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青木氏の分布と子孫力-7


No.311] Re:青木氏の分布と子孫力-7
投稿者:takao 投稿日:2014/04/27(Sun) 14:24:11


> 青木氏の分布と子孫力-6末尾

> 話をもどす。
> 上記の「瀬戸内族等の蝦夷地開拓に関わる変遷の論証」は、出来たと考える。
> そこで、江戸期まで云われていた ”瀬戸内を制する者は国を制する” の言葉の通り、上記した様に「瀬戸内族」は平安期でもそうであった。
> しかし、この様に「伊勢青木氏・信濃青木氏」と共に、「瀬戸内族の生き様」、即ち「瀬戸内族の子孫力」は、「幕府内に浸透した秀郷一門の横の関係力」と連携している。
> 江戸期でも矢張り特別に重視されていたのである。
> そして、上記した様にその子孫力は「幕政改革」にも利用されたのである。
>
> 従って、「瀬戸内族」の地元の「香川1」と「岡山0」の「子孫力のパラメータ」は、この様な「背景の経緯」にあった為に、”一族存亡に成るほどに注ぎ込んだ”のである。
> 依って、その後の地元での「子孫力」や「子孫拡大力」には、当然に支障を来した事を物語るのである。
> しかし、その分、この「子孫力」で「江戸期ー明治期」までで、最低でも北海道の7/11にシフトしている事に成ったのである。
> 衰退していたのでは決して無いのである。
> 普通なら、上記した様な ”波乱に満ちた世の中の荒波”に洗われて、一族を注ぎ込んだが諸共に消えて仕舞う憂き目を受けている。
> しかし、これもこの「現世の条理」であり、普通である。




青木氏の分布と子孫力-7


・「戦後の入植」
更には、これに重ねて「昭和20年後(戦後の混乱期・経済的悪化)」にも同じことが「瀬戸内族」に起こったのである。
この「昭和の瀬戸内族の危機」でも、このパラメータに大きく影響を与えたのである。
「讃岐青木氏」には、上記した「江戸期の経験」があったからこそ、また現地にも一族を廻している。
だから、既に、「受け入れの土壌」も出来上がっている事から、「瀬戸内の廻船業」から「蝦夷地の入植と廻船」に切り換えて、再び盛り返す事を狙ったものである。

従って、逆に、北海道には、この「昭和の入植移動」でも、その分「北海道のパラメータ」(1.5分)が拡大したのである。
上記した様に、「弘前藩」の救援劇に関わった「讃岐の瀬戸内族」、とりわけ「弘前の讃岐青木氏」(陸奥の「香川の移動族」と「岡山の末裔族」)の両方とも「北海道」に入植した。
この入植には、下記した「弘前藩と松前藩の関係」(下記)が大きく影響したのである。
この「陸奥青木氏の入植」には、この「弘前の讃岐青木氏」も含まれていると観ていて、故に、「秋田の分」が「北海道」に引っ張られて、秋田は0と成っているのだ。

ところで、それまでの経緯に付いて重複するが、改めて記述すると次の様に成る。

イ 「北海道の支配権」を家康から1599年に「松前藩」に与えられて正式に認められた。
ロ この「松前藩」は家臣(瀬戸内族)を配置して交易を正式に開始した。
ハ ただ、この元々は「青森に居た松前氏」には、「蝦夷地の支配権」を家康は特別に見込んで任した。
ニ ところが、米が採れない「無石の藩」であったので、「青森の弘前藩」との間で「米の供給」をする契約が交わされていた。
ホ 最初は「1万石相当」を「弘前藩」から供給を受けていたが 次第に交易が拡大し人口が増え、「米の供給」が不足し始めた。
ヘ 享保4年には「1万人人口の都市」と成り、この「基本的な米の供給」のみならず、「10万石」が不足していた。
ト この為に、「弘前藩」に対しては、「蝦夷地の入植」と、その「海産物などの殖産貿易の権利」の優遇を図っていた。
チ この事から、他のどの藩よりも「北海道の入植とその利権」は優位にあったし、積極的に行った。
リ この為に「交易と殖産」の為の「弘前からの入植移動」は「最大の条件下」にあった。
ヌ 「松前藩」も、財政的な面から観て、「弘前藩の北海道の入植」は、”「コメの供給」の対価支払が出来、それと「継続的な供給状態」が維持出来る事の負担面で都合が良かった。
ル 「弘前藩」は、この関係から積極的に「瀬戸内族」をその経験を見込んで「家臣」としての扱いで優遇し北海道に配置した。
ヲ 「松前藩」に対しても「幕府の肝いり」もあり「瀬戸内族」には同様に家臣として扱ったのである。
ワ 記録では、「松前藩」は、江戸時代の「5大飢饉」に起こった ”「米の飢饉」の時も度々に救われた” と記されている。
カ 「松前藩」は、「弘前藩」に対して「恩義」に思っていたのである。
ヨ 「弘前藩」は、「お家騒動の体質」で苦労している事から、「経済的な背景」は「藩政安定」につながる事から、”絶対に崩せない”と云う弱みもあった。
タ その「瀬戸内族」に依って運営されていた ”「海運による海産物の交易の利」”も身に染みて知っていた。
レ この状況から、「幕府の強い意向」もあり、「瀬戸内から来ていた関係者」を全てつぎ込んだ。
ソ 上記した様に、これが「青木氏」の「歴史的な定住地」ではなかったが、これが「北海道の11」の内容の一つに成っているのである。

従って、この数字的には、「北海道」には次ぎの様に成る。
1 「信濃」から「皇族賜姓族の神職系の移動」
2 「陸奥からの秀郷一門の移動」
3 「瀬戸内族の陸奥からの移動」
以上の3件の室町期末期の記録がある。

この事があるので、全国平均の4のパラメータから観ると次の様に成る。

「讃岐青木氏」(瀬戸内族)としての「実質の子孫力」は次ぎの様に成る。、
北海道分 7
香川の分 1
岡山の分 0(X)
広島の分 3
島根の分 2 

岡山の分は0としているが(X)は2以上は見込める。

以上で、最低でも「13のパラメータ以上」が認められる。
(北海道分の7は昭和の最終吟味で異なる。)

この「パラメータ13以上」に付いては、長年同じ行動を採って来た「伊勢青木氏」等の「実質のパラメータ12」に匹敵するものとして納得できる。
以上の様に、実質の「讃岐青木氏」は、「武蔵」と肩を競い合っていたところから、17以上にはならないものの、15程度に匹敵するものを持っていると考えられる。
そこで、この「讃岐のパラメータ」を最終確定させるには、その前に、上記の経緯から、次ぎの「青森ー秋田」の状況を吟味して置く必要がある。

「青森ー秋田」
しかし、「瀬戸内族」が一時、定住したこの陸奥地域の「青木氏の動き」が解明されたとしても、”地元「青森ー秋田」の「秀郷流青木氏」は一体どうしたのか” と云う疑問がある。
そもそも、「青森ー秋田の陸奥青木氏」は、秀郷一門の「鎮守府将軍」の頃から、「青木氏」の「入間の本領地」に継ぐ位の定住地でもあった。
しかし、「青木氏の守護神の神明社建立」と云う面からにしても、データは、「陸奥の秋田」と云う範囲では「青木氏の子孫力」は不思議に低い。
因みに、「青木氏族の永嶋氏」も、関東でも、愛知でも、陸奥でも、「子孫拡大」を室町期末期まで大きく興している。
にも拘らず、この事を考えると、「秋田」では、「同族の青木氏」が、”何故に「子孫拡大」が大きく起こらなかったのか”が疑問である。
この疑問を解決する必要がある。

陸奥域の周囲には同族の一門も居たし、土地の豪族も殆どが「血縁族」であるにも関わらず、「軍事的背景」、「経済的背景」、「周囲の一族」などから観ても「政治的背景の環境」も決して悪くは無かった。
むしろ「子孫拡大」には「三つの条件」が揃い過ぎている。
もう一つの「時代的背景」にしても、確かに、陸奥域には「荘園制」に関わる有名な「子孫力」を低下させる「奴婢事件」等が起こった。
この国を動かすほどの大事件が、平安期末期や室町期末期には大きな事件が多く起こった。
しかし、「青木氏の分布やその子孫力」の「拡大抑制の元凶」と成っていた「荘園制」が、「平安末期の禁止令」に依って無く成った。
依って、その後の「子孫力」は再び盛り返している。

元陸奥域の「周囲の5県」には、「秀郷一族一門」と「北家利仁流一門」にも囲まれている。
しかし、「唯一の脅威」としては「阿多倍一族」の有名な「内蔵氏系」の「安倍氏や清水氏」などの勢力に囲まれていたことは事実である。
ところが、この「内蔵氏族」の氏とは、歴史的に見て「子孫力」を下げる大きな事件を起こしていない。
その証拠に、「藤原利仁流族」や「秀郷流進藤氏」は、この中間地域に挟まれていながら子孫を伸ばしている。

では、”何が子孫力を下げていたのか”である。後は、「子孫力」を低下させるこの地域の要因は厳しい「気候」しか浮かばない。
では、”「気候的背景」があったのか”、しかし、「青木氏」が ”気候的背景に弱い”という事は聞いた事はない。
とすると、考えられる事は次ぎの事が只一つである。
この「気候的背景」が原因して、「秀郷流青木氏の護衛団」の ”入間との間の交代制”にあった事が考えられる。
そもそも、陸奥の「花房氏」や「小山氏」や「小田氏」などの土豪との「全ての血縁族」が、関東に来て「秀郷一門の勢力」を背景を基にして大豪族と成っている。
この事が物語る事は ”子孫拡大の流れ” が確かに「北から南」にあった事は否めない。
そもそも、「秀郷流青木氏」の「陸奥の定住」は、あくまでも ”「赴任定住」” にあった。
従って、「陸奥土豪の血縁族」等が、関東に出てきて勢力を伸ばしている中で、本家筋の「赴任定住の青木氏」が「逆の行動」を採るかは大いに疑問である。

先ずは採る可能性は無い。
「秀郷流青木氏116氏」の「24地域」では「入間帰還」を前提としたシステムを元より採用している。
確かに「赴任定住」で各地域の赴任地には、「子孫末裔」を遺してきている事は確かである。
そうすると、この「24地域」の中で、「子孫力」「子孫存続拡大」に関わる”異なる条件”とすれば、「環境の影響」である。
この中でも、厳しい「気候的背景」だけが「子孫力差」として出て来る。
この「陸奥域の気候的背景」が、この「子孫力の限界値」として観てみると ”、「赴任定住・交代制」に大きく影響を与えたのではないか” と考えられる。

特に、上記した様に、「讃岐青木氏」などの「瀬戸内族」に依って、江戸期初期には「太平洋周りの廻船」が新たに創設された。
これに依って、四季を通して凡そ二日か三日で赴任地から護衛団が入間に帰還できる様に成った。

江戸初期の「造船力の発展」が原因した。気候の厳しい「蝦夷地等の交易」が「造船技術」を伸ばした。

この「造船力の発展」に依って、”豪雪の中での護衛”と云う役目は、「冬場での役目」としてあまり意味がなくなった事に成る。
それまで、帰還に要する危険や難儀から留守居の形で定住する事に成っていたが、その必要性が一年中無くなった事に成る。
何日もかけて危険を背景に必死に陸送で帰還するよりは、「帰還」と云う点では画期的なものであった。
この”瀬戸内族による外回りの廻船の開設” が、”入間帰還のシステム”が現実のものとして”効果的なシステム”と成ったと考えられる。

「陸奥の瀬戸内族の操船入植貢献」と、「讃岐の瀬戸内族の外回りの廻船開設」と何れも瀬戸内族の貢献であった。
「蝦夷地の開拓」と「陸奥の秀郷一門の帰還」に大きく貢献したのである。
「讃岐の瀬戸内族の外回りの廻船開設」は、「蝦夷地の開拓」にも「人と者」を運送する事でも大いに貢献したのである。

そこで、「陸奥の環境」の「気候的背景」が「限界点」に成ったとしても、これで「入間帰還」は容易に成った。
これで「赴任定住の留守居役」も必要と無くなる程の移動と成った。
この事で、「現地末裔孫」も伴い「全陸奥青木氏」の「入間帰還」と成った。
依って、「陸奥秋田の青木氏」はパラメータが0に成るほどの地域と成った事が考えられる。

現実に「そっくり帰還」(根削ぎ帰還)は、温暖の地の「紀伊国」や「阿波国」や「肥前国」でも起こっていた。下記
何れも、「造船力の発展」で陸送で何日もかけての帰還より、数日で楽に帰還できる様に成ったことからの結果である。
この現象は「陸奥だけの事」では無かったのである。
これは「室町期」のみならず、上記した様に、江戸幕府の「旗本 御家人集団」と成った「土地付き家臣団」の「秀郷一門の青木氏」があった。
江戸時代に成っても、室町期の「縁故の地」に「現地派遣の幕府代官」として派遣されていた。

