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青木氏と守護神(神明社)-17

[No.285] Re:青木氏と守護神(神明社)-17
投稿者:福管理人 投稿日:2012/04/10(Tue) 15:34:03


さて、そもそも日本には次ぎの守護神があります。
日本に於ける守護神はその「7つの融合民族」の構成に由来します。
この「7つの融合民族」(◆日本民族の構成と経緯 - 01/21-15:25 [No.117])に付いては研究室のレポートでも詳しく論じていますし本論でも述べています。詳しくはそれを参照して頂くとしてここでは読んで頂いたと云う事で進めます。
この7つの夫々の「民族性」が下記の0~4を造り上げているのですが、この「民族性」が社会の中で「身分や家柄」を発生させて、加えてその「身分や家柄」から来る「氏の構成」に分類されているのです。
この「氏」(後の「姓氏」も含む)のその立場から来る「生き様」に合わした考え方を生み出し、そこに「守護神の存在」を想像したのです。勿論、これ等は0の「自然神」を根幹としているのですが、この「自然神」に対するその立場からの「多種多様な考え方」が生み出されたのです。
言い換えれば、この時代に於いても「氏の構成」から来る「氏の多様性」と共に「生き様の考え方」(「思考原理」とする)もこれだけもあった事を物語るものです。突き詰めれば、「現在の人」の「生き様の考え方」とあまり違っていない気がします。ただ違いはその「生き様」の中に占める「守護神」の割合です。
前段で論じた様に政治的な事までも「神に占う」と云う習慣であり、次第に時代が進むに連れて低下したとは云え生活の中に溶け込んでいた事は間違いは無く、その氏の行動に大きく左右していた事は間違いはないのです。

丁度、前段でも論じた様に昭和と平成の時代に「氏の構成」から来る「身分や家柄」(士農工商)の縛りが明治維新に解けて150年経ってやっと人々の「自由な交配」が今起っているのです。
その意味では、未だ”この「5つの守護神の考え方」が解けた”と考えられる時期でもあり、そう古い事でもないのです。つまり、この今、新しい「生き様の考え方の自由化」が起っている時期とも云えるのです。
この「考え方の自由化」の時期から約600年以前に遡った事を「祖先神の神明社」として論じているのですが、2000年の日本の歴史から考えると約600年以前から約1600年以前までの1000年の間として、この「瀬戸内」の時代(1000年頃)はその「生き様の考え方」の真っ只中に有った事が云えます。
恐らくは、その「生き様の考え方」の違いが社会の中に「大渦」として渦巻いていた考えられます。
その一つとして、各地の大神社がこの時期に系列の神社を各地に挙って「建立競争」をしているのです。この時期では「熊野神社」の「熊野蟻の詣」(本論付録末尾にデータ添付)と呼ばれた事でも有名で、「姓氏の発祥」とも重なって「自らの氏や姓氏の生き様の考え方の象徴」を荘園制に乗じた勢力拡大に伴なってその領域を各地に広げていった時期なのです。

現在ではその「生き様の考え方」は「個人の自由」として何の不思議も無く容認されていますが、この1000年の後半の「大渦」はその「生き様の考え方の是非」を巡っての争いと成っていたと考えられます。
言い換えれば、この時代の社会の中では、「5つ守護神の自由性」は無く、”どの「生き様の考え方」が「生残れるのかの戦い」”でもあったと考えられます。
従って、「累代の天皇」や「2つの青木氏」の苦闘は、「皇祖神」に繋がる「祖先神の神明社」の有り様として、「生残れるのかの戦い」の中での「祖先神の考え方の創建」であった事が云えます。
つまり、言い換えれば「祖先神の青木氏の考え方」で生残れる事が出来るのかの戦いであったのです。
その為にも、「3つの発祥源の青木氏」として何としても生き残り「祖先神の神明社の建立」を成し遂げなくては成らなかったのです。
油断すれば「祖先神-神明社」と云えどもその考え方として抹殺されていたとも考えられる程であったのです。発祥当初は問題は無かったとしても、この頃は皇族系・賜姓族系として限られた小さい氏の構成の中での考え方と成っていたのですのでありますから、多勢に無勢で多くは「3の氏神」と「4の鎮守神」の環境の中でです。埋没してしまって神明社を建立しても忘れ去られていた事に成っていた筈です。

前段でも論じた様に「祖先神-神明社」の生き残りは「3つの発祥源」の生き残りに成るのです。
その意味で、この「八幡社の問題」やこの「瀬戸内の問題」は根底にはこの「守護神の大渦」(ブラックボックス)に呑込まれる現象でもあったのです。
「神明族」としてはその意味でも「源氏の協力」は是非必要な時でもあったのです。然し、「河内源氏」は「八幡社」に走ってしまったのです。それだけに「2つの青木氏」の「祖先神-神明社の建立」に取っては大きな痛手でその立場は困難であった事が覗えます。
恐らくは、「氏家制度」の厳しい観衆の中では 源氏に対しては ”何にをやってんだ。皇族賜姓族でありながら”の批判が渦巻いていた筈です。一方「未勘氏族側の立場」からすると ”良くやった。 古い体質から脱却して大したものだ。 武家の鏡だ”と囁かれていた事でしょう。だから「武家の棟梁」の呼称が生まれたのですがこれには大きな代償を払った事に成ります。
この意味で、この「5つの守護神」に付いても前段で論じた来ましたが、改めてこの問題を大きく潜ませている「瀬戸内事件」を鮮明にする為に論じます。
ただこの事件に付いては上記の背景(守護神の大渦)が社会の中の根底に渦巻いていた事は特に留意して頂きたいのです。

人は「行動規範」の根底には、この”「生き様の考え方」が無意識の内に大きく左右しているものである”と云う事なのです。その一つの表れが今では無くなった「守護神」と云う事に出て来るのです。
現代人はこの感覚を無くしていますので、通説などを考察すると ”上辺の判断や理解” と成ってしまっていますが、当時の人々の思考の中には無くてはならない「人の芯」の様なもので在ったのです。
その「5つの守護神」の考え方の”「人の芯」のぶつかり合い”がこの「瀬戸内の事件」の背景にあるのです。
(守護神そのものの詳細は下記でも論じます。)
この「0から4の守護神の考え方」は「氏」を考える上で非常に大切な事で、決して思考の中に除外してはならないものなのです。現在では「氏」そのものを同一として論じられていますが、そもそも「氏の考え方の根幹」が異なるのです。
「祖先神の神明社」は”単なる「神明社」ではない””単なる神社の違いだけではない”と云う事なのです。
何度も云う様ですが「生き様の考え方」が異なると云う事なのです。そうなると、当然にそこには”民族の違いの軋轢や争い”が生まれのは必然です。
まして、ここにあたらしく発祥してきた「姓氏」が加わると、同じテーブル上で論じられた場合には、「氏家制度」の中で当事の歴史の出来事を正しく評価判断できなくなるのです。
「青木氏」は「皇祖神」に繋がる唯一の「祖先神の神明社」ですが、神社そのものを論じているのではなく「考え方」の歪を無くて正しく論じて「真の生き様」の掘り下げ遺そうとしているのです。
当然に、その時にはこの考え方に更には「八幡社」が関わってくるのですが、本段ではそれがどの様に関わて来るのかを掘り下げて行きます。
「姓氏と八幡社」と人の根底と成る思考の「5つの守護神」が絡んで来ると論じるのには大変です。
そこで先ずはその「守護神の違い」から論じる事にします。

「日本の守護神」
「守護神の種類 5神」は次ぎの通りです。
0「自然神」(しぜんしん) 山海・草木・湖沼・岩石等の自然物や雷・風雨・地震・火などの自然 現象に宿るものを神とし「否特定の神」

1「産土神」(うぶすながみ) その「人」の「生まれた土地の神」であり、一生来その「人」の「土神」とする「人(単独)の神」

2「祖先神(祖霊)」(そせんしん)「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、 自分の集合である一族一門の子孫の「守護神」であり「人と氏の重複性も持つ神」

3「氏神」(うじがみ) 「人の神」ではなく、「氏のみの一族一門の神」で、氏永代に守護する「氏(独善)の神」

4「鎮守神」(ちんじゅのかみ) 「現在住んでいる土地の守り神」であり、「土地・地域」を守る「土地・地域の神」であり、「人」は土地に吸収されるとした「土地・地域優先の神」

そもそも前段でも論じましたが、0の「自然神」は全ての共通する「守護神の根源」となる「神」で、全ての民の「思考の基準」と成るものです。
ただ、「後漢の民」の帰化人の末裔(阿多倍一族一門)には若干違和感がある筈です。しかし、その違和感もそもそも後漢の帰化人は「道教」を根源としているのですから、「産土神」であっても前段でも論じた様にその「道教の根源」も結局は「自然神」を根源としている事には違いは無い事に成ります。
この「5つの守護神」の中でも特に「産土神」がその考え方としては異質です。然し、この考え方が阿多倍一族一門によってすごい勢いで全国に伝播して行ったのです(前段で論じた 32/66国)。
(この時、職能集団の鞍造り部の首魁の司馬達等に依って仏教も同様に私伝されていたのです。)
中でも関西以西では彼等から「職能の享受」を受けていた民に取ってはこの「産土神の考え方」に当然に牽かれて行ったのです。また牽かれなければその職能の享受と豊かさを授かる事は不可能であった筈です。
それだけにこの「瀬戸内」の事を語る時この「産土神の考え方」を度外視出来ないのです。
その「産土神」の柵のあるところに「祖先神」は兎も角も「八幡社」で「源氏の自分の世界」を構築する事はかなり困難な環境下にあったのです。瀬戸内の事は、血縁で地元に根付いた「讃岐籐氏」であり、彼等の伝統である持ち前の柔軟さからこそ成し得た事であったのです。
まして、当初、清和源氏は「産土神」や「祖先神」ではない「海の神の住吉神社」に傾注していたのです。もとよりそもそも策謀を労しても難しい事であった筈なのです。

「産土神」
先ずは、その1の「産土神」は「瀬戸内」の問題でも「純友神社」に大きく関わって来る重要な要素なのです。依ってここでは先ずは「産土神」に付いて特に掘り下げて論じます。
上記の1の通り、”その人が生まれた「土地の神」を「その人の神」とし、同じ「氏」の者でも生まれた土地が異なれば「その人の神」は異なる”とするものです。
当時の社会は同じ族を成す者等が集まり集団で身を護る習性を持っていたのですから、人は確かに多くの者は集団で住む事に成りますから必然的に同じ神を守護神とする傾向が起こります。
しかし、これらの末裔が時間と共に広がり融合し枝葉化すると、当然にその生まれた「土地と環境」が異なって来ますから、「守護神」と云う意味ではこの場合はある程度の「自由性」を保持している事に成ります。
従って、親と子供が守護神が異なると云う事が起こるのも当然ですから、親や支配者や氏との守護神が異なり考え方が違うと云う事も起こる事に成ります。つまり、「自由性」と「個人性」を強く持つ守護神なのです。
つまり「その人(単独)の神」であって、「祖先神」の様に「氏の神」は「氏」に属する自分であるから当然に「自分の神」は「氏の神」とする「集団性を持つ守護神」では絶対性は無いのです。
依って「産土神」では「祖先神」の様な「拘束性」が無い事に成ります。

「氏の神」=「自分の神」と、「自分の神」≠「氏の神」の考え方の違いなのです。

前者は「氏の神」は「直接的な神」となり、後者は「氏の神」は「間接的な神」と成ります。
そうすると、後者は「自分」と「周囲の者」はある場所に於いて同じに成り、又そうで無い事が起こります。
それは「産土」(うぶすな 生まれた土地)ですから環境が変われば「周囲の者」は必ずしも同じとは成り切りません。
末裔の先祖は当初は「氏の神」=「自分の神」が成り得ていたとしても「人と場所の変化」は勿論の事として「時の変化」に依ってもこの関係は崩れる事に成ります。
「瀬戸内」で生まれたとすると家族・親戚は「同じ神」を信じる事に成りますが、家族構成の範囲である場合が殆どと成ると「氏の神」が「自分の神」と云う事には成り切りません。
前段で論じて来た様に、この考え方の主は、そもそも奈良期に彼等の全ては後漢から来た阿多倍一門の「職能集団」の考え方であり、この瀬戸内の沿岸に住みついた「後漢の民の帰化人」のものであり、且つ、その民を海の上に起こる海事から護る「阿多倍の海の兵能集団」のものでもであるのですから、「民族氏」であり「海部氏」等の様な列記とした「品部の姓氏」(かばねうじ)のものでもあります。
然し、この考え方はこの間、既に600年近く経過しています。

この間にこれ等の「海の兵能と職能集団」が「姓氏」として独立したのが「海部氏」であるのです。
そして「陸」では「陸の兵能集団」の「武部氏」と、「職能集団の陶部」の「陶氏」が「姓氏」として独立して勢力を拡大したのです。
この「海部氏」や「武部氏」や「陶氏」などはそもそも元来の地は「職能集団」であり、武力を持たない集団であったのですから、「姓氏」として成り立ち勢力を持つには「海の兵能集団」と「陸の兵能集団」の協力が不可欠で絶対的必要条件です。
瀬戸内で発祥した日本最初の「品部」から生まれた「姓氏」で、これ等の「姓氏」に成り得たのはこのまさしく「海の兵能集団」(海部)に護られていたからであり、その海から得られる富を背景に勢力を拡大し「姓氏」と成り得たものなのです。
陸の「姓氏」の「陶部氏」も「武部氏」もこの「海の兵能集団」に護られていたからこそ室町期には中国全土を支配する「陶氏族」となったのです。
ただ、互いの部の異なる者達の間には、問題は上記する”産土神の関係がどの程度思考の中に遺されていたか”と云う疑問が湧きます。

「産土神の影響」
「場所の要素」は瀬戸内である事は帰化当初からは同じとすると、「人の要素」は”海族””海部族”として存在しているとこから多少の変化を起していたと観られますが、この族の「産土神」は依然として存在していたと考えられます。しかし、この各海族の「族間」は「海部族」を「姓氏」として「海の兵能族」として生存し維持し互いに相互保護していた事から多少希薄には成っていたとしても存在していた事は確実です。
多少の希薄に成っていた分は、職能関係で ”相互間には「経済的条件の関係」の要素で補われ成り立っていた”事と観られます。
「海部氏」は他の「海族」から身の安全を保つ「武力的な保護」を受け、「海族」はその見返りとして「経済的な保護」を受けて成り立っていたのです。特に上記した様に「産土神の考え方」がこの「相互関係」、即ち、「自由性」と「個人性」-「否拘束性」を持つ事から、この「経済的な相互関係」を強く持つ事が特徴とするのです。各海族の族間の「希薄の分」は「経済的な結付き」で補完されていたのです。
つまり、「祖先神」が持つ「経済的な相互関係」は「当然の義務の事」として優先的に成立するのに対して、「産土神」では「義務の事」は「補助的な要件」として存在するのです。つまり「相互依存の関係」で成り立っていた事です。

経済的な相互関係→祖先神・・義務的要件  「産土神」・・補助的要件(相互依存)

実は、戦略上の常道として、「陸戦力」は海からの攻撃に弱いのです。その弱点を「瀬戸内の兵能集団」が護っていたから「陸での勢力伸張」が可能だったのです。
例えば、ここにその事例があるのです。前段で論じた事ですし、上記の義経が平家水軍を瀬戸内で破った直ぐ後、平家は最終決戦を挑む為に、「敗残兵」を集め水軍を建て直し集めて密かに頼朝の根拠地の鎌倉沖の海に三々五々終結したのです。水軍の持たない慌てた陸戦軍の頼朝軍は弱点を突かれて逃げ始めたのです。ところがこの事を察知した伊豆沖の大島群島の大島源氏の水軍が黒潮を乗り越えて不眠不休で3日で到達したのです。既に頼朝は海から攻められて敗走しているところであってこれが一日遅かった場合は鎌倉幕府は無かった事に成ります。
大島水軍が伊豆沖を通る船の多さに疑問を抱きこれを「察知」した上で、且つ「3日」以内で到達しなければ頼朝軍は滅びると観たのです。そこで来るとは予想もしなかった計算外の平家水軍は今度は船団の背後を突かれて、これを観た勢いついた陸戦軍との挟撃に合い殲滅してしまったのです。
大島水軍が動く事と頼朝軍の掃討は5日と見込んでの「秘密戦略行動」であったと記録されているのです。これが本当の源平の最終結末なのです。

事程然様に、「瀬戸内の海族の背景」が無くしては「陶部氏」にしろ「武部氏」にしろ自らの力ではその勢力の拡大は例え「海の富」があるとしても「姓氏」には成り得ないのです。
この「海の族」即ち「海族」の力が伴っている事が「姓氏としての絶対条件」なのです。それは現在の軍備においても戦略上同じです。
この証拠に室町期には「瀬戸内の兵能集団」は「陶部氏の配下」に入ります。
瀬戸内の「陸の兵能集団」は「武部氏」、「海の兵能集団」は「海部氏」等です。

(注釈  他に奈良期に蘇我氏と戦い滅亡した「兵能集団」として「物部氏」がある。実は「海部氏」と「磯部氏」の職能の境界が不祥で、「海部氏」は兵能と海産物の職人、「磯部氏」は海産物と兵能の職人の両方が記録から出て来る。先ず「海の領域」が異なっていた事ではないか、「海部氏」は外海側 「磯部氏」は内海側 従って「海部氏」は外海から互いに内部で役割分担して兵能役に重点を置いて居たとも考えられ、同様に「磯部氏」は内海であっても職能に重点を置いていたとも考えられる。 恐らくは「海部氏」の場合は家族が海産物の扱いも演じていたと考えられる。時代の変化と共に「生活の糧」の為に区分しなく成ったと考えられる。)

(注釈  前記したが、「武」と「兵」の違い 「武」の”もののふ”は「氏家制度」に依って発祥した武装集団でその「氏の宗家・武家」を主とする組織の支配形態化にある「武の士」を云う。
「兵」の”つわもの”はその集団の首魁の下に兵能職として集合し集団の首魁の直接的支配形態にはなくほぼ「兵能請負形態」に近い軍団の「兵の職人」を云う。
後に「武の士」は「武士」と呼ばれその「武の道」としての規律を養い育成した。下克上が起り主家宗家が逆転した事から江戸時代にはこの「武士」までを「武家」と呼称する様に成った。
「兵の職人」は奈良期に後漢の民の職能集団が帰化してからこの中の兵能の集団が「兵」”つわもの”として職能者として定着したもので、歴史的には漢氏や東漢氏や物部氏がこれに当る。室町期には雑賀集団、根来集団、柳生集団等の兵能集団がある。室町後期には”もののふの武士”と”つわものの兵”が「農兵」も加わり一つに成って行きます。)

この「二つの海と陸の兵能集団」を配下にしたからこそ室町期の下克上では陶部の「陶氏」中国域全域を制覇出来たのです。
この「海部氏」は「海の兵能」と共に沿岸部の末裔一族やその家族集団等が営む「海産物全般」をも取り仕切って販売しその富を得てその船団の輸送力(造船力含む)と武力を使って勢力を拡大したのです。
これ等の意味も考慮に入れて「産土神の純友神社」と云うものの存在はただの”神社”の意味だけでは無い事がよく判り、大いに生活に関わる事でもあります。
そもそもその行動は上記する「思考の根幹」にも通ずるものであって、その「純友神社の存在」の判断は「思考」と「生活」とに直接に関わる事であり、彼等の共通する「集団の象徴」でもあります。
現在、我々が感ずる神社・”お宮さん”のそのものの単純な事では無いのです。
(通説ではこの様な時代考証が無視される傾向がある)
これは上記した様に「祖先神-神明社]も「氏の神」=「自分の神」の関係にあった訳ですから、尚更に同じ以上により強いものであった事に成ります。
そして、この様な事の記録資料が彼等の「産土神」の「純友神社」系を含む神社に所蔵されているのです。
この絵巻などを含むいくつかの所蔵資料を総合する事で「海族」としての「海の族の活動具合」が読み取れるのです。

又、全く同じ時期で同じパターンが美濃から駿河の海域でも起こっており、上記した「駿河水軍」に護られて「海の族」の「磯部氏」が「海部氏」と同時期に中部地方の「姓氏」として勢力を拡大したのです。
又、やや異なるかも知れませんが、前段で論じた「伊勢-信濃の賜姓青木氏」も「伊勢シンジケート」の一つの「伊勢水軍」を背景にしていたからこそ「2足の草鞋策」が成し得たもので、生き残りの大きな背景に成っているのです。
当然に「瀬戸内の水軍」の「産土神」の「純友神社」(仮称)と同じく、「祖先神の神明社」は関西以東のその陸海の「シンジケートの象徴」でもあったのです。
そもそも何処に於いても「氏」の生き残る構成は突き詰めれば同じなのです。”ある物に共通する象徴を求める”と云う人の「本能的習性」があるのです。
勿論、「神明社の特別賜姓族の青木氏」に於いても前段でも論じている様に寸分違わぬ構成に成っているのです。これは最早、「氏家制度の古氏の条理」ともされる絶対条件なのです。
(この判断要素が通説には多く欠落している。)

その彼等の「瀬戸内と云う海域」に祭祀する伝統的な守護神は「瀬戸内の産土神」であります。
対比して「祖先神」は環境には無関係で遠くに居ても「氏の守護神」は「自分の守護神」でもある事に成ります。従って、「瀬戸内の産土神」の環境の中に於いてでも「祖先神-神明社」の存在は「生活の神」「物造りの神」である為に彼等に受け入れられる事が可能と成り得ますので、この「瀬戸内」にも「神明社」が存在している事に成ります。
(その反面、八幡社は上記した問題があり彼等に受け入れられ難い環境にあった)
そもそも前記したように「神明社の存在意義」は「祖先神」と云う括りがあったとしても、「豊受大神宮」を祭祀しているのですから「物造りの神」「生活の神」の「存在意義」があり、「産土神」に限らずどんな「守護神」の中に於いてでも「民の生活の営み」が存在するところには敬愛され信心される事が可能という事に成るのです。これは「産土神」と「未勘氏族が作り上げた八幡神」との融合とは異なるところなのです。

さて、そうすると、「瀬戸内の産土神」を守護神とする環境の中に、「讃岐籐氏」の「藤原秀郷流青木氏」の「特別賜姓族」としての「祖先神の神明社」は少なくとも抵抗無く受け入れられる事を意味しています。
つまり、「藤原純友」の周囲(讃岐籐氏護衛団の秀郷流青木氏)には彼等の「海族」を説得出来得る条件はもとより「思考原理」としても備わっていた事を意味します。
この事は ”純友が海族に成ったとする通説”には「純友-海族」の生きる世界の間には”「大きな隔たり」が存在している”とする前提条件が論理的に付いている筈です。
”解離しているから同じに成ったとする事が変質である”としていて、それを非難されているのですからこの事から考えてもこの「海賊の通説」は全くおかしいのです。

(特記 上記の矛盾考証以外に、伊予住人、伊予三等官、有品官位保持、令外官追捕使、一族讃岐籐氏、特別賜姓族護衛団、瀬戸内利権、瀬戸内血縁族、父は大宰府少弐-上野守国司、藤原北家秀郷一門等のこれ以上無い「絶大な生活環境」を保有する人物であり、一転してこの環境を捨てて「海賊」に成り得なければならな利点が無い。むしろ「瀬戸内海賊」をその環境の一つに加えての「全瀬戸全域の利権」と「血縁絆」をも収めてしまった事による為政者側(朝廷)の「怨嗟」と「危険視」の発露であった。つまりは”出る釘は打たれる”の例えの通りなのです)

然し、「産土信徒」の海族側と「神明社信徒」の同じ瀬戸内に住む「讃岐青木氏」等の純友側には「物造りの神」「生活の神」としての「共通項」が存在していたのです。この「共通項」が触媒と成って海族側の「拒絶反応」が霧散した事を意味します。

「瀬戸内の讃岐青木氏」
「讃岐籐氏」を支えていた「第2の宗家」の「讃岐青木氏」が下記の「融合条件の関係方程式」に大きく関わっていたとしているのです。
「讃岐籐氏」の護衛団は「讃岐青木氏」です。この「瀬戸内の海族団」との交渉に無くてはならないのはこの護衛団です。仮に「海族団側」と談合が付いたとしても「彼等を護る力」が純友側には保障として絶対に必要です。

(特記 丁度、真にこの時期に秀郷一門の「武士の護衛団」は秀郷第3子千国を長として「特別賜姓族の青木氏」として朝廷より「青木氏」を賜りその任務に任じられる。秀郷は「将門の乱」を平定する条件として「2つの条件」を朝廷に提示 [貴族に任じられる事 武蔵下野を領国とする事]。 「公家の藤原氏」に成る事により自ら「秀郷正規軍」はもてない事から千国にその「正規軍」の任務を与え、その「護衛軍」に成った「武家の青木氏」の賜姓を特別に受けて「貴族の護衛団」らしく権威付けた。公家は護身用の武士は持てたが戦い用の武士団は持てない慣習がある。この経緯より「秀郷流青木氏」は939年から940年の発祥と観られる。純友事件の直前に「純友の護衛団」は「特別賜姓族」の名誉と「青木氏」の名籍を獲得して純友は「追捕使の任」と共に彼等を説得する事に勢い付いたと考えられ、同時に「瀬戸内の民」も信頼する条件が生まれた筈です。当初は朝廷も「秀郷勲功」と「祖先神-神明社建立」に配慮した事が「純友任務」にも影響を大きく及ぼしたのです。 余りの影響に「朝廷怨嗟」が生まれた。
この時期の朝廷は「将門の乱の鎮圧」に誰も手を挙げなかった程に信任を落としていた。結局は平貞盛と藤原秀郷の2人が条件付で手を挙げた程であった。体裁を保つ為にやっと経基等の「追討軍」を編成して関東に送ったが既に鎮圧後の対面策であった。)

(特記 上記した様に「特別賜姓族」に任じられた理由には皇祖神に繋がる「祖先神-神明社」の普及建立など幾つかあるが、筆者はその一つとして「朝廷内の勢力争い」の中で北家筋は瀬戸内に勢力を伸ばしていた「讃岐籐氏の純友」を背後からバックアップする意味で、全国の藤原氏北家の中でも最大勢力を誇っていた「讃岐籐氏」のその「護衛団」に「特別賜姓族」とする「権威付け」をさせて事を上手く図れる様にこの期をわざわざ選んだと見ているのです。政治的経緯から観て全国的にもその権威付けの必要性の機運は北家筋としては高かった。「令外官追捕使」の任命もその一つであった。)

「令外官追捕使」の純友にはもとより彼等を護り抜くだけの兵力は与えられていない訳ですから、護衛団の「讃岐青木氏の武力」が絶対的に必要です。
そして何と云ってもこの「讃岐青木氏」はただの護衛団ではありません。
「特別賜姓族」と云う「朝廷のお墨付き」を持っています。「物造りの神」「生活の神」の「神明社」を各地に建立し続けている特別賜姓族です。彼等海族も「物造りの職能集団」の末裔です。
瀬戸内沿岸と山陰までの土豪との血縁による「幅広い血縁族」を有しています。
更には、秀郷一門の116氏の中でもトップクラスの「2足の草鞋策」の「経済力」とそれに伴なう「廻船力」を有しています。
これだけの「裏付と権威」があれば「瀬戸内の海族」に取っては信頼は出来て文句はなかった筈で、武力に依る彼等の「身の安全」の確保と「海産物の販路」の拡大の点に於いても彼等の「生活の安定」に繋がります。一方「讃岐青木氏側」に取っても「瀬戸内の富と利」に大いに繋がる事です。

貴族の「讃岐籐氏」はとりわけ「藤原北家」の「下がり藤紋」の一族は自らが武力を保有せず「秀郷流青木氏」(朝廷より特別賜姓族としての特権を与えられている)を「武力の護衛団」とするのが朝廷より認められた氏であり貴族です。
依って、「瀬戸内の海族」との交渉には、少なくとも彼等には「秀郷流青木氏」(特別賜姓族としての特権を与えられている)が背後にあるとして「純友」を観て居た筈です。
「瀬戸内の令外官の追捕使」として、又、「純友の個人的な信頼」も然ることながら「特別賜姓族としての特権」を背後にあったからこそ交渉に応じたと考えられます。
「純友の個人的な信頼」は直ぐに醸成され得ないし、「令外官の追捕使」はその役目柄から海族側に取ってみれば「敵対の立場」にある訳ですから直ぐに容易に交渉に入れる事は先ず在り得ません。
其処には、何かかれらを交渉の場に入らせた何かが在った筈です。
その背景には”それが「讃岐青木氏」の存在だ”と考えているのです。
この「讃岐青木氏」のこの「瀬戸内の活躍」にあり、四国はおろか山陰までの血縁による広い関係保持が「瀬戸内の彼等」を信頼させたと観ているのです。
安芸や美作の「瀬戸内の沿岸族」との枝葉血縁の中には彼等との血縁もあった事が「讃岐青木氏」の枝葉の家紋分析から考えられるのです。この安芸と美作の瀬戸内の沿岸部には上記した海部氏や武部氏や陶氏等の「姓氏」を始めとする「土豪の集団防衛態勢」が特に起っていたのです。そしてその連合体と「讃岐青木氏」は血縁関係を結んでいるのです。
これが「讃岐籐氏」の特筆する事柄なのであって、”この血縁によるこの深く浸透した人間関係が直ぐに交渉に入れた背景だ”と観ているのです。
更には古来より天皇から信任を得ていて「特別賜姓族青木氏」として「祖先神-神明社」の「物造りの神」「生活の神」を民の為に建立する氏であったからこそ信頼して「瀬戸内の海族」の兵能集団の彼等は話し合いに応じたのです。
何時の世も何も無しには幾ら何でも難しいのは”この世の定め”で、其処には「信頼と絆」とが先ずは醸成されていてこそ交渉事は成り立つものです。
それだからこそ何よりの証拠としてこの「瀬戸内の関係」は時代の荒波の遍歴にも関わらず四度も蘇る事が出来たのです。
突き詰めると、その「思考原理の根幹」は「瀬戸内の産土神」にあったと考えているのです。
この瀬戸内の彼等にはこの「産土神の思考原理」であったからこそ下記する関係式が成り立ったのです。
「産土神の思考原理」が無ければこの談合は成り立たなかったのです。

(特記  前段で「亀甲集団」など論じた様に、「讃岐青木氏」の讃岐宗家の家紋は「下がり藤紋に副紋雁金紋」としている事でも明らかで、秀郷流青木氏116氏の主要紋には亀甲文様を副紋としている青木氏は3つもあり、亀甲紋に限らずその枝葉の支流文様からはこの安芸-美作の土豪や姓氏の家紋を副紋としているものが実に多いことでも判る。 特に平安時代中期頃から用いられた古い文様群であり、「亀甲文様族」は中国地方の全域で「集団防衛態勢」を古くから強いていた事で有名で、それの文様の3つもの「亀甲紋様族」と血縁し、尚且つ、四国側沿岸族の「雁金紋」との血縁をしていることは「瀬戸内沿岸族」と網の目の様に血縁族で結んでいた事が判る。 「雁金紋様類」は瑞祥紋である為に「神紋」としては奈良期からあり、「象徴紋」としては平安初期からあり、「姓氏」としての文様としては四国よりこの平安末期頃に発祥し、問題の「瀬戸内沿岸族」の海部氏一族や海野氏一族や亀田氏一族等がある。海野氏や亀田氏等は「瀬戸内の兵能集団」の「海族末裔」かは確実な確認は取れていないが「武力と経済力の姓発祥条件」から観て可能性が極めて高い。
瀬戸内の兵能集団を獲得して「絶大な武力」を保持し「瀬戸内の利権」と「青木氏の名誉」と「産土神族」を味方にした伊予讃岐の三等官の完全な聖域を超えてしまった)

「融合条件の関係方程式」
海族=産土神
讃岐籐氏+讃岐青木氏=神明社
産土神=共通項(「物造りの神」「生活の神」)=祖先神-神明社
共通項=触媒
「産土神」+「触媒・共通項」+「祖先神-神明社」=「純友神社」

「大蔵氏と瀬戸内海族との関係」
そうすると、讃岐籐氏との「純友神社」として関係が成り立つ事が判ったとして、元主筋に当る九州の「大蔵氏」と彼等の「瀬戸内の海の族」との関係はどの様に成るかの問題です。
当然に確かに阿多倍一門の大蔵氏は主筋であっても、何れも「産土神」である事から考え方に関しては両者とも異なり縛られない考え方に成ります。
当然に、「場所、時、人」の要素は長い間に変異している訳ですから、同じ「産土神」でも異なってしまう事に成ります。まして「産土神」には血縁に関する「家柄、身分、血筋の縛り」が希薄で在りますから、融合する範囲は変異すると、”「産土神」で繋がると云う関係”は希薄に成る事は必定です。
ただ、この「大蔵氏」の場合は他の「3つの守護神」と異なり「産土神」とする考え方には、つまり周囲の土着民の考え方には融合し難い所があった事は現実には九州に於いて史実から観て否めません。
当然、そこで、九州に居ても大蔵氏が彼等の「理解」と「利害」と「安全」を護ってやっていればそれはそれで主筋として「瀬戸内の民」はたとえ「兵能集団」であるとしても「儀」を護るでしょう。
しかし、そうでなければ時代を経て「瀬戸内」で生まれた者達は「産土神」の考え方から、「瀬戸内」で生まれた異神の「純友」であり主筋としては「身の安全」を護ってくれる「讃岐藤氏」である事に成りますし、彼等の「理解」と「利害」と「安全」が叶えられれば、大蔵氏の「主筋の儀」を捨てても良い考え方に成ります。

「神明社」の考え方ではそれは不可能で「不儀」と成ります。ですから「河内源氏」の「八幡社の行動」に問題が出てくるのです。「河内源氏」が「産土神」であれば問題はありません。しかし、「皇族賜姓族」である限りでは「祖先神」でありますから永遠に不可能であります。しかし、「河内源氏」の「未勘氏族」とした者達の多くは九州の土豪が多いのです。
つまり、「産土神」の考え方を「思考の根源」に持っている「後漢民の末裔」の土豪なのですから、彼等からすると「未勘氏族全体の守護神」を「八幡社」としてもそこには何等問題は無い事になります。
そうすると、「河内源氏」が守護神の処で「賜姓族の生き様」として問題を起している事に成ります。
だから「未勘氏族」が「国家鎮魂の八幡社」を自らに都合良く「弓矢の八幡社」に変異させて、勝手に自らの守護神であるかの様に吹聴しても何ら問題が無い事に成りますから、自由奔放に全国に広まった事に成るのです。「河内源氏」はこの現象を承知して故意的、恣意的に放置して利用した事に成ります。
その利用した「河内源氏の目的」は「未勘氏族の武士団の形成」にあって、それに依って得られる利益・利得を享受する事にあったのです。それが「瀬戸内の利権」を獲得出来なかった「腹癒せ」と云うか「見返り部分」で、「たいら族」と異なり源氏は「産土神」を守護神とする同民族の「兵能集団」を元から持ち得ていた訳ではなく、「賜姓族」として武力を持つには「未勘氏族の武士団の形成」以外には無かった事に成ります。従って、「武力」を優先する限りは「賜姓族」としての「祖先神」を不義であっても捨てる以外になく成る事に成ります。
これは「河内源氏」がこのジレンマに落ち至っていた事を意味します。当然その結果として、朝廷や天皇から「3つの発祥源」としての勤めを果せなく成る事から排斥や軋轢を甘んじて受けなくてはならない羽目に陥ります。因果応報で在ります。
同じ立場にあった「2つの青木氏」は「3つの発祥源」の立場を護り、このジレンマから脱する為にも「武力」ではなく、前段で論じた「抑止力」とそれを経済的に裏付ける「2足の草鞋策」を採ったのです。
「たいら族」に取ってみれば「武力」に対する苦労は「産土神」を守護神とする「兵能集団」を当初から備わっていた事に成る訳ですから、後は経済的裏付を採る事(宗貿易)で一族一門の発展は直ぐに成り立ちます。故に更には大蔵氏等の一族一門の背景も「官僚の職能集団」として朝廷内にあり、たった5代で太政大臣に上り詰めた事に成ったのです。ここに源氏との大きな違いが在ったのです。「氏発祥の差異」とも云うべき違いです。

(特記 「阿多倍一門」(坂上氏、大蔵氏、内蔵氏系)は敏達天皇系の女系の血筋と光仁天皇-桓武天皇系(たいら族、阿倍氏系)の女系の血筋を引く賜姓族の出自 大化期より兵能・職能集団が配下にある。「産土神」グループである。
「源氏一門」は嵯峨期以降の累代天皇の第6位皇子の臣下賜姓族 その内、「清和源氏」は例外皇子順位の賜姓臣下族の出自 兵能・職能集団は配下になく、荘園制を利用して「名義貸しの未勘氏族」を組織化して配下に治めた。「祖先神」グループである)

