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大化改新 新説 NHKスペシャルまとめ5

NHK放映の新説「大化改新」に付いて。

この新説は次のような事でありました。

1 蘇我氏は逆賊ではない。
2 大化の改新はない。
3 蘇我氏館は武器、兵舎であつた。
4 蘇我氏は外敵から天皇を守った。
5 後漢滅亡後の唐を意識していた。
6 日本書紀は書足の編集であつた。
7 天智天皇は失政した。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。
これらを史実で検証してみる。

このレポートはNO5に付いてである。

”蘇我氏が唐を意識していた”という説に対して、どの様な疑問を含んでいるかに付いて検証して見る。

唐は618年に出来た訳であるが、その27年後に専横を極めた蘇我入鹿を討ち645年「大化改新」が起こった。
その時の「唐に対する意識」が、天皇家と蘇我氏との間でどの様に理解していたか、承知していたかを調べる事で判る筈である。

中大兄皇子はどの程度知っていたかを示す証拠が2つある。

一つは4人の知識人が皇子の周りに居て助言をしている。

先ず、一人目は「阿倍内麻呂」である。

この人物は渡来人で、阿多倍子孫である。この阿多倍らは620年(唐に中国全土を制圧される前の隋建国で、漢民が朝鮮を含む東部地区に逃げて光武帝が後漢として独立国を作り上げた後、21代目で唐に征圧される。そして、大和国の博多地域に上陸し、瞬く間に九州全土を制圧して中国地方まで支配下に入れた。この時は孝徳天皇である。この間、27年間である。

この子孫が勢力を持ち朝廷内でも豪族として、重鎮と成っていた。左大臣である。
この人物の中国の唐の知識を中大兄皇子の側に居て進言し、これまでも影響与えていた人物である。
この人物は649年に没しているので「大化の改新」前後には充分に働いている。
この人物だけではない。

二人目は、「高向玄理」(たかむこうのげんり)である。

この人物はこの上記の渡来人の子孫である。608年の「遣隋使」として、又「留学生」として学び、改新前の640年に帰国した経歴を持った人物で前レポートで記述した「国博士」として活躍した。

640年は唐建国618年から22年も経っている。まして、唐の進んだ知識と情報を取得している「留学生」である。
そして、「国博士」として中大兄皇子に進講している役目である。

この人物は後に654年に再び唐に入り、「遣唐使」として入唐しているのである。この人物は唐の長安で客死したのである。
645年とは大化改新の9年後である。つまり、この9年とはどの様な意味を持つのであるがという事である。

中大兄皇子に進講し最も信頼されていた人物を手元から話すにはそれだけの意味が有ったことを示す。
改新後9年で唐に渡ったのであるから、この9年の意味は蘇我氏と周囲の問題が大方解決が見えて、次の問題に取り組まなければ成らない状況となったことを意味する。
次の問題とは「唐との取り組み問題」の解決に入った事を意味するのではないか。だから、大化改新計画に最も大事な人物を唐に送ったと見える。つまり外交使節であろう。
ところが途中で客死(658-659頃)した事で交渉は頓挫したと見る。

この人物だけでも唐の情報は充分に把握していたことは確実である。知らなかったとする説のほうがおかしい。

「国博士」とは、大陸(唐)に渡った経験があり、その役目は「政治顧問」であり、唐の諸制度に通じている人物を言う。

三人目は、「僧のみん」である。

この人物は、遣隋使として608年から632年まで留学した人物であり、「国博士」に任じられており、中国唐の進んだ科学に精通していて大和朝廷の科学分野の進歩に貢献した人物である。

特に暦や天文には優れていて国の時刻の制定を果たし、この知識をもって地形と水と大理石とで標準時計を作ったことでも有名とされている。

この人物は653年まで朝廷に貢献している。大化改新の8年後まで生きている事から、大化の改新の事柄は全て知っている。
唐には24年間留学生としていた事になるので、軍事の進歩と科学の進歩の知識を中大兄皇子に大きな影響を与えた人物である。

四人目は、「南渕請安」(みなみぶちしょうあん)である。

渡来人の学僧で、608年の遣隋使として中国に渡る。
640年に帰国した。唐建国以後、22年間も唐にも居た事になる。

日本書紀にはこの人物の事が詳しく書かれている。
それによれば、中臣鎌足と中大兄皇子は「請安」に教えを受けている事が書かれている。
「大化改新」の計画に多大な貢献をした事が書かれている。
そして、この人物は645年頃没とされているので、蘇我氏の経緯も知っていて教授していたのである。

