武田の戦い」の「2つの戦い」に依って敗走して秀郷流青木氏を頼ったのです。中でも「越後」は平安期から朝廷の蝦夷地域の征圧の[前線基地]として力を入れていたところでもあり「神明社」の建立は政策的課題・戦略拠点として盛んであったのです。
鎌倉期-室町期に入っても秀郷一門が「鎮守府将軍」として9代に渡り「北の勢力圏」として勢力を保全する「戦略上の前線基地」でもあった事から、次ぎに論じる「東山道域」(Cの分布表)に継ぐ「神明社地域」でもあったのです。
関東域の比率(18.2%/18.4%)に勝るとも劣らず同率であります。
これは大きな意味を持っています。
越後の青木氏は「武蔵の領国」の「総宗本家」と同じくらいの力を持っていた事を意味します。
これは別の面で言えば「発言力」に起因する事に成る訳ですから”一軍の将、2頭相立たず”の例え通りもめるが必定です。然し、揉めていないのです。
現実には武蔵の青木氏は「第2の宗家」として君臨しているのです。
恐らくは、陸奥域の前線基地としての役割上、宗家の青木氏はこの越後との関係を強化していた事を物語ります。むしろ宗家の「出先機関」であったと観ているのです。
だから、「関東」と「越後」のこの2地域は賜姓族の青木氏の逃亡を助け保護したのです。
その証拠に此処越後には秀郷の遠戚族の藤原利仁流が東域よりに定住していて、少ないですが、利仁流青木氏が血縁の結果生まれているのです。山形福島の県境東域に分布しています。
これは越後を戦略上の最大重要拠点として位置付けている事を意味して、当然そうなると武蔵の宗家の青木氏も出張る事は必然です。

「神明社の分布比率」=「青木氏末裔の分布比率」
「神明社の建立地」=「青木氏の定住地」
当然に、この関係式は例外無く全国的でありますが、ここでもより上記の関係式が成り立っているのです。
(下記で詳しくデータで論じる)
「関東域」の「秀郷流青木氏」を頼って逃げ込んで保護された事のみならず、其処にも上記の「3つの武田氏系青木氏」が逃げ込んで定住した事からも、「秀郷流青木氏」の勢力が関東のみならずこの地域にも頼られるだけの力と土壌を有していた事を物語ります。
その勢力は上記の密にしてむしろ関東域を凌いでいます
それは逃亡して来た賜姓族系の青木氏の「諏訪大社」が全国的に見ても関東域を凌いでいるのです。
本来であればこの時代の慣習からはあり得ない筈なのです。
その「秀郷流青木氏」の姿勢がより「神明社の信仰」が相乗的に益々活発化したと考えられます。
其の証拠に「賜姓諏訪族青木氏」と「武田氏系諏訪族青木氏」がここに「諏訪大社」をも建立していて、全国的に観ても諏訪大社の最も多い所なのです。
それを許す「秀郷流青木氏」のその度量のある勢力が観えて来ますし、賜姓族側の「軸足の置き方」を更に証明します。戦略上危険である筈で氏家制度の中でそれを許す事が出来るのは矢張り武蔵の宗家が出張る以外にはないのではと考えられます。
つまり、全国の24の地域の指揮系統をどの様にしていたのかが問題です。
果たして、氏家制度の中で(「秀郷流青木氏」の中で)”何処の青木氏が指揮を採っていたのか”が疑問と成ります。
そもそも集団の逃亡者を保護し、他氏の守護神をも建立させる事を許す事は場合に依っては秀郷一門としても戦略上簡単に許す事は出来ない筈で、そうなると当然に武蔵入間の宗家の許可無しでは出来ない事は間違いなく、その宗家を説得していたのは”何処の秀郷流青木氏か”と云う事なのです。
果たして”入間の青木氏の宗家”なのか、”地域事の個別に指揮を得ていたのか”、はたまた”他の地域からの働きかけで指揮を得ていたのか”が疑問です。
筆者はそれには下記にも神明社のデータから論じられる様に、”「2つの青木氏」の「2つの指揮系統」が互いに連絡を取り合い秀郷宗家の指揮を得ていた”と考えているのです。

この保護の史実は、「関東域」、「北陸道域」のみならず「東海道域」、「南海道域」にもあるからであります。九州域を除いて秀郷一門のどこも例外なく青木氏の逃亡者を保護しているのです。
これは「神明社の建立」の比率にも沿っているのです。
戦略上からすれば、5地域では強いところ弱いところはある筈で受け入れは困難とも成る事は当然に起る筈です。しかし、全て受け入れているのです。
この事から考えれば、”「2つの指揮系統」が連絡をし合って指揮を受けていた”と判断出来るのです。

それは「皇族賜姓族」の地域が神明社の数の全体の1/3を占めていて、残り2/3は「秀郷流青木氏」と成ります。
この時代に「連絡の取り合う事の出来る条件」と「保護する事の条件」が兼ね備わっていなくては決して出来る事ではありません。
では ”それは何なのか”と考えれば、先ずは「第1要件」としては次ぎの様に成ります。
「第1要件」
1 「保護する事ができる武力」
2 「情報を伝達する情報網と設備」
3 「保護収用する設備と経済力」
4 場合に依っては「医療等の介護能力」
先ずは以上「4つの要件」が確保され充実されている事が必要です。

「第2要件」
次ぎは「第2要件」としてはこの時代のみに必要とする要件です。
A 当然それに対する「ケアー能力」等の「総合力」が絶対的条件として必要です。
B 又、「民衆の賛同や土豪の同意」も必要と成ります。

この第2の「2つの要件」(A、B)は下手をすると争いとも成り得る難物で、何時の世も充分に警戒する事柄です。安易には出来ない事である事は一族の悲惨を招く結果とも成ります。

では、藤原秀郷一門の青木氏が実行し得た上記する要件・条件に合致したものとは、”何なのか”-”それが「神明社」である”と云う事に成ります。
実は、当時、「神社仏閣」はその建立する目的にはもう一つの「戦略的意味」を持たしていたのです。
それは「領国の防衛上」の「前線基地」Aでもあり、「情報収集の拠点」Bでも有ったのです。

これ等は上記した様に、戦略上重要な拠点で主に「国境」に位置する「地形的に良好な位置する山岳部」を選んで建立されているのです。(室町末期と江戸期建立の大きな相違点 :平地の要衝地点)
当然、例外なく「祖先神の神明社」もその意味を強く持たしての建立であり「建立地域の地形」から観て例外はありません。これは一種の「城郭」でもあり「櫓城」で有ったのです。
この「城郭」の社には神官住職以外に必ずその神社仏閣に所属する「警護侍」を配置していたのです。
そもそも「武士」つまり「侍」は「寺の人」と書きます。”さぶろう”の寄り添うの意から”さむらい”呼ばれる様になったものであり、「社の人」も同じく「神社侍」と呼ばれていたのです。
この逃亡の受け入れの設備としての「神明社」が「皇族賜姓族側」には1/3の148と、「秀郷流青木氏側」には2/3の418があり、この設備を使う事で上記する全ての絶対的条件は備わります。
つまり、「皇族賜姓青木氏側」から「秀郷流青木氏側」にこの「連絡網」を通じて「各種の情報」Bが入り、宗家との談合により決断を夫々地域の拠点に指揮する体制が出来上がっていた事を物語ります。
この「2つの青木氏」の割合(1/3-148)がその「総合的な氏力」を示していたと考えます。
これは「政治力、軍事力」だけではなく「2足の草鞋策」や「4つの青木氏」の力の「総合力」であったと考えられます。
賜姓青木氏=148-1/3-組織力・経済力・職能力
特別賜姓族=418-2/3-政治力・軍資力・総合力
”「賜姓青木氏」に足りないものを「特別賜姓族」が補う”と云う態勢が確立していたからこそこの様なデータが出たのではないでしょうか。
こんな素晴らしいシステムを”食うか食われるか”の時代の「生き残りの手段」として使わない方がおかしい訳であり、使わないのは愚能そのものであり得ない事です。必ず使ったと考えられます。
この「2つの青木氏」がスクラムを組めば先ず打ち叶う氏は「大蔵氏」を始めとする「阿多倍一門」を除いて無かったと考えられます。
この「4つの青木氏」の弱点は「情報力とその収集能力」であり、これを破ればこのシステムは崩れるのです。
云わば人間の欠陥であります。その為には政治的にも戦略的にもその「総合力」を背景にしてそれを生かすには何よりも先ず「情報力」が優先されます。
「総合力」=「情報力」
その為にも、現実には「戦いの作戦基地」を山城から出してこの「神社仏閣」にまず移したのです。城で作戦する時は最早、非常時の篭城作戦の前兆であり、作戦展開するには城は活動や情報収集には不便なのです。
特に「4つの青木氏」に取っては互いの連絡も他の変化の情報も全ての情報は「生命線」であり「神明社」は単純な神明社だけでは無くその「組織体の要」とも成っていたのです。
(「組織体の要」のツールが必ず必要です。一種「人間の血管」に価する物が「シンジケート」と説いている)
この様に「神社仏閣」の建立の目的は「心の神」「生活の神」「物造りの神」だけでは無いのであります。
平時の時ではいざ知らず乱世であります。”使えるものは何でも工夫して使う”の精神が必要なのです。
そこで、更に考察しますと、関東域の秀郷一門の宗家を入間にして青木氏が本家分家筋を主体として螺旋状に横浜神奈川を半径として取り囲み護っていたのですが、「心の神」「生活の神」「物造りの神」にしては103は多すぎると考えられます。宗家付近の武蔵だけでも61もあるのです。
「心の神」「生活の神」「物造りの神」であるのなら”多ければ良い”と云う物ではありません。
間違いなく「戦略的な防御体制の代物」の意味があった事を物語ります。
この傾向は全ての拠点に云える事であります。

筆者が論じて来た「青木氏のシンジケート」はこの「神明社システム」が機能していた事を意味しているのです。そしてこの全国の神明社のデータから読み取れる全ての事柄を論所の一つの基礎にしているので有ります。

「皇族賜姓青木氏」では「伊勢青木氏」が5家5流を統括し、「特別賜姓族青木氏」では入間の「宗家青木氏」が116氏を総括していたと考えられます。何れも賜姓族の「青木一族」の「2極体制」であります。
特にその中間の位置にして「仲介役」として機能さしていたのが平安期より「伊勢秀郷流青木氏」(伊勢特別賜姓族青木氏)が担っていたと考えられます。
何故ならば、それは九世紀始めから秀郷の祖祖父の従4位下の宗家の「藤成」(820年頃-嵯峨天皇期)がこの伊勢の「半国国司」を務めていた事からも良く判ります。
(「桓武天皇」没年の806年頃で神明社創建は一時止まる。15年後に衰退した青木氏の建て直しに「嵯峨天皇」は「藤成」を差し向けた。)
この人事から観ても、「入間の青木氏」よりはより「特別賜姓族的な青木氏」の傾向を累代にこの「伊勢秀郷流青木氏」が持ち合わせていたと考えられ、秀郷以降は双方の賜姓族の「立ち位置のズレ」を調整していたと考えられます。
物事の進行は当事者同士だけでは成り立つものではなく、何時の世もこの調整役を演じる「仲介者」がいて成り立つものです。ましてこの様な難しい事を実行するには危険が伴ない危険が生じた時には双方が円滑に連携して対処して解決できるものであり、悠久の歴史を誇る「2つの青木氏」ならではの事で有ります。
因みに「特別賜姓族の青木氏」は関東域外に次ぎの様な戦略的な指揮を演じる根拠地を有していた事が系譜添書や主要家紋の如何で判ります。(詳細は下記)
武蔵入間を本拠地として「特別賜姓族」としては次ぎの「4つの指令基地」があった事が検証できます。

特別賜姓青木氏-34県-418-73.8%
北陸道域   4県-104-18.4%-北陸域 (Bの分布表)
東山道域   6県-105-18.6%-東北域 (Cの分布表)
東海道域   8県-154-27.2%-中部域 (Dの分布表)
移動先域  16県- 55- 9.7%-分布域 (Iの分布表)
(詳細地域は下記)

4つの各域には神明社100を超え全国比で一地域2割近い分布状況です。
1県に付き20~25の神明社を有しています。
当時の人口から観て現在の1/3~1/4程度ですから、郡制でしたから1県に4~6の郡数として一つの郡に4~6の神明社があった事に成ります。
当時としては「心の神」「生活の神」「物造りの神」の目的だけであればやや多すぎる感が否めません。
郡の大きさに依りますが、当時の人口(1/4×2万)として観れば、千人に1社の割合程度と成ります。現在の郡の構成から観て1郡に平均で4~6つの村があったと考えられ、1村には200人±50程度の人口と成ります。
この事から筆者の主観ですが、郡に対してせいぜい神明社1~2つ程度と観ますと、これに「戦略的拠点」としての目的を加えたとすると納得できる数と考えられます。
これだけの数を維持管理するには矢張り当域を指揮する青木氏が存在している筈で勢力から観て次ぎの青木氏と考えられます。

「各分布域の指揮拠点」(藤原秀郷流青木氏)
北陸道域は越後青木氏   (陸奥前線基地)
東山道域は陸奥青木氏   (鎮守府基地)
東海道域は武蔵青木氏   (宗家本拠地)

移動先域は次ぎの4域がありますが各域の事情が異なる為に次ぎの域に分けられます。
関東域は下野青木氏          (隣接国境より勢力拡大 東北の北前線基地)
中国域は讃岐籐氏の讃岐青木氏   (宗家に肩を並べる位に勢力保持)
四国域は讃岐青木氏(阿波青木氏)
北九州域は筑前青木氏         (九州域の西前線基地 後述)

[関東域]
この4域に秀郷流青木氏が定住しているのですが、室町期までの社会は氏家制度の強い社会であった事からその「勢力圏分布」から観て以上の指揮拠点である事に成ります。
この勢力は青木氏の分布する「地域の家紋分析」と「その村形成」などの「支配地の大きさ」と「ルーツ拡大の要素」と「地理・地形考纂」と「郷土史実」に依って判別したもので、家紋に関しては秀郷流青木氏の家紋群の主要家紋とその系列で判別したものです。

特記する事として「下野青木氏」は武蔵域から北に勢力を伸張した結果、ここに「下野青木氏」で勢力を固めその勢力は磐城の仙台の手前まで子孫の定住地を拡大しています。
この仙台地域は江戸初期まで戦いに明け暮れていた土地柄であってかなり難しい伸張で有った事が伺えられ、その意味での「神明社」の役割は「心の神」「生活の神」「物造りの神」のみならず戦略的意味合いは大きかったのです。
又、栃木(下野)には「賜姓族系の諏訪族青木氏系の2氏」が神奈川に落延び、更に一部は下野に移動した一族でありますが、「藤原秀郷流青木氏」の「下野青木氏」の勢力拡大に沿って「諏訪族青木氏」も合力して土地を確保したと考えられ、下野に多くの「諏訪大社」を祭祀して豪族で青木村を形成し土地の地主と成っています。
この時にこの「下野青木氏」も「神明社」を14も建立し、入間との連絡網の拠点を構築していたと考えられます。
(参考 武田氏系青木氏は皇族賜姓甲斐青木氏と武田氏と血縁して跡目継承が女系と成った事から武田氏に組み込まれた賜姓族系青木氏です)
後に「結城永嶋氏」と共に「宇都宮氏」や陸奥出自の「小山氏」や北九州から秀郷一門と血縁して移動して来た「戻り族」の秀郷一門と血縁した「佐竹氏」や豊後の「竹田氏」等も再び勢力を拡大して「関東屋形4氏」と呼ばれる位に秀郷一門は勢力を北に向けていたのです。
その意味で神明社の存立理由は他国と異なり「心の神」「生活の神」「物造りの神」の「心の拠り所の拠点」と「戦略的拠点」の2つの目的は一段と高いものであった事が覗えます。
その意味で伸張したこの地域の「人心の把握」として「心の神」「生活の神」「物造りの神」の「神明社」と、この前線基地の地域を確固たるものとする為にも「戦略的意味」も含めて28もの「神明社」を構築したと考えられます。
従ってこの勢力は江戸期に成っても衰退する事は無かったのです。
「秀郷流青木氏」は武蔵の国境を越えて上野にも伸張して「上野青木氏」として同様に14の神明社を建立しています。
何れにしてもこの「神明社」の「数」は乱世の世である限り「数」そのもの意味だけでは無くその青木氏の「勢力の大きさ」とその「権域の広さ」と「存続期間の長さ」や「存続の強さ」を意味するものなのです。

[中国、四国域]
特に中国、四国域の移動先の拠点の基地はこの中でも長期間に及び最大勢力を誇った「讃岐籐氏」の「秀郷流青木氏」であったと考えられます。
四国の東域の「阿波青木氏」は「北家藤原利仁族」が主体を占めていた事もあり、「阿波青木氏」の「剣片喰族」は秀郷一門の中でも主要家紋の一つでありますが、北域の「讃岐青木氏」(下がり藤に雁金紋の主家柄)のその勢力は東の宗家に匹敵する位に瀬戸内一帯と安芸、美作を縦に経由して中国出雲域までを支配していた「讃岐籐氏の青木氏」には及ばなかったと考えられます。
この「讃岐青木氏」は「武田氏系青木氏」の逃亡を手助けし最終高知に移住させて「土佐青木氏」の青木村を形成するまでに保護していますが、同じ青木氏が定住する阿波国は逃亡先と成っていないのです。
この「武田氏系青木氏」は「讃岐青木氏」の背景を基に「青木村」を形成するだけの勢力を保ち賜姓族の守護神の「祖先神-神明社」を建立したと考えられます。
神明社の数は1でありますが、逃亡先での「青木村形成」と「神明社1」はそれなりの勢力を保持したと云う事を意味します。戦略的意味合いではなく「生活の神」「物造りの神」としての「氏の守護神」の「祖先神」としての「神明社」であったのです。

つまり、「神明社の数の1」は「青木氏の勢力の基本単位」であり、「村を形成する力」と「土豪地主」と成り得た事の単位である事を物語っているのです。
例えば、上記した様に当時の人口から観て、神明社4(戦略拠点2含む)とすると、次ぎの様に成ります。

A 「1つの郡」程度
B 「人口-千人」程度
C 「4つの村」程度

以上の力を保持していた事と成ります。

石高にしてみればバラツキはありますが、1国を平均40~60万石、1国は4~6郡として試算すると次ぎの様に成ります。

a 1郡では7~8万石程度
b 1村で1万石強程度
c 米の石高だけでは約半分の4~5千石程度

以上と成ります。

これで本分析の基礎判断とする事が出来ます。

「青木氏の概略の勢力判断数値」
「神明社1」とは次ぎの勢力を持っている事に成ります。

イ 「郡の半分程度の支配面積」
ロ 「2つの村程度の人口」
ハ 「2万石程度の経済力」
ニ 「米石高-1万石程度の食料」
ホ 「1万石の小大名程度」(江戸時代)

ABC、abc、イロハの以上の判断基準と成ります。


[北九州域]
北九州域は「元寇の乱」以後九州全域を絶対支配していた大蔵氏との血縁を進め、肥前のここに秀郷流青木氏の拠点を置き大蔵氏との関係保全を保っていたのですが、大蔵氏は青木氏や永嶋氏や長谷川氏や進藤氏とも血縁関係を結び秀郷一門の子孫を拡げていたのです。
秀郷一門側から観ればこれを仕切ったのは護衛団として同行していた秀郷流青木氏で、一門の主要氏を仕切れるのは「第2の宗家」としての立場であります。
家柄・身分・官位官職・勢力圏・武力・賜姓族・朝廷を経由しての大蔵氏との繋がり等どれを採っても青木氏に及ぶ一門一族はありません。
特に「菊地氏」や「佐伯氏」(九州佐竹氏、九州酒井氏は元は関東から移動)等の北九州の大蔵氏系の豪族は秀郷一門と血縁し、その関係取引の中で「物資の運搬」などの往来で関東に頻繁に赴いたとする記録資料があり、現実に関東の常陸、下総にはこの4氏の子孫が定住しているのです。
関東の「菊池氏」や「佐伯氏」、「竹田氏」等、「関東屋形」の一つとも成った上記に記した「九州佐竹氏」があり、北九州の小さい秀郷一門の勢力圏の中でも夫々の領国の5つの国では下記の1の「神明社」は納得できるのです。
其の為に、平安期に秀郷宗家の赴任地として「秀郷流青木氏」が護衛役として同行した「筑前青木氏」の指揮の下で肥前から子孫拡大を図り、「神明社」を建立または維持管理できる程に勢力を得て「神明社」が建立されています。
(筑前) 1
(筑後) 1
(肥前) 1
(肥後) 1
(豊前) 1
以上の「維持の状況」と成っているのです。

この地域は、つまり当然に「秀郷流青木氏」の九州に定住した分家筋末裔の分布域でもあります。
これは「戦略的な勢力の伸張」のみならず「祖先神」を神と崇め「神明社」を祭祀する者、即ち神職神官は青木氏であるからで、本来「青木氏の独善的の社」として身内から神職神官を出す仕来りであったのです。
「祖先神」は「皇祖神」に繋がるものとして青木氏と源氏宗家の守護神だけであります。
源氏宗家筋は完全に絶え未勘氏だけと成っていますので「祖先神の神明社」は青木氏だけの守護神と成りますが、其の神職神官からも必然的に青木氏末裔が広がる事を意味します。

前記したように、”「神明社」のあるところには「青木氏」が、「青木氏」の有るところには「神明社」がある”と云う事に成るのです。
それがこれ等のデータと云う事に成ります。

その「神職神官」とその「神社侍」は拠点基地と成る青木氏から指揮し配置される事に成りますので末裔が枝葉にて広がるのです。
九州では「筑前青木氏」がその指揮と配置をしますので少なくとも九州域に於いては「筑前青木氏」の末裔であると成ります。
この末裔分布は、秀郷一門宗家筋と血縁した上記の北九州の豪族であり、肥前の「秀郷流青木氏」も同じくこれ等の豪族と血縁した事から興った青木氏であります。
これは家紋分類から観て「筑前青木氏」の室町期中期までの末裔分布によるものと考えられます。

「人心の把握」共にこの地域は「大蔵氏」の地元である事からも日本最大の「物造り拠点」でもあった事から、少ないながらも「神明社建立と維持」は他の地域と異なり絶対条件であったと考えられ、遠い関東との情報の「連絡拠点」としても重要であったと考えられます。
其の上でこの「神明社の1」の数字は他の地域の4~5の意味合いを持っていたと考えられます。
平安中期には「太宰大監」として「遠の朝廷」として「錦の御旗」を全面に「九州全域の自治」を任された大蔵氏の絶対的支配領域の中で、この5国で関東並の120~125の役割を果たしていたと考えられます。
中でも「永嶋氏」は「大蔵氏系青木氏」と「大蔵氏族肝付氏系長嶋氏」を継承し薩摩域では肝付氏を継承する程に勢力を拡大させました。

そこで問題なのは薩摩3、宮崎4の神明社です。”この地域の神明社は何を意味しているのか”と云う事です。
このデータには「皇族賜姓青木氏」と「藤原秀郷流青木氏」に直接繋がるものが歴史的に少ないのです。
実は、”少ない”と云うよりは”消えた”と云った方が正しいと観られます。
確かに、「天智天皇」から「桓武天皇」までの朝廷は北九州との関係を歴史的に大きく持ちました。
然し、それが ”「神明社」として南九州に繋がるもので有ったか”は疑問でありますが、実は九州北半分に関してはそれなりの経緯があるのです。
この経緯が南九州に繋がっているかは難しいのです。
確かに「令制後」には薩摩がこの経緯に入り込んできますが、”「神明社建立」までは関係があり得たか”は疑問です。

そもそもその経緯とは、天智天皇の「白村江の戦い」の準備として「神明社」を建立したと考えるにはそれを裏付ける朝廷の「歴史的な経緯」が必要であります。
その充分な「歴史的な経緯」とするものが次ぎの事にあるのです。
「中大兄皇子」による「大化改新」の一つとしてそれまでは第6世王までとしたものを第4世王までを皇子とする改革を行いました。その時、其の皇子の指定に関して特別の事由により第4世王として「栗隈王」を指定します。
大化期の「第4世王」のこの有名な「栗隈王」が「天智天皇」の命に基づき「守護王」として「九州筑紫国」に赴きます。
その後「令制前」はこの日向国から「北地域3国」(「筑紫国-豊国-肥国」→「筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後」)が組み込まれ、この「北地域3国」の守護王として任されております。
「令制後」は薩摩の北域も組み込まれています。
この時に「天智天皇か天武天皇」に命じられて建立している可能性が大いにあると考えられます。(その記述が下記)
日向の古い一つとされる「神明社」はこの時のものではないかと考えられます。
且つ、上記の「北地域3国」(筑前)1(筑後)1(肥前)1(肥後)1(豊前)1は「日向の神明社1」を含めて、この時の「神明社」ではないかと観ています。
「北地域3国」と「神明社分布の域」とは全く一致します。
そして、その後に上記する特別賜姓族(960-970年頃)に成った筑前の「神明族の秀郷流青木氏」がこれを引継ぎ護ったと観ているのです。

実は「栗隈王」は「大海人皇子」と「大友皇子」との争い(壬申の乱)で「大友皇子」が出した命令書の脅しに屈せず「大海人皇子」に味方した為に「天武天皇」の時世では九州で大勢力を収め末裔の一人は「筑紫氏」(武家王)として、もう一人は「三野王」として美濃と信濃粋域に子孫を拡げたのです。
この「栗隈王」は「美努王」の父で王の中でも秀でて優秀で中大兄皇子はこの歳を得た「第4世王」の「栗隈王」を主要守護王19人の中から外さず九州半域を任した程の人物で信頼していた人物なのです。
(日本書紀 6大皇子守護王と呼ばれる王)
「伊勢王」、「近江王」、「信濃王」、「甲斐王」、「美濃王」、「栗隈王」で中でも高位王として4王 「伊勢王」、「近江王」、「信濃王」、「栗隈王」が上げられている)

この「栗隈王」の末裔は古い九州出自の「筑紫氏」で有りますが、九州全域特に日向より北域の氏は何がしかの血縁を有していると考えられます。
後漢からの帰化人の阿多倍一族により7世紀から九世紀にかけてこの一族に折檻されこの血縁筋の旧来の土豪族は衰退したのですが、新しい「民族氏」にも何らかの血縁関係を持っていた事が考えられます。
九州は後漢の阿多倍等の軍勢に依って無戦征圧であった事から恐らくは在来民との婚姻関係を重ねての事ですのでその可能性は高いと考えられます。
依って10世紀初頭に「筑紫の秀郷流青木氏」に引き継がれるまでの間は朝廷の管理の下で150年程度はこれ等の血縁関係(筑紫氏等)のある豪族に依って護られていた事が考えられます。

この「栗隈王」の子供の「三野王(美努王):信濃王」は奈良期の19の神明社の一つを三野(信濃)に建立しているのです。 (三野王は橘諸兄の賜姓族橘氏の祖であります。)
「天智天皇と天武天皇」は「皇祖神」を「伊勢大社」とすると同時に、関西域から中部域にかけて19の神明社の建立をその19の守護王に命じているのですが、現実に例外的にこの19の第4世守護王に命じた「神明社の建立」の中に「筑紫」の「栗隈王」「武家王」が入っています。

参考(重複)
第4世族内の19守護王-19の神明社の建立地
伊勢王、近江王、甲斐王、山部王、石川王、高坂王、雅狭王、美濃王、・栗隅王、・三野王(信濃王)、・武家王
広瀬王、竹田王、桑田王、春日王、(難波王、宮処王、泊瀬王、弥努王)  以上19人/66国

この「栗隈王の守護国」と現在の「神明社建立地」とが一致し、「大化期の19」の「神明社建立地」の中に「栗隈王」の守護地が入っている事のこの2つの「歴史的な史実」から、当然に”「栗隈王」に九州の半域に「神明社建立」を同時に命じた”と考えるのが普通である筈です。
「天智天皇」は防人制度、九州から飛鳥までの直線広軌道の建設、煙火システムの確立、伴造制度、租庸調の見直し、戸籍制度など数多くの改革を実行していて、前記して来た様にこの一環として北端の陸奥域を含む国全体に「神明社建設」を行ったのです。
「陸奥域」には神明社建設の計画があって、「桓武天皇期」は「陸奥丹沢城」の建設と伴に征圧域に「神明社建設」を「坂上田村麻呂」に命じ、「桓武天皇」と「坂上田村麻呂」の稚友で同没年でその806年に「陸奥域の計画」は完成しています。

この「九州域」は「栗隈王」の子供の「武家王」の時代までに建設が進み、「令制後」に「日向域」まで組み込まれている事から、日本書紀の記述の「五畿七道」の完成期(天武天皇の時代に成立)の記述通り700年前後に基本的な配置(第1期期間)は終わっている事に成ります。
この間、日本列島約100年の神明社の建設期間(第1期)であった事が覗えます。