そうすると、今、論じている各地域の「未勘氏族」が九州から関東域まで存在しますから、当然に「未勘氏族」の考え方は「産土神」だけではなくなる事は起こります。
「産土神」では西の分布域は兵庫県の西域までです。ですからそこから東域は「産土神」ではない「未勘氏族」と成ります。殆どは「姓氏の守護神」の「3の氏神」ですから、当然に同じ「未勘氏族」であっても「心の考え方の根源」は異なります。
この事が上記で論じて来た様に地域による「八幡社の建立」の「位置づけと差異」と成って現れてくる事に成ります。
西域では「弓矢」でも東域では「家内安全や身の安全や生活の神や物造りの神や国家鎮魂」と変異し、北域では最早”総神の神明”と成り得てしまうのです。
しかし、因みに中部域の駿河域や信濃域や甲斐域では「産土神」であった阿多倍の職能集団が一度中国地方に配置され再び直ぐにこの「3つの域」に配置移動させられているのです。
「磯部」や「馬部」や「鞍作部」等の関係の職能集団が移り住み「放牧を中心とする開拓」等に従事しています。
前段で論じた様に信濃では彼等は後には日本書紀に出てくる「諏訪族」等と成っています。
当然に「産土神」と成りますが、少し違うのです。確かに「諏訪神」はその「心の思考の根源」は排他的傾向である事では幾らかは明確に産土神の考え方を遺してはいますが、例えば信濃の馬部や鞍作部の彼等の多くは「諏訪神」と成っているのです。つまり、これは「産土の考え方」そのものなのです。
先ずは「生まれた土地の神」を前提に成りますから、恐らくは奈良期にはつまり移動配置時には「産土神」であった事が考えられますが、「産土神」は何時しか「諏訪神」としてその土地の生活環境から「独自の守護神」「諏訪神」を創建して変異したのです。それはここには「阿多倍一門の主筋」が無くなっているからなのです。
彼等の「理解」と「利害」と「安全」が当初より叶えられ無く成った環境下に置かれた結果なのです。
故に「中部域」は「瀬戸内」とは違い、「八幡社」は勿論の事で、全て「別の歩み」を起こしたのです。
この事の様に「時代考証」を良く配慮した上で「純友神社」の「歴史的な民族的な経緯」を論じなくては正しい答えは出て来ないのです。
ですから、その考え方の上で上記の様に「中部域の変身した諏訪神の諏訪社」や「北陸東北域の変身した祖先神の神明社」と同じ様に、「瀬戸内域」の彼等は「産土神」を変身させた「仮称 純友神社」をこの期に建立したのです。
この建立した「純友神社」の意味が「産土神」の考え方と融合して「純友や讃岐藤氏」に対する姿勢が理解出来るのです。
新たに「彼等の考え方」では心から主筋を「純友や讃岐藤氏」に決め、その決心としてその「主筋と守護神」を合致させた事を意味するのです。だから身命を賭して戦い、敗れても乱れること無く何度も再び集結し「瀬戸内」の「海の族」を歴史的に長く護り通したのです。他の地域には観られない独特な産土神の考え方の生き方であります。
そして、その結果が多くの遍歴を受けながらも持ち直して昭和20年までの「瀬戸内の利権」を保守したのです。
大蔵氏500年という長い期間を経てはその意味で九州に住する限りに於いて「氏」とは成り得なかった事に成りますし、又、「瀬戸内の彼等」の「理解」と「利害」と「安全」が叶えられ無かった事は歴史上に於いても史実です。しかし、上記した様に遍歴を得て後に阿多倍一門の伊勢伊賀の宗家筋の末裔の「たいら族」がこの「海域支配」と「生活の基盤」をこの「瀬戸内」に置き、「瀬戸内の彼等」の「理解」と「利害」と「安全」が叶えられた事に依って「産土神の彼等の条件」は全て叶えられ、「たいら族」の支配下に戻る事は抵抗無く当然の結果と成り得たのです。その中でもそこには結果として「瀬戸内の彼等」の「変異し融合した純友神社」が彼等の産土の守護神として祭祀続けられたのです。
何もこれは偶然の事ではないのです。要するに源平で戦った有名な彼の無敵の「平家水軍」なのです。
”元の鞘に納まった”と云う事だけなのです。
そこでこれだけの「産土神の考え方」の中で「儀・義」を通していたこの「海族」の末裔の100年後の「平家水軍」は果たして「海賊」でしょうか。
この「産土神」の「平家水軍」の元は「純友」がまとめた「産土神」の「海の兵能集団」の「海族」なのです。
これ等の行動に「儀」に近い「産土神の考え方」の「一貫性の義」が働いているし、それを100年も持ち続けているのです。そして「たいら族」滅亡後は阿多倍の職能集団の「陶部」の支配下に入った室町期に於いても、その更には室町期末期の「村上水軍」にしても、この「義」に類する「儀」を堅持しているのです。
凡そこの間1400年間です。”これが何処が「海賊」なのでしょうか。”陸の土豪族に勝るとも劣らずであります。
この様に現実にはこの「純友」にまとめられた「海の土豪」は1200年代までその主筋の「たいら族」の支配化に入っていて、「たいら族」滅亡後、その末裔は後の「瀬戸内」を再再編して制した歴史にも出てくる「村上水軍」に成るのです。
この事に関しての出回る通説がこの歴史経緯の「民族的な判断」の欠落で大きな間違いを起こしているのです。

「瀬戸内と大蔵氏」
まして、話を戻しますが、その意味でこの事を熟知する阿多倍一門の次男の同族子孫の「大蔵春実」はこの「純友問題解決」に指名されているのです。
その立場にある「大蔵春実」は「ある意味での見事さの功績」で、天皇から万来の信頼を受け「海賊問題解決」にしては考えられない程の「破格の勲功」であって、それは「錦の御旗」「天国刀授受」と「太宰大監」「太宰大貫主」「対馬守」の役職「瀬戸内の追捕使」の役を獲得しているのです。
現在に於いてでさえも個人に「錦の御旗」「天国刀」等を与えられた者はいないのです。まして、「地方の事件」に等しい問題に対する「一度の勲功」にです。
単なる「地方の事件」であり別に国や朝廷を揺るがす程の問題でもないのです。
その「瀬戸内の海賊の問題」に「国が滅ぶかどうか」で与えられる勲功を周囲に判る様に”これでもか”と云う風にわざとらしく与えているのです。
上記した様にこの「時代の社会の慣習」から「海族と海賊との違い」と「社会の成り立ち」を承知していれば、もし「海賊」とすれば何時の世も社会の巷に起こる単なる「盗人か盗賊」に過ぎない問題です。これに朝廷や天皇や大蔵氏や藤原氏が出て来てそもそも騒ぐ問題ではありません。
何か他に意味を含んだ異常としか考えられない勲功なのです。それも「大蔵春実」だけにです。
つまり、史実を辿れば、元々「経基」が欲していたのは ”「北九州から瀬戸内と南海海域の圏域の確保」”だったのです。勲功は別にしてもそれを「純友」を倒したならば普通ならこの「地域の支配権」を「讒言讒訴の経基」に与える筈ですが、ところがその様にせずにただの「豊後水道」から「紀伊水道」までの「海域の警察権」のみを「大蔵氏」に任せ、「瀬戸内全般の警察指揮官」だけを命じる結果と成ったのです。

大蔵氏は勿論の事、天皇朝廷が上記した「海賊」と看做する「彼等の歴史的な経緯」と「産土神の考え方」と「彼等の主筋との支配関係等」の事と「彼等の不満解消」事等を、彼等の末裔6割を占める官僚が存在しているのですから、この情報は充分継承されて事前にも承知していて判っていた筈です。
従って、事前に「解決シナリオ」は出来上がっていた事は充分に考えられます。それに沿った解決が出来た事に満足して、且つ「向後の憂い」がなくなった事に満足して、一挙に九州自治、北陸の問題、関東の問題も解決に向けて拍車を掛けたのでないかと考えられます。

つまり大蔵氏に「讃岐藤氏の圏域の利権」は与えなかったのです。実態には変化は無いです。
つまり、この事件の決着方法を間違えば「藤原氏」にも「大蔵氏」にも一門の勢力を大きく左右する事であったのです。それだけにこの「海域の利権」(藤原氏)の大きさと「警察指揮権」(阿多倍一門)の重要さが物語るものであったのです。

「瀬戸内の経緯」
ここで大筋の経緯をまとめて論じたいと考えます。この大筋の経緯が「神明社と八幡社」の根幹の判断に大いに関わる事なので取り纏めて論じます。
この「二つの権利」を一時、「純友問題」に代表される様に「讃岐藤氏」が持っていた事に対して、それを獲得する為に清和源氏が合策したのです。何度も前段からも論じますが、中国域の南沿岸部全般は奈良期からの「阿多倍一門とその支配下にある姓族・品部」の無戦に拠って得た支配地域でした。
そこに「讃岐藤氏」が得意とする「血縁手法」で食い込みその圏域を脅かしていた時期でもあったのです。そしてこの「瀬戸内」はほぼ「純友」が圏域に納める事を成し得た丁度その時に、これを契機にこの「圏域の奪取」と「経基の讒言讒訴」が起こり、阿多倍一門の大蔵氏も「圏域の奪還」を図る良い機会と狙ったのではないかと思われます。
しかし、朝廷や藤原摂関家に執っては清和源氏にこの「瀬戸内の圏域」を引き渡す事は政治バランスや経済的打撃等から好ましく無く、結局は朝廷の官僚の6割を占める阿多倍一門の末裔からすると面と向かって政治的に軍事的に藤原氏と対峙する事が得策なのか選択を迫られたものと考えられ、結局は藤原氏と大蔵氏の両者は懐の痛む「痛み分け」で談合したのです。
当然に経基王の野望目論みは排除とする談合がなされたものと観られます。この事により天皇と朝廷の政治的経済的な痛手は無くなります。
当然にこの成り行きのキーマンは九州全域と豊後水道と中国域を制する大蔵氏であり、その出方如何では天皇と朝廷と藤原北家とその主家の摂関家の運命は決まる事にも成ります。
当然に経基王の今後の命運も決まるものであった筈です。
結局は、経基王はこの圏域の野望から排除されその富の獲得の為に禁止されている「荘園制」に走ってしまったのです。
そこで天皇朝廷は先ずキーマンと成っている大蔵氏を納得させる為にも何か特別のものを与えなくては納まらない事に成ります。
そこに先ずこの「事件の勲功」として、「2つの水道域間の警察権」のみを与え、「瀬戸内の圏域の利権」は「純友の捕縛」を条件に据え置きにして「讃岐藤氏」に与え、それ以外に「九州域の自治権の内示」と「破格の勲功」をプレミヤとして与える事で「向後の決着」を図ったものと考えられます。
この事の決着内容に付いて天皇は大蔵氏の姿勢に対して信頼し納得してこの決着案に同意したと考えられます。
場合に依っては「九州自治」から更には「中国自治」にまで主張を広げてくることに成るのではと懸念したのです。
この瀬戸内の圏域を大蔵氏に奪われたら、”瀬戸内を制するものは国を制する”と云われている事から、”中国域の自治まで与えてしまう事に成りかねない”と心配していた筈で、まして独立国を標榜している「将門の乱」と重なると、場合に依っては国は分裂する可能性を秘めていたのです。

この時、前段で詳しく論じていますが、北方域では「蝦夷地での問題」、関東では「平将門の乱」と「たいら族の伸張」、「西では大蔵氏の自治問題」、朝廷内では「藤原氏と阿多倍一門との軋轢問題」と「荘園制の行き過ぎの問題」が起こっており、天皇にとっては「四面楚歌の状況下」にあり、かなり「神経質な環境下」にあったのです。
しかし、歴史的な時系列で観てもこの事件を機会に一挙にこれ等の問題は解決の方向に向かうのです。
恐らくは天皇はこれ等の問題を解決の方向に進めるには ”この時が好機”と捕らえたと観られ、その証拠に前段で論じた「後一条天皇」から引き継いだ「後三条天皇」(藤原氏と無血縁天皇)の命を掛けた「政治的な粛清」に入り「白河天皇」と「その後の院政」がこれを引き継いだのです。
真にこの事件を契機に上記した問題は全て解決して行きます。
勿論、藤原氏系ではない天皇系が誕生したのですから、母方で繋がる清和源氏も摂関家も衰退し排斥されてしまいます。
そして、この期に乗じて東では「たいら族」の貞盛が父の国香を犠牲にしても同族の異端児の将門を討ち果たし、朝廷内で徐々に基盤を築き始めるのです。
それに併せて大蔵氏がこの海域の警察権を保持した事と、朝廷内の大蔵の権限を専有し、朝廷内の軍事の権限では同族の坂上氏が掌握し、内蔵の権限は同族の内蔵氏が専門官僚として占める状況の中で、伊勢伊賀の一族一門の本拠地からは遅れていた賜姓「たいら族」がこの事件を契機に台頭して行くのです。
そして、阿多倍子孫の賜姓を受けた「坂上氏」、「大蔵氏」、「内蔵氏」、天皇の補佐役を手中にした親族の阿倍氏、そして遅れて賜姓を受けた桓武平氏の貞盛の「たいら族」等は、「瀬戸内の海族」を次第に弱まった讃岐籐氏から一部を奪い反し、「海賊掃討」を理由に帰化以来に戻りその「兵能の職能集団」を再び配下に入れてしまうのです。
これで「瀬戸内の海族」の彼等は本来の帰化当時の本主筋の伊勢伊賀の本拠地の「たいら族」の下に戻ったのです。これが解決の道筋なのです。
殆ど朝廷内は阿多倍一門一族に依って占められたも同然です。院政の一局態勢が確立して思うような制改革が断行できる事に成り懸案事項であった事柄が解決して行く流れに成ったのです。

本来であれば朝廷は「たいら族」のこの行為(海族を支配下に戻した事)を容認する事は藤原摂関家との関係から無い筈です。しかし、この摂関家もこの頃は弱体化していて強く主張する事が出来ない状況にあり、源氏と摂関家の勢力を押さえ込み朝廷の権力(院政)を最大限にする狙いがあり、この為にも大蔵氏への勲功を必要以上に大きして「九州自治」の下地を構築したのです。
そして大蔵氏からその「瀬戸内の圏域」を任せ、それが同族の「たいら族」に移動するかは院政に採ってみれば大した問題では無くむしろ好都合であった筈です。「たいら族」を引き上げ力を持たせ一門体制を確立しようとしたのです。
だから、「大蔵春実」のこの事件の解決に対して「院政の意」を汲み取ったとして上記の様な勲功と成り得たのです。
「大蔵春実」が「国内解決の道筋」を作ったとする満足感が院政にあったのです。
東北の問題も「内蔵氏」、関東の問題も「たいら族」、九州の問題も「大蔵氏」、朝廷の勢力も源氏と摂関家が弱体化させられた事から前の「3つの問題」の同族大元の大蔵氏を取り込めば一挙に解決に向かう事は間違いありません。
この大蔵氏を始めとする阿多倍一門一族の勢力を引き上げてこれを支配すれば源氏と上級官僚の摂関家を押さえ込めると観たからであり、且つ、彼等阿多倍一門一族の勢力圏は中級官僚にまであり、それを掌握出来る訳ですから、親政族の源氏と上級官僚の摂関家を押さえ込める事は確実であったのです。
軍事は坂上氏、政治顧問は阿倍氏と成れば全て朝廷と「院政」の周りは阿多倍一門一族で占められた事に成ります。
この態勢が出来上がれば「院政」は”鶴の一声”の政治体制が出来上がる事に成ります。
「大蔵春実」の功績は、事件をきっかけに「院政による政治体制」を完全に構築する事に成った事を意味します。そしてこの後、直ぐに「遠の朝廷」の「太宰大監」の「九州自治」を宣言する事から始めたのです。
これで国が二分する事無く解決に向かうことに成ります。
親政の源氏や摂関家の藤原氏を頼る事では複雑な柵みの中ではこの危機の回避は不可能であり、阿多倍一門一族を朝廷側に取り込む事により前段で論じた様に危機は去り、朝廷・天皇・院政は安泰と云う事に成る訳です。

この先の見えた状況の中で、この期に乗じてこれで「たいら族」は一挙に「圏域と利権」を獲得し「武力と経済力の氏発祥条件」を備わり勢力を伸ばし続けるのです。そして逆にこの圏域と利権獲得に失敗した「河内源氏」は「荘園制の方向」に走り、「白河院」の前段で論じた「軋轢」を受ける事に成るのです。
源氏、取分け「河内源氏」と対比して「たいら族」は真逆の方向へと進むのです。
「河内源氏」は危険な「荘園制」に、「たいら族」はこの「利権の宝庫」の「瀬戸内」を基点として「宗貿易」に進み富を獲得します。危険な「荘園制」に向かった「河内源氏」は朝廷と院政から「軋轢」を受け、一方の「たいら族」は朝廷と院政から「信頼」を勝ち取るのです。どれを捉えても真逆です。
この様に「瀬戸内の海域」には「圏域と利権」が大きく絡み、且つ「政治的な動きの起点」に成っていた地域なのです。
これ等の「瀬戸内の経緯」が「河内源氏」の「八幡社-神明社」の判断に無視出来ない大きく関わる問題なのです。
丁度、この期の直ぐ後に「2足の草鞋策」を敷いた「祖先神の神明社」の「2つの青木氏」も「賜姓族」、「親政族」として影響を受けない訳には行かなかった筈です。
然し、「2つの青木氏」の元締め「伊勢青木氏」と秀郷流の元締めの「伊勢秀郷流青木氏」は、伊勢伊賀の阿多倍一門一族の本拠地「たいら族」と和紙で繋がり、隣国の親密な関係を保持し最悪の状態を免れたのです。

(「2つの青木氏の立場」 この後に起る源頼政の「以仁王の乱」では伊勢青木氏[頼政の孫の三男の京綱が跡目]と秀郷流伊勢青木氏[朝廷に働きかけた形跡あり]は頼政の孫の2人の助命嘆願に成功した事からも明らかです[日向青木氏]。
「伊勢青木氏」は摂津に2店を構え3艘大船で「瀬戸内の利権」を一部「たいら族」から認可を受けての「中国貿易」の記録有り。初期には和紙 後期には総合商社 恐らくは少なくとも伊勢青木氏等5家5流の青木氏は「荘園制の方向」に走っていた場合は「たいら族」は保護し切れなかったと考えられます。
「隣国」で「和紙」で繋がり「商い」で「たいら族」と同じ方向に向いていたからこそ親近感を醸成していたと考えられ、又、政治的にも「朝廷の信頼」を「親政族・賜姓族」として勝ち得ていたのでと考えられ、「たいら族」も擁護し助命嘆願に応じられたと考えられます。
その「象徴の姿」が「皇祖神」の「祖先神-神明社」の「創建と維持」に懸命に働いていた事が、「朝廷と天皇」と時の権力者の「たいら族」と政治家の「摂関家」と官僚の「大蔵氏」から共感を得ていたと考えられます。
それは「親政・賜姓族」が「2足の草鞋策」を採用する事が本来であれば ”親政・賜姓族が何事か あるまじき行為だ”と罵られた筈でありながら「共感」を得ていたのは不思議な事であった筈ですし、”反乱者の孫を助命嘆願など以っての外だ”と成った筈です。
又、「瀬戸内の利権」の一部を譲渡されて瀬戸内に入り「商い」をする事が許されていたのです。
しかし、現実にはこれ等全てが認められているのです。まして「慣例や仕来り」の厳しい社会の中です。
これ等は特別な信頼があったからこそで、それが「皇祖神」の「祖先神-神明社の努力」で在った事が判ります。その「神明社」の「経済的な裏づけ」を取る為の「2足の草鞋策」は容認されていたと考えられます。だから「助命嘆願」の無理も聞き入れ潰さなかったのです。そして生き残れたのです。
「2つの青木氏」はだから天下を2分した「源平の戦い」にも合力していないのです。普通本来であれば源氏側に合力するのが同族である限りは本筋である筈です。
筆者は、「青木氏家訓10訓」や「生仏像様」の処で論じた様に、”世に晒す事無かれ”の「遺戒」がこれらの「氏の姿」、つまり「在様や生様」の全てを物語っていると観ているのです。「意味深い遺戒」と観ているのです。「世に晒す事無かれ」に付いては家訓10訓の10で論じる)

再び話を戻して、そして遂には大蔵氏はこの「2つ水道の警察権」と共に「九州自治の下地」(孫の種材の代で完全自治:1018年)を構築したのです。
この時、讃岐・伊予を押さえていた「藤原氏の圏域」は警察権は大蔵氏に奪われたけれど、結局は元の「海域の利権」は護られ「純友」は終局捉えられ抹殺されましたが、その一族一門は依然として「讃岐藤氏末裔」は抹殺されていないのです。この事は本来であれば朝廷が云う罪状であれば一族一門は罰せられた筈で「純友個人」で行動した訳ではなく「2つの役職」を以って動いた訳ですから免れなかった筈です。
然し、「純友」だけなのです。朝廷のこの罪状の付け方から観てもその目的は明らかに違っていた事を意味しますし、「純友の行為の正当性」も認識して居た筈です。
「純友の非」を敢えて云うとすれば、真に”世に晒す事無かれ”で在ります。
俗世に云う ”河に竿させば流される” ”雉も鳴かずば撃たれまい” ”前に出過ぎれば潰される” ”出る釘は打たれる”の例えの通りであります。”現世は諸行無常”であります。”上手く纏めすぎた”と云うところであったと考えられます。
(関東の争い事を調停役を買って出て懸命になって働いた「平の将門」に付いても同じ)
それが「瀬戸内の利権と圏域」を独り占めの形に成る事を造り上げて、それを恐れたつまり経済的にも然ることながら「海族」の力も手中に入れる事が出来たとすると、最早、”「瀬戸内」に叶うもの無し”であります。この「勢力拡大」を朝廷、源氏、同族の藤原摂関家、阿多倍一門から怨嗟の声が上がり渦巻いた事は間違いない事であります。(この頃朝廷内ではこの体質が渦巻いていた)
それを”この海域の利権を目論んでいる「経基王」に言わしめさせた”とするところであり、要するに”出すぎた”のです。それ程にこの「瀬戸内」と云う地域は、”瀬戸内を制する者は国を制する”の言葉通りで重要な所でそれだけに難しい地域でもあったのです。
この様に重要で難しい地域で、この「海域の利権」を「讃岐藤氏」から奪って仕舞えば、中国地方と四国の対岸では結局は百々のバランス条件は崩れ、とどのつまりは再び「覇権争い」を起こす事に成り、却って「大蔵氏は警察権の務め」が果たせなく成る事に成ります。この瀬戸内問題の「落し処」が重要で在ったのです。

「経基王」に勲功を与えず、考えられない程の勲功を「大蔵氏」のみに与える事は、朝廷は「経基王」の目的を知っていた事を物語ります。それ程にこの「瀬戸内の圏域」は政治的に重要な意味を持ち、朝廷はこの「讃岐藤氏」のこの「圏域の体制」をある程度の範囲で崩したくなく、ここから挙がる「租税の恩恵」と「政治体制」を乱したく無かった事を意味し、そもそも朝廷が「九州自治」で苦しんでいる時にわざわざ源氏に与えて問題を大きくする事はしない筈ですし、その行動で「荘園制」で睨まれている清和源氏(河内源氏)には決して与える事はしなかったのです。まして祖先神の神明族として本来の責務を果たさない清和源氏に対しては尚更であります。(清和源氏の出自と行動に蔑視と懐疑の念が朝廷にあった)
(前段で論じた様に「経基-満仲」はその意味でも「荘園を利用した武家の集団化」を始めて図って朝廷に圧力を掛けていたのです。)
それを天皇と朝廷は政治的にはっきりさせる為にも大蔵氏に破格の勲功を与えて、”これでもか”と清和源氏の「経基王」を押さえ込んだのです。
そもそもこの人選を天皇に進言したのは藤原摂関家であったのです。この時の海賊問題は形の上での処理であってある意味で無傷なのです。
そもそもこの「瀬戸内」を挟んだ四国域と中国域の圏域に絡んだ複雑な勢力バランスで構築された地域を「純友の乱」の処置等で崩す事は出来ない筈です。
更に前段でも論じて来ましたが、そもそもこの中国域は阿多倍一門の32/66国の「たいら族」「大蔵氏族」「陶族」等の一門の圏域でもあるのですから、「大蔵春実」に「警察権」等を与えたとしても何の不思議も無い事なのです。
むしろ「讃岐藤氏」の純友等に「警察権」そのものを与えていた事の方が問題です。先に「有品の制」の官位を与え、且つ任命した「令外官追捕使」に「令外官追捕使」を送り込む事の矛盾をどの様に言い訳するのかが問題に成った筈で、その為には”海賊に成った”とする以外に言い訳が無くなるし、それを天皇が言い訳する事が 出来ないので、「将門の讒訴」の件もあり、又、「経基王」に言わしめる様に仕向けたのです。(瀬戸内の利権を狙っていた経基は関東で失敗した後だけに飛びついたと観られる)
前段で論じた「平の将門の乱」が”独立国(前段がある)を標榜した”として、丁度、この時に起こっていて、「平の国香」や「平の貞盛」の「たいら族」はこの乱を契機に俄かに勢力を拡大し始めた時期でもあります。
依ってこの地域はまだ「たいら族」の支配地域には成っていない丁度その中間域にあって、特にこの海域は「讃岐藤氏の圏域」の中に未だあったのです。
「大蔵氏」に代わって「たいら族」がこの「海域の警察権行使」は難しいところだけに未だ難しい勢力化にあったのです。
この事件を契機にこの瀬戸内全般を「大蔵氏の警察権」として取り戻し「たいら族」が勢力を拡大するに伴い大蔵氏は「たいら族」にその警察権を移して行くのです。
そして「平貞盛」より4代目の「平忠盛」(清盛の父)の代頃からこの「海域の利権」が「讃岐藤氏」と「たいら族」の「2局体制」に成って行くのです。
所謂、この様に「産土神族」と「出雲神族」の中に「春日神族」の「讃岐藤氏」が「血縁的」に「経済的」に食い込んだ微妙なバランスで成り立っている地域なのです。
前段でも論じた「美濃の源平の勢力バランス」と良く似ていて、この「瀬戸内」でも同時期に藤原氏と大蔵氏の勢力バランスの坩堝の中にあったのです。
まして、藤原氏北家は当然の事として「たいら族」と「大蔵氏」はこの様な状況の中では「経基王の伸張」を絶対に許す事は政治的な戦力として無い筈です。ましてこの瀬戸内の坩堝の中に一分家の河内源氏の源氏勢力を入れる事はしない筈です。(入れる事そのもの行為は最早政治ではなく成り政治家ではない)
その後も勲功で大蔵氏が警察権を持ったとしても上記した「たいら族」が伸張して来るまでは暫くは「讃岐藤氏の圏域」であった事は朝廷にとっても”政治的にも、戦略的にも”最も重要な地域である事を物語っているのです。
つまり、「経基王」はこの「瀬戸内の圏域確保」に結局は失敗し、関東に於いても行く先々の所で問題を起こし、結局は行き詰まり、「勢力拡大」に必要とする「財力源」は無く、止む無く「後一条天皇」(1018年)から「後三条天皇」(1068年)までの「荘園に関する禁令と抑制令」を無視して、「荘園制」を逆に煽る「荘園の名義貸し」の「財源・利権獲得」の方へと動いたのです。
これが「経基-満仲-頼信-義家」と続いた経緯なのです。
「瀬戸内の覇権」を狙っていた取分け「経基-満仲」の親子は「海の神の住吉大社」を信心していた事でも判ります。
(「経基王」が「瀬戸内の覇権」に失敗したことから「源満仲」は途中から「たいら族の兵能集団」に対抗して「荘園制の未勘氏族」を摂津から移動して河内で組織化して武家集団を構築したのです。
途中まで出世したが、晩年この為に満仲は朝廷から危険視され無視され軋轢を受ける破目と成り摂津に帰り蟄居する。)

(特記 ) 「源経基の経緯」(八幡社問題と瀬戸内事件の根幹)
武蔵介として赴任(938)し、直ぐに検地を実行しようとして地元土豪の地方官の郡司武蔵武芝に慣例により拒絶された為に争を起した末にその財を略縛した。経基は危険を感じて京に逃げ戻り、逆恨みして仲裁者の平将門等を讒訴。その2月後に平将門は事実無根として告訴、経基は拘禁されるがその更に半年後に朝廷の態度(勲功の評価に対して)に将門は不満を持ち朝廷に圧力を掛けた。その結果、真面目で評判の良い将門は決起して本当に乱を起したので、逆に「怪我の功名」から「経基讒訴」を認められて「有品の制」の最下位の「従五位下」に任じられた。朝廷はこの失敗を経基に官位を与える事で取り敢えず対面を繕った。
(本来、賜姓源氏は有品の制では賜田を受け従四位下に任じられる筈)
(将門は関東の各地で起る「地方豪族と国衙との争事」の「調停者」を積極的に務めた人物であったが、逆に経基に「逆恨み」」を買い讒訴、反乱者とみなされてしまった。この後直ぐに起った事件でも「純友」も将門と同じ「勲功の闘争」を朝廷に起したのです。伊予の三等官で瀬戸内の追捕使として、難しい上記の瀬戸内圏域を纏め上げたが、矢張り将門と同じく勲功に対して評価しなかった。これを「国衙怨嗟」の為に朝廷は勲功否認したので軋轢が発生 「将門の乱」と全く同じ周囲の地方豪族と国衙を追捕使の立場で掃討して朝廷に圧力を掛けたが、矢張り将門の件と同じく「朝廷の怨嗟」で逃げた。
(この「2つの怨嗟の讒訴」は経基が演じた。)
そして経基は「平将門追討軍」に参加するも既に鎮圧済み、仕方なく京に戻り、今度は「純友の行状」を又もや讒訴(941)し、その功から「西国追捕凶賦使」に任じられて、「純友の乱」の平定に向かうが又もやこれも既に鎮圧済み、挙句に果てに豊後の純友の家来「桑原生行」を襲い、これも又その財を略暴したが黙認された。(この略暴行為は歴史上有名な事件)
(「2つの経基讒訴事件」は出陣の際は既に「鎮圧済み」の後に出陣した事に意味がある)
その後、武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には「鎮守府将軍」に昇進するも、後にその出自と上記の事柄等が問題に成り「臣籍降下」の処置を受ける。
(経基も本人資料の中で不満を述べている。藤原氏と阿多倍一門の巻き返しに遇った為。 後に「将門や純友の勲功」に対して正等に評価しなかった事への朝廷の修正[次期の円融天皇]が起った。)
この事は清和天皇の第6位皇子の孫(上記説明 ゜六孫王」の呼称があるが当時の正式記録には出て来ない 未勘氏族による後付)で無かった事から第4世第7位皇子王以下は規定に基づき臣籍降下された事を意味するが、「正規の源姓(賜姓族)」に付いては、発見された摂政の実力者「藤原実頼」の遺した「日記記録資料」から判明し、現在では経基の源姓は「跡付け」と考えられていて、経基王は「嵯峨期の詔勅」(青木氏 源氏)を利用した「非賜姓の源姓族」(清和天皇第9位と12位の皇子が非賜姓源氏族)と見なされた事に成る。つまり、これは清和天皇の賜姓源氏族(第6位皇子)ではなく「狂気の陽成天皇」の皇子で賜姓族外の例外皇子王であった事を意味する。
その後の頼光からは資料からは「賜姓源氏」とみなされた資料が残っている。これは仕えた藤原氏の歴史上の最大実力者藤原道長の執り成しである。
(経基王は上記した”賜姓を強く望んでいた”とする事はそもそも賜姓に関しては規定外の例外王である事の証であり、この事からも判る。依って「蔭位の制」「有品の制」の「賜田」等の扱いの正式確認が取れない。)

(青木氏と源氏の様に「賜姓」であるかどうかは家柄・身分や官位官職や経済的な扱いや世間の扱いは大きく異なったのです。
「嵯峨期の詔勅」に基づく非賜姓の「青木氏」と「源氏」は清和天皇系と陽成天皇と冷泉天皇系が殆どで、この時期の「賜姓」の有無には皇族や世間の目は特に異なっていた。)

(その意味で上記の立場から陽成天皇の皇子の「経基王」は”焦りから来た波乱”に満ちた人生を送り子供の満仲もその経基王の影響を受けて同じ様な波乱に満ちた生き様を示した。然し3代目の頼信の頃からは兄の頼光の勲功と主君の藤原道長の計らいで憧れのやっと正式な「有品の制」の扱いも受けて立ち直りの傾向にあった。)

この過程で「瀬戸内の圏域」を狙っていたこの「河内源氏」は、その為に信心していたそれまでの守護神「海の神の住吉大社」から「荘園本領策」に方針を切り替えてからは、今度は「荘園の神」とも云っても過言ではない「八幡社」にのめり込んでいったのです。
少なくとも3代目の分家の頼信の頃までは時系列的には本来の「国家鎮魂の神」であった事が資料から読み取れるのです。
つまり、この後に「八幡社」が何らかの理由(未勘氏族との絡み)で「荘園の神、武家の神」と次第に変質させられて行く事に成ります。
この「八幡社」(国家鎮魂)が「神明社」の様に管理氏が明確で無かった事からと、朝廷の財政的な理由も伴って荒廃していた事が記録に遺されていて、この修復に「清和源氏の宗家」摂津源氏に対して修復を命じています。
全国の「八幡社」(国家鎮魂)に対してまで修復は財政的に困難であった模様で遂次と進まなかった事が記されています。恐らくは「田地・俸禄・褒章に関る制度の経緯」-(前段4)の処で論じた様に「賜田」等の禄を充分にその出自から多く受けられなかった「摂津源氏の宗家」に対して、「河内源氏」が「荘園制」を利用して「名義貸し」を行い「武家の組織化」と「財源確保」に走ったのです。
この荒廃した「国家鎮魂の八幡社」を何時しか「組織化の象徴」(弓矢の神)として宗家に取って代わり利用して八幡社修復を代わったと考えられます。
そして手段としてその「組織化の未勘氏族」(無血縁の非賜姓河内源氏族として)に修復を命じた事から、その結果として本来の「国家鎮魂」から「荘園制の神、武家の神」として勝手に変質させて行ったと観られます。
後勘からすれば上記した発祥時の経緯から「蔭位の制・有品の制」に恵まれず「武力と財源」の無い「賜姓族・神明族・親政族」の「清和源氏」にして観れば、”「宿命の自然の流れ」”とも考えられ、”止むを得ない仕儀”とも考えられます。然し、何度も云う様に「生き延びられる道」は全く無かった事では無いのです。
この「八幡社の経緯の背景」にはこの「瀬戸内の圏域」の大失敗が背景にあったのです。

(「経基-満仲」の経緯と「頼信-義家」の経緯とそれに伴なう「八幡社の問題」があったから各地の神明社の建立がこれ程進み、取分け「産土神」の環境の中でこの難しい「瀬戸内域」での「神明社の建立」が可能と成ったのです。)

「神明社」の「2つの青木氏」は「2足の草鞋策」と秀郷一門青木氏の「抑止力」で生き延びましたが、最終、大蔵氏から「2つの水道域の圏域」を引き継いだ「たいら族」もこの「瀬戸内の圏域」を大いに使って「2足の草鞋策」から更に発展させて前段で論じた「瀬戸内水軍」を使っての「宋貿易」へと進め、その莫大な「財力源」を生み出したのです。「院政」はこの「たいら族」から上がる「潤い」を受けます。
この意味では、「清和源氏の武力の背景と財源の背景」には、上記の「たいら族」に比べて元々リスクが大きかった事は否めませんし、「朝廷への潤い」でもその貢献度は大きく異なっていたのです。
それが阿多倍の一門の一方の関西域を基盤とした伊勢伊賀の後発の「たいら族」が5代で伸張し上り詰めるだけの勢いがあって拡大に繋がったのです。これも「瀬戸内の圏域」のお蔭なのです。

(重要参考 義経は清盛よりこの「宋貿易の経済学」を教えられていたとする資料が遺されている。 
これによると「経基-義家」と引き継いだ「荘園制よる財力源」と、清盛から教授された「貿易による財力源」の考え方の違いが清和源氏の中に起こったのです。
後者を選んだ同じ賜姓族で神明族で親政族の「2つの青木氏」と藤原氏北家筋は生き残り、後者側に主力を置いた「たいら族」と、前者側に主力を置いた「清和源氏」は互いにその考え方の違いから生き残りを掛けて火花を散らし両者共倒れに近い形で滅亡したのです。
しかし、前段で論じた様に、「瀬戸内問題」と同時期に「同族の関東での不始末」を起した「たいら族」は、結局は「源平の緩衝地帯」の「美濃-尾張域」まで後退し、そこで「緩衝」のバランスが崩れ源平の本格的な争いが起こりました。
(美濃-尾張地域は「源氏」と「たいら族」と「秀郷流青木氏」との3氏の緩衝地帯であった)

同じ様にこの「瀬戸内地域」でも、大蔵氏は「讃岐籐氏の圏域」にあった「瀬戸内の問題」を藤原氏との争いを避けて上手く解決し、一時、瀬戸内警察権を大蔵氏の支配下の中に入れて次第に同族の関東問題で弱っていた「たいら族」にそれを移して行きます。
この結果、「たいら族」は関東からこの瀬戸内へと伸張し財力と政治力も確保しながらも美濃-尾張での初戦に続き「瀬戸内の源平の争い」で敗退したのですが、この「瀬戸内のお蔭」から来る「商いと物造りの基盤」から基礎力は生かされて、前段でも論じた「たいら族」の織田氏の「末裔の美濃・尾張」で蘇り復活に繋がったのです。
(全国に分散した阿多倍一族一門の生き方が時代をうまく捉えている。 陸奥安陪氏が犠牲。)
しかし、前者の生き方を採った「八幡社族」の「河内源氏」は遂に復活しなかったどころか近江-木曽-美濃-尾張の戦いで11代{中4代の源氏は生き残る}の源氏一族を滅亡に引き込んでしまったのです。遺したのは名義借りの「無血縁の未勘氏族」ばかりなのです。
この残った源氏の「未勘氏族」が「八幡社」を別の方向へと誘導し「河内源氏」を殊更に誇張し史実と異なる誤った印象を後勘に与えてしまったのです。
「未勘氏族」が別の方向へ誘導していなければ「河内源氏の悪名」は生まれなかったと考えられます。
「河内源氏の義家」はこの「未勘氏族」を「軍事力と経済力」の為に配下にしていた事から止む無くも煽られた事から源氏一門を巻き込み滅亡に追い遣ったと考える事が出来ます。
そして「神明社族」は生き残り「八幡社族」は滅亡したのはここに根源があったのです。
確かに、直接原因は経基王のこの「海域の奪取」の間違いに始まるのですが、間接的には「未勘氏族の八幡社の煽り」(後付論)にあったと考えられます。

