大化改新 新説 NHKスペシャルまとめ2-2
大化改新2の続き
活躍した内容
参考として、仕事は次の様なものである
「全国の国領地の検地」 租税の安定した確保を図り朝廷の基盤を造る
「全国の武器の検査」 侍としての基本的な姿勢を確認する
「全国の税の見直し」 改新前の粗雑な税体制を改革する
「特定地への天皇からの特命」 治世などが乱れている各国に対する督励
「全国の争いの調停と平定」 改新前の勢力の修正
「全国の領地境目の確定」 領地争いの原因の見直しを実行
「重大行事の指揮」 朝廷内の神事や行事と国内外の使節団の指揮
「天武天皇の相談役」 政治の難題の相談と調査
「皇族間の調停役」 皇族間の勢力争いの調停
「斉明天皇への助言」 女性天皇の補佐役
以上が大化期の「日本書紀」から拾い出した内容である。仕事はこの内容の重複もある。
実は上記の内容は天智、天武期に渡り、第6位皇子(施基皇子)が行った「改新」の仕事である。
この皇子は、私が調べた範囲では18回出て来る人物で日本書紀の中では段突である。
伊勢王として伊勢の守護を務めながら、天智天皇の「改新政治」を助けて全国各地に飛び回っている。
つまり、伊勢青木氏の元祖の働き具合である。
「日本書紀」を見ると皇太子がいるが、其れ以上に信頼されている人物がいる事が判る。
1 「軍略所」としての役職である。
上記の内容通り、天智、天武の葬儀等も含めて本来皇太子が行うところを代わって代行するなど、新しく天皇の執政を機動性良くし、全ての指揮をとる事を天皇より依頼され実行する実務補佐役が設けられたのである。
これ以外に次の「改新政治」が行われている。具体的に述べる。
2 「国博士」を置いて天皇の政治の補佐をさせる。
隋などで留学し大化改新の為に呼び戻された「高向玄理」や「みん」がこれを務めた。
3 「内臣」を置く。
「改新」を行う天皇を補佐する政治相談役で、鎌足が勤めた。後の藤原氏の摂関政治の基となる。
4 「東国国司」を置く。
改新を進めるに当って東国が未開発であり、「改新」の大きな障害と成っていた。これを専門に行う国司である。美濃、信濃、甲斐などに後漢の技能の民の渡来人を送りこみ開墾を進めた。
5 「男女の法」を定める。
生まれた子供の所属を定めたもので、「公地公民」の政策を進めるうえでの身分制度である。
上記した阿多倍の配下の漢民の技能集団の「部制度」の組織改革である。後漢の集団の民と一般の民との融合が進み、「部制度」を修正した。
6 「薄葬令」を定めて身分に基づいた葬儀や墓の規模などを定めた。公地公民の前提を作り上げた。
7 「冠位の制」を改善した。聖徳太子の冠位12階より7色13階、19階、26階、48階とし位階制を定めた。大宝期には30階に戻した。
8 「改新の詔」を定めた。「大化改新」の「行政方針」を4つとして定めたものである。
4方針は次の通りである。
現在の行政方針を新しく敷いて公表したのである。今までにない画期的なことである。
おそらく民は当時としは政治は「お上」が行うものとの認識して疑わなかったはずなのに、方針を出した事が驚きであったはずである。真に民主主義の原点であるのだから。
公地公民制
土地や民は全て国に所属する制度で、土地の官吏は「国司」、「部制度」の官吏は「国造」とし行政を明確にした。現在の行政の原型を定めたのである。
統一的地方行政制度
国と地方の行政を分割してよりきめ細かく施政する様にしたもので、現代の「三位一体」の行革である。豪族の施政に任していたものを国管理の下にし、指揮系統をより効率よくより平均化した。
交通、情報機関のない時代にこの制度を敷いたことを考えると不思議なくらいである。
戸籍と計帳と班田の収受制度
民の正確な把握の為に戸籍調査を断行し、土地の測量を行い租税の正確な把握を行った。
官僚制度を整えて国の国体形態の基礎を築いた。
現代では当り前であるが、もし無いところから制度が出来たら驚きのなにものでもない。
上の2つの方針も実行されて多分半分はパニック状態であったと思う。
統一的税制度
上記の3つのことで正確に把握した国情を下に弁済使を置き租税の統一と正確の管理を図った。
大雑把な税体制から確実な計測等のデータで税が徴収されるのであるから、民は驚き、緊張し、期待も生活がどう代わるかで大きかったのではないか。
この頃、阿多倍の漢民の進んだ技能で民の生活が一変して潤っていた頃の最中である。
だから、朝廷もこれだけの事ができたのである。何も変化していない古代の生活環境の中ではこの施策を敷いても効果どころか朝廷の転覆に当るほどである。
朝廷の姿勢も下記に書く財政の無駄をはぶき毅然とした態度で施政方針を示したのである。
現代の改革と殆ど代わらない事が1500年も前に急に行われたのである。
9 「食封」(じきふ)を定めて経費の無駄を省いた。
官僚の俸禄制度を定めたもので、上級官吏に一定の戸指定(50)し、戸の租税の1/2と調庸2/2を与えた。下級官吏には布帛(ふはく)を与えた。
10 「防人」(さきもり)を定めて、職業軍人とは別に現代にもある徴兵制度を敷いたのである。
九州北部の西海の防備を司る兵制度である。阿多倍の子孫大蔵氏が司る「太宰大監」(遠の朝廷)
に支援し、唐の来襲の警戒に当った。
坂上氏や阿倍氏が率いる朝廷の軍隊と青木氏が率いる親衛隊とは別に一般の民の者で対外国防軍隊を編成したのである。蘇我氏が訴える対外防備のとのレベルが違う。
11 「水城、山城、大野城、さい城、高安城」等の防備要塞を築いて防衛拠点を作った。
唐の来襲を警戒して全国各地と都の周辺に防壁と城を築いた。
12 「近江令」を定め律令政治の完成を目指して律令を発した。
鎌足らが作ったとされる22巻から成る法令であるが、体系的な法典マニュアルとして作ったものとされている。つまり、いきなり法を作っても官僚の執政施行は難しい。そこで、急劇に増えた官僚の種類と数のためにその行動マニュアル的な心得を書き印したものである。
13 「御史太夫」を定めて太政大臣などの補佐として特別に補佐役を設けた。
「改新」の大きさと繁忙さから補佐役を特別にこの天智期に特別の作ったものである。
天皇の2つの補佐役や重臣の補佐役を設けるなど如何に大改革であったかを物語るしその思考が柔軟である事が覗える。
14 「八色の姓制度」を定めて身分を8つに分けて氏姓制度の充実を図った。
皇族とその重臣の身分を定めた。真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置である。
そして、その身分にあった行動と責任の所在を明確にしたのである。
5家5流の青木氏と11家11流の源氏は第6位皇子であるのでこの「朝臣」に当るがその中でも青木氏は上位である。
この身分制度は後には更に細分化される。
15 「皇位継承制度の変更」
皇位継承は大変な財政的負担と成っていた(天智天武の子供は34人もいたし、他の皇子も合わせると50人程度にもなり、天皇家の財政を担う内蔵では破綻寸前であつた。このため、この原因と成っていた「皇位継承制度」の変更を経費節減のために改革を断行し実行した。
多分、皇族関係者からの第6位以下は平民化するのであるから反発は大変なものであつたはずである。
この「改革」で第6位皇子から臣下して賜姓を受けて、初代の青木氏(伊勢青木氏)が発祥したのである。
其れまでは、第4世皇位継承、第7世下族の「世」方式で第5世はこのどちらにも属するとし、第7世は代替わりにて「ひら族」とし、賜姓して「平氏族」を形成し、坂東の守護としてに配置した。
これが、「坂東八平氏」族である。
これと比較して阿多倍末裔の渡来人系の「京平氏」の「桓武平氏」(たいら族)とは混同されている。
「第4世」方式から、第2世第4位皇子皇位継承として第6位皇子を臣下させ、賜姓(青木氏)して、親衛隊とした。この賜姓青木氏であり、伊勢の青木氏としたのである。
即ち、「第6位」方式である。
青木氏には「鞍作止利」作の「大日如来坐像」(伊勢青木氏の宗家保有)の仏像与える事とした。そして、王位は4世までとした。
16 「親衛隊の創設」
蘇我氏に牛耳られていた反省から、天皇自ら護る軍隊を創設した。上記のこれが第6位皇子の青木氏である。この青木氏は伊勢神宮のある伊勢国の王として守護とした。「不入不倫」の天領地とした。(後に、天武天皇が伊勢神宮を護り本尊として正式に詔を出して定めた)
この後、15の改革と共に、天武、聖武、文武、光仁天皇までこの制度は維持された。伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の国の戦略上の主要地の守護としたのである。
この開拓には阿多倍の支配下の漢民の技能集団(馬部、山部、磯部、鞍部等)を遷して大きい外来馬を飼育し開墾した。(日本書紀に記述)
17 「飛鳥浄御原令」を定めて律令制度を2度にて進めた。(天武期)
大宝律令の基となった。光仁天皇の子供の桓武天皇が律令制度を完成させた。つまり、律令制度の完成は初代の聖徳太子から7代の天皇がその方針を貫き引き継ぎ完成させたのである。
その後、嵯峨天皇から5代に渡り見直しの改革が行われて「皇親政治」の全盛期を迎えるのである。
以上が大化期の「改新」の改革項目である。
これだけのことを「入鹿」の前の政情にはなかったもので、空前の改革項目と大変な内容である。
普通では成し得ない質と量である。
これはその専門的な知識が無ければ出来ないことである。