この様な史実を組み合わせて考察すると、当然に上記する信頼する「栗隈王」に”「九州域の神明社の建設」を命じた”と考えるのが普通と考えます。

「伊勢大社と神明社の関係」
そこで、”何故、神明社なのか”、”何故、伊勢大社ではないのか”、”何故、秀郷流青木氏に命じたのか”、”何故、「賜姓源氏-八幡社」ではないのか”、全国に戦略的に配置するのであれば、この様な「4つの疑問」が出てきます。そこでこの「4つの疑問」を解き検証します。
これ等の検証は下記の神明社で論じる事をより理解を深めるものと成ります。
「4つの疑問」
そもそもこの場合は、「皇祖神」の「伊勢大社」を創建するのが筋とも考えられますが、あくまでも「天皇家の守護神」として威信を鼓舞するには必要ですが、「戦略的な意味合い」を持たすという事には「伊勢大社」では抵抗があり、「皇祖神」である以上は「純然とした伊勢大社」で祭祀する必要があり、”「戦略的意味合い」が「皇祖神-伊勢大社」を汚す”と考えたと観られます。
そこで、その系列の「神明社」を「伊勢大社」125社以外の「戦略的拠点」に、”皇族賜姓族の「青木氏の祖先神」の「神明社」を設置した”と考えるのが普通では無いかと観ます。
筆者は、天皇家は「皇祖神の伊勢大社」の建立に不適当な地域の所の代わりに「祖先神」として「守護神」を造り、その「守護神」を「神明社」とし、それを「皇祖神」の系列に置き、「伊勢大社」の代わりに「神明社」を「戦略上の拠点」に配置させる政治的配慮があったと考えていて、故に「第6位皇子」を設定し臣下させ、「親衛隊の六衛府軍の指揮官」にして力を持たせ、5代の「5家5流の賜姓族」を創設して各地の「主要地」に「神明社」と共に配置した経緯と考えているのです。

(上記の記述した設問のその先鞭を付けたのが「藤成」の伊勢の松阪の「半国司」の布石であったと観ている。- 下記の第4期の最後の神明社建立時期806年で其処から神明社を建立する青木氏は衰退した為に次ぎに賜姓青木氏に代わって神明社を建立させる青木氏を発祥させなくてはならない筈で、そこで藤原氏の秀郷の祖祖父の「藤成」を嵯峨天皇はその目的の布石として先ず松阪に赴任させた。この時が820年頃赴任であり、此処に藤成の末裔を遺した。それまでは半国司は三宅氏であった。然し、青木氏に代わった賜姓源氏が神明社を建立する姿勢を採らなかった。同時に「嵯峨期の詔勅」で発祥した皇族青木氏も到底天皇の意に沿わなかった。結局、空白期間を生んでしまった。150年後のその後、秀郷の第3子(千国)にその任を与え「特別な賜姓の待遇」(賜姓族と同待遇)を採った。この特別賜姓族青木氏が960年頃に発祥させて松阪の末裔の跡目に入れた。以上の経緯となったと観る。)

そうすると、では「賜姓族青木氏創設」と「神明社の戦略的、政治的配慮」の順序は ”どちらが先なのか”の問題が生まれ、この順序の如何では「青木氏と神明社」の関係の意味するところが代わる事に成る筈です。そこを充分に吟味検証しておく必要があります。
この「2つの順序」は時代性から観て極めて短い範囲の政治的な実行課題であったのです。

前記に縷々と論じて来た様に、当然に「賜姓族の青木氏創設」が先であります。
この経緯は日本書紀等からも読み取れますが、その時間的な差は「伊勢大社の遍座遍歴」(飛鳥期-90社-90年-大化期前期)と、「19の神明社の創建」(大化期後期 670-686年頃)から観ても大化期の前期と後期の差であります。
そうすると「賜姓伊勢青木氏」は647年頃「伊勢王」-「伊勢大社の鎮座地の警護」として発祥していますので、大化期直前でありますので約40年の差があります。
ここから光仁天皇781まで5家の賜姓青木氏が発祥します。
この間に伊勢大社は90社から125社に向けて35社を建立して行きます。
(35社は遍歴経緯で記述 近隣4市2郡に存在)
同時に、「神明社」は19社から566社に向けて建立して行くのです。
(詳細は下記 賜姓青木氏は126社建立 桓武天皇は20社建立)
この時、第6位皇子を賜姓する青木氏の制度は、桓武天皇期で一時途絶えますので、桓武天皇は自らの力で神明社の建立を続けて行きます。
「桓武天皇」は「律令政治」を完成させ、結果、それまでの青木氏等の「皇親政治」は後退させて「桓武天皇」の圧迫で「5氏の青木氏」は衰退し「神明社の建設」は困難と成ったのです。
この間、代わって「律令政治」を主導して各地に「戦略的、政治的な目的」の為に「神明社」を建立し、最終、「桓武天皇」による「神明社建立策」は陸奥の「丹沢の神明社(806年)」の建立で終わります。

「祖先神-神明社の建立期間」
区別の期間         建立者        建立時期   建立数  建立時期
第1期神明社の建立期間 天智天皇      大化期初期  19社  天智天皇 政治的な期間
第2期神明社の建立期間 賜姓族青木氏   大化期後期  80社  天智天皇-天武天皇の期間
第3期神明社の建立期間 賜姓族青木氏   奈良期後期  46社  文武天皇-光仁天皇の期間
第4期神明社の建立期間 桓武天皇      平安期初期  20社  桓武天皇 戦略的な期間

・第1次の空白期間 :嵯峨天皇期-花山天皇期-賜姓源氏発祥-祖先神八幡社  809年~986年

第5期神明社の建立期間 特別賜姓族青木氏 平安期中期  90社  村上天皇-花山天皇の期間

・第2次の空白期間 :賜姓族青木氏の衰退期間 近江-美濃脱落 祖先神神明社 806年~1125年

第6期神明社の建立期間 賜姓族青木氏    平安期末期  22社  1125年頃開始-室町期中期
第7期神明社の建立期間 特別賜姓族青木氏 鎌倉期全期  15社  藤原一門の勢力低下期間
第8期神明社の建立期間 特別賜姓族青木氏 室町期前期 148社  秀郷一門の勢力挽回期間
第9期神明社の建立期間 特別賜姓族青木氏 室町期中期 165社  秀郷一門の勢力拡大期間

(注釈)
期間の設定は「2つの青木氏」に関わる「政治状況の変革期点」を区切りとした。
期間中の年数(期間年数/2)に対して守護国数の増加分を指数(全国数/増国数)を乗じてそれを全体比(126/全年数820)(418/全年数820)を乗じた数をその期間中の建立数としその時代の勢力状況を観て加減調整したもの。
つまり”「勢力状況」に応じて神明社を建てた”を前提とする。

この間に「神明社」がどの程度建立されているのかを考察しますと、その「桓武天皇」の「政治的な征討域」から割り出すと、「征討地に関わった地域」に一社建立したとして主に以北地域とすると、20社程建立している事に成ります。
これまでの「神明社」と合わせると「桓武天皇期」までは全社150社/566程度と成ります。
(781~806 35年間-20社程度)
凡そ室町期中期まで160年程度の間に27%建立されていた事に成ります。
全体の1/4程度が無建立されていたのですが、年数比で20%(160/820年)とすると27%-20%となり、政治的で戦略的な建設はハイピッチであった事が云えます。
神明社建立が国の絶対的課題であった事を物語ります。それだけに青木氏に期待していた事が良く判ります。
天皇家が「3つの発祥源」を象徴として前面に押し出し国策を推進していた事をもこの数字が物語るのです。突き詰めれば「桓武天皇」は「律令政治」を推進する上で「皇親政治の青木氏」と「3つの発祥源」が壁に成り、然し「律令政治」を推進せざるを得なかった事で衰退させてしまった青木氏に代わり止む無く自らが建立する立場に追い遣られたと云う事を示しています。
父光仁天皇の実家先や自らの親族の5家5流の「賜姓青木氏」を追い遣るのですから苦渋の選択を迫られた事に成ります。
だとしたら、”何故、母方の伊賀の「たいら族」を賜姓して青木氏を賜姓しなかったのか、苦渋ならばこの賜姓の仕方が矛盾しているのではないか”と云いたくなります。
現実に、この事で「桓武天皇」は親子・兄弟の「骨肉の争い」を起したのです。
「桓武天皇」と後の子供の「嵯峨天皇」、後の兄の「平城天皇」と「嵯峨天皇」の争いであります。
「嵯峨天皇」は「律令政治」を推進するとしても「皇親政治」の体制は残すべきとしたのです。
この時、青木氏の5家5流は「嵯峨天皇派」に付き「桓武天皇」と争う事に成ったのです。
結果、「賜姓青木氏」は「神明社」を建立出来ずに衰退します。
然し、「嵯峨天皇期」で賜姓族としての立場は安堵されますが、「嵯峨天皇」は「青木氏」の賜姓を中止し賜姓を変名して源氏とします。
此処で、青木氏を除いた「皇親政治」と「律令政治」の両立させた態勢が出来て必然的に「5家5流の賜姓青木氏」は途切れ、「青木氏の皇親政治」も後退して「神明社建立の根拠」とその「力」そのものも無く成ります。それに代わって同族の賜姓源氏が起る事に成ります。そしてここの同族の賜姓源氏に賜姓族としての「国策の推進」(神明社の建立等)を期待します。
この時、「賜姓青木氏」と「賜姓源氏」はその「生き様」「生き方」が違ってしまって、同族間の連携は無くなってしまったのです。
つまり、「3つの発祥源」と「皇祖神」に繋がる「祖先神-神明社」の「青木氏の立場」と、「荘園制」を利用した「勢力拡大」に主眼を置いた「賜姓源氏」(祖先神-八幡社)との間には歩く道が全く異なってしまったのです。
この事に依って「青木氏の神明社建立」も無くなり、「政治的-戦略的」な国策の「神明社の建立」は空白期間を発生させてしまったのです。
つまり、「桓武天皇」は「自らの責任での矛盾」は含むが「苦渋の選択」の上でも「神明社の建立」は推進させたのですが、これに対して「嵯峨天皇期」は「皇親政治」に戻しはしたが、「賜姓源氏」にはこの国策に充分な理解を得られずに「皮肉な現象」を起してしまた事に成ります。
「賜姓青木氏」の「祖先神-神明社」は「生活の神」「物造りの神」であり、「賜姓源氏」は「祖先神-八幡社」は「弓矢の神」であります。必然的にその「氏の発祥源」が異なってしまったのです。


大化の「天智天皇の国策の真意」、つまり「豊受大御神(とようけのおおみかみ)」を祭祀する「豊受大神宮」は「生活の神」であり「物造りの神」であり、つまりは、 ”人に豊かさを授ける神”であります。
「賜姓青木氏」の「祖先神-神明社」は、この「国策」の「本来の真意」を守り通したのです。
故に「桓武天皇」も「律令国家の完成推進」であったが、敢えてこの「皇祖神」の「国策の真意」を押し通す義務を果たしたのです。
確かに矛盾を青木氏に露出したが、筋が通っていて「合理的な判断」をした事を意味します。
青木氏に執っては「苦渋の選択」であって賜姓族としての本来の立場に大きな矛盾を含んだ事でものであった事が云えます。
それは「律令国家の完成と推進」は母方の「伊賀のたいら族」の如何に拘っていたからです。
なぜならば「立案と推進」を担う官僚の6割は彼等の一族一門郎党で構成されており、軍事は彼等の一門の宗家「坂上田村麻呂」が荷っていたのです。父方の青木氏は「六衛府軍」の「天皇親衛軍隊」であります。軍事的に圧力を掛けるにしてもこの勢力バランスでは太刀打ち出来ません。
これでは「国策の推進」を進める以上は、「桓武天皇」は、”好む好まない”にしてもこの路線を執るしかありません。だとしたら、勢いから「たいら族」が祭祀する「産土神」と成るかもしれませんが、其処は「皇祖神」を貫く意志が固かったのです。
「皇祖神」は「祖先神」でありますから、「神明社の建立」は敢えて譲らなかったのです。
だからこの厳しい辛い政治的環境の中で”筋を通した”と云えるのです。
この時の「賜姓青木氏」は「大事の中の小事」であった事に成ります。
我々末裔としては”納得すべき遠戚天皇の「桓武天皇」である”と考えるべきです。
(既に126社程度が賜姓青木氏5家5流で建立していた。下記で詳細を論じる)

実は後世の累代の天皇家はこの事(神明社国策推進)を忘れていなかったのです。
それは、結論から先に云いますと、最も大事な要点の”「特別賜姓族青木氏」の発祥経緯”なのです。
そして、”「祖先神-賜姓源氏-八幡社」は何もしなかった” ”その立場の責任を果たさなかった”のです。
(正しくは、「祖先神-賜姓源氏-八幡社」は「皇祖神-祖先神-賜姓源氏-八幡社(八幡神)」と成る。)

次ぎの「嵯峨天皇」(809年~823年)は抗争の上に再び「皇親政治」に戻し、賜姓を「青木氏」から「源氏」に変名します。(前記で論じた)これより花山天皇(984~986年)まで11代-177年間の「賜姓源氏」が発祥します。
(但し、その後の宇多天皇[887~897]は「滋賀佐々木氏」を賜姓した。「佐々木氏」は天智天皇が伊勢青木氏を賜姓したが、「第7位皇子の川島皇子」に対しても特別に地名から賜姓した「賜姓近江佐々木氏」がある)

ここで上記の「4つの疑問」の”「源氏-八幡社」がどの様に動いたのか”です。(既に先に結論は述べた)
と云うのは、”「特別賜姓族の青木氏」が「賜姓青木氏」に代わって「神明社建立」に入った”のは早くて「円融天皇期」、遅くても「花山天皇期」からであります。
つまり。この177年間は「神明社の空白期間」なのです。
従って、「賜姓青木氏」は衰退し、賜姓は「源氏」に成りましたので、この「神明社の建立」の「政治的、戦略的な国策」は引き続き「賜姓源氏」が「花山天皇期」までの間、つまり「特別賜姓族青木氏」が誕生する同時期まで果たして続けたのか”と云う事なのです。結論は前にも述べた様に果たさなかったのです。
当然に、この場合は「祖先神の神明社」ではありません。「祖先神の八幡社」に成ります。

何度も云いますが、そもそも「皇族賜姓族」でありながら「賜姓源氏」はその立場を護らなかったのです。
「祖先神-神明社」は「生活の神」「物造りの神」-「豊受大御神 豊受大神宮」「3つの発祥源」
「祖先神-八幡社」は「弓矢の神」「戦いの神」

「皇祖神」の「祖先神」を祭祀する系列神でありながら、文頭の「伊勢大社」の守護神 「皇大神宮 天照大神」(「心の神」)と「豊受大御神 豊受大神宮」({生活の神])を積極的に祭祀する立場を採らなかったのです。

(参考: 八幡宮の主神:全国の武士から「武運の神」[武神]「弓矢八幡」として崇拝され「誉田別命」[ほんだわけのみこと]-「応神天皇」と呼ばれた。別名では後に「八幡大菩薩」とも呼ばれた。大分県宇佐市と滋賀県大津市の宇佐八幡宮があるが大分を総社とする説がある。)

「賜姓源氏」とりわけ「清和源氏の時代」には時代の荒波に翻弄され、その「立場と責任」を果たそうとはしなかった事をこの祭祀する「神」でも異なっている事が判ります。
又、「弓矢の神」「戦いの神」では「政治的、戦略的な国策」としては天皇と民は納得しませんし国策としては成り立ちません。まして、「弓矢の神」は「侍の神」であり「民の神」ではありません。
「弓矢の神」「侍の神」では「生活の神」「物造りの神」強いては到底「心の神」には成らず「自然神」に基づく「心の拠り所」とは成り得ません。4つの神は本来は自然神に基づいているのですが賜姓源氏はこの自然神に基づいていないのです。、「弓矢の神」「侍の神」は到底「自然神」に基づくものではないのです。
皇族であり賜姓族でありながら「稀有な現象」が起ってしまったのです。
当然にこの事からもとより「皇祖神の祖先神」に基づく立場には完全に成り得ていません。

その稀有な現象が11代も続いたと云う事は政治そのものに直し押し切れない長い期間の状態が続いていた事を物語っています。天智天皇からの賜姓のあるべき姿を学んでいた累代の天皇の心には本来あるべき姿に戻せない遣り切れない空虚な空間が生まれてしまったのです。それが朝廷内の乱れの原因とも成って行ったのです。(第1次と第2次の空白期間の発生)
そもそも、「村上天皇」から「円融天皇」までには賜姓源氏は発祥しています。
しかし、この期間には「賜姓源氏」を差し置いて「藤原秀郷一門」に対して「特別賜姓青木氏」を「嵯峨天皇期の詔勅」に基づき「母方族」として敢えて重複して再び発祥させています。
「賜姓源氏」がその責任を果たしていれば、何も「特別賜姓青木氏」を177年後に再び持ち出して賜姓する必要は無い筈です。
それも「3大源氏」と云われた「嵯峨源氏(809~823)、清和源氏(858~876) 村上源氏(946~967)」の「村上源氏」の時代にです。(村上源氏は伊勢北畠氏 後に信長に滅ぼされる)

そもそもこの賜姓に付いて矛盾しています。
本来、皇族の賜姓は「3つの発祥源」の象徴として、「皇祖神」の「祖先神-神明社」-「生活の神」「物造りの神」として、「政治的、戦略的な国策」として「第6位皇子」を賜姓して臣下させて働かせようとしているのですから、”その役目を全く自覚せずに「弓矢の神」を吹聴して果たそうとしていない「源氏」を11代も何故賜姓するのか”大いなる矛盾行為です。
これは天皇側にも問題があります。

資料から拾い出すと次ぎの様な事が浮かんで来ます。

1 何時か護る賜姓族が出る「期待感」があった。
2 天皇に「観る目」が無かった無能であった。
3 仕方無しに「惰性」で賜姓してしまい続けた。
4 政治的に「負担軽減」に主眼を置いた。
5 渋り続けたが慣習に押された。
6 自らの「身の安全」を守ろうと臣下させた。
7 「弓矢の神」の必要性を感じた。
8 「神明社の必要性」を感化されなかった。
9 「源氏の武力」を恐れた。
10「たいら族台頭」のバランスを取ろうとした。

明確に記述しているものはありませんが言葉端や文脈から以上の事が読み取れます。
この内容を分析すると時系列的に2つに先ず分類出来ます。
1~5と6~10です。
清和天皇前までは1~5で11代のほぼ中間位から様子が変わってきます。
この前後から天皇は賜姓を渋り始めます。「時代性」も「事件性」が出て変化しています。
「桓武天皇のたいら族台頭」と「荘園制の行き過ぎ」の「政治課題」が大きく左右していると考えられます。
これは1~5に大きく政治的に影響を与えたと考えられます。

「神明社の空白期間」+「賜姓源氏」⇔「桓武天皇のたいら族台頭」と「荘園制の行き過ぎ」

確かに、「清和天皇」の前後頃から天皇は「源氏の賜姓」に対して賜姓する事を渋っていたのです。
特に11代の中でも最も後にこの役目を果たさなかった異端児族の源氏は「清和源氏」であったのです。
そして賜姓に対して顕著に出たその一連の事件が起こります。
それが「平将門の乱」とそれを終焉させた「藤原秀郷」とその子の「特別賜姓青木氏の誕生」へと繋がって行くのです。(前論で記述) それが再度、「神明社建立」に繋がって行きます。
この間「たいら族台頭」は一方で進みます。しかしこの「渦の流れ」の最後には「源平」の真に「ビッグバーン」が起るのです。
しかし、何と不思議に再度起った「神明社建立」はこのビッグバーンに影響しなかったのです。

その「清和源氏」の賜姓には「清和天皇」の孫の第3世族の第6位皇子「経基王」にはその行状の悪さ(前記した平の将門の乱の経緯)からも躊躇して賜姓をしなかったのです。
やっと賜姓したと思ったら、「経基王」の子「満仲」は全国の武士に対して「荘園制」(前記の論)を利用して「荘園名義主」と成り勢力を高め、由緒ある名家名籍の源氏の「名義貸し制度」を無秩序に拡大利用して多くの「未勘氏族」を作り上げ「源氏武士団」を構築してしまったのです。(たいら族に対抗する為に)
さすが「満仲」は”天皇家と皇族の印象を汚す”として本来なら賜姓族である為に前記した「冠位の制」や「有品の制」などの「4つの規定の官位官職」(前回で論じた)は与えられず天皇から疎んじられます。

(再注釈:前記した様に、各豪族が開発し、或いは奪い取った荘園を護る為に皇位名籍の氏名を借りて「名義上の荘園主」に成って貰い、それに見合う代償を支払い荘園を護るシステムで、その為に今度は「名義荘園主」は「名籍氏」を名乗ることを許し、「無血縁の名籍氏」を作る方式で、”いざ戦い”と成った時は”馳せ参じる”と云う契約です。中には大荘園の場合は「遠縁の娘」を何処からか探し出して、或いは作り出して間接的な遠戚を作り出す事もあった。これを「未勘氏族」と呼ばれるもので「源氏姓」や「平家姓」や「藤原姓」等を名乗る氏の95%族がこの族に部類するのです。
その「未勘氏族」の系譜を観ると、その一手法は、その「名義荘園主」の系譜のある代の処に一人架空の名籍人物を作り、その架空の人物から自らの氏の末裔が拡がった様に系譜を繋ぐ方式です。この偏纂は概ね「3つのパターン」に分類されます。)

この注釈の行状を”天皇家と皇族の印象を汚す”とし、”第6位皇子の賜姓の源氏が何処まで本当の源氏か判らなくなっている事を憂いた”のです。
当然、”同じ対比する氏が無ければ左程の憂いでは無かった”と考えられますが、厳然と「賜姓青木氏」と「特別賜姓青木氏」が「3つの発祥源」「祖先神-神明社」のその象徴としての「立場と役目」を全うしているのですから、累代の天皇は無関心ではいられないのが普通です。
これが前記した「一条天皇」から「後三条天皇」-「白河天皇」-「堀河天皇」-「鳥羽天皇」(院政含む)の累代天皇政治の「粛清政治」(「荘園性の行き過ぎ論)と成って行ったのです。

(結論はビッグバーンで「源平の問題」は解決したが、もう一つの「荘園制の行き過ぎの問題」は上記した累代粛清を実行した天皇6人が命を賭けて解決に取り組んだのです。残ったのは室町中期までの何と無傷の「神明社建立」だったのです。)

この「源氏行状」(下記のデータで論ずる)は止まらず、次ぎは3代目の三男の頼信は嫡男頼光の援護を受けて関東を支配下に攻め込んで獲得する有り様で、祖父の思惑を実行して国策の真逆の行動を採ったのです。
(援護の宗家頼光側にも問題は無かった訳ではない。)
そして、分家頼信4代目の義家では陸奥を攻めて獲得した事はしたのですが、遂に天皇は痺れを切らし「白河天皇」から「鳥羽天皇」まで完全に疎んじられて全ての彼の行為は「禁じ行為」の「私闘」と決め付けられ排除されます。
義家と頼信系清和源氏は一挙に衰退して行き、頼朝で5年間程度持ち直しますが共倒れで11代の源氏は完全に滅亡してし仕舞います。(義経-頼朝の争いはこの路線争いであった)
(この事は前記で一条天皇から鳥羽天皇の処で「国難」で論じた)

しかし、一応は調べる事として、そこで「177年間の空白期間」(第1次空白期間)の「祖先神の八幡社」の建立状態を調べる必要が出てきます。但し、”「戦略的、政治的目的」の為に”であります。

確かに「嵯峨天皇期」(809~823年)から再び「皇族賜姓族青木氏」は次第に回復する期間に入りますが、未だ「皇族賜姓族」は衰退して「神明社」を建立する勢力は無かったのです。
しかし、父桓武天皇に依って「賜姓青木氏」が衰退させられたのであれば、桓武天皇の様に”自らが神明社の建立者と成っては良いではないか”と云う疑問が当然出て来ます。
確かに、筆者は「2足の草鞋策」(1125年頃)を「賜姓青木氏」が採り始めた時期までその勢力は無かったと観ています。衰退した事も「2足の草鞋策」を採ったのですが、経済的な問題だけではなく源平の間にあって採り難い事情も考えられます。
そうすると「特別賜姓族青木氏」が「神明社建立」を始めた時期(970年±10前後)までの「160年間の空白期間」(第2次空白期間)があります。
もしこの「2つの空白期間」に「源氏-八幡社」が神明社に代わって”「戦略的、政治的目的」の為”に建立していたとするならば、この「2つの空白期間」は解消する事に成ります。(しかし無かったのです。)
その時の「4つの経緯」を下記にします。

「4つの経緯」
「180年間の空白期間」(第1次空白期間) 809年~986年 11代の賜姓源氏の時代 
「225年間の重複期間」(第1次重複期間) 970年~1195年 特別賜姓族青木氏の誕生
「160年間の空白期間」(第2次空白期間) 970年~1125年 2つの青木氏の不連携 
「70年間の空白期間」 (第2次重複期間) 1125年~1195年 賜姓青木氏と賜姓源氏

つまり、「源氏11代目花山天皇在位末」986年と「特別賜姓族青木氏の誕生期」970±10年がほぼ一致するからです。
残った「清和源氏」の頼朝没までの1195年に対して1125年の70年間 賜姓青木氏の重複期間、と970年の225年間 「特別賜姓青木氏」の重複期間がどの様に成るかが決ります。

しかし、この様に「桓武天皇」による「律令国家」と共に「国の征討」が進み「5家5流の賜姓青木氏」だけではこの「国家戦略」の「神明社建立」は維持する事が叶わ無くなった事も史実です。
更に推し進め様とした「村上天皇期」(946~967年頃)には、そこで勲功の高かった「北家藤原秀郷」にその「第3子」を「特別賜姓族」に任じて、「賜姓青木氏」と全くの同格の扱いである身分、家柄、勲功、官職、官位、叙勲を与えて「嵯峨期の詔勅」を使って「特別賜姓族青木氏」としたのです。
その「由来の根拠」を「母方同族氏」として「賜姓血縁族」である事を前提に引き上げたのです。
この時に特記すべき事は、「青木氏の子孫存続・維持の方策」として天皇は、秀郷に、”「秀郷宗家より第3子を以って「青木氏の跡目入れ」とする”とわざわざ命じて定めたのです。
この意味は大変大きいのです。つまり天皇家が「青木氏」をどのように見ていて、どの様に扱い、天皇家の意向を汲み、”「3つの発祥源」と「祖先神-神明社」の責任を果たしてくれる唯一の味方”と云う事が読み取れます。それは関東での「平の将門の乱」の引き金に成った一連の秀郷の頑固なまでにも天皇家に対して「律儀な性格」を見抜いて「白羽の矢」を建てた事も読み取れます。
その為には「空白期間の焦り」と「源氏の行状の憤慨」と「源氏への幻滅感」を払拭するが為に「秀郷の末裔」に期待していた事が判ります。
それ程にこの「空白期間の失政」を反省して天皇家は「2つの青木氏」に対して政策的に重要視していた事を物語ります。
それにより ”「拡大する征討地の守護」として、その「政治的、戦略的な拠点」として、「祖先神」の「神明社」を創建配置した”と考えているのです。
故に”「賜姓族」は神明社1/3であり、「特別賜姓族」は2/3であり、その守護範囲をこの様に分けた”と観ているのです。この数字の持つ意味であります。
そして”伊勢の皇祖神の伊勢大社のお膝元に、「賜姓族伊勢青木氏」と共にこの「特別賜姓族」の「秀郷流青木氏」を配置して、この「2つの青木氏」を結んで「一つの青木氏」とした”と観ているのです。
「伊勢秀郷流青木氏」を置き真っ先に伊勢に「特別賜姓族」としての役割を果させ様としたこの事が重要な事なのです。
(この事は前段で何度も論じて来たが、「5家5流の青木氏」の「青木氏の建直し」をも狙っていたのです。
それには、急に配置したとは考え難く、「事前の布石策」が天皇家にあったと考えているのです。)

秀郷の祖祖父の「藤成」を九世紀初頭(秀郷から150年前:800年頃 桓武天皇期末期)に「伊勢の半国司」と配置しているのです。これは嵯峨天皇が青木氏衰退を承知していて、「将来の布石」として政策的人事として手を打ったと観ています。依って、恐らくこの伊勢に「藤成」は末裔を遺したと考えているのです。
なぜならば、”赴任地に末裔を遺して定住させる”の戦略は秀郷一門のみならず北家藤原氏の例外の無い「赴任地の基本戦略」です。これにより一門の拡大を図ったのです。(前記で論じた)
秀郷末裔の「基景」が伊勢長嶋の地の「半国司」に成った時に「伊勢の伊藤氏」を継承しています事(この時も護衛団としての青木氏が同行している事)から”「藤成」は末裔を少なくとも遺していた”と考えられます。(この時は未だ秀郷流青木氏は発祥していない。3代後)
これが後に史実として秀郷一門の「近江蒲生氏」との跡目血縁をしていますので、その末裔が伊勢四日市に定住していて、その事から「秀郷流青木氏の始祖」となる秀郷一門(「藤成末裔」)が古くから定住していた事が判ります。
又、清和源氏の宗家頼光系四家は5家5流の青木氏に跡目を入れている事からも「賜姓青木氏」を側面から援護していた事が判ります。宗家側では何とか皇親族の青木氏を残そうとしたのです。
それに応えた事件があります。それは「以仁王の乱」の首謀者の頼光より4代目の頼政の孫等の「助命嘆願」にたいら族に対して「賜姓伊勢青木氏」が動いた事なのです。
これ等の一連の事からも清和源氏宗家頼光系が青木氏に対して援護していた事が判ります。
片方では分家頼信系は「勝手気侭な行動」を採ったと観えるのです。

筆者は、”「特別賜姓青木氏」の「始祖千国」の末裔(子供)がこの伊勢の「藤成末裔」に跡目を入れて「青木氏」を興して配置した”と考えているのです。
その”始祖千国の嗣子が誰なのか”研究中で、「賜姓族」に成った「千国」は恐らくは直ぐに天皇家の守護神の「伊勢大社」のある所に、「賜姓青木氏」と同格の身分を得た以上は、子供を直ぐに配置する筈です。否、「義務」として配置しなくてはならなかった筈で、伊勢には、「藤成の伊勢の末裔」が定住(四日市)している訳ですから、そこに跡目を入れるが常道です。
この行動は「同格の役目と家柄」を与えられた以上は必定な絶対的職務です。先ず100%入れている筈です。末裔が居て定住地も判っているのですから後はその人物の特定だけです。
「賜姓伊勢青木氏」の関係資料の中からこの事に付いて何らかの資料が出てくるのかとも研究しましたが、松阪の大火消失で確認出来なくなった事や、伊勢秀郷流青木氏等からもなかなか出て来ません。
従って、”他の関係する処”からの研究を進めていますが「特別賜姓族青木氏」の「伊勢の祖」も確認出来るかは疑問です。この部分が現在の研究課題です。


