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伊勢青木家 家訓10 (完)

No.292] Re: 伊勢青木家 家訓10
投稿者:福管理人 投稿日:2013/04/30(Tue) 11:13:31


伊勢青木氏の家訓10訓

以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。

家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導く為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

>家訓1は「夫婦の戒め」
>家訓2は「親子の戒め」
>家訓3は「行動の戒め」
>家訓4は「性(さが)の戒め」
>家訓5は「対人の戒め」
>家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)
>家訓7は「品格の戒め」
>家訓8は「知識経験の戒め」
>家訓9は「和武の戒め」


>家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

さて、最後の戒めの「家訓10訓」(刹那の戒め)である。

この家訓に付いては、「家訓9」(和武の戒め)で一部触れた。
「家訓9」では、そもそも、”「拘る事」が「煩悩」の始まりだ”と云う事であった。
つまりは、「拘る」=「我 執」である。
「青木氏の古代密教の教え」では ”「煩悩」はあって良い。それに必要以上に縛られて「拘る事」に意味が無い。”と解いている事に成る。
そうすると、「現世の本質」とは、それは「現世」(この世)では、「煩悩」とは、 ”「人」としての「煩悩から起る喜怒哀楽」と云う事に成る”と説いた。

>「煩悩」=「現世の喜怒哀楽」
これを突き詰めれば、次ぎの様に成る。
「人」がこの「現世」(うつせ)から「彼世」(かのせ)に移る時に「現世」に遺されたものは、その個人としての「喜怒哀楽」の「過去の思い出」以外には無く、「個人の肉体」は焼却される事で「喜怒哀楽の過去の思い出」(煩悩の発露)は ”何も無く成る”を意味する。
つまり、その「個人の煩悩」は、”現世では無く成る事”を意味する。
故に、”「現世」から「彼世」に移る事は、「空」による移動にしか無い”とも受け取れる。
只、然し、此処で「万能の神」は、その「現世での証し」として、「人」つまり「子孫」を分身として遺す事を定めて、”現世と彼世の断絶”を ”[(色と空)即ち(白と黒)の摂理]”により無くした事に成る。そして、「分身の煩悩」が新たに生まれ遺される事にした事に成る。
これが ”「現世」から「彼世」の「移動」は、「断絶」では無く「継続」である”とした「青木氏の古代密教の教義」であった。

「阿弥陀仏の説」(青木氏の密教仏説)
「仏」の上位にある「神」は、”この「現世-彼世」(色と空 白と黒)には「繋がり」として絶える事の無い「分身」を置いた事に成る” と解いて、全体の論理性を仏説として用いた事に成る。
そして、この仏説の「分身の部分」は、「人の変化(へんげ)」の「仏」では無く、それを「仏」が云うのでは無く、上位の「神の仕儀」と説いた。
確かに、この「分身」無くして「現世と彼世」は断絶して「仏説の論理性」が崩れる。
だから、”「我が身」の「次ぎの分身」が「現世」に遺すのであるのだから、其処には「前の煩悩(喜怒哀楽)」は消え失せて、「分身の新しい煩悩の喜怒哀楽」が生まれる。要は何も変わっていないのだ。だから、事を事更に拘るな” と説いている事に成る。
結局は、「神」が云うのは、”拘るな 分身に任せよ”と成るのであろう。
これがまさしく「浄土宗の阿弥陀仏」を信心する「青木氏の古代密教の仏説」と成るであろう。
確かに、この世に於いて、この説が納得出来る事がある。(家訓10の意)

それは、”孫が生まれた時のあの不思議な喜び” は、”子供が生まれた時の喜び”に対して比べものに成らない様な「異質な喜び、嬉しさ、安堵感」に似たものが込み上げて来るが、この上記した ”子孫分身を遺した”とする「本能的な動物の安堵感」の感動であろう。
つまり、これは「神」が動物に組み込んだ本能 、”拘るな 分身に任せよ”からの感動であろう。
その代わりに「神」は ”現世の最大の喜び”即ち、この”「安堵感」”を与えたのであろう。
この「安堵感」は、その個人の経験した「現世の喜怒哀楽」とは異質の比べ物に成らない「喜び」として与えたと考えられる。その「喜び」には「対価の背景」は無い。ただ”子孫を遺した”とする”対価の無い””背景の無い”清らかな「喜び」を与えたのであろう。

故に、現世の「人生の最終目的」は ”分身を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に無い。”として考え、”「喜怒哀楽」に無い”とするならば、そもそも、”「喜怒哀楽」から生まれる「煩悩」には必要以上に拘るな”と成る。
況や、”拘るな 先ず分身を遺し、分身に任せよ”とする説に成る。
故に、”分身を遺す事で全ては解決する”と解いている事に成る。
この「本能に組み込まれた達成感(安堵感)」が孫を見て噴出すのである。これが「異質な喜び、嬉しさ、安堵感」と成って込み上げて来るのである。
結局、これを突き詰めれば、問題は、人生に於いて、「人生観」を ”分身を遺す事に主義を置くか、「喜怒哀楽」に主義を置くか”の差の問題である事に成る。
それに依って、その人の「価値観」は変わるし、「人生観」も変わる。どちらを選ぶかに関わる。
然し、「青木氏の古代密教派の教え」は、 ”分身を遺す事に主義を置く”と説いている。

人生に於いて、「分身を遺す事」><「喜怒哀楽に置く」の関係式が成立つが、ここで、「古代密教」の仏教は「刹那主義」として、「分身を遺す事」<「喜怒哀楽に置く」の関係式を戒めている。
然し、「分身を遺す事」に全てを傾ける事は不可能であり、それはまさしく「拘り」である。
”「拘るな」”としている「古代密教の青木氏の仏説」である限り、必要以上に ”全てを傾ける事”は正しく無い事を意味する。
要するに、現世に生きている限りは、人は「喜怒哀楽」に左右される。
然し、可と云って「古代密教」では、”「分身を遺す事」<「喜怒哀楽に置く」であっては成らない” とし、”「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であるべきだ”と説いている事に成る。
>の不等号の持つ意味がこれを示唆している。

「刹那」の語意の通り、”今”に重点を置いた生き方は、「刹那主義」である。
”「今」を楽しむ そして、その「今」の連続を重ねる。そうすれば、最終は「安楽」に成るだろう” とする積み立ての「加算論」である。この「加算論」=「刹那主義」である事に成る。
”「人」はこの「刹那」に陥りやす「動物の思考原理」を持っている事が判るが、これでは、”「煩悩の連鎖の道」に陥る” としているのである。
つまり、「刹那」では、間違い無く「今」であるのだから「喜怒哀楽」に翻弄される。
翻弄されるから其処から逃れようとして「煩悩の芽」が吹き出す。そして、思うように成らない現世に於いて「煩悩の連鎖の輪廻」が起る事に成る。
故に、この「古代密教」では ”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”と説いているのだ。

(参考 筆者は、この「密教の教え 先祖の教え」にも充分に納得し、人生をこの論理で生きて来た。恐らくは1400年にも成る「悠久の歴史」を持つ「青木氏の累代の先祖」もこの教義に従ったからこそ、現在までに子孫を確実に遺し得たと観られる。極言すればこの「一点思考」に集約されると考えている。「喜怒哀楽の戒め」を物語る事として「伊勢青木氏の口伝」には「享楽の精神」と云う言葉で口癖の様に使われていたが、これも「密教の教え」として引き継がれて来たものであろう。全て口伝類はこの論理論調から生まれていると考えている。)

「一点思考の本論」(「3つの背景」)
ではどうすれば良いのかと成る。俗に云えば、”その割合はどの程度だ”と成るだろう。
そもそも、”「割合」は「拘りの初期発露」だから”、良くないとして、其処は、”人それぞれである。「人生の経験」で会得せよ。” とする「古代密教の仏説」(青木氏の教義 浄土宗系古代密教 家訓)ではしている。
この事は「密教の説法」である事の証しとして、「家訓8」でも戒めている。

以上が「家訓9」で先行して関連して論じ、ここにそれを改めて重複させてたが、「家訓10」を続けて論じる。

其処で、本論ではこれを更に掘り下げて論じる。
「青木氏の守護神(神明社)」(1-22段)で「青木氏の生き様」がどの様な考え方で創造されたかを網羅する事が出来た。そうしてもう一つの「生き様の根幹」と成ったのがこの「青木氏の家訓10訓」(1-10)であった事に成る。
真に、この「神仏の二つの考え方」が習合して「青木氏」即ち「青木氏の思考原理」を創り出したのである。

そもそも、この「家訓10」の ”子孫を遺す事に一義あり、喜怒哀楽にあらず”の「子孫を遺す事」には、”どの様な背景”が青木氏にあったのであろうか。それを先ず論じる。
それには次ぎの3つが考えられる。

背景1 人間を含む一切の生物の最大の本能である「子孫」を遺す事から起因している。
背景2 上記した「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」の「特異な立場」が起因している。
背景3 「神仏習合の思考原理」から起因している。

この「3つの背景」がこの「家訓10」を形成したと考えられるが、人間も自然の一物である事は間違い無いが、だとしたら、この事に依って判りきっている事であるのだから、何も家訓とする必要はない筈である。
つまり、”「上記1の起因の条理」に主体を置いていたのか”と云う疑問が残るが、そうでは無い事は直ぐに判る。

>「特異な立場」
では、「上記2の起因の条理」に付いて、この”「特異な立場」が「子孫云々」と成るのか”と云う事に成る。
この”青木氏に課せられた「特異な立場」”は、人間社会を構成する全て「事の起源(事の象徴)」である事を意味する。

特記 「事の起源(事の象徴)」
「青木氏の守護神」や「家訓10訓」で論じた「武の象徴的立場」を此処では「事の起源(事の象徴)」と表現する。
同じ「賜姓族・朝臣族・臣下族」であり、「武の象徴」としての11累代から構成される「源氏」とは、「3つの発祥源」と「国策氏」と「融合氏」である「3つの立場」の存在が、「同じ賜姓族青木氏」とは異なる。
依って、「事の起源(事の象徴)」と表現しているのであって、この源氏等と異なるこの「3つの立場」(特異な立場)の違いは、上記する思考原理を大きく変えている事と成っている。
(源氏とは根本的な思考原理は異なる事に成る)
もとより、「官位官職」等の差もあるが、「2つの血縁青木氏」と「源氏」とには、”「青木氏」>「源氏」の関係式”が氏家制度の中では「慣習」としてあった。
この「慣習」は、原則、「明治3年」まで維持されいた事が「伊勢青木氏の資料」から判断出来る。
因みに例として、既に論じた事ではあるが、理解を深めてもらう為に改めて記述すると、当時の最大権力者で為政者の徳川幕府・紀州藩初代から大正14年まで、その「上位の扱い」を受けていた事が「伊勢青木氏の記録と口伝類等で判っている。
(「藩主より上座の礼」等や、「藩主からの書状」や、「十二人扶持米の礼扶持給」等)
この事からも「事の起源・事の象徴」として区別して、本論をより正しく論じる必要がある為に敢えてこの語句を使用している。
「天皇家の国家の象徴」に対して大変非礼でおこがましいが、「武の象徴」であった過去の「特異な立場」をより本訓の為に”「事の起源(事の象徴)」”の語句を用いて以下も論じる。

「青木氏の宿命」
この「事の起源(事の象徴)」の「青木氏の義務」を全うするには、論理的に付き詰めれば ”「子孫を遺す事」”が「最大の務め」、又は「目標」と成るだろう。
何故ならば、この「務め、目標」が仮に叶わなければ、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」の「特異な立場」は、「事物の起源と基点」が無く成る事に成るのであるから、必然的に「事の起源」なるものが霧消する。
「現世の事象」のみならず、物理で云えば「核」に相当するもので「自然の摂理」に於いても例外は無く、この全てこの条理が存在する。
依って、もともと霧消するものを「事の起源(事の象徴)」とはしない事に成る。
「事の起源(事の象徴)」とする以上は、永代に「事の起源(事の象徴)」であり続けねば意味を成さない。「3つの特異な立場」に依って発祥時より「青木氏」はこの宿命を負っているのである。

何故ならば、「家訓9」で論じた様に、そもそも「屯」を前提とした「人間社会」を構成する限りに於いて「起源と基点」は「絶対条件」である。(屯:たむろ)
「屯」もそもそも「基点」に類する。「動物」のみならず「一切の生物」はこの「自然の条理」に従っている例外の無い条理と成る。
因って、当然に、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」の「特異な立場」は、この「屯」に類する一つであるのだから、その「屯」の「基点」と成っている「氏」が、途中で霧消する事はあり得ない理である。
この「屯の原理」が働くこの現世の社会では、如何成る事が起ころうと「事の起源と基点」の役目を課せられている以上は、この具体的な務めとして「子孫を遺す事」は第1義と成るのである。
大化期から平安中期までは「青木氏の霧消」は、強いては最終は「天皇家の霧消」に結び付くと考えられていたのではないか。
その証拠に平安中期の「青木氏の衰退」から嵯峨期の「源氏の出現」は、この「事の起源(事の象徴)」の復元であったし、南北朝前には形骸化したけれど源氏は11代も発祥し続いた。
そして、「源氏形骸化」の後に「円融天皇」による「青木氏補完策」の「特別賜姓族の誕生」と成るのである。
あくまでも歴史は、「屯の原理」を護る為に ”「事の起源(事の象徴)」の復元”を図って絶対条件のこの条理を導いているのである。

故に、「家訓9」でも論じた様に、「子孫を遺す事」は絶対的な条理の「青木氏の宿命」であるのだ。
即ち、”青木氏の意思如何に依らない宿命”であるのだ。
この様に「青木氏の宿命」の「子孫を遺す事」は、他氏の「氏」を継承する目的の単純な「子孫を遺す事」とは全く意味が違うのである。
”「青木氏の子孫を遺す事」”は、「屯」を基盤とする人間社会を構成する「象徴的な目的」を持っているのである。
この条理の働く「現世の生物」には、「屯性に強弱」はあるが、取分け、人間社会の中のこの「7つの融合単一民族」の日本の中では、「融合」に依って形成されている以上は「屯性」は極めて強い事が判る。
況や、そこで、「融合」=「屯性」の完全な数式論が生まれる。
因って、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」の「特異な立場」の「青木氏の宿命」の「子孫を遺す事」の意味は格別なものを持っているのだ。
決して、先ずはこれで「上記1の起因の条理」だけではない事が判る。
とすると、「上記2の起因の条理」の追求は、結果として、「上記3の起因」が「家訓9」で論じた様に「屯性」を極める為、且つ、「上記3の起因」が「屯性」を高める為に発露されたものであって、これを補完している事に筋道として成るのである。

”3 「神仏習合の思考原理」から起因している。”とするこの「上記3の起因」はまさしく「准条理」と云えるであろう。
何故ならば、「家訓9」で論じた様に、「神仏習合」の結果に依って「青木氏の密教の考え方」が構成されているのであるから、又、その考え方が「家訓10」の ”子孫を遺す事一義あり”を側面から補足補完しているとすると、「家訓10」を条理とすると「准条理」と位置付けられる。
故に、「家訓9」では「和武の戒め」として、「3つの発祥源」の「武の象徴」でありながらも「武の精神」を採れない立場にあり、「禁じ手の商い」による「和の精神」を構築せざるを得なかったのである。
この「神仏習合の考え方」が「准条理」の位置付けと成る以上は、「武の精神」ではあり得ない事が理解できる。そこで、「武」に付いて先ず論じる。

>「武の精神」
そもそも「武の精神」は、「武」である限りその立場を保てば、「武」を以って事の解決に当る事に成る。
そうすれば「戦い」を否定出来ず、より「子孫存続の危険性」は高まり、”子孫を遺す事の一義”を完全に全うする事の可能性が低く成るからである。
如何なる事があっても「屯」を構成する社会の「特異な立場」にある限りは、「子孫を遺す事の一義」は絶対なのである。
可と云って、「和の精神」だけではこの「絶対の子孫を遺す事の一義」は保てない。
「和」であるからと云って、”他から「武」で攻めらない”とする保証は全く無く、自らが「武」を以って他を攻める事は勿論無いにしても、この保証を自らが「和」で担保しなくては成らないのである。
「武の象徴」でありながら「和」で以って担保しなければ成らない矛盾を孕んでいるのである。

つまり、「特異な立場」とは単純に「特異」とするものでは無く、「矛盾」を持った「究極の立場」にある「特異な立場」なのである。
これは、氏家制度の中で「融合氏」が多く居れども、又”日本広し”と云えども、唯一「青木氏」にのみ課せられた一般に理解され難い「究極の立場」と云える。
然し、この「担保」の為にあからさまに「武の手段」を以ってしては出来ず、「抑止力」と云う手段を酷使しなければ成らないのである。(抑止力付いては{青木氏の守護神]で論じた)
例え、この「担保」の為に「武の象徴」の「親の象徴」である「天皇家」から「不入不倫の権」を与えられている「唯一の氏」であるとしても、あくまでもそれはただの「象徴の権威」であって、他氏がそれの「権威」を認めなければ何の意味も持たないものである。
この場合には、「不入不倫の権」は、他氏の青木氏に対する「信頼と尊厳」が裏打ちされている事が前提と成る。
然し、そもそも、その「信頼と尊厳」は、通常は決して「武」に因って裏打ちされるものでは無く、「和」に依って得られるものである。
然し、その「和」も「商い」だけで得られると云う決して生易しい前提では無く、むしろ、「青木氏の特異な立場」に執っては「商い」は「禁じ手」でもあるのだ。
「武」であって「和」の「道理の矛盾」と、「和」であって「禁じ手」とするこれも、あからさまに究極の「道理の矛盾」である。

では、この2つの”「究極の道理の矛盾」をどのようにして解決するか”と云う難題が横たわる。
これを解決するには、”他氏からの「信頼と尊厳」はどのようにして獲得されるのであろうか”と成る。
それは「上記3の起因」、即ち、「神仏習合の理念・考え方」と「その立場と生き様」に依って得られるものであった。決して、血なまぐさい「武に依る生き様」ではなかったのである。
故に、「上記2の起因の条理」の追求には、この「上記3の起因」の「准条理」が必要条件であったのだ。

(注意 「武の象徴で和」の「生き様」は、次ぎの投稿予定の「伝統品シリーズ」でこの辺を明確にする)

それは次ぎの数式論で表される。
>「1の起因」+[「2の起因」+「3の起因」(准条理)]=「信頼と尊厳」=「和の条理」
>「和の条理」=「禁じ手」=「絶対的な順手」←「道理の矛盾」

>「和の手段」
そして、「和」の禁じ手の「商い」はこの「准条理」を「下支えする手段」であって、直接的な「和の手段」では無いのである。
「禁じ手」でありながらも、これ以外に上記する「青木氏の和」(「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」)を達成させられる「合理的な手段」は無く、依って「絶対的な順手」でもあったのである。
「武の象徴」でありながらも、「和の精神と立場と生き様」を絶対的に守らなければ成らない事の「道理の矛盾」と同じく、「和の商いも禁じ手」でありながらも、「子孫を遺す事の一義」、即ち、”「信頼と尊厳」を守る為には、「絶対的な順手」でもある”と云うこれまた「道理の矛盾」を孕んでいたのである。
(3つの「道理の矛盾」と成る)
「家訓添書」には、この「家訓10」(刹那の戒め)に対しては、”「道理の矛盾」”とは明確に説明してはいないが、”この「現世の道理」には、何も全ての「道理」は全く「矛盾」を孕んでいない”とする「完全無欠論」では無く、”この「矛盾する道理」も存在するのだ” とする説を「青木氏の古代密教」として説いている様に読み取れる。
これこそが”「拘るな」”の教えであろう。

>「道理の矛盾」=「子孫を遺す事の一義」→「青木氏の古代密教の教示」←「拘るな」
>「道理の矛盾」=「武の象徴」><「和の精神」
>「道理の矛盾」→「禁じ手」=「和の商い」+「信頼と尊厳」=「絶対的な順手」

「道理の矛盾」(究極の立場)
「青木氏に課せられた究極の特異な立場」の様な事がこの「現世」には時には存在する。
その時、「完全無欠だけの考え方」に拘泥すれば事は成し得ない事が起る。
そのままの「完全無欠の考え方」では「喜怒哀楽」に左右され、苛まれて遂には「煩悩」は発露する。
その「煩悩」を排除するには「智慧」である。その「智慧」は ”「拘り」”からはその「善なる智慧」は生まれない。
そこにこそ「無意識」の中の「善なる智慧」から生まれた”許された「道理の矛盾」”が存在し得る。
”この究極の「道理の矛盾」を悟れ。!” と「家訓10の解決策」を読み取るには、「家訓9の教え」を以って解釈すればでこの様に成るだろう。
「先祖の意思と教え」とする「家訓10訓の添書」はこの事を暗示させているのであろう。
この事そのものを添書で直に教示してしまえば、”それは文書から得た「単なる知識」に終り生きない。
つまり、「無意識の脳」で思考して得た ”「拘り」のない「悟り」” は「経験」を得て「知識」と成り得て生きる。”としているのであろう。真に、この事は「家訓8」に教示している事である。
況や、”善なる無意識から発露した「智慧」”は、「知識」+「経験」=「智慧」と成り得る。
故に、事細かに何も添書で述べる必要は無いのである。
先祖が教示する「神仏習合の考え方」から得た「家訓10訓」(1-10)を充分に理解し認識して後に ”拘りの無い「智慧」”で発露し、深層思考すれば、この「現世の諸事」は全てを解決し得る事を教示している事になるのである。(況や、「家訓9」の「ミトコンドリヤの無意識の智慧」である)

筆者は、これを「道理の矛盾」と呼んでいて、「家訓9」で論じた様に、これが「般若心経」の「色不異空 空不異色」「色即是空 空即是色」の >「拘るなの心経」=「道理の矛盾」 と信じている。
この「道理の矛盾」こそが、「累代の先祖」が伝える「子孫を遺す事」(家訓10)、即ち「生き残る為の心経」であると観ている。

>「道理の矛盾」=「古代密教の教示」
>「道理の矛盾」=「子孫存続策」=「現世の心経」(拘るなの心経)=「青木氏の秘伝」=「家訓」

この「家訓10」に示す「道理の矛盾」で、「家訓1」から「家訓9」を考え直して観ると「真の意」(深意)を読み取る事が出来る。
これこそが「悠久の伝統」のある「古代密教」の教えを組み込んだ上記の数式論に成るだろう。
「家訓9」に続けてこの「家訓10」を最終に配置した深意がより判る。

>「教示の弱点」
では、何故に「道理の矛盾」としているかは、この「家訓10(刹那の戒め)」の「刹那の戒め」とした事で判る。
この現世に於いてこの「道理の矛盾」を唯一にして破壊するものが存在する。
それは”「喜怒哀楽」に拘る事”である。 即ち、「心理の弱点」である。
「道理の矛盾」は、究極の位置にあるが為に、この「現世の条理」として相対する「心理の弱点」には脆弱なのであろう。

>「道理の矛盾」←「和の達成」→「心理の弱点」

「家訓9」でも説いたが、「刹那」即ち、「現世の喜怒哀楽」に拘ると、”「煩悩」に苛まれる”事が起る。 そして、”「煩悩」に苛まれる”と「青木氏の特異な立場」を全うする事の確率を低下させ、強いては「子孫を遺す事」に支障を来たす事に成る。
従って、「古代密教の先祖の教え」は、”この脆弱さを克服させる為に「刹那の戒め」とした”と考えられる。
だが、然し、「現世の人間社会」に於いて完全に「喜怒哀楽」から離脱する事は不可能であり、”「喜怒哀楽」から離脱する事”に拘泥する事は、それこそが「密教の仏説」の「拘り」に至る。

そこで、ではどうすれば良いのかと云う事に成る。
「家訓9」と「本論の序」で記述した ”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”と説いている通りの「心経」を持つ事にあるだろう。
この「刹那の戒め」とは、この事を意味している。
つまり、要は ”「刹那」に捉われては成らない”としているのだ。
これは普通に考えれば、 ”刹那に捉われては成らない”とするのであれば比較的簡単である。
判りやすく云えば、次ぎの2つの「思考の視点」の通りであろう。

視点 A 「今」だけに「思考の視点」を置いて生きる姿勢を採るのか、
視点 B 「先」を強く観て「思考の視点」を置いて生きる姿勢を採るのか、
以上のA-Bの「2つの差」である。

一般的に云えば、この程度の事であれば、ある程度の「長としての資質」を持っていて、それを磨く事が出来ればその度量は獲得できるだろう。
但し、その資質も「論理主観の範囲」に於いて成し得る。
然れども、この「資質」とする前提は、この「長」として事を果せる「論理主観の持ち主」であるかどうかに関わるのだろう。
然し、多くの「人様」で構成する「組織」(氏)には、この「論理主観の強い持ち主」では無くては弱い論理主観者が多い「現世の人様」の中では、「感情主観論」が横行するはこの世の常である、
個々に異なる「感情主観論」を「組織」(氏)として一つの考え方に取り纏める事は、「至難の業」であり、先ずは不可能である。
ところが、そもそも「感情主観」では「喜怒哀楽」に左右されやすい傾向があり、「喜怒哀楽」に傾けば必然的に「刹那主義」に成り安い。
依って、多くの「人様」で構成される陣容の「組織」(氏)は「刹那主義」と成る。
この「刹那主義の組織」では、「3つの道理の矛盾」を持つ「特異な立場」の「青木氏の組織・氏」を保つ事は不可能である。従って、「論理思考の組織」が必要と成る。
この「刹那主義の組織」を「論理思考の組織」に切り替えて維持するには、そして、その「組織」(氏)を導く「長」には、「相当な資質」を持ち得ていなくては成らない理屈と成る。
当然に、”相当な理路整然として整理された「論理主観」とその「説得力」” を持ち得ていなくては成らない事に成る。

>「論理的主観的な資質」
この様にそもそも単に組織に対応するにも「長」には誰でもが持ち得ていない相当な「論理的主観的な資質」を要求される。
況して、何度も繰り返すが上記する「特異な立場」にある「青木氏」では尚更の事であり、相当な「論理主観の資質」を有する「長」で無くては務まらない事に成るのである。
因って、故に、「長の資質」は少なくとも”「感情主観」で起る「喜怒哀楽」”に左右される「刹那主義」の者では駄目なのである。
言わずもがな、これは「家訓4」(性の定)で論じている「訓戒」でもある。
いずれにしても”「長]は前者Aでは駄目だ”と云う事である。
もし、これだと結局のところ行き着く所は、”「子孫を遺す事」に行き着けない”という事に成ると説いている。
要するに、「子孫を遺す事」には極めて確実性が低下する事に成り、それを戒めている事になろう。
つまり、”「子孫を遺す事」は、簡単である様に観えて決してそう簡単ではない” と云いたいのであろう。
その前提は、上記する「特異な立場」の組織であるからであって、「氏家制度」の中で「古代密教」に立地した「特異な立場を持つ組織」を抱えていたからであろう。
この事から、世間が普通に考える程以上に、「青木氏」の者達は、「子孫を遺す事」と云う事が如何に難しい事であるかを知っていた。
「累代先祖の経験」(a)と「神仏習合からの教え」(b)を「家訓」とし、それを事前に認識して得た知識」(c)と、其処から得られた「子孫の自らの経験」(d)も通して認識していた事が判る。
決して、家訓にある以上は「青木氏の者達」は、上記した”「刹那」に捉われては成らないとするのであれば比較的簡単”と云う様には考えていなかった事に成る。
普通の「平安期までに認証された氏」に比べて、「青木氏」は ”大変で異質で特異な立場”であって、「青木氏の者達」に課せられた負担は如何に大きく難しかった事が判る。

勿論、「主導する者達」だけでは無く「一族郎党」までがこの事を認識し、「一族郎党」が露頭に迷う事の無い様に、故に「長の資質」に付いても上記する「家訓の深意」に示す様な「長の高い能力」を要求していたと考えられる。
そして、自らもその「家訓10訓」を理解し率先して実践したと考えられる。
況や、「訓」に「戒」を添えて「長の心得」も併記したと観られる。
この事に依って「長」と「一族郎党」が「同じ訓戒」の中で生きて行く道筋を明示させたのであろう。
ここが「青木氏の特長」(「長と一族郎党の習合」)と云える処だ。
普通の「氏」であるのならその「長」は、「特別な立場」にあるから「長の心得」の様なものを作るであろう。然し、この「特異な立場」で「特別な立場」の「長」が、この「家訓の書式」にも「青木氏特有の繊細な配慮」が成されていたのである。
真にこれも「青木氏の神仏習合」と同じく「長と一族郎党の習合」であろう。
「青木氏」を語る時、諸事事如く見事にこの論調である。感嘆する程に見事である。
況や、「神仏習合」から発した「古代密教の教示」を「家訓10訓」に収め、其処から発する思考原理である事に成る。
これは「青木氏一族郎党」は如何に結束していたかを物語るものであるし、他氏では決して成し得ない仕儀であろう。
何故ならば、他氏には比べものにならない程に、青木氏には「和」に基づく「特異な立場」の「悠久の歴史」を持っているからである。

>「精神的負担」
然し、この状態を維持する事は容易い事ではない。そこには、逆に他氏には理解出来ない何かが伸し掛かっていた筈である。
では、”どの様に考えていたのか、又、何が負担として感じていたのか”と云う疑問が生まれる。
それは、”「武の象徴」でありながら「道理の矛盾」で生きなければ成らない「和」の「商い」で、生きる事が大きな「精神的な負担」と成っていたのでは”と推測している。
そもそも、それは「禁じ手の商い」の「禁じ手」とする「社会の慣習」にあったと観ていて、その「禁じ手」とする「慣習」の出所は、次ぎの2つの場合が考えられる。

出所1 「氏や民からの発言」なのか
出所2 「公家衆などからの発言」なのか
と云う事であろう。

この2つ場合に依っては ”「禁じ手」から来る青木氏の「精神的な負担」”は変わる。
「禁じ手の商い」を採用している「青木氏の行動如何」を批判するのは、後者の「公家衆などからの非難発言」であった筈で、「青木氏」のちょっとした行動や組織運営や発言がそれを捉えて「非難発言の根拠」に成り、それが当時の社会では ”子孫存続に大きく左右していた”と考えられる。
故に、「家訓10訓」で上記する「特異な立場」に支障を来たさない様に一族を「古代密教の教え」の方に導き管理していたのであって、”それを主導する「長」は「普通の資質」の者では成立たなかった”と考えられるのです。
そうなれば「長の資質」があったとしても「青木氏の特異な立場の国策」を果す実力と、それ以外に「相当な精神力」が必要とする事に成る筈で、「公家衆」を相手にする以上は、 「繊細で戦略的な先見眼」 をも持ち合わせていなければ成らない事に成る。
その要求されるこの「精神力」は、「公家衆」を威圧する位の>「度量と人格」 をも持ち合わせていなければ成らない事に成る。
そうで無ければ彼の有名を馳せた「公家衆の知力」に左右されてしまう事に成り、「絶対的子孫存続」は当然に成し得ない事に成る。これは組織云々の以前の問題であろう。
”「公家衆」を威圧する位の「度量と人格」”とも成れば、先ず若い者では経験が左右する事である為に無理である。
つまり、「公家衆のあらゆる癖」を見抜き把握しておかねば成らない事に成るからだ。
そして、その読み取った癖から先手を打って「緻密で戦略的な先見眼」で読み取った策を抗する事で機先を制する事が出来る。
この「繰り返しの経験」に依って「公家衆」を威圧する事が出来る様に成り、恐れさせて「青木氏」に対するが姿勢が変わる事に成る。
それが可能に成らしめる「長」に対して、その時”「度量と人格」は備わった”と云われる事に成る。
これは青木氏の特有の「陰の力」、即ち、「抑止力」が必要である。
これも「武の力」に依らずに ”相手を警戒させ威圧する強い印象力” 即ち、「抑止力」である。
当然に、「シンジケート」に依る「抑止力」も加わって「公家衆」に威圧を与えて、「子孫存続」に不必要な負担を排除するのである。
これ等の印象が「青木氏の時の長」に加わり、更に、「緻密で戦略的な先見眼」を持つ「繊細な長」に、この「2つの抑止力」に依って「造り上げられた人物像」が加わり、結果として「他者」に「警戒心」を連想させて「別の人物像」が造り上げられるのである。
「公家衆」等には、これに依って ”優れた「大者」”と感じ取らせるのである。
これが「青木氏」に許された>「和の戦略」 なのである。

>「特記 家訓の経緯」
経緯A
上記した様な背景を持つこの「青木氏の家訓」には実はすごい歴史を持っている事が判る。
そこで、敢えて此処で「青木氏の家訓の経緯」を述べて理解を更に深める。
「青木氏」の始祖の「施基皇子」は、「天智天皇」(父)と「天武天皇」(伯父)と「持統天皇」(妹)のこの「前3人の天皇」の歴史上希に観る「優秀な宰相」を務めた「淨大一位の最高軍略の司」であった。
(「淨大一位」は天皇に継ぐ位である。)
「前3人の天皇」には極めて信任厚く時の「皇太子」より立場、身分、官職は上であった人物で、故に、大化期の「始祖の様な人物像」を「伝統的な資質」として求めている事がこの経緯から判る。
ところで、この家訓(原型)の「長像」を作ったのは、「始祖の施基皇子」自らか、或いは、その後の数代後までの末裔の「長」が「施基皇子」を「模範人物」として「長の姿」をここに求めたのでは無いかと考えられる。
それには次ぎに述べるある程度の根拠がある。
「始祖施基皇子」の子の「光仁天皇」や孫の「桓武天皇」や曾孫の「嵯峨天皇」のこの「後3人の天皇」は、この「繊細な人物」であった事が歴史史実として判っていて、3人に夫々その様な「繊細な性格」での問題処理の仕方や事件を起こしている史実がある。
(遺された歌詞からも「繊細な性格」であった事が評価されている)
此処では詳しくは述べないが「豪の者」では無かった事がはっきりと判る。
(この時代の政局は豪の者では八方に敵を作って務まらなかった筈)
歴史学会では「平安初期の研究」が最近富みに進みその全容が解明されて来た。
そこでこの3人に付いて少し検証してみるが明らかに「繊細な資質」の持ち主であった事が判る。
事程左様に、この同じ血筋を持つ「青木氏」にもこの血筋が流れていた事が予想が付く。
そして、”この様な人物像を模範にした” と考えられるが、其処で、「青木氏とその家訓」を知る上で次ぎの様な歴史上の史実を最低は知って置く必要がある。

経緯B
先ず「光仁天皇」(709-782)は,「施基皇子の嫡子」(8歳で父と死別)として生まれていながら「皇位継承外」(朝臣族で賜姓族で臣下族)でありながら、「色々な背景」から天皇に推された人物(61歳即位)である。その天皇に成るまでの間の「前53年間」と、天皇に成った「後11年間」は実に波乱に満ちた人生経緯を持っている事が判る。
先ず伊勢に居た「前53年間」に、伊勢北部の隣人伊賀人の「高野新笠」を夫人としている。
その夫人は、「薩摩大隈」に定住していた住人の「後漢阿多倍王」が、その功績により朝廷より伊勢北部を更に半国割譲を受けて移り住んだが、その「帰化人の孫娘」である。
恐らくは、「白壁王」として伊勢にいた時に「隣人の阿多倍王の孫娘」と知り合っていたのではないかと予想できる。
この「伊勢青木氏の嫡子」であって8歳の時に施基皇子の跡目を継いだ「白壁王」は、「賜姓族」で「朝臣族」の「臣下族」の王位外であるが、「4人の伊勢青木氏嗣子」の中で特別に「施基皇子」(永代品位の資格保持)の嫡子として継承した為に、この継承者「白壁王」は、「春日王」と共に2人は王位に任じられた。

(参考 4世族までが王位に任じられるが、この5世族の「春日王」は「栗隈王」と共に九州に赴任定住した。後に両王一族は同族血縁している。
「施基皇子」には「四左京人」と呼ばれる4人の娘が居た。この4娘は歌に優れていた。「万葉集」にも歌が選句されている有名な歌人達である。)

後の兄弟2人は兄が「光仁天皇」に成るに従って、例外的に「特別な新王」(770年)に任じられた。

(「親王」と期されている書籍もあるが、正しくは「新王」である。この年に亡父「施基皇子」に「御春日宮天皇・田原天皇」の称号を送る。この天皇称号授受には意味があった。下記)

この「光仁天皇(白壁王)」には、正妻の「聖武天皇」の「井上内親王」との間に出来た「他戸親王」が居た。
ところが、この「井上内親王」と「他戸親王」が「ただ一人の遺子で女系皇族血縁者」であった事からそれを根拠に特別に「光仁天皇」に成り得た人物である。
(「下記に経緯を詳細に論じる。)
その経歴は極めて波乱万丈に満ちた生き方をした。
”61歳で即位した事”や”愚者を装った事”等から成りたくて成った天皇では無く、政変続きで殆どの親王や皇位後継者に類する者が粛清されると云う「恐怖政治」の状況の中で、酒をのみ愚者を装って粛清の渦中から逃げようとした人物であった。歴史上有名な事件であった。
この為に、在位中に正妻の「井上内親王」やその子「他戸親王」の2人が暗殺されるなど悲惨な在位であった。
この様に、明らかに”愚者を装うほどの繊細な人物” で攻撃的な性格の持ち主では無かった事が判っている。

経緯C
この時代は激しい政変劇を繰り返していた時代環境であったので、周囲をよく見渡して繊細にして戦略的に生きなければ成らない社会環境であった。

(「近江令」や「善事撰集」の例に観る様に、「素養・修養・人格・度量の低下」の社会環境がこの時代にも解決されずにこれが原因となっていた証拠である。下記に論じる。)

この様な環境の中での僅かに遺された歌から観る人物像も繊細である。
この様な乱れた政界の中で、10年も上手く戦略的に立ち回った「繊細な人物」であった事が記録として遺されているが、「繊細な人物」、且つ、「長としての資質」を有する人物で無くてはこの在位期間を保てなかった筈である。
歴史的には、”始祖の「施基皇子」に似ての資質を持つ人物であった” と評されている。
その子の「桓武天皇」の「平安遷都の前後の波乱に満ちた行動」や「律令国家の完成と公布の時の態度」からその「繊細な性格的な事」が歴史学的に「平安初期の研究」で解明されている。
「桓武天皇」は有名な天皇であった事からその人物を語る史実や歌が多く遺されている。
「青木氏の守護神(神明社)」のところで論じたが、実家先の青木氏を排斥する等の繊細で辛い事を敢えてしてこれに堪えてする事をしながらも、自らが「青木氏の職務の神明社の建設」を代行して神明社20社も建設した繊細さが覗える。
「嵯峨天皇」も「平安初期の父の施政」に対して異論を持ち、父兄に対しても「身内の戦い」をしてでも「繊細な感覚」で「施政や社会の有り様」を見抜いた意見を持っていて、天皇後に成った時にそれの実現に向けて歴史上最も多くの繊細な政治的な行動を採った人物でもある。
この時の状況を歴史学的に「最近の研究」で解明されている。

(「青木氏」に変えて「第6位皇子」の賜姓を「源氏」にし、その「源氏」に対して「賜姓族と朝臣族と臣下族」「3族の格式」を限定して落として、同族としての「青木氏の優位性」を保った。)

矢張り、この研究から平安初期前後の「施基皇子の末裔3者」とも「繊細な感覚の持ち主」であった事が判る。歌も遺されているが繊細な歌調と評されている。

経緯D
この様な環境の中で、少なくとも、「嵯峨天皇」は、「青木氏」に変えて第6位皇子を朝臣族として「嵯峨源氏」を始めて賜姓した天皇であるとすると、この時、祖父の実家先の「伊勢青木氏」と「4家4流の賜姓族青木氏」は、それまでが「青木氏」であった賜姓が、急に「源氏」と変名され、詔勅でこれまでの「朝臣族の扱い」と違っていた事を非常に警戒した。
(「桓武天皇の仕打ち」もあり、更に自分達も「特異な立場」の務めを外されるのではないかと警戒した)
況して、「光仁天皇」から続く「政変粛清」の中であるとすると、その時の「青木氏一族」は「粛清の荒波」を受けてその存続をさえも危ぶむ事に必ず成っていた筈である。
当然に「律令国家建設」を目指した「桓武天皇」は、実家先の親族を含む「皇親政治の5家5流の青木氏」を排斥した事もあって、「嵯峨天皇」はその「危機感」から何とかして「5家5流の一族」を救い纏める必要に迫られていた筈である。

(青木氏だけは「3族の格式の限定」をそのままにして置くべきと考えた。だから、「青木氏の氏名」は使用の禁令を発し、皇族の者が下俗する際に用いる氏名と限定したのである。況や「皇族青木氏」の5氏である。)

「近江令」や「善事撰集」の目的が「素養・修養訓」であった様に、この様な粛清が連鎖的に起る事には、「皇族・貴族・高位族」に連なる者の「素養や人格」に常習的な「社会的問題」としてあった事に成る。
その為にも、この問題を解決すべく「青木氏」としては、その「特異の立場」を護る為に何か「統一した行動指針」なるものを敷いて、「護り本尊」の「生仏像様」の下に結束を強めたと考えられる。
この時、その「行動指針」と成るものを「施基皇子」が全国を歩き回って集め各地の「慣習や仕来りや掟」等を集約編集した「善事撰集」を原案としたと考えられる。
ただ、「公布中止」と成っていた100年後に「善事撰集」を突然に引っ張り出して原案とするには無理がある。この原案とするには其れなりの過程があった筈だ。

経緯E
その「善事撰集」にはこれ等を裏付けるはっきりとした経緯がある。それを先ず検証する。
始祖の「施基皇子」の大化期の時に「公布中止(689年)」と成ったが、「5家5流の賜姓族(青木氏一族)」には「施基皇子の善事撰集」を無駄にする事無く、「青木氏の末裔」には「賜姓族としての生き様」(特異な立場)に「参考」程度にする様に「施基皇子」に依って「青木氏一族」に配布されていた事が考えられる。
「善事撰集」は689年廃止で「施基皇子」716年没からこの間28年間があった。

この間に上記した様に、「素養・修養・人格・度量の低下の社会環境」があって、その為に苦労して作った「善事撰集」を放り投げて、28年間の充分時間があっても何もしなかった事は考え難く、又、「国策氏」などの「特別な立場」を持っている「青木氏」が ”知らん顔”は通らない事からも、既に一族のものとして配布されていた事が充分に考えられる。
それが「訓戒」までに至らないとしても、「慣習・仕来り・掟」等として参考程度の経緯があったと充分に考えられる。「参考か要領程度」のものであったと考えられる。
(状況証拠より「要領」と観ている)
普通に考えれば「素養・修養・人格・度量の低下の社会環境」の中で、何とかしようとして苦労して作った「施基皇子の善事撰集」を、「大化期3代天皇」の「宰相」として務めた程の優秀で賢い繊細な資質の持ち主の「施基皇子」自らや、その血筋を引いた「5家5流の一族」が、絶対に放置する事は先ず無かったと考えられる。
「純血血縁の同族血縁」を繰り返している一族としては、むしろ、「持統天皇の指示」もあり、背後で積極的に自信を持って「公布運動」を起こしていたと考えられる。

実は、この事に付いて「歴史上の経緯」で証明出来る根拠がある。
「日本書紀」の記述に、「天智天皇」「天智天武」「持統天皇」の「大化期3代天皇」の施政代行者として各地に発生する諸問題を「施基皇子」に解決させていた事が詳細に記述されている処から、その経験を活かして「最後の仕事」して「善事撰集」の「司」として編集を妹の「持統天皇」に命じられた経緯が記録されている。
(注意 「善事撰司」は「撰善言司」と表記するものもある。「撰善言集」や「善言撰集」の表現とするものもあるが、筆者は添書からその中の一つ「善事撰」が内容から相応しいとして選択している。)

実は、その皇族や貴族の高位族の子弟に対して、その「素養・修養書物」として編集したとされる「善事撰集」(689年)の「取り扱い」では、正式に法令化はされなかったが、この結果、その文脈から臣下した「賜姓族の青木氏」の「素養・修養書物」として「要領か参考」にした事が読み取れる。
この直前に「天智天皇」に依る「近江令」(671年)が公布されている事を考えると、この「善事撰集」の存在の意味合いが疑問視されるが、「近江令」との間で何かあった筈である。
「近江令」も評判は良くなかった事は判っている事から、それから10年しか経過していないのである。
2つ重ねて「類似の法令」を出す事は社会も変化していないし、同じ結果を招く事に成り考え難い。
実は、この「近江令」の「令」としての内容には疑問視されていて、実際に公布しているものの実行されたかは異論異説のあるところで、その原因は「民事内容」の「令」で「刑罰」の「律」の内容が含んでいなかった事から実効性は無かった事が一つ挙げられる事、もう一つは「令」の民事の内容が修養を中心とした内容であった事から、公布したものの「実行性と実効性」とに欠けていた事が法学の歴史学的研究で判っている。

経緯F
恐らくは、「持統天皇」は、この反省から更に内容を高める為に実際の各地の民の中から集めたものを「善事撰集」として編集して「実行性」と「実効性」のあるものに仕上げようとして編集さられたものであろう。
「善事撰集」は一応「素養・修養内容」とされているが、「天武天皇」の子供の学者「舎人親王」が編集した歴史書の「日本書紀」の中の文脈から推測すると、「慣習、仕来り、掟」の内容も含まれていて「律」に近い内容(慣習・仕来り・掟の類)も存在していた事が判る。(下記)

つまり、10年前に公布した「日本初の法令」とされる「近江令の欠陥」を修正して、「令と律」を含めた「法令の形」を整えようとした事が「抵抗と反発」を受けたと見られる。
皇族や貴族や高位族の者等から、”始めての事であった事から” 又、”人を律令で制御する”と云う風な事に、「法より人 石く薬」の考え方に染まっていた為に、 ”猛烈な「抵抗や反発」”を強く受けたと観られる。
”人を法令で制御する事”、”始めての経験である事”では、現世では、何時の世も”当然の成行きである事”ではある。
別の面で、この「抵抗や反発」の真因は、編集者が「施基皇子」の「臣下した賜姓族の朝臣族」であった事も原因していた事も考えられる。
それは上記した「素養・修養・人格・度量の低下の社会環境」の中で、「公家衆の性癖」(口煩い公家衆の「嫉妬と嫉みと怨嗟と揶揄」”)が大きく働いていたと考えられる。

そこで「抵抗、反発」「社会環境の低下」の原因と成った事が実は歴史史実としてあるのだ。
ただ単の「抵抗 反発」を受けた訳ではない。それならば朝廷は公布を中止する様な事は無い。
そんな事としていたら施策は何時までも実行出来ない。何時の世も利害などが働きある程度の反対はある。
当然に、他にも「公布中止」に至った「抵抗 反発」の大きな原因があった事に成る。
そもそも、この時代は「中国の思想」が色濃く反映していた時代であったが、この時期の中国には >「古今善言」(南朝宋の范泰著-30) と云う同じ様な法令訓例があった。(近江令の原案説)
この「中国的な思考原理」が日本にも伝えられて大きな影響を受けていたのである。
つまり、この「書籍の発刊」から読める事は、中国でも同じ様に「法と人の問題」に就いて社会問題として議論に成っていた事を意味する。
だから発刊してそれが日本にも伝わったのであり、多くの皇族や貴族や高位族等に読まれたのである。
この「古今善言」(南朝宋の范泰著-30)が飛鳥-平安初期に入っている事が史実として確認されている。
ただ、中国の場合はその「考え方の思考原理」が少し異なっていた。
その中国でも振り返れば、「三国志の時代」の中でも、「劉備」が、国を興す理由としたのは、民の「素養・修養・人格・度量の低下の社会環境」を憂いての事であった。
”何故低下していたのか。”である。それは「中国」と云う「国の体質」から来ている。
中国では「三国志」の昔から ”法より人”とする同様の社会風潮の独特の問題があった。
現在でも「中国の思考原理」には、この”「法より人」「石は薬」”の「二つの考え方」が色濃く残っている。
我々に本人には理解され難い思考原理である。これが「中国の国民性」というものであろう。

経緯G
そもそも、中国は多くの民族から成り立っているが、その「民族の融合化」と云うものは起こっていないと云っても良い程度ある。
その原因は、”国土が広い”と云う事があって、「民族」が重なって生活をすると云う必要性がない事に因る。従って、「広大な国土」と「多くの民族」と云う事に成ると、統一した「法」で縛って統制する事は不可能である。
「一民族」の「広い国」の中は全て同族である。因って、同じ風習、同環境の中で育った者には考え方や感覚が慣習に依って統一化されている為に、「法」で縛って統制するよりは「人」で纏めて維持する方が国は安定する事に成る。
(中国の一民族の国は廻りを城壁で囲ってその中で民族が生活をする。その事に因って同習慣や同じ思考原理を統一させて人で統制する方式を採って来た。)
その為に最早、長い歴史の中で遺伝的な思考原理が各種の民族の中で、この「2つの共通する思考原理」が育ったのである。
然し、統一政権が代わる度に国境間で雑種が増えた。そして中にはその一部には逆の考え方をするものも増えて来たのであった。
中国の >”「法より人」「石は薬」” の考え方の中に、この影響で”「人より法」 「石は石 薬は薬」”の考え方が社会の中に蔓延って、社会問題と成っていた時期の事を物語る書籍の発刊であった。
その .>”「法より人」「石は薬」”の思考原理で書かれた「古今善言」 である。

然し、これに反して、日本人は世界に希に成る独特の「7つの単一融合民族」から成り立っている。
(他の幾つかの論文でも詳細に論じた。青木氏の守護神(神明社)」も参照)
「狭い国土と島国」の中で「7つの民族」を纏めるには「民族毎」に考え方が異なっていては国は統制出来ない。統制するには、先ず「民族」を「融合化」させて、一つにした考え方に集約する必要性が起る。
その「融合化」に依って、考え方が一つに成った事から統一した「法」で縛り統制する方法と成る。
その上での「人」の考え方に成る。(日本はこのプロセスを歩んだ。)
つまり、”「法より人」「石は薬」”よりは、 ”「人より法」「石は石」「薬は薬」”の思考原理が働く。
ところが、「法」で統制した国には「人」の「心」を纏める方策が必要である。
それが「皇祖神-子神-祖先神-神明社」であって、それを行うのは「青木氏」であって、「民族の融合化」の基点と成ったのが「青木氏」であって、それを推進する「国策氏」が「青木氏」であって、「人」の「民」を束ねる象徴で「臣下族の基点」が「青木氏」であって、「民の模範」とする氏が「青木氏」であって、「国の象徴」の「天皇」に対して、「氏の象徴」の青木氏であった。
況や、真に「法と人」の「人の部分」を荷っていた「青木氏」で「国策氏」なのである。
要するにこれが>「特異な立場」 なのである。

従って、「青木氏」は一般より余計に「人より法」「石は石」「薬は薬」の考え方が強かった。
(これが「善事撰集」の根幹である。)
依って、この時代は ”「人より法」「石は石」「薬は薬」”の考え方の中に、中国の「古今善言」等の全く「真逆の思考原理」の「中国の影響」を色濃く受けて、”「法より人」「石は薬」”の考え方が細菌の様にも「奈良期-平安初期」の社会の中に蔓延った時代であった。
特に「素養と修養」の為に、この書物等を読んだ「皇族、貴族、高位族」の者が、この上記した中国の考え方に染まり、”「真逆の考え方」で思いがけない「抵抗と反発」を受けた”と考えられる。

経緯H
既に「別論文」や「青木氏の守護神」の論文でも詳しく論じたが、この時期は後漢200万人の渡来人の「帰化人」が、洪水の様に入国していた事もあり、同時に彼等の「進んだ技能」と「仏教の伝授」と「進んだ生活習慣」等の享受を受けて、生活が向上し、全ての国民は「彼等の中国文化」に対して疑う事無く「信頼と尊厳」を向けていた。
その結果、「阿多倍王」等は無戦で関西以西32/66を征圧すると云う勢いであった。
先ず、民では誰一人疑う者や敵視する者は無かった筈である。「日本書紀」にもその事が詳細に記述されている通りである。

(この勲功で薩摩大隈と伊勢北部伊賀の「2つの半国割譲」を正式に受けた。「人」の国策氏の始祖施基皇子の伊勢国の半国割譲であった。「青木氏」とはこの時からの隣人の親交が始まった。不思議な取り合わせであった。)

然し、この現象を危険視した者が2人居たのである。
「「青木氏と守護神(神明社)」で詳しく論じた様に、特に阿多倍一族一門の勢力に因って起こっていた「以西と以北の自治問題」と「守護神の考え方」や上記した「社会の思考原理」で”国が割れる”と警戒していた。
それは、第一次の初期には「大化期3代天皇」、第2次の中期には「平安初期3代天皇」、第3次の後期には「平安末期3代天皇」の「皇親政治」を行った「天皇」であり、その下に働いた皇親族の「人の国策氏」の「特異な立場」の「青木氏」であった。
この3期の何れもが危機感を持ち政策を実行したが、全てこの「後漢人の考え方」の違い事が原因であった。

(上記した様に、”「法より人」「石は薬」”の彼等に対して、”「人より法」「石は石」「薬は薬」”の「青木氏」はこの「帰化人の立場」と「真逆の立場」にあった事を意味する。
これまた「特異な立場」な立場を証明する事である。)

経緯I
其処に、この「日本書紀」に記述されている様に、「国政」を進める「官僚」の殆どは、この「進んだ知識の帰化人」で、その「知識」で仕切られていたのである。
「古今善言の影響」のみならず、それを「受け入れる体制」そのものが完全に漏れなく出来上がっていたのである。
この「古今善言」などの「中国の影響」は、「人格、度量」は別としても、「素養・修養の低下」として社会の中に当然の様に現れたと観られる。現れない方がおかしい位に当然の成行きであった。

この現象が「近江令」にも現れていると認識した一次の「持統天皇」は日本らしい考え方の「善事撰集」として造り上げる必要があると考え、「人の国策氏」で「大化期宰相」の兄の「施基皇子」にその経験を通して編集する様に命じたと解析される。(名称も類似している)
恐らくは、周囲を見渡しても、この事の全てを理解した信頼でき適材な人物は、「青木氏の始祖の施基皇子」しか居なかったと考えられる。
故に、況して、この「中国の影響」を受けて、上記した様に「精神的な負担」に成る「皇族」や「公家衆」の「素養・修養・人格・度量の低下」の中では、当然にその上記する「資質低下」に因って起る”「嫉妬と嫉みと怨嗟と揶揄」”が猛烈にあった筈である。
取分け「反発と抵抗」も熱に犯されたかの如く大きかったと考えられる。
(この現象が「人」の「国策氏青木氏」に取っては上記した様に除し難い「精神的負担」に成っていた。)

そこで「持統天皇」と「施基皇子」は、「古今善言」の影響も考慮して、この編集に当っては画期的な方策を講じたのである。
先ず「7人の編者・賢者」を集めての力の入れ様で、当時で云えば、その顔ぶれは文句無しの各界の「最高の有識者」(官吏一人含む)で構成され、「国策氏・青木氏」の「始祖施基皇子」が自ら集めたものを編集すると云う画期的な形式を採った。
現在の民主主義の「有識者会議の答申形式」であった。大化期社会にあって驚くほどに”極めて斬新な形式”で纏められたものであった。
「近江令」の様に多くは「帰化人の官僚」が作り編集したとするものでは決して無かったのである。
「古今善言」に負けない信頼される「善事撰集」に仕上げようとしたと考えられる。

(編集する「帰化人の官吏」の上記する「法より人 石は薬」の考え方が、「近江令」には強く働いていた事があってか、「有識者会議の答申形式」を採ったと観られる。)

「日本書紀」の記述によれば、丁度、この時期には、この「官僚の6割」は「後漢の帰化人」が占めていた事が書かれていて、「天武天皇」は、特別に ”速く倭人の官僚を育てる様に”と命じている記述がある位である。
これは「古今善言」に限らず、「中国の影響」が官僚の中にも深く浸透して広がっている事を認識していた証拠なのである。
上記した ”「中国の古今善言」”なのか、”「法より人」「石は薬」”の考え方が働いていたのかは確証する充分な史実が不祥であるが、上記した様に状況証拠で、確実に何かの影響を受けていた事が考えられ、故に、「日本書紀」の「天武天皇発言」があり、それを”匂わせる記述”(舎人親王)と成ったと観ている。
何も無ければわざわざ”日常茶飯事の発言”を書かない筈である。何かあるから書いたのである。
その「善事撰集」の「編集責任者」は、上記した様に、そもそも「大化期3代天皇」に渡る大化期の最高功労者の「施基皇子」であり、従兄の「施基皇子」が自ら集めたものであった事、そして公布中止と成った事から、その”悔しさ、残念さ”を何らかの方法で表現して、”公布中止”と成った「裏の史実」を記録として遺したかったのであろう事が読み取れる。

経緯J
この様に、先ず人物や編集形式等に誰一人文句の付け様がなかった筈である事、”文句の付けようがない上で編集されたものであった事”を史実として公に遺し、他に”中止の理由”があった事を匂わしたと状況証拠から読み取れる。

恐らくは、”文句の付けようがない上での編集”にして”「抵抗と反発」の論処の一つを押さえ込む戦術に出た”と考えられる。
然し、公布は中止されたのである。中止されたのには「日本書紀」が匂わす何か大きな他にも大きな理由があった筈である。「舎人親王」の表現したかった事を「官僚」と云うキーワードで表現したが、赤ら様に彼は言いきれていなかった筈である。むしろ、”書けなかった”が正しいと考えられる。
「日本書紀」の「編集スタッフ」は全て「後漢の帰化人の官吏」(史部:ふみべ 「部」の長は「阿多倍王」の父の「阿智使王」 その配下の十二人)であった事が判っている。
首魁の「阿多倍王」や「阿智使王」の卒いる後漢人や官吏等の考え方で中止に追い込まれたとでも書けば、それこそ「日本書紀」も中止に追い込まれる填めに成る。そんな事は出来なかった筈である。

「青木氏の守護神(神明社)」-22の段で論じた様に、「青木氏の由緒」は「皇族朝臣族の賜姓族」と成り「真人族」まで含めた「純血の同族血縁族の5家5流賜姓族」であった。
「朝臣族」で「臣下族」で「賜姓族」でありながらも、皇族、貴族、高位族等の一般に云う「公家衆」等には家柄・身分・官位・官職一切が上位の「5家5流族」であった。
時の「真人族」であっても、「賜姓族」「臣下族」は下位ではあるが、しかし上位であると云う「不思議な立場」(逆転現象)、即ち、上記する「特異な立場」にあった。

(参考 元々、「始祖施基皇子」は天武天皇の皇太子の「浄広2位」に対し「淨大1位」で3ランク上の立場にあった。このような「特異な立場」にあった為に、この「賜姓族の立場」の「施基皇子と川島皇子」の二人は「他14人の皇子」等と「皇位継承争い」をしない事を吉野で永代で盟約した事で有名である。 吉野盟約)

周囲はこの「特異な立場」を繊細に認識していた事を物語るものであり、その騒ぎを抑える為にも、向後の粛清の混乱を防ぐ為にも盟約した。
母違い弟の「第7位皇子の川島皇子」も特別にその勲功により「近江の地名佐々木」で天智天皇より朝臣族で賜姓を受け同立場にあった。日本書紀にも記述)

経緯K
この様な中で、この公布されなかった事には、当然に「特異な立場の青木氏」に関わる事にも何かがあった筈である。
其処で、”その何か”を探る必要がある。
この「近江令」にしろ「善事撰集」にしろ共通するところは、要は「皇族」「貴族」と「八色の姓」の「高位族」の者が対象者であって、特にその子弟に宛がわれる意味合いを持って編集されたと云う事である。ここに先ず一つの意味がある。
上記した様な原因で起った「素養・修養・人格・度量の低下」で、その後の「平安初期3代天皇期」は「政変劇化の粛清の嵐」に成っていた事でも判る様に、「純血血縁族の5家5流の青木氏」に於いても、「皇位継承外」で「朝臣族」で「臣下族」で「賜姓族」で「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」で、どれを取っても本来は継承外であった。
そもそも、「侍」の「臣下族」に成っている「氏」を構成する一族である。
「臣下族」は当然に継承外であっても論外の立場であった。
然し、「真人族を含む純血血縁族」であり、「不思議な立場」(逆転現象)の「特異な立場」であった事から、「政変劇化の粛清の嵐」は永代盟約を結んだ上でも例外とは見られて居なかったのである。
(男系皇位継承者が居ない状況の中で流れに牽きこまれて行った。)
むしろ、「白壁王」の例に観る様に、平安初期の「粛清の嵐」は「男系皇位継承者」が居なければ、次ぎは「逆転現象の青木氏」に向けられていた事は当然の事と考えられる。
”「臣下族」だ”等や”「吉野盟約」がある”等と言っていられない状況下にあった。
然し、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」である限り、その身元を保障する為に「真人族」より何を取っても上位の位置に居た。逃れられない宿命であった。

(口伝の厳しい戒め・絶対遺訓:「世に晒す事なかれ」この事から来ていると考えられる。)

上記した「白壁王」の経緯がそれを物語る。「白壁王」が駄目ならば「他の一族の者」をと成るは必定であるし、政敵に取っては、「男系皇位継承者」がいない中で、「真人族」より上位の「臣下族」が居ると成ると”目の上の瘤”であろう。そうなれば、政敵から粛清を受ける事は必定に成る。

(政敵とは女系継承論者の事 7代も続いた女系天皇の社会 女系天皇で利を大きく持っていた族の事で、匿名にして「有名で大きな有力な政敵団」がいた。)

其処で、「善事撰集」が公布中止されたものの、政界は兎も角も、「青木氏」にとっては「特異な立場の青木氏」(3つの発祥源、国策氏、融合氏)を何が起ころうが絶対に護らねば成らない宿命を永代に帯びている。

経緯L
とすると、これを護り抜くには、何かしなくては成らない。
そう成れば、上記した様に、先ずは「青木氏」の「法の立場」では無く「人の立場」である。
そこで、この「青木氏」は ”その「人」を形成する事で「特異な立場」は護れる”と考えるが普通である。
(「古代密教の教示の立場」にあった「青木氏」は別の考え方をした。)
然し、この時期は「中国の思想」を大きく影響を受けていたとすると、”「法より人]の考え方の中で「人」を育てて「法」を求める”とする一見して矛盾する計画であった事に成る。
そもそも、考えても根本からこの理屈はおかしい事に成る。
「素養・修養・人格・度量の低下」を防ぐ為に、「法より人」の考えを優先するのであれば、「法」を敷く為に「人」を育てても「法」は守られない事に成る。
完全な「論理矛盾」であった事が「青木氏」の中で間違い無く起こっていた事に成る。
然し、「人」を育てなくては「氏の資質」は上がらない。これは「国策氏青木氏」としての「長の命題」であった。(これが「長の有り様」を重視する「青木氏の所以」である。)
「青木氏の長」は上記した3つの「道理の矛盾」の立場にあって、尚且つ、この4つ目の「論理矛盾」を抱えた事に成る。
「善事撰集」は日本に適した「人より法 石は石 薬は薬」の考え方の下に纏められたものである。
その国が公布しなかった「善事撰集」は、「青木氏」に取っては、最早、「始祖の遺訓」である。
これを先ず「青木氏」は優先して護らねば成らない。
とすると、”「青木氏」だけは「古代密教の教示」に従っている” と成ると、周囲の「一般の思考原理」とは前提が異なる事と成る。
その「古代密教の教示」とは、”何事も次ぎの様に成せ”と説いている。

>・「2つの教示」
>「三相の理を得て成せ」
>「人を観て法を説け」

「遺訓」(「善事撰集」)には以上の「2つの教示」が働いたと考えられる。

(この2つは「家訓3」と「家訓5」に遺されている様に最も「伝統的な教示」であって、現在の末裔にまで代表的な考え方として”耳に蛸”の様に色濃く伝わっているが、この「2つの教示」は、「施基皇子の遺訓」(「善事撰集」)の中の一つであったと考えられる。)

経緯M
この「古代密教」の「2つの教示」を前提にすると成ると、”「法」を「氏」に敷いて「氏」を先ず固める必要があると成る。そして、「人」はその強いた環境の中で育てる”と成る。
つまり、「青木氏」は「法と人の関係」は、「古代密教の教示」の「三相の理」で先ず考えた筈である。
”「法より人」「石は薬」”と、”「人より法」「石は石」「薬は薬」”の考え方に付いては、「古代密教の教示」(2つの教示)から、”何れも正しい”と先ずはした筈である。
然し、それは、「古代密教の教示」から、先ず一つの”「人、時、場」の「三相の条件」に因って異なる”と考えた事に成る。
そこで、「法>人」=「法<人」とすると、次ぎの様に成る。

「人」の要素は、「抵抗と反発」の「素養・修養の低下」と「特異な立場の青木氏」
「時」の要素は、「政争と粛清」の「混乱期と危険な立場の青木氏」
「場」の要素は、「都」と「賜姓族地の5家5流地」

この三相で勘案すると、思考の優先順位は ”「時」>「場」>「人」である”と成る。

この「配列如何」に関わる結論と成り、これが「長」の判断する「資質の有無」の差に成って現れる。

(故に、「氏の行末」は、「古代密教の2つの教示」がある限りは、「長の資質の如何」に関わると「家訓」ではしつこく説いているのだ。そして、その「資質」を何度も論じるが「繊細な資質の人物」等と厳しく戒めている。)

