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伊勢青木氏 家訓9

[No.291]Re: 伊勢青木家 家訓9
投稿者:福管理人 投稿日:2013/02/22(Fri) 11:37:20


>家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
>家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
>家訓3 主は正しき行為を導く為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
>家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
>家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
>家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
>家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
>家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
>家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
>家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)

>家訓1は「夫婦の戒め」
>家訓2は「親子の戒め」
>家訓3は「行動の戒め」
>家訓4は「性(さが)の戒め」
>家訓5は「対人の戒め」
>家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)
>家訓7は「品格の戒め」
>家訓8は「知識経験の戒め」

「家訓9」は「煩悩」である。「和武の戒め」
「家訓8」までは人間の外に出て来る性(さが)であった。然し、この「家訓9」は人間の内に秘める「性」で何とも難しいものであろう。
なかなか理解に苦しむ家訓である。仏教で云う「煩悩」を説くのであれば何も家訓にしなくても仏教の教えを説く文献を見れば済む事でもある。
それをわざわざ家訓にするのは変である。何かの意味を持っているからこの「煩悩」と云う難しいものを家訓にしたのであろう事が判る。
果たして「煩悩」を家訓としているのだろうか。率直に疑問を持つ。
それをこの家訓書から読み採る事が必要であり、家訓書に添えられた短い添書から一時一句逃さずその字句の持つ本質と云うか語源と云うかを理解して本来の先祖が言いたかった事を読み取らねば成らない。
それには、その家訓とした時代背景や過去の社会環境や青木家の慣習や仕来りや掟を充分に知り理解を進めねば成らない事に成る。一朝一夕では成し得ない事を匂わしている。
実は、この「家訓9」には若い頃は、時代背景や過去の社会環境や青木家(氏)の仕来りは充分に知り得ていなかった為に、”何を大げさな、意味の無い事を”と思っていた。
然し、青木氏の慣習や仕来りや掟等の雑学や、自分の人生経験を重ねる内に何となく判る気がして来た。それでも、”変だな”云う感覚が頭の何処かにあった。
当然に、筆者の性格上から「仏教」と云うものを勉強し始めた。何も入信した訳ではない。入信したからと云って「仏教」が判る訳では無い筈である。
兎も角も、”「仏教の教典」がこの様に説いているからこの様に理解しろ”で終わる事に成るのが普通である。それは筆者には絶えられない疑問なのである。
技術屋の性癖から ”この様な背景や、この様な人間の性が、この様に脳では働くから、この様に人間は行動するから、人はこの「仏説」を信じろ” で有れば納得する。
それはその仏説が完璧では無くても良く、何らかの「筋道」かその論理的な傾向程度が示されれば、一応は納得するのだが、多くはこれが無い。(従って、人の書いた文献のものでは無く、字句の意味や語源や仏教の持つ意味などの雑学からこれを紐説いた。)
其処で、自分で「論理的な追求と勉強」をする意外に無く、「勉強」と云う事では無く「解析」に近い方法で自分を納得させる。例えば、其処で、その苦労の一端をご披露する。

先ず、「人の生きる道」を説いている教典の「般若心経」に焦点を当てた。その教典の漢字の言語が持つ普通の意味では無く「中味の意味する処」を知ろうとした。漢字の語源等から探求した。
例えば、「色即是空」「空即是色」である。この仏説の漢字の意味だと”何が何だか判らない”事に成る。
其処でこの漢字を解析する事で理解が深まる。以外に論理的であった。
そこで、但し、自分の仏説ではあるが、これを解いた。
そもそも、「色」はこの世の「全て物」には「色」がある。「色」とは物理的には筆者の専門であるので論理性が判る。其処から導き出すと、従って、”「色」とは太陽から生み出されたこの万物(「世の物」)”と云う事で理解が出来る。つまり、「現世の物」、突き進んで「現世」となるだろう。
「即是」には助動詞であるので解析は不要で、次ぎの問題は「空」と云う事に成る。
其処で「色」と同じく漢字の解析に入ると、「空」は”空っぽ 無い”のであるから、「色」からすると反意語で「色」の集積は「黒」を意味する。
”黒は暗闇、暗闇の中には何も無い。”とすると、「黒」が「無い」とすると「暗闇」と成り、「色」のある「現世」に対して「空」は「彼世」と成る。
そもそも、「空」は「黒」で「彼世」とすると、「黒」は論理的には全ての「色」を混ぜ合わした時に起る「色」である。
然し、この世には太陽光の波長光が物に当ると発色する「物の色-1」(BGR)に対して、物に当らないで波長光として残る「光の色-2」(YMC)もある。
彼世から来た「3つの光」は現世の物に当って、「3つの色」と成って発する。これを「補色関係」と云う。
そして、この結果、この世の中は、「物の色-1」(BGR-黒)と「光の色-2」(YMC-白)とで構成されている。
この「補色の関係」にある「色」を構成する「光」に対して補色の全ての光の交わった色は「白」と成る。
(B:青 G:緑 R:赤→ 黒) (Y:イエロー M:マゼンタ C:シアン→ 白) 
とすると、「色」の「現世」は「白」、「空」の「彼世」は「黒」を基としている事に成るから、この世は「全ての物」が存在する「世」である事に成る。
この二つの解析から「色」は「現世」で「白」、「空」は「彼世」で「黒」とすると、「黒」も持つ意味は”何も無い”を意味し、「白」も汚れの無い”何も無い”を意味している事に成る。
”何も無い”では「色」も「空」も同じと云う理屈に成る。つまり、「現世」も「彼世」も同じと云う事に成る。
「色」も「空」も”何も無い”と成り、論理的には”その「本質」が異なる事だけ”に成る。
さて、此処までは解析が出来た。此処からが問題だ。
どちらも、”何も無い”なのだから、「色」=「空」と成り「即是」(=)の言葉で繋がる。
だから、同じ名のだから、”「色」は、即ち、これ「空」成り 「空」は、即ち、これ「色」成り”と訳される。
「現世」に於いて「彼世」とは「白」と「黒」の ”何も無い” の「本質の違い」だけで繋がる事に成る。
この違いは、ただ単に「補色の関係」のみだけだから、「現世」での「本質の違い」に因って起る事柄には、”何も無い”であるのだから、「この世 あの世」ともに同じである。
依って、同じなのだから、同じものを比較して ”事を事更に拘るな” と云う意味を持つ事に成る。 
”「色」がある、「色」が無い 「空」だ、「空」で無い等と、事を事更に言い張って「拘る事」に意味はないのだ。そもそも「拘る事」に問題があるのだ”としている事に成る。
俗に云えば、”「煩悩」を、「煩悩」として起る「諸行の喜怒哀楽」に、事を事更に拘るな” と云うと云っている事に成る。

そもそも、”「拘る事」が「煩悩」の始まりだ”と云う事に成る。つまりは、「拘る」=「我 執」である。
つまり、”「煩悩」はあって良い。それに必要以上に縛られて「拘る事」に意味が無い。”と解いている事に成る。
と成れば、そうすると、「現世の本質」とは”何なのか”も解析出来る。
それは「現世」(この世)では「煩悩」とは、 ”「人」としての「煩悩から起る喜怒哀楽」と云う事に成るだろう。
「煩悩」=「現世の喜怒哀楽」
突き詰めれば、「人」がこの「現世」から「彼世」に移る時に、「現世」に遺されたものはその個人としては「喜怒哀楽」の「過去の思い出」以外には無く、肉体は焼却される事で「喜怒哀楽の過去の思い出」は ”何も無く成る”を意味する。
故に、”「現世」から「彼世」に移る事は「空」による移動にしか無い”とも受け取れる。
只、然し、此処で「万能の神」は、その「現世での証し」として、「人」つまり「子孫」を分身として遺す事を定めて、”現世と彼世の断絶”を ”[「色と空」、「白と黒」の摂理]”により無くした事に成る。
現世から彼世の「移動」は「断絶」では無く「継続」であるとして「即是」と繋いだ事に成る。
故に、「仏教・仏説」では、助動詞の ”即是”の言語を使ったのであろう。

「阿弥陀仏の説」(青木氏の仏説)
「仏」の上位にある「神」は、”この「現世-彼世」(色と空 白と黒)には「繋がり」として絶える事の無い「分身」を置いた事に成る” と解いて、全体の論理性を仏説として用いた事に成る。
そして、この仏説の「分身の部分」は、「人の変化(へんげ)」の「仏」では無く、それを「仏」が云うのでは無く、上位の「神の仕儀」と説いたのであろう。
確かに、この「分身」無くして「現世と彼世」は断絶して「仏説の論理性」が崩れる。
だから、”「我が身」の「次ぎの分身」が現世に遺すのであるのだから、其処には「前の煩悩(喜怒哀楽)」は消え失せて、「分身の新しい煩悩の喜怒哀楽」が生まれるのだから、要は何も変わっていないのだ。
だから、事を事更に拘るな” と説いている事に成る。
「神」が云うのは、”拘るな 分身に任せよ”と成るのであろう。
これがまさしく「浄土宗の阿弥陀仏」を信心する「青木氏の仏説」と成るであろう。
確かに、この世に於いて、この説が納得出来る事がある。(家訓10)

それは、”孫が生まれた時のあの不思議な喜び” は、子供が生まれた時の喜びに対して比べものに成らない様な異質な喜び、嬉しさ、安堵感に似たものが込み上げて来るが、この”子孫分身を遺した”とする本能的な「動物の安堵感」の感動であろう。
つまり、これは「神」が動物に組み込んだ本能 、”拘るな 分身に任せよ”からの感動であろう。
故に、現世の「人生の最終目的」は ”分身を遺す事にあり、「喜怒哀楽」に無い。”として考え、”「喜怒哀楽に無い”とするならば、そもそも、”「喜怒哀楽」から生まれる「煩悩」には必要以上に拘るな”と成る。
況や、”拘るな 先ず分身を遺し、分身に任せよ”とする説に成る。
”分身を遺す事で全ては解決する”と解いている事に成る。
故に、この「本能に組み込まれた達成感」が孫を見て噴出すのである。異質な喜び、嬉しさ、安堵感と成って込み上げて来るのである。
結局、問題は、人生に於いて、「人生観」を ”分身を遺す事に主義を置くか、「喜怒哀楽」に主義を置くか”の差の問題である事に成る。
人生に於いて、「分身を遺す事」><「喜怒哀楽に置く」の関係式が成立つが、ここで、仏教は「刹那主義」として、「分身を遺す事」<「喜怒哀楽に置く」の関係式を戒めている。
然し、「分身を遺す事」に全てを傾ける事は不可能であり、それはまさしく「拘り」である。
”「拘るな」”としている仏説である限り、”全てを傾ける事”は正しく無い事を意味する。
要するに、現世に生きている限りは、人は「喜怒哀楽」に左右される。
然し、”「分身を遺す事」<「喜怒哀楽に置く」であっては成らない” とし、”「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であるべきだ”と説いている事に成る。
「刹那」の語意の通り、”今”に重点を置いた生き方は、「刹那主義」である。
”「今」を楽しむ そして、その「今」の連続を重ねる。そうすれば、最終は「安楽」に成るだろう” とする積み立ての「加算論」である。この「加算論」=「刹那主義」である事に成る。
”「人」はこの「刹那」に陥りやす動物の思考原理を持っている事が判るが、これでは、”「煩悩の連鎖の道」に陥る” としているのである。
つまり、「刹那」では間違い無く、「今」であるのだから「喜怒哀楽」に翻弄される。翻弄されるから其処から逃れようとして「煩悩の芽」が吹き出す。そして、思うように成らない現世に於いて「煩悩の連鎖」の輪廻が起る事に成る。
故に、”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”と説いているのだ。
(筆者は、この「密教の教え 先祖の教え」にも充分に納得し、人生をこの論理で生きて来た。恐らくは1400年にも成る「悠久の歴史」を持つ「青木氏の累代の先祖」もこの教義に従ったからこそ、現在までに子孫を確実に遺し得たと観られる。極言すればこの「一点思考」に集約されると考えている。全てこの論理から生まれると考えている。)

俗に云えば、では、”その割合はどの程度だ”と成るだろう。
そもそも、”「割合」は「拘りの初期発露」だから”、良くないとして、其処は、”人それぞれである。「人生の経験」で会得せよ。” と「古代密教の仏説」(青木氏の教義 浄土宗系古代密教 家訓)ではしている。
この事は「密教の説法」である事の証しとして、「家訓8」でも戒めている。


これは青木氏が「原始仏教-古代仏教-古代密教浄土宗-浄土宗-阿弥陀仏」の信者である事に依って起る仏説と解釈できる。
故に、下記に記す様に、平安期の「宗教論争」の据えに究極の「阿弥陀蔵論」の ”「煩悩」は否定しない”の仏説と成ったのである。
「仏教の原点」(青木氏の教義 浄土宗系古代密教)に戻って見直されたのである。
平安末期からの仏説では人を救えなかったからこそ、”「煩悩」は否定しない” として見直しが起ったのである。
言い換えれば、「古代密教の仏説」(青木氏の教義 浄土宗系古代密教)を実践している「3つの発祥源」の「青木氏」が、悠久の歴史を経て此処まで生き延びていた事を宗教界は見抜き、上記の古代密教の仏説を体現実戦している ”「阿弥陀蔵論」でなくては無理である。”と悟った事に成る。

この”「煩悩」は否定しない”の教示に成った事は、青木氏の「伝統」や「生き様」や「仕来り・慣習・掟」や「皇祖神-子神-祖先神」や「守護神の神明社」の事柄に影響を受けて大きく繋がっている事に成る。
そもそも、「青木氏の教示」は、既に、奈良期から”「煩悩」に勝るべし”であった。
つまり、”「煩悩」は否定しない”= ”「煩悩」に勝るべし”と論じている。

(”「勝る」と云う事は存在を認めてそれに打ち勝て” と云う事であるから「煩悩」を否定しいない事に成る。この事に付いて下記に縷々と論じる)

「青木氏の守護神(祖先神)」の「神」と、「原始仏教-古代仏教-古代密教浄土宗-浄土宗-阿弥陀仏」の「仏」の「2面性を持つ氏」ならではの事である。
この「2面性に関わる氏」は、どんなに「氏」が多いと云えど、即ち、「融合氏の発祥源の青木氏」だけなのである。

この「宗教論争」が、最終は「阿弥陀蔵論」と成った事は、論理的には「神」-「仏」の2面性を持つ「古代密教系の浄土宗論」に落ち着いた事に成る。
青木氏が持ち続けた「古代密教の仏説」の教示が、「最終の仏説」と成り得た事を示唆している。
この様に、「般若心経」の一時一句を解析して行けば「青木氏式の仏説論」が生まれる。
この「青木氏の仏説論」が ”煩悩は否定しない”の仏説の「阿弥陀蔵論」に成ったと云えるのである。

「仏説-煩悩」
其処で、この「般若心経」にはこの「煩悩」の「仏説」がある。
この「煩悩の仏説」を解析して、「青木氏」が説くこの「家訓9」の「解析の糸口」になる事が判る。
そこで、仏教には多くの宗派があり、この「煩悩」の「仏説論」が「質と量の深み」が異なっていて一概に解析出来ない。
「青木氏」はその奈良期からの「悠久の歴史」を持つ事から、「原始仏教」-「古代仏教」-「古代密教浄土宗」-「浄土宗」-「阿弥陀仏」の伝統を持つ事に成る。それを前提として生きて来た。
そして、この「古代密教」と「祖先神」の考え方が融合して一つの「神仏習合の原型」が出来上がって行った。この「神仏習合」の動きは後に3度起こっているが、恐らくは、この「青木氏」の「古代密教-祖先神」の「融合の考え方」が原型と成っていた事が判る。
何故ならば、「仏教と神教」が融合させていたのは唯一「青木氏」だけだからである。
そして、それは「青木氏の菩提寺」と共に、奈良期から始まった「皇祖神-子神-祖先神-神明社」の486社もの各地の建立にあった事によると判断される。
故に、「氏上様、御師様、総師様」と呼ばれていたのであって、民から崇められ慕われていた事が、その「青木氏」の「仏教-神教」(神仏習合」)の生き方、即ち、「青木氏の考え方」に「民の強い賛同」があった事をものが物語っている。
当然に、「武」に頼らず「和」に頼る「生き様」がより「民の賛同」の前提に成っていた事を示し、「氏家制度」の中でも「上下の差」をできるだけ無くした「一族一門とその一切の郎党の生き様」に、「民」は万来の信頼を寄せていたのであろう事が判る。

(この事は研究室での論文で各所で論じているが、「青木氏の守護神」(神明社)では詳しく論じているので参照)

其処で、その事を念頭に置いて、この「古代密教」とする処に何か意味する事があり、この「煩悩」の「家訓9」の解釈の場合に、重大な「隠された意味」がある事が判断出来る。
そもそも、「原始仏教」に通ずる「古代仏教」-「古代密教」は、平安期の「法然」による「浄土宗」が生まれる前の「浄土宗派の原型」と成る密教である。

「煩悩」
この事を前提に次ぎに「浄土宗」の説く「煩悩」を解析する。
この事に付いては「密教」を前提とする「3大密教」(真言宗、浄土宗、天台宗)は自らの仏説を説いて「宗教論争」が起った。
夫々の密教の「有り様」が、その宗派の「歴史的経緯と立場と背景」からその説が異なっているのである。その中でも、「浄土宗派」だけが「原始仏教-古代仏教-古代密教浄土宗-浄土宗-阿弥陀仏」の歴史を持っている。
然し、他の2つの密教宗派とは当然にその仏説が異なる為に「密教の有り様」に付いて、中でも仏説の根本の「煩悩」の取り扱いに関する「宗教論争」は起った。
この「古代密教浄土宗」を継承して来たのが唯一青木氏のみであるのだ。
それだけに消え失せ易い仏説とも成るが歴史的に観ると、「青木氏」に細々と遺されているのは幸いであった。
然し、現在に於いてはこの「家訓10訓」と「守護神-祖先神」の伝統の中にのみである。
その意味で、この「家訓9の短い添書」は意味を持っているし、「青木氏」としてはこの時点で是非に解析しておかなければ成らないものであった。
故に、その基の一つと成っている「青木氏の守護神(神明社)」の論文には全力を注いだ。
もう一つの基と成っている「家訓10訓」の取分け「家訓9」に対しても全力を注いで、現代の浄土宗の根源と成った「原始仏教」の影響を色濃く引き継いでいる「古代密教浄土宗」の一端を、仏説ではない方法で網羅したいのである。

「煩悩の種類」
浄土宗系が説く仏説の「煩悩」とはそもそも次ぎの通りである。
年末には「108の鐘」の音を打つが、これは人には「108つの煩悩」があるからと云われるが、これは次ぎの様に成っている。
「除夜の鐘・百八つの謂われ」である。
人間には、「眼・耳・鼻・舌・身・意」の「六根」がある。
普通は、人間の「五官」(五観と説くものもある)と云って「眼・耳・鼻・舌・身」でものを感じる。然し、仏教の世界では、「意」を加えてこの「六根」の感じ方があるとしている。

先ず次ぎの「三通りの感じ方」があると云われている。
「好・平・悪」
以上の「三通り」とされている。

つまり、判りやすく云えば、善く感じる「好」、普通に感じる「平」、嫌味で感じる「悪」がある。
そして、この「三通りの感じ方」には、次ぎの様に分けられる。
「染・浄」
以上の「二通り」とされている。

つまり、判りやすく云えば、染まった感じ方をする「染」、純粋無垢な汚れの無い感じ方をする「淨」があるとされる。
「好・平・悪」と「染・淨」は厳密にはその説の論調では少し違うかも知れないが、大方この様に解釈される。此処では仏説論そのものを論じている訳ではないのでこの様にして置く。

さて、そうすると、人は、「眼・耳・鼻・舌・身・意」の六根から「好・平・悪」と「染・浄」の違う「煩悩」が起る事になる。
従って、6根の3倍の「18の煩悩」が先ずある事に成る。
次ぎに、当然に「染・淨」があるとするから、18の2倍の「36の煩悩」が起る。
其処でこの「煩悩の現象」が、上記の「色即是空・空即是色」の「仏説」の通りで云えば、「過去・現在・未来」の「三世」に渡り「悩みや苦しみの煩悩」が続く事に成る。
 計算: 6×3×2=36 36×3=108 
以上の数理的計算で「108の煩悩」が生じる。

故に、除夜の「108の鐘の音」は、過去・現在・未来の「三世」の「煩悩の数」だった事になるのである。 
基本的には、「仏説」では「質」を換えて、”人の魂は3世に生きる”としての前提であるので、「108の煩悩」と成るが、この域(過去と未来)は不証明であるので108は、兎も角も、実質は「36の煩悩」がこの世にある事に成る。

(参考 もし「3世」の内、「過去」と「未来」があるか、どうかは、この「世の物理論」では、現在の「光の速さ:3×10の8剰」より少しでも速い「光の様な振動波:光子粒」が存在すると成れば、在る事に成り、「過去の世界」や「未来の世界」に一時的にも観る事や渡る事が出来る理論と成る。光より速く極小の物質が太陽系外から飛んで来ている事は判っている。この事は宇宙には「光より速い世界」がある事を物語っている。「3世」が無いのか、或いは3世を自由に渡れる世界が在る事も考えられる理屈にも成る。)

そもそも、上記で論じた「般若心経」では、「現世と彼世」は「色不異空 空不異色」「色即是空 空即是色」と解いているのならば、「108つ煩悩」の宗教界の論調はおかしい。疑問が起る。
何故ならば、「3世」少なくとも「現世と彼世」の2つの世には、上記に論じた「般若心経の説」であるから、「彼世に於ける煩悩」は論理的にない事に成る。
その理由は”、「質的変化の移動」の世の移動であり、現世に「分身」を置く事による「煩悩の消却」が起る”としているからである。
況して、そもそも、「平安期の仏説」では、”「質」を換えて”としているのだから、「彼世」に移った際には「現世」にあった「煩悩」は「質」が「分身」に成ってそもそも変っているのだから、その自己の「現世の煩悩」は消却されているのであるから「彼世」には「煩悩」は無い事に成る理屈に成る。

因って、奈良期に入った「般若心経の教典」と「平安期の過激に成った教義」とは矛盾している事に成る。
従って、「108つの煩悩説」は平安期以後の仏説と成るが、「108の煩悩」ではなくて、「般若心経」の説では少なくとも「36の煩悩」と成るのが正しい事に成る。
故に、「平安期前の仏説」は少なくとも「36の煩悩」であった事に成る。

そこで、そもそも、下記で論じるが、”「煩悩」に「好・平・悪」と「染・浄」の違いがあるのか”と云う疑問もある。
この様に分けて何の意味があるのだ。
仏教界の独善的な数理論に依る行き過ぎた「学問的発想」であると観ている。
筆者は明確に無いと考えている。
「原始仏教」は兎も角も「古代仏教-古代密教」の時代には、「6根の教義」も無かったと観ていて、下記に論じるが、”「貪欲」「瞋恚」「愚痴」の「3つ煩悩」であって、「我執」から来る「愚痴」が「煩悩の主因の定義」と成っていた” と観ている。
少なくとも、「36の煩悩」が、「密教」としていた頃には「青木氏の教義」であったと考えている。
「古代仏教-古代密教」も、「青木氏の教義」は兎も角も、「36煩悩説」を教義として採用していた事を物語る。

何故ならば、「青木氏」が「自ら建立した浄土寺」に「自らの氏の者」を「住職」として仕えさせ、「自らの氏」に対してその「氏の教義」を「密教」として説くのである。
依って、必然的に「古代仏教-古代密教」は、「青木氏の住職」が「仏教の教典」を「青木氏」らしく理解し、青木氏外には帰依し伝導し得ない密教の体制であったから、「古代密教」は「青木氏の教義」と言っても過言ではないのである。
それが、上記で論じた「般若心経の解釈」の一説と成り、下記に重複する内容と成るのである。

(参考 ”「我が身」の「次ぎの分身」が現世に遺すのであるのだから、其処には「前の煩悩(喜怒哀楽)」は消え失せて、「分身の新しい煩悩の喜怒哀楽」が生まれる。依って、要は何も変わっていないのだ。だから事を事更に拘るな”と説いている事に成る。
これがまさしく「浄土宗の阿弥陀仏」を信心する「青木氏の仏説」である。次ぎの家訓10で論じる)

「36の煩悩」
そこで、この上記「6根」の「36の煩悩」には、果たして、”どの様なものがあるのか” と云う事に成る。
この「六煩悩」は「六波羅密」とも云われるが、次ぎの様に項目として定義されている。

(心所区分 A 副煩悩)
隠の行   表-・話-・編-・歴
遍の行   作 - 触 - 受 - 想 - 思
別の行   欲 - 勝解 - 念 - 定 - 慧
善の行   信 - 精進 - 慚 - 愧 - 無貪 - 無瞋 - 無癡 - 軽安 - 不放逸 - 行捨 - 不害

(心所区分 B 本煩悩)
本煩悩   貪 - 瞋 - 癡 - 慢 - 疑 - 悪見

(心所区分 B)の内訳
小随煩悩  忿 - 恨 - 覆 - 悩 - 嫉 - 慳 - 誑 - 諂 - 害 - 驕
中随煩悩  無慚 - 無愧
大随煩悩  掉挙 - 昏沈 - 不信 - 懈怠 - 放逸 - 失念 - 散乱 - 不正知
不定    悔 - 睡眠 - 尋 - 伺

以上の定義と成る。

これはなかなか漢字の字句の意味や語源を理解しないと難しい区分であるので、簡単に云うと次ぎの様に成るだろう。

「6根の煩悩」は次ぎの様になる。
煩悩    貪 - 瞋 - 癡 - 慢 - 疑 - 悪見

大まかには以上としていて、これを小中大に分け、これに何れにも含まないものとして「不定の煩悩」と分けられている。
この「6根」を後付けで、前2つを「貪欲」、中2つを「瞋恚」、後2つを「愚痴」の「古代仏教-古代密教」の説の「3つの煩悩」と定義しているものもある。
この説では「愚痴」が「煩悩」の「諸悪の根源」と決め付けていて、その原因は「我執」だとしている。

「3つの煩悩」
「貪欲」「瞋恚」「愚痴」
「諸悪の根源」=「愚痴」←「我執」

(これが「古代仏教」の仏説で、古代密教の青木氏の教示の原型と考えられる。)

兎も角も、その解く説は、「独善的な仏教」を前提とし過ぎて普通の論理では一概に納得出来ないが、個々に説明するのは本文の目的ではないので、別の機会として関係するところを概して解いて観る。

平安期の「6根説」は、兎も角としても、「煩悩」に悩む者に説く内容として ”本来、大中小に分ける意味と必要があるのか、聞いてどう使用せよと云うのか” 甚だ疑問である。

この区分の内容を観ると、次ぎの様に分類される事に成る。

「密教説の仏説」(添書内容の解析)
1 人間が本来動物として持ち得ている「先天的な煩悩」
2 人間が進化する事で持ち得た「後天的な煩悩」
以上の2つに区分されるのではないか。

そして、更に、この2つを分類すると次ぎの2つに分類される。
A 1に付いては「我執」から生まれる煩悩
B 2に付いては「知恵」から生まれる煩悩

そして、その「Aの我執」から生じる「煩悩」は次ぎの様に解釈出来る。
「我執の煩悩」 
イ 貪欲系の煩悩 
ロ 瞋恚系の煩悩(しんひ:自分の意に反すれば怒る心)
ハ 愚痴系の煩悩

これが上記の「煩悩」、即ち、「貪 - 瞋 - 癡 - 慢 - 疑 - 悪見」の「平安期の6根の本煩悩」とされるものに成る事を意味している。

従って、仏説では「6根の本煩悩」と記している以上は、(心所区分 A)は副とは記していないが「副煩悩」と成り得る。
上記の「心所区分」の前の4つを(心所区分 A)とすると、この区分域が「副煩悩」として次ぎの様に「知恵」から生まれた「煩悩区分」と成る。

「智慧の領域区分」
1 隠の行 (表: 話-編-歴)
2 遍の行 (意: 触-受-想-思)
3 別の行 (欲: 勝解-念-定-慧)
4 善の行 (信: 精進 - 慚 - 愧 - 無貪 - 無瞋 - 無癡 - 軽安 - 不放逸 - 行捨 - 不害)

(注意 (・・)の個々を解析する事は本論の目的外であるので割愛する)  

1の区分 「智慧」の「隠」の区分は、ある一つの事を表したり、話したりする単純な思考
2の区分 「智慧」の「遍」の区分は、「単純思考」が集約し思・想の固まりと成る思考群
3の区分 「智慧」の「別」の区分は、「思考群」が更に増幅して「形・型」に成る念想・思想
4の区分 「智慧」の「善」の区分は、「智慧」本来の善行で成せる煩悩解脱の行為

「隠」は「表」、「遍」は「意」、「別」は「欲」、「善」は「信」の語意で表す。

この「古代密教説の仏説]では、”「智慧」は「善」であって、「善」は「煩悩」を解脱させ霧消させる唯一もの(行)である。” と定義している。

即ち、この「古代密教説の仏説」では、”「智慧」は「煩悩」ではない。 むしろ「煩悩」を霧消させる”とする位置付けである。

”「智慧」は「煩悩」の裏返しで、「煩悩」の為に「智慧」が有り、「智慧」の為に「煩悩」がある。”としている。
”「智慧」は陽、「煩悩」は陰の「陰陽の関係」(表裏一体説)だ”と解いている事に成る。

つまり、この「古代密教説の仏説」では、”「智慧」と「煩悩」は「智慧」が勝れば「煩悩」は消え、「煩悩」が勝れば智慧は低下する。”と云う事である。

そもそも、”「智慧」と云う本能は、「仏」では無く、上位の「神」が人間に与えた「本能」であって、元来、生きる為に備わったものである”と説いている。(守護神をも持つ氏の説である)
故に、”「智慧」は「煩悩」に勝る事を優先している事に成る。

その上位の「神」が「人」に与えた「智慧、慈愛」を「仏」が何だかんだと云うのはおかしい。「神」は「善」として与えたもので下位の「仏」が、”「善の智慧や悪の智慧、悪の愛や善の愛」がある”と解説する事がおこがましい。
況や、そもそも、この説は、”「神」は「人」に「悪」のものは与えていないのだ。”とする事を忘れて思い上った「平安期の仏説」の矛盾なのである。この「平安期の仏説」の「矛盾の教義」の理屈を認めてしまえば、「守護神」と「密教菩提寺」の「神仏の教義」を合わせ持つ「氏の教義」(青木氏)としては「神」と「仏」の教義は分離して合致し無く名成り、「氏」その者の存在は破壊霧消する事に成る。
因って、「青木氏の古代密教」では、「平安期の善と悪を持つ煩悩説」では無く、「神仏習合」の説、”「智慧」は「煩悩」ではない。 むしろ「煩悩」を霧消させる”とする説であった事が判る。

然し、元来、常に勝るべき「智慧」が、時には病やストレスや考え違い等で低下する事は否めない。
従って、”この低下する現象を仏教は救うのだ” ”これが一義である” と云う「古代密教の仏教説」を説いているのである。
言い換えれば、”「仏教」は「智慧」を想起させる位置にあって、「仏説」はこれを補う”と記している。
この「古代密教説の仏教説」は云わば「装具説」である。
明らかに平安期の「人道説」では無い事が判る。
故に、”「智慧」を使えば「勝る事」が出来る” と説いている事に成る。
本訓の ”煩悩に勝るべし”は”智慧を使え”と云う事で理解が出来る。
(注釈 この「智慧」を使う場合の条件がある。それは”「和の道」で在らねば成らない”としている。)

流石に「青木氏の特典」を活かす事の出来る教えの「密教」であり、「精神論」の判り難い説法より「具体的な教え」である。
そもそも、精神で悩んでいるものに対して、「精神論」で説いている「平安期の宗教論」は納得が出来ない。
「精神」で悩んでいる者に対して、”もっと人間の本質の智慧を出して乗り越えよ。怠けるな、それで無くてはこの世は乗り越えられぬ。これに打ち勝てぬ者は死を待つ以外に無し、これが「諸行無常の条理」なのだ。”の説法の方が納得出来る。”智慧を出せ”である。
そもそも、「智慧」は「神」が与えた「人間の本来の姿」である。
この世は「智慧」をより出さなければ生きて行けないのである。
故に、”「智慧」が解決してくれる”である。”生き抜く為に「神」は「人間」に「智慧」を与えたのだ。” と解釈できる。

(注釈 此処で云う「神」とは、「皇祖神-子神-祖先神-神明社」の事である。)
ここで重要な事は、「青木氏の守護神」(神明社)のところでも解いた「豊受大神」の「物造りの智慧論]と繋がる。

後の「煩悩」の4つは(心所区分 B)とすると、この区分域が現在で云う本来の「本煩悩」として「我執」から生じる煩悩区分と成るだろう。

この「古代密教説の仏説」は、依って、「智慧」と「我執」としている。
そして、その「我執」(本煩悩)から齎される「本煩悩」を「3つの煩悩」(上記イロハ)に分類している。
この「3つの煩悩」の内は、上記の数式論の関係 「諸悪の根源」=「愚痴」←「我執」であって、
上記の「2の後天的煩悩」はこの「智慧」から生まれるが、”この「智慧」は、上記の「陰陽の関係(表裏一体)」に依って「煩悩」としては霧消する”と説いている。
ただ、この一節を要約すると、”「智慧」<「煩悩」の関係が生まれた時は、「1の先天的煩悩」と「2の後天的煩悩」の「2つの煩悩」に強く苛まれる。”と説いている。
その時は、”「6根の煩悩」に苛まれる。”と説いている。

さて、そこで゜平安期の仏説」は、「知恵」に関わるものを「副煩悩的な扱い」としている。
この事は、下記に述べるが、時代の変化で ”「煩悩」を否定しない”とする仏説(阿弥陀蔵論)も存在したが、これは「知恵」に関わる ”「副煩悩」を否定しない” 、”(心所区分 A)を否定しない” と云う仏説である。

この事は「青木氏の生き様」と、この事から来る「青木氏の家訓9」に大きく関っているので、特に留意が必要なので特記している。

以上の様に、この「古代密教説の仏説」で解析すると何とか解釈出来る。
(この仏説が青木氏に多いに関わる)

「6根の本煩悩」
さて、”「煩悩」とは如何なるものか” を「古代密教説の仏説」で対比して検証して見たが、此処からの問題は、「平安期の6根の本煩悩」の6つが判れば更に概容が掴める。

その前に、筆者はこの「6根の本煩悩」は、平安期末期の「宗教論争の結果の産物」と観ている。
恐らくは、当初は上記の「古代密教説の仏説」であったと観ていて、「煩悩論争」の結果、上記の「我執の煩悩」(イロハ)に付いて、宗教界がヒートアップして、 ”「1の先天的煩悩」の「Aの我執煩悩」では説明が付かない” として、以下の「本煩悩説」を付加えたと観ている。

つまり、「古代密教」前(原始仏教-古代仏教)の仏説では、宗教界は荒れ始めた時代性から考えて納得出来なかったのでは無いかと検証する。”穏やか過ぎる”と観て採ったのであろう。
これは宗教界の中の範囲の「学説的煩悩説」で、この「6根」に分けたからと云って、宗教界外では意味の無い事である。
”「煩悩」はあくまでも「煩悩」であって、その「煩悩」が3つあって、その「3つの煩悩」の内の「愚痴」が「煩悩」の「悪の部分」であって、それが「我執」から起る。そして、それを「智慧」が勝れば「煩悩」は霧消する。”で充分な仏説である筈である。
それが6つに成っても、幾つに成っても、「煩悩」は「煩悩」と捉えるのが「民衆の思考の範疇」である。
所謂、「平安期の仏説」では、現在で云う実行性の無い「学説論」と観える。
要するに平安末期以降の「後付け論」である。
同じく、「本煩悩と副煩悩」も同じ平安期の「後付け論」である。

兎も角も、「6根」に付いて一応概容を論じて置く。
「6根の本煩悩」
「貪 - 瞋 - 癡 - 慢 - 疑 - 悪見」
「貪」は、「貪欲」に代表される様に、「貪」は”むさぼる”の意として”非常に深い”の意を持ち悪意に批する語である。
「瞋」は、人の「慎」で”つつしみ”に通ずる意で、人としての”つつしみ”を超える欲に左右されて仕舞う本能である。即ち、つつしみから外れ「攻撃する本能」である。
「癡」は、人に「猜疑心」を持ち、その事に全てが左右され病的に陥る本能である。
「慢」は、「自慢・傲慢・慢心」に通ずる意で、人として、”わきまえ”を超える欲に左右される本能である。
「疑」は、人は「疑心暗鬼」と成り、必要以上に人を「疑う心」に左右されて仕舞う本能である。
「悪見」は、人を「善」と見ず「悪」と観て思考を何事に於いても構築しようとする本能である。

この「6根の仏説」の俗説解釈では以上と成る。

其処で、注意しなければ成らない事がある。
これ等の仏説は、時代の背景毎に変化して行く事から一概に定説や定義とし難いが、平準して現代的表現からはこの様に成ると考えられる。

(平安期-鎌倉期の時代を背景して、社会環境の中に「宗教力」が強く持った為に、この「独善性」を持つ仏教説では、独善性に陶酔して上記の様に無意味な論説が蔓延り、論説が何が何だか判らない。他の宗派の仏説はこれ以上であり、学僧で無い限りは解らない。)

恐らくは、代表的な時代とすれば、平安末期から鎌倉期を通じ、更には室町期末期までの「下克上-戦国時代」には、この6つの全ての「煩悩」が左右して1期に「人の心」に露出して「世の乱れ」と成ったものであろう。
この様に「時代」に依って、これ等の「解釈や教義」は、変化して宗派毎にもその重きを置く教義が異なりより深く追求されるように成り、人の階層毎に「仏説の変化」を大きく遂げた。

(上記の「古代密教の教義」は「青木氏」によって延々と伝承された。換えなかった、むしろ、”換えられなかった” と云って良いのではとも考えられる。
「3つの発祥源」の立場と守護神との「習合の状態」であった事から、換える事は「習合」が破壊する事、即ち、分子結合を破壊する事と同じ作用を起し、「氏」が解体する事が起るからである。
そもそも「氏の根本的な考え方」が違っていた事が基に成る。)

「共通する教義」
事程左様に「煩悩」とは、異なる宗派の教えるところを種々の文書から研究すれば次ぎの様になるだろう。

その慨しての「共通する教義」では、その論調から考えると次ぎの様な共通項が生まれる
 ”「身心」を乱し悩ませ「智慧」を妨げる心の働き” の言葉で定義される。
これが常識と成るであろうことが読み取れる。

因みに「禅宗」ではこの様な問答が多く成されている。「禅問答」で検証されていて納得出来るところが多い。
この「共通する教義」の「智慧」の「知恵」とは、そもそも、”「知恵」には「正悪の知恵」がある” とした時代が平安期以降にあった。
この「悪」に区分される「知恵」の扱いが、時代毎の諸行の変化に合わせて異なっている事に成る。
それが宗派の違いとして露出しているのであろう。
むしろ、この「知恵」に関する「悪」を「煩悩」としない教義もある位で、「知恵」とするものでは「善」としているのは「古代宗派」に共通する考え方に近い。
この「古代宗派」には、「知恵」には「悪」(煩悩)の「知恵」は定義されていない。
故に、この「知恵」は「古代宗派」では「智慧」として表現しているものである。
そもそも、「恵・慧」の語意には、仏教では夫々「施」と「慈」との意を持ち、「恵」は主に”めぐみ・ほどこす”に意を持ち、「慧」は「慈」に意を持ち「愛」に通ずる語意であろう。
然し、平安期の仏教では、”「愛」は現在の「愛の語意」とは異なり、「悪の愛」の意味も持っていて、「愛」は必ずしも「善」としてはいない” の事に注意が必要である。(「悪の知恵」もある事にも注意)
「乱世の時代性」が「知恵と愛の考え方」に大きく影響しているのである。
この「愛」には「悪愛」があるのは「平安期末期の教義」に観られる。

従って、この「時代性の影響」を受けて、「恵と慧」は全てを「善」とせずに、この「恵・慧」の使い方は古い時代の傾向に「慧」、新しい時代には「恵」が用いられている傾向があり使い分けていたのであろう。
従って、「古代仏教」(古代密教が妥当)の「智慧」の方では、「慈と愛」に通ずる事から「悪」とする教義は成立たなかった時代と観られる。
少なくとも「原始仏教-古代仏教-古代密教-古代密教浄土宗」までの時代には「悪」とする教義は無かった事に成る。
恐らくは、「3大密教の宗教論争」後の宗派、取分け「浄土宗」と成った頃からではないかと考えられる。
故に、平安期の宗教論争の中で「共通定義」とした ”「身心」を乱し悩ませ「智慧」を妨げる心の働き” の「知恵」を「智慧」と書き記したと考えられる。
この文脈からは「智慧」は「善」としている事が判る。
そもそも、”妨げる”の語句は、「善」なるものを”妨げる”から使われる語句で、「悪」で有れば”妨げる”は使わ無い筈で、妥当な語句の文脈と成るからだ。
裏を反せば、後の教義の「知恵」では、「悪」の「知恵」を「煩悩」とする上記の(心所区分 A 副煩悩)の教義も、敢えて使い分けしている事から考察しても、平安末期頃には「悪の知恵」の考え方は徐々に芽生えていた事を物語る。
これは時代が乱れ始めていた、つまり、「人の心」が「煩悩」(猜疑心)に依って「持ち様」が大きく乱れ始めていた事を示すものであろう。
「人」は「人」を信じられなく成っていた。況や、「人」の発する「知恵」(策略・詐欺)を「猜疑心」で危険視していた事を物語る。
この「平安期の仏説」の「悪の煩悩説」(愛、知恵)は、上記で論じた「青木氏の添書内容 古代密教説」の 「2の後天的な煩悩」から発し、「我執から生まれる煩悩」では無く、「Bの知恵から生まれる煩悩](添書の時期は「煩悩」を悪としていない)を、この説に「愛」と置き換えて、”「悪の愛」(悪の知恵)がある” とした論理であり、この場合の「煩悩」は「悪」とする前提に成っている。
これは「平安期の(心所区分 B)」の内訳の「大中小の煩悩説」で観られる様に「悪の煩悩説」であり、最終的に宗教論争の据えに落ち着いた ”「煩悩」は否定しない (煩悩を悪としない)” としての時期までの間の仏説である事が良く判る。

「原始仏教」-「古代仏教」-「古代密教」
さて、そうすると、「原始仏教」-「古代仏教」-「古代密教」ではどの様な表現で定義されていたのかを知る必要がある。
密教の古い仏書の私書籍に因れば、次ぎの様に解釈されている。

”「人の苦」の原因を自らの「煩悩」と捉え、「解脱」による「涅槃への道」が求められていた”

この密教古書でのこの「解脱」に付いては、”煩悩に勝るべし”とした「青木氏の密教教示」(添書)では、”「勝解」と定義する” と同時期に書かれているのである。
この”「勝解」は「智慧」に因る”と「古代密教の教示」と成っているから、要するに、その差は「智慧」では無く、「人苦」に重きを置いた定義である。

上記した「平安末期の共通教義」である
”「心身」を乱し悩ませ「智慧」を妨げる心の働き”

この言葉の「智慧」の一節は、古代密教の「智慧」であった事に成り、この「智慧」は「煩悩」とは定義されていず、むしろ、「善」である「智慧」を”妨げる”とあるのだから、「智慧」は尊いものであるとして「智慧を薦める教え」に戻りつつあった事に成る。
そうすると、密教古書の「人の苦」は、平安末期のこの仏説の「心身」と「類似語」と成る事から、明らかに「類似文」と成る。
文章は違えども、「古代密教」の説への ”「戻り説」に近づいた” 事に平安末期の説は意味している。
そうすると、次ぎの様に時代毎の共通定義は分類される。

[煩悩の共通定義]
A (奈良期)-平安中期説 「人の苦」の原因を自らの「煩悩」と捉え「解脱」による「涅槃への道」
B 平安末期説-(鎌倉期) 「身心」を乱し悩ませ「智慧」を妨げる「心の働き」

「共通定義の変化」
この変化は「奈良期から平安中期」までの期間では、徐々に潜在する「Bの変化」の方向に移動しつつも主の「Aの変化」を維持した。
但し、その「Aの変化」は「Bの変化」の胎動の影響を受けながら「比例的な変化」では無く緩やかな「双曲線的な変化」を来たしていた。
然し、その「Aの変化」がある時期に急激に低下し、それに代わって「Bの変化」が平安末期には突然に勃興して、明らかに「Bの変化」に変身してしまった事に成る。
この「Aの変化」が逆に潜在し、主と成った「Bの変化」は鎌倉期までは維持された。
その変化は、今度は急激な乱世の為に「双曲線の変化」では無く、「放物線的な変化」を描きつつ落下する事無く高い状態で変曲点を維持した。
鎌倉期後ではこの「Aの変化」は低迷し、「Bの変化」は最早、現世に置いて可能な限界に達する際限の無い最大と成った事を物語る。

ところが、この時に、突然に、この最大の「Bの変化」の「ぶり返し」が室町期中期前後に起った事に成る。この時の教義では、「Bの変化」に押し潰されていた「Aの変化」の「Aのぶり返し運動」が爆発・噴水の如くに宗教界の中で起ったと記されている。
恐らくは、宗教界の書籍の記録の変異を調査しているので、一般の武士階級も含む民衆の中にも起こっていた筈である。
これが最終は、上に記する「Aタイプの教義」でも無く、「Bタイプの教義」でも無いと云う形の ”煩悩は否定しない” と云う教義に成ったのである。(これをAxタイプと記す)
「AとBのタイプの教義」では無いとしたのは、「Aタイプの教義」であるのはその通りなのだが、違う一点があるからである。
それは、Aタイプでは、上記の様に、”「解脱」” とする字句を使っているところである。
そもそも、「解脱」の本来の意味とは、”「煩悩」のある事を悟り、この「煩悩」を「人」として無くして克服する事”である。
然し、この「Axタイプ」では ”煩悩は否定しない”と成っている。
この”否定しない”は、”肯定もしないが、「煩悩」の有無に拘らない”とした事に成る。
”「煩悩」があるからと云って、それに拘り、あーだこーだと無理に「解脱」する必要はない”とした事に成る。
要するに ”有無に拘るな 事をあるが侭に捉えよ” と説いているのだ。

ところが、そもそも、平安初期から中期頃に密教浄土宗外の宗派が説く「Aタイプ」の「解脱説」には矛盾がある。
そもそも、”解脱し得る「資質」がその者にあるのなら、「煩悩」に苛まれない筈だ。 「解脱する資質」が元来、無いから「煩悩」に苛まれるのだ” それなのに”解脱せよ”とはおかしい説に成る。
矛盾している説の様に観得る。

然し、この矛盾は上記の「解脱」を、「青木氏の密教説」の「勝解」と解釈すれば解決する事に成る。
(この「解脱」の反意として「勝解」の意味を持たしていたのかも知れない。「漢文」は「隠意」を旨としているので筆者の能力では苦労する。然し、「青木氏」の先祖がこの書籍を読んでいる筈として考えると、この矛盾点を「青木氏の密教」として「勝解」と正しく定義していた事かもしれない。)

恐らくは、「民への説法」では無く、平安中期頃までに勃興し始めた源氏や桓武平家等の「武家」の台頭に対しての「武」の「煩悩」を見据えた説法であろう。
故に、矛盾が起ったが、民にこの説法をしても受け入れられる事は無い。
「武家」の「密教の説法」である事が判る。

つまり、この「Aタイプ」では無い「Axタイプ」の説法は、上記した「般若心経」の一節の「色不異空 空不異色」 「色即是空 空即是色」のまさしくそのものの「教えの解」である。
重ねて「色不異空 空不異色」に特別な意味を持つものである。
そもそも「般若心経」は古い「原始仏教-古代仏教-古代密教」の教典である。
完全に「Aタイプ、Bタイプ」では無く、日本に「仏教伝来期の教典」の時期の教義に戻ったのである。

では、「Aタイプ」に対して、”何故、この様な「ぶり反し宗教運動」が起ったのか” と云う問題がある。
又、”どの様な階層にこの「ぶり返し宗教運動」が起ったのか” の「2つの疑問」を説いておく必要がある。

「2つの疑問」(「ぶり反し宗教運動」)
結論から云えば、「7つの民族」の融合過程で起った夫々の民族の「守護神の五大守護神」の共通化・集約化が起こり、”仏教(「仏説」)の中に神教(「神説」)が入って来た事” が原因と観られる。
所謂、「第1期の神仏習合運動論」が影響した事に成る。(青木氏の守護神{神明社]参照)
上記の「Bタイプ」が究極に達した結果、「人」はその極限に達すると本能的にその極限から逃れ様として、その「捌け口」「逃げ道」を求める。その「捌け口」「逃げ口」を「仏」では解決し得ない事から既に存在する上位の「神」に「助け」を求めた事に成る。
そして、「仏」を否定せずに、「煩悩」を否定せずに、「神」と「習合」させて「神仏」に助けを求めたのである。
これは明らかに ”否定していない運動” であり、これでは、何れの「民」も、況や、何れの「教義」も抗する事は出来なかった筈である。
故に、「究極の行動」として、突然に勃興した「Axタイプ」に反する物が無い事から ”突然に勃興した”と云う事が起ったである。
当然にこの事から「2つ目の疑問」は解ける。
それは「煩悩」に慄く「全ての民」と云う事に成る。

「浄土宗の経緯」
そこで、この「全ての民」が信心していたこの「原始仏教」が伝来したのは、つまり、「原始仏教」を私伝で普及させたのは、奈良期の「後漢の渡来人」で「阿多倍の職能集団」の第1陣に渡来した「鞍造部の首魁」の「司馬達等」である。
奈良期に大和国高市郡坂田原の草房から「在来民」に布教した事が史実として判っている。
そして、それが「職能集団の技能」の享受をうけた「在来民」を経由して急速に西日本全国に伝播して行ったのである。
そして、その彼の教えは瞬く間に天皇家の「朝臣族」までも広がり、「蘇我氏と物部氏の神仏戦争」と云う乱に至ったのである。そして、蘇我氏と天皇側が勝利し、これをこの直ぐ後の奈良期の皇族賜姓族が自らの宗派と捉えて「密教の菩提寺」を建立して、「原始仏教(飛鳥)-古代仏教(奈良)」を護ったのである。
これが「古代仏教」→「古代密教」として引き継がれ、更には、これが「平安期の浄土宗」の原型としての「古代密教浄土宗」と成り、「阿弥陀仏」を信仰する「朝臣族の皇族賜姓族」の「独善的な密教」として発展したのである。
後に、これを「法然」により体系化されて「浄土宗密教」として確立したのである。
この時には、まだ「密教」であり、「法然の浄土宗密教」は、「独善的な菩提寺」を建立して「特定の朝臣族・宿禰族の密教」として拡がったのである。

(朝臣族系賜姓族の「氏の事情」を鑑みて「古代仏教」を基盤にして「独自の教義」を確立させて、これを「古代密教」なのである。これが更に「古代仏教」-「古代密教」を基盤とした「法然浄土宗」と連携して「浄土宗密教」が確立したのである。)

そして、「浄土宗密教」の法然の弟子の「親鸞」により民の領域まで布教させる為に、この「密教方式」を取り除き、「浄土宗の教義」を緩やかにして「真宗」として、鎌倉期に勃興した「上層階級の武士階級」にまで先ずは拡がった。(後には民にまで広がる)
然し、此処には「原始仏教」-「古代仏教」の司馬達等に依って布教された「初期の民の信心」は消えた訳では無かった。
「民の信仰」は、地に深く潜行して維持された。そして、細々と「原始仏教-古代仏教」は民に依って700年近く維持されていたのである。

(この時期の「民の信仰」は、神に対する「食(ミケ)神」と原始仏教の「仏」とが一体に成った信仰であった。現在の「稲荷社信仰」の原型とした、「神仏」を分けるのでは無く一体として崇めて維持した。
この「神仏一体させた民の信仰」は飛鳥-奈良期の丹波-難波の付近に広がっていた事が遺跡から判明している。)

この民に依って引き継がれた「原始仏教-古代仏教」の信心は、今度はその真宗が類似する教義であった事と、その緩やかに説いた「親鸞の教義」が「民の信心信仰」に合致し、「真宗」の方に流れ至ったのである。
この「教義の根源」(民→「神仏一体」 氏→「神仏習合」)を同じくする「朝臣族の古代密教」と「民の古代仏教」の「2つの力」が、「Axタイプ」の「教義の力」として世に再び噴出したのである。

民→「神仏一体」 : 古代仏教信仰   食神系社信仰  稲荷社信仰の原型
氏→「神仏習合」 : 古代密教信仰   神明系社信仰  

この時、根源と成った「原始仏教-古代仏教-古代密教-古代密教浄土宗」の伝統を持つ「朝臣族の密教」は、今度は「民の信仰」に代わって、逆に「皇族賜姓族」に世に潜行して細々と引き継がれて行ったのである。
逆に「民の古代仏教」は地に潜行していたが、700年後に芽を吹き出し始め世に出たのである。
この噴出した「民の古代仏教」は「親鸞」の「緩やかな教義」に変えて「真宗」へと変化して行ったのである。
何時しかそれが国を動かすほどの「宗教勢力」と成って室町期の為政者(信長-秀吉)を悩ました。
「民の古代仏教」と「真宗勢力」が合体した一大勢力と成って「民」と「下級武士階級」の「信仰体」と成り得た。

(上級武士は浄土宗、武家階級は密教系浄土宗、公家階級は密教系天台宗、武士は密教系真言宗、一般武士と土豪階級は密教としない真言宗等の別派を信仰体とした。密教系派は一族の独自の菩提寺をも各地に建立した。) 

この「Axタイプ」が ”煩悩は否定しない”を前提に変化させて ”「阿弥陀仏の念仏」さえを唱えれば「安楽の彼世」に逝ける”と説いてリードしたのである。
「解脱」とか「煩悩」とか「智慧」とか「悟り」とか「拘る」とか説かずに ”ただ一つ 「南無阿弥陀仏」の念仏一つを唱えるだけで良い。 他に何もするな ただ信ずればよい。”としたのである。これが「民への教義」としたのである。
(他の密教系宗派も「即身成仏」等のほぼ同じ教義である)
「煩悩」を「人の苦」、「智慧を阻害する」として「解脱」(解決・逃避)したいのであれば、その方法は”ただ信じて、念ずれは出来る”と説いたのである。

原始仏教-古代仏教-(神仏一体)-古代密教-古代密教浄土宗-(神仏習合)-三大密教-宗教論争-宗教改革-(教義見直運動)-(大神社信仰 守護神信仰)-部派仏教-浄土真宗-(密教消滅)-(ぶり返し運動)-宗教戦争-大乗仏教-(一般神社信仰)-神仏併呑-神仏連携-神仏合体

「武家への教義」
但し、これでは宗教ではないとして、「法然」-「親鸞」は ”人を観て法を説け 縁無き衆生動し難し”とする「仏法の教え」は曲げずに武家階級には教示したのである。
この「武家への教義」では「民への差別」の事に成る。然し、この時代の前提は「身分制度」の概念があり、何の疑問も無い「仏説の教義」で合った。
然し、これでは「武士の煩悩」に対する教義には成らない。
其処で、親鸞はこの特定の武士階級に対して、”人を観て法を解け” の「仏説の教え」をより進展させて、より厳しい「武士の道」というものを説いた。
この「武士の道」を説く事で「人の苦」「解脱」「智慧を阻害する」の解決策としたのである。
「武士」に対しては、その「武」に対する「立場や役目柄」から、”ただ念仏を唱える”だけではその立場役目は果せない。むしろ、”「武士」の「人の道」として、この”「人の苦」「解脱」「智慧を阻害する」”に耐える事こそに意義があり、耐えてこそ「煩悩」に勝る事に成る”と説いて、”それを成す事が出来ないのであれば、それは「武士」としての立場役目は成し得なかった事を意味する事に成る。
依って、最早、それは「死する事に価する」”と説いた。
(後に、武士の本分を全う出来ない時に採らねば成らないものとして、これが「武士の切腹」と云う戒律として生き続けた。)
そして「人の苦」、即ち「我執」から来る「煩悩」を克服出来なかった時のその死する事は「恐怖」では無く、”{現世と彼世]とは上記の「般若心経」の「心の道」の「色即是空 空即是色」であり、「色不異空 空不異色」の一節”と説いた。
その「心の道」は「人の道」だ「武士の道」としたのである。
そして、その戒律を厳しくした”武士に対してのみ「菩薩様」は護る”と仏説を説いたのである。
この時、武家には真に「神仏連携の運動」が起こり、「八幡社」と合体させて「八幡大菩薩」を「信仰体」として作り上げた。
(朝臣族賜姓族の青木氏-「阿弥陀如来信仰」 朝臣族賜姓族の源氏-「観音菩薩信仰」-後に全ての武士の「八幡大菩薩信仰」となった。)

「朝臣族の青木氏」の古代密教系浄土宗派は、”「煩悩」に勝るべし”として、”勝るにはそれには智慧」を出せ”と説いた。
此処でも「賜姓源氏」と「賜姓青木氏」は「信仰体の教義」が異なっていた。
「浄土真宗」は、「浄土宗の教え」を護り、”煩悩に勝るべし”としながらも、”勝るには「武士の道」を”と説いた。「民」には「念仏三昧」を説いて救われるとしたのである。
然し、この流れは既に平安末期にも起こっており、清和源氏の河内源氏とその未勘氏族に依って広められた「八幡社信仰」が武家階級に起こっていた。[青木氏の守護神(神明社)]を参照
(この「武家」とは「公家階級」に対して「武家」である。)
そして、この武家階級は神教の「八幡社信仰」と仏教の「菩薩信仰」を連携させて「八幡大菩薩信仰を確立させたのである。
この流れが、更に確立されて、「煩悩」から解脱する「人の道 武士の道」の「武士道」を構築して鎌倉期以降多く発祥した「武士の信仰体」が出来上がったのである。
所謂、これが「神仏併呑説」である。

この段階で、次ぎの「4つの信仰体」(宗派ではない)が既に存在した事に成る。

「4つの流れ」
・「青木氏」等による朝臣族の「原始仏教-古代仏教-古代密教-密教浄土宗」(阿弥陀如来仏)を信仰体とし、「皇祖神-子神-祖先神-神明社」とする「神仏習合」の流れ 奈良期から平安中期

・「原始仏教」を信じ潜行していた「民」の信仰体とする流れ(類似する真宗に最終帰依)
「食の神」(ミケの神 トヨウケの神)に通ずる信仰体と合わせ持っていた。飛鳥-鎌倉期

・武家階級の「八幡信仰」と「菩薩信仰」の「神仏併呑」の流れ 平安末期から室町期初期

・武士階級の「真宗信仰」と「武士の道」を説く「八幡大菩薩」「神仏連携」の流れ 室町中期から江戸初期

「4つの神仏の集約運動」
「神仏習合」 神教と仏教が独立しながらも寄り添う様な考え方 奈良期-平安中期
「神仏併呑」 神教と仏教が一部融合しながらも統一させた考え方 平安末期-室町期初期
「神仏連携」 神教と仏教が連携して融合し合う所を一つにした考え方 室町期中期-江戸期初期
「神仏合体」 神仏と仏教が完全融合して一つの形にした考え方 江戸期末期-明治初期

以上「4つの流れ」の時代毎の背景には「神と仏の教えの歩み寄り」が大きく影響した流れが起った。

当然に「我執」を基とする”「煩悩」は否定しない”の考え方がこの流れの主流であった。

この「4つの流れ」は、その基を質せば、「青木氏等の朝臣族・宿禰族」の「古代密教」が基盤として拡大したものであって、その中でも、最終は「賜姓族」の「2つの血縁青木氏」とその「2つの絆青木氏」が主体とした信仰体が基盤と成っているのである。
何故ならば、”爆発噴水”として勃興したのには、「何がしの起爆剤」があったからこそであり、「爆発噴水」の様に、”煩悩は否定しない” とする説の信仰体が突然に生まれる事は無かった筈である。
その「内圧」と成った、「起爆剤」と成った「原始仏教-古代仏教-古代密教-密教浄土宗」の「青木氏の存在」と「その考え方」が、世間に潜行し浸透して行って、「内圧」が高まったところで「爆発噴水の様」を成したのである。
当然に「民の原始仏教-古代仏教」(神仏一体 稲荷信仰の原型)の潜行する動きが根底にあったからこそ起った事である。
その「起爆剤」の大きな「引き金」に成ったのは、「青木氏の守護神(神明社)」に論ずる事であったのである。
況や、486社にも成る「皇祖神-子神-祖先神-神明社」の「神教の教え」が基盤と成ったのである。

「2つの教義」
日本全国各地に存在する「密教の菩提寺」、即ち、「原始仏教-古代仏教-古代密教-密教浄土宗」の「阿弥陀仏」を「信仰体」とする教義
486社にも成る「皇祖神-子神-祖先神-神明社」の神教の教義

この「2つの教義」が上記の「4つの流れ」を作り上げたのである。
この一つと成った「朝臣族・賜姓族」が「2つの習合」を成し遂げていた事が以上の流れを起したのである。
これが日本に於ける「原始仏教-古代仏教-古代密教」が基盤とされる仏説である。
この様に、「家訓9」の「煩悩」を解析して理解する上で、この「4つの流れ」は無視出来ない。
この様に「青木氏に存在する神仏習合の考え方」は、”「煩悩」は否定しない” であっても、当然に平安末期とそれ以降の共通する仏教の定義・教義とは異なっていた事が判る。

”「煩悩」は否定しない”には、「阿弥陀仏の信仰体」に対して「菩薩様の信仰体」、「武家の発祥源」でありながらも「武士の道」の教義を採らず、「和に対する心得」を堅持した結果、「神明社」に対して「八幡社」等の大きな差異が当初から存在したのである。
従って、「煩悩」に関する定義も ”煩悩は否定しない” を前提に、「家訓10訓」は基より「家訓9」は異なっていた事に成る。
では、何処が、どの様に異なっていたかを次ぎに解析する。

「教義の経緯」
そこで、この時代に青木氏は「3つの発祥源」の「融合氏」として発祥した「始祖氏」であるから、そして、「皇族賜姓族」としての50程度の大まかな「慣習・仕来り・掟」にガチガチに縛られていた事からも、ただ単に「新しい時代の仏教の定義や教義」だけにて、この「家訓9」を論ずるには上記の様な問題が多く、真の「家訓9の意」を解析する事は危険である。
別の論文の「青木氏の守護神(神明社)」取分け-19から22に至る段の検証からでも、この「煩悩」対して「智慧の領域」の教義にあった事は納得出来る。
況して、仏教の「古代密教」を継承し、「自然神-鬼道神」に近い「皇祖神-子神-祖先神」の神明社をも「氏の教義」として両方を持ち合わせていたのであるから、「新しい時代の仏教の定義や教義」ではそもそもこの「家訓9」を論じ得ないであろう。

平安時代の「部派仏教」の時代になると、上記した様に、時代に合わせてその解釈を巡って「煩悩」の深い分析が行われた。この事で「宗教論争」が起こり「宗派」が増えたのである。
更に進んで「大乗仏教」の時代でも、この分析は続けられ、特に「唯識」(唯物視論)が示した「心と煩悩」の精緻な探求が行われ、これが「仏教の煩悩」に対する到達した究極点と成った。

(この段階では最早、「仏教の独善性:宗教の力が社会を牛耳る」が強くなり一般的な思考では難解である。宗教界内部の専門教義に委ねる。)

又、この時代には最終、”「煩悩」は否定しない”と云う所まで到達する仏説も生まれ、それまでの仏教には無かった発想も生じて来た。
(所謂 これが世に云う「如来蔵論」である 「青木氏」は「阿弥陀如来信仰」)

「如来蔵論」
この両者の思想はその後の「大乗仏教」の仏説に大きく影響を与えた。
この様に「煩悩の観念」は時代を経るに従い、様々な意味を付加して深化して云えるのだが、問題は「古代密教」、取分け「浄土宗」では無く「浄土密教を教義とする青木氏」で「阿弥陀様を主信する氏族」の「煩悩に対する考え方」は、他の氏と大きな異なりを示していた筈である。
日本全国8000氏の中でも、ただ1氏の「青木氏」のみが「古代密教の浄土密教」を継承していた事に成ると云える。
とすると、果たして、「古代密教の浄土密教」とはどの様なものであったのかは「青木氏」そのものを研究しなければ、この「原始仏教」-「古代仏教」-「古代密教」-「浄土密教」の「煩悩の教義」が明確には成らない事に成る。
それを解明する事が出来るのは、この「青木氏の家訓10訓」、取分けこの「家訓9」に隠されている筈である。
それを上記した共通した「煩悩の教義」を先ずは参考にして導く事で、その差が読み取れて、その結果、この「家訓9」の本意が読み取れる筈である。
当然に、「青木氏の守護神(神明社)の論文」とも大きく関わる事に成る。それは悠久の歴史の中の「青木氏の生き様」を通して明らかに成る事を意味する。

(余談 故に、「家訓8」で投稿を一時止めて、「青木氏の守護神(神明社)」の既に作成済みの論文を再編集して投稿を先行させた。)

「家訓9」
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩悩)

「智慧の領域区分」(重複)
1 隠の行 (表: 話-編-歴)
2 遍の行 (意: 触-受-想-思)
3 別の行 (欲: 勝解-念-定-慧)
4 善の行 (信: 精進 - 慚 - 愧 - 無貪 - 無瞋 - 無癡 - 軽安 - 不放逸 - 行捨 - 不害)

(注意 (・・)を解析する事は本論の目的外であるので割愛する)  

「阿弥陀仏の信仰体」に対して「菩薩様の信仰体」
「武家の発祥源」でありながらも「武士の道」を採らず
「和に対する心得」を堅持
「神明社」に対して「八幡社」
以上の様な大きな差異が当初から存在したのであるが、更に詳細には差異がある。

そこで、先ず、”「煩悩」に勝るべし”とある。”煩悩から解脱せよ 悟れ”とは当然に云っていない。それは、”「煩悩」は否定しない”の前提にあるからだ。
字句は、”勝るべし”と云っている。
これは、”「煩悩」がある事は人として当然の事である。「般若心経」の一節 「色不異空 空不異色」「色即是空 空即是色」の教示であるから 拘るな”である。
”勝るべし”とは、”「煩悩」に拘るな”である。