”何もこの「海域の奪取」に関わる事なくしても「2つの青木氏」の様に「2足の草鞋策」と「神明社」で生きる道を選んでいれば全源氏は滅亡に走らなくても良かった”と考えられ、後勘として源氏と同族血筋を汲む「4つの青木氏」の立場から観ると 上記の様に時系列的に考察すると”判断の無理が大きく存在していた”と現在でも構成する一人として結論付けているのです。これが「青木氏家訓10訓」に表されているのです。と云うのはこの期にその論者が居なかった訳ではないのです。
現にこの義家の孫の義経は上記した様に遺された資料の文書の一節から観ても青木氏と同じ論者であったのです。
頼朝が鎌倉会議の際に「義経の方向」に舵を切っていれば第7世族の「坂東八平氏」に頼らなくても生き残れたと考えられます。
(舵を切っていれば確かに「坂東八平氏との戦い」に成った事は否めません。秀郷一門を味方に引き込んでいれば同じ関東の勢力図から観て先ず負ける事は無かった筈です。)

「義経」はこの「瀬戸内」の「海域の利権」を「たいら族」から全てを奪取しているのですから最早、何も「坂東八平氏」に頼らなくても「純粋な源氏の力」で「武家の幕府政権」も造れていたのです。
現に、”瀬戸内を制する者は国を制する”と言われていたこの「瀬戸内」を基盤に「たいら族」は栄華を誇ったのです。
当然に、関東以北に勢力圏を持つ「藤原北家秀郷一門の協力」(平泉・入間・常陸・陸奥越前等)を得ているのですし、資料からも弱体化し衰退していた摂関家も同調していた事が判っている訳ですので、政権の大本は義経は構築していたのです。同じ「神明族、賜姓族、親政族」である「2つの青木氏」も「2足の草鞋策」でこれを補完する事に成る筈です。
(院政側も利用するつもりであった事は否めませんが院政の利害からも義経に同調していた。)
この「義経の戦い」の瀬戸内の海域の成果は「最大の幕府樹立の条件」にも成っていて、義経が目指す「神明社族」としての方向性は決まっていたのです。
ともあれ、全国に「566の神明社」を建立して配置していた事からも「河内源氏の八幡社」や闇雲に「未勘氏族」や第7世族の「坂東八平氏」に頼らずとも「神明族」としてこの「瀬戸内の海域」はもとより全国の「民の心」は掴めていた筈です。
(義経は「八幡」を決して名乗らなかった。頼朝は鶴岡八幡宮を信仰し八幡を主神とした。)

「四国域・中国域」
さて、この様に「瀬戸内の圏域」を挟んだ「四国域・中国域」の「神明社と八幡社の建立時期」に起ったものとして、後勘から観れば「象徴的な事件」が2つも起こっていたのです。
そんな環境の中でも根強く「祖先神の神明社」は瀬戸内の民に招かれて建立されていたのです。この意味は「祖先神-神明社」を理解する上で大きい事であり、特段にその状況を論じたのです。
それ故に、この「事件の背景」からも判る様に河内源氏の深く関わる「弓矢の神の八幡社」のこの地域での伝播は本来無い筈なのです。(氏家制度の環境下では以下の「5つの要素」が不備 )
「産土神」の環境の中で「祖先神-神明社」が認められているとすればこの様な背景を持つ「弓矢の八幡社」が認められるかという問題です。殆ど有り得ないと考えられます。
この時の上記する讃岐と阿波の「2つの秀郷流青木氏」の「勢力の如何」を物語る事件であったのです。
その意味でこの数字考察には一考しなければなら無い大きな意味を持っているのです。

従って、故に、此処には下記の「5つの要素」
A「地理性」
B「経済性」
C「歴史性」
D「圏域性」
E「武力性」
以上の「5つの要素」の条件が影響しますが「祖先神-神明社」に関しては相互に連動して達成構築されているのです。
なかなかこの「5つの要素」全てを連動して構築している氏は少ないのです。

そうすると、「讃岐青木氏」と「阿波青木氏」が「生活の神明社」を建立し、一方で逆の「弓矢の八幡社」を建立する事が「信義的に可能な行為」であったのかと云う疑問です。

”「弓矢は武士の守護神」とする事であり、ましてや「頼信系源氏とその未勘氏族の守護神」とするものに、「皇祖神」の代わりに「祖先神の神明社」の「特別賜姓族」が建立する事が信義的に可能なのか”と云う信義的な矛盾が生まれます。
この事は関西域・中部域・関東域・北陸東北域でも特別賜姓族と賜姓族の衰退期間に於いて勅命により明確に可能です。
そもそも「特別賜姓」は前段で論じた「3つの国政の遂行」の為に衰退していたこの時期に「賜姓族青木氏」に代わって「勅命での行為」そのものであったのです。

この四国には上記する様に、「讃岐と阿波の2氏」を除き14氏の豪族にはこの「頼信系源氏とその未勘氏族の守護神」の「八幡社」を守護神とするのは「三好氏」の1氏しか存在しないのですから、この三好氏が゜秀郷流青木氏」の圏域をはるかに超えて建立する事は可能かと云う事に成り、”何も源氏に媚して八幡社を建立する事”は無い筈ですし勢力的にも不可能です。

(愛媛9に付いては、「清和源氏の経基と頼信」は若い頃に短期間「伊予」に赴任していますが、未だこの頃は「八幡社」は朝廷の命に基づく「国家鎮魂の八幡社」であった事と、この頃は頼信は「海の神」の「住吉社」を信仰していたので無関係と成ります。
ただ経基王と頼信が赴任していた事もあり源氏性が強い地域であった事は否めませんが、領主と成り得る未勘氏族が無いのです。上記の「純友の乱」での経緯で「河内源氏の勢力圏」をこの地域に伸ばす事が出来なかったのです。)

まして、その環境の中で”「讃岐と阿波の青木氏」が建立するのか”は信義的な面から観て大いに疑問であります。
しかし香川6 徳島3 愛媛9 高知3で建立されているのですから、考えられる事は他の地域で観られる”「八幡社の存在意義」の如何”に関わる事以外に無い事に成ります。
当初、「讃岐、阿波の2氏」により平安期の内に、全てこの21の「八幡社」が「神明社」として建立され、その後の四国に於いてそっくり室町期中期以降に豪族が入れ替わりますが、この時にこの21の「神明社」が「八幡社」に変えられてしまったとすると、鳥居やお社の形式は平安期のそのままでも成り立ちます。
因みに江戸初期の四国の豪族は讃岐3氏、阿波1氏、伊予7氏、土佐2氏の戦国の立身出世の豪族に入れ替わりますし、当然にこの中には「清和源氏頼信系」はありません。
どちらかと云うと室町期中期とはそっくり入れ替わった7割近くは、何らかの直間の縁の藤原氏北家の流れを汲む戦国時代の豪族であります。
しかし、この「戦いの神」の意味合いの強い「弓矢の神」の守護神から、時代を経て源氏が滅亡し「下克上と戦国時代」を経た室町期中期以後は「戦いの神」の影は潜み、”単純に「武士の守護神」としての「総合的な守神」や「武士の魂」だけを守護する神に変異したものとなった”と考えられます。

その為に、この”「後詰めの豪族14」が「神明社の30の内21」を「八幡社」に変えた”と考えられます。
この証拠と成るものが現在発見されないのですが、上記する状況証拠から他に建立できる能力とその義務か必要性を持った氏は讃岐と阿波の青木氏以外にはこの四国域には見付かりません。
「7つの域の神明社と八幡社の関係」は上記する「5つの要素」で特徴ある関係が出来上がっているのですカラ、この四国・中国域の八幡社との関係は「歴史の雑学」の判断の重要な基礎になるデータとも成ります。

「神明社」
従って、此処より「神明社」に付いてより理解力・判断力を深める為に更に研究を進めます。
そもそも「八幡社」が「弓矢の神」を主神とする以上、「河内源氏」は「皇祖神」の「祖先神-神明社」の賜姓族としての義務は無関心であった事が覗えます。
この四国・中国域の圏域も平安末期までのものであり、僅かに鎌倉期のものも含まれている模様で室町期初期の「下克上と戦国時代」へと突入する前兆現象であったのです。
「弓矢の神」に信心する「侍社会の風潮」がここから読み取れます。
恐らくは「祖先神-神明社」の「生活の神」「物造りの神」は「民の信心」と成り、侍階級は「生活の神」「物造りの神」からこの「八幡社」の「弓矢の神」に鎌倉期に向けて浸透して行ったと考えられます。
そこで、これが「第1次の空白期間」の始まりに成った原因点であったと考えられ、次ぎの「4つの経緯」に繋がって行くのです。

(1)上記した様に「祖先神-神明社」と「祖先神-八幡社」の「最悪の事態」の「競合合戦」が無かった事が次ぎのデーターで顕著に表れています。
(2)「神明社-八幡社」の「競合合戦」が無かった事は、「八幡社」が初期には「国家鎮魂」であった事と、後に「特定の氏と未勘氏族の守護神」と変質して行った事(2)は「2つの証拠」でもあります。
このデーターから「賜姓源氏」(河内源氏も含めて)は、同族である「賜姓青木氏」や「特別賜姓青木氏」が行う「3つの発祥源」としての責務と「政治的、戦略的」な「国策の神明社」には、ある程度の理解を示していた事とも考えられます。
(3)「賜姓源氏」が置かれている立場、即ち「たいら族」との「勢力争い」から目を逸らす事が出来ずに「清和源氏頼信系の一族」(河内源氏)だけは「勢力争い」にのめり込んで行った事が覗え、最終は11代の源氏を巻き込む事(4)に成り、遂には滅亡を招いてしまったのです。
(4)「2つの青木氏」が行う「生活の神」「物造りの神」の「神明社建立」域には「弓矢の神」の「八幡社建立」は明らかに避けている事が判ります。言い換えれば「2つの青木氏」が定住する地域には「八幡社の建立」は避けている事にも成ります。これは「同族争い」だけは敢えて避けたと観られます。

「神明社と八幡社の2つの差」
「八幡社の県毎の分布」と「神明社の県毎の分布」のデーターです。
この「2つの差」が表示しています。

「八幡社 354社」 「神明社 566社」に対して%は全体比です。
(八幡社から観たデータはこの表 神明社から観たデータは次表記)

「神明社-八幡社の対比表」
八幡社の分布( 県域分布)   神明社の分布(県域分布) 差 分布域の圏域
1  福岡  39 -11.1%    9 - 1.6%     30  八幡社の発祥地
2  東京  29 - 8.4%   30 - 5.3%    - 1  秀郷流青木氏と源氏の圏域
3  兵庫  24 - 6.9%   11 - 1.9%     13  清和源氏の発祥地
4  千葉  23 - 6.7%   22 - 3.9%      1  秀郷流青木氏と源氏の圏域
5  愛知  14 - 4.1%   33 - 5.9%    -19  秀郷流青木氏の圏域
6  神奈川 12 - 3.5%   11 - 1.9%      1  秀郷流青木氏と源氏の圏域
7  静岡  12 - 3.5%   18 - 3.2%    - 6  秀郷流青木氏の圏域 
8  岐阜  12 - 3.5%   31 - 5.5%    -19  賜姓青木氏の圏域
9  栃木  11 - 3.2%   14 - 2.5%    - 3  2つの青木氏の圏域
10 大阪  11 - 3.2%   1  - 0.1%     10  賜姓源氏の県域
11 埼玉  9  - 2.6%   15 - 2.7%    - 6  秀郷流青木氏の圏域
12 愛媛  9  - 2.6%   2  - 0.3%      7  清和源氏未勘氏の圏域
13 鹿児島 9  - 2.6%   3  - 0.5%      6  清和源氏未勘氏の圏域
14 北海道 9  - 2.6%   2  - 0.3%      7  清和源氏未勘氏の圏域
15 山口  9  - 2.6%   1  - 0.0%      8  清和源氏の圏域
16 和歌山 8  - 2.3%   2  - 0.3%      6  清和源氏の圏域
17 山形  7  - 2.0%   15 - 2.7%    - 8  秀郷流青木氏の圏域  
18 大分  7  - 2.0%   1  - 0.0%      6  清和源氏未勘氏の圏域
19 宮城  7  - 2.0%   14 - 2.5%    - 7  秀郷流青木氏の圏域
20 茨城  7  - 2.0%   9  - 1.6%    - 2  秀郷流青木氏の圏域 
21 香川  6  - 1.7%   1  - 0.0%      5  清和源氏未勘氏の圏域
22 宮崎  6  - 1.7%   4  - 0.7%      2
23 広島  5  - 1.4%   6  - 1.1%    - 1      
24 富山  5  - 1.4%   33 - 5.8%    -28  賜姓青木氏の圏域 
25 岡山  4  - 1.1%   1  - 0.0%      3   
26 島根  4  - 1.1%   1  - 0.0%      3   
27 京都  4  - 1.1%   2  - 0.3%      2  神明社の絶対的神域 
28 岩手  4  - 1.1%   11 - 1.9%    - 7  秀郷流青木氏の圏域  
29 山梨  3  - 0.8%   72 -12.7%    -69  2つの青木氏の圏域  
30 徳島  3  - 0.8%   3  - 0.5%      0  
31 長崎  3  - 0.8%   1  - 0.0%      2      
32 熊本  3  - 0.8%   1  - 0.0%      2   
33 高知  3  - 0.8%   4  - 0.7%    - 1    
34 青森  3  - 0.8%   13 - 2.3%    -10  秀郷流青木氏の圏域
35 秋田  3  - 0.8%   33 - 5.8%    -30  秀郷流青木氏の圏域
36 群馬  3  - 0.8%   14 - 2.5%    - 9  秀郷流青木氏の圏域   
37 新潟  3  - 0.8%   61 -10.8%    -58  2つの青木氏の圏域 
38 福井  3  - 0.8%   8  - 1.4%    - 5  賜姓青木氏の圏域
39 鳥取  2  - 0.5%   0  - 0.0%      2  
40 佐賀  2  - 0.5%   1  - 0.0%      1   
41 長野  2  - 0.5%   15 - 2.7%    -13  賜姓青木氏の圏域
42 滋賀  2  - 0.5%   3  - 0.5%    - 1  賜姓青木氏と源氏の圏域 
43 奈良  2  - 0.5%   1  - 0.0%      1  神明社の絶対的神域
44 福島  2  - 0.5%   9  - 1.6%    - 7  秀郷流青木氏の圏域   
45 沖縄  1  - 0.1%   1  - 0.0%      0
46 石川  1  - 0.1%   2  - 0.3%    - 1  
47 三重  1  - 0.1%   5  - 0.8%    - 4  2つの青木氏の圏域
      A:354 (/354)  B:566 (/566)   (A-B) 


「賜姓源氏」の重要拠点には「八幡社」が、「2つの賜姓青木氏」の重要拠点には「神明社」が建立されている事がこれ程に明確に成っている事に驚きです。
これを「神明社」から観たデータ(下記の表)からも読み取れる事から、上記の表の八幡社データからは「賜姓源氏」の姿勢が読み取れます。
彼等は朝廷が行う国策に逆らいながらも、賜姓族の立場にも逆らいながらも、自らの力で建てたかは別にして「八幡社の建立」を何と「354社」も建立している事は一つの大きな意味を持っています。
彼等にしてみれば、この数字から観れば、確かに皇族ながら「朝廷の意向」を無視し、立場を違えながらも「彼等の主張」をそれなりに持っていた事が判ります。
それは ”時代に即応した「弓矢の神」を普及させる事で台頭する「侍集団の集約」が国策として肝要だ” と主張していた事に成るのではないでしょうか。(朝廷は「公家社会」から「武家社会」の到来を危惧)
然し、矢張りそれが「自らの存続」を危うくさせ、且つ、「侍の力」を強くしてしまう結果を招いたのです。
結局は、この流れは「鎌倉幕府の樹立」と成ってしまうのですが、しかし、天皇側や朝廷側からすると、むしろ、”国全体として「生活の神」「物造りの神」を全面に押し出し、”国民を豊かにする事で「侍の集団の必要以上の台頭」を抑えて安定した「国造り」をするが大事な事なのだ。”と当然に主張するでしょう。
そもそも「侍集団」と云うものが台頭するのは、”その「生活の安定」と「身の安定」に対して不安があるから集団化する”のであって、これは「人間の本能」であります。
それを「天皇側」からすると、「生活の神」「物造り神」の政治的、戦略的な上記の様な主張となるは必定であり、「源氏側」からすると、「身の安全」を優先にして「武」に頼る主張と成るでしょう。
一見して「二者択一」と観られますが、何時の世も”「武に頼る安全」”は長く続けられる手段ではありません。元来、「武に頼る安全」は「第二次的な手段」であって「第一次的手段」で無い事は衆知の史実であります。
当然に「武」の位置に居ない「天皇側」からすると、「生活の神」「物造り神」の「神明社」であり、「源氏側」にすれば「弓矢の神」の「八幡社」と成ります。
これを「源氏」は時代性を長く観過ぎた事から ”「第2次的な手段」を「第1次的な手段」と考え違いをしてしまった” と解釈出来ます。
何時の世も「武に頼る安全神話」は例外無くよくある議論です。
然し、「2つの青木氏」は明らかに”何も「神明社」側だから”と云って天皇の推し進める「神明社」に関わっただけではないのです。その証拠はこの時期に作られたと観られる「青木氏家訓10訓」にあると説いています。
この「青木氏家訓10訓」に於いて「2つの青木氏」は「同族の源氏の主張」に賛成していない事をはっきりと物語っているからです。
賛成ではなく否定に近いもの感じます。それはこの「家訓」のみならず1125年頃に「2足の草鞋策」を実行した事でも証明しているのではないでしょうか。
「弓矢の神」の「武の力」に頼らず「経済的な力」、即ち、「生活の神」「物造りの神」に舵を切っているからです。つまり「第1次的な手段」を採用しているからです。然し、「第2次的な手段」も無視してはいないのです。
それは前記に縷縷述べてきた「伊勢-信濃シンジケート」と「藤原秀郷流青木氏、特別賜姓族の抑止力」を使っているからです。
現に、この「武の力」に脅かされた時、この「第1次的な手段」と「シンジケートと特別賜姓族の抑止力」を使って撃退しているのです。(幾つかの史実がある)だから生き延びられたのです。
それを「青木氏家訓10訓」として ”真の生きる様は此処にあり” として子孫に遺したのです。
その「生きる様」は「祖先神の考え方」に沿った”「祖先神-神明社」”に凝縮されているのです。
そして、その結果が上記の表の数字的な証拠として出てきているのです。

今や歴史は「清和源氏の分家頼信系源氏」を「武家の鏡や魂」の様に持て囃されていますが、「2つの青木氏側」から観ると、「最悪の同族氏と八幡社」と観えるのです。
これが「1650年近い悠久の歴史」を持つ青木氏の変わらざる一貫した姿勢であり「生き様」なのです。
凝縮すると、上記した「源義経の主張」と「源頼朝の主張」の差であります。
「源義経」は上記した様に青木氏と同じ道を歩もうと「鎌倉会議」で主張したのです。
”「清和源氏宗家頼光系四家」の様に「祖先神-神明社側」として生きよう”と主張したのです。然し、この考え方は「八幡社」側には生かされなかったのです。
「源義経の主張」は単に空論では無く身近に上記前記する「青木氏の生き様」が見えていたのです。
「たいら族の清盛」さえも「武の力」に対して「安定の社会」に疑念を抱き「宋貿易」を開始しているのです。
資料の記録では ”義経は清盛の教訓・遺訓を受けた”と記録されていますから、当然に前記で論じた様に義経は「伊勢伊賀の清盛」と隣の同族の「2つの伊勢青木氏」の「生き様」も見ていたのです。
義経は「弓矢の八幡社」を「生活の神」「物造りの神」の「神明社」に変えようとしていた事も考えられます。
「商と殖産」に力を入れていた「平泉の都」を頼った「真の根拠」はここにあったのではないかと観ているのです。

そもそもその「侍集団」は、天皇自らの子供を「融合氏」として臣下させて国策としてそれを推進し天皇自らが作り出した政策であります。
その「3つの発祥源」として自らの分身から「2つの青木氏」を作ったのですが、その「2つの青木氏」はその立場を良く護り”良好な国策だ”と見えたのです。
ところがこの「青木氏の親政族」を、「桓武天皇」が完成させた「律令国家の完成に障害」と成るとして「皇族系の賜姓族」を取りやめ、帰化人の大集団の阿多倍族を「たいら族」として賜姓したのです。賜姓したのは阿多倍の孫娘を母に持つ本人の「桓武天皇」なのです。
(伊賀の阿多倍は敏達天皇の孫の芽淳王の娘を娶る。 光仁天皇 第6位皇子であった伊勢の施基皇子の長男 青木氏始祖)
「阿多倍」には天皇家と血縁させて大蔵氏等の他「4つの末裔」(民族氏: 大蔵氏、坂上氏、内蔵氏、平族、阿倍氏)を作り出した事が、余りにも大きくなり過ぎて、結果として彼等阿多倍一族一門は青木氏と同じ立場を採らなくなってしまったのです。
挙句は、この「侍集団の統制」が取れなくなって、累代の天皇が危険視していた「行過ぎた荘園制」に結びつき、自らの天皇家の足元さえも危うくさせてしまったのです。その事に気づいた時には”事は遅し”であります。(荘園制の問題は前段で論じた)
藤原一門の血縁を受けていない唯一の「一条天皇」から「後三条天皇」-「後鳥羽上皇」まで必至になって彼等の経済源に成っているこの「荘園制」を潰しに掛かりますが事は最早抑えきれ無く成ってしまったのです。
時系列的に観て見ると、「大化改新」「賜姓制度」「帰化政策」「民族氏政策」「阿多倍と血縁政策」「融合氏政策」「祖先神-神明社政策」「皇祖神-伊勢大社政策」「生活の神、物造りの神政策」「侍集団政策」「弓矢の神政策」「荘園制政策」「律令国家完成政策」「藤原氏摂関政策」「親政族 青木氏排除政策」「源氏賜姓政策」「祖先神-八幡社政策」「たいら族賜姓政策」「九州自治政策」「荘園潰し政策」等、これ等に付随する政策が次々実行されました。
そして、政策そのものは「適時適切」であったと考えられるのですが、「後三条天皇」が身の危険を顧みず「荘園制の制限と中止」を思い切って断行した事でも判る様に、当時の政治的権力者との”しがらみ”から”天皇が「政治的欠陥の有無」を承知しながら「政治的欠陥」を取り除く勇気が無かった事による”と筆者は考えているのです。(前段で論じた)
この発端を作り出したのが「桓武天皇」であって、それを悪化させてしまったのが「清和天皇」であって、それを直したのが「後三条天皇」であったと読み取れます。
(適時適切に特別賜姓の青木氏を発祥させた円融天皇、瀬戸内問題や阿多倍一族一門問題を解決に導いた判断力の一条天皇等の英断が「皇祖神-祖先神-神明社」を遺せたのです。)

この渦中にいて清和源氏は歪んだ政治状況の中で、その立場から「弓矢の神」を”床に油”の如くで勢力を拡げてしまったのです。その勢力を使って「八幡社」を建立して行った事を物語っています。
それは11代の源氏が定住していない地域に多くの「八幡社」がある事なのです。
そしてその由来を調べると、「源氏姓」を名乗る「未勘氏族」が多く関係している事なのです。
データから観て全体の8割程度がこの「八幡社」です。
つまり、データでは354社ですが、”自らの「弓矢の神」としての彼等の主張”とすると、”少し違う”と云えるのでは無いかとも考えます。
その「八幡社の建立」は「未勘氏族」が、”自らの立場(源氏族)を鼓舞し自らの荘園を護ろうとしてのもの”であった事を意味します。それが8割のデータです。
場合に依っては「源氏」が「未勘氏族」に対して「名義貸しの条件」であった事も考えられます。
「名義」だけではその宣伝効果は低い事から「目に見える形」として、その「象徴としての八幡社建立」であったと考えていて、一部の地域の「未勘氏族」の資料の中にそれと観られる記述があるからです。
恐らくは、”「荘園」の周囲にその勢力圏を誇示し縄張り範囲を明確にする目的”で「戦略拠点」を ”これ見よがしに”「名義主からの許可」、或いは「条件」として建立したと考えられます。
むしろこの目的の方が強かったのではないかと観られます。
結局、「源氏」の主張する”時代に合わせた「弓矢の神」”の理屈は、この事(侍集団と源氏姓の名乗り)に反発する天皇家に対する取って付けた「大義名分」であった事が云えます。
ここが「神明社」と実質的に異なる点で「生活の神」「物造りの神」は「民に直結する神」である事から、その「建立の行為」は「天皇の施政に対する国策」に合致し、「3つの発祥源」の立場と責任にも合致する事から信任を得え、尚且つ「民の信望」を深めたからこそ民から自然発生的に「氏上様」の呼称が生まれたと考えられます。

「弓矢の疑問」
そこで、”天皇が「弓矢の神」を推奨する事が政治的にあり得るのか”の疑問です。
確かに、「融合氏」を国策とし、「賜姓族」を臣下させたのは天皇であった事は否めませんが、そもそも天皇は「臣下-侍」の政策が「弓矢の神」まで祭祀する程の目的として実行したのではない筈です。
「侍の神」を祭祀する事は「侍集団」に結びつき、それは同時に天皇家の実権を弱くする事にも成ります。
「侍集団」は、「朝廷軍」(坂上氏等)が既にあり、青木氏の「六衛府軍」の「近衛軍」がありさえすれば政治的には成り立つ範囲で無用であります。
むしろ「侍集団」が闊歩すればするほどに「朝廷軍」と「六衛府軍」を強化せざるを得なくなります。
「侍集団」と「朝廷軍」+「六衛府軍」の勢力バランスは物理的に逆転して朝廷権力、強いては天皇の施政権は低下する事は必定の条理です。
どんな愚脳な天皇でもまして側近(藤原氏)もあればこそ、この程度の条理は即座に判る範囲の知恵であります。つまり、「弓矢の神」「侍集団」はもとより望んでいなかった事に成ります。
そうなれば、必然的にも「源氏」に対して、特に「清和源氏」に、更には「河内源氏」に軋轢が加わる事は目に見えています。
故に「河内源氏」と「未勘氏族」が作り上げた「変質の八幡社」は望まれて期待されていなかった事に成ります。
その証拠に「桓武天皇」は、わざわざ父方の実家先を衰退させた青木氏に代わってでも、「神明社」を天皇の自力で20社も建立しているのです。「弓矢の神の八幡社」は建立していないのです。
(確かに清和源氏宗家に修復は命じている。)
この事は、実の所は「青木氏-神明社」は期待されていた証拠であります。
ここで際立ってくる事は「青木氏の行為」が「賜姓の本来の姿勢」であって、”天皇が望んでいた事の「侍の姿」である事”に成ります。
だから「桓武天皇」の「神明社建立」であって、現実問題として挙がった事として、「賜姓族青木氏」の末裔の数に対して、「神明社建立推進」には不足の状態となり、又「河内源氏」等の「侍集団」の増加に対応する為にも母型族の「特別賜姓族を賜姓」(940年頃 円融天皇 藤原秀郷流青木氏)したのです。
まして、「桓武天皇」の子供の「嵯峨天皇」は「青木氏族」を増やそうとして賜姓を「源氏」として慌てて立てたとしてもそれが「清和天皇」の頃には「侍集団」を逆に大きく造り上げる始末と成ったのです。
まさしく”火に油”であります。其処に問題と成っていた”「荘園制」が悪用されてしまった”と成れば ”冬の大火事災害”です。
(清和天皇のところでおおくの問題が噴出する)
然し、それも「清和源氏」までの源氏では「2つの青木氏」と同じ道を歩んでいたのです。
中でも「清和源氏」の宗家の「頼光系宗家の四家」は頑なにも青木氏と同族血縁してまでも「同じ道」を歩んでいたのです。
その藤原道長に使え国司を多く務めた「頼光」に付いては「資質剛健」の性格であった事が資料として遺されていて「河内源氏」のような行動を取る人物では無かった事が判ります。
又4代目の「頼政」に付いても「保元平治の乱」後も一人源氏の中でも朝廷内に残り何とか源氏を立て直す事に努力しなかなか昇格出来ずにいたのです。
その時、清盛の計らいでやっと正三位まで遂には上りますが、然し、資料には清盛は彼を酷評しています。この頼政は強く出られない難しい立場であった事からと考えられます。
「源平の戦い」のきっかけと成った「以仁王の乱」を起した事を聞いた清盛は”あの頼政が!”と驚いた事が遺されています。この事から4代目頼政は「頼光」(宗家)に似て資質剛健であった事が覗えます。
恐らくはこれ等の資料から、この「清和源氏」の宗家の「摂津源氏」側と次男の「大和源氏」側と、三男の分家の「河内源氏」側とを朝廷や清盛等が対比していた事を物語り、この「河内源氏」は清盛等から危険視されていた事が判ります。
全てはこの様に歴史の姿を顧みると、”頼信系の分家が事の道を違えてしまった”のが原因であった事に成ります。
この下記のデータをも含めてより詳しく観てみるとこの事を裏付けています。

「遺戒の意味」
何度も延々と前記から繰り返しますが、「青木氏家訓10訓」はこの”「道の採り方」を間違えてはならない”として ”人のあるべき姿”を、むしろ、進む道を指し示す ”「長」としてのあるべき姿”を説き誡めているのだと考えます。丁度、この頃に「2足の草鞋策」は採られ、家訓の根幹は造られたと考えられます。
「青木氏家訓10訓」そのものが「清和源氏の滅び行く姿」を物語り、それを観て危機感を感じ頼政の孫の京綱とその末裔は「青木氏家訓10訓」としたのではないかと観ています。
恐らくは、この家訓はこの清和源氏の四家の宗家頼光系頼政の孫京綱が「伊勢青木氏」の跡目に入り生き残った事から、この家訓を最初に作ったのではと考えているのです。

(この時かなり緊迫した状況に「2つの伊勢青木氏」は追い詰められていたと考えられます。場合に依っては伊勢手前名張辺り(伊勢は「不入不倫の権」で保護されている)まで攻めてくる事も考えられ、その時は「特別賜姓族の伊勢青木氏」も深く血縁を結んでいる以上は秀郷一門を背景に「たいら族」と一戦を交える事を覚悟していた筈です。然し、さすが「たいら族」は伊賀和紙で青木氏と深く繋がった古い深い絆を配慮して攻めて来なかったのです。それどころか”主謀者の孫の助命嘆願に応じる”と云う前代未聞の態度を採ったのです。)

宗家側は河内源氏の破天荒な生き様を批判していた事を物語るもので伊勢青木氏のみがこの事を証明出来る事なのです。
そして、その「行動の現われ」として「力みのある力」に頼らず、「2足の草鞋策」を採り「特別賜姓族」との極めて親族以上の親密な交わりを採ったと考えています。
そして、賜姓族29氏と特別賜姓族116氏とは結束を強くする戦略構築に邁進したのです。

(参考 特別賜姓族青木氏の賜姓族青木氏に対する援護働き 
前段で論じて来た事ですが、四日市には「賜姓伊勢青木氏」と「特別賜姓族の秀郷流伊勢青木氏」の「融合族」が定住している。この助命嘆願の恩義に対して「信長の伊賀攻め」の時、「2つの青木氏」は伊賀一門末裔と民を名張から側面を突いて出て助ける。 然し、信長は「たいら族支流末裔」で伊賀一門もその支流末裔の同族だが血縁の意識は薄らぎ攻めた。 それは「たいら族」は忠盛の時、摂関家に対して伊賀一部の知行を具納した事から血縁意識は薄らいだと考えられる事と、室町幕府初期に元北条氏の執事に対してこの伊賀の知行を味方した勲功により与えたなどの経緯があり薄らいだと考えられる。 美濃-尾張では「源平の戦い」で「美濃の特別賜姓族青木氏」は一部生き残った「美濃青木氏」と「近江青木氏」を残そうとして奔走するが失敗する。又、室町期に美濃-尾張では織田軍に対して「美濃の特別賜姓族青木氏」が仲介を採り「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と一部生き残った「美濃青木氏の末裔」を護った。武田氏滅亡時の諏訪族青木氏と武田氏系青木氏の逃亡を各地で助けた等の一心同体の様な関係の歴史史実がある事に留意。)

前段で論じた「4つの青木氏の結束」はこ「の祖先神-神明社」の強い絆の経緯事から生まれたのです。そして現在に生き残れたのです。
そして、その生き残れた思考の根源はまさしく「祖先神-神明社」にあったと考えているのです。
この「祖先神-神明社の考え方」だからこそ ”世に晒す事なかれ” の「遺戒」は遺され、護られた、又は護らせたと云えます。
実は、前記しましたが、「生仏像様」の処で書いた ”世に晒す事なかれ” の「遺戒」はこの「河内源氏の失態」を「青木氏家訓10訓」とは別に「総訓」として言い残したものと解釈しているのです。
恐らくは、清和源氏頼光宗家の4代目頼政の孫に当る青木氏の跡目京綱は分家の行状を観て「誡めの言葉」を「青木氏末裔」に残したと観られます。
つまり、どう言う事かと云うと、宗家側はこの「河内源氏の行状」を強く批判していたのではないでしょうか、しかし、反面では”世に晒された為に道を間違えた”とも観ていて、(”「未勘氏族」に「源氏の棟梁」と煽られた”として) ”世に晒す事の危険や意味の無さ” に疑問を持っていたと考えられます。
現在でも、”世に出る事”が”何か発展に繋がる”と考えれがちですが、当時でも同じであったと考えられ、この事に疑問を持っていた事が判ります。
そもそも、源氏は清和源氏だけでは無く11代もの源氏があり、決して「源氏の棟梁」でも無く「武家の棟梁」でもないし、まして上記した様に「経基王」は賜姓にも問題があり、「賜姓族の源氏」で無い事でもあり、まして、「河内源氏」は三男の分家筋であり、この「呼称の意味」は空虚で世の中の勝手な利益に振り回された事であり、まさしく”世に晒された事”を物語ります。
仮に、「源氏の棟梁」とするのであれば、筋論からすると初代の源氏で最後まで残った「嵯峨源氏」が「源氏の棟梁」である事に成ります。
更に強いて云えば、青木氏を加えた同族16代として見ると、「3つの発祥源」で皇祖神に繋がる「祖先神-神明社」であり、「氏上様」の呼称があり、「御師」の呼称があり、大化期からの「融合氏族」の末裔であるのですから、「青木氏」が「棟梁」である事に間違いはありません。「生仏像様」「笹竜胆の象徴紋」「象徴の青木神木」等を以ってすれば「分家の河内源氏」が”源氏の棟梁”などとする事は極めて論外です。
それどころか、”棟梁族でない”とすれば清和源氏の分家の「河内源氏」が最も無い同族であるのです。
基より青木氏から観れば「遺戒」の通り ”棟梁”とする事には!”以っての外”であります。
この事は当時で在れば「衆知の事実」であった筈で、まして「清和源氏」には上記した様に賜姓と出自に問題を持っていた事も衆知の事で在った筈です。この様な世の中の様子を「嵯峨源氏」や「2つの青木氏」からすると苦々しく思っていた筈です。まして現在と異なり一族一門が集結している氏家制度の中ではこの掟を守る事やこれ等の「情報の伝達」は社会の重要な要素であった筈です。
しかし、つまりは”「源氏の棟梁」”と世の中では勝手に自らに都合良く「河内源氏の未勘氏族」が中心に成って晒されてしまったのです。「八幡社」もこの流れの中での事だと考えられます。
この事を宗家側の京綱は伊勢から河内に向けてつぶさに観ていたのです。
助命嘆願の日向の宗綱と有綱の兄の二人も同じ印象を持っていたと考えられます。研究を進めば日向青木氏にも何か遺しているのかも知れません。
当然に、同じ行動を採っていた「特別賜姓族伊勢青木氏」にも、極めて親族付き合いにあった「信濃青木氏」にも何がしかの遺訓が遺されているのではと考えられます。この事は青木氏ならではの判る事であります。
伊勢青木氏の宗家にこの「遺戒」の言葉が現在までも長く口伝されている事はそれを明らかに物語っています。大した意味の無い事は「遺戒」として代々に口伝されることは無い筈です。意味の無いものは何時か消えるものです。
このデータを分析してみた時に数字からもその事を物語っている事に驚いたのです。
「神明社-八幡社」の上記の関係表からもこの「生き様」が読み取れのです。

