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卑屈と萎縮の脱皮



◆ [No.303] 卑屈と萎縮の脱皮
投稿者:福管理人 投稿日:2014/01/14(Tue) 19:07:33


最近の青木氏氏のチャツトを観て思う事があります。
チャツトのご意見を見て、投稿を寄せて頂いている”あおきさん”とチャット外でよくお話する事があります。
今回の新春のお話の中で、昨年のチャツトに議論が及びその事に付いて一つご意見がまとまった事がありました。取りまとめの役目を負いましたのでそれをご披露したいと思います。
今、政治問題化している「日本の現状の問題」に成っている事柄です。
つい最近次ぎの様なことが起こりました。
それは「靖国問題」に対する、或いは日本に対する「米国の失望論」です。
実はここには大きな意味が潜んでいます。
その事に付いて少し議論したいと思います。

「米国の失望論」
先日、安倍氏が「靖国神社」を訪問したが、これに対して米国は”失望した”とコメントを出した。
今までの「米国の反応」と違った「異質の流れ」のコメントであって、その「言葉の持つ意味」には大変な「米国の態度」を示した事に成る。
この事は、今後の日本が採るべき、或いは考えておかなければならない事柄が潜んでいる。

先ず、この事に付いて、中国と韓国の反応は、過去に重要な「歴史的経緯」がある為に当然の結果としても、 問題は米国の”失望論”であり、これにはそもそも「移民族の米国の概念」と「融合民族の日本の民族の概念」が異なる事が存在している。云い換えれば、「伝統」なるものの違いが存在している。
特に、米国人は他民族に比べて、この「伝統」なるものの理解が低い。「移民族の他民族国家」であるが所以で一面ではやむ終えない事ではあるが。しかし、駆け引きの場の「政治の場」の面ではそうは行かない。
米国内ではいざ知らず、国家間では考え方の異なる他民族との折衝と成るからだ。
その異なる事を租借して国家間のコメントを出すのが常識でありながら、そうではなかった事が先ず第一に挙げられる。(もともとこの傾向はヨーロッパ系の民族には強い傾向がある)
日本には米国と比べて、戦死者に対する「日本人の尊崇の念」の有り様と、 それを具現的に表す神社と云う概念の結びついた国民的概念の有り様は日本には厳然として必然的にあり、それは他国に比べて異質で強いものである。この異質の概念の一つが外国から”サムライ”と表現される所以であろう。
しかし、この概念のない米国はこの概念の違いを無視した。 ここに大きな潜在的な問題がある。

では、果たして、問題とする ”失望”と云う概念の奥にはどの様な意味合いがあるのか考えてみる。
今回の場合は、この”失望”とする言葉の先には、先ずは ”仲良く”とする「主観的感情」が存在する。
更に、失望するには、”以前に”信用していて”それが裏切られた”と云う事にも合わせて成る。
この2つの事が問題と成る。

そこで、先ず、この”「主観的感情」”を専攻して民族や国家が持つ民族的な「尊崇の概念」を無視して、この ”仲良く”を専攻させるべき事であるかは明らかに違う。
それは”仲良く”は”主観的”に関わる。”主観的”は人、民族、国家によって明らかに異なる。
日本と云う国家では「尊崇の概念」は、最早、”サムライ”と日本人自らも自認し呼称される様に「主観的な事柄」ではない。
日本国民が持つ「共通の基本概念」である。
確かに「主観的感情」で個人的要素のものではあるが、日本人全てが共通して持つ欠かす事の出来ない感情で、生活の慣習の中に深く浸透していて共通している事で、この念を欠落すると日本人として社会の中でなかなかスムーズに生きて行けないし、兎角、信用されず低く見られる事に成る重要な欠かす事の出来ない概念である。
つまり、「感情の域」を超え、「主観の域」を超えているのである。
所謂、「国民性」なのである。
この概念を”共通に持つ事に依って強く結ばれている”と云っても過言ではない。
判りやすく数式論に置き換えれば次の様に成る。
「主観的感情」<「共通基本概念」=「国民性」の数式が成立ち「国家」を構成する。
ここが米国の「移民族の国家」の「思考原理」と異なるのである。恐らくは100万遍労を駆使しても、彼らには充分な理解は得られないだろう。
つまりは、「移民族の思考原理」で、「融合民族」を評価した事に成る。
それは彼等(ヨーロッパ系の民族)が示す”自己の民族の思考の優越論”からくる論調の結果であろう。(筆者は特にこの論調で議論になった多くのこの経験を持っている。)
つまり、「融合民族の思考原理」≠「移民族の思考原理」であり得る。
彼等の”思考の矛盾点とも云える。
そもそも、この「世の自然原理」として万物に適合する摂理として ”考え方が違うから「同じ考え方」の者が集合し、だから「国家」として「屯」を民族は構成する。
人間のみならず鉱物も同じである。万物の核の構成もこの自然摂理で成立っている。
従って、この関係が無ければ「屯」はしない。「屯」の前提である。価値観は良く似ているが考え方が違うと云う事である。価値観=考え方では必ずしも無い。
故に、”「優越」を前提として他民族の考え方を否定し低く見る思考原理”の「民族性」は矛盾である。
「民族性」、或いは「国民性」が低かろうが高かろうが存在するのである。
”優越するから相手には考え方が無い”と云う事でもないし、”無視しても良い”と云う事ではない。

最近は、”世界の平均的な考え方”として「グローバル思想」と云うものが漠然とあるが、「屯」を構成する国内の行為ではこの「グローバル思想」は別問題である。
取り分け、「尊崇の念」の様な「国民性」は国内では「是」である。「屯」を構成する以上は国内では”グローバル”ではない。「国民性の坩堝」の中にある。
それでなくては、”日本国では無い事”に成る。周りが「国民性」が無くなって、全てが”グローバル”に成ってしまったら「屯」では無く、果てには「国家」では無くなる。米国の様な国に成ってしまう。
しかし、端的に云えば、「尊崇の念」は”尊敬に値する概念”であり、所謂、世に云う ”グローバル”であり、「良い国民性」である。
「尊敬の強弱」はあるにしても、”尊敬を否定する者”は幾らなんでも、”グローバル”ではないと「米国人」でも云わないであろう。
ところが、況や、この「国民性と伝統」に対して ”グローバルの末の形”には相反するものがあるのだ。”グローバル”が進みすぎると「国民性と伝統」がアメーバーのように食われてしまう危険性を持っている。
強いて云えば、「国民性」は、兎も角も、最近では、この行過ぎた”グローバルの考え方”が「伝統」を消し去る「最大の要因」と成って来たのである。
そもそも「伝統」とはその国の「国民性」が構築するからだ。
依って、国内までも、この”グローバル”を容認するも”絶対的な思考”として持ち込むべきではない。
何故ならば、”グローバル思考”の果てには、論理的に”「伝統」の否定”が起こる。
重ねて何故ならば、「国民性」を維持しているのは「伝統」であるからだ。
むしろ、”グローバルの考え方”は、諸外国、取り分け先進国との「政治と経済の運用手段」、又は明快に「知識」として位置づけて活用するべき考え方である性質のものである。
つまり、「国民性」を色濃く持ち「伝統」が多く存在すれば、その果てには ”グローバルの思考”は成立たない訳である。
そもそも、”グローバル”の思考は他民族が共通の場で共存して生きて行く為の ”平均思考のルール”である筈で、依って、米国の様な「他民族の坩堝」の「移民族」の中の思考が主と成っている。
最近、世界情勢から”難民と移民の傾向”が進み、各国は「移民族化」を起こしている事による流れの現象もその一つであろう。
日本の様な、「異民族」の「他民族」が、初期に唯一”「単一融合化した民族」には、つまり、この「国民性」や「伝統」が多く存在する国には、この”グローバル”はある範囲では容認するも「要注意の思考」であろう。

そもそも、”グローバル、グローバル”と鬼の首を取った様に云うが、確かに、「世界の民族」の考え方や商習慣や社会習慣等を知る事は、上記している様に ”「国民性」を知った上での判断の事”として指摘しているが、何も全ての考え方を ”グローバルに成れ”と云う事では無く”、グローバル”に成る事そのものが目的では無い。
そもそも、「語学の習得」がグローバルと思っている節がある事は問題で、それを成し得るに必要とする一つのツールであっても、「全ての目的」でもなく、要は、相手の国の「良い国民性」を良く知る事に重点を置く事に成るのだ。
今までも、日本の発展に供したのは「語学」のみならず、”何らかの方法”で「異民族の国民性」を勉学し、習得し、それを以って折衝して来たが、その際には互いに何とか「共通の理解」を得て来たのだ。無かった訳ではない。
それには先ず何よりも互いの「良い国民性」を良く理解し、互いの「悪い国民性」を指摘し、排除して、「コミニュケイション」を得て来た。
矢張り、この様に論理の終局は ”、グローバル”は「良い国民性」に繋がる事なのである。
ただ、ここで「卑屈と萎縮」を排除して、我々日本人はより一層の「コミニュケイション力」を獲得しようとするものである。
昔は、筆者は、中国や世界各国から来た「企業実習生」と懇談してこの事に付いて議論した事がある。
世界で活躍して貰う為に ”グローバル的な行動と考え方”を、端的に、彼らに理解を得た例題は意外なものであった。それは当初、彼らに云わせれば、”国民性の良い悪いの判断”が付かないとの事であった。その理解を得たのは、それは、何と”「立小便」”である。
私たちの若い時には、この「道端の立小便」は何の抵抗もなくしていた。不思議に爽快な一時であった。しかし、「良い悪いの国民性」はこの「道端の立小便」の例で有った。
中国人は、最初、猛反発した。その「論理の根拠」は、矢張り、”「小便」は、”人間が持つ最も自然な生理機能”であり、”人は無条件にその「自然な生理機能」を尊重すべきである”と主張した。
矢張り、「法より人」の考え方に従う国民である。
その例に挙がったのは、「観光地での立小便」で、中でも”「富士山登山」で外国人は平気で立小便や痰の排出などの「生理機能」を到る所で平気に果たしている”とする批判があった。そして、注意すると、矢張り、「上記の論調」であった。
そこで ”中国では良くても日本では「悪い性癖」なので、この「悪い性癖」は世界の先進国でも「悪い性癖」であり、何処の国でも「社会の良い環境」を維持する「ルール」を破壊する「悪い性癖の国民性」であるのだから、貴方達の言い分には一理あるにしても、世界の「平均的な約束事」として護らねば成らない”と説いた。
日本にいる場合では「日本の法」に従うのが普通であり、「中国の法」に従うとする論調は異常である。依って、「仕来り 慣習」も例外ではない。
例え、「法より人」の考え方を持っていたにせよ日本では古来より「人より法」の社会と成っている。”自己の主張をするのであれば日本から出て中国でして貰いたい”と繰り返した。

元々、実習でも「自国の考え方」を日本でも平気で主張する傾向があり、なかなか注意を受け入れない傾向(国民性の性癖)があった。挙句の果てには、”中国は大国である”と虚勢を張って主張する始末であった。まさに例外なく「中国人」である。

”「人、時、場所」の要素が異なるのだから、日本にいる限りは「日本の慣習や考え方」を少なくとも護るべきだ。その「日本の考え方」が「良い考え方」であって、「世界の考え方」の平均に成っているのであれば少なくとも守るべであると、その事に依って、現在の「日本の発展」に供しているとした考え方が、要するに「良い考え方」の定義なのだと、「良い考え方」(良い国民性と伝統)であるからこそ発展したのだ”と説得した。
そしてところが、現在の様に国が発展した日本も60年前までは例外ではなかった。
しかし、”この様な事を改め無くして行った”と説いた。
国に帰り「日本の様に発展した国」を作りたいのであれば、”「悪い性癖の国民性」は排除しなければならないのだ”と、それには”「立小便論」を会得せよ”として彼らを納得させた。
”何時もグローバルを考えた時には「立小便論」を思い出せ”と説いたのである。
この「立小便論理」で、”「意匠問題」に繋がる「物真似」も同じである”と説いた。
日本の労働条件や日本の商慣習など数え切れない考え方もこの「立小便論」でクリヤー出来た。
要するに、それは全て”「グローバル」”で、「日本の良い国民性」であった。
その時には「語学力」は「大きな問題」では無かった。
その秘訣は、”双方の国民性の対比が出来る程度のカタコトの語学力”であった。
これが、”グローバル”の判断なのである。

筆者は、結局は、「グローバル」=「国民性」の関係にあると信じている。
決して、”適度のグローバル”は、”「国民性」、或いは「伝統」を否定するものではない”と云う事である。「日本のグローバル化」はそれを前提としなければ成らないのだ。
何も「国民性」を否定した”行き過ぎたグローバル”ではない。
この「失望」のコメントをだした人物や機関は、この考え方を失落して優越論の末に更には「感情主観」に走ってしまったのである。

因みに、中国は「偽物」を平気で作るが、彼らの言い分は、人間には、本来 ”物を真似るという本質”を持っている。故に、”その「本質」を働かせるのは何故悪い”と云う言い分を決まって述べる。これには一理はある。
しかし、”グローバル”では、これは許さない。しかし、依って、彼らは「意匠権・商用権などの特許権」を認めようとしない。しかし、これは「良い国民性」を代表する「概念」ではない。何でもかんでもではない。
「尊崇の念」の様な「国民性」を物語る「良い伝統」を伝える概念は”グローバル”の対象ではないのが定義だ。
依って、国内は「国民性」であるべきである。国内にも地方色がある様に、「情緒豊かな環境」であるべきである。
”グローバル”は ”「他民族との折衝の場」の「共通する手段」” として「別の認識」として持って置かなければ成らない「知識の領域」の事であるべきだ。
依って、”グローバル”に拘って、「国民性」、即ち「尊崇の念」の為にも、国内ではこれを否定する「卑屈と萎縮」を取り除くべきである。
敗戦に依った「卑屈と萎縮」がそれを(必要な適切なグローバル化の遅れ)起こしているからだ。
逆に、彼らの「優越論」は、この”グローバル”の過剰思想の所以である。”グローバル”に陥り過ぎても優越論の様な事に成り好ましくない。
彼らには、「自分の国の考え方」が何処でも”グローバルだ” と必要以上に考え過ぎているのである。
確かに、グローバル”の多くは”自由”を前提としている「移民族の思考原理」に多いのは否定できない。
そうでなければ、彼らの社会は構成出来ないであろうことは否めない。
米国は、国内でも「自由」を前提とした思考原理の”グローバル”の概念だから、国外も殆ど”グローバル”の概念に成っているから、他国の国内でも”グローバル”の概念であるべきだ” と思い込むのも無理の無い事だが、ここに彼らの矛盾点がある。
然し、国内は「屯」を構成している以上は「国民性」を保持するべきである。
”グローバル”は「国民性」(伝統)を否定するものでは決してない。
故に、2「良いとされる国民性」”が存在する限り、他民族の者は、この場合は、「日本民族の思考原理」が同であるかを思考をめぐらして「答えの発言」をしなければ成らない訳であった。



しかし、米国の「失望論」はしなかった。自らの「民族性の欠陥」から、これを欠落したのであり、当然にその思考は「政治の場」の判断としては低質すぎるし、「感情主観」である事になる。
まあ、百歩譲って「感情主観論」のものであるとして、妥協して考察すれば、次に、この「主観的感情論」にその国民がどの程度のウエイトを置く思考原理を持っているかに問題は移る事に成る。
ところが、移民族の他民族の国家であるから、論理的に考えれば、相反する徹底した「合理主観論」が「共通する概念」となろう。
しかし、この「失望論」は、そんな環境の中でも、「感情主観論」を展開した事に成る。
つまり、今までとは異質のコメントに成る。大使館を管轄する国務省コメントであるが、大統領府のコメントではないところにまだ救いは有る。国務省だとしても問題は問題である。

これには”米国の失望”の根拠とする中には”仲良く”と云う思考と、もう一つ ”相手を信用しなかった”と云う意味合いが大きく潜んでいる事になる。
過去に「信用」していたが、「靖国」で「信用」できなくなった。だから、「失望」した事に成る。
「信用」していなければ「失望」には成らない。現在にも”信用しない”と発言した事に成る。
この「失望」には、この”仲良く”と、”信用”と云う問題にすべき要素が含まれている。
だから、この2つの事の「米国の失望論」に対して日本の人々は「違和感」を強く感じて ”センセーションの渦”と成ったのである。(日本の反応に対して彼らは当然の如く驚きヒートした。)
その”仲良く”に対しては、今、”仲良く”とする行動を採るべきか、その”時期”にあるのか、どの様な”仲良く”が存在するのか、はたまた”仲良く”した先には”何”が待ち受けているのか、普通は考える。
少なくとも日本人の「国民性」からすれば、常識となっている「人時場所の思考原理」を働かせる。
そうしなければ「7つの民族」が融合して「屯」を形成させる事は不可能であったし、現在も同じである。
だから、”うん、変化だ、おかしい、異質だ、その先には、果たして「同盟」に与える影響はどの様になるのか、今後、どうすればよいのか、” を瞬時に考えた。と云う事に成ったのである。
それが「噂」では無く、日本大使主導の「正式な国務省発言」であったからだ。

そして、「信用」には急に出て来た「米国の態度表明」でもあった。
そもそも、この”「信用」”には、仲良くするには色々な「政治の場」での「条件や立場」がある。
それなのに「自分の国の思考原理」だけで低質で短慮に単純に考えて、日本が ”米国の言う通りに行動しないと、今後、信用しないよ”と成る。
「信用」しなくても良い、「同盟」と云う事を結んでいなければそれでも良い。
「同盟」は”信用を前提”として成立っているからだ。「信用」できない相手と「同盟」を結ぶ事は無い。「信用」=「同盟」の関係にある。
つまり、この”失望した=信用しない”と発言した米国は、暗にこの「同盟の破棄」を結果として臭わしてしまった事に成るだろう。
更に突き詰めれば、次の米国との「政治交渉の場」に、この「失望」、”信用しないの発言”を取り除かないと、”何時まで信用されていない外交交渉”をする事に成る。
「同盟」の中では有り得ない事に成る。
例え、「失望感」があっても思っていても発しては成らない禁句である筈で、それを発してしまったのだから、日本側は、今後は注意をして置かなければ成らない事に「政治の場」では戦略上は成る。
ある政府の高官が発した言葉では無く、大使や更には国務省の正式コメントであるのだから、十分にこの禁句のチェックは効いていた事に成る。失言ではないのだ。
オバマ氏と習氏との会談以降、米国は”中国より”に発言するように成っている事には失念しては成らない。大なり小なり ”同盟の如何”に変化を来たしている事に成る。
自衛隊との合同演習にもこの態度は露骨に出始めている。

「米国が観る中国」と、「日本が観る中国」とはその「国民性」が異なる為にその重要性は異なる。
「日本が観る中国」は、事を起こせば軍事と経済に於いて、中国がそのファンダメンタルが外資に頼っている比率が大きいし、取り分け、日本に頼る事が強い筈で、「一国二制度の矛盾」を持っている事から「共産党の崩壊」に繋がるは必定で、「尖閣問題」の様なある程度の小競り合いはあるにしても「実戦」は起こせない筈で、故に「政治の場」の駆け引きの範囲の「虚勢」は張る事には成るだろうし、これからも続く。
そもそも、「一国二制度の矛盾」は市場経済の制度は「自由」を前提として売買は進む。
「市場経済」を無制限に進めれば人は「自由の良さ」を知り、政府に対して「自由」を求める。
しかし、「共産主義」はある程度の「自由」を制限する主義である。依って、何時かこの「自由の要求」が強く成った時点で論理的に「乖離」が起こる。
その「乖離」は、何かキッカケで起こる筈で、”日本とのある程度の争い”でその矛先は共産党の政府に向けられるは必定である。従って、中国国民向けにも「虚勢」を張り通す事になるのである。
要は、日本が「弱み」を見せない姿勢を日本側が採る限りは現状維持を図る事は出来るだろう。
それには、別つの意味で ”「卑屈と萎縮」は禁物である”と観る。
むしろ、「中国」と云うより先には「失望」と云う言葉を発する「米国」との関係の悪化が懸念される。
それは、日本が[ファンダメンタルの影響]の”歯止め”と成る垣根が無い米国ならではの事であるからだ。
筆者は、米国が「中国よりの政治路線」をこれからも採る限りは、この事が「第2次大戦の経緯」を辿る事に心配をする。
その意味で ”失望した=信用しない”には、この「失望」と云う発言に危機感を感じる。
日本側が絶対に避けねばならない「経緯」である。
そもそも「戦争」とは国家の明確な「意思」では無くその前の「経緯」から勃発するものであるからだ。
上記した様に、「中国より米国」と「失望発言」と「習会談」や「合同演習」などあらゆる関係を考察するとその危険性が懸念される。
況して、「自主防衛」「憲法改正」「基地返還」「米国を凌ぐ経済発展」等を進めれば、「日本の発言力」は増す事は間違いはなく、”米国側に採ってこれをどう観るか”と成る。
まさに、「第2次大戦の経緯」である。又、「石油の制限等の経済封鎖戦略」で来る事は最早無いであろう。
しかし、一つその懸念事項があるのだ。それは「日本産のエネルギー資源」が発見されて充分な資源国に成った時点では、事態は異なるだろう。
メタンハイトレートや自然エネルギーが発見されて来ている現状では「資源国」に成る可能性は高いし、その対策は進んでいる。10年程度の先には、資源国に成った事に依る危険な問題が露出して来るだろう。
何故ならば、資源に掛かる経費は日本全体の経済の国家予算の最大5割程度を占めている現在、これが資源国に成った事に依ってこの経費の多くは浮いてくる。
問題は ”この経費が何処に回されるか”は明らかである。「資源国」を護る為の「国防費」となるは必定である。そうすれば、「卑屈と萎縮」を持つ日本に関わらず、エネルギーで「世界の勢力図」は変わる事に成る。石油枯渇の問題もあり、当然に、隣国と先進国は今以上にこれを警戒する。
これが戦争への逃れ得ない「経緯」の流れの一つに成るのだ。
むしろ、現在の中国と韓国と米国のイライラは内心はここにもあるのだろう。
「憲法改正」や「自衛権拡大」などの保守化が進む日本がこの立場に立てば、その実行するファンダメンタルは充分にある事から、「現実の問題」と成って来るのは間違いない。
だからと云って、「卑屈と萎縮」をそのままにしてはこれからの国が発展するチャンスを失う。
元々、他国と異なり、”「国民性」として優秀な「発展する能力」とその「チャンス」”に恵まれているのだから、「卑屈と萎縮」をそのままにして圧力に屈し現状で甘んじる手は無い。
日本が資源国に成る事は”鬼に金棒”である。この為の要素が日本の周囲には整いつつある中で唯一つそれを成しえる為の「心の気概」に不足している。それが「敗戦の後遺症」の「卑屈と萎縮」であると談じている。
その為にも、今以上に成長させるには「卑屈と萎縮」から脱皮する事が必要で、今の様な態度の維持はこれを成し得ない。それには”米国の失望から来る圧力”に屈しては成らないのである。
しかし、屈しないと、上記の経緯を辿る羽目に陥る事は必定であろう。
そもそも、日本での日常の会話の中では、「失望発言」は上から目線である。圧力を臭わしている言葉になる。日常会話の中ではないとすると、少なくとも日本人はその様に採るだろう。
言葉のニュアンスは「国民性」であるので、”上から目線を彼等に租借せよ”とまでは云わないが、圧力的な意味合いは少なくとも「失望と信用とする言葉」からはある。
そもそも「2者択一」である。この事を韓国は別として中国は必ず観ている筈である。
何故ならば、中国の「国民性」や「政治事情」はあるにしても、両国は古代からの「歴史の関係」から良く似た思考原理をそもそも採るからだ。
因みに、「駆け引きの古書」の様に、上記した様に「六稲三略」はそれを具に物語っている。
この「六稲三略」は政治や軍事や経済の駆け引きの場で使うが、日本と中国は古来にこの中国から持ち込まれた考え方を「駆け引きの思考の原点」としている。
従って、この「思考の原点」から、むしろ、中国は「米国の失望論」で「虚勢」の足しに成る事からほくそ笑んでいるだろう。
「一国2制度の矛盾」をクリヤー出来るからだ。自ら手を下さずに「米国-日本の関係」が崩れてくれればこの矛盾の危険性は排除出来るからで、「虚勢」の代わりに成る。

先ず、次に、この”仲良く”には、「国家」や「民族」と云う前に「人の性」の思考原理にも関わる。
そもそも”仲良く”は「女性的な思考原理」に左右されている判断で、特に”政治の場”ではあまり採用され得ない思考である。
何故ならば、”主観”である事によりその人によりその”主観”が異なるからで、千差万別の結果が招かれるから賛同が得られにくい思考であるからだ。
当然に、主観であるから”仲良く”の程度も千差万別と成る。
喧嘩状態でも”仲良く”とする論調も生まれる。
しかし、”仲良く”は否定はしない。”仲良く”が採用し維持できる環境である事に越した事はない。
では、百歩譲って、この相手の国の中国と韓国に、ここで ”その”仲良く”を採用したとして、果たして、その ”仲良く”の「良い結果」を招き入れる事が可能であるのか大いに疑問である。
恐らくは、過去の事例から ”歴史認識”と云う理由を背景に量にかかって更に上から言い続ける事になる。恐らくは、その過去の遺恨から土下座してでもいい続ける筈だ

何故ならば、事実、日本はこの2国を過去にその理由如何によらず「侵略した行為の非」を持っているからだ。された方にすれば、”「侵略の恥部」は何年経っても消し去る事の出来ない憤懣のしこり”であるからだ。
中国の様に”面子を重んじる国民性”では、「政治の場」や「教育の場」に「喧伝の道具」としてこの「憤懣の誇張」を持ち込んでいる。
況して、この2国には不幸にしてか合わせて「儒教思想」から ”過去に拘ること”を推奨する思考原理”をも「国民性」として強く持っている。それ故に効果は大きい。
それだけに「過去の事」に拘れば、中国にして観れば、各国から侵略された為に、”今はそうじゃないんだ”と「虚勢」を示し続け無ければならない事になり、それには「国民の目」を外に向ける必要が「政治の場」の事として戦略上ある。放置しておけばこの「憤懣」は政府に向けられる事に成る難儀な事がある。
それには、日中には格好の事がある。

その前に参考として、因みに、最近の”中国の中古空母の購入と改造”は「虚勢」の最たるものである。
現在では空母は近代戦の戦略上は無用の長物と成りつつある中では「中国の虚勢」を示したものに成る。何故ならば、この空母とは「最大の軍事費」の掛かるもので、経済成長の低下の中では将来は無理であろう。兎に角、空母は「周囲の戦機」が整わないと使えない代物であるのだ。
これからは「イージス艦の保有」であろう事は明々白々で、空母にしても「ヘリ空母」が機能的に戦略上良く働くと見られている。
(この「ヘリ空母」とイージス艦とは日本は主体的に保有し、その製造は日本の独断場である)
この様に、中国には政治戦略上、アンバランスが多く良く考察すると「虚勢」と見られるものが多いのだ。

それは「過去の日本の侵略」であり、これを誇張する事で国民に「憤懣」を助長させる事が出来る。
既に、戦後70年も経っているにも関わらず、この動きは衰える事が無く、常に格好の”日本非難の材料”として使われている。
こんな「格好の事」は先ず無い。”過去に拘る儒教の国民性”もある事からその効果は実に大きい。
今までは教科書にも載せての喧伝であったが、現在では、「改革開放路線」と「情報社会と経済進出」から真実を国民は知った為に、この「格好の手段」に効果が採れなくなったのである。
その為に、今度は「尖閣問題」と「防空識別圏」等の問題を持ち出して「格好の手段の国」として日本に「虚勢」を張り出したと見るべきであるが、しかし、これも”笛吹けど踊らず”に成って来たのである。
むしろ、日本を肯定し政府を攻撃し始めているのである。
しかし、国民の間では、概ね、「醸成化」に向かっているだろうが、これでは「虚勢」は成立たない事だし、その効果は低いから、何か”小競り合い” になる事を持ち出してくる事は今後も必定である。
その意味で、「絶好のチャンス」で、今回の「米国の失望論」は願ってもいない「格好の事柄」であった筈である。
自ら手を汚さずに”米国と日本の間に楔を入れる事”が出来たと云う点では叶ったって得られるものではない事で、最も「虚勢」の張る事の障害と成っていた「同盟」に楔を打ち込んでくれた、と観ている筈である。
その意味で、今回の”米国の大使主導の失望論は低質である”と云えるのだ。
その考えは「性」を超える事が出来なかった事を示す。

そもそも、この「感情主観の性」は、”神が人間に与えた絶対的な「性」”であって、この「感情主観」の「性」は女性が持っている。「女性」である限りはこの「性」から脱する事は出来ない。如何なる「男性の論理主観」を持ち得たとしても”イザ”と云う時にはこの感情主観に左右される。
これは決して「良し悪しの問題」ではない。況して「差別の問題」ではない。「神が決めた事」である。
問題なのは、「政治の場」では、残念ながらこの「感情主観の論調」は通じ得ないからだ。
今回はこの「政治の駆け引きの場」にこの「失望」のコメントを出した事にある。

恐らくは、これからもこの失態は間違いなく続くだろう。況や、これを繰り返せば、「同盟」に不必要な傷をつける事に成り、最悪の場合、日本は「卑屈と萎縮」を排除して「積極的平和外交」を続けるのであるから、上記の経緯に不本意に乗ってしまう事に成るかも知れない。
そうかと云って昔の様に、”米国の言い分と圧力”を飲んで無理やりに”仲良く” して、「卑屈と萎縮」に戻る事も出来ないジレンマに陥ってしまった事に成る。
況や、「卑屈と萎縮」をそのままに「憲法改正」は有り得ない。
日本側から見ると、”実に馬鹿なコメントを出してくれた”と成ってしまった事に成る。
先ずはこのコメントを無視する事が得策であろう。
無視される事で「自分の発言」(大使)に何かの異質に気がつく事を狙う必要がある。悪戯に反応してはならない。反応し続けると、上記したこの「最悪の経緯」に乗ってしまう事になるだろう。
要するに、「低質な性」から来る「米国の国民性」の露出であろう。
しかし、当のヒートした米国のこの事に対する主導する意見は、矢張り、「移民族の国民性」と云うか、「ヨーロッパ系の民族優越論」が花を咲かしている。
「同盟」を前提とする「失策の言」の意見は極めて少ない。
意見が少ないと云う事は、「同盟」は日本では「防衛の要」と考えているが、強国の米国側では比較的「同盟の意識」が低い事が云える。恐らくは米国の ”中国より”もここから来ているのであろう。
米国としてはこれは当然の事であろう事は良く判るが、米国側にしては大なり小なり自国の「直接的な脅威」であると云う訳ではない。極東に於ける平和維持の同盟である事は否めないのであるから、一歩譲って、日本側への「失望」コメントの「同盟意識の欠如」は、この観点からはまぁ仕方の無い発言とも取れる。
但し、それは”米国の国民の範囲の意見”に限られるのである。
日本を良く知る者の意見でも「民族性の概念の違いの神社論」とする意見は無かった。
筆者の過去の経験とほぼ合致するものでヒートしている。「中国重視論」が意見上に出ているのもある。

そもそも、逆に、自画自賛には成るが、「日本人の国民性」の優れているところは、この「仏教的思想」から”未来を志向する点”にあり、現に過去に敵対して占領された米国に対して、この”しこり”を消し去ってしまう「国民性の思考原理」を持っている程である。東北震災時の”友達”を物語る。
まぁ ”過去に拘る性癖”より人生を鑑みると ”未来志向の性癖”の方が生き易く楽しいのではないだろうか。「反省力」がないと彼等から批判されるだろうが。
「色即是空 空即是色 空不異色 色不異空」と仏教の「般若心経」は教えているのだから、「良悪」の問題でない。

その「未来性の志向原理」を持つ国民に対して、それから2年後に”失望”と云う態度で米国は示したのだ。「失望論」は「人時場所」に依って使い分けるのが上質の人間がする思考である。
この事に依って、その人、或いは「民族や国家」を周囲は高く評価する。
現実に日本人は高く評価されている。
つまり、日本が持つ「人時場所」の判断要素が、考え方の異なる「移民族」で構成されている事自体がそれぞれバラバラなのに、更にはその「異なる移民族の米国」は自由奔放な「移民族の思考原理」を前提にして日本を評価したのだ。
自分の狭い思考原理で相手を評価してしまったのだ。
この傾向はヨーロッパ゜系の民族に極めて強い。
どう評価するは勝手であるが、「同盟」と云う前提にある事を忘れてしまった「感情主観論」である。

そもそも、米国は別にして、中国と取り分け韓国の「国民性の思考原理」は、その儒教の影響から、”過去を重視し、” 仏教の日本の国民性は、有史来、”未来を重視する性癖”を持っているのだ。
違うのだ。違うものを味噌糞を同じにして思考するは、その判断能力は感情主観にしてもあまりに低質すぎる。
故に、その日本はこの状況の米国に対して、中国や韓国の様に過去に拘らず、「未来の有り様」に思考原理を展開するのである。そして、現実にその敵であった米国の良いところを吸収して今や米国に勝るとも劣らずの近代国家を未来に築いたのである。この判断を忘れている。
これは日本人の「武道の精神」の”負けて勝つ”にあるのだ。
その”負けて勝つ”の精神を構成しているのが、他に類と比を観ない”「尊崇の念」の強さ”にあるのだ。
これが中国や韓国に観られない「日本人の国民性」なのだ。
恐らくは、つまり、この精神をなくしては、”日本と云う国家”は成立たない限界の一線なのである。
その事を今回の米国の国務省の判断はそもそも欠落している。
(情報では日本大使の意見が主導したらしいとあるが、今後、”失望”と評価する根底の知識力に注意しなくては成らない相手と見られる。弱体化する今後の米国に、この様な間違いの判断が示される可能性が強い。)
そもそも、この様に、「政治の場」は国家の「駆け引きの場」である。
普通の商業の交渉の場ではないのだ。
「国家の主体性」を如何に相手に強く示す事が出来るかの「戦略の場」なのであって、場当たり的な「戦術の場」ではない。この「戦略の場」で負ければ、それは「国家が負ける場」なのである。
まさに”失望”とする判断は、「国家の主体性」を意味しているのに、この「米国の失望論」は「戦術の場」のものである。
この事はまさに米国は今回の事で”政治の何たるか”を失念しているのではないかとも思える。
故に、米国の言う通りにこの2国に対して、「国民性」が色濃く出ている国家の為に命を投げ出してくれた「尊崇の念」で譲れば、「国家」がまた負けるのである。
「実戦」で負け「国民性」でも又負ける事になるのである。”これでは申し訳が無い”とする感覚が強く生まれる「国民性」である。他民族とこの一点が違うのである。
(戦後、敗戦と占領の結果、「自信」を喪失して「卑屈と萎縮」が蔓延りこの傾向が強く成った。)
まして”「個人」”では無く”「日本民族」”と云う「国家」に命を投げ出してもらったのである。
当然に「国家」がこれに対して深い「尊崇の念」を示し、「向後の責任」を負うは当然の事であって議論の余地は無い。その責任の”表現の仕方”が他民族とは異なっているし、その強さは「基本概念」とも成っているのである。
日本民族の者の ”最高の尊崇の念を表現する方法”は古来から引き継がれて来たもので、それは「自然神」から来る「神道」との結びつきの表現なのである。
「神道」との結びつきの無い方法もよくあるが、それは一段下がった念の行為である。
「日本人の国民性」はこの様にあらゆる様々な「念の表現方法」にも「差別化」を図り、その重要性を表現するのである。
その「神道」の神社も、日本人の中で、多くの神社のある中でも限定して、戦死した人も国民も「靖国神社」と決めているのであるから、「靖国神社」に参拝して「尊崇の念」を表現する事は「最高の念」の表現方法に成る。
日本人の中にコンセンサスとして決めていなければ再考の余地も有ろうが、”靖国で又逢おう”と誓って散っていった人の意志を尊重するは「最高の念」の要素でもある。
これを無視する事では「尊崇の念」は成立たない。
例え、その「神社」にどの様な人物が祭祀されていようと「尊崇の念」には無関係であり、止めさせようとする念の低い一派の”こじ付けの低質論”であり、「尊い命」を「国家」の為に捧げてくれた故人への為にも左右されるべき事では決してない。
他民族、取り分け米国の様な「移民族」は、十束一絡げに「戦没者慰霊碑」で事は済むのであって、他民族国家である所以から日本の様な差別化した「神道」などと結びつく「尊崇の念」の表現方法はとり難く、「集約的な概念」の祭祀と成る事は無理な事であろう。
故に、「ヨーロッパ゜系民族の優越論」以外にも、この”他民族”と云う事も誘引して「差別化の概念」は彼等には無いのである。
依って、彼等には「神道と尊崇の念」との結びつきに対して”理解する事”は「困難」と云うより「無理」と云った方が適切であろう。
先日、米国の2人の長官が、”これ見よがし”に日本の「戦没者慰霊碑」に参拝したが、何も”靖国に参拝してくれ”とは云わないが、その彼等の思考原理の表れであって、「靖国神社」と「戦没者慰霊碑」とは、日本人の中では「最高の尊崇の念」の表現方法が異なっているのである。
「靖国神社」は上記する様に「命の約束事」の場であるのだ。
「戦没者慰霊碑」は国が行なう「政治の場」での「祭祀の場」に過ぎないのだ。
「最高の尊崇の念」と云う行為の中には、この「命の約束事」が条件と成っているのだから、この「命の約束事」が欠落すれば、それは「最高の尊崇の念」には成らないのである。
故に、その彼等の思考原理の感覚からすれば、「神社」との結びつき、又は「靖国神社」への「差別化」の「最高の念」の「表現方法」に理解が成し得ないである。
「卑屈と萎縮」の所以の一つとして「最高の尊崇の念」をかなぐり捨てて ”「戦没者慰霊碑」で良いのではないか”とする意見とは、この”国家に対して投げ出してくれた命”への「尊崇の念」の行為の表現とは異なるのである。
つまり「最高」では無くなる事の行為となる。他の「尊崇の念」であれば下げてでもそれでも良いが、この一点は譲れない「尊崇の念」の行為なのである。
個人で親などが自分の為に命を投げ出してくれて、自分の命が助けられたとした場合、その人は一生その人たちに感謝し、その人に執って最高とする「尊崇の念」を表現するであろう。
それが「国家」であり、強いては「父母等」に対しての保護などの報いと成る。
「国家」と成るからその念の表現が希薄に成る傾向がある人がいるが、それを国を代表するものが代して表現したに過ぎない。その表現方法が最高の方法で表現した事に過ぎない。
奇異に感じる事はその人に「希薄の感」がある事を否めない。
何故、希薄に成ったかは云うまでも無く「卑屈と萎縮」の所以である。
現に、自分の足元を観て見れば判ることである。
それは個々の家庭で毎年行なう「尊崇の念」の行事として、正月から年末まで行なう数々の祭祀の行事には、その多くはこの「神道」との結びついたものが多いのは、この日本人の「尊崇の念の差別化」の結果である。
中には「伊勢神宮」や多くの悠久の歴史を持つ由緒ある大社に参詣して、わざわざ「尊崇の念の差別化」をして、その「尊崇の念」に対する経緯の表現を採っている。
筆者は他民族との間で議論した数々の経験を持っているが、この「尊崇の念の表現方法の差別化」には理解は得られなかった。
特にキリスト教徒との議論は殆どの機会で白熱したが、韓国人との議論は別の意味が介在して議論に成り難く、「儒教」と云う点でも合致点は得られなかった。
しかし、儒教の中国系の者との議論にはある程度の理解は得られたが、”其処までする必要性が余り無いのでは”との結論の様であった。
それは”其処まで、と余り”とする意味にはある程度の合意や賛同の意味が潜んでいた。
そもそも「中国の儒教」には、我々日本人と同じく「日本の神道」には ”「自然神」を基幹とする中国の祖神の「鬼道神の流れ」”がある事と、”仏教の通過国”でもあり、更には ”法の政治より人を重視する思考原理”が彼等に存在する事から ”何らかの共通性”を感じたのではないかと考えられる。
何せ「文化や概念」を輸入した「過去の模範国」であった所以であろうし、日本人には2割程度の漢民族の融合族が存在する所以でもあろう。
何せ、その元を正せば、そもそもの「安倍氏」は6世紀の帰化人の後漢民族の首魁の「阿多倍王」の支流末裔の氏である。皮肉なものであろう。
「政治の場」が働いた事以外はもう少しの「醸成期間」が得られれば、民間の中国人には決して理解が得られないとは考えられない。
故に、筆者は中国は、この”靖国”には「政治の場の駆け引きの道具」にされてはいるが、一般国民には同意は得られていると考える。
今回の中国の国民の”笛吹けど踊らず”の結果は、この表れであって「靖国の問題」は、”心底からのものでは無い”と観ている。
そもそも、江戸時代に儒教は幕府に依って日本人社会に不適合として、関係者全てが一生投獄されて根絶させた歴史的経緯があるし、日本の生活のなかにもその名残が未だ色濃く残っている。
例えば、判り易い例として、「正座」である。儒教では礼を正すときには「正座」をする。しかし、仏教では「胡坐」であり、女性は「立膝」が正式な礼法である。
共通の慣習は遺されているのだから、「以心伝心」で何かを通ずるものがあるのだ。