この「煩悩」に拘らない為には、”「煩悩」に対しては別に「何らかの術」を以ってそれを乗り越えよ”と成る。それで無ければ、結局は、”煩悩から解脱せよ”と同じ事に成る。

「煩悩」は人間が持つ本能である。それを押さえ込む事の苦労は、「煩悩」から受ける苦労(人の苦労)より遥かに大きい。それを押さえ込む事によるリスクは遥かに大きく、押さえ込んだからと云って人間の質が向上したとは言い難い。むしろ、大きすぎて「捻くれる事」のリスクの方が大きい。
”押さえ込む事”が出来てその質を向上させたとするそんな人間は「神」以外に無い。
そもそも、その「神」とは「全ての煩悩に解脱した万能物」を云う。
”「煩悩」を無くせ”は、”「神」に成れ”に等しい。そもそも”「神」で無いから「人」なのだ”
”「煩悩」を無くせ”の教義は、そもそも「人」に云う教義では矛盾している。
然し、”「煩悩」に勝るべし” とすれば「人」に云う教義としては正等の教義である。
兎に角も、「神」に成る前にそもそも「人の変化」(へんげ)の「仏」がいる。
では、その「仏」は仏説では、”「過去、現在、未来」の3世に生きる”と明言している。
真にそれを「般若心経」に主な教えとして明言している。
真に、「色不異空 空不異色」「色即是空 空即是色」の教示である。
「人」は3世に生きるのであれば、「人の変化」の「仏」は4世に生きている事に成る。
そして、この「煩悩」はこの「仏の教え」としているとすれば、論理的には、やっと「人の変化」の「仏」の「4世の世界」で「煩悩」から解脱出来る事に成る。
これはそもそも論理矛盾でおかしい。
更に「仏教の矛盾」がある。「4世」でやっと悟った「仏」と同じ事を「現世の人」に課せる事には矛盾が起る。
古代の「般若心経」では ”拘るな”と説いていながら、「平安期の前後の教義」では上記した様に「人」に大也小也に「解脱」を要求している。これでは平安期前後の宗教界は「般若心経」を無視している事に成る。
「仏」が「仏」に云うので有れば問題は無い。然し、生の「人」に説いている。
あまりに独善的で学説的な過剰な宗教理論を展開した為に、上記の様な「平安期の仏説」には疑問や矛盾が目立つ。

A (奈良期)-平安中期説 「人の苦」の原因を自らの「煩悩」と捉え「解脱」による「涅槃への道」
B 平安末期-(鎌倉期)説 「身心」を乱し悩ませ「智慧」を妨げる「心の働き」

「般若心経の教示」からすれば、「人」に出来る事は ”「煩悩」に勝るべし”以外に論理的にあり得ない。
筆者は、この ”「家訓9の説」(古代密教説)が正しい” と考えていて、更に、日本に渡来伝来した時の「原始仏教-古代仏教」の仏説教義では、”煩悩に勝るべし”の近い言葉であったと考えているのである。
それは、「般若心経」の教示の通り、当初は ”「煩悩」のある事を知り、然し「煩悩」に拘るな”であったと考えられる。これであれば平安期末期頃の仏説の様に矛盾は起こらない。
況して、”煩悩に勝るべし”では、「勝る」には何かが必要であり、それは必然的に「仏」より「上位の神」が与えた「智慧 知恵」を必要と成る。
大事な事は、”「智慧」は「下位の仏」では無く、「上位の神」が与えた” と云う事だ。
「神」は無意味に与えた訳ではない筈である。「何かの意味」の為に与えたのだ。
答えは決っている。その為に、「神」は「煩悩」を持つ人のみに「解消の具策」として「智慧」を与えたのだ。
この時、人は ”どうしたら勝る事が出来るか”考える。当然に「智慧」を働かせる。
上記した様に「智慧・知恵」は「神」から授かった「人間特有の術」である。
その「智慧の術」を使って「煩悩」に対峙する事で「人」は進化する。
「進化する事」で、少なくとも動物本来の有する「煩悩」からは「解脱」とも成らずとも少なくとも「妨げの助け」(軽安減)と成るであろう。
要するに「軽安減」と成る。つまり、「智慧の術での軽安減」とも成れば「拘り」とは成らない。
これは「自然の流れ」の中にある。むしろ、「人」である限りは「煩悩」とも限らず「当然の仕儀」であり、斯くあるべきとも成る。
だから、次ぎの「心所区分」として「智慧」に付いて論議されているのだ。
”平安期に「心所区分」として定義されている” と云うことは、これは ”「智慧」が何らかの「煩悩」に関わるもので在る事” を認識していた証拠である。
然し、此処では ”「智慧」は「煩悩」を起す要素の一つだ” と説いているのだ。
「智慧」は「煩悩」の「解消の具策」とはしていないのだ。
ここが ”大きな勘違いであった” と「古代密教」は論じているのだ。

ここで、それをもう少し詳しく論じて観る。
上記の(心所区分 A)の4つの「智慧」から齎される「煩悩」
(重複)
1 隠の行 (表: 話-編-歴)
2 遍の行 (意: 触-受-想-思)
3 別の行 (欲: 勝解-念-定-慧)

4 善の行- (信):
    「解脱系」   精進 - 慚 - 愧 - 無貪 - 無瞋 - 無癡
    「勝解系」   軽安 - 不放逸 - 行捨 - 不害

”「智慧」は「煩悩」である” とする「平安期の教義」の上記「4つの煩悩」の中に、「4の善行」の項に ”軽んじる”と”安んじる”の「軽・安」が定義されている。
然し、「4の善の行」の他は明らかに「6根の煩悩」である。
又、「3の別の行」の項には、 ”勝る事から解する” の意の「勝解」が定義されているし、上記した「慈の愛」での「慧」も定義されている。「慧」もあるとすれば同意の「念」もあり得る。

これは「家訓9」では ”勝るべし”としていた事から、「3の別の行」と「4の善の行」の教義に該当しているが、「智慧」を出す「術」を、1の「隠の行」と2の「遍の行」の内容とすれば「家訓9」に該当する事になるだろう。ところが良く考察すると、”該当していない”のである。
その前に、先ず、この「1から4の定義の扱い」を ”違える事” があるからとして、「平安期の学問教義」では「煩悩としての扱い」にした可能性がある。
「平安期の仏教学的教義」では、”「智慧」は「煩悩」である” と認定した上で、「古代密教の教義」では、元は一つであったものを「智慧」をこの様に先ず分類して、「1から3の内容」で”違える事”があるから、だから”違える事”に依って、”「4の善の行」の「煩悩」と成ると、強引に誘引して「仏教学」として説いたものであった”と考えられる。
「4の善の行」の「信」に分類される「前6つ」は、真に「6根の煩悩」類で「解脱系」であり、「後4つ」は「勝解系」とに分類される。
そして、この「4の善の行」の「信」は、”「違える事」”に成るかどうかは、この「信」(信じる事)に関わるとしていて、”「信じる事」の如何に依って「善の智慧」も「煩悩」と成り得る”とする論理としたと観られる。

要するに、”「違える事」にする為の「論理的な理由付け」を見つけ出した”と考えられる。
この無理な「論理的な理由付け」の「後付け論」を観て、そうしなければ成らない「時代の状況」に追い込まれていた事が頷ける。
恐らくは、「古代密教」では、「4の善の行」のみの中に「1から3の内容」を組み込んでいた教義であったと予想できる。
何故ならば、”「1から3の内容」はそれは「智慧」に到達する為の「プロセス」に過ぎない”からである。
現に、「古代密教」を継承している唯一の「青木氏の家訓9」から読み取れる教義では、「3の別の行」に ”勝るべし”、即ち、「勝解」が入っている事が、これを証明している。
確かに、「智慧」はこの「1から3のプロセス」を経て発せられる事は確かである。
然し、それはあくまでも「智慧」の「4の善の行」を成し得る為のプロセスに過ぎない。
このプロセスを経て始めて「智慧」と成り効果を発揮し得る。
即ち、「古代密教」、即ち、「青木氏の教義」では、「智慧」=「4の善の行」 のものであった事が判る。
当初の「古代密教の教義」には「解脱系 6つ」は無かったと考えられる。

そもそも、この未だ「智慧」と云う形に至っていない「プロセス」のものを引き出して ”違える事” として「煩悩」とする説には飛躍が有り過ぎる。
故に、”実用化しない傾向の在る「仏教学の学説論」だ” と、「古代密教 説青木氏の教義内容」の検証と、合わせて「平安期の仏教学的教義」を論評している。
故に、”大きな勘違いであった”と成るのだ。

仮に、この”違える事” がこのプロセスの中であるとしても、それは「一時的な期間の現象」で「煩悩」として見えている事であって、「智慧」の「目標とするある期間の末」にその「智慧の効果」が発現すれば、「一時的な期間の現象」は問題は無く、それは「智慧」とする範疇の中に在る。
そもそも、「智慧」とは、”ある「期間」と、ある「状況」と、ある「人様」の「本質の領域」を持ったものである。
”「智慧」を出したからと云って、直に効果が出なくては成らない”とする定義は仏教にはない筈であるし、そんなものはそもそもこの世に無いだろう。
この世の「森羅万象」の全てものには「醸成領域」と云うものを持っている。例外は無い。それがこの「世の条理」である。当然に、「神」が創造した「人の脳」から発する「智慧」も例外では無い。
これを「一プロセスの過程」で ”「違える事」” 事があるからと云って、「煩悩」とするは「醸成領域」の「世の条理」を無視した事を意味する事に成る。

現に、仏説に「三相の理」と説いているではないか。この「智慧の醸成領域」は、「人時場」の「3つの理」に合致している。「期間、状況、人様」の「智慧の本質領域」である。
況や、”この「世の善成るもの」には必ずや「三相の理」が伴なう。 「三相の理」無くして「善の結果」は得られない”とする仏説汎教でもある。
「古代密教」(青木氏の教義)では、云うまでも無く、「醸成領域」を持つ ”「智慧」は「善」”である。故に、”「善」は「4の善の行」の「勝解」と成る”とする所以である。

「平安期の仏教学的教義」の「煩悩説」には「拘り」が過ぎて他の「重要な仏説」を忘却してしまった説と言わざるを得ない。
真しくこれこそが「般若心経」の「拘り」の見本である。犯しては成らない事を仏説自らがこれを犯している。
況や、「三相の理の仏説」も含めて、”「拘るな」”とする「根本の仏説」をも無視している事に成る。

然しながらも、兎も角も、古代密教の「青木氏の教義」は ”勝るべし”(勝解) としたが、これには何か意味がある。

「家訓9の添書」の文脈から読み採ると、次ぎの様に成る。
「智慧」には”「煩悩」と成り得る「慧」”と、”「煩悩」と成らない「慧」”があるとしている。
「煩悩」と成らない「慧」は問題は無い。(但し、「慧」を「煩悩」とは決め付けていない)
むしろ、この”「煩悩」に成らない「慧」”は、”「煩悩」に成る「慧」を賛く”として断じている様だ。
依って、”煩悩に成らない「慧」”は ”煩悩に成る「慧」”を”減殺する”と論じていて、終局は”「智慧」は「煩悩」と成り得ない”と結論付けている。
依って、文脈の要約を採り纏めるとすると、次ぎの煩悩の数式論的な事が成立するとしたのである。

「煩悩」に成る「智慧」<「煩悩」に成らない「智慧」
「煩悩」に成らない「智慧」-「煩悩」に成る「智慧」=「進化」
「進化」=「勝」

この「3つの数式論」が成立つところに「家訓9」の”煩悩に勝るべし”と成るのだ説いている。
この世は現に進化しているのだから「進化」=「勝」はこの「現世の理」であるとしている。
そして、ここには、一行”「智慧」の「慧」の「慈」を忘却ならず”と付加えている。

この「3つの数式論の智慧論」はどの様な背景であったのかはこの数式論を検証して直ぐに判る。
それは、「青木氏の守護神(神明社)」で論じた「物造りの神」「豊受大神」が証明している。
「物造り」は「智慧の発露」の結果であるからだ。
”「人」を豊かにする「智慧」は、「人」を苦しめる「煩悩」とは到底成り得ない” としているのである。
故に、上記の通り、”「豊かにする智慧」は「善」であり、「慧」は「善」とする「慈」である”としているのだ。
依って、「青木氏の伝統ある教え」は、”「慈」は「愛」であり、「悪の愛 煩悩と成る愛」は存在し得ない”としているのである。

「物造り」→「智慧の発露」→「智の慧は慈」→「慈は善」→「善は愛」→「愛は善」→「智慧は善」 
∴「智慧の煩悩は存在せず」

平安期以降の「愛は必ずしも善と成らず、「悪の愛」があるとする」の教義とは明らかに異なっている。

ここでは、明らかに「教義の前提」が異なっている。
故に、「平安期以降の各種の宗派の仏説」の「智慧の煩悩」(4つ煩悩 心所区分 A)とは論説は異にする。
故に、「青木氏の伝統ある教え」は、「平安期前の密教の教義」である事に成り、この論説は、”「原始仏教-古代仏教」の源説であった” と観ているのです。

「伝統の教え」
「青木氏の守護神」 「皇祖神-子神-祖先神-神明社」の「親神 豊受大神」の「物造りの神」の教えと、上記する「原始仏教-古代仏教-古代密教-古代密教浄土宗」の教示とが「青木氏」の中で習合して、平安期初期前後頃には、この「家訓9」の ”煩悩に勝るべし” の「伝統の教え」が完全に確立されていて、子孫に脈々として伝えられて来た事が判る。
この「家訓9」の「伝統の教え」は、単独で伝えられる事は有り得ず、伝えるには其れなりの「伝達力」を必要とする。それで無ければ今日まで伝えられ無かったと考える。
その「伝達力」に成り得るものは、「皇族賜姓族」と「特別賜姓族」の「2つの血縁青木氏」と「2つの絆青木氏」の「確固たる組織の団結力」に依って支えられて、この「青木氏の教示」たるものが延々と換える事無く引き継がれて来たからに他ならない。
それは、「口伝」のみ成らず、「青木氏の生活基盤の支え」としての「教え」として信じられて来たからこそ「家訓として遺しえた教え」であった筈である。

そして、”この「伝統の教え」には「伝達力」としてのもう一つの力が働いていた”と考えられる。
この「伝達力」無くしては「教えの伝統」に成り得なかった筈である。
そもそも、「伝統」と成るものは、”何でも伝えれば伝わる”と云う話では無い。
「伝わる幾つかの条件」が備わっていたからこそ伝わるのである。
「正しい伝統」に成り得るものは全てこの条件を備えている。

(筆者の物理系技術者の論理では、この世の万物は例外無く「伝統伝達」(この言語に類する全て物)の条件が備わっている。所謂、これは摂理である。
(例えば、分子の構造理論でもこの伝統に類する物を「伝達する条件」が定理で存在する)

その意味から、上記の「青木氏の守護神」の「物造りの考え方」が、この「家訓9」を導いた事は云うまでも無いが、「神仏習合」に至るまでには「物造りの考え方 智慧の発露」以外に「習合」と云う形に至る前に「接着剤」と成る何ものかが無くては「習合」に至らないのでは無いかと考えられる。

 「接着剤」
では、”その「習合」に至る「接着剤」とは何ものか”を検証する。
そもそも、何かと何かが一致したからこそ「習合」と成り得た筈である。
それは、「仏教」と「神教」の間にある共通する「何かの教え」があって、この「世の摂理」として何事もそうである様に、「陰と陽の関係」の様に引っ張られて其処で「習合」が起ったのであるから、それを見つけ出せば良い事に成る。
但し、恐らくは、祖先が「習合」と限定して書き記している以上は、「陰と陽の関係」では無い筈で、「習合」の意味からすると「神仏」の何れのにも「共通する教え」であった事に成る。
そして、それはほぼ「同じ意味する処」を持っていたからであろう。
故に、直ぐに「生活の中の教え」として取り上げられて、”青木氏の大きな組織に「伝統の言」(家訓)として引き継がれて来た”と考えられる。
そして、その「考え方」が「神教側」にも、「仏教側」にも主に「教え」を伝える氏の中に「専門の者」が存在していた事が云える。
そうでなければ、長い間に迷路して違う形に成っていた筈で、「家訓9」の形では遺し得なかった事に成る。
それが青木氏だけに脈々と備わっていた事を示唆している。
従って、その ”「伝達司」(接着剤)と成ったものは何なのか” と考えれば良い事に成る。
答えは、ここでは「神仏」に関わる「青木氏固有の特長」であるのだから、最早、議論の余地無しである。

「伝達司」(伝達子)
「神教側」では、「青木氏の守護神」の神明社の「神職」は「自らの氏」から出している。神職宮司である。
「仏教側」では、「青木氏の密教菩提寺」の「住職」は密教であるから「自らの氏」から出しいる。住職僧侶である。
この条件は完全に備わっている。
この「2つの伝達司」(伝達子)は、何れも「青木氏」にこの教示を説いていて、青木氏に関する全ての「記録と伝達」を職務としている。
当然に、この「2つの伝達司」(伝達子)は、「神教側からの教示」と、「仏教側からの教示」の中で、この「記録と伝統」を同元として教示している事に成る。
そう成ると、この「2つの伝達司」(伝達子)の云う事が異なる事は、「混乱」と成り伝達に値しない事に成る。「神仏の社」を独善的に共有している以上は、異なっていれば「氏」その物が存立しない事に成る。
「青木氏」としての ”「統一した記録と伝統」が双方にある” と云う事に成る訳であるから、「習合する部分」に於いては、「統一した教示の伝達」がこの「2つの伝達司」依って成された事に成る。
つまり、「氏の教示の統一」を神仏双方で教義し議論された筈である。
少なくとも、「青木氏」の「守護神」と「密教菩提寺」が存在する以上は、「伝達司」(伝達子)による「統一した教示の伝達」は成し得た事に成る。
依って、「統一した教示の伝達」の記録より明治期初期までは確実に起こっていた事に成る。

(筆者の「伊勢青木氏」では、歴史上、「奈良期からの不入不倫の権」で明治初期まである程度保護されていた事から、一部では明治35年の焼失もあったが大正14年までの各種の記録が遺されている事でも判る。)

さて、「2つの青木氏に依る伝達司(伝達子 接着剤)」がいるとして、次ぎはその習合するその教示の解明である。

この「家訓9」では ”煩悩に勝るべし” として「煩悩」から逃れられる「術」を会得した。
要は ”「智慧」を使って勝れば良い事”に成る。
そして、その「智慧」は「善」であって「煩悩」では無い事であった。
そして、改めて記するが、次ぎの「3つの数式論」が成立つと説いた。

「3つの数式論の智慧論 仏説論」
「煩悩」を消すには「智慧」として「煩悩」に成る「智慧」<「煩悩」に成らない「智慧」
「煩悩」に成らない「智慧」-「煩悩」に成る「智慧」=「進化」
「進化」=「勝」

「勝」=「現世の理」=「進化」
「智慧」=「慈」=「愛」

∴「智慧」>「煩悩」=「勝解」

「3つの数式論の智慧論」=「青木氏の守護神(神明社)」=「物造りの神」「豊受大神」
「物造り」=「智慧の発露」

「神仏習合論」
∴「物造り」>「煩悩」=「勝解」

「神仏習合の附帯条件」
「物造り」→「智慧の発露」→「智の慧は慈」→「慈は善」→「善は愛」→「愛は善」→「智慧は善」
∴「智慧の煩悩は存在せず」

以上の9つの数式論で、「神仏の教え」は習合した事に成る。

さて、これでは「神仏習合の方法論」では成立つが、「神仏習合の条件」としては充分では無い。
次ぎは、解決して置かなければ成らない事は、この附帯条件の「智慧=慈=善=愛」と成す「智慧の発露の仕方」であろう。
これを解決しておかねば「絵に書いた餅」の論と成る。

「智慧の発露の仕方」
然し、もうお気づきと思うが、これも既に解析済みである。
先ず、「神教」の答えは、「青木氏の守護神(神明社)」-21、22の段で充分に論じた。
「自然神-鬼道神」を起源とした「皇祖神-子神-祖先神」の「無意識の意思」(ミトコンドリヤの意思)を ”「心頭を滅却」して、「人間の善の意思」を獲得する事だ”と論じた。
(「善」論は附帯条件)

そして、「仏教」では、「原始仏教」-「古代仏教」の教示は本文の上段で論じた。
「色不異空 空不異色」 「色即是空 空即是色」
この解析は、簡単に云えば、”俗説 拘るな”であった。
では、”どの様にして拘らなくすればよいか”の条件を解析する。
そもそも、”拘り”は「我執」である。
「煩悩」の元は、「我執」としている「仏説」としては、”「拘り」は「煩悩」ではないか”と云う疑問が生まれる。
然し、密教の「我執説」の「6根」にはこの”「拘り」”は定義されていない。

6根:「貪 - 瞋 - 癡 - 慢 - 疑 - 悪見」

平安期のこの「6根」から観ると、「拘り」とは、この「6根」では、 「瞋」と「慢」に類似する。
然し、次ぎの様に定義される。
「瞋」は、「攻撃する本能」即ち「怒り」として定義されている。
「慢」は、「わきまえ」を超えた「欲」として定義されている。

そもそも、「拘り」は「攻撃、怒り」では無いし、「わきまえ」の限度ではあるが、必ずしも「欲」に値しない。
従って、平安期末期以降の仏説では、”「拘り」は、必ずしも「煩悩」ではない” 事に成る。
然し、「般若心経」には 「色不異空 空不異色」 「色即是空 空即是色」として、俗説の事として ”拘るな”となるから、 疑問が生まれる。
何故ならば、全ての仏説の基と成っているこの「般若心経」とはこの「平安期の仏説」は異説であるからだ。
この疑問を解決して於かなくては「神仏習合の条件」の答えは出ない事に成る。

其処で、これを論じて解決する。
「拘り」が、「平安末期以降の煩悩」として定義されていない事に付いての疑問と、或いは、”「拘り」は「我執」としたが、「我執」ではないのか”、この疑問の「2つの前提」を解決する必要がある。

「2つの前提」の検証
先ず、「拘り」の言語は、俗説としては、”ある事に「必要以上」に「自分の良悪の判断領域」で、この事はこうあるべきだ” と「限定」して、”「自分の心」を一時的に「洗脳」して「固着」してしまう状況” で訳される。
然し、此処には、「必要以上」、「自分の良悪の判断領域」、「限定」、「洗脳・固着」に問題がある。

この4つの中、前の2つの「必要以上」と「自分の良悪の判断領域」は、次ぎの様に成る。
”その限度がどの範囲で適切であるのか”
と云う事に成る。

後の2つの「限定」と「洗脳・固着」は、次ぎの様に成る。
”個人の性癖で起る現象”で、その個人の”人格技量の形成範囲を問われている。”
と云う事に成る。

この4つは、「人」として、「大人」としての「未量と未熟」に起因する事を意味する。
さすれば、この「未量と未熟」を会得解決する事で、 俗説の”拘り”は解決する。
この「未量と未熟」を大人として獲得すればこの「拘り」は解決する。

とすると、上記で「煩悩」とは、”人に持っている「潜在的・先天的な性」”と上記で説いた。
従って、”「未量と未熟」は年齢を経て、「経験と知識」を獲得する事で霧消する事に成る。” のだから、この「拘り」は何時かは霧消する事に成るから「煩悩」の定義から外れる事に成る。
故に、「平安末期以降の仏説」では「煩悩」として定義されていない事が判る。
当然に、「拘り」は「我執」として扱われない事に成る。
これで上記の「2つの疑問」(2つの前提)は解けた。

そうすると、次ぎにでは、 ”「俗説の拘り」は、「仏説の拘り」では何と表現するか” の問題を解決する。
「般若心経」の「色不異空 空不異色」 「色即是空 空即是色」として、俗説の事として ”拘るな”は、上記の「拘り」の言語の定義から、「未量と未熟」を解決すれば、「大人」として事に過敏に反応する事は無くなり、その「心の安定」から、「”無意、無心、無念、無想”」の心境を獲得出来る事に成る。
そして、これを先ずは、 ”人として会得せよ” と説いている事に成る。

(俗説と仏説の「拘り」-「未量と未熟」は、「”無意、無心、無念、無想”」の心境を阻害する最大の障害である。)
要するに、「泰然自若の心得」が必要と成る。(家訓の「長の心得])

要するに、俗説の「拘るな」では無く、「教典」であるのだから、「泰然自若」の ”「無意、無心、無念、無想の心境を会得せよ」”と成る。

この教示とすると、上記での(心所区分 B)の「智慧の領域区分」に、この事に相当する事が定義されている。
注釈
(心所区分 B)
智慧の領域区分
1 隠の行 (表-話-編-歴)
2 遍の行 (意- 触- 受- 想- 思)
3 別の行 (欲 - 勝解-念- 定 )
4 善の行

特に、、”「無意、無心、無念、無想」”は、上記の 「2 遍の行」の(意 - 触 - 受 - 想 - 思)に相当する。

更に、故に、「3の別の行」の「勝解」から、「家訓9」は、”勝るべし”と表現した事に合致した事に成り、納得一致出来る。

「無心」は、「3の別の行」の「念」に成る。
「思」は「無想」に通じ「無思」に通ずる。
「定」は、「拘り」の定義の「限定」、「洗脳・固着(定着)」にあり、「無定」である。
「1の隠の行」は、「智慧の本質」の行であり、「智慧」は「無意識の潜在性」から発する「脳の働き」を「隠」として区分けしている事に成る。
この「隠」とする4つは、歴は「(記録)」、編は「(工夫)」、「話」は「(調聞)」、「表」は「(開研)」に依って生まれる。

確かに、「智慧」は、”歴の「記録」”から引用して発露し、何かを”編の「工夫」”して発露するし、話の”調”べたり”聞”いたりして発露するし、表の”開発”したり” 、”研究”したりして、発露する事は確かであり納得出来る。
確かに、この「1の隠の行」は ”「4つの諭し(智し:さとし)」” であり、「人」は自然の営みとして理解し脳を働かせる事が直ぐに出来る。
そして、”これ等の「1の隠の行」は、「2と3の行」の「智慧の発露」(「無意、無心、無念、無想」)に依って達成する事が出来る” と説いている事に成る。
(4の「善」は上記で論じた)

「1の隠の行」→「2と3の遍・別の行」=「智慧の発露」=「無意、無心、無念、無想」→「4の善の行」

以上の検証で、分類方法は別として、平安期末期を前にした「浄土宗密教系の仏説の教義」は、「平安末期後の教義」と論理的に一致して納得出来る。

とすると、次ぎの様に成る。
平安前後の「2つの仏教の教義」の終局の解析は、「無意、無心、無念、無想」に通ずる事に成る。
況や、”これを会得する事(大人に成る事)で達成出来る”と解ける。

「神教」の教義では、「無意識の智慧」を引き出す事にあるから、「無意、無心、無念、無想」して「俗世の邪念」を廃し、「無意識の領域」に到達出来る”と説いた。

故に、この「仏教」と「神教」の「共通項(「智慧の発露の仕方」)の教義」は、”「無意、無心、無念、無想」で一致する事に成る。 
(”「無意識の意思」(ミトコンドリヤの意思)” ”「心頭を滅却」して”)

故に、「神仏習合」は、この究極の「無意、無心、無念、無想」で一致しているので成せる事に成る。
この「無意、無心、無念、無想」は、上記した様に、「未量と未熟」を解決して会得できれば、況や「大人」としての「人格」(経験と知識 1の隠の行)を身に付ければ、”事は成せる”と成る。

(注釈 これ等の事柄は、「青木氏の家訓10訓」(「人格」の経験と知識は「家訓8」)に記載しているが、「青木氏の密教」では、「心所区分 B」の内容は「家訓」に反映していた事を物語る。
筆者は、この平安期の煩悩教義の「心所区分 B」はこの「古代密教の考え方」を継承する「青木氏の家訓10訓」からの引用(影響)では無いかとも考えている。)

「大人としての人格」は、逃れる事無く、等しく全ての者に課せられる「最低限の義務」である。
課せられる「最低限の義務」を果し得ない者に「神仏の加護」は与えられない。そもそも「煩悩」云々の例外である。
況や、仏説の「縁無き衆生 動し難し」、「人を観て法を説け」の説法である。
「最低限の大人としての責務」の獲得に努力しない者には「神仏の加護」は無いのが当然であり仏説云々の以前の問題である。

「習合策の根拠」
これは、「守護神」と「古代密教」の考え方の両方を保持している「青木氏」ならではの「神仏習合」である事が判る。
では、”何故、習合としたか”の疑問を検証する。
他に、歴史上にもある様に、「併呑」、「連携」、「合体」(民の一体もある)等の形があるにも関らず、上記する様に、上記の様に「発露の仕方の教義」では一致しているのだから、少なくとも、「併呑」か「合体」でも有り得た筈である。

先ず、「神教側」から観れば、「皇祖神-子神-祖先神-神明社」として独立してその役目を果していた。(青木氏の守護神(神明社)」の論文参照)
「神教」は、「青木氏の守護神」である事以外に、「青木氏」のみならず「民の領域」までを導く「心の拠り所」としての存在であった。
そして、この「神教」は「政治・軍事・経済」の「3府の国策」であった。

一方、「仏教側」は、「密教」を前提としている以上、「青木氏のみの仏教」であり限定されている。
その教義も、「青木氏」と云う「立場・役柄・身分・家柄」に限定した「3つの発祥源」の範囲での教義であった。
むしろ、「青木氏の密教教義」を確立させなければ「3つの発祥源」などの「立場・役柄・身分・家柄」を維持させて行く事は不可能であり、「必然必須の条件」であった筈で、当然にして「密教の影響」を受けた「家訓」も「必然必須の条件」の中にあった事は否めない。
況して、「青木氏の守護神」も存在すると成れば、最早、「必然必須の条件」を超えていたと考えられる。

(筆者は、その意味でこの「青木氏の密教教義」と「青木氏の家訓」は「一対の教具」であったと考えている。故に、「国策氏」で「融合氏」として公然としていた事は世の史実であり、特に「神仏の宗教界」の中にはただ一つの「神仏の牽引する密教氏」としても存在していたのであるから、「平安期の煩悩仏説」には、この「青木氏の密教教義」と「青木氏の家訓」(青木氏の生き様)を当然に見聞し、その「青木氏の生き様」を目の辺りに観ていた筈であり、因って、「引用影響説」を採っている。むしろ、平安期には守護神の「青木氏の神職」(486)と密教菩提寺の「青木氏の住職」(141)が神仏の宗教界に君臨していたのである。”影響を受けていない”とする方が疑問である。)

その典型的な事として「原始仏教-古代仏教-古代密教-古代密教浄土宗」の「青木氏」の独特の経緯を経た「密教菩提寺」がこれの全ての「有り様」を物語る。

そもそも、「密教である浄土宗 菩提寺」は、その「氏」の菩提を祀う「菩提寺」を独自に建立する。
同時に、其処に密教としての「独自の教義」を確立させる。
「皇族賜姓族青木氏」で有れば25氏ある事に成るので、その出自の慣習から分家分派分流を起さない前提であるので、少なくともその土地毎に「一つの氏」の「密教菩提寺」を建立する。
「特別賜姓族青木氏」であれば116氏あり、24地方に分布する。
藤原秀郷一門に習って一部は分家分派分流するので、最低でも「116の密教菩提寺」が存在し其処に「青木氏の密教教義」を統一させて少なくとも24の各地に存在する事に成る。

特記
研究中であるが、「西光寺」:密教系の強かった知恩院系浄土宗 秀郷一族一門の定住地に必ず同名で存在する。60以上のこの共通名の寺が定住地に必ず存在する。
この寺は平安時代の「空也」(僧侶)が建立したと云われている。然し、「空也」が、そもそも、これ程の60以上もの寺と30程度の地域に同名の寺の建立は、財政的にも、物理的にも、時間的にも、地域的にも絶対的に建立する事は無理である。そもそも、寺社建立権は、一族一門の許可無しで建立は叶わず、平安時代は朝廷の許可無しでは建立出来なかった許可制であり、江戸時代まで許可制で規制されていた。室町期中期までは「特定の氏族」に限定されていた。
又、秀郷一族一門の土地に一族一門の許可無しに勝手に建立できる社会ではなかったし、この時期は未だ密教であり、密教で無い浄土宗の檀家寺を建立する事の事態が時代考証が成立しないし、この時期の「民の信仰」は、この時期は浄土宗帰依は未だ無理であり、民の信仰対象の浄土宗の檀家寺は明治3年以降のものであった。
江戸初期に密教体質を払拭して「家康」が「浄土宗督奨令」を出し、「高級武士の帰依」を始めて認めたもので、その後、中級武士にも広げられたものである。
「平安期の空也建立説」はこれ等の事を完全に無視している。
且つ、況して、平安期では、「建立権」を保有している氏は限定されていて、「青木氏」の様な、「朝臣族」に限定されていた事から、「空也の建立説」は不確定で良くあるある思惑に左右された搾取偏纂した「後付け説」である事が判る。
仮に、「空也」とするならば秀郷一門が「空也」(僧侶)の名の下に建立し、説法としたと考えられ、この「西光寺」は明らかに秀郷一門の菩提寺と観られる。
この寺は一族一門の領国付近に多く、この60以上のリストの中以外にも一族一門が定住していた地域に15程度の「西光寺」がまだある。現存している。
「秀郷一門菩提寺説」を裏付ける「西光寺の寺名」にはある意味を持っていて、「朝臣族賜姓族」の「菩提寺の寺名」と共に「ある共通するもの」を持っている。内容は個人情報に関わるので不記)

従って、「神教」の守護神の486社もの「神明系全社」が、「全青木氏の共通の神社」と成り得るが、「仏教」に於いては全青木氏の「密教の菩提寺」とは必ずしも成り得ない。各地に定住していた「青木氏の菩提寺」であるが、教義は共通するが「全青木氏の共通の菩提寺」とは成らないのである。
青木氏の守護神の社とは異なるところである。ここに大きな「解離」と成る事が生まれる。

又、この「解離」があるが、「習合」には、「3つの発祥源」である限りは、「神教と仏教」の何れにもその「象徴」であり、必然的に「象徴としての立場」は厳しく存在するので、「併呑、連携、合体の有り様」には問題が生じる。
「武家の象徴源」であるからとしても、「武」を以って「氏家」を立てる事には成らず、必然的には「武家の象徴」である限りは、「和」で以って生きる事以外にはその存在の意義は無い。
そもそも、元来、「象徴」と云う「立場と役目の手枷」がある以上は、これは「神教側」に於いても、「仏教側」に於いてもその「立ち位置」は変わらない事に成る。
故に、「神教側」も「仏教側」も「3つの発祥源」を護る立場がある限りは、「併呑、連携、合体の有り様」は不可能であった。

とすると、”教義が共通する事”と成っても、「併呑、連携、合体の有り様」とは成り得えない。
その夫々の役柄から絶対に逃れる事から出来無い。
神仏両社が共に ”寄り添い合う”と云う形の「習合」で纏める事が以外に無い事に成る。
これがむしろ、「青木氏」に取ってはこの「立場と役目柄」から平安期中期までとしては「理想の形」であったのである。

「家訓9」の ”「煩悩」に勝るべし” の教えは、「神仏習合」に依って「無意、無心、無念、無想」で一致し、”時に当り、この「無意、無心、無念、無想」の極意を得て、「人格」を磨き「煩悩」に勝り、「長」としての立場を全うすべきである” としている。

「添書要約」
添書には、要約すると、つまり、”勝るべし”の極意「無意、無心、無念、無想」は、”「武」にあらず” と言い切っている。 ”「武」に対して「和」を以って成すべし”として諭している。
しかし、文脈からは「武」そのものを誡めている様ではない。”「武」は子孫存続には必要な人間に与えられた「必要不可欠な処世術」”として説いている様に漢文の語意から読み取れる。
”「武」を戒め、「武」は術” には、「武」に対する捉え方にあると考える。
「武」を誡めれば「和」を尊ぶは条理である。
しかし、これも又、”煩悩を否定しない”と同じ論法である。

(漢文の解釈にはこの論調が多いので苦労する。「般若心経」の上記の解釈と同じで読んだ通りの文意では答えは出ない。事程左様に、仏説の「般若心経」を解釈できるまでの若い時はさすが解釈出来なかった。直接表現を善しとする現代に生きる人間の苦労の一節である。況して技術屋である筆者には「含み文意」を文章の常識とする古代文には正直疲れた。「脳力」が極めて消耗する。)

これを ”どの様にして理解して「和」に到達させれば良いのか” 苦労する。
”半ば「武」を否定し、半ば「武」を肯定している。” と成れば、「武」の解釈に「何か」ある筈である。
”その「何か」は何なのか”の疑問が残る。
「3つの発祥源」の「融合氏・国策氏」で、「古代仏教」-「古代密教」の「教義」を「氏の主体」として、且つ、「皇祖神-子神-祖先神」の「古代神教の教義」と慣習を持ち合わせ、「悠久の歴史」を持つ「氏の家訓」である。
従って、「何か」があるのは当然であるのだが、それを解くには「氏の全体の歴史の経緯や変異」を事細かく掌握しなければ出て来ない筈である。
それには、神教側の方に多く答えがあると考えられ、「青木氏の守護神」を解明が必要であった。
故に、見直しの為にも「青木氏の守護神」に関する論文を投稿を先行させたのだが、答えは出た。

「抑止力」
それは、次ぎの答えであった。この答えの論調で説けば附合一致する。
「武」は、最終は「武」の「武具」を以って「殺戮」に及ぶ手段である。
しかし、「武」の「武具」を無くす事、或いは、使わない事で「武」を果せば、「神教」と「仏教」の煩悩の「最悪の殺戮」(煩悩)は無くせる。つまり「抑止力」である。
「抑止力」であれば未だ「武」である。

その「武具無しの抑止力」を達成させれば、上記の「3つの発祥源」の立場は矛盾無くして保てる。
「抑止力」で「氏の保全」は可能に成る。
青木氏以外の氏が全て「抑止力」だけの「武力」であるとすれば、何も「武」に拘ることは無い。
然し、他氏の多く、殆ど、全ては「3つの発祥源」と云う立場を保持していないし、当然に「神教と仏教」を併用して持ち合わせる氏では無い事、青木氏の様な「古代仏教-古代密教」や「守護神 祖先神」の立場では無い事から、「極意: 無意、無心、無念、無想の教示」は無関係であり縛られていない。
依って、「武」は「武具」を持つ「武」であっても不思議ではない。
この他氏から攻められたとした場合は、青木氏の自らの氏は護れない。
然し、「武具」を有する「武」は使えないとすると、「抑止力」を大きくする事で事前に相手を警戒させて押さえ込めて護れる。(現実には、青木氏にはこの「抑止力」で3度護った)
「武具無し抑止力」では、”「武」に対して「和」を以って成すべし”の教示は保てるし、「3つの発祥源の立場」は保てる。
(そう成ると、「武具」に頼らない「抑止力」と成り得る大きさは必要で、それを補うのは「商いの経済力」が必要不可欠の条件と成る)

「武の疑問」
さて、そうすると、”「武」は青木氏に執って良くないのか” と云う疑問である。
「武」に関する教義としては、浄土宗密教の「煩悩の教義」に次ぎのものが有った。
もう一度思い起こして頂きたい。

重複して記すると、”「煩悩」は、「我執」から起るものであって、その「我執」は「貪欲」「瞋恚」(自分の意に反すれば怒る心)「愚痴」の煩悩があるとして、中でも、「愚痴の煩悩」を主な事としての教義”であった。

然し、「武」の行使は、この「貪欲」「瞋恚」「愚痴」の連動に依って起る。
この教義に「武」を当て嵌めて観る。

「武」の行使の理由は、”他氏の領地等の奪取”等の「征服欲」に使われ、これは真に「煩悩の貪欲」の極みである。
「武」の行使の発端は、「自己の慎み」を超えて「怒り」を発する時に起り、「煩悩の瞋恚」の極みである。
「武」の行使の原因は、「自己の人」としての「未量と未熟」から来る「判断力の低さ」の時に起こり、「煩悩の愚痴」の極みである。

つまり、「武」は「煩悩の最悪の見本」の様なものであり、「人としての幸せ」(善、慈、愛の結実)を根底より破壊する。それのみならず、死に至らしめる手段(武具)を有する。
仏説で云えば、「武の煩悩」は、「3世の破壊」を意味し、「死の恐怖」を拭う「教典と教示」を前提から否定するものである。
故に、浄土宗と真宗はこの「武」を使命とする「武士」に対して教典に反することである事から「武の道」を説いて「武の煩悩の悪弊」を取り除く「道」を説いたのである。
これが室町期末期頃から「武士道」として確立したのである。

以上と成るが、これを青木氏が「3つの発祥源の象徴」であるとすると、「青木氏」に執っては「武」は「発祥源の象徴」であって、この理屈から観ても「武士道の象徴」とも取れるが、「武の道」では無く「和の道」でこれを払拭したのである。「武の道」は「「破壊、消滅、死」を意味する。
「和の道」は、故に、「破壊、消滅、死」を意味する事とは「反意」である。
この「和の道」は、即ち、「家訓」と厳しい「慣習と仕来りと掟」で構成されているのである。

「和の道」=「家訓10訓」+「慣習、仕来り、掟」=「武家の象徴」≠「武の道」(武士道)

さすれば、「武家の発祥源」でありながらも、「武」の実質の役職を持ち得ない「象徴」とも成れば「武」であっても「武力」は持ち得ない事に成る。
況して、”「融合氏」の「融合」は「万物発祥の起源」”である。
依って、到底、「武」は「青木氏が保有するの神仏の教義」に合致せず、「煩悩」の最たるものとして排除しなければ成らない立場に有った。

その為にも、「神教と仏教の教え」の究極は絶対条件として、”神仏を習合一致させる”事に成り、「守護神」と「密教寺」を有する「青木氏の絶対的教示」としたのである。

「和・武の戒め」「抑止力の欠点」
故に、「武の煩悩」を含む「全ての煩悩」に対して、”煩悩に勝るべし”であり、その「勝る」に至る極意は、”極意「無意、無心、無念、無想」の教示である”としているのである。
これが「3つの発祥源」の「立場、有り様」なのである。
そして、添書の ”「武」に対して「和」を以って成すべし”の教示が、故に、「家訓9の戒めの言」と成っているのである。
これが「家訓9」の「和・武の戒め」である。

故に、「武」は「抑止力」で成らなければ成らないが、然し、この戒律には大きな欠点がある。
それは、「世に晒される事」である。

そもそも、「抑止力」とは、”本来、見えないから、不透明だから、その力に「懐疑」が起こり、「自らの力」との差異を計測出来ないところの不安を利用する戦術” である。
これが「世に晒される事」で、不透明さが判明すれば「懐疑」が無くなり、この「力の差」は判明して、自己の力>抑止力の「時」には「武」が採用されて「和」は消滅する。これは「現世の条理」である。
故に、「和」>「武」の形が保てるところに「青木氏」は存在しなければ成らないのである。
そして、この「和の力」を大きくする術、「戦略」が絶対条件として必要と成る。
その戦略とは、「商い」である。
「商い」は「善」であり、「物造り」に通じ、「人の正なる生き様」になり、「神仏教義の極意」でもある。

「和の数式論」
「和の道」=「家訓10訓」+「慣習、仕来り、掟」=「武家の象徴」
「商いの利」→「抑止力」=「和の力」
「和の道」=「商の道」≠「武の道」
「和の道」=「和の力」(和力)
「武の道」=「武力」
「武力」=<「和力」→「抑止力」
「青木氏の武の道」=「青木氏の抑止力」

この「商い」が「和の力」、即ち、「武力」に対して「和力」を生み出す。

以上の「和の数式論」とその「相関関係式論」が生まれる。
これが、「家訓9の数式論」である。
この「家訓9の教示」は「家訓10訓」の全ての教示に通じその根源と成っている。

この現在まで続く口伝の ”世に晒す事なかれ、晒す事に大儀なし”はこの一点にあった。
故に、「青木氏」は悠久の歴史を持ちながら、その「和の力」は「3つの発祥源」の立場にありながら、源氏の様に、「武の皇族としての立場」はもとより「世に出た豪族の立場」は持たなかったのである。
それが故に、「和の力」と「世に出る事の無い立場」を護った事から、「青木氏」は足利氏-豊臣氏-徳川氏から特別庇護を受け安堵されるに至ったのである。
これこそが、上記で論じた「青木氏の教示」の、この「世の人生の目的」とする「子孫存続策」の極まりであったのである。
「青木氏の最大の戒め」
”世に晒す事なかれ、晒す事に大儀なし”

注釈
(その「和力」(総合力)は、「伊勢青木氏」の場合で計算すると100万石以上の力は充分であったし、これに「3つの発祥源」としての「象徴としての権威力」が備わっていた。
それだけに世に出る事には利用される危険もあった。然し、この戒律を護らなかった例外はあった。
室町期に信長-秀吉に利用された青木紀伊守と伊賀守の2人が歴史上の舞台に踊り出た。故に、この皇族賜姓族は滅亡した。ただ1度「伊勢青木氏」は、信長に対して「名張りの戦いの伊賀攻め」で旧来の隣人伊賀人を救う為に奈良期からの「氏の禁」(武力)を破り「信長の虚」を突き伊勢を護った。又、「伊勢丸山の戦い」では完全な「抑止力」で勝利した。)

事程左様に、「家訓9の数式論」は「青木氏の生き様」の前提に成っている。

”煩悩に勝るべし” 「和武の戒め」としているが、その意味は実に深い。
添書は簡単に要点を記述しているが、「添書文脈」が持つその真意を汲み取ると、この「家訓9の教示」は実に大きい。
この「家訓9」を理解するには「守護神の事」を研究する事からその意味する事が判る様に成った。

「家訓10訓」の汎用
「家訓10訓」は、総じてその「家」の中の事に置き換えて「戒め」として説いている。
然し、この言葉の置き方を「家」より「氏」や「企業」等の「大きい組織」に置き換えての「訓」としても用いられる筈で、恐らくは、本来、古来の「氏家制度」の中にあった事から「氏としての「訓戒」であったのです。
これを、”より判り易くする為に、より多くの者が理解出来る様にし、「家庭」「家」に焦点を置いて言い聞かせた” と考えられる。
そうする事で、”一族一門とその一切の郎党の全員が、「心の底」から「共通する思考原理」で立ち向かえる事が出来、結束をより強くする事が出来る ”と考えての事であったと観られる。
それが「青木氏」と云う「特異で特殊な立場」にあったからこそ、他氏に比べてより一層の「正しい結束力」を求められていた。
故に、他の「家訓8」までのものとは、その「戒め」が、「異質の基本訓」と成る様なものと成っている。
そして、敢えて、添書には詳しく論じる事をせずに、各人に「考えさせる手法の家訓9」と成っている。
それは、”「考えさせる事」に意味があった” と観ている。
当然に、その「悟り具合」に依っては議論が起るであろう。
「家訓9」を考えさせる、つまり、”「議論の想起」を「根本の的」としていた”と考えられる。
一族一門の議論の中から、修練されて、「互いの心」に「訓意」が留まる事を狙ったと考えられ、そして、その「長」は、その「議論の修練の方向性」を「主導役」を求められたのであろう。
それが ”「長としての資質」である” と考えられていた筈である。
その務めを果さずして組織は維持出来ないのであるから、この務めが果せない場合は、上記の「密教の仏説」の教義の通り、「未量と未熟」と成り果ててその「長」は失格と成る。

それだけに、「氏家制度」の中では、「和武の戒め」は「武」が主体とした社会であって、その中で「和」を説いて素直に「納得」は得られる社会では無かった。
況して、「3つの発祥源」と云う立場は一切の他氏には無いのである。
だから、到底、理解は難しい。”難しい”では無く、”理解は無い”が正しい。むしろ、”狂気か”と疑われるが道理である。
そこに、「和」を説いた。当然に一族には「異論百出」である。其処で、先ず、”「煩悩」と云うテーマを敷いた。”「武」は「煩悩」の最たるものである”と説いた。
そして、”そのテーマから「和」に導かせて悟らした。”と考えられる。

普通ならば、「3つの発祥源」であれば「武の象徴」なのだ。疑う事無しで「武」である。
然し、”「武の象徴」であるが故に「和」なのだ”。そして、それには、”「禁じ手」の「商い」なのだ”と説いた。”「武の象徴」が「武」だ”と叫べは世の中は戦乱である。
「和の象徴」が「青木氏」と同列のところに別にあるので有れば、それも叶うだろう。然し、歴史上には無いのだ。
そもそも、「武」は「和」を求める手段として「神」が「智慧」と共に人間に与えたものである。
決して、「武」を求める為に「和」があるのでは無い。あくまでも「和」が「主」であり、「武」は「副」の立場にある。故に、「主」を求める為には、「武の象徴」は「和」(抑止力)でなければ成らない。
この世に「副」を「主」として求める世界は「神」は与えていない。

以上の論調で、青木氏一族一門とその一切の郎党に懸命に説き続けたのであろう。
その結果として、理解が得られて「家訓9」は「青木氏の家訓」として成立して強く地に根付いて現在までに引き継がれて来たと考えられる。

「和」は、「抑止力」だけでは無く、「禁手」の「商いとする前提」も考え合わせると、この「説得のリスク」は計り知れないものがあり、”「長に求められる資質」は相当なものを要求された” と考えられる。
もし、この「武」で有れば、”「武の象徴」は「武」だ”と普通の者は考えがちである。
真に、これを「否定」として、”「和」だ”する真逆方向で纏める事は「至難の業」であった筈で、故に、この時のこの家訓を遺した「青木氏の長」は「相当な逸材の人物・傑物」であった事が判る。
(1025年から1125年の100年-3代の前半の人物 匿名)
一族一門の「生活の糧」を護りながら、その「立場の堅持」する者が「普通の資質と度量の長」であれば「矛盾で狂気」と成るであろう。
恐らくは、この時に一族一門から「嫡子の選択問題」が必ず起っていたと観ている。
選択した者もそれを見抜く力の保持者で素晴らしい人物であったのであろう。

(参考 伊勢青木氏の口伝に依れば隔世遺伝にて「何らかの傑物」が出ている。 この時の人物は戦略家であったとする口伝 始祖施基皇子は天武天皇の参謀役の「軍略司」を務めた事が日本初期に記録されている。血筋であろうか)

「一氏の長」が悟ったとしても、従う者にも理解が無いと「強制の命」で組織を動かす事に成り、「氏力」は当然に働かず、滅亡が起る。
一族一門が、”何がしかの悟り”、或いは、少なくとも「同意」を得ていなければ成し得ない。
故に、”未来永劫に子孫は続かない。” 非常に難しい{家訓9]であった事に成る。

「青木氏の独自の教義」
青木氏が、仏説の本来の「煩悩説」に従うのでは無く、「密教の教えを旨宗」とする「氏」で有りながらも、”勝るべし”としたところに大きな意味を持たしたのである。
これも「密教」とする処に無し得た「青木氏」ならではの論調であり得た。
この「古代仏教」-「古代密教」の考え方に、この ”勝るべし”を「青木氏の独自の教義」として加える事で、”「和」を求める「武の象徴」”の「有り様」を一族一門とその一切の郎党には納得させたのである。

この「青木氏の教義」(家訓9)を奈良期から脈々と引継ぎ、数百年後には”煩悩は否定せず”に成って一般の社会の中に蘇ったのである。
これは、「青木氏の教義」の正しさとその「教義」を追い求めてきた「賜姓族」を社会は認めた事を意味する。
それだけに「賜姓族」、「3つの発祥源」「国策氏」「皇祖神-子神-祖先神」の「青木氏」の一族一門とその一切の郎党の動きは、社会からその「有り様」として見詰められていた事が、この”「煩悩」は否定せず”の一つの仏説でも良く判る。

「家訓順の疑問」
ここで、一つ最後に疑問がある。
では、”何故、この「家訓9」を「家訓1」にしなかったのか”である。
それは、この「家訓9」を前面に押し出す事は、”家訓が仏説と成る”の配慮があったのであろう。
況して、”煩悩に勝るべし” 「和武の戒め」である。難くて家訓としては馴染まず、家訓の活用に疑問を持ったのであろう。
そもそも、仏説なら教典を読めば良い。しかし、「家訓」なのであるから、のっけからこの論調は理解されない。それならば、「家訓1」や「家訓2」のような「家庭的な戒めの表現」は前に以って来ない筈で、家庭的な言語の家訓にはしなかったのではと考えられる。
漢文であるにしても、この「家訓9」の配置には ”何かの履歴”があった可能性がある。
時代の遍歴に依って、”先祖の誰かが変更した”と観ている。
平安初期頃には全ての家訓とは言い難いが、この様な「家庭的な戒めの表現」の家訓にするかは甚だ疑問である。
かと云って、鎌倉期以降では無い筈で、「商い」の本格的なスタートは平安末期の1125年頃と観ているので、その100年程度前には既に「青木氏の態勢」を換えつつあった事から観て、この100年の間に、「家訓配置と表現変換」を実行したと考えられる。
変更するにしても、960年頃の「特別賜姓族の秀郷流青木氏の発祥」から観て、「皇族賜姓族」を支えた頃の間の1125年頃前では無いかと考えられる。
即ち、平安初期の衰退から立ち直り始めた頃に一族一門とその一切の郎党に向けて改めてこれから生きて行く「青木氏の有り様」を明示したと考えられる。
つまり、この時の「青木氏の立ち位置」を反映させたと考えられる。
況や、「和」の「商い」を主軸として「3つの発祥源」の立場を守りつつ生きて行く事を宣言したのである。
「特別賜姓族青木氏」にも理解を求め、取分け特別賜姓族の「母方血縁氏の伊勢青木氏」にも示すにしても平安初期前の「皇族賜姓族の家訓」では提示し難いものがあった筈である。
特に、「家訓9」は「密教系の色合い」を強くし、仏説とは少し離れる「独自の教示」は特に憚られたと考える。恐らくは、この100年の1125年よりの時期で有ろう事が判る。
これ等は、「青木氏の守護神(神明社)」の「神明社の建立とその経緯」と大きく関っていたと考えられる。
この家訓全てが整っていたかは定かでは無いのだが、「添書」があると云う事はある途中で先祖の誰かが家訓に付いて疑問か何かがあって書き添えられた事は間違いないところであろう。
奈良期からこの「添書」があったのかはも解らない。それを2度程で「書き直し」か書き足していると観ている。(何かと添書で補足する独特の「氏癖」がある事から、かなり早期に添書と成るものが有った可能性が高い。筆者もこの性癖をどうも引き継いでいる。)
恐らくは、上記の時期、”「100年の間の1125年より」の時期までに「家訓全体」を改めた”と考えられる。
恐らくは、少なくともこれ以降の年代では無い事は「漢文形式」が物語っている。
この「100年の間の1125年より」が衰退から立ち上がり全ての「青木氏の有り様」と「青木氏に関わる周囲の環境」を換えてしまった事が何よりの証拠である。

この「家訓9」は事程左様に、「青木氏の遍歴」大きく物語る源と成っている重要な家訓である。

特記
兎にも角にも、「氏家制度」の中では「賜姓族」であるが為に「4つの青木氏」は、「全ての柵」に縛られて「家訓10訓」に示す様な「氏の生き方」しか「生きる道」は遺されていず、不自由な環境にあった事は否めない。そもそも、家訓を定めると云う事は、この家訓の範囲の中で生きて行かねば成らないからわざわざ其処から外れない様に定めているのであって、少々外み出ても生きて行けるのであれば定める事はしない筈で、「2つの青木氏」はこの「柵」の中にいた。
だから、”世に晒す事無かれ、晒す事に一義無し” ”然れども世に憚る事なかれ” とまで厳しく戒めている。
「関係する青木氏」には、現在の「家訓の存在の有無」如何に関らず、この道以外に最早、「生きる道」は無かった。頭の中に沁み込んだ「伝統の思考原理」であった。
それが、幸いにして「伊勢青木氏」に遺されていたと云う事であった。これは「生仏像様」が「全青木氏」に遺されていた事と同じ意味を持っている。

ともあれ、本家訓は幸いに「伊勢青木氏」に遺された「家訓」をベースに論じているものであるが、明治の始め頃まで「和紙商い」では、親密に親交を持っていた現存する一族の「賜姓族信濃青木氏末裔」にも、何がしかの相当する家訓類が、「商い記録」等から読み取ると間違い無く遺されて居た事が判る。
ただ、一族の「賜姓族足利系青木氏」等が「秀吉の計略」に陥り、立場を利用されて「武」の世界に足を踏み入れてしまった。結局、家康に依って叙封され滅亡した事(一部末孫が退避地に逃避)等から全体として「信濃青木氏の衰退」が起こり、「商い部分」を遺したのみで「氏としての遺産」を遺し得なかった。
現在に至っては「商い」以外にはこれ等の記録資料関係が少なく遺されていない。
伝統の”世に晒す事無かれ”が「資料記録の不開示」の原因に成っている事も考えられる。

同様に「特別賜姓族青木氏」にも確認が出来ない。
取分け、「特別賜姓族の伊勢青木氏」とは明治35年までの親族としての親交があり、伊勢四日市には「融合青木氏」を持つ等の深い血縁関係もある。
「家訓」に対しては統一した行動を採っていた事は、「明治9年の伊勢騒動」の時の「援助記録」(伊勢青木氏保存)等でも明らかである。
この事からも何らかのものが「武蔵の青木氏宗家」にもあった筈で、ある事に付いては研究中の中では添書の内容から判っているが、それがどの様な内容なのかは判然としない。
ただ、「主要5氏の菩提寺」には「氏の記録」等がある筈で、この「青木氏の菩提寺の確定」の研究中である。(現在は家訓等の正式なものに付いて研究中で明確には成っていない。)
然し、「信濃青木氏」も「融合青木氏」を持っていた事から、これ等を通じて、武蔵宗家の「特別賜姓族青木氏」との繋がりから何らかのものが間違い無くあるのではと考えられる。
「主要5氏」の中で、「秀郷流伊勢青木氏」だけは本論の家訓等に添った生き方をした事からも、「武」にありながらも「和の生き様」をしたので記録資料は遺されている可能性は極めて高い。
取分け、「信長の北畠氏攻略」の時に、「2つの血縁青木氏」は共に「合力」している事から、「特別賜姓族の伊勢青木氏」の添書等の「何らかの記録」を確認出来れば、宗家にしてもある筈である。

「武」に組した「近江青木氏」と「美濃青木氏」の記録は、早期に滅亡して一部支流末孫が遺されたが、平安期頃の記録は完全に焼失している筈である。

「甲斐青木氏」もその支流末裔は現存しているが、親交が「和紙殖産」ではあったが、親交が少なかった事もあり、又、「甲斐青木氏の論文」の様に、室町期には、内部での「青木氏同士の混乱(源光と時光の争い)」や「信長の甲斐進攻」もあって、極めて「焼失」の可能性が高い。
依って、「伊勢青木氏」には甲斐に関する有効な資料口伝類は遺されていない。
何れも「古代和紙」等の「商い」を通じての親交が明治期まであった事から、文書的なものより口伝的なものとして明治35年頃まで遺されていた事が強く感じられる。
もとより、「伊勢青木氏」は「青木氏」の中でその中核にあった事から、甲斐では室町期から明治初期の頃までは最早「口伝」でのものであった可能性が強い。依って、現在では「伝統意識」が低下して霧消したと考えられる。

「生仏像様」の様な物体遺産は比較的に遺される可能性が高いが、無形の遺訓文化等は文書画像等にしない限りは古来では極めて難しい。長い歴史の中で文書画像は、尚更、相当な記録保存できる体制の取れた安全な氏(密教菩提寺と守護神が現存)で無けれ成し得ない事である。「伊勢青木氏」でも斯くの如くである。伝統に対する意識の変化が何よりも左右する。現在に至っては「個人情報に関わる問題」があるので研究調査が最早、極めて困難である。依って、個人の家の領域まで入り込まなければ成らない「無形伝統」の維持と記録保存と研究は最早、次第に霧消する過程にある。その中での研究であった。

以上が家訓9の検証である。

次ぎは、最終の「家訓10」である。



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青木氏と守護神(神明社)-22

[No.290] Re:青木氏と守護神(神明社)-22
投稿者:福管理人 投稿日:2012/12/10(Mon) 11:32:56


「真人族と朝臣族」の血縁関係

序文
改めてこの「歴史的経緯」に付いて詳細に検証して本論の基本的な判断材料とします。
特に、「真人族と朝臣族」の血縁関係に付いては「一般の氏家の族」とは異なる慣習が敷かれていたのです。
この事を事前に承知していなければ「青木氏の正しい氏発祥」を理解する事は出来ないのです。
当然にこの事が「青木氏の生き様」に大きく左右していたからです。
そうでなければ、前段で論じた「神明系社の建立の責務」を遂行する「真意」が判らない筈です。
それには取分け、”「血縁関係の慣習」がどの様なものであったのか” が大きく左右する知識と成ります。
そこで、この「血縁関係の慣習」の事柄に付いて限定して各種の資料の文面内容から読み取る作業を長い期間続け研究しました。そして本論の様な「朝臣族と賜姓族の慣習」を纏め上げました。
この本論が「青木氏の生き様」(消えてゆく伝統)を描き直す前提に成っています。

そもそもこの様な「真人族」を含めて「朝臣族」又は「賜姓族」の「血縁関係の慣習」に付いては、充分に確立してまとめ上げた資料が無く、先ず、「古い事」や「特異な家柄」が原因していて、僅かに遺されたものとしては「日本書紀」以外には無く、万葉集などの歌集の歌詞や家紋文様関連等からも引用して纏め上げるものでした。その意味で「青木氏の伝統」の一端を後世の為に再現出来たとも考えています。
結局、これは研究の別の目的で調査している中での作業であり、あらゆる「資料の文脈」から「論理的」に、或いは時には「主観的」に読み取る作業でした。

この「読み取り」とは、”この文脈や歌詞からするとこの時の「慣習」はこの様であった筈だ”と云う風に幾つかの「慣習パターン」(10パターン)に纏めてそれを積み上げて「一つの慣習群」に仕上げたものなのです。”その大元の「基慣習」は「血縁関係の慣習」から着ている筈”と観ているのです。
先ず、その基本と成るデータを「19守護地」と「85遷宮地」と「486社の神明系社」に定め、この「3つのデータ」に繋がる「読み取り文」の「慣習パターン群10」を、個々に合理的に宛がう事が出来るかの「査定の検証」の繰り返しで得られた結果です。宛がう事に論理的に無理がなければその「検証」はより正しい事を意味します。それが本論の結果なのです。
これ等の1から22までの内容を咀嚼して頂き「青木氏の伝統」を夫々の個人の中で作り上げて頂きたいのです。
この研究結果を次に論じます。
前段の「退避地」等の内容と合せてお読みください。

「基本データ1」
「主要な初期の19守護地」(4世族王)
(「神明社の初期建立地」)

5家5流皇族賜姓地
伊勢
・ [伊勢王](三重県 ・国府 松阪市)         
近江
  [雅狭王](滋賀県 近江-若狭地方)
  [山部王](滋賀県 草津-東近江-守山地方)
・ [近江王](滋賀県 ・国府)
  [栗隅王](京都府 宇治市 山城国-久世郡地方) 
  [武家王](京都府 但馬国 若狭側地方)
美濃
・ [美濃王](岐阜県 ・国府)
  [広瀬王](岐阜県 大垣市地方 国分 国分寺)
信濃
・ [三野王](長野県 ・国府 信濃)
  [高坂王](長野県 更級地方)
甲斐
・ [甲斐王](山梨県 ・国府)

賜姓末裔地(賜姓族保護地)
  [石川王](石川県-福井県 加賀-能登地方 )

遷都地  (特令地)
  [竹田王](大阪府-京都府 竹田地方)      
  [難波王](大阪府 摂津地方)
  [宮処王](奈良県 桜井市 金屋地方 つばいち)
  [泊瀬王](奈良県 桜井市-朝倉地方 長谷寺)

特別賜姓地(広域美濃 広域信濃)
  [弥努王](愛知県 尾張-信濃側地方)
  [桑田王](愛知県 豊田市地方)

大宰府地 (遠の朝廷 自治区)
  [春日王](福岡県 春日市地方)

以上、「国数 10」と「社数 19」(守護数 19)から成り立っています。 
(全国数66国)

大化期の同時期に行われた「神宮の遷宮地の決定」とこの「第4世族王の19守護地」との「2つの政策」は無関係ではないのです。

そこで、前段でこの「2つの政策」に付いて論じて来ましたが、もう一度此処に列記します。
そうすると、この「2つの政策」には大きな事が潜んでいる事が解ります。
先ず、「神宮の遷宮地の決定」には次ぎの様な事が潜んでいます。

「基本データ2」
(前段-21 詳細資料 参照)

「地域別」から「国別」に別けて観ると、次ぎの様に成っています。
「遷宮の遍歴数/国」
 「伊勢23」 「大和21」 「近江13」 「伊賀10」 「吉備6」 「丹波4」
 「尾張4」  「紀伊3」  「美濃3」
「地域別85」から国別にすると「9国」と成ります。

この「2つの基本データ」は何れも「9国」で構成されています。
これを更に当時の「主要地域別」に別けて観ると次ぎの様に成ります。

「5主要地域」
(大和+紀伊)     24 「飛鳥域」
(伊勢+伊賀)     33 「伊勢域」
(近江+丹波)     17 「近江域」
(尾張+美濃)     7  「美濃域」
(広域の吉備)      6  「吉備域」

(注意 奈良期-平安期初期の「吉備国」は都に匹敵する位の勢力圏を張っていて、他の4主要国の範囲に匹敵する位のものであった。)

「国数 9」と「主要地域5」と「社数 85」から成り立っています。

(基本データ3は前段の「神明社の分布表」)