「源氏の棟梁」と「八幡社の弓矢」
「源氏の棟梁」の呼称や「八幡社」の弓矢の守護神の事は、強いて云えば、上記で論じた経緯から見ても「河内源氏の頼朝」までのものであって、その後は「河内源氏の未勘氏族」に依って自らの系譜や出自を正当化しようと利用した「源氏の棟梁」や「八幡社」であった筈です。
(「荘園制の名義借り」の「未勘氏族」からすればこの「2つの事」は生き残りのためには止むを得ない仕儀であった事は否めませんが。)
上記に述べた結論より、その為に明らかに「八幡社」を政治的・戦略的な事として利用されたのであって「祖先神-神明社」の「生活の神」「物造りの神」としての普及には明らかに寄与していなかったのです。
青木氏側から見れば、河内源氏は要するに”世に晒された、又は世に晒した”のです。
どちらかと云えば、筆者は”「源氏の棟梁」と「八幡社の弓矢」の「2つの事」を使って全国の「無血縁の未勘氏族」に依って世に晒された”とする説を採っています。その理由は上記した様に”この「2つの事」は何れも根拠が無い”からです。
とすると、場合に依っては「源平の勢力争いと決戦の必要性」は無かった事に成りますし、当然に同族賜姓族の源氏と近江青木氏、美濃青木氏を滅亡に追いやる必要性は無かった事に成ります。
「無血縁の未勘氏族」がこの「2つの事」を殊更に利用しなければ生き残れたのです。
それは「無血縁の未勘氏族」が形の上では「源氏の主力戦力」であったからです。義家の時も義経の時も頼朝の時も”イザ衰退”と成ると”蜘蛛の子散らす様に”彼等は霧散したのです。そして、その後はこの根拠のない「2つの事」を喧伝する「後付態度」を示したのです。真に世に晒される事の無責任さであります。
場合に依っては、この「無責任な大きな渦」に青木氏も巻き込まれていた可能性があったと考えられ、そうでなかったのは「秀郷一族一門の抑止力」と「特別賜姓族の青木氏の絆と背後」と「青木氏のシンジケート」があったからなのです。

(注記 「未勘氏族の存在」は専門的に研究している人か書物以外に一般には意外に知られていない。
源氏と云えば河内源氏が源氏だと思われているし清和源氏でも8氏もあるし、まして源氏は11代もあるとは思っていない傾向がある。公的な情報機関のドラマでも「河内源氏」を「源氏の棟梁」としていた程である。「桓武平氏や京平氏や伊勢平氏」として知られている「たいら族」と「皇族第7世族末裔」の「坂東八平氏」の「ひら族」との区別が付かない事とは「不思議の大間違い」です。酷いものには伊勢の秀郷一門の藤原氏の伊藤氏を「たいら族」とした歴史ドラマがあった。
この「2つの事」はテレビ、簡易書物、ネット解説等の情報機関でもこの充分な「時代考証」が出来ていない事が実に多いレベルであり、これが少なくとも青木氏に関係する「通説と云う本質」なのです。)

データから観ても「八幡社の弓矢の神」としても「河内源氏」が純粋に建立したと観られるのは、全体の2割程度弱に過ぎないのです。
後の八幡社は「未勘氏族と荘園制との結びつきの建立」に過ぎない事なのです。
彼等の「弓矢の神」の役目があったとしても国全体では「神明社+八幡社」920社の中で僅かに7%に過ぎないのです。
これでは河内源氏を除く11代もの源氏が氏を成した事として考えても、「祖先神-神明社の建立」に対して賜姓族として、”その責務や目的を充分に果たしていない”と成ります。
その様な果しているとする資料が多くが見付からないのです。
そもそも11代の源氏の内、室町期まで豪族で直系の氏として生き残ったのは「嵯峨源氏」、「宇多源氏」、「村上源氏」、「清和摂津源氏」の4氏(他に醍醐源氏と花山源氏は豪族・直系氏の要件が低く未勘氏族の可能性が強い)に過ぎない事から良く言えば ”賜姓族らしく質素に生きた”、又は、別に言い換えれば、多くは「武力と経済力」の運用の無さが「河内源氏」の様に「適時適切」ではなかった事に成ります。!”その「生き様」に弱さが在った”から「賜姓族源氏の4氏」は”直系子孫を青木氏の様に現在に遺しきれなかった”と考えられます。

「2つの青木氏」の「特別賜姓族青木氏」は秀郷一門を背景には「氏構成」の大きさは別格として、同族5家5流の皇族賜姓族(近江、美濃は支流末裔は何とか遺せた)が「源氏11代」と対比しても前段から論じている「祖先神-神明社」を通して上記するその「生き様」の違いがあり、それが適時適切であった事を物語っている事に成ります。
(絶大な勢力を誇った「特別賜姓族の援護」が「賜姓青木氏の生き様」を救った)
この他にも宗像大社、熊野大社、住吉大社、出雲大社、阿蘇大社、等の氏子集団を形成した「姓氏」の果たした充分な役目から考えると、「祖先神」を守護神としながらも概して源氏は本来賜姓族でありながら「祖先神の役目」に対してその果たした功績は極めて低いと云わざるを得ないのです。それが子孫を遺し切れなかった「生き様」に現れたと考えられます

「八幡社の議論」はデータからも明らかに成った事から、更に次ぎからは「本論の神明社」の分析に入ります。


青木氏と守護神(神明社)-18に続く。


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青木氏と守護神(神明社)-16

[No.284] Re:青木氏と守護神(神明社)-16
投稿者:福管理人 投稿日:2012/03/02(Fri) 08:10:36


:「北陸東北域」の続き
>八幡社の分布順位(地域分布・重複)
>1 関東域    7県-94-26.5%(全体比)-平均13/県 清和源氏勢力圏域
>2 九州域    8県-70-19.8%(全体比)-平均 9/県 未氏族の圏域
>3 関西域    6県-52-14.7%(全体比)-平均 7/県 氏の出自元の圏域
>4 中部域    8県-52-14.4%(全体比)-平均 7/県 清和源氏・秀郷一門圏域
>5 東北北陸域 8県-38-10.7%(全体比)-平均 5/県 反河内源氏の圏域
>6 中国域    5県-24- 7.9%(全体比)-平均 5/県 源氏空白域・讃岐藤氏圏域
>7 四国域    4県-21- 5.9%(全体比)-平均 5/県 讃岐藤氏圏域・源氏空白域
>(詳細データは本論末尾添付)

「3つの守護神の神明社」
前段で論じてきた論処の通り、この「八幡社38+神明社97」=135と成る数字は疑う事無く「神明社」そのものなのです。しかし、では”何故に「八幡社」としているのか”についての疑問です。
それは「4の中部域」では「神明化八幡社」と発展させてましたが、この「北陸東北域」では「八幡化神明社」と成り得たのです。そしてこの八幡化した「八幡社」はこの地域では最早「弓矢の神」では無く、「4の中部域」の「農兵」の「身の安全を護る神」から、更に発展させて「家内安全の神」の守護神として考えられていたのです。
それは、「神明社」の「生活の神」「物造りの神」は勿論の事、前段で論じた様に「400年に及ぶ苦難」の末にこの地域では弓矢に変えて民は「家内安全の神」を求めたのです。
それは「合祀」ではなく「神明社」そのものに「3つの守護神」を求めたのです。
この「3つの守護神」を持った神明社の一部が鎌倉期に成って「家内安全の神」を強く主張する「神明社」が現れ、その「神明社」が室町期に入っての「下克上と戦乱」を背景に「創建主の勢力」が衰退し「管理維持」が困難に成り、「神社経営」の為に「神明社」と区別して「八幡社」と呼称されるように成ったものなのです。
これは呼称の範囲のものであってその元は「3つの守護神の神明社」であり続けたものなのです。

「3つの守護神」
>神明社の存在意義=「生活の神」「物造りの神」+「身の安全を護る神」→「家内安全の神」→「万能の神」

「八幡社呼称の経緯」
地域の「八幡社」の現在の呼称の経緯としては、鳥居の形や社屋の形状は多くは「神明造り」であり、元は「神明社」としての建立であった傾向が有り、室町期に入ってからの呼称と観られるのです。
その結果、「3つの守護神」の傾向が更に進み「家内安全の神」をそのものを求めたのです。
この地域は「生活の神」「物造りの神」として上記したように古くから神明域であった事から、当然の事として「時代の背景」が影響して武士も民も全ての民が「生活の神」を発展させて「家内安全の神」を「主の守護神」として民は求めたのです。
その為に「神明社」が一部「八幡社」に単純に変名したと云う事なのです。
「八幡社」と云っても此処では「弓矢の八幡社」で無い「神明社的な家内安全の八幡社」であった事から変名の抵抗は最早無かったと観られます。
「生活の神」「物造りの神」に、そして「家内安全の神」に、遂には八幡社の本来の「国家鎮魂」を加えた神を創造したのです。そしてそれは「神明社」のみならず「八幡社」との距離感を殆ど無くし、何れも「民の守護神」として崇める風習が生まれたのです。
その証拠に次ぎのような事がこの地域に限って起こったのです。
そして、そもそもこの地域の「神明」とする呼称は、「3つの守護神」の意味を持ち、それを単純に”「神様」を「神明」”と古くから呼称されていて、”神明”と云えば”神様”の総称の事であったのです。
それには「雄略天皇の八幡社」の意味合いも含んでいて、一応は「八幡社」の呼称はあるとしても根本的に「応神天皇」の「神明」であったのです。
>「民の”神様”」=「民の守護神」=「”神明”の呼称」
つまり、全ての守護神の総称を”「神明」”と呼称したのです。
「神明社」「八幡社」に分ける事に大した意味は無く全て大まかに”「神明」”であって、その”「神明」”は「神明社」なのです。
神社の経営的な意味のみであるのであって「民の心の区分け」を意味するものでは無かったのです。

北陸東北域の「神明社-八幡社の関係式」
>「神明社」≒「八幡社」→「神明社」+「八幡社」→「神様」=「神明」=「民の守護神」
>「生活の神」+「物造りの神」+「家内安全の神」+「国家鎮魂」+「身の安全神」=「八幡社+神明社」

実は「神明社」には「2つの通説」があるのですが、この中の一つの「神明=神の説」は此処から来ているのです。強ち、関東以北ではこの「神明=神の説」は間違いないのです。

ところが関西以西では八幡社、神明社、鎮守社、春日社、住吉社、出雲社等の前段で論じた自然神に繋がる「5つの守護神」を祭祀する社はその存在意義は又明らかに別なのです。
特に「氏の神」の神に代表される春日社等は区別化は当然の事として、上記した様に以西に行くに従い「八幡社の区別化」は明確に成って行くのです。
それは「荘園と未勘氏族」のあり方に起因しているのです。
「荘園に依って酷い苦しみを受けた地域と未勘氏族」と、「荘園に依って利益を受けた地域と未勘氏族」との「パラメータの差」が「八幡社と神明社の区別化」を促しているのです。
そして、その「荘園と未勘氏族」の有様は、平安期中期、平安後期、鎌倉期、室町期初期、室町期中期、室町期後期の「6つの期」になって現れ、それは「政治的な施策」と「戦乱の影響」に依って変化して行くのです。それが関西を中心に「以西と以北との変化」に差として生まれて来たのです。
この「八幡社と神明社の区別化」の差が次ぎの様な関係を示しているのです。

>”「以西・大>関西>以北・小」の関係”
が生まれて行ったのです。

この事は「4の中部域」で論じた様に、「圏域の勢力数」の関西を基準にした関係表(冒頭の表 上記の重複表)でもこの傾向を顕著に示しています。

実はこの事が次ぎの数にも表れているのです。

「北陸東北域のデータの検証」
「4の中部域の論説」の通りこの「北陸東北域」はそもそもそれ以上の地域であり、それからするとこの下の数は更に少な過ぎるのです。

関西域に対して1.8倍は低すぎるし、神明社3.9も低すぎると考えられます。
つまり、「関西域の八幡社」が概ね15%であるとすると、この地域の八幡社38は多すぎ、全国比1割を占める事は考えられずもっと低い筈です。
当然に神明社は「関東域115」に対してこの地域での「神明社97」は少なすぎ、「関東域の全国比20%」に比べて「北陸東北域の全国比17%」は低すぎると考えられます。
もし、このままの数字であるとするならば前段で論じた様な事件が ”歴史的に何も無かった”と云う事に成ってしまいます。
既に関西から関東に掛けて「八幡社」は勿論の事、「神明社」もその「歴史的な経緯」による変化を起こして来ていて、その様にデーターの変化を起こしています。”何も無かった”はあり得ずそんな事は絶対に無い筈です。
この「北陸東北域」に於いて現実に厳然と「特異な歴史的な経緯」を持っているのに ”何も無かった”と云う事をこのデータは示している事に成ります。「八幡社」だけならいざ知らず「神明社」も歴史的な状況に一致しないデータなのです。

”現世は移ろい去り行く”の例えの通りの如く歴史につれて「人の営み」は変化するものです。
つまりは「八幡社」の数は(+)であり「神明社」の数は(-)である事から、これは明らかに「時間の経過」に伴い「神明社→八幡社の変化」を起こした事を意味します。

そこで、では、どの様なデータならこの地域のデータに成り得るのかを検証します。
次ぎの表を参照して下さい。

>総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
>1.8倍    3.9     0.7

>八幡社 7県-38-10.7%(全体比)-平均5/県
>神明社 7県-97-17.1%(全体比)-平均14/県 

>関西域八幡社 6県-52-14.7%(全体比)-平均 7/県  源氏の出自元の圏域
>関西域神明社 6県-14- 0.2%(全体比)

>八幡社 秋田3  山形7  宮城7  青森3  岩手4  福島2 北海道9
>神明社 秋田33 山形15 宮城14 青森13 岩手11 福島9 北海道2

上記する経緯から、「以西・大>関西>以北・小」の関係から考えると、”中部域の「5割域の分布」の自説は「46.6%の計算値」”に匹敵する位の「神明社の数」である筈です。
この「八幡社38」を加えて135として観ると24%となり、関西域を基準として観ると5.4倍と成ります。
「関西域25」を基準としたこの地域の神明社の97の倍率3.9ですので、5.4はそれなりの比率と観られます。
しかし、「地理的要素」と上記の「歴史的要素」を考慮した場合、少なくとも秀郷一門の「関東域の数字」位は少なくとも保有していると考えられますので、因って「関東域の倍率4.6」に対し「5.4」は納得出来る倍率と考えられます。
そうすると、比較すると次ぎの様に成ります。

>関東全域 神明社 7県-115-20%(全体比)-平均16/県 本家域
>北陸東北 神明社 7県-135-24%(全体比)-平均19/県

神明社の全体比として考えれば20%/24%は、遜色なく相当として納得出来る数字と成ります。
それに「関東域」と「北陸東北域」の人口比(1/2と試算)から考えれば、48%程度と成り「中部域46%」に匹敵することに成ります。
これを下の表の通り「県分布」で考察すると、この地は”越後域から陸奥域に掛けて神明社の勢力圏が移動し構築されている事”が良く判ります。
他の6県域ではほぼ一定で変化が無い事等は、真に「歴史的な青木氏の経緯」と一致します。
つまり、この地域の「八幡社」は全て「神明社」と観て検証する必要があるのです。
そうすると次ぎの様な「北陸東北域の総合分布」に成ります。.

「北陸東北域の総合分布」
>神明社 秋田36 山形22 宮城21 青森16 岩手15 福島11 北海道2

以上と成ります。

「統治経路と末裔分布経路」
上記の事は秀郷一門のこの域の「統治経路」か「末裔分布の経路」を調べる事で判る筈です。
これはこの域の「八幡社」を「神明社」として観てしまうと、明らかに「青木氏の末裔分布、又は勢力分布」に極めて酷似しています。
前段で論じたこの地域の立役者である「特別賜姓族」の「越後青木氏」は、歴史的な幾つもの戦乱から「賜姓青木氏を保護」し受け入れて護り、且つ陸奥への「戦略的ルートを構築」し、陸奥域の「青木氏の基盤」を護った地域でもあり、越後はその拠点と成った所であります。
そして、その陸奥より南下の岩手に勢力圏を伸張して同門の「進藤氏などの力」を借りて「山形の勢力圏」を築いたのです。つまり、次ぎの表の経路を示しているのです。

>「新潟の拠点」→「青森域」→「岩手域」→「山形域」→「秋田域」→「宮城域」

以上の順で勢力圏を拡大しそれに伴って「神明社の分布」は拡大したのです。

本来であれば、「北陸ライン」を北に採って、統治経路を造るのが戦略上では理想的です。

>「新潟の拠点」→「山形域」→「秋田域」→「青森域」→「岩手域」→「宮城域」

以上と成る筈です。

しかし、この圏域全般は阿多倍一門の「産土神」の「内蔵氏」や「阿倍氏」の「末裔の勢力分布域」であった地域です。この域を抜くのは大戦闘を意味しますので戦略上得策ではありません。

この事から「鎮守府将軍」として秀郷一門が先ず「陸奥域」に赴任して、その地を統治するには「越後」を拠点とするも「出羽の山形域と秋田域」は直ぐには「越後域の一門」と結ぶ事(北陸ライン)は困難であったのです。
そこで先ず「陸奥域」の「東北ライン」の「岩手域」を統治し、そこから左隣国の「山形域」を「越後域」の拠点と結んで統治し、その勢いで上の領域に伸張して「秋田域」を制圧して、最終には「宮城域」の北側を統治する勢力圏と成ったのです。それに伴い「神明社」が分布するのです。
この経路で「神明社」が分布する事は、前段でも論じた神明社の第2の別の目的の「戦略拠点」なのですから、この「分布経路」に沿って「統治経路」の戦略を採った事を意味します。
つまり、これには平安初期からのこの地域は阿多倍一門の「内蔵氏」等の勢力圏でも在った事から、未だこの地には「産土神の地盤」でもあったのです。「敵対地域」だけではなかったのです。
それが200年の間に秀郷一門の統治により阿多倍一門の末裔は、思考の根底には「産土神」の考え方も在っても次第にこれを変化させ、「秀郷一門の青木氏」の影響を受けて「祖先神-神明社」へと変化させて行ったのです。
返して云えば、「産土神」から「祖先神-神明社」に変化させるだけの「秀郷流青木氏の影響力」が実に大きかったかを物語るものです。少なくとも大なり小成りに ”思考の根源を変えさせた”と云う事を意味します。これはある条件が揃わなくては成し得る事ではありません。少なくとも争いの連鎖を生む「武力」ではない筈です。
本来ならば、上記した「統治経路」は進藤氏や一部長谷川氏等の協力を得ているのですから、間違いなく「春日社」と成る筈です。
ところが、それどころか「春日社」勢力圏に成らず、のみならず「産土神」さえ殆ど消え去り「祖先神の神明社」と成って行ったのです。そうなると人の思考を変え得るのは唯一つです。考えられるのは「血縁力」と成ります。

(参考 明治2年 陸奥→磐城、岩代、陸前、陸中の東北圏に分ける 出羽→羽前、雨後の北陸圏に分ける それまでは北陸東北域は陸奥と出羽であった)

「進藤氏の活動経緯」
特にこの地域の「神明社の分布」の発展は、真にこの「進藤氏の活動経緯」と一致しているのです。
前段で論じたこの”進藤氏の歴史に残る秀郷一門の中での活動行動”が無くして「神明社の分布発展」は無かったのです。
これは”神明社を直接に進藤氏が建立した”と云う事ではなく、建立に必要とする「秀郷流青木氏の勢力保持」をこの地域に於いて側面からバックアップしたと云う事なのです。
恐らくは、この地域に於いて上記した「歴史的経緯」があったからこそ「秀郷流青木氏の力」だけではなく陸奥域から関東以北全般に掛けての「進藤氏の圏域」が必要であって成し得たものであります。
「人の心」は武力に頼らない「鎮守府将軍」の方に向いた事を物語ります。
その中心と成って働いたのが「第2の宗家」と成っている「特別賜姓族」で「秀郷流青木氏」であります。
又、一門の中でその「調整役の立場」にあった「進藤氏」は為政の為に自らの氏を犠牲にしても積極的に出て来た結果であると考えられます。
上記の”ある条件”とは、民から慕われる神明社建立の役目を担う「特別賜姓族」と「進藤氏」と「血縁力」の3つにあった考えられます。故にこの様な総合分布の分布データを示しているのです。

一族一門が束に成って掛かって初めて成し得るもので、「特別賜姓族」だけではたとえ「勅命」があったとしても、平安時代の「氏家制度」の柵の中ではなかなか簡単に成し得るものではありません。
そもそも「神明社」とは「生活の神」「物造りの神」「家内安全の神」「身の安全の神」とは云えど、別の面で前段で論じた「戦略的拠点の役目」も担っていた訳ですから、”これだけの広範囲の中に「神明社」を建立する”と云う事は他氏との関係から観て無理やりに建立する事は不可能です。
しかし、ただ一つ可能な方法と云うか戦術戦略と云うか解決する方法があったのです。
それは他氏との大小濃淡に関わらず「血縁関係の輪」を構築する事です。
それが氏家制度の社会の中では最も大事で効果的な手法である筈で、断りきれない柵に填まる筈です。それを演じたのが”進藤氏だった”と云うのです。
勿論、前段で論じた様に小田氏や小山氏や花房氏の様に秀郷流青木氏の努力はあるのですが、「武力的」、「経済的」、「政治的」な手法に因らない進藤氏の「人間関係の構築」によるものなのです。
秀郷一門の中で主要5氏の系譜・添書を調べても、進藤氏ほど上下左右に血縁関係を広げている一門は無いのです。
例え一門の取りまとめ役の「第2の宗家」と呼ばれる青木氏でも進藤氏程ではないのです。
前段で論じた様に自らの氏の跡目を犠牲にする位に分家・分派・支流の末端の処までを使って大小の血縁関係を結んでいるのです。
秀郷流青木氏は116氏に対して進藤氏は48氏で1/3なのですが、「進藤氏の血縁関係」は殆どが相手先に出す「養子縁組」なのです。
(この養子縁組枝葉を入れれば青木氏と遜色ない氏数になると観られます)
これは「進藤氏の影響力」を強めることには効果的でありますが、自らの本家の氏は逆に跡目が無くなり一門から跡目を入れて継承すると云う形であって、本家のこの方針に対して内紛が度々起こる程であったのです。
これは一門の中で「自らの役目」を認識しての事で、「添書」を観ると、実に詳しく記述されているのです。
「系譜書」と云うよりは「添書綴り」と云うものと成っていて、他の一門と比べ物にならない程でその役目の一端の認識具合が確認できます。
恐らく、それだけにこの「添書の形式」は、一門の中で「自らの氏の役目」の必要性を末裔に理解させる為に、又、”その務めを先祖がどの様に苦労して来たのか”を知らしめる為に添書に書き記す事に重点を置いていたと考えられます。
「自らの氏」は「自らの力」で護るのは普通ですが、血縁関係を推し進める為に進藤氏はこのぎりぎりの所にあり、「秀郷流青木氏」に護ってもらっていた事が添書から読み取れます。
その証拠に冠位等のものが他の一門に比べて少ないのです。役目に徹していた事が良く判ります。
その役目の血縁は主にどちらかと云えば「小党との血縁関係」が主流と成っているのです。
血縁を豪族や貴族や公家に結んでいれば更に自らの氏の発展に繋がっていた筈ですが「小党との血縁関係」に徹していたのです。(青木氏の様に「賜姓」と云う特別の立場にない進藤氏にとっては難しかったかも知れないだけに役目に徹したと観られます。)
陸奥域から関東域では「武蔵7党」、「丹治党」等、西は美濃域の「伊川津7党」等までの秀郷一門が定住する地域の「土豪の自衛集団」との関係保持が目立ちます。
(この事は中国域に於いても亀甲氏子集団等に観られる)
これは「中部域」とは異なる”「神明社の建立」に関わる「基盤づくり」”であり、特に北陸東北域の特徴を大きく反映した一門の戦略であったのです。
(「神明社建立」は「統治拡大」に伴う「民の人心の掌握戦術」や「戦略的拠点」と共に同じく「統治戦術の象徴」でもあった)
恐らく、他の地域と異なり「関東以北-北陸東北域」に掛けての「歴史的な経緯」から観て秀郷一門には戦略的にこれ以外には無かったと考えられます。余りにも惨く辛い醜い仕打ちを受けていたからです。
そして、この地域の「民の心」はこの穏やかに応じる特別賜姓族青木氏に向いて行ったのです。
故に血縁も成し得たのであってこの「血縁の輪」がまた「民の心」を神明に向けたのです。
進藤氏の成す「血縁の輪」と特別賜姓族の成す「血縁の輪」が連動して民の「心の輪」に波状しその象徴とする「神明社」の「生活の神」「物造りの神」に向いて行ったのです。
それだからこそ”神明=神様 神様=神明の言葉”が生まれたのです。
>”神明=神様 神様=神明の言葉”
これは「2つの血縁の輪」 がこの呼称のみに終わらず「民の心の有様」全てに波及して云った事を物語っているのです。
筆者は、”秀郷一門に朝廷が特別賜姓族を委ねた”その要因の一つには、一門が持つ各地のこの「血縁の輪」と「戦略的な背景」を見込んでの施政に対する「賜姓」であったと考えているのです。
返して云えば、実質12代も「鎮守府将軍」が続いたのですが、青木氏を始めとする「鎮守府将軍」の役目に対して朝廷は信頼評価していた事を物語ります。
その「最高の手段」が ”「賜姓青木氏の神明社建立」を担わせる事にあった”と観ていて、総合的な力を保持しているし真摯な姿勢で対応すると見込んでいたのです。
故に”全く賜姓青木氏と寸分違わない冠位、官位、官職の諸待遇の全てを同じとした”と観ています。
”全て同じ”と云う事は総簡単な事ではありません。そこには ”それだけに相当に秀郷の行動に対して信頼していた”と云う事に成ります。
桓武天皇が推し進めた神明社20の上に、さらに特別賜姓族が推し進めた神明社97-135が存在するのです。この信頼は「2つの心の輪」と結びついた神明社の数に依って評価されるのです。

秀郷第3子千国の秀郷流青木氏が入間の秀郷宗家以上の扱いを受け「家柄、身分、官位、冠位、官職」が全て上と成っているのです。”宗家以上”とは宗家の立場もあり一門で問題を起こす事もあり得ますが宗家もこれで納得したのです。
これだけ与えて河内源氏の様に振舞われては「朝廷の権威」にかかわる恐れがありますが万来の信頼で与えて行った事に成ります。
「11代の源氏」の「やり過ぎ」と対比して「賜姓青木氏の生き様」が「民の心」を捉え、そしてその特別賜姓族青木氏がそれに勝るとも劣らずの氏であった事が「民の心」を和ませ信頼して行った結果であると観られます。それを自らの身を削って補完して行った進藤氏が居たからこその成し得た功績であったと云えるのです。秀郷一門「青木族」の一つ「進藤氏」ならではの行為であります。
(我々青木族は末裔として同族の進藤氏に対して尊敬せねば成りません)
その意味で、神明社もこの様な非常な努力の上に成り立つものであり、初期の「国家鎮魂の八幡社の建立」を担う「皇族賜姓族」が元々無かったのは、「朝廷の勅命」に頼る以外には建立する方法が無かったのであって、それだけに神社建立は一筋縄ではいかない非常に難しい事であった筈です。
(源氏の様にカーとならずに沈着冷静に人の道を外さずにそれを成し得た事の結果なのです。)
まして、後の「弓矢の神の八幡社」とも成れば、武士階級に限られ歴史的な辛い経緯から観て少なくともこの地域に於いては全く不可能であった筈で、そもそもこの地域には余りにも「民の心」にすっきりと浸透して行った神明社があったのですから、「国家鎮魂の八幡社」さえをもそもそも建立する必要性は無かった事が云えます。
ここが重要で、奈良期から「神明社」がどんどん建立が増えて行きながらも、同じ奈良期からの「八幡社」の方は「再建などの勅命」が無ければ荒廃して行ったのです。
「神明社と八幡社の明暗」はこの北陸東北域に於いて顕著に出たのです。論じている7つの地域には「神明社と八幡社の明暗」はそれぞれ又違う明暗を示しているのです。
「神明社」と「八幡社」の大きな違いはここにあるのです。「2つの賜姓族青木氏」と「11代の源氏」との明暗と極めて類似しているのです。

「神明社」は「2つの青木氏」が「皇祖神-祖先神」のつながりの中で建立する、「八幡社」は豪族への勅命による建立と成っていたからなのです。その違いの大本は「守護神の存在意義」であって、「生活の神」「物造りの神」としての民に直結する意義であり、八幡社は国家的な「国家鎮魂」の意義であって民に直接的な意義ではなかった事にあります。なかなか勅命とは言え豪族にその建設を命じる事は何かの適宜な根拠か理由が無ければ難しい事に成ります。普通ではあれば朝廷自らの財力で建設する以外には無いところです。せいぜい出来たとしても修理が関の山ではないかと考えられますし、現実にはその様であったのです。
河内源氏や未勘氏族がこれに目をつけたと考えられ、その「存在意義」を歪曲して ”国家鎮魂は武士の弓矢により成し得るものだ”とする理屈を付けて、”八幡社を自らの氏の守護神”の様に扱ったとする傾向が見られるのです。
そうかと云って”自らの氏の守護神”と宣言豪語するには「皇族系の祖先神」の立場にある以上難しかったと考えられます。

それは「神明社」がその役目を同じ立場にいた「皇族系の祖先神」の「2つの青木氏」が担っていて、且つ「桓武天皇期の建立」(伊勢青木氏の末裔-光仁天皇の父施基皇子の皇孫)に観られる様に天皇自らが積極的に担っていたからです。

「八幡社の現実」
この事から逆に言えば「河内源氏」の大きく関わった地域のみに「弓矢の八幡社の建立」が可能であった事が云えます。
現に調べて観ると、因みに河内南隣の最も近い紀州では上記した様に「八幡社」は極めて少ないのです。「弓矢の八幡社」は限定された局部地域に於いてであり、室町期後期以降の後付のものである事が傾向として云えるのです。矢張り相当後ろめたい気を使っていた事を物語る事象です。
そもそも隣国である紀州であれば「河内源氏の荘園」が出来ている筈です。すぐ隣で都合が良い筈です。
しかし、出来ていなくて「藤原北家筋」(藤原脩行)の荘園」と「熊野大社の系列」が殆どです。
返して云えば「神明社建立」で成り立つ事であるからです。
前段で論じて来た様に、紀州はそもそも古来より「皇祖神の遍歴地域」でもあり、ここに「河内源氏」が食い入って「荘園や八幡社」を建立する事は朝廷に対しても歴史的にも皇族の立場上も難しかった事が考えられます。これ以上朝廷との軋轢を悪化させられなかった背景が観られます。
地形的にも紀伊半島と云う地理条件と温暖な環境からすると荘園としては最高の立地条件であります。
”喉から手が出るほどで”あった筈です。しかし、ここにはこの「弓矢の八幡社」は極めて少ないのです。
殆ど無いと云っても過言ではありません。
「熊野大社の社領」と云っても主体は南紀であり、北紀は平安期は藤原北家の所領で、現在でも特に「春日社」が多い地域なのです。「伊勢神宮の社領域は勿論の事と、この神宮を中心とする一定の円系内には一切の社物は禁止されていた事もあって、少なくとも北紀州の領域は「皇祖神遍歴地域」であった為にいくら「河内源氏」でも出来なかったと考えられます。
少なくとも平安時代には伊勢を中心として「南に向かっての太陽の昇る方向の地域」に対しては避ける配慮があって「不入不倫の権」の解釈拡大で護られていた事もあると考えられます。
故に太陽の昇る方位地域の「熊野詣で」の30年間の間に65回も累代天皇が詣でる地域であった南紀も然ることながら、”八幡神社”の呼称すら余り聴かない地域なのです。
事程然様に、紀州の如くにそもそも「勅命による国家鎮魂の八幡社」はいざ知らず「河内源氏の弓矢の八幡社」としての建立は極めて難しかった筈です。
それは、上記のように「古来からの環境」がある中でも紀州の様に難しいものであっただけでは無く、別には「神明社の氏上様」は「賜姓青木氏」でもあったからです。
つまり、「神明社=青木氏」と観られていた地域であって、且つ「3つの発祥源」であったからで、元々「神明の意味」を普通に解せば、「生活神」「物造神」「家内安全神」「身安全神」「国家鎮魂神」「武神」は「皇祖神」に繋がり、「自然神」に繋がり、「応仁神」に繋がり、「雄略神」に繋がり、あまつさえ「皇祖神」の「天照大神」の「伊勢神宮」の2神に繋がる「総合神」としての「祖先神の神明社」であるからです。
だから、この関西域の”「神明=青木」”と同じく、北陸東北域の ”「神様」と云えば「神明」、「神明」と云えば「神様」”の呼称が生まれ慣わしと成っていたのです。この「呼称の意味」が神明社を大きく物語ります。
何も「国家鎮魂・弓矢の八幡社」に殊更に信心する必要性は無かったのです。

「神明社は総神」
隣国国境の北紀州に於いてでさえも「国家鎮魂や弓矢の八幡社」は無かったのですから、北陸東北域に於いてでは、上記の通りの「環境と歴史の経緯」から観ても ”「神様」=「神明」”以外には無かった筈です。
まして、上記した様に、歴史的な民族の経緯に因って「産土神の思考原理」が奥深く潜んでいる「祖先神の神明社」です。
こう成るとこの地域の「祖先神」には、「皇祖神」は勿論の事として、「産土神」「八幡神」、強ち地域性から観ても「春日神」や「鎮守神」の「存在意義」も潜んでいる事を否定出来ないのですから、最早、「慣わし」の域を超えて当然の「総神」である事は否めません。
そもそも平安期から「氏家制度」は「社会の慣習」を「伝統」として重んじる社会構成である中では、突然に「勅命」による為政の「国家鎮魂の八幡社」も、あまつさえ「弓矢の八幡社」は相当な事で無いと新規建立は出来ない慣習です。
筆者は「氏家制度」が強く慣習として護られていた室町紀中期・下克上・戦国時代以前の社会の中では慣習的にも論理的にも有り得ない”と観ています。

この考え方からすると「弓矢の八幡社」は殆どは「未勘氏族」による「後付の行為」であって、それは「氏家制度」が緩んだ室町期後期からの事であり、徳川家康-家光の3代に渡る「宗教改革の一環」として「武士の社会」を安定化と固定化するために打ち出した「八幡社奨励令」(浄土宗督奨令)にて拡がったものと考えているのです。

この考え方と上記した「藤原一門の組織形態」が関東から北陸東北の神明社建立に大きく貢献しているのです。何も「八幡社」に拘る必要性はこの地域では、上記の通り「総神」である以上、最早、無かった事を意味します。
この様な背景の中で秀郷一門の行動が上記した「神明社-八幡社の関係式」を作り上げたのです。

「神明社の分布進路」
それが「以北方向」からと他方「関東方向」からの2つの方向から進み、宮城では常陸や武蔵から下野、上野へと北に伸張し、保護した諏訪族青木氏の立ち直った力を借りて仙台の直前までその勢力圏を伸張したのです。
つまり「神明社の分布進路」の経路は2つの方向から起こったのです。
その意味で、「北陸東北域の総合分布」の表は、”「秀郷流青木氏の活動」があったからこれだけの建立が出来た”と云うのではなく、何時の世も「特段の事」を成すには何がしかの「特段の要素」が働いて成し得るものですが、この「特異な経緯」を持つこの地域では、前段で特筆している「進藤氏の活動」があっての事であって、その行動とこの総合分布の結果と真に一致するのです。
青木氏と進藤氏の「活動分布」とこの「分布の比率」が一致するのです。
つまり、「秀郷流青木氏(特別賜姓族)」の真にこの「勢力分布」と「青木氏末裔分布」に「神明社建立分布数」が相対しその進路さえも相対しているのです。
とりも直さず、「越後を前線基地の拠点」として働き、「特別賜姓族」「第2の宗家」「秀郷流青木氏」の夫々の「3つの役目」が的確に進められていた事を物語ります。
戦略的に観て、これには「進藤氏の活躍」と「越後の前線基地」としての働きが大いに功を奏したと考えています。
そして、それは「桓武天皇期の20の神明社」と「義家事件の直後の時期」の条件が合致した結果(566)と考えられます。
この様な確固たる基盤に護られていたからこそ「関東域」にも勝るとも劣らず、「最大勢力圏8.5の中部域」にも逼迫する分布が成されたものであります。

「6の中国域」
・「6の中国域」は「7の四国域」と共に「たいら族」の圏域でもあった事や「出雲大社」の圏域でもあり、「源氏の勢力圏の外」にありますが、「荘園制」による「未勘氏族」の多い所で在った事から日本海側の北域の多くは「未勘氏族」に依って建立されたものと成ります。
この域は神明社のデータを観ても「神明社の完全な圏域外」でもあります。
しかし、極めて微妙な地域でもあり、「瀬戸内」に限っては日本最大の利権が潜む地域を有しているのです。
”「瀬戸内を制する者は国を制する」”と云われて来た地域でもあり、その影響を受けて日本海側の北域にも少なからず影響を与えた地域なのです。
古来より醜い政治性が渦巻く地域を有しているのです。その中に「神明社と八幡社」が存在しているのですから無影響である筈はありません。
関東域と北陸東北域の状況と大きく異なる処があるのです。その意味で対比して論じる必要が出てきます。

>6の中国域は「八幡社24+神明社9」=33

>総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
>0.4倍    0.4     0.5

>6 中国域 八幡社 5県-24-7.9%(全体比)-平均5/県
>  中国域 神明社 5県- 9-1.6%(全体比)-平均2/県

>八幡社 山口9 広島5 岡山4 島根4 鳥取2
>神明社 山口1 広島6 岡山1 島根1 鳥取0 

「県別分布の現実」
この域の青木氏は前段で論じた様に、平安初期から「讃岐藤氏」の「秀郷流青木氏」の絶大な圏域で、「讃岐」は元より「瀬戸内」、「土佐の一部」、「安芸や美作」には土地の土豪との間に血縁族を作り、「出雲大社の氏子集団」の「亀甲衆団」との血縁も進め、その勢力を宍道湖のところまで伸張して、其処には「2足の草鞋策」を足懸りに「讃岐藤氏の勢力圏」を構築したのです。
その為に県別分布では広島域が神明社が最も多い事でも証明できます。
ただ「亀甲衆団」との血縁族で広げた圏域は、「神明社」を一つ作る勢力が精一杯のものであったと観られ、広島は八幡社でも神明社も同じ勢力ですが、ここの「神明社」は「讃岐青木氏」が「未勘氏族の八幡社」の中に食い込んだ事で、室町末期の中国域の豪族から「八幡社勢力」と成ったと観られます。