そこで調べて観ると、「家紋分析論」と「守護神論」でも判るのだが、この「広域陸奥」には「18の大名」が配置されていた。
この18の大名の内の「7の大名」は、何らかの秀郷一門との縁故を持っていた。
その「土地付き家臣団」には3割程度が秀郷一門で占めているのである。
江戸期に成っても、この「秀郷一門の青木氏」は、この様に「24地域の縁故地」に派遣されていた事が判る。
秀吉に依って、家康が関東に転封された時に、この地域一帯を治めていた秀郷一門には、「家康の本領安堵策」に依って関東域は安堵された。
その後、「家康の天下」と成った時も含めて、各地の「24地域の縁故地」もその後、安堵され保証された。
家康の藤原秀郷一門に対する「本領安堵策」で「土地付き家臣団」(准大名扱い:地主:御家人)が生まれたのである。
因みに、「土地付き家臣団」を超えて、江戸時代の全国大名の内の「6大名」に「下り藤紋」の藤原一門が成っている。

A 陸奥、越後、
B 信濃、近江、
C 紀伊、日向
以上が成っている。

この「6つの小大名」の藩士の多くは、「秀郷流青木氏116氏」の一門の家紋群である。

しかし、他の「縁故の地」(24地域)では、凡そ2割から3割が秀郷一門の家紋群である。
ほぼ、他の陸奥域も同じ程度である。地主として名主や豪農や庄屋や郷氏や、土地の藩の家臣として生き延びた。

この地域も家康に依って、「藤原氏の勢力」を維持させる為に、「縁故の地」も「本領安堵の策」が採られたのである。

この様に、「土地付きの家臣(御家人、上級旗本)」と成っている地域は、下記に参考に記す様に、主に「青木氏116氏の主要地域」に成っている。

武蔵、越後、讃岐、備前、
下野、相模、三河、下総、
常陸、紀伊、陸奥、上野、
美作、備後、伊予、豊後

以上16の地域に集中しているのだが、これは二つに分類できる。
一つは、「秀郷流青木氏」の平安期と室町期までの「領地」か「赴任地」
二つは、「松平氏か徳川氏の藩主」と成っている「守護地」

一つ目は、「縁故の地」に対して派遣された幕府の代官、役人等
二つ目は、江戸初期に徳川家臣団と成って藩主が赴任した地域

以上の様に、室町期に引き続いて江戸期にもほぼ同じ勢力で同じ分布域を示している。
これは「子孫力維持」と云う点で重要な事柄である。
そこには、当然に強い「子孫力」が存在する。要するに、”古来より縁故の地”であるからだ。
「室町期」と「江戸期」では、社会の不安定さや混乱差は大きく変化した。
しかし、「縁故の地」に関わる事により「子孫力」は、冒頭でも記したが ”変わらない”として論じる事が出来るのだ。

従って、「陸奥」に於いては、要するに、「基礎的な子孫力」が全く無くなったのではなく、”「子孫力」が出自先の入間に戻った”と成る。
故に、「陸奥」では、「子孫力」が激減していたのであるから、「陸奥」から「北海道」への「入植移動」は、「陸奥青木氏」だけではない事に成る。
更に、上記した様に、各地から「陸奥」に来ていた「青木氏」(瀬戸内族等)も「北海道」に入植移動した事にもなるのである。
後住の「瀬戸内族の入植」とは別に、先住の「陸奥青木氏の入植移動」は、むしろ、どの時代を通しても「入間帰還」を中心とした慣習に従っていたので、極めて少なかった。
この事から、せいぜい「留守居程度」のもの定住と考えられるから、入植移動は無かったと見做される。
依って、パラメータに出て来る範囲ではなかったと考えられる。
(「陸奥域」を始めとして、24地域の「入間帰還」は改善された。)

丁度、上記した”徳島の剣片喰族の愛知への帰還方式”と類似するが、その期間の「土地の生活環境」は大きく異なる。
「肥前の青木村」も同じである。
当初は、「期間限定の定住策」であったと考えられるが、「蝦夷地開拓」に伴う「造船力の発展」が、この「肥前の定住」にも大きな変化をもたらしたのである。
逆に、この「讃岐青木氏」ら「瀬戸内族の入植移動」が「造船力の発展」を促し、その「造船力の発展」が今度は「瀬戸内族の廻船業や殖産業の発展」を促した事に成る。
陸送より「海送の発展」が、質、量、速さ、楽さに於いて優れ社会を大いに変えた時代と成ったのである。

ところが、昭和に成って始まった機械化が、戦後に成って、その代表と成る鉄道の急激な発達によって「陸送の発展」が起こり海運を超える結果と成ったのである。

瀬戸内族の母体と成っていた廻船業と殖産業は、鉄道の陸送の発達で取って代わられたのである。
そこで、「讃岐青木氏」等の「瀬戸内族」は、「北海道開発」に賭けて「戦後入植」と成って表れたのである。
この様に、地域毎にその「子孫力や子孫拡大力」の「有り様」が異なり、それに伴って「青木氏の分布と子孫力」は変化したのである。
しかし、その「分布と子孫力」は、根底を覆すような変化までには至らなかったのである。

恐らくは、1600年経っても”あまり変わっていない”と評価されるが、これからの「時代の変化具合」によっては「青木氏の分布と子孫力」は変化する可能性がある。
どの様に変化するかは判らないが、判る現在の範囲で過去の事を遺しておきたい。
後世の青木氏の末裔にロマンを与えられる。
この異なる「青木氏の歴史」には、「先祖の生き様」がよく見えて来て面白いのである。
その「分布図や伝統の有り様」も面白くなるのだと考える。

従って、「青木氏の子孫力の有り様」を続けて論じる事とする。


・> 青木氏の分布と子孫力
>
> [地域別分布力]
> > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > 地域      異変の県        分布力
>> 九州地方   長崎、大分       5%
>> 四国地方   高知           2.5% 
>> 中国地方   山口、岡山       2.5%
>> 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
>> 東北地方   秋田           7%
>> 中部地方                 15%
>> 関東地方                 45%
>> 北海道・沖縄               6%
>> その他                   3%
>>
>> 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
>> 九州地方  1.3
>> 四国地方  1.3
>> 中国地方  1.3
>> 関西地方  4.7
>> 中部地方  4.3
>> 関東地方  11.3
>> 東北地方  2.0
>> その他   11.0
>>
>> 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
>>
>> 修正地域(表ー3)
>> 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1-7 三重 12 福井 4 愛知 13-7
>> 秋田 1
>>
> 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
>> 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
>> 福岡  2      山口  0   愛媛  3     兵庫   3    三重  1
>> 長崎  0      島根  2   香川  1     大阪  14    石川  2
>> 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都   5    福井  1
>> 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良   1    岐阜  3
>> 熊本  4                        和歌山 4     愛知  13   
>> 宮崎  2                        滋賀   1    長野  9
>> 鹿児島 1                                   山梨  1
>>
>> 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
>
>> 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
>> 静岡   5   青森  1      沖縄   1
>> 神奈川 21   山形  2      北海道 11
>> 東京  18    岩手  1
>> 埼玉  17    新潟  4
>> 群馬   6   秋田  0
>> 千葉  11   福島  4
>> 茨木   4   宮城  2
>> 栃木   8                                     
>>
>> 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  

 青木氏の分布と子孫力-8に続く。


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青木氏の分布と子孫力-6

[No.310] Re:青木氏の分布と子孫力-6
投稿者:takao 投稿日:2014/04/20(Sun) 10:55:08


> 青木氏の分布と子孫力-5末尾
>
> 注釈
> (反対に家光は頼房と仲が良かった。ところが、家康はこの「頼房」が謀反を起こす性癖の持ち主として、水戸藩主にはしたが、遺命で27年間徳川氏を名乗らせなかったのである。
> ところが頼房は逆にこの気は無かったから、家康からもその性格を信頼されていて、遺命で「朝廷工作」の「家興要領」に組み込まれていた皮肉な事が起こっていた。
> 故に、家光は頼房との差を隠すために「由井正雪事件の謀反嫌疑」を掛けたのである。)
>
> ”頼宣の孫の吉宗”が青木氏と強い結びつきを持ったかは云うまでも無く判る。
> それは、上記した様に、”何故に「伊勢青木氏」が親代わりに成った”かは、又、その後の”「享保の改革」の事”、”紀州藩の勘定方指導の事”等も含めて、上記したこの経緯の事で充分に判る。
> 更には、祖父の「頼宣」の「形式上の出自元」と成ったからであり、「ABCの族」即ち、「賜姓族青木氏系藤原氏関係族徳川氏」であるからである。
> 「伊勢青木氏」からすると「吉宗」は「家康ー頼宣」の繋がりからも、又「一族の縁者」でもあった事に成る。
>
> この上記に論じた「考察の問題」は、この「調停工作」の「権威付け」を「全ての青木氏」取り分け「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「秀郷流伊勢青木氏」の三者がこれを容認するか、どうかである。
> 容認すれば、上記の”「長保寺」”が物語るものは解明できる。
> 当然に、密かに「調停工作」をしたのだから、青木氏は容認する以外には無いし容認しなければ意味が無い。
> 否定すれば「朝廷と天皇」が求める故事の「長者の呼称」「正二位官位」は消える。
> そうなれば「徳川氏との軋轢」が決定的に生まれ、当然に「青木氏」は消滅する事に成る。
> 当然に、青木氏等の背景保護もなくし、天皇家のみならず朝廷は立ち上がれないほどに衰退していたと考えられる。
> つまり、上記するこれらの権威を容認したのである。
>
> 「権力と権威」を主体とする絶対社会では、「子孫力」を作り出すには、”世に晒す事無かれ、世に憚る事無かれ”であり、「否定」は「自己の主張を世に前面に押し出す事」に成り、これは当に「晒し憚る行為」である。
> そんな事は、絶対に青木氏はしない。それが長年の「青木氏の子孫力」の基と成る戒律である。
>
> 「長保寺問題」は上記した事の「青木氏ー徳川氏」の関係の度合いを一挙に解析出来得るテーマである。
> 仮に、「紀州徳川氏の菩提寺」を紀州に置いたとすると、一体”どう様になるか”である。
> 「伊勢」と云う「二つの故事」を継承している「伊勢青木氏」が、「伊勢」は古来より青木氏が定住している「天領地」であるからで、人は疑いなく信じるのであり、「紀州」では前は「藤原氏」を名乗っていたのが、今度は又「源氏」かと成る。
> 徳川幕府の様に、”権威を基本とした権力構造”の中では、人は信じないし、「権威」は低下し、「為政力」は低下し、末には、権力を押し付ける無理な構造が出来上がる。
> 結局は「政治体制の崩壊」に繋がる。
> 「賜姓族」の様に、この「二つの故事」を「紀州」で使えば、逆に疑う方向に周囲は働くが、折角の「権威獲得」は「水の泡」であり、「徳川政権」は「秀吉政権」と同じ様にそう長く無かった事に成ろう。
>

青木氏の分布と子孫力-6



・「伊勢の菩提寺と紀州」
徳川氏との関係の親密さは、紀州徳川氏の菩提寺が「伊勢松阪」にあって、且つ、「青木氏菩提寺跡」に建立し、「同じ青木氏菩提寺の寺名」を同じくし、古来よりの「賜姓族青木氏」の「伊勢」にあるこの「3つ要素」が最低でも裏付けてられている。
だから、”人はその権威を信じた”のであって、「紀州」に置いたとすれば、”人は無味乾燥と成り、「権威」の「故事の目論見」は消えうせた”筈で無理であった。
それが、「伊勢」であったからこそ、「故事に従った血縁関係」を「本流立葵紋」で成し得たのである。
否、成し得たから、「紀州藩の始祖」を祭祀する「長保寺」に「嵯峨期詔勅の禁令紋」の「笹竜胆紋」が使えたのである。
そして、家康の「浄土宗督奨令」(密教系と菩提寺方式を解除)に反して、わざわざ「密教排除の禁令」に反して、「密教浄土宗の寺」を建立出来たのである。
故に、この「二つの故事」の「禁令条件」を観て、その作り上げた権威を人々から信じられて使えたのである。
そして、この”信じられた影響が、徳川氏全体の行為に伝播して疑う者は居なくなった”ものである。
紀州の「民衆」、のみならず「家臣」までもが、全国の全ての民が、信じ疑わなくなったのである。
むしろ、「歴史の場」では、実際は、「徳川氏の出自」を暴かれているものの、以前は確かに「搾取偏纂」であったものであった。
しかし、それを払拭する様に、上記の「2つの故事」の事で、民衆を含む全ての人は完全に信じてしまったのである。

イ 「青木氏側」から観れば、この「本流立葵紋の青木氏」が、存在する限りは、最早、「搾取偏纂の域」を超えた「認められた正統行為」と成る。
ロ 「徳川氏側」から観れば、「本流立葵紋の徳川氏」を引き継いだ「頼宣」までの「一代限り」では、「搾取偏纂の域」を超えた手続き上では、確実に「正統な賜姓族」で「源氏の末裔孫」と成る。