この4人の人物が中大兄皇子に唐の情報を詳しく伝えていた事は紛れも無く史実である。

この人物が居て中大兄皇子が唐の状況を知らない方が不思議ではないか。
天皇家側は唐の状況を充分に把握していた。

天智天皇は626−671 皇位668−671であるので、中大兄皇子の皇太子執政で最も忙しい時期の前後に4人は貢献していることである。
斉明天皇在位で天智天皇に成ったのは3年間である。
この時、この天皇を補佐していたのは、弟の大海人皇子(天武天皇)と青木氏元祖の施基皇子である。
まして、これらの4人物は唐の時代に成っても20−30年近く唐にいたのである。数年ではその知識も疑う事も出来るが、直且つ、唐の官僚に混じって働いているのである。

その「唐が攻めてくるから認識云々」という蘇我氏の新説には中大兄皇子が聞く耳を持つだろうか。

そこで、今度は、蘇我氏の立場を見てみると判る事が出て来る。

百済は660年に唐と新羅の連合軍にて滅ぼされた。(大化改新は645年)
白村江の海戦は663年である。
大化の改新から18年後である。
大化の改新のときに言い始めたのではない筈で、建造物を周囲に立てる期間からみても10以上前からでないとその理由にはならない事が判る。

前記した通り、蘇我氏は百済の民で渡来人である事はほぼ事実である。

自分の先祖が潰されると言う「恐怖心」があるからと言って、30年(618)も先の事を予想して果たして計算する予測する事が、現実に出来るだろうか。

現代ではないのである。今から1640年くらい前の時代の緩やかな時代である。その時代に運輸手段や情報手段も無い時代に、30年も先の事を予想する事が出来るだろうか。
もし、30年先のことを予想して言うほうが少しおかしいのではないか。

今、読者諸君が30年先の事を、延々として述べても人は信用してくれるだろうか。

まして、相手が周囲の唐のことをよく知っている人から情報を得ているのである。大して理由にならない「故郷」だからと言う理由で述べても、なおさら信用は元からしない筈である。

645年頃は唐が建国して27年も経ち、日本の学僧や留学生が沢山居る。実質、遣唐使である。

唐と連合軍を創った「新羅」がやっと647年の乱で政権が定まったときである。(金春秋)

そんな時の前の乱のときに新羅と唐がやってくるだろうか。まして、海を渡って来るだろうか。
せいぜい、10年位は経って国が落ち着いてからのことでなくては動く事は出来ない筈であろう。
だから、660年である。
それを実行して国を安定させた建国の父とも言われる人物は661年に死んでいる。

このように時代は何が起こるか判らない30年も先のことに付いて論外である。

白村江の海戦の時代は663年である。つまり、新羅が一番弱っていた時で、唐と新羅が百済を滅ぼした疲れた時期である。

645年頃では、海を渡って大和に攻めてくるには、唐は新羅と戦い、潰して新羅と協定を結び、更に、そして、百済を滅ぼさなくては成らない限り、当時としては無理な事である。
まして、これだけのことをやろうとすれば10年は充分に掛かる。663年なのである。

まして、長蛇の遠征となり、食料、水、人馬疲れなどの多くのリスクを持っている。
まして、前記した様に、戦略上、戦艦列島である。
戦いの一番注意しなければならない「挟撃」である。間違いなく「挟撃戦」は起こるは必定である。

そんなリスクのあるところに、やってくるだろうか。

ここで、漢国が崩壊して後に、東に逃げた光武帝が何故に後漢を建国できたかお考え頂きたい。

光武帝が遼東半島と朝鮮半島を征圧しても隋は手を出せなかったからである。余りに東に長い遠征であるからである。現に遠征軍は途中まで何度も攻めて全滅して諦めたのである。これは食料と気候とえん戦気分とで全滅である。三国志や中国史書にも書かれている事である。

このようなことは唐も新羅も充分に知っている。
まして、それより更に長く海を隔てているのである。
戦いは、NHK新説のように、「新しい戦艦」だけでは戦えないのである。
戦いの要は「リスク」をどの様に見るかである。そして、どの様に対策するかである。
(典型的なリスク対策の見本は前レポートの日露開戦の秋山兄弟の作戦である。)