前記の通り、その知識と能力は阿倍氏、坂上氏、大蔵氏、内蔵氏などの阿多倍の子孫とその漢民の集団によるもの以外にないのである。
これ等列記した17項目のものを良く理解してみれば、その根底にあるものが見えてくる。
つまり、平たく言えば、聖徳太子から始まり蘇我氏の改新前の反省からである事が見える。
それは、「3権」を奪われていたものを律令を通して、軍事、経済、政治を見直して、他氏に委ねるのではなく、天皇を中心とする皇族の「皇親政治」の基礎を作ったのである。
そして、国体の基盤を更正し、外国からの侵略と国内の安寧の為に「改新」を断行したのが中大兄皇子の目指す政治であつた。
だから「中大兄皇子」は「国体を変革」しなければとの思いで蘇我氏の体制を打破する必要があったのである。「思考の原理」の前提レベルが違う事が上記のことで解る。
決して、蘇我氏の我が物顔の政治でなかったのである。
突き詰めれば、「律令制度」を中心とする「政治、経済、軍事」の安定した「皇親政治」を目指したのである。
これは、蘇我氏が目指したものとは異なる。
故に蘇我氏を倒して天皇家に取り戻した事件の目的は明らかに「皇親政治」での「改新」である。
これでは、到底に、蘇我氏が唐が攻めてくるからの説には説得力はない。誰が見ても「蘇我氏の言い分」では納得できないはずである。
つまり、「政治システム」事態も代えたかったのである。
根本的にレベルが異なる。
”大化の改新はなかつた”の発言にはこの点にも納得できない。
誰が見てもこれを”改新は無かった”と思うだろうか。
前記の第1の問題と第2の問題とあわせるとNHKの新説は他の意味する歴史を否定する政治的な大きな疑義を感じる。
次は第3番目の問題に付いて述べる。
続く。
青木研究員
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
活躍した内容
参考として、仕事は次の様なものである
「全国の国領地の検地」 租税の安定した確保を図り朝廷の基盤を造る
「全国の武器の検査」 侍としての基本的な姿勢を確認する
「全国の税の見直し」 改新前の粗雑な税体制を改革する
「特定地への天皇からの特命」 治世などが乱れている各国に対する督励
「全国の争いの調停と平定」 改新前の勢力の修正
「全国の領地境目の確定」 領地争いの原因の見直しを実行
「重大行事の指揮」 朝廷内の神事や行事と国内外の使節団の指揮
「天武天皇の相談役」 政治の難題の相談と調査
「皇族間の調停役」 皇族間の勢力争いの調停
「斉明天皇への助言」 女性天皇の補佐役
以上が大化期の「日本書紀」から拾い出した内容である。仕事はこの内容の重複もある。
実は上記の内容は天智、天武期に渡り、第6位皇子(施基皇子)が行った「改新」の仕事である。
この皇子は、私が調べた範囲では18回出て来る人物で日本書紀の中では段突である。
伊勢王として伊勢の守護を務めながら、天智天皇の「改新政治」を助けて全国各地に飛び回っている。
つまり、伊勢青木氏の元祖の働き具合である。
「日本書紀」を見ると皇太子がいるが、其れ以上に信頼されている人物がいる事が判る。
1 「軍略所」としての役職である。
上記の内容通り、天智、天武の葬儀等も含めて本来皇太子が行うところを代わって代行するなど、新しく天皇の執政を機動性良くし、全ての指揮をとる事を天皇より依頼され実行する実務補佐役が設けられたのである。
これ以外に次の「改新政治」が行われている。具体的に述べる。
2 「国博士」を置いて天皇の政治の補佐をさせる。
隋などで留学し大化改新の為に呼び戻された「高向玄理」や「みん」がこれを務めた。
3 「内臣」を置く。
「改新」を行う天皇を補佐する政治相談役で、鎌足が勤めた。後の藤原氏の摂関政治の基となる。
4 「東国国司」を置く。
改新を進めるに当って東国が未開発であり、「改新」の大きな障害と成っていた。これを専門に行う国司である。美濃、信濃、甲斐などに後漢の技能の民の渡来人を送りこみ開墾を進めた。
5 「男女の法」を定める。
生まれた子供の所属を定めたもので、「公地公民」の政策を進めるうえでの身分制度である。
上記した阿多倍の配下の漢民の技能集団の「部制度」の組織改革である。後漢の集団の民と一般の民との融合が進み、「部制度」を修正した。
6 「薄葬令」を定めて身分に基づいた葬儀や墓の規模などを定めた。公地公民の前提を作り上げた。
7 「冠位の制」を改善した。聖徳太子の冠位12階より7色13階、19階、26階、48階とし位階制を定めた。大宝期には30階に戻した。
8 「改新の詔」を定めた。「大化改新」の「行政方針」を4つとして定めたものである。
4方針は次の通りである。
現在の行政方針を新しく敷いて公表したのである。今までにない画期的なことである。
おそらく民は当時としは政治は「お上」が行うものとの認識して疑わなかったはずなのに、方針を出した事が驚きであったはずである。真に民主主義の原点であるのだから。
公地公民制
土地や民は全て国に所属する制度で、土地の官吏は「国司」、「部制度」の官吏は「国造」とし行政を明確にした。現在の行政の原型を定めたのである。
統一的地方行政制度
国と地方の行政を分割してよりきめ細かく施政する様にしたもので、現代の「三位一体」の行革である。豪族の施政に任していたものを国管理の下にし、指揮系統をより効率よくより平均化した。
交通、情報機関のない時代にこの制度を敷いたことを考えると不思議なくらいである。
戸籍と計帳と班田の収受制度
民の正確な把握の為に戸籍調査を断行し、土地の測量を行い租税の正確な把握を行った。
官僚制度を整えて国の国体形態の基礎を築いた。
現代では当り前であるが、もし無いところから制度が出来たら驚きのなにものでもない。
上の2つの方針も実行されて多分半分はパニック状態であったと思う。
統一的税制度
上記の3つのことで正確に把握した国情を下に弁済使を置き租税の統一と正確の管理を図った。
大雑把な税体制から確実な計測等のデータで税が徴収されるのであるから、民は驚き、緊張し、期待も生活がどう代わるかで大きかったのではないか。
この頃、阿多倍の漢民の進んだ技能で民の生活が一変して潤っていた頃の最中である。
だから、朝廷もこれだけの事ができたのである。何も変化していない古代の生活環境の中ではこの施策を敷いても効果どころか朝廷の転覆に当るほどである。
朝廷の姿勢も下記に書く財政の無駄をはぶき毅然とした態度で施政方針を示したのである。
現代の改革と殆ど代わらない事が1500年も前に急に行われたのである。
9 「食封」(じきふ)を定めて経費の無駄を省いた。
官僚の俸禄制度を定めたもので、上級官吏に一定の戸指定(50)し、戸の租税の1/2と調庸2/2を与えた。下級官吏には布帛(ふはく)を与えた。
10 「防人」(さきもり)を定めて、職業軍人とは別に現代にもある徴兵制度を敷いたのである。
九州北部の西海の防備を司る兵制度である。阿多倍の子孫大蔵氏が司る「太宰大監」(遠の朝廷)
に支援し、唐の来襲の警戒に当った。
坂上氏や阿倍氏が率いる朝廷の軍隊と青木氏が率いる親衛隊とは別に一般の民の者で対外国防軍隊を編成したのである。蘇我氏が訴える対外防備のとのレベルが違う。
11 「水城、山城、大野城、さい城、高安城」等の防備要塞を築いて防衛拠点を作った。
唐の来襲を警戒して全国各地と都の周辺に防壁と城を築いた。
12 「近江令」を定め律令政治の完成を目指して律令を発した。
鎌足らが作ったとされる22巻から成る法令であるが、体系的な法典マニュアルとして作ったものとされている。つまり、いきなり法を作っても官僚の執政施行は難しい。そこで、急劇に増えた官僚の種類と数のためにその行動マニュアル的な心得を書き印したものである。
13 「御史太夫」を定めて太政大臣などの補佐として特別に補佐役を設けた。
「改新」の大きさと繁忙さから補佐役を特別にこの天智期に特別の作ったものである。
天皇の2つの補佐役や重臣の補佐役を設けるなど如何に大改革であったかを物語るしその思考が柔軟である事が覗える。
14 「八色の姓制度」を定めて身分を8つに分けて氏姓制度の充実を図った。
皇族とその重臣の身分を定めた。真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置である。
そして、その身分にあった行動と責任の所在を明確にしたのである。
5家5流の青木氏と11家11流の源氏は第6位皇子であるのでこの「朝臣」に当るがその中でも青木氏は上位である。
この身分制度は後には更に細分化される。
15 「皇位継承制度の変更」
皇位継承は大変な財政的負担と成っていた(天智天武の子供は34人もいたし、他の皇子も合わせると50人程度にもなり、天皇家の財政を担う内蔵では破綻寸前であつた。このため、この原因と成っていた「皇位継承制度」の変更を経費節減のために改革を断行し実行した。
多分、皇族関係者からの第6位以下は平民化するのであるから反発は大変なものであつたはずである。
この「改革」で第6位皇子から臣下して賜姓を受けて、初代の青木氏(伊勢青木氏)が発祥したのである。
其れまでは、第4世皇位継承、第7世下族の「世」方式で第5世はこのどちらにも属するとし、第7世は代替わりにて「ひら族」とし、賜姓して「平氏族」を形成し、坂東の守護としてに配置した。
これが、「坂東八平氏」族である。
これと比較して阿多倍末裔の渡来人系の「京平氏」の「桓武平氏」(たいら族)とは混同されている。