「八幡社」の山口9、つまり「長州の八幡社」は納得出来ます。
実はこの中国域には、因みに「源氏の未勘氏族」は3氏があり、この3氏とも清和源氏頼信系で小笠原氏(山口9)と安芸武田氏(広島5-安芸4)と山名氏(島根4)ですが、この「3氏の圏域範囲」のみに「八幡社」の分布と成っています。
島根と鳥取の神明社は、此処には秀郷一門に追い出された土豪足利氏の本家一族とこの一族と血縁した「足利氏系青木氏」の賜姓族の一部末裔が秀郷一門に追い遣られて八頭と米子に移動定住し、その後、宍道湖東まで定住域を広げていますが、この末裔が神明社を1社程度建立する勢力圏を構築していて、その「勢力分布」と「末裔分布」であった事を示しています。
神明社の広島6は「讃岐青木氏の血縁族」を広げての「勢力分布」であり「末裔分布」で在った事になります
この地域は「神明社」の「生活の神」「物造りの神」の守護神であり、「八幡社」は単純に「弓矢の神」の「八幡社」であったのです。
この中国域は奈良期から「阿多倍が引き連れてきた職能集団の土地柄」で室町末期までその最大勢力を誇り、中国域全土を制覇した「陶部」の「陶氏族の土地柄」です。
依って、元より阿多倍一門の西の九州は大蔵氏、北の北陸東北には内蔵氏、中部北には阿倍氏、この中国域には「たいら族」の圏域と成っていて、他の勢力が食い込む事はなかなか困難な土地柄で、そもそも、”蟻の隙間も無い”くらいに「神明社や八幡社」が食い汲む事の事態が珍しい事なのです。

このデータは、其処に「讃岐藤氏」がうまく「血縁による戦略的な方法」で食い込んだ事の意味や、問題と成る「清和源氏頼信系義家」の「荘園制拡大で未勘氏族を広めた事」の勢力のパラメータの数字としても吟味できるものなのです。
まして、この「中国域」には古来より「出雲大社」と「厳島神社」の「2つの神域」でもあります。
其処にこれだけの「神明社9と八幡社24」の33は「関西域77」に匹敵する位の意味合いを持っています。
それだけに中部域の「神明化八幡社」や「北陸東北域」の「八幡化神明社」の様な「存在意義の変異」は起こり得なかったのです。
むしろ「弓矢の八幡社」をより鮮明にしてその背景に対峙したと考えられます。
「神明社の存在意義」も元より「陶氏」に観られる様に「職能集団の地場」であった事から「生活の神」「物造りの神」はそのままに新鮮に受け入れられたのです。それは真に「陶部の陶氏」が物語ります。
この中国域は「瀬戸内」を四国域と挟んでいる限りには分離して論じる事には危険があり、次ぎに合わせて「瀬戸内」を中心に論じる事にします。
それだけに「瀬戸内」は両域に取って大きな意味を持っていて「接着剤の役割」または両域の特徴の重複する部分なのです。

「7の四国域」
・先ず「7の四国域」は「讃岐藤氏の讃岐青木氏」と「阿波の阿波青木氏」で何れも秀郷一門の「秀郷流青木氏」の土地柄です。ここに特別賜姓族の青木氏が建立した「神明社」より「2倍の八幡社」が建立されているのですが、この「神明社」が建立されている背景は、この「讃岐青木氏」の香川1と愛媛2と高知3の6神明社で、この建立地の範囲が「下がり藤に雁金紋」の「讃岐青木氏」の丁度、その勢力圏でもあります。
徳島3は「剣片喰族」の「阿波青木氏の勢力圏」です。讃岐と阿波の6対3の比率に相似する末裔分布でもあり、この「2つの青木氏」は秀郷一門の中でも主要な青木氏で、「主要8家紋」の一つでもあり、かなりの「第2の宗家」としての「発言力」を占めていた事が判ります。
特に「讃岐青木氏」は家紋に示す様に綜紋である「下がり藤紋に副紋付き」の家柄で「第2の宗家」の本家筋に相当する力を持っていたのです。
平安期の関東の「平将門の乱」と呼応して起こった「瀬戸内」の「海賊騒動」の「藤原純友の乱」(多説あり)に観られる様に、「清和源氏の祖の経基王」に「海賊の嫌疑」を掛けられたほどに、「瀬戸内の制圧権と利権」をめぐる「朝廷との軋轢」はすさまじいものがあり、その中での「神明社建立」とそれに伴なうその「讃岐藤氏」の「勢力伸張」は警戒されていたのです。
藤原氏北家の中では「田舎の藤原氏」と蔑まれ、しかしその田舎者が「瀬戸内」と云う地域で「利権と権力」を拡大させていたのです。その中で瀬戸内の「海の族」を纏め上げて行ったのです。


>八幡社 香川6 徳島3 愛媛9 高知3
>神明社 香川1 徳島3 愛媛2 高知3
(下記重複)

この高知を除いた香川と徳島と愛媛の計「神明社6」は「関西域の25」に対してその「立場と勢力」から観て小さいと考えられます。しかし、「讃岐青木氏1氏」の実力から観ると、「中国域9の神明社」も合わせると「15の神明社」と成りますので、関西域は3氏として観ると25/3対15/1と成り、「讃岐青木氏」は他の秀郷流青木氏と比べて約「2倍の力」を持ち得ていた事が「神明社」を1つのパラメータとして観ると良く判ります。「瀬戸内の富」を背景に「田舎者藤氏」は「入間の宗家」に匹敵するくらいに財力と利権と勢力を拡大していたのです。「妬み」が生まれるのはこの世の常です。警戒をしなくてはなりません。
この事から観ると、「武田氏滅亡」により「讃岐青木氏」を頼って逃亡して来た土佐に住み着いた「甲斐賜姓族」の「武田氏系青木氏」を匿う能力が十分にあったとされます。
依ってこの高知3の神明社はこの「讃岐青木氏」の援護の下に建立された事が判ります。
恐らくは、他の地域の逃亡先の「神明社自力の建立能力」は「神明社1程度」が相当と成っていますので、高知3の内の1は青木村を形成している事も考え合わせると「土佐の青木氏」が建立したと成ります。

この様にこの四国地域の「神明社の建立」は良く判るし、室町期中期頃までの守護神の社を建立出来る豪族となると、藤原氏を除くとこの四国域では14の豪族と成ります。
この14の豪族の内、藤原氏の血縁族は家紋分析から6割を占めます。
しかし、この中で「八幡社」を建立する「清和源氏頼信系の豪族」はただ1氏で「阿波の三好氏」だけであります。
徳島3はこの三好氏に因って建立されたと考えられますが、「八幡社」では愛媛9の伊予とすると4氏の豪族、香川6の讃岐とすると3氏の豪族、高知3の土佐は6氏の豪族と成ります。
これは”平安末期に「清和源氏頼信系一門」の影響(主に荘園制)を受けた豪族は少ない”と云える事に成りますし、或いは海を越える地理的な要素を勘案すると、「讃岐藤氏」の「瀬戸内」を跨ぎ中国域も勢力圏に納める大圏域の影響等から考察すると、この域では「河内源氏の荘園名義貸し」の難しさが大きく働いていたのでは無いかと考えられます。

「八幡社の疑問」
そうすると、では”誰が八幡社を建立したのか(イ)”、又”「弓矢の神」を守護神にしたのか(ロ)”と云う疑問が出て来ます。現実には吟味したデータでは21社が室町期中期までには建立されている筈です。
この「建立する能力」を持った豪族は藤原氏宗家と讃岐と阿波の秀郷流青木氏16氏とすると、残るは「2つの秀郷流青木氏」と「小さい未勘氏族の集合体」以外には無い事に成ります。
幾らこの讃岐と阿波の「2つの秀郷流青木氏」が建立したとしても「春日社」、「神明社」、「八幡社」の ”「3つの守護神」を建立する事は可能なのかどうか”(ハ)です。

そこでこの3つの疑問(イ)(ロ)(ハ)に付いて検証する必要があります。
先ず、下記の通り「八幡社と神明社」の合計31と「春日社」を合わせても、下記の関西域との比の総合倍率0.4をパラメータとして使ったとして、「春日社」は30社と成りますから併せて61社と成ります。
これに「中国域の建立分33」と「春日社」の同じく総合倍率0.4ですのでこれを積算したとして66社となります。
これを合わせて全127社と成ります。
上記の「2倍の勢力」(15)を持つ「讃岐青木氏」と、徳島3の「阿波青木氏」の勢力を同倍率からほぼ0.3と観て、2.3倍率と成ります。
これを合わせたとしての127社の建立は、他の域のデータと比較すると、「関東域の115社」と「北陸東北域の135社」の丁度その中間の勢力を保持していれば可能と云う判断に成ります。
そうすると下記の表の通り「関東域の勢力」2.7と「北陸東北域の勢力」1.8と成ります。

>           総合倍率  神明社倍率 八幡社倍率
>A 関東域      2.7     4.6     1.8
>B 北陸東北域   1.8     3.9     0.7
>  (A/B)     (1.5)   (1.2)    (2.5)
>C 四国域      0.4     0.4     0.4
>D 中国・四国域  [2.3]   (0.8)    (0.9)   

以上の表より次ぎの関係式が成立します。

>「関東域の勢力」(2.7)>「四国域の勢力」(2.3)>北陸東北域(1.8)

丁度、「関東域の勢力」と「北陸東北域」との「中間の勢力」を保持している事が云えます。
中国・四国のこの総合調整倍率[2.3の勢力]と云う事のみでは、”建立する能力はあるか”と云う事に成ります。
そこで、個別の「神明社倍率」と「八幡社倍率」の(A/B)の比1.5から観て「神明社倍率」もほぼ同比率1.2である為に1.5≒1.2と成り「建立可能」と成ります。

次ぎに「八幡社倍率」は2.5/1.5ですから確かにハンディーがある事は認められますが、この「中国域の八幡社建立」は、山名氏や武田氏や小笠原氏の大豪族3氏の清和源氏頼信系の豪族と、その「未勘氏族」に依って建立されているので、このハンディーは抹消されますので問題はなく成ります。
むしろこのハンディー(2.5/1.5)は「余力」1.0と観る事が出来ます。
そうすると次ぎの要件がこの地域にありますのでこれを吟味する必要が出てきます。

>7の四国域は「八幡社21+神明社10」=31

>「関西域基準比」
>四国域                    (中国域)
>総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率  (総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率)
>0.4倍    0.4     0.4      (0.4倍    0.4     0.4)

>「全国比」
>7 四国域 八幡社 4県-21-5.9%(全体比)-平均5/県
>  四国域 神明社 4県-10-1.7%(全体比)-平均3/県

>「県域数」
>八幡社 香川6 徳島3 愛媛9 高知3
>神明社 香川1 徳島3 愛媛2 高知3

この検証の問題には次ぎの「5つの要素」が働きます。
A「地理性」
B「経済性」
C「歴史性」
D「圏域の広さ」
E「武力」
以上の「5つの要素」が影響します。

「5つの要素」
この「5つの要素」は次ぎの様に成ります。
・Dの「圏域の広さ」は中国域5+四国域4で9県であり、ほぼ一致しますので問題は無いと観られます。
・Cの「歴史性」は比較は難しいですが、平安末期は「関東の動乱」と「瀬戸内四国の動乱」は一致しますし、その後も「下克上と戦国戦乱」は同じであったとほぼ考えられます。
・Eの「武力」は「神明社」と「八幡社」を他氏から侵食を防ぐには必要な要素ですが、平安中期からのこの地域での「長期間の経緯」を背景にすれば、この「2氏の秀郷流青木氏一門の勢力」を持ってすれば可能と考えられます。(下記 藤原の純友の乱以外は現実に護られて来た。)
・Bの「経済性」は日本海側まで出た瀬戸内全体の廻船業の権勢を誇っていますので「2足の草鞋策」から全く問題は無い事に成ります。

そこで筆者はこの「5つの要素」のキーポイントは最後に残る大きく「地理性」に関わっていると観ているのです。
この「地域の特徴」は”「地理性」そのものにある事だ”と考えていて、それは”「瀬戸内」”と云う要素だと云う事なのです。
この”瀬戸内”は10国の沿岸部を持ち、これに依って「姓氏」の始祖の「海部氏」等に代表されるように「海鮮業」が盛んに成り、当然にこれに伴い「造船業」や「廻船業」も起こります。
ましてこの海は古来より中国域を制していた陶部の「陶氏」に代表される様に「物造り」の盛んな地域でもあったのです。「総合産業域」といっても過言ではない「瀬戸内」圏で、その圏域や勢力が廃り侵食される事は100%無い事が判りますし、現在でも健在です。
現実に昭和20年までこの圏域は「総合経済圏」で保たれていたのです。
因って、この海域を制することは「莫大な経済的な富」(a)と「海利権などの威力」(b)を獲得します。
この「2つの富」(a)(b)を以って勢力圏を高めれば上記する関係式の[2.3]の「勢力の基盤」の構築は可能と成ります。
この「経済的な基盤」(a)(b)の裏打ちが可能と成る事に依って「八幡社の建立能力」は出て来ます。
それは「武力」に依って得られる「税的な経済的基盤」だけではなく、自ら営む「商業」、つまり「2足の草鞋策」に依っても充分に成り立つものです。
この「讃岐青木氏」と「阿波の青木氏」はこの”「瀬戸内の海域の廻船業と造船業」”を営み、取り分け「讃岐青木氏」はこの力を以って安芸、美作を越え石見、出雲の北の海まで伸張しているのです。
それは「商い」のみならず「血縁関係」までを構築して末裔を定住させると云う実に「高度な戦略的手法」に観ても「三相の理」を得る「完璧な戦略」を駆使しているのです。
この結果、記録によると昭和20年頃までこの廻船業・造船業を営んでいるのです。
又、「阿波青木氏」も史資料によると、その末裔も淡路までの範囲で「廻船業・造船業」を営み「紀伊水道域」を征し手広く北の海まで出かけている事の資料が多く遺されています。
この2氏はこの様に「2足の草鞋策」を手広く営んでいたのです。
これらの検証から(イ)(ロ)(ハ)の疑問は説明できます。

「瀬戸内」と「2つの鍵」
「讃岐と阿波の2氏の青木氏」が「瀬戸内」と「紀伊水道」を制していた事は「政治的・戦略的」に観て「清和源氏頼信系の八幡社」の勢力伸張は難しかった事が判ります。
筆者は前段で論じた清和源氏の祖の「経基王の讒訴」「藤原純友の乱」の「海賊嫌疑」はこの「勢力圏の拡大」の「嫉み」に依るものと観られ、裏を返せば ”この地域の利権の獲得を狙っていた”と観ているのです。それは清和源氏の「勢力拡大の基礎力」にしたいとする狙いであったと考えられます。

実は「瀬戸内」のこの「海賊(海族)の正体」と「勢力伸張の難しさ」とを顕著に現れている事件があります。
それはこの「瀬戸内」で起った「源平の2つの戦い」の「義経の行動背景」にあるのです。
ここにはこの「瀬戸内」と云うものを説明する「2つの鍵」が隠されているのです。
その「2つの鍵」とは一つ目は「海賊・海賊」と云うものであり、二つ目は「財力・利権」なのです。
それは関西域の海域圏の東側の沿岸沿いにこの「摂津水軍」と「紀伊水軍」と「熊野水軍」と「伊勢水軍」と「駿河水軍」が制していて、これに対して義経は「源氏への合力」の為に半年を掛けて懸命に数度の談合を試み、遂にはその合力を獲得する事が出来た歴史史実があるのです。
この「談合」にはその「合力の目的」として「2つの鍵」が義経の腹中にあったのです。
その「2つの鍵」は「平家側」には存在し「源氏側」には無かったものなのです。
この「2つの鍵」に必要とするものは、つまり「海族」を意味する「水軍」なのです。

(資料に因れば、「たいら族」の忠盛は密かにこの水軍を使って禁令の「宋貿易」を始めていて莫大な利益を獲得していて清盛に成って本格的に貿易を行った。朝廷からも疑われていて藤原氏もこの事は讃岐藤氏からの情報で承知していた。大蔵氏も承知していた。)

先ずは勝利の為には「水軍の獲得」であり、その水軍を獲得した暁には勝利し、そして遂には当面の目的として2つ目の「財力・利権」を平家から奪取し、その「財力・利権」に依って最終目的として「清和源氏の繁栄」と「生き残り」であったのです。
それには先ずは「平家と同じ戦力」に到達させる事であり、「同じ戦力」に到達させた上で相手の弱点を突く戦術を構築して戦いの前哨戦を制する事であって、その後は同等の戦力で常套作戦で挑む戦略を描いていたのです。
その元と成るのは「水軍」であったのです。その為には平家と同じ「兵能水軍」ではなく弱点を突ける水軍でなくては成りません。それを持っているのが上記の「5つの水軍」であり、弱点を突ける共通する武力を保持していたのです。
この「5つの水軍」の中でも「紀伊水軍」はその能力を最大に持った水軍であったのです。
中でも、瀬戸内に明るい「摂津水軍」(摂津を中心とする大阪湾海域の水軍)と最大の能力を持った「紀伊水軍」(大阪湾から淡路から紀伊水道海域)に対しては「合力嘆願」には苦労を重ね、記録によると時には義経が襲われると云う事の中から得られた強烈で強力なものでした。
この「弱点を突ける能力」とは「海族」の中に潜む「海賊の戦闘術」であったのです。
この「5つの水軍」にはそれぞれの地域の海域の違いにより大小があるにしてもこの「海賊の戦闘術」を必要性として保有していたのです。
平家水軍は職能集団の海の「兵能集団」でこの海賊性はもとより保有していないのです。「陸の兵」に対して高度で常套な操船術を保有した「海の兵」なのです。

「義経の行動と瀬戸内」
平安時代は「武」に従事する者として、「源氏」の様に「武家」を組織して兵とする集団と、「平家」の戦力の様に組織化されない「兵能」の兵とする集団との2つが混在していたのです。
「源平の戦い」は別の意味でこの2つの異なる覇権をめぐる「兵の集団の戦い」でもあったのです。
義経はこの「2つの違いの弱点」を突く発想であったのです。
この事に付いてはその「2つの水軍」の末裔の「私史資料」が発見され、共通する事としてその中に詳細に記録されているのです。
その2つの資料に共通する事は「義経の人柄、将の力量」とこの「源平の海上戦」の「義経勝利の秘訣」であって、そのつまりはその「戦い方」にあるとして、それは「水軍の野戦的戦法」(海族的戦法)と記録されているのです。
この「瀬戸内」と「紀伊」の「2つの水軍」は不慣れな「平家水軍の通常戦の常套的戦法」(後の村上水軍)様な戦い方を嫌い ”海族的な「野戦的戦法」なら合力する”との双方の考え方の合意が得られたからなのです。この様に記録されているのです。
「義経の人柄、将の力量」を見抜くに時間を掛けたとする「末裔の忘備禄」が発見されたのです。

「八幡社・神明社」を論じる時にこの「瀬戸内」に於いては、この「義経の行動」が「瀬戸内」を語る上で欠かす事が出来ない事なのです。
上記した様に”「瀬戸内を制する者は国を制する」”の事に大いに関係してくるのです。
そして、その「義経の戦略」が平家を倒し「源氏体制」を確立する為には「絶対条件の瀬戸内」であったのです。
そして「義経」はその「2つの鍵」を念頭に綿密にその様に行動したのです。そして”その判断(2つの鍵)に賛同したからこそ合力した”と記されているのです。
紀伊水軍は”この「2つの鍵」が理解されていないと合力しても敗退し却って自らも滅ぼす”と考えていた事に成ります。
そして彼等の水軍は”それを理解できているか”の”「将としての力量」があるか”の「瀬踏み」をした事に成ります。
そしてその「瀬踏み」では、実に「用意周到な性格」で「勇猛果敢」で実に「沈着冷静」の「源氏の将」と記録されているのです。資料から観て筆者の印象も同じです。
そして、戦いでは、特に「紀伊水軍」は真に「海族的戦法」で奈良期からの阿多倍の「職能集団の平家水軍」を戦いの勝負が決まる前哨戦で打ち破ったのです。
そして、この「紀伊水軍」は海戦終了後、恩賞を受け取らず直ちに紀州に戻った事が記録されているのです。
他の合力した「3つの水軍」は一つは前段の青木氏の「伊勢シンジケート」の水軍、後の2つは「熊野源氏」と「駿河源氏」方の水軍です。
この「2水軍の戦力」と「5つのライン上の5水軍」が整えられていれば「神明社と八幡社」の勢力圏を揺るぎ無いものにしていた事が判ります。

(参考 紀伊水軍の「海賊的野戦戦法」と3つの水軍の「常套戦法」の「2段構え戦法」であった事が記録されていて、この戦法に「海賊的な紀伊水軍」がやっと賛成し「義経個人」を信頼して個人に合力したと記録されている)

日本全国何処の海域でも上記した「5つの水軍」の様な「海族」が「陸の土豪」と同じ様に存在します。
これ等が「海の支配権」を持ち「海域」の「勢力バランス」を保っているのです。全く陸と同じなのです。
「海・陸」何れにしても、この「海域支配権」「領地の支配権」を無視し、或いは軽視する場合は攻撃されるは当たり前の事で、これを「海賊」とすれば、陸の土豪・豪族も「山賊」と成ります。世に俗に云う「一所懸命」なのです。
もし「海賊」がいるとすればそれはこれ等の「海族」が掃討し自らの海域を護るのです。これは海と陸は同じであって、それに依って船舶の「航行の安全」がより保てる海域となるのです。
そして、何時か多少の荒くれがあるとしても海賊の類は結局は掃討されて、秩序としてこれ等の「海族」の支配下に置かれるのです。
現在の契約社会から観れば「海賊」であっても、当時の時代考証からはこれ等は当然の事であって、「一定の支配権」の下にその「安全の契約」を「暗黙の社会のルール」の中で保てばむしろ逆に安全な手法となるのです。これは陸も同じです。
前段でも論じてきた「大規模な商い」を行おうとすれば、この「安全の契約」が必要に成り輸送などの事が行えるのです。多くは「自らの経済力」にてシンジケートを構築すればよい事に成ります。
これも一つの「安全の契約」で現在でも同じ「安全の契約」は必要であるのと同じです。

「安全の契約」と「水軍・海族」
現在と過去の「安全の契約」の違いは直接的に保障されるのか、はたまた間接的に保障されるのかの違いであります。
過去の場合はこれ等の海の「海族」と陸の「山族」を一つの組織の中に取り込み、各地の勢力の届く範囲でそれをシンジケートとして構築する直接的な「安全の契約」の保障制度を採用していたのです。
要するに現在の様に「律令制度」(契約社会)が未だ完備されていない中では、「氏家制度」の中の「社会の秩序」を保つ為の当然の「安全の契約の保障制度」であって、この「シンジケート」にして纏め上げる「慣習システム」は一つの「社会の暗黙の慣習制度」なのです。
これを現在感覚の契約社会感覚で「海賊や山賊」と見てしまえばそれはそれまでの事であり、少なくとも明治以前の社会は「シンジケート」はある意味で「社会の暗黙了解」のある「治安維持機構」であり、「警察機構」でもあり、「職業更正機構」でもありして、本質的に「善悪の考え方の量と質」が違うのです
要するに「純友」は海の族を「海族と海賊」を一つにまとめ「水軍」として統括し、これを武力に頼らず義経の様に「政治的」に行っただけの行為であったのです。
むしろ、当事の世情と時代背景から考えると、武力による解決は武力の連鎖が起こり、この結果の「恨み辛みの怨念」が渦巻く社会世界が生まれます。
しかし、純友の様にして要するに「海のシンジケート」を構築する事は「恨み辛みの怨念」は霧消します。
彼等にも家族先祖伝統の普通の社会生活があるのですから、むしろ、「理想的とするべき処置」でもあったのです。
その行為がより伊予・讃岐の土豪の藤原一族一門の「安全の契約の保障制度」になっていたのです。
当然にこの「安全の契約」によってそこには「莫大な利権と勢力の圏域」が生まれるは何時の世も同じです。
上記した「2つの鍵」を紐解く「義経の行動」を述べましたが、実は下記に述べる様にこの事には大きな意味を持っていたのです。

注釈 「水軍と海族の論処」
これには多くの通説があって大別すると、土豪が海賊に味方して首領に成ったとする説と、筆者が採用する上記の「シンジケート説」の2つに成ります。青木氏から観たシンジケート説です。
遺された資料からよく調べると、「海賊」と云っても「1000艘以上の大船団」を持ち、当事としては全国トップの勢力を誇り、「複数の自港」(日振島等)を持ち、その船団の組織化された首領格には正式な「藤原氏」が多く存在し、船団以外にも「地上戦」も行い強く各沿岸部の地域を奪取していて、北九州から紀州域までの海域と陸地も豊後や伊予や讃岐や安芸や紀伊の「地域を領有する豪族」と成り、「純友神社」や「純友城」等も有する「海と陸の両方を有する豪族」で、「叙位従5位下の下級貴族」なのです。
更には”周囲の沿岸部の民からも慕われていた”とする「神社の記録」複数が残されていて、その記録を信じるとして、「純友」が納めている間は「穏やか」であったとしているのです。
上記の「恨み辛みの怨念」は”何処吹く風”でむしろ”民から慕われていた”のです。
これはどう観ても「海賊」ではありません。上記した様にまさしくこの地域の荒くれをまとめて組織化し成し遂げた「海族」なのです。
まして「自らの神社」(大きな意味を持っている)を持つ者など陸にも少ないのです。これは下記に論じますが本論の本質を意味しているのです。
この純友の「神社・城」はただの「神社・城」の意味だけではなく、「神明社・八幡社」で論じている様に、これには「歴史的な生き様」が遺されているのです。絶対に見逃してはならない要素なのです。
つまり、そこには「神明社の青木氏」と同じく ”それは組織から崇拝されていた事”を色濃く示す事にも成ります。
その「組織の局部」を捉えれば荒くれである以上は「海賊的な要素」も見え隠れするでしょうが、それを捕らえればそれはその様に見えるかも知れません。しかし、「神社・城の存在」は「神明社」で論じている様に”「何がしかのその儀」”を有している事に成る訳ですから、それを基下に組織化している限りは「陸の豪族」とは内容は異なりません。
その「何がしかの儀の如何」と「局部の荒くれ」であるかどうかの違いだけです。「局部の荒くれ」であるからと云って”「海賊だ」”とするにはそれをその様に決め付けた側の ”何か「裏の意」”が感じられます。
その”「裏の意」とは一体何なのか”です。
そもそも「海賊説」とそれを発端とする「出自説(複数)」等を良く調べると、兎も角も、先ずは当時の社会の「時代考証」が不十分なのです。これらの「海賊説」は古くは無く「跡付け」と観られる近代の説であります。(通説にはこの類が実に多い)
これをもし「海賊説」とすると上記した駿河、伊勢、熊野、紀伊、大島、伊豆等の「主要な水軍」も同じ要素を大なり小なりに持っているのですから、この論理で行けば全て「海賊」に成ってしまいますし、その大きさもトップで組織化されているのですから、日本の古来水軍は全て「海賊」に成ります。
この事を知り得ていて「海賊説」とした「朝廷の記録」には、「政治の世界での政争」に使われる「醜い常套手段」の「大きな裏の意」がある事を匂わせています。
何時の世も盗人、盗賊、山賊、海賊の類はありますが、上記した様にその内容と時代の社会構造の慣習はそもそも違うのです。
古来より”勝てば官軍 負ければ賊軍”の日本人の「悪い慣習」がこの様な通説を生み出して、史実を歪め、「正しさ」を記録として遺さない「日本人の性癖」には「歴史の掘り起こし」に於いても充分注意しなくては成らない事なのです。何等現在でも変わらない性癖です。

本論でも何度かこの事に付いて論じていますが、その意味で「公的な資料」に類するものには「判断の参考」とする場合は、ここが雑学フィルターを通して観て特に「注意する点」なのです。
又、「本論の神明社」に関わるとして論じている「八幡社」の場合も「未勘氏族の資料」には”身内を良くする背景や経緯を作り出し、はたまた搾取偏纂しているところを雑学を駆使して見抜き矛盾点を掘り出す事が大切なのです。
「青木氏の歴史」の「生き様の掘り起こし」にはこの作業の繰り返しに時間がかかるのです。
特に筆者は先祖たちの性癖を受け継いでいるのか”勝てば官軍 負ければ賊軍”が肌が受け付けれないと云うか嫌悪を感じるのです。”判官びいき”とまでは云わなくてもその元の本質の姿を知りたくなるのです。

「”瀬戸内を制する者は国を制する”」
古来から言い伝えられていたこの言葉には瀬戸内の地域の「神明社と八幡社」を論じる時には大きな意味を持っているのです。全てはこの言葉に事象は左右されるのです。
故に、「純友海賊説」に関わるものも例外ではないのです。
恐らくは「源経基の讒訴」は、藤原氏等が制するこの”「5つのライン上の絶大な圏域」を清和源氏側に獲得しようと画策したものであった”と観ているのです。
そもそも古来に於いて”瀬戸内を制する者は国を制する”の言葉がある様に、この「地域の利権と安定の確保」は無視できる話ではない筈で、その状況を「為政者」や「利権者」の側は上記した様に本音では純友に変えられては困る訳です。
ましてや民に人気があり人が出来ない事を成し遂げたと成ると、”人は嫉妬の念にとらわれる”は「仏説」の通りであります。
この世に於いて例外なくこの情理を脱した者は居ない筈です。
まして「為政者と利権者」とも成ると「自己顕示欲」の強い者でありますから、、”人は嫉妬の念にとらわれる”は必定であります。それが朝廷とも成ればこれ等の者の集合場所でもあります。要するに巣窟であります。
そこで、何時の世も海賊や山賊の類の存在は有るのがこの世の無常の定めであり、それを声高に剥きに成って事に当たるは「為政の範疇」ではない訳で殊更に取り掛かる政治問題では無い筈です。
むしろ”瀬戸内を制する者は国を制する”の言葉の通り「海域の利権」が大きく絡んでいれば、「海賊」を懐柔して纏め上げられれば、「利権者」と「為政者側」取り分け「為政者」にとって見れば困ることに成ります。
それは純友側にこの”瀬戸内を制する者は国を制する”の権利を与えてしまう事に成ります。
まして「民を味方」にして「何がしかの儀」を重んじ「民の暮らしを安定にし安寧にする守護神」を持っている以上はこの権利を確実に保障する事を意味します。本音では放置できません。
表向きでは「海賊の騒動」は困るが、本音のところで「海賊」を懐柔されて「利権」が「純友」の方に全て移れば、「為政者」にとっては ”この世の無常の定め”どころの話では無くなり死活問題であり、更に実に困るのです。
これがそもそも「大儀と本音」の政治です。口では態度では”海賊が騒ぐのは困る”と云いながらも、本音は”利権がなくなるのはもっと困る”のです。この2つは最早、天秤にかける問題ではないものです。
そこで、困る側の為政者側は、国、即ち天皇や朝廷から観れば「大儀」を自分の方に引き寄せるには ”純友を「海賊」の仲間とする”事に決め付ける事が必要に成り、「表向きの海賊問題」を解決して、且つ、「邪魔な純友」を抹殺して、「地域の利権と安定」を確保するには「海賊」と決め付ける方が都合が良い訳です。むしろそれしかなかった筈です。
”そう成るとどうすれば良いのか”と成りますが、簡単な事です。
上記した”勝てば官軍 負ければ賊軍”を行える立場に為政者が特権として持っている訳ですから全く問題は無い訳です。そしてそれを世に知らしめる為には、まずそれとして「勅命」や「宣旨」や「院宣」を発し、且つ、為政者側には資料や証拠類や風説をそれに合せた様に搾取し偏纂して遺す事に務めるのが偏纂役の務めでそれを密かに命じれば事は済みます。
それにはその事の内容を公文書外にも関係する役所や神社や寺等に遺させる手立てを講じる事だけです。「公文書の類」に密かに書けばそれで充分なのです。利権者もこれに習うでしょう。これで大儀は利権者や為政者に移ることは必定です。
そしてそれが史実の形として後勘に触れてそれを信じ史実が歪み、公文書を正として通説が生まれるのです。
(しかし、事の真偽を歪めているのですから矛盾と疑問が必ず生まれるのです。これを正すのが「後勘の役目」です。「青木氏の歴史」はこの事に努めている。)
これは上記した様に「未勘氏族問題」でも同じで、「自らの側」の良い様に後勘に遺す事は当たり前の事なのです。
問題はそれを雑学で「見抜く側の読解力」に関わる能力なのです。現代でもこの世に於いてはこの事は同じです。
前段で論じた「陸奥の安部氏の奴婢の問題」でも安部氏等には非は無く蝦夷・征夷として処理されたのもこの「純友問題」と全く同じです。その意味で「河内源氏」の”義家に対する白河院の策謀説”も殆ど同じです。”安部氏に無常な嫌疑を掛けた上で義家に陸奥での利権を潰させておいて今度はその義家を潰す”これが「為政側の常套作戦」なのです。(前段でも論じた様に義家にも禁令を無視した無理があった。)

「為政者側の矛盾」
この”瀬戸内を制する者は国を制する”の「2つの圏域」はデータでも上記した様に「河内源氏」のみならず「清和源氏の圏域外」(荘園本領・未勘氏族)にあったのです。
経基が、平安期に伊予まで及んだ讃岐藤氏の藤原氏を讒訴に落としいれてそれを獲得しようとした画策であったのです。
これは「3つ巴、否4つ巴の事件」なのです。讃岐藤氏・清和源氏・大蔵氏・朝廷天皇の利権争いそのものの事件であったのです。結局、下記に論じます様に純友が旨く”勝てば官軍 負ければ賊軍”の策に掛けられたのです。
その証拠に詳細に調べれば上記した事も含めて矛盾が多すぎるのです。上記した様に「矛盾が多い事」が何よりの証拠なのです。
因みに、先ずこの「瀬戸内の海族問題」(純友・伊予国司代・瀬戸内追捕使の令外官)を朝廷が解決させたのは、前段で論じた”阿多倍一門の九州自治”を狙っていた「大蔵春実」(小野好古・藤原正衡・橘遠保:源経基も参加説もある)であります。
そもそもこの「海域の問題」を最初に特別に朝廷から任命され派遣された「治世権と警察権」を与えられた者は「令外官の純友」なのです。その「純友」を討伐する又令外官を送る事のそのものの事態がおかしいのです。
(この順序と任官そのものを ”あやふやにした記録”を根拠とする為政者・利権者側の説もある。 「海賊」とするには矛盾を消す為にした偏纂行為と観られる。)

これ等の資料に基づくと、為政者側の特権で色々な資料が遺されていて複数の説が生まれているのですが、この説の中で先ず信頼できる史実は、「純友」はこの地域(伊予・讃岐)の「瀬戸内の政治」を任された国司代(3等官・伊予掾)で、且つ、当初は「海賊問題解決」の「令外官」(特別問題解決の為に任命された官)であった事ですから、「3等官・伊予掾」と「瀬戸内海賊掃討追捕使令外官」の「両方の任務」を持っていた事に成ります。
この事の意味は「伊予と讃岐」と中国域を含む「瀬戸内沿岸域」の「為政に関する全権」を任された事を意味します。先ずは”任した”とする矛盾があります。普通は任す以上は純友の事は承知している筈です。
摂関家と同じ一族一門で藤原氏北家なので「讃岐藤氏」と呼称されるくらいに都にも聞こえた一族です。
知らないとは云えない筈です。この事件の前に別件で仕事をしていますし、国司代(3等官・伊予掾)です。何も経基に云われなくても知っているのです。事件直前に令外官追捕使として任じられているのです。
それが急に「海賊呼ばわり」とは笑止千万はなはだしい事であります。
つまりそもそも瀬戸内の「全権大使」であり、そうすると、その「全権大使」を「海賊」と決め付けるには「朝廷側の失態」が表に出てきます。
そこで「順序と任官」の部分の記録を”あやふや”にして置く必要が出てきます。その処置を朝廷側と利権者側は行った事を証明します。
ですから、「純友」は「全権大使」として、「令外官の任務」の「海賊掃討」だけを任務とするのであれば「武力」により解決して根絶やしは無理としても押さえ込める事は可能であり任務は全うします。
しかし、地元の為政権を持つ「3等官・伊予掾」で、地元の住人の讃岐藤氏でもあります。
彼等はこの富を生む瀬戸内の国策に対して大貢献しているのです。

「海賊」と看做されている「瀬戸内沿岸地域の民」とは敵対している訳では無くむしろ絆を持っているのですし、「藤原氏の戦略」の「血縁関係」で中国域までその圏域を広めている訳でもあり、尚且つこの海域の「廻船業や造船業」やこれを基にした「大商い」の「2足の草鞋策」を敷いている土地柄でもあります。
そうなると、解決方法は唯一つ瀬戸内の住民が無傷に解決できる方法は決まって来ます。
純友にしてみれば「絆」を基に「談合」により解決するしか無い筈です。
しかし、この「談合解決」は本音のところでは、「為政者」と「利権者」と「敵対勢力側」からすると、最も好ましくない解決方法です。
何故ならばますます純友を大きくしてしまう結果になる訳です。
大水軍を控えて「政治」「経済」「軍事」の「3権」を掌握した訳ですから、上記した「瀬戸内を制する者は国を制する」事と成りこれに対抗する者は無く成ります。放置する訳には行きません。
”早い内に何とかしなくては”と「為政者」と「利権者」と「敵対勢力側」は考えるが必定です。
それには「純友」から「大義名分」を無くす事で潰すしか無く成ります。それが「海賊」なのです。
そして、「為政者」と「利権者」は自ら手を汚さずに、それを「利権」を欲しがっていて「清和源氏の勢力」を伸ばそうと野心に漲っていた「敵対勢力側」の経基に言わしめた事に成ります。