チャツト意見にあった”「虚勢の表現」の「政治の場」の道具にされている”Tと考えられる。
中国の「改革開放」から閉ざされた窓が開き、「真の日本」を知り、更には上記する「共通点」を知り、「親近感」とまでは未だ行かずとも、ある程度の「理解」が醸成して来ている状況の中にあると観ている。
韓国は本来は共通点は多いし、中国とは異なり窓は自由に開かれている。
醸成する範疇でも無いし、文化や概念も古来より「倭人」が南韓域に韓民の1割にも成る程度に融合していて、日本では3割にも成る韓国人が融合している関係にある。
しかし、中国の様に、”醸成するキッカケさえ掴めば理解は得られる”と考える事も出来るが、韓国は元よりこの「醸成のキッカケ」は既に出来ている。
問題は、儒教から来る”韓国民の過去への拘りの性癖”にあり、且つ、女性大統領と成っている以上は感情主観論に左右されたその「性」から脱皮は難しい事と、「日本への借財」の「政治の場の駆け引き」から今はその時期ではないだろう。
この場合、無理をして”仲良く”を実行すれば、その結末には「無理の末路」が待っている。
その時期を待つ以外にはないと考えられる。
ただ一つあるは、韓国にやむなく「妥協の場」を発生した時にある。
つまり、再び韓国の日本への借財の原因と成っている「円安-ウオン高」で、「外貨準備高の不足」が起こる事以外には窓を開かないで有ろう。
その時がチャンスと成ろう。それ以外は「感情主観の歴史認識論」を持ち出して、何時までも日本に対して暗に「借財の放棄」を狙うだろう。

問題は、上記する様に、この様に「米国の失望論」にある。
これまた「女性大使の交代」に依って暫くはこの主観的で歴史の知識の欠落の論が起こり、難しい場面が出てくる事が考えられる。この今の米国のコメントの主観論は人が代われば、また元の知識と認識のある人物がなれば消えるだろうから、ここでも時期を待つにあると観られる。
では、何故、この「失望論」を出したのかを考えた時には、”米国のある焦り”が読み取れる。
それは、米国との同盟国の韓国に「外貨準備高の不足」が起こりかけているのではないだろうか。
「安倍氏の円安誘導」に依って、20円の差が発生した。
この差は「韓国経済」には大打撃である事に間違いは無い。過去に2度が韓国は「外貨準備高の欠損」を起こし、日本がこれを救ったがこれが大きな借財となっている。
むしろ、「韓国経済」が成長を遂げたのは、「円高」によって極度の「ウオン安」が起こり、三菱の電気と自動車のプラント輸出に依って、企業が起こり、これに円安と日本からの借財を全て注ぎ込んでその出資額の殆どを占める国家企業を仕上げ、その後、”恣意的な労働争議”を起こして三菱はその利益を無くして放棄した企業である。
しかし、ここに来て日本は円高誘導から円安誘導へと変換して経済を立て直しつつあるが、この影響を受けて、韓国は再び「外貨準備高不足の欠損」が起ころうとしていて、先日の日本の自衛隊による「アフリカでの銃弾提供」はこの現象を具に表している。
軍が遠征するのに銃を持って行くが銃弾を持って行かないのは笑い話である。
先ず有り得ない事態で間違いなく資金力が不足していた筈である。
米国は、この韓国の経済欠損の事を承知していて、アジア同盟国にスペインのような事が発生し、その中で中国や北朝鮮に戦略上の事が起こってはまずいと考えて、慌てて””仲良く”の言葉を発してしまったと観られる。
韓国のこの「経済欠損」を救うのは過去の2度と同じく日本だけである事を米国は承知している。
果たして、この償還は有り得るのかは疑問である。
この米国の失望論の背景の”仲良く”にはこの意味合いが強く含まれているのではと考えられる。
韓国は密かに米国に泣きついて行っているのではないだろうか。
「20円の円安」は”韓国にとって非常事態”で、この傾向はアベノミクスで未だ続くと考えられる。
間違いなくこの「欠損状態」が起こっている筈である。
そもそも韓国の国家企業には起こらない方がおかしく、この2大国家企業は日本の技術者のヘッドハントとに依って円安を利用して類似品を作った事による成長であって、その成長もその製品より優れた開発品が再び日本から再び出て後退している現状で、そのヘッド゛ハンティングの人材も高齢期に入り、その持った技術も古くなって「価格安い-品質は低い」に依って市場から後退している。
尚、この類似品の韓国の市場の実態は、「ウオン高」でドイツ製品等の攻勢が激しく、円安の原因以外にも「経済欠損の危機」が迫っている。
其処に「北朝鮮の動向」が働いている事と、TPPの事から米国は躍起と成って「政治の場」で日本に圧力を掛けたと観ている。
ただ、一つ、韓国経済界が上記の事を判断して韓国大統領に対して、”日本との関係を良くする様に抗議した”が聞き入れず、依然として「感情主観論」を展開して一方的な「歴史認識論」に拘り、韓国政府との間に「乖離現象」が起こっている事に注目すべき点であろう。
更に、最近、「河野談話」は韓国政府との調整により発せられた談話である事が日本政府と企業からつきあげを食った韓国政府の一部からも暴露された。
つまり、これによれば「歴史認識論」はすでに国家間で済んでいる事になる。
”済んでいること”に成っているものをわざわざ何度も繰り返すのかはそれは「政治の場」の事として判る。
恐らくは、これを座台にして借財の帳消しを狙っているのであろう。
そもそも、「歴史認識」では、その仮に日本に「歴史認識の悪さ」が有ったとしてその咎は日本が負うものであって韓国ではない。
況して、”歴史認識を無視するものに未来はない”と主意の発言をしているが、戦後、混乱の中からいち早く立ち上がり世界第2位まで伸し上がって生活力を挙げたのは日本であり韓国ではない。
日本に未来があった事に成る。日本の未来は日本人が追うものであって韓国ではないし、韓国が日本を救える力はまったく無い。
逆であり、上記する様に、最近に於いて「外貨準備高欠損」で2度も助けているし、今度も日本からの救助となろうが、ここで韓国に「外貨準備高の欠損」で日本が支援することは恐らくは不可能であり、アベノミクスは失敗に終る。
何故ならば、支援に依って「ウオン安-円高」が起こる事になり、その支援で再び国家企業にその資金の流入が起こるので、日本経済の足元をすくわれる結果になり、「国家的な失敗」をする事になるからだ。

「河野談話」でも、韓国大統領は国家間の言い分を無くしている筈であるが、また無くしていながらも平然とその後でも、同じ歴史認識論を展開した。これでは、大統領個人の範囲の事と成り、個人の主観感情に捉われた一国の指導者もどきの人物の言い分には日本政府は対処に難しい事に成った。
これでは日本政府としては 今は”仲良く”は無理であろう。様子を見るが得策である。
そもそも、米国の日本大使館前にその女性像を建立するは、最早、理性ある一国の行為とは思えない。
この様な場合は、米国政府も撤去を促す事が国際儀礼上、求められるが撤去させない。
この様な事に目を瞑って”仲良く”は無理である。
少なくとも”仲良く”の前にその時期では無い事が明らかである。
米国もこの韓国の態度を放置して、”仲良く”に理解に苦しむ。
昔の日本であれば、「卑屈と萎縮」から米国の言い分に従った筈で、「政治の場での力」は皆無であった。命を投げ出してくれた尊い日本人の若者に申し分けなかった事に成る。
戦後70余年の現在、この意味でもここで「卑屈と萎縮」から脱却すべき時期に来ている筈で、国家としての「成長の活力」を生み出すのにも、この”「卑屈と萎縮」から脱却”しなければ、それこそ「日本の未来」は無いだろう。
その為にも「失望論」には毅然として対処しなければならない。
「過去の歴史」を観て「卑屈と萎縮」に苛まれるより、゜未来」を観て「卑屈と萎縮」から脱却するべきが日本人の「良い国民性」であり、その事に依って現在の日本は築かれたが、「卑屈と萎縮」からの脱却で活力を生みだすのである。
これからは、決して、”失望のコメント”の裏で示す「米国の圧力」に「卑屈と萎縮」で屈しては成らない。

その米国の”失望論の仲良く”には、それこそ「中国の書」の「六稲三略」から、今は国家間のその時期ではないことに成り、2国からその意志が明確に成らない限りは ”待つ”が得策で、「政治の場」の「米国の発言」は当を得ていない。
本古書を「思考の基幹」としている発行元の中国も知っている筈であろう。
況して、国民は知っている筈で、「尖閣問題」も「航空識別圏」も「政治の場の虚勢」としてどこまで問題を大きくしてくるかを観る必要があるが、恐らくは、「国民との乖離」が起こる事は共産党政権としては「一国2制度の矛盾」が噴出し危険であるから、その「足元」を狙うべきであろう。
「中国国民との醸成化」に総力を注ぐ今は時期であろう事が判る。中国政府の弱点ではある。
「政治の場」が「戦略の駆け引きの場」であるとすると、この「日本理解の醸成化」を官民挙げて取り組む課題であり、その時期に来ているし、「醸成化による相互理解」は両国にとって「悪」では無い。
中国政府にとっては弱点であるが、相互理解には「大儀明文」が存在し、「尖閣問題」も防衛航空識別圏」もこれ以上にはエスカレートさせ難くなる事になろう。
これ以上に「卑屈と萎縮」が続けば、レベルを上げて「尖閣上陸」と「識別圏の実質取締り強化」に出てくる筈である。
「卑屈と萎縮の脱却・脱皮」からは、その先には、「憲法改正」や「集団的自衛権」の解釈問題等が存在し、オバマ政権の様な政治が続けば、「同盟」と云う姿も検討の余地が有り得るし、その先には国家として本来あるべき「自衛力の範囲」も検討せざるを得ない事に成る。
何にしても、この「卑屈と萎縮」から脱却しなければ「憲法改正」など「絵空事の内容」と成り意味が無いだろう。
沖縄の様に米軍基地が日本の領土を大きく占めている現状も自衛力に特化させる問題も出てくる事に成る。
「同盟」と云うキーで基地提供しているが、米国は基地以上に日本を「卑屈と萎縮」の先に置いておく必要性があり、「政治の場」では「同盟」で護られているかの様に見えて、実は「卑屈と萎縮」の先にあるのだ。
果たして、「戦い」が起こったとして中国になるが、上記する様に中国にも弱点があり、米国の戦力を借りて戦わなくては成らない状況になるかは甚だ疑問であり、その前に「法より人」の国民から乖離現象が起こり、ロシア帝国の様にその経緯を経て共産党は解体する事に成るので、国内の基地の削減化は可能である。
現に、大国ロシア帝国との戦いはこの「足元の戦略」(レーニンに資金提供)を日本政府が採った事は記録から明らかで、故に「日露戦争」は「国民との乖離」が原因して勝利したのである。

問題は現在の米国政権では、この様な場合に日本に味方するかは疑問であり、中国を敵国と看做すより同盟国の「米国の出方の方」が懸念材料となろう。
「卑屈と萎縮から脱皮・脱却」にはこの問題が付きまとっているのである。中国ではない米国なのだ。
この「失望論の背後」にはこの問題が潜んでいるのだ。突き詰めて「同盟」そのものを否定するかの意も含むセンセーショナルな発言であるのだ。
今の「オバマ政権」には”失望”のコメントの「深意」が示す様に、この危険性が伴っているが、その後にどの様な政権が就くかが今後の「卑屈と萎縮」の先は見える筈である。
今までとは「異質な発言」で急に変化したオバマ政権の日本へのコメントである。
この失言は「日本大使の交代」での時期に符合するし、その意味で「コメントの主体」は当初は大使館とされているので、米国政府なのか大使館なのかの先ずは見極めが必要であろう。
それにしても大変なコメントである。
政府とするならば「卑屈と萎縮の脱皮・脱却」は是非により加速して進めなければならない事である。

そもそも、ここで合わせて云いたい事は、「伝統」とは一体何なのかと云う事で、「伝統」はこの「卑屈と萎縮」からは生まれず、「卑屈と萎縮」に依って「消滅する性質」のものであると云う事なのである。
要するに、「酸とアルカリの様な関係」にあると考えられ、どちらかと云えば酸化反応と云うよりは「還元反応」に近い関係にあると考えられる。
その「卑屈と萎縮」はどちらかと云えば「伝統」にとって「酸」に相当する働きをする。
日本人の「国民性」と成っている「尊崇の念」はこの「伝統」に値するもので、「卑屈と萎縮」はこれを阻害する。
「日本人の国民性」を示す「良い伝統」とは、「卑屈」に成り「萎縮」するとその「良い伝統」のものを分離させ分解させ、何時かは焼却させてしまう最大の原因であろう。
還元である以上その基と成るものは遺されている筈で、それを再びもとの元素の形に戻すには、「反応力」のエネルギーが必要で、その力を阻害している「卑屈と萎縮」を取り除けば「蘇る活力」を生み出す事に成る。
ただ、放置すれば酸化反応により破壊されて原型を取り戻す事が出来なくなる事に成る。

「卑屈と萎縮」に左右され得ない「正しい心根」を持つ事に依って「良い伝統」は維持されて行くものであると認識する。この「尊崇の念」はまさに「伝統」なのである。
戦前までに維持されて来た「良い伝統」は、この「卑屈と萎縮」に左右されずにしたから遺されて来ているものであり、日本人が始めて経験した「戦後の敗戦の衝撃」に依って「卑屈と萎縮」がこの「伝統」を消し去ってしまったのであり、むしろ、その「卑屈と萎縮」から”消し去る事が正しい行為”であるかの様に成ってしまうと云う現象が起こったのである。
明治期の廃仏毀釈の様なムードの現象が国民の中に起こったのである。
最も古く維持されて来た多く遺されていた筈の青木氏に「良い伝統」もこの事に抗することが出来ずに消え去ってしまったのである。
今、サイトはそれを「卑屈と萎縮」から脱皮して、何とか掘り起こそうとしているのである。
「伝統シリーズ」に取り組む為にも、その前に「伝統を維持する力」はこの「卑屈と萎縮」とを排除する事から起こると考えられる。
その為にも、丁度良いテーマが発生したので、サイトにご意見を投稿してくれた人々と相談し、この投稿の原文の流れの構築を試みた。