「第4世」方式から、第2世第4位皇子皇位継承として第6位皇子を臣下させ、賜姓(青木氏)して、親衛隊とした。この賜姓青木氏であり、伊勢の青木氏としたのである。
即ち、「第6位」方式である。
青木氏には「鞍作止利」作の「大日如来坐像」(伊勢青木氏の宗家保有)の仏像与える事とした。そして、王位は4世までとした。
16 「親衛隊の創設」
蘇我氏に牛耳られていた反省から、天皇自ら護る軍隊を創設した。上記のこれが第6位皇子の青木氏である。この青木氏は伊勢神宮のある伊勢国の王として守護とした。「不入不倫」の天領地とした。(後に、天武天皇が伊勢神宮を護り本尊として正式に詔を出して定めた)
この後、15の改革と共に、天武、聖武、文武、光仁天皇までこの制度は維持された。伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の国の戦略上の主要地の守護としたのである。
この開拓には阿多倍の支配下の漢民の技能集団(馬部、山部、磯部、鞍部等)を遷して大きい外来馬を飼育し開墾した。(日本書紀に記述)
17 「飛鳥浄御原令」を定めて律令制度を2度にて進めた。(天武期)
大宝律令の基となった。光仁天皇の子供の桓武天皇が律令制度を完成させた。つまり、律令制度の完成は初代の聖徳太子から7代の天皇がその方針を貫き引き継ぎ完成させたのである。
その後、嵯峨天皇から5代に渡り見直しの改革が行われて「皇親政治」の全盛期を迎えるのである。
以上が大化期の「改新」の改革項目である。
これだけのことを「入鹿」の前の政情にはなかったもので、空前の改革項目と大変な内容である。
普通では成し得ない質と量である。
これはその専門的な知識が無ければ出来ないことである。
前記の通り、その知識と能力は阿倍氏、坂上氏、大蔵氏、内蔵氏などの阿多倍の子孫とその漢民の集団によるもの以外にないのである。
これ等列記した17項目のものを良く理解してみれば、その根底にあるものが見えてくる。
つまり、平たく言えば、聖徳太子から始まり蘇我氏の改新前の反省からである事が見える。
それは、「3権」を奪われていたものを律令を通して、軍事、経済、政治を見直して、他氏に委ねるのではなく、天皇を中心とする皇族の「皇親政治」の基礎を作ったのである。
そして、国体の基盤を更正し、外国からの侵略と国内の安寧の為に「改新」を断行したのが中大兄皇子の目指す政治であつた。
だから「中大兄皇子」は「国体を変革」しなければとの思いで蘇我氏の体制を打破する必要があったのである。「思考の原理」の前提レベルが違う事が上記のことで解る。
決して、蘇我氏の我が物顔の政治でなかったのである。
突き詰めれば、「律令制度」を中心とする「政治、経済、軍事」の安定した「皇親政治」を目指したのである。
これは、蘇我氏が目指したものとは異なる。
故に蘇我氏を倒して天皇家に取り戻した事件の目的は明らかに「皇親政治」での「改新」である。
これでは、到底に、蘇我氏が唐が攻めてくるからの説には説得力はない。誰が見ても「蘇我氏の言い分」では納得できないはずである。
つまり、「政治システム」事態も代えたかったのである。
根本的にレベルが異なる。
”大化の改新はなかつた”の発言にはこの点にも納得できない。
誰が見てもこれを”改新は無かった”と思うだろうか。
前記の第1の問題と第2の問題とあわせるとNHKの新説は他の意味する歴史を否定する政治的な大きな疑義を感じる。
次は第3番目の問題に付いて述べる。
続く。
青木研究員
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
大化改新 新説 NHKスペシャルまとめ2-1
1 蘇我氏は逆賊ではない。
2 大化の改新はない。
3 蘇我氏館は武器、兵舎であつた。
4 蘇我氏は外敵から天皇を守った。
5 漢の後の唐を意識していた。
6 日本書紀は書足の編集であつた。
7 天智天皇は失政した。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。
これらを史実で検証してみる。
大化の改新のNHK新説に対して、前回は第1番目を検証した。結論的には新説の第1番目の説には「無理と飛躍と矛盾と情報不足」が目立つものであつた。
次は第2番目の「大化の改新」は無かったとの説である。
これは解説者の発言にあった。
このことに付いてはまったく史実を無視している。何故にあるものを無いというのであろうか。
言質の裏にある種の政治的イデオロギー的発言の感じがする。
以前からもこの種の歴史を否定する説を唱える政治グループがいた事は承知している。
ただ、NHKがこれに加担したことに大きな疑義が生まれる。昨年私はNHKモニターをしたがその内容から見て「受信料不払い」の原因の一つであろう。
兎も角も、大化の時代に改革が行われた史実とその内容などを述べる。
現代も同じ様に「平成の改革」が成されている。大正と昭和の時代の世の中のシステムが、生活方式を含めて全てものが替わり、変革し、加速的になったことから時代に合わなくなってきている。
聖徳太子の時代から大化の時代までにはも大きな変化が起こったのである。
時代を追ってその変化を述べる。
先ず、620頃から、漢の国が滅亡し漢民は南と東に逃げた。そうして、東に逃げた民の中に居た「光武帝将軍」が遼東半島と三韓を征圧して国を興して「後漢」が出来た。そして、21代末帝の「献帝」の時代に滅亡して「唐」が中国全土を制圧した。
この「後漢」の17の県民は「献帝」の孫で、「石秋王」の子供の「阿智使王」とその子供の「阿多倍王」と共に北九州に上陸した。
この漢民の17の県民の集団には国を形成する政治官僚を含む全ての職種の技能集団が同行していた。
当然に、軍事集団を先頭に博多、大宰府付近に入った。
しかし、進んだ先進国の漢の民である。戦いなどは当時の大和の民では相手にならない。
又、進んだ生活手段を持っていた為に民は、この集団との和合を図り、進んでこの漢民の技能を取り入れ生活のレベルを上げる事が出来た。
この阿多倍の集団は続々と上陸してくる。この渡来人の漢民は南下した。
この漢民の九州での状況を詳しく述べる。
当時、この地方では「肝付氏」と朝廷より派遣された「伴氏」とで統治されていた。
伴氏は「弁済使」で税の取り扱う官僚であるが、九州の北部に支配権を持っていた。
この高級官僚で朝廷の5氏の一つ「伴氏」と「肝付氏」が血縁し多くの末裔が広がっている。
更に「肝付氏」と「阿多倍」一族との血縁を結んだと成っている。
(九州地方での内容詳細に付いては別途レポートする。)
最終的には、この漢民は朝廷に対し帰化を申請する。
九州から中国地方へと上陸し同じく支配下に入れて進出し飛鳥に入る。朝廷はこの帰化した漢民の渡来人を更に未開地であった中部地方の信濃、甲斐国の開墾に送る。
これ等の民は200万とも言われている。
この漢民の首魁の阿智使王と阿多倍王は大隈付近に住み「大隈の首魁阿多倍」と呼ばれていた。
この事が日本書紀に詳しく書かれている。
この時代の唯一の歴史書である「日本書紀」にはこの「大隈の首魁」は4度出て来る。
そして、ここの「阿多倍王」に賜姓青木氏が守護する伊勢の国を分轄して、「伊勢北部伊賀地方」を与え「不入不倫の権」を付加して与えて保護した。
「阿多倍」はその九州から中国地方の民の生活向上に貢献した勲功で「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王」の娘を娶り3人の男子をもうけた。
「阿多倍」は「准大臣」の官職を与えられた。
この三人はの長男は賜姓を授かり、坂上氏を名乗り軍事担当を、次男は当時の朝廷の政治機構の3蔵の内、大蔵氏の賜姓を授かり、朝廷の財政担当を、三男は内蔵の賜姓を授かり、天皇家の財政担当を担った。もうひとつは斎蔵で祭祀を担い、これは賜姓族藤原の鎌足であった。
この進んだ「後漢の知識」で「阿多倍一族」を先頭に「大化の改新」の「政治改革」に臨んだである。
この末裔は代々九州の「太宰大監」を任命され、歴史上「錦の御旗」を個人に与えられた唯一の氏で大蔵氏である。
この大蔵氏は朝廷より「遠の朝廷」を任じられ、九州全土の「政治、経済、軍事」の全権を与えられたこれも歴史上の唯一の氏でもある。
これは遅れていた九州の未開地をこの一族に任して「3分野からの改革」を実行した証拠のひとつである。(この地には朝廷より当時の主要5氏の一つ「伴氏」が派遣されていた。)
其れも、現代までになかったすごい改革であった事は下記の進んだ後漢の民の集団の構成を見ても解る。
地域の生活生向上と、地域間の紛争がなくなり、軍事的安定が起こり、図りしえない変化のものであったことであろう。
日本書紀にも都に首魁を呼んで天皇の前で踊って祝ったとあり褒美を与えたとある。
昭和のバブルごとき変化ではない。
そして、この「阿多倍」の孫に当る伊勢北部の伊賀の「高野新笠」は「光仁天皇」の妃で「桓武天皇」の母である。
桓武天皇はこの母方の「大隈首魁の阿多倍」(別名 高尊王)一族で「伊賀の王」(高望王)を第6位皇子として賜姓し、「たいら族」(京平氏 桓武平氏、伊勢衆)とした。
これは、天皇家が代わるたびに発生する第7世族以降の皇族を「ひら族」(坂東平氏)として坂東に配置した八平氏になぞって、この「阿多倍」を「賜姓たいら族」としたものである。
この渡来族に対する当時の何らかの配慮があったものであろう。
伊勢伊賀には「高尊王」と「高望王」との違いと年数のずれがあるが、伊賀にはこの阿多倍の一族しか居ないのに「高尊王」と「高望王」の王が二人いることはない。何らかの理由(記述のミス)であろう。