「青木氏と守護神(神明社)-15 (「賜姓源氏の祖先神の役目」) に続く。
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青木氏と守護神(神明社)-13


◆ [No.281] Re:青木氏と守護神(神明社)-13
投稿者:福管理人 投稿日:2011/11/12(Sat) 08:54:05


「青木氏と守護神(神明社)-13

以下は「青木氏と守護神(神明社)-12の末尾前文
>青木氏と異なり佐々木氏はこの3つの守護神(氏の菩提寺も含む)に関わっていた事が生き残りの要因に成っていたのではないかと考えているのです。
>青木氏の「2足の草鞋策」の様な役割を果たしていたのではないでしょうか。青木氏は「2足の草鞋策」で回避できたとしても、「近江佐々木氏」は江戸初期から始まった上記の経緯で「江戸期の衰退」が起こったと観られ、研究はこの辺にポイントがあると観ています。
>この混乱期で最も資料が遺されていると観られる寺社の改革である為に資料が遺されていない事が考えられ、更には寺社は「霊験新たか」を前提にする為その資料を積極的に公的にしない傾向があり研究は困難が予想されます。
>しかし、。研究が進めば、更に発展してこの「3つの賜姓族の氏」が鎌倉期以降「三つ巴のスクラム」を組んでいたのではないかと観ていますが今後の研究課題です。
>「近江佐々木氏」が幅広く「青木氏」を研究している事から観れば大きく関係性がある事を意味します。青木氏の「生き様」がより幅広く蘇させられるのではないかと観ています


「融合氏」と「物造り」の雑学(「3つの脳の思考訓練」:特技)

参考
 「3つの脳」の「思考訓練」
第1番目に、何でも良いから「雑学量」を増やす事。
第2番目に、それを「系統的」に分別して覚える訓練をする事。
第3番目に、覚えた事の幾つかを引き出し「組合せ」をする事の訓練をする事。
(詳細は「青木氏と守護神(神明社)-1」に記述 参照)

そこで、少し脱線のついでに話題を拡げます。前記にも論じましたが、更にここでも掘り下げて下記に論じます。と言うのも真に本論を集約する様な事件が矢張り中国で起こったのです。それは「中国の新幹線脱線問題」ですが、この事件に関する論文を敢えて追加して投稿しました。

その中国の発展と進出に対して昨今の問題として日本では「中国進出」に大変懸念を抱いています。
それは「日本の物造り」の中でも「熟練技能」が流失してしまうのではないかと云う懸念です。
”日本の「熟練技能」を取得して日本を空洞化させ「物造り」が再び中国に脅かされるのではないか”と云う問題です。
然し、筆者は”その中国が確かに過去が過去であっても幾ら進んだとしてもこの「熟練技能」の「日本の領域」にはまず到達する事は不可能な事だ”と主張しています。
(過去とは5世紀頃から7世紀に掛けて後漢の帰化民族から「物造り」を教わった)
それは「日本の領域」は偶然に到達したものではないからです。それは後漢の200万人を含む「7つの民族の融合」から来る「日本人の遺伝的特技」(日本人の遺伝的な思考原理)から来たものなのだからです。
それは「時間による要素」ではなく、現在までの中国の「国民性」と「綜合力」がこれを阻んでいるのです。
それは、「時間」に依って「技能・技術の習得」が仮に成されても、上記する「3つの脳」の「思考訓練」の特質は、外国人には無理であり、日本人の「雑種による優位性」から来る「遺伝的特質」を保持している為に困難でなのです。これは外国人には有しない「7つの融合単一民族」(雑種の良質)の日本人ならではの「特技」なのです。
(付属論文「中国の新幹線脱線問題」での論文は研究室に投稿済み 是非参照)
筆者は多くの外国人技能者や技術者を見てきましたが、この「特技」は日本人ならではのものと観られます。彼等にはこの「脳の思考原理」の癖が遺伝的なものとして苦手と見られ簡単には習得できないと思えるのです。

「日本人の遺伝的特技」=(日本人の遺伝的な思考原理)=「3つの脳の思考訓練」

ですから、中国人は質の低い類似品は作りますがそれを超えるものは余り見かけません。
その逆にその証拠として科学や医療分野での先進技術を開発しノーベル賞を日本人は多く取得するのです。又、過去の日本人が確かにアメリカの類似品を作りましたが、それは中国人のそれと異なり米国等で開発されたものを日本人がそれ以上に良い製品に開発させてしまったものです。
それに取って代わる現象もこの特技から来るものです。今や先進国を超えてどの分野でも先導する立場に置かれています。
勿論、序文の鉄鋼製品と云う範囲で考えても上記する8つの専門分野が全てトップでなくては到達する事は不可能でもあります。(「中国の新幹線脱線問題」がこの現象を顕著に表す。)
そこで、逆に問題に成っている「技能・技術の海外流失問題」(主に中国)ですが、この事からすると日本の生きて行くべき道は上記した経緯から自ずと観えています。
それは、”「汎用的な技能・技術」(熟練技能)の移転はやむ終えない”としても、この上記する「3つの脳」の「思考訓練」で得られた領域の「技能・技術(熟練技術)」は日本に残すべきです。
又、必然的に日本人の特技である為に日本人が日本人である限り残ると考えます。
仮に流失しても「融合民族の遺伝的な特技」である限り、「流失後の特技」に対してもまた日本の中にそれを土台に再び「進んだ特技」を飽くなきまでも作り出すという行為に出る事は必然です。
もし、「新たに特技」を作り出さなかった場合はそれは日本人では無い事を意味します。
それが「遺伝的特技」である限りに於いて「遺伝性」が突然に無く成る事を意味します。
そんな事は遺伝学では存在しないのです。”無くなる”と云う事はそれは遺伝では無い事に成ります。
「7つの民族の融合」が事実でありますので必ず向後の特技の開発は起こります。
まして、過去の融合を見れば、これでも「明治前の身分制度による障壁」に依って充分に「完全融合」が起こっていなかった筈で、明治後150年が経ち3乃至4代目に至る現在が「完全融合の時期」となった筈であります。
これからが最も「完全融合の遺伝的特技」が最も発揮される時期である事に成ります。
(「流失」が起こったとしての仮定ですが”起こらない”と断言しているのです)
それがより「高品質で高付加価値品」が生み出される事に成り決して流失したとしても心配には当らない事なのです。
”「3つの脳」の「思考訓練」で得られた領域の「技能・技術(熟練技術)」”のこれを日本に残し、”他は外国に移す”と云う戦略を採ればイギリスの様な「技術斜陽国」には成らない筈です。
そもそも「日本人の特質」なのですからここを間違えなければ、前記して来た「青木氏の1125年代の判断」と同じく日本は生残れる筈です。
自動車等の海外生産問題の技能・技術問題でも真にこの判断を適用すればよい事に成ります。
ただそこで、よく間違われる事は”「高度な熟練技能」は別だ”と云う事なのです。
「普通の熟練技能」のこれは「時間」が過ぎればそれなりに得られるものであり、これにしがみついていては生残れないのです。「熟練技能」は自然に任せてむしろ「自然の放出移転」をさせるべきものと考えます。それに依って”「熟練技術」の全体は生きてくるものである”と考えているのです。
”水は高いところから低い所に流れるもの”の例えの通り、日本の「普通の熟練技能」が「外国の熟練技能」より高ければ「自然の摂理」で低い方へ流れて行く筈です。当然に日本の方が低ければ流れ込んでくる筈です。
とすると、日本の「高度な熟練技能」は外国が低ければに流れて行く可能性があります。
然し、そうではないのです。この「自然の摂理」には「歯止め」が効いているのです。
その「水の環境」には、「地形と水量と勢い」の「環境条件」が備わっています。
その「環境条件」が低い側に受け入れられるものが無ければ流れ込みません。
受け入れ側の「地形と水量と勢い」が整っていて初めて流れ込む事に成ります。
これが本当の「立体的な自然の摂理」です。「一元的な自然の摂理」の例えはこの世の摂理ではありません。この世は「立体的な環境条件」に依って成り立っていて起る筈です。
とすると、低い地形の方に「地形と水量と勢い」を受け入れられるキャパシティーが無ければ、幾ら低くても流れ込む事はありません。一時的な現象で留まります。
つまり、「高度な熟練技能」には「普通」ではない「高度」と云うある範囲を超えている限りこの「環境条件」が働く筈です。
そしてその受け入れられる「環境条件」は「高度」と云う事から何かと関係して”高度”という扱いに成っている筈です。それが”「熟練技術」と連動している”と云う事に成ります。
そして、これが”ある範囲を超える”と云うパラメータに成ります。

「ある範囲を超える条件」=「熟練技術」

つまり、次ぎの数式が成り立ちます。
「地形と水量と勢い」とは、流失先の産業力・産業形態(地形)と、消費力(水量)と、経済力・国力(勢い)と云う事に成ると考えます。

「立体的な環境条件」=「地形と水量と勢い」+「熟練技術の環境]

相手側にこの数式の条件が成り立たない限り流れ込まないことを意味します。
「家訓8」でも論じましたが、そもそも「熟練技能」と「熟練技術」は違います。
「技能」とは、「経験」を主体としてそれに「知識値」を以って補う技。
「技術」とは、「知識」を主体としてそれに「経験値」を以って補う技。
これを定義とすると、全ての殖産物はこの「技能」と「技術」を以って成せるものと成ります。

「技能」+「技術」=「殖産物」

この数式論から、「普通の熟練技能」とは、”殆ど「技術」を伴なう事の無い「技能」の領域のもの”になる筈であります。「殆ど」の意味を仮に0と置き換えると、次ぎの様に成ります。

「技能」+0=「殖産物」、即ち、「技能」=「殖産物」と成ります。

世の中の「殖産物」には定義の「技能」の領域で出来上がるものが恐らくは5割程度は占めている筈です。なぜならば、「技能」の定義に、”ある程度の「技術」(知識)”を含有しているからであり、それで5割は賄えると云う理屈に成ります。
この「普通の熟練技能」に拘っていては生残る事さえも何も出来ません。
上記する「高度な熟練技能」とそれに連動する「熟練技術」の流失を抑える事が慣用です。
(「熟練技術」の基準の判断は下記)
その「高度な熟練技能」とは、上記の定義より、「技能」が高度なのですから「技能」+Aと成ります。

「技能」+A+「技術」=「殖産物」

このAのこの数式から来る意味は、「技能」+「技術」=「殖産物」で数式は成り立つのですから、Aは「余剰値」と成ります。
この「余剰値」Aは「技能」と「技術」とを”より結び付ける力”、即ち、「接着値」と成る筈です。

「余剰値」A=「接着値」

「高度な熟練技能」は、定義から、”「経験」を主体としてそれに「知識値」を以って補う技”としていますから、最早、この「技能」の「知識」は「経験」=「知識値」となり「補」では無くなっている事に成ります。
この場合の「知識値」は「経験」の中に特化した事を意味します。
従って、この「経験」は「Aの部分」を特化していますので、「経験+A」と成ります。
故に「高度な熟練技能」とは、Aが介在する事に依って「経験」と「技術」とは引き離せない関係にある事を意味します。
要するに、科学で言えば「触媒」と成ります。

「余剰値」A=「接着値」=「触媒」

「熟練技能」と「熟練技術」を使って「技術立国」として物を海外に売るとしても、売る相手側にそれなりの「受け入れられる土壌」が醸成されていなければより売る事は出来ません。
まして「高品質で高付加価値品」であればこそであります。
それには、外国に受け入れられる最低の土壌の発展を促す必要があり、日本としてはそれが「普通の熟練技能」であるとしているのです。
残った「高度な熟練技能」は上記の数式から「技術」が付加される事に成り、次ぎの関係式によって成り立っている事に成ります。

「高度な熟練技能」+「熟練技術」=「高品質で高付加価値品」

この数式は、触媒を取り除かない限り、「高品質で高付加価値品」なものを獲得するには、絶対条件として「高度な熟練技能」と「熟練技術」は常に連動していなくてはならない事に成ります。

真に皮肉にも昔、奈良から平安時代に掛けて日本が中国から受けたのはこの「熟練技能」であったのです。それはこの上記の数式が成り立つ条件の全てを受け取ったのです。
然し、時代は進み、「日本人の融合」からもたらされる「遺伝的特技」に依って、その結果、中国は現在の日本の「高度な熟練技能」+「熟練技術」=「高品質で高付加価値品」のより進んだ数式のレベルにまで到達出来なくなってしまったのです。

全く同じく「産業革命」をリードしたイギリスもこの一点を間違えたと見ているのです。
「国力」を大きくする手段の「植民地政策」の手段として「熟練技能」と「熟練技術」の両方を海外に出してしまったのです。
問題は流失させる相手の如何です。むしろ日本などに「遺伝的特技」を生かされて盗まれた事の方が問題であって、当時の日本をイギリスは他の諸国と同じと見ていた事の現れで其処に問題を持っていたのです。昭和の始め頃には「猿」と表現していた事も事実です。
つまり、この「2つの放出」のみならず、「相手の評価」を間違えた事にも成ります。
そして、今日本はそのイギリスの産業革命の成熟期の立場と同じ境遇の所に達しているのです。
この立場にあるとして日本の採るべき「流失の方法」は「ある範囲の基本」の「熟練技能」(普通の熟練技能:下記)を自然体で流失させ「ある範囲の高度」な「熟練技能」と「熟練技術」(下記)を残す算段が正しい判断になると考えます。そして、「相手の評価」を間違えない事だと考えます。

海外への「人材の流失問題」も仮に誘いがあったとはしても、外国ではこの様な優れた「熟練技能」+「熟練技術」の「学問的環境と土壌」が無い事から、先ずまともな技能者・技術者は、「技能・技術屋魂」で環境を選びますので外には出ませんし、出たとしてもその頭脳を生かす環境は有りませんし整いません。
米国などの先進国への「熟練技能」+「熟練技術」の2つの流失は高いレベルに於いて「相互依存関係」にありますので「2つの放出」と「相手の評価」には問題では無くなる筈であります。

つまり上記した数式の通り「高品質と高付加価値の環境」を日本に保全する事が唯一生きる道なのです。それは日本人の大量の「移民的な海外流出」が起らない限りは保全される筈です。
全ての「熟練技能」とその「技能者」を残すべきとの強い意見がありますが、一見正論かの様に観えますが、この論議はある種の思惑を以って利害関係者に依って論議されているもので、その環境に居た者として賛成できません。

兎も角も「普通の熟練技能」は「外国人の実習」と言う形で十数年の経験を得て流失する事に成るでしょうし、その取得する者の資質にも大きく関わってくるものです。
つまり、此処にはこの流失問題には「タイムラグ」と「資質」と云うリスクを有していますので、日本にとって「自然流失」は問題には成らない範囲の事を意味します。
然し、「技能者」のそのものの「人の流失」はその「遺伝的特技の環境」の中にいてこそその「技能」は培われ生かされるものであって、ある「範囲の技能・技術」の技能・技術者の「単独の流失」だけでは外国に於いて生かされ得ないのです。
上記の数式論から、あくまでも「熟練技能」だけはある範囲の「複合的な流失」で無くては意味を成さないのです。
又、その海外に於いて「熟練技能」のそれを受け入れられる「充分な環境」が存在し得なければ直ぐに「効果的な活用」は望めないのです。
此処にもその「環境」が海外に整えられる為の「タイムラグ」が存在します。
又、その流失した技能者にも働ける寿命・時間があり、その「寿命の範囲」は「熟練取得」と云う期間を既に使い果たしている事に成ります。
だとすると、流失して生かす期間は極めて少ない事を意味しますので、「熟練技能」を海外で伝達する時間の「タイムラグ」が起こります。
この結果、「伝達時間」が少ないと云う問題が起り、これも成り立つものではない事に成ります。
(筆者は発展途上国の取分け中国はこの熟練技能の取得を最早期待していないと観ていて次ぎの論じるものを期待していると説いています。)

実はそれと決定的な流失の可能性が低い事が有るのです。それが本文のテーマの一つであります。
それは、この「熟練技能者」とその「技能そのもの」には「物造りの神」即ち「神明社」と云う「精神的な心の拠り所」が付き従っている事なのです。
これが日本の「熟練技能者」の彼等には外国人との間に違う大きな相違点であるのです。

「熟練技能者」+「物造りの神」=「精神的な心の拠り所」

それは外国人に決して理解され得ない事なのですが、日本の場合、「熟練技能」の「物造り」には「精神的な技能」を目標としていて「心技一体」の「修練取得」がその「熟練」を成し得るのだと定義つけているのです。つまり、「人間的成長」がその熟練を支えているのだとしているのです。
「技」だけで存在するのではなく「心」と合致して初めて成し得るものであるとする「技能者の信念」です。

「技」+「心」=「物造り」

以上の数式が成り立つ技能なのです。
そしてこの数式の維持は過去に於いては上記で論じた「4つの青木氏」の「品部と部曲」の様な「徒弟制度」に依って護られていたのです。
最近に於いてもこの「徒弟制度」は多少の変革はあったにせよその根幹の「弟子と師匠」の関係は「技」+「心」=「物造り」の中に生きているのです。
その「物造り」の「究極の頂点」を「神明社」に置き「弟子と師匠」の組織は「物」を「物」と見るのではなく「物」を「上」(神)からの「授り物」として崇める対象としたのです。
この考え方は今も高い「熟練技能」には遺されているのです。

これは古来に「後漢の民」がその技能を伝えた時、同時に彼等が持ち込んだ「仏教」と「道教」が併せ持って伝えた事が、「融合民族」の「遺伝的特質」から日本人は「技」+「心」=「物造り」の精神を醸成してしまったのです。
何を作るにしても其処に”「心」=「神」が宿っていなければ「物」ではなく、それを成す「技」は「技」ではない”とする考え方が存在するのです。
古来の鞍作部の「仏像や神物」の製作過程を観ても明らかであり、「作り手」(熟練技能者)と「仏神」とが一体に成ってこその「仏像や神物」であって、其処に”神や仏が宿る”と信じ、宿った「仏像や神物」に対して人は信仰するのです。

「作り手」(熟練技能者)は「水ごもり」や「座禅」等の行為をする事に依って「汚れ」を取り除き「人と神仏」との間に「架橋の筋道」が宿り「神仏」が人の手に往来すると信じているのです。

これは「仏像や神物」に限らず「刀剣」に於いても同じであります。
筆者は物理学が専門で中でも冶金・金属学を得意とするものでありますが、この刀剣の製作については「技」+「心」(神仏)=「物造り」の事は良く判るのです。
砂鉄を溶かし鍛造で固め何度も炭の煤を溶融させ鍛え刃先に焼きを入れて固くし最後に強靭さを出す為の熱処理をします。昔のように計器のない時代に「極めて狭い範囲の温度」のところで的確に工程処理をして行くには「神仏の加護」なしでは殆ど無理であります。精神を研ぎ澄ますには「神仏の加護」なしには成し得ない領域の「技」であるのです。
現代の計器に於いてでさえ難しい温度域にあるのです。真に「神業」であり上の2行の事なしでは成せる物ではないのです。
「日本人の遺伝的特質」を「物」で例えるならば、この「日本刀」の全製作過程に代表されるのであります。

「日本人の遺伝的特質」=「日本刀」=「日本人の魂」

これが「日本刀」は真に「日本人の魂」と言われる所以であります。
日本の全て「物造り」には過去現在に於いて強弱の差はあるにしてもこの「技」+「心」(神仏)=「物造り」の「考え方」は変わっていないのです。
そして、「神仏」とりわけ、その日本の「5神」の中でも「神」は「自然神」を祭祀する「皇祖神」に結び付く「祖先神の神明社」に求めたのです。そしてそれを人は「物造りの神」と崇めたのです。
又、この「心」=「神」の精神が「融合民族」に裏打ちされた「日本人の遺伝的特質」をより増幅させているのです。
「心」=「神」の精神が「神の加護」を得て ”より良い物を造ろうとする飽くなき追求心」”を引き出しているのです。依って、”より良い物を造ろうとする飽くなき追求心」”は「高品質と高付加価値」の環境を止め処なく追求する精神が生まれているのです。
「高品質と高付加価値」の環境はこの「熟練技能」の「心」=「神」の精神から生まれているのです。
つまり、この領域の「高度な熟練技能」は最早、「日本の文化・伝統」の範囲にあるのです。
況や、その「物造りの神」の「神明社」は青木氏に委ねられていて、依って、「3つの発祥源」のみならず「神」とは行かずとも「物造りの氏上・始祖」とも衆目から観られていたのです。
この無形の神明社の青木氏に対する衆目の印象は、資料に遺される事は無いので証拠付ける事は出来ませんが、「青木氏」に関わった「品部、部曲」の「民」の有り様(4つの青木氏)や、全国各地に広がる「神明社」の有り様や、「3つの発祥源」や「2足の草鞋策」の有り様等から観て、ひしひしと伝わるものがあり「物造り氏上・始祖」と観られていた事が良く判ります。
故に、「物造りの氏上・始祖」であったからこそ違和感無く衆目からも排他されずに、青木氏は物を初めて作り出す「殖産の2足の草鞋策」を追求出来たし、追求したと考えているのです。

他国に於いてこの「熟練技能」に関わる上記の「環境条件」即ち「高品質と高付加価値」の環境が叶えられるのであれば「技」と「人」は制止しても海外に自然流失して行くものでしょう。然し、私はそれは無いと考えているのです。
宗教、生活環境、国民性、気候、技能環境、技能の置かれている立場、等が整えられているとは到底考え難く、ましてそれを押し通してまでも流失させようとする考えが生まれるとは思えないのです。仮に押し通してもその「技」と「人」はこれ等の「環境条件」を整えるまでに時間的余裕は無くなる筈です。
「熟練技能」=「環境条件」は「絶対条件」であって、「熟練技能」+「環境条件」=「高品質と高付加価値」の数式が故に成り立つのです。

「熟練技能」×2=「高品質と高付加価値」
「環境条件」×2=「高品質と高付加価値」
以上の2つの数式が成り立ち、「×2」の意味する様に容易い事では無い事が判ります。

つまり、「熟練技能」の「技と人」は「日本と言う環境条件」の中にいてこそ成就するものであると云う事ではないかと考えられます。
当然に同じ外国の土壌の中にも外国の土壌にあった「熟練技能」が生まれ醸成されて行くものであるとは考えられます。
其処に日本の「熟練技能」が入り込んでもそれを100%生かすだけの「熟練技能」は生まれないのが道理です。
従って、外国が環境を無視してまで好んでこれを得ようとする場合ただ一つの方法しかない筈です。
それは日本の土壌の中で会得する以外に無い事を意味します。もちろん「技と人」に付いて会得する事に成りますから、「実習」と云う手段以外に無い事に成ります。
この場合、上記の数式条件をクリヤーする必要があります。
特に「心技一体」をクリヤーする事が出来るかが問題ですが、「技」は”ある処まで”は可能としても「人」即ち「神明社」に繋がる「心」は殆ど無理であります。

それは筆者の経験でも「実習生」の研修を経て彼等と議論を重ねると、この「心」の領域の部分はどんなに説明しても無理で理解され得ない事なのです。「激論」を交しても「国民性」と云うか「遺伝性」と云うか彼等の脳が全く受付けないのです。その様に考える「思考原理」が無い事を痛感するのです。
従って、”ではどの程度か”と云う事に成りますが、彼等の取得出来る「技」は、「熟練技能」×2はおろか「熟練技能」×1の領域にさえも到達しない範囲でのものに成ってしまうのです。
それは「技」の領域ではなく普通の「記憶の領域」に留まるものであって高く広く応用し維持させ、より良いものにする領域に到達しないものなのです。
つまり、「高品質と高付加価値」を生み出す領域までも到達し得ないのです。
これを「小技」と呼称するならば、次ぎの数式と成ります。

「小技」+「心」=「技」
「技」+「心」=「物造り」
「小技」+「心」+「心」=「物造り」

∴「小技」+「心」×2=「物造り」

以上のこの「3つの数式」が成り立つのですが、「心」×2である様に「心」が「物造り」には大事である事をこの数式は意味しています。
そして、「心」×2の一つは技能者の「心」であって「心域」であり、もう一つの「心」は「神」「仏」であって神仏の加護であり、これを信じる「心」であり崇める「心」なのです。
この「2つの心」が得られて初めて「技」と呼ばれるものに成り、「熟練技能」の領域に到達できるのです。
これが「物造り」の真髄なのです。この事をこの数式は物語っています。
これが「日本人の遺伝的な思考原理」なのです。
「日本人の宗教心」は「観念論」のみならず、上記全ての数式に基づく「論理性」を心の奥底に持ち得ているのだと考えます。
故に彼等には当然に論理的にこの数式が理解出来ずあくまでも”「技」と「心」は別物である”と主張するのです。然し、彼等には言わせれば”日本人そのものが同じアジア人ながら「奇異的な人種」に観えている”と云うのですが、これには日本の現在の成長の根源と成っていると観ていて、それはむしろ”「尊敬の念」を抱いて観ている”と云っているのです。
つまり、”「日本の物造り」は「科学」と「文化伝統」が融合している”と感じ取っているのです。
そして、その事が”「奇異」”だと表現しているのです。
これが彼等の結論であって、現代の”世界の物造りのトップを行く根源だ”と云いたいらしいのです。
最後に付加えた彼等の発言は”だから、これからの日本は衰退しない”と付加えたのです。

「日本の物造り」=「科学」+「文化伝統」

我々「遺伝的特技」を受け継いで持っている者にとって「心」の無い時に、「心」乱れる時にその者の「体」を通じて高い「技」のものを作る事は不可能と考えます。
「心魂一滴にして何事も成らざらん」でありますが、しかし彼等は”其処まで深く考える必要性はない”とするのです。(”自国の環境の中では”と云いたいらしい)
そこで ”では敢えて深く考えれば納得するのか”と云うと、”自らの頭と体に無理が伴なうもの事は良くない事だ。常で無い事だからそれは維持出来ない”と云う論調です。
更に ”では「高い物」を会得する必要がある時には如何にするのか”とたたみかけると、”高い物を会得する必要性はこの世には低い事だ。誰かがするだろう。それで世の中は成り立つ”と最後は成るのです。再々に ”その誰かが貴方であったならどうするか。その為に実習をしているのではないか”と議論を覆い被せると、”常である事が最善であるのだ。私には常以上の事は求められていない”と答えたのです。

そこである実験を試みた。「高度な熟練技能」を要する試作品を作る事にした。そしてその為にほぼ同じ経験を有する数人の「日本人の技能者」と共に同条件で試作品に挑戦さした。実習生の彼等は直ぐに諦めたが、日本人の技能者は諦めない。何とか工夫してものにしようと悪戦苦闘する。やはり結果は思う物には成らなかった。そこで彼等に問うた。”この事で会得したものは何か”と、すると彼等はこの様に答えた。”出来ないと思ったら直ぐに止める事が大事な事でリスクが少なくなる。最も肝心な事だ。”と。
日本人は”未熟さを恥る。何時か何とかしたい。”と答えた。
そこで、次ぎに最も信頼できる年老いた「高度な熟練技能者」にこの試作品の製作を頼んだ。そしてその試作品を作るまでの3日間の間中、製作中と生活も共にし彼等を密着させた。
そこで彼等に聞いた。日本人の彼等は”仕事に入る前の熟練技能者の有り様”と”製作中の熟練技能者の有り様”に対して2つの答えを出した。仕事に入る前には、工場の隅にある神棚に向かって精神を統一させた事、仕事中には、”まるで「脳」が「体」を道具の様にして「脳」が機械を動かしている様で、「体」で「脳」を使って作っていない様に感じた”と答えた。
”自分と製作技に一線を超えた何かの違いがある様だ。と言い結んだ。
ところが実習生は、仕事に入る前には、”熟練技能者の行動には意味が無い、判らない。”と答えた。仕事中には、”単純に経験の差だ。自分達も経験を得られれば可能な事だ”と答えた。
日本人の方は、勿論に出来上がった製品の素晴らしさに感嘆すると共に、”目に留めた事は3つあった。”と答えた。一つは”仕事前の段取りと道具などの下準備の綺麗さ”、二つは”製作中、仕事中の製作補助剤と切削屑(キリコ)の綺麗さ”、三つは”仕事後の後始末の綺麗さ”の3つの綺麗さがどこか自分達と違う事を付加えた。
実習生は自国でもそれなりの経験があったのだが、答えはこの3つの違う点には答えは無かった。無かったと云うりは”無関係だ”と云いたい様であった。
更に日本人の方に聞いた。”ではこの三つの違いは何処から来ているのか”と。すると”良く判らないが、全ての違いは「仕事に入る前の熟練技能者の有り様」に起因しているのでは”と答えた。
矢張り、実習生と日本人の若手との間には答え方まで違っていたのです。
筆者は、”「脳」が「体」を道具の様にして「脳」が機械を動かしている様で、「体」で「脳」を使って作っていない。”が”「日本人の遺伝的特質」の悟りである事を物語るものである”と云いたいのです。
この悟りに到達するには”神仏と一体化すること以外にはこの状態はあり得ない”と考えられます。
何も、「神仏」に手を合わせお経や祝詞を上げるばかりのご利益の形ではなく、その「心意気」、「心域」「心境」に到達する事が必要である事を意味するものです。
現在に於いても「神仏」に手を合わせる事は少なく成ったとしても、この「心域」「心境」に持ち込み”「汚れ」を取り除き「人と神仏」との間に「架橋の筋道」が宿り、「神仏」が人の手に往来する時にこそ生まれる”と信じる「遺伝的思考癖」は無くなっていないのです。
実習生との違いでも判る様に、この「遺伝的思考癖」が外国人が真似のできない「熟練技能」を醸成している根源となっているのです。
そして、この「遺伝的思考癖」が「3つの脳の思考訓練:特技」だとしているのです。

