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青木氏と守護神(神明社)-21

[No.289] Re:青木氏と守護神(神明社)-21
投稿者:福管理人 投稿日:2012/09/28(Fri) 06:46:09


「社名つき神社」

神社   ・新潟6・岩手5・佐賀1・徳島3
     ・計15/418=3.58%

     *山梨3*長野1*富山1*石川1
     *計6/148≧4.05%

     +宮崎3(皇祖神発祥の特別地)

     -鹿児島3-北海道1
     
     -印は虚偽地

・印に付いて、「新潟6」を除き、後の3県は特別賜姓族とは直接に移動定住地等の関係はありません。
本拠地周辺に神明社17、神明神社15を建設し、神明宮21を合せて53社も建設して呼称しているのにわざわざ「・・神社」系等を建てる、呼称する必要性があるのかと云う矛盾が起こります。
まして、周囲には220社も建立していて、「仕来り、決り事、規則慣習」で「神明宮」を支流一門に建立させているのです。この様にきっちりとした態度で「3つの神明」を建立している中で、果たして、「・・神社」にしなければ成らない理由があるのでしょうか。無い筈です。
あるとするならば、その地域独自の「政治的、地理的、宗教的な環境条件」が強く働いて、「仕来り、決り事、規則慣習」を凌ぐ事と成ったと考えられます。圏域内ではこれを押さえ込む力が働いていた事を物語ります。
この関係を数式に表すと次ぎの様に成ります。

「建設条件の数式」
A 圏域内→  「政治的、地理的、宗教的な環境条件」<「仕来り、決り事、規則慣習」
B 圏域外→  「政治的、地理的、宗教的な環境条件」>「仕来り、決り事、規則慣習」

そもそも、「皇族賜姓族」、「特別賜姓族」にしても全国組まなくこの、「仕来り、決り事、規則慣習」を押し通す事は不可能です。
せいぜい、「讃岐籐氏の讃岐青木氏」の圏域まででその広島付近までですから、従って、「佐賀」や「徳島」はこの「政治的、地理的、宗教的な環境条件」が強く働いた事は確実です。
それ以外に「神明系社」でありながら、一般呼称の「・・神社」にしなければ成らない理由が先ずは見付かりません。そこで地域毎に検証してみます。

「佐賀1」
先ず、・「佐賀1」に付いては、「大蔵氏の勢力範囲」の中心地です。「遠の朝廷」の自治区の「太宰大監」の大宰府の隣で有ります。隣と云っても現在の県域ですから、大宰府の中心と云っても過言ではありません。
確かに、長崎と佐賀域には秀郷一門が赴任地定住としていた地域があります。唯一、「北九州地域」として「青木村」があった事も確認出来ますし、末裔の存在も確認出来ます。
然し、 ”「大蔵氏勢力圏・産土神」と「小さい青木村」のことから「神明系の社の建立と呼称」は果たして可能なのか” との疑問が生まれます。
仮に「2つの青木氏」と「秀郷一門末裔と藤原北家筋」等が建立したとしても ”「神明社系」としては許可は出なかったのではないか” と考えられます。
鎌倉期、室町中期では、「平安期の自治」が無く成ったとしても、依然それに相当する勢力を張っていたのですし、まして「大蔵氏勢力圏・産土神」の真ん中では「大蔵氏の自治」や「勢力統治」の中では許可は、反対が各所から起こり出なかったと考えられます。
まして、出雲社と同じく宗教界の重鎮の「宗像神社」の社域圏でもあります。
それを押し通す勢力は先ず有り得ず、遠い地域のところに「神明社」としての「建立と呼称」は明らかに無理であります。
そこで、争いを避ける為に ”「一般呼称の神社」として「建立と呼称の許可」が下りたのではないか” と考えられ、 ”北九州の一門の関係族の独自の許可申請での建立であった” と観られます。
故に「・・神社」になったのです。
つまり、「心の問題」の領域であり「政治的、宗教的抗争」の所以ではない事が判ります。
従って、福岡ではなく隣の青木村のある{佐賀1社]なのです。
「政治的、宗教的抗争」であれば1社では抗争には成り得ませんし、継続して北九州に及ぶまでの圏域にも「建立と呼称」を続けてこそ目的は達成される筈です。
この「佐賀1」は明らかに秀郷一門の定住地九州末裔の「心の拠り所の建設」であり、それ故に一般的な「・・神社」としたのです。
然し、その「建設様式等の要件」では「神明形式」を維持しているのです。つまり、これは ”寺社匠を関東の本領から呼び寄せての建設であった”と考えられます。
一門だからと云って神明系の弱い地域に専門の「寺社匠の調達」は難しい筈ですから、上記の事に成るのです。
当時は「自由市場」の現在とは違うのです。低下したとは云え「賜姓族社会の領域」では「部経済」が半ば存在したのです。
前段で論じた様に、現に「自らの氏」が「自らの抱えている職人集団」で「自らの力」で「寺社建設」をすると云う社会の中では、尚更、「神明系社」と云う特異な環境では、前段でも論じた様に、未だ「2つの青木氏」が独自に職人家人との間に「2つの絆の社会」を構築し、「絆青木氏」名乗るなどの徒弟制度を構築する果ての建立であったのです。
故に、「・・神社」は上記の「建設条件の数式」(A、B)が成り立つのです。
依って、「佐賀1」の結論は、「環境タイプ」の「社名付き神社の呼称」であるのです。

「徳島3」
・「徳島3」は、確かに秀郷一門の主要一族の剣片喰族の阿波青木氏の移動定住地ですが、ここには秀郷流の遠戚の関東北と北陸東域に勢力張っていた「利仁流藤原氏」が大勢を占める地域でもあります。
実はこの「徳島3」は、この同族血縁の「二つの融合族」の多い所でもあります。
この「阿波青木氏」と「利仁流藤原氏」が「神明系社の建設」に及ぶには、その勢力は充分であり、四国と云う「地理的な独自性」を保有しながらも、「・・神社」はおろか「神明社、神明神社、神明宮」の「神明系3社」の建設でもその要件は充分であります。その建設要件は充分で欠ける事はありません。

この「剣片喰族」は「神明社と神明神社」の多い「愛知」にも同族を固めていて「建設条件」のみならず勢力的にも一門の主要8氏の一つなのです。
然し、問題は「特別賜姓族の青木氏」とその「利仁流大遠戚族」であるのですが、讃岐籐氏の「讃岐青木氏」と同じく、四国は「賜姓族系地域」としても当時は「別扱いの中」にあったのです。

兵庫以西には「讃岐青木氏」の「瀬戸内の広島」は考えられますが、前段でも論じた様に、広島と讃岐は充分な「別扱いの地域」です。原則、四国を含む兵庫以西は「指定された神明地域」とは「別扱い」と成ります。
因って、「神明社、神明神社、神明宮」の「神明系3社」としての「建立と呼称」は、「仕来り、決り事、規則慣習」が成り立たず、これを無視してまでも無理に建立する事をせず「・・神社」とする以外になかったと考えられます。
上記の「建設条件の数式」Bで云えば右辺が0という事に成るのです。
つまり、秀郷一門の「縁阻地」(指定外地域)には、元より「社名付き神社の呼称」が採用される「仕来り、決り事、規則慣習」があった事を物語ります。(「縁阻地」(決-38)
無視すれば、宗家からの厳しい処置が働きますし、現実に青木氏宗家からの「職人調達」は困難であります。それを押してまでもの独自性ではなかった筈です。
それだけに、「仕来り、決り事、規則慣習」を一族の者がこれを破られば「第2の宗家」たる「特別賜姓族」の立場はありませんし、強行すれば放置できずに糾弾される筈です。
そんなにまでして「同族争い」をしてまで護らない事はありません。それ程に「呼称」には重きを置いていた事を物語るものです。

「縁阻地」(指定外地域)の他に「神明系3社外」に適用する「呼称」であった事が判ります。
当然に数式の「右辺=0」以外にも、「縁阻地」(指定外地域)=0の条件で「建設条件の数式」のA、Bが共に「左右辺=0」と云う環境の時にも「・・神社」の「呼称」が適用されていたのです。
これは「神明系」である事の有無に拘らず平安期の朝廷に依って決められていたのです。」
(否神明地」(指定外地域) 決-39)
結論として、徳島3は「縁阻地」(指定外地域)タイプの呼称であったのです。

「岩手5」
・「岩手5」は、上記でも論じている地域ですが、「元広域陸奥圏」ですが、「神明社4」のみの地域であり「神明神社と神明宮」はありません。
合せて「9社」しかない地域で「4-6の規則」から「2社/県」で観ても少な過ぎます。
ただ、この地域には秀郷一門の主要族が定住していません。「支流血縁族」です。
要するに、Aタイプの「政治的、地理的、宗教的な環境条件」<「仕来り、決り事、規則慣習」が成立するものの、「支流血縁族」と云う形では、一種、「徳島」と同様の「縁阻地」の部類でもあります。
まして、「狭域陸奥域の末端圏」ですので「神明社、神明神社、神明宮」の「神明系3社建立と呼称」は困難で、この「神明社4」は、この地域の神社社歴から観て建立年代は明確ではありませんが、古い事を主張しているのが多い事なのです。
この事から、桓武天皇期の征夷征討期の「20社」の内の「国家事業の2」と「特別賜姓族の2/31」の合せて「4社の建立」であったと見られます。「社歴の古社」の主張はある程度納得出来ます。

そこで、社名付きの「・・神社」とするには、本来、補足する事は「支流族の勤め」としても、この地域にはそれを実行する充分な能力のある「支流族」は定住していません。当然に青木村も全く存在しません。
つまり、「Aタイプ」ではあるのですが、極めて、指定外地域ではない単なる「縁阻地」です。
そうすると、どの様にして「5社」も建てたのでしょうか。誰が何時、建てたのでしょうか。
実はこの「・・神社」は特定の他氏が建立できる権利を有する「普通一般の呼称」の「・・神社」ではないのです。

何とも聞き慣れない「天照御祖神社」呼称(あまてらすみおや神社)の5なのです。
本来であれば「其の他」に入れるところですが、ある種の意味を持つので社名付きの「・・神社」の呼称に入れました。
正式呼称に「天照大神宮」が有りますが、これに似せての呼称と成っていて、これは「岩手のみの呼称」です。
この「御租」(みおや)は「天照」の別呼称で、この名は摂社等123社の中にもあり使われています。
つまり、「天照」を2度重ねて呼称している事に成ります。「青木」であれば「青木青木」と呼称している事に成り馬鹿げています。
39もの「仕来り、決り事、規則慣習」の「権威や威厳」を重んじての呼称でありながら、これでは「権威、威厳」がありません。明らかに正規のものではない事は良く判ります。
「分霊の許可」が取れなかったか、何らかの理由で変名したか、青木氏外の建立なのか、等推測が立ちます。そもそも「血縁支流族」の無い「広域陸奥の南端域」です。
秀郷一門の建立するに必要とする「勢力圏外」ですし、その意味では「建設不可能な地域」です。
それが下記の5社ですので、これには何らかのシステムが働いています。
それは、この神社の中に「親社」があってその「子社」の系列社である事も考えられます。
そうすると、この「5社の建立維持管理」となると相当なこの地方の豪族と成ります。
ところが、この5社外に正規の「分霊社」2社が陸奥北端と南端に存在するのです。
これ等の重要な史実からは明らかに疑問です。

次ぎの「疑問社」があるのです。

「疑問5社」
天照御祖神社  大船渡市三陸町綾里田浜
天照御祖神社  釜石市唐丹町片岸
天照御祖神社  陸前高田市高田町松峰
天照御祖神社  気仙郡住田町世田米
伊勢両宮神社  遠野市上郷町細越   

「正規2社」
天照皇大神宮  岩手郡滝沢村鵜飼御庭田   広域陸奥北端域
天照皇大神社  大船渡市三陸町吉浜上中井  広域陸奥南端域

前の「疑問5社」は、岩手県の最南端太平洋側の宮城に隣接する「5地域」(リアス式沿岸部の北側)から「釜石、大船渡、陸前」が並び、この「3地域」の内側に隣接する「気仙、遠野」の「2地域」に集中しています。
戦国時代は、ここは次ぎの3氏が支配しています。
葛西氏、国分氏、大崎氏、 以上の3小藩の地です。
江戸時代は、次ぎの3氏が支配しています。
伊達氏、板倉氏、相馬氏  以上の3藩の地です。

明らかに、この室町期と観られる「疑問5社」は1氏が、建立は兎も角も、祭祀した事が云えます。
と云うのは、「伊勢両宮神社」と云う禁令を破る同じ「疑問名社」の遠野の「社」がある処から観ても、統一して何れかの1氏に依る祭祀と考えられます。

「禁令」を公然と破るだけの「異端児、異端氏」、そうなると、能力から観てこの3小藩では無い事が云えます。そうすると自然と答えは出ています。

この様な「5社」を建立、又は呼称する事が出来たのは、この「5地域」を支配した室町期から勃興した「江戸期」の大藩「伊達氏」だけです。
但し、”建立を伊達氏が行った” かは疑問で、「社歴と様式」からは上記した様に少なくとも「伊達氏」より古い事から、「広域陸奥域」の時に「特別賜姓族」によって建立されたと考えられ、その後に、”伊達氏がそれを政治的、戦略的目的の為に維持管理した” と成ります。

つまり、そのやり方に付いては次ぎの様に成ります。
先ず、その内1社を「親社」として「社名」を「伊達氏の建立」とし、社名を「変名」して「伊達氏」が「分祀」か「分社」により5社に広めたと考えられます。
要するにここの「正規社の親社の権威」を利用したのです。
ではその「親社」の「1社」とは何処にあるのでしょうか。実は確実で納得出来る地域に建立されているのです。
その内の「親社」が「正規2社」の内の広域陸奥最南端の「大船渡の正規社」であったと「社歴や様式」から判別する事が出来ます。

後の「正規社」、即ち「分霊社の2社」(正規2社)の内の1社は、青森に隣接する2地域(岩手町と葛巻町)岩手郡に存在します。
この地域は「支流血縁族」のある秀郷一門と「特別賜姓族」のぎりぎりの勢力圏内です。
この地域は平安期で観ると、秀郷一門が平安期から支配する「峡域陸奥域」の岩手側で確実な勢力圏にあります。

戦国時代前半からは、この地は「陸奥斯波氏」(信濃足利氏)と「南部氏」ですが、江戸時代まで支配したのは「南部氏」だけです。

(戦国時代-室町期末期の11国を支配する日本一最大の大名で室町幕府足利氏の本家の創健氏で「信濃足利氏」です。守護代の織田氏の主君で、この斯波氏を倒して尾張を獲得した)

当然に、この「分霊社の正規社」は秀郷一門の「特別賜姓族」の青木氏の平安期の建立である事が社歴からも判ります。
そもそも、この地域は江戸時代直前まで秀郷一門の本家筋の下総結城氏の長い間の支配地であったのです。
(末裔が陸奥白河の自領に移動して「白河結城氏」と成るが、前段でも論じた「有名な陸奥の戦い」で天正17年に豊臣秀吉に滅ぼされる)

結局、「秀郷流青木氏」、「信濃足利氏」の「陸奥斯波氏」、秀郷一門宗家筋の「永嶋族結城氏」、そして、戦国末期から江戸末期まで「南部氏」に引き継がれた地域です。
つまり、建立者の「特別賜姓族」から江戸時代末期までこの戦国大名に引き継がれた事に成ります。

もう一つの大船渡の南域の「分霊社の正規社」は、宮城の北地域に隣接する大船渡の太平洋側沿岸部の三陸町にあります。
これが上記「疑問5社」の親社と成ったと観られる分霊による「正規社」です。
ここに伊達氏による「疑問5社」と「正規社」との2社が存在していた事に成ります。

では、この「正規社」は誰が何時、建立したのでしょうか。
この地域は上記「岩手」でも論じた様に、「広域陸奥」の平安期末期以降は極めて「不安定地域」であった事から、「歴史的経緯による消失」や「3つの災難」を免れたとすると、秀郷一門と「特別賜姓族」の圏域外でありますので、その前に建立されていた事に成ります。
室町の時期と場所から観て、少なくとも「特別賜姓族」が落ち着いて建立する事は困難であった事を意味します。
そうすると「社歴」等を信用するとして「様式」から平安期初期から中期頃と成ります。
この時期には、「蝦夷征討」で「広域陸奥」の宮城の「多賀城」を基点として岩手の「担沢城」、「志波城」が建設され、ここを「政庁の拠点」として「広域陸奥域31郡」を統治していたのです。

然し、この時期の国司には、この「31郡の広域陸奥」には「100社」あると云われる低格式の「村社」を毎年巡る義務を負っていました。
ところが、これが国司に執って経済的にも時間的にも大変な事なのです。
この為に、陸奥国司はこの「多賀城」の近くに「総社宮」を造り、此処1ヶ所で「参拝祭祀の業務事」を済ましました。
ところが、この方式が各国の国司には爆発的に人気と成り、この「総社」方式が全国に一気一斉に広まってしまったのです。(記録に遺されている)
然し、この「100社の格式」は「村社」なので「神宮分霊社」とは「格式」が数段に異なっています。
「神明系3社」は「別扱い」で、上記で何度も論じた様に、要するに「御魂入れ」であり、元々「分霊社」は「神明系3社」の「総社的存在」でした。(決-39)

下記でこの事に付いて論じますが、要所の地域には必ず神宮の何れかの分霊地を建立していますが、「正規社」の此処が「総社的な役割」を荷っていたのです。
この「仕来り、決り事、規則慣習」を重んじた方式を、この地域の「陸奥国司」が、この「村社」の100社に真似て最初に適用しただけなのです。
その事で「参拝祭祀の業務事」を理由としていますが、何かと揉める「村社間争い」をこの方式で逃げ切ったのです。つまりは、「総社の威厳と権威」で押さえ込んだのです。

本来であれば、国司がこの様な勝手な事をすれば朝廷は黙っていない筈です。然し、「分霊」-「神明系3社」の格式上の「社」が行って効果を挙げていれば文句の附け様がありません。
むしろ、「広域陸奥域」であるが為に積極的に指導したと考えられます。

この「大船渡」に建立された「正規社の分霊社」は、この平安期初期から中期の時点では本来は「皇族賜姓族」の青木氏の建立によるものですが、「桓武天皇」に圧迫を受けていた青木氏は衰退期にあり建立は出来なかったのです。
そこで「桓武天皇」(光仁天皇の子で施基皇子の孫 伊勢青木氏の始祖)自らが「青木氏」に代わって、兄弟の様にしていた「征夷大将軍」の「坂上田村麻呂」(多賀城724年などの3柵城を建設 広域陸奥域を制圧)に命じて、建立した「20社の神明社」と共に、この「陸奥域の岩手」に「20社の神明社」の基点(総社)として「2分霊社」(岩手郡と大船渡に分霊地)を設けたのです。
「陸奥100社の村社」の幾つもの古株の「村社」と共に、この「2分霊社」も”「廃絶処理」を逃れた”とする意味合いで記録されています。
恐らくは、この古い「村社格」の「社」だけが一部に遺されたとしていますので、岩手の「担沢柵城」(802年)と「志波柵城」(803年 廃城)と共に最も古く権威のある「高位の有格社」としては「廃絶処理」は逃れられたと考えられます。
上記の「3柵城」と共にこの時期にこの「正規社の分霊社」が建立されたと観られます。
記録では広域陸奥域の最南端に「神明社」が白石市益岡町に807年に「坂上田村麻呂」に依って創建されていて、「分霊社」(”「伊勢の御魂」を移して祭祀・・”と表現)の創建も間接表現ながらも記録されているところから、この同時期前に2社が建立されたと観られます。

と云うのは、この神明社建立前の806年に桓武天皇が崩御しています。一説を採用すれば4年3月後に「坂上田村麻呂」が没しています。(上記の神明社建立後の3月後の807年没の説もある)
従って、この「広域陸奥域」の青木氏に代わって行った「平安初期の計画」は桓武天皇崩御により終わっている事に成ります。
この後、「柵城や城郭」等のなどの修理造営は860年代で終わっています。
一時、この「広域陸奥地域」の治安等の理由で「何らかの建造」は歴史的に「停止状態」に成っていた事と、「皇族賜姓族青木氏」に依る「神明社系5社」の建立も衰退期に入っています事から、「特別賜姓族」の援護(960年代後半)を受け、且つ、自らの「2足の草鞋策」による財力がつくまでの間の一定期間には、この地域の建立は「停止状態」でありました。
因って、この「正規社の2分霊地の建立」は上記の期間にのみ可能なのです。

結論として、「建設条件の数式」から岩手はAではありますが、左辺の政治的、地理的な環境条件の要素が大きく、右辺より僅かにレベルが低かった事によるもので、「偽呼称タイプ」と云えます。

つまり、「社名付き神社」は、上記の「建設条件の数式」の論理から、左辺と右辺のバランスが均衡するか、右辺が0に近くなるに従い「社名付きの神社」の呼称は高く成る事に成ります。
この数式論が明らかに働いているのです。
当然に、左辺が0に近くなるに従い神明社を始めとする「神明系3社」の「建設条件」は整う事に成ります。

・東京に付いて特記
実は、東京にも「其の他」の呼称に分類した「天祖神社」18もあり岩手とよく似ています。
この2つの「異質の呼称」は「岩手と東京」だけです。
ただ、東京は「建立と呼称の背景」(「神明系社」の確認と「時代性」がはっきりしません)が少し違いますので其の他の項に入れましたが、此処でも考察して観ます。

問題は伊勢神宮の「摂社関係」等は、上記した様に、凡そ「伊勢近隣に123社」(2市4郡 特令地除く)あるのですが、その確認ですが、東京の場合はその関連社である「神宮分霊社、支社関連」の建て物でもありません。

この18社の「建設の時期」ですが、色々な資料からは平安期及び鎌倉期にはこの「2つの呼称」は出て来ません。
恐らくは、鎌倉期は、平安期の「仕来り、決り事、規則慣習」を強く引きずっていましたので、「神明系3社」の「3つの神明」の呼称としては有り得ますが、然し、この「2種の神社 疑問社名」の「・・神社」は、少なくとも鎌倉末期から室町期初期以降の呼称である事が判ります。

実は「皇祖神-伊勢神宮」関係と「祖先神-神明社」の「3つの呼称」の社の一部は、大変重要な事ですが、一時「廃絶処理」を社会から受けた史実(A)があるのです。
古い神社関係社に取っては有名な事件です。
他に歴史的に観れば次ぎの様な事が起こっています。

B それに「下克上と戦乱」の「焼き討ち」にも会っています。
(「焼き討ち」と「廃絶処理」とは宗教的な行動として別扱いにする)
C 明治初期の「廃仏毀釈」「神仏併合」-「神仏分離令」の洗礼も受けています。
(「廃仏毀釈」と「神仏併合」とは目的が異なる行動として別扱いにする)
D 室町中期から明治の10年頃まで続いた「一揆」(農民・下級武士の反乱)などの拠点にも成っていますので「消失」の影響を受けています。

(神明系社の「消失」には、「戦乱反乱」での火事と「年数」から来る廃社と「経済的運営」の廃社がある。)

この室町期の「廃絶処理」に付いては、ほぼこれ等は「江戸幕府の政策」の「神明系3社の復元修復事業」として、「寛永年間から明治初期」までに多くは戻されているのですが、この災難の影響を受けている事は確実です。
この「2種の神社」の「建設様式」は筆者の調査から疑問ではあるのですが、「神明形式」である可能性が高いと判断しています。
そう成ると、問題はこの続け様に起った次ぎの「3つの災難」の影響を受けていた事に成ります。
「焼き討ち」(消失も含む)
「廃絶処理」
「廃仏毀釈」「神仏併合」
以上、「3つの災難」と呼びます。

この事から、”何故、遺したのか。残ったのか”疑問です。
この東京の「2種の神社」の「創建年代」も確定は困難で疑問でもあり不祥ですが、室町中期前後と観ています。様式の確認は取り合えず「神明系様式」として考察します。
実は、東京18に付いては、この「3つの災難」の内の前二つに対して「呼称変更」「社歴変更」「祭神変更」等の「対策処置」で逃げたのではないかと考えているのです。
それが「天祖神社」の呼称であったりしたのではないかと考えています。

この様に、「天照皇大神宮と豊受大神宮」に似せた社名を使う事で、上記の岩手の記録からも判る様に、この ”「特別の高位の有格式社」” で逃れられる事が世間では判っていたのです。
この逃れられた理由、原因としては次ぎの事であったと考えられます。
先ずは、「最高位の格式」の「威厳と尊厳」です。
これを無視する事は最早、「国のあり方」を変える「革命」に外成りません。そこまでは「廃絶処理」は行われたかの問題です。
それは次ぎの「皇大神宮と大神宮」の呼称の検証でも判るのですが、其処までではなく岩手の様に遺し得ているのは、この下の「格式社」に対する「廃絶処理」であって、主には「郷社、村社」の格式レベルのもので、中には、「神明系3社」も地域に依っては厳しい「廃絶処理」を受けた事が記録から確認出来ますが、受けたとしても「神明神社と神明宮」の2社系が被害を受けたのです。
現に、「神宮を含む伊勢の125社」と「遷宮85社」の全てと「神明社148社を含む180社」と「特令地の社数」は完全に遺し得ているのです。これが「3つの災難」を受けなかったとする証拠です。

その根拠を検証しますと、「神明社180、神明神社139社、神明宮125社」から観て、「4-6の規則」の中にありますので、「3つの災難」を受けたとして「神明神社」の10-15社、「神明宮」の20-25社程度ではないかと考えられます。
それは何故かと云う事ですが、次にこれを検証します。

「建立地」は、概ね「神明系3社」としての建立地は、27-29地域であります。
そうすると、次ぎの様な計算が成り立ちます。

神明社180/29=6.4 神明神社139/29=4.8 神明宮125/29=4.3
以上と成ります。

これを29の全地域に、上記の平均5.2以上の影響度を加算して5.5として観ると、次ぎの様に成ります。
「神明神社」は20社/(10-15社) 「神明宮」は35社/(20-25社)と成り、合せて55社と成ります。
これは真に全体比10%(55/556)です。

個々の3つの社の数字には、これは「単純平均」ですので、バイアスを持っています。
依って、(6.4 4.8 4.3)から観れば、実態はこれより何れも少なくなる事が考えられます。
それを考慮すれば、「神明神社:10-15社」 「神明宮:20-25社」は妥当な数字と云えます。

(「単純平均」は必ずしも「クラウドの中心」を表さない為、「積分係数」の計算で「クラウドの中心」は出る。
依って、この場合のクラウドの中心は低めに出る。)  

そこで、次ぎに全体で「神明系社 566社」として、果たして、これ以上の神明系社数を建立出来たかと云う問題です。

そこで、「歴史的な切目」としては、次ぎの様に成ります。

イ 「朝臣族の賜姓源氏」が建立したのは、上記で論じた様に、「八幡社」ですが、ところが記録から「国家鎮魂の八幡社」を「清和源氏の本家(頼光系)」が天皇に命じられて、先ずは支配地内に於ける「移設による修復建立」を命じられています。
つまり、「八幡社」を最初に手掛けたのが ”摂津の領国内に移設修復した” と記録があり、国司として赴任した信濃に於いても「信濃青木氏」に「神官職」を依頼している記録が遺されていて、現実に家紋分析からその末裔信濃青木氏は関東以北-陸奥域に現存するのです。

ロ そして、この計画は「摂津源氏」の「支配地内の修復」で計画は終わっているのです。
つまり、数は少ないですが本来の「神祇信仰の国家鎮魂の八幡社」(摂津源氏-神明族の信濃青木氏)と大半を占める「武神の八幡社」(河内源氏-未勘氏族)とがあるのです。

ハ しかし、河内源氏の分家頼信の孫の義家が「武運長久」「武家の神」の「八幡社」を河内に建立しています。(1100年頃 未勘氏族の建立  八幡社にはこの2流がある。)
この「武神の八幡社」は後に「未勘氏族」に依って「神仏習合」に偏して「八幡大菩薩」に変化したのです。

ニ 「たいら族」には「神社建立権」は身分家柄から与えられていません。
この「たいら族」は「朝臣族」では無いので、「太宰大監」として九州自治を司る一門の「大蔵氏」を除き、その権利を有しておらず、「京平氏の清盛」が「摂関家と朝廷の反発」を押し切って禁令外で、最初に「海の守護神」の「瀬戸内の厳島神社」を最初に修復拡大事業を手始めに神社建立を行いました。
(1170年頃 「たいら族」  平安期は青木氏や藤原氏等の高位の指定の家柄氏以外は神社は建立出来ない慣習があった。朝廷の許可が下りなかった。)

ホ この時、期前の1125年頃には、何とか「皇族賜姓族」も「2足の草鞋策」から勢力を盛り返し、「特別賜姓族」も「960年後半」には建立に参加しています。
この頃から徐々に「神明系5社建立」が再び始まり、室町期前半の室町文化の頃に建立の頂点と成ります。

ヘ 前段でも論じた様に、「紙文化」と呼ばれる「室町文化」で「伊勢、信濃、甲斐の皇族賜姓族の青木氏」と「特別賜姓族の伊勢青木氏」がどの守護にも遥かに勝る「莫大な財力」と「武力」とその背景と成る「シンジケートの抑止力」を確保しました。

ト そして、然し、「下克上戦乱」に入る中期頃には、建立能力が充分にありながらもその社会情勢から建立は難しく成り、各地で「3つの災難」が始まりますので、せいぜい「修復程度の範囲」に留まったと考えられます。

この事で検証すると、次ぎの様に成ります。
イからトまでのこの間、「皇族賜姓族」から「特別賜姓族」の発祥までの「衰退期の100年間程度」を除くと「500年間程度」と成り、平均的に観れば、566社/500年とすると「1年に2社程度の建立」と成ります。
1社の建立期間を3年から5年程度と観れば、丁度、無理の無い建立数である事が判ります

中には、記録によると長いので10年程度とありますが、財政的な問題は「2足の草鞋策」で問題は無いとしても、「2つの賜姓族」が「絆職人の関係要員」の手配等が他の維持管理作業等もありますので、難しいと考えられます。
それから観ると丁度よい社数建設です。

因みに、前段で論じた様に、「伊勢青木氏の記録」によると、奈良期からの古い絆で結ばれ、「絆青木氏」を名乗るほどの代々の内々の「徒弟制度」で引き継がれた「250人の専門職」と、その「関連要員」をシンジケートの中で確保していた事が判ります。
この要員で「148社建立」と成っています。

(伊勢丸山城の信長との戦いで「伊勢-信濃シンジケート」の大工要員が関わった事が記録されている。建築終了後に城に火付けした。)

恐らくは、信濃青木氏も同じ程度の能力を保持していた事が「神明系3社」の建設数から判断できます。
全国の賜姓族関係地域に「建立する能力の418社」から観ると、「宗家の特別賜姓族青木氏」と「特別賜姓族の伊勢青木氏」の「2つの能力」も総合的に勘案すると、4倍の「1000人程度の要員」を抱えていた事が判ります。

とすると、この能力から、「建立数 2社/年」 「建設期間5年」 「維持管理148社」 とすると、青木氏から配置する各職人の「頭要員」を、「50人/1社で100人」、「全国29地域」の建設地に「5人/1地域」に配置して「150人」、これを「シンジケートの各種の職人」で補い、「20職種」程度と云われる「工程を5年間」で回転して行けば成り立ちます。
昔のある資料から垣間見ると、一般の「武家屋敷建設」で「頭級で5人」と云われているので、その10倍として観れば、「50人」と成ります。
不足の時は「伊勢-信濃シンジケート力」から各地のシンジケートに呼びかけて「援護要員」を増やす事が柔軟に出来ます。

これを行える「財政力と政治力と運営力」があった事が「伊勢丸山城の戦い」の記録で判ります。

(「伊勢丸山城の戦い」 材料の調達の失敗や建設ミスを繰り返させて、なかなか進まない様に城の建設期間を引き延ばせ、挙句の果てに短期間で建設するように命じられますが、これに応じます。この時に信濃からシンジケートを通じて要員の職人を配置した事が記録されているのです。建設用材の調達は「2足の草鞋策」で本職、材料高騰策も行った。莫大な利益を挙げて信長の財力を押さえ込んだ。有名な信長烈火事件発生。歌舞伎にも成る。結局は、「信長の伊勢攻めの3戦」は5年も延びた。)  

「特別賜姓族」の方も上記で論じた様に「約4倍の社数」と前段で論じた様に「4倍の勢力」を保持しているのですから、同じ論理で証明する事か出来ます。
結論としては「4-6の規則」で「建設する能力」はぎりぎりのところであった事が云えます。

上記で論じて来た現存する「神明系3社」の「4-6の規則」はほぼ原則として建立したのですから、「3つの災難」に依る10%減でこれだけ護られている社数がある事は、上記の能力試算からこれを証明しています。

故に、「江戸幕府の神明系3社の修復復元処理」が「10%-55社」の範囲であった事から可能であったのであって、直しきれない社もあった事が記録されているので、この程度が江戸幕府の能力の限界であった事を示しています。566社に相当する社を「高位格式社」の「修復復元処理」は財政的に無理であった筈であります。

恐らくは「神明系3社」で論じた様に、上記の通り「10%程度以内」と考えられます。
これであれば上記の試算から江戸幕府の「250年間掛けて1社/年・5年」を「修復修理復元」は可能です。

この様に、「威厳と尊厳」から少なくとも「3つの災難」に付いては、「神明社」は殆ど影響を受けず、「神明神社」と「神明宮」に対して多少の影響は受けた事が云えます。

(上記した様に地域のバラツキはあるとしても、一般確率論から10%内は自然消失廃社率)
(「天照」の内宮に「みおや」と云う天照の別呼称で二重呼称と同じで この天照の天と皇祖の祖で「天祖」と呼称した。)

「創建年代」や「社歴」や「祭神」等に「不祥や疑問や矛盾」等が多く観られるのは、東京の18に付いてはこの事の影響ではないかと観られます。途中での歴史が途絶えたからです。
「焼き討ち」や「廃絶処理」は、要はある範囲の「権威や象徴」に対する「社会的な反抗」でしたので、この地域レベルの「権威と象徴」を一時、”消す事、隠す事”で難は逃れたのです。

問題は、”他の地域はどうであったのか”ですが、地理的にこの「3つの災難」の状況は、その「地理的要素」やその地域の「人の気質」から著しく異なっているのです。
殆ど「神社」が無く成ってしまった県(九州圏、東北圏、東京圏)等もあり、穏やかであった県(北陸圏、中部圏、)等があり、その中でも「岩手と東京」は真にこの「3つの災難」の厳しい地域に当り、且つ、何れも周囲の県に比べて「神明系3社」の社数が不思議に少ない県です。大きく「4-6の規則」外にあるのです。
この「岩手と東京」は、この影響を大きく受けた地域で、「高位格式社」を充分に遺し得なかったし、且つ、寛永年間以降明治期までに完全に戻し得なかった結果であり、何とか遺し得たのはこの「疑問社名」の「対策処置」であったと観られます。
まして、この東京は秀郷一門の武蔵の領国内の一部です。この領国の一部に集中した18社ものが到底「分霊社」とは考えられませんし、在り得ない事で、「分霊許可」も幾らなんでも「特別賜姓族」の青木氏でお膝元であったとしても下りる事はあり得ません。
自らがその様な厳しい39もの「仕来り、決り事、規則慣習」を護ってきたにも拘らず破る事等も在り得ません。
そうすると、遺されたのは岩手と同じく、「郷社格」「村社格」の神社一般の廃絶などに向けられた「3つの災難」から逃れる事への「神明系3社の対策」で在ったのです。
だから、「神宮の神明系2社」の「威厳と尊厳」を使っての「東京18社の社数」であって、「分霊社」に見せかけたものであったと考えられますし、故にこの「18の社歴」は不祥なのです。
そうすると、東京の「神明系3社」の ”「神明社」は6、神明神社は2 神明宮は3” は、主要国の新潟、愛知などと比べて本領でありながら少な過ぎる事を考えると、18は補える「社数」と成ります。

「神明社」は上記した様に「神宮の神明系分霊2社」と同じく「威厳と尊厳」で「3つの災難」の影響からある程度(10%)逃れられましたから、そうするとこの「東京18」は元は「神明神社」であった筈です。

「神明宮」は上記した様にその「呼称の仕来り」から、この広域武蔵域の本領の一部の東京には支流族は少なかった筈ですので、「神明神社」で「社名付き・・神社」の呼称と、「郷社格式」や「村社格式」の「一般神社」と「・・神社」で類似するところから間違われて「3つの災難」の影響を神明系でありながら大きく受けたと考えられます。
何れも秀郷一門の宗家のこの処置であって、故に「特別賜姓族」の暗黙の了解を得られ採った処置と考えられます。

結局は、「東京18」は、岩手と少し違い、政治性と地理性が余り働かない基からの神明系3社で「退避処置タイプ」なのです。

東京の「社名つき神社」も「・新潟6・岩手5・佐賀1・徳島3」の4県の様に、「東京1」で少ないのはこの事の影響を受けた事から来ていると考えられます。

・新潟に付いて
ところで、「佐賀と徳島」は別としても、「仕来り、決り事、規則慣習」の影響を強く受けている「岩手」は上記の通りなのですが、では果たして最大の難問の「新潟6」は何なのでしょうか。
「建設条件の数式」には全く問題がありません。代表的な地域圏です。
それは「新潟6」には地理的要素と秀郷一門の要素が大きく働いたのです。
上記数式の不等号が成立するも、Aの左辺の「地理条件」が大きく成り、右辺のレベルを越えたのです。
特に上記の「建立限界値」の問題が、ある一時の「時代的な影響」を大きく働いたのです。
「新潟6」は次ぎの通りです。

新潟
1  西奈弥神社  村上市羽里町
2  (能崎神社   西頚城郡能生町)
3  (羽森神社   柏崎市 1489年)
4  (船江神社   赤塚) 垂仁天皇期
5  (羽黒神社   村上市羽黒町 桃山)
6  (菅谷宮    新発田市)

先ず、この「6つの社」は北から南に分布し「地理的要素」が働いている訳ではありません。   
創建時代は「平安末期から室町中期前の建物」であり、その「創建年代」が「羽森神社1489年」を代表する様に、特別な歴史的な経緯を明確にしている状況でも有りません。
社歴からは確定するものは見付かりません。
創健者は「建設様式」から「西奈弥神社」以外は疑問もありますが、次ぎの「共通項」を持っています。

1に付いては、「神明社」であったが、「保食神」として、「日子刺肩別命」を祭祀
2に付いては、「神明社」であったが、「一般神社」に変更
3に付いては、「神明社」であったが、「産土神」を祭祀、合体祭祀
4に付いては、「神明社」であったが、「神明宮」を合体、垂仁天皇期と古さ記載 
5に付いては、「神明社」であったが、「保食神」を合体祭祀
6に付いては、「神明社」であったが、「神明系宮」に変更

全て、”「神明社」であった事、それが「何らかの理由」で「別の神」を祭祀する。” とする共通パターンです。
この共通の社歴から考察するに次ぎの様に成ります。

1と5は「保食神」を祭祀、「生活」「食料事情」を重視し変更
2は「特定の性格を持つ神明社」では運営が困難化し、特定性を除去し「一般神社」に変更
3は考え方の全く異なる「産土神」を祭祀、合体は矛盾 「柔軟性」、「一般性」を強調
4と6は「神明社」だけでは無く「神明系」を誇示して祭祀の対象を広げた。

全て、先ず共通な事として、”「神明社」では時期的な影響を受けて運営が困難、色々な「生き残り策」を模索している。”と成ります。
つまり、これは共通する室町期の時期から、”「下克上、戦乱期、3つの災難」に突入して、平安末期の北家摂関家の衰退が起り、その朝廷が崩壊し、「創建者の主権者青木氏」は「衰退と空白期間」に「弱体化」した為に、「神明系社」として何とか生き延びる為に、越後地域の「特別賜姓族」の神職の一部の青木氏は「主家の援助と支持」も侭ならず ”背に腹は代えられない”の事から「社名付き神社」に変身した” と云う事に成ります。
真に、これが「・・神社」の結論なのです。

本来は、「社名付きの・・神社」は、”「神明系3社」から変身した時に使う「呼称」”なのです。(決-40)

上記で論じた様に、「特別賜姓族の最大勢力圏」でさえも、何らかの理由や社会的な現象で「神明系3社」でも「消失、廃社」にまで至らなくても、例外では無かった事を物語ります。
主に「3つの災難」と云うよりは一時的な「財政的な困窮時期」が原因していた事を物語ります。
これは「2つの青木氏」の「2足の草鞋策」で財政的に強くなっても、室町中期頃を境に一時「566社」を維持するにはぎりぎりであった事を物語ります。
「社名付きの・・神社」はこの ”ギリギリ維持の現象” の象徴であった事に成ります。

上記の「建設条件の数式」はあくまでも「社名付き神社」に対する数式論ですが、「神明系3社」の「建設条件の数式論」は、A、Bに対して、左辺側に「戦略的」と「経済的」の2項目が入ってくるのです。
合せて「5項目の条件」が左右する事に成ります。

「神明系3社の建設条件の数式」
A 圏域内→  「戦略的、経済的、政治的、地理的、宗教的な環境条件」<「仕来り、決り事、規則慣習」
B 圏域外→  「戦略的、経済的、政治的、地理的、宗教的な環境条件」>「仕来り、決り事、規則慣習」

この5項目もの条件が絡んで来ると、色々な社会情勢が生まれます。
そうなれば必然的に右辺の強さとの関係がより敏感に成り崩れ易く成り、時にはABに拘らず右辺のレベルが左辺を超えてくる事もあり得ます。
その超える状況は、「時間的な速さ」に関り、急に起る事もあり得ますし、緩やかに起る事もあり得ます。
当然に、「人の強さと量」、「場所の良悪と距離」等も同じ事が起こり得る事に成ります。
この「人、時、場所の現象」が余計に「神明系社」に強く拘ってくる事に成ります。

(A、B)+「時間的な速さ」+「人の強さと量」+「場所の良悪と距離」

これが他氏と異なる「特異な立場」にあった「2つの血縁青木氏と2つの絆青木氏の歴史」であり、その「時代毎の生き様」として映し出されるのです。
従って、「青木氏の守護神」(神明社)を論じる事は、真に、この数式論によりその「生き様」を論じる事に成るのです。

この「5項目の条件」で次ぎの「皇族賜姓族地域」の「・・神社」の考察を続けます。
ここには根本的な基盤のような事が潜んでいるのです。

「*山梨3*長野1*富山1*石川1」も同様ですが、この4県にははっきりとした特長を示しています。
それは、次ぎの様に成ります。

「甲斐3と信濃1」の「皇族賜姓地」
「越中1と若狭1」の「移動末裔地」
以上の2分類と成ります。

この「2分類の地域」は、上記の「建設条件の数式論」から、真に「例外無のAタイプ」が存在する地域です。
そこで、「賜姓族地の伊勢」はお膝元で「神宮摂社125社」、その周囲地域は「85社の遷宮地」であり、そして「神明社の総社」が存在し、古代神明社の「神明社19社」が都を中心にびっしりと防御網を張り取り囲んでいたのです。
その為にこの地域には神明系社の「社名付き・・神社」等は存在し得ない「特別地域」でありますので、「神聖地域」の伊勢周辺には「社名付き神社」の「建立と呼称」は成り立ちませんし、その存在意義が成立する事はあり得ません。

残りの賜姓族地の「皇族賜姓族地」の「近江、美濃」は、前段でも論じた様に、「衰退滅亡地域」でありますので神明系社の「・・神社」はあり得ません。

・山梨3には、前段でも論じた様に、ある特徴を持っているのです。
「甲斐青木氏(花菱紋)」でも論じた様に、この地域の「寺社」に関しては極めて複雑であります。

「源光系の甲斐皇族賜姓族」と「時光系の皇族青木氏」の2流がありますが、下記のこの内の2つは「時光系」の「社名付き神社」ではないかと考えます。
「時光系青木氏」は「嵯峨期の詔勅」による「源氏系の青木氏」であると云う事で名乗った ”「河内源氏傍系支流末裔族」である” としていますので「神明系3社」の「建立と呼称」は出来ません。
因って、明らかに「・・神社」の呼称と成ったと考えられます。    

山梨3は次ぎの3社です。 
1  神明浅間神社
2 (伊勢神社  中巨摩郡田富町臼井阿原)     
3 (伊勢神社  北杜市)

 天照大神社   釜額
 天照大神社   伊沼

従って、残る1社に付いてはある程度納得出来るのです。
つまり、「神明」と「地名」付きの「・・神社」ですが、この不思議な社名が問題です。
「神明神社」なのか「浅間神社」なのかと云う疑問ですが、これには実は一つ根拠があるのです。
それは「浅間山」でその「山」に意味があって、それは「5つの守護神」の基神の「自然神」の「山信仰」なのです。
「神明系3社」は「自然神-鬼道-鬼神」を基とする「皇祖神」の子神の「祖先神」なのですから、「神明」と「浅間山信仰」とは「同一で同格の祖」を持つ表現であります。
この表現には理屈が通っている事から、「甲斐の源光系の皇族賜姓族」の建立と成ります。
これは「源の源光」が「甲斐の賜姓族青木氏」を引き継ぎますが、この建立と考えられます。

2付いては、問題で上記に論じた「呼称の禁令」を破っています。
「伊勢」は特定の賜姓族以外(下記)に使っては成らない厳令です。それを敢えて使ったのです。
「賜姓族」はこの厳令だけは絶対に破る事は何があっても出来ません。自らの出自を否定する事に成ります。
それを破った呼称は朝臣族では出来ない事であり、しかし、何とか建立は可能とする氏となれば「皇族青木氏」以外にはありません。
この甲斐の時光系の源氏系の「皇族青木氏」は4流があり、1流は無血縁族ですので建立は財力がありましたが出来ません。
荒廃した甲斐青木氏の菩提寺の常光寺を再建維持したのもこの無血縁族の青木氏(養子嫁取り)です。
そこで、建立が可能と成ると時光系本家の本流青木氏だけと成ります。残りの3家青木氏は貧困の中にありました。
この青木氏が「神明系社の建立権」は直系の朝臣族ではありませんので建立権は無く不可能です。

そこで、「伊勢」を使ったのです。そして、それを「神明系社」に見せかけながらも、「伊勢=神宮」の印象も与えようとした策謀です。
この「本家の甲斐の皇族青木氏」は、「公家ニ条氏」の末裔と清和源氏の本流であるかの様な「家柄誇張」の策謀を繰り返した氏なのです。事実は偽称の疑問である事は判っています。
その一環として神社建設も「誇張の呼称」をした事に成ります。一事が万事です。
この「建設地域」が一つは南信濃に隣接し、もう一つは国府に近い所です。
この「2つの建設地域」はこの本家氏の集落地域でありこれを物語っています。

後の2流は貧困を極めて武田氏からも冷遇され、山奥の奥巨摩山間部に半農武士として生活をしていました。菩提寺の常光寺さえも維持管理出来ずに放置したのです。この「2つの社建立」は元より建立は不可能です。
(「甲斐青木氏の研究」(花菱紋)の論文参照)
社歴などは不祥で疑問ですが、建設時期は建立に必要とする勢力を持った武田氏系青木氏の勢力は武田氏が勃興してきた室町中期前の頃です。
その後、このこの「時光系の青木氏」は始祖の時光の時から内部抗争をして弱体化しますのでその能力は全くありません。
見かねた宗家の武田氏がこの青木氏一族の為に別に菩提寺を建ててやると云う事まで起こっていますし、まして挙句は浄土宗から曹洞宗に宗派換えをすると云う武家に有るまじき前代未聞の争いを起こします。
最早、この4流の青木氏はガタガタで生活も侭成らない状況であった事が記録に遺されています。
従って、恐らくは「常光寺建設期」と同じ頃ではないかと考えられます。
この時期の前後以外に神社などの建設能力は全くありません。
この「伊勢神社の2社」は「時光系青木氏」の家柄誇張の「偽称行為」です。

ところが、対照的に次ぎの「長野の伊勢」とは別のものなのです。
甲斐にはこの「長野の伊勢」の環境はありませんでした。
対比する為に論じます。

・長野1に付いては、次ぎの社です。
「伊勢宮神社」 長野市伊勢宮町
「伊勢社」   長野市東之門町

信濃は前段でも論じた様に、「伊勢青木氏」との連携は「政治、軍事、経済」等の全ての面に於いて完璧なくらいに親密な関係保持をしていました。此処「信濃」には「伊勢村」と云う村まで造り「伊勢」と「信濃」の「青木氏の融合氏」が興り定住していた地域なのです。
この「社の伊勢」は「神宮」の呼称の「伊勢」では必ずしもなく、「信濃伊勢村の伊勢」でもあるのです。
むしろ、「信濃の伊勢、伊勢の信濃」の一族的な血縁関係をも含む「親族的関係」にあったのです。
そもそも、この「伊勢の呼称」を正規に使える氏は、ただ一つで「伊勢の守護」、「伊勢神宮」の「護り役・御師・総師」の「施基皇子」を始祖とする「皇族賜姓族の伊勢青木氏」だけです。
この「伊勢青木氏」と「伊勢村」を作り「融合族」を形成する「皇族賜姓族の信濃青木氏」は、この「伊勢の呼称」の使用は「準使用氏」と見なされますし、現に本来の「青木村」にせずに「伊勢村」の呼称を使っている程なのです。
(天智天皇による「第4世族神明王の19の守護王」を始祖とする「5家5流」の5地域の「信濃王の青木氏」 「氏名」を「村名」とする慣習は皇族賜姓青木氏にのみ許されたもので、他氏は全て「地名」とする習慣があったのです。これは「嵯峨期の詔勅」により「青木氏の氏名」の使用と、その尊厳と権威と格式を護る為に「氏名」を「地名」とする事を禁じた事に依ります。)
従って、「神宮=伊勢」の呼称の禁令から、この信濃の「伊勢の呼称」は他の呼称とは別なのです。
「青木村」を使わず一段格式高い「神宮=伊勢」の「伊勢」の呼称を「村名」としたのです。
勿論、「神明系3社」に匹敵する社でもあるのです。
故に、「伊勢宮」の呼称であろうと、「伊勢神社」の呼称であろうと問題はないのです。
つまりは、この「2つの社」は真に「神明神社」であって「神明社」なのです。
神宮の「伊勢の呼称」であろうと「村の名前」であろうと、この氏は何れも使用可能な氏なのです。
況や、「準使用氏」であり、「伊勢青木氏」=「信濃青木氏」であるのです。

敢えて、「伊勢青木氏」=「信濃青木氏」のこの事を論じる為に其の他の項目にこの一つを入れたのです。
ところがここで、「伊勢青木氏」=「信濃青木氏」に匹敵するもう一つの「準使用氏」があるのです。
それは、「特別賜姓族の伊勢青木氏」です。(決-41)

「皇族伊勢青木氏」とは伊勢四日市で融合氏の血縁関係を構築する事のみならず、両氏の「融合氏」も「信濃の伊勢村」と同様に形成し、「伊勢四日市」に「青木村」を形成して定住しているのです。
(信濃青木氏との3氏の血縁性も高い)
従って、この「伊勢の特別賜姓族の青木氏」は武蔵の「宗家の特別賜姓族青木氏」と並んで、「神明系社」に対する指揮権は大きかったのです。
故に、「特別賜姓族」は「神明系3社」の建立を厳しい「仕来り、決り事、規則慣習」40を護りながらも「418社」もの建立が可能となり、且つ、「皇族賜姓族」を支えながらも、「4-6規則」で計画的に行えたものなのです。
それを実行する「2つの絆青木氏」もその行為に対して尊敬しこれに従ったと考えるのです。
だから、前段と上記でも論じた様に、「神明系社:566社」なのであって、民は「3つの災難」等にも拘らず「神明系3社」を原則除外し「2つの青木氏」を崇めたのです。
もっと広く云えば、事程左様に「第2の宗家の青木氏」との「親族」であると云う事等からも家柄身分に拘わらず「青木氏族の秀郷一門の永嶋氏を始めとする主要5氏」も同時に、「民の為に566社」も立ててもらっている事から、民から「尊敬の念」を抱かれ崇められたと考えれるのです。
結局は、この「伊勢の社名付き神社」は特別な慣習(決-41)なのです。

さて、そうすると、次ぎの「伊勢・・社」は何なのかと云う事に成ります。
実は、信濃の「伊勢・社」と同じく大変に重要な「青木氏の生き様」を物語る特別な「伊勢呼称」なのです。

この事に付いて次ぎに論じます。

石川
「伊勢神社」 輪島市
富山
「伊勢玉神社」永見市伊勢町

この「2県の神社」(実態は福井が入る)は、「一部信濃青木氏」、「信濃足利氏系青木氏」、「近江青木氏」、「近江佐々木氏系青木氏」、「甲斐武田氏系青木氏」の末裔等が「室町期の戦乱期」を逃れる為に、或いは一部は「平安期の動乱」を逃れる為に「石川や富山や福井」の「日本海側3県」に、神奈川、栃木、新潟に逃亡した「諏訪族系青木氏」の様な「一族集団的な逃亡」ではなく、「混乱期」を避ける為に、或いは「子孫存続」を図る為に、「事前退避」した者の末裔(退避族・家族親族)が定住した地域なのです。