この賜姓した「桓武天皇」は大化の改新1でレポートした「聖徳太子」の曽我氏の軋轢の中での改革からから始まり、「天智天皇」の「改新」を繋ぎ、最後に「律令政治」を完成した天皇である。
上記したその功績はこの阿多倍一族とその漢民の努力以外にない。
この漢民の民は「部制度」である技能集団の民「海部、磯部、鍛冶部、綾部、茜部、錦部、馬部、鞍作部、織部、弓削部、鵜飼部、山部、石作部、矢作部、土師部、陶部、舎人部、赤染部、依縫部、倭文部、麻績部、佐伯部、来米部、膳部、鏡作部、鍛師部、船部、物部、安部、漢部、工部、墨部....」など挙げればきりがないが、全てこの民は後漢の民で阿多倍の支配下にあった民である。
この進んだ技能を大和の民は指導を受けて会得したのである。
現代の北九州工業地帯の鉄鋼、造船、陶器、等の産業を考えればよくお判りと思う。
これで「改新」が無かったとの説は疑義の何物でもない。蘇我氏管理のもとではなかった事なのである。
この集団が作った物は一度朝廷に入れてそれから市場に出すと言う経済システムが当時の「部制度」であり、「市場経済」では無かった。
「朝廷」とは言え「蘇我氏」にである。これを「蘇我氏」から朝廷に「国造」(くにのみやつこ)という官吏を置き取り戻して経済システムを正常化したので動き始めたのである。
「改新」は「国の管理下」にした「行政改革」である。明治時代の改革と同じ「中央集権制度の導入」である。
これだけのことを実行する事態、未だ東北部地方の国が安定していない時期に、大変なことである。
これでも「改革」が無かったとの説はおかしい。
現代でもこの第一次産業はこの阿多倍率いる漢民の集団が引き継いできて現代の日本の主幹産業に成っている。この一団なくして現代の日本の全く地位はない。それほどである。
日本の国民の20%程度を占める漢民の末裔の方々に感謝申し上げたいくらいである。
この権利と管理を蘇我氏が握っていたのである。つまり、「朝廷の経済」は「蘇我氏」が握っていた事を意味し、国のため、民のために中大兄皇子は取り戻したとすればこれも「改革改新」である。
もし、これだけのことを今現在するとしたならば、果たしてできると思われるか?。無理と考える。
話戻して、上記にもある様に「阿倍氏」を頂点として、「物部、安部、漢部、鞍作部」等は軍事関係の集団である。
つまり、「朝廷の軍事」までも握っていたのである。
「朝廷の政治」はもとより、「大連」の蘇我氏であるから言うまでもない。
当然、この支配下に阿多倍も先ずは実力はあったが、蘇我氏に従う立場であつた。
これが大化改新1にレポートした「疑問点、キー」であった阿多倍の一団の出方が、「改新」の成功を握っていることは明らかである。
蘇我氏が全権を握っていたのは言うまでも無くこの漢民の17の県民の出方であった。
これだけの政治、経済、軍事の3権に能力のある集団を見方にすれば「改新」は充分に可能である事が理解できるし、出来ない方がおかしい。
「中大兄皇子」は味方にしたのである。つまり、味方にした事さえ改革改新である。これでも「改新はあった」事が筋道でさえも解る。
しかし、入鹿が暗殺されても未だ分家一族は沢山いるが、分家もこの反撃に出なかった訳はこの阿多倍の一団の後押しがなければ無理である事は明白である。
だから、首の蝦夷(えみし)は行き詰まり自殺したのである。阿多倍は裏切るとは計算していなかったはずである。
しかし、史実はこの阿多倍の一団は朝廷に一日後に去ることを伝えて出て来ず丘から去ったのである。
その後は上記した通りである。
これで、阿多倍一団の執った戦略は明らかにわかるし、「中大兄皇子」もこの阿多倍の集団の力の程度のことは知っていたはずである。孝徳天皇も含めて日本書紀にも書いている通り会っているのであるから。
蘇我氏の分家(蘇我石川麻呂:入鹿の従兄弟)に首謀者の中臣の鎌足が話をつけたことは史実でも証明されている。(改新後3年後に謀反の嫌疑がかけられ自殺)
暗殺のとき、この蘇我氏の分家は震えて動けなかったので、中大兄皇子と鎌足が自ら切って出て行ったのである。
この鎌足が蘇我氏の分家に話を通した事は「改新」の成功を計算した上である筈。
だとすれば、改新後のこの「進んだ知識と技能」を活かせれば成功すると見て、阿多倍一族にもこの話を通し、味方するように説得していると考える方が普通である。
阿多倍一族にとっても蘇我氏の管理下にいるよりは、政治の場に於いて進出して日本での基盤を築きたいとする考えは生まれたと見る。(後に現にその様にな成った。太政大臣までに成った。)
だから、東漢氏と蘇我氏分家は出て来なかったのである。
この改新のキーは「蘇我氏分家」と「後漢阿多倍一団」であったのである。
作戦、計画実行時はだれでもキーは何か、誰か、何処か、何時かを考えるのが普通である。
としたならば、この3つの事は先ず考えた事になる。
そう見るとこの要件即ちキーは入鹿暗殺前後の史実が納得できる。
蘇我氏の分家が味方したことの意味を理解すれば、NHK新説は矛盾する。
後は、阿多倍一人である。だから成功し、阿多倍は政治に関与し律令政治を完成させたのである。
後に、この「大蔵種材」という人物がでるが、九州の「太宰大監」となり、侍の神「麻利四天」のモデルにもなった豪傑が出て改革で国を安定させた有名な人物がこの阿多倍子孫からでている。
「孝徳天皇」と「中大兄皇子(天智天皇)」の改革に貢献した。これ等の事は日本書紀や多くの史書にも書かれている。
では、以上の事柄を念頭にして基礎理解を得た上で、阿多倍らの一団の働きにて行った天智天武期の大化期の改革の具体的な事柄を次に述べることとし、「大化改新」があったことを証明する。
予備知識の一端として一部拾い出して置くと次の様になる。
主だったことは次のレポートとする。
活躍した内容
参考として、仕事は次の様なものである
「全国の国領地の検地」 租税の安定した確保を図り朝廷の基盤を造る
「全国の武器の検査」 侍としての基本的な姿勢を確認する
「全国の税の見直し」 改新前の粗雑な税体制を改革する
「特定地への天皇からの特命」 治世などが乱れている各国に対する督励
「全国の争いの調停と平定」 改新前の勢力の修正
「全国の領地境目の確定」 領地争いの原因の見直しを実行
「重大行事の指揮」 朝廷内の神事や行事と国内外の使節団の指揮
「天武天皇の相談役」 政治の難題の相談と調査
「皇族間の調停役」 皇族間の勢力争いの調停
「斉明天皇への助言」 女性天皇の補佐役
以上が「日本書紀」から拾い出した内容である。仕事はこの内容の重複もある。
「日本書紀」であるからその信頼性から見て、この内容は半端ではない。
これは殆ど天智天武期の政治を動かしていたことを意味するのではないか。
編集者の「舎人皇子」も十分認めて信頼してこの働きを具体的に書き込んだものだと思う。
続く。
青木研究員
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
2 大化の改新はない。
3 蘇我氏館は武器、兵舎であつた。
4 蘇我氏は外敵から天皇を守った。
5 漢の後の唐を意識していた。
6 日本書紀は書足の編集であつた。
7 天智天皇は失政した。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。
これらを史実で検証してみる。
大化の改新のNHK新説に対して、前回は第1番目を検証した。結論的には新説の第1番目の説には「無理と飛躍と矛盾と情報不足」が目立つものであつた。
次は第2番目の「大化の改新」は無かったとの説である。
これは解説者の発言にあった。
このことに付いてはまったく史実を無視している。何故にあるものを無いというのであろうか。
言質の裏にある種の政治的イデオロギー的発言の感じがする。
以前からもこの種の歴史を否定する説を唱える政治グループがいた事は承知している。
ただ、NHKがこれに加担したことに大きな疑義が生まれる。昨年私はNHKモニターをしたがその内容から見て「受信料不払い」の原因の一つであろう。
兎も角も、大化の時代に改革が行われた史実とその内容などを述べる。
現代も同じ様に「平成の改革」が成されている。大正と昭和の時代の世の中のシステムが、生活方式を含めて全てものが替わり、変革し、加速的になったことから時代に合わなくなってきている。
聖徳太子の時代から大化の時代までにはも大きな変化が起こったのである。
時代を追ってその変化を述べる。
先ず、620頃から、漢の国が滅亡し漢民は南と東に逃げた。そうして、東に逃げた民の中に居た「光武帝将軍」が遼東半島と三韓を征圧して国を興して「後漢」が出来た。そして、21代末帝の「献帝」の時代に滅亡して「唐」が中国全土を制圧した。
この「後漢」の17の県民は「献帝」の孫で、「石秋王」の子供の「阿智使王」とその子供の「阿多倍王」と共に北九州に上陸した。
この漢民の17の県民の集団には国を形成する政治官僚を含む全ての職種の技能集団が同行していた。
当然に、軍事集団を先頭に博多、大宰府付近に入った。
しかし、進んだ先進国の漢の民である。戦いなどは当時の大和の民では相手にならない。
又、進んだ生活手段を持っていた為に民は、この集団との和合を図り、進んでこの漢民の技能を取り入れ生活のレベルを上げる事が出来た。
この阿多倍の集団は続々と上陸してくる。この渡来人の漢民は南下した。
この漢民の九州での状況を詳しく述べる。