筆者はこの「心」を伴なわない「小技」の領域のものは自然流失しても問題はないと考えているのです。
「小技」は応用力を伴なわないからで「技」から一つ超えた新しいものを作り出す事は出来ないからです。彼等にはこの「技と人」「技と心」が別物とする思考原理がある以上は日本の様なより良くして且つ新しく超えたものは「自らの力」では成し得ない事を意味するからです。
ただ一つ彼らにこれを成し得る方法が在ります。
それは”良くして且つ新しく超えたも”を日本から一つ一つを導入して階段を上げて行く方法が残されている筈です。
筆者はその「小技の領域」や「階段を上げて行く方法の領域」のものであれば問題は無いと考えられますし、また彼等にはこの方法が無理なくして適していると云えるのです。又、そうあるべきです。「高品質と高付加価値」の物を効果的に広める事に依って、日本人の「生きる糧」としても、人間社会の「文明の進化」に貢献する為にも必要な事である筈です。
この点では実習生の発言の”誰かがするだろう”は一面では真理である事が云えます。
日本人が他に比べて特異に「遺伝的特質」を有しているのであれば、”「文明の進化」を日本人が先頭に立って主導すればよい。”と云う事に成ります。”神が日本人に命じているのだ”といいたい筈です。
だとすると、”外国の全ての者が「熟練技能」の領域のものは保有する必要性はない”という事に成ります。実習生の言い分や主張は「文明の進化」と云う観点から観れば”正しい”と云う事に成ります。つまり、この理屈で云えば、”日本人の「遺伝的特質」は宿命だ”と云う事に成ります。
”無い者がある様に立ち振舞うより、有る者がある様に立ち振舞う事が自然で道理である”と云う事に結び付きます。
突き詰めると、実習生は心の中で主導する日本人を尊敬していた発言であった事を意味します。
上記した様に「技と心の一体化」は「日本人の宿命」であるとし、その拠り所が「神明社」にあるとするならば「神明社の位置付け」は「3つの発祥源」に匹敵する「象徴的重み」を持っている事に成ります。筆者は、先祖が「2足の草鞋策」を通じて外国貿易をしていた事から、この辺の事を悟り「神明社の氏上・始祖」の青木氏の「家訓10訓」の「家訓1及び2と家訓8」にこの事を繁栄させたのではと考えているのです。取分け「家訓8」に対して本文を組み込んだと観ています。
この「青木氏と神明社」に関わる「文化と伝統」の範囲の「物造り」は遺すべきと考えているのです。

「高度な熟練技能」の範囲=「高品質と高付加価値」の環境=「文化と伝統」の範囲

筆者はこの様に「3つの発祥源」(青木氏)と「物造りの氏上・始祖」(神明社)を多面から論じているのです。そこで「神明社」を「青木氏の守護神」とする事のみならず、その根源に付いても論じる事を試みています。つまり、”青木氏にはもう一つ「物造りの氏上・始祖」と云う使命が課せられていた”と観ているのです。それが”神明社なんだ”と云いたいのです。

「熟練技能」と「マシニング」
続けます。そこで彼等つまり外国は”彼らにこれを成し得る方法が在る。それは良くして且つ新しく超えたもを日本から一つ一つを導入して階段を上げて行く方法”と論じましたが、”では一体それは何なのか”です。それをこれから論じます。
と云うのは、「流失拒否論」ですが、これにはこの様に”熟練技能は流失はない”とする明確な理由、”小技の領域は流失しても良い”とする明確な理由があるのですが、これを隠してか知らないかの議論なのです。日常その環境にあるのだからその論者であってそれの背後やその環境に居る者等がこの事に付いて知らない筈は有りません。
そこで更に進めます。
実は、工業界の現在では「マシニング」と云う超ハイレベルの「コンピーター」で動き、人間の持つ「高度な熟練技能」と「高度な熟練技術」はコンピーター化されて記録されていて、且つ、それも人が介在しないで自動的にプログラミングされコンピーター化される工作機械が既に日本の末端まで一般化されているのです。
今や「人間の熟練技能」を「その品質とその安定度」に於いて遥かに超えているのです。
当然に中小企業の中に於いてでも容易に獲得できる環境にあるのですが、それにも拘らず「流失拒否論」なるものが述べられているのです。少し変です。
更に、仮に製品に「熟練技能」が必要であったとしても、それを調べ再現できる超コンピータの塊の様な「3D測定機」というものがあるのです。
この「3D測定機」のコンピータ機は他国を寄せ付けない程度に「日本人の特技」を生かしたもので日本の独壇場の市場です。一般の人には馴染みではないと思いますが、工業会では最先端の機械なのです。「機械」というよりは「人間の頭脳」かそれ以上のより「高度な再現力」を持っているのです。
この工業界の範囲に於いて「人間の脳域」を遥かに超えて再現出来て、且つその精度域は10万分の1まで確実に検出出来るのです。オペレータが外からこの頭脳にデーターを入れる事も出来るし、コンピーターが自分でその物を計測して解析してデーター化する事も可能な測定機なのです。
測定機と言うよりはコンピータ人間と云うべきものかも知れません。測定機の中に人間が入ってオペレートするのです。
20℃50%RHの無菌無埃の完全空調の部屋全体がコンピータに成っていて、その中の一角にオペレータが座りCRTを見てキーボードやジョイスティクを操ると云う形です。一度操れば後は自分で状況判断して全てを遣りこなしてしまうと云う優れ物です。
これを「ティーチング」と云うのですが、この様な高度な熟練技能と熟練技術を併せ持った人間の頭脳に代わるCPU機なのです。
この日本国内だけで汎用化されている「3D測定機」を使えば、これ(「熟練技能」と「熟練技術)を簡単に汎用的に何処でもコンピーター化できるのです。
現在ではこの「マシニング」と「3D測定機」の2つが連動して組み合わされて使用し使用されていて、日本では最早20年前位から「熟練技能」の依存域では既にないのです。
(ある一面に於いて重視されて需要が高く”「マシニング」と「3D測定機」の2つが連動”に取って代わられない領域があるのです。今後「高品質で高付加価値品」に成れば成るほどに必要とされるでしょう。)
これは「日本の特技」の「高品質で高付加価値品」の「代表的な極め」であります。

(因みにこの”「マシニング」と「3D測定機」の2つが連動”が無くしては8角面から原子核目がけて完全同時に電子衝撃信号を発して原子臨界反応を起こさせる事さえも出来ないのです。つまり、原子力発電や原子爆弾も作れないのです。原子力の必需品なのです。)

「熟練技能」の多く潜在する零細企業に於いてもこの「熟練技能」をコンピーター化されるシステムが既にとっくに備わっており、各県に存在する工業試験所や、高精度のものに応じては頼めば直ぐに企業の協力体制出来上がっていて「3D測定機」で解析して修正してプログラム化してデーター化して、それを「マシニング」に移して高度な物を作る事が簡単に出来る体制に成っているのです。
この領域は現状では、主に「試作段階」に於いて設計化できない高度な部分をこの「零細企業の特技」とする「高度な熟練技能」で先ず補い作り、それを「3D測定機」で10万分の1の精度でコンピーター化し画像解析出来て、目で確認しながら不具合ヶ所を自動解析しながら自動修正して、それを同時に「3D測定機」で「プログラミング」しながら工作機械の「マシニング」にセットして量産的にする事が簡単に汎用的に出来る環境に日本は末端までに成っているのです。これが上記した”ある一面”なのです。
ただ高度な熟練技能を要する様な試作品を作る場合に、先ず第1段階の試作品を「マシニング」で作り「3D測定機」で解析して、更に「マシニング」で加工修正してこれを2度乃至3度繰り返す事で満足し得る「高度な熟練技能を要する様な試作品」を造り上げると云う手段もあります。
これを一挙に「熟練技能者」に依って試作品を造り上げてしまうと言う手段が実際には多いのです。
それは設計者が考えている事を直接会話を通じて反映させられると云うメリットがあるからなのです。
なかなか設計値や図形に表現出来ない事があるからで、金属やプラスティクの温度や機械的強度等の加工特性に依って設計寸法通りに成らないものや、設計どおりにしても実際には使えないものがあり、これを「熟練技能者」と対話しながらより現実味のある物に仕上げて設計に反映させる必要があるのです。
これを試作段階のものにはなかなか読み込む事は実際には困難なのです。
それを神業の持った上記した「熟練技能者」に先ず作ってもらい、その上で「3D測定機」でデター化して設計値に反映させるのです。そうする事で「3D測定機」と「マシニング」には高度な学習機能が両方に備わっていて2度目からはかなりのものが出来ます。
「マシニング」でも加工温度、加工速度、バイト切削角、切削剤等の諸条件を決める必要がありますがこれも学習化して数値化してしまうのです。
後はマシニングが勝手に自動的に量産化してしまうのです。
高度な熟練技能は「3D測定機」にデータ保存されるのです。
この「高度な熟練技能」を”「マシニング」と「3D測定機」の2つが連動”化すればするほど人間の熟練技能の領域を遥かに超えるのです。
普通の程度の「熟練技能」程度の領域では「マシニング」のそのものだけの高能力がこれを簡単に補える事が出来るのです。故に「熟練技能」の海外流失はリスクを負わないのです。
”基本とする「熟練技能」が日本に無く成るではないか”とのご指摘があろうと思いますが、この事でそれも違うのです。無くならないのです。
何故かと云いますと、次ぎの事に成ります。
先ず第一にマシニングのコンピーターに「日本人の繊細な思考」から出た技能を既に多くは記憶化されているのです。これは上記した「日本人ならではの遺伝的特技」であって下記の数式に示す様にこの領域を他に追随を許さないのです。

「日本人の繊細な思考」=「日本人ならではの遺伝的特技」=「高度な熟練技能の試作品」
「3D測定機」+「マシニング」=「高度な熟練技能の試作品」=「高品質と高付加価値」

その記憶は次ぎのものに成ります。
第一に「学習」として生かされるシステムにコンピーター上でマシニングは出来ているのです。人間の持つ学習能力が「日本人の遺伝的特技」で出来上がっているのです。
第二に「3つの脳」の「思考訓練」に依って得られた「熟練技術」は既に一段上のレベルの「新熟練技能」を学習に依って生み出しているのです。
上記する前者の「熟練技能」を「基本的な熟練技能」とすると、後者は「熟練技術」に裏打ちされた「応用的な熟練技能」と呼ぶべきものに現在は進化しているのです。
「時代は進む」の諸事に合わせて「熟練技能」も進化するべきでその姿に日本は既に成っているのです。これは”「技能-知識-技術-新技能」のサイクルは繰り返す”の「青木氏家訓8」の誡めに真に合致します。
第三に中国はこの「熟練技能」に期待をしていないという事です。そんな時間的余裕が無い筈です。
此処が「彼等の狙いどころの方法」でこれさえ獲得してしまえば「熟練技能の入手」は何の問題も利点もないのです。ところが此処に彼等にとって厄介な一つの障壁があるのです。

中国はこの「2つの機械」(マシニングと3D測定機)は共産圏には「貿易管理令」で輸出は抑えられている為に、これを獲得しようとして上記の「2つの機械」を悪質なあの手この手で搾取しているのです。
「時間」で解決できる「熟練技能」そのものより、最早、中国はこの「2つの機械」があればどんなものでも出来る事を知り、その入手方法の獲得に躍起になって走っているのです。
「高度な熟練技術」を持った企業とその協力工場を人件費という餌で誘致し、工場を提供し、「2つの機械」を設備させて、その間に合わせてそれを動かす人を育てさせて、最後には「2つの機械」を設置したままに「工場移転」を迫り、云う事を聞かない場合は移転先を紹介しないと脅すのです。
移転すれば又同じ事を繰り返す事になり日本企業は撤退としてしまう「国家的戦法」を堂々と行っているのです。
又、日本国内で倒産した中小企業のこの「2つの機械」をスクラップとして購入し見るからにスクラップに見せかけて解体し、中国に持ち帰って何とか自分達で修理し組み立て直し、中国国内企業に売りさばく戦術の何れかです。これは「国家戦略の領域」なのです。部品の生産のみならず原爆や原子力発電機を作れるのです。
後の問題は「元による経済力」で、この様な零細企業を買収して自国に移動させて人共に使用する戦術で既に実績をあげているのです。

この「3つの彼等の無法な離れ業」は私の現役中に目の前で何度も起こった驚くべき現実の日常問題です。伝達に時間が掛かりと資質が左右する「熟練技能」の海外流失は最早、彼等には最早無関係なのです。未だこの手法は続いているらしいのですが、最近はこの種の誘致には乗らない傾向が出てきたとの事ですが、この事の方が問題なのです。
しかし、これらは中国の貨幣「元の引き上げ」に依らなければ解決は不可能です。しかし、米国はドル防衛の為に日本の貿易摩擦のような積極的な行動には出ず腰は何故か牽けています。まさかオバマ氏の親族が中国人であるからかでは無いでしょうが。

確かにこの様な背景下である為に、この「熟練技能」の「海外流失」の懸念はある部門に於いて認められます。それは主に3次元的に「流体力学」が大きく働く部門に於いては有り得るかも知れません。其処まで「3つの彼等の無法な離れ業」でこの部門領域が犯されているとは考え難いのです。
つまり、端的に云えば、皮肉にも古来中国より教わり発展させた「日本人の特技」の有名な「ケサギ」と云う作業があります。
これは「高品質と高付加価値」を成すために必要とする「高度な熟練技能」である事は否めません。
中国後漢から司馬達等氏が持ち込んだ「鞍造部の技能」を使って、「仏像を彫る技能」即ち3次元的な立体像を完成させるのは「ケサギ」作業が無くてはなりません。奈良時代、平安時代の仏像の例に観られる様な「幾何学的流線型」であります。
専門的には「コーキング」と云いますが、多分コンピーター化が難しいと見られる物は他には無いと考えます。しかし、これは余りにも「熟練技能」域にあるが為に「人的要素」に安易に頼りすぎて「コンピーター化」を怠って来た部門域である事に依るものです。
現在では上記した様に「3D測定機」も高度に進み「ナライ機構」と云う装置でこれを充分に量産的に再現出来て、「マシニング」も「ナライ機構」で三次元的(3D的)に再現させ稼動する事が出来る常態に成っているのです。
ただ、「人的」に依存し過ぎて「コンピーター化の努力」を怠っているに過ぎないのです。
如何なる遺すべき物であろうと「努力」を怠るものには日の目は当らないのがこの世の定めです。
むしろ、この様な物であるからこそ「コンピーター化」を施すべきなのです。

上記した金属的な作業を含めて、仏像に然り陶器等の「伝統品、工芸品」を含めて機械らしきものが無い時代の古来より全ての作業はこの手作業の「ケサギ作業」から発しているのです。
そして文明が進むにつれて「機械化」や「道具化」が進み、「ケサギ」は最後に残った難しい流体的な物の「特技」としての代表的な位置にあるのです。
この事から「特技」としての「長い歴史」があるが為に、妙な誇りの様な事に拘りが生まれているに過ぎないのであり、つまり「ケサギ」は「作業の伝統」そのものである事は否めませんが、本来は脱却すべきでものなのです。逆に、これが「日本人の遺伝的優秀性」の「特技」に対する”「3つの脳」の「思考訓練」(「熟練技能」「熟練技術」)”の努力を怠る欠点に成っているのかも知れません。それだけに何としてもこの一点から脱却すべきなのです。
古来中国や産業革命後のイギリスの二の舞にならぬ様に、「作業の伝統」だからと云ってそれに胡座を斯く事では無く、時代の進歩に合わせた形(コンピーター化)に変化させて記録保存すべきものと考えます。出来ないのではなく出来るのです。難しくなく易しいのです。
兎も角も中国でのこの種の脅威は中国が共産主義的市場経済である限り何時かその壁が訪れると観ます。それは「私有財産」を認めない事です。”使用権は認めても所有権は認めない”事です。
人はより良いものを作ろうとする本能を有しています。日本人はその遺伝的にも飛び抜けて持っています。とすると、その努力が結果として自分のものとして所有権が認められるから人は頑張って努力して進化させようとするのです。
この「所有権」がないと云う事に成れば必ずや自由圏の外国企業は何時か人件費的魅力(元の引き上げ)が無くなり「所有権」が無ければ、更に再び他国の「所有権」が認められる低賃金の国へと移転して行く筈です。そのキーは「元の引き上げ」だと見ます。雪崩の様に引き上げる渦が起ると観られます。
既に上記した「追い出し戦術」と共に「所有権」が原因して起りつつあると聞いています。
この「熟練技能」と「熟練技術」の連動はこの様な環境下にある事を知って頂き下記の「本文」をお読み頂きたいのです。この意味で序文のところでくどく述べたのです。

「青木氏の伝統」(家訓8)
現在に於いては「日本人の遺伝的特質」の「3つの脳」の「思考訓練」は、その努力の行き着くところの結果として「コンピーター化」を促し、それが更には「高品質で高付加価値品」を造り上げ、遂には「日本を再生」をさせる起爆材である事を意味する事であると本文はしています。
これは、「日本存続」でなくても、「青木氏に於いての子孫末裔の存続」は「青木氏の家訓」の「家訓8」で既に戒めとされていて、平安末期頃にこの事を見抜いていたのです。
それ故に、「全青木氏」に於いては、この”「3つの脳」の「思考訓練」”の「日常の努力」は古より「課せられた生き方」なのだと云えるのです。
終局、「家訓8」の「技能-体系化-技術」の体系化の作業をより具体化、具現化するとすれば「3つの脳」の「思考訓練」でしか無いと云えます。

「日本人の遺伝的特質」=「3つの脳」の「思考訓練」=「高度な熟練技能」=「高品質で高付加価値品」

そこで、このその基と成っている「3つの脳」の「思考訓練」の話に戻しますが、つまり、筆者もその環境下にあって、年中、上記の云う所謂「受験勉強」時代での「知識の習得」の環境が要求され、上記の「3つの能力」の向上が要求されていました。
考えてみれば、「家訓8」である事に気が付き日夜実践していた事に成ります。
実は「技術屋」としての仕事の悩みで、”どの様にしたら仕事の能力を高められるのか”を悩んで「脳の勉強」をしたのがこの切っ掛けでした。
(「熟練技能」「熟練技術」も含めて「青木氏家訓8」の意味に気付いた)
この技術職業病なのか必要以上にこの論理性が強く成り過ぎて人生観が少し捻れて世の中のことが読み取れなくなり悩んだ時期がありました。その反動で技術系ではない文科系の”「歴史に関する趣味」を持つと云う事で解決できるのではないか”と幸い気が付いて、他方この方向にも上記1から3の「3つの能力」を駆使したのです。
その始めは親からの依頼で始めた「ルーツの復元:青木氏の研究」であったのです。
一番最初に取り掛かったのがこの伊勢の「神明社」でした。ところが調査が進むに連れて”「神明社」が「神明社」であるだけではなく何か納得出来ないものがある”と感じていたのです。
家に残る色々な慣習や、青木氏の資料や、遺産品から見えるものや、各種の神明社資料や、「2足の草鞋策」の記録帳簿や、「家訓10訓」の添書や、紙屋長兵衛の最後の人物であった当事者の祖父からの口伝の内容等から「3つの発祥源」以外に「特異な立場」があったのではないかと感じ採っていたのです。

「神明社」の祭祀の際に「始祖のような立場の役目」を果たしていた事が各所に出てくるのです。
そのことに付いては調査して行くと、伊勢神宮にも「御役」と云う役目等があり「神明社」にも同じ役目(「御役」と書かれている)がある事が判ってきました。そして伊勢神宮では当初は伊勢青木氏が務めていたらしく、それが江戸期に入ると「神仏分離令」や「大教宣布」等の宗教改革が行われ「民の心の拠り所」とする「神社や寺社」を一氏が独善的に専有する事等を禁じて、且つ更に「寺社領上知令」を出しその勢力を排除したのです。
その結果、伊勢神宮は幕府管轄になりましたので幕府直轄任命の「御役の村役」が大きな権限を与えられて治めていた事が判って来ました。
(明治以降は神明社をはじめとして全ての大社関係は県の神社庁の管理管轄に置かれました。)
伊勢神宮と合わせて「物造りの神」でありながらも「民の心の拠り所」とも成っていた特に5家5流の守護神で「祖先神の神明社」の祭祀には、青木氏一族一門郎党と主な秀郷流青木氏が各地から参集していた事が書かれています。筆者は「神明社」になのか「祖先神」になのか、はたまた「祖先神 神明社」になのかの完全な判別が現在研究中で付いていませんが、兎も角もそれが「物造りの氏上・始祖」と云う立場であった事が判ったのです。
「物造りの氏上・始祖」としての明記した確定する資料が見付かりませんが、江戸末期の宗教改革の令があったにせよ全体の状況判断から明治期前までこの立場が在った事が確認出来ます。
明治初期頃10年頃までには伊勢神宮(125社)の各地の青木氏の寄贈が確認出来ます。伊勢神宮の膝元の伊勢賜姓青木氏と伊勢特別賜姓族の秀郷流青木氏と信濃青木氏と甲斐青木氏の江戸期からの寄贈の記録が遺されています。
(これ以外にも伊勢神宮街路灯には青木氏の大街路灯が現在でも5燈が確認出来ます。特別であった事が覗えます。)
この様に青木氏全体を繋いでいる神明社を調べる事でルーツの根幹が徐々に判る様に成ったのですが親は「ルーツ復元」の目的よりむしろ筆者に「家訓8」を悟らすために実践させたかったのではないかとも後で解った次第です。と云うのは「家訓8」は「ルーツ解明の作業」そのものであって其処から人間として学ぶものが多かったのです。)

この「神明社」のテーマで入れば、ある程度の私資料が有ったにせよ祖父の代の明治35年の伊勢松阪の大火(出火元)で消失してはいますが、「70年後の復元」としては”青木氏に付いて解るのではないか”と考えて「伊勢青木氏」の守護職であった「伊勢神宮」のスタートからそもそも安易に入ったのです。5家5流の青木氏関係と伊勢秀郷流青木氏を基点に秀郷流青木氏へと進みその「調査と研究」は年数と経費と労苦と大変苦労しました。特に資料の信頼度に関しては雑学が無かった事もあって当初は判別力をつけられるまでは遅々として進みませんでした。「宗教と歴史」、「家紋研究と地理性」等を研究する事で判別力がついて来たのです。
それらの研究過程では中でも「青木氏と佐々木氏」の「賜姓族の親族関係」が判り、佐々木氏も同じルーツ解明で研究している筈と観て、更に進めると青木氏の事がある範囲で研究されている事が判ったのです。
当時はまだコンピーターは無く勿論インターネットも無く、資料文献も少なく、「ルーツ解明」のみならず、「ルーツ」そのものの「世間の意識」は全くないと言う現状でした。むしろ、「ルーツ」を解明する事、「ルーツ」を述べる事さえもタブー視され、伝統を否定し、酷い時には蔑視される時代だったのです。
確かに筆者の代でもこの程度でしたので親の代では「ルーツの復元」は難しかったことは頷けます。
原因は戦後から昭和の末頃まで世間には社会主義が蔓延し、「伝統」を否定し社会革命を目指す為に左傾化していた事によると思います。
そこで、あるのは「自分の解明努力」のみで、結局はルーツ解明方法は特別には無く筆者の技術手法を取り入れて進める方法で研究の糸口を開きました。その切っ掛けは昭和の5大歴史小説家の特別単行本でした。非売品や対談本や簡単な単行本には彼等の独特の調査方法が書かれていたことでした。
(5人中の2人の小説家が青木氏の事に研究し触れていました。大化期と平安初期の研究)
そこで私なりの利点を生かした解明方法を編み出す以外には無かったのです。
資料の信頼度が高ければそれ程でもなかったのですが、如何せん難しい物でした。
(現在においては益々資料関係や遺された情報が無くなり、又法的な規制の中ではかなり難しいと観られ”無理”の領域に到していると考えられます。まして個人の領域ともなると一つの例として筆者の様な何らかの手法を用いなければ闇雲には不可能です。)
そこで、参考に筆者手法を紹介致します。

それは次ぎの様に成っていたのです。

「筆者の5つの手法」
解明プロセス(PLAN1)⇒集約プロセス(PLAN2)
⇒推理プロセス(DO1)⇒処理プロセス(DO2)
⇒検証プロセス(SEE)

解明プロセス(PLAN1)
1「文献資料探求」
2「電話調査」
3「講演受講」
4「足取調査(聞取調査)」
5「現地調査(写真)」
6「資料整備」
7「読取検証」
8「考察整理」
9「書込整理」
10「保存文書」
以上の順序で進める。

集約プロセス(PLAN2)
そして、これ等から得られた結果を
1 「人、時、場所」に先ず集約して纏める。
更にそれを
2 「理由、目的、手段」に分類する。
例えば、ルーツ解明で重要な位置を持つ家紋で観たい場合は
A 家紋分類集、
内容の重要性に応じて
B 宗派集
C 地理集
D 慣習集
E 歴史(史実)集
以上等で分類する。

推理プロセス(DO1)
集約し纏めたものを「世の中の動き」はある種の行動パターンに分類出来る、即ち「三つの戦略」と「6つの戦術」に照合してある種の「推理立て」を行い、「拾い出し」を行う。
「拾い出し5点(イからホ)]
イ「推理点」
ロ「疑問点」
ハ「問題点」
ニ「矛盾点」
ホ「調査点」
以上を定める。

処理プロセス(DO2)
この3つのプロセス(PLAN-DO)を何度も繰り返して前に進める努力を行う。    
普通は2回(多くて3回程度)でイからハを解決し確率の高い答えが観えて来る。
中には不明不詳は多く残るが、これは「雑学」が拡がると意外に解消する。
(雑学を得て何十年後に解明したと云う事もある。)

検証プロセス(SEE)
これを「他の研究論文」や時代の「社会慣習や史実(雑学)」に照合して「矛盾の有無と修正」をして検証を行う。

この「5つのプロセス」に「3つの脳」の「思考訓練」が働くのです。
特に、「解明プロセス」と「推理プロセス」にはこの「思考訓練」が大きく働きます。

「解明プロセス」には「単一要素に対する思考訓練」
「推理プロセス」には「綜合的な思考訓練」
以上が要求されます。

ここが一番楽しい所です。これが上記した「無意識の思考」であり何時でもイからハの事が頭の中に残っていて「無意識」の中で(下記の庭仕事等の癒しの中で)考えているのです。

上記した「筆者の5つの手法」であるこの「3つの脳」の「思考訓練」の御蔭で「雑学」が格段に広がりを見せたのです。いよいよこの”「3つの脳」の「思考訓練」”の手法で元気付き研究はどんどんと広がりを見せました。
この「特技経験」を活かして「青木氏の研究」がかなり広範囲と成り48年後の今だ余生の課題として続けているのです。
この様な事から得たものを「青木氏氏のサイト」の「青木ルーツ掲示板」や「青木氏氏研究室」等にこの「研究結果」を公表したのです。
恐らくは、”ルーツ解明にはお膳立てされてそれを見ればルーツが判る”と云う程に世間に資料があり、資料がまとめられている程甘くありません。この「3つの脳」の「思考訓練」即ち「特技経験」が無ければ「ルーツ解明」には到達できなかったのではと思っています。
有っても各種資料の「相互関係」が採れていなくて「矛盾」が殆どです。

「青木ルーツ掲示板」の様にお尋ねの「歴史の世界」を思い浮かべて「雑学の記憶」を引き出し「まとめる努力」が必要です。「雑学」が増えれば増えるほどに「歴史の真実の世界」が浮かび上がると云う気がしますが、そこではこの「3つの能力」(「3つの脳」の「思考訓練」)だけでは駄目で、それらを「書くと云う方法(レポート化)」への工夫が別に必要に成ります。
昔の「技術レポート」の書き方ではすらすらですが、「サイトの投稿」はそう上手く行かず、そこで、考えたのは筆者流”まず一度少し書いて留める”と云うやり方です。
青木氏氏には管理人室がありそこに色々なツールがあります。その一つに「原稿書き」するところがありますので、そこで投稿用原稿を作っています。

そうすると”書かねば成らない”と云う意識が緩やかになりますが、頭のどこかで不思議に”無意識に考えている”。と云う事が起こるのです。
テレビを見ている時、庭仕事をしている時等に”フッ”と何か浮かび上がるのです。
長い間の経験と云うか、出来上がった習慣と云うか、この歳に成ると、この瞬間がスロービデオの様に判る様に成っているのです。”アッ来た”と云う感じです。
そうすると、この関係の記憶が蘇って来ます。そうなれば、テレビを見ながら、庭仕事をしながら不思議に「2つの事」(意識の思考行動と無意識の思考)を出来る様に成るのです。手や目を動かし一方で「蘇る記憶」を考え合わせて「書く事の内容」の「関係や答え」が自然に湧いて出てきます。
この「2つの脳」の動作の割合が7:3位のような感じがします。
庭仕事のここを切ってここを伸ばす等の「思考7割」と、全く違う事の脳の記憶の思い出しと緩やかな組み立て動作の「思考3割」とが連動しているのです。
そして、この現象が起こると、後は書くことには問題が起こらず繋がってずすらすらと書ける様になります。
これは、長い間、技術屋としていつも問題を抱えていて、いつも「考える癖」がこの様な「連動癖」が出来る様に成ったらしいのです。
恐らく、「左頭の記憶脳」と「右頭の発想脳」と「後頭の運動脳」が同時に使える癖が出来上がったのではと考えています。
ただこの時の条件がある様で、嫌なこと、見たくない事、腹の立つ事、聞きたくない事等の事(高いストレス)がある場合は起こらないのです。
要するに”好きな事を見聞きしている時”の様です。卑猥な話ですが、意外に便所に入っている時に起こる事があるのです。何も考えない目的だけを達成させるだけの瞬間、つまり、”脳が楽になっている時”でしょう。好きな事で脳がリラックスしている庭仕事や細工物の時にも多く起こりますが、これも「樹木の香り」が「心、即ち脳」を和ませるのだと思います。
恐らく森や林の様な「より広い自然」の中での環境に左右されているのだと思います。酸素やオゾンの豊富さとそれによる温度の格差断層が脳を休ませている気がします。
後はゆっくりと別の時に”書く事”のみです。意外にこの時間が経っていても、”その時に思い出した事、考えた事”は不思議に忘れていないのです。此処がつまり「印象の特技」なのです。