このイとロの「二つの考察事」を捉えれば、徳川氏の他の直系一族(宗家と御三家)も、心情的には、「源氏末孫」を名乗る事は、「頼宣の事」を捉えて、”「仕方無い」”ともなろう。(前は藤原氏だったから。)

注釈
(「頼宣」の名は、そもそも、「清和源氏」の分家河内源氏の始祖「頼信」から来ている。
「頼宣」の「2つの故事の条件」を取得した事からこそ、「嵯峨期詔勅」に従って、始祖とする「頼信」から、「頼宣」の河内源氏の「通名」を使えたのである。
「頼将(よりのぶ)」から一度は肖って同名の「頼信」にしたが、最後には「2つの故事」の完成に憚って「頼宣」にした経緯である。
この経緯から観ても、上記の「調停工作」と「家興要領」での成功裏の「笹竜胆紋と密教浄土宗」の取得が、どれだけの影響を徳川氏に与えていたかはよく判る。)

「頼宣」の孫の「吉宗」が、「8代将軍」と成って「徳川宗家」に成ったとすれば、”一代限り”とは云え、形式上は「直系孫」となった。
その限りは、「二つの考察事」から観れば、「賜姓族」系と成ったと見做される。
形式的には「男系の血液上の繋がり」は無いが、「徳川宗家」(田安氏、保科氏等)は形式上からすると「未勘源氏」並みと云う事に成るだろう。
前は「搾取の藤原氏」であったが、今度は何とか「源氏朝臣」は名乗れるし、「青木氏」と「朝廷と天皇」はこれを確実に容認する。

これは「伊勢青木氏」等に対する親密な行動で動いた”「家康ー頼宣の戦略」”が功を奏したと成る。
これだけ、”「徳川氏の全氏」に影響を与えた功績”でも、「家光」は「頼宣」により嫉妬するであろう。
「征夷大将軍の権威」の条件が、「調停工作」の「家興要領」に基づく搾取的行為であっても、万民に信じさせて「将軍の権威」を創出したのである。
仕事でも「長保寺」の如くに、名声を挙げた事は、エレベータの様に押し上げられた「家光」には到底出来ない事であり、叶わない事であろう。
この「頼宣」は、「家康の意志夢実現」の為に、鍛えられたからこそ才能を発揮したのである。

(青木氏の上記した「経済学」は、それは其れなりにこの事とは別の行動であるが、「頼宣の才能」の条件が整ったからこそ吉宗までの成功を遂げられたのである。)


更に重ねて次ぎに考察する。
そもそも、”日本全国広し”と云えど、これらの「歴史的な事柄」を論じられるのは、「関係した氏」としても、「資料保全」からしても、「青木氏」だけである。
中でも「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「讃岐青木氏」と「秀郷流伊勢青木氏」と「近江佐々木氏」とに限られる。
この5氏が保有する資料から、この様に考察して論じなければ、「歴史の表裏の実態」は、絶対に解明できないし、消え去る憂き目を持つ事に成る。
「青木氏氏のサイト」だけの「徳川氏の江戸初期の行動」を解明できる資料である。
更に、この事は、当に「青木氏の伝統」であるので、解明の為に論じる事を続ける。
「青木氏の分布と子孫力」のこれらの「青木氏の行為」は「大変な子孫力」に大きく関わるからである。
ただ、筆者は ”世に晒す事無かれ 何れ一利無し”の戒律の姿勢は崩さない。
(注記 この論文は青木氏の範囲に留める。その心算でお読み頂きたい。)

さて、そこで、上記の事で論じ得られた筈ではあるが、青木氏だけが成し得る事として、放置すれば消え去るのみであり、出来得る限りの論調を論じて置きたい。

・「紀州藩と青木氏」
更に、「長保寺」以外に次の事が更に証明している。
この時以来、「頼宣」との「再三の談合」が持たれ、「伊勢青木氏」は「頼宣」に対して、南画絵画、俳句、禅問答、歌、茶道、書、商学、殖産学」等を指導した。
又、「藩主の話し相手」として以後、接する事と成り、この状態は江戸初期から大正14年まで代々の藩主に続いた。
この為に「12人扶持米」の「礼米」を支給し続けられた。(明治期まで)

この時のこの「付き合い」の中で、「伊勢青木氏」は、”「頼宣」に、「家康」と同じく「蝦夷地開拓」の必要性”を解き推奨した様である。
「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」はこれに関わっていた事が文意から読み取れる。
故に、この話を1600年前頃に「伊勢青木氏」から受け、堺などで見識を広めた「家康」が、「松前氏」に「蝦夷地交易権」(1599年)を与えた。
そして、続けて「讃岐青木氏」には、「外回りの蝦夷地からの新規廻船」(1600年)を同時に許可しているのである。

注釈
(上記した様に、「伊勢青木氏」は、「家康との親交」は、資料とは別に、正式には「関ヶ原」(1614年)以来からであった。
信長が光秀に討たれた時にも、「大阪の堺」に家康は居て、「堺の青木氏屋敷と店」等でも親交を深めていた状況であったことが口伝にある。
その「光秀謀反」を知った「伊勢青木氏」は、「伊勢シンジケート」に連絡を取り、その後、伊賀上野経路で逃亡し、伊賀館まで何とか辿り着いた。
この時、「伊勢シンジケート」が周囲を固めて護った事が判っている。)
この後、幕末までこの「付き合い」から、伊勢青木氏の四家(伊勢郷流青木氏含む)は、 ”「紀州藩の勘定方を指導する事」”は何度も続いた。
しかし、上記した様に「家康の時」は勿論の事、「頼宣の時」、「吉宗の時」、「幕末の時」の3度の事は詳しくよく伝わっている。
筆者までは口伝でも物語風でよく伝わっている。

(「伊勢秀郷流青木氏」とは、「本流立葵紋の青木氏」「宗家葵紋の青木氏」の「伊勢末裔四日市殿」である。
「四日市殿」を含めて「四家」は「伊勢青木氏の総合商社」を一族で運営していた。)
この時の「信濃青木氏」と「讃岐青木氏」の「徳川氏への貢献具合」のより詳細な資料が不足で掴めない状況である。
伊勢青木氏側の遺資料だけで、消失した模様。)

「頼宣の時」には、「伊勢青木氏」の指導の下で「交易船」を建造している。
この事は「家康の意向」の基に「蝦夷地開拓」を含む交易を先んじて始めた事を意味する。
そもそも、「交易船」を作っても、創藩したばかりの「紀州藩」には、元々このノウハウが無い。
これを「伊勢青木氏と讃岐青木氏と信濃青木氏」が指導して直ぐに交易した事が商業資料から判る。
商業記録から、紀州と信濃と安芸ー讃岐の殖産物の取り扱いの記録から読み取れる。
指導した内容として、交易するには「海産物や農産物の買い集め」から、それを「大量に生産する殖産態勢」、「売買の交渉技術」、何よりも「大船の操船技術」と、その「運送技術」を獲得しなければ出来ない事である。
これはノウハウと経験の無い紀州藩が、独自で一朝一夜で出来る事では無い。
況して他藩から来た官僚の家臣では尚更である。
この「3つの青木氏」が関わっても、この「システム作り」では相当に苦労する筈である。
この事は交易の事に付いては、「家康」も充分に知っていた筈で、これを「伊勢青木氏」から知り指導を受けたのである。
恐らくは、名義上は、「紀州藩」として「代表家臣」を載せ、「伊勢青木氏か讃岐青木氏や信濃青木氏」から送り込んだ「各種の職能集団」(青木氏か抱えていた「2つの絆青木氏」)が運用したと観られる。
「吉宗の享保の改革」の段階までは、「宗家葵紋の青木氏」と「本流立葵紋の青木氏」等の「四日市殿」を含むこの「3つの青木氏」は、商業記録などから「総動員」であった様子であった。

注釈
(この時の「伊勢秀郷流青木氏の宗家」の動きの記録が、「秀吉の伊勢攻め」の時と、明治の「伊勢の2度の大火」で消失していて掴めない。
ただ、天正期に於いて秀郷一門の同族で伊勢の「伊藤氏」との同族血縁関係を持っている事、更には、この融合の「伊藤氏」と「伊勢賜姓青木氏」との”「血縁の繋がり」の記録”が残っている事。
この2つ事から判断して、これらの”何回かの縁組”が起こっている事は、江戸中期以降も「伊勢秀郷流青木氏」とは、依然として緊密に繋がっていた事が判る。
実は、筆者の継祖母も、この伊藤氏の宗家の娘である。明治期までは何度も血縁していた事が判る。
この「伊勢秀郷流青木氏ー伊勢賜姓青木氏ー伊勢の伊藤氏」のより強固な関係が構築されていた事が判る。 
何故、この「悠久の歴史」を持つ「2つの青木氏の関係」に同じ悠久の伊藤氏が入ってきているのかと云う疑問である。

そして、ただ、「伊藤氏」がこの「3者の関係」の中で ”どの様な働きをしていたか” は実のところそこまで研究が進んでいなくよく掴み切れていない。
若干の資料はあるにしても、推測の範囲として述べると、「信長と秀吉の伊勢攻め」の為に、互いに結束した事は記録から間違いない事が読み取れる。
「長嶋攻め」「北畠攻め」等の資料、青木氏のこの「伊勢攻め」の資料から互いに合力した事が判る。
その直後の上記した「家康の調停工作と家興要領」の完成遂行の為に、「関東の秀郷宗家との調整」の”「役目の一部」”を担ったとされる節がある。
実は、この事を物語る事として、ここにも「大きな繋がり」を持っていたのである。

前段で論じた「宗家葵紋の青木氏」の始祖母で、頼房の側室の「那那の実家先」(実家先では「弥弥」)の父は、「藤原准尊昭玄」 興正寺住職 顕如の孫 兄弟に「皇族賜姓族青木氏」の菩提寺系同門の住職と成っている。
(寺名は個人情報により不記載とする。)
「藤原氏の格式」と、更には、「菩提寺住職」でも「青木氏との繋がり」が、重複してここでも繋がっていたのである。
つまり、何とかして、「朝廷と天皇」を納得させ文句の出ない様な縁籍を構築しようとした事が判る。
この「重複の繋がり」は、放って置いて出来上がるものでは決してない。
誰かが強力に押し進めない限りは起こらない。
では、伊勢の「2つの伊勢青木氏」と「徳川氏」だけでは、「格式」と「繋がり」から観ても、この「那那の縁籍」は成し得ない。
これを「押し進めた者」「取り持った者」が必ずいる。
筆者は、それが、”伊勢の伊藤氏であった”と観ている。
実は、伊勢の伊藤氏の出自関係を観れば良く判る。
「5家5流皇族賜姓族青木氏」の「菩提寺系の同門寺の住職」(萩)に繋がっていたのである。
「伊藤氏」は、「伊勢秀郷流青木氏」から依頼されて、この「伊勢青木氏の菩提寺」の「同門寺系の住職」(萩)の弟を通じて、父の、「藤原准尊昭玄」 (興正寺住職)に「姉の婚姻先」として「徳川氏の頼房」に政略結婚先として嫁がせる話を通したと観られる。
伊藤氏はこの住職との繋がりを持っていた形跡がある。
「伊勢賜姓青木氏」は「近江賜姓佐々木氏」(勝姫)に、「伊藤氏」は萩の同門住職に話を推し進めたのである。
「伊勢賜姓青木氏」は、「菩提寺同門寺系とは云え、格式上はこの同門系寺は下位に位置していた事から勧められなかった。
そこで、「伊勢の伊藤氏」に仲介役を依頼したと云う事に成る。

輪の様に「繋がり」が出来る程に「調停工作」は進められていた事が判る。

(伊藤氏 :秀郷より 第1子千常系文行流    始祖9代目基景 詳細は別途 興正寺住職准尊は北家藤原氏文行流神職系)
(伊勢秀郷流青木氏:第3子千国系兼光流    始祖 秀郷祖祖父藤成ー秀郷ー千国ー兼光

(「2つの絆青木氏」に付いては、「神明社守護神」のところで詳しく論じている。現在の伊勢の玉城市の全域は青木氏のこれらの職能集団の長屋や家屋と蔵群であった。)

この様に、「伊勢青木氏と徳川氏の付き合い」は、「只の付き合い」では無く、殆ど一体化していると観られる。
「12扶持礼米」は「伊勢青木氏」に於いては「糧」ではないが、「礼米」の形で受け取っていた事に成り、「礼米」の「受給の意志」がそれを全て明らかに物語る。