先ず、上記2つの「基本データ1、2」の分析からこれを「地域別」に分けると次ぎの様に成ります。
この「5主要地域」と「19守護地」とが「3つの地域」(伊勢域、近江域、美濃域)で一致しています。
「異なる地域」としては、それは「飛鳥域」と「吉備域」とですが、その歴史的な意味のある「2つの古の地域」が、「違い」として出ています。
この「2つの古の地域」に「違いの意味」があるのです。
つまり、次ぎの様に成ります。
A 「2つの古の地域」の「飛鳥域 吉備域」 24 6
B 「2つの賜姓族地」の「信濃域 甲斐域」
以上AとBの違いです。
A、B 共にほぼ同時期(大化期前後)に打ち出された政策なのに、この様に、”何故違うでしょうのか”、”どのような意味があるのでしょうか” この事が重要な意味を持っている事に成ります。
これを下記に順を追って論じます。

このA、Bそれぞれに付いては前段で「地域性」で論じて来ました。
詳しくは前段を想い起しながら参照して頂くとして、概要としては次ぎの様に成ります。

A 「飛鳥域」24は衆知の旧都、「吉備域」6は奈良期から平安中期まで都に匹敵する位の国柄、「吉備真備」でも有名、共に「旧来の地域」

B 「信濃域」と「甲斐域」は共に「日本書紀」にも出てくる後漢の帰化人の「新規開拓の天領地」で開発に依って「主要国化した地域」、共に「新規の地域」

恐らくは、本来であれば、「5地域の賜姓族地」は「Aの形」と成る筈です。

これを指数化として観てみると、「30/85 35%」も占めている地域であるのですから、本来であれば「賜姓族地」にするのが当り前の事です。然し、これが「Bの形」と成ったのです。

この「35%の状態」を覆す事は「相当な政治力」が必要と成ります。朝廷の中では何らかの「大きな要素」が働いた筈です。その要素が何なのかと云う事です。

つまり、AからBに変化している訳ですから、大化期に於いては、Aは「旧来の地」として大化期の「天智、天武、持統の3天皇」に依って先ずはこれは判断された事に成ります。

これは、明らかに先ず一つは「旧来の地域」(A)と「新規の地域」(B)とを天秤に掛けた事を意味します。
そして、「新規の地域」(B)を選択したのです。

では、”何故、「新規の地域」にしたのでしょうか。”
総じて云えば、これが「大化改新」なのですが、これでは論文に成りません。

当然に、前段で論じた様に、「賜姓族」には「3つの発祥源」の「諸々の責務」を負わしての「国策」であった以上「新規」(新しい語意)だけを採って選択した訳では無い筈です。

最低限に上記の3天皇(「天智、天武、持統」)は「軍事、経済、政治的な判断」を下した結果である事は云うまでも有りません。

では、このAとBとに「軍事、経済、政治、地理、宗教的な判断」が働いた事に成りますが、下記の「神明系社の数式条件」と同じ条件が働いていたと考えられるのです。

「神明系3社の建設条件の数式」
圏域内→「戦略的、経済的、政治的、地理的、宗教的な環境条件」<「仕来り、決り事、規則慣習」
圏域外→「戦略的、経済的、政治的、地理的、宗教的な環境条件」>「仕来り、決り事、規則慣習」

そうすると、問題は「仕来り、決り事、規則慣習」が、「皇祖神の子神」の「祖先神-神明社」では働いていたのですが、”このAとBにも働いたのか”という事に成ります。
結論は、”全く働いていた”と観ているのです。
この「基本データ1と2」の間には「近江の最古の神明社」が「接着剤」の様に既に介在しているのです。
つまり、「基本データ1と2」の両方に ”「神明社」” 云う考え方が共通して継続して存在していた事に成ります。
そもそも「基本データ2」の処から起ったと考えがちですが、上記の事から「基本データ1」の大化期直前にも、既に”「神明社」”なる考え方があった事に成ります。(末尾に「最古の神明社」に記述)

「基本データ1と2」の境界の処で「大化改新」が起ったのですから、「真人族」と「朝臣族」の慣習の中には ”「仕来り、決り事、規則慣習」”が、強弱は別としても厳然と存在し介在していた事を物語り、ある程度の範囲で判断のこの「思考原理」が皇族の中では支配されていた事を意味します。

「圏域内」は、その”「圏域内」”に定住しているのは「朝臣族」と「真人族」ですから、これを「朝臣族と真人族内」、或いは「皇族第4世族内」と置き換えても同じ事に成ります。
つまり、上記の「神明系社の数式論」はまさしく主に「朝臣族の数式論」と置き換えてもよい事に成ります。

「真人族と朝臣族」は「八色の姓制」(684年)にて大化期の中期頃で正式に定められたのですが、この「制の根幹」は、大化期前(飛鳥期半頃)からも多少の違いはあったとしても既に存在していて「社会慣習」として定着していた事に成ります。
それを制度として「天智天皇」がまとめ造り上げ、「天武天皇」はこれを正式に是認した事に成ります。
「基本データ1」から観ても「朝臣族の賜姓族」の「賜姓地の周辺」には、「皇族第4世族内」の「朝臣族」と「真人族」が定住していましたから、「基本データ1、2」のこの数式論が成立していた事に成ります。

「朝臣族の社会慣習の数式論」
第4世族内→「戦略的、経済的、政治的、地理的、宗教的な環境条件」<「仕来り、決り事、規則慣習」

第4世族外→「戦略的、経済的、政治的、地理的、宗教的な環境条件」>「仕来り、決り事、規則慣習」

とすると、、「基本データ1、2」の考察と検証は、この関係数式論を前提に論じる必要があります。
当然に、「旧来の地域」(A)と「新規の地域」(B)の「選択の結論」は、この関係数式論から導き出されなくては成らない事に成ります。
「青木氏」に取っては切っても切れない重要な関係式論と成ります。
他氏には観られない関係式論でこの慣習(環境)の中で生きていたのです。
この関係式論を導く以上は、この関係式の左辺の項の「5つの要素」に関わる全てを揺るがす様な大きな事が、この時期に歴史に残る史実が起っていなければ成りません。
朝廷では、「真人族や朝臣族」のみならず前段で論じた様に、「5つの要素」を何らかの良好な形で維持出来る様にと何とか右辺の諸々の「仕来り、決り事、規則慣習」を都度定めて、それに依ってこの組織が維持されていたのです。
「時代の変化」に依って「5つの要素」の左辺の夫々のウエイトの組み合わせが大きく変化して来ます。
当然にそれに基づいて「後決め」で右辺が決められて来るのです。
時代が進めば進む程に「賜姓族」の慣習(環境)に取っては厳しく成って来るのです。
つまり、この慣習(環境)は「保守的な環境」と成っている事は必定で、「大化改新」の「改新」を行われたとしても、「天智天皇」の即位が23年後であり、そう関単に「改新」が進んだ訳では無かったし、その意思を継いで「天武天皇」に「改新」が引き継がれて50年と云う期間が掛かったのです。
「改新」は「変化」であって左辺の「5つの要素」の組み合わせが変わる事なのですから、”新たに右辺に数多くの慣習が継ぎ足されて行く事を意味します。

そもそも、そうなれば出来得る事ならば、 ”この立場から逃れたい”と思うのが普通であります。
然し、「賜姓族」にはそれが決して許されないのです。それを背負っての「賜姓族」であって、”「民」への「3つの発祥源」”の象徴としての最早「国策氏」なのであり、この事無くして「賜姓族」は「賜姓族」では無くなり成り立たないのです。
そもそも「賜姓族」とはこの様な意味を持っているのです。その「辛さ」を物語る上記の関係式論なのです。

つまり、「賜姓族」=「国策氏」であり、”「個人の意思」をも持ち得ない氏である” としても過言ではないのです。
これは「皇族賜姓族」として決して浮かれているのではなく、むしろ、「先祖の生き様」に対して同情し、尊敬し、むしろ、どちらかと言えば心の中では ”憂いている”のです。
当時としては「賜姓族」に生まれた事に「宿命」として、「務め」として理解していたであろうが、「先祖の生き様の厳しさ」が如何ばかり重い馳せているのです。
筆者としては絶えられたかは疑問で恐らくは耐えられなかったと観ているのです。

(参考 この慣習(環境)から急転直下のごとく全てに開放されたのは、祖父の代の幕末からでは無いかと観られるだけに、筆者に取っては多少なりとも遺された長い慣習(環境)の中で培われた「人間性」や「性格的なもの」には「賜姓族」としての「隔世遺伝的なもの」が残っており、それから逃れられずにいて、金銭に無頓着な貧乏ではあったが、大屋敷の部屋には一輪花と御香が漂う格式高く雅な生活慣習が遺されていて、筆者の脳裏にはそれが浮かんでくるのです。故に未だ「憂いている」と成るのです。然し、最早、次世代では、”そんなものだったのか”と成るでしょうし、子孫では既に格段の差が生まれ「普通の慣習」に於いてもそう成っています。)

その”「改新」が行われている”と云う難しい「保守的な環境」の中で、AからBに変化するには ”「朝廷の存在」そのものを揺るがす程の出来事”がこの全ての「5つの要素」に関っている必要があった筈です。
もうお判りと思いますが、前段で何度も論じて来た次ぎの出来事があります。

それは「後漢の阿多倍王」、「200万人帰化」、「先進の職能集団」、「九州全土と関西以北の征圧32/66」、「朝廷官僚の6割占有」、「敏達天皇一族との血縁」、「准大臣」、「坂上氏」、「大蔵氏」、「内蔵氏」、「行政機構3蔵内2蔵を占有」、「九州全土自治」、「遠の朝廷」、「錦の御旗」、「太宰大監」、「瀬戸内大監」、「産土神」等の様に挙げれば限りない位の大化期前後を中心に起った事柄なのです。

前段で論じた様に、上記「5つの要素」の全てに大きく関わる事件がこの「国策氏」(賜姓族)に起ったのです。
”AやBを揺るがす”と云う程度の事ではありません。”揺るがす”ではありません。”全てを変えた”のです。直前の「蘇我氏3代の専横」どころの程度ではありません。
「朝廷や天皇の存在」そのものを危うく無くす出来事が起ったのです。
とすると、”「朝廷や天皇」はどうするか”です。
これも、もうお判りです。
「打つ手」は必然的に決っています。この「打つ手」はどの様なものであったのでしょうか。これをこれから検証して観ます。

・「5つの要素」の「戦略的要素」
先ず上記の関係式論の数式から「戦略的」には次ぎの様であった事が判ります。

「阿多倍一門の勢力圏」にある「吉備域」には「賜姓族」を配置する事は困難であり、配置してもそれなりの「賜姓族」としての「皇族への力」を発揮させる事は期待できないのは必定です。
それでなくても、「軍事力」を主体とした「姓族の態勢」を組まねば成りません。
戦略的に「人、時、場所」の「3つの条件」(三相)から観てもこれは到底不可能です。
そうなれば、摂津より以東に配置する必要が出て来ます。摂津以東に勢力を結集して「皇族朝臣族の力」を集中して発揮させ、以東に「3つの発祥源」の国策を果させる必要が出て来ます。
そして、そこで「融合氏」を拡大させ以西勢力に対抗する「近衛の皇族力」を構築する必要が出て来ます。「天皇家の権威」だけでは到底に「彼等の勢力とその伸張する勢いと民の支持」には勝てず、行く末は「権威の低下か消失」が明確に見えています。
その為の「天皇家、あるいは朝廷の強化策の戦略」としては、「天皇家の権威の強化」の「一軸強化策」だでは最早、天皇家を超える「強者」が出現した以上は現状では成り立ちません。
さすれば、もう一つの「天皇家の軸」を別に作り、”「2軸による倒れ防止」の「門形体型の構え」”を構築する必要が出ます。そもそもこの策はこの流れは「自然の摂理」です。
”「2軸」にしなければ成らない” と云う事は、「蘇我氏の専横」で「1軸の天皇家の存在」が危くなり、「大化の改新の発端」と成った事件を起したのです。
「主軸」が倒れても「他軸」の「副軸」がこれに代わる事が戦略的に可能であり、「副軸」が「総合力」を持つ事で「主軸」を支えて「防御軸」(近衛軍)として成り得ます。

「弱者の条理」を持つ「ミトコンドリヤ動物」
これは生物や動物、況や人間、或いはその集合体で組織や集団は、先ずは最初に採る「姿勢と行動」は ”身を竦めて硬くして身を護る” 事が本能です。
そもそも、この世の「全て動物、況や人間」は「ミトコンドリヤ」の生き延びる為のこの「4度の進化過程」を経て来ているのです。その「進化過程」の最終に辿り付いた「第4の進化」は次ぎの様な「進化の理」を達成させたのです。
況や、「強者側」では、”子孫を勢いのある木々の枝葉の様に放出拡大させる進化を採る”のが「自然の条理]であります。
ところが「弱者側」と成った限りは、”身の内を集中させて固め「陰陽の相対」の「姿勢と行動」を採るのがこれも「自然の条理」であったのです。
これが「ミトコンドリヤ」が作り出した最終の「生存の理・進化の理」なのです。
ある「姿勢と行動」の「意思」を持つ「意思の根源」「ミトコンドリヤ」で成り立つ体躯を有する生物である限りは、「遺伝子の働き」以前のものである「無意識」の中で、この「防衛本能」として「弱者の姿勢と行動」を無意識的に起すのです。
ところが、この「弱者の条理」を持つ「ミトコンドリヤ動物」が、「無意識の姿勢と行動」を止め「有意識の姿勢と行動」を優先させて「自然の条理」を見失うと、その体躯は「衰退と消滅と滅亡の憂き目」を招き来たす「絶対的な宿命」を本来持っているのです。
これは「ミトコンドリヤ」で「生」を得ている事が「自然の条理」であってこの例外はないのです。
ところが、この「自然の条理」の続くあまりの「進化」の結果、「人族」は「知恵」という「自然の条理」を超えるものを獲得したのです。
つまり、ある限界を超えない「知恵」を有する動植物には「無意識の自然の条理」が組み込み与えられているのです。
ところがある限界を超えた「知恵」を得た「人族」は、「無意識の姿勢と行動」<「有意識の姿勢と行動」の異変を遂げてしまったのです。
其処に「自然の条理・摂理」に沿わない「知恵」による「憂き目」と云う現象を生み出してしまったのです。
この「知恵の人族」にのみ発生する「心の変化」、即ち、「喜怒哀楽の現象」が「有意識」の中で強く起るように成ったのです。
この「衰退と消滅と滅亡の憂き目」は、「知恵」が「無意識の姿勢と行動」よりも「有意識の姿勢と行動」を優先させて、「見失う間違い」を起す為に引き起すのです。
そこで、この事を知った「知恵の人族」は意識を「無念無想」にして「無意識の自然の条理」に戻し従える様に試みたのです。
そして、この結果、「ミトコンドリヤ」の成す「無意識の自然の条理」に到達させてくれるものを「神」として思考し崇めたのです。
ところがこの過程で「思考し崇める方法」、即ち、「無意識の自然の条理に到達する方法」、況や「神に近ずく方法」に「人族」の間に「知恵の違い」が生まれたのです。

それが前段までに論じた「自然神」から発祥した「5つの守護神」であって、それが我々「青木氏族」にとっては、「皇祖神-祖先神-神明社の守護神」であったのです。

強者側に立った阿多倍一門とその支配下は「産土神の守護神」を創造したのです。

そして、根幹と成った「ミトコンドリヤの無意識の自然の条理」に到達するものが、前段で論じた「無念無想」に到達出来る「自然神」であり「鬼道」と云う「最初の根幹と成る手段」であったのです。

(参考 前段で論じた事ですが、「邪馬台国の卑弥呼」はこの「自然神の鬼道」を会得し、自らをこの「無意識の自然の条理」に到達すべく「占術」を行ったのです。この時、「卑弥呼」はその手段として「占術の部屋」を締め切り、其処に何千と云う「熟した桃の実」を敷き詰め、その中で「自らの脳」を「豊熟した桃の実」から発する「芳香性のガス」により陶酔させる事で「有意識」を抑え、「無意識状態」を引き出し、自らの体躯から発する自然の「ミトコンドリヤの意思」を受け取り、それを上記する「自然の条理を得た判断」として「神のお告げ」として占術を行ったのです。
ただ、この占術に付いては前段で論じた「卑弥呼の複眼機能」の所以も伴なっての事であります。
より「無意識状態」(無意識の自然の条理)に近づき「ミトコンドリヤの意思」を獲得し伝達するにはこの「複眼機能の予知能力」との連動が不可欠であったと考えられます。

[御告げの数式論]
「ミトコンドリヤの意思]=「無意識状態」+「複眼機能」=「御告げ」
「御告げ」=「有意識の知恵」<「複眼機能」
「ミトコンドリヤの意思」=「有意識の知恵」<「複眼機能」
∴「無意識状態」>「有意識の知恵」

故に、「知恵の人族」の本来あるべき数式論は次ぎの様になる筈です。
「姿勢と行動」=「無意識状態」(無意識の自然の条理)>有意識の知恵」
であるべきで、次ぎの様な数式

「姿勢と行動」=「無意識状態」(無意識の自然の条理)<有意識の知恵」
であっては成らない事を論理的な数式は示します。

この3世紀頃は未だ「人族の知恵の進化」は「有意識の姿勢と行動」には然程大きく影響を与えるものでは無かったと考えられます。
この「知恵の進化と複眼機能」は逆比例の相関にある事から、この時期の「人族」には「野生本能」である「複眼機能」は多少なりとも多くの民に遺されていて、現在も中国北方山岳少数民族の中にこの「複眼機能」を強く持つ「原始の鬼道信仰」を「心の支え」としている女性が多い事が報じられた事が、中国の研究資料からも判っています。
従って、「卑弥呼」は取分け「複眼機能」を強く持っていた事が判ります。
この「卑弥呼の占術」が事如く当り、瞬く間に全国の評価を獲得し、それまでの「弥生信仰」を排除し。、各地の「政治連合体」の招きを受けたのです。
「卑弥呼」の跡を親族が引き継ぎますが、同じ「鬼道の占術」を採っても当らず、結局は邪馬台国は民から信任を得られず滅亡します。)

現在医学では人間の体内に存在する「ミトコンドリヤ」が、人間の体躯に異常を来たすとこの「ミトコンドリヤ」が出て来て元の本来あるべき「自然の状態・条理」に戻そうとして働き、強い「異質の物」と戦う働きを持っているのです。そしてそれを脳を通じて体躯に伝える仕組みに成っているのです。
これが人間に「無意識」の内に備わった「治癒力」である事が判っていて、「ミトコンドリヤ」はその「体躯の状態」を観察し、元に戻そうとする「意思」を持っている事が判って来たのです。

例えば、判り易い例として、過剰と成った脂肪やコレステロールや糖分等などが体躯を蝕み始めると最後に出て来て、これ等を自ら食い尽くす様に働き始めるのです。しかし、この結果、過剰に働いた疲労したミトコンドリヤは、体躯に「警告信号」として「活性酸素」を発生させて「刺激信号」を「有意識」に発して警告します。
「過剰な有意識の知恵」は、これを無視した場合、体躯全体の機能を酸化に依って破壊させる事を起こして体躯そのものも破壊するのです。

例えば、それが肺で云えば「膠原病」等で肺の酸素を取り込む粒を酸化させて蜂の巣の様に成って仕舞い短期間で滅亡させるのです。
従って、この様な病魔から逃れる為に、つまり、より敏感に「ミトコンドリヤの意思」の信号を早く獲得する為に、そこで「知恵の人族」は「無意識と有意識の思考のバランス」を取る事が求められる様に知恵の進化の過程で必然的に成ったのです。

「無神論者」がこのバランスを保持している限りは「ミトコンドリヤの意思」に依って体躯は維持され保障されるが、一度、「有意識」の方に傾くと直ちに奈落の底に陥させられるのです。
かと云って、逆に「有神論者」と成り過ぎると、即ち「ミトコンドリヤの意思」に頼り過ぎると「有意識の体躯の意思」(健康保全)が低下して、「他力本願」と成り「ミトコンドリヤの精力」を失い、これまた奈落の底に落ちる憂き目と成るのです。
即ち、この「知恵の人族」に課せられた「バランスを保つ事の行為」を受け持つのが「自律神経」であり、この「自律神経」を正常に保とうとする「心の動き」が「無意識の中に起るミトコンドリヤの意思」であり、そこに到達しようとする「心根」それが「宗教の本質」であります。
その「宗教の本質」の「場と機会」を与えようとする行為、それが本論の「守護神」の「祖先神の神明社」であるとしているのです。
故に「知恵の人族」が「弱者」と成り得た時には、「知恵の人族」は
「無意識と有意識の思考のバランス」=「宗教力の条理」
から絶対的に逃れることは出来ないのです。
(但し、ここで云う「宗教」とは「特定の宗教教団」等を意味するものではありません。)

故に、「場と機会」を与えるべく「政治の長」であり「自然神の祭祀」を司る天皇は、全ての「民」に対してこの「場と機会」を与える為に、「皇祖神の子神」としての「祖先神-神明社」の建立を「賜姓族:2つの青木氏」に義務付けたのです。
これが本論の核とする究極の論拠なのです。
その為には「天皇の務め」として、この義務を果す「賜姓族」(後に特別賜姓族策が加わる 2つの青木氏)の「子孫存続策」は揺るぎの無いものにしておかなければ成りません。
因って、「宗教の本質」の「場と機会」を作り出す「賜姓族」が「無神論の氏族」では有り得ない訳であり、その「賜姓族」も上記の数式論の論理の中におく必要が出て来るのです。

「子孫存続策の血縁」(「純血性の血縁」)
それが前段の論じた「退避地」等の論所でもあり、その手段としての「主な根幹策」は「子孫存続策の血縁」と云う事に成るのです。況や「純血性の血縁」であります。
そこで、この本論では、前段では「退避地対策で子孫存続策」を論じましたが、それと合せてこの「血縁テーマ」(「純血性の血縁」)では、”どの様な対策を講じたのか”と云う事を本段を論じています。

当時は「ミトコンドリヤの意思」の「無意識の姿勢と行動」の原理は知り得なかったにせよ、逆に「自然信仰」に対する信心は「有意識」の殆どを占めていた筈で、「卑弥呼の鬼道信仰の占術」が3世紀から4世紀半ばまで「政治の場」に於いて最優先されていた事そのものが証拠なのです。

・「5つの要素」の「政治的要素」
次ぎに「政治」とは、「有意識」の中で起る族間の問題を解決せんとする最たる行為であり、「宗教」が「政治の場」で使われる事こそが、真に「無意識の行為>「有意識の行為」の証しであります。
恐らくは時代を遡れば、「有意識」≒0 「無意識」>+「有意識」=100%の数式が成り立っていた筈で、この数式の中で生活が成されていたのです。
とすると、その「生活環境の根源」を成す「血縁」は、「長と成る立場の者」に於いては同じ「ミトコンドリヤの意思」を保持する為に、言い換えれば同じ体躯に近い物を獲得する為に、「一族の純血性」を選択するは道理であります。
そして、”混血に因る意識のブレ”をより少なくする為に、「純血によるより統一したミトコンドリヤの意識」を引き出す事が「自然の条理」として必要と成ります。
この「無意識」の中で「自然の条理」を「神」(ミトコンドリヤの意識)から得ようとするにしても「知恵を得た人族の姿勢と行動」は「純血が基本」となる事は「必然の理」と成り得ます。

この「政治の策」として発祥した「賜姓族」は「純血」を求められる事もこれもまた「必然の理」と成ります。
むしろ、逃れる事の出来ない「宿命」であります。
天皇は何も好き好んで単純な思慮で賜姓する事は有り得ない訳であり、わざわざ自らの分身である「第6位皇子」を「賜姓臣下」させる限りには、其処には「目的達成」の為の「幾つかの宿命」を課せている事は当然の事であります。
その一つは先ずは「純血」であるとしているのです。
その「純血の宿命」は、”皇族だから”と云う事では無く、”「無意識」の中で「自然の条理」を「神」(ミトコンドリヤの意識)から授かる役目(1)として、且つ、その「場と機会」の創建者(2)であり、前段で論じた「3つの発祥源」の「融合氏」(3)でもあったからであります。
つまり、「賜姓族」とは「皇族」だから「青木」と云う「氏」を単純に与えたと云う事では無く、ある一つの大きな「政治的な目的」の為に与えたものであります。
与えられない皇族が殆どでもあり、「比叡山や門跡寺院の僧侶」で終わるのが大方なのです。
この時、この「無意識の条理」の中で「天智、天武、持統」の3天皇が、「自然神」の占術で得た「ミトコンドリヤの意思」として下した幾つかの「子孫存続策」(下記)を打ち出したのです。
そして、この「弱者」と成った時の「根本戦略」を「光仁天皇」までの5人の累代天皇がくまなく継承したのです。

(注釈 現在、「無意識の意志」というものの実態の生理学上の解明が進み、多くの「無意識の意思」はこの「ミトコンドリヤの意思」の「総合意」ではないかと云われいて、その集中した「総合的な意思」が体躯を左右させていると観られています。)

「意識の数式論」
「ミトコンドリヤの無意識の意識」>-「知恵の有意識の思考のバランス」=「宗教力」の条理

況してや、「知恵」を授かった人間に於いても生き延びられる「宿命」を帯びている限りの「弱者」は、「無意識」の内にこの「自然の条理」に従って「姿勢と行動」を「無意識」の内で採って仕舞うものなのです。
これが基本的な「弱者の自然の戦略」とも云うべきものなのです。
ところが「強い有意識の知恵」を得た時の「弱者の長」である者は、「有意識」の中で「思考の歪み」を持つとこの限りでは無く成り、この「自然の摂理」に違う有意識の中で滅亡するのです。
依って「思考の歪み」は「知恵」が引き起す所以なのです。
故に、この「有意識」が引き起こす「思考の歪み」をより小さくする為に、人は「ミトコンドリヤの意識」即ち「自然の条理」即ち「宗教の条理」に従おとするのです。
この行為が「古の社会」には強かったのです。そして、極端に云えば、それは「知恵の有意識の思考」=0であったと云えるのです。この事の次第は「上記数式論に委ねた社会」でもあったのです。

そして、この「数式論で得た意識」を再び「有意識の思考」(自然の知恵)として蘇らせて認識する事を繰り返したのです。
「天皇家」はこの時、思考を「無意識の域」に到達させて、そこでこの「自然の条理の戦略」に従ったのです。
「この時」とは、「弱者」と成り得た時であり、「ミトコンドリヤの無意識の思考」として、”「副軸」を造らねば成らない”とした時であります。
「ミトコンドリヤ」が進化した過程の様に、「弱者の知恵」が生まれたのです。
況や上記の数式論が働いたのです。
「この時」の判断は、つまり、「弱者」と成った時の「長の知恵」は、”「有意識の姿勢と行動」を「無意識の姿勢と行動」より優先させて見失う” と云う現象を起こさなかったのです。

現在から検証して上記の「意識の数式論」に成っていた事は、況や「思考に歪みの無い長」であった事を示し、その「自然の条理」を会得した「長」であった事を物語るのです。
一見して当時の情景を思い浮かべると、現在風に観ると、如何にも「宗教的行事」に頼っていた様に観られがちですが、決してそうでは無く、上記の「意識の数式論」に到達する為の「環境作りの無念無想の業」であったのです。極めて人間として自然の「業」であったのです。

(特記 筆者は「本来あるべき宗教の姿」(数式で表す宗教論)とは、その「発生」に付いては上記の「意識の数式論」であると考えているのです。そして、その「環境」に付いては「朝臣族の社会慣習の数式論」で起こり、その「会得の姿」に付いては「御告げの数式論」であると考えているのです。
この後者の「2つの数式論」が「意識の数式論」を裏付けていると考えているのです。)

「意識の数式論」=「朝臣族の社会慣習の数式論」+「御告げの数式論」

以上が奈良期から平安期までの言い遺して置きたい「先祖の姿論」なのです。

これ等の「賜姓族青木氏」の初期の構築(平安期)に関わった「8人の天皇」の「無意識と有意識」は、「ミトコンドリヤの遺伝子的な潜在的意思」に従ったのです。

(特記 この様に同じ環境に居た筈の「賜姓源氏」との「生き残りの違い」は、上記「3つの関係数式論」を、「国策氏」として護ったかの違いであったのです。「賜姓源氏」の中でも上記した「真人族、朝臣族の融合」で「賜姓族の青木氏」に融合して生き残り、「国策氏の中で生き残り戦略」を採った賜姓源氏も居たのです。
だから、現に悠久の歴史を得ても我々「青木氏関係族」はここに生存しているのです。
「枝葉よる子孫存続策」と「融合賜姓族の子孫存続策」の2流が「朝臣族」の中に存在した事に成ります。結局は上記する関係式論の厳しい環境におかれた「国策氏」が生き延びたのです。)

これ全て「上記数式論」即ち、「意識の数式論」=「朝臣族の社会慣習の数式論」+「御告げの数式論」の過程の結果なのです。
「賜姓族」は「上記数式論」に救われたのです。

(況や「青木氏家訓10訓」は特に「長の戒め」としての内容に成っているのもこの事から来ていると観ているのです。)

戻して、更にそれには次ぎの「無意識と有意識」に沿った策として、次ぎの様な戦略を構築したのです。
先ず、「八色の姓制」として、「皇族」を二つに分離して身を固めたのです。、
皇族の「主軸」を継承する「真人族」と、
「第4世族皇族」までの「朝臣族」を「副軸」
以上としたのです。
この「主軸と副軸」の「2軸」に依って「弱者」と成り得た末に於いてでも、「皇族の権威と強化」を目的として行動したのです。そして、更にはこの「朝臣族」の中にも「第3の本軸」(宗家・宗軸・賜姓族)を造ったのです。
この「主軸-副軸-本軸」の「3つの軸」を先ず構築したのです。

戦略1
その「第3の本軸」を「賜姓族」として、「子孫存続の補強策」の為に、王維継承の出来なかった「真人族」と、本軸と成らなかった「朝臣族」との「二つの族」を積極的に「賜姓族の跡目」に入れて「純血性」を高めたのです。
それが所謂、「本軸」の「賜姓族」であり、この「真人族」と「朝臣族」の「融合族」であるこの「賜姓族」を敢えて臣下させます。

戦略2
然し、此処で疑問があり、何もわざわざ「賜姓」だけで良い筈で、「臣下」させる必要性は本来は無い筈です。然し、「臣下」をさせたのです。
それは、”させるべく必然的な理由”が、上記の数式論の「ミトコンドリヤの意思」としてあったからです。
そして、それが「皇族の慣習」により「真人族」には成し得ない「子孫存続」のための「生き延びる力」(経済力と軍事力と政治力)を授ける理由があったからなのです。

更に「主軸」を護るように「副軸」の「本軸」の根拠地の「賜姓族地」を定めました。
この「賜姓族地」を中心に「19守護地」に配置したのです。

戦略3
そして「第6世族以下」を一般の「臣下族」(宿禰族)にして以東(坂東)に配置してその「主軸と副軸」の門構えを支える「土台仕組み」にしたのです。

この「3つの戦略」が大化期の「3人の天皇」により先ず構築されたのです。

・「5つの要素」の「経済的要素」
「賜姓族」の「姿勢と行動」
「主軸-副軸-本軸」の「3つの軸」と成った「皇族賜姓族」に取っては、「無意識のミトコンドリヤの意思」を示現するには、「経済的立場」を主体とした「姿勢と行動」が絶対に必要なのです。
ところが、この戦略が「皇族賜姓族」に取っては「最も厳しい戒律」なのです。
それは何かと云うと、「武力と利潤の追求」は「皇族関係族」には「禁じ手」だったのです。
その矛盾とも取れる「経済的戦略」でありながら、「本軸の賜姓族」には実行しなくては成らない「厳しい宿命」を及びていたのです。
ただ、仮に、この「禁じ手」の「経済力」を確保した「皇族としての力」だけでは「3つの発祥源」の責務を実行する勢力とは成り得ません。
そうなれば、「富裕の地」に「賜姓族」を定住させる必要性が出て来ます。
然し、どの様な「富裕の地」であるべきなのかと云う問題が出ます。
その問題を解決するには、上記する「3人の天皇」が考えた「無意識の意志」をより効果的に繁栄させられる地域であるべきで、”何処でも良い”と言う事には成りません。
この「富裕の地」であっても、現在が「富裕の地」であるべきなのか、これから新規に「富裕の地」にするべき地域でよいのかは検討を要する処です。

当初、「遷宮地85」の一つであった「吉備域」が、大化期に入り「強者の迫り来る地域」である事から危険であり、除外され事は必定であります。
この「吉備域」より以東の地で、「最近の地の富裕の近江」、「神宮の地の富裕の伊勢」、「中核の富裕の地の美濃」には、「賜姓族」を置く事には問題は無く規定の地であります。

とすると、他に戦略的にも「吉備域」に代わる「富裕の地」を定めて、そして、其処に「国難」とも成っていた余剰と成っている「帰化人」を投入してでも新たに作り出す必要に迫られます。
当然、新たな決められた「天領地の重要な地」なる事から、其処には「賜姓族の守護王」を配置する必要が起こります。
そして、新規の「富裕の地」から「経済力の根源」の「税の収入」を確保する事にならなければ成りません。さて、そこで新規の「富裕の地」に付いてどの様にして進めるかが問題です。(下記記述)
仮に、其処が新規の「富裕の地」に成し得たとして、然し、この新規の「富裕な地」の「税による経済力」だけでは困難で、「周囲の変化」(責務の遂行と勢力的な環境変化)に追随して行く事が何時かは限界が来る事は必定です。そして、現実には限界が来て行き詰まったのです。
それだけでは無く「光仁天皇」までの「5人の天皇」は、奈良期の「3人の天皇の初期の意思」を継承していたにも関らず、9人目の「桓武天皇」と10人目の「平城天皇」はこの「初期の意思の賜姓族青木氏による継承」を拒んだのです。
予想通りに「周囲の変化」が起こり「政治的環境の変化」(政治抗争)を来たしたのです。
それどころではなく、「律令国家建設」を理由に「8人の天皇の初期の意思」を宿命として果たしていた「力」の持った「賜姓族の親政族」を排除したのです。
更に、抗争に打ち勝った11人目の「嵯峨天皇」は、「8人の天皇の初期の意思」で築き上げた「国策氏」で「融合氏」で「副軸」の「賜姓族青木氏」を止めて、何と「源氏」を賜姓してしまったのです。
(青木氏は下俗する皇族者が名乗る氏として他に使用を禁じた)
ところが、その「賜姓源氏」が「8人の天皇の初期の意思」を、最早、継承せずに「荘園制の名義貸し」を利用して潤いを得て一人歩きしだしたのです。

厳しい環境の「意識の数式論」=「朝臣族の社会慣習の数式論」+「御告げの数式論」の中で「国策氏」として使命を果そうとする青木氏を横目に、賜姓源氏は「荘園制の名義貸しの潤い」の「楽な環境」を選択し、「朝臣族」としての「国策氏」の立場氏名を放棄したのです。
この後、この「楽な環境」を「生き残り策」として選択した「賜姓源氏」は11代続きますが、10代目の「円融天皇」は、これでは皇族は立ち行かんとして「8人の天皇の初期の意思」に立ち戻り、「賜姓源氏」とは別に「特別賜姓族」として藤原秀郷一門に「青木氏」を発祥させたのです。

(現実に前段で詳しく論じた様に、「阿多倍一門」は更に力を付け強者として以西九州域と以北陸奥域に自治を迫ります。)

前段でも論じた様に、この皇族外から発祥させた「特別賜姓族青木氏」(朝臣族に指定)に「皇族賜姓族青木氏」と同じ「身分、家柄、権利、官職」等の一切の条件を揃えて「賜姓族」を補完させる役目を与えたのです。つまり、当時の「8人の天皇の初期の意思」を「藤原母系族」に継承させたのです。
そして、遂には、この「2つの青木氏」の「融合血縁」を果させた事で、再び「皇族賜姓族」は蘇り「元の力」を取り戻したのです。

この時、「賜姓族の空白期間」の反省からの「税に頼る経済力」や、彼の「賜姓源氏」が失敗した「荘園制の利用」を踏襲するのではなく、「自らの力で切り開く為の経済力」の方法、即ち、「禁じ手」の「2足の草鞋策」の「商い」を「特別賜姓族の後押し」をバネに正式に決断し採用したのです。

そして、自らの体躯を整える為に「過剰な軍事力」を排除し、「特別賜姓族の抑止力」に頼ったのです。
当面の最低限の「自らの間接的防御力」を獲得する為に「賜姓族」は、「商いから出る経済力」を使って「強力なシンジケート」を網目の様に構築して、空白期間を経て生き残った「3つの賜姓族」を護ったのです。
これに因って「3人の天皇の初期の意思」と成る「与えられた宿命」(前段)を果す事ができる様に成ります。
この様に「賜姓族」に「経済力」をつけさせる事に依って上記の「戦略」は動き出したのです。
この上記の戦略は、この「賜姓族」が「自らの力で切り開く経済力」に依って裏打ちされているのであって、決して「軍事的な事」に依って裏打ちされる「戦略の本質」ではありませんでした。

前段で論じた様に、この事を「近江と美濃」以外の「賜姓族の3氏」は決して間違わなかったのです。
この「禁じ手」を決断する事で、厳しい環境の「意識の数式論」=「朝臣族の社会慣習の数式論」+「御告げの数式論」から開放されたのです。
決してこの「開放」とは「放棄した事」では無く、その「賜姓族」としての「厳しい環境の立場を保ちながらも、「商い」と云う「別の顔」を持つ事で大息を就ける様に成ったのです。
最早、これは「特別賜姓族の御蔭」の何ものでもありません。この「2つの青木氏」は「融合青木氏」をも持った「一身胴体」の青木氏と成り得たのです。
然し、室町末期までの生存競争が厳しい社会の中に於いて、決して「軍事力」は無視する事は不可能です。

(特記 賜姓源氏は荘園制を利用してこの軍事力に頼った。 「8人の天皇の初期の意思」は無視した。「朝臣族の賜姓族の役目と立場」を保全しなかった。「純血血縁」は「賜姓族」に「跡目」をいれたもののこれを軽視し「朝臣族の象徴と権威の保全」に集中させた。
選択された「近江と美濃」の「賜姓族」は「8人の天皇の初期の意思」を平安中期まで維持させたが平安末期には「賜姓源氏」と同じ立場を採った。
故に、上記の数式論に基づく「論理的矛盾」が起こり、「賜姓源氏」と「近江美濃の賜姓族」は共に滅亡した。)

そこで、「3家3流の賜姓族と特別賜姓族」は、「経済的」な事で裏打ちされた「軍事力」に取って変わる、前段でも詳しく論じた、上記の「2つの抑止力」を構築したのです。
これは「経済力」と「軍事力」の「2本建て戦力」ではなく、「生き延びる力」を「経済力」のみに絞って、より小さい弱体な「氏力」を集中させて効率を上げたのです。
然し、ここに問題が生まれたのです。
「皇族の朝臣族」が、”「自らの武力」も持たない”とする「皇族の慣習」の中で、「3家3流賜姓族」は「生き延びる手段」を「商い」に求めそれを全面に押し出したのです。
「皇族」と「商い」は「皇族社会の慣習」の中では決して寄り添う事の出来ない「真逆の生き方」で禁じ手であります。
恐らくは、その経緯は青木氏の資料・添書等から読み取れるものとして、この「商い」の「初期の段階」では、当初は「米や地元の産物の税(和紙)」を単純に裁く事から収入を確保していたのを、先ずその「税」をより高く裁く事に舵を切ったと考えられます。
次ぎにその「余剰利益」で「自ら産物」の「殖産」(和紙)にも廻して手掛け、遂には、これを一人立ちさせて、別の顔として「店舗を持つ商い」に発展させたのです。
ところがこの「店舗」を持つだけでは充分ではなく、より「賜姓族」を強化安定させるには「国策氏」としては不足であり、これを全国各地に展開する必要があります。
それには「大量で安全な輸送搬送」が求められ、これに「対応する組織」を確立する事が必然的に求められます。
それが「利益の効率的な運用と分配」であり、それを各地に溢れ出る「荘園制の戦い」に因って敗退し衰退し滅亡する「敗走氏」に援護して自立させ、その役目を与え契約して「伊勢-信濃シンジケート」を組織したのです。(明治九年まで続いた伊勢-信濃域一帯に起った騒乱にも活躍した事が判っている)

これが「3家3流賜姓族」の「強力な抑止力」とも成り、遠距離の「大量で安全な輸送搬送」を確実にし可能にしたのです。
この時、「3家3流の皇族賜姓族」を援護する「特別賜姓族の抑止力」も加わり、「2つの抑止力」が有機的に「2つの賜姓族青木氏」を保護したのです。

更には、これ等の態勢を維持する為には「大量の生産体制」を確立する必要が出て、他の「4家4流の賜姓族」に「殖産-製造-販売」を一手に手掛ける「古代和紙」を「本軸の伊勢青木氏」は完全始動したのです。(1025年頃)
然し、広域の「殖産-製造-販売」には危険が伴ないます。これを「広域性を持つ抑止力」が保護し安定した「広域体制」が保たれる事に成ったのです。
そして、遂には、「堺港」と「摂津港」に店舗を儲け「瀬戸内の讃岐青木氏の大廻船問屋」と連携して「アジア貿易」を展開したのです。
結局は、最終は「総合商社」(1125年頃)と成ったのです。
平安初期の806年頃には衰退し、段階を於いて経済力を主体に徐々に盛り返し、1025年頃から勢いを増し、1125年頃には「広域商い」を確立させたのです。
その証拠に、室町末期には「商いの主」と「守護の主」と別人にしていた「伊勢青木氏の記録」が遺されているのです。

(特記 「殖産和紙の技術の伝授」を授けた事も含めて「信濃青木氏」も「伊勢青木氏」との血縁関係から同じであったと考えられる。)

厳しい環境の「意識の数式論」=「朝臣族の社会慣習の数式論」+「御告げの数式論」を持つこの「賜姓族」は上記する経緯を辿ってこの関係式論を淘汰したのです。

そこで、この「商業基盤」を採用した時にどの様な事が起っていたのかが疑問です。
上記の戦略を発案した「3人の天皇の意思」は「賜姓族」のこの「商業基盤策」を驚天動地で、考えても観なかったのではないかと観られ、普通であるならば「3人の天皇」は皇族の禁じ手である限り、立場上からも猛反対したと考えられます。
ところがその後、継承した「5人の天皇」は「時代性の変化」に伴ないこれを「賜姓族の立場」と「商いの立場」とに2分割する事で黙認に近い形で容認したと見られます。

前段で論じた様に、その後の資料から読み取れる「正式な商業基盤」としては1025年頃に、そして 「豪商」としては1125年頃と成っているのです。
この状態が室町末期まで続き、その後はある範囲に於いて公にしていた事が読み取れます。

(参考 平安末期の「以仁王の乱」(1180年)の敗退時には主謀者の源頼政と仲綱は、経済力で裏打ちされ跡目に入った「京綱の伊勢青木氏」を頼り逃亡しますが、遂に力尽きて宇治の平等院で果てます。
この時の「伊勢青木氏」は隣りの「伊賀の平家の里」とも500年もの間「古代和紙の生産」で親交を深めていた事もあり、「経済力と抑止力」からも手が出せなかったと考えられます。通説は信じ難く青木氏から観ると、「逃亡の方向」と「道筋」から判断すると此処に逃げ込む戦略であったのです。
もし逃げ込んだとすると、真人族との純血融合族の副軸として存在する「3家3流賜姓族」を敵に回す事に成り逆賊と成りますし、そうなると「京平族」も一族の断絶も含めて全ての関係を放棄せざるを得なくなり、且つ、「特別賜姓族青木」(藤原秀郷一門)も相手にしなくては成らなくなり、「源平の戦い」から「国家騒乱」の様相を呈する事態とも成りかねません。
まして、「伊勢や信濃の賜姓族」に対する「不入不倫の権」や「副軸・主軸の立場」も無視する事に成り、結局は「京平族」であっても下手をすると「逆族の汚名」を受けて「朝廷との戦い」を覚悟する事に成ります。
そうなれば、当然に「民の賛同」も得られませんし、両極の武家の「源平の戦い」から意味の異なる事と成り、到底に伊勢を攻める事はあり得ません。
この時、「3家3流賜姓族と特別賜姓族」の青木氏は、既に同じ「商業戦略」(宗貿易)を採る「伊賀和紙」で繋がる「500年の隣人 平清盛」に匹敵する位の「有形無形の総合力」を持っていたと考えられるのです。
この時、前段でも論じた様に、「平清盛」は「有綱と宗綱と高綱:[日向青木氏]」の「伊勢青木氏の助命嘆願」に応じたのですが、この史実からも「賜姓族の力」がどれほどのものであったかは理解できますし、どれほどの親交を維持していたかも判り、これは(助命に応じた事)内心で「国家騒乱」を避けたい気持ちがあった事をも示す行為でもあります。
因って、「平清盛」は「以仁王の乱」で、 ”頼政親子を伊勢に入れない事”を戦略の最大のテーマであった筈なのです。この段階で「伊勢と信濃と甲斐の賜姓族」は「武力を背景とする賜姓族の総合力」で無かった事が攻める事が出来ない大きな理由でもあった筈です。

(参考 この当時の武家の慣習として、「武」に対して「武」の精神が「武家の法度」であったのです。)

現に「近江と美濃の賜姓族」は武力を中心とする「賜姓源氏」と同じ「生きる態勢」を敷いていた事から”「武は武」の定め”の理屈から「平清盛」は攻め滅ぼす事が出来たのです。
この様な「伊勢-信濃-甲斐の皇族朝臣族の政治的スタンス」が「生き残りの秘訣」であったのです。
この「平清盛との関係」から観ても既に「商いは公」に成っていたと考えられます。

(特記 むしろ、筆者は、皮肉にも「賜姓族青木氏」に代わって「桓武天皇」の「皇族外賜姓族」に成った「たいら族」が「蘇った隣人」のこの「青木氏の生き様」を見て、「清盛の商いの宗貿易」はそれを参考にしたのではないかと見ているのです。「敵視」ではなくむしろ「隣人視」であったと観ているのです。
当然に、「賜姓族青木氏」に対しても当然な事として、乱の首魁の頼政親子に対しても伊勢青木氏との親族であるとして「敵視」<「隣人視」と観ていた可能性が強いと考えているのです。
青木氏側からの経緯から観ると、通説とはどうしても異なるのです。)

この時、「平清盛」は記録から「藤原摂関家」より「商い」を同じく揶揄された事が記録に遺されているのです。
然し、同じ北家筋の秀郷一門は一方では「特別賜姓族青木氏」を通じて「2足の草鞋策」を公然と敷いていたのです。

(「摂関家」として「荘園制」を最大に利用していた筆頭であったが「商い」の出来ない立場を僻み悔しさの発露として「揶揄」したと観られる。)

その証拠として、「信長との戦い」(丸山城の戦い等)で勝利した以降は、引き継いだ豊臣秀吉も「伊勢攻め」ではこの事を知って、「材木の自らの伐採と調達」の事、「蒲生氏郷の配置と差配」の事から観て、この時期には為政者には「青木氏の商い」は、「既成の事実」(背後関係)と成っていた事を物語ります。
江戸期には、家康が紀州藩に宣頼を配置し、松阪で伊勢青木氏と面会した時の対応、吉宗幼少の伊勢での養育親に成っていた事、請われて吉宗の「享保の改革の立役者」と成っていた事、同じ時期に請われて紀州藩の「勘定奉行として財政」を立て直した事、更に請われて「幕末の紀州藩の財政」を立て直し役を「商人の青木氏」として演じた史実から観ても、幕末まで「2本立て戦略」は続いていた事が判ります。

(特記 明治9年までの「伊勢-信濃騒動」にも背後から縁者の伊勢加納氏と共に「商人」として「経済的支援」をしていた事が記録として遺されている。)

この様に詳細は前段で論じた通りですが、この「経済的基盤戦略」は、上記する「賜姓族」として務めを果たす為に、その根幹と成す「融合血縁の子孫存続策」の主軸に置いていた事を物語ります。

・「5つの要素」の「政治的要素」
次ぎに「政治的」には、以西と以東のバランスの取れた状態を作り出す事が必要です。そして、その「政治力」が朝廷との間に間断無く届くようにしなければ成りません。その為には余り距離的に離れず一定の距離の中に配置する必要があります。そして上記する「経済的基盤戦略」を確保した上でこの「5つの賜姓族地」を使って「親政政治」を敷き、勢いの強い「帰化人の以西勢力」に対抗する「有機的な政治体制」を構築する必要が出てきます。
当然にこれ等の「賜姓族」にはそれなりの「戦略的」にも「経済的」にも裏打ちされた「武力」或いは「抑止力」を伴わせなくては成りません。
「5つの賜姓族」の中でも一つでもこの力に掛ける「賜姓族」であっては対抗する「有機的な政治力」を発揮させる事は不可能です。
その為にも「伊勢賜姓族」を中心として指揮を統一させ「5つの賜姓族地」を統括する事が何よりの「戦略的政治力」を発揮させる事に成ります。
これには是非にも「5つの賜姓族間の血縁関係」を構築して「血縁による絆」を高める事が「必修の条件」と成ります。
「単なる枝葉を広げる血縁関係」だけでは無く「政治的に統制された血縁関係」が必要です。
それは「融合血縁」(純血性保持)による「氏家の構築」にあるべきであります。
ただ「枝葉末孫」を多く蔓延らせるものでは無く、「5つの賜姓族」の中に「強力な血縁の芯」を創造する事が必要です。
この「経済的基盤戦略」に裏打ちされた「政治力」は、以西勢力とは「朝臣族の利」を生かした「真逆の政治戦略」と成り、彼等に対抗する力を確保する事が出来て「潰されない対抗手段」を構築出来るのです。

(当然に彼等から観れば図りがたい「抑止力」を背後に散ら付かす事で「政治力」はより効果を発揮しますが、「賜姓族としての政治力」だけでは効果は期待できません。)

200万人の職能集団を抱えた勢力に対抗するには、「特別賜姓族の抑止力」を加えたとしても「賜姓族側」の「枝葉末孫策」で彼等に対抗する事は、天文学的な枝葉の抹消子孫を拡大させる事と成り不可能ですし、その為には必然的に上記の「経済力」が莫大に必要と成ります。到底太刀打ちできません。
その「経済力」を担保するには、まして「抑止力」ではなく「正規の軍事力」が必要と成り、その為に限られた領地を無理に拡大させなければ成らなくなります。この結果として「経済力-軍事力-政治力」の「無限の輪廻」が起こります。
これはまさしく「彼等の戦略」と同じです。「同じ戦略」を取れば弱者が滅びるはこの世の条理です。
これはあり得ない選択です。
既に、前段で論じた様に、彼等はこの「3つの力」と「進んだ職能能力」と「200万の武力」を持っているのです。今新たに発祥した「賜姓族」では到底対抗する事は論理的にも物理的にも明らかに不可能です。
「枝葉末孫策」は論外の対抗手段です。

それには、先ず、上記する天皇の「賜姓族戦略」を造り、次ぎにそれを実行する「経済力」を付け、更にそれを裏打ちさせる「抑止力」を背景にし、最後に「親政族の政治力」で、「祖先神の守護神」を確立させて対抗する一翼を構築する必要があるのです。
これ以外の戦略は最早「賜姓族」には与えられていないのです。
この「対抗手段」の為にはこの「過程の順位と順序」を決して違えては成らないのです。
そして、これを実行するには一族一門が「結束する前提条件」があり、それが「ミトコンドリヤの意思」に統一させる為にも目的以前の問題として「純血血縁」が必要であったのです。

決して「皇族賜姓族の身分」や「皇族としての象徴」だけを確保する為の「純血手段」ではなかったのです。
必然的に「賜姓族としてその役目」を果すべく逃れ得ない「生き延びる為の宿命的な純血手段」の道筋であったのです。(家訓の論調でも判る)

前段でも論じた様に、彼等が支配する「200万人の職能集団」と「32/66国の無戦支配地の在来民の賛同」に対抗する何れの策もない筈です。
あるとすると「朝臣族」に課せられたその打つ手はただ一点に絞られます。
それは「天皇家」とは別の位置に「純血性」を保った「同族の結束力」を保持出来得る密度の高い「5つの血縁融合集団」を構築する事にあります。それはあくまでも「統制の取れた政治的行為」でその前提は「純血の血縁集団」であるべきであります。
この為には「朝臣族の族間範囲」では限界があり、返って「同族血縁の弊害」による「弱体化」が起る事にも成り得ます。
”では、どうすれば良いのか”です。それは ”「全ての真人族」をも巻き込んだ「血縁集団」”にするべきです。「賜姓族」を「一本の血縁芯」としての「骨格」を作り、それに「肉」を付ける体格の「血縁族」を造り上げればよい事に成ります。
これには「賜姓族の跡目」には「真人族と朝臣族」から「より優秀な能力の持った嗣子」を据える事が必要と成ります。
「賜姓族の子供」である事に関り無く「真人族と朝臣族」から「賜姓族の跡目」を据えて行く事が必要です。これにより「より高い純血性」が保たれ「天皇家」に代わるもう一つの「准天皇家」(副軸論)が構築され、それに依って「象徴としての権威と尊厳の敬い」を民から獲得する事が可能に成ります。
この事で「帰化人の民からの賛同」に対抗する事が可能と成ります。先ずは賜姓族も民からの賛同」を獲得する事に成り、戦略的な一端は解決する事が出来ます。
そして、その「象徴としての権威と尊厳の敬い」は、「民の心の拠り所」として「皇祖神の子神」の「祖先新-神明社」が裏打ちされるのです。
「祖先神-神明社」は政治的には彼等に対抗する唯一の戦略的な手段であったのです。
つまりは、これは、強者側から「技能の享受」を担保として「帰化人」は「民からの賛同」と獲得し、弱者の賜姓族側は「民の心の拠り所」としての「祖先新-神明社」との「2つの均等な競合」と成るのです。

これに加えて「賜姓族」は、「技能の享受」に対抗する為に「物造りの神」の「豊受大神宮」を据えて「民の願い」を一点に集めたのです。
これにより彼等との政治的な勢力関係が先ず維持出来るのです。

・「5つの要素」の「地理的要素」
話を原点に戻して、戦略的、経済的、政治的、軍事的な上記の事柄からは、遷宮地の「吉備と飛鳥」の「旧来の古の地」ではこの事は決して成し得ません。
絶対的に「新規の地」である必要に迫られます。
「旧来の古の地」でないとすると、その「地理的条件」には、この「新規の地」であるべきとして、「吉備と飛鳥」に代わる「信濃と甲斐」と云う「中部山間部」の「未開の地」を選んだのです。
然し、わざわざ「未開の山間部の地」にしなくても「美濃」に続く東の「開発された沿岸部の坂東」の地でも成し得るのではないかと考えられます。
然し、「坂東の地」は既に「皇族第6世族以下の臣下族(ひら族)」の定住地であります。
普通に考えれば、坂東域は「皇族関係族」として有機的に働く筈です。
この様に観れば「中部山間部」の「未開の地」の策は一見してかなり乱暴であるかの様に観えますが、実はそうではないのです。
そもそも、この「沿岸部坂東地」には「阿多倍の職能集団」が次ぎの様な集団が配置されています。
「磯部、海部」の海産物に従事する集団
「機部、鍛師部、金作部」の生産機械の製作に従事する集団、
「服部、織部、布部、麻績部」の織物に従事する集団
「秦部、絹部、桑部」の織物の殖産農業に従事する集団
(鍛冶部は北九州、播磨安芸域、紀州北にも分散)

以上の職能集団が関西と九州から移設して配置しました。(これは室町末期頃の「姓氏」の発祥から観て選択しました)
「海部」などは関西以西の瀬戸内地域が発祥地域としているのですが、この「海部」の一部をこの坂東地域に、「瀬戸内の海産物適地」からわざわざ「磯部」と合せて配置したのではないかと考えられます。

(特記 「海部」は前段でも論じた様に、「純友の乱」でも最大の職能集団としての力を持っていたし、姓氏に成ったのも最初はこの「海部族」でした。この事から観ても当時でもこの海部族は力を持っていてその職能集団の力をある程度削ぐ戦略もあった事が伺えます。)

この「4つの職能集団」が坂東域に配置されている事から観て、ある範囲に限定した関係集団を配置したのであって、必要以上にこの集団を移すとこれ等の集団も力を持ち、且つ、この集団を使って坂東の「第6世族臣下族」が力を付け過ぎる事も考えられるますし、「後漢の民」である限り彼等の首魁である阿多倍一門が再び最終的に支配する事も有り得ます。
どの様に観ても、「3人の天皇の初期の意思の戦略」を実現するにはこの坂東域の地は明らかに「不適合地」であります。

(最終的には現実に平安末期に首魁の一族の桓武平氏「たいら族」がここに国司として赴任して支配した。第6世族以下の皇族を祖とする「ひら族」と桓武平氏の「賜姓たいら族」が共存した地域。この事が通説では同族として誤解を招いている。)

ここに「賜姓族」を配置したとしても、阿多倍一門は兎も角も「第6世族臣下族」との軋轢を発生させる事にも成ります。
この「沿岸部坂東地」は関東からの美濃域までを通して「東海山道」(古代の街道は信濃-甲斐より接続山間部にあった)として主幹道路であります。
この地に「第4世族 朝臣族」と「第6世族以降のひら族」の2つの皇族方が存在する事は、「3人の天皇の初期の意思」を構築する事では、「第6世族」が排除された形に成り、反発して不可能であります。
況してや、「8人の天皇」が累代するに従い「ひら族」として皇族より切り捨てた「賜姓なしの臣下族」であります。”共に力を合わせよ”と命を下しても成り立つ話ではありません。
そうなると、関東は都より遠阻域でもあり、「3人の天皇の初期の意思」の実現は困難であり、論外域となります。
そうなれば「沿岸部の坂東域」と「関東域を結ぶ東海山道」より「北域の地域」が選択地となり、且つ、「阿多倍一族一門」や「既成の臣下族」の柵(しがらみ)の無い「中部山間部の未開の地」の「新規の地の選択」と云う事に成ります。

更に、「中部山間部の未開の地」には、この「3人の天皇の時代」は、都に通ずる主要な幹線道路が無く、「関東地域」はもとより「広域陸奥域」からの「東山道」に繋ぐこの「東海山道」か「北陸道」しかなく、それ故に「未開の地」であったのです。
元より「中部山間域」として果実などの農産物がよく育つ農業域帯でありながらも、幹線道路の不通が理由で未開で放置されていた地域でもあったのです。
この「中部山間部の未開の地」に朝廷は次ぎの様な職能集団を配置したのです。
馬部、鞍造部  山間部を利用した放牧飼育に従事する集団
山部、鵜飼部  山間部の山川の産物加工に従事する集団
弓部、矢作部  山間部の材木を利用する武器作り等に従事する集団
工部、石作部  山間部の石や材木を加工し家具生産に従事する集団
以上のような職能集団を関西以西から移動させて配置させたのです。

(以上、室町末期頃からの「家紋分類の分析」と「姓氏の地理的な分析」と「地理的な荘園分類」から判別分類)

この配置の事でも判る様に「中部山間部の未開の地」に適した職能集団を配置しています。
これは明らかにある「政治的で地理的な戦略」に基づき計画的に配置した事であって、其処に「沿岸部坂東地」と比較してどちらが適切かは「賜姓族」を配置する事でも合せて検討された筈です。
この検討の結果、「中部山間部の未開の地」に「賜姓族」を配置する場合は、これらの「8つの職能集団」を関西以西から移設するのが適切であると考えたのです。
しかし、ところがこの「職能集団の配置」に問題があるのです。
それはこの「中部山間部の未開の地」には生き延びて行くには欠けているものがあるのです。
それは「海の幸」であり「ミネラル」であります。海で生息していた「ミトコンドリヤの環境」であります。海から上陸した「人族」に取っては欠かせない「生命の源」です。
この「ミネラル」を獲得するには最も近接域としての「沿岸部坂東地の海産物」が必要に成ります。
故に「磯部と海部」が配置されているのです。

(特に「海部」はこの意味でも後から瀬戸内から補強するために移設した事が判ります。
「磯部」だけでは「沿岸部坂東地」の供給量しかなく「中部山間部の命」を維持させるだけの生産量に届かなかったと観られます。
「磯部」は海浜域、「海部」は海上域を主とする集団であった。「海部」は瀬戸内が発祥地)

この様に考察すると、「沿岸部坂東地」の「4つの集団 12部」と「中部山間部未開の地」の「4つの集団 8部」には生きて行く為の補完関係が出来ている事が判ります。
明らかに「政治的、地理的な恣意的に組まれた戦略」で「生きる事」のみならず「経済関係」が補完されている事なのです。
この補完関係を構築させて有望な「未開の地」を切り開き、此処を「天領地」として造り上げ、「柵の無い地域」にし、「賜姓族」を配置しようと決めたのです。
そして、これ等の補完関係を円滑にする為に、陸奥から近江までの「東山道」を切り開いたのです。
明らかに闇雲に決めた事では無い事が判ります。
「強力な賜姓族地」を構築しようとした事が明確に判ります。

(参考 初期の「東山道」:陸奥-羽前-羽後-陸中-陸前-磐城-岩代-下野-上野-「信濃-甲斐-飛騨-美濃-伊勢-近江」であり、「下野-上野」から「東海山道」に繋がる街道を「下野-上野」から新設の「信濃-甲斐-飛騨」ラインと伊勢街道の「美濃-伊勢-近江」ラインを繋いだ。)

この事から、これでも「賜姓族」が「3人の天皇の初期の意思」を実現させるには未だ不足であったとされ、「一つ別の策」が賜姓族独自で構築された事が判ります。
それは上記でも前段でも何度も論じた「伊勢青木氏」が殖産開発し、近江、美濃、信濃、甲斐に「伊賀の古代和紙」を移殖した事であります。
確かにこの職種は「沿岸部坂東地」の「4つの集団」と「中部山間部未開の地」の「4つの集団」にはありません。
これがより経済的に強くした事になるのです。「文化のパロメータ」と云われる「紙」は時代に合致していたのです。恐らくはこの「紙」を扱う事で、 ”「賜姓族」は「軍事力」に頼らない「強力な独自の力」を持つ事が出来る”と読んだ計画であったのです。
それを上記した様に、この「和紙」で、更に「より強大な経済力」を付ける事の為には、”「商い」が必要だ”と判断し、「賜姓族」は次第に恣意的に「皇族の禁じ手」でありながらも「殖産-商いの方向」に導いたのです。(後述)

そもそも「皇族賜姓族」としては本来「商い」は「間逆の立場」にあり、当時としては「皇族」(朝臣族」)という「戒律の厳しい環境」の中では、最高の「禁じ手の慣習」であったのです。
「権威と権力」を支える「氏の生きる為の絶対力」の「軍事力」さえも「完全な禁じ手の慣習」にあったのですから、最早、「商い」は「民の生業」であり論外であったのです。
それなのに次第に「氏族の力」に組み入れて行く「副軸の賜姓族」に対して激しい揶揄が飛んだ筈です。
”何の為の副軸か! 恥知らずめ!”と揶揄された筈です。

(「平清盛」でさえも「揶揄」は摂関家に限らず身内からも飛んだのです。)

この時、「賜姓族」は「四面楚歌」の苦しい環境にあった事は間違いなく、故に、遂には最終は「近江と美濃」はこの環境に絶えられず脱落したと考えられます。

(5家5流の中でこの「2つの賜姓族」には周囲に「複数の皇族関係族」が存在した事もあり、その軋轢は絶え難いものであった事は否めません。「伊勢」は「不入不倫の権」で守られ古来より室町中期まで「皇祖神 神宮」のお膝元と云う事かもら青木氏外の皇族関係族及び他氏の豪族は存在し得ない土地柄です。
「信濃」と「甲斐」は前記の通り環境下の「新規の地」であり、これまた揶揄される皇族関係者や公家の存在し難い土地柄であった。)

「賜姓族」に取っては「3人の天皇の初期の意思」況や「弱者に課せられた生き延びる為の戦略」としては絶対に避けられない「生業」の「商い」であったのです。
それには「賜姓族」が一氏では無理であり、一族一門の結集結束しての所業でなければ成りません。
それに耐えられる「唯一の手段」は「思考と意思」「姿勢と行動」を「血」と云う手段で根本から統一させて「血筋」を守り維持する事が「絶対条件」であり、況や、その「血」を更に「純血」まで持ち上げて血縁すると云う「二重の仕組み」なのであります。
「男系の純血」と「女系の皇族血縁」で賜姓族を小さく濃く固めたのです。

「弱者の戦略」=「朝臣族・真人族」+「副軸の賜姓族]=「純血血縁」
「純血血縁」=「経済力」+「抑止力」=「商い」
「抑止力」≠「軍事力」
「経済力の商い」≠「皇族の戒律・慣習」
「弱者の戦略」=「3人の天皇の初期の意思」=「副軸の賜姓族」=「土壌の地・信濃甲斐」

以上の5つの絶対的な逃れ得ない数式論が働くのです。

この一見矛盾する様な数式論を叶えるには、その「土壌の地(地理)」を無視する事は出来ないのです。
その「土壌の地」はこの”「信濃と甲斐」意外には無い”と云う事を意味しているのです。
「3人の天皇」はこの数式論が成り立つ施策を次から次えと打ち出し構築して行ったのです。
その一つが前段の「日本海側3県」の「退避地の設定」や「8部の職能集団の配置」や「不入不倫の権」でもあったのです。

・「5つの要素」の「宗教的要素」
さて、厄介なのは”「宗教的」にはどうであるか”です。
これはそもそも「宗教」は「民・氏族の心」に通ずるものであり、「思考原理=思想」に通ずるものであります。
「心、思考」である限り、それを違えての「賜姓族の配置」は根本的に危険であり、上記で論じた事が全ての「環境条件」が適切で整っていたとしても「3人の天皇の初期の意思」は叶うものではありません。
政治的にこれを抑圧しても古来より「強い抑圧」は「民・氏族の心」の反発を招き、遂には「政治的な反乱」が引き起こされるのが条理で、この例外は無いのです。
為政者は「賜姓族」を配置して最も避けなければ成らない事は「民・氏族の心の抑圧」なのです。
常に、「民・氏族の心」=「賜姓族の配置」=「3人の天皇の初期の意思」 の数式論であらねば成らないのです。