以上



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> 最近の青木氏氏のチャツトを観て思う事があります。
> チャツトのご意見を見て、投稿を寄せて頂いている”あおきさん”とチャット外でよくお話する事があります。
> 今回の新春のお話の中で、昨年のチャツトに議論が及びその事に付いて一つご意見がまとまった事がありました。取りまとめの役目を負いましたのでそれをご披露したいと思います。
> 今、政治問題化している「日本の現状の問題」に成っている事柄です。
> つい最近次ぎの様なことが起こりました。
> それは「靖国問題」に対する、或いは日本に対する「米国の失望論」です。
> 実はここには大きな意味が潜んでいます。
> その事に付いて少し議論したいと思います。
>
> 「米国の失望論」
> 先日、安倍氏が「靖国神社」を訪問したが、これに対して米国は”失望した”とコメントを出した。
> 今までの「米国の反応」と違った「異質の流れ」のコメントであって、その「言葉の持つ意味」には大変な「米国の態度」を示した事に成る。
> この事は、今後の日本が採るべき、或いは考えておかなければならない事柄が潜んでいる。
>
> 先ず、この事に付いて、中国と韓国の反応は、過去に重要な「歴史的経緯」がある為に当然の結果としても、 問題は米国の”失望論”であり、これにはそもそも「移民族の米国の概念」と「融合民族の日本の民族の概念」が異なる事が存在している。云い換えれば、「伝統」なるものの違いが存在している。
> 特に、米国人は他民族に比べて、この「伝統」なるものの理解が低い。「移民族の他民族国家」であるが所以で一面ではやむ終えない事ではあるが。しかし、駆け引きの場の「政治の場」の面ではそうは行かない。
> 米国内ではいざ知らず、国家間では考え方の異なる他民族との折衝と成るからだ。
> その異なる事を租借して国家間のコメントを出すのが常識でありながら、そうではなかった事が先ず第一に挙げられる。(もともとこの傾向はヨーロッパ系の民族には強い傾向がある)
> 日本には米国と比べて、戦死者に対する「日本人の尊崇の念」の有り様と、 それを具現的に表す神社と云う概念の結びついた国民的概念の有り様は日本には厳然として必然的にあり、それは他国に比べて異質で強いものである。この異質の概念の一つが外国から”サムライ”と表現される所以であろう。
> しかし、この概念のない米国はこの概念の違いを無視した。 ここに大きな潜在的な問題がある。
>
> では、果たして、問題とする ”失望”と云う概念の奥にはどの様な意味合いがあるのか考えてみる。
> 今回の場合は、この”失望”とする言葉の先には、先ずは ”仲良く”とする「主観的感情」が存在する。
> 更に、失望するには、”以前に”信用していて”それが裏切られた”と云う事にも合わせて成る。
> この2つの事が問題と成る。
>
> そこで、先ず、この”「主観的感情」”を専攻して民族や国家が持つ民族的な「尊崇の概念」を無視して、この ”仲良く”を専攻させるべき事であるかは明らかに違う。
> それは”仲良く”は”主観的”に関わる。”主観的”は人、民族、国家によって明らかに異なる。
> 日本と云う国家では「尊崇の概念」は、最早、”サムライ”と日本人自らも自認し呼称される様に「主観的な事柄」ではない。
> 日本国民が持つ「共通の基本概念」である。
> 確かに「主観的感情」で個人的要素のものではあるが、日本人全てが共通して持つ欠かす事の出来ない感情で、生活の慣習の中に深く浸透していて共通している事で、この念を欠落すると日本人として社会の中でなかなかスムーズに生きて行けないし、兎角、信用されず低く見られる事に成る重要な欠かす事の出来ない概念である。
> つまり、「感情の域」を超え、「主観の域」を超えているのである。
> 所謂、「国民性」なのである。
> この概念を”共通に持つ事に依って強く結ばれている”と云っても過言ではない。
> 判りやすく数式論に置き換えれば次の様に成る。
> 「主観的感情」<「共通基本概念」=「国民性」の数式が成立ち「国家」を構成する。
> ここが米国の「移民族の国家」の「思考原理」と異なるのである。恐らくは100万遍労を駆使しても、彼らには充分な理解は得られないだろう。
> つまりは、「移民族の思考原理」で、「融合民族」を評価した事に成る。
> それは彼等(ヨーロッパ系の民族)が示す”自己の民族の思考の優越論”からくる論調の結果であろう。(筆者は特にこの論調で議論になった多くのこの経験を持っている。)
> つまり、「融合民族の思考原理」≠「移民族の思考原理」であり得る。
> 彼等の”思考の矛盾点とも云える。
> そもそも、この「世の自然原理」として万物に適合する摂理として ”考え方が違うから「同じ考え方」の者が集合し、だから「国家」として「屯」を民族は構成する。
> 人間のみならず鉱物も同じである。万物の核の構成もこの自然摂理で成立っている。
> 従って、この関係が無ければ「屯」はしない。「屯」の前提である。価値観は良く似ているが考え方が違うと云う事である。価値観=考え方では必ずしも無い。
> 故に、”「優越」を前提として他民族の考え方を否定し低く見る思考原理”の「民族性」は矛盾である。
> 「民族性」、或いは「国民性」が低かろうが高かろうが存在するのである。
> ”優越するから相手には考え方が無い”と云う事でもないし、”無視しても良い”と云う事ではない。
> 最近は世界の平均的な考え方として「グローバル思想」と云うものが漠然とあるが、「屯」を構成する国内の行為ではこの「グローバル思想」は別問題である。
> 取り分け、「尊崇の念」の様な「国民性」は国内では「是」である。「屯」を構成する以上は国内では”グローバル”ではない。「国民性の坩堝」の中にある。
> それでなくては、”日本国では無い事”に成る。周りが「国民性」が無くなって、”グローバル”に成ってしまったら「屯」では無く、果てには国家では無くなる。
> 国内までもこの”グローバル”を持ち込むべきではない。
> ”グローバル、グローバル”と鬼の首を取った様に云うが、確かに、世界の民族の考え方や商習慣や社会習慣等を知る事は、上記している様に”「国民性」を知った上での判断の事”を指摘しているが、何も”グローバル”そのものが目的では無い。
> 「語学の習得」はそれを成し得るに必要とする一つのツールであって全ての目的でもない。
> 要は相手の国の「国民性」を知る事に成るのだ。
> 「日本のグローバル化」はそれを前提としなければ成らないのだ。何も「国民性」を否定した”グローバル”ではない。この「失望」のコメントをだした人物や機関は、この考え方を失落して優越論の末に感情主観に走ってしまったのである。
> (因みに、中国は「偽物」を平気で作るが、彼らの言い分は、人間には、”物を真似るという本質”を持っている。故に、”その「本質」を働かせるのは何故悪い”と云う言い分を決まって述べる。一理はある。
> しかし、”グローバル”では、これは許さない。しかし、彼らは「意匠権・商用権などの特許権」を認めようとしない。しかし、これは「国民性」を代表する「概念」ではない。何でもかんでもではない。「国民性」を物語る「良い伝統」を伝える概念は”グローバル”ではないのが定義だ。)
>
> 国内は「国民性」で有るべきである。国内にも地方色がある様に「情緒豊かな環境」であるべきである。
> ”グローバル”は ”他民族との折衝の場の共通する手段”として別に認識として持って置かなければ成らないことであるべきだ。
> 依って、”グローバル”に拘って、「国民性」、即ち「尊崇の念」の為にも、国内では「卑屈と萎縮」を取り除くべきである。敗戦に依った「卑屈と萎縮」がそれを(必要なグローバルの遅れ)起こしているからだ。
> 彼らの「優越論」は、この”グローバル”の過剰思想の所以である。”グローバル”に陥り過ぎても優越論の様な事に成り好ましくない。
> 彼らには、「自分の国の考え方」が何処でも”グローバルだ” と必要以上に考え過ぎているのである。
> 確かに、グローバル”の多くは”自由”を前提としている「移民族の思考原理」に多いのは否定できない。
> そうでなければ、彼らの社会は構成出来ないであろうことは否めない。
> 米国は、国内でも「自由」を前提とした思考原理の”グローバル”の概念だから、国外も殆ど”グローバル”の概念に成っているから、国内でも”グローバル”の概念で有るべきだ” と思い込むのも無理の無い事だがここに彼らの矛盾点がある。
> 然し、国内は「屯」を構成している以上は「国民性」を保持するべきである。
> ”グローバル”は「国民性」(伝統)を否定するものでは決してない。
> 故に、良いとされる「国民性」が存在する限り、他民族、この場合は、「日本民族の思考原理」が同であるかを思考をめぐらして答えの発言をしなければ成らない訳であった。
>
> しかし、米国の「失望論」はしなかった。自らの「民族性の欠陥」から、これを欠落したのであり、当然にその思考は「政治の場」の判断としては低質すぎるし、「感情主観」である事になる。
> まあ、百歩譲って「感情主観論」のものであるとして、妥協して考察すれば、次に、この「主観的感情論」にその国民がどの程度のウエイトを置く思考原理を持っているかに問題は移る事に成る。
> ところが、移民族の他民族の国家であるから、論理的に考えれば、相反する徹底した「合理主観論」が「共通する概念」となろう。
> しかし、この「失望論」は、そんな環境の中でも、「感情主観論」を展開した事に成る。
> つまり、今までとは異質のコメントに成る。大使館を管轄する国務省コメントであるが、大統領府のコメントではないところにまだ救いは有る。国務省だとしても問題は問題である。
>
> これには”米国の失望”の根拠とする中には”仲良く”と云う思考と、もう一つ ”相手を信用しなかった”と云う意味合いが大きく潜んでいる事になる。
> 過去に「信用」していたが、「靖国」で「信用」できなくなった。だから、「失望」した事に成る。
> 「信用」していなければ「失望」には成らない。現在にも”信用しない”と発言した事に成る。
> この「失望」には、この”仲良く”と、”信用”と云う問題にすべき要素が含まれている。
> だから、この2つの事の「米国の失望論」に対して日本の人々は「違和感」を強く感じて ”センセーションの渦”と成ったのである。(日本の反応に対して彼らは当然の如く驚きヒートした。)
> その”仲良く”に対しては、今、”仲良く”とする行動を採るべきか、その”時期”にあるのか、どの様な”仲良く”が存在するのか、はたまた”仲良く”した先には”何”が待ち受けているのか、普通は考える。
> 少なくとも日本人の「国民性」からすれば、常識となっている「人時場所の思考原理」を働かせる。
> そうしなければ「7つの民族」が融合して「屯」を形成させる事は不可能であったし、現在も同じである。
> だから、”うん、変化だ、おかしい、異質だ、その先には、果たして「同盟」に与える影響はどの様になるのか、今後、どうすればよいのか、” を瞬時に考えた。と云う事に成ったのである。
> それが「噂」では無く、日本大使主導の「正式な国務省発言」であったからだ。
>
> そして、「信用」には急に出て来た「米国の態度表明」でもあった。
> そもそも、この”「信用」”には、仲良くするには色々な「政治の場」での「条件や立場」がある。
> それなのに「自分の国の思考原理」だけで低質で短慮に単純に考えて、日本が ”米国の言う通りに行動しないと、今後、信用しないよ”と成る。
> 「信用」しなくても良い、「同盟」と云う事を結んでいなければそれでも良い。
> 「同盟」は”信用を前提”として成立っているからだ。「信用」できない相手と「同盟」を結ぶ事は無い。「信用」=「同盟」の関係にある。
> つまり、この”失望した=信用しない”と発言した米国は、暗にこの「同盟の破棄」を結果として臭わしてしまった事に成るだろう。
> 更に突き詰めれば、次の米国との「政治交渉の場」に、この「失望」、”信用しないの発言”を取り除かないと、”何時まで信用されていない外交交渉”をする事に成る。
> 「同盟」の中では有り得ない事に成る。
> 例え、「失望感」があっても思っていても発しては成らない禁句である筈で、それを発してしまったのだから、日本側は、今後は注意をして置かなければ成らない事に「政治の場」では戦略上は成る。
> ある政府の高官が発した言葉では無く、大使や更には国務省の正式コメントであるのだから、十分にこの禁句のチェックは効いていた事に成る。失言ではないのだ。
> オバマ氏と習氏との会談以降、米国は”中国より”に発言するように成っている事には失念しては成らない。大なり小なり ”同盟の如何”に変化を来たしている事に成る。
> 自衛隊との合同演習にもこの態度は露骨に出始めている。
>
> 「米国が観る中国」と、「日本が観る中国」とはその「国民性」が異なる為にその重要性は異なる。
> 「日本が観る中国」は、事を起こせば軍事と経済に於いて、中国がそのファンダメンタルが外資に頼っている比率が大きいし、取り分け、日本に頼る事が強い筈で、「一国二制度の矛盾」を持っている事から「共産党の崩壊」に繋がるは必定で、「尖閣問題」の様なある程度の小競り合いはあるにしても「実戦」は起こせない筈で、故に「政治の場」の駆け引きの範囲の「虚勢」は張る事には成るだろうし、これからも続く。
> そもそも、「一国二制度の矛盾」は市場経済の制度は「自由」を前提として売買は進む。
> 「市場経済」を無制限に進めれば人は「自由の良さ」を知り、政府に対して「自由」を求める。
> しかし、「共産主義」はある程度の「自由」を制限する主義である。依って、何時かこの「自由の要求」が強く成った時点で論理的に「乖離」が起こる。
> その「乖離」は、何かキッカケで起こる筈で、”日本とのある程度の争い”でその矛先は共産党の政府に向けられるは必定である。従って、中国国民向けにも「虚勢」を張り通す事になるのである。
> 要は、日本が「弱み」を見せない姿勢を日本側が採る限りは現状維持を図る事は出来るだろう。
> それには、別つの意味で ”「卑屈と萎縮」は禁物である”と観る。
> むしろ、「中国」と云うより先には「失望」と云う言葉を発する「米国」との関係の悪化が懸念される。
> それは、日本が[ファンダメンタルの影響]の”歯止め”と成る垣根が無い米国ならではの事であるからだ。
> 筆者は、米国が「中国よりの政治路線」をこれからも採る限りは、この事が「第2次大戦の経緯」を辿る事に心配をする。
> その意味で ”失望した=信用しない”には、この「失望」と云う発言に危機感を感じる。
> 日本側が絶対に避けねばならない「経緯」である。
> そもそも「戦争」とは国家の明確な「意思」では無くその前の「経緯」から勃発するものであるからだ。
> 上記した様に、「中国より米国」と「失望発言」と「習会談」や「合同演習」などあらゆる関係を考察するとその危険性が懸念される。
> 況して、「自主防衛」「憲法改正」「基地返還」「米国を凌ぐ経済発展」等を進めれば、「日本の発言力」は増す事は間違いはなく、”米国側に採ってこれをどう観るか”と成る。
> まさに、「第2次大戦の経緯」である。又、「石油の制限等の経済封鎖戦略」で来る事は最早無いであろう。
> しかし、一つその懸念事項があるのだ。それは「日本産のエネルギー資源」が発見されて充分な資源国に成った時点では、事態は異なるだろう。
> メタンハイトレートや自然エネルギーが発見されて来ている現状では「資源国」に成る可能性は高いし、その対策は進んでいる。10年程度の先には、資源国に成った事に依る危険な問題が露出して来るだろう。
> 何故ならば、資源に掛かる経費は日本全体の経済の国家予算の最大5割程度を占めている現在、これが資源国に成った事に依ってこの経費の多くは浮いてくる。
> 問題は ”この経費が何処に回されるか”は明らかである。「資源国」を護る為の「国防費」となるは必定である。そうすれば、「卑屈と萎縮」を持つ日本に関わらず、エネルギーで「世界の勢力図」は変わる事に成る。石油枯渇の問題もあり、当然に、隣国と先進国は今以上にこれを警戒する。
> これが戦争への逃れ得ない「経緯」の流れの一つに成るのだ。
> むしろ、現在の中国と韓国と米国のイライラは内心はここにもあるのだろう。
> 「憲法改正」や「自衛権拡大」などの保守化が進む日本がこの立場に立てば、その実行するファンダメンタルは充分にある事から、「現実の問題」と成って来るのは間違いない。
> だからと云って、「卑屈と萎縮」をそのままにしてはこれからの国が発展するチャンスを失う。
> 元々、他国と異なり、”「国民性」として優秀な「発展する能力」とその「チャンス」”に恵まれているのだから、「卑屈と萎縮」をそのままにして圧力に屈し現状で甘んじる手は無い。
> 日本が資源国に成る事は”鬼に金棒”である。この為の要素が日本の周囲には整いつつある中で唯一つそれを成しえる為の「心の気概」に不足している。それが「敗戦の後遺症」の「卑屈と萎縮」であると談じている。
> その為にも、今以上に成長させるには「卑屈と萎縮」から脱皮する事が必要で、今の様な態度の維持はこれを成し得ない。それには”米国の失望から来る圧力”に屈しては成らないのである。
> しかし、屈しないと、上記の経緯を辿る羽目に陥る事は必定であろう。
> そもそも、日本での日常の会話の中では、「失望発言」は上から目線である。圧力を臭わしている言葉になる。日常会話の中ではないとすると、少なくとも日本人はその様に採るだろう。
> 言葉のニュアンスは「国民性」であるので、”上から目線を彼等に租借せよ”とまでは云わないが、圧力的な意味合いは少なくとも「失望と信用とする言葉」からはある。
> そもそも「2者択一」である。この事を韓国は別として中国は必ず観ている筈である。
> 何故ならば、中国の「国民性」や「政治事情」はあるにしても、両国は古代からの「歴史の関係」から良く似た思考原理をそもそも採るからだ。
> 因みに、「駆け引きの古書」の様に、上記した様に「六稲三略」はそれを具に物語っている。
> この「六稲三略」は政治や軍事や経済の駆け引きの場で使うが、日本と中国は古来にこの中国から持ち込まれた考え方を「駆け引きの思考の原点」としている。
> 従って、この「思考の原点」から、むしろ、中国は「米国の失望論」で「虚勢」の足しに成る事からほくそ笑んでいるだろう。
> 「一国2制度の矛盾」をクリヤー出来るからだ。自ら手を下さずに「米国-日本の関係」が崩れてくれればこの矛盾の危険性は排除出来るからで、「虚勢」の代わりに成る。
>
> 先ず、次に、この”仲良く”には、「国家」や「民族」と云う前に「人の性」の思考原理にも関わる。
> そもそも”仲良く”は「女性的な思考原理」に左右されている判断で、特に”政治の場”ではあまり採用され得ない思考である。
> 何故ならば、”主観”である事によりその人によりその”主観”が異なるからで、千差万別の結果が招かれるから賛同が得られにくい思考であるからだ。
> 当然に、主観であるから”仲良く”の程度も千差万別と成る。
> 喧嘩状態でも”仲良く”とする論調も生まれる。
> しかし、”仲良く”は否定はしない。”仲良く”が採用し維持できる環境である事に越した事はない。
> では、百歩譲って、この相手の国の中国と韓国に、ここで ”その”仲良く”を採用したとして、果たして、その ”仲良く”の「良い結果」を招き入れる事が可能であるのか大いに疑問である。
> 恐らくは、過去の事例から ”歴史認識”と云う理由を背景に量にかかって更に上から言い続ける事になる。恐らくは、その過去の遺恨から土下座してでもいい続ける筈だ
>
> 何故ならば、事実、日本はこの2国を過去にその理由如何によらず「侵略した行為の非」を持っているからだ。された方にすれば、”「侵略の恥部」は何年経っても消し去る事の出来ない憤懣のしこり”であるからだ。
> 中国の様に”面子を重んじる国民性”では、「政治の場」や「教育の場」に「喧伝の道具」としてこの「憤懣の誇張」を持ち込んでいる。
> 況して、この2国には不幸にしてか合わせて「儒教思想」から ”過去に拘ること”を推奨する思考原理”をも「国民性」として強く持っている。それ故に効果は大きい。
> それだけに「過去の事」に拘れば、中国にして観れば、各国から侵略された為に、”今はそうじゃないんだ”と「虚勢」を示し続け無ければならない事になり、それには「国民の目」を外に向ける必要が「政治の場」の事として戦略上ある。放置しておけばこの「憤懣」は政府に向けられる事に成る難儀な事がある。
> それには、日中には格好の事がある。
>
> その前に参考として、因みに、最近の”中国の中古空母の購入と改造”は「虚勢」の最たるものである。
> 現在では空母は近代戦の戦略上は無用の長物と成りつつある中では「中国の虚勢」を示したものに成る。何故ならば、この空母とは「最大の軍事費」の掛かるもので、経済成長の低下の中では将来は無理であろう。兎に角、空母は「周囲の戦機」が整わないと使えない代物であるのだ。
> これからは「イージス艦の保有」であろう事は明々白々で、空母にしても「ヘリ空母」が機能的に戦略上良く働くと見られている。
> (この「ヘリ空母」とイージス艦とは日本は主体的に保有し、その製造は日本の独断場である)
> この様に、中国には政治戦略上、アンバランスが多く良く考察すると「虚勢」と見られるものが多いのだ。
>
> それは「過去の日本の侵略」であり、これを誇張する事で国民に「憤懣」を助長させる事が出来る。
> 既に、戦後70年も経っているにも関わらず、この動きは衰える事が無く、常に格好の”日本非難の材料”として使われている。
> こんな「格好の事」は先ず無い。”過去に拘る儒教の国民性”もある事からその効果は実に大きい。
> 今までは教科書にも載せての喧伝であったが、現在では、「改革開放路線」と「情報社会と経済進出」から真実を国民は知った為に、この「格好の手段」に効果が採れなくなったのである。
> その為に、今度は「尖閣問題」と「防空識別圏」等の問題を持ち出して「格好の手段の国」として日本に「虚勢」を張り出したと見るべきであるが、しかし、これも”笛吹けど踊らず”に成って来たのである。
> むしろ、日本を肯定し政府を攻撃し始めているのである。
> しかし、国民の間では、概ね、「醸成化」に向かっているだろうが、これでは「虚勢」は成立たない事だし、その効果は低いから、何か”小競り合い” になる事を持ち出してくる事は今後も必定である。
> その意味で、「絶好のチャンス」で、今回の「米国の失望論」は願ってもいない「格好の事柄」であった筈である。
> 自ら手を汚さずに”米国と日本の間に楔を入れる事”が出来たと云う点では叶ったって得られるものではない事で、最も「虚勢」の張る事の障害と成っていた「同盟」に楔を打ち込んでくれた、と観ている筈である。
> その意味で、今回の”米国の大使主導の失望論は低質である”と云えるのだ。
> その考えは「性」を超える事が出来なかった事を示す。
>
> そもそも、この「感情主観の性」は、”神が人間に与えた絶対的な「性」”であって、この「感情主観」の「性」は女性が持っている。「女性」である限りはこの「性」から脱する事は出来ない。如何なる「男性の論理主観」を持ち得たとしても”イザ”と云う時にはこの感情主観に左右される。
> これは決して「良し悪しの問題」ではない。況して「差別の問題」ではない。「神が決めた事」である。
> 問題なのは、「政治の場」では、残念ながらこの「感情主観の論調」は通じ得ないからだ。
> 今回はこの「政治の駆け引きの場」にこの「失望」のコメントを出した事にある。
>
> 恐らくは、これからもこの失態は間違いなく続くだろう。況や、これを繰り返せば、「同盟」に不必要な傷をつける事に成り、最悪の場合、日本は「卑屈と萎縮」を排除して「積極的平和外交」を続けるのであるから、上記の経緯に不本意に乗ってしまう事に成るかも知れない。
> そうかと云って昔の様に、”米国の言い分と圧力”を飲んで無理やりに”仲良く” して、「卑屈と萎縮」に戻る事も出来ないジレンマに陥ってしまった事に成る。
> 況や、「卑屈と萎縮」をそのままに「憲法改正」は有り得ない。
> 日本側から見ると、”実に馬鹿なコメントを出してくれた”と成ってしまった事に成る。
> 先ずはこのコメントを無視する事が得策であろう。
> 無視される事で「自分の発言」(大使)に何かの異質に気がつく事を狙う必要がある。悪戯に反応してはならない。反応し続けると、上記したこの「最悪の経緯」に乗ってしまう事になるだろう。
> 要するに、「低質な性」から来る「米国の国民性」の露出であろう。
> しかし、当のヒートした米国のこの事に対する主導する意見は、矢張り、「移民族の国民性」と云うか、「ヨーロッパ系の民族優越論」が花を咲かしている。
> 「同盟」を前提とする「失策の言」の意見は極めて少ない。
> 意見が少ないと云う事は、「同盟」は日本では「防衛の要」と考えているが、強国の米国側では比較的「同盟の意識」が低い事が云える。恐らくは米国の ”中国より”もここから来ているのであろう。
> 米国としてはこれは当然の事であろう事は良く判るが、米国側にしては大なり小なり自国の「直接的な脅威」であると云う訳ではない。極東に於ける平和維持の同盟である事は否めないのであるから、一歩譲って、日本側への「失望」コメントの「同盟意識の欠如」は、この観点からはまぁ仕方の無い発言とも取れる。
> 但し、それは”米国の国民の範囲の意見”に限られるのである。
> 日本を良く知る者の意見でも「民族性の概念の違いの神社論」とする意見は無かった。
> 筆者の過去の経験とほぼ合致するものでヒートしている。「中国重視論」が意見上に出ているのもある。
>
> そもそも、逆に、自画自賛には成るが、「日本人の国民性」の優れているところは、この「仏教的思想」から”未来を志向する点”にあり、現に過去に敵対して占領された米国に対して、この”しこり”を消し去ってしまう「国民性の思考原理」を持っている程である。東北震災時の”友達”を物語る。
> まぁ ”過去に拘る性癖”より人生を鑑みると ”未来志向の性癖”の方が生き易く楽しいのではないだろうか。「反省力」がないと彼等から批判されるだろうが。
> 「色即是空 空即是色 空不異色 色不異空」と仏教の「般若心経」は教えているのだから、「良悪」の問題でない。
>
> その「未来性の志向原理」を持つ国民に対して、それから2年後に”失望”と云う態度で米国は示したのだ。「失望論」は「人時場所」に依って使い分けるのが上質の人間がする思考である。
> この事に依って、その人、或いは「民族や国家」を周囲は高く評価する。
> 現実に日本人は高く評価されている。
> つまり、日本が持つ「人時場所」の判断要素が、考え方の異なる「移民族」で構成されている事自体がそれぞれバラバラなのに、更にはその「異なる移民族の米国」は自由奔放な「移民族の思考原理」を前提にして日本を評価したのだ。
> 自分の狭い思考原理で相手を評価してしまったのだ。
> この傾向はヨーロッパ゜系の民族に極めて強い。
> どう評価するは勝手であるが、「同盟」と云う前提にある事を忘れてしまった「感情主観論」である。
>
> そもそも、米国は別にして、中国と取り分け韓国の「国民性の思考原理」は、その儒教の影響から、”過去を重視し、” 仏教の日本の国民性は、有史来、”未来を重視する性癖”を持っているのだ。
> 違うのだ。違うものを味噌糞を同じにして思考するは、その判断能力は感情主観にしてもあまりに低質すぎる。
> 故に、その日本はこの状況の米国に対して、中国や韓国の様に過去に拘らず、「未来の有り様」に思考原理を展開するのである。そして、現実にその敵であった米国の良いところを吸収して今や米国に勝るとも劣らずの近代国家を未来に築いたのである。この判断を忘れている。
> これは日本人の「武道の精神」の”負けて勝つ”にあるのだ。
> その”負けて勝つ”の精神を構成しているのが、他に類と比を観ない”「尊崇の念」の強さ”にあるのだ。
> これが中国や韓国に観られない「日本人の国民性」なのだ。
> 恐らくは、つまり、この精神をなくしては、”日本と云う国家”は成立たない限界の一線なのである。
> その事を今回の米国の国務省の判断はそもそも欠落している。
> (情報では日本大使の意見が主導したらしいとあるが、今後、”失望”と評価する根底の知識力に注意しなくては成らない相手と見られる。弱体化する今後の米国に、この様な間違いの判断が示される可能性が強い。)
> そもそも、この様に、「政治の場」は国家の「駆け引きの場」である。
> 普通の商業の交渉の場ではないのだ。
> 「国家の主体性」を如何に相手に強く示す事が出来るかの「戦略の場」なのであって、場当たり的な「戦術の場」ではない。この「戦略の場」で負ければ、それは「国家が負ける場」なのである。
> まさに”失望”とする判断は、「国家の主体性」を意味しているのに、この「米国の失望論」は「戦術の場」のものである。
> この事はまさに米国は今回の事で”政治の何たるか”を失念しているのではないかとも思える。
> 故に、米国の言う通りにこの2国に対して、「国民性」が色濃く出ている国家の為に命を投げ出してくれた「尊崇の念」で譲れば、「国家」がまた負けるのである。
> 「実戦」で負け「国民性」でも又負ける事になるのである。”これでは申し訳が無い”とする感覚が強く生まれる「国民性」である。他民族とこの一点が違うのである。
> (戦後、敗戦と占領の結果、「自信」を喪失して「卑屈と萎縮」が蔓延りこの傾向が強く成った。)
> まして”「個人」”では無く”「日本民族」”と云う「国家」に命を投げ出してもらったのである。
> 当然に「国家」がこれに対して深い「尊崇の念」を示し、「向後の責任」を負うは当然の事であって議論の余地は無い。その責任の”表現の仕方”が他民族とは異なっているし、その強さは「基本概念」とも成っているのである。
> 日本民族の者の ”最高の尊崇の念を表現する方法”は古来から引き継がれて来たもので、それは「自然神」から来る「神道」との結びつきの表現なのである。
> 「神道」との結びつきの無い方法もよくあるが、それは一段下がった念の行為である。
> 「日本人の国民性」はこの様にあらゆる様々な「念の表現方法」にも「差別化」を図り、その重要性を表現するのである。
> その「神道」の神社も、日本人の中で、多くの神社のある中でも限定して、戦死した人も国民も「靖国神社」と決めているのであるから、「靖国神社」に参拝して「尊崇の念」を表現する事は「最高の念」の表現方法に成る。
> 日本人の中にコンセンサスとして決めていなければ再考の余地も有ろうが、”靖国で又逢おう”と誓って散っていった人の意志を尊重するは「最高の念」の要素でもある。
> これを無視する事では「尊崇の念」は成立たない。
> 例え、その「神社」にどの様な人物が祭祀されていようと「尊崇の念」には無関係であり、止めさせようとする念の低い一派の”こじ付けの低質論”であり、「尊い命」を「国家」の為に捧げてくれた故人への為にも左右されるべき事では決してない。
> 他民族、取り分け米国の様な「移民族」は、十束一絡げに「戦没者慰霊碑」で事は済むのであって、他民族国家である所以から日本の様な差別化した「神道」などと結びつく「尊崇の念」の表現方法はとり難く、「集約的な概念」の祭祀と成る事は無理な事であろう。
> 故に、「ヨーロッパ゜系民族の優越論」以外にも、この”他民族”と云う事も誘引して「差別化の概念」は彼等には無いのである。
> 依って、彼等には「神道と尊崇の念」との結びつきに対して”理解する事”は「困難」と云うより「無理」と云った方が適切であろう。
> 先日、米国の2人の長官が、”これ見よがし”に日本の「戦没者慰霊碑」に参拝したが、何も”靖国に参拝してくれ”とは云わないが、その彼等の思考原理の表れであって、「靖国神社」と「戦没者慰霊碑」とは、日本人の中では「最高の尊崇の念」の表現方法が異なっているのである。
> 「靖国神社」は上記する様に「命の約束事」の場であるのだ。
> 「戦没者慰霊碑」は国が行なう「政治の場」での「祭祀の場」に過ぎないのだ。
> 「最高の尊崇の念」と云う行為の中には、この「命の約束事」が条件と成っているのだから、この「命の約束事」が欠落すれば、それは「最高の尊崇の念」には成らないのである。
> 故に、その彼等の思考原理の感覚からすれば、「神社」との結びつき、又は「靖国神社」への「差別化」の「最高の念」の「表現方法」に理解が成し得ないである。
> 「卑屈と萎縮」の所以の一つとして「最高の尊崇の念」をかなぐり捨てて ”「戦没者慰霊碑」で良いのではないか”とする意見とは、この”国家に対して投げ出してくれた命”への「尊崇の念」の行為の表現とは異なるのである。
> つまり「最高」では無くなる事の行為となる。他の「尊崇の念」であれば下げてでもそれでも良いが、この一点は譲れない「尊崇の念」の行為なのである。
> 個人で親などが自分の為に命を投げ出してくれて、自分の命が助けられたとした場合、その人は一生その人たちに感謝し、その人に執って最高とする「尊崇の念」を表現するであろう。
> それが「国家」であり、強いては「父母等」に対しての保護などの報いと成る。
> 「国家」と成るからその念の表現が希薄に成る傾向がある人がいるが、それを国を代表するものが代して表現したに過ぎない。その表現方法が最高の方法で表現した事に過ぎない。
> 奇異に感じる事はその人に「希薄の感」がある事を否めない。
> 何故、希薄に成ったかは云うまでも無く「卑屈と萎縮」の所以である。
> 現に、自分の足元を観て見れば判ることである。
> それは個々の家庭で毎年行なう「尊崇の念」の行事として、正月から年末まで行なう数々の祭祀の行事には、その多くはこの「神道」との結びついたものが多いのは、この日本人の「尊崇の念の差別化」の結果である。
> 中には「伊勢神宮」や多くの悠久の歴史を持つ由緒ある大社に参詣して、わざわざ「尊崇の念の差別化」をして、その「尊崇の念」に対する経緯の表現を採っている。
> 筆者は他民族との間で議論した数々の経験を持っているが、この「尊崇の念の表現方法の差別化」には理解は得られなかった。
> 特にキリスト教徒との議論は殆どの機会で白熱したが、韓国人との議論は別の意味が介在して議論に成り難く、「儒教」と云う点でも合致点は得られなかった。
> しかし、儒教の中国系の者との議論にはある程度の理解は得られたが、”其処までする必要性が余り無いのでは”との結論の様であった。
> それは”其処まで、と余り”とする意味にはある程度の合意や賛同の意味が潜んでいた。
> そもそも「中国の儒教」には、我々日本人と同じく「日本の神道」には ”「自然神」を基幹とする中国の祖神の「鬼道神の流れ」”がある事と、”仏教の通過国”でもあり、更には ”法の政治より人を重視する思考原理”が彼等に存在する事から ”何らかの共通性”を感じたのではないかと考えられる。
> 何せ「文化や概念」を輸入した「過去の模範国」であった所以であろうし、日本人には2割程度の漢民族の融合族が存在する所以でもあろう。
> 何せ、その元を正せば、そもそもの「安倍氏」は6世紀の帰化人の後漢民族の首魁の「阿多倍王」の支流末裔の氏である。皮肉なものであろう。
> 「政治の場」が働いた事以外はもう少しの「醸成期間」が得られれば、民間の中国人には決して理解が得られないとは考えられない。
> 故に、筆者は中国は、この”靖国”には「政治の場の駆け引きの道具」にされてはいるが、一般国民には同意は得られていると考える。
> 今回の中国の国民の”笛吹けど踊らず”の結果は、この表れであって「靖国の問題」は、”心底からのものでは無い”と観ている。
> そもそも、江戸時代に儒教は幕府に依って日本人社会に不適合として、関係者全てが一生投獄されて根絶させた歴史的経緯があるし、日本の生活のなかにもその名残が未だ色濃く残っている。
> 例えば、判り易い例として、「正座」である。儒教では礼を正すときには「正座」をする。しかし、仏教では「胡坐」であり、女性は「立膝」が正式な礼法である。
> 共通の慣習は遺されているのだから、「以心伝心」で何かを通ずるものがあるのだ。
>
> チャツト意見にあった”「虚勢の表現」の「政治の場」の道具にされている”Tと考えられる。
> 中国の「改革開放」から閉ざされた窓が開き、「真の日本」を知り、更には上記する「共通点」を知り、「親近感」とまでは未だ行かずとも、ある程度の「理解」が醸成して来ている状況の中にあると観ている。
> 韓国は本来は共通点は多いし、中国とは異なり窓は自由に開かれている。
> 醸成する範疇でも無いし、文化や概念も古来より「倭人」が南韓域に韓民の1割にも成る程度に融合していて、日本では3割にも成る韓国人が融合している関係にある。
> しかし、中国の様に、”醸成するキッカケさえ掴めば理解は得られる”と考える事も出来るが、韓国は元よりこの「醸成のキッカケ」は既に出来ている。
> 問題は、儒教から来る”韓国民の過去への拘りの性癖”にあり、且つ、女性大統領と成っている以上は感情主観論に左右されたその「性」から脱皮は難しい事と、「日本への借財」の「政治の場の駆け引き」から今はその時期ではないだろう。
> この場合、無理をして”仲良く”を実行すれば、その結末には「無理の末路」が待っている。
> その時期を待つ以外にはないと考えられる。
> ただ一つあるは、韓国にやむなく「妥協の場」を発生した時にある。
> つまり、再び韓国の日本への借財の原因と成っている「円安-ウオン高」で、「外貨準備高の不足」が起こる事以外には窓を開かないで有ろう。
> その時がチャンスと成ろう。それ以外は「感情主観の歴史認識論」を持ち出して、何時までも日本に対して暗に「借財の放棄」を狙うだろう。
>
> 問題は、上記する様に、この様に「米国の失望論」にある。
> これまた「女性大使の交代」に依って暫くはこの主観的で歴史の知識の欠落の論が起こり、難しい場面が出てくる事が考えられる。この今の米国のコメントの主観論は人が代われば、また元の知識と認識のある人物がなれば消えるだろうから、ここでも時期を待つにあると観られる。
> では、何故、この「失望論」を出したのかを考えた時には、”米国のある焦り”が読み取れる。
> それは、米国との同盟国の韓国に「外貨準備高の不足」が起こりかけているのではないだろうか。
> 「安倍氏の円安誘導」に依って、20円の差が発生した。
> この差は「韓国経済」には大打撃である事に間違いは無い。過去に2度が韓国は「外貨準備高の欠損」を起こし、日本がこれを救ったがこれが大きな借財となっている。
> むしろ、「韓国経済」が成長を遂げたのは、「円高」によって極度の「ウオン安」が起こり、三菱の電気と自動車のプラント輸出に依って、企業が起こり、これに円安と日本からの借財を全て注ぎ込んでその出資額の殆どを占める国家企業を仕上げ、その後、”恣意的な労働争議”を起こして三菱はその利益を無くして放棄した企業である。
> しかし、ここに来て日本は円高誘導から円安誘導へと変換して経済を立て直しつつあるが、この影響を受けて、韓国は再び「外貨準備高不足の欠損」が起ころうとしていて、先日の日本の自衛隊による「アフリカでの銃弾提供」はこの現象を具に表している。
> 軍が遠征するのに銃を持って行くが銃弾を持って行かないのは笑い話である。
> 先ず有り得ない事態で間違いなく資金力が不足していた筈である。
> 米国は、この韓国の経済欠損の事を承知していて、アジア同盟国にスペインのような事が発生し、その中で中国や北朝鮮に戦略上の事が起こってはまずいと考えて、慌てて””仲良く”の言葉を発してしまったと観られる。
> 韓国のこの「経済欠損」を救うのは過去の2度と同じく日本だけである事を米国は承知している。
> 果たして、この償還は有り得るのかは疑問である。
> この米国の失望論の背景の”仲良く”にはこの意味合いが強く含まれているのではと考えられる。
> 韓国は密かに米国に泣きついて行っているのではないだろうか。
> 「20円の円安」は”韓国にとって非常事態”で、この傾向はアベノミクスで未だ続くと考えられる。
> 間違いなくこの「欠損状態」が起こっている筈である。
> そもそも韓国の国家企業には起こらない方がおかしく、この2大国家企業は日本の技術者のヘッドハントとに依って円安を利用して類似品を作った事による成長であって、その成長もその製品より優れた開発品が再び日本から再び出て後退している現状で、そのヘッド゛ハンティングの人材も高齢期に入り、その持った技術も古くなって「価格安い-品質は低い」に依って市場から後退している。
> 尚、この類似品の韓国の市場の実態は、「ウオン高」でドイツ製品等の攻勢が激しく、円安の原因以外にも「経済欠損の危機」が迫っている。
> 其処に「北朝鮮の動向」が働いている事と、TPPの事から米国は躍起と成って「政治の場」で日本に圧力を掛けたと観ている。
> ただ、一つ、韓国経済界が上記の事を判断して韓国大統領に対して、”日本との関係を良くする様に抗議した”が聞き入れず、依然として「感情主観論」を展開して一方的な「歴史認識論」に拘り、韓国政府との間に「乖離現象」が起こっている事に注目すべき点であろう。
> 更に、最近、「河野談話」は韓国政府との調整により発せられた談話である事が日本政府と企業からつきあげを食った韓国政府の一部からも暴露された。
> つまり、これによれば「歴史認識論」はすでに国家間で済んでいる事になる。
> ”済んでいること”に成っているものをわざわざ何度も繰り返すのかはそれは「政治の場」の事として判る。
> 恐らくは、これを座台にして借財の帳消しを狙っているのであろう。
> そもそも、「歴史認識」では、その仮に日本に「歴史認識の悪さ」が有ったとしてその咎は日本が負うものであって韓国ではない。
> 況して、”歴史認識を無視するものに未来はない”と主意の発言をしているが、戦後、混乱の中からいち早く立ち上がり世界第2位まで伸し上がって生活力を挙げたのは日本であり韓国ではない。
> 日本に未来があった事に成る。日本の未来は日本人が追うものであって韓国ではないし、韓国が日本を救える力はまったく無い。
> 逆であり、上記する様に、最近に於いて「外貨準備高欠損」で2度も助けているし、今度も日本からの救助となろうが、ここで韓国に「外貨準備高の欠損」で日本が支援することは恐らくは不可能であり、アベノミクスは失敗に終る。
> 何故ならば、支援に依って「ウオン安-円高」が起こる事になり、その支援で再び国家企業にその資金の流入が起こるので、日本経済の足元をすくわれる結果になり、「国家的な失敗」をする事になるからだ。
>
> 「河野談話」でも、韓国大統領は国家間の言い分を無くしている筈であるが、また無くしていながらも平然とその後でも、同じ歴史認識論を展開した。これでは、大統領個人の範囲の事と成り、個人の主観感情に捉われた一国の指導者もどきの人物の言い分には日本政府は対処に難しい事に成った。
> これでは日本政府としては 今は”仲良く”は無理であろう。様子を見るが得策である。
> そもそも、米国の日本大使館前にその女性像を建立するは、最早、理性ある一国の行為とは思えない。
> この様な場合は、米国政府も撤去を促す事が国際儀礼上、求められるが撤去させない。
> この様な事に目を瞑って”仲良く”は無理である。
> 少なくとも”仲良く”の前にその時期では無い事が明らかである。
> 米国もこの韓国の態度を放置して、”仲良く”に理解に苦しむ。
> 昔の日本であれば、「卑屈と萎縮」から米国の言い分に従った筈で、「政治の場での力」は皆無であった。命を投げ出してくれた尊い日本人の若者に申し分けなかった事に成る。
> 戦後70余年の現在、この意味でもここで「卑屈と萎縮」から脱却すべき時期に来ている筈で、国家としての「成長の活力」を生み出すのにも、この”「卑屈と萎縮」から脱却”しなければ、それこそ「日本の未来」は無いだろう。
> その為にも「失望論」には毅然として対処しなければならない。
> 「過去の歴史」を観て「卑屈と萎縮」に苛まれるより、゜未来」を観て「卑屈と萎縮」から脱却するべきが日本人の「良い国民性」であり、その事に依って現在の日本は築かれたが、「卑屈と萎縮」からの脱却で活力を生みだすのである。
> これからは、決して、”失望のコメント”の裏で示す「米国の圧力」に「卑屈と萎縮」で屈しては成らない。
>
> その米国の”失望論の仲良く”には、それこそ「中国の書」の「六稲三略」から、今は国家間のその時期ではないことに成り、2国からその意志が明確に成らない限りは ”待つ”が得策で、「政治の場」の「米国の発言」は当を得ていない。
> 本古書を「思考の基幹」としている発行元の中国も知っている筈であろう。
> 況して、国民は知っている筈で、「尖閣問題」も「航空識別圏」も「政治の場の虚勢」としてどこまで問題を大きくしてくるかを観る必要があるが、恐らくは、「国民との乖離」が起こる事は共産党政権としては「一国2制度の矛盾」が噴出し危険であるから、その「足元」を狙うべきであろう。
> 「中国国民との醸成化」に総力を注ぐ今は時期であろう事が判る。中国政府の弱点ではある。
> 「政治の場」が「戦略の駆け引きの場」であるとすると、この「日本理解の醸成化」を官民挙げて取り組む課題であり、その時期に来ているし、「醸成化による相互理解」は両国にとって「悪」では無い。
> 中国政府にとっては弱点であるが、相互理解には「大儀明文」が存在し、「尖閣問題」も防衛航空識別圏」もこれ以上にはエスカレートさせ難くなる事になろう。
> これ以上に「卑屈と萎縮」が続けば、レベルを上げて「尖閣上陸」と「識別圏の実質取締り強化」に出てくる筈である。
> 「卑屈と萎縮の脱却・脱皮」からは、その先には、「憲法改正」や「集団的自衛権」の解釈問題等が存在し、オバマ政権の様な政治が続けば、「同盟」と云う姿も検討の余地が有り得るし、その先には国家として本来あるべき「自衛力の範囲」も検討せざるを得ない事に成る。
> 何にしても、この「卑屈と萎縮」から脱却しなければ「憲法改正」など「絵空事の内容」と成り意味が無いだろう。
> 沖縄の様に米軍基地が日本の領土を大きく占めている現状も自衛力に特化させる問題も出てくる事に成る。
> 「同盟」と云うキーで基地提供しているが、米国は基地以上に日本を「卑屈と萎縮」の先に置いておく必要性があり、「政治の場」では「同盟」で護られているかの様に見えて、実は「卑屈と萎縮」の先にあるのだ。
> 果たして、「戦い」が起こったとして中国になるが、上記する様に中国にも弱点があり、米国の戦力を借りて戦わなくては成らない状況になるかは甚だ疑問であり、その前に「法より人」の国民から乖離現象が起こり、ロシア帝国の様にその経緯を経て共産党は解体する事に成るので、国内の基地の削減化は可能である。
> 現に、大国ロシア帝国との戦いはこの「足元の戦略」(レーニンに資金提供)を日本政府が採った事は記録から明らかで、故に「日露戦争」は「国民との乖離」が原因して勝利したのである。
>
> 問題は現在の米国政権では、この様な場合に日本に味方するかは疑問であり、中国を敵国と看做すより同盟国の「米国の出方の方」が懸念材料となろう。
> 「卑屈と萎縮から脱皮・脱却」にはこの問題が付きまとっているのである。中国ではない米国なのだ。
> この「失望論の背後」にはこの問題が潜んでいるのだ。突き詰めて「同盟」そのものを否定するかの意も含むセンセーショナルな発言であるのだ。
> 今の「オバマ政権」には”失望”のコメントの「深意」が示す様に、この危険性が伴っているが、その後にどの様な政権が就くかが今後の「卑屈と萎縮」の先は見える筈である。
> 今までとは「異質な発言」で急に変化したオバマ政権の日本へのコメントである。
> この失言は「日本大使の交代」での時期に符合するし、その意味で「コメントの主体」は当初は大使館とされているので、米国政府なのか大使館なのかの先ずは見極めが必要であろう。
> それにしても大変なコメントである。
> 政府とするならば「卑屈と萎縮の脱皮・脱却」は是非により加速して進めなければならない事である。
>
> そもそも、ここで合わせて云いたい事は、「伝統」とは一体何なのかと云う事で、「伝統」はこの「卑屈と萎縮」からは生まれず、「卑屈と萎縮」に依って「消滅する性質」のものであると云う事なのである。
> 要するに、「酸とアルカリの様な関係」にあると考えられ、どちらかと云えば酸化反応と云うよりは「還元反応」に近い関係にあると考えられる。
> その「卑屈と萎縮」はどちらかと云えば「伝統」にとって「酸」に相当する働きをする。
> 日本人の「国民性」と成っている「尊崇の念」はこの「伝統」に値するもので、「卑屈と萎縮」はこれを阻害する。
> 「日本人の国民性」を示す「良い伝統」とは、「卑屈」に成り「萎縮」するとその「良い伝統」のものを分離させ分解させ、何時かは焼却させてしまう最大の原因であろう。
> 還元である以上その基と成るものは遺されている筈で、それを再びもとの元素の形に戻すには、「反応力」のエネルギーが必要で、その力を阻害している「卑屈と萎縮」を取り除けば「蘇る活力」を生み出す事に成る。
> ただ、放置すれば酸化反応により破壊されて原型を取り戻す事が出来なくなる事に成る。
>
> 「卑屈と萎縮」に左右され得ない「正しい心根」を持つ事に依って「良い伝統」は維持されて行くものであると認識する。この「尊崇の念」はまさに「伝統」なのである。
> 戦前までに維持されて来た「良い伝統」は、この「卑屈と萎縮」に左右されずにしたから遺されて来ているものであり、日本人が始めて経験した「戦後の敗戦の衝撃」に依って「卑屈と萎縮」がこの「伝統」を消し去ってしまったのであり、むしろ、その「卑屈と萎縮」から”消し去る事が正しい行為”であるかの様に成ってしまうと云う現象が起こったのである。
> 明治期の廃仏毀釈の様なムードの現象が国民の中に起こったのである。
> 最も古く維持されて来た多く遺されていた筈の青木氏に「良い伝統」もこの事に抗することが出来ずに消え去ってしまったのである。
> 今、サイトはそれを「卑屈と萎縮」から脱皮して、何とか掘り起こそうとしているのである。
> 「伝統シリーズ」に取り組む為にも、その前に「伝統を維持する力」はこの「卑屈と萎縮」とを排除する事から起こると考えられる。
> その為にも、丁度良いテーマが発生したので、サイトにご意見を投稿してくれた人々と相談し、この投稿の原文の流れの構築を試みた。
>
> 以上
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「青木氏の伝統」-「達親」

記事No : 302
タイトル : 「青木氏の伝統」-「噠嚫-達親」
投稿日 : 08/09-12:36
投稿者 : 福管理人

「達親」


さて、この言葉を聞いた事がありますか。
“たっしん“と呼びます。実は「青木氏」に大いに関係のある言葉なのです。
然し、この言葉は「歴史的な宗教の変化」で殆ど消えてしまったのです。
当然に「青木氏の慣習、仕来り、掟」の中からも消えてしまったのです。
そもそも、「青木氏と守護神(神明社)」の論文で「青木氏の慣習、仕来り、掟」が多くあって、それが何とか引き継がれて来た事を論じました。
その中の一つですが、今回から、その「青木氏の伝統」のシリーズで、この様な事柄を紹介して行きます。
その最初に紹介するのが、この聞き慣れない言葉「噠嚫-達親」(たっしん)です。
(この「噠嚫-達親」には、鎌倉期中期前にはその意味合いから両方に口辺が付いていた。)

「青木氏」には切っても切れない言葉で、“「青木氏」を物語る言葉“なのです。
筆者は「青木氏の言葉」として位置づけています。

では、早速、“それは何故なのか“と云う事ですが、そもそも「青木氏」は、奈良期の頃から「皇祖神」の子神-「祖先神の神明社」と共に、仏道は「古代密教浄土宗」でした。
この「古代密教浄土宗」と共に、1400年もの長きに渡り伝えられて来た「伝統」の「仕来り」の多くは、その「密教」から来る「仏教作法」が多くあり、又、それに関連する「慣習」からも成り立っていました。
従って、殆どの文献には遺されていない言葉で、下記に示す様に僅かに鎌倉期の文書に見られるものです。
そこで、忘れ去られているこの「仕来り」ですので、先ず、その理解を深める為に、この忘れ去られた「噠嚫-達親」の「経緯と背景」に付いて説明します。

「言葉の経緯と背景」
そもそも、この「達親」と云う言葉は、中国から伝わった「仏教経典」の中にある「仏教用語」で、鎌倉時代に書き写された「節用文字」の書物の中にある言葉です。(中国では「梵語」にあります。)
その大意は、俗説として、「追善法要」の時に経を詠む数人の僧の中の「導師」に、「諷誦」(ふうしょう 暗誦して詠み唱える事)して貰ったことに対して、その「仏教作法」としての“お返し”をする事の「行為」を示す言葉でした。
その「行為」とは、普通は、作法としては「三宝」の高台瓶に載せた「布施物」を僧侶に渡しますが、それに対して僧侶は、「布施の趣旨」に代わる事物として、「仏の霊」を慰める「諷誦」の「読経・詠経」を行なった「仏教行為の事」を意味します。
然し、この作法の「初期の趣旨」は、僧侶の「諷誦」に対しての「お布施」では無く、「お布施」に対しての「僧侶の諷誦」とする「仕来り」でした。
今の慣習は、この逆に成っていますが、この「布施行為」が始まった鎌倉中期以降の頃は「在家の者のお布施」に対する「出家僧侶の諷誦」でした。

(「噠嚫-達親」の「御導料」や後の「布施物」にも「渡し方の仏法作法」があって、「手渡し」は禁じられ、仏前に供えられた「三宝」に載せておく作法だけで、後は「仏前の供え物」を自らの意思で無言で僧侶が「御裾分け」を戴くと云う形を採用していました。これは「青木氏」の「噠嚫-達親」の「御導きの意味合い」を、「御布施」にも”お返し”と云う形を打ち消す作法として引き継がれていた証拠です。筆者の家では現在でもこの作法に従っている。)

「在家の布施」→「出家の諷誦」

この鎌倉期中期から始まった「布施」-「諷誦」の関係に対比して、然し、この奈良期から始まっていた「古代密教」の「仏法作法」の「噠嚫」は、この様な「相対の関係」にはありませんでした。
「噠嚫」と「布施行為」は、類似する「仏法作法」ではありますが、下記に述べる様に、「時代の経緯」と「仏法の背景」が異なっているのです。

そもそも、「噠嚫-達親」は、「青木氏」の「氏の中」の純然とした単なる「密教の仕来り」であって、身内の「僧侶の導師」、又は「僧侶の「諷儀」(ふぎ)に対する「お導き」の「返礼」と云う意味合いが強かったのです。
(慣習の中で「御導」と呼ばれる事もあった事から「諷誦」だけへの返礼ではなかった。)
「導師の御導」→「福家の返礼」

それは下記に説明する「噠嚫-達親」の「語源、語意」から判ります。

そして、鎌倉期中期以降に発祥した「在家-出家」の相対関係の「布施」に対して、奈良期から平安期末期までに発達したこの「青木氏」との関係は、「氏家制度」の中ですから、出家していない「身内の僧侶」である事と、「相対の関係」に無い事から、「福家」(ふけ)として呼ばれる者から渡される「噠嚫」として位置づけられていました。
つまり、この「噠嚫」の持っている位置づけは、「氏家制度」とその慣習下での「密教」である為に、「福家(ふけ)」と云う純粋無垢な「敬意の言葉」に対応しているのです。

「施主」と云う一般の位置付けでは無く、「福」を用いた「家」として上位の表現を採っているのです。
この「家」は、「氏家制度」下の「宗家的意味合い」を持っていたのです。
「仏法作法」から出たと考えられる事から、俗界の武家の呼称の「宗家の言葉」を使えなかったと考えられます。

奈良期-鎌倉期中期 「密教」 →菩提寺
「青木-福家」(身内)→「達親」→「導師」・「諷儀」→「追善法要」→「御導」+「諷誦」

鎌倉期中期-現在至 「顕教」→檀家寺
「施主-在家」(他人)→「布施」→「出家・僧侶」→「全仏教的行事」→「諷誦」 
 
参考
:(「福家」(ふけ)の持つ意味は、「裕福な家」とする意味では無く、「青木氏の守護神」のところでも論じた様に、「青木氏」は、「賜姓族」である為に「本家-分家方式」を採用していませんでした。「特別賜姓族」の「藤原秀郷流青木氏」は原則的には「本家-分家方式」を採用していましたが、基本的には「2つの青木氏」での組織は、家は「横並びの関係」であり上下関係を表す呼称は取れませんでした。そうかと云って「リーダ役の家」を何らかの形で呼ばねばなりません。
そこで、自らの氏の一族一門の「リーダ役」を「福家」(ふけ)と呼んだのです。後に、この呼称が歴史を持つ「高級武士階級」にも伝わり、「宗家」に対して別の呼称として「福家」と呼んでいた記録があります。)

上記する関係相関図の共通する点として、その「仏教的行為」では、「諷誦の行為」と成りますが、つまり、暗誦した経文を声をあげて詠む事を「代償」とした「噠嚫-達親」と「布施」の「仏教の仕来り」でした。

ところが、当初は、この「密教の仏教的行為」は、主に、「密教の追善法要」の時の僧侶の「導師、又は「諷儀」に対しての「仏教作法」だけでした。
この「達親」には、「布施行為」の様に、「経済的関係」の背景は無かったのです。
これは、「密教の教義」と「氏家制度の仕来り」から来る制約で、「経済的関係」は生まれなかったのです。

然し、その後、この行為は、室町時代中期以後には、在家(主な檀家の意)の上記した「布施物」や「布施の趣旨」に対しても使われる様に成りました。

その理由は、一つは鎌倉期中期頃から「密教」を維持していた「特定の氏」が衰退し消滅して行った事と、二つ目は「密教の菩提寺方式」ではない「出家の僧」と「在家の民」の「布施行為」に依って維持される「檀家方式の寺」(顕教)が各地に多く興った事の、この2つが理由でした。(「密教の噠嚫」は「地域限定」でした)
この「2つ事」の為に、この「噠嚫-達親」の「仕来り」とそれに伴う「習慣」は衰退して行ったのです。
取り分け、「密教浄土宗」に於いては一部の「特定の氏」にのみに遺された「仕来り」となりました。
これが室町期中期頃に入ると、一部の氏を除き主に経済的理由で「達親」から「布施」に全体に変化させて行ったのです。

奈良期から平安期に懸けては40から50程度の数の「特定の氏」に依って「噠嚫」は維持されていたものですが、ところが平安末期には「3大密教(天台宗、浄土宗、真言宗)」の「密教論争」が起こり、この「密教のあり方」に付いて一部修正されて行ったのです。

(他の2つの密教は密教性を緩めたが、密教浄土宗は古代密教浄土宗があった為に緩めなかった。)

つまり、その密教性は最も「密教浄土宗」が最も強かったのです。
中でも、この時、「青木氏」は「古代密教浄土宗」の「担い手」であった事から、「密教浄土宗」の他氏と異なり、宗教論争後も頑なにこの「仕来り」を守ったのです。
然し、この「青木氏の仕来り」も、鎌倉中期以降からは、「民衆」を巻き込んだ「布施行為」に依って維持される「檀家方式の寺」に圧倒され全体的に変化して行ったのです。
この「噠嚫」は、細々と「古代密教浄土宗」の「青木氏」等に依って維持される「仕来り」と成りましたが、ところが、この「布施行為」に依る「仕来り」は、中級武士も含む民衆に依って維持される「慣習」へと変わって行ったのです。
「特定の氏」の「仕来り」から「民衆」の「慣習」へと変化したのです。
つまり、「在家」の「布施」に対して、返す「僧の(読経・詠経)」の「法施」の行為に成ったのです。

「密教と顕教」
そもそも、鎌倉期中期以前の「宗教の入信」は、ある「特定の身分階級」が入信できる「宗教」でした。
これを「顕教」に対比して「密教」と云いますが、従って、この時代の寺は朝廷の許可を得て、この「特定の身分階級の氏」が「独自の力」で「独自の寺」を創建して維持し、「独自の氏」から「身内の住職」を出し運営していました。この氏の「独善の寺」として存在したのがこれを「菩提寺」といいます。

(「氏の僧侶」のみならず寺を建造し管理維持するために必要とする「部:技能職人」までも氏内に抱え、その「技能頭」には「青木氏」を与えて「氏全体」を「密教集団」としていたのです。
「青木氏の守護神」で論じた様に、「血縁による2つの青木氏」と「絆による2つの青木氏」に依って構成していたのです。
従って、「血縁青木氏」だけではない事から「宗家的存在」を「福家」(ふけ)と呼ばれた所以でもあるのです。これは「氏内の呼称」であり、「氏外」からは「御師さま、(氏上さま)」と呼称されていたのです。)

特に、「古代密教浄土宗」は、仏説の「教義の秘密性」のみに至らず、上記した様に「寺の建立」などの一切の「仏法作法」を完全に独善化したのです。
当初は、「噠嚫-達親」は、この「菩提寺」の「特定階級」と「僧階級」の間の「仏教的慣習」であったのです。
その氏の「追善法要」では、その氏の者が務める「導師」は「身内の僧侶」ですが、周囲の寺からも集まってもらった「僧侶の諷儀」に対しては、儀礼上、「仏法作法」の慣習では ”「お礼」” と云う「作法」にはならない事から、「御導:(御導料)」の意味を持った「噠嚫-達親」(語意は下記に説明)と云う言葉を使ったのです。

この「密教-顕教」の関係は、本来は「教義の秘密性の有無」にあったのですが、これは主に「古代密教浄土宗」と「密教浄土宗」の「仏法作法」として独善的に強く引き継がれていました。
これは、「自然神」に繫がる「皇祖神-子神-祖先神-神明社」と、「古代密教」の「仕来り-慣習」の2つが融合していた事と、この「仕来り-慣習」を守る立場にあった「賜姓族」としての立場が大きく左右したのです。

ところが、その土台からの変化が起こったのです。
鎌倉期中期から室町期になって「下克上」が起こり、下級の身分の者も宗教に入信する事に成り、又、密教以外の宗教、つまり、「顕教」が勃興し、この時に、これらの身分の者と民衆たちの集団が集まって寺を建てて、集団の「檀家寺」を創り、一般の者が「出家」して僧侶に成り、これに対してそれを取り仕切る「在家」(総代)と云う者たちが現れました。
そして、彼等は、その「檀家寺」を「3つの布施」(法施、財施、無畏施)で維持し管理運営する様にしたのです。