「純友」もこの事は充分に読めていた筈です。しかし、解決方法は一つです。
”「絆」を採るか” ”権力側3者に迎合するか”の二者選択を迫られた事に成ります。
何れにしても後は出方を観る仕儀と成ります。
そこで「絆」を選んだのです。現実には彼にはそれしかなかった事に成るでしょう。
「純友」にすれば、後者の「権力者3者」を選ぶ事は、信義の上で ”死に値する”事に成り、結果しても「権力者3者」は ”彼を生かす事”は解決には成らない筈で、”向後に憂いを残す事”に成りますから、機会を観て ”何らかの嫌疑を作り出して葬る事”にする筈です。
何れにしても ”死を決意しなくては成らない事”に気が付いては居た筈です。
周囲の者達もその事は”百も承知”であり、だとすれば”「絆」を選ぶ事”を勧めたと考えられます。
”では、どうすればよいのか”と云う事に成ります。考える戦略は唯一つです。
「絆」を選ぶ限りは ”例え純友死しても絆は遺す。”であり、その為には ”絆の中に「讃岐藤氏」を遺す。”つまり言い換えれば、”「絆組織」の「次ぎの継承者」を生き残らせる事”にあります。
そして、それを盛り立て蘇させるには「結束の象徴」を造る事に成るでしょう。
それが、”「純友神社」であった”のです。だから1度ならずも2度、否5度の蘇りを興して昭和まで生残れたのです。仮称の「純友神社むは神社だけの意味ではなかったのです。
何時の世も、現世の事象(事件、問題、乱、変など)森羅万象には、「諸悪」(5悪)が巣食うのです。
仏説の通りです。「為政者」と「利権者」と「敵対勢力者」と「無関心者」と、そして「被者」です。
(被者は「純友」ですが、仏教では”一分の非がある”と説いています。”「完全無欠」ではない”と云う事です。「諸行無常」です。)
この”「5悪」の何れに「大儀」が来るか”は、”その「5悪」の「質」に因る”と解いています。
”決して「権利や富の大小」ではない”とするのです。
では、この海賊問題は真にこのパターンに填まります。この場合は「質」を得ていたのは憤死した「純友」にあったのです。”純友に大儀があった”事を意味しています。
後勘から観れば、「被者」の純友以外の「3悪」(「為政者」と「利権者」と「敵対勢力者」)は200年後には滅びているのです。
浄土宗を思考の原理としている平安期の武家では、純友とその周囲と讃岐藤氏はこの事を承知していた筈です。
とすると、現世は「諸行無常」であって憤死しても「絆」を護れば「後勘」は「大儀の者」となる事を覚悟して次ぎの行動に出たのです。「純友の志」は昭和まで「海の族」として引き継がれたのです。

「純友」は「争いの連鎖」を起こす「武力」に因らず、無数の海賊団と談合し説得してこの問題を見事に解決したのです。
そしてこの無数の大小の海賊団の民とその瀬戸内地域の民衆から信頼され崇められて神社が建立されたのです。その神社の建立時期は不明ですが状況証拠から生前の前後の直前と観られます。
「純友神社」(産土神)と云うよりは当初は「海族」と成った集団の「心の拠り所」と、その集団結束の「象徴の守護神」であって、没後に地域住民に慕われて「純友神社」と呼称されたと観られます。
純友は乱後の暫くしての後に捕まり斬首に成りましたが、純友の憤死没後に難を逃れた「讃岐の藤原氏末裔」が再結成してからもこの”瀬戸内は穏やかであった”と記されていて、明らかに海賊ではなかった事が良く判ります。
それを讒訴して”海賊に成った”と告訴され、現在発見された資料よりその資料を基にすれば「経基王に讒訴密告された経緯」となるのです。
但し、ましてこれは「海賊」では無く「海族」であり、古来よりこの瀬戸内に住する「海の土豪集団」であったのです。そもそもその末裔は、つまりこの「海族の末裔」は「後漢の阿多倍の海の兵能集団」で「奈良期初期の帰化人の末裔」(陸は東漢氏・物部氏などがある。)であります。
その特徴は「海利権」を護らない場合は襲う事がある土豪なのです。この事は「陸の土豪」も「陸の支配権」を護らないと同じ目にあう事は同じであって、そもそもこの「海利権」を護らない側からするとその見方は「海賊」と成るでしょう。
当然にこの「海利権」を護らない側は伊予と讃岐の分布する讃岐藤氏と「瀬戸内で覇権争い」をしている大小の中国と四国と北九州の集団となるでしょう。

「兵能・職能集団」の主筋
ここで面白い現象が起こっている事に成ります。
それはこの「瀬戸内沿岸の海族」の多くは上記した「阿多倍の兵能集団と職能集団の末裔」です。
しかし、利権を護らない覇権争いをしている主要集団はこれも阿多倍一門中でも最大の大蔵一門です。
500年経過後の「兵能・職能集団」の主筋に当たる訳です。
彼等は ”忘れられたのか忘れていないのか”は不明ですが、室町期のこの「瀬戸内水軍」を保有し中国域を制した「陶氏」と、「海部氏」や「武部氏」等の彼等の職能集団の末裔が現存している事から考えると忘れていなかったと考えられます。
彼等の守護神は「産土神」であり、その考え方からすると不思議な現象が起こっていた事に成ります。
そもそも官僚を専守している為政者側と利権者側にある「大蔵氏の主筋」に味方せずに「讃岐藤氏」の「純友に合力」した事に成ります。
この事には大きな意味を持っているのです。本来であれば「儀」と「利害関係」から観ても普通は主筋の大蔵氏を選ぶ筈です、しかし敢えて利害関係にある「讃岐藤氏」をわざわざ選んだのですからここには何か大きな意味がある事に成ります。
それもこの瀬戸内の全ての海の族の大小の集団が挙って集まり「儀と利害」を捨てるだけの何かが在った事に成ります。
”それは何であったのか”解明する必要があります。
それは色々な資料から「2つの共通するもの」としての答は出ています。
それは一つは「純友神社」であり、二つは「純友個人」だけではなく「讃岐藤氏の一族」がこの水軍の「海族」には入っていると云う事です。
そうと成ると、彼等への「理解」と「利害」と身の「安全」を護ってくれる「者」、或いは、「氏」は「大蔵氏」か「讃岐藤氏」かと云う事に成りますが、彼等は「讃岐藤氏」を選んだと云うことに成ります。
勿論、その「氏」を支配し統治する「讃岐藤氏」の実質の信頼できる支配者・頭の「純友」の「個人的魅力」に魅かれた事をも意味します。
「好みや利害」ではいざ知らず単に複数の「海の族」が集ったのではないのです。
瀬戸内の全ての海の族が挙って集ったのです。ここに意味があってこれはまさしくそれを護ってくれる「氏の選択」とそれを指揮する「棟梁の魅力」が伴っての命を懸ける彼等の「選択」を主筋から替える大決断をした事に成ります。
当然に少なくとも大小の多くの「瀬戸内の海の族」が集って協議した結果でなければこの様な事には成りません。故にこの「意思表示」を「純友神社」と云う形で表し且つそれを「集団の象徴」とした事に成ります。
この裏を返して云えば”大蔵氏に対する何がしかの共通する不満が在った事”を意味します。
古来からの主筋の大蔵氏が彼等の「理解」と「利害」と「安全」を護ってやっていれば「儀」を捨てて主筋を外すような事は「氏家制度」の社会慣習の中では絶対に無かった筈です。
そうすると奈良期から500年の経過が主筋感覚が薄れたのかと云う事に成ります。
実は違うのです。原因は彼等の守護神「産土神」にあるのです。
守護神の「産土神」に付いては前段で論じてきましたが、後段でも改めて詳細に論じます。
ここでは「海の族」の「行動の根源」となる「産土神の位置づけとその考え方」に付いて次ぎに論じます。


青木氏と守護神(神明社)-17に続く。
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青木氏と守護神(神明社)-15

[No.283] Re:青木氏と守護神(神明社)-15
投稿者:福管理人 投稿日:2012/02/02(Thu) 11:13:16


「青木氏と守護神(神明社)」-15
>筆者は、”「特別賜姓青木氏」の「始祖千国」の末裔(子供)がこの伊勢の「藤成末裔」に跡目を入れて「青木氏」を興して配置した”と考えているのです。
>その”始祖千国の嗣子が誰なのか”研究中で、「賜姓族」に成った「千国」は恐らくは直ぐに天皇家の守護神の「伊勢大社」のある所に、「賜姓青木氏」と同格の身分を得た以上は、子供を直ぐに配置する筈です。否、「義務」として配置しなくてはならなかった筈で、伊勢には、「藤成の伊勢の末裔」が定住(四日市)している訳ですから、そこに跡目を入れるが常道です。
>この行動は「同格の役目と家柄」を与えられた以上は必定な絶対的職務です。先ず100%入れている筈です。末裔が居て定住地も判っているのですから後はその人物の特定だけです。
>「賜姓伊勢青木氏」の関係資料の中からこの事に付いて何らかの資料が出てくるのかとも研究しましたが、松阪の大火消失で確認出来なくなった事や、伊勢秀郷流青木氏等からもなかなか出て来ません。
>従って、”他の関係する処”からの研究を進めていますが「特別賜姓族青木氏」の「伊勢の祖」も確認出来るかは疑問です。この部分が現在の研究課題です。

 「賜姓源氏の祖先神の役目」
”他の関係する処”として、源氏があります。
「嵯峨天皇」(809~823 52代)から11代続いた「花山天皇」(984~986 65代)まで同族源氏がありますが、「祖先神」を祭祀した5代続いた「賜姓青木氏」の後に、”何故に「賜姓源氏」(八幡社)にはその「祖先神」を祭祀するこの役目を与えられなかったのか”と云う疑問が湧きます。
或いは、”「賜姓の役目」があった筈なのに何故実行しなかったのか”、反して云えば、”何故、秀郷流青木氏にこの役目を与えたのか”と云う疑問が湧きます。
この「2つの疑問」の解明に付いて青木氏として答えは出していません。そこで「神明社」を論じる処でこの疑問を解き明かす必要がありますが、実はこの事に付いては不合理な疑問・矛盾が実に多いのです。

既に前段で論じたその「背景と経緯」の様に、”実行しなかった、又はさせなかった”事の理由は上記しましたが、そもそも「源氏」と云えば一般的に「清和源氏」 (858~876 56代)と思われがちです。
しかし「青木氏の賜姓」に続いて2代の天皇(桓武、平城)をあけて、再び嵯峨天皇(52代)から始まった11代の「賜姓源氏」が発祥します。中でもその源氏そのものと思われている56代の「清和天皇」の「朝臣族の源氏臣下」の「賜姓方法」にだけそもそも問題があって、この一部の「清和源氏の行動」が”皇族としてのあるべき行動(「3つの発祥源」の象徴)を採らなかった”と云う事に問題があるのです。
この事が「青木氏の生き様」と、又「神明社」「八幡社」にも大きく影響を与えたのです。
但し、この「清和源氏」筋でも主に「3つの源氏」があって、「宗家の頼光系源氏」(摂津源氏)と「分家の頼親系源氏」(大和源氏)と「分家の頼信系源氏」(河内源氏)があるのですが、その「宗家の頼光系源氏の四家」は「特別賜姓・賜姓青木氏」とほぼ同じ行動を採ったのです。採らなかったのは「分家頼信系の一門」だけなのです。
但し、「清和天皇」は「源氏の賜姓」に於いても「天智天皇」からの「令慣例」に従わずに「朝臣族・第6位皇子」を賜姓臣下させずにこれを無視し、子供の第11位と第12位の第2世族皇子の賜姓源氏を幾つも発祥させたのです。本来で有ればこの2人の第7位以降は「宗道」として比叡山に入山する仕来りです。
又、皇位継承権を保有する「清和天皇」の第3位皇子の子(孫)が源氏を名乗った事、「宗道」の位置に居た第9位皇子の子供(孫)が「源氏」を名乗った事があり、この二人の「賜姓の有無」は記録から明確ではないのですが、「嵯峨期の詔勅」を上手く運用して「青木氏」ではなく「源氏」にしたと観られます。
ですから、上記の「3つの清和源氏」以外に余り知られていない事なのですが「4つの清和源氏」もあるのです。
但し、問題の清和源氏の始祖の「経基王」は長い間賜姓を望んでいた事が資料でも見られるところで、「讒訴や讒言」とも録られる様な功績でその勲功を配慮されて「令外慣習」として特別に「清和天皇」から朝臣族ではないがやっと賜姓を受けた記録と成っています。
この経緯は次ぎの「陽成天皇」が暴君であった事からこれを忌み嫌い、これ等の上記の皇子が「経基王」に習い前の「清和天皇」の皇子として「賜姓族」ではない「源氏」を名乗った為と観られています。
(第3位の子、第9位の子と、第11位、第12位皇子が該当 「経基王」もこの一人との説あり)
「経基王」(しかし経基王だけは賜姓を受けている)もこの皇子の中に居たと観られていて、「清和天皇」からすると「第5世王」と成る事から令外で「宗道の立場」にもあり、”皇族でない”とする説が生まれたのです。下記参考の令規定より強ち否定は仕切れない説であります。

(参考 第4世王以上は皇位継承権 皇子位と王位権者、守護職位、第6世王は賜姓臣下、第7世以下は単純に臣下し、第5世王はその中間の立場で継承者が少ない場合は継承権を持つ、現実の運営は第5世まで継承者が無かった事から第6世王が継承した事もある。第4世王以上で第6位皇子は六衛府軍親衛隊として賜姓臣下 第7位以下は令外賜姓 上記の2人の清和源氏と天智天皇の川島皇子の近江佐々木氏が例外賜姓有り)

そして、清和源氏の頼信系一門の守護神である事についてのこの「八幡社の根拠」は、後の「八幡社」の「石清水八幡宮」の神職の私氏資料の中にこの事が書かれている事を根拠としているのですが、しかし、250年以降の神官職の氏の私氏資料である事から「未勘氏族」の搾取偏纂の一物の可能性も高いのです。

(これは定説には成っていない-又、下記の「八幡社の守護神説」と「八幡神説」もこの「未勘氏族」の私氏資料を根拠としている。)

「青木氏」にもある様に「賜姓青木氏」と「嵯峨期の詔勅」の「皇族青木氏」と同じく、これらの「賜姓源氏族」又は「皇族源氏族」は特段に問題を起さなかったのですが、問題を起こした賜姓「基経王」は清和天皇第3世王皇子の「孫身分」(通説)であり、”子供の第2世族の朝臣族・第6位皇子(貞純親王)を賜姓臣下させずに「清和天皇の孫」(第6位皇子の子供の経基王)にさせた”と云う経緯なのです。

(第6位皇子の貞純親王は清和天皇に信頼され政治に欠かせない人物であったとして臣下しなかった事を理由にしている)

そもそもこの「経基王」の賜姓の実態は「第2世族の朝臣族」の「令外慣習」の「令外賜姓族」であったのです。
つまり、「令外賜姓族」の「孫身分」の末裔の「分家頼信系一族」の「義家一門」も「経基王」と同じ様に「政治的な問題」を起し、”皇族にあるまじき行動” として朝廷と天皇と上皇の「巧妙な策謀」に掛かり「源氏全体の滅亡の引き金」と成ったのです。
(頼光系は「源平の争い」が原因で青木氏に跡目を入れて滅亡する)
そしてこの研究が進み確定はしていませんが、現在では上記の経緯から”「経基王」は「第4世族皇子王」内ではなかった、皇族ではなかった。”と云う新しい資料からの研究説が生まれているのです。
確かに「令外賜姓」であり、”皇族で無い”と云えばそういう事にも成ります。
”天智天皇からの第6位皇子の賜姓臣下する慣例にも拘らず第6位皇子が賜姓臣下しなかった「貞純親王」の子供として第4世王外の「経基王」を第3世王として宛がい「貞純親王」の代理賜姓として明文を付けその為に天皇は渋った為に遅れて受けた”とし、この事から「経基王」は賜姓を”待ち焦がれた”とする説と”いやいやに賜姓を受けた”とする両方の研究説が生まれたのです。
(いやいや説は経基王の歴史的行動から矛盾がある。)
しかし、現実は「経基王」の史実の行動から”待ち焦がれた”が正しい事が定説に成っています。
(筆者もそのように判断している)

「清和源氏の経緯」
念の為に八幡社に繋がるこの事が神明社にとってどの様な影響を与えたか、又はどの様な経緯に成っていたのかを知る必要がある為に概要の筋目だけを述べて置きます。
それは2代目の「満仲」は荘園制を悪用して「名義荘園主(本領)」と成り、その代わりに「無血縁の源氏姓」を名乗らせる方式で、各地の豪族(未勘氏族)を組織化して平家に対抗する「武装集団」を形成したそもそもその張本人であり、その為に朝廷と天皇から疎んじられて一時河内に身を潜める行動を採った経歴を持ち主です。
後に開き直って無冠、無官、無位で攝津に戻ると云う反発行為を採っているのです。その後も「経基王」と同じ様に2代続いて疎んじられるのです。
この事で衰退した清和源氏の3代目は発奮し、先ず長男の宗家頼光は摂関家の実力者藤原道長に仕官し出世して各地の守護、国司を歴任し、資質剛健で皇族としての立場を重んじ宗家としての「清和源氏の立場」を高めたが、反対に弟の頼信は真逆の行動を採り、矢張り父の築いた[荘園制の武装集団の組織力」を使って勢力圏を河内から伊豆を経て関東に武力に依って奪い取りその勢力を拡大させたのです。
これを孫の「義家」が継承して更に「荘園制の拡大」を図り陸奥勢力を争奪して、その行き過ぎに遂には天皇や院から「排斥の令文」を発せられて嫌われる以上の政治的な処置を受けてしまい、挙句は4代続いて再び疎んじられる羽目に成った経緯なのです。
この様に世を乱す「争奪戦」を繰り返せば国は不安定に成り、民の不満はつのり朝廷側の立場は無くなるし、「荘園制行き過ぎ」に対し、「後三条天皇」の時からも既に「禁令」も出ているのにそれを無視して拡大させる行為を犯せば誰で「排斥の令文」を発せられるのは必定です。
此処にも「経基王」の「異端児的行動」から始まり「満仲」と続き、「頼信」と「義家」の「不名誉な仕儀」と成り「氏の不尊名」は4代と続きます。:
結局は「皇族に与えられた責務」を全うせずに「破天荒な行動」を取らなければ成らなかった「経緯と背景」の一端が継続して見え隠れしています。
これ等の事柄は「祖先神-神明社」や「八幡社」の検証に大きく影響して来るのです。

次ぎにデータで論じますが、本文では「源氏・八幡社」に対して上記の「背景・理由と経緯」が判っていますので大きく論じる事はしません。
ただ「源氏の守護神」は通説は「八幡社」と成っていますが、筆者にはこの「八幡社説と八幡神の通説」には多少疑問があるのです。
この疑問については下記に論じますが、何しろ上記の行動もさる事ながら「疑問と矛盾」が多過ぎるのです。ところが最近の各研究家の間でやっとその疑問の学問的解明が進み始めたのですが、まだ社会の中では「祖先神-神明社」の義務も放置し、挙句の果ては八幡社を建立する等の行為を繰り返しながらの根強く「義家贔屓説」として通っているのです。
ところで、では「源氏」11代はどの程度の「祖先神の八幡社普及」に取り組んだのか、そのデータから先ず論じます。(「八幡神」の説もあるが後付け行為)
その「八幡社」も調査すると下記にその内容を論じますが、結局は既に青木氏等に依って建立された「神明社」そのものを利用しているだけで「純粋な八幡社」と観られる多くは彼らの「未勘氏族」に依って建立維持されているのです。

そこでそもそも「賜姓青木氏」に続く「賜姓源氏」の11代は次ぎの通りです。
嵯峨源氏、 純和源氏、 仁明源氏、 文徳源氏、 清和源氏(上記経緯)、 陽成源氏、 水考源氏、  宇多源氏(滋賀佐々木氏)、 醍醐源氏、 村上源氏、 (円融特別賜姓青木氏)、 花山源氏

(注釈 これ以外に「平城源氏」や花山天皇以降に5代の源氏があるとして徳川氏が征夷大将軍の称号を獲得し幕府開幕する為に造り挙げたものがある。
「清和天皇」と「陽成天皇」の間は賜姓が大きく乱れた。
「平城源氏」はそもそも皇族に賜姓する事を辞め阿多倍一門に「たいら族」の賜姓をしこの事で嵯峨天皇と醜い政争をした経緯がありますが、「嵯峨天皇」後にその事を忘れた様に源氏を名乗った。
「円融天皇」は清和源氏の皇族としてのあるまじき行為に反発をして「賜姓源氏」とせずにその皇族としての義務を果たさせる為に藤原秀郷の一門に「特別賜姓族青木氏」(秀郷流青木氏)賜姓した。)

「八幡社と弓矢の根拠」
その前にそもそも「八幡社」の呼称は、「筑前宇佐神宮」が「譽田天皇廣幡八幡麻呂」、即ち、実質飛鳥の「ヤマト王権」(5族の連合政府)の初代「応神大王」の事で、つまりは実質の初代の「応神天皇」の事ですが、「護国霊験の大菩薩」と「御託宣」があったとして「八幡の麻呂」(ヤハタ)から後に「八幡社」と別名呼称されるように成ったとされています。
「神明社」は前段でも記しましたが、実質4代目「雄略天皇」が、夢の中で「天照大御神」の「御託宣」を受け建立したものですが、その「豊受大御神」(外宮)を「丹波」の国から、ほど近い伊勢の「山田の原」に「天智天皇」が迎えたとされるものです。
これが「神明社」の「豊受神」、「豊かさを受けられる神」、即ち「生活の神」「物造りの神」の所以ですが、「八幡社」は「応神天皇」、「神明社」は「雄略天皇」とし何れも「夢の御託宣」です。
そして遅くともこの筑前の宇佐の地の「八幡社」の社殿建立は和銅元年(708年)頃とされ、「社」としての正式な建立は728年とされています。
この頃は「弓矢の神」ではまだ無かったのですが 「石清水八幡社」が860年頃に建立されたとします。
その年に「清和源氏」は860年に発祥されています。
後に「宇佐のヤハタ社」が支社と区別する為に後に「宇佐八幡社」として変名した事から、その後下記の考察から1010年頃の時代の背景を受けて「弓矢の神」として徐々に凡そ50年くらいを掛けて各地の「未勘氏族」に信仰される様に成って行ったと観られます。

源経基  *  -961
源満仲 912 -997   
源頼信 968 -1048 
源頼義 988 -1075
源義家 1039-1104

そもそも全国の荘園を営む武士団を「源氏の名義貸し」の基に「組織集団化」させた「源満仲」は「住吉大社」を信心していた事が資料より判っていますので、この頃は「八幡社」はまだ清和源氏の守護神とは成っていません。勿論、「祖先神の神明社」も守護神とはしていないのです。
次ぎの代の三男の分家を興した「源頼信」の頃は「大神氏」から引き継いだ「姓氏」の土豪宇佐氏が神職を務めて膨大な社領を有していて、「自前の力」で運営されていてまだ「清和源氏の勢力」の範囲にはありませんでした。つまりまだこの頃は「源氏の守護神」とは成っていません。
次ぎの「源頼義」は「頼信」が1048没とすると60歳と成り、まだ「頼信の世」ですので1048年以前には「清和源氏の守護神」には成り得ていません。「頼信」は西ではなく東の関東に進出したのですから西にある「八幡社の勢力」との関わりは強く無かったのです。
また「頼信」は上記した「満仲的戦略」を父「満仲」から託されて踏襲し、本家の「兄の頼光」の援護を受けて関東の手前の「兄の頼光の所領」の伊豆を拠点に伸張してゆきますので、「八幡社」とは無関係でそもそも「住吉大社」を信望していたのです。
「満仲」の長男宗家の跡継ぎの「頼光」は父の「満仲的戦略」に乗らず摂関家の実力者の「藤原道長」に仕えて「祖先神-神明社」を信望しています。(勅命で神明社の再生を命じられている)
飛鳥の大神一族(下記神明社で論じる)が大和朝廷より筑前宇佐の地に赴任し定住し「神仏習合」を行い「八幡神の創出」を行ったされていて、後の平安中期頃に肥前に定着した大神一族は衰退しやや後に神職を土豪の宇佐氏に代わる事と成ります。
この時(980-1000年)、豊前、豊後、日向の「3国7郡640反」を社領とし、「18荘園」を保有していたのです。

ここ筑前の地を「源頼義」(短期間「源義家」も務める)が定住して「筑前の守護職」を務めています。
又、この影響で「頼義」は「義家元服 7歳」(1046年頃)の地を京の「石清水八幡神社」(3大八幡社の一つ)で行います。この事から”後に「八幡太郎」と呼称されるように成った”とされています。
頼信1048年没と義家1046年の元服が一致しますので、この時期より境に「住吉社」から「八幡社」に移行して行った事が判ります。
つまり、「住吉社」を信仰の神社とするならば、この時、「住吉社」で「義家7歳の元服」が行われても不思議はありません。
この「義家元服」の前に「肥前の役務」を務めていますので、この時に「住吉社」から「八幡社」の切り替えのチャンスがあった事に成ります。
恐らく「頼信」から「頼義」に「代代わり」を契機に全国的に「荘園の名義主(本領)」が拡がり「未勘氏族」を集結させ統率する為にも「八幡社」に切り替えた事が判ります。

この時期が「没後の1回忌の法事」等が済んだ「1050年」が「当時の社会習慣」から判断できます。
実は「神社の習慣」には先ず ”80日過ぎるまで関係者は神門に入っては成らないし、「3年-2年以内」の法事が過ぎるまで全ての「新しい行動」を「氏」として起こしては成らない” と云う「神社の仕来り」があります。現在でも神社に限らず「武家の伝統ある旧家」でもこれらの「仕来り」は護られています。

「1046年の義家元服」は15歳にせず7歳の早い「元服行事」を執り行い、それに限らず、「清和源氏の分家」としての「頼義」のその「意思表示」を「未勘氏族」に対しても「全国の武士団」に対しても「宣告の行事」として行ったのです。
「神社と皇族家の仕来り」により正式にはこの「元服の時」は「頼信」が未だ生きていた事から、それを見計らって行った「前倒しの祝辞」であり、故に丸3年後の「没後の1050年」が「河内源氏-八幡社」の「行動開始の年」に成ったと観られます。
その正式な宣告は「義家の元服」と「頼信の1周忌法事」の2つの行事を利用したと考えられます。
周囲の「未勘氏族と武家集団」は氏家制度の中では、この「古来からの仕来り」は充分に承知していて「暗黙の了解」があったと考えられます。(1周忌は3年であるが1年以内の前倒しは可能)

この宇佐神社の神領は「1410戸」と「18の荘園」と「640反の社領」と「24000の支社」であったとされ、この神域は1190年から1199年頃に掛けて殆ど周囲の土豪に一挙に侵食されて無く成っています。
この間、「社の運営」がままならず荒廃した時期が50年ほど続きそれを観て周囲の土豪から侵食され始めたのです。(社説)

とすると、1180年が頼政の「以仁王の乱」、1180年の「富士川の戦い」、1185年が「頼朝勝利」、1192年が「開幕」、で1199年-50年=1149年と成り、1050年から100年間が「河内源氏-八幡社-未勘氏族」の関係は隆盛期を先ず迎えていた事に成ります。
その後は1149年頃からは「後白河院の院政」、「荘園整理」、「皇室権力の強化」、「保元平治の乱」、「源氏の衰退」等が起こり、「源氏と未勘氏族」の著しい衰退と「組織の崩壊」が起こり始めた時期であります。
1050年はこの事から「河内源氏-八幡社-未勘氏族」の関係式は間違いない時期と成ります。

(その後、中世に掛けて黒田氏1601、細川氏1632、松平氏、徳川3代将軍家光に依って寄進があり、宇佐八幡社は3000石に再復活します。これを期に全国の主要八幡社は徳川幕府の再建策で復活する)

つまり、清和源氏の「荘園の本領の保護」(1050)があってこれらの神域を保っていて、義家の勢力が低下してそれが最終(1199)切れた為に侵食されて無くなるという現象が起こったのです。
(河内源氏滅亡-頼朝没1195年)

その後、再び中世から江戸の初期に掛けて上記した様に全国の多くの八幡社は「徳川幕府の梃入れ策」で地元の大名等の寄進で復活したのです。

これらを時系列的に観れば、「清和源氏」の「源頼義」が「筑前の守護職」になった事をきっかけに「18の荘園」の「名義貸し」の「本領」とその「他の神域の保護」をしたと観られます。
そして、この「頼義-義家」の没後の1140年頃からこれを守り切れなく成り、50年程度の間に徐々に侵食が起こり始め、遂には1190年頃から雪崩の様に1199年に掛けて「侵食崩壊」が起こった事に成ります。
従って、この経緯から、「弓矢の神の八幡社」と「清和源氏の守護神」の「2つの風説」は24000社を通じて一挙に広がり、”全国の「八幡社」が清和源氏の頼義等の勢力に依って護られている”と云う風説と成って1010年後の頃から起こった事に成ります。

(むしろ24000社の八幡社の支社を護る為に広めたと観られます。但し、24000社は室町期中期では調査からこの1/5程度であったと観られます。)

この説からすると、実質は「八幡神」は「清和源氏分家頼信系4代目義家一門」の「守護神」とされている事に成りますが、「皇族賜姓族青木氏」の「祖先神-神明社」と同族である上記11代の源氏も「皇族第6位皇子」の「臣下族」である事から、「祖先神の一族」である事には令の定めるところでは変わりは無いのです。
だから同じ下記参考の「守護神」の「令義」からすると彼等も「祖先神」と成る筈です。
この「令義と風説」との”ずれ”が起こったと考えられ、結局は清和源氏の「満仲の戦略的路線」を引き継いだ「頼信-頼義-義家」はむしろこれ(風説)を利用した事が考えられます。
この根拠は全国にその「荘園制」を利用して作った「未勘氏族の武装集団」を組織化した事で、その勢力をひとつに取りまとめる為にも、その「集団の守護神としての象徴」をこの「宇佐の八幡社」に求めたものと考えられます。
同時にこの「八幡社の持つ組織力」も手中に収めた勢力拡大を図ったと考えられます。
そうすると結局は、「八幡社」の「守護神」は「未勘氏族の集団の守護神」であって、清和源氏頼信系一門の「本来の守護神」では無かった事を経緯の時系列分析からそれを物語ります。
すべての八幡社に関するこれに伴う要素の組み合わせは符号一致します。
故に、この「象徴」として「祖先神-神明社」を使うことは、「他の同族の青木氏」や「他の源氏」や「特別賜姓族の青木氏」等に対して迷惑が掛り、そもそもその路線が異なる事から賛同を得られることは無く、神明社の圏域を全く戦略的に使えなかった事を意味します。
それは「八幡社」=「荘園制」であって、「神明社」≠「荘園制」である事を社会の中では成っていたし、賜姓族全ては「令慣習」に従っていた事を物語るものです。
これに逆らう事は既に「後三条天皇・白河天皇期に禁令」(1069-荘園整理令等 前段で論じた)が出ている事でもあり、それを無視して無理に推し進めて「荘園制で勢力拡大」を図る手前上も出来なかった事にも成ります。

「八幡社の守護神」=「未勘氏族の武装集団の守護神」→「清和源氏頼信系一門の名義上の守護神」

そもそも「満仲-頼信」はその守護神を本来あるべき「祖先神-神明社」では無く、まったく別の「住吉社]であったのですから、これは ”本来走るべき軌道外の事を追い求める癖” で頼信等一門の「家の伝統」とでも云えます。
これは当初、「満仲」は関西範囲の「未勘氏族の武装集団」の組織化を行った為に、その「象徴とする守護神」を地元の「住吉大社」に求め、且つその神域を利用する為にもこの戦略に求めたと考えられます。
そして、未だ拡大途中であった頼信の頃もこの「住吉大社」の「象徴戦略」を継承したと考えられます。
しかし、「肥前の赴任」の頃をきっかけに「荘園制の未勘氏族」の組織化が全国的に拡大し、それに伴い同じ路線を採る「頼義-義家」は 河内は基より相模守、伊予守、出羽守、下野守、陸奥守、越中守、筑前守等を務めた事から ”「全国的な八幡社の神域」に切れ変えた” と考えられます。

(頼信は常陸守、伊勢守、甲斐守、信濃守、美濃守、相模守を務めた。これ以外に国司、介、追捕使、押領使等の令外官等の為政権を持つ赴任先は多くある。 神明社から調べた赴任先は上記の赴任先以外にも添書などに見られる。 義家は圏域を拡げる為に主要国の美濃守の任官を強く望んだ経緯もある位である。それが荘園の名義主の領家・本領に成れる事に繋がる。)

(参考 2「祖先神(祖霊)」(そせんしん)「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、「自分の集合」である「一族一門の子孫」(皇族・朝臣族)の「守護神」であり「人と氏の重複性も持つ神」)

しかし通説として「祖先神-八幡社」又は「八幡神-八幡社」の「守護神の形」が現実に出来上がっているのです。
この「八幡説」からすると「清和源氏分家頼信系義家」からの「八幡社」ですから「清和源氏宗家頼光系四家」は「八幡社」では無く「祖先神-神明社」と成る事に成ります。また他の源氏も「八幡社」ではない事に成ります。
これは文献から観れば、「清和源氏分家頼信系義家」からの「八幡太郎」の「義家」の呼称がある事から「八幡社」を「守護神」とした事は間違いない訳であり、更には「筑前赴任の経緯」「元服地の経緯」からも明確には「義家」からと成ります。
まして「八幡神」の「守護神」まで出来上がっています。
仮に「分家頼信系義家一門」(河内源氏)が「八幡神」だとすると、上記参考の一行の「皇族の令慣習」から明らかに ”第6位皇子の朝臣族の皇族でない”と云う事に成ります。
中には「河内源氏の守護神」と書き記した説もありますが、本来は賜姓族には(皇族系には)「上記の令慣習」に縛られて居ます。
且つ、身分は「天智期の正令」と「嵯峨期の詔勅」で決められていますから、ですからこの令外の皇族以外の「氏と姓」族は ”その氏の信じる考え方を守護神に求めて独自に創設する”と云う自由な仕来りです。
それと同扱いの説は「時代考証」がよく取れていない説と看做されます。(通説にはこれが多い)
例えば、藤原氏であれば「鎮守神」、「大蔵氏」であれば「産土神」の様に決める事が出来ますが、「第6位皇子の朝臣族」である限りでは「青木氏」と「特別賜姓族」と同様にその「由来経緯の考え方」から「祖先神」である事に成る筈です。
とすると、この「河内の八幡神」はこの「令慣習」を知らないで藤原氏等と同じ感覚で「八幡神」を創設した事を意味します。つまり、この事から,この「八幡神」のみならず「八幡社」は「後付け」であると云う事に成ります。
言い換えれば、少なくとも「跡付けの時期」までは、恐らくは義家前(1046年)までは、「世の中の常識」は本来は、又は形式上は「祖先神-神明社」であった事に成ります。

(現実は満仲-頼信は住吉大社ですので、知っていた上で敢えて逆らった事を意味します。そして、社会が「武家の棟梁の風潮」が高まるに連れて次第に「世の中の常識」は薄らぎ変化して「八幡社」へと変化して行ったし、むしろその風潮を「未勘氏族」も「頼義ー義家」も利用し「既成の事実」としてこの際敢えて振舞った事に成ります。)

(この義家の終末段階では「令慣習」等”どこ吹く風”で開き直った。-ここで白河院は耐えかねて{権謀術策}を労して潰しに懸った。- その後は源氏は潰れ支えが無くなった実質の荘園主の「未勘氏族」によって煽られて”一人歩きした経緯”と観られる。)

結局は荘園も無くなり、上記した状況は次の様な事に成ります。
A ”「八幡社」=「荘園制」であって、「神明社」≠「荘園制」”の関係式
B ”「八幡社」=「未勘氏族」であって、「神明社」=「賜姓族」の関係式
A→Bに戻った事に成ります。

他の「賜姓源氏」と「皇族源氏」も含めて賜姓・特別賜姓族は「祖先神-神明社」と成りますし、現実に資料よりその経緯を辿っています。
そうすると、「八幡神」等はこの決め手は「跡付けの時期」と云う事に成ります。
実は、この疑問から「経基王」は「皇族の範疇」に無かったとする最近の研究説が生まれているのです。「第6位皇子の臣下」では無かったと云う説です。
確かに上記した様に「清和天皇」の「第6位皇子」は「父親の貞純親王」で「経基王」はその孫であり「陽成天皇」の皇子との説もあるくらいですから、孫が臣下して賜姓族の源氏を名乗る事の事態が特異であり、ある事情から「貞純親王」の賜姓の権利を”子供に譲った”とする経緯と観られます。
それならば前提と成っているその皇孫が6人居て”「六孫王」と呼ばれた”とされていますが、この「六孫王」の呼称の記述は当時の何処の文献にも出て来ないのです。これも明らかに「未勘氏族」による「跡付け」です。
ここら辺が天皇や朝廷からその出自とそのあるべき行為の反意を咎められての疎んじられる根拠に成っていたとも考えられます。
兎角、何事も「白河院の横暴」と決め付けられていますが、もしそれであれば「賜姓青木氏」を潰す事にも走っている筈ですし、わざわざは「白河院」を含む「累代の天皇や朝廷」がこの時期に天皇家が「秀郷一門」に対しこの「賜姓青木氏」の跡目の「特別賜姓青木氏の行動」はそもそも無かった筈です。
現実に潰されていませんし、むしろ前段でもその活躍を期待され源平の時代に明確に果たしているし、下記に示すデータから「神明社建立」は更に進んでいるのです。つまり国策に対して大貢献しているのです。