「古代密教の青木氏の教義」として「青木氏の長」はこれを考える力を常に強く要求されている。
これには上記した様に、「繊細な資質」から来る「情報の取得能力」が要求され、「論理的思考」が要求され、これに「堪えうる精神力」が要求され、「戦略的な洞察力」が求められるのである。
この「2つの教示」に関っているのだ。
”「長」がこの「資質」を備え、この「三相の理」で事の判断を成せば「氏」は救われる。”とし、この「青木氏の長」は、この時に、「時」>「場」>「人」と判断したのである。
そうなれば、先ずは、「人の資質策」で云々の策ではなくて、同族で「純血血縁族」の「氏を固める策」を講じる必要がある。「同族血縁族」である「氏」を固めると成ると、「特異な立場」で共通し、同じ「義務と目的」に向かって邁進している以上は、「法」を以って統制して”身を固める”とする策に出る事が最も効果的である事に成る。
その策の「法」は、必然的に、「施基皇子の遺訓」の「善事撰集」であり、それ以外には無い事に成り、それを固めるに必要とする「氏に合った編集」に関わる事に成る。

・「時」の要素が、先ず優先的に解決する事が急務であり、「氏の存続」に大きく関わる「混乱期」では、先ず”身を固める”が道理、然すれば、身が固まれば ”「場」>「人」の対策に入る”が常道と成る。
そして、それが下記に示す”「施基皇子の遺訓」の「善事撰集」の編集経緯-1~6”と成ったと考えられる。(家訓は詳細には次ぎの「6段階の経緯」を経た)

・「場」の要素としては 時の要素 で”「法」で統制して身を固めた”とすると、「法の適用する範囲」を要求される。
それは一次的な範囲の「5家5流の氏の範囲」で限定して効果的にする為に行う事と成り、他の「場」の要素としては「女系・縁者等の色々な範囲」に拡げて「法」を適用しても、「最優先する時の要素」に対応出来ない。
そこで「2次的な範囲」はその結果次第で、「漸次暫時」で対応する事の判断と成り、直ぐに今求めない事と成る。

・「人」の要素としては、「時」と「場」の要素の対応が叶えば、最後は「氏の資質」を高める事に成るが、但し、この際、「時」>「場」を優先した戦略と成っている以上は、「一族一門」と「一切の郎党」に至るまでに、この全てに同じ論調で資質を高めようとしても、”それは無理だ”とと説いている。無理だと成れば、ここが、「古代密教の教示」のもう一つの「人を観て法を説け」に従う事に成る。
そもそも、現世の「政治基本」は何時の世も「法と人の関係」に依って成立っている。
その「法」に対しては「青木氏の基本の思考原理」は「三相の理を得て成せ」であった。
そして、「人」に対しては「人を観て法を説け」であるのだ。

(「始祖施基皇子」は「政治の基本」の「法」の為に「善事撰集」を造ると共に、公布中止と成った暁には、「人」の「国策氏」として「2つの教示」の理念の下に「氏」に「善事撰集」を敷いたのである。)

経緯N
つまり、この「2つの教示」は、「青木氏」に執っては少なくとも、生きる為の「一対の教示」、況や、生きる為の「経道」である。「生きる」を「心」とすれば、「心経」と成る。
この「古代密教の仏説」の「2つの教示」は「政治の基本」である事のみ成らず、「青木氏の心経」であって、故に、政治の「人」に関する基本的な事を実行する「国策氏」と成るのである。

>(1)「2つの教示」=「青木氏の経道」
>(2)「青木氏の心経」=「青木氏の経道」=「国策氏」
>(3)「古代密教]=「2つの教示」=「政治の基本」
>∴「国策氏」=「2つの教示」
>(1)=(2)=(3)
以上の数式論が成り立っていたのである。

何故ならば、それはそもそも、>”「人を観て法を説け」の「古代密教の教示」” がある様に、”「法」を優先して説く以上は、「人の如何」(人の有り様)を考えよ”と成る。
この「三相の理」に従う事のみ成らず、この「人を観て法を説け」の教示でも、根本的な文の構成は、「法」を説く事を前提にしている構成である。
況や、 ”「法」をベースにして「人」の要素を考えよ”と成っている。
決して、「法を観て人に説け」ではない。
あくまでも、”「法」を優先して基本として、「人の有り様の如何」を考えて「智慧」を駆使して適応して「一律の法」を説け”と云っているのだ。
”「法の有り様]は普遍であるべきだ”と云う事に成る。
この様に「2つの教示」からも「青木氏」に執っては「法」が基本に置かれている事が判る。
決して、「法」<「人」では無い。

(上記した様に、日本のこの時代の「古代密教」でも、明らかに「人より法」の思考原理に従っている事が判る。当然に「古代密教の教示」に従っていた「始祖施基皇子」は「善事撰集」には「人より法の考え方」で編集していた事の証明でもある。この社会の考え方の中に「古今善言」は真逆の異質の考え方が蔓延った証明と成る。)

経緯O
其処で、そもそも、この考え方に付いて、普通に考えれば多少の疑問が起るであろう。
そもそも、”人を観て” は「普通の仏教」(他の仏教宗派)では、”民を低く観て、人を差別している事”と感情的に取られるであろう。
この様な「説法」を僧が説く事は先ずあり得ない。そんな「説法」をすれば、”私達信者を馬鹿にしている”と成り、人は集まらないし、信心そのもの等はあり得無く成る。その前に先ず宗派は成立たなく成るだろう。
僧が僧に説法するにしても、先ず説かれる未熟な僧が人である以上、説く人の人格に疑問を感じるであろう。先ず考えられない教示である。
故に、要するにこれが「密教の所以」なのである。「教示」そのものがこの「現世の真理」であっても「未熟な人」に説く以上「真理」として扱えないものがある。
そもそも、「説く」とは、その人が「未熟」であるから”説かれる”訳であり、「悟りの人」であればそれは「説く」とは成り得ない。
「未熟の人」に「説法の差」を付けて故意的、恣意的に接する事はあり得ない。
然し、これでは説法の「本当の意」を伝え得る事は出来ない。それは折角の「説法」の努力の効果が上がらない事に成る。

(「古代密教」を経た「浄土宗密教」から「密教」の部分を外して、「一般の人・民」に説いた「親鸞」等の説法は、”「念仏をただ唱えよ、ただ信じよ、信じれば成仏できる。然れば汝は救われん。」とした所以はここにあった。・「説法方式」の必要性を特段に意にしない「説話方式」での布教である。)

「特定の氏」では無く、「不特定多数の人」を相手にしての布教である場合とは、「密教」と云う前提とは自ずとその説法は異なり、「人を観て法を説け」や「縁無き衆上動し難し」の様な「現世の真理」も話せる事で、その「説法の深意」は伝わるし、理解が深まり、事に当りその応用は可能と成り、強いては「人の資質」は高まる事に成るは必定である。
これが「密教の利」と云われる所以である。「法」と「話」との「布教の違い」である。
(平安末期に起った密教論争と後の宗教戦争はこの事の「有り様」の如何を議論された。)

”「同族の氏」の中で「氏」を構成する為に、その「氏の人」の「素養と修養」を高めて、より「氏の資質」を高める為に、その人にあった説き方をして「適時適切 適材適所」に効果を上げよ。”としているのである。
これに比して「不特定多数」の「民」の「布教」の場合は、この「適時適切 適材適所」は無理であるし、先ず、時間的にも、振り分けも、出来ない事から不可能である。

この様に、「特定」と「不特定」とには、その「教示の如何」が左右されるのが「宗教の所以」であり、「有り様」である。
然し、此処では「氏の資質」を向上させる為の「説法」であり、仏法(「仏」が説く「法」=「現世の法則」)を理解させて応用させて「氏人」を育て「氏力」を高めなくては成らないのである。

”そもそも「人」夫々には、夫々の「資質、能力、性格」等を持っている。それに合わせて易しくか、難しくか、感情的にか、論理的にか、に「説」を考えて説き、導かなくては何事にも効果は成し得ない。”としているのである。真に、”智慧を使え”である。
そもそも、「法」は”のり”であり、あくまでも”決まりの理屈で事の筋道(法則)”であり、「智慧の発露」の結晶である。「話」には、それは無く短編的な「事象の例」である。
この様な「様々な人様」がある現世に、「人」を中心にして「纏まり」を求めても、「様々な人様」で「様々な判断」が起るから「社会」は纏まらない。
従って、最低の「法の理解」も様々と成り、意味を成さない事に成る。
つまり「法より人」の考え方は成立たない。終局は、”腐敗と無法治な社会と発展の無い社会”と成り得る。

”「人」それぞれには夫々の「資質、能力、性格」等を持っている”とする前提の現実社会である以上は「法より人」は成立たない。
少なくとも、特に日本では上記した様に、論理的に成立たない考え方である。
そこで、「共通の慣習、仕来り、掟」 の中で編成した「取り決め」とする「基準の考え方」を「法」として敷き、その「編集した範囲」の中で護らなけれは成らない「最低の義務」とするものである。
故に、「氏」の者に、”「念仏をただ唱えよ、ただ信じよ、信じれば成仏出来る、然れば汝は救われん。」とする事はあり得ない事に成る。

「密教を前提としている氏」に説く以上は、「氏の総合力」を高める為に「資質の向上」の効果を期待しなくては成らない。
「人の国策氏」の「特異な立場」の「青木氏」には尚更であり、”決まりの理屈で事の筋道”の「法則」での効果を要求される立場にあった。決して、「話」ではなかった。

経緯P
ここで、では、現実には ”「氏」と云えども理解出来ない者”が一族郎党の中にどうしても初期の段階では生まれる。
”では、その者をどうすればよいのか”と成る単純な疑問が生まれる。
(念の為にその答えを余談として記述して置く。)
これに対しても、「古代密教」は、ある「教示」を出しているのだ。
その答えの「古代密教の教示」は、>”「縁無き衆上動し難し。」” である。
この「2つの教示」に繋がる大事な「密教の教示」である。
これを「低い意味」で受け取れば、”馬鹿にして”と成る。「高い意味」で受け取れば、”浮世の真理を突いている。”と成る。
(「氏」の中ではこの差を無くさなくてはならない宿命がある。)
上記する「人を観て法を説け」の教示も同じである。
解釈には、大変意味の持った教示であり、且つ、「解釈の幅」を変えれば大きな意味を持つ。
これまた、”「縁無き衆上動し難し。」の教示は、”なかなか「密教」では無い「他宗派の説法」にする事は不可能である。先ず無い。
”どの様に説いても理解出来ない者は、もとより無理である。必要以上に説く事を諦めよ。それ以上は「自らの努力」に期待せよ。必要以上に説く事は反って弊害を生むのだ。「説く事」で逆効果を避けよ。無駄に効果を下げるな。 ”と成る。
この現世は、「自らの努力」無くしては何事も成し得ないのだ。゜「自らの努力」は「氏」と「社会」の原動力の根幹だ。”と説いている事に成る。
感情的に受け取れば、”厳しすぎる。見捨てるのか。薄情な”と成る。
然し、「感情主観論」のこれでは「現世の真理」の追求は成し得ない。
故に、事程左様に、”「長」は「論理的主観の資質」を強く常に持ち得ていなくては成らない。”としているのだ。
これは、あくまでも「特定」の「氏」である以上は、ある「目的、義務、宿命」を持って生きている集団である。
「密教の氏の説法」であって「不特定の民の説話」ではないのであり、欺瞞的で偽善的な事を大風呂敷を広げて出来もしない事を言っている訳にはいかないのである。
現世はその様には理想的で感情主観的に出来てはいないのである。
”その様に在って欲しい”とする感情主観はあるにしても、「家訓9」の論では無いが、「煩悩から解脱し得ない者」が殆どであるこの現世では、現実的な「現世の真理」を会得して「長」は「氏」を絶対に守らねば成らないのである。
その中で、この「古代密教の教示」は、”「絶対に護らなくては成らない教示」であり、況や、「習慣」であり、「仕来り」であり、「掟」であり、要するに”「氏の法」なのである。「氏の律」なのだ。”と成る。
それを理解出来る者こそが「長の資質」を有する者として評価されるのである。
故に、上記した様に「論理主観」を要求されるのだ。

上記する「2つの教示」と”「縁無き衆上動し難し。」”等の「古代密教の教示」が「青木氏」に現在も遺されている事は、「善事撰集」にはこの様に厳しい「戒・律」もあった事を物語っている。
これらの「古代密教の教示」以外にも、「青木氏」の「慣習、仕来り、掟」も「律」と見なされる事からも証しと成るのだ。

実は、筆者の祖父の禅問答の遺品の中に発見されたものであるが、この、”「縁無き衆上動し難し。」”で真言密教の「高野山の僧」と問答した事があった様で、これを”正しく理解出来る者こそ悟りを得た”とする内容の問答であった。
つまり、表向きの「文意」そのものでは無く「深意」「真意」を理解できる事が、悟りを得た者、即ち、「氏の長」が求められる「模範の資質」である事が判る。これが「密教の所以」なのである。
禅宗の信者ではなかったが、「禅問答の師」の祖父は「古代浄土密教の継承者」であった。
”事の真理の悟りを図り合う問答方式”は、「禅宗」が坐禅と共に専門的に人を導く「僧の資質」を挙げる方法として用いたが、そもそも、この「問答」とは、元々、主に「三大密教」が学僧に用いていたものである。
これを禅宗が一般の信者にも坐禅と共に広めたものである。
この「禅宗の呼称」は、「坐禅の宗派」と云われるもので、曹洞宗・達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗の5宗から成り立っているが、本山永平寺で、「中国禅宗5山」の影響を強く受けた宗派である。
故に、ここで云う「問答」とは、大化期前後に中国から伝わり、その原型が”「古代密教」の手法”として用いられたものである。それが脈々として祖父の代まで「伝統」として引き継がれて来たものである。
ここにも「古代密教」の「青木氏の慣習」の一つとして伝わっているものである。
この「問答をする堂」があり、「青木氏」ではこれを「画禅堂」と呼ばれ、「青木氏の慣習」の「接客の作法」と共に「特別な解人」と話をする堂があった。この「青木氏の接客作法の形」が「茶道の武家様」に変化したものである。

この様に、上記の「密教の教示」に限らず、本論に記述していないが、青木氏には「古代密教の教示」と考えられる「慣習、仕来り、掟」が数多くある。(何時か機会を得て論じる)
恐らくは、初期の段階では「青木氏の古代密教の教示」として「書」に収められて「纏」められていて、それが後に、「時代の遍歴」を経て「慣習、仕来り、掟」の形で伝わった物であろう事が判る。

(明治35年の前まではこの作法等の要領を「書」の形で纏められていた事が口伝で伝えられている。
「菩提寺の焼失」が原因で「書物」は焼失したので現在は「口伝の形」に成っている。)

経緯Q
因みに、ここで例を一つ、「青木氏の家訓10訓」には無いが、”曙に成せ。” と云う口伝がある。
何とも簡単な「密教伝」であろうか。これも考え方に依れば「曙」に大きな意味があり、夜明けの「あさぼらけ」から「朝焼け」の中間に存在する”「曙」”をどのように理解するかで幾通りにも理解できる「意味の深い教え」である。
有史来、「曙」には数え切れない程の意味を持っているが、その意味毎に”成せ”の語句をあてがう事で沢山の意味が生まれる。簡単な「成せ」の動詞にも動詞だけに「理解の幅」が生まれる。
此処では一度発想を試みて頂くとして、「特異な立場の青木氏」を配慮してその意味の成す事を考えると、上記した事の様な事も理解出来る筈である。
恐らくは、これも「古代密教の教示」であったと考えられ、「善事撰集」にあったものであろう。
実は、この幅広い文意は「武田信玄の”風林火山”」に類似するもの考えられる。
筆者は、この「密教伝」は「皇族賜姓族の甲斐青木氏」の血縁族「武田氏系青木氏」を通じて「武田氏」に伝わり、その「文意の一部」を「武家様」に編集された可能性があると見ているが確証は無い。

>「政治のシナリオ」
話を元に戻すとして、大化期の時では、”社会は完全に「法>人」の傾向にあった”と成る。
「近江令、大宝律令、養老律令」等は、「中国の律令の模倣」である事は歴史学的に既に証明されていて、その模倣先の中国の律令も明確に成っている。
この事から明らかに「法より人」「石は薬」の考え方が蔓延していた事は明白である。
(下記の*印に詳細)
だとすると、一方の「危機感」を持っていた天皇の「国レベル」では、到底、この「論理矛盾」を吸収する事は不可能であった事に成る。
因って、「公布中止」と成ったとも考えられる。
だとしたら、「為政者」は考える事はただ一つである。
「近江令」の事が意識に残っている中で、次ぎの様な「政治的な判断」(シナリオ)をしたと考えられる。
それは ”先ずは試して見よう”と云う事に成る。
”では、誰に”にと成り、直ぐに浮かぶのは、”「国策氏の青木氏」に、況して、編者の「施基皇子」等の「朝臣賜姓族氏」に” と成る事は、危機感を共有する限りは間違いはない。
そして、”成果が上がり成功の暁には、「国レベル」でもやってもらおう”と成る。
当然、国レベルでやるには「天皇」に成ってもらう事に成る。
幸い「青木氏」は継承外だが、”その最低の品位体裁の資格は理屈を付ければ成し得る位置に居る”と考えて、そこで「臣下族の青木氏」の若い2代目の跡目に目を付けた。
この時、「国策氏」だから青木氏の「跡目と一族」等は手を打った。 ”ある程度観て試して見よう。”と成る。10年程も待つまでも無く完全に効果が出た。
そして、所期のシナリオの通り、若い2代目跡目「白壁王」も「長」として育った。
25年位経った頃合で 3代目跡目(井上内親王の子の他戸親王)も育った。
為政者側は、予定のシナリオ通りに「青木氏の2代目跡目」の ”「白壁王」にやらせて見よう”との機運と成った。その時、「青木氏の長」の「白壁王」はもう61歳であった。
「天皇」としては、”青木氏の「民からの信頼と尊厳」とその間の「法の経験」から「抵抗と反発」に抗する事が出来る”と考えた。
その為には、先ずは、この「青木氏推進派」は、出来るだけ反対を防ぐ為に ”他の親王の粛清をしなくては納まらない”と成る。
これは最早、50年も経っているから「国の存立」に関わるのだ。
「氏」より「国の存立」が優先されるから、これでも条件を整えたにも関らず抗する者は排除しなければ「国の存立」は成立たない。最早、猶予は無い。
然し、それでも”内親王の女系天皇の継続を推す反対者が出た。政局は混乱するだろう”と成る。
”最早、女系天皇は類代7代も続いた。女系直系族に成って一人しか居なく成って仕舞っている。”
”拙い、血筋は絶える。” と成る。
然し、残るは、”正規には ”「井上内親王」だけだ”と成る。
そして、「井上内親王」は「白壁王」の正妻である。
其処に「女系皇位継承者」の唯一人の「他戸親王」が居る。
どの様に考えても、”「白壁王」しか居ない。”と答えは出る。
其処で、「特異な立場」の ”青木氏は絶えしては成らない。2代目は弟の湯原新王と榎井新王に継がせよう。” と成る。(第4世族外で臣下族は対象外)
そして、”今は「臣下族」に成って居るが、新しい「王位」を与えて皇族系にして置こう。”と成る。
其処で、反対派の女系継承者側は、当然に「素養・修養・人格・度量の低下」なのだから、”親王粛清””内親王抹殺””白壁王暗殺”の粛清連鎖が起った。

以上、この様に「善事撰集」の公布中止の本波は、「皇位継承問題」と絡んで歴史的経緯で観て上記の様な「シナリオ」が生まれ続いた事に成る。

>「5家5流青木氏の危機」
このシナリオの余波は「5家5流青木氏」にも伝わり、上記した様に「粛清連鎖の波」が当然に押し寄せていた。
この時、「5家5流青木氏」も ”「白壁王」の事もある。”、”「特異な立場」にあるのだから引っ張り出される”、”危ない。何とかして護らねば「氏」は絶える。”と成り、そうなれば、”「生仏像様」の下に青木氏は一致結束しか無い。”と考えた。
(そこで、上記の「古代密教の教示」に従う事に成った。)
同様に低下していた同族の「純血血縁族」の「青木氏」に於いても、国が律令を公布して「素養修養の低下」を防がねば成らない筈であったが、然し、公布しないのなら、「国策氏」である限り、せめて「氏の単位」でも果さなければ成らない宿命を負った事に成る。
(然し、この後の息子の桓武天皇に排斥された為に絶体絶命に落ち至った)
そして、幸か不幸か始祖が編集したものであるとするならば、尚更の事であり、採用しない方がおかしい筈で、”「資質ある青木氏の長」はこれを「氏」に「遺訓」として必ず宛がえた”と考えるのが普通であろう。
だから、「善事撰集」を以って「氏の資質」を高めていて効果を上げている「施基皇子の嫡子」に「白羽の矢」が当てられたと考えられる。
そして、上記のシナリオの様に、その「青木氏一族」に、長年の願いであった「素養・修養・人格・度量の低下」の現象を食い止めさせて、”律令の本当の完成”を期待したと考えられる。

故に、「桓武天皇の律令国家の完成」であって、「神明社20社の建設」(青木氏の守護神に明記)であって、その模範と成った「青木氏」を、律令国家の中で放置する事は、「御師様」「氏上様」と民から慕われて「信頼と尊厳」をより勝ち取っていた処に、為政者は「民の反発」を受ける事に成る。放置出来ない筈である。
更に、無理に人気の挙がった青木氏を放置する事は、逆に「皇親政治」を助長し、真逆の「律令政治」の完成の障害と成る。(桓武天皇は考えた筈)
ところが、この事の逆の考えでの「桓武天皇の青木氏の排斥」に会った事に成る。
だから、「光仁天皇」は「青木氏」等を「新王」として造り上げて律令の体制を作りながらも「皇親政治」を敷いたが、この「路線の違い」が、次ぎの「桓武天皇」と子供の「嵯峨天皇」の身内の「路線争い」へと繋がった事に成る。
更には、この時、「氏社会」では「素養・修養・人格・度量の低下」が起こっている中で、人の「衆目の的」と成っている「青木氏」には、「善事撰集」を以って「氏の資質」を高めていて、そろそろ効果を上げていた時期でもあった。
況して、「天照大神」と民の主神とする「物造り神」の「豊受大神」を祭祀し、且つ「皇祖神-子神-祖先神」を護っている「氏」であるとすると、民の「信頼と尊厳」を勝ち得ない方がおかしい事に成る。
筆者は、むしろ、この状況を観て、平安初期の各天皇は、「国策氏」である事を理由にして、”青木氏を利用した”と考える。それが上記のシナリオと成ったと考えられる。
実家先でも有り、「3つの発祥源」でもあり、「国策氏」でもあり、「融合氏の源」でもあり、「武」より「和」を尊ぶ等の「青木氏の立場」を「為政者」であれば、むしろ、身内であればこそ利用しない方がおかしいと考えるし、「国策氏」として当然に利用される立場にもあった。
これは当然の自然の成行きシナリオであった事に成る。

「善事撰集」を国として公布するのでは無く、「大化期3代天皇」更には「文武、聖武、光仁の男系3代天皇」等は、変更して「試行氏」として、先ずは「青木氏」に敷いた事も考えられる。
そして、”時間を掛けてその成果を観た”とするのが普通ではないか。その上で、「近江令」の様に失敗する事は2度と出来ない事から ”将来の律令国家建設に向けよう”と考えたと観られる。
(この間、2つの律令が発せられた)
それを桓武天皇が引き継ぎ、大きく編集と修正を加えて「律令」を敷いて「法」を基本にする「律令国家」を初期段階として完成させた事に成る。

>*「注釈書」の「令解集」
上記するシナリオから完全な律令施行の桓武天皇期(781-806)までは、時間は約90年も掛けた事に成る。この間では「大宝律令」(701)や「養老律令」(718・757)が、公布されたが中国唐の律令「永微律令」を参考模倣にした程度のもので、矢張り「近江令」の域を脱せず「令」に付いて説明する「注釈書」程度の「令解集・令集解」であった。
上記した様に、中国の「法より人」「石は薬」の考え方から「人」の「令」を優先し、「法」の「律」は一部で終わっているものであった。
その「令」も一般に「令解集」と呼ばれるもので「注釈書」程度の様なものであった。
「養老律令」も「大宝律令」の注釈字句を改定した程度のもので、完成後40年間も施行されなかった。
内容は「近江令」(689)と殆ど変わらない状況で、「律」と「令」共に散逸していて、「令解」の一部を「令」に仕立てたものであった。
「3つの律令」があったにせよ、この時代は全て「令外法令」の形で「令解方式」(注釈書・説明書・添書)を基本にしてで進んだ。
桓武期に、これを何とか「律」を充実させ、「令」を「法令」の形にまとめ上げたもので、「律令国家の体裁」を整えたのであった。この「体裁」を作り出す元にしたのが、「国策氏青木氏の善事撰集の試行」のシナリオであった観ている。

>「訓戒の6経緯」
「第0次の訓戒」 「参考」
然し、この間、上記した様に「善事撰集」を導入した「青木氏」には「大きな成果」が出ていたが、その根拠は、衰退前後から「2足の草鞋策の商い」に中心に置いて立ち上がり直したのも、この「善事撰集」の御蔭で一族一致して「氏の資質」を高め頑張る事が出来た事でも判るのである。

「善事撰集」の試行は、「白壁王」を天皇に据える事もこの「国策氏」の者であった事も一因であったと観られるが、確かに粛清から逃れる為に「愚者」を装った事もあるが、「国策氏」であった事の方が原因は大きかったと考えられる。
故に、上記した様に「施基皇子」の「28年間」を(第0次の訓戒 「参考」)とする前提としている。
青木氏の「善事撰集」を基本とする「訓戒の経緯」は、状況証拠から、次ぎの「6つの遍歴」を遂げたと考えられる。

(第1次の訓戒 「心得」)
そもそも、国にまだ充分な律令が完成してい無かったものを、発祥して150年経ったばかりの「青木氏」に「行動指針」なるものが元よりある訳ではないし、始祖が作った優れた手本が手もとにあるとすれば、願っても叶っても無い事であり「青木氏」に限らず誰でもが原案としない筈はない。
むしろしない方がおかしい。
国に答申した「善事撰集」である以上はこれを原案とする意外に無いし、国も試行案として「特異な立場」にある「青木氏」に使わさせる事はむしろ育てる意味も込めて歓迎であった筈である。
それをいき成りは「家訓」とはせずに、ある程度の整理をして次には「参考」から「心得」にしたと考えられる。
恐らくは、国に既存の律令とする概念も充分に育っていない処で、「氏を取り纏めるの家訓」と云う概念は未だ育っていなかった。その時、曲りなりにも「令解集」を使って「令外法令」を敷き、国に次第に「律令の国家」の体裁を敷いた事をきっかけに「3つの発祥源」、「国策氏」、「融合氏」として、始めてその概念を氏に育てる為に合わせて敷いた事が考えられる。
(第1次の訓戒 「心得」)

(第2次の訓戒 「行動指針」)
この時に、第4世第4位皇子以内の「真人族」が持つ継承権に対して、「皇位継承順位外」であった第6位皇子の朝臣族・臣下族となった「施基皇子の家」(中大兄皇子の第3位王、孝徳-天智天皇下の第7位子、1皇子死亡下で第6位子、天智-天武天皇下では第6位皇子)に対して、「第4世族第6位皇子系族の伊勢青木氏」の「嫡子」であった「白壁王」を、奈良期に女系天皇が続いた事もあって天皇家継承者不足に落ち至った。そこで、依って「光仁天皇」として迎える事と成った。
(参考 第4世族で第6位皇子の第5世孫 光仁天皇即位に依って2人の兄弟は特別に新王・親王に任じられる。従4位下から従2位下に成る。)
この事で空席と成った「伊勢青木氏の嫡子」を引き継いだ者(湯原新王・榎井新王)等が、父の成した「善事撰集」(撰善言司)を「父の偉業・遺訓」として、これを遺す為にも、これを「統一した行動指針」として広く一族の「5家5流青木氏」に働きかけて遺したと考えるのが普通ではないか。
その為には拘束力の無い「心得」から、一族の「行動」を統一させる程度の拘束力を備えた形にし、一族全体に通ずる内容(指針)に修正し編集してより現実のものとして纏めたと考えられる。
(この二人は歌人で学者で書籍を遺した人物 湯原新王の娘の尾張女王は光仁天皇と純血婚)
(第2次の訓戒 「行動指針」)

(第3次の訓戒 「家訓原型」)
その時、「施基皇子の善事撰集」は「伊勢青木氏」に既に「心得」の様な形で敷かれていたと考えられる。これが次第に修正が加えられて「嵯峨天皇」に依って徐々に「第2期皇親政治」が始まり再び「青木氏」は蘇って来たのであるが、完全に再興を遂げたのは「特別賜姓族の補完策」であった事から、「嵯峨天皇から円融天皇」までの間には「氏の家訓」(原型)として体裁を整えたものに成っていたと考えられる。
(第3次の訓戒 「家訓原型」)

(第4次の訓戒 「訓戒完成」)
此処から既に「5家5流の青木氏」とは「母方血縁族」であった「特別賜姓族青木氏」が跡目に依る「同族血縁」を繰り返し116氏にも子孫は拡がる。
この段階で「5家5流賜姓青木氏」と「116氏の特別賜姓族青木氏」は最早、母方血縁族では無く完全な一族の血縁族に成り得ていた。
同族血縁的としては「1系族」と成っていたと考えられる。
「特別賜姓族青木氏」の発祥は960年頃であり、「5家5流青木氏」から観た「2足の草鞋策」は1025年頃とすると、少なくとも家訓内容からこの60年の間にこの同族の血縁関係は完成していた事に成る。如何に盛んに跡目血縁をして同族血縁を積極的に施策として推進していたかが判る。
この時は、家紋分析から116氏の内、既に約6割程度に拡大していた事が判る。
その地域は「特別賜姓族青木氏」の赴任地-末裔発祥地24地域の内、7割程度に成っていた。
この段階では「商いの記録」から観て、特に親交が強かったと観られるのは「7地域」で、ここには「融合青木氏」が発祥している。この事から「1系族」と成っていた証しであろう。
この段階で青木氏の家訓の全てが完成していたと考えられる。
(第4次の訓戒 「訓戒完成」)

(第5次の訓戒 「家訓完成」)
この時、「参考」-「心得」-「行動指針」-「家訓原型」-「訓戒完成」の経緯を辿ったと考えられるが、「家訓原型」に至る処では「行動指針」の内容を「訓」「戒」「慣習」「仕来り」「掟」等に分類されたと観られる。
「2つの添書」や「家紋掟」や「口伝」や「商記録」や「神明社記録」や「菩提寺遺記録」等を考察すると分類されていた事が判る。
そして、「訓」と「戒」が一つに成ったのはこれより100年程度後の頃では無いかと考えられ、現在の形に整えられたと観られる。
この段階で皇族賜姓族25氏、特別賜姓族116氏、末裔発祥地24地域は完了していた事が判る。
(第5次の訓戒 「家訓完成」)

(第6次の訓戒 「家訓編集 添書編集」)
「平易な表現」に編集されたのは室町期中期前ではないかと観られる。
何故ならば、「室町文化」の「紙文化」と呼ばれる時期にはその殖産から販売までを1手に担う紙問屋の「2足の草鞋策」で「巨万の富」を獲得して青木氏は最大の力を有していた。
この事から、「2つの血縁青木氏」のその「組織体が拡大」し、それに伴ない枝葉の末裔子孫の拡大が大きく成った事や、「神明社系建設」が一挙に進み、「氏や民」からの「信頼と尊厳」を更に維持しなければ成らなく成り、その事から一族全体隅々までその「特異な立場」を護る為に誰でもが理解できる様に表現を平易に編集したと考えられる。
「家庭の末端」が乱れていては「信頼と尊厳」は低下し、「特異な立場」は霧消に終わり、「青木氏の存続」は保証出来ない事と成ろう。”実った稲穂は頭を垂れる”の例えである。
「家庭」と「長」との「訓」と「戒」が「一つの繋がり表現」の中で同時に関連して認識させて理解させられる「家訓」に編集したと観られる。
その為に「訓」と「戒」を一体化にした為にその絡みを「添書」類に説明書の様な形で書き添えたと観られる。
その前の「添書」は「慣習」「仕来り」「掟」等に分類され「訓戒の設定経緯」等が主に書かれていた事が読み取れる。
(第6次の訓戒 「家訓編集 添書編集」)

>「律」の状況
「慣習、仕来り、掟」
上記の様に、「6つの遍歴」を経て今日に伝えられたと考えられる。その「家訓」(訓と戒)と「古代密教の教示」類や「慣習、仕来り、掟」類のこの「3つの内容」は、「善事撰集」の内容の一部と成っていたと考えられる。
ただ、この「3つの内容」にはどうも「律」に関する事がはっきりしない。
この「律」に関する事は、明治35年の「菩提寺焼失」までは何らかの形で青木氏に書籍化して保存されていたことが判っている。
そこで、この「律」に付いてどの様に「青木氏」では扱われていたかを遺された資料記録から検証して見る。
それは、生活に直接結び付いている「慣習、仕来り、掟」の中に潜んでいると考えられる。
何かを物語るものが必ずある筈で、その事を次ぎに論じる。
先ず、「慣習」に付いては、特段には、盆暮、正月、彼岸、命日、冠婚葬祭などがある。
これらに付いてはその「慣習」は現在遺されているものでも、これ等は明らかに周囲と異なっている事が判る。
その異なりに答えがあると考えられる。何故ならば、この「慣習、仕来り、掟」には、その時代性の中で問題無く円滑に進めて行くべき「規則的なあるべき姿」が必ず潜んでいる。
それでこそ「慣習、仕来り、掟」であって、「規則的なあるべき姿」を判りやすく生活の中に維持しているのであるのだ。
つまり、「規則的なあるべき姿」=「慣習、仕来り、掟」であって、伊達に特異な立場だからと云って形式張っている訳ではない。
況して、現在では最早ない慣習であり、”「氏家制度」の大化期からの社会構造と時代性”なのである。現在の様に、「律」と「令」が完全に法令化して完成している訳ではない。
上記した様に、「法より人 石は薬」の考え方が色濃く占めている社会の中では、「慣習、仕来り、掟」の中に潜ませて護る様にしているものであって、その「慣習、仕来り、掟」を犯せば社会からはみ出すのである。
つまり、少なくとも「武家社会」に入る前の「平安末期」までは次ぎの様な数式論に成るのだ。

>「慣習、仕来り、掟」=「律」
>「規則的なあるべき姿」=「慣習、仕来り、掟」
>∴「規則的なあるべき姿」=「律」
上記の数式論が成立つのである。

となれば、その数式論を的確に表現しているのは、縷々上記した様に「特異な立場」の「唯一の氏」の「青木氏」である事に成る。
青木氏以外に「慣習、仕来り、掟」の中に幅広く潜ませられる「氏」は他に無く、筆者の論理では、この青木氏の「慣習、仕来り、掟」が他氏へと広がって行ったと考えている。
何故ならば、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」が「慣習、仕来り、掟の源」であるからで、「青木氏」よりこの立場を持つ氏は他に無いし、「善事撰集」の氏に敷いたのは青木氏である。
この「慣習、仕来り、掟」は、その大元は上記した様に「善事撰集」にあるとしている。他にあるとするならば教えて欲しい。無い筈である。
逆に云えば、この「律令の歴史事の経緯」を網羅するには「青木氏の努力」以外には無い事に成る。
故に、難しいがその内容を牽き出して敢えて可能な範囲で先ずは「慣習」から例を以って網羅する。

・「慣習」
(「接客の要領」)
先ず、青木氏の「慣習、仕来り、掟」の中で、「日常の慣習」に付いても「接客の要領」(「面談の要領」)が格段に異なっているので先ずこれを紹介する。

「接客の要領」であるが、「客」が訪れた場合の「客を導く方法」では、先ず、客を3種に分けていた。
それは「常人、註人、解人」で、「人」の字句は「客」としている部分もある。
要するに「下中上」の事ではないかと観られ、「常人」はいつも来る人、「註人」は注意を要する人、「解人」は解する人、つまり、理解しなくては成らない人で、「重要な人」の扱いである。
先ずは、「接客する入口」では、「解人」は正門口から玄関、「註人」は正門横の戸口から横口玄関、「常人」は裏門から政処口(台所口)と成っていた。
「客に対応する人」では、「解人」は家人、「註人」は書生(執事)、「常人」は男仕と成っていた。(男仕はおとこし、女仕はおなごしと読む 商用客は女仕で別)
「接待の内容」もこの3種に依って原則異なっていたし、「茶」などの「持成し方」も違っていて、現在で云えば、「茶道の作法」に近い形に基づいていた。
むしろ、この「茶道」はこの「接待時の茶の出し方の慣習」が室町期中期頃から「茶道」と成ったと観ている。原型であったと考えている。(ただ、「武家様」に簡略化されていると観られる。)
「茶道」の「道」と成る前は、”上位階級の「接客の作法」”として存在していたのである。
室町期中期以降の「茶道」は「上記の内容」や「下記の内容」を加えたこの慣習から道化させたのでは無いかと考えられる。

(「千利休」は堺商人、堺には伊勢松阪の青木長兵衛の「紙屋長兵衛の3店舗」があり、何らかの繋がりはあった事から伝わったか、武家社会に成った事から無骨な武士の人間関係を解す為に、”上位階級の「接客の作法」”を「武家様」に改善してそれを一つの「社交マナー」に変身させたものであろう。つまりは、その大元は青木氏にあったと説いている。)

つまり、上記の内容に従い、「茶の種類」と「菓子の種類」と「茶器の種類」の違いを付けていた。

(この違いは残されて用具でも観られるが、この「古い茶器一切」は「遺品」として今も遺されている。茶と菓子には意味合いが大して無いので割愛する)

「茶器」には武家の様に「器」を直ぐに掌の上に載せて飲むのでは無く、「瓶」とする「器台」に載せてそれを持って「一回廻しの3回半」で飲む作法である。この「瓶」は「高瓶」と「低瓶」と「茶座」と「茶敷」の4つに分けられていた。「座卓」では無い。「茶敷」は客人ではない「歌会」などで用いていた。(歌会では全て同位として「解人」の扱い。 僧侶は解人)
この「3つの茶瓶」は上記の「客人の位種」に依って変えられていた。
「高瓶」(高さ5寸で二重に成った3寸の薄椀の下に一握りできる程度の湾曲の足柱が着いていて裾広がりに成った器)は高位族と武家に解人、「低瓶」(3寸)は公家に解人、「茶座」(茶台1寸)は中位に註人、「茶敷」は一般に常人で「使用別け」される。朱色と黒色の漆瓶器で朱色金入は冠婚、黒漆器は葬祭に使い分ける。通常は木肌色か朱色の漆瓶器である。

(公家は武家では無く慣習が「低瓶」が作法 低く観ていた訳ではない。)

又、「上がる室」も異なり「3段の部屋造」で、上段間は「解人」、中段間は「注人」、下段の間は「常人」に通していた。
「常人」は下段の「玄関間」止まりで床から2段で3尺(0.9M)の高さ、「注人」は中段の「控え間」止まりで玄関間より3寸の高さ、「解人」は上段の「本座敷」(座敷は正副があった)で更に3寸の高さにあった。

(玄関間は座って客人と挨拶する時の目の高さが同じ様に成る位置にあり、部屋の大きさは畳2畳-一坪に「飾り棚や仕舞棚」などがあり、「氏の象徴」に成る品が置いてあるので6畳あり、玄関床も6畳-3坪)

この接客には、順序があって、家の主人に面会する時は、「玄関間-控間-仏間-座敷」と何れも客間であるが、玄関間は「常人」、控間は「註人」、「解人」は玄関間から座敷へと次第に変化して進んで行く。ただ、この時は、必ず「仏間座敷」(北に位置し南向き)に通る事が前提で、ここで主人と話して終わる場合がある。
本座敷(10畳)には、床間が東に位置し西向きにあり、3寸高い位置にあって、この前には客は座らない。主人は西又は南向きに座る。従って、「解人」は北側に位置して南向きに座る。西隣りは副座敷(10畳-控間がある)があり西には一切座らない。「解人」は結局は仏間を背にする事に成るので、失礼の無い様に仏間(2坪)の仏壇(2坪-生仏像様 横に安置)に先ず手を合わせる事の慣習に成る。
北は「鬼門」と呼ばれ、決して犯しては成らない位置として決められていて、「神-天皇」の御住の方向として守られる。その為に、「解人」は北に向かって座らない事に成る。(全て廻りは襖)

(鬼は決して怖い者では無く、神を護る人として3世紀より「鬼道」と云う「自然神」の信仰対象であって、平安末期まで神の一種の「鬼神」として崇められていた。
「鬼」は悪い事をすれば神に代わって懲らしめる者であった為に、「人」は懲らしめられる鬼を怖がったものであり、それが今では「悪魔」の様に間違えられて考えられている。これも重要な慣習の一つである。日本書紀に雷神と風神と共に神として記述がある)

主人との面談の対話には、畳一枚分を離して話す。
(筆者の時代の記憶では毎日客列を成していた。過去の口伝もあった。)
「床間」は家の一番高い位置にあり、この ”神が位置する座処”としての習慣であって、「神座」或いは「上座」と呼ばれていた。
今では古い家でも無い所が殆どで、有っても飾り物を置く場所と成っている。室間が3段に成っているのはこの習慣からである。床間には家の者は絶対に背を向けては座らない。
上記の慣習は「武家様」とはかなり異なっている。この家の間取りや慣習で古い屋敷を観ればどの程度の氏の家であったかは判る様に成っていて一定の形式が定められていた。
上記の慣習には、家の「格式、身分、階層」等の内容を「儀礼、作法」等の「有り様」として定め、上記の「接客の慣習」に限らずその中の要領に潜ませたと考えられる。
「冠婚葬祭の慣習の要領」の中にも「青木氏の特異性」がある。(何時か披露の機会を得て投稿)

鎌倉期からはこれ等の慣習は、「武家の有り様」としても用いられて、この大化期からの「特異な立場」の「青木氏の慣習」が、「武家様」に変化させて採用され伝わったものであると考えられる。
現在に「古式豊か」として伝えられている様式は全て「武家様」である。
その大元は、「武の象徴の青木氏の慣習」から伝播したと考えられる。

>「善事撰集」(「注釈書形式」)
そもそも、この大元は「善事撰集」と「古代密教の教示」にあった。更に云えば、「古代密教の教示」の考え方から「善事撰集」の内容項目と成っていたと考えられる。
この上記した「接客の要領等の慣習」は、ただ単に「接客」と云うテーマでの「習慣の内容」と成っているが、恐らくは、「善事撰集」では、この要領の「青木氏の接客要領」とは無関係に「根本の考え方」を網羅させていたと考えられる。
(「格式、身分、階層」等の内容を「儀礼、作法」等の「有り様」として別の「具体的な表現」で以って書かれていた事が覗える。
「青木氏」ではそれを「接客慣習」と云う形で、この「根本の考え方」を教え伝えたと云うことである。
つまり、「国」を始めとして「組織」(氏家)を維持して事を処置するには、この「根本の考え方」が必要であった事を意味している。
何故ならば、上記した様に、奈良期に編集された「3つの律令」は、全て”「注釈書形式」”の”「令解集」”であった事でも判る。
何か一つの慣習に準えて、その「令」と少ない「律」を説明したものであるからだ。
例えば、「接客」に例を求めたとして、”接客ではこの様に成るから、何々に付いてはこの様に考えて処置せよ。もしこの要領・作法を違えた場合は、組織を維持し守るべく規則を守らない事に成るから一族から阻害される”とする注釈を付けて「解釈書」を造れば、「令」と”阻害”の意味を以って「律」と成る。
上記した様に、「養老律令」は、「大宝律令の表現内容」の「表現字句」を変更したとされる処から考えれば、例えば、”阻害”を「追放」に変更した等の「律」をより明確にさせて、増やしての「改訂」を実行したと云う事であろう。
この「3つの律令」はこの様なものであった事に成る。これが「注釈書の令解集」方式であった。

兎も角も、上記の「青木氏の慣習例」には「共通な事」として、全て、”「身分」と「格式」と「氏・家柄」と「品位」”が事の隅々まで組み込まれた扱いと成っている。
大化期から「八色の姓(天武天皇)」を始めとして、「社会を階級制度」で「令外法令」を定めて構築を開始した。(日本書紀にも明記)
この事から、「天武-持統期の善事撰集」にもこの「階級制度」を維持する内容が組み込まれていたと考えられる。
それを「特異な立場」の「国策氏」の”「青木氏の慣習」の中に編集した”ものであろう。
次にこの慣習よりも更に色濃く出ているのが「仕来り」である。
上記の事(善事撰集の表現)をより証明するものと成る。

(まさに「家訓10」を物語る慣習がある。それは「嫁取り」の考え方である。
「嫁」は「嫁」として扱わず「自分の娘」としての考え方が強く、その嫁の「愛娘」に息子を託す。その「託し方」の考え方が世間と異なっている。自分達が育てていた「息子」を、今度はこの「愛娘」に母代わりとして引き継いで育ててもらうと云う考え方が強く、要は”「バトンタッチ方式」を採るのだ”とする考え方である。
従って、息子達の子供、つまり、”孫と息子を子供”としての考え方で、孫が3人居るとすると、「4人の子供」として、この「嫁の愛娘」に育てる事を託す考え方で接すると云う慣習を採る。因って、孫は「子供」としての考え方をする。そして、この「4人の子供」の育て方は、”お釈迦さまの掌で育てる”と云う事を「愛娘」に教える。代々この考え方の継承を続けて現在まで伝えられている。
「嫁の愛娘」もほぼ同じ「古代密教」のこの考え方の環境の中で育てられていた事からも円滑に進んでいた筈である。同じ「神仏習合の青木氏」である事から「冠婚葬祭の慣習」に付いても違和感は無かったと考えられる。
明らかにこれらの考え方は「古代密教の考え方」で、「純血の血縁族」である所以から来ている「古代密教の古式慣習」である事が判る。
「跡目継承」や「婿養子」や「貰子」等の「同族間の慣習」と同じく、この「嫁取りの慣習」も遠縁から「嫁」として迎えても「純潔性」が高い事から「愛娘」としての感覚の方が強かったと観られる。むしろ、強い感覚も然る事ながら「家訓10」を浸透させる上でも、この「バトンタッチ方式」に成っていて、内部の細部の慣習も氏のみならず、「特異な立場を保つ考え方」に成っていた事を物語るものである。
「嫁の愛娘」に限らず「実娘の婿」に於いても、”「女・娘」が「夫」を「子供」として「釈迦の掌」で「家長」に育てる。「親」はそれを見守る” の慣習で、一見して「夫=子供」は矛盾するが、「釈迦の掌」の考え方がこの矛盾を解決する。
この「釈迦の掌」をどのように理解するかはその「娘・女」の資質に関わるが、”これを補完するのが「親の守るべき立場・役目」であって、「娘・女」と「息子」に「直接の口出し」は「禁じ手」とする。” と成る。
因って、「家の如何」は、「息子の長」では無くて、「裏の戒言」では、 ”女が家を潰す”と成っている。
この場合の「女」とは、「親の女」と「娘の女」の事で、その「両者の出方如何」に関わるから ”女が家を潰す事” 戒めに成っている。
普通なら、”女が家を育てる”と成る筈であるが、これでは「訓」に成るのであくまでも「戒め」として言い伝えられたものである。「訓」では無く「戒」である事に意味を持っている。
それは、「家訓1」と「家訓2」の言葉を置き換える事で、この両者のあるべき姿を説いている事に成る。
この考え方は現在も引き継いでいるが、当初、息子の「嫁の愛娘」は、この様な考え方にびっくりしていたが、今はすっかり馴染んでいる。実母より義母に些細な事でも何でも相談するし、嫁の実母も驚いている。
一氏家の運営の事の真理を突いている慣習と考える。
「古代密教の古式慣習」ではあるが、これらの伝統を失った青木氏ももう一度この考え方を一考しては如何。)


・「仕来り」
「仕来り」に付いては、「慣習」よりより守らなくては成らない「規則」の意味合いを持っているが、従って、当然にその「規則」に故意的に違反すれば、「氏や家の秩序」を乱す事に成り、この様な事が頻繁に起これば、周囲に示しが付かなく成り放置出来無くなる。
当然に何らかの形で罰せられる事が起る。そう成れば、何度も重なれば罰則に不平等が起こる事から「律」を幾つかの程度に応じて決める事の次第に成る。
恐らくは「仕来り」には「罰則」がはっきりと設けられていたと考える。

実は、「青木氏の古い商記録」から「シンジケート」の一員に「経済支援の遅延策」を処置した様な記録が書き記されている。何か「仕来りの秩序」を乱す様な事件があったのであろう事が判る。
定められた「仕来り」に依って明らかに罰せられた事が判る。

上記した様に、「青木氏の慣習」の共通概念は、「身分、格式、品位」を汚す事が無い様にする為の「重要な要領(作法)」であったが、「青木氏の仕来り」の「共通概念」を調べると、結局は「特異な立場」(「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」)を維持する為の「重要な規則」に限定されていた事が読み解ける。
その内容から集約して読み取れる事は次ぎの様なものと成っている。
何れもその罰則の「律」に価するものは、「仕来り」>「慣習」の関係にあって、「仕来り」は「明確で具体的に表現」で、「慣習」は「大まかで抽象的な表現」である事に気付く。

>「律の4原則」

>「慣習」 →「要領」→「抽象的な表現」
>「仕来り」→「規則」→「具体的な表現」

>「家単位」→「合議制」←「全員一致の原則」
>「氏単位」→「衆議制」←「過半数一致の原則」

恐らくは、「善事撰集」には、先ず慣習として上記の様な事を定める事を促していたと考えられる。
「慣習」は、上記の様なルールで「衆議制」と「合議制」を採用していた模様で、記録は律に成るものとしては少ない。筆者伊勢青木氏は「四家と一家」で構成されていた事から集まって「合議制」で決していたのであろう。
「慣習」に付いては5家5流間の問題は夫々の「長」が集まって「衆議」で行われていた事が読み取れる。
かなり、今から観ても、「合理的で民主主義的」なものとして定めていた事に驚く。

(上記した「善事撰集」編集者7人の人選も「有識者会議での編集手法」で画期的であった)

大事な意味として、これは「武」でありながらも「和」で社会を構築しようと「善事撰集」では考えてその内容に強く反映させていた事を意味する。
況や、これぞ「始祖施基皇子」の「青木氏」の ”「武の象徴」は「和」を以って尊ぶ”に一致している。(この事は「掟」でも更に証明される)

平安末期以降の「特別賜姓族」も、何度も記述しているが、「格式、品位、官位、官職」等の一切を同じとして発祥した事から「伝統の慣習」も副ったが、藤原秀郷流一族一門との「横の関係」もあった事、「第2の宗家の立場」もあった事から「特別賜姓族」の中で「衆議制」を採り独自に行われていた模様で何かを物語る記録は発見されない。
(菩提寺焼失が無ければ明確に成った可能性もあるが)

(注釈 「特別賜姓族」は、当初は「皇族賜姓族」とは「母方血縁族」であったが、後には、「祖先神の守護神神明社建立」を通じて「跡目血縁」を盛んに積極的に続けた事から、最終は「完全な同族」に成っているし、「融合青木氏」も発祥する程に成っている。
この事から、「初期の流れ」が異なっていたと云う差異程度と成っている。ただ、「横の関係」に「特別賜姓族」116氏には「藤原秀郷一門」と云う日本一の超大豪族361氏が繋がっていて、「第2の宗家」でもある事から、「論じる時の違いの正確さ」を出す為に表現を区別して出している。故に、上記の「律の4原則」に従って、「慣習の処罰」は独自に行っていたと考えられる。)

然し、「仕来り」は青木氏全体に及ぼす問題であって、1家だけに及ぶ問題ではなかった事から、物語る資料記録が焼失で不明と成っているが、5家5流間での大化期からの「律」を「特別賜姓族」にも提示して調整していた事が考えられる。
それは「特別賜姓族の伊勢青木氏」には、特別賜姓族116氏の中では「特別な経緯」があるのだ。
それは「秀郷の祖父」の「藤成」が「青木氏衰退期」に「皇族賜姓伊勢青木氏」に代わって「伊勢の国司代」を数年務めた関係から、秀郷の「千国の青木氏」が正式に認められた時には、伊勢では既に藤原氏として繋がりを持っていて「残留族」を残していた。その直ぐ後の「特別賜姓族」を任じられて直後に伊勢に「千国の裔」を直に配置して、「特別賜姓族伊勢青木氏」を正式に発祥させた経緯がある。
この様な「特別な経緯」から、依って、「慣習」「仕来り」の引継ぎは、直に済んだと考えられる。
藤原氏の秀郷は北家公家に成り、「第3子千国」が父に代わって「藤原朝臣族で武家」を引継ぎ「宗家護衛団」(960)を担ったが、「朝臣族で臣下族」の「近衛護衛団」(647)の「青木氏」とは担うものは一切同じであった。
「「特異な立場」も「特別賜姓族」と成った時点で同じ立場を持った事になった。
これで「皇族賜姓族」が敷いていた「慣習、仕来り、掟」(313)の導入には、「同じ立場」を持った事により差した問題では無く成ったのである。
ただ、先ず「一つの問題」は、”「秀郷一族一門との横の関係」”を「第2の宗家」としてどの様に扱うかである。且つ、「二つ目の問題」は、「最古の藤原氏」であり、青木氏の「慣習、仕来り、掟」のものと類似するものを持っていた。
この「2つの問題」を「特別賜姓族青木氏」が解決しないと、同じ「慣習、仕来り、掟」を「同じ立場」を持っていたとしても敷く事は出来ない。
立場は同じであり「皇族賜姓青木氏の補完」を任務としている以上は、「皇族賜姓青木氏」の「慣習、仕来り、掟」に順ずるのが「物事の道理」である。
このどちらを優先するのかの問題と成る。
その答えが、「特別賜姓族」と成った「伊勢青木氏」であった。
そして、この「伊勢青木氏」は「武蔵入間の本家青木氏」(「第2の宗家の本家」)との「衆議制」(調整役)を敷いた事であった。
上記の「慣習」の中の「接客の要領」に観られる様に、取分け「茶瓶」の「高瓶」(武家)と「低瓶」(公家)の両方を採用している事から、この「調整事」が行われた事が顕著に現れている。
「特別賜姓族の伊勢青木氏」が懸命に本家との間を調整したと観られる。

(「特別賜姓族伊勢青木氏」は、「入間本家青木氏」とは上記した様に発祥期と「品位、官位、官職」等一切では、「特別賜姓族伊勢青木氏」の方が上であった。この事から調整は比較的に円滑に進んだのである。)

そもそも、元々「5家5流青木氏」とは「母方血縁族」であった事から「2つの伊勢青木氏」は「氏を構成する規則」を問題無く採用し遵守したと考えられる。
「四日市の融合青木氏」の発祥もこの事を証明する物である。
「本家入間青木氏との調整」が進ま無いで、”「慣習、仕来り、掟」を遵守しない”と云う事では「融合青木氏の発祥」はあり得ない事に成る。
「融合青木氏の存在」が「氏家制度」の中ではこの事を全てを物語る。
(「5家5流青木氏」には全て「融合青木氏」が発祥して入る事が証しである。)
「四日市殿」と呼ばれていて、「四家」と同等に「合議」を採っていた事が伊勢長嶋の北畠氏の戦いの時の記録でも判っている。
上記の「仕来り」より、次ぎの「掟」はその言葉の意味からも、更に、「律」に関して敏感に取り扱われていた筈である。

・「掟」
「掟」に付いては、その呼称の意味からも「刑罰の意」が強い事が判る。
「仕来り」の「規則(罰則)」に対しては、「罰則の律」が多く絡んでくる事はあったとしても、取り入れる事は比較的に容易であった。
それは、「仕来り」は、”違反者に罰を科する為の規則”である。
然し、「掟」は、”犯罪者に課せられる法律上の制裁”である。
以上の様に、「氏家制度」の中では法学の歴史文献から定義されていた模様である。
他の「仕来り」と「掟」の「内容の差」を観て見るとこの様に分類される。(現在でも同じ)

ただ、難題は「掟」(制裁)のところであった筈で、「法より人 石は薬」の蔓延の中に「善事撰集」では、「氏家制度の確立」の為に、この「規則と制裁の内容の差」を持ち込んだのである。
上記した様に、「法より人 石は薬」の考え方が蔓延する事による「社会構造の崩壊」に対する「朝廷の危機感」が在って、その対策として「氏家制度の構築」を促す事が「最優先の政治課題」であった。その為には、「律」を強化して、「規則と制裁の内容の差」を組み入れたのである。

「慣習」=「要領」
「仕来り」=「規則」=罰則
「掟」=「制裁」=刑罰

社会の傾向に反して、この事、即ち、「規則(罰則)+「制裁(刑罰)」が「善事撰集」に大きく反映していたから「公布中止」と成ったのである。
恐らくは、「慣習の要領」や「仕来りの規則(罰則)」ではある程度納得せざるを得なかったのでは無いかと考えられる。
然し、この「社会の根幹部の決り」を成す「掟」であるが為に、危機感を持つ「持統天皇と施基皇子」は、この「規則と制裁の内容の差」だけは譲れなかったのであろう事が判る。
そもそも、その「掟」とは、あらゆる「組織」を維持する上で絶対に犯しては成らない「原理原則の決り」である。
この「原理原則の決り」は、その「氏」に取って欠かす事の出来ない変える事の出来ないものである。
とすると、これを犯せば「制裁(刑罰)」を受けるは道理で、要は「掟」には必ずそれに伴なう「厳しい律」が伴なわなくては成り立つものではない。
即ち、「掟=律」の関係があってこそ組織は成立つ。
そこで、その「掟」の一例としては、「皇族賜姓伊勢青木氏」に遺されたものとして代表的なのは、「家紋掟」である。
要するに「氏の象徴」とする家紋には、”「氏」が何らかの影響を受けて変化”を余儀なくされる事が起る。「子孫の継承存続」に関する問題を円滑に進める為の「厳格な要領」を事細かく書いた要領書であり、当然に、それには「罰則」は元より「刑罰」に主眼を置いて定められたものである。
これを放置すれば「氏」は構築されない。

そもそも、「屯」を前提とする「氏家制度」の社会構造を構築しようとする時、これを守る「掟」が崩れれば社会構造は成立たない。況して、その初期段階であった。
(詳細は「家紋掟」参照)
恐らくは、その意味でこの事が「善事撰集」に最も重要な内容として、この「家紋掟の基本形」、即ち、「氏の継承掟」(掟=律)が書かれていたと考えられる。
然し、大化期には「家紋」の概念は未だ無かった。
「家紋掟」の名称は、「氏の象徴紋」として朝廷より許された「認証氏」が用いたものであり、従って、平安末期にその名称を変えたと考えられる。
その名称を変えなくては成らない問題が「青木氏」に起った事に成る。
(第5次頃の訓戒で呼称変更)
そもそも、当初は、「氏家の象徴」と観られる場所に明示したもので、門柱、嘉門柱、上記の瓶器、牛車等に用いられたものである。これが後に「家紋」と呼称された。

>「訓戒の編集」
「平安期の訓戒の編集」はこの事からも証明出来るが、それは次ぎの事であった。
「皇族賜姓青木氏」は、上記で論じた様に大化期から「純血血縁」を基本としていた事から、その「枝葉末孫」は全てその「血流の差」が無く、「宗家方式」採用であって「分家方式」は採用していなかった。依って、家紋は「賜姓紋の笹竜胆紋」に統一されていた。
然し、「特別賜姓族」との血縁により960年代から980年代に「融合青木氏」が5家5流に発祥した。この事でこの「融合青木氏」には、「特別賜姓族側」のこの「掟」の「氏の継承方式」を採用していた模様で家紋は多様と成っている。
ただ、「特別賜姓族」との間で「跡目、養子、貰いの継承方式」を「子孫存続」の為に多用して血縁関係を結んでいた為に、「笹竜胆紋」を採用せずに「皇族賜姓族の関係族」としても「綜紋」とはするものの秀郷一門の主要紋の継承が有った。
つまり、「氏」は「皇族賜姓族側」に入り、「掟」の「氏継承方式」は「特別賜姓族側」に従うものと成っていた事を物語る。
この事からも「掟」は、「特別賜姓族の伊勢青木氏」の調整の下で「2つの青木氏」の間で検討され、両氏に調和する内容に調整されていた事を示すものである。
「家紋掟」は、当初は「氏継承掟の内容」であったが、「特別賜姓族」の発祥に依って変化し、「皇族賜姓族側」と「特別賜姓族側」とに差異が僅かに出た。
「皇族賜姓族側」にもこの時期に「枝葉末孫」(傍系)に「宗家方式」だけでは除し難い事が起こっていた事を物語っていて、結局は、ある程度の修正を加える必要が生まれた事に成った事を示し、その呼称であった。
女系は兎も角も、「枝葉末孫の跡目継承」の判断に問題が生じたと考えられる。

結局、これを筆者の「伊勢青木氏」で観て見ると、「四家」の直系からの末裔は「笹竜胆紋」を継承する事に成っている。
「笹竜胆紋」ではないが、筆者の「伊勢青木氏」で信頼され、確認出来るところでは「傍系の5氏」が発祥している。(個人保護により氏名は匿名)
事程左様に、5家5流にも同じ事象が起こり、同じ程度の傍系氏が起っていると観られる。
筆者の「家紋掟」は、「5家5流青木氏」と「特別賜姓族青木氏」の主要氏に採用されて入る事がこれで確認出来る。
この事が記録の中の表現から「信濃や甲斐の青木氏」にも採用されて入る事が読み取れる。

(近江青木氏と美濃青木氏は平安の源平の2つの戦いで滅亡し、枝葉末孫がその後に「青木氏」を復興した。)
(「特別賜姓族」では、秀郷一門の論文で詳細に論じた氏名に「藤」の付かない主要豪族の「青木氏族4氏」がある)

>遍歴の補足:「歴史的な背景」
「参考」-「心得」-「行動指針」-「家訓原型」-「訓戒完成」-「家訓完成」-「家訓編集 添書編集」
以上の様な「家訓の遍歴」を持ち続け、「青木氏」を興し維持して来たこの関係した数人の「伝統的な人物像」を、「武の象徴」でありながらも「和」を追い求めなければ成らない「特異な立場」の「長」に、”「青木氏の理想像」として追い求めたのではないか”と想像出来る。
そもそも、大化期の「始祖施基皇子」からの引き継がれた「古代密教の教示」と「善事撰集」と「何らかの口伝類」と「慣習、仕来り、掟」の類が、上記の様に次第に遍歴を遂げ、数代後の桓武期の「青木氏衰退期」に「家訓」に反映したと考えられる。
それは「桓武天皇」は「律令国家」を建設すべく「平安遷都」をして人心を一新した。
この事に依って「律令国家」の真逆の「皇親政治」の一員であった「青木氏」は排斥されて衰退した。
この時、「青木氏」は「氏の律令」に匹敵する「家訓の原型」と成るものを興したのでは無いだろうか。
何故ならば、「青木氏と守護神(神明社)」、或いは「日本書紀と青木氏」でも詳細に論じた様に、「伊勢王の施基皇子」(この時の伊勢国司代は三宅連岩床) は、上記「3人の天皇」の下に「善事撰集司」(撰善言司)に任命されて、全国を飛びまわり日本に最初の「律令の基盤」の編集を行った人物である。
「日本書紀」や「類聚三代格」等にも明記されている。その「施基皇子」の国許伊勢にもこの「律令の基盤」としての現在の「家訓の原型」成るものを設定したと考えるのが妥当であろう。
ただ、「家訓」と表現したかは不祥であるが、伊勢の国許にも自分の造ったこの「善事撰集の原型」なるものを敷いたのではないかと考えている。
”国許と云う事だけでは無く、伊勢神宮を皇祖神とし、その遍座地として定めた時でもあり、そこを確実に安定した形で伊勢を護らなければ成らないと云う使命感から、自らが造った「善事撰集の原型」を敷いた”と考えるのが普通ではないかと考える。
「善事撰集の原型」を使って「小さい氏の律令国家」を試行的に構築して試したとも考えられる。
そして、後に「青木氏の守護神(神明社)-22」で論じた様な「青木氏の変化」と共に拡大する「氏の律令」として必要な物に編集し直したと考えられる。
それが「訓」では10、「戒」では10に纏められた物であろう。
これ以外にも「長の資質」等の上記する口伝類から推測すると、現在に伝わる口伝類の10類程度と50類程度の「氏の伝統」の「慣習や仕来りや掟」(「青木氏の守護神(神明社)に明記」が定められていたと考えられる。
「家紋や守護神や菩提寺等の類」を加えると、凡そ100程度の「善事撰集」に成っていたであろう。その中から「訓と戒」類を「家訓10訓」として引き出したと考えられる。
その時期は「特別賜姓族青木氏」(960年代頃)が誕生した事をきっかけに新たに一回目の再編集としたのであろう。
この後(50年後)、直ぐに正式に「和の商い」に入る事から現在のものに成ったと考えられる。
この頃から「特異な立場」は上記した「公家衆との経緯」論から厳しさは更に増したと考えられ、その厳しさから「2つの血縁青木氏」を「公家衆の攻撃」に対し遺漏無き様にする為に、その必要性は増したと考えられる。