実は、この現象を脳科学的に調べて観てみると、女性にはこの特有な遺伝子的な「思考連動」を持っている本能がある事が判ったのです。
当然、訓練以外には男性には持ち得ていない「特技」だと云う事も。”料理をしながら他の事を考えて目が届いている”という風に、これは子供を育てると云う「母性本能」の一つらしく「前頭葉」と「右脳」と「左脳」のシナプスの「感情主観」による「連動本能」と云うことなのです。
この事が「論理主観」の男性にも長い訓練や習慣で本能ではないこの「連動作用」が出来上がるらしいのです。つまり「女性の本能」と「男性の訓練」の違いでしょう。
男性には本能ではないので必要とする「書くと云う方法]に対する「絶対条件」と云う事ですね。

先日、体調不良でおかしくなって倒れた時に、私の脳の異常の有無を徹底的にMRI、MRA、CT等で2度にわたり解析調査してもらいましたが、この時、偶然にも病理検査の結果で偶然にこの「特技」が証明されたのです。
幸いにも病理欠陥は無く、年齢から観た脳の若さについてどの様な生活をしているのかとの質問で話題に成ったほどに脳神経外科医のお墨付きでした。
実は脳の各部の容積が年齢から見て全く縮小していない事と、特に記憶装置の「海馬」が若い者と同じ大きさかやや大きいと云う事で、普通は年齢から観て65%位に萎縮しているらしいのですが極めて元気とのお墨付きを貰いました。頭の良し悪しは大した事がないのですが、自覚する事では「海馬」の印象力が繊細且つ敏感に動作している事を示していて、この結果「記憶力」がかなり人より秀でている事が証明されたのです。(実は記憶力は人より確かに良いと自認していて自慢なのです。)
結局は、若い外科医との話中で、「3つの能力」(「3つの脳」の「思考訓練」)と「書くと云う方法]に対する「絶対条件の繰り返し」が「脳の活性化」を起しているとの結論に達しました。
(脳外科医もこの、「3つの能力」(「3つの脳」の「思考訓練」)を肯定)
(海馬は記憶するか否かをその時の印象力にて判断し取捨選択する機能を持っている。)
実はこれは学業ではそれ程でも無いのだけれど、記憶だけは同じく孫が驚くほどに飛びぬけて良いので、この特技が遺伝されている事でも証明できる様です。
内心、何時かこの孫等もこの青木氏の歴史を記憶で引き継いでもらえると喜んでいるのです。

さて、その為にもこの「記憶力」で青木氏の歴史を更に紐解き、何とか「青木氏の範囲の伝統」を護り後世の青木さんに遺そうとしています。現在のところインターネット等を観ても他の氏は殆ど氏の歴史は遺されていない模様です。
そこで、「3つの発祥源」と「神明社」の「物造りの氏上・始祖」である事も意識して、歴史資産の元として張り切って、今度は青木氏に大いに関係する「神明社」関係の研究の記憶を「特技」で全て吐き出そうと考えました。
では、前置きが長くなりましたが、未完成ですが完成を待っているとアウトするかもしれないので先ず遺すことの意味の方があると考えて「神明の記憶」を吐き出し遺します。
後は後で判った事は随時に書き足す手段に出れば良いと考えますのでそのつもりでお読みください。

先ず青木氏と守護神との関係がどの様に成っていたのかを研究室やルーツ掲示板のご返事のところ等で色々なレポートに散在して書き記してきましたが、此処で一つにまとめてとおきたいと考えて整理する事にしました。元々昔調べたものである程度の論分と資料として保管しているだけのもので完全に整理されずにいたものです。
それを今回現在に合わせて論じ直して綜合的にまとめて本タイトルでレポートしています。中には既にお答えした文章を引用して重複するところもあります。
但し、資料データも他の文献と内容が青木氏に関係する事と歴史的な期間の限定等に依って整理している為に異なります。それはそれで面白いとお考え頂いてお読みください。それを前提とした研究論文に成っています。

付録1
「中国の新幹線脱線問題」 ルーツ掲示板(後刻に研究室レポートにする予定)参照

付録2
「肝付氏の氏姓族」
1 明確な出自
救仁郷氏、北原氏、検見崎氏、萩原氏、前田氏、岸良氏、野崎氏、川南氏、小野田氏、三俣氏、鹿屋氏、橋口氏、山下氏、川北氏、頴娃氏、出水氏、井口氏
2 支流の出自
梅北氏、馬瀬田氏、安楽氏、津極氏、加治木氏
3 同族の出自
薬丸氏、波見氏、小城氏、内之浦氏、榎屋氏、窪田氏、慶田氏、富山氏、二方氏、中村氏、山口氏、永嶋氏
以上 支流族の末裔34氏
大蔵氏系一族 合わせて42氏

分流、分派、縁者を加えるとこれ以上に数倍程度はあると観られる。
123の分類が不明であるが第2次の支流一族が数え切れない程にある(下窪氏、板敷氏、豊留氏)
これ等の出自の仕事役処を見ると「税の徴収と産物、土地の管理」に類するものである。
これ等の氏の通名には「兼」が前に付いている。
家紋は肝付氏123は「三雁金紋」 支流に「丸に桔梗紋」が多い。

次ぎは神明社の分類と検証です。
「青木氏と守護神(神明社)-14に続く。


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青木氏と守護神(神明社)-12

[No.280] Re:青木氏と守護神(神明社)-12
投稿者:福管理人 投稿日:2011/10/13(Thu) 11:02:46

>以下 神明社の12に続く

>「2足の草鞋策」や「シンジケート」と云った「自由性を持つ組織」を保持しながらも、このスクラムは別の意味で「排他的環境」の傾向であった事も考えられます。この「氏」の青木氏も「姓化」をしようとする方も遠慮した事も考えられます。そもそも徒弟制度の中で「氏の継承」をしていた事もあって「姓化」は”「差別化に成る」”と考えたかも知れません。
>これは「商い」のみならず「3つの発祥源」と云う立場の印象から来るものが強く出ていて「2面性」を持っていた事による弊害とも考えられますが、これは「家訓10訓」で誡めているので考え難いのです。

>それはそれで当然に止む無き事として、これは「姓化」に依って起こる「商取引」が当時の「運搬・運送状況の環境」に影響して全体的に大きく関係している事から来ていると観ます。
>全体的に観ても、例えば鍛冶族は「金属の搬送」が可能な港と云う様に。上記した様に、その職能種の「殖産」の特長を生かす「地理性(環境)」を先ず優先し、「商い」に必要とする「市場性」は現在と異なり第2次的要素と成っているのです。従って、其処にはこの「地理性(環境)」-「市場性」の「2つの要素を結ぶ線上」の「運搬・運送」に適する地域に「姓化」が起こっているのです。
(前文末尾)

  「指導階層の融合:2階層の融合」
主に「民族氏」に所属していた「180もの職能集団」から「姓化」による「姓氏」が上記した様に起こっていたのですが、一方の「融合氏」にも一つではなく2階層に分離した「融合」が起こっているのです。そこで少しこの事にも触れて置きます。
そもそも「指導階層の融合」とは、平安末期の頃に最終的に「氏の優劣」は決まり鎌倉幕府へと移行しますが、「完全な氏融合」は更に「細分化」の途へと変化して行くのです。
(「第1融合氏」と「第2融合氏」)
そして、一方「民の融合」は鎌倉期からその「融合技能集団」の首魁を長として上記の経緯と背景から一大勢力を持つ様に成り、その勢いで「正式な姓氏」への過程を歩み始めるのです。
この様に日本には「指導階層の融合」(融合氏、民族氏)と「民の融合」(姓氏)の「2つの異なる経緯の融合」が分離して起こったのです。
それは「氏家制度」即ち「身分家柄制度」による結果から分離したのです。
「指導階層の融合」=(「融合氏」+「民族氏」)=「第1融合氏」+「第2融合氏」
「民衆階層の融合」=(「職能技能集団」の「姓氏」)=(「品部」と「部曲」の2つの融合)

前記した「移動、移民、難民、帰化人」の第0期から第5期までの経緯により頑なにその属性を護っていた「民族氏」が、鎌倉期以降は「第1融合氏」との血縁を積極的に進めた事から「第2融合氏」(融合2)へと変化して、国内では「完璧な2種の雑種融合」が起こったのです。
これは九州全域を勢力圏に置く阿多倍一族一門の「大蔵氏」が「自治」を獲得した事、又一門の「たいら族の滅亡」を切っ掛けに、「民族氏」としては先読みして最早このままでは生きて行く事は困難と観て「盤石な勢力」(「融合力」)を固める為に、その「自治の特権・自由性」(「融合要素」)を生かして、特に関東以北を征圧している藤原北家筋秀郷一族一門との血縁に踏み切ったのです。これに依って「民族氏」は「第2の融合氏」へと変化して行ったのです。
この「指導階層の2つ融合」(第1融合氏、第2融合氏)と、「民の融合」(「品部」と「部曲」の2つの融合)に分かれて行った事が後に「完全融合」を成した要因であったと考えられます。
もしこの「4つの階層」が混在一体と成って融合していたとすると、身分階層の境界が薄らぎ鎌倉期以降の社会体制は全く違ったものに成っていたと考えられますし、「共和国的な社会」に成っていた可能性があります。
これらの「融合」が「上層部の2つ」と「下層部の2つ」に分かれてそれなりの特徴を生かして「融合」が進んだ事と成ります。
ところが、この階級社会の中で「上層部」と「下層部」の間には、実は積極的な「融合」は起こらなかったのです。この状態は「士農工商」の身分制度と「氏家制度」の家柄身分の「吊り合い慣習」により歯止めがかかり原則として江戸時代中期まで続きました。(室町期の下克上、戦国時代の混乱期を除く)
況や、これは「下層部」の「民の融合」が国民の最低8割以上を占めていた事から、彼等の全てが「職能集団」の「品部の民」と「部曲の民」で主であった事から、「物造り」を「絆」にして「融合」が起こった事が原因していたのです。
「上層部の2つ」は身分家柄制度があった為に「横関係」で相互間の「融合」は進み、「下層部の2つ」では身分家柄制度が希薄であつた為に「縦横関係」で相互間の「融合」は進みましたが、「上層部」と「下層部」の間には「身分制度の垣根」が強く「融合」を起すだけの「力」つまり「融合力」とその基と成る「融合要素」が無かったのです。
「融合力」+「融合要素」=「異種間融合」
しかし、「下層部」の「品部」と「部曲」の間には「融合」を阻害するこの「身分制度の垣根」と成るものが無かった事に依って「自由性」(「融合力」)が発揮されて「限定した領域」で「融合」は進んだのです。
上記した「部曲の融合」は「品部の融合」に比べて「異なる融合の発展」を起こしますが、然しながらその「融合要素」となったのが、「部曲」は農業の傍ら「物造り」の「一つの工程」(原材料生産)をも一部で荷っていた事なのです。つまり、「融合要素」=「物造りの工程」であって、その「限定した領域」とは「物造りの工程」に関わった「重複部分での血縁融合」であったのです。
「物造りの工程」が縁と成って血縁して行ったのです。
総じて云えば、「品部の民」即ちその先祖は「後漢の民」と「在来民」(部曲)との「血縁融合」と云う事に成ります。
その証拠に平安期に使用されていた「百姓」(おおみたから)と云う「百のかばね」の言葉は、本来は、正しくは「皇族」と「賤民」を除く良民一般(公民、地方豪族含む)の総称(奈良大化期から平安末期)であったのです。「農」を意味する言葉ではなかったのです。
これは「品部」と「部曲」との階層の間には上記の「物造りの工程」の「融合」が有った事から一つとして見なされて区別せず相称して「百姓」と呼称されたのです。
(「品部」や「部曲」の中には姓を構築した「豪族」・「豪農」も存在していた。)
「百姓」の呼称が「農民」(部曲)のみと使用し限定されたのは室町末期から江戸期初期に掛けての事なのです。正式には「士農工商」の「封建社会の身分制度」が確立してからの呼称なのであって、平安期から室町末期までは「氏家制度」の下では「士農工商」の「士」の上層部「氏」を構成する「武家」階級を除く総称であったのです。「士」にも下記に述べる「3つの階層」(123)があって「農工商」に類する
結局、奈良期・平安期から室町末期までの「農」と、室町末期から江戸期中期までの「農」ではその質は異なるのです。
従って、因みにルーツ探求から観てみると、藤原秀郷一門が鎌倉期に成ると失職離散して「農」に携わった事は江戸期の「農」とその持つ意味合いは異なるのです。
鎌倉期以後から室町期末期の「農」は「兵農方式」が未だ主流の時代でもあった為に一時的に主体をどちらに置き変えたかの違いだけであったのです。身分的要素の低い呼称なのです。
 鎌倉期以後から室町期末期の「農」(兵農民)≠ 室町末期から江戸期中期までの「農」(農民)
(これ等の雑学はルーツ探求で資料を考察する時に特に注意する必要があり、時代考証に於いて大変な判断の間違いを起す。)

ところがこの「農」に関わったものとして分類するとそもそも次ぎの「4つの農」があるのです。
1 「武士」で有るが生活の糧として「農」も兼ねる者(兵農)
2 「農民」で「農兵」を兼ねている者(農兵)
3 「農民」で若者が「傭兵制度の組織」に組する者
4 「農民」として純然として「農」を営む者

そして1には次ぎの階層があったのです。
A 下級武士で姓名・家紋を保持しない「兵農民」である者
B 下級武士で地元の地侍の「郷士」である者(姓名・家紋を保持)
C 中級武士で土豪(郷士長・首魁)である「庄屋、名主」である者(平安期に豪族であった)
D 上級武士で豪族で「郷氏」で「大豪農、大地主」である者(室町期前期に守護等の氏上)

1のAと2と3が室町期の末期に「農兵」として働き「武士」として名乗りを挙げたのです。
1のAと2と3は元々姓名や家紋や氏を形成せず、江戸初期に成って仕官し改めて姓氏、家紋、等を持つ様に成ったのです。
因みに青木氏における「農の青木氏」と成るルーツは、1のB、C、Dで、多くは記録からCとDが主流と成りますが、「4つの青木氏」の「家臣団」の「未勘氏」と、前記した青木氏に所属する「部民」の「絆結合」の「第3氏」と、青木村の「4の農民」の3つが明治期に「姓氏」として発祥しているのです。
皇族賜姓族青木氏にはこの「農兵」は原則として存在しません。
皇族青木氏と特別賜姓族の藤原秀郷流青木氏の一部には「農兵」は存在していた事が添書などから僅かに観られますが、そもそも秀郷流青木氏には護衛集団(武装集団)を平安期から室町末期までそれを本職とする集団であって特段に「農兵」を傭兵する必要性が無かったのです。
(皇族青木氏の甲斐武田氏系青木氏や丹治氏青木氏の2氏は除く)
5家5流の賜姓青木氏は、源氏と異なりその「生様」は前記した様に抑止力(シンジケート、秀郷流青木氏、経済力)を全面に押し出し「戦い」を前提とした「農兵」を必要とする事に組しなかったのです。

上記した「品部の姓化の氏」と、上記1から3の「農民(部曲)の姓化の氏」が別系列で興った事に成ります。
実際は「百姓」の呼称は「農民」だけではなく山民や海民等を指す「調庸の税」の「被支配民一般」の用語として正式には平安期(現実は室町期)までに用いられた言葉なのです。
「農民」が「百姓」と限定して呼称され始めたのは資料の表現から観ると鎌倉末期から室町期に入ってからの事なのです。(タイムラグがありここでは奈良期-平安期の意味を採る)
これは、奈良期から鎌倉期末期(平安期)まで農業の傍らこの「品部」の集団に組み込まれて「物造り」の一工程(素材生産)を担っていた構造に成っていたからによります。
「物造り」の「原材料の生産と加工」、一部はそれを本業の農業として彼らに委ねられていたからなのです。
依ってこれ等の「物造り」の関係から「品部」と「部曲」の関係は切り離せない関係にあって「品部」と「部曲」の「融合」も当然に起こったのです。
しかし、実は平安期では「氏家制度の根幹」と成っている「身分制度」を護る為には5つある階層間の血縁を朝廷は嫌ったのですが、「下層域」では護られず「税の徴収体制」が崩れる事を恐れた為に法を定めて護ろうとしました。中でも「部曲」と「品部」の血縁には注意を払ったのです。この状況は鎌倉期まで維持され、室町期に入り群雄割拠が起こり次第に崩れ始め、この結果「下克上、戦国時代」の混乱期を招き、安土桃山からは引き締め始め、遂には江戸時代に入り再び「氏家制度と税の徴収制度」の根幹部分を護る為に「士農工商」ではなく「士・農・工商」の身分制度を確立しました。
この制度の中でも「物造り」の勢いが強く「融合力と融合要素」が働いて上記した限定部分で「品部と部曲」との間では血縁が続いたのです。
そもそも「後漢の品部」が渡来してその技能を最初に教わり吸収したのはこの「部曲」なのです。従って、そのような絆から血縁融合は止める事は出来なかったと観られます。
即ち、日本の「民の融合」は名付けて「物造り」を媒体とした「物造融合」であった事に成ります。
ですから、日本は「融合」と「物造り」は無縁ではないのです。
「民の融合」(品部、部曲)=「物造融合」=「雑種の優秀性」
この国民総出で「物造り」が進んだからこそ積極的な「融合」は起こったのであり、その「融合」が進んだからこそ「物造り」が顕著に進んだと云えるのです。そしてその「物造り」は当然に「雑種の優秀性」を生み出し増幅させて行ったのです。この「民の融合」即ち「物造融合」が自然の「サイクルの流」を生み出したのです。
しかし、其処にはサイクルから出る弊害も見逃せず、「荘園制の行き過ぎ」等前記する様に色々な角度から論じて来た様に「天智天皇」等数人の優秀な天皇が「国策3策」を命を賭けて「弊害の苦難」を乗り越えて遂行したからこそ成し得た優秀性をベースとする「物造り国家」が完成したのです。
そしてその「物心両面からの策」が後世から観ると理に叶っていたのです。此処に本文前節の力説部分があるのです。

 「現在が完全融合期」(「民の融合2つ」「指導階層の融合2つ」)
遂には、日本は「自然の摂理」により「渦中の芯」に向かって、室町末期では「下克上」と「戦国時代」の混乱に合わせて、次第にこの「民の融合2つ」と「指導階層の融合2つ」は更に一つに成る為の「完全融合」を重ねる過程へと辿るのです。
しかし、ところがこの過程を辿るものの「完全融合」を成す過程は「氏家制度」と「封建制度」の社会により「身分家柄」の「縛り」が起こり、その「縛り」により「指導階層の融合2つ」には更に階層に階層を何段も造るという「吊り合い」による血縁現象が生まれ、結局、江戸末期か明治初期まで緩やかな変化と成ったのです。
ですから重要な事は、「完璧な2種の雑種融合」の論理的な「完全融合」と言う定義では、未だそう遠くない100年程度前の明治初期(平等の契約社会)の過去に始まり起こって居るのです。
この過程で見る限りは様々な「縛り」が取れて「完全融合」は丁度、現在であるかも知れません。
論理的に云えば、日本に於いては現在が最大の「雑種による優秀性」が顕著に出て来る時期と観られます。
つまり、この様に明らかな様に、「日本人の優秀さ」は動物に見られる「雑種による優秀性」が顕著に出た事に依る結果以外には有りません。
そして、その「根源・基点」は天智天皇の「青木氏」から始まった「融合氏」(国策3策)の厳しい経緯から起こっているのです。我々「4つの青木一族一門」はこの「根源・基点の象徴氏」なのです。
「根源・基点の象徴氏」青木氏から始まった「融合氏」の現在の発展は天智・天武天皇の先見性に関わっていたとするも過言ではありません。

「研磨剤」(「3つの脳」)
論理的に云えば、現在がその「雑種による優秀性」が出る時期であると観られる事に成ります。
では、”その「優秀性」はどの様な処に出るのか”と云うことですが、特に、それは「融合」に切り離せなかった「物造り」と云う場面にあると観ていて、その「優秀性」を引き出す原石を磨く「研磨剤」(「3つの脳」)は家訓8にもある様に下記の事だと見て居るのです。
宝石(融合氏)も磨く事(思考訓練)なしでは成し得ませんが、故に其処に「力説点」を置いているのです。

「民の融合2つ」→「雑種による優秀性」←「3つの脳」→「物造り」←「指導階層の融合2つ」

「力説点」
その「融合氏」の「優秀性」(特技)が、”「3つの脳」(「思考訓練」「熟練技能」「熟練技術」)の努力”の「遺伝性特技」に現れたものであると青木氏の歴史的史観からの研究結果から主張しているのです。

「3つの脳」=(「思考訓練」「熟練技能」「熟練技術」)=日本人の「遺伝性特技」
”「物事」についてよく考え、それを何かに「応用」し卓越し、それを「文明の形」にして生かす。”
この特質です。

逆に云えば、「三国志」の中にも出ている様に劉備が立ち上がった理由の「中国の国民性」ですが、中国では今でもその気風は消えていません。
それは「法より人」「石は薬」「雑は良識」の中国の諺に物語ります。
日本の「遺伝性特技」=「3つの脳」の「思考訓練」の「物事に真面目に考える国民性」と、「法より人」「石は薬」「雑は良識」の考え方とは逆なのです。
此処に「中国との違い」があり決定的要素として差が出ているのです。
それは「7つの民族」の「融合の所以」であって、「民族氏」の「個人の志向」を重視するより「集団性」を重視する「融合氏」」(2+2=4の融合)から起こった「国民性」なのです。

その昔は中国は世界でも「物造り」は先進国であった筈ですが、それが1/10の国力も無い小さい日本が「物造り」の先進国に成って行ったのは、中国の支配民族がころころと変わった事でもあり、取分け主にその「物造り」を進めたのは、中でもそれをリードした「優秀とされる漢民族」で有った事によります。
日本には大きい意味で「支配民族」は無く「7つの融合単一民族」で支配されていた処に差異があります。しかし、其処に「漢民族」が日本に流入したのです。
「漢民族」は中国西側域(ヘトナム)にも武力難民と成り流れ「西国の民族」は押し出されて北九州と南九州に渡来する事と成ったのです。

その優秀な漢国が滅び16国に分散してしまい、その結果、中国では「物造り」の精神は衰退したと観られます。しかし、その「漢民族」の東の国を統制していた将軍の「光武帝」が東に勢力を伸ばし朝鮮半島の3韓を制圧して統合して「後漢国」を建国しました。
矢張り、この優秀な後漢の民は「物造り」を伸ばし、結局21代末帝の献帝の時に滅びます。その後、後漢は隋に徳化して行き618年に滅びますが、それまでは「物造り」は「180の職能集団」に分類されて強く政策的に継承され続けていました。
現在から観てもこの時代までには後漢の民は素晴らしい優れた文化財を遺しているのです。漢民族の「物造りの優秀さ」が証明されます。
その618年の時に末帝末裔の子「阿智使王」と孫の「阿多倍王」が後漢の民の17県民200万人を引き連れて日本に渡来し、帰化して来たのですが、青木氏の関係論文で論じている様に彼等がこの「物造り」の技能の下地を日本にもたらすした事でも明らかです。
しかし、この様に「三国志」頃から観ても、中国の国を支配した「民族同士の融合」は一つの融合民族を構成する程に起こって居ないのです。これは中国人は「個の意識」が強くその延長の「民族意識」も強くそれが下で中国の長安を中心として「民族の住み分け」で済ました事に依ります。
日本に帰化した彼らの神は「道教」-「産土神」であった事でも判ります。
つまり、「意識問題」として云えば、この頃の「民族の縛りの意識」は”一民族はその民族の中で暮らす”と云う事が常識であった事なのですが、日本では「7つの民族」が集まっていて不思議にその「縛り」は低かった事が「融合」を促進させたのです。
確かに、彼等が渡来した時は、色々な資料を観ても、上陸時の初期から奈良期の前半までは遺跡からこの傾向が観られましたが、大化期を境にそれなりの「縛り」はあるにしても中国の様に生活圏の全周囲に城壁を構えその中に「民族」を防御するまでには至っていません。
大化期付近から変化したしたのは数々の「天智天皇の施政」からも観ても判る様にこの「民族」の「縛り」を無くす「公地公民」等の「中央集権政策」を矢継ぎ早に実行した事が原因しているのです。
つまり、これ等の政策は全てその「融合政策」に通じているのです。
その「融合の象徴的代表」が「青木氏」なのです。つまり「青木氏」そのものが「民族の縛り」を無くす「象徴策」であったのです。
恐らく日本は山岳部の多い「国土の地形」が「縛り意識」を起す環境下に無かった事も原因していると観ます。
中国では、”一族が住む地域の周囲全域を城郭で広く囲み、その中に同一民族が暮らす”と云う、つまり、”城郭内に住む民は皆少なからず親族”と云う形の中国の都市構成を観ても解ります。
この「民族状態」では、地形から「民族の縛り」が起こらず開放された状態の日本の様には、中国では大きな「雑種交配」は起こりません。
「山岳地形による集団生活」と「平地での城郭による集団生活」との差が融合をより容易にしたのです。
とすれば、この住み分けと云う事等から考えれば、中国では「民族」、日本ではより小さい単位の「氏」の「住み分け」であった事であります。

中国=「民族」=「平地での城郭による集団生活」
日本=「氏族」=「山岳地形による集団生活」

この「氏」の社会の中に「異民族」が混入し来たのです。ましてや「国土の地形環境」の違う中に入ってくれば「自然の摂理」で「人心の拒絶反応」が起こるのは必然です。
しかし、この「拒絶反応」が「技能伝授」と云う形で「在来民」に福をもたらし事で大きく起こらなかったのです。「拒絶反応」-「技能伝授」=「在来民に福」
しかし、「拒絶反応」が起こらなかったとしても「民族性の思考原理」は依然として残っていたのです。何とも不思議な現象です。
「拒絶反応」と成る原因の基の「民族性の思考原理」がそのままに潜在したままで「技能伝授」がそれを押さえ込んだと云う事です。
普通ならば「拒絶反応」が起こり「民族性の思考原理」を排除してくれる筈です。
しかし起こらなかったのですから「民族性の思考原理」は社会の中にそのままに存在してしまったのです。丁度、「日本」の九州に「中国」が出来た事に成ります。
これでは中央の為政者は慌てます。”何とかしてこの「民族性の思考原理」を解消しないと危険だ””何か起こる”とする危惧を抱いた筈です。
それが前記した様に「民族氏」と「7つの民族融合」を成した「融合氏」とのその2つに問題が起こったのです。
当然に初期的に「7つの民族融合」が折角進んだ社会の中に腫瘍の様に再び危険な火種の「民族性」が出来てしまった様相です。こうなればもう一度中期的に「融合政策」を推し進める必要性が出てきます。
初期は恐らく「地形的環境」から自然淘汰が起こり「自然融合」が起こったと考えられ、中期は「自然淘汰」では行きません。政策的な解決策の実行が必要と成ります。
それが「大化の融合政策」であったのです。それには為政的にはシンボル的なものが必要と成ります。
つまりそれが「青木氏」で有ったのです。シンボルに位置づけられた「青木氏」にとっては国体の成否の如何を左右する任務であり宿命でありますが、嵯峨期(弘仁の詔勅)から発祥した源氏に取っては既に165年も経過してその任務の認識度は低下していた筈です。
前記した様にこの2つの賜姓族グループの間には根本的に認識度が異なっていた事に成り、清和源氏分家頼信系の義家等が採った「愚かな行動」はこの国体如何を左右すると云う「認識欠如」がその任務を全うする事も無く、更には「源氏滅亡」までを招いてしまったのです。