「天保の飢饉」の頃には、「藩財政」を立て直すために幕末の時まで「勘定方」に、伊勢より人を廻して無給で専門に指導していた事が判っている。
この中でも面白い事が書かれていて、幕末に”「坂本龍馬の船」を「紀州藩の船」が「操船ミス」で沈めて「高額の賠償金」を払った事”が記されている。
(坂本龍馬の「海援隊の記録」からも同じ事が記載されている。)
それでも藩財政は立て直したと成っている。

「吉宗の将軍に成る経緯」には、上記の様に、「青木氏」と「紀州藩」が絶対とする「祖神・神君の家康の意志」を引き継いで、「藩財政の改革」を実行していると云う事があって、「幕政改革の議論」にも終止符を打ったのである。
これを裏では「伊勢青木氏ー信濃青木氏ー讃岐青木氏」等は、幕臣と成っていた関東の「藤原秀郷一門」らを味方に引き入れて、「吉宗」を「将軍の座」に押し上げたのである。
この「吉宗」は、「家康の意志」を次いで「改革実行」の為に、幕臣の6割を紀州藩から採用し、旧幕臣を徹底的に排除して、「藤原秀郷一門」の多くを上級家臣として引き揚げて、「計画実行の態勢」を固めた。

尾張藩も三井家等の「江戸の豪商」を背景にしていた事が、「尾張藩の町づくり」が越後屋を始めとして「民間の豪商」らの力によって成された事が記されていて、この事でも判る。

紀州藩は、「質素倹約」で「出」を抑え、「各藩の力」と「瀬戸内族の力」と「民間の力」との3つの力で、「蝦夷地等の開拓」を成して「開拓の利益」や「交易金」や「運用金」や「献納金」で「入」を高めて、収支の「出と入の収支差」を最大に高める「財政改革」であった。
家康はそもそもこれを目指していたものである。
(紀州藩と享保の幕府と伊勢青木氏等は「リフレ政策論」であった。

注釈
(デフレとインフレの丁度、間をくり抜ける経済政策論。
この江戸期は、丁度、地球の気候変動が大きくなる「300年周期」の中の「100年期」に入っていた。
江戸時代はこの気候変動に依る影響で大飢饉が多発していた。
この為に、物価が値上がりし、激しいインフレの状況に陥っていた。
経済力が低下する現象が起こる等のインフレ現象の中に、逆に社会は疲弊して購買力が低下するデフレ現象も片方で起こる等複雑な経済状況であった。
この為に、幕藩財政も悪化して崩壊寸前の状態に陥っていた。止む無く年貢の「五公五民の増税」に踏み切った。
これが「享保の改革」の「リフレ政策の効果」を低下させた大きな原因と観られる。
この「リフレ政策」とは、「出」を抑え「入り」を高める「中間政策」である為に「大きな増税」は「禁じ手」である。
この「入り」を高めるには、「増税」では無く、「交易や殖産能力」を高めての「入り」でなくてはならない。
それを「交易や殖産開発」をしながら、一方で「増税」もした為に、「入り」が高まり過ぎて、「出」の収支差が確かに良くなった。
一方で「出」の「質素倹約令」と「増税の令」とで、「フラストレーション(不満)」が社会の中に起こったのである。
そこで、「五公五民の弊害」に対して、これを何とかしようとして、吉宗は「米将軍」と称されるくらいで、自らの判断で、基幹の米相場の操作を実行した。
しかし、操作に依って起こるリスクヘッジに合い失敗した。

しかし、ここで疑問点がある。
「伊勢青木氏」は、増税は「禁じ手」ある事を知っていた筈であるし、「リスクヘッジ」も商人である以上は常識で知っていた筈である。
しかし、行われた。ただ、米相場のリスクヘッジは「相場の操作」を元に戻す事で解決するので問題は無い。
現実に慌ててその様にした。
問題は、「五公五民」の「増税」はありながらも、強い「反対勢力」を抑え込む為の「モデル実験の紀州藩」では成功した経済改革である。
”一体、何が幕政で違ったのか”である。
そこで「青木六左衛門」を始めとするグループは、原因を考えた。
一つは、「交易と殖産開発」の「入り」の違い差。
二つは、「出」の「質素倹約」のレベル差。

彼らが調査した原因は、「二つ目の累進性」であった。つまり、「出」の「累進性」であった。

江戸の「六左衛門グループ」は、「紀州の改革」に取り組んでいた「紀州班グループ」に問い合わせた。
その情報の分析で「出の累進性」の事を知った「六左衛門」は、その原因を吉宗に慌てて進言した。
その大元凶は、「女の園」の「大奥制度」であった。
「紀州班グループ」では、前段-5で論じた様に、「頼宣の比丘尼山の制度」が「仕来り」として引き継がれていた事であった。
「紀州班グループ」の指摘で、代々藩主の「女系家族」は、例外なく「還俗制度」を採用していた事であった。
「頼宣の比丘尼山」に習って「還俗制度」を「勘定方」を指導する立場として厳しく指導したのである。
この事を知った「六左衛門グループ」は、紀州と江戸の「大奥」の差が、藩と幕府との「出」の比例的な関係に無い事に気づいた。

「紀州:幕府」は「1:15」の関係にあった。しかし、大奥では「1:120」の関係であった。
当然に、これでは「比例関係」での「質素倹約」での効果は出ない。
(累進性は「比例線」では無く、「放物線」の形で働く。商で培った知識を持っていた「六左衛門」等はハッと気が付いた。
紀州の大奥は、30で、1:15とすると次の様な事に成る。
経済学では、比例30:450に成るに対して、先ずこの450に対して第一段階の累進性が働く。
ところが3500(450)で、本来あるべき数より約8倍である。
この関係から幕府大奥の出費は、累進性が働く為に、より450+累進率量以上の出費を、先ずは抑えなくてはならない。
しかし、更には、この8倍の数であるから、その累進性は放物線であるから比例線からその差は大きく離れて行く。
その8倍であるから「膨大な数字」と成る。
「紀州藩並」に成功させるには、この”「膨大な数字」の出費”に対しては絶対に抑えなくてはならない。
実質、”将軍7代までの全ての「女系家族」”が大奥に存在して貯め込んでいた。
これが元凶として大改革を吉宗に迫った。
吉宗は、「六左衛門の指摘」を猛烈な反対を受けながらも直ちに実行した。
そこで、吉宗は反対派に対して妥協して、1/3の1000人程度まで削減した。
(絶対条件は450以下必要)
しかし、紀州藩は「実質0ベース」である。この差を解決しなければ、「累進性」は解消しない。
そこで、困った「六左衛門グループ」は、「次ぎの手」(下記)を吉宗に提案した。
それは、大奥の「出」の元凶は、正室と男系の子供は別としても、「側室」と「姫娘」にあるとして、次ぎの提案を進言した。

イ 「無役の側室」を家臣などに転嫁する事。
ロ 「役済の側室」は「家」を興して「独立性」を持たせる事。
ハ 「将軍の家」は「別家」を興して「独立性」を持たせる事。
ニ 「役済側室と無役側室」を紀州藩に習って「比丘尼制度」を設ける事。
ホ 「上級武家からの側室」は実家に戻す事。
ヘ 「将軍に成る藩主」の藩は廃藩にして、全て家族も含めて「江戸詰め」にする制度を中止し,そのままに残す制度にして独立性採算制を敷かせた。
ト 「無位無官の側室」の姫娘は「許婚制度」によって家臣に婚姻させる事。

以上を実行したのである。

禁じ手の増税は、この様な累進性の改善で何とかバランスが取れて解決した。
(江戸時代の全ての改革は、この「享保の改革」の「リフレ政策」が見本と成った。
252年中に「8つの飢饉」があった事に依る。単純平均すれば何と1回/32年間の高頻度である。
回復したと思えば”又来た”と云う感覚であった。それだけに「専門的な改革」が必要と成る。
「吉宗」は「育親許」と成った豪商「伊勢紙屋長兵衛」の「六左衛門グループ等」を引き連れて将軍と成った。)
それだけに、これは、「六左衛門グループ」(累進性の失敗)の明らかな「沈痛な失敗」であった。
恐らくは、「宗家葵紋の青木氏」と「本流立葵紋の青木氏」は、その「裏調査と研究」に懸命と成ったと考えられる。
この事から得た知識が、吉宗大御所の専門家ブレーンとして「享保の改革」の「最後の詰め」として実行した。
この事が、江戸252年期間中の改革の中で、唯一成功裏に導いた最大の要因であった。
裏を返せば、、危険を孕みながらも「宗家葵紋の青木氏」と「本流立葵紋の青木氏」を江戸時代に子孫を遺せた最大の要因であった事に成る。

しかし、米相場だけは「吉宗の判断」であった事が、後から発見された「吉宗独自のメモ資料」から判明した。

これで紀州藩との比較の累進性は、改善に向かって「享保の改革」の幕府財政は改善された。

注釈
(公的に書かれている吉宗資料には、「伊勢青木氏の貢献」は出て来ないが、吉宗と関わった伊勢青木氏のものからは上記の事が判明する。)
そもそも、勘定方を指導したとするが、一族を総動員して家臣で無い為に「無償」で改革を進めた。
”世に晒す事ならず、何れ一利無し。”の戒律から、「不記録」を行動規範としているので、徳川氏の資料の中には出て来ない。
「青木氏の中」と「近江佐々木氏」の中にのみ断片的に記載配慮して遺される事に成る。
そもそも、”何故、「近江佐々木氏」がこの情報を青木氏と同じく掴んでいた”のかは「重要な事」でもある。(下記)
その接点があった。

前段-5で、「頼房」の「側室の勝」の出自は、同族大化期の「近江佐々木氏」であって、その「姫娘A」が「本流立葵紋の青木氏」の「発祥母」であった事を論じた。
ここで、繋がっていて同じ事が記録されたと考えられる。
「近江佐々木氏」の始祖「川島皇子」と「伊勢青木氏」の始祖「施基皇子」は兄弟で、共に第6位皇子、第7位皇子として賜姓を同時に受けた「皇族賜姓族」である。
故に、「近江佐々木氏」の資料には「青木氏の事」が多く遺されている。
「近江佐々木氏」の方から筆者の先祖が頂戴した非売品の資料本である。

兎も角も、そもそも、”改革を進める”と云っても、家臣の権限を持ち得ていない。
然すれば、幕臣を先ずは説得しなければ成せられないし、何事も成し得ない。
「吉宗の背景」があるとしても、「直接権力の行使」は反発を招く。
其れこそ、”世に晒す事無かれ、何れ一利無し”を間違いなく招く。
「六左衛門の能力」の「差配の能力の有無」が大いに問われていた筈である。
ところが、事件を招いている記録があった。

実は、「近江佐々木氏の資料」によると、”吉宗に同行したこの「六左衛門に近い人物」の「若い者」が、「享保9年」に、江戸で「小普請の役」の途中で、「不慮の事故」で死亡した。”と云う事が記録されている。
この”「不慮の事故」の記述”は、間違いなく ”反対派の襲撃を受けた”のではないかと筆者は判断している。
説得の為の調査や資料つくり等の事務方の仕事、交易などの準備の実質作業、上層部の説得の為の交際、時には実務の代行をしなくてはならない。
この作業に大変な危険を孕んでいた事がこれで充分に判る。
この「危険」のみならず、この為の「膨大な出費」、「一族の生活費」、「家人の人件費」を捻出するのに、恐らくは、伊勢青木氏の経済力(200万石相当)に「相当な歪」を興していた事が判る。
これは好き好んで出来る事では無い。

この時期の商業記録や遺産文書から観て、その「生き様」が読み取れる。

何故、近江佐々木似の資料にこの記述があるのかは、一つは、青木氏側には外の公に成った事に付いては戒律で記録を遺せない。
しかし、近江佐々木氏にはこの戒律事が無い。故に記録の遺した。
”遺した”と云う事は、一般市民は兎も角も「幕府内」では「有名な事」であった事に成り、「近江佐々木氏」と徳川氏との間に何がしかのパイプがあった事から同族の事件を記載されて記録として遺されたと成る。
では、その「パイプ」とは、”何処にあったのか”と云えば、上記する様に、「江戸詰めの頼房」の「側室の勝の方」(姫娘Aを出した)の「佐々木氏の家臣」から入手した情報である事に成る。
身内の「姫娘Aの嫁ぎ先」の末裔が事件に巻き込まれたのである。

恐らくは、この様な危険に満ちた改革を進める青木氏には徳川氏からの支援は公には当然に無い。
その中で、「宗家葵紋の青木氏」と「「本流立葵紋の青木氏」は、「江戸での人命や経済力」で”江戸での子孫拡大”に大きな影響を与えていた事が理解できる。
上記した様に、「紀州での礼米」(12人扶持)はあったが、「六左衛門」の「江戸での礼米」の「援助記録」が発見できない。
(吉宗は率先して「綿の着物」で通した。)