この結果、「噠嚫-達親」は、当初は、「特定の身分階級」の「氏の菩提寺」の「仏教的な行為」でしたが、この「顕教」によるあらゆる宗派の「檀家寺」が生まれて来た為に、この「噠嚫-達親の作法」は一般化して大きく変化し、変質し、「噠嚫-達親の仏法作法」は、「噠嚫」から「布施」としての質的な変化を起こしたのです。
この「3つの布施」は、同じ身分階級の中にある「在家」と「出家僧」との関係を保つ一つの手段となったのです。
当然に、「密教の達親」は、本来の「導師」への「仏教的行為」としても「福家」(ふけ)では、未だ細々と遺されていたのです。
特に、現在でも稀に江戸以降の「顕教の浄土宗」において「「諷儀」に対する「御導:御導料(みどうりょう)」と云う形で遺されています。

注釈
この「仕来り」が遺されているのは少ない中でも関西地区に集中しています
ところで現在では、後の一般宗派の「顕教の檀家寺」では、「追善法要」時の「諷誦」に、「諷儀」を一段、二段と付けますが、この「諷儀」に対する”返礼作法”は「御布施」、又は個別に「諷儀料」と呼ばれています。
普通一般には「布施」で通っていますが、現在、一般の「民衆の葬儀・法要」では「諷儀」を付けない場合が多いのです。
況して、「顕教」であったとして、「下級武士」や「民衆」の「追善法要」や「葬儀」では経済的理由から「諷儀」をつける事は先ず有り得ません。つまり、そもそも「風儀の慣習」(明治後、”風”を使っている)そのものが原則的には無かったと考えられます。
川原や路傍の砂岩石を積み上げて土葬する民衆の習慣の中では、「墓石」を作る事そのものの慣習が無かった時代に、「諷儀」を一段二段と付けて「追善法要」や「葬儀」を行なう事等有り得ません。
「墓所」を設けて「ルーツ継承の概念」が元々無く、何とか「檀家寺」を持っていたとしても、その「檀家寺」には「先祖継承の過去帳」の習慣は無く、有ったとしても「檀家寺」ではその時に生きた人の「人別帳」しか無かったのです。
そんな「顕教の檀家寺」の概念の時代に、「諷儀」の「慣習の存在」はそもそも矛盾しています。
有り得る時代としては、江戸初期の家康の顕教の「浄土宗督奨令」以後からの事に成ります。
その時も、「上級武士階級」に限定していましたから、元々ルーツ継承の過去帳の概念の持っていた階級です。時代考証としては庶民では有り得ない慣習です。
乱世で功績を立てて、突然に出世して「上級武士階級」に仲間入りした者が多かった為に、この者等が過去帳を「浄土宗督奨令」に基づいて作ったのです。
まあ、出来たとして「庄屋、名主、豪農、豪商、郷氏」の範囲であり、もし、強引にやったとしたら、先ず周囲で「身分不相応」で周囲から阻害されて生きてゆく事が出来なかった筈です。
例え、有ったとしても一般に「布施」の慣習に含めての行為であり、その中から「諷儀料」を分けて支払う事が多かったのです。
この様に、「諷儀」(風儀)とする慣習が、「顕教」の中に存在している事に疑問が残ります。
恐らくは、これらの「路傍の石」の言葉通り、この慣習が解けた明治以降の慣習かせいぜい江戸末期で出来上がった言葉ではないかと考えられます。
そこで 上記した事を配慮して、この「諷儀」の呼称には、「密教」の「古い地域」では、「ふぎ」と呼称し、又は、「顕教」の「新しい地域」では、「ふうぎ」と呼称する地域に分かれているのです。
そして、”ふぎ”と”ふうぎ”の呼称には時代のブランクと差が有ります。
ここで”一つの何かを物語る特質”を持っています。
「密教浄土宗」では、全て法要は「身内・氏内の作法」である為に、そもそも「諷儀料」の概念が無かったのです。だとすると、筆者は、この事に疑問を持っているのです。
”ふぎ”と”ふうぎ”の呼称の違いは何故に起こったのかであります。
そもそも、「密教」であるが故に、「導師」も「諷儀」も氏内の「身内の僧侶」である事。
とすると、”ふぎ”とする呼称があるのは、本来は、「布儀」であったのではないかと考えられます。
”「儀」を以って「布」する”と考えれば、「氏内の作法」と成り、「言葉の構成」では納得できます。
これが「顕教」に成った事に依って、仏法の根本的な状況が変わったのだから、この「布儀」が「布施」と云う言葉に変化したと考えられます。
つまり、「儀」と云う意味合いが、「顕教」に成った事により、「施」と云う意味合いに変えたと考えられるのです。「顕教」の他人が集まった「檀家方式」の作法の中では、「儀」の意は成り立ちません。
「儀」に依って「顕教方式」が成立っていたのではなく、他人の檀家の「施」(ほどこし)で成立っていたのですから、「儀」では無く「施」と成ります。依って、「布儀」から「布施」に変えたと考えられます。
「密教」では、「福家」が中心と成って「追善法要」や「葬儀」を取り仕切る仕来りで、「氏内の身内の作法」ですから、「儀」に従ったとする事で納得できます。
「達親」-「布儀」→「布施」-「諷儀」  (達親と布施には「密教-顕教」の仏法作法の違いがある)
「諷儀」の”ふうぎ”では、そもそも「言葉の構成」に無理があります。
”「諷誦」する事で以って「儀」する”とすることでは、「諷誦」の意味と「儀」の意味が合わないのです。
「顕教」では、「密教」の「布儀」が「布施」に変化したので、又、元々「密教」では「身内の僧侶」であるので、更には、「諷儀」の概念が無かった事から、この3つの理由から、「導師」の後ろで「諷誦」する「僧侶」に対しては、「顕教」では「諷儀」(ふうぎ)として呼称する様に新たに成ったと観られます。
「顕教」では、「他の寺」から同座して「諷誦」して貰っている「出家の諷儀僧」には、身内で無い事から、”「返礼」”をする必要が生まれます。
この時は、明らかに”「諷誦」を目的として同座して貰って輪唱”しているのであるから、合成語として「「諷儀」(ふうぎ)の呼称が生まれたと観られるのです。
従って、「密教」の総意の”「布儀」のふぎ”に対して、「顕教」の”「諷儀」のふうぎ”との、「2つの呼称」の違いが地域に依って生まれたと観られるのです。
故に、上記の様に、「密教」の浄土宗が存在した地域には、”ふぎ”、と成り、「顕教」の浄土宗の存在した地域には、”ふうぎ”と成っていると観られるのです。
筆者の家では、「布施」では無く、「達親」であった様に、勿論、「布儀」の”ふぎ”の呼称で伝えられています。
「古代密教」の「仕来り」の特異な「領域の言葉」である事から、この「経緯を確定する研究資料」が発見できないのです。


この「顕教の浄土宗」の中でも、元は「特定の氏の菩提寺」であったものが、特定の氏の衰退による経済的理由で「維持管理の背景」を失い、「密教」を早くから解き、「顕教」の「檀家寺」に成った浄土宗寺には、細々と「達親」の作法は遺されていました。
多くの「密教浄土宗」が経済的な支えを無くした為に「顕教の浄土宗」と成って行きました。

(筆者の調べた範囲では、因みに、平安期に勃興した源氏方の武士で、例えば、日本全国に大きく氏を広げた義経の家来であった鈴木氏等の菩提寺(浄土宗-明治後、「顕教の檀家寺」に成っている)等にも、調べるとこの「達親の作法」が細々と観られます。この様に「特定の氏」に細々と守られていた事を物語ります。然し、住職が世襲制がなくなった現在では、最早、伝統維持の時間はなくなっています。)


この「噠嚫の作法」は、特に、「密教浄土宗」が「家康の宗教改革」で江戸期に廃止されて無くなり、複数の「高級武士」だけが入信できる「顕教」の「檀家形式」の「顕教浄土宗」に引き継がれたのです。
「福家」の役割を経済力のある「高級武士」の「武家」に変化させたのです。

(書物から観ると、この時に、「口辺のある達親」から「口辺の無い達親」に変わった模様です。
それは「密教」から「顕教」に変化した事により、「諷誦」の「仏法作法」の意味合いが少し異なったこと事から、口辺が取れたと観られます。
「福家」(ふけ)の呼称も、「密教の仏法作法」に拘らず、この時に「高級武家階級」へ伝わり、それから「2足の草鞋策」の「大店の商人階級」へと深く浸透して行ったものと観られます。)

つまり、「密教の菩提寺」の言葉が、「顕教の檀家寺」と区別が無くなり、一般化した様に、この「密教」から「顕教」へ変化した「噠嚫-達親」も質を換えて一般化したのです。

「寺の創建権」
そもそも、江戸期まで、「寺の創建」は、誰でもが出来る行為では無く、時の権力者の許可を得た「特定の氏の特権」(青木氏等)でした。
従って、この「顕教」として「遺された噠嚫」も再び芽を吹き出し、本格的になったのは江戸時代になってからの事でした。
「密教の浄土宗寺」が衰退して壊滅状態に成ってからで、江戸初期にこれを憂いた家康に依って、これをある「密教の慣習や仕来りや掟」をある程度緩めて、それに条件を付けて、「顕教による浄土宗」の「督奨令」を発したのです。
その条件とは、「特定の氏の財力」では無く、幾つかの「一般の高級武士の財力」を集めて管理し維持させようとしたのです。
更に、明治維新にも「苗字令」を出すと同時に、明治初期の「宗教改革」に因って、この一切の特権を完全撤廃したのです。
遂には、だれてもが入信できる「顕教」の「檀家形式の浄土宗」と成ったのです。
従って、この「噠嚫-達親の言葉」が使われない様になりました。
(「古代密教浄土宗」の「青木氏」だけは使っていた)
この様な経緯と背景を持った「噠嚫-達親」は、鎌倉期中期以前では上記した様に「御導料」の意味合いの「導師と「諷儀僧」に対する「特別の仏教的行為」での言葉でした。

「達親」の言葉の変化
そこで、因みに、この「噠嚫-達親」の言葉は、実は現在は、「普通の言葉」に変化しているのです。
それは、よく使われる “「達者」” と云う言葉がありますが、この語源と語意は「達親」にあって、上記の様に時代と共に、「達士」に変わり、「達者」に変わり、「達者」の様に何時しか別の意味に変化していったのです。
“あの人は何事にも達者だ“と云う風に使われる様に成りました。
変化した原因は、「達親」の「伝統的な諷誦」にあって、この「仏教行為」の、“暗誦した経文を声をあげて詠む事“から、人の前で僧の様に、 ”匠に朗々と歌ったり演説したり説法を講ずる者“を「達・者」(匠)と呼ぶように成ったのです。
そして、その「諷誦」を「法施」に見立てて、その者への何がしかの「報酬」としてお金(財施)を紙に包み、”おひねり”として、つまり、「布施行為」(財施)を提供した行為から、現在の意味に変化していったのです。

「噠嚫-達親」は、この「達者」の「達」の「匠」(たくみ)の意味と、「親」→「士」→「者」(導く者・導師・僧)の意味の「組合語」と成るのです。
「親」(しん)の “おや“は、本来の語意はこの「士」の「導く者」の意から来ています。
この「組合語」が、この「仏教的行為・慣習」を「噠嚫」と呼ぶようになったのです。
口辺の有無は、“暗誦した経文を声をあげて詠む事”から来ています。
(口辺の無い昔の仏教書物もあります。室町期中期以降)
この様に、「言葉の変化」には、一つのが定型があり、取り分け、「仏教用語」が一般化したものには次ぎの様な規則性を持っています。

言葉の「4変遷パターン」
特別な階級に使われた言葉 -「特別な階級層の仏法作法」 -「原語」 -「奈良期から平安期」
武士階級に使われた言葉  -「上級武家層の習慣」   -「士」 -「鎌倉期から室町期中期」
富裕層に使われた言葉    -「中級武士と富裕層の習慣」  -「士・者」-「室町後期から江戸初期」
庶民に使われた言葉     -「庶民層の習慣」         -「者」  -「江戸期中期から明治期初期」
この様に:、「仏教原語」から「・・士」-「・・者」に一般化して変遷したものが多いのは、「時代の変化」を顕著に伝えています

「青木氏の仕来り言葉の一般化」
さて、そこで、この「達親」が、庶民の中に「達士」に成り、「達者」と云う言葉に成り、に変化したと云う事は、この「密教の言葉」の「噠嚫-達親」が庶民の中に受け入れられる程の「言葉の力」を持っていた事を示します。
本来の言葉は「古代密教浄土宗」の「慣習、仕来り、掟」として継承する「青木氏」に依って細々と引き継がれている中で、一方では「高級武士階級」に引き継がれた「顕教の浄土宗」の中にもこの「習慣と仕来り」が引き継がれていて、それを江戸期の「高級武士階級」が「芸能文化」の中で、「諷誦」する「庶民の匠」に対しても「達士」と褒め讃えて経済的な支援や保護をした事から、更には、一般化した「庶民の技能」に対しても庶民がこれを真似て「達者」と云う言葉にして賛美して“おひねり“(財施)で支援した事から遣った言葉なのです。
因みに、他に「青木氏」の「仕来りや慣習」が、「達親」と同じ様に遺されている言葉があるのです。
次ぎに、青木氏の「噠嚫-達親」から起こる慣習として関わる言葉を紹介します。

・「御師」の浸透
それは先ず一つ目です。「青木氏」は、“「御師」(おんし)と呼ばれていた”と「青木氏の守護神(神明社)」の処で論じましたが、この「御師」の言葉は、江戸時代には、江戸幕府のいろいろな「技術や技能」を取り締まる役人の親方の「総括の最高幹部」を「御師 おし(御士もある)」と呼んでいた事が幕府の記録に遺されています。
この「総括の最高幹部」は「高級武士階級」でありましたから、これは「顕教浄土宗」の「慣習や仕来り」を引継ぎ、「顕教浄土宗の祖」の「古代密教浄土宗」の「青木氏」から学んでいた事を顕著に意味します。

恐らくは、「八代将軍 吉宗」の時に、この呼称が導入されたと観られます。
他の二人の兄弟に押しやられた伊勢に流されて遠ざけられた吉宗は、幼少の頃、伊勢の「加納氏」と「青木氏」とが「親代わり」に成って育て、後に莫大な経済的支援をして「将軍の座」に押し上げたのですが、この時の経験を通して、この「御師システム」の「慣習と仕来り」を江戸に持ち込み採用したと考えられます。
「2足の草鞋策」を採用していた「伊勢加納氏」(伊勢青木氏と何度も血縁関係を結んだ)は、吉宗の「お側用人」と成り、この「伊勢加納氏」と共に「伊勢青木氏」は、大名扱いの「布衣の着用」を許され、財政面から「享保の改革」と「紀州藩の藩政改革」を依頼されて行なったのです。
この経緯から「御師システム」が採用されて言葉が幕府のシステムの中に遺されたのです。

更に、この「御師」の言葉には、次ぎの様な形で庶民の中に浸透しているのです。
実は、「紀州の方言」には、純粋な「万葉言葉」が大変多く遺されているのですが、「万葉言葉」を研究する場合は、歴史研究者は「紀州の方言」を研究する事からはじめるのです。
それは「万葉言葉」の「方言」の中には歴史を証明する内容の言葉が多く遺されているからなのです。
そのひとつが、「紀州の方言」で、相手を最大に尊敬して呼ぶ時は、“おんし 御師”と呼びます。
(後に、”噠嚫→達親→達士→達者”の様に、 ”御師→御士→御者 おんしゃ”に変化して庶民化した。)
普通では“お前”に成る言葉ですが、平安時代の「万葉言葉」として、“お前”よりは、更に上の「尊敬の言葉」として、“おんし”と成るのです。
現在では、かなり田舎に行かなければ聞くことは出来ない方言ですが、昭和30年頃までは一般に使われていた方言です。

この次ぎに上記した青木氏の宗家を意味する「福家」(ふけ)の言葉ですが、関西の江戸時代の言葉として使われていた言葉で、特に、商業関係の大店の店主に対して「福家」(ふけ)と云う言葉が使われていた事が判っています。
この時代の殆どと云って好いほど大店は、「2足の草鞋策」の高級武士階級の裏の顔であったのです。
これは、伊勢や信濃を中心として、甲斐や近江や美濃の青木氏が、「古代和紙」を殖産から販売までを大店として手がけていて「2足の草鞋策」を採っていたし、「総合商社」をも経営していたのです。
その為に、「賜姓族」として明治3年まで、その立場と家柄が維持されていた為に、「本家-分家」の区別を採らず、その呼称を青木氏は周囲から「福家」(ふけ)として呼称されていた事が判っています。
その呼称の根拠は、大店から来るものなのか、上記した様に「仏教的呼称」から来るものかは未だ確定していませんが、恐らくは、その大元は「仏教的呼称」からまず浸透し、次ぎに商業で深く浸透したのではないかと観ています。
これが、江戸時代の資料から判断すると、関西地域で一般の商業の大店の呼称に商業関係者に多く依って使われていた事が資料から観て判っています。
「青木氏」に使われた事から「総宗本家」的な意味合いで、あらゆる階級に浸透して行った事から「商業」だけではなく、武士も含めた全体として指導的立場にある家のトップクラスの家に対してより敬意を表す総称として使われていたと観られます。
「25氏の青木氏」と「361氏の青木氏族」を通じて、「5+4地域」と「24地域」の大きな媒体から、先ずは慣習として広く伝播して行ったと観られます。
現在でも、関西の田舎の山村などには、昔の村の庄屋や名主や豪農方をこの様に呼んでいる様ですが、最早、この言葉も時間の問題で老齢化して消えてしまうでしょう。
現在は確認出来ない状況になっています。大元は「仏教的呼称」からの浸透であった事から確認出来なくなっているのではないかと観られます。
そのきっかけは明治維新の宗教改革と庶民化が原因していると考えられます。


「噠嚫-達親」の言葉と「仕来り」とそれに伴う「慣習」は、「伊勢青木氏」に於いて明治35年頃まで遺されていたことが判っています。
筆者の祖父と父から「達親」と「布施」の違いに付いて教わった事があり、伊勢では明治35年まで確かに「噠嚫」であったと云う事から、「伊勢青木氏の菩提寺消失」の時期を境に家での伝統は消えたのです。
従って、「2つの青木氏」に於いてもこの程度の頃まで継承されていた事が判ります。
入間の「総宗本家の青木氏」の存在が今も確認されている事から、この「噠嚫-達親の仕来り」が未だ遺されている可能性が高い事が考えられます。
関東各地の「菩提寺の西光寺」には、何がしかの記録がある事を期待したいのですが、「個人情報保護」で研究はこれ以上難しくなっています。

(全国の「西光寺の研究中」では「3つの種類」」に分けられ、この内の一つが「菩提寺」と観られる。後日解れば研究結果を披露したい。)

それだけに、筆者の「伊勢青木氏」に遺されているこの様な「青木氏の伝統」を記録として吐き出して遺して貴重な情報を広めて置きたいと考えます。

この様に「達親」の様に、「青木氏」の「仕来りの言葉」が、慣習化して一般化した言葉と成っている事の意味は大きいと思います。
「青木氏」が「民衆との達親の繋がり」をこの様な「仕来り」を通じて持っていて、その「仕来り」から興るあらゆる「慣習」が民衆に浸透していた事の証明にも成ります。
又、逆に「御師さま」や「氏上さま」と呼ばれていた様に、「青木氏」を民衆が親しく見ていた事をも意味します。
江戸末期や明治初期9年頃までに起こった「民衆の一揆や暴動」には、その裏に「伊勢や信濃の連携」や「近江」や「越前」や「甲斐」の「大店の青木氏」が経済的に関わっていた事実から、「民衆との達親との繋がり」は慣習を通じての証にも成り、これらの「言葉-慣習」で引き継がれていた事にも成ります。
この様な「青木氏の仕来りと慣習」が、何らかの形で社会に深く浸透していた事が頷けます。
この様に、「青木氏の言葉」の研究は、「青木氏の伝統」を明らかにする事が出来るのです。
「青木氏の言葉」の研究を通じて、何か心がほのかに温かくなる気がします。

「青木氏の伝統」-「噠嚫-達親」

終わり



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伊勢青木家 家訓10 (完)

No.292] Re: 伊勢青木家 家訓10
投稿者:福管理人 投稿日:2013/04/30(Tue) 11:13:31


伊勢青木氏の家訓10訓

以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。

家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導く為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

>家訓1は「夫婦の戒め」
>家訓2は「親子の戒め」
>家訓3は「行動の戒め」
>家訓4は「性(さが)の戒め」
>家訓5は「対人の戒め」
>家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)
>家訓7は「品格の戒め」
>家訓8は「知識経験の戒め」
>家訓9は「和武の戒め」


>家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

さて、最後の戒めの「家訓10訓」(刹那の戒め)である。

この家訓に付いては、「家訓9」(和武の戒め)で一部触れた。
「家訓9」では、そもそも、”「拘る事」が「煩悩」の始まりだ”と云う事であった。
つまりは、「拘る」=「我 執」である。
「青木氏の古代密教の教え」では ”「煩悩」はあって良い。それに必要以上に縛られて「拘る事」に意味が無い。”と解いている事に成る。
そうすると、「現世の本質」とは、それは「現世」(この世)では、「煩悩」とは、 ”「人」としての「煩悩から起る喜怒哀楽」と云う事に成る”と説いた。

>「煩悩」=「現世の喜怒哀楽」
これを突き詰めれば、次ぎの様に成る。
「人」がこの「現世」(うつせ)から「彼世」(かのせ)に移る時に「現世」に遺されたものは、その個人としての「喜怒哀楽」の「過去の思い出」以外には無く、「個人の肉体」は焼却される事で「喜怒哀楽の過去の思い出」(煩悩の発露)は ”何も無く成る”を意味する。
つまり、その「個人の煩悩」は、”現世では無く成る事”を意味する。
故に、”「現世」から「彼世」に移る事は、「空」による移動にしか無い”とも受け取れる。
只、然し、此処で「万能の神」は、その「現世での証し」として、「人」つまり「子孫」を分身として遺す事を定めて、”現世と彼世の断絶”を ”[(色と空)即ち(白と黒)の摂理]”により無くした事に成る。そして、「分身の煩悩」が新たに生まれ遺される事にした事に成る。
これが ”「現世」から「彼世」の「移動」は、「断絶」では無く「継続」である”とした「青木氏の古代密教の教義」であった。

「阿弥陀仏の説」(青木氏の密教仏説)
「仏」の上位にある「神」は、”この「現世-彼世」(色と空 白と黒)には「繋がり」として絶える事の無い「分身」を置いた事に成る” と解いて、全体の論理性を仏説として用いた事に成る。
そして、この仏説の「分身の部分」は、「人の変化(へんげ)」の「仏」では無く、それを「仏」が云うのでは無く、上位の「神の仕儀」と説いた。
確かに、この「分身」無くして「現世と彼世」は断絶して「仏説の論理性」が崩れる。
だから、”「我が身」の「次ぎの分身」が「現世」に遺すのであるのだから、其処には「前の煩悩(喜怒哀楽)」は消え失せて、「分身の新しい煩悩の喜怒哀楽」が生まれる。要は何も変わっていないのだ。だから、事を事更に拘るな” と説いている事に成る。
結局は、「神」が云うのは、”拘るな 分身に任せよ”と成るのであろう。
これがまさしく「浄土宗の阿弥陀仏」を信心する「青木氏の古代密教の仏説」と成るであろう。
確かに、この世に於いて、この説が納得出来る事がある。(家訓10の意)

それは、”孫が生まれた時のあの不思議な喜び” は、”子供が生まれた時の喜び”に対して比べものに成らない様な「異質な喜び、嬉しさ、安堵感」に似たものが込み上げて来るが、この上記した ”子孫分身を遺した”とする「本能的な動物の安堵感」の感動であろう。
つまり、これは「神」が動物に組み込んだ本能 、”拘るな 分身に任せよ”からの感動であろう。
その代わりに「神」は ”現世の最大の喜び”即ち、この”「安堵感」”を与えたのであろう。
この「安堵感」は、その個人の経験した「現世の喜怒哀楽」とは異質の比べ物に成らない「喜び」として与えたと考えられる。その「喜び」には「対価の背景」は無い。ただ”子孫を遺した”とする”対価の無い””背景の無い”清らかな「喜び」を与えたのであろう。

故に、現世の「人生の最終目的」は ”分身を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に無い。”として考え、”「喜怒哀楽」に無い”とするならば、そもそも、”「喜怒哀楽」から生まれる「煩悩」には必要以上に拘るな”と成る。
況や、”拘るな 先ず分身を遺し、分身に任せよ”とする説に成る。
故に、”分身を遺す事で全ては解決する”と解いている事に成る。
この「本能に組み込まれた達成感(安堵感)」が孫を見て噴出すのである。これが「異質な喜び、嬉しさ、安堵感」と成って込み上げて来るのである。
結局、これを突き詰めれば、問題は、人生に於いて、「人生観」を ”分身を遺す事に主義を置くか、「喜怒哀楽」に主義を置くか”の差の問題である事に成る。
それに依って、その人の「価値観」は変わるし、「人生観」も変わる。どちらを選ぶかに関わる。
然し、「青木氏の古代密教派の教え」は、 ”分身を遺す事に主義を置く”と説いている。

人生に於いて、「分身を遺す事」><「喜怒哀楽に置く」の関係式が成立つが、ここで、「古代密教」の仏教は「刹那主義」として、「分身を遺す事」<「喜怒哀楽に置く」の関係式を戒めている。
然し、「分身を遺す事」に全てを傾ける事は不可能であり、それはまさしく「拘り」である。
”「拘るな」”としている「古代密教の青木氏の仏説」である限り、必要以上に ”全てを傾ける事”は正しく無い事を意味する。
要するに、現世に生きている限りは、人は「喜怒哀楽」に左右される。
然し、可と云って「古代密教」では、”「分身を遺す事」<「喜怒哀楽に置く」であっては成らない” とし、”「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であるべきだ”と説いている事に成る。
>の不等号の持つ意味がこれを示唆している。

「刹那」の語意の通り、”今”に重点を置いた生き方は、「刹那主義」である。
”「今」を楽しむ そして、その「今」の連続を重ねる。そうすれば、最終は「安楽」に成るだろう” とする積み立ての「加算論」である。この「加算論」=「刹那主義」である事に成る。
”「人」はこの「刹那」に陥りやす「動物の思考原理」を持っている事が判るが、これでは、”「煩悩の連鎖の道」に陥る” としているのである。
つまり、「刹那」では、間違い無く「今」であるのだから「喜怒哀楽」に翻弄される。
翻弄されるから其処から逃れようとして「煩悩の芽」が吹き出す。そして、思うように成らない現世に於いて「煩悩の連鎖の輪廻」が起る事に成る。
故に、この「古代密教」では ”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”と説いているのだ。

(参考 筆者は、この「密教の教え 先祖の教え」にも充分に納得し、人生をこの論理で生きて来た。恐らくは1400年にも成る「悠久の歴史」を持つ「青木氏の累代の先祖」もこの教義に従ったからこそ、現在までに子孫を確実に遺し得たと観られる。極言すればこの「一点思考」に集約されると考えている。「喜怒哀楽の戒め」を物語る事として「伊勢青木氏の口伝」には「享楽の精神」と云う言葉で口癖の様に使われていたが、これも「密教の教え」として引き継がれて来たものであろう。全て口伝類はこの論理論調から生まれていると考えている。)

「一点思考の本論」(「3つの背景」)
ではどうすれば良いのかと成る。俗に云えば、”その割合はどの程度だ”と成るだろう。
そもそも、”「割合」は「拘りの初期発露」だから”、良くないとして、其処は、”人それぞれである。「人生の経験」で会得せよ。” とする「古代密教の仏説」(青木氏の教義 浄土宗系古代密教 家訓)ではしている。
この事は「密教の説法」である事の証しとして、「家訓8」でも戒めている。

以上が「家訓9」で先行して関連して論じ、ここにそれを改めて重複させてたが、「家訓10」を続けて論じる。

其処で、本論ではこれを更に掘り下げて論じる。
「青木氏の守護神(神明社)」(1-22段)で「青木氏の生き様」がどの様な考え方で創造されたかを網羅する事が出来た。そうしてもう一つの「生き様の根幹」と成ったのがこの「青木氏の家訓10訓」(1-10)であった事に成る。
真に、この「神仏の二つの考え方」が習合して「青木氏」即ち「青木氏の思考原理」を創り出したのである。

そもそも、この「家訓10」の ”子孫を遺す事に一義あり、喜怒哀楽にあらず”の「子孫を遺す事」には、”どの様な背景”が青木氏にあったのであろうか。それを先ず論じる。
それには次ぎの3つが考えられる。

背景1 人間を含む一切の生物の最大の本能である「子孫」を遺す事から起因している。
背景2 上記した「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」の「特異な立場」が起因している。
背景3 「神仏習合の思考原理」から起因している。

この「3つの背景」がこの「家訓10」を形成したと考えられるが、人間も自然の一物である事は間違い無いが、だとしたら、この事に依って判りきっている事であるのだから、何も家訓とする必要はない筈である。
つまり、”「上記1の起因の条理」に主体を置いていたのか”と云う疑問が残るが、そうでは無い事は直ぐに判る。

>「特異な立場」
では、「上記2の起因の条理」に付いて、この”「特異な立場」が「子孫云々」と成るのか”と云う事に成る。
この”青木氏に課せられた「特異な立場」”は、人間社会を構成する全て「事の起源(事の象徴)」である事を意味する。

特記 「事の起源(事の象徴)」
「青木氏の守護神」や「家訓10訓」で論じた「武の象徴的立場」を此処では「事の起源(事の象徴)」と表現する。
同じ「賜姓族・朝臣族・臣下族」であり、「武の象徴」としての11累代から構成される「源氏」とは、「3つの発祥源」と「国策氏」と「融合氏」である「3つの立場」の存在が、「同じ賜姓族青木氏」とは異なる。
依って、「事の起源(事の象徴)」と表現しているのであって、この源氏等と異なるこの「3つの立場」(特異な立場)の違いは、上記する思考原理を大きく変えている事と成っている。
(源氏とは根本的な思考原理は異なる事に成る)
もとより、「官位官職」等の差もあるが、「2つの血縁青木氏」と「源氏」とには、”「青木氏」>「源氏」の関係式”が氏家制度の中では「慣習」としてあった。
この「慣習」は、原則、「明治3年」まで維持されいた事が「伊勢青木氏の資料」から判断出来る。
因みに例として、既に論じた事ではあるが、理解を深めてもらう為に改めて記述すると、当時の最大権力者で為政者の徳川幕府・紀州藩初代から大正14年まで、その「上位の扱い」を受けていた事が「伊勢青木氏の記録と口伝類等で判っている。
(「藩主より上座の礼」等や、「藩主からの書状」や、「十二人扶持米の礼扶持給」等)
この事からも「事の起源・事の象徴」として区別して、本論をより正しく論じる必要がある為に敢えてこの語句を使用している。
「天皇家の国家の象徴」に対して大変非礼でおこがましいが、「武の象徴」であった過去の「特異な立場」をより本訓の為に”「事の起源(事の象徴)」”の語句を用いて以下も論じる。

「青木氏の宿命」
この「事の起源(事の象徴)」の「青木氏の義務」を全うするには、論理的に付き詰めれば ”「子孫を遺す事」”が「最大の務め」、又は「目標」と成るだろう。
何故ならば、この「務め、目標」が仮に叶わなければ、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」の「特異な立場」は、「事物の起源と基点」が無く成る事に成るのであるから、必然的に「事の起源」なるものが霧消する。
「現世の事象」のみならず、物理で云えば「核」に相当するもので「自然の摂理」に於いても例外は無く、この全てこの条理が存在する。
依って、もともと霧消するものを「事の起源(事の象徴)」とはしない事に成る。
「事の起源(事の象徴)」とする以上は、永代に「事の起源(事の象徴)」であり続けねば意味を成さない。「3つの特異な立場」に依って発祥時より「青木氏」はこの宿命を負っているのである。

何故ならば、「家訓9」で論じた様に、そもそも「屯」を前提とした「人間社会」を構成する限りに於いて「起源と基点」は「絶対条件」である。(屯:たむろ)
「屯」もそもそも「基点」に類する。「動物」のみならず「一切の生物」はこの「自然の条理」に従っている例外の無い条理と成る。
因って、当然に、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」の「特異な立場」は、この「屯」に類する一つであるのだから、その「屯」の「基点」と成っている「氏」が、途中で霧消する事はあり得ない理である。
この「屯の原理」が働くこの現世の社会では、如何成る事が起ころうと「事の起源と基点」の役目を課せられている以上は、この具体的な務めとして「子孫を遺す事」は第1義と成るのである。
大化期から平安中期までは「青木氏の霧消」は、強いては最終は「天皇家の霧消」に結び付くと考えられていたのではないか。
その証拠に平安中期の「青木氏の衰退」から嵯峨期の「源氏の出現」は、この「事の起源(事の象徴)」の復元であったし、南北朝前には形骸化したけれど源氏は11代も発祥し続いた。
そして、「源氏形骸化」の後に「円融天皇」による「青木氏補完策」の「特別賜姓族の誕生」と成るのである。
あくまでも歴史は、「屯の原理」を護る為に ”「事の起源(事の象徴)」の復元”を図って絶対条件のこの条理を導いているのである。

故に、「家訓9」でも論じた様に、「子孫を遺す事」は絶対的な条理の「青木氏の宿命」であるのだ。
即ち、”青木氏の意思如何に依らない宿命”であるのだ。
この様に「青木氏の宿命」の「子孫を遺す事」は、他氏の「氏」を継承する目的の単純な「子孫を遺す事」とは全く意味が違うのである。
”「青木氏の子孫を遺す事」”は、「屯」を基盤とする人間社会を構成する「象徴的な目的」を持っているのである。
この条理の働く「現世の生物」には、「屯性に強弱」はあるが、取分け、人間社会の中のこの「7つの融合単一民族」の日本の中では、「融合」に依って形成されている以上は「屯性」は極めて強い事が判る。
況や、そこで、「融合」=「屯性」の完全な数式論が生まれる。
因って、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」の「特異な立場」の「青木氏の宿命」の「子孫を遺す事」の意味は格別なものを持っているのだ。
決して、先ずはこれで「上記1の起因の条理」だけではない事が判る。
とすると、「上記2の起因の条理」の追求は、結果として、「上記3の起因」が「家訓9」で論じた様に「屯性」を極める為、且つ、「上記3の起因」が「屯性」を高める為に発露されたものであって、これを補完している事に筋道として成るのである。

”3 「神仏習合の思考原理」から起因している。”とするこの「上記3の起因」はまさしく「准条理」と云えるであろう。
何故ならば、「家訓9」で論じた様に、「神仏習合」の結果に依って「青木氏の密教の考え方」が構成されているのであるから、又、その考え方が「家訓10」の ”子孫を遺す事一義あり”を側面から補足補完しているとすると、「家訓10」を条理とすると「准条理」と位置付けられる。
故に、「家訓9」では「和武の戒め」として、「3つの発祥源」の「武の象徴」でありながらも「武の精神」を採れない立場にあり、「禁じ手の商い」による「和の精神」を構築せざるを得なかったのである。
この「神仏習合の考え方」が「准条理」の位置付けと成る以上は、「武の精神」ではあり得ない事が理解できる。そこで、「武」に付いて先ず論じる。

>「武の精神」
そもそも「武の精神」は、「武」である限りその立場を保てば、「武」を以って事の解決に当る事に成る。
そうすれば「戦い」を否定出来ず、より「子孫存続の危険性」は高まり、”子孫を遺す事の一義”を完全に全うする事の可能性が低く成るからである。
如何なる事があっても「屯」を構成する社会の「特異な立場」にある限りは、「子孫を遺す事の一義」は絶対なのである。
可と云って、「和の精神」だけではこの「絶対の子孫を遺す事の一義」は保てない。
「和」であるからと云って、”他から「武」で攻めらない”とする保証は全く無く、自らが「武」を以って他を攻める事は勿論無いにしても、この保証を自らが「和」で担保しなくては成らないのである。
「武の象徴」でありながら「和」で以って担保しなければ成らない矛盾を孕んでいるのである。

つまり、「特異な立場」とは単純に「特異」とするものでは無く、「矛盾」を持った「究極の立場」にある「特異な立場」なのである。
これは、氏家制度の中で「融合氏」が多く居れども、又”日本広し”と云えども、唯一「青木氏」にのみ課せられた一般に理解され難い「究極の立場」と云える。
然し、この「担保」の為にあからさまに「武の手段」を以ってしては出来ず、「抑止力」と云う手段を酷使しなければ成らないのである。(抑止力付いては{青木氏の守護神]で論じた)
例え、この「担保」の為に「武の象徴」の「親の象徴」である「天皇家」から「不入不倫の権」を与えられている「唯一の氏」であるとしても、あくまでもそれはただの「象徴の権威」であって、他氏がそれの「権威」を認めなければ何の意味も持たないものである。
この場合には、「不入不倫の権」は、他氏の青木氏に対する「信頼と尊厳」が裏打ちされている事が前提と成る。
然し、そもそも、その「信頼と尊厳」は、通常は決して「武」に因って裏打ちされるものでは無く、「和」に依って得られるものである。
然し、その「和」も「商い」だけで得られると云う決して生易しい前提では無く、むしろ、「青木氏の特異な立場」に執っては「商い」は「禁じ手」でもあるのだ。
「武」であって「和」の「道理の矛盾」と、「和」であって「禁じ手」とするこれも、あからさまに究極の「道理の矛盾」である。

では、この2つの”「究極の道理の矛盾」をどのようにして解決するか”と云う難題が横たわる。
これを解決するには、”他氏からの「信頼と尊厳」はどのようにして獲得されるのであろうか”と成る。
それは「上記3の起因」、即ち、「神仏習合の理念・考え方」と「その立場と生き様」に依って得られるものであった。決して、血なまぐさい「武に依る生き様」ではなかったのである。
故に、「上記2の起因の条理」の追求には、この「上記3の起因」の「准条理」が必要条件であったのだ。

(注意 「武の象徴で和」の「生き様」は、次ぎの投稿予定の「伝統品シリーズ」でこの辺を明確にする)

それは次ぎの数式論で表される。
>「1の起因」+[「2の起因」+「3の起因」(准条理)]=「信頼と尊厳」=「和の条理」
>「和の条理」=「禁じ手」=「絶対的な順手」←「道理の矛盾」

>「和の手段」
そして、「和」の禁じ手の「商い」はこの「准条理」を「下支えする手段」であって、直接的な「和の手段」では無いのである。
「禁じ手」でありながらも、これ以外に上記する「青木氏の和」(「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」)を達成させられる「合理的な手段」は無く、依って「絶対的な順手」でもあったのである。
「武の象徴」でありながらも、「和の精神と立場と生き様」を絶対的に守らなければ成らない事の「道理の矛盾」と同じく、「和の商いも禁じ手」でありながらも、「子孫を遺す事の一義」、即ち、”「信頼と尊厳」を守る為には、「絶対的な順手」でもある”と云うこれまた「道理の矛盾」を孕んでいたのである。
(3つの「道理の矛盾」と成る)
「家訓添書」には、この「家訓10」(刹那の戒め)に対しては、”「道理の矛盾」”とは明確に説明してはいないが、”この「現世の道理」には、何も全ての「道理」は全く「矛盾」を孕んでいない”とする「完全無欠論」では無く、”この「矛盾する道理」も存在するのだ” とする説を「青木氏の古代密教」として説いている様に読み取れる。
これこそが”「拘るな」”の教えであろう。