前段でも論じた様に、日本は古来より「自然神」を始めとして「5つの守護神」の考え方が存在し、それがある地域を限定する様に、「宗教(「心、思考」)」に対して「地理的要素」が働いていたのです。
「人族」はミトコンドリヤの時代から「心、思考、意思」を同じくするもの同士が集う「屯の習性」を持っています。それが「民・氏族」であり、その「民・氏族」には「民・氏族」=「宗教」の数式論が成り立つのです。
これは「宗教」として成立したのは、「5つの守護神」の発祥以前の「弥生信仰」の時期から始まっているのです。
(筆者は「民・氏族」=「宗教」=「屯」(たむろ)が前提に成っていると考えています。)

この「屯」が成立した頃の「弥生信仰」は、未だ「氏族」の無い頃で、その頃の「民」の「心、思考、意思」に反して(「食」に原因する「宗教手段の占術」が主体)、離反した為に(100年周期の異常気象で食料不足)先ずは「民の信頼」を失います。(占術は当らなかった)
そして、結局はそこに新たに発祥したこの「5つの守護神」の台頭で、更に「民の信頼」を失い、その為に「5つの守護神」の根源の「自然神」の「鬼道信仰」に取って代わられたのです。
この「弥生信仰」が排除された事を考慮しても、「賜姓族」で「皇族」と云えど「屯」を前提とする以上は「異質の信仰」の中には本来は存在し得ないのです。
つまり、「民・氏族」=「宗教」(占術)=(「心、思考、意思」)=「屯」の数式論が成立しない環境の中以外には「賜姓族の配置」はあり得ないのです。

この現象期は、即ち、「弥生信仰の衰退期」は「7つの民族の融合過程」の中で起ったのです。
「7つの民族」が融合するには「上記する数式論の環境」のこの過程を経る事が必要であったのです。
その為には前段でも論じた様に、「3人の天皇の無意識の意思」はこの「過程」を読み取った上で、「皇祖神の子神の祖先神-神明社」に「最終の形」を導こうとしたのです。

そもそも、一つの国に「5つの守護神」の考え方が存在する事は「国乱」の元であり、その為には先ず、「初期段階」として、否定する事から入るのではなく、先ずは「5つの守護神」を認めて上で、その「5つの守護神」の頂上に「皇祖神」を定め、それを推し進めるべく役割として「子神」の「祖先神」を導いたのです。
そして、何時しか「皇祖神-祖先神-神明社」が「全体の守護神」に代わる事を期待したのです。
然し、当初は「弥生信仰」に変わる「鬼道信仰」がこの役割を荷っていたのですが、この「鬼道信仰」を「皇祖神」の基本に据える事で排除せずに存在させたのです。
その上で、「祖先神-神明社」に主体を置き換えて行ったのです。

(特記 「鬼道信仰の発祥地」北九州域には「神祇信仰」の「八幡信仰の原型」が生まれた)

然し、”主体を置き換えて行く” としても「鬼道信仰」を「皇祖神」に据えている限り、立場上「置き換え」は「天皇の権威」では成し得ず、且つ、命ずる事は出来ず、その「天皇」に代わり得る「氏族」にしなければ「他の守護神と民・氏族」は納得出来るものではあり得ません。
それが、前記する「主軸の天皇」に代わって「賜姓族」を「天皇の副軸」にしてこの役目を与えたのです。
この様に「副軸」は「賜姓族」に取って「必須の必要条件」であったのです。
特記すべきは、 この「副軸」を強くする為に「朝臣族や真人族」を「賜姓族の跡目」に入れて「純血性」を保持させ、同族で「芯」の周りを固めたのです。
この事が「重要な要素」なのであって、それを「純血」と云う手段で「主軸」に違わない「副軸」を構築したのです。
然し、「役目」と云えど「普通の役目」ではありません。その役目は「国の存続」「国の根幹」を成す役目なのです。この役目の失敗は「国の混乱と滅亡」に関わる事に成るのです。
この逃れ得ない「宿命の役目」を担った「賜姓族」であったのです。
この「宿命の役目」を担った「賜姓族」が「弱者の戦略」と「宗教」の上記の数式論の中で生き延びて行かねば成らないのです。
「祖先神-神明社」の「建立の責務」と共に生きて行かねば成らないのです。
それの「行動源」(エネルギー源)と成るのが「絶対禁じ手」の究極「商いの活動」と成るのですから、実に難しい生き方なのであって、まして「宿命の役目」=「賜姓族」=「祖先神-神明社」≠「商い」の矛盾点を持っているのです。(「賜姓族」≠「軍事力」)
果たして、「他の守護神と民」は「天皇の意思」であったとしても、この有り得ない「矛盾点」を許す事ができるでしょうか。普通であれば決して出来ない筈です。
つまり、「主軸-副軸としての象徴感」が消失するのです。ところが、あな不思議に、然し、許したのです。
「賜姓族」に合っては成らない「矛盾」を許したのは、”それは一体、何故なのでしょうか。”

「民の賛同と許容」
「賜姓族」が「祖先神-神明社」の務めを果す時、必ず行っていた事があります。
それは前段でも論じた様に、「皇祖神」の「天照大神」と「豊受大神」を分霊祭祀した事にあります。
「祖先神-神明社の建立祭祀」の中心にこの「2つの大神宮の分霊祭祀」を据えたのです。
決して「祖先神-神明社」だけの「単独の建立祭祀」では無かったのです。
恐らく、「単独の建立祭祀」では「民の賛同と許容」は得られなかった筈です。

(前段で論じた様に、「大神宮」24 「皇大神宮」17を「566社の核」として据えたのです。)

上記の懸念は、「486社の核」に据えたからと云って許される条件ではありえません。
「民・氏族の心」=「賜姓族の配置」=「3人の天皇の初期の意思」は、「天照大神」の「分霊祭祀」(17)で払拭されますが、中でもこの「民の賛同と許容」の「誘引の基」と成った問題は「豊受大神」を建立した事なのです。
それは、前段でも論じた様に、そもそも「豊受大神」(24)は「物造りの神」であります。
「物を造る」は、「物を造って得られる利得」に繋がります。
「物を造る事」に依ってそれを売り裁き、「生活の利得」即ち「食」を得るのです。
「物」を造って売り裁か無ければ造る事の意味は半減します。
「自給自足」でない限りは「物を造る」は「物を売る」を前提としています。
「物を売る」や「利得」は現代感覚では「金銭感覚」を想起しますが、決してそうでは無く金銭を主体とした「貨幣流通期」までの「平安末期」までは「物」=「食」を意味した社会であったのです。
「縄文時代の自給自足の社会」は既に通り過ぎて「弥生時代」も過ぎているのです。

既に、「後漢の民」(645前後頃)が職能を持ち込んだ時期から加速して「流通社会」が謳歌し始めたのです。つまり、「部制度の社会」が構築されていたのです。
この「部制度」とは前段でも論じた様に、「自由市場経済」の前段形式で、「職能集団の部」に依って生産された品は、一度、「税」として「朝廷」或いは「荘園主」に具納し、「税」の必要分を取り除いた上で、残りを市場に放出し物々交換を主体とした一部で換金する仕組みであり、間接的な市場経済であったのです。

「物を造る」=「売り裁く」=「商い」の循環が働くから「利得」(食:御饌 ”ミケ” と呼称されていた)が得られるのです。
「豊受大神の祭祀」=「物を造る→売り裁く→商いの循環]

以上の数式論が働きます。

ところが、この数式論だけでは未だ「民の許容と賛同」を獲得する事には成らないのです。
そもそも、この時代の社会感覚の「利得」は、「市場経済」と「貨幣経済」で無かった事から、全て「食の感覚」に通じて強く、その事を表す「御饌:ミケ」の言葉が「古代語」としてあったくらいなのです。
(民の神は「ミケの神」「食の神」が主体であった。)
現在では消えているが平安末期までは使われていて「万葉集」にも「感謝の意味」を含む「日常用語」として出てくるのです。
況や、当然に奈良期からはこの「御饌:ミケ」を祭祀する「古代神」があったのです。
そして、「豊受大神の発想」の根幹はこの「古代神」にあったのです。
それが「豊受大神」の「基神」と成ったのです。

「民・氏族」はこの上記の数式論の中に生活していたのです。だからと言って、”「賜姓族の商い」は認めない”はあり得ません。それは「皇族」に課せられた「戒律・慣習」の事であって、「賜姓族」とする限りは「公」に認める事は憚れる事であります。
それが、「民・氏族」が期待する「物造りの神」の「豊受大神」を祭祀する責務を果す為にあるとするならば、むしろ「民・氏族」に取っては「歓迎するべき行為」である筈です。
「民」にとっては ”「御饌:ミケ」を祭祀する「古代神」”の否定は不可能である筈です。

従って、結局は、”「揶揄」するのは、出来るのは「公家・摂関家」だけ”という事であります。
従って、その「揶揄」は何時までも続く事は無かったと考えられます。
何故ならば、北家筋で最も勢力と経済力を保持していたのは「秀郷一門」の方で、その「第2の宗家」である「特別賜姓族青木氏」が「皇族賜姓族」と共に「2足の草鞋策」を推進しているのです。
況して、その「牽引役」は「伊勢の特別賜姓族の青木氏」なのです。
そして、その「権威」は上記する様に「副軸」として位置付けられた「賜姓族」であって、その「副軸の賜姓族」に匹敵する全ての立場を与えられていた「特別賜姓族」なのです。
「揶揄する摂関家」を遥かに凌ぐ「皇族賜姓族」と同じ「官位、官職、身分、家柄、特権」を保持しているのです。況して、この「2つの青木氏」の「融合青木氏」も存在していたとすれば、これ程強いものはありません。
前段で論じた様に、平安末期の「後三条天皇の荘園制禁令」から「白河院政」まで摂関家は政治的にも経済的にも弱体化していたのですから、この「北家摂関家」と云えども何時までも「揶揄する事」は得策ではなく出来ない筈です。
その否定を含む「揶揄」を続ければ、何時かは「北家一族」を揶揄する事に成り、自らに唾を投げかけるに等しい事に成ります。秀郷一門との激しい軋轢が生まれる事は確実です。
「揶揄の意味」が「軋轢から来る損失」より大きくない事は誰でも判る筈で、「一族北家の摂関家」がそれを判らない筈はありません。それこそが追い落とした「南家、式家、京家」の二の舞に成ります。
この様に考察すると、結局は、「物造りの神」を信望し、利害の一致する「民・氏族」の「許容と賛同」と、「揶揄」を得策としなく成る「摂関家」は認める事に成る訳ですから、「賜姓族の商い」は「戒律・慣習」であったとしても、終局は認められた事に成ったのです。

(「2足の草鞋策」として「賜姓族」である事を伏せた上で妥協の「暗黙の了解」が働いたと観られます。
「織田信長」が「丸山城の戦い」で「松阪の紙屋長兵衛」が「伊勢青木氏」である事を知らなかったこの史実から、室町末期までは「暗黙の了解の秘密」であった事が判ります。「伊勢青木氏の記録」から、この後の「豊臣秀吉、蒲生氏郷、徳川家康」は知っていたのです。「丸山城」の時は「堺の店」から出没した。)

この様に、「賜姓族」の「祖先神」の「異質の宗教的要素」が働く中に於いてでも各地で認められ、「御師様、総師様、氏上様」と崇められ認められて行った事が何よりの証拠です。

当然に、この「宗教的な基盤」が「出来上がっている地域」よりも「無い地域」の方が別の意味で苦労は伴なうが適合している事は間違いありません。
だとすると、「既成の地」の「近江、伊勢、美濃」に「近い地域」で、且つ、戦略上の上記「5つの要素」に適合する地域と成れば、「未開」と云うリスクがあるにしても「中部未開の地の信濃と甲斐」の2国しかなくなる筈です。
むしろ、戦略上の「5つの要素」を叶えるのにはこの「未開リスク」を積極的に求めたのです。
況してや、「皇祖神の子神」としての「祖先神の神明社」は、「他の守護神」とは別格であり、「2つの青木氏」で「朝臣族と真人族」の守護神でありながらも、全ての「民の守護神」(「心の拠り所の天照大神」と「物造りの神の豊受大神」)としても位置付けられていたのですから、受け入れられる筈です。

そうなると、では、”「天照大神」は兎も角も「商い」に付いても「民・氏族の賛同」を獲得した「豊受大神」にはどの様な経緯があったのでしょうか。”気に成るところです。
実は「御饌:ミケ」を祭祀する「古代神」を引き継いだ「豊受大神」には次ぎの「由来」と云うか「経緯」と云うものがあるのです。

「豊受大神」の経緯
真偽の程は、神代に近い「伝説的要素」を「皇族の由来」付いては常に持っていますので、別にして、一説には、「止由気(トユケ)宮儀式帳」という「朝廷文書」があり、この中で ”「雄略天皇」の夢に現れた「天照大神」が、「豊受大神」を「御饌の神」としてそばに呼んでほしい」と告げ、そこで「雄略天皇」は、「丹波国(京都府)」から「豊受大神」を迎えて「伊勢の地」に祀った”とあります。
「夢の事」の真偽はさて置き、”何故「丹波国」なのか”という疑問があります。
その一説として考えられる事として、そもそも「豊受大神」は「天照大神の御饌の神」(ミケのカミ)として時期は別にして「伊勢」に祀られたのですが、朝廷はその由来を造り上げる為に、その「丹波国」には飛鳥の頃から「奈具社(ナグのヤシロ)」の様な「穀物の女神」(食の神)を祀る社が多かった事から、ここに由来として結びつけられたものと考えられます。
(他説には、「丹後国風土記」逸文にある「天女の話」等があり、「歴史資料説」として根拠とは成らない。)

地方で発祥した「地方神」の「民の神」の「奈具社の神」等と云うものがあって、その中の「自然神」として「民」の中で発展した「穀物の女神」(食の神)の「豊宇賀 能売神(トヨウカ ノメノ カミ)」とするものがありました。

(参考 豊:豊作を祝す 宇賀:自然を賀する 能売:物を能く売る 自然に賀して豊かに成り能く売却さしてくれる神。)

この「神名」が物語る様に、「古代の感覚」は ”この世の森羅万象の「全ての物」は自然から与えられるもの” ”つまり「農産物」や「加工品」にしろ「鉱物製品」にしろ、強いては「人の喜怒哀楽」も含めて、あらゆるものは「自然の神」から与えられるもの”とする「宗教概念」を主体としていたのです。 
この「古神」は、当時(奈良と飛鳥時代)の関西域の「民の信仰」を一心に集めた「古神」であったのです。
一説では、この「古神」が伊勢に迎えられて「豊受大神」として祀られる様に成ったと考えられるのです。
つまり、この「豊受大神の原像」は、「穀物の女神の豊宇賀能売神」の様な当時の「民の信仰体・主神」、 ”民の「農民信仰の食神」であった”と考えられます。
これを「伊勢」に迎え入れて「国」の公的なものにする為には、朝廷は「何らかの手だて」が必要です。
そこで「地方神」から「民の信仰」を伊勢に集め「天照大神」と共に祭祀し「全国神」にする事で成立します。そうなると、”迎え入れた”のでは無く、”伊勢にも造り上げた”が正しい事に成ります。
そもそも、神には厳格に「神格」と云うものがある為、「豊受大神」とする為には「民の地方神」の「豊宇賀能売神の迎え入れ」には「神格の差」「豊受」(トヨウケ)>「豊宇賀 能売」(トヨウカ ノメノ)が必ず起る筈で、”「丹波」にもあるのであれば名も類似させて「伊勢」にも造る”とした筈です。
”闇雲に創造した事では無かった”との理由付けの為に ”神代に近い「伝説的要素」を「皇族の由来」”として位置付けた「後付」であったと考えられます。
それが「天照大神」を祀る「伊勢信仰」の拡大と共に、「穀物の神」(食の神)から発展させて、”「食」に限らず「食」に通ずる全ての「物造り」の「物造りの神」(物造り総合神)としての「豊受大神」として確立させ、結果として「天照大神」の内宮に対して「神格式」を挙げて「外宮」としても広く祀られる様に様に成った。”と考えられます。

(特記 この頃、「阿多倍の職能集団」が到来し「在来民」は進んだ「職能」の享受を受け始め、「物造り」に目覚めたのです。食以外に生活を潤す糧、即ち、「物造り」がある事を知り、「食神」以外にも「物造りの神」をも創造し出したのです。)

その結果、「民の農民信仰の稲荷神」と並ぶ「国の大神」として発展させたとするのが、現在の「マニア通説」であり筆者の検証説にも成ります。

ところで問題なのは、この天皇豊受説には「時代性」が明確ではありません。その「時代性」、況や「豊受大神」の正確な時期が、上記した「賜姓族の宗教への合理的根拠の時期」(「賜姓族の民・氏族からの容認の頃に創始」とそれに伴なう「商いの暗黙の了解の取り付け期に確立」)であったと考えられます。
つまり、「物造りの神」とした「豊受大神」の伊勢併合時期は、”「3人の天皇期」に伊勢に祭祀を始め、「5人の天皇期」に確立させた頃”と成るのです。
そんなに古くは無く、「647年から655年ころの間に創始」と考えられます。
結局、この「後付問題」は、「3人の天皇」(持統天皇まで)までの業績を纏め上げた「歴史書」「日本書紀」編纂(720年完)を実行した「文武天皇期」前である事は間違いないと少なくとも考えられます。

「天智、天武、持統」の「在位期間中の業績」を整理整頓する際に、この「豊受大神の祭祀の由来」の根拠も「天照大神」(高千穂の峰)と同様に「神代の事」として「後付」で造り上げたと考えられます。
まさか、「賜姓族の宗教への合理的根拠」として「朝廷文書」の記録として遺せなかった筈です。然し、「日本書紀」(下記)にはそれと読み取れる事件を間接的に公の記録したのです。

(「日本書紀と青木氏」の論文参照 古代歴史書の六国史:日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三大実録)

「遷宮地85」の最終の「伊勢の地」の「正式な決定」は「大化の天智-天武天皇の時期」であり、「雄略天皇期」では決して無く、この時期は未だ「85地-90年」の「遷宮中の時期」であった筈です。
時期には「神代の伝説手法」が働いており矛盾が潜んでいるのです。
「朝廷の夢と雄略天皇の根拠説」が明らかに何時もの通りこれも「後付」である事が判ります。

では、”その時期は何時頃か”と云う事に成ります。
それが、上記の様に、「賜姓族」が「民・氏族の賛同」を獲得する必要性に迫られた頃からであると見られます。
「丹波」に発祥していた「民の信仰の神」(「豊宇賀能売神」:食の古神)を、「伊勢」にも「大神の全国神」(「豊受大神」)として創造した時期(大化期初期)と一致すると観られるのです。
そして、この事、即ち、「物造りの神」の豊受大神」に依って「民と氏族の許容と賛同」を取り付けた事であった筈で、この事が「宗教的課題の最大の問題」であったのです。
これがクリヤー出来た事からこそ、「3人の天皇の初期の意思」の「賜姓族」は進んだのです。
この事無しには「賜姓族の存在」と「皇祖神の子神で守護神の祖先神-神明社」の建立は有り得なかった筈です。
言い換えれば「2つの青木氏」の存在根拠は無かった事に成り、且つ、生まれていなかった事に成るのです。
「2つの青木氏の基点」は何処にあるのかと成れば ”此処にある”と云う事に成ります。

故に、実は「日本書紀」に、「信濃賜姓青木氏」と共に「信濃諏訪族の首魁」が破格の扱いで「施基皇子」等が列座する宮殿に於いて「天皇」に謁見し、更に「謁言」を許された事が詳細に書かれているのです。
(「日本書紀と青木氏」の研究論文参照)
その時、この「信濃の一豪族の首魁」(諏訪族)が、何と天皇に直接向かって、「未開の地の開拓の勲功」に免じて ”税をもう少し安くして欲しい”の旨を言上したのです。この時、「信濃賜姓青木氏」は共に「沿え言葉」を付加えた事が書かれています。天皇はこれを聞き入れた事が記載されています。
これは明らかに、上記の「賜姓族への配慮」が天皇にあった事を物語ります。
そもそも「天皇への謁見と謁言」は「正三位」以下は許されていません。「宮廷への昇殿」は正四位までとされていました。その事から観ると、「信濃賜姓族」は昇殿は許されたとしても「謁言」は出来ませんから、一地方の豪族の「信濃の首魁」の「謁見と謁言」は破格の扱いであった事が判り、更に、この「天皇の日常業務」の一つが「大きな出来事」として「日本書紀」に記載される事の事態が異例中の異例であったのです。
この事で「3人の天皇の初期の意思」の「賜姓族に対する配慮」は「政治の域」を既に越えていた事が判ります。
「日本書紀」への記載の意味は ”「民と氏族の許容と賛同」を取り付けた「宗教的課題の最大の問題」”の「賜姓族の歴史的苦労」を間接的に表現したと考えられます。
この事を成し遂げた「施基皇子」は天皇に継ぐ「最高位の勲功位」 「淨大正1位」を他の皇子連よりも数段上の誰も成し得ない勲功を受けたのです。
(故に、日本書紀にこの事が詳細に記載されているのです。「日本書紀と青木氏」参照)

この上記で論じて来た「5つの要素」の総合の結論は、「賜姓族態勢の構築」「3つの発祥源」「皇祖神の子神」「祖先神-神明社」「融合氏」等の前段で論じた様な「打つ手」と成ります。

そこで、上記に論じて来た「8人の天皇が推し進めて来た意思」の「賜姓族の根幹骨格」と成っている「純血血縁」がどの様な経緯を辿ったのかをもう少し検証する必要があります。

先ず、その前に「基本データ」をもう一度、観てから下記の(注意1~5)を先にお読みください。
本論の冒頭の「基本データ1」と「基本データ2」を参照して下さい。
基本データ1は「主要な初期の19守護地」(4世族王)(「神明社の初期建立地」)
基本データ2は「遷宮地」85の詳細の表

(注意1 [5家5流皇族賜姓地]
この・印の国府に存在した「5地域の守護王」が始祖と成り、「5代の男系天皇」が累代で賜姓し、臣下させて「第6位皇子」をこの地に配置し継承させた。つまり、この時(光仁天皇までの8人の天皇)の「賜姓臣下」は「5地域の守護王」と成る事を意味したのです。

その後もこの「5つの守護王の氏族」には「跡目」が欠けない様に「皇子の跡目」を入れたのです。
花山天皇までの累代天皇に「第6位皇子」が居ない場合は、特に平安期以降には「賜姓源氏」の「朝臣子」を跡目に入れて継承したのです。

(注意2 「三野」と「美濃」と「弥努」の”みの”は他の書籍等では混同している為に史実が歪んでいて間違っている。)
(注意3 「遷宮地」85では、主要地域は次ぎの5地域の「伊勢域」、「近江域」、「美濃域」、「飛鳥域」、「吉備域」と成っている。
(注意4 「賜姓地」5では、「伊勢域」、「近江域」、「美濃域」、「信濃域」、「甲斐域」の5地域と成っている。
(注意5 注意3と注意4を比較するとここには歴史的な異変のある大きな意味を持っています。)

「皇族と5家5流賜姓族との関係の検証」
(19守護王地の意味する処)

「5家5流皇族賜姓地]
この・印の「5地域の守護王」が先ず「始祖」と成り、そこに5代の男系天皇が慣例に基づき「第6位皇子」を「賜姓」し「臣下」させて「第6位皇子」をこの地に配置し継承させたのが始まりです。
これが「5家5流の皇族賜姓族」の始まりであります。
然し、この5地域には「国府域」とそれを護る「守護域」とで構成されていて、1つの守護地には2から3の守護の「朝臣族」を配置しているのです。
1国1守護王ではない構成と成っているのです。当然に、史実の内容から政庁を置いていた「国府域」を「主庁」とし「守護域」を「副庁」としていたのです。

(参考 ところがこれが後の700年以降にはこの「守護王」にその「行政代理官」を派遣した。その階級には「中央官吏の国司」には「守」、「守代」、「介」、掾(じょう)、「目」(さかん)、「地方官の郡司」には大領、少領、主政、主帳、そして「村司」に里長[郷長]、村主と変化した。唐の制度を模範に「国郡里制」から里は「郷里制」に変更し再びた「国郡郷制」に戻した。
「賜姓族地」の「5天領地」には上記した様に「賜姓族の国策遂行」の難しさからこの700年頃から770年頃に掛けてこの「代理行政官」を置いて「税等の一般行政」を強化し補完した。)

然し、「行政に依る安定」は図るにしても「賜姓族としての国策遂行」にはこれだけでは済まず、自らの「賜姓族としての足元の強化」も成し得なくては成りません。
前段の初段で論じた様に、大化期前の「朝臣族の配置」では朝廷が全てその裏打ちをしていたのです。
ところがその事が天皇家と朝廷の力を圧迫し弱体化させ、蘇我氏にそこを付入られた事から大化事件が起ったのです。そして、それを改革したのが「大化改新」であり、その目玉としての「賜姓-臣下」であって、その「賜姓族」には「大化改新」の「最大の改革」として「国家形成の国策の根幹部分」の「遂行責務」を背負わしたのです。
当然に、「大化改新の象徴」として民に誇示し宣言する為にも ”「自らの存立は自らの力で果す事」(野に放たれた野鳥の様に一人歩きの姿)”を課せたのですから逃避する事は不可能なのです。
「賜姓族と云う言葉」にはその様な意味を持っているのです。
「3人の天皇の初期の意思」として上記で論じた様な「5つの要素の基本的補完」の「税等の行政事業の基本的補完」等の「道筋」は示したものの、この「道筋」だけでは事は進まないのが「現世」であります。
先ず根幹と成る「行動」に移してこそ成し得るものであります。

それが次ぎの事であったのです。
特にこの「5天領地」の「第4世族内朝臣族の守護王」の「5家5流の皇族賜姓族」の地には、次の様な「跡目・養子・融合の血縁の歴史的な経緯」が起こっていたのです。

大化期の「守護王」として上記した様に「賜姓族」として「厳しい国策遂行」を背負わして配置したその後も、配置するだけでは国策遂行は成し得ず、先ずは「賜姓族・守護王」として永代に確固として自ら「氏族」を存続させねば成りません。
平安期初期までは「5家5流の皇族賜姓族」の「皇族系の跡目」が欠けない様に「皇子の跡目」(詳細下記)を入れました。然し、累代(天智天皇より平安期11代)の「男系天皇」(6代 女系5代)以降の平安期中期以降には、「第6位皇子」が居なかった場合には、「嵯峨期の詔勅」から始まった「賜姓源氏」(11代 嵯峨天皇から花山天皇)等の「各地」に定住する「朝臣族」を跡目に入れて継承したのです。
(7代も女系天皇が続き皇子数が激減したことも要因 嵯峨天皇はこの問題に着手した。)

この場合、”「跡目」が欠けた”と云う時のみならず、その後の系譜や添書等の資料から読み取ると、実は「嗣子」が存在しているにも関らず「真人族・朝臣族」を積極的に跡目に入れているのです。
ところがこの経緯の内容をよく検証すると、「伊勢」、「信濃」、「甲斐」、「近江」、「美濃」の全てに近隣に定住していた「第4世族の真人族」や累代の「第6位皇子」と「賜姓源氏」の「朝臣族」が「跡目相続」しているのです。そして、それには必ず上記する「真人族」が「跡目血縁」と云うよりは「跡目融合」の言葉が妥当な「融合血縁」をしているのです。
これは「融合氏の発祥源青木氏」である事を大きく物語っているのです。つまり、”「真人族が形成する氏」と「賜姓族が形成する氏」が同族血縁した”と云うよりは、”「真人族」のある者が「賜姓族」の跡目に直に入った”と云う表現が適切なのです。
つまり、この「5地域の賜姓族地」には上記の表の通り「真人族」と「第4世族内朝臣族」が「国府外」に居たにも関らずこの「朝臣族の氏族の末裔」が近隣に不思議に存在しない事なのです。
(室町期末期から江戸初期に掛けて下克上と戦乱で伸し上った所謂「未勘氏族」なる者が「末裔」であると名乗っているが極めて矛盾を孕んでいる。)
更に、上記の ”「嗣子」が存在しているにも関らず「真人族・朝臣族」を積極的に跡目に入れている事”と、この「2つの不思議な事」を考え合わせると、これはこの「5賜姓族」がこの地域の「真人族と朝臣族」を吸収した事(融合血縁)を意味します。
それが「平安期末期頃から鎌倉期頃の資料」ですが、「平安初期頃」まで行われていた可能性が高い事か論理的に読み取れます。
これは奈良期の「3人の天皇」か、或いは、後半の平安期前の「5人の天皇」の「初期の意思」であるとかとも考えられます。
実は、前段でも論じた様に、「平安遷都」や「京平氏賜姓」等を実行した「桓武天皇」を境に政治の態勢は急変します。「皇親政治」から「律令政治」に変革したのです。
「皇親政治」の「8人の天皇」の政治履歴を考察して分類して観ると、前半の大化改新「3人の天皇の政治改革」と後の「5人の天皇の政治改革」には違いがあり、概して「初期段階の政治改革断行」と「仕上げ段階の政治改革断行」に分類されます。
この傾向から観て、継続性は全体として存在するも、筆者は”「3人の天皇」の「初期の意思」であった”と考えているのです。恐らくは、この「桓武天皇」を境に「融合血縁」にも侭ならない程に大きな影響を与えたと考えられます。青木氏の「衰退の空白期間」のきっかけと成ったのだと観ているのです。
「桓武天皇」が「国策である賜姓」を皇族から実行せず、母方族(阿多倍一門のたいら族)を引き上げてその族に賜姓をしたのですから、到底に「賜姓族青木氏」は「融合血縁」を推し進める事は不可能です。

当然に「融合血縁」のみならず「国策遂行」も否定された事に成った訳ですから何も出来なかったと考えられます。
「150年で8人の天皇」が継続して推し進めてきた国策が途絶える事に成る訳ですから、天皇家や朝廷内はおろか為政者や公家等は「驚天動地」であった事が覗えます。
史実、朝廷内はこの事で二分し争いが起こります。桓武天皇と皇太子派と第2皇子派が対立して骨肉の争いが起ったのです。結局、この為に「桓武天皇」は譲位して皇太子の「平城天皇」が即位して収拾を図りますが、この「平城天皇」も悩み病気(うつ病)に成り2年で退位して、第2皇子の「嵯峨天皇」が即位せざるを得ず争いの態勢は収束に向かったのです。
この収束過程でも前天皇の「平城天皇」は依然として抵抗したのです。結局、「嵯峨天皇」も妥協して嵯峨期の詔勅と宣旨を発し、「賜姓青木氏」から「賜姓源氏」と変名し、その「賜姓源氏」には「国策遂行の責務」を外し、ただの「賜姓臣下の氏族」とします。
この時、「青木氏」は「真人族」と「第4世族内」に限らず「全ての朝臣族」が「還俗や下俗」する際に用いる氏名として使用を禁じます。
先ず全皇子の内8人が臣籍し、その後には17皇子と15皇女が臣籍降下させたのです。

「累聚三大格」と「弘仁5年八月八日付けの詔勅」にこの記録されていて、その令を下記の様に記載されているのです。
「嵯峨期の詔勅」
「男女梢や衆く、未だ子の道を識らず、還って人の父の為に、辱く封色を累ね、空しく府庫を費す。朕、懐に傷み、親の号を除き朝臣の姓を賜い、編して同籍と成し、公に従事し、出身の初め、一に六位に叙せんと思う」

要約すると、「天皇には皇子皇女が多かったためにいちいち親王家を立てる事に成ると人民の負担が多く成るので、皇子には(源)朝臣の姓を賜って臣籍に降下し、公務に従事させて、その身分を六位に叙した。」

これからも判る様に、「弘仁の詔勅(嵯峨期の詔勅)」では「5家5流の賜姓族青木氏」の「国策氏」「3つの発祥源」「象徴の賜姓族」「皇祖神の子神の祖先神-神明社」等の役目などの事は一切書かれていないのです。
書かれていないと云うよりは与えていないのです。与える事によって「5家5流の賜姓族」の様に力を持ち、「親政族」として再び「律令政治体制」を壊し「皇親政治」に陥るとする反対者側の意見に妥協して与えなかったのです。
ここにある「公務」とあるのは、「5家5流の賜姓族」と同じく「親衛隊の民部上尉」「宮殿の護衛団の指揮官」で「本来の官職」であったのです。然し現実には当然の様には与えられなかったのです。
それは何故かと云う事なのですが、文面にある様に「従六位下」だからです。
本来通りに直ぐに与えられるには、上記に記述した様に「皇族第4世族内の朝臣族」の場合は、最低でも「従四位下」でなくては成らないのです。
平安中期の「藤原秀郷流青木氏」は藤原北家一門の中でも1ランク上の上位を与えられたのですが、「皇族賜姓青木氏」の5家5流を特別に補佐する為に叙された「特別賜姓族青木氏」であるので「従五位下」が与えられています。つまり公家上位と同じ位です。
朝廷では五位を境に扱いは全く異なるのです。
ここでは経済的な負担軽減を前提として詔勅に明記している様に、それでも、”六位を与えられた事を善し”としなければ成らないのですが、当時の皇族の朝臣族の扱いからは低すぎる扱いであった事が判ります。これでは皇族外の昇格で朝臣族に任じられた氏と同じです。

(参考 奈良期と平安期の「八色の姓制」の「朝臣族」と、「天皇の臣」であったので「朝臣」と誇示している室町期後期や江戸初期の「勃興氏」とは異なるので注意)

「守護神と神明社-4」の冒頭の表(位田、職田、功田、賜田、俸禄)を参照しても「六位」はこの食封田にも掛からないのです。
この様にこの文面の一字一句を捕らえて考察すると、「平安期の慣習雑学」と比較すると多くの事が読み取れます。
更に続けて考察すると、当然にこうなれば「真人族」や他の「朝臣族」との「同族血縁」のみならず「純血による融合血縁」や「跡目血縁」すら不可能と成ります。
この文面では ”編して同籍と成す”とありますので、”特別に「同族血縁」や「純血血縁」等の慣習に縛らない。”要約すれば、”勝手にせよ”であります。
この様な血縁が不可能となれば到底に「国策遂行」や「祖先神の信望-神明社建立」さえも出来かねない立場に陥った事に成りますし、その経済的な裏打ちも当然に有り得ません。
まして、”公に従事し”とありますので、特に指定していませんし、”出身の初め”と繋いでいますので、特に初めから指定せずに ”自らの勤勉な努力に因って切り開け そして官職を得よ”と成ります。
「守護王」どころかその勤めさえも自らの努力次第で「国司」の「国守」も成り得ず、頑張ってもせいぜい「介」か「掾(じょう)」の官職しか与えられない事に成ります。
下手をすれば官職も与えられないか、能くしても「目(さかん)」の官職しか獲得できない事の意味を含めています。
(参考 清和源氏の始祖の経基王は努力の末に「介」に任じられた。昇官する為にかなり無理をして周囲と争いを起す)
史実から、「清和源氏 宗家」の当主「摂津源氏の源頼光」が「国司代」が最高位で「知行領主」に過ぎなく成ります。「自領や本領」は到底に覚束ない事を意味しています。
現実には例えば、「経基王」から発祥した「清和源氏」の場合、摂津と伊豆は本家筋の所領、河内が本家からの「分前部」(分封)として頼信に与えられた所領で、後の8つの地域は「本家頼光の知行地」であります。本家の努力次第で獲得しそれを本家の裁量で「分前部」(分封)としか与えられないのです。
(「分前部」(分封)は源平の平安末期頃から盛んに成った。)
現実に資料から、頼信は兄頼光から藤原道長の執り成しで河内と伊豆の一部を「分前部」(分封)として与える事を許されています。この両者の親の満仲(経基王の子)は、”これ等の扱い事を不満”として反発をして拗ねています。
こう成れば、清和源氏2代目の「満仲」が採った戦略は、朝廷から大きな非難を受け最後には阻害されましたが、結局は「武」に頼り「荘園制」を利用し、それをベースに各地に乱立する「武装土豪集団」を「賜姓の朝臣源氏」の旗の下に終結させて組織を構築して、その組織を使って他の土地を奪取して生き延びる以外には無い事に成ります。

(特記 組織化する為に源氏族に入る為の「名義貸し」をして引き付けた。その担保が「荘園制」から得られる税の利潤)

その結果、「天皇や朝廷」や、はたまた「民と氏族」からの受ける評価の宿命は決っています。
それは、「集結した武力集団」からは誉めそやされ、「奪い取られた土豪」たちからは「怨嗟の嵐」で、天皇や朝廷からは「国や地域」を乱した「氏族」となります。これは逃れ得ない負わねば成らない宿命です。

(参考 通説と云うよりは世間説では清和源氏の分家河内源氏は「武士の鏡」で「武神」で「源氏の棟梁」とも言われているが青木氏側とマニアから観れば、「賜姓族の朝臣族の逆臣」と観えるのです。現に源氏は11代もあるのです。源氏は皇族朝臣族であるので宗家方式で上下関係はないのです。まして清和源氏の分家河内源氏とされる位置に居たのです。清和源氏の宗家の本家とされるのは「宗家の四家」と呼ばれる頼光系の本当の清和源氏の棟梁が居たのです。「未勘氏族」が祭り上げた搾取誇張の呼称なのです。
青木氏と同じような生き方をした宗家頼光系と。武装組織を利用して争奪戦した分家頼信系との差で、目立った方に「上手く利用された呼称の棟梁」である。「賜姓源氏」とすれば正式には第初代「嵯峨源氏」が総宗本家と成る。本当の正規の棟梁である。この末裔は現存で別の財団運営で有名 そもそも賜姓のあるなしに関らず源氏は16代で賜姓源氏は11代賜姓族は青木氏ともで16代ある事の世間の知識は無い。「青木氏の戒言」の”世に晒す事無かれ”はこの事からも来ている。)

11代の「賜姓源氏」が発祥しても、この「詔勅」から飛び出て勢力を確保したのは、主に「清和源氏」(河内源氏)しかなかったのです。納得出来る結果です。それだけに「嵯峨期の詔勅」は厳しかった事を物語ります。
「軍事、政治」にはそれ程に厳しくは無かったにせよ「氏族」が生き延びるに絶対的に必要とする「経済力」が規制されていれば、河内源氏の様に、「経済力→軍事=武力」に向かうが必定です。
只、反面、「組織化と強奪」と「荘園制名義貸し」は「国情の安定」に混乱を招きますので「非難」を招く事も必定です。
他の源氏の様に適度の武力と低位の適度の政治力(荘園制と税)で穏やかに生き延びるもこれまた「非難」は免れますが、「生き延びる」には不安を伴ないます。
「11代の賜姓源氏」は、終局は「武」世界に2軍の将相立たずの喩えの通り、「河内源氏」に引きずられて滅亡しましたが、彼等にしても”2軍の将相立たずの喩え”を承知していた筈で、当初から「生き延びる」には不安と疑問を感じていた筈です。
これに対比して、上記前段で論じた「3つの発祥源の象徴の立場」と「国策遂行」と「祖先神-神明社建立」等を背負わされた「第4世族内朝臣族の5家5流賜姓族」が、如何に大変であって「嵯峨期の詔勅賜姓族」の比で無い事が判ります。
「禁じ手の商い」に走って「皇族方の謗り」を受けるか、国情を乱して「武」に走って「民・氏族の非難」を受けるかは、この「2種の賜姓族」(敢えて余りに異なる賜姓である為に表現)の上記した置かれている厳しさの「立場の差」から必然的に決まっていたのです。
最早、「2種の賜姓族」(大化期と嵯峨期の2賜姓族)には既定の逃れ得ない「完全な宿命」であったのです。

この「典型的な生き様」を呈した例が「河内源氏」の源頼信の孫の「義家」であります。「義家の生涯の生き様」を「天皇や朝廷」からは「私闘」のレッテルを貼られてしまって、武家集団や未勘氏族等には”「武家の頭領」”(棟梁ではない)と持て囃されながらも、失意と喪失の内に没したのです。
”「武家の(棟梁)・頭領」”と持て囃されても、「総宗本家四家の清和源氏」が現存する本家を中心とする「氏家制度」の中では、分家義家に取っては実に空しい事であります。
そして、まして、その「総宗本家四家の清和源氏」は「5家5流の賜姓族」の中に穏やかに生き続けていると成れば「義家の失意と喪失」は図り得ないもので同情の極みと成ります。
これが「後世の武士」に同情を引き付けた所以謂れであります。

(特記 義家の私闘)
この様な事情を承知する当時の為政者から「義家の私闘」と何故決め付けられたのか疑問が浮かびます。
そもそも「私闘」とは、「私闘」の言葉が発する限り、その逆の「公の闘い」(公闘)があるから、それを基準に評価されてその差の悪さを非難されるのが常道の筈です。
天皇が何も感情的に成って「私闘」と世間に発表する事は「国の長」である限り先ずあり得ません。
天皇の裁断には周囲には分厚い摂関家があって協議しているのですから、「私闘」とする以上は当然にこの「私闘」に比する「公闘」に成るものが当時の環境の中に厳然として存在した筈です。

この「私闘」とした根拠は、そもそも上記の「河内源氏の義家」の ”「組織化と強奪」と「荘園制名義貸し」は、「国情の安定」に混乱を招く事”ですから、これに対する「公闘」は、「2種の賜姓族」「2つの立場の差」にあった「2つの青木氏」が採った行動と云う事に成ります。身分家柄が違えば其れなりに「公闘」と扱えぬ事も起こります。そうではない同等の逆の「公闘」が存在したからこそ「公闘」が成立したのです。
この「賜姓族の行動」に対して、全く反対の「5家5流の賜姓族」は荘園所為に因って敗退し離散する土豪を経済的に救い組織化して仕事を与え、「賜姓族の国策遂行」に従事させて「シンジケート」として確立させて安定化させたのです。
この様に全く正道な「真逆の行動」を採ったのですから、誰が見てもこれは「公闘」であり、それも「義家が犯した私闘の尻拭い」です。
この「公闘」が厳然と存在すれば「為政者」は、「義家」に対してどんな同情的な理由があろうと、「私闘」と断じる以外に無く、そうでなければ、「政治的な矛盾」が生じさせ「為政者の立場」は無くなる筈です。

そもそも「政治の語意」とは、その言葉の意の通り「正しい方に至らしめる」が源語です。
如何なる理由があろうと「私闘」を容認すれば「政治」は「民の信頼」を失い成り立ちません。
「義家の私闘」を「公闘」とする、又は不問とするかによって、「嵯峨期の詔勅」時の「賜姓のリスクの談合」があって、それを「国策」として遂行した「2つの青木氏の行動」を逆に否定する事にも成り、「向後の政治の信頼」を失い兼ねません。
「影の力」として働く「2つの賜姓青木氏」の「やる気」をも喪失させて「私闘」を容認させて仕舞います。
「容認」の其処に見えるのは「私闘の阿修羅の世界」と義家の朝廷をも犯しかねない「勢力増長の世界」です。
現に、「蘇我氏の例」に見える通りで、為政者はこの事を知らない訳はありません。
同じ「賜姓族の立場」にいた者が「2種の賜姓族」「2つの立場の差」を世間に知らしめてしまえば、何時か私闘側は死滅させられる筈です。
この誰でもが判る条理を「河内源氏側」が何故理解しなかったのかであります。
当然、知っていて「武装組織化」したのですから、”朝廷を牛耳る事も有り得る”と猜疑が働く事も又必然であります。朝廷の本音は各地に「散在する武装の土豪」の状態であった方が好ましい政治状況でありこれが組織化すればする程に朝廷の為政は武力を前面に押し出し云う事を聞かなく成りますので困難を極める事に成ります。ところが土豪が散在している方が揉め事は起るかも知れないけれど朝廷を脅かす程には無い事からリスクはあるにしても都合が良いのです。云う事が聞かなければ潰せば良いという事に成ります。しかし、集団化や組織化は一見整理するという点では理想的ですが一度間違えばそのリスクが大きすぎるのです。それはその「集団の長の資質」に関わるのです。況して義家は朝臣族なのです。朝廷に執って代わることも有り得るのです。
(大化期からの「2つの青木氏」はこの事は十分に承知であり、しかしこの方向に走らなかったのです。走ろうとすれば上記の条件を持ち得ているのですから、義家の段ではありません。「国策氏」として邁進する「賜姓族」であったからこそ「累代の天皇」と「朝廷」と「民と氏族」は青木氏を信頼し容認したのです。
「義家の私闘」はこの経緯で断じられたのです。

現に「他の源氏」と「摂津源氏」はこの間違いを犯さなかったのです。この様に「相対の位置」に居た「2つの青木氏」の「歴史的な経緯」から断じると見えないものも観えて来ます。
前段で論じた様に、「源平の戦いや陸奥の私闘」は、「2つの源平の賜姓族」でありながら何れもよく似た「2種の賜姓族」「2つの立場の差」を持った「生き様」を示した事により、「共に相倒れる」の「私闘の運命」を背負って仕舞ったのです。逃れきれない宿命とでも云う以外にはありません。更に云えば満仲頼信義家の持って生まれた「長としての資質」にあったと云えます。
「青木氏家訓10訓」がこの事を物語っているのです。

特記から話を戻します。では、「他の賜姓源氏」はこの詔勅を受けてどの様にしたかと云えば、上記した様に皇族朝臣族の「純血血縁」や「同族血縁」等の非一般的な厳しい慣習に縛られ、自然消滅するか、「5家5流賜姓族」に融合するか、低位の地方官吏族で小さく穏やかに生き延びるか、比叡山に逃げ出すかの「4つの選択」以外にはありません。
結局は、この「4つの選択」の「生き様」で大化期賜姓族の「5家5流青木氏」「近江源氏」と、嵯峨期詔勅の賜姓族の「嵯峨源氏」、「村上源氏」、「宇多源氏」、「清和源氏」が何とか氏族として単独で生き残ったのであります。
「清和源氏」の宗家の「摂津源氏」は国司代の官職を経て発展し最後には氏族を換えて「5家5流賜姓族に融合」し現存し、各地に分散した「河内源氏」は頼朝後事如く滅亡し、「宇多源氏」は伊勢青木氏と同じ古代朝臣族で賜姓族の「佐々木氏」に融合し現存し、「村上源氏」は伊勢の北畠氏に融合し織田信長に調略されて滅亡し、「嵯峨源氏」は「5家5流賜姓族」と同族血縁して遺し、宗家は「始祖の意思」の「嵯峨天皇の詔勅」を守り室町中期までは穏やかに生き延びる事が出来たのです。

この「嵯峨期の詔勅」の一節等を見ても、同じ「第4世族内の朝臣族の賜姓族」であったとしても、「4史略」や「日本世記」等に書かれている「5家5流の賜姓族」との扱いは雲泥の差であります。

当然に、「親衛隊の民部上尉」「宮殿の護衛団の左衛門佐の指揮官」等は本来であればこの立場にあるのですが、現実には「摂津源氏」の「本家源頼光」 「分家源頼信の河内源氏」の「源義朝」等がやっと成り得たのです。然し、直ぐには任命がされなかったのです。
「嵯峨天皇」は同じ「賜姓族」でも、最早、源氏の場合は抗争相手に妥協して「親政族」から外していますし、むしろ、”辱く封色を累ね、空しく府庫を費す”とある様に「経済的な負担」を理由に臣下させる事が目的と成っています。
ところが、此処で嵯峨天皇は「政治的矛盾」をこの時犯しているのです。
この「嵯峨期の詔勅」では ”「経済的な負担」を理由”にしていながら、”「皇位継承者」が少なく成った事を理由に”皇子の王位を大化期前の第6世族に戻しているのです。
大化期からの8人の天皇には余りに厳しい改革を実行した為に女系天皇が5人も譲位し、桓武天皇の直前の「光仁天皇」は第4世族内の皇位継承外の第6位皇子の施基皇子の嫡子であり「第5世族の朝臣族」で「真人族」ではなかったのでした。特例例外天皇であったのです。
この事を憂いた「嵯峨天皇」は「天智天皇」の「大化期詔勅」の変更を余儀なくされ、元に戻す宣旨を発します。
この事に依って王数を増やしました。王数を増やせば、”辱く封色を累ね、空しく府庫を費す”事に成ります。”一方で増やし、他方で減らす”と云う手品師の様な「詔勅と宣旨」を発しているのです。
これでは「朝臣族の詔勅の賜姓族」は、王数が増えて競争相手が増え、王数が増えて「経済的な封食」は低下し、「分封の可能性」は無くなります。

事程左様に、この「詔勅」の扱いは厳しい為に「賜姓」を「朝臣族」は期待しなく成り、遂には、「朝臣族」から「宿禰族」に格下げして賜姓する様に成ったのです。
結局、この賜姓は「清和源氏の頃」がピークで上記した人数の「朝臣族」は比叡山の僧侶に成る者が殆どと成ったのです。
(上記する「悲哀の義家の生き様」から「5家5流賜姓族」に融合する事に漏れた殆どの「皇子」は「世捨て人」を選んだのです。)

然し、第4世族外の「ひら族」と成った者の中で「宿禰」の身分家柄を獲得しました。
その「宿禰族」に賜姓した特例として、朝臣族の「美努王」(敏達天皇5世の孫 第7世)の妻の「県犬養三千代」が和銅元年(708年)に「橘宿禰」の姓の賜姓を受けたのに始まりますが、天平8年(738年)にこの母方の姓を子供の「葛城王」と「佐為王」はこの橘氏を継承したのです。
(「葛城王」は「橘諸兄」として左大臣に昇格)
第4世族ではなく第7世族、本来王身分ではなく直系王孫ではない王、例外の女性の妻が賜姓を受け、「賜田」の既定外で、父系継承ではなく、論功のない者の賜姓で、「蔭位の制」に該当せず、「恩田の5制」を受けず、等の例外賜姓であったのです。
これを契機に80年前後の「たいら族」の賜姓があり、「嵯峨期の詔勅」では、最早、形骸化して左大臣等を初めとする官職を獲得する等の昇格手段としての「身分確保の賜姓」に成って行ったのです。

(特記 何とか「3人の天皇の初期の意思の賜姓」を維持したのは「8人の天皇」の最後の光仁天皇までである。嵯峨天皇が元に戻そうとして厳しい詔勅を発するが、流れは変えられず逆に違う方に変質してしまったのです。 結局、賜姓のシステムや目的をきっぱりと換えて再び「特別賜姓族」として「青木氏」に戻し、「5家5流賜姓族」の「全ての資格、身分、官職」などの条件を与えた上で「5家5流賜姓族」を「補完する義務」を付与して、藤原秀郷一門に与えて完全に戻そうとしたのが「円融天皇」であったのです。
そして「3つの発祥源」である「5家5流賜姓族」との「融合青木氏の発祥」に誘導して「国策氏」に戻したのです。尚且つ、衰退していた「5家5流賜姓族」を復興させたのです。
これだけの事を変革して政治的に導くのは、朝廷の中では「形骸化の流れ」もありそれを留めて流れの方向を清正流に戻すのは「至難の業」であった筈です。「嵯峨天皇」と「円融天皇」は賜姓では功績を上げたのです。)

賜姓源氏は「国策」などの遂行する「朝臣族」では到底無く成って仕舞っていたのです。
遂には「第6世族」までを王位として戻したものが、「第7世族」も王位を勝手に名乗る等の形骸化が起り始めていたのです。

(特記 この時期の王位には2つあって、嵯峨期の宣旨の正式な王位と、”宿禰族の末裔だ”と誇示して王を勝手に呼称している者が増え始め、全体に「賜姓」そのものが形骸化し変質したのです。この「橘氏」は上記の経緯(身分確保)で急に伸し上った事も、後に「嵯峨期の賜姓族」もあった事もあり結局、血縁も拡がらず、勢力抗争の末に後に藤原氏北家に潰されます。丸なしの「橘紋」 丸付き紋は未勘氏族)

(注意 以上の此処までの事は、前段でも充分に論じましたが、改めてより詳細に嵯峨期以降の「賜姓族の違い」を浮き彫りにさせる為に重複して論じました。)

つまり、この様に、「第4世族内朝臣族の5家5流賜姓族」が、「嵯峨期以降の朝臣族の賜姓族」とが如何に違うかが判りますが、この事を考えると、「賜姓族への融合血縁」の意味が、単純に ”融合血縁した”と云うよりは ”重要な国策であった”事が検証を進めると判って来ます。
前段で論じた様に、此処にその根拠があり、真にこれが「融合氏青木氏」なのです。
そして、これが上記の「注意5」の違いの差の原因に成っていたのです。

平安期の初期までは、「天智天皇」の上記の「5つの国府」に配置した「守護王」を始祖として、これを始めとして、この「5つの国府地」外の守護王(6王)も「融合血縁」を行います。(1国に2人か3人の守護王を半国司として置いた。)
更には「天武、文武、聖武、光仁の5天皇」等が「第6位皇子」をこの守護王の跡目に入れています。
その後、平安期の嵯峨期からの「賜姓源氏11代」からもこの守護王の「5家5流の賜姓族」に跡目を入れました。特にその中でも、「清和源氏」の「摂津源氏の宗家四家」が徹底した「融合血縁」を「5つの守護地」の「賜姓族」に行ったのです。
ところがこの「源氏11代」をよく調べてみると、この「源氏11代」には、何と「賜姓源氏」と「無賜姓源氏」とがあるのです。
実は、この「無賜姓源氏」の場合の多くは「横滑りに跡目」だけに限らず、この上記の「5家5流の婿養子や貰養子」になる事が多かったのです。生まれた「本系の系譜」には出てこず、「養子先の系譜」に子孫として出てくるのです。これは平安期の「皇族朝臣族の血縁慣習」から来ているのです。
「賜姓族」に入った「跡目養子」ではなく、「貰養子」や「婿養子」の場合は「本系の系譜」から消えて「養子先の系譜」に残こす慣習があったのです。
この慣習の意味する処は、「賜姓族」が第4世族内の朝臣族の中でも上位である事を意味します。
「上位の朝臣族賜姓族」である以上「下位の朝臣族」の系譜に存在させる事は「上位の朝臣族賜姓族」の方には立場が立ちません。
「下位から上位」と「上位から下位」とでは「系譜の扱い」が異なるのです。特にこれは「同族血縁」を主体とし、尚且つ、「純血性」を保持する皇族の慣習の中では他の「朝臣族」の子孫は殆ど他人ではなく「身内の子供」同然でもあるのです。
従って、系譜を上位に移す事の抵抗はないのです。故に、「同族純血慣習の朝臣族間」で付ける差は「賜姓族と云う上位の立場」と、「皇族賜姓族16流16家」の中でも「5家5流の賜姓族」は「国策氏」で、尚且つ「国策遂行の役目と責務」を持つ「3つの発祥源」の「賜姓族」である事、奈良期からの「真人族の融合血縁」も組み込まれている訳である事の「3つの差」から「系譜上の扱い」を変えている慣習があったのです。

(参考 この慣習は少なくとも皇族外を含む全朝臣族から伊勢と信濃の青木氏の記録資料から読み取れる範囲として江戸中期頃までは少なくとも存在していた模様で、口伝に依れば明治末期頃までその族環境の範囲では存在していたと観られます。特に目立つのは菩提寺等での扱いも異なっていた。)

逆に云えば、「系譜や添書の内容の変化」は「5家5流の賜姓族」の上記の事柄が引き出されるのです。前段で論じた様に、例えば「伊勢青木氏」の「源頼政の孫の京綱」が系譜上に入るのはこの慣習から来ているのです。
(清和源氏宗家の四家の本家の源の頼政系譜には出て来ません。然し、頼政の子供仲綱の子供としては出来ます。)
従って、「蔭位の制(有品の制)」に基づき「無又は有位の資格」のこの「朝臣族の2つの養子」の場合には、原則として実家先系譜上から消えている事が多いのです。
その様な「朝臣族の2つの養子」の場合は系譜を養子先に移す仕来り慣習であったのです。
ところが「賜姓源氏」の場合は「跡目養子」を主体としていたので系譜から消える事はありません。
「単なる養子」か「跡目養子」かの決定は、「氏の継承の有無」に関っています。
「単なる養子」の場合は、特にこの奈良期から平安期の養子は主に「成人」に成る前の「幼児」の頃からの場合が多くあり、然し、必ずしもこの「養子」が「嫡子」に成ると云う前提ではありませんでした。
それは前段で論じた様に、「4段階の夫人制度」の中でのその順位に沿って「同族血縁の仕来り」で純血を保つ為に「養子縁組」が行われたのです。
上位の夫人から嗣子に成る子供が生まれなかった場合に備えての「同族の養子縁組」が行われる事が主流であったのです。
上位の本流から正常な男子(嫡子・嗣子)が生まれると養子の身で終わる場合が多かったのです。
但し、それは「単なる養子」の場合には主に上記の純血を護る為の「同族血縁の弊害対策」でもあったのです。この「単なる養子」も親族関係からの養子ですが、同族血縁による「弊害子」(亜子)で無い事が幼児の頃から判別が出来る訳ですから、子供の多い親族から引き取る事に成るのです。
この「同族血縁の弊害対策」は「朝臣族」の氏全体で頻繁に相互に行われた慣習なのです。
そうでなかった場合には、「真人族や朝臣族」の嗣子は「比叡山」や「門跡院」や「菩提寺」の「僧侶」や神明社系5社の「神職」として預けて身を立てられる様にする慣習がありました。
娘の場合の多くは「同族血縁」として嫁入りするのが普通で、中には「神明系5社」の斎王として生きる慣習も存在しました。
「跡目養子」は明らかに本人のこの「弊害の有無の確認」が出来ての「跡目」である事から両方の系譜に載る事に成るのです。
「跡目養子」は当然に「当主」に成る事を前提ですが「跡目養子」の形で一旦入り、一定期間後に「正式跡目」と成ると云う事もあったのです。
従って、「養子」には「跡目養子」と「婿養子」と「貰子養子」の慣習が「賜姓朝臣族」には敷かれていたのです。
「跡目養子」の場合は、娘が居る場合と外から嫁を取る場合の2つの方法がありますが、主流は「娘の婿養子」の形が多かったのです。娘の無い場合は「跡目養子」の「嫁取り」には原則として「4段階の夫人制度」により他氏の血を入れる為に「嬪」(みめ)として族外から取る事が多かったのですが、上位の二階級(夫人や妃)は縁者(3親等外遠縁)から娘を「養女」に迎えて「跡目養子」を取る事も起こったのです。
この時は、「縁者の養女」は「純血性」をあくまでも主体としていた為に「第3親等」から「第4世族」までの娘を迎えた事に成っています。
「純血性の高い血縁」としては「第3親等」(従兄妹同士の血縁)であって、この平安期までは「従兄妹血縁」は慣習範囲の常識で問題は無かったのです。
(現在に於いても法的には認められているが弊害も確立的に起る事が解っている)
この場合は「跡目養子」や「婿養子」と云っても平安期までの「賜姓朝臣族」の中では「同族血縁」が主流で、殆どであるので必ずしも「跡目」とか「婿」「貰子」とか云う概念は低く当り前の「氏存続の慣習行為」であったのです。
「跡目養子」と「婿養子」と「貰子養子」と「4階級の夫人制度の子供」に依って先ず多くの「嗣子」を作り出し、その中から「氏」の「家」を継ぐ「嫡子」を決める慣習であったのです。
「より優秀な嗣子と嫡子」を選択し、且つ、「純血性の弊害除去」から考え出された「朝臣族の賜姓族」の慣習であったのです。当然に、この慣習の強さは「宗家、本家、分家、分流、分派」の枝葉順位によって異なっていたのです。

(特記 分家、分流、分派の慣習の本格化は、源平が実権を握った頃に勢力を広げた地域を守る為に嫡子外を「分封」して地方に移して護らせた事から「分家等」が盛んに作られた。又、「荘園制での名義貸し」で荘園に配置された事から、「分封」と「分家」と「地名から採る苗字(名字)」の慣習は、同じ時期の慣習で始まった。「大日本史」に例 )

ですから、「4階級の夫人制度」の直系孫であったとしても、元々「親」自体が「跡目養子」と「婿養子」と「貰子養子」かである事が多く、必ずしも「嫡子」に成れると云う事ではなかったのです。
この「4つの継承システム」は「純血性の高い同族の者」である事から”母が異なる子供”程度の感覚で、要するに、”兄弟感覚 ”の中にあったのです。
ただ、異なる事は其処には順位による「身分の差」だけであったのです。
「縁者の養女」と「縁者の嫁取り」と「縁者への嫁入り」の「3つの縁者血縁制度」に於いても同じ目的で行われ、「跡目養子」と「婿養子」と「貰子養子」と「4階級の夫人制度の子供」の「4つの継承システム」と合せて「強い純血性を保持」し、「より優秀な嗣子と嫡子」を作り出して「より強力な賜姓族」を構築し強化していたのです。

そもそも「跡目養子」や「婿養子」の「養子」の場合は、前段で論じた様に平安期の48氏程度から鎌倉期の200氏程度に「氏」が一度に増加した時期からの「社会概念」であって、それは鎌倉期末期からの「概念の進化」であったのです。この2つの「養子の慣習」は「氏」を増加させ、下克上と戦乱で伸し上った「高級武士」が「武家」の呼称を獲得し始めてからの「武士の慣習」へと変化して行ったのです。

(特記 上記の「荘園制」と「勢力拡大」により「氏家制度」の中で発展した「分家制」で子孫が各地に移動して所領を護ろうとして移動し新たに氏族を造った結果で増加した。後に室町期には「下克上と戦乱」での「勃興氏」と「職能集団の姓氏」の発祥でも「氏族」と「姓族」は増加した。)

当然の様にこの「養子の慣習」が武家社会の中に定着して行ったのは室町期末期からで最終は江戸期初期の事であったのです。これも前段で論じた様に「氏の拡大」と「武家の社会の確立」からの「社会慣習の変化で」あったのです。
この時には既に「朝臣族」と「賜姓族」と「公家に対する武家」の「慣習概念」は皇族の特定の一部の社会環境の中にのみ無く成っていたのです。
一部「伊勢」と「信濃」の賜姓族に対する幕府の認識の中にしか存在しない社会と成っていたのです。
一般庶民の中では「伊勢」と「信濃」の特定地域の中に、「氏上様、御師、総師」として親しみを込めた尊敬の呼称として慣習に成っていたのです。
それまでは「純血性」を優先する「朝臣族の賜姓族」の慣習の中では「跡目融合」と云う血縁形態ではあったのです。
この様に、その「氏の跡目」は分家、分流、分派、支流、母方縁者から取るので、「同族血縁」の為に殆ど息子、嫡子、嗣子は同然の扱いの概念に近い状況にあって、今の現在の概念とは異なるものであったのです。
「養子」にしてもこの上記の範囲から幼児や子供の頃から迎えて育てると云う嫡子同然のものであり、結局は養子に成るか成らないかはその母の順位に大きく左右される事に依って決っていたのです。
当然に養子先に於いても朝臣族である限りは、「4段階の身分夫人制度」が存在して其処の家にも子供が生まれ同じ嗣子の現象が起こっている訳ですから、「養子」が直ぐに「嫡子」と云う事には成らないのです。

そもそも、男系の嫡子が嫡男、又は長男とした慣習は江戸初期からで、それまでは、武家の中でも朝臣族の氏では嗣子の中からより優れた者を嫡子にすると云う慣習が強く存在したのです。
それは「家」と云う小単位の範囲ではなく「氏」と云うより大きい単位の中での範囲の概念の慣習であって、従って、「氏」をより強固なものにする為に相互に氏内の家の嫡子を「跡目養子」や「婿養子」や「貰養子」等の方法で配置して固めようとした慣習であったのです。
当然に「朝臣族」は他の氏と異なり「純血性」を保つ為に長い「同族血縁の慣習」を引き継いで来た為にもその欠点も補え、且つ欠点を避ける手段として当り前の事であったのです。
ここが他氏から観ると、「奇異な慣習」であったと観られていた筈です。
この「2つの目的」(「氏内の優秀な嫡子の配置」と「純血性保持の欠点退避行為」)の為に生活はこの一点に左右されていたのです。
これが「八色の姓制度」に裏打ちされた「氏家制度」の慣習の代表的な営みであったのです。
取分け「3つの発祥源」の立場に置かれていた「第4世族内の朝臣族の賜姓族」(5家5流賜姓族)に取っては、この「純血性同族血縁」の血縁は最大の目的であったのです。
そうしなければ一門を率いて「神明社の建立維持管理」などの「重要な国策の責務」を果す事等は不可能であった筈です。

(参考 筆者は、その意味で「青木家 家訓10訓」がこれを遂行するマニアルとして存在していた、と考えているのです。)

従って、「第4世族内の朝臣族の賜姓族」(5家5流賜姓族)を論じる場合は避けて通れない論点であって、この慣習事を前提に本論を論じることに成ります。
そうすると、上記の「主要な初期の19守護地」と「遷宮地」の「2つの表」からある事が読み取れるのです。

当然に、そうなれば、「朝臣族」間の慣習のみならず、「真人族」との慣習もあった筈です。
「真人族」と「朝臣族」はその皇子の順位が4位と6位の差のみであり、「賜姓族」に成ったか成らなかったの差でしかないのですから、上記する「血縁慣習」だけではなく「融合血縁」も当然にあった筈なのです。
何故ならば「真人族」は「子孫存続」に対しては”「自らの力が卑弱」であった”のですから、その本能として何らかの存続策が考えられ慣習事としてあった筈です。
当然に、「卑弱」とすれば必然的に強くなった「朝臣族の賜姓族」にその「血縁融合」の矛先を向ける筈です。その方法としては「真似る」か「融合するか」に掛かります。
「真似る事」はその「生き様の前提」が相当であれば可能です。しかし「卑弱」であるのですから、融合以外には論理的にも有り得ません。
枝葉を広げる「通常血縁」をしょうとしても「皇族の慣習」(純血血縁と同族血縁)に縛られ、最上位の身分とも成れば下位に「枝葉の跡目血縁」をする事は不可能であります。それは「自らの氏の終焉」を意味します。
そうなると、残されるは「第4世族内の朝臣族の賜姓族」(5家5流賜姓族)であり、「真人族」から観れば、「朝臣族の賜姓族」では下位であったとしても、元より「純血融合」を繰り返してきた「5家5流賜姓族」で、その「身分、家柄、官位」等は天皇に継ぐ2段階上の永代位を持っているのです。
(伊勢と近江の賜姓族は淨大1位 真人族の皇太子は淨高2位)
累代の「単体の未融合の真人族」からすれば、既に「真人族と朝臣族の融合複合体賜姓族」なのですから、この「5家5流賜姓族」は実質は上位に見えているのです。
況してや、「8人の天皇の初期の意思」を実行する「国策氏」であり「民と氏族に賛同・容認された氏」であり、全ての「臣下族の象徴」の「3つの発祥源」でもあるのです。
その力は「武」に頼らない生臭味の無い「賜姓氏族」であり、第1期の「皇親政治」を司る程の「影の力」を持った「氏族」の「賜姓青木氏」なのです。
累代の「真人族」は躊躇無く「融合血縁」に臨む筈です。生き延びる為にはこの「融合血縁」しかなかった事が云えます。
平安期に入り「5家5流賜姓族」には衰退期があったとしても、「融合血縁の真人族」にとっては「天皇家」が続く限りは厳然として存在して行くのですから、真人族の生き延び先は変わらないのです。
それは「5家5流賜姓族」なのです。