中には8万石(青木紀伊守)や4万石(青木伊賀守)の青木氏が「加賀の戦い」で秀吉に敗れ、「敗残兵」としてこの「退避族」を頼って逃れた者もいるのです。

では、”何故この3県(富山、石川、福井)を頼ったか”と云う疑問ですが、実はこの奈良期の「越国」は「皇族賜姓伊勢青木氏」(越道君)の「古代故郷」なのです。
実は「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は災難を受けている「賜姓青木氏一族」の「退避先」をここに誘導したのではないかと推理しているのです。その根拠があるのです。
その「2足の草鞋策の財力」や「シンジケート力」を使って ”「確実な安全地域」に誘導して護る” と云う義務が「氏家制度」としてあった筈で、その力を使って安全に退避させたと観ているのです。
それが青木氏族を護り生き残らせる「最大の義務」で、それがあってこそ「皇族賜姓族の務め」であり「3つの発祥源」の本来の基本の務めなのです。従って、「3つの発祥源の青木氏」が ”子孫が絶える” と云う事があってはそもそも「政治的」にも「国民の安定と安寧」を図る「象徴」として、又、「皇族一門を支える戦略的配慮」からも朝廷は困るのです。

(次段で論じる事として、ある「決定的な特別な根拠」が「伊勢と信濃の2つの賜姓青木氏」に課せられていたのです。 青木氏の守護神-22参照 最後の論点)

まして、”この程度の事が出来なければ青木氏なんておこがましい。と云う”「青木家家訓10訓」の全ての教えなのです。

と云うのは、幾ら退避するとしても安全な地域に届けるには移動中の危険が大きく潜んでいて戦乱の中では極めて困難です。
勝利者側が「掃討作戦」を必ず敷きますので、家族等に「武力の防備」がなければまず殆どは無理です。そして、幾つもの歴史的に異なる「混乱や戦乱」にも全てこの3県に集中しているのです。
そして全ての各地の「皇族賜姓族地」の賜姓族の末裔家族が、時代が異なるにも拘らず全てこの3県に移動している不思議な事なのです。
定住しても一人2人ではありません。そうするとその生活に必要とする「経済的裏付」が必要ですし、ある程度の保護力も必要です。これはそう簡単な事ではありません。
これは「何かの力」が大きく働いての事であります。
それを実行できる力量を持った「皇族賜姓族の一族」と云えば「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の連携であります。自らの「伊勢の3戦い」以外に一切の戦いに組しなかったのはこの「2つの氏」であります。
又、この目的、責務を達成させるには本音では ”出来なかった” と云うべき事だったのです。
ですから「誘導する全ての条件」が整っています。”整えた”とするのが正しいのです。
「皇族賜姓伊勢青木氏」の「母方ルーツ」はこの「越の国の3県」です。ここを選んだのです。
そして、「退避の家族の安全の情報」や「心の拠り所」を確保するには「神明系5社」、3県で42社 全体の28%/148 7%/566 32社/42が神明社 集中地域させているのです。
この為にもこの「神明系社の力」が必要であったのです。

全ての「神明系社の建立地」は「賜姓族地」だけですが、「賜姓族地」でもないのに、ただこの地域だけは例外地なのです。其処に「3割近い神明系社」を集中させて適切に分布させ建立しているのです。
「何か、特別な思惑」があった事を物語ります。それでなくては「2つの賜姓青木氏の勢力圏外」でこの日本海の片隅の地域に集中させる事はあり得ません。
148社もギリギリの建設戸数であった事は前記しましたが、そんな中での3割です。
そして、其処に「全ての青木氏の末裔子孫」がこの3県地域に不思議に混在しているのです。
そして、その末裔は主に「商家」として生き抜いているのです。 これ等の事に ”絶対に何かある” と思う筈です。
更に、これまで20段で論じて来た中で、一つ「大きな疑問」を感じませんか。
”賜姓族、賜姓族としつこく言いながら、 ”何か論じていない事が抜けている” と感じませんか。

「皇族賜姓族」は「第4世族内の第6位皇子」の「朝臣族」ですね。
では、「第4世族内の皇子王族の真人族」はどうしたのか。何もしなかったのか、末裔はどうなったのか、遺せたのか、彼等の守護神は何なのか、等の青木氏で論じた数々の事の問いが浮かんで来ますね。
実はこの全ての疑問に応える回答が此処にあったのです。
それが、この「地域と退避地」に答えがあったのです。
(長論と成る為に、次ぎの-22で「皇族と5家5流賜姓族との関係の検証 (19守護王地の意味する処)」で論じます。)

「皇族賜姓族」は「第4世族内の第6位皇子」の「朝臣族」でありますが、その「退避家族」が末裔を此処に遺し、此処に至るには「至難の技」それを成し得たのは”伊勢青木氏と信濃青木氏の力以外には絶対にない”と断言出来ます。
では”その退避方法は”と成りますが、陸路は各地のシンジケートの連携、海路は「伊勢青木氏」の伊勢店の大船と堺店と攝津店の大船だと思います。其処までシンジケートの保護であったと考えられ、途中の宿泊は神明系5社であったと考えられ、そして私は大船で運んだと観ているのです。
一番安全で確実です。だから日本海側の港の持つ3県なのです。
そして、故に、ここに「28%の神明社32社」と、「神明神社8社」と、この「・・神社」2社を「神明地」ではない「賜姓族地」ではないこの3県に故に集中させたのです。
無駄に「賜姓族地」ではない地域に42社もの神明系社を建立する理由はありません。
この為の布石なのです。
この「退避族」(家族)はその里を頼っての地域であったと考えられます。
他の地域を頼る事は反って小単位の家族集団には危険を孕んでいて、逆に旗頭に担ぎ挙げられる等の事が起り、戦乱に巻き込まれる可能性が高い事に成ります。(現実に滋賀等で起っている)

この3県の「広域越の国」の南域には上記の氏の祖先(天智天皇、天武天皇、持統天皇)の母方実家先の末裔族が住む地域なのです。この地域は[全青木氏の始祖の地]であり、平安期-鎌倉期-室町期にはその先祖の末裔が「広域に小豪族化した郷氏、郷士の地域」なのです。
従って、この「青木氏の基ルーツ」の「郷氏、郷士の里」を頼った事に成るのです。其処に退避族の安定定住地を社会的にシステムとして構築したのです。
退避した武力を持たない小集団の家族の末裔は地主などに成っていない事等もこの事を物語っているのです。「氏再興」を果たした栃木などと大きく異なる処です。

4万石、10万石の「大名の末裔」と「敗残兵」がここを頼ったという記録は、ここが「皇族賜姓族系の青木氏の逃げる地域」である事を口伝で知っていた事を示します。
そして、代々奈良期からそれが「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の「仕儀」であった事も知っていた事にも成ります。(敗残兵が本当に逃亡したのかの矛盾と疑問がある。)
「皇族賜姓青木氏の氏家制度」が室町期末期まで続いていた事を証明する事にも成ります。

因みに、これを証明する事として、実は明治9年までに続いた「隠れ浄土宗系の宗派の集団」が起した「伊勢周辺の武士と農民の大一揆」に背後で「経済的支援」をしていたのは「伊勢青木氏」と「伊勢加納氏(加納屋)」であった事も記録として残っている事からも、明治初期までこの「態勢力」を維持していたのです。

実は本論のこの調査で判った傾向として、”この「退避地の末裔」の多くは傾向として「商い」をしている”と云う事なのです。重要な事なのです。
この「3県の神明社42社」の「境内の碑」に記された内容を観ると「・・屋」とする「商人の寄付」が多いと言う事です。これは明らかに「伊勢と信濃の商いの影響」を受けていた事を示しているのです。

これは「退避地での自立」に向けて、「武」ではなく「和」の「商」を選んだとし、それを「伊勢と信濃の商い」がこれを誘導した事を物語るものです。「和紙」に限らず地場産業の殖産販売として「支店的な活動」をさせて自立を促したのです。

「5家5流25氏の青木氏外」にも「丹治氏系青木氏」等の「嵯峨期詔勅の皇族青木氏」も「夏冬の戦い」で退避しているのです。確認は取れないが、家紋群から「花菱紋の存在」が確認出来るので、「甲斐の武田氏系皇族青木氏」の一部末裔家族が事前退避している可能性があるのです。
敗退後の甲斐の皇族青木氏は、「埼玉鉢形に集団移転」させられているが、「青木氏の退避地」がある事は口伝で事前に承知していた筈なので、確実に子孫を遺す意味で、戦い前に事前に戻る事も承知で女子供の一部家族を「退避地」(保護地)に移動させている可能性が高いのです。

そもそも戦いで負けて逃げ込む場所の「敗退逃避地」ではなく、ここは「事前退避地」の意味が強かったのです。それは「敗退した兵や族」が逃げ込めば「敗残兵の掃討作戦」を勝利者側は確実に行いますので反って戦いに巻き込まれる事もあって「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」は許可しなかった筈です。
上記の「紀伊守と伊賀守の末裔と敗残兵」の「逃亡の記録内容」には問題があると観ていて、家族に付き従った「家人」では無かったかと観ていて、確認は出来ませんが「記録表現の誤り」と考えます。
先ず、この「逃避地3県」に安全に事前に移動させるにも「伊勢青木氏」「信濃青木氏」の了解が必要であり、且つ、退避する手段の「船や陸送」もシンジケートを使って頼らなければ成らない訳ですから、「兵」が付き添っていては「巻き添え」に会います。 ”勝って気侭に退避する” と云う事には成らない筈です。
退避後の「生活と安全」も看て貰わなくては成らない訳ですから、必ずお願いする立場からは「信義」を護る筈です。
戦いに勝利する事で、又、元に戻る手段もお願いしなければ成らない訳ですから、「決まりや信義」を必ず守った筈です。退避しての「当面の避難所」もこの「42社の神明系社」である訳ですから間違いはないと考えます。

ここで、前段からの情報として、間尺にあわない一つの疑問が湧きます。
この疑問の検証は、”この「退避地」が何時ごろから始まっていたのか” と言う事をも説明する事にも成ります。
それを物語るのは、平安中期に起った次ぎの信濃の事件です。
信濃には陸奥から秀郷一門との血縁族の「花房氏」が一門の赴任先の移動に伴ない移動し、勢力を得てここで豪族(土豪)となります。然し、ここには「信濃足利氏系本家」が定住していました。この二つの氏が血縁します。
ところが、秀郷一門は「内部争い」から一門の言う事の聞かない「信濃足利氏系本家」を潰しに掛かります。そして、この「血縁族の花房氏系の分家」に「秀郷一門から跡目」を入れて、こちらを本家として立てて援護します、そして挙句は「元の本家筋」を追い出します。この「元本家筋」は「皇族賜姓信濃青木氏」と血縁していて「信濃の賜姓族」の「足利氏系青木氏」が発祥しています。
そこで、この「元本家筋」は信濃から逃げ出します。この時、゜賜姓族の足利氏系青木氏」の一部が付き従います。そして、逃避して遂には、鳥取の「八頭と米子」に辿り付き定住します。
ここは「賜姓族地」では全く無く、むしろ「出雲大社族」の領域の所領境です。
諸々の勢力の「緩衝地帯」とも言うべき地域でした。
秀郷一門はこの「陸奥血縁族の花房氏」を「土地の豪族」として大きくし、「信濃足利氏」と血縁させて分家とし、其処に一門から「跡目」を入れて甲斐を挟む勢力圏を構築する狙いがあったのです。
そうする事で関東域と古代の東海道域圏を押さえ込む事が出来ます。
その覇権争いの前哨戦であったのです。
「信濃足利氏」にして観れば、まだ室町幕府の栃木の足利氏と共にまだ然程大きくなく、結局、この分家の足利氏が最終全国11国を制する程に大きくなります。
然し、「栃木足利氏」との勢力抗争も起り、遂には衰退を始め11国の尾張の守護代を頼り、その守護代の織田氏に乗っ取られて足利氏の斯波氏は滅亡します。
「足利幕府の基盤」を作ったのはそもそもこの「信濃足利氏」であったのです。
(11領国の一つ陸奥斯波の地名を採り斯波氏を名乗る)
この平安期の前身の本家筋の事件での逃避地です。
上記のデーターでも判る様に、ここは鳥取は全く「神明系社」が無い地域です。ここに逃げ込んだのです。
以上がこの事件の経緯ですが、この事、何か不思議ではありませんか。

先ず、何故、この「青木氏の退避地」に定住しなかったのでしょうか。
この「退避地」(保護地)とこの「足利氏本家」と「足利氏系青木氏」の元の定住地は、「信濃」と「美濃」と「越中」の「国境地域周辺」に元々住み分けし定住していたのです。
富山、石川、福井の3県とは直ぐ北西の隣接域です。
最も逃避しやすい地域ですのに、然し、「若狭の福井」を越して「因旛の鳥取」まで逃避しています。

この経緯の中には次ぎの重要な事が潜んでいます。
1 この退避地の設置時期とその完成度期(退避地の歴史的経緯)
2 この退避地に留まらなかった理由(退避地の受入条件)
3 この時期の3県の「神明社系」の建立社数の程度(退避地の保護能力)

では、この事に付いて、考察し検証します。
この事件の起った時期ですが、平安中期前後の1000年頃です。
この頃の「2つの青木氏」の状況は、先ず、「皇族賜姓族」はやっと大化期の頃から始まった「古代和紙」の「伊賀和紙」を信濃に移して900年前半代に「信濃和紙」が殖産出来ました。
「伊勢と信濃の青木氏」は守護としてこれを売りさばいていた頃ですが、「平安期の初期」に始まった「衰退期」から何とか脱しようとして、これを契機に1000年の前半初期に本格的な「商い」(1025年頃)としての販売に移り始めた時期の頃です。年代が一致しています。
この「2足の草鞋策」は、前段でも論じた様に、丁度100年後の頃の1125年頃に「豪商・大店」としても「本格的な力」を発揮し始めた時期に成ります。
「鎌倉文化」(1200年代頃)を経て「室町文化期の紙文化」(1340年代頃)と呼ばれ時期には「巨万の富」を獲得します。
記録によると、「地主」としての土地の大きさだけで換算すると、「50-60万石の以上の力」で、「商い分」を勘案すると「100万石以上 伊勢は58万石 最終は5万石の地主」(元は伊勢守護)を持っていた事が判ります。
一方「特別賜姓族」は、「千国の青木氏の賜姓」が940年代前半です。ここから「特別賜姓族」は急激に力を増します。
そうすると、力の付けた秀郷一門(秀郷958年没)が仕掛けたこの1000年前後のこの事件には、この「二つの青木氏」も共に再び「相当な力の持ち始めた時期」に成ります。
(この時代の状況判断から此処に逃げ込めた筈です。)

そこで、「神明系5社」の建設状況では、特にこの3県での「建設社数」ですが、「賜姓族地」ではないこの3県の「賜姓族退避地」(保護地)の「42社」の社歴を調べた範囲では、その「建立時期」を考察する事が結局は困難でした。
本質、これ等の「社」は、「古さ」から来る「威厳、尊厳、荘厳さ」等を重視される為に、敢えて「社歴の年代年数」を正確に明示しない傾向があります。
然し、この隣の「越後-信濃-美濃」域の「周囲の神明社」から状況判定すると、この1000年前の頃に既に建立されていた可能性のある「神明系社」は、県の国府に付近に集中している筈ですから、場所的要素から判断すると、未だ「20社程度/3県」であったと考えられます。

前段で論じた様に、「4-6規則」からと「平均4社/1郡」の事から判断すると、「1県4郡」と見ると、比較基準としては「平均16社/県」と成ります。
そうすると、当時の「6社/県」(「20社程度/3県」)と比較すると、この「賜姓族退避地」に対しては、「混乱、戦乱、騒乱、内乱、事件」等の「退避条件」からのその「必要性」から「1/3」程度と成り、この社数は妥当な処と観られます。
(受け入れ条件は一応整っていた事が判ります。)

確かに、この「6社/県」(「20社程度/3県」)の内には、明らかに奈良期から平安初期までのものと観られる「建設様式」と、「社歴」を信用するかしないかは別として、この2条件から観ると「半分程度強」と観られます。特にその傾向は「富山側」にあります。
この「富山の理由」は、「越後と信濃と美濃」の3国境を接していた事によるのではないかと考察されます。
特に、「古い」と観られる社が「石川」に離れて「2社」あり、これは前段でも論じた「主要な初期の19神明社建立地」(4世族王 下記付録)に記している「石川の王」の「天智天皇の19守護王」の時の「神明社」であると観ています。

(参考 福井県西の「若狭」には「守護王」として「雅狭の王」が配置されていたが、この「雅狭王」は北滋賀地域の王 奈良期-平安期の「近江国」は「北域」と「国府域」と「南域」との「3政庁区域」に分けられていた。)
(参考 「大化の守護王」は守護地の地名を名乗る慣習があった。
例えば、施基皇子 伊勢の施基: しき :後に施基の地名が色又は一色等に変わる。他に奈良の磯城:しきの磯城皇子 川島皇子:佐々木の川島:佐々木皇子 全てこの慣習に従う。)
(参考 「石川王」はこの後、「吉備」、更に「播磨」と赴任するが最初の王名が通名の慣習と成る。出自地が「王名」と成る)

そして、この「2社」が上記の「石川の2社」(神明社1含む)であると考えられます。
この事から、明らかに大化期から「賜姓族地」を離れていても、この地名の石川には高位の「4世族王」の「守護王」を置いていた事の意味が出て来ます。
つまり、「石川」はこの意味で「重視していた地域」であった事を意味するのです。
「神明社」「神明神社」がある事自体が重要度を物語るパラメータなのです。
つまり、「奈良期と平安期」では、「神明社の存在」は一つの「重要地」である事の証しなのです。
「3つの発祥源」の責務を担った「皇族賜姓族の青木氏」を政策上つぶす事は絶対に出来ません。
その為に、「皇族者の子孫存続」を目的として「事件や乱」等から守る為の天智、天武天皇が最初に考えた「退避地的な地域」(保護地域)であったのです。(決-42)

この為に3県に対して、北側に隣接する「近江」には、南北の縦に「3つの守護王」を置いて補足態勢を採っていたのです。
そして、この「近江」から南域に隣接する「伊勢」を基軸にして挟む様に左右の5地域に「高位の賜姓族王」(融合氏)を配置したのです。
そして、”イザ”と云う時の退避地(保護地)として最も「美濃-信濃」に近い「石川」を基軸に左右に「2つの地域(福井、富山)」をその範囲領として「退避地」(保護地)としたのです。
要するにより確実で安全な「防護戦術の鶴翼の陣形」を敷いたのです。
無意味に1つの国にこの様に3守護王を配置する事はあり得ません。

この「戦略的配置」とは別に、次ぎの様な事を実行しています。
1 それを「不入不倫の権と神宮」で固く護ります。
2 「青木氏の守護神」を「皇祖神の子神」と定めて権威を高めて保護します。
3 「祖先神」と云う「独善の神」を持たせ上で、この「保護システム」の采配を「祖先神-神明社建立」と云う手段を駆使します。
4 指揮に対する権威を高める為に「最高位の王」として「融合氏の祖」の「伊勢王 施基皇子」を初代「指揮王」として定めたのです。
(「主要な初期の19神明社建立地:4世族王」 下記付録参照)

(参考 奈良期から王は「4世族」(宿禰族まで)までとし、「八色の姓」制度で変革したのです。
それまでは「6世族王」であった。「伊勢王」は最高位の2世族の「第6位皇子」「朝臣族」「淨大正1位」 「王位」にも順位があり重要地に応じて順位通りに配置された。)

従って、この事件の1000年頃の「退避地の神明系社の数」は一応「22社」とします。
最初の建立期は、大化期の「石川王の2社」(吉備、播磨の「石川王」別)であります。
これを一応645年とします。
事件の1000年の前の950年として計算すると「250年間」、「古代和紙」の信濃は900年頃として、この間に前記した様に「最小の衰退期間100年(MAX150年)」として、「100年間」-「22社」とすると、建設能力は次ぎの様に成ります。
 [ (22社/100年)*5 ]で、 建設は5年に1社程度と成ります。

これは上記で論じた「建設能力」に類似します。
5年に1社程度で退避地(保護地)に神明社を建立し始めた事に成ります。
その最初が「19地域の守護王の神明社建設」であったのです。
(その中でも上記した特令地の神宮の遷宮遍座地の一つで滋賀の「神明社」がもっとも古い)

結論としては、これで1と3は解決しました。
この3県に建立されていた事件前の神明系社は22社と成ります。
退避地(防護地)の「受け入り態勢」は時代と共に進み、「1社/5年」のペースで充実させて行ったことを物語ります。

さて、2の検証を次ぎに進めます。
この22社もある退避地(防護地)に、”何故、この「足利氏系青木氏」が伴う「足利氏元本家の集団」は留まらなかったのか” と成ります。上記した様に、「退避地」としては留まられた筈です。

この事件は戦乱ではありませんので「掃討作戦」がある事の危険はありません。ただ逃避するだけです。荷駄を引っ張りながら一族の集団が山道を越えて米子・八頭に逃避し到達したのです。
明らかに「退避地の充実度」で留まらなかったわけではない事から、次ぎの事柄が考えられます。

「足利氏元本家」は ”皇族ではない” と云う立場があり、「賜姓族分家の足利氏系青木氏」の一部の薦めにも拘わらず「賜姓族地」と云う概念に拘ったのです。
それ程、この時代には未だ平安期である事から「賜姓族」と云う「権威、尊厳」があり、これに対して「一信濃の土豪の立場」から遠慮したと成ります。(理由の1)

秀郷一門から危険を感じてその「影響力」の及ばない所の「鳥取」のこの ”「緩衝地帯」に逃避したかった”とする推測も成り立ちます。
皇族賜姓青木氏と特別賜姓青木氏の関係からこの退避地は余りにも秀郷一門の影響力の及ぶところであったからでもあります。(理由の2)

”この鳥取の八頭の「緩衝地帯」であれば未開の山間部を開墾して、一族を護る事が出来る” と考えた事もあり得ます。
その他の土地では、「土地の豪族」との間で「受け入れ」を断わられる事もあり得ます。
故に、この未開の誰の圏域でもない様なこの「緩衝地帯の山間部」を選んだ事が考えられます。
(理由の3)

何れにしても、「3県の退避地」に留まらず、逃避行を続けた理由はこの「3つの状況」を配慮した筈なのです。

つまり、その配慮の根幹は、「再興」のことより「子孫存続」に重点を置いた生き方をした事を物語ります。
その証拠に、鳥取には神明社系は全くありません。本来であれば賜姓族の足利氏系青木氏が付き従っていますから、「神明社系社」を建立できる立場にはあった筈ですが、宗家に対して建立するに必要とする条件を揃える事が出来なかった事が考えられます。それ程に「衰退した環境」の中にあった事を物語ります。
この「賜姓足利系青木一族」はこの米子域から東西に南北に末裔を大きく広げていません。本来ならば「青木村」を作る権利も与えられている訳ですがありません。
信濃を立つ時の「賜姓足利氏系青木氏」の”宗家に対しての苦しい立場”が目に映ります。それだけに上記の「3つの配慮」をしたのです。

一部、宍道湖の右側に青木氏の子孫が点在存在している事は家紋群でも判りますが、これ以外にはありません。この事からかなり閉鎖的に氏を護った事に成ります。
この状況証拠から、「2の問題」は検証出来たと考えます。

「元本家筋の足利氏」に付いての研究は進んでいませんが、「信濃足利氏系青木氏」から考察すると、上記の「3つの理由」から留まらなかった事が判ります。むしろ”留まれなかった事”に成るでしょう。

結局、この事件の検証からは、この「3県の退避地」は奈良期からある程度の能力を保持していた事が判ります。 
「神明系社」が22社から42社に成ったのは、「室町期の下克上と戦乱期」の要素から青木氏はよりその退避地の受け入れ能力を高めた事が判ります。

奈良期から平安期では、「1社/5年」で構築し、鎌倉期からは戦乱期の直前まで1330年-1200年で130年間 これで42社-22社で20社→20社/130年から 「1社/5年」と成ります。

「時代の混乱性」を「奈良期-平安期」に比して「鎌倉期-室町期中期」は2倍として考察すると、2倍のハイペースで建設を進めた事が判ります。
この「20社」は、上記で論じた「建設の能力」から可能な範囲であります。

「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、懸命にこの「退避地の補足」を「時代の状況」に応じて「神明系社の建設」に邁進した事が判ります。そして、最終的には全国比3割を占めるまでに至ったのです。

「2足の草鞋策の財力」とその「抑止力のシンジケートの能力」には問題が無かった事は上記した明治期の「一揆のバックアップ」の史実の事からも判ります。
特に、この「シンジケートの能力」は鎌倉期-室町期中期間では極端に高まったと考えられます。
それは「シンジケートの母体」は、「戦乱で敗退した氏族」を「経済的に援護」してこの「組織」に組み入れて保護して、”イザ ”と云う時にその代償を発揮するシステムです。
この ”イザ ”は「抑止力」のみならず「諸々の経済活動」にも寄与したのです。
伊勢青木氏-信濃青木氏が企画する「全ての経済活動」に働いたのです。
大商いの「荷駄の輸送と安全確保」、「神明系社建設の職人や下働人」等のありとあらゆる仕事に対して適時適切に指揮してシステムを動かしたのです。
「室町期の戦乱期」には、真に「政治、経済、軍事」の三面に対して忙しく働いた事が記載されています。
「伊勢シンジケート」が効率よく働いた史実の「南北朝の楠木正成の働き」がこれを物語っています。
混乱期の「敗残兵」の多くは逃亡して「山間部や海沿い」に移り住み、「山族、野族、海族」の様な形で生活をしていました。
普通は、前段の「陸奥安倍氏」のところでも論じた様に、当時の戦いの慣習では、「敗残兵」が捕まると「俘囚」として奴隷となり、女子供の家族は人身売買と成ったのです。
資料から室町期までこの悪習は続づいていたのです。
その悪習の中で、青木氏はこれらの青木氏に関係する「敗残兵」のみに拘わらず、全ての氏の「敗残兵」を、「退避地」ではなく、「伊勢-信濃シンジケート」の中に組入れて保護し、「集団組員」として生活保護を含む様な経済的な支援をしたのです。
これには兵だけではなく被害を受けた「村の農民」や「全ての職種の職人」等も「影の姿」で吸収したのです。
「今宮社系の遠州シンジケート」の蜂須賀氏や、「神明社系の伊勢-信濃シンジケート」の楠木氏などはこの一員であったのです。
単に「抑止力」の言葉で表現していますが、実は「シンジケートの構成内容」はこの様な「一種の退避地」の役目も果たしていたのです。
「3県の退避地」は「一族の子孫存続」の為の策であり、「伊勢シンジケート」はそれらの「関係族の救済手段」の為の策でもあり、この「2つの策」を構築していたのです。

この様に、考えてみれば、全ての「青木氏の存在」を影で関わり支えた「伊勢-信濃シンジケート」はなくては成らない存在であった事が改めて判ります。
そして、この「2つの策」に関わった無くては成らない前段で論じた「伊勢シンジケート」と本段の「神明系社 556」は切っても切り離せない関係にあった事が判ります。
そして、「4-6規則」と「決-41」はこれ等の関係を維持すべく「最大の条件」であったのです。

(参考 「4-6規則」は1地域に於いて「4-6社の建立」とする根拠の一つには「退避屋社」の距離にもあって、一つの地域を「50キロ程度、15里」が「昔の国の距離」の単位ですが、これを4-6社で割ると(3里)~4里で(12キロ)~15キロと成り、「休憩-宿泊」の丁度よい範囲と成ります。
これは「退避地」だけに関らず「29の賜姓族地」に於いても”いざ”と云う時の要件でもあったのです。
「4里」は、資料から一旅の「平安期-室町期代の移動範囲」とする記載もある。)

結局、「賜姓族地」に無関係なこの3県のこの2社はこの「皇族賜姓族」の「伊勢青木氏と信濃青木氏の建立」と云う事に成るのです。
だから「32の神明社」と「8の神明神社」と、「分霊社」を招く事の出来ないこの地に「社名つきの神社2」なのであって、「伊勢の呼称」は特定しないこの「退避族の末裔」の為に建立された事を意味するのです。
だから、総じて「伊勢」なのです。故に、ここが「全皇族賜姓族のルーツ」(越道君)なのです。

「武と和」
そこで、この3県の「社名付き・・神社」で論じたのには、次ぎの特記すべき事があったからなのです。
それは、前段で論じた様に、「2つの賜姓青木氏」は「武」の「発祥源」でありながらも、その存続は「神明社」に関り、「武による存続」ではなく、総じて「和の存続」であった事なのです。
その証拠が「和の象徴」の「神明社」であって、それに纏わる此処に記する「退避地の存在」なのです。
そして、直接、「武」を使わず、「シンジケート」と云う「影の力」の「抑止力」を活用し「善或いは和」として子孫を確実に遺し生き延びて来たのです。
他氏が行っていない「青木氏の退避地の存在」の意味する処は真に此処にあると考えているのです。
真にこれは「3つの発祥源」を果たす為の戦略であったのです。
その戦略が「神明系社」と「シンジケート」と「特別賜姓族の抑止力」と「退避地」で有機的に働いていたのです。

因みに、この事に付いての次ぎの象徴的な事件があったのです。
「信長の伊勢攻め」に継いで、「豊臣秀吉」は「青木氏の生き様」のこの事を「今宮社系遠州シンジケート」の一員であった「蜂須賀小六」に教えられ充分に承知し、「伊勢攻め」の際は「武」に依らず、自らの兵を使って吉野から材木を切り出し、谷から流し、兵による大工をさせ、前線の拠点城を建てる事をしたのです。(青木氏の影響を避けた)
そして、この様に「丸山城戦」の様に、直接「武」により戦わず、学者で歌人で智略家であり、「伊勢の特別賜姓族」の「遠戚族」でもある「蒲生氏郷」を廻して「伊勢青木氏」と談合させ、戦わずして勝利させる為に、一時、「伊勢青木氏」を新宮に移動させて「勝利の形」を作り、無傷で1年後に戻し、「5万石の本領を安堵」させ、「2足の草鞋策」も促進させる為に「松阪城造り」後には「侍屋敷の2区画」をも与えて、「和」で「伊勢」を解決させたのです。

これは何故なのかであります。
真に、「退避地と神明社」と「シンジケートと2足の草鞋策」に観られる様に「和の生き方」であり、人の心を動かし、「秀吉」はこれを認め、この「青木氏の賜姓氏」を潰さず生かす形で処理をしたのです。
「秀吉の立場」からすると、この「権威の象徴」の様な「目障りな氏」を先ず最初に潰す筈です。
然し、そうしなかったのです。
故に、賜姓源氏を含む「皇族賜姓族」16代16流16氏の中で、唯一正規に直系子孫を純粋に現在に遺し得たのは「笹竜胆紋の綜紋」を家紋とする「伊勢青木氏と信濃青木氏」だけなのです。
前段で論じた「3つの発祥源」の役目は真に達成されたのです。
それがこの「青木氏の守護神」=「祖先神-神明社」の論で判るのです。そして、この「退避地の存在」がそれを大きく物語ると説いています。


「大神宮と皇大神宮」
さて、次ぎは大神宮と皇大神宮を二つにして考察して見ます。
何度も同じデータを比較として使います。

神明社
       ・秋田25・愛知21・新潟13・宮城10・千葉8 ・東京6・岩手4・神奈川4
       ・埼玉3 ・福島2 ・栃木2 ・茨城2 ・広島2 ・山形1・青森1・静岡1
神明神社
       ・秋田8 ・愛知4 ・新潟4 ・宮城2 ・千葉10・東京2  ◎ ・神奈川2
       ・埼玉9 ・福島2 ・栃木1 ・茨城1 ・岡山1 ・山形9  ◎ ・静岡7
       ・群馬3
大神宮
皇大神宮
       ・ ●  ・ ●  ・新潟2 ・宮城2 ・千葉1 ・東京2 ・岩手2・神奈川2
       ・埼玉1 ・福島2 ・栃木3 ・茨城1 ・広島1 ・山形5 ・青森1 ・静岡1
       ・熊本1-北海道1

上記の「神明系4社」を総合して観るとその「建立根拠」が良く判ります。     

神明系
4社総合
       ・秋田25・愛知21・新潟19・宮城14・千葉19・東京10・岩手6・神奈川8
       ・埼玉13・福島6 ・栃木6 ・茨城4 ・広島4 ・山形15・青森2 ・静岡9

「神明系4社」に神明宮を加えて総合的に観ると更にその「建立根拠」が歴然と証明されます。

神明宮
       ・ ●  ・愛知12・新潟34 ・ ●  ・千葉3 ・東京3 ・ ●   ・ ● 
       ・埼玉2 ・福島3 ・栃木8  ・茨城8 ・ ●  ・ ●  ・青森12 ・静岡9
       ・群馬9
神明系
5社総合
       ・秋田25・愛知33・新潟53・宮城14・千葉22・東京13・岩手6・神奈川8
       ・埼玉15・福島9 ・栃木14・茨城12・広島4 ・山形15・青森15・静岡18

先ず、「神明系4社総合」ですが「神明社+神明神社+大神宮+皇大神宮」を加算すると上記の通りの表と成ります。
この表の「大神宮+皇大神宮」の考察表で「秋田」と「愛知」が何故ないのでしょうか。この疑問が湧きます。これを解明すれば、「建立根拠」が浮き上がってくる筈です。

実は、これには「明確な根拠」があるのです。それを次ぎに論じます。
この表は先ず、次ぎの「4つの地域」に分けられます。これは地域としての分類ではなく秀郷ラインとしての分類です。(県別や国境別ではない。広島と岡山は同一とした)

1 青森2 →秋田25  -山形15 -岩手6 -宮城14    北陸ライン
2 新潟19→(山形)  -福島2  -栃木3           東北ライン
3 埼玉1 →茨城4   -東京2  -千葉19          関東ライン
4 神奈川8-静岡9  -愛知21 -広島15          東海ライン

前段で論じた様に、「特別賜姓族の勢力」の伸張方向で観るとこの様に見事に分類出来ます。
この「4つの地域」に沿って「建立の根拠」が配慮されたと考えられます。
この「建立の根拠」は「仕来り、決り事、規則慣習」と「威厳を尊ぶ格式」と「神明社と神明神社の建立数」とで「4つの地域」に依って配慮さられたと観られます。
問題は下記に考察する様に、この県域通りに勢力圏が成り立っていた訳ではなく、下記の注意に記した様に「県別」が昔の「国別」に成っていなかった事等の事から「秋田の様な事」に成ったと考えられます。

(注意 県別も然る事ながら、国別も、国境別にくっきりと判断されたわけではなく、何事も国境を越えた勢力圏で判断されていたのです。)

そもそも、この●印の秋田25と愛知21は社数としては段突です。
先ずは多い事も一つの「建立の根拠」ですが、多ければ必ず「大神宮と皇大神宮」が建立されると云う前提ではありません。何故ならば、其処には「皇祖神」の子神の「祖先神-神明社」と云う「社格」と云うものが働き、それに加えて上記で論じた厳しい賜姓族への「仕来り、決り事、規則慣習」があり、又、上記した「勢力圏」も大きく働きます。
「社」の事のみならず、何事にも「格式」を「社会の基準」として重んじた「氏家制度」です。
その中でも、特に厳格に守られていた「心の拠り所」の「社」に名をつけない格式等が厳格に守られていた環境なのです。
従って、其れなりに「高い権威」が「4つの地域」毎に保たれている地域に建立された筈です。
そうなると、「1の北陸ライン」であれば、このラインの主役、指令基地、つまり、最大の「権威と威厳と格式」の条件を保っているのは、「陸奥国の青森」と成ります。
前段で論じた様に、この陸奥は、秀郷一門の「鎮守府将軍」としての赴任地であり、関東以北の最大の血縁族を有し、秀郷一門の血筋の多くを占め、且つ、関東にはその陸奥の豪族末裔が「関東屋形」等と呼ばれる程の小田氏や小山氏や花房氏等の主要な関東豪族の出身地域でもあります。
況や「武蔵の本領」に対して陸奥は「準本領」と呼ばれる程の地域であり、この地域は江戸期まで一門の領国として維持された息の長い国でもあるのです。
ここに「大神宮と皇大神宮」を建立する事は最適で先ず一番に建立された地域と成ります。
この青森を基点として、ラインの国々に建立されて行った筈です。(神明社も同じであった)
そうすると、”秋田も”と云う事に成ります。この秋田の域の範囲は県別を前提した数字です。

然し、実はこの「秋田」が存在していた地域は、県別ではなく、「国境別の影響」を強く受けた地域なのであって、更には勢力圏が最も強く働いていた地域なのです。県別=国別ではないのです。
この勢力圏には「強い方向性」或いは「地理性」を持っています。(前段でも地域性を論じた。)
従って、この「秋田」は陸奥国(出羽の一部北側を含む国内)の勢力圏内であった事から、建立の適用除外された地域なのです。
既に、「青森」に建立されているとなると、「強い方向性」或いは「地理性」を持っている事から、陸奥の一部の「秋田」には建立は無理であります。

更に、前段で詳しく論じた様に、この地域は平安末期には「阿倍氏-安倍氏」と「内蔵氏」の阿多倍一門の「産土神の勢力圏」と成り、越後に近い「出羽の南部(山形)」と、「陸前の西側域」と「岩代の北側域」との「3つの地域」が支配していた地域でした。
この「3つの国」に挟まれた地域にはその影響力は当然に及びません。
この様に「支配地域外」と「守護神の違い」が強く働いていたのです。
上記した様に勢力圏にはこの様に「方向性・地理性」が働くのです。
当然に「建立の根拠」もこれによって支配されます。
この「秋田」はあらゆる面(国別、勢力圏、守護神、「立地地形」等)から影響を受けていた事に成るのです。それだけに、この「陸奥域」を後方から支援補足する必要性があり、それを実行する「新潟」に執っては「喉の刺」であったのです。
(別の意味で、故に秋田は大変に変動し苦労した歴史を持っているのです。)

この「広域陸奥域」を補足する立場の「新潟」は、「2のライン」の広域の「越国の根拠地」であった事から建立され、そこを基点としてその「2のライン」の他の地域に次第に建立されて行ったのです。
この「秋田」と同じくこの難しい位置にあった北陸域にも接するこの「山形」は、越後の支援を強く受け、「秋田」の他氏の支配域の伸張防止も含めて「陸奥の出羽国の根拠地」であった事から建立されたのです。

「県別、国別」以外にも要するに「勢力圏」とその「方向性」をも「建立の根拠」に影響を強く与えていたのです。
そして、「2のライン」は、武蔵の本領域を繋ぐ広域陸奥域の主要の国々、「3のライン」は広域武蔵国の本領域であった事から建立されたのです。

(現在の「県別」で考察しているので、昔は次ぎの「注意」の通りであった事から誤解を招き易い。下記の「注意」を特に本論には考慮が必要で、雑学としても是非お読みください。この「注意」に勢力圏が働きますのでその根拠で論じています。)

[注意1  「広域陸奥国」は、元は「磐城」(福島)、「岩代」(福島)、「陸前」(宮城)、「陸中」(岩手)と出羽の「羽前」(秋田)、「羽後」(山形)とで以上6域で構成される「陸奥国」であった。]

[注意2  「広域越後国」は、元は山形の一部を含む「越後」(新潟)、「越中」(富山)、「佐渡」、加賀(石川)、越前(福井)との4地域で構成される「越国」であった。]

[注意3  「広域武蔵国」は武蔵(埼玉)、武蔵(東京)、上野(群馬)、下野(栃木)と神奈川 (相模)の一部と千葉(下総)の一部との6地域で構成される「武蔵国」であった]

[注意4  「峡域陸奥国」は、現在の青森県をベースに、岩手県の北の30%を南に伸び、秋田県の30%を南に伸び、日本海側より60%、太平洋側より30%程度内側に入った地域を国境としていた。
つまり、秋田と岩手の国境を挟んで突出した形状であった。

[注意5  「峡域越後国(越国)は、現在の新潟県をベースに、北側の県境より山形県側に20%北に伸び、山形県の日本海側に糸状に秋田県に繋がっていて、福島県の県境に20%を東福島側に伸び、栃木県と群馬県の県境をそのままにし、富山県の西県境付近まで伸び、長野県と富山県との3県境の地域を長野県側に延びた地域を国境としていた。
山形県と秋田県に繋がる日本海沿岸沿いの糸状域は陸奥に繋がる補給通路として抑えていたと考えられる。]

[注意6  茨城県、岩手県、宮城県、福島県、千葉県も昔の国境とは大きく異なっている。
現在の県境は地理的要素に依って決められ、昔の国境は歴史的経緯(勢力)に依って決められていた。
国境を走る北陸道、中央の山道を走る東山道 茨城と福島の太平洋国境から発し中部地方との県境を走る東海道との幹線道路とは別に、福井西側より日本海沿岸沿いに陸奥まで走る古代の通路があった。茨城を発し太平洋沿岸沿いに陸奥まで走る古代通路があった。
何れも幹線道路ではなく生活道路や補給路的な通路的なものであった模様。
これを特別賜姓族は勢力的に抑えて戦略的なものに使った模様が記録から読み取れる。]

「4のライン」の愛知21は、隣国は伊勢神宮の摂社等123社の三重であり、ここに「大神宮と皇大神宮」を建立する根拠は薄く、又、「権威と威厳と格式」を重んじる「伊勢神宮」は分霊を直ぐ隣に移す事は許可しないと考えられます。
それよりは普通の判断配慮ならば、”「子神の神明社」を多く建立する「配慮の地域」である”と考える筈です。故に、秋田25と同じく愛知21と2番目に多いのです。
特に、伊勢は天領地として「不入不倫の権」を奈良期から与えられた「三重」であって、国境は不動であったのです。、それに依って「愛知の伊勢」との西側の国境は当然に不動と成ります。
その区別そのものは、現在感覚であって、昔は国別はあったとしても勢力争いから常に流動的であって、その地域は殆どは「勢力地域」に相当していたのです。
「愛知21」はその意味ではこの不動の勢力地域に合致していたのです。
この事から秋田と愛知は建立の適用は除外されたのです。

これ等の事は更に「神明系5社総合」の表が上記の考察を完全に証明しています。
この表は神明のパラメータのみならず「特別賜姓族」のあらゆるパラメータにも使えるのです。
改めて、重要なデータであるので再記します。
目的順に並べなおして使用すると便利でパラメータは発揮します、ここでは数値順(役目柄)に並べ直します。

神明系5社総合(数値順)
     ・新潟53・愛知33・秋田25・千葉22・静岡18・青森15・埼玉15
     ・山形15・宮城14・栃木14・東京13・茨城12・福島9 ・神奈川8 
     ・岩手6 ・広島4(岡山)

「神明系社域の役割」
筆者の感覚では見事に総合的な指標と成っています。
「一門の戦略上の主役新潟」53    -陸奥域の補給拠点 一門最大の拠点 賜姓族の保護基地
「主神無の伊勢補佐の愛知」33    -西域の前線基地 西域の守り玄関口 他氏との調整役地
「陸奥の西補給路の秋田」25     -陸奥から南域の前線基地 神明系社建立最大地域 
「宗家筋の結城一族の千葉」22    -本領東の拠点 補給基地 「京平氏」との競合地域 
「武蔵と京の中継地点の静岡」18   -東海圏の要 愛知-静岡-神奈川の戦略ラインの確保
「広域陸奥の勢力拠点の青森」15  -全北域圏の要 武蔵-陸奥間の南北2大戦略拠点
「北青森と西愛知の中心点の埼玉」15-本領-総作戦指揮本部 「振り子の原理」役
「陸奥基地と本領の西壁役の山形」15-南北の勢力圏の防護壁-他氏を挟撃壁の盾役
「陸奥基地と本領の東壁役の宮城」14-南北の勢力圏の防護壁-他氏を挟撃壁の盾役
「本領北の防御の栃木」14      -北域の伸張拠点 賜姓族の保護基地 勢力盛り返し地域
「本領周辺防御の東京」13      -青木氏の集約拠点-青木氏116氏の本家本領地域
「本領東の防御の茨城」12      -本領の補給基地 血縁豪族の集約地域
「前線基地の福島」9         -賜姓族の保護基地-北前線の戦闘部隊 不安定域
「本領西の防御の神奈川」8      -伊豆賜姓族との連携地域 関東勢力圏の入口
「陸奥の東補給路の岩手」6      -南の前線基地 不安定地域 一門の最大苦難地域
「讃岐籐氏の勢力圏」4        -軍事、経済の独立性を保持した西の最大勢力地域

全国24地域の特別賜姓族のそれぞれの役割は武蔵本領より与えられていたと考えられます。
又、その様に、戦略的に地理性に合せて勢力地を拡大し、その勢力をある目的方向に進駐させ全体の防御網を構築していたと考えられます。
その印として「戦略的拠点」と「政治的拠点」としても「神明系5社」を巧みに配置していたと観るのです。
その指揮を「第2の宗家」が行っていたのです。
何故ならば、「神明系5社の建立と呼称」と「仕来り、決り事、規則慣習」の実行権を「特別賜姓族」として天皇家から与えられていたからで、これだけの大権を与えられていたからこそ成し遂げられる勢力圏です。それを「神明系5社の呼称」と云う手段で証明している事を意味しています。

つまり、この”「役目柄」の範囲で「神明系の5社」は配慮され計画的に建立され、呼称が決められた。”と云う事に成ります。

(神社の呼称群とその他の群を入れると、その「建立と呼称の根拠」に濁りが出て真のパラメータは出ません。)

「分霊の根拠」
さて、此処で「皇族賜姓族」はどの様に貢献してこの「分霊」を行ったのかと云う問題です。
既に、「神明社と神明神社」で「147社」を建立しています。記録では148社と成っていますので、せいぜい「分霊」として建立したのは2社止まりと考えられます。
(一社は最古の神明社、もう一社は特令地京の神明社)

その「主神の建立」は下記表の*印は三重の本宮を除いて「8社」です。この内、特令地の「大阪1」と「京都4」を除くと「長野1と山梨3」と成ります。
「大阪1」と「京都4」は、「2つの青木氏」にとって建立し呼称する権利と義務はありません。
これは恐らくは「朝廷の命」による建立と観られます。
そこで、「京都4」の1/4は、「皇大神宮」です。
下記の遷宮10が存在しますが、Cの「大」の字を「太」に変えて建立し、敢えて「伊勢神宮の仕来り」に従い呼称したと観られます。

この建立期から判断すると、「平安期遷都」と同時に京の都に分霊したと見られ、「桓武天皇」による建立と考えられます。遷都していて皇祖神を祭祀しないのはおかしいものです。
先ず最初にする行為の筈で、当時の慣習では遷都に「御魂」を入れる事が「遷都の第一の行為」です。
まして、「桓武天皇」は上記し前段でも論じた様に、遷都後に自らも神明社を20社建立していますので間違いはないと考えられます。

残りの「京都4」の2/4は「豊受大神宮」です。
これも「桓武天皇」である筈で、「内宮 外宮」を対として分霊している筈ですので、下記の「京都4」のAと成ります。

「京都4」の3/4は一地域に2社は「威厳と権威」を厳格にこの仕来りを守っていた事から分霊と成る事はないと考えられますので下記の「遷宮の10」のものと成ります。

従って、下記の「遷宮の9と11と12」は、この建立が「伊勢神宮の遷宮」の時のものであり、社歴が古い事は確認出来るし、「社の記録」は平安期初期には特別に伊勢4郡外123社外に「摂社」格扱いと成っている処から神明系社とは別扱いと成ります。

「京都4」の4/4は下記の「京都4」のDであり、同地域に2社建立は仕来り外ですので、「皇大神宮」に「神明」を付けて仕来りを守ったのです。

現実に、奈良期には次ぎの遷宮が行われていて、結局は、下記の2つの表から、「京都全8社」の内、4社建立で「大神宮」1と「皇大神宮」3と成り、「皇大神宮」は遷宮1と分霊2に成ります。
これで一致し、「太」と「神明」を付けて奈良期の遷宮10に対応した事に成ります。
故に、この「遷宮と遷都」に因って建立された社は大変珍しい呼称も4つとなる訳です。

京都の遷宮地
9  真名井神社(摂社)  京都府宮津市江尻      
10 皇大神社        京都府福知山市大江町内宮
11 笑原神社 (摂社)   京都府舞鶴市紺屋
12 竹野神社 (摂社)   京都府丹後市丹後町

確かに、仕来りの「社名」の付いていますが、この遷宮中の奈良期では未だ決められていません。
従って、「京都4」の神明社は、本データ「祖先神-神明社」では次ぎの様に成っていますので下記の「京都4」のBに成ります。

「京都4」
A  日向大神宮   山科区  東山神明社 7大神明社・
B  朝日神明社   此花区・
C  天照皇太神社 京都市左京区原地町
D  神明皇大神宮 宇治市神明宮西

この京都の遷宮社(皇大神宮)の9~12と神明系A~Dの間には「社名と地名」が異なっています。
このAとBは後に「神明社」に成っています。
特異な社格として、Aは大神宮と共に後に「7代神明社」の一つと成りました。

「遷宮神明社」
実は、此処で大変な史実があるのです。
それは「祖先神-神明社」の発祥に関わる事が「遷宮の遍座地」85「社」の中にあったのです。
それは次ぎの「神明社」です。

・ 特令地 遷宮地 神明社  滋賀県湖南市三雲

つまり、「神明社」として「最も古い神明社」の位置付けに成るからです。
そもそも、前段でも縷々論じた様に、再度、概ねに書き記しますと「神明社の歴史的経緯」は、次ぎの通りです。
「皇祖神」として定める前には、「遷宮遍座地」として85社と90年の歳月を掛けて遍座します。
そして「天智天皇」の大化期には「伊勢」の現在の地を最終遍座地として定めます。
ここを「皇祖神の地」と定めます。
そして、それを「天武天皇」がこの「伊勢社」を「正式な神宮」として祭祀に伴なう「仕来り、決り事、規則慣習」等の「式目と格式」等を定め、「国神」としての位置付けを定めました。
この時、この祭祀を行わせる為に「皇女」に「伊勢神宮」などの「高位格式社」の「斎王」として任じます。
そして、「神宮を皇祖神」の「子神」として「祖先神」を定めます。
これを「第6位皇子」に賜姓し臣下させて、この「祖先神」を「賜姓族の守護神」と定めます。
この賜姓族に全国に「祖先神-神明社」の布教を図らせ、その為に「神明社」を建立をします。
この時、「第4世族」までを「王」とし、この王を19の主要地の守護王に任じます。
先ず、その守護王に「19の守護地」にこの「神明社建立」を命じます。
「この皇族賜姓臣下族」は、天皇を護る「親衛隊の任務」と共に、「賜姓族」の「初代伊勢青木氏」は「伊勢の守護王」として「伊勢神宮」を守護する役目を司ります。
施基皇子を天皇ノ補佐として働かせ、伊勢には「三宅連岩床」に伊勢国司代として派遣を命じます。
「天智天皇」はこの時、同時に「遷宮遍座地」85の中から、先ず、「特令地」として滋賀に「遷宮神明社」(滋賀県湖南市三雲)を最初に定めたのです。
この「滋賀の地」はこの「遷宮地」として最有力地、(遍歴数/県 下記データ・印)であったのですが、「伊勢」に定めた為に此処に「皇祖神の子神」としてこの「神明社」を建立します。
次いで「19の守護地」に「皇祖神の子神」の「祖先神」の「神明社建立」を命じました。
ここで天皇家に依って累代に「3つの発祥源」に関わる皇族子々孫々の一つの「政治的戦略」が展開されます。(-22で論じる。)
その後、累代の男系天皇の「第6位皇子」の「5家5流賜姓族青木氏」と共に、「特別賜姓族」として「藤原秀郷の第3子の千国」にこの「青木氏の氏」を与え、「皇族賜姓族」と共にこの任に当らせます。
この結果、最終は566社を建立します。
この中で神明社は148社と成りました。(詳細は本段)
その最も歴史的な経緯を持つ「古い神明社」がこの「遷宮の神明社」なのです。
「特令地」の此処から「神明社」は始まったのです。

「遷宮と19守護地」
そこで、「遷宮と19守護地の2つの資料」には「青木氏」にとって根幹を示す大変に重要な意味を持っていますので、これに付いては考察してみます。

遷宮の遍歴数/国
 伊勢23  大和21 ・「近江13」  伊賀10  吉備6  丹波4  尾張4  紀伊3  美濃3

国数 9
社数 85

「5主要地域」
(大和+紀伊)     24 「飛鳥域」
(伊勢+伊賀)     33 「伊勢域」
(近江+丹波)     17 「近江域」
(尾張+美濃)     7  「美濃域」
(吉備)          6  「吉備域」

「主要な初期の19神明社建立地」(4世族王)

5家5流皇族賜姓地
伊勢
  [伊勢王](三重県 ・国府 松阪市)         
近江
  [雅狭王](滋賀県 近江-若狭地方)
  [山部王](滋賀県 草津-東近江-守山地方)
  [近江王](滋賀県 ・国府)
  [栗隅王](京都府 宇治市 山城国-久世郡地方) 
  [武家王](京都府 但馬国 若狭側地方)
美濃
  [美濃王](岐阜県 ・国府)
  [広瀬王](岐阜県 大垣市地方 国分 国分寺)
信濃
  [三野王](長野県 ・国府 信濃)
  [高坂王](長野県 更級地方)
甲斐
  [甲斐王](山梨県 ・国府)

賜姓末裔地(賜姓族保護地)
  [石川王](石川県-福井県 加賀-能登地方 )

遷都地  (特令地)
  [竹田王](大阪府-京都府 竹田地方)      
  [難波王](大阪府 摂津地方)
  [宮処王](奈良県 桜井市 金屋地方 つばいち)
  [泊瀬王](奈良県 桜井市-朝倉地方 長谷寺)