「融合氏の血縁性」
更には、日本では「国民思想」として「氏間の融合」を「子孫存続」の「血縁の前提」としていた事でもあります。
飛鳥、奈良、、平安期の記録から「融合」という観点で分析して観ると次ぎの様に成ります。
例えば、「氏の象徴」の天皇家で観てみると、現在では考えられない極めて高い「純血」を護りながらも一つのルールに従っていた事が解ります。
そのルールを検証すると、奈良期の子供の作り方で観ると、前半は2親等から4親等の近親婚を行って極めて高い純血婚で保持していたのですが、後半は大化の改新により、天智天皇が「氏の融合」とこの「近親婚の弊害」をより無くす為に、次ぎの様な改革を行ったのです。
例えば、純然たる「融合氏」の「発祥源」と成った天智天皇と天武天皇の間では、天智天皇(中大兄皇子)の子供は地方の豪族からの娘(いらつめ 郎女:妥女 人質)を仕組みとして入れて子供を作り、その子供(姪)を天武天皇の妻に迎えて「純血」を護ると云う慣習が採られています。
そして、その地方の豪族も同じ慣習に従っているのです。特に「八色の姓」族までの身分家柄の氏を構成する宗家、本家筋ではこの「純血」が維持されていたのです。
そして、この「妥女の制度」(うねめ)は「氏の融合」を推し進める為に全ての一般地方豪族からの郎女(いらつめ)を「人質」として朝廷に仕えさせ、その性質は「女官奴隷」とし、「純血」の中に制度的に「混血」を行う為の正式な「妻の制度」(皇后、妃、嬪)の補助身分として「妥女」(うねめ)制度を導入したのです。
その為に、妻は4段階にして、先ず、皇后と妃は2親-4親等の親族 嬪は大豪族とし、妥女は地方の小豪族の他氏の郎女とし、この前2段階で産まれた子供の中から近親婚の弊害を受けた皇子を除き4段階の妻の身分に順じて皇子順位が定められ、4世族王までそのルールに従う形を採っているのです。
そして4世族までも上記した「純血保持」のルールに従に従います。(大化期前は6世族まで)
皇子数が少ない場合は第5世族、場合に依っては第6世族まで引き上げてその皇子を定める皇族身分の継承を行い、「子孫の融合」を天皇家に入れる仕組みにしたのです。
この意味で「皇族関係者」のみならず「八色の姓」の範囲の各豪族の氏等はこの「仕来り」に従いますが、決して「性的目的」や「権力継承者」の保全目的からの「妻4段階の慣習」を保持したのでは無いのです。近親婚は定められた「仕来り」であって異常とされる慣習では無かったのです。
つまり、「氏融合」の政策が進むに連れて薄れる「純血低下」に対する「権威の低下」の防止策であった事に成ります。
「純血」は当時の社会体制から民を除く為政者の立場にある者の「権威保全システム」で有った事に成ります。
平安期までの「氏」はこの意味で鎌倉期以降の急激に増えた「氏」とは「純血保全」と云う点と、「氏として朝廷の承認」(「八色の姓制度」と「氏姓制度」で縛られていた)の有無も含めてこの2点が異なっているのです。
平安期に於いては無法治に「氏姓」が発祥したのではなく「血縁性の縛りや制度」に依ってある一定の「品格、資格、家柄、身分、勢力」などの条件に依って管理されていたのです。
「日本の民」も「中国の民」の様に「民」の段階に於いても、初期は地域を限定して「民族間血縁」であり、ある種の「近親婚」で有ったのですが、それが崩れて日本では、第2期頃(飛鳥期-大化期)からやや早く完全な「混血婚」と成って行きます。
少なくとも、平安末期までは「純血の保全」と「子孫融合」又は「氏の融合」を本来の目的としていた慣習だったのです。しかし、第4期の鎌倉期以後、爆発的、飛躍的に「氏の融合」が進んだ結果その目的が変化して「権力継承者の保全」へと変化していったのです。

「純血の保全」と「子孫融合」(「氏の融合」)⇒「権力継承者の保全」

その意味で第2期頃この「仕来り」と「慣習」で生まれた第6位皇子の皇族賜姓族を始めとする青木氏は「氏の発祥源」であった事を意味します。
平安末期の賜姓源氏(10代目頃)には、「氏の融合」よりは「武家」(公家に対する武家の意味)の「権力継承者の保全」に変化して、この意味合いは少し異なって行きます。
反して云えば、「氏の融合」が進みそれに連れて「純血保全」は低下して、その意味合いが社会の中で低下した事に成ります。

この様な「仕来り」で生まれた平安初期までの「氏の融合」に付いては、若干、この時には記録では「渡来人」と云う言葉が存在している事から観て、未だ確かに「幾つかの民族」を意識していた事に成ります。
日本書紀にも”蘇我入鹿が「中大兄皇子」のグループに粛清された時にこれを聞きつけた「古人親王」が[渡来人が殺された]と叫び奥に逃げた”とするその発言が記録では遺されています。恐らく、蘇我一族類縁の「古人親王」は「中大兄皇子」の宿敵であり、この粛清がどの程度に及ぶか判らない為に恐れて逃げた事が伺えます。
その時に発した言葉が30年後(675)の「舎人親王」の日本書紀編集時に記録されるという事は、その時の発言の意味が大きく「朝廷内の意識」の中に未だ残っていて継承されいた事に成ります。
つまり、この記録から観ても、皇族の一部が応仁期に渡来した蘇我一族の類縁でありながらも自らも「渡来人」の意識を持っていて、然りながら一方では「渡来人」で無いとする「不思議な過程域」(重複期)であった事を物語ります。
丁度、何年も経たないこの時期に「青木氏」が賜姓され発祥をした事もこの「不思議な過程域」即ち「融合意識」が「氏意識」へと「移行する時期」の中にあった事にも成ります。
そうすると日本書紀に”この記録を遺す”と云う事は50年後の700年頃にはかなり「氏への融合」が急激に進んでいた事を物語ります。
そして70-130年後頃には全体の書物の記録から「渡来人」の言葉が消えているのですから、「氏の融合」は爆発的に進んだ事を物語ります。「氏融合意識」で「渡来人意識」を消え去られる程度に融合が急激であったことに成ります。
この「不思議な過程域」が「氏融合の急激な変化」に依って「渡来人意識」が人心から消え去った事に成ります。
奈良時代末期は「初期の民族融合」が進む中で未だ在来民の「民族の意識」は多少残っていたことを物語り、「氏の融合」は上記した様に20程度の「民族氏」の中で、同じこの時期に発祥した伊勢青木氏や近江青木氏がその「氏の融合」の発祥基点と成った事を証明します。
(当時の一般の民は「民族氏」又は「氏」の構成員の立場にあり、「部」の職能集団での構成員でもあった。)

古代の「物造り」の「部」を管理統括する国の長官を「国造」(くにのみやつこ)、管理者「伴造」(とものみやつこ)と云う呼称であった事はこの政策を優先したと観られます。
(この下に現地で実務管理をさせた「伴造]: とものみやつこ、労役をする民を伴って朝廷の税外の仕事に出仕した事からの呼称)
”「物造り」即ち「部制度」を「国造」(国つくり)”としている事は、明らかに奈良期から朝廷は「優先政策」として「物造り」としていた事を物語ります。
これは「国造り」=「物造り」から来ています。
「国家の安定」とその根幹を成す「物造り」の政策を推し進める為には、日本の人民を一つにする必要があり、その為に「民族氏」から「融合氏」へ政策的に移行させる必要に迫られていたことを物語ります。
「物造り」は「国造り」であり「氏造り」(融合)であることに成ります。
逆に云えばこの事は「7つの民族」の「異民族国家」の認識が未だあった事に成ります。
この意味でも大化期から平安末期では、「国造り」=「物造り」を成すには「民族氏」から「融合氏への政策転換」に迫られていた事に成ります。

「国造り」=「物造り」=「氏造り」(融合)⇒「シンボル賜姓青木氏」〓(3つの発祥源)国策3策

そもそも筆者は「青木氏」を研究している中で、とりわけ本論の神明社の研究で”「青木氏の持つ意味」は何であったのか”と云う事に拘り研究して来ました。
それは、中大兄皇子は第6位皇子を臣下させる目的の「天皇自らを護衛する集団の構成」の目的と、もう一つの目的は「7つの民族」で構成される国からより民族同士での争いを無くす為により安定した国、又は「日本人」にするには「氏の融合」と云う「政治的テーマ」が有ったのだと考えて居るのです。
それを裏付ける次ぎの11の事柄が考えられます。

1「不思議な過程域」(融合意識が氏意識への移行期)であった事。
2「氏の発祥源の青木氏」と「嵯峨天皇による青木氏から源氏に変名」と云う「源」の氏名の賜姓を使った事。(青木氏から源氏まで16代も賜姓を続けた理由)
3「天皇の皇族」をしてこの「臣下」と云う手段を採った事
以上の主要3点に観られると考えているのです。

何も臣下せずしても護衛集団の目的は果たせる筈です。確かに皇族は「武力を持たず」の皇族の仕来りはあったにせよ第4世王の有名な「栗隈王」らは自ら武器を持っていた事は日本書紀の中の大友皇子と大海人皇子との争いの場面でも出てきますし、他の記録を観ると徹底されていなかったと見られます。わざわざ「臣下」という手段に出たのもこの「氏の融合」政策を押し進める目的があったと強く考えているのです。
更には、次ぎの事柄でも検証出来ます。

4「第6世族」までを皇族王としていたのを第4世族までとした事、
5「第7世族」を都より遠路の坂東に配置した政策の「坂東八平氏」と名づけられた事、
6「准賜姓」を許し彼等に地名の氏名を名乗らせ坂東守護を許した事、
7「嵯峨天皇」の以後の皇族が下族する際に使用する氏名を「青木氏」と詔で定めた事、
8「後漢の阿多倍王」の渡来子孫に坂上氏、大蔵氏、内蔵氏等の賜姓をした事、
9「敏達天皇」の孫の芽淳王の末裔をこの渡来人に娶らし融和策を講じた事、
10「後漢渡来人」等を「遠の朝廷」として「錦の御旗」を与え九州全土の政治を任せた事、
11「本文の神明社」の配置策などから観れば明らかに「氏の融合策」で有った事
以上の事が覗えます。

故に、この平安期初期までの「氏融合」の積極策が効を奏して、”「氏の融合」は爆発的に進んだ(100年間)”のだと観ているのです。
その「氏の融合」は文化・由来の括りで分ければ次ぎの「6つの族」に分類されます。ここでは「A~Dの族」を中心に論じています。
EからJまでは個々に異なる文化・由来の経緯を持っています。

青木氏の関係族の構成(守護神別分類)
A 皇族賜姓族の氏の発祥源青木氏(朝臣族 5家5流青木氏 25氏)
B Aの母方で繋がる藤原秀郷流青木氏(藤原秀郷流青木氏:嵯峨期詔勅の特別賜姓族青木氏116氏)
C 室町期と江戸初期にA、Bの縁類として発祥した青木氏(未勘氏 家臣団 徒弟制度)
D 明治初期の苗字令で発祥した青木氏(第3氏 村民 絆結合 職能集団)
E 宿禰族橘氏(葛城王始祖)の青木氏(石清水社社家 皇族1氏 A族別系)   
F 嵯峨期詔勅にて発祥した皇族系青木氏(多治彦王・島王配流孫青木氏2氏 甲斐青木氏4氏)
G 嵯峨期から花山天皇期までの賜姓源氏(賜姓同族源氏11氏 源氏系配流孫青木氏1氏)
H 皇族賜姓族佐々木氏(天智天皇賜姓氏 近江佐々木氏1氏 同族血縁氏青木氏1氏)
J 宇多天皇佐々木氏(嵯峨期詔勅氏 滋賀佐々木氏1氏)
K 上山氏系滋賀青木氏(近江賜姓青木氏の遠戚青木族1氏)
 
「4つの青木氏族」(A~D族)
(2つの血縁氏)-神明社
Aの5家5流25氏を発祥源とした青木氏
Aの藤原氏の母方で繋がる嵯峨期の「血縁的類」の116氏の青木氏、(神明社・春日大社)
(2つの絆結合氏)-神明社
A、Bの青木氏116氏に何らかの間接的な縁者関係にあったとされる「縁者的類」の青木氏、
A、B及びCの青木氏と郡村で「生活を共にした民」の「社会的縁類」の青木氏、

E族は、A族の慣習に基づき本来は朝臣族が務めるところ橘諸兄(葛城王)の母橘三千代が藤原不比等に嫁した為に橘諸兄は朝臣族となり、その末裔が橘氏の守護神の石清水社社家を務めた事からA族の慣習に基づき青木氏を名乗った橘系青木族1流 (石清水社)

F族は、関東丹治氏系青木氏1流と島氏系青木氏1流 甲斐の源源光系青木氏2流 源時光系青木氏3流

G族は、 Aの皇族第6位皇子の同族賜姓族の青木氏より変名した賜姓源氏族(Aと同族) 九州源有綱-高綱配流孫の源氏-廻氏系青木氏1流

H族は、天智天皇の特別賜姓族川島皇子始祖系近江佐々木氏1流と、近江賜姓青木氏との血縁族青木氏1流

J族は、嵯峨期詔勅に基づく賜姓族の滋賀賜姓佐々木氏1流 青木氏を賜姓せず同属H族に倣って佐々木氏を宇多天皇は賜姓した。

K族は、近江青木氏が滋賀に移動した時の遠戚末裔廃絶孫の名籍を伊賀上山郷の上山氏が盗籍し興し滋賀青木氏を継承氏1流(継承は戦いの末に承認)

つまり、AからKの「10の族」に対して「縁と云う関係」から観ると次第に緩やかな「縁的関係」を保持する青木氏に分類されるのです。

中でもA~D族は「悠久の歴史」が血縁に勝るとも劣らず強い頑強な「絆結合」を構築したのです。
(4つの青木氏)=(2つの血縁氏)+(2つの絆結合氏)←「縁的絆関係」
「悠久の千年歴史」→「縁的絆関係」

そして、「天智天皇」から「光仁天皇」まで、「桓武天皇」と「平城天皇」の続けて2代の天皇を除き、「Aの同族」としての「嵯峨天皇」から「賜姓源氏族」と変名して続けられたのです。
(この2代の天皇は賜姓を皇族にせず、自らの母方阿多倍王の孫娘の実家先を賜姓した。後の「たいら族」の「賜姓平氏」で5代後の太政大臣平清盛の一族一門である。)
この2代の親子の天皇の反動がもし無ければ、本来であれば皇族賜姓青木氏は続いていた筈なのです。
ただ、「律令国家」の完成を成した天皇としては実家先の青木氏等の「皇親政治族」の存在で国の運営が左右される事には問題であった事は確かに考えられますし、その完成を成し遂げ官僚を牛耳っている母方の阿多倍一族一門を賜姓して引き上げて”律令国家体制を軌道に乗せる”とする事も充分に考えられます。そうも物事が上手く進まないのもこれも「浮世の現実」でありますが、現実には賜姓青木氏源氏と云う氏名では続いているのです。
問題は上記した様にこの”賜姓源氏の採るべき態度が間違えていた”と云う事なのです。
源氏に観られない「4つの青木氏」の数式が物語る様に、「血縁の前提」(縁的絆関係)の考え方なのです。

「家紋の意味」
その証明する最たる「血縁の前提」の考え方は、主に平安期から顕著に始まった「氏の象徴」の「家紋」に重点を置いていた事で証明できます。
大別すると、2期に分けられます。
先ず1期目は、未だ「民族意識」の存在する中での「氏の融合期」、即ちこの平安期の時期「民族融合」の終了期(桓武期 1次800年頃-2次900年頃)です。
次ぎに2期目は、「民族意識」が無くなり其処からは鎌倉期からは積極的な純然たる「氏の融合」へと変化して行くのです。
つまり、日本は「民族融合」⇒「氏の融合」=(氏家制度)の過程を辿ります。
これに伴って上記数式の「氏家制度」は「数多くの仕来りが」生まれ確実に「氏の集団互助システム」として充実して行きます。そして、これには「氏の象徴」である「家紋」も連動して「数多くの仕来り」が生まれが並行的に増加して行くのです。(特に藤原氏は最も多い「仕来り」を持った。)
これらは時代毎の「氏の数の変化」(最大1500)と「家紋の数の変化」(最大8000)でも証明出来るのです。(研究室参照)
要するに「家紋の持つ意味」として、「民族融合」⇒「氏の融合」に依って「融合の単位」が「民族」からより小さい「氏」に変化した事に依って、その「氏」を判別する目的として「家紋」が用いられたのですが、この「家紋」が「融合」を助長する役目を大きく果たしたのです。
「氏の境目」がはっきりしなくて判別が出来なければ社会組織「氏の集団互助システム」の「氏家制度」は成立しなかったからです。「家紋」はその醸成された仕来りで「氏の境目」を明示させたのです。
はっきりとした氏間の「血縁融合」(血縁の前提と縁的絆関係)が判別出来た事に依ります。

ところが「民族性」の強い中国は現在に於いてもこの「氏の融合」が積極的に起こっていない事によります。つまり「家紋化」が起こらなかった事で、「血縁の前提」(縁的絆関係)の判別が観えなかったのです。自然発生的な「氏家制度の構築」が成されなかったのです。
結局、日本では突き詰めると「氏融合」が「家紋」に依ってより「雑種の優秀性」が助長されて発揮される様に成り、その優秀性は「氏と部曲、品部」との連携により「殖産・物造り」へと変化を興し、この「物造り」への変化は今度は「家紋」の変化に象徴される様に成って行ったのです。
そして其処に「家紋」のより「大きな役割」が生まれ、「家紋の持つ意味合い」が追加醸成されて行ったのです。
この様に当初は「家紋」は「3つの発祥源」の青木氏の「象徴紋」であったものが、何時しかそれが「氏の家紋」と成り、その「家紋」が「血縁雑種の優秀性」から「物造り」へと結び付き、又その事が逆に経路を辿る事で加速性のある「著しい融合」が進んだのです。
この様に「家紋」に於いても、「物造り」に於いてもその根源は「青木氏」に無関係ではないのです。従って「物造りの象徴紋」は「青木氏の笹竜胆紋」と云っても過言ではないのです。

「氏融合」=「物造り」=「笹竜胆紋」=「賜姓青木氏」

ただ、同族の「賜姓源氏」の「笹竜胆紋」は賜姓族として青木氏と並んで使用したのですが、本来、前記する「愚かな行動」からすると「笹竜胆紋」は相応しく無く単純な無味乾燥の「家紋」に過ぎないとしているのです。”その認識が薄かった”と考えているのです。
賜姓源氏は家紋に持つ「物造り」や「3つの発祥源」の崇高な意味合いに欠けていたのです。
此処に「青木氏の笹竜胆紋」は「家紋」とするよりは元来は「象徴紋」であって、その意味合いも次ぎの関係式が成り立つともしているのです。

「氏融合」=「物造りの象徴紋」=「青木氏の笹竜胆紋」(象徴紋)

当然、この「氏融合」は「祖先神」の「神明社」に繋がります。
「氏融合」=「神明社」(祖先神)となり、「神明社」(祖先神)=「物造り」の以上の数式の関係が生まれたのです。

1・・・「氏融合」=「神明社」
2・・・「神明社」=「物造り」
3・・・「3つの発祥源」=「賜姓青木氏」
4・・・ ∴「氏融合」=「物造り」=「笹竜胆紋」=「賜姓青木氏」=「神明社」=「3つの発祥源」

そして、この数式の過程を辿る中で次ぎの関係式が続けて起こります。

5・・・「氏間の血縁融合」(血縁の前提と縁的絆関係)=「4つの青木氏」

この幅広い関係式が成立し「氏家制度の成長」が氏の代表の青木氏の中で醸成されて行ったのです。

6・・・「氏間の血縁融合」(血縁の前提と縁的絆関係)=「氏家制度の成長」
7・・・ ∴「4つの青木氏」=「氏家制度の成長」

以上の7つの連立する関係式が起こり、その「氏家制度」には社会組織の必須条件の「物心両面の基盤」が醸成されて行ったのです。

上記7つの数式が中国と異なる処であり、これが「国民性の優秀さ」となって現われ、「物造り」は基を正せば中国でありながらもこの「国民性」が「物造りの基盤」の差異と成って現れたのです。

この頃から後漢からもたらされた「物造り」の経済活動と共に、後漢渡来人と彼等に育てられたと日本の民等の「技能集団」等が力を持ち、「氏」と「姓氏」を構成し、「2段階の氏家制度」を拡大させ、その「氏」と「姓氏」の家紋を象徴紋として拡げて行く経緯を辿るのです。

「氏名の持つ意味」
この様に「物造り」は「青木氏」と「家紋」に無関係ではないのです。
それは初代「青木氏」は647年頃に日本で初めて「皇族賜姓族」として発祥した「氏としての発祥源」ですが、この時に「象徴紋」として「笹竜胆紋」を氏の正式なものとして定められたものです。
それまでは「大和政権」時代の紀族、巨勢族、葛城族、平群族、物部族、蘇我族等20程度の族は「単位氏」では無く、「ヤマト政権」の初代「応仁大王」等の出自に観られる様に夫々は大半は南北の「韓民族」(3韓の中の集団名)の渡来人の「民族集団名」であり、むしろ、上記した「民族」の「小単位の氏名」であったのです。
応仁期(応神期)以前は「正式な民族」の「固有の氏名」はそもそも無かった事は歴史的に認められている事なのです。(以後 これを「民族氏」と記する)
しかし、この事から純然とした「正式な氏名」として分類すれば伊勢の「青木氏」から始まったとしても過言ではないのです。(以後 これを「融合氏」と記する)

その後の奈良期末期から平安期に掛けてこれに見習って主に地名や役職名等から採った氏名が自然発生的に「豪族の氏名」として広がりを示し、それらが朝廷の認可(八色の姓制度)の下に20から40程度に成ったものなのです。
この頃は「氏名」と言う確固たる習慣ではなく、「ヤマト政権」時頃の「族呼称」の20程度を除いてその「族の存在する位置関係」を固有名詞的に用いていたのです。「民族氏」
例えば、青木氏で云えば「越道君伊羅都女ー施基皇子」と成るのです。
「越」「道」「君」「伊」「羅」「都女」(「郎女」:「伊羅都女」は終局「妥女」の意味を持つ)

この「6つの要素」で、国、出自、身分、家柄、官職、立場、母筋などを明確にし「施基皇子」の位置関係を表していたのです。
奈良期の大化期からはこの「6つの要素」を「氏」として表したのです。後にこれに「象徴紋」を付け加えて「青木氏」の「氏名」で表現する様に成ったのです。
つまり、平安期以前の「氏名」にはこの「6つの要素」を持っていたのです。
平安期までは人は「青木」と聞き取る事に依って上記で述べました様に「青木の神木」の持つ意味から「氏の源」と云う事が判り上記「6つの要素」の意味を読み取ったのです。
そして、「八色の姓制度」と「有品の制」(蔭位の制)が加わりこの「6つの要素」の意味合いと共に「有品」「朝臣」の2つが付け加えられて正式な呼称として「青木三位朝臣・・・」と称する事に成ります。
これに永代の冠位官職を加えると「浄大1位 六衛府軍上佐 青木三位朝臣 民部上佐 左衛門佐信定」
(源氏で云えば青木氏に跡目に入った清和源氏頼光系4家の宗家では「源三位朝臣頼政・」と成る。)
これが「青木氏」の固有名詞として「呼称の氏名」とされていたのです。
人々は"「青木氏」"と名乗れば「八色、有品の祖」と「3つの発祥源」の「氏」である事を悟り理解したのです。
その慣習は現在は全く消えていますが、明治初期頃まで上層階級の人々の常識の中に遺されていたのです。当然に「青木氏」呼称の他に、「賜姓族」としてはその「象徴紋の笹竜胆紋」や「生仏像様」、中には江戸中期までは「伊勢紙屋長兵衛」等でも「氏」を物語るものとして通じていたのです。
特別賜姓族(秀郷流青木氏)としてもこれに順ずる「氏族」との認識が高く、且つ、藤原氏北家筋名門「第2の宗家」として人々の認識の中に深く遺されていたのです。
特に賜姓族と特別賜姓族の「2つの伊勢青木氏」には口伝によれば大正半ば頃(14年)まで遺されていた事が伝えられています。
(平成15年頃まで神仏職関係者にとりわけ菩提寺の住職には認識が遺されていた)
しかし、上記する呼称「青木氏」は1125年頃に「2足の草鞋策」を採用しますが、当時の人々は「3つの発祥源の青木氏」との認識が強かったところに、突然に「2足の草鞋策の青木氏」が現れたのです。
恐らくは、一時、「青木氏」と「殖産・物造り」(2足の草鞋策)との繋がりに戸惑ったものと観られます。
当然に、青木氏の中でも「笹竜胆紋」と「生仏像様」と「祖先神・神明社」の「青木氏」を物語るステイタスが厳然として存在しているのですから切り替えに戸惑ったと考えます。
人々はこの印象・認識がどの様な変化を示したかを記録から考察すると、次ぎの4段階に分かれている模様です。

「印象・認識の経緯」
第1期(平安期末期)
平安末期50年前頃は知る者と知らない者との区別がはっきりしていたと観られます。
和紙に関る者が知る範囲であったと観られます。恐らくはこの時期には「2面作戦」に出たと考えられます。時代は「融合氏政策」を実行している中で、「青木氏」が「2足の草鞋策」を採ったとすれば世間の批判は無条件で「青木氏」に向けられ、強いては朝廷への批判となり国策推進に影響を及ぼす事に成ります。もし、そうなれば終局、愚かな行動を採り朝廷から疎んじられ民から見放された滅亡に向かった源氏一門の様に存続そのものが難しく成っていた筈です。
丁度、「荘園制の行き過ぎ」による粛清がなされていた時期でもあり、平族の繁栄期でもあります。先ずは納まらなかったと考えられます。
同じ平族も伊賀和紙の殖産紙に共に関わり海外に殖産貿易を行っていた時期でもある事から、内々で黙認されていた筈です。依って恐らくはこの事態を避ける為に「2面作戦」で挑む以外には無かった筈です。
その証拠となる事が起こっています。丁度50年後に「以仁王の乱」が起こって主謀者の源頼政が敗退に依って滅亡を避ける為に事前に「平族」との親交のある伊勢青木氏に京綱を跡目として入れて遺します。
この事は5家5流の賜姓青木氏が「清和源氏宗家」を武力では無い形で継ぐだけの力が備わっていた事を意味します。
それは和紙などで繋がっている事で「平族」に潰される事が無く、且つ裏面の「2足の草鞋策による経済力」に裏打ちされていて安定していたからです。
「商家と青木氏」(2足の草鞋の家筋)が表立っていてはっきりしていれば、家柄前提とする氏家制度の中では「清和源氏宗家の跡目」を継ぐ事は出来ませんが、あくまでもこれは賜姓族「青木氏」だけであって出来る事です。取りも直さずこの行動は、つまり「商家」は衆目には未だ「陰」であった事を物語ります。

第2期
しかし、鎌倉中期から室町期初期にはこの「2面作戦」は長くは続けられる事は有りません。
北条氏の執権により青木氏の守護地は本領安堵されたとしてもその職務は地頭等により管理される事に成ります。「2足の草鞋策」が続けられるとしても守護職は失職しますので「殖産・商い」に主力を移す事に成ります。平安期と比べ限られた本領の中での事に成ります。まして、伊賀の平族は滅亡して伊賀一族は武装放棄の状態で取り敢えずは残りますが、「青木氏」と同じよう「殖産・和紙」で生き延びなければならない状況に陥りました。
この時期は「2面作戦」の一面は縮小した状態で「3つの発祥源」のステイタスを保た無くてはならない状況と成っていたのです。しかしこの時期でも「氏家制度」は保たれながらも「武家社会」と云うより「2足の草鞋策」は平安期にまして厳しいものと成った筈です。
その証拠として残されているものとして「青木氏の家訓10訓」の内容で、その家訓はこの時期の影響を色濃く繁栄していると見ているのです。
しかし、この「2面作戦」は「本領の一面」は縮小した分だけ「殖産・商い」は「鎌倉期」-「室町文化」のハシリから「紙文化」が拡大して行き大きく繁栄拡大を果たした事に成ります。
「3つの発祥源」のステイタスと「本領安堵」の中では「2面作戦」は続けねば成りません。
「本領安堵」により当然に為政者領域では認知の範囲と成ります。
拡大する「商家」は衆目には”知る者は知る、知らぬ者は知らぬ”の状態の「半陰」であったと観られます。

第3期
室町期初期から江戸初期前までには「2足の草鞋策」も「室町文化」の発展で「2面作戦」の「武家の一面」が弱く成ったもののそれを補い超える力を持つ様に成ります。それは「殖産・商い」の経済力を補完し、その「青木氏」を防御する為の目的で採った対応策が厳然として「陰の力」(シンジケート)として働き始めたのです。何とその力は10万の軍をも餓死させ敗退させるだけの「陰の力」と成っていたのです。
それは和紙の「殖産・商い」で生きる5家5流の青木氏(背景には特別賜姓族の青木氏が存在)の連携を守ったのです。
それはシンジケートなのです。「大商い」には「陸海の利権と安全」の問題が伴ないますが、他の既存の勢力に頼らず自らがその経済力を背景に創り上げた「絆」に依って成り立つ、真に「2面作戦」による「陰の軍事力」なのです。
例えば何度も例に挙げていますが、この下記の2つの事件は「青木氏」にとってその「生き様」を如実に物語るものであるからです。
南北朝の北条氏と楠木正成の戦いでも3千の軍が10万の軍を餓死に追いやり勝利したのはこの青木氏が持つ伊勢-信濃の「陰の軍事力」が楠木軍の裏に控え「ゲリラ作戦」で勝ったのです。
周囲の食料調達網の遮断作戦、深夜の局地的攻撃による兵の疲労作戦が働いたのです。
織田信長が「伊勢の3乱」で青木氏が採ったこの「陰の軍事力作戦」で織田信雄と軍監滝川一益の2万軍を敗走させるだけの力を持っていたのです。
この時、信雄はこの青木氏の「陰の軍事力」を知らなかったのです。しかし秀吉は知っていたのです。その為に信長に叱責され蟄居させられる事件まで起こります。
何れも戦場と成る周囲の村全域がこの「絆による陰の力」として協力したのです。
この「陰の力」(シンジケート)は「絆で結ばれる互助組織」であり、これは「氏姓」や「血縁性」や武家や身分家柄に無関係の新たな「氏家制度」に変わる「絆互助制度」を広域に構築したのです。
この段階では、この例に観る様に、既に衆目の知るところでありながら、未だ公然としたものではなかったのです。衆目は「3つの発祥源」の「青木氏」と認めながらも「2足の草鞋策」も積極的に認めると云う不思議な印象と認識を持っていた事に成ります。
それは公然とした目に見える「いかつい軍事力」を背景にするのでは無く、武士から一般の民衆(衆目)の「絆」を「陰の力」として身分家柄に拘らない「互助・協力の体制」を構築したからだと考えられます。真にこれが「青木氏の家訓10訓」に観られる真意だと考えられます。
「絆」を「陰の力」として身分家柄に拘らない「互助・協力の体制」の「長の戒め」を解いたものなのです。その「青木氏は」もとより「悠久の絆」で結ばれた「4つの青木氏」なのです。
この様に最早、特定の範囲ではなく一般の範囲での「半透明な陰」であったと観られます。