前記した「嵯峨期の詔勅」から観ても、この「融合先の5家5流賜姓族」の扱いに付いては触れていないのです。
それだけでは無くて、全ての向後を含めた「真人族」と「朝臣族」の「下俗」「還俗」の「氏名」として他に永代に使用を禁じたのです。
この意味する処は、先ずは現存する「5家5流賜姓族」を容認し、その上で過去の「融合慣習」を認めている事に成ります。
つまり、暗に「全真人族と全朝臣族」に対して「嵯峨期詔勅の賜姓」や「比叡山入山 僧化」以外にも「5家5流賜姓族」への「積極的な融合」を「副軸強化策」として促しているのです。

「嵯峨天皇」は、「桓武天皇」と抗争する程に、「嵯峨期詔勅の賜姓」と「5家5流賜姓族への融合」の「二本立て策」を実行したのです。
これには、「嵯峨天皇」が詔勅で「5家5流賜姓族の存在」を否定しなかった事は、永代の「不入不倫の権」の容認と、前段で論じた「退避保護地の容認」と、「3つの発祥源」「国策氏」「皇祖神の子神の祖先神」の「容認と継続」を宣言した事にも成ります。
何はともあれ「5家5流の賜姓地」から全く追い出してはいないのです。
「詔勅の文脈」から判断すれば、賜姓臣下させる前に先ずは「5家5流賜姓族」を廃絶するか何らかの手を打つのが「政治の策」で常道です。
況して「宣旨」ではなく「詔勅」なのです。「命令書」ではなく「宣言書」なのです。
これは明らかに暗にして「容認の宣言」の何ものでも有りません。
「桓武天皇の律令政治」には「皇親政治の5家5流の賜姓族」は邪魔であった為に「政治の場」から排除したのですが、この時、「嵯峨天皇」も一応はこの排除は認めます。
然し、これは「皇親政治のイメージの強い賜姓族」が政治に関わる事に依って「律令政治」を容認している姿勢に疑いを起こされる事を懸念しての事であって、しかしながらも、その「嵯峨天皇」は「律令政治」をベースとする「第2期皇親政治」を実行した張本人の天皇でもあるのです。
ただ、かと云って、「5家5流の賜姓族」を敢えてこの「第2期皇親政治」に引き込まなかったのです。

それは上記の「律令政治の継承」の件があった事と、「5家5流の賜姓族」を「政治の場」から外して「真人族」と「朝臣族」の「存続の融合先」に定めて「政治抗争」から外して温存し、上記した「8人の天皇の初期の意思」の「副軸としての立場」をより負担無く安全に構築させる狙いがあったのです。

然し、その後の経緯が「嵯峨天皇の思惑」の通りには進まず、「嵯峨期の詔勅」の「11代の別種の賜姓族の出現と政治抗争」と「5家5流賜姓族の衰退」とでなかなか元の状態に復興させる事が出来ず、神明系社建立などの「国策遂行」に支障をきたし始めたのです。

そして、結局はその流れを変えたのが前段と上記で論じた「特別賜姓族の補間策」であったのです。
この「5つの衰退期間」を通じて生き残った「3家3流賜姓族」は、この間に「禁じ手の商いの基盤」を確実に手に入れて、「特別賜姓族の補完策」で息を再び吹き返して来るのです。
「3家3流賜姓族」が「政治の場」に無かった事が、より比較的には「禁じ手の商い」は厳しい中でも、「民の容認と賛同」を獲得出来たのです。
そして、「11代の賜姓源氏」、取分け、「清和源氏」の荘園制をベースとした勢力拡大に因って、潰され敗退した土豪の武力集団を「3家3流賜姓族」の「商いに基づく経済力」でこれを吸収して組織化して救済したのです。

最も、重要な事として、「嵯峨期の詔勅」の賜姓族の源氏(清和源氏)が構築した「武力集団」に対して、その一方では「5家5流賜姓族」が構築した「影の武力抑止団」(シンジケート)が存在して行ったのです。
これは真に「影」の実質の「国策氏」であります。

「嵯峨天皇」は、「詔勅」と「宣旨」を発する時にこの事も予想して、「5家5流賜姓族の温存」の為に暗に容認する態度を採ったのです。

厳しい「嵯峨期詔勅」の「賜姓臣下策」を実行すれば、何時か ”溺れる者は藁をも掴む”の喩えの通り、「人間の窮地の本性」の上記の「屯」が起こります。
優秀で聡明な「嵯峨天皇」でなくてもこれは誰でもが判る事です。当然に、「宣旨」ではなく「詔勅」と成れば「民の長」である限りはこの為の「秘策」を講じて置かねば成りません。

(+)の「屯」は最大の「清和源氏」 「満仲が構築した武力集団」 
(-)の「屯」は「5家5流賜姓族」が構築した「影の武力抑止団」(シンジケート)
∴ (+)+(-)=0

元より「5家5流賜姓族の発祥源」は、「3つの発祥源の象徴」としての「国策遂行の氏」であり、「天皇を護る親衛隊」でもあります。
そうすると、(+)が発展して他に拡大する事は有り得て、国、又は天皇家を脅かす事にも成り得ます。
”東漢の軍を背景とした蘇我氏の例”に観ずとも、「民の長」である限りは、火の粉は小さい時に潰して置くが常道で「常套手段」であります。
況して、「大化期の反省」であります。
当然、そうなれば、これは元より「国策氏」としての「5家5流賜姓族の務め」でもあります。

然し、”「武」には「武」を以って制する” は「5家5流賜姓族」には法度であります。
とすれば、(+)*(+)=0の数式論は、「5家5流賜姓族の滅亡」を意味しますから、これよりは(+)+(-)=0の数式論の選択に迫られる筈です。
政治の「常套手段」としては、「「屯」と「屯」との戦い」に依って起こる「屯」が飛散しさせた「火の粉」を「一定の条件」で集め直す事が必要に成ります。その「一定の条件」を整えた上での「常套手段」と成ります。
それが、「商い」+「抑止力」=「影の力」の数式論にする事に成ります。
この様にすれば、「屯」の「火の粉」は散りません。

真に「空白期間の商い」に向かった目的は此処にあったのです。
だから、「禁じ手の商い」の「皇族の容認」と「民と氏族の容認と賛同」は、この数式論の背景を社会は充分に理解していたと考えているのです。
”何を論じたいのか”と云うと、「嵯峨天皇」は「嵯峨期の詔勅」を発する時、この「祖父の実家」の「伊勢青木氏」を通じて、事前に ”「5家5流賜姓族との談合」を行ったのではないか”と観ているのです。
そもそも、副軸の宗家の「祖父の実家」に対して何もしないで「詔勅や宣旨」を発する事は、「光仁天皇」や「施基皇子を」無視する事に成る訳ですし、余計に事を荒立てる事に成りますし、収拾が付かない事にもなって仕舞います。
そもそも、「嵯峨天皇」は「大化期の国策氏の賜姓族」を容認しているのです。その容認している「親族の賜姓族」に対して黙っている事は普通はないと考えられます。
「国策氏」として懸命に働いている「大化期の賜姓族」(5家5流賜姓族)に黙って無視する事は賢明なで聡明な「嵯峨天皇」がする事は先ず無い筈です。
もっと云えば、「桓武天皇との抗争」の時に、「5家5流賜姓族」が衰退に追い込まれて行く事を踏まえて、既に、談合が成されていて、抗争に勝利した時に「打つべき手段」(常道の常套手段)を話し合っていたと考えているのです。(中大兄皇子が蘇我氏打倒の談合寺の密談にある様に)
その ”「談合の内容」が「上記の数式論」であった。”と論じています。

談合策は、「一石五鳥の秘策」であったのです。それをその後の「賜姓の変質」で事態を憂慮した「円融天皇」がこれを読み取りこの秘策を蘇生させたのです。
この「一石五鳥の秘策」の中に「皇族存続の秘策」の「真人族と朝臣族の融合血縁策」が存在していたのです。要するに、「嵯峨期の詔勅」に因って引き起こされるマイナスのリスクの解決策の一つが「影の武力抑止団」(シンジケート)でもあり、もう一つは、詔勅に依ってはみ出されて弱体化するリスクの「真人族と朝臣族の融合血縁策」を「一石五鳥の秘策」の中に組み込んだと云う事なのです。

「5家5流賜姓族」は影に居たのではなく「皇親政治の場の一氏」として目立つところに存在したのです。
平安期前は小さく「影」に居たのではないのです。小さく「影」に居たとするなら無視も有り得る事ですが、むしろ、上記した様に副軸として段突に目立っていたのです。それも皇族の社会と民と氏族の社会の中に「和の氏」として目立った存在であったのです
そもそも「桓武天皇」の父は「伊勢の賜姓の始祖施基皇子の嫡子」なのです。「嵯峨天皇」には祖父の家なのです。要するに父方ルーツなのです。
これでは ”影で居て無視”はあり得ません。「嵯峨期の詔勅と宣旨」で触れなかった事は、真に真逆の賜姓制度を施行するにしても、秘策の為に敢えてその存在を「公に容認する事」では無く、「暗に黙認する事」にした事を意味するのです。
そして、それを強く印象付ける為に「青木氏」を皇族者が下俗する時に使う「氏名」として他に使用をわざわざ禁じたのです。
詔勅にて、”新たに源氏として賜姓するけれども” ”国策氏の賜姓族青木氏が既に存在しているのだよ” と「5家5流賜姓青木氏」が「民と氏族の賛同と容認」を得ている事を念頭に、「民と氏族」に向けてきっぱりと宣言したのです。

(特記 桓武天皇の「母方たいら族の賜姓」と「大化期の賜姓族の排斥」に対する「民の氏族の懸念払拭」に向けて宣言したのです。)

「3つの発祥源」「皇祖神子神の祖先神-神明社」等の「国策氏」を無視否定は、朝廷の国策を否定する事にも成るのです。桓武天皇の「行き過ぎ」を修正したのです。
その為の「政治抗争」でもあったのですから、「嵯峨天皇」の主張を取り入れ自ら「神明社の20社」を建立したのです。

(特記 実家先の務めとして、その嫡子として建立したのか、国の務めとして、その天皇として建立したのかは何れも確認出来ない。恐らくは両説併用説であろうと思いますが、筆者は希望的観測を入れて「実家先・嫡子の説」を採っている。)

「真人族と朝臣族の融合血縁策」はこの様な経緯の中での策であったのです。
これを更に詳しく論じると次ぎの様に進んだのです。

「真人族と朝臣族の融合複合体賜姓族」に付いては、次ぎの様な事に因って起っているのです。
それがこの場合、大化期の当初から上記の表の「国府」外の「14の守護王」からも跡目を入れる態勢を構築していたのです。
この事の表れの一つとして上記の「信濃 甲斐」と「飛鳥 吉備」との「国策の変更」が起ったと観ているのです。
その「真人族の血縁融合」と上記の「国策変更」とに付いて検証して観る事で判ります。
その結論から先に応えるとすると、”「5家5流皇族賜姓地」の・印外の「6守護王」からも「跡目」を入れていた。”と云う事なのです。

つまり、先ず、上記の表を良く観ると、「5家5流皇族賜姓地」の「近江」と「信濃」と「美濃」には国府外に「複数の守護王」が存在しているのです。
(1つの国に複数の守護王配置 主は政庁のある国府に定住する)
この「国府外の6守護王」の務めには、「守護範囲」を細かく分けて「統治性を高める目的」もあったのですが、「国府の守護王の異変」に臨機に対応する目的もあったのです。
何故、この様に一地域に「複数の守護王」を置いたのかと云う事ですが、これがポイントなのです。
ただ、複数にしたと云う事では無いのです。これには、この「2つの目的」、即ち、「氏内の優秀な嫡子の配置」と「純血性保持の欠点回避行為」が先ずあったのです。
この為にこの「2つの目的」を維持する為の態勢を維持する上で、「養子、跡目」を盛んに行って「融合血縁」を図ったのです。
”互いの「氏家」を「同族血縁」で維持する”と云う事でだけでは無く、”より強力な氏を維持している賜姓族に融合して行く”と云う体制を採用したのです。

上記で論じた様に、「朝臣族」は元より「真人族」もこの「3つの国府外の守護王」にとっても同じくその様にしなければ生き延びて行く事は、「賜姓族」の様に「独自力」を保持していない以上は困難であったのです。
むしろ、この行為は、単なる「血縁」と云う行為ではなく、”氏家ごと溶け込んで行く”と云う言葉が匹敵する「融合の形態」を採ったのです。又、採らねば成らない環境に生まれてから陥至っているのです。
それ程に、「真人族、朝臣族」の「氏家」として「政治的、経済的、軍事的な力」が不足していて、生き延びて行く事には難しい事を痛感していたのです。
「真人族」や「朝臣族」の皇族の中で育って、”モヤシの様な皇子”にはこの厳しい「下俗の環境」の中では到底無理で皇族保護無では無理であります。
この「判断の根底」には「真人族、朝臣族」として逃れる事の絶対に出来ない慣習、即ち、「純血性の慣習」に宿命として強く縛られていたのです。
「賜姓族」を始めとする「真人族」と「朝臣族」の「絶対的な宿命」であったのです。
一人立ち出来ない者にこの「慣習の縛りが」あるのですから、そうなると「絶対的な宿命」の欠点が「氏家」を維持して行く以上は付いて廻ります。

この事を解消しなければ「氏家」そのものが論理的に成り立ちません。
これは「純血性」を保持する為の「同族血縁の弊害対策」の処置でもあった事は云うまでもありません。
「真人族 朝臣族」は「氏家の慣習」「純血性の慣習」「絶対的な宿命」「慣習の弊害」「融合血縁」と柵に囲まれ「賜姓族」に溶け込んで行かねば成らない「絶対的な環境」にあったのです。
その為にもその「受け皿」を造る必要があり、その複数の守護王がそれに成り得なかった場合は自らが「賜姓族」に溶け込む以外には無いのです。
元より成り得ない「第4世族内の王の生い立ち」なのですから、力の持った「第4世族内王の国府の賜姓族」に溶け込んで行くしかないのです。

「5賜姓族との関係王」
次ぎの「5賜姓族地」には次ぎの王の末裔が「跡目、養子」などで奈良期-平安初期に補足する形を採っていました。「皇族」と云う「血流の保全」(国策氏、副軸)の為に「必要不可欠な対策」でもあったのです。
ではこの守護地にはどの様な国府外の守護王が存在していたのかを検証してみますと次のように成ります。
「地理」と「王の経緯」から観て次ぎの状況にあったと考えられます。
伊勢は、奈良の[宮処王]の守護王の末裔が補足
近江は、滋賀の「雅狭王]の守護王の末裔が補足  平安期末に滅亡
信濃は、長野の[高坂王]の守護王の末裔が補足
美濃は、岐阜の[広瀬王]の守護王の末裔が補足  平安期末に滅亡 
甲斐は、愛知の[弥努王]の守護王の末裔が補足  (広域甲斐)

上記の「19の守護地」を地域別に分類すると地理的に賜姓地と完全に一致しています。
特に下記に状況を記しますが、「19の王の経緯」の中でこの「5王」に集約されます。
完全一致したと云う事は、はっきり云えばこの「5王」が上記で論じた様に「融合血縁」で生き延びた事を意味します。
そこで、この「5王」が融合したのか、或いは何処かに移動したのか、他に何かあったのかを歴史的に追跡可能な範囲で調査してみました。

「4世族内19守護王」の履歴
先ずこの「5王の履歴」は次ぎの4つに分けられます。
(これ等の大化期の王の詳細は不祥で他説が多い。)

A 滅亡したか B 末裔を遺し得たか、C その地で末裔が住み続けたか、D 除外
以上の様に本論では4つに分類出来ます。

経歴
1 雅狭王、山部王、高坂王
  山部王は壬申の乱で没(A)
  雅狭王と高坂王は生き延びた(BC)。
2 泊瀬王、広瀬王、竹田王、難波王
  泊瀬王は天皇没(A)、竹田王は没(A)、難波王(D)、
  広瀬王(春日真人族:BC)と竹田王と難波王は学者、官吏(BC)。
3 春日王、宮処王、弥努王、桑田王
  桑田王は長屋王事件没(A:B)、春日王(D)
  弥努王(中立:BC)、春日王と宮処王(春日真人族:BC)
4 栗隈王(D)、武家王(D)
  「栗隈王」(難波王の孫)、「武家王と美努王」は「栗隈王」と親子(B)

(注意 春日王、栗隈王、武家王 弥努王 4王は九州地域に勤務定住 除外)
(注意 難波王は栗隈王の祖父 除外)
(注意 春日王と栗隈王の末裔間で血縁 九州筑紫 除外)
(注意 竹田王は蘇我氏系 特令地遷都王 若没 竹田王も特令地遷都王 除外)
(注意 泊瀬王は崇峻天皇 厩戸皇子(聖徳太子)、難波王、春日王と同時代の同格 除外)

「4つの血流」
この1~4の「4つの分類」には大きく分けて「3つの血流」があります。
A 春日王-広瀬王、宮処王、        (春日真人族)
B 難波王-栗隈王-武家王、美努王、高坂王 (特令5世族王 3世代一族)
C 長屋王-桑田王、弥努王         (長屋王:19王外 高市皇子の子)

  山部王 雅狭王             (不祥王 地理と履歴から一族の可能性大)
  泊瀬王(天皇)         
  竹田王(母方蘇我氏)

(注意 「山部王」は桓武天皇の別名 この「山部王」とは別人 同名の王が多い事に注意)

「関係外守護王」
以下は「4世族内19守護王」の内で「特令地の王」であり、「皇族賜姓族の関係外守護王」であります。
(京都の[栗隅王][武家王]は例外地の特令王 北九州に赴任)
(大阪の[竹田王][難波王]は特令地の遷都王  遷都により王位無し)
(愛知の[桑田王]は特令地王 美濃王の末裔に吸収)
(福岡の[春日王]は筑紫宰府王 例外地の特令王が引継)
(石川の[石川王]は吉備、播磨に移動赴任 伊勢-信濃に引継)

(注意 この事から「三地域の違い」はこの経緯があった為に「三野」と「美濃」、「弥努」と「美努」「御野王」は他の書籍等では混同している。  何れもこの5出自地と5王の人物は別である。)
(注意 筑紫宰府の「難波王」と「春日王」の関係族は「特令王外」として九州にて子孫を遺した。)

「存続王」の経緯
結局は、「4世族内19守護王」が生き延びて子孫を遺し得たのは以下の「5王」と成ります。
「雅狭王」と「高坂王」と「宮処王」と「広瀬王」と「弥努王」
以上の「5王-5地域」であります。
結局、この王と地域の検証ではこの「5王-5地域」に問題が無い事が判ります。

この事柄から、生き延びて周囲の「真人族」と「朝臣族」の「同族血縁の習慣」に従って皇族子孫を何とか遺そうとすると次ぎの様に成ります。

奈良期から平安期に掛けての全ての事件に巻き込まれず、確実に「氏存続」を強く推し進めたのは、上記「19守護地の王」の内、上記の5地域の「5家5流皇族賜姓族」のみであります。
つまり、5地域の国府外の周囲の王は子孫が遺していないのはこの「5家5流賜姓族」に融合して吸収した事を意味します。
そうすると、どの様に融合したのかと云う事は次ぎの様に成ります。

「5賜姓族」の守護王 「伊勢王」「近江王」「美濃王」「信濃王」「甲斐王」
「5存続王」の守護王 「宮処王」「雅狭王」「広瀬王」「高坂王」「弥努王」

この「朝臣族の5賜姓王」は奈良期から平安期までの歴史上の事件に一切関っていません。
「真人族の5存続王」は事件、乱にほぼ中立維持しました。
依って「5王-5地域」の検証には問題はありません。

問題が無い事が判ったとして、これを「地域毎」に組み合わせると必然的に次ぎの様に成ります。
伊勢は、奈良の[宮処王]
近江は、滋賀の「雅狭王]
信濃は、長野の[高坂王]
美濃は、岐阜の[広瀬王] 
甲斐は、愛知の[弥努王]

「皇族の同族血縁の慣習」
上記の「5地域-5王」の「真人族と朝臣族」の「皇族の同族血縁の慣習」を守り子孫を遺そうとすると、当然に先ずは直ぐ隣りの「地理性」が優先される事から、以上の組み合わせから血縁が進む事に成ります。

結局、結果として「5家5流の賜姓朝臣族」が「真人族の5王」の子孫を上記した「跡目・養子等の血縁方法」で吸収した事に成るのです。

(特記 「5王の真人族」の末裔子孫は確認出来る範囲で平安末期までに地域内に存在しない。)

つまり、この「4世族内19守護王」は「真人族と朝臣族」に分けられ、「5地域の朝臣族」は「賜姓」を受け「臣下」し「青木氏」を名乗り、これに「真人族」が吸収された「融合の氏化」が起った事に成ります。

それは「族制」「有品制」に無関係に「総合的に氏力の強い方」に吸収されて行くのが「自然の摂理」でありそれが働いた事に成ります。
それの大きな要因は「純血性を護る同族血縁の慣習」に因るものであります。
「真人族」と「朝臣族の賜姓族」との差は、まさしく「融合氏」の「3つの発祥源」の「有無の差に」因る事に成ります。
(注意 上記した様に実質は賜姓族が上位と成る)

故に「真人族」は「賜姓族」に融合して「直系子孫」を遺せなかったのです。
”遺せなかった”と云うよりは、「時代の厳しい背景」とこれに抗う「真人族5王の力」の差を強く認識し、積極的に力を獲得して行く「朝臣族の賜姓族の5王」に ”自らの方から融合して行って、「融合」と云う方法で子孫を遺そうとした” と考えられるのです。
これが「皇族内の自然の摂理」であります。
そして、この事の行為が、「純血性を護る同族血縁の慣習」の「思考規準」から、この時期にはむしろ「正当化」していたと考えられるのです。
これが「氏存続」に付いて「皇族と臣下族」との思考の大きな違いであったのです。

「八色の姓の制」の影響
その証拠としては、「八色の姓の制」の制定に現れているのです。
そもそも、この「皇族と一般の臣下族」との間に「大きな思考規準」の差が無ければ、「八色の姓の制」をわざわざ定める必要性はない筈です。
「身分の差」のみを定めるのであれば、「八色の姓の制」を定めても護られない筈です。
大別して「氏を構成」出来る範囲の民にある「八階級の身分」の間には、生きて行く上での「社会的な思考規準の差」が厳然としてあったからこそ、それが大きな「社会の隔たり」として表れたのです。
そして、この社会を秩序良く維持して行くには、「八色の姓の制」を定めて「氏姓や身分毎の行動規範」を社会の中に作り上げようとしたのです。
それは各身分間の「融合氏の発祥」が多く成っていた事を物語るものであり、その「行動規範」を「氏族」の中で常識として守らせる事で、「氏家制度の初期段階の構築」を目指したものであったのです。
その構築の規範例が「3つの発祥源」を責務とする「5つの地域」に「皇族賜姓族」を作り上げたのです。「社会の模範例」とする為に「賜姓」と云う方法で「氏族」を固めて発祥させたのが此処で云う「青木氏の賜姓族」であります。
つまり、「氏融合の初期段階」では、この「八色の姓制の行動規範」に基づく「氏家制度の社会構築」を目指したのであります。「八色の姓制」は此処に意味があったのであります。

「真人族」(まさと)「朝臣族」(あそん)「宿禰族」(すくね)
「忌寸族」(いみき)「臣族」(おみ)  「連族」(むらじ) 「稲置族」(いなぎ)

(特記 宿禰族までの3族と、稲置族までの4族との間には実質の「行動規範の大溝」があり、結果として「融合化の溝」に成った。宿禰族は稲置族よりの中間族 政治思想の思惑を込めた「八色の姓制」を否定する説もある。)

「真人族と朝臣族」の融合化
「真人族と朝臣族」が「八色の姓制」に縛られているとすれば、「真人族」は独自色を高めて社会を引っ張って行くには全くの力不足であり、必然的にこの「社会の融合氏の規範例」となった「朝臣族の賜姓族」に「自らの存在」を融合させて行く事が「最良の生きて行く方策」と成り得たのであって、故に上記した経緯と成ったのです。

この「融合化し始めた社会」が「5つの思考規準」に分かれていたのですが、その根幹は「夫々の守護神の考え方」にあったのです。
その互いの「5つの考え方」を主張しあう事は、結果として「社会の混乱」を招く事に成り、「自ら神の考え方」を押し通そうとすると、必然的に「生存競争の争い」が起こる事に成ります。

これを解決しようとしたのが「八色の姓制」であって、その「考え方」と「行動規範」を定めて争い事に成る「思考の巾の領域」を封じ込んだのです。(現実に多発していた 「日本書紀」に記述)
そして、「5つの守護神の5つの考え方」を統一させたのが「皇祖神」であって、その統一した「皇祖神の考え方」を伝達させる為には「皇祖神」の「子神」を定めたのです。
その「子神」には「祖先神」を定め、その「祖先神」に「規範神の役目」を与えたのです。
その「規範神の社」を「神明社」として全国に普及し建立し続けたのです。

その役目(「祖先神-神明社」)を上記する「朝臣族の賜姓族の5王」の「融合末裔子孫」に委ねたのです。
つまり、その「真人族と朝臣族の融合氏」の統一化した「賜姓族」にその任務を与えたのです。
これであれば「皇祖神の子神」たる立場は完全に構築された事に成ります。

「皇族の純血性血縁」
前段でも論じた様に、この奈良期から平安初期の時期には、完全な「皇族の純血性血縁」を守る為に「3世族の従姉妹や叔母姪」と「4世族内での血縁慣習」を敷いていたのです。
この「皇族慣習」に従っているので間違い無く血縁をしていたのです。その為に他の血を入れる為に、「4段階の夫人制度」を敷いていたのです。

「夫人制度」 [皇后、后、妃(ひめ)、嬪(みめ)、妥女(うねめ:例外夫)]

(参考)
「3世族の従姉妹や叔母姪」の純血婚から外れて、原則、[嬪]域からやや「他流血」が入る。
「妃域」までは母方の地位により決められる。
「妥女」は地方豪族から人質として取り、一種の「奴隷女官」で完全な「他流血」である。
「妥女」の子供の王位は最も低い。
「奈良期の大化期頃」は「亜子」の誕生が多く「若没」であった為に「王」には「妥女」の子が多かった。

「同族血縁の弊害」には「亜子」等の子供が生まれる確立が高いので、「嫡子」としての基本的な能力に欠ける場合が多かったし、「隔世遺伝の影響」が強かったのです。
且つ、極めて死亡率も高かったのです。逆に極めて優秀な子供も生まれる事もあったのですが、その為にも「嗣子の有無」に関らず関係族から「跡目」や先行して積極的に皇族間で「養子」を取る「当り前の習慣」が皇族にはあったのです。
この習慣は「真人族」、「朝臣族」(記録では橘氏の様な「宿禰族」も一部含む事もあった)までの習慣であったのです。

この様な「5家5流の賜姓族地」には、殆どの近くの「王族の真人族」が「融合化」して行き、「賜姓族化」し、平安期初期には「力のある賜姓族で1流化」して行ったのです。
そして、平安時代中期には「賜姓源氏」がこの「5家5流賜姓族」に「跡目」を積極的に入れて子孫を移して遺して来たのです。
(「嵯峨期の詔勅」の「賜姓源氏」には上記の様な厳しさがあった)

「嵯峨期の詔勅」により発祥した11代11家の「源氏」と、阿多倍一門の「賜姓たいら族」(桓武平家)との間には ”2軍の将相立たず”と成る事は必定であったのです。
この2氏ともに何時か雌雄を決して戦う事を事前に予測し、源氏は戦略として幼児の時から「跡目養子」を例外無く「5家5流の賜姓族青木氏」に移していたのです。
それは何故かと云うと、「5家5流賜姓族」は、「3つの発祥源」「皇祖神の子神」としての責務を保つ為にも、常に如何なる場合に於いても「和の中立」を保っていたからであります。

(注意 「武の中立」もあるが朝臣族である限り「武」は禁じ手慣習)

むしろ、「和の中立」を保たなければ成らない立場を宿命的に義務付けられていたのです。
従って、「和の中立」を保障する為に「5家5流皇族賜姓族」にのみ与えられていたのが「不入不倫の権」であり、それを物語ります。(賜姓源氏には無かった)
故に、「真人族」「賜姓源氏」は、如何なる場合にも子孫を遺す事を目的として、この「和の中立と安全」を保障され、その上で、先ず「商い」で「生存力」を持ち、「3つの発祥源」の立場を守り、「国策氏」として勤めもあり、「退避地」を持管理運営し、「祖先神-神明社」を建立し、民から「御師」等と呼ばれて「氏族」から慕われる象徴等の役目を持つ「5家5流賜姓族」には、「同族血縁の慣習」の下に「和の中立」を委ねたのです。むしろ委ねない方が異端であります。

「真人族」はその「非力」から、「源氏」は「武家の危険性」から「同族血縁の融合化の習慣」を事前に採用したのです。
この平安末期から始まった混乱期の時代では、「河内源氏」を除く源氏の多くは「自らの氏の存立と子孫存続」(枝葉末孫の拡大)と云う形だけを主体とはせずに、「3つの皇族の融合化」と云う形をも併用したのです。

(注意 「枝葉存続策」のみと考えられがちであるが、この説は朝臣族の前提を欠けている)

その「融合化の対象」と成ったのが「5家5流の皇族賜姓族」であったと云う事であります。
むしろ、「3つの発祥源」と「国策遂行」を完遂する責務を与えられていた事から起った「融合化の慣習」であったのです。
「5家5流賜姓族側」からすれば、むしろ「国策遂行」の為にも皇族が一本化する事で強固にも成り、子孫数の確保の面からも歓迎する事でもあったのです。

(特記 伊勢青木氏や信濃青木氏や伊勢特別賜姓青木氏の資料から観て見ると、平均的に1賜姓流では4から6流程度であった模様で、2次流まで観るとこの2倍程度と成っていた模様)

それを証明する行為が「皇祖神の子神」「祖先神-神明社」の「建立の責務」であったのです。

「真人族」にしろ「11代賜姓源氏」にしろこの様な責務は、これらの氏には与えられていない事が逆にこれを証明します。
彼等には「皇祖神の子神」とする「独自の守護神」を持ち得て居なかったのです。
「源氏」が建てたとする「八幡社」は、「11代賜姓源氏」の中の9代目の「清和源氏」のその一部の「分家河内源氏」の「独自の行為」であって、11代の賜姓源氏全体の責務ではなかったし、その「八幡社建立」の主体は「名義貸し」の「荘園制」から来る「未勘氏族」の仕業であったのです。

(特記 そもそも、「八幡社の根源」は、北九州に発祥した「神祇信仰で」あって、その信義を大仏建立の「国家鎮魂の国神」とした事から始まったが、何時しか荒廃して「摂津源氏」に復興の任を命じた事が始まりであったのです。
それが「河内源氏の義家」の時に「未勘氏族」に依って「武神」に変えられて、源氏の守護神かの様に喧伝されてしまったのです。
従って、「八幡社」には「摂津源氏」等の和を求める多くの源氏が任とした「国神」としての「国家鎮魂の八幡社」と、「河内源氏」の未勘氏族の「武神の八幡社」の2流があるのです。 八幡社にはこの2種の社があるのですが、11代賜姓の源氏の守護神の様に誤解されている。)

(特記 賜姓を受ける事は、「荘園制の名義貸し」(未勘氏族)に「賜姓と云う権威」を背景に出来る事から「貸利益」に大きな効果があったし、それらの「未勘氏族」を集めての「武力集団」を最初に組織化した「清和源氏」[河内源氏]には「賜姓」は絶対的に必要であった。
元々、経基王は、「清和天皇」の皇子ではく、「陽成天皇」の子であったが父が愚能であった事から、祖父の賜姓を受けるべく長年懇願し続けた。始祖の経基王は長い間の念願を果した程であった。
「清和天皇」も外祖父の藤原良房が政務を執った初の「人臣摂政」で清和天皇の意思ではなかった。)

(例 「伊勢青木氏」には「清和源氏」の「源頼光系四家」の宗家「頼政-仲綱」の子の3男「京綱」を「跡目」に入れた。「以仁王の乱」前である。そして「11代の源氏」が全て滅亡して行く中、「源氏宗家」を「青木氏」の中に融合させて遺した。)

「特別賜姓」の補佐と任務
その結果、「融合化に」依って平安末期には最終的に「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「甲斐青木氏」の「皇族賜姓族の3家3流」に集約されたのです。
「滅亡した2家」は「近江域」と「美濃域」で「皇族融合化」を進めたにも拘らず、時代の荒波に抗する事が出来ず、あくまで「和の中立」を護らなかった「近江青木氏」と「美濃青木氏」が、結局は平安末期には平家に潰されて滅亡したのです。この時に坂東以西の「武の源氏」は事如く潰されて滅びたのです。

(注釈 近江青木氏の支流一部が戦いの場の美濃から逃げ遂せて摂津に戻り子孫を小さく遺した。)

この「2つの生き様の差」は「不入不倫の権」等で護られていたとは云え「生きる為の戦略上の違い」が「氏存続の差」と成って現れたのです。「和の中立の保持」
その「氏存続の差」とは、「嵯峨期の詔勅」によって起った「衰退時の蘇り策」から「武」に頼らない「和の抑止力」と「経済的な裏打ち」と成った「2足の草鞋策」であったのです。

(特記 この生き延びる為の上記の数式論の基は「商い」が前提条件にあって、「禁じ手の商い実行」と「5家5流の賜姓族の存続」と「国策氏の務め遂行」と「詔勅リスクの解決策の実行(シンジケート)」等を「嵯峨期の詔勅」前に、「総合的な経緯」から観て、”「嵯峨天皇」とは談合されていた” と考えられ、「暗黙の了解」があったとしているのです。大化期の中大兄皇子の談合に類似する。)

結局は、「16代の朝臣賜姓族」と「真人族の5守護王」の合せて「21代の皇族」が「融合血縁」に依って、最終は上記の「3つの発祥源」の「国策氏の賜姓族3氏3家の子孫存続」と成ったと云えるのです。

然し、平安中期には、「5家5流の皇族賜姓族」では、上記した数式論が成り立たなくなったのです。
つまり、「賜姓族力」<「国策遂行負担」=「国策の責務遂行の限界」の現象があらゆる面で起ります。
これを判断した「円融天皇」により、藤原氏北家から秀郷一門の第3子に「特別賜姓」して、皇族の融合血縁した「皇族賜姓青木氏」と同じ「全ての権限と権威と立場」を与えます。
「完全同格」としてこれを補佐する任務を与えたのです。(皇族外朝臣族の藤原氏北家一門 母方系族)

(特記 皇族賜姓の母方族を根拠に特別賜姓した。そして、同一族化させる為に「5家5流の賜姓族」の地に「融合青木氏」の血縁策を推し進めた。 従って、「真人族と朝臣族」-「5家5流賜姓青木氏」-「特別賜姓族青木氏」-「賜姓源氏」(河内源氏除く)]の5賜姓族地に「和の中立」の「完全総合の真人族・朝臣族賜姓族」の「融合青木氏」が誕生した。「和」の5賜姓族には「武家の分家方式」は採用されていない。)

この為にも、この「秀郷流青木氏」に対しての「跡目継承の断絶」を避ける為に「宗家一門から第3子」を常に補足する「決まり」を与えます。
「特別賜姓族」には、「真人族融合化」した「賜姓族」を含む「親衛防衛集団の義務」を与えたのです。

(参考 北面武士 親衛隊の右衛門佐上の最高位の指揮官の任を特別賜姓族青木氏宗家永代授与)

この「特別賜姓族の出現」で、それが「皇族賜姓族」の生き延びる為に必要とする「絶大な抑止力」に成り、「3家3流賜姓族」は他の「2家2流」と異なり生き延びられた源と成ったと云えるのです。
恐らくは、この「3家3流」と「2家2流」とは「特別賜姓族」との「付き合い方」が違っていたのではないかと観ています。

(特記 「和の中立」より「武の中立」に偏っていた為に、即ち、「生き延びる考え方」が違っていた為に特別賜姓族側は親交や血縁は避けていた事が考えられます。)

この世は「特別賜姓族」が補佐したとしても、あらゆる柵に依って必ずしも上手く行くとは限らない訳ですから、地理的に観ても「近江、美濃」には「特別賜姓族」が配置定住している訳ですし、疎遠であったとする事には成りません。
「地理的要素」から血縁でも充分に有り得た事でもあり、決定的な事は「河内源氏との付き合い方」にあったと観ています。

(特記 「和の中立」が保ちきれず、「武の中立」から遂には「武」に傾いてしまった。)

こ「の2つの青木氏」の任務は、上記した「皇祖神の子神」としての「神明系社の建立義務」を遂行するにしても、「宮司職」や古代密教の浄土宗の「菩提寺の住職」の配置も重要と成っていて、多くの子供「子孫の養育」が必要と成っていたのです。
その為にも、上記する「源氏、真人族の融合化」が急務と成っていた環境にもあったのです。
「同族血縁、純血血縁」を前提としたものであった為に、「第4世族内の5家5流賜姓族」には、武家の「本家概念」ではない「副軸」としての「宗家の概念」に基づいて「分家の概念」が無く、何れも「本家」なのです。
因って、「真人族、朝臣族との融合血縁」するにしても「家の格式の差」が無い事から何れの家にも「跡目養子」や「婿養子」や「貰子養子」の血縁を自由にする事が可能であったのです。

(特記 「伊勢青木氏」の資料から観ると、松阪殿、員弁殿、桑名殿四日市殿、名張殿、脇坂殿、伊賀殿、青蓮寺殿等の定住地の地名を付けた呼称で区別していた事が資料から判ります。
分家などの「格式の差」が「宗家」を除いて無い事が判ります。
只、全体を協議するリード役があった事が記録されています。この「宗家を構成する慣習」は、藤原秀郷流青木氏は元より秀郷一門主要8氏にも適用されており、「役職と地名」の2通りの使い分けをしていて、役職を持つ宗家筋は藤の前に役職名をつけて呼称していたのです。
24地方に赴任し定住した家筋は藤の前に地名をつけて呼称する習慣であったのです。
その内に枝葉孫が拡大してこの慣習では成り立たなくなり、宗家-本家-分家-分流-分派-支流末孫まで361氏の「家の格式差が」生まれまたのです。
然し、青木氏に於いては皇族賜姓族との融合氏を構成している事からこの「家の格式差の概念」が薄く家を構成していた事が判ります。)

そもそも「神明系社486社」とすると少なくとも3家3流賜姓族の単純な子孫量では成り立たなかったのです。

(特記 上記の通り、「第4世族内の皇族賜姓族」は慣習として分家方式を持たなかったのです。従って、家紋は全て「綜紋の笹竜胆紋」であり、「副紋方式」や「丸付き文様」や「類似文様」の方式は持たなかったのです。「嵯峨期の詔勅の賜姓源氏」は持ったのです。この事でも生き様の違い差が判ります。家紋の此処にも大きな違いが出ています。)

因って、この為にも、「夫人制度」と「真人族との融合化」を「純血性の慣習」を前提とする「5家5流賜姓族」にしかない「少ない賜姓族」に対し、この様な上記するあらゆる皇族慣習を持つ「国策氏」に問題が起こらない様にする為にこれらの「務め」を強いたのです。

(特記 上記する「特記の慣習」により「国策」を実行する上に於いても厄介な「格式差」がないのですから、どの家が遂行する務めの差が出ずに円滑に進められるが道理です。)

この建立を進める486社に宛がう「青木氏の宮司を」増強したのです。
「子孫存続の枝葉拡大」の為ではなく、「国策遂行」の為の子孫拡大確保の為の血縁であったのです。
そして、それらの為にはこの「家の格式」が担当した「国策の格式」に繋がる為に氏家制度の分家、分流、分派の「支流格付け」を行わなかったのです。
然し、この平安末期にはそれでも衰退も含むこの「あらゆる力」と「子孫供給力」が「朝臣族」の「皇族賜姓族」に欠けて仕舞い「特別賜姓族の誕生」の一原因にも成ったのです。

「近江佐々木氏」の縁故の援護
ここで決して見逃しては成らない経緯があるのです。
ところが、これでも資料から観ると、この「特別賜姓族の補強」でも未だ欠けていたと観られ、「近江青木氏」と「美濃青木氏」の2氏滅亡により極端に低下して、天智・天武天皇の第7皇子「川島皇子」を始祖とする「近江の賜姓族の」「近江佐々木氏」の縁故の援護を受けた事が記録として遺されています。

(特記 主に北域には神明系社のこの「近江の佐々木氏の宮司」が多いのです。
これは平安期初期の頃からの対応と観られ平安末期以降も続けられていたと観られます。「摂津源氏」が国家鎮魂の荒廃した八幡社復元を命じられて、神職を5家5流賜姓族に求めて来た事も一因であったと考えられます。「摂津源氏」にはもとより「寺社建立の職能集団」を持っていなかった事から依頼してきたのです。より一層不足したがこの摂津源氏復元作業は氏力が欠けていた為に長続きしなかったのです。後は河内源氏が武神に変えて未勘氏族を使って独自の八幡社を復元していったのです。)

この「佐々木氏の援護」の事は重要で、天智期の「施基皇子」の弟の第7位皇子の近江の佐々木に住していた「川島皇子」の「賜姓近江佐々木氏」までも頼り、その「佐々木氏の子孫」が青木氏の「神明社」の宮司に成っている事は、如何に「皇族関係族間の融合化」が起こっていた事かを物語っているのです。

(参考 青木氏側からの佐々木氏の研究は残念ながら未だ進んでいないのです。)

しかしながら、「出自不祥」とされる近江の「山部王と雅狭王」は、近江の「川島皇子の佐々木氏」の領域である事から「山部王と雅狭王」との「純血性の慣習」による「皇族間の融合血縁」をしていた事を物語っています。
「山部王と雅狭王」は事件等に依り歴史的に「没」に成っていないにも拘らず、「子孫存続」が明確でない事から、この「近江の川島皇子の佐々木氏」と「近江皇族賜姓族」と「融合血縁化」していたと考えられます。
その証しに、この近江地域には「近江の川島皇子の佐々木氏」と「近江皇族賜姓族青木氏」との血縁族の賜姓族の「佐々木氏系青木氏」が発祥して居るのです。
この2氏に「山部王と雅狭王」は必ず融合化した筈です。
同じ近江国の中に出自の異なる「4つの4世族の皇族」が居て「純血性の慣習」の中で血縁しない方が異常であります。
故に、「近江賜姓青木氏」と「佐々木氏系青木氏」と「佐々木氏」とには「2人の真人族」を含む「縁故血縁関係」にある為に、賜姓族同等である事を理由に「神明社宮司」に血縁族として「佐々木氏」を用いたのです。
「近江佐々木氏」と「佐々木氏系青木氏」は、「源氏の血筋」も入っていて「佐々木源氏」と呼ばれ家紋は綜紋の「笹竜胆紋」であり直系族であります。

(参考 佐々木氏には滋賀佐々木氏があるが別氏で宇多天皇系であるが融合血縁している。)

将来の研究課題ですが、佐々木氏側からの青木氏の研究は進んでいて、その研究内容から読み取れる事は、「近江賜姓青木氏」を通じて天智天皇の皇子としての「伊勢青木氏との縁故関係」から前段で論じた「古代和紙の殖産」は兎も角としても、資料から読み取って目立つ事は、「寺社の職を通じての協力関係」があり、従って、「同族血縁」の関係にも「近江佐々木氏」とはあったと観ているのです。
史実、「寺社関係」には「神明社系社の神職」と「古代密教浄土宗の住職」には青木氏と共に佐々木氏が多いのです。それも「5家5流賜姓地」の寺社と、「特別賜姓族地」の北域の寺社に集中して多いのです。
これは「5家5流賜姓族」と「特別賜姓族」の「融合関係」が大いに進んでいた事を物語り、そのルーツを通して、「近江賜姓青木氏」-「近江佐々木氏」-「伊勢賜姓青木氏」-「特別賜姓族」との繋がりが「神明社建立」の事のみならず出来上がっていた事を示す事でもあります。

もう一つは、「佐々木氏の研究」から読み取れる事は、「5家5流賜姓族の横の連絡関係」はこの「寺社」を通じて基本的に行われていた事を物語ります。
前段でも論じた様に「神明系社486社」と「古代密教浄土宗の各地に存在する菩提寺」が、この「横関係での問題処理」に当っていた事がよく読み取れます。
「横の連絡関係」と云うよりは、「賜姓佐々木氏一族」と「5家5流賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」と「秀郷一族一門」、更には「賜姓源氏」と上記した「真人族や朝臣族」との全ての横関係が「寺社」を通じて執っていたと考えられるのです。
言い換えれば「真人族と朝臣族」が、皇族慣習に基づいて構成された「氏家制度」の中では、「寺社の存在」が大きな重要な位置役割を持っていた事なのです。
そこが他氏と大きく異なっていた点であります。
その意味で「祖先神-神明系社の役割」は絶大であった訳で、「2つの賜姓青木氏」の全てと云っても過言ではない程に、重要な位置を占めていたのです。
その重要な位置を「最古の神明社」が象徴していた事を意味します。
下記の「最古の神明社」を象徴に置く「2つの青木氏」にとって重要な位置を占めていた「寺社」を各々には全て「独自の寺社」を持っていますし、上記した様に「神職住職関係の融合血縁」も進んでいる訳ですから、これらの「寺社」をパイプ役に「連携関係」を保持していたと考えているのです。
この「寺社の存在」とその連携なくして「2つの青木氏の存在」は成り立たないものであったのです。
所謂、「人間の血管」の役割を持っていたのです。
そうであるとするならば、「皇族賜姓青木氏が構築した退避地の策」も「寺社」で成り立つものと考えられるからで、それが「佐々木氏の研究資料」(寺社)からも大いに読み取れるのです。

(参考 「退避地運営」に付いての「佐々木一族の関り具合」がどの様であったのか気に成りますが現在は詳細は不祥です。近隣に「賜姓青木氏」の存在が無いところから佐々木氏の何らかの関わりもあったのでは無いかと推測できます。「賜姓近江佐々木一族」は「賜姓青木氏」と「賜姓源氏」(河内源氏)との非常に微妙な中間的な生き方を採った事が読み取れるからです。源平でも源氏方に味方しても生き残るのです但し、衰退したが上記した様に寺に大きく関っていた事が「子孫存続」で何を逃れ鎌倉時代にはこの子孫が勢力を盛り返したが、戦乱の室町末期からが江戸期には衰退させるのです。矢張り、寺社で宗家と共に子孫を復活させる特長を持っていたのです。恐らくは、宗家が生き延びたとするのは「寺社」を故意的に隠れ蓑にしていた戦略を採っていたと観らるれからです。現在でも寺社に佐々木氏は多い。従って、佐々木氏の研究論文はこの論調基調に成っているのだと考えられます。「和の中立」と「武の中立」の「和武の中立」の生き方を採り、それの基調を寺社に置いていたのだと考えられます。恐らくは伊勢青木氏とは大化期の第7位皇子として特別に天智天皇より賜姓を受けた同族であり、「伊勢青木氏」の「皇祖神の子神の「祖先神族」としても同じである事から-伊勢青木氏の生き様を観ての寺社でなかったと推測しているのです。「神明社建立」には「神職としての役目」を果たしていたのではないかと観られます。
寺に関しても「古代密教浄土宗」は「5家5流賜姓族」と同じですから、住職としての役目を果たしていたと観られます。この点では「伊勢青木氏」とは同様の行き方を戦略として採ったと考えられます。
ただ判らないのは血縁関係が不祥と成っている事なのです。伊勢青木氏との繋がりがキーポイントではないかと観ていますが判りません。研究の論調から「特別賜姓族との関係までの青木氏」の論文資料と成っているのです。)

前段でも論じた様に、「日本海側3県の退避地」の処で ”「寺社」が主軸に成っていた”と論じた事も、矢張り、近隣に居た「賜姓族の佐々木一族」を含むこの「寺社」が関わって「横関係での問題処理」が出来上がっていた事も、「寺社」と云うキーワードでは符合一致します。
つまり、「賜姓近江佐々木氏」もこの「退避地の管理運営」に寺社で関っていた可能性が高く成ります。

そうすると、「第4世族内の真人族と朝臣族」の事なのですが、「賜姓青木氏」を頼りこのルートを通じて直ぐには「退避地」に逃げ込める筈ですが、ところが平安末期から「真人族」は、上記の「融合化」よりも「比叡山の僧化」や「門跡院僧」と成って、子孫を遺す「融合化」による「氏化」はしなく成ったのです。(退避地に直接逃げ込こまず、その前に僧化したのです。)
「還俗、下俗」する際は3家の「皇族賜姓族」と24地方の「特別賜姓族」を頼り「世捨て人」と成った者が殆どであったのです。この時も直ぐにではなく「世捨て人」に成った後で、「伊勢-信濃青木氏」が管理運営する「富山、石川、福井の退避地」に入った事が判るのです。
前段でも論じ、又、上記の「賜姓佐々木氏一族」も加わった可能性もある「賜姓族退避地」(保護地)に「世捨て人で僧化した真人族」を保護した事が、「退避地等の表現」が無いにしても、「佐々木氏の研究資料」の文脈からも読み取れます。朝臣族の「還俗僧」がこの地域に一般氏化した表現が採られているのです。

(特記 「嵯峨期の詔勅」では「第4世族内の真人族と朝臣族」の「還俗僧」は青木氏を名乗れますが、「還俗僧の青木氏」は確認出来ないのです。名乗れる権利を有する者は全て把握している中で「嵯峨期の詔勅」を使って名乗った「皇族青木氏」は5氏でその中にはないのです。)

「佐々木氏」が「寺社と神職・住職の存在」からこの「皇族の退避地」を認識していた事が少なくとも読み取れます。
この「皇族者の世捨ての変化」は、先ずは、賜姓源氏、賜姓平家の「武家の台頭」が強くなり、次には逆に「真人族」の存在価値が低くなった事と、最後には「藤原摂関家」(北家)もその勢力を低下させ母方血縁による「真人族と朝臣族」が少なく成った事、この「3つの事」に因るのです。
その主な原因は、何よりも「真人族や朝臣族」が「賜姓」を受けて「武家」(公家に対する武家を意味する 室町末期からの武家の呼称ではない)に成るだけの気力を失っていた事に依ります。
それは「源平の軋轢」と、”それに抗して「生き延びる価値」を見出せなかった”と云う所ではないかと考えられます。
皇族者は、「源平の生き様」の「武家としての厳しさ」を観て「気力の喪失」を起したと観られます。
そして「僧化」を選んだのです。その僧化後には”「俗人」になる事の意味”を僧として悟ったのではないかと考えられます。
ところが、その為には、”何処でも何時でも俗人に”と云う訳には行きません。生きて行く為には「無力の僧」や「無力の真人族と朝臣族」が簡単に成し得る世間の事ではありません。
その為には、生きる為に世の中を知り何かを身につけなくては成りません。それに皇族者に限っては何かの「後ろ楯」が必要です。
最後はこの条件が備わっている「皇族者の退避地の存在」の有無であります。
そのパイプに成るのが「寺社」であるとすると、その同じ「住職(神職)の僧」であったのですから「寺社の関係」が大いに働く筈です。
これは明らかに「寺社」を通じて「退避地」に入った事を示しているのであって、「佐々木氏の資料」と共にこの状況が一致し、それを如実に物語っているのです。

特に、この時代は「藤原摂関家」との遠戚のない「後三条天皇」-「白河天皇」-「堀河天皇」と続き、「白河院政時代」と「親政時代」が続き、その事からその傾向は無くなったのです。
この時、社会には荘園制を維持し運営する為に他氏を攻め落とし、その敗残兵や住民を奴婢にして連れて来て荘園を開墾維持管理させる等して、荘園から来る弊害が生まれ、荘園制を禁止する等の締め付けをこの3人の天皇は遣って退けたのです。
結果として荘園制で「軍事的」と「経済的」に台頭する「武家」に対する締め付けが厳しく成ります。
これを実行した「3人の天皇等の寝室等の間近の身辺」も危く成って、わざわざ本当に信頼できる「皇族朝臣族の3家3流賜姓族」(一部源平含む)に命じたのです。
「身辺警護の護衛隊の北面武士」の制度(大化期にあったこの「本来の役目」)が再び始まります。
「蘇我氏の専横」から反省して大化期から平安初期まで続いた天皇を警護する「皇族賜姓族」が、再び平安末期に呼び出された事に成るのです。

(特記 平安初期から末期直前まで桓武天皇が賜姓した阿多倍一門の賜姓坂上氏が朝廷軍として君臨し天皇の警護も兼務した。その後は同じ一門の桓武平氏の「たいら族」と藤原氏が継続した。)

荘園制を利用していた源氏と平氏と藤原氏を信用できないとして遠ざけたのです。逆に「天皇護衛」が大化期からの本来の務めである「2つの賜姓青木氏」がこれに代わった呼び出され、「源平の影」で益々本来の「賜姓族の基礎力」を付けて、復興し回復して来たのです。

(特記 添書から主に29の各地に定住する「2つの青木氏」の賜姓族が都に派遣されて果した事が判ります。添書から見えるこの時の賜姓族は、「左衛門上佐」と「民部上佐・民部上尉」の「2つの永代官職位」を持っていたのです。つまり「近衛護衛隊」と「近衛警察隊」の最高の指揮官位職であったのです。)

その為に「天皇の身辺」が危険に成っても何も出来ない、まして”自らの身も護れないの”では「真人族の存在価値」は低下し、更に荒波の中での「氏」としての存立は不可能と成ったのです。
(「2つの青木氏」の存在が逆に目立った)
更に、この直ぐ後の「鎌倉期」には「皇族の勢力」が天領地が奪われ生活もままならない程に弱まり、多くの子孫を遺す事は無くなり「真人族、朝臣族」は現実は少なく無くなったのです。
当然に「真人族」と「朝臣族の源氏」からは「同族血縁による融合化」は無くなったのです。

(特記 「2つの氏賜姓青木氏」は空白期間を通じて「大商いの組織化」を進めていて弱体化の影響は小さかった。むしろ、「紙文化」が起こり「下克上と戦乱」が起こり「総合産業」としての「大商い」は更に益々その勢いを増したのです。戦乱によ社会にり溢れ出る敗残武士を組織化して「大商い」は成功の上に成功を納めると云う「社会の乱れる流れ」とは逆の流れを掴んだのです。
恐らくは、この時点で「平安期までの力」を遥かに凌ぐ力が増築されたのです。)

「最古の神明社」
上記の19の「第4世族の皇子王」が守護地に配置されたのですが、この時、守護地に「皇祖神の子神」として「祖先神の神明社」を建立しました。この時の神明社が最も古いとされるのですが、この直前に「遷宮遍座地」として各地に85社(90年)をも建立して「皇祖神の神宮」を建立したのです。然し、この「85社」の中にただ「1社の神明社」があるのです。この「神明社」は現在の「滋賀県湖南市三雲」に存在します。
つまり、「19守護地」の「神明社」より「遷宮遍座地」は古い事に成る事から、「天智天皇」がこの「19守護王」の配置する直前に、此処に先ずこの「神明社」を「遷宮社」と「同位同格」を示す為にも「皇祖神の子神の祖先神の象徴」として建立したと考えられます。
その後に「19守護地」に「祖先神-神明社」を配置建立した事に成るのです。

「最古の神明社」の意味
前段で論じた様に、この事の意味する処として、どれほどに重要な主要地にも85社をも建立する事で「皇祖神の存在」を先ずは高め、次ぎはこの「皇祖神」を最終的に伊勢に定めたのですが、これでは終わらずに、これを征討した地域まで全国的に広めるには朝廷としては、「経済的な問題」、「軍事的な問題」、「政治的な問題」を考慮すると、大蔵として困難であったのです。
その為に、「3つの発祥源」として立身した「皇族賜姓族」に国策氏としてその役目を与えたのですが、与えた以上はこの「皇祖神」を何らかの形でこの役目柄を遂行させる必要があります。
その為には「皇族賜姓族」に「祖先神の守護神」を先ずは与え、一つの「融合氏」を構築させ、その「社」を「神明社」として扱い、これを「皇祖神の子神」としての「役目柄の最高格式」を与えて普及させる目的があったのです。これで役目の上での目的は果たせます。
それには、「朝臣族」の「皇族賜姓族」に上記した様に「真人族の血流」を積極的に流す事で「家柄としての最高格式」も与える必要があったのです。
それは「血縁する事」では無く、「朝臣族」に「非力な真人族」を「融合化」させる事であったのです。
その証拠に「皇族賜姓伊勢青木氏」の始祖の「伊勢王の施基皇子」には、天智天武天皇の14人の皇子中で皇太子よりも3階級も上で天皇に継ぐ位を与えたのです。
永代「淨大正一位」の位を与えたのです。(近江川島皇子も賜姓佐々木氏を受けてその位は最終「浄大正2位」の家柄と成ります。)

A「役目柄の最高格式」
B「家柄の最高格式」
C「身分の格式」
以上の3つの最高格式に加えて、
D「蔭位の制」の「正一位の有品待遇の最高格式」
「4つの格式」を与えたのです。

この「4つの格式」に付加えて次ぎの事が力に成っているのです。
E「親衛隊最高指揮官の軍事力」
F「58万石の経済的背景」
(平安末期以降は「商い」にて復興 総合力は4~6倍以上の力を保持)
以上の「2つの賜姓力」を持っていたのです。

この「6つの賜姓力・権威力」を保持していたのです。
その根底を支えていたのは次ぎの「無形の力」です。
G「不入不倫の権」
以上のどの氏族も持てない「特権」を持っていました。
「有形と無形の力」としては以上の「7つの賜姓力と権威力」と成ります。

この他に、無形の「特別賜姓族の抑止力」「神明系社の寺社力」等を加えると相並ぶ者は無かったと考えられます。全て天皇に継ぐ「最高位」の立場を保有していたのです。
然し、これだけの「力」を保有していながら「嵯峨期の詔勅の賜姓源氏」(義家など)の様に世に有名を馳せたのでは無く、一般的な見方からすれば、 ”知る人ぞ知る”の立場に居たのは何故かであります。
これは「皇族賜姓青木氏と特別賜姓族」の「2つの青木氏」に付いてであります。
それは以下の事柄があって「世に出る事の効果」や「世に出ることの大儀」を著しく損なうからで「和」の下には何事に於いても「清・静・正」であらねば成らない世界に居たからであります。
第1は「武」に頼らない「和の中立」の世界に居たからであります。
第2は「国策氏」として「影の役目」の世界に居たからであります。
第3は「3つの発祥源」の「象徴の立場」の世界に居たからであります。
第4は「商い」をする「2足の草鞋策」の立場に居たからであります。
第5は「御師・氏上・総師」として「慕われる立場」に居たからであります。
第6は「皇祖神子神の祖先神-神明社」の氏族に居たからであります。

どれを執ってしても「清・静・正」に居て初めてその「立場の保全」を全とう出来るのです。
これ等の事柄(賜姓力・権威力)を一つの言葉にして「伊勢青木氏の口伝」として引き継がれて来た「伝統的な言葉」に ”世に晒す事相成らず”の「戒言」があるのです。

”世に晒す事に全て何事にも善き事なし””世に晒す事に大儀なし”と戒められて来たのです。

これでは ”「清・静・正」だけで「動・活」が無いのか”と云うと、そうではないのかと云うと、”「清・静・正」の中に「動・活」があるのだ。”と説いていて、 ”「動・活」の中に真の「清・静・正」はない。”としているのです。この「真」と云う言葉に意味を持っています。
然し、”これも「善」とすればそれも善し”と説いているのです。と云う事は、それも ”その者の立場(氏家柄の如何)に関わる事柄”とあって、”その咎は自らが負う。”と結んでいます。

(特記 「河内源氏」は、この”「動・活」の中の「清・静・正」。”を採った事に成ります。然し、”その者の立場(氏家柄の如何)に関わる事柄”とありますから、「河内源氏」は分家の立場にあるとしても、少なくとも「嵯峨期の詔勅の賜姓族」でありますから、「2つの青木氏」から観れば間違っていた事に成ります。
「満仲への怨嗟」や「義家への私闘・叱責」や「頼朝への軋轢」の政権側からの結論から観れば、「2つの青木氏」と同じ見解を当時は持っていた事を物語ります。
史実は、滅亡の憂き目を受けたのですから、「真」の「清・静・正」では無かった事に成ります。
これは恐らくは「嵯峨期の賜姓の詔勅」は「経済的軽減の賜姓」のみにあった事を意味します。
「2つの青木氏]からすれば、”それでも朝臣族ではなかったのか”と、”「朝臣族]であるのなら賜姓如何に関らず、”「清・静・正」の中に「動・活」があるのだ。”と成る筈です。
この「戒言」はこの事を観ても、より子々孫々に伝える口伝としたのであると観られ、且つ又、「青木氏家訓10訓の精神」に成っているのです。
要は家訓に示すその一族をリードする「長の心得」で決るのです。

(参考 正直に若い時はこの意味が良く解らなかったし、逆の考えをしていた。青木氏を研究しだして次第に理解が進んだ。これは禅問答の域であるし、千利休の茶道の「侘、寂の極意」であろう
し、「山川草木の枯れ山水の極意」であろう。)

兎にも角にも、これ以上を与えられると、普通ではあり得ないし”「動・活」の中の「清・静・正」。”となるのは必定です。然しそれでは生き延びられないと誡めていたのです。
「朝臣族」で「賜姓族」であるとしても、最早、何れの「真人族」であろうとこれ以上の者はあり得ません。
あるとすると、それは「天皇」なのです。然し、「臣下族」であるのです。誡めに誡めなければ成りません。
然し、「国策氏としての宿命」として「真人族との融合化」を図らねば成らないのです。
この行為は上記の戒言からは矛盾です。
つまり、「真人族」にとっては、「賜姓族の朝臣族」(青木氏)であるとしても上記した様に実質は遥かに上位なのですから、上位(真人族)から下位(賜姓族)への血縁であっても「真人族から朝臣族への同族血縁の融合化」は正常なのです。皇族の慣習破りではないのです。

その証拠が一つあるのです。平安初期直前に「第6位皇子」の「伊勢王の施基皇子」の賜姓族の青木氏の嫡子(長男)である光仁天皇が誕生したのです。本来は「4世族内第6位皇子末裔」には「皇位継承権」はありません。
奈良期では大化期642年から始まった「女系天皇」が780年までの間に累代14代の天皇が生まれ、その内、重祚を含めて女系天皇7代も続いた事から、正規の「皇位継承者」は無く成り、歴史上唯一の「例外天皇」と成ったのです。
然し、ところが上記の通り実質例外ではないのです。どんな「皇位継承権者」でもこれ以上の家柄を持った「皇族の同族融合血縁族」の「皇族氏」は歴史上には出て来ません。
そして、この「賜姓伊勢青木氏」とタグを組む他の「4家4流皇族賜姓族」の青木氏は、「皇族の融合化」をも推し進めたのです。
この様な力の持った真に「皇族の副軸」と成った「賜姓族」に対して、つまり、その「皇族の統一融合族」の「血縁氏」と成った「青木氏」に、天智天皇から始まる歴代天皇は「皇祖神の子神」としてその責務を与え各地に「神明社」を建立させたのです。
その「象徴社」の「基点社」としたのが何とこの「最古の神明社」であったのです。
故に、神宮に相当する「遷宮社」85の一つなのです。
天智・天武天皇は上記の意味を込めて「遷宮社」でもある「最古の神明社」を以ってして「子神としての神明社」を先ずは世に強く宣言をしたのです。

(特記)
前段でも論じ前記でも論じたましたが、逆に、この勢力の持った「賜姓族」は、天皇を助け「皇親政治」の「親政族」としても活躍をしていたのですが、「賜姓族青木氏の象徴祖」の「光仁天皇」の子供の「桓武天皇」(青木氏の遠戚天皇)は、この「5家5流の皇族賜姓族」を「律令政治国家建設」を建前に排除し、「親政族」、即ち、[力を付けた賜姓族]は憂き目を受けたのです。
故に、「桓武天皇」はこの「青木氏」に代わり自らが「神明社建立」20を実行したのです。

とすると、”何故に父の実家の親族の伊勢青木氏に圧力を掛けたのか”と云う疑問です。
実家先だからこそ、”世に対して「律令政治国家建設」を宣言する”効果があって、且つ、逆の「親政政治」の主導者でもあった筆頭の実家先を追い落とす事で、天下にその姿勢・意思を強力に示したとも受け取れます。「律令政治国家建設」の為に”青木氏に犠牲を負って貰った”と成ります。

「8つ目の力」と「空白期間の意味」
この為に「3家の皇族賜姓族」は「8つ目の力」として生き延びる為に、下記の空白期間を利用して律令制度の中で「商いの基礎力」を培います。この「2足の草鞋策」は伊賀の「古代和紙の殖産」を採用したのです。そして、それを信濃と甲斐にもこの「古代和紙の殖産」を移したのです。

(参考 近江と美濃にも移植 和紙通では「近江和紙」は”トリノコ”の呼称で有名 「美濃和紙」は”ミノシ”で有名 近江・美濃和紙は平安末期衰退する。近江や美濃や信濃や甲斐の「古代和紙」の歴史には凡そ1000年とする記録がある。「古代和紙の伊賀和紙」1350年歴史とする記録と移殖時期と一致する。)