更にこのリスクに付いてはもう一つ証拠がある。
聖徳太子が中国に書簡を送った事である。

「日出ずる国より、日没する国に物申す」の下りである。
何故に小国が超大国にこれだけのことを言えたのかである。
中国は怒った。しかし、どうする事も出来ない。
この聖徳太子時代の書簡に付いては中大兄皇子は良く知っている。(20年位前)

攻めるには、余りにも遠くて、リスクの大きな戦いである事を聖徳太子は当時の戦いの知識から承知していたからである。

以上のように、NHK新説の「蘇我氏が唐が攻めてくると意識していた」の説にはどちらの立場から見ても史実の矛盾と無視とがあり、「疑問」という範疇とを著しく越えている。

次は大化改新6番目の説に付いて述べる。

続く。

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大化改新 新説 NHKスペシャルまとめ4

NHK放映の新説「大化改新」に付いて。

この新説は次のような事でありました。

1 蘇我氏は逆賊ではない。
2 大化の改新はない。
3 蘇我氏館は武器、兵舎であつた。
4 蘇我氏は外敵から天皇を守った。
5 後漢滅亡後の唐を意識していた。
6 日本書紀は書足の編集であつた。
7 天智天皇は失政した。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。
これらを史実で検証してみる。

次は第4番目の”蘇我氏が外敵から天皇を護った。”という説である。

この説は大化改新1から3までの説でのレポートでお判りであろうと思うが、これを大儀明文にして「反逆」の印象を弱める事に努力していたのではないか。

大化改新1で、朝廷の立場から見れば持つ印象は異なると説いた。
その時の前後の蘇我氏の天皇家に対しての行動を見れば誰でも、”反逆”と印象を持つ事であろう。

このことは蘇我氏でも充分に気が付いていたと思われる。
ましてや、二人の天皇とその一族家族を問答無用で自分の思通りにならない人物を暗殺して来たのであるから充分に知っている。

宮廷を窪地に、自分の館を周囲の丘に4つ作ったのであるから、宮廷に勝るとも劣らずの蘇我氏の館を当時の軍略の常識を破って造営したのであるから、この軍略知識は蘇我氏でも知っている。

このように、内側では天皇家を潰し、外側で護るという説は矛盾している。

だから、この二つの事を捉えてさえも、この新説の様に成るだろうか。又、心のそこから”外敵で天皇を護る”等を口にしていただろうか。

現に、蘇我入鹿を討って後に、中大兄皇子は都を移している。”何故移したのであるか”を考えれば理解が出来る。

もう一つは、この蘇我の入鹿と父の蝦夷という人物とその生い立ちを調べることで、どのような性格や人格を持っていたかはおおよそ判る。

この二つの事柄で検証してみる。

乙巳の変、即ち入鹿が討たれた事件であるが、この時の宮廷は、飛鳥板蓋宮である。
この後、皇極天皇(594-661)は孝徳天皇に譲位し、中大兄皇子は直ぐに難波長柄豊碕宮(難波宮)に移ったのである。

この遷宮した理由は、矢張り蘇我氏の旺盛を極めた飛鳥で変のあった土地から離れたいとする意思は納得できるが、その前にこの根拠に付いては、前記した軍略上まずい配置の形態は将来の戦略上、好ましくないとの配慮が働いていたことは否めない。

なぜなら、これには次の四つの事が言える。

先ずその第1番である。
未だ、戦いをした訳ではないのだから、蘇我氏分家は100%現存しているし、本家の勢力を吸収する事で同じ勢力が成立する。

確かに、蘇我石川麻呂は中臣の鎌足に説得された訳であるが、変の時は躊躇して振るえて動かなかったのである。
だとすると、中大兄皇子の成功した直ぐ後の行動は決まっている。

それは、この軍略上逆転した地形と配置から脱する手配をする事が肝要である。
難波宮に遷宮した時は未だ充分に造営が進んでいたわけではなかった事が日本書紀の資料から読み取れる。それほど急いでいた事が覗える。