>「長の資質の全様」
さて、話を元に戻して、上記の様に、「善事撰集と古代密教と慣習仕来り掟」を実行するこの様な(特記)の「歴史的な背景」を踏まえると、「長」という資質に大きく関わってくる。
「青木氏」が云う「大者」とは、もとより「大者」でなくては成らない事は決して無いのであって、むしろ”「大者」であっては成らない”としている事が良く判るのである。
この様に、何も”豪傑の様な大者”と云う意味合いでは決して無く、また必要無く、むしろ、”そうであっては成らない”と戒めているのである。
これは「家訓1」から「家訓6」までにきつく厳しく訓戒している事でもある。
何故ならば、「大者」とは、時にして ”自らを忘れて自らの枠を超えて暴走する性”を持っているからに過ぎず、”「和の姿勢」を忘れ「特異な立場」を永代に絶対的に守らねば成らない青木氏には相応しくない”と判断しているからである。
然し、他が思う事には問題は無いし、自らが「繊細な人物」であればこそ、この「枠」を超える事はないとしているのであろう。
ただ「神経質だけの者」でもあっては萎縮してしまう事に成る訳で、其処で”「緻密で戦略的な先見眼」の資質”を持ち合わせている事を求めているのである。

この様に「青木氏の長」には ”緻密で戦略的な思考原理の資質”と云う「繊細な気質」が求められていたのである。
この「繊細な気質」から発せられる事が、その結果として「公家衆」を威圧する位の「度量と人格」で良いのである。これは真に「家訓2」で訓じている事でもある。
「青木氏の長」には、何も”太っ腹の大物”と云う「長」を要求していない事に成る。
これが「特異な立場」から来ている考え方であり、重要な事は「相当な精神力」や「繊細で戦略的な先見眼」は、「繊細な気質」の者が会得出来うる資質なのである。
決して、「資質ある者」、即ち、「長」としてあるべき姿は、むしろ、決して「豪放な人物」「豪傑風」ではあっては成らない事を「家訓2」で戒めている。
これは、「武の象徴」で「武」を以ってするのなら「豪傑や大者」で良い筈だが、「武の象徴」で「和」を以って「特異な立場」を全うしょうとする場合には、上記の様に「繊細な気質」で以って「2つの抑止力」で威圧して、「大者」と印象を与える事で「家訓10訓」が導く「長」の姿と成る。
この事で「武の象徴」の役目は成立つし、「和の姿勢」も成立つ事で「公家衆」からの「非難の口実」を与えない事に成るのであり、家訓への矛盾は無く成る。

>「相当な精神力」=「繊細で戦略的な先見眼」+「2つの抑止力」=「青木氏の家訓の長」
>「青木氏の武の象徴」=「繊細な気質」+「2つの抑止力」=「青木氏の長の姿」

(参考 この「考え方」は現在でも口伝で伝っている。”豪傑の様な大者(大物)を善しない”とする「家風の考え方」がある。よく親から”大者ぶるな”と口癖で戒められた記憶があるが、この「家訓の名残」であろう。
「伊勢青木氏の家風」としては代々「大者」は禁句で、「善」とはしない考え方があったがこの伝統であろう。又、「刹那主義」「喜怒哀楽」を否定する「享楽ボケ」(刹那ボケ)の「伝統の言葉」も「家訓の名残」である。
これは「神仏習合」から来た考え方が口伝として遺されているのだ。
「善事撰集」と「古代密教」と「神仏習合」と「特異な立場」の「4つの考え方」の真に「習合思考原理」で培われたものであった事が判る。
この事は「2つの青木」氏以外には起り得ない思考原理である。これが脈々として、然し、時代遍歴しながら伝わって来た「伝統」である。)

上記の経緯から考えて、「口伝の様なもの」は何かの形で文書化されていた可能性があり、「慣習類」、「仕来り類」、「掟類等」の形で、今で云う「マニアル化」していた事が状況証拠で確認出来るが、残念ながら「松阪大火の菩提寺焼失」で不祥と成っている。

「2つの伊勢青木氏」に何とか上記する様な事を検証出来ている事から、他の「4家の賜姓族」や主要な「特別賜姓族」にも「何らかの形」で「宗家筋」には遺されている筈であるが、発掘は困難と成っている。
「冠婚葬祭」時の「3つの類の内容」が他氏と異なり過ぎている事から、これだけの事を口伝では無理であるので元はあった筈である。
同じ程度であればそれは口伝でも可能であるが、周囲とこれだけ違っていれば1300年以上の継承は困難であった事も考えられる。
気に成る一点は ”世に晒す事無かれ。 晒す事に一義無し。”の「伝統の戒め」である。
これを宗家筋が守っている事も考えられる。(確かに、現在のマスコミは危険である事は否めない。)

因みに、「青木氏の守護神」でも紹介したが、「丸山城の戦い」と「伊賀の戦い」で信長に勝利したが、この時の先祖はこの様な戦い方をしたが、この時の先祖の「従四位下青木民部左衛門上尉信忠」はこの様な人物であった事が口伝として伝わっている。
何故、「伊勢攻め」の「3つの戦い」が事細かく物語の様に口伝されているのかは、この上記した「長の人物像」を模範とする為に物語風にして口伝として伝えられているのであろう。

(参考 「丸山城の戦い」の様子では真に小説物語に成っていて、枝葉末孫の家から発見されたこの書籍は焼失から免れて遺されている。この事から他の戦いの様子を書籍で遺されていたが出火で焼失した)
(これも「家訓2」を教える口伝であろう事が判る。他にもこの様な口伝が多くあるが、次ぎの「伝統品シリーズ」で紹介する。)

何にも、上記する様な”比較的簡単”であったのなら、何もわざわざ「家訓の戒め」にする必要がない筈である。
「家訓の戒め」とした以上は「青木氏の氏存続」に大きく左右する事であったから家訓としたのであって、”それが何であったのか”を当時の「青木氏の者達」は知って置く必要があった筈である。
恐らくは、少なくとも公家社会が存在する頃までで、長くても南北朝の室町期中期頃までは、「家訓10の存在意義の原因」を認識して一族郎党に周知徹底されていた事が判る。
然し、それ以降は資料や記録の解析検証の信頼度が極めて低く成ることから不祥である。
ただ、江戸期から再び資料記録の信頼度は高まりつつあった事から、明治期初期の「商記録から読み取ると、この時期には「意識の形」を時代に合わせて変化させて、再びこの認識が蘇っていた事が判る。
依って、「家訓10」の宿命的で絶対的に求められる宿命の「子孫を遺す事」の支障にならない様に、職務の遂行とは別に、一族を懸命に固めていたと考えられる。」
(「商記録」は、「全国域の商い」と、この補完関係にあった「伊勢信濃シンジケート」と、各地の「豪商豪族の関係」の経緯等から記録としてのものが読み取れる。)
それには、「公家衆などからの非難発言」は、一つは公家が蔑む「禁じ手」なのにその「商い」で「大きな財力」を固め「親政族として権力」を握っていた「青木氏」に対しての”怨嗟や揶揄や嫉妬”が強かったのであったと考えられる。
この認識を青木氏に関わる全ての者は強く持っていたと考えられる。
況して、「臣下族」でありながら、公家よりも身分、家柄、官位官職、何れに取っても上位にあり、且つ、その「青木氏の務め」が長い歴史を持ち「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」であった。
とすれば、「公家衆」に執っては相当叶わぬ上位にあるからと云って、素直に「品位の礼」を以って退くよりは、陰で「嫉妬や嫉みや怨嗟や揶揄の声」の方に傾くはこの「現世の常」であろう。

これに比して、「氏や民からの発言」は「氏上様」「御師様」と呼ばれる程に「信頼と尊厳」を勝ち得ていたのである。
民が慕う「皇祖神-子神-祖先神-神明社」を建立し、”「氏上」として品位格式に違わない「青木氏」”であった事から広く民衆から「信頼と尊厳」を受けていた。
「青木氏の守護神(神明社)」論参照
その「禁じ手の商い」で得た財力は、「抑止力」としての「シンジケート」等を構築し、それが「氏や民」に還元し潤す構図に成っていたのである。
「氏や民」に執っては「商い」は「禁じ手」でも何でも無く、むしろ極めて正統な生活活動であった筈で、蔑む「禁じ手」は論外であった。
故に「商いをする青木氏」に対して「公家衆」の様に、「氏や民」からは ”嫉妬や嫉み怨嗟や揶揄”が起る筈が無かったのである。
その「氏と民」が仮に ”嫉妬と嫉みと怨嗟や揶揄”を起すとすれば、自らに唾を吐くに等しい事に成る。むしろ、「賛同の声」があったと考えられ、その声に応えて「青木氏の商い」に依って得た利益が「氏と民」に還元されていたのである。
又、この様な家訓で導かれていた「2つの血縁族青木氏」の結束や、「2つの絆青木氏」や「一族郎党」との親密な結束関係に対する「公家衆の嫉妬」もあった事は否めない。
「特別賜姓族」の「藤原秀郷流青木氏」が「藤原氏北家」の出自でありながら、品位は藤原氏の公家衆よりは上である事への「嫉妬や嫉み」もあったのでは無いかと考えられる。
同族であり摂関家でありながらも、会えば正式に儀礼として「品位の礼」を取らねば成らない悔しい立場にあった筈である。
この「品位や格式」のみならず「経済力や武力や抑止力等一切の「支配力」が叶わないのであるのだから、「嫉妬と嫉みと怨嗟と揶揄」の域は通り越していた筈で、警戒しなければ成らない「口性」であったと観られる。
その様な「氏と民」から「信頼と尊厳」を勝ち得ていた「2つの血縁青木氏」に対して”口煩い公家衆の「嫉妬と嫉みと怨嗟と揶揄」”が強かったのであろう。
その”「嫉妬と嫉みと怨嗟と揶揄」”から起る「公家の讒言」が朝廷内に広まり、それが「特別賜姓族青木氏-皇族賜姓族への補完策」で保護を受けていた「天皇家」に対しても迷惑を掛けない様な「特別の配慮」も必要であったのであろう。
結果に依っては、事と次第に依っては、この「讒言の流れ」が非常事態に陥る事は当時の平安期末期の社会では常であった。
例として、近似する立場にあった彼の「源義家の没落」でも判る様に、この「讒言の流れ」が変位して、いつ何時「天皇の誤裁断」に依っては「源氏の没落道」を歩む事はあり得ると青木氏の者は認識していたのである。(家訓の深意が物語る)
青木氏に執ってはこの「公家の讒言」でも「賜姓族」である以上は弱点の一つである事を認識していたと観られる。

(参考 「利益還元」では明治9年までも伊勢-信濃近域や甲斐の100年騒乱で起った一揆や騒乱等の数多く事件に、一揆側の背後で経済的支援をしていた記録が遺されている。明確な記録では4度
この等に対する「公家の讒言」が「氏や民への経済的支援」に大きく影響していたのであろう。)

筆者は、この様な判断力(「繊細で戦略的な先見眼」)は「氏家制度の社会」で無くても、「青木氏の特異な立場」で無くても、組織を構成する限りに於いて「長に求められる資質」であると云えると考えている。
その様な「長」に導かれている組織は安定し伸びる。これは「現世の条理」であろう。

>「添書の示唆」
ところで、”この難しい「戒め」が全ての子孫に宛がわれた事なのであろうか、”疑問が残る。
「添書」では何も論じてはいない。”肝心な事を書いて置け”と云いたく成る。現実に当初は思った。 然し、”勝手に考えよ”の突き離す意であろう。本添書の癖である。
然し、この「家訓10訓」の全体を通じて云える事ではあるが、それは「長」に対して特に求められる「戒め」である事が判る。
「長」に示す事を考えての「添書」であるとすると、当然に考えさせて諭させて理解させる手法と思われる。
特に、「家訓1」にしろ「家訓2」にしろ「深意」として考えれば「長」に求められるものと観られる。文章は平易であるが「家訓」の言葉や字句や語句の使い方の通りの「深意」では無い事は良く判る。
特に「家訓8」までの全体を通しても概して「長」に求められるものと考えられる。
例えば、”「家訓8」のような「戒め」を経に一族全ての者に求められるのか”と云えば、現実にはそれは無理であろう。それは「考えられる者」であるのであればそれはそれとして”尚善し”とするが、老若男女夫々に成し得る資質や能力や立場は異なっている。
全体を通して敢えて出来るだけ言葉や字句や語句は平易なものを使って表現している苦労は読み取れる。
従って、一族の指導する立場にある者が少なくとも「訓の深意」は兎も角も、この「戒め」に関しては「戒の意」を会得して悟り、一族を「子孫存続の道」に導けば良い事に成るのであろう。
だから、わざわざ「訓」に「戒」を附添しているのであろう。
普通なら「訓戒」という言葉がある様に「訓」は「訓」、「戒」は「戒」として扱うのが当り前と理解する。それを敢えて「訓」に関連する「戒」を添えているのは「長の義務」をも明確にする意思であったのであろう。
”「訓」は一族全ての者に、「戒」は「長」の者に、一族の者には「長の厳しい務め」を知らしめ理解させ、「長」には訓戒を悟らしめる”と云う工夫を長い歴史の中で凝らしたと考えられる。
当然に、この「家訓10訓の配置」もこの事(「一族の者と長の関係」)を物語っているものであろう。
真さしく「家訓1」であり「家訓2」であり、「家訓5」等であろう。
家訓1 夫は夫に足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。

因みに、家訓1として、 「長」は「長」に足れども、一族の者は一族の者にして足れ。
家訓2として、「長」は賢なりて、その一族の者必ずしも賢ならず、「宰相」は賢なりてその一族の者賢なり。

「夫と妻、父母と子」等の字句を「一族の者」や「長」や「補佐役・重臣」に置き換えて考えれば、何事にも事ほど左様に足りる訓である。
故に、「訓」と「戒」を一つにし、「一族の者」と「長」の「心得や考え方」を統一させた事が判る。
この様に、この「置き換え」で「家訓10訓の考え方」が、「青木氏の考え方」が、「善事撰集」強いては「古代密教の教示」の原型の「思考原理」で全て理解出来るのである。

>「家訓10の発展」
元に戻して、そもそも、「喜怒哀楽」に重点を置いた生き方を採れば、その末は「刹那主義」と成り得て「家訓1から家訓9」までが求める「心域」「度量」「心得」即ち「心の余裕」を持ち得る事は先ずは困難であろう。
その前に「平易な深意」であっても「喜怒哀楽」程度の「刹那の理解」であれば「家訓の深意」の理解は困難と成ろう。
そこで、”困難である”と云う事では、”子孫を遺す事に一義あり”とせずに、”子孫を遺す事”とすれば長い歴史の中で途切れる事が起こる。これでは上記する「青木氏の特異な立場」は果し得ない事に成る。従って、「一義」の字句に大きな先祖が伝える「深意」を持っていると観られる。
この「平易な意」程度の心得では「青木氏」としては困るのである。
「長」としては「道理の矛盾」を理解出来ずに「長」を外されるが落ちである。
「家訓の添書」がある事がその事を物語っている。
「平易な意」であるのなら「添書」は要らない筈である。この「添書」があると云うことは「深意」があると云う事に成る。
故に、この様な ”長に足りず”の「廃嫡事」が青木氏の長い歴史の中では起る事から、「氏継承問題」では「本家分家方式」の格式を採らず、又、「純血血縁の弊害排除」と共に「一族宗家方式」を採っていた一つの理由であろう。

「家訓1」は長い歴史の中で「廃嫡事」が会った事から「訓」と「戒」を第1に据えているのであって、これに対して何も無いのならそもそも「訓」「戒」にする必要はなかった筈である。
何時でも広く一族からより上記する優秀な「資質」に富んだ者を一族を導く「長」に据える事が出来る様に、一族同位同格の「宗家方式」を採用していた理由の一つでもある。
その事を物語る事が系譜を具に調べて観ると判る。
その中で現実に頻繁に当り前の様に起こっている様である。
但し、ここで上記した「資質」に付いてもう一つ注意しなくては成らない事がある。
上記した「資質ある者」即ち「長」としてあるべき姿は「豪放な人物」「豪傑風」では無い事を「家訓2」で戒めているが、更にもう一つ読み取る事が出来る。
それは、筆者まで伝わる家の口伝の一つに ”頭が良い事=資質がある事”では必ずしも無いのである。つまり、”頭が良い事≠資質がある事”であって、ここでも「世間一般の考え方」とは必ずしも違うと云う事である。
若い頃は ”何事にも違う考え方をする”と何か「違和感」を感じていた。”ちょと変わっている家風かな”程度であった。
この時も「家訓の有無」もその程度ものであって”殆ど無い”に等しかった。
然し、後で家訓に意識をし始めてから、以前に親に依頼されていた「青木氏」を調べ始めた頃から、「自分の思考」が無意識のところで ”何かに無形のもので左右されている事”に気が付いたのである。
それが、次ぎの様に成る。
”頭が良い事≠資質がある事”
この思考で、”一時が万事が斯くの如し”であった。

他に上記に関連して次ぎの様な事がある。
”「頭が良い事」は「賢い事」とは違う”である。

>”「頭が良い事」≠「賢い事」”
>”「頭が良い事」≠「資質がある事」”
>∴ ”「賢い事」=「資質がある事」”
と云う考え方なのである。

これは「家訓2」でも云っている事であり、”何も頭が良い事”を求めていない事が判る。
「賢い」であれば良い事に成る。ではどの様に違うのかは「家訓8」で答えを出している。
それは「知識と経験」との事に関わり、”頭が良い”は「豊かな知識の習得」で成し得て、経験が無くても頭は良い事に成り得るが、”賢い”は”「豊かな知識の習得」があってもこれを基にした「豊かな経験の習得」が無ければ成り得ない”とする考え方である。

依って、次ぎの様に纏められる。
>”頭が良い”=知識>経験、”賢い”=知識+経験
以上の数式論である。

青木氏は斯くの如しで、諸論文で論じた「先祖伝来の考え方」が多く「名残」として遺されている。
これらの思考に限らず「諸事の慣習や仕来りや掟」も世間一般と違う事に気付き始めた。
(何でこの様に違う事に成るのかは、上記した通り「善事撰集」+「古代密教」+「神仏習合」+「特異な立場」に起因する。)
この様な違いに気付き始めてからは、”何でその様な考え方の違いが出るのか”と疑問と成り、それを解明するに至り、益々「青木氏の研究」に熱が入った。御蔭でこの様な疑問を糸口として予想の様相がある程度就き易く成り、その方向で限定した調査が進む事で「青木氏の解明」に繋がって行った。(因みに、先祖の血液型まで判る様に成った。主流は突然変異型の血液方ABである。)

「青木氏の守護神(神明社)」の研究で、次いで進めた「青木氏の家訓10訓」の最初の「2つの研究」で走馬灯の様に記憶が蘇り、”あーあの事がこの事から来ているのか”の様に無形の「古の慣習」に左右されていた事に気が付いたのである。

(参考 復元を依頼された時から意外と親父に填められたかも知れない。明治35年に出火させて「伊勢松阪の大火」に成ったが、この時、由来書などの書籍や記録と共に、これ等の事を物語るかなりの伝統品が焼失、記録保管している「青木氏菩提寺」も焼失した。)

その後、大戦などもあり、祖父後半の代、父の代では経済的な理由で「由来書等の復元作業」は成し得なかった。兄弟親族のある中で筆者に依頼があった。その為に遺された資料は筆者が保持、口伝も筆者が多く受けた。青木氏を物語る「生仏像様」の様な重要なものは伊勢青木氏四家に散在して幸い遺されている。

(「信頼出来る状況証拠」を積み上げての「答え」も後で資料が見付かる等が在った。これらは、後刻、伝統の本家訓投稿が完了した後に、「伝統品シリーズ」として投稿する準備を始めている。恐らくこの「伝統品シリーズ」でもよりこれらの事を証明出来ると考えている。)

>「家訓10の長の定義」
兎も角も、事程左様に、口伝や慣習と共に、「家訓6」にも訓じているが「長」の定義として、言い換えれば、次ぎの様に成る。
”人を導く「資質と度量」を先天的に備わっている者”である事。
その”素材を有する者”である事。
それを磨く事で「長と成り得る者」である事。
以上の3つが「長の定義」と云える。

現在で云えば、決して、”学業の成績が良い”と云う事では必ずしも無いのである。
”良い事に越した事”は無い。最低の条件でもあるが、常日頃、親などが口癖の様に云うのは、要は、”世の中の事は 「頭が良い」と云う事では上手く行か無い。” ”資質と度量の有無を優先する。即ち、「賢い事」”であった。
これが ”「伝統ある口癖の口伝」”であったらしい。
恐らくは、これは「家訓10訓」の意味合いを汲んだ、取分け「家訓10」の”子孫を遺す事に一義あり”に強く反映されたものが、”「伝統ある口癖口伝」”として引き継がれて来たのであろう。

因みに、筆者の父は、江戸時代に育った娘で、吉宗の育ての親でお側用人の伊勢加納家から若くして嫁いで来た祖母に厳しく育てられたが、この為に950年も続いた老舗の伊勢紙屋長兵衛の伝統的な影響を受けていた事からこの考え方が強かった。
(伊勢加納家も「2足の草鞋策」の老舗「加納屋」を営む)
筆者も「長」の定義の様に、「青木氏の家訓」と「青木家の口伝」の影響を受けているのか、「青木氏の遺伝」なのかこの考え方を強く持っているのは不思議である。
この様に、「青木氏」はこれらの「口伝」や「伝統ある口癖口伝」からも「長と成り得る者の資質」を磨く事に、悠久の歴史の中で、常日頃、「磨く事への努力」を怠って居なかった事が判る。
「心域」「度量」「心得」即ち「心の余裕」を持ち得る事への努力であった。

(注記 斯くも「伊勢青木氏」では幸いに散在して、資料、記録、口伝、伝統品、商記録、慣習、仕来り、掟類等が遺されていたので、上記する様に考え方が斯くの如しで判明する。
然し、この様な考え方は、取分け「信濃青木氏」と「甲斐青木氏」と、「特別賜姓族青木氏116氏」の中でも「伊勢、美濃、讃岐、越後、尾張」の青木氏には古来より深い親交があった事から、残念ながら「資料の発掘」が不思議に少なく未だ出来ていないが、上記する「青木氏の家訓に纏わる統一した考え方」が浸透して共有していた筈である。間違いは無い。
「特別賜姓族青木氏」の秀郷一門の主要5氏と成っている「青木氏族」(永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏である。又、「皇族賜姓族伊勢青木氏」は5氏の氏名の異なる「傍系の青木氏族」が発祥している。他4家4流の氏名の異なる「傍系の青木氏族」は一部不祥の資料と添書等からも存在していた事が覗える。
この「7つの地域」には、「宗家青木氏」が現存する事は判ってはいるが、現在に至っても発掘出来ない。依って、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」からの内容で推測するしか無い状況であるので、全青木氏は少なくとも”斯くの如し”であった筈として事細かに論じて披露している。)

(参考 、筆者の伊勢青木氏には、主家「松阪ルーツ」と「名張ルーツ」と「桑名ルーツ」と「員弁ルーツ」の四家の他に、「融合青木氏」の「四日市ルーツ」があった。
現実に、系譜と資料記録等から筆者より6代前頃には「長」の座から次々と廃嫡された様な事が起ったとみられる。結果は筆者の「松阪ルーツ」方の三男が最終に松阪主家を嫡子嫡男となって引き継いでいる史実が遺されている。原因は「長の資質」であった模様である事が判る。その時の口伝物語で遺されている。実は、その詳細は、天智天皇から賜姓時に拝領した「青木氏の象徴」の「生仏像様」を巡って「名張ルーツ」家内がその「祭祀の権」を巡って争った事が原因で、一族から「青木氏の長」として相応しくないとして廃嫡され、次いで「桑名ルーツ」でも起った模様である。
「祭祀権」は「長」が持つものであり、結局は「主導権争い」をした事を意味する訳であり、「長の資質無し」として外されたのである。
その結果、筆者方の「松阪ルーツ」に戻り、その中でも三男ルーツが「長」に推されて納まった経緯である。「伊勢青木氏」には「四家」があり、その2家内で争った事に成る。
この時の様子がその運送状況や罰を受けた事の様子などが物語り風で口伝で伝わっている。
更に遡れば何度か起こっている様子である。「家訓」に添った「長としての重要性」の伝統事件である。同じ様な事が上記の青木氏の中でも起こっている筈である。
この事から大化期からはこの様な事が何度もあった事が考えられる。それほどに「青木氏の宿命」の達成には「厳しい子孫の選択」が成されていたのである。)

それだけに冷徹とも観られる他氏とは異なる厳しい生き方を青木氏に求められていたのである。
その為にも、この「喜怒哀楽」に傾きすぎた「刹那主義」を「家訓10」で厳しく戒めているのである。
この考え方は「青木氏の特異な立場」と成り得た時から求められていた筈で、少なくとも「大化期からの戒め」であった筈で、これは「古代密教の教え」でもあった事に成る。
「青木氏の守護神(神明社)-22」でも論じた様に、本訓の”子孫を遺す事の一義”は、この大化期からの「真人族と朝臣族の単一融合族」(青木氏)と成り得た時からの守らなければ成らない「絶対的な宿命」であった事に成る。
況や「刹那の戒め」は「家訓9」で論じた様に「原始仏教」-「古代仏教」の教義であって、「古代密教の青木氏の教義」であった事に成ると考えられる。
故に、「青木氏の古代密教」に関わらず、その後の「三大密教の仏説」では、「刹那主義」の原型は否定されて来た所以であろう。

>「家訓10の理解」
この様に、「訓」を補足する様に「戒」として「刹那の否定」を添えたものであった筈で、”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”とする密教の考え方は、「今」に重点を置くのでは無く、”先を見据えた落ち着いた考え方”が採られていた事を物語る。
だとすると、その意味で、現代人とは「心域」「度量」「心得」即ち「心の余裕の差」があった事に成る。むしろ、現代では、”今に生きよ 今日は今日 今日を明日に繋げ”とする様な ”刹那主義が正しい生き方だ”とする傾向がある。
この「家訓10」の様に、「刹那の戒め」として ”子孫を遺す事に一義あり”と今に主張する事は真に「異端児」と成ってしまうだろう。
その「時代の背景」に依って、一個人一氏が大きく左右される現世では抗う事は不可能であり、況して「善悪の問題」ではなかろうが、筆者は、現世に於いて、”子孫を遺す事に一義あり”が何時の世も「絶対的な摂理」であると考えている。
「氏家制度」で無く成り「個人主義」の現代でも、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」のバランスを配慮すれば、現世の”「涅槃への道」”はより「煩悩」に苛まれる事無く、より善く生きられると考えられる。
筆者は、この「青木氏家訓」を遺していた「伊勢青木氏」の宗家の者である無しに関らず、この「家訓10訓」を「事の真理」を突いた「妥当で納得出来る訓」として信じている。矛盾の事象は無かった。
取分け、「家の大事」の判断に迷う時には、この「家訓10」の”子孫を遺す事に一義あり””刹那の戒め”から最初の「思考の基点原点」として思慮を巡らして事を決める事にして来た。
振り返れば「道」としては間違えて居なかったと自負している。

(参考 筆者は技術屋であるので論理性の強い性癖もあるが、論じているのは真逆の無形の抽象論である。これも私個人の「道理の矛盾」である。)

当然の事であろうと思う。何故ならば、”時代は変わる”は、これだけの家訓を遺して来たのであるから、我が「青木氏の先祖」が解らない訳は無いだろう。
それも「伊勢青木氏」を例に取って観れば、明治35年(大正14年までは何とかこの伝統を引き継いでいた模様)までは少なくとも大化期からの「悠久の伝統」を頑なに護って来た史実がある。
依って「氏家制度」が終り、既に60年も経った大正期でも「悠久の伝統」即ち、「古代密教」の影響を強く受けた「家訓10訓」と「守護神(神明社)」の「神仏習合」に裏打ちされた「特異な立場の伝統」は厳然として引き継がれていたのである。

(江戸時代も時の政権徳川氏の紀州藩は、幕末までと大正14年ま上記の「家訓に従った氏の存在」として「青木氏の扱い」を認めていた史実が幾つもある。何度も論じた。)
この事から考えれば、先祖は「時代の変化」の「具合や様子」は充分に理解し観て来ていた事に成る。それでもこの「家訓」は遺されているのだ。
そもそも、”時代に沿わなく成った”と判断していれば霧消している筈である。
累代の先祖や祖父は周囲からも、総称は”御師さん”、又は、個人別では、代々”梅岳さん”等の「雅号」でも呼ばれていた。この「雅号」も古式慣習で、何れかで呼ばれ親しまれ尊敬されていた事から、それを理解出来ないほどの人物ではなかった筈である。「禅問答の師」でもあった。)

(大正期紀州徳川氏を付き添いに「天皇家に挨拶言上」に参上した事が記録されている。
歴史的に江戸初期にも「挨拶言上」があった事が伝えられている。江戸中期の吉宗の享保改革の財務担当として請われた時にも「挨拶言上」があった事が資料から判るし口伝でも伝えられている。
この「3つの挨拶言上」以外にも江戸期前にもあったと考えられる。
取分け、平安末期までは定期的な「参上昇殿」が成されていた可能性が読み取れる。
鎌倉期から室町期中期には「商い」を通じて得た利益の還元として経済的に困窮していた天皇家に対して秘密裏に救援していた事が判る。
数多く「一揆等への背後勢力」としてシンジケートを使って動いていたことが商記録から確認出来る事からも、「室町文化」の「紙文化」で巨万の富を得ていた事から、「永代の朝臣族、賜姓族、臣下族」である立場上、放置する事は先ずない筈で、裏で「天皇家救済」に動いていた事は確実である。天皇家である以上は記録は遺し得ないが、時の政権も限度を超えない範囲であれば、暗黙の了解と黙認の立場を採っていたと考えられる。)

>「家訓10の証」
この事から「家訓10訓」は生きていた事の証しであり、その「家訓10」の証しは次ぎの一字が家訓として活かす事に成っていたと考えられる。647年からの「歴史の遍歴」の風雨に堪えて現在にあるのはこの「字句」が活かしたのである。
それは、次ぎの遺訓である。

>”子孫を遺す事に一義あり”
この「一義」と云う字句にあったと考えられる。

この字句の有無で大きく意味が異なる。
上記した様に、”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”とする「密教の考え方」の中で、”子孫を遺す事”では断定的であるが、「一義」の字句が入る事で柔軟さが出る。
この”「一義」の字句の有無で「時代毎の遍歴」に対応したのではないか”と云う事なのだ。
この本論の「家訓10」を家訓とした先祖は、この「一義」を入れる事で、「子孫」とする「目的の定義の幅」と、「遺す」とする「行為の定義の幅」に、その大きさを持たしたのでは無いかと考えられる。
「子孫」とは、「特異な立場」の強い慣習に縛られていた事から、「特異」であるだけに押し潰されてこの幅が無ければ遺し得なかったと考えられる。
「時代の遍歴」では、先ずは「真人族や朝臣族」とする平安期の「同族血縁族」は少なくなり「子孫」をこの「純血による同族血縁族での慣習」で遺す事はかなり物理的に無理であった筈で、その「血縁族の幅」を広げる事でより可能に成る。
取分け、平安期末期からの「母方血縁族」の「特別賜姓族青木氏」が116氏に拡がった出現はその最大の一つであり、又、鎌倉期には全て滅亡したが「朝臣族の源氏」との「血縁の幅」もその一つであり、「近江佐々木氏一族」との血縁も神仏関係(佐々木氏の資料から)の「縁」であったことが判る。
室町期から江戸期に掛けてのこの「青木氏血縁族」は、「2つの血縁青木氏」の「融合青木氏」の存在が示す様に、「秀郷流青木氏」との「重複的な血縁」があり、更には、これ等の「特別賜姓族青木氏」の「秀郷流青木氏」と血縁を進めた各地の高位族の「連や宿禰豪族」の氏族の間接的な血縁も行われた。又、「青木氏の守護神(神明社)」で論じた様に、神職関係で繋がる「近江佐々木氏」との各地での「遠縁の血縁族」との子孫存続の血縁もあった。
この様に、「子孫の幅」が広げられた事がこの「家訓10」が守られた事に成る。

次ぎにはこの「遺す」とする行為の字句の定義の幅である。
「遺す」の定義の幅では、「血縁族を繋ぐ」と云う意味合いから「直接継承の存続策」と、上記した「同族間の子孫存続策」にて遺す事の「2つ存続策」がある。
それと、「男系継承」が困難に成った場合には ”「跡目継承策」で遺す”とする「第3の跡目方策」の事も可能に成りその定義の幅は広まる。
それには「嗣子」が多い場合は、通常は仏門や神門に入れるが、入れずに上記の血縁族に「跡目養子」や「婿養子」や「貰子」などで子孫を拡げて於いて、「自らの氏の跡目継承」が困難に成った場合には、「嗣子の血縁族」から「跡目養子」を迎えて継承させて行う等の行為の幅が拡大が成されいた。
「青木氏」からは「神仏職」を本職として入る事は、自らの「守護神と菩提寺」がある以上は別であり、この職業間の血縁も進んだが、世に云う単純な”仏門に入る”は無かった。
このルーツから跡目を取る事も充分に可能であった。(陸奥域まで広がっている。)
これには、「青木氏の守護神(神明社)-22」で論じた様に、他氏と異なり「本家-分家」は採らず一家一流族の全てに「宗家方式」を大化期から採ったし、これが5家5流に採用されていた事から「跡目継承の対象族」の純血度は高く、且つ、均一性を保っていた。

(この為に、「家紋」も一切の副紋等を採らず全て「笹竜胆紋の綜紋方式」である。特別賜姓族は附秀郷一門との関係があり「本家-分家方式」は採るものの、綜紋の「下がり藤紋」をベースとしてその家紋の藤の下部に副紋を組み合わせてそのルーツの出自を明確にしている。)

本家訓にある様に、「有能な長」に重点を置いた「跡目継承方式」であって、全て一族からの優秀な者を輩出させる「嫡子方式」を大化期から採用して、他氏の様に元々限定した「嫡男方式」を基本とするものでは無かった。
上記した「特別賜姓族」や「近江佐々木氏」の「子孫存続策」との血縁も相当に純血性が高く、日本最大を誇る「特別賜姓族青木氏116氏」に拡がったのも根本はこの事からであった。

「佐々木氏族」は兎も角も、そもそも「特別賜姓族青木氏」とは、「平将門の乱」の「平定の条件」として藤原秀郷が提示した「2つの条件」の内の一つで、”「貴族に列する身分の保障要求」から「従五位下の貴族」の最下位”の要求が認められた。
この時は、「皇族賜姓族青木氏5家5流の衰退」が懸念されていて、「国策氏」としても「融合氏」としても「3つの発祥源」としての存立も危ぶまれていた。
況して、この為に「皇祖神-子神-祖先神-神明社の建立の遅滞」もあり、これを復興させる為にも、朝廷は、元来、「藤原氏北家族」で「皇族賜姓青木氏」の「母方血縁族」であった事から、貴族に列した秀郷一門に、更に、この衰退し復興を始めて来た「青木氏の補完の任務」を背負わせて「皇族賜姓青木氏」を復興させた。
そして、それを永代で秀郷一門の「宗家の第3子」にこの任を与え、初代千国が秀郷一門の護衛軍と成る事を認めると共に、「皇族賜姓族青木氏」と身分、家柄、官位、官職等の一切の「蔭位の制」に基づきその任を追加して与えた。

(「永代」とは、青木氏が絶える事が無い様に、「青木氏の跡目」が万が一欠けた場合は一門宗家から、その時の「第3子」を跡目として入れる様に義務を与えた。この結果、「青木氏族-永嶋氏等」の4氏が発祥した。)

>「家訓10の定義の幅」
この時、「嵯峨期の詔勅」に基づき「皇族の第6位皇子」に対して与えられる「朝臣族」と「賜姓族青木氏」の身分を、「詔勅の例外」として皇族外の「母方血縁族の秀郷一門第3子」にも累代に「朝臣族と特別賜姓族」に「永代による品位と格式の権」を与えたのである。
結果として、秀郷一門宗家よりも「上位の格式」を持つ「従4位下」に列せられると云う事が起った。これが「第2の宗家」と呼ばれる所以である。
「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」の「2つの血縁青木氏」はこの「品位の制」を基盤として上記した様な血縁関係を強く結んだのである。
これでは、最早、「同族血縁族」の何ものでもないのである。
この様にして、「子孫」と「遺す」事の定義の幅を広げる「一義」の字句がこの家訓に附添されているのである。
この事に付いて、大化期の初期からこの「家訓10(刹那の戒め)」”子孫を遺す事に一義あり”の家訓が存在し、且つ、「2つの血縁青木氏」はこの家訓10に従って上記する様な色々な「子孫存続の方策」を打って来た事が判る。
のみならず、更には、朝廷もこの青木氏の「国策氏」を護る為に、この様な「縦横な血縁関係」の方
策を容認していた事が判る。
この様な方策を実行するには、「朝廷が認める氏」であるが為に「朝廷の認可」が必要とした。
従って、この様な「血縁関係の輪」を作れた事は、朝廷が後押しをしていた事を物語るもので、そもそも、「特別賜姓族青木氏」の「発祥とその任」からしても、そのものが「朝廷の公的な推進策」であった。

>「家訓10」の位置付け
つまり、「家訓10」は最早、「青木氏の家訓」の域を超えて「朝廷の推進策」と成っていた事を意味するものであり。況や、これまた「国策氏」の所以であり、「国策訓」と成っていた事に成る。
これは、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」「皇祖神-子神-祖先神-神明社」「古代密教氏」等の事柄が「国策の基点原点」であり、「象徴」であったからであろう。
「朝廷」や後の「幕府」が、”「国家の天皇家」に継ぐこの「基点-原点-象徴」を無視し霧消させる事は「国家の尊厳」の軽視を招く事に成る”としたからである。
この「2つの血縁青木氏」に対してのみに「朝廷と幕府」は、「嵯峨期の詔勅」の「青木氏の永代禁令」や「大化期の詔勅」の「不入不倫の権の永代付与」「祖先神-神明社建立の永代権」(江戸期初期から幕府が補完)「密教菩提寺の建立の永代権」を明治初期まで与え続けた事がこれを明らかに物語るのである。
これ等は全て「家訓10」の「子孫を遺す事に一義あり」に起因する。
恐らくは、上記した様に「刹那の戒め」は、上記する様に「国家の策」の一つにも成っていた「青木氏の子孫を遺す事」に対する「最大弱点」を「青木氏側の戒」として付加えたと考えられる。
つまり、例え「訓」を理解したとしても ”この「戒め」が全てを左右する”と考えていた事を意味する。
その意味で、この「家訓10」は「他の家訓」(1~9)に根本的に影響を与えるものであり、この「訓」と「戒」が異なれば「他の家訓」(1~9)は崩壊する。

因みに、筆者の家に伝わる「口伝の伝統」は、この「訓」にでは無く多く「戒」にあった。
記憶に依れば、父と祖父は口癖の様に、”刹那ボケは駄目だ””もっと先を観て考えよ””考え方に余裕と落ち着きを持て””享楽の老けるな””先憂後楽で無くては駄目だ”等の「刹那」の意に共通する叱咤を受けた。
ところが若い時は ”何故この様に云うのか、一体意味が何なのか”は良く判らなかったが、子供を持ち子供が成長し孫を見るに連れて、ある時、ハッと気が付き「家訓10訓」との繋がりが良く判った。取分け「家訓10」の事に気が付いた。
良く考えて観れば、「家訓1」や「家訓2」や「家訓4」や「家訓6」は家族に纏わる事が多い事から息子に話す事が多かったし、「家訓5」や「家訓7」や「家訓8」や「家訓9」は会社務めの部下の指導や相談事にも善く述べていた事を思い出す。
然し、「子孫を遺す事」に対する「叱責や口伝や指導」は取り立てて無かったのである。
そして、何時か子供には「他の家訓」(1~9)の事を口癖の様に云っている自分に気が付いたのである。
「子孫を遺す事」に対する発言が無かったのは、「他の家訓」(1~9)の基本と成っている事から、”「結果として得られる目標」である”からと認識していた事に依る。

>「涅槃への道」の数式論
恐らくは、「家訓10」をそのままに直に説いたとしてもなかなか理解は得られない筈である。
それは ”若い者の勢い”で「喜怒哀楽」に大きく左右されていて、”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”とする「密教の考え方」の中では、受け入れる側の「心の収容力」の門の入り口が開かない筈である。
筆者もそうであったが、”何を馬鹿な事を 今時、年寄り臭い”で一蹴されるであろう。
実際に最初の頃に部下の相談に乗った時も一蹴であった。
真に「家訓5」の「人を観て 法を説け」である。
この様にして、考えて観ると、”「現世の生業生様」=”「涅槃への道」”は、全てこの「青木氏の家訓10訓」で説ける事が判る。
祖父が禅問答を高野山や永平寺の高僧としていた事の書籍や記録を多く遺している事を考え合わせると次ぎの関係がある事が判る。

>”「現世の生業生様」”=”「涅槃への道」”=「青木氏の家訓10訓」

この数式論は、祖父に依らずとも筆者でも理解できる。
筆者でも理解できるとすると、「氏家制度」の中での先祖は、その社会の真っ只中で居たのであるから、尚更の様に、”「現世の生業生様」”=”「涅槃への道」”=「青木氏の家訓10訓」の数式論は比較的抵抗無く受け入れられ進んでいたと考えられる。
日常茶飯事の様に事程左様に、「大化期」からの累代の先祖はこの様にして子々孫々に言い伝えて行った事を物語る。
「2つの血縁青木氏」と「2つの絆青木氏」と「一族郎党」の中ではこの様にして「青木氏の家訓10訓」を比較的簡単に伝えて行った事がまざまざと目に映る。
累代の先祖の時代性は、「武」による時代であった事から「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」の数式論を要求されるものであった。直に説いても直ぐに受け入れられたであろう。
上記した様に「青木氏」は「武の象徴」の「特異な立場」にありながらも、「分身を遺す事」の意味は違っていたが、別の意味でこの数式論は直に受け入れられた筈である。

然し、問題はこれからであろう事が疑う事無く判る。
「時代性」や「社会性」は余りにも異なる事はもとより、今は上記の数式論は消え失せ、0=「涅槃への道」<「喜怒哀楽」に近い。
然し、近代化や科学化が起こり人の現世がどの様に変われども”「涅槃への道」”の本質は人間である限りは普遍である筈だ。
人間の内部の構造がロボットの様に変わらない限りは普遍であり、普遍である以上は「家訓10訓」も普遍である筈だ。
然し、如何せん筆者の家に於いても説くにしても、残念ながら、0=「涅槃への道」<「喜怒哀楽」に左右されている事は否めない。
「家訓10訓」の意が伝わらない事の危険性を大きく孕んでいる。
然れば、少なくとも「文書にして遺す術」を選ぶ以外に無い事は判る。
未だ古式古風豊かな一面の習慣を遺している筆者の家でも、斯くの如くの有り様であるので、「青木氏族」に於いてはその術が霧消していて、それが「0=「涅槃への道」<「喜怒哀楽」と云う事に成るであろう。

>「投稿の現状」
実は、多くの「青木氏族の現状」を観ると、「皇族賜姓族青木氏25氏」と「特別賜姓族青木氏116氏」とこの「2つの絆青木氏」と「皇族青木氏5氏」の主要氏の殆どの「宗家本家の実情」は、「守護神神明社」等は当然の如く、「密教の宗派」も然る事ながら「密教菩提寺」等の言葉さえ失し、所在も資料記録をも勿論の事で、焼失させて完全に判らなくなっているのが現状である。
相当の宗家でありながらも、仏壇も戒名も判らないとする現状の様である。
この中ではあらゆる「伝統の継承」は、最早、不可能であろう。
筆者の調査した原因とその時期は、室町時代は第1期の戦乱の焼失期ではあるが、江戸時代にはかなり蘇る事が起ったが、これも主因となったのは第2次大戦の戦火と、その後の疲弊した生活にあったと考えられる。
確かに明治期初期には、混乱は室町期と同様にあったがある程度の蘇りがあったし、記録資料は移動したに過ぎなかった。
然し、大戦の戦火は「焼失」として起った為に消えた事と、その後のこれ等の宗家本家などが農地改正等の政治的な圧政で衰退してしまった事から伝統が完全に途絶えたのである。
何故、斯くも簡単に霧消する方向に進むかは、「青木氏族」はその伝統から「密教族」であった為に「守護神」と「菩提寺」に記録保存を委ねていた事が大きく原因している。
この「守護神」と「菩提寺」が焼失すれば消えるのみと成る。中でも特に藤原秀郷一族一門の菩提寺が不祥とする事がその典型的な事象であろう。(研究しているが確定は未了)

(研究で「2つの血縁青木氏」の菩提寺には、ある「特定の条件」が歴史的にあった事が判った事から、ある程度特定出来るまで至っているし確率は高い。)

この様に調査すると、この時期は昭和20年頃で完全に途絶えて前に進まない事が起る。
大勢力を誇った瀬戸内の青木氏族でも最高で昭和20年で終わっている。
筆者の家も何とか資料復元するに最低の資料が確保できても斯くの如しである。最早困難であろう。
出来るだけ研究して投稿して遺す事に努力する。
現在は、個人情報保護に基づき資料採掘や調査そのものが難しく成っていて消えるのみである。
(判断に用いた資料記録等を公表する事が個人情報と悪用の危険性から避けた。)

>最後に
筆者の伊勢青木氏関連の資料記録から出来る限り網羅して、その上で「状況証拠」を出来るだけ積み上げて、”他の青木氏も斯くの如しであろう”とする論調で説明した。その為に何度も同じ事象例を揚げてより正確に理解を深める様に努力した。

この様に、「青木氏の家訓10訓」は「悠久の歴史」を持つ伝統ある「青木氏の訓戒」である。
「全青木氏の先祖の生き様」を表してものとして未来の末裔に語り続けて欲しい事を願うのみである。


「青木氏の家訓10訓」 完
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伊勢青木氏 家訓9

[No.291]Re: 伊勢青木家 家訓9
投稿者:福管理人 投稿日:2013/02/22(Fri) 11:37:20


>家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
>家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
>家訓3 主は正しき行為を導く為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
>家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
>家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
>家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
>家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
>家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
>家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
>家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)

>家訓1は「夫婦の戒め」
>家訓2は「親子の戒め」
>家訓3は「行動の戒め」
>家訓4は「性(さが)の戒め」
>家訓5は「対人の戒め」
>家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)
>家訓7は「品格の戒め」
>家訓8は「知識経験の戒め」

「家訓9」は「煩悩」である。「和武の戒め」
「家訓8」までは人間の外に出て来る性(さが)であった。然し、この「家訓9」は人間の内に秘める「性」で何とも難しいものであろう。
なかなか理解に苦しむ家訓である。仏教で云う「煩悩」を説くのであれば何も家訓にしなくても仏教の教えを説く文献を見れば済む事でもある。
それをわざわざ家訓にするのは変である。何かの意味を持っているからこの「煩悩」と云う難しいものを家訓にしたのであろう事が判る。
果たして「煩悩」を家訓としているのだろうか。率直に疑問を持つ。
それをこの家訓書から読み採る事が必要であり、家訓書に添えられた短い添書から一時一句逃さずその字句の持つ本質と云うか語源と云うかを理解して本来の先祖が言いたかった事を読み取らねば成らない。
それには、その家訓とした時代背景や過去の社会環境や青木家の慣習や仕来りや掟を充分に知り理解を進めねば成らない事に成る。一朝一夕では成し得ない事を匂わしている。
実は、この「家訓9」には若い頃は、時代背景や過去の社会環境や青木家(氏)の仕来りは充分に知り得ていなかった為に、”何を大げさな、意味の無い事を”と思っていた。
然し、青木氏の慣習や仕来りや掟等の雑学や、自分の人生経験を重ねる内に何となく判る気がして来た。それでも、”変だな”云う感覚が頭の何処かにあった。
当然に、筆者の性格上から「仏教」と云うものを勉強し始めた。何も入信した訳ではない。入信したからと云って「仏教」が判る訳では無い筈である。
兎も角も、”「仏教の教典」がこの様に説いているからこの様に理解しろ”で終わる事に成るのが普通である。それは筆者には絶えられない疑問なのである。
技術屋の性癖から ”この様な背景や、この様な人間の性が、この様に脳では働くから、この様に人間は行動するから、人はこの「仏説」を信じろ” で有れば納得する。
それはその仏説が完璧では無くても良く、何らかの「筋道」かその論理的な傾向程度が示されれば、一応は納得するのだが、多くはこれが無い。(従って、人の書いた文献のものでは無く、字句の意味や語源や仏教の持つ意味などの雑学からこれを紐説いた。)
其処で、自分で「論理的な追求と勉強」をする意外に無く、「勉強」と云う事では無く「解析」に近い方法で自分を納得させる。例えば、其処で、その苦労の一端をご披露する。

先ず、「人の生きる道」を説いている教典の「般若心経」に焦点を当てた。その教典の漢字の言語が持つ普通の意味では無く「中味の意味する処」を知ろうとした。漢字の語源等から探求した。
例えば、「色即是空」「空即是色」である。この仏説の漢字の意味だと”何が何だか判らない”事に成る。
其処でこの漢字を解析する事で理解が深まる。以外に論理的であった。
そこで、但し、自分の仏説ではあるが、これを解いた。
そもそも、「色」はこの世の「全て物」には「色」がある。「色」とは物理的には筆者の専門であるので論理性が判る。其処から導き出すと、従って、”「色」とは太陽から生み出されたこの万物(「世の物」)”と云う事で理解が出来る。つまり、「現世の物」、突き進んで「現世」となるだろう。
「即是」には助動詞であるので解析は不要で、次ぎの問題は「空」と云う事に成る。
其処で「色」と同じく漢字の解析に入ると、「空」は”空っぽ 無い”のであるから、「色」からすると反意語で「色」の集積は「黒」を意味する。
”黒は暗闇、暗闇の中には何も無い。”とすると、「黒」が「無い」とすると「暗闇」と成り、「色」のある「現世」に対して「空」は「彼世」と成る。
そもそも、「空」は「黒」で「彼世」とすると、「黒」は論理的には全ての「色」を混ぜ合わした時に起る「色」である。
然し、この世には太陽光の波長光が物に当ると発色する「物の色-1」(BGR)に対して、物に当らないで波長光として残る「光の色-2」(YMC)もある。
彼世から来た「3つの光」は現世の物に当って、「3つの色」と成って発する。これを「補色関係」と云う。
そして、この結果、この世の中は、「物の色-1」(BGR-黒)と「光の色-2」(YMC-白)とで構成されている。
この「補色の関係」にある「色」を構成する「光」に対して補色の全ての光の交わった色は「白」と成る。
(B:青 G:緑 R:赤→ 黒) (Y:イエロー M:マゼンタ C:シアン→ 白) 
とすると、「色」の「現世」は「白」、「空」の「彼世」は「黒」を基としている事に成るから、この世は「全ての物」が存在する「世」である事に成る。
この二つの解析から「色」は「現世」で「白」、「空」は「彼世」で「黒」とすると、「黒」も持つ意味は”何も無い”を意味し、「白」も汚れの無い”何も無い”を意味している事に成る。
”何も無い”では「色」も「空」も同じと云う理屈に成る。つまり、「現世」も「彼世」も同じと云う事に成る。
「色」も「空」も”何も無い”と成り、論理的には”その「本質」が異なる事だけ”に成る。
さて、此処までは解析が出来た。此処からが問題だ。
どちらも、”何も無い”なのだから、「色」=「空」と成り「即是」(=)の言葉で繋がる。
だから、同じ名のだから、”「色」は、即ち、これ「空」成り 「空」は、即ち、これ「色」成り”と訳される。
「現世」に於いて「彼世」とは「白」と「黒」の ”何も無い” の「本質の違い」だけで繋がる事に成る。
この違いは、ただ単に「補色の関係」のみだけだから、「現世」での「本質の違い」に因って起る事柄には、”何も無い”であるのだから、「この世 あの世」ともに同じである。
依って、同じなのだから、同じものを比較して ”事を事更に拘るな” と云う意味を持つ事に成る。 
”「色」がある、「色」が無い 「空」だ、「空」で無い等と、事を事更に言い張って「拘る事」に意味はないのだ。そもそも「拘る事」に問題があるのだ”としている事に成る。
俗に云えば、”「煩悩」を、「煩悩」として起る「諸行の喜怒哀楽」に、事を事更に拘るな” と云うと云っている事に成る。

そもそも、”「拘る事」が「煩悩」の始まりだ”と云う事に成る。つまりは、「拘る」=「我 執」である。
つまり、”「煩悩」はあって良い。それに必要以上に縛られて「拘る事」に意味が無い。”と解いている事に成る。
と成れば、そうすると、「現世の本質」とは”何なのか”も解析出来る。
それは「現世」(この世)では「煩悩」とは、 ”「人」としての「煩悩から起る喜怒哀楽」と云う事に成るだろう。
「煩悩」=「現世の喜怒哀楽」
突き詰めれば、「人」がこの「現世」から「彼世」に移る時に、「現世」に遺されたものはその個人としては「喜怒哀楽」の「過去の思い出」以外には無く、肉体は焼却される事で「喜怒哀楽の過去の思い出」は ”何も無く成る”を意味する。
故に、”「現世」から「彼世」に移る事は「空」による移動にしか無い”とも受け取れる。
只、然し、此処で「万能の神」は、その「現世での証し」として、「人」つまり「子孫」を分身として遺す事を定めて、”現世と彼世の断絶”を ”[「色と空」、「白と黒」の摂理]”により無くした事に成る。
現世から彼世の「移動」は「断絶」では無く「継続」であるとして「即是」と繋いだ事に成る。
故に、「仏教・仏説」では、助動詞の ”即是”の言語を使ったのであろう。

「阿弥陀仏の説」(青木氏の仏説)
「仏」の上位にある「神」は、”この「現世-彼世」(色と空 白と黒)には「繋がり」として絶える事の無い「分身」を置いた事に成る” と解いて、全体の論理性を仏説として用いた事に成る。
そして、この仏説の「分身の部分」は、「人の変化(へんげ)」の「仏」では無く、それを「仏」が云うのでは無く、上位の「神の仕儀」と説いたのであろう。
確かに、この「分身」無くして「現世と彼世」は断絶して「仏説の論理性」が崩れる。
だから、”「我が身」の「次ぎの分身」が現世に遺すのであるのだから、其処には「前の煩悩(喜怒哀楽)」は消え失せて、「分身の新しい煩悩の喜怒哀楽」が生まれるのだから、要は何も変わっていないのだ。
だから、事を事更に拘るな” と説いている事に成る。
「神」が云うのは、”拘るな 分身に任せよ”と成るのであろう。
これがまさしく「浄土宗の阿弥陀仏」を信心する「青木氏の仏説」と成るであろう。
確かに、この世に於いて、この説が納得出来る事がある。(家訓10)

それは、”孫が生まれた時のあの不思議な喜び” は、子供が生まれた時の喜びに対して比べものに成らない様な異質な喜び、嬉しさ、安堵感に似たものが込み上げて来るが、この”子孫分身を遺した”とする本能的な「動物の安堵感」の感動であろう。
つまり、これは「神」が動物に組み込んだ本能 、”拘るな 分身に任せよ”からの感動であろう。
故に、現世の「人生の最終目的」は ”分身を遺す事にあり、「喜怒哀楽」に無い。”として考え、”「喜怒哀楽に無い”とするならば、そもそも、”「喜怒哀楽」から生まれる「煩悩」には必要以上に拘るな”と成る。
況や、”拘るな 先ず分身を遺し、分身に任せよ”とする説に成る。
”分身を遺す事で全ては解決する”と解いている事に成る。
故に、この「本能に組み込まれた達成感」が孫を見て噴出すのである。異質な喜び、嬉しさ、安堵感と成って込み上げて来るのである。
結局、問題は、人生に於いて、「人生観」を ”分身を遺す事に主義を置くか、「喜怒哀楽」に主義を置くか”の差の問題である事に成る。
人生に於いて、「分身を遺す事」><「喜怒哀楽に置く」の関係式が成立つが、ここで、仏教は「刹那主義」として、「分身を遺す事」<「喜怒哀楽に置く」の関係式を戒めている。
然し、「分身を遺す事」に全てを傾ける事は不可能であり、それはまさしく「拘り」である。
”「拘るな」”としている仏説である限り、”全てを傾ける事”は正しく無い事を意味する。
要するに、現世に生きている限りは、人は「喜怒哀楽」に左右される。
然し、”「分身を遺す事」<「喜怒哀楽に置く」であっては成らない” とし、”「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であるべきだ”と説いている事に成る。
「刹那」の語意の通り、”今”に重点を置いた生き方は、「刹那主義」である。
”「今」を楽しむ そして、その「今」の連続を重ねる。そうすれば、最終は「安楽」に成るだろう” とする積み立ての「加算論」である。この「加算論」=「刹那主義」である事に成る。
”「人」はこの「刹那」に陥りやす動物の思考原理を持っている事が判るが、これでは、”「煩悩の連鎖の道」に陥る” としているのである。
つまり、「刹那」では間違い無く、「今」であるのだから「喜怒哀楽」に翻弄される。翻弄されるから其処から逃れようとして「煩悩の芽」が吹き出す。そして、思うように成らない現世に於いて「煩悩の連鎖」の輪廻が起る事に成る。
故に、”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”と説いているのだ。
(筆者は、この「密教の教え 先祖の教え」にも充分に納得し、人生をこの論理で生きて来た。恐らくは1400年にも成る「悠久の歴史」を持つ「青木氏の累代の先祖」もこの教義に従ったからこそ、現在までに子孫を確実に遺し得たと観られる。極言すればこの「一点思考」に集約されると考えている。全てこの論理から生まれると考えている。)

俗に云えば、では、”その割合はどの程度だ”と成るだろう。
そもそも、”「割合」は「拘りの初期発露」だから”、良くないとして、其処は、”人それぞれである。「人生の経験」で会得せよ。” と「古代密教の仏説」(青木氏の教義 浄土宗系古代密教 家訓)ではしている。
この事は「密教の説法」である事の証しとして、「家訓8」でも戒めている。


これは青木氏が「原始仏教-古代仏教-古代密教浄土宗-浄土宗-阿弥陀仏」の信者である事に依って起る仏説と解釈できる。
故に、下記に記す様に、平安期の「宗教論争」の据えに究極の「阿弥陀蔵論」の ”「煩悩」は否定しない”の仏説と成ったのである。
「仏教の原点」(青木氏の教義 浄土宗系古代密教)に戻って見直されたのである。
平安末期からの仏説では人を救えなかったからこそ、”「煩悩」は否定しない” として見直しが起ったのである。
言い換えれば、「古代密教の仏説」(青木氏の教義 浄土宗系古代密教)を実践している「3つの発祥源」の「青木氏」が、悠久の歴史を経て此処まで生き延びていた事を宗教界は見抜き、上記の古代密教の仏説を体現実戦している ”「阿弥陀蔵論」でなくては無理である。”と悟った事に成る。

この”「煩悩」は否定しない”の教示に成った事は、青木氏の「伝統」や「生き様」や「仕来り・慣習・掟」や「皇祖神-子神-祖先神」や「守護神の神明社」の事柄に影響を受けて大きく繋がっている事に成る。
そもそも、「青木氏の教示」は、既に、奈良期から”「煩悩」に勝るべし”であった。
つまり、”「煩悩」は否定しない”= ”「煩悩」に勝るべし”と論じている。

(”「勝る」と云う事は存在を認めてそれに打ち勝て” と云う事であるから「煩悩」を否定しいない事に成る。この事に付いて下記に縷々と論じる)

「青木氏の守護神(祖先神)」の「神」と、「原始仏教-古代仏教-古代密教浄土宗-浄土宗-阿弥陀仏」の「仏」の「2面性を持つ氏」ならではの事である。
この「2面性に関わる氏」は、どんなに「氏」が多いと云えど、即ち、「融合氏の発祥源の青木氏」だけなのである。

この「宗教論争」が、最終は「阿弥陀蔵論」と成った事は、論理的には「神」-「仏」の2面性を持つ「古代密教系の浄土宗論」に落ち着いた事に成る。
青木氏が持ち続けた「古代密教の仏説」の教示が、「最終の仏説」と成り得た事を示唆している。
この様に、「般若心経」の一時一句を解析して行けば「青木氏式の仏説論」が生まれる。
この「青木氏の仏説論」が ”煩悩は否定しない”の仏説の「阿弥陀蔵論」に成ったと云えるのである。

「仏説-煩悩」
其処で、この「般若心経」にはこの「煩悩」の「仏説」がある。
この「煩悩の仏説」を解析して、「青木氏」が説くこの「家訓9」の「解析の糸口」になる事が判る。
そこで、仏教には多くの宗派があり、この「煩悩」の「仏説論」が「質と量の深み」が異なっていて一概に解析出来ない。
「青木氏」はその奈良期からの「悠久の歴史」を持つ事から、「原始仏教」-「古代仏教」-「古代密教浄土宗」-「浄土宗」-「阿弥陀仏」の伝統を持つ事に成る。それを前提として生きて来た。
そして、この「古代密教」と「祖先神」の考え方が融合して一つの「神仏習合の原型」が出来上がって行った。この「神仏習合」の動きは後に3度起こっているが、恐らくは、この「青木氏」の「古代密教-祖先神」の「融合の考え方」が原型と成っていた事が判る。
何故ならば、「仏教と神教」が融合させていたのは唯一「青木氏」だけだからである。
そして、それは「青木氏の菩提寺」と共に、奈良期から始まった「皇祖神-子神-祖先神-神明社」の486社もの各地の建立にあった事によると判断される。
故に、「氏上様、御師様、総師様」と呼ばれていたのであって、民から崇められ慕われていた事が、その「青木氏」の「仏教-神教」(神仏習合」)の生き方、即ち、「青木氏の考え方」に「民の強い賛同」があった事をものが物語っている。
当然に、「武」に頼らず「和」に頼る「生き様」がより「民の賛同」の前提に成っていた事を示し、「氏家制度」の中でも「上下の差」をできるだけ無くした「一族一門とその一切の郎党の生き様」に、「民」は万来の信頼を寄せていたのであろう事が判る。

(この事は研究室での論文で各所で論じているが、「青木氏の守護神」(神明社)では詳しく論じているので参照)

其処で、その事を念頭に置いて、この「古代密教」とする処に何か意味する事があり、この「煩悩」の「家訓9」の解釈の場合に、重大な「隠された意味」がある事が判断出来る。
そもそも、「原始仏教」に通ずる「古代仏教」-「古代密教」は、平安期の「法然」による「浄土宗」が生まれる前の「浄土宗派の原型」と成る密教である。

「煩悩」
この事を前提に次ぎに「浄土宗」の説く「煩悩」を解析する。
この事に付いては「密教」を前提とする「3大密教」(真言宗、浄土宗、天台宗)は自らの仏説を説いて「宗教論争」が起った。
夫々の密教の「有り様」が、その宗派の「歴史的経緯と立場と背景」からその説が異なっているのである。その中でも、「浄土宗派」だけが「原始仏教-古代仏教-古代密教浄土宗-浄土宗-阿弥陀仏」の歴史を持っている。
然し、他の2つの密教宗派とは当然にその仏説が異なる為に「密教の有り様」に付いて、中でも仏説の根本の「煩悩」の取り扱いに関する「宗教論争」は起った。
この「古代密教浄土宗」を継承して来たのが唯一青木氏のみであるのだ。
それだけに消え失せ易い仏説とも成るが歴史的に観ると、「青木氏」に細々と遺されているのは幸いであった。
然し、現在に於いてはこの「家訓10訓」と「守護神-祖先神」の伝統の中にのみである。
その意味で、この「家訓9の短い添書」は意味を持っているし、「青木氏」としてはこの時点で是非に解析しておかなければ成らないものであった。
故に、その基の一つと成っている「青木氏の守護神(神明社)」の論文には全力を注いだ。
もう一つの基と成っている「家訓10訓」の取分け「家訓9」に対しても全力を注いで、現代の浄土宗の根源と成った「原始仏教」の影響を色濃く引き継いでいる「古代密教浄土宗」の一端を、仏説ではない方法で網羅したいのである。

「煩悩の種類」
浄土宗系が説く仏説の「煩悩」とはそもそも次ぎの通りである。
年末には「108の鐘」の音を打つが、これは人には「108つの煩悩」があるからと云われるが、これは次ぎの様に成っている。
「除夜の鐘・百八つの謂われ」である。
人間には、「眼・耳・鼻・舌・身・意」の「六根」がある。
普通は、人間の「五官」(五観と説くものもある)と云って「眼・耳・鼻・舌・身」でものを感じる。然し、仏教の世界では、「意」を加えてこの「六根」の感じ方があるとしている。

先ず次ぎの「三通りの感じ方」があると云われている。
「好・平・悪」
以上の「三通り」とされている。

つまり、判りやすく云えば、善く感じる「好」、普通に感じる「平」、嫌味で感じる「悪」がある。
そして、この「三通りの感じ方」には、次ぎの様に分けられる。
「染・浄」
以上の「二通り」とされている。