「近江」と「美濃」の2家は、「古代和紙の殖産」に同調するがこの平安期のこの時期には殖産するも「税」として扱う程度で、本格的に追随(商い)しなかったのです。

衰退の原因が「排除軋轢」とすれば、「桓武天皇20年後没」(806年)頃で賜姓青木氏は復興する筈であったのですが、その後、「賜姓青木氏」に代わって勢力を持った「賜姓源氏」(嵯峨天皇の政策方針・詔勅)が台頭し、難しく成ったのです。
その間、「神明社の建立」は止まり、期待していた代わりの11代の多くの「賜姓源氏」も「真人族化」し非力であり、前段でも論じた様に、挙句は神明社を建立せずに成長したと思った清和源氏(876年没)の河内源氏が「八幡社の建立」(国家鎮魂から武神に)の方向へと荘園制を利用して勝手に走ってしまったのです。(「私闘」と「公闘」の差)
朝廷としては「賜姓青木氏」に代えての「賜姓源氏」がとんだ思惑違いであった事に成ります。

(特記 「摂津源氏」の宗家に対して「国家鎮魂の荒廃した八幡社の修復」を命ずるが進まず。全ての面での「修復能力」は無かったと考えられる。)

「3つの発祥源」ではなく「賜姓族の本質」を忘れ「武の勢力」に走った事に成ります。これが、蘇れなかった「空白期間の原因-1」であります。

(特記 「八幡社」は豊前国の宇佐郡の「神祇信仰」(860年頃)から始まり、その後、奈良に移り、奈良では朝廷に取り入れられ、本来「国家鎮魂の神」として崇められたのです。(神仏習合)
これが後に「河内源氏」(義家の頃1106年没)の守護神となり、その荘園制による名義氏「未勘氏族」に依って「武の神」として換えられてしまったのです。
その後、賜姓有無に関らず源氏は復興し始めた頃(1125年代頃)の「5家5流の賜姓族青木氏」に跡目を入れた。)

(特記 数少なくなった荒廃した「国家鎮魂の八幡社」を朝廷は憂い「摂津源氏」に命じて修復させ、この「摂津源氏」の赴任先のこの「融合血縁族」でもある「神明族の皇族賜姓信濃青木氏」に「国家鎮魂の八幡社の神官職」を依頼し務めた。その後、「摂津清和源氏」衰退で「国家鎮魂の八幡社修復計画」も消滅した。経済力も然る事ながら、寺社建設の匠の職能集団も持っていなかった。特別賜姓族は一門の中に建設工事を専門とする工頭の結城氏が居た。)

しかし、その後、再び全国に「神明社」を建立する役目を更に遂行させる「政治的状況」が強く成ったのです。これを憂いた「円融天皇(984年没)の政治的な裁断」で「特別賜姓族」(970年頃)を発祥させて「皇族賜姓青木氏」を支えさせて再び引き上げます。
且つ、「2足の草鞋策」(1025年頃)で勢力を盛り返し始めるまでの間、衰退(786年)から動きだしまで(880年頃)には100年程度を経過したのです。
「特別賜姓族の援護」を得て少なくとも「元の勢力」(「7つの権威力」の程度)に戻るまでには年数としては、累計約200年(970年)を経過した事に成ります。

その上記した「7つの勢力」と「平安中期以降との衰退落差」は激しいものがあった事が判り、「桓武天皇(806年没)の青木氏締め出し」がどれほど厳しいものであったかは判ります。
その「締め出し策」は、その後の復興を勘案すると、E「親衛隊最高指揮官の軍事力」とF「58万石の経済的背景」を外された事の為に起った「経済的な締め出し」であった事が判ります。
これが「空白期間の原因-2」であります。
(返ってこれが立ち直りの起爆剤と成り「商い変革」を起した。)

「伊勢青木氏」と同様に「他の皇族賜姓族」も同じ仕打ちを受けたのです。
後の「5つの勢力」は「永代」であった事から外す事は出来ず、依然、その後も生かされていた事が記録から判ります。(上記)

(特記 その後の賜姓伊勢青木氏の祖先の官職名には室町末期まで(右衛門)・左衛門・兵衛・民部が付いている。永代官職名であったからである。「特別賜姓族伊勢青木氏」にも付いている。)

実は、筆者は「衰退期間 空白期間100年(786-880年)」は本来であるのなら長過ぎると考えていて、「皇族賜姓族」の中には、特に衰退中は「伊勢青木氏」の中にはこれを指揮するだけの「長の能力」と「職人数などの建設能力」に欠けていたとも見て居るのです。
せいぜい「桓武天皇20年後」の「第2期の親政政治」を採用した「嵯峨天皇」に代わってから20年程度で戻せる筈で、残りの50年程度は「経済力の低下」を含めて「賜姓青木氏側」にもこの「2つの問題」があったと考えられます。これが「空白期間の原因-3」であります。

実は、この「衰退期間」、或いは、「空白期間」100年の「後半の50年程度」の期間の「神明社建立」の記録が殆ど発見できないのです。「八幡社の時期」(1030年頃)でもありません。
その後の100年後の「後の50年の範囲」(150年)では、徐々に発見できるのですが、調査の神明社記録から100年-1社/15年程度(凡そ社数5社程度弱 維持管理か)での創建年数しか発見出来ないのです。(維持管理する程度の能力が限界か)
この時期は「紙文化」までの切り替え時期でもあった事から、先ず「紙文化」に大きく左右されていた事が覗えます。つまり「復興する基盤」が未だ充分に成熟していなかったのです。
”梃子と成るまでには「紙文化」は成熟していなかったか、文化に対応する「殖産能力」が未だ完成していなかったか”の何れかであります。筆者は両方であると観ています。
これが「空白期間の原因-4」であります。

この間は「青木氏の世代数」としては2代程度に成り、この間、「皇族賜姓族」から立場を変えて急に「商い」をする訳ですから、「2足の草鞋策」を遂行するだけの「商い能力」(「長としての商いの器量」 試行錯誤・孤軍奮闘の時期)が充分ではなかった事も伺えます。
当然に「大商い」とするだけの「紙の殖産態勢」の成熟が「伊勢と信濃」に於いて間に合わなかった事が覗えます。これが「空白期間の原因-5」であります。

「商い」に伴なう態勢の内、「輸送力とそれを護る態勢の構築」にも時間が掛かった事が覗えます。
つまり「シンジケートの構築」であります。これが最も時間が掛かったのではないかと考えられます。直ぐに構築しょうとしても出来る組織ではありません。
それには、まずそれを支えるには「充分な財力」と「シンジケート構成要員」が必要です。
この「2つの条件」と「時代の環境変化」とのマッチングが合わない事には構築する事は出来ない筈です。その「時代環境の充実」と「充分な財力」と「大量殖産態勢の構築」の「大商いの3つの条件」が合致してこそ「シンジケート構築」(嵯峨期の賜姓詔勅のリスク)が出来るのです。財力が伴なうに連れて嵯峨期より少しづつ構築して行ったのです。(退避地の構築と維持管理等も伴なう)
「空白期間の原因」の内で最大に時間が掛かり難しい問題です。これが「空白期間の原因-6」であります。

確証出来る幾つかの資料の記録からはこの様な原因を読み取る事が出来ます。
何にしても”「100年の復興」は長過ぎた”と本来では考えますが、考え方に依れば、この「6つの空白期間の原因」からすると「未来の子々孫々の形」から考えればむしろ短いとも取れます。
考察してみますと、そもそも、この「100年の期間」の「当時の商い方法」は、未だ時代的に「殖産量産態勢」(一貫生産販売態勢)と云う形は青木氏が初めての記録ではないかと観ています。
現在で云う「総合商社」であったのです。それまでは「部制度による生産と市場経済」(計画生産と残余放出市場)であったのですから、「殖産-量産-販売の態勢化」は当時の社会の別の「新システム」であったのです。それだけに時間が掛かります。
恐らくは、「商い」を得て賜姓族を復興させるには普通の「商いの仕方」では賜姓族に与えられた「国策の責務」を遂行する事は不可能です。そのために考え試行し一つの形に確立させるには相当な時間が掛かります。この「商いの革命」とまで云える事が本来の考え方ではなく完成までの200年は短いと考えているのです。上記で”本来であれば”とした事は、”長くは無く短かった”のです。
当時としては、恐らくは、「殖産-量産-販売の態勢化」は発想外の「商いシステム」で社会の体制の全体が現在の様にその様に成っていないのです。取分け、「商いの安全」と云う面で考慮すれば雲泥の差で「不可能」の結論が出る筈です。
次第に「嵯峨期の賜姓詔勅リスク」を果す中で、この「シンジケート策」の「商いとの連動」を模索し確立させたのだと考えられます。シンジケートを確立させるだけでも「至難の業」であります。
それを成し遂げ、遂にはその新しい画期的な「殖産-量産-販売の態勢化」の「商い」に連動させると云う考えられない「離れ業」を成し遂げたのです。
そして、それに加えて、「総合商社的な大商い」に改革を進めたのです。

(特記 伊勢青木氏の記録に遺されている。この為に「海陸の運送改革」も実行されている。千石船3隻と瀬戸内の海鮮業と廻船問屋を営む讃岐青木氏との連携を構築する。)

「寺社建築」と「紙」を主としますが、記録によるとそれに伴なう関連品、火薬、武器、家具、骨董、絵画、食料、材木、建築材、リサイクル品、花火などの商品と「手配師」(口入業 青木氏が抱える職能集団の手配)をも扱っていた事が資料から判ります。「商い」の始めは神明社建設に伴う関連品と紙を主体としていたのですが、徐々に間口を広げていった事が判ります。真に貿易も行う「総合商社」でした。

(参考 因みに、中には面白いものとして資料から、”元禄の浅野家開城の際に瀬戸内に船を廻し、千石船三艘を出して、浅野家家財を買い取った”とする記録が遺されています。廻船業の讃岐青木氏の協力を得た。)

この後半の成熟期の頃の1160年代に隣の伊賀の「たいら族の清盛」が「宗貿易」を「瀬戸内の産物」で構築して巨万の富を得ています。
この事から、この時期には青木氏は「2足の草鞋策」(1125年 青木氏の記録)には既に成功している時ですから、清盛(1181年没)は隣りの伊賀和紙で繋がるこの青木氏からこの商法を間違い無く学んだと観ているのです。

(特記)
「伊賀和紙」は「清盛の実家」の産物でこれを扱うのは「青木氏」、和紙を作るのは阿多倍の職人伊賀人、伊賀は大化期に阿多倍に与えた「伊勢の半国割譲地」、「530年来の隣の住人」、「伊勢青木氏の跡目京綱」から「以仁王の乱」の兄弟の「源の有綱と宗綱の助命嘆願」に応じた事等の関係から、間違い無く、「青木氏の商い」を間違い無く学んだ筈で間近に観ていた筈です。これを「平清盛」は「源の義経」に教えたとする記録もあるのです。
(参考 摂津源氏四家宗家三位源頼政の子仲綱の子の有綱、宗綱は日向に配流 その配流孫は日向青木氏 伊勢青木氏京綱と兄弟)

この特記の史実からしても、凡そ「1025年」を境に「前半150年の復興期」と「後半の150年の成熟期」とに別けられます。そして、「前半の200年頃が衰退空白期」、「後半の200年頃が絶頂期」と成ります。

「200年」は「特別賜姓族」の援護を受け「紙文化」の進行で上記の6つの原因が解決され「2足の草鞋策」が軌道に乗り、「神明社建立(4社/5年)」を再び続けられる能力を復帰させた時期を意味します。
この期間と時期は納得出来るのです。その意味で、この「2足の草鞋策」がEとFを補った事から復興し、Eの力は無くしたものの「円融天皇」により再び本領安堵され、それをベースにこのFの数倍に代わる力を保持した事に依ります。
Eの力はその後、平安末期後の時代の変化と共に必要としなく成ったのです。
むしろ、必要としなく成った事の方が、「皇族賜姓族」に執っては幸いしたと云えるのです。
反って、「6つの問題」を解決し「子々孫々の形」が充分に整えられ、その結果、「生き様」に余裕が出てたのです。
そして、その「生き様の形」が「武」の勢力を捨て「和」の勢力へと「生き様」を完全に切り替えする機会を得た事に成ります。
それがあらゆる面での負担減と成り、それが益々「2足の草鞋策」を推進する「足場」と成ったのです。そしてこれ等の基盤が平安期を越えて「神明社建立」と云う形で室町期まで続いたのです。
これ等全ては、まさしく「特別賜姓族の援護」を得た事に因るのです。
そして、それを裁断した「円融天皇」の御蔭であると云えます。
これで平安末期以降の「新時代の神明社建立の責務」に邁進出来たのです。
この「神明社建立」が「民の賛同」を得て「氏上様、御師、総師」と崇められ、それが「青木氏の態勢」を勇気付けさせたのです。
この状態は明治35年まで続いたのです。

(参考 その後、室町期の混乱期を経て、「神明系5社」は江戸幕府の財産として引き継がれ、青木氏の浄土宗寺の保全」と「浄土宗督奨令」と共に、寛永の頃から神明系5社の「復元修復作業」が幕末まで続いたのです。)
(伊勢松阪の大火で出火元 全財産をなげうって賠償 菩提寺も焼失 この時点で「伊勢青木氏」の分家が大阪で紙商(現存)を営み、「信濃青木氏」(現存)も商いを縮小した事が記述されているのです。信濃青木氏とは明治35年を境に親交関係は途絶える。)

これ等は重複して何度も前段でも論じて来ましたが、この「最古の神明社」は現在の「滋賀県湖南市三雲」に存在しますが、この「最古の神明社」の持つ意味は青木氏そのものの始まりなのです。
その「青木氏」は冒頭の「基本デ-タ1」と「基本データ2」から始まったのです。
当時(平安期)の「皇族関係者の同族血縁慣習」に基づいて「副軸」として「氏家」は構築されて来たのです。
この様に「最古の神明社」と云う視点から其処から伸びる枝葉を改めて論じてみました。
現在も研究を続けていますが、なかなか難しくとりわけ資料の発見が個人情報の法的枠が働き困難と成っています。
本論の22までの中で更に巾を広げて研究しなくては成らない事がありましたが、青木氏に関する子孫に遺す事の出来る研究範囲は、”最早、この辺が限界かな”と感じています。
後は本段の様に、「存在する資料」に対して「別の視点」からの考察に成るのでは無いかと観ています。


参考資料等
日本書紀 古事記、六国史、氏族志、新撰姓氏録、尊卑分脈、寛永諸家系図、伝諸家系図纂、寛政重修諸家譜、中臣氏系譜、武蔵7党系図、大日本史、累聚三大格、 他20史録と地方史録と外国の研究資料、五大歴史小説家の資料と論文、伊勢青木氏信濃青木氏等の資料と添書と口伝、佐々木氏研究資料、国史資料等、 並びに関係協力者の知識と多くの資料と雑学の提供

  [青木氏の守護神(神明社)]  完
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青木氏と守護神(神明社)-21

[No.289] Re:青木氏と守護神(神明社)-21
投稿者:福管理人 投稿日:2012/09/28(Fri) 06:46:09


「社名つき神社」

神社   ・新潟6・岩手5・佐賀1・徳島3
     ・計15/418=3.58%

     *山梨3*長野1*富山1*石川1
     *計6/148≧4.05%

     +宮崎3(皇祖神発祥の特別地)

     -鹿児島3-北海道1
     
     -印は虚偽地

・印に付いて、「新潟6」を除き、後の3県は特別賜姓族とは直接に移動定住地等の関係はありません。
本拠地周辺に神明社17、神明神社15を建設し、神明宮21を合せて53社も建設して呼称しているのにわざわざ「・・神社」系等を建てる、呼称する必要性があるのかと云う矛盾が起こります。
まして、周囲には220社も建立していて、「仕来り、決り事、規則慣習」で「神明宮」を支流一門に建立させているのです。この様にきっちりとした態度で「3つの神明」を建立している中で、果たして、「・・神社」にしなければ成らない理由があるのでしょうか。無い筈です。
あるとするならば、その地域独自の「政治的、地理的、宗教的な環境条件」が強く働いて、「仕来り、決り事、規則慣習」を凌ぐ事と成ったと考えられます。圏域内ではこれを押さえ込む力が働いていた事を物語ります。
この関係を数式に表すと次ぎの様に成ります。

「建設条件の数式」
A 圏域内→  「政治的、地理的、宗教的な環境条件」<「仕来り、決り事、規則慣習」
B 圏域外→  「政治的、地理的、宗教的な環境条件」>「仕来り、決り事、規則慣習」

そもそも、「皇族賜姓族」、「特別賜姓族」にしても全国組まなくこの、「仕来り、決り事、規則慣習」を押し通す事は不可能です。
せいぜい、「讃岐籐氏の讃岐青木氏」の圏域まででその広島付近までですから、従って、「佐賀」や「徳島」はこの「政治的、地理的、宗教的な環境条件」が強く働いた事は確実です。
それ以外に「神明系社」でありながら、一般呼称の「・・神社」にしなければ成らない理由が先ずは見付かりません。そこで地域毎に検証してみます。

「佐賀1」
先ず、・「佐賀1」に付いては、「大蔵氏の勢力範囲」の中心地です。「遠の朝廷」の自治区の「太宰大監」の大宰府の隣で有ります。隣と云っても現在の県域ですから、大宰府の中心と云っても過言ではありません。
確かに、長崎と佐賀域には秀郷一門が赴任地定住としていた地域があります。唯一、「北九州地域」として「青木村」があった事も確認出来ますし、末裔の存在も確認出来ます。
然し、 ”「大蔵氏勢力圏・産土神」と「小さい青木村」のことから「神明系の社の建立と呼称」は果たして可能なのか” との疑問が生まれます。
仮に「2つの青木氏」と「秀郷一門末裔と藤原北家筋」等が建立したとしても ”「神明社系」としては許可は出なかったのではないか” と考えられます。
鎌倉期、室町中期では、「平安期の自治」が無く成ったとしても、依然それに相当する勢力を張っていたのですし、まして「大蔵氏勢力圏・産土神」の真ん中では「大蔵氏の自治」や「勢力統治」の中では許可は、反対が各所から起こり出なかったと考えられます。
まして、出雲社と同じく宗教界の重鎮の「宗像神社」の社域圏でもあります。
それを押し通す勢力は先ず有り得ず、遠い地域のところに「神明社」としての「建立と呼称」は明らかに無理であります。
そこで、争いを避ける為に ”「一般呼称の神社」として「建立と呼称の許可」が下りたのではないか” と考えられ、 ”北九州の一門の関係族の独自の許可申請での建立であった” と観られます。
故に「・・神社」になったのです。
つまり、「心の問題」の領域であり「政治的、宗教的抗争」の所以ではない事が判ります。
従って、福岡ではなく隣の青木村のある{佐賀1社]なのです。
「政治的、宗教的抗争」であれば1社では抗争には成り得ませんし、継続して北九州に及ぶまでの圏域にも「建立と呼称」を続けてこそ目的は達成される筈です。
この「佐賀1」は明らかに秀郷一門の定住地九州末裔の「心の拠り所の建設」であり、それ故に一般的な「・・神社」としたのです。
然し、その「建設様式等の要件」では「神明形式」を維持しているのです。つまり、これは ”寺社匠を関東の本領から呼び寄せての建設であった”と考えられます。
一門だからと云って神明系の弱い地域に専門の「寺社匠の調達」は難しい筈ですから、上記の事に成るのです。
当時は「自由市場」の現在とは違うのです。低下したとは云え「賜姓族社会の領域」では「部経済」が半ば存在したのです。
前段で論じた様に、現に「自らの氏」が「自らの抱えている職人集団」で「自らの力」で「寺社建設」をすると云う社会の中では、尚更、「神明系社」と云う特異な環境では、前段でも論じた様に、未だ「2つの青木氏」が独自に職人家人との間に「2つの絆の社会」を構築し、「絆青木氏」名乗るなどの徒弟制度を構築する果ての建立であったのです。
故に、「・・神社」は上記の「建設条件の数式」(A、B)が成り立つのです。
依って、「佐賀1」の結論は、「環境タイプ」の「社名付き神社の呼称」であるのです。

「徳島3」
・「徳島3」は、確かに秀郷一門の主要一族の剣片喰族の阿波青木氏の移動定住地ですが、ここには秀郷流の遠戚の関東北と北陸東域に勢力張っていた「利仁流藤原氏」が大勢を占める地域でもあります。
実はこの「徳島3」は、この同族血縁の「二つの融合族」の多い所でもあります。
この「阿波青木氏」と「利仁流藤原氏」が「神明系社の建設」に及ぶには、その勢力は充分であり、四国と云う「地理的な独自性」を保有しながらも、「・・神社」はおろか「神明社、神明神社、神明宮」の「神明系3社」の建設でもその要件は充分であります。その建設要件は充分で欠ける事はありません。

この「剣片喰族」は「神明社と神明神社」の多い「愛知」にも同族を固めていて「建設条件」のみならず勢力的にも一門の主要8氏の一つなのです。
然し、問題は「特別賜姓族の青木氏」とその「利仁流大遠戚族」であるのですが、讃岐籐氏の「讃岐青木氏」と同じく、四国は「賜姓族系地域」としても当時は「別扱いの中」にあったのです。

兵庫以西には「讃岐青木氏」の「瀬戸内の広島」は考えられますが、前段でも論じた様に、広島と讃岐は充分な「別扱いの地域」です。原則、四国を含む兵庫以西は「指定された神明地域」とは「別扱い」と成ります。
因って、「神明社、神明神社、神明宮」の「神明系3社」としての「建立と呼称」は、「仕来り、決り事、規則慣習」が成り立たず、これを無視してまでも無理に建立する事をせず「・・神社」とする以外になかったと考えられます。
上記の「建設条件の数式」Bで云えば右辺が0という事に成るのです。
つまり、秀郷一門の「縁阻地」(指定外地域)には、元より「社名付き神社の呼称」が採用される「仕来り、決り事、規則慣習」があった事を物語ります。(「縁阻地」(決-38)
無視すれば、宗家からの厳しい処置が働きますし、現実に青木氏宗家からの「職人調達」は困難であります。それを押してまでもの独自性ではなかった筈です。
それだけに、「仕来り、決り事、規則慣習」を一族の者がこれを破られば「第2の宗家」たる「特別賜姓族」の立場はありませんし、強行すれば放置できずに糾弾される筈です。
そんなにまでして「同族争い」をしてまで護らない事はありません。それ程に「呼称」には重きを置いていた事を物語るものです。

「縁阻地」(指定外地域)の他に「神明系3社外」に適用する「呼称」であった事が判ります。
当然に数式の「右辺=0」以外にも、「縁阻地」(指定外地域)=0の条件で「建設条件の数式」のA、Bが共に「左右辺=0」と云う環境の時にも「・・神社」の「呼称」が適用されていたのです。
これは「神明系」である事の有無に拘らず平安期の朝廷に依って決められていたのです。」
(否神明地」(指定外地域) 決-39)
結論として、徳島3は「縁阻地」(指定外地域)タイプの呼称であったのです。

「岩手5」
・「岩手5」は、上記でも論じている地域ですが、「元広域陸奥圏」ですが、「神明社4」のみの地域であり「神明神社と神明宮」はありません。
合せて「9社」しかない地域で「4-6の規則」から「2社/県」で観ても少な過ぎます。
ただ、この地域には秀郷一門の主要族が定住していません。「支流血縁族」です。
要するに、Aタイプの「政治的、地理的、宗教的な環境条件」<「仕来り、決り事、規則慣習」が成立するものの、「支流血縁族」と云う形では、一種、「徳島」と同様の「縁阻地」の部類でもあります。
まして、「狭域陸奥域の末端圏」ですので「神明社、神明神社、神明宮」の「神明系3社建立と呼称」は困難で、この「神明社4」は、この地域の神社社歴から観て建立年代は明確ではありませんが、古い事を主張しているのが多い事なのです。
この事から、桓武天皇期の征夷征討期の「20社」の内の「国家事業の2」と「特別賜姓族の2/31」の合せて「4社の建立」であったと見られます。「社歴の古社」の主張はある程度納得出来ます。

そこで、社名付きの「・・神社」とするには、本来、補足する事は「支流族の勤め」としても、この地域にはそれを実行する充分な能力のある「支流族」は定住していません。当然に青木村も全く存在しません。
つまり、「Aタイプ」ではあるのですが、極めて、指定外地域ではない単なる「縁阻地」です。
そうすると、どの様にして「5社」も建てたのでしょうか。誰が何時、建てたのでしょうか。
実はこの「・・神社」は特定の他氏が建立できる権利を有する「普通一般の呼称」の「・・神社」ではないのです。

何とも聞き慣れない「天照御祖神社」呼称(あまてらすみおや神社)の5なのです。
本来であれば「其の他」に入れるところですが、ある種の意味を持つので社名付きの「・・神社」の呼称に入れました。
正式呼称に「天照大神宮」が有りますが、これに似せての呼称と成っていて、これは「岩手のみの呼称」です。
この「御租」(みおや)は「天照」の別呼称で、この名は摂社等123社の中にもあり使われています。
つまり、「天照」を2度重ねて呼称している事に成ります。「青木」であれば「青木青木」と呼称している事に成り馬鹿げています。
39もの「仕来り、決り事、規則慣習」の「権威や威厳」を重んじての呼称でありながら、これでは「権威、威厳」がありません。明らかに正規のものではない事は良く判ります。
「分霊の許可」が取れなかったか、何らかの理由で変名したか、青木氏外の建立なのか、等推測が立ちます。そもそも「血縁支流族」の無い「広域陸奥の南端域」です。
秀郷一門の建立するに必要とする「勢力圏外」ですし、その意味では「建設不可能な地域」です。
それが下記の5社ですので、これには何らかのシステムが働いています。
それは、この神社の中に「親社」があってその「子社」の系列社である事も考えられます。
そうすると、この「5社の建立維持管理」となると相当なこの地方の豪族と成ります。
ところが、この5社外に正規の「分霊社」2社が陸奥北端と南端に存在するのです。
これ等の重要な史実からは明らかに疑問です。

次ぎの「疑問社」があるのです。

「疑問5社」
天照御祖神社  大船渡市三陸町綾里田浜
天照御祖神社  釜石市唐丹町片岸
天照御祖神社  陸前高田市高田町松峰
天照御祖神社  気仙郡住田町世田米
伊勢両宮神社  遠野市上郷町細越   

「正規2社」
天照皇大神宮  岩手郡滝沢村鵜飼御庭田   広域陸奥北端域
天照皇大神社  大船渡市三陸町吉浜上中井  広域陸奥南端域

前の「疑問5社」は、岩手県の最南端太平洋側の宮城に隣接する「5地域」(リアス式沿岸部の北側)から「釜石、大船渡、陸前」が並び、この「3地域」の内側に隣接する「気仙、遠野」の「2地域」に集中しています。
戦国時代は、ここは次ぎの3氏が支配しています。
葛西氏、国分氏、大崎氏、 以上の3小藩の地です。
江戸時代は、次ぎの3氏が支配しています。
伊達氏、板倉氏、相馬氏  以上の3藩の地です。

明らかに、この室町期と観られる「疑問5社」は1氏が、建立は兎も角も、祭祀した事が云えます。
と云うのは、「伊勢両宮神社」と云う禁令を破る同じ「疑問名社」の遠野の「社」がある処から観ても、統一して何れかの1氏に依る祭祀と考えられます。

「禁令」を公然と破るだけの「異端児、異端氏」、そうなると、能力から観てこの3小藩では無い事が云えます。そうすると自然と答えは出ています。

この様な「5社」を建立、又は呼称する事が出来たのは、この「5地域」を支配した室町期から勃興した「江戸期」の大藩「伊達氏」だけです。
但し、”建立を伊達氏が行った” かは疑問で、「社歴と様式」からは上記した様に少なくとも「伊達氏」より古い事から、「広域陸奥域」の時に「特別賜姓族」によって建立されたと考えられ、その後に、”伊達氏がそれを政治的、戦略的目的の為に維持管理した” と成ります。

つまり、そのやり方に付いては次ぎの様に成ります。
先ず、その内1社を「親社」として「社名」を「伊達氏の建立」とし、社名を「変名」して「伊達氏」が「分祀」か「分社」により5社に広めたと考えられます。
要するにここの「正規社の親社の権威」を利用したのです。
ではその「親社」の「1社」とは何処にあるのでしょうか。実は確実で納得出来る地域に建立されているのです。
その内の「親社」が「正規2社」の内の広域陸奥最南端の「大船渡の正規社」であったと「社歴や様式」から判別する事が出来ます。

後の「正規社」、即ち「分霊社の2社」(正規2社)の内の1社は、青森に隣接する2地域(岩手町と葛巻町)岩手郡に存在します。
この地域は「支流血縁族」のある秀郷一門と「特別賜姓族」のぎりぎりの勢力圏内です。
この地域は平安期で観ると、秀郷一門が平安期から支配する「峡域陸奥域」の岩手側で確実な勢力圏にあります。

戦国時代前半からは、この地は「陸奥斯波氏」(信濃足利氏)と「南部氏」ですが、江戸時代まで支配したのは「南部氏」だけです。

(戦国時代-室町期末期の11国を支配する日本一最大の大名で室町幕府足利氏の本家の創健氏で「信濃足利氏」です。守護代の織田氏の主君で、この斯波氏を倒して尾張を獲得した)

当然に、この「分霊社の正規社」は秀郷一門の「特別賜姓族」の青木氏の平安期の建立である事が社歴からも判ります。
そもそも、この地域は江戸時代直前まで秀郷一門の本家筋の下総結城氏の長い間の支配地であったのです。
(末裔が陸奥白河の自領に移動して「白河結城氏」と成るが、前段でも論じた「有名な陸奥の戦い」で天正17年に豊臣秀吉に滅ぼされる)

結局、「秀郷流青木氏」、「信濃足利氏」の「陸奥斯波氏」、秀郷一門宗家筋の「永嶋族結城氏」、そして、戦国末期から江戸末期まで「南部氏」に引き継がれた地域です。
つまり、建立者の「特別賜姓族」から江戸時代末期までこの戦国大名に引き継がれた事に成ります。

もう一つの大船渡の南域の「分霊社の正規社」は、宮城の北地域に隣接する大船渡の太平洋側沿岸部の三陸町にあります。
これが上記「疑問5社」の親社と成ったと観られる分霊による「正規社」です。
ここに伊達氏による「疑問5社」と「正規社」との2社が存在していた事に成ります。

では、この「正規社」は誰が何時、建立したのでしょうか。
この地域は上記「岩手」でも論じた様に、「広域陸奥」の平安期末期以降は極めて「不安定地域」であった事から、「歴史的経緯による消失」や「3つの災難」を免れたとすると、秀郷一門と「特別賜姓族」の圏域外でありますので、その前に建立されていた事に成ります。
室町の時期と場所から観て、少なくとも「特別賜姓族」が落ち着いて建立する事は困難であった事を意味します。
そうすると「社歴」等を信用するとして「様式」から平安期初期から中期頃と成ります。
この時期には、「蝦夷征討」で「広域陸奥」の宮城の「多賀城」を基点として岩手の「担沢城」、「志波城」が建設され、ここを「政庁の拠点」として「広域陸奥域31郡」を統治していたのです。

然し、この時期の国司には、この「31郡の広域陸奥」には「100社」あると云われる低格式の「村社」を毎年巡る義務を負っていました。
ところが、これが国司に執って経済的にも時間的にも大変な事なのです。
この為に、陸奥国司はこの「多賀城」の近くに「総社宮」を造り、此処1ヶ所で「参拝祭祀の業務事」を済ましました。
ところが、この方式が各国の国司には爆発的に人気と成り、この「総社」方式が全国に一気一斉に広まってしまったのです。(記録に遺されている)
然し、この「100社の格式」は「村社」なので「神宮分霊社」とは「格式」が数段に異なっています。
「神明系3社」は「別扱い」で、上記で何度も論じた様に、要するに「御魂入れ」であり、元々「分霊社」は「神明系3社」の「総社的存在」でした。(決-39)

下記でこの事に付いて論じますが、要所の地域には必ず神宮の何れかの分霊地を建立していますが、「正規社」の此処が「総社的な役割」を荷っていたのです。
この「仕来り、決り事、規則慣習」を重んじた方式を、この地域の「陸奥国司」が、この「村社」の100社に真似て最初に適用しただけなのです。
その事で「参拝祭祀の業務事」を理由としていますが、何かと揉める「村社間争い」をこの方式で逃げ切ったのです。つまりは、「総社の威厳と権威」で押さえ込んだのです。

本来であれば、国司がこの様な勝手な事をすれば朝廷は黙っていない筈です。然し、「分霊」-「神明系3社」の格式上の「社」が行って効果を挙げていれば文句の附け様がありません。
むしろ、「広域陸奥域」であるが為に積極的に指導したと考えられます。

この「大船渡」に建立された「正規社の分霊社」は、この平安期初期から中期の時点では本来は「皇族賜姓族」の青木氏の建立によるものですが、「桓武天皇」に圧迫を受けていた青木氏は衰退期にあり建立は出来なかったのです。
そこで「桓武天皇」(光仁天皇の子で施基皇子の孫 伊勢青木氏の始祖)自らが「青木氏」に代わって、兄弟の様にしていた「征夷大将軍」の「坂上田村麻呂」(多賀城724年などの3柵城を建設 広域陸奥域を制圧)に命じて、建立した「20社の神明社」と共に、この「陸奥域の岩手」に「20社の神明社」の基点(総社)として「2分霊社」(岩手郡と大船渡に分霊地)を設けたのです。
「陸奥100社の村社」の幾つもの古株の「村社」と共に、この「2分霊社」も”「廃絶処理」を逃れた”とする意味合いで記録されています。
恐らくは、この古い「村社格」の「社」だけが一部に遺されたとしていますので、岩手の「担沢柵城」(802年)と「志波柵城」(803年 廃城)と共に最も古く権威のある「高位の有格社」としては「廃絶処理」は逃れられたと考えられます。
上記の「3柵城」と共にこの時期にこの「正規社の分霊社」が建立されたと観られます。
記録では広域陸奥域の最南端に「神明社」が白石市益岡町に807年に「坂上田村麻呂」に依って創建されていて、「分霊社」(”「伊勢の御魂」を移して祭祀・・”と表現)の創建も間接表現ながらも記録されているところから、この同時期前に2社が建立されたと観られます。

と云うのは、この神明社建立前の806年に桓武天皇が崩御しています。一説を採用すれば4年3月後に「坂上田村麻呂」が没しています。(上記の神明社建立後の3月後の807年没の説もある)
従って、この「広域陸奥域」の青木氏に代わって行った「平安初期の計画」は桓武天皇崩御により終わっている事に成ります。
この後、「柵城や城郭」等のなどの修理造営は860年代で終わっています。
一時、この「広域陸奥地域」の治安等の理由で「何らかの建造」は歴史的に「停止状態」に成っていた事と、「皇族賜姓族青木氏」に依る「神明社系5社」の建立も衰退期に入っています事から、「特別賜姓族」の援護(960年代後半)を受け、且つ、自らの「2足の草鞋策」による財力がつくまでの間の一定期間には、この地域の建立は「停止状態」でありました。
因って、この「正規社の2分霊地の建立」は上記の期間にのみ可能なのです。

結論として、「建設条件の数式」から岩手はAではありますが、左辺の政治的、地理的な環境条件の要素が大きく、右辺より僅かにレベルが低かった事によるもので、「偽呼称タイプ」と云えます。

つまり、「社名付き神社」は、上記の「建設条件の数式」の論理から、左辺と右辺のバランスが均衡するか、右辺が0に近くなるに従い「社名付きの神社」の呼称は高く成る事に成ります。
この数式論が明らかに働いているのです。
当然に、左辺が0に近くなるに従い神明社を始めとする「神明系3社」の「建設条件」は整う事に成ります。

・東京に付いて特記
実は、東京にも「其の他」の呼称に分類した「天祖神社」18もあり岩手とよく似ています。
この2つの「異質の呼称」は「岩手と東京」だけです。
ただ、東京は「建立と呼称の背景」(「神明系社」の確認と「時代性」がはっきりしません)が少し違いますので其の他の項に入れましたが、此処でも考察して観ます。

問題は伊勢神宮の「摂社関係」等は、上記した様に、凡そ「伊勢近隣に123社」(2市4郡 特令地除く)あるのですが、その確認ですが、東京の場合はその関連社である「神宮分霊社、支社関連」の建て物でもありません。

この18社の「建設の時期」ですが、色々な資料からは平安期及び鎌倉期にはこの「2つの呼称」は出て来ません。
恐らくは、鎌倉期は、平安期の「仕来り、決り事、規則慣習」を強く引きずっていましたので、「神明系3社」の「3つの神明」の呼称としては有り得ますが、然し、この「2種の神社 疑問社名」の「・・神社」は、少なくとも鎌倉末期から室町期初期以降の呼称である事が判ります。

実は「皇祖神-伊勢神宮」関係と「祖先神-神明社」の「3つの呼称」の社の一部は、大変重要な事ですが、一時「廃絶処理」を社会から受けた史実(A)があるのです。
古い神社関係社に取っては有名な事件です。
他に歴史的に観れば次ぎの様な事が起こっています。

B それに「下克上と戦乱」の「焼き討ち」にも会っています。
(「焼き討ち」と「廃絶処理」とは宗教的な行動として別扱いにする)
C 明治初期の「廃仏毀釈」「神仏併合」-「神仏分離令」の洗礼も受けています。
(「廃仏毀釈」と「神仏併合」とは目的が異なる行動として別扱いにする)
D 室町中期から明治の10年頃まで続いた「一揆」(農民・下級武士の反乱)などの拠点にも成っていますので「消失」の影響を受けています。

(神明系社の「消失」には、「戦乱反乱」での火事と「年数」から来る廃社と「経済的運営」の廃社がある。)

この室町期の「廃絶処理」に付いては、ほぼこれ等は「江戸幕府の政策」の「神明系3社の復元修復事業」として、「寛永年間から明治初期」までに多くは戻されているのですが、この災難の影響を受けている事は確実です。
この「2種の神社」の「建設様式」は筆者の調査から疑問ではあるのですが、「神明形式」である可能性が高いと判断しています。
そう成ると、問題はこの続け様に起った次ぎの「3つの災難」の影響を受けていた事に成ります。
「焼き討ち」(消失も含む)
「廃絶処理」
「廃仏毀釈」「神仏併合」
以上、「3つの災難」と呼びます。

この事から、”何故、遺したのか。残ったのか”疑問です。
この東京の「2種の神社」の「創建年代」も確定は困難で疑問でもあり不祥ですが、室町中期前後と観ています。様式の確認は取り合えず「神明系様式」として考察します。
実は、東京18に付いては、この「3つの災難」の内の前二つに対して「呼称変更」「社歴変更」「祭神変更」等の「対策処置」で逃げたのではないかと考えているのです。
それが「天祖神社」の呼称であったりしたのではないかと考えています。

この様に、「天照皇大神宮と豊受大神宮」に似せた社名を使う事で、上記の岩手の記録からも判る様に、この ”「特別の高位の有格式社」” で逃れられる事が世間では判っていたのです。
この逃れられた理由、原因としては次ぎの事であったと考えられます。
先ずは、「最高位の格式」の「威厳と尊厳」です。
これを無視する事は最早、「国のあり方」を変える「革命」に外成りません。そこまでは「廃絶処理」は行われたかの問題です。
それは次ぎの「皇大神宮と大神宮」の呼称の検証でも判るのですが、其処までではなく岩手の様に遺し得ているのは、この下の「格式社」に対する「廃絶処理」であって、主には「郷社、村社」の格式レベルのもので、中には、「神明系3社」も地域に依っては厳しい「廃絶処理」を受けた事が記録から確認出来ますが、受けたとしても「神明神社と神明宮」の2社系が被害を受けたのです。
現に、「神宮を含む伊勢の125社」と「遷宮85社」の全てと「神明社148社を含む180社」と「特令地の社数」は完全に遺し得ているのです。これが「3つの災難」を受けなかったとする証拠です。

その根拠を検証しますと、「神明社180、神明神社139社、神明宮125社」から観て、「4-6の規則」の中にありますので、「3つの災難」を受けたとして「神明神社」の10-15社、「神明宮」の20-25社程度ではないかと考えられます。
それは何故かと云う事ですが、次にこれを検証します。

「建立地」は、概ね「神明系3社」としての建立地は、27-29地域であります。
そうすると、次ぎの様な計算が成り立ちます。

神明社180/29=6.4 神明神社139/29=4.8 神明宮125/29=4.3
以上と成ります。

これを29の全地域に、上記の平均5.2以上の影響度を加算して5.5として観ると、次ぎの様に成ります。
「神明神社」は20社/(10-15社) 「神明宮」は35社/(20-25社)と成り、合せて55社と成ります。
これは真に全体比10%(55/556)です。

個々の3つの社の数字には、これは「単純平均」ですので、バイアスを持っています。
依って、(6.4 4.8 4.3)から観れば、実態はこれより何れも少なくなる事が考えられます。
それを考慮すれば、「神明神社:10-15社」 「神明宮:20-25社」は妥当な数字と云えます。

(「単純平均」は必ずしも「クラウドの中心」を表さない為、「積分係数」の計算で「クラウドの中心」は出る。
依って、この場合のクラウドの中心は低めに出る。)  

そこで、次ぎに全体で「神明系社 566社」として、果たして、これ以上の神明系社数を建立出来たかと云う問題です。

そこで、「歴史的な切目」としては、次ぎの様に成ります。

イ 「朝臣族の賜姓源氏」が建立したのは、上記で論じた様に、「八幡社」ですが、ところが記録から「国家鎮魂の八幡社」を「清和源氏の本家(頼光系)」が天皇に命じられて、先ずは支配地内に於ける「移設による修復建立」を命じられています。
つまり、「八幡社」を最初に手掛けたのが ”摂津の領国内に移設修復した” と記録があり、国司として赴任した信濃に於いても「信濃青木氏」に「神官職」を依頼している記録が遺されていて、現実に家紋分析からその末裔信濃青木氏は関東以北-陸奥域に現存するのです。

ロ そして、この計画は「摂津源氏」の「支配地内の修復」で計画は終わっているのです。
つまり、数は少ないですが本来の「神祇信仰の国家鎮魂の八幡社」(摂津源氏-神明族の信濃青木氏)と大半を占める「武神の八幡社」(河内源氏-未勘氏族)とがあるのです。

ハ しかし、河内源氏の分家頼信の孫の義家が「武運長久」「武家の神」の「八幡社」を河内に建立しています。(1100年頃 未勘氏族の建立  八幡社にはこの2流がある。)
この「武神の八幡社」は後に「未勘氏族」に依って「神仏習合」に偏して「八幡大菩薩」に変化したのです。

ニ 「たいら族」には「神社建立権」は身分家柄から与えられていません。
この「たいら族」は「朝臣族」では無いので、「太宰大監」として九州自治を司る一門の「大蔵氏」を除き、その権利を有しておらず、「京平氏の清盛」が「摂関家と朝廷の反発」を押し切って禁令外で、最初に「海の守護神」の「瀬戸内の厳島神社」を最初に修復拡大事業を手始めに神社建立を行いました。
(1170年頃 「たいら族」  平安期は青木氏や藤原氏等の高位の指定の家柄氏以外は神社は建立出来ない慣習があった。朝廷の許可が下りなかった。)

ホ この時、期前の1125年頃には、何とか「皇族賜姓族」も「2足の草鞋策」から勢力を盛り返し、「特別賜姓族」も「960年後半」には建立に参加しています。
この頃から徐々に「神明系5社建立」が再び始まり、室町期前半の室町文化の頃に建立の頂点と成ります。

ヘ 前段でも論じた様に、「紙文化」と呼ばれる「室町文化」で「伊勢、信濃、甲斐の皇族賜姓族の青木氏」と「特別賜姓族の伊勢青木氏」がどの守護にも遥かに勝る「莫大な財力」と「武力」とその背景と成る「シンジケートの抑止力」を確保しました。

ト そして、然し、「下克上戦乱」に入る中期頃には、建立能力が充分にありながらもその社会情勢から建立は難しく成り、各地で「3つの災難」が始まりますので、せいぜい「修復程度の範囲」に留まったと考えられます。

この事で検証すると、次ぎの様に成ります。
イからトまでのこの間、「皇族賜姓族」から「特別賜姓族」の発祥までの「衰退期の100年間程度」を除くと「500年間程度」と成り、平均的に観れば、566社/500年とすると「1年に2社程度の建立」と成ります。
1社の建立期間を3年から5年程度と観れば、丁度、無理の無い建立数である事が判ります

中には、記録によると長いので10年程度とありますが、財政的な問題は「2足の草鞋策」で問題は無いとしても、「2つの賜姓族」が「絆職人の関係要員」の手配等が他の維持管理作業等もありますので、難しいと考えられます。
それから観ると丁度よい社数建設です。

因みに、前段で論じた様に、「伊勢青木氏の記録」によると、奈良期からの古い絆で結ばれ、「絆青木氏」を名乗るほどの代々の内々の「徒弟制度」で引き継がれた「250人の専門職」と、その「関連要員」をシンジケートの中で確保していた事が判ります。
この要員で「148社建立」と成っています。

(伊勢丸山城の信長との戦いで「伊勢-信濃シンジケート」の大工要員が関わった事が記録されている。建築終了後に城に火付けした。)

恐らくは、信濃青木氏も同じ程度の能力を保持していた事が「神明系3社」の建設数から判断できます。
全国の賜姓族関係地域に「建立する能力の418社」から観ると、「宗家の特別賜姓族青木氏」と「特別賜姓族の伊勢青木氏」の「2つの能力」も総合的に勘案すると、4倍の「1000人程度の要員」を抱えていた事が判ります。

とすると、この能力から、「建立数 2社/年」 「建設期間5年」 「維持管理148社」 とすると、青木氏から配置する各職人の「頭要員」を、「50人/1社で100人」、「全国29地域」の建設地に「5人/1地域」に配置して「150人」、これを「シンジケートの各種の職人」で補い、「20職種」程度と云われる「工程を5年間」で回転して行けば成り立ちます。
昔のある資料から垣間見ると、一般の「武家屋敷建設」で「頭級で5人」と云われているので、その10倍として観れば、「50人」と成ります。
不足の時は「伊勢-信濃シンジケート力」から各地のシンジケートに呼びかけて「援護要員」を増やす事が柔軟に出来ます。

これを行える「財政力と政治力と運営力」があった事が「伊勢丸山城の戦い」の記録で判ります。

(「伊勢丸山城の戦い」 材料の調達の失敗や建設ミスを繰り返させて、なかなか進まない様に城の建設期間を引き延ばせ、挙句の果てに短期間で建設するように命じられますが、これに応じます。この時に信濃からシンジケートを通じて要員の職人を配置した事が記録されているのです。建設用材の調達は「2足の草鞋策」で本職、材料高騰策も行った。莫大な利益を挙げて信長の財力を押さえ込んだ。有名な信長烈火事件発生。歌舞伎にも成る。結局は、「信長の伊勢攻めの3戦」は5年も延びた。)  

「特別賜姓族」の方も上記で論じた様に「約4倍の社数」と前段で論じた様に「4倍の勢力」を保持しているのですから、同じ論理で証明する事か出来ます。
結論としては「4-6の規則」で「建設する能力」はぎりぎりのところであった事が云えます。

上記で論じて来た現存する「神明系3社」の「4-6の規則」はほぼ原則として建立したのですから、「3つの災難」に依る10%減でこれだけ護られている社数がある事は、上記の能力試算からこれを証明しています。

故に、「江戸幕府の神明系3社の修復復元処理」が「10%-55社」の範囲であった事から可能であったのであって、直しきれない社もあった事が記録されているので、この程度が江戸幕府の能力の限界であった事を示しています。566社に相当する社を「高位格式社」の「修復復元処理」は財政的に無理であった筈であります。

恐らくは「神明系3社」で論じた様に、上記の通り「10%程度以内」と考えられます。
これであれば上記の試算から江戸幕府の「250年間掛けて1社/年・5年」を「修復修理復元」は可能です。

この様に、「威厳と尊厳」から少なくとも「3つの災難」に付いては、「神明社」は殆ど影響を受けず、「神明神社」と「神明宮」に対して多少の影響は受けた事が云えます。

(上記した様に地域のバラツキはあるとしても、一般確率論から10%内は自然消失廃社率)
(「天照」の内宮に「みおや」と云う天照の別呼称で二重呼称と同じで この天照の天と皇祖の祖で「天祖」と呼称した。)

「創建年代」や「社歴」や「祭神」等に「不祥や疑問や矛盾」等が多く観られるのは、東京の18に付いてはこの事の影響ではないかと観られます。途中での歴史が途絶えたからです。
「焼き討ち」や「廃絶処理」は、要はある範囲の「権威や象徴」に対する「社会的な反抗」でしたので、この地域レベルの「権威と象徴」を一時、”消す事、隠す事”で難は逃れたのです。

問題は、”他の地域はどうであったのか”ですが、地理的にこの「3つの災難」の状況は、その「地理的要素」やその地域の「人の気質」から著しく異なっているのです。
殆ど「神社」が無く成ってしまった県(九州圏、東北圏、東京圏)等もあり、穏やかであった県(北陸圏、中部圏、)等があり、その中でも「岩手と東京」は真にこの「3つの災難」の厳しい地域に当り、且つ、何れも周囲の県に比べて「神明系3社」の社数が不思議に少ない県です。大きく「4-6の規則」外にあるのです。
この「岩手と東京」は、この影響を大きく受けた地域で、「高位格式社」を充分に遺し得なかったし、且つ、寛永年間以降明治期までに完全に戻し得なかった結果であり、何とか遺し得たのはこの「疑問社名」の「対策処置」であったと観られます。
まして、この東京は秀郷一門の武蔵の領国内の一部です。この領国の一部に集中した18社ものが到底「分霊社」とは考えられませんし、在り得ない事で、「分霊許可」も幾らなんでも「特別賜姓族」の青木氏でお膝元であったとしても下りる事はあり得ません。
自らがその様な厳しい39もの「仕来り、決り事、規則慣習」を護ってきたにも拘らず破る事等も在り得ません。
そうすると、遺されたのは岩手と同じく、「郷社格」「村社格」の神社一般の廃絶などに向けられた「3つの災難」から逃れる事への「神明系3社の対策」で在ったのです。
だから、「神宮の神明系2社」の「威厳と尊厳」を使っての「東京18社の社数」であって、「分霊社」に見せかけたものであったと考えられますし、故にこの「18の社歴」は不祥なのです。
そうすると、東京の「神明系3社」の ”「神明社」は6、神明神社は2 神明宮は3” は、主要国の新潟、愛知などと比べて本領でありながら少な過ぎる事を考えると、18は補える「社数」と成ります。

「神明社」は上記した様に「神宮の神明系分霊2社」と同じく「威厳と尊厳」で「3つの災難」の影響からある程度(10%)逃れられましたから、そうするとこの「東京18」は元は「神明神社」であった筈です。

「神明宮」は上記した様にその「呼称の仕来り」から、この広域武蔵域の本領の一部の東京には支流族は少なかった筈ですので、「神明神社」で「社名付き・・神社」の呼称と、「郷社格式」や「村社格式」の「一般神社」と「・・神社」で類似するところから間違われて「3つの災難」の影響を神明系でありながら大きく受けたと考えられます。
何れも秀郷一門の宗家のこの処置であって、故に「特別賜姓族」の暗黙の了解を得られ採った処置と考えられます。

結局は、「東京18」は、岩手と少し違い、政治性と地理性が余り働かない基からの神明系3社で「退避処置タイプ」なのです。

東京の「社名つき神社」も「・新潟6・岩手5・佐賀1・徳島3」の4県の様に、「東京1」で少ないのはこの事の影響を受けた事から来ていると考えられます。

・新潟に付いて
ところで、「佐賀と徳島」は別としても、「仕来り、決り事、規則慣習」の影響を強く受けている「岩手」は上記の通りなのですが、では果たして最大の難問の「新潟6」は何なのでしょうか。
「建設条件の数式」には全く問題がありません。代表的な地域圏です。
それは「新潟6」には地理的要素と秀郷一門の要素が大きく働いたのです。
上記数式の不等号が成立するも、Aの左辺の「地理条件」が大きく成り、右辺のレベルを越えたのです。
特に上記の「建立限界値」の問題が、ある一時の「時代的な影響」を大きく働いたのです。
「新潟6」は次ぎの通りです。

新潟
1  西奈弥神社  村上市羽里町
2  (能崎神社   西頚城郡能生町)
3  (羽森神社   柏崎市 1489年)
4  (船江神社   赤塚) 垂仁天皇期
5  (羽黒神社   村上市羽黒町 桃山)
6  (菅谷宮    新発田市)

先ず、この「6つの社」は北から南に分布し「地理的要素」が働いている訳ではありません。   
創建時代は「平安末期から室町中期前の建物」であり、その「創建年代」が「羽森神社1489年」を代表する様に、特別な歴史的な経緯を明確にしている状況でも有りません。
社歴からは確定するものは見付かりません。
創健者は「建設様式」から「西奈弥神社」以外は疑問もありますが、次ぎの「共通項」を持っています。

1に付いては、「神明社」であったが、「保食神」として、「日子刺肩別命」を祭祀
2に付いては、「神明社」であったが、「一般神社」に変更
3に付いては、「神明社」であったが、「産土神」を祭祀、合体祭祀
4に付いては、「神明社」であったが、「神明宮」を合体、垂仁天皇期と古さ記載 
5に付いては、「神明社」であったが、「保食神」を合体祭祀
6に付いては、「神明社」であったが、「神明系宮」に変更

全て、”「神明社」であった事、それが「何らかの理由」で「別の神」を祭祀する。” とする共通パターンです。
この共通の社歴から考察するに次ぎの様に成ります。

1と5は「保食神」を祭祀、「生活」「食料事情」を重視し変更
2は「特定の性格を持つ神明社」では運営が困難化し、特定性を除去し「一般神社」に変更
3は考え方の全く異なる「産土神」を祭祀、合体は矛盾 「柔軟性」、「一般性」を強調
4と6は「神明社」だけでは無く「神明系」を誇示して祭祀の対象を広げた。

全て、先ず共通な事として、”「神明社」では時期的な影響を受けて運営が困難、色々な「生き残り策」を模索している。”と成ります。
つまり、これは共通する室町期の時期から、”「下克上、戦乱期、3つの災難」に突入して、平安末期の北家摂関家の衰退が起り、その朝廷が崩壊し、「創建者の主権者青木氏」は「衰退と空白期間」に「弱体化」した為に、「神明系社」として何とか生き延びる為に、越後地域の「特別賜姓族」の神職の一部の青木氏は「主家の援助と支持」も侭ならず ”背に腹は代えられない”の事から「社名付き神社」に変身した” と云う事に成ります。
真に、これが「・・神社」の結論なのです。

本来は、「社名付きの・・神社」は、”「神明系3社」から変身した時に使う「呼称」”なのです。(決-40)

上記で論じた様に、「特別賜姓族の最大勢力圏」でさえも、何らかの理由や社会的な現象で「神明系3社」でも「消失、廃社」にまで至らなくても、例外では無かった事を物語ります。
主に「3つの災難」と云うよりは一時的な「財政的な困窮時期」が原因していた事を物語ります。
これは「2つの青木氏」の「2足の草鞋策」で財政的に強くなっても、室町中期頃を境に一時「566社」を維持するにはぎりぎりであった事を物語ります。
「社名付きの・・神社」はこの ”ギリギリ維持の現象” の象徴であった事に成ります。

上記の「建設条件の数式」はあくまでも「社名付き神社」に対する数式論ですが、「神明系3社」の「建設条件の数式論」は、A、Bに対して、左辺側に「戦略的」と「経済的」の2項目が入ってくるのです。
合せて「5項目の条件」が左右する事に成ります。

「神明系3社の建設条件の数式」
A 圏域内→  「戦略的、経済的、政治的、地理的、宗教的な環境条件」<「仕来り、決り事、規則慣習」
B 圏域外→  「戦略的、経済的、政治的、地理的、宗教的な環境条件」>「仕来り、決り事、規則慣習」

この5項目もの条件が絡んで来ると、色々な社会情勢が生まれます。
そうなれば必然的に右辺の強さとの関係がより敏感に成り崩れ易く成り、時にはABに拘らず右辺のレベルが左辺を超えてくる事もあり得ます。
その超える状況は、「時間的な速さ」に関り、急に起る事もあり得ますし、緩やかに起る事もあり得ます。
当然に、「人の強さと量」、「場所の良悪と距離」等も同じ事が起こり得る事に成ります。
この「人、時、場所の現象」が余計に「神明系社」に強く拘ってくる事に成ります。

(A、B)+「時間的な速さ」+「人の強さと量」+「場所の良悪と距離」

これが他氏と異なる「特異な立場」にあった「2つの血縁青木氏と2つの絆青木氏の歴史」であり、その「時代毎の生き様」として映し出されるのです。
従って、「青木氏の守護神」(神明社)を論じる事は、真に、この数式論によりその「生き様」を論じる事に成るのです。

この「5項目の条件」で次ぎの「皇族賜姓族地域」の「・・神社」の考察を続けます。
ここには根本的な基盤のような事が潜んでいるのです。

「*山梨3*長野1*富山1*石川1」も同様ですが、この4県にははっきりとした特長を示しています。
それは、次ぎの様に成ります。

「甲斐3と信濃1」の「皇族賜姓地」
「越中1と若狭1」の「移動末裔地」
以上の2分類と成ります。

この「2分類の地域」は、上記の「建設条件の数式論」から、真に「例外無のAタイプ」が存在する地域です。
そこで、「賜姓族地の伊勢」はお膝元で「神宮摂社125社」、その周囲地域は「85社の遷宮地」であり、そして「神明社の総社」が存在し、古代神明社の「神明社19社」が都を中心にびっしりと防御網を張り取り囲んでいたのです。
その為にこの地域には神明系社の「社名付き・・神社」等は存在し得ない「特別地域」でありますので、「神聖地域」の伊勢周辺には「社名付き神社」の「建立と呼称」は成り立ちませんし、その存在意義が成立する事はあり得ません。

残りの賜姓族地の「皇族賜姓族地」の「近江、美濃」は、前段でも論じた様に、「衰退滅亡地域」でありますので神明系社の「・・神社」はあり得ません。

・山梨3には、前段でも論じた様に、ある特徴を持っているのです。
「甲斐青木氏(花菱紋)」でも論じた様に、この地域の「寺社」に関しては極めて複雑であります。

「源光系の甲斐皇族賜姓族」と「時光系の皇族青木氏」の2流がありますが、下記のこの内の2つは「時光系」の「社名付き神社」ではないかと考えます。
「時光系青木氏」は「嵯峨期の詔勅」による「源氏系の青木氏」であると云う事で名乗った ”「河内源氏傍系支流末裔族」である” としていますので「神明系3社」の「建立と呼称」は出来ません。
因って、明らかに「・・神社」の呼称と成ったと考えられます。    

山梨3は次ぎの3社です。 
1  神明浅間神社
2 (伊勢神社  中巨摩郡田富町臼井阿原)     
3 (伊勢神社  北杜市)

 天照大神社   釜額
 天照大神社   伊沼

従って、残る1社に付いてはある程度納得出来るのです。
つまり、「神明」と「地名」付きの「・・神社」ですが、この不思議な社名が問題です。
「神明神社」なのか「浅間神社」なのかと云う疑問ですが、これには実は一つ根拠があるのです。
それは「浅間山」でその「山」に意味があって、それは「5つの守護神」の基神の「自然神」の「山信仰」なのです。
「神明系3社」は「自然神-鬼道-鬼神」を基とする「皇祖神」の子神の「祖先神」なのですから、「神明」と「浅間山信仰」とは「同一で同格の祖」を持つ表現であります。
この表現には理屈が通っている事から、「甲斐の源光系の皇族賜姓族」の建立と成ります。
これは「源の源光」が「甲斐の賜姓族青木氏」を引き継ぎますが、この建立と考えられます。

2付いては、問題で上記に論じた「呼称の禁令」を破っています。
「伊勢」は特定の賜姓族以外(下記)に使っては成らない厳令です。それを敢えて使ったのです。
「賜姓族」はこの厳令だけは絶対に破る事は何があっても出来ません。自らの出自を否定する事に成ります。
それを破った呼称は朝臣族では出来ない事であり、しかし、何とか建立は可能とする氏となれば「皇族青木氏」以外にはありません。
この甲斐の時光系の源氏系の「皇族青木氏」は4流があり、1流は無血縁族ですので建立は財力がありましたが出来ません。
荒廃した甲斐青木氏の菩提寺の常光寺を再建維持したのもこの無血縁族の青木氏(養子嫁取り)です。
そこで、建立が可能と成ると時光系本家の本流青木氏だけと成ります。残りの3家青木氏は貧困の中にありました。
この青木氏が「神明系社の建立権」は直系の朝臣族ではありませんので建立権は無く不可能です。

そこで、「伊勢」を使ったのです。そして、それを「神明系社」に見せかけながらも、「伊勢=神宮」の印象も与えようとした策謀です。
この「本家の甲斐の皇族青木氏」は、「公家ニ条氏」の末裔と清和源氏の本流であるかの様な「家柄誇張」の策謀を繰り返した氏なのです。事実は偽称の疑問である事は判っています。
その一環として神社建設も「誇張の呼称」をした事に成ります。一事が万事です。
この「建設地域」が一つは南信濃に隣接し、もう一つは国府に近い所です。
この「2つの建設地域」はこの本家氏の集落地域でありこれを物語っています。

後の2流は貧困を極めて武田氏からも冷遇され、山奥の奥巨摩山間部に半農武士として生活をしていました。菩提寺の常光寺さえも維持管理出来ずに放置したのです。この「2つの社建立」は元より建立は不可能です。
(「甲斐青木氏の研究」(花菱紋)の論文参照)
社歴などは不祥で疑問ですが、建設時期は建立に必要とする勢力を持った武田氏系青木氏の勢力は武田氏が勃興してきた室町中期前の頃です。
その後、このこの「時光系の青木氏」は始祖の時光の時から内部抗争をして弱体化しますのでその能力は全くありません。
見かねた宗家の武田氏がこの青木氏一族の為に別に菩提寺を建ててやると云う事まで起こっていますし、まして挙句は浄土宗から曹洞宗に宗派換えをすると云う武家に有るまじき前代未聞の争いを起こします。
最早、この4流の青木氏はガタガタで生活も侭成らない状況であった事が記録に遺されています。
従って、恐らくは「常光寺建設期」と同じ頃ではないかと考えられます。
この時期の前後以外に神社などの建設能力は全くありません。
この「伊勢神社の2社」は「時光系青木氏」の家柄誇張の「偽称行為」です。

ところが、対照的に次ぎの「長野の伊勢」とは別のものなのです。
甲斐にはこの「長野の伊勢」の環境はありませんでした。
対比する為に論じます。

・長野1に付いては、次ぎの社です。
「伊勢宮神社」 長野市伊勢宮町
「伊勢社」   長野市東之門町

信濃は前段でも論じた様に、「伊勢青木氏」との連携は「政治、軍事、経済」等の全ての面に於いて完璧なくらいに親密な関係保持をしていました。此処「信濃」には「伊勢村」と云う村まで造り「伊勢」と「信濃」の「青木氏の融合氏」が興り定住していた地域なのです。
この「社の伊勢」は「神宮」の呼称の「伊勢」では必ずしもなく、「信濃伊勢村の伊勢」でもあるのです。
むしろ、「信濃の伊勢、伊勢の信濃」の一族的な血縁関係をも含む「親族的関係」にあったのです。
そもそも、この「伊勢の呼称」を正規に使える氏は、ただ一つで「伊勢の守護」、「伊勢神宮」の「護り役・御師・総師」の「施基皇子」を始祖とする「皇族賜姓族の伊勢青木氏」だけです。
この「伊勢青木氏」と「伊勢村」を作り「融合族」を形成する「皇族賜姓族の信濃青木氏」は、この「伊勢の呼称」の使用は「準使用氏」と見なされますし、現に本来の「青木村」にせずに「伊勢村」の呼称を使っている程なのです。
(天智天皇による「第4世族神明王の19の守護王」を始祖とする「5家5流」の5地域の「信濃王の青木氏」 「氏名」を「村名」とする慣習は皇族賜姓青木氏にのみ許されたもので、他氏は全て「地名」とする習慣があったのです。これは「嵯峨期の詔勅」により「青木氏の氏名」の使用と、その尊厳と権威と格式を護る為に「氏名」を「地名」とする事を禁じた事に依ります。)
従って、「神宮=伊勢」の呼称の禁令から、この信濃の「伊勢の呼称」は他の呼称とは別なのです。
「青木村」を使わず一段格式高い「神宮=伊勢」の「伊勢」の呼称を「村名」としたのです。
勿論、「神明系3社」に匹敵する社でもあるのです。
故に、「伊勢宮」の呼称であろうと、「伊勢神社」の呼称であろうと問題はないのです。
つまりは、この「2つの社」は真に「神明神社」であって「神明社」なのです。
神宮の「伊勢の呼称」であろうと「村の名前」であろうと、この氏は何れも使用可能な氏なのです。
況や、「準使用氏」であり、「伊勢青木氏」=「信濃青木氏」であるのです。

敢えて、「伊勢青木氏」=「信濃青木氏」のこの事を論じる為に其の他の項目にこの一つを入れたのです。
ところがここで、「伊勢青木氏」=「信濃青木氏」に匹敵するもう一つの「準使用氏」があるのです。
それは、「特別賜姓族の伊勢青木氏」です。(決-41)