その証拠に、変の後3年後に、この蘇我氏の長の蘇我石川麻呂は謀反の嫌疑を掛けられて自決しているのである。
つまり、中大兄皇子は間違いなく警戒していた事を物語るものである。その為にもその蘇我氏の勢力を削いだと見られるのである。

次に第2番目である。
前記しているように、阿多倍の動向は抵抗しないとの伝達があったが、その東漢を含む軍事集団がこの後にどのような行動に出るかは不明確である。
(私は前レポートでも記述した通り、話をつけていたと見ている)

中大兄皇子等は眠れない程に疑心安儀した筈である。
先ずそれには、この地形から脱することであり、より港に近い地形を選び攻められた時は海に逃げる方策を考えていた筈である。

この海に逃げる策は当然に難波宮であるが、この難波宮は、蘇我氏の説であれば、最も外国から攻められ易い位置と地形である。
この遷都と遷宮でも、蘇我氏の説には殆ど信用せず耳を傾けていなかったことが判るのである。
海が近いから交易が出来やすいとの説があるが、交易は唐や朝鮮半島との事になるが、今唐や高句麗等の脅威を蘇我氏が述べている位であるのに、交易が云々ではない。

先ず遷して様子を覗う事としたとも見られる。
この時の様子に付いては、難波宮に遷宮する時は孝徳天皇に相談無しにある日突然に移動している。慌てて孝徳天皇は追ってきた様子が日本書紀にも覗えるのである。
それ程に急いでいたという事である。

第3番目である。
皇族一族と5氏の連合豪族の臣下の動きである。

突然に変を秘密裏に実行したのであるから、周囲の合意は無い。
母である皇極天皇や兄弟である古人大兄王たちも驚いて逃げ去ったとある位である。
蘇我氏の血筋を持つ兄弟や重臣たちがどのような態度に出るか見極めることが次の策として必要である。
ここが中大兄皇子の賢い所の所以である。
それには、飛鳥の位置を外して突然に別に移して周囲の動きを見る事が先決である。日本書紀にはこのことが詳しく書いてある。重臣すら連れて行かなかったと書かれている。

難波宮から様子を覗うことで、この3つの動きを洞察する事が出来るものである。
つまり、遷都ではない。遷宮である。
朝廷は各地に宮廷を造っているが、この時は難波宮に遷したのである。

これ等の行動を見極めた上で安全と見た場合には又元に戻す事をすればよい筈である。

現に、そうしているのである。
孝徳天皇の真正直な政治と自分の政治手法で対立して、直ぐに再びある日、突然に孝徳天皇をそのままに、又、川原宮に遷宮しているのである。
多分、この時の考え方の違いは、上記の事への対応の違いにあったと見ている。

そのまえには、既に川原宮の造営と後岡本宮の造営に掛かっているのである。
そして、周囲の様子を慎重に見極めてから”よし、これでいける”として造営にかかっているから、計算すると2年程度以内である。

この3つの前提事が判断できれば、政治の実行即ち、改新政治に取り掛かれる。

そして、歴史は実行したのである。
先ず、蘇我氏残党の粛清である。手始めに蘇我石川麻呂である。

孝徳天皇の精神的病死後、再び、重乍(ちょうそ:再び天皇になる)して皇極天皇が斉明天皇
として皇位に着く。
これより改新が前改新レポートに記述した事柄が本格的に開始されるのである。
殆ど天皇家側では外敵などは意識していない。その前の状況の変化の対応であるから、「外敵」意識は殆ど無かつた事を意味する。
むしろ、”そんな事に騙されるか”程度であろう。
今までそんな事が歴史上でないのだから、有ったとしても、次の2つの経験から説明できる。

一つ目は、初代の天皇となつた応仁大王が難波に襲来した時の「融和」の経験がある。
二つ目は、「阿多倍」等の強力な集団の「帰化問題」の経験もある。

「外敵」新説の問題はある程度の判断と理解をしていた筈である。蘇我氏から言われる程度の話ではない。

このような事から「外敵から護ったという説」は納得できない。

それは次の問題である。
蘇我蝦夷と入鹿の生い立ちと資料から見られる性格判断である。

そもそも、蝦夷の父蘇我の馬子は聖徳太子と共に政治を仕切ってきた。
この時代は未だ、東北の方を大和朝廷は征圧して政権下に無かったのである。
この東北地方と蝦夷地方は清和源氏の源の義家のときまでは「アテルイ」らが支配していた一種の独立国であった。