特別賜姓地(広域美濃 広域信濃)
  [弥努王](愛知県 尾張-信濃側地方)
  [桑田王](愛知県 豊田市地方)

大宰府地 (遠の朝廷 自治区)
  [春日王](福岡県 春日市地方)

(注意1 [5家5流皇族賜姓地]
この・印の「5地域の守護王」が始祖と成り、5代の男系天皇が賜姓し、臣下させて「第6位皇子」をこの地に配置し継承した。
その後も「跡目」が欠けない様に「皇子の跡目」を入れた。累代天皇に「第6位皇子」が居ない場合は、平安期以降には「賜姓源氏」の「朝臣子」を跡目に入れて継承した。

(注意2 「三野」と「美濃」と「弥努」は他の書籍等では混同している)

(注意3 「遷宮地」では、「伊勢域」、「近江域」、「美濃域」、「飛鳥域」、「吉備域」
(注意4 「賜姓地」では、「伊勢域」、「近江域」、「美濃域」、「信濃域」、「甲斐域」
(注意5 注意3と注意4を比較すると大きな意味を持っています。)

(「注意1から注意5」と「19守護王地」の関係の意味に付いては-22で論じる)
以上19人/66国

そこで、この2つのデータを使って考察を進めます。
「長野1」は信濃青木氏の建立に因るものと観られます。ここには「特別賜姓族」は存在しません。148社に入りますので問題は他と同じく「調査諸条件の合致」では問題はありません。
此処までは問題はないのです。ところが、次ぎの4地域には問題を持っています。

「大阪1の問題」
(特筆)
大阪1に付いては、「皇大神宮」 大阪市城東区今福南にあります。
然し、この記録は不明確なのです。賜姓族とは無関係の地でありますので「分霊」は困難であります。
「伊勢青木氏」の圏域は奈良の名張までの領域ですし、伊勢から「分霊」を大阪にするには問題があり、大阪に「難波宮」があるとしてもその経緯から「分霊許可」が出ないと考えられます。(次段-22で論じる)
従って、室町期中期までに建立されたものとしてはなかなか難しいところであります。

又、「皇大神宮」としては「遷宮の地」でも有りませんし、東大阪は未だこの地は淀川と寝屋川に挟まれた砂地の湿地地帯でしたので建立は可能かは疑問です。
恐らく、そうなると青木氏による建立ではないとすると「分霊」ではない訳ですから、室町期中期は考え難く、少なくとも江戸期以後の社で「分霊」ではなく何処からか移設したと考えられます。
移設でなくては「地理」と「歴史」と「皇大神宮の呼称」の関係から困難であります。
移設する事の出来た権力者はこの地では一人「豊臣秀吉」と成りますが不確定不祥です。
そうすると、”何処から移設したのか。”と云う問題が出ます。
移設出来ると成ると、「関西圏の遷宮地」から移設する以外にありませんが、現在は不明です。

(参考 調査等に依れば、この「大阪1」は、”ある地域(匿名)に存在し、「平安時代末期」に摂津国の今福村が開発された時に、「天照皇大神」を祭祀したとする地元の言い伝えがある。大正末期には稲荷社を旧大和川堤から移設した”とする資料もある。
これを調査するが「社歴詳細不祥、社殿格式不祥、様式等不祥、建立者不祥」で「建立期も根拠無」、「地理環境に矛盾」 「建立理由の希薄」。
この本宮36社中、この大阪「皇大神宮」だけが調査内容の全てが不明確、不祥で、勝手に建立できない「仕来り」に対しても、「一農村開発」、又、「稲荷社」がある処からも威厳から矛盾多し。「仕来り、決り事、規則慣習」が霧消した明治以降の建設とも考えられる。本宮唯一の不祥社で記録が不思議に消されている。秀吉が「伊勢の慣例」から逃れる為に一切の記録を消したか)

「山梨2の問題」
「山梨2」の一つは「外宮の分霊の大神宮(大明神)」で、「甲斐青木氏」の建立に因るものと観られます。
ここにも「特別賜姓族」は存在しません。残りの「山梨1」は「皇大神宮の建立」と成ります。
最後の一つは甲斐には嵯峨期の詔勅に依る「皇族青木氏」が存在しますので、この一族の主家が建立したのではないかとも考えられます。
然し、「皇族賜姓甲斐青木氏」が「皇大神宮」を2社も同地域に建立する事は「威厳と権威」を重んじ、格式を尊ぶ「皇大神宮」を2つも建立する事は不遜に当り分霊不許可に成りますので無い筈です。
「皇族青木氏の建立」としても考え難いものですし、その権利は無い家がらです。
そもそも、この「皇族青木氏」は内輪もめして建立するに等しい力があったかと云うと問題ですし、その出自も疑問なのです。元々建立する呼称する力は無かったと観られます。(甲斐青木氏の論文参照)

更に大疑問なのは、次ぎの事です。
・「天照大神社」2の ・「天照」は「皇大神宮」の呼称でありながら 「大神宮」に重ねて使うと云う呼称が起こっています。「皇」を「天照」に変えた事も考えられます。これが「山梨2社」にあります。
因って、この一つは大阪1と同じかとも考えられますが、「分霊」による建立権利のない「皇族青木氏」が敢えてこの様な呼称を使ったとも考えられ、「時代性」「建立形式」などの諸条件は整っていますので「大阪型」とは異なると考えられます。
異なるは「呼称と2社」の問題があり、これに付いて確定出来ない状況である為に「皇族青木氏型」かは現在は判定出来ません。つまり、不祥の疑問社です。
実は甲斐は何事にもこの様な疑問点の多い所なのです。

「近江と美濃の問題」
ここで、何か不思議ではありませんか、「近江」と「美濃」のデータが「神明系5社」には出て来ません。
滋賀3の「神明社」としてありますが、この近江は昔は、「丹波、丹後の西域の近江」と、「美濃に接する東域の滋賀」との2域に成っていて、此処では「西域の近江の東域の滋賀」の地域にあります。

(注意 国別は現在の県別とは大きく異なる事に注意 更に平安期-鎌倉期の国数も異なる。
地域として記述すると次ぎの様に成ります。
A 兵庫-播磨、摂津域、        「2域」
B 滋賀-近江、滋賀、丹後、丹波域、「4域」
C 大阪-摂津、難波、和泉域     「3域」

この「近江と美濃」は平安末期に衰退し滅亡した事は前段で論じました。
もう一度簡単にお浚いして見ると、次ぎの様な敬意を辿っています。
「近江青木氏」は、「天智天皇」により「伊勢青木氏」と同期に第7位皇子も特別に佐々木の地名より近江佐々木氏が賜姓され臣下して発祥しました。
その後、「文武天皇期」には青木氏の無い近江に近江王として賜姓青木氏が継承発祥させたものです。
その後、直ぐにこの2氏の同族血縁が生まれ「佐々木氏系青木氏」が誕生したのです。
然し、「近江佐々木氏」と「近江青木氏」との「同族争い」が起り、戦いを避ける為に「近江青木氏」は赴任もあって一族挙って美濃に接する「東域の滋賀」に移住したのです。
「近江青木氏」は再び「西域の近江」に戻るのですが、「東域の滋賀」(地名域)には一部の娘だけの分家が残るが結局は絶えます。西域に戻った「近江青木氏」は更に兵庫摂津域に移動定住します。
然し、「近江青木氏」が衰退した事を狙いその断絶分家を乗っ取り、伊賀上山郷から出て来た上山氏が「滋賀青木氏」を名乗ります。
その後、、矢張り「佐々木氏系族」との軋轢が起り兵庫(摂津側)に移住したのです。
その後、「源平の戦い」で近江佐々木氏一族と共に賜姓近江源氏に味方して滅亡するのです。
残った「近江青木氏」は美濃に移動して「賜姓美濃青木氏」と賜姓族の「美濃土岐氏系青木氏」と共に美濃、尾張源氏の「美濃源平戦の富士側の戦い」に参加します。
「近江青木氏一族」と「美濃青木氏一族」は、近江、美濃、尾張の源氏と共に完全滅亡するのです。
平安末期の事であります。
桃山期に秀吉面前で、この「上山氏の滋賀青木氏」と摂津の「近江青木氏」の残存支流の「末裔集団」とが「青木氏の名籍」を奪ったとして決着を付ける為に何れも「250の兵力」で戦います。
結局、「上山氏の滋賀青木氏」が勝利して名乗る事を許されます。摂津の「近江青木氏の残存末裔」はますます衰退して仕舞います。

以上がお浚いの経緯ですが、この「皇族賜姓近江系の青木氏」と「皇族賜姓美濃系の青木氏」の2氏は、「皇族賜姓伊勢青木氏」と「皇族賜姓信濃青木氏」と「皇族賜姓甲斐青木氏」の3氏とはその生き方を異にしていたのです。
後者3氏は「源平戦」に参加せず、衰退を食い止める為に「古代和紙殖産」を商いする「2足の草鞋策」を採って生き延びて何とか「親政族の勢力」を保持したのです。
この為に、当の前者2氏のその一門は平安末期の滅亡はもとより「桓武天皇」の「平安遷都」とその「軋轢」により平安初期からその勢力は衰退傾向に既にあったのです。
恐らく、この「2つの皇族賜姓族」は「2足の草鞋策」を取る事に大きな抵抗を示したと考えられます。
要は、”その「使命」を果す事”への認識度とその態度が異なっていて上記する様に「武」と「和」の「生き様の差」と成っていたと考えられます。大議論が5家5流の賜姓族の間で起こりそれが元で疎遠に成っていた事も考えられます。1025年頃の事で古代和紙の殖産がこの5の地域に拡がっているが商いとしてのその扱い方が異なっている事から観ると、何かして経済的な裏打ちをしなくては成らないとする認識が有りながら「商い」のところの判断が異なっていたと考えられます。
特にその「2つの賜姓族」(「近江と美濃」)の「背景族(佐々木氏と土岐氏)の浮沈」を観ても、これ等の族を巻き込んだ大議論が起ったと観られます。そして背景族と共に衰退するのです。

「近江考察」
さて、この歴史的経緯から当然に「皇族賜姓族」としてその責務を果たす必要があり果たしたと考えられ、一部の記録にはその痕跡が遺されているのですが、実はその建造物はないのです。
何故ないのであろうか疑問が残ります。
それは平安初期からの衰退の原因もあるとは考えられますが、そもそも、その原因には前段で論じた寺社には別の面で大きな役割を持っていたのです。
それは、”いざ戦い” となるとその「前線基地の拠点」と成る役目を荷っていたのです。
また当時としては人が大勢に集まるところで「社交場」でもあった事から「全国の情報収集の拠点」でもあって、今と異なり「寺社」の持つ意味と役割は「心の拠り所」だけではなく、現在の多目的コミニティスホール以上のものであったのです。
それだけに、「勢力争いの拠点」と成り、先ず最初に叩かれ焼き討ちなどに会うのはこの寺社であったのです。そのために戦略的にその建立の位置や地理的な条件は山手に成り、国境や勢力の境界地点に頑強に建立されたのです。一種の「城的要素」を持っていて、「建て方」もそれに見合う城壁など巡らし「城郭的建築」と成っていましたし、長期の生活も可能な様に蔵群が要しての大勢を保有していたのです。
”いざ戦い”とも成れば、相手側は先ずはこの前線の「拠点潰し」にかかるは「戦略の常道」で、その為に消失が激しかったのです。
この「近江や美濃」は、「天智、天武、持統天皇」が主要拠点に配置した奈良期の「神明社19」にはこの地域(近江、美濃)も記録の通り含まれていたのであり、「祖先神-神明社」があれは当然に主神の内宮外宮の分霊もあったのです。然し、これ等はありません。
無い事は、当然の如くこの影響を大きく受けたのであって、「神明系5社の痕跡」がないのです。
記録があっても無い事は消失意外に何者でも有りません。
それを防ぐ「武力的な力」と「経済的な力」と最後に「戦略的な力(柔軟な知恵)」がこの「近江青木氏」等にに無かった事が大きな原因です。

筆者は上記の「大阪1の移設説」もこの弱体化した主権者の無くなった「近江」からのものではないかと考えているのです。移設が新しくても「社」本来は「古い社」であってここに記載したのであり、「大阪1の社歴」にも書かれている平安末期はこの「近江の歴史的な履歴」の時期と一致します。
何故ならば、「近江青木氏一部残存末裔」は兵庫摂津域に移動しますが、そこで嵯峨期詔勅による賜姓族「摂津源氏」の「後楯力」で、ある程度盛り返し「神明社」5社と「神明神社」6社も合わせて11社をも建立しているのです。
摂津に移動してからの期間で勢力盛り返したとは云え、この11社も建立し維持する能力(武力、経済力、職能力)は無かった筈です。特に建設する職能人の確保は出来なかった筈です。
例え、八幡社を信望しない「祖先神」を「守護神」としている「摂津源氏」に借りたととしても11社は多過ぎます。
神明系2社(神明社と神明神社)があれば当然に本宮の分霊を興して建立する筈です。それは現実には兵庫摂津域にはないのです。おかしいです。
”「社」を造り御魂入れず”のこの「有り様」は矛盾しています。
つまり、この近江は奈良期より格式から云っても伊勢に継ぐ地です。伊勢の本宮に継いで最大の「所縁の地」ですから、「神明社」はもとより「本宮分霊」が「いの一番」に行われるが必定です。
故に、「近江青木氏」と「近江佐々木氏」系列の一族が衰退し滅亡して、維持する主権者が無くなれば、この格式高い社を同族又は他氏は放置する事は有り得ず、西域「近江」から「本宮分霊」と共に移設したと考えているのです。その後に滅亡後その主権者が無くなり、結果として他氏が「本宮分霊」だけを兵庫の摂津、又は西域近江から摂津の国であった現在の大阪東域に移設したのではないかと考えているのです。(移設には攝津源氏の協力を得た)

上記大阪の「移設説の根拠」はここにあるのです。それを”実行できる摂津の人物は”と成ると「足利氏」か「豊臣秀吉」かに成り得ます。この城東地区は淀川と寝屋川に挟まれた河州であって安土桃山時代に埋め立てられたところですから、当然に「移設」に価する地理環境と其処に在する人口(農村を開拓したばかり)と元は少なかった事もあり豊臣秀吉に因って移設されたと観られます。
又、秀吉が大阪を政治の中心に据える以上は、「近江か兵庫摂津からの本宮の移設」は何としても行わなくては成らない政治課題の筈です。
上記した寺社の持つ意味からも政治の中心地として人口を集めるには最大の手段です。
人口のみならず政治に欠かせない情報収集の手段としても全国民の寺社の意味を持つ神明系社を移設建立するのが最初の課題であった筈です。
足利氏は京に政治拠点を置きましたが、逆に「近江」に集めなくては成らない政治手段で在った筈です。故に、その「移設者」は豊臣秀吉と考えられます。
稲荷神社併設は大正期ですので、その、歯止めとする「仕来り、決り事、規則慣習」は完全に緩んだ時期でもありますので問題ではありません。

「美濃考察」
これに必然的に絡んだ美濃も奈良期の天智天皇の神明社19の「所縁の地」です。
この地は、前段でも論じた様に、此処は「勢力バランスの緩衝地帯」であったのです。微妙な勢力関係が維持されていた地域であります。
ここには天智天皇は「美濃王」を置き「神明社建立19社」の一つを先ず最初に建立した地域であります。その後に於いて「特別賜姓族」はここに神明神社30社を建立しました。合せて神明系31社を建立した事に成ります。
然し、「滋賀3」と同様に「皇大神宮」と「大神宮」は建立されていないのです。
この近江(滋賀)にしても美濃(岐阜)にしてもこの二つの地域は「令制社域」であり、「天智天皇19社」(青木氏の守護神-19に記載)の国域でも奈良、京都に継ぐ「最大の令制国」であります。そもそも無い事そのものがおかしいのです。
「皇祖神の子神」の「神明系2社(神明社、神明神社)」を建立する以上は「親神の本宮」を建立するは上記の近江で書いた様に「仕来り」であります。
真に分霊の”魂入れず”の事に成って仕舞います。必ず建立した筈です。では何故、無いのでしょうか。
それは、「勢力バランスの緩衝地帯」であったからです。
「緩衝地帯」である以上、「歴史的なちょっとした遍歴」にも左右されるのです。
まして、近江で記した様に「社」は「戦略上の拠点」にも成り得るし、「城郭」でもある事からまず最初に影響を受けます。
「源平戦」を始めとして、下克上、戦国時代、土岐氏滅亡、美濃青木氏滅亡、美濃源氏と尾張源氏滅亡、岩手の様な「3つの災難」「長期間の各種の一揆」等、挙げれば暇が無い程であります。
微妙な「緩衝地帯」だからです。これでは遺し切れません。
江戸時代末期まで行った「廃絶処理」の「分霊の復元事業」があったにも関わらず遺し得なかったのです。「令制国の古参美濃」でありながらこの地域だけが外されています。
これは「長期間の各種の一揆」の影響であったからです。復元しても「一揆の拠点」として使われてしまえば政治的にも逆効果です。

そもそも上記した様に「南隣の愛知」にも有りません。此処は多少なりとも「緩衝地帯の影響」を受けていた事を物語りますが、ここは「特別賜姓族の地」です。その勢力の差は前段で論じた様に4倍以上の勢力を保持していた事から「神明系社33」を遺し得たのです。
岐阜は、三重と国境を接する地域でもありながら、皇族賜姓族の東隣の「信濃15」、「甲斐71」とし、何れも「分霊本宮」を持っているのに対し、美濃は存在しないのです。明らかに消失です。
少なくとも「地理性」から考察すれば、多少なりとも「信濃と甲斐」も影響を受けていたと考えられます。
然し、「信濃と甲斐」は「2足の草鞋策」と「シンジケート」と「特別賜姓族の抑止力」を「伊勢青木氏」と共に持っていた事から、この「緩衝地帯の影響」を排除出来たのです。
肝心な要因は「微妙な緩衝地帯の影響」に直接関与したかどうかの差です。
「信濃と甲斐」地域とは違いは、美濃は「2足の草鞋策の有無」「シンジケートの有無」「抑止力の有無」「直接間接の関与の差」が働いたのです。これだけ働けば「分霊本宮」どころか生存も侭成らない筈です。はっきりしています。(甲斐も「100年一揆」があったが遺し得ている)
「特別賜姓族」と「皇族賜姓族」の「建立と呼称問題」に付いて考察しましたが、かなりの「2つの青木氏」の「生き様」の「有り様」が出て来ます。     
そこで、更に詳細に考察し検証する為に、もう少し「建立分布の問題」を通じて続けて考察します。その表は上記の基データですが次ぎの通りです。

「神宮の基データ」
大神宮  ・青森1・新潟2・宮城2・栃木2・茨城1・埼玉1・東京2・広島1・熊本1
     ・計13/418=3.11%

     *三重1*長野1*山梨1
     *京都1(都の領有地 例外地)
     *大阪1(皇祖神遍歴の特別地)
     *計4/148≧2.70%

     -北海道1

皇大神宮 ・山形5・福島2・栃木1・神奈川2・岩手2・千葉1・静岡1
     ・計14/418=3.34%
     
     *三重1
     *山梨2
     *京都2(都の領有地 例外地)
     *計5/148≧3.37%

上記の神社のところで考察した伊勢神宮は合計125の全社宮を「神宮」と呼称する事は衆知の事ですが、この内、正宮を除く123社「摂社」等の所在地は三重県内の4市2郡に存在するのです。
例外として「奈良期の遷宮」の中に「摂社」の呼称を許された「神宮社」があります。
この「神宮社」には格式を守る為に「・・神宮」(神社)の・・の名が付かない「仕来り」があるのです。

(参考1 度会郡大紀町、玉城町・度会町、志摩市、松阪市、鳥羽市、多気郡多気町。)
(参考2 正宮2 別宮14 摂社43 末社24 所管社42 から成り立っています)  

従って、「皇大神宮」は「天照大神」、大神宮は「豊受大神」ですが、この「2つの呼称」は呼称の前に「・・大神宮」とか格式を守る為に「呼称名」を付けないのが威厳を守る為の「仕来り」です。
又、内宮の「皇大神宮」、外宮の「大神宮」の「皇祖神」は、前段で論じた様に、「祖先神」を「子神」としています。従って、その「社の建設様式」は「神明造り」の様式であり、「内宮外宮の呼称」の前に、矢張り、格式を守る為に「神明」をつける事は「仕来り」としてしないのです。
同様に、「伊勢の内宮」、「伊勢の外宮」の呼称にも「伊勢」を「固定の呼称」として指定し、他の社は「伊勢」の呼称をしては成らないとする「神宮仕来り」と成っています。
最も、大事な青木氏に関わる「神宮仕来り」が定められているのです。
それは上記した様に「神明社」等の「神明系5社」は「2つの青木氏」外にはその「建立と呼称の権利」を認めていないのです。
他にもその「威厳」を守る「仕来り」が複数あり、下記に都度説明します。
要するに、何れも「複数の呼称」を禁じていて厳格に「格式」を重んじている訳です。
(ここでは神社と神宮を同じとして扱う。)
そこで次ぎに一覧して考察して観る事とします。

大神宮19 皇大神宮17 合計36社

その結果は次ぎの様に成ります。
大神宮    格式-社名  有 15 無  4
皇大神宮  格式-社名  有  0 無 17

上記の格式の「社名の仕来り」から考察するに、「大神宮の外宮」に付いては、15/19と成り、正規の伊勢神宮系列に属さない神明系の「社」15もある事が判ります。殆どです。
「皇大神宮の内宮」に付いては、0/17と成り、全て系列の神明系の「社」である事が云えます。
つまり、これを判断するのには、「延喜式神名帳」と「延歴儀式帳」に依って、参考2の様に直径系列125社がありますが、実はもう一つの「神明族に与えられた特別の権利」があるのです。
それは、前段で論じた様に、「皇祖神」の子神は「祖先神」であり、その社は「神明社」で有ります。
依って、この関係から「分霊方式」と云う「伊勢神宮の霊」を分けて「神明族の関係の主要地域」のみに「豊受大神宮」と「皇大神宮」の分霊をして「分霊社」を建設する権利を有しています。
従って、上記の表の中にこの「分霊社」を見抜く事が必要です。
この為には、「伊勢神宮の格式の仕来り」をこの表に当て嵌めて選別する必要があります。

「豊受大神宮」の「格式・仕来り」を守った「分霊社の4社」は、「三重の本宮」を除いて、「青森1」 「山梨1」 「新潟1」 の「3地域の社」と成ります。「3地域の社」は大変に重要な意味を持っています。 

(新潟1は 大神宮に神明 「二重社名の呼称の問題」がありますが、この場合は問題は無し。)

とすると、「格式・仕来り」通りに呼称をしなかった「社名付きの15」に対して、先ず、”どの様に考察すれば
良いのか”と云う問題があります。
そもそも、この権利は、神明族外で建立する事は、上記でのデータでも判る様に当時の「仕来り、決り事、規則慣習」が徹底して守られていた事は判りますので、他氏が建てる事は社会慣習からその可能性が低く、仮に建てるとしても「社会の目」は「朝廷の逆賊」として社会はその「他氏を排除」する事は必定で、且つ、藤原秀郷一門の「第2の宗家」と呼ばれ、「特別賜姓族」でありながらも藤原氏の唯一の大武装勢力の護衛団を持った藤原一門を指揮する青木氏で、この「特別賜姓族の勢力」で以ってしても潰されるは必定です。
とても他氏はこの「仕来り、決り事、規則慣習」を破る事は先ず不可能です。
奈良時代から平安時代を通し室町期中期まで先ずは不可能です。
故に、「神明社、神明神社、神明宮」の「系列神社」の「建立地と呼称」には他氏と他地域は全く無かったのです。この「物語らずの圧力・暗黙の圧力」が社会全体に、「仕来り、決り事、規則慣習」を守らせていた事を明確に物語ります。
とすると、この15の「社名付きの大明神社」は、一体どの様な理由で分霊して建立したのでしょうか。それには実は前段で論じた様に「最大の根拠」があるのです。
「正規の純粋な分霊」と云うよりはこの根拠に因る建立であった事が15の地域を観れば直ぐに判ります。
「豊受大神宮」即ち、「豊受大明神」です。要するに、それは「生活の糧」の「物造りの神」なのです。
「物造りの神」として「分霊」を受けた為に、「仕来り」を重んじて「社名」をつけた事を意味します。
現に、同じ「分霊」でも「皇大神宮」17は全て「仕来り」を完全に重んじています。
内宮「皇大神宮」は全ての民の「心の拠り所の神」として崇められている「万人の唯一神」であります。
つまりは、「祖先神-神明社」の主神、「親神の内宮」の「皇大神宮」の「分霊」を先ず迎え、民の「心の拠り所」として据え、その上で、「物造りの神」として外宮の「豊受大神宮」「豊受大明神」の「分霊」を迎えた事に成ります。これも「建立と呼称」の「作法の仕来り」です
この「内宮と外宮」の「仕来り」を厳格に守り、「社名付きの大明神社」としたのです。
故に、「豊受大神宮」「豊受大明神」の「分霊地」の「仕来り」通りの「社」は「3社」(青森1 山梨1 新潟1)のみであったのです。
上記で考察したその「36の建立地」がこれを良く物語っています。
外宮の「豊受大神宮」「豊受大明神」の「分霊地」の方は、内宮「皇大神宮」の「分霊地」とは重複していません。つまり、必ず、どちらか一方にする「建立と呼称」の「仕来り」が存在した事を物語ります。

陸前域まで含む「広域の青森」は、前段で論じた様に、「陸奥の本域」で、秀郷一門の鎮守府将軍の地であり、一門の「最大血縁地」でもあり、最大移動定住地でもあります。この状況は江戸期まで続いた「準本領地」と云っても過言ではない地であります。
故に、北陸東北地域(広域陸奥域)の要として、先ずは青森に「格式・仕来り」通りに分霊地として建立と呼称を許可したのです。
其処に、15の「社名付きの大明神社」を「物造りの神」として配置したのです。

(明治2年まで広域陸奥は青森を基点として磐城、岩代、陸前、陸中、羽後、羽前の7つの国を呼称した。広域越後は越後を基点として越中、越前、加賀の4つの国に分割呼称した。奈良期では石川福井富山までを「越国」であったる。)

越前まで含む「広域の新潟」は、これも前段で論じた様に、陸奥域に続きその補給基地として存在した陸奥域を凌ぐ程に勢力を確保した地域であり、真に最大の「物造りの要の地」でもあったのです。


(皇族賜姓族地では下記参考の通りで、「皇大神宮」の「分霊」の「山梨2」には下記参考の「呼称問題」がある。後は「例外地の京都1」の3地域です。山梨は「偽称」で除外する)

では、「豊受大神宮」「豊受大明神」の「分霊地」のこの「仕来り」通りの「社」の「3社」(青森1 ・山梨1 新潟1)を ”15の「社名付きの大明神社」と同じとしても良いのでは。” と云う疑問が湧きます。(山梨2は除外する)

(偽称 参考 ・山梨2には、2つは次ぎの「呼称問題」がある。
・”「天照大神社」”の「内宮の天照」は「皇大神宮」の呼称であって、その呼称を「外宮の大神宮」に使う。両方の神宮を一つにした呼称とした。明らかに「偽称」である。
因って、山梨は、「豊受大神宮」「豊受大明神」の「分霊地」のみの1とする。因って、重複は「岩手」のみと成ります。)

(偽称 参考 ところがこの「岩手」は偽称等の問題等が多すぎるのです。 
・岩手には著しい「偽称問題」が存在する。それは「皇大神宮」の呼称です。
 「天照御祖神社 4」と「伊勢両宮神社 1」のこの「2つの偽称呼称」です。
然し、「御祖」(みおや)は「天照」の別呼称です。「二重重複」の呼称をしています。
完全に「分霊の仕来り」を無視しています。明らかに「偽称」です。

(偽称 参考、「伊勢両宮神社 1」の呼称です。
「伊勢」は「本宮2神」、「皇大神宮」、「豊受大神宮」の2つを以って「伊勢」とする事は前記した通り使用を禁じています。明らかに「分霊の仕来り」を無視しています。更には、威厳と格式を重んじる ”「両宮」”と云う「不遜な呼称」です。因って「神明系5社」から除外した。)

「偽称行為の持つ意味」
果たして、この「偽称行為」に付いて、”一体誰がやったのか” と云う疑問です。
「特別賜姓族」が、自ら全ての「皇大神宮」、「豊受大神宮」が持つ「仕来り、決り事、規則慣習」を重んじて建立を続ける事に、”自らが侮辱する様な事をするか”の疑問が湧きますが、これは絶対にあり得ない事です。真に、”自分の顔に唾”です。
そもそも、総じて、この「山梨」と「岐阜」と「岩手」と「群馬」と「大阪」は「神明系5社」の「建立根拠」と「呼称根拠」に問題が多いのです。

そこで、この「5つの地域」を観て見ると、一つ共通するものが有ります。
既に上記でも記述していますが、先ず、”歴史的に諸々の「不安定地域」である。”と云う事です。
「不安定地域」では「自らの優位性」を誇張しょうとしますからその結果、「偽称の経緯」が起こります。
地域が不安定に成った結果、建立された神明系社は「消失」の憂き目を受けます。
当然にその建立の「主権者」も滅亡の憂き目に会います。そうすると”何が起るか”です。
当然に、その後に勢力を得て豪族と成った者は、「民の支持」を獲得する為に、その「民の支持と信仰」を強く集めている ”「神明系社」を何とか作ろう”と動きます。
然し、その権利は「仕来り、決り事、規則慣習」上に縛られて出来ません。無理に作ろうとすれば「逆賊のそしり」を受けます。
その残された手段はただ一つで有ります。それは「神明系社」に似せて偽称の「社」を建立する以外にありません。それがこの「5つの地域」に起こっているのです。これが「偽称の経緯」と云う物なのです。

・問題の山梨は、前記した様に「皇大神宮」の「分霊の偽称問題」があり、70社に近い「神明系社2社」の「建立と呼称」が有りますが、”これだけの社数を建立する能力が「皇族賜姓甲斐青木氏」にあったか”と云うと、「不安定地域」であり、「三つ巴の同族争い」や「菩提寺の放棄問題」や「民の反発」を受けての「100年一揆」等が起れば神明系社の保存と維持と復元は難しかった為に”無かった”と明らかに判断できます。そもそも、「4倍の勢力」「最大勢力地」の「特別賜姓族の新潟」でさえ61です。
この社数から観れば、甲斐はせいぜい20社程度であり、「不安定地域」として観れば、「建立と維持」の能力は10社に満たない社数となる筈です。
それが70社、その70社の内訳は神明社33、神明神社29と大半を占めています。
この様な社数に成った理由が問題です。何かある筈です。
「特別賜姓族の新潟」に匹敵する勢力を保持していた室町中期までの「甲斐の勢力」とは、清和源氏の「河内源氏」の傍系と呼称する「武田氏」であります。
そして、ここには当の建立者の「皇族賜姓甲斐青木氏」の跡目を継いだ「河内源氏」系の「源の源光」の青木氏が存在し、その分家の賜姓族系の血縁族「武田氏系青木氏」が存在します。
更に、「源光」の兄の「源の時光」が「賜姓族の青木氏」を名乗る権利が無い為に「嵯峨期の詔勅」を使って「皇族青木氏」を名乗ります。
これが「河内源氏」を標榜する武田氏と血縁し末裔を広げます。この武田氏と3つのルートを持って深く血縁している「賜姓甲斐青木氏」は武田氏の援護を受けたのです。
ただ武田氏は前段でも論じた「河内源氏の八幡社」です。
武田氏は、”それを押してまで援護したか”の疑問が在りますが、同じ「清和源氏」とも成れば助けた可能性があります。現実に助けたのです。皇族青木氏に対して寺を建ててやると云う事もしています。
そうなると、どちらに重点を置いたかの問題です。
それを一つ補足する事が武田氏の行為にあるのです。それは上記の「寺」です。
武田氏は「時光系の皇族青木氏」を援護して彼等の2寺を建立してやっているのです。

(自ら建立した菩提寺の常光寺も同族争いを起こし維持管理がままならず挙句は宗派を曹洞宗に「宗派変え」しついには放置すると云う事が起こっていて、最後には無血縁の養子系青木氏常光寺を立て直すと云う事が起こっているのです。)

この事からすると、「源光系の賜姓青木氏」にも「神明系社の維持管理」に、或いは、「建立」に援護した可能性が在ります。この援護は「100年一揆」にも観られる様に、同時に混乱を極めていた「甲斐の民の支持」を得られ安定させ得る最大の政治課題でも戦略的課題でも在った筈です。
「不安定地域」ならではの事情が在った筈です。それが秀郷一門最大の補給基地で最大の勢力圏の「新潟」にも匹敵する「社数」と成って現れたのです。(「甲斐青木氏の研究(花菱紋)」の論文参照)

・岐阜の問題は前記でも論じた様に、同じ山梨と賜姓族地域であり、共に不安定地域で在りますが、やや政治的、戦略的な事情は異なります。他氏から甲斐武田氏に匹敵する程の「土岐氏」が存在しましたが、武田氏より早く滅亡しました。ただ、この岐阜は一つの逃げの対策を講じているのです。
それは”神明社1に対して、神明神社30”としています。その代わり分霊社はありません。消失した可能性が高いと考えられますが、この分家支流一族関連一統の力を借りて「神明神社」の呼称で成し遂げて「不安定要因」を交したと考えられます。神明社に対して消失は在ったにしても、”「下克上、戦国の戦火消失」からは多少は「神明神社」が免れた。”と考えられます。
そりは「神明神社」で論じた様に、一族一統とその郷氏まで含む「関連末端縁者一統」の力を借りていた事が、”下の者が上を潰す”と云う「下克上」から逃げられたからです。自ら下の者等が建てた神明神社を潰す事はしない筈です。自らを潰す事に成るからです。それを証明するのが「神明社1」なのです。少な過ぎます。この「神明社1」だけが彼等の力を借りた「社」であったのではないでしょうか。美濃青木氏は平安末期に滅亡しましたが、それは前記した様に、「生き様」の「有り様」で在ったのですから、その力はこれだけの社数を建立維持する能力は無かったのです。奈良期から賜姓族としての名籍の責務を果たすには、「一族一問一統の総力」を挙げての結果であったのです。
「神明社1」「分霊社なし」が全てを物語っています。

・岩手の問題は、上記で論じた通りで、陸奥の南の激しい「前線基地」としても、「3つの災難」のメッカとも云われる土地柄であって、当然に其処に上記した「偽称の経緯」が起こります。
この岩手の不安定地域は、その為に全ての「偽の発祥地」とも「偽の縮図」とも云われるところであったのです。そこに、昔からの「4つ目の災難」即ち、「地形上の変異の縮図地」でした。
常に緊張しながらの「前線基地」の「勢力の災難」と合せて、「5つの災難苦難」の地であったのです。これでは、その「維持管理」には「相当の力」を他地域と異なり必要です。鹿児島と同じく明治期の「廃仏毀釈」(神仏併合)の激しい様子から、筆者はこれに「土地の人柄」も左右したと観ているのです。前段で論じた「広域陸奥の俘囚事件の問題」等の「苦難の末の人柄土地柄」と成ったとも考えられます。
(この地は秀吉の蒲生氏郷に命じた「糞尿の戦い」で有名な城攻め、苦戦の「ごり攻め」をした「秀吉の最大の失敗攻め」と云われるこの戦いを最後に戦乱は終わります。)
先ずこれでは、”無理”と云う以外にはありません。”「神明社4」と「大神宮」1をよく遺し得た”と云えます。

・群馬の問題です。 上記でも何度も問題にして来ました「群馬」は「上野」ですので「下野」と合せて「秀郷一門の武蔵本領」の一つです。
此処には先ず、上記でも論じた様に、不思議なのは「神明社」が無いと云う事です。
その反面、逆に「神明宮」9と多いのです。「神明神社3」は納得出来るとしても、上記で論じた「神明宮」の位置付けです。
西には信濃、東には下野、北には越後と国境を接しています。この3つの隣接国は安定地域です。
確かに西の信濃には「信濃足利氏」の分家を立て跡目を入れて本家筋を弱体化させ、”米子に追い出す”と云う事をしましたから、この隣接国は領国並です。「不安定地域」とは成り得ません。
下野、上野には、神奈川の秀郷一門青木氏を頼って「信濃の諏訪族」が入り、この一部が下野の北側の「前線基地」に送り込みます。そして、下野を北側に伸張させた諏訪族はここを拠点に勢力を盛り返し、越後との連絡ルートを作り上げます。この為に上野は岩代との境界を強化したために結果として安定な地域に成るのです。この諏訪族は秀郷一門青木氏の後ろ盾で「上野-下野-岩代-磐城」の国境沿いに勢力圏を構築し子孫を拡げたのです。この「戦略配置図」から周囲は神明社がなくては成らない筈です。
現にこの栃木にも神明社と大神宮があるのです。諏訪社も多く建立されているのです。
”これは一体何故なのでしょうか。”
それは「群馬の歴史的経緯」から観て、県別、国別、勢力別、勢力伸張圏別の違いが起っているのです。
県別、国別では「無し」と成りますが、上記の賜姓系1氏を含む武田氏系諏訪族(2氏の合計3氏)などの「勢力別」と「勢力伸張別」(伸張方向)から判断して、「群馬の南側」には「神明社」は「武蔵の国範囲」として扱われ、後に建立されなかったと観られます。
北域はその意味で「諏訪族に与えた勢力圏」であった事から「産土神の諏訪社の圏域」とも成っているので、「神明社の存在」はあったとしても諏訪族伸張時の「戦い因る消失」で復元を結果として控えたと考えられます。
その代わりに下野と上野には特別に「神明宮」(8+9)の建立と呼称が多いのはその為であると考えられます。因みに新潟34、信濃7、常陸8の隣接国ライン状に多いのです。
前記した様に「神明宮の呼称の仕来り」による方法で明らかに処理したと観られます。
「産土神の諏訪族」であり、且つ、「信濃の神明族」でもある諏訪氏との調和を図ったのです。
信濃には「皇族賜姓諏訪族系青木氏」も存在する事から観ても、「仕来り、決り事、規則慣習」を守った全くバランスが採れた裁量であったと観ています。
諏訪族が秀郷一門の中に異質の氏が入って勢力を盛り返したとは云え、「やり方如何」に因っては極めて「不安定地域」で在ったのです。このライン上には実は「諏訪社」が大変多いのです。

この諏訪族を、”「賜姓族の分家筋、支流筋」等が独自に守護神を建立し、その呼称を「仕来り、決り事、規則慣習」から「宮」とした。”のことから、この分家、支流一族と見做し「宮」としたのです。
当然に庇護の下に在ったのですから、「社の呼称」を「宮」とするも「やり方如何」の最良方法は矢張り「血縁」であり、武蔵を青木家本家を中心に外に向けて分家、支流一族が「円状に囲む戦略」を採っていたのですから、群馬は「特別賜姓族」の分家、支流筋との血縁もあり、「分家、支流」として扱われるのには問題は両者に執って全く無い筈です。

・「大阪」の問題は、「皇大神宮の移設説」のところでも論じた様に、昔は難波、摂津の土地柄で、短期間ではあったが奈良期には「遷都」も一時あり、摂津は当時の最大の港でもあり清和源氏の本家の頼光系4家の土地柄でも有りました。然し、その後、この大阪の主役は兵庫摂津に移り、淀川の影響を受けて湿地帯が多く繁栄に問題を抱えていました。
此処には「賜姓族」、「特別賜姓族」とは「無縁の地」であり、因って、「神明系5社」には「無縁の地」であります。従って、「歴史的経緯」に於いても「神明系5社」に於いては皆無に等しいのです。
「近江-播磨-丹波-伊勢-紀州」に囲まれた中心の地でありながら、地理的環境(湿地帯でもあり河の氾濫)も多発する地域でもあったのです。それが原因で発展しなかったのです
決定的な事は、「近江-播磨-丹波-伊勢-紀州」の真ん中に囲まれていながら、それは「85地域-90年」の間に於いても「神宮の遷宮」にも入っていないのはこの為でしたし、「日本書紀」にもこの事が記録されている位です。それが室町中期まで続きます。
しかしこの反面、水に恵まれていた事から沿岸部は船の出入りが良く港が栄えていたのです。
後に「堺」が貿易港にも成るのです。その為に仮に「2つの賜姓族」の末裔がこの地に仮に住み着いたとしても「神明系5社」を建立するに相応しい土地が無く、あったとして「社」の持つ政治的、戦略的な目的を果す事は不可能でした。
そもそも、大阪とは「難波の象徴」であり、摂津は「兵庫の象徴」でした。
「難波」の語意の通り沿岸部の荒れる土地であり、裏意では難しいの”使えない土地”の語意を持っていました。
その証拠に「難の波」の地は、奈良期のある事件に使われました。
その中大兄皇子の「難波遷都」(孝徳天皇 失脚事件)はある政治的な目的を持って移し、宮廷も日本書紀には「荘厳な宮殿」とありますが、別の説では「草葺の板敷きの仮小屋的建造宮殿」(内裏・朝堂院・倉庫だけ)なものであった事も記録されています。
その目的が果された場合に、1夜の内に密かに直ぐに引き上げると云う離れ業を後の天智天皇は行ったのです。もとよりこの地の環境事情を知った上での計画行為であったのです。

(後に「聖武天皇」がこの悪い状況から此処を整備し、宮殿とした後期の「難波宮」がある位で、 前期宮殿は現在の大阪市中央区の大阪城の位置にあったのです。  大阪城は一部は津に近い湿地埋立地で、城東区今福とは湿地帯の隣接区ですから、後期の「遷都時の皇大神宮分霊説も」考えられるが記録は無いのです。)

「摂津」は「西端の津の港」とするだけに良港としての土地柄でした。歴史は名の通りこの「西端の摂津」に集中します。
歴史的には他の地域とは別に、大阪はこの様にある意味で「不安定地域」であったのです。
そもそもこの様な地域であった為に「神明系5社」と「遷宮社」が建立される事は無かったのです。
移設説は此処から来ていますし、故に、その移設元は歴史的経緯を踏まえ「難波」を中心に対比的に発展した「西の摂津」か「北の近江」かの2隣接国と成るのです。

「皇大神宮と大神宮」の分布表
北海道 1  (山上大神宮    函館市)          ・移設
青森1     大神宮       三戸郡三戸町        ・広域陸奥の拠点社    
岩手2     天照皇大神宮  岩手郡滝沢村鵜飼御庭田  ・皇大神宮 分霊2社/県
         天照皇大神社  大船渡市三陸町吉浜上中井山形
山形5     皇大神社     鶴岡市大淀川川端      ・皇大神社 同地域に分霊4社 疑問
         皇大神社     鶴岡市羽黒町町屋
         皇大神社     鶴岡市山田
         皇大神社     米沢市中央
         天照皇大神社  鶴岡市小淀川        ・「天照」の有無
宮城2     天照皇大神宮  仙台市宮城野区蒲生
         桜丘大神宮    仙台市青葉区
新潟2     神明大神宮    新潟市潟上         ・大神宮に神明 二重社名の呼称
         船江太神宮    新潟市東堀通一番町     ・大が太に変化
福島2     天照皇大神社  南相馬市鹿島区南柚木浅田 ・同地域に分霊2社 疑問
         天照皇大神社  南相馬市鹿島区南柚木宮前
栃木3     天照皇太神社  鹿沼市上永野        ・特別賜姓族の建立 
        (伊勢山大神宮  佐野市相生町        ・伊勢山の呼称は神奈川に、諏訪族建立
        (伊勢山大神宮  佐野市伊勢山町)      ・伊勢山の呼称は神奈川に、諏訪族建立
埼玉1     天照皇大神宮  久喜市上清久
茨城1     内外大神宮    筑西市小栗)
東京2     東京大神宮    千代田区富士見
       芝大神宮     港区            ・7大神明社
神奈川2   (伊勢山皇大神宮 横浜市西区宮崎町)     ・伊勢山の呼称は栃木に、諏訪族建立
         (伊勢山大神宮  海老名市国分南)      ・伊勢山の呼称は栃木に、諏訪族建立
静岡1     天照皇大神社   伊東市芝町
長野1     伊勢林大神宮   佐久市新子田        ・伊勢林の呼称は栃木に 諏訪族建立元
山梨3     ・天照大神社   釜額            ・天照は皇大神宮の呼称 大神宮に使う
         ・天照大神社   伊沼            ・天照は皇大神宮の呼称 大神宮に使う
         (大神宮      甲府市貢川本町)      ・

三重2 伊勢市宇治館町  正宮 内宮
          豊受大神宮    伊勢市豊川町    ・正宮 外宮・

京都3     日向大神宮    山科区 東山神明社      ・7大神明社 合祀
         朝日神明社    此花区  
         天照皇太神社   京都市左京区原地町     ・大が太に変化 (特令分霊地)
         神明皇大神宮   宇治市神明宮西        ・皇大神宮に神明 二重社名の呼称

大阪1     皇大神宮     大阪市城東区今福南     ・移設 西近江か西摂津
広島1     (伊勢大神宮    府中市府中町)      ・「伊勢呼称」は二重社名 伊勢使用禁
熊本県1    (伊勢大神宮    人吉市紺屋町)     ・「伊勢呼称」は二重社名 伊勢使用禁


「皇大神宮と大神宮」の分布表の考察

注記 1: 「伊勢山」は神奈川と栃木 「伊勢林」は長野と栃木の呼称の社名は何れも「諏訪族系青木氏」の移動に伴なって建立した。
注記 2: 「伊勢」呼称は「禁止の仕来り」 「広島」と「熊本」に関連は無し。 熊本には青木氏関係地域ではない。「禁令破り」の「広島」は前段でも論じた様に、「讃岐青木氏の勢力圏」で、「亀甲族の圏域」(出雲社氏子防衛集団)の中です。その国府に建立していますが疑問で更なる研究が必要です。

この表から多くの地域には呼称問題が潜んでいます。それは返して云えば、其処には「青木氏の生き様」として色々な意味の事が潜んでいる事を意味します。
先ず、前段でも論じた様に、注記1では、「諏訪族の武田氏系2氏」は、「信濃諏訪族青木氏」は武田氏に攻められた末に武田氏に組込まれ、その武田氏が信長に滅ぼされて、長野-甲斐-神奈川-栃木と移動しました。
上記では「栃木」の「苦難の生き様」を記述しましたが、この移動定住するまで故郷の「心の拠り所」を忘れずに勢力を盛り返し、何とか移動する毎の定住地に一族の祖先神の親神の「神宮」を建立し続けた事に成ります。そして、その呼称を神宮の「分霊の仕来り」を守り故郷の地名の「伊勢山」「伊勢林」として移し続けた事に成ります。
定住地毎に「特別賜姓族」の力を借りながらも、その地で建立出来る程度に力を盛り返した事を意味します。又「特別賜姓族」の配下に入り勲功を挙げた事をも意味しています。
前段でも論じた様に、「信濃」とは「伊勢青木氏」との極めて深い同族としての親交があり、その地名として「伊勢町」の地名がある位なのです。
恐らくは、そのルーツ故郷の「伊勢町の山や林」を忘れない様に、「三重伊勢との縁地」(血縁関係があった)としても、その末裔には「信濃から来た賜姓族系の諏訪族」である様に、諸々の先祖を思い出す様に、この「伊勢の呼称」を引き継いで来たものである事が判ります。そして苦難を乗り越えて建立を移動定住の都度続けて行った事に成ります。
さすればその「分霊の源」は「信濃1」から移した事に成ります。
そして、この5県の諏訪族の「住んでいた地域」が「建立地や所縁の地」から観ても良く判りますし、その「特別賜姓族」の背景を受けて「下野-上野の北域の国境域」を力で獲得して土地を切り開き、その力で復興したその苦難のレベルを物語っています。
この事は”「建立-維持-管理」(6社+神明系3社)の能力があった”事を物語ります。

・広島は、前段で論じた様に、「讃岐籐氏の瀬戸内」の勢力圏で、政治の柵と勢力争いに巻き込まれた地域です。この「広島」は「出雲社の亀甲族防衛集団」の膝元でありながらも、彼等を味方につけ、其処の国府に内宮か外宮の何れか判断の付かない呼称で分霊として禁令を破り建立しています。
「讃岐青木氏」は本領に対し独自性を発揮して勢力を高めていますし、「瀬戸内」を上手く利用して「2足の草鞋策」を採用する等の柔軟性を持っています。果たしてこの「讃岐青木氏」が禁令を破るかの問題です。
本領に対して極めて「独自論戦」を敷いていた「讃岐籐氏」「讃岐青木氏」が本領宗家から積極的な強力が得られたかは疑問です。そもそも香川には神明系社が一切無いと云う事から考えるとこの圏域の及んでいる地域の建立も疑問と考えるのが普通では無いかと考えられます。
(香川は伊勢-信濃青木氏との関係を使って「分祀」で建立した)

「どちらとも採れない神宮」や「呼称の禁令破り」から判断して、彼の「讃岐籐氏」が主体と成って「讃岐青木氏」の名を借りて(「香川の分祀方法」)で建立したとも考えれば成り立ちます。
”それは何故か”です。答えは、此処は ”出雲社の「亀甲族防衛集団」の膝元”だからです。
前段で論じた様に、この「瀬戸内の沿岸域」は武力に因って征圧している地域ではないのです。
「海族等の信頼」と「経済的な結びつき」で構築されている地域なのです。
其処に行き成り「分霊の神宮建立」は絶対に無理であります。
まして、4世紀の昔から「出雲社の社領域」でれっきとした「亀甲族の出雲族」であります。
前段で論じた「純友神社」建立の様に、直には無理であり、建てるとしても、「物造りの神」として建立する事以外にはあり得ません。
「海族」であり「廻船問屋」を営んでいる程の「各地との交易」と「海産物の瀬戸内」であり、昔から両沿岸部内陸には昔から「鈴と銅と鉄の鉱石採掘地」を保有している地域なのです。
明らかに「物造りの地域」でありそれを商いとする「2足の草鞋策」を採っているのです。
これだけ条件が揃えば、何れの人心もこの生活環境を維持させる為に「物造りの神」を求めます。
その発露が「社格」の権威付けから「伊勢大神宮」として「大明神」なのです。「豊受大明神」なのです。
「讃岐籐氏」の「北家藤原氏秀郷一門の政治力」(経済力を使った可能性大)で「伊勢の分霊」を赫々様になく行ったのです。これが「広島の神宮」の実態なのです。
故に、敢えて「禁令」を知り得ての建立と呼称なのです。

・熊本は、何れにしても此処は神明族には無関係な地域です。
「熊本」は ”「伊勢呼称」二重社名 伊勢使用禁”がある事から、 この「禁令」が緩んだ時期に建立したと観られますが古いとしているのです。
兎も角も、”では一体誰が建立したのでしょうか。” 建立するにしても伊勢の「分霊許可」が出ないとしても「相当な財力」を必要とします。
この記録を辿ると、此処には「日向青木氏末裔」が黒田藩や細川藩の「兵農」(「雇兵」 「五七の桐門」の使用許可 組頭はこの桐門の羽織袴で登城許可が与えられていた。)として一部に移動定住して「末裔の分布」を室町期中期以降に広げている地域です。
然し、この「歴史的経緯」(末裔現存)があるのですが、その「権利と建設能力」には疑問です。
”室町中期までの建立した”とする「歴史的な経緯」の記録はありません。
「傭兵」で建てられる事はありませんので、経済的には藩主以外に無いと考えられるのです。然し、神社建立の権利には問題があります。
あるとすれば、その問題を解決するには、何れかの廃社や荒廃社を見つけての「修復復元の方法」しかありません。この時期では戦乱の後ですので、各地に神明系社の廃社や荒廃社が多くその方法は充分に可能です。幕府は「廃絶処理の復元作業」を始めている時期ですから認可は直ぐに下りますし、職人も修理であれば集める事は可能です。
何れ2藩共に土地の豪族の大名ではありません。この江戸期前の時代は最早戦乱は納まり、戦略的意味合いは低下しています。従って、後は「人心」を集める意味で、全国民から崇められている「神宮」を建立する事で戦乱後の対策としたと考えられます。
その証拠にこの「五七の桐紋」には「歴史的な所以」があって、これを秀吉から与えられて、積極的に活用した代表的2大名です。

(そもそも「桐紋」は「天皇家の式紋」で「五三の桐」を類似紋として秀吉に与えたもので、それを更に勲功のあった大名に与えたもので、その大名が傭兵や農兵の勲功のあった者や家臣や農民に与え、使用を許したもので一種の手形として文様紋です。)

「桐-天皇-皇祖神-神宮」の印象を強くする政策を展開し、挙句は「登城許可」もこの桐紋付の羽織袴を手形として許可することを認めているのです。
そして、本来、「墓所」を持たない農民に「墓所」を許可しただけでは無く、更に、この「墓石」には「五七の桐紋」を入れる事をも許可しているのです。本来、明治初期まで墓所を持つ事を許されていない慣習の中で、この農民の各村の名主等には「氏子衆」を結成させ、藩が財政的な責任は持つとして「祭祀行事」と「社の維持管理」も特別に任したのです。
江戸時代には幕府が行う「廃絶処理の復元作業」とは別に、上記の大名に任せる方法を併用したのです。

「神明社系5社」は「2つの青木氏」が、「総師・御師・氏上様」と呼ばれ、「寺」で云う「菩提寺」と同じ様に、「社」の全て一切を取り仕切っていたのです。その為の一切の「部の匠職人」を家人として昔から抱えて566社に及ぶ社を維持管理していたのです。