当時、この地方では「肝付氏」と朝廷より派遣された「伴氏」とで統治されていた。
伴氏は「弁済使」で税の取り扱う官僚であるが、九州の北部に支配権を持っていた。
この高級官僚で朝廷の5氏の一つ「伴氏」と「肝付氏」が血縁し多くの末裔が広がっている。
更に「肝付氏」と「阿多倍」一族との血縁を結んだと成っている。
(九州地方での内容詳細に付いては別途レポートする。)
最終的には、この漢民は朝廷に対し帰化を申請する。
九州から中国地方へと上陸し同じく支配下に入れて進出し飛鳥に入る。朝廷はこの帰化した漢民の渡来人を更に未開地であった中部地方の信濃、甲斐国の開墾に送る。
これ等の民は200万とも言われている。
この漢民の首魁の阿智使王と阿多倍王は大隈付近に住み「大隈の首魁阿多倍」と呼ばれていた。
この事が日本書紀に詳しく書かれている。
この時代の唯一の歴史書である「日本書紀」にはこの「大隈の首魁」は4度出て来る。
そして、ここの「阿多倍王」に賜姓青木氏が守護する伊勢の国を分轄して、「伊勢北部伊賀地方」を与え「不入不倫の権」を付加して与えて保護した。
「阿多倍」はその九州から中国地方の民の生活向上に貢献した勲功で「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王」の娘を娶り3人の男子をもうけた。
「阿多倍」は「准大臣」の官職を与えられた。
この三人はの長男は賜姓を授かり、坂上氏を名乗り軍事担当を、次男は当時の朝廷の政治機構の3蔵の内、大蔵氏の賜姓を授かり、朝廷の財政担当を、三男は内蔵の賜姓を授かり、天皇家の財政担当を担った。もうひとつは斎蔵で祭祀を担い、これは賜姓族藤原の鎌足であった。
この進んだ「後漢の知識」で「阿多倍一族」を先頭に「大化の改新」の「政治改革」に臨んだである。
この末裔は代々九州の「太宰大監」を任命され、歴史上「錦の御旗」を個人に与えられた唯一の氏で大蔵氏である。
この大蔵氏は朝廷より「遠の朝廷」を任じられ、九州全土の「政治、経済、軍事」の全権を与えられたこれも歴史上の唯一の氏でもある。
これは遅れていた九州の未開地をこの一族に任して「3分野からの改革」を実行した証拠のひとつである。(この地には朝廷より当時の主要5氏の一つ「伴氏」が派遣されていた。)
其れも、現代までになかったすごい改革であった事は下記の進んだ後漢の民の集団の構成を見ても解る。
地域の生活生向上と、地域間の紛争がなくなり、軍事的安定が起こり、図りしえない変化のものであったことであろう。
日本書紀にも都に首魁を呼んで天皇の前で踊って祝ったとあり褒美を与えたとある。
昭和のバブルごとき変化ではない。
そして、この「阿多倍」の孫に当る伊勢北部の伊賀の「高野新笠」は「光仁天皇」の妃で「桓武天皇」の母である。
桓武天皇はこの母方の「大隈首魁の阿多倍」(別名 高尊王)一族で「伊賀の王」(高望王)を第6位皇子として賜姓し、「たいら族」(京平氏 桓武平氏、伊勢衆)とした。
これは、天皇家が代わるたびに発生する第7世族以降の皇族を「ひら族」(坂東平氏)として坂東に配置した八平氏になぞって、この「阿多倍」を「賜姓たいら族」としたものである。
この渡来族に対する当時の何らかの配慮があったものであろう。
伊勢伊賀には「高尊王」と「高望王」との違いと年数のずれがあるが、伊賀にはこの阿多倍の一族しか居ないのに「高尊王」と「高望王」の王が二人いることはない。何らかの理由(記述のミス)であろう。
この賜姓した「桓武天皇」は大化の改新1でレポートした「聖徳太子」の曽我氏の軋轢の中での改革からから始まり、「天智天皇」の「改新」を繋ぎ、最後に「律令政治」を完成した天皇である。
上記したその功績はこの阿多倍一族とその漢民の努力以外にない。
この漢民の民は「部制度」である技能集団の民「海部、磯部、鍛冶部、綾部、茜部、錦部、馬部、鞍作部、織部、弓削部、鵜飼部、山部、石作部、矢作部、土師部、陶部、舎人部、赤染部、依縫部、倭文部、麻績部、佐伯部、来米部、膳部、鏡作部、鍛師部、船部、物部、安部、漢部、工部、墨部....」など挙げればきりがないが、全てこの民は後漢の民で阿多倍の支配下にあった民である。
この進んだ技能を大和の民は指導を受けて会得したのである。
現代の北九州工業地帯の鉄鋼、造船、陶器、等の産業を考えればよくお判りと思う。
これで「改新」が無かったとの説は疑義の何物でもない。蘇我氏管理のもとではなかった事なのである。
この集団が作った物は一度朝廷に入れてそれから市場に出すと言う経済システムが当時の「部制度」であり、「市場経済」では無かった。
「朝廷」とは言え「蘇我氏」にである。これを「蘇我氏」から朝廷に「国造」(くにのみやつこ)という官吏を置き取り戻して経済システムを正常化したので動き始めたのである。
「改新」は「国の管理下」にした「行政改革」である。明治時代の改革と同じ「中央集権制度の導入」である。
これだけのことを実行する事態、未だ東北部地方の国が安定していない時期に、大変なことである。
これでも「改革」が無かったとの説はおかしい。
現代でもこの第一次産業はこの阿多倍率いる漢民の集団が引き継いできて現代の日本の主幹産業に成っている。この一団なくして現代の日本の全く地位はない。それほどである。
日本の国民の20%程度を占める漢民の末裔の方々に感謝申し上げたいくらいである。
この権利と管理を蘇我氏が握っていたのである。つまり、「朝廷の経済」は「蘇我氏」が握っていた事を意味し、国のため、民のために中大兄皇子は取り戻したとすればこれも「改革改新」である。
もし、これだけのことを今現在するとしたならば、果たしてできると思われるか?。無理と考える。
話戻して、上記にもある様に「阿倍氏」を頂点として、「物部、安部、漢部、鞍作部」等は軍事関係の集団である。
つまり、「朝廷の軍事」までも握っていたのである。
「朝廷の政治」はもとより、「大連」の蘇我氏であるから言うまでもない。
当然、この支配下に阿多倍も先ずは実力はあったが、蘇我氏に従う立場であつた。
これが大化改新1にレポートした「疑問点、キー」であった阿多倍の一団の出方が、「改新」の成功を握っていることは明らかである。
蘇我氏が全権を握っていたのは言うまでも無くこの漢民の17の県民の出方であった。
これだけの政治、経済、軍事の3権に能力のある集団を見方にすれば「改新」は充分に可能である事が理解できるし、出来ない方がおかしい。
「中大兄皇子」は味方にしたのである。つまり、味方にした事さえ改革改新である。これでも「改新はあった」事が筋道でさえも解る。
しかし、入鹿が暗殺されても未だ分家一族は沢山いるが、分家もこの反撃に出なかった訳はこの阿多倍の一団の後押しがなければ無理である事は明白である。
だから、首の蝦夷(えみし)は行き詰まり自殺したのである。阿多倍は裏切るとは計算していなかったはずである。
しかし、史実はこの阿多倍の一団は朝廷に一日後に去ることを伝えて出て来ず丘から去ったのである。
その後は上記した通りである。
これで、阿多倍一団の執った戦略は明らかにわかるし、「中大兄皇子」もこの阿多倍の集団の力の程度のことは知っていたはずである。孝徳天皇も含めて日本書紀にも書いている通り会っているのであるから。
蘇我氏の分家(蘇我石川麻呂:入鹿の従兄弟)に首謀者の中臣の鎌足が話をつけたことは史実でも証明されている。(改新後3年後に謀反の嫌疑がかけられ自殺)
暗殺のとき、この蘇我氏の分家は震えて動けなかったので、中大兄皇子と鎌足が自ら切って出て行ったのである。
この鎌足が蘇我氏の分家に話を通した事は「改新」の成功を計算した上である筈。
だとすれば、改新後のこの「進んだ知識と技能」を活かせれば成功すると見て、阿多倍一族にもこの話を通し、味方するように説得していると考える方が普通である。
阿多倍一族にとっても蘇我氏の管理下にいるよりは、政治の場に於いて進出して日本での基盤を築きたいとする考えは生まれたと見る。(後に現にその様にな成った。太政大臣までに成った。)
だから、東漢氏と蘇我氏分家は出て来なかったのである。
この改新のキーは「蘇我氏分家」と「後漢阿多倍一団」であったのである。
作戦、計画実行時はだれでもキーは何か、誰か、何処か、何時かを考えるのが普通である。
としたならば、この3つの事は先ず考えた事になる。
そう見るとこの要件即ちキーは入鹿暗殺前後の史実が納得できる。
蘇我氏の分家が味方したことの意味を理解すれば、NHK新説は矛盾する。
後は、阿多倍一人である。だから成功し、阿多倍は政治に関与し律令政治を完成させたのである。
後に、この「大蔵種材」という人物がでるが、九州の「太宰大監」となり、侍の神「麻利四天」のモデルにもなった豪傑が出て改革で国を安定させた有名な人物がこの阿多倍子孫からでている。
「孝徳天皇」と「中大兄皇子(天智天皇)」の改革に貢献した。これ等の事は日本書紀や多くの史書にも書かれている。
では、以上の事柄を念頭にして基礎理解を得た上で、阿多倍らの一団の働きにて行った天智天武期の大化期の改革の具体的な事柄を次に述べることとし、「大化改新」があったことを証明する。
予備知識の一端として一部拾い出して置くと次の様になる。
主だったことは次のレポートとする。
活躍した内容
参考として、仕事は次の様なものである
「全国の国領地の検地」 租税の安定した確保を図り朝廷の基盤を造る
「全国の武器の検査」 侍としての基本的な姿勢を確認する
「全国の税の見直し」 改新前の粗雑な税体制を改革する
「特定地への天皇からの特命」 治世などが乱れている各国に対する督励