注釈
その後、「六左衛門」は、この後、”「享保の改革」を始末した後、息子の慶次郎に跡目を引き継いだ”とある。
これは吉宗が将軍を息子に引き継いだが、この「吉宗の世継ぎになった息子」には言葉の言語発言に問題があった。
そこで、大御所として実権を握っていたのだが、この為に、「六左衛門」は隠居したが、息子が引き継いで「大御所の吉宗」を支えたと記されている。
この六左衛門の息子慶次郎も役目を終えて、伊勢の記録では江戸に「末裔」を遺したと記されている。
しかし、「佐々木氏の資料」では、”江戸に子孫を遺して、江戸から離れて伊勢に戻ったと成って居る”と書かれている。
この意味合いが不詳であるので、調査をした。

筆者の調査では、江戸近郊に”笹竜胆家紋とする青木氏”は確認できない。
しかし、後刻、「調停工作の論文」で、調べ直した結果、江戸に残った末裔は、伊勢の記録では、「四日市殿の末裔」の事である事が判った。
つまり、親族の「宗家葵紋の青木氏」と「本流立葵紋の青木氏」とである事が判った。
その内容(江戸の歴史書)では、この末裔には、大御所時代に、引き続き”準家臣的な立場”と観れる扱いで続けて仕えたとある。
「「立葵紋の青木氏」は、「小普請組頭」で、「宗家葵紋の青木氏」は、”「小納戸役頭」として働いた”と記されている。
何れも「礼米300俵」を賜ったと記されている。

この事から、殺されたと観られる若者は、「小普請組」の「宗家葵紋の青木氏」の一族の者である事が判る。
何れも「御家人扱い」の「布衣着用の許し」を特別に引き続き受けていた事も書かれている。
「江戸の青木氏グループ」の組頭は、「布衣着用の高位の身分:将軍に対し発言権を持った大大名格以上」であった。
この事からすると、明らかに反対派の「他藩の大名藩主の命」を受けての「狙撃」であった事が判る。
この様に、危険ながらも「四日市殿末裔」は、江戸に残り子孫繁栄を果たした事が判るのである。
これは六左衛門の「笹竜胆紋の松坂殿」は、「不入不倫の大権」で保護されている事から別にして、「立葵紋の青木氏」と「宗家葵紋の青木氏」にはこの様な危険を孕んでいたのである。
「葵紋文様類」と云う事から来る反発:紀州藩を除く松平一族の反発が宿命であった事が判る。

「狙撃の原因」は、上記した「厳しい経済改革」が原因していたのである。
又、”狙撃される”と云う事は、”「改革」を裏で主導していた事”を物語る証拠でもある。
この改革は、資料には、”幕臣のみならず各藩の家臣までその「影響の余波」として浸透して行った”と記されている。
それだけに、”城に居る葵紋の者”と違い、”市中に自由に姿を現して出て来ている「葵紋系」”には、大きな危険を孕んでいた。

参考
(江戸時代300年はこの「300年周期」にぴったりと入っていた。この300周期の100年期間隔で大きな気候変動が起こるデータと成る。)

注釈
(「比丘尼僧」に付いて、これは梵語で「比」と「丘」を音韻で日本語にした言葉、意味は女子が僧に成る際に、あるいくつかの「戒律」を守らねばならないとした。
その「戒律」は「具足戒」と云うもので、具足=旅の意味 全国を「布施行脚」で生活に困った場合の「売春行為」等を「戒め」として禁じたものである。
日本では、この言葉は室町末期に使われ、「比丘尼」と云う言葉として全国に広まったのは江戸中期頃である。
しかし、「頼宣の比丘尼山」は江戸初期で、そま前からこの山は「比丘尼山」と呼称されていた。
「比丘尼」が使われた頃と一致する。
本来は、純然たる布施に頼る「行脚尼僧」の事である。
しかし、世俗から、江戸中期頃から生活苦から、この「売春戒律」を破る尼僧が出たのである。
そのことから、俗意は、”尼僧の姿をした売春婦”の意味として使われる様になった。
この「行脚尼僧」は、「山寺」にて密かに売春行為をした事から、比(戒)の丘(山)の当字となった。
この事から、この江戸初期の「頼宣の比丘尼山」から、この言葉が江戸中期頃に全国に広まったと観られる。
江戸初期は、未だこの「売春」の意味は無かった為に、「比丘尼山」と名付けられたと観られる。
しかし、その後に、「行脚尼僧」には飢饉から布施行為が無くなり、止む無くこの行為が目立ったために汚名の呼称と成ったと観られる。
故に、この「頼宣の比丘尼山」は布施行為による独立採算の寺でもあった。
その為に安定しない生活苦から売春に走らない様に、これを取り締まる為にも、厳しく下界とを遮断したと観られる。
その為に、わざわざ世話役の「寺元」を作り、「生活の保護」と「食の保護」を「地元の善意」で維持したと観られる。
江戸中期から末期まで、乞食の様に、「食と衣服」などはかなり瀕していたと地元の口伝で伝わる。
江戸中期以降には、「売春」は密かに行われていた事も考えられる。この尼寺は大正末期に無くなった。
この「山寺」は、藤白浜の入り江の突き出た先端の小高い丘の上にあった。
その丘の周囲は鯔場(いな)と云う小さい池程度の山の真水と海水の混じる湖に囲まれている「孤島」の様な地形のところに立っている。)

これも、「紀州藩の質素倹約の厳しい実行の例」である。
これを観ると、紀州藩は徹底していた事が判る。
これに比べて幕府は安易であった事を「六左衛門」は知ったのである。
祖父の尼寺として、吉宗もこの「比丘尼山」は充分に事の重要性を知っていたから、上記の提案に応じたのである。

そこで、「デフレとインフレの現象」が起こる中で、この「二つの経済政策」の間の「安定政策」を採ったのである。
つまり、「リフレ政策」を採ったのである。論理的には正しい。
デフレの方に舵を切れば更にデフレに、インフレの方に舵を切ればよりインフレになるは必定である。
問題は、その「政策の如何」に関わることであった。
そこで考えられたのは、その政策が上記した「前段-4」に論じたものであった。
しかし、この時、当然に激しい反対論が継友らの尾張藩から出た。
「将軍継承問題」の遺恨も重なって、幕臣を巻き込んでの収拾の就かない状況に成りかけていた。
そこで、吉宗は、紀州藩の勘定方を指導している伊勢青木氏に対して、指示をだした。
「吉宗と六左衛門」は、「リフレ政策の実証」を証明する「モデル藩」として、在藩中と同じ様に「改革」を続けて促進する様に督促したのである。

注釈
(伊勢青木氏等は、[総合商社]であった為に外国との交易から、この「気候変動説」を承知していたと観られ、尚且つ、この「リフレ政策」を採ったと観られる。)

そこで、「蝦夷地開拓」を各藩に対して奨励し、又、幕府自身も「新田開発」と「殖産開発」を積極的に行った。
(新田開発では、合わせて、より強化するために「流地禁止令」を採用した。)
「蝦夷地開拓」は、当に「新地」を開墾し、そこに「殖産」を根付ける両方の目的を持った「大プロジェクト」であったのだ。
家康が青木氏等から教えられて「目標」としていた考え方であった。
「新地開墾ー殖産事業」政策であった。
これを「吉宗」が”「幕臣」にせよ”と命じてもその経験とノウハウが無ければ動かないし動けない。
しかし、動いたとする事はその経験とノウハウを吉宗の「裏の背景」にあった事を示す。
又、吉宗もこの裏の背景があるから、自信を持って命じる事が出来る。
そして、吉宗にも、青木氏に商業を鍛えられて紀州藩でも「青木らの裏の背景」と共に「小さい改革」ながらも成功裏に治めていて、他藩から尊敬されていて「裏の背景」に「羨望の念」があった筈である。
大いに自信を以って臨んだと観られる。其れに周囲は圧倒された事が外に出ている資料からも覗える。

それを100年後に「吉宗の紀州藩」が率先して「家康の夢実現」に向けて、「範例外の御三家」では、無理を承知で、既に決まろうとしていた「将軍の座」を巡って果敢に挑戦して行ったのである。
結局は、周囲は、「尾張藩の継友」の考え方よりも「紀州藩の吉宗」が実現させようとする「祖神」や「神君」と崇められる「家康の夢実現」の方に突然に傾いたのである。

この「家康の夢実現」の為には、これを確実にする為に、経済学上は、吉宗等は「経済の流通の基幹」となる「3つの安定化策」(物価と米価と貨価=三価政策)を実行しなければならなかった。

この「3つの安定化策=3価政策」に対して尾張藩の継友は、将軍に成れなかった腹いせのことも含めて、猛反対して余りの口惜しさの捌け口として、藩主として「媚態行動」を取り、批判を受け信用を無くしたのである。
更には、「尾張藩の景気」は、「国政」でのレベルでは無く、「藩政」の範囲として跳ね除けられ、且つ、「紀州藩の改革実証」(青木氏指導)で、その論調の裏付けを失い、終局は立場を失って結局は蟄居となった。

この様に「将軍擁立」にも個人資料の「積み重ね説」として、記録の裏側では ”「青木氏の活躍」” があったのである。
この事から観ると、「青木氏の子孫力」は伊勢の一族一門の総力で、「一氏」が幕政を動かしている力を持つ「子孫力」であった。

・「瀬戸内族と讃岐青木氏」
瀬戸内族の「江戸初期の外回り廻船の開設」は1600年前後に家康の命に似て行われた事でもあり、その「技術の優秀さ」から「明治初期後の海軍の操船技術採用」があった事は有名で、「瀬戸内族」が全国に定住移動して、この「瀬戸内族の操船技術」も全国に普及された事を意味し、その「瀬戸内族の優秀さ」も認められていた事を明確に物語るものである。

「家康」も「瀬戸内族の優秀さ」は、「伊勢青木氏等」からも紹介されて承知していた筈で、且つ、歴史書にも「純友の乱」の事でも認知していた筈である。
それ故に、全国から「瀬戸内族の廻船技術」のみならず、それと連動した「瀬戸内の海産物の殖産技術」とその「商法・販売方法の優秀さ」の「総合力」が有名を馳せて認められていたのである。
むしろ、筆者は、関ヶ原から付き合いの中で、「伊勢青木氏ー瀬戸内族の関係」の「総合的な仕事」ぶりを観て知って、「家康」はこれを見本としたと観ている。
上記した、紀州藩が主張する”「殖産政策と新田開発」の連動策”には、この「家康の見識」を通じて優秀な頼宣から紀州藩に引き継がれて行ったのである。
故に、家康から一番に信頼されていた優秀な「10男の頼宣」を以てして「紀州藩主」にしたと考えられる。「頼宣」しか「家康の意志」を「示現できる人物」はないと考えた事に成る。

上記の「吉宗将軍擁立」には、簡単に将軍に成ったのではなく、この「瀬戸内族の事」は幕臣にも周知されていて、それだけに「紀州藩らの説得」は効力を発揮させていた。
「吉宗」には、「各地の青木氏や瀬戸内族」の「大きな後ろ盾」があることは「事前の周知」として受け取られていて、それだけに周囲は警戒してみまもつたのである。
政治とは、「表の姿」では無く、「裏の姿」を観る事が必要なので、「真の姿」が観えて来る。
「心ある者」は、この「裏の姿」を観て事に構える。
だから、「蝦夷地開墾・開拓」では、”いの一番”に特典を以てしても積極的に迎え入れられたし、幕府も継続してこれを政策として用いたものである。
「飢饉の時」も特別を以て救い、両青木氏らの天保期の「10万石問題」(上記)も幕府のみならず民間に於いてでさえ不問であったのである。
しかし、”青木氏に対する暴動”は一度も無かったどころか、この「青木氏一連の行動」も逆に賛同されていた。
これらは、この”「蝦夷地に関する一連の行動」”のみならず、”「青木氏の根本的な生き様」に賛同を得ていたのではないか”と考えられ、それが「青木氏の子孫力」に大きく影響を与えていたと考えられる。

・「青木氏の援助」
その証拠としてこの事を物語る次ぎの記録が残されている。
幕末の「天保大飢饉(1833-1839年)」の時、伊勢の「二つの青木氏」は、”私財を投入して中部地域一帯の飢えを救った”と記録されている。
この時、長く続いた飢饉であった事もあり、各地で不満を幕府に向けられ「一揆動乱」が起こった。
しかし、この時、「信濃青木氏」と共に「一揆動乱の経済的支援」(領民側に)をした事が記録されている。
これは幕府から観れば、これは明らかに動乱の「扇動行為」であり、「お家取潰し等の重罰」を受ける筈であるが無かった。
この時、幕府はこの中部地域一帯で起こった「一揆動乱」は、「長期間の飢饉」が原因であり、むしろ、その「飢饉の飢えを凌ぐ援助行為」として観た。
この様に観る行為には、それまでの上記した様に、「過去の青木氏の生き様に対する信用」があったからである。
まかり間違えば「援助」であっても、「出方次第」では、又、「過去の行為」の如何では、”流れに抗する事が出来ない事”から潰されていた可能性は充分にあった。
これが、当に ”積み重ねて来た「伝統のある子孫力」「目に見えない子孫力」”なのである。
このすごい生命力のある「子孫力」は得ようとしても簡単に得られるものでは無い。