この熊本は真にこのシステムによらず、「桐-天皇-皇祖神-神宮」の威厳、尊厳を利用する形で農民まで巻き込んだシステムを始めて構築し始めたのです。それが江戸期に入り全国的に広がりを示したのです。これが、江戸幕府の初期から始まった2つ目の「神明系社の復元修復作業」であって、この方式を採用した事から全国にこの黒田藩、細川藩の採った方式が広まったのです。
「2つの青木氏」が採っていた「寺」の菩提寺方式に似た「社」の「総師、御師、氏上様」のシステムは、少なくとも「伊勢丸山城の戦い」1687年頃の時には未だ「2つの青木氏」はこの方法を続けていた事が判ります。
それは、「丸山城の建築」は伊勢-信濃のシンジケートの資材一切の調達を含めて家人の職人が行っていた事が資料から判っているのです。

(安土桃山時代 丸山城が出来た瞬間、伊勢青木氏の長兵衛の命で火災で落城した。筆者の家資料から規模は小さく成っていたが明治中期までは未だ続いていた事が判る。)

この意味で、この新システムの「分霊に依らない大神宮」の見本が、この熊本1なのです。
(この事は「其の他」の処でも論じる。)
江戸期には規模は小さく成っていたが、援助を受けながらも「神明系5社」方式との2本立てで維持されていたのです。故に「総師、御師、氏上様」の呼称が生まれたのです。たいら族」清盛の宗貿易の様に、平安末期頃から始まった「青木氏の2足の草鞋策」もこのシステムを支える一つの手段であったのです。

この「2つの大神宮」の存在する地域は同一地域にはありません。
且つ、ある特定の地域に分けられます。この2つも「神宮の仕来り」です。
そこで、次ぎの表を作成して見ました。

「地方の分霊地」
・栃木3・茨城3・埼玉1・東京2・千葉1・神奈川2  関東    計12  2.0/県
・青森1・新潟2・岩手2・山形5・福島2・宮城2    東北北陸  計14  2.3/県
・静岡1*三重2*長野1*山梨3           中部    計 7  1.8/県
・広島1                        中国    計 1
・熊本1                        九州    計 1 
*京都4*大阪1                    関西    計 5  2.5/県 

「神宮分霊地」は、「平均2社/県」 程度と成ります。
「神明社」は、   「平均7社/県(」105+75/26)
「神明神社」は   「平均6社/県」(65+73/22)
「神明宮」は、  「平均9社/県」(103+22/15)

こ「の神明系3社」は凡そ6~9社 概して、AVE8社とすると、約4倍と成ります。
「4-6の規則」が成り立っていますので納得出来ます。

これは、「皇族賜姓族と特別賜姓族」が、相互に連携をとりながら建立し、呼称別にし、管理されていた事が判ります。
「伊勢と武蔵間での連絡」を取り合っていた事を意味しますので、「寺社大工匠の職人」の「互いの連携」や「職人の融通」もあった事が、「建築様式」などの統一もありますので云えます。
この事から双方の職人の血縁も起り得たと解釈出来ます。
「2つの血縁青木氏」と「2つの絆青木氏」の元気な掛け声として、その「生き様」がまざまざと目に映ります。


ここから「神明系5社」に組み入れる事が疑問視されるものを「其の他」にしました。
神明系社の歴史的経緯がこの「其の他」から読み取る事が出来ます。
排除せずに歴史的経緯をより詳細に引き出す為に検証します。

其の他  ・福岡9・東京17・神奈川3・新潟2・群馬2・島根2・広島1・香川1
      ・計37/418=8.85%

      *長野2*富山1*三重1
      *計4/148≧2.70%
     
     +宮崎1(皇祖神発祥の特別地)
     -大分1(皇祖神発祥の隣接地)
     
(以上の・印と*印の合計41は「其の他%影響」と大神宮の「重複地域」がある為に100%を10%程度超える。)

先ず、この「其の他」は上記「神明系5社」に対して、組み入れる事はデータの純粋性から真の考察を引き出す事にはエラーを多く含み正しい答えを引き出す事が困難と考えられ、敢えてこの「其の他」に入れる事にしました。
それには次ぎの様な事があります。

A「神明系5社」を八幡社に変えた「社」
B「八幡社」から「神明系5社」に変えた「社」
C「時代性」に大きな疑問のある「社」
D「呼称」に問題がある「社」
E「他社」の可能性がある「社」
F「地理性」に疑問の「社」

以上の「疑問、問題の社」である事から「其の他」に組み入れたものです。
多くは「呼称」に対する「仕来り」を破っているものです。
ところが、この「其の他」を一つに纏めると、”ある「意味」”を持っているものがあるのです。
では、次ぎの13県-45社に付いて考察してみます。

三重  大宮神明社 四日市市日永
福岡
大分  「西寒多神社」  大分県大野郡
宮崎  鵜戸神宮   日南市宮浦
新潟  (菅谷宮  新発田市)
     (春日山神社 上越市西部)
群馬  (伊勢宮 吾妻郡中之条町伊勢町)
     (伊勢宮 吾妻郡中之条町)
長野  (伊勢宮神社 長野市伊勢宮)
     (伊勢社 長野市東之門町 )
富山  (伊勢玉神社 氷見市伊勢大町)
島根  (下の宮 出雲市大社町杵築北)
広島  (伊勢宮神社 東広島市西条)
     (伊勢両宮社 竹原市西野町)
     (伊勢大神宮 府中市府中町)
香川  (伊勢宮 さぬき市大川町田面)
東京  天祖神社  足立区小台
     天祖神社  板橋区南常盤台
     天祖神社  江戸川区平井
     天祖神社  江戸川区本一色
     天祖神社  葛飾区新小岩
     天祖神社  葛飾区東新小岩
     天祖神社  葛飾区高砂
     天祖神社  葛飾区堀切
     天祖神社  江東区亀戸
     天祖神社  新宿区西早稲田
     天祖神社  新宿区原町
     天祖神社  新宿区早稲田鶴巻町
     天祖神社  杉並区高円寺南
     天祖神社  墨田区業平
     天祖神社  目黒区上目黒
     天祖神社  港区六本木
     (上小松天祖神社 葛飾区奥戸)
     (奥戸天祖神社 葛飾区奥戸)

神奈川 明神社   川崎市川崎区塩浜
     明神社   川崎市幸区戸手本町
     神明大神  川崎市中原区中丸子


東京の18社に付い既に論じたので此処では除外します。

長野と富山に付いても退避地の処で論じましたので除外します。

では先ず、伊勢です。
大宮神明社 四日市市日永

この伊勢の「其の他」には根拠があります。
此処は、「伊勢の神域」ですから呼称の問題とするものは無い筈です。
神明社に社名を付けないのが慣習ですが、「大宮」が付いています。
実は、この四日市は「皇族賜姓伊勢青木氏」と「特別賜姓伊勢青木氏」の「血縁融合族」が定住してい地域なのです。
其処に建立したのが神明社であり問題はありませんが、何れも伊勢神宮を護る役目の氏です。
他の神明社と異なる事を主張する為に ”大神宮のお膝元の神明社” として「大宮」を付けたのです。
この三重には神明社1と神明神宮1があり、これと「融合青木氏」との区別を付ける為にも「大宮」を付けたものです。つまり、「融合青木氏」の建立である事を物語っています。

大分  「西寒多神社」  大分県大野郡
宮崎   鵜戸神宮    日南市宮浦

この二つの神明社と観られる社は前段で論じた処であります。
「天岩戸の神域」に建立された社で「祖先神」の祖とする神を祭祀するもので賜姓族が建立する「祖先神の神明社」では実質ありません。この主権者は時代により変化しています。
鎌倉以降は頼朝や時代の幕府や土地の豪族などの寄進ににより支えられていた記録が残っています。
この為に、明治の「全国の神社の社格決定」に際してはその主張を取り入れて一時は「社格」を神明社並に引き挙げ経緯があり、後に「社格「」は村社」並に引き下げられました。

新潟 (菅谷宮  新発田市)
    (春日山神社 上越市西部

何れも「神明造り」でありますが、上記のEに分類される「他社」であります。
1900年代に建てられたもので、神奈川等にある合祀系社の「菅谷神社系社」であります。
そもそも「春日山」の呼称は、上杉謙信を祭る神社で謙信に関わる地域に分霊されている神社です。

以「下は「信濃伊勢宮」の系列社の「分祀社」です。

長野 (伊勢宮神社 長野市伊勢宮)
    (伊勢社    長野市東之門町 )

群馬 (伊勢宮    吾妻郡中之条町伊勢町)
    (伊勢宮    吾妻郡中之条町)

広島 (伊勢宮神社 東広島市西条)
    (伊勢両宮社 竹原市西野町)
    (伊勢大神宮 府中市府中町)

香川 (伊勢宮    さぬき市大川町田面)

長野は前段で論じた通りで、歴史的経緯の中で起ったもので呼称には問題はありません。

長野と同じく、群馬は前段でも論じ、前記した様に、この「伊勢宮」は信長に滅ぼされた武田氏系諏訪族の青木氏末裔が逃亡先にて復興を遂げ故郷の守護神を建立したものです。

広島は前段でも論じたと同様に、伊勢青木氏と信濃青木氏のとの親密な関係から「信濃伊勢宮系社」を分祀して「讃岐籐氏の讃岐青木氏」が建立したものです。
香川も伊勢-信濃青木氏との関係から「信濃伊勢宮系社」の「分祀社」で、この讃岐籐氏の讃岐青木氏が建立したものです。
この讃岐青木氏は領国に並ぶ勢いを持ちその経済力は瀬戸内を利用した「2足の草鞋策」(廻船業)を背景に建立したものです。
これ等の「伊勢の呼称」を使った根拠は「長野の伊勢宮」にある「伊勢宮神社の分祀」を求めたものとです。
讃岐青木氏と信濃青木氏とは伊勢青木氏を介して互に「商い」に於いて繋がりを持っていた事に依ります。
実はこれには讃岐青木氏と伊勢青木氏は「商い」で互に廻船であった「讃岐青木氏の船」を運送に使っていた事が記録に遺されており、この関係から信濃青木氏との繋がりが強かったのです。

(前記した浅野家開城の際の財産買取の海上輸送の便宜を伊勢青木氏は依頼した事が記録されている。瀬戸内の圏域は讃岐青木氏の圏域)

(海を持たない信濃青木氏は商いの輸送に日本海ルートを利用してこの讃岐青木氏の廻船を利用して全国に輸送していた。讃岐青木氏は瀬戸内の産物を輸送販売し、伊勢と信濃青木氏とは互いの利点を生かしてはこの商いの面で強く結ばれていた事が「商い資料」から読み取れる。)

この関係から血縁関係も考えられ、又、神明系社の建設には「伊勢青木氏」の便宜は建前上難しく、「信濃青木氏」の便宜(分霊・分祀)を受けたと考えられます。
讃岐にはそもそも神明系5社は1社もないのです。この事の意味が”「讃岐」”の一門の中での立場を物語ります。
この事は普通の事ではありません。それには理由があるのです。
前段でも論じ、前記でも論じた様に「讃岐青木氏」を含む「讃岐藤氏」は、一門の中でも「独自の行動」を採りそれに見合う「財力と武力」を含む勢力を確保し、それに依って「本領の宗家」とは一線を画していたので、当然にそうなれば宗家との間に軋轢が生じます。
それは「讃岐籐氏一門」には当然の結果として、”「神明社建立の権限」を与えらないか、与えられてもなかなか認可が下りない” と云う事態も当然に起り得ます。

資料によると讃岐籐氏は直接摂関家との接触をしていた事が記載されていて、「純友の乱」に観られる様に同じ身内の摂関家からも「瀬戸内の利権]を剥奪するような行動も史実として遺されている位です。
中には、「讃岐籐氏」は ”藤原北家一門の単独の藤氏である” とする史実に反する独自の主張も遺されているのです。(「純友の乱」も同じ背景にある)
秀郷一門の特別賜姓族しか名乗れない「讃岐青木氏が」存在しているにも関わらず、「独自性」を強く主張したのです。
これが一つの軋轢の形と成って建立権が確保出来なかったのです。このままでは ”「讃岐青木氏」は秀郷流青木氏116氏の中でただ1氏建立権がない。” と成ると世間に対して全く立場がありません。
そこで、「商い」を通じて「伊勢-信濃青木氏」のパイプを構築し、この関係を通じて正式なルートとでは無く、又、正式な呼称ではなく「伊勢宮」や「伊勢宮神社」の「信濃伊勢宮系社」等や「3重複呼称の神明系社」を「讃岐青木氏の圏域」に建立したのです。
これでは、武蔵の青木氏宗家は何も云えません。
しかしながらも、幾らなんでも平安期の「仕来り、決り事、規則慣習」42で護られた中で、この時、伊勢や信濃からの「神明系社の正式」な「分霊」では出来ません。その為に「分祀」と云「う祭祀方式」で処理したのです。6つの社の中の資料には「分祀の表現」が成されているのです。

神奈川 明神社   川崎市川崎区塩浜
      明神社   川崎市幸区戸手本町
      神明大神  川崎市中原区中丸子

「神明」の呼称を「明神」と呼称した「社」でありますが、「みょうじん」と云う呼称は特に異常ではありません。関東域では一般の呼称、或いは愛称として「みょうじんさん」で呼ばれていたのです。
一方では「神明大神」として正式な呼称もあるのですから特段の理由があった訳ではありません。

「一般呼称」に社名を合わしたと考えられますが、厳しい「仕来り、決り事、規則慣習」42からすると呼称だけは時代的な緩みの起った時期ではないかと観られます。
資料からこの呼称が出て来るのは室町末期から江戸期初期頃です。
神奈川には「正式呼称」の神明社4と神明神社2と皇大神社2があります。
この3つは川崎に集中していますので、「分祀」と云う方法が一般に起った時期にこれ等の社がこの頃に分祀したものではないかと考察されます。
分祀の表現方法にはいくつものパターンがあります。社歴等からは確認出来ませんが、これも便宜系の「分祀表現」の一つなのです。格式を換える祭祀呼称方法です。
讃岐の分祀方法は資料から観て鎌倉期から室町期前期に観られます。

この他には便宜系の「分社」と云う方法もありますが、この場合は分祀と同じく呼称は格式に変化を及ぼしますので別のものと成ります。
更には、神明系社以外の「合体系」の色々な種類の神社を一つにまとめた「合祀」や「合社」や「併社」等と云うものもあり、「摂社、末社」等の「系列系」を表す呼称方法もあります。

神明系社には室町期中期以降はこの「合祀や合社や分社や末社」等が多く出てきます。これは室町中期以降の生き残りを掛けた神社の戦術であったのです。
この事は本論とは論じる論点が異なる事から信濃関連の「伊勢宮系」と神奈川の明「神社系」以外は原則除外しています。

別枠のの「福岡の8社」に付いては、神明系社である事は判っているのですが、後に八幡社に変更されている事が観られますので、その他に入れました。

「八幡社」は前段でも論じましたが、そもそもその前身は「神祇信仰」から発展したものです。
豊前宇佐郡から発祥したものです。奈良の大仏建立等でその信仰が大きく発展し朝廷もこれを取り入れて「国神」として一時取り入れ「国家鎮魂の神」として崇め祭祀していたのですが、次第にその勢いは低下して一時は荒廃をしました。
そこで清和源氏の宗家摂津源氏の頼光等に対して命じてこれを修復させる命令を発した記録が残っており、これに対して修復する際に、「荒廃の国家鎮魂の八幡社」の殆どが摂津源氏の宗家の守護地であったのです。
それまで神社建立の経緯が無かった事等から自らの「寺建立の職人」や自ら「神官職」を持っていなかったのです。伊勢青木氏や信濃青木氏の協力を得なければ成し得ない修復の勤めです。
そこで、「血縁融合族」の神明族「皇族賜姓信濃青木氏」の一族が「寺建立の職人」「神明系社の神官職」の能力を借用したのです。この事から、記録にも残っているし、神明社や守護神外の「八幡社神職の青木氏」が現存するのです。
この「国家鎮魂の八幡社の神職」を依頼して維持させたのです。

(三つ柏紋の神官職の神明族の信濃青木氏の一部がこの国家鎮魂の八幡社の神職を司る事と成ります。陸奥域までこの信濃青木氏の「国家鎮魂の八幡社」の神職が広がっています。)

神明系社地外の八幡社にもこ神明族の信濃青木氏の神官職の珍しいパターンが生まれたのです。

一方、前段で論じた様に、分家頼信系の「河内源氏」はこれを荘園制を利用して名義族の未勘氏族に八幡社を建立させて「武神としての八幡社」に換えてしまったのです。
従って、「八幡社」には「皇族賜姓族信濃青木氏」が維持管理した本来の摂津源氏の「国家鎮魂の神の八幡社」と、「武神」と変化させて「未勘氏族」に維持管理させた「八幡社」の2流の系列があるのです。
然し、時代の流れに押されて殆どは未勘氏族の維持管理させた「河内源氏の武神の八幡社」と成ってしまったのです。この「福岡の八幡社」は発祥地域であった事から元は神明系社の変化したものなのです。
この様な歴史的経緯の持った「神明系の八幡社」なのです。


「元伊勢の分布 遷宮地詳細」
(大化期前)
「元伊勢社」とは三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮の内外宮が伝承地に成る前に遍歴した各地に遺した鎮座地の神社を云う。

13の古代国に約80-85の地域に90年に掛けて遍歴した。

遍歴数/県
大和21 丹波4 紀伊3 吉備6 伊賀10 近江13 美濃3 尾張4 伊勢23

大和国
1 檜原神社(摂社)        奈良県桜井市三輪 
2 巻向坐若御魂神社        奈良県桜井市穴師
3 巻向坐若御魂神社       奈良県桜井茅原
4 笠縫神社(末社)        奈良県磯城郡田原本町秦庄
5 志基御県坐神社(末社)     奈良県桜井市金屋
6 笠山荒神宮           奈良県桜井市笠
7 天神社             奈良県桜井市小夫
8 飛鳥坐神社           奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
丹波国
9 真名井神社(摂社)        京都府宮津市江尻      
10 皇大神社             京都府福知山市大江町内宮
11 笑原神社             京都府舞鶴市紺屋
12 竹野神社             京都府丹後市丹後町
大和国
13 笠縫神社三輪山        奈良県桜井市三輪
14 伊豆加志本宮与喜神社     奈良県桜井市初瀬字与喜山
15 伊豆加志本宮長谷寺      奈良県桜井市初瀬
16 伊豆加志本宮         奈良県桜井市初瀬
紀伊国
17 奈久佐濱宮濱の宮神社    和歌山県和歌山市毛見
吉備国
18 名方濱宮伊勢神社      岡山県岡山市北区番町
19 名方濱宮内宮        岡山県岡山市南区浜野1丁目
20 名方濱宮穴門山神社     岡山県倉敷市真備町
21 名方濱宮穴門山神社     岡山県高梁市川上町高山
22 名方濱宮神明神社      岡山県総社市福井字神明
23 名方濱宮今伊勢内宮外宮    広島県福山市神村町
紀伊国
24 伊勢部柿本神社        和歌山県海南市日方
25 国主神社           和歌山県有田郡有田川町長田
大和国
26 弥和乃御室嶺上宮高宮神社     奈良県桜井市三輪字神峯
27 弥和乃御室嶺上宮三山       奈良県桜井市三輪
28 伊豆加志本宮           奈良県桜井市初瀬
29 弥和乃御室嶺上宮高宮神社     奈良県桜井市三輪
30 宇多秋宮阿紀神社         奈良県宇陀市大宇陀区迫間
31 佐佐波多宮篠畑神社        奈良県宇陀市山辺三字篠畑
32 佐佐波多宮葛神社         奈良県宇陀市山辺三
33 佐佐波多宮御杖神社        奈良県宇陀郡御杖神末
34 佐佐波多宮御杖神社        奈良県宇陀市室生区大野
伊賀国(伊勢国)
35 隠市守宮宇流冨志弥神社    三重県名張市平尾
36 隠市守宮三輪神社        三重県名張市箕輪中村(合祀)
37 隠市守宮蛭子神社        三重県名張市鍛冶町
38 隠市守宮田村大明神       三重県名張市東田原
39 隠市守宮名居神社        三重県名張市下比奈知
40 穴穂宮神戸神社         三重県伊賀市上神戸
41 穴穂宮常福神社         三重県伊賀市古郡
42 穴穂宮猪田神社         三重県伊賀市下郡
43 敢都美恵宮都美恵神社      三重県伊賀市拓殖町
44 敢都美恵宮敢国神社       三重県伊賀市一ノ宮
近江国
45 甲可日雲宮垂水頓宮       滋賀県甲賀市土山頓宮
46 甲可日雲宮大神宮社       滋賀県甲賀市土山町
47 甲可日雲宮皇大神宮       滋賀県甲賀市土山町大河原
48 甲可日雲宮高宮神社       滋賀県甲賀市信楽町多羅尾
49 甲可日雲宮桧尾神社       滋賀県甲賀市甲南町池田
50 ・神明社            滋賀県湖南市三雲
51 日雲神社            滋賀県甲賀市信楽町牧
52 日雲宮             滋賀県甲賀市水口町神明
53 甲可日雲五十鈴神社       滋賀県甲賀市水口町東林口
54 甲可日雲ほう山神社       滋賀県甲賀市水口町高山
55 甲可日雲川田神社        滋賀県甲賀市土山町北土山
57 坂田神明宮           滋賀県米原市宇賀野                   
美濃国
58 伊久良河宮天神神社       岐阜県瑞穂市居倉
59 伊久良河宮名木林神社      岐阜県安八郡八町
60 伊久良河宮宇波刀神社      岐阜県安八郡八町
尾張国
61 中島宮酒見神社         愛知県一宮市今伊勢町
62 中島宮浜神社          愛知県一宮桜一丁目
63 中島宮御園神明社        愛知県清須市一場
64 中島宮坂手神社         愛知県一宮市佐千原
伊勢国
65 桑名野代宮野里神社        三重県桑名市多度町
66 桑名野代宮神戸神館神社      三重県桑名市大字
67 桑名野代宮尾野神社        三重県亀山市布気野尻
68 奈既其波志忍山宮忍山神社     三重県亀山市野村
安濃国(伊勢国安濃郡)
69 壱志藤方片樋宮加良比野神社    三重県津市藤方
70 藤方片樋宮阿射加神社       三重県松阪市小阿坂町
71 藤方片樋宮雲出神社        三重県津市雲出本郷町
72 飯野高宮神山神社         三重県松阪市山添町神山
73 飯野高宮神戸神社         三重県松阪市下村町
74 飯野高宮牛庭神社         三重県松阪市下 路町
75 飯野高宮久弥都神社        三重県松阪市郷津町
76 飯野高宮滝野神明社        三重県松阪市飯高町
77 飯野高宮花岡神社         三重県松阪市飯高町
78 佐佐牟江宮竹佐々夫江神社     三重県多気郡明和町
79 伊蘇宮磯神社           三重県伊勢市磯町
80 伊蘇宮相可上神社         三重県多岐郡多岐町
81 大河之滝原瀧原宮         三重県度会郡大紀町
82 矢田宮口矢田の森社        三重県伊勢市楠部町
83 家田々上宮神宮神田南の忌鍬山   三重県伊勢市楠部町
84 家田々上宮大土御祖神社      三重県伊勢市楠部町
85 奈尾之根宮皇大神宮末社      三重県伊勢市宇治中之切町
85 五十鈴宮皇大神宮         三重県伊勢市宇治館町     

青木氏と守護神(神明社)-22に続く
  
(基データの考察検証の段 2/2)

  

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名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒

青木氏と守護神(神明社)-20

[No.288] Re:青木氏と守護神(神明社)-20
投稿者:福管理人 投稿日:2012/08/25(Sat) 14:27:24


「基データの注釈」
以下は本文のデータの基礎資料としたものです。
この基データには次ぎの様な事柄の注釈が付いています。
この事を配慮して頂き、データの考察と検証の論文をお読みください。
この本段は、前段と異なりデータそのものの持つ諸々の「意味」を引き出したいと考えています。
これにより「青木氏の守護神」の「祖先神-神明社」が持つ意味の本質が見えて来て、それに因って先祖の「青木氏の生き様」により深い感情を持たれると思います。
最終の本段は「青木氏の守護神」(神明社)-20、21で終わります。
注釈
面倒ですが是非お読み下さい。
これには個人情報の保護を目的に番地等を控えています。
尚、地名町名は変化している事が考えられますので参考として下さい。
「独自の調査方法」で整理されたもので、室町中期までのものとして列記しています。
室町中期の選定方法は「独自の判別方法」で行っています。
この調査には、数十年の長い期間を費やして行い、多くの各種のマニアの同好会の協力を得て基礎データ収集を行いました。
記載には、「個人情報保護」の観点から、既に何らかの公的に公表されているものに限定しています。
選別した中に限定し外したものには付いては「判別方法」に一部入るものもありました。
中には「記載依頼」を断わられたものや、判別ができなかったもの、社歴に疑問矛盾のあるもの等は割愛しています。
当然に「祠関係」や「合祀関係の無理」や完全に「個人所有」、「郡社、村社」等と成っているものは削除しています。
これ等に調査期間中に法律が改定された為に大変な時間を所用しました。

各地方公共団体が公表している物、各種寺社関係の機関雑誌等で公表されている物等を加え、データの主体は、地方毎の同好会等に依頼して調べ上げた物などを一つにまとめ、それを別の複数の県毎の各種の同好会に「調査の一定条件」を提示し、「写真と聞き取りの情報」を集め、それを「ある判別条件」に当て嵌めて記録したものです。
個人関係を主体とした「マニア形式の同好会」を主体とし、「団体形式の会」は「思惑や利害関係」や「思想関係」が介在しましたので正確さに保証がありませんので原則避けました。
鉄道の同好会、寺社の同好会、歴史の同好会、旅行の同好会、歴史人物の同好会、城郭の同好会、古道の同好会等の縦横の関係を利用して、各種の同好会が夫々の目的で活動する際に、これ等本件の調査も合わせてお願いすると云う方法で集められました。

これ等の神明社の由緒や歴史などの情報が明確にしていない、或いはしない傾向が多く、調査対象側からの創建年代は確証は殆ど得られなかった状況で、あったとしても疑問や矛盾があるなどして正確な年代は使えない状況でした。
県別に分類している事に付いては昔の国と現在の県との違いがある等の難しい事もあり、先ずは現在の県に合せました。
「社」と「神社」と「宮」等の呼称は個別の呼称として区別した。
原則として合祀と一部別の分霊と併祀等は含みません。
固有の名称が付いている「社」はある意味がある為にそのままとしました。
地名は判る範囲で新しくしました。
並べ方は順不同です。
社名は地名で呼称されるが、地名で無い場合は固有名詞で記載しています。
無格社、郷社、村社は原則除きました。

さて、データの前置きは別として、この「青木氏と守護神(神明社)」の基と成ったデータに付いて未だ論じなくては成らない事柄がある様に感じられます。
前段で論じた「青木氏との歴史的経緯」とは別に、”何か知って置かなくては成らない事柄”がこのデータには潜んでいる様なのです。
そこで、基データを敢えて提示して考察分析してみる事とします。
そもそも、「祖先神-神明社」の呼称は一つではないのです。
室町中期までのデータとしては「祖先神-神明社」に関わる「社」は、何と次ぎの「7つの呼称」と成っているのです。「7つの呼称」別に何か特別な何かを持っている様なのです。
そこで、この「7つの呼称」で基データを分類してみますと次ぎの様に成ります。

(但し、「其の他」の呼称は「特定の呼称」を付けるには、分類に「多様性」がある為に難しく誤解を招く事と成りますので、「其の他」として一括します。
「皇大神社」の「皇祖神の伊勢神宮」と「神明社」とは間違われやすいのです。「祖先神」は「皇祖神」の「子神」である事には違いはないのですが、これを祭祀する「守護神」は「祖先神-神明社」の関係にあるのです。)

「7つの呼称」
「祖先神-神明社」は次ぎの様に大分類されます。
「神明社」  「神明宮」  「神明神社」  「大神宮」  「神社」  「皇大神社」  「其の他」

「基データ」
北海道  (山上大神宮 函館市)
       (蘆別神社  芦別市)

神明社 0 神明宮 0 神明神社 0 大神宮 1 神社 1 皇大神社 0 其の他 0

青森 浦町神明社 青森市橋本
    神明宮    黒石市 1592-95年
    神明宮    八戸市廿六日町
    神明宮    平川市高畑
    神明宮    平川市館山板橋
    神明宮    弘前市大久保
    神明宮    弘前市下湯口
    神明宮    弘前市富栄
    神明宮    弘前市東城北
    神明宮    上北郡七戸町字町
    神明宮    北津軽郡鶴田町菖蒲川
    神明宮    北津軽郡鶴田町大性
    神明宮    西津軽郡深浦町深浦
    大神宮    三戸郡三戸町

神明社 1 神明宮 12 神明神社  大神宮 1 神社  皇大神社  其の他 

秋田 神明社  秋田市河辺戸島七曲
    神明社  秋田市下北手宝川
    神明社  秋田市添川字古城廻り
    神明社  秋田市豊岩石田坂
    神明社  秋田市仁井田本町
    神明社  秋田市土崎港中央
    神明社  男鹿市払戸小深見
    神明社  男鹿市船川港本山門前
    神明社  男鹿市船越
    神明社  潟上市飯田川飯塚字中山
    神明社  大仙市協和小種
    神明社  大仙市協和船沢
    神明社  能代市扇田
    神明社  能代市河戸川大塚
    神明社  能代市鰄渕四ッ屋
    神明社  由利本荘市赤田蓮池
    神明社  由利本荘市吉沢上林
    神明社  横手市神明町
    神明社  南秋田郡井川町北川尻
    神明社  南秋田郡井川町北川尻中村
    神明社  南秋田郡井川町浜井川
    神明社  大館市中神明町
    神明社  秋田市湊川
    神明社  大仙市協和上淀川
    神明社  男鹿市船川港船川
    神明神社 秋田市飯島長野中町
    (高岡神社  秋田市河辺高岡)
    (岩戸神社  秋田市手形田中)
    (岩玉神社  秋田市岩見)
    (白幡神社  秋田市旭川)
    (大浜神社  秋田市大浜)
    (豊岩神社  秋田市豊岩)
    (土崎神社  秋田市土崎) 

神明社 25 神明宮 0 神明神社 8 大神宮  神社   皇大神社   其の他

岩手 神明社      東盤井郡藤沢町
    神明社      二戸市浄法寺町
    神明社      盛岡市中ノ橋
    御嶽神明社   一関市花泉町
    天照御祖神社  大船渡市三陸町綾里田浜
    天照御祖神社  釜石市唐丹町片岸
    天照御祖神社  陸前高田市高田町松峰
    天照御祖神社  気仙郡住田町世田米
    伊勢両宮神社  遠野市上郷町細越   
    天照皇大神宮  岩手郡滝沢村鵜飼御庭田
    天照皇大神社  大船渡市三陸町吉浜上中井

神明社 4 神明宮   神明神社   大神宮   神社 5 皇大神社 2 其の他

山形 富神明神社  山形市柏倉
    神明神社    山形市 7大神明社
    神明神社    最上郡舟形町
    神明神社    山形市南館
    神明神社    上山市高松
    神明神社    東根市猪野沢
    神明神社    西村山郡大江町 1622年
    神明神社    山形市錦町
    神明神社    山形市鮨洗和泉
    神明神社    山形市錦町
    皇大神社    鶴岡市大淀川川端
    皇大神社    鶴岡市羽黒町町屋
    皇大神社    鶴岡市山田
    皇大神社    米沢市中央
    天照皇大神社 鶴岡市小淀川

神明社 1 神明宮   神明神社 9 大神宮   神社   皇大神社 5 其の他

宮城 神明社   白石市益岡町 807年 坂上田村麻呂創建
    神明社   仙台市青葉区上愛子
    神明社   仙台市宮城野区蒲生字町
    神明社   岩沼市押分志引
    神明社   岩沼市早股      
    神明社   遠田郡美里町字西館
    神明社   宮城郡利府町加瀬
    長谷条神明社 岩沼市早股 1686年
    二の倉神明社 岩沼市押分字須加原    
    神明神社    仙台市太白区秋保町
    神明神社    仙台市太白区四郎丸
    皇太神社    栗原市川口鍛冶屋   
    天照皇大神宮 仙台市宮城野区蒲生
    桜丘大神宮   仙台市青葉区

神明社 10 神明宮   神明神社 2 大神宮 2 神社   皇大神社   其の他

新潟 神明社  長岡市
    神明社  花井町
    神明社  牛池町
    神明社  三条市神明町
    神明社  与板町
    神明社  東新町
    神明社  燕市大保
    神明社  新潟市神山
    神明社  新潟市北場
    神明社  新潟市天野
    神明社  三条市大島
    神明社  新潟市升潟
    神明社  糸魚川能生町
    神明宮  阿賀野市
    神明宮  新潟市網川原
    神明宮  新潟市茨島
    神明宮  新潟市浦村新田
    神明宮  新潟市大潟村古新田
    神明宮  新潟市大関村古新田
    神明宮  新潟市大野
    神明宮  新潟市嘉瀬
    神明宮  新潟市蒲ヶ沢
    神明宮  新潟市小針
    神明宮  新潟市十五間
    神明宮  新潟市新通
    神明宮  新潟市新保新田
    神明宮  新潟市田潟
    神明宮  新潟市俵柳
    神明宮  新潟市釣寄新
    神明宮  新潟市並岡
    神明宮  新潟市新津本町
    神明宮  新潟市西長島
    神明宮  新潟市引越
    神明宮  新潟市兵右衛門新田
    神明宮  新潟市巻大原
    神明宮  新潟市矢島
    神明宮  新潟市鷲ノ木新田
    神明宮  燕市庚塚
    神明宮  燕市佐渡山
    神明宮  燕市富永
    神明宮  西蒲原郡弥彦村えび穴
    神明宮  船内市熱田坂
    神明宮  長岡市堺町
    神明宮  三条市神明町
    槙神明宮 新潟市関屋
    槇神明宮 新潟市巻甲
    下町神明宮  新発田市大手
    神明神社    新潟市坂田
    神明神社    横枕町
    神明神社    川辺町
    神明神社    上越市貝野川
    神明大神宮  新潟市潟上
    船江太神宮  新潟市東堀通一番町 
    西奈弥神社  村上市羽里町
    天照大神    新潟市西笠巻新田
    (能崎神社   西頚城郡能生町)
    (羽森神社   柏崎市 1489年)
    (船江神社   赤塚)
    (羽黒神社   村上市羽黒町 桃山)
    (菅谷宮    新発田市)
    (春日山神社 上越市西部)

神明社 13 神明宮 34 神明神社 4 大神宮 2 神社 6 皇大神社  其の他 2

福島 神明社    福島市
    神明社    二本松市根崎
    神明宮    福島市大笹生大倉
    天照神明宮  伊達市保原町宮下
    天照神明宮  伊達郡国見町森山
    神明神社   福島市腰浜町
    神明神社   二本松市太田字松山
    天照皇大神社 南相馬市鹿島区南柚木浅田
    天照皇大神社 南相馬市鹿島区南柚木宮前

神明社 2 神明宮 3 神明神社 2 大神宮  神社   皇大神社 2 其の他

栃木 
    神明社      小山市 
    神明社      栃木市 1404年
    神明宮      足利市百頭町
    神明宮      足利市瑞穂野町
    神明宮      小山市南和泉
    神明宮      小山市
    神明宮      佐野市赤見町
    神明宮      佐野市飯田町
    神明宮      栃木市旭町
    神明宮     小山市平和
    神明神社    足利市羽刈町
    天照皇太神社  鹿沼市上永野
    (伊勢山大神宮 佐野市相生町)
    (伊勢山大神宮 佐野市伊勢山町)

神明社 2 神明宮 8 神明神社 1 大神宮 3 神社   皇大神社   其の他

茨城 神明社   潮来市
    神明社   坂東市
    神明社   神栖市矢田部
    神明神社  古河市
 神明神社  結城市
    神明神社  神栖市波崎町高野
    神明神社  古河市長谷町
    神明神社  結城市小田林
    (内外大神宮 筑西市小栗)

神明社 3 神明宮   神明神社 5 大神宮 1 神社   皇大神社   其の他

千葉  神明社   舟橋市高根町
     神明社   舟橋市薬円台
     神明社   舟橋市金杉  930-941年
     神明社   千葉市中央区亥鼻
     神明社   市川市鬼越
     神明社   市川市本行徳
     神明社   市川市本行徳
     城山神明社 君津市久留里市場
     神明宮   木更津市佐野
     神明宮   銚子市高田町
     神明宮   君津市西原
     神明神社  館山市新宿
     神明神社  館山市那古
     神明神社  館山市北条北町
     神明神社  千葉市中央区神明町
     神明神社  千葉市花見川区横戸町
     神明神社  市原市山田
     神明神社  勝浦市吉尾
     神明神社  鴨川市江見
     神明神社  流山市南
     神明神社  富津市小久保
     天照大神社 君津市大井

神明社 8 神明宮 3 神明神社 10  大神宮  神社   皇大神社 1 其の他

群馬  神明宮  渋川市上白井
     神明宮  渋川市白井
     神明宮  渋川市中郷
     神明宮  渋川市横堀
     神明宮  高崎市倉渕町三ノ倉
     神明宮  沼田市材木町
     神明宮  沼田市高橋場町
     神明宮  沼田市西倉内町
     神明宮  みどり市大間々町大間々
     神明神社 吾妻市長野原町
     神明神社 利根郡みなかみ町
     神明神社 利根郡猿ケ谷
     (伊勢宮  吾妻郡中之条町伊勢町)
     (伊勢宮  吾妻郡中之条町)

神明社   神明宮 9 神明神社 3 大神宮   神社   皇大神社   其の他 2

埼玉  神明社  所沢市中富
     神明社  川越市神明町
     神明社  所沢市
     神明宮  川越市鹿飼
     神明宮  さいたま市岩槻区釣上
     神明神社 飯能市
     神明神社 さいたま市西区塚本町
     神明神社 朝霞市田島
     神明神社 加須市川口
     神明神社 川越市今泉
     神明神社 志木市柏町
     神明神社 新座市野火止
     神明神社 ふじみ野市亀久保
     神明神社 南埼玉郡菖蒲町上栢山
     天照皇大神宮 久喜市上清久

神明社 3 神明宮 2 神明神社 9 大神宮 1 神社   皇大神社   其の他

東京  神明社    西多摩郡檜原村本宿笹野
     神明社    日野市神明
     神明社    日野市栄町
     神明社    世田谷区祖師谷
     神明社    多摩市
     神明社    福生市
     天祖神社  足立区小台
     天祖神社  板橋区南常盤台
     天祖神社  江戸川区平井
     天祖神社  江戸川区本一色
     天祖神社  葛飾区新小岩
     天祖神社  葛飾区東新小岩
     天祖神社  葛飾区高砂
     天祖神社  葛飾区堀切
     天祖神社  江東区亀戸
     天祖神社  新宿区西早稲田
     天祖神社  新宿区原町
     天祖神社  新宿区早稲田鶴巻町
     天祖神社  杉並区高円寺南
     天祖神社  墨田区業平
     天祖神社  目黒区上目黒
     天祖神社  港区六本木
     神明神社  昭島市拝島町
 神明神社  日野市程久保
     深川神明宮 江東区森下
     元神明宮   港区三田
     東京大神宮 千代田区富士見
   芝大神宮   港区     7大神明社
      (上小松天祖神社 葛飾区奥戸)
     (奥戸天祖神社 葛飾区奥戸)

神明社 6 神明宮 3 神明神社 2 大神宮 2 神社  皇大神社   其の他 18

神奈川  神明社    三浦郡葉山町下山
      神明社    横浜市保土ヶ谷区
      神明社    横浜市緑区新治町
      田越神明社 逗子市桜山
      明神社    川崎市川崎区塩浜
      明神社    川崎市幸区戸手本町
      神明神社   川崎市宮前区有馬
      神明神社   鎌倉市
      神明大神   川崎市中原区中丸子
      (伊勢山皇大神宮 横浜市西区宮崎町)
      (伊勢山大神宮   海老名市国分南)

神明社 4 神明宮   神明神社 2 大神宮   神社   皇大神社 2 其の他 3   

静岡  伊勢神明社   静岡市
     神明宮      磐田市鎌田
     神明宮      磐田市福田中島
     神明宮      浜松市西区神原町
     神明宮      庵原郡富士川町北松野儘下町
     御薗神明宮   浜松市北区三ヶ日町岡本
     東神明宮     浜松市西区篠原町
     蒲神明宮     浜松市東区神立町
     若宮神明宮    焼津市大
     浜名惣社神明宮 浜松市北区三ヶ日町三ヶ日
     神明神社     磐田市見付
     神明神社     下田市須原
     神明神社     浜松市北区細江町広岡
     神明神社     袋井市梅山
     神明神社     袋井市太郎助
     神明神社     賀茂郡松崎町明伏
     神明神社     賀茂郡松崎町岩科南側
     天照皇大神社   伊東市芝町

神明社 1 神明宮 9 神明神社 7 大神宮   神社   皇大神社 1  其の他

長野  神明社       茅野市泉野中道
     神明社       松本市笹賀下二子
     神明社       大町市常盤須沼
     神明宮       大町市社旭町
     神明宮       塩尻市宗賀牧野
     神明宮       松本市並柳
     大宮神明宮    大町市本村
     橡原御厨神明宮 長野市戸隠栃原追通
     仁科神明宮    大町市宮本 国宝最古 7大神明社
     五十鈴山神明宮 上伊那郡辰野町下町
     伊勢林大神宮   佐久市新子田
     神明神社      諏訪郡富士見町境葛窪
     神明三島社     東筑摩郡生坂村北陸郷草尾    
     (伊勢宮神社    長野市伊勢宮)
     (伊勢社       長野市東之門町 )

神明社 3 神明宮 7 神明神社 1 大神宮 1 神社 1 皇大神社   其の他 2

山梨 
     神明社  山梨市江曹原
     神明社  甲州市塩山上小田原
     神明社  甲州市塩山上萩原
     神明社  三郷町
     神明社  甲府市中央
     神明社  甲府市塚原
     神明社  甲府市塩部
     神明社  甲府市阿原町
     神明社  甲斐市
     神明社  山梨市窪平
     神明社  上野原市桑久保
     神明社  松留
     神明社  新田
     神明社  鶴島
     神明社  切戻木
     神明社  西島
     神明社  丸滝
     神明社  清子
     神明社  南アルプス市下高砂
     神明社  戸田
     神明社  上高砂
     神明社  落合
     神明社  韮崎市
     神明社  笛吹市
     神明社  上野原市松留
     神明社  山梨市江曽原
     神明社  南アルプス市飯野新田
     伊勢神明社   須玉町
     伊勢神明社   明野町下神取
     伊勢神明社   高根町
     伊勢神明社   明野町
     伊勢神明社   長坂町
     伊勢神明社   武川町 
     神明宮      甲斐市二葉町宇津谷
     神明宮      身延町上田原
     神明宮      宮本
     神明神社     山梨市牧上町
     神明神社     甲斐市下今井
     神明神社     甲斐市境
     神明神社     甲斐市団子
     神明神社     甲斐市新原
     神明神社     甲斐市竜王
     神明神社     山梨市牧兵町牧平
     神明神社     山梨市牧兵町北原 
     神明神社     甲府市逢沢
     神明神社     甲府市高橋
     神明神社     上野原市
     神明神社     一宮町
     神明神社     境川町
     神明神社     石和町
     神明神社     道志村
     神明神社     南アルプス市
     神明神社     穂坂*3
     神明神社     竜岡
     神明神社     甲府市上阿原町
     神明神社     甲府市塩部
     神明神社     甲府市西高橋町
     神明神社     甲斐市竜王町富竹新田
     神明神社     甲斐市竜王町竜王
     神明神社     韮崎市大草町下條中割
     神明神社     韮崎市龍岡町若尾新田
     神明神社     笛吹市一宮町市之蔵
     神明神社     笛吹市石和町窪中島
     神明神社     笛吹市石和町東高橋
     神明神社     南アルプス市野牛島
     神明浅間神社
     天照大神社   釜額
     天照大神社   伊沼
     (伊勢神社    中巨摩郡田富町臼井阿原)     
     (伊勢神社    北杜市)
     (大神宮     甲府市貢川本町)

神明社 33 神明宮 3 神明神社 29 大神宮 1 神社 3 皇大神社 2 其の他

岐阜  杉箇谷神明社 高山市神明町
     神明神社    池田町八幡
     神明神社    粕ケ原
     神明神社    舟子
     神明神社    中津川市子野
     神明神社    中津川市苗木
     神明神社    飛騨市古川町上野
     神明神社    美濃市乙狩
     神明神社    岐阜市茜部本郷
     神明神社    岐阜市宇佐東町
     神明神社    岐阜市島田西町
     神明神社    岐阜市藪田西
     神明神社    各務原市鵜沼三ツ池町
     神明神社    各務原市各務おがせ町
     神明神社    各務原市前渡西町
     神明神社    各務原市前渡東町
     神明神社    郡上市白鳥町千田野
     神明神社    郡上市白鳥町向小駄良
     神明神社    郡上市八幡町五町
     神明神社    郡上市八幡町初納
     神明神社    郡上市美並町高砂
     神明神社    下呂市小坂町赤沼田
     神明神社    下呂市小坂町門坂
     神明神社    下呂市小坂町坂下
     神明神社    高山市朝日村浅井
     神明神社    高山市丹生川村駄吉
     神明神社    川佐
     神明神社    春日
     神明神社    高山
     上ノ島神明神社 各務原市川島
     久田見神明神社 八百津町

神明社 1 神明宮   神明神社 30 大神宮   神社   皇大神社   其の他

愛知 神明社    安城市石井町石原
    神明社    安城市小川町志茂
    神明社    安城市古井町
    神明社    岡崎市中伊西町
    神明社    岡崎市島坂町
    神明社    岡崎市桑原沢町
    神明社    一宮市定水寺
    神明社    刈谷市小垣江町大道西
    神明社    小牧市入鹿出新田
    神明社    高浜市碧海町
    神明社    常滑市栄町
    神明社    知立市西中町西街道
    神明社    豊橋市
    吉浜神明社 高浜市芳川町
    椿宮神明社 下青野町
    鳥羽神明社 幡豆郡幡豆町
    吉浜神明社
    安久差神戸神明社 豊橋市 
 河田神明社     一宮市浅井町
    赤塚神明社     名古屋市東区 (重文)
    安久美神戸神明社 豊橋市八町通
    神明宮    安城市河野町藤野郷
    神明宮    大高味町
    神明宮    元能見町
    神明宮    生平町
    神明宮    豊川市金屋本町
    大岩神明宮 豊橋市
    東田神明宮 豊橋市御園町
    高取神明宮 高浜市神明町神明町
    縣神明宮   安城市安城町県木
    神明神社   知多郡知多町
    神明神社   安城市高棚町中敷
    神明神社   刈谷市小垣江町
    神明神社   知多郡美浜町布土平井

神明社 21 神明宮 12 神明神社 4 大神宮   神社   皇大神社   其の他

富山 神明社  富山市水橋伊勢屋
    神明社  富山市水橋市田袋
    神明社  富山市清水町
    神明社  富山市水橋金尾新
    神明社  富山市水橋辻ヶ堂
    神明社  富山市水橋中村
    神明社  富山市水橋肘崎
    神明社  高岡市大野
    神明社  高岡市伏木古府
    神明社  砺波市五郎丸
    神明社  砺波市庄中
    神明社  滑川市三ケ
    神明社  滑川市辰野
    神明社  滑川市中川原
    神明社  南砺市飛騨屋
    神明社  射水市本町
    神明社  魚津市大光寺
    神明社  魚津市三ケ
    神明社  魚津市住吉新
    神明社  魚津市本江
    神明社  砺波市庄川町天正
    火の宮神明社 魚津市友道
    白山神明社  高岡市石瀬
    神明宮  富山市千石町
    神明宮  高岡市吉久
    神明宮  射水市八幡町
    神明宮  射水市本町
    神明宮  南砺市北市
    神明宮  南砺市野能原
    神明宮  南砺市戸板
    出町神明宮 砺波市中央町
    (伊勢玉神社 氷見市伊勢大町)

神明社 23 神明宮 8 神明神社  大神宮  神社 1 皇大神社  其の他 1

石川 金沢神明社 金沢市   7大神明社
    (伊勢神社 輪島市石休場町臂が谷)

神明社 1 神明宮   神明神社   大神宮   神社 1 皇大神社   其の他

福井 神明社   敦賀市松島町
    神明社   鯖江市水落町
    神明社   鯖江市水落町
    神明神社 福井市
    神明神社 福井市宝永 924年
    神明神社 鯖江市田村町
    神明神社 大野市大和町
    神明神社 敦賀市津内町

神明社 3 神明宮   神明神社 5 大神宮   神社   皇大神社   其の他

滋賀 神明社  高島市今津町
    神明社  伊香郡西浅井町
    神明社  長浜市新庄寺町
    (特令地 遷宮地 神明社  滋賀県湖南市三雲)

神明社 3  神明宮   神明神社   大神宮   神社   皇大神社   其の他

三重  伊勢神宮    伊勢市
     皇大神宮    伊勢市宇治館町
     豊受大神宮   伊勢市豊川町
     大宮神明社   四日市市日永
     神明神社    四日市市南川

神明社 1 神明宮   神明神社 1 大神宮 2 神社   皇大神社   其の他 1

奈良 神明神社 天理市川原城町

神明社   神明宮   神明神社 1 大神宮   神社   皇大神社   其の他

京都 日向大神宮   山科区 東山神明社 7大神明社
    朝日神明社   此花区
    天照皇太神社 京都市左京区原地町
    神明皇大神宮 宇治市神明宮西

神明社 1 神明宮   神明神社   大神宮 1 神社   皇大神社 2 其の他

大阪 露天神社    北区           7大神明社
    皇大神宮    大阪市城東区今福南

神明社  神明宮  神明神社 1 大神宮 1  神社   皇大神社   其の他

和歌山 神明神社 和歌山市堀止西
      神明神社 東牟婁郡勝浦町

神明社  神明宮  神明神社 2 大神宮   神社   皇大神社   其の他

兵庫   神明社    姫路市夢前町
      神明社    穴粟市一宮町
      神明社    穴粟市波賀町
      犬飼神明社 姫路市香寺町
      湊川神明社 神戸市中央区多聞通
      神明神社   姫路市亀井町
      神明神社   姫路市香寺町
      神明神社   穴粟市山崎町
      神明神社   加西市山枝町
      神明神社   小野市神明町
      神明神社   南あわじ市南淡町

神明社 5 神明宮   神明神社 6 大神宮   神社   皇大神社   其の他
    
鳥取  無し

神明社   神明宮   神明神社   大神宮   神社   皇大神社   其の他

岡山  神明神社  総社市

神明社   神明宮   神明神社 1 大神宮   神社   皇大神社   其の他

島根  (下の宮 出雲市大社町杵築北)

神明社   神明宮   神明神社   大神宮   神社   皇大神社   其の他 1

広島  神明社   呉市倉橋町
     神明社   府中市栗栖町
     伊勢神社  廿日市一宮
    (伊勢宮神社 東広島市西条)
    (伊勢両宮社 竹原市西野町)
    (伊勢大神宮 府中市府中町)

神明社 2 神明宮   神明神社 2 大神宮 1 神社   皇大神社   其の他 2

山口  神明宮  柳井市阿目

神明社   神明宮 1 神明神社   大神宮   神社   皇大神社   其の他

徳島  伊勢久留麻神社  淡路市久留麻
     伊勢の森神社    淡路市中田
     伊勢神社      南あわじ市志知難波

神明社   神明宮   神明神社   大神宮   神社 3 皇大神社   其の他

香川  伊勢宮 さぬき市大川町田面

神明社   神明宮   神明神社   大神宮   神社   皇大神社   其の他 1

愛媛  神明神社   今治市波止浜
     神明神社   北宇和郡鬼北町畔屋 

神明社   神明宮   神明神社 2 大神宮   神社   皇大神社   其の他

高知  神明宮  高知市比島町
     神明宮  高知市一宮徳谷
     神明宮  高知市はりまや町
     神明宮 (五所神社) 室戸市室戸岬町

神明社   神明宮 4 神明神社   大神宮   神社   皇大神社   其の他

福岡  無(八幡社 元神明社)

神明社   神明宮   神明神社   大神宮   神社   皇大神社   其の他 9 

佐賀  伊勢神社  佐賀市伊勢町

神明社   神明宮   神明神社   大神宮   神社 1 皇大神社   其の他

長崎  神明社   諫早市高城町

神明社 1 神明宮   神明神社   大神宮   神社   皇大神社   其の他

熊本  伊勢大神宮 人吉市紺屋町

神明社   神明宮   神明神社   大神宮 1 神社   皇大神社   其の他

大分  「西寒多神社」  大分県大野郡

神明社   神明宮   神明神社   大神宮   神社   皇大神社   其の他 1

宮崎  江田神社  宮崎市阿波岐原町
     天岩戸神社 西臼枡郡高千穂町
     高千穂神社 高千穂町
     鵜戸神宮  日南市宮浦

神明社   神明宮   神明神社   大神宮   神社 3 皇大神社   其の他 1

鹿児島  (伊勢神社 鹿児島市伊敷町)
      (伊勢神社 霧島市国分中央)
      (伊勢神社 南九州市知覧町郡)