>「道理の矛盾」=「子孫を遺す事の一義」→「青木氏の古代密教の教示」←「拘るな」
>「道理の矛盾」=「武の象徴」><「和の精神」
>「道理の矛盾」→「禁じ手」=「和の商い」+「信頼と尊厳」=「絶対的な順手」

「道理の矛盾」(究極の立場)
「青木氏に課せられた究極の特異な立場」の様な事がこの「現世」には時には存在する。
その時、「完全無欠だけの考え方」に拘泥すれば事は成し得ない事が起る。
そのままの「完全無欠の考え方」では「喜怒哀楽」に左右され、苛まれて遂には「煩悩」は発露する。
その「煩悩」を排除するには「智慧」である。その「智慧」は ”「拘り」”からはその「善なる智慧」は生まれない。
そこにこそ「無意識」の中の「善なる智慧」から生まれた”許された「道理の矛盾」”が存在し得る。
”この究極の「道理の矛盾」を悟れ。!” と「家訓10の解決策」を読み取るには、「家訓9の教え」を以って解釈すればでこの様に成るだろう。
「先祖の意思と教え」とする「家訓10訓の添書」はこの事を暗示させているのであろう。
この事そのものを添書で直に教示してしまえば、”それは文書から得た「単なる知識」に終り生きない。
つまり、「無意識の脳」で思考して得た ”「拘り」のない「悟り」” は「経験」を得て「知識」と成り得て生きる。”としているのであろう。真に、この事は「家訓8」に教示している事である。
況や、”善なる無意識から発露した「智慧」”は、「知識」+「経験」=「智慧」と成り得る。
故に、事細かに何も添書で述べる必要は無いのである。
先祖が教示する「神仏習合の考え方」から得た「家訓10訓」(1-10)を充分に理解し認識して後に ”拘りの無い「智慧」”で発露し、深層思考すれば、この「現世の諸事」は全てを解決し得る事を教示している事になるのである。(況や、「家訓9」の「ミトコンドリヤの無意識の智慧」である)

筆者は、これを「道理の矛盾」と呼んでいて、「家訓9」で論じた様に、これが「般若心経」の「色不異空 空不異色」「色即是空 空即是色」の >「拘るなの心経」=「道理の矛盾」 と信じている。
この「道理の矛盾」こそが、「累代の先祖」が伝える「子孫を遺す事」(家訓10)、即ち「生き残る為の心経」であると観ている。

>「道理の矛盾」=「古代密教の教示」
>「道理の矛盾」=「子孫存続策」=「現世の心経」(拘るなの心経)=「青木氏の秘伝」=「家訓」

この「家訓10」に示す「道理の矛盾」で、「家訓1」から「家訓9」を考え直して観ると「真の意」(深意)を読み取る事が出来る。
これこそが「悠久の伝統」のある「古代密教」の教えを組み込んだ上記の数式論に成るだろう。
「家訓9」に続けてこの「家訓10」を最終に配置した深意がより判る。

>「教示の弱点」
では、何故に「道理の矛盾」としているかは、この「家訓10(刹那の戒め)」の「刹那の戒め」とした事で判る。
この現世に於いてこの「道理の矛盾」を唯一にして破壊するものが存在する。
それは”「喜怒哀楽」に拘る事”である。 即ち、「心理の弱点」である。
「道理の矛盾」は、究極の位置にあるが為に、この「現世の条理」として相対する「心理の弱点」には脆弱なのであろう。

>「道理の矛盾」←「和の達成」→「心理の弱点」

「家訓9」でも説いたが、「刹那」即ち、「現世の喜怒哀楽」に拘ると、”「煩悩」に苛まれる”事が起る。 そして、”「煩悩」に苛まれる”と「青木氏の特異な立場」を全うする事の確率を低下させ、強いては「子孫を遺す事」に支障を来たす事に成る。
従って、「古代密教の先祖の教え」は、”この脆弱さを克服させる為に「刹那の戒め」とした”と考えられる。
だが、然し、「現世の人間社会」に於いて完全に「喜怒哀楽」から離脱する事は不可能であり、”「喜怒哀楽」から離脱する事”に拘泥する事は、それこそが「密教の仏説」の「拘り」に至る。

そこで、ではどうすれば良いのかと云う事に成る。
「家訓9」と「本論の序」で記述した ”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”と説いている通りの「心経」を持つ事にあるだろう。
この「刹那の戒め」とは、この事を意味している。
つまり、要は ”「刹那」に捉われては成らない”としているのだ。
これは普通に考えれば、 ”刹那に捉われては成らない”とするのであれば比較的簡単である。
判りやすく云えば、次ぎの2つの「思考の視点」の通りであろう。

視点 A 「今」だけに「思考の視点」を置いて生きる姿勢を採るのか、
視点 B 「先」を強く観て「思考の視点」を置いて生きる姿勢を採るのか、
以上のA-Bの「2つの差」である。

一般的に云えば、この程度の事であれば、ある程度の「長としての資質」を持っていて、それを磨く事が出来ればその度量は獲得できるだろう。
但し、その資質も「論理主観の範囲」に於いて成し得る。
然れども、この「資質」とする前提は、この「長」として事を果せる「論理主観の持ち主」であるかどうかに関わるのだろう。
然し、多くの「人様」で構成する「組織」(氏)には、この「論理主観の強い持ち主」では無くては弱い論理主観者が多い「現世の人様」の中では、「感情主観論」が横行するはこの世の常である、
個々に異なる「感情主観論」を「組織」(氏)として一つの考え方に取り纏める事は、「至難の業」であり、先ずは不可能である。
ところが、そもそも「感情主観」では「喜怒哀楽」に左右されやすい傾向があり、「喜怒哀楽」に傾けば必然的に「刹那主義」に成り安い。
依って、多くの「人様」で構成される陣容の「組織」(氏)は「刹那主義」と成る。
この「刹那主義の組織」では、「3つの道理の矛盾」を持つ「特異な立場」の「青木氏の組織・氏」を保つ事は不可能である。従って、「論理思考の組織」が必要と成る。
この「刹那主義の組織」を「論理思考の組織」に切り替えて維持するには、そして、その「組織」(氏)を導く「長」には、「相当な資質」を持ち得ていなくては成らない理屈と成る。
当然に、”相当な理路整然として整理された「論理主観」とその「説得力」” を持ち得ていなくては成らない事に成る。

>「論理的主観的な資質」
この様にそもそも単に組織に対応するにも「長」には誰でもが持ち得ていない相当な「論理的主観的な資質」を要求される。
況して、何度も繰り返すが上記する「特異な立場」にある「青木氏」では尚更の事であり、相当な「論理主観の資質」を有する「長」で無くては務まらない事に成るのである。
因って、故に、「長の資質」は少なくとも”「感情主観」で起る「喜怒哀楽」”に左右される「刹那主義」の者では駄目なのである。
言わずもがな、これは「家訓4」(性の定)で論じている「訓戒」でもある。
いずれにしても”「長]は前者Aでは駄目だ”と云う事である。
もし、これだと結局のところ行き着く所は、”「子孫を遺す事」に行き着けない”という事に成ると説いている。
要するに、「子孫を遺す事」には極めて確実性が低下する事に成り、それを戒めている事になろう。
つまり、”「子孫を遺す事」は、簡単である様に観えて決してそう簡単ではない” と云いたいのであろう。
その前提は、上記する「特異な立場」の組織であるからであって、「氏家制度」の中で「古代密教」に立地した「特異な立場を持つ組織」を抱えていたからであろう。
この事から、世間が普通に考える程以上に、「青木氏」の者達は、「子孫を遺す事」と云う事が如何に難しい事であるかを知っていた。
「累代先祖の経験」(a)と「神仏習合からの教え」(b)を「家訓」とし、それを事前に認識して得た知識」(c)と、其処から得られた「子孫の自らの経験」(d)も通して認識していた事が判る。
決して、家訓にある以上は「青木氏の者達」は、上記した”「刹那」に捉われては成らないとするのであれば比較的簡単”と云う様には考えていなかった事に成る。
普通の「平安期までに認証された氏」に比べて、「青木氏」は ”大変で異質で特異な立場”であって、「青木氏の者達」に課せられた負担は如何に大きく難しかった事が判る。

勿論、「主導する者達」だけでは無く「一族郎党」までがこの事を認識し、「一族郎党」が露頭に迷う事の無い様に、故に「長の資質」に付いても上記する「家訓の深意」に示す様な「長の高い能力」を要求していたと考えられる。
そして、自らもその「家訓10訓」を理解し率先して実践したと考えられる。
況や、「訓」に「戒」を添えて「長の心得」も併記したと観られる。
この事に依って「長」と「一族郎党」が「同じ訓戒」の中で生きて行く道筋を明示させたのであろう。
ここが「青木氏の特長」(「長と一族郎党の習合」)と云える処だ。
普通の「氏」であるのならその「長」は、「特別な立場」にあるから「長の心得」の様なものを作るであろう。然し、この「特異な立場」で「特別な立場」の「長」が、この「家訓の書式」にも「青木氏特有の繊細な配慮」が成されていたのである。
真にこれも「青木氏の神仏習合」と同じく「長と一族郎党の習合」であろう。
「青木氏」を語る時、諸事事如く見事にこの論調である。感嘆する程に見事である。
況や、「神仏習合」から発した「古代密教の教示」を「家訓10訓」に収め、其処から発する思考原理である事に成る。
これは「青木氏一族郎党」は如何に結束していたかを物語るものであるし、他氏では決して成し得ない仕儀であろう。
何故ならば、他氏には比べものにならない程に、青木氏には「和」に基づく「特異な立場」の「悠久の歴史」を持っているからである。

>「精神的負担」
然し、この状態を維持する事は容易い事ではない。そこには、逆に他氏には理解出来ない何かが伸し掛かっていた筈である。
では、”どの様に考えていたのか、又、何が負担として感じていたのか”と云う疑問が生まれる。
それは、”「武の象徴」でありながら「道理の矛盾」で生きなければ成らない「和」の「商い」で、生きる事が大きな「精神的な負担」と成っていたのでは”と推測している。
そもそも、それは「禁じ手の商い」の「禁じ手」とする「社会の慣習」にあったと観ていて、その「禁じ手」とする「慣習」の出所は、次ぎの2つの場合が考えられる。

出所1 「氏や民からの発言」なのか
出所2 「公家衆などからの発言」なのか
と云う事であろう。

この2つ場合に依っては ”「禁じ手」から来る青木氏の「精神的な負担」”は変わる。
「禁じ手の商い」を採用している「青木氏の行動如何」を批判するのは、後者の「公家衆などからの非難発言」であった筈で、「青木氏」のちょっとした行動や組織運営や発言がそれを捉えて「非難発言の根拠」に成り、それが当時の社会では ”子孫存続に大きく左右していた”と考えられる。
故に、「家訓10訓」で上記する「特異な立場」に支障を来たさない様に一族を「古代密教の教え」の方に導き管理していたのであって、”それを主導する「長」は「普通の資質」の者では成立たなかった”と考えられるのです。
そうなれば「長の資質」があったとしても「青木氏の特異な立場の国策」を果す実力と、それ以外に「相当な精神力」が必要とする事に成る筈で、「公家衆」を相手にする以上は、 「繊細で戦略的な先見眼」 をも持ち合わせていなければ成らない事に成る。
その要求されるこの「精神力」は、「公家衆」を威圧する位の>「度量と人格」 をも持ち合わせていなければ成らない事に成る。
そうで無ければ彼の有名を馳せた「公家衆の知力」に左右されてしまう事に成り、「絶対的子孫存続」は当然に成し得ない事に成る。これは組織云々の以前の問題であろう。
”「公家衆」を威圧する位の「度量と人格」”とも成れば、先ず若い者では経験が左右する事である為に無理である。
つまり、「公家衆のあらゆる癖」を見抜き把握しておかねば成らない事に成るからだ。
そして、その読み取った癖から先手を打って「緻密で戦略的な先見眼」で読み取った策を抗する事で機先を制する事が出来る。
この「繰り返しの経験」に依って「公家衆」を威圧する事が出来る様に成り、恐れさせて「青木氏」に対するが姿勢が変わる事に成る。
それが可能に成らしめる「長」に対して、その時”「度量と人格」は備わった”と云われる事に成る。
これは青木氏の特有の「陰の力」、即ち、「抑止力」が必要である。
これも「武の力」に依らずに ”相手を警戒させ威圧する強い印象力” 即ち、「抑止力」である。
当然に、「シンジケート」に依る「抑止力」も加わって「公家衆」に威圧を与えて、「子孫存続」に不必要な負担を排除するのである。
これ等の印象が「青木氏の時の長」に加わり、更に、「緻密で戦略的な先見眼」を持つ「繊細な長」に、この「2つの抑止力」に依って「造り上げられた人物像」が加わり、結果として「他者」に「警戒心」を連想させて「別の人物像」が造り上げられるのである。
「公家衆」等には、これに依って ”優れた「大者」”と感じ取らせるのである。
これが「青木氏」に許された>「和の戦略」 なのである。

>「特記 家訓の経緯」
経緯A
上記した様な背景を持つこの「青木氏の家訓」には実はすごい歴史を持っている事が判る。
そこで、敢えて此処で「青木氏の家訓の経緯」を述べて理解を更に深める。
「青木氏」の始祖の「施基皇子」は、「天智天皇」(父)と「天武天皇」(伯父)と「持統天皇」(妹)のこの「前3人の天皇」の歴史上希に観る「優秀な宰相」を務めた「淨大一位の最高軍略の司」であった。
(「淨大一位」は天皇に継ぐ位である。)
「前3人の天皇」には極めて信任厚く時の「皇太子」より立場、身分、官職は上であった人物で、故に、大化期の「始祖の様な人物像」を「伝統的な資質」として求めている事がこの経緯から判る。
ところで、この家訓(原型)の「長像」を作ったのは、「始祖の施基皇子」自らか、或いは、その後の数代後までの末裔の「長」が「施基皇子」を「模範人物」として「長の姿」をここに求めたのでは無いかと考えられる。
それには次ぎに述べるある程度の根拠がある。
「始祖施基皇子」の子の「光仁天皇」や孫の「桓武天皇」や曾孫の「嵯峨天皇」のこの「後3人の天皇」は、この「繊細な人物」であった事が歴史史実として判っていて、3人に夫々その様な「繊細な性格」での問題処理の仕方や事件を起こしている史実がある。
(遺された歌詞からも「繊細な性格」であった事が評価されている)
此処では詳しくは述べないが「豪の者」では無かった事がはっきりと判る。
(この時代の政局は豪の者では八方に敵を作って務まらなかった筈)
歴史学会では「平安初期の研究」が最近富みに進みその全容が解明されて来た。
そこでこの3人に付いて少し検証してみるが明らかに「繊細な資質」の持ち主であった事が判る。
事程左様に、この同じ血筋を持つ「青木氏」にもこの血筋が流れていた事が予想が付く。
そして、”この様な人物像を模範にした” と考えられるが、其処で、「青木氏とその家訓」を知る上で次ぎの様な歴史上の史実を最低は知って置く必要がある。

経緯B
先ず「光仁天皇」(709-782)は,「施基皇子の嫡子」(8歳で父と死別)として生まれていながら「皇位継承外」(朝臣族で賜姓族で臣下族)でありながら、「色々な背景」から天皇に推された人物(61歳即位)である。その天皇に成るまでの間の「前53年間」と、天皇に成った「後11年間」は実に波乱に満ちた人生経緯を持っている事が判る。
先ず伊勢に居た「前53年間」に、伊勢北部の隣人伊賀人の「高野新笠」を夫人としている。
その夫人は、「薩摩大隈」に定住していた住人の「後漢阿多倍王」が、その功績により朝廷より伊勢北部を更に半国割譲を受けて移り住んだが、その「帰化人の孫娘」である。
恐らくは、「白壁王」として伊勢にいた時に「隣人の阿多倍王の孫娘」と知り合っていたのではないかと予想できる。
この「伊勢青木氏の嫡子」であって8歳の時に施基皇子の跡目を継いだ「白壁王」は、「賜姓族」で「朝臣族」の「臣下族」の王位外であるが、「4人の伊勢青木氏嗣子」の中で特別に「施基皇子」(永代品位の資格保持)の嫡子として継承した為に、この継承者「白壁王」は、「春日王」と共に2人は王位に任じられた。

(参考 4世族までが王位に任じられるが、この5世族の「春日王」は「栗隈王」と共に九州に赴任定住した。後に両王一族は同族血縁している。
「施基皇子」には「四左京人」と呼ばれる4人の娘が居た。この4娘は歌に優れていた。「万葉集」にも歌が選句されている有名な歌人達である。)

後の兄弟2人は兄が「光仁天皇」に成るに従って、例外的に「特別な新王」(770年)に任じられた。

(「親王」と期されている書籍もあるが、正しくは「新王」である。この年に亡父「施基皇子」に「御春日宮天皇・田原天皇」の称号を送る。この天皇称号授受には意味があった。下記)

この「光仁天皇(白壁王)」には、正妻の「聖武天皇」の「井上内親王」との間に出来た「他戸親王」が居た。
ところが、この「井上内親王」と「他戸親王」が「ただ一人の遺子で女系皇族血縁者」であった事からそれを根拠に特別に「光仁天皇」に成り得た人物である。
(「下記に経緯を詳細に論じる。)
その経歴は極めて波乱万丈に満ちた生き方をした。
”61歳で即位した事”や”愚者を装った事”等から成りたくて成った天皇では無く、政変続きで殆どの親王や皇位後継者に類する者が粛清されると云う「恐怖政治」の状況の中で、酒をのみ愚者を装って粛清の渦中から逃げようとした人物であった。歴史上有名な事件であった。
この為に、在位中に正妻の「井上内親王」やその子「他戸親王」の2人が暗殺されるなど悲惨な在位であった。
この様に、明らかに”愚者を装うほどの繊細な人物” で攻撃的な性格の持ち主では無かった事が判っている。

経緯C
この時代は激しい政変劇を繰り返していた時代環境であったので、周囲をよく見渡して繊細にして戦略的に生きなければ成らない社会環境であった。

(「近江令」や「善事撰集」の例に観る様に、「素養・修養・人格・度量の低下」の社会環境がこの時代にも解決されずにこれが原因となっていた証拠である。下記に論じる。)

この様な環境の中での僅かに遺された歌から観る人物像も繊細である。
この様な乱れた政界の中で、10年も上手く戦略的に立ち回った「繊細な人物」であった事が記録として遺されているが、「繊細な人物」、且つ、「長としての資質」を有する人物で無くてはこの在位期間を保てなかった筈である。
歴史的には、”始祖の「施基皇子」に似ての資質を持つ人物であった” と評されている。
その子の「桓武天皇」の「平安遷都の前後の波乱に満ちた行動」や「律令国家の完成と公布の時の態度」からその「繊細な性格的な事」が歴史学的に「平安初期の研究」で解明されている。
「桓武天皇」は有名な天皇であった事からその人物を語る史実や歌が多く遺されている。
「青木氏の守護神(神明社)」のところで論じたが、実家先の青木氏を排斥する等の繊細で辛い事を敢えてしてこれに堪えてする事をしながらも、自らが「青木氏の職務の神明社の建設」を代行して神明社20社も建設した繊細さが覗える。
「嵯峨天皇」も「平安初期の父の施政」に対して異論を持ち、父兄に対しても「身内の戦い」をしてでも「繊細な感覚」で「施政や社会の有り様」を見抜いた意見を持っていて、天皇後に成った時にそれの実現に向けて歴史上最も多くの繊細な政治的な行動を採った人物でもある。
この時の状況を歴史学的に「最近の研究」で解明されている。

(「青木氏」に変えて「第6位皇子」の賜姓を「源氏」にし、その「源氏」に対して「賜姓族と朝臣族と臣下族」「3族の格式」を限定して落として、同族としての「青木氏の優位性」を保った。)

矢張り、この研究から平安初期前後の「施基皇子の末裔3者」とも「繊細な感覚の持ち主」であった事が判る。歌も遺されているが繊細な歌調と評されている。

経緯D
この様な環境の中で、少なくとも、「嵯峨天皇」は、「青木氏」に変えて第6位皇子を朝臣族として「嵯峨源氏」を始めて賜姓した天皇であるとすると、この時、祖父の実家先の「伊勢青木氏」と「4家4流の賜姓族青木氏」は、それまでが「青木氏」であった賜姓が、急に「源氏」と変名され、詔勅でこれまでの「朝臣族の扱い」と違っていた事を非常に警戒した。
(「桓武天皇の仕打ち」もあり、更に自分達も「特異な立場」の務めを外されるのではないかと警戒した)
況して、「光仁天皇」から続く「政変粛清」の中であるとすると、その時の「青木氏一族」は「粛清の荒波」を受けてその存続をさえも危ぶむ事に必ず成っていた筈である。
当然に「律令国家建設」を目指した「桓武天皇」は、実家先の親族を含む「皇親政治の5家5流の青木氏」を排斥した事もあって、「嵯峨天皇」はその「危機感」から何とかして「5家5流の一族」を救い纏める必要に迫られていた筈である。

(青木氏だけは「3族の格式の限定」をそのままにして置くべきと考えた。だから、「青木氏の氏名」は使用の禁令を発し、皇族の者が下俗する際に用いる氏名と限定したのである。況や「皇族青木氏」の5氏である。)

「近江令」や「善事撰集」の目的が「素養・修養訓」であった様に、この様な粛清が連鎖的に起る事には、「皇族・貴族・高位族」に連なる者の「素養や人格」に常習的な「社会的問題」としてあった事に成る。
その為にも、この問題を解決すべく「青木氏」としては、その「特異の立場」を護る為に何か「統一した行動指針」なるものを敷いて、「護り本尊」の「生仏像様」の下に結束を強めたと考えられる。
この時、その「行動指針」と成るものを「施基皇子」が全国を歩き回って集め各地の「慣習や仕来りや掟」等を集約編集した「善事撰集」を原案としたと考えられる。
ただ、「公布中止」と成っていた100年後に「善事撰集」を突然に引っ張り出して原案とするには無理がある。この原案とするには其れなりの過程があった筈だ。

経緯E
その「善事撰集」にはこれ等を裏付けるはっきりとした経緯がある。それを先ず検証する。
始祖の「施基皇子」の大化期の時に「公布中止(689年)」と成ったが、「5家5流の賜姓族(青木氏一族)」には「施基皇子の善事撰集」を無駄にする事無く、「青木氏の末裔」には「賜姓族としての生き様」(特異な立場)に「参考」程度にする様に「施基皇子」に依って「青木氏一族」に配布されていた事が考えられる。
「善事撰集」は689年廃止で「施基皇子」716年没からこの間28年間があった。

この間に上記した様に、「素養・修養・人格・度量の低下の社会環境」があって、その為に苦労して作った「善事撰集」を放り投げて、28年間の充分時間があっても何もしなかった事は考え難く、又、「国策氏」などの「特別な立場」を持っている「青木氏」が ”知らん顔”は通らない事からも、既に一族のものとして配布されていた事が充分に考えられる。
それが「訓戒」までに至らないとしても、「慣習・仕来り・掟」等として参考程度の経緯があったと充分に考えられる。「参考か要領程度」のものであったと考えられる。
(状況証拠より「要領」と観ている)
普通に考えれば「素養・修養・人格・度量の低下の社会環境」の中で、何とかしようとして苦労して作った「施基皇子の善事撰集」を、「大化期3代天皇」の「宰相」として務めた程の優秀で賢い繊細な資質の持ち主の「施基皇子」自らや、その血筋を引いた「5家5流の一族」が、絶対に放置する事は先ず無かったと考えられる。
「純血血縁の同族血縁」を繰り返している一族としては、むしろ、「持統天皇の指示」もあり、背後で積極的に自信を持って「公布運動」を起こしていたと考えられる。

実は、この事に付いて「歴史上の経緯」で証明出来る根拠がある。
「日本書紀」の記述に、「天智天皇」「天智天武」「持統天皇」の「大化期3代天皇」の施政代行者として各地に発生する諸問題を「施基皇子」に解決させていた事が詳細に記述されている処から、その経験を活かして「最後の仕事」して「善事撰集」の「司」として編集を妹の「持統天皇」に命じられた経緯が記録されている。
(注意 「善事撰司」は「撰善言司」と表記するものもある。「撰善言集」や「善言撰集」の表現とするものもあるが、筆者は添書からその中の一つ「善事撰」が内容から相応しいとして選択している。)

実は、その皇族や貴族の高位族の子弟に対して、その「素養・修養書物」として編集したとされる「善事撰集」(689年)の「取り扱い」では、正式に法令化はされなかったが、この結果、その文脈から臣下した「賜姓族の青木氏」の「素養・修養書物」として「要領か参考」にした事が読み取れる。
この直前に「天智天皇」に依る「近江令」(671年)が公布されている事を考えると、この「善事撰集」の存在の意味合いが疑問視されるが、「近江令」との間で何かあった筈である。
「近江令」も評判は良くなかった事は判っている事から、それから10年しか経過していないのである。
2つ重ねて「類似の法令」を出す事は社会も変化していないし、同じ結果を招く事に成り考え難い。
実は、この「近江令」の「令」としての内容には疑問視されていて、実際に公布しているものの実行されたかは異論異説のあるところで、その原因は「民事内容」の「令」で「刑罰」の「律」の内容が含んでいなかった事から実効性は無かった事が一つ挙げられる事、もう一つは「令」の民事の内容が修養を中心とした内容であった事から、公布したものの「実行性と実効性」とに欠けていた事が法学の歴史学的研究で判っている。

経緯F
恐らくは、「持統天皇」は、この反省から更に内容を高める為に実際の各地の民の中から集めたものを「善事撰集」として編集して「実行性」と「実効性」のあるものに仕上げようとして編集さられたものであろう。
「善事撰集」は一応「素養・修養内容」とされているが、「天武天皇」の子供の学者「舎人親王」が編集した歴史書の「日本書紀」の中の文脈から推測すると、「慣習、仕来り、掟」の内容も含まれていて「律」に近い内容(慣習・仕来り・掟の類)も存在していた事が判る。(下記)

つまり、10年前に公布した「日本初の法令」とされる「近江令の欠陥」を修正して、「令と律」を含めた「法令の形」を整えようとした事が「抵抗と反発」を受けたと見られる。
皇族や貴族や高位族の者等から、”始めての事であった事から” 又、”人を律令で制御する”と云う風な事に、「法より人 石く薬」の考え方に染まっていた為に、 ”猛烈な「抵抗や反発」”を強く受けたと観られる。
”人を法令で制御する事”、”始めての経験である事”では、現世では、何時の世も”当然の成行きである事”ではある。
別の面で、この「抵抗や反発」の真因は、編集者が「施基皇子」の「臣下した賜姓族の朝臣族」であった事も原因していた事も考えられる。
それは上記した「素養・修養・人格・度量の低下の社会環境」の中で、「公家衆の性癖」(口煩い公家衆の「嫉妬と嫉みと怨嗟と揶揄」”)が大きく働いていたと考えられる。

そこで「抵抗、反発」「社会環境の低下」の原因と成った事が実は歴史史実としてあるのだ。
ただ単の「抵抗 反発」を受けた訳ではない。それならば朝廷は公布を中止する様な事は無い。
そんな事としていたら施策は何時までも実行出来ない。何時の世も利害などが働きある程度の反対はある。
当然に、他にも「公布中止」に至った「抵抗 反発」の大きな原因があった事に成る。
そもそも、この時代は「中国の思想」が色濃く反映していた時代であったが、この時期の中国には >「古今善言」(南朝宋の范泰著-30) と云う同じ様な法令訓例があった。(近江令の原案説)
この「中国的な思考原理」が日本にも伝えられて大きな影響を受けていたのである。
つまり、この「書籍の発刊」から読める事は、中国でも同じ様に「法と人の問題」に就いて社会問題として議論に成っていた事を意味する。
だから発刊してそれが日本にも伝わったのであり、多くの皇族や貴族や高位族等に読まれたのである。
この「古今善言」(南朝宋の范泰著-30)が飛鳥-平安初期に入っている事が史実として確認されている。
ただ、中国の場合はその「考え方の思考原理」が少し異なっていた。
その中国でも振り返れば、「三国志の時代」の中でも、「劉備」が、国を興す理由としたのは、民の「素養・修養・人格・度量の低下の社会環境」を憂いての事であった。
”何故低下していたのか。”である。それは「中国」と云う「国の体質」から来ている。
中国では「三国志」の昔から ”法より人”とする同様の社会風潮の独特の問題があった。
現在でも「中国の思考原理」には、この”「法より人」「石は薬」”の「二つの考え方」が色濃く残っている。
我々に本人には理解され難い思考原理である。これが「中国の国民性」というものであろう。

経緯G
そもそも、中国は多くの民族から成り立っているが、その「民族の融合化」と云うものは起こっていないと云っても良い程度ある。
その原因は、”国土が広い”と云う事があって、「民族」が重なって生活をすると云う必要性がない事に因る。従って、「広大な国土」と「多くの民族」と云う事に成ると、統一した「法」で縛って統制する事は不可能である。
「一民族」の「広い国」の中は全て同族である。因って、同じ風習、同環境の中で育った者には考え方や感覚が慣習に依って統一化されている為に、「法」で縛って統制するよりは「人」で纏めて維持する方が国は安定する事に成る。
(中国の一民族の国は廻りを城壁で囲ってその中で民族が生活をする。その事に因って同習慣や同じ思考原理を統一させて人で統制する方式を採って来た。)
その為に最早、長い歴史の中で遺伝的な思考原理が各種の民族の中で、この「2つの共通する思考原理」が育ったのである。
然し、統一政権が代わる度に国境間で雑種が増えた。そして中にはその一部には逆の考え方をするものも増えて来たのであった。
中国の >”「法より人」「石は薬」” の考え方の中に、この影響で”「人より法」 「石は石 薬は薬」”の考え方が社会の中に蔓延って、社会問題と成っていた時期の事を物語る書籍の発刊であった。
その .>”「法より人」「石は薬」”の思考原理で書かれた「古今善言」 である。

然し、これに反して、日本人は世界に希に成る独特の「7つの単一融合民族」から成り立っている。
(他の幾つかの論文でも詳細に論じた。青木氏の守護神(神明社)」も参照)
「狭い国土と島国」の中で「7つの民族」を纏めるには「民族毎」に考え方が異なっていては国は統制出来ない。統制するには、先ず「民族」を「融合化」させて、一つにした考え方に集約する必要性が起る。
その「融合化」に依って、考え方が一つに成った事から統一した「法」で縛り統制する方法と成る。
その上での「人」の考え方に成る。(日本はこのプロセスを歩んだ。)
つまり、”「法より人」「石は薬」”よりは、 ”「人より法」「石は石」「薬は薬」”の思考原理が働く。
ところが、「法」で統制した国には「人」の「心」を纏める方策が必要である。
それが「皇祖神-子神-祖先神-神明社」であって、それを行うのは「青木氏」であって、「民族の融合化」の基点と成ったのが「青木氏」であって、それを推進する「国策氏」が「青木氏」であって、「人」の「民」を束ねる象徴で「臣下族の基点」が「青木氏」であって、「民の模範」とする氏が「青木氏」であって、「国の象徴」の「天皇」に対して、「氏の象徴」の青木氏であった。
況や、真に「法と人」の「人の部分」を荷っていた「青木氏」で「国策氏」なのである。
要するにこれが>「特異な立場」 なのである。

従って、「青木氏」は一般より余計に「人より法」「石は石」「薬は薬」の考え方が強かった。
(これが「善事撰集」の根幹である。)
依って、この時代は ”「人より法」「石は石」「薬は薬」”の考え方の中に、中国の「古今善言」等の全く「真逆の思考原理」の「中国の影響」を色濃く受けて、”「法より人」「石は薬」”の考え方が細菌の様にも「奈良期-平安初期」の社会の中に蔓延った時代であった。
特に「素養と修養」の為に、この書物等を読んだ「皇族、貴族、高位族」の者が、この上記した中国の考え方に染まり、”「真逆の考え方」で思いがけない「抵抗と反発」を受けた”と考えられる。

経緯H
既に「別論文」や「青木氏の守護神」の論文でも詳しく論じたが、この時期は後漢200万人の渡来人の「帰化人」が、洪水の様に入国していた事もあり、同時に彼等の「進んだ技能」と「仏教の伝授」と「進んだ生活習慣」等の享受を受けて、生活が向上し、全ての国民は「彼等の中国文化」に対して疑う事無く「信頼と尊厳」を向けていた。
その結果、「阿多倍王」等は無戦で関西以西32/66を征圧すると云う勢いであった。
先ず、民では誰一人疑う者や敵視する者は無かった筈である。「日本書紀」にもその事が詳細に記述されている通りである。

(この勲功で薩摩大隈と伊勢北部伊賀の「2つの半国割譲」を正式に受けた。「人」の国策氏の始祖施基皇子の伊勢国の半国割譲であった。「青木氏」とはこの時からの隣人の親交が始まった。不思議な取り合わせであった。)

然し、この現象を危険視した者が2人居たのである。
「「青木氏と守護神(神明社)」で詳しく論じた様に、特に阿多倍一族一門の勢力に因って起こっていた「以西と以北の自治問題」と「守護神の考え方」や上記した「社会の思考原理」で”国が割れる”と警戒していた。
それは、第一次の初期には「大化期3代天皇」、第2次の中期には「平安初期3代天皇」、第3次の後期には「平安末期3代天皇」の「皇親政治」を行った「天皇」であり、その下に働いた皇親族の「人の国策氏」の「特異な立場」の「青木氏」であった。
この3期の何れもが危機感を持ち政策を実行したが、全てこの「後漢人の考え方」の違い事が原因であった。

(上記した様に、”「法より人」「石は薬」”の彼等に対して、”「人より法」「石は石」「薬は薬」”の「青木氏」はこの「帰化人の立場」と「真逆の立場」にあった事を意味する。
これまた「特異な立場」な立場を証明する事である。)

経緯I
其処に、この「日本書紀」に記述されている様に、「国政」を進める「官僚」の殆どは、この「進んだ知識の帰化人」で、その「知識」で仕切られていたのである。
「古今善言の影響」のみならず、それを「受け入れる体制」そのものが完全に漏れなく出来上がっていたのである。
この「古今善言」などの「中国の影響」は、「人格、度量」は別としても、「素養・修養の低下」として社会の中に当然の様に現れたと観られる。現れない方がおかしい位に当然の成行きであった。

この現象が「近江令」にも現れていると認識した一次の「持統天皇」は日本らしい考え方の「善事撰集」として造り上げる必要があると考え、「人の国策氏」で「大化期宰相」の兄の「施基皇子」にその経験を通して編集する様に命じたと解析される。(名称も類似している)
恐らくは、周囲を見渡しても、この事の全てを理解した信頼でき適材な人物は、「青木氏の始祖の施基皇子」しか居なかったと考えられる。
故に、況して、この「中国の影響」を受けて、上記した様に「精神的な負担」に成る「皇族」や「公家衆」の「素養・修養・人格・度量の低下」の中では、当然にその上記する「資質低下」に因って起る”「嫉妬と嫉みと怨嗟と揶揄」”が猛烈にあった筈である。
取分け「反発と抵抗」も熱に犯されたかの如く大きかったと考えられる。
(この現象が「人」の「国策氏青木氏」に取っては上記した様に除し難い「精神的負担」に成っていた。)

そこで「持統天皇」と「施基皇子」は、「古今善言」の影響も考慮して、この編集に当っては画期的な方策を講じたのである。
先ず「7人の編者・賢者」を集めての力の入れ様で、当時で云えば、その顔ぶれは文句無しの各界の「最高の有識者」(官吏一人含む)で構成され、「国策氏・青木氏」の「始祖施基皇子」が自ら集めたものを編集すると云う画期的な形式を採った。
現在の民主主義の「有識者会議の答申形式」であった。大化期社会にあって驚くほどに”極めて斬新な形式”で纏められたものであった。
「近江令」の様に多くは「帰化人の官僚」が作り編集したとするものでは決して無かったのである。
「古今善言」に負けない信頼される「善事撰集」に仕上げようとしたと考えられる。

(編集する「帰化人の官吏」の上記する「法より人 石は薬」の考え方が、「近江令」には強く働いていた事があってか、「有識者会議の答申形式」を採ったと観られる。)

「日本書紀」の記述によれば、丁度、この時期には、この「官僚の6割」は「後漢の帰化人」が占めていた事が書かれていて、「天武天皇」は、特別に ”速く倭人の官僚を育てる様に”と命じている記述がある位である。
これは「古今善言」に限らず、「中国の影響」が官僚の中にも深く浸透して広がっている事を認識していた証拠なのである。
上記した ”「中国の古今善言」”なのか、”「法より人」「石は薬」”の考え方が働いていたのかは確証する充分な史実が不祥であるが、上記した様に状況証拠で、確実に何かの影響を受けていた事が考えられ、故に、「日本書紀」の「天武天皇発言」があり、それを”匂わせる記述”(舎人親王)と成ったと観ている。
何も無ければわざわざ”日常茶飯事の発言”を書かない筈である。何かあるから書いたのである。
その「善事撰集」の「編集責任者」は、上記した様に、そもそも「大化期3代天皇」に渡る大化期の最高功労者の「施基皇子」であり、従兄の「施基皇子」が自ら集めたものであった事、そして公布中止と成った事から、その”悔しさ、残念さ”を何らかの方法で表現して、”公布中止”と成った「裏の史実」を記録として遺したかったのであろう事が読み取れる。

経緯J
この様に、先ず人物や編集形式等に誰一人文句の付け様がなかった筈である事、”文句の付けようがない上で編集されたものであった事”を史実として公に遺し、他に”中止の理由”があった事を匂わしたと状況証拠から読み取れる。

恐らくは、”文句の付けようがない上での編集”にして”「抵抗と反発」の論処の一つを押さえ込む戦術に出た”と考えられる。
然し、公布は中止されたのである。中止されたのには「日本書紀」が匂わす何か大きな他にも大きな理由があった筈である。「舎人親王」の表現したかった事を「官僚」と云うキーワードで表現したが、赤ら様に彼は言いきれていなかった筈である。むしろ、”書けなかった”が正しいと考えられる。
「日本書紀」の「編集スタッフ」は全て「後漢の帰化人の官吏」(史部:ふみべ 「部」の長は「阿多倍王」の父の「阿智使王」 その配下の十二人)であった事が判っている。
首魁の「阿多倍王」や「阿智使王」の卒いる後漢人や官吏等の考え方で中止に追い込まれたとでも書けば、それこそ「日本書紀」も中止に追い込まれる填めに成る。そんな事は出来なかった筈である。

「青木氏の守護神(神明社)」-22の段で論じた様に、「青木氏の由緒」は「皇族朝臣族の賜姓族」と成り「真人族」まで含めた「純血の同族血縁族の5家5流賜姓族」であった。
「朝臣族」で「臣下族」で「賜姓族」でありながらも、皇族、貴族、高位族等の一般に云う「公家衆」等には家柄・身分・官位・官職一切が上位の「5家5流族」であった。
時の「真人族」であっても、「賜姓族」「臣下族」は下位ではあるが、しかし上位であると云う「不思議な立場」(逆転現象)、即ち、上記する「特異な立場」にあった。

(参考 元々、「始祖施基皇子」は天武天皇の皇太子の「浄広2位」に対し「淨大1位」で3ランク上の立場にあった。このような「特異な立場」にあった為に、この「賜姓族の立場」の「施基皇子と川島皇子」の二人は「他14人の皇子」等と「皇位継承争い」をしない事を吉野で永代で盟約した事で有名である。 吉野盟約)