つまり、判りやすく云えば、染まった感じ方をする「染」、純粋無垢な汚れの無い感じ方をする「淨」があるとされる。
「好・平・悪」と「染・淨」は厳密にはその説の論調では少し違うかも知れないが、大方この様に解釈される。此処では仏説論そのものを論じている訳ではないのでこの様にして置く。

さて、そうすると、人は、「眼・耳・鼻・舌・身・意」の六根から「好・平・悪」と「染・浄」の違う「煩悩」が起る事になる。
従って、6根の3倍の「18の煩悩」が先ずある事に成る。
次ぎに、当然に「染・淨」があるとするから、18の2倍の「36の煩悩」が起る。
其処でこの「煩悩の現象」が、上記の「色即是空・空即是色」の「仏説」の通りで云えば、「過去・現在・未来」の「三世」に渡り「悩みや苦しみの煩悩」が続く事に成る。
 計算: 6×3×2=36 36×3=108 
以上の数理的計算で「108の煩悩」が生じる。

故に、除夜の「108の鐘の音」は、過去・現在・未来の「三世」の「煩悩の数」だった事になるのである。 
基本的には、「仏説」では「質」を換えて、”人の魂は3世に生きる”としての前提であるので、「108の煩悩」と成るが、この域(過去と未来)は不証明であるので108は、兎も角も、実質は「36の煩悩」がこの世にある事に成る。

(参考 もし「3世」の内、「過去」と「未来」があるか、どうかは、この「世の物理論」では、現在の「光の速さ:3×10の8剰」より少しでも速い「光の様な振動波:光子粒」が存在すると成れば、在る事に成り、「過去の世界」や「未来の世界」に一時的にも観る事や渡る事が出来る理論と成る。光より速く極小の物質が太陽系外から飛んで来ている事は判っている。この事は宇宙には「光より速い世界」がある事を物語っている。「3世」が無いのか、或いは3世を自由に渡れる世界が在る事も考えられる理屈にも成る。)

そもそも、上記で論じた「般若心経」では、「現世と彼世」は「色不異空 空不異色」「色即是空 空即是色」と解いているのならば、「108つ煩悩」の宗教界の論調はおかしい。疑問が起る。
何故ならば、「3世」少なくとも「現世と彼世」の2つの世には、上記に論じた「般若心経の説」であるから、「彼世に於ける煩悩」は論理的にない事に成る。
その理由は”、「質的変化の移動」の世の移動であり、現世に「分身」を置く事による「煩悩の消却」が起る”としているからである。
況して、そもそも、「平安期の仏説」では、”「質」を換えて”としているのだから、「彼世」に移った際には「現世」にあった「煩悩」は「質」が「分身」に成ってそもそも変っているのだから、その自己の「現世の煩悩」は消却されているのであるから「彼世」には「煩悩」は無い事に成る理屈に成る。

因って、奈良期に入った「般若心経の教典」と「平安期の過激に成った教義」とは矛盾している事に成る。
従って、「108つの煩悩説」は平安期以後の仏説と成るが、「108の煩悩」ではなくて、「般若心経」の説では少なくとも「36の煩悩」と成るのが正しい事に成る。
故に、「平安期前の仏説」は少なくとも「36の煩悩」であった事に成る。

そこで、そもそも、下記で論じるが、”「煩悩」に「好・平・悪」と「染・浄」の違いがあるのか”と云う疑問もある。
この様に分けて何の意味があるのだ。
仏教界の独善的な数理論に依る行き過ぎた「学問的発想」であると観ている。
筆者は明確に無いと考えている。
「原始仏教」は兎も角も「古代仏教-古代密教」の時代には、「6根の教義」も無かったと観ていて、下記に論じるが、”「貪欲」「瞋恚」「愚痴」の「3つ煩悩」であって、「我執」から来る「愚痴」が「煩悩の主因の定義」と成っていた” と観ている。
少なくとも、「36の煩悩」が、「密教」としていた頃には「青木氏の教義」であったと考えている。
「古代仏教-古代密教」も、「青木氏の教義」は兎も角も、「36煩悩説」を教義として採用していた事を物語る。

何故ならば、「青木氏」が「自ら建立した浄土寺」に「自らの氏の者」を「住職」として仕えさせ、「自らの氏」に対してその「氏の教義」を「密教」として説くのである。
依って、必然的に「古代仏教-古代密教」は、「青木氏の住職」が「仏教の教典」を「青木氏」らしく理解し、青木氏外には帰依し伝導し得ない密教の体制であったから、「古代密教」は「青木氏の教義」と言っても過言ではないのである。
それが、上記で論じた「般若心経の解釈」の一説と成り、下記に重複する内容と成るのである。

(参考 ”「我が身」の「次ぎの分身」が現世に遺すのであるのだから、其処には「前の煩悩(喜怒哀楽)」は消え失せて、「分身の新しい煩悩の喜怒哀楽」が生まれる。依って、要は何も変わっていないのだ。だから事を事更に拘るな”と説いている事に成る。
これがまさしく「浄土宗の阿弥陀仏」を信心する「青木氏の仏説」である。次ぎの家訓10で論じる)

「36の煩悩」
そこで、この上記「6根」の「36の煩悩」には、果たして、”どの様なものがあるのか” と云う事に成る。
この「六煩悩」は「六波羅密」とも云われるが、次ぎの様に項目として定義されている。

(心所区分 A 副煩悩)
隠の行   表-・話-・編-・歴
遍の行   作 - 触 - 受 - 想 - 思
別の行   欲 - 勝解 - 念 - 定 - 慧
善の行   信 - 精進 - 慚 - 愧 - 無貪 - 無瞋 - 無癡 - 軽安 - 不放逸 - 行捨 - 不害

(心所区分 B 本煩悩)
本煩悩   貪 - 瞋 - 癡 - 慢 - 疑 - 悪見

(心所区分 B)の内訳
小随煩悩  忿 - 恨 - 覆 - 悩 - 嫉 - 慳 - 誑 - 諂 - 害 - 驕
中随煩悩  無慚 - 無愧
大随煩悩  掉挙 - 昏沈 - 不信 - 懈怠 - 放逸 - 失念 - 散乱 - 不正知
不定    悔 - 睡眠 - 尋 - 伺

以上の定義と成る。

これはなかなか漢字の字句の意味や語源を理解しないと難しい区分であるので、簡単に云うと次ぎの様に成るだろう。

「6根の煩悩」は次ぎの様になる。
煩悩    貪 - 瞋 - 癡 - 慢 - 疑 - 悪見

大まかには以上としていて、これを小中大に分け、これに何れにも含まないものとして「不定の煩悩」と分けられている。
この「6根」を後付けで、前2つを「貪欲」、中2つを「瞋恚」、後2つを「愚痴」の「古代仏教-古代密教」の説の「3つの煩悩」と定義しているものもある。
この説では「愚痴」が「煩悩」の「諸悪の根源」と決め付けていて、その原因は「我執」だとしている。

「3つの煩悩」
「貪欲」「瞋恚」「愚痴」
「諸悪の根源」=「愚痴」←「我執」

(これが「古代仏教」の仏説で、古代密教の青木氏の教示の原型と考えられる。)

兎も角も、その解く説は、「独善的な仏教」を前提とし過ぎて普通の論理では一概に納得出来ないが、個々に説明するのは本文の目的ではないので、別の機会として関係するところを概して解いて観る。

平安期の「6根説」は、兎も角としても、「煩悩」に悩む者に説く内容として ”本来、大中小に分ける意味と必要があるのか、聞いてどう使用せよと云うのか” 甚だ疑問である。

この区分の内容を観ると、次ぎの様に分類される事に成る。

「密教説の仏説」(添書内容の解析)
1 人間が本来動物として持ち得ている「先天的な煩悩」
2 人間が進化する事で持ち得た「後天的な煩悩」
以上の2つに区分されるのではないか。

そして、更に、この2つを分類すると次ぎの2つに分類される。
A 1に付いては「我執」から生まれる煩悩
B 2に付いては「知恵」から生まれる煩悩

そして、その「Aの我執」から生じる「煩悩」は次ぎの様に解釈出来る。
「我執の煩悩」 
イ 貪欲系の煩悩 
ロ 瞋恚系の煩悩(しんひ:自分の意に反すれば怒る心)
ハ 愚痴系の煩悩

これが上記の「煩悩」、即ち、「貪 - 瞋 - 癡 - 慢 - 疑 - 悪見」の「平安期の6根の本煩悩」とされるものに成る事を意味している。

従って、仏説では「6根の本煩悩」と記している以上は、(心所区分 A)は副とは記していないが「副煩悩」と成り得る。
上記の「心所区分」の前の4つを(心所区分 A)とすると、この区分域が「副煩悩」として次ぎの様に「知恵」から生まれた「煩悩区分」と成る。

「智慧の領域区分」
1 隠の行 (表: 話-編-歴)
2 遍の行 (意: 触-受-想-思)
3 別の行 (欲: 勝解-念-定-慧)
4 善の行 (信: 精進 - 慚 - 愧 - 無貪 - 無瞋 - 無癡 - 軽安 - 不放逸 - 行捨 - 不害)

(注意 (・・)の個々を解析する事は本論の目的外であるので割愛する)  

1の区分 「智慧」の「隠」の区分は、ある一つの事を表したり、話したりする単純な思考
2の区分 「智慧」の「遍」の区分は、「単純思考」が集約し思・想の固まりと成る思考群
3の区分 「智慧」の「別」の区分は、「思考群」が更に増幅して「形・型」に成る念想・思想
4の区分 「智慧」の「善」の区分は、「智慧」本来の善行で成せる煩悩解脱の行為

「隠」は「表」、「遍」は「意」、「別」は「欲」、「善」は「信」の語意で表す。

この「古代密教説の仏説]では、”「智慧」は「善」であって、「善」は「煩悩」を解脱させ霧消させる唯一もの(行)である。” と定義している。

即ち、この「古代密教説の仏説」では、”「智慧」は「煩悩」ではない。 むしろ「煩悩」を霧消させる”とする位置付けである。

”「智慧」は「煩悩」の裏返しで、「煩悩」の為に「智慧」が有り、「智慧」の為に「煩悩」がある。”としている。
”「智慧」は陽、「煩悩」は陰の「陰陽の関係」(表裏一体説)だ”と解いている事に成る。

つまり、この「古代密教説の仏説」では、”「智慧」と「煩悩」は「智慧」が勝れば「煩悩」は消え、「煩悩」が勝れば智慧は低下する。”と云う事である。

そもそも、”「智慧」と云う本能は、「仏」では無く、上位の「神」が人間に与えた「本能」であって、元来、生きる為に備わったものである”と説いている。(守護神をも持つ氏の説である)
故に、”「智慧」は「煩悩」に勝る事を優先している事に成る。

その上位の「神」が「人」に与えた「智慧、慈愛」を「仏」が何だかんだと云うのはおかしい。「神」は「善」として与えたもので下位の「仏」が、”「善の智慧や悪の智慧、悪の愛や善の愛」がある”と解説する事がおこがましい。
況や、そもそも、この説は、”「神」は「人」に「悪」のものは与えていないのだ。”とする事を忘れて思い上った「平安期の仏説」の矛盾なのである。この「平安期の仏説」の「矛盾の教義」の理屈を認めてしまえば、「守護神」と「密教菩提寺」の「神仏の教義」を合わせ持つ「氏の教義」(青木氏)としては「神」と「仏」の教義は分離して合致し無く名成り、「氏」その者の存在は破壊霧消する事に成る。
因って、「青木氏の古代密教」では、「平安期の善と悪を持つ煩悩説」では無く、「神仏習合」の説、”「智慧」は「煩悩」ではない。 むしろ「煩悩」を霧消させる”とする説であった事が判る。

然し、元来、常に勝るべき「智慧」が、時には病やストレスや考え違い等で低下する事は否めない。
従って、”この低下する現象を仏教は救うのだ” ”これが一義である” と云う「古代密教の仏教説」を説いているのである。
言い換えれば、”「仏教」は「智慧」を想起させる位置にあって、「仏説」はこれを補う”と記している。
この「古代密教説の仏教説」は云わば「装具説」である。
明らかに平安期の「人道説」では無い事が判る。
故に、”「智慧」を使えば「勝る事」が出来る” と説いている事に成る。
本訓の ”煩悩に勝るべし”は”智慧を使え”と云う事で理解が出来る。
(注釈 この「智慧」を使う場合の条件がある。それは”「和の道」で在らねば成らない”としている。)

流石に「青木氏の特典」を活かす事の出来る教えの「密教」であり、「精神論」の判り難い説法より「具体的な教え」である。
そもそも、精神で悩んでいるものに対して、「精神論」で説いている「平安期の宗教論」は納得が出来ない。
「精神」で悩んでいる者に対して、”もっと人間の本質の智慧を出して乗り越えよ。怠けるな、それで無くてはこの世は乗り越えられぬ。これに打ち勝てぬ者は死を待つ以外に無し、これが「諸行無常の条理」なのだ。”の説法の方が納得出来る。”智慧を出せ”である。
そもそも、「智慧」は「神」が与えた「人間の本来の姿」である。
この世は「智慧」をより出さなければ生きて行けないのである。
故に、”「智慧」が解決してくれる”である。”生き抜く為に「神」は「人間」に「智慧」を与えたのだ。” と解釈できる。

(注釈 此処で云う「神」とは、「皇祖神-子神-祖先神-神明社」の事である。)
ここで重要な事は、「青木氏の守護神」(神明社)のところでも解いた「豊受大神」の「物造りの智慧論]と繋がる。

後の「煩悩」の4つは(心所区分 B)とすると、この区分域が現在で云う本来の「本煩悩」として「我執」から生じる煩悩区分と成るだろう。

この「古代密教説の仏説」は、依って、「智慧」と「我執」としている。
そして、その「我執」(本煩悩)から齎される「本煩悩」を「3つの煩悩」(上記イロハ)に分類している。
この「3つの煩悩」の内は、上記の数式論の関係 「諸悪の根源」=「愚痴」←「我執」であって、
上記の「2の後天的煩悩」はこの「智慧」から生まれるが、”この「智慧」は、上記の「陰陽の関係(表裏一体)」に依って「煩悩」としては霧消する”と説いている。
ただ、この一節を要約すると、”「智慧」<「煩悩」の関係が生まれた時は、「1の先天的煩悩」と「2の後天的煩悩」の「2つの煩悩」に強く苛まれる。”と説いている。
その時は、”「6根の煩悩」に苛まれる。”と説いている。

さて、そこで゜平安期の仏説」は、「知恵」に関わるものを「副煩悩的な扱い」としている。
この事は、下記に述べるが、時代の変化で ”「煩悩」を否定しない”とする仏説(阿弥陀蔵論)も存在したが、これは「知恵」に関わる ”「副煩悩」を否定しない” 、”(心所区分 A)を否定しない” と云う仏説である。

この事は「青木氏の生き様」と、この事から来る「青木氏の家訓9」に大きく関っているので、特に留意が必要なので特記している。

以上の様に、この「古代密教説の仏説」で解析すると何とか解釈出来る。
(この仏説が青木氏に多いに関わる)

「6根の本煩悩」
さて、”「煩悩」とは如何なるものか” を「古代密教説の仏説」で対比して検証して見たが、此処からの問題は、「平安期の6根の本煩悩」の6つが判れば更に概容が掴める。

その前に、筆者はこの「6根の本煩悩」は、平安期末期の「宗教論争の結果の産物」と観ている。
恐らくは、当初は上記の「古代密教説の仏説」であったと観ていて、「煩悩論争」の結果、上記の「我執の煩悩」(イロハ)に付いて、宗教界がヒートアップして、 ”「1の先天的煩悩」の「Aの我執煩悩」では説明が付かない” として、以下の「本煩悩説」を付加えたと観ている。

つまり、「古代密教」前(原始仏教-古代仏教)の仏説では、宗教界は荒れ始めた時代性から考えて納得出来なかったのでは無いかと検証する。”穏やか過ぎる”と観て採ったのであろう。
これは宗教界の中の範囲の「学説的煩悩説」で、この「6根」に分けたからと云って、宗教界外では意味の無い事である。
”「煩悩」はあくまでも「煩悩」であって、その「煩悩」が3つあって、その「3つの煩悩」の内の「愚痴」が「煩悩」の「悪の部分」であって、それが「我執」から起る。そして、それを「智慧」が勝れば「煩悩」は霧消する。”で充分な仏説である筈である。
それが6つに成っても、幾つに成っても、「煩悩」は「煩悩」と捉えるのが「民衆の思考の範疇」である。
所謂、「平安期の仏説」では、現在で云う実行性の無い「学説論」と観える。
要するに平安末期以降の「後付け論」である。
同じく、「本煩悩と副煩悩」も同じ平安期の「後付け論」である。

兎も角も、「6根」に付いて一応概容を論じて置く。
「6根の本煩悩」
「貪 - 瞋 - 癡 - 慢 - 疑 - 悪見」
「貪」は、「貪欲」に代表される様に、「貪」は”むさぼる”の意として”非常に深い”の意を持ち悪意に批する語である。
「瞋」は、人の「慎」で”つつしみ”に通ずる意で、人としての”つつしみ”を超える欲に左右されて仕舞う本能である。即ち、つつしみから外れ「攻撃する本能」である。
「癡」は、人に「猜疑心」を持ち、その事に全てが左右され病的に陥る本能である。
「慢」は、「自慢・傲慢・慢心」に通ずる意で、人として、”わきまえ”を超える欲に左右される本能である。
「疑」は、人は「疑心暗鬼」と成り、必要以上に人を「疑う心」に左右されて仕舞う本能である。
「悪見」は、人を「善」と見ず「悪」と観て思考を何事に於いても構築しようとする本能である。

この「6根の仏説」の俗説解釈では以上と成る。

其処で、注意しなければ成らない事がある。
これ等の仏説は、時代の背景毎に変化して行く事から一概に定説や定義とし難いが、平準して現代的表現からはこの様に成ると考えられる。

(平安期-鎌倉期の時代を背景して、社会環境の中に「宗教力」が強く持った為に、この「独善性」を持つ仏教説では、独善性に陶酔して上記の様に無意味な論説が蔓延り、論説が何が何だか判らない。他の宗派の仏説はこれ以上であり、学僧で無い限りは解らない。)

恐らくは、代表的な時代とすれば、平安末期から鎌倉期を通じ、更には室町期末期までの「下克上-戦国時代」には、この6つの全ての「煩悩」が左右して1期に「人の心」に露出して「世の乱れ」と成ったものであろう。
この様に「時代」に依って、これ等の「解釈や教義」は、変化して宗派毎にもその重きを置く教義が異なりより深く追求されるように成り、人の階層毎に「仏説の変化」を大きく遂げた。

(上記の「古代密教の教義」は「青木氏」によって延々と伝承された。換えなかった、むしろ、”換えられなかった” と云って良いのではとも考えられる。
「3つの発祥源」の立場と守護神との「習合の状態」であった事から、換える事は「習合」が破壊する事、即ち、分子結合を破壊する事と同じ作用を起し、「氏」が解体する事が起るからである。
そもそも「氏の根本的な考え方」が違っていた事が基に成る。)

「共通する教義」
事程左様に「煩悩」とは、異なる宗派の教えるところを種々の文書から研究すれば次ぎの様になるだろう。

その慨しての「共通する教義」では、その論調から考えると次ぎの様な共通項が生まれる
 ”「身心」を乱し悩ませ「智慧」を妨げる心の働き” の言葉で定義される。
これが常識と成るであろうことが読み取れる。

因みに「禅宗」ではこの様な問答が多く成されている。「禅問答」で検証されていて納得出来るところが多い。
この「共通する教義」の「智慧」の「知恵」とは、そもそも、”「知恵」には「正悪の知恵」がある” とした時代が平安期以降にあった。
この「悪」に区分される「知恵」の扱いが、時代毎の諸行の変化に合わせて異なっている事に成る。
それが宗派の違いとして露出しているのであろう。
むしろ、この「知恵」に関する「悪」を「煩悩」としない教義もある位で、「知恵」とするものでは「善」としているのは「古代宗派」に共通する考え方に近い。
この「古代宗派」には、「知恵」には「悪」(煩悩)の「知恵」は定義されていない。
故に、この「知恵」は「古代宗派」では「智慧」として表現しているものである。
そもそも、「恵・慧」の語意には、仏教では夫々「施」と「慈」との意を持ち、「恵」は主に”めぐみ・ほどこす”に意を持ち、「慧」は「慈」に意を持ち「愛」に通ずる語意であろう。
然し、平安期の仏教では、”「愛」は現在の「愛の語意」とは異なり、「悪の愛」の意味も持っていて、「愛」は必ずしも「善」としてはいない” の事に注意が必要である。(「悪の知恵」もある事にも注意)
「乱世の時代性」が「知恵と愛の考え方」に大きく影響しているのである。
この「愛」には「悪愛」があるのは「平安期末期の教義」に観られる。

従って、この「時代性の影響」を受けて、「恵と慧」は全てを「善」とせずに、この「恵・慧」の使い方は古い時代の傾向に「慧」、新しい時代には「恵」が用いられている傾向があり使い分けていたのであろう。
従って、「古代仏教」(古代密教が妥当)の「智慧」の方では、「慈と愛」に通ずる事から「悪」とする教義は成立たなかった時代と観られる。
少なくとも「原始仏教-古代仏教-古代密教-古代密教浄土宗」までの時代には「悪」とする教義は無かった事に成る。
恐らくは、「3大密教の宗教論争」後の宗派、取分け「浄土宗」と成った頃からではないかと考えられる。
故に、平安期の宗教論争の中で「共通定義」とした ”「身心」を乱し悩ませ「智慧」を妨げる心の働き” の「知恵」を「智慧」と書き記したと考えられる。
この文脈からは「智慧」は「善」としている事が判る。
そもそも、”妨げる”の語句は、「善」なるものを”妨げる”から使われる語句で、「悪」で有れば”妨げる”は使わ無い筈で、妥当な語句の文脈と成るからだ。
裏を反せば、後の教義の「知恵」では、「悪」の「知恵」を「煩悩」とする上記の(心所区分 A 副煩悩)の教義も、敢えて使い分けしている事から考察しても、平安末期頃には「悪の知恵」の考え方は徐々に芽生えていた事を物語る。
これは時代が乱れ始めていた、つまり、「人の心」が「煩悩」(猜疑心)に依って「持ち様」が大きく乱れ始めていた事を示すものであろう。
「人」は「人」を信じられなく成っていた。況や、「人」の発する「知恵」(策略・詐欺)を「猜疑心」で危険視していた事を物語る。
この「平安期の仏説」の「悪の煩悩説」(愛、知恵)は、上記で論じた「青木氏の添書内容 古代密教説」の 「2の後天的な煩悩」から発し、「我執から生まれる煩悩」では無く、「Bの知恵から生まれる煩悩](添書の時期は「煩悩」を悪としていない)を、この説に「愛」と置き換えて、”「悪の愛」(悪の知恵)がある” とした論理であり、この場合の「煩悩」は「悪」とする前提に成っている。
これは「平安期の(心所区分 B)」の内訳の「大中小の煩悩説」で観られる様に「悪の煩悩説」であり、最終的に宗教論争の据えに落ち着いた ”「煩悩」は否定しない (煩悩を悪としない)” としての時期までの間の仏説である事が良く判る。

「原始仏教」-「古代仏教」-「古代密教」
さて、そうすると、「原始仏教」-「古代仏教」-「古代密教」ではどの様な表現で定義されていたのかを知る必要がある。
密教の古い仏書の私書籍に因れば、次ぎの様に解釈されている。

”「人の苦」の原因を自らの「煩悩」と捉え、「解脱」による「涅槃への道」が求められていた”

この密教古書でのこの「解脱」に付いては、”煩悩に勝るべし”とした「青木氏の密教教示」(添書)では、”「勝解」と定義する” と同時期に書かれているのである。
この”「勝解」は「智慧」に因る”と「古代密教の教示」と成っているから、要するに、その差は「智慧」では無く、「人苦」に重きを置いた定義である。

上記した「平安末期の共通教義」である
”「心身」を乱し悩ませ「智慧」を妨げる心の働き”

この言葉の「智慧」の一節は、古代密教の「智慧」であった事に成り、この「智慧」は「煩悩」とは定義されていず、むしろ、「善」である「智慧」を”妨げる”とあるのだから、「智慧」は尊いものであるとして「智慧を薦める教え」に戻りつつあった事に成る。
そうすると、密教古書の「人の苦」は、平安末期のこの仏説の「心身」と「類似語」と成る事から、明らかに「類似文」と成る。
文章は違えども、「古代密教」の説への ”「戻り説」に近づいた” 事に平安末期の説は意味している。
そうすると、次ぎの様に時代毎の共通定義は分類される。

[煩悩の共通定義]
A (奈良期)-平安中期説 「人の苦」の原因を自らの「煩悩」と捉え「解脱」による「涅槃への道」
B 平安末期説-(鎌倉期) 「身心」を乱し悩ませ「智慧」を妨げる「心の働き」

「共通定義の変化」
この変化は「奈良期から平安中期」までの期間では、徐々に潜在する「Bの変化」の方向に移動しつつも主の「Aの変化」を維持した。
但し、その「Aの変化」は「Bの変化」の胎動の影響を受けながら「比例的な変化」では無く緩やかな「双曲線的な変化」を来たしていた。
然し、その「Aの変化」がある時期に急激に低下し、それに代わって「Bの変化」が平安末期には突然に勃興して、明らかに「Bの変化」に変身してしまった事に成る。
この「Aの変化」が逆に潜在し、主と成った「Bの変化」は鎌倉期までは維持された。
その変化は、今度は急激な乱世の為に「双曲線の変化」では無く、「放物線的な変化」を描きつつ落下する事無く高い状態で変曲点を維持した。
鎌倉期後ではこの「Aの変化」は低迷し、「Bの変化」は最早、現世に置いて可能な限界に達する際限の無い最大と成った事を物語る。

ところが、この時に、突然に、この最大の「Bの変化」の「ぶり返し」が室町期中期前後に起った事に成る。この時の教義では、「Bの変化」に押し潰されていた「Aの変化」の「Aのぶり返し運動」が爆発・噴水の如くに宗教界の中で起ったと記されている。
恐らくは、宗教界の書籍の記録の変異を調査しているので、一般の武士階級も含む民衆の中にも起こっていた筈である。
これが最終は、上に記する「Aタイプの教義」でも無く、「Bタイプの教義」でも無いと云う形の ”煩悩は否定しない” と云う教義に成ったのである。(これをAxタイプと記す)
「AとBのタイプの教義」では無いとしたのは、「Aタイプの教義」であるのはその通りなのだが、違う一点があるからである。
それは、Aタイプでは、上記の様に、”「解脱」” とする字句を使っているところである。
そもそも、「解脱」の本来の意味とは、”「煩悩」のある事を悟り、この「煩悩」を「人」として無くして克服する事”である。
然し、この「Axタイプ」では ”煩悩は否定しない”と成っている。
この”否定しない”は、”肯定もしないが、「煩悩」の有無に拘らない”とした事に成る。
”「煩悩」があるからと云って、それに拘り、あーだこーだと無理に「解脱」する必要はない”とした事に成る。
要するに ”有無に拘るな 事をあるが侭に捉えよ” と説いているのだ。

ところが、そもそも、平安初期から中期頃に密教浄土宗外の宗派が説く「Aタイプ」の「解脱説」には矛盾がある。
そもそも、”解脱し得る「資質」がその者にあるのなら、「煩悩」に苛まれない筈だ。 「解脱する資質」が元来、無いから「煩悩」に苛まれるのだ” それなのに”解脱せよ”とはおかしい説に成る。
矛盾している説の様に観得る。

然し、この矛盾は上記の「解脱」を、「青木氏の密教説」の「勝解」と解釈すれば解決する事に成る。
(この「解脱」の反意として「勝解」の意味を持たしていたのかも知れない。「漢文」は「隠意」を旨としているので筆者の能力では苦労する。然し、「青木氏」の先祖がこの書籍を読んでいる筈として考えると、この矛盾点を「青木氏の密教」として「勝解」と正しく定義していた事かもしれない。)

恐らくは、「民への説法」では無く、平安中期頃までに勃興し始めた源氏や桓武平家等の「武家」の台頭に対しての「武」の「煩悩」を見据えた説法であろう。
故に、矛盾が起ったが、民にこの説法をしても受け入れられる事は無い。
「武家」の「密教の説法」である事が判る。

つまり、この「Aタイプ」では無い「Axタイプ」の説法は、上記した「般若心経」の一節の「色不異空 空不異色」 「色即是空 空即是色」のまさしくそのものの「教えの解」である。
重ねて「色不異空 空不異色」に特別な意味を持つものである。
そもそも「般若心経」は古い「原始仏教-古代仏教-古代密教」の教典である。
完全に「Aタイプ、Bタイプ」では無く、日本に「仏教伝来期の教典」の時期の教義に戻ったのである。

では、「Aタイプ」に対して、”何故、この様な「ぶり反し宗教運動」が起ったのか” と云う問題がある。
又、”どの様な階層にこの「ぶり返し宗教運動」が起ったのか” の「2つの疑問」を説いておく必要がある。

「2つの疑問」(「ぶり反し宗教運動」)
結論から云えば、「7つの民族」の融合過程で起った夫々の民族の「守護神の五大守護神」の共通化・集約化が起こり、”仏教(「仏説」)の中に神教(「神説」)が入って来た事” が原因と観られる。
所謂、「第1期の神仏習合運動論」が影響した事に成る。(青木氏の守護神{神明社]参照)
上記の「Bタイプ」が究極に達した結果、「人」はその極限に達すると本能的にその極限から逃れ様として、その「捌け口」「逃げ道」を求める。その「捌け口」「逃げ口」を「仏」では解決し得ない事から既に存在する上位の「神」に「助け」を求めた事に成る。
そして、「仏」を否定せずに、「煩悩」を否定せずに、「神」と「習合」させて「神仏」に助けを求めたのである。
これは明らかに ”否定していない運動” であり、これでは、何れの「民」も、況や、何れの「教義」も抗する事は出来なかった筈である。
故に、「究極の行動」として、突然に勃興した「Axタイプ」に反する物が無い事から ”突然に勃興した”と云う事が起ったである。
当然にこの事から「2つ目の疑問」は解ける。
それは「煩悩」に慄く「全ての民」と云う事に成る。

「浄土宗の経緯」
そこで、この「全ての民」が信心していたこの「原始仏教」が伝来したのは、つまり、「原始仏教」を私伝で普及させたのは、奈良期の「後漢の渡来人」で「阿多倍の職能集団」の第1陣に渡来した「鞍造部の首魁」の「司馬達等」である。
奈良期に大和国高市郡坂田原の草房から「在来民」に布教した事が史実として判っている。
そして、それが「職能集団の技能」の享受をうけた「在来民」を経由して急速に西日本全国に伝播して行ったのである。
そして、その彼の教えは瞬く間に天皇家の「朝臣族」までも広がり、「蘇我氏と物部氏の神仏戦争」と云う乱に至ったのである。そして、蘇我氏と天皇側が勝利し、これをこの直ぐ後の奈良期の皇族賜姓族が自らの宗派と捉えて「密教の菩提寺」を建立して、「原始仏教(飛鳥)-古代仏教(奈良)」を護ったのである。
これが「古代仏教」→「古代密教」として引き継がれ、更には、これが「平安期の浄土宗」の原型としての「古代密教浄土宗」と成り、「阿弥陀仏」を信仰する「朝臣族の皇族賜姓族」の「独善的な密教」として発展したのである。
後に、これを「法然」により体系化されて「浄土宗密教」として確立したのである。
この時には、まだ「密教」であり、「法然の浄土宗密教」は、「独善的な菩提寺」を建立して「特定の朝臣族・宿禰族の密教」として拡がったのである。

(朝臣族系賜姓族の「氏の事情」を鑑みて「古代仏教」を基盤にして「独自の教義」を確立させて、これを「古代密教」なのである。これが更に「古代仏教」-「古代密教」を基盤とした「法然浄土宗」と連携して「浄土宗密教」が確立したのである。)

そして、「浄土宗密教」の法然の弟子の「親鸞」により民の領域まで布教させる為に、この「密教方式」を取り除き、「浄土宗の教義」を緩やかにして「真宗」として、鎌倉期に勃興した「上層階級の武士階級」にまで先ずは拡がった。(後には民にまで広がる)
然し、此処には「原始仏教」-「古代仏教」の司馬達等に依って布教された「初期の民の信心」は消えた訳では無かった。
「民の信仰」は、地に深く潜行して維持された。そして、細々と「原始仏教-古代仏教」は民に依って700年近く維持されていたのである。

(この時期の「民の信仰」は、神に対する「食(ミケ)神」と原始仏教の「仏」とが一体に成った信仰であった。現在の「稲荷社信仰」の原型とした、「神仏」を分けるのでは無く一体として崇めて維持した。
この「神仏一体させた民の信仰」は飛鳥-奈良期の丹波-難波の付近に広がっていた事が遺跡から判明している。)

この民に依って引き継がれた「原始仏教-古代仏教」の信心は、今度はその真宗が類似する教義であった事と、その緩やかに説いた「親鸞の教義」が「民の信心信仰」に合致し、「真宗」の方に流れ至ったのである。
この「教義の根源」(民→「神仏一体」 氏→「神仏習合」)を同じくする「朝臣族の古代密教」と「民の古代仏教」の「2つの力」が、「Axタイプ」の「教義の力」として世に再び噴出したのである。

民→「神仏一体」 : 古代仏教信仰   食神系社信仰  稲荷社信仰の原型
氏→「神仏習合」 : 古代密教信仰   神明系社信仰  

この時、根源と成った「原始仏教-古代仏教-古代密教-古代密教浄土宗」の伝統を持つ「朝臣族の密教」は、今度は「民の信仰」に代わって、逆に「皇族賜姓族」に世に潜行して細々と引き継がれて行ったのである。
逆に「民の古代仏教」は地に潜行していたが、700年後に芽を吹き出し始め世に出たのである。
この噴出した「民の古代仏教」は「親鸞」の「緩やかな教義」に変えて「真宗」へと変化して行ったのである。
何時しかそれが国を動かすほどの「宗教勢力」と成って室町期の為政者(信長-秀吉)を悩ました。
「民の古代仏教」と「真宗勢力」が合体した一大勢力と成って「民」と「下級武士階級」の「信仰体」と成り得た。

(上級武士は浄土宗、武家階級は密教系浄土宗、公家階級は密教系天台宗、武士は密教系真言宗、一般武士と土豪階級は密教としない真言宗等の別派を信仰体とした。密教系派は一族の独自の菩提寺をも各地に建立した。) 

この「Axタイプ」が ”煩悩は否定しない”を前提に変化させて ”「阿弥陀仏の念仏」さえを唱えれば「安楽の彼世」に逝ける”と説いてリードしたのである。
「解脱」とか「煩悩」とか「智慧」とか「悟り」とか「拘る」とか説かずに ”ただ一つ 「南無阿弥陀仏」の念仏一つを唱えるだけで良い。 他に何もするな ただ信ずればよい。”としたのである。これが「民への教義」としたのである。
(他の密教系宗派も「即身成仏」等のほぼ同じ教義である)
「煩悩」を「人の苦」、「智慧を阻害する」として「解脱」(解決・逃避)したいのであれば、その方法は”ただ信じて、念ずれは出来る”と説いたのである。

原始仏教-古代仏教-(神仏一体)-古代密教-古代密教浄土宗-(神仏習合)-三大密教-宗教論争-宗教改革-(教義見直運動)-(大神社信仰 守護神信仰)-部派仏教-浄土真宗-(密教消滅)-(ぶり返し運動)-宗教戦争-大乗仏教-(一般神社信仰)-神仏併呑-神仏連携-神仏合体

「武家への教義」
但し、これでは宗教ではないとして、「法然」-「親鸞」は ”人を観て法を説け 縁無き衆生動し難し”とする「仏法の教え」は曲げずに武家階級には教示したのである。
この「武家への教義」では「民への差別」の事に成る。然し、この時代の前提は「身分制度」の概念があり、何の疑問も無い「仏説の教義」で合った。
然し、これでは「武士の煩悩」に対する教義には成らない。
其処で、親鸞はこの特定の武士階級に対して、”人を観て法を解け” の「仏説の教え」をより進展させて、より厳しい「武士の道」というものを説いた。
この「武士の道」を説く事で「人の苦」「解脱」「智慧を阻害する」の解決策としたのである。
「武士」に対しては、その「武」に対する「立場や役目柄」から、”ただ念仏を唱える”だけではその立場役目は果せない。むしろ、”「武士」の「人の道」として、この”「人の苦」「解脱」「智慧を阻害する」”に耐える事こそに意義があり、耐えてこそ「煩悩」に勝る事に成る”と説いて、”それを成す事が出来ないのであれば、それは「武士」としての立場役目は成し得なかった事を意味する事に成る。
依って、最早、それは「死する事に価する」”と説いた。
(後に、武士の本分を全う出来ない時に採らねば成らないものとして、これが「武士の切腹」と云う戒律として生き続けた。)
そして「人の苦」、即ち「我執」から来る「煩悩」を克服出来なかった時のその死する事は「恐怖」では無く、”{現世と彼世]とは上記の「般若心経」の「心の道」の「色即是空 空即是色」であり、「色不異空 空不異色」の一節”と説いた。
その「心の道」は「人の道」だ「武士の道」としたのである。
そして、その戒律を厳しくした”武士に対してのみ「菩薩様」は護る”と仏説を説いたのである。
この時、武家には真に「神仏連携の運動」が起こり、「八幡社」と合体させて「八幡大菩薩」を「信仰体」として作り上げた。
(朝臣族賜姓族の青木氏-「阿弥陀如来信仰」 朝臣族賜姓族の源氏-「観音菩薩信仰」-後に全ての武士の「八幡大菩薩信仰」となった。)

「朝臣族の青木氏」の古代密教系浄土宗派は、”「煩悩」に勝るべし”として、”勝るにはそれには智慧」を出せ”と説いた。
此処でも「賜姓源氏」と「賜姓青木氏」は「信仰体の教義」が異なっていた。
「浄土真宗」は、「浄土宗の教え」を護り、”煩悩に勝るべし”としながらも、”勝るには「武士の道」を”と説いた。「民」には「念仏三昧」を説いて救われるとしたのである。
然し、この流れは既に平安末期にも起こっており、清和源氏の河内源氏とその未勘氏族に依って広められた「八幡社信仰」が武家階級に起こっていた。[青木氏の守護神(神明社)]を参照
(この「武家」とは「公家階級」に対して「武家」である。)
そして、この武家階級は神教の「八幡社信仰」と仏教の「菩薩信仰」を連携させて「八幡大菩薩信仰を確立させたのである。
この流れが、更に確立されて、「煩悩」から解脱する「人の道 武士の道」の「武士道」を構築して鎌倉期以降多く発祥した「武士の信仰体」が出来上がったのである。
所謂、これが「神仏併呑説」である。

この段階で、次ぎの「4つの信仰体」(宗派ではない)が既に存在した事に成る。

「4つの流れ」
・「青木氏」等による朝臣族の「原始仏教-古代仏教-古代密教-密教浄土宗」(阿弥陀如来仏)を信仰体とし、「皇祖神-子神-祖先神-神明社」とする「神仏習合」の流れ 奈良期から平安中期

・「原始仏教」を信じ潜行していた「民」の信仰体とする流れ(類似する真宗に最終帰依)
「食の神」(ミケの神 トヨウケの神)に通ずる信仰体と合わせ持っていた。飛鳥-鎌倉期

・武家階級の「八幡信仰」と「菩薩信仰」の「神仏併呑」の流れ 平安末期から室町期初期

・武士階級の「真宗信仰」と「武士の道」を説く「八幡大菩薩」「神仏連携」の流れ 室町中期から江戸初期

「4つの神仏の集約運動」
「神仏習合」 神教と仏教が独立しながらも寄り添う様な考え方 奈良期-平安中期
「神仏併呑」 神教と仏教が一部融合しながらも統一させた考え方 平安末期-室町期初期
「神仏連携」 神教と仏教が連携して融合し合う所を一つにした考え方 室町期中期-江戸期初期
「神仏合体」 神仏と仏教が完全融合して一つの形にした考え方 江戸期末期-明治初期

以上「4つの流れ」の時代毎の背景には「神と仏の教えの歩み寄り」が大きく影響した流れが起った。

当然に「我執」を基とする”「煩悩」は否定しない”の考え方がこの流れの主流であった。

この「4つの流れ」は、その基を質せば、「青木氏等の朝臣族・宿禰族」の「古代密教」が基盤として拡大したものであって、その中でも、最終は「賜姓族」の「2つの血縁青木氏」とその「2つの絆青木氏」が主体とした信仰体が基盤と成っているのである。
何故ならば、”爆発噴水”として勃興したのには、「何がしの起爆剤」があったからこそであり、「爆発噴水」の様に、”煩悩は否定しない” とする説の信仰体が突然に生まれる事は無かった筈である。
その「内圧」と成った、「起爆剤」と成った「原始仏教-古代仏教-古代密教-密教浄土宗」の「青木氏の存在」と「その考え方」が、世間に潜行し浸透して行って、「内圧」が高まったところで「爆発噴水の様」を成したのである。
当然に「民の原始仏教-古代仏教」(神仏一体 稲荷信仰の原型)の潜行する動きが根底にあったからこそ起った事である。
その「起爆剤」の大きな「引き金」に成ったのは、「青木氏の守護神(神明社)」に論ずる事であったのである。
況や、486社にも成る「皇祖神-子神-祖先神-神明社」の「神教の教え」が基盤と成ったのである。

「2つの教義」
日本全国各地に存在する「密教の菩提寺」、即ち、「原始仏教-古代仏教-古代密教-密教浄土宗」の「阿弥陀仏」を「信仰体」とする教義
486社にも成る「皇祖神-子神-祖先神-神明社」の神教の教義

この「2つの教義」が上記の「4つの流れ」を作り上げたのである。
この一つと成った「朝臣族・賜姓族」が「2つの習合」を成し遂げていた事が以上の流れを起したのである。
これが日本に於ける「原始仏教-古代仏教-古代密教」が基盤とされる仏説である。
この様に、「家訓9」の「煩悩」を解析して理解する上で、この「4つの流れ」は無視出来ない。
この様に「青木氏に存在する神仏習合の考え方」は、”「煩悩」は否定しない” であっても、当然に平安末期とそれ以降の共通する仏教の定義・教義とは異なっていた事が判る。

”「煩悩」は否定しない”には、「阿弥陀仏の信仰体」に対して「菩薩様の信仰体」、「武家の発祥源」でありながらも「武士の道」の教義を採らず、「和に対する心得」を堅持した結果、「神明社」に対して「八幡社」等の大きな差異が当初から存在したのである。
従って、「煩悩」に関する定義も ”煩悩は否定しない” を前提に、「家訓10訓」は基より「家訓9」は異なっていた事に成る。
では、何処が、どの様に異なっていたかを次ぎに解析する。

「教義の経緯」
そこで、この時代に青木氏は「3つの発祥源」の「融合氏」として発祥した「始祖氏」であるから、そして、「皇族賜姓族」としての50程度の大まかな「慣習・仕来り・掟」にガチガチに縛られていた事からも、ただ単に「新しい時代の仏教の定義や教義」だけにて、この「家訓9」を論ずるには上記の様な問題が多く、真の「家訓9の意」を解析する事は危険である。
別の論文の「青木氏の守護神(神明社)」取分け-19から22に至る段の検証からでも、この「煩悩」対して「智慧の領域」の教義にあった事は納得出来る。
況して、仏教の「古代密教」を継承し、「自然神-鬼道神」に近い「皇祖神-子神-祖先神」の神明社をも「氏の教義」として両方を持ち合わせていたのであるから、「新しい時代の仏教の定義や教義」ではそもそもこの「家訓9」を論じ得ないであろう。

平安時代の「部派仏教」の時代になると、上記した様に、時代に合わせてその解釈を巡って「煩悩」の深い分析が行われた。この事で「宗教論争」が起こり「宗派」が増えたのである。
更に進んで「大乗仏教」の時代でも、この分析は続けられ、特に「唯識」(唯物視論)が示した「心と煩悩」の精緻な探求が行われ、これが「仏教の煩悩」に対する到達した究極点と成った。

(この段階では最早、「仏教の独善性:宗教の力が社会を牛耳る」が強くなり一般的な思考では難解である。宗教界内部の専門教義に委ねる。)

又、この時代には最終、”「煩悩」は否定しない”と云う所まで到達する仏説も生まれ、それまでの仏教には無かった発想も生じて来た。
(所謂 これが世に云う「如来蔵論」である 「青木氏」は「阿弥陀如来信仰」)

「如来蔵論」
この両者の思想はその後の「大乗仏教」の仏説に大きく影響を与えた。
この様に「煩悩の観念」は時代を経るに従い、様々な意味を付加して深化して云えるのだが、問題は「古代密教」、取分け「浄土宗」では無く「浄土密教を教義とする青木氏」で「阿弥陀様を主信する氏族」の「煩悩に対する考え方」は、他の氏と大きな異なりを示していた筈である。
日本全国8000氏の中でも、ただ1氏の「青木氏」のみが「古代密教の浄土密教」を継承していた事に成ると云える。
とすると、果たして、「古代密教の浄土密教」とはどの様なものであったのかは「青木氏」そのものを研究しなければ、この「原始仏教」-「古代仏教」-「古代密教」-「浄土密教」の「煩悩の教義」が明確には成らない事に成る。
それを解明する事が出来るのは、この「青木氏の家訓10訓」、取分けこの「家訓9」に隠されている筈である。
それを上記した共通した「煩悩の教義」を先ずは参考にして導く事で、その差が読み取れて、その結果、この「家訓9」の本意が読み取れる筈である。
当然に、「青木氏の守護神(神明社)の論文」とも大きく関わる事に成る。それは悠久の歴史の中の「青木氏の生き様」を通して明らかに成る事を意味する。

(余談 故に、「家訓8」で投稿を一時止めて、「青木氏の守護神(神明社)」の既に作成済みの論文を再編集して投稿を先行させた。)

「家訓9」
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩悩)

「智慧の領域区分」(重複)
1 隠の行 (表: 話-編-歴)
2 遍の行 (意: 触-受-想-思)
3 別の行 (欲: 勝解-念-定-慧)
4 善の行 (信: 精進 - 慚 - 愧 - 無貪 - 無瞋 - 無癡 - 軽安 - 不放逸 - 行捨 - 不害)

(注意 (・・)を解析する事は本論の目的外であるので割愛する)  

「阿弥陀仏の信仰体」に対して「菩薩様の信仰体」
「武家の発祥源」でありながらも「武士の道」を採らず
「和に対する心得」を堅持
「神明社」に対して「八幡社」
以上の様な大きな差異が当初から存在したのであるが、更に詳細には差異がある。

そこで、先ず、”「煩悩」に勝るべし”とある。”煩悩から解脱せよ 悟れ”とは当然に云っていない。それは、”「煩悩」は否定しない”の前提にあるからだ。
字句は、”勝るべし”と云っている。
これは、”「煩悩」がある事は人として当然の事である。「般若心経」の一節 「色不異空 空不異色」「色即是空 空即是色」の教示であるから 拘るな”である。
”勝るべし”とは、”「煩悩」に拘るな”である。

この「煩悩」に拘らない為には、”「煩悩」に対しては別に「何らかの術」を以ってそれを乗り越えよ”と成る。それで無ければ、結局は、”煩悩から解脱せよ”と同じ事に成る。

「煩悩」は人間が持つ本能である。それを押さえ込む事の苦労は、「煩悩」から受ける苦労(人の苦労)より遥かに大きい。それを押さえ込む事によるリスクは遥かに大きく、押さえ込んだからと云って人間の質が向上したとは言い難い。むしろ、大きすぎて「捻くれる事」のリスクの方が大きい。
”押さえ込む事”が出来てその質を向上させたとするそんな人間は「神」以外に無い。
そもそも、その「神」とは「全ての煩悩に解脱した万能物」を云う。
”「煩悩」を無くせ”は、”「神」に成れ”に等しい。そもそも”「神」で無いから「人」なのだ”
”「煩悩」を無くせ”の教義は、そもそも「人」に云う教義では矛盾している。
然し、”「煩悩」に勝るべし” とすれば「人」に云う教義としては正等の教義である。
兎に角も、「神」に成る前にそもそも「人の変化」(へんげ)の「仏」がいる。
では、その「仏」は仏説では、”「過去、現在、未来」の3世に生きる”と明言している。
真にそれを「般若心経」に主な教えとして明言している。
真に、「色不異空 空不異色」「色即是空 空即是色」の教示である。
「人」は3世に生きるのであれば、「人の変化」の「仏」は4世に生きている事に成る。
そして、この「煩悩」はこの「仏の教え」としているとすれば、論理的には、やっと「人の変化」の「仏」の「4世の世界」で「煩悩」から解脱出来る事に成る。
これはそもそも論理矛盾でおかしい。
更に「仏教の矛盾」がある。「4世」でやっと悟った「仏」と同じ事を「現世の人」に課せる事には矛盾が起る。
古代の「般若心経」では ”拘るな”と説いていながら、「平安期の前後の教義」では上記した様に「人」に大也小也に「解脱」を要求している。これでは平安期前後の宗教界は「般若心経」を無視している事に成る。
「仏」が「仏」に云うので有れば問題は無い。然し、生の「人」に説いている。
あまりに独善的で学説的な過剰な宗教理論を展開した為に、上記の様な「平安期の仏説」には疑問や矛盾が目立つ。

A (奈良期)-平安中期説 「人の苦」の原因を自らの「煩悩」と捉え「解脱」による「涅槃への道」
B 平安末期-(鎌倉期)説 「身心」を乱し悩ませ「智慧」を妨げる「心の働き」

「般若心経の教示」からすれば、「人」に出来る事は ”「煩悩」に勝るべし”以外に論理的にあり得ない。
筆者は、この ”「家訓9の説」(古代密教説)が正しい” と考えていて、更に、日本に渡来伝来した時の「原始仏教-古代仏教」の仏説教義では、”煩悩に勝るべし”の近い言葉であったと考えているのである。
それは、「般若心経」の教示の通り、当初は ”「煩悩」のある事を知り、然し「煩悩」に拘るな”であったと考えられる。これであれば平安期末期頃の仏説の様に矛盾は起こらない。
況して、”煩悩に勝るべし”では、「勝る」には何かが必要であり、それは必然的に「仏」より「上位の神」が与えた「智慧 知恵」を必要と成る。
大事な事は、”「智慧」は「下位の仏」では無く、「上位の神」が与えた” と云う事だ。
「神」は無意味に与えた訳ではない筈である。「何かの意味」の為に与えたのだ。
答えは決っている。その為に、「神」は「煩悩」を持つ人のみに「解消の具策」として「智慧」を与えたのだ。
この時、人は ”どうしたら勝る事が出来るか”考える。当然に「智慧」を働かせる。
上記した様に「智慧・知恵」は「神」から授かった「人間特有の術」である。
その「智慧の術」を使って「煩悩」に対峙する事で「人」は進化する。
「進化する事」で、少なくとも動物本来の有する「煩悩」からは「解脱」とも成らずとも少なくとも「妨げの助け」(軽安減)と成るであろう。
要するに「軽安減」と成る。つまり、「智慧の術での軽安減」とも成れば「拘り」とは成らない。
これは「自然の流れ」の中にある。むしろ、「人」である限りは「煩悩」とも限らず「当然の仕儀」であり、斯くあるべきとも成る。
だから、次ぎの「心所区分」として「智慧」に付いて論議されているのだ。
”平安期に「心所区分」として定義されている” と云うことは、これは ”「智慧」が何らかの「煩悩」に関わるもので在る事” を認識していた証拠である。
然し、此処では ”「智慧」は「煩悩」を起す要素の一つだ” と説いているのだ。
「智慧」は「煩悩」の「解消の具策」とはしていないのだ。
ここが ”大きな勘違いであった” と「古代密教」は論じているのだ。

ここで、それをもう少し詳しく論じて観る。
上記の(心所区分 A)の4つの「智慧」から齎される「煩悩」
(重複)
1 隠の行 (表: 話-編-歴)
2 遍の行 (意: 触-受-想-思)
3 別の行 (欲: 勝解-念-定-慧)

4 善の行- (信):
    「解脱系」   精進 - 慚 - 愧 - 無貪 - 無瞋 - 無癡
    「勝解系」   軽安 - 不放逸 - 行捨 - 不害

”「智慧」は「煩悩」である” とする「平安期の教義」の上記「4つの煩悩」の中に、「4の善行」の項に ”軽んじる”と”安んじる”の「軽・安」が定義されている。
然し、「4の善の行」の他は明らかに「6根の煩悩」である。
又、「3の別の行」の項には、 ”勝る事から解する” の意の「勝解」が定義されているし、上記した「慈の愛」での「慧」も定義されている。「慧」もあるとすれば同意の「念」もあり得る。

これは「家訓9」では ”勝るべし”としていた事から、「3の別の行」と「4の善の行」の教義に該当しているが、「智慧」を出す「術」を、1の「隠の行」と2の「遍の行」の内容とすれば「家訓9」に該当する事になるだろう。ところが良く考察すると、”該当していない”のである。
その前に、先ず、この「1から4の定義の扱い」を ”違える事” があるからとして、「平安期の学問教義」では「煩悩としての扱い」にした可能性がある。
「平安期の仏教学的教義」では、”「智慧」は「煩悩」である” と認定した上で、「古代密教の教義」では、元は一つであったものを「智慧」をこの様に先ず分類して、「1から3の内容」で”違える事”があるから、だから”違える事”に依って、”「4の善の行」の「煩悩」と成ると、強引に誘引して「仏教学」として説いたものであった”と考えられる。
「4の善の行」の「信」に分類される「前6つ」は、真に「6根の煩悩」類で「解脱系」であり、「後4つ」は「勝解系」とに分類される。
そして、この「4の善の行」の「信」は、”「違える事」”に成るかどうかは、この「信」(信じる事)に関わるとしていて、”「信じる事」の如何に依って「善の智慧」も「煩悩」と成り得る”とする論理としたと観られる。

要するに、”「違える事」にする為の「論理的な理由付け」を見つけ出した”と考えられる。
この無理な「論理的な理由付け」の「後付け論」を観て、そうしなければ成らない「時代の状況」に追い込まれていた事が頷ける。
恐らくは、「古代密教」では、「4の善の行」のみの中に「1から3の内容」を組み込んでいた教義であったと予想できる。
何故ならば、”「1から3の内容」はそれは「智慧」に到達する為の「プロセス」に過ぎない”からである。
現に、「古代密教」を継承している唯一の「青木氏の家訓9」から読み取れる教義では、「3の別の行」に ”勝るべし”、即ち、「勝解」が入っている事が、これを証明している。
確かに、「智慧」はこの「1から3のプロセス」を経て発せられる事は確かである。
然し、それはあくまでも「智慧」の「4の善の行」を成し得る為のプロセスに過ぎない。
このプロセスを経て始めて「智慧」と成り効果を発揮し得る。
即ち、「古代密教」、即ち、「青木氏の教義」では、「智慧」=「4の善の行」 のものであった事が判る。
当初の「古代密教の教義」には「解脱系 6つ」は無かったと考えられる。

そもそも、この未だ「智慧」と云う形に至っていない「プロセス」のものを引き出して ”違える事” として「煩悩」とする説には飛躍が有り過ぎる。
故に、”実用化しない傾向の在る「仏教学の学説論」だ” と、「古代密教 説青木氏の教義内容」の検証と、合わせて「平安期の仏教学的教義」を論評している。
故に、”大きな勘違いであった”と成るのだ。

仮に、この”違える事” がこのプロセスの中であるとしても、それは「一時的な期間の現象」で「煩悩」として見えている事であって、「智慧」の「目標とするある期間の末」にその「智慧の効果」が発現すれば、「一時的な期間の現象」は問題は無く、それは「智慧」とする範疇の中に在る。
そもそも、「智慧」とは、”ある「期間」と、ある「状況」と、ある「人様」の「本質の領域」を持ったものである。
”「智慧」を出したからと云って、直に効果が出なくては成らない”とする定義は仏教にはない筈であるし、そんなものはそもそもこの世に無いだろう。
この世の「森羅万象」の全てものには「醸成領域」と云うものを持っている。例外は無い。それがこの「世の条理」である。当然に、「神」が創造した「人の脳」から発する「智慧」も例外では無い。
これを「一プロセスの過程」で ”「違える事」” 事があるからと云って、「煩悩」とするは「醸成領域」の「世の条理」を無視した事を意味する事に成る。

現に、仏説に「三相の理」と説いているではないか。この「智慧の醸成領域」は、「人時場」の「3つの理」に合致している。「期間、状況、人様」の「智慧の本質領域」である。
況や、”この「世の善成るもの」には必ずや「三相の理」が伴なう。 「三相の理」無くして「善の結果」は得られない”とする仏説汎教でもある。
「古代密教」(青木氏の教義)では、云うまでも無く、「醸成領域」を持つ ”「智慧」は「善」”である。故に、”「善」は「4の善の行」の「勝解」と成る”とする所以である。

「平安期の仏教学的教義」の「煩悩説」には「拘り」が過ぎて他の「重要な仏説」を忘却してしまった説と言わざるを得ない。
真しくこれこそが「般若心経」の「拘り」の見本である。犯しては成らない事を仏説自らがこれを犯している。
況や、「三相の理の仏説」も含めて、”「拘るな」”とする「根本の仏説」をも無視している事に成る。

然しながらも、兎も角も、古代密教の「青木氏の教義」は ”勝るべし”(勝解) としたが、これには何か意味がある。

「家訓9の添書」の文脈から読み採ると、次ぎの様に成る。
「智慧」には”「煩悩」と成り得る「慧」”と、”「煩悩」と成らない「慧」”があるとしている。
「煩悩」と成らない「慧」は問題は無い。(但し、「慧」を「煩悩」とは決め付けていない)
むしろ、この”「煩悩」に成らない「慧」”は、”「煩悩」に成る「慧」を賛く”として断じている様だ。
依って、”煩悩に成らない「慧」”は ”煩悩に成る「慧」”を”減殺する”と論じていて、終局は”「智慧」は「煩悩」と成り得ない”と結論付けている。
依って、文脈の要約を採り纏めるとすると、次ぎの煩悩の数式論的な事が成立するとしたのである。

「煩悩」に成る「智慧」<「煩悩」に成らない「智慧」
「煩悩」に成らない「智慧」-「煩悩」に成る「智慧」=「進化」
「進化」=「勝」

この「3つの数式論」が成立つところに「家訓9」の”煩悩に勝るべし”と成るのだ説いている。
この世は現に進化しているのだから「進化」=「勝」はこの「現世の理」であるとしている。
そして、ここには、一行”「智慧」の「慧」の「慈」を忘却ならず”と付加えている。

この「3つの数式論の智慧論」はどの様な背景であったのかはこの数式論を検証して直ぐに判る。
それは、「青木氏の守護神(神明社)」で論じた「物造りの神」「豊受大神」が証明している。
「物造り」は「智慧の発露」の結果であるからだ。
”「人」を豊かにする「智慧」は、「人」を苦しめる「煩悩」とは到底成り得ない” としているのである。
故に、上記の通り、”「豊かにする智慧」は「善」であり、「慧」は「善」とする「慈」である”としているのだ。
依って、「青木氏の伝統ある教え」は、”「慈」は「愛」であり、「悪の愛 煩悩と成る愛」は存在し得ない”としているのである。

「物造り」→「智慧の発露」→「智の慧は慈」→「慈は善」→「善は愛」→「愛は善」→「智慧は善」 
∴「智慧の煩悩は存在せず」

平安期以降の「愛は必ずしも善と成らず、「悪の愛」があるとする」の教義とは明らかに異なっている。

ここでは、明らかに「教義の前提」が異なっている。
故に、「平安期以降の各種の宗派の仏説」の「智慧の煩悩」(4つ煩悩 心所区分 A)とは論説は異にする。
故に、「青木氏の伝統ある教え」は、「平安期前の密教の教義」である事に成り、この論説は、”「原始仏教-古代仏教」の源説であった” と観ているのです。

「伝統の教え」
「青木氏の守護神」 「皇祖神-子神-祖先神-神明社」の「親神 豊受大神」の「物造りの神」の教えと、上記する「原始仏教-古代仏教-古代密教-古代密教浄土宗」の教示とが「青木氏」の中で習合して、平安期初期前後頃には、この「家訓9」の ”煩悩に勝るべし” の「伝統の教え」が完全に確立されていて、子孫に脈々として伝えられて来た事が判る。
この「家訓9」の「伝統の教え」は、単独で伝えられる事は有り得ず、伝えるには其れなりの「伝達力」を必要とする。それで無ければ今日まで伝えられ無かったと考える。
その「伝達力」に成り得るものは、「皇族賜姓族」と「特別賜姓族」の「2つの血縁青木氏」と「2つの絆青木氏」の「確固たる組織の団結力」に依って支えられて、この「青木氏の教示」たるものが延々と換える事無く引き継がれて来たからに他ならない。
それは、「口伝」のみ成らず、「青木氏の生活基盤の支え」としての「教え」として信じられて来たからこそ「家訓として遺しえた教え」であった筈である。

そして、”この「伝統の教え」には「伝達力」としてのもう一つの力が働いていた”と考えられる。
この「伝達力」無くしては「教えの伝統」に成り得なかった筈である。
そもそも、「伝統」と成るものは、”何でも伝えれば伝わる”と云う話では無い。
「伝わる幾つかの条件」が備わっていたからこそ伝わるのである。
「正しい伝統」に成り得るものは全てこの条件を備えている。

(筆者の物理系技術者の論理では、この世の万物は例外無く「伝統伝達」(この言語に類する全て物)の条件が備わっている。所謂、これは摂理である。
(例えば、分子の構造理論でもこの伝統に類する物を「伝達する条件」が定理で存在する)

その意味から、上記の「青木氏の守護神」の「物造りの考え方」が、この「家訓9」を導いた事は云うまでも無いが、「神仏習合」に至るまでには「物造りの考え方 智慧の発露」以外に「習合」と云う形に至る前に「接着剤」と成る何ものかが無くては「習合」に至らないのでは無いかと考えられる。

 「接着剤」
では、”その「習合」に至る「接着剤」とは何ものか”を検証する。
そもそも、何かと何かが一致したからこそ「習合」と成り得た筈である。
それは、「仏教」と「神教」の間にある共通する「何かの教え」があって、この「世の摂理」として何事もそうである様に、「陰と陽の関係」の様に引っ張られて其処で「習合」が起ったのであるから、それを見つけ出せば良い事に成る。
但し、恐らくは、祖先が「習合」と限定して書き記している以上は、「陰と陽の関係」では無い筈で、「習合」の意味からすると「神仏」の何れのにも「共通する教え」であった事に成る。
そして、それはほぼ「同じ意味する処」を持っていたからであろう。
故に、直ぐに「生活の中の教え」として取り上げられて、”青木氏の大きな組織に「伝統の言」(家訓)として引き継がれて来た”と考えられる。
そして、その「考え方」が「神教側」にも、「仏教側」にも主に「教え」を伝える氏の中に「専門の者」が存在していた事が云える。
そうでなければ、長い間に迷路して違う形に成っていた筈で、「家訓9」の形では遺し得なかった事に成る。
それが青木氏だけに脈々と備わっていた事を示唆している。
従って、その ”「伝達司」(接着剤)と成ったものは何なのか” と考えれば良い事に成る。
答えは、ここでは「神仏」に関わる「青木氏固有の特長」であるのだから、最早、議論の余地無しである。

「伝達司」(伝達子)
「神教側」では、「青木氏の守護神」の神明社の「神職」は「自らの氏」から出している。神職宮司である。
「仏教側」では、「青木氏の密教菩提寺」の「住職」は密教であるから「自らの氏」から出しいる。住職僧侶である。
この条件は完全に備わっている。
この「2つの伝達司」(伝達子)は、何れも「青木氏」にこの教示を説いていて、青木氏に関する全ての「記録と伝達」を職務としている。
当然に、この「2つの伝達司」(伝達子)は、「神教側からの教示」と、「仏教側からの教示」の中で、この「記録と伝統」を同元として教示している事に成る。
そう成ると、この「2つの伝達司」(伝達子)の云う事が異なる事は、「混乱」と成り伝達に値しない事に成る。「神仏の社」を独善的に共有している以上は、異なっていれば「氏」その物が存立しない事に成る。
「青木氏」としての ”「統一した記録と伝統」が双方にある” と云う事に成る訳であるから、「習合する部分」に於いては、「統一した教示の伝達」がこの「2つの伝達司」依って成された事に成る。
つまり、「氏の教示の統一」を神仏双方で教義し議論された筈である。
少なくとも、「青木氏」の「守護神」と「密教菩提寺」が存在する以上は、「伝達司」(伝達子)による「統一した教示の伝達」は成し得た事に成る。
依って、「統一した教示の伝達」の記録より明治期初期までは確実に起こっていた事に成る。

(筆者の「伊勢青木氏」では、歴史上、「奈良期からの不入不倫の権」で明治初期まである程度保護されていた事から、一部では明治35年の焼失もあったが大正14年までの各種の記録が遺されている事でも判る。)