神明社   神明宮   神明神社   大神宮   神社 3 皇大神社   其の他

「基データの検証」
以上が前段で検証し論じた神明社の「基データ」です。
この「基データ」には上記の様に、「神明社」は大別すると「7つの呼称」に分けられるのです。
この「7つの呼称」の内容を良く考察すると、前段で論じた「歴史的経緯との関係」とは別に単純に幾つかの疑問が湧いてきます。
そもそも、”何故、この様な「7つの呼称」が生まれ分けられたのでしょうか。”

「青木氏の守護神の祖先神-神明社」を充分に理解する為にも、青木氏としては前段の検証とは別にそれを分析する必要があります。
次ぎにそれを判りやすくする為にこれ等を呼称表-1に一つにまとめてみました。
そうすると、この「7つの呼称」には、”何か「仕来り、決り事、規則慣習」が合った”事が判ります。

先ず、大まかに考察するに、
(1)青木氏に関する「特定地域の特長」と次ぎのデータとの間に何か関係性がある様に観られます。(場所の要素)
(2)「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」との間にも「仕来り、決り事、規則」の何かの関係性がある様にも観られます。(人の要素)
(3)「時代性による呼称の変化」が起こっているようにも観られます。(時の要素)

真に、きっちりと「三相」がこの「呼称の疑問」に働いていると云う事は、「呼称概念」と云うものが長い歴史の中で「ある仕来り・規則」に依って粛々と働いていた事を物語ります。
そもそもこの世の森羅万象にはこの「三相」が揃っていない「事象」には虚偽、偽装、矛盾の持ったものに外ならないからです。
つまり「三相」がないという事は「確固たる概念」の無い事象なのです。判りやすく云えば”骨組みの無い蛸の様な事象”なのです。何も私が主張し物語る事では無くこれは「仏教の教え」なのです。

さて、そこで、消えてしまったこの何れ(1)(2)(3)の要素が一体どの様に働いていたのかをこれから検証してみる事にします。

それに依っても前段の論調に加え、それを物語る何物かが出で来る様に考えられます。
前段で論じた事柄を思い出して頂き次ぎのデータを観てください。
(「地名/地形データベース」も合せて配慮してください)

呼称の表-1
「県の分布の実数」
地名  社数   神明社  神明宮   神明神社  大神宮  神社  皇大神社  其の他
北海道 2                           1     1 
青森  14     1      12            1     
秋田  33    25              8
岩手  11     4                    1     5     1
山形  15     1              9                 5
宮城  14    10              2     2
新潟  61    13      34      4     2     6            2
福島   9     2       3      2                 2
栃木  14     2       8      1     3
茨城  14     2       8      1     3
千葉  22     8       3     10                 1
群馬  14             9      3                        2
埼玉  15     3       2      9     1
東京  32     6       3      2     2     1           18
神奈川 11     4              2                  2      3
静岡  18     1       9      7                 1
長野  15     3       7      1     1     1            2
山梨  71    33       3     29     1     3     2
岐阜  31     1             30
愛知  37    21      12      4
富山  33    23       8                  1            1
石川   2     1                          1
福井   8     3              5
滋賀   3     3
三重   5     1              1     1           1      1
奈良   1                    1
京都   4     1                    1           2
大阪   2                    1     1
和歌山  2                    2
兵庫  11     5              6
鳥取   0
岡山   1                    1
島根   1                                             1
広島   7     2              2      1                 2
山口   1             1
徳島   3                                3
香川   1                                             1
愛媛   2                    2
高知   4             4
福岡   9                                             9
佐賀   1                                1
長崎   1     1
熊本   1                          1
大分   1                                             1
宮崎   4                                3            1
鹿児島  3                                3  

地名  社数   神明社  神明宮   神明神社  大神宮  神社  皇大神社  其の他


合計 564
神明社 180 神明宮 126 神明神社 143 大神宮 24 神社 29 皇大神社 17 其の他 44

(前段の評価566と「其の他」の処の取り扱いで一部異なる)

前段で論じた「地域性による分布量」は明らかに違うのですが、この「7つの呼称」に付いても直ぐに判るデータと成っている事が判ります。
関西以西では分布量はもとより「神明社」そのものの呼称も少なく成っています。詳しくは下記に分析します。

この「7つの呼称」は次ぎの順位で並んでいます。

呼称の表-2
「神明社」180>「神明神社」143>「神明宮」126>「神社」29>「大神宮」24>「皇大神宮」17
(「其の他」44は上の6つと意味が幾つかあり異なるために比較は困難 別扱いとする。)

「神明社」、「神明神社」、「神明宮」の「3つの呼称」(神明系3社)は明らかに他の「4つの呼称」とは数値的に異なっています。当然にその持つ意味も異なっている訳です。
これは一般的には概して、「神明系3社」として ”「社」=「神社」=「宮」とは同じ” と民衆から考えられていた事を物語ります。
但し、「人、時、場所」の要素を加えて考察すると、一種の触媒の様に、「歴史的」な使い方、「語意的」な使い方に因っても異なって来るのです。基の持っている姿が見えてくるのです。
只、「場所的な事」は言葉である限り、又、特定の氏の守護神である限り、「祖先神の神明」と云う事からすると、論理的には「異なり」は無い筈であります。然し、上記のデータはあるのです。

地名/地形データの「青木村」のある場所を考慮すると一つの特長を持っています。
(「地名地形データベース」の参照)
「青木村」のある場所には、「神明社」と「神明神社」(神明系2社)の”「呼称の社(やしろ)類」”が必ず存在するのです。
そして、その「2つの呼称」は先ずは次ぎの様な傾向を持っています。
(A)
「皇族賜姓族青木氏」が建設した関係村には「神明社」
「特別賜姓族青木氏」が建設した関係村には「神明神社」
以上の傾向を持っています。(一部は異なる 下記)
(B)
「2つの青木氏」の50以上に近い「移動の地方定住地」には「神明宮」
以上の傾向が存在するのです。

前段でも論じた様に次ぎの建立数を建築しました。
「皇族賜姓族」は148
「特別賜姓族」は418(一部其の他の文も含む)
以上の「祖先神-神明社」を構築しました。
この数字から「7つの呼称」別に上記のデータを整理し直して観ると、上記(A)(B)の事が良く判ります。

呼称表-3-イ
神明社
      ・秋田25・愛知21・新潟13・宮城10・千葉8・東京6・岩手4・神奈川4・埼玉3・福島2・栃木2
      ・茨城2・広島2・山形1・青森1・静岡1
      ・計105/418=25.1%

      *山梨33*富山23*兵庫5*福井3*長野3*滋賀3*岐阜1*石川1*三重1
      *京都1(特令地 領有地)         
      *計74/148≧50.0%     

      +宮崎1(皇祖神発祥の特令地)  

     ・印は 「特別賜姓族」の本領地と移動定住地
     *印は「皇族賜姓族」の本領地と移動定住地
     +印は「皇族の皇祖神」の地
 考察
この「神明社」の呼称群は、次ぎのことから成り立っています。
全て例外無く・印は「特別賜姓族の関係地域」(決-1)であります。
同じく、これも例外無く、*印は、「皇族賜姓族の関係地域」(決-2)であります。
要するに「2つの賜姓族の関係外地域」(決-3)は見事に存在していません。
つまり、外の地域には、「社」を建てられたとしても ”「神明社」呼称としては建立されていない。存在しない”と云う事であります。
これも重要な「祖先神-神明社」の社会に存在した「仕来り、決り事、規則慣習」です。
この下記にも論じる「仕来り、決り事、規則慣習」(決-0)が本論の重要な意味を持ってくるのです。
これを知るか知らないかで”判断が出来ない、或いは、判断が間違う”と云う事に成ります。

要するに前段で論じたことも含めて「青木氏雑学」なのです。
更に、・印と*印の何れも次ぎの関係が成り立っています。

「場所的」には、「移動定住地」と「本領地」から構成される。(決-4)
「量的」には、「移動定住地」>「本領地」の関係が成り立つ。(決-5)
以上の事も「仕来り、決り事、規則慣習」として出来上がっています。

そして、
その順位は・印では、次ぎの事が云えます。
「東京-埼玉-神奈川」の「本領地」を囲む様に全てその「勢力分布の強弱」に比例させています。(決-6)
これもつまりは、「仕来り、決り事、規則慣習」ですが、”本領地を雁字搦めに護る”と云う慣習ではなく”外域を厚くする”と云う慣習でした。(決-7)
つまり、「祖先神-神明社」を建立する以上は「国家事業」として優先させた事を意味します。(決-8)
但し、「広島」だけが特異なのは、前段でも論じた様に、要するに本領地を凌ぐ勢いのある「独立性」を発揮した「讃岐籐氏の青木氏」の最大の「勢力伸張地域」であったからです。
「特別扱い」をしていた事に成ります。(決-9)
     
*印の「皇族賜姓族」の半数が「神明社呼称」(74/148)を占める事。(決-10)
・印の「特別賜姓族」の関係地域は、前段で詳しく述べた様に、全て「歴史的経緯」のある*印の「皇族賜姓族5家5流」との強い関係(移動定住等)を維持した地域のみに建立されていた事。(決-11)
以上の事は全て例外はありません。
これは青木氏の「融合氏の始祖」、「3つの発祥源」の役目から「神明社建立」が成されていて、それを”「特別賜姓族」が補佐する”と云う役目柄が構築されていた事。(決-12)
以上の事を上記のデータでは物語ります。
(次ぎの「神明神社」と比較すると良く判別できる)     

結論は、「神明社の建立と呼称」は、「皇族賜姓族の関係地域」と「特別賜姓族の関係地域」に建立された「祖先神-神明社」である事が判ります。(決-13)
つまり、「皇族賜姓族の関係地域」には「神明社の建立と呼称」であった事が先ず判ります。(決-14)
そして、・印の「特別賜姓族」が建立したこの「国家的な関係地域」には「神明社」とした事が判ります。(決-15)
「国家的な関係地域」とは、前段で論じた秀郷一門一族の関係した主要な「移動定住地と本領地」で「国家的な意味合いを堅持した地域」を意味します。(決-16)

「秀郷一門の移動定住地と本領地」は”その「統治力」とそれに因る「繁栄」”から必然的に国としてもその地域は「国家的安定地域」と成り得ます。
故に、その「統治と繁栄」を維持する目的から「国家事業」として「皇族賜姓族」とそれを補佐する「特別賜姓族」にその象徴として「神明系社」の建立の責務を与えたのです。(決-17)
上記の「呼称の表-2」の数字と対比するとこの事が良く判ります。

そうすると、次ぎの「神明神社の呼称」は、一体どの様な位置付けにあったのでしょうか。
この「神明社」の事と次ぎの「神明神社」と比較して観て下さい。

「神明神社」
呼称表-3-ロ
「神明神社」 
       ・千葉10・埼玉9・山形9・秋田8・静岡7・新潟4・愛知4・群馬3・福島2・東京2・神奈川2
       ・宮城2・岡山1・栃木1・茨城1
       ・計65/418=15.6%

       *岐阜30*山梨29*兵庫6*長野1*三重1   
       *奈良1*福井5
       *計73/148≧49.3%

       +大阪1+和歌山2(移設地 皇祖神遍歴の特別地)

 考察
*印の皇族賜姓族の関係地域に付いて先ず考察してみます。

「神明社」
         *岐阜1 *山梨33*兵庫5*長野3*三重1
         *福井3 *富山23*滋賀3*石川1
「神明神社」
         *岐阜30*山梨29 *兵庫6*長野1*三重1
         *福井5 *奈良1

上記の「神明社」の「皇族賜姓族の関係地域」のデータを「神明神社」に合せて並べ変えて観ますと良く判ります。 
「神明神社」には、*印の「皇族賜姓族」の5家5流地外の主要な「移動定住地の末裔地域」(富山、滋賀、石川)がありません。
そもそも、*富山23*滋賀3*石川1*福井は「越前」に含まれ一部に「特別賜姓族の末裔地域」で混在地域でもあります。
そして、「皇族賜姓族」の5家5流の地の中で、「神明神社の岐阜30」だけは「神明社の岐阜1」に比較して特別に多く成っています巳、奈良1が神明神社に入っています。
これは大きく何かを物語っています。それは一体何でしょうか。考察してみる事にします。
そもそも前段でも論じた様に、「美濃域」(岐阜)は、その「生き様の違い」から「源平の戦い」前後から衰退し既に滅亡していますし、平安末期には5家5流は「青木氏の衰退期の後期」に既にあって正式に「神明社」を建立できる事は困難な状況でした。中でも「近江、美濃、甲斐」の「賜姓地域」は殆ど建立は不可能な状況でした。(賜姓地の甲斐は乱れていた)
この時期に他の賜姓族(美濃、近江)と同じ様に、特に「2足の草鞋策」を積極的に採らなかった「美濃青木氏」は特別に衰退していました。
その経緯の概ねは、「近江」は「佐々木氏系青木氏」との争いが起こり、滋賀(東域)に移動し、遂には美濃に加担して共倒れしたのです。
この「末梢子孫」でさえも生き残ることさえも困難な状況の中で、「建立」そのものがそもそも困難でした。
下克上と戦乱期に因って消失したのです。(「社」が前戦の「戦いの城郭」として使われた)
この「岐阜30」の大変多い数値は、「特別賜姓族」に依って、それ以後の鎌倉期以後に建立されたものである事がよく判ります。

次ぎに上記の「神明社」の”*福井3*富山23*滋賀3*石川1”のこの「4つの地域」は、「皇族賜姓族の末裔地域」(近江佐々木氏系、美濃土岐氏系、信濃足利氏系 福井は特別賜姓族の一部をも加えた混在末裔地域 戦いで敗れた逃亡地域)であります。
この末裔地域は平安期中期頃以降に成ってからの地域であります。
然し、「神明神社」の「呼称表-3-ロ」の方にはこの地域はありません。
つまり、「神明神社」は「皇族賜姓族」が建立していなかった事を物語ります。(決-18)
「特別賜姓族」も当然にこの「皇族賜姓族の末裔地域」まで「神明社」は勿論の事、「神明神社」も建立する事は有り得ず、必然的に呼称も無い事に成ります。
従って、前段で論じた様に「皇親勢力」が低下した「皇族賜姓族」に代わって、この時期にこの地域に「特別賜姓族」がこの事業を継続した事に成りますので、「時代性の差」と「特別賜姓族の建立」の事から「神明神社の呼称」は「特別賜姓族」に因る呼称と成ります。
「特別賜姓族」はこの場合は「神明神宮」と呼称したと云う事に成ります。(決-19)

前段で論じた様に、「皇族賜姓族3家」(伊勢、信濃、甲斐)の「2足の草鞋策」が成功して勢力を盛り返し、後に「2つの絆青木氏」と共に「神明社」を建立し続けた事に成ります。
つまり、この「神明神社」の*印のデータ73は「特別賜姓族」に因って5家5流の「皇族賜姓族の地域」に建立されたものである事が判ります。(決-20)
「福井」は特別賜姓族の一部をも加えた混在末裔地域ですが、当然に、「神明神社」も「福井」にも建立されている事から観ても時代も少なくとも「鎌倉期以降」と成ります。

従って、「皇族賜姓族の祖先神-神明社の148」に対して「神明社」は50%、「神明神社」は49.3%と成り、合せて99.3%と成ります。
この事からも「神明社」と「神明神社」(神明系2社)で殆ど「仕来り、決り事、規則慣習」で成り立っていた事を意味します。(決-21)
これで(A)と「時代性の疑問」は解けます。

・印と*印共に「呼称表-3のイ」と同じく「ロ」にも「2つの賜姓族の関係外地域」が全く含まれていません。
これは、ある一定の「仕来り、決り事、規則慣習」が完全に働いていて”勝手気侭に呼称した”と云う事では無いと云う事が判ります。(決-22)
当然、「建立と呼称」も無い訳ですから、「皇祖神の子神」の「祖先神-神明社」であると云う「敬い、尊厳」の発露から「関係外地域」は”勝手気侭の行為”は避けた事を意味します。
これも「建立」も然る事ながら「呼称」も避けると云う「仕来り、決り事、規則慣習」が厳然と働いていた事を意味します。(決-23)

更に、・印の地域でこの「神明系2社」の2つを考察すると、次ぎの様に成ります。
「神明社」
        ・秋田25・愛知21・新潟13・宮城10・千葉8 ・東京6・岩手4・神奈川4
        ・埼玉3・福島2・栃木2・茨城2・広島2・山形1・青森1・静岡1
「神明神社」
        ・秋田8 ・愛知4 ・新潟4 ・宮城2 ・千葉10・東京2  ◎ ・神奈川2
        ・埼玉9・福島2・栃木1・茨城1・岡山1・山形9  ◎ ・静岡7
        ・群馬3

神明社/神明神社=105/65=25.1%/15.6%     

この二つのデータを上下で比較しますと・印の地域には大きな違いが出ています。
神明社のデータに比べる為に、この様に並べ直してみると良く判ります。

その中で、◎印の2地域の「岩手」と「青森」には「神明神社」はありません。
つまり、ここは古い「広域の陸奥域」であります。
これは不思議です。前段でも論じた様に、この2つの「広域の陸奥域」は「鎮守府将軍」としての秀郷一門の「最大の知行国」であり、秀郷一門の骨格の一部を成した「血縁族の最大地」です。
然しながら、「仕来り、決り事、規則慣習」があるとして考えれば当然の結果です。「神明神社」はないのです。呼称問題なのでしょうか。建立が無かったのでしょうか。はたまた何らかの原因で消失したのでしょうか。ところがはっきりと原因はデータに出ていて判っています。

その前に、それには次ぎの事を考える事が必要です。
そもそも「神明社」と「神明神社」は、前段でも論じた様に、次ぎの役目を持っています。(決-24・7)
A 「皇祖神の子神」である事
B 「国家事業」の一つである事
C 「民の安寧」と「国家安定」の為の「城郭」である事
D 「行政府庁」をも兼ねる事
E 「2つの賜姓族青木氏」の「守護神」でもある事
F 「青木氏を護る戦略上の拠点」でもある事
以上の6つの役目を荷っていたのです。

前段で論じた様に、「桓武天皇」と「征夷大将軍の阪上田村麻呂」の「20の神明社建立の策」でも判る様に、要するに「神明系2社」は「青木氏の守護神」でありながらも、「青木氏の役目」の「国家事業」であるのですから、当然に「広域陸奥域」には「神明社」の「建立と呼称」は当然の事として可能です。
そこで、「特別賜姓族」のものとして、この「最大知行地と最大血縁族」で「桓武天皇建立20神明社」であるこの地域に独自にこの最大主要知行地域(東北ライン)で「社」を建てると成ると「神明社」ではなく「神明神社」と成る事に成ります。(決-25)
「特別賜姓族青木氏」が護衛軍として赴任し血縁し指揮を執っているとは云えあくまでも秀郷の宗家地であります。「宗家」として「春日社」が「本来の建立地」であるのですから、それが「神明神社の量」として少なく出たのです。それが何らかの理由でこの「岩手と青森」の地域が「神明神社 無し」と出たのです。(下記)
ここが「特別賜姓族の青木氏の本領」とも言っても過言ではない「新潟」と違うところです。

次ぎに、もう一つ上記の「逆の現象」が出ている地域の「群馬」だけが不思議に「神明社」は無く、「神明神社」があります。
「群馬」は「特別賜姓族の本領地」(武蔵、下野、上野)の古い一つです。
この「群馬」は室町中期以降には、逃亡して来た「甲斐の武田氏系青木氏」や「諏訪族系青木氏3氏」が「特別賜姓族」と共にこの地域で「再興」を目指して仙台の手前まで伸張しています。
この事から勢力拡大が起こり「神明社」が建立され、呼称もあったと普通は考えられるのですが、「神明神社」3です。
「群馬」は前段でも論じる事が少なかった地域でもあり、明らかに「皇族賜姓族」が「建設、呼称」に及ぶ程に殆ど「所縁の地」ではありません。況や「無縁の地」です。
この事から「神明社」の「建立と呼称」は無かった事が充分に伺えます。
つまり、それ程に「仕来り、決り事、規則慣習」が「無縁の地」が強く働いていた事を物語ります。
「神明社建立」だけは ”「皇族賜姓青木氏」のみ成らず朝廷の「無縁の地」には建立はしない” と云うものがあった事を物語ります。(決-26)

故に、「特別賜姓族」は建てる以上は「仕来り、決り事、規則慣習」を護り、その「呼称」を「神明神社」とした事に成ります。
つまり、この3県の「青森-岩手-群馬」だけが無いのは、その原因の一つの先ず「地理的要素」であり、それは「東北ライン」だからです。
「北陸ライン」は前段でも論じた様に、大変に強力な「特別賜姓族の移動定住地」ですが、「東北ライン」は進藤氏が僅かに伸張した地域です。
従って、「特別賜姓族」として「神明神社」を建立するに及ぶ程には、先ず「広域陸奥域」の「岩手の南域」には「勢力伸張」は無かった事を意味します。むしろ、歴史的経緯から観ると ”難しかった。” と云えます。

この事は「神明系2社」は ”他氏が勝手気侭に建立し呼称する”と云う事では無く、きっぱりと「仕来り、決り事、規則慣習」が厳然と働いていた事が判ります。(決-27)(歴史資料の記録にも記載)
明らかに、「建立と呼称」には、次ぎの事が云えます。
イ 「皇族賜姓族は神明社」
ロ 「特別賜姓族は神明神社」
以上の「仕来り、決り事、規則慣習」が厳然と存在していたのです。(決-28)
(「皇族賜姓族の衰退期」に「神明社32」の「神明社建立代行」を行った。下記)
但し、「特別賜姓族」が「皇族賜姓族」に代わって「神明社」をも建立した時期があります。
然し、これも ”「特別賜姓族」が「皇族賜姓族」を補佐し支える” と云う強い「仕来り、決り事、規則慣習」の中での「建立と呼称」であったのです。(決-29)

それは次ぎの「建設と呼称の量」の比較で判ります。
「神明社」     ・計105/418=25.1%
「神明神社」   ・計 65/418=15.6%

全国的に観た場合、(全国を100とした場合)次ぎの倍数に成ります。
イ 「神明社」は100に対して4倍の比率
ロ 「神明神社」は100に対して6倍の比率
両者の関係には明らかに「4-6の規則」が働いています。
計画的に建立された事が判ります。

明らかに次ぎの通りこの2つには「量」が規則的に異なります。
又、その中でも次ぎに記す「移動定住地」の「主要地」の量がこれも「規則性の内容」で異なっています。

埼玉の本家の領国は当然の事として、「神明社」に比べて「神明神社」の方が高い事は納得出来るのですが、次ぎの比較表は逆転しています。
「神明社」     ・秋田25・愛知21・新潟13・宮城10 の「神明社」
「神明神社」   ・秋田8 ・愛知4 ・新潟4 ・宮城2  の「神明神社」

この「特別賜姓族」の「主要4地域」なのにその量は比して逆に「神明神社」は1/4です。
(前段で論じた様にその勢力比は逆に「皇族賜姓族」が1/4なのです。)
ここでも、当時の鎌倉期までは、過去の資料等の記録で観る通りの、矢張り、「4-6の規則」が働いていた事が判ります。これは偶然にこの様に成ったのではないのです。
皇族賜姓族/特別賜姓族の「勢力比」は1/4
皇族賜姓族/特別賜姓族の「社数比」は4/1
本来であれば通常は「勢力比」に比例する筈です。
然し、「4の数字」で逆転している事は、何れのデータから観ても「仕来り、決り事、規則慣習」に完全に厳格に従っている事なのです。
(室町期の「下克上と戦乱」で「人心が荒廃」し、この「4-6の規則」が薄らいで行った)

これは上記した「青森-岩手-群馬」の検証で述べた様に同じ事が云えるのです。
つまり、「仕来り、決り事、規則慣習」が成り立つ中では、「特別賜姓族」のものとして独自にこの「最大主要知行地域」(東北ライン)で建てると成ると、「神明社」ではなく「神明神社」と成る事に成ります。
従って、あくまでも原則として、「国家事業」としての「神明社」は多く、「神明神社」は少ない事なのです。
これもあくまでも、結果として「呼称の仕来り」を護ったに過ぎないのです。

その「少ない神明神社」が1/3と成った分に付いては、何らかの理由で更に消失した事を意味します。
(詳細は下記 「3つの災難」による。)

ここにも前段で論じた「1/4(「4-6」の法則 )の原則」が成り立っている処から、「準国家事業」として、意識的に「特別賜姓族」が「神明神社」を建立し、呼称を変え、「仕来り、決り事、規則慣習」に従い、呼称も「神明社」の呼称を避け「神明神社」と恣意的にした事を物語ります。

この様に「仕来り、決り事、規則慣習」から少なくとも次ぎの事が云えます。

”「神明神社の建立と呼称」は「特別賜姓族」の暗黙ルールに従い「国家事業」でありながらも何らかの特別な独自事情が存在する場合の呼称である” 
と云う「決まり事」が出来上がっていた事を物語ります。(決-30)
その「何らか特別な事情」とは、上記の「建設地域」が物語っています。
つまり、主に、”「藤原氏一門の戦略的事情」が色濃く働いた場合の呼称、” と成ります。

故に、「量の問題」として「平安期の1/4の規則」(決-31)なのであって、この「特別賜姓族」の行動は符合一致しています。
要するに、次ぎの事が「仕来り、決り事、規則慣習」としてあった事を物語ります。
イ 特別な事情が少ない、又は無い場合に、「特別賜姓族」が行う場合は、「国家事業」としては「神明社建立と呼称」を行った。
ロ ある程度の政治的な戦略的な意味を持つ「独自の事業」として建立し、呼称するには必然的に「神明神社」とした。
以上と成ったと考えられます。(決-32)
(注意 室町期を除いて「神明社」/「神明神社」の「建築物」としては判別するほどの差は無い)

そうすると、「特別賜姓族」は独自に「神明社」を「皇族賜姓族」に代わって正式な「国家事業」として建立した「数量」はある事を意味し、その量は上記の通り180-148で「神明社数」は32と成ります。

後は、「特別賜姓族」は、「170-40%」の「神明神社」の呼称にした事に成ります。
依って、170+32で、「特別賜姓族」は「神明社数の32」と合せるとは「国家事業」と「準国家事業」として正式には「202」を「神明系2社」として建立した事に成ります。
そうすると、残りの418-170=248 60%の内、「神明宮」はどの様な位置付けになるのでしょうか。
「神明系3社」の一つの「神明宮」の内容がどの様に成るかが気に成ります。
これを検証しないと完全な答えとは成り得ない筈です。

ところで、その前に一つ気に成る地域があります。これを考察しておく事が必要です。
上記したそれは「群馬3」ですが、これは何を意味しているのでしょうか。
”神明社に無くて、神明神社にある”と云う事です。
上記の「仕来り、決り事、規則慣習」からすると、「準国家事業」で”「上記のイとロ」が働いた”と云う事に成ります。
群馬、凡そ「上野の地域」ですが何かあったのでしょうか。”「神明社」が建立出来ずに「神明神社」にした”と云う何かです。
それは上記の「賜姓族の無縁の地」以外に他に実は2つあるのです。
”「領国」である事”にしてはきっぱりとし過ぎているからです。
ここには次ぎの事情があるのです。

1つは、県別と国別との「判別の範囲」の違いです。
2つは、上野北側の「国境域」の「勢力の範囲」の違いです。

A 「武蔵の国の範囲」が県別より上野よりに広くあった事。
B 「広域武蔵」の平安期中期から混乱地域であった「上野北側の範囲」を「武田氏系諏訪族2氏」に平定させ、「武田氏系諏訪族2氏」が「氏復興」の為に上野より北側(福島側)に更に侵食した地域までのこの「2つの範囲」を「諏訪族の支配地」(「祖先神-神明社族」であり、「産土神-諏訪社族」の重複族)として与えられていた事。

この2つの事から平安期中期から室町期に掛けて「不安定地域」とみなされ「神明社」は建立できずに「神明神社呼称」と成ったと云う代表的な「仕来り、決り事、規則慣習」が適用された地域なのです。
「特別賜姓族」としては本領でありながらも「止む終えない仕儀」であった事に成ります。
特に、平安期中期から末期に掛け、且つ、室町期初期から中期に掛けて「不安定地域」であったのです。
下記にも詳細に「不安定地域」(分霊地)として論じるところですが、その代表的な地域なのです。
故に、この「神明神社」の3なのです。
この「群馬の有り様」(「無縁」含み「不安定地域」)が「神明宮」の考察にも働いているのです。 (決-33)

そこで、次ぎにこの「神明系3社」の一つの「神明宮」は建立と呼称にどの様な立場や役割があったのでしょうか。そして、どの様な者が建立したのでしょうか。次ぎの「呼称表-3-ハ」でに考察します。
「神明系2社」には33(決)もの「仕来り、決り事、規則慣習」があったのですから、必ずある筈です。
それを考察し検証します。

呼称表-3-ハ
神明宮  
       ・新潟34・青森12・愛知12・静岡9・栃木8・茨城8・千葉3・福島3
       ・東京3 ・埼玉2 ・群馬9
       ・計103/418=24.6%

       *富山8*長野7*高知4*山梨3
       *計22/148≧14.9%
     
       +山口1(皇族逃避の特別地)

この「神明宮」には次ぎの2つの事がはっきりと浮き出ています。
イ ・印の建設地域は、
「関東の本領地」(埼玉、東京、群馬 14)
「その周辺」(福島、栃木、茨城、千葉 22)
「主要移動定住地」(青森、新潟、愛知、静岡 67)
以上の「3地域」103に分けられます。

ロ *印の建設地域は、
「移動定住地域」(富山、高知 12)
「本領地」(長野、山梨 10)
以上の「2地域」22に分けられます。
   
(平安期の都の影響を大きく受けた「伊勢、近江、美濃地域」は無い。)

*印の地域から観て、「皇族賜姓族」がこの「神明宮の建設と呼称」に直接関わっていない事が云えます。
これは当然の事であり、「仕来り、決り事、規則慣習」では次ぎの事が定められているからです。
イ 「皇族賜姓族」の「3つの発祥源」の立場
ロ 「皇祖神の子神」として「祖先神-神明社の建設」の責務・任務

以上の2つから敢えて「社」を「宮」として変えて建設する事は「威厳と尊厳」を護らなければ成らないと云う意味から到底出来ない事です。

この事は、*印の富山や高知を観ても明らかです。「所縁の地」では本来ありません。
後刻、この「2つの地域」は、その末裔が「下克上や戦国時代の影響」を受けて末裔が飛散しここに落ち着いた地域です。(逃亡地)
当然に、この地に「神明社」や「神明神社」を建立する程に余裕は無く、「国家事業」、「準国家事業」として建立するに及ぶ程の「所縁の地」ではありませんし、上記の「神明社や神明神社」の「国家事業」等の「仕来り、決り事、規則慣習」(上記 決-32のイ ロ)から成し得ない筈です。

つまり、「所縁の地と無縁の地の判別」が働いているのです。」(決-34)

前段でも論じましたが、次ぎの様に判断されます。
*印の高知は明らかに「讃岐籐氏の讃岐青木氏」の所業であり、「賜姓族支流一族の逃避族」を補佐し建設した地域であり、「仕来り、決り事、規則慣習」から「神明宮」とした所以であります。
「特別賜姓族」の「直接的な指揮」ではない「移動定住地の独自行為の建立」の場合は、「神明宮」とした事が云えます。(決-35)
むしろ「建立の諸条件」から観て、本家筋は”その様に指揮した”と考えられます。
氏家制度の中で、「支流一族」が苦労して建立しようとしているのに「本家筋」が黙って見ている事はあり得ません。それは最早、「氏家制度」ではないからです。支流一族に執って「社の建立」には諸条件があって、はっきり言えば支流一族に執っては「戦略上の事情」、中には」政治上の事情」があっての事である筈です。何も無いのに高額費用で取り組む「氏挙げての事業」に ”気侭に建てる” 事は無い筈です。
建ててその侭では済まない建立物であるのです。特に「念入りな維持管理」が必要な「社」なのです。
これは本家宗家筋も黙って見ている訳には行かない筈です。
無視する事は何時かその「負の債け」が本家宗家に戻ってくる事に成ります。
この事から、本家宗家筋が支流一族にある程度の援助をしてでも建てさせた「社」であると見ているのです。
その時には「神明系2社」の呼称は、厳しく護られた35にもなる「仕来り、決り事、規則慣習」上から使えません。そこで、”「神明宮」と呼称させた”と説いています。
それを物語るのが、前段で論じた様に、「歴史的経緯」から、次ぎの事情が働いたと考えられます。
要するに、上記の「・印の3地域103」と「*印の2地域21」の「地域と数」なのです。

次ぎの比較表でも良く判ります。

*印の富山は前記の通り「枝葉末裔の混在地」(室町期にはこの地に移動した)でありますので、ここも「仕来り、決り事、規則慣習」から「神明宮」としたのです。その建設者は「枝葉末裔」であります。
「神明系2社」の35の「仕来り、決り事、規則慣習」には適合しません。

他の*印の「長野」と「山梨」は次ぎの様な建設と呼称別に成っています。
長野 13+2 神明社 3  神明宮 7  神明神社 1  大神宮 1 神社 1 皇大神社   其の他 2
山梨 69+2 神明社 33 神明宮 3  神明神社 29 大神宮 1 神社 3 皇大神社 2 其の他

*印の山梨は47県中その量はトップです。然し、その大半は「神明社と神明神社(33+29)」で占められていますから、他の呼称も多い事に成ります。
満遍なく他の呼称(6つの呼称)は9社ありますので、「仕来り、決り事、規則慣習」からも「神明社と神明神社」の呼称を使えない事情も多い事に成ります。長野も同じ様に満遍なく「5つの呼称」を使っています。

では、”どの様な理由で、誰が建てたのか” と云う事に成ります。それははっきりとしています。
この「皇族賜姓族」の伊勢を除く「2家2流」(信濃と甲斐)には「美濃と近江」と違い多くの支流末裔一族があります。

長野では、賜姓族系として詳細には6氏の支流一族(内2氏は移動、内1氏は秀郷一門との血縁氏)
山梨では、賜姓族系として詳細には8氏の支流一族(内2氏は信濃から移動、内皇族青木氏3氏)

この事から、「仕来り、決り事、規則慣習」を重んじたとすれば、この「支流一族」が建立したと考えられ、その支流のどの一族かは正確には判断は付きません。
しかし、これだけの「支流一族」が存在するのに何もしないと云う訳には行きません。
然し、「歴史的経緯」としての状況判断から絞り込むとすれば、その影響を受け易いより「宗家に近い支流族」と考えられます。
この(・ ・)内の支流は、周囲の宗家本家をさて置き勝手に建てる事や呼称する事は「氏家制度」の中では争いを覚悟の上での余程の事でなくては出来ない事です。
宗家本家筋は、前段で論じた様に多くの職種の「部職人」として「宮大工等の職人」をそっくりと抱え、それを実行する為の協力集団などのシンジケートの力(材料調達 運搬 護衛)と共に「神明社」を建築しているのです。
この(・ ・)内での支流族の建設ではそんな事は先ずは無いし出来ないと考えられるので、協力の得られる「宗家本家の分家筋」と考えられます。
何れ、2県共に「枝葉一族」では職人などを抱える財力はないし、それを継続的に実行する為のシンジケートの協力が得られる事は考え難いし、その「調達力」や「財力」や「武力」からして殆ど困難です。

長野の信濃では信濃青木氏の分家か一族の足利氏系青木氏と成ります。この2氏の何れかです。
山梨の甲斐では甲斐青木氏の分家か一族の武田氏系青木氏と成ります。この2氏の何れかです。
上記の経緯から2県ともに分家筋がその財力、武力等から観て建立したと考えられます。

と云う事は、結論として、この「神明宮」は「賜姓族の分家筋、支流筋」等が独自に守護神を建立し、その呼称を「仕来り、決り事、規則慣習」から「宮」としたと考えられます。(決-36)
「特別賜姓族」も同じで、「仕来り、決り事、規則慣習」を守り「宮」としています。

神明系3社の比較
神明宮 103
     ・ ●    ・愛知12 ・新潟34 ・ ●    ・千葉3  ・東京3  ・ ●   ・ ●   
     ・埼玉2  ・福島3  ・栃木8  ・茨城8  ・ ●    ・ ●    ・青森12 ・静岡9 
     ・群馬9
神明社  105
     ・秋田25 ・愛知21 ・新潟13 ・宮城10 ・千葉8  ・東京6  ・岩手4  ・神奈川4
     ・埼玉3  ・福島2  ・栃木2  ・茨城2  ・広島2  ・山形1  ・青森1  ・静岡1
神明神社 65
     ・秋田8  ・愛知4  ・新潟4  ・宮城2  ・千葉10 ・東京2  ・ ◎    ・神奈川2
     ・埼玉9  ・福島2  ・栃木1  ・茨城1  ・岡山1  ・山形9  ・ ◎    ・静岡7
     ・群馬3

神明宮  103  神明社  105  神明神社 65

「神明宮と神明社」と比べて観ると、矢張り「歯抜け」であり、「神明社」の様に「国家事業的要素」が無い事が判ります。それも主要国の秋田、山形、岩手、宮城、神奈川、千葉、と讃岐籐氏の広島が欠けています。これには訳があります。
秋田-山形と陸奥-新潟間の北陸ラインは支流一族の末裔の少ない地域です。
岩手-宮城も青森-武蔵間の東北ラインは支流一族の末裔の少ない地域です。
何れも、「特別賜姓族」の他氏との競合地域であり、定住-末裔存続が難しく支流一族が少ない事から「神明宮」も少ないのです。
上記の「建立の筋書き」の通りには行かないのが当然です。

特に、瀬戸内の広島は別としても、上記の「皇族賜姓族」と同じ様に、・印の「特別賜姓族の支流族」が「現地の勢力」に応じて「神明社105」、「神明神社65」の合計170に対して、「神明宮は103」を建立しています。合せて「273の建立」であり、平均すると16県で17社/県と成ります。
前段でも論じた様に1県4郡として4社です。
矢張り、この数字から観ても前段の建立根拠の数値と一致しています。
つまり、必要以上に無理してはいないことを示しています。原理原則に沿っている事を意味します。

むしろ、「神明宮」は「4-6の規則」を護る為にも、 ”分家・支流一族に補足させた” と考えられます。
それも、「移動定住地の末裔地域」の全ての「分家支流一族」に建立させたと云う事では無く、「歯抜けの現象」は、それを実行する事が出来る勢力を保持している一族に建てる事を命じた、或いは許可したと観られます。
●印の全てには「ある一定の条件下」で外れているのです。勝手気侭ではないのです。実に計画的なのです。
その証拠に、「青森12-新潟34」、「栃木8-茨城8」の4県は「神明社、神明神社」に比べて3~4倍に多いのです。少ない地域を補足しています。
そして、この4県は前段での通り「特別賜姓族の勢力」として明確に重要な地域として2地域に分けられます。
・青森で観てみると、「神明社+神明神社」で1、これでは「1郡4社/県の原則」には程遠いのです。
然し、「神明宮」を加えると「13社」となり、「1郡3社/県」と成りほぼ原則を守っています。
(中には「消失分」もあり「4社」の原則は守られていた事が考えられるのです。)

・新潟で観てみると、「神明社+神明神社」で17、これで原則は丁度守られています。
ところが、「神明宮」の34をこれに加えると51社と成ります。過剰と成っている様に観えます。
然し、この地域だけは前段で論じた様に「国家事業」の最大地域でした。
「桓武天皇」が青木氏に代わって建てた20社と、この4県は「特別賜姓族」の地方定住地の最大メッカ地ですし、「皇族賜姓族」系の3家の青木氏が逃避し受け入れて、群馬-栃木と同じ様に、「諏訪族系一門の勢力」を現地で盛り返した最大地でもあります。
この「諏訪族系賜姓族の密度」からすれば「祖先神-神明社」の守護神の建立数は問題には成りません。

(特記 「群馬」はここでも特長あるパターンを示しています。”「神明社」が無く「神明神社」と「神明宮」がある” と云うパターンです。、「仕来り、決り事、規則慣習」36から観て、問題があった事が云えます。
秀郷一門の本領でありながらも北側国境には気に掛かる問題を持っていた証拠です。逃亡して来た「諏訪族系青木氏」を差し向けた事が良く判ります。逆に云えば諏訪族はこの大変な地域をよくも抑えて定住地としたその「生き様・苦労」が目に映る程です。この地域の「諏訪社数」からも「勢力復興力」が判ります。この地域には昔地主であった賜姓族系末裔の武田氏系を含む諏訪族系青木さんが多いのです。)

そこで、この数値は現在の県域での評価ですが、青森-秋田-山形-新潟として観れば「神明宮」は秋田は0ですので、秋田の「神明社+神明神社」で33、其処から10/20(桓武建立社)を差し引いて23とすれば、「1郡4社」とすれば「4-過剰6の規則」の中に入ります。

更に、この「青森-秋田-山形-新潟」のラインの「特別賜姓族」の広域陸奥-北陸の勢力地域の範囲として総合的に観れば、次ぎの様に成ります。
[(青森13+秋田33+山形13+新潟51)-20]/4×(4-6)=5.6~3.8社
見事に、「4-6の規則」の関係が成り立っています。

結論として、「神明宮」は「4-6の規則」を護る為にも、分家支流一族に補足させた事が見事に検証出来ます。(決-36)
従って、「仕来り、決り事、規則慣習」として、「神明系3社」の建立実態は次ぎの通りです。
「皇族賜姓族」(神明社)と、「特別賜姓族」(神明神社)と、その両者の「支流一族」(神明宮)」は次ぎの建立実績を遺した事に成ります。

「正主体を「神明社」とし、   「*74-・105」とした事
「準主体を「神明神社」とし、  「*73-・ 65」とした事 (特別賜姓族 神明社32の代行)
「補足体を「神明宮」とし、   「*22-・103」とした事
 (*印は皇族賜姓族  ・印は特別賜姓族)
以上で建立し呼称した事の以上3つ事が判ります。

「皇族賜姓族」は、「神明社74」と「神明神社73」と「神明宮22」の3つで、「169社建立」と成ります。
「特別賜姓族」は、「神明社105」と「神明神社65」と「神明宮103」の3つで、「273社建立」と成ります。

此処で、問題と云うか、検証課題と云うか、突き詰めなければ成らない事が次ぎの検証・研究中の課題事項です。
「皇族賜姓族 169社建立」は前段で論じた「1/4の勢力比」から考えて多すぎる筈です。

課題-1
但し、「皇族賜姓族」の「神明社」の「社数の実数」は、 (74+19+20+32+1+2)=148社と成ります。「記録上の148社」です。
そうすると、「神明神社73」と「神明宮22」の実数95は、”「特別賜姓族」の「神明社32」以外に建立の援護の比率が判明しない。”とする検証課題が生まれます。 検証・研究中)
果たして、”この95社の実数を全て「皇族賜姓族の自力」で建立したのか。” と云う事です。

この課題に付いては、次ぎの様に考えて検証・研究中(確証固め)です。

「分霊地に関わる地域」の「神明神宮」と「神明宮」は「皇族賜姓族の建立」と考えられます。
それは「神明社」や「神明神社」を建立した地域には、必ず分霊するのが、「仕来り、決り事、規則慣習」です。
当然の事として、「神明系2社」は「皇祖神の子神」の「祖先神」の「社」である訳ですから、「神宮の分霊」が行われなければ、「社」を祭祀する処に「御魂入れず」に成って仕舞います。
従って、「神明神社」は、「仕来り、決り事、規則慣習」に因って「呼称」は異なるとしても、「神明社」である事には違いはありませんので、少なくとも「分霊地」の「神明神社の建立」は少なくとも「皇族賜姓族の建立」であると考えます。はっきり云えば「分霊関連地域」となると観ています。
この事に付いての ”何らかの表現をしている「資料の読み漁り」” を行っているのですが、確実な表現のものは見付かりません。
恐らくは、「昔の慣習」から”当然の事”として考えられていた事に因るものではないかと推測しています。

そこで、「5家5流の5地域」とその「賜姓族関連地域」の「神明神社の社数」は次ぎの様に推測しています。
「分霊地関連地域」としては、(地域は下記で論じる) 「9社」 と成ります。
「分霊地」までの建立は幾ら何でも「特別賜姓族の援護・支援」を請ける訳には「3つの発祥源」の立場上行かない筈です。

「賜姓族関連地域」としては、地域は「末裔地」と「逃亡地」と「移動定住地」と「融合地」と「特令地」と「重複地」で14地域、この14地域の「神明神社数」は全てで49社あります。(下記)
この中には「特別賜姓族」との重複地域もあり、この内、重複地域は1/4として計算し、其の他は少なくとも「歴史的な経緯(復興力)」から積算すると、最低値 20社~25社/49(50%~60%)は「皇族賜姓族の建立」と考えられます。

「分霊地関連地域」(9社)の分と合せると、「皇族賜姓族の神明神社の建立」は次ぎの様に成ります。
最低値  「29社~34社」/73 (平均 32)
以上と成ります。

最低値 :「神明神社73社」の内、32社は自ら建立し、 41社は「特別賜姓族」の援護を受けた事に成ります。
結局は、 「特別賜姓族」からは「神明社」では32社、 「神明神社」では41社 以上の援護を受けた事に成ります。

吟味
そうすると、「特別賜姓族」の建設分としては、実質(65+41)106社と成ります。
この「106社」は、「特別賜姓族」が建立した「神明社分の105社」に相当しますので、その「特別賜姓族」の「建立能力」としては、大きく外れてはいないと観ています。
そこで、” この「援護社 41社」が「5家5流地」の「何処の建立」に影響を受けたか。” と云う問題です。

それは下の表の「美濃の地域30社」で主に援護を大きく請けたと観ているのです。
これは、前段や上記でも論じた様に、「美濃の歴史的経緯」と「愛知に近い地理的経緯」に因ると考えられます。

(「30社-41社」の「量差」は、「最低値」(22)として観ているバイアスの影響。 「甲斐」29は「特別賜姓族の影響力」は歴史的に低い。「バイアス11の主因」は「下克上戦乱」と「3つの災難」の原因消失説)

「伊勢-信濃-甲斐」は、前段と上記でも何度も論じますが、「建立に関する建立力」は充分に備わっていたのです。(「古代和紙」で「2足の草鞋策」の財力とシンジケートなどの抑止力を保持していた)

賜姓族関連地域(神明神社)
「逃亡地・重複地」    新潟4 栃木1 群馬3  神奈川2          10 -3 (25%) 
「移動定住地・重複地」 静岡7 福島2 千葉10 愛知4            23 -6 (25%)
「末裔地・移動定住地」 富山0 石川0 福井5                  5 -5
「融合地・特令地」    奈良1 大阪1 三重(四日市)1            3 -3
「移動定住地・重複地」 兵庫6 滋賀0 和歌山2                 8 -5 (60%)
「逃亡地・融合地」    高知0 鳥取0 島根0                  0
    合計                                      49 -22
「5家5流地」       近江0 伊勢1 「美濃30」 信濃1 甲斐29     61/73


次ぎは「神明宮」ですが、同様の計算で推測すると「神明宮22」は、「末裔地」と「逃亡地」で「22社」と、
・印の内の「諏訪族系一門」の勢力分布から、関連地域の「新潟34、神奈川0、栃木8、福島3、群馬9」の「3地域54社」の内、その「勢力比と復興力の諏訪社数」の2つで観てみると、「5社~9社程度」と推測します。この2つを合せると、次ぎの様に成ります。

「皇族賜姓族の神明宮の建立」は、「27社~31社」/22 (平均 29) と成ります。
つまり、22社は全て「皇族賜姓族の建立」と考えられます。

ところで、「29社/22」のこの「+現象」には、ある特別な理由があるのです。

「2つの賜姓青木氏」以外にこの「神明宮」を建設する権利を有している「族」が実は他にも居るのです。
それは「朝臣族」です。第6位皇子外の4世族皇子です。「宮様」と呼ばれる者です。(決-37)

この「宮様」が、次ぎの様な経緯を持っています。
A 何らかの「政治的争い」から逃亡した皇子
B 僧と成り下俗した皇子
C 皇族青木氏の始祖「配流王」
D 賜姓外源氏で青木氏を名乗った皇子
E 門跡院を離脱した真人族

以上の者が「宮」を建設する事が出来るのです。

この皇子等は「皇祖神の神明族」です。「祖先神」ではありません。
建立するとしても自らが建立する財力と勢力は全くありません。
保護されている豪族が、この「権利」を利用して建立した「宮」があり、「祖先神」では無い「皇祖神-神明宮」が数箇所あるのです。
建立したとする記録として、山口(長門)、香川(讃岐)、埼玉(武蔵)、静岡(伊豆)、群馬(上野)、にあるのです。(山梨にもあるが疑問) これが29-22の差の一部なのです。
つまり、記録の内の埼玉2、静岡9、群馬9の「3つの地域」の「特別賜姓族の建立」の「神明宮」20社の中に、この「宮」が存在している筈なのです。(山口、香川は「神明宮」には入れていない。其の他にカウント)

現存するとしての計算では、この推論では、「7社」程度/20と成ります。

これが「+現象の差」として出ているものと観られます。

課題-2 「神明社148」は、74と32と3「1+2」の109社は確認現存するも、「天智天皇期19と「桓武天皇期20」の計39に付いては、極めて古い為に確認する事が出来ず、「消失、移設、変名の遍歴」を受けていると考えられる。 検証・研究中、確証固めで判明次第 追記掲載)

(注意 1+2の1は、「遷宮神明社」の1、 2は「特令地の神明社」の2 何れも148社中、最も古い神明社で「皇族賜姓族の建立」である。 「神宮分霊」の処で論じる。)

(注意 以上は「神明系3社」での結論で、「神社」と「神宮分霊」と「其の他」の検証項目の次段-21で論じる。) 

「神明系3社」の建立では、完全に、「仕来り、決り事、規則慣習」37が護られている事が検証出来ました。

そうすると、次ぎは総称的にどこでも使われていた一般的な「神社」はどの様な「仕来り、決り事、規則慣習」と「祖先神-神明社」の守護神に関わっていたかの疑問が生まれます。
実は、この「・・神社」が曲者なのです。難解です。

> 青木氏と守護神(神明社)-21に続く
  
(基データの考察検証の段 2/2)

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青木氏と守護神(神明社)-19

[No.287] Re:青木氏と守護神(神明社)-19
投稿者:福管理人 投稿日:2012/06/11(Mon) 17:34:51


> 青木氏と守護神(神明社)-19に続く。


前段で「自然神」を含む「5つの守護神」の中の一つの「氏神」と「祖先神の神明社」の「総神」が一部に同じと考えられていた事を論じましたが、それをもう少し詳しく論じておこうと考えます。
又、前段で論じた内容の補足や関係する事柄(若宮神社との関係、他神社との関係、佐々木氏との関係)等に付いて論じます。


「氏神」と「総神」の経緯論
そこで、「祖先神」の「神明社」を今まで通称として一部の特定の地域で「氏神様」と呼ばれてきました。
凡そ、最初は「5つある神様」を祭祀する「神社」を総じて「氏神様」と呼んでいたのですが、次第に時代が大きく変化する事に因って「氏の形態」が変わり、その為に呼称は変化を来たし減少し、ある一部の複数の保守的な地域では、中でも以北地方では「神明社」を特定してその様に呼んでいたのです。(前段でその経緯を論じた)
これは一つは、「祖先神」は天皇家の「皇祖神」に繋がる「神」であり、”万系一途に通ずる”の言葉通り国民総じての「神」と崇められていた事からも其の大きな原因でもあるのです。しかし、もう一つは前段の上記してきた「皇祖神-祖先神-神明社」との色々な青木氏との関わりから来る原因もあるのです。

そこで、全国に拡大した神明社の ”「氏神様」の呼称は、何故「氏神様」としたのか、3の「氏神」とはどの様に違うのか”と云う疑問が起こります。この疑問が青木氏を物語る史実なのです。
そもそも、”通称(俗称)「氏神様」”と呼ばれる様に成ったのは、前回までに前段の上記した様に「神明社」は「物造りの神」としても平安の古より民から信仰対象とされ、それを守る青木氏も”「物造りの氏上」(御役-御師)として崇められていた”と論じてきました。
特に、この傾向は鎌倉期の「鎌倉文化」から引き継いだ室町期の「室町文化」の著しい発展で「物造り」は飛躍的に発展しました。その発展に伴ない「民衆の心」も ”より豊かで安寧と安定の維持”を願ってその「心の拠り所」として神明社に求めて来たのです。
そして、その「文化の発展」も武士階級の「下克上と戦国時代」の乱世の中に引きずり込まれる事が起こります。しかしながらも、「文化の発展」も戦乱に反発して根強く引き続きます。
そのしぶとく続く中で ”より豊かで安寧と安定の維持”の「庶民の望」と云う事だけでは無く、戦乱の世の中の反動として庶民の中に「必然的な願望性」が帯びて来たのです。
華やかで雅な「平安文化」等の他の時代の文化と異なり この文化は ”しぶとく粘り強く強い個性の持った文化である”と云えます。
その為かそれを遺そうとする意思や表現力の明文化として、取分け「文化の基礎」となる「紙」が大いに発展し、「紙文化」と呼ばれる位に「紙」が全ての「文化の基本」に成って進展したのです。
この頃の「紙」は「現在の紙の位置付け」では無く、貴重で高額でより「高い位置付け」にあったのです。
前段でも強く論じた様に、その「紙」は更には「5家5流皇族賜姓青木氏」が、庶民の快適な生活の為により進む文化の為に「2足の草鞋策」として一族一門が挙って殖産し主導する「紙」でもあり、その「青木氏」は更に「皇祖神-祖先神-神明社」の主氏でもあり、又「物造りの氏上」と「生活の神の守役」でもあった事から、「神明社」を ”「氏神様」”と室町末期以降に何時しか「尊厳と親しみ」から「民」からその様に呼ばれ様に成ったのです。
その力を以ってして、且つ、前段で論じた特別賜姓族の主要な地域での「祖先神-神明社の建立」と「藤原氏の領主様・氏神様」としての「立場と責任」を同じく果しましたが、この「2つの青木氏」は、「祖先神-神明社」を566も建立し、民の「生活の神」としても崇められ「民の信仰」を一心に集めたのです。
ですから、「神明社」に裏打ちされた守役の「氏上様」の呼称は、「時代の流れ」の「必然的願望性」とも一致し、「崇めと信頼」を背景に著しく高まったのです。
況や「3つの発祥源」の「然るべき立場と責任」を全うしていたのです。