天智天皇の時に、一応は東北部は坂上田村麻呂や阿倍比羅夫の阿多倍の子孫二人にて征夷大将軍として征圧した。
その後、藤原秀郷の一族による鎮守府将軍として藤原秀郷流青木一族が働き沈静化した。そして、最後に、源の義家がアテルイを騙まし討ちして征圧したのである。

この最初の東北部の戦いに蘇我馬子が自ら出陣して戦ったのである。この時、土地の蝦夷族の娘に子供を宿した。そして、連れ帰って養育したのが、蘇我蝦夷である。
名の通り、蝦夷(えみし)である。

この蝦夷は大変体格がよく大男で大暴れする性格で、大変気が荒く攻撃的で乱暴であつたと言われ、馬子は大変手を焼いたとある。

しかし、馬子の子孫は死に、この蝦夷が残って後を継いだとある。
この性格の蝦夷にたいして入鹿は乗馬と弓が美味く豪傑で大胆で、蝦夷の血を引き継いで、矢張り攻撃的性格を示したと記されている。

当時は、朝鮮人と朝鮮系の渡来人は子供に付ける名前は動物の性格を当てて名を付けるという習慣があったのである。これでも朝鮮系渡来人である事が明白である。

例えば、参考に、カタツムリ(でんでんむし)は朝鮮語である。”つむり”は「頭」という意味で、昔は頭の事を「おつむ」と呼んだ。この「つむり」から来ている。この時代に持ち込まれた言葉である。

それ程に後漢の民と合わせて、蘇我氏のように渡来系の朝鮮人も多かった事が覗え、中大兄皇子の周辺には支配されている人も多く居た事を意味するのである。
中大兄皇子の周辺は渡来人で一杯であった事が判り、非常に「警戒心」が強かった事が覗えるのである。

蘇我の蝦夷(えみし)を除き、入鹿はその名の通りイルカである。名は体を現すである。
この蘇我の親子の二人の性格をもってすれば、大化前後の蘇我氏の動きと政策は判るものである。

例えば、次の史実がある。

天皇の宮殿を凌ぐ自分の蘇我氏大邸宅を”上宮門(かみのみかど)と呼ばせていた事。つまり、天皇家気分で呼んでいたのである。そして、入鹿のことを王子(みこ)と呼ばせたとある。皇子を王子としたのである。
百済では皇子を王子と書くのである。
この多くの史実からも蘇我氏の本音のところは読み取れるし、天皇を外敵から護ったとする説には素直に納得できないのである。

もし、そうだとしても、上記の史実はどう説明するのか新説に聞きたい。それ以上の史実を示していないのである。
私には、きつい言い分であるが、歴史に興味の無い人々への煽動的新説にさえ見え、4つのレポートから見ても思えないのである。

NHK大化の新説は史実に基ずく根拠が極めて薄いとさえ考えられ、史実を曲げる疑義を感じる。

人は、その状況に応じて心理反応が働く。その心理の史実となった行動を調べたこの史実を下にしたレポートを読者はどうお考えであろうか。

続く。

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大化改新 新説 NHKスペシャルまとめ3

NHK大化改新の新説の第3番目の説である「蘇我氏館は実は兵舎と武器庫であつた」の問題である。

結論から言うと、大化改新1と大化改新2-1と2-2でもレポートした様にお判りと思うが、「兵舎と武器庫」で妥当なのである。

中国の軍略書には明確にこのことを明記しているのであり、正しいのである。

蘇我氏館の大豪邸は聖徳太子の頃から既にあり、その権威を示す館は2つも要らないし、私ならばむしろ、大御殿の館に武器庫や兵舎は似合わない事から、別の戦略上の土地に造営し、そこに適当な館を作り指揮する環境を設定する。
其れの方が「御殿館と兵舎」の目的を合理的に効率よく使えて当然のことである。

御殿は権威の象徴としての「行政所」として、兵舎武器庫は「軍事所」としての目的を果たす方が臨機応変に対応できる。

現に、現在に置いてまでも行政所と軍事所が一つに成っているところなどない。江戸時代までの城でも城を行政拠点にし周囲に山城や櫓を築き防衛網を設けている。
この軍略書に付いてのこの場合の一角を述べる。