さて、「2つの青木氏に依る伝達司(伝達子 接着剤)」がいるとして、次ぎはその習合するその教示の解明である。

この「家訓9」では ”煩悩に勝るべし” として「煩悩」から逃れられる「術」を会得した。
要は ”「智慧」を使って勝れば良い事”に成る。
そして、その「智慧」は「善」であって「煩悩」では無い事であった。
そして、改めて記するが、次ぎの「3つの数式論」が成立つと説いた。

「3つの数式論の智慧論 仏説論」
「煩悩」を消すには「智慧」として「煩悩」に成る「智慧」<「煩悩」に成らない「智慧」
「煩悩」に成らない「智慧」-「煩悩」に成る「智慧」=「進化」
「進化」=「勝」

「勝」=「現世の理」=「進化」
「智慧」=「慈」=「愛」

∴「智慧」>「煩悩」=「勝解」

「3つの数式論の智慧論」=「青木氏の守護神(神明社)」=「物造りの神」「豊受大神」
「物造り」=「智慧の発露」

「神仏習合論」
∴「物造り」>「煩悩」=「勝解」

「神仏習合の附帯条件」
「物造り」→「智慧の発露」→「智の慧は慈」→「慈は善」→「善は愛」→「愛は善」→「智慧は善」
∴「智慧の煩悩は存在せず」

以上の9つの数式論で、「神仏の教え」は習合した事に成る。

さて、これでは「神仏習合の方法論」では成立つが、「神仏習合の条件」としては充分では無い。
次ぎは、解決して置かなければ成らない事は、この附帯条件の「智慧=慈=善=愛」と成す「智慧の発露の仕方」であろう。
これを解決しておかねば「絵に書いた餅」の論と成る。

「智慧の発露の仕方」
然し、もうお気づきと思うが、これも既に解析済みである。
先ず、「神教」の答えは、「青木氏の守護神(神明社)」-21、22の段で充分に論じた。
「自然神-鬼道神」を起源とした「皇祖神-子神-祖先神」の「無意識の意思」(ミトコンドリヤの意思)を ”「心頭を滅却」して、「人間の善の意思」を獲得する事だ”と論じた。
(「善」論は附帯条件)

そして、「仏教」では、「原始仏教」-「古代仏教」の教示は本文の上段で論じた。
「色不異空 空不異色」 「色即是空 空即是色」
この解析は、簡単に云えば、”俗説 拘るな”であった。
では、”どの様にして拘らなくすればよいか”の条件を解析する。
そもそも、”拘り”は「我執」である。
「煩悩」の元は、「我執」としている「仏説」としては、”「拘り」は「煩悩」ではないか”と云う疑問が生まれる。
然し、密教の「我執説」の「6根」にはこの”「拘り」”は定義されていない。

6根:「貪 - 瞋 - 癡 - 慢 - 疑 - 悪見」

平安期のこの「6根」から観ると、「拘り」とは、この「6根」では、 「瞋」と「慢」に類似する。
然し、次ぎの様に定義される。
「瞋」は、「攻撃する本能」即ち「怒り」として定義されている。
「慢」は、「わきまえ」を超えた「欲」として定義されている。

そもそも、「拘り」は「攻撃、怒り」では無いし、「わきまえ」の限度ではあるが、必ずしも「欲」に値しない。
従って、平安期末期以降の仏説では、”「拘り」は、必ずしも「煩悩」ではない” 事に成る。
然し、「般若心経」には 「色不異空 空不異色」 「色即是空 空即是色」として、俗説の事として ”拘るな”となるから、 疑問が生まれる。
何故ならば、全ての仏説の基と成っているこの「般若心経」とはこの「平安期の仏説」は異説であるからだ。
この疑問を解決して於かなくては「神仏習合の条件」の答えは出ない事に成る。

其処で、これを論じて解決する。
「拘り」が、「平安末期以降の煩悩」として定義されていない事に付いての疑問と、或いは、”「拘り」は「我執」としたが、「我執」ではないのか”、この疑問の「2つの前提」を解決する必要がある。

「2つの前提」の検証
先ず、「拘り」の言語は、俗説としては、”ある事に「必要以上」に「自分の良悪の判断領域」で、この事はこうあるべきだ” と「限定」して、”「自分の心」を一時的に「洗脳」して「固着」してしまう状況” で訳される。
然し、此処には、「必要以上」、「自分の良悪の判断領域」、「限定」、「洗脳・固着」に問題がある。

この4つの中、前の2つの「必要以上」と「自分の良悪の判断領域」は、次ぎの様に成る。
”その限度がどの範囲で適切であるのか”
と云う事に成る。

後の2つの「限定」と「洗脳・固着」は、次ぎの様に成る。
”個人の性癖で起る現象”で、その個人の”人格技量の形成範囲を問われている。”
と云う事に成る。

この4つは、「人」として、「大人」としての「未量と未熟」に起因する事を意味する。
さすれば、この「未量と未熟」を会得解決する事で、 俗説の”拘り”は解決する。
この「未量と未熟」を大人として獲得すればこの「拘り」は解決する。

とすると、上記で「煩悩」とは、”人に持っている「潜在的・先天的な性」”と上記で説いた。
従って、”「未量と未熟」は年齢を経て、「経験と知識」を獲得する事で霧消する事に成る。” のだから、この「拘り」は何時かは霧消する事に成るから「煩悩」の定義から外れる事に成る。
故に、「平安末期以降の仏説」では「煩悩」として定義されていない事が判る。
当然に、「拘り」は「我執」として扱われない事に成る。
これで上記の「2つの疑問」(2つの前提)は解けた。

そうすると、次ぎにでは、 ”「俗説の拘り」は、「仏説の拘り」では何と表現するか” の問題を解決する。
「般若心経」の「色不異空 空不異色」 「色即是空 空即是色」として、俗説の事として ”拘るな”は、上記の「拘り」の言語の定義から、「未量と未熟」を解決すれば、「大人」として事に過敏に反応する事は無くなり、その「心の安定」から、「”無意、無心、無念、無想”」の心境を獲得出来る事に成る。
そして、これを先ずは、 ”人として会得せよ” と説いている事に成る。

(俗説と仏説の「拘り」-「未量と未熟」は、「”無意、無心、無念、無想”」の心境を阻害する最大の障害である。)
要するに、「泰然自若の心得」が必要と成る。(家訓の「長の心得])

要するに、俗説の「拘るな」では無く、「教典」であるのだから、「泰然自若」の ”「無意、無心、無念、無想の心境を会得せよ」”と成る。

この教示とすると、上記での(心所区分 B)の「智慧の領域区分」に、この事に相当する事が定義されている。
注釈
(心所区分 B)
智慧の領域区分
1 隠の行 (表-話-編-歴)
2 遍の行 (意- 触- 受- 想- 思)
3 別の行 (欲 - 勝解-念- 定 )
4 善の行

特に、、”「無意、無心、無念、無想」”は、上記の 「2 遍の行」の(意 - 触 - 受 - 想 - 思)に相当する。

更に、故に、「3の別の行」の「勝解」から、「家訓9」は、”勝るべし”と表現した事に合致した事に成り、納得一致出来る。

「無心」は、「3の別の行」の「念」に成る。
「思」は「無想」に通じ「無思」に通ずる。
「定」は、「拘り」の定義の「限定」、「洗脳・固着(定着)」にあり、「無定」である。
「1の隠の行」は、「智慧の本質」の行であり、「智慧」は「無意識の潜在性」から発する「脳の働き」を「隠」として区分けしている事に成る。
この「隠」とする4つは、歴は「(記録)」、編は「(工夫)」、「話」は「(調聞)」、「表」は「(開研)」に依って生まれる。

確かに、「智慧」は、”歴の「記録」”から引用して発露し、何かを”編の「工夫」”して発露するし、話の”調”べたり”聞”いたりして発露するし、表の”開発”したり” 、”研究”したりして、発露する事は確かであり納得出来る。
確かに、この「1の隠の行」は ”「4つの諭し(智し:さとし)」” であり、「人」は自然の営みとして理解し脳を働かせる事が直ぐに出来る。
そして、”これ等の「1の隠の行」は、「2と3の行」の「智慧の発露」(「無意、無心、無念、無想」)に依って達成する事が出来る” と説いている事に成る。
(4の「善」は上記で論じた)

「1の隠の行」→「2と3の遍・別の行」=「智慧の発露」=「無意、無心、無念、無想」→「4の善の行」

以上の検証で、分類方法は別として、平安期末期を前にした「浄土宗密教系の仏説の教義」は、「平安末期後の教義」と論理的に一致して納得出来る。

とすると、次ぎの様に成る。
平安前後の「2つの仏教の教義」の終局の解析は、「無意、無心、無念、無想」に通ずる事に成る。
況や、”これを会得する事(大人に成る事)で達成出来る”と解ける。

「神教」の教義では、「無意識の智慧」を引き出す事にあるから、「無意、無心、無念、無想」して「俗世の邪念」を廃し、「無意識の領域」に到達出来る”と説いた。

故に、この「仏教」と「神教」の「共通項(「智慧の発露の仕方」)の教義」は、”「無意、無心、無念、無想」で一致する事に成る。 
(”「無意識の意思」(ミトコンドリヤの意思)” ”「心頭を滅却」して”)

故に、「神仏習合」は、この究極の「無意、無心、無念、無想」で一致しているので成せる事に成る。
この「無意、無心、無念、無想」は、上記した様に、「未量と未熟」を解決して会得できれば、況や「大人」としての「人格」(経験と知識 1の隠の行)を身に付ければ、”事は成せる”と成る。

(注釈 これ等の事柄は、「青木氏の家訓10訓」(「人格」の経験と知識は「家訓8」)に記載しているが、「青木氏の密教」では、「心所区分 B」の内容は「家訓」に反映していた事を物語る。
筆者は、この平安期の煩悩教義の「心所区分 B」はこの「古代密教の考え方」を継承する「青木氏の家訓10訓」からの引用(影響)では無いかとも考えている。)

「大人としての人格」は、逃れる事無く、等しく全ての者に課せられる「最低限の義務」である。
課せられる「最低限の義務」を果し得ない者に「神仏の加護」は与えられない。そもそも「煩悩」云々の例外である。
況や、仏説の「縁無き衆生 動し難し」、「人を観て法を説け」の説法である。
「最低限の大人としての責務」の獲得に努力しない者には「神仏の加護」は無いのが当然であり仏説云々の以前の問題である。

「習合策の根拠」
これは、「守護神」と「古代密教」の考え方の両方を保持している「青木氏」ならではの「神仏習合」である事が判る。
では、”何故、習合としたか”の疑問を検証する。
他に、歴史上にもある様に、「併呑」、「連携」、「合体」(民の一体もある)等の形があるにも関らず、上記する様に、上記の様に「発露の仕方の教義」では一致しているのだから、少なくとも、「併呑」か「合体」でも有り得た筈である。

先ず、「神教側」から観れば、「皇祖神-子神-祖先神-神明社」として独立してその役目を果していた。(青木氏の守護神(神明社)」の論文参照)
「神教」は、「青木氏の守護神」である事以外に、「青木氏」のみならず「民の領域」までを導く「心の拠り所」としての存在であった。
そして、この「神教」は「政治・軍事・経済」の「3府の国策」であった。

一方、「仏教側」は、「密教」を前提としている以上、「青木氏のみの仏教」であり限定されている。
その教義も、「青木氏」と云う「立場・役柄・身分・家柄」に限定した「3つの発祥源」の範囲での教義であった。
むしろ、「青木氏の密教教義」を確立させなければ「3つの発祥源」などの「立場・役柄・身分・家柄」を維持させて行く事は不可能であり、「必然必須の条件」であった筈で、当然にして「密教の影響」を受けた「家訓」も「必然必須の条件」の中にあった事は否めない。
況して、「青木氏の守護神」も存在すると成れば、最早、「必然必須の条件」を超えていたと考えられる。

(筆者は、その意味でこの「青木氏の密教教義」と「青木氏の家訓」は「一対の教具」であったと考えている。故に、「国策氏」で「融合氏」として公然としていた事は世の史実であり、特に「神仏の宗教界」の中にはただ一つの「神仏の牽引する密教氏」としても存在していたのであるから、「平安期の煩悩仏説」には、この「青木氏の密教教義」と「青木氏の家訓」(青木氏の生き様)を当然に見聞し、その「青木氏の生き様」を目の辺りに観ていた筈であり、因って、「引用影響説」を採っている。むしろ、平安期には守護神の「青木氏の神職」(486)と密教菩提寺の「青木氏の住職」(141)が神仏の宗教界に君臨していたのである。”影響を受けていない”とする方が疑問である。)

その典型的な事として「原始仏教-古代仏教-古代密教-古代密教浄土宗」の「青木氏」の独特の経緯を経た「密教菩提寺」がこれの全ての「有り様」を物語る。

そもそも、「密教である浄土宗 菩提寺」は、その「氏」の菩提を祀う「菩提寺」を独自に建立する。
同時に、其処に密教としての「独自の教義」を確立させる。
「皇族賜姓族青木氏」で有れば25氏ある事に成るので、その出自の慣習から分家分派分流を起さない前提であるので、少なくともその土地毎に「一つの氏」の「密教菩提寺」を建立する。
「特別賜姓族青木氏」であれば116氏あり、24地方に分布する。
藤原秀郷一門に習って一部は分家分派分流するので、最低でも「116の密教菩提寺」が存在し其処に「青木氏の密教教義」を統一させて少なくとも24の各地に存在する事に成る。

特記
研究中であるが、「西光寺」:密教系の強かった知恩院系浄土宗 秀郷一族一門の定住地に必ず同名で存在する。60以上のこの共通名の寺が定住地に必ず存在する。
この寺は平安時代の「空也」(僧侶)が建立したと云われている。然し、「空也」が、そもそも、これ程の60以上もの寺と30程度の地域に同名の寺の建立は、財政的にも、物理的にも、時間的にも、地域的にも絶対的に建立する事は無理である。そもそも、寺社建立権は、一族一門の許可無しで建立は叶わず、平安時代は朝廷の許可無しでは建立出来なかった許可制であり、江戸時代まで許可制で規制されていた。室町期中期までは「特定の氏族」に限定されていた。
又、秀郷一族一門の土地に一族一門の許可無しに勝手に建立できる社会ではなかったし、この時期は未だ密教であり、密教で無い浄土宗の檀家寺を建立する事の事態が時代考証が成立しないし、この時期の「民の信仰」は、この時期は浄土宗帰依は未だ無理であり、民の信仰対象の浄土宗の檀家寺は明治3年以降のものであった。
江戸初期に密教体質を払拭して「家康」が「浄土宗督奨令」を出し、「高級武士の帰依」を始めて認めたもので、その後、中級武士にも広げられたものである。
「平安期の空也建立説」はこれ等の事を完全に無視している。
且つ、況して、平安期では、「建立権」を保有している氏は限定されていて、「青木氏」の様な、「朝臣族」に限定されていた事から、「空也の建立説」は不確定で良くあるある思惑に左右された搾取偏纂した「後付け説」である事が判る。
仮に、「空也」とするならば秀郷一門が「空也」(僧侶)の名の下に建立し、説法としたと考えられ、この「西光寺」は明らかに秀郷一門の菩提寺と観られる。
この寺は一族一門の領国付近に多く、この60以上のリストの中以外にも一族一門が定住していた地域に15程度の「西光寺」がまだある。現存している。
「秀郷一門菩提寺説」を裏付ける「西光寺の寺名」にはある意味を持っていて、「朝臣族賜姓族」の「菩提寺の寺名」と共に「ある共通するもの」を持っている。内容は個人情報に関わるので不記)

従って、「神教」の守護神の486社もの「神明系全社」が、「全青木氏の共通の神社」と成り得るが、「仏教」に於いては全青木氏の「密教の菩提寺」とは必ずしも成り得ない。各地に定住していた「青木氏の菩提寺」であるが、教義は共通するが「全青木氏の共通の菩提寺」とは成らないのである。
青木氏の守護神の社とは異なるところである。ここに大きな「解離」と成る事が生まれる。

又、この「解離」があるが、「習合」には、「3つの発祥源」である限りは、「神教と仏教」の何れにもその「象徴」であり、必然的に「象徴としての立場」は厳しく存在するので、「併呑、連携、合体の有り様」には問題が生じる。
「武家の象徴源」であるからとしても、「武」を以って「氏家」を立てる事には成らず、必然的には「武家の象徴」である限りは、「和」で以って生きる事以外にはその存在の意義は無い。
そもそも、元来、「象徴」と云う「立場と役目の手枷」がある以上は、これは「神教側」に於いても、「仏教側」に於いてもその「立ち位置」は変わらない事に成る。
故に、「神教側」も「仏教側」も「3つの発祥源」を護る立場がある限りは、「併呑、連携、合体の有り様」は不可能であった。

とすると、”教義が共通する事”と成っても、「併呑、連携、合体の有り様」とは成り得えない。
その夫々の役柄から絶対に逃れる事から出来無い。
神仏両社が共に ”寄り添い合う”と云う形の「習合」で纏める事が以外に無い事に成る。
これがむしろ、「青木氏」に取ってはこの「立場と役目柄」から平安期中期までとしては「理想の形」であったのである。

「家訓9」の ”「煩悩」に勝るべし” の教えは、「神仏習合」に依って「無意、無心、無念、無想」で一致し、”時に当り、この「無意、無心、無念、無想」の極意を得て、「人格」を磨き「煩悩」に勝り、「長」としての立場を全うすべきである” としている。

「添書要約」
添書には、要約すると、つまり、”勝るべし”の極意「無意、無心、無念、無想」は、”「武」にあらず” と言い切っている。 ”「武」に対して「和」を以って成すべし”として諭している。
しかし、文脈からは「武」そのものを誡めている様ではない。”「武」は子孫存続には必要な人間に与えられた「必要不可欠な処世術」”として説いている様に漢文の語意から読み取れる。
”「武」を戒め、「武」は術” には、「武」に対する捉え方にあると考える。
「武」を誡めれば「和」を尊ぶは条理である。
しかし、これも又、”煩悩を否定しない”と同じ論法である。

(漢文の解釈にはこの論調が多いので苦労する。「般若心経」の上記の解釈と同じで読んだ通りの文意では答えは出ない。事程左様に、仏説の「般若心経」を解釈できるまでの若い時はさすが解釈出来なかった。直接表現を善しとする現代に生きる人間の苦労の一節である。況して技術屋である筆者には「含み文意」を文章の常識とする古代文には正直疲れた。「脳力」が極めて消耗する。)

これを ”どの様にして理解して「和」に到達させれば良いのか” 苦労する。
”半ば「武」を否定し、半ば「武」を肯定している。” と成れば、「武」の解釈に「何か」ある筈である。
”その「何か」は何なのか”の疑問が残る。
「3つの発祥源」の「融合氏・国策氏」で、「古代仏教」-「古代密教」の「教義」を「氏の主体」として、且つ、「皇祖神-子神-祖先神」の「古代神教の教義」と慣習を持ち合わせ、「悠久の歴史」を持つ「氏の家訓」である。
従って、「何か」があるのは当然であるのだが、それを解くには「氏の全体の歴史の経緯や変異」を事細かく掌握しなければ出て来ない筈である。
それには、神教側の方に多く答えがあると考えられ、「青木氏の守護神」を解明が必要であった。
故に、見直しの為にも「青木氏の守護神」に関する論文を投稿を先行させたのだが、答えは出た。

「抑止力」
それは、次ぎの答えであった。この答えの論調で説けば附合一致する。
「武」は、最終は「武」の「武具」を以って「殺戮」に及ぶ手段である。
しかし、「武」の「武具」を無くす事、或いは、使わない事で「武」を果せば、「神教」と「仏教」の煩悩の「最悪の殺戮」(煩悩)は無くせる。つまり「抑止力」である。
「抑止力」であれば未だ「武」である。

その「武具無しの抑止力」を達成させれば、上記の「3つの発祥源」の立場は矛盾無くして保てる。
「抑止力」で「氏の保全」は可能に成る。
青木氏以外の氏が全て「抑止力」だけの「武力」であるとすれば、何も「武」に拘ることは無い。
然し、他氏の多く、殆ど、全ては「3つの発祥源」と云う立場を保持していないし、当然に「神教と仏教」を併用して持ち合わせる氏では無い事、青木氏の様な「古代仏教-古代密教」や「守護神 祖先神」の立場では無い事から、「極意: 無意、無心、無念、無想の教示」は無関係であり縛られていない。
依って、「武」は「武具」を持つ「武」であっても不思議ではない。
この他氏から攻められたとした場合は、青木氏の自らの氏は護れない。
然し、「武具」を有する「武」は使えないとすると、「抑止力」を大きくする事で事前に相手を警戒させて押さえ込めて護れる。(現実には、青木氏にはこの「抑止力」で3度護った)
「武具無し抑止力」では、”「武」に対して「和」を以って成すべし”の教示は保てるし、「3つの発祥源の立場」は保てる。
(そう成ると、「武具」に頼らない「抑止力」と成り得る大きさは必要で、それを補うのは「商いの経済力」が必要不可欠の条件と成る)

「武の疑問」
さて、そうすると、”「武」は青木氏に執って良くないのか” と云う疑問である。
「武」に関する教義としては、浄土宗密教の「煩悩の教義」に次ぎのものが有った。
もう一度思い起こして頂きたい。

重複して記すると、”「煩悩」は、「我執」から起るものであって、その「我執」は「貪欲」「瞋恚」(自分の意に反すれば怒る心)「愚痴」の煩悩があるとして、中でも、「愚痴の煩悩」を主な事としての教義”であった。

然し、「武」の行使は、この「貪欲」「瞋恚」「愚痴」の連動に依って起る。
この教義に「武」を当て嵌めて観る。

「武」の行使の理由は、”他氏の領地等の奪取”等の「征服欲」に使われ、これは真に「煩悩の貪欲」の極みである。
「武」の行使の発端は、「自己の慎み」を超えて「怒り」を発する時に起り、「煩悩の瞋恚」の極みである。
「武」の行使の原因は、「自己の人」としての「未量と未熟」から来る「判断力の低さ」の時に起こり、「煩悩の愚痴」の極みである。

つまり、「武」は「煩悩の最悪の見本」の様なものであり、「人としての幸せ」(善、慈、愛の結実)を根底より破壊する。それのみならず、死に至らしめる手段(武具)を有する。
仏説で云えば、「武の煩悩」は、「3世の破壊」を意味し、「死の恐怖」を拭う「教典と教示」を前提から否定するものである。
故に、浄土宗と真宗はこの「武」を使命とする「武士」に対して教典に反することである事から「武の道」を説いて「武の煩悩の悪弊」を取り除く「道」を説いたのである。
これが室町期末期頃から「武士道」として確立したのである。

以上と成るが、これを青木氏が「3つの発祥源の象徴」であるとすると、「青木氏」に執っては「武」は「発祥源の象徴」であって、この理屈から観ても「武士道の象徴」とも取れるが、「武の道」では無く「和の道」でこれを払拭したのである。「武の道」は「「破壊、消滅、死」を意味する。
「和の道」は、故に、「破壊、消滅、死」を意味する事とは「反意」である。
この「和の道」は、即ち、「家訓」と厳しい「慣習と仕来りと掟」で構成されているのである。

「和の道」=「家訓10訓」+「慣習、仕来り、掟」=「武家の象徴」≠「武の道」(武士道)

さすれば、「武家の発祥源」でありながらも、「武」の実質の役職を持ち得ない「象徴」とも成れば「武」であっても「武力」は持ち得ない事に成る。
況して、”「融合氏」の「融合」は「万物発祥の起源」”である。
依って、到底、「武」は「青木氏が保有するの神仏の教義」に合致せず、「煩悩」の最たるものとして排除しなければ成らない立場に有った。

その為にも、「神教と仏教の教え」の究極は絶対条件として、”神仏を習合一致させる”事に成り、「守護神」と「密教寺」を有する「青木氏の絶対的教示」としたのである。

「和・武の戒め」「抑止力の欠点」
故に、「武の煩悩」を含む「全ての煩悩」に対して、”煩悩に勝るべし”であり、その「勝る」に至る極意は、”極意「無意、無心、無念、無想」の教示である”としているのである。
これが「3つの発祥源」の「立場、有り様」なのである。
そして、添書の ”「武」に対して「和」を以って成すべし”の教示が、故に、「家訓9の戒めの言」と成っているのである。
これが「家訓9」の「和・武の戒め」である。

故に、「武」は「抑止力」で成らなければ成らないが、然し、この戒律には大きな欠点がある。
それは、「世に晒される事」である。

そもそも、「抑止力」とは、”本来、見えないから、不透明だから、その力に「懐疑」が起こり、「自らの力」との差異を計測出来ないところの不安を利用する戦術” である。
これが「世に晒される事」で、不透明さが判明すれば「懐疑」が無くなり、この「力の差」は判明して、自己の力>抑止力の「時」には「武」が採用されて「和」は消滅する。これは「現世の条理」である。
故に、「和」>「武」の形が保てるところに「青木氏」は存在しなければ成らないのである。
そして、この「和の力」を大きくする術、「戦略」が絶対条件として必要と成る。
その戦略とは、「商い」である。
「商い」は「善」であり、「物造り」に通じ、「人の正なる生き様」になり、「神仏教義の極意」でもある。

「和の数式論」
「和の道」=「家訓10訓」+「慣習、仕来り、掟」=「武家の象徴」
「商いの利」→「抑止力」=「和の力」
「和の道」=「商の道」≠「武の道」
「和の道」=「和の力」(和力)
「武の道」=「武力」
「武力」=<「和力」→「抑止力」
「青木氏の武の道」=「青木氏の抑止力」

この「商い」が「和の力」、即ち、「武力」に対して「和力」を生み出す。

以上の「和の数式論」とその「相関関係式論」が生まれる。
これが、「家訓9の数式論」である。
この「家訓9の教示」は「家訓10訓」の全ての教示に通じその根源と成っている。

この現在まで続く口伝の ”世に晒す事なかれ、晒す事に大儀なし”はこの一点にあった。
故に、「青木氏」は悠久の歴史を持ちながら、その「和の力」は「3つの発祥源」の立場にありながら、源氏の様に、「武の皇族としての立場」はもとより「世に出た豪族の立場」は持たなかったのである。
それが故に、「和の力」と「世に出る事の無い立場」を護った事から、「青木氏」は足利氏-豊臣氏-徳川氏から特別庇護を受け安堵されるに至ったのである。
これこそが、上記で論じた「青木氏の教示」の、この「世の人生の目的」とする「子孫存続策」の極まりであったのである。
「青木氏の最大の戒め」
”世に晒す事なかれ、晒す事に大儀なし”

注釈
(その「和力」(総合力)は、「伊勢青木氏」の場合で計算すると100万石以上の力は充分であったし、これに「3つの発祥源」としての「象徴としての権威力」が備わっていた。
それだけに世に出る事には利用される危険もあった。然し、この戒律を護らなかった例外はあった。
室町期に信長-秀吉に利用された青木紀伊守と伊賀守の2人が歴史上の舞台に踊り出た。故に、この皇族賜姓族は滅亡した。ただ1度「伊勢青木氏」は、信長に対して「名張りの戦いの伊賀攻め」で旧来の隣人伊賀人を救う為に奈良期からの「氏の禁」(武力)を破り「信長の虚」を突き伊勢を護った。又、「伊勢丸山の戦い」では完全な「抑止力」で勝利した。)

事程左様に、「家訓9の数式論」は「青木氏の生き様」の前提に成っている。

”煩悩に勝るべし” 「和武の戒め」としているが、その意味は実に深い。
添書は簡単に要点を記述しているが、「添書文脈」が持つその真意を汲み取ると、この「家訓9の教示」は実に大きい。
この「家訓9」を理解するには「守護神の事」を研究する事からその意味する事が判る様に成った。

「家訓10訓」の汎用
「家訓10訓」は、総じてその「家」の中の事に置き換えて「戒め」として説いている。
然し、この言葉の置き方を「家」より「氏」や「企業」等の「大きい組織」に置き換えての「訓」としても用いられる筈で、恐らくは、本来、古来の「氏家制度」の中にあった事から「氏としての「訓戒」であったのです。
これを、”より判り易くする為に、より多くの者が理解出来る様にし、「家庭」「家」に焦点を置いて言い聞かせた” と考えられる。
そうする事で、”一族一門とその一切の郎党の全員が、「心の底」から「共通する思考原理」で立ち向かえる事が出来、結束をより強くする事が出来る ”と考えての事であったと観られる。
それが「青木氏」と云う「特異で特殊な立場」にあったからこそ、他氏に比べてより一層の「正しい結束力」を求められていた。
故に、他の「家訓8」までのものとは、その「戒め」が、「異質の基本訓」と成る様なものと成っている。
そして、敢えて、添書には詳しく論じる事をせずに、各人に「考えさせる手法の家訓9」と成っている。
それは、”「考えさせる事」に意味があった” と観ている。
当然に、その「悟り具合」に依っては議論が起るであろう。
「家訓9」を考えさせる、つまり、”「議論の想起」を「根本の的」としていた”と考えられる。
一族一門の議論の中から、修練されて、「互いの心」に「訓意」が留まる事を狙ったと考えられ、そして、その「長」は、その「議論の修練の方向性」を「主導役」を求められたのであろう。
それが ”「長としての資質」である” と考えられていた筈である。
その務めを果さずして組織は維持出来ないのであるから、この務めが果せない場合は、上記の「密教の仏説」の教義の通り、「未量と未熟」と成り果ててその「長」は失格と成る。

それだけに、「氏家制度」の中では、「和武の戒め」は「武」が主体とした社会であって、その中で「和」を説いて素直に「納得」は得られる社会では無かった。
況して、「3つの発祥源」と云う立場は一切の他氏には無いのである。
だから、到底、理解は難しい。”難しい”では無く、”理解は無い”が正しい。むしろ、”狂気か”と疑われるが道理である。
そこに、「和」を説いた。当然に一族には「異論百出」である。其処で、先ず、”「煩悩」と云うテーマを敷いた。”「武」は「煩悩」の最たるものである”と説いた。
そして、”そのテーマから「和」に導かせて悟らした。”と考えられる。

普通ならば、「3つの発祥源」であれば「武の象徴」なのだ。疑う事無しで「武」である。
然し、”「武の象徴」であるが故に「和」なのだ”。そして、それには、”「禁じ手」の「商い」なのだ”と説いた。”「武の象徴」が「武」だ”と叫べは世の中は戦乱である。
「和の象徴」が「青木氏」と同列のところに別にあるので有れば、それも叶うだろう。然し、歴史上には無いのだ。
そもそも、「武」は「和」を求める手段として「神」が「智慧」と共に人間に与えたものである。
決して、「武」を求める為に「和」があるのでは無い。あくまでも「和」が「主」であり、「武」は「副」の立場にある。故に、「主」を求める為には、「武の象徴」は「和」(抑止力)でなければ成らない。
この世に「副」を「主」として求める世界は「神」は与えていない。

以上の論調で、青木氏一族一門とその一切の郎党に懸命に説き続けたのであろう。
その結果として、理解が得られて「家訓9」は「青木氏の家訓」として成立して強く地に根付いて現在までに引き継がれて来たと考えられる。

「和」は、「抑止力」だけでは無く、「禁手」の「商いとする前提」も考え合わせると、この「説得のリスク」は計り知れないものがあり、”「長に求められる資質」は相当なものを要求された” と考えられる。
もし、この「武」で有れば、”「武の象徴」は「武」だ”と普通の者は考えがちである。
真に、これを「否定」として、”「和」だ”する真逆方向で纏める事は「至難の業」であった筈で、故に、この時のこの家訓を遺した「青木氏の長」は「相当な逸材の人物・傑物」であった事が判る。
(1025年から1125年の100年-3代の前半の人物 匿名)
一族一門の「生活の糧」を護りながら、その「立場の堅持」する者が「普通の資質と度量の長」であれば「矛盾で狂気」と成るであろう。
恐らくは、この時に一族一門から「嫡子の選択問題」が必ず起っていたと観ている。
選択した者もそれを見抜く力の保持者で素晴らしい人物であったのであろう。

(参考 伊勢青木氏の口伝に依れば隔世遺伝にて「何らかの傑物」が出ている。 この時の人物は戦略家であったとする口伝 始祖施基皇子は天武天皇の参謀役の「軍略司」を務めた事が日本初期に記録されている。血筋であろうか)

「一氏の長」が悟ったとしても、従う者にも理解が無いと「強制の命」で組織を動かす事に成り、「氏力」は当然に働かず、滅亡が起る。
一族一門が、”何がしかの悟り”、或いは、少なくとも「同意」を得ていなければ成し得ない。
故に、”未来永劫に子孫は続かない。” 非常に難しい{家訓9]であった事に成る。

「青木氏の独自の教義」
青木氏が、仏説の本来の「煩悩説」に従うのでは無く、「密教の教えを旨宗」とする「氏」で有りながらも、”勝るべし”としたところに大きな意味を持たしたのである。
これも「密教」とする処に無し得た「青木氏」ならではの論調であり得た。
この「古代仏教」-「古代密教」の考え方に、この ”勝るべし”を「青木氏の独自の教義」として加える事で、”「和」を求める「武の象徴」”の「有り様」を一族一門とその一切の郎党には納得させたのである。

この「青木氏の教義」(家訓9)を奈良期から脈々と引継ぎ、数百年後には”煩悩は否定せず”に成って一般の社会の中に蘇ったのである。
これは、「青木氏の教義」の正しさとその「教義」を追い求めてきた「賜姓族」を社会は認めた事を意味する。
それだけに「賜姓族」、「3つの発祥源」「国策氏」「皇祖神-子神-祖先神」の「青木氏」の一族一門とその一切の郎党の動きは、社会からその「有り様」として見詰められていた事が、この”「煩悩」は否定せず”の一つの仏説でも良く判る。

「家訓順の疑問」
ここで、一つ最後に疑問がある。
では、”何故、この「家訓9」を「家訓1」にしなかったのか”である。
それは、この「家訓9」を前面に押し出す事は、”家訓が仏説と成る”の配慮があったのであろう。
況して、”煩悩に勝るべし” 「和武の戒め」である。難くて家訓としては馴染まず、家訓の活用に疑問を持ったのであろう。
そもそも、仏説なら教典を読めば良い。しかし、「家訓」なのであるから、のっけからこの論調は理解されない。それならば、「家訓1」や「家訓2」のような「家庭的な戒めの表現」は前に以って来ない筈で、家庭的な言語の家訓にはしなかったのではと考えられる。
漢文であるにしても、この「家訓9」の配置には ”何かの履歴”があった可能性がある。
時代の遍歴に依って、”先祖の誰かが変更した”と観ている。
平安初期頃には全ての家訓とは言い難いが、この様な「家庭的な戒めの表現」の家訓にするかは甚だ疑問である。
かと云って、鎌倉期以降では無い筈で、「商い」の本格的なスタートは平安末期の1125年頃と観ているので、その100年程度前には既に「青木氏の態勢」を換えつつあった事から観て、この100年の間に、「家訓配置と表現変換」を実行したと考えられる。
変更するにしても、960年頃の「特別賜姓族の秀郷流青木氏の発祥」から観て、「皇族賜姓族」を支えた頃の間の1125年頃前では無いかと考えられる。
即ち、平安初期の衰退から立ち直り始めた頃に一族一門とその一切の郎党に向けて改めてこれから生きて行く「青木氏の有り様」を明示したと考えられる。
つまり、この時の「青木氏の立ち位置」を反映させたと考えられる。
況や、「和」の「商い」を主軸として「3つの発祥源」の立場を守りつつ生きて行く事を宣言したのである。
「特別賜姓族青木氏」にも理解を求め、取分け特別賜姓族の「母方血縁氏の伊勢青木氏」にも示すにしても平安初期前の「皇族賜姓族の家訓」では提示し難いものがあった筈である。
特に、「家訓9」は「密教系の色合い」を強くし、仏説とは少し離れる「独自の教示」は特に憚られたと考える。恐らくは、この100年の1125年よりの時期で有ろう事が判る。
これ等は、「青木氏の守護神(神明社)」の「神明社の建立とその経緯」と大きく関っていたと考えられる。
この家訓全てが整っていたかは定かでは無いのだが、「添書」があると云う事はある途中で先祖の誰かが家訓に付いて疑問か何かがあって書き添えられた事は間違いないところであろう。
奈良期からこの「添書」があったのかはも解らない。それを2度程で「書き直し」か書き足していると観ている。(何かと添書で補足する独特の「氏癖」がある事から、かなり早期に添書と成るものが有った可能性が高い。筆者もこの性癖をどうも引き継いでいる。)
恐らくは、上記の時期、”「100年の間の1125年より」の時期までに「家訓全体」を改めた”と考えられる。
恐らくは、少なくともこれ以降の年代では無い事は「漢文形式」が物語っている。
この「100年の間の1125年より」が衰退から立ち上がり全ての「青木氏の有り様」と「青木氏に関わる周囲の環境」を換えてしまった事が何よりの証拠である。

この「家訓9」は事程左様に、「青木氏の遍歴」大きく物語る源と成っている重要な家訓である。

特記
兎にも角にも、「氏家制度」の中では「賜姓族」であるが為に「4つの青木氏」は、「全ての柵」に縛られて「家訓10訓」に示す様な「氏の生き方」しか「生きる道」は遺されていず、不自由な環境にあった事は否めない。そもそも、家訓を定めると云う事は、この家訓の範囲の中で生きて行かねば成らないからわざわざ其処から外れない様に定めているのであって、少々外み出ても生きて行けるのであれば定める事はしない筈で、「2つの青木氏」はこの「柵」の中にいた。
だから、”世に晒す事無かれ、晒す事に一義無し” ”然れども世に憚る事なかれ” とまで厳しく戒めている。
「関係する青木氏」には、現在の「家訓の存在の有無」如何に関らず、この道以外に最早、「生きる道」は無かった。頭の中に沁み込んだ「伝統の思考原理」であった。
それが、幸いにして「伊勢青木氏」に遺されていたと云う事であった。これは「生仏像様」が「全青木氏」に遺されていた事と同じ意味を持っている。

ともあれ、本家訓は幸いに「伊勢青木氏」に遺された「家訓」をベースに論じているものであるが、明治の始め頃まで「和紙商い」では、親密に親交を持っていた現存する一族の「賜姓族信濃青木氏末裔」にも、何がしかの相当する家訓類が、「商い記録」等から読み取ると間違い無く遺されて居た事が判る。
ただ、一族の「賜姓族足利系青木氏」等が「秀吉の計略」に陥り、立場を利用されて「武」の世界に足を踏み入れてしまった。結局、家康に依って叙封され滅亡した事(一部末孫が退避地に逃避)等から全体として「信濃青木氏の衰退」が起こり、「商い部分」を遺したのみで「氏としての遺産」を遺し得なかった。
現在に至っては「商い」以外にはこれ等の記録資料関係が少なく遺されていない。
伝統の”世に晒す事無かれ”が「資料記録の不開示」の原因に成っている事も考えられる。

同様に「特別賜姓族青木氏」にも確認が出来ない。
取分け、「特別賜姓族の伊勢青木氏」とは明治35年までの親族としての親交があり、伊勢四日市には「融合青木氏」を持つ等の深い血縁関係もある。
「家訓」に対しては統一した行動を採っていた事は、「明治9年の伊勢騒動」の時の「援助記録」(伊勢青木氏保存)等でも明らかである。
この事からも何らかのものが「武蔵の青木氏宗家」にもあった筈で、ある事に付いては研究中の中では添書の内容から判っているが、それがどの様な内容なのかは判然としない。
ただ、「主要5氏の菩提寺」には「氏の記録」等がある筈で、この「青木氏の菩提寺の確定」の研究中である。(現在は家訓等の正式なものに付いて研究中で明確には成っていない。)
然し、「信濃青木氏」も「融合青木氏」を持っていた事から、これ等を通じて、武蔵宗家の「特別賜姓族青木氏」との繋がりから何らかのものが間違い無くあるのではと考えられる。
「主要5氏」の中で、「秀郷流伊勢青木氏」だけは本論の家訓等に添った生き方をした事からも、「武」にありながらも「和の生き様」をしたので記録資料は遺されている可能性は極めて高い。
取分け、「信長の北畠氏攻略」の時に、「2つの血縁青木氏」は共に「合力」している事から、「特別賜姓族の伊勢青木氏」の添書等の「何らかの記録」を確認出来れば、宗家にしてもある筈である。

「武」に組した「近江青木氏」と「美濃青木氏」の記録は、早期に滅亡して一部支流末孫が遺されたが、平安期頃の記録は完全に焼失している筈である。

「甲斐青木氏」もその支流末裔は現存しているが、親交が「和紙殖産」ではあったが、親交が少なかった事もあり、又、「甲斐青木氏の論文」の様に、室町期には、内部での「青木氏同士の混乱(源光と時光の争い)」や「信長の甲斐進攻」もあって、極めて「焼失」の可能性が高い。
依って、「伊勢青木氏」には甲斐に関する有効な資料口伝類は遺されていない。
何れも「古代和紙」等の「商い」を通じての親交が明治期まであった事から、文書的なものより口伝的なものとして明治35年頃まで遺されていた事が強く感じられる。
もとより、「伊勢青木氏」は「青木氏」の中でその中核にあった事から、甲斐では室町期から明治初期の頃までは最早「口伝」でのものであった可能性が強い。依って、現在では「伝統意識」が低下して霧消したと考えられる。

「生仏像様」の様な物体遺産は比較的に遺される可能性が高いが、無形の遺訓文化等は文書画像等にしない限りは古来では極めて難しい。長い歴史の中で文書画像は、尚更、相当な記録保存できる体制の取れた安全な氏(密教菩提寺と守護神が現存)で無けれ成し得ない事である。「伊勢青木氏」でも斯くの如くである。伝統に対する意識の変化が何よりも左右する。現在に至っては「個人情報に関わる問題」があるので研究調査が最早、極めて困難である。依って、個人の家の領域まで入り込まなければ成らない「無形伝統」の維持と記録保存と研究は最早、次第に霧消する過程にある。その中での研究であった。

以上が家訓9の検証である。

次ぎは、最終の「家訓10」である。



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青木氏と守護神(神明社)-22

[No.290] Re:青木氏と守護神(神明社)-22
投稿者:福管理人 投稿日:2012/12/10(Mon) 11:32:56


「真人族と朝臣族」の血縁関係

序文
改めてこの「歴史的経緯」に付いて詳細に検証して本論の基本的な判断材料とします。
特に、「真人族と朝臣族」の血縁関係に付いては「一般の氏家の族」とは異なる慣習が敷かれていたのです。
この事を事前に承知していなければ「青木氏の正しい氏発祥」を理解する事は出来ないのです。
当然にこの事が「青木氏の生き様」に大きく左右していたからです。
そうでなければ、前段で論じた「神明系社の建立の責務」を遂行する「真意」が判らない筈です。
それには取分け、”「血縁関係の慣習」がどの様なものであったのか” が大きく左右する知識と成ります。
そこで、この「血縁関係の慣習」の事柄に付いて限定して各種の資料の文面内容から読み取る作業を長い期間続け研究しました。そして本論の様な「朝臣族と賜姓族の慣習」を纏め上げました。
この本論が「青木氏の生き様」(消えてゆく伝統)を描き直す前提に成っています。

そもそもこの様な「真人族」を含めて「朝臣族」又は「賜姓族」の「血縁関係の慣習」に付いては、充分に確立してまとめ上げた資料が無く、先ず、「古い事」や「特異な家柄」が原因していて、僅かに遺されたものとしては「日本書紀」以外には無く、万葉集などの歌集の歌詞や家紋文様関連等からも引用して纏め上げるものでした。その意味で「青木氏の伝統」の一端を後世の為に再現出来たとも考えています。
結局、これは研究の別の目的で調査している中での作業であり、あらゆる「資料の文脈」から「論理的」に、或いは時には「主観的」に読み取る作業でした。

この「読み取り」とは、”この文脈や歌詞からするとこの時の「慣習」はこの様であった筈だ”と云う風に幾つかの「慣習パターン」(10パターン)に纏めてそれを積み上げて「一つの慣習群」に仕上げたものなのです。”その大元の「基慣習」は「血縁関係の慣習」から着ている筈”と観ているのです。
先ず、その基本と成るデータを「19守護地」と「85遷宮地」と「486社の神明系社」に定め、この「3つのデータ」に繋がる「読み取り文」の「慣習パターン群10」を、個々に合理的に宛がう事が出来るかの「査定の検証」の繰り返しで得られた結果です。宛がう事に論理的に無理がなければその「検証」はより正しい事を意味します。それが本論の結果なのです。
これ等の1から22までの内容を咀嚼して頂き「青木氏の伝統」を夫々の個人の中で作り上げて頂きたいのです。
この研究結果を次に論じます。
前段の「退避地」等の内容と合せてお読みください。

「基本データ1」
「主要な初期の19守護地」(4世族王)
(「神明社の初期建立地」)

5家5流皇族賜姓地
伊勢
・ [伊勢王](三重県 ・国府 松阪市)         
近江
  [雅狭王](滋賀県 近江-若狭地方)
  [山部王](滋賀県 草津-東近江-守山地方)
・ [近江王](滋賀県 ・国府)
  [栗隅王](京都府 宇治市 山城国-久世郡地方) 
  [武家王](京都府 但馬国 若狭側地方)
美濃
・ [美濃王](岐阜県 ・国府)
  [広瀬王](岐阜県 大垣市地方 国分 国分寺)
信濃
・ [三野王](長野県 ・国府 信濃)
  [高坂王](長野県 更級地方)
甲斐
・ [甲斐王](山梨県 ・国府)

賜姓末裔地(賜姓族保護地)
  [石川王](石川県-福井県 加賀-能登地方 )

遷都地  (特令地)
  [竹田王](大阪府-京都府 竹田地方)      
  [難波王](大阪府 摂津地方)
  [宮処王](奈良県 桜井市 金屋地方 つばいち)
  [泊瀬王](奈良県 桜井市-朝倉地方 長谷寺)

特別賜姓地(広域美濃 広域信濃)
  [弥努王](愛知県 尾張-信濃側地方)
  [桑田王](愛知県 豊田市地方)

大宰府地 (遠の朝廷 自治区)
  [春日王](福岡県 春日市地方)

以上、「国数 10」と「社数 19」(守護数 19)から成り立っています。 
(全国数66国)

大化期の同時期に行われた「神宮の遷宮地の決定」とこの「第4世族王の19守護地」との「2つの政策」は無関係ではないのです。

そこで、前段でこの「2つの政策」に付いて論じて来ましたが、もう一度此処に列記します。
そうすると、この「2つの政策」には大きな事が潜んでいる事が解ります。
先ず、「神宮の遷宮地の決定」には次ぎの様な事が潜んでいます。

「基本データ2」
(前段-21 詳細資料 参照)

「地域別」から「国別」に別けて観ると、次ぎの様に成っています。
「遷宮の遍歴数/国」
 「伊勢23」 「大和21」 「近江13」 「伊賀10」 「吉備6」 「丹波4」
 「尾張4」  「紀伊3」  「美濃3」
「地域別85」から国別にすると「9国」と成ります。

この「2つの基本データ」は何れも「9国」で構成されています。
これを更に当時の「主要地域別」に別けて観ると次ぎの様に成ります。

「5主要地域」
(大和+紀伊)     24 「飛鳥域」
(伊勢+伊賀)     33 「伊勢域」
(近江+丹波)     17 「近江域」
(尾張+美濃)     7  「美濃域」
(広域の吉備)      6  「吉備域」

(注意 奈良期-平安期初期の「吉備国」は都に匹敵する位の勢力圏を張っていて、他の4主要国の範囲に匹敵する位のものであった。)

「国数 9」と「主要地域5」と「社数 85」から成り立っています。

(基本データ3は前段の「神明社の分布表」)

先ず、上記2つの「基本データ1、2」の分析からこれを「地域別」に分けると次ぎの様に成ります。
この「5主要地域」と「19守護地」とが「3つの地域」(伊勢域、近江域、美濃域)で一致しています。
「異なる地域」としては、それは「飛鳥域」と「吉備域」とですが、その歴史的な意味のある「2つの古の地域」が、「違い」として出ています。
この「2つの古の地域」に「違いの意味」があるのです。
つまり、次ぎの様に成ります。
A 「2つの古の地域」の「飛鳥域 吉備域」 24 6
B 「2つの賜姓族地」の「信濃域 甲斐域」
以上AとBの違いです。
A、B 共にほぼ同時期(大化期前後)に打ち出された政策なのに、この様に、”何故違うでしょうのか”、”どのような意味があるのでしょうか” この事が重要な意味を持っている事に成ります。
これを下記に順を追って論じます。

このA、Bそれぞれに付いては前段で「地域性」で論じて来ました。
詳しくは前段を想い起しながら参照して頂くとして、概要としては次ぎの様に成ります。

A 「飛鳥域」24は衆知の旧都、「吉備域」6は奈良期から平安中期まで都に匹敵する位の国柄、「吉備真備」でも有名、共に「旧来の地域」

B 「信濃域」と「甲斐域」は共に「日本書紀」にも出てくる後漢の帰化人の「新規開拓の天領地」で開発に依って「主要国化した地域」、共に「新規の地域」

恐らくは、本来であれば、「5地域の賜姓族地」は「Aの形」と成る筈です。

これを指数化として観てみると、「30/85 35%」も占めている地域であるのですから、本来であれば「賜姓族地」にするのが当り前の事です。然し、これが「Bの形」と成ったのです。

この「35%の状態」を覆す事は「相当な政治力」が必要と成ります。朝廷の中では何らかの「大きな要素」が働いた筈です。その要素が何なのかと云う事です。

つまり、AからBに変化している訳ですから、大化期に於いては、Aは「旧来の地」として大化期の「天智、天武、持統の3天皇」に依って先ずはこれは判断された事に成ります。

これは、明らかに先ず一つは「旧来の地域」(A)と「新規の地域」(B)とを天秤に掛けた事を意味します。
そして、「新規の地域」(B)を選択したのです。

では、”何故、「新規の地域」にしたのでしょうか。”
総じて云えば、これが「大化改新」なのですが、これでは論文に成りません。

当然に、前段で論じた様に、「賜姓族」には「3つの発祥源」の「諸々の責務」を負わしての「国策」であった以上「新規」(新しい語意)だけを採って選択した訳では無い筈です。

最低限に上記の3天皇(「天智、天武、持統」)は「軍事、経済、政治的な判断」を下した結果である事は云うまでも有りません。

では、このAとBとに「軍事、経済、政治、地理、宗教的な判断」が働いた事に成りますが、下記の「神明系社の数式条件」と同じ条件が働いていたと考えられるのです。

「神明系3社の建設条件の数式」
圏域内→「戦略的、経済的、政治的、地理的、宗教的な環境条件」<「仕来り、決り事、規則慣習」
圏域外→「戦略的、経済的、政治的、地理的、宗教的な環境条件」>「仕来り、決り事、規則慣習」

そうすると、問題は「仕来り、決り事、規則慣習」が、「皇祖神の子神」の「祖先神-神明社」では働いていたのですが、”このAとBにも働いたのか”という事に成ります。
結論は、”全く働いていた”と観ているのです。
この「基本データ1と2」の間には「近江の最古の神明社」が「接着剤」の様に既に介在しているのです。
つまり、「基本データ1と2」の両方に ”「神明社」” 云う考え方が共通して継続して存在していた事に成ります。
そもそも「基本データ2」の処から起ったと考えがちですが、上記の事から「基本データ1」の大化期直前にも、既に”「神明社」”なる考え方があった事に成ります。(末尾に「最古の神明社」に記述)

「基本データ1と2」の境界の処で「大化改新」が起ったのですから、「真人族」と「朝臣族」の慣習の中には ”「仕来り、決り事、規則慣習」”が、強弱は別としても厳然と存在し介在していた事を物語り、ある程度の範囲で判断のこの「思考原理」が皇族の中では支配されていた事を意味します。

「圏域内」は、その”「圏域内」”に定住しているのは「朝臣族」と「真人族」ですから、これを「朝臣族と真人族内」、或いは「皇族第4世族内」と置き換えても同じ事に成ります。
つまり、上記の「神明系社の数式論」はまさしく主に「朝臣族の数式論」と置き換えてもよい事に成ります。

「真人族と朝臣族」は「八色の姓制」(684年)にて大化期の中期頃で正式に定められたのですが、この「制の根幹」は、大化期前(飛鳥期半頃)からも多少の違いはあったとしても既に存在していて「社会慣習」として定着していた事に成ります。
それを制度として「天智天皇」がまとめ造り上げ、「天武天皇」はこれを正式に是認した事に成ります。
「基本データ1」から観ても「朝臣族の賜姓族」の「賜姓地の周辺」には、「皇族第4世族内」の「朝臣族」と「真人族」が定住していましたから、「基本データ1、2」のこの数式論が成立していた事に成ります。

「朝臣族の社会慣習の数式論」
第4世族内→「戦略的、経済的、政治的、地理的、宗教的な環境条件」<「仕来り、決り事、規則慣習」

第4世族外→「戦略的、経済的、政治的、地理的、宗教的な環境条件」>「仕来り、決り事、規則慣習」

とすると、、「基本データ1、2」の考察と検証は、この関係数式論を前提に論じる必要があります。
当然に、「旧来の地域」(A)と「新規の地域」(B)の「選択の結論」は、この関係数式論から導き出されなくては成らない事に成ります。
「青木氏」に取っては切っても切れない重要な関係式論と成ります。
他氏には観られない関係式論でこの慣習(環境)の中で生きていたのです。
この関係式論を導く以上は、この関係式の左辺の項の「5つの要素」に関わる全てを揺るがす様な大きな事が、この時期に歴史に残る史実が起っていなければ成りません。
朝廷では、「真人族や朝臣族」のみならず前段で論じた様に、「5つの要素」を何らかの良好な形で維持出来る様にと何とか右辺の諸々の「仕来り、決り事、規則慣習」を都度定めて、それに依ってこの組織が維持されていたのです。
「時代の変化」に依って「5つの要素」の左辺の夫々のウエイトの組み合わせが大きく変化して来ます。
当然にそれに基づいて「後決め」で右辺が決められて来るのです。
時代が進めば進む程に「賜姓族」の慣習(環境)に取っては厳しく成って来るのです。
つまり、この慣習(環境)は「保守的な環境」と成っている事は必定で、「大化改新」の「改新」を行われたとしても、「天智天皇」の即位が23年後であり、そう関単に「改新」が進んだ訳では無かったし、その意思を継いで「天武天皇」に「改新」が引き継がれて50年と云う期間が掛かったのです。
「改新」は「変化」であって左辺の「5つの要素」の組み合わせが変わる事なのですから、”新たに右辺に数多くの慣習が継ぎ足されて行く事を意味します。

そもそも、そうなれば出来得る事ならば、 ”この立場から逃れたい”と思うのが普通であります。
然し、「賜姓族」にはそれが決して許されないのです。それを背負っての「賜姓族」であって、”「民」への「3つの発祥源」”の象徴としての最早「国策氏」なのであり、この事無くして「賜姓族」は「賜姓族」では無くなり成り立たないのです。
そもそも「賜姓族」とはこの様な意味を持っているのです。その「辛さ」を物語る上記の関係式論なのです。

つまり、「賜姓族」=「国策氏」であり、”「個人の意思」をも持ち得ない氏である” としても過言ではないのです。
これは「皇族賜姓族」として決して浮かれているのではなく、むしろ、「先祖の生き様」に対して同情し、尊敬し、むしろ、どちらかと言えば心の中では ”憂いている”のです。
当時としては「賜姓族」に生まれた事に「宿命」として、「務め」として理解していたであろうが、「先祖の生き様の厳しさ」が如何ばかり重い馳せているのです。
筆者としては絶えられたかは疑問で恐らくは耐えられなかったと観ているのです。

(参考 この慣習(環境)から急転直下のごとく全てに開放されたのは、祖父の代の幕末からでは無いかと観られるだけに、筆者に取っては多少なりとも遺された長い慣習(環境)の中で培われた「人間性」や「性格的なもの」には「賜姓族」としての「隔世遺伝的なもの」が残っており、それから逃れられずにいて、金銭に無頓着な貧乏ではあったが、大屋敷の部屋には一輪花と御香が漂う格式高く雅な生活慣習が遺されていて、筆者の脳裏にはそれが浮かんでくるのです。故に未だ「憂いている」と成るのです。然し、最早、次世代では、”そんなものだったのか”と成るでしょうし、子孫では既に格段の差が生まれ「普通の慣習」に於いてもそう成っています。)

その”「改新」が行われている”と云う難しい「保守的な環境」の中で、AからBに変化するには ”「朝廷の存在」そのものを揺るがす程の出来事”がこの全ての「5つの要素」に関っている必要があった筈です。
もうお判りと思いますが、前段で何度も論じて来た次ぎの出来事があります。

それは「後漢の阿多倍王」、「200万人帰化」、「先進の職能集団」、「九州全土と関西以北の征圧32/66」、「朝廷官僚の6割占有」、「敏達天皇一族との血縁」、「准大臣」、「坂上氏」、「大蔵氏」、「内蔵氏」、「行政機構3蔵内2蔵を占有」、「九州全土自治」、「遠の朝廷」、「錦の御旗」、「太宰大監」、「瀬戸内大監」、「産土神」等の様に挙げれば限りない位の大化期前後を中心に起った事柄なのです。

前段で論じた様に、上記「5つの要素」の全てに大きく関わる事件がこの「国策氏」(賜姓族)に起ったのです。
”AやBを揺るがす”と云う程度の事ではありません。”揺るがす”ではありません。”全てを変えた”のです。直前の「蘇我氏3代の専横」どころの程度ではありません。
「朝廷や天皇の存在」そのものを危うく無くす出来事が起ったのです。
とすると、”「朝廷や天皇」はどうするか”です。
これも、もうお判りです。
「打つ手」は必然的に決っています。この「打つ手」はどの様なものであったのでしょうか。これをこれから検証して観ます。

・「5つの要素」の「戦略的要素」
先ず上記の関係式論の数式から「戦略的」には次ぎの様であった事が判ります。

「阿多倍一門の勢力圏」にある「吉備域」には「賜姓族」を配置する事は困難であり、配置してもそれなりの「賜姓族」としての「皇族への力」を発揮させる事は期待できないのは必定です。
それでなくても、「軍事力」を主体とした「姓族の態勢」を組まねば成りません。
戦略的に「人、時、場所」の「3つの条件」(三相)から観てもこれは到底不可能です。
そうなれば、摂津より以東に配置する必要が出て来ます。摂津以東に勢力を結集して「皇族朝臣族の力」を集中して発揮させ、以東に「3つの発祥源」の国策を果させる必要が出て来ます。
そして、そこで「融合氏」を拡大させ以西勢力に対抗する「近衛の皇族力」を構築する必要が出て来ます。「天皇家の権威」だけでは到底に「彼等の勢力とその伸張する勢いと民の支持」には勝てず、行く末は「権威の低下か消失」が明確に見えています。
その為の「天皇家、あるいは朝廷の強化策の戦略」としては、「天皇家の権威の強化」の「一軸強化策」だでは最早、天皇家を超える「強者」が出現した以上は現状では成り立ちません。
さすれば、もう一つの「天皇家の軸」を別に作り、”「2軸による倒れ防止」の「門形体型の構え」”を構築する必要が出ます。そもそもこの策はこの流れは「自然の摂理」です。
”「2軸」にしなければ成らない” と云う事は、「蘇我氏の専横」で「1軸の天皇家の存在」が危くなり、「大化の改新の発端」と成った事件を起したのです。
「主軸」が倒れても「他軸」の「副軸」がこれに代わる事が戦略的に可能であり、「副軸」が「総合力」を持つ事で「主軸」を支えて「防御軸」(近衛軍)として成り得ます。

「弱者の条理」を持つ「ミトコンドリヤ動物」
これは生物や動物、況や人間、或いはその集合体で組織や集団は、先ずは最初に採る「姿勢と行動」は ”身を竦めて硬くして身を護る” 事が本能です。
そもそも、この世の「全て動物、況や人間」は「ミトコンドリヤ」の生き延びる為のこの「4度の進化過程」を経て来ているのです。その「進化過程」の最終に辿り付いた「第4の進化」は次ぎの様な「進化の理」を達成させたのです。
況や、「強者側」では、”子孫を勢いのある木々の枝葉の様に放出拡大させる進化を採る”のが「自然の条理]であります。
ところが「弱者側」と成った限りは、”身の内を集中させて固め「陰陽の相対」の「姿勢と行動」を採るのがこれも「自然の条理」であったのです。
これが「ミトコンドリヤ」が作り出した最終の「生存の理・進化の理」なのです。
ある「姿勢と行動」の「意思」を持つ「意思の根源」「ミトコンドリヤ」で成り立つ体躯を有する生物である限りは、「遺伝子の働き」以前のものである「無意識」の中で、この「防衛本能」として「弱者の姿勢と行動」を無意識的に起すのです。
ところが、この「弱者の条理」を持つ「ミトコンドリヤ動物」が、「無意識の姿勢と行動」を止め「有意識の姿勢と行動」を優先させて「自然の条理」を見失うと、その体躯は「衰退と消滅と滅亡の憂き目」を招き来たす「絶対的な宿命」を本来持っているのです。
これは「ミトコンドリヤ」で「生」を得ている事が「自然の条理」であってこの例外はないのです。
ところが、この「自然の条理」の続くあまりの「進化」の結果、「人族」は「知恵」という「自然の条理」を超えるものを獲得したのです。
つまり、ある限界を超えない「知恵」を有する動植物には「無意識の自然の条理」が組み込み与えられているのです。
ところがある限界を超えた「知恵」を得た「人族」は、「無意識の姿勢と行動」<「有意識の姿勢と行動」の異変を遂げてしまったのです。
其処に「自然の条理・摂理」に沿わない「知恵」による「憂き目」と云う現象を生み出してしまったのです。
この「知恵の人族」にのみ発生する「心の変化」、即ち、「喜怒哀楽の現象」が「有意識」の中で強く起るように成ったのです。
この「衰退と消滅と滅亡の憂き目」は、「知恵」が「無意識の姿勢と行動」よりも「有意識の姿勢と行動」を優先させて、「見失う間違い」を起す為に引き起すのです。
そこで、この事を知った「知恵の人族」は意識を「無念無想」にして「無意識の自然の条理」に戻し従える様に試みたのです。
そして、この結果、「ミトコンドリヤ」の成す「無意識の自然の条理」に到達させてくれるものを「神」として思考し崇めたのです。
ところがこの過程で「思考し崇める方法」、即ち、「無意識の自然の条理に到達する方法」、況や「神に近ずく方法」に「人族」の間に「知恵の違い」が生まれたのです。

それが前段までに論じた「自然神」から発祥した「5つの守護神」であって、それが我々「青木氏族」にとっては、「皇祖神-祖先神-神明社の守護神」であったのです。

強者側に立った阿多倍一門とその支配下は「産土神の守護神」を創造したのです。

そして、根幹と成った「ミトコンドリヤの無意識の自然の条理」に到達するものが、前段で論じた「無念無想」に到達出来る「自然神」であり「鬼道」と云う「最初の根幹と成る手段」であったのです。

(参考 前段で論じた事ですが、「邪馬台国の卑弥呼」はこの「自然神の鬼道」を会得し、自らをこの「無意識の自然の条理」に到達すべく「占術」を行ったのです。この時、「卑弥呼」はその手段として「占術の部屋」を締め切り、其処に何千と云う「熟した桃の実」を敷き詰め、その中で「自らの脳」を「豊熟した桃の実」から発する「芳香性のガス」により陶酔させる事で「有意識」を抑え、「無意識状態」を引き出し、自らの体躯から発する自然の「ミトコンドリヤの意思」を受け取り、それを上記する「自然の条理を得た判断」として「神のお告げ」として占術を行ったのです。
ただ、この占術に付いては前段で論じた「卑弥呼の複眼機能」の所以も伴なっての事であります。
より「無意識状態」(無意識の自然の条理)に近づき「ミトコンドリヤの意思」を獲得し伝達するにはこの「複眼機能の予知能力」との連動が不可欠であったと考えられます。

[御告げの数式論]
「ミトコンドリヤの意思]=「無意識状態」+「複眼機能」=「御告げ」
「御告げ」=「有意識の知恵」<「複眼機能」
「ミトコンドリヤの意思」=「有意識の知恵」<「複眼機能」
∴「無意識状態」>「有意識の知恵」

故に、「知恵の人族」の本来あるべき数式論は次ぎの様になる筈です。
「姿勢と行動」=「無意識状態」(無意識の自然の条理)>有意識の知恵」
であるべきで、次ぎの様な数式

「姿勢と行動」=「無意識状態」(無意識の自然の条理)<有意識の知恵」
であっては成らない事を論理的な数式は示します。

この3世紀頃は未だ「人族の知恵の進化」は「有意識の姿勢と行動」には然程大きく影響を与えるものでは無かったと考えられます。
この「知恵の進化と複眼機能」は逆比例の相関にある事から、この時期の「人族」には「野生本能」である「複眼機能」は多少なりとも多くの民に遺されていて、現在も中国北方山岳少数民族の中にこの「複眼機能」を強く持つ「原始の鬼道信仰」を「心の支え」としている女性が多い事が報じられた事が、中国の研究資料からも判っています。
従って、「卑弥呼」は取分け「複眼機能」を強く持っていた事が判ります。
この「卑弥呼の占術」が事如く当り、瞬く間に全国の評価を獲得し、それまでの「弥生信仰」を排除し。、各地の「政治連合体」の招きを受けたのです。
「卑弥呼」の跡を親族が引き継ぎますが、同じ「鬼道の占術」を採っても当らず、結局は邪馬台国は民から信任を得られず滅亡します。)