「全国の争いの調停と平定」 改新前の勢力の修正
「全国の領地境目の確定」 領地争いの原因の見直しを実行
「重大行事の指揮」 朝廷内の神事や行事と国内外の使節団の指揮
「天武天皇の相談役」 政治の難題の相談と調査
「皇族間の調停役」 皇族間の勢力争いの調停
「斉明天皇への助言」 女性天皇の補佐役
以上が「日本書紀」から拾い出した内容である。仕事はこの内容の重複もある。
「日本書紀」であるからその信頼性から見て、この内容は半端ではない。
これは殆ど天智天武期の政治を動かしていたことを意味するのではないか。
編集者の「舎人皇子」も十分認めて信頼してこの働きを具体的に書き込んだものだと思う。
続く。
青木研究員
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
鈴木氏のルーツと青木氏
本文では少し青木氏と離れて鈴木氏の子孫が広がった理由に付いて検証してみたい。
鈴木氏と云えば日本の姓のなかでも非常に子孫を広げた氏の一つですが、この氏に付いてどのような経緯から発祥して広がったかに付いて見てみる。
鈴木氏は今NHKの大河ドラマの義経に家来として本来は出て来るはずである。
多分、ドラマの喜三太とか云う義経の身の回りの仕事をしている家来が鈴木三郎であると思う。
この鈴木氏の発祥は熊野古道の熊野詣でで各天皇が詣でたことから興った氏である。
後醍醐天皇は23回も詣でたといわれているが、年に一回程度である。
この熊野詣でで和歌山県海南市藤白に熊野古道の熊野神社の第一の鳥居がある。正式にはここから熊野古道と言われる。
つまり熊野神社の社領の一番最初にある鳥居の事である。
この鳥居から藤白坂を登って1キロ程度上りきったところから、古代の呼び名の「馬の背」という坂道を通り(馬の背中のようになった坂)、200メートルくらいのところに藤白神社がある。熊野系列の第一番目の神社である。
千年以上の歴史を思わせるような大きな楠木に囲まれて静かに佇む神社である。後ろには静かに流れる谷川がある。この谷川は「紫川」といって非常においしい水が飲めるきれいな川で、万葉の歌にも多く謡われている。
この神社の隣に鈴木屋敷がある。
この神社の宮司は元は日高氏である。
日高氏は南紀(和歌山の南地域)にある日高川の付近の土豪で熊野神宮の宮司の一族である、この日高氏の宮司がこの藤白神社の宮司になった。
日高川は歌舞伎で有名な庵陳清姫の舞台となったところである。
このり藤白神社は毎年熊野詣でで訪れる天皇の一団をもてなしをする。
この藤白神社からは372メータの藤白山の山越えをするのでここで一団は泊まる。
この泊まるところを「王子」と云う。
この付近には熊野詣で尋ねてきた人を留める祓戸王子と藤白王子とがある。
この王子や周囲の民家の屋敷に泊まって一団は歌会を催すのが恒例である。
小栗判官や山辺赤人や柿本人麻呂など平安歌人が多く通ったところである。
そして、又この地は習字の墨を日本ではじめて作った場所でもある。(藤白墨)
この墨は後醍醐天皇に命じられて日本各地に探し求められたが見つからず、熊野詣ででこの地に来て海南地方から少し南にある湯浅地方に分布している「うばめ樫の木」(通称ばべの木)で地元の炭焼きの者が造っている炭を観て、その煤で作ってみたのである。
ところが、この墨が其れまでは中国から輸入していたが、それに勝るとも劣らず墨が取れる事に気付いたのである。この墨が日本最古の墨で「藤白墨」というのである。
この墨は天皇家だけに納入された特別品であつたし、後の代々の将軍家に納入された。そして、最後は徳川家の専売特許とされた。この墨の最後の墨が筆者の家につい最近まで保存されていたが、紛失した。しかし、魚拓ではないが「墨拓」は保存している。
これが現代では多くに使われている備長炭の炭である。
(この藤白墨が取れた場所から50メータも行ったところに鈴木屋敷がある。)
この馬の背の坂から昔は万葉の唄で知られる和歌の浦も見渡せる位置にあり、この景色や藤白の浜の藤白の歌を謡った万葉の歌は多く残されている。
和歌の裏 潮満ちくれば 片男波 芦辺をさして 鶴鳴きわたる。(山辺の赤人)
後醍醐天皇は此処に毎年の様に泊まり歌会を催した。この時、この宮司が天皇に歌をいつもの様に歌を披露した。
ここに流れる紫川の歌を披露した。
この歌を聞いた天皇は大変に感心して、褒美としてこの日高氏の宮司に「鈴木」という氏と名を「瑞穂」(ほずみ)として与えた。所謂賜姓である。
(鈴木姓は穂積と言う言葉から来ていると言う説もある。瑞穂の襲名の名は穂積から来ているものと思われる。)
大変に喜んだ宮司だか、この宮司には子供がいない。
そこで、神社より15メーターほど坂を登ったところにある農家の氏子の三男を養子に貰い、鈴木姓を継いだ。これが最初のルーツの鈴木氏である。
丁度、その時、鞍馬山の牛若丸が僧侶になる事を迫られて、これを拒否して平氏より追われていた。
この時、五条の橋で家来になった弁慶が居た。この弁慶は日高地方の田辺郷地方の熊野神社別社の宮司の日高氏の息子であった。
この弁慶は大変に乱暴であり、土地で問題をよく起していた。
そこで困り果てた宮司の父親は比叡山の僧兵として送り込んだ。
しかし、ここでも問題を起して追い出される始末である。
この後、五条の橋での弁慶と牛若の言い伝えである。
この主従は平泉に逃れる前に、熊野神社の本宮の宮司に牛若丸の庇護を願い出るために旅をしてこの藤白神社まで辿りついた。
此処で、弁慶はこの藤白神社の鈴木氏に主を預けて熊野神社に交渉に出かけた。
この時、この牛若丸の面倒をこの鈴木氏の養子の三郎に委ねた。ほぼ3月滞在することになるが、この時、この三郎の弟の六郎も牛若丸の下働きをするようになった。その後に兄の鈴木氏は牛若丸の家来になつた。このせいもあり、六郎も牛若の家来になる。六郎はこの神社の天皇から褒められた紫川の美味い水の井戸の蓋の形が亀の甲羅の形に似ているので、この亀の形の蓋を採って「亀井」と称した。今でもこの井戸と蓋は藤白神社に祭られている。
つまり、このような経緯から、鈴木氏と亀井氏とはルーツは兄弟である。
この二人の鈴木氏と亀井氏との兄弟は弁慶の帰りを待った。
弁慶は熊野神宮の拒否された答えを持って帰ってきた。
熊野神宮は牛若丸を庇護を拒否することで、平家との摩擦を避けたのである。この頃は熊野神宮は平家側に付いていた。
天皇もまだこの頃は平家にたいして対抗していなかったことから、天皇から保護されている熊野神宮の立場であったから、断わったのである。
鈴木の三郎と亀井の六郎の兄弟の家来と弁慶は、牛若丸に付き従い京に戻り平泉に旅立つのである。
NHKのドラマは史実と若干異なる。小説なのでやむ終えないことであるが。他にも2、3史実と異なる事があったので実は私は意見を申し上げた。
このはっきりした史実の家来の構成も異なっているのであるが、上記した喜三太の役柄は鈴木三郎と亀井六郎の牛若丸の家来としての役目である。
この二人の兄弟は義経の最後までつき従ったのである。
義経の生存説はこの二人の兄弟の逃亡のための段取りをつけて句里の後ろがわから逃亡したのである。
そして、蒙古に逃げ延びたとするジンギスカン説が生まれたのである。
この説の根拠として、ジンギスカンの紋章は真さに「笹竜胆」の源氏の紋と非常に似ていてそっくりである事と、ジンギスカンの生い立ちはかの放牧民の中で不詳であり、記録には天から舞い降りてきた救世主として記録されているのである。(疑問)
そして、このジンギスカンの後ろに何時も影の様につき従う二人の家来が居たと記録されているのである。
このジンギスカンが現れる前はこの集団を率いる一族の子孫は居たが、この突然天から現れた者に統率力があり、周囲の各豪族の集団はこのジンギスカンに任す事を決めて、本来成るべき元の子孫を掟により抹殺したと記録されているのである。蒙古の掟として実力のある者を長とする定めに従いジンギスカンを主としたとするのである。
(この蒙古では各豪族の集団指導体制でこのなかから戦いにより武勇実力に優れた者を首長として決める掟があり、出生がわからないと言うことはないのである)
ジンギスカンの顔かたちと義経の顔かたちとは非常に良く似ている。
そして、弓と馬の操作が上手く機敏であり、恒に戦いの先頭にたち突き進んだと記録されている。平家との戦いと類似し物語る。
他国のジンギスカンの紋章が源氏の紋章とが類似一致することは偶然を超えている事と2度の蒙古襲来もこの説を説明する要素に成り得る。
句里の中に入った義経の遺骨は発見されなかった事と、弁慶の仁王立ちの理由もこの時間を稼ぎ、逃す手立てであったはずである。突然に攻められたわけでもないので十分に検討する時間はあったはずである。また、北陸地方には逃亡中にこの主従を一時匿ったとされる別名で判官さんと言う一族がある事も突き止められているのである。
十分に考えられる内容である。
さて、この二人の兄弟の鈴木氏と亀井氏が何故に子孫を増やしたかという事であるが、義経には初期に付き従う土豪集団はなかった。いざ源氏というときに源氏の味方として従う一団をつくらねば成らない。そこで、各地を移動するときに、必ず当時の慣習として、「戦地妻」といって土地の豪族との血縁関係を持ち生まれた子供は源氏の支流一族の者との朱印状を受けて、土豪側は一族の安全を図り、義経側はいざと云うときには駆けつける味方とする目的があり、盛んに此れを行ったのである。時には娘を、場合に依っては妻を出すということまで行ったとされている。このことは現代の常識では異常であるが当時としては慣習であつた。