周囲はこの「特異な立場」を繊細に認識していた事を物語るものであり、その騒ぎを抑える為にも、向後の粛清の混乱を防ぐ為にも盟約した。
母違い弟の「第7位皇子の川島皇子」も特別にその勲功により「近江の地名佐々木」で天智天皇より朝臣族で賜姓を受け同立場にあった。日本書紀にも記述)

経緯K
この様な中で、この公布されなかった事には、当然に「特異な立場の青木氏」に関わる事にも何かがあった筈である。
其処で、”その何か”を探る必要がある。
この「近江令」にしろ「善事撰集」にしろ共通するところは、要は「皇族」「貴族」と「八色の姓」の「高位族」の者が対象者であって、特にその子弟に宛がわれる意味合いを持って編集されたと云う事である。ここに先ず一つの意味がある。
上記した様な原因で起った「素養・修養・人格・度量の低下」で、その後の「平安初期3代天皇期」は「政変劇化の粛清の嵐」に成っていた事でも判る様に、「純血血縁族の5家5流の青木氏」に於いても、「皇位継承外」で「朝臣族」で「臣下族」で「賜姓族」で「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」で、どれを取っても本来は継承外であった。
そもそも、「侍」の「臣下族」に成っている「氏」を構成する一族である。
「臣下族」は当然に継承外であっても論外の立場であった。
然し、「真人族を含む純血血縁族」であり、「不思議な立場」(逆転現象)の「特異な立場」であった事から、「政変劇化の粛清の嵐」は永代盟約を結んだ上でも例外とは見られて居なかったのである。
(男系皇位継承者が居ない状況の中で流れに牽きこまれて行った。)
むしろ、「白壁王」の例に観る様に、平安初期の「粛清の嵐」は「男系皇位継承者」が居なければ、次ぎは「逆転現象の青木氏」に向けられていた事は当然の事と考えられる。
”「臣下族」だ”等や”「吉野盟約」がある”等と言っていられない状況下にあった。
然し、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」である限り、その身元を保障する為に「真人族」より何を取っても上位の位置に居た。逃れられない宿命であった。

(口伝の厳しい戒め・絶対遺訓:「世に晒す事なかれ」この事から来ていると考えられる。)

上記した「白壁王」の経緯がそれを物語る。「白壁王」が駄目ならば「他の一族の者」をと成るは必定であるし、政敵に取っては、「男系皇位継承者」がいない中で、「真人族」より上位の「臣下族」が居ると成ると”目の上の瘤”であろう。そうなれば、政敵から粛清を受ける事は必定に成る。

(政敵とは女系継承論者の事 7代も続いた女系天皇の社会 女系天皇で利を大きく持っていた族の事で、匿名にして「有名で大きな有力な政敵団」がいた。)

其処で、「善事撰集」が公布中止されたものの、政界は兎も角も、「青木氏」にとっては「特異な立場の青木氏」(3つの発祥源、国策氏、融合氏)を何が起ころうが絶対に護らねば成らない宿命を永代に帯びている。

経緯L
とすると、これを護り抜くには、何かしなくては成らない。
そう成れば、上記した様に、先ずは「青木氏」の「法の立場」では無く「人の立場」である。
そこで、この「青木氏」は ”その「人」を形成する事で「特異な立場」は護れる”と考えるが普通である。
(「古代密教の教示の立場」にあった「青木氏」は別の考え方をした。)
然し、この時期は「中国の思想」を大きく影響を受けていたとすると、”「法より人]の考え方の中で「人」を育てて「法」を求める”とする一見して矛盾する計画であった事に成る。
そもそも、考えても根本からこの理屈はおかしい事に成る。
「素養・修養・人格・度量の低下」を防ぐ為に、「法より人」の考えを優先するのであれば、「法」を敷く為に「人」を育てても「法」は守られない事に成る。
完全な「論理矛盾」であった事が「青木氏」の中で間違い無く起こっていた事に成る。
然し、「人」を育てなくては「氏の資質」は上がらない。これは「国策氏青木氏」としての「長の命題」であった。(これが「長の有り様」を重視する「青木氏の所以」である。)
「青木氏の長」は上記した3つの「道理の矛盾」の立場にあって、尚且つ、この4つ目の「論理矛盾」を抱えた事に成る。
「善事撰集」は日本に適した「人より法 石は石 薬は薬」の考え方の下に纏められたものである。
その国が公布しなかった「善事撰集」は、「青木氏」に取っては、最早、「始祖の遺訓」である。
これを先ず「青木氏」は優先して護らねば成らない。
とすると、”「青木氏」だけは「古代密教の教示」に従っている” と成ると、周囲の「一般の思考原理」とは前提が異なる事と成る。
その「古代密教の教示」とは、”何事も次ぎの様に成せ”と説いている。

>・「2つの教示」
>「三相の理を得て成せ」
>「人を観て法を説け」

「遺訓」(「善事撰集」)には以上の「2つの教示」が働いたと考えられる。

(この2つは「家訓3」と「家訓5」に遺されている様に最も「伝統的な教示」であって、現在の末裔にまで代表的な考え方として”耳に蛸”の様に色濃く伝わっているが、この「2つの教示」は、「施基皇子の遺訓」(「善事撰集」)の中の一つであったと考えられる。)

経緯M
この「古代密教」の「2つの教示」を前提にすると成ると、”「法」を「氏」に敷いて「氏」を先ず固める必要があると成る。そして、「人」はその強いた環境の中で育てる”と成る。
つまり、「青木氏」は「法と人の関係」は、「古代密教の教示」の「三相の理」で先ず考えた筈である。
”「法より人」「石は薬」”と、”「人より法」「石は石」「薬は薬」”の考え方に付いては、「古代密教の教示」(2つの教示)から、”何れも正しい”と先ずはした筈である。
然し、それは、「古代密教の教示」から、先ず一つの”「人、時、場」の「三相の条件」に因って異なる”と考えた事に成る。
そこで、「法>人」=「法<人」とすると、次ぎの様に成る。

「人」の要素は、「抵抗と反発」の「素養・修養の低下」と「特異な立場の青木氏」
「時」の要素は、「政争と粛清」の「混乱期と危険な立場の青木氏」
「場」の要素は、「都」と「賜姓族地の5家5流地」

この三相で勘案すると、思考の優先順位は ”「時」>「場」>「人」である”と成る。

この「配列如何」に関わる結論と成り、これが「長」の判断する「資質の有無」の差に成って現れる。

(故に、「氏の行末」は、「古代密教の2つの教示」がある限りは、「長の資質の如何」に関わると「家訓」ではしつこく説いているのだ。そして、その「資質」を何度も論じるが「繊細な資質の人物」等と厳しく戒めている。)

「古代密教の青木氏の教義」として「青木氏の長」はこれを考える力を常に強く要求されている。
これには上記した様に、「繊細な資質」から来る「情報の取得能力」が要求され、「論理的思考」が要求され、これに「堪えうる精神力」が要求され、「戦略的な洞察力」が求められるのである。
この「2つの教示」に関っているのだ。
”「長」がこの「資質」を備え、この「三相の理」で事の判断を成せば「氏」は救われる。”とし、この「青木氏の長」は、この時に、「時」>「場」>「人」と判断したのである。
そうなれば、先ずは、「人の資質策」で云々の策ではなくて、同族で「純血血縁族」の「氏を固める策」を講じる必要がある。「同族血縁族」である「氏」を固めると成ると、「特異な立場」で共通し、同じ「義務と目的」に向かって邁進している以上は、「法」を以って統制して”身を固める”とする策に出る事が最も効果的である事に成る。
その策の「法」は、必然的に、「施基皇子の遺訓」の「善事撰集」であり、それ以外には無い事に成り、それを固めるに必要とする「氏に合った編集」に関わる事に成る。

・「時」の要素が、先ず優先的に解決する事が急務であり、「氏の存続」に大きく関わる「混乱期」では、先ず”身を固める”が道理、然すれば、身が固まれば ”「場」>「人」の対策に入る”が常道と成る。
そして、それが下記に示す”「施基皇子の遺訓」の「善事撰集」の編集経緯-1~6”と成ったと考えられる。(家訓は詳細には次ぎの「6段階の経緯」を経た)

・「場」の要素としては 時の要素 で”「法」で統制して身を固めた”とすると、「法の適用する範囲」を要求される。
それは一次的な範囲の「5家5流の氏の範囲」で限定して効果的にする為に行う事と成り、他の「場」の要素としては「女系・縁者等の色々な範囲」に拡げて「法」を適用しても、「最優先する時の要素」に対応出来ない。
そこで「2次的な範囲」はその結果次第で、「漸次暫時」で対応する事の判断と成り、直ぐに今求めない事と成る。

・「人」の要素としては、「時」と「場」の要素の対応が叶えば、最後は「氏の資質」を高める事に成るが、但し、この際、「時」>「場」を優先した戦略と成っている以上は、「一族一門」と「一切の郎党」に至るまでに、この全てに同じ論調で資質を高めようとしても、”それは無理だ”とと説いている。無理だと成れば、ここが、「古代密教の教示」のもう一つの「人を観て法を説け」に従う事に成る。
そもそも、現世の「政治基本」は何時の世も「法と人の関係」に依って成立っている。
その「法」に対しては「青木氏の基本の思考原理」は「三相の理を得て成せ」であった。
そして、「人」に対しては「人を観て法を説け」であるのだ。

(「始祖施基皇子」は「政治の基本」の「法」の為に「善事撰集」を造ると共に、公布中止と成った暁には、「人」の「国策氏」として「2つの教示」の理念の下に「氏」に「善事撰集」を敷いたのである。)

経緯N
つまり、この「2つの教示」は、「青木氏」に執っては少なくとも、生きる為の「一対の教示」、況や、生きる為の「経道」である。「生きる」を「心」とすれば、「心経」と成る。
この「古代密教の仏説」の「2つの教示」は「政治の基本」である事のみ成らず、「青木氏の心経」であって、故に、政治の「人」に関する基本的な事を実行する「国策氏」と成るのである。

>(1)「2つの教示」=「青木氏の経道」
>(2)「青木氏の心経」=「青木氏の経道」=「国策氏」
>(3)「古代密教]=「2つの教示」=「政治の基本」
>∴「国策氏」=「2つの教示」
>(1)=(2)=(3)
以上の数式論が成り立っていたのである。

何故ならば、それはそもそも、>”「人を観て法を説け」の「古代密教の教示」” がある様に、”「法」を優先して説く以上は、「人の如何」(人の有り様)を考えよ”と成る。
この「三相の理」に従う事のみ成らず、この「人を観て法を説け」の教示でも、根本的な文の構成は、「法」を説く事を前提にしている構成である。
況や、 ”「法」をベースにして「人」の要素を考えよ”と成っている。
決して、「法を観て人に説け」ではない。
あくまでも、”「法」を優先して基本として、「人の有り様の如何」を考えて「智慧」を駆使して適応して「一律の法」を説け”と云っているのだ。
”「法の有り様]は普遍であるべきだ”と云う事に成る。
この様に「2つの教示」からも「青木氏」に執っては「法」が基本に置かれている事が判る。
決して、「法」<「人」では無い。

(上記した様に、日本のこの時代の「古代密教」でも、明らかに「人より法」の思考原理に従っている事が判る。当然に「古代密教の教示」に従っていた「始祖施基皇子」は「善事撰集」には「人より法の考え方」で編集していた事の証明でもある。この社会の考え方の中に「古今善言」は真逆の異質の考え方が蔓延った証明と成る。)

経緯O
其処で、そもそも、この考え方に付いて、普通に考えれば多少の疑問が起るであろう。
そもそも、”人を観て” は「普通の仏教」(他の仏教宗派)では、”民を低く観て、人を差別している事”と感情的に取られるであろう。
この様な「説法」を僧が説く事は先ずあり得ない。そんな「説法」をすれば、”私達信者を馬鹿にしている”と成り、人は集まらないし、信心そのもの等はあり得無く成る。その前に先ず宗派は成立たなく成るだろう。
僧が僧に説法するにしても、先ず説かれる未熟な僧が人である以上、説く人の人格に疑問を感じるであろう。先ず考えられない教示である。
故に、要するにこれが「密教の所以」なのである。「教示」そのものがこの「現世の真理」であっても「未熟な人」に説く以上「真理」として扱えないものがある。
そもそも、「説く」とは、その人が「未熟」であるから”説かれる”訳であり、「悟りの人」であればそれは「説く」とは成り得ない。
「未熟の人」に「説法の差」を付けて故意的、恣意的に接する事はあり得ない。
然し、これでは説法の「本当の意」を伝え得る事は出来ない。それは折角の「説法」の努力の効果が上がらない事に成る。

(「古代密教」を経た「浄土宗密教」から「密教」の部分を外して、「一般の人・民」に説いた「親鸞」等の説法は、”「念仏をただ唱えよ、ただ信じよ、信じれば成仏できる。然れば汝は救われん。」とした所以はここにあった。・「説法方式」の必要性を特段に意にしない「説話方式」での布教である。)

「特定の氏」では無く、「不特定多数の人」を相手にしての布教である場合とは、「密教」と云う前提とは自ずとその説法は異なり、「人を観て法を説け」や「縁無き衆上動し難し」の様な「現世の真理」も話せる事で、その「説法の深意」は伝わるし、理解が深まり、事に当りその応用は可能と成り、強いては「人の資質」は高まる事に成るは必定である。
これが「密教の利」と云われる所以である。「法」と「話」との「布教の違い」である。
(平安末期に起った密教論争と後の宗教戦争はこの事の「有り様」の如何を議論された。)

”「同族の氏」の中で「氏」を構成する為に、その「氏の人」の「素養と修養」を高めて、より「氏の資質」を高める為に、その人にあった説き方をして「適時適切 適材適所」に効果を上げよ。”としているのである。
これに比して「不特定多数」の「民」の「布教」の場合は、この「適時適切 適材適所」は無理であるし、先ず、時間的にも、振り分けも、出来ない事から不可能である。

この様に、「特定」と「不特定」とには、その「教示の如何」が左右されるのが「宗教の所以」であり、「有り様」である。
然し、此処では「氏の資質」を向上させる為の「説法」であり、仏法(「仏」が説く「法」=「現世の法則」)を理解させて応用させて「氏人」を育て「氏力」を高めなくては成らないのである。

”そもそも「人」夫々には、夫々の「資質、能力、性格」等を持っている。それに合わせて易しくか、難しくか、感情的にか、論理的にか、に「説」を考えて説き、導かなくては何事にも効果は成し得ない。”としているのである。真に、”智慧を使え”である。
そもそも、「法」は”のり”であり、あくまでも”決まりの理屈で事の筋道(法則)”であり、「智慧の発露」の結晶である。「話」には、それは無く短編的な「事象の例」である。
この様な「様々な人様」がある現世に、「人」を中心にして「纏まり」を求めても、「様々な人様」で「様々な判断」が起るから「社会」は纏まらない。
従って、最低の「法の理解」も様々と成り、意味を成さない事に成る。
つまり「法より人」の考え方は成立たない。終局は、”腐敗と無法治な社会と発展の無い社会”と成り得る。

”「人」それぞれには夫々の「資質、能力、性格」等を持っている”とする前提の現実社会である以上は「法より人」は成立たない。
少なくとも、特に日本では上記した様に、論理的に成立たない考え方である。
そこで、「共通の慣習、仕来り、掟」 の中で編成した「取り決め」とする「基準の考え方」を「法」として敷き、その「編集した範囲」の中で護らなけれは成らない「最低の義務」とするものである。
故に、「氏」の者に、”「念仏をただ唱えよ、ただ信じよ、信じれば成仏出来る、然れば汝は救われん。」とする事はあり得ない事に成る。

「密教を前提としている氏」に説く以上は、「氏の総合力」を高める為に「資質の向上」の効果を期待しなくては成らない。
「人の国策氏」の「特異な立場」の「青木氏」には尚更であり、”決まりの理屈で事の筋道”の「法則」での効果を要求される立場にあった。決して、「話」ではなかった。

経緯P
ここで、では、現実には ”「氏」と云えども理解出来ない者”が一族郎党の中にどうしても初期の段階では生まれる。
”では、その者をどうすればよいのか”と成る単純な疑問が生まれる。
(念の為にその答えを余談として記述して置く。)
これに対しても、「古代密教」は、ある「教示」を出しているのだ。
その答えの「古代密教の教示」は、>”「縁無き衆上動し難し。」” である。
この「2つの教示」に繋がる大事な「密教の教示」である。
これを「低い意味」で受け取れば、”馬鹿にして”と成る。「高い意味」で受け取れば、”浮世の真理を突いている。”と成る。
(「氏」の中ではこの差を無くさなくてはならない宿命がある。)
上記する「人を観て法を説け」の教示も同じである。
解釈には、大変意味の持った教示であり、且つ、「解釈の幅」を変えれば大きな意味を持つ。
これまた、”「縁無き衆上動し難し。」の教示は、”なかなか「密教」では無い「他宗派の説法」にする事は不可能である。先ず無い。
”どの様に説いても理解出来ない者は、もとより無理である。必要以上に説く事を諦めよ。それ以上は「自らの努力」に期待せよ。必要以上に説く事は反って弊害を生むのだ。「説く事」で逆効果を避けよ。無駄に効果を下げるな。 ”と成る。
この現世は、「自らの努力」無くしては何事も成し得ないのだ。゜「自らの努力」は「氏」と「社会」の原動力の根幹だ。”と説いている事に成る。
感情的に受け取れば、”厳しすぎる。見捨てるのか。薄情な”と成る。
然し、「感情主観論」のこれでは「現世の真理」の追求は成し得ない。
故に、事程左様に、”「長」は「論理的主観の資質」を強く常に持ち得ていなくては成らない。”としているのだ。
これは、あくまでも「特定」の「氏」である以上は、ある「目的、義務、宿命」を持って生きている集団である。
「密教の氏の説法」であって「不特定の民の説話」ではないのであり、欺瞞的で偽善的な事を大風呂敷を広げて出来もしない事を言っている訳にはいかないのである。
現世はその様には理想的で感情主観的に出来てはいないのである。
”その様に在って欲しい”とする感情主観はあるにしても、「家訓9」の論では無いが、「煩悩から解脱し得ない者」が殆どであるこの現世では、現実的な「現世の真理」を会得して「長」は「氏」を絶対に守らねば成らないのである。
その中で、この「古代密教の教示」は、”「絶対に護らなくては成らない教示」であり、況や、「習慣」であり、「仕来り」であり、「掟」であり、要するに”「氏の法」なのである。「氏の律」なのだ。”と成る。
それを理解出来る者こそが「長の資質」を有する者として評価されるのである。
故に、上記した様に「論理主観」を要求されるのだ。

上記する「2つの教示」と”「縁無き衆上動し難し。」”等の「古代密教の教示」が「青木氏」に現在も遺されている事は、「善事撰集」にはこの様に厳しい「戒・律」もあった事を物語っている。
これらの「古代密教の教示」以外にも、「青木氏」の「慣習、仕来り、掟」も「律」と見なされる事からも証しと成るのだ。

実は、筆者の祖父の禅問答の遺品の中に発見されたものであるが、この、”「縁無き衆上動し難し。」”で真言密教の「高野山の僧」と問答した事があった様で、これを”正しく理解出来る者こそ悟りを得た”とする内容の問答であった。
つまり、表向きの「文意」そのものでは無く「深意」「真意」を理解できる事が、悟りを得た者、即ち、「氏の長」が求められる「模範の資質」である事が判る。これが「密教の所以」なのである。
禅宗の信者ではなかったが、「禅問答の師」の祖父は「古代浄土密教の継承者」であった。
”事の真理の悟りを図り合う問答方式”は、「禅宗」が坐禅と共に専門的に人を導く「僧の資質」を挙げる方法として用いたが、そもそも、この「問答」とは、元々、主に「三大密教」が学僧に用いていたものである。
これを禅宗が一般の信者にも坐禅と共に広めたものである。
この「禅宗の呼称」は、「坐禅の宗派」と云われるもので、曹洞宗・達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗の5宗から成り立っているが、本山永平寺で、「中国禅宗5山」の影響を強く受けた宗派である。
故に、ここで云う「問答」とは、大化期前後に中国から伝わり、その原型が”「古代密教」の手法”として用いられたものである。それが脈々として祖父の代まで「伝統」として引き継がれて来たものである。
ここにも「古代密教」の「青木氏の慣習」の一つとして伝わっているものである。
この「問答をする堂」があり、「青木氏」ではこれを「画禅堂」と呼ばれ、「青木氏の慣習」の「接客の作法」と共に「特別な解人」と話をする堂があった。この「青木氏の接客作法の形」が「茶道の武家様」に変化したものである。

この様に、上記の「密教の教示」に限らず、本論に記述していないが、青木氏には「古代密教の教示」と考えられる「慣習、仕来り、掟」が数多くある。(何時か機会を得て論じる)
恐らくは、初期の段階では「青木氏の古代密教の教示」として「書」に収められて「纏」められていて、それが後に、「時代の遍歴」を経て「慣習、仕来り、掟」の形で伝わった物であろう事が判る。

(明治35年の前まではこの作法等の要領を「書」の形で纏められていた事が口伝で伝えられている。
「菩提寺の焼失」が原因で「書物」は焼失したので現在は「口伝の形」に成っている。)

経緯Q
因みに、ここで例を一つ、「青木氏の家訓10訓」には無いが、”曙に成せ。” と云う口伝がある。
何とも簡単な「密教伝」であろうか。これも考え方に依れば「曙」に大きな意味があり、夜明けの「あさぼらけ」から「朝焼け」の中間に存在する”「曙」”をどのように理解するかで幾通りにも理解できる「意味の深い教え」である。
有史来、「曙」には数え切れない程の意味を持っているが、その意味毎に”成せ”の語句をあてがう事で沢山の意味が生まれる。簡単な「成せ」の動詞にも動詞だけに「理解の幅」が生まれる。
此処では一度発想を試みて頂くとして、「特異な立場の青木氏」を配慮してその意味の成す事を考えると、上記した事の様な事も理解出来る筈である。
恐らくは、これも「古代密教の教示」であったと考えられ、「善事撰集」にあったものであろう。
実は、この幅広い文意は「武田信玄の”風林火山”」に類似するもの考えられる。
筆者は、この「密教伝」は「皇族賜姓族の甲斐青木氏」の血縁族「武田氏系青木氏」を通じて「武田氏」に伝わり、その「文意の一部」を「武家様」に編集された可能性があると見ているが確証は無い。

>「政治のシナリオ」
話を元に戻すとして、大化期の時では、”社会は完全に「法>人」の傾向にあった”と成る。
「近江令、大宝律令、養老律令」等は、「中国の律令の模倣」である事は歴史学的に既に証明されていて、その模倣先の中国の律令も明確に成っている。
この事から明らかに「法より人」「石は薬」の考え方が蔓延していた事は明白である。
(下記の*印に詳細)
だとすると、一方の「危機感」を持っていた天皇の「国レベル」では、到底、この「論理矛盾」を吸収する事は不可能であった事に成る。
因って、「公布中止」と成ったとも考えられる。
だとしたら、「為政者」は考える事はただ一つである。
「近江令」の事が意識に残っている中で、次ぎの様な「政治的な判断」(シナリオ)をしたと考えられる。
それは ”先ずは試して見よう”と云う事に成る。
”では、誰に”にと成り、直ぐに浮かぶのは、”「国策氏の青木氏」に、況して、編者の「施基皇子」等の「朝臣賜姓族氏」に” と成る事は、危機感を共有する限りは間違いはない。
そして、”成果が上がり成功の暁には、「国レベル」でもやってもらおう”と成る。
当然、国レベルでやるには「天皇」に成ってもらう事に成る。
幸い「青木氏」は継承外だが、”その最低の品位体裁の資格は理屈を付ければ成し得る位置に居る”と考えて、そこで「臣下族の青木氏」の若い2代目の跡目に目を付けた。
この時、「国策氏」だから青木氏の「跡目と一族」等は手を打った。 ”ある程度観て試して見よう。”と成る。10年程も待つまでも無く完全に効果が出た。
そして、所期のシナリオの通り、若い2代目跡目「白壁王」も「長」として育った。
25年位経った頃合で 3代目跡目(井上内親王の子の他戸親王)も育った。
為政者側は、予定のシナリオ通りに「青木氏の2代目跡目」の ”「白壁王」にやらせて見よう”との機運と成った。その時、「青木氏の長」の「白壁王」はもう61歳であった。
「天皇」としては、”青木氏の「民からの信頼と尊厳」とその間の「法の経験」から「抵抗と反発」に抗する事が出来る”と考えた。
その為には、先ずは、この「青木氏推進派」は、出来るだけ反対を防ぐ為に ”他の親王の粛清をしなくては納まらない”と成る。
これは最早、50年も経っているから「国の存立」に関わるのだ。
「氏」より「国の存立」が優先されるから、これでも条件を整えたにも関らず抗する者は排除しなければ「国の存立」は成立たない。最早、猶予は無い。
然し、それでも”内親王の女系天皇の継続を推す反対者が出た。政局は混乱するだろう”と成る。
”最早、女系天皇は類代7代も続いた。女系直系族に成って一人しか居なく成って仕舞っている。”
”拙い、血筋は絶える。” と成る。
然し、残るは、”正規には ”「井上内親王」だけだ”と成る。
そして、「井上内親王」は「白壁王」の正妻である。
其処に「女系皇位継承者」の唯一人の「他戸親王」が居る。
どの様に考えても、”「白壁王」しか居ない。”と答えは出る。
其処で、「特異な立場」の ”青木氏は絶えしては成らない。2代目は弟の湯原新王と榎井新王に継がせよう。” と成る。(第4世族外で臣下族は対象外)
そして、”今は「臣下族」に成って居るが、新しい「王位」を与えて皇族系にして置こう。”と成る。
其処で、反対派の女系継承者側は、当然に「素養・修養・人格・度量の低下」なのだから、”親王粛清””内親王抹殺””白壁王暗殺”の粛清連鎖が起った。

以上、この様に「善事撰集」の公布中止の本波は、「皇位継承問題」と絡んで歴史的経緯で観て上記の様な「シナリオ」が生まれ続いた事に成る。

>「5家5流青木氏の危機」
このシナリオの余波は「5家5流青木氏」にも伝わり、上記した様に「粛清連鎖の波」が当然に押し寄せていた。
この時、「5家5流青木氏」も ”「白壁王」の事もある。”、”「特異な立場」にあるのだから引っ張り出される”、”危ない。何とかして護らねば「氏」は絶える。”と成り、そうなれば、”「生仏像様」の下に青木氏は一致結束しか無い。”と考えた。
(そこで、上記の「古代密教の教示」に従う事に成った。)
同様に低下していた同族の「純血血縁族」の「青木氏」に於いても、国が律令を公布して「素養修養の低下」を防がねば成らない筈であったが、然し、公布しないのなら、「国策氏」である限り、せめて「氏の単位」でも果さなければ成らない宿命を負った事に成る。
(然し、この後の息子の桓武天皇に排斥された為に絶体絶命に落ち至った)
そして、幸か不幸か始祖が編集したものであるとするならば、尚更の事であり、採用しない方がおかしい筈で、”「資質ある青木氏の長」はこれを「氏」に「遺訓」として必ず宛がえた”と考えるのが普通であろう。
だから、「善事撰集」を以って「氏の資質」を高めていて効果を上げている「施基皇子の嫡子」に「白羽の矢」が当てられたと考えられる。
そして、上記のシナリオの様に、その「青木氏一族」に、長年の願いであった「素養・修養・人格・度量の低下」の現象を食い止めさせて、”律令の本当の完成”を期待したと考えられる。

故に、「桓武天皇の律令国家の完成」であって、「神明社20社の建設」(青木氏の守護神に明記)であって、その模範と成った「青木氏」を、律令国家の中で放置する事は、「御師様」「氏上様」と民から慕われて「信頼と尊厳」をより勝ち取っていた処に、為政者は「民の反発」を受ける事に成る。放置出来ない筈である。
更に、無理に人気の挙がった青木氏を放置する事は、逆に「皇親政治」を助長し、真逆の「律令政治」の完成の障害と成る。(桓武天皇は考えた筈)
ところが、この事の逆の考えでの「桓武天皇の青木氏の排斥」に会った事に成る。
だから、「光仁天皇」は「青木氏」等を「新王」として造り上げて律令の体制を作りながらも「皇親政治」を敷いたが、この「路線の違い」が、次ぎの「桓武天皇」と子供の「嵯峨天皇」の身内の「路線争い」へと繋がった事に成る。
更には、この時、「氏社会」では「素養・修養・人格・度量の低下」が起こっている中で、人の「衆目の的」と成っている「青木氏」には、「善事撰集」を以って「氏の資質」を高めていて、そろそろ効果を上げていた時期でもあった。
況して、「天照大神」と民の主神とする「物造り神」の「豊受大神」を祭祀し、且つ「皇祖神-子神-祖先神」を護っている「氏」であるとすると、民の「信頼と尊厳」を勝ち得ない方がおかしい事に成る。
筆者は、むしろ、この状況を観て、平安初期の各天皇は、「国策氏」である事を理由にして、”青木氏を利用した”と考える。それが上記のシナリオと成ったと考えられる。
実家先でも有り、「3つの発祥源」でもあり、「国策氏」でもあり、「融合氏の源」でもあり、「武」より「和」を尊ぶ等の「青木氏の立場」を「為政者」であれば、むしろ、身内であればこそ利用しない方がおかしいと考えるし、「国策氏」として当然に利用される立場にもあった。
これは当然の自然の成行きシナリオであった事に成る。

「善事撰集」を国として公布するのでは無く、「大化期3代天皇」更には「文武、聖武、光仁の男系3代天皇」等は、変更して「試行氏」として、先ずは「青木氏」に敷いた事も考えられる。
そして、”時間を掛けてその成果を観た”とするのが普通ではないか。その上で、「近江令」の様に失敗する事は2度と出来ない事から ”将来の律令国家建設に向けよう”と考えたと観られる。
(この間、2つの律令が発せられた)
それを桓武天皇が引き継ぎ、大きく編集と修正を加えて「律令」を敷いて「法」を基本にする「律令国家」を初期段階として完成させた事に成る。

>*「注釈書」の「令解集」
上記するシナリオから完全な律令施行の桓武天皇期(781-806)までは、時間は約90年も掛けた事に成る。この間では「大宝律令」(701)や「養老律令」(718・757)が、公布されたが中国唐の律令「永微律令」を参考模倣にした程度のもので、矢張り「近江令」の域を脱せず「令」に付いて説明する「注釈書」程度の「令解集・令集解」であった。
上記した様に、中国の「法より人」「石は薬」の考え方から「人」の「令」を優先し、「法」の「律」は一部で終わっているものであった。
その「令」も一般に「令解集」と呼ばれるもので「注釈書」程度の様なものであった。
「養老律令」も「大宝律令」の注釈字句を改定した程度のもので、完成後40年間も施行されなかった。
内容は「近江令」(689)と殆ど変わらない状況で、「律」と「令」共に散逸していて、「令解」の一部を「令」に仕立てたものであった。
「3つの律令」があったにせよ、この時代は全て「令外法令」の形で「令解方式」(注釈書・説明書・添書)を基本にしてで進んだ。
桓武期に、これを何とか「律」を充実させ、「令」を「法令」の形にまとめ上げたもので、「律令国家の体裁」を整えたのであった。この「体裁」を作り出す元にしたのが、「国策氏青木氏の善事撰集の試行」のシナリオであった観ている。

>「訓戒の6経緯」
「第0次の訓戒」 「参考」
然し、この間、上記した様に「善事撰集」を導入した「青木氏」には「大きな成果」が出ていたが、その根拠は、衰退前後から「2足の草鞋策の商い」に中心に置いて立ち上がり直したのも、この「善事撰集」の御蔭で一族一致して「氏の資質」を高め頑張る事が出来た事でも判るのである。

「善事撰集」の試行は、「白壁王」を天皇に据える事もこの「国策氏」の者であった事も一因であったと観られるが、確かに粛清から逃れる為に「愚者」を装った事もあるが、「国策氏」であった事の方が原因は大きかったと考えられる。
故に、上記した様に「施基皇子」の「28年間」を(第0次の訓戒 「参考」)とする前提としている。
青木氏の「善事撰集」を基本とする「訓戒の経緯」は、状況証拠から、次ぎの「6つの遍歴」を遂げたと考えられる。

(第1次の訓戒 「心得」)
そもそも、国にまだ充分な律令が完成してい無かったものを、発祥して150年経ったばかりの「青木氏」に「行動指針」なるものが元よりある訳ではないし、始祖が作った優れた手本が手もとにあるとすれば、願っても叶っても無い事であり「青木氏」に限らず誰でもが原案としない筈はない。
むしろしない方がおかしい。
国に答申した「善事撰集」である以上はこれを原案とする意外に無いし、国も試行案として「特異な立場」にある「青木氏」に使わさせる事はむしろ育てる意味も込めて歓迎であった筈である。
それをいき成りは「家訓」とはせずに、ある程度の整理をして次には「参考」から「心得」にしたと考えられる。
恐らくは、国に既存の律令とする概念も充分に育っていない処で、「氏を取り纏めるの家訓」と云う概念は未だ育っていなかった。その時、曲りなりにも「令解集」を使って「令外法令」を敷き、国に次第に「律令の国家」の体裁を敷いた事をきっかけに「3つの発祥源」、「国策氏」、「融合氏」として、始めてその概念を氏に育てる為に合わせて敷いた事が考えられる。
(第1次の訓戒 「心得」)

(第2次の訓戒 「行動指針」)
この時に、第4世第4位皇子以内の「真人族」が持つ継承権に対して、「皇位継承順位外」であった第6位皇子の朝臣族・臣下族となった「施基皇子の家」(中大兄皇子の第3位王、孝徳-天智天皇下の第7位子、1皇子死亡下で第6位子、天智-天武天皇下では第6位皇子)に対して、「第4世族第6位皇子系族の伊勢青木氏」の「嫡子」であった「白壁王」を、奈良期に女系天皇が続いた事もあって天皇家継承者不足に落ち至った。そこで、依って「光仁天皇」として迎える事と成った。
(参考 第4世族で第6位皇子の第5世孫 光仁天皇即位に依って2人の兄弟は特別に新王・親王に任じられる。従4位下から従2位下に成る。)
この事で空席と成った「伊勢青木氏の嫡子」を引き継いだ者(湯原新王・榎井新王)等が、父の成した「善事撰集」(撰善言司)を「父の偉業・遺訓」として、これを遺す為にも、これを「統一した行動指針」として広く一族の「5家5流青木氏」に働きかけて遺したと考えるのが普通ではないか。
その為には拘束力の無い「心得」から、一族の「行動」を統一させる程度の拘束力を備えた形にし、一族全体に通ずる内容(指針)に修正し編集してより現実のものとして纏めたと考えられる。
(この二人は歌人で学者で書籍を遺した人物 湯原新王の娘の尾張女王は光仁天皇と純血婚)
(第2次の訓戒 「行動指針」)

(第3次の訓戒 「家訓原型」)
その時、「施基皇子の善事撰集」は「伊勢青木氏」に既に「心得」の様な形で敷かれていたと考えられる。これが次第に修正が加えられて「嵯峨天皇」に依って徐々に「第2期皇親政治」が始まり再び「青木氏」は蘇って来たのであるが、完全に再興を遂げたのは「特別賜姓族の補完策」であった事から、「嵯峨天皇から円融天皇」までの間には「氏の家訓」(原型)として体裁を整えたものに成っていたと考えられる。
(第3次の訓戒 「家訓原型」)

(第4次の訓戒 「訓戒完成」)
此処から既に「5家5流の青木氏」とは「母方血縁族」であった「特別賜姓族青木氏」が跡目に依る「同族血縁」を繰り返し116氏にも子孫は拡がる。
この段階で「5家5流賜姓青木氏」と「116氏の特別賜姓族青木氏」は最早、母方血縁族では無く完全な一族の血縁族に成り得ていた。
同族血縁的としては「1系族」と成っていたと考えられる。
「特別賜姓族青木氏」の発祥は960年頃であり、「5家5流青木氏」から観た「2足の草鞋策」は1025年頃とすると、少なくとも家訓内容からこの60年の間にこの同族の血縁関係は完成していた事に成る。如何に盛んに跡目血縁をして同族血縁を積極的に施策として推進していたかが判る。
この時は、家紋分析から116氏の内、既に約6割程度に拡大していた事が判る。
その地域は「特別賜姓族青木氏」の赴任地-末裔発祥地24地域の内、7割程度に成っていた。
この段階では「商いの記録」から観て、特に親交が強かったと観られるのは「7地域」で、ここには「融合青木氏」が発祥している。この事から「1系族」と成っていた証しであろう。
この段階で青木氏の家訓の全てが完成していたと考えられる。
(第4次の訓戒 「訓戒完成」)

(第5次の訓戒 「家訓完成」)
この時、「参考」-「心得」-「行動指針」-「家訓原型」-「訓戒完成」の経緯を辿ったと考えられるが、「家訓原型」に至る処では「行動指針」の内容を「訓」「戒」「慣習」「仕来り」「掟」等に分類されたと観られる。
「2つの添書」や「家紋掟」や「口伝」や「商記録」や「神明社記録」や「菩提寺遺記録」等を考察すると分類されていた事が判る。
そして、「訓」と「戒」が一つに成ったのはこれより100年程度後の頃では無いかと考えられ、現在の形に整えられたと観られる。
この段階で皇族賜姓族25氏、特別賜姓族116氏、末裔発祥地24地域は完了していた事が判る。
(第5次の訓戒 「家訓完成」)

(第6次の訓戒 「家訓編集 添書編集」)
「平易な表現」に編集されたのは室町期中期前ではないかと観られる。
何故ならば、「室町文化」の「紙文化」と呼ばれる時期にはその殖産から販売までを1手に担う紙問屋の「2足の草鞋策」で「巨万の富」を獲得して青木氏は最大の力を有していた。
この事から、「2つの血縁青木氏」のその「組織体が拡大」し、それに伴ない枝葉の末裔子孫の拡大が大きく成った事や、「神明社系建設」が一挙に進み、「氏や民」からの「信頼と尊厳」を更に維持しなければ成らなく成り、その事から一族全体隅々までその「特異な立場」を護る為に誰でもが理解できる様に表現を平易に編集したと考えられる。
「家庭の末端」が乱れていては「信頼と尊厳」は低下し、「特異な立場」は霧消に終わり、「青木氏の存続」は保証出来ない事と成ろう。”実った稲穂は頭を垂れる”の例えである。
「家庭」と「長」との「訓」と「戒」が「一つの繋がり表現」の中で同時に関連して認識させて理解させられる「家訓」に編集したと観られる。
その為に「訓」と「戒」を一体化にした為にその絡みを「添書」類に説明書の様な形で書き添えたと観られる。
その前の「添書」は「慣習」「仕来り」「掟」等に分類され「訓戒の設定経緯」等が主に書かれていた事が読み取れる。
(第6次の訓戒 「家訓編集 添書編集」)