昔から戦いの基本を体系的に分けると、「六稲三略」(6つの戦術と3つの戦略)と言うものがあるが、この基本を実行する前提として「行政」と「防衛」の拠点に分けることを基本としている。

夫々個々に重要に成るのがこの2つを繋ぐ手段がポイントになるが、この「行政」と「防衛」の連絡方法を「烽火」と言う手段で行う事を定義されている。

現に、この大化期の時代には、「烽火」(とぶひ)と言う方式の情報伝達法が確立していた。

つまり、「行政拠点」からの指示を「防衛拠点」に伝える方法として、「煙火」により敵の襲来や命令を伝達する緊急通信施設(烽火所)を作るのが「戦いの構え」の「常道」とされていた。

「行政拠点」と幾つかの「防衛拠点」と幾つかの「烽火諸点」の設備を築き、そして、この3つの点から行動を起こす「六稲三略」を「三相」で「臨機応変」に行うと定義されているのである。

「三相」とは「人、時、場所」を適時適切に判断して指揮する事と説いている。

この時代の戦い方と言うか防衛システムというかは上記のシステムで行われていたが、これは江戸時代までも引き継がれたのである。そして、これ等のことを掌握していた者としてその国の将や軍師(軍略師、軍略所と呼ばれていた)が把握していた。

前記した「烽火」方式は「意思伝達」を充分に伝う行えるだけの「発信方法」と器具が完成していたのである。「のろし」は「煙火」と書く。

多分、NHKの大化改新を解説していた教授がこのことの知識を把握していなかつたのであろう。
考古学と歴史学とは専門域が異なるが、考古学者であつた事によるのではないか。

私は、この都の宮廷が地形の一番下の窪地にあり、臣下の館が前後左右の山手に4つ存在していたのであるので、少なくとも上記の定義から見ると、兵舎や武器庫や櫓や烽火の設備が無い事の方が不思議であった。

そこで未だ、発見されていないと見ると、定義から「兵舎、武器庫群」が周囲のどこかにあると見ていた。
都を作るのに、当時は全てこの軍略書を把握した上で専門的に造営されているはずである。

飛鳥、難波、近江、京の全ての都はこのシステムが働くように造営されている。
江戸時代までの主な城も同様である。
戦い方もその歴史書を見るとこの「六稲三略」に全てかなっているし、勝利した城より負けた方の城がこのシステムが弱い傾向があるのである。

歴史家やマニアは、この飛鳥の都のこれらの点の欠けている事象点を疑問視し、発掘は必ずこの「防衛拠点」の何らかのものが出ると予想されていた。

何故ならば、大化の改新には、この「防衛拠点」を飛鳥から博多までの瀬戸内を通る一線上に設けているし、「烽火」設備が設けられている。

また、前記の大化改新2-1、2-2の所でレポートした様に「防人や軍事設備」が定義通りに築城されている。このことから、この知識があった事が充分に解るのである。

だとすると、必ず、窪地にある宮廷であれば、周囲の山手には必ずこの防衛設備の兵舎や武器庫があるはずであると見ていたのである。(戦略上、窪地にある事が疑問だが)

歴史家までも行かずとも、マニア程度であればこのことは理解していたはずの程度ことである。

発掘の結果は矢張り「兵舎と武器庫程度」と指揮所の様な小さい館のものであった。
これでよいのである。
大して驚く程度の結果でなかったとの感想であった。

ただ、2つ疑問がある。
その一つ目は宮廷が下にある事(本来は上にある筈)
蘇我氏の牛耳る為の策と見られている

その二つ目は「改新」のキーの阿多倍(指揮下にある東漢氏)とのやり取りの事
(東漢氏が中大兄皇子に抵抗しない旨の木管端が見つかっているが、蘇我石川麻呂の様に「説得」の証拠が見つからない事。つまり、この「無抵抗」とした「根拠」が見つからない)

(その三つ目は蘇我氏分家の出方に付いては、分家の長の蘇我石川麻呂が鎌足に説得されていた事が判明していた)
この二つの証が出てくれば完璧である。

実はあとはこの2つの何物かが出るのではとの期待をしていた。
その証拠が何か出るか?未だでない。

しかし、一つは確かに出た。しかし、未だ発掘すれば出て来るのではとの期待がある。

これで、第3番目の説は当然との結論が出る。

続く。

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