第4期
江戸初期から明治期までには「半透明な陰」では無くなり、それは衆目全てが衆知する「2足の草鞋策」と成っていたのです。
そして、それは5家5流の土地の「殖産・和紙」を含む「商い」と「総合商社」を兼ねた「大商い」で摂津堺に大店を構える「海外貿易」をこなす豪商に成長していたのです。
むしろ、最早、小さなながらも本領を護りつつある「3つの発祥源」の「青木氏」から「豪商青木氏」の印象の方が勝る処まで繁栄していたのです。
しかし、衆知の史実と成っていたにも関わらず「3つの発祥源」の「青木氏」は「2面作戦」の形は守っていた様で、「菩提寺」と「青蓮寺」等「3つの寺」を維持していた事と「4つの城」を維持していた事がこれが物語ります。この「3つの寺」と「4つの城」は本領だけでは維持困難であり「商い」には無関係の拠点でありますが、この維持は商いからの補完で成り立っていたのです。
この目的は「2面作戦」の「青木氏の結束の拠点」であった模様である事が記録から判断出来ます。
例えば、これも何度も例として記述していますが、大阪の陣の時、徳川家康は名古屋城で本陣秀忠の東山道掃討軍を待ちますが、この時、この青木氏に対して「合力参戦」を促します。
軍事力としては保持しない「青木氏」に対してわざわざ正式に促したのです。これは明らかに第3期、第4期の記述する「2面作戦」の計り知れない「両方の力」を期待したのです。
3日後に合力を伝えますが、この時、伊勢-信濃のシンジケートと250の手勢(兵ではない)で信濃-伊勢-近江までの進軍路(東山道と伊勢路)の安全確保と食料の補給調達を担当したとあります。(青木氏の分家は豊臣軍に参戦した事実もあり、伊勢より以西は豊臣軍の勢力範囲で極めて危険で真田軍等の戦略が働いていた地域であった)
「軍による力攻め」をするのではなく「青木氏の陰の力」で押さえ込んだのです。
(1) 秀郷一門近江の「蒲生氏」本家
(2) 伊勢の蒲生氏郷
(3) 末裔の特別賜姓族でもある秀郷流伊勢青木氏
(4) 賜姓伊勢青木氏の「2つの青木氏」の融合縁戚力
(5) 東山道は藤原秀郷一族一門の勢力ライン(第2の宗家青木氏の指揮下)
(6) この近江-東山道ライン上に働くシンジケート
以上を確保した事に成ります。
この「6つの勢力」の確保は「2つの青木氏」の「2面作戦」の「陰の力」をオープンに相当に評価していた事を示します。
この後、家康は次男の頼宣を遣わし伊勢松阪で代表の伊勢青木氏と会見をしたと記録されています。
この後、「2足の草鞋策の商い」の「青木氏」は、8代将軍吉宗の「享保改革」の勘定方の協力貢献(吉宗の親代わり伊勢加納氏と伊勢青木氏は縁戚関係で育てる 伊勢加納氏も「2足の草鞋策」で伊勢加納屋を営む)、徳川紀州家の財政建て直しに勘定奉行として協力貢献している事(大正14年まで親交)等を挙げると、これは最早、衆目は”知らない者はない”「透明な陰」と成ります。

ここで、だとすると当然に青木氏の由来や経緯の中に、この「2面作戦」の「殖産・物造り」の何がしかの軌跡があったと考えられます。
それが、上記した通り、即ち「青木氏の家訓10訓」全体の真意であり、とりわけ「家訓8」が、何故に家訓と成っているかはこの事で理解出来るのです。
「家訓8」は武家的でもあり商家的でもありその誡めは両面に渡ったものと成っているのはこの軌跡であると観ています。(家訓8の詳細に付いては「青木氏の家訓10訓」を参照)
特に印象的な事として上記した青木氏の「3つの発祥源」の立場を特別に恣意的に強調していない事です。本来ならばその立場を意識して守ろうとして家訓とするのが普通の常識ですが、そうではなく確かに「立場」に重きを置いている事は認めますが、それが「長」と云うあるべき「人間的姿」を追い求めているものに成っています。
「3つの発祥源」そのものを戒めとするのではなく、突き詰めるとその中の共通する真意である「長:人間的成長の姿」を戒めとしていると観ているのです。
平安初期の頃であれば真に「3つの発祥源」の立場に重点が置かれていた可能性があったと考えられます。平安初期から中期頃に家訓があったかは確認出来ませんが、「象徴紋 笹竜胆紋」と「生仏像様」の「青木氏の遺産の存在」とがある事は何がしかの「戒め」的なものがあったとするのが普通であると考えます。青木氏から光仁天皇が出ていることも考え合わせると無い方がおかしいと観られます。
しかし、明治35年に家訓的なものの資料や口伝や物語る遺品も消失し全く確認は出来ません。
恐らくは1125年代頃に「2足の草鞋策」を採った事に依って、それまであった家訓的なもの(古代家訓とする)が合わなくなった事から見直されて、「殖産・物造り」が加わり「3つの発祥源」を基とする「古代家訓」は論理的に意味を生さなくなったと考えられます。
子孫存続に厳しい時代を生き抜いてきた先祖からすると、この時かなり思い悩み、終局、”「長」と云うあるべき「人間的姿」を追い求めた”ものと成ったと考えます。
この時、同じ立場にあった他の4家4流の皇族賜姓青木氏は「和紙の殖産・物造り」でより強く結び付き連携し、「3つの発祥源の古代家訓」らしきものは霧散して、伊勢青木氏に遺されていた「家訓10訓」が「笹竜胆紋、生仏像様」の下に「青木氏の共通認識」に成って行ったのではと考えられます。
伊勢青木氏以外の賜姓族に補足的な個別の家訓的なものがあったのかは確認出来ませんが、「青木氏」の上記1~4期の経緯から察するところがある限り「伊勢青木氏」に遺された「家訓10訓」が同族全青木氏の家訓に成っていた可能性が高いと観ており、生活基盤の「殖産・物造り」と思考の規準とする「皇祖神・神明社」を共通認識に成っていて、「3つの発祥源」の立場、「笹竜胆紋と生仏像様」のステイタスを持つ家柄からすると大きく異なる家訓的なものは考え難いのです。
一致結束して「悠久の1千年」を共に全く「同じ道と同じ糧」を求めての「4つの青木氏」と生き抜いてきた事からしてもあり得ないと考えているのです。
伊勢-信濃-甲斐では「笹竜胆紋、生仏像様」、「殖産・物造り」に関わる関係資料が多く遺されているのですが、ただ近江と美濃に於いてはそれを物語る資料が「和紙と殖産」以外には佐々木氏の関係資料以外に信頼出来て裏付けられるものが矢張り見付からないのです。
逆説的に考えれば、同族賜姓族である源氏11代は上記した本道を通らず異なる道を歩んで400年で滅んでいるのです。5家5流がばらばらに源氏の様に異なる道を歩んでいたとすると厳しい環境の中では滅亡は必至であったと考えられます。

「美濃青木氏の疑問」と「紀伊守の検証」
ただ、秀郷流青木氏は兎も角として、5家5流が全て上手く行っていたかは保障が困難なのです。
実は「美濃賜姓青木氏」の末裔が少ない事には多少の疑念を持っているのです。
上記した様に同じ道を歩んだ事は事実であるのですが、少ないとする原因が何なのかを研究したのです。この事から、前回での「たいら族」の「織田氏の研究」にも論じましたが、美濃は不安定地域であって、美濃での源平の激しい戦いに巻き込まれた可能性が一応は高いと観ているのです。
”源氏のような体質的な何かがあったのであろうか”と疑問が湧きます。
此処では最後に遺された3つの源氏(近江、美濃、尾張源氏)さえもが滅んでいる事からして一部の「美濃青木氏」も源氏方に味方した事が原因しているのではないかと考えられるのです。
美濃と近江の賜姓青木氏は、何れも清和源氏の宗家根拠地として近江摂津源氏、全11流源氏の集積地域として美濃-尾張源氏であった事から大きな影響を受けていた事があるからです。
源平の初期の戦いで平族に滅ぼされて近江源氏の一族郎党が美濃-尾張に逃げ込んでいますし、他の関西中部域の圧迫された源氏は美濃の富士川決戦に備えて集結・集積していますので、同族として近江美濃青木氏も同行していて壊滅に近い状態で滅亡した可能性が高いのです。
「近江-美濃」と「伊勢-信濃-甲斐」との間には「笹竜胆紋、生仏像様」、「殖産・物造り」、「家訓10訓」
の多少の「生き様に温度差」があり、「同族源氏との親交差」があったと考えられます。
これは「藤原秀郷流青木氏との親交さ」に起因していると考えられるのです。
数式に纏めると平安末期には次ぎの様な関係式にあったと結論付けています。

「伊勢-信濃-甲斐」→「藤原秀郷流青木氏との親交差」>「同族源氏との親交差」
「近江-美濃」→「藤原秀郷流青木氏との親交差」<「同族源氏との親交差」

「伊勢-信濃-甲斐」→「シンジケート」+「2足の草鞋策」+「藤原秀郷流青木氏」=「抑止力」
「近江-美濃」→「2足の草鞋策」+「同族源氏」=「抑止力」

「伊勢-信濃-甲斐」→「神明社」+「伊勢社」+「笹竜胆紋、生仏像様、家訓10訓」
「近江-美濃」→「八幡社」>「神明社」>「笹竜胆紋、生仏像様、家訓10訓」

この「3つの関係数式」から「源氏力」が低下すれば「近江-美濃」は崩れることに成ります。
その意味では「不入不倫の権」で護られていた事から「伊勢と信濃と甲斐」はその「源氏力」の影響力が少なかったのです。有ったとしても「分家頼信系」ではなく「清和源氏本家頼光系」の守護代地であった事、「2足の草鞋策」、「伊勢-信濃シンジケート」等から独立性が高かったのです。
(甲斐とは無冠の源時光系武田氏系2流ではなく、賜姓信濃青木氏と血縁した別当蔵人の源源光系賜姓青木氏2本流の事)
此処美濃には「秀郷流青木氏」が「源平の緩衝氏」として武蔵を背景に以西に対して最前線でその総力を傾けていた地域であります。その緩衝環境の中で「秀郷流青木氏」以外に一方の源氏に肩入れをする事はそれだけに危険性を孕んでいます。
「源平の緩衝地帯」として止む終えない仕儀であった事とは考えられますが、氏性の「源平の緩衝氏」と地理性の「源平の緩衝地帯」との2つの事を考えると、戦略上”生き延びる”と云う最大使命からは「氏性の緩衝氏藤原氏」に組する事は兎も角も、”「伊勢-信濃-甲斐」-「近江-美濃」の関係強化を「2足の草鞋策」のみならず図るべきではなかったのか”と云う疑問が湧きます。
結果的には、”「藤原秀郷流青木氏」との関係強化”と云う事にも成りますが。
近江には秀郷一門の蒲生氏の定住地であり藤原一門が無かった訳では無く、この蒲生氏は伊勢青木氏と血縁性を持つ「伊勢秀郷流青木氏の祖」でもあるのであり、当時は伊勢にも勢力を伸ばしていたのです
(後に大河内、松ケ島、松阪と3ケ所に勢力圏を伸ばす)。
近江は「たいら族」の東勢力圏内であった事もあり、逸早く「たいら族」に抑えられる宿命を背負っていた事は否めませんが、美濃に引きずられて滅亡の憂き目を受けた事はその「生き様」に間違いがあったと考えられます。むしろ「不入不倫の権」の領域の「伊勢青木氏」に逃げ込むべきであったと考えられ、「たいら族」は伊賀本拠地と青木氏との親密な関係もあり手は出せなかった筈です。
(現実に以仁王の乱の時には手を出さなかったし、主謀者頼政の孫の2人を助命嘆願を受けているし攻めなかった 頼政さえも松阪に向けて逃亡しているし、孫京綱を伊勢青木氏の跡目に入れた事は「たいら族」は攻めないと観ていたからだ)
では、”何故逃げ込まなかったのか”疑問と成ります。
それは美濃に集結した事で、未だ、「美濃-尾張-甲斐」などの青木氏と源氏と坂東勢力の秀郷一門も味方して美濃域で「たいら族」と戦い支える事が出来ると観ていた事に成ります。確かに坂東八平氏を背景に支えて勝利しますが、その前に現実には「富士川の大激戦地」となり、集結した近江-美濃-尾張-木曽-新宮等の多くの源氏と近江-美濃の青木氏は潰されてしまうのです。
源氏に大きな犠牲を払い過ぎてその5年後に頼朝は勝利します。
結局、殆どの源氏が滅亡して立ち上がることさえ出来ない程に勢力低下を起こし、その2年後に全源氏族は皇族第7世族の坂東八平氏に抹殺されるのです。
「近江-美濃」の青木氏は何とか、”「伊勢-信濃-甲斐」の青木氏と秀郷一門の伊勢秀郷流青木氏と近江蒲生氏の援護・保護の下にて本流は滅亡しましたが末孫は生き延びる事が出来たのです。

この一帯には「皇族賜姓美濃青木氏」とその流れの「土岐氏系青木氏」の2流が定住している筈ですが、この2つの系統では明確には存在は確認出来ないのです。土岐氏は、未勘氏や第3氏は別として、史実として明らかに完全滅亡していますので、同系列と成った賜姓族の土岐氏系青木氏も先ずは滅亡としたと考えられます。

「皇族賜姓美濃青木氏」の確認
問題は「皇族賜姓美濃青木氏」の確認が取れないのです。筆者は存在していると確信しています。
それは「和紙」の関係調査から「みの和紙」は平安期から明治期まで「有名な和紙」で和紙に関係する人であればよく知っている和紙です。「みの和紙」の商人の青木氏は確認出来ていますのでまず間違いはないと考えられますが「笹竜胆紋」の「皇族賜姓美濃青木氏」の確認が取れません。
家紋などの氏家制度の仕来りから考証には一部に疑問が残る事と、この地域は「下克上、戦国時代、一揆」など混乱の大きかった事から伝統や資料や遺品や記録が青木に関して存在しないと云うのが現状です。土岐氏系の伊川津7党の青木氏等がありますが未勘氏とも観られます。
そこで戦略上で観て岐阜と愛知の国境域に賜姓美濃青木氏の末裔が現存していると観られる事から、本流は別として、伊勢と美濃と尾張の秀郷流青木氏の影響が背後に働いていたので支流末裔が生き延びられたのではないかと考えられるのです。

実はこの域には前記した「皇族賜姓美濃青木氏」と「秀郷流青木氏」の血縁氏の「融合青木氏」現象の強く起こっている地域でもあるからなのです。
家紋から観ると、多くの「秀郷流青木氏」が最もこの地域に集中している事もあり、その結果、つまり判別が付かなくなっている事もあるのです。
「皇族賜姓美濃青木氏」は集中する秀郷流青木氏に吸収されていて「融合青木氏」と成っている地域であると観ているのです。
むしろ平安末期から鎌倉期に生き延びる為に大勢力の秀郷流青木氏の中に戦略的に溶け込んで行った、或いは最も生き延びるには厳しい地域であった事から秀郷流青木氏が保護したと観るのが妥当では無いかと考えていて家紋考証からこの説が納得できるのです。

もう一つ美濃には、西側で隣接するは「員弁や桑名」には伊勢青木氏が集団で多く存在しています。
場合に依っては「源平の混乱期」に末裔が伊勢青木氏を頼って逃げ延びて来た事が充分に有り得ます。それは平安末期からのシンジケートの存在がこの事を裏打ちしている筈です。最も肝心な事にシンジケートが動かない筈は有り得ません。又伊勢-信濃の青木氏が動かすのが普通です。
特に、信濃青木氏や近江青木氏との繋がりが「和紙」と云うキーワードで調べると明治期まで強く確認出来ることから連携はかなりのものであったと考えられます。
江戸中期から明治初期に掛けて起こった伊勢-美濃-尾張の大一揆には、「2足の草鞋」の青木氏と伊勢加納氏が経済的背景としてシンジケートとして関わっていた事は記録から明らかですので、上記の2つの説は何れも同時に動いたと考えられます。
美濃の青木氏は和紙に関わっていた青木氏である事は間違いはないと考えられます。

調査の疑問点は「融合青木氏」の特長ですので生き延びていた事を実証出来るのではと考えます。
美濃-尾張では源氏系列は滅亡していますが、矢張り「殖産・物造り」の青木氏は生き延びていた事に成ります。明治35年まで美濃-近江との「和紙」で付き合いがあった事が確認出来ていますので、この相手が美濃と近江の「賜姓青木氏の末裔」である可能性ありますが、青木氏に関わる「家臣団の未勘氏」か「絆による第3氏」か「徒弟制度の青木氏」か「融合青木氏」かの判別が付かなくなっているのです。
家紋からある程度の判別が就きますが確定は困難な状況です。

問題は室町末期の美濃境に定住していた伊勢青木氏とも観られる「青木紀伊守一矩 従五位左衛門佐」が確認出来ます。秀吉に任じられて越前府中北の庄8万石の領主(徳川除封禄記載 末裔は若狭-越前-越後-陸奥等に逃亡)の存在から観て、この本家筋の問題は兎も角も支流としては確認出来ますので、伊勢青木氏の「融合青木氏」の可能性も高い事が認められます。

(青木紀伊守一矩の検証)
(紀伊守には諸説あり搾取偏纂に多く利用されていますのでここで青木氏として一度整理しておきます)
先ず丹治氏と言う説もありますが、丹治氏系青木氏は徳川方に味方して麻田藩摂津4万石を獲得しているのでこの説は搾取偏纂説であることは間違いありませんし、この丹治氏はこの従五位左衛門佐の冠位官職位は得られません氏、家紋も丹治氏は青木富士山に三鱗主紋(霧紋もある)で異なります。

筆者は鎌倉期以降に美濃境の員弁域に定住していた「青木紀伊守」は、その冠位官職の「従五位左衛門佐」の六衛府軍の永代最高職を持っています事から、これを前提とすると伊勢青木氏系以外には無いと考えますが、美濃青木氏は宗家本家は滅亡していますのでこの冠位官職は本来は継承できません。
伊勢青木氏一族で、豊臣方に分家筋の形で「紀伊守」として合力したとした青木氏の資料には記録があり、これと同時に伊勢青木氏の「青木伊賀守忠元」が合力し越前坂井郡丸岡4.6万石を領し豊臣に味方したと記録もあります。また「青木民部上尉信定」が徳川方に合力したと記録があるところから、伊勢青木氏本家筋は徳川方、伊勢青木分家筋として忠元が豊臣方に合力し、伊勢-美濃青木氏(融合青木氏)が豊臣方に味方した事に成ります。
つまり、信長の時は伊勢青木氏本家筋は「3つの発祥源」の立場から千年もの間常に中立を保っていたが攻められ、秀吉が柴田氏を滅ぼした時には秀吉に「紀伊守」と「伊賀守」は合力しました。この時、立場上、伊勢青木氏本家筋は二つに分けて「青木民部上尉信定」は中立を保ち、天下分け目では徳川方に味方したと事に成ります。

又、別説の清和源氏の義光流系青木氏がありまして、近江甲賀郡照養寺には義光より16代青木下野守祐清は足利幕府に仕え、その末裔青木紀伊守8万石は豊臣に仕えたとする説もあります。、
更に別説では近江甲賀青木氏の女がいて、その女は武田勝頼の嫡男信勝の妾となり、懐妊して近江に甲賀に帰り青木新五郎を産み、この者は豊臣に仕えて四国に任じられたとする説もありこれを紀伊守だとしています。

この3つ説には系譜の繋がりの確証が取れない事と家紋が異なります。
義光流青木氏の場合、武田氏の系譜には多くの疑問矛盾が定常的ありますのでの俄に信じ難いのです。特に義光系青木氏とは何なのか不明です。義光系青木氏には源の源光なのか源の時光なのかはたまた誰なのかはっきりしません。
青木別当蔵人は確かに源の源光ですが、源光ルーツは明確ですので「紀伊守」は疑問ですし、もしそうだとしたら家紋は笹竜胆紋ですが、「丸に揚羽蝶木一文字」と違っています。
これは源氏と青木氏の家紋継承の慣習に一致しません。当然に搾取偏纂で寛政系譜や寛永史でも第3氏とされています。
時光系は無官の青木氏ですので、上記の冠位官職は得られませんので異なりますし、時光系青木氏も武田氏系ルーツが完全に解明されていますので異なりますので搾取偏纂は明らかです。
「紀伊守」の末裔と観られる子孫が越前を中心に各地に分布していますが家紋は全て異なっていて統一していませんが、その中でも越前の末裔が主家と見られます。この家紋が「丸に揚羽蝶木一文字」です。
(越前には「丸に違い鷹の羽」系もあります。)
「紀伊守」は新五郎説とする説は余りにも唐突で家紋、冠位官職、発祥地、出自、生没も全て合いません。この手は搾取偏纂には良く使われる手で全く信用根拠がありません。
「青木紀伊守」が持つ史実を無視しての我田引水のこの様な多くのルーツ説が室町末期から江戸初期にかけて実に多いのです。
恐らく当時の社会がそれを「チェックする機能」や「人心の無関心さ」があったものと観られ、搾取偏纂する側も”ある限定した範囲での家柄搾取が通ればそれでよい”とする安易な感覚もあったと考えられます。
「寛政系譜」等では比較的この点を厳しく査定している様で当時としては珍しい書籍です。
社会のこの様な風潮が充満しこれを厳しく批判していたのではないでしょうか。
その証拠に信頼出来うる史書や書籍には疑わしきは”「後勘に問う、後勘に備える」”と記述追記しているか「添書」を添えています。

(何度も論じている事ですが、例えば、個人の系譜を自分の家柄に都合良く見せる為に搾取偏纂した。それを暫くは一族に隠して公表せず何代か後に遺品整理していたら箱から出てきた。子孫は身内を疑う事も当然に無く、疑うだけの歴史雑学の知識も無く、これを信じ切って後生大事に更に末裔に伝える。これでこの系譜は末裔にとっては実しやかに史実と成る。「姓氏」の処まで系譜が掴めない情報量の無い社会であったのに、まして菩提寺や守護神も持たない「姓氏」のルーツをどの様に管理できたのかも考えずに、江戸期を越えて鎌倉期までこの様に系譜を搾取している状況を観る事が多い。
現在では中には最たるものとしては書籍やマスコミも時代考証と検証をも行わずそれを信じて演出しているものも多く見かける。「姓氏」は最古でも海部氏と室町期後期発祥であるのに。 云いたい事は近江青木氏と美濃青木氏はこの搾取に惑わされてしまった事なのです。これを元に戻すには資料も無くなりつつある中で最早自らの努力で青木氏が行う以外に無くなっているのです。)

そこで、伊勢-美濃青木氏の「融合青木氏説」を採る筆者の説では、”では何故、親族の「紀伊守」がいる伊勢青木氏を信長は「伊勢丸山攻め」をしたのか”が唯一疑問と成ります。
美濃域の伊勢-美濃青木氏(紀伊守)の定住地は美濃の織田氏との国境域である為に織田氏に家臣と成り合力体制を採っていましたが、この攻めると云う事は、信長が「紀伊守」を「伊勢青木氏」とは見ていなかった事を意味します。
然し、実際は直接に伊勢青木氏を攻めてはいないのであり、丸山に前線基地の城を築き伊勢一帯の征圧に乗り出したもので、伊勢青木氏側も伊勢-信濃シンジケートがゲリラ戦でこれに対抗した戦いであったし、「伊賀攻め」も「永嶋攻め」も「北畠氏攻め」も「松阪攻め」も伊勢青木氏は「シンジケート」による「間接的参戦の合力」であったのです。最終、信長没後に秀吉の命にて蒲生氏郷による「松阪攻め」の「直接戦」も伊勢の秀郷流青木氏は氏郷末裔であり、且つ、伊勢秀郷流青木氏は伊勢青木氏とは親族関係にあることから「一時無戦撤退」の形を採り1年後に戻され5万石程度の本領安堵されています。
信長-秀吉の「伊勢攻め」に関しては実態は「直接抗戦」は無かったのです。
そもそも信長に取ってみれば伊賀は信長のルーツの「たいら族」の根拠地でありながら攻めたのですからそのような関係には無頓着な戦略を採っています。織田氏親族をも意に背けば滅ぼすのが彼の常道でまして家臣の親族ともなれば論外と成ります。
(「伊賀攻め」の際には実戦は落城寸前に名張の側面からシンジケートの軍が側面を突いたのみ)
依って、この疑問は解けます

「紀伊守検証」(纏わる諸条件)
次ぎはそもそも「紀伊守」の家紋とする「丸に揚羽蝶木一文字」は主紋の揚羽蝶は伊賀を根拠地にする「たいら族」の綜紋ですが、「丸付き紋」は家紋継承の慣習では「たいら族」は採用していません。類似副紋方式を採用していますので疑問です。そうなると、美濃-伊勢域の「たいら族」の血筋を一部に受けて家紋掟にて変紋を余儀なくされた事を意味しますが、この時、「たいら族一門」ではない為に「丸付き紋」とした事が考えられます。
「笹竜胆紋」は、美濃青木氏が滅亡して傍系支流分流の血縁末孫(木一文字紋)の伊勢青木氏との血縁氏であった事から継承できずに、「たいら族」の血筋の揚羽蝶の家紋に丸を付けて類似副紋を木一文字として採用したとすれば「伊勢-美濃の融合青木氏」の家紋とする事が出来ます。
「紀伊守」は織田氏(信長)にも仕えた事から織田氏の綜紋「たいら族」揚羽蝶紋とも何らかの血縁による因縁があったとも推測されます。
柴田氏の領地(49万石)の府中8万石、北の庄の20万石を秀吉から与えられる身分であった事等のこの因縁は否定出来ません。同様に伊勢青木氏の青木伊賀守忠元も越前の坂井郡丸岡4.6万石を秀吉から与えられている事を考え合わせると、「青木紀伊守一矩」は伊勢-美濃の青木氏以外にはこれだけの領地を2度に渡り与えられる事はあり得ません。織田家家臣一統の中でも相当な立場と軍功が無くては有り得ない事です。依って揚羽蝶の家紋は織田家との因縁は完全否定は出来ません。少なくとも何らかの関わりがあった事を意味します。
それには「住域は伊勢伊賀のたいら族隣」、「美濃のたいら族の織田氏」、「員弁桑名の伊勢-美濃国境域の住人」、「美濃南域の木一文字の土豪の家紋分布域」、「丸付き蝶紋は織田揚羽蝶の使用」、「祖先神神明社」の伊勢-美濃に纏わる条件が附合します。
(判別条件)
揚羽蝶紋の見分け方はその「足の数」、「輪郭」、「姿勢」、「羽根模様」の4つで判別しますが、この丸付き紋にはこの「4つの判別条件」をいろいろ組み合わせた文様が多くあります。
そこでこの「丸に揚羽蝶紋」は「織田蝶」ではなく「伊賀たいら族」の文様そのものでして「判別条件」の4つが全一致採用しているのです。
正真正銘の「伊賀たいら族宗家筋の揚羽蝶紋」なのです。
このところから「丸付き紋」はそもそも直系孫ではありませんが、何らかの関係性を持つ青木氏である事が云えます。
(丸付き紋)
丸付き紋使用は「家紋掟」により「6つのパターン」があります。
例えば、「笹竜胆紋」も「丸付き紋」は使用しません。然し、「丸に笹竜胆紋」が存在する理由として次ぎの事があります。
青木氏宗家のその末裔が直系孫ではないとして次ぎの4つがありえます。
A 嗣子であるが罪などを犯して除籍された者の場合
B 妾子や配流孫である場合
C 血縁子であるが一族として認めがたい事情がある場合
D 5つは未勘子や第3氏や明治期の不特定氏の使用の場合です。
以上の場合に宗家本家が「丸付き紋の使用」を強制する事に成ります。

この場合のその青木氏の見分け方は竜胆の花の下の軸の部分を正紋と区別する事に成ります。
同様に、丸付き紋の揚羽蝶紋もこの掟に従いますので、「4つの判別条件」が揃っていますし、それが「たいら族」の一門の者では無く「伊勢青木氏」ですから、Cの場合に成ります。