この「氏神様」に類似する守護神の「3の氏神」は、この「下克上と戦国時代」に依って勢力を拡大した「姓氏」の神で、一族一門が一致結束して「一所懸命」の意味の通りの「結束する象徴神」として考えられた「神」なのです。そして、その「姓氏」はその文化の「職能人としての作り手」でもあったのです
つまり、「3の氏神」と「2の氏神様」との出自と呼称は同時期に起こったもので、「3の氏神」は「姓氏」の「下級武士階級の守護神」であり、他方のこの「2の氏神様」は「民の階級」の「総神の守護神」でもあったのです。
この後者の「氏神様-総神」は、全ての守護神の根幹を成す「自然神」に通じ、更には「朝廷と皇室」が行う「国事行事の祭祀」としても「皇祖神-祖先神-神明社」に通ずるものでもあったのです。
ですから、「2つの青木氏の神明社」は他に秘して比べ物にならない程に格別のものであったのです。

それまでの平安期からの「氏」は、次ぎの様に成ります。
1の守護神の大蔵氏や平族等の「民族氏」の「産土神」(阿蘇大社、出雲大社等)、
2の守護神の青木氏の「皇族融合氏」の「祖先神」(神明大社・八幡大社)、
4の藤原氏などの「古代大豪族氏」の「鎮守神」(春日大社等)等が「下克上」で衰退傾向する中で、新しく勃興してきた中小の豪族氏とその配下であった「姓氏」が興した「神」が3の守護神の「氏神」であったのです。

そして、そこで大社を作る事の出来ない「民衆」は「皇祖神の神宮大社-祖先神の神明社」に「心の拠り所」を求めたのです。それが故に、「民衆」はその呼名を「様」を付けて勢いのある「3の氏神」に対して「氏神様」と呼んだのです。この呼称が現在まで引きずられて来たのです。
「姓氏の氏神」と「融合氏の神明社」の「氏上様-氏神様」とが混同されてしまった事に因ります。
むしろ、「姓氏」も元は「職能集団の民」であったのですから、「氏上様-氏神様」と崇め信頼していた「神明社」の「物造りの神と生活の神」を信仰しその行方を信望していた民でもあった処に、前段で論じた様に彼等はその力を互いに集団で結集して「氏」としての独立を果たし、その末にその力で独自の守護神を創造したのです。因って「民の時代」の「氏上様-氏神様」は彼らに執っては守護神としている「氏神」が出来たとしても何ら変わらないのであり、且つ拘らないのです。
2の守護神の「皇祖神→祖先神」の関係と、3の「氏上様-氏神様」→「氏神」との関係とほぼ同じ位置に置かれていたのです。
それは「物造り神-生活の神」の「祖先神」である限りは、「姓氏」となっても「心の拠り所」としては何ら変わらないのです。殆どは「呼称の差」だけなのです。
それだけに「氏神の守護神」は室町中期以降では爆発的に発祥しその「姓氏」が如何に多かった事を意味しますが、逆に「祖先神-神明社」の「氏神様」は1割にも満たない程であった事を意味します。
むしろ彼等に取っては対比的な守護神ではなかったのです。氏神様は氏神様と旧来から崇め信仰し、自らの新しく創造した守護神の「氏神」はあくまでも「氏神」なのです。

明治の混乱も収まり始めた頃の10-15年頃には「皇祖神-祖先神-神明社-青木氏」の存在そのものも忘れ去られ始めた事が伊勢青木氏の記録と口伝から読み取れます。
これは江戸末期から明治初期にかけての「宗教改革」や「廃仏毀釈」などの「権威と伝統の廃棄運動」の原因も否定出来ません。
故に明治期の「8000の民衆氏」の中に「祖先神-神明社」のは最早3%にも満たない氏となってしまった事から「姓氏」のみならず8割以上の庶民までもが「氏神-氏神様」が混同してしまった事に成ります。
一部の伝統を保持していた階層(元は士分の上級武士階級以上-浄土宗階層)では大正15年頃から昭和の始め頃までは覚えられていた事が判ります。
第2次大戦後は完全にその混乱から一層忘れ去られてしまった事に成ります。
この様な伝統や知識等の消失事はより完全に進んで現在に至りますが、科学による近代化が進むに連れて尚一層忘却の憂き目を受ける事に必然的になるでしょう。3%の話どころではありません。殆ど0%と成るでしょう。
故に、人の世は全ての事柄の森羅万象の伝統により繋がっていると考えられる限りは、この「伝統」と云う事を重んじて、ここにその詳細を遺そうとしているのです。平安期の多くの歴史記録の人の努力と同じように何とかせめて青木氏に関わる歴史記録としてだけでもよいとして遺す意義はあると考えます。
そして、この蘇がえさせ様としている「祖先神-神明社の記録」の中に遺そうとしています。

次ぎの「鬼道信仰」も同じ憂き目を受けて資料や記録も一部の学者の範疇にしか遺され無い状況の中で「民衆の知識」としては無くなる中で何とか「雑学の詳細概論」として遺そうとしています。
この「祖先神-神明社」の概論も。これが「青木氏」として「歴史マニアの責任」として。
その中の努力として一見青木氏に無関係かと観られる「鬼道信仰」に関わる事をも青木氏として独自の研究を続けているのです。
恐らくは「鬼道信仰」を追及し議論し研究する出来る「氏」があるとしたら、それは神明社-青木氏以外にはあり得ません。故に「青木氏遺産」として独自の見地から是非に遺す意義があるのです。

「鬼道信仰の雑学概論」
「氏姓」(僅かな氏)が始めて発祥した時期の4世紀以降では4神ですが、4世紀前の神は「氏」の概念が無かった事からすべて各種(7つの民族)の民族は「自然神」を信仰し、その「神の意思」(「神の御告げ」)とする伝達手段を「占い」として用いました。
この「自然神」の伝達手段の「占い」(占道・占術)が体系化して最初は「鬼道」と云うものであって、それは「宗教の原型」にも成ったのです。この「鬼道」で「絶対的な神の意思」を具現化したのです。
これが中国では「占道・占術」-「鬼道」-「道教」-「儒教」へと変化と進化して行きました。
しかし、大和ではこの「鬼道」の使い方が「国情」に左右されて異なった「宗教の変化」を起しました。
3世紀頃から7世紀頃まで大まかには ”この世は「自然の神」の懐に包まれ「万物万能の神」の「意思」がこの世に降り注ぐ” と信じられていました。依ってそれを受け止めてこの世に誰がどの様な方法でどの様に具現化するかによるのですが、ところがこの「自然神の考え方」が「7つの民族」によって異なっていたのです。
特にその「考え方」をこの世に伝える「媒体」に違いがあり、初期には植物や各種の動物(生物)を媒体としていたのです。この「植物・動物媒体」は民族の植物・動物に関わる関係度から千差万別と成っていました。例えば、日本では「在来民」とする「こな族・熊襲・アイヌ」(魏志倭人伝に記載)は「熊」が媒体であった様に、亀、狐、烏、鼠、鹿、蛇、馬、狗等があります。そしてこの信じる神の伝達媒体を国名にしている国が多かった事が「魏志倭人伝」の記載の国名の30国に色濃く出ています。
しかし、「7つの民族」が混在している4世紀頃はこの「自然神」の媒体がこの様に異なっている事からまとまる事が難しかったのです。
そこで、その「媒体」の考え方が進化して「人」として「神の意思」を告げる事となれば「共通の媒体」が必要と成ります。そこで”より真実に明快に確実に言葉で伝わる”と信じられて「自然神」のお告げを表す「鬼道」と云う「占い形式」(祈祷)の体系化した信仰が生まれたのです。
それが「鬼道占術」の特長として、次ぎの様に「具現化の媒体」の違うところが(他の占術とは)次ぎの3つのところにあったのです。
一つは「気候と気象変動」を神の御告げとして読み取る事
二つは太陽の軌道を読み取る「方位学の原型」を採用した事
三つは御告げする伝達人に科学的な刺激を与える脳特性を利用した事
この3つ事が他の占術と異なっていたのです。

そして、このある意味でこの「3つの要素(人、場、時)」を加えた合理的な伝達手段が、人の「食」に大きく関わる繰り返す飢饉(下記)に対応する事が出来たのですから、鬼道信仰は飛躍的に信頼され信仰されて行ったのです。
そして、逆にこの{3つの要素]の事が無かったか、或いは低かった事から前段で論じた様に「弥生信仰」に代表されるように他の占術は衰退して行ったのです。
この「3つの要素」が現在でも通ずる様に体系化し具現化した事から、今も「国事行為の形式的行事」として生きているのです。そしてその一部を青木氏は「神明社」と云う方法で伝播させていたと論じているのです。
゜卑弥呼の鬼道」には1000人程の者がスタッフとして存在していた事が判っています。
恐らくは、この「3つの要素」を体系化し具現化する為に、卑弥呼に「3つの要素に対する情報収集や提供」を任務として伝えていた事だと考えられます。
この中には前段で特記した来た九州域や関西域や関東域の「緩やかな政治連合体」からの派遣要員が居て「鬼道」を学んでいたと考えられます。
そして、卑弥呼も中国から渡来した人々からこの元の「中国の鬼道」に要する知識の「3つの要素の学識」を学び周囲のスタッフの人々に教え指導していたと考えられます。
恐らくは卑弥呼はこれを研究して日本の風土に置き換えて自分のものとし、「日本の鬼道占術」としていたと考えられます。

(特記 中国のこの鬼道信仰は道教と進化する以前の形で現在も遺されていて、その中国の研究資料と比較すると基本的なところは一致しますが少し違っているのです。上記の「3つの要素」に重きを置く事の位置付けで差異が認められます。中国の鬼道は人間の複眼の女性の野生本能に重点を置きこの「3つの要素」は副的要素であるのです。特に中国の鬼道信仰を信ずる人々には、神の前で行う「仕種の決まり」に違いがあって、「迷信的な行為」が多いと感じられます。桃の実を撫ぜると神の加護があり御利益があると信じられていますが、日本の鬼道信仰にはその様な迷信的な行為を認めては居ません。
現在のその原型を留めている天皇家が行う国事行為と比べると違和感かあります。)

この「鬼道」の占術の有り様が真に「鬼」の様に立ち振る舞い、人の感覚を無くし、周囲には自然物を飾り火を炊き、丁度、神と人との中間の様な物体に化して無想無念の域から発する印象を言葉にして表現する「占い形式」(占術)が生まれたのです。この時にこの占師は事前に一つ目と二つ目の知識を記憶して三つ目により無念夢想の中で右脳に桃果の芳香性の刺激を与え複眼機能を蘇させて左脳の知識を引き出し御告げとするものなのです。

現在科学から観ると、これにはある程度の医学的根拠があるのです。必ずしも「迷信」と片付けるには問題があり過ぎるのです。それは特に現代人の生態の退化から観ると「迷信」以外の何物でも有りません。
しかし、古来より人間には野生時に持っていた額中央にあった「「複眼」(予知機能)」と云う物があって、それを使って、それをより「強く遺し持った者」が、使用頻度の低くなった「右大脳」を「無心の状態」にして使う事で「野生の予知本能」を強く引き出し、右脳から「ベーター波」を発して「未知」との繋がりを保持する野生の能力なのです。
これを「人の邪念」を取り除いた言葉(人の言葉ではなくなる)としてこの世に伝達する仕組みなのです。
現在ではこの「複眼」は「前頭葉」の進化で「前頭葉脳」と「大脳」が大きくなり大脳の真下の「脳幹」の側に追いやられ「休止状態の脳」となっています。現在でも特に女性に遺されているのです。
それは子供を産み育てるという本能からその野生的な複眼機能がいまだ消えずに遺されているのです。恐らくはこの生み育てると云う行為が続けられる限りに於いて遺される事が考えられます。
ただ、近代化により女性の性(さが)が異なってきた事から一部では消失している女性も増えているのです。合理的に思考する状況が増えた事から男性化して来た結果と成ります。
その証しと云うか相対的に女性ホルモンの低下が観られるのです。

中国の山岳民族の一部に未だこの「複眼機能」が大きく働く民族がいて、この民族が住んでいる地域では未だこの「鬼道」の習慣が宗教として現実に強く残っています。
中国ではこの「鬼道と複眼の関係」の研究論文が発表されていて現在も研究は続いているのです。
この「複眼機能の特性」は強弱はあるにしても「感情主観の女性」にまだ強く残っていて、それは「母性本能との連動」から来ているものとされています。
仏教でもこの「複眼機能」の原理を説いています。(お釈迦様の額中央の瘤はこの複眼なのです)
現在人の顔相の額中央に10ミリ程度のややふっくらとした膨らみを持つ人を時々見かけますし、民族に依ってはかなり強く膨らみを持っている民族があります。
恐らくは整体上遺伝的にナゴリを遺しているのではないでしょうか。
この「複眼」(予知)と同じく同じような働きをしていた「鬼相」(鬼眼・鬼顔)と云うものがあります。
これは逆に「論理主観の男性」によく観られ、額の両目の端からやや斜め逆ハの様に1線上に10ミリ程度に伸びて髪の生え際までふっくらと膨らんだものが見えます。
これはある状況におかれた男性の顔相に今でも現れます。例えば、仏像の「四天王」の顔相や「仁王像」の顔相に見られる様に「鬼の目」の様になりその左右に縦斜めに膨らみが刻まれています。
これがある「目的」に徹した「無心の顔相」なのであり、其の目的は神仏を護る事にありますから、仏教ではこの「鬼相眼」(鬼眼:現在も”おにめに成って”と言葉が遺されている)が「善悪を見通す力」として「複眼」と若干異なりますがほぼ同じ目的を持っているのです。
この「鬼相眼」と合わせて「鬼道」と呼ばれたものと考えられます。
男性の「野生本能」として保持していた「性」からのもので、現在でもこの本能は恐らくはこれは余り退化していない本能機能と見られます。原野にて動物を容赦なく捕獲出来る本能、現在も続く戦いにおいて人を分別を超えて殺傷できる本能はこの「鬼眼」の所以と観られています。
野生の肉食動物に持つ本能に類似するもので、人間のものはその脳の使い方が進化に依って変位したです。(肉食動物の顔相はこの鬼顔(両目の端から逆ハの膨らみを持つ顔相)に全て成っています。)
現在でもこの「鬼顔」が出てきた男性は危険とされる「昔からの言い伝え」が色濃く遺されています。ここから”鬼は怖いもの”と成ったものなのです。
兎も角も、本来はこの「男性の鬼眼」として使えば「女性の複眼」に相当する筈なのです。
仏教でも「複眼」と対比して「鬼相」(鬼眼・鬼顔)に付いても戒めとして説いています。
依ってこれを「鬼道」と呼ばれた所以のものなのです。
古代では決して「鬼」は「悪」と云う扱いではなく、「鬼顔」はむしろ「善」を見通し「悪」を滅ぼす「神通力」を保持しているものとして扱われていて、「悪」の姿はむしろ「美顔」として信じられていたのです。
それが鎌倉期以降に仏教の普及が急速に進んだ結果「鬼」は「悪」として扱われるように成って行ったのです。
「鬼」は人間が神と人間との間に居てその鬼の行動が仏教の教えに合わない事、つまり一部の庶民宗派が「占道」が仏教の教えに合わない事から「悪」とされたものと考えられているのです。
古代では「鬼道」は”悪を払い「善」を招く”「占道」と捕らえられていたのです。

とすると、中国から伝わった鬼道の原型が ”何故卑弥呼にだけ成し得たのか” と云う疑問が残ります。
多くの占師が居たと考えられますが、”何故、卑弥呼なのか”です。
それは、上記の複眼機能が特別に遺されていた事を意味します。この鬼道は3つの要素を組み入れての占術でありますから、それを最も生かすには、この「複眼機能」の強さと有無が左右されますし、左の脳の情報力、つまり、「3つの要素」の「記憶力」を生かすには右の能のベータ波の出す能力の強さが左右します。このベータ波は女性に於いて極めて差異があるのです。母性本能が出ると同時にこのベータ波が強く成るのが女性ですが、その個人差が大きいのです。
卑弥呼はこの条件を兼ね備えていた事がある事で判るのです。
それは卑弥呼が死んだ後に卑弥呼の兄妹の兄が王に成りますが鬼道の占術は殆ど当らず王から引きずり降ろされます。結局は、前段で特記した事なのですが、この史実として「卑弥呼の宗女」がこの卑弥呼の跡目と成り占術が当り緩やかな政治連合体の国は治まりが着く事に成ったのです。間違い無くこの宗女は卑弥呼のこの女性本能の特異な遺伝を引き継いでいた事を意味します。

この様な上記の「鬼道占術」を使って邪馬台国の卑弥呼には、「自然神」の中でこの「複眼機能」を強く持ちその「予知能力」を使って「多種民族」を纏め上げ「連合体」を作り上げたと考えられます。
中国の「鬼道」と根幹で一致していた事から「卑弥呼の占い行為」は「鬼道」と呼ばれたと考えられます。

「気候変動と卑弥呼の経緯論」
上記する「自然神」の「鬼道」の「占い巫女」であった「卑弥呼」が”何故国王に祭り上げられたのか其の背景は何なのか”の疑問が湧きます。
実はこれには次ぎの様な上記の3つの内の1の経緯の気象が働いていたのです。
上記する「自然神」の「鬼道」の「占い巫女」であった「卑弥呼」が”何故国王に祭り上げられたのか其の背景は何なのか”の疑問が湧きます。

実はこれには次のような経緯が働いていたのです。
当時としては絶対に知り得ない知識でありますが、”自然が織り成す何らかの「神の行為」”として軽度に把握していたと考えられます。
現在でも”西風が強く吹く年は天気は崩れ雨に成り水飢饉が起る””食物の成長は裏と表の年があり裏は不作で飢饉が起る”等の事等の言い伝えがありますし、これには完全な根拠がある事は解明されている事です。実は桃や梅等の果物の木、特に野生の果物の木にはその気候の影響を大きく反映して次ぎの年の気候を顕著に反映して確実に読み取る事が出来るのです。他にも田舎に行けば今だこの種の超能力の様な知識として伝わっているのです。
恐らくは、「卑弥呼」はこの「自然の変化」と「気象的な関係」を知識として把握し、且つその「自然の変異」を素早く確実明快に読み取り具現化する超感性能力(超能力)を誰よりも保持していたと考えられます。
そして、この超能力を駆使し合わせて上記する人間の野生本能を誰より高く持ち得ていて、それらのデータを総合的に且つ有機的に瞬時に取り纏め判断出来得た人物であったと考えられます。
卑弥呼の鬼道の祭壇には桃などの自然の恵みの物が配置されていた事が遺跡からも発見されていて、これを1000人のスタッフにこれ等の情報を把握させる事もさせていたと考えられます。
現在の天皇が行う国事行為の毎日行う祭祀行事もこの穀物などから読み取る行為を具現化し形式化したものです。

 「100年の気候周期性」(300年大周期)
この時期に顕著に起っている気象学的変異があるのです。
それは、地球の自転の回転で其の周囲の空気の層が同時に廻るのではなく地球の磁力(引力)に依って反時計回りの回転に対して空気の流れの「ズレ」を起こします。
その時、少しづつドーナツ型(環状)の空気の層の「遅れひずみ」が起こります。
円の形だと円滑に廻るので歪みが起りませんが、この「歪み」が強い時の波と弱い時の波とが起こり、これが連続して「強弱の波」を引き起こして発生します。
ところがこの「強弱の波」であるが為に、その波の僅かな「ズレ」が球の上下側に2つの「輪状環」が起こります。
その波は遂には空気中の浮遊物の影響により5つに成ったり3つに成ったりするのです。
それに依って起こる真円ではない「変形した輪状環」の波の現象と成るのです。
この3つから5つの波の発生が北極側では空気の流れの「位置ズレ」を少しずつ起こします。
この「波の位置ずれ」に対して変化して「変動の周期性」が起こるのです。
其の為に北極南極の冷気の層が赤道に向かって引っ張られて極端に寒暖さのある気候変動が発生する事になります。
真円が最も気候変動の差が少ないことに成ります。この地球の気候変動の大きな差の周期が概ね100年に1回起こるのです。
判りやすく云えば、キリストの頭の上にリングがありますね。あのリングが3つ乃至5つの星の様に成っているのです。その様に頭の上に出来たリングまたは鉢巻の様な「空気の流れの星形輪」が起こります。其の「星形輪」が地球の回転に沿って左に回る周期性を持っていて、その「星形輪」が真円ではなく極端な場合は3角形から5角形の形になります。この為にその角の為に空気抵抗が起こり円滑に廻れなくなり回転に対して「ひずみ」を起こしやすくなり、本来の位置から少しずれるのです。
このズレを修正しないと空気の星形輪状の層は地球から外れてしまいますが「エネルギー保存の法則」により絶対に元に戻ろうとします。
この「最大のズレ」が太陽から受ける熱エネルギーの差と成って現れます。それが「気候変動の寒暖の差」に成って現れます。
このズレが元の状態に戻るのが100年間掛かることに成ります。
これが赤道軌道を中心にして北極側と南極側に顕著に出るのです。
ですから円から最も崩れた時、丁度、3角形に近い状態に成った時が「最大の歪み」に成りますから「寒暖差」が極端に出るのです。これが「寒さの飢饉」と成ります。
そして次第に又5角形に近い状態へと戻り始めたほぼ円状へと近づいて行き寒暖さが少なくなり、次ぎの歪みの時期は「暑さの飢饉」と成るのです。これがほぼ100年周期にあると云う事なのです。
ところがしかし、現在、地球は地球の自重の増加により円運動から多少「楕円状の公転軌道化」を起こしていて、この現象がより顕著に出る様に成っているのです。
星形輪に依ってエネルギーの差が生まれて「寒暖差」が生まれている処に、「楕円状の公転軌道化」が起り始めた為に余計に太陽から近い時、遠い時の「エネルギー差」が起こりますのでこの「2つの差」が更に「寒暖差」が生まれるのです。
「楕円状の公転軌道化」が起ると地球の回転に慣性力の影響が出て「星形輪」が発生しやすく成るのです。そしてこの「楕円状の公転軌道化」でも起こった「周期ズレ」がエネルギー保存の法則で戻そうとして同じ上記した原理で300年に一度の大周期性を持つ様に成るのです。この法則で100年周期の2回までの直しきれなかったエネルギーを3回目で修正する為に大きなズレの吸収性が働くのです。
100年周期で3回起こり最後周期には300年目の超寒暖差が起って大飢饉が発生するのです。
そして次第に元に戻って行きます。

因みに「楕円状の公転軌道化」は地球の重力増の変化により加速性が増した為に起っています。
これは地球上で「人口」のみが自然増を生み出して重力が増しているのです。
他の動植物や鉱物は自然環境の影響を受けてその輪廻で一定と成ります。その増減は地球の回転に影響を与えません。
江戸時代は世界の人口は40億人とされていましたが現在は70億人と成っていて現在は1日に4000人の人口が爆発的に増加しています。
もしこの状態で人口が増加し続けますと地球の回転に加速度がより起こりますので、その加速度に対して地球の引力に依って引っ張られている力とのバランスが均衡する時が必ず来ます。
この均衡が破れる時には人は地球を離れてロケットの様に宇宙に飛んでいく事に成ります。
この限界値が計算上では85億人で均衡とされていますが多少の+誤差が起る筈ですので、100億人以上で飛び出す事に成ります。恐らくはこの直前で地球に回転とそれに伴なう気候変動により食料は不足し激減する事になりますし、地軸が27.8度傾いた形で回転している事により楕円が強く成る事で隕石などの衝突が起こり始めます。その為に人口や動植物等は激減する筈です。
そしてその様な現象で地球重量が元に戻りはじめますが、元の85億人程度の重量と成った時に楕円の公転は元に戻り始めます。
当然にこの時には地球の表面の8割は水で覆われていますので、そうすると加速度が働きますと先ず水が蒸気と成って90-100キロの第1成層圏の宇宙に吸い上げられて行く事に成ります。この結果、乾燥と水不足が起り人間を含む生物が死滅する事には成ります。
従って、これにより再び人口が減少して元に戻るか一切の生物は死滅してまう事に成るかですが、自転公転の上記する「歪み」が再び戻り、生き残った生物は繁殖を起す筈です。
既に70億人と成った現在では灼熱のアフリカ大陸では原因不明の水が消えて無くなる水飢饉が起っています。従って、85-100億人の前には人口増加は止まる可能性がある筈です。
先ず地球の太陽から公転による楕円運動がこれ以上に大きくなると生物は死滅する筈ですから地球と太陽系がバーンアウトするかしないかの勝負に成ります。
然し、重力計算による研究はあるとしてもこれを立証する研究は未だありません。その前に水が「人・生物」ではなく「地球」を救うことに成ると考えます。「人・生物」はその後の話ですね。

話を戻します。これを歴史的な資料で現在から逆算すると丁度、3世紀半後から4世紀前半に掛けてこの300年周期の第1期の「100年飢饉むは起こっている事に成ります。
つまり邪馬台国の時代です。これに依って下記のシナリオが証明されるのです。
これが大体100年に一度の割合で訪れるとされる「気象変動・異常気象」が起こった時期とされ、飢饉により民族間が生存競争で争いが絶えず混乱していたと考えられます。
そこにタイミングよくこの「鬼道」が現れ「占い巫女」であった「卑弥呼」が「複眼の予知能力」と「3つの要素」を組み入れてそれを使って予知した事が確率よく当たり、100年周期の終焉期と一致すると共に、飢饉がより占術予知により避けられ無くなり、其の内、国々では「卑弥呼」の「鬼道」で政治を行う事を民族間で合意し、結局、「卑弥呼の占い」を中心とした「民族間の政治連合体」が生まれたのです。
そして、その結果、その占い師の「卑弥呼」を九州地域5地域の「国の王」と定めたと考えられます。
その卑弥呼の占術予知による北九州域の政治連合の結果、この話が全国に伝わり主な他の20-40の王国の民族もこの「卑弥呼占術予知の鬼道」を招き、複数の「政治連合体」の国王として30程度の国が絡んだ「緩やかな大政治連合体」が出来上がったものと考えられるのです。
恐らくは推理ですが、この時に「卑弥呼」は九州佐賀から連合体の中心付近の奈良大和付近に出張等での移動をしたのでは無いかと筆者説の一つの推理を立てているのです。(3つの仮説 イロハ説)
この大気候変動の大飢饉を互いに逃れる為に良く当る事を前提に「卑弥呼の鬼道占術」を基本とした政治的な連合体であった事から”緩やかなもの”として、比較的に簡単に各地域に起った緩やかな政治連合体の組み合わせ総合の政治連合の国家が出来上がったと考えられます。
当然にその総合の政治連合体の元と成った北九州の政治連合体の邪馬台国(女王卑弥呼)が主導権を握り、合わせて「卑弥呼」を総合の連合国家の「大女王」と決めたのではないかと考えられるのです。
そしてその国の総称も「邪馬台国」としたと考えられます。
(魏志倭人伝の30国の一つの「奴国」は邪馬台国の事)
「30の連合国家」の中には故に、「奴」の付く国(ナ)、馬の付く国(マ或いはマト)、中には「邪馬国」(ヤマトノクニ)とするものが多いのは総称の政治連合体の「邪馬台国」から来ていると考えられます。
北九州域の主導国の奴国(ナノクニ 山門)と関西域の主導国の「邪馬国」(ヤマトノクニ 大和)から「邪馬台国」の総称としたと考えられます。
中国との関係から北九州域の「奴国」に「緩やかな政治連合国家」の「政庁」を置いたと考えられます。
卑弥呼死亡後は関西域の主導国の「大和」にある「邪馬国」が主導権を握ったと観ています。

この「自然神」の信仰は一概に無根拠とされるものではなかったのです。
この「自然神」は消滅して変化したのでは無く、この「自然神」から分離して行ったのです。
従って、現在に於いてもこの「自然神」は遺されているし、上記する「4つの神」の母体と成っているのです。現に、朝廷の祭祀はこれを引き継ぎ全てこの上記した「自然神」による祭祀です。
又、仏教もこの「自然神」を基盤としていますし、日本書紀にも「広瀬大忌神」と「竜田風神」の事が再三に出てきます。(「風の神」、「雷の神」:風神・雷神は鬼の顔と成っています)
中国は多種民族から「鬼道」から「道教」へ、そして「儒教」へと変化して行きましたが、日本はその国情(7つの民族と自然環境)から「神に対する概念(人の思考原理)」は次ぎの様に変化して行ったのです。

「神のフロート図」
「自然神」-「鬼道」-「神道」-「仏教」-「神道・仏教」-「産土神」-・「祖先神」--「鎮守神」-「氏神」-「4つの神・融合神・自然神」

「民族氏」→(「民族氏」+「融合氏」)→(「融合氏1+融合氏2」)→「融合氏1-5」

上記した「皇祖神の鎮座地の遍歴」はこのフロート図の違いの強弱が各地に未だ顕著にあり、新しく生まれてきた「祖先神」の考え方に見合う土地柄を選んでいたのではないかと考えられます。
つまり「国情(7つの民族と自然環境)」が大きく左右していたのです。「神明社」の各地の分布の数でもそれがよく判ります。(資料参照)

この様に前記した様に「民族氏」から「融合氏1-5」へと政策的変換を遂げた結果、「自然神」から発した信仰は上記する経緯に左右されて「4つの神」が生まれ、それが「氏家制度」の社会を壊し「身分・家柄」の垣根が取れた事に依って何時(明治初期)しか「完全融合」の時が起こり始めて現在に至り、遂には自然神を加えて「5つの神」の混在現象が起こったのです。

明治初期の「維新改革」で「融合氏1-5」が更に「高度な融合現象」と成って、150年後の「平成の完全融合」へと進んだ結果、現在では「5つの神の混在現象」が起こっているのです。
最近では、「自然神」が信仰とは云えずとも「自然の偉大さへの憧れ」に近いものとして認識されてきています。
これは制度的に民の間には完全に垣根が無くなった為に起こっている現象と見ていて「民族の完全融合」の「証」と成るのでは考えているのです。
最早、将来、未来にこれ以上の「融合」が起こり得るのか、「5つの神の混在」がどの様に変化して行くのか興味の湧くところであります。
アジアやヨーロッパの民族人種が帰化する現象が自然増より以上に更に日本に起こるかは、上段で論じて来た種々の政策と共に「民族融合政策」を協力に実行した未来の「中大兄皇子の政治判断」が大きく左右すると考えられます。
故にそもそも上段で論じた色々な歴史的経緯があったとしても、「7つの民族融合」は「5つの守護神の融合」そのものであり、それを主役となって主導して来た「自然神-皇祖神-祖先神-神明社-融合氏-青木氏」でもあるのです。この事無くして現在の完全融合の日本は存在しないのです。

現在ヨーロッパの全ての国で起こっているアラブやアフリカの移民問題が日本においても起こるのか、起こった場合はどうするのか、日本人の特性で「融合氏」が更に進むのか、「民族氏」が「完全融合氏」の中に再び起こるのか、疑問が大いに広がります。
兎に角にも、現在の移民現象は「貧」から「富」への移動であり、日本に於いても「貧」から「富」への移民は「融合」を促すのかは疑問のあるところです。前段で論じた移民の経緯が日本では全く異なっているのです。
”移民をすれば直ぐに融合する”かは別問題で、この「融合」には「其れなりの条件」が伴なうと云う事を論じているのです。
明治以降の後期の朝鮮人との融合は100年経っても余り進まない現状を観ると、「移民の問題」には矢張りこの条件と云うものの有無が左右していると観て疑問を感じます。
アジアからの現在では「看護移民」や「農業移民」がありますが、「文化の高さ」で取捨選別されてと成功していない様です。
恐らくは「民族氏」の「産土神」、古代の「自然神」ならば起こり得たと考えられますが、「融合国民」と成った現在ではその溶け込むハードルが平均化されて高く、他民族には入りにくい環境にあるのではないかと考えられます。これこそが最早、「融合単一民族」の所以であります。
「融合民族」の潜在的に持つ「本能的な拒絶反応」が浮かび上がり働くのではないでしょうか。
大化期から平安期に起こった現象が再び起こるかは前記した「融合の経緯」と「神のフロート図」とその数式が成り立つからこそ融合が起こったのであって、その大変さから観ても現在版の「俘囚スラム」等を生み出す事は間違いないと考えられます。


「自然神の概念論」
そこで、現在版の移民が起こった場合は共通する概念感覚は「自然神」のみにある事に成ります。そこで更に詳細にこの「自然神」をベースとして進んだ「神」はどの様な変化の経緯を辿ったのかを検証を進めます。

  「氏神の変化」
この「4つの神」にはその時代の変化、即ち、「氏融合の変化」に即応してその特徴ある性格を持っているのです。
「時代の変化」と共に「氏の融合」も進み、且つ、「人心」も変化してその「心の拠所」とする「神の形」もそれに合わせて進化してして行ったのです。
従って、この事からも「氏融合の経過」を観る事が出来るのです。
そして、其の事からその「人」の氏が上記する「4つの神」のどの神を守護神にしているかに依ってその人の「氏の出自」が判る事にも成ります。
では、その「4つの神」に付いて先ず個々に検証を進めます。
先ず「産土神です。

「産土神」の定義
その人の「生まれた土地の神」であり、一生来その「人」の土神とする「人(単独)の神」

先ず其の前にこの「4つの神」の「進化」はどの様な経緯で変化して行くかを検証します。
古代、3世紀-4世紀の当初は全て「7つの民族」の個々の集団で生活圏を構成していました。それ故に集団の首魁を中心としてまとまり、「民族」と云う形だけの定義で集まり、血縁性の不明確な形で「民族氏」を構成していた事から奈良期前には1の「産土神」が主体でありました。

これはあくまでも「7つの民族」が不定不確定に外から「渡来」と云う形で上陸した為に上陸点の付近にその上陸した集団単位で生活圏を競って獲得していました。
その為に同じ民族が同じ場所に集団を形成すると云う事では全てでは無かったのです。
同じ民族の集団が”あちらにもこちらにも”と云う形に成っていました。
この時代は未だ生存に充分な食料や生活環境が整っていませんでした。従ってそれを獲得する為にこの個々の集団の内、「争い」に勝ち得たものがその集団を吸収し奴隷として囲い、大きくなりその集団の首魁の民族を中心とする「民族氏」が出来上がって行ったのです。
丁度、饅頭の様な構造をしていたのです。中身には血縁性が無い人の単位なのです。
依って、「土地」とそこから得られる「食料」が生存の基盤と成っていた事から、其の守護神はその「生まれた人の土地の神」「土地」を「神」と崇め、永代の「自分の神」とする習慣が生まれたのです。
これが「土神」即ち「産土神」なのです。
古代「自然神」を基盤として生まれたこの「産土神」は生存・命を保障するその自然の一つ「土」に対する感謝の心から「神」と崇めたのです。
個人個人が生まれた「土地」が異なる「民族氏」では1の「産土神」と成るのです。
「外国」で生まれていればその「外国の神」が「自分の神」と成るのです。
元々は「小さい集団の集合体」として「民族氏」と成った事から起こる現象です。
特に、中国系渡来人の「神」はその民族の根本的な「思考原理」から、元々この1の「産土神」の考え方にあったのです。「鬼道」から進んだ「道教」は「産土神」の考え方に近いのです。
「渡来人」が多く押し寄せ始めた4世紀後半から7世紀中頃までに、日本に定住し始めた民族中でも中国・朝鮮族が持ち込んだ道教・儒教の「考え方」に対して、それに「自然神」を崇めていた「在来民」はその「物造り」を通じて吸収され影響を受けてこの「土に対する神」の「信仰心」が拡大したのです。
この当時の「物造り」は土地から生まれる産物の第1次産業でしたから彼等の持ち込んだ「物造り」は道教・儒教の「土の恵み」の恩恵を強く受けた思考原理に成っていたのです。

4世紀後半から「100年周期の気候変動」が改善されて行き食糧生産も当時の人口に見合う量まで回復傾向にありました。人は食料を産む「土」と個人が生き残る生存競争による「人・個人」概念の考え方から同時に次第に開放されて行きます。
ここで地域的変化が起こったのです。ここでまず中国地方で起こっていた弥生時代からの銅鐸などを使った「自然神」の信仰が3世紀から4世紀には全国的に広まっていましたが「100年の気候変動」に依って飢饉が起こり「銅鐸を使った自然神の信仰」が信用を失い排斥されて、「産土神」に近い「自然神」の「鬼道の信仰」が今度は全国的に「銅鐸を使った自然神」に入れ替わって広がったのです。
従って、初期は九州域に限定されていた「土・人」の「鬼道信仰」が広域的に信仰基盤が広がったのです。つまり、「産土神」の信仰基盤が広がった事に成ります。

弥生時代からの「銅鐸を使った自然神」古代信仰→「土・人」の「鬼道による自然神」新信仰

「土・人」の「鬼道による自然神」新信仰→「土・人」の「産土神」の基盤

しかし、幾ら回復傾向と云っても、当時の人口が450万人と推測されていて、そこに中国から200万人、朝鮮(同盟国の百済崩壊)から100万人が難民と云う形で入国したのです。
これではほぼ倍となった人口に対して生存に適する食料が別の原因で再び不足します。
当然に「自然神」を相対的に崇めると云う形には成りません。
「土からの恩恵」を重視する考え方に偏る事は当然の成り行きであります。
回復傾向であった為に300万人が生産に寄与する事で何とか不足傾向では在りますが生きて行くにぎりぎりの生産量であったと考えられます。
日本書紀には大化期初期には不足していて食料問題に成って居た事が書かれていますので、先ずこの状況であった事は間違いありません。
其れだけに入国民の扱いの問題にしても、入国民の神に対する感覚概念にしても、入国民の食料問題にしても、他の軍事、経済、政治の面からも「改新」を進めなければならない絶対的な環境に在った事に成ります。
その前の4世紀前後の頃はこの状態がやや顕著に現れ、且つ100年周期の気候変動期に入り飢饉が続発し食料不足から民族間の全てで生存競争が起こり纏まらなかったです。
この為に民族間で話し合い「卑弥呼の鬼道」に依って「占いを中心とした政治体制」を作り上げ保ちこの「占い政治」(鬼道)を中心に「緩やかな政治連合体」を形成したのです。

「産土神」の傾向を持った「土・人」の「鬼道による自然神」から、「土・人」の考え方の強い道教の人々が入国して来たのですから、自ずと今度は限定して「産土神」に限定した信仰が進んで行ったのです。
「原始的な自然神」を経て「食料を理由」に変化した「鬼道の自然神」から「人の理由」で「土と人」の「産土神」へと条件が整って大化期前まで感覚概念が変化して行ったのです。

ところが、約100年程度の間に続々と入国して来る300万人の人口増加に依って「民族の集団化」が起こって血縁性の薄い「多くの民族氏」が勃興することに成ります。
この「民族氏」が成長しほぼ淘汰(20-40程度)にされて「民族氏」の熟成期に入り増す。
大化期前後にはこの為に「産土神」を主体として「民族間の思考の違い」が大きく露出して、その為に「民族間の争い」が多発して纏まらなくなったのです。
天智天武天皇は「既存の政治体制」の中に、この「産土神の考え方(「土と人」)」が蔓延する事は”既存の体制維持が困難”と危険を感じ無かった筈はありません。
これを解決する妙案が「融合化」であったのです。それには各々の民族が抱える守護神の考え方を先ずは融合化させねば成りません。
それには融合民族の皇祖神を全体の中心に置き、その分身と成る祖先神を推し進める必要があると考えたのです。当然に、その2つの条件を持ち得る氏を天皇自らの身内から出す必要が生まれます。
それが先ず皇祖神の遷座地の伊勢の青木氏だったのです。それに伴ない19の地域に対して祖先神の神明社の建立を推し進めたのです。然し、次第に時代の変化に対応させる事が出来ず、その力を留保する外戚の藤原一門秀郷の3子にその全役目を背負わせたのです。つまり、外戚の特別の賜姓族であります。それが「祖先神-神明社」なのです。
上記した様に「民族氏」-「占い政治」-「政治連合体」の経緯の中で鬼道信仰の影響を最も色濃く持つ「祖先神」を次ぎに論じます。


「祖先神」
「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、 自分の集合である一族一門の子孫の「守護神」であり「人と氏の重複性も持つ神」

上記の「産土神」の蔓延に危機感を覚えこの事を学習していた奈良期の大化期では”「産土神」に基づく考え方、即ち、一生来その「人」の土神とする「人(単独)の神」”の考え方では ”良くしても「土神」「単独の神」は「民」を一つにまとめての安寧は在り得ない” と考えたのです。
つまり、”「民」の全ての「共通する神」が無くては国の存立は在り得ない” と考えたのです。

「単独の神」<「共通する神」=「国の安寧と安定」
「土の神」<「自然の神」=「神の恩恵」

この大化期直前に「自然神」の「鬼道」から進化した「神道」と「仏教」との対立が生まれ「仏教」を国の信仰の根幹に据える否かで争いが起こったばかりです。
結局、「仏教」を選んだものの依然として「神道」は基盤と成り続けている現状の中に「産土神」が浸透する事は国体基盤にとって好ましくないと云う背景があったのです。
この時期、「自然神」と「神道」と「仏教」と「産土神」の「4つ信仰」が混在する状況で中でもこの渡来人に依って「産土神」の拡大が目立っていたのです。
そこに「急激に増加した国民」の国情を観て、”これを一つに束ねて安寧な国を構築する”にはこの現状は困難と観たのです。
むしろ筆者は、高い技能を持ち在来民の信頼を得ている増加した国民、即ち帰化した阿多倍の率いる「200万人の技能集団」(200/650 30%)もこの「産土神」と同じ考え方であって、”この「産土神」が国民に蔓延すれば天皇家はおろか、最早、朝廷のあり方自体の存続が危うくなると考えていたのではないか”と観ているのです。その「産土神の考え方」からすれば「共和性の国家」に近い政治体制に成ると考えたのです。阿多倍がこれ等の「集団の首魁」であったとしてもこの「技能集団」は最早、後漢王国が崩壊して(220-618)数百年も支配体制が緩んでいたのです。ただ「同じ漢民族」だとする程度の集結性で、この初期の段階では阿多倍はその「象徴程度の範囲」の経緯であったのです。どちらかと云うと”各技能集団の首魁の指揮に任していた”と考えられます。
その証拠に大化の事件の時に、中大兄皇子軍と蘇我入鹿軍との飛鳥丘で対峙した時、蘇我軍の雇軍の職能集団の首魁の東漢氏は自分の判断で即座に軍を牽く事件が起こりました。この事は普通なら帰化人に左右する事柄です。事と次第では決着戦に成る事も考えられた筈で指揮を仰いだ筈ですが、入国後20年の「阿多倍」は介入しなかったのです。
これはこの段階では「職能集団の首魁」の判断に任していたと考えられます。また20年の混乱状況の中で詳細に指揮する状況は未だ確立されておらず無かったと考えられ、恐らくは敏達天皇の末孫との血縁で准大臣に成り、長男の坂上田村麻呂が朝廷軍の指揮官に成った期間が混乱期からやっと立ち直り一番に阿多倍の指揮能力が高まった時ではないかと考えられます。しかしこの時は最早、天皇家との血縁族と成り得ていたのですから、この時点ではこの共和制の危惧は無く成っていたと考えられます。
ただ、皮肉にも「邪馬台国」のあった北九州域の「自治の要求」問題は逆に高まっていたのですが。

その様なやや進んだ状況の中で、そこで”生まれて来た”のか、否”作り出した”と云った方が適切であったと見られますが、「邪馬台国からの鬼道信仰-産土神信仰」の「2つの問題」を解決する方策、それが「祖先神」なのです。
丁度、「産土神」の「自分の単独神」を「祖先神」の「自分の固有神」に変化させ、それに自分の組する「集団の神(氏の神)」を付け加えて両者の「妥協の産物」と見られる「神」を天皇と朝廷は創造したのです。
勢いづいた「産土神」に「祖先神」を加えた「2つの神」を融合させる事で「民族氏」から脱却し、「祖先神」が求めるそれまでに無かった「氏」の概念を取り入れて、”「7つの民族」が「一つの氏」(融合の氏)にさせる事で「国の安寧」は起こる”と考えたのです。
その政策が”「青木氏」を発祥させて天皇家自らが「融合氏」を作り出して行く”のであって、実に巧妙に政策転換したのです。驚くべき素晴らしい政治判断であったと考えられ、”現在にそのような移民の問題が起ったとしたら果たして現在の為政者はこの様なすばらしい政治判断と政治力を発揮できるでしょうか” 、筆者は断言して無理だと考えます。それだけに大化期から嵯峨期までの天皇能力には素晴らしい政治力があったと観ているのです。
「鬼道」による「自然神」は「朝廷の祭祀」の中には現存として遺しながら、それを強く引き継ぐ「産土神」を完全否定するのではなく、より「融合性」のある「祖先神」の集団性を有する「氏の概念」を創り上げたのです。
その「氏の発祥源」が我等「青木氏」であり、天皇家自らも「天皇家」のみに通ずる「皇祖神」とする神の概念を創造したのです。

「天皇家の皇祖神」→「伊勢神宮」→「神明社」
「青木氏の祖先神」→「神明社」
「伊勢神宮」→「皇祖神」+「祖先神」
「伊勢神宮」→「自然神の祭祀」
「産土神」の「自分の単独神」→「祖先神」の「自分の固有神」

この「関係式の概念」を天皇は「産土神」を意識しながらも社会にその新しい概念を行動で強く示したのです。
その概念を広めるために「青木氏」の育成と「祖先神-神明社」の建立を急いだのです。
これに依って社会の中には次ぎの様な信仰対象が出来上がったのです。

「自然神」+「皇祖神」+「神道」+「仏教」+「産土神」+「祖先神」

以上の「6つの信仰」が大化期には混在する事になります。

しかし、ここにはこの「祖先神」は「全国民」を対象とした「固有神」としながらも、一方では「民の領域」の神(物造りの神 生活の神)だけでは無く、あくまでも特定領域の未だ存在しないこれから生まれる「氏」の「神」でもあったのです。
そもそも平安期までは百姓(おおみたから)はまだ「氏」を構成出来る社会では無かったのです。
(当時は宿禰族を含む皇族以外の良民を「おおみたから」と呼んだ。 良民以外に賤民や奴婢や脾民や囚民などがあった。)
ここに「国の安寧と安定」には「民」の「共通する神」を創造する事を目途としながらも、他方では「融合の氏」の発祥を創造したのです。天皇の考えている事が良く判ります。

ところが、この時期の国民を信仰範囲毎に分けるととして次ぎの様に成ります。

百姓層(おおみたから)は「自然神」「産土神」「仏教」
支配層は「自然神」「産土神」「仏教」
皇族層は「自然神」「祖先神」「仏教」
朝廷は「自然神」「皇祖神」「神道」「仏教」
以上の様に信仰対象は家柄身分制度の中ではこの様に異なって行ったのです。

百姓層(一般の民)は「氏」を構成しません。構成する概念そのものが無かったのが現実です。
むしろ、そもそも大化期前後は、これから「氏」そのものを作り出して行くと云う過程域であったのです。
4世紀後半には「民族氏」で出来上がった地名からの「氏名」がやっと生まれ始めた時期から未だ200年程度しか経っていないのです。
(現在の時間列:時間感覚と異なる 現在では25-50年以下程度感覚)
信仰の対象神が上記の様にくっきりと分けられてはいますが、だからと云ってこの範囲内で信仰すると云う概念では無かったのです。(曖昧思考原理の時代)
そこには「天皇-民」との繋がりを持つ先ずは「優先の社会概念」があって、「天皇が信じる神」は「民の大元の神」とする概念であったのです。

「天皇が信じる神」=「民の大元の神」=「自然神」 (「万系一途の法」の概念の時代)

「天皇-民の共通する神」はあくまでも「自然神」であり、その「自然神」の中に「産土神」や「祖先神」などの神があり、「民」の各自は「夫々の神」を求めながらも天皇が祭祀する「自然神」に通じていると云う概念なのです。
当然に”天皇個人にも「固有の神」(「皇祖神」)がある”とするのがこの時代の概念なのです。

事程左様に、”それが「皇祖神」であり「祖先神」であった”と云う事なのです。
そしてこれを社会構造の政策の中心に置くと云うメッセージなのです。
従って、直ぐに「祖先神」そのものを信仰対象とする事はありませんが、だからと云って ”信仰の対象としない” と云う考え方は現在の考え方であって、当時は上記した様に合理的に物事を割り切ってスパッと思考を固めると云う概念では無く、物事の境目は”「ラップ思考」で考える”と云う概念でした。
”どちらに属する” 場合に依っては”どちらにも属しない” と云う「曖昧思考」が通常の思考感覚だったのです。
「ラップ思考」+「曖昧思考」=大化期の思考原理
むしろ、スパッと割り切って考える方に対して「悪」「邪道」であるとする思考原理だったのです。
従って、”「神」に対して「人」” の相対する二次元思考ではなく、”「神」と「人」との間には「媒体」とするものが存在する”と云う三次元的思考原理であったのです。
故に、”その「媒体」として「占術する者」が必然的に思考として存在し、当然にその「伝達手段の占術」が必然的に当然の如くに存在する”と云う事が何の疑いも無く信じられていたのです。
現在でも筆者はこの思考の方が社会構造からして正しいと考えていて、然し、科学が近代化するに従い生活環境が激減している中では「相対の二次元思考」の傾向になると考えられます。
まして現代では上記の「予知能力の複眼」が低下した中では、余計に人は二次元思考と成りがちです。
然し、人は本来は曖昧思考として生まれて来ているのです。

古代の人間の営みの中では、生活には「神の意思」を知るには「占術」は無くてはならないものであったのです。それだけにこの時期の「気候変動の飢饉」は「神の意志」であると捉え、余計にこの「飢饉」で苦しめられる”「神の意思」が何であるのか”を当然の事として知りたがるのです。
それだけにより正しく伝えられる占術を選ぼうとする事に人は必然的に成ります。
それが「弥生信仰」から「鬼道信仰」へと変化した経緯の原因であって、終局は”人が生存して行くには「緩やかな政治連合」へと進んで行かねばならないと”自然的と云うか必然的と云うか「人の発露」の流れの中にあったのです。
そもそも「現在人が考える政治連合体」と、「古代人が考える政治連合体」とは、その過程は質的には大いに異なっているのです。つまり上記で論じた思考原理が異なっているのです。
上記の通りこの時代の”政治的に収束して行く流れの中の一つの必然的な現象”であったのです。
だから、「北九州の緩やかな政治連合体」と「関西域の緩やかな連合体」との「広域の政治連合体」を成し得たのです。
「魏志倭人伝」に記載されている様な「血縁性の無い民族的な古代国家集団」30がこの為に政治的な連合体を構築したのです。「大飢饉の解決」を前提にして「神のお告げ」として。そしてその「御告げの手段」は「弥生占術」から素早く決別し「鬼道占術」に切り替えたのです。
その趙著の無い切り替えの素早さは、”「神」に対して「人」” の相対する二次元思考ではなく、”「神」と「人」との間には「媒体」とするものが存在する”と云う三次元的思考原理が働いたからなのです。
これは「宗教的な信念」に依るものではなかったと云う事なのです。
宗教的な事でないが故に、「広域の緩やかな政治連合体」が成し得たのです。
利害は「大飢饉」の事から逃れるを目途として、その「食」を一点にして「鬼道信仰」の「卑弥呼」に賭けたのです。その「心の切り変え」として「銅鐸の破壊」なのです。

当然に、「総称の邪馬台国」の飢饉から「気候変動の300年周期」を経過し脱出した「気候変動」の緩やかな大化期の時期に成った事から、17県民-200万人の後漢の帰化人を受け入れられる食糧事情と成り得ていたのです。当然に、これ等の人口を支え得る全ての分野に進んだ職能を持ち込み、それが一つの補完要素となっていた事は否めません。「食」に対して「生活の質の向上」に対して急激な経済的な変化を遂げたのです。勿論、政治的な質の向上も彼等が持ち込んだ知識で遂げたのです。(冶金技術や木工技術などの上記した事等も現在でも驚くべき基礎技術であるのです。