特に、この兄弟は義経の直の家来としてこの役目を負っていたのである。
この兄弟の二人には紀州にもこの一族造りの応援団が出来て、熊野詣で宣伝隊と称して密かにこの二人を追って手伝いをして地域毎に鈴木氏と亀井氏の子孫を多く残してくる旅をして応援をしたと記録されている。
名目は熊野宣伝隊であるが、この宣伝隊は既に、天皇が一年に一度以上も熊野詣でする位で、「別名、蟻の熊野詣で」と称されるくらいであった。何もいまさら宣伝隊ではない。
仮りにするとしても、新宮の熊野神社の膝元から始まればよいものを一番熊野神社から遠い神社の藤白からその隊が興るのはおかしい。
平家の目をくらます藤白の鈴木氏と亀井氏の一族の応援であったのであろう。
その証拠に義経が一の谷の戦いの時は義経の12000の直属の一族の兵が集まったと記録されている。つまり、各地の鈴木氏と亀井氏の血縁者が集まったことである。だから義経はつよかつたのである。全く直属の家来の無い頼朝と違う所である。
義経の”源氏一族で幕府を”とする考えと、坂東八平氏の裏打ちされた頼朝の考えとの食い違いによる兄弟の摩擦である。結局は幕府3年以内には頼朝と頼朝の子孫は全て抹殺されてしまい、坂東平氏の幕府となってしまうのである。
この義経を裏から支えたのは鈴木氏と亀井氏の二人のであり、その貢献は実に大きいのである。しかし、このことは余り歴史上には出てこない。今回の大河ドラマにも出て来ないのである。
しかし、この鈴木氏と亀井氏との子孫を増やす作戦に出た事が大きな成果を生んだ。この一族最後まで義経に付き従い、北陸への逃亡も付き従ったことが子孫を各地に残す結果となったのである。場合に依っては蒙古にも鈴木氏と亀井氏の子孫がいることにもなる。
実は私は海南市の藤白神社のこの全国に広まった鈴木氏の本家の最後の末裔の人を知っているのである。本家鈴木氏は絶えたが、亀井氏は依然として、この鈴木屋敷の側に本家が現存するのである。
全国の鈴木氏と亀井氏とは元は兄弟である。
このような経緯によって鈴木氏は発祥した。そして同じく亀井氏も同じルーツで発祥したのであるが亀井氏のことは余り知られていない。
亀井氏も鈴木氏と比べて多くの子孫を各地に分散して残した。
この様に子孫の広がりに付いて何が原因しているのかと言うことを青木氏と比較してみる。
皇族賜姓青木氏や源氏一族等の子孫の広がり方は全く異なる。青木氏には家柄と言う当時では絶対視された考え方で、子孫を鈴木氏や亀井氏の「戦地妻的な血縁」で増やしたものに対して「政治的な血縁」で増えて行くのとではその勢いは異なる。
藤原秀郷の青木氏や進藤氏や長沼氏や長谷川氏等は守護などの官職の赴任でその土地に子孫を残してゆく「戦略的な血縁」と阿多倍の一族のような渡来系族の部制度による「経済的な血縁」と「武力的な血縁」で子孫を一時多く遺した京平氏と「集団的な血縁」で子孫を温存した坂東八平氏等色々な形がある。
そして、その形はその氏の宿命的立場に依って関わっていることに気付くのである
この様に、子孫を遺す方式を研究すると、「戦地妻的な血縁」「政治的な血縁」「戦略的な血縁」「経済的な血縁」「武力的な血縁」「集団的な血縁」のパターンがある事に気付くが、現在から考えた場合、どの血縁が一番子孫を遺したかは一概には云えないが、結果としては家紋200選の中では、「戦地妻的血縁」が確実に子孫を多く遺していることになる。
これは、一族に関わる全ての”しがらみ”の大小が原因しているのであろう。
この”しがらみ”のパラメータで並び直すと子孫を多く遺した順に並ぶような気がするのである。
そして、「各地に散在して血縁」していることも原因している。
この点から考えた場合は、賜姓青木氏は少ない事に納得する。
賜姓青木氏はしがらみも多いし、5地方に限定し散在の血縁もしていない。
青木氏を研究していてこの事柄から心配をしていたが、しかし、賜姓青木氏の直流支流分流の24氏の現代においても確認出来たのはすばらしいことである。
又、藤原秀郷流青木氏の直系1氏直流4氏支流4氏分流あわせて116氏は「戦略的な血縁」で拡がった子孫であるが激しい戦乱の時代を潜りぬけて関東地方に確実に根をおろして現存する力強さは他のどの子孫よりも優秀である。
このことは賜姓青木氏のように今は、「パラメータと散在の血縁」では低いが、その歴史が物語る様に子孫を遺そうとする血筋に持つ「粘り強さ」が影響していることに気付いたのである。
少ない子孫を確実に残すことから粘り強さが生まれているのである。逆に、少ない小さいしがらみと散在の血縁タイプでは数を多く遺して確率で遺すタイプは粘りが無い事に気付いたのである。
これは真に「虫の生存原理」である。人間の子孫を残す行為にもこの原理が働いていることに改めて感心したのである。
研究室のレポートの如く、我が2流の青木氏の先祖が子孫を残すことの方法は別にして、全力を尽くしたことを感謝して、今後とも青木氏諸君は大いに良い子孫を育て頂きたいものである。そのためにもこのサイトのレポートが役に立つことを期待する。
以上。
青木研究員
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鈴木氏と云えば日本の姓のなかでも非常に子孫を広げた氏の一つですが、この氏に付いてどのような経緯から発祥して広がったかに付いて見てみる。
鈴木氏は今NHKの大河ドラマの義経に家来として本来は出て来るはずである。
多分、ドラマの喜三太とか云う義経の身の回りの仕事をしている家来が鈴木三郎であると思う。
この鈴木氏の発祥は熊野古道の熊野詣でで各天皇が詣でたことから興った氏である。
後醍醐天皇は23回も詣でたといわれているが、年に一回程度である。
この熊野詣でで和歌山県海南市藤白に熊野古道の熊野神社の第一の鳥居がある。正式にはここから熊野古道と言われる。
つまり熊野神社の社領の一番最初にある鳥居の事である。
この鳥居から藤白坂を登って1キロ程度上りきったところから、古代の呼び名の「馬の背」という坂道を通り(馬の背中のようになった坂)、200メートルくらいのところに藤白神社がある。熊野系列の第一番目の神社である。
千年以上の歴史を思わせるような大きな楠木に囲まれて静かに佇む神社である。後ろには静かに流れる谷川がある。この谷川は「紫川」といって非常においしい水が飲めるきれいな川で、万葉の歌にも多く謡われている。
この神社の隣に鈴木屋敷がある。
この神社の宮司は元は日高氏である。
日高氏は南紀(和歌山の南地域)にある日高川の付近の土豪で熊野神宮の宮司の一族である、この日高氏の宮司がこの藤白神社の宮司になった。
日高川は歌舞伎で有名な庵陳清姫の舞台となったところである。
このり藤白神社は毎年熊野詣でで訪れる天皇の一団をもてなしをする。
この藤白神社からは372メータの藤白山の山越えをするのでここで一団は泊まる。
この泊まるところを「王子」と云う。
この付近には熊野詣で尋ねてきた人を留める祓戸王子と藤白王子とがある。
この王子や周囲の民家の屋敷に泊まって一団は歌会を催すのが恒例である。
小栗判官や山辺赤人や柿本人麻呂など平安歌人が多く通ったところである。
そして、又この地は習字の墨を日本ではじめて作った場所でもある。(藤白墨)
この墨は後醍醐天皇に命じられて日本各地に探し求められたが見つからず、熊野詣ででこの地に来て海南地方から少し南にある湯浅地方に分布している「うばめ樫の木」(通称ばべの木)で地元の炭焼きの者が造っている炭を観て、その煤で作ってみたのである。
ところが、この墨が其れまでは中国から輸入していたが、それに勝るとも劣らず墨が取れる事に気付いたのである。この墨が日本最古の墨で「藤白墨」というのである。
この墨は天皇家だけに納入された特別品であつたし、後の代々の将軍家に納入された。そして、最後は徳川家の専売特許とされた。この墨の最後の墨が筆者の家につい最近まで保存されていたが、紛失した。しかし、魚拓ではないが「墨拓」は保存している。
これが現代では多くに使われている備長炭の炭である。
(この藤白墨が取れた場所から50メータも行ったところに鈴木屋敷がある。)
この馬の背の坂から昔は万葉の唄で知られる和歌の浦も見渡せる位置にあり、この景色や藤白の浜の藤白の歌を謡った万葉の歌は多く残されている。
和歌の裏 潮満ちくれば 片男波 芦辺をさして 鶴鳴きわたる。(山辺の赤人)
後醍醐天皇は此処に毎年の様に泊まり歌会を催した。この時、この宮司が天皇に歌をいつもの様に歌を披露した。
ここに流れる紫川の歌を披露した。
この歌を聞いた天皇は大変に感心して、褒美としてこの日高氏の宮司に「鈴木」という氏と名を「瑞穂」(ほずみ)として与えた。所謂賜姓である。
(鈴木姓は穂積と言う言葉から来ていると言う説もある。瑞穂の襲名の名は穂積から来ているものと思われる。)
大変に喜んだ宮司だか、この宮司には子供がいない。
そこで、神社より15メーターほど坂を登ったところにある農家の氏子の三男を養子に貰い、鈴木姓を継いだ。これが最初のルーツの鈴木氏である。
丁度、その時、鞍馬山の牛若丸が僧侶になる事を迫られて、これを拒否して平氏より追われていた。
この時、五条の橋で家来になった弁慶が居た。この弁慶は日高地方の田辺郷地方の熊野神社別社の宮司の日高氏の息子であった。
この弁慶は大変に乱暴であり、土地で問題をよく起していた。
そこで困り果てた宮司の父親は比叡山の僧兵として送り込んだ。