「白河院」は「清和源氏分家頼信系義家一門」に対する「圧迫」と「同族で戦わせて」の巧妙で戦略的な「源氏潰しの策謀」をも実行しなかった筈です。

(注釈 世間の「白河院の悪名」の通説らしきものは、この「皇族としての道」を正そうとした「権謀術策の所以」であろうが「日本人の忌み嫌う所作の所以」から来ていると、源氏に対して青木氏から観るとこの様に考えられる。)
(義家10年の蟄居期間後、許して北面に任じるがこれは「院への世間の叱責」から逃れる一つの戦術であって、その立場において「同族の行状の悪さ」を理由に「掃討の命令」を下して「同族潰合」をさせた。
その原因は上記した様に「河内源氏の皇族にあるまじきの行動」にある。)

そもそも仮に「白河院の横暴」であるならば「清和源氏宗家頼光系四家」も他の「10代の源氏」も「潰される憂き目」にあっていた筈ですがそうではなかったのです。
それは何度も論じていますが、上記の「祖先神-神明社」の「皇族としての伝統」と「3つの発祥源の責務」を護っていたからです。
この上記の「八幡社」が象徴する様に義家以降の義家一門の行動が、上記の「祖先神-神明社」の「皇族としての伝統」と「3つの発祥源の責務」を護っていなかったからで全てこの一点に集約されているのです。
”皇族の者にあるまじき態度” ”荘園制で国策を乱した”と判断されて潰される羽目に陥ったものであり、”「白河院の横暴」”と「未勘氏族」が作り上げたむしろ策謀である事が伺えます。

(為政者がこの事を許せば皇族としての自らの立場をも人民から信用も脅かす事に成る事は必定です。)

この事から考えると”「義家の立場」を改善しよう”とした「後付けの意味合い」が判る気がします。
世間が思っている様に「清和源氏」だけが源氏であるとするならば「白河院の横暴」説もある面では理解も出来ますが、ここでもう一度確認していただきたい事は、源氏は上記他に10代に、賜姓青木氏は5代29氏に、特別賜姓族青木氏は116氏もあるのです。これ等は全てその立場を守ったのです。

「八幡社」や「八幡神」や「八幡太郎」や「八幡義家」は間違いなく「後付け」の「搾取偏纂の行為」と見做されます。では”誰がこの「後付け」の搾取を実行したのか、何故実行したのか”疑問です。
これ等は後の八幡社から発見された私氏資料の中の記述を正としての前提での全て説なのです。
この私氏資料が間違いとすれば前提は崩れて「祖先神-神明社」になる筈です。
ところが未だそこまでは研究は進んでいないので「八幡社説」が通説に成っているのです。
しかし、上記した様に漠然と判ります。
この論調は少なくとも清和源氏のみの事であり、皇族としての令慣習を無視していて、他の源氏の守護神とする根拠も全くありません。源氏は清和源氏のみとする酷い思い違いの風説のみであります。
「河内源氏の守護神」などの説は「皇族外の氏と姓の扱い」と同じにしていますので青木氏などが護ってきた「令慣習の存在」を無視していますので論外です。

そこで、更にこれらをデータ分析で以って検証を進めます。
そもそも「八幡社」の建立期の728年頃には未だ源氏は発祥していません。
1代目の52代嵯峨源氏発祥は809年頃以降であり、56代清和源氏の元祖の経基は858年頃 義家は7歳で「石清水神社」(八幡社3社)で元服したとして1046年頃以降に「八幡太郎義家」と成ったとされていますが、諸説があるので1050年頃が妥当な「呼称の開始年数」となりますと、322年後と成ります。
しかし、筆者はこの呼称は「跡付け」と観ていて、義家が「武家の棟梁」として祭り上げられた時期に「後付け」として呼称されたと観ています。
この「後付け」は「後三年の役」の後と観ていて現実には1087年頃では無いかとも考察しています。
「360年後の後付けの呼称」となると「八幡社」が「源氏の守護神」であるとする事に問題があります。
だから、「清和源氏宗家頼光系四家」とは「祖先神-神明社」として「3つの発祥源」として行動が違っているのです。
つまり「満仲-頼信」までの行動は範疇内ぎりぎりの行動と見做され、「義家」の父「頼義」の頃からはっきりと「道」が外れた事を意味し、遂には”皇族としての「令慣習の限界」を超えた”として朝廷から疎んじられる羽目に成って行ったと観られます。
もし仮に「祖先神-神明社」で無いとするならば、第3世族の孫、或いは第4世王外の者における令外慣習による賜姓と成ればこれは別に守護神を求めても問題は無い事に成ります。
「祖先神-神明社」は上記の経緯より「朝臣族」で「第6位皇子」による「臣下族」の「守護神」として「皇祖神」に代わってその務めを果たす「生活の神」「物造りの神」とされています。
この厳密な定義からすれば異なる事を意味します。
「弓矢の神」「八幡社」でその「守護神」は「八幡神」でも問題は無い事に成ります。
つまり、青木氏の「嵯峨期の詔勅」により発祥した「皇族青木氏」と同じ扱いと成り得ます。
上記に述べた様に所為を「清和天皇」の「第6位皇子」外の5人の源氏は守護神は「八幡社」で「八幡神」でも問題はない事に成ります。
但し、この5人外の他10代の源氏は「祖先神-神明社」の枠組みの中に伝統はあります。
「経基王」の末裔の「清和源氏宗家頼光系四家」と「分家頼親系の清和源氏」が先祖の伝統に従い「元来の皇族孫」としての「祖先神-神明社」を採用した事に成ります。
それは「八幡社」が4代目からの仕儀であった事から「元来の皇族孫」としての伝統を守った事に成ります。
「経基王」から観れば「義家」まで丁度100年位経過していますから「八幡社」が義家からとすると100年の期間がある為に「祖先神-神明社の守護神の伝統」は護られていた事に成りますし、継続されていた事にも成ります。
つまり「乱世の時代の背景」も受けての”「義家の末裔」の守護神であるかの様に成って行った”事に成ります。
武士である事は事実であるので「氏の守護神」であるかは別にして「弓矢の神」「八幡社」は必然的に「武士の守護神」である事には間違いはありません。
ただ ”義家から直ぐに「氏の守護神」の伝統を「八幡社」に変えたのか”は下記の「八幡社の建立状況」からやや先の「未勘氏族」によるものではないかと考えているのです。
恐らくは、この時期に「六孫王」の呼称も「未勘氏族」によって搾取され「八幡社」の記録に書き込んだと考えられます。
「朝廷の記録」にも無くこの「八幡社」に「六孫王」の呼称や「八幡神」等の「義家」に関する記述が遺されているのも不自然です。
後に「武家の棟梁」などと持て囃された時期に「弓矢の神」の「八幡社」を「荘園名義主」の「本領・義家」に宛がい、その根拠を「六孫王」として作り上げて祭り上げたと観られます。
これを正当化する為に「八幡社」に「氏資料」として恣意的に記録を残したもので、それを正しいとして根拠に論理立てたその立場にいた研究者が「八幡社」と「八幡神」と「六孫王」を装具立てたものと考えられ、そうでなければ360年のタイムラグは大き過ぎます。
「疎んじられた義家」を主とする「未勘氏族」に取って観れば、「名義借りの行く末」が利害に大きく関わってくる事から、有利に成る事柄を記録として「八幡社」に遺し後世の末裔に遺したのではないかと考えられます。
「未勘氏族」の圏域を周囲から護り誇る為にもこの「義家」を宛がい「八幡社」「八幡神」を装具立てたと見られます。
上記した様に ”「源氏義家系の「未勘氏族」の守護神の八幡社”であって、必ずしも”源氏そのものの守護神であると云う定義ではない”と云う事です。
結果、遺した「八幡社の氏資料」で後に”「源氏の守護神」と決め付けられてしまった”、又は”勢力保持の為にも決め付けられる事を一門は期待した” と云う経緯と観ています。

「八幡社」=源氏頼信系義家一門の守護神=「未勘氏族の守護神」=「武家の棟梁」=「八幡神」

これ等の経緯を念頭に次ぎの検証をお読みください。これ等の上記内容をデータで下記に論処します。

その八幡社の分布域を次ぎの7つに分けて観て見ます。
但し、これらは神明社と同じく室町中期までのものとして選別したものです。

八幡社の分布順位(地域分布)
1 関東域      7県-94-26.5%(全体比)-平均13/県  清和源氏勢力圏域
2 九州域      8県-70-19.8%(全体比)-平均 9/県  未勘氏族の圏域
3 関西域      6県-52-14.7%(全体比)-平均 7/県  源氏の出自元の圏域
4 中部域      8県-52-14.4%(全体比)-平均 7/県  清和源氏・秀郷一門圏域
5 東北北陸域   8県-38-10.7%(全体比)-平均 5/県  反河内源氏の圏域
6 中国域      5県-24- 7.9%(全体比)-平均 5/県  源氏空白域・讃岐藤氏の圏域
7 四国域      4県-21- 5.9%(全体比)-平均 5/県  讃岐藤氏の圏域・源氏空白域

「1の関東域」
・「1の関東域」の八幡社が最も多いのは、源頼信が平安期末期に信濃-伊豆を拠点に「京平氏」の平族が勢力を張っていた関東にその勢力圏を拡げた事が原因しています。
故に京平氏の平族との争いが上記の「源経基」から起ったのですが、だから他の域と比べて一番多い事に成ります。当然にこの事に依って「特別賜姓族」の「秀郷流青木氏」との摩擦も起る事が考えられますが、「分布の内容」から観てこの領域はある程度の「墨分け」をしていてた模様です。
その「墨分け」は次ぎの様に成っています。、
特に「武蔵、下野」域、次ぎに「上野、常陸」域、多い所で「神奈川、下総」域、「甲斐、駿河」域
と成っています。
これは一見すると、「秀郷一門の圏域の強い地域の強弱」、逆に云えば「清和源氏の頼信系の所縁の地域の大小」に依って分布している傾向を持っている様に観えます。
ところがむしろ「秀郷圏」-「頼信圏」の「圏域の分布」と云うよりは、その「圏域の境」が重複している処を観ると、これは「神明社+春日社」-「八幡社」の「社領域の分布」であろうと考えるのが妥当と観られます。
そもそも神社を考察する場合は、「圏域」のみならず「荘園と社領」の関係を考える必要が有ります。
この平安期から室町期には「荘園制の影響」を大きく受けて「社領」が大きく認められていてこの影響を見逃す訳には行きません。
どちらかと云うと、その「社領」を保護する土豪の「未勘氏族」か「氏子衆団」に依ってその圏域は守られていた時代です。
つまり、「荘園-本所-未勘氏族-「神社」-社領」の緊密な相互関係を保持していてこれをばらばらにして無視して論じる事は出来ないのです。中でも「神明社」と「八幡社」に限っては「皇祖神」に結び付く「祖先神の神社」であり、他社と異なり「荘園の名義主」(本所・本領・領家)とも結び付く「社会構造」であったのです。
当初は「荘園の名義主」と成った源氏は幾つかの荘園を固めその一つの大きい領域は1国から2国になる程の大きさを持ち、その圏域の領域に幾つかの「八幡社」を建立して「圏域の誇示」を図ったのです。
その「八幡社」に広大な社領を与えて「未勘氏族」に護らせたのです。

(本論末尾のデータに記載してる様に「熊野古道」の世界遺産の「熊野神社」は和歌山県の殆どの主な領域を社領[海南市から熊野市]としていた事でも判ります。研究室の「鈴木氏と青木氏の関係論文」でも記載)

しかし、「実質荘園主」の「未勘氏族の勃興」に左右され、その後は「未勘氏族」の大小の「氏子衆団」に取って代わったものまで生まれたのです。
この「社領」が縮小される江戸期から禁止される明治初期の「寺社領上知令」までは大きな力を持っていたのです。
先ずその経緯は、平安期は主に「清和源氏の力」に依って建立され、末期以降頃は「荘園制」を利用して「未勘氏族」に「源氏の圏域」を誇示させ、そこを「戦略拠点」を主眼としてそれを護る為にも「八幡社」を建立させたのでは無いかと考えられます。
そこで関東域の「94の八幡社」を分類すると、これを「家紋分析」や「神紋分析」や「未勘士族の家紋分類」や「氏子集団の神紋系家紋」から総合的に分析すると次ぎの様に成ります。
先ず「家紋分析」から観ると、平安中期から「源義家」が天皇から疎んじられた時期までの平安末期直前までは「源氏力」に依って建立され、源氏衰退と滅亡の後の鎌倉期以降はこの力の持った「未勘氏族と氏子衆団」に依って建立が進められて行った事が良く判ります。

(源義家の主な朝廷の処罰:「義家に対して関係族と兵の入京禁止令」「義家への土地の全面寄進禁止」等 殆ど身動きが取れない令で10年間押さえ込まれるが、その後、「院政の横槍」で一時許されるが「同族争い」を仕向けられ衰退する)

「未勘氏族」と「氏子衆団」の形態は、当初は「実質荘園主」の「未勘氏族」で建立されたと観られ、時代が下克上・戦国時代の室町期に入ると互いに「未勘氏族」の潰しあいが起こり細分化した結果、大小の生き残りの「未勘氏族」や土豪達の「氏子衆団」がこれを護ると云う形に変化して行きました。

(参考 名義荘園主(本所・本領・領家):源氏などの名家に名義を借りて「開拓荘園主」に成ってもらい名義料を支払い見返りに名家の名籍を名乗る事を許され武士団を形成する方式でその基と成る名義上の荘園所有者と成って保護する。実質荘園主(庄司):実際に開拓した土地の豪族で名義を借りてその名籍の氏を名乗る事を許された武士団であり、これを「名籍族」と分けて「未勘氏族」(庄司等)と呼ばれる。「氏子衆団」:これ等の「未勘氏族」が戦国に依って細分化して、その結果、再編成が起こりその荘園内に建立された各社の「氏子衆」の集団が集まり「氏子衆団」を形成して「社領の圏域」と「身の安全」を護った。室町期末期では「未勘氏族」が「氏子衆団」と「戦国豪族」との入れ替えが起こった。)

「圏域の分布」<「社領の分布」⇒「荘園制」
「名義荘園主」⇒「未勘氏族」⇒「氏子衆団」
「平安期-源氏建立」⇒「鎌倉期-未勘氏族」⇒「室町期-氏子衆団」

これ等(分布域や建立者)の事は「未勘氏族の家紋」や「八幡社の神紋」に依ってその変化が良く判ります。「八幡社」神紋は「皇族賜姓族」である為には本来は「笹竜胆紋」と成りますが、源氏自ら建立したとなれば「神紋」は「笹竜胆紋」ですが、そもそもその「神紋」とは必ずしも「寺の紋」では無く主に建立した氏(氏上)の家紋を「神紋」とする傾向がある為に、その「家紋・神紋」の出自分析をすれば「分布域・土地柄・変化・経緯」が判別できるのです。
「家紋・神紋の分析」から観ると、先ず検証できる事は秀郷一門(春日社・神明社)と大きな争いに成らない様にその建立地域は分布していて見事であります。恐らくは秀郷一門との関係もありますが、殆どは”「未勘氏族」が建立して管理していた事から併設を避けた事によるものと考えられ、この傾向はその「神紋」が具に物語ります。「笹竜胆紋の神紋」は極めて稀であります。
ところが、この判別で解釈の判断が付き難い地域があるのですが、秀郷圏の中に居る「土豪」つまりは「未勘氏族・氏子衆団・武蔵7党等」の土地柄であって、秀郷一門としても血縁関係等もありなかなか文句を付けるところまでには成らなかった事が観えて来ます。
(秀郷一門の中ではこれ等との問題の関係調整役は主に進藤氏の役目柄である)
次ぎに「笹竜胆紋」を神紋としているのは平安期のものだけで室町期には無い事ですが、中には疑問のものもあり鎌倉期と室町期の建立で有りながら「笹竜胆紋」を神紋としている「八幡社」があります。
「地理的な条件」」から観て荘園制に絡む「未勘氏族」による建立である事は確実であるのですが、果たして神紋を正当に使用しているかは疑問で、江戸期の神社間の競争激化で搾取変更したのではないかと考えられます。
そもそも関東域の秀郷一門の圏域の中では故意に変更する事はいくら名義を借りているとしても「未勘氏族」でも不可能であった筈です。
「源氏自力建立」(未勘氏に命じた社も含む)と見なされる神紋を含む「笹竜胆紋」の「八幡社」は全体の3割弱程度で頼信系源氏が根拠地としていた「武蔵の北東一部」と「甲斐や駿河」や「神奈川西域」と「下総の一部」(神紋の疑問社は除く)に限定して観られます。

もとよりこの様な背景と経緯の中で、この秀郷一門は元来の彼等の「人生訓」に対して観ても、この事柄に於いても「柔軟性を保有する氏」で有った様で、彼等の圏域の中でも「弓矢の神」の「八幡社」に対して頑なに拒んだ姿勢を示さなかった模様です。
当然に「弓矢」と成れば秀郷一門の「護衛軍団の青木氏」(武家)との摩擦とも成りますし、一方では「特別賜姓族」としての「神明社建立の責務」をも負っているのですから少なくとも放置出来るレベルではない筈で利害関係は有った筈です。
多くの一門との軋轢も生まれていた事が覗えます。しかも、最も多い94もの「八幡社」をも建立しているのです。下記のデータがそれを物語ります。

総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
2.7倍    4.6     1.8

関東域は「八幡社94+神明社115」=209   

関東全域 八幡社 7県- 94-26.5%(全体比)-平均13/県
関東全域 神明社 7県-115-20.3%(全体比)-平均16/県 本家域

八幡社 東京29 千葉23 栃木11 神奈川12 埼玉9 茨城7 群馬3
神明社 東京30 千葉22 栃木14 神奈川11 埼玉15 茨城9 群馬14
 
その勢いとしては、「神明社」は115社-20.3%(全国比)です。「八幡社」も「神明社」共に最高値です。この数字から観ても拒まなかった事や受け入れに柔軟であった事が証明出来ます。
これは圏域内をうまく収める為に一門とも多少の血縁性のある「未勘氏族」と「進藤氏」と「青木氏」との充分な調整が取れていたと考えられます。

(進藤氏は未勘氏族に限らず細部の土豪の領域まで何らかの血縁性を張り巡らしていた事が進藤氏の系譜添書に詳細に出ています。それが原因してか自らの跡目は連続して一門からの養子跡目と成っているのです。それだけ与えられた一門の「氏としての調整役」の役目を全うした事を物語ります。その添書の中に書かれている血縁氏と姓の地理的な分布を観ると、「坂東八平氏」や「武蔵7党」や「関東屋形族]等の大小の土豪集団等との関係を持っていて「関東域」にかなり集中していますが、北の陸奥から西の近江までに及んでいます。これほどの事は他の主要5氏一門の中には見られないのです。このデータの八幡社の所以は進藤氏の功績に依って成されたものです。これが秀郷一門の長く生き残れた基盤に成っていたと考えられます。その役目の為に自らの氏は可也綻びの多い系譜と成っているのが「氏の定め」の物悲しさを誘う。対比して上記の八幡社に代表される「河内源氏の生き様」は同じ賜姓族の青木氏から観ると賛成できないのです。故に敢えてここに進藤氏の生き様を記す。)

この”柔軟さと云うか戦略的と云うか”のこの秀郷一門の「生き様」が「生き残り」を果した要因にも成っているのですが、平安末期に鎌倉幕府が興り秀郷一門は失職しながらも室町期には勢力を盛り返し関東一円の大豪族と成り得ているのです。
この根幹を見失わずに”柔軟さと云うか戦略的と云うか”の生き様があっての事であります。このデータが河内源氏の八幡社に対比してこれを顕著に表しています。
因みにその勢いとしては、八幡社の94に付いては、平均13/県と云う事は郡には2社/郡の割合で建立している事になります。
上記した印象からすると、「弓矢の神・八幡社」としては郡に1社有り無しの程度とも思えますが多く建てている方です。
「弓矢の神・八幡社」は「弓矢の神」である限りは”多くて良い”と言う訳ではありません。これは取り敢えず”「墨分け」はしている”と云っても普通の感覚では秀郷一門側としては無視出来ない数の建立と成ります。
当然にこれに対して、「神明社」115で平均16/県で郡では3/郡の割合と成ると郡に5社とも成れば1社/村となり、ここに「八幡社」と「春日社」が加わるのですから3~4社/村に成ります。

これでは村のいたる所に神社があった事に成ります。「八幡社/神明社」の信者獲得合戦も起こり得る数字と成りますが、この数字は信心とは別に当然に上記した「戦略的意味合い」が色濃く出ていた事が挙げられます。
平安期では2~1/社と成り妥当とも思える状況であったと観られ、この傾向は鎌倉期から室町期に掛けて「戦乱の世」に成るに連れて「未勘氏族・氏子衆団」に依って建立されて次第に増えて行った事に成ります。

「生活の神」「物造りの神」の「神明社」はいざ知らず「民」に取っては「弓矢の神」の「八幡社」は直接は無縁であります。
この事が、”「八幡社/神明社」の争い事を避けられていた”と考えられ「神明社」に匹敵する「八幡社」が建てられた事に成ります。
平安期末期から室町期中期に掛けては「八幡社」は「民」に取っては「弓矢の神」としてだけでは無く、関東域に於いては「清和源氏の勢力拡大圏」である事から、特別に「神明社」の「祖先神」としての「補助的な信仰対象」と成り得ていた可能性があります。
”それは何故なのか”の疑問ですが、特に前段で論じた”「民の農兵制度」が「補助的な信仰対象」と成り得ていた”と考えられます。
平安期末期に於いては「末端兵」は「農兵制度」に依って調達され一つの「徴兵の慣習システム」と成っていたのですから、「八幡社の建立」は「源氏力」(総合的な意)に依って成され、「民」に取っても充分に「補助的な信仰対象」と成り得ていたと考えられます。
しかし、鎌倉期に入り「立役者の源氏」が滅亡しながらも、「武家の世」と成り皮肉にも「武家」の「平家や源氏」が全て衰退し「未勘氏族・氏子衆団」を除く「八幡社建立」の主は無くなった事に成ります。
又、民の「農兵制度」も「武家」の世と成った事から「農兵」が「兵」として身を興す傾向が生まれます。
そしてそれは遂には「下克上」のところまでこれまた到達する変化を起したのですから、「補助的な信仰対象」は「2分化」して行く事に成ります。

「八幡社」は次ぎの様な2分化を起こします。
1 「平安期中期から末期の変化」
「高位の武家」の「守護神・弓矢の神」 →「源氏の力」

2 「鎌倉期以降の変化」
「武家」の「弓矢の神」(侍としての守護神) →「未勘氏族の力」
「農兵と兵」の「弓矢の神」(戦いから「身の安全を護る神」) →「氏子衆団の力」

以上の2分化を起したのです。

平安期の「建立の目的」と鎌倉期-室町期の「建立の目的」とは異なり、前者は「源氏族」が、後者は「未勘氏族」が主体と成って建立していった事に成ります。
関東域ではこの二つの「2分化の胎動」が起ったのです。
確定は困難ですが、関東の94の「八幡社」の内、初期の大半は「清和源氏の建立」(河内源氏)と見なされます。未だ「未勘氏族」が建立を充分に成す力と環境は、勃興する氏の家紋分析から観て充分に無かったと観られ、その力のある「未勘氏族」は数は多くなかったのです
主に鎌倉期以降に世の乱れ行く状況に沿って「未勘氏族」が台頭し依って建立(神明社合祀・守護神替え)が進み、再び「農兵制度」が更に活発に成り故に円滑に受け入れられたのです。
特に秀郷一門の勢力圏の関東に於いては”顕著に成り得ていた”と云う事が云えます。
それは各地に「青木村」を形成しての環境下です。つまり「青木氏-進藤氏」の調整下でその「受け入れ状態」が「4つの青木氏」の「共存共生」の「生き様」の土壌がこのデータの状態94を成し得たのです。

「青木氏-進藤氏の調整」+「受け入れ状態の環境下」→「八幡社94の建立]
豊臣秀吉がこの「農兵制度」を禁止するまでは充分にこの環境下にあったと考えられます。

(「農兵制度」に付いて  「武家」とは「公家」に対しての身分呼称で、江戸期の「武家」の総称とは異なる。平安期は「武士」(侍)と「兵」の身分階級があった。
「武士」は「組織の上下」を持つが、「兵」は「職能集団」で「組織の上下」の関係を持たない。
鎌倉期以降はこれが無くなった。 関東域は平安期は藤原秀郷と清和源氏頼信系の勢力圏域で、「たいら族」は後退し美濃域に引き下がる 前論記述)

「2の九州域」
・「2の九州域」は「基八幡社の発祥地」でもあり北九州が殆どで、福岡の総社宇佐八幡社の圏域から分社が拡がったので多く成っているのです。この地域は「民族氏」の「産土神」の地域柄でそもそも「神明社」の少ないところでもありますが、「3国地域」の「神明社」が「一社分布」と成っていますのでその争い(産土神と祖先神)は無かったと観られます。
ただ源義家は筑前に赴任していますので「八幡太郎」の呼称もありますが、この筑前(福岡)の数字を観ても全体の6割近い八幡社が建立されています。明らかにこの影響を受けての事でありますが、この地域は関東域のこの時代の影響を全て受けた複雑な「経緯と背景」と異なり比較的簡単な「経緯と背景」を持っている事が判ります。
先ずは何と云っても大蔵氏等の絶対的な「民族氏の圏域」であり、前段で論じて来た様に一言で云えば「遠い朝廷」「錦の御旗」「太宰府」の真にその地域です。
丁度、有名な大蔵氏の「春實」から「種材-種輔」まで著しい勢力拡大を九州域に図った丁度その時期でもあります。
この場所、この時期、この氏、の所に「源氏自力」による「八幡社の建立」は難しい筈です。その中に70もの八幡社は何故かの疑問であります。そして、この時期に問題の人物の八幡太郎源の義家が筑前に赴任しているのです。何か匂うものがあります。
九州域は、”「関東域の藤原秀郷の氏」と「清和源氏」の掛け合い”があった様に、同じく”「大蔵氏」と「清和源氏」のこの二つの氏の掛け合い”に成ります。この面では極めて類似しています。
更に、藤原氏の「春日社の氏神」があったと同じくここには「宗像神社」や「阿蘇神社」等の「氏子衆団」の豪族がひしめく地域でもあります。藤原秀郷一門主要5氏が鎌倉期以降にやや遅れて大蔵氏と血縁して勢力拡大をして九州に食い込んで来た時期でもあります。
ただ違う点は下記の通りで「神明社の数」が絶対的に異なる事です。(詳細は下記の神明社で論じる)
それは「関東域の経緯と背景」から観て「八幡社に関わる事件性」や「源氏に対する事件性」がここにも存在し、且つ、この地域は奈良期の早い時期からの「神明社の神域」(詳細下記)であった事が挙げられます。
1と2の地域を比較して観ると次の様に成ります。

2の九州域は「八幡社70+神明社13」=83

総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
1.1倍    0.5     1.3

関東全域 八幡社 7県- 94-26.5%(全体比)-平均13/県
関東全域 神明社 7県-115-20.3%(全体比)-平均16/県 本家域

九州全域 八幡社 8県- 70-19.8%(全体比)-平均 9/県 沖縄含み
九州全域 神明社 7県- 13- 0.2%(全体比)-平均 2/県 西海道

八幡社 福岡39 鹿児島9 大分7 宮崎6 長崎3 熊本3 佐賀2 沖縄1
神明社 福岡9  鹿児島3 大分1 宮崎4 長崎3 熊本1 佐賀1 沖縄1
  
九州域の源氏中でも清和源氏のそのものの勢力がこの地域に大きく及んだ事は「義家と足利氏」の巻き返しの基盤地域と成った地域でありますし、返して云えばその基盤は「荘園制の名義主(本領)」の土地柄でもあります。つまり清和源氏の「未勘氏族」の地域でもあります。
この「未勘氏族」の数を示すデータでもあります。
1番目の関東域は「清和源氏の数」であります。
2番目の九州域は「未勘氏族の数」と成ります。
これは「清和源氏」は西に大きく「荘園名義主」を伸ばした事を示していて、当然に「未勘氏族」の多い事に成ります。関東の足利氏が南北朝の時に一度北九州に敗退して退きますが、この時の「未勘氏族」の勢力に依って勢力を持ち返し再び勝利して幕府を開きます。
この事からも「未勘氏族」の地域である事は理解できます。
筆者はこの地域の「未勘氏族」が”後の「義家の偶像」を作り上げた”と判断していて、上記した様に彼等の守護神の「八幡社」を少し後に「義家の八幡社」と装具立てたのでは無いかと観て居ます。
清和源氏の足利氏が返り咲く根拠もこの「義家の八幡社」の下に「未勘氏族」を参集させたと観ています。兵騎を参集させるには呼びかけだけでは兵騎は集まらない訳で何かの「共通する旗」の下に参集するのはこの「世の常道」であり「戦いの基本戦術」であります。
従って”清和源氏そのものが建立した”と云うよりは「清和源氏の未勘氏族」が自らの集団の纏まりを「八幡社」に求め、その「八幡社」を「各未勘氏族の圏域」に建立して行ったと考えられます。
ここが関東域と違う所ではないかと考えられます。
この風潮が源氏の中でも最大勢力を誇った清和源氏の「分家頼信系義家一門」の「守護神」と思われて行った原因であると考えられます。むしろ”思わせて行った”と考えるべきです。
「源氏の棟梁・武家の棟梁」と持て囃された風潮の所以の一物です。
対比して「神明社」がこの地域に極めて少ないのもこの大きな風潮の中に入り込めなかった原因であろう事が判ります。
何はともあれこの地は「八幡社」にしても「基八幡社」の北九州宇佐神宮大社の地域、「神明社」にしても日向の「天岩戸神社・高千穂神社」の基社であり何れも「総社」であります。
この事から日向が神明社の基社でありながらも建立は殆ど無いわけであり、「八幡社の総社」であるから建立は多いと云う訳だけではない事が判ります。
それを立て様とした必要とした者の数である事に成ります。
つまりその立場に居たのが「未勘氏族」であります。
しかしながらこの九州行きに於いて「総社」である「神明社」は風潮にならず、総社の「八幡社」が風潮に成った如何は、その違いは”「八幡社」と「神明社」の「未勘氏族」の有無の違い”にあったからです。
言い換えれば「未勘氏族」を造らなかった賜姓族と、「未勘氏族」を造った賜姓族の違いであり、皇族としての「立場とその役目」を護ったかどうかの違いであり、「旗頭」に成ったかどうかの違いであり、究極は氏の「生き様」の如何に拠ります。
このデータはこの事を顕著に証明しているデータであると観ているのです。
その意味でこの九州域は八幡社の「持つ意味」や「全容」や「有り様」を示す地域なのです。

「3の関西域」
・「3の関西域」は11代の源氏の「出自元の集積する地域」でありますが、「神明社」との建立地の混合はありません。”「天皇家の神域」を「弓矢の神」を主神としている為に避けた”とも考えられ、「神明社-八幡社」の争いを避けたとも考えられます。「同族としての争い」を避ける事を一応は配慮していたと考えられます。もしこの争いが起る事も考えられますが、最悪の信義は護った事を意味します。
そもそもこの地域は860年の「石清水八幡社」の関係八幡社が殆どで比較的古い建立と成っていますので、その「八幡社の存在意義の有様」を検証するのに重要な地域です。
下記のデーターでも判る様に思いの外少ない事が判ります。
関西域の京都の「石清水八幡社」が九州の宇佐の「宇佐八幡社」より格上であるとする説もあり、八幡社には三大八幡社のもう一つの「鶴岡八幡社」がありますが、「鶴岡八幡社」は時代性と建立の由来から別にして内容を精査するとどうも「2局の系統」に八幡社は判別されると考えられます。
それは上記した「宇佐八幡社」を中心とする「未勘氏族の八幡社」系列と、「石清水八幡社」の「河内源氏一門の八幡社」系列とに分類出来るのです。だからこの「二つの八幡社の格上論」が出てくるのです。
確かに時代性から云って宇佐八幡社が僅かに先であり、それを都の京に分霊して天皇家が祭祀しやすくした事は経緯は否めません。
「清和天皇が「石清水八幡社」を建立したのを慌てて宇佐の八幡社は「ヤハタ神社」から「宇佐八幡宮」と名称を変更したのもこの「系統の本筋」を争っていたからで、宇佐は朝廷が飛鳥からわざわざ赴任させた「神職官僚の大神氏」と後に引き継いだ「土豪の宇佐氏」の氏神的扱いの「ヤハタ神社」で、一方は「石清水八幡社(ハチマンシャ)」は「天皇家の国家鎮魂の祭神」と定められ、その八幡社から下記に示す「関西域の分霊社」が天皇家に依って増設されて行った為に系統の本筋が関西域となる経緯は当然の事であります。
この事が後に「国家鎮魂」から「弓矢の神」へと、「天皇家の守護神」であったものが「河内源氏の守護神」と観られる様に、或いは利用される様に成っていた起点に成るのです。
そしてその経緯の副産物が「鶴岡八幡宮」であり、鎌倉期以降の「未勘氏族」と云うよりは「武士の神」(武神)としての守護神の八幡社とはっきりと変化して行った象徴の八幡社と考えられるのです。

この3大八幡社は次ぎの変化を起こします。
「石清水八幡社」→「国家鎮魂の八幡社」→「天皇家の守護神」⇒「河内源氏の守護神」・「弓矢の守護神」

「宇佐八幡社」→「氏神の八幡社」→「未勘氏族の守護神」⇒「九州武士の守護神」・「「弓矢の守護神」

「鶴岡八幡社」→「弓矢の八幡社」→「河内源氏の守護神」⇒「関東武士の守護神」」・「弓矢の守護神」

(注:「氏神」は下記に定義する枝葉の広い関係族の氏姓の護り本尊の意味)

源氏滅亡の鎌倉期直前からこの3つの八幡社の系列は「未勘氏族の弓矢の八幡社」で結びついて行くのです。(地域に依っては「弓矢の八幡社」→「家内安全の守護神」と変化を遂げます。)

この関西域の八幡社は「石清水八幡社系列」である事は勿論ですが、「河内源氏」と関わっている事から「弓矢の八幡社」と考えられがちですが、実は上記で論じた様に歴史的に860年を起点に祭祀されていますので、「八幡社の本来の初期の守護神の形(存在意義)」が判るのです。
「神明社」の「豊受・五穀豊穣」(生活の神・物造りの神)の守護神」であった様に、当初は「八幡社」はそれは「国家鎮魂の守護神」であったのです。
それが時代背景から八幡社は変化して行った事なのです。
「国家鎮魂」は、飛鳥の「ヤマト王権」の日本の国を始めて一応の「5族連合」の「統一政権」を造ったのは「応仁大王」で、「天皇制」から観ては初代の「国家生誕の統一国家の王」を天皇として定めそれを祭祀する社である事から「国家鎮魂の守護神」と崇められたのです。
平安期に京に都を置く事により「石清水八幡社」は「国家鎮魂の守護神」として累代の天皇から天皇家が祭祀する守護神として扱われてきたのです。

3の関西域  「八幡社52+神明社25」=77

 総合倍率   神明社倍率  八幡社倍率
基準 1-77  基準 1-25  基準 1-52

この地域の「八幡社」と「神明社」のを比較してみると次ぎの様に成ります。
関西域  八幡社  7県-52-14.7%(全体比)-平均7/県    源氏の出自元の集積圏域
関西域  神明社  7県-25- 4.4%(全体比)-平均4/県

この「八幡社の数」は1或いは2の地域と異なり「未勘氏族」ではなく真に「源氏の力」(主に河内源氏)による建立と観られ、その「源氏の定住地」に建立されている事であり、「戦略的要素」のある「八幡社建立地」は少ない事が挙げられ比較的に平地に建立されているものが多いのです。
しかし、上記した11代の源氏が各自建立したと云うよりは次ぎの県別で観ると殆どは清和源氏の「摂津地域」、「河内地域」、「大和地域」、に主に建立されているのです。

八幡社  兵庫24 大阪11 和歌山8 京都4 奈良2 滋賀2 三重1
神明社  兵庫11 大阪1  和歌山2 京都2 奈良1 滋賀3 三重5
(大和は和歌山と奈良に跨る地域)

この事から観ると清和源氏外の源氏10家は「弓矢の八幡社」に深く関わっていなかった事がこれでも判ります。「武家」であっても弓矢に直接関わらない「武家貴族」であった事が伺えます。
10代の源氏の「武家貴族」はそもそも「皇祖神」に繋がる「祖先神-神明社」であって「武家貴族」である事から積極的に「弓矢の八幡社」の方に帰依し変更する根拠は無い筈です。

しかし滋賀2は佐々木氏系宇多源氏 三重1は北畠氏系村上源氏、京都4は「石清水八幡宮」に代表する様に上記した背景から一門に依って源平期に「義家系の一門」に依ってその勢力誇示から建立されたものと観られます。(近江には賜姓佐々木氏がある)
そうすると京都4と滋賀2の数は、次ぎの様な事を物語っています。
上記した八幡社の定義として、”「源氏義家系の未勘氏族の守護神の八幡社」”であって、必ずしも”源氏そのものの「守護神」であると云う定義ではない”と云う事です。
結果、「未勘氏族」が遺した「八幡社の氏資料」で、後に”「源氏の守護神」と決め付けられてしまった”、又は”勢力保持の為にも決め付けられる事を一門は期待し利用した”と云う経緯”とすると、上記した様に此処でも矢張り次ぎの関係式が成り立ちます。