(明治初期から9年まで起こった動乱にも同じ援助行為があった事が記録されている。)

上記した様に、江戸初期のから享保年代までの100年の間に起こった「5つの大飢饉」(中小飢饉も含めて8飢饉)でも同じ事が云えた筈である。

(江戸時代の飢饉 この「5大飢饉」を含み記録されているものでは8つの大小の飢饉があり、約32年毎に1回起こっている。)

話をもどす。
上記の「瀬戸内族等の蝦夷地開拓に関わる変遷の論証」は、出来たと考える。
そこで、江戸期まで云われていた ”瀬戸内を制する者は国を制する” の言葉の通り、上記した様に「瀬戸内族」は平安期でもそうであった。
しかし、この様に「伊勢青木氏・信濃青木氏」と共に、「瀬戸内族の生き様」、即ち「瀬戸内族の子孫力」は、「幕府内に浸透した秀郷一門の横の関係力」と連携している。
江戸期でも矢張り特別に重視されていたのである。
そして、上記した様にその子孫力は「幕政改革」にも利用されたのである。

従って、「瀬戸内族」の地元の「香川1」と「岡山0」の「子孫力のパラメータ」は、この様な「背景の経緯」にあった為に、”一族存亡に成るほどに注ぎ込んだ”のである。
依って、その後の地元での「子孫力」や「子孫拡大力」には、当然に支障を来した事を物語るのである。
しかし、その分、この「子孫力」で「江戸期ー明治期」までで、最低でも北海道の7/11にシフトしている事に成ったのである。
衰退していたのでは決して無いのである。
普通なら、上記した様な ”波乱に満ちた世の中の荒波”に洗われて、一族を注ぎ込んだが諸共に消えて仕舞う憂き目を受けている。
しかし、これもこの「現世の条理」であり、普通である。


> ・> 青木氏の分布と子孫力
> >
> [地域別分布力]
> > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > 地域      異変の県        分布力
> > 九州地方   長崎、大分       5%
> > 四国地方   高知           2.5% 
> > 中国地方   山口、岡山       2.5%
> > 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
> > 東北地方   秋田           7%
> > 中部地方                 15%
> > 関東地方                 45%
> > 北海道・沖縄               6%
> > その他                   3%
> >
> > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> > 九州地方  1.3
> > 四国地方  1.3
> > 中国地方  1.3
> > 関西地方  4.7
> > 中部地方  4.3
> > 関東地方  11.3
> > 東北地方  2.0
> > その他   11.0
> >
> > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
> >
> > 修正地域(表ー3)
> > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1-7 三重 12 福井 4 愛知 13-7 秋田 1
> >
> > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> > 福岡   2   山口  0   愛媛  3     兵庫  3    三重  1
> > 長崎  0   島根  2   香川  1     大阪  14   石川  2
> > 佐賀  1   広島  3   高知  0     京都  5    福井  1
> > 大分  0    岡山  0   徳島  1     奈良  1    岐阜  3
> > 熊本  4                      和歌山 4     愛知  13   
> > 宮崎  2                      滋賀  1    長野  9
> > 鹿児島 1                               山梨  1
> >
> > 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
>
> > 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
> > 静岡  5    青森  1      沖縄  1
> > 神奈川 21   山形  2      北海道 11
> > 東京  18    岩手  1
> > 埼玉  17    新潟  4
> > 群馬  6    秋田  0
> > 千葉  11   福島  4
> > 茨木  4    宮城  2
> > 栃木  8                                     
>
> > 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  


> 青木氏の分布と子孫力-7に続く。



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青木氏の分布と子孫力-5

[No.309] Re:青木氏の分布と子孫力-5
投稿者:takao 投稿日:2014/04/13(Sun) 09:55:30


青木氏の分布と子孫力-4末尾

>
> 同じ時期に、上記した様な経緯から、「家康の家臣」と成った「秀郷一門」は、当然に「伊勢秀郷流青木氏」に圧力を掛けて来る筈である。
> 同じく家康も圧力をかけた筈で、受け入れなければ、上記の経緯から「秀郷一門」も立場は無い。
> しかし「賜姓族」にはかけられないし掛けてもかからない。
> 間違いなく、”女系で「秀郷流青木氏」が圧力を受けた”と考えられる。
> 中でも、”より都合のよい「血縁の形」”は、「融合族」の「四日市殿の家」ではないかと観ている。
> それは、何より「長者の要件」に近づくからだ。しかし、徳川氏がこの「融合族」を指定して臨んだかは疑問である。
> 家康に「融合族」の認識感覚は無かったのではないだろうか。
> 要するに「融合族」は「秀郷流伊勢青木氏」が「受ける側」としての判断材料である筈だ。
> 一族的な形で観れば、「融合族」は、「皇族賜姓族」をも巻き込んだ総合的な無理のない血縁策に成る。
> 家康がこれを知ったとしてもより「賜姓族」により近づく”文句のない血縁策”と受け取ると考えられる。
> 兎も角も、「秀郷流伊勢青木氏」は、まず「女系」で受けて、その子供に「徳川氏」のどこかに入れて継がせる等の事をすれ良い筈である。
> そうすれば、「故事の賜姓族」としての”「象徴と笹竜胆紋と密教浄土宗」”は完全に継承出来るし、”「長者と正二位」”も継承して獲得できる。
> 結局、結果としては、故事の”長者”は可能に成り、「朝廷と天皇」が拒む理由は無くなる。
> そう成ると、これに要する期間としても3年は絶対に必要である。
> 「説得のそのものの時間」と云うよりは、その為の「準備時間」が必要である。
> むしろ、1年とかでは疑う。最低でも3年と成ろう。
> これが「3年の意味」である。

>
青木氏の分布と子孫力-5


・「家紋分析から考察」
そこで、「秀郷流伊勢青木氏」に系譜関係で掴めないとすれば、「家紋分析」と「神明社関係」で調べ上げた。
ところが「社会性を多く持った家紋」では非常に確率が少ない。
どの様な「家紋」がこの要件を成し得るのか。先ず考えられる家紋は次ぎの様に成るだろう。
徳川氏の「三つ葉葵紋」とその「系列の家紋」に絞り込んだ。これだけでも大変な作業で難解であった。
結局は、この「系列の葵紋」は、全部で85文様ある。
そもそも、徳川氏は「三つ葉葵」を家紋とした時から、許可なく「三つ葉葵系の紋」の使用を禁じた。
室町期中ほどからこの家紋類を使い始め、1590年代に一切等類似家紋も含めて全てを禁じていて罰則を科している。
「徳川氏の威光」を感じさせる様に、「類似家紋」を使った者や縁者やその他の家紋を持とうとする「姓族」に対して、この「葵文様類」を使用すると刑罰を与えて変更を命じている厳しさで禁じている。
其れでも85文様の類似紋が出来上がってしまった。
先ず、この事は「徳川氏の威光」を利用しようとしていたかが良く判る。
そこで、次ぎはより「徳川家宗家」に近い家紋類を選び出してみたが、この「調停工作」に文句の出ない家紋類は11/85と成った。

そもそも、この葵紋の文様には謂れがあって、「京都賀茂神社」の神門として扱われていた。
その神紋と成った経緯は、この文様が家紋神社系の神事の時に使用する神具で、一種の神木ならず神草の様な位置づけで用いられていた。
ところが、これを京都丹波地方の賀茂神社の氏子であった者が、立身出世して、この葵文様を家紋として用いた。
これが丹波西田氏が最初であった。その後、戦国時代に成って、三河に勃興した松平氏、本多氏がこの「賀茂神社」の神事神具に肖って、家紋とした。
これは、本多氏や松平氏等のその最初の元出自は、「賀茂神社系の「神官」か氏子」であったとされる。

先ず、葵紋の「徳川三つ葉葵」としては次ぎの関係する文様がある。
A 「丸に三つ葵系7紋」と
B 「立葵紋系」には2紋、
C 「丸に立葵紋系」には5紋
以上が先ず選択され得る。

更に対象とされるものを厳選して行くと次の様に検証される

「丸に立葵系5紋」は本多氏等の「賀茂神社」の「神官職系」の文様類の3紋
以上は対象外として外す事が出来る。

a 徳川葵紋系の「丸に三つ葵系7紋」などは、「賀茂神社氏子系」の文様類として対象と成る。
b 徳川宗家が独自に特別に禁令対象に指定した本来神事、神具の「立葵紋2紋」が対象と成る。

合わせて、徳川氏が特に厳罰を科して禁令を発した葵紋としての内の11文様が重要紋として扱われた事に成る。
これらが「調停工作」に用いられる可能性があったものであろう。

この「11の葵系の家紋類」が一族の中に無いかである。これも大変な根気の居る作業であった。
在れば、生まれた子供の中で「母方の家の徳川氏」を最終の要領として継がさせている筈である。
或は、直接、「三つ葉葵紋」を使う「父方の青木家」を興している事に成る。
この「二つの血縁組」が考えられこれを許可する筈である。

「徳川氏」は、「葵家紋の使用」は、身内でも「特別許可制」で対処した。
「特別許可」では、「女系の嫁ぎ先」でも使う事を許可したが、多くは限定して1年使用で終らしているし、使用の規則までも定められていた。
徳川氏と血縁した家臣では、当時の中では許可したのはただ1氏で、側近中の側近本田氏(本多氏)である。
それと、家臣ではないが、直轄領とした信濃国の「信濃善光寺」だけが「永代で使用」が可能として許されている。
この二つを検証すれば何かが観えて来る筈である。
先ず「本田氏」の件は、徳川氏に憚ってこの家紋に「丸付き紋」として使用したので、これも合わせて「丸付き紋の使用」をも禁じている。
つまり、葵家紋類を一切禁じたのである。

当然に、「丸付き紋」は皇族系は、戒律によって「同族血縁一統」としている為に一切慣例に従って使用していない。
この事から、「丸付の立葵紋」は、原則として「支流紋」として扱われる為に、「調停工作」の例外として扱われる筈である。
そうすると、「徳川葵紋系の7紋」の内で、御三家と水戸と分家の「三つ葵紋」は「調停工作」後の「後の事(始末要領)」として除外できる。
つまり、分家の家紋類を「調停工作」の対象家としては提案する事は無い事に成る。
そうすると、要するに、三つ葉の「立葵紋2紋」の内、「花立葵」は本流外文様である事から除外出来る。
従って、宗家紋の三つ葉の「徳川葵紋」と本流の「宗家の独自禁令紋」とした「立葵紋」の1紋が「調停工作の文様」として扱われる事に成る。

実は、これには重要な経緯がある。それは、二つ目の善光寺の神紋である。これを検証すれば何か観える。
そもそも、「信濃善光寺」は、住職が「本田善光」なる者が、室町末期に住職と成り、家康の一の家臣の本田氏はその神官職の支流末裔であった。
この事から、この家紋は「特別許可」を家康から得たが、使用するには本田氏(本多氏)の支流である為に「丸付き紋」とした経緯を持っている。
故に、”善光寺”の呼称の経緯となったのである。
徳川氏は「宗家と御三家」は「、三つ葉葵紋」の「葉芯数33」を使用し、特別の一族には「三つ葉立葵紋」の使用を特別に認める態勢を採った。
(「特別の理由」には意味がある。 下記)

この「宗家と御三家」の三つ葉葵の葉の芯は33本で限定し、区別し、系列の松平氏等には厳格に対処した。
この「宗家と御三家」が使う「葵紋の使用」は類似家紋も含めて一切禁じた。
そこで、本家筋に限定許可した関係する「立葵紋」は9種あり、この「主流紋」では、徳川氏により使用を固く禁じられている。
この「本流の立葵紋類」は「7文様」/9種である。
内3つが「主流紋」で、更に、内1つが「本流特別紋」として扱っていたのである。
「宗家と御三家」の「三つ葉葵紋」ではない本流しか使えないこの「7文様の立葵紋」の中では、最も限定されていたのは「立葵紋」の「主流の本流紋」である。
この家紋は、松平氏でも徳川氏でも使用禁止された「権威ある家紋」として扱われたのである。
この「本流立葵紋」の位置づけは、徳川氏の一種の「最高級権威紋」(ステイタス紋)としてのものであった。
これを使用許可を受けたのは徳川氏系の資料から観ると、たった一つ「信濃善光寺」と成っているのである。