「皇族伊勢青木氏」とは伊勢四日市で融合氏の血縁関係を構築する事のみならず、両氏の「融合氏」も「信濃の伊勢村」と同様に形成し、「伊勢四日市」に「青木村」を形成して定住しているのです。
(信濃青木氏との3氏の血縁性も高い)
従って、この「伊勢の特別賜姓族の青木氏」は武蔵の「宗家の特別賜姓族青木氏」と並んで、「神明系社」に対する指揮権は大きかったのです。
故に、「特別賜姓族」は「神明系3社」の建立を厳しい「仕来り、決り事、規則慣習」40を護りながらも「418社」もの建立が可能となり、且つ、「皇族賜姓族」を支えながらも、「4-6規則」で計画的に行えたものなのです。
それを実行する「2つの絆青木氏」もその行為に対して尊敬しこれに従ったと考えるのです。
だから、前段と上記でも論じた様に、「神明系社:566社」なのであって、民は「3つの災難」等にも拘らず「神明系3社」を原則除外し「2つの青木氏」を崇めたのです。
もっと広く云えば、事程左様に「第2の宗家の青木氏」との「親族」であると云う事等からも家柄身分に拘わらず「青木氏族の秀郷一門の永嶋氏を始めとする主要5氏」も同時に、「民の為に566社」も立ててもらっている事から、民から「尊敬の念」を抱かれ崇められたと考えれるのです。
結局は、この「伊勢の社名付き神社」は特別な慣習(決-41)なのです。

さて、そうすると、次ぎの「伊勢・・社」は何なのかと云う事に成ります。
実は、信濃の「伊勢・社」と同じく大変に重要な「青木氏の生き様」を物語る特別な「伊勢呼称」なのです。

この事に付いて次ぎに論じます。

石川
「伊勢神社」 輪島市
富山
「伊勢玉神社」永見市伊勢町

この「2県の神社」(実態は福井が入る)は、「一部信濃青木氏」、「信濃足利氏系青木氏」、「近江青木氏」、「近江佐々木氏系青木氏」、「甲斐武田氏系青木氏」の末裔等が「室町期の戦乱期」を逃れる為に、或いは一部は「平安期の動乱」を逃れる為に「石川や富山や福井」の「日本海側3県」に、神奈川、栃木、新潟に逃亡した「諏訪族系青木氏」の様な「一族集団的な逃亡」ではなく、「混乱期」を避ける為に、或いは「子孫存続」を図る為に、「事前退避」した者の末裔(退避族・家族親族)が定住した地域なのです。

中には8万石(青木紀伊守)や4万石(青木伊賀守)の青木氏が「加賀の戦い」で秀吉に敗れ、「敗残兵」としてこの「退避族」を頼って逃れた者もいるのです。

では、”何故この3県(富山、石川、福井)を頼ったか”と云う疑問ですが、実はこの奈良期の「越国」は「皇族賜姓伊勢青木氏」(越道君)の「古代故郷」なのです。
実は「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は災難を受けている「賜姓青木氏一族」の「退避先」をここに誘導したのではないかと推理しているのです。その根拠があるのです。
その「2足の草鞋策の財力」や「シンジケート力」を使って ”「確実な安全地域」に誘導して護る” と云う義務が「氏家制度」としてあった筈で、その力を使って安全に退避させたと観ているのです。
それが青木氏族を護り生き残らせる「最大の義務」で、それがあってこそ「皇族賜姓族の務め」であり「3つの発祥源」の本来の基本の務めなのです。従って、「3つの発祥源の青木氏」が ”子孫が絶える” と云う事があってはそもそも「政治的」にも「国民の安定と安寧」を図る「象徴」として、又、「皇族一門を支える戦略的配慮」からも朝廷は困るのです。

(次段で論じる事として、ある「決定的な特別な根拠」が「伊勢と信濃の2つの賜姓青木氏」に課せられていたのです。 青木氏の守護神-22参照 最後の論点)

まして、”この程度の事が出来なければ青木氏なんておこがましい。と云う”「青木家家訓10訓」の全ての教えなのです。

と云うのは、幾ら退避するとしても安全な地域に届けるには移動中の危険が大きく潜んでいて戦乱の中では極めて困難です。
勝利者側が「掃討作戦」を必ず敷きますので、家族等に「武力の防備」がなければまず殆どは無理です。そして、幾つもの歴史的に異なる「混乱や戦乱」にも全てこの3県に集中しているのです。
そして全ての各地の「皇族賜姓族地」の賜姓族の末裔家族が、時代が異なるにも拘らず全てこの3県に移動している不思議な事なのです。
定住しても一人2人ではありません。そうするとその生活に必要とする「経済的裏付」が必要ですし、ある程度の保護力も必要です。これはそう簡単な事ではありません。
これは「何かの力」が大きく働いての事であります。
それを実行できる力量を持った「皇族賜姓族の一族」と云えば「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の連携であります。自らの「伊勢の3戦い」以外に一切の戦いに組しなかったのはこの「2つの氏」であります。
又、この目的、責務を達成させるには本音では ”出来なかった” と云うべき事だったのです。
ですから「誘導する全ての条件」が整っています。”整えた”とするのが正しいのです。
「皇族賜姓伊勢青木氏」の「母方ルーツ」はこの「越の国の3県」です。ここを選んだのです。
そして、「退避の家族の安全の情報」や「心の拠り所」を確保するには「神明系5社」、3県で42社 全体の28%/148 7%/566 32社/42が神明社 集中地域させているのです。
この為にもこの「神明系社の力」が必要であったのです。

全ての「神明系社の建立地」は「賜姓族地」だけですが、「賜姓族地」でもないのに、ただこの地域だけは例外地なのです。其処に「3割近い神明系社」を集中させて適切に分布させ建立しているのです。
「何か、特別な思惑」があった事を物語ります。それでなくては「2つの賜姓青木氏の勢力圏外」でこの日本海の片隅の地域に集中させる事はあり得ません。
148社もギリギリの建設戸数であった事は前記しましたが、そんな中での3割です。
そして、其処に「全ての青木氏の末裔子孫」がこの3県地域に不思議に混在しているのです。
そして、その末裔は主に「商家」として生き抜いているのです。 これ等の事に ”絶対に何かある” と思う筈です。
更に、これまで20段で論じて来た中で、一つ「大きな疑問」を感じませんか。
”賜姓族、賜姓族としつこく言いながら、 ”何か論じていない事が抜けている” と感じませんか。

「皇族賜姓族」は「第4世族内の第6位皇子」の「朝臣族」ですね。
では、「第4世族内の皇子王族の真人族」はどうしたのか。何もしなかったのか、末裔はどうなったのか、遺せたのか、彼等の守護神は何なのか、等の青木氏で論じた数々の事の問いが浮かんで来ますね。
実はこの全ての疑問に応える回答が此処にあったのです。
それが、この「地域と退避地」に答えがあったのです。
(長論と成る為に、次ぎの-22で「皇族と5家5流賜姓族との関係の検証 (19守護王地の意味する処)」で論じます。)

「皇族賜姓族」は「第4世族内の第6位皇子」の「朝臣族」でありますが、その「退避家族」が末裔を此処に遺し、此処に至るには「至難の技」それを成し得たのは”伊勢青木氏と信濃青木氏の力以外には絶対にない”と断言出来ます。
では”その退避方法は”と成りますが、陸路は各地のシンジケートの連携、海路は「伊勢青木氏」の伊勢店の大船と堺店と攝津店の大船だと思います。其処までシンジケートの保護であったと考えられ、途中の宿泊は神明系5社であったと考えられ、そして私は大船で運んだと観ているのです。
一番安全で確実です。だから日本海側の港の持つ3県なのです。
そして、故に、ここに「28%の神明社32社」と、「神明神社8社」と、この「・・神社」2社を「神明地」ではない「賜姓族地」ではないこの3県に故に集中させたのです。
無駄に「賜姓族地」ではない地域に42社もの神明系社を建立する理由はありません。
この為の布石なのです。
この「退避族」(家族)はその里を頼っての地域であったと考えられます。
他の地域を頼る事は反って小単位の家族集団には危険を孕んでいて、逆に旗頭に担ぎ挙げられる等の事が起り、戦乱に巻き込まれる可能性が高い事に成ります。(現実に滋賀等で起っている)

この3県の「広域越の国」の南域には上記の氏の祖先(天智天皇、天武天皇、持統天皇)の母方実家先の末裔族が住む地域なのです。この地域は[全青木氏の始祖の地]であり、平安期-鎌倉期-室町期にはその先祖の末裔が「広域に小豪族化した郷氏、郷士の地域」なのです。
従って、この「青木氏の基ルーツ」の「郷氏、郷士の里」を頼った事に成るのです。其処に退避族の安定定住地を社会的にシステムとして構築したのです。
退避した武力を持たない小集団の家族の末裔は地主などに成っていない事等もこの事を物語っているのです。「氏再興」を果たした栃木などと大きく異なる処です。

4万石、10万石の「大名の末裔」と「敗残兵」がここを頼ったという記録は、ここが「皇族賜姓族系の青木氏の逃げる地域」である事を口伝で知っていた事を示します。
そして、代々奈良期からそれが「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の「仕儀」であった事も知っていた事にも成ります。(敗残兵が本当に逃亡したのかの矛盾と疑問がある。)
「皇族賜姓青木氏の氏家制度」が室町期末期まで続いていた事を証明する事にも成ります。

因みに、これを証明する事として、実は明治9年までに続いた「隠れ浄土宗系の宗派の集団」が起した「伊勢周辺の武士と農民の大一揆」に背後で「経済的支援」をしていたのは「伊勢青木氏」と「伊勢加納氏(加納屋)」であった事も記録として残っている事からも、明治初期までこの「態勢力」を維持していたのです。

実は本論のこの調査で判った傾向として、”この「退避地の末裔」の多くは傾向として「商い」をしている”と云う事なのです。重要な事なのです。
この「3県の神明社42社」の「境内の碑」に記された内容を観ると「・・屋」とする「商人の寄付」が多いと言う事です。これは明らかに「伊勢と信濃の商いの影響」を受けていた事を示しているのです。

これは「退避地での自立」に向けて、「武」ではなく「和」の「商」を選んだとし、それを「伊勢と信濃の商い」がこれを誘導した事を物語るものです。「和紙」に限らず地場産業の殖産販売として「支店的な活動」をさせて自立を促したのです。

「5家5流25氏の青木氏外」にも「丹治氏系青木氏」等の「嵯峨期詔勅の皇族青木氏」も「夏冬の戦い」で退避しているのです。確認は取れないが、家紋群から「花菱紋の存在」が確認出来るので、「甲斐の武田氏系皇族青木氏」の一部末裔家族が事前退避している可能性があるのです。
敗退後の甲斐の皇族青木氏は、「埼玉鉢形に集団移転」させられているが、「青木氏の退避地」がある事は口伝で事前に承知していた筈なので、確実に子孫を遺す意味で、戦い前に事前に戻る事も承知で女子供の一部家族を「退避地」(保護地)に移動させている可能性が高いのです。

そもそも戦いで負けて逃げ込む場所の「敗退逃避地」ではなく、ここは「事前退避地」の意味が強かったのです。それは「敗退した兵や族」が逃げ込めば「敗残兵の掃討作戦」を勝利者側は確実に行いますので反って戦いに巻き込まれる事もあって「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」は許可しなかった筈です。
上記の「紀伊守と伊賀守の末裔と敗残兵」の「逃亡の記録内容」には問題があると観ていて、家族に付き従った「家人」では無かったかと観ていて、確認は出来ませんが「記録表現の誤り」と考えます。
先ず、この「逃避地3県」に安全に事前に移動させるにも「伊勢青木氏」「信濃青木氏」の了解が必要であり、且つ、退避する手段の「船や陸送」もシンジケートを使って頼らなければ成らない訳ですから、「兵」が付き添っていては「巻き添え」に会います。 ”勝って気侭に退避する” と云う事には成らない筈です。
退避後の「生活と安全」も看て貰わなくては成らない訳ですから、必ずお願いする立場からは「信義」を護る筈です。
戦いに勝利する事で、又、元に戻る手段もお願いしなければ成らない訳ですから、「決まりや信義」を必ず守った筈です。退避しての「当面の避難所」もこの「42社の神明系社」である訳ですから間違いはないと考えます。

ここで、前段からの情報として、間尺にあわない一つの疑問が湧きます。
この疑問の検証は、”この「退避地」が何時ごろから始まっていたのか” と言う事をも説明する事にも成ります。
それを物語るのは、平安中期に起った次ぎの信濃の事件です。
信濃には陸奥から秀郷一門との血縁族の「花房氏」が一門の赴任先の移動に伴ない移動し、勢力を得てここで豪族(土豪)となります。然し、ここには「信濃足利氏系本家」が定住していました。この二つの氏が血縁します。
ところが、秀郷一門は「内部争い」から一門の言う事の聞かない「信濃足利氏系本家」を潰しに掛かります。そして、この「血縁族の花房氏系の分家」に「秀郷一門から跡目」を入れて、こちらを本家として立てて援護します、そして挙句は「元の本家筋」を追い出します。この「元本家筋」は「皇族賜姓信濃青木氏」と血縁していて「信濃の賜姓族」の「足利氏系青木氏」が発祥しています。
そこで、この「元本家筋」は信濃から逃げ出します。この時、゜賜姓族の足利氏系青木氏」の一部が付き従います。そして、逃避して遂には、鳥取の「八頭と米子」に辿り付き定住します。
ここは「賜姓族地」では全く無く、むしろ「出雲大社族」の領域の所領境です。
諸々の勢力の「緩衝地帯」とも言うべき地域でした。
秀郷一門はこの「陸奥血縁族の花房氏」を「土地の豪族」として大きくし、「信濃足利氏」と血縁させて分家とし、其処に一門から「跡目」を入れて甲斐を挟む勢力圏を構築する狙いがあったのです。
そうする事で関東域と古代の東海道域圏を押さえ込む事が出来ます。
その覇権争いの前哨戦であったのです。
「信濃足利氏」にして観れば、まだ室町幕府の栃木の足利氏と共にまだ然程大きくなく、結局、この分家の足利氏が最終全国11国を制する程に大きくなります。
然し、「栃木足利氏」との勢力抗争も起り、遂には衰退を始め11国の尾張の守護代を頼り、その守護代の織田氏に乗っ取られて足利氏の斯波氏は滅亡します。
「足利幕府の基盤」を作ったのはそもそもこの「信濃足利氏」であったのです。
(11領国の一つ陸奥斯波の地名を採り斯波氏を名乗る)
この平安期の前身の本家筋の事件での逃避地です。
上記のデーターでも判る様に、ここは鳥取は全く「神明系社」が無い地域です。ここに逃げ込んだのです。
以上がこの事件の経緯ですが、この事、何か不思議ではありませんか。

先ず、何故、この「青木氏の退避地」に定住しなかったのでしょうか。
この「退避地」(保護地)とこの「足利氏本家」と「足利氏系青木氏」の元の定住地は、「信濃」と「美濃」と「越中」の「国境地域周辺」に元々住み分けし定住していたのです。
富山、石川、福井の3県とは直ぐ北西の隣接域です。
最も逃避しやすい地域ですのに、然し、「若狭の福井」を越して「因旛の鳥取」まで逃避しています。

この経緯の中には次ぎの重要な事が潜んでいます。
1 この退避地の設置時期とその完成度期(退避地の歴史的経緯)
2 この退避地に留まらなかった理由(退避地の受入条件)
3 この時期の3県の「神明社系」の建立社数の程度(退避地の保護能力)

では、この事に付いて、考察し検証します。
この事件の起った時期ですが、平安中期前後の1000年頃です。
この頃の「2つの青木氏」の状況は、先ず、「皇族賜姓族」はやっと大化期の頃から始まった「古代和紙」の「伊賀和紙」を信濃に移して900年前半代に「信濃和紙」が殖産出来ました。
「伊勢と信濃の青木氏」は守護としてこれを売りさばいていた頃ですが、「平安期の初期」に始まった「衰退期」から何とか脱しようとして、これを契機に1000年の前半初期に本格的な「商い」(1025年頃)としての販売に移り始めた時期の頃です。年代が一致しています。
この「2足の草鞋策」は、前段でも論じた様に、丁度100年後の頃の1125年頃に「豪商・大店」としても「本格的な力」を発揮し始めた時期に成ります。
「鎌倉文化」(1200年代頃)を経て「室町文化期の紙文化」(1340年代頃)と呼ばれ時期には「巨万の富」を獲得します。
記録によると、「地主」としての土地の大きさだけで換算すると、「50-60万石の以上の力」で、「商い分」を勘案すると「100万石以上 伊勢は58万石 最終は5万石の地主」(元は伊勢守護)を持っていた事が判ります。
一方「特別賜姓族」は、「千国の青木氏の賜姓」が940年代前半です。ここから「特別賜姓族」は急激に力を増します。
そうすると、力の付けた秀郷一門(秀郷958年没)が仕掛けたこの1000年前後のこの事件には、この「二つの青木氏」も共に再び「相当な力の持ち始めた時期」に成ります。
(この時代の状況判断から此処に逃げ込めた筈です。)

そこで、「神明系5社」の建設状況では、特にこの3県での「建設社数」ですが、「賜姓族地」ではないこの3県の「賜姓族退避地」(保護地)の「42社」の社歴を調べた範囲では、その「建立時期」を考察する事が結局は困難でした。
本質、これ等の「社」は、「古さ」から来る「威厳、尊厳、荘厳さ」等を重視される為に、敢えて「社歴の年代年数」を正確に明示しない傾向があります。
然し、この隣の「越後-信濃-美濃」域の「周囲の神明社」から状況判定すると、この1000年前の頃に既に建立されていた可能性のある「神明系社」は、県の国府に付近に集中している筈ですから、場所的要素から判断すると、未だ「20社程度/3県」であったと考えられます。

前段で論じた様に、「4-6規則」からと「平均4社/1郡」の事から判断すると、「1県4郡」と見ると、比較基準としては「平均16社/県」と成ります。
そうすると、当時の「6社/県」(「20社程度/3県」)と比較すると、この「賜姓族退避地」に対しては、「混乱、戦乱、騒乱、内乱、事件」等の「退避条件」からのその「必要性」から「1/3」程度と成り、この社数は妥当な処と観られます。
(受け入れ条件は一応整っていた事が判ります。)

確かに、この「6社/県」(「20社程度/3県」)の内には、明らかに奈良期から平安初期までのものと観られる「建設様式」と、「社歴」を信用するかしないかは別として、この2条件から観ると「半分程度強」と観られます。特にその傾向は「富山側」にあります。
この「富山の理由」は、「越後と信濃と美濃」の3国境を接していた事によるのではないかと考察されます。
特に、「古い」と観られる社が「石川」に離れて「2社」あり、これは前段でも論じた「主要な初期の19神明社建立地」(4世族王 下記付録)に記している「石川の王」の「天智天皇の19守護王」の時の「神明社」であると観ています。

(参考 福井県西の「若狭」には「守護王」として「雅狭の王」が配置されていたが、この「雅狭王」は北滋賀地域の王 奈良期-平安期の「近江国」は「北域」と「国府域」と「南域」との「3政庁区域」に分けられていた。)
(参考 「大化の守護王」は守護地の地名を名乗る慣習があった。
例えば、施基皇子 伊勢の施基: しき :後に施基の地名が色又は一色等に変わる。他に奈良の磯城:しきの磯城皇子 川島皇子:佐々木の川島:佐々木皇子 全てこの慣習に従う。)
(参考 「石川王」はこの後、「吉備」、更に「播磨」と赴任するが最初の王名が通名の慣習と成る。出自地が「王名」と成る)

そして、この「2社」が上記の「石川の2社」(神明社1含む)であると考えられます。
この事から、明らかに大化期から「賜姓族地」を離れていても、この地名の石川には高位の「4世族王」の「守護王」を置いていた事の意味が出て来ます。
つまり、「石川」はこの意味で「重視していた地域」であった事を意味するのです。
「神明社」「神明神社」がある事自体が重要度を物語るパラメータなのです。
つまり、「奈良期と平安期」では、「神明社の存在」は一つの「重要地」である事の証しなのです。
「3つの発祥源」の責務を担った「皇族賜姓族の青木氏」を政策上つぶす事は絶対に出来ません。
その為に、「皇族者の子孫存続」を目的として「事件や乱」等から守る為の天智、天武天皇が最初に考えた「退避地的な地域」(保護地域)であったのです。(決-42)

この為に3県に対して、北側に隣接する「近江」には、南北の縦に「3つの守護王」を置いて補足態勢を採っていたのです。
そして、この「近江」から南域に隣接する「伊勢」を基軸にして挟む様に左右の5地域に「高位の賜姓族王」(融合氏)を配置したのです。
そして、”イザ”と云う時の退避地(保護地)として最も「美濃-信濃」に近い「石川」を基軸に左右に「2つの地域(福井、富山)」をその範囲領として「退避地」(保護地)としたのです。
要するにより確実で安全な「防護戦術の鶴翼の陣形」を敷いたのです。
無意味に1つの国にこの様に3守護王を配置する事はあり得ません。

この「戦略的配置」とは別に、次ぎの様な事を実行しています。
1 それを「不入不倫の権と神宮」で固く護ります。
2 「青木氏の守護神」を「皇祖神の子神」と定めて権威を高めて保護します。
3 「祖先神」と云う「独善の神」を持たせ上で、この「保護システム」の采配を「祖先神-神明社建立」と云う手段を駆使します。
4 指揮に対する権威を高める為に「最高位の王」として「融合氏の祖」の「伊勢王 施基皇子」を初代「指揮王」として定めたのです。
(「主要な初期の19神明社建立地:4世族王」 下記付録参照)

(参考 奈良期から王は「4世族」(宿禰族まで)までとし、「八色の姓」制度で変革したのです。
それまでは「6世族王」であった。「伊勢王」は最高位の2世族の「第6位皇子」「朝臣族」「淨大正1位」 「王位」にも順位があり重要地に応じて順位通りに配置された。)

従って、この事件の1000年頃の「退避地の神明系社の数」は一応「22社」とします。
最初の建立期は、大化期の「石川王の2社」(吉備、播磨の「石川王」別)であります。
これを一応645年とします。
事件の1000年の前の950年として計算すると「250年間」、「古代和紙」の信濃は900年頃として、この間に前記した様に「最小の衰退期間100年(MAX150年)」として、「100年間」-「22社」とすると、建設能力は次ぎの様に成ります。
 [ (22社/100年)*5 ]で、 建設は5年に1社程度と成ります。

これは上記で論じた「建設能力」に類似します。
5年に1社程度で退避地(保護地)に神明社を建立し始めた事に成ります。
その最初が「19地域の守護王の神明社建設」であったのです。
(その中でも上記した特令地の神宮の遷宮遍座地の一つで滋賀の「神明社」がもっとも古い)

結論としては、これで1と3は解決しました。
この3県に建立されていた事件前の神明系社は22社と成ります。
退避地(防護地)の「受け入り態勢」は時代と共に進み、「1社/5年」のペースで充実させて行ったことを物語ります。

さて、2の検証を次ぎに進めます。
この22社もある退避地(防護地)に、”何故、この「足利氏系青木氏」が伴う「足利氏元本家の集団」は留まらなかったのか” と成ります。上記した様に、「退避地」としては留まられた筈です。

この事件は戦乱ではありませんので「掃討作戦」がある事の危険はありません。ただ逃避するだけです。荷駄を引っ張りながら一族の集団が山道を越えて米子・八頭に逃避し到達したのです。
明らかに「退避地の充実度」で留まらなかったわけではない事から、次ぎの事柄が考えられます。

「足利氏元本家」は ”皇族ではない” と云う立場があり、「賜姓族分家の足利氏系青木氏」の一部の薦めにも拘わらず「賜姓族地」と云う概念に拘ったのです。
それ程、この時代には未だ平安期である事から「賜姓族」と云う「権威、尊厳」があり、これに対して「一信濃の土豪の立場」から遠慮したと成ります。(理由の1)

秀郷一門から危険を感じてその「影響力」の及ばない所の「鳥取」のこの ”「緩衝地帯」に逃避したかった”とする推測も成り立ちます。
皇族賜姓青木氏と特別賜姓青木氏の関係からこの退避地は余りにも秀郷一門の影響力の及ぶところであったからでもあります。(理由の2)

”この鳥取の八頭の「緩衝地帯」であれば未開の山間部を開墾して、一族を護る事が出来る” と考えた事もあり得ます。
その他の土地では、「土地の豪族」との間で「受け入れ」を断わられる事もあり得ます。
故に、この未開の誰の圏域でもない様なこの「緩衝地帯の山間部」を選んだ事が考えられます。
(理由の3)

何れにしても、「3県の退避地」に留まらず、逃避行を続けた理由はこの「3つの状況」を配慮した筈なのです。

つまり、その配慮の根幹は、「再興」のことより「子孫存続」に重点を置いた生き方をした事を物語ります。
その証拠に、鳥取には神明社系は全くありません。本来であれば賜姓族の足利氏系青木氏が付き従っていますから、「神明社系社」を建立できる立場にはあった筈ですが、宗家に対して建立するに必要とする条件を揃える事が出来なかった事が考えられます。それ程に「衰退した環境」の中にあった事を物語ります。
この「賜姓足利系青木一族」はこの米子域から東西に南北に末裔を大きく広げていません。本来ならば「青木村」を作る権利も与えられている訳ですがありません。
信濃を立つ時の「賜姓足利氏系青木氏」の”宗家に対しての苦しい立場”が目に映ります。それだけに上記の「3つの配慮」をしたのです。

一部、宍道湖の右側に青木氏の子孫が点在存在している事は家紋群でも判りますが、これ以外にはありません。この事からかなり閉鎖的に氏を護った事に成ります。
この状況証拠から、「2の問題」は検証出来たと考えます。

「元本家筋の足利氏」に付いての研究は進んでいませんが、「信濃足利氏系青木氏」から考察すると、上記の「3つの理由」から留まらなかった事が判ります。むしろ”留まれなかった事”に成るでしょう。

結局、この事件の検証からは、この「3県の退避地」は奈良期からある程度の能力を保持していた事が判ります。 
「神明系社」が22社から42社に成ったのは、「室町期の下克上と戦乱期」の要素から青木氏はよりその退避地の受け入れ能力を高めた事が判ります。

奈良期から平安期では、「1社/5年」で構築し、鎌倉期からは戦乱期の直前まで1330年-1200年で130年間 これで42社-22社で20社→20社/130年から 「1社/5年」と成ります。

「時代の混乱性」を「奈良期-平安期」に比して「鎌倉期-室町期中期」は2倍として考察すると、2倍のハイペースで建設を進めた事が判ります。
この「20社」は、上記で論じた「建設の能力」から可能な範囲であります。

「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、懸命にこの「退避地の補足」を「時代の状況」に応じて「神明系社の建設」に邁進した事が判ります。そして、最終的には全国比3割を占めるまでに至ったのです。

「2足の草鞋策の財力」とその「抑止力のシンジケートの能力」には問題が無かった事は上記した明治期の「一揆のバックアップ」の史実の事からも判ります。
特に、この「シンジケートの能力」は鎌倉期-室町期中期間では極端に高まったと考えられます。
それは「シンジケートの母体」は、「戦乱で敗退した氏族」を「経済的に援護」してこの「組織」に組み入れて保護して、”イザ ”と云う時にその代償を発揮するシステムです。
この ”イザ ”は「抑止力」のみならず「諸々の経済活動」にも寄与したのです。
伊勢青木氏-信濃青木氏が企画する「全ての経済活動」に働いたのです。
大商いの「荷駄の輸送と安全確保」、「神明系社建設の職人や下働人」等のありとあらゆる仕事に対して適時適切に指揮してシステムを動かしたのです。
「室町期の戦乱期」には、真に「政治、経済、軍事」の三面に対して忙しく働いた事が記載されています。
「伊勢シンジケート」が効率よく働いた史実の「南北朝の楠木正成の働き」がこれを物語っています。
混乱期の「敗残兵」の多くは逃亡して「山間部や海沿い」に移り住み、「山族、野族、海族」の様な形で生活をしていました。
普通は、前段の「陸奥安倍氏」のところでも論じた様に、当時の戦いの慣習では、「敗残兵」が捕まると「俘囚」として奴隷となり、女子供の家族は人身売買と成ったのです。
資料から室町期までこの悪習は続づいていたのです。
その悪習の中で、青木氏はこれらの青木氏に関係する「敗残兵」のみに拘わらず、全ての氏の「敗残兵」を、「退避地」ではなく、「伊勢-信濃シンジケート」の中に組入れて保護し、「集団組員」として生活保護を含む様な経済的な支援をしたのです。
これには兵だけではなく被害を受けた「村の農民」や「全ての職種の職人」等も「影の姿」で吸収したのです。
「今宮社系の遠州シンジケート」の蜂須賀氏や、「神明社系の伊勢-信濃シンジケート」の楠木氏などはこの一員であったのです。
単に「抑止力」の言葉で表現していますが、実は「シンジケートの構成内容」はこの様な「一種の退避地」の役目も果たしていたのです。
「3県の退避地」は「一族の子孫存続」の為の策であり、「伊勢シンジケート」はそれらの「関係族の救済手段」の為の策でもあり、この「2つの策」を構築していたのです。

この様に、考えてみれば、全ての「青木氏の存在」を影で関わり支えた「伊勢-信濃シンジケート」はなくては成らない存在であった事が改めて判ります。
そして、この「2つの策」に関わった無くては成らない前段で論じた「伊勢シンジケート」と本段の「神明系社 556」は切っても切り離せない関係にあった事が判ります。
そして、「4-6規則」と「決-41」はこれ等の関係を維持すべく「最大の条件」であったのです。

(参考 「4-6規則」は1地域に於いて「4-6社の建立」とする根拠の一つには「退避屋社」の距離にもあって、一つの地域を「50キロ程度、15里」が「昔の国の距離」の単位ですが、これを4-6社で割ると(3里)~4里で(12キロ)~15キロと成り、「休憩-宿泊」の丁度よい範囲と成ります。
これは「退避地」だけに関らず「29の賜姓族地」に於いても”いざ”と云う時の要件でもあったのです。
「4里」は、資料から一旅の「平安期-室町期代の移動範囲」とする記載もある。)

結局、「賜姓族地」に無関係なこの3県のこの2社はこの「皇族賜姓族」の「伊勢青木氏と信濃青木氏の建立」と云う事に成るのです。
だから「32の神明社」と「8の神明神社」と、「分霊社」を招く事の出来ないこの地に「社名つきの神社2」なのであって、「伊勢の呼称」は特定しないこの「退避族の末裔」の為に建立された事を意味するのです。
だから、総じて「伊勢」なのです。故に、ここが「全皇族賜姓族のルーツ」(越道君)なのです。

「武と和」
そこで、この3県の「社名付き・・神社」で論じたのには、次ぎの特記すべき事があったからなのです。
それは、前段で論じた様に、「2つの賜姓青木氏」は「武」の「発祥源」でありながらも、その存続は「神明社」に関り、「武による存続」ではなく、総じて「和の存続」であった事なのです。
その証拠が「和の象徴」の「神明社」であって、それに纏わる此処に記する「退避地の存在」なのです。
そして、直接、「武」を使わず、「シンジケート」と云う「影の力」の「抑止力」を活用し「善或いは和」として子孫を確実に遺し生き延びて来たのです。
他氏が行っていない「青木氏の退避地の存在」の意味する処は真に此処にあると考えているのです。
真にこれは「3つの発祥源」を果たす為の戦略であったのです。
その戦略が「神明系社」と「シンジケート」と「特別賜姓族の抑止力」と「退避地」で有機的に働いていたのです。

因みに、この事に付いての次ぎの象徴的な事件があったのです。
「信長の伊勢攻め」に継いで、「豊臣秀吉」は「青木氏の生き様」のこの事を「今宮社系遠州シンジケート」の一員であった「蜂須賀小六」に教えられ充分に承知し、「伊勢攻め」の際は「武」に依らず、自らの兵を使って吉野から材木を切り出し、谷から流し、兵による大工をさせ、前線の拠点城を建てる事をしたのです。(青木氏の影響を避けた)
そして、この様に「丸山城戦」の様に、直接「武」により戦わず、学者で歌人で智略家であり、「伊勢の特別賜姓族」の「遠戚族」でもある「蒲生氏郷」を廻して「伊勢青木氏」と談合させ、戦わずして勝利させる為に、一時、「伊勢青木氏」を新宮に移動させて「勝利の形」を作り、無傷で1年後に戻し、「5万石の本領を安堵」させ、「2足の草鞋策」も促進させる為に「松阪城造り」後には「侍屋敷の2区画」をも与えて、「和」で「伊勢」を解決させたのです。

これは何故なのかであります。
真に、「退避地と神明社」と「シンジケートと2足の草鞋策」に観られる様に「和の生き方」であり、人の心を動かし、「秀吉」はこれを認め、この「青木氏の賜姓氏」を潰さず生かす形で処理をしたのです。
「秀吉の立場」からすると、この「権威の象徴」の様な「目障りな氏」を先ず最初に潰す筈です。
然し、そうしなかったのです。
故に、賜姓源氏を含む「皇族賜姓族」16代16流16氏の中で、唯一正規に直系子孫を純粋に現在に遺し得たのは「笹竜胆紋の綜紋」を家紋とする「伊勢青木氏と信濃青木氏」だけなのです。
前段で論じた「3つの発祥源」の役目は真に達成されたのです。
それがこの「青木氏の守護神」=「祖先神-神明社」の論で判るのです。そして、この「退避地の存在」がそれを大きく物語ると説いています。


「大神宮と皇大神宮」
さて、次ぎは大神宮と皇大神宮を二つにして考察して見ます。
何度も同じデータを比較として使います。

神明社
       ・秋田25・愛知21・新潟13・宮城10・千葉8 ・東京6・岩手4・神奈川4
       ・埼玉3 ・福島2 ・栃木2 ・茨城2 ・広島2 ・山形1・青森1・静岡1
神明神社
       ・秋田8 ・愛知4 ・新潟4 ・宮城2 ・千葉10・東京2  ◎ ・神奈川2
       ・埼玉9 ・福島2 ・栃木1 ・茨城1 ・岡山1 ・山形9  ◎ ・静岡7
       ・群馬3
大神宮
皇大神宮
       ・ ●  ・ ●  ・新潟2 ・宮城2 ・千葉1 ・東京2 ・岩手2・神奈川2
       ・埼玉1 ・福島2 ・栃木3 ・茨城1 ・広島1 ・山形5 ・青森1 ・静岡1
       ・熊本1-北海道1

上記の「神明系4社」を総合して観るとその「建立根拠」が良く判ります。     

神明系
4社総合
       ・秋田25・愛知21・新潟19・宮城14・千葉19・東京10・岩手6・神奈川8
       ・埼玉13・福島6 ・栃木6 ・茨城4 ・広島4 ・山形15・青森2 ・静岡9

「神明系4社」に神明宮を加えて総合的に観ると更にその「建立根拠」が歴然と証明されます。

神明宮
       ・ ●  ・愛知12・新潟34 ・ ●  ・千葉3 ・東京3 ・ ●   ・ ● 
       ・埼玉2 ・福島3 ・栃木8  ・茨城8 ・ ●  ・ ●  ・青森12 ・静岡9
       ・群馬9
神明系
5社総合
       ・秋田25・愛知33・新潟53・宮城14・千葉22・東京13・岩手6・神奈川8
       ・埼玉15・福島9 ・栃木14・茨城12・広島4 ・山形15・青森15・静岡18

先ず、「神明系4社総合」ですが「神明社+神明神社+大神宮+皇大神宮」を加算すると上記の通りの表と成ります。
この表の「大神宮+皇大神宮」の考察表で「秋田」と「愛知」が何故ないのでしょうか。この疑問が湧きます。これを解明すれば、「建立根拠」が浮き上がってくる筈です。

実は、これには「明確な根拠」があるのです。それを次ぎに論じます。
この表は先ず、次ぎの「4つの地域」に分けられます。これは地域としての分類ではなく秀郷ラインとしての分類です。(県別や国境別ではない。広島と岡山は同一とした)

1 青森2 →秋田25  -山形15 -岩手6 -宮城14    北陸ライン
2 新潟19→(山形)  -福島2  -栃木3           東北ライン
3 埼玉1 →茨城4   -東京2  -千葉19          関東ライン
4 神奈川8-静岡9  -愛知21 -広島15          東海ライン

前段で論じた様に、「特別賜姓族の勢力」の伸張方向で観るとこの様に見事に分類出来ます。
この「4つの地域」に沿って「建立の根拠」が配慮されたと考えられます。
この「建立の根拠」は「仕来り、決り事、規則慣習」と「威厳を尊ぶ格式」と「神明社と神明神社の建立数」とで「4つの地域」に依って配慮さられたと観られます。
問題は下記に考察する様に、この県域通りに勢力圏が成り立っていた訳ではなく、下記の注意に記した様に「県別」が昔の「国別」に成っていなかった事等の事から「秋田の様な事」に成ったと考えられます。

(注意 県別も然る事ながら、国別も、国境別にくっきりと判断されたわけではなく、何事も国境を越えた勢力圏で判断されていたのです。)

そもそも、この●印の秋田25と愛知21は社数としては段突です。
先ずは多い事も一つの「建立の根拠」ですが、多ければ必ず「大神宮と皇大神宮」が建立されると云う前提ではありません。何故ならば、其処には「皇祖神」の子神の「祖先神-神明社」と云う「社格」と云うものが働き、それに加えて上記で論じた厳しい賜姓族への「仕来り、決り事、規則慣習」があり、又、上記した「勢力圏」も大きく働きます。
「社」の事のみならず、何事にも「格式」を「社会の基準」として重んじた「氏家制度」です。
その中でも、特に厳格に守られていた「心の拠り所」の「社」に名をつけない格式等が厳格に守られていた環境なのです。
従って、其れなりに「高い権威」が「4つの地域」毎に保たれている地域に建立された筈です。
そうなると、「1の北陸ライン」であれば、このラインの主役、指令基地、つまり、最大の「権威と威厳と格式」の条件を保っているのは、「陸奥国の青森」と成ります。
前段で論じた様に、この陸奥は、秀郷一門の「鎮守府将軍」としての赴任地であり、関東以北の最大の血縁族を有し、秀郷一門の血筋の多くを占め、且つ、関東にはその陸奥の豪族末裔が「関東屋形」等と呼ばれる程の小田氏や小山氏や花房氏等の主要な関東豪族の出身地域でもあります。
況や「武蔵の本領」に対して陸奥は「準本領」と呼ばれる程の地域であり、この地域は江戸期まで一門の領国として維持された息の長い国でもあるのです。
ここに「大神宮と皇大神宮」を建立する事は最適で先ず一番に建立された地域と成ります。
この青森を基点として、ラインの国々に建立されて行った筈です。(神明社も同じであった)
そうすると、”秋田も”と云う事に成ります。この秋田の域の範囲は県別を前提した数字です。

然し、実はこの「秋田」が存在していた地域は、県別ではなく、「国境別の影響」を強く受けた地域なのであって、更には勢力圏が最も強く働いていた地域なのです。県別=国別ではないのです。
この勢力圏には「強い方向性」或いは「地理性」を持っています。(前段でも地域性を論じた。)
従って、この「秋田」は陸奥国(出羽の一部北側を含む国内)の勢力圏内であった事から、建立の適用除外された地域なのです。
既に、「青森」に建立されているとなると、「強い方向性」或いは「地理性」を持っている事から、陸奥の一部の「秋田」には建立は無理であります。

更に、前段で詳しく論じた様に、この地域は平安末期には「阿倍氏-安倍氏」と「内蔵氏」の阿多倍一門の「産土神の勢力圏」と成り、越後に近い「出羽の南部(山形)」と、「陸前の西側域」と「岩代の北側域」との「3つの地域」が支配していた地域でした。
この「3つの国」に挟まれた地域にはその影響力は当然に及びません。
この様に「支配地域外」と「守護神の違い」が強く働いていたのです。
上記した様に勢力圏にはこの様に「方向性・地理性」が働くのです。
当然に「建立の根拠」もこれによって支配されます。
この「秋田」はあらゆる面(国別、勢力圏、守護神、「立地地形」等)から影響を受けていた事に成るのです。それだけに、この「陸奥域」を後方から支援補足する必要性があり、それを実行する「新潟」に執っては「喉の刺」であったのです。
(別の意味で、故に秋田は大変に変動し苦労した歴史を持っているのです。)

この「広域陸奥域」を補足する立場の「新潟」は、「2のライン」の広域の「越国の根拠地」であった事から建立され、そこを基点としてその「2のライン」の他の地域に次第に建立されて行ったのです。
この「秋田」と同じくこの難しい位置にあった北陸域にも接するこの「山形」は、越後の支援を強く受け、「秋田」の他氏の支配域の伸張防止も含めて「陸奥の出羽国の根拠地」であった事から建立されたのです。

「県別、国別」以外にも要するに「勢力圏」とその「方向性」をも「建立の根拠」に影響を強く与えていたのです。
そして、「2のライン」は、武蔵の本領域を繋ぐ広域陸奥域の主要の国々、「3のライン」は広域武蔵国の本領域であった事から建立されたのです。

(現在の「県別」で考察しているので、昔は次ぎの「注意」の通りであった事から誤解を招き易い。下記の「注意」を特に本論には考慮が必要で、雑学としても是非お読みください。この「注意」に勢力圏が働きますのでその根拠で論じています。)

[注意1  「広域陸奥国」は、元は「磐城」(福島)、「岩代」(福島)、「陸前」(宮城)、「陸中」(岩手)と出羽の「羽前」(秋田)、「羽後」(山形)とで以上6域で構成される「陸奥国」であった。]

[注意2  「広域越後国」は、元は山形の一部を含む「越後」(新潟)、「越中」(富山)、「佐渡」、加賀(石川)、越前(福井)との4地域で構成される「越国」であった。]

[注意3  「広域武蔵国」は武蔵(埼玉)、武蔵(東京)、上野(群馬)、下野(栃木)と神奈川 (相模)の一部と千葉(下総)の一部との6地域で構成される「武蔵国」であった]

[注意4  「峡域陸奥国」は、現在の青森県をベースに、岩手県の北の30%を南に伸び、秋田県の30%を南に伸び、日本海側より60%、太平洋側より30%程度内側に入った地域を国境としていた。
つまり、秋田と岩手の国境を挟んで突出した形状であった。

[注意5  「峡域越後国(越国)は、現在の新潟県をベースに、北側の県境より山形県側に20%北に伸び、山形県の日本海側に糸状に秋田県に繋がっていて、福島県の県境に20%を東福島側に伸び、栃木県と群馬県の県境をそのままにし、富山県の西県境付近まで伸び、長野県と富山県との3県境の地域を長野県側に延びた地域を国境としていた。
山形県と秋田県に繋がる日本海沿岸沿いの糸状域は陸奥に繋がる補給通路として抑えていたと考えられる。]

[注意6  茨城県、岩手県、宮城県、福島県、千葉県も昔の国境とは大きく異なっている。
現在の県境は地理的要素に依って決められ、昔の国境は歴史的経緯(勢力)に依って決められていた。
国境を走る北陸道、中央の山道を走る東山道 茨城と福島の太平洋国境から発し中部地方との県境を走る東海道との幹線道路とは別に、福井西側より日本海沿岸沿いに陸奥まで走る古代の通路があった。茨城を発し太平洋沿岸沿いに陸奥まで走る古代通路があった。
何れも幹線道路ではなく生活道路や補給路的な通路的なものであった模様。
これを特別賜姓族は勢力的に抑えて戦略的なものに使った模様が記録から読み取れる。]

「4のライン」の愛知21は、隣国は伊勢神宮の摂社等123社の三重であり、ここに「大神宮と皇大神宮」を建立する根拠は薄く、又、「権威と威厳と格式」を重んじる「伊勢神宮」は分霊を直ぐ隣に移す事は許可しないと考えられます。
それよりは普通の判断配慮ならば、”「子神の神明社」を多く建立する「配慮の地域」である”と考える筈です。故に、秋田25と同じく愛知21と2番目に多いのです。
特に、伊勢は天領地として「不入不倫の権」を奈良期から与えられた「三重」であって、国境は不動であったのです。、それに依って「愛知の伊勢」との西側の国境は当然に不動と成ります。
その区別そのものは、現在感覚であって、昔は国別はあったとしても勢力争いから常に流動的であって、その地域は殆どは「勢力地域」に相当していたのです。
「愛知21」はその意味ではこの不動の勢力地域に合致していたのです。
この事から秋田と愛知は建立の適用は除外されたのです。

これ等の事は更に「神明系5社総合」の表が上記の考察を完全に証明しています。
この表は神明のパラメータのみならず「特別賜姓族」のあらゆるパラメータにも使えるのです。
改めて、重要なデータであるので再記します。
目的順に並べなおして使用すると便利でパラメータは発揮します、ここでは数値順(役目柄)に並べ直します。

神明系5社総合(数値順)
     ・新潟53・愛知33・秋田25・千葉22・静岡18・青森15・埼玉15
     ・山形15・宮城14・栃木14・東京13・茨城12・福島9 ・神奈川8 
     ・岩手6 ・広島4(岡山)

「神明系社域の役割」
筆者の感覚では見事に総合的な指標と成っています。
「一門の戦略上の主役新潟」53    -陸奥域の補給拠点 一門最大の拠点 賜姓族の保護基地
「主神無の伊勢補佐の愛知」33    -西域の前線基地 西域の守り玄関口 他氏との調整役地
「陸奥の西補給路の秋田」25     -陸奥から南域の前線基地 神明系社建立最大地域 
「宗家筋の結城一族の千葉」22    -本領東の拠点 補給基地 「京平氏」との競合地域 
「武蔵と京の中継地点の静岡」18   -東海圏の要 愛知-静岡-神奈川の戦略ラインの確保
「広域陸奥の勢力拠点の青森」15  -全北域圏の要 武蔵-陸奥間の南北2大戦略拠点
「北青森と西愛知の中心点の埼玉」15-本領-総作戦指揮本部 「振り子の原理」役
「陸奥基地と本領の西壁役の山形」15-南北の勢力圏の防護壁-他氏を挟撃壁の盾役
「陸奥基地と本領の東壁役の宮城」14-南北の勢力圏の防護壁-他氏を挟撃壁の盾役
「本領北の防御の栃木」14      -北域の伸張拠点 賜姓族の保護基地 勢力盛り返し地域
「本領周辺防御の東京」13      -青木氏の集約拠点-青木氏116氏の本家本領地域
「本領東の防御の茨城」12      -本領の補給基地 血縁豪族の集約地域
「前線基地の福島」9         -賜姓族の保護基地-北前線の戦闘部隊 不安定域
「本領西の防御の神奈川」8      -伊豆賜姓族との連携地域 関東勢力圏の入口
「陸奥の東補給路の岩手」6      -南の前線基地 不安定地域 一門の最大苦難地域
「讃岐籐氏の勢力圏」4        -軍事、経済の独立性を保持した西の最大勢力地域

全国24地域の特別賜姓族のそれぞれの役割は武蔵本領より与えられていたと考えられます。
又、その様に、戦略的に地理性に合せて勢力地を拡大し、その勢力をある目的方向に進駐させ全体の防御網を構築していたと考えられます。
その印として「戦略的拠点」と「政治的拠点」としても「神明系5社」を巧みに配置していたと観るのです。
その指揮を「第2の宗家」が行っていたのです。
何故ならば、「神明系5社の建立と呼称」と「仕来り、決り事、規則慣習」の実行権を「特別賜姓族」として天皇家から与えられていたからで、これだけの大権を与えられていたからこそ成し遂げられる勢力圏です。それを「神明系5社の呼称」と云う手段で証明している事を意味しています。

つまり、この”「役目柄」の範囲で「神明系の5社」は配慮され計画的に建立され、呼称が決められた。”と云う事に成ります。

(神社の呼称群とその他の群を入れると、その「建立と呼称の根拠」に濁りが出て真のパラメータは出ません。)

「分霊の根拠」
さて、此処で「皇族賜姓族」はどの様に貢献してこの「分霊」を行ったのかと云う問題です。
既に、「神明社と神明神社」で「147社」を建立しています。記録では148社と成っていますので、せいぜい「分霊」として建立したのは2社止まりと考えられます。
(一社は最古の神明社、もう一社は特令地京の神明社)

その「主神の建立」は下記表の*印は三重の本宮を除いて「8社」です。この内、特令地の「大阪1」と「京都4」を除くと「長野1と山梨3」と成ります。
「大阪1」と「京都4」は、「2つの青木氏」にとって建立し呼称する権利と義務はありません。
これは恐らくは「朝廷の命」による建立と観られます。
そこで、「京都4」の1/4は、「皇大神宮」です。
下記の遷宮10が存在しますが、Cの「大」の字を「太」に変えて建立し、敢えて「伊勢神宮の仕来り」に従い呼称したと観られます。

この建立期から判断すると、「平安期遷都」と同時に京の都に分霊したと見られ、「桓武天皇」による建立と考えられます。遷都していて皇祖神を祭祀しないのはおかしいものです。
先ず最初にする行為の筈で、当時の慣習では遷都に「御魂」を入れる事が「遷都の第一の行為」です。
まして、「桓武天皇」は上記し前段でも論じた様に、遷都後に自らも神明社を20社建立していますので間違いはないと考えられます。

残りの「京都4」の2/4は「豊受大神宮」です。
これも「桓武天皇」である筈で、「内宮 外宮」を対として分霊している筈ですので、下記の「京都4」のAと成ります。

「京都4」の3/4は一地域に2社は「威厳と権威」を厳格にこの仕来りを守っていた事から分霊と成る事はないと考えられますので下記の「遷宮の10」のものと成ります。

従って、下記の「遷宮の9と11と12」は、この建立が「伊勢神宮の遷宮」の時のものであり、社歴が古い事は確認出来るし、「社の記録」は平安期初期には特別に伊勢4郡外123社外に「摂社」格扱いと成っている処から神明系社とは別扱いと成ります。

「京都4」の4/4は下記の「京都4」のDであり、同地域に2社建立は仕来り外ですので、「皇大神宮」に「神明」を付けて仕来りを守ったのです。

現実に、奈良期には次ぎの遷宮が行われていて、結局は、下記の2つの表から、「京都全8社」の内、4社建立で「大神宮」1と「皇大神宮」3と成り、「皇大神宮」は遷宮1と分霊2に成ります。
これで一致し、「太」と「神明」を付けて奈良期の遷宮10に対応した事に成ります。
故に、この「遷宮と遷都」に因って建立された社は大変珍しい呼称も4つとなる訳です。

京都の遷宮地
9  真名井神社(摂社)  京都府宮津市江尻      
10 皇大神社        京都府福知山市大江町内宮
11 笑原神社 (摂社)   京都府舞鶴市紺屋
12 竹野神社 (摂社)   京都府丹後市丹後町

確かに、仕来りの「社名」の付いていますが、この遷宮中の奈良期では未だ決められていません。
従って、「京都4」の神明社は、本データ「祖先神-神明社」では次ぎの様に成っていますので下記の「京都4」のBに成ります。

「京都4」
A  日向大神宮   山科区  東山神明社 7大神明社・
B  朝日神明社   此花区・
C  天照皇太神社 京都市左京区原地町
D  神明皇大神宮 宇治市神明宮西

この京都の遷宮社(皇大神宮)の9~12と神明系A~Dの間には「社名と地名」が異なっています。
このAとBは後に「神明社」に成っています。
特異な社格として、Aは大神宮と共に後に「7代神明社」の一つと成りました。

「遷宮神明社」
実は、此処で大変な史実があるのです。
それは「祖先神-神明社」の発祥に関わる事が「遷宮の遍座地」85「社」の中にあったのです。
それは次ぎの「神明社」です。

・ 特令地 遷宮地 神明社  滋賀県湖南市三雲

つまり、「神明社」として「最も古い神明社」の位置付けに成るからです。
そもそも、前段でも縷々論じた様に、再度、概ねに書き記しますと「神明社の歴史的経緯」は、次ぎの通りです。
「皇祖神」として定める前には、「遷宮遍座地」として85社と90年の歳月を掛けて遍座します。
そして「天智天皇」の大化期には「伊勢」の現在の地を最終遍座地として定めます。
ここを「皇祖神の地」と定めます。
そして、それを「天武天皇」がこの「伊勢社」を「正式な神宮」として祭祀に伴なう「仕来り、決り事、規則慣習」等の「式目と格式」等を定め、「国神」としての位置付けを定めました。
この時、この祭祀を行わせる為に「皇女」に「伊勢神宮」などの「高位格式社」の「斎王」として任じます。
そして、「神宮を皇祖神」の「子神」として「祖先神」を定めます。
これを「第6位皇子」に賜姓し臣下させて、この「祖先神」を「賜姓族の守護神」と定めます。
この賜姓族に全国に「祖先神-神明社」の布教を図らせ、その為に「神明社」を建立をします。
この時、「第4世族」までを「王」とし、この王を19の主要地の守護王に任じます。
先ず、その守護王に「19の守護地」にこの「神明社建立」を命じます。
「この皇族賜姓臣下族」は、天皇を護る「親衛隊の任務」と共に、「賜姓族」の「初代伊勢青木氏」は「伊勢の守護王」として「伊勢神宮」を守護する役目を司ります。
施基皇子を天皇ノ補佐として働かせ、伊勢には「三宅連岩床」に伊勢国司代として派遣を命じます。
「天智天皇」はこの時、同時に「遷宮遍座地」85の中から、先ず、「特令地」として滋賀に「遷宮神明社」(滋賀県湖南市三雲)を最初に定めたのです。
この「滋賀の地」はこの「遷宮地」として最有力地、(遍歴数/県 下記データ・印)であったのですが、「伊勢」に定めた為に此処に「皇祖神の子神」としてこの「神明社」を建立します。
次いで「19の守護地」に「皇祖神の子神」の「祖先神」の「神明社建立」を命じました。
ここで天皇家に依って累代に「3つの発祥源」に関わる皇族子々孫々の一つの「政治的戦略」が展開されます。(-22で論じる。)
その後、累代の男系天皇の「第6位皇子」の「5家5流賜姓族青木氏」と共に、「特別賜姓族」として「藤原秀郷の第3子の千国」にこの「青木氏の氏」を与え、「皇族賜姓族」と共にこの任に当らせます。
この結果、最終は566社を建立します。
この中で神明社は148社と成りました。(詳細は本段)
その最も歴史的な経緯を持つ「古い神明社」がこの「遷宮の神明社」なのです。
「特令地」の此処から「神明社」は始まったのです。

「遷宮と19守護地」
そこで、「遷宮と19守護地の2つの資料」には「青木氏」にとって根幹を示す大変に重要な意味を持っていますので、これに付いては考察してみます。

遷宮の遍歴数/国
 伊勢23  大和21 ・「近江13」  伊賀10  吉備6  丹波4  尾張4  紀伊3  美濃3

国数 9
社数 85

「5主要地域」
(大和+紀伊)     24 「飛鳥域」
(伊勢+伊賀)     33 「伊勢域」
(近江+丹波)     17 「近江域」
(尾張+美濃)     7  「美濃域」
(吉備)          6  「吉備域」

「主要な初期の19神明社建立地」(4世族王)

5家5流皇族賜姓地
伊勢
  [伊勢王](三重県 ・国府 松阪市)         
近江
  [雅狭王](滋賀県 近江-若狭地方)
  [山部王](滋賀県 草津-東近江-守山地方)
  [近江王](滋賀県 ・国府)
  [栗隅王](京都府 宇治市 山城国-久世郡地方) 
  [武家王](京都府 但馬国 若狭側地方)
美濃
  [美濃王](岐阜県 ・国府)
  [広瀬王](岐阜県 大垣市地方 国分 国分寺)
信濃
  [三野王](長野県 ・国府 信濃)
  [高坂王](長野県 更級地方)
甲斐
  [甲斐王](山梨県 ・国府)

賜姓末裔地(賜姓族保護地)
  [石川王](石川県-福井県 加賀-能登地方 )

遷都地  (特令地)
  [竹田王](大阪府-京都府 竹田地方)      
  [難波王](大阪府 摂津地方)
  [宮処王](奈良県 桜井市 金屋地方 つばいち)
  [泊瀬王](奈良県 桜井市-朝倉地方 長谷寺)

特別賜姓地(広域美濃 広域信濃)
  [弥努王](愛知県 尾張-信濃側地方)
  [桑田王](愛知県 豊田市地方)

大宰府地 (遠の朝廷 自治区)
  [春日王](福岡県 春日市地方)

(注意1 [5家5流皇族賜姓地]
この・印の「5地域の守護王」が始祖と成り、5代の男系天皇が賜姓し、臣下させて「第6位皇子」をこの地に配置し継承した。
その後も「跡目」が欠けない様に「皇子の跡目」を入れた。累代天皇に「第6位皇子」が居ない場合は、平安期以降には「賜姓源氏」の「朝臣子」を跡目に入れて継承した。

(注意2 「三野」と「美濃」と「弥努」は他の書籍等では混同している)

(注意3 「遷宮地」では、「伊勢域」、「近江域」、「美濃域」、「飛鳥域」、「吉備域」
(注意4 「賜姓地」では、「伊勢域」、「近江域」、「美濃域」、「信濃域」、「甲斐域」
(注意5 注意3と注意4を比較すると大きな意味を持っています。)

(「注意1から注意5」と「19守護王地」の関係の意味に付いては-22で論じる)
以上19人/66国

そこで、この2つのデータを使って考察を進めます。
「長野1」は信濃青木氏の建立に因るものと観られます。ここには「特別賜姓族」は存在しません。148社に入りますので問題は他と同じく「調査諸条件の合致」では問題はありません。
此処までは問題はないのです。ところが、次ぎの4地域には問題を持っています。

「大阪1の問題」
(特筆)
大阪1に付いては、「皇大神宮」 大阪市城東区今福南にあります。
然し、この記録は不明確なのです。賜姓族とは無関係の地でありますので「分霊」は困難であります。
「伊勢青木氏」の圏域は奈良の名張までの領域ですし、伊勢から「分霊」を大阪にするには問題があり、大阪に「難波宮」があるとしてもその経緯から「分霊許可」が出ないと考えられます。(次段-22で論じる)
従って、室町期中期までに建立されたものとしてはなかなか難しいところであります。

又、「皇大神宮」としては「遷宮の地」でも有りませんし、東大阪は未だこの地は淀川と寝屋川に挟まれた砂地の湿地地帯でしたので建立は可能かは疑問です。
恐らく、そうなると青木氏による建立ではないとすると「分霊」ではない訳ですから、室町期中期は考え難く、少なくとも江戸期以後の社で「分霊」ではなく何処からか移設したと考えられます。
移設でなくては「地理」と「歴史」と「皇大神宮の呼称」の関係から困難であります。
移設する事の出来た権力者はこの地では一人「豊臣秀吉」と成りますが不確定不祥です。
そうすると、”何処から移設したのか。”と云う問題が出ます。
移設出来ると成ると、「関西圏の遷宮地」から移設する以外にありませんが、現在は不明です。

(参考 調査等に依れば、この「大阪1」は、”ある地域(匿名)に存在し、「平安時代末期」に摂津国の今福村が開発された時に、「天照皇大神」を祭祀したとする地元の言い伝えがある。大正末期には稲荷社を旧大和川堤から移設した”とする資料もある。
これを調査するが「社歴詳細不祥、社殿格式不祥、様式等不祥、建立者不祥」で「建立期も根拠無」、「地理環境に矛盾」 「建立理由の希薄」。
この本宮36社中、この大阪「皇大神宮」だけが調査内容の全てが不明確、不祥で、勝手に建立できない「仕来り」に対しても、「一農村開発」、又、「稲荷社」がある処からも威厳から矛盾多し。「仕来り、決り事、規則慣習」が霧消した明治以降の建設とも考えられる。本宮唯一の不祥社で記録が不思議に消されている。秀吉が「伊勢の慣例」から逃れる為に一切の記録を消したか)

「山梨2の問題」
「山梨2」の一つは「外宮の分霊の大神宮(大明神)」で、「甲斐青木氏」の建立に因るものと観られます。
ここにも「特別賜姓族」は存在しません。残りの「山梨1」は「皇大神宮の建立」と成ります。
最後の一つは甲斐には嵯峨期の詔勅に依る「皇族青木氏」が存在しますので、この一族の主家が建立したのではないかとも考えられます。
然し、「皇族賜姓甲斐青木氏」が「皇大神宮」を2社も同地域に建立する事は「威厳と権威」を重んじ、格式を尊ぶ「皇大神宮」を2つも建立する事は不遜に当り分霊不許可に成りますので無い筈です。
「皇族青木氏の建立」としても考え難いものですし、その権利は無い家がらです。
そもそも、この「皇族青木氏」は内輪もめして建立するに等しい力があったかと云うと問題ですし、その出自も疑問なのです。元々建立する呼称する力は無かったと観られます。(甲斐青木氏の論文参照)

更に大疑問なのは、次ぎの事です。
・「天照大神社」2の ・「天照」は「皇大神宮」の呼称でありながら 「大神宮」に重ねて使うと云う呼称が起こっています。「皇」を「天照」に変えた事も考えられます。これが「山梨2社」にあります。
因って、この一つは大阪1と同じかとも考えられますが、「分霊」による建立権利のない「皇族青木氏」が敢えてこの様な呼称を使ったとも考えられ、「時代性」「建立形式」などの諸条件は整っていますので「大阪型」とは異なると考えられます。
異なるは「呼称と2社」の問題があり、これに付いて確定出来ない状況である為に「皇族青木氏型」かは現在は判定出来ません。つまり、不祥の疑問社です。
実は甲斐は何事にもこの様な疑問点の多い所なのです。

「近江と美濃の問題」
ここで、何か不思議ではありませんか、「近江」と「美濃」のデータが「神明系5社」には出て来ません。
滋賀3の「神明社」としてありますが、この近江は昔は、「丹波、丹後の西域の近江」と、「美濃に接する東域の滋賀」との2域に成っていて、此処では「西域の近江の東域の滋賀」の地域にあります。

(注意 国別は現在の県別とは大きく異なる事に注意 更に平安期-鎌倉期の国数も異なる。
地域として記述すると次ぎの様に成ります。
A 兵庫-播磨、摂津域、        「2域」
B 滋賀-近江、滋賀、丹後、丹波域、「4域」
C 大阪-摂津、難波、和泉域     「3域」

この「近江と美濃」は平安末期に衰退し滅亡した事は前段で論じました。
もう一度簡単にお浚いして見ると、次ぎの様な敬意を辿っています。
「近江青木氏」は、「天智天皇」により「伊勢青木氏」と同期に第7位皇子も特別に佐々木の地名より近江佐々木氏が賜姓され臣下して発祥しました。
その後、「文武天皇期」には青木氏の無い近江に近江王として賜姓青木氏が継承発祥させたものです。
その後、直ぐにこの2氏の同族血縁が生まれ「佐々木氏系青木氏」が誕生したのです。
然し、「近江佐々木氏」と「近江青木氏」との「同族争い」が起り、戦いを避ける為に「近江青木氏」は赴任もあって一族挙って美濃に接する「東域の滋賀」に移住したのです。
「近江青木氏」は再び「西域の近江」に戻るのですが、「東域の滋賀」(地名域)には一部の娘だけの分家が残るが結局は絶えます。西域に戻った「近江青木氏」は更に兵庫摂津域に移動定住します。
然し、「近江青木氏」が衰退した事を狙いその断絶分家を乗っ取り、伊賀上山郷から出て来た上山氏が「滋賀青木氏」を名乗ります。
その後、、矢張り「佐々木氏系族」との軋轢が起り兵庫(摂津側)に移住したのです。
その後、「源平の戦い」で近江佐々木氏一族と共に賜姓近江源氏に味方して滅亡するのです。
残った「近江青木氏」は美濃に移動して「賜姓美濃青木氏」と賜姓族の「美濃土岐氏系青木氏」と共に美濃、尾張源氏の「美濃源平戦の富士側の戦い」に参加します。
「近江青木氏一族」と「美濃青木氏一族」は、近江、美濃、尾張の源氏と共に完全滅亡するのです。
平安末期の事であります。
桃山期に秀吉面前で、この「上山氏の滋賀青木氏」と摂津の「近江青木氏」の残存支流の「末裔集団」とが「青木氏の名籍」を奪ったとして決着を付ける為に何れも「250の兵力」で戦います。
結局、「上山氏の滋賀青木氏」が勝利して名乗る事を許されます。摂津の「近江青木氏の残存末裔」はますます衰退して仕舞います。

以上がお浚いの経緯ですが、この「皇族賜姓近江系の青木氏」と「皇族賜姓美濃系の青木氏」の2氏は、「皇族賜姓伊勢青木氏」と「皇族賜姓信濃青木氏」と「皇族賜姓甲斐青木氏」の3氏とはその生き方を異にしていたのです。
後者3氏は「源平戦」に参加せず、衰退を食い止める為に「古代和紙殖産」を商いする「2足の草鞋策」を採って生き延びて何とか「親政族の勢力」を保持したのです。
この為に、当の前者2氏のその一門は平安末期の滅亡はもとより「桓武天皇」の「平安遷都」とその「軋轢」により平安初期からその勢力は衰退傾向に既にあったのです。
恐らく、この「2つの皇族賜姓族」は「2足の草鞋策」を取る事に大きな抵抗を示したと考えられます。
要は、”その「使命」を果す事”への認識度とその態度が異なっていて上記する様に「武」と「和」の「生き様の差」と成っていたと考えられます。大議論が5家5流の賜姓族の間で起こりそれが元で疎遠に成っていた事も考えられます。1025年頃の事で古代和紙の殖産がこの5の地域に拡がっているが商いとしてのその扱い方が異なっている事から観ると、何かして経済的な裏打ちをしなくては成らないとする認識が有りながら「商い」のところの判断が異なっていたと考えられます。
特にその「2つの賜姓族」(「近江と美濃」)の「背景族(佐々木氏と土岐氏)の浮沈」を観ても、これ等の族を巻き込んだ大議論が起ったと観られます。そして背景族と共に衰退するのです。