現在医学では人間の体内に存在する「ミトコンドリヤ」が、人間の体躯に異常を来たすとこの「ミトコンドリヤ」が出て来て元の本来あるべき「自然の状態・条理」に戻そうとして働き、強い「異質の物」と戦う働きを持っているのです。そしてそれを脳を通じて体躯に伝える仕組みに成っているのです。
これが人間に「無意識」の内に備わった「治癒力」である事が判っていて、「ミトコンドリヤ」はその「体躯の状態」を観察し、元に戻そうとする「意思」を持っている事が判って来たのです。

例えば、判り易い例として、過剰と成った脂肪やコレステロールや糖分等などが体躯を蝕み始めると最後に出て来て、これ等を自ら食い尽くす様に働き始めるのです。しかし、この結果、過剰に働いた疲労したミトコンドリヤは、体躯に「警告信号」として「活性酸素」を発生させて「刺激信号」を「有意識」に発して警告します。
「過剰な有意識の知恵」は、これを無視した場合、体躯全体の機能を酸化に依って破壊させる事を起こして体躯そのものも破壊するのです。

例えば、それが肺で云えば「膠原病」等で肺の酸素を取り込む粒を酸化させて蜂の巣の様に成って仕舞い短期間で滅亡させるのです。
従って、この様な病魔から逃れる為に、つまり、より敏感に「ミトコンドリヤの意思」の信号を早く獲得する為に、そこで「知恵の人族」は「無意識と有意識の思考のバランス」を取る事が求められる様に知恵の進化の過程で必然的に成ったのです。

「無神論者」がこのバランスを保持している限りは「ミトコンドリヤの意思」に依って体躯は維持され保障されるが、一度、「有意識」の方に傾くと直ちに奈落の底に陥させられるのです。
かと云って、逆に「有神論者」と成り過ぎると、即ち「ミトコンドリヤの意思」に頼り過ぎると「有意識の体躯の意思」(健康保全)が低下して、「他力本願」と成り「ミトコンドリヤの精力」を失い、これまた奈落の底に落ちる憂き目と成るのです。
即ち、この「知恵の人族」に課せられた「バランスを保つ事の行為」を受け持つのが「自律神経」であり、この「自律神経」を正常に保とうとする「心の動き」が「無意識の中に起るミトコンドリヤの意思」であり、そこに到達しようとする「心根」それが「宗教の本質」であります。
その「宗教の本質」の「場と機会」を与えようとする行為、それが本論の「守護神」の「祖先神の神明社」であるとしているのです。
故に「知恵の人族」が「弱者」と成り得た時には、「知恵の人族」は
「無意識と有意識の思考のバランス」=「宗教力の条理」
から絶対的に逃れることは出来ないのです。
(但し、ここで云う「宗教」とは「特定の宗教教団」等を意味するものではありません。)

故に、「場と機会」を与えるべく「政治の長」であり「自然神の祭祀」を司る天皇は、全ての「民」に対してこの「場と機会」を与える為に、「皇祖神の子神」としての「祖先神-神明社」の建立を「賜姓族:2つの青木氏」に義務付けたのです。
これが本論の核とする究極の論拠なのです。
その為には「天皇の務め」として、この義務を果す「賜姓族」(後に特別賜姓族策が加わる 2つの青木氏)の「子孫存続策」は揺るぎの無いものにしておかなければ成りません。
因って、「宗教の本質」の「場と機会」を作り出す「賜姓族」が「無神論の氏族」では有り得ない訳であり、その「賜姓族」も上記の数式論の論理の中におく必要が出て来るのです。

「子孫存続策の血縁」(「純血性の血縁」)
それが前段の論じた「退避地」等の論所でもあり、その手段としての「主な根幹策」は「子孫存続策の血縁」と云う事に成るのです。況や「純血性の血縁」であります。
そこで、この本論では、前段では「退避地対策で子孫存続策」を論じましたが、それと合せてこの「血縁テーマ」(「純血性の血縁」)では、”どの様な対策を講じたのか”と云う事を本段を論じています。

当時は「ミトコンドリヤの意思」の「無意識の姿勢と行動」の原理は知り得なかったにせよ、逆に「自然信仰」に対する信心は「有意識」の殆どを占めていた筈で、「卑弥呼の鬼道信仰の占術」が3世紀から4世紀半ばまで「政治の場」に於いて最優先されていた事そのものが証拠なのです。

・「5つの要素」の「政治的要素」
次ぎに「政治」とは、「有意識」の中で起る族間の問題を解決せんとする最たる行為であり、「宗教」が「政治の場」で使われる事こそが、真に「無意識の行為>「有意識の行為」の証しであります。
恐らくは時代を遡れば、「有意識」≒0 「無意識」>+「有意識」=100%の数式が成り立っていた筈で、この数式の中で生活が成されていたのです。
とすると、その「生活環境の根源」を成す「血縁」は、「長と成る立場の者」に於いては同じ「ミトコンドリヤの意思」を保持する為に、言い換えれば同じ体躯に近い物を獲得する為に、「一族の純血性」を選択するは道理であります。
そして、”混血に因る意識のブレ”をより少なくする為に、「純血によるより統一したミトコンドリヤの意識」を引き出す事が「自然の条理」として必要と成ります。
この「無意識」の中で「自然の条理」を「神」(ミトコンドリヤの意識)から得ようとするにしても「知恵を得た人族の姿勢と行動」は「純血が基本」となる事は「必然の理」と成り得ます。

この「政治の策」として発祥した「賜姓族」は「純血」を求められる事もこれもまた「必然の理」と成ります。
むしろ、逃れる事の出来ない「宿命」であります。
天皇は何も好き好んで単純な思慮で賜姓する事は有り得ない訳であり、わざわざ自らの分身である「第6位皇子」を「賜姓臣下」させる限りには、其処には「目的達成」の為の「幾つかの宿命」を課せている事は当然の事であります。
その一つは先ずは「純血」であるとしているのです。
その「純血の宿命」は、”皇族だから”と云う事では無く、”「無意識」の中で「自然の条理」を「神」(ミトコンドリヤの意識)から授かる役目(1)として、且つ、その「場と機会」の創建者(2)であり、前段で論じた「3つの発祥源」の「融合氏」(3)でもあったからであります。
つまり、「賜姓族」とは「皇族」だから「青木」と云う「氏」を単純に与えたと云う事では無く、ある一つの大きな「政治的な目的」の為に与えたものであります。
与えられない皇族が殆どでもあり、「比叡山や門跡寺院の僧侶」で終わるのが大方なのです。
この時、この「無意識の条理」の中で「天智、天武、持統」の3天皇が、「自然神」の占術で得た「ミトコンドリヤの意思」として下した幾つかの「子孫存続策」(下記)を打ち出したのです。
そして、この「弱者」と成った時の「根本戦略」を「光仁天皇」までの5人の累代天皇がくまなく継承したのです。

(注釈 現在、「無意識の意志」というものの実態の生理学上の解明が進み、多くの「無意識の意思」はこの「ミトコンドリヤの意思」の「総合意」ではないかと云われいて、その集中した「総合的な意思」が体躯を左右させていると観られています。)

「意識の数式論」
「ミトコンドリヤの無意識の意識」>-「知恵の有意識の思考のバランス」=「宗教力」の条理

況してや、「知恵」を授かった人間に於いても生き延びられる「宿命」を帯びている限りの「弱者」は、「無意識」の内にこの「自然の条理」に従って「姿勢と行動」を「無意識」の内で採って仕舞うものなのです。
これが基本的な「弱者の自然の戦略」とも云うべきものなのです。
ところが「強い有意識の知恵」を得た時の「弱者の長」である者は、「有意識」の中で「思考の歪み」を持つとこの限りでは無く成り、この「自然の摂理」に違う有意識の中で滅亡するのです。
依って「思考の歪み」は「知恵」が引き起す所以なのです。
故に、この「有意識」が引き起こす「思考の歪み」をより小さくする為に、人は「ミトコンドリヤの意識」即ち「自然の条理」即ち「宗教の条理」に従おとするのです。
この行為が「古の社会」には強かったのです。そして、極端に云えば、それは「知恵の有意識の思考」=0であったと云えるのです。この事の次第は「上記数式論に委ねた社会」でもあったのです。

そして、この「数式論で得た意識」を再び「有意識の思考」(自然の知恵)として蘇らせて認識する事を繰り返したのです。
「天皇家」はこの時、思考を「無意識の域」に到達させて、そこでこの「自然の条理の戦略」に従ったのです。
「この時」とは、「弱者」と成り得た時であり、「ミトコンドリヤの無意識の思考」として、”「副軸」を造らねば成らない”とした時であります。
「ミトコンドリヤ」が進化した過程の様に、「弱者の知恵」が生まれたのです。
況や上記の数式論が働いたのです。
「この時」の判断は、つまり、「弱者」と成った時の「長の知恵」は、”「有意識の姿勢と行動」を「無意識の姿勢と行動」より優先させて見失う” と云う現象を起こさなかったのです。

現在から検証して上記の「意識の数式論」に成っていた事は、況や「思考に歪みの無い長」であった事を示し、その「自然の条理」を会得した「長」であった事を物語るのです。
一見して当時の情景を思い浮かべると、現在風に観ると、如何にも「宗教的行事」に頼っていた様に観られがちですが、決してそうでは無く、上記の「意識の数式論」に到達する為の「環境作りの無念無想の業」であったのです。極めて人間として自然の「業」であったのです。

(特記 筆者は「本来あるべき宗教の姿」(数式で表す宗教論)とは、その「発生」に付いては上記の「意識の数式論」であると考えているのです。そして、その「環境」に付いては「朝臣族の社会慣習の数式論」で起こり、その「会得の姿」に付いては「御告げの数式論」であると考えているのです。
この後者の「2つの数式論」が「意識の数式論」を裏付けていると考えているのです。)

「意識の数式論」=「朝臣族の社会慣習の数式論」+「御告げの数式論」

以上が奈良期から平安期までの言い遺して置きたい「先祖の姿論」なのです。

これ等の「賜姓族青木氏」の初期の構築(平安期)に関わった「8人の天皇」の「無意識と有意識」は、「ミトコンドリヤの遺伝子的な潜在的意思」に従ったのです。

(特記 この様に同じ環境に居た筈の「賜姓源氏」との「生き残りの違い」は、上記「3つの関係数式論」を、「国策氏」として護ったかの違いであったのです。「賜姓源氏」の中でも上記した「真人族、朝臣族の融合」で「賜姓族の青木氏」に融合して生き残り、「国策氏の中で生き残り戦略」を採った賜姓源氏も居たのです。
だから、現に悠久の歴史を得ても我々「青木氏関係族」はここに生存しているのです。
「枝葉よる子孫存続策」と「融合賜姓族の子孫存続策」の2流が「朝臣族」の中に存在した事に成ります。結局は上記する関係式論の厳しい環境におかれた「国策氏」が生き延びたのです。)

これ全て「上記数式論」即ち、「意識の数式論」=「朝臣族の社会慣習の数式論」+「御告げの数式論」の過程の結果なのです。
「賜姓族」は「上記数式論」に救われたのです。

(況や「青木氏家訓10訓」は特に「長の戒め」としての内容に成っているのもこの事から来ていると観ているのです。)

戻して、更にそれには次ぎの「無意識と有意識」に沿った策として、次ぎの様な戦略を構築したのです。
先ず、「八色の姓制」として、「皇族」を二つに分離して身を固めたのです。、
皇族の「主軸」を継承する「真人族」と、
「第4世族皇族」までの「朝臣族」を「副軸」
以上としたのです。
この「主軸と副軸」の「2軸」に依って「弱者」と成り得た末に於いてでも、「皇族の権威と強化」を目的として行動したのです。そして、更にはこの「朝臣族」の中にも「第3の本軸」(宗家・宗軸・賜姓族)を造ったのです。
この「主軸-副軸-本軸」の「3つの軸」を先ず構築したのです。

戦略1
その「第3の本軸」を「賜姓族」として、「子孫存続の補強策」の為に、王維継承の出来なかった「真人族」と、本軸と成らなかった「朝臣族」との「二つの族」を積極的に「賜姓族の跡目」に入れて「純血性」を高めたのです。
それが所謂、「本軸」の「賜姓族」であり、この「真人族」と「朝臣族」の「融合族」であるこの「賜姓族」を敢えて臣下させます。

戦略2
然し、此処で疑問があり、何もわざわざ「賜姓」だけで良い筈で、「臣下」させる必要性は本来は無い筈です。然し、「臣下」をさせたのです。
それは、”させるべく必然的な理由”が、上記の数式論の「ミトコンドリヤの意思」としてあったからです。
そして、それが「皇族の慣習」により「真人族」には成し得ない「子孫存続」のための「生き延びる力」(経済力と軍事力と政治力)を授ける理由があったからなのです。

更に「主軸」を護るように「副軸」の「本軸」の根拠地の「賜姓族地」を定めました。
この「賜姓族地」を中心に「19守護地」に配置したのです。

戦略3
そして「第6世族以下」を一般の「臣下族」(宿禰族)にして以東(坂東)に配置してその「主軸と副軸」の門構えを支える「土台仕組み」にしたのです。

この「3つの戦略」が大化期の「3人の天皇」により先ず構築されたのです。

・「5つの要素」の「経済的要素」
「賜姓族」の「姿勢と行動」
「主軸-副軸-本軸」の「3つの軸」と成った「皇族賜姓族」に取っては、「無意識のミトコンドリヤの意思」を示現するには、「経済的立場」を主体とした「姿勢と行動」が絶対に必要なのです。
ところが、この戦略が「皇族賜姓族」に取っては「最も厳しい戒律」なのです。
それは何かと云うと、「武力と利潤の追求」は「皇族関係族」には「禁じ手」だったのです。
その矛盾とも取れる「経済的戦略」でありながら、「本軸の賜姓族」には実行しなくては成らない「厳しい宿命」を及びていたのです。
ただ、仮に、この「禁じ手」の「経済力」を確保した「皇族としての力」だけでは「3つの発祥源」の責務を実行する勢力とは成り得ません。
そうなれば、「富裕の地」に「賜姓族」を定住させる必要性が出て来ます。
然し、どの様な「富裕の地」であるべきなのかと云う問題が出ます。
その問題を解決するには、上記する「3人の天皇」が考えた「無意識の意志」をより効果的に繁栄させられる地域であるべきで、”何処でも良い”と言う事には成りません。
この「富裕の地」であっても、現在が「富裕の地」であるべきなのか、これから新規に「富裕の地」にするべき地域でよいのかは検討を要する処です。

当初、「遷宮地85」の一つであった「吉備域」が、大化期に入り「強者の迫り来る地域」である事から危険であり、除外され事は必定であります。
この「吉備域」より以東の地で、「最近の地の富裕の近江」、「神宮の地の富裕の伊勢」、「中核の富裕の地の美濃」には、「賜姓族」を置く事には問題は無く規定の地であります。

とすると、他に戦略的にも「吉備域」に代わる「富裕の地」を定めて、そして、其処に「国難」とも成っていた余剰と成っている「帰化人」を投入してでも新たに作り出す必要に迫られます。
当然、新たな決められた「天領地の重要な地」なる事から、其処には「賜姓族の守護王」を配置する必要が起こります。
そして、新規の「富裕の地」から「経済力の根源」の「税の収入」を確保する事にならなければ成りません。さて、そこで新規の「富裕の地」に付いてどの様にして進めるかが問題です。(下記記述)
仮に、其処が新規の「富裕の地」に成し得たとして、然し、この新規の「富裕な地」の「税による経済力」だけでは困難で、「周囲の変化」(責務の遂行と勢力的な環境変化)に追随して行く事が何時かは限界が来る事は必定です。そして、現実には限界が来て行き詰まったのです。
それだけでは無く「光仁天皇」までの「5人の天皇」は、奈良期の「3人の天皇の初期の意思」を継承していたにも関らず、9人目の「桓武天皇」と10人目の「平城天皇」はこの「初期の意思の賜姓族青木氏による継承」を拒んだのです。
予想通りに「周囲の変化」が起こり「政治的環境の変化」(政治抗争)を来たしたのです。
それどころではなく、「律令国家建設」を理由に「8人の天皇の初期の意思」を宿命として果たしていた「力」の持った「賜姓族の親政族」を排除したのです。
更に、抗争に打ち勝った11人目の「嵯峨天皇」は、「8人の天皇の初期の意思」で築き上げた「国策氏」で「融合氏」で「副軸」の「賜姓族青木氏」を止めて、何と「源氏」を賜姓してしまったのです。
(青木氏は下俗する皇族者が名乗る氏として他に使用を禁じた)
ところが、その「賜姓源氏」が「8人の天皇の初期の意思」を、最早、継承せずに「荘園制の名義貸し」を利用して潤いを得て一人歩きしだしたのです。

厳しい環境の「意識の数式論」=「朝臣族の社会慣習の数式論」+「御告げの数式論」の中で「国策氏」として使命を果そうとする青木氏を横目に、賜姓源氏は「荘園制の名義貸しの潤い」の「楽な環境」を選択し、「朝臣族」としての「国策氏」の立場氏名を放棄したのです。
この後、この「楽な環境」を「生き残り策」として選択した「賜姓源氏」は11代続きますが、10代目の「円融天皇」は、これでは皇族は立ち行かんとして「8人の天皇の初期の意思」に立ち戻り、「賜姓源氏」とは別に「特別賜姓族」として藤原秀郷一門に「青木氏」を発祥させたのです。

(現実に前段で詳しく論じた様に、「阿多倍一門」は更に力を付け強者として以西九州域と以北陸奥域に自治を迫ります。)

前段でも論じた様に、この皇族外から発祥させた「特別賜姓族青木氏」(朝臣族に指定)に「皇族賜姓族青木氏」と同じ「身分、家柄、権利、官職」等の一切の条件を揃えて「賜姓族」を補完させる役目を与えたのです。つまり、当時の「8人の天皇の初期の意思」を「藤原母系族」に継承させたのです。
そして、遂には、この「2つの青木氏」の「融合血縁」を果させた事で、再び「皇族賜姓族」は蘇り「元の力」を取り戻したのです。

この時、「賜姓族の空白期間」の反省からの「税に頼る経済力」や、彼の「賜姓源氏」が失敗した「荘園制の利用」を踏襲するのではなく、「自らの力で切り開く為の経済力」の方法、即ち、「禁じ手」の「2足の草鞋策」の「商い」を「特別賜姓族の後押し」をバネに正式に決断し採用したのです。

そして、自らの体躯を整える為に「過剰な軍事力」を排除し、「特別賜姓族の抑止力」に頼ったのです。
当面の最低限の「自らの間接的防御力」を獲得する為に「賜姓族」は、「商いから出る経済力」を使って「強力なシンジケート」を網目の様に構築して、空白期間を経て生き残った「3つの賜姓族」を護ったのです。
これに因って「3人の天皇の初期の意思」と成る「与えられた宿命」(前段)を果す事ができる様に成ります。
この様に「賜姓族」に「経済力」をつけさせる事に依って上記の「戦略」は動き出したのです。
この上記の戦略は、この「賜姓族」が「自らの力で切り開く経済力」に依って裏打ちされているのであって、決して「軍事的な事」に依って裏打ちされる「戦略の本質」ではありませんでした。

前段で論じた様に、この事を「近江と美濃」以外の「賜姓族の3氏」は決して間違わなかったのです。
この「禁じ手」を決断する事で、厳しい環境の「意識の数式論」=「朝臣族の社会慣習の数式論」+「御告げの数式論」から開放されたのです。
決してこの「開放」とは「放棄した事」では無く、その「賜姓族」としての「厳しい環境の立場を保ちながらも、「商い」と云う「別の顔」を持つ事で大息を就ける様に成ったのです。
最早、これは「特別賜姓族の御蔭」の何ものでもありません。この「2つの青木氏」は「融合青木氏」をも持った「一身胴体」の青木氏と成り得たのです。
然し、室町末期までの生存競争が厳しい社会の中に於いて、決して「軍事力」は無視する事は不可能です。

(特記 賜姓源氏は荘園制を利用してこの軍事力に頼った。 「8人の天皇の初期の意思」は無視した。「朝臣族の賜姓族の役目と立場」を保全しなかった。「純血血縁」は「賜姓族」に「跡目」をいれたもののこれを軽視し「朝臣族の象徴と権威の保全」に集中させた。
選択された「近江と美濃」の「賜姓族」は「8人の天皇の初期の意思」を平安中期まで維持させたが平安末期には「賜姓源氏」と同じ立場を採った。
故に、上記の数式論に基づく「論理的矛盾」が起こり、「賜姓源氏」と「近江美濃の賜姓族」は共に滅亡した。)

そこで、「3家3流の賜姓族と特別賜姓族」は、「経済的」な事で裏打ちされた「軍事力」に取って変わる、前段でも詳しく論じた、上記の「2つの抑止力」を構築したのです。
これは「経済力」と「軍事力」の「2本建て戦力」ではなく、「生き延びる力」を「経済力」のみに絞って、より小さい弱体な「氏力」を集中させて効率を上げたのです。
然し、ここに問題が生まれたのです。
「皇族の朝臣族」が、”「自らの武力」も持たない”とする「皇族の慣習」の中で、「3家3流賜姓族」は「生き延びる手段」を「商い」に求めそれを全面に押し出したのです。
「皇族」と「商い」は「皇族社会の慣習」の中では決して寄り添う事の出来ない「真逆の生き方」で禁じ手であります。
恐らくは、その経緯は青木氏の資料・添書等から読み取れるものとして、この「商い」の「初期の段階」では、当初は「米や地元の産物の税(和紙)」を単純に裁く事から収入を確保していたのを、先ずその「税」をより高く裁く事に舵を切ったと考えられます。
次ぎにその「余剰利益」で「自ら産物」の「殖産」(和紙)にも廻して手掛け、遂には、これを一人立ちさせて、別の顔として「店舗を持つ商い」に発展させたのです。
ところがこの「店舗」を持つだけでは充分ではなく、より「賜姓族」を強化安定させるには「国策氏」としては不足であり、これを全国各地に展開する必要があります。
それには「大量で安全な輸送搬送」が求められ、これに「対応する組織」を確立する事が必然的に求められます。
それが「利益の効率的な運用と分配」であり、それを各地に溢れ出る「荘園制の戦い」に因って敗退し衰退し滅亡する「敗走氏」に援護して自立させ、その役目を与え契約して「伊勢-信濃シンジケート」を組織したのです。(明治九年まで続いた伊勢-信濃域一帯に起った騒乱にも活躍した事が判っている)

これが「3家3流賜姓族」の「強力な抑止力」とも成り、遠距離の「大量で安全な輸送搬送」を確実にし可能にしたのです。
この時、「3家3流の皇族賜姓族」を援護する「特別賜姓族の抑止力」も加わり、「2つの抑止力」が有機的に「2つの賜姓族青木氏」を保護したのです。

更には、これ等の態勢を維持する為には「大量の生産体制」を確立する必要が出て、他の「4家4流の賜姓族」に「殖産-製造-販売」を一手に手掛ける「古代和紙」を「本軸の伊勢青木氏」は完全始動したのです。(1025年頃)
然し、広域の「殖産-製造-販売」には危険が伴ないます。これを「広域性を持つ抑止力」が保護し安定した「広域体制」が保たれる事に成ったのです。
そして、遂には、「堺港」と「摂津港」に店舗を儲け「瀬戸内の讃岐青木氏の大廻船問屋」と連携して「アジア貿易」を展開したのです。
結局は、最終は「総合商社」(1125年頃)と成ったのです。
平安初期の806年頃には衰退し、段階を於いて経済力を主体に徐々に盛り返し、1025年頃から勢いを増し、1125年頃には「広域商い」を確立させたのです。
その証拠に、室町末期には「商いの主」と「守護の主」と別人にしていた「伊勢青木氏の記録」が遺されているのです。

(特記 「殖産和紙の技術の伝授」を授けた事も含めて「信濃青木氏」も「伊勢青木氏」との血縁関係から同じであったと考えられる。)

厳しい環境の「意識の数式論」=「朝臣族の社会慣習の数式論」+「御告げの数式論」を持つこの「賜姓族」は上記する経緯を辿ってこの関係式論を淘汰したのです。

そこで、この「商業基盤」を採用した時にどの様な事が起っていたのかが疑問です。
上記の戦略を発案した「3人の天皇の意思」は「賜姓族」のこの「商業基盤策」を驚天動地で、考えても観なかったのではないかと観られ、普通であるならば「3人の天皇」は皇族の禁じ手である限り、立場上からも猛反対したと考えられます。
ところがその後、継承した「5人の天皇」は「時代性の変化」に伴ないこれを「賜姓族の立場」と「商いの立場」とに2分割する事で黙認に近い形で容認したと見られます。

前段で論じた様に、その後の資料から読み取れる「正式な商業基盤」としては1025年頃に、そして 「豪商」としては1125年頃と成っているのです。
この状態が室町末期まで続き、その後はある範囲に於いて公にしていた事が読み取れます。

(参考 平安末期の「以仁王の乱」(1180年)の敗退時には主謀者の源頼政と仲綱は、経済力で裏打ちされ跡目に入った「京綱の伊勢青木氏」を頼り逃亡しますが、遂に力尽きて宇治の平等院で果てます。
この時の「伊勢青木氏」は隣りの「伊賀の平家の里」とも500年もの間「古代和紙の生産」で親交を深めていた事もあり、「経済力と抑止力」からも手が出せなかったと考えられます。通説は信じ難く青木氏から観ると、「逃亡の方向」と「道筋」から判断すると此処に逃げ込む戦略であったのです。
もし逃げ込んだとすると、真人族との純血融合族の副軸として存在する「3家3流賜姓族」を敵に回す事に成り逆賊と成りますし、そうなると「京平族」も一族の断絶も含めて全ての関係を放棄せざるを得なくなり、且つ、「特別賜姓族青木」(藤原秀郷一門)も相手にしなくては成らなくなり、「源平の戦い」から「国家騒乱」の様相を呈する事態とも成りかねません。
まして、「伊勢や信濃の賜姓族」に対する「不入不倫の権」や「副軸・主軸の立場」も無視する事に成り、結局は「京平族」であっても下手をすると「逆族の汚名」を受けて「朝廷との戦い」を覚悟する事に成ります。
そうなれば、当然に「民の賛同」も得られませんし、両極の武家の「源平の戦い」から意味の異なる事と成り、到底に伊勢を攻める事はあり得ません。
この時、「3家3流賜姓族と特別賜姓族」の青木氏は、既に同じ「商業戦略」(宗貿易)を採る「伊賀和紙」で繋がる「500年の隣人 平清盛」に匹敵する位の「有形無形の総合力」を持っていたと考えられるのです。
この時、前段でも論じた様に、「平清盛」は「有綱と宗綱と高綱:[日向青木氏]」の「伊勢青木氏の助命嘆願」に応じたのですが、この史実からも「賜姓族の力」がどれほどのものであったかは理解できますし、どれほどの親交を維持していたかも判り、これは(助命に応じた事)内心で「国家騒乱」を避けたい気持ちがあった事をも示す行為でもあります。
因って、「平清盛」は「以仁王の乱」で、 ”頼政親子を伊勢に入れない事”を戦略の最大のテーマであった筈なのです。この段階で「伊勢と信濃と甲斐の賜姓族」は「武力を背景とする賜姓族の総合力」で無かった事が攻める事が出来ない大きな理由でもあった筈です。

(参考 この当時の武家の慣習として、「武」に対して「武」の精神が「武家の法度」であったのです。)

現に「近江と美濃の賜姓族」は武力を中心とする「賜姓源氏」と同じ「生きる態勢」を敷いていた事から”「武は武」の定め”の理屈から「平清盛」は攻め滅ぼす事が出来たのです。
この様な「伊勢-信濃-甲斐の皇族朝臣族の政治的スタンス」が「生き残りの秘訣」であったのです。
この「平清盛との関係」から観ても既に「商いは公」に成っていたと考えられます。

(特記 むしろ、筆者は、皮肉にも「賜姓族青木氏」に代わって「桓武天皇」の「皇族外賜姓族」に成った「たいら族」が「蘇った隣人」のこの「青木氏の生き様」を見て、「清盛の商いの宗貿易」はそれを参考にしたのではないかと見ているのです。「敵視」ではなくむしろ「隣人視」であったと観ているのです。
当然に、「賜姓族青木氏」に対しても当然な事として、乱の首魁の頼政親子に対しても伊勢青木氏との親族であるとして「敵視」<「隣人視」と観ていた可能性が強いと考えているのです。
青木氏側からの経緯から観ると、通説とはどうしても異なるのです。)

この時、「平清盛」は記録から「藤原摂関家」より「商い」を同じく揶揄された事が記録に遺されているのです。
然し、同じ北家筋の秀郷一門は一方では「特別賜姓族青木氏」を通じて「2足の草鞋策」を公然と敷いていたのです。

(「摂関家」として「荘園制」を最大に利用していた筆頭であったが「商い」の出来ない立場を僻み悔しさの発露として「揶揄」したと観られる。)

その証拠として、「信長との戦い」(丸山城の戦い等)で勝利した以降は、引き継いだ豊臣秀吉も「伊勢攻め」ではこの事を知って、「材木の自らの伐採と調達」の事、「蒲生氏郷の配置と差配」の事から観て、この時期には為政者には「青木氏の商い」は、「既成の事実」(背後関係)と成っていた事を物語ります。
江戸期には、家康が紀州藩に宣頼を配置し、松阪で伊勢青木氏と面会した時の対応、吉宗幼少の伊勢での養育親に成っていた事、請われて吉宗の「享保の改革の立役者」と成っていた事、同じ時期に請われて紀州藩の「勘定奉行として財政」を立て直した事、更に請われて「幕末の紀州藩の財政」を立て直し役を「商人の青木氏」として演じた史実から観ても、幕末まで「2本立て戦略」は続いていた事が判ります。

(特記 明治9年までの「伊勢-信濃騒動」にも背後から縁者の伊勢加納氏と共に「商人」として「経済的支援」をしていた事が記録として遺されている。)

この様に詳細は前段で論じた通りですが、この「経済的基盤戦略」は、上記する「賜姓族」として務めを果たす為に、その根幹と成す「融合血縁の子孫存続策」の主軸に置いていた事を物語ります。

・「5つの要素」の「政治的要素」
次ぎに「政治的」には、以西と以東のバランスの取れた状態を作り出す事が必要です。そして、その「政治力」が朝廷との間に間断無く届くようにしなければ成りません。その為には余り距離的に離れず一定の距離の中に配置する必要があります。そして上記する「経済的基盤戦略」を確保した上でこの「5つの賜姓族地」を使って「親政政治」を敷き、勢いの強い「帰化人の以西勢力」に対抗する「有機的な政治体制」を構築する必要が出てきます。
当然にこれ等の「賜姓族」にはそれなりの「戦略的」にも「経済的」にも裏打ちされた「武力」或いは「抑止力」を伴わせなくては成りません。
「5つの賜姓族」の中でも一つでもこの力に掛ける「賜姓族」であっては対抗する「有機的な政治力」を発揮させる事は不可能です。
その為にも「伊勢賜姓族」を中心として指揮を統一させ「5つの賜姓族地」を統括する事が何よりの「戦略的政治力」を発揮させる事に成ります。
これには是非にも「5つの賜姓族間の血縁関係」を構築して「血縁による絆」を高める事が「必修の条件」と成ります。
「単なる枝葉を広げる血縁関係」だけでは無く「政治的に統制された血縁関係」が必要です。
それは「融合血縁」(純血性保持)による「氏家の構築」にあるべきであります。
ただ「枝葉末孫」を多く蔓延らせるものでは無く、「5つの賜姓族」の中に「強力な血縁の芯」を創造する事が必要です。
この「経済的基盤戦略」に裏打ちされた「政治力」は、以西勢力とは「朝臣族の利」を生かした「真逆の政治戦略」と成り、彼等に対抗する力を確保する事が出来て「潰されない対抗手段」を構築出来るのです。

(当然に彼等から観れば図りがたい「抑止力」を背後に散ら付かす事で「政治力」はより効果を発揮しますが、「賜姓族としての政治力」だけでは効果は期待できません。)

200万人の職能集団を抱えた勢力に対抗するには、「特別賜姓族の抑止力」を加えたとしても「賜姓族側」の「枝葉末孫策」で彼等に対抗する事は、天文学的な枝葉の抹消子孫を拡大させる事と成り不可能ですし、その為には必然的に上記の「経済力」が莫大に必要と成ります。到底太刀打ちできません。
その「経済力」を担保するには、まして「抑止力」ではなく「正規の軍事力」が必要と成り、その為に限られた領地を無理に拡大させなければ成らなくなります。この結果として「経済力-軍事力-政治力」の「無限の輪廻」が起こります。
これはまさしく「彼等の戦略」と同じです。「同じ戦略」を取れば弱者が滅びるはこの世の条理です。
これはあり得ない選択です。
既に、前段で論じた様に、彼等はこの「3つの力」と「進んだ職能能力」と「200万の武力」を持っているのです。今新たに発祥した「賜姓族」では到底対抗する事は論理的にも物理的にも明らかに不可能です。
「枝葉末孫策」は論外の対抗手段です。

それには、先ず、上記する天皇の「賜姓族戦略」を造り、次ぎにそれを実行する「経済力」を付け、更にそれを裏打ちさせる「抑止力」を背景にし、最後に「親政族の政治力」で、「祖先神の守護神」を確立させて対抗する一翼を構築する必要があるのです。
これ以外の戦略は最早「賜姓族」には与えられていないのです。
この「対抗手段」の為にはこの「過程の順位と順序」を決して違えては成らないのです。
そして、これを実行するには一族一門が「結束する前提条件」があり、それが「ミトコンドリヤの意思」に統一させる為にも目的以前の問題として「純血血縁」が必要であったのです。

決して「皇族賜姓族の身分」や「皇族としての象徴」だけを確保する為の「純血手段」ではなかったのです。
必然的に「賜姓族としてその役目」を果すべく逃れ得ない「生き延びる為の宿命的な純血手段」の道筋であったのです。(家訓の論調でも判る)

前段でも論じた様に、彼等が支配する「200万人の職能集団」と「32/66国の無戦支配地の在来民の賛同」に対抗する何れの策もない筈です。
あるとすると「朝臣族」に課せられたその打つ手はただ一点に絞られます。
それは「天皇家」とは別の位置に「純血性」を保った「同族の結束力」を保持出来得る密度の高い「5つの血縁融合集団」を構築する事にあります。それはあくまでも「統制の取れた政治的行為」でその前提は「純血の血縁集団」であるべきであります。
この為には「朝臣族の族間範囲」では限界があり、返って「同族血縁の弊害」による「弱体化」が起る事にも成り得ます。
”では、どうすれば良いのか”です。それは ”「全ての真人族」をも巻き込んだ「血縁集団」”にするべきです。「賜姓族」を「一本の血縁芯」としての「骨格」を作り、それに「肉」を付ける体格の「血縁族」を造り上げればよい事に成ります。
これには「賜姓族の跡目」には「真人族と朝臣族」から「より優秀な能力の持った嗣子」を据える事が必要と成ります。
「賜姓族の子供」である事に関り無く「真人族と朝臣族」から「賜姓族の跡目」を据えて行く事が必要です。これにより「より高い純血性」が保たれ「天皇家」に代わるもう一つの「准天皇家」(副軸論)が構築され、それに依って「象徴としての権威と尊厳の敬い」を民から獲得する事が可能に成ります。
この事で「帰化人の民からの賛同」に対抗する事が可能と成ります。先ずは賜姓族も民からの賛同」を獲得する事に成り、戦略的な一端は解決する事が出来ます。
そして、その「象徴としての権威と尊厳の敬い」は、「民の心の拠り所」として「皇祖神の子神」の「祖先新-神明社」が裏打ちされるのです。
「祖先神-神明社」は政治的には彼等に対抗する唯一の戦略的な手段であったのです。
つまりは、これは、強者側から「技能の享受」を担保として「帰化人」は「民からの賛同」と獲得し、弱者の賜姓族側は「民の心の拠り所」としての「祖先新-神明社」との「2つの均等な競合」と成るのです。

これに加えて「賜姓族」は、「技能の享受」に対抗する為に「物造りの神」の「豊受大神宮」を据えて「民の願い」を一点に集めたのです。
これにより彼等との政治的な勢力関係が先ず維持出来るのです。

・「5つの要素」の「地理的要素」
話を原点に戻して、戦略的、経済的、政治的、軍事的な上記の事柄からは、遷宮地の「吉備と飛鳥」の「旧来の古の地」ではこの事は決して成し得ません。
絶対的に「新規の地」である必要に迫られます。
「旧来の古の地」でないとすると、その「地理的条件」には、この「新規の地」であるべきとして、「吉備と飛鳥」に代わる「信濃と甲斐」と云う「中部山間部」の「未開の地」を選んだのです。
然し、わざわざ「未開の山間部の地」にしなくても「美濃」に続く東の「開発された沿岸部の坂東」の地でも成し得るのではないかと考えられます。
然し、「坂東の地」は既に「皇族第6世族以下の臣下族(ひら族)」の定住地であります。
普通に考えれば、坂東域は「皇族関係族」として有機的に働く筈です。
この様に観れば「中部山間部」の「未開の地」の策は一見してかなり乱暴であるかの様に観えますが、実はそうではないのです。
そもそも、この「沿岸部坂東地」には「阿多倍の職能集団」が次ぎの様な集団が配置されています。
「磯部、海部」の海産物に従事する集団
「機部、鍛師部、金作部」の生産機械の製作に従事する集団、
「服部、織部、布部、麻績部」の織物に従事する集団
「秦部、絹部、桑部」の織物の殖産農業に従事する集団
(鍛冶部は北九州、播磨安芸域、紀州北にも分散)

以上の職能集団が関西と九州から移設して配置しました。(これは室町末期頃の「姓氏」の発祥から観て選択しました)
「海部」などは関西以西の瀬戸内地域が発祥地域としているのですが、この「海部」の一部をこの坂東地域に、「瀬戸内の海産物適地」からわざわざ「磯部」と合せて配置したのではないかと考えられます。

(特記 「海部」は前段でも論じた様に、「純友の乱」でも最大の職能集団としての力を持っていたし、姓氏に成ったのも最初はこの「海部族」でした。この事から観ても当時でもこの海部族は力を持っていてその職能集団の力をある程度削ぐ戦略もあった事が伺えます。)

この「4つの職能集団」が坂東域に配置されている事から観て、ある範囲に限定した関係集団を配置したのであって、必要以上にこの集団を移すとこれ等の集団も力を持ち、且つ、この集団を使って坂東の「第6世族臣下族」が力を付け過ぎる事も考えられるますし、「後漢の民」である限り彼等の首魁である阿多倍一門が再び最終的に支配する事も有り得ます。
どの様に観ても、「3人の天皇の初期の意思の戦略」を実現するにはこの坂東域の地は明らかに「不適合地」であります。

(最終的には現実に平安末期に首魁の一族の桓武平氏「たいら族」がここに国司として赴任して支配した。第6世族以下の皇族を祖とする「ひら族」と桓武平氏の「賜姓たいら族」が共存した地域。この事が通説では同族として誤解を招いている。)

ここに「賜姓族」を配置したとしても、阿多倍一門は兎も角も「第6世族臣下族」との軋轢を発生させる事にも成ります。
この「沿岸部坂東地」は関東からの美濃域までを通して「東海山道」(古代の街道は信濃-甲斐より接続山間部にあった)として主幹道路であります。
この地に「第4世族 朝臣族」と「第6世族以降のひら族」の2つの皇族方が存在する事は、「3人の天皇の初期の意思」を構築する事では、「第6世族」が排除された形に成り、反発して不可能であります。
況してや、「8人の天皇」が累代するに従い「ひら族」として皇族より切り捨てた「賜姓なしの臣下族」であります。”共に力を合わせよ”と命を下しても成り立つ話ではありません。
そうなると、関東は都より遠阻域でもあり、「3人の天皇の初期の意思」の実現は困難であり、論外域となります。
そうなれば「沿岸部の坂東域」と「関東域を結ぶ東海山道」より「北域の地域」が選択地となり、且つ、「阿多倍一族一門」や「既成の臣下族」の柵(しがらみ)の無い「中部山間部の未開の地」の「新規の地の選択」と云う事に成ります。

更に、「中部山間部の未開の地」には、この「3人の天皇の時代」は、都に通ずる主要な幹線道路が無く、「関東地域」はもとより「広域陸奥域」からの「東山道」に繋ぐこの「東海山道」か「北陸道」しかなく、それ故に「未開の地」であったのです。
元より「中部山間域」として果実などの農産物がよく育つ農業域帯でありながらも、幹線道路の不通が理由で未開で放置されていた地域でもあったのです。
この「中部山間部の未開の地」に朝廷は次ぎの様な職能集団を配置したのです。
馬部、鞍造部  山間部を利用した放牧飼育に従事する集団
山部、鵜飼部  山間部の山川の産物加工に従事する集団
弓部、矢作部  山間部の材木を利用する武器作り等に従事する集団
工部、石作部  山間部の石や材木を加工し家具生産に従事する集団
以上のような職能集団を関西以西から移動させて配置させたのです。

(以上、室町末期頃からの「家紋分類の分析」と「姓氏の地理的な分析」と「地理的な荘園分類」から判別分類)

この配置の事でも判る様に「中部山間部の未開の地」に適した職能集団を配置しています。
これは明らかにある「政治的で地理的な戦略」に基づき計画的に配置した事であって、其処に「沿岸部坂東地」と比較してどちらが適切かは「賜姓族」を配置する事でも合せて検討された筈です。
この検討の結果、「中部山間部の未開の地」に「賜姓族」を配置する場合は、これらの「8つの職能集団」を関西以西から移設するのが適切であると考えたのです。
しかし、ところがこの「職能集団の配置」に問題があるのです。
それはこの「中部山間部の未開の地」には生き延びて行くには欠けているものがあるのです。
それは「海の幸」であり「ミネラル」であります。海で生息していた「ミトコンドリヤの環境」であります。海から上陸した「人族」に取っては欠かせない「生命の源」です。
この「ミネラル」を獲得するには最も近接域としての「沿岸部坂東地の海産物」が必要に成ります。
故に「磯部と海部」が配置されているのです。

(特に「海部」はこの意味でも後から瀬戸内から補強するために移設した事が判ります。
「磯部」だけでは「沿岸部坂東地」の供給量しかなく「中部山間部の命」を維持させるだけの生産量に届かなかったと観られます。
「磯部」は海浜域、「海部」は海上域を主とする集団であった。「海部」は瀬戸内が発祥地)

この様に考察すると、「沿岸部坂東地」の「4つの集団 12部」と「中部山間部未開の地」の「4つの集団 8部」には生きて行く為の補完関係が出来ている事が判ります。
明らかに「政治的、地理的な恣意的に組まれた戦略」で「生きる事」のみならず「経済関係」が補完されている事なのです。
この補完関係を構築させて有望な「未開の地」を切り開き、此処を「天領地」として造り上げ、「柵の無い地域」にし、「賜姓族」を配置しようと決めたのです。
そして、これ等の補完関係を円滑にする為に、陸奥から近江までの「東山道」を切り開いたのです。
明らかに闇雲に決めた事では無い事が判ります。
「強力な賜姓族地」を構築しようとした事が明確に判ります。

(参考 初期の「東山道」:陸奥-羽前-羽後-陸中-陸前-磐城-岩代-下野-上野-「信濃-甲斐-飛騨-美濃-伊勢-近江」であり、「下野-上野」から「東海山道」に繋がる街道を「下野-上野」から新設の「信濃-甲斐-飛騨」ラインと伊勢街道の「美濃-伊勢-近江」ラインを繋いだ。)

この事から、これでも「賜姓族」が「3人の天皇の初期の意思」を実現させるには未だ不足であったとされ、「一つ別の策」が賜姓族独自で構築された事が判ります。
それは上記でも前段でも何度も論じた「伊勢青木氏」が殖産開発し、近江、美濃、信濃、甲斐に「伊賀の古代和紙」を移殖した事であります。
確かにこの職種は「沿岸部坂東地」の「4つの集団」と「中部山間部未開の地」の「4つの集団」にはありません。
これがより経済的に強くした事になるのです。「文化のパロメータ」と云われる「紙」は時代に合致していたのです。恐らくはこの「紙」を扱う事で、 ”「賜姓族」は「軍事力」に頼らない「強力な独自の力」を持つ事が出来る”と読んだ計画であったのです。
それを上記した様に、この「和紙」で、更に「より強大な経済力」を付ける事の為には、”「商い」が必要だ”と判断し、「賜姓族」は次第に恣意的に「皇族の禁じ手」でありながらも「殖産-商いの方向」に導いたのです。(後述)

そもそも「皇族賜姓族」としては本来「商い」は「間逆の立場」にあり、当時としては「皇族」(朝臣族」)という「戒律の厳しい環境」の中では、最高の「禁じ手の慣習」であったのです。
「権威と権力」を支える「氏の生きる為の絶対力」の「軍事力」さえも「完全な禁じ手の慣習」にあったのですから、最早、「商い」は「民の生業」であり論外であったのです。
それなのに次第に「氏族の力」に組み入れて行く「副軸の賜姓族」に対して激しい揶揄が飛んだ筈です。
”何の為の副軸か! 恥知らずめ!”と揶揄された筈です。

(「平清盛」でさえも「揶揄」は摂関家に限らず身内からも飛んだのです。)

この時、「賜姓族」は「四面楚歌」の苦しい環境にあった事は間違いなく、故に、遂には最終は「近江と美濃」はこの環境に絶えられず脱落したと考えられます。

(5家5流の中でこの「2つの賜姓族」には周囲に「複数の皇族関係族」が存在した事もあり、その軋轢は絶え難いものであった事は否めません。「伊勢」は「不入不倫の権」で守られ古来より室町中期まで「皇祖神 神宮」のお膝元と云う事かもら青木氏外の皇族関係族及び他氏の豪族は存在し得ない土地柄です。
「信濃」と「甲斐」は前記の通り環境下の「新規の地」であり、これまた揶揄される皇族関係者や公家の存在し難い土地柄であった。)

「賜姓族」に取っては「3人の天皇の初期の意思」況や「弱者に課せられた生き延びる為の戦略」としては絶対に避けられない「生業」の「商い」であったのです。
それには「賜姓族」が一氏では無理であり、一族一門の結集結束しての所業でなければ成りません。
それに耐えられる「唯一の手段」は「思考と意思」「姿勢と行動」を「血」と云う手段で根本から統一させて「血筋」を守り維持する事が「絶対条件」であり、況や、その「血」を更に「純血」まで持ち上げて血縁すると云う「二重の仕組み」なのであります。
「男系の純血」と「女系の皇族血縁」で賜姓族を小さく濃く固めたのです。

「弱者の戦略」=「朝臣族・真人族」+「副軸の賜姓族]=「純血血縁」
「純血血縁」=「経済力」+「抑止力」=「商い」
「抑止力」≠「軍事力」
「経済力の商い」≠「皇族の戒律・慣習」
「弱者の戦略」=「3人の天皇の初期の意思」=「副軸の賜姓族」=「土壌の地・信濃甲斐」

以上の5つの絶対的な逃れ得ない数式論が働くのです。

この一見矛盾する様な数式論を叶えるには、その「土壌の地(地理)」を無視する事は出来ないのです。
その「土壌の地」はこの”「信濃と甲斐」意外には無い”と云う事を意味しているのです。
「3人の天皇」はこの数式論が成り立つ施策を次から次えと打ち出し構築して行ったのです。
その一つが前段の「日本海側3県」の「退避地の設定」や「8部の職能集団の配置」や「不入不倫の権」でもあったのです。

・「5つの要素」の「宗教的要素」
さて、厄介なのは”「宗教的」にはどうであるか”です。
これはそもそも「宗教」は「民・氏族の心」に通ずるものであり、「思考原理=思想」に通ずるものであります。
「心、思考」である限り、それを違えての「賜姓族の配置」は根本的に危険であり、上記で論じた事が全ての「環境条件」が適切で整っていたとしても「3人の天皇の初期の意思」は叶うものではありません。
政治的にこれを抑圧しても古来より「強い抑圧」は「民・氏族の心」の反発を招き、遂には「政治的な反乱」が引き起こされるのが条理で、この例外は無いのです。
為政者は「賜姓族」を配置して最も避けなければ成らない事は「民・氏族の心の抑圧」なのです。
常に、「民・氏族の心」=「賜姓族の配置」=「3人の天皇の初期の意思」 の数式論であらねば成らないのです。

前段でも論じた様に、日本は古来より「自然神」を始めとして「5つの守護神」の考え方が存在し、それがある地域を限定する様に、「宗教(「心、思考」)」に対して「地理的要素」が働いていたのです。
「人族」はミトコンドリヤの時代から「心、思考、意思」を同じくするもの同士が集う「屯の習性」を持っています。それが「民・氏族」であり、その「民・氏族」には「民・氏族」=「宗教」の数式論が成り立つのです。
これは「宗教」として成立したのは、「5つの守護神」の発祥以前の「弥生信仰」の時期から始まっているのです。
(筆者は「民・氏族」=「宗教」=「屯」(たむろ)が前提に成っていると考えています。)

この「屯」が成立した頃の「弥生信仰」は、未だ「氏族」の無い頃で、その頃の「民」の「心、思考、意思」に反して(「食」に原因する「宗教手段の占術」が主体)、離反した為に(100年周期の異常気象で食料不足)先ずは「民の信頼」を失います。(占術は当らなかった)
そして、結局はそこに新たに発祥したこの「5つの守護神」の台頭で、更に「民の信頼」を失い、その為に「5つの守護神」の根源の「自然神」の「鬼道信仰」に取って代わられたのです。
この「弥生信仰」が排除された事を考慮しても、「賜姓族」で「皇族」と云えど「屯」を前提とする以上は「異質の信仰」の中には本来は存在し得ないのです。
つまり、「民・氏族」=「宗教」(占術)=(「心、思考、意思」)=「屯」の数式論が成立しない環境の中以外には「賜姓族の配置」はあり得ないのです。

この現象期は、即ち、「弥生信仰の衰退期」は「7つの民族の融合過程」の中で起ったのです。
「7つの民族」が融合するには「上記する数式論の環境」のこの過程を経る事が必要であったのです。
その為には前段でも論じた様に、「3人の天皇の無意識の意思」はこの「過程」を読み取った上で、「皇祖神の子神の祖先神-神明社」に「最終の形」を導こうとしたのです。

そもそも、一つの国に「5つの守護神」の考え方が存在する事は「国乱」の元であり、その為には先ず、「初期段階」として、否定する事から入るのではなく、先ずは「5つの守護神」を認めて上で、その「5つの守護神」の頂上に「皇祖神」を定め、それを推し進めるべく役割として「子神」の「祖先神」を導いたのです。
そして、何時しか「皇祖神-祖先神-神明社」が「全体の守護神」に代わる事を期待したのです。
然し、当初は「弥生信仰」に変わる「鬼道信仰」がこの役割を荷っていたのですが、この「鬼道信仰」を「皇祖神」の基本に据える事で排除せずに存在させたのです。
その上で、「祖先神-神明社」に主体を置き換えて行ったのです。

(特記 「鬼道信仰の発祥地」北九州域には「神祇信仰」の「八幡信仰の原型」が生まれた)

然し、”主体を置き換えて行く” としても「鬼道信仰」を「皇祖神」に据えている限り、立場上「置き換え」は「天皇の権威」では成し得ず、且つ、命ずる事は出来ず、その「天皇」に代わり得る「氏族」にしなければ「他の守護神と民・氏族」は納得出来るものではあり得ません。
それが、前記する「主軸の天皇」に代わって「賜姓族」を「天皇の副軸」にしてこの役目を与えたのです。
この様に「副軸」は「賜姓族」に取って「必須の必要条件」であったのです。
特記すべきは、 この「副軸」を強くする為に「朝臣族や真人族」を「賜姓族の跡目」に入れて「純血性」を保持させ、同族で「芯」の周りを固めたのです。
この事が「重要な要素」なのであって、それを「純血」と云う手段で「主軸」に違わない「副軸」を構築したのです。
然し、「役目」と云えど「普通の役目」ではありません。その役目は「国の存続」「国の根幹」を成す役目なのです。この役目の失敗は「国の混乱と滅亡」に関わる事に成るのです。
この逃れ得ない「宿命の役目」を担った「賜姓族」であったのです。
この「宿命の役目」を担った「賜姓族」が「弱者の戦略」と「宗教」の上記の数式論の中で生き延びて行かねば成らないのです。
「祖先神-神明社」の「建立の責務」と共に生きて行かねば成らないのです。
それの「行動源」(エネルギー源)と成るのが「絶対禁じ手」の究極「商いの活動」と成るのですから、実に難しい生き方なのであって、まして「宿命の役目」=「賜姓族」=「祖先神-神明社」≠「商い」の矛盾点を持っているのです。(「賜姓族」≠「軍事力」)
果たして、「他の守護神と民」は「天皇の意思」であったとしても、この有り得ない「矛盾点」を許す事ができるでしょうか。普通であれば決して出来ない筈です。
つまり、「主軸-副軸としての象徴感」が消失するのです。ところが、あな不思議に、然し、許したのです。
「賜姓族」に合っては成らない「矛盾」を許したのは、”それは一体、何故なのでしょうか。”

「民の賛同と許容」
「賜姓族」が「祖先神-神明社」の務めを果す時、必ず行っていた事があります。
それは前段でも論じた様に、「皇祖神」の「天照大神」と「豊受大神」を分霊祭祀した事にあります。
「祖先神-神明社の建立祭祀」の中心にこの「2つの大神宮の分霊祭祀」を据えたのです。
決して「祖先神-神明社」だけの「単独の建立祭祀」では無かったのです。
恐らく、「単独の建立祭祀」では「民の賛同と許容」は得られなかった筈です。

(前段で論じた様に、「大神宮」24 「皇大神宮」17を「566社の核」として据えたのです。)

上記の懸念は、「486社の核」に据えたからと云って許される条件ではありえません。
「民・氏族の心」=「賜姓族の配置」=「3人の天皇の初期の意思」は、「天照大神」の「分霊祭祀」(17)で払拭されますが、中でもこの「民の賛同と許容」の「誘引の基」と成った問題は「豊受大神」を建立した事なのです。
それは、前段でも論じた様に、そもそも「豊受大神」(24)は「物造りの神」であります。
「物を造る」は、「物を造って得られる利得」に繋がります。
「物を造る事」に依ってそれを売り裁き、「生活の利得」即ち「食」を得るのです。
「物」を造って売り裁か無ければ造る事の意味は半減します。
「自給自足」でない限りは「物を造る」は「物を売る」を前提としています。
「物を売る」や「利得」は現代感覚では「金銭感覚」を想起しますが、決してそうでは無く金銭を主体とした「貨幣流通期」までの「平安末期」までは「物」=「食」を意味した社会であったのです。
「縄文時代の自給自足の社会」は既に通り過ぎて「弥生時代」も過ぎているのです。

既に、「後漢の民」(645前後頃)が職能を持ち込んだ時期から加速して「流通社会」が謳歌し始めたのです。つまり、「部制度の社会」が構築されていたのです。
この「部制度」とは前段でも論じた様に、「自由市場経済」の前段形式で、「職能集団の部」に依って生産された品は、一度、「税」として「朝廷」或いは「荘園主」に具納し、「税」の必要分を取り除いた上で、残りを市場に放出し物々交換を主体とした一部で換金する仕組みであり、間接的な市場経済であったのです。

「物を造る」=「売り裁く」=「商い」の循環が働くから「利得」(食:御饌 ”ミケ” と呼称されていた)が得られるのです。
「豊受大神の祭祀」=「物を造る→売り裁く→商いの循環]

以上の数式論が働きます。

ところが、この数式論だけでは未だ「民の許容と賛同」を獲得する事には成らないのです。
そもそも、この時代の社会感覚の「利得」は、「市場経済」と「貨幣経済」で無かった事から、全て「食の感覚」に通じて強く、その事を表す「御饌:ミケ」の言葉が「古代語」としてあったくらいなのです。
(民の神は「ミケの神」「食の神」が主体であった。)
現在では消えているが平安末期までは使われていて「万葉集」にも「感謝の意味」を含む「日常用語」として出てくるのです。
況や、当然に奈良期からはこの「御饌:ミケ」を祭祀する「古代神」があったのです。
そして、「豊受大神の発想」の根幹はこの「古代神」にあったのです。
それが「豊受大神」の「基神」と成ったのです。

「民・氏族」はこの上記の数式論の中に生活していたのです。だからと言って、”「賜姓族の商い」は認めない”はあり得ません。それは「皇族」に課せられた「戒律・慣習」の事であって、「賜姓族」とする限りは「公」に認める事は憚れる事であります。
それが、「民・氏族」が期待する「物造りの神」の「豊受大神」を祭祀する責務を果す為にあるとするならば、むしろ「民・氏族」に取っては「歓迎するべき行為」である筈です。
「民」にとっては ”「御饌:ミケ」を祭祀する「古代神」”の否定は不可能である筈です。

従って、結局は、”「揶揄」するのは、出来るのは「公家・摂関家」だけ”という事であります。
従って、その「揶揄」は何時までも続く事は無かったと考えられます。
何故ならば、北家筋で最も勢力と経済力を保持していたのは「秀郷一門」の方で、その「第2の宗家」である「特別賜姓族青木氏」が「皇族賜姓族」と共に「2足の草鞋策」を推進しているのです。
況して、その「牽引役」は「伊勢の特別賜姓族の青木氏」なのです。
そして、その「権威」は上記する様に「副軸」として位置付けられた「賜姓族」であって、その「副軸の賜姓族」に匹敵する全ての立場を与えられていた「特別賜姓族」なのです。
「揶揄する摂関家」を遥かに凌ぐ「皇族賜姓族」と同じ「官位、官職、身分、家柄、特権」を保持しているのです。況して、この「2つの青木氏」の「融合青木氏」も存在していたとすれば、これ程強いものはありません。
前段で論じた様に、平安末期の「後三条天皇の荘園制禁令」から「白河院政」まで摂関家は政治的にも経済的にも弱体化していたのですから、この「北家摂関家」と云えども何時までも「揶揄する事」は得策ではなく出来ない筈です。
その否定を含む「揶揄」を続ければ、何時かは「北家一族」を揶揄する事に成り、自らに唾を投げかけるに等しい事に成ります。秀郷一門との激しい軋轢が生まれる事は確実です。
「揶揄の意味」が「軋轢から来る損失」より大きくない事は誰でも判る筈で、「一族北家の摂関家」がそれを判らない筈はありません。それこそが追い落とした「南家、式家、京家」の二の舞に成ります。
この様に考察すると、結局は、「物造りの神」を信望し、利害の一致する「民・氏族」の「許容と賛同」と、「揶揄」を得策としなく成る「摂関家」は認める事に成る訳ですから、「賜姓族の商い」は「戒律・慣習」であったとしても、終局は認められた事に成ったのです。

(「2足の草鞋策」として「賜姓族」である事を伏せた上で妥協の「暗黙の了解」が働いたと観られます。
「織田信長」が「丸山城の戦い」で「松阪の紙屋長兵衛」が「伊勢青木氏」である事を知らなかったこの史実から、室町末期までは「暗黙の了解の秘密」であった事が判ります。「伊勢青木氏の記録」から、この後の「豊臣秀吉、蒲生氏郷、徳川家康」は知っていたのです。「丸山城」の時は「堺の店」から出没した。)

この様に、「賜姓族」の「祖先神」の「異質の宗教的要素」が働く中に於いてでも各地で認められ、「御師様、総師様、氏上様」と崇められ認められて行った事が何よりの証拠です。

当然に、この「宗教的な基盤」が「出来上がっている地域」よりも「無い地域」の方が別の意味で苦労は伴なうが適合している事は間違いありません。
だとすると、「既成の地」の「近江、伊勢、美濃」に「近い地域」で、且つ、戦略上の上記「5つの要素」に適合する地域と成れば、「未開」と云うリスクがあるにしても「中部未開の地の信濃と甲斐」の2国しかなくなる筈です。
むしろ、戦略上の「5つの要素」を叶えるのにはこの「未開リスク」を積極的に求めたのです。
況してや、「皇祖神の子神」としての「祖先神の神明社」は、「他の守護神」とは別格であり、「2つの青木氏」で「朝臣族と真人族」の守護神でありながらも、全ての「民の守護神」(「心の拠り所の天照大神」と「物造りの神の豊受大神」)としても位置付けられていたのですから、受け入れられる筈です。

そうなると、では、”「天照大神」は兎も角も「商い」に付いても「民・氏族の賛同」を獲得した「豊受大神」にはどの様な経緯があったのでしょうか。”気に成るところです。
実は「御饌:ミケ」を祭祀する「古代神」を引き継いだ「豊受大神」には次ぎの「由来」と云うか「経緯」と云うものがあるのです。

「豊受大神」の経緯
真偽の程は、神代に近い「伝説的要素」を「皇族の由来」付いては常に持っていますので、別にして、一説には、「止由気(トユケ)宮儀式帳」という「朝廷文書」があり、この中で ”「雄略天皇」の夢に現れた「天照大神」が、「豊受大神」を「御饌の神」としてそばに呼んでほしい」と告げ、そこで「雄略天皇」は、「丹波国(京都府)」から「豊受大神」を迎えて「伊勢の地」に祀った”とあります。
「夢の事」の真偽はさて置き、”何故「丹波国」なのか”という疑問があります。
その一説として考えられる事として、そもそも「豊受大神」は「天照大神の御饌の神」(ミケのカミ)として時期は別にして「伊勢」に祀られたのですが、朝廷はその由来を造り上げる為に、その「丹波国」には飛鳥の頃から「奈具社(ナグのヤシロ)」の様な「穀物の女神」(食の神)を祀る社が多かった事から、ここに由来として結びつけられたものと考えられます。
(他説には、「丹後国風土記」逸文にある「天女の話」等があり、「歴史資料説」として根拠とは成らない。)

地方で発祥した「地方神」の「民の神」の「奈具社の神」等と云うものがあって、その中の「自然神」として「民」の中で発展した「穀物の女神」(食の神)の「豊宇賀 能売神(トヨウカ ノメノ カミ)」とするものがありました。

(参考 豊:豊作を祝す 宇賀:自然を賀する 能売:物を能く売る 自然に賀して豊かに成り能く売却さしてくれる神。)

この「神名」が物語る様に、「古代の感覚」は ”この世の森羅万象の「全ての物」は自然から与えられるもの” ”つまり「農産物」や「加工品」にしろ「鉱物製品」にしろ、強いては「人の喜怒哀楽」も含めて、あらゆるものは「自然の神」から与えられるもの”とする「宗教概念」を主体としていたのです。 
この「古神」は、当時(奈良と飛鳥時代)の関西域の「民の信仰」を一心に集めた「古神」であったのです。
一説では、この「古神」が伊勢に迎えられて「豊受大神」として祀られる様に成ったと考えられるのです。
つまり、この「豊受大神の原像」は、「穀物の女神の豊宇賀能売神」の様な当時の「民の信仰体・主神」、 ”民の「農民信仰の食神」であった”と考えられます。
これを「伊勢」に迎え入れて「国」の公的なものにする為には、朝廷は「何らかの手だて」が必要です。
そこで「地方神」から「民の信仰」を伊勢に集め「天照大神」と共に祭祀し「全国神」にする事で成立します。そうなると、”迎え入れた”のでは無く、”伊勢にも造り上げた”が正しい事に成ります。
そもそも、神には厳格に「神格」と云うものがある為、「豊受大神」とする為には「民の地方神」の「豊宇賀能売神の迎え入れ」には「神格の差」「豊受」(トヨウケ)>「豊宇賀 能売」(トヨウカ ノメノ)が必ず起る筈で、”「丹波」にもあるのであれば名も類似させて「伊勢」にも造る”とした筈です。
”闇雲に創造した事では無かった”との理由付けの為に ”神代に近い「伝説的要素」を「皇族の由来」”として位置付けた「後付」であったと考えられます。
それが「天照大神」を祀る「伊勢信仰」の拡大と共に、「穀物の神」(食の神)から発展させて、”「食」に限らず「食」に通ずる全ての「物造り」の「物造りの神」(物造り総合神)としての「豊受大神」として確立させ、結果として「天照大神」の内宮に対して「神格式」を挙げて「外宮」としても広く祀られる様に様に成った。”と考えられます。

(特記 この頃、「阿多倍の職能集団」が到来し「在来民」は進んだ「職能」の享受を受け始め、「物造り」に目覚めたのです。食以外に生活を潤す糧、即ち、「物造り」がある事を知り、「食神」以外にも「物造りの神」をも創造し出したのです。)

その結果、「民の農民信仰の稲荷神」と並ぶ「国の大神」として発展させたとするのが、現在の「マニア通説」であり筆者の検証説にも成ります。

ところで問題なのは、この天皇豊受説には「時代性」が明確ではありません。その「時代性」、況や「豊受大神」の正確な時期が、上記した「賜姓族の宗教への合理的根拠の時期」(「賜姓族の民・氏族からの容認の頃に創始」とそれに伴なう「商いの暗黙の了解の取り付け期に確立」)であったと考えられます。
つまり、「物造りの神」とした「豊受大神」の伊勢併合時期は、”「3人の天皇期」に伊勢に祭祀を始め、「5人の天皇期」に確立させた頃”と成るのです。
そんなに古くは無く、「647年から655年ころの間に創始」と考えられます。
結局、この「後付問題」は、「3人の天皇」(持統天皇まで)までの業績を纏め上げた「歴史書」「日本書紀」編纂(720年完)を実行した「文武天皇期」前である事は間違いないと少なくとも考えられます。