・「信濃善光寺」の持つ意味
従って、この「信濃善光寺」の経緯の中に解決する答えがあると観て調べた。
さて、その前に、その「最高級権威紋」を受けた「信濃善光寺」とは一体”どの様な寺”なのかである。
「悠久の歴史」(644年創建)を持つ寺で、古来より「天皇家の皇子」が成る「還俗僧」が、先ず「比叡山門跡院」に入る。
その後、「門跡寺院」から下山したその皇族出自の「門跡僧」が、代々「善光寺の住職」を務める「一種の門跡寺院」の形を持っている「権威ある寺」である。
又、「密教浄土宗寺」の「皇族系の僧侶」や「皇族系の者」が下族して僧に成った寺でもあった。
最終、従って、「天台宗の僧侶」や「浄土宗の僧侶」が集まる寺と成った事から、「無宗派の寺」の位置づけと成り、寺には天台宗の25坊、浄土宗の14坊から成り立っている。
ところが戦乱期から室町末期までは、「無宗派」であった為に、この権威を使って、信長に利用されて岐阜に、秀吉に利用されて京都に、「本尊」を移されて「権威付け」に勝手に利用された寺でもあった。
その為に「本尊」を無くした寺として極めて衰退した。丁度、天皇家が家康に圧力を掛けられて瀕したと同じ様な経緯を経ていた。
何れも「皇族方の衰退」の形であった。
そこで、更に調べて観ると、「家康」も例外では全く同じ手を使った。
「家康」もこの「本尊」を尾張に移して何とか「権威付け」をしようとした。しかし、思惑通りには行かなくなった。
ところが、「天領地の信濃と甲斐」が「徳川氏の直轄地」に成った事(仕組んだ)から、「1599年-1601年」に家康は、元の「信濃善光寺」にこの「本尊」を戻して荒れた寺院を逆に修復した。
そして、この寺に、徳川氏の「特別権威紋」の「本流立葵紋」を贈り「寺紋」と決めたのである。
信濃が直轄地と成った事を理由に、「徳川氏の寺」(宗家の菩提寺)であるかの様に印象付けたのである。
その「徳川氏の寺」として、”印象付ける為の象徴”として「本流立葵紋」を「寺紋」として決めて。他の関連寺を含めて一切この家紋の使用を禁じたのである。
そもそも、「徳川氏の葵紋」を、大化期から存在するこの寺に”「寺紋」”と決め付ける訳には、社会の反発を招く事に成るので、無理であり、そこで「家康」は、特別に「三つ葉葵紋」の基紋と成った「三つ葉立葵紋」を「権威紋」としたのである。
それを「寺紋」として「徳川氏の寺の印象」を与え、且つ、「社会の反発」を防いだのである
この為に社会から「信濃善光寺」は「徳川氏の寺」と目され、特別に「最高権威紋」の「立葵紋の使用」を永代に許された。
正式な「門跡寺院」ではないが「皇族系僧の寺」として、代々その住職が変わる度に、「天台宗」や「浄土宗」の勢力が変わる等した。
又、無宗派でありながら「密教系の寺」になる等の「大変遷の経緯」を持っていた。
「女人禁制」となる「密教系の門跡寺院」と謳われながらも、「尼寺」に成った事も一時あったくらいである。

・「徳川氏の本流立葵紋」
さて、この特別家紋扱いにしている「徳川氏の本流立葵紋」が、「皇族系の門跡寺院の僧侶」が集まる寺である事が重要なポイントである。
だから、この家紋が同じ「皇族賜姓族の青木氏」か「特別賜姓族伊勢青木氏」にも、「調停工作」の一環として、与えている可能性があると考えて虱潰しに調べた。
合計140氏の家紋となった。何と奇遇とも云えるほどに、たった1氏にあった。
その1氏がこの「最高級権威紋の本流立葵紋」を持っている「秀郷流伊勢青木氏一族」の中にあったのである。
他の10の立葵の家紋類は無かった。

本来では、この血縁は「氏家制度の社会慣習」では家柄身分からして通常ではあり得ないし、つり合いの採れる同族血縁を主体としている戒律の中で、この時期では本来は無い。
しかし、特別の何かがあったから、この「最高級本流立葵紋」が「秀郷流伊勢青木氏」の一族の中に家紋と成っているのである。
非常に「厳しい禁令」の中で、「罰則」まで設けられて、変更を命じられて従わない場合は潰されるか「罰則」で厳しい制裁を受けた筈である。
しかし、調べても「権力の強くなった徳川氏」から、「秀郷流伊勢青木氏」にはこの時期に全く受けた形跡が無く何も受けていない。
「秀郷流青木氏」は、「特別賜姓族の立場」にあり、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」とは母方を同じルーツを持ち同族血縁している一族で「融合族」も持っている。
「信濃善光寺の門跡僧族」とは「皇族系」では同じ家柄である。この点では共通している。
ところがもう一つ共通点があった。
それは、家康が「信濃善光寺」の「徳川氏の寺」とした時と、上記する”「故事の長者問題」”とは全く同じ時期である。
「時期」と云うよりは当に「時」である。
”殆ど同じ時”に、この「立葵の本流家紋」を、「信濃善光寺」と「秀郷流伊勢青木氏」に使用を許可している事に成る。

この両者は、何れも共通する事は、「皇族方」にあり、それも最高の「悠久の皇子の位階」を持っている事も共通点である。
つまり、この事から、この「立葵紋の主流本流紋の同紋」は、徳川氏の中でも、”「皇族賜姓族」並みの血筋を有する一族” のみだけに与えられる特別の”「最高級権威紋」”であった事に成る。
この立場に無いものには向後に絶対に与えていない家紋である。
「時」が一致する共通点では、この事でも、「2つの本流立葵紋」が「調停工作」に合わせて行った事であることに成る。
つまり、名目ともに実質の徳川氏の特別の”権威紋である事”を印象付けた事が判る。

善光寺の「皇族方の門跡僧」を徳川氏が合わせて保護する事で「調停工作」を有利に運ぶ事も目論んだのだ。

注釈
(「徳川氏の記録」には、同時期にありながら、この善光寺にだけ記録されている事に付いては、「藤原秀郷流伊勢青木氏」への「本流立葵紋」の件には意味があった。
そもそも、青木氏側にとっては、”記録として残す事”は、「調停工作」をあからさまにしてしまう事に成る。
その結果、「権威の低下」を招くので得策では無い。
特に青木氏側には、”世に晒す事なかれ、何れ一利無し。”の戒律があって、その点でも、徳川氏に注文を付けた。)

注釈
(”晒す事”のみならず、秀郷流の”憚る事”では、徳川氏が最高権力者と云えども ”謙る事は無い 何だかんだと騒ぐな 常であれ”と戒めている。
この事からすると、「晒す」も、「憚る」も両方の立場からも、この「調停工作」には全てが「裏の行為」でそもそも臨んだのである。
そもそも、伊勢の両青木氏は、古来からの絶対的な「先祖の戒律」をこの件で自ら破る事はしない。
そこで、”不記録扱い”として、 ”実質の「本流立葵紋」の発祥を示現させる事” だけで、 ”青木氏の「故事の長者」の社会に対する誇示” は充分であると考えたのである。
ところが、発祥は認められるが、伊勢にも記録一切がないのである。本来であればあるのに無いのはこの戒律に従った事を意味する。

ただ、柵の少ない「本流立葵紋の青木氏」か「宗家葵紋の青木氏」の千葉ー茨木の家には、何れかの末裔が”何がしかの記録に類するもの”を遺している可能性もある。
しかし、現段階では筆者側には未だ検証できる段階に至っていない。)

つまり、「徳川氏の最高級権威紋」の「本流立葵紋」を家紋とした「秀郷流伊勢青木氏」には、次の様な事が起こった事になるのである。

”「朝廷と天皇」に対する「調停工作」(青木氏の故事に依る”長者の権威獲得”)の為に、「青木氏との血縁の繋がり」を構築する事を青木氏と徳川氏は目論んだ。
それには、次ぎの「3つの要領」(家興要領)の事を実行しなくては成らなかった。

1 徳川氏宗家と伊勢秀郷流青木氏(四日市殿)との「本流立葵紋(特別権威紋)」での「血縁関係の構築」
2 1の末裔の一人を「本流立葵紋」の秀郷流青木氏(四日市殿)」を発祥させる。
3 1の末裔の一人を「伊勢秀郷流青木氏(四日市殿)」の「全ステイタス」を持たせた徳川氏を徳川氏の中に発祥させる。
4 3の要領の代わりに、1の末裔の一人を「宗家葵紋の青木氏」を発祥させる。

但し、3は「女系側の徳川氏」と成る事で徳川氏は受けにくいし、「格式の差違」から青木氏側は慣例に従えば受け難い。
しかし、3は絶対に行わなくては、故事に習った ”徳川氏の長者” は1だけでは「女系の形」に成るので不充分と成る。
その為に、「紀州藩主初代頼宣」にこの「3のステイタス」を与えて、一代限りの「笹竜胆紋の徳川氏」を継承させる。
この補足として、4を発祥させる事で、徳川氏との血縁関係を青木氏との間で構築することが必要であった。

これが、下位の位階と格式にある徳川氏にと取っては、「真人族か朝臣族」の「上位の格式の氏」を名実共に構築する手段であった。
「青木氏の資料」によると、これは、古くは鎌倉期から行われていて「3つ要領」(”「家興要領」”と呼ばれていたのである。

一般には”「名義札制度」”と呼ばれ、豪農や豪商が「郷氏の名義」を金銭対価をベースに上記要領で行われていた。
特に江戸期には、家柄を重んじる社会であった為に、頻繁に行われた。
中には、「郷氏」のみならず、下級武士が上級武士の断絶した家を金を貯めて、「金銭対価ベース」でこの制度を使って出世を試みた。

参考 
平安期中期頃にも、この事例が青木氏にもある。(江戸期まで4件起こっている)
これが「青木氏の資料」とした「戒め」として遺した理由である。
”世に晒した結果”で起こった不祥事と判断されたのである。(4件ともに戦いまで起こした。)
「近江青木氏」が滋賀に移動した後に再び近江に戻る際に、この現象が起こった。
現地に残った分家断絶の家を、この方法で強引に、上田郷の「上山氏」が「青木の家」を近江で興した経緯がある。
これを、近江青木氏の許可を得ずに、朝廷に届けて認可されたのである。
(家興要領としては成り立つので認可 上山氏に依る裏工作があった。)
その結果、この「上山氏の青木氏」は高い能力を発揮して信頼されて出世して10の守護職代を務めた。
後に「近江青木氏本家」と争いとなった。 遂にはその優秀な才能で子孫を広げ「滋賀青木氏の祖」となったのである。
(「近江青木氏」は戒律的に弱いところが歴史的にある。この後、源氏に合力して滅亡し、「摂津青木氏」に成る。)

先ず、それには ”徳川氏一族から 「何らかの姫娘」(下記) を「秀郷流伊勢青木氏」に入れて血縁した。”と云う事に成る。
そして、”生まれたその子供の一人にこの「徳川氏最高級権威紋」の家を興して継がせた。”と成る。
これで、先ず、「秀郷流青木氏」と「徳川氏」は「親族」と成った事に成る。
これで同時に、最低でも、「調停工作」での「朝廷と天皇」が求める要件を叶えられる事に成る。

更に、この「主流本流立葵紋」を持つ「秀郷流伊勢青木氏」の住んでいる地域は「伊勢四日市付近」に一番多い事にある。
家紋分析から、関東千葉ー茨木付近の結城域と茨木の水戸域にも、この家紋の「秀郷流青木氏」が少ないが移動定住して現存している。

(筆者は、この「本流立葵紋の青木氏」を存じ上げている。「青木氏の出自の条件」に全く問題はない。)

この「本流立葵紋の青木氏」の伊勢から関東千葉ー茨木地域に移動定住した「時期と理由」が何時であるかは、下記の状況であるが「子孫拡大」に伴って移動している。
恐らくは、参勤交代等の移動の機会とそれに伴う血縁機会が起こした定住根拠と成る。

注釈
(上記の”何らかの姫娘”はこの地域(千葉ー茨木)の徳川氏から来ているのではないかと推測する。下記
その人物などの経緯は判明しない。しかし、これも「青木氏の戒律」 ”世に晒す事なかれ・・”に依って、上記の徳川氏の「立葵紋の不記録」と共に「不記録」とした。)

・「江戸定住の時期と理由」
筆者は、この「時期と理由」として、次ぎの様に考えている。
吉宗が将軍となって江戸に赴くが、この時に「伊勢青木氏」と同じく吉宗に従って同行したと観ている。
「伊勢青木氏」は上記した様に「青木六左衛門」が勘定方指導として「享保改革」を主導した。
”この時に「六左衛門」に従って「四日市殿一族」として同行した”と観ている。
「六左衛門」の配下で「享保の改革」に同族として助力したと観られる。
「松阪殿の六左衛門」の末裔も江戸で子孫拡大しているが、この「四日市殿の末裔」も定住し子孫拡大したと観られる。