「伊勢青木氏の分家」が経緯として「伊賀のたいら族の分家」から養子を迎えたが嫡子が出来ずに女系と成り、結局家紋掟により変紋を余儀なくされた。しかし、「青木氏」と「たいら族」は平安末期に敵対関係にあり、一族の手前上、養子先の「たいら族宗家」は「揚羽蝶の家紋」の使用は認める事が出来ないと判断し、妥協案として「丸付き紋使用」を許した事に成ります。(当然許さない時もあり得る。)
この場合は普通は「4つの判別条件」のどれか或いは全てを変える事に成ります。
然し、この「紀伊守」の「丸付き紋」は4つ共に全く変えていないのです。
これは相当な信頼関係が成り立っていた事を意味します。
「紀伊守」は”「従五位左衛門佐」の六衛府軍の永代最高職”の平安期初期からの青木氏だけそのものの冠位間職位を保持している事からもこの「血縁関係」の仕儀は納得出来得ます。
伊勢青木氏の宗家筋の者であればAからCに関わらず「笹竜胆紋」を継承し続ける掟ですが、変紋は名張や伊賀や員弁や桑名や脇出や四日市の分家筋一門と云う事に成ります。
これに上記の「伊勢-美濃に纏わる条件」を加味すると、伊勢-美濃の「融合青木氏」である事に成ります。
(「冠位官職位」を継承)
そうすると、伊勢青木氏の宗家嫡子が「冠位官職位」を継承する事に成りますから、もう一つ”「従五位左衛門佐」を名乗っている事はもう一つ先祖伝来の「冠位官職位」を継承しているものが伊勢青木氏系の中にある事を意味します。つまり、これが伊勢青木氏系の美濃青木氏(「融合青木氏」)が継承していた事を意味します。と云う事はこの事から、美濃青木氏が「源平の戦い」の「富士川の激戦」前で「美濃青木氏」の一族が滅亡したのですが、この中から「伝統の永代冠位官職位」を継承し得る「嗣子の者」が隣の伊勢青木氏に逃げ込んだ事を物語ります。伊勢青木氏だけが「源平の戦い」の追手から逃れられます。
(信濃青木氏に逃げ込むのも一策と考えられますが、知行国越前より「美濃のたいら族」を助けに主力が南下して来ていますので帰る方向の信濃方向には危険であったのです。)
当然に信長の8-20万石を領する家臣に成り得る勢力を持ち得ていたのですから、この時この嗣子を護って美濃青木氏のかなりの数の重臣も同行していた事に成ります。向後、伊勢青木氏と同族血縁をして伊勢青木氏の中に組み入れられ鎌倉期から室町期中期まで生き延びていた事が判ります。
そして、前記で論じた織田氏の勢力経緯で美濃尾張の守護代と成った時に美濃境界に住していたこれ等の家臣団は嗣子を押し立てて織田氏に合力して独立した事に成ります。
恐らく、伊勢青木氏に逃げ込んだ時から織田氏に合力した時の家臣や兵力までも伊勢-信濃シンジケートに擁護されての事であった事が考えられます。
この「融合青木氏」は鎌倉期から室町末期まで350年間は「伊勢青木氏」の扱い受けてその保護下いた事に成ります。伊勢青木氏は前記で論じた様に当然に伊勢秀郷流青木氏と美濃秀郷流青木氏の抑止力を受けて護られていた事からこそ、故に「伊勢青木氏」や「近江佐々木氏」や「伊勢秀郷流青木氏」の資料に何らかの形で遺されているのです。(「伊勢青木氏」に組み込まれていた事を物語る)
そうなるとこの記録からは、「伊賀たいら族」と関係性を強く持っていたのは唯一伊勢青木氏でありますので、他に関係性を持ち得るのは後は「美濃青木氏」ですが、「源平の美濃戦い」で滅亡しているし、「美濃青木氏」の「生き延び方」としての「たいら族との独自の血縁」は、一食触発の緩衝地帯でもあったし、厳しい敵側であったのでこの血縁は難しいことに成ります。依って家紋検証と記録との矛盾が起こりこの件は消えます。
故に、これが筆者が伊勢青木氏系に入れている根拠の一つなのです。
つまり「員弁-桑名域の伊勢青木氏系」と成りますが、「系」としたのは「伊勢青木氏」は、この家紋は直系孫では慣習上あり得ませんので、南の四日市の秀郷流青木氏との「融合青木氏」と同じく、「家紋掟」により家紋は近隣豪族の家紋と成っています。依って慣習に一致しない事から「美濃青木氏」との「融合青木氏」である事に成ります。家紋から観た場合美濃に纏わる条件に完全に一致するのです。

(「皇祖神の神明社」)
そこで他氏と判別でき得る絶対条件として、「青木氏の守護神」の「祖先神の神明社」の存在です。
美濃青木氏は後述しますが「美濃の源平の戦い」で神明社を消失しています。
依って鎌倉期から室町期末期までの間は美濃の神明社は建立する事はその勢力、能力、立場からもありえません。伊勢の四日市の神明社の2社と本宮伊勢神宮3社が守護神になっていた筈です。
そうすると、その後、信長に合力したのは尾張守護代の頃1545年代から北の庄の時代30年間程度、北の庄から関が原までの間20年間程度の何れかに成ります。
後述するデータから全期30年間の定住地にはこの年代に立てられたと観られる神明社は発見できないのです。次ぎは後期20年間の北の庄でこの時代までに建立された北の庄には分霊神明社は2社確認されます。
(現在の福井市域に祠を含む神明社関係大小23社あり、建立地域は5ブロックに分けられている。 この時代までの福井市近効で主な分霊社は8社と観られ、該当するのはこの2社のみ。 データは後述)
建立する能力としては後期20年間にしかないと考えられますが、5年程度を建立に要します。
この2社の内一つは924年代の平安期に建立されています。(福井市宝永)
もう一つは明確ではないが建物形式より1585-1595年代と見られます。(福井市・)
関が原は1600年ですからせいぜい豊臣方の趨勢は見えていた筈ですから、1590年以降には立てられない事が判ります。北の庄に赴任して直ぐに建てたと成ります。1585年はぎりぎりの年代と成ります。
2者択一で難しいのですが、そうすると”何故同じ所にもう一つ神明社を建てたのか”と言う疑問が重要に成ります。
924年代の越前のこの分霊神明社は、陸奥に865年に陸奥征圧を記念して阪上田村麻呂が桓武天皇に命により、桓武天皇と阪上田村麻呂の同没の直前に建てたものに継ぐ最も古い神明社で、これ以後その全国統一した証しとして主要各国に建立したものです。この50年後に建立した分霊神明社は、伊勢神宮の正式な分霊による朝廷の命による下克上の洗礼や戦国時代の焼き討ちにも逃れられた有名な「越前神明社」です。歴史上に遺された「祖先神の神明社」です。
依って、この分霊神明社を紀伊守の美濃青木氏が「氏の守護神」として復活して使う事には問題が出ます。
そうすると、守護神として同地域内にもう一つ建立する事以外に無く成りますので、1585年代の神明社が紀伊守の美濃青木氏の分霊神明社と考えられるのです。現在では「不祥扱い」にされている為に最終の確認が採れませんが間違いはないのでは無いかと見られます。
(しかし、神社はなかなか建立者や建立年代等を明確にしないのが慣習なのです。又古社はそれまでの歴史的混乱にて殆ど不祥に成っている事由もあるのです。)
そうすると、紀伊守説を搾取引用している多くの他説の氏は「姓氏」ばかりですから、現実に「祖先神」ではありませんので搾取で完全排除出来ます。
(青木伊賀守も坂上郡丸山に同時期に分霊神明社を建立している)
ところが、氏として観られる佐々木氏系の「滋賀丹波青木氏説」に付いては、この様な検証は行われず、且つ重要な青木氏のみが持っている情報がありませんので、家柄搾取偏纂の行為の説に成ります。
特に、「祖先神の神明社」の条件を検証する事で以下の全ての説には青木氏にとっては「紀伊守の件」では検討するに値しません。

(搾取偏纂の真意)
神明社の事でも明らかですが、これには次ぎの別の意味を持っているのです。
秀吉立会い面前にて200の兵を以って近江青木氏と滋賀青木氏が「滋賀青木氏の名籍」をめぐって「争いの決着」をつけました。勝利した側の青木氏が滋賀青木氏の名籍を獲得継承する事が出来る事としたのですが、結局、滋賀青木氏を名乗る側が勝利します。これは元上山氏の青木氏と近江青木氏との戦いで近江青木氏は滋賀の断絶名籍を奪われる事となったのですが、この戦いが秀吉との関係からこの青木氏が「紀伊守」と間違われているのです。否、ある目的を以って恣意的に間違っているのです。
又、豊臣側系譜作成上で「従兄弟説」に付いても恣意的に上手く利用されて搾取偏纂されたのです。何れも弱味につけ込まれたのです。
これは豊臣家をより良く思わせる為の工作劇であったと観ていて、鎌倉期にあった過去の事件に模して戦わせて、”「青木氏の名籍」が豊臣家のルーツの中にあるのだ”と印象付ける演出であったのであって、その為には「戦い」をわざわざゲームの様に仕立て自らが立ち会うと云う演出までしてのけたのです。
何処にでも常に起っている「名籍争い事件」であれば秀吉自らが立ち会う必要など全く無い筈です。
其処が「朝臣族青木氏」と云う所に意味があったのであって、それを縁者と見せていた家臣の元上山氏にさせたのです。この時点では上山氏は衆目の知る範囲ではなったのであって、”縁者”と衆目に思わせてる為に足軽であった者を秀吉に取り立てられてわざわざ現地の丹波に住まわせて準備万端にして「青木美作守家頼」と名乗らせていたのです。
(上山郷の農民であった事は「丹波志」の資料から判明 丹波青木氏は元は上記した佐々木氏系近江青木氏)
これに更に柴田氏の所領跡にわざわざ「青木紀伊守」と「青木伊賀守」の青木氏ばかりを宛がい与えて、更には上記の滋賀丹波には上山氏の青木氏を与え宛がえて演出して強く青木氏を衆目に印象付けたのです。主だったところに皇族賜姓族と衆目から見られている青木氏を配置したのです。その上で皇族に繋がる系譜上の演出の為に、又、秀吉は、天皇の子供を湯殿女であった母が懐妊して里に戻り産んだ遺子であるとする系譜さえ作る程の搾取偏纂に徹していたのです。周囲の親族も近江青木氏や近江佐々木氏等の断絶名籍を狙って系譜の中に入れる事は当たり前の仕儀であったのです。
ここに紀伊守が持ち込まれて美濃青木氏の鎌倉期滅亡後の後の出自がややこしくなってしまったのです。

(注 滋賀青木氏の名籍は近江青木氏が滋賀に移動定住した時の断絶名籍であった。滋賀青木氏を元上山氏を名乗る者がこの名籍を奪った事件 よく似た事件が鎌倉期にもあり、近江青木氏と美濃青木氏に限りこの「断絶名籍」を狙った事件は室町期から江戸初期までに数度起こっている。
実は、平安末期からこの類似事件が起こっていて、元上山氏が美作守家頼の時に丹波にて青木氏を名乗った搾取事件があり、その後には関西のこの元上山氏の青木氏と関東の元上山氏のこの青木氏が名籍争いも起している。他に元上山氏の青木氏だけによる本家名籍争いも他に2件も起こっている。)

この青木氏は佐々木氏より出自した佐々木氏系青木氏で、佐々木氏が北陸、越後、近江、山城、大和、淡路、阿波、土佐、伊予、石見等11の守護地を建仁3年から承久3年の19年に掛けて守護職歴任、この時に各地に同行したこの佐々木氏系青木氏の一族の末裔一部が残留したものでこの中には名籍断絶もあります。丹波氷上郡友政城はこの末裔青木久政の居城ですが、この様な名籍が四国地方に多く残されているのです。この佐々木氏系青木氏の一族からは更に枝葉として「多々良姓青木氏」が出自しています。
この佐々木氏系青木一族が各地で実に「名籍争い」を起こされていて、記録から室町期末期から江戸初期に架けて他に5件も確認出来ます。秀吉面前での近江青木氏の名籍争いはこの中の一つであります。
紀伊守の「秀吉の従兄弟説」があるのはこの事件より拡大解釈した搾取偏纂説で賜姓青木氏か特別賜姓青木氏以外には名乗れない「従五位左衛門佐」と、この氏の家紋は「丸に揚羽蝶に木一文字」である事から従兄弟説等は、”みえみえの明らかな搾取偏纂説”であるのです。”みえみえ”を承知の上で搾取偏纂しているのです。
(川島の皇子を祖とする近江佐々木氏の事で、宇多天皇系の滋賀佐々木氏より青木氏は出自なし これも間違われている)
依って、この家紋などからも明らかに「青木紀伊守」は伊勢-美濃の「融合青木氏」である事に成ります。
青木氏としては乱され搾取された部分を自らこれ等を紐解きなおして解明しておく必要があると考え、敢えて分類では、今まで筆者は「伊勢青木氏」として論じていますが、「青木紀伊守」は青木氏資料からも佐々木氏資料からも「源平の戦い」で滅亡又は衰退した美濃としての青木氏と観る事が出来るのです。
敢えて、ここで論じました。
(加賀前田氏を頼った越前にて本家現存 分家筋は越後、陸奥、土佐、讃岐、阿波、安芸、中には肥前に避難 主に鎌倉期以降の近江佐々木:近江佐々木氏系青木氏の守護職の赴任移動先に叙封後逃亡している)

(近江青木氏の背景力」)
「美濃青木氏」と「近江青木氏」とが組み込んだ搾取偏纂説が多く起るほどなのですが、何れも一族か衰退して「断絶名籍」が起りそれを狙われたのです。しかし、近江は近江で別なのです。
「近江青木氏」の方は、上記した様に「名籍争い」が多く起こり、合わせて「名籍の搾取偏纂」も多く起こっています。
親族の「近江佐々木氏系青木氏」が「近江佐々木氏」の助けで宗家である「近江青木氏」の名籍を護ろうとした事件です。現実には一時は平安期には「近江佐々木氏」と「近江青木氏」が同族争いを起し、滋賀に一族が移動しますが再び戻ったのです。この後、摂津に定住しますが、「近江佐々木氏」が「近江青木氏」を護った事件なのです。この滋賀移動時の「断絶名籍」を巡って元上山氏に食いつかれて搾取の事件が幾つも起こったのです。

「徳川氏の源朝臣」の搾取
この様に「断絶名籍の搾取」はみえみえの搾取偏纂であっても、”時代が過ぎるとそれは正当化する”と云う傾向があります。
因みに徳川氏は、幕府樹立の条件として「源氏」か「青木氏」の朝臣族で無くてはなりませんが、これを獲得する為に南北朝の第6位皇子を作り出し、その皇子が比叡山門跡僧侶となり全国托鉢の旅に出て三河の松平氏の門前に立ち逗留して娘との間に子供が生まれた。それが16代目の源氏遺子だとしていてその3代後子孫が家康だとしているのです。このストリーは明らかに搾取偏纂である事は判ります。
そもそも源氏は11代目花山天皇までであり、その以後の第6位皇子は皇子数が少なく無く天皇に成る者等も少なく苦労している時で、まして「南北朝」でもめている時です。且つ、松平氏と「時代性」をあわす為に採った苦肉の策で源氏賜姓の意味は最早この時期は南北朝では無く成っていたのです。
その為には12代から16代までの賜姓源氏を作り出す事が必要に成りますが、この12から16代までは現存しない人物で、幕府樹立際にこの旨を申請して天皇家から搾取である事が明らかであるので却下されます。
これに対して天皇家に対して生活も侭成らないほどに徹底した経済的圧力を掛けて認めさせます。
嵩に掛かって、更に2つ目の条件の「武家の頭領」も認めさせようとしますが、さすが天皇家も頑としてこれを認めませんでした。そこで徳川氏は「武家の長者」で妥協して認められ幕府は樹立します。
時代が過ぎると、この事は人々の意識から遠ざかり恰も「源氏朝臣」が「搾取」から「事実」の様に成ります。これが世の常であり、現在に於いては「時代考証力」の低いマスメディアはこの「搾取の時代遍歴」を信じて「正」として「源氏朝臣」と徳川氏が成っているが現状です。
注 然し、この事に付いては少し違うのです。
徳川氏側はこの搾取偏纂には自らは酔ってはいない事実があるのです。その証拠を伊勢青木氏だけが掴んでいるのです。
実は、家康の次男扱い頼宣が紀州徳川氏と成り、飛地領伊勢松阪で伊勢青木氏と面談した時に頼宣は上座から下座し座布団を外し儀礼の挨拶を伊勢青木氏に採ったと伝えられていて、この慣習は筆者祖父の代の大正14年まで続いたと聞かされています。
普通なら「源氏朝臣」であると信じていれば、否、信じていなくても、「時の最高権力者」であり、天皇家に認めさせた直後でもり、まして唯一遺されている青木朝臣族の賜姓伊勢青木氏で有っても、むしろ逆に無理にでも「源氏朝臣」を威圧的に認めさせて世に知らしめたい処です。正式な面談ですから少なくとも同位であるので、同座か又は”無礼者”で処理される筈です。家臣も黙ってはいなかった筈です。
しかし最初から家臣も平伏して「上座下座の問題」が解決する長い間を頭を上げなかったと伝えられていて、面談の間までの家臣の扱いは”極めて鄭重過ぎた”と伝えられているのです。
家康が最も信頼した紀州藩初代次男扱い頼宣がそのようにしたのです。それも伝え聞く一癖のあった頼宣がその様にしたのです。これは頼宣個人の思惑では無かった事を意味しています。兎も角も先祖は少なくとも座布団を外し同座を主張して押し問答と成ったとあり、この間、列座する家臣は平伏のままであったと伝えられていて、結局、同座で落ち着いたとあります。
以後、先祖は頼宣以降15代まで、南画、禅問答、俳句、漢詩、和歌、茶道の師を務め、政道の話し相手を祖父の代まで累代で務め、この時の慣習が引き継がれたとあります。
つまり、完全に違って逆だったのです。だから、筆者先祖も驚き「稀有と尊敬の念」を抱きその事を後世に伝えんとしたのだと思うのです。
また特に、8代将軍吉宗の代には伊勢青木氏と伊勢加納氏は「育ての親代わり」(伊勢青木氏と伊勢可能氏は親族関係にある)として関わった事もあり、また吉宗の「享保の改革」の裏方(直接の経済学の相談相手 御側用人扱い 加納氏と同等)として江戸で経済改革を主導したと伝えられ青木氏と紀州家に記録に残っていますし、吉宗の郷里の「紀州藩の財政改革」も平行して伊勢青木氏が依頼されて断行したと記録にあります。これも「2足の草鞋策」の所以であり、徳川氏の家臣でなかった為に家臣面前でも「布衣」をつけての特別待遇であったと伝えられています。謝礼として「十二人扶持」を5万石の大地主で紙問屋を営む襲名伊勢青木長兵衛は代々受けていたと記録と口伝で伝えられています。
この「享保の改革」の時に伊勢青木氏と共に信濃青木氏も協力して江戸にその子孫を送り遺しています。

この様に吉宗も「伊勢-信濃の関係」をも掌握していた事が判ります。(江戸6流の青木氏が定住 有名な青木六左衛門は筆者の先祖)
この事(徳川氏の上記経緯:源朝臣)は「幕府樹立」と云う「国の安定」の為の「権威擁立手段」に過ぎなかった事を意味します。「源朝臣」と成った以上は源氏11代は滅亡しているので、上位は傍系化した近江と美濃を除き伊勢、信濃、甲斐の賜姓青木氏と藤原秀郷流の特別賜姓族青木氏のみがそのルーツを保全維持していた事に成ります。
逆に言えば、上記の事は、徳川氏は、源氏の様に武力的権威に溺れず「家訓10訓」を護り「表の氏」に成るのではなく「3つの発祥源」として「神明社」を護り「悠久の年月」を「地道」で歩んで生残った「特別賜姓族」を含む青木氏の立場を認めていた事を物語ります。
故にこの儀礼を敢えて江戸時代末までに成っても徳川氏は守った事を意味します。特に頼宣と吉宗の代が最もその関係が強化されていた事が判ります。

「時代の慣習癖」
この様に「時代の慣習癖」を見越した上で、各氏は室町末期から江戸中期頃まで恣意的、故意的にこの「時代習性癖」を悪用して家柄呼称や系譜に搾取偏纂が横行したのです。そして、現在では何がほんとで何が嘘なのかも判らない様に成ってしまっているのです。
特に「系譜」に付いては「個人所有の系譜」は殆ど搾取偏纂であり、本来はその「氏の菩提寺」が所蔵保管しているもので過去帳と共に個人が書き記して行くのではなく寺が間接的に書き記して行く方式が本来の形なのです。「姓氏」の不特定の姓の「檀家寺」ではなく「氏」を形成し「氏の菩提寺」か青木氏の様に「氏の祖先神の神明社」を保有する処に保管されている系譜は信用できるのです。
「個人書き」には当然にその書き記した「人物の思惑と歴史知識」に左右されてしまいます。「個人書き」には過去に遡るだけの資料の保全が当時には無い訳ですから「過去に遡った系譜の作成」は論理的に有り得ません。まして上記して来た「姓氏」には江戸初期にやっと系譜の人物故人が出来る程度であり、人数的にも慣習的にも平安期まで遡っての系譜は物理的、論理的に有り得ない訳でありますのに、実しやかに「系譜」を全面に押し出して家柄を誇張する「氏」や「姓氏」が殆どです。
そもそも「氏」は下克上、戦国時代で滅亡して遺されている氏は1%にも満たないのです。全て室町期末期の「姓氏」であります。その事から考えて、「氏の菩提寺」と「氏の神の社」を持ち信頼できる系譜などを保有する氏は青木氏や藤原氏一門など全国20にも及ばない筈です。(8000の姓氏の中で)
「姓氏」に於いても「個人書きの系譜」で信用し得るものには、必ず、”「個人書き」した者の明記”と”後勘に問う”と”歴史上の箇条添書”が存在しています。信用出来ない推測領域には書き及んでいないのが定番です。この様な系譜「3つの条件」に合致しない系譜には必ず「搾取の系譜3つのパターン」があり史実雑学に照合すると間違いなく「矛盾」が生まれます。
事程左様に、信用できない「時代の慣習癖」を経た系譜の多くの通説では、例えば「近江青木氏」と「近江佐々木氏系青木氏」との様に混同していますし、又、同じく「佐々木氏」も「天智天皇(川島皇子)系近江佐々木氏」と「宇多天皇系の滋賀佐々木氏」とも混同している傾向を持つのです。
(近江と攝津にて2家青木氏の末裔家現存 摂津は「近江青木氏」 近江は「近江佐々木氏系青木氏」 滋賀は「上山氏系滋賀青木氏」)
(家訓と神明社)
奈良期から始まった「青木氏」は平安期の藤原氏系の「青木氏」へと繋がりそして明治期の「青木氏」へと広がりを示し変化して行く過程から、この佐々木氏や秀郷一門に支えられて互いに助け合い地道に生き抜いた青木氏の行動指針の「家訓10訓」は大きな効果を発揮しました。
これは「祖先神の神明社」と「家訓10訓」が連動していたからに他ならないのです。
(源氏とはここが異なっていたのです。 同じ賜姓族の「近江佐々木氏」も「近江青木氏」を支えていた事から観て、青木氏側からは近江佐々木氏に付いてその研究は大きくは進んでいませんが、青木氏と同じ様な生き方をしたと観られます。  近江佐々木氏資料から平安期の全青木氏の事が多く出てくる事は鎌倉-室町期には藤原一門と同じ位に同族の関係性を強く維持していたのではないかと推測していて、今後の研究課題と成っています。  
その証拠が多くあるのです。例えば神明社の神職に佐々木氏、春日社にも佐々木氏、八幡社に佐々木氏、青木氏菩提寺に住職として佐々木氏、青木氏の村主に佐々木氏等が資料から観られるのです。 於佐々木氏資料より考証)

青木氏とほぼ同じ時代経緯や祖先神や宗教や由来や末裔の地域性や藤原一門の特別賜姓族との関係などほぼ一致している佐々木氏の資料などからも考証すると、上記した様に「氏の融合期」の初期頃(平安末期:「民族融合」の終了期後 1125年頃)にこの家訓は定められたと考えて居るのです。
幅広い関係性の中で定められたと考えられます。
恐らく、奈良期に「中国後漢の民」からもたらされた第1次産業がこの頃に飛躍的に進化して日本全土に拡大し、そして質的にも醸成され始めた「初期的な物造り」の「社会の気風」が起こり、それが更に強くなり民にその意識が高まったと観ています。この頃からむしろ「平安文化」「鎌倉文化」「室町文化」の「3つの文化」(紙文化)の発展に支えられて「生活の糧」の目的から「文化」の目的に質的量的にも拡大進化して変化を遂げます。
この「文化の基盤」が出来た「殖産・物造り」は基盤と成った「文化」の「心の余裕」がより「神明社信仰」へと結びつき、「神明社」は「青木氏の祖先神」から「庶民の神明社」へと変質して行きます。
結果として「民は生活の糧」のよりよい発展を期待して「民の物造り」の「神」の対象として崇める様に成って行くのです。
この時、「神明社」の変化は「氏から民まで巻き込んだ信仰体」と成って行った事から「3つの発祥源」の青木氏はその正しい行動とより高い規範の維持を要求されて来たのです。
その結果、平安期末期の「源平の戦い」で衰退し「青木氏」として生残るには家訓10訓の中でも特により高い「家訓8の考え方」が物心両面で大きく左右して行ったのではないかと見て居るのです。
その結果、「神明社」の維持と相俟って、「殖産・物造り」を最初に「5つの和紙」を扱う青木氏の「2足の草鞋策」は(青木氏口伝からも含めて)伊勢の青木長兵衛(民部上尉)が主導して互助組織の氏家制度を通して、この時に各地の秀郷流青木氏を巻き込んで一族一門を通して一斉に「商い」を起したのではないかと観ています。(1125年頃)
「物造り」とそれに関係する「民の信仰対象」と言う要素が付加されて青木氏の「2足の草鞋策」は前記したように「色々なしがらみ」が1125年頃に一度に増え続けて絡み、結局は「時代の渦と流れ」が青木氏を「2足の草鞋策」へと押しやったと考えます。
ここを的確に「渦と流れ」を捕らえたからこそ生き残れたのです。
しかし、ほぼ同じ環境にあった同族の嵯峨期からの11家の賜姓源氏はこの「渦と流れ」を短絡的に履き違えて捕らえ「滅亡の道」へと押し進んだのです。(荘園制)
そして、その異なる要件の一つとして、彼等の源氏の守護神の「八幡社」に「物造り」=「八幡社」の構図が出来ず「民との絆」が生まれなかった事なのです。
前記した「絆」に基ずく「4つの青木氏」の関係に類する様な「11つの源氏」には生まれなかったのです。
青木氏と対比対象となる同族の「源氏の生き様」は”「皇族」と云う身分家柄に始終し民との間には溝を構えた為に「絆」は出来なかった”のです。
(渦と流れの入り口で最早如何ともし難くなり頼信系に引きずられて止む無く清和源氏頼光系4家は伊勢-信濃-甲斐の賜姓青木氏に跡目を遺したのです。)
つまり、源氏には「重厚な生きる力」=「絆」は生まれなかった事に成ります。
(近江佐々木氏との関係)
特筆するは研究が進んでいない「近江佐々木氏」が「源平の戦い」に巻き込まれて「近江青木氏」と共にこの時から衰退し、一時は江戸期には滅亡を危惧されるまで衰退を起しますが、然し、末裔は生き残り拡大して現在に至っています。(近江佐々木氏末裔の剣豪佐々木小次郎の頃 )
「近江佐々木氏」は「2即の草鞋策」-「祖先神」を連動させたのか等は不祥で、青木氏から観た事では判る事は「神職住職」が大変多い傾向を持っていて、全国各地にくまなくその子孫を遺している特長を持っている事なのです。
「神職住職」が青木氏と藤原氏の寺社神社にも多い事が気に成るのです。「祖先神の神明社」を論じる場合内心は欠かせない事ではないかと危惧している処です。未だ其処まで研究が行っていせんが今後の課題とします。
つまり、何故かと云いますと、皇族と藤原氏の両方の血縁族を得ている事から「祖先神」と「鎮守神」を守護神とし、「神明社」と「春日社」を護ってきた事が生き残りの根幹と成っていたのではと観ているからです。更に源氏滅亡後に同族であった事から「八幡社」も「近江佐々木氏」が祭祀続けたのではないかと考えられます。(特に近江攝津に拠点を置く頼光系清和源氏系の八幡社に対して)
結局、江戸期に入って「神明社」と「春日社」と「八幡社」の信仰が盛んになった事で、各地に存在するこの3つの全国の社を合わせると3-5万社と成り、この内の2割程度から3割程度が佐々木氏で有ったとすると、全国各地に末裔が広がる事の大きな要因に成ります。
(明治期の神明社で観ると大概に3割程度弱 特に関東以北に多く観られる)
まして、当時の神職の慣習は「氏の守護神」(「氏の菩提寺」)であった事から、上記した様に「4つの青木氏」の職能集団を抱え、その神職は室町期までは青木氏、佐々木氏、藤原氏が多く、他氏の誰でもが成れると言う慣習ではなかったのです。(住職も同じ。)

(注 江戸期から明治期にかけては神社仏閣の宗教改革は幾度と行われたためにこのシステムは消えた。浄土督奨令 神仏分離令 大教宣布 寺請制度 廃仏毀釈 寺社領上知令、地租改正等で「特定の氏」の「独善的排他性の組織体制」は国体に好ましくないとして解体されて行った。 これに対して反発の混乱が長く続いた。これ等に関する一揆も含む混乱は江戸初期から始まり明治9年頃にほぼ納まった。この終息期の明治3年の苗字令から明治8年の督促令がこの「仕上げの政治」であった。「特定の氏」と「宗教」は深く関わりあっていたので「特定の氏」の「特権とその勢力」を削ぐ為に「宗教分離」と「土地の剥奪政策」を明治6年までに実行した。これで氏家制度の氏は根本から解体された。)

青木氏と異なり佐々木氏はこの3つの守護神(氏の菩提寺も含む)に関わっていた事が生き残りの要因に成っていたのではないかと考えているのです。青木氏の「2足の草鞋策」の様な役割を果たしていたのではないでしょうか。青木氏は「2足の草鞋策」で回避できたとしても、「近江佐々木氏」は江戸初期から始まった上記の経緯で「江戸期の衰退」が起こったと観られ、研究はこの辺にポイントがあると観ています。
然し、この混乱期で最も資料が遺されていると観られる寺社の改革である為に資料が遺されていない事が考えられ、更には寺社は「霊験新たか」を前提にする為その資料を積極的に公的にしない傾向があり研究は困難が予想されます。
しかし、。研究が進めば、更に発展してこの「3つの賜姓族の氏」が鎌倉期以降「三つ巴のスクラム」を組んでいたのではないかと観ていますが今後の研究課題です。
「近江佐々木氏」が幅広く「青木氏」を研究している事から観れば大きく関係性がある事を意味します。
青木氏の「生き様」がより幅広く蘇させられるのではないかと観ています。

青木氏と守護神(神明社)-13に続く。


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