>「律」の状況
「慣習、仕来り、掟」
上記の様に、「6つの遍歴」を経て今日に伝えられたと考えられる。その「家訓」(訓と戒)と「古代密教の教示」類や「慣習、仕来り、掟」類のこの「3つの内容」は、「善事撰集」の内容の一部と成っていたと考えられる。
ただ、この「3つの内容」にはどうも「律」に関する事がはっきりしない。
この「律」に関する事は、明治35年の「菩提寺焼失」までは何らかの形で青木氏に書籍化して保存されていたことが判っている。
そこで、この「律」に付いてどの様に「青木氏」では扱われていたかを遺された資料記録から検証して見る。
それは、生活に直接結び付いている「慣習、仕来り、掟」の中に潜んでいると考えられる。
何かを物語るものが必ずある筈で、その事を次ぎに論じる。
先ず、「慣習」に付いては、特段には、盆暮、正月、彼岸、命日、冠婚葬祭などがある。
これらに付いてはその「慣習」は現在遺されているものでも、これ等は明らかに周囲と異なっている事が判る。
その異なりに答えがあると考えられる。何故ならば、この「慣習、仕来り、掟」には、その時代性の中で問題無く円滑に進めて行くべき「規則的なあるべき姿」が必ず潜んでいる。
それでこそ「慣習、仕来り、掟」であって、「規則的なあるべき姿」を判りやすく生活の中に維持しているのであるのだ。
つまり、「規則的なあるべき姿」=「慣習、仕来り、掟」であって、伊達に特異な立場だからと云って形式張っている訳ではない。
況して、現在では最早ない慣習であり、”「氏家制度」の大化期からの社会構造と時代性”なのである。現在の様に、「律」と「令」が完全に法令化して完成している訳ではない。
上記した様に、「法より人 石は薬」の考え方が色濃く占めている社会の中では、「慣習、仕来り、掟」の中に潜ませて護る様にしているものであって、その「慣習、仕来り、掟」を犯せば社会からはみ出すのである。
つまり、少なくとも「武家社会」に入る前の「平安末期」までは次ぎの様な数式論に成るのだ。

>「慣習、仕来り、掟」=「律」
>「規則的なあるべき姿」=「慣習、仕来り、掟」
>∴「規則的なあるべき姿」=「律」
上記の数式論が成立つのである。

となれば、その数式論を的確に表現しているのは、縷々上記した様に「特異な立場」の「唯一の氏」の「青木氏」である事に成る。
青木氏以外に「慣習、仕来り、掟」の中に幅広く潜ませられる「氏」は他に無く、筆者の論理では、この青木氏の「慣習、仕来り、掟」が他氏へと広がって行ったと考えている。
何故ならば、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」が「慣習、仕来り、掟の源」であるからで、「青木氏」よりこの立場を持つ氏は他に無いし、「善事撰集」の氏に敷いたのは青木氏である。
この「慣習、仕来り、掟」は、その大元は上記した様に「善事撰集」にあるとしている。他にあるとするならば教えて欲しい。無い筈である。
逆に云えば、この「律令の歴史事の経緯」を網羅するには「青木氏の努力」以外には無い事に成る。
故に、難しいがその内容を牽き出して敢えて可能な範囲で先ずは「慣習」から例を以って網羅する。

・「慣習」
(「接客の要領」)
先ず、青木氏の「慣習、仕来り、掟」の中で、「日常の慣習」に付いても「接客の要領」(「面談の要領」)が格段に異なっているので先ずこれを紹介する。

「接客の要領」であるが、「客」が訪れた場合の「客を導く方法」では、先ず、客を3種に分けていた。
それは「常人、註人、解人」で、「人」の字句は「客」としている部分もある。
要するに「下中上」の事ではないかと観られ、「常人」はいつも来る人、「註人」は注意を要する人、「解人」は解する人、つまり、理解しなくては成らない人で、「重要な人」の扱いである。
先ずは、「接客する入口」では、「解人」は正門口から玄関、「註人」は正門横の戸口から横口玄関、「常人」は裏門から政処口(台所口)と成っていた。
「客に対応する人」では、「解人」は家人、「註人」は書生(執事)、「常人」は男仕と成っていた。(男仕はおとこし、女仕はおなごしと読む 商用客は女仕で別)
「接待の内容」もこの3種に依って原則異なっていたし、「茶」などの「持成し方」も違っていて、現在で云えば、「茶道の作法」に近い形に基づいていた。
むしろ、この「茶道」はこの「接待時の茶の出し方の慣習」が室町期中期頃から「茶道」と成ったと観ている。原型であったと考えている。(ただ、「武家様」に簡略化されていると観られる。)
「茶道」の「道」と成る前は、”上位階級の「接客の作法」”として存在していたのである。
室町期中期以降の「茶道」は「上記の内容」や「下記の内容」を加えたこの慣習から道化させたのでは無いかと考えられる。

(「千利休」は堺商人、堺には伊勢松阪の青木長兵衛の「紙屋長兵衛の3店舗」があり、何らかの繋がりはあった事から伝わったか、武家社会に成った事から無骨な武士の人間関係を解す為に、”上位階級の「接客の作法」”を「武家様」に改善してそれを一つの「社交マナー」に変身させたものであろう。つまりは、その大元は青木氏にあったと説いている。)

つまり、上記の内容に従い、「茶の種類」と「菓子の種類」と「茶器の種類」の違いを付けていた。

(この違いは残されて用具でも観られるが、この「古い茶器一切」は「遺品」として今も遺されている。茶と菓子には意味合いが大して無いので割愛する)

「茶器」には武家の様に「器」を直ぐに掌の上に載せて飲むのでは無く、「瓶」とする「器台」に載せてそれを持って「一回廻しの3回半」で飲む作法である。この「瓶」は「高瓶」と「低瓶」と「茶座」と「茶敷」の4つに分けられていた。「座卓」では無い。「茶敷」は客人ではない「歌会」などで用いていた。(歌会では全て同位として「解人」の扱い。 僧侶は解人)
この「3つの茶瓶」は上記の「客人の位種」に依って変えられていた。
「高瓶」(高さ5寸で二重に成った3寸の薄椀の下に一握りできる程度の湾曲の足柱が着いていて裾広がりに成った器)は高位族と武家に解人、「低瓶」(3寸)は公家に解人、「茶座」(茶台1寸)は中位に註人、「茶敷」は一般に常人で「使用別け」される。朱色と黒色の漆瓶器で朱色金入は冠婚、黒漆器は葬祭に使い分ける。通常は木肌色か朱色の漆瓶器である。

(公家は武家では無く慣習が「低瓶」が作法 低く観ていた訳ではない。)

又、「上がる室」も異なり「3段の部屋造」で、上段間は「解人」、中段間は「注人」、下段の間は「常人」に通していた。
「常人」は下段の「玄関間」止まりで床から2段で3尺(0.9M)の高さ、「注人」は中段の「控え間」止まりで玄関間より3寸の高さ、「解人」は上段の「本座敷」(座敷は正副があった)で更に3寸の高さにあった。

(玄関間は座って客人と挨拶する時の目の高さが同じ様に成る位置にあり、部屋の大きさは畳2畳-一坪に「飾り棚や仕舞棚」などがあり、「氏の象徴」に成る品が置いてあるので6畳あり、玄関床も6畳-3坪)

この接客には、順序があって、家の主人に面会する時は、「玄関間-控間-仏間-座敷」と何れも客間であるが、玄関間は「常人」、控間は「註人」、「解人」は玄関間から座敷へと次第に変化して進んで行く。ただ、この時は、必ず「仏間座敷」(北に位置し南向き)に通る事が前提で、ここで主人と話して終わる場合がある。
本座敷(10畳)には、床間が東に位置し西向きにあり、3寸高い位置にあって、この前には客は座らない。主人は西又は南向きに座る。従って、「解人」は北側に位置して南向きに座る。西隣りは副座敷(10畳-控間がある)があり西には一切座らない。「解人」は結局は仏間を背にする事に成るので、失礼の無い様に仏間(2坪)の仏壇(2坪-生仏像様 横に安置)に先ず手を合わせる事の慣習に成る。
北は「鬼門」と呼ばれ、決して犯しては成らない位置として決められていて、「神-天皇」の御住の方向として守られる。その為に、「解人」は北に向かって座らない事に成る。(全て廻りは襖)

(鬼は決して怖い者では無く、神を護る人として3世紀より「鬼道」と云う「自然神」の信仰対象であって、平安末期まで神の一種の「鬼神」として崇められていた。
「鬼」は悪い事をすれば神に代わって懲らしめる者であった為に、「人」は懲らしめられる鬼を怖がったものであり、それが今では「悪魔」の様に間違えられて考えられている。これも重要な慣習の一つである。日本書紀に雷神と風神と共に神として記述がある)

主人との面談の対話には、畳一枚分を離して話す。
(筆者の時代の記憶では毎日客列を成していた。過去の口伝もあった。)
「床間」は家の一番高い位置にあり、この ”神が位置する座処”としての習慣であって、「神座」或いは「上座」と呼ばれていた。
今では古い家でも無い所が殆どで、有っても飾り物を置く場所と成っている。室間が3段に成っているのはこの習慣からである。床間には家の者は絶対に背を向けては座らない。
上記の慣習は「武家様」とはかなり異なっている。この家の間取りや慣習で古い屋敷を観ればどの程度の氏の家であったかは判る様に成っていて一定の形式が定められていた。
上記の慣習には、家の「格式、身分、階層」等の内容を「儀礼、作法」等の「有り様」として定め、上記の「接客の慣習」に限らずその中の要領に潜ませたと考えられる。
「冠婚葬祭の慣習の要領」の中にも「青木氏の特異性」がある。(何時か披露の機会を得て投稿)

鎌倉期からはこれ等の慣習は、「武家の有り様」としても用いられて、この大化期からの「特異な立場」の「青木氏の慣習」が、「武家様」に変化させて採用され伝わったものであると考えられる。
現在に「古式豊か」として伝えられている様式は全て「武家様」である。
その大元は、「武の象徴の青木氏の慣習」から伝播したと考えられる。

>「善事撰集」(「注釈書形式」)
そもそも、この大元は「善事撰集」と「古代密教の教示」にあった。更に云えば、「古代密教の教示」の考え方から「善事撰集」の内容項目と成っていたと考えられる。
この上記した「接客の要領等の慣習」は、ただ単に「接客」と云うテーマでの「習慣の内容」と成っているが、恐らくは、「善事撰集」では、この要領の「青木氏の接客要領」とは無関係に「根本の考え方」を網羅させていたと考えられる。
(「格式、身分、階層」等の内容を「儀礼、作法」等の「有り様」として別の「具体的な表現」で以って書かれていた事が覗える。
「青木氏」ではそれを「接客慣習」と云う形で、この「根本の考え方」を教え伝えたと云うことである。
つまり、「国」を始めとして「組織」(氏家)を維持して事を処置するには、この「根本の考え方」が必要であった事を意味している。
何故ならば、上記した様に、奈良期に編集された「3つの律令」は、全て”「注釈書形式」”の”「令解集」”であった事でも判る。
何か一つの慣習に準えて、その「令」と少ない「律」を説明したものであるからだ。
例えば、「接客」に例を求めたとして、”接客ではこの様に成るから、何々に付いてはこの様に考えて処置せよ。もしこの要領・作法を違えた場合は、組織を維持し守るべく規則を守らない事に成るから一族から阻害される”とする注釈を付けて「解釈書」を造れば、「令」と”阻害”の意味を以って「律」と成る。
上記した様に、「養老律令」は、「大宝律令の表現内容」の「表現字句」を変更したとされる処から考えれば、例えば、”阻害”を「追放」に変更した等の「律」をより明確にさせて、増やしての「改訂」を実行したと云う事であろう。
この「3つの律令」はこの様なものであった事に成る。これが「注釈書の令解集」方式であった。

兎も角も、上記の「青木氏の慣習例」には「共通な事」として、全て、”「身分」と「格式」と「氏・家柄」と「品位」”が事の隅々まで組み込まれた扱いと成っている。
大化期から「八色の姓(天武天皇)」を始めとして、「社会を階級制度」で「令外法令」を定めて構築を開始した。(日本書紀にも明記)
この事から、「天武-持統期の善事撰集」にもこの「階級制度」を維持する内容が組み込まれていたと考えられる。
それを「特異な立場」の「国策氏」の”「青木氏の慣習」の中に編集した”ものであろう。
次にこの慣習よりも更に色濃く出ているのが「仕来り」である。
上記の事(善事撰集の表現)をより証明するものと成る。

(まさに「家訓10」を物語る慣習がある。それは「嫁取り」の考え方である。
「嫁」は「嫁」として扱わず「自分の娘」としての考え方が強く、その嫁の「愛娘」に息子を託す。その「託し方」の考え方が世間と異なっている。自分達が育てていた「息子」を、今度はこの「愛娘」に母代わりとして引き継いで育ててもらうと云う考え方が強く、要は”「バトンタッチ方式」を採るのだ”とする考え方である。
従って、息子達の子供、つまり、”孫と息子を子供”としての考え方で、孫が3人居るとすると、「4人の子供」として、この「嫁の愛娘」に育てる事を託す考え方で接すると云う慣習を採る。因って、孫は「子供」としての考え方をする。そして、この「4人の子供」の育て方は、”お釈迦さまの掌で育てる”と云う事を「愛娘」に教える。代々この考え方の継承を続けて現在まで伝えられている。
「嫁の愛娘」もほぼ同じ「古代密教」のこの考え方の環境の中で育てられていた事からも円滑に進んでいた筈である。同じ「神仏習合の青木氏」である事から「冠婚葬祭の慣習」に付いても違和感は無かったと考えられる。
明らかにこれらの考え方は「古代密教の考え方」で、「純血の血縁族」である所以から来ている「古代密教の古式慣習」である事が判る。
「跡目継承」や「婿養子」や「貰子」等の「同族間の慣習」と同じく、この「嫁取りの慣習」も遠縁から「嫁」として迎えても「純潔性」が高い事から「愛娘」としての感覚の方が強かったと観られる。むしろ、強い感覚も然る事ながら「家訓10」を浸透させる上でも、この「バトンタッチ方式」に成っていて、内部の細部の慣習も氏のみならず、「特異な立場を保つ考え方」に成っていた事を物語るものである。
「嫁の愛娘」に限らず「実娘の婿」に於いても、”「女・娘」が「夫」を「子供」として「釈迦の掌」で「家長」に育てる。「親」はそれを見守る” の慣習で、一見して「夫=子供」は矛盾するが、「釈迦の掌」の考え方がこの矛盾を解決する。
この「釈迦の掌」をどのように理解するかはその「娘・女」の資質に関わるが、”これを補完するのが「親の守るべき立場・役目」であって、「娘・女」と「息子」に「直接の口出し」は「禁じ手」とする。” と成る。
因って、「家の如何」は、「息子の長」では無くて、「裏の戒言」では、 ”女が家を潰す”と成っている。
この場合の「女」とは、「親の女」と「娘の女」の事で、その「両者の出方如何」に関わるから ”女が家を潰す事” 戒めに成っている。
普通なら、”女が家を育てる”と成る筈であるが、これでは「訓」に成るのであくまでも「戒め」として言い伝えられたものである。「訓」では無く「戒」である事に意味を持っている。
それは、「家訓1」と「家訓2」の言葉を置き換える事で、この両者のあるべき姿を説いている事に成る。
この考え方は現在も引き継いでいるが、当初、息子の「嫁の愛娘」は、この様な考え方にびっくりしていたが、今はすっかり馴染んでいる。実母より義母に些細な事でも何でも相談するし、嫁の実母も驚いている。
一氏家の運営の事の真理を突いている慣習と考える。
「古代密教の古式慣習」ではあるが、これらの伝統を失った青木氏ももう一度この考え方を一考しては如何。)


・「仕来り」
「仕来り」に付いては、「慣習」よりより守らなくては成らない「規則」の意味合いを持っているが、従って、当然にその「規則」に故意的に違反すれば、「氏や家の秩序」を乱す事に成り、この様な事が頻繁に起これば、周囲に示しが付かなく成り放置出来無くなる。
当然に何らかの形で罰せられる事が起る。そう成れば、何度も重なれば罰則に不平等が起こる事から「律」を幾つかの程度に応じて決める事の次第に成る。
恐らくは「仕来り」には「罰則」がはっきりと設けられていたと考える。

実は、「青木氏の古い商記録」から「シンジケート」の一員に「経済支援の遅延策」を処置した様な記録が書き記されている。何か「仕来りの秩序」を乱す様な事件があったのであろう事が判る。
定められた「仕来り」に依って明らかに罰せられた事が判る。

上記した様に、「青木氏の慣習」の共通概念は、「身分、格式、品位」を汚す事が無い様にする為の「重要な要領(作法)」であったが、「青木氏の仕来り」の「共通概念」を調べると、結局は「特異な立場」(「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」)を維持する為の「重要な規則」に限定されていた事が読み解ける。
その内容から集約して読み取れる事は次ぎの様なものと成っている。
何れもその罰則の「律」に価するものは、「仕来り」>「慣習」の関係にあって、「仕来り」は「明確で具体的に表現」で、「慣習」は「大まかで抽象的な表現」である事に気付く。

>「律の4原則」

>「慣習」 →「要領」→「抽象的な表現」
>「仕来り」→「規則」→「具体的な表現」

>「家単位」→「合議制」←「全員一致の原則」
>「氏単位」→「衆議制」←「過半数一致の原則」

恐らくは、「善事撰集」には、先ず慣習として上記の様な事を定める事を促していたと考えられる。
「慣習」は、上記の様なルールで「衆議制」と「合議制」を採用していた模様で、記録は律に成るものとしては少ない。筆者伊勢青木氏は「四家と一家」で構成されていた事から集まって「合議制」で決していたのであろう。
「慣習」に付いては5家5流間の問題は夫々の「長」が集まって「衆議」で行われていた事が読み取れる。
かなり、今から観ても、「合理的で民主主義的」なものとして定めていた事に驚く。

(上記した「善事撰集」編集者7人の人選も「有識者会議での編集手法」で画期的であった)

大事な意味として、これは「武」でありながらも「和」で社会を構築しようと「善事撰集」では考えてその内容に強く反映させていた事を意味する。
況や、これぞ「始祖施基皇子」の「青木氏」の ”「武の象徴」は「和」を以って尊ぶ”に一致している。(この事は「掟」でも更に証明される)

平安末期以降の「特別賜姓族」も、何度も記述しているが、「格式、品位、官位、官職」等の一切を同じとして発祥した事から「伝統の慣習」も副ったが、藤原秀郷流一族一門との「横の関係」もあった事、「第2の宗家の立場」もあった事から「特別賜姓族」の中で「衆議制」を採り独自に行われていた模様で何かを物語る記録は発見されない。
(菩提寺焼失が無ければ明確に成った可能性もあるが)

(注釈 「特別賜姓族」は、当初は「皇族賜姓族」とは「母方血縁族」であったが、後には、「祖先神の守護神神明社建立」を通じて「跡目血縁」を盛んに積極的に続けた事から、最終は「完全な同族」に成っているし、「融合青木氏」も発祥する程に成っている。
この事から、「初期の流れ」が異なっていたと云う差異程度と成っている。ただ、「横の関係」に「特別賜姓族」116氏には「藤原秀郷一門」と云う日本一の超大豪族361氏が繋がっていて、「第2の宗家」でもある事から、「論じる時の違いの正確さ」を出す為に表現を区別して出している。故に、上記の「律の4原則」に従って、「慣習の処罰」は独自に行っていたと考えられる。)

然し、「仕来り」は青木氏全体に及ぼす問題であって、1家だけに及ぶ問題ではなかった事から、物語る資料記録が焼失で不明と成っているが、5家5流間での大化期からの「律」を「特別賜姓族」にも提示して調整していた事が考えられる。
それは「特別賜姓族の伊勢青木氏」には、特別賜姓族116氏の中では「特別な経緯」があるのだ。
それは「秀郷の祖父」の「藤成」が「青木氏衰退期」に「皇族賜姓伊勢青木氏」に代わって「伊勢の国司代」を数年務めた関係から、秀郷の「千国の青木氏」が正式に認められた時には、伊勢では既に藤原氏として繋がりを持っていて「残留族」を残していた。その直ぐ後の「特別賜姓族」を任じられて直後に伊勢に「千国の裔」を直に配置して、「特別賜姓族伊勢青木氏」を正式に発祥させた経緯がある。
この様な「特別な経緯」から、依って、「慣習」「仕来り」の引継ぎは、直に済んだと考えられる。
藤原氏の秀郷は北家公家に成り、「第3子千国」が父に代わって「藤原朝臣族で武家」を引継ぎ「宗家護衛団」(960)を担ったが、「朝臣族で臣下族」の「近衛護衛団」(647)の「青木氏」とは担うものは一切同じであった。
「「特異な立場」も「特別賜姓族」と成った時点で同じ立場を持った事になった。
これで「皇族賜姓族」が敷いていた「慣習、仕来り、掟」(313)の導入には、「同じ立場」を持った事により差した問題では無く成ったのである。
ただ、先ず「一つの問題」は、”「秀郷一族一門との横の関係」”を「第2の宗家」としてどの様に扱うかである。且つ、「二つ目の問題」は、「最古の藤原氏」であり、青木氏の「慣習、仕来り、掟」のものと類似するものを持っていた。
この「2つの問題」を「特別賜姓族青木氏」が解決しないと、同じ「慣習、仕来り、掟」を「同じ立場」を持っていたとしても敷く事は出来ない。
立場は同じであり「皇族賜姓青木氏の補完」を任務としている以上は、「皇族賜姓青木氏」の「慣習、仕来り、掟」に順ずるのが「物事の道理」である。
このどちらを優先するのかの問題と成る。
その答えが、「特別賜姓族」と成った「伊勢青木氏」であった。
そして、この「伊勢青木氏」は「武蔵入間の本家青木氏」(「第2の宗家の本家」)との「衆議制」(調整役)を敷いた事であった。
上記の「慣習」の中の「接客の要領」に観られる様に、取分け「茶瓶」の「高瓶」(武家)と「低瓶」(公家)の両方を採用している事から、この「調整事」が行われた事が顕著に現れている。
「特別賜姓族の伊勢青木氏」が懸命に本家との間を調整したと観られる。

(「特別賜姓族伊勢青木氏」は、「入間本家青木氏」とは上記した様に発祥期と「品位、官位、官職」等一切では、「特別賜姓族伊勢青木氏」の方が上であった。この事から調整は比較的に円滑に進んだのである。)

そもそも、元々「5家5流青木氏」とは「母方血縁族」であった事から「2つの伊勢青木氏」は「氏を構成する規則」を問題無く採用し遵守したと考えられる。
「四日市の融合青木氏」の発祥もこの事を証明する物である。
「本家入間青木氏との調整」が進ま無いで、”「慣習、仕来り、掟」を遵守しない”と云う事では「融合青木氏の発祥」はあり得ない事に成る。
「融合青木氏の存在」が「氏家制度」の中ではこの事を全てを物語る。
(「5家5流青木氏」には全て「融合青木氏」が発祥して入る事が証しである。)
「四日市殿」と呼ばれていて、「四家」と同等に「合議」を採っていた事が伊勢長嶋の北畠氏の戦いの時の記録でも判っている。
上記の「仕来り」より、次ぎの「掟」はその言葉の意味からも、更に、「律」に関して敏感に取り扱われていた筈である。

・「掟」
「掟」に付いては、その呼称の意味からも「刑罰の意」が強い事が判る。
「仕来り」の「規則(罰則)」に対しては、「罰則の律」が多く絡んでくる事はあったとしても、取り入れる事は比較的に容易であった。
それは、「仕来り」は、”違反者に罰を科する為の規則”である。
然し、「掟」は、”犯罪者に課せられる法律上の制裁”である。
以上の様に、「氏家制度」の中では法学の歴史文献から定義されていた模様である。
他の「仕来り」と「掟」の「内容の差」を観て見るとこの様に分類される。(現在でも同じ)

ただ、難題は「掟」(制裁)のところであった筈で、「法より人 石は薬」の蔓延の中に「善事撰集」では、「氏家制度の確立」の為に、この「規則と制裁の内容の差」を持ち込んだのである。
上記した様に、「法より人 石は薬」の考え方が蔓延する事による「社会構造の崩壊」に対する「朝廷の危機感」が在って、その対策として「氏家制度の構築」を促す事が「最優先の政治課題」であった。その為には、「律」を強化して、「規則と制裁の内容の差」を組み入れたのである。

「慣習」=「要領」
「仕来り」=「規則」=罰則
「掟」=「制裁」=刑罰

社会の傾向に反して、この事、即ち、「規則(罰則)+「制裁(刑罰)」が「善事撰集」に大きく反映していたから「公布中止」と成ったのである。
恐らくは、「慣習の要領」や「仕来りの規則(罰則)」ではある程度納得せざるを得なかったのでは無いかと考えられる。
然し、この「社会の根幹部の決り」を成す「掟」であるが為に、危機感を持つ「持統天皇と施基皇子」は、この「規則と制裁の内容の差」だけは譲れなかったのであろう事が判る。
そもそも、その「掟」とは、あらゆる「組織」を維持する上で絶対に犯しては成らない「原理原則の決り」である。
この「原理原則の決り」は、その「氏」に取って欠かす事の出来ない変える事の出来ないものである。
とすると、これを犯せば「制裁(刑罰)」を受けるは道理で、要は「掟」には必ずそれに伴なう「厳しい律」が伴なわなくては成り立つものではない。
即ち、「掟=律」の関係があってこそ組織は成立つ。
そこで、その「掟」の一例としては、「皇族賜姓伊勢青木氏」に遺されたものとして代表的なのは、「家紋掟」である。
要するに「氏の象徴」とする家紋には、”「氏」が何らかの影響を受けて変化”を余儀なくされる事が起る。「子孫の継承存続」に関する問題を円滑に進める為の「厳格な要領」を事細かく書いた要領書であり、当然に、それには「罰則」は元より「刑罰」に主眼を置いて定められたものである。
これを放置すれば「氏」は構築されない。

そもそも、「屯」を前提とする「氏家制度」の社会構造を構築しようとする時、これを守る「掟」が崩れれば社会構造は成立たない。況して、その初期段階であった。
(詳細は「家紋掟」参照)
恐らくは、その意味でこの事が「善事撰集」に最も重要な内容として、この「家紋掟の基本形」、即ち、「氏の継承掟」(掟=律)が書かれていたと考えられる。
然し、大化期には「家紋」の概念は未だ無かった。
「家紋掟」の名称は、「氏の象徴紋」として朝廷より許された「認証氏」が用いたものであり、従って、平安末期にその名称を変えたと考えられる。
その名称を変えなくては成らない問題が「青木氏」に起った事に成る。
(第5次頃の訓戒で呼称変更)
そもそも、当初は、「氏家の象徴」と観られる場所に明示したもので、門柱、嘉門柱、上記の瓶器、牛車等に用いられたものである。これが後に「家紋」と呼称された。

>「訓戒の編集」
「平安期の訓戒の編集」はこの事からも証明出来るが、それは次ぎの事であった。
「皇族賜姓青木氏」は、上記で論じた様に大化期から「純血血縁」を基本としていた事から、その「枝葉末孫」は全てその「血流の差」が無く、「宗家方式」採用であって「分家方式」は採用していなかった。依って、家紋は「賜姓紋の笹竜胆紋」に統一されていた。
然し、「特別賜姓族」との血縁により960年代から980年代に「融合青木氏」が5家5流に発祥した。この事でこの「融合青木氏」には、「特別賜姓族側」のこの「掟」の「氏の継承方式」を採用していた模様で家紋は多様と成っている。
ただ、「特別賜姓族」との間で「跡目、養子、貰いの継承方式」を「子孫存続」の為に多用して血縁関係を結んでいた為に、「笹竜胆紋」を採用せずに「皇族賜姓族の関係族」としても「綜紋」とはするものの秀郷一門の主要紋の継承が有った。
つまり、「氏」は「皇族賜姓族側」に入り、「掟」の「氏継承方式」は「特別賜姓族側」に従うものと成っていた事を物語る。
この事からも「掟」は、「特別賜姓族の伊勢青木氏」の調整の下で「2つの青木氏」の間で検討され、両氏に調和する内容に調整されていた事を示すものである。
「家紋掟」は、当初は「氏継承掟の内容」であったが、「特別賜姓族」の発祥に依って変化し、「皇族賜姓族側」と「特別賜姓族側」とに差異が僅かに出た。
「皇族賜姓族側」にもこの時期に「枝葉末孫」(傍系)に「宗家方式」だけでは除し難い事が起こっていた事を物語っていて、結局は、ある程度の修正を加える必要が生まれた事に成った事を示し、その呼称であった。
女系は兎も角も、「枝葉末孫の跡目継承」の判断に問題が生じたと考えられる。

結局、これを筆者の「伊勢青木氏」で観て見ると、「四家」の直系からの末裔は「笹竜胆紋」を継承する事に成っている。
「笹竜胆紋」ではないが、筆者の「伊勢青木氏」で信頼され、確認出来るところでは「傍系の5氏」が発祥している。(個人保護により氏名は匿名)
事程左様に、5家5流にも同じ事象が起こり、同じ程度の傍系氏が起っていると観られる。
筆者の「家紋掟」は、「5家5流青木氏」と「特別賜姓族青木氏」の主要氏に採用されて入る事がこれで確認出来る。
この事が記録の中の表現から「信濃や甲斐の青木氏」にも採用されて入る事が読み取れる。

(近江青木氏と美濃青木氏は平安の源平の2つの戦いで滅亡し、枝葉末孫がその後に「青木氏」を復興した。)
(「特別賜姓族」では、秀郷一門の論文で詳細に論じた氏名に「藤」の付かない主要豪族の「青木氏族4氏」がある)

>遍歴の補足:「歴史的な背景」
「参考」-「心得」-「行動指針」-「家訓原型」-「訓戒完成」-「家訓完成」-「家訓編集 添書編集」
以上の様な「家訓の遍歴」を持ち続け、「青木氏」を興し維持して来たこの関係した数人の「伝統的な人物像」を、「武の象徴」でありながらも「和」を追い求めなければ成らない「特異な立場」の「長」に、”「青木氏の理想像」として追い求めたのではないか”と想像出来る。
そもそも、大化期の「始祖施基皇子」からの引き継がれた「古代密教の教示」と「善事撰集」と「何らかの口伝類」と「慣習、仕来り、掟」の類が、上記の様に次第に遍歴を遂げ、数代後の桓武期の「青木氏衰退期」に「家訓」に反映したと考えられる。
それは「桓武天皇」は「律令国家」を建設すべく「平安遷都」をして人心を一新した。
この事に依って「律令国家」の真逆の「皇親政治」の一員であった「青木氏」は排斥されて衰退した。
この時、「青木氏」は「氏の律令」に匹敵する「家訓の原型」と成るものを興したのでは無いだろうか。
何故ならば、「青木氏と守護神(神明社)」、或いは「日本書紀と青木氏」でも詳細に論じた様に、「伊勢王の施基皇子」(この時の伊勢国司代は三宅連岩床) は、上記「3人の天皇」の下に「善事撰集司」(撰善言司)に任命されて、全国を飛びまわり日本に最初の「律令の基盤」の編集を行った人物である。
「日本書紀」や「類聚三代格」等にも明記されている。その「施基皇子」の国許伊勢にもこの「律令の基盤」としての現在の「家訓の原型」成るものを設定したと考えるのが妥当であろう。
ただ、「家訓」と表現したかは不祥であるが、伊勢の国許にも自分の造ったこの「善事撰集の原型」なるものを敷いたのではないかと考えている。
”国許と云う事だけでは無く、伊勢神宮を皇祖神とし、その遍座地として定めた時でもあり、そこを確実に安定した形で伊勢を護らなければ成らないと云う使命感から、自らが造った「善事撰集の原型」を敷いた”と考えるのが普通ではないかと考える。
「善事撰集の原型」を使って「小さい氏の律令国家」を試行的に構築して試したとも考えられる。
そして、後に「青木氏の守護神(神明社)-22」で論じた様な「青木氏の変化」と共に拡大する「氏の律令」として必要な物に編集し直したと考えられる。
それが「訓」では10、「戒」では10に纏められた物であろう。
これ以外にも「長の資質」等の上記する口伝類から推測すると、現在に伝わる口伝類の10類程度と50類程度の「氏の伝統」の「慣習や仕来りや掟」(「青木氏の守護神(神明社)に明記」が定められていたと考えられる。
「家紋や守護神や菩提寺等の類」を加えると、凡そ100程度の「善事撰集」に成っていたであろう。その中から「訓と戒」類を「家訓10訓」として引き出したと考えられる。
その時期は「特別賜姓族青木氏」(960年代頃)が誕生した事をきっかけに新たに一回目の再編集としたのであろう。
この後(50年後)、直ぐに正式に「和の商い」に入る事から現在のものに成ったと考えられる。
この頃から「特異な立場」は上記した「公家衆との経緯」論から厳しさは更に増したと考えられ、その厳しさから「2つの血縁青木氏」を「公家衆の攻撃」に対し遺漏無き様にする為に、その必要性は増したと考えられる。

>「長の資質の全様」
さて、話を元に戻して、上記の様に、「善事撰集と古代密教と慣習仕来り掟」を実行するこの様な(特記)の「歴史的な背景」を踏まえると、「長」という資質に大きく関わってくる。
「青木氏」が云う「大者」とは、もとより「大者」でなくては成らない事は決して無いのであって、むしろ”「大者」であっては成らない”としている事が良く判るのである。
この様に、何も”豪傑の様な大者”と云う意味合いでは決して無く、また必要無く、むしろ、”そうであっては成らない”と戒めているのである。
これは「家訓1」から「家訓6」までにきつく厳しく訓戒している事でもある。
何故ならば、「大者」とは、時にして ”自らを忘れて自らの枠を超えて暴走する性”を持っているからに過ぎず、”「和の姿勢」を忘れ「特異な立場」を永代に絶対的に守らねば成らない青木氏には相応しくない”と判断しているからである。
然し、他が思う事には問題は無いし、自らが「繊細な人物」であればこそ、この「枠」を超える事はないとしているのであろう。
ただ「神経質だけの者」でもあっては萎縮してしまう事に成る訳で、其処で”「緻密で戦略的な先見眼」の資質”を持ち合わせている事を求めているのである。

この様に「青木氏の長」には ”緻密で戦略的な思考原理の資質”と云う「繊細な気質」が求められていたのである。
この「繊細な気質」から発せられる事が、その結果として「公家衆」を威圧する位の「度量と人格」で良いのである。これは真に「家訓2」で訓じている事でもある。
「青木氏の長」には、何も”太っ腹の大物”と云う「長」を要求していない事に成る。
これが「特異な立場」から来ている考え方であり、重要な事は「相当な精神力」や「繊細で戦略的な先見眼」は、「繊細な気質」の者が会得出来うる資質なのである。
決して、「資質ある者」、即ち、「長」としてあるべき姿は、むしろ、決して「豪放な人物」「豪傑風」ではあっては成らない事を「家訓2」で戒めている。
これは、「武の象徴」で「武」を以ってするのなら「豪傑や大者」で良い筈だが、「武の象徴」で「和」を以って「特異な立場」を全うしょうとする場合には、上記の様に「繊細な気質」で以って「2つの抑止力」で威圧して、「大者」と印象を与える事で「家訓10訓」が導く「長」の姿と成る。
この事で「武の象徴」の役目は成立つし、「和の姿勢」も成立つ事で「公家衆」からの「非難の口実」を与えない事に成るのであり、家訓への矛盾は無く成る。

>「相当な精神力」=「繊細で戦略的な先見眼」+「2つの抑止力」=「青木氏の家訓の長」
>「青木氏の武の象徴」=「繊細な気質」+「2つの抑止力」=「青木氏の長の姿」

(参考 この「考え方」は現在でも口伝で伝っている。”豪傑の様な大者(大物)を善しない”とする「家風の考え方」がある。よく親から”大者ぶるな”と口癖で戒められた記憶があるが、この「家訓の名残」であろう。
「伊勢青木氏の家風」としては代々「大者」は禁句で、「善」とはしない考え方があったがこの伝統であろう。又、「刹那主義」「喜怒哀楽」を否定する「享楽ボケ」(刹那ボケ)の「伝統の言葉」も「家訓の名残」である。
これは「神仏習合」から来た考え方が口伝として遺されているのだ。
「善事撰集」と「古代密教」と「神仏習合」と「特異な立場」の「4つの考え方」の真に「習合思考原理」で培われたものであった事が判る。
この事は「2つの青木」氏以外には起り得ない思考原理である。これが脈々として、然し、時代遍歴しながら伝わって来た「伝統」である。)

上記の経緯から考えて、「口伝の様なもの」は何かの形で文書化されていた可能性があり、「慣習類」、「仕来り類」、「掟類等」の形で、今で云う「マニアル化」していた事が状況証拠で確認出来るが、残念ながら「松阪大火の菩提寺焼失」で不祥と成っている。

「2つの伊勢青木氏」に何とか上記する様な事を検証出来ている事から、他の「4家の賜姓族」や主要な「特別賜姓族」にも「何らかの形」で「宗家筋」には遺されている筈であるが、発掘は困難と成っている。
「冠婚葬祭」時の「3つの類の内容」が他氏と異なり過ぎている事から、これだけの事を口伝では無理であるので元はあった筈である。
同じ程度であればそれは口伝でも可能であるが、周囲とこれだけ違っていれば1300年以上の継承は困難であった事も考えられる。
気に成る一点は ”世に晒す事無かれ。 晒す事に一義無し。”の「伝統の戒め」である。
これを宗家筋が守っている事も考えられる。(確かに、現在のマスコミは危険である事は否めない。)

因みに、「青木氏の守護神」でも紹介したが、「丸山城の戦い」と「伊賀の戦い」で信長に勝利したが、この時の先祖はこの様な戦い方をしたが、この時の先祖の「従四位下青木民部左衛門上尉信忠」はこの様な人物であった事が口伝として伝わっている。
何故、「伊勢攻め」の「3つの戦い」が事細かく物語の様に口伝されているのかは、この上記した「長の人物像」を模範とする為に物語風にして口伝として伝えられているのであろう。

(参考 「丸山城の戦い」の様子では真に小説物語に成っていて、枝葉末孫の家から発見されたこの書籍は焼失から免れて遺されている。この事から他の戦いの様子を書籍で遺されていたが出火で焼失した)
(これも「家訓2」を教える口伝であろう事が判る。他にもこの様な口伝が多くあるが、次ぎの「伝統品シリーズ」で紹介する。)

何にも、上記する様な”比較的簡単”であったのなら、何もわざわざ「家訓の戒め」にする必要がない筈である。
「家訓の戒め」とした以上は「青木氏の氏存続」に大きく左右する事であったから家訓としたのであって、”それが何であったのか”を当時の「青木氏の者達」は知って置く必要があった筈である。
恐らくは、少なくとも公家社会が存在する頃までで、長くても南北朝の室町期中期頃までは、「家訓10の存在意義の原因」を認識して一族郎党に周知徹底されていた事が判る。
然し、それ以降は資料や記録の解析検証の信頼度が極めて低く成ることから不祥である。
ただ、江戸期から再び資料記録の信頼度は高まりつつあった事から、明治期初期の「商記録から読み取ると、この時期には「意識の形」を時代に合わせて変化させて、再びこの認識が蘇っていた事が判る。
依って、「家訓10」の宿命的で絶対的に求められる宿命の「子孫を遺す事」の支障にならない様に、職務の遂行とは別に、一族を懸命に固めていたと考えられる。」
(「商記録」は、「全国域の商い」と、この補完関係にあった「伊勢信濃シンジケート」と、各地の「豪商豪族の関係」の経緯等から記録としてのものが読み取れる。)
それには、「公家衆などからの非難発言」は、一つは公家が蔑む「禁じ手」なのにその「商い」で「大きな財力」を固め「親政族として権力」を握っていた「青木氏」に対しての”怨嗟や揶揄や嫉妬”が強かったのであったと考えられる。
この認識を青木氏に関わる全ての者は強く持っていたと考えられる。
況して、「臣下族」でありながら、公家よりも身分、家柄、官位官職、何れに取っても上位にあり、且つ、その「青木氏の務め」が長い歴史を持ち「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」であった。
とすれば、「公家衆」に執っては相当叶わぬ上位にあるからと云って、素直に「品位の礼」を以って退くよりは、陰で「嫉妬や嫉みや怨嗟や揶揄の声」の方に傾くはこの「現世の常」であろう。