吉宗は将軍に成るに従って、先ず20人程度の家臣で江戸城に臨んだ。(同行の青木氏らの別班は含まず。別班と記載)
しかし、改革が進むにつれて、一気に尾張藩などで構成されていた旧幕臣を排除し、幕僚の6割も紀州から呼び寄せた家臣で改革を実行したと記録されている事からまず間違いはない。
徳川氏の慣例を観てみると、将軍を出した班は「廃藩」する事に成っていたが吉宗はこれを廃止した。
何故、廃止したかは幾つかの自由が事由があるが、吉宗は「経済改革」を主体とした為に、紀州藩は勘定方などの事務方の多くの幕臣は江戸に出向した。
この為に、伊勢青木氏は、六左衛門等を江戸に向かわせると共に、一族を駆使して、紀州藩の勘定方を補佐した。
この事に一つの大きな下記の理由があった。

吉宗経済改革(前段-4で記述)に対して尾張の継友等は猛反対をしていた。そこで、吉宗経済改革の手法が間違いない事を立証する為に、この小モデルを紀州藩に置いた。
この紀州藩の勘定方を伊勢青木氏が担当して、幕府の「六左衛門グループ」と「紀州藩の実家松阪グループ」が改革を進める事に成った。
紀州藩の「実家松阪グループ」は、蝦夷交易等の為に交易船を充実させて懸命の改革の取り組みで藩財政が改善して成功した。
この事で尾張藩の継友は攻撃をする根拠を失った。そこで、吉宗は一挙にその経験をした各役方を呼び寄せて、このチャンスを利用して尾張の幕臣と入れ替えたのである。
これが、元々からの「吉宗の戦略」であった。大きな実権を握ったのである。
ところが、「享保の大飢饉」が起こった。その為に、「五公五民の増税」を実行せざるを得なくなった。
これが悪評を生んだが、「享保の改革」のリフレ効果で非常事態に成らずに何とか乗り切ったのである。
紀州藩は、質素倹約と交易に依る新改革が効果を発揮して改善に向かったのである。
紀州藩では、「財政改革」を軌道させる為に「農業改革」と「漁業改革」も並行させて、”「殖産事業」”を興し、これを「交易事業」と伴わせて効果を発揮させた。
これは当に伊勢青木氏の経済手法であった。この改革の為に「水利事業」を整備した。紀州では”有名な語り草”に成って居る。
この伊勢青木氏等の後押しによる交易船を使った交易事業の手法は効果を発揮し幕末まで続いた。

注釈
この事を物語るその交易船で有名なある事件が幕末にあった。
坂本龍馬の船と紀州藩の交易船の衝突である。
紀州藩の操舵ミスが原因で坂本龍馬の船は沈んだ。
藩財政が良く直ぐに賠償した事が記録に残っている。
ここにも、「青木氏の貢献」が裏であった。

幕府の「六左衛門グループ」と、紀州藩の「実家松阪グループ」と、「伊勢紙屋グループ」の3班に分かれての態勢であった事が記録から読み取れる。
結局、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「讃岐青木氏」と「一部摂津青木氏等」を動員しての「交易船班」と、「商い班」の総動員であった事が商業記録から読み取れる。
松阪殿、名張殿、員弁殿、桑名殿、四日市殿、永嶋殿(秀郷流)の一族総動員であった模様である。
この時は、既に、「総合商社」であった様で、交易船大船の数、讃岐青木氏の廻船大船(交易もした)の数を合わせて大船団であった。
これをフル活用して吉宗を懸命に支えたのである。
尾張藩継友は三井が背景に、吉宗の幕府は伊勢青木氏等を背景に展開された政治的な意味合いの強い「商業戦争」でもあった。
この商業記録から観た紀州側の事情から考察しても、頼宣の時代からの「家臣説」はあり得ないのである。

何より証拠に、「12人扶持の礼米」がこれを証明する。
伊勢青木氏の200万石の経済力と信濃青木氏と讃岐青木氏の持つ経済力を合わせれば、「12人扶持の礼米」は明らかに「礼米」である。
家臣であればこの程度の小礼禄米では済まない。家臣説は完全に消える。



話を戻して。
この「本流立葵紋」での「調停工作」の血縁関係から、子孫を得たのに1600年代の3年経ていて、享保までの約100年間を経過している。
そうすると、3代目か4代目が移動定住している事に成る。

「頼宣」が「謀反の嫌疑」を掛けられて、江戸に10年間居た時に紀州から同行した頼宣の近習家臣と成った「伊勢の立葵紋の青木氏」の者が子孫を遺した事も考えられる。
それには、この「立葵紋の伊勢秀郷流青木氏」の「融合族の者」の2代目か3代目の末裔が「頼宣の直参近習家臣」と成って、同行して、江戸で子孫を遺したと考える事も出来るが証拠はない。
この場合は10年後に、二度と江戸に来る事がないとして、留守居を残して一切紀州に引き上げている。
(紀州から”古参のご意見番”として睨みを効かした事が記録されている)

注釈
(徳川氏としては「本流立葵紋」は「最高級権威紋」である事から、賜姓族や皇族方でなくては使えない事に成った。
「本流立葵紋系の徳川氏」(本流立葵紋の青木氏)は、”身分家柄を合法的に変える方式”としても、向後に本来は発祥しない事に成った。

先ず、発祥させるには、頼宣自身が葵紋と立葵紋の二つの出自を一代限りで持つ事に成る。
依って「立葵紋の徳川氏の末裔」は、「宗家の特別権威紋」として善光寺を遺して維持しなければならない「調停工作の約束」である以上は、起こらない事に成る。)

(実は、筆者はこの「本流立葵紋の末裔」と観られる方を関東で存じ上げている。本サイト運営に最大に御尽力されている。この方のルーツ探究が研究のヒントとなった。
恐らくは、この方は江戸定住族の末裔と成る。)

従って、この場合は、「秀郷流伊勢青木氏」(四日市殿系列青木氏)であった事に成る。
その後、「頼宣」は紀州に居て、紀州藩主の2代目が江戸に向かっているので、「立葵紋の秀郷流伊勢青木氏の者」の本体は伊勢に戻っている筈である。
依って、「頼宣家臣説」の可能性では考え難く低い。
ただ、紀州藩に対して、上記した様に、親密な付き合いがあって、家臣の身分ではないが、勘定方の指導役と紀州藩の交易船の創設に尽力し、指導するなどの事を実行している。
当然に、以上の事では、「伊勢の青木氏」から「多くの人」を送り込んでいた事は事実である。
しかし、家臣でない者が頼宣と共に江戸に同行する事は考え難い。
そもそも、何かの理由が無い限りは、将軍と同じ葵家紋の紋付を着て、将軍より権威のある徳川氏の特別権威紋の立葵紋を付けた紋付を着た者が周囲でうろうろされては家臣はたまらない。
兎も角も、頼宣も周囲に於いて立場上で困るだろうし、依って、「頼宣家臣説」と「同行説」はない。
これは、上記する様に、”青木氏の晒すと憚るの戒律” からしても ”「頼宣の周りに蔓延る事”に成る事からも、戒律に反する。
100%ないとされ、従って「青木側の記録」にはない。
(あるのは、関連する内容としては「青木六左衛門の件」だけである。紀州徳川氏には「青木氏の不記録」の原則から無い。)

そうすると、この「本流立葵紋の青木氏」の「江戸定住族」は、「青木六左衛門」と共に「吉宗同行班の説」に成る。
下記の「青木氏融合族」(四日市殿末裔)である事も踏まえて、「吉宗の稚友」で「同育で義兄弟」の「青木六左衛門」と共に別同班で同行した事に成る。
とすると、仕事は「六左衛門」の下で、伊勢での「商いの職能の利点」を生かして、働いた事に成る。
そうする事で、「宗家徳川葵紋と権威本流立葵紋」の件から起こる「周囲の問題」は無くなる。
まして、「将軍の吉宗」や側用人の加納氏とは、「六左衛門」と同じく伊勢では同年代として、「2つの徳川家紋の青木氏」の者は知友で充分な面識があるから、先ず問題は起こらない。
「青木六左衛門」等には、「布衣着用」(将軍に直接意見を云える大名扱い)を許されているのは、この様な周囲との不必要な問題を解消する手立てでもあった。

(吉宗は伊勢青木の教育を受けて「現場主義の将軍」であったと記録されている。
依って、家紋による周囲の問題は軽減されていた事が判る。)

「皇族賜姓族伊勢青木氏」と「秀郷流伊勢青木氏」とは、平安期から血縁関係にあるが、両方の「青木氏の融合族末裔」(夫婦が青木氏)が、この「四日市の地域」に住み分けて定住しているのである。
これはより血縁的には「皇族賜姓族に近づいた青木氏」である。
「徳川氏」と「藤原氏」と「青木氏」の「3つの血縁性」を持った「賜姓族系の青木氏」が発祥した事に成る。

これらの一連の考察から、家紋から観ると明らかに、「調停工作」の「朝廷と天皇」が求める要件を叶えられる事を証明できた。
この条件が出来たから、次の様に、「二つの故事の要件」を徳川氏は使える事に成ったのである。

これで「青木氏」の中にも「徳川氏」が入った事に成り、一族として「徳川氏」も文句無く、「笹竜胆紋」「密教浄土宗」「長者呼称」「正二位」「征夷大将軍」「浄大一位」「正統 左衛門上佐」「民部上佐」等の永代ステイタスの「故事条件」の全てをば使える事に成る。
「賜姓族」を前提としては、「賜姓族の武家源氏」の血縁性が直接無いにしても、「青木氏の長者」は「源氏の棟梁」より格式は上であるから、正式に堂々と「朝臣族」は名乗る事が出来る事に成る。
むしろ、「源氏の棟梁」は「天皇家の故事」によるものでは無い。”長者”は「武家の発祥源」であり、「格式位階」はこれ以上はない。
故に、「徳川氏の征夷大将軍」は格式位階から観ると、青木氏等の綿密な「調停工作」によって「鎌倉幕府」や「室町幕府」の上位と成った事に成る。
文句の出し様が無くなった事に成る。
だから、「家康」も「朝廷と天皇」も納得したのであり、その「調停工作」の裏工作を「由緒ある賜姓族の青木氏」が行った事も納得させられたのである。
これだけの事は”他氏の余人”では成し得ないし格式位階上で無理である。
そもそも、”「長者」”は、「3つの発祥源」=「長者」の「衣冠の関係」にあり、「青木氏の故事」である以上、「青木氏の了解」無くしては成し得ない。

ただ、上記の中で、「笹竜胆紋と密教浄土宗」の「権威事項」の使用は「紀州藩の頼宣」だけと成る。
現実に、「宗家と御三家」の中では「個人の権威」としては誰一人も使っていない。
「紀州藩の頼宣一代」だけである。

注釈
(源氏の笹竜胆は、「長者の青木氏」が、「天智天皇」より「青木氏の象徴紋」として授かったものを、同族賜姓族として使ったものである。
「嵯峨天皇の詔勅」の中には、源氏賜姓時には象徴紋として何もは受けていない。
むしろ、”朝臣として臣下させて与えるが、民の労苦を思えば、領地などの特典は与えない。 その代わり「戒律」も与えない”と記されている。
要するに、”朝臣族とはするが、後は自分で切り開け”の意味合いであったので、象徴紋はなかったのである。
同じ賜姓でも、「青木氏」には、「長者」として「3つの発祥源」の「義務と戒律」を与える代わりに、領地などを与えて保護し「不入不倫の大権」を与えて保護したのとは、同じ賜姓でも異なる。
青木氏は「二足の草鞋策」で、源氏は「武力」で生き延びようとした。
だから、青木氏は「長者」、源氏は「棟梁」と成ったのである。
「武力の者」は何時か”潰れる者”、「商いの者」は”長じる者”なのである。
この「青木氏の故事の長者」からは、後に一般に使われ、”億万長者”と云う言葉が生まれたが、「億万棟梁」とは云わなかった。
この事は、「調停工作」に依って得た「家康の長者」の事はよく民衆に知られていた事に成る。
故に、民衆を含めて、誰も家康の征夷大将軍の権威に文句を附ける者が無かったを物語り、青木氏と徳川氏等が目論んだ「権威」は保たれたのである。)

注釈
更には、場合によっては、上記した「権威の位階」を獲得した事から、紀州藩は「青木氏」をも名乗る事も可能となる家柄と成った事に成る。
(但し、徳川氏に執っては何れもの権威の位階である「格式の上の権威」である以上は「青木氏の容認」が必要である。
”晒す憚るの戒律”を前提とする以上は、同族血縁を前提とする以上は、前例のない姓族の徳川氏の”青木朝臣”は認めない事に成る。)

要するに、正確に云えば、「賜姓族青木氏系藤原氏関係族徳川氏」となった事に成る。
しかし、前例を認めない以上は、現実には、「調停工作の成果」である「青木氏の故事」に習った「長者」の方を使って「源朝臣徳川家康」と名乗っている。
この名乗りには、従って、「家興要領」を構築した事に依って、 ”源の朝臣徳川・・” の名乗りは納得できる事に成る。
”源の朝臣” の源氏との直接の繋がりは無いにしても、その ”格式と位階上の青木氏” との繋がりを構