「天智、天武、持統」の「在位期間中の業績」を整理整頓する際に、この「豊受大神の祭祀の由来」の根拠も「天照大神」(高千穂の峰)と同様に「神代の事」として「後付」で造り上げたと考えられます。
まさか、「賜姓族の宗教への合理的根拠」として「朝廷文書」の記録として遺せなかった筈です。然し、「日本書紀」(下記)にはそれと読み取れる事件を間接的に公の記録したのです。

(「日本書紀と青木氏」の論文参照 古代歴史書の六国史:日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三大実録)

「遷宮地85」の最終の「伊勢の地」の「正式な決定」は「大化の天智-天武天皇の時期」であり、「雄略天皇期」では決して無く、この時期は未だ「85地-90年」の「遷宮中の時期」であった筈です。
時期には「神代の伝説手法」が働いており矛盾が潜んでいるのです。
「朝廷の夢と雄略天皇の根拠説」が明らかに何時もの通りこれも「後付」である事が判ります。

では、”その時期は何時頃か”と云う事に成ります。
それが、上記の様に、「賜姓族」が「民・氏族の賛同」を獲得する必要性に迫られた頃からであると見られます。
「丹波」に発祥していた「民の信仰の神」(「豊宇賀能売神」:食の古神)を、「伊勢」にも「大神の全国神」(「豊受大神」)として創造した時期(大化期初期)と一致すると観られるのです。
そして、この事、即ち、「物造りの神」の豊受大神」に依って「民と氏族の許容と賛同」を取り付けた事であった筈で、この事が「宗教的課題の最大の問題」であったのです。
これがクリヤー出来た事からこそ、「3人の天皇の初期の意思」の「賜姓族」は進んだのです。
この事無しには「賜姓族の存在」と「皇祖神の子神で守護神の祖先神-神明社」の建立は有り得なかった筈です。
言い換えれば「2つの青木氏」の存在根拠は無かった事に成り、且つ、生まれていなかった事に成るのです。
「2つの青木氏の基点」は何処にあるのかと成れば ”此処にある”と云う事に成ります。

故に、実は「日本書紀」に、「信濃賜姓青木氏」と共に「信濃諏訪族の首魁」が破格の扱いで「施基皇子」等が列座する宮殿に於いて「天皇」に謁見し、更に「謁言」を許された事が詳細に書かれているのです。
(「日本書紀と青木氏」の研究論文参照)
その時、この「信濃の一豪族の首魁」(諏訪族)が、何と天皇に直接向かって、「未開の地の開拓の勲功」に免じて ”税をもう少し安くして欲しい”の旨を言上したのです。この時、「信濃賜姓青木氏」は共に「沿え言葉」を付加えた事が書かれています。天皇はこれを聞き入れた事が記載されています。
これは明らかに、上記の「賜姓族への配慮」が天皇にあった事を物語ります。
そもそも「天皇への謁見と謁言」は「正三位」以下は許されていません。「宮廷への昇殿」は正四位までとされていました。その事から観ると、「信濃賜姓族」は昇殿は許されたとしても「謁言」は出来ませんから、一地方の豪族の「信濃の首魁」の「謁見と謁言」は破格の扱いであった事が判り、更に、この「天皇の日常業務」の一つが「大きな出来事」として「日本書紀」に記載される事の事態が異例中の異例であったのです。
この事で「3人の天皇の初期の意思」の「賜姓族に対する配慮」は「政治の域」を既に越えていた事が判ります。
「日本書紀」への記載の意味は ”「民と氏族の許容と賛同」を取り付けた「宗教的課題の最大の問題」”の「賜姓族の歴史的苦労」を間接的に表現したと考えられます。
この事を成し遂げた「施基皇子」は天皇に継ぐ「最高位の勲功位」 「淨大正1位」を他の皇子連よりも数段上の誰も成し得ない勲功を受けたのです。
(故に、日本書紀にこの事が詳細に記載されているのです。「日本書紀と青木氏」参照)

この上記で論じて来た「5つの要素」の総合の結論は、「賜姓族態勢の構築」「3つの発祥源」「皇祖神の子神」「祖先神-神明社」「融合氏」等の前段で論じた様な「打つ手」と成ります。

そこで、上記に論じて来た「8人の天皇が推し進めて来た意思」の「賜姓族の根幹骨格」と成っている「純血血縁」がどの様な経緯を辿ったのかをもう少し検証する必要があります。

先ず、その前に「基本データ」をもう一度、観てから下記の(注意1~5)を先にお読みください。
本論の冒頭の「基本データ1」と「基本データ2」を参照して下さい。
基本データ1は「主要な初期の19守護地」(4世族王)(「神明社の初期建立地」)
基本データ2は「遷宮地」85の詳細の表

(注意1 [5家5流皇族賜姓地]
この・印の国府に存在した「5地域の守護王」が始祖と成り、「5代の男系天皇」が累代で賜姓し、臣下させて「第6位皇子」をこの地に配置し継承させた。つまり、この時(光仁天皇までの8人の天皇)の「賜姓臣下」は「5地域の守護王」と成る事を意味したのです。

その後もこの「5つの守護王の氏族」には「跡目」が欠けない様に「皇子の跡目」を入れたのです。
花山天皇までの累代天皇に「第6位皇子」が居ない場合は、特に平安期以降には「賜姓源氏」の「朝臣子」を跡目に入れて継承したのです。

(注意2 「三野」と「美濃」と「弥努」の”みの”は他の書籍等では混同している為に史実が歪んでいて間違っている。)
(注意3 「遷宮地」85では、主要地域は次ぎの5地域の「伊勢域」、「近江域」、「美濃域」、「飛鳥域」、「吉備域」と成っている。
(注意4 「賜姓地」5では、「伊勢域」、「近江域」、「美濃域」、「信濃域」、「甲斐域」の5地域と成っている。
(注意5 注意3と注意4を比較するとここには歴史的な異変のある大きな意味を持っています。)

「皇族と5家5流賜姓族との関係の検証」
(19守護王地の意味する処)

「5家5流皇族賜姓地]
この・印の「5地域の守護王」が先ず「始祖」と成り、そこに5代の男系天皇が慣例に基づき「第6位皇子」を「賜姓」し「臣下」させて「第6位皇子」をこの地に配置し継承させたのが始まりです。
これが「5家5流の皇族賜姓族」の始まりであります。
然し、この5地域には「国府域」とそれを護る「守護域」とで構成されていて、1つの守護地には2から3の守護の「朝臣族」を配置しているのです。
1国1守護王ではない構成と成っているのです。当然に、史実の内容から政庁を置いていた「国府域」を「主庁」とし「守護域」を「副庁」としていたのです。

(参考 ところがこれが後の700年以降にはこの「守護王」にその「行政代理官」を派遣した。その階級には「中央官吏の国司」には「守」、「守代」、「介」、掾(じょう)、「目」(さかん)、「地方官の郡司」には大領、少領、主政、主帳、そして「村司」に里長[郷長]、村主と変化した。唐の制度を模範に「国郡里制」から里は「郷里制」に変更し再びた「国郡郷制」に戻した。
「賜姓族地」の「5天領地」には上記した様に「賜姓族の国策遂行」の難しさからこの700年頃から770年頃に掛けてこの「代理行政官」を置いて「税等の一般行政」を強化し補完した。)

然し、「行政に依る安定」は図るにしても「賜姓族としての国策遂行」にはこれだけでは済まず、自らの「賜姓族としての足元の強化」も成し得なくては成りません。
前段の初段で論じた様に、大化期前の「朝臣族の配置」では朝廷が全てその裏打ちをしていたのです。
ところがその事が天皇家と朝廷の力を圧迫し弱体化させ、蘇我氏にそこを付入られた事から大化事件が起ったのです。そして、それを改革したのが「大化改新」であり、その目玉としての「賜姓-臣下」であって、その「賜姓族」には「大化改新」の「最大の改革」として「国家形成の国策の根幹部分」の「遂行責務」を背負わしたのです。
当然に、「大化改新の象徴」として民に誇示し宣言する為にも ”「自らの存立は自らの力で果す事」(野に放たれた野鳥の様に一人歩きの姿)”を課せたのですから逃避する事は不可能なのです。
「賜姓族と云う言葉」にはその様な意味を持っているのです。
「3人の天皇の初期の意思」として上記で論じた様な「5つの要素の基本的補完」の「税等の行政事業の基本的補完」等の「道筋」は示したものの、この「道筋」だけでは事は進まないのが「現世」であります。
先ず根幹と成る「行動」に移してこそ成し得るものであります。

それが次ぎの事であったのです。
特にこの「5天領地」の「第4世族内朝臣族の守護王」の「5家5流の皇族賜姓族」の地には、次の様な「跡目・養子・融合の血縁の歴史的な経緯」が起こっていたのです。

大化期の「守護王」として上記した様に「賜姓族」として「厳しい国策遂行」を背負わして配置したその後も、配置するだけでは国策遂行は成し得ず、先ずは「賜姓族・守護王」として永代に確固として自ら「氏族」を存続させねば成りません。
平安期初期までは「5家5流の皇族賜姓族」の「皇族系の跡目」が欠けない様に「皇子の跡目」(詳細下記)を入れました。然し、累代(天智天皇より平安期11代)の「男系天皇」(6代 女系5代)以降の平安期中期以降には、「第6位皇子」が居なかった場合には、「嵯峨期の詔勅」から始まった「賜姓源氏」(11代 嵯峨天皇から花山天皇)等の「各地」に定住する「朝臣族」を跡目に入れて継承したのです。
(7代も女系天皇が続き皇子数が激減したことも要因 嵯峨天皇はこの問題に着手した。)

この場合、”「跡目」が欠けた”と云う時のみならず、その後の系譜や添書等の資料から読み取ると、実は「嗣子」が存在しているにも関らず「真人族・朝臣族」を積極的に跡目に入れているのです。
ところがこの経緯の内容をよく検証すると、「伊勢」、「信濃」、「甲斐」、「近江」、「美濃」の全てに近隣に定住していた「第4世族の真人族」や累代の「第6位皇子」と「賜姓源氏」の「朝臣族」が「跡目相続」しているのです。そして、それには必ず上記する「真人族」が「跡目血縁」と云うよりは「跡目融合」の言葉が妥当な「融合血縁」をしているのです。
これは「融合氏の発祥源青木氏」である事を大きく物語っているのです。つまり、”「真人族が形成する氏」と「賜姓族が形成する氏」が同族血縁した”と云うよりは、”「真人族」のある者が「賜姓族」の跡目に直に入った”と云う表現が適切なのです。
つまり、この「5地域の賜姓族地」には上記の表の通り「真人族」と「第4世族内朝臣族」が「国府外」に居たにも関らずこの「朝臣族の氏族の末裔」が近隣に不思議に存在しない事なのです。
(室町期末期から江戸初期に掛けて下克上と戦乱で伸し上った所謂「未勘氏族」なる者が「末裔」であると名乗っているが極めて矛盾を孕んでいる。)
更に、上記の ”「嗣子」が存在しているにも関らず「真人族・朝臣族」を積極的に跡目に入れている事”と、この「2つの不思議な事」を考え合わせると、これはこの「5賜姓族」がこの地域の「真人族と朝臣族」を吸収した事(融合血縁)を意味します。
それが「平安期末期頃から鎌倉期頃の資料」ですが、「平安初期頃」まで行われていた可能性が高い事か論理的に読み取れます。
これは奈良期の「3人の天皇」か、或いは、後半の平安期前の「5人の天皇」の「初期の意思」であるとかとも考えられます。
実は、前段でも論じた様に、「平安遷都」や「京平氏賜姓」等を実行した「桓武天皇」を境に政治の態勢は急変します。「皇親政治」から「律令政治」に変革したのです。
「皇親政治」の「8人の天皇」の政治履歴を考察して分類して観ると、前半の大化改新「3人の天皇の政治改革」と後の「5人の天皇の政治改革」には違いがあり、概して「初期段階の政治改革断行」と「仕上げ段階の政治改革断行」に分類されます。
この傾向から観て、継続性は全体として存在するも、筆者は”「3人の天皇」の「初期の意思」であった”と考えているのです。恐らくは、この「桓武天皇」を境に「融合血縁」にも侭ならない程に大きな影響を与えたと考えられます。青木氏の「衰退の空白期間」のきっかけと成ったのだと観ているのです。
「桓武天皇」が「国策である賜姓」を皇族から実行せず、母方族(阿多倍一門のたいら族)を引き上げてその族に賜姓をしたのですから、到底に「賜姓族青木氏」は「融合血縁」を推し進める事は不可能です。

当然に「融合血縁」のみならず「国策遂行」も否定された事に成った訳ですから何も出来なかったと考えられます。
「150年で8人の天皇」が継続して推し進めてきた国策が途絶える事に成る訳ですから、天皇家や朝廷内はおろか為政者や公家等は「驚天動地」であった事が覗えます。
史実、朝廷内はこの事で二分し争いが起こります。桓武天皇と皇太子派と第2皇子派が対立して骨肉の争いが起ったのです。結局、この為に「桓武天皇」は譲位して皇太子の「平城天皇」が即位して収拾を図りますが、この「平城天皇」も悩み病気(うつ病)に成り2年で退位して、第2皇子の「嵯峨天皇」が即位せざるを得ず争いの態勢は収束に向かったのです。
この収束過程でも前天皇の「平城天皇」は依然として抵抗したのです。結局、「嵯峨天皇」も妥協して嵯峨期の詔勅と宣旨を発し、「賜姓青木氏」から「賜姓源氏」と変名し、その「賜姓源氏」には「国策遂行の責務」を外し、ただの「賜姓臣下の氏族」とします。
この時、「青木氏」は「真人族」と「第4世族内」に限らず「全ての朝臣族」が「還俗や下俗」する際に用いる氏名として使用を禁じます。
先ず全皇子の内8人が臣籍し、その後には17皇子と15皇女が臣籍降下させたのです。

「累聚三大格」と「弘仁5年八月八日付けの詔勅」にこの記録されていて、その令を下記の様に記載されているのです。
「嵯峨期の詔勅」
「男女梢や衆く、未だ子の道を識らず、還って人の父の為に、辱く封色を累ね、空しく府庫を費す。朕、懐に傷み、親の号を除き朝臣の姓を賜い、編して同籍と成し、公に従事し、出身の初め、一に六位に叙せんと思う」

要約すると、「天皇には皇子皇女が多かったためにいちいち親王家を立てる事に成ると人民の負担が多く成るので、皇子には(源)朝臣の姓を賜って臣籍に降下し、公務に従事させて、その身分を六位に叙した。」

これからも判る様に、「弘仁の詔勅(嵯峨期の詔勅)」では「5家5流の賜姓族青木氏」の「国策氏」「3つの発祥源」「象徴の賜姓族」「皇祖神の子神の祖先神-神明社」等の役目などの事は一切書かれていないのです。
書かれていないと云うよりは与えていないのです。与える事によって「5家5流の賜姓族」の様に力を持ち、「親政族」として再び「律令政治体制」を壊し「皇親政治」に陥るとする反対者側の意見に妥協して与えなかったのです。
ここにある「公務」とあるのは、「5家5流の賜姓族」と同じく「親衛隊の民部上尉」「宮殿の護衛団の指揮官」で「本来の官職」であったのです。然し現実には当然の様には与えられなかったのです。
それは何故かと云う事なのですが、文面にある様に「従六位下」だからです。
本来通りに直ぐに与えられるには、上記に記述した様に「皇族第4世族内の朝臣族」の場合は、最低でも「従四位下」でなくては成らないのです。
平安中期の「藤原秀郷流青木氏」は藤原北家一門の中でも1ランク上の上位を与えられたのですが、「皇族賜姓青木氏」の5家5流を特別に補佐する為に叙された「特別賜姓族青木氏」であるので「従五位下」が与えられています。つまり公家上位と同じ位です。
朝廷では五位を境に扱いは全く異なるのです。
ここでは経済的な負担軽減を前提として詔勅に明記している様に、それでも、”六位を与えられた事を善し”としなければ成らないのですが、当時の皇族の朝臣族の扱いからは低すぎる扱いであった事が判ります。これでは皇族外の昇格で朝臣族に任じられた氏と同じです。

(参考 奈良期と平安期の「八色の姓制」の「朝臣族」と、「天皇の臣」であったので「朝臣」と誇示している室町期後期や江戸初期の「勃興氏」とは異なるので注意)

「守護神と神明社-4」の冒頭の表(位田、職田、功田、賜田、俸禄)を参照しても「六位」はこの食封田にも掛からないのです。
この様にこの文面の一字一句を捕らえて考察すると、「平安期の慣習雑学」と比較すると多くの事が読み取れます。
更に続けて考察すると、当然にこうなれば「真人族」や他の「朝臣族」との「同族血縁」のみならず「純血による融合血縁」や「跡目血縁」すら不可能と成ります。
この文面では ”編して同籍と成す”とありますので、”特別に「同族血縁」や「純血血縁」等の慣習に縛らない。”要約すれば、”勝手にせよ”であります。
この様な血縁が不可能となれば到底に「国策遂行」や「祖先神の信望-神明社建立」さえも出来かねない立場に陥った事に成りますし、その経済的な裏打ちも当然に有り得ません。
まして、”公に従事し”とありますので、特に指定していませんし、”出身の初め”と繋いでいますので、特に初めから指定せずに ”自らの勤勉な努力に因って切り開け そして官職を得よ”と成ります。
「守護王」どころかその勤めさえも自らの努力次第で「国司」の「国守」も成り得ず、頑張ってもせいぜい「介」か「掾(じょう)」の官職しか与えられない事に成ります。
下手をすれば官職も与えられないか、能くしても「目(さかん)」の官職しか獲得できない事の意味を含めています。
(参考 清和源氏の始祖の経基王は努力の末に「介」に任じられた。昇官する為にかなり無理をして周囲と争いを起す)
史実から、「清和源氏 宗家」の当主「摂津源氏の源頼光」が「国司代」が最高位で「知行領主」に過ぎなく成ります。「自領や本領」は到底に覚束ない事を意味しています。
現実には例えば、「経基王」から発祥した「清和源氏」の場合、摂津と伊豆は本家筋の所領、河内が本家からの「分前部」(分封)として頼信に与えられた所領で、後の8つの地域は「本家頼光の知行地」であります。本家の努力次第で獲得しそれを本家の裁量で「分前部」(分封)としか与えられないのです。
(「分前部」(分封)は源平の平安末期頃から盛んに成った。)
現実に資料から、頼信は兄頼光から藤原道長の執り成しで河内と伊豆の一部を「分前部」(分封)として与える事を許されています。この両者の親の満仲(経基王の子)は、”これ等の扱い事を不満”として反発をして拗ねています。
こう成れば、清和源氏2代目の「満仲」が採った戦略は、朝廷から大きな非難を受け最後には阻害されましたが、結局は「武」に頼り「荘園制」を利用し、それをベースに各地に乱立する「武装土豪集団」を「賜姓の朝臣源氏」の旗の下に終結させて組織を構築して、その組織を使って他の土地を奪取して生き延びる以外には無い事に成ります。

(特記 組織化する為に源氏族に入る為の「名義貸し」をして引き付けた。その担保が「荘園制」から得られる税の利潤)

その結果、「天皇や朝廷」や、はたまた「民と氏族」からの受ける評価の宿命は決っています。
それは、「集結した武力集団」からは誉めそやされ、「奪い取られた土豪」たちからは「怨嗟の嵐」で、天皇や朝廷からは「国や地域」を乱した「氏族」となります。これは逃れ得ない負わねば成らない宿命です。

(参考 通説と云うよりは世間説では清和源氏の分家河内源氏は「武士の鏡」で「武神」で「源氏の棟梁」とも言われているが青木氏側とマニアから観れば、「賜姓族の朝臣族の逆臣」と観えるのです。現に源氏は11代もあるのです。源氏は皇族朝臣族であるので宗家方式で上下関係はないのです。まして清和源氏の分家河内源氏とされる位置に居たのです。清和源氏の宗家の本家とされるのは「宗家の四家」と呼ばれる頼光系の本当の清和源氏の棟梁が居たのです。「未勘氏族」が祭り上げた搾取誇張の呼称なのです。
青木氏と同じような生き方をした宗家頼光系と。武装組織を利用して争奪戦した分家頼信系との差で、目立った方に「上手く利用された呼称の棟梁」である。「賜姓源氏」とすれば正式には第初代「嵯峨源氏」が総宗本家と成る。本当の正規の棟梁である。この末裔は現存で別の財団運営で有名 そもそも賜姓のあるなしに関らず源氏は16代で賜姓源氏は11代賜姓族は青木氏ともで16代ある事の世間の知識は無い。「青木氏の戒言」の”世に晒す事無かれ”はこの事からも来ている。)

11代の「賜姓源氏」が発祥しても、この「詔勅」から飛び出て勢力を確保したのは、主に「清和源氏」(河内源氏)しかなかったのです。納得出来る結果です。それだけに「嵯峨期の詔勅」は厳しかった事を物語ります。
「軍事、政治」にはそれ程に厳しくは無かったにせよ「氏族」が生き延びるに絶対的に必要とする「経済力」が規制されていれば、河内源氏の様に、「経済力→軍事=武力」に向かうが必定です。
只、反面、「組織化と強奪」と「荘園制名義貸し」は「国情の安定」に混乱を招きますので「非難」を招く事も必定です。
他の源氏の様に適度の武力と低位の適度の政治力(荘園制と税)で穏やかに生き延びるもこれまた「非難」は免れますが、「生き延びる」には不安を伴ないます。
「11代の賜姓源氏」は、終局は「武」世界に2軍の将相立たずの喩えの通り、「河内源氏」に引きずられて滅亡しましたが、彼等にしても”2軍の将相立たずの喩え”を承知していた筈で、当初から「生き延びる」には不安と疑問を感じていた筈です。
これに対比して、上記前段で論じた「3つの発祥源の象徴の立場」と「国策遂行」と「祖先神-神明社建立」等を背負わされた「第4世族内朝臣族の5家5流賜姓族」が、如何に大変であって「嵯峨期の詔勅賜姓族」の比で無い事が判ります。
「禁じ手の商い」に走って「皇族方の謗り」を受けるか、国情を乱して「武」に走って「民・氏族の非難」を受けるかは、この「2種の賜姓族」(敢えて余りに異なる賜姓である為に表現)の上記した置かれている厳しさの「立場の差」から必然的に決まっていたのです。
最早、「2種の賜姓族」(大化期と嵯峨期の2賜姓族)には既定の逃れ得ない「完全な宿命」であったのです。

この「典型的な生き様」を呈した例が「河内源氏」の源頼信の孫の「義家」であります。「義家の生涯の生き様」を「天皇や朝廷」からは「私闘」のレッテルを貼られてしまって、武家集団や未勘氏族等には”「武家の頭領」”(棟梁ではない)と持て囃されながらも、失意と喪失の内に没したのです。
”「武家の(棟梁)・頭領」”と持て囃されても、「総宗本家四家の清和源氏」が現存する本家を中心とする「氏家制度」の中では、分家義家に取っては実に空しい事であります。
そして、まして、その「総宗本家四家の清和源氏」は「5家5流の賜姓族」の中に穏やかに生き続けていると成れば「義家の失意と喪失」は図り得ないもので同情の極みと成ります。
これが「後世の武士」に同情を引き付けた所以謂れであります。

(特記 義家の私闘)
この様な事情を承知する当時の為政者から「義家の私闘」と何故決め付けられたのか疑問が浮かびます。
そもそも「私闘」とは、「私闘」の言葉が発する限り、その逆の「公の闘い」(公闘)があるから、それを基準に評価されてその差の悪さを非難されるのが常道の筈です。
天皇が何も感情的に成って「私闘」と世間に発表する事は「国の長」である限り先ずあり得ません。
天皇の裁断には周囲には分厚い摂関家があって協議しているのですから、「私闘」とする以上は当然にこの「私闘」に比する「公闘」に成るものが当時の環境の中に厳然として存在した筈です。

この「私闘」とした根拠は、そもそも上記の「河内源氏の義家」の ”「組織化と強奪」と「荘園制名義貸し」は、「国情の安定」に混乱を招く事”ですから、これに対する「公闘」は、「2種の賜姓族」「2つの立場の差」にあった「2つの青木氏」が採った行動と云う事に成ります。身分家柄が違えば其れなりに「公闘」と扱えぬ事も起こります。そうではない同等の逆の「公闘」が存在したからこそ「公闘」が成立したのです。
この「賜姓族の行動」に対して、全く反対の「5家5流の賜姓族」は荘園所為に因って敗退し離散する土豪を経済的に救い組織化して仕事を与え、「賜姓族の国策遂行」に従事させて「シンジケート」として確立させて安定化させたのです。
この様に全く正道な「真逆の行動」を採ったのですから、誰が見てもこれは「公闘」であり、それも「義家が犯した私闘の尻拭い」です。
この「公闘」が厳然と存在すれば「為政者」は、「義家」に対してどんな同情的な理由があろうと、「私闘」と断じる以外に無く、そうでなければ、「政治的な矛盾」が生じさせ「為政者の立場」は無くなる筈です。

そもそも「政治の語意」とは、その言葉の意の通り「正しい方に至らしめる」が源語です。
如何なる理由があろうと「私闘」を容認すれば「政治」は「民の信頼」を失い成り立ちません。
「義家の私闘」を「公闘」とする、又は不問とするかによって、「嵯峨期の詔勅」時の「賜姓のリスクの談合」があって、それを「国策」として遂行した「2つの青木氏の行動」を逆に否定する事にも成り、「向後の政治の信頼」を失い兼ねません。
「影の力」として働く「2つの賜姓青木氏」の「やる気」をも喪失させて「私闘」を容認させて仕舞います。
「容認」の其処に見えるのは「私闘の阿修羅の世界」と義家の朝廷をも犯しかねない「勢力増長の世界」です。
現に、「蘇我氏の例」に見える通りで、為政者はこの事を知らない訳はありません。
同じ「賜姓族の立場」にいた者が「2種の賜姓族」「2つの立場の差」を世間に知らしめてしまえば、何時か私闘側は死滅させられる筈です。
この誰でもが判る条理を「河内源氏側」が何故理解しなかったのかであります。
当然、知っていて「武装組織化」したのですから、”朝廷を牛耳る事も有り得る”と猜疑が働く事も又必然であります。朝廷の本音は各地に「散在する武装の土豪」の状態であった方が好ましい政治状況でありこれが組織化すればする程に朝廷の為政は武力を前面に押し出し云う事を聞かなく成りますので困難を極める事に成ります。ところが土豪が散在している方が揉め事は起るかも知れないけれど朝廷を脅かす程には無い事からリスクはあるにしても都合が良いのです。云う事が聞かなければ潰せば良いという事に成ります。しかし、集団化や組織化は一見整理するという点では理想的ですが一度間違えばそのリスクが大きすぎるのです。それはその「集団の長の資質」に関わるのです。況して義家は朝臣族なのです。朝廷に執って代わることも有り得るのです。
(大化期からの「2つの青木氏」はこの事は十分に承知であり、しかしこの方向に走らなかったのです。走ろうとすれば上記の条件を持ち得ているのですから、義家の段ではありません。「国策氏」として邁進する「賜姓族」であったからこそ「累代の天皇」と「朝廷」と「民と氏族」は青木氏を信頼し容認したのです。
「義家の私闘」はこの経緯で断じられたのです。

現に「他の源氏」と「摂津源氏」はこの間違いを犯さなかったのです。この様に「相対の位置」に居た「2つの青木氏」の「歴史的な経緯」から断じると見えないものも観えて来ます。
前段で論じた様に、「源平の戦いや陸奥の私闘」は、「2つの源平の賜姓族」でありながら何れもよく似た「2種の賜姓族」「2つの立場の差」を持った「生き様」を示した事により、「共に相倒れる」の「私闘の運命」を背負って仕舞ったのです。逃れきれない宿命とでも云う以外にはありません。更に云えば満仲頼信義家の持って生まれた「長としての資質」にあったと云えます。
「青木氏家訓10訓」がこの事を物語っているのです。

特記から話を戻します。では、「他の賜姓源氏」はこの詔勅を受けてどの様にしたかと云えば、上記した様に皇族朝臣族の「純血血縁」や「同族血縁」等の非一般的な厳しい慣習に縛られ、自然消滅するか、「5家5流賜姓族」に融合するか、低位の地方官吏族で小さく穏やかに生き延びるか、比叡山に逃げ出すかの「4つの選択」以外にはありません。
結局は、この「4つの選択」の「生き様」で大化期賜姓族の「5家5流青木氏」「近江源氏」と、嵯峨期詔勅の賜姓族の「嵯峨源氏」、「村上源氏」、「宇多源氏」、「清和源氏」が何とか氏族として単独で生き残ったのであります。
「清和源氏」の宗家の「摂津源氏」は国司代の官職を経て発展し最後には氏族を換えて「5家5流賜姓族に融合」し現存し、各地に分散した「河内源氏」は頼朝後事如く滅亡し、「宇多源氏」は伊勢青木氏と同じ古代朝臣族で賜姓族の「佐々木氏」に融合し現存し、「村上源氏」は伊勢の北畠氏に融合し織田信長に調略されて滅亡し、「嵯峨源氏」は「5家5流賜姓族」と同族血縁して遺し、宗家は「始祖の意思」の「嵯峨天皇の詔勅」を守り室町中期までは穏やかに生き延びる事が出来たのです。

この「嵯峨期の詔勅」の一節等を見ても、同じ「第4世族内の朝臣族の賜姓族」であったとしても、「4史略」や「日本世記」等に書かれている「5家5流の賜姓族」との扱いは雲泥の差であります。

当然に、「親衛隊の民部上尉」「宮殿の護衛団の左衛門佐の指揮官」等は本来であればこの立場にあるのですが、現実には「摂津源氏」の「本家源頼光」 「分家源頼信の河内源氏」の「源義朝」等がやっと成り得たのです。然し、直ぐには任命がされなかったのです。
「嵯峨天皇」は同じ「賜姓族」でも、最早、源氏の場合は抗争相手に妥協して「親政族」から外していますし、むしろ、”辱く封色を累ね、空しく府庫を費す”とある様に「経済的な負担」を理由に臣下させる事が目的と成っています。
ところが、此処で嵯峨天皇は「政治的矛盾」をこの時犯しているのです。
この「嵯峨期の詔勅」では ”「経済的な負担」を理由”にしていながら、”「皇位継承者」が少なく成った事を理由に”皇子の王位を大化期前の第6世族に戻しているのです。
大化期からの8人の天皇には余りに厳しい改革を実行した為に女系天皇が5人も譲位し、桓武天皇の直前の「光仁天皇」は第4世族内の皇位継承外の第6位皇子の施基皇子の嫡子であり「第5世族の朝臣族」で「真人族」ではなかったのでした。特例例外天皇であったのです。
この事を憂いた「嵯峨天皇」は「天智天皇」の「大化期詔勅」の変更を余儀なくされ、元に戻す宣旨を発します。
この事に依って王数を増やしました。王数を増やせば、”辱く封色を累ね、空しく府庫を費す”事に成ります。”一方で増やし、他方で減らす”と云う手品師の様な「詔勅と宣旨」を発しているのです。
これでは「朝臣族の詔勅の賜姓族」は、王数が増えて競争相手が増え、王数が増えて「経済的な封食」は低下し、「分封の可能性」は無くなります。

事程左様に、この「詔勅」の扱いは厳しい為に「賜姓」を「朝臣族」は期待しなく成り、遂には、「朝臣族」から「宿禰族」に格下げして賜姓する様に成ったのです。
結局、この賜姓は「清和源氏の頃」がピークで上記した人数の「朝臣族」は比叡山の僧侶に成る者が殆どと成ったのです。
(上記する「悲哀の義家の生き様」から「5家5流賜姓族」に融合する事に漏れた殆どの「皇子」は「世捨て人」を選んだのです。)

然し、第4世族外の「ひら族」と成った者の中で「宿禰」の身分家柄を獲得しました。
その「宿禰族」に賜姓した特例として、朝臣族の「美努王」(敏達天皇5世の孫 第7世)の妻の「県犬養三千代」が和銅元年(708年)に「橘宿禰」の姓の賜姓を受けたのに始まりますが、天平8年(738年)にこの母方の姓を子供の「葛城王」と「佐為王」はこの橘氏を継承したのです。
(「葛城王」は「橘諸兄」として左大臣に昇格)
第4世族ではなく第7世族、本来王身分ではなく直系王孫ではない王、例外の女性の妻が賜姓を受け、「賜田」の既定外で、父系継承ではなく、論功のない者の賜姓で、「蔭位の制」に該当せず、「恩田の5制」を受けず、等の例外賜姓であったのです。
これを契機に80年前後の「たいら族」の賜姓があり、「嵯峨期の詔勅」では、最早、形骸化して左大臣等を初めとする官職を獲得する等の昇格手段としての「身分確保の賜姓」に成って行ったのです。

(特記 何とか「3人の天皇の初期の意思の賜姓」を維持したのは「8人の天皇」の最後の光仁天皇までである。嵯峨天皇が元に戻そうとして厳しい詔勅を発するが、流れは変えられず逆に違う方に変質してしまったのです。 結局、賜姓のシステムや目的をきっぱりと換えて再び「特別賜姓族」として「青木氏」に戻し、「5家5流賜姓族」の「全ての資格、身分、官職」などの条件を与えた上で「5家5流賜姓族」を「補完する義務」を付与して、藤原秀郷一門に与えて完全に戻そうとしたのが「円融天皇」であったのです。
そして「3つの発祥源」である「5家5流賜姓族」との「融合青木氏の発祥」に誘導して「国策氏」に戻したのです。尚且つ、衰退していた「5家5流賜姓族」を復興させたのです。
これだけの事を変革して政治的に導くのは、朝廷の中では「形骸化の流れ」もありそれを留めて流れの方向を清正流に戻すのは「至難の業」であった筈です。「嵯峨天皇」と「円融天皇」は賜姓では功績を上げたのです。)

賜姓源氏は「国策」などの遂行する「朝臣族」では到底無く成って仕舞っていたのです。
遂には「第6世族」までを王位として戻したものが、「第7世族」も王位を勝手に名乗る等の形骸化が起り始めていたのです。

(特記 この時期の王位には2つあって、嵯峨期の宣旨の正式な王位と、”宿禰族の末裔だ”と誇示して王を勝手に呼称している者が増え始め、全体に「賜姓」そのものが形骸化し変質したのです。この「橘氏」は上記の経緯(身分確保)で急に伸し上った事も、後に「嵯峨期の賜姓族」もあった事もあり結局、血縁も拡がらず、勢力抗争の末に後に藤原氏北家に潰されます。丸なしの「橘紋」 丸付き紋は未勘氏族)

(注意 以上の此処までの事は、前段でも充分に論じましたが、改めてより詳細に嵯峨期以降の「賜姓族の違い」を浮き彫りにさせる為に重複して論じました。)

つまり、この様に、「第4世族内朝臣族の5家5流賜姓族」が、「嵯峨期以降の朝臣族の賜姓族」とが如何に違うかが判りますが、この事を考えると、「賜姓族への融合血縁」の意味が、単純に ”融合血縁した”と云うよりは ”重要な国策であった”事が検証を進めると判って来ます。
前段で論じた様に、此処にその根拠があり、真にこれが「融合氏青木氏」なのです。
そして、これが上記の「注意5」の違いの差の原因に成っていたのです。

平安期の初期までは、「天智天皇」の上記の「5つの国府」に配置した「守護王」を始祖として、これを始めとして、この「5つの国府地」外の守護王(6王)も「融合血縁」を行います。(1国に2人か3人の守護王を半国司として置いた。)
更には「天武、文武、聖武、光仁の5天皇」等が「第6位皇子」をこの守護王の跡目に入れています。
その後、平安期の嵯峨期からの「賜姓源氏11代」からもこの守護王の「5家5流の賜姓族」に跡目を入れました。特にその中でも、「清和源氏」の「摂津源氏の宗家四家」が徹底した「融合血縁」を「5つの守護地」の「賜姓族」に行ったのです。
ところがこの「源氏11代」をよく調べてみると、この「源氏11代」には、何と「賜姓源氏」と「無賜姓源氏」とがあるのです。
実は、この「無賜姓源氏」の場合の多くは「横滑りに跡目」だけに限らず、この上記の「5家5流の婿養子や貰養子」になる事が多かったのです。生まれた「本系の系譜」には出てこず、「養子先の系譜」に子孫として出てくるのです。これは平安期の「皇族朝臣族の血縁慣習」から来ているのです。
「賜姓族」に入った「跡目養子」ではなく、「貰養子」や「婿養子」の場合は「本系の系譜」から消えて「養子先の系譜」に残こす慣習があったのです。
この慣習の意味する処は、「賜姓族」が第4世族内の朝臣族の中でも上位である事を意味します。
「上位の朝臣族賜姓族」である以上「下位の朝臣族」の系譜に存在させる事は「上位の朝臣族賜姓族」の方には立場が立ちません。
「下位から上位」と「上位から下位」とでは「系譜の扱い」が異なるのです。特にこれは「同族血縁」を主体とし、尚且つ、「純血性」を保持する皇族の慣習の中では他の「朝臣族」の子孫は殆ど他人ではなく「身内の子供」同然でもあるのです。
従って、系譜を上位に移す事の抵抗はないのです。故に、「同族純血慣習の朝臣族間」で付ける差は「賜姓族と云う上位の立場」と、「皇族賜姓族16流16家」の中でも「5家5流の賜姓族」は「国策氏」で、尚且つ「国策遂行の役目と責務」を持つ「3つの発祥源」の「賜姓族」である事、奈良期からの「真人族の融合血縁」も組み込まれている訳である事の「3つの差」から「系譜上の扱い」を変えている慣習があったのです。

(参考 この慣習は少なくとも皇族外を含む全朝臣族から伊勢と信濃の青木氏の記録資料から読み取れる範囲として江戸中期頃までは少なくとも存在していた模様で、口伝に依れば明治末期頃までその族環境の範囲では存在していたと観られます。特に目立つのは菩提寺等での扱いも異なっていた。)

逆に云えば、「系譜や添書の内容の変化」は「5家5流の賜姓族」の上記の事柄が引き出されるのです。前段で論じた様に、例えば「伊勢青木氏」の「源頼政の孫の京綱」が系譜上に入るのはこの慣習から来ているのです。
(清和源氏宗家の四家の本家の源の頼政系譜には出て来ません。然し、頼政の子供仲綱の子供としては出来ます。)
従って、「蔭位の制(有品の制)」に基づき「無又は有位の資格」のこの「朝臣族の2つの養子」の場合には、原則として実家先系譜上から消えている事が多いのです。
その様な「朝臣族の2つの養子」の場合は系譜を養子先に移す仕来り慣習であったのです。
ところが「賜姓源氏」の場合は「跡目養子」を主体としていたので系譜から消える事はありません。
「単なる養子」か「跡目養子」かの決定は、「氏の継承の有無」に関っています。
「単なる養子」の場合は、特にこの奈良期から平安期の養子は主に「成人」に成る前の「幼児」の頃からの場合が多くあり、然し、必ずしもこの「養子」が「嫡子」に成ると云う前提ではありませんでした。
それは前段で論じた様に、「4段階の夫人制度」の中でのその順位に沿って「同族血縁の仕来り」で純血を保つ為に「養子縁組」が行われたのです。
上位の夫人から嗣子に成る子供が生まれなかった場合に備えての「同族の養子縁組」が行われる事が主流であったのです。
上位の本流から正常な男子(嫡子・嗣子)が生まれると養子の身で終わる場合が多かったのです。
但し、それは「単なる養子」の場合には主に上記の純血を護る為の「同族血縁の弊害対策」でもあったのです。この「単なる養子」も親族関係からの養子ですが、同族血縁による「弊害子」(亜子)で無い事が幼児の頃から判別が出来る訳ですから、子供の多い親族から引き取る事に成るのです。
この「同族血縁の弊害対策」は「朝臣族」の氏全体で頻繁に相互に行われた慣習なのです。
そうでなかった場合には、「真人族や朝臣族」の嗣子は「比叡山」や「門跡院」や「菩提寺」の「僧侶」や神明社系5社の「神職」として預けて身を立てられる様にする慣習がありました。
娘の場合の多くは「同族血縁」として嫁入りするのが普通で、中には「神明系5社」の斎王として生きる慣習も存在しました。
「跡目養子」は明らかに本人のこの「弊害の有無の確認」が出来ての「跡目」である事から両方の系譜に載る事に成るのです。
「跡目養子」は当然に「当主」に成る事を前提ですが「跡目養子」の形で一旦入り、一定期間後に「正式跡目」と成ると云う事もあったのです。
従って、「養子」には「跡目養子」と「婿養子」と「貰子養子」の慣習が「賜姓朝臣族」には敷かれていたのです。
「跡目養子」の場合は、娘が居る場合と外から嫁を取る場合の2つの方法がありますが、主流は「娘の婿養子」の形が多かったのです。娘の無い場合は「跡目養子」の「嫁取り」には原則として「4段階の夫人制度」により他氏の血を入れる為に「嬪」(みめ)として族外から取る事が多かったのですが、上位の二階級(夫人や妃)は縁者(3親等外遠縁)から娘を「養女」に迎えて「跡目養子」を取る事も起こったのです。
この時は、「縁者の養女」は「純血性」をあくまでも主体としていた為に「第3親等」から「第4世族」までの娘を迎えた事に成っています。
「純血性の高い血縁」としては「第3親等」(従兄妹同士の血縁)であって、この平安期までは「従兄妹血縁」は慣習範囲の常識で問題は無かったのです。
(現在に於いても法的には認められているが弊害も確立的に起る事が解っている)
この場合は「跡目養子」や「婿養子」と云っても平安期までの「賜姓朝臣族」の中では「同族血縁」が主流で、殆どであるので必ずしも「跡目」とか「婿」「貰子」とか云う概念は低く当り前の「氏存続の慣習行為」であったのです。
「跡目養子」と「婿養子」と「貰子養子」と「4階級の夫人制度の子供」に依って先ず多くの「嗣子」を作り出し、その中から「氏」の「家」を継ぐ「嫡子」を決める慣習であったのです。
「より優秀な嗣子と嫡子」を選択し、且つ、「純血性の弊害除去」から考え出された「朝臣族の賜姓族」の慣習であったのです。当然に、この慣習の強さは「宗家、本家、分家、分流、分派」の枝葉順位によって異なっていたのです。

(特記 分家、分流、分派の慣習の本格化は、源平が実権を握った頃に勢力を広げた地域を守る為に嫡子外を「分封」して地方に移して護らせた事から「分家等」が盛んに作られた。又、「荘園制での名義貸し」で荘園に配置された事から、「分封」と「分家」と「地名から採る苗字(名字)」の慣習は、同じ時期の慣習で始まった。「大日本史」に例 )

ですから、「4階級の夫人制度」の直系孫であったとしても、元々「親」自体が「跡目養子」と「婿養子」と「貰子養子」かである事が多く、必ずしも「嫡子」に成れると云う事ではなかったのです。
この「4つの継承システム」は「純血性の高い同族の者」である事から”母が異なる子供”程度の感覚で、要するに、”兄弟感覚 ”の中にあったのです。
ただ、異なる事は其処には順位による「身分の差」だけであったのです。
「縁者の養女」と「縁者の嫁取り」と「縁者への嫁入り」の「3つの縁者血縁制度」に於いても同じ目的で行われ、「跡目養子」と「婿養子」と「貰子養子」と「4階級の夫人制度の子供」の「4つの継承システム」と合せて「強い純血性を保持」し、「より優秀な嗣子と嫡子」を作り出して「より強力な賜姓族」を構築し強化していたのです。

そもそも「跡目養子」や「婿養子」の「養子」の場合は、前段で論じた様に平安期の48氏程度から鎌倉期の200氏程度に「氏」が一度に増加した時期からの「社会概念」であって、それは鎌倉期末期からの「概念の進化」であったのです。この2つの「養子の慣習」は「氏」を増加させ、下克上と戦乱で伸し上った「高級武士」が「武家」の呼称を獲得し始めてからの「武士の慣習」へと変化して行ったのです。

(特記 上記の「荘園制」と「勢力拡大」により「氏家制度」の中で発展した「分家制」で子孫が各地に移動して所領を護ろうとして移動し新たに氏族を造った結果で増加した。後に室町期には「下克上と戦乱」での「勃興氏」と「職能集団の姓氏」の発祥でも「氏族」と「姓族」は増加した。)

当然の様にこの「養子の慣習」が武家社会の中に定着して行ったのは室町期末期からで最終は江戸期初期の事であったのです。これも前段で論じた様に「氏の拡大」と「武家の社会の確立」からの「社会慣習の変化で」あったのです。
この時には既に「朝臣族」と「賜姓族」と「公家に対する武家」の「慣習概念」は皇族の特定の一部の社会環境の中にのみ無く成っていたのです。
一部「伊勢」と「信濃」の賜姓族に対する幕府の認識の中にしか存在しない社会と成っていたのです。
一般庶民の中では「伊勢」と「信濃」の特定地域の中に、「氏上様、御師、総師」として親しみを込めた尊敬の呼称として慣習に成っていたのです。
それまでは「純血性」を優先する「朝臣族の賜姓族」の慣習の中では「跡目融合」と云う血縁形態ではあったのです。
この様に、その「氏の跡目」は分家、分流、分派、支流、母方縁者から取るので、「同族血縁」の為に殆ど息子、嫡子、嗣子は同然の扱いの概念に近い状況にあって、今の現在の概念とは異なるものであったのです。
「養子」にしてもこの上記の範囲から幼児や子供の頃から迎えて育てると云う嫡子同然のものであり、結局は養子に成るか成らないかはその母の順位に大きく左右される事に依って決っていたのです。
当然に養子先に於いても朝臣族である限りは、「4段階の身分夫人制度」が存在して其処の家にも子供が生まれ同じ嗣子の現象が起こっている訳ですから、「養子」が直ぐに「嫡子」と云う事には成らないのです。

そもそも、男系の嫡子が嫡男、又は長男とした慣習は江戸初期からで、それまでは、武家の中でも朝臣族の氏では嗣子の中からより優れた者を嫡子にすると云う慣習が強く存在したのです。
それは「家」と云う小単位の範囲ではなく「氏」と云うより大きい単位の中での範囲の概念の慣習であって、従って、「氏」をより強固なものにする為に相互に氏内の家の嫡子を「跡目養子」や「婿養子」や「貰養子」等の方法で配置して固めようとした慣習であったのです。
当然に「朝臣族」は他の氏と異なり「純血性」を保つ為に長い「同族血縁の慣習」を引き継いで来た為にもその欠点も補え、且つ欠点を避ける手段として当り前の事であったのです。
ここが他氏から観ると、「奇異な慣習」であったと観られていた筈です。
この「2つの目的」(「氏内の優秀な嫡子の配置」と「純血性保持の欠点退避行為」)の為に生活はこの一点に左右されていたのです。
これが「八色の姓制度」に裏打ちされた「氏家制度」の慣習の代表的な営みであったのです。
取分け「3つの発祥源」の立場に置かれていた「第4世族内の朝臣族の賜姓族」(5家5流賜姓族)に取っては、この「純血性同族血縁」の血縁は最大の目的であったのです。
そうしなければ一門を率いて「神明社の建立維持管理」などの「重要な国策の責務」を果す事等は不可能であった筈です。

(参考 筆者は、その意味で「青木家 家訓10訓」がこれを遂行するマニアルとして存在していた、と考えているのです。)

従って、「第4世族内の朝臣族の賜姓族」(5家5流賜姓族)を論じる場合は避けて通れない論点であって、この慣習事を前提に本論を論じることに成ります。
そうすると、上記の「主要な初期の19守護地」と「遷宮地」の「2つの表」からある事が読み取れるのです。

当然に、そうなれば、「朝臣族」間の慣習のみならず、「真人族」との慣習もあった筈です。
「真人族」と「朝臣族」はその皇子の順位が4位と6位の差のみであり、「賜姓族」に成ったか成らなかったの差でしかないのですから、上記する「血縁慣習」だけではなく「融合血縁」も当然にあった筈なのです。
何故ならば「真人族」は「子孫存続」に対しては”「自らの力が卑弱」であった”のですから、その本能として何らかの存続策が考えられ慣習事としてあった筈です。
当然に、「卑弱」とすれば必然的に強くなった「朝臣族の賜姓族」にその「血縁融合」の矛先を向ける筈です。その方法としては「真似る」か「融合するか」に掛かります。
「真似る事」はその「生き様の前提」が相当であれば可能です。しかし「卑弱」であるのですから、融合以外には論理的にも有り得ません。
枝葉を広げる「通常血縁」をしょうとしても「皇族の慣習」(純血血縁と同族血縁)に縛られ、最上位の身分とも成れば下位に「枝葉の跡目血縁」をする事は不可能であります。それは「自らの氏の終焉」を意味します。
そうなると、残されるは「第4世族内の朝臣族の賜姓族」(5家5流賜姓族)であり、「真人族」から観れば、「朝臣族の賜姓族」では下位であったとしても、元より「純血融合」を繰り返してきた「5家5流賜姓族」で、その「身分、家柄、官位」等は天皇に継ぐ2段階上の永代位を持っているのです。
(伊勢と近江の賜姓族は淨大1位 真人族の皇太子は淨高2位)
累代の「単体の未融合の真人族」からすれば、既に「真人族と朝臣族の融合複合体賜姓族」なのですから、この「5家5流賜姓族」は実質は上位に見えているのです。
況してや、「8人の天皇の初期の意思」を実行する「国策氏」であり「民と氏族に賛同・容認された氏」であり、全ての「臣下族の象徴」の「3つの発祥源」でもあるのです。
その力は「武」に頼らない生臭味の無い「賜姓氏族」であり、第1期の「皇親政治」を司る程の「影の力」を持った「氏族」の「賜姓青木氏」なのです。
累代の「真人族」は躊躇無く「融合血縁」に臨む筈です。生き延びる為にはこの「融合血縁」しかなかった事が云えます。
平安期に入り「5家5流賜姓族」には衰退期があったとしても、「融合血縁の真人族」にとっては「天皇家」が続く限りは厳然として存在して行くのですから、真人族の生き延び先は変わらないのです。
それは「5家5流賜姓族」なのです。

前記した「嵯峨期の詔勅」から観ても、この「融合先の5家5流賜姓族」の扱いに付いては触れていないのです。
それだけでは無くて、全ての向後を含めた「真人族」と「朝臣族」の「下俗」「還俗」の「氏名」として他に永代に使用を禁じたのです。
この意味する処は、先ずは現存する「5家5流賜姓族」を容認し、その上で過去の「融合慣習」を認めている事に成ります。
つまり、暗に「全真人族と全朝臣族」に対して「嵯峨期詔勅の賜姓」や「比叡山入山 僧化」以外にも「5家5流賜姓族」への「積極的な融合」を「副軸強化策」として促しているのです。

「嵯峨天皇」は、「桓武天皇」と抗争する程に、「嵯峨期詔勅の賜姓」と「5家5流賜姓族への融合」の「二本立て策」を実行したのです。
これには、「嵯峨天皇」が詔勅で「5家5流賜姓族の存在」を否定しなかった事は、永代の「不入不倫の権」の容認と、前段で論じた「退避保護地の容認」と、「3つの発祥源」「国策氏」「皇祖神の子神の祖先神」の「容認と継続」を宣言した事にも成ります。
何はともあれ「5家5流の賜姓地」から全く追い出してはいないのです。
「詔勅の文脈」から判断すれば、賜姓臣下させる前に先ずは「5家5流賜姓族」を廃絶するか何らかの手を打つのが「政治の策」で常道です。
況して「宣旨」ではなく「詔勅」なのです。「命令書」ではなく「宣言書」なのです。
これは明らかに暗にして「容認の宣言」の何ものでも有りません。
「桓武天皇の律令政治」には「皇親政治の5家5流の賜姓族」は邪魔であった為に「政治の場」から排除したのですが、この時、「嵯峨天皇」も一応はこの排除は認めます。
然し、これは「皇親政治のイメージの強い賜姓族」が政治に関わる事に依って「律令政治」を容認している姿勢に疑いを起こされる事を懸念しての事であって、しかしながらも、その「嵯峨天皇」は「律令政治」をベースとする「第2期皇親政治」を実行した張本人の天皇でもあるのです。
ただ、かと云って、「5家5流の賜姓族」を敢えてこの「第2期皇親政治」に引き込まなかったのです。

それは上記の「律令政治の継承」の件があった事と、「5家5流の賜姓族」を「政治の場」から外して「真人族」と「朝臣族」の「存続の融合先」に定めて「政治抗争」から外して温存し、上記した「8人の天皇の初期の意思」の「副軸としての立場」をより負担無く安全に構築させる狙いがあったのです。

然し、その後の経緯が「嵯峨天皇の思惑」の通りには進まず、「嵯峨期の詔勅」の「11代の別種の賜姓族の出現と政治抗争」と「5家5流賜姓族の衰退」とでなかなか元の状態に復興させる事が出来ず、神明系社建立などの「国策遂行」に支障をきたし始めたのです。

そして、結局はその流れを変えたのが前段と上記で論じた「特別賜姓族の補間策」であったのです。
この「5つの衰退期間」を通じて生き残った「3家3流賜姓族」は、この間に「禁じ手の商いの基盤」を確実に手に入れて、「特別賜姓族の補完策」で息を再び吹き返して来るのです。
「3家3流賜姓族」が「政治の場」に無かった事が、より比較的には「禁じ手の商い」は厳しい中でも、「民の容認と賛同」を獲得出来たのです。
そして、「11代の賜姓源氏」、取分け、「清和源氏」の荘園制をベースとした勢力拡大に因って、潰され敗退した土豪の武力集団を「3家3流賜姓族」の「商いに基づく経済力」でこれを吸収して組織化して救済したのです。

最も、重要な事として、「嵯峨期の詔勅」の賜姓族の源氏(清和源氏)が構築した「武力集団」に対して、その一方では「5家5流賜姓族」が構築した「影の武力抑止団」(シンジケート)が存在して行ったのです。
これは真に「影」の実質の「国策氏」であります。

「嵯峨天皇」は、「詔勅」と「宣旨」を発する時にこの事も予想して、「5家5流賜姓族の温存」の為に暗に容認する態度を採ったのです。

厳しい「嵯峨期詔勅」の「賜姓臣下策」を実行すれば、何時か ”溺れる者は藁をも掴む”の喩えの通り、「人間の窮地の本性」の上記の「屯」が起こります。
優秀で聡明な「嵯峨天皇」でなくてもこれは誰でもが判る事です。当然に、「宣旨」ではなく「詔勅」と成れば「民の長」である限りはこの為の「秘策」を講じて置かねば成りません。

(+)の「屯」は最大の「清和源氏」 「満仲が構築した武力集団」 
(-)の「屯」は「5家5流賜姓族」が構築した「影の武力抑止団」(シンジケート)
∴ (+)+(-)=0

元より「5家5流賜姓族の発祥源」は、「3つの発祥源の象徴」としての「国策遂行の氏」であり、「天皇を護る親衛隊」でもあります。
そうすると、(+)が発展して他に拡大する事は有り得て、国、又は天皇家を脅かす事にも成り得ます。
”東漢の軍を背景とした蘇我氏の例”に観ずとも、「民の長」である限りは、火の粉は小さい時に潰して置くが常道で「常套手段」であります。
況して、「大化期の反省」であります。
当然、そうなれば、これは元より「国策氏」としての「5家5流賜姓族の務め」でもあります。

然し、”「武」には「武」を以って制する” は「5家5流賜姓族」には法度であります。
とすれば、(+)*(+)=0の数式論は、「5家5流賜姓族の滅亡」を意味しますから、これよりは(+)+(-)=0の数式論の選択に迫られる筈です。
政治の「常套手段」としては、「「屯」と「屯」との戦い」に依って起こる「屯」が飛散しさせた「火の粉」を「一定の条件」で集め直す事が必要に成ります。その「一定の条件」を整えた上での「常套手段」と成ります。
それが、「商い」+「抑止力」=「影の力」の数式論にする事に成ります。
この様にすれば、「屯」の「火の粉」は散りません。

真に「空白期間の商い」に向かった目的は此処にあったのです。
だから、「禁じ手の商い」の「皇族の容認」と「民と氏族の容認と賛同」は、この数式論の背景を社会は充分に理解していたと考えているのです。
”何を論じたいのか”と云うと、「嵯峨天皇」は「嵯峨期の詔勅」を発する時、この「祖父の実家」の「伊勢青木氏」を通じて、事前に ”「5家5流賜姓族との談合」を行ったのではないか”と観ているのです。
そもそも、副軸の宗家の「祖父の実家」に対して何もしないで「詔勅や宣旨」を発する事は、「光仁天皇」や「施基皇子を」無視する事に成る訳ですし、余計に事を荒立てる事に成りますし、収拾が付かない事にもなって仕舞います。
そもそも、「嵯峨天皇」は「大化期の国策氏の賜姓族」を容認しているのです。その容認している「親族の賜姓族」に対して黙っている事は普通はないと考えられます。
「国策氏」として懸命に働いている「大化期の賜姓族」(5家5流賜姓族)に黙って無視する事は賢明なで聡明な「嵯峨天皇」がする事は先ず無い筈です。
もっと云えば、「桓武天皇との抗争」の時に、「5家5流賜姓族」が衰退に追い込まれて行く事を踏まえて、既に、談合が成されていて、抗争に勝利した時に「打つべき手段」(常道の常套手段)を話し合っていたと考えているのです。(中大兄皇子が蘇我氏打倒の談合寺の密談にある様に)
その ”「談合の内容」が「上記の数式論」であった。”と論じています。

談合策は、「一石五鳥の秘策」であったのです。それをその後の「賜姓の変質」で事態を憂慮した「円融天皇」がこれを読み取りこの秘策を蘇生させたのです。
この「一石五鳥の秘策」の中に「皇族存続の秘策」の「真人族と朝臣族の融合血縁策」が存在していたのです。要するに、「嵯峨期の詔勅」に因って引き起こされるマイナスのリスクの解決策の一つが「影の武力抑止団」(シンジケート)でもあり、もう一つは、詔勅に依ってはみ出されて弱体化するリスクの「真人族と朝臣族の融合血縁策」を「一石五鳥の秘策」の中に組み込んだと云う事なのです。

「5家5流賜姓族」は影に居たのではなく「皇親政治の場の一氏」として目立つところに存在したのです。
平安期前は小さく「影」に居たのではないのです。小さく「影」に居たとするなら無視も有り得る事ですが、むしろ、上記した様に副軸として段突に目立っていたのです。それも皇族の社会と民と氏族の社会の中に「和の氏」として目立った存在であったのです
そもそも「桓武天皇」の父は「伊勢の賜姓の始祖施基皇子の嫡子」なのです。「嵯峨天皇」には祖父の家なのです。要するに父方ルーツなのです。
これでは ”影で居て無視”はあり得ません。「嵯峨期の詔勅と宣旨」で触れなかった事は、真に真逆の賜姓制度を施行するにしても、秘策の為に敢えてその存在を「公に容認する事」では無く、「暗に黙認する事」にした事を意味するのです。
そして、それを強く印象付ける為に「青木氏」を皇族者が下俗する時に使う「氏名」として他に使用をわざわざ禁じたのです。
詔勅にて、”新たに源氏として賜姓するけれども” ”国策氏の賜姓族青木氏が既に存在しているのだよ” と「5家5流賜姓青木氏」が「民と氏族の賛同と容認」を得ている事を念頭に、「民と氏族」に向けてきっぱりと宣言したのです。

(特記 桓武天皇の「母方たいら族の賜姓」と「大化期の賜姓族の排斥」に対する「民の氏族の懸念払拭」に向けて宣言したのです。)

「3つの発祥源」「皇祖神子神の祖先神-神明社」等の「国策氏」を無視否定は、朝廷の国策を否定する事にも成るのです。桓武天皇の「行き過ぎ」を修正したのです。
その為の「政治抗争」でもあったのですから、「嵯峨天皇」の主張を取り入れ自ら「神明社の20社」を建立したのです。

(特記 実家先の務めとして、その嫡子として建立したのか、国の務めとして、その天皇として建立したのかは何れも確認出来ない。恐らくは両説併用説であろうと思いますが、筆者は希望的観測を入れて「実家先・嫡子の説」を採っている。)

「真人族と朝臣族の融合血縁策」はこの様な経緯の中での策であったのです。
これを更に詳しく論じると次ぎの様に進んだのです。

「真人族と朝臣族の融合複合体賜姓族」に付いては、次ぎの様な事に因って起っているのです。
それがこの場合、大化期の当初から上記の表の「国府」外の「14の守護王」からも跡目を入れる態勢を構築していたのです。
この事の表れの一つとして上記の「信濃 甲斐」と「飛鳥 吉備」との「国策の変更」が起ったと観ているのです。
その「真人族の血縁融合」と上記の「国策変更」とに付いて検証して観る事で判ります。
その結論から先に応えるとすると、”「5家5流皇族賜姓地」の・印外の「6守護王」からも「跡目」を入れていた。”と云う事なのです。

つまり、先ず、上記の表を良く観ると、「5家5流皇族賜姓地」の「近江」と「信濃」と「美濃」には国府外に「複数の守護王」が存在しているのです。
(1つの国に複数の守護王配置 主は政庁のある国府に定住する)
この「国府外の6守護王」の務めには、「守護範囲」を細かく分けて「統治性を高める目的」もあったのですが、「国府の守護王の異変」に臨機に対応する目的もあったのです。
何故、この様に一地域に「複数の守護王」を置いたのかと云う事ですが、これがポイントなのです。
ただ、複数にしたと云う事では無いのです。これには、この「2つの目的」、即ち、「氏内の優秀な嫡子の配置」と「純血性保持の欠点回避行為」が先ずあったのです。
この為にこの「2つの目的」を維持する為の態勢を維持する上で、「養子、跡目」を盛んに行って「融合血縁」を図ったのです。
”互いの「氏家」を「同族血縁」で維持する”と云う事でだけでは無く、”より強力な氏を維持している賜姓族に融合して行く”と云う体制を採用したのです。

上記で論じた様に、「朝臣族」は元より「真人族」もこの「3つの国府外の守護王」にとっても同じくその様にしなければ生き延びて行く事は、「賜姓族」の様に「独自力」を保持していない以上は困難であったのです。
むしろ、この行為は、単なる「血縁」と云う行為ではなく、”氏家ごと溶け込んで行く”と云う言葉が匹敵する「融合の形態」を採ったのです。又、採らねば成らない環境に生まれてから陥至っているのです。
それ程に、「真人族、朝臣族」の「氏家」として「政治的、経済的、軍事的な力」が不足していて、生き延びて行く事には難しい事を痛感していたのです。
「真人族」や「朝臣族」の皇族の中で育って、”モヤシの様な皇子”にはこの厳しい「下俗の環境」の中では到底無理で皇族保護無では無理であります。
この「判断の根底」には「真人族、朝臣族」として逃れる事の絶対に出来ない慣習、即ち、「純血性の慣習」に宿命として強く縛られていたのです。
「賜姓族」を始めとする「真人族」と「朝臣族」の「絶対的な宿命」であったのです。
一人立ち出来ない者にこの「慣習の縛りが」あるのですから、そうなると「絶対的な宿命」の欠点が「氏家」を維持して行く以上は付いて廻ります。

この事を解消しなければ「氏家」そのものが論理的に成り立ちません。
これは「純血性」を保持する為の「同族血縁の弊害対策」の処置でもあった事は云うまでもありません。
「真人族 朝臣族」は「氏家の慣習」「純血性の慣習」「絶対的な宿命」「慣習の弊害」「融合血縁」と柵に囲まれ「賜姓族」に溶け込んで行かねば成らない「絶対的な環境」にあったのです。
その為にもその「受け皿」を造る必要があり、その複数の守護王がそれに成り得なかった場合は自らが「賜姓族」に溶け込む以外には無いのです。
元より成り得ない「第4世族内の王の生い立ち」なのですから、力の持った「第4世族内王の国府の賜姓族」に溶け込んで行くしかないのです。

「5賜姓族との関係王」
次ぎの「5賜姓族地」には次ぎの王の末裔が「跡目、養子」などで奈良期-平安初期に補足する形を採っていました。「皇族」と云う「血流の保全」(国策氏、副軸)の為に「必要不可欠な対策」でもあったのです。
ではこの守護地にはどの様な国府外の守護王が存在していたのかを検証してみますと次のように成ります。
「地理」と「王の経緯」から観て次ぎの状況にあったと考えられます。
伊勢は、奈良の[宮処王]の守護王の末裔が補足
近江は、滋賀の「雅狭王]の守護王の末裔が補足  平安期末に滅亡
信濃は、長野の[高坂王]の守護王の末裔が補足
美濃は、岐阜の[広瀬王]の守護王の末裔が補足  平安期末に滅亡 
甲斐は、愛知の[弥努王]の守護王の末裔が補足  (広域甲斐)