しかし、ここでも問題を起して追い出される始末である。
この後、五条の橋での弁慶と牛若の言い伝えである。
この主従は平泉に逃れる前に、熊野神社の本宮の宮司に牛若丸の庇護を願い出るために旅をしてこの藤白神社まで辿りついた。
此処で、弁慶はこの藤白神社の鈴木氏に主を預けて熊野神社に交渉に出かけた。
この時、この牛若丸の面倒をこの鈴木氏の養子の三郎に委ねた。ほぼ3月滞在することになるが、この時、この三郎の弟の六郎も牛若丸の下働きをするようになった。その後に兄の鈴木氏は牛若丸の家来になつた。このせいもあり、六郎も牛若の家来になる。六郎はこの神社の天皇から褒められた紫川の美味い水の井戸の蓋の形が亀の甲羅の形に似ているので、この亀の形の蓋を採って「亀井」と称した。今でもこの井戸と蓋は藤白神社に祭られている。
つまり、このような経緯から、鈴木氏と亀井氏とはルーツは兄弟である。
この二人の鈴木氏と亀井氏との兄弟は弁慶の帰りを待った。
弁慶は熊野神宮の拒否された答えを持って帰ってきた。
熊野神宮は牛若丸を庇護を拒否することで、平家との摩擦を避けたのである。この頃は熊野神宮は平家側に付いていた。
天皇もまだこの頃は平家にたいして対抗していなかったことから、天皇から保護されている熊野神宮の立場であったから、断わったのである。
鈴木の三郎と亀井の六郎の兄弟の家来と弁慶は、牛若丸に付き従い京に戻り平泉に旅立つのである。
NHKのドラマは史実と若干異なる。小説なのでやむ終えないことであるが。他にも2、3史実と異なる事があったので実は私は意見を申し上げた。
このはっきりした史実の家来の構成も異なっているのであるが、上記した喜三太の役柄は鈴木三郎と亀井六郎の牛若丸の家来としての役目である。
この二人の兄弟は義経の最後までつき従ったのである。
義経の生存説はこの二人の兄弟の逃亡のための段取りをつけて句里の後ろがわから逃亡したのである。
そして、蒙古に逃げ延びたとするジンギスカン説が生まれたのである。
この説の根拠として、ジンギスカンの紋章は真さに「笹竜胆」の源氏の紋と非常に似ていてそっくりである事と、ジンギスカンの生い立ちはかの放牧民の中で不詳であり、記録には天から舞い降りてきた救世主として記録されているのである。(疑問)
そして、このジンギスカンの後ろに何時も影の様につき従う二人の家来が居たと記録されているのである。
このジンギスカンが現れる前はこの集団を率いる一族の子孫は居たが、この突然天から現れた者に統率力があり、周囲の各豪族の集団はこのジンギスカンに任す事を決めて、本来成るべき元の子孫を掟により抹殺したと記録されているのである。蒙古の掟として実力のある者を長とする定めに従いジンギスカンを主としたとするのである。
(この蒙古では各豪族の集団指導体制でこのなかから戦いにより武勇実力に優れた者を首長として決める掟があり、出生がわからないと言うことはないのである)
ジンギスカンの顔かたちと義経の顔かたちとは非常に良く似ている。
そして、弓と馬の操作が上手く機敏であり、恒に戦いの先頭にたち突き進んだと記録されている。平家との戦いと類似し物語る。
他国のジンギスカンの紋章が源氏の紋章とが類似一致することは偶然を超えている事と2度の蒙古襲来もこの説を説明する要素に成り得る。
句里の中に入った義経の遺骨は発見されなかった事と、弁慶の仁王立ちの理由もこの時間を稼ぎ、逃す手立てであったはずである。突然に攻められたわけでもないので十分に検討する時間はあったはずである。また、北陸地方には逃亡中にこの主従を一時匿ったとされる別名で判官さんと言う一族がある事も突き止められているのである。
十分に考えられる内容である。
さて、この二人の兄弟の鈴木氏と亀井氏が何故に子孫を増やしたかという事であるが、義経には初期に付き従う土豪集団はなかった。いざ源氏というときに源氏の味方として従う一団をつくらねば成らない。そこで、各地を移動するときに、必ず当時の慣習として、「戦地妻」といって土地の豪族との血縁関係を持ち生まれた子供は源氏の支流一族の者との朱印状を受けて、土豪側は一族の安全を図り、義経側はいざと云うときには駆けつける味方とする目的があり、盛んに此れを行ったのである。時には娘を、場合に依っては妻を出すということまで行ったとされている。このことは現代の常識では異常であるが当時としては慣習であつた。
特に、この兄弟は義経の直の家来としてこの役目を負っていたのである。
この兄弟の二人には紀州にもこの一族造りの応援団が出来て、熊野詣で宣伝隊と称して密かにこの二人を追って手伝いをして地域毎に鈴木氏と亀井氏の子孫を多く残してくる旅をして応援をしたと記録されている。
名目は熊野宣伝隊であるが、この宣伝隊は既に、天皇が一年に一度以上も熊野詣でする位で、「別名、蟻の熊野詣で」と称されるくらいであった。何もいまさら宣伝隊ではない。
仮りにするとしても、新宮の熊野神社の膝元から始まればよいものを一番熊野神社から遠い神社の藤白からその隊が興るのはおかしい。
平家の目をくらます藤白の鈴木氏と亀井氏の一族の応援であったのであろう。
その証拠に義経が一の谷の戦いの時は義経の12000の直属の一族の兵が集まったと記録されている。つまり、各地の鈴木氏と亀井氏の血縁者が集まったことである。だから義経はつよかつたのである。全く直属の家来の無い頼朝と違う所である。
義経の”源氏一族で幕府を”とする考えと、坂東八平氏の裏打ちされた頼朝の考えとの食い違いによる兄弟の摩擦である。結局は幕府3年以内には頼朝と頼朝の子孫は全て抹殺されてしまい、坂東平氏の幕府となってしまうのである。
この義経を裏から支えたのは鈴木氏と亀井氏の二人のであり、その貢献は実に大きいのである。しかし、このことは余り歴史上には出てこない。今回の大河ドラマにも出て来ないのである。
しかし、この鈴木氏と亀井氏との子孫を増やす作戦に出た事が大きな成果を生んだ。この一族最後まで義経に付き従い、北陸への逃亡も付き従ったことが子孫を各地に残す結果となったのである。場合に依っては蒙古にも鈴木氏と亀井氏の子孫がいることにもなる。
実は私は海南市の藤白神社のこの全国に広まった鈴木氏の本家の最後の末裔の人を知っているのである。本家鈴木氏は絶えたが、亀井氏は依然として、この鈴木屋敷の側に本家が現存するのである。
全国の鈴木氏と亀井氏とは元は兄弟である。
このような経緯によって鈴木氏は発祥した。そして同じく亀井氏も同じルーツで発祥したのであるが亀井氏のことは余り知られていない。
亀井氏も鈴木氏と比べて多くの子孫を各地に分散して残した。
この様に子孫の広がりに付いて何が原因しているのかと言うことを青木氏と比較してみる。
皇族賜姓青木氏や源氏一族等の子孫の広がり方は全く異なる。青木氏には家柄と言う当時では絶対視された考え方で、子孫を鈴木氏や亀井氏の「戦地妻的な血縁」で増やしたものに対して「政治的な血縁」で増えて行くのとではその勢いは異なる。
藤原秀郷の青木氏や進藤氏や長沼氏や長谷川氏等は守護などの官職の赴任でその土地に子孫を残してゆく「戦略的な血縁」と阿多倍の一族のような渡来系族の部制度による「経済的な血縁」と「武力的な血縁」で子孫を一時多く遺した京平氏と「集団的な血縁」で子孫を温存した坂東八平氏等色々な形がある。
そして、その形はその氏の宿命的立場に依って関わっていることに気付くのである
この様に、子孫を遺す方式を研究すると、「戦地妻的な血縁」「政治的な血縁」「戦略的な血縁」「経済的な血縁」「武力的な血縁」「集団的な血縁」のパターンがある事に気付くが、現在から考えた場合、どの血縁が一番子孫を遺したかは一概には云えないが、結果としては家紋200選の中では、「戦地妻的血縁」が確実に子孫を多く遺していることになる。
これは、一族に関わる全ての”しがらみ”の大小が原因しているのであろう。
この”しがらみ”のパラメータで並び直すと子孫を多く遺した順に並ぶような気がするのである。
そして、「各地に散在して血縁」していることも原因している。
この点から考えた場合は、賜姓青木氏は少ない事に納得する。
賜姓青木氏はしがらみも多いし、5地方に限定し散在の血縁もしていない。
青木氏を研究していてこの事柄から心配をしていたが、しかし、賜姓青木氏の直流支流分流の24氏の現代においても確認出来たのはすばらしいことである。
又、藤原秀郷流青木氏の直系1氏直流4氏支流4氏分流あわせて116氏は「戦略的な血縁」で拡がった子孫であるが激しい戦乱の時代を潜りぬけて関東地方に確実に根をおろして現存する力強さは他のどの子孫よりも優秀である。
このことは賜姓青木氏のように今は、「パラメータと散在の血縁」では低いが、その歴史が物語る様に子孫を遺そうとする血筋に持つ「粘り強さ」が影響していることに気付いたのである。
少ない子孫を確実に残すことから粘り強さが生まれているのである。逆に、少ない小さいしがらみと散在の血縁タイプでは数を多く遺して確率で遺すタイプは粘りが無い事に気付いたのである。
これは真に「虫の生存原理」である。人間の子孫を残す行為にもこの原理が働いていることに改めて感心したのである。
研究室のレポートの如く、我が2流の青木氏の先祖が子孫を残すことの方法は別にして、全力を尽くしたことを感謝して、今後とも青木氏諸君は大いに良い子孫を育て頂きたいものである。そのためにもこのサイトのレポートが役に立つことを期待する。
以上。
青木研究員
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