この「思考原理」に依って6-7世紀の奈良期末期からは「氏家制度」の完成に向ってその対策として「融合氏政策」を推し進めていたところです。
”「神」に対して「人」” の相対する二次元思考ではなく、”「神」と「人」との間には「媒体」とするものが存在する”と云う三次元的思考原理の社会の円熟期には、「緩やかな政治連合体」をより確かな「政治連合体」に発展させるには上記の「人」のあるべき姿を変え「民の構成」を変える必要性が課題として生まれて来たのです。
それは「人のあるべき姿」「民の構成」は「7つの民族」を完結に融合させて一つにする事であり、それには「融合氏の発祥」であった筈なのです。「民族氏の解消」が「緩やかな政治連合体」から「緊密な政治連合体」へと進められる条件であったのです。
邪馬台国の卑弥呼が亡くなり「気候変動の飢饉」が収束に向かい始めた時期のヤマト王権-ヤマト政権-大和朝廷、そして次ぎの時代のステップとして、つまり大和にその主導権が移った時からこの課題に取り組み始めたのです。
(その一つが青木氏-皇祖神-祖先神-神明社-3つの発祥源であった事を本論の主幹点であります。)
前記した様にその取り組みは、 ”天皇の下に「氏」が存在し「姓」が存在し、百姓の下に賤民が存在する” と云う身分と家柄制度を敷いた社会であったのです。
「民の象徴」としての天皇が存在し、その天皇が信仰する「皇祖神」「神明社」に対しては「民」にとっては大本の「民の神」とも成るのです。
皇族系、外戚系の「2つの青木氏」には「神明社」は「祖先神」と成りますが、百姓や支配層の「人民」にも直接は「産土神」を信じながらもその「大本の神」とも捉える思考概念となるのです。
もとより天皇は根本と成る「自然神」を基盤に祭祀し、更には「仏教」を信仰の対象と置いている訳ですから、尚且つ何れにも配慮した中間的な形にした「皇祖神」-「祖先神」の「神明社」を持つ事に成る訳ですから、この「大本の神」とする概念には矛盾が無いのです。
まして、「人民」が一人々に「産土神」を持つ様に、「天皇」も又一人として「祖先神」を持つ事には何の不思議は無いのです。
この「祖先神」の概念は、上記の様に支配層にも配慮しましたが、「氏」の先祖は「仏」である事から「仏教」にも通ずる配慮もしている事に成ります。故に「神仏融合の神」と捉えることが出来るのです。

「祖先神」=「神仏融合の神」

これでは仮に作り出した概念であるとしても「祖先神」に抗する者は出ない事に成ります。
この配慮を考える時、天智・天武の天皇は「大化改新」の驚きを超える膨大な数の改革を行いましたが、この論文に記していないものに次ぎの様なものがあります。
1 「国内の国防システム構築策」(水城・山城・防人・・)
2 「国発展の列島内に網の目の様に廻らしたインフラ整備(駅舎・烽火情報伝達・・)
3 10M以上の広幅の真直線道路(現在より広幅軌道で真直線・現在に劣らない土木工学)
  (高軌道の東山道・高軌道の山陽道・高軌道の東海道・高軌道の南海道・高軌道の西海道等)
4 「貨幣経済・和同開珎」(銅と鉄の生産を本格開始 驚くべき冶金・金属技術)
5 「部による市場経済」(説明済み)
6 「物造りの殖産政策」(説明済み)
7 「仏像などに観られる文化政策」(仏教を使って信仰対象を「仏法」にも求めた)
8 「政治機構の改革」(律令の基盤構築)

以上を個々に調べると現在の土木建築工学で観てもその施行原理は劣らない程で驚くものです。
この様な「物造り」は急に大化期に発展したのでは無く、勿論、阿多倍等が率いる後漢の民の職能集団が持ち込んだものなのです。
この混在する「神」の中で ”彼等の全面的な協力を勝ち取った”と云う事だけでもそれだけでも為政者としては十分な能力です。そしてこれだけの発展とこれだけの政策を何と50年間で一挙に行ったのです。
これだけの実績を持つ為政者は現在までに於いて誰一人いません。先ず、出ないでしょう。
恐らく、民はこの2人の天皇に対するものには「神格的な感覚」を持っていたものと見られ、確かに税に対する不満は日本書紀からも伺えますが、国のリーダーとしては「神格性」が生まれたのではないかと考えられるのです。
恐らくこの大化期のこの「神格印象」が後々まで残ったのでは考えています。その「神格天皇」の下に融合氏として青木氏が発祥したのです。
(その「2つの青木氏」がその立場を認識して守り通したと云う事に成ります。上段でも論じた様に、同じ立場にいた賜姓源氏は八幡社を汚し、荘園制を乱し、当然に上記の立場を汚したのです。)

「自然神」-「神の意思」-「神格化した天皇」-「民の神格対象者」-「国家政治」

「自然神」-「鬼道」-「卑弥呼」-「神のお告げ」-「連合政治」

この上記する「邪馬台国」の「自然神」から来た「鬼道」による「占い政治」の感覚が大化期にまで緩やかに引き継がれて来ました。そこに「2人の天皇」の上記する驚くべき政治の改革実績を成した事で、”「神のお告げ」の正確な伝達能力を保有する「神格的な特別の人物」”と「民」は観たのでは無いかと考えられます。
従って、「人民の不満」は何時の世も大なり小なりあるとしても「ラップ思考」+「曖昧思考」=「大化期の思考原理」が働き、「天皇への不満」と云う形では無く、その下の「為政者・皇親政治族」に向けられていたと考えるのが妥当と観ているのです。
確かに、上記の全国網のインフラ整備だけでも「税と労役」(租庸調)の民の負担は限度を超えている事は確かであり、これに上記の大化の政治改革が成されたとすると「税と労役」では無理であります。
何か特別な政策がこれに付随して計画的に実行されないと出来るもので無い事は明々白々です。

”ではそれは何であったか”と云う事に成りますが、私は前記している様に「部による物造りの経済」と「貨幣経済の導入」の連動策にあったと考えています。
これをよりにこの策を効果的にするには基盤と成る「公地公民」制度を敷く事ですから、その財源的裏付が論理的に完全に組まれていたのです。
そして、その改革に依って「民」に「大きな恩恵」をもたらした事で民は重税に納得したのではないかと考えられます。既に阿多倍一門がもたらした職能を民は教わり潤いを得ていた教訓があり、其処に目に見えるように急激に進歩し変化して行く社会のこの「政治改革の実績」を庶民の前に見せられたのです。
百姓は”生活と社会は良くなる”と受け取っていた筈です。

資料や日本書紀の記述からこの「民の印象」を観て見ると、全国から上記のこの建造されつつある広軌道の「直線幹線」を通って「税」を運び、「労役」の為に「伴造」と共に移動するのに「手弁当」であった事が書かれています。又、「税の耕地面積」を広げる代わりに負担対象者が6歳に下げられた事等を見ると、この「手弁当」と「税負担と耕地面積」に意味が隠されています。
悪く捉えれば”過酷で不満たらたら”と成り、良く捉えれば”社会が良くなる。頑張る”と成ります。
現在の学説は前者ですが、私は後者です。前者であればこれだけの改革は困難です。
一つの改革なら未だしも驚くべき改革とその数が実行されているのです。前者である事は無い筈です。
”社会が良い方向に変わる事を夢見て民は苦しいけれど頑張った”と云うのが現実の映像であったのです。
そして、その「民の不満」の「心の拠り所」の手当策として「自然神」に加えて「皇祖神」「祖先神」-「神明社」を創設・建造して行ったのです。

”いつの世も楽して良く成る”は有りません。奈良期の民がこの条理を理解できない「知力」だったのでしょうか。そんな事は有りません。この「インフラ整備の技術」は「現在の土木工学」と寸分違いが無いのですよ。この学説によくある事ですが、何か別の意味が隠されている気がします。
そもそも日本に8000の氏姓が居るけれど、我々「4つの青木氏」だけがこの「後勘の評価云々の渦中」にいますので、”正しく史実の解析結果を子孫に伝えるべきだ”と考えているのです。

学説・通説は直ぐにトップの責任として説を作り上げているのですが、まして、当時の「社会慣習」や「社会構造」や本文の「5つの神」や「大化期の思考原理」(「ラップ思考」+「曖昧思考」)やこの様な「偉大な政治実績」や「神格性を持つ社会」から観て”異なる”と云う感覚を持っているのです。
むしろ、現在から見てもこれだけの改革を成し遂げられる人物は ”「神」に相当する神人の成せる業”と考えられます。まして大化期です。現在より「神格性の強い社会」の中です。

前記した様に、故にこの「2人の天皇」の「偉大さ」が後の天皇の「桓武天皇・嵯峨天皇」と「後三条天皇・白河天皇」に引き継がれて其の「意思の実現」に立ち上がったのだと観ているのです。
この「2人の天皇」そのものを後の天皇は「神格化」に近いものとして扱っていたと考えているのです。真に「自然神」-「お告げ者・神格天皇」-「天智・天武」であったのです。
これが後々まで「自然神」-「鬼道」-「お告げの卑弥呼」から始まりこの2人の業績により「天皇の神格化」の世論が生まれた原因と観ているのです。

事程左様に、「祖先神」を定めた事には反対者は居なかった筈です。しかし、この50年以降には「民族氏」が勢力を拡大して反抗する勢力が出て来たのです。それが「産土神」を信仰対象とする朝廷外に居た後漢の民の阿多倍一族一門とその職能集団なのです。(前記)

この様に「民族氏」を「融合の氏」にする必要性を感じて「氏融合政策」に主導し体制を変えようとしたのです。依って其の為に天皇家が率先して行う事を決めたのです。
そしてその形成された「融合氏」の「氏発祥源・皇族賜姓青木氏」や、同じく「氏発祥源・賜姓藤原氏」等が各地で発祥するに連れて、「民族氏」の「産土神」が混在する中で新しい「融合氏」はそれぞれの「独自の氏」の「安寧と結束」を願って「氏の神」を定めました。
この為に朝廷は天皇家の「守護神」を決める必要があるとして、上記の「天照大神」を祀る神社を「皇祖神-祖先神」としてそれを「神明社」と定めたのです。
そして、皇族から出た「融合氏」の「発祥源」の青木氏に先ずこれを祭らせ護らせたのです。
この事に依って皇族系族は天皇家の「皇祖神」を「祖先神の考え方」で守護神とした事に成るのです。
この役目を負った賜姓青木氏は「神明社」の「伊勢神宮」、そこから守護王が存在する天領地の19の土地に分霊される様に成ります。
それに連れて「融合」が進み、より強く「2の祖先神」が各地に伝播して「産土神」に対抗する形で変化して行ったのです。
この変化は「守護神」が代わったと云う事だけでは無く、「考え方」そのものが変わって行ったと云う事になるのです。
天智天皇は「融合氏」を増やす事そのものを目的としたのではなく「融合氏」を増やす事で「民の考え方」を変え様としたのです。其の考え方が「祖先神の考え方」なのです。
これに依って「産土神の考え方」から来る「共和の世の形」を防ぎ、この「考え方」を増やして「国の安寧と安定」が図られると考えたのです。
其の為には論理的に次ぎの「2つの事」が必要に成ります。
第1策
先ず一つはそれはその「祖先神の考え方」を持つ「氏」を多く速く作り出す事、”皇族系の純血を護ってきたが最早その場合では無い”として、それを率先して天皇家から出自する事が「融合の政策促進」と「民の合意」が得られると考えたのです。
当然に、皇位継承問題で大蔵と内蔵ともに経済的負担が大きいとする通説の理由は勿論の事、上記の「産土神の考え方」の蔓延で危機感を感じていて「体制維持」が困難と観ていた事も大きく理由の一つとして占めていたと筆者は考えているのです。
これは放置できる問題では明らかに無い筈で彼等の進んだ技能と知識を享受している在来民は「産土神の考え方」になると「天皇家の存在価値」は薄らぎ明らかに低下する筈です。
そこで、皇位継承制度を次ぎの様に変更したのです。
それまでは「第6世族までを順位に応じて次ぎの1から4の権利を有する」としていました。
1 第4世第4位皇子に皇位継承権
2 第6位皇子を賜姓臣下させ近衛府軍に
3 第6世族を「ひら族」にして坂東防衛に
4 第4世族までを守護王位にして配置

これが2番の第6位皇子の「融合氏の青木氏」であり、3番の皇族系の「第6・7世族の融合氏」であり、第4番の各地の天領地の「第4世族守護王の融合氏」なのです。
第6世族で皇族・純血の枠の中に閉じ込め下族を許さなかった制度を大化期には一挙に開放している事が判ります。
決して通説の「経済的負担」だけを主とするものでは無く、「体制維持の危機感」から「融合氏の排出」が国策として必要であったのです。
「経済的負担」とするのならば、第6世族のままで1から4を実行すればよい筈です。何も分ける必要は無い筈です。
現に、「嵯峨天皇」は150年後にある一定の危機が去ったとして、嵯峨期の詔勅・「弘仁の詔」でこの制度を「第4世族」を「第6世族」まで緩めているの事でも証明出来ます。


第2策
第1策を実行した上で、次ぎにはそれの「象徴物」を造り、そこに「民の心(不安定な心)」を引き付ける為の「産土神の考え方」を抑えて「祖先神の考え方」を象徴する物体を造る事に成ります。
つまり、これが「神明社」なのです。
この「神明社」の「伊勢神宮」の元と成った宮社の鎮座地は下記に示しますが、実は元々からこの伊勢松阪には鎮座していなかったのです。
元は「自然神」の祭祀であった事から大和の皇居内に鎮座していたのです。
しかし、崇神天皇が皇居内に鎮座する事は好ましくないとして13の国と81の鎮座地を遍歴させて90年後の天智天武期(670-675年頃)にこの伊勢松阪の位置に定めた経歴があるのです。
とすると、この81もの遍歴は”皇居内の祭祀は好ましくない”とした通説には多少疑問が残ります。
兎も角も遍歴地と国と年数に疑問が出て来ます。
後漢の民が渡来した時期の第1陣は618年を境に100年間と見ますと次ぎの様に成ります。

大量に入国した時期
渡来開始期は後漢から魏に成った時230-35年頃
第1陣は570-80年頃
第2陣は670-80年頃
阿多倍の帰化時期は645年 孝徳天皇期

天智天武期670-675年から逆算すると90年間では580-585年から開始し、675年頃で比定地に定まったと成ります。
経緯
洛陽の東の住していた後漢民が唐に圧迫された隋が東に逃れ後漢の民を圧迫(高句麗遠征)し、隋滅亡期の618年頃前後に後漢の民の大難民と隋建国581年とほぼ一致します。

第1陣の前には隋に圧迫され始めて徐々に難民として上陸した時期は10年程度と見られますが、「後漢」が「魏」に引き継がれた時期235年前後頃にも後漢の民は一部北九州に押し寄せます。

この事から鎮座地の遍歴は何も”皇居内の祭祀は好ましくない””「適地探索」”の通説だけでは無かった事を意味します。
つまり、高句麗遠征に依って「後漢の民」が難民として入国し、上記した国内の「産土神の考え方の蔓延」に対してこの時期から既に懸念されてい他のです。
この対策として大和の近隣国の13の国々と80の地域に「自然神の皇祖神の祭祀宮」を建てて「産土神の蔓延」をこの地域だけには留まる事を狙って押さえにかかったのではと考えられます。
そして、その対策の考え方が引き継がれて天智天武の「伊勢神宮を皇祖神」として正式に決め、上記する「融合氏の国策3策」を展開したのです。
引き続き「皇位継承制度」に基づく1から4の地域を鎮座地として定め、19の地域に「神明社」を建立して、合わせて「100の神明社」の分霊を急いで建立したと考えられます。
この間約30年間で実行したのです。
この説からすると、合わせて「100の鎮座地」の「神明社」を「120年」(30+90)で天領地とされる全ての地域に建立した事に成ります。
これが天智天武の大化期に於いて成された事に成ります。
何と1年に1社の速さです。この時期の建設速度の能力からすると現在でも神社仏閣は1年程度弱と見られますので如何に早い事が考えられます。
通説とするのであればこの様な速さと行動は取らない筈です。
間違いなく「産土神」への危機感を抱いて「融合氏3策」(1)と「神明社建立策」(2)と「祖先神の普及」(3)を懸命に図ったと観ているのです。
何時の世も世の中の事は通説のような簡単な事では動いていない筈です。

ですから、この上記「3つの策」(1~3)が政策的に連動して行われ、皇族系の「融合氏」が守護を務める全ての地域には、その象徴として「祖先神」の「神明社」を建立して行ったのです。

ですから、「第6位皇子の5つの天領地」と「第4世族内の朝臣族・宿禰族の定住域」と「第6・7世族のひら族の配置した地域」の「3つの地域」には、前段で論じた様に強く「祖先神の考え方」と多くの「神明社」が存在する事に成ります。
「関西全域」と「5家5流の土地」と其の周囲、「坂東域」とに多く観られ、この「3つの地域」の「氏の融合地域」(出羽・新潟等)に確認できるのです。(神明社の分布と資料参照)

しかし、この坂東域は「坂東八平氏」(ひら族)として「融合氏」を拡げます。
更にこの坂東には皇族の者が罪を得た時に配流先と定められていた為に、そこには「配流孫」と云う「融合氏」が発祥しているのです。
しかし、ここには平安中期から末期に阿多倍一族一門が勢力を拡大し「坂東八平氏」の「融合族」は一時衰退するのです。
後に、平安末期にはこの「配流孫」は最初は地域の土豪の氏名を名乗り、「嵯峨期の詔勅」が発布されるに基づき「青木氏」を名乗る事になります。
「多治彦王の配流孫」の「丹治氏系青木氏」 「真人族島左大臣」の「配流氏の青木氏」の「2つの皇族青木氏」が発祥しています。

前記した様に阿多倍一族一門とその支配下の技能集団の分布が出羽・陸奥の地域まで進出している事から観ても、「産土神の伝播」は西北の広範囲に及び、国土の大占有は元より感覚概念の点でも蔓延していたのです。(前段で内蔵氏-阿倍氏-安倍氏の段で論じた)
筆者は、”関西関東域の範囲で戦略的に固める戦略戦術の作戦を先ず採って、西と北を各個攻撃で潰して行き、そして潰したところから皇族系に近い融合氏を配置し、そこに関西域と同じ様に「神明社」を建立し、「産土神」を排除して「神明信仰」を浸透させる戦略を採った” と観ているのです。
しかし、九州域だけは国内に「荘園制の行き過ぎ問題」が起こり、「土地の私有化問題」も出てしまい、阿多倍一族一門の本領の「関西以西の神明社化」が果し得なかったのです。
蔓延が進み、最早、「九州域の自治」を認めるしか方法は無かった状況であったのです。

「神明社の分布」は全くこの政治的経緯のパターンに成っているのです。
因って、建立できる状況ではなかった事を意味し、兵庫西域から九州全域に掛けて分霊による神明社は見事に全く無しであります。
(詳細は資料参照)

この神明社の分布域は完全に「全ての青木氏に関わる地域」(A)と「皇族系の何らかの縁の地域」(B)にあります。
その分布数も「縁の大小」に比例しています。又、建立時期もその「縁の古さ」に比例しています。

特に分布の低い地域の特長としては、「産土神の地域」と「阿多倍地族一門の地域」を中心とする出雲大社域、厳島神社域(たいら族)、住吉大社域、阿蘇神社域、宗像神社域、熊野神社域、八幡神社域(源氏)、春日大社域(藤原氏)の社領域に一致しています。
この領域には当然の事として「神明信仰」は余り広がらなかった事を物語ります。

「神明社の縁の地」
A「5家5流皇族賜姓族青木氏24氏」
B「嵯峨期の詔勅の皇族系青木氏と配流孫青木氏5氏」
C「藤原秀郷流青木氏24地方119氏」
D「皇族系第6・7世族のひら族 坂東八平氏」
E「上記の歴史的史実の縁の地」
F「一部の近江佐々木氏 始祖川島皇子」

この様に其の出自に依っても「産土神」や「祖先神」に付いても、当然に”その「氏姓」の「信仰対象」が何であったか””その出自地が何処であるか”でもそのルーツがよく判る事に成ります。
当然に、「2つの青木氏」は「独自の神明社」を持っている事に成りますので、この「青木氏の神官職」も多い事に成り、その「多さの分布」もこの「神明社の分布」に比例する事に成ります。

下記の分霊地の神明社には「神官職」と共に、その建造に当たる「職人の襲名青木氏」も必ず存在しているのです。
ただ、この場合は派遣する形を採るので、初期は伊勢を始めとする「5家5流の地」と「武蔵の地域」と成っていましたが、それ以外にも秋田、新潟、等にも定住しているのです。
この「神明社分布」は「青木氏」を物語る指標にも成るのです。

(「民族氏」=「産土神」)→(「祖先神」=「国の安寧と安定」)→(「融合氏」+「神明社」)
「人の単位」→「氏の単位」

上記しましたが、改めて県単位での建立地とその数を重記します。

「神明社の分布」
北海道 2 青森 13 秋田 26+7 岩手 11 山形 15 宮城 14 新潟 55+6
福島 9 栃木 12+2 茨城 8+1 千葉 22 群馬 12+2 埼玉 15 東京 30
神奈川 9+2 静岡 18 長野 13+2 山梨 69+3 岐阜 31 愛知 33 
富山 32+1 石川 1+1 福井 8 滋賀 3 三重 5 奈良 1 京都 2 和歌山 2
大阪 1 兵庫 11 鳥取 0 岡山 1 島根 0+1 広島 2+4 山口 1 徳島 3 香川 1 愛媛 2 高知 4 佐賀 1 長崎 1 熊本 1 大分  宮崎 4 
鹿児島 0+3

以上「566戸数」に成る。

以下も前段で論じたものです。

「分布域の分析」
東山道-東北北陸 6県-105-18.6%
建設地域   戸数   /地域   /全国
青森(陸奥) 13   12.4  2.3
秋田(羽後) 26+7 31.4  5.8
山形(羽前) 15   14.3  2.8
岩手(陸中) 11   10.5  1.9
宮城(陸前) 14   13.3  2.5
福島(岩代) 9     8.6  1.6

東山道-中部域 6県-145-25.6%
栃木(下野) 12+2  9.7  2.5
群馬(上野) 12+2  9.7  2.5
山梨(甲斐) 69+3 49.7 12.7
長野(信濃) 13+2 10.3  2.7
岐阜(美濃) 31   21.4  5.5

北陸道域 4県-104-18.4%
新潟(越後) 55+6 58.7 10.8
富山(越中) 32+1 31.7  5.8
石川(能登) 1+1   1.9  0.0
福井(越前) 8     7.7  1.4

東海道域 8県-154-27.2% 
茨城(常陸) 8+1   5.8  1.6
千葉(下総) 22   14.3  3.9
埼玉(武蔵) 31   20.1  5.5
東京(武蔵) 30   19.5  5.3
神奈川(相模)9+2   7.1  1.9
静岡(駿河) 18   11.7  3.2
愛知(尾張) 33   21.4  5.8

畿内域 4県-13-0.2%
三重(伊勢) 5    38.5  0.0
奈良(大和) 1     7.7  0.0
大阪(摂津) 1     7.7  0.0
京都(近江) 2    15.4  0.0
和歌山(紀伊)2    15.4  0.0
滋賀(近江) 3    23.1  0.0

山陽道 4県-19-0.3
兵庫(播磨) 11   57.9  1.9
岡山(美作) 1     5.3  0.0
広島(安芸) 2+4  31.6  0.0
山口(周防) 1     5.3  0.0

山陰道 2県-2-0.0%
鳥取(伯鰭) 1          0.0  
島根(出雲) 0+1        0.0

南海道 4県-11-0.2%
徳島(阿波) 4    36.4  0.0
香川(讃岐) 1     9.1  0.0
愛媛(伊予) 2    18.2  0.0
高知(土佐) 4    36.4  0.0

西海道 7県-13-0.2%
福岡(筑前)1      7.7  0.0
佐賀(筑後)1      7.7  0.0
長崎(肥前)1      7.7  0.0
熊本(肥後)1      7.7  0.0
大分(豊前)1      7.7  0.0
宮崎(日向)4     30.8  0.0
鹿児島(薩摩)0+4  30.8  0.0
         
北海道   0
沖縄    0

(+は分霊に疑問 大化期以降の神明社 県と国の違いあり 建立時期は参拝に影響する為に明らかにしていない調査不能 一部に室町末期と伊勢詣の江戸期含む可能性あり 原則室町中期までの建立物とする 建築様式から判別 祠は含まず 県域と国域は一致せず存在地優先 分霊外と支社外は含まず)

さて、上記でも論じましたが、次ぎに再び「氏神」に付いて追記します。

「氏神」
「人の神」ではなく、「氏のみの一族一門の神」で、氏永代に守護する「氏(独善)の神」

実は上記した経緯の数式には一時突然に変異が起こったのです。
実は現在までの間に、特に鎌倉期にはこの「4つの神」が混同されて同じ扱いや間違いを起こし始めたのです。(上記で論じた)
3つ目の「氏神」は ”「氏のみの一族一門の神」で、氏永代に守護する「氏(独善)の神」” であるのですが、これが「祖先神」から「鎮守神」までもいれて「氏神」と呼称された一時期があったのです。
これは平安期の「仕来り」が崩れ、「民族氏」が1018年以降に他氏との「融合」が進み、「融合氏2」(第2の融合氏)と変化し「融合氏1」との差が見えなくなった事と、多くの品部が「姓氏」と成り、中には「氏」と成って勢力を拡大した事で「氏」の見極めが困難と成った事から同じ扱いと考えられたのです。
「融合氏2」(第2の融合氏)
「融合氏1」(2つの青木氏)
「姓氏」(職能集団 等)
しかし、鎌倉幕府の政策が「平安期の社会体制」を基盤として「武家の体制」を作り上げて行った事から次第に夫々の「神」を守護神とする様に戻って行ったのです。
そして、鎌倉末期から室町期に入ると激しい「下克上」が起こり、「姓氏族」が支配していた多くの「氏族」は平安期の中期の状態まで減少して潰されて行きます。
「民族氏社会」-「氏族社会」-「武家社会」-「下克上社会」-「姓氏族」
逆に家長・家人・郎党であった者等の反乱で「姓氏族」を興した一族が増えて行ったのです。
「姓氏族」から「氏」を興した者が結局、「産土神」や「祖先神」でも家柄身分の差から「守護神」と出来ずに、結局、総称的に呼称されていた「氏神」を「3つ目の氏神」としたのです。
つまり、「氏のみの一族一門の神」で、氏永代に守護する「氏(独善)の神」の考え方です。
従って、「氏」としての歴史が無い為に「独善の神」としたのです。
この「姓氏族」が結果として大半を占めた事から既成の事実として「3つ目の氏神」が生まれたのです。
しかし、この「神」は「時代の変化」と共に変化して行きます。

天智天皇に依って賜姓を受けた「藤原氏」は「春日社」を定めました。
当初、奈良期前は「民族氏」であった事から「民族性」が強く、その「信仰の概念」は血縁以前に「人」の単位で考えられ、個人自らの1の「産土神」の「神」としての位置づけであったのです。
しかし、奈良期の大化期からは「融合氏」の初期政策が進むにつれて「氏族社会」(氏家社会)が起り、「人の単位」と血縁の「氏の単位」へと変化する過程の中で、「人の単位」と「氏の単位」とが重複融合された2の「祖先神(祖霊)」の「神」へと変化して行ったのです。以降この過程の変化であったのです。

「人の単位」+「氏の単位」=「祖先神(祖霊)」

しかし、平安期初期に成ると、「第1の融合氏」が拡大し、それに伴って「人の信仰概念」は「民族氏」を保持する阿多倍一族一門の「産土神」の概念を遺しながらも「人の単位」の考え方が徐々に消え失せて完全に「氏・姓の単位」に移行してしまったのです。

(「氏の単位」=「祖先神(祖霊)」:氏家制度)

平安中期に成ると「氏の単位」+(「姓の単位」)=氏家制度と成ります。
これが新たに生まれた3の「氏神」(うじがみ)の信仰と成るのです。
但し、民の領域では土地に恩恵を受けて生きる環境から「自然神」-「産土神」が依然として残っていたのです。
そして、平安中期からでは「渡来人意識」、平安末期1020年頃を境に人々から「民族氏的な概念」がほぼ一部(九州南部)を残して消えて終います。
大化期2始まった「氏の融合策」の浸透に依って「姓氏」の初期の発祥も伴い、「融合氏」が「普通の集合体」として「荘園制の拡大」の影響と共に各地に分散します。
そして、その分散が氏の更なる枝葉の「末梢子孫の細分化」が起こり定着します。
その定着地の土地・地域全域に対する愛着から「氏神の考え方」に観られる様に「土地・地域に対する概念の信仰」が強まります。
大元の「氏神」が存在する中で、平安期中期頃から末期にかけて「土地の神」の4の「鎮守神」(ちんじゅのかみ)の信仰が初期の信仰として起こり始めたのです。
そして、平安末期後半には「氏の融合」と同じく、「氏神信仰」と「鎮守神信仰」との「神の共存」と「神の融合」が起り、遂には、「神の競合」も起こる状況と成ったのです。

つまり、「神の共存」と「神の融合」か起ると、「民族氏」の社会の中では「人」であったものが、次ぎの”「人」→「融合氏」”の変化の社会の中では、「氏」は”集団の「氏」→多集団の「氏」”の社会と成り、その中では「人」→「土地・地域」へと変化して行ったのです。

例えば、
「皇族賜姓青木氏」は「皇祖神-祖先神-氏上信仰」の「神明社」伊勢神宮の1つの信仰対象
「藤原氏一門」は「春日社」の「鎮守神」と「祖先神」の2つの信仰対象
が生まれたのです。
これはそれぞれの「氏の持つ特殊性」が左右しているのです。
「皇族賜姓青木氏」は5家5流から成りますが、限定された「小地域」(5)であり「融合氏」と「皇祖神-祖先神」であるが為に、藤原氏の様な「重複の信仰」は不義として成し得なかったのです。
それに引き換え、藤原氏、特に「秀郷流青木氏」は「各地」(24)に氏を融合させ119氏とも成り、枝葉の末梢子孫が生まれたことから「自由性」「特異性」が拡大します。
この為に「各地の事情」を含有して「重複で複数の信仰対象」が生まれたものです。
つまり、その「氏」の置かれた「人と土地」の「環境下」では下記の「4つの信仰対象」が異なり、1や2の「古い神の信仰の温存」や「神の共存」などが起こったのです。
その意味で藤原氏の一部には下記の様に「初期の鎮守神」を守護神とする「春日社」もあるのです。
奈良期から悠久の歴史を持ち最大の末梢子孫を持つ藤原氏北家ならではの事です。
その「鎮守神」の経緯について追記しておきます。

「鎮守神」
「現在住んでいる土地・地域の守り神」であり、「土地・地域」を守る「土地・地域の神」であり、人はその土地・地域に吸収されるとした「土地・地域優先の神」

鎌倉期以降、「氏神」はそもそも、「融合氏」の枝葉の末梢子孫が各地で生まれ、その土地・地域に根着き、そこに「氏」の守護神と成る「独善の神」を祭祀したものなのですが、更にその「氏」の枝葉の末梢子孫が細分化されて「姓単位」の「土地・地域」に根着いた土豪が生まれたのです。
この多くは「百姓」から身を興して土豪となった者達で、傍ら農業も行うとする今で言う「兼業姓氏」であったのです。村単位の土豪姓が生まれたのです。その為に特に「土地・地域」に拘る守護神を求めたのです。

「姓氏」の種類
「品部」から発祥した「姓氏」(1)
「融合氏」の末梢集団から発祥した「姓氏」(2)
「民族氏」から発祥した「姓氏」(3)
(1)(2)(3)とは異なりこの土豪等が集まり血縁性の無い集団を構築します。
「連合防衛集団」の「姓氏」(4)
以上の「4つの姓氏」が各地で出来上がったのです。

”「氏」でも無く「姓氏」でも無く、百姓でも無い”とする集団が自らの農耕の土地・地域に対して「守護神」を求めたのです。これが元来の「鎮守神」なのです。
ところが、これ等とは異なり藤原一門の「鎮守神」(2)-Aはこの各地に定住した藤原氏の枝葉の末梢子孫が守護神としたのです。確かに藤原氏の各地方の土着の枝葉の末梢子孫であり「土地・地域」の特長も持つ為に藤原氏の役職上も兼ね備えた「鎮守」を併せ持つ守護神が生まれたのです。
秀郷一門では陸奥域に於いて「鎮守府将軍」と成って長い間赴任し、その地域に枝葉の末梢子孫を遺しますが、この関東以北の「鎮守府将軍」系列の枝葉の末梢子孫(2)-Bが「土地・地域」に拘らない本来の「鎮守神」とした「守護神」も存在するのです。
そもそも後には、「鎮守の森の神様」と歌でも歌われる「庶民性」のある「神」なのですが、その性格から各地に分散する「小域の土地」の「鎮守神」と成ります。

(2)-A、Bの元来の「鎮守神」と異なり、(1)(3)(4)にしても多くは藤原一門一族の何らかの大小の血縁性を持つ一部に引き継ぐ「姓氏」でありますので、その縁と絆を下に「元来の鎮守神」に小さい単位の「人・土地・地域・農耕」の「4つの思考要素」を加えた「守護神」を造り上げたのです。
当然に、多くは農耕に携わるそれらの者達は血縁性が有っても「戸籍概念」が元より無かった為に近い範囲の親族・縁者・村人の範囲の「神」とも成る「守護神」であったのです。
この為に「4つの思考要素」の共通点を持つ事からそれらが集まり(4)の小集団の「相互防衛」の連合組織を鎮守社の旗の下に構築する為に独自に「鎮守神」を造ると云う事も各地で起こったのです。

ここで、初めて「自然神」が上記した様に変化して、「融合の最終の結果」は(4)の様に再び「民の神」として「産土神の考え方]に近い”人・土地に根着く「神」”へと戻ったのです。
これ等の枝葉の末梢子孫が後には農業に関わる「庄屋・名主・豪農」と成って「鎮守神」を護っていったのです。所謂、「村の鎮守様」であり江戸期には何時しか「鎮守神」は「農民の守り神」にも成り得ていたのです。

ここに一つ変化が起こります。
姓氏の(1)は「産土神」
姓氏の(2)は「祖先神」
姓氏の(3)は「氏神」
姓氏の(4)は「鎮守神」

(3)の姓氏は「民族氏」が基であった為によりその出自がはっきりしません。そこでかれらはその周囲の神社の氏子として集まり「氏子集団」が結成されていったのです。
ですから、この「氏子集団」には「氏神の氏子集団」と上記する「鎮守神の氏子集団」とが生まれた事に成ります。
特に(3)には、阿多倍一族一門の「民族氏の末裔」と観られる「氏姓族」が多い九州地方と中国地方に限定して存在するのです。
「古い神社」にはこの集団が結成されて「広域の土地地域」を一つのエリヤーとして(3)(1)の「氏神」と成っています。
それらは主なものとして次ぎの大社を創り出しました。
阿蘇大社、宗像神社、出雲大社、住吉大社、吉田神社、宇佐神宮、吉備津神社、厳島神社、等

中には(1234)を全て兼ね備える「神」とするものも有りますが、これ等は歴史的な建立時期が殆ど明確にされていません。恐らくは室町末期から江戸期に掛けての神社と見られますので、正しい検証出来る期間を超えています。
「鎮守神の姓氏族」と観られていても巨大豪族も中には有り、(3)(4)を兼ね備えていて「祖先神」の様に明確に線引きをする事は困難です。これ等の豪族は概ね室町末期からの族であります。
室町末期の「武士」として観た場合は「一所懸命」の言葉通りに判断すると「鎮守神」と考えられます。

  「神明社 祖先神」
さて、「祖先神」とする氏が限定されている中では、当然にそのルーツも明確でありますが、特にこの「祖先神」の「青木氏」に限りその氏の「氏上」と「氏人」(家長、家人、郎党)と「百姓」と「品部の職能集団」等がこの「祖先神」を「氏上の神」として集団で崇める事に成ります。
「神明社」はこの「祖先神」の「4つの青木氏」の「氏の神」なのです。
前段で論じた「2つの血縁青木氏」に「2つの無血縁青木氏」「(2つの絆の青木氏」)が存在すると論じましたが、この「2つの無血縁の青木氏」も「氏人 家人」として主筋の神明社を崇めたのです。
例えば、判りやすい例として先ず一つは信濃皇族賜姓青木氏(神明社)の分家の諏訪族青木氏は、「諏訪神社」を「祖先神」としてその氏一族郎党・諏訪村民がこの諏訪神社(産土神)を守護神としますが、賜姓族の「氏人、家人、郎党」であるので「神明社」が主の守護神と成ります。
その二つ目は「2つの青木氏」にはその「3つの発祥源」の役目を支える職能集団が存在しましたが、この職能集団も神明社を崇めたのです。

(信濃の賜姓族系の諏訪族青木氏・と武田氏系諏訪族青木氏は、賜姓信濃青木氏の分家が2代続きで男系跡目が出来ず女系となり養子先諏訪族の系列に入った氏、その諏訪族青木氏の分家が武田氏から養子を取り同じく男系跡目が叶わず武田氏系列に入った氏が武田氏系諏訪族青木氏 諏訪族は後漢の民の馬部の末裔1400年以上 元は「産土神」 日本書紀記述)

そこで、「神明社」は「氏」と「民」を「安寧と安定」に導いてくれる「神」ではあるのですが、そもそも”「安寧」・「安定」とは何を以って安寧・安定とするのか”と成ります。
当時としてはその社会環境からすると、その答えは生きている者の「安寧」・「安定」とは「子孫存続・生活の安定」である筈です。現在とはこの様に少し違っていた筈です
そうすると”その「子孫存続」と「生活の安定」とは何に依って叶えられるのか”と成ります。
この世の生きている世界に於いてその根幹は「食」を得ずして成せるものではない筈、そうすると人の行動としては”何かを生み出しそれを糧にする事”にある筈です。
それは上記した様に「7つの民族」に依っても上記した様に大化期前はその思考原理が異なっていたのですから、「融合民族」の日本人と成り得た平安期の嵯峨期頃では何になるのかと云う事に成ります。

それが、”古来より天智天皇期の頃から「物造り」にあった”と考えていて、それを”「守護神の神明社」にあるとしていたのではないか”と云う事です。
つまり、だから人は ”「物造り」の祈願を神明社の神に願いをかけていた”と云う事に成ります。
”果たしてそうだったのだろうか”検証してみる事にします。

「部曲(かきべ)」等に依って生み出される産物は当然の事として、この産物だけでは「生活の安定」と云う定義には成りません。そもそも「市場経済」が未発達な物々交換を主体としていた時期の判断としては無理が伴ないます。勿論「生きる」という定義では成り立つ事ですが、これは仏教の範疇です。
そうすると仏教の思考ではないとすると、「神」に祈願するとなると「生活の安定」と成ります。
「自然神」の「自然の恵み」を得て得られる産物から、それを加工する「物造り」(付加価値)、つまり「第1次産業」がこれに連動しなければこの時代の定義とは成り得ない筈です。

「生きる」-「自然神の恵み」(「産土神」)→「生活の安定」-「物造り」(「祖先神」)

そこを天智・天武天皇が考えて「物造り」(付加価値品)を「経済生産の根幹」に据えたのです。
それを「自然神」から生まれた「祖先神」に課せ、「大化改新」の政策の実現の為には当然に物造り(付加価値品)が必須条件でそれは上記の関係式であった筈です。

「皇祖神」として「自然神の祭祀」を天皇家が受け継いで300年、それを”神明社で全て執り行う”と云う形に進化させて構築したのです。「自然神」を根幹とする「鬼道信仰」の「占術の御告げ」の具現化を「物造りの神」として創造して、「自然の恵み」に「付加価値」を付けて「神の恵み」が民に現実のものとして伝わるようにしたのです。ただ御告げで天候に注意して農耕だけをするのではなく、より高い「神の恵み」を「付加価値品」で与えようとしたのです。この政策の為には「豊受大明神」を伊勢大社に鎮座させる必要があったのです。
この様に「五穀豊穣の祈願-(自然神)」と、「物造りの祈願-(祖先神)」の両方を祈祷・祈願する「祖先神-神明社・皇祖神-伊勢大社」を造り上げたのです。
前段で論じた様に、「皇族系の融合氏・祖先神」の「各地の神明社」がこれを執り行う祭祀と一致させたのです。


「五穀豊穣・自然神」+「物造り祈願・祖先神」=「神明社の祭祀」=「自然神・伊勢神宮・皇祖神」
∴(皇祖神・自然神)=(祖先神・神明社)
以上の関係が成り立ちます。

この時期に「祖先神」を創造した時に「皇祖神」との親子関係から「神明社」に於いて「物造りを願う行為」を祭祀の一つとして加えたのです。依って結局は「祖先神」は「物造り」と同様に政策実現の必須条件と成り得たのです。故に「桓武天皇」が以北地方に政策として「20箇所の神明社」を稚友の坂上田村麻呂に命じて建立した事を物語ります。

故に「物造り」(政策 付加価値品)は必ずしも「自然神の農耕の恵み」と云う事には成らないのです。
「農耕の恵み」+「付加価値」=「物造り」

大化期では「自然神-鬼道信仰」をより具体性のある占術だけではない信仰に変化させたのです。
「国家の信仰」としての「祖先神-神明社」で祭祀を執り行う以上は具現化の必要性があったのです。
しかし、一方ではその「鬼道信仰」の形を遺す為に斎蔵の中に阿倍、卜部等の鬼道に関わる職能官僚を朝廷内に作り、平安期には陰陽師なる役職を残したのです。
これは「鬼道信仰」の内容を細分化してそれを担う部署や役職や社種を造り上げたのです。要するに上記した具現化であり政策化であります。その中で最も主点であり重点を置いたのが「皇祖神-祖先神-神明社-青木氏」の役割であったのです。
それは又、上記した天智天武の天皇の鬼道や産土神の考え方から来る危惧の政策実現でもあったのであり、信仰としても占術に頼らないより現実味のある一段上位の信仰を狙ったとも考えられます。
この具現化、政策化だけでは「民の生活」との繋がりに欠けるところから神明社には「生活の神」を付加したのです。
これは「豊受大明神」の御利益には「物造りに依って得られる豊かさ」と「生活の安全安心がもたらす豊かさ」の二つに分けられます。この「2つの具現化」でもあったのです。「鬼道信仰の具現化」に付いてこれ程に深化し尽くされている事に驚きです。
それまでは「生活の安定」=「家内安全・氏の安全の祈願」は、「祖先神」の定義である”「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、 「自分の集合」である一族一門の子孫の「守護神の重複性も持つ神」”の思考原理から考えると、これは上記の関係式と一致する事と成ります。
「物造りの神」と「生活の神」の「祖先神-神明社」の存在意義の実現にはこの思考原理に真に一致しています。

現在に於いて各神社に於いて普通に「家内安全・氏の安全の祈願」をする習慣・感覚・概念は、次ぎの「時」に起こった習慣であった事に成ります。
「祖先神」と「皇祖神」が創造される前はその根幹は「自然神」であるのですから、特定に「氏」や「民」が「社」を構えて各地で盛んに自由に祭祀し祈願すると云う習慣ではなかった筈です。
それは「特定の場所」、「特定の人物」に依って代理的に一箇所で「鬼道」として「祈祷」されていた習慣であったのです。
依って「祖先神」-「皇祖神」として明確に確立した「仕来り」として、”広域の各所で夫々の祭祀者が「祈祷・祈願」を行う” と言う形式は自然神の限定した特定の場所に於いて行う自然神と異なり「天智天武天皇の決断」に依って起こった事に成ります。
依って、「物造りの政策」の実現は「皇祖神-祖先神-神明社」に特別に委ねた行為であった事に成ります。確かに「物造り」は前段で論じた「自然神の思考原理」からすれば自然の行為の壱物である事は否めませんが、これを発展させた政策として一つのものに確立して「祖先神-神明社」に課せた行為は自然神とは成り得ません。
大化期には自然神から学び、その自然を活用する行為を確立して、それを宗教的理念として、更には政策として、神明社の一つの存在意義として確立させたのです。
当時としては、前段で論じた宗教の位置付けから考えると、異常とも思える宗教目的であったと考えられます。それだけに、「民」は「神明社」に新鮮さを感じ崇め信頼したのです。
そしてそれを各地に建立して行ったのですから、「民」はそれまでの「自然神」の延長の「鬼道信仰」から脱却し ”新たな宗教体が誕生した”として、それを観て「弥生信仰」を見放し「鬼道信仰」へと進んだ様に、更には「神明社信仰」へと「心の切り替え」を果たさせたのです。
この意味で天智天武の政治的な政策目的は最終的には果たせたのです。

(特記 この政策実現に関わったのが日本書紀にも詳しく記載されている青木氏の始祖施基皇子であったのです。日本書紀と青木氏の論文参照)

そしてそれは次ぎの時期から起こった事に成ります。
(神明社の神官に青木氏が多い事もこの事を証明出来るのです)

「大化改新」の政策決定が成された時
「祖先神」が創造された時
「融合氏」が発祥させた時
「賜姓青木氏」が発祥した時
「皇祖神」が発祥した時
「神明社」が建立された時
「武家」が発祥した時
「侍」が発祥した時

「生活の安定」=「家内安全・氏の安全祈願」=「物造り祈願」(付加価値祈願)

天智・天武天皇の改新の政策は以上の数式が成り立つと事を基盤にしていた事に成ります。
そして、これを次ぎの数式の政策数式に創り上げた事に成ります。

「皇祖神」=「神明社」=「祖先神」=「融合氏」→「物造り祈願」(付加価値祈願)+「生活の安寧祈願」


「神明社」の祭祀の様子を観察すると、「農業」とするより「物造りを願う行為」と観られる祭祀動作が名残として沢山確認出来ます。
その一つとして農産物・海産物の「御供え」そのものに限らず、それらの加工品や酒、味噌、醤油、中には木製加工品、鉄金属製加工品、等の地域の殖産物のお供えと祈願行為はこの名残から起こったものである事が判ります。付加価値品の表現なのです。
(「祈祷」と云う言語はこの「鬼道」の言語の変化では無いかと考えられています)

この様に「神明社」に於いては「自然神の祈願」のみならず大化期の政策の「物造り祈願」」(付加価値祈願)の反映が大きく確認出来るのです。
勿論、「生活の安寧祈願」も御利益の一つであります。

この時以来、5代の天皇の第6位皇子と19人の第4世族皇子は臣下して主要地の守護王と成り、そこにこの「皇祖神」の支社と祖先神の神明社を守護地に建立しました。これが各地に広まる原因となり、支社から更に各地に分社が広まりました。
この「皇祖神」の支社の「神明神社」、又は「神明社」が奈良期と平安期に於いて先ず何処に「分霊」されたのかを記します。(前段で論じた)
これ等はある一定の「括り」がありその内容からまず記述します。

これはなかなか面倒な研究で、規模から観てざっと拾い出してまとめると1万5000位あり、中には祠や併社などがあり、時代性から観てもその殆どが1500年代以後のものが多く所謂「お伊勢参り」の流行から広まったものです。
皇祖神の神明社の「神明信仰」の広まりを観察すると、次ぎの3つに分けられます。

奈良期
先ず第1期は、上記した19人の第4世族の守護地に伊勢神宮の分霊を近畿圏に朝廷は行った時期の奈良期。

平安期
次ぎに第2期は、日本全国を統一した征夷大将軍と鎮守府将軍と太宰大監が東北、九州に掛けて日本全国を統一し其処に民衆の信仰の対象を神明信仰に求めた時期の平安期

この二つの時期(奈良期と平安期)には合わせて他に近畿では「熊野信仰」、北九州では「阿蘇信仰」、「宗像信仰」、宇佐信仰、中国では「出雲信仰」、「厳島信仰」、関西では住吉信仰、広田信仰等も最も盛んに成ったのです。

この「皇祖神の伊勢神宮」と「祖先神の神明社」がありながらそれをそっちのけで、近畿に起こった天皇等が毎年通い続けた「蟻の熊野詣」と称される「熊野信仰」が起こります。
それも熊野神社の身内の勢力争いが原因して衰退し(1180前頃:原因は平家衰退)、結局は元の「お伊勢詣」での「神明信仰」が再び蘇り始めたのです。

次ぎにその蘇りの流行を示す第3期の時期が始まったのです。

室町期、江戸期、明治期
その第3期は時期は更に室町期、江戸期、明治期で分けられます。
最も広く広まった時期は「お伊勢参り」の流行から江戸期で、次ぎは室町文化の反映として室町期、そして、廃仏毀釈の影響を受けての明治期と成る様です。

ところが、この内、「祠関係」の規模の小さいものや「併社関係」を除くと5000以下位に成ります。この5000の「神明社又は神明神社」の内、次ぎの様に成ります。

室町期が2割
江戸期が7割
明治期が1割
程度に分けられます。

当然にこの中から鎌倉期、平安期のものを拾い出そうとするのですが、多くはその由来と創建期が明確にしていないのです。恐らくは、より古の頃からある様に見せかけ権威付ける目的から問いあせても明確にしないのです。
しかし、そこで判らないものに付いては何らかの判別方式を確立する為に調査すると、ある程度の確立で
「鳥居の形式」(A)や「本殿の建物形式」(神明造、大社造、住吉造)(B-1)から判別して観る事が出来るのです。
建物は「延喜式」(B-2)であるか、その「配置形式」の違い(C)や、又、鳥居の形式は「神使」を象ったものですので初期の頃から時代毎に変化しています。この特質を読み取ります。
その建物は主にこの「3つが目的の変化」と「時代の変化」によりデザイン化しているのです。
この3つから判別する事が出来ます。

さて、そうなると、青木氏との関係から時代性では奈良期と平安期のものが意味を持ちます。
上記の「3つの要素」(A、B、C)で調査すると、全国各地の「神明社、又は神明神社」は50程度に絞られてきます。多少のエラーを持つ可能性がありますがほぼ確定します。
この殆どは歴史的に観て、「賜姓青木氏」と「皇族青木氏」と「藤原秀郷流青木氏」の二つに関係する地域又は国に当て嵌まる傾向を持っています。中には青木氏と政治的史実が存在する地域にも観られます。
この青木氏とのある傾向関係が把握できれば良いのでこの範囲で進めました。
これに依って伊勢青木氏を始めとして全青木氏の守護目的の伊勢神宮との繋がり関係がどのように各地に及んでいたかを網羅する事が出来ます。前記した予備知識を基に其の背景を描きながらお読みください。
当然、下記に示す主となる19地域の第4世族皇子王の守護地を含んでの事です。
残り主要な30/80程度が藤原秀郷流青木氏との関係する地域や国に存在します。
中にはある筈の「社や杜」が無いというところも観られますが、恐らく、室町期の下克上、戦国時代、江戸期の一揆や明治期の廃仏毀釈の騒動や第2次大戦で消失したものと考えられます。
この傾向は上記の原因から主に現在の都会に位置する社や杜が存在する森全体が消失したと見られます。
特に、中でも、現在呼ばれている社や杜名は「神明社」とされるところが古い傾向を持っていて、平安期のものには傾向として「神明神社」と成っています。
これには明治期の廃仏毀釈などにより途中で変名している事も覗えます。
その主要な50/80程度の「神明社や神明神社」には多くは伊勢本宮の「分霊社」と成っています。
中には「支社」とするものもあります。江戸期、室町期、明治期のものについてはこの特定が困難です。

この主要な50/80の「神明社や神明神社」の地域との政治的な由来が判り、第4世族以外の皇子の神社の「若宮神社」との関係も判り、当時の神社関係の勢力関係も表す事が出来ます。
「神明社」と「若宮神社」の関係から平安期の「朝廷の政治性」が見えてきます。

そこで、先ず第4世皇子族の「神明社や神明神社」関係を記述します。
その前にそれを面白く理解する為に当時の社会慣習などを列記してみます。

「第4世皇子族の守護地と神明神社」
これらの第4世王の皇子王はそれぞれの生まれた土地の古代地名を採り名乗っています。
多くはその母親の在所を名乗る習慣がありました。
この事に依って土地の豪族(母親)の身分が判り、皇子と王の身分(順位)が確定する制度が敷かれていました。つまり、王名は「守護地」であり「古代地名」であり「身分」である事になります。
当然にそうすると皇子と王には順位があり、その順位に依って守護地は配置されます。
その順位は先ず第1世から第4世までとされています。
中大兄皇子(天智天皇)が大化の改新を実行する前までは第6世までを皇子王としていました。
改新後は天皇が代わる度に起こる第4世までを皇子王とし、第5世族の皇子王はその時の皇子数のあり様で皇子王とするか臣下して皇子王扱いから外れる仕組みです。
古来はこの考え方が規準と成っていて、上記した様に四角四面に竹を割った様に右左に分けるという感覚は当時の社会慣習から有りませんでした。ゆったりとしていたのです。むしろ、合理的、現実的な慣習が敷かれていた事に成ります。
次にこのままでは序列が出来ませんので、その皇子王には身分の順位が決められていました。
その時の天皇に最も近い者から、先ずは「母親の身分」により決まります。身分が同じであれば生まれ来た順序に従います。

母親の身分は先ず4段階に分けられます。
妻の身分
第1位 皇后:きさき (正妻)
第2位 夫人:つま ふじん
第3位 妃:ひめ、
第4位 嬪:みめ、
第5位 妥女:うねめ (階級外の女官)
以上です。