「八幡社」=「源氏頼信系義家一門の守護神」=「未勘氏族の守護神」=「武家の棟梁」=「八幡神」

この京都4・滋賀2には主な「未勘氏族」が存在しない事から「義家一門」が建立して”利用した”を物語る数字です。但し、自分の意思で建立したかは検証を要する事と成ります。
そこで、先ず歴史的に観て、殆どが「清和天皇」が860年に建立したとされる「石清水八幡社」の関連社(離宮八幡社等)の由来のある八幡社ある事です。
中でも、「河内源氏」の問題の「源頼義」が「後冷泉天皇」(1045-1068)からの勅命にて「石清水八幡社」からの霊験を自邸に移して建立したとされる「若宮八幡社」があり、又、同じくこれを河内に勧請した「壺井八幡社」があります。
この記録の通りこの頃(860年~1000年-1045)は未だ「天皇の勅命」による建立であって、その目的は何れも「国家鎮魂の為」とする記録がありその「存在意義」であって、それを勅命により「河内源氏」が積極的に建立した事がこの「京都4と滋賀2の八幡社」である事が判明するのです。
実は諸々の資料から1010-1050年の間の50年程度には、「天皇家の勅命」とは別に社会にはこの経緯から如何にも「河内源氏の守護神」であるかの様な漸次の風評期間があった事が確認できるのです。
結局は、1000年直後までは「弓矢の神の八幡社」では無く「国家鎮魂」の「天皇家の祭祀神」として存在していたのです。
それまでは「弓矢の神」の存在意義は全く無く、その後の上記した様に”この経緯を利用してこれを発展させた義家”の行為と見做されるのです。そして、それに大きく関わったのが河内源氏の「頼義-義家」であった事に成ります。
この「経緯と記録」からも明確で、「勅命」に依って建立された「石清水八幡社関連の八幡社」でそれを「清和源氏」(河内源氏)が「勅命」を受けてその守護地に建立したものが殆どなのです。

「摂津地域」と「大和地域」は「宗家頼光一門」と「分家頼親一門」が「勅命」で「国家鎮魂」の目的で建立したもので「氏の守護神」とした建立では無かった事がこの関西域の考察で良く判ります。

そうするとこの「八幡社の環境下」の中で果たして「神明社」がどの様な事に成っていたのか気に成ります。恐らく建立には何らかの関係があった事が考えられます。つまり直接八幡社として新規に建立したのかどうかの検証です。
「神明社」に付いて三重5は「皇祖神」の地元であり前記「19の神明社」を建立した経緯からこの数字は納得できるものですが、しかし、兵庫11は「近江青木氏」が建立したとするには問題があります。
何故ならばそれは”神明社を建立するには近江青木氏の経緯”に問題があるのです。
そもそも平安初期に「近江青木氏」は近江にて「近江佐々木氏」やその系列の「佐々木氏系青木氏」との同地域内での「勢力争い」のような事が起こり、その為それを避ける目的で近江青木氏は一時滋賀に移動していて、後に近江に戻ると云う経緯があるのです。その後、「摂津源氏」の保護の下に摂津に移動定住します。この背景があり「源平の戦い」で合力して潰され、その後、美濃に逃亡し同族の「美濃青木氏」と共に「富士川の激戦」で敗退して滅亡し一部末裔が攝津に逃げ延びた経緯を持っています。

この様に源氏と共に最も早く滅亡に近い衰退を起した事から、この兵庫11を興す勢力は無かったと考えられます。
これは「摂津源氏」の「清和源氏の宗家頼光系四家」により建立されたか、或いは「近江佐々木氏」かその「佐々木氏系青木氏」かが何らかの事由(勅命)で建立した可能性が高いのです。そしてその神社は「神明社」の可能性が高いのです。
現在ではその判別は、社遺が古すぎる事から「初期の創健者」が不明な神明社が多く困難なのですが、ただ「八幡社」としては共に頼光系宗家筋が建立していた事を示すデーターが6~8の八幡社と成ります。
実はこれ等は記録があるもので観ると、極めて古く750~1025年までのもので、「創建」と云うよりは「朝廷の命」により「管理・維持・建て直し」を命じられたものが多いのです。
その多くは「摂津源氏」の「荘園」、或いは「領地」の中に存在するものが多いのです。

前段で論じた大化改新の「19の神明社」と共に、
奈良期から平安初期に建立された[自然神の祭祀社屋」や、「産土神の祭祀社屋」や、日本書紀にも書かれている「風神雷神の祭祀社屋」を、平安期初期から平安中期には「神明社」に変換し、その後の平安末期から平安後期には更に神明社から「国家鎮魂の八幡社」に変換させる事の勅命がこの2つの氏の何れかに下されそれを護ったものと観られます。
これは時代背景が大きく左右したと考えられますが、記録が一部を除いて完全に消滅しているのです。
ただ古くて幾つかの遍歴を遂げている事が「断片的に遺されている社資料」などや「伝統行事の内容の検証」など「地域内の他の社殿」とその「社殿の配置関係」を対比考察すると判る範囲です。
この平安期には社殿の建立は全て中国から伝来した「方位学や陰陽学」等を使って建立されているのです。ある程度の条理を以って無秩序には建立されていないのです。それから観ると、「地域内の他の社殿」とその「社殿の配置関係」は重要な要素なのです。
記録が消失していると観られる他の社殿にはこの「方位学や陰陽学」の何がしかの関係がある事が伺えるのです。
そうすると、次ぎの遍歴がある事が判ります。
「祭祀社屋から神明社」に
「祭祀社屋から八幡社」に
「神明社から八幡社」に、
この「3つのパターン」がある事が判ります。
しかし、何がしかの条理があった歴史的な祭祀社屋からのもので、新規に「八幡社の建立」は室町期中期前には確認できません。
又,この「3つのパターン」がどの神社に当てはまるかは古くて資料記録が無く断定できる程に確認が取れません。
しかし、その証拠としてこの中には「地域内の他の社殿」として明らかにこの「経緯」を辿り「勅命」で修復や再建した事の記録が残されているのです。

因みに「八幡社」と成ったものとして「魚吹八幡社」、「宗佐厄神八幡社」、「多井畑八幡社」、「柏原八幡社」、「松原八幡社」、「波豆八幡社」等があり、これ等は上記の「勅命・条件・経緯」を持っている事が記録から出て来ます。(詳細は論外の為別途)
従って、他の八幡社も多くは古くありながらもその経歴が消滅しているものが多く、形式上は現在は「村社、県社」扱いに成っているのです。つまり「氏社」は全く確認出来ないのです。一般の「氏の守護神」では無かった事を意味します。記録が無いだけで「村社や県社扱い」に成っていると云う事です。

とすると、この関西域の「八幡社の兵庫24」と「神明社の兵庫11」は、少し違う事と成ります。
そもそもこれ等の「弓矢の八幡社」は「義家」後の「八幡社」である事から、この「八幡社の兵庫24」は主に当初は「神明社」として建立されていたのではないかと考えられます。
併せて「神明社35」であった可能性が考えられます。
その意味で「兵庫の八幡社」は、その後、朝廷はもとより「戦国の世」と成って行って「建立者」や「維持管理する氏」が滅亡していった事から、当時の幕府は時代の背景から一部「神明社」を「弓矢の八幡社」に変更して行ったと考えられます。
その根拠としているのは、「八幡社」の3大八幡宮の「宇佐八幡宮」、「石清水八幡宮」、「鶴岡八幡宮」と共に、これ等の35の社は「合祀-八幡神」の経緯の中で変更された可能性が充分あり、「関西域の八幡社」には他の地域には少ない「合祀」が多いのはこの傾向があった事を物語ります。
「合祀」に依って「生活の神」「物造りの神」と「弓矢の神」の2つが合祀される事で全ての民からの信仰を集める事が出来る事に成り、「建立主」と成っていた「清和源氏」の衰退滅亡後の寄進による神社経営を救ったと考えられます。
ここが「未勘氏族」が主体と成った建立地域ではなかった「特別な神社経営の事情」がこの地域にはあったのです。
そうなると、「源平合戦」の初戦「以仁王の乱」(1180年)の主謀者の「頼光系宗家4代目源三位頼政」までの期間の建立・再建と成ります。
「八幡社」としては「1050年頃」からとすると、「乱後の130年間」と「乱前の200年間」で「合計330年間の神明社の建立期間」と成り、「兵庫の神明社35社」は1社/10年とすると充分に建立は可能と成ります。

「大和源氏」の頼親系は兄の頼光に慕っていて同一歩調を採ったとされているので、大阪11、和歌山8、滋賀2の八幡社は神明社では無かった可能性が高く、52の内の21は八幡社で有った事に成ります。

依って、この関西域に於いての31(52-21)の「八幡社」は元は「神明社」であり、純粋な「神明社25」と併せて56/77は「八幡社1050年」を基準として基準前の「250年間の神明社」(嵯峨期809年 前期2)と「大化期から嵯峨期までの150年間の神明社」(前期1)の「400年間の神明社」-この2期間を「前期」とすると神明社は「前期25の建立」と成ります。

「150年間の神明社」(前期1)-「250年間の神明社」(前期2)-・「八幡社1050年」→「神明社-25」

・「八幡社1050年」-室町期中期までの400年間(後期)→「神明社-31」

「八幡社1000年」→「守護神」の風評開始  
「八幡社1050年」→「守護神」の風評定着→「弓矢神」の風評→「河内源氏」
「八幡社1090年」→「弓矢神」の風評開始
「八幡社1099年」→「弓矢神」の風評定着


そうすると「八幡社1050年」の基準後から室町期中期までの400年間を後期とすると、この後期は神明社は31/52に分けられる事に成ります。つまり純然とした「八幡社は21/52」と成ります。
関西域に於いては「八幡社は21」であり、清和源氏分家頼信系義家一門の「勅命」による「自前の建立」と成ります。
従って、「神明社」はこの地域では頼信系を除く「源氏」や「2つの青木氏」の「賜姓族」による「56の建立」(25+31)と成ります。
「神明社」はこの関西地域では全体の丁度1割を占める建立をした事に成ります。
この関西域の検証は時系列的に観ても上記の経緯を辿った事が充分に証明できます。

「4の中部域」
・「4の中部域」は関西域とは少し違った経緯を辿って言います。
この「4の中部域」は「賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」の重要拠点でありますが、ここは「清和源氏宗家」の「頼光系四家の国司代の圏域」でもあり、この宗家筋は「3つの発祥源」として”同歩調を採っていた事”や「濃い同族の血縁関係」がある為に「神明社-八幡社の競合」は起らなかった土地柄です。
むしろ”起らなかった”と云うよりは”起る事はなかった”と云った方か正しい事でしょう。

総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
3.5倍    8.5     1.3

この4の中部域の状況は次ぎの様に成っています。
4 中部域 八幡社 8県-52 -14.4%(全体比)-平均7/県
  中部域 神明社 8県-212-37.5%(全体比)-平均27/県

八幡社 愛知14 静岡12 岐阜12 富山5  福井3 山梨3  長野2  石川1
神明社 愛知33 静岡18 岐阜31 富山33 福井8 山梨72 長野15 石川2

この中部地域の「八幡社」と「神明社」のデータを比較すると、上記1、2、3の「3つの地域」とはその比率が完全に逆転しています。八幡社<神明社の状況です。その差も大きいのです。その大きい理由がこの中部域にあるのです。
この地域は先ず「皇族賜姓族」と「特別別賜姓族」の「2つの青木氏」の勢力圏であり、尚且つ秀郷一門の勢力圏であったのです。その中で全ての「頼光系四家の国司代の圏域」でもありました。
しかしながらこの地域の「八幡社の数」を観てみると左程に「源氏の勢力圏」では無かった事を物語ります。
更に云えば、前記した様に「頼光系四家」は「八幡族」では無かった事を述べてきましたが、清和源氏力が最も強かったところです。「八幡義家の祖」である「頼信」は兄の「頼光」からこの地域の勢力を借りて坂東に伸張していって伊豆に第2の拠点を設けて勢力を拡大した基拠点となったところです。
摂津を発祥拠点として「藤原道長」の四天王と呼ばれた程にその勢力を背景に中部地域に清和源氏の勢力拠点を築いていた所です。その守護職はこの圏域の11の地域を務めた地域でもあるのです。
しかし、その割には「八幡社の数」が少な過ぎます。
真に「源氏の勢力圏」ではなかったと観られる程度にそれを物語ります。
頼信系が「八幡族」として勢力を持ちえたと云えどもその勢力を遥かに凌ぐ清和源氏の宗家の「最大の拠点と成る地域」であります。此処なくして頼信系の関東の勢力圏は軍事戦略上、「摂津拠点」から関東の間の中間を抜かれた戦略形態と成り「伊豆拠点」と「関東拠点」は成立しません。
(伊豆は頼光系四家宗家の最大所領地 この東隣に頼信の伊豆前線拠点を設けた)
それ程の戦略上の最重要拠点地域でもあります。
”では果たしてこの「八幡社」は何なのか”と云う事に成ります。
この中部地域は「神明社」に於いて全体の4割に近い勢力を誇っており、県内平均27とすると郡内に5前後の「神明社」が存在し、村には1社必ず存在する地域と成ります。
そこに「八幡族」でない「八幡社」が郡に2社程度とすると2村に1社がある事に成りますので、この2つを合わせると1郡に7社で1村では2社程度の勢力圏と成ります。
ここに秀郷一門の春日社が建立されていますので1村で3社~4社は必ずある事に成ります。
1村に3社~4社の守護神がある事は、当時の人口が現在の1/4とすると守護神が過飽和状態に近い状況であった事を物語ります。とすると、この状況からそもそも「弓矢の八幡社」の「存在意義」は「村民」に採って意味を成さない筈です。
兎も角も、そもそもこの地域は、飛鳥から奈良時代に掛けて日本書紀にも書かれている様に、後漢の阿多倍王が率いてきた職能集団が入植した最大の地域なのです。
従って、「生活の神」「物造りの神」に対する「心の拠り所」としての「守護神の意義」は他の地域とは比べ物にならない程に高い意識があったのです。その様な環境の中に「弓矢の八幡社」が平安末期に入り込む余地は少なかった筈で、あったとしても「弓矢の意味」では無かった事を意味します。
その証拠にこの地域は「神明社」が全国比4割を占めている環境なのです。
民は「生活の神」「物造りの神」の意識が特別強かった事からこの「日本一の数字」を示しているのです。

そこで「上記の環境下」ではこの212の4割は少ないと考えられ、5割程度前後の神明社が集中していなければならない筈です。(下記の「圏域の勢力数」の表から計算できる 計算では神明社47%が妥当)
この状況の中で、上記データでは「生活の神」「物造りの神」が主導し「弓矢の神」は1/4程度と極めて勢いは無かった事を証明しています。
では”この「八幡社」は一体何なのか”の疑問は、そうなると”八幡社であって八幡社でなかった”と云う事に成ります。”「八幡社」の形を整えていたが「八幡社」ではなかった”と云う事に成ります。
では、”どの様な「八幡社」なのか”と云う事に発展します。
この地域の「八幡社」は「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」と「頼光系源氏」と10源氏の内の「4つの源氏末裔」の勢力圏の中にあり、「弓矢の頼信系源氏」とその「未勘氏族」が「弓矢の神」としての「八幡社の守護神」を公然と建立する事は出来たかは大いに疑問で、論理的に不可能と考えられます。
従って、結論はこの地域の「八幡社」は”弓矢の特徴を下ろしていた”と云う事に成ります。
故に、この中部域の「八幡社」は、「弓矢の神の守護神」だけではなく、全体化していた環境の「生活の神」と「物造りの神」の「守護神」の中では、「中間の曖昧な機能」を果たしていたと考えられるのです。
つまり、「合祀」乃至は”「神明社化した八幡社」”であった筈です。
何故そうなったかは上記する環境下にあった事は勿論の事、それは多少は”「民の必然性」がそれを後押しした”と考えています。
つまり、平安末期以降(1023年以降 農奴と部曲の開放)に前段で論じて来た「民」とりわけ「農民の役割」にあったのです。それは”「農兵」が新たに出来上がって行った時代”であったのです。
それまでは、「戦いの担い手」には「2つの身分階級」があったのです。

それは「武家」の呼称と「兵」の呼称とに依って構成されていたのです。
「武家」を構成する「武士」は、組織化して上下の関係を保有した武装集団。
「兵」は上下関係を有さず組織化せず職能集団化した「武装兵団」
以上2つに分けられていたのです。

「源家勢力」は「武家」軍団側で「融合氏」集団で「未勘氏族」を従えた組織集団です。(祖先神)
一方は「平家勢力」は奈良期から阿多倍一門が率いてきた「兵の職能集団」(漢氏、東漢氏、物部氏等)を配下に従えた側で「たいら族」や「大蔵氏」等の「民族氏」集団であったのです。(「産土神」)
「源平」は外見から同じ様な「武装集団」と見られがちですが、実は前段でも論じてきました様にそもそもその「基盤構成」は異なっているのです。
然し、時代は次第に乱世へと突入し何時しか世は「下克上 戦国時代」へと突入して行くに従い、この「武士」と「兵」の「2つの集団」では間に合わなくなり「農兵」が生まれて来たのです。
この半職業化した「農兵」は「弓矢の場」に赴くに従い彼等の「心の拠り所」の「生活の神」と「物造りの神」の「日常の神」に、”「弓矢」から身を護ってもらえる「神明社」”を要求して行ったのです。

そこで、「神明社」は次ぎの何れかの守護神の形を採る様に成ったのです。
”「八幡社」を合祀する形を採る「八幡社」(合祀八幡社)”
”「神明社的な形を採る八幡社」(神明化八幡社)”
以上の形として変異させたかの何れかの守護神の形を採ったのです。

これがこの中部域の「37%程度を占める神明社」と「15%程度を占める八幡社」の実態なのです。

そこで地域8県を検証すると次ぎの様に成ります。
1 愛知14と静岡12は特別賜姓族の「専圏区域」、
2 岐阜12と長野2と山梨3は皇族賜姓族系列と頼光系源氏の「融合区域」、
3 福井3と富山5と石川1は4つの源氏末裔族と皇族賜姓族の「共存区域」
以上の様に中部域の小地域(県)に依っては「八幡社の分布」は「3つの区域」に分類出来るのです。

当然に、この特色の持った「3つの区域」の「八幡社」は上記する「合祀八幡社」か「神明化八幡社」の傾向が明確で全てとは云い難い所はあるが一つの傾向を示しているのです。
A 「1の専圏区域」-「合祀八幡社」      
B 「2の融合区域」-「神明化八幡社」
C 「3の共存区域」-「合祀八幡社+神明化八幡社」

Aは富士川の激戦地で「美濃賜姓青木氏と土岐氏系青木氏」、「近江源氏と近江賜姓青木氏」、「美濃源氏」、「駿河源氏」、「木曽源氏」等の「賜姓源氏」と「賜姓青木氏」が終結して敗退し滅びた区域でもあります。
この地域には「秀郷一門」と「特別賜姓青木氏」が残りその勢力は最大勢力を誇っていた場所である事から「神明社」を建立すると共に、秀郷一門の「春日社」も共存する柔軟な圏域でもあった事から「八幡社」をも公然と建立し、その運営を柔軟にする事から「生活の神」と「弓矢から護る神」のどちらかのご利益が働く「合祀」の形の「八幡社」が多く観られるのです。

Bは奈良期から平安中期(800年頃-桓武期)まで「賜姓青木氏」の守護地であった事と、その後に「清和源氏宗家頼光」が各地(11)の守護代、国司を務めた政治的、戦略的な重要な区域であったところです。
「3つの国」の「賜姓青木氏」と同族血縁して「清和源氏宗家」と、奈良期から居た「賜姓青木氏3家3流」が融合した区域であって、此処には「特別賜姓青木氏」も「秀郷一門」も強く勢力圏を保持しなかった中間区域でもある事から、「神明社化した八幡社」の融合の形を採っていた区域であります。
特に「弓矢」そのものより戦乱の世から「家族身内の身」を護ってもらえる「守護神」でもあり「生活の神」「物造りの神」の守護神でもある形を採っていたのです。
その後のこの「地域の形」が室町末期から江戸期には「八幡社」は「神明化八幡社」が共通の形と成って行ったのです。
「世の中の安定」と他の「守護神との競合激化」も合わさって一種の「総合神社」の様相を呈して行ったのです。

Cは他の賜姓源氏と嵯峨期の詔勅に基づく源氏族が「源平の争い」から逃避して定住した地域でもあり、「賜姓族青木氏」の「足利系青木氏」や「武田氏系青木氏」や「諏訪氏系青木氏」等が平安中期から室町中期にかけて「争い」から遠ざかる為や「戦い」により逃亡して来た地域の「移動定住地」でもあったのです。
この「移動賜姓族」と目される末裔は「融合」を起さず「自然衰退」や「断絶」や「滅亡」が起った地域でもあるのです。
中にはこの区域から鳥取米子から島根東へ移動した一部の「賜姓族青木氏」や「讃岐籐氏の青木氏」を頼って高知に移動する等の流れが起りました。又、北には更に越後の「秀郷流青木氏」を頼って逃げ延びている通過経路とも成っていたのです。
ここに定住した賜姓源氏の逃亡末裔や嵯峨期詔勅の皇族源氏が「地元の血縁性のある未勘氏族の力」も得て「神明化八幡社」か「合祀八幡社」を建立して生き残りを図ったと観られます。
実はこの地域の「神明社」や「八幡社」の神職には青木氏と佐々木氏が実に多いのです。
実はABCの判別にはこの「神職のルーツ」が判別要素の一つとして用いたのですが、この区域は特にこの傾向が顕著であったのです。
この「Cの区域」は他と異なる点は「地元の血縁性のある未勘氏族の力」を利用した形跡があり、恐らくはこの力を利用し切れなかった一部の青木氏や源氏の賜姓族が西と北に更に定住先を求めて移動して行ったと考えられます。

問題はこの「地元の血縁性のある未勘氏族の力」なのです。
1000以上もあると云うか数え切れないと云うか、この「未勘氏族」と観られる族を全国各地に振り分けて、これに家紋群で貼り付けそれを「賜姓源氏」と「皇族源氏」と其の他の本領と成った豪族毎に分けて行く作業を行い研究し考察すると、その全体の傾向が掴めてきます。
その内、清和源氏の占める割合は全体の8割弱を占めますが、この研究(何時か論文で発表)からこの「Cの区域」の「未勘氏族」を観ると、次ぎの様に分けられます。
「清和源氏外の源氏の未勘氏族」(A)
「賜姓青木氏族の未勘氏族」(B)
前段で論じた「2つの絆族」の「薄い外縁未勘氏族」(C)
或いは「家臣による青木氏未勘氏族」(D)
以上4つで占められているのです。

然し、これ等(A)(B)(C)(D)の「未勘氏族」は平安末期の源平の戦いと、室町期の「下克上と戦乱」で滅亡衰退して行き、或いは裏切り、結局はこの「Cの区域」に逃げ込んだ賜姓族は西と北に再び移動せざるを得なかった事が判ります。

この事からもこの区域の「八幡社」は殆ど”「合祀八幡社」”や”「神明化八幡社」”と云うよりは、”「八幡化神明社」”と最終は流動的で室町中期から室町末期には成ったと考えられるのです。
恐らくはこの区域での傾向として
賜姓源氏系は佐々木氏で「合祀八幡社」、
賜姓青木氏系は「神明化八幡社」
以上にとに判別できるのです。
それはこの神職青木氏が越後-陸奥にまで大きく血縁して全国的にも「神職青木氏」の多い所だからでそれを証明しているのです。
全体としてもこの傾向は観られるのですが、この「中部域の神職」は相互に重層な血縁関係を結んでいる事が上げられます。
この意味からもこの「中部域の八幡社」は全国最大の「神明社帯」とも云える神明社群の中で「合祀八幡社」と「神明化八幡社」の成行きは納得出来るものと成ります。
この事は前段でも論じた「青木氏の職能集団」との関わりも大きく影響していた事が云えます。
この事は下記の神明社の処でも論じる事に成る重要な事柄です。
(前段の論説には大きく関わる領域ですので想起して下さい)

結局は、このこの中部域は「神明社地域」と観ていて、元来は「神明社」と「八幡社」を合体合計した「264の神明社域」であったと考えています。
中部域の「神明社の数」が「神明社」と「八幡社」のこの合体合計264とすると、上記する「5割域の分布」の自説は「46.6%の計算値」と成り予測とほぼ一致して納得出来る論説に成ります。

この地域では「弓矢八幡社」系の「頼信系源氏」とその「未勘氏族」は全て平安末期の「源平の初戦」の「富士川の激戦」で滅亡衰退している事から「弓矢八幡社」の意味合いはそもそも著しく無く成っているのです。
前段で「平家織田氏の処域」で論じた様に、後に室町中期以降の勃興した武田氏が通説と成っている「頼信系源氏の河内源氏」の傍系を主張しているがその自説由来の経緯は疑問です。
つまり、「頼光系源氏」と「4つの賜姓源氏末裔」と「皇族賜姓青木氏3家3流の勢力」と、藤原秀郷一門の「第2の宗家」の「特別賜姓族の勢力圏」であった事が良く判ります。
依って、筆者は”264(212+52)が中部地域の神明社の実質の勢力である”と観ているのです。

鎌倉期から室町期中期には「源氏力」、又は「未勘氏族の力」がここまで及んでいなかった事が判り、「関東の戦略的前線」としての地域には「頼朝の源氏幕府」が元来より「浮き草」の上にあった事も良く判ります。
その意味で「美濃」での「源平の初戦」は大きな意味を持ち、「近江源氏」と「美濃源氏」と「駿河源氏」と「木曽源氏」等の周辺の源氏主力が此処に終結して、敗退して滅亡した事は大きな意味を持っています。
つまり「源平の勢力圏」の丁度、「間」に合ったことに成り、その「間」は同時に「神明社」の最大勢力圏であった為に平家側には富士川で大乱と成り、源平共に崩れて行った地域であったのです。
「八幡社の勢力」と「神明社の勢力」が合体して戦ったとしたら互角の勝負に成る事は良く判ります。
「八幡社族の源氏」と「其の他の源氏」と「3つの地域の神明族」がこの時に史実として参戦しているのです。その「八幡族」と引きずり込まれた「3つの神明族」は滅亡してしまったのです
それを証明するこれが「八幡社と神明社」の対比データです。
しかし、それにしても「神明社212」に対して「52の八幡社」は少ないのですが、「関西域の52」と同じ規模の「八幡社」をこの地域で有しているのです。
この「地域の規模」を「八幡社+神明社」の「数」をパラメータとするならば、「源氏11家」と「皇族賜姓族、特別賜姓族」の本拠地でもあった「関西域77」に対して、「中部域」は何と264と成り、「約4倍の勢力圏」であった事に成ります。
「都地域の約4倍」にも成る如何に大きな力を秀郷一門は持っていたかが判ります。

そこで「神明社と八幡社」を全体で観てみると、「関西域の77」(都域)を1として観て見ると次ぎの「勢力分布」を観る事が出来ます。
関西域は「神明社と八幡社」の「成立ちや有り様」が標準的な要素として存在していた事からそれを基準として全国のデータを観て観ると事は客観的な判断に成ります。

そうする事により「2つの青木氏」の「全ての姿」を物語る極めて重要な結果が出るのです。

圏域の勢力数                        総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
1の関東域は 「八幡社94+神明社115」=209    2.7倍   4.6    1.8
2の九州域は 「八幡社70+神明社13」=83      1.1倍   0.5    1.3
3の関西域は 「八幡社52+神明社25」=77       1      1      1
4の中部域は 「八幡社52+神明社212」=264    3.5倍   8.5    1.3
5の東北北陸域は「八幡社38+神明社97」=135   1.8倍   3.9    0.7
6の中国域は 「八幡社24+神明社9」=33       0.4倍   0.4    0.5
7の四国域は 「八幡社21+神明社10」=31      0.4倍   0.4    0.4

(この神明社の詳細分析は下記に論じる)
前段で論じて来た青木氏に関する内容の根拠はこのデーターを引用するところが大きいのです。
そして、この「最大の勢力圏」を誇る中部域は、更にはこれに留まらず東の後側に本拠地の「1の関東域」2.7倍を控えているのです。更には「5の東北北陸域」1.8倍を控えていて、都に比べて約合計8倍の如何に「絶大な勢力圏」を保持していたかが判ります。

「神明社」だけでその勢力圏を観た場合に、都に対して矢張り中部域に8から9倍の主力があり、その後ろに本拠地の4倍の勢力を控え、東北北陸域には4倍の勢力圏を保持していた事が判ります。
これは何を物語っているかという事ですが、この分布は「2つの青木氏」の「勢力分布」にも成り、青木氏の勢力外の「末裔分布」の状況・在様をも示している事に成ります。
この傾向は八幡社を加えた総合倍率から観ても全く同じ倍率分布を示しているのです。

次ぎの関係式が成り立ちます。
総合倍率≒神明社倍率=「青木氏の勢力分布」=「青木氏の末裔分布」

「神明社の勢力分布」は「青木氏の末裔分布」に完全に合致し、更にはその「青木氏の勢力分布」をも示し如何に正しい事かを意味します。

「八幡社倍率」から「八幡社」だけで観た場合に都に対して大きく差が無く、ほぼ均等に勢力圏を広げ、その力は「神明社」の力に対して25%(1/4以上)以下の差があった事に成ります。
「八幡社の分布力」は「頼信系清和源氏」の「勢力分布」であり「末裔分布」をも示しています。
それは九州域-(中国域)-関西域-中部域-関東域が1~2の中に在りここに「清和源氏頼光系四家」の勢力圏が入っていない事が判ります。八幡社を守護神にはしていなかつた事を証明しています。
仮に入っていたとすればその勢力圏であった基圏域の関西域の1とする「基数字77」は高くなり最大の勢力圏域の中部域はもっと1.3から1以下に低くなる筈ですし、北陸域も一部勢力圏であった為に0.7より0.4程度にそもそも成っている筈ですがそうでは無く、「義家の歴史の行動史実」と数字は一致します。
つまり「清和源氏頼光系四家」は「八幡社」を守護神にしていなかった事を示します。
その分「神明社倍率」の数字は「賜姓族と特別賜姓族」の「2つの青木氏」の成す倍率以上のものがあるのは「清和源氏頼光系四家」の神明社の分が組み込まれているからです。
これは次ぎに論じる「神明社の処」の論処で更に詳しく物語ります。

「頼信系清和源氏源氏」とその「未勘氏族」の勢力と、「2つの青木氏」と「他の源氏力」の勢力には4倍の差があった事を物語ります。

「頼信系清和源氏源氏力」+「未勘氏族の勢力」<「2つの青木氏力」+「他の源氏力」=1<4
「八幡社」<「神明社」

しかし、この神明社の勢力には弱点が在った事を示しています。
中国と四国と九州域(0.4~0.5域)には殆ど勢力は無かった事が示されています。
「青木氏」、つまり「神明社」は”勢力が東に偏っていた事”を物語ります。これが弱点です。
この0.4を勢力と観る場合、四国の讃岐籐氏の「讃岐青木氏」と「阿波青木氏」と一部「土佐青木氏」の勢力と観る事が出来ます。
同じく、0.4の中国は讃岐籐氏の「出雲青木氏」と鳥取米子の「足利氏系青木氏」の勢力と観る事が出来ます。
0.5の九州は北九州3県の分布の秀郷一門の「肥前青木氏」の「末裔の勢力」と見る事が出来ます。(下記に論じる)
又、「青木村」を形成した「日向青木氏」は下記に論じますが「神明社」を建立する勢力は無かった事が判っています。
以上「2つの青木氏」が分布する地域がこのデータに漏れる事無く完全に合致し、その「末裔分布力」、又は「勢力分布」として数字的に表現出来るのです。

この結果、「八幡社の役割」は、「清和源氏分家頼信系義家一門」の「八幡社」であった事で、地域的にも、勢力的にも、期間的にも、「神明社」のそれに比べて1/4程度に小さく、元より大きな働きは無かった事が云えます。
明らかに「弓矢の八幡」としての役割に終わった事が云えます。
源氏滅亡以降は各地の武士、特に九州域と関東の南域による「未勘氏族」により支えられていた事を物語ります。

「中部地域の八幡社」は、結論として「合祀八幡」乃至は「神明化八幡」であった事に成ります。
「八幡社」のその「存在意義」は次ぎの様な変異を地域的に遂げている事が判ります。
これは次ぎに論じる「神明社の論処」でも証明する事が出来るのです。
西から北に掛けて次ぎの変異の存在意義であったのです。

地域に於ける「存在意義の変異」
「八幡社」(九州域)→「混在社」(中国域・四国域)→「合祀八幡社」(関西域)→「神明化八幡社」(中部域)→「八幡化神明社」(関東域)→「神明社」(東北北陸域)

注:「混在社」とは「八幡社」と「神明社」が同率で変異せずに低率で混在していた事を示す。

上記のフローから「九州域の八幡社」から「東北北陸域の神明社」へとその「有様」が次第に「地域変化」を起こしています。真にその中間が「関西域の有様」であったのです。
そして、「九州域の未勘氏族」から「北陸東北域の民衆」の「有様」で合った事なのです。
これは「地理的要素」と「歴史的要素」の「2つの違い」から来ているのです。
上記の「存在意義の変異」を参考に殆ど「神明化した北陸東北の八幡社」に付いて次ぎに論じます。

「5の北陸東北域」
・「5の東北北陸地域」の状況は次ぎの様に成っています。
そもそもこの地域は歴史的経緯として「親神明社」と云うだけでは無く、更に強烈な「反八幡社」の土地柄なのです。
この「民の心情」は歴史が長く古くは奈良期から始まり「蘇我馬子」の攻められ「蝦夷」と蔑まれ、その平安期初期(802)には「アテルイ騙し討ち事件」が起り、平安初期に掛けては「国家戦略」としてこの地域を征討し、その安定化の為に「朝廷の威信」を掛けて「神明社建立」を推し進めた地域でもあります。
この「未開の蝦夷地の征討」とそれに合わせた「安定政策」が実行された苦い経験を持つ土地柄です。
前記した様に「皇族賜姓族の神明社建立」から代わって「桓武天皇」による「皇祖神」に変わる「神明社建立」がこの地に推し進められ、「征夷大将軍の坂上田村麻呂」(806年)の丹沢城建設と共に勅命による「神明社」を20社程度も建立した特定の地域なのです。
平安中期に入りこの地域は「阿多倍一門」の「内蔵氏一門」と「阿多倍」の末孫の「阿倍氏」の末裔圏域であって、その安定した地域を八幡太郎と呼ばれる「源義家」が未勘氏族発祥の基と成った「荘園制」を利用して、これ等の末裔子孫の「安倍氏」や「阿倍氏」や「清原氏」等の末裔子孫を制圧して、そこから「敗残兵」や「土地の農民」を集めて「奴婢」として各地の「未勘氏族」の「義家の荘園」の「働き手」として送り込んだのです。
これ等の「やり過ぎ事」が原因で「朝廷」や「北陸東北の民」からも「源義家」が疎んじられ排斥された経緯を持っている土地柄です。
この事が全国的な暴動に発展した度重なる苦い経験を持った地域なのです。(この経緯は前段で論じた)
この様な「反清和源氏」に対する激しい反発感情の土地に「弓矢の神」八幡太郎の「八幡社」などは到底建立する事等不可能です。
弓矢の「武士や兵」は勿論「民」までが700年に近い苦い経験の下に興った「反八幡社」なのです。
しかし、「神明社」は「桓武天皇」の征討後の「政治的で戦略的な神明社建立の目的」ではあったが、「神明社」から主導する「生活の神」「物造りの神」としての働きが「民の心」の中にやがて浸透し「心の拠り所」として受け入れられたのです。
そしてその立役者がこの地の為政を任された「藤原秀郷一門の鎮守府将軍」としての「政治的な働き」が有って「親神明社」へと傾いて行ったのです。
その主役が「秀郷流青木氏」であり、「第2の宗家」でもあり、即ち「特別賜姓青木氏」としての「3つの立場」が「神明社の役目」を全うし民の心を安寧に導いた地域でもあるのです。
そもそも「特別賜姓族」はその「土地の豪族」(小田氏、小山氏、花房氏等)との「重層な血縁関係」を作り、その「血縁族の一部末裔」が青木氏と共に関東に移動し足利や武田の土豪族と成り、遂には大勢力を誇り、それが室町期には「関東屋形」族と呼ばれる程の秀郷一門として関東から中部全域に掛けての大豪族にも成っているのです。
これは全て「特別賜姓族の主導」(神明社建立)によるものであって、故郷の末裔は反旗を翻すどころか「親神明社」の領域を超えて「神明社」そのものとなったのです。
この地域には関西域の「賜姓青木氏」も神職として赴き「神明社建立」の「職能集団」の定住も起こった位なのです。室町期末期には「関東屋形」の永嶋氏(結城)が陸奥域に移り住むと云う事まで起こったのです。この北陸東北域は関東域との深い関係を持つ神明社であって、この地域における八幡社は関東域の関係の背景を無視して論じることは出来ないです。八幡社=神明社としての論処に成ります。


青木氏と守護神(神明社)-15の北陸東北域は次ぎに続く。

「青木氏と守護神(神明社)」-16 に続く。


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