「近江考察」
さて、この歴史的経緯から当然に「皇族賜姓族」としてその責務を果たす必要があり果たしたと考えられ、一部の記録にはその痕跡が遺されているのですが、実はその建造物はないのです。
何故ないのであろうか疑問が残ります。
それは平安初期からの衰退の原因もあるとは考えられますが、そもそも、その原因には前段で論じた寺社には別の面で大きな役割を持っていたのです。
それは、”いざ戦い” となるとその「前線基地の拠点」と成る役目を荷っていたのです。
また当時としては人が大勢に集まるところで「社交場」でもあった事から「全国の情報収集の拠点」でもあって、今と異なり「寺社」の持つ意味と役割は「心の拠り所」だけではなく、現在の多目的コミニティスホール以上のものであったのです。
それだけに、「勢力争いの拠点」と成り、先ず最初に叩かれ焼き討ちなどに会うのはこの寺社であったのです。そのために戦略的にその建立の位置や地理的な条件は山手に成り、国境や勢力の境界地点に頑強に建立されたのです。一種の「城的要素」を持っていて、「建て方」もそれに見合う城壁など巡らし「城郭的建築」と成っていましたし、長期の生活も可能な様に蔵群が要しての大勢を保有していたのです。
”いざ戦い”とも成れば、相手側は先ずはこの前線の「拠点潰し」にかかるは「戦略の常道」で、その為に消失が激しかったのです。
この「近江や美濃」は、「天智、天武、持統天皇」が主要拠点に配置した奈良期の「神明社19」にはこの地域(近江、美濃)も記録の通り含まれていたのであり、「祖先神-神明社」があれは当然に主神の内宮外宮の分霊もあったのです。然し、これ等はありません。
無い事は、当然の如くこの影響を大きく受けたのであって、「神明系5社の痕跡」がないのです。
記録があっても無い事は消失意外に何者でも有りません。
それを防ぐ「武力的な力」と「経済的な力」と最後に「戦略的な力(柔軟な知恵)」がこの「近江青木氏」等にに無かった事が大きな原因です。

筆者は上記の「大阪1の移設説」もこの弱体化した主権者の無くなった「近江」からのものではないかと考えているのです。移設が新しくても「社」本来は「古い社」であってここに記載したのであり、「大阪1の社歴」にも書かれている平安末期はこの「近江の歴史的な履歴」の時期と一致します。
何故ならば、「近江青木氏一部残存末裔」は兵庫摂津域に移動しますが、そこで嵯峨期詔勅による賜姓族「摂津源氏」の「後楯力」で、ある程度盛り返し「神明社」5社と「神明神社」6社も合わせて11社をも建立しているのです。
摂津に移動してからの期間で勢力盛り返したとは云え、この11社も建立し維持する能力(武力、経済力、職能力)は無かった筈です。特に建設する職能人の確保は出来なかった筈です。
例え、八幡社を信望しない「祖先神」を「守護神」としている「摂津源氏」に借りたととしても11社は多過ぎます。
神明系2社(神明社と神明神社)があれば当然に本宮の分霊を興して建立する筈です。それは現実には兵庫摂津域にはないのです。おかしいです。
”「社」を造り御魂入れず”のこの「有り様」は矛盾しています。
つまり、この近江は奈良期より格式から云っても伊勢に継ぐ地です。伊勢の本宮に継いで最大の「所縁の地」ですから、「神明社」はもとより「本宮分霊」が「いの一番」に行われるが必定です。
故に、「近江青木氏」と「近江佐々木氏」系列の一族が衰退し滅亡して、維持する主権者が無くなれば、この格式高い社を同族又は他氏は放置する事は有り得ず、西域「近江」から「本宮分霊」と共に移設したと考えているのです。その後に滅亡後その主権者が無くなり、結果として他氏が「本宮分霊」だけを兵庫の摂津、又は西域近江から摂津の国であった現在の大阪東域に移設したのではないかと考えているのです。(移設には攝津源氏の協力を得た)

上記大阪の「移設説の根拠」はここにあるのです。それを”実行できる摂津の人物は”と成ると「足利氏」か「豊臣秀吉」かに成り得ます。この城東地区は淀川と寝屋川に挟まれた河州であって安土桃山時代に埋め立てられたところですから、当然に「移設」に価する地理環境と其処に在する人口(農村を開拓したばかり)と元は少なかった事もあり豊臣秀吉に因って移設されたと観られます。
又、秀吉が大阪を政治の中心に据える以上は、「近江か兵庫摂津からの本宮の移設」は何としても行わなくては成らない政治課題の筈です。
上記した寺社の持つ意味からも政治の中心地として人口を集めるには最大の手段です。
人口のみならず政治に欠かせない情報収集の手段としても全国民の寺社の意味を持つ神明系社を移設建立するのが最初の課題であった筈です。
足利氏は京に政治拠点を置きましたが、逆に「近江」に集めなくては成らない政治手段で在った筈です。故に、その「移設者」は豊臣秀吉と考えられます。
稲荷神社併設は大正期ですので、その、歯止めとする「仕来り、決り事、規則慣習」は完全に緩んだ時期でもありますので問題ではありません。

「美濃考察」
これに必然的に絡んだ美濃も奈良期の天智天皇の神明社19の「所縁の地」です。
この地は、前段でも論じた様に、此処は「勢力バランスの緩衝地帯」であったのです。微妙な勢力関係が維持されていた地域であります。
ここには天智天皇は「美濃王」を置き「神明社建立19社」の一つを先ず最初に建立した地域であります。その後に於いて「特別賜姓族」はここに神明神社30社を建立しました。合せて神明系31社を建立した事に成ります。
然し、「滋賀3」と同様に「皇大神宮」と「大神宮」は建立されていないのです。
この近江(滋賀)にしても美濃(岐阜)にしてもこの二つの地域は「令制社域」であり、「天智天皇19社」(青木氏の守護神-19に記載)の国域でも奈良、京都に継ぐ「最大の令制国」であります。そもそも無い事そのものがおかしいのです。
「皇祖神の子神」の「神明系2社(神明社、神明神社)」を建立する以上は「親神の本宮」を建立するは上記の近江で書いた様に「仕来り」であります。
真に分霊の”魂入れず”の事に成って仕舞います。必ず建立した筈です。では何故、無いのでしょうか。
それは、「勢力バランスの緩衝地帯」であったからです。
「緩衝地帯」である以上、「歴史的なちょっとした遍歴」にも左右されるのです。
まして、近江で記した様に「社」は「戦略上の拠点」にも成り得るし、「城郭」でもある事からまず最初に影響を受けます。
「源平戦」を始めとして、下克上、戦国時代、土岐氏滅亡、美濃青木氏滅亡、美濃源氏と尾張源氏滅亡、岩手の様な「3つの災難」「長期間の各種の一揆」等、挙げれば暇が無い程であります。
微妙な「緩衝地帯」だからです。これでは遺し切れません。
江戸時代末期まで行った「廃絶処理」の「分霊の復元事業」があったにも関わらず遺し得なかったのです。「令制国の古参美濃」でありながらこの地域だけが外されています。
これは「長期間の各種の一揆」の影響であったからです。復元しても「一揆の拠点」として使われてしまえば政治的にも逆効果です。

そもそも上記した様に「南隣の愛知」にも有りません。此処は多少なりとも「緩衝地帯の影響」を受けていた事を物語りますが、ここは「特別賜姓族の地」です。その勢力の差は前段で論じた様に4倍以上の勢力を保持していた事から「神明系社33」を遺し得たのです。
岐阜は、三重と国境を接する地域でもありながら、皇族賜姓族の東隣の「信濃15」、「甲斐71」とし、何れも「分霊本宮」を持っているのに対し、美濃は存在しないのです。明らかに消失です。
少なくとも「地理性」から考察すれば、多少なりとも「信濃と甲斐」も影響を受けていたと考えられます。
然し、「信濃と甲斐」は「2足の草鞋策」と「シンジケート」と「特別賜姓族の抑止力」を「伊勢青木氏」と共に持っていた事から、この「緩衝地帯の影響」を排除出来たのです。
肝心な要因は「微妙な緩衝地帯の影響」に直接関与したかどうかの差です。
「信濃と甲斐」地域とは違いは、美濃は「2足の草鞋策の有無」「シンジケートの有無」「抑止力の有無」「直接間接の関与の差」が働いたのです。これだけ働けば「分霊本宮」どころか生存も侭成らない筈です。はっきりしています。(甲斐も「100年一揆」があったが遺し得ている)
「特別賜姓族」と「皇族賜姓族」の「建立と呼称問題」に付いて考察しましたが、かなりの「2つの青木氏」の「生き様」の「有り様」が出て来ます。     
そこで、更に詳細に考察し検証する為に、もう少し「建立分布の問題」を通じて続けて考察します。その表は上記の基データですが次ぎの通りです。

「神宮の基データ」
大神宮  ・青森1・新潟2・宮城2・栃木2・茨城1・埼玉1・東京2・広島1・熊本1
     ・計13/418=3.11%

     *三重1*長野1*山梨1
     *京都1(都の領有地 例外地)
     *大阪1(皇祖神遍歴の特別地)
     *計4/148≧2.70%

     -北海道1

皇大神宮 ・山形5・福島2・栃木1・神奈川2・岩手2・千葉1・静岡1
     ・計14/418=3.34%
     
     *三重1
     *山梨2
     *京都2(都の領有地 例外地)
     *計5/148≧3.37%

上記の神社のところで考察した伊勢神宮は合計125の全社宮を「神宮」と呼称する事は衆知の事ですが、この内、正宮を除く123社「摂社」等の所在地は三重県内の4市2郡に存在するのです。
例外として「奈良期の遷宮」の中に「摂社」の呼称を許された「神宮社」があります。
この「神宮社」には格式を守る為に「・・神宮」(神社)の・・の名が付かない「仕来り」があるのです。

(参考1 度会郡大紀町、玉城町・度会町、志摩市、松阪市、鳥羽市、多気郡多気町。)
(参考2 正宮2 別宮14 摂社43 末社24 所管社42 から成り立っています)  

従って、「皇大神宮」は「天照大神」、大神宮は「豊受大神」ですが、この「2つの呼称」は呼称の前に「・・大神宮」とか格式を守る為に「呼称名」を付けないのが威厳を守る為の「仕来り」です。
又、内宮の「皇大神宮」、外宮の「大神宮」の「皇祖神」は、前段で論じた様に、「祖先神」を「子神」としています。従って、その「社の建設様式」は「神明造り」の様式であり、「内宮外宮の呼称」の前に、矢張り、格式を守る為に「神明」をつける事は「仕来り」としてしないのです。
同様に、「伊勢の内宮」、「伊勢の外宮」の呼称にも「伊勢」を「固定の呼称」として指定し、他の社は「伊勢」の呼称をしては成らないとする「神宮仕来り」と成っています。
最も、大事な青木氏に関わる「神宮仕来り」が定められているのです。
それは上記した様に「神明社」等の「神明系5社」は「2つの青木氏」外にはその「建立と呼称の権利」を認めていないのです。
他にもその「威厳」を守る「仕来り」が複数あり、下記に都度説明します。
要するに、何れも「複数の呼称」を禁じていて厳格に「格式」を重んじている訳です。
(ここでは神社と神宮を同じとして扱う。)
そこで次ぎに一覧して考察して観る事とします。

大神宮19 皇大神宮17 合計36社

その結果は次ぎの様に成ります。
大神宮    格式-社名  有 15 無  4
皇大神宮  格式-社名  有  0 無 17

上記の格式の「社名の仕来り」から考察するに、「大神宮の外宮」に付いては、15/19と成り、正規の伊勢神宮系列に属さない神明系の「社」15もある事が判ります。殆どです。
「皇大神宮の内宮」に付いては、0/17と成り、全て系列の神明系の「社」である事が云えます。
つまり、これを判断するのには、「延喜式神名帳」と「延歴儀式帳」に依って、参考2の様に直径系列125社がありますが、実はもう一つの「神明族に与えられた特別の権利」があるのです。
それは、前段で論じた様に、「皇祖神」の子神は「祖先神」であり、その社は「神明社」で有ります。
依って、この関係から「分霊方式」と云う「伊勢神宮の霊」を分けて「神明族の関係の主要地域」のみに「豊受大神宮」と「皇大神宮」の分霊をして「分霊社」を建設する権利を有しています。
従って、上記の表の中にこの「分霊社」を見抜く事が必要です。
この為には、「伊勢神宮の格式の仕来り」をこの表に当て嵌めて選別する必要があります。

「豊受大神宮」の「格式・仕来り」を守った「分霊社の4社」は、「三重の本宮」を除いて、「青森1」 「山梨1」 「新潟1」 の「3地域の社」と成ります。「3地域の社」は大変に重要な意味を持っています。 

(新潟1は 大神宮に神明 「二重社名の呼称の問題」がありますが、この場合は問題は無し。)

とすると、「格式・仕来り」通りに呼称をしなかった「社名付きの15」に対して、先ず、”どの様に考察すれば
良いのか”と云う問題があります。
そもそも、この権利は、神明族外で建立する事は、上記でのデータでも判る様に当時の「仕来り、決り事、規則慣習」が徹底して守られていた事は判りますので、他氏が建てる事は社会慣習からその可能性が低く、仮に建てるとしても「社会の目」は「朝廷の逆賊」として社会はその「他氏を排除」する事は必定で、且つ、藤原秀郷一門の「第2の宗家」と呼ばれ、「特別賜姓族」でありながらも藤原氏の唯一の大武装勢力の護衛団を持った藤原一門を指揮する青木氏で、この「特別賜姓族の勢力」で以ってしても潰されるは必定です。
とても他氏はこの「仕来り、決り事、規則慣習」を破る事は先ず不可能です。
奈良時代から平安時代を通し室町期中期まで先ずは不可能です。
故に、「神明社、神明神社、神明宮」の「系列神社」の「建立地と呼称」には他氏と他地域は全く無かったのです。この「物語らずの圧力・暗黙の圧力」が社会全体に、「仕来り、決り事、規則慣習」を守らせていた事を明確に物語ります。
とすると、この15の「社名付きの大明神社」は、一体どの様な理由で分霊して建立したのでしょうか。それには実は前段で論じた様に「最大の根拠」があるのです。
「正規の純粋な分霊」と云うよりはこの根拠に因る建立であった事が15の地域を観れば直ぐに判ります。
「豊受大神宮」即ち、「豊受大明神」です。要するに、それは「生活の糧」の「物造りの神」なのです。
「物造りの神」として「分霊」を受けた為に、「仕来り」を重んじて「社名」をつけた事を意味します。
現に、同じ「分霊」でも「皇大神宮」17は全て「仕来り」を完全に重んじています。
内宮「皇大神宮」は全ての民の「心の拠り所の神」として崇められている「万人の唯一神」であります。
つまりは、「祖先神-神明社」の主神、「親神の内宮」の「皇大神宮」の「分霊」を先ず迎え、民の「心の拠り所」として据え、その上で、「物造りの神」として外宮の「豊受大神宮」「豊受大明神」の「分霊」を迎えた事に成ります。これも「建立と呼称」の「作法の仕来り」です
この「内宮と外宮」の「仕来り」を厳格に守り、「社名付きの大明神社」としたのです。
故に、「豊受大神宮」「豊受大明神」の「分霊地」の「仕来り」通りの「社」は「3社」(青森1 山梨1 新潟1)のみであったのです。
上記で考察したその「36の建立地」がこれを良く物語っています。
外宮の「豊受大神宮」「豊受大明神」の「分霊地」の方は、内宮「皇大神宮」の「分霊地」とは重複していません。つまり、必ず、どちらか一方にする「建立と呼称」の「仕来り」が存在した事を物語ります。

陸前域まで含む「広域の青森」は、前段で論じた様に、「陸奥の本域」で、秀郷一門の鎮守府将軍の地であり、一門の「最大血縁地」でもあり、最大移動定住地でもあります。この状況は江戸期まで続いた「準本領地」と云っても過言ではない地であります。
故に、北陸東北地域(広域陸奥域)の要として、先ずは青森に「格式・仕来り」通りに分霊地として建立と呼称を許可したのです。
其処に、15の「社名付きの大明神社」を「物造りの神」として配置したのです。

(明治2年まで広域陸奥は青森を基点として磐城、岩代、陸前、陸中、羽後、羽前の7つの国を呼称した。広域越後は越後を基点として越中、越前、加賀の4つの国に分割呼称した。奈良期では石川福井富山までを「越国」であったる。)

越前まで含む「広域の新潟」は、これも前段で論じた様に、陸奥域に続きその補給基地として存在した陸奥域を凌ぐ程に勢力を確保した地域であり、真に最大の「物造りの要の地」でもあったのです。


(皇族賜姓族地では下記参考の通りで、「皇大神宮」の「分霊」の「山梨2」には下記参考の「呼称問題」がある。後は「例外地の京都1」の3地域です。山梨は「偽称」で除外する)

では、「豊受大神宮」「豊受大明神」の「分霊地」のこの「仕来り」通りの「社」の「3社」(青森1 ・山梨1 新潟1)を ”15の「社名付きの大明神社」と同じとしても良いのでは。” と云う疑問が湧きます。(山梨2は除外する)

(偽称 参考 ・山梨2には、2つは次ぎの「呼称問題」がある。
・”「天照大神社」”の「内宮の天照」は「皇大神宮」の呼称であって、その呼称を「外宮の大神宮」に使う。両方の神宮を一つにした呼称とした。明らかに「偽称」である。
因って、山梨は、「豊受大神宮」「豊受大明神」の「分霊地」のみの1とする。因って、重複は「岩手」のみと成ります。)

(偽称 参考 ところがこの「岩手」は偽称等の問題等が多すぎるのです。 
・岩手には著しい「偽称問題」が存在する。それは「皇大神宮」の呼称です。
 「天照御祖神社 4」と「伊勢両宮神社 1」のこの「2つの偽称呼称」です。
然し、「御祖」(みおや)は「天照」の別呼称です。「二重重複」の呼称をしています。
完全に「分霊の仕来り」を無視しています。明らかに「偽称」です。

(偽称 参考、「伊勢両宮神社 1」の呼称です。
「伊勢」は「本宮2神」、「皇大神宮」、「豊受大神宮」の2つを以って「伊勢」とする事は前記した通り使用を禁じています。明らかに「分霊の仕来り」を無視しています。更には、威厳と格式を重んじる ”「両宮」”と云う「不遜な呼称」です。因って「神明系5社」から除外した。)

「偽称行為の持つ意味」
果たして、この「偽称行為」に付いて、”一体誰がやったのか” と云う疑問です。
「特別賜姓族」が、自ら全ての「皇大神宮」、「豊受大神宮」が持つ「仕来り、決り事、規則慣習」を重んじて建立を続ける事に、”自らが侮辱する様な事をするか”の疑問が湧きますが、これは絶対にあり得ない事です。真に、”自分の顔に唾”です。
そもそも、総じて、この「山梨」と「岐阜」と「岩手」と「群馬」と「大阪」は「神明系5社」の「建立根拠」と「呼称根拠」に問題が多いのです。

そこで、この「5つの地域」を観て見ると、一つ共通するものが有ります。
既に上記でも記述していますが、先ず、”歴史的に諸々の「不安定地域」である。”と云う事です。
「不安定地域」では「自らの優位性」を誇張しょうとしますからその結果、「偽称の経緯」が起こります。
地域が不安定に成った結果、建立された神明系社は「消失」の憂き目を受けます。
当然にその建立の「主権者」も滅亡の憂き目に会います。そうすると”何が起るか”です。
当然に、その後に勢力を得て豪族と成った者は、「民の支持」を獲得する為に、その「民の支持と信仰」を強く集めている ”「神明系社」を何とか作ろう”と動きます。
然し、その権利は「仕来り、決り事、規則慣習」上に縛られて出来ません。無理に作ろうとすれば「逆賊のそしり」を受けます。
その残された手段はただ一つで有ります。それは「神明系社」に似せて偽称の「社」を建立する以外にありません。それがこの「5つの地域」に起こっているのです。これが「偽称の経緯」と云う物なのです。

・問題の山梨は、前記した様に「皇大神宮」の「分霊の偽称問題」があり、70社に近い「神明系社2社」の「建立と呼称」が有りますが、”これだけの社数を建立する能力が「皇族賜姓甲斐青木氏」にあったか”と云うと、「不安定地域」であり、「三つ巴の同族争い」や「菩提寺の放棄問題」や「民の反発」を受けての「100年一揆」等が起れば神明系社の保存と維持と復元は難しかった為に”無かった”と明らかに判断できます。そもそも、「4倍の勢力」「最大勢力地」の「特別賜姓族の新潟」でさえ61です。
この社数から観れば、甲斐はせいぜい20社程度であり、「不安定地域」として観れば、「建立と維持」の能力は10社に満たない社数となる筈です。
それが70社、その70社の内訳は神明社33、神明神社29と大半を占めています。
この様な社数に成った理由が問題です。何かある筈です。
「特別賜姓族の新潟」に匹敵する勢力を保持していた室町中期までの「甲斐の勢力」とは、清和源氏の「河内源氏」の傍系と呼称する「武田氏」であります。
そして、ここには当の建立者の「皇族賜姓甲斐青木氏」の跡目を継いだ「河内源氏」系の「源の源光」の青木氏が存在し、その分家の賜姓族系の血縁族「武田氏系青木氏」が存在します。
更に、「源光」の兄の「源の時光」が「賜姓族の青木氏」を名乗る権利が無い為に「嵯峨期の詔勅」を使って「皇族青木氏」を名乗ります。
これが「河内源氏」を標榜する武田氏と血縁し末裔を広げます。この武田氏と3つのルートを持って深く血縁している「賜姓甲斐青木氏」は武田氏の援護を受けたのです。
ただ武田氏は前段でも論じた「河内源氏の八幡社」です。
武田氏は、”それを押してまで援護したか”の疑問が在りますが、同じ「清和源氏」とも成れば助けた可能性があります。現実に助けたのです。皇族青木氏に対して寺を建ててやると云う事もしています。
そうなると、どちらに重点を置いたかの問題です。
それを一つ補足する事が武田氏の行為にあるのです。それは上記の「寺」です。
武田氏は「時光系の皇族青木氏」を援護して彼等の2寺を建立してやっているのです。

(自ら建立した菩提寺の常光寺も同族争いを起こし維持管理がままならず挙句は宗派を曹洞宗に「宗派変え」しついには放置すると云う事が起こっていて、最後には無血縁の養子系青木氏常光寺を立て直すと云う事が起こっているのです。)

この事からすると、「源光系の賜姓青木氏」にも「神明系社の維持管理」に、或いは、「建立」に援護した可能性が在ります。この援護は「100年一揆」にも観られる様に、同時に混乱を極めていた「甲斐の民の支持」を得られ安定させ得る最大の政治課題でも戦略的課題でも在った筈です。
「不安定地域」ならではの事情が在った筈です。それが秀郷一門最大の補給基地で最大の勢力圏の「新潟」にも匹敵する「社数」と成って現れたのです。(「甲斐青木氏の研究(花菱紋)」の論文参照)

・岐阜の問題は前記でも論じた様に、同じ山梨と賜姓族地域であり、共に不安定地域で在りますが、やや政治的、戦略的な事情は異なります。他氏から甲斐武田氏に匹敵する程の「土岐氏」が存在しましたが、武田氏より早く滅亡しました。ただ、この岐阜は一つの逃げの対策を講じているのです。
それは”神明社1に対して、神明神社30”としています。その代わり分霊社はありません。消失した可能性が高いと考えられますが、この分家支流一族関連一統の力を借りて「神明神社」の呼称で成し遂げて「不安定要因」を交したと考えられます。神明社に対して消失は在ったにしても、”「下克上、戦国の戦火消失」からは多少は「神明神社」が免れた。”と考えられます。
そりは「神明神社」で論じた様に、一族一統とその郷氏まで含む「関連末端縁者一統」の力を借りていた事が、”下の者が上を潰す”と云う「下克上」から逃げられたからです。自ら下の者等が建てた神明神社を潰す事はしない筈です。自らを潰す事に成るからです。それを証明するのが「神明社1」なのです。少な過ぎます。この「神明社1」だけが彼等の力を借りた「社」であったのではないでしょうか。美濃青木氏は平安末期に滅亡しましたが、それは前記した様に、「生き様」の「有り様」で在ったのですから、その力はこれだけの社数を建立維持する能力は無かったのです。奈良期から賜姓族としての名籍の責務を果たすには、「一族一問一統の総力」を挙げての結果であったのです。
「神明社1」「分霊社なし」が全てを物語っています。

・岩手の問題は、上記で論じた通りで、陸奥の南の激しい「前線基地」としても、「3つの災難」のメッカとも云われる土地柄であって、当然に其処に上記した「偽称の経緯」が起こります。
この岩手の不安定地域は、その為に全ての「偽の発祥地」とも「偽の縮図」とも云われるところであったのです。そこに、昔からの「4つ目の災難」即ち、「地形上の変異の縮図地」でした。
常に緊張しながらの「前線基地」の「勢力の災難」と合せて、「5つの災難苦難」の地であったのです。これでは、その「維持管理」には「相当の力」を他地域と異なり必要です。鹿児島と同じく明治期の「廃仏毀釈」(神仏併合)の激しい様子から、筆者はこれに「土地の人柄」も左右したと観ているのです。前段で論じた「広域陸奥の俘囚事件の問題」等の「苦難の末の人柄土地柄」と成ったとも考えられます。
(この地は秀吉の蒲生氏郷に命じた「糞尿の戦い」で有名な城攻め、苦戦の「ごり攻め」をした「秀吉の最大の失敗攻め」と云われるこの戦いを最後に戦乱は終わります。)
先ずこれでは、”無理”と云う以外にはありません。”「神明社4」と「大神宮」1をよく遺し得た”と云えます。

・群馬の問題です。 上記でも何度も問題にして来ました「群馬」は「上野」ですので「下野」と合せて「秀郷一門の武蔵本領」の一つです。
此処には先ず、上記でも論じた様に、不思議なのは「神明社」が無いと云う事です。
その反面、逆に「神明宮」9と多いのです。「神明神社3」は納得出来るとしても、上記で論じた「神明宮」の位置付けです。
西には信濃、東には下野、北には越後と国境を接しています。この3つの隣接国は安定地域です。
確かに西の信濃には「信濃足利氏」の分家を立て跡目を入れて本家筋を弱体化させ、”米子に追い出す”と云う事をしましたから、この隣接国は領国並です。「不安定地域」とは成り得ません。
下野、上野には、神奈川の秀郷一門青木氏を頼って「信濃の諏訪族」が入り、この一部が下野の北側の「前線基地」に送り込みます。そして、下野を北側に伸張させた諏訪族はここを拠点に勢力を盛り返し、越後との連絡ルートを作り上げます。この為に上野は岩代との境界を強化したために結果として安定な地域に成るのです。この諏訪族は秀郷一門青木氏の後ろ盾で「上野-下野-岩代-磐城」の国境沿いに勢力圏を構築し子孫を拡げたのです。この「戦略配置図」から周囲は神明社がなくては成らない筈です。
現にこの栃木にも神明社と大神宮があるのです。諏訪社も多く建立されているのです。
”これは一体何故なのでしょうか。”
それは「群馬の歴史的経緯」から観て、県別、国別、勢力別、勢力伸張圏別の違いが起っているのです。
県別、国別では「無し」と成りますが、上記の賜姓系1氏を含む武田氏系諏訪族(2氏の合計3氏)などの「勢力別」と「勢力伸張別」(伸張方向)から判断して、「群馬の南側」には「神明社」は「武蔵の国範囲」として扱われ、後に建立されなかったと観られます。
北域はその意味で「諏訪族に与えた勢力圏」であった事から「産土神の諏訪社の圏域」とも成っているので、「神明社の存在」はあったとしても諏訪族伸張時の「戦い因る消失」で復元を結果として控えたと考えられます。
その代わりに下野と上野には特別に「神明宮」(8+9)の建立と呼称が多いのはその為であると考えられます。因みに新潟34、信濃7、常陸8の隣接国ライン状に多いのです。
前記した様に「神明宮の呼称の仕来り」による方法で明らかに処理したと観られます。
「産土神の諏訪族」であり、且つ、「信濃の神明族」でもある諏訪氏との調和を図ったのです。
信濃には「皇族賜姓諏訪族系青木氏」も存在する事から観ても、「仕来り、決り事、規則慣習」を守った全くバランスが採れた裁量であったと観ています。
諏訪族が秀郷一門の中に異質の氏が入って勢力を盛り返したとは云え、「やり方如何」に因っては極めて「不安定地域」で在ったのです。このライン上には実は「諏訪社」が大変多いのです。

この諏訪族を、”「賜姓族の分家筋、支流筋」等が独自に守護神を建立し、その呼称を「仕来り、決り事、規則慣習」から「宮」とした。”のことから、この分家、支流一族と見做し「宮」としたのです。
当然に庇護の下に在ったのですから、「社の呼称」を「宮」とするも「やり方如何」の最良方法は矢張り「血縁」であり、武蔵を青木家本家を中心に外に向けて分家、支流一族が「円状に囲む戦略」を採っていたのですから、群馬は「特別賜姓族」の分家、支流筋との血縁もあり、「分家、支流」として扱われるのには問題は両者に執って全く無い筈です。

・「大阪」の問題は、「皇大神宮の移設説」のところでも論じた様に、昔は難波、摂津の土地柄で、短期間ではあったが奈良期には「遷都」も一時あり、摂津は当時の最大の港でもあり清和源氏の本家の頼光系4家の土地柄でも有りました。然し、その後、この大阪の主役は兵庫摂津に移り、淀川の影響を受けて湿地帯が多く繁栄に問題を抱えていました。
此処には「賜姓族」、「特別賜姓族」とは「無縁の地」であり、因って、「神明系5社」には「無縁の地」であります。従って、「歴史的経緯」に於いても「神明系5社」に於いては皆無に等しいのです。
「近江-播磨-丹波-伊勢-紀州」に囲まれた中心の地でありながら、地理的環境(湿地帯でもあり河の氾濫)も多発する地域でもあったのです。それが原因で発展しなかったのです
決定的な事は、「近江-播磨-丹波-伊勢-紀州」の真ん中に囲まれていながら、それは「85地域-90年」の間に於いても「神宮の遷宮」にも入っていないのはこの為でしたし、「日本書紀」にもこの事が記録されている位です。それが室町中期まで続きます。
しかしこの反面、水に恵まれていた事から沿岸部は船の出入りが良く港が栄えていたのです。
後に「堺」が貿易港にも成るのです。その為に仮に「2つの賜姓族」の末裔がこの地に仮に住み着いたとしても「神明系5社」を建立するに相応しい土地が無く、あったとして「社」の持つ政治的、戦略的な目的を果す事は不可能でした。
そもそも、大阪とは「難波の象徴」であり、摂津は「兵庫の象徴」でした。
「難波」の語意の通り沿岸部の荒れる土地であり、裏意では難しいの”使えない土地”の語意を持っていました。
その証拠に「難の波」の地は、奈良期のある事件に使われました。
その中大兄皇子の「難波遷都」(孝徳天皇 失脚事件)はある政治的な目的を持って移し、宮廷も日本書紀には「荘厳な宮殿」とありますが、別の説では「草葺の板敷きの仮小屋的建造宮殿」(内裏・朝堂院・倉庫だけ)なものであった事も記録されています。
その目的が果された場合に、1夜の内に密かに直ぐに引き上げると云う離れ業を後の天智天皇は行ったのです。もとよりこの地の環境事情を知った上での計画行為であったのです。

(後に「聖武天皇」がこの悪い状況から此処を整備し、宮殿とした後期の「難波宮」がある位で、 前期宮殿は現在の大阪市中央区の大阪城の位置にあったのです。  大阪城は一部は津に近い湿地埋立地で、城東区今福とは湿地帯の隣接区ですから、後期の「遷都時の皇大神宮分霊説も」考えられるが記録は無いのです。)

「摂津」は「西端の津の港」とするだけに良港としての土地柄でした。歴史は名の通りこの「西端の摂津」に集中します。
歴史的には他の地域とは別に、大阪はこの様にある意味で「不安定地域」であったのです。
そもそもこの様な地域であった為に「神明系5社」と「遷宮社」が建立される事は無かったのです。
移設説は此処から来ていますし、故に、その移設元は歴史的経緯を踏まえ「難波」を中心に対比的に発展した「西の摂津」か「北の近江」かの2隣接国と成るのです。

「皇大神宮と大神宮」の分布表
北海道 1  (山上大神宮    函館市)          ・移設
青森1     大神宮       三戸郡三戸町        ・広域陸奥の拠点社    
岩手2     天照皇大神宮  岩手郡滝沢村鵜飼御庭田  ・皇大神宮 分霊2社/県
         天照皇大神社  大船渡市三陸町吉浜上中井山形
山形5     皇大神社     鶴岡市大淀川川端      ・皇大神社 同地域に分霊4社 疑問
         皇大神社     鶴岡市羽黒町町屋
         皇大神社     鶴岡市山田
         皇大神社     米沢市中央
         天照皇大神社  鶴岡市小淀川        ・「天照」の有無
宮城2     天照皇大神宮  仙台市宮城野区蒲生
         桜丘大神宮    仙台市青葉区
新潟2     神明大神宮    新潟市潟上         ・大神宮に神明 二重社名の呼称
         船江太神宮    新潟市東堀通一番町     ・大が太に変化
福島2     天照皇大神社  南相馬市鹿島区南柚木浅田 ・同地域に分霊2社 疑問
         天照皇大神社  南相馬市鹿島区南柚木宮前
栃木3     天照皇太神社  鹿沼市上永野        ・特別賜姓族の建立 
        (伊勢山大神宮  佐野市相生町        ・伊勢山の呼称は神奈川に、諏訪族建立
        (伊勢山大神宮  佐野市伊勢山町)      ・伊勢山の呼称は神奈川に、諏訪族建立
埼玉1     天照皇大神宮  久喜市上清久
茨城1     内外大神宮    筑西市小栗)
東京2     東京大神宮    千代田区富士見
       芝大神宮     港区            ・7大神明社
神奈川2   (伊勢山皇大神宮 横浜市西区宮崎町)     ・伊勢山の呼称は栃木に、諏訪族建立
         (伊勢山大神宮  海老名市国分南)      ・伊勢山の呼称は栃木に、諏訪族建立
静岡1     天照皇大神社   伊東市芝町
長野1     伊勢林大神宮   佐久市新子田        ・伊勢林の呼称は栃木に 諏訪族建立元
山梨3     ・天照大神社   釜額            ・天照は皇大神宮の呼称 大神宮に使う
         ・天照大神社   伊沼            ・天照は皇大神宮の呼称 大神宮に使う
         (大神宮      甲府市貢川本町)      ・

三重2 伊勢市宇治館町  正宮 内宮
          豊受大神宮    伊勢市豊川町    ・正宮 外宮・

京都3     日向大神宮    山科区 東山神明社      ・7大神明社 合祀
         朝日神明社    此花区  
         天照皇太神社   京都市左京区原地町     ・大が太に変化 (特令分霊地)
         神明皇大神宮   宇治市神明宮西        ・皇大神宮に神明 二重社名の呼称

大阪1     皇大神宮     大阪市城東区今福南     ・移設 西近江か西摂津
広島1     (伊勢大神宮    府中市府中町)      ・「伊勢呼称」は二重社名 伊勢使用禁
熊本県1    (伊勢大神宮    人吉市紺屋町)     ・「伊勢呼称」は二重社名 伊勢使用禁


「皇大神宮と大神宮」の分布表の考察

注記 1: 「伊勢山」は神奈川と栃木 「伊勢林」は長野と栃木の呼称の社名は何れも「諏訪族系青木氏」の移動に伴なって建立した。
注記 2: 「伊勢」呼称は「禁止の仕来り」 「広島」と「熊本」に関連は無し。 熊本には青木氏関係地域ではない。「禁令破り」の「広島」は前段でも論じた様に、「讃岐青木氏の勢力圏」で、「亀甲族の圏域」(出雲社氏子防衛集団)の中です。その国府に建立していますが疑問で更なる研究が必要です。

この表から多くの地域には呼称問題が潜んでいます。それは返して云えば、其処には「青木氏の生き様」として色々な意味の事が潜んでいる事を意味します。
先ず、前段でも論じた様に、注記1では、「諏訪族の武田氏系2氏」は、「信濃諏訪族青木氏」は武田氏に攻められた末に武田氏に組込まれ、その武田氏が信長に滅ぼされて、長野-甲斐-神奈川-栃木と移動しました。
上記では「栃木」の「苦難の生き様」を記述しましたが、この移動定住するまで故郷の「心の拠り所」を忘れずに勢力を盛り返し、何とか移動する毎の定住地に一族の祖先神の親神の「神宮」を建立し続けた事に成ります。そして、その呼称を神宮の「分霊の仕来り」を守り故郷の地名の「伊勢山」「伊勢林」として移し続けた事に成ります。
定住地毎に「特別賜姓族」の力を借りながらも、その地で建立出来る程度に力を盛り返した事を意味します。又「特別賜姓族」の配下に入り勲功を挙げた事をも意味しています。
前段でも論じた様に、「信濃」とは「伊勢青木氏」との極めて深い同族としての親交があり、その地名として「伊勢町」の地名がある位なのです。
恐らくは、そのルーツ故郷の「伊勢町の山や林」を忘れない様に、「三重伊勢との縁地」(血縁関係があった)としても、その末裔には「信濃から来た賜姓族系の諏訪族」である様に、諸々の先祖を思い出す様に、この「伊勢の呼称」を引き継いで来たものである事が判ります。そして苦難を乗り越えて建立を移動定住の都度続けて行った事に成ります。
さすればその「分霊の源」は「信濃1」から移した事に成ります。
そして、この5県の諏訪族の「住んでいた地域」が「建立地や所縁の地」から観ても良く判りますし、その「特別賜姓族」の背景を受けて「下野-上野の北域の国境域」を力で獲得して土地を切り開き、その力で復興したその苦難のレベルを物語っています。
この事は”「建立-維持-管理」(6社+神明系3社)の能力があった”事を物語ります。

・広島は、前段で論じた様に、「讃岐籐氏の瀬戸内」の勢力圏で、政治の柵と勢力争いに巻き込まれた地域です。この「広島」は「出雲社の亀甲族防衛集団」の膝元でありながらも、彼等を味方につけ、其処の国府に内宮か外宮の何れか判断の付かない呼称で分霊として禁令を破り建立しています。
「讃岐青木氏」は本領に対し独自性を発揮して勢力を高めていますし、「瀬戸内」を上手く利用して「2足の草鞋策」を採用する等の柔軟性を持っています。果たしてこの「讃岐青木氏」が禁令を破るかの問題です。
本領に対して極めて「独自論戦」を敷いていた「讃岐籐氏」「讃岐青木氏」が本領宗家から積極的な強力が得られたかは疑問です。そもそも香川には神明系社が一切無いと云う事から考えるとこの圏域の及んでいる地域の建立も疑問と考えるのが普通では無いかと考えられます。
(香川は伊勢-信濃青木氏との関係を使って「分祀」で建立した)

「どちらとも採れない神宮」や「呼称の禁令破り」から判断して、彼の「讃岐籐氏」が主体と成って「讃岐青木氏」の名を借りて(「香川の分祀方法」)で建立したとも考えれば成り立ちます。
”それは何故か”です。答えは、此処は ”出雲社の「亀甲族防衛集団」の膝元”だからです。
前段で論じた様に、この「瀬戸内の沿岸域」は武力に因って征圧している地域ではないのです。
「海族等の信頼」と「経済的な結びつき」で構築されている地域なのです。
其処に行き成り「分霊の神宮建立」は絶対に無理であります。
まして、4世紀の昔から「出雲社の社領域」でれっきとした「亀甲族の出雲族」であります。
前段で論じた「純友神社」建立の様に、直には無理であり、建てるとしても、「物造りの神」として建立する事以外にはあり得ません。
「海族」であり「廻船問屋」を営んでいる程の「各地との交易」と「海産物の瀬戸内」であり、昔から両沿岸部内陸には昔から「鈴と銅と鉄の鉱石採掘地」を保有している地域なのです。
明らかに「物造りの地域」でありそれを商いとする「2足の草鞋策」を採っているのです。
これだけ条件が揃えば、何れの人心もこの生活環境を維持させる為に「物造りの神」を求めます。
その発露が「社格」の権威付けから「伊勢大神宮」として「大明神」なのです。「豊受大明神」なのです。
「讃岐籐氏」の「北家藤原氏秀郷一門の政治力」(経済力を使った可能性大)で「伊勢の分霊」を赫々様になく行ったのです。これが「広島の神宮」の実態なのです。
故に、敢えて「禁令」を知り得ての建立と呼称なのです。

・熊本は、何れにしても此処は神明族には無関係な地域です。
「熊本」は ”「伊勢呼称」二重社名 伊勢使用禁”がある事から、 この「禁令」が緩んだ時期に建立したと観られますが古いとしているのです。
兎も角も、”では一体誰が建立したのでしょうか。” 建立するにしても伊勢の「分霊許可」が出ないとしても「相当な財力」を必要とします。
この記録を辿ると、此処には「日向青木氏末裔」が黒田藩や細川藩の「兵農」(「雇兵」 「五七の桐門」の使用許可 組頭はこの桐門の羽織袴で登城許可が与えられていた。)として一部に移動定住して「末裔の分布」を室町期中期以降に広げている地域です。
然し、この「歴史的経緯」(末裔現存)があるのですが、その「権利と建設能力」には疑問です。
”室町中期までの建立した”とする「歴史的な経緯」の記録はありません。
「傭兵」で建てられる事はありませんので、経済的には藩主以外に無いと考えられるのです。然し、神社建立の権利には問題があります。
あるとすれば、その問題を解決するには、何れかの廃社や荒廃社を見つけての「修復復元の方法」しかありません。この時期では戦乱の後ですので、各地に神明系社の廃社や荒廃社が多くその方法は充分に可能です。幕府は「廃絶処理の復元作業」を始めている時期ですから認可は直ぐに下りますし、職人も修理であれば集める事は可能です。
何れ2藩共に土地の豪族の大名ではありません。この江戸期前の時代は最早戦乱は納まり、戦略的意味合いは低下しています。従って、後は「人心」を集める意味で、全国民から崇められている「神宮」を建立する事で戦乱後の対策としたと考えられます。
その証拠にこの「五七の桐紋」には「歴史的な所以」があって、これを秀吉から与えられて、積極的に活用した代表的2大名です。

(そもそも「桐紋」は「天皇家の式紋」で「五三の桐」を類似紋として秀吉に与えたもので、それを更に勲功のあった大名に与えたもので、その大名が傭兵や農兵の勲功のあった者や家臣や農民に与え、使用を許したもので一種の手形として文様紋です。)

「桐-天皇-皇祖神-神宮」の印象を強くする政策を展開し、挙句は「登城許可」もこの桐紋付の羽織袴を手形として許可することを認めているのです。
そして、本来、「墓所」を持たない農民に「墓所」を許可しただけでは無く、更に、この「墓石」には「五七の桐紋」を入れる事をも許可しているのです。本来、明治初期まで墓所を持つ事を許されていない慣習の中で、この農民の各村の名主等には「氏子衆」を結成させ、藩が財政的な責任は持つとして「祭祀行事」と「社の維持管理」も特別に任したのです。
江戸時代には幕府が行う「廃絶処理の復元作業」とは別に、上記の大名に任せる方法を併用したのです。

「神明社系5社」は「2つの青木氏」が、「総師・御師・氏上様」と呼ばれ、「寺」で云う「菩提寺」と同じ様に、「社」の全て一切を取り仕切っていたのです。その為の一切の「部の匠職人」を家人として昔から抱えて566社に及ぶ社を維持管理していたのです。

この熊本は真にこのシステムによらず、「桐-天皇-皇祖神-神宮」の威厳、尊厳を利用する形で農民まで巻き込んだシステムを始めて構築し始めたのです。それが江戸期に入り全国的に広がりを示したのです。これが、江戸幕府の初期から始まった2つ目の「神明系社の復元修復作業」であって、この方式を採用した事から全国にこの黒田藩、細川藩の採った方式が広まったのです。
「2つの青木氏」が採っていた「寺」の菩提寺方式に似た「社」の「総師、御師、氏上様」のシステムは、少なくとも「伊勢丸山城の戦い」1687年頃の時には未だ「2つの青木氏」はこの方法を続けていた事が判ります。
それは、「丸山城の建築」は伊勢-信濃のシンジケートの資材一切の調達を含めて家人の職人が行っていた事が資料から判っているのです。

(安土桃山時代 丸山城が出来た瞬間、伊勢青木氏の長兵衛の命で火災で落城した。筆者の家資料から規模は小さく成っていたが明治中期までは未だ続いていた事が判る。)

この意味で、この新システムの「分霊に依らない大神宮」の見本が、この熊本1なのです。
(この事は「其の他」の処でも論じる。)
江戸期には規模は小さく成っていたが、援助を受けながらも「神明系5社」方式との2本立てで維持されていたのです。故に「総師、御師、氏上様」の呼称が生まれたのです。たいら族」清盛の宗貿易の様に、平安末期頃から始まった「青木氏の2足の草鞋策」もこのシステムを支える一つの手段であったのです。

この「2つの大神宮」の存在する地域は同一地域にはありません。
且つ、ある特定の地域に分けられます。この2つも「神宮の仕来り」です。
そこで、次ぎの表を作成して見ました。

「地方の分霊地」
・栃木3・茨城3・埼玉1・東京2・千葉1・神奈川2  関東    計12  2.0/県
・青森1・新潟2・岩手2・山形5・福島2・宮城2    東北北陸  計14  2.3/県
・静岡1*三重2*長野1*山梨3           中部    計 7  1.8/県
・広島1                        中国    計 1
・熊本1                        九州    計 1 
*京都4*大阪1                    関西    計 5  2.5/県 

「神宮分霊地」は、「平均2社/県」 程度と成ります。
「神明社」は、   「平均7社/県(」105+75/26)
「神明神社」は   「平均6社/県」(65+73/22)
「神明宮」は、  「平均9社/県」(103+22/15)

こ「の神明系3社」は凡そ6~9社 概して、AVE8社とすると、約4倍と成ります。
「4-6の規則」が成り立っていますので納得出来ます。

これは、「皇族賜姓族と特別賜姓族」が、相互に連携をとりながら建立し、呼称別にし、管理されていた事が判ります。
「伊勢と武蔵間での連絡」を取り合っていた事を意味しますので、「寺社大工匠の職人」の「互いの連携」や「職人の融通」もあった事が、「建築様式」などの統一もありますので云えます。
この事から双方の職人の血縁も起り得たと解釈出来ます。
「2つの血縁青木氏」と「2つの絆青木氏」の元気な掛け声として、その「生き様」がまざまざと目に映ります。


ここから「神明系5社」に組み入れる事が疑問視されるものを「其の他」にしました。
神明系社の歴史的経緯がこの「其の他」から読み取る事が出来ます。
排除せずに歴史的経緯をより詳細に引き出す為に検証します。

其の他  ・福岡9・東京17・神奈川3・新潟2・群馬2・島根2・広島1・香川1
      ・計37/418=8.85%

      *長野2*富山1*三重1
      *計4/148≧2.70%
     
     +宮崎1(皇祖神発祥の特別地)
     -大分1(皇祖神発祥の隣接地)
     
(以上の・印と*印の合計41は「其の他%影響」と大神宮の「重複地域」がある為に100%を10%程度超える。)

先ず、この「其の他」は上記「神明系5社」に対して、組み入れる事はデータの純粋性から真の考察を引き出す事にはエラーを多く含み正しい答えを引き出す事が困難と考えられ、敢えてこの「其の他」に入れる事にしました。
それには次ぎの様な事があります。

A「神明系5社」を八幡社に変えた「社」
B「八幡社」から「神明系5社」に変えた「社」
C「時代性」に大きな疑問のある「社」
D「呼称」に問題がある「社」
E「他社」の可能性がある「社」
F「地理性」に疑問の「社」

以上の「疑問、問題の社」である事から「其の他」に組み入れたものです。
多くは「呼称」に対する「仕来り」を破っているものです。
ところが、この「其の他」を一つに纏めると、”ある「意味」”を持っているものがあるのです。
では、次ぎの13県-45社に付いて考察してみます。

三重  大宮神明社 四日市市日永
福岡
大分  「西寒多神社」  大分県大野郡
宮崎  鵜戸神宮   日南市宮浦
新潟  (菅谷宮  新発田市)
     (春日山神社 上越市西部)
群馬  (伊勢宮 吾妻郡中之条町伊勢町)
     (伊勢宮 吾妻郡中之条町)
長野  (伊勢宮神社 長野市伊勢宮)
     (伊勢社 長野市東之門町 )
富山  (伊勢玉神社 氷見市伊勢大町)
島根  (下の宮 出雲市大社町杵築北)
広島  (伊勢宮神社 東広島市西条)
     (伊勢両宮社 竹原市西野町)
     (伊勢大神宮 府中市府中町)
香川  (伊勢宮 さぬき市大川町田面)
東京  天祖神社  足立区小台
     天祖神社  板橋区南常盤台
     天祖神社  江戸川区平井
     天祖神社  江戸川区本一色
     天祖神社  葛飾区新小岩
     天祖神社  葛飾区東新小岩
     天祖神社  葛飾区高砂
     天祖神社  葛飾区堀切
     天祖神社  江東区亀戸
     天祖神社  新宿区西早稲田
     天祖神社  新宿区原町
     天祖神社  新宿区早稲田鶴巻町
     天祖神社  杉並区高円寺南
     天祖神社  墨田区業平
     天祖神社  目黒区上目黒
     天祖神社  港区六本木
     (上小松天祖神社 葛飾区奥戸)
     (奥戸天祖神社 葛飾区奥戸)

神奈川 明神社   川崎市川崎区塩浜
     明神社   川崎市幸区戸手本町
     神明大神  川崎市中原区中丸子


東京の18社に付い既に論じたので此処では除外します。

長野と富山に付いても退避地の処で論じましたので除外します。

では先ず、伊勢です。
大宮神明社 四日市市日永

この伊勢の「其の他」には根拠があります。
此処は、「伊勢の神域」ですから呼称の問題とするものは無い筈です。
神明社に社名を付けないのが慣習ですが、「大宮」が付いています。
実は、この四日市は「皇族賜姓伊勢青木氏」と「特別賜姓伊勢青木氏」の「血縁融合族」が定住してい地域なのです。
其処に建立したのが神明社であり問題はありませんが、何れも伊勢神宮を護る役目の氏です。
他の神明社と異なる事を主張する為に ”大神宮のお膝元の神明社” として「大宮」を付けたのです。
この三重には神明社1と神明神宮1があり、これと「融合青木氏」との区別を付ける為にも「大宮」を付けたものです。つまり、「融合青木氏」の建立である事を物語っています。

大分  「西寒多神社」  大分県大野郡
宮崎   鵜戸神宮    日南市宮浦

この二つの神明社と観られる社は前段で論じた処であります。
「天岩戸の神域」に建立された社で「祖先神」の祖とする神を祭祀するもので賜姓族が建立する「祖先神の神明社」では実質ありません。この主権者は時代により変化しています。
鎌倉以降は頼朝や時代の幕府や土地の豪族などの寄進ににより支えられていた記録が残っています。
この為に、明治の「全国の神社の社格決定」に際してはその主張を取り入れて一時は「社格」を神明社並に引き挙げ経緯があり、後に「社格「」は村社」並に引き下げられました。

新潟 (菅谷宮  新発田市)
    (春日山神社 上越市西部

何れも「神明造り」でありますが、上記のEに分類される「他社」であります。
1900年代に建てられたもので、神奈川等にある合祀系社の「菅谷神社系社」であります。
そもそも「春日山」の呼称は、上杉謙信を祭る神社で謙信に関わる地域に分霊されている神社です。

以「下は「信濃伊勢宮」の系列社の「分祀社」です。

長野 (伊勢宮神社 長野市伊勢宮)
    (伊勢社    長野市東之門町 )

群馬 (伊勢宮    吾妻郡中之条町伊勢町)
    (伊勢宮    吾妻郡中之条町)

広島 (伊勢宮神社 東広島市西条)
    (伊勢両宮社 竹原市西野町)
    (伊勢大神宮 府中市府中町)

香川 (伊勢宮    さぬき市大川町田面)

長野は前段で論じた通りで、歴史的経緯の中で起ったもので呼称には問題はありません。

長野と同じく、群馬は前段でも論じ、前記した様に、この「伊勢宮」は信長に滅ぼされた武田氏系諏訪族の青木氏末裔が逃亡先にて復興を遂げ故郷の守護神を建立したものです。

広島は前段でも論じたと同様に、伊勢青木氏と信濃青木氏のとの親密な関係から「信濃伊勢宮系社」を分祀して「讃岐籐氏の讃岐青木氏」が建立したものです。
香川も伊勢-信濃青木氏との関係から「信濃伊勢宮系社」の「分祀社」で、この讃岐籐氏の讃岐青木氏が建立したものです。
この讃岐青木氏は領国に並ぶ勢いを持ちその経済力は瀬戸内を利用した「2足の草鞋策」(廻船業)を背景に建立したものです。
これ等の「伊勢の呼称」を使った根拠は「長野の伊勢宮」にある「伊勢宮神社の分祀」を求めたものとです。
讃岐青木氏と信濃青木氏とは伊勢青木氏を介して互に「商い」に於いて繋がりを持っていた事に依ります。
実はこれには讃岐青木氏と伊勢青木氏は「商い」で互に廻船であった「讃岐青木氏の船」を運送に使っていた事が記録に遺されており、この関係から信濃青木氏との繋がりが強かったのです。

(前記した浅野家開城の際の財産買取の海上輸送の便宜を伊勢青木氏は依頼した事が記録されている。瀬戸内の圏域は讃岐青木氏の圏域)

(海を持たない信濃青木氏は商いの輸送に日本海ルートを利用してこの讃岐青木氏の廻船を利用して全国に輸送していた。讃岐青木氏は瀬戸内の産物を輸送販売し、伊勢と信濃青木氏とは互いの利点を生かしてはこの商いの面で強く結ばれていた事が「商い資料」から読み取れる。)

この関係から血縁関係も考えられ、又、神明系社の建設には「伊勢青木氏」の便宜は建前上難しく、「信濃青木氏」の便宜(分霊・分祀)を受けたと考えられます。
讃岐にはそもそも神明系5社は1社もないのです。この事の意味が”「讃岐」”の一門の中での立場を物語ります。
この事は普通の事ではありません。それには理由があるのです。
前段でも論じ、前記でも論じた様に「讃岐青木氏」を含む「讃岐藤氏」は、一門の中でも「独自の行動」を採りそれに見合う「財力と武力」を含む勢力を確保し、それに依って「本領の宗家」とは一線を画していたので、当然にそうなれば宗家との間に軋轢が生じます。
それは「讃岐籐氏一門」には当然の結果として、”「神明社建立の権限」を与えらないか、与えられてもなかなか認可が下りない” と云う事態も当然に起り得ます。

資料によると讃岐籐氏は直接摂関家との接触をしていた事が記載されていて、「純友の乱」に観られる様に同じ身内の摂関家からも「瀬戸内の利権]を剥奪するような行動も史実として遺されている位です。
中には、「讃岐籐氏」は ”藤原北家一門の単独の藤氏である” とする史実に反する独自の主張も遺されているのです。(「純友の乱」も同じ背景にある)
秀郷一門の特別賜姓族しか名乗れない「讃岐青木氏が」存在しているにも関わらず、「独自性」を強く主張したのです。
これが一つの軋轢の形と成って建立権が確保出来なかったのです。このままでは ”「讃岐青木氏」は秀郷流青木氏116氏の中でただ1氏建立権がない。” と成ると世間に対して全く立場がありません。
そこで、「商い」を通じて「伊勢-信濃青木氏」のパイプを構築し、この関係を通じて正式なルートとでは無く、又、正式な呼称ではなく「伊勢宮」や「伊勢宮神社」の「信濃伊勢宮系社」等や「3重複呼称の神明系社」を「讃岐青木氏の圏域」に建立したのです。
これでは、武蔵の青木氏宗家は何も云えません。
しかしながらも、幾らなんでも平安期の「仕来り、決り事、規則慣習」42で護られた中で、この時、伊勢や信濃からの「神明系社の正式」な「分霊」では出来ません。その為に「分祀」と云「う祭祀方式」で処理したのです。6つの社の中の資料には「分祀の表現」が成されているのです。

神奈川 明神社   川崎市川崎区塩浜
      明神社   川崎市幸区戸手本町
      神明大神  川崎市中原区中丸子

「神明」の呼称を「明神」と呼称した「社」でありますが、「みょうじん」と云う呼称は特に異常ではありません。関東域では一般の呼称、或いは愛称として「みょうじんさん」で呼ばれていたのです。
一方では「神明大神」として正式な呼称もあるのですから特段の理由があった訳ではありません。

「一般呼称」に社名を合わしたと考えられますが、厳しい「仕来り、決り事、規則慣習」42からすると呼称だけは時代的な緩みの起った時期ではないかと観られます。
資料からこの呼称が出て来るのは室町末期から江戸期初期頃です。
神奈川には「正式呼称」の神明社4と神明神社2と皇大神社2があります。
この3つは川崎に集中していますので、「分祀」と云う方法が一般に起った時期にこれ等の社がこの頃に分祀したものではないかと考察されます。
分祀の表現方法にはいくつものパターンがあります。社歴等からは確認出来ませんが、これも便宜系の「分祀表現」の一つなのです。格式を換える祭祀呼称方法です。
讃岐の分祀方法は資料から観て鎌倉期から室町期前期に観られます。

この他には便宜系の「分社」と云う方法もありますが、この場合は分祀と同じく呼称は格式に変化を及ぼしますので別のものと成ります。
更には、神明系社以外の「合体系」の色々な種類の神社を一つにまとめた「合祀」や「合社」や「併社」等と云うものもあり、「摂社、末社」等の「系列系」を表す呼称方法もあります。

神明系社には室町期中期以降はこの「合祀や合社や分社や末社」等が多く出てきます。これは室町中期以降の生き残りを掛けた神社の戦術であったのです。
この事は本論とは論じる論点が異なる事から信濃関連の「伊勢宮系」と神奈川の明「神社系」以外は原則除外しています。

別枠のの「福岡の8社」に付いては、神明系社である事は判っているのですが、後に八幡社に変更されている事が観られますので、その他に入れました。

「八幡社」は前段でも論じましたが、そもそもその前身は「神祇信仰」から発展したものです。
豊前宇佐郡から発祥したものです。奈良の大仏建立等でその信仰が大きく発展し朝廷もこれを取り入れて「国神」として一時取り入れ「国家鎮魂の神」として崇め祭祀していたのですが、次第にその勢いは低下して一時は荒廃をしました。
そこで清和源氏の宗家摂津源氏の頼光等に対して命じてこれを修復させる命令を発した記録が残っており、これに対して修復する際に、「荒廃の国家鎮魂の八幡社」の殆どが摂津源氏の宗家の守護地であったのです。
それまで神社建立の経緯が無かった事等から自らの「寺建立の職人」や自ら「神官職」を持っていなかったのです。伊勢青木氏や信濃青木氏の協力を得なければ成し得ない修復の勤めです。
そこで、「血縁融合族」の神明族「皇族賜姓信濃青木氏」の一族が「寺建立の職人」「神明系社の神官職」の能力を借用したのです。この事から、記録にも残っているし、神明社や守護神外の「八幡社神職の青木氏」が現存するのです。
この「国家鎮魂の八幡社の神職」を依頼して維持させたのです。

(三つ柏紋の神官職の神明族の信濃青木氏の一部がこの国家鎮魂の八幡社の神職を司る事と成ります。陸奥域までこの信濃青木氏の「国家鎮魂の八幡社」の神職が広がっています。)

神明系社地外の八幡社にもこ神明族の信濃青木氏の神官職の珍しいパターンが生まれたのです。

一方、前段で論じた様に、分家頼信系の「河内源氏」はこれを荘園制を利用して名義族の未勘氏族に八幡社を建立させて「武神としての八幡社」に換えてしまったのです。
従って、「八幡社」には「皇族賜姓族信濃青木氏」が維持管理した本来の摂津源氏の「国家鎮魂の神の八幡社」と、「武神」と変化させて「未勘氏族」に維持管理させた「八幡社」の2流の系列があるのです。
然し、時代の流れに押されて殆どは未勘氏族の維持管理させた「河内源氏の武神の八幡社」と成ってしまったのです。この「福岡の八幡社」は発祥地域であった事から元は神明系社の変化したものなのです。
この様な歴史的経緯の持った「神明系の八幡社」なのです。


「元伊勢の分布 遷宮地詳細」
(大化期前)
「元伊勢社」とは三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮の内外宮が伝承地に成る前に遍歴した各地に遺した鎮座地の神社を云う。

13の古代国に約80-85の地域に90年に掛けて遍歴した。

遍歴数/県
大和21 丹波4 紀伊3 吉備6 伊賀10 近江13 美濃3 尾張4 伊勢23

大和国
1 檜原神社(摂社)        奈良県桜井市三輪 
2 巻向坐若御魂神社        奈良県桜井市穴師
3 巻向坐若御魂神社       奈良県桜井茅原
4 笠縫神社(末社)        奈良県磯城郡田原本町秦庄
5 志基御県坐神社(末社)     奈良県桜井市金屋
6 笠山荒神宮           奈良県桜井市笠
7 天神社             奈良県桜井市小夫
8 飛鳥坐神社           奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
丹波国
9 真名井神社(摂社)        京都府宮津市江尻      
10 皇大神社             京都府福知山市大江町内宮
11 笑原神社             京都府舞鶴市紺屋
12 竹野神社             京都府丹後市丹後町
大和国
13 笠縫神社三輪山        奈良県桜井市三輪
14 伊豆加志本宮与喜神社     奈良県桜井市初瀬字与喜山
15 伊豆加志本宮長谷寺      奈良県桜井市初瀬
16 伊豆加志本宮         奈良県桜井市初瀬
紀伊国
17 奈久佐濱宮濱の宮神社    和歌山県和歌山市毛見
吉備国
18 名方濱宮伊勢神社      岡山県岡山市北区番町
19 名方濱宮内宮        岡山県岡山市南区浜野1丁目
20 名方濱宮穴門山神社     岡山県倉敷市真備町
21 名方濱宮穴門山神社     岡山県高梁市川上町高山
22 名方濱宮神明神社      岡山県総社市福井字神明
23 名方濱宮今伊勢内宮外宮    広島県福山市神村町
紀伊国
24 伊勢部柿本神社        和歌山県海南市日方
25 国主神社           和歌山県有田郡有田川町長田
大和国
26 弥和乃御室嶺上宮高宮神社     奈良県桜井市三輪字神峯
27 弥和乃御室嶺上宮三山       奈良県桜井市三輪
28 伊豆加志本宮           奈良県桜井市初瀬
29 弥和乃御室嶺上宮高宮神社     奈良県桜井市三輪
30 宇多秋宮阿紀神社         奈良県宇陀市大宇陀区迫間
31 佐佐波多宮篠畑神社        奈良県宇陀市山辺三字篠畑
32 佐佐波多宮葛神社         奈良県宇陀市山辺三
33 佐佐波多宮御杖神社        奈良県宇陀郡御杖神末
34 佐佐波多宮御杖神社        奈良県宇陀市室生区大野
伊賀国(伊勢国)
35 隠市守宮宇流冨志弥神社    三重県名張市平尾
36 隠市守宮三輪神社        三重県名張市箕輪中村(合祀)
37 隠市守宮蛭子神社        三重県名張市鍛冶町
38 隠市守宮田村大明神       三重県名張市東田原
39 隠市守宮名居神社        三重県名張市下比奈知
40 穴穂宮神戸神社         三重県伊賀市上神戸
41 穴穂宮常福神社         三重県伊賀市古郡
42 穴穂宮猪田神社         三重県伊賀市下郡
43 敢都美恵宮都美恵神社      三重県伊賀市拓殖町
44 敢都美恵宮敢国神社       三重県伊賀市一ノ宮
近江国
45 甲可日雲宮垂水頓宮       滋賀県甲賀市土山頓宮
46 甲可日雲宮大神宮社       滋賀県甲賀市土山町
47 甲可日雲宮皇大神宮       滋賀県甲賀市土山町大河原
48 甲可日雲宮高宮神社       滋賀県甲賀市信楽町多羅尾
49 甲可日雲宮桧尾神社       滋賀県甲賀市甲南町池田
50 ・神明社            滋賀県湖南市三雲
51 日雲神社            滋賀県甲賀市信楽町牧
52 日雲宮             滋賀県甲賀市水口町神明
53 甲可日雲五十鈴神社       滋賀県甲賀市水口町東林口
54 甲可日雲ほう山神社       滋賀県甲賀市水口町高山
55 甲可日雲川田神社        滋賀県甲賀市土山町北土山
57 坂田神明宮           滋賀県米原市宇賀野                   
美濃国
58 伊久良河宮天神神社       岐阜県瑞穂市居倉
59 伊久良河宮名木林神社      岐阜県安八郡八町
60 伊久良河宮宇波刀神社      岐阜県安八郡八町
尾張国
61 中島宮酒見神社         愛知県一宮市今伊勢町
62 中島宮浜神社          愛知県一宮桜一丁目
63 中島宮御園神明社        愛知県清須市一場
64 中島宮坂手神社         愛知県一宮市佐千原
伊勢国
65 桑名野代宮野里神社        三重県桑名市多度町
66 桑名野代宮神戸神館神社      三重県桑名市大字
67 桑名野代宮尾野神社        三重県亀山市布気野尻
68 奈既其波志忍山宮忍山神社     三重県亀山市野村
安濃国(伊勢国安濃郡)
69 壱志藤方片樋宮加良比野神社    三重県津市藤方
70 藤方片樋宮阿射加神社       三重県松阪市小阿坂町
71 藤方片樋宮雲出神社        三重県津市雲出本郷町
72 飯野高宮神山神社         三重県松阪市山添町神山
73 飯野高宮神戸神社         三重県松阪市下村町
74 飯野高宮牛庭神社         三重県松阪市下 路町
75 飯野高宮久弥都神社        三重県松阪市郷津町
76 飯野高宮滝野神明社        三重県松阪市飯高町
77 飯野高宮花岡神社         三重県松阪市飯高町
78 佐佐牟江宮竹佐々夫江神社     三重県多気郡明和町
79 伊蘇宮磯神社           三重県伊勢市磯町
80 伊蘇宮相可上神社         三重県多岐郡多岐町
81 大河之滝原瀧原宮         三重県度会郡大紀町
82 矢田宮口矢田の森社        三重県伊勢市楠部町
83 家田々上宮神宮神田南の忌鍬山   三重県伊勢市楠部町
84 家田々上宮大土御祖神社      三重県伊勢市楠部町
85 奈尾之根宮皇大神宮末社      三重県伊勢市宇治中之切町
85 五十鈴宮皇大神宮         三重県伊勢市宇治館町     

青木氏と守護神(神明社)-22に続く
  
(基データの考察検証の段 2/2)

  

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