上記の「19の守護地」を地域別に分類すると地理的に賜姓地と完全に一致しています。
特に下記に状況を記しますが、「19の王の経緯」の中でこの「5王」に集約されます。
完全一致したと云う事は、はっきり云えばこの「5王」が上記で論じた様に「融合血縁」で生き延びた事を意味します。
そこで、この「5王」が融合したのか、或いは何処かに移動したのか、他に何かあったのかを歴史的に追跡可能な範囲で調査してみました。

「4世族内19守護王」の履歴
先ずこの「5王の履歴」は次ぎの4つに分けられます。
(これ等の大化期の王の詳細は不祥で他説が多い。)

A 滅亡したか B 末裔を遺し得たか、C その地で末裔が住み続けたか、D 除外
以上の様に本論では4つに分類出来ます。

経歴
1 雅狭王、山部王、高坂王
  山部王は壬申の乱で没(A)
  雅狭王と高坂王は生き延びた(BC)。
2 泊瀬王、広瀬王、竹田王、難波王
  泊瀬王は天皇没(A)、竹田王は没(A)、難波王(D)、
  広瀬王(春日真人族:BC)と竹田王と難波王は学者、官吏(BC)。
3 春日王、宮処王、弥努王、桑田王
  桑田王は長屋王事件没(A:B)、春日王(D)
  弥努王(中立:BC)、春日王と宮処王(春日真人族:BC)
4 栗隈王(D)、武家王(D)
  「栗隈王」(難波王の孫)、「武家王と美努王」は「栗隈王」と親子(B)

(注意 春日王、栗隈王、武家王 弥努王 4王は九州地域に勤務定住 除外)
(注意 難波王は栗隈王の祖父 除外)
(注意 春日王と栗隈王の末裔間で血縁 九州筑紫 除外)
(注意 竹田王は蘇我氏系 特令地遷都王 若没 竹田王も特令地遷都王 除外)
(注意 泊瀬王は崇峻天皇 厩戸皇子(聖徳太子)、難波王、春日王と同時代の同格 除外)

「4つの血流」
この1~4の「4つの分類」には大きく分けて「3つの血流」があります。
A 春日王-広瀬王、宮処王、        (春日真人族)
B 難波王-栗隈王-武家王、美努王、高坂王 (特令5世族王 3世代一族)
C 長屋王-桑田王、弥努王         (長屋王:19王外 高市皇子の子)

  山部王 雅狭王             (不祥王 地理と履歴から一族の可能性大)
  泊瀬王(天皇)         
  竹田王(母方蘇我氏)

(注意 「山部王」は桓武天皇の別名 この「山部王」とは別人 同名の王が多い事に注意)

「関係外守護王」
以下は「4世族内19守護王」の内で「特令地の王」であり、「皇族賜姓族の関係外守護王」であります。
(京都の[栗隅王][武家王]は例外地の特令王 北九州に赴任)
(大阪の[竹田王][難波王]は特令地の遷都王  遷都により王位無し)
(愛知の[桑田王]は特令地王 美濃王の末裔に吸収)
(福岡の[春日王]は筑紫宰府王 例外地の特令王が引継)
(石川の[石川王]は吉備、播磨に移動赴任 伊勢-信濃に引継)

(注意 この事から「三地域の違い」はこの経緯があった為に「三野」と「美濃」、「弥努」と「美努」「御野王」は他の書籍等では混同している。  何れもこの5出自地と5王の人物は別である。)
(注意 筑紫宰府の「難波王」と「春日王」の関係族は「特令王外」として九州にて子孫を遺した。)

「存続王」の経緯
結局は、「4世族内19守護王」が生き延びて子孫を遺し得たのは以下の「5王」と成ります。
「雅狭王」と「高坂王」と「宮処王」と「広瀬王」と「弥努王」
以上の「5王-5地域」であります。
結局、この王と地域の検証ではこの「5王-5地域」に問題が無い事が判ります。

この事柄から、生き延びて周囲の「真人族」と「朝臣族」の「同族血縁の習慣」に従って皇族子孫を何とか遺そうとすると次ぎの様に成ります。

奈良期から平安期に掛けての全ての事件に巻き込まれず、確実に「氏存続」を強く推し進めたのは、上記「19守護地の王」の内、上記の5地域の「5家5流皇族賜姓族」のみであります。
つまり、5地域の国府外の周囲の王は子孫が遺していないのはこの「5家5流賜姓族」に融合して吸収した事を意味します。
そうすると、どの様に融合したのかと云う事は次ぎの様に成ります。

「5賜姓族」の守護王 「伊勢王」「近江王」「美濃王」「信濃王」「甲斐王」
「5存続王」の守護王 「宮処王」「雅狭王」「広瀬王」「高坂王」「弥努王」

この「朝臣族の5賜姓王」は奈良期から平安期までの歴史上の事件に一切関っていません。
「真人族の5存続王」は事件、乱にほぼ中立維持しました。
依って「5王-5地域」の検証には問題はありません。

問題が無い事が判ったとして、これを「地域毎」に組み合わせると必然的に次ぎの様に成ります。
伊勢は、奈良の[宮処王]
近江は、滋賀の「雅狭王]
信濃は、長野の[高坂王]
美濃は、岐阜の[広瀬王] 
甲斐は、愛知の[弥努王]

「皇族の同族血縁の慣習」
上記の「5地域-5王」の「真人族と朝臣族」の「皇族の同族血縁の慣習」を守り子孫を遺そうとすると、当然に先ずは直ぐ隣りの「地理性」が優先される事から、以上の組み合わせから血縁が進む事に成ります。

結局、結果として「5家5流の賜姓朝臣族」が「真人族の5王」の子孫を上記した「跡目・養子等の血縁方法」で吸収した事に成るのです。

(特記 「5王の真人族」の末裔子孫は確認出来る範囲で平安末期までに地域内に存在しない。)

つまり、この「4世族内19守護王」は「真人族と朝臣族」に分けられ、「5地域の朝臣族」は「賜姓」を受け「臣下」し「青木氏」を名乗り、これに「真人族」が吸収された「融合の氏化」が起った事に成ります。

それは「族制」「有品制」に無関係に「総合的に氏力の強い方」に吸収されて行くのが「自然の摂理」でありそれが働いた事に成ります。
それの大きな要因は「純血性を護る同族血縁の慣習」に因るものであります。
「真人族」と「朝臣族の賜姓族」との差は、まさしく「融合氏」の「3つの発祥源」の「有無の差に」因る事に成ります。
(注意 上記した様に実質は賜姓族が上位と成る)

故に「真人族」は「賜姓族」に融合して「直系子孫」を遺せなかったのです。
”遺せなかった”と云うよりは、「時代の厳しい背景」とこれに抗う「真人族5王の力」の差を強く認識し、積極的に力を獲得して行く「朝臣族の賜姓族の5王」に ”自らの方から融合して行って、「融合」と云う方法で子孫を遺そうとした” と考えられるのです。
これが「皇族内の自然の摂理」であります。
そして、この事の行為が、「純血性を護る同族血縁の慣習」の「思考規準」から、この時期にはむしろ「正当化」していたと考えられるのです。
これが「氏存続」に付いて「皇族と臣下族」との思考の大きな違いであったのです。

「八色の姓の制」の影響
その証拠としては、「八色の姓の制」の制定に現れているのです。
そもそも、この「皇族と一般の臣下族」との間に「大きな思考規準」の差が無ければ、「八色の姓の制」をわざわざ定める必要性はない筈です。
「身分の差」のみを定めるのであれば、「八色の姓の制」を定めても護られない筈です。
大別して「氏を構成」出来る範囲の民にある「八階級の身分」の間には、生きて行く上での「社会的な思考規準の差」が厳然としてあったからこそ、それが大きな「社会の隔たり」として表れたのです。
そして、この社会を秩序良く維持して行くには、「八色の姓の制」を定めて「氏姓や身分毎の行動規範」を社会の中に作り上げようとしたのです。
それは各身分間の「融合氏の発祥」が多く成っていた事を物語るものであり、その「行動規範」を「氏族」の中で常識として守らせる事で、「氏家制度の初期段階の構築」を目指したものであったのです。
その構築の規範例が「3つの発祥源」を責務とする「5つの地域」に「皇族賜姓族」を作り上げたのです。「社会の模範例」とする為に「賜姓」と云う方法で「氏族」を固めて発祥させたのが此処で云う「青木氏の賜姓族」であります。
つまり、「氏融合の初期段階」では、この「八色の姓制の行動規範」に基づく「氏家制度の社会構築」を目指したのであります。「八色の姓制」は此処に意味があったのであります。

「真人族」(まさと)「朝臣族」(あそん)「宿禰族」(すくね)
「忌寸族」(いみき)「臣族」(おみ)  「連族」(むらじ) 「稲置族」(いなぎ)

(特記 宿禰族までの3族と、稲置族までの4族との間には実質の「行動規範の大溝」があり、結果として「融合化の溝」に成った。宿禰族は稲置族よりの中間族 政治思想の思惑を込めた「八色の姓制」を否定する説もある。)

「真人族と朝臣族」の融合化
「真人族と朝臣族」が「八色の姓制」に縛られているとすれば、「真人族」は独自色を高めて社会を引っ張って行くには全くの力不足であり、必然的にこの「社会の融合氏の規範例」となった「朝臣族の賜姓族」に「自らの存在」を融合させて行く事が「最良の生きて行く方策」と成り得たのであって、故に上記した経緯と成ったのです。

この「融合化し始めた社会」が「5つの思考規準」に分かれていたのですが、その根幹は「夫々の守護神の考え方」にあったのです。
その互いの「5つの考え方」を主張しあう事は、結果として「社会の混乱」を招く事に成り、「自ら神の考え方」を押し通そうとすると、必然的に「生存競争の争い」が起こる事に成ります。

これを解決しようとしたのが「八色の姓制」であって、その「考え方」と「行動規範」を定めて争い事に成る「思考の巾の領域」を封じ込んだのです。(現実に多発していた 「日本書紀」に記述)
そして、「5つの守護神の5つの考え方」を統一させたのが「皇祖神」であって、その統一した「皇祖神の考え方」を伝達させる為には「皇祖神」の「子神」を定めたのです。
その「子神」には「祖先神」を定め、その「祖先神」に「規範神の役目」を与えたのです。
その「規範神の社」を「神明社」として全国に普及し建立し続けたのです。

その役目(「祖先神-神明社」)を上記する「朝臣族の賜姓族の5王」の「融合末裔子孫」に委ねたのです。
つまり、その「真人族と朝臣族の融合氏」の統一化した「賜姓族」にその任務を与えたのです。
これであれば「皇祖神の子神」たる立場は完全に構築された事に成ります。

「皇族の純血性血縁」
前段でも論じた様に、この奈良期から平安初期の時期には、完全な「皇族の純血性血縁」を守る為に「3世族の従姉妹や叔母姪」と「4世族内での血縁慣習」を敷いていたのです。
この「皇族慣習」に従っているので間違い無く血縁をしていたのです。その為に他の血を入れる為に、「4段階の夫人制度」を敷いていたのです。

「夫人制度」 [皇后、后、妃(ひめ)、嬪(みめ)、妥女(うねめ:例外夫)]

(参考)
「3世族の従姉妹や叔母姪」の純血婚から外れて、原則、[嬪]域からやや「他流血」が入る。
「妃域」までは母方の地位により決められる。
「妥女」は地方豪族から人質として取り、一種の「奴隷女官」で完全な「他流血」である。
「妥女」の子供の王位は最も低い。
「奈良期の大化期頃」は「亜子」の誕生が多く「若没」であった為に「王」には「妥女」の子が多かった。

「同族血縁の弊害」には「亜子」等の子供が生まれる確立が高いので、「嫡子」としての基本的な能力に欠ける場合が多かったし、「隔世遺伝の影響」が強かったのです。
且つ、極めて死亡率も高かったのです。逆に極めて優秀な子供も生まれる事もあったのですが、その為にも「嗣子の有無」に関らず関係族から「跡目」や先行して積極的に皇族間で「養子」を取る「当り前の習慣」が皇族にはあったのです。
この習慣は「真人族」、「朝臣族」(記録では橘氏の様な「宿禰族」も一部含む事もあった)までの習慣であったのです。

この様な「5家5流の賜姓族地」には、殆どの近くの「王族の真人族」が「融合化」して行き、「賜姓族化」し、平安期初期には「力のある賜姓族で1流化」して行ったのです。
そして、平安時代中期には「賜姓源氏」がこの「5家5流賜姓族」に「跡目」を積極的に入れて子孫を移して遺して来たのです。
(「嵯峨期の詔勅」の「賜姓源氏」には上記の様な厳しさがあった)

「嵯峨期の詔勅」により発祥した11代11家の「源氏」と、阿多倍一門の「賜姓たいら族」(桓武平家)との間には ”2軍の将相立たず”と成る事は必定であったのです。
この2氏ともに何時か雌雄を決して戦う事を事前に予測し、源氏は戦略として幼児の時から「跡目養子」を例外無く「5家5流の賜姓族青木氏」に移していたのです。
それは何故かと云うと、「5家5流賜姓族」は、「3つの発祥源」「皇祖神の子神」としての責務を保つ為にも、常に如何なる場合に於いても「和の中立」を保っていたからであります。

(注意 「武の中立」もあるが朝臣族である限り「武」は禁じ手慣習)

むしろ、「和の中立」を保たなければ成らない立場を宿命的に義務付けられていたのです。
従って、「和の中立」を保障する為に「5家5流皇族賜姓族」にのみ与えられていたのが「不入不倫の権」であり、それを物語ります。(賜姓源氏には無かった)
故に、「真人族」「賜姓源氏」は、如何なる場合にも子孫を遺す事を目的として、この「和の中立と安全」を保障され、その上で、先ず「商い」で「生存力」を持ち、「3つの発祥源」の立場を守り、「国策氏」として勤めもあり、「退避地」を持管理運営し、「祖先神-神明社」を建立し、民から「御師」等と呼ばれて「氏族」から慕われる象徴等の役目を持つ「5家5流賜姓族」には、「同族血縁の慣習」の下に「和の中立」を委ねたのです。むしろ委ねない方が異端であります。

「真人族」はその「非力」から、「源氏」は「武家の危険性」から「同族血縁の融合化の習慣」を事前に採用したのです。
この平安末期から始まった混乱期の時代では、「河内源氏」を除く源氏の多くは「自らの氏の存立と子孫存続」(枝葉末孫の拡大)と云う形だけを主体とはせずに、「3つの皇族の融合化」と云う形をも併用したのです。

(注意 「枝葉存続策」のみと考えられがちであるが、この説は朝臣族の前提を欠けている)

その「融合化の対象」と成ったのが「5家5流の皇族賜姓族」であったと云う事であります。
むしろ、「3つの発祥源」と「国策遂行」を完遂する責務を与えられていた事から起った「融合化の慣習」であったのです。
「5家5流賜姓族側」からすれば、むしろ「国策遂行」の為にも皇族が一本化する事で強固にも成り、子孫数の確保の面からも歓迎する事でもあったのです。

(特記 伊勢青木氏や信濃青木氏や伊勢特別賜姓青木氏の資料から観て見ると、平均的に1賜姓流では4から6流程度であった模様で、2次流まで観るとこの2倍程度と成っていた模様)

それを証明する行為が「皇祖神の子神」「祖先神-神明社」の「建立の責務」であったのです。

「真人族」にしろ「11代賜姓源氏」にしろこの様な責務は、これらの氏には与えられていない事が逆にこれを証明します。
彼等には「皇祖神の子神」とする「独自の守護神」を持ち得て居なかったのです。
「源氏」が建てたとする「八幡社」は、「11代賜姓源氏」の中の9代目の「清和源氏」のその一部の「分家河内源氏」の「独自の行為」であって、11代の賜姓源氏全体の責務ではなかったし、その「八幡社建立」の主体は「名義貸し」の「荘園制」から来る「未勘氏族」の仕業であったのです。

(特記 そもそも、「八幡社の根源」は、北九州に発祥した「神祇信仰で」あって、その信義を大仏建立の「国家鎮魂の国神」とした事から始まったが、何時しか荒廃して「摂津源氏」に復興の任を命じた事が始まりであったのです。
それが「河内源氏の義家」の時に「未勘氏族」に依って「武神」に変えられて、源氏の守護神かの様に喧伝されてしまったのです。
従って、「八幡社」には「摂津源氏」等の和を求める多くの源氏が任とした「国神」としての「国家鎮魂の八幡社」と、「河内源氏」の未勘氏族の「武神の八幡社」の2流があるのです。 八幡社にはこの2種の社があるのですが、11代賜姓の源氏の守護神の様に誤解されている。)

(特記 賜姓を受ける事は、「荘園制の名義貸し」(未勘氏族)に「賜姓と云う権威」を背景に出来る事から「貸利益」に大きな効果があったし、それらの「未勘氏族」を集めての「武力集団」を最初に組織化した「清和源氏」[河内源氏]には「賜姓」は絶対的に必要であった。
元々、経基王は、「清和天皇」の皇子ではく、「陽成天皇」の子であったが父が愚能であった事から、祖父の賜姓を受けるべく長年懇願し続けた。始祖の経基王は長い間の念願を果した程であった。
「清和天皇」も外祖父の藤原良房が政務を執った初の「人臣摂政」で清和天皇の意思ではなかった。)

(例 「伊勢青木氏」には「清和源氏」の「源頼光系四家」の宗家「頼政-仲綱」の子の3男「京綱」を「跡目」に入れた。「以仁王の乱」前である。そして「11代の源氏」が全て滅亡して行く中、「源氏宗家」を「青木氏」の中に融合させて遺した。)

「特別賜姓」の補佐と任務
その結果、「融合化に」依って平安末期には最終的に「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「甲斐青木氏」の「皇族賜姓族の3家3流」に集約されたのです。
「滅亡した2家」は「近江域」と「美濃域」で「皇族融合化」を進めたにも拘らず、時代の荒波に抗する事が出来ず、あくまで「和の中立」を護らなかった「近江青木氏」と「美濃青木氏」が、結局は平安末期には平家に潰されて滅亡したのです。この時に坂東以西の「武の源氏」は事如く潰されて滅びたのです。

(注釈 近江青木氏の支流一部が戦いの場の美濃から逃げ遂せて摂津に戻り子孫を小さく遺した。)

この「2つの生き様の差」は「不入不倫の権」等で護られていたとは云え「生きる為の戦略上の違い」が「氏存続の差」と成って現れたのです。「和の中立の保持」
その「氏存続の差」とは、「嵯峨期の詔勅」によって起った「衰退時の蘇り策」から「武」に頼らない「和の抑止力」と「経済的な裏打ち」と成った「2足の草鞋策」であったのです。

(特記 この生き延びる為の上記の数式論の基は「商い」が前提条件にあって、「禁じ手の商い実行」と「5家5流の賜姓族の存続」と「国策氏の務め遂行」と「詔勅リスクの解決策の実行(シンジケート)」等を「嵯峨期の詔勅」前に、「総合的な経緯」から観て、”「嵯峨天皇」とは談合されていた” と考えられ、「暗黙の了解」があったとしているのです。大化期の中大兄皇子の談合に類似する。)

結局は、「16代の朝臣賜姓族」と「真人族の5守護王」の合せて「21代の皇族」が「融合血縁」に依って、最終は上記の「3つの発祥源」の「国策氏の賜姓族3氏3家の子孫存続」と成ったと云えるのです。

然し、平安中期には、「5家5流の皇族賜姓族」では、上記した数式論が成り立たなくなったのです。
つまり、「賜姓族力」<「国策遂行負担」=「国策の責務遂行の限界」の現象があらゆる面で起ります。
これを判断した「円融天皇」により、藤原氏北家から秀郷一門の第3子に「特別賜姓」して、皇族の融合血縁した「皇族賜姓青木氏」と同じ「全ての権限と権威と立場」を与えます。
「完全同格」としてこれを補佐する任務を与えたのです。(皇族外朝臣族の藤原氏北家一門 母方系族)

(特記 皇族賜姓の母方族を根拠に特別賜姓した。そして、同一族化させる為に「5家5流の賜姓族」の地に「融合青木氏」の血縁策を推し進めた。 従って、「真人族と朝臣族」-「5家5流賜姓青木氏」-「特別賜姓族青木氏」-「賜姓源氏」(河内源氏除く)]の5賜姓族地に「和の中立」の「完全総合の真人族・朝臣族賜姓族」の「融合青木氏」が誕生した。「和」の5賜姓族には「武家の分家方式」は採用されていない。)

この為にも、この「秀郷流青木氏」に対しての「跡目継承の断絶」を避ける為に「宗家一門から第3子」を常に補足する「決まり」を与えます。
「特別賜姓族」には、「真人族融合化」した「賜姓族」を含む「親衛防衛集団の義務」を与えたのです。

(参考 北面武士 親衛隊の右衛門佐上の最高位の指揮官の任を特別賜姓族青木氏宗家永代授与)

この「特別賜姓族の出現」で、それが「皇族賜姓族」の生き延びる為に必要とする「絶大な抑止力」に成り、「3家3流賜姓族」は他の「2家2流」と異なり生き延びられた源と成ったと云えるのです。
恐らくは、この「3家3流」と「2家2流」とは「特別賜姓族」との「付き合い方」が違っていたのではないかと観ています。

(特記 「和の中立」より「武の中立」に偏っていた為に、即ち、「生き延びる考え方」が違っていた為に特別賜姓族側は親交や血縁は避けていた事が考えられます。)

この世は「特別賜姓族」が補佐したとしても、あらゆる柵に依って必ずしも上手く行くとは限らない訳ですから、地理的に観ても「近江、美濃」には「特別賜姓族」が配置定住している訳ですし、疎遠であったとする事には成りません。
「地理的要素」から血縁でも充分に有り得た事でもあり、決定的な事は「河内源氏との付き合い方」にあったと観ています。

(特記 「和の中立」が保ちきれず、「武の中立」から遂には「武」に傾いてしまった。)

こ「の2つの青木氏」の任務は、上記した「皇祖神の子神」としての「神明系社の建立義務」を遂行するにしても、「宮司職」や古代密教の浄土宗の「菩提寺の住職」の配置も重要と成っていて、多くの子供「子孫の養育」が必要と成っていたのです。
その為にも、上記する「源氏、真人族の融合化」が急務と成っていた環境にもあったのです。
「同族血縁、純血血縁」を前提としたものであった為に、「第4世族内の5家5流賜姓族」には、武家の「本家概念」ではない「副軸」としての「宗家の概念」に基づいて「分家の概念」が無く、何れも「本家」なのです。
因って、「真人族、朝臣族との融合血縁」するにしても「家の格式の差」が無い事から何れの家にも「跡目養子」や「婿養子」や「貰子養子」の血縁を自由にする事が可能であったのです。

(特記 「伊勢青木氏」の資料から観ると、松阪殿、員弁殿、桑名殿四日市殿、名張殿、脇坂殿、伊賀殿、青蓮寺殿等の定住地の地名を付けた呼称で区別していた事が資料から判ります。
分家などの「格式の差」が「宗家」を除いて無い事が判ります。
只、全体を協議するリード役があった事が記録されています。この「宗家を構成する慣習」は、藤原秀郷流青木氏は元より秀郷一門主要8氏にも適用されており、「役職と地名」の2通りの使い分けをしていて、役職を持つ宗家筋は藤の前に役職名をつけて呼称していたのです。
24地方に赴任し定住した家筋は藤の前に地名をつけて呼称する習慣であったのです。
その内に枝葉孫が拡大してこの慣習では成り立たなくなり、宗家-本家-分家-分流-分派-支流末孫まで361氏の「家の格式差が」生まれまたのです。
然し、青木氏に於いては皇族賜姓族との融合氏を構成している事からこの「家の格式差の概念」が薄く家を構成していた事が判ります。)

そもそも「神明系社486社」とすると少なくとも3家3流賜姓族の単純な子孫量では成り立たなかったのです。

(特記 上記の通り、「第4世族内の皇族賜姓族」は慣習として分家方式を持たなかったのです。従って、家紋は全て「綜紋の笹竜胆紋」であり、「副紋方式」や「丸付き文様」や「類似文様」の方式は持たなかったのです。「嵯峨期の詔勅の賜姓源氏」は持ったのです。この事でも生き様の違い差が判ります。家紋の此処にも大きな違いが出ています。)

因って、この為にも、「夫人制度」と「真人族との融合化」を「純血性の慣習」を前提とする「5家5流賜姓族」にしかない「少ない賜姓族」に対し、この様な上記するあらゆる皇族慣習を持つ「国策氏」に問題が起こらない様にする為にこれらの「務め」を強いたのです。

(特記 上記する「特記の慣習」により「国策」を実行する上に於いても厄介な「格式差」がないのですから、どの家が遂行する務めの差が出ずに円滑に進められるが道理です。)

この建立を進める486社に宛がう「青木氏の宮司を」増強したのです。
「子孫存続の枝葉拡大」の為ではなく、「国策遂行」の為の子孫拡大確保の為の血縁であったのです。
そして、それらの為にはこの「家の格式」が担当した「国策の格式」に繋がる為に氏家制度の分家、分流、分派の「支流格付け」を行わなかったのです。
然し、この平安末期にはそれでも衰退も含むこの「あらゆる力」と「子孫供給力」が「朝臣族」の「皇族賜姓族」に欠けて仕舞い「特別賜姓族の誕生」の一原因にも成ったのです。

「近江佐々木氏」の縁故の援護
ここで決して見逃しては成らない経緯があるのです。
ところが、これでも資料から観ると、この「特別賜姓族の補強」でも未だ欠けていたと観られ、「近江青木氏」と「美濃青木氏」の2氏滅亡により極端に低下して、天智・天武天皇の第7皇子「川島皇子」を始祖とする「近江の賜姓族の」「近江佐々木氏」の縁故の援護を受けた事が記録として遺されています。

(特記 主に北域には神明系社のこの「近江の佐々木氏の宮司」が多いのです。
これは平安期初期の頃からの対応と観られ平安末期以降も続けられていたと観られます。「摂津源氏」が国家鎮魂の荒廃した八幡社復元を命じられて、神職を5家5流賜姓族に求めて来た事も一因であったと考えられます。「摂津源氏」にはもとより「寺社建立の職能集団」を持っていなかった事から依頼してきたのです。より一層不足したがこの摂津源氏復元作業は氏力が欠けていた為に長続きしなかったのです。後は河内源氏が武神に変えて未勘氏族を使って独自の八幡社を復元していったのです。)

この「佐々木氏の援護」の事は重要で、天智期の「施基皇子」の弟の第7位皇子の近江の佐々木に住していた「川島皇子」の「賜姓近江佐々木氏」までも頼り、その「佐々木氏の子孫」が青木氏の「神明社」の宮司に成っている事は、如何に「皇族関係族間の融合化」が起こっていた事かを物語っているのです。

(参考 青木氏側からの佐々木氏の研究は残念ながら未だ進んでいないのです。)

しかしながら、「出自不祥」とされる近江の「山部王と雅狭王」は、近江の「川島皇子の佐々木氏」の領域である事から「山部王と雅狭王」との「純血性の慣習」による「皇族間の融合血縁」をしていた事を物語っています。
「山部王と雅狭王」は事件等に依り歴史的に「没」に成っていないにも拘らず、「子孫存続」が明確でない事から、この「近江の川島皇子の佐々木氏」と「近江皇族賜姓族」と「融合血縁化」していたと考えられます。
その証しに、この近江地域には「近江の川島皇子の佐々木氏」と「近江皇族賜姓族青木氏」との血縁族の賜姓族の「佐々木氏系青木氏」が発祥して居るのです。
この2氏に「山部王と雅狭王」は必ず融合化した筈です。
同じ近江国の中に出自の異なる「4つの4世族の皇族」が居て「純血性の慣習」の中で血縁しない方が異常であります。
故に、「近江賜姓青木氏」と「佐々木氏系青木氏」と「佐々木氏」とには「2人の真人族」を含む「縁故血縁関係」にある為に、賜姓族同等である事を理由に「神明社宮司」に血縁族として「佐々木氏」を用いたのです。
「近江佐々木氏」と「佐々木氏系青木氏」は、「源氏の血筋」も入っていて「佐々木源氏」と呼ばれ家紋は綜紋の「笹竜胆紋」であり直系族であります。

(参考 佐々木氏には滋賀佐々木氏があるが別氏で宇多天皇系であるが融合血縁している。)

将来の研究課題ですが、佐々木氏側からの青木氏の研究は進んでいて、その研究内容から読み取れる事は、「近江賜姓青木氏」を通じて天智天皇の皇子としての「伊勢青木氏との縁故関係」から前段で論じた「古代和紙の殖産」は兎も角としても、資料から読み取って目立つ事は、「寺社の職を通じての協力関係」があり、従って、「同族血縁」の関係にも「近江佐々木氏」とはあったと観ているのです。
史実、「寺社関係」には「神明社系社の神職」と「古代密教浄土宗の住職」には青木氏と共に佐々木氏が多いのです。それも「5家5流賜姓地」の寺社と、「特別賜姓族地」の北域の寺社に集中して多いのです。
これは「5家5流賜姓族」と「特別賜姓族」の「融合関係」が大いに進んでいた事を物語り、そのルーツを通して、「近江賜姓青木氏」-「近江佐々木氏」-「伊勢賜姓青木氏」-「特別賜姓族」との繋がりが「神明社建立」の事のみならず出来上がっていた事を示す事でもあります。

もう一つは、「佐々木氏の研究」から読み取れる事は、「5家5流賜姓族の横の連絡関係」はこの「寺社」を通じて基本的に行われていた事を物語ります。
前段でも論じた様に「神明系社486社」と「古代密教浄土宗の各地に存在する菩提寺」が、この「横関係での問題処理」に当っていた事がよく読み取れます。
「横の連絡関係」と云うよりは、「賜姓佐々木氏一族」と「5家5流賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」と「秀郷一族一門」、更には「賜姓源氏」と上記した「真人族や朝臣族」との全ての横関係が「寺社」を通じて執っていたと考えられるのです。
言い換えれば「真人族と朝臣族」が、皇族慣習に基づいて構成された「氏家制度」の中では、「寺社の存在」が大きな重要な位置役割を持っていた事なのです。
そこが他氏と大きく異なっていた点であります。
その意味で「祖先神-神明系社の役割」は絶大であった訳で、「2つの賜姓青木氏」の全てと云っても過言ではない程に、重要な位置を占めていたのです。
その重要な位置を「最古の神明社」が象徴していた事を意味します。
下記の「最古の神明社」を象徴に置く「2つの青木氏」にとって重要な位置を占めていた「寺社」を各々には全て「独自の寺社」を持っていますし、上記した様に「神職住職関係の融合血縁」も進んでいる訳ですから、これらの「寺社」をパイプ役に「連携関係」を保持していたと考えているのです。
この「寺社の存在」とその連携なくして「2つの青木氏の存在」は成り立たないものであったのです。
所謂、「人間の血管」の役割を持っていたのです。
そうであるとするならば、「皇族賜姓青木氏が構築した退避地の策」も「寺社」で成り立つものと考えられるからで、それが「佐々木氏の研究資料」(寺社)からも大いに読み取れるのです。

(参考 「退避地運営」に付いての「佐々木一族の関り具合」がどの様であったのか気に成りますが現在は詳細は不祥です。近隣に「賜姓青木氏」の存在が無いところから佐々木氏の何らかの関わりもあったのでは無いかと推測できます。「賜姓近江佐々木一族」は「賜姓青木氏」と「賜姓源氏」(河内源氏)との非常に微妙な中間的な生き方を採った事が読み取れるからです。源平でも源氏方に味方しても生き残るのです但し、衰退したが上記した様に寺に大きく関っていた事が「子孫存続」で何を逃れ鎌倉時代にはこの子孫が勢力を盛り返したが、戦乱の室町末期からが江戸期には衰退させるのです。矢張り、寺社で宗家と共に子孫を復活させる特長を持っていたのです。恐らくは、宗家が生き延びたとするのは「寺社」を故意的に隠れ蓑にしていた戦略を採っていたと観らるれからです。現在でも寺社に佐々木氏は多い。従って、佐々木氏の研究論文はこの論調基調に成っているのだと考えられます。「和の中立」と「武の中立」の「和武の中立」の生き方を採り、それの基調を寺社に置いていたのだと考えられます。恐らくは伊勢青木氏とは大化期の第7位皇子として特別に天智天皇より賜姓を受けた同族であり、「伊勢青木氏」の「皇祖神の子神の「祖先神族」としても同じである事から-伊勢青木氏の生き様を観ての寺社でなかったと推測しているのです。「神明社建立」には「神職としての役目」を果たしていたのではないかと観られます。
寺に関しても「古代密教浄土宗」は「5家5流賜姓族」と同じですから、住職としての役目を果たしていたと観られます。この点では「伊勢青木氏」とは同様の行き方を戦略として採ったと考えられます。
ただ判らないのは血縁関係が不祥と成っている事なのです。伊勢青木氏との繋がりがキーポイントではないかと観ていますが判りません。研究の論調から「特別賜姓族との関係までの青木氏」の論文資料と成っているのです。)

前段でも論じた様に、「日本海側3県の退避地」の処で ”「寺社」が主軸に成っていた”と論じた事も、矢張り、近隣に居た「賜姓族の佐々木一族」を含むこの「寺社」が関わって「横関係での問題処理」が出来上がっていた事も、「寺社」と云うキーワードでは符合一致します。
つまり、「賜姓近江佐々木氏」もこの「退避地の管理運営」に寺社で関っていた可能性が高く成ります。

そうすると、「第4世族内の真人族と朝臣族」の事なのですが、「賜姓青木氏」を頼りこのルートを通じて直ぐには「退避地」に逃げ込める筈ですが、ところが平安末期から「真人族」は、上記の「融合化」よりも「比叡山の僧化」や「門跡院僧」と成って、子孫を遺す「融合化」による「氏化」はしなく成ったのです。(退避地に直接逃げ込こまず、その前に僧化したのです。)
「還俗、下俗」する際は3家の「皇族賜姓族」と24地方の「特別賜姓族」を頼り「世捨て人」と成った者が殆どであったのです。この時も直ぐにではなく「世捨て人」に成った後で、「伊勢-信濃青木氏」が管理運営する「富山、石川、福井の退避地」に入った事が判るのです。
前段でも論じ、又、上記の「賜姓佐々木氏一族」も加わった可能性もある「賜姓族退避地」(保護地)に「世捨て人で僧化した真人族」を保護した事が、「退避地等の表現」が無いにしても、「佐々木氏の研究資料」の文脈からも読み取れます。朝臣族の「還俗僧」がこの地域に一般氏化した表現が採られているのです。

(特記 「嵯峨期の詔勅」では「第4世族内の真人族と朝臣族」の「還俗僧」は青木氏を名乗れますが、「還俗僧の青木氏」は確認出来ないのです。名乗れる権利を有する者は全て把握している中で「嵯峨期の詔勅」を使って名乗った「皇族青木氏」は5氏でその中にはないのです。)

「佐々木氏」が「寺社と神職・住職の存在」からこの「皇族の退避地」を認識していた事が少なくとも読み取れます。
この「皇族者の世捨ての変化」は、先ずは、賜姓源氏、賜姓平家の「武家の台頭」が強くなり、次には逆に「真人族」の存在価値が低くなった事と、最後には「藤原摂関家」(北家)もその勢力を低下させ母方血縁による「真人族と朝臣族」が少なく成った事、この「3つの事」に因るのです。
その主な原因は、何よりも「真人族や朝臣族」が「賜姓」を受けて「武家」(公家に対する武家を意味する 室町末期からの武家の呼称ではない)に成るだけの気力を失っていた事に依ります。
それは「源平の軋轢」と、”それに抗して「生き延びる価値」を見出せなかった”と云う所ではないかと考えられます。
皇族者は、「源平の生き様」の「武家としての厳しさ」を観て「気力の喪失」を起したと観られます。
そして「僧化」を選んだのです。その僧化後には”「俗人」になる事の意味”を僧として悟ったのではないかと考えられます。
ところが、その為には、”何処でも何時でも俗人に”と云う訳には行きません。生きて行く為には「無力の僧」や「無力の真人族と朝臣族」が簡単に成し得る世間の事ではありません。
その為には、生きる為に世の中を知り何かを身につけなくては成りません。それに皇族者に限っては何かの「後ろ楯」が必要です。
最後はこの条件が備わっている「皇族者の退避地の存在」の有無であります。
そのパイプに成るのが「寺社」であるとすると、その同じ「住職(神職)の僧」であったのですから「寺社の関係」が大いに働く筈です。
これは明らかに「寺社」を通じて「退避地」に入った事を示しているのであって、「佐々木氏の資料」と共にこの状況が一致し、それを如実に物語っているのです。

特に、この時代は「藤原摂関家」との遠戚のない「後三条天皇」-「白河天皇」-「堀河天皇」と続き、「白河院政時代」と「親政時代」が続き、その事からその傾向は無くなったのです。
この時、社会には荘園制を維持し運営する為に他氏を攻め落とし、その敗残兵や住民を奴婢にして連れて来て荘園を開墾維持管理させる等して、荘園から来る弊害が生まれ、荘園制を禁止する等の締め付けをこの3人の天皇は遣って退けたのです。
結果として荘園制で「軍事的」と「経済的」に台頭する「武家」に対する締め付けが厳しく成ります。
これを実行した「3人の天皇等の寝室等の間近の身辺」も危く成って、わざわざ本当に信頼できる「皇族朝臣族の3家3流賜姓族」(一部源平含む)に命じたのです。
「身辺警護の護衛隊の北面武士」の制度(大化期にあったこの「本来の役目」)が再び始まります。
「蘇我氏の専横」から反省して大化期から平安初期まで続いた天皇を警護する「皇族賜姓族」が、再び平安末期に呼び出された事に成るのです。

(特記 平安初期から末期直前まで桓武天皇が賜姓した阿多倍一門の賜姓坂上氏が朝廷軍として君臨し天皇の警護も兼務した。その後は同じ一門の桓武平氏の「たいら族」と藤原氏が継続した。)

荘園制を利用していた源氏と平氏と藤原氏を信用できないとして遠ざけたのです。逆に「天皇護衛」が大化期からの本来の務めである「2つの賜姓青木氏」がこれに代わった呼び出され、「源平の影」で益々本来の「賜姓族の基礎力」を付けて、復興し回復して来たのです。

(特記 添書から主に29の各地に定住する「2つの青木氏」の賜姓族が都に派遣されて果した事が判ります。添書から見えるこの時の賜姓族は、「左衛門上佐」と「民部上佐・民部上尉」の「2つの永代官職位」を持っていたのです。つまり「近衛護衛隊」と「近衛警察隊」の最高の指揮官位職であったのです。)

その為に「天皇の身辺」が危険に成っても何も出来ない、まして”自らの身も護れないの”では「真人族の存在価値」は低下し、更に荒波の中での「氏」としての存立は不可能と成ったのです。
(「2つの青木氏」の存在が逆に目立った)
更に、この直ぐ後の「鎌倉期」には「皇族の勢力」が天領地が奪われ生活もままならない程に弱まり、多くの子孫を遺す事は無くなり「真人族、朝臣族」は現実は少なく無くなったのです。
当然に「真人族」と「朝臣族の源氏」からは「同族血縁による融合化」は無くなったのです。

(特記 「2つの氏賜姓青木氏」は空白期間を通じて「大商いの組織化」を進めていて弱体化の影響は小さかった。むしろ、「紙文化」が起こり「下克上と戦乱」が起こり「総合産業」としての「大商い」は更に益々その勢いを増したのです。戦乱によ社会にり溢れ出る敗残武士を組織化して「大商い」は成功の上に成功を納めると云う「社会の乱れる流れ」とは逆の流れを掴んだのです。
恐らくは、この時点で「平安期までの力」を遥かに凌ぐ力が増築されたのです。)

「最古の神明社」
上記の19の「第4世族の皇子王」が守護地に配置されたのですが、この時、守護地に「皇祖神の子神」として「祖先神の神明社」を建立しました。この時の神明社が最も古いとされるのですが、この直前に「遷宮遍座地」として各地に85社(90年)をも建立して「皇祖神の神宮」を建立したのです。然し、この「85社」の中にただ「1社の神明社」があるのです。この「神明社」は現在の「滋賀県湖南市三雲」に存在します。
つまり、「19守護地」の「神明社」より「遷宮遍座地」は古い事に成る事から、「天智天皇」がこの「19守護王」の配置する直前に、此処に先ずこの「神明社」を「遷宮社」と「同位同格」を示す為にも「皇祖神の子神の祖先神の象徴」として建立したと考えられます。
その後に「19守護地」に「祖先神-神明社」を配置建立した事に成るのです。

「最古の神明社」の意味
前段で論じた様に、この事の意味する処として、どれほどに重要な主要地にも85社をも建立する事で「皇祖神の存在」を先ずは高め、次ぎはこの「皇祖神」を最終的に伊勢に定めたのですが、これでは終わらずに、これを征討した地域まで全国的に広めるには朝廷としては、「経済的な問題」、「軍事的な問題」、「政治的な問題」を考慮すると、大蔵として困難であったのです。
その為に、「3つの発祥源」として立身した「皇族賜姓族」に国策氏としてその役目を与えたのですが、与えた以上はこの「皇祖神」を何らかの形でこの役目柄を遂行させる必要があります。
その為には「皇族賜姓族」に「祖先神の守護神」を先ずは与え、一つの「融合氏」を構築させ、その「社」を「神明社」として扱い、これを「皇祖神の子神」としての「役目柄の最高格式」を与えて普及させる目的があったのです。これで役目の上での目的は果たせます。
それには、「朝臣族」の「皇族賜姓族」に上記した様に「真人族の血流」を積極的に流す事で「家柄としての最高格式」も与える必要があったのです。
それは「血縁する事」では無く、「朝臣族」に「非力な真人族」を「融合化」させる事であったのです。
その証拠に「皇族賜姓伊勢青木氏」の始祖の「伊勢王の施基皇子」には、天智天武天皇の14人の皇子中で皇太子よりも3階級も上で天皇に継ぐ位を与えたのです。
永代「淨大正一位」の位を与えたのです。(近江川島皇子も賜姓佐々木氏を受けてその位は最終「浄大正2位」の家柄と成ります。)

A「役目柄の最高格式」
B「家柄の最高格式」
C「身分の格式」
以上の3つの最高格式に加えて、
D「蔭位の制」の「正一位の有品待遇の最高格式」
「4つの格式」を与えたのです。

この「4つの格式」に付加えて次ぎの事が力に成っているのです。
E「親衛隊最高指揮官の軍事力」
F「58万石の経済的背景」
(平安末期以降は「商い」にて復興 総合力は4~6倍以上の力を保持)
以上の「2つの賜姓力」を持っていたのです。

この「6つの賜姓力・権威力」を保持していたのです。
その根底を支えていたのは次ぎの「無形の力」です。
G「不入不倫の権」
以上のどの氏族も持てない「特権」を持っていました。
「有形と無形の力」としては以上の「7つの賜姓力と権威力」と成ります。

この他に、無形の「特別賜姓族の抑止力」「神明系社の寺社力」等を加えると相並ぶ者は無かったと考えられます。全て天皇に継ぐ「最高位」の立場を保有していたのです。
然し、これだけの「力」を保有していながら「嵯峨期の詔勅の賜姓源氏」(義家など)の様に世に有名を馳せたのでは無く、一般的な見方からすれば、 ”知る人ぞ知る”の立場に居たのは何故かであります。
これは「皇族賜姓青木氏と特別賜姓族」の「2つの青木氏」に付いてであります。
それは以下の事柄があって「世に出る事の効果」や「世に出ることの大儀」を著しく損なうからで「和」の下には何事に於いても「清・静・正」であらねば成らない世界に居たからであります。
第1は「武」に頼らない「和の中立」の世界に居たからであります。
第2は「国策氏」として「影の役目」の世界に居たからであります。
第3は「3つの発祥源」の「象徴の立場」の世界に居たからであります。
第4は「商い」をする「2足の草鞋策」の立場に居たからであります。
第5は「御師・氏上・総師」として「慕われる立場」に居たからであります。
第6は「皇祖神子神の祖先神-神明社」の氏族に居たからであります。

どれを執ってしても「清・静・正」に居て初めてその「立場の保全」を全とう出来るのです。
これ等の事柄(賜姓力・権威力)を一つの言葉にして「伊勢青木氏の口伝」として引き継がれて来た「伝統的な言葉」に ”世に晒す事相成らず”の「戒言」があるのです。

”世に晒す事に全て何事にも善き事なし””世に晒す事に大儀なし”と戒められて来たのです。

これでは ”「清・静・正」だけで「動・活」が無いのか”と云うと、そうではないのかと云うと、”「清・静・正」の中に「動・活」があるのだ。”と説いていて、 ”「動・活」の中に真の「清・静・正」はない。”としているのです。この「真」と云う言葉に意味を持っています。
然し、”これも「善」とすればそれも善し”と説いているのです。と云う事は、それも ”その者の立場(氏家柄の如何)に関わる事柄”とあって、”その咎は自らが負う。”と結んでいます。

(特記 「河内源氏」は、この”「動・活」の中の「清・静・正」。”を採った事に成ります。然し、”その者の立場(氏家柄の如何)に関わる事柄”とありますから、「河内源氏」は分家の立場にあるとしても、少なくとも「嵯峨期の詔勅の賜姓族」でありますから、「2つの青木氏」から観れば間違っていた事に成ります。
「満仲への怨嗟」や「義家への私闘・叱責」や「頼朝への軋轢」の政権側からの結論から観れば、「2つの青木氏」と同じ見解を当時は持っていた事を物語ります。
史実は、滅亡の憂き目を受けたのですから、「真」の「清・静・正」では無かった事に成ります。
これは恐らくは「嵯峨期の賜姓の詔勅」は「経済的軽減の賜姓」のみにあった事を意味します。
「2つの青木氏]からすれば、”それでも朝臣族ではなかったのか”と、”「朝臣族]であるのなら賜姓如何に関らず、”「清・静・正」の中に「動・活」があるのだ。”と成る筈です。
この「戒言」はこの事を観ても、より子々孫々に伝える口伝としたのであると観られ、且つ又、「青木氏家訓10訓の精神」に成っているのです。
要は家訓に示すその一族をリードする「長の心得」で決るのです。

(参考 正直に若い時はこの意味が良く解らなかったし、逆の考えをしていた。青木氏を研究しだして次第に理解が進んだ。これは禅問答の域であるし、千利休の茶道の「侘、寂の極意」であろう
し、「山川草木の枯れ山水の極意」であろう。)

兎にも角にも、これ以上を与えられると、普通ではあり得ないし”「動・活」の中の「清・静・正」。”となるのは必定です。然しそれでは生き延びられないと誡めていたのです。
「朝臣族」で「賜姓族」であるとしても、最早、何れの「真人族」であろうとこれ以上の者はあり得ません。
あるとすると、それは「天皇」なのです。然し、「臣下族」であるのです。誡めに誡めなければ成りません。
然し、「国策氏としての宿命」として「真人族との融合化」を図らねば成らないのです。
この行為は上記の戒言からは矛盾です。
つまり、「真人族」にとっては、「賜姓族の朝臣族」(青木氏)であるとしても上記した様に実質は遥かに上位なのですから、上位(真人族)から下位(賜姓族)への血縁であっても「真人族から朝臣族への同族血縁の融合化」は正常なのです。皇族の慣習破りではないのです。

その証拠が一つあるのです。平安初期直前に「第6位皇子」の「伊勢王の施基皇子」の賜姓族の青木氏の嫡子(長男)である光仁天皇が誕生したのです。本来は「4世族内第6位皇子末裔」には「皇位継承権」はありません。
奈良期では大化期642年から始まった「女系天皇」が780年までの間に累代14代の天皇が生まれ、その内、重祚を含めて女系天皇7代も続いた事から、正規の「皇位継承者」は無く成り、歴史上唯一の「例外天皇」と成ったのです。
然し、ところが上記の通り実質例外ではないのです。どんな「皇位継承権者」でもこれ以上の家柄を持った「皇族の同族融合血縁族」の「皇族氏」は歴史上には出て来ません。
そして、この「賜姓伊勢青木氏」とタグを組む他の「4家4流皇族賜姓族」の青木氏は、「皇族の融合化」をも推し進めたのです。
この様な力の持った真に「皇族の副軸」と成った「賜姓族」に対して、つまり、その「皇族の統一融合族」の「血縁氏」と成った「青木氏」に、天智天皇から始まる歴代天皇は「皇祖神の子神」としてその責務を与え各地に「神明社」を建立させたのです。
その「象徴社」の「基点社」としたのが何とこの「最古の神明社」であったのです。
故に、神宮に相当する「遷宮社」85の一つなのです。
天智・天武天皇は上記の意味を込めて「遷宮社」でもある「最古の神明社」を以ってして「子神としての神明社」を先ずは世に強く宣言をしたのです。

(特記)
前段でも論じ前記でも論じたましたが、逆に、この勢力の持った「賜姓族」は、天皇を助け「皇親政治」の「親政族」としても活躍をしていたのですが、「賜姓族青木氏の象徴祖」の「光仁天皇」の子供の「桓武天皇」(青木氏の遠戚天皇)は、この「5家5流の皇族賜姓族」を「律令政治国家建設」を建前に排除し、「親政族」、即ち、[力を付けた賜姓族]は憂き目を受けたのです。
故に、「桓武天皇」はこの「青木氏」に代わり自らが「神明社建立」20を実行したのです。

とすると、”何故に父の実家の親族の伊勢青木氏に圧力を掛けたのか”と云う疑問です。
実家先だからこそ、”世に対して「律令政治国家建設」を宣言する”効果があって、且つ、逆の「親政政治」の主導者でもあった筆頭の実家先を追い落とす事で、天下にその姿勢・意思を強力に示したとも受け取れます。「律令政治国家建設」の為に”青木氏に犠牲を負って貰った”と成ります。

「8つ目の力」と「空白期間の意味」
この為に「3家の皇族賜姓族」は「8つ目の力」として生き延びる為に、下記の空白期間を利用して律令制度の中で「商いの基礎力」を培います。この「2足の草鞋策」は伊賀の「古代和紙の殖産」を採用したのです。そして、それを信濃と甲斐にもこの「古代和紙の殖産」を移したのです。

(参考 近江と美濃にも移植 和紙通では「近江和紙」は”トリノコ”の呼称で有名 「美濃和紙」は”ミノシ”で有名 近江・美濃和紙は平安末期衰退する。近江や美濃や信濃や甲斐の「古代和紙」の歴史には凡そ1000年とする記録がある。「古代和紙の伊賀和紙」1350年歴史とする記録と移殖時期と一致する。)

「近江」と「美濃」の2家は、「古代和紙の殖産」に同調するがこの平安期のこの時期には殖産するも「税」として扱う程度で、本格的に追随(商い)しなかったのです。

衰退の原因が「排除軋轢」とすれば、「桓武天皇20年後没」(806年)頃で賜姓青木氏は復興する筈であったのですが、その後、「賜姓青木氏」に代わって勢力を持った「賜姓源氏」(嵯峨天皇の政策方針・詔勅)が台頭し、難しく成ったのです。
その間、「神明社の建立」は止まり、期待していた代わりの11代の多くの「賜姓源氏」も「真人族化」し非力であり、前段でも論じた様に、挙句は神明社を建立せずに成長したと思った清和源氏(876年没)の河内源氏が「八幡社の建立」(国家鎮魂から武神に)の方向へと荘園制を利用して勝手に走ってしまったのです。(「私闘」と「公闘」の差)
朝廷としては「賜姓青木氏」に代えての「賜姓源氏」がとんだ思惑違いであった事に成ります。

(特記 「摂津源氏」の宗家に対して「国家鎮魂の荒廃した八幡社の修復」を命ずるが進まず。全ての面での「修復能力」は無かったと考えられる。)

「3つの発祥源」ではなく「賜姓族の本質」を忘れ「武の勢力」に走った事に成ります。これが、蘇れなかった「空白期間の原因-1」であります。

(特記 「八幡社」は豊前国の宇佐郡の「神祇信仰」(860年頃)から始まり、その後、奈良に移り、奈良では朝廷に取り入れられ、本来「国家鎮魂の神」として崇められたのです。(神仏習合)
これが後に「河内源氏」(義家の頃1106年没)の守護神となり、その荘園制による名義氏「未勘氏族」に依って「武の神」として換えられてしまったのです。
その後、賜姓有無に関らず源氏は復興し始めた頃(1125年代頃)の「5家5流の賜姓族青木氏」に跡目を入れた。)

(特記 数少なくなった荒廃した「国家鎮魂の八幡社」を朝廷は憂い「摂津源氏」に命じて修復させ、この「摂津源氏」の赴任先のこの「融合血縁族」でもある「神明族の皇族賜姓信濃青木氏」に「国家鎮魂の八幡社の神官職」を依頼し務めた。その後、「摂津清和源氏」衰退で「国家鎮魂の八幡社修復計画」も消滅した。経済力も然る事ながら、寺社建設の匠の職能集団も持っていなかった。特別賜姓族は一門の中に建設工事を専門とする工頭の結城氏が居た。)

しかし、その後、再び全国に「神明社」を建立する役目を更に遂行させる「政治的状況」が強く成ったのです。これを憂いた「円融天皇(984年没)の政治的な裁断」で「特別賜姓族」(970年頃)を発祥させて「皇族賜姓青木氏」を支えさせて再び引き上げます。
且つ、「2足の草鞋策」(1025年頃)で勢力を盛り返し始めるまでの間、衰退(786年)から動きだしまで(880年頃)には100年程度を経過したのです。
「特別賜姓族の援護」を得て少なくとも「元の勢力」(「7つの権威力」の程度)に戻るまでには年数としては、累計約200年(970年)を経過した事に成ります。

その上記した「7つの勢力」と「平安中期以降との衰退落差」は激しいものがあった事が判り、「桓武天皇(806年没)の青木氏締め出し」がどれほど厳しいものであったかは判ります。
その「締め出し策」は、その後の復興を勘案すると、E「親衛隊最高指揮官の軍事力」とF「58万石の経済的背景」を外された事の為に起った「経済的な締め出し」であった事が判ります。
これが「空白期間の原因-2」であります。
(返ってこれが立ち直りの起爆剤と成り「商い変革」を起した。)

「伊勢青木氏」と同様に「他の皇族賜姓族」も同じ仕打ちを受けたのです。
後の「5つの勢力」は「永代」であった事から外す事は出来ず、依然、その後も生かされていた事が記録から判ります。(上記)

(特記 その後の賜姓伊勢青木氏の祖先の官職名には室町末期まで(右衛門)・左衛門・兵衛・民部が付いている。永代官職名であったからである。「特別賜姓族伊勢青木氏」にも付いている。)

実は、筆者は「衰退期間 空白期間100年(786-880年)」は本来であるのなら長過ぎると考えていて、「皇族賜姓族」の中には、特に衰退中は「伊勢青木氏」の中にはこれを指揮するだけの「長の能力」と「職人数などの建設能力」に欠けていたとも見て居るのです。
せいぜい「桓武天皇20年後」の「第2期の親政政治」を採用した「嵯峨天皇」に代わってから20年程度で戻せる筈で、残りの50年程度は「経済力の低下」を含めて「賜姓青木氏側」にもこの「2つの問題」があったと考えられます。これが「空白期間の原因-3」であります。

実は、この「衰退期間」、或いは、「空白期間」100年の「後半の50年程度」の期間の「神明社建立」の記録が殆ど発見できないのです。「八幡社の時期」(1030年頃)でもありません。
その後の100年後の「後の50年の範囲」(150年)では、徐々に発見できるのですが、調査の神明社記録から100年-1社/15年程度(凡そ社数5社程度弱 維持管理か)での創建年数しか発見出来ないのです。(維持管理する程度の能力が限界か)
この時期は「紙文化」までの切り替え時期でもあった事から、先ず「紙文化」に大きく左右されていた事が覗えます。つまり「復興する基盤」が未だ充分に成熟していなかったのです。
”梃子と成るまでには「紙文化」は成熟していなかったか、文化に対応する「殖産能力」が未だ完成していなかったか”の何れかであります。筆者は両方であると観ています。
これが「空白期間の原因-4」であります。

この間は「青木氏の世代数」としては2代程度に成り、この間、「皇族賜姓族」から立場を変えて急に「商い」をする訳ですから、「2足の草鞋策」を遂行するだけの「商い能力」(「長としての商いの器量」 試行錯誤・孤軍奮闘の時期)が充分ではなかった事も伺えます。
当然に「大商い」とするだけの「紙の殖産態勢」の成熟が「伊勢と信濃」に於いて間に合わなかった事が覗えます。これが「空白期間の原因-5」であります。

「商い」に伴なう態勢の内、「輸送力とそれを護る態勢の構築」にも時間が掛かった事が覗えます。
つまり「シンジケートの構築」であります。これが最も時間が掛かったのではないかと考えられます。直ぐに構築しょうとしても出来る組織ではありません。
それには、まずそれを支えるには「充分な財力」と「シンジケート構成要員」が必要です。
この「2つの条件」と「時代の環境変化」とのマッチングが合わない事には構築する事は出来ない筈です。その「時代環境の充実」と「充分な財力」と「大量殖産態勢の構築」の「大商いの3つの条件」が合致してこそ「シンジケート構築」(嵯峨期の賜姓詔勅のリスク)が出来るのです。財力が伴なうに連れて嵯峨期より少しづつ構築して行ったのです。(退避地の構築と維持管理等も伴なう)
「空白期間の原因」の内で最大に時間が掛かり難しい問題です。これが「空白期間の原因-6」であります。

確証出来る幾つかの資料の記録からはこの様な原因を読み取る事が出来ます。
何にしても”「100年の復興」は長過ぎた”と本来では考えますが、考え方に依れば、この「6つの空白期間の原因」からすると「未来の子々孫々の形」から考えればむしろ短いとも取れます。
考察してみますと、そもそも、この「100年の期間」の「当時の商い方法」は、未だ時代的に「殖産量産態勢」(一貫生産販売態勢)と云う形は青木氏が初めての記録ではないかと観ています。
現在で云う「総合商社」であったのです。それまでは「部制度による生産と市場経済」(計画生産と残余放出市場)であったのですから、「殖産-量産-販売の態勢化」は当時の社会の別の「新システム」であったのです。それだけに時間が掛かります。
恐らくは、「商い」を得て賜姓族を復興させるには普通の「商いの仕方」では賜姓族に与えられた「国策の責務」を遂行する事は不可能です。そのために考え試行し一つの形に確立させるには相当な時間が掛かります。この「商いの革命」とまで云える事が本来の考え方ではなく完成までの200年は短いと考えているのです。上記で”本来であれば”とした事は、”長くは無く短かった”のです。
当時としては、恐らくは、「殖産-量産-販売の態勢化」は発想外の「商いシステム」で社会の体制の全体が現在の様にその様に成っていないのです。取分け、「商いの安全」と云う面で考慮すれば雲泥の差で「不可能」の結論が出る筈です。
次第に「嵯峨期の賜姓詔勅リスク」を果す中で、この「シンジケート策」の「商いとの連動」を模索し確立させたのだと考えられます。シンジケートを確立させるだけでも「至難の業」であります。
それを成し遂げ、遂にはその新しい画期的な「殖産-量産-販売の態勢化」の「商い」に連動させると云う考えられない「離れ業」を成し遂げたのです。
そして、それに加えて、「総合商社的な大商い」に改革を進めたのです。

(特記 伊勢青木氏の記録に遺されている。この為に「海陸の運送改革」も実行されている。千石船3隻と瀬戸内の海鮮業と廻船問屋を営む讃岐青木氏との連携を構築する。)

「寺社建築」と「紙」を主としますが、記録によるとそれに伴なう関連品、火薬、武器、家具、骨董、絵画、食料、材木、建築材、リサイクル品、花火などの商品と「手配師」(口入業 青木氏が抱える職能集団の手配)をも扱っていた事が資料から判ります。「商い」の始めは神明社建設に伴う関連品と紙を主体としていたのですが、徐々に間口を広げていった事が判ります。真に貿易も行う「総合商社」でした。

(参考 因みに、中には面白いものとして資料から、”元禄の浅野家開城の際に瀬戸内に船を廻し、千石船三艘を出して、浅野家家財を買い取った”とする記録が遺されています。廻船業の讃岐青木氏の協力を得た。)

この後半の成熟期の頃の1160年代に隣の伊賀の「たいら族の清盛」が「宗貿易」を「瀬戸内の産物」で構築して巨万の富を得ています。
この事から、この時期には青木氏は「2足の草鞋策」(1125年 青木氏の記録)には既に成功している時ですから、清盛(1181年没)は隣りの伊賀和紙で繋がるこの青木氏からこの商法を間違い無く学んだと観ているのです。

(特記)
「伊賀和紙」は「清盛の実家」の産物でこれを扱うのは「青木氏」、和紙を作るのは阿多倍の職人伊賀人、伊賀は大化期に阿多倍に与えた「伊勢の半国割譲地」、「530年来の隣の住人」、「伊勢青木氏の跡目京綱」から「以仁王の乱」の兄弟の「源の有綱と宗綱の助命嘆願」に応じた事等の関係から、間違い無く、「青木氏の商い」を間違い無く学んだ筈で間近に観ていた筈です。これを「平清盛」は「源の義経」に教えたとする記録もあるのです。
(参考 摂津源氏四家宗家三位源頼政の子仲綱の子の有綱、宗綱は日向に配流 その配流孫は日向青木氏 伊勢青木氏京綱と兄弟)

この特記の史実からしても、凡そ「1025年」を境に「前半150年の復興期」と「後半の150年の成熟期」とに別けられます。そして、「前半の200年頃が衰退空白期」、「後半の200年頃が絶頂期」と成ります。

「200年」は「特別賜姓族」の援護を受け「紙文化」の進行で上記の6つの原因が解決され「2足の草鞋策」が軌道に乗り、「神明社建立(4社/5年)」を再び続けられる能力を復帰させた時期を意味します。
この期間と時期は納得出来るのです。その意味で、この「2足の草鞋策」がEとFを補った事から復興し、Eの力は無くしたものの「円融天皇」により再び本領安堵され、それをベースにこのFの数倍に代わる力を保持した事に依ります。
Eの力はその後、平安末期後の時代の変化と共に必要としなく成ったのです。
むしろ、必要としなく成った事の方が、「皇族賜姓族」に執っては幸いしたと云えるのです。
反って、「6つの問題」を解決し「子々孫々の形」が充分に整えられ、その結果、「生き様」に余裕が出てたのです。
そして、その「生き様の形」が「武」の勢力を捨て「和」の勢力へと「生き様」を完全に切り替えする機会を得た事に成ります。
それがあらゆる面での負担減と成り、それが益々「2足の草鞋策」を推進する「足場」と成ったのです。そしてこれ等の基盤が平安期を越えて「神明社建立」と云う形で室町期まで続いたのです。
これ等全ては、まさしく「特別賜姓族の援護」を得た事に因るのです。
そして、それを裁断した「円融天皇」の御蔭であると云えます。
これで平安末期以降の「新時代の神明社建立の責務」に邁進出来たのです。
この「神明社建立」が「民の賛同」を得て「氏上様、御師、総師」と崇められ、それが「青木氏の態勢」を勇気付けさせたのです。
この状態は明治35年まで続いたのです。

(参考 その後、室町期の混乱期を経て、「神明系5社」は江戸幕府の財産として引き継がれ、青木氏の浄土宗寺の保全」と「浄土宗督奨令」と共に、寛永の頃から神明系5社の「復元修復作業」が幕末まで続いたのです。)
(伊勢松阪の大火で出火元 全財産をなげうって賠償 菩提寺も焼失 この時点で「伊勢青木氏」の分家が大阪で紙商(現存)を営み、「信濃青木氏」(現存)も商いを縮小した事が記述されているのです。信濃青木氏とは明治35年を境に親交関係は途絶える。)

これ等は重複して何度も前段でも論じて来ましたが、この「最古の神明社」は現在の「滋賀県湖南市三雲」に存在しますが、この「最古の神明社」の持つ意味は青木氏そのものの始まりなのです。
その「青木氏」は冒頭の「基本デ-タ1」と「基本データ2」から始まったのです。
当時(平安期)の「皇族関係者の同族血縁慣習」に基づいて「副軸」として「氏家」は構築されて来たのです。
この様に「最古の神明社」と云う視点から其処から伸びる枝葉を改めて論じてみました。
現在も研究を続けていますが、なかなか難しくとりわけ資料の発見が個人情報の法的枠が働き困難と成っています。
本論の22までの中で更に巾を広げて研究しなくては成らない事がありましたが、青木氏に関する子孫に遺す事の出来る研究範囲は、”最早、この辺が限界かな”と感じています。
後は本段の様に、「存在する資料」に対して「別の視点」からの考察に成るのでは無いかと観ています。


参考資料等
日本書紀 古事記、六国史、氏族志、新撰姓氏録、尊卑分脈、寛永諸家系図、伝諸家系図纂、寛政重修諸家譜、中臣氏系譜、武蔵7党系図、大日本史、累聚三大格、 他20史録と地方史録と外国の研究資料、五大歴史小説家の資料と論文、伊勢青木氏信濃青木氏等の資料と添書と口伝、佐々木氏研究資料、国史資料等、 並びに関係協力者の知識と多くの資料と雑学の提供

  [青木氏の守護神(神明社)]  完
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