これに比して、「氏や民からの発言」は「氏上様」「御師様」と呼ばれる程に「信頼と尊厳」を勝ち得ていたのである。
民が慕う「皇祖神-子神-祖先神-神明社」を建立し、”「氏上」として品位格式に違わない「青木氏」”であった事から広く民衆から「信頼と尊厳」を受けていた。
「青木氏の守護神(神明社)」論参照
その「禁じ手の商い」で得た財力は、「抑止力」としての「シンジケート」等を構築し、それが「氏や民」に還元し潤す構図に成っていたのである。
「氏や民」に執っては「商い」は「禁じ手」でも何でも無く、むしろ極めて正統な生活活動であった筈で、蔑む「禁じ手」は論外であった。
故に「商いをする青木氏」に対して「公家衆」の様に、「氏や民」からは ”嫉妬や嫉み怨嗟や揶揄”が起る筈が無かったのである。
その「氏と民」が仮に ”嫉妬と嫉みと怨嗟や揶揄”を起すとすれば、自らに唾を吐くに等しい事に成る。むしろ、「賛同の声」があったと考えられ、その声に応えて「青木氏の商い」に依って得た利益が「氏と民」に還元されていたのである。
又、この様な家訓で導かれていた「2つの血縁族青木氏」の結束や、「2つの絆青木氏」や「一族郎党」との親密な結束関係に対する「公家衆の嫉妬」もあった事は否めない。
「特別賜姓族」の「藤原秀郷流青木氏」が「藤原氏北家」の出自でありながら、品位は藤原氏の公家衆よりは上である事への「嫉妬や嫉み」もあったのでは無いかと考えられる。
同族であり摂関家でありながらも、会えば正式に儀礼として「品位の礼」を取らねば成らない悔しい立場にあった筈である。
この「品位や格式」のみならず「経済力や武力や抑止力等一切の「支配力」が叶わないのであるのだから、「嫉妬と嫉みと怨嗟と揶揄」の域は通り越していた筈で、警戒しなければ成らない「口性」であったと観られる。
その様な「氏と民」から「信頼と尊厳」を勝ち得ていた「2つの血縁青木氏」に対して”口煩い公家衆の「嫉妬と嫉みと怨嗟と揶揄」”が強かったのであろう。
その”「嫉妬と嫉みと怨嗟と揶揄」”から起る「公家の讒言」が朝廷内に広まり、それが「特別賜姓族青木氏-皇族賜姓族への補完策」で保護を受けていた「天皇家」に対しても迷惑を掛けない様な「特別の配慮」も必要であったのであろう。
結果に依っては、事と次第に依っては、この「讒言の流れ」が非常事態に陥る事は当時の平安期末期の社会では常であった。
例として、近似する立場にあった彼の「源義家の没落」でも判る様に、この「讒言の流れ」が変位して、いつ何時「天皇の誤裁断」に依っては「源氏の没落道」を歩む事はあり得ると青木氏の者は認識していたのである。(家訓の深意が物語る)
青木氏に執ってはこの「公家の讒言」でも「賜姓族」である以上は弱点の一つである事を認識していたと観られる。

(参考 「利益還元」では明治9年までも伊勢-信濃近域や甲斐の100年騒乱で起った一揆や騒乱等の数多く事件に、一揆側の背後で経済的支援をしていた記録が遺されている。明確な記録では4度
この等に対する「公家の讒言」が「氏や民への経済的支援」に大きく影響していたのであろう。)

筆者は、この様な判断力(「繊細で戦略的な先見眼」)は「氏家制度の社会」で無くても、「青木氏の特異な立場」で無くても、組織を構成する限りに於いて「長に求められる資質」であると云えると考えている。
その様な「長」に導かれている組織は安定し伸びる。これは「現世の条理」であろう。

>「添書の示唆」
ところで、”この難しい「戒め」が全ての子孫に宛がわれた事なのであろうか、”疑問が残る。
「添書」では何も論じてはいない。”肝心な事を書いて置け”と云いたく成る。現実に当初は思った。 然し、”勝手に考えよ”の突き離す意であろう。本添書の癖である。
然し、この「家訓10訓」の全体を通じて云える事ではあるが、それは「長」に対して特に求められる「戒め」である事が判る。
「長」に示す事を考えての「添書」であるとすると、当然に考えさせて諭させて理解させる手法と思われる。
特に、「家訓1」にしろ「家訓2」にしろ「深意」として考えれば「長」に求められるものと観られる。文章は平易であるが「家訓」の言葉や字句や語句の使い方の通りの「深意」では無い事は良く判る。
特に「家訓8」までの全体を通しても概して「長」に求められるものと考えられる。
例えば、”「家訓8」のような「戒め」を経に一族全ての者に求められるのか”と云えば、現実にはそれは無理であろう。それは「考えられる者」であるのであればそれはそれとして”尚善し”とするが、老若男女夫々に成し得る資質や能力や立場は異なっている。
全体を通して敢えて出来るだけ言葉や字句や語句は平易なものを使って表現している苦労は読み取れる。
従って、一族の指導する立場にある者が少なくとも「訓の深意」は兎も角も、この「戒め」に関しては「戒の意」を会得して悟り、一族を「子孫存続の道」に導けば良い事に成るのであろう。
だから、わざわざ「訓」に「戒」を附添しているのであろう。
普通なら「訓戒」という言葉がある様に「訓」は「訓」、「戒」は「戒」として扱うのが当り前と理解する。それを敢えて「訓」に関連する「戒」を添えているのは「長の義務」をも明確にする意思であったのであろう。
”「訓」は一族全ての者に、「戒」は「長」の者に、一族の者には「長の厳しい務め」を知らしめ理解させ、「長」には訓戒を悟らしめる”と云う工夫を長い歴史の中で凝らしたと考えられる。
当然に、この「家訓10訓の配置」もこの事(「一族の者と長の関係」)を物語っているものであろう。
真さしく「家訓1」であり「家訓2」であり、「家訓5」等であろう。
家訓1 夫は夫に足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。

因みに、家訓1として、 「長」は「長」に足れども、一族の者は一族の者にして足れ。
家訓2として、「長」は賢なりて、その一族の者必ずしも賢ならず、「宰相」は賢なりてその一族の者賢なり。

「夫と妻、父母と子」等の字句を「一族の者」や「長」や「補佐役・重臣」に置き換えて考えれば、何事にも事ほど左様に足りる訓である。
故に、「訓」と「戒」を一つにし、「一族の者」と「長」の「心得や考え方」を統一させた事が判る。
この様に、この「置き換え」で「家訓10訓の考え方」が、「青木氏の考え方」が、「善事撰集」強いては「古代密教の教示」の原型の「思考原理」で全て理解出来るのである。

>「家訓10の発展」
元に戻して、そもそも、「喜怒哀楽」に重点を置いた生き方を採れば、その末は「刹那主義」と成り得て「家訓1から家訓9」までが求める「心域」「度量」「心得」即ち「心の余裕」を持ち得る事は先ずは困難であろう。
その前に「平易な深意」であっても「喜怒哀楽」程度の「刹那の理解」であれば「家訓の深意」の理解は困難と成ろう。
そこで、”困難である”と云う事では、”子孫を遺す事に一義あり”とせずに、”子孫を遺す事”とすれば長い歴史の中で途切れる事が起こる。これでは上記する「青木氏の特異な立場」は果し得ない事に成る。従って、「一義」の字句に大きな先祖が伝える「深意」を持っていると観られる。
この「平易な意」程度の心得では「青木氏」としては困るのである。
「長」としては「道理の矛盾」を理解出来ずに「長」を外されるが落ちである。
「家訓の添書」がある事がその事を物語っている。
「平易な意」であるのなら「添書」は要らない筈である。この「添書」があると云うことは「深意」があると云う事に成る。
故に、この様な ”長に足りず”の「廃嫡事」が青木氏の長い歴史の中では起る事から、「氏継承問題」では「本家分家方式」の格式を採らず、又、「純血血縁の弊害排除」と共に「一族宗家方式」を採っていた一つの理由であろう。

「家訓1」は長い歴史の中で「廃嫡事」が会った事から「訓」と「戒」を第1に据えているのであって、これに対して何も無いのならそもそも「訓」「戒」にする必要はなかった筈である。
何時でも広く一族からより上記する優秀な「資質」に富んだ者を一族を導く「長」に据える事が出来る様に、一族同位同格の「宗家方式」を採用していた理由の一つでもある。
その事を物語る事が系譜を具に調べて観ると判る。
その中で現実に頻繁に当り前の様に起こっている様である。
但し、ここで上記した「資質」に付いてもう一つ注意しなくては成らない事がある。
上記した「資質ある者」即ち「長」としてあるべき姿は「豪放な人物」「豪傑風」では無い事を「家訓2」で戒めているが、更にもう一つ読み取る事が出来る。
それは、筆者まで伝わる家の口伝の一つに ”頭が良い事=資質がある事”では必ずしも無いのである。つまり、”頭が良い事≠資質がある事”であって、ここでも「世間一般の考え方」とは必ずしも違うと云う事である。
若い頃は ”何事にも違う考え方をする”と何か「違和感」を感じていた。”ちょと変わっている家風かな”程度であった。
この時も「家訓の有無」もその程度ものであって”殆ど無い”に等しかった。
然し、後で家訓に意識をし始めてから、以前に親に依頼されていた「青木氏」を調べ始めた頃から、「自分の思考」が無意識のところで ”何かに無形のもので左右されている事”に気が付いたのである。
それが、次ぎの様に成る。
”頭が良い事≠資質がある事”
この思考で、”一時が万事が斯くの如し”であった。

他に上記に関連して次ぎの様な事がある。
”「頭が良い事」は「賢い事」とは違う”である。

>”「頭が良い事」≠「賢い事」”
>”「頭が良い事」≠「資質がある事」”
>∴ ”「賢い事」=「資質がある事」”
と云う考え方なのである。

これは「家訓2」でも云っている事であり、”何も頭が良い事”を求めていない事が判る。
「賢い」であれば良い事に成る。ではどの様に違うのかは「家訓8」で答えを出している。
それは「知識と経験」との事に関わり、”頭が良い”は「豊かな知識の習得」で成し得て、経験が無くても頭は良い事に成り得るが、”賢い”は”「豊かな知識の習得」があってもこれを基にした「豊かな経験の習得」が無ければ成り得ない”とする考え方である。

依って、次ぎの様に纏められる。
>”頭が良い”=知識>経験、”賢い”=知識+経験
以上の数式論である。

青木氏は斯くの如しで、諸論文で論じた「先祖伝来の考え方」が多く「名残」として遺されている。
これらの思考に限らず「諸事の慣習や仕来りや掟」も世間一般と違う事に気付き始めた。
(何でこの様に違う事に成るのかは、上記した通り「善事撰集」+「古代密教」+「神仏習合」+「特異な立場」に起因する。)
この様な違いに気付き始めてからは、”何でその様な考え方の違いが出るのか”と疑問と成り、それを解明するに至り、益々「青木氏の研究」に熱が入った。御蔭でこの様な疑問を糸口として予想の様相がある程度就き易く成り、その方向で限定した調査が進む事で「青木氏の解明」に繋がって行った。(因みに、先祖の血液型まで判る様に成った。主流は突然変異型の血液方ABである。)

「青木氏の守護神(神明社)」の研究で、次いで進めた「青木氏の家訓10訓」の最初の「2つの研究」で走馬灯の様に記憶が蘇り、”あーあの事がこの事から来ているのか”の様に無形の「古の慣習」に左右されていた事に気が付いたのである。

(参考 復元を依頼された時から意外と親父に填められたかも知れない。明治35年に出火させて「伊勢松阪の大火」に成ったが、この時、由来書などの書籍や記録と共に、これ等の事を物語るかなりの伝統品が焼失、記録保管している「青木氏菩提寺」も焼失した。)

その後、大戦などもあり、祖父後半の代、父の代では経済的な理由で「由来書等の復元作業」は成し得なかった。兄弟親族のある中で筆者に依頼があった。その為に遺された資料は筆者が保持、口伝も筆者が多く受けた。青木氏を物語る「生仏像様」の様な重要なものは伊勢青木氏四家に散在して幸い遺されている。

(「信頼出来る状況証拠」を積み上げての「答え」も後で資料が見付かる等が在った。これらは、後刻、伝統の本家訓投稿が完了した後に、「伝統品シリーズ」として投稿する準備を始めている。恐らくこの「伝統品シリーズ」でもよりこれらの事を証明出来ると考えている。)

>「家訓10の長の定義」
兎も角も、事程左様に、口伝や慣習と共に、「家訓6」にも訓じているが「長」の定義として、言い換えれば、次ぎの様に成る。
”人を導く「資質と度量」を先天的に備わっている者”である事。
その”素材を有する者”である事。
それを磨く事で「長と成り得る者」である事。
以上の3つが「長の定義」と云える。

現在で云えば、決して、”学業の成績が良い”と云う事では必ずしも無いのである。
”良い事に越した事”は無い。最低の条件でもあるが、常日頃、親などが口癖の様に云うのは、要は、”世の中の事は 「頭が良い」と云う事では上手く行か無い。” ”資質と度量の有無を優先する。即ち、「賢い事」”であった。
これが ”「伝統ある口癖の口伝」”であったらしい。
恐らくは、これは「家訓10訓」の意味合いを汲んだ、取分け「家訓10」の”子孫を遺す事に一義あり”に強く反映されたものが、”「伝統ある口癖口伝」”として引き継がれて来たのであろう。

因みに、筆者の父は、江戸時代に育った娘で、吉宗の育ての親でお側用人の伊勢加納家から若くして嫁いで来た祖母に厳しく育てられたが、この為に950年も続いた老舗の伊勢紙屋長兵衛の伝統的な影響を受けていた事からこの考え方が強かった。
(伊勢加納家も「2足の草鞋策」の老舗「加納屋」を営む)
筆者も「長」の定義の様に、「青木氏の家訓」と「青木家の口伝」の影響を受けているのか、「青木氏の遺伝」なのかこの考え方を強く持っているのは不思議である。
この様に、「青木氏」はこれらの「口伝」や「伝統ある口癖口伝」からも「長と成り得る者の資質」を磨く事に、悠久の歴史の中で、常日頃、「磨く事への努力」を怠って居なかった事が判る。
「心域」「度量」「心得」即ち「心の余裕」を持ち得る事への努力であった。

(注記 斯くも「伊勢青木氏」では幸いに散在して、資料、記録、口伝、伝統品、商記録、慣習、仕来り、掟類等が遺されていたので、上記する様に考え方が斯くの如しで判明する。
然し、この様な考え方は、取分け「信濃青木氏」と「甲斐青木氏」と、「特別賜姓族青木氏116氏」の中でも「伊勢、美濃、讃岐、越後、尾張」の青木氏には古来より深い親交があった事から、残念ながら「資料の発掘」が不思議に少なく未だ出来ていないが、上記する「青木氏の家訓に纏わる統一した考え方」が浸透して共有していた筈である。間違いは無い。
「特別賜姓族青木氏」の秀郷一門の主要5氏と成っている「青木氏族」(永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏である。又、「皇族賜姓族伊勢青木氏」は5氏の氏名の異なる「傍系の青木氏族」が発祥している。他4家4流の氏名の異なる「傍系の青木氏族」は一部不祥の資料と添書等からも存在していた事が覗える。
この「7つの地域」には、「宗家青木氏」が現存する事は判ってはいるが、現在に至っても発掘出来ない。依って、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」からの内容で推測するしか無い状況であるので、全青木氏は少なくとも”斯くの如し”であった筈として事細かに論じて披露している。)

(参考 、筆者の伊勢青木氏には、主家「松阪ルーツ」と「名張ルーツ」と「桑名ルーツ」と「員弁ルーツ」の四家の他に、「融合青木氏」の「四日市ルーツ」があった。
現実に、系譜と資料記録等から筆者より6代前頃には「長」の座から次々と廃嫡された様な事が起ったとみられる。結果は筆者の「松阪ルーツ」方の三男が最終に松阪主家を嫡子嫡男となって引き継いでいる史実が遺されている。原因は「長の資質」であった模様である事が判る。その時の口伝物語で遺されている。実は、その詳細は、天智天皇から賜姓時に拝領した「青木氏の象徴」の「生仏像様」を巡って「名張ルーツ」家内がその「祭祀の権」を巡って争った事が原因で、一族から「青木氏の長」として相応しくないとして廃嫡され、次いで「桑名ルーツ」でも起った模様である。
「祭祀権」は「長」が持つものであり、結局は「主導権争い」をした事を意味する訳であり、「長の資質無し」として外されたのである。
その結果、筆者方の「松阪ルーツ」に戻り、その中でも三男ルーツが「長」に推されて納まった経緯である。「伊勢青木氏」には「四家」があり、その2家内で争った事に成る。
この時の様子がその運送状況や罰を受けた事の様子などが物語り風で口伝で伝わっている。
更に遡れば何度か起こっている様子である。「家訓」に添った「長としての重要性」の伝統事件である。同じ様な事が上記の青木氏の中でも起こっている筈である。
この事から大化期からはこの様な事が何度もあった事が考えられる。それほどに「青木氏の宿命」の達成には「厳しい子孫の選択」が成されていたのである。)

それだけに冷徹とも観られる他氏とは異なる厳しい生き方を青木氏に求められていたのである。
その為にも、この「喜怒哀楽」に傾きすぎた「刹那主義」を「家訓10」で厳しく戒めているのである。
この考え方は「青木氏の特異な立場」と成り得た時から求められていた筈で、少なくとも「大化期からの戒め」であった筈で、これは「古代密教の教え」でもあった事に成る。
「青木氏の守護神(神明社)-22」でも論じた様に、本訓の”子孫を遺す事の一義”は、この大化期からの「真人族と朝臣族の単一融合族」(青木氏)と成り得た時からの守らなければ成らない「絶対的な宿命」であった事に成る。
況や「刹那の戒め」は「家訓9」で論じた様に「原始仏教」-「古代仏教」の教義であって、「古代密教の青木氏の教義」であった事に成ると考えられる。
故に、「青木氏の古代密教」に関わらず、その後の「三大密教の仏説」では、「刹那主義」の原型は否定されて来た所以であろう。

>「家訓10の理解」
この様に、「訓」を補足する様に「戒」として「刹那の否定」を添えたものであった筈で、”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”とする密教の考え方は、「今」に重点を置くのでは無く、”先を見据えた落ち着いた考え方”が採られていた事を物語る。
だとすると、その意味で、現代人とは「心域」「度量」「心得」即ち「心の余裕の差」があった事に成る。むしろ、現代では、”今に生きよ 今日は今日 今日を明日に繋げ”とする様な ”刹那主義が正しい生き方だ”とする傾向がある。
この「家訓10」の様に、「刹那の戒め」として ”子孫を遺す事に一義あり”と今に主張する事は真に「異端児」と成ってしまうだろう。
その「時代の背景」に依って、一個人一氏が大きく左右される現世では抗う事は不可能であり、況して「善悪の問題」ではなかろうが、筆者は、現世に於いて、”子孫を遺す事に一義あり”が何時の世も「絶対的な摂理」であると考えている。
「氏家制度」で無く成り「個人主義」の現代でも、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」のバランスを配慮すれば、現世の”「涅槃への道」”はより「煩悩」に苛まれる事無く、より善く生きられると考えられる。
筆者は、この「青木氏家訓」を遺していた「伊勢青木氏」の宗家の者である無しに関らず、この「家訓10訓」を「事の真理」を突いた「妥当で納得出来る訓」として信じている。矛盾の事象は無かった。
取分け、「家の大事」の判断に迷う時には、この「家訓10」の”子孫を遺す事に一義あり””刹那の戒め”から最初の「思考の基点原点」として思慮を巡らして事を決める事にして来た。
振り返れば「道」としては間違えて居なかったと自負している。

(参考 筆者は技術屋であるので論理性の強い性癖もあるが、論じているのは真逆の無形の抽象論である。これも私個人の「道理の矛盾」である。)

当然の事であろうと思う。何故ならば、”時代は変わる”は、これだけの家訓を遺して来たのであるから、我が「青木氏の先祖」が解らない訳は無いだろう。
それも「伊勢青木氏」を例に取って観れば、明治35年(大正14年までは何とかこの伝統を引き継いでいた模様)までは少なくとも大化期からの「悠久の伝統」を頑なに護って来た史実がある。
依って「氏家制度」が終り、既に60年も経った大正期でも「悠久の伝統」即ち、「古代密教」の影響を強く受けた「家訓10訓」と「守護神(神明社)」の「神仏習合」に裏打ちされた「特異な立場の伝統」は厳然として引き継がれていたのである。

(江戸時代も時の政権徳川氏の紀州藩は、幕末までと大正14年ま上記の「家訓に従った氏の存在」として「青木氏の扱い」を認めていた史実が幾つもある。何度も論じた。)
この事から考えれば、先祖は「時代の変化」の「具合や様子」は充分に理解し観て来ていた事に成る。それでもこの「家訓」は遺されているのだ。
そもそも、”時代に沿わなく成った”と判断していれば霧消している筈である。
累代の先祖や祖父は周囲からも、総称は”御師さん”、又は、個人別では、代々”梅岳さん”等の「雅号」でも呼ばれていた。この「雅号」も古式慣習で、何れかで呼ばれ親しまれ尊敬されていた事から、それを理解出来ないほどの人物ではなかった筈である。「禅問答の師」でもあった。)

(大正期紀州徳川氏を付き添いに「天皇家に挨拶言上」に参上した事が記録されている。
歴史的に江戸初期にも「挨拶言上」があった事が伝えられている。江戸中期の吉宗の享保改革の財務担当として請われた時にも「挨拶言上」があった事が資料から判るし口伝でも伝えられている。
この「3つの挨拶言上」以外にも江戸期前にもあったと考えられる。
取分け、平安末期までは定期的な「参上昇殿」が成されていた可能性が読み取れる。
鎌倉期から室町期中期には「商い」を通じて得た利益の還元として経済的に困窮していた天皇家に対して秘密裏に救援していた事が判る。
数多く「一揆等への背後勢力」としてシンジケートを使って動いていたことが商記録から確認出来る事からも、「室町文化」の「紙文化」で巨万の富を得ていた事から、「永代の朝臣族、賜姓族、臣下族」である立場上、放置する事は先ずない筈で、裏で「天皇家救済」に動いていた事は確実である。天皇家である以上は記録は遺し得ないが、時の政権も限度を超えない範囲であれば、暗黙の了解と黙認の立場を採っていたと考えられる。)

>「家訓10の証」
この事から「家訓10訓」は生きていた事の証しであり、その「家訓10」の証しは次ぎの一字が家訓として活かす事に成っていたと考えられる。647年からの「歴史の遍歴」の風雨に堪えて現在にあるのはこの「字句」が活かしたのである。
それは、次ぎの遺訓である。

>”子孫を遺す事に一義あり”
この「一義」と云う字句にあったと考えられる。

この字句の有無で大きく意味が異なる。
上記した様に、”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”とする「密教の考え方」の中で、”子孫を遺す事”では断定的であるが、「一義」の字句が入る事で柔軟さが出る。
この”「一義」の字句の有無で「時代毎の遍歴」に対応したのではないか”と云う事なのだ。
この本論の「家訓10」を家訓とした先祖は、この「一義」を入れる事で、「子孫」とする「目的の定義の幅」と、「遺す」とする「行為の定義の幅」に、その大きさを持たしたのでは無いかと考えられる。
「子孫」とは、「特異な立場」の強い慣習に縛られていた事から、「特異」であるだけに押し潰されてこの幅が無ければ遺し得なかったと考えられる。
「時代の遍歴」では、先ずは「真人族や朝臣族」とする平安期の「同族血縁族」は少なくなり「子孫」をこの「純血による同族血縁族での慣習」で遺す事はかなり物理的に無理であった筈で、その「血縁族の幅」を広げる事でより可能に成る。
取分け、平安期末期からの「母方血縁族」の「特別賜姓族青木氏」が116氏に拡がった出現はその最大の一つであり、又、鎌倉期には全て滅亡したが「朝臣族の源氏」との「血縁の幅」もその一つであり、「近江佐々木氏一族」との血縁も神仏関係(佐々木氏の資料から)の「縁」であったことが判る。
室町期から江戸期に掛けてのこの「青木氏血縁族」は、「2つの血縁青木氏」の「融合青木氏」の存在が示す様に、「秀郷流青木氏」との「重複的な血縁」があり、更には、これ等の「特別賜姓族青木氏」の「秀郷流青木氏」と血縁を進めた各地の高位族の「連や宿禰豪族」の氏族の間接的な血縁も行われた。又、「青木氏の守護神(神明社)」で論じた様に、神職関係で繋がる「近江佐々木氏」との各地での「遠縁の血縁族」との子孫存続の血縁もあった。
この様に、「子孫の幅」が広げられた事がこの「家訓10」が守られた事に成る。

次ぎにはこの「遺す」とする行為の字句の定義の幅である。
「遺す」の定義の幅では、「血縁族を繋ぐ」と云う意味合いから「直接継承の存続策」と、上記した「同族間の子孫存続策」にて遺す事の「2つ存続策」がある。
それと、「男系継承」が困難に成った場合には ”「跡目継承策」で遺す”とする「第3の跡目方策」の事も可能に成りその定義の幅は広まる。
それには「嗣子」が多い場合は、通常は仏門や神門に入れるが、入れずに上記の血縁族に「跡目養子」や「婿養子」や「貰子」などで子孫を拡げて於いて、「自らの氏の跡目継承」が困難に成った場合には、「嗣子の血縁族」から「跡目養子」を迎えて継承させて行う等の行為の幅が拡大が成されいた。
「青木氏」からは「神仏職」を本職として入る事は、自らの「守護神と菩提寺」がある以上は別であり、この職業間の血縁も進んだが、世に云う単純な”仏門に入る”は無かった。
このルーツから跡目を取る事も充分に可能であった。(陸奥域まで広がっている。)
これには、「青木氏の守護神(神明社)-22」で論じた様に、他氏と異なり「本家-分家」は採らず一家一流族の全てに「宗家方式」を大化期から採ったし、これが5家5流に採用されていた事から「跡目継承の対象族」の純血度は高く、且つ、均一性を保っていた。

(この為に、「家紋」も一切の副紋等を採らず全て「笹竜胆紋の綜紋方式」である。特別賜姓族は附秀郷一門との関係があり「本家-分家方式」は採るものの、綜紋の「下がり藤紋」をベースとしてその家紋の藤の下部に副紋を組み合わせてそのルーツの出自を明確にしている。)

本家訓にある様に、「有能な長」に重点を置いた「跡目継承方式」であって、全て一族からの優秀な者を輩出させる「嫡子方式」を大化期から採用して、他氏の様に元々限定した「嫡男方式」を基本とするものでは無かった。
上記した「特別賜姓族」や「近江佐々木氏」の「子孫存続策」との血縁も相当に純血性が高く、日本最大を誇る「特別賜姓族青木氏116氏」に拡がったのも根本はこの事からであった。

「佐々木氏族」は兎も角も、そもそも「特別賜姓族青木氏」とは、「平将門の乱」の「平定の条件」として藤原秀郷が提示した「2つの条件」の内の一つで、”「貴族に列する身分の保障要求」から「従五位下の貴族」の最下位”の要求が認められた。
この時は、「皇族賜姓族青木氏5家5流の衰退」が懸念されていて、「国策氏」としても「融合氏」としても「3つの発祥源」としての存立も危ぶまれていた。
況して、この為に「皇祖神-子神-祖先神-神明社の建立の遅滞」もあり、これを復興させる為にも、朝廷は、元来、「藤原氏北家族」で「皇族賜姓青木氏」の「母方血縁族」であった事から、貴族に列した秀郷一門に、更に、この衰退し復興を始めて来た「青木氏の補完の任務」を背負わせて「皇族賜姓青木氏」を復興させた。
そして、それを永代で秀郷一門の「宗家の第3子」にこの任を与え、初代千国が秀郷一門の護衛軍と成る事を認めると共に、「皇族賜姓族青木氏」と身分、家柄、官位、官職等の一切の「蔭位の制」に基づきその任を追加して与えた。

(「永代」とは、青木氏が絶える事が無い様に、「青木氏の跡目」が万が一欠けた場合は一門宗家から、その時の「第3子」を跡目として入れる様に義務を与えた。この結果、「青木氏族-永嶋氏等」の4氏が発祥した。)

>「家訓10の定義の幅」
この時、「嵯峨期の詔勅」に基づき「皇族の第6位皇子」に対して与えられる「朝臣族」と「賜姓族青木氏」の身分を、「詔勅の例外」として皇族外の「母方血縁族の秀郷一門第3子」にも累代に「朝臣族と特別賜姓族」に「永代による品位と格式の権」を与えたのである。
結果として、秀郷一門宗家よりも「上位の格式」を持つ「従4位下」に列せられると云う事が起った。これが「第2の宗家」と呼ばれる所以である。
「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」の「2つの血縁青木氏」はこの「品位の制」を基盤として上記した様な血縁関係を強く結んだのである。
これでは、最早、「同族血縁族」の何ものでもないのである。
この様にして、「子孫」と「遺す」事の定義の幅を広げる「一義」の字句がこの家訓に附添されているのである。
この事に付いて、大化期の初期からこの「家訓10(刹那の戒め)」”子孫を遺す事に一義あり”の家訓が存在し、且つ、「2つの血縁青木氏」はこの家訓10に従って上記する様な色々な「子孫存続の方策」を打って来た事が判る。
のみならず、更には、朝廷もこの青木氏の「国策氏」を護る為に、この様な「縦横な血縁関係」の方
策を容認していた事が判る。
この様な方策を実行するには、「朝廷が認める氏」であるが為に「朝廷の認可」が必要とした。
従って、この様な「血縁関係の輪」を作れた事は、朝廷が後押しをしていた事を物語るもので、そもそも、「特別賜姓族青木氏」の「発祥とその任」からしても、そのものが「朝廷の公的な推進策」であった。

>「家訓10」の位置付け
つまり、「家訓10」は最早、「青木氏の家訓」の域を超えて「朝廷の推進策」と成っていた事を意味するものであり。況や、これまた「国策氏」の所以であり、「国策訓」と成っていた事に成る。
これは、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」「皇祖神-子神-祖先神-神明社」「古代密教氏」等の事柄が「国策の基点原点」であり、「象徴」であったからであろう。
「朝廷」や後の「幕府」が、”「国家の天皇家」に継ぐこの「基点-原点-象徴」を無視し霧消させる事は「国家の尊厳」の軽視を招く事に成る”としたからである。
この「2つの血縁青木氏」に対してのみに「朝廷と幕府」は、「嵯峨期の詔勅」の「青木氏の永代禁令」や「大化期の詔勅」の「不入不倫の権の永代付与」「祖先神-神明社建立の永代権」(江戸期初期から幕府が補完)「密教菩提寺の建立の永代権」を明治初期まで与え続けた事がこれを明らかに物語るのである。
これ等は全て「家訓10」の「子孫を遺す事に一義あり」に起因する。
恐らくは、上記した様に「刹那の戒め」は、上記する様に「国家の策」の一つにも成っていた「青木氏の子孫を遺す事」に対する「最大弱点」を「青木氏側の戒」として付加えたと考えられる。
つまり、例え「訓」を理解したとしても ”この「戒め」が全てを左右する”と考えていた事を意味する。
その意味で、この「家訓10」は「他の家訓」(1~9)に根本的に影響を与えるものであり、この「訓」と「戒」が異なれば「他の家訓」(1~9)は崩壊する。

因みに、筆者の家に伝わる「口伝の伝統」は、この「訓」にでは無く多く「戒」にあった。
記憶に依れば、父と祖父は口癖の様に、”刹那ボケは駄目だ””もっと先を観て考えよ””考え方に余裕と落ち着きを持て””享楽の老けるな””先憂後楽で無くては駄目だ”等の「刹那」の意に共通する叱咤を受けた。
ところが若い時は ”何故この様に云うのか、一体意味が何なのか”は良く判らなかったが、子供を持ち子供が成長し孫を見るに連れて、ある時、ハッと気が付き「家訓10訓」との繋がりが良く判った。取分け「家訓10」の事に気が付いた。
良く考えて観れば、「家訓1」や「家訓2」や「家訓4」や「家訓6」は家族に纏わる事が多い事から息子に話す事が多かったし、「家訓5」や「家訓7」や「家訓8」や「家訓9」は会社務めの部下の指導や相談事にも善く述べていた事を思い出す。
然し、「子孫を遺す事」に対する「叱責や口伝や指導」は取り立てて無かったのである。
そして、何時か子供には「他の家訓」(1~9)の事を口癖の様に云っている自分に気が付いたのである。
「子孫を遺す事」に対する発言が無かったのは、「他の家訓」(1~9)の基本と成っている事から、”「結果として得られる目標」である”からと認識していた事に依る。

>「涅槃への道」の数式論
恐らくは、「家訓10」をそのままに直に説いたとしてもなかなか理解は得られない筈である。
それは ”若い者の勢い”で「喜怒哀楽」に大きく左右されていて、”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”とする「密教の考え方」の中では、受け入れる側の「心の収容力」の門の入り口が開かない筈である。
筆者もそうであったが、”何を馬鹿な事を 今時、年寄り臭い”で一蹴されるであろう。
実際に最初の頃に部下の相談に乗った時も一蹴であった。
真に「家訓5」の「人を観て 法を説け」である。
この様にして、考えて観ると、”「現世の生業生様」=”「涅槃への道」”は、全てこの「青木氏の家訓10訓」で説ける事が判る。
祖父が禅問答を高野山や永平寺の高僧としていた事の書籍や記録を多く遺している事を考え合わせると次ぎの関係がある事が判る。

>”「現世の生業生様」”=”「涅槃への道」”=「青木氏の家訓10訓」

この数式論は、祖父に依らずとも筆者でも理解できる。
筆者でも理解できるとすると、「氏家制度」の中での先祖は、その社会の真っ只中で居たのであるから、尚更の様に、”「現世の生業生様」”=”「涅槃への道」”=「青木氏の家訓10訓」の数式論は比較的抵抗無く受け入れられ進んでいたと考えられる。
日常茶飯事の様に事程左様に、「大化期」からの累代の先祖はこの様にして子々孫々に言い伝えて行った事を物語る。
「2つの血縁青木氏」と「2つの絆青木氏」と「一族郎党」の中ではこの様にして「青木氏の家訓10訓」を比較的簡単に伝えて行った事がまざまざと目に映る。
累代の先祖の時代性は、「武」による時代であった事から「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」の数式論を要求されるものであった。直に説いても直ぐに受け入れられたであろう。
上記した様に「青木氏」は「武の象徴」の「特異な立場」にありながらも、「分身を遺す事」の意味は違っていたが、別の意味でこの数式論は直に受け入れられた筈である。

然し、問題はこれからであろう事が疑う事無く判る。
「時代性」や「社会性」は余りにも異なる事はもとより、今は上記の数式論は消え失せ、0=「涅槃への道」<「喜怒哀楽」に近い。
然し、近代化や科学化が起こり人の現世がどの様に変われども”「涅槃への道」”の本質は人間である限りは普遍である筈だ。
人間の内部の構造がロボットの様に変わらない限りは普遍であり、普遍である以上は「家訓10訓」も普遍である筈だ。
然し、如何せん筆者の家に於いても説くにしても、残念ながら、0=「涅槃への道」<「喜怒哀楽」に左右されている事は否めない。
「家訓10訓」の意が伝わらない事の危険性を大きく孕んでいる。
然れば、少なくとも「文書にして遺す術」を選ぶ以外に無い事は判る。
未だ古式古風豊かな一面の習慣を遺している筆者の家でも、斯くの如くの有り様であるので、「青木氏族」に於いてはその術が霧消していて、それが「0=「涅槃への道」<「喜怒哀楽」と云う事に成るであろう。

>「投稿の現状」
実は、多くの「青木氏族の現状」を観ると、「皇族賜姓族青木氏25氏」と「特別賜姓族青木氏116氏」とこの「2つの絆青木氏」と「皇族青木氏5氏」の主要氏の殆どの「宗家本家の実情」は、「守護神神明社」等は当然の如く、「密教の宗派」も然る事ながら「密教菩提寺」等の言葉さえ失し、所在も資料記録をも勿論の事で、焼失させて完全に判らなくなっているのが現状である。
相当の宗家でありながらも、仏壇も戒名も判らないとする現状の様である。
この中ではあらゆる「伝統の継承」は、最早、不可能であろう。
筆者の調査した原因とその時期は、室町時代は第1期の戦乱の焼失期ではあるが、江戸時代にはかなり蘇る事が起ったが、これも主因となったのは第2次大戦の戦火と、その後の疲弊した生活にあったと考えられる。
確かに明治期初期には、混乱は室町期と同様にあったがある程度の蘇りがあったし、記録資料は移動したに過ぎなかった。
然し、大戦の戦火は「焼失」として起った為に消えた事と、その後のこれ等の宗家本家などが農地改正等の政治的な圧政で衰退してしまった事から伝統が完全に途絶えたのである。
何故、斯くも簡単に霧消する方向に進むかは、「青木氏族」はその伝統から「密教族」であった為に「守護神」と「菩提寺」に記録保存を委ねていた事が大きく原因している。
この「守護神」と「菩提寺」が焼失すれば消えるのみと成る。中でも特に藤原秀郷一族一門の菩提寺が不祥とする事がその典型的な事象であろう。(研究しているが確定は未了)

(研究で「2つの血縁青木氏」の菩提寺には、ある「特定の条件」が歴史的にあった事が判った事から、ある程度特定出来るまで至っているし確率は高い。)

この様に調査すると、この時期は昭和20年頃で完全に途絶えて前に進まない事が起る。
大勢力を誇った瀬戸内の青木氏族でも最高で昭和20年で終わっている。
筆者の家も何とか資料復元するに最低の資料が確保できても斯くの如しである。最早困難であろう。
出来るだけ研究して投稿して遺す事に努力する。
現在は、個人情報保護に基づき資料採掘や調査そのものが難しく成っていて消えるのみである。
(判断に用いた資料記録等を公表する事が個人情報と悪用の危険性から避けた。)

>最後に
筆者の伊勢青木氏関連の資料記録から出来る限り網羅して、その上で「状況証拠」を出来るだけ積み上げて、”他の青木氏も斯くの如しであろう”とする論調で説明した。その為に何度も同じ事象例を揚げてより正確に理解を深める様に努力した。

この様に、「青木氏の家訓10訓」は「悠久の歴史」を持つ伝統ある「青木氏の訓戒」である。
「全青木氏の先祖の生き様」を表してものとして未来の末裔に語り続けて欲しい事を願うのみである。


「青木氏の家訓10訓」 完
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