しかし、現実はこの時代は「完璧な純血性を保持する習慣」ですので、第3親等以内の者が妻に成る事が殆どです。依って同族血縁の弊害の危険を避ける為に皇后から第3位の妻までに子供を設ける事に成っていたのです。
しかし、産まれては仕方がないのでトップに定められますが、この当時は極めて乳児や子供の死亡率が高かった事から、又、血族結婚であり元々問題が多いので育たないと言う事が起こります。
育っても殆ど役に立たない子供と成りますので扱いを敢えて皇子としないか僧侶にした様です。
そこで、優秀で良い子孫を遺す為に、序列外の無血縁の「女官」を選んだのです。
この「女官」と云っても全国の土豪の娘を「人質」に取ります。しかし、この「人質」も殆ど人質ではなく「女官奴隷」としての扱いです。
これは4段階の妻の身分制度が厳然としていた為に宮廷の女人社会の掟から起こっていのたものなのです。
そして、その「女官」もその土豪の身分の序列に従います。子供を産みますと「妥女」と呼ばれる様に成ります。従って、産まれた皇子や皇女には必然的に序列の決定的な身分が定まります。
これにより、天智天武期に定められた皇位継承制度により4世族内で皇子は第1位から第6位までと定めます。
そして後の第7位からの皇子は賜姓などの特別の扱いを受けません。第4位までを皇位継承権を保持しますが、その時の皇子数により第6位も皇位継承権を保持する場合があります。
依って、第6位皇子は皇子数が足りている場合は賜姓を受けて臣下して天皇の護衛団の家柄に入ります。基本的にこの第6位皇子は第4世族までとします。
例えば、青木氏がこれに当ります。光仁天皇は第6位皇子の施基皇子の長男でしたが、当時女性天皇であった事から男子皇子が居なかった事から急遽、最も順位の高い賜姓伊勢青木氏の施基皇子の2世が光仁天皇に成りました。
特例として、第7位皇子の川島皇子も賜姓を受けて近江の佐々木の地名から取って佐々木氏を受けました。(近江佐々木氏も青木氏を研究している)

その4世族の皇子王は次ぎの地域・天領地・主要地の王と成り、此処に「神明社」を先ず建立し「神明信仰」の布教に務めました。
平安時代の国66の国の区割りとは守護地と異なる。

伊勢王(三重県 松阪市 国府)、
近江王(滋賀県 国府)、
甲斐王(山梨県 国府)、
山部王(滋賀県 草津-東近江-守山地方)、
石川王(石川県-福井県 加賀-能登地方)、
高坂王(長野県 更級地方)、
雅狭王(滋賀県 近江-若狭地方)、
美濃王(岐阜県 国府)、
栗隅王(京都府・宇治市 山城国-久世郡地方)、
三野王(長野県 国府 信濃)、
武家王(京都府・但馬国 若狭側地方)、
広瀬王(岐阜県 大垣市地方 国分 国分寺)、
竹田王(大阪府-京都府 竹田地方)、
桑田王(愛知県 豊田市地方)、
春日王(福岡県 春日市地方)、
難波王(大阪府 摂津地方)、
宮処王(奈良県 桜井市 金屋地方 つばいち)、
泊瀬王(奈良県 桜井市-朝倉地方 長谷寺)、
弥努王(愛知県 尾張-信濃側地方)
(三野と美濃と弥努は他の書籍では混同している)
以上19人/66国

これ等の地に神明神社が建立され民の安寧と信仰の基としました。
信仰の伝達手段が無いこの奈良平安期には、朝廷は政策としてこの地から「神明信仰」を広げるために先ず支社を建てたのです。そして、普及を図りました。

そして、この伊勢松阪の天領地を神明神社の大社として重きを置くために天智天皇の皇子の施基皇子を第1位の守護王として配置させました。
この時には皇位継承制度の見直しで第4世王までを皇子とし守護王とすると定めました。
この第4世王までの内、第6位皇子以降は臣下させて賜姓し、各主要地の天領地の守護王とする事を定めたのです。この第6位皇子が5人の天皇から青木氏の賜姓を受けて配置されました。
(伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5天領地)

天武天皇時には14の皇子の中の兄天智天皇の皇子の第6位皇子の施基皇子が守護王となり、この神明の皇祖神の伊勢神宮を護る役目を与えられましたが、それまでは、一代限りで中大兄皇子の政敵で叔父の孝徳天皇の子供が伊勢王と成っていました。
孝徳天皇の失脚と伊勢王の子供2人の突然の病死(政争)で天智天皇の施基皇子が勤める事に成りました。
この施基皇子は大変有能で天武天皇の相談役として働き草壁皇子の皇太子よりも2つも上位の身分となり多くの大化改新の改革に取り組みました。
(日本書紀にも最も多く出て来る人物でした。日本書紀と青木氏のレポト参照)
このために国司を送り「三宅連岩床」がこれを務めました。

この神明は「農耕儀礼」の神として信仰されました。
後に後漢の渡来人の帰化人阿多倍王らの子孫らの働きで各地(上記5国)で開墾に携わり著しく進み、この農耕の神明が伊勢神宮から各地に支社を作る事になりました。
上記19の守護王の国にも皇祖神の神明神社が建立されました。
これが全国各地にある神明神社の元と成ったものです。
現在は、約5000から小さいものを入れると15000もあるとされています。
この「神明信仰」にも後漢帰化人の阿多倍等の200万人の集団が次の「観音信仰」の伝導にも関わっているのです。
この神明神社の特長は、「神使」として「鶏」が定められましたが、この経緯から鶏の形に似せた鳥居があるのが特長です。そして、そこには地名として「鳥居」と云う地名が多く起こりました。

この神明神社の主要神社の地には皇族賜姓青木氏や藤原秀郷流青木氏や嵯峨期の詔による皇族青木氏が存在します。これは皇族守護神である為に守護王が支社を移設した事から始まっているのです。
平安時代は伊勢神宮の「神明信仰」が始まり、後半では熊野神社の「熊野信仰」へと信仰対象は移って行きました。どちらも同じ時期に建立されているのです。(熊野三山信仰から見るとやや熊野神社の方が早い)
天皇自らが伊勢神宮から熊野神社へと信仰の対象を変えて行く程の経緯が起こりました。
後に鎌倉、室町時代を通じて「五穀豊穣」を願って多く建立されたものなのです。
「神明信仰」は「鶏」が「神使」で「五穀豊穣」の信仰対象、熊野神社は「やたからす」を「神使」とし「人の癒し」を信仰対象と成っていました。

伊勢青木氏が主となり5家5流青木氏の護る伊勢神宮はこの神明神社の総本社です。
この伊勢神宮は朝廷より「不入不倫の権」が与えられて以後、神明神社はもちろんのこと、「観音信仰」の仏教寺院も打ち壊した織田信長に侵入されるまで護られました。
その信長の徹底した「既成勢力の排除」で「観音信仰」の総本山の比叡山は焼き討ちされ、もう少しで「神明信仰」の総本山の伊勢神宮も焼き討ちに合うところ、信長はその戦いの基点とする処の「丸山城の建設」を行います。
「皇祖神の神明の地」のこれを守る為に伊勢青木氏、伊賀氏、北畠氏の3氏等が信長に挑みます。
「伊勢青木氏」は「2足の草鞋策」の経済力と伊勢シンジケートを背景に戦います。
そして、次男信雄を差し向けて全力をあげての戦いでしたが、信長の戦跡で只一つの有名な敗戦をします。この後、再び戦が始まりますが本能寺の変で信長は落命します。これで伊勢神宮は助かります。
この後、秀吉に命じられた藤原秀郷一門の蒲生氏郷(伊勢の特別賜姓族の遠戚)は伊勢神宮と守護氏の伊勢青木氏を護り保護しました。その後、徳川氏に成って元に戻りました。
家康はこの「農耕の神」として「神明神社」を奨励します。
そして、伊勢神宮を保護し、伊勢松阪を紀州徳川氏の飛び地領とし伊勢青木氏を保護します。
それと同時に、青木氏の菩提の浄土宗の督励令をわざわざ出して保護します。
そのために「神明神社」が各地に建てられ、下記に述べる「観音信仰」や「阿弥陀信仰」の著しい発展が起こりました。
平安時代の「熊野信仰」の「蟻の熊野詣」から、再び江戸に入り「神明信仰」の「お伊勢参り」へと移って行ったのです。
以上が「祖先神-神明社」関係の補足の概容です。

次ぎは「祖先神-神明社」を論ずる上で見逃してはならない重要な事柄が幾つか存在します。
これらに付いては充分に研究して関する事柄がクローズアップ出来ておりません。これからの研究課題ですが、判ってきている事柄に付いて論じます。

「古代密教との関係」
次ぎは「観音堂」です。つまり仏教との関係のとりわけ「観音信仰」との関係に付いてです。

618年頃に後漢が滅びその時から後漢の人たちは渡来人として帰化人としてきました。
その第1陣に渡来した鞍造部の首魁の「司馬達等」(司馬氏の始祖)により私伝導された仏教が広まり、その後漢の配下の者達はその信仰の対象として釈迦観音像を彫りこれを祀りました。
これが始まりです。
その後、この後漢の帰化人を率いて来た後漢光武帝より21代の末帝の献帝の子供の阿智使王とその孫の阿多倍王がこれらの渡来人をまとめ日本66国中関西以西32国を無戦の状態で制圧し配下にしました。
この首魁の阿多倍王は南九州の大隈地方に住み着きました。帰化後朝廷よりこの大隈地方を薩摩国を半割譲して正式に与えられました。
更に朝廷から呼び出されその200万人の集団を率いる阿多倍に対して伊勢の北部伊賀地方をも半割譲して与えられました。
この時、阿多倍王は敏達天皇の孫の芽淳王の末孫の娘を娶り准大臣に任じられました。
そして、3人の子供を生みましたが、長男は阿多倍王が後漢から率いてきた軍を元に朝廷軍を任されて坂上氏を賜姓され、初代の征夷大将軍となり日本全土を制圧させました。
次男は後漢から引き連れてきた事務官僚集団を元に朝廷の財務を任されたのです。
そして賜姓を受けて大蔵氏を名乗りました。
三男は天皇家の財務を任され内蔵氏の賜姓を受けました。
このころの政治体制は3蔵と云い、朝廷の祭祀一切を執り行う「斎蔵」(藤原氏)と「大蔵」と「内蔵」とで構成されていました。阿多倍子王の子孫は軍と2つの権力を握ったのです。
これ等の200万人とそれに慕う倭人とがこの仏教に信心をしていたのです。
これを祀るところに堂を作りそこに観音様の像を彫って「観音信仰」が彼等に因って始まったのです。
「神明信仰」とほぼ同時期に仏教の「観音信仰」も始まったのです。
関西以西32国以外にも上記する5天領地の開墾も行いますが、この地にも当然に「観音信仰」は広まります。そして、「観音信仰」と「神明信仰」も合わせて同時に伝導されたのです。
この”「2つの信仰」が平行して進む”と云う事は「祖先神-神明社」にとって”どの様な影響を与えたのか”と云う疑問が湧きます。
そして、その「観音信仰」は青木氏に大きく関わる「古代密教の浄土宗」と発展して行くのです。前段で論じた様に「古代密教の浄土宗」の最初の信者の氏は「青木氏」といっても良い程のものです。
奈良期の仏師で仏教伝導の祖の子孫でもある「鞍造り部止利」の作である「生仏像様」を戴く立場にあった訳ですから「仏教の正式な最初の信者氏」であると云っても過言ではない筈です。

一方では「神明信仰の担い手」、他方では「観音信仰の担い手」と云う立場にあった事に成ります。
両方の担い手であった事は無関係ではなかった筈で大きく相互関係を保持していた事が云えます。

「神明信仰の担い手」+「観音信仰の担い手」=「2つの青木氏」

この「2つの青木氏」が担う「観音信仰」は「古代密教」であるが為に「祖先神-神明社」の様な全国的な建立とまでは行かなかった筈で、「古代密教の浄土宗の分布」が前段で論じた様な「祖先神-神明社」分布には至っていないのです。「2つの青木氏」の主要定住地に分布が限定しているのです。
この事から観ると、「祖先神-神明社」に対する関わり具合は相当とまでは行かなかった筈です。
前段で論じた様な国策としての貢献度としては「祖先神-神明社」程ではなかった事を物語ります。
「古代密教の浄土宗」が庶民の所までは至っていない宗教であったからだと考えられます。
後には3大古代密教の宗教戦争が起こり、鎌倉期には日蓮宗を始めとする他宗から著しい攻撃を受けた事等があり「祖先神-神明社」の貢献度に大きく寄与したとは云い難がたい処があります。

まして、これが、奈良時代の大化の改新の前の物部氏の「神明信仰」と蘇我氏の「観音信仰」とで国の信仰対象をどうするかで争いを起こしたのですから暫くは冷却期間があったと考えられます。
(聖徳太子の時-天智天皇)
結局、蘇我氏の「観音信仰」が勝ち、その「観音信仰」の人々を背景につけて勢力を伸ばしたのが蘇我氏なのですが、その後この事を苦々しく思っていた中大兄皇子は蘇我氏を打ち倒して歴史ある「神明信仰」を再び呼び起こして、伊勢にその拠点を作りそれを「皇祖神」として定めたのです。
しかし、「観音信仰」も朝廷は取り入れ、且つ、「神仏融合の策」をも取り入れて共に発展させ様としたのです。
これも農耕民族の所以です。従って、朝廷は「神明信仰」は「皇祖神」としながらも「農耕の神」としても位置付けて融合を図ったのです。
物部氏(高句麗)、蘇我氏(百済)はともに450年代の初期の帰化人で勢力争いをしていました。
(飛鳥時代の大和政権の主要5族 紀氏、巨勢氏、葛城氏、平群氏、物部氏 物部氏は兵の集団)

実は「観音信仰」の仏教をもたらした阿多倍王に付いてこれがもう一つの毘沙門天の解説に繋がるのです。
この像を最初に彫った後漢の帰化人「司馬達等」の孫の「鞍造部止利」が飛鳥時代の殆どの観音様の像などを彫ったのです。実は伊勢青木氏の賜姓時に天智天皇から与えられた現有する護本尊の「大日如来坐像」はこの「鞍造部止利」の作です。
恐らくは、朝廷と後漢の帰化人200万人とそれを慕う大和人の何百万という人を心の救いとしてこの{観音信仰]をも国家安寧の為に推し進めたのではないかと見られます。
それを観音仏像を彫る事の出来る「鞍造部]の首魁の「司馬氏」に委ねたと見られます。
多分、「司馬達等」(歴史作家の司馬遼太郎氏の始祖)なる人物はそれを成すその様な大きな人物であったのでしょう。
そして、後に遂にこの阿多倍王の末裔9代目に「観音信仰」の神として神格化されるほどの大人物が生まれるのです。

「観音信仰」の観音菩薩を祭祀する礼堂として、奈良時代から平安時代にかけて「六堂伽藍方式」として中央本堂に安置される仏像です。この本堂を護る神として毘沙門天などを祀る四天王の堂があるのです。
「六堂伽藍方式」には飛鳥寺方式、四天王寺方式、法隆寺方式、東大寺方式があります。
観音堂を祀る本堂と左右に金堂、中央に観音様の骨を安置する舎利塔が配置され、後ろには毘沙門天などを祭り配置する方式で、中には四天王全てではなく毘沙門天だけを祭る堂が配置される形式もあります。

次ぎはその毘沙門天です。
「毘沙門天」は「多聞天」ともいいますが、四天王の一つで、後には「増長天」、「持国天」、「高目天」があります。東大寺や興福寺にはこの四天王が祭られています。
毘沙門天、つまり、多聞天は吉祥天の夫とされています。
多聞天は財宝、福徳の神でもあります。七福神の中の一人でもあります。
伽藍最前線には南大門を配置し「仁王様」が守護神として祭祀されて祭られます。方式により中門があります。中央塔の左右には東西の金堂が配置されます。そして、南大門より最も後ろの北側の中央に位置する講堂が配置されます。
所謂、「六堂伽藍方式」です。

菩薩様、如来様、天神様を左からの順序で格がつけられてこれを「3神格」と云います。
そこで、上記したこの四天王の仏像のモデルになった大人物が居るのです。
それは、阿多倍王の次男の末裔の9代目の「大蔵種材」と云う人物です。
この者は朝廷の官僚として働き、九州全土の治世自治1018を任されます。
朝廷より始めて「錦の御旗」を与えられた人物で以来正式にこの御旗を与えられた人物はいません。個人に与えられたのです。
阿多倍王が征圧した九州全土の政治軍事経済の3権の一切を任された人物です。
「遠の朝廷」と呼ばれていました。
官僚でありながら、日本一の武勇を持ち、平安時代当時、中国、朝鮮半島から九州に武力を使っての侵略、略奪やボートピープルが頻発しましたが全てを完全に制圧した実績を持っています。
日本の彼等が成した豊かさの為に避難民が津波の様に押し寄せたのですが、彼と朝廷は治安の維持のために最早帰化を許さなかったのです。
又経済でも、阿多倍らが引き連れてきた200万人に及ぶ技能集団をよく統率し、その技能を九州全土や関西以西の中国地方にも拡げて経済は著しく良くした事でも有名な政治家の人物です。仁王像のモデルと成った人物です。
現在の第1次産業の殆どはこの後漢の技能集団の帰化人の末裔で発展したのです。
ですから九州には瀬戸物や製鉄などの一時産業が多いのです。
経済も含めて貧困から大富をもたらした万能人で、当時は平安の「万能の神」とも崇められた人物です。
この神格化して当てたのが毘沙門天なのです。
実際の毘沙門天等の姿のモデルにも成っているのです。

この彼は平安の日本一豪傑でありその代名詞に成っている大蔵氏の末裔です。後にこの人物は余りに資質剛健であったので神を護る者として神格化されたのです。
毘沙門天はこの「大蔵種材」の勇士姿を後に崇めたのです。
恐らくは、妻の吉祥天は大蔵種材の妻をその功を証し崇めたのではないかと思われます。
その為に、鎌倉時代から室町時代にかけてこの毘沙門天を「侍の鏡」として崇められ、「毘沙門天信仰」が武門の間で起こったのです。
仏教は飛鳥奈良時代からの観音菩薩の「観音信仰」から始まり、平安時代からは浄土宗の「阿弥陀如来信仰」が起こり、鎌倉時代からは「毘沙門天信仰」(四天王信仰)が時代の状況に合わせて起こります。

「観音信仰」→「阿弥陀如来信仰」→「毘沙門天信仰」(四天王信仰)

そこで、前段で論じた様に、この「3大信仰」は「祖先神-神明社」との関わりとして重要なのです。
「観音信仰」の青木氏に対して人物で血縁関係するこの「毘沙門天信仰」(四天王信仰・毘沙門天を「侍の鏡」とされた人物)の大蔵種材(9代目)の祖の後漢の渡来人・帰化人の首魁阿多倍王は伊勢伊賀地方に領国を与えられ定住していましたが、阿多倍(後に高尊王・高望王と呼ばれていた 朝廷の記録では平望王と呼ばれていた)の孫娘の「高野新笠」が光仁天皇と結婚しその子供が桓武天皇となりました。この桓武天皇の子供に平城天皇と弟の嵯峨天皇があります。
この光仁天皇は施基皇子の子供で長子で、第5位までの皇位継承者がなく第6位皇子の施基皇子の末裔が特例で天皇を継承しました。伊勢青木氏はつまり、血縁的には光仁天皇、桓武天皇、嵯峨天皇まで血縁族と成ります。
この「3大信仰」は、先ずは「観音信仰」は「初代の融合氏」であるので「初代の信者」であり、「阿弥陀如来信仰」は「古代密教の初代の信者」であり、「毘沙門天信仰」(「侍の鏡」)は「3つの発祥源・侍の祖」であるので上記「血縁関係の初祖」であり、何れも「皇祖神-祖先神-神明社」の青木氏がその根源と成っているのです。

そこで、この「毘沙門天」の祖の阿多倍王の3代目後の末裔の平の貞盛が、独立国を作るとして反乱した「平の将門乱」を藤原秀郷とともに親族の立場で鎮圧しました。(藤原秀郷は藤原秀郷流青木氏の始祖です。)
平貞盛より5代後が太政大臣平清盛です。この清盛は敏達天皇の末裔にして上記した様に桓武天皇の末裔でもあります。当然、阿多倍王の子孫とも成ります。
この事から「たいら族」は「桓武平氏」と呼ばれ、「桓武天皇」より青木氏の賜姓を中止し、皇族7世族の「ひら族」の「坂東八平氏」に似せて「たいら族」として母方の一族を賜姓したのです。その末裔が平の清盛です。
大蔵氏や内蔵氏や坂上氏や内蔵氏やそこから出た阿倍氏や安倍氏は血縁族です。
その祖先の毘沙門天のモデルと成ったのもこの一族なのです。
余計談ですが、伊賀忍者は阿多倍一族のこの末裔です。
伊勢青木氏は天正の乱の時に上記の血縁の経緯から、この伊賀人が信長から攻められた時に奈良時代からの付き合いのある彼等を救い信長と戦い勝利します。信長の只一つの敗戦です。歌舞伎にも成っています。(然し、突き詰めると、織田氏も美濃域の「たいら族」の末裔ですので同族争いとなります。反面青木氏は「過去の絆」を守った氏であったのです。)

「権威の象徴の危険」
伊勢には松阪の「神明信仰」と、隣の伊賀地方には「観音信仰」が共存し、伊勢青木氏には「神明信仰と」古代密教の「観音信仰」(平安期には青木氏は阿弥陀如来の浄土信仰)が共存していた事になります。
「毘沙門天信仰」(四天王信仰)も上記の通り「侍の祖」として「祖の立場」にあるのです。
しかしながら、皮肉にも5家5流の賜姓青木氏はこの同族の桓武天皇と隣の伊賀の「観音信仰」を推し進めた阿多倍末裔子孫に圧迫されて一時衰退します。
(「過去の絆」を守り続ける信念の持った青木氏を同族と血縁関係社が圧迫 非条理なのか)
「神明信仰」(イ)の上にこの「3大信仰」の「信者の氏の祖」(ロ)としての立場があり、「3つの発祥源」の立場(ハ)を保全していて、尚且つ、平安期前後の「3人の天皇」の「親政族」(ニ)としても極めて大きい立場(権威の象徴の立場)に成っていた事等を考え合わせると、律令国家建設の世界としては危険視されて一度政治の立場から、為政者達とは「過去の絆」があっても、どうしても「権威の象徴」を外す必要があって押さえ込まれたと考えられます。
この時期、恐らくは同じ仏教でも司馬達等による後漢伝来の古代仏教の「観音信仰」と、古代浄土密教の「阿弥陀如来信仰」が対立した事も原因と考えられます。
現に、平安時代に法然上人の浄土宗密教、弘法大師の真言宗密教、最澄上人の天台宗密教の3密教による激しい宗教論争が起こっています。
それぞれの立場と考え方と信者層が異なっていた為に、「観音菩薩信仰」、「阿弥陀如来信仰」の密教の位置づけについて論争が起こりました。恐らくはこの論争と建立競争の宗教戦争の元と成ったのはこの「神明信仰」と「3つの信仰」に関わる「青木氏の立場」が疑問視されたとも考えられます。実はその証拠が遺されているのです。
後に日蓮宗日蓮が、鎌倉幕府の北条執権の問いに対してこの「神明社」-「観音菩薩信仰」-「阿弥陀如来信仰」の「密教浄土宗の背景」(権威の象徴の有様と背景)を痛烈に批判している提出した文書が遺されているのです。
(この事が原因して外国から攻められる事を予言 この文書や発言が原因して罪と成り配流 然し予言当り許される)
この事は、平安の桓武期から「賜姓族青木氏」は押さえ込まれていたが(この「権威の象徴の姿」は政治の世界から排除されたが)宗教界では400年以上も厳然として維持していた事を物語ります。
この事は日蓮の文書からも明らかな様に上記した「権威の象徴の立場」にあった事と「庶民」(百姓:おおみたから)はこの「青木氏の権威の立場」を容認していた事を示します。非難される立場に無かった事を物語ります。言い換えれば崇められ信頼され愛され続けた氏であった事が判ります。
そして、更にこの事から同族の「桓武天皇等の青木氏への圧迫」は、明らかに「親政族」そのものの「政治的形の否定」(「親政族」≠「律令政治」)に対する「政治的立場からの圧迫」であった事を意味し、少なくとも「苦渋の選択」であった事を物語ります。
現に、桓武天皇自身がこの圧迫した青木氏に代わって「神明社建立20」も行っているのです。青木氏全体の存在を否定するのであれば天皇自ら「神明社建立」は行わなかった筈です。
又、桓武天皇の子供の嵯峨天皇は、その桓武天皇の「親政族を否定する政治の有り様」に反対し父子戦争を起す程に、この桓武天皇の朝臣族ではない皇族外の賜姓(たいら族)に対して反発して、再び第6位皇子を源氏として変名し直して「賜姓源氏」として戻したのです。これが嵯峨源氏です。
これでも上記(イ)から(ニ)までの「青木氏の権威の象徴」は否定されていなかった事を意味します。
これより花山天皇まで11代続きます。この時青木氏は皇族の者が下俗する際に使用する氏名として他の者の使用を禁じたのです。この青木氏が「皇族青木氏」です。
何よりもこの直ぐ後に円融天皇は秀郷第3子の「特別賜姓族青木氏」を発祥させている事はこの「青木氏の権威の象徴」を否定していなかった事に成ります。「否定」と云うよりは「肯定」の「あるべき姿」であったのです。「嵯峨天皇」以降は「親政政治」を3回にわたり採用して政治的効果を挙げたのです。
そもそも天智天武天皇の国策の「3つの発祥源」、「皇祖神-祖先神-神明社」、「(イ)-(ニ)の関係」から「政治の根幹に関わる役目柄」を実行している青木氏に対して政治的に排除する事が論理的に異常であり、その行為は自らの政治を根幹部分で否定している事に成ります。
要するに”桓武天皇は青木氏を圧迫した事は政治的間違いであって、嵯峨天皇は正しかった、間違っていなかった”と考えているのです。
たとえそれが政治的なパフォマンスで「苦渋の選択」であったとしても”行うべき行為では無かった”と観ているのです。現に、民は400年以上もその「青木氏の立場と存在」を容認しているのです。
青木氏の自画自賛になるかも知れませんが、この平安期まで約200年も「過去の絆」を重んじて来たし、「3つの発祥源」を守り続けてきた氏が「親政族」だからと言って政治の場に口出しする氏であるかは判る筈です。
まして、桓武天皇の自らの実家の氏に対してです。はっきり云えば”洞察力が不足する”といいたい所です。前段の”河内源氏と違うのだ”と云いたいのです。
これらの青木氏が自ら「神明信仰」と「古代密教浄土宗」を下に伝導の手段の少ない時代の各地に「神明社」と「浄土寺」を建立し「観音信仰」等をも広げ、四天王の天神様のみを信仰する事」(四天王信仰)の基にも成りそれを広げた氏なのです。(大阪にある四天王寺はこの対象です。)

「若宮神社」
次ぎは「祖先神-神明社」を論ずる際に軽視してはならない重要な事柄です。
それが若宮神社との関係です。
祖先神の神明社、八幡社、そして若宮神社は「祖先神の3大神社」なのです。

次ぎに「第4世族の皇族」の守護神としたと云われているのがこの「若宮神社」です。
「祖先神-神明社」とは実はその関係に於いて重要ですが研究は余り進んでいません。
これはこれに関係する氏や人が少ない所に原因がありますが、ただ「2つの青木氏」にとっては「祖先神-神明社」に関するところからこれを研究する氏は青木氏と佐々木氏以外にはないと考えています。
本来は神明社と共に同じ立場での歴史的経緯を経ていなければならないのですが、史実は確定して居る訳ではなく詳しくは判っていません。
本来は八幡社と共に若宮社も神明社と同じ立場に在った筈で、八幡社は未勘氏族に因って牛耳られた事で史実が判っていますが、この若宮社は実はシンジケートを持っていた事が判っていますので、その働きとしては影の働きをしていた事が考えられます。充分にどの様な皇族としての役割であったかは不明です。又、「不明」である事が本来の姿ではなかったかとも考えられます。

(特記 室町中期以降には裏のシンジケートとして暗躍していた事が資料から判明しています。そのシンジケートは資料の経緯から観て駿河から以西京都までのルートと観られ、東海道線上の神社ルートかと観られます。駿河は皇子王の皇族関係者の配流先であり、秀郷一門の本領域でもあり政治的な重要な地域でありますので、 ”配流者の情報を都の摂関家に送る密命を若宮神社の神官は帯びていた”と考えられる。
鎌倉期-室町中期としては下克上・戦乱の関東域の情報を朝廷に・室町幕府に送っていたとも考えられます。この隠れ蓑として存在していたのではないでしょうか。四国域は4世-5世族の「逃避先・逃げ込み先」として「都の情報」を送っていたとも考えられます。どうも神明社の様なはっきりした役目柄が観えて来ません。
一応表向きは若宮を祭祀する神社であり、本質は神官は都の吉田氏等の神官官僚が勤め情報拠点としての役目を果たしていたのではないでしょうか。下記の分布域から観て更に強く感じるのです。
熊野神社の神職の鈴木氏の様に、全国の吉田氏の分布はこの事から来ているのではないでしょうか。吉田氏の「柏の葉」と「槲の葉」の文様の家紋分析からも頷けるところです。。)

そこでその若宮神社の信頼できる建立地を網羅します。
室町中期以降も例外無くこの若宮神社は「未勘氏族」や「下克上」で伸し上った豪族等に依って「家柄誇張の道具」に使われたのです。

「若宮大社との関係」
参考
若宮神社
・岩手県 盛岡市上太田
・東京都 北区豊島、
・新潟県 三条市柳川新田 燕市雀森家生
・山梨県 山梨市上ノ割 韮崎市
・長野県 塩尻丘入道
・石川県 金沢氏若宮 羽咋郡志賀町
・静岡県 清水区蒲原 熱海市網代 賀茂郡南伊豆町青市 賀茂郡南伊豆町大流 賀茂郡南伊豆町湊
・滋賀県 草津市芦浦町 草津市岡本町 東止江市新堂
・奈良県 桜井市馬場 奈良市(摂社)
・山口県 山口市秋穂一島 大岡市豊浦町棚 防府市佐野
・徳島県 徳島市沖浜町 南佐古二番町 阿南市那賀川町手島 仲多郡琴平町
・福岡県 柳川市西浜武 糟屋郡新宮町 糸島郡志摩町
・大分県 大分市木上
・宮崎県 宮崎市青島
・愛知県 北名古屋市
・岐阜県 飛騨市
・愛媛県 西予市明浜町高山 松山市河野別府 南宇和郡愛南町増田 南宇和郡愛南町手婆 須ノ川 西条市 今治市
・長崎県 佐世保市竹辺町
・京都府 綾部市上野町藤山
・神奈川県 川崎市川崎区大師 
・和歌山県 田辺市湊 伊都郡葛城町
・鹿児島県 鹿児島市
(以上21県は室町期中期以前の若宮神社と観られる資料)

一部調査した上記の若宮神社の事ですが、実は神明系の神社として各地に多いのです。
特に有名な「若宮」とする高知土佐の神明系の神社にはどの様な由来があるのでしょうか、何かあるから天皇家・朝廷と直接に由来する殆どの県にもあるのです。
若宮神社は「皇族系の神社」として「八幡社」と共に青木氏に関わりが有るとして少し研究した事がありますので、(その位置付けや由来やその土地にある理由など大体把握しているのですが)、「若宮」は皇子或いは皇族の子供の神社と成っている事は先ず間違いないところです。
とすると、ここで問題が生まれます。
それは「嵯峨期の詔勅」から皇族の者が下族する場合は青木氏を名乗ると云う仕来りから青木氏を名乗っている筈です。所謂、「皇族青木氏」ですがところが上記の場所から神社やその神社に関わった関係者に青木氏は全くないのです。これはどの様な意味を持つのでしょうか。
矢張り、この神明系の由来に関わる神社となるのでしょうが、しかし神明社の様にどれほどに関わっていたかはこの様に不明なのです。

「青木氏-神明社」の関わりから調べたところでは、この「若宮」の若宮神社は讃岐には特別に多い所で調べた範囲では6つの神社があります。祠まで入れると10以上はあるのではないでしょうか。(何故祠が多いのか不明 意味があると考えられる。)讃岐に続き徳島と静岡がこれに続きます。
この事は「剣片喰族」と「州浜紋」の藤原秀郷一門の勢力の最も強かった地域ですので何かかかわりがあると観られます。
これは愛媛・讃岐は全国に比べて段突です。しかし、神明神社は皇族信濃青木氏とその支流の信濃足利氏系青木氏の末裔が讃岐の青木氏に保護されて逃げ込んだ国の土佐だけにありますが、讃岐には特記するべきほど(1)には有りません。
とすると、讃岐には天皇家の「皇祖神-祖先神」の「神明神社」が不思議なくらいに少ないだけに、これは、「讃岐籐氏」の藤原氏と天皇家との繋がりが強く、血縁に依って藤原北家系の皇子皇女が多い所から、とりわけこの若宮を祀ることの強い習慣があった事を物語るものではないかと思います。
藤原北家筋の秀郷一門としては前段でも論じた様に讃岐青木氏は特別な発展を遂げますが、この背景を独自に持っていたからであると観ています。
つまり、讃岐は「讃岐青木氏の神明社」より「讃岐籐氏の若宮社」の意向から地元讃岐は「神明社<若宮社の関係」が強かった事を示していると考えられます。
歴史的に見て四国は、政変にて多くの皇族系の皇子筋が頻繁に逃げ込んだ歴史史実がある事を考えると、「讃岐籐氏」との何らかの強い関わりがあると観られます。
当然、若宮の皇子と神社には藤原北家筋、平家筋、11代の源氏筋、少ないが橘氏筋等の4つの種類がありますので、中でも讃岐籐氏派がより祭祀したと見られます。
もし、あるとすると、その証拠として、「二条院門跡」の子供等の祭る神社とも成ります。それが「二条院讃岐氏」とどう繋がるのか大いに興味が沸きます。もしかすると、「二条院」との間に出来た若宮を祭祀する神社かとも観られますのでそうすると更に讃岐と繋がります。

現在、推測の域を越えませんが、神明神社の「皇祖神-祖先神」は天皇第4世族皇子までの守護神として扱われ、第5世以降の元皇子には、若宮(皇族関係者や還俗僧)としての守護神の神社としたのではないでしょうか。(多くは比叡山門跡院に入るが還俗した場合は若宮として四国域に入ったと観られる。)
この様に考えると間尺が合います。配置されている土地柄を見ますと納得出来ます。確定する記録を探しています。
(ただ江戸期以降の若宮神社とその祠はの2種は除く 「祠は」ダミーでは無いかと考えられる。)
ただ、多くは本来の役目柄と異なり変質して「厄除けの神」として江戸時代に創建されたものが多く、創建と云う域まで達しない小さい祠の様なもの2種を除きますと、この推測に成るのではと研究しています。
ただ若宮神社には「祠」が多いと云う事には問題がありますが、これはそ「の建造能力」と「維持する能力」とそれを支える「子孫力」とが無かった事から「祠の利用」と成ったとも考えられますが、判り次第レポートします。
現在のところ、この2種を除いて観ると、「第4世族までの皇祖神の神明社の分布」と、「第5世族の皇族系の皇子族の若宮神社の分布」の2つは、平安-鎌倉期までのものとしては重複しているところは見当たりません。
この事は、天智天皇は第6-7世までを皇子としていたのを大化改新で逸早く実行したのは財政難から皇族と皇位継承問題のこの改革から来ているものと考えます。
その改革では第7世族(6世族もある)は主に坂東を守護する臣下として配置しました。
第4世族では各地に配置するだけの人数が足りませんので、そこで6世族までを天皇が代わる度に出て来る皇族の処置として、「若宮」としての言葉で括り各地に配置して、そこに「皇祖神-祖先神」の「神明神社」に代る皇族の第5世族皇子の「若宮」の「若宮神社」としたのではないでしょうか。
それが何時からかは判りませんが、天智天武の伊勢神社創建からそう遠くは無いのではと推測します。
「人、時、場所」について文献などを調べましたが明確にしているものは有りませんので青木氏で関係する部分については更に研究します。
全国殆どの県に2社から3社あり、恐らくは小さい祠も含めて100程度ある様に思います。
現在調べただけでも70近くありますが、平安期からのものとすると20-30程度内に絞り込めるのではと考えています。
検証の結果は上記の分布表の21県から観ると、多い順では静岡>愛媛>徳島>滋賀>山口>福岡>石川の7県と成りますが、滋賀の都を除いてこの6県は明らかに平安期から室町末期にかけて歴史的な史実から考察すると皇族4世族の逃亡先所縁の地と成っています。
広域で観ると、

地域  県数-社数 社/県 
九州    5-7    1.4
中国    1-3    3
四国    2-11   5.5
関西    3-8    2.6
中部    5-7    1.4
関東    3-8    2.6 
東北北陸 2-3    1.5
の21県と成ります。21県-47社と成ります。

この県-社数のパラメータからすると次のように成ります。
A 関東-中部-都へのラインが出来ている事
B 四国と中国は上記の逃亡先で明確な本命地である事
C 九州は大宰府自治と朝廷の影響地である事
D 関西は朝廷-荘園制の未勘氏族の社である事
E 東北北陸は秀郷一門の勢力地-朝廷の関係地である事

この5つのパターンに明確に判別できます。
この5つパターンから上記で論じた様な若宮社の活動が証明できます。
この事から”「祖先神-神明社」との関係は希薄であった”と考えられます。
表向きは別にして矢張り諜報機関の役目があったと考えられ、且つ皇族の者が政変等に逃げ込む為の朝廷の機関神社であったと考えられます。これが激しい戦乱になる前の室町中期までの役目であったと考えられます。その後は「厄よけの神」に生き延びる為に変わったと考えられます。
以上、神明社に関係すると考えられる若宮神社に付いて雑学として参考に記述しました。

参考 全国各地の熊野神社の神紋は次ぎの様に成っています。
神紋 烏紋(からす)
(神使 三本足のやたがらす紋も使用)
神明大社と若宮神社と関係しているのは熊野大社である。
熊野三山の名で祭祀している神社全国各地に存在する。
必ずしも熊野三山の系列であるとは限らず、三社形式、単独形式、勧誘形式、併社形式、別社形式等で存在するが、正式系列の確認はなかなか困難である。
依って、以下の神社以外にも御霊移しなどの簡易な方法で存在する事が多くあると観られる。
それぞれの歴史的な根拠をそれなりに持ち合わせているが、全に於いて確認は取りきれない。
それは熊野三山社との関わり以外に修験道の修験者の開山とも関わっているものも多い。
夫々の神社の歴史的な関係を調べたが、不思議な一点が浮かび上がる。
それは藤原秀郷流青木氏が定住していたところ全てである。
東京は埼玉入間を中心として神奈川横浜を半径とする処に定住してたが、その範囲にある神社であるが、他も岩手から福島、宮城、青森、千葉、埼玉、神奈川、静岡、愛知、岡山、広島、高知、山口、島根は勿論の事、この全ての県でも云える事である。
京都は天皇家との関係からのものであろう。
鹿児島は日向青木氏のところであるので何か事情が存在する。
不思議である。現在研究中である。
ただ、皇族賜姓青木氏の5家5流の土地には無いのである。
皇祖神-祖先神の神明神社との関わりからであろうか。
「神明神社」と「熊野神社」との関係は「青木ルーツ掲示板」の「函館の青木さん」のご質問でお答えした内容を参考にしてください。
これ等の主要地に初期の段階の基点となる神明神社が建立されました。
矢張りこの地域には正当な系列熊野神社は存在しない。
この2つの歴史ある神社と藤原氏の守護神の「春日神社」との三つ巴の宗教的な勢力争いが大いに絡んでいると観ていてそれを研究している。当然に熊野神社の無い所には「宗像神社」、「出雲大社」が存在するなどの傾向も確認出来る。
「承久の乱」、「治承、平治、保元の乱」等も絡んでいる。義経が平家に追われて弁慶の実家の熊野の日高氏を頼りに熊野神社に出向くが庇護を断わられた。これはこの勢力関係に影響している事は判っている。この乱で賜姓青木氏を始め、賜姓源氏、藤原秀郷北家一門等が平家に押されて衰退する中でこの3氏はスクラムを組んだ。そこで同じく衰退している熊野一門はこの3氏に合力をしたのではないか。
その証拠に一番後の「承久の乱」の時に平家側(田辺別当派)と反平家側(新宮別当派)とに分かれて「熊野動乱」が起こる。最終、田辺別当派が引き下がり反平家派が主導権を握る。
これが伊勢青木氏と藤原秀郷一門青木氏に関わる源氏頼政が首謀する以仁王の乱に繋がる。
「熊野神社」はこの「承久の乱」で後鳥羽上皇に味方した為に衰退するのであるから、5大神社と平安期と鎌倉期の乱との関わりからかこの熊野神社の分布は何かを物語っていて面白い。
勢力保持のために採った秀郷一門の「第2の宗家」と呼ばれる勢力地に熊野神社建立を計画実行したのではないだろうか。
或いは、江戸幕府の奨励もあり江戸期の「お伊勢参り」で熊野神社は押されて建て直しのために昔の藤原氏との親交から各地に熊野神社普及を面倒な正式な系列方式としないやり方で試みた事かもしれない。研究している。)

これ等の神社には神紋と言う紋があります。これ等の神職は相互に血縁関係を結び互いに一族化を図り神社、寺社の結束を図っていたのです。
神明社は氏神として多くは賜姓青木氏や賜姓佐々木氏、藤原秀郷流青木氏が神職を務めました。
若宮神社関係は藤原北家一族が神職を務め、藤原氏の春日大社の氏神とを護っていたのです。

結論から元は柏ではなく、槲(かしわ)の葉で蔓が付いていました。
槲は関西地方に生息する茨の一種で丸いハート形をして大きさは人間の掌程度の大きさです。関西では「かしわの葉」と云えばこの葉の事を云います。この槲葉には蔓紋と同じ形の蔓があります。
この葉は神様や仏壇等に食べる物を備える時にはこの葉の上に置いて供える習慣があります。
この神事の名残として、5月の子供の日等にはこの2枚の葉で「あんこ」の入った柔らかい団子餅を挟んで蒸して供えたものを食べる習慣があります。
まだ関西の高級料亭等ではこの神事の習慣が残っていて、会席料理の食べ物の下に敷く食器代わりのものとして使われて遺されています。最近都市化で少なくなりましたので苦労している様です。
この葉の事を「さるいばら」方言で(さるびたち)と云っていましたが少なくなった事で忘れられてしまいました。関西(平安の習慣が遺されている主に紀州奈良伊勢)ではこの葉を使う習慣が多く遺されていて、柿の葉、からす瓜の葉、紫陽花の葉、あけびの葉などまだまだ沢山あります。
従って、蔓の付いた槲なのです。しかし、鎌倉時代頃からは関東にないこの槲葉は関東に生息する柏の木の葉に成っていたのです。そして、家紋も「柏の葉」に変わっていったのです。
槲の紋は平安の時代から丸く書かれ、柏は鎌倉の時代から細く書かれているのはこの結果から来ているのです。太紋はこの紋に成ります。この例として熱田神宮の傍系末裔の山内一豊の家紋は三つ柏の細紋です。
「柏の葉」と「槲の葉」
上記の習慣から太古の世には朝廷の食事を用意する夫を「膳夫」(かしわで)と云いました。
この事から神事に御供えするものにこの「槲の葉」を使われたことから、槲の柏を「杜の神」として神聖視されたのです。
以後、朝廷の伝統として神事にはこの葉を使用された事から、神職の家がこの槲と柏の葉を紋様化して家紋としたのです。
「柏の葉」と「槲の葉」は「神紋」というよりは「神官職紋」と成ったのです。
その由来は古来、神社は旅する人にとって無くてはならない旅の基点の役目と何かの非難の場所とも成っていました。その時、古来の旅の習慣として食事の皿の役目とおにぎりを包む包装紙の役目を持っていました。
特にその手助けをする神社では宿も別の棟を作り簡易宿の提供もしていたのです。これを「・・王子」と呼びましたが、この王子では泊めるだけで手弁当か自炊でした。その為に近隣の氏子の家からおにぎりを造ってもらってこの「柏の葉」と「槲の葉」に包んでもらっていたのです。
その経緯から何時しか「柏の葉」と「槲の葉」が神官文様と成ったのです。

現在でも地元(関西域)の老舗の料理には「柏の葉」と「槲の葉」は料理の皿としてこの名残として使用されていて、奈良期からの古い慣習が一つの形として遺されているのです。「柏の葉」と「槲の葉」は神社と切り離せない物なのです。この事は万葉集や奈良期の歌に多く詠まれています。

(参考 雑学として、銀杏の黄葉、烏瓜の黄葉、むかごの葉、笹、紫陽花の葉等が良く使われていた模様で、特に紫陽花の葉は虫も食べないほどに極めて強い殺菌作用が葉にあり、料理の皿代わりに使われていたのです。現在でも使われているのですが、実はこの葉を人が間違って食べると激しい腹痛を起す程に葉には強いシアン系の毒素を持っているのです。保存剤、冷却材、殺菌剤、冷蔵庫のない時代の知恵で旅には無くてはならないものでした。紀州では「なれ鮨」といって鯖寿司を殺菌性のあるアセ・暖竹笹で巻いて保存し発酵させて保存食にし旅の食料にしたものが現在も残っています。奈良の「柿の葉鮨」も同じです。
これ等の慣習が「姓氏」の家紋にも成っていて、この夫々草木にはこの様な歴史的な意味を持っているのです。その草木の古来の特長を調べるとその姓氏の出自が判るのです。
家紋は必ずそれを家紋とした「歴史的経緯」があるのです。それを知る事は歴史の縺れを解く秘訣なのです。それは必ず「古来の慣習」から来ているのです。この「古来の慣習雑学」を知る事が秘訣です。
草木紋には必ずその草木の古来の由来がありその家紋の根拠と成っているのです。 家紋200選の半分は草木紋です。その100の家紋群が更には江戸初期には遠戚の者等が類似家紋として10倍位に拡がっています。)

従って、神木の「榊」や「青木」(青木氏の「氏木」でもある)と並んで「柏の葉」と「槲の葉」は天皇家の皇祖神の神明神社の伊勢神宮を始めに、熊野神社系の神職の氏も使用するように成りました。その後これに習い、熱田神宮、宗像神宮、吉田神宮、吉備津宮等の神明系が「柏の葉」と「槲の葉」の紋を神官職紋にしました。
伊勢神宮の宮司久志本氏、熱田神宮の千秋氏、宗像神宮の宗像氏、吉田神宮の吉田氏と卜部氏、吉備津神宮の大守氏がこの家紋を使いました。(草木の由来を知る事は氏の出自も判る)
当初は上記の様に「柏の葉」だけではなく「蔓も付けた槲の葉紋」でした。これを元は「三つ葉槲(柏)」と呼んでいたのです。
その後、時代が平安から関東に移りこの蔓がなくなり、今の柏の三葉紋と成りました。ですから、神職紋としては「柏紋」より「蔓柏紋」の方が古く正しい文様なのです。

そこで、平安初期から上記したこの神官職の間では相互に血縁関係を結びました。
神明関係の神社は当然に氏社ですので、その仕来りから自らの氏から神官を出すので大変青木氏が多いのです。
伊勢神宮は伊勢青木氏の守護地でこの伊勢神宮を護っていた氏ですし、皇祖神は自らの氏神でありますので身内から神官職を司ったのです。各地の主要神明社の多くは青木氏で綜紋を笹竜胆紋として家紋及神官職紋を「蔓付きの槲紋」としたのです。
吉田氏も奈良の古くから朝廷の祭祀を司る神職官僚でした。
室町期の山内氏は熱田神宮系の傍系です。
この柏紋を類似変紋して家紋とする氏は、これ等の末裔血縁氏が多いのです。
山内氏、牧野氏、中川氏、蜂須賀氏等あります。150位はあると思います。
多くは江戸初期に旗本や御家人等がこの変紋を使用したのです。
そこで、原型の「三つ蔓柏紋を」家紋としているのは当然に多くは青木氏で、朝廷神職官僚の吉田氏と、それらの神明の血縁関係のある末裔と見られる山本氏や長田氏です。
古い氏の青木氏には、「二つ葉」と「三つ葉」の「蔓柏紋」があります。

全国神明関係の神社は今は数えられないほどにありますが、始まりは伊勢賜姓青木氏から近江、美濃、信濃、甲斐の地に、他に19の天領地にある主要神社は多くは青木氏です。この青木氏が各地の神社と血縁関係を結んでいるのです。平安期からは特別賜姓族系の青木氏の神官職が出自しましたので、「柏の葉」と「槲の葉」の文様の他に秀郷一門の青木氏の119の家紋の神官職紋が出て来ます。
従って、神職関係の「柏の葉」と「槲の葉」の神官職紋には「2つの青木氏」の血が流れている事が云えるのです。
吉田氏や宗像氏や千秋氏とは恐らくはつながっている筈です。少なくとも吉田氏とは朝廷内での同じ環境下にいたのですから血縁関係はあったと考えられます。
前段で論じた諏訪神社系(三つ立梶の葉紋 神紋)の諏訪青木氏(抱き角紋)の氏は皇族賜姓信濃青木氏の末裔ですのですので諏訪神社とも繋がりがあるのです。
二つ柏紋(柏の葉を向かい合わせた紋 抱き柏紋)はこの抱き角紋の諏訪族青木氏と繋がっています。

当然に蔓柏紋の藤原秀郷流青木氏ですが、この氏も赴任地の24の国に自らの氏神を持って神官職を務めていますので、もとより母方で繋がり、朝廷とつながっていますので、賜姓族の青木氏と三つ巴に相互血縁関係が成立しているのです。ですから、この藤原氏北家筋ルーツは蔓槲紋または蔓柏紋なのです。

「繋がり」という意味からは諏訪族青木氏の宮司青木賢清(抱き角紋)は蔓柏、柏紋と神職関係で繋がっている事にも成ります。藤原秀郷系青木氏ルーツとして。
蔓柏紋が神職関係に元あった事が確認出来れば、皇族賜姓信濃青木氏系の諏訪族青木氏とも三つ巴に繋がっていることにもなります。
賜姓族の神明社関係の神社の神職は殆どが青木氏ですが、実は ここで重要な事があるのです。
それは前段でも何度も関係族として論じてきました「近江佐々木氏」が、特別賜姓族の神明社関係の神職の青木氏の中でも多く、特に地域性としては関東以北に多いのです。
566の神明社の神職を青木氏で賄う事には物理的に難しさがあったと観られます。
経緯としては第6位皇子の施基皇子と、特別に賜姓を受けた第7位皇子の川島皇子が近江佐々木の地名から賜姓名を授けられた経緯から、又、「近江青木氏」とも同族でもあり血縁関係があるところから「賜姓青木氏族」として見なされて特別賜姓族の神明社関係の神職に補充されたのではないかと考えられます。
実は「柏の葉」と「槲の葉」の蔓柏紋の佐々木氏の神職が多いのです。
家紋を蔓柏紋とし「綜紋」を笹竜胆紋とする佐々木氏です。これは近江佐々木氏の系列なのです。
先ず間違いはないと考えられます。
(「近江佐々木氏の研究論文」の「青木氏」に関わる部分で神職に付いて同じ様な論文が記載されている)
この「柏の葉」と「槲の葉」の蔓柏紋は藤原秀郷流青木氏の綜紋の「下がり藤紋」から神職になった時点で「蔓柏紋」に成って男系跡目に依って変紋なく、それを引き継いでいることを物語ります。

この事から、特記すべきは「祖先神-神明社」は依って「賜姓青木氏-賜姓近江佐々木氏-特別賜姓青木氏」の関係の連携で進められていた事が良く判ります。
この近江佐々木氏も源平での戦いでは近江で敗戦し美濃にて決戦して近江青木氏とともに衰退しているのです。恐らくは神官職であった末裔が無事に戦いから生き残り再び子孫を拡大させたのです。
また清和源氏木曽義仲と共に戦い敗戦して衰退させています。この事から青木氏側からの研究が難しく成っているのです。

(参考 佐々木小次郎は近江佐々木氏の出自で本家筋の者で家を再興するために旅に出た事は判っています。本家筋は現存 綜紋は笹竜胆紋 この事で良く判ります。)
(注意 宇多天皇系の滋賀佐々木氏がある 別であるがにこの宇多佐々木氏に付いては不明)
この様に近江佐々木氏との関係は神明社のみならず特別賜姓族青木氏と同様に関係は深いのです。

(神明社外のこの関係に付いてはむしろ近江佐々木氏の研究論文とその資料でかなり判別している。)
(神明神社は天照大神を祀る皇祖神で伊勢神宮が本社宮 伊勢青木氏  No706の函館の青木さんのご質問に詳細記述)

参考

宗像大社
鎮座  福岡県宗像郡玄海町
祭神 田心姫神 市杵姫神 
神紋  梶の葉
神格  旧官弊社
社数  5000
神職  宗像氏
氏子  菊地氏
神歴  平安中期
関係  藤原秀郷流青木氏

はこ崎宮
鎮座  福岡県福岡市東区箱崎 
祭神  応神天皇 神宮皇后 玉依姫命
神紋  三つ巴
神格  旧官弊社
社数  
神職  
氏子
神歴  
関係  八幡宮

宇佐神宮
鎮座 大分県宇佐市南宇佐亀山
祭神 応神天皇 神宮皇后 比売大神
神紋 旧官弊社
神格 尾長巴
社数 40000
神職 
氏子
神歴
関係 八幡宮総本宮 

さて、参考として青木氏に関わる歴史的な事として「青木氏の立場」から記述しましたが、他社の一般的な学問的で宗教的な事は書籍やインターネットなどをご利用ください。
本データーの採集とその検証と研究は各種の同好会の長年の計画的な協力を得てたもので、あくまでも青木氏の歴史的な立場からの研究論文です。

青木氏と守護神(神明社)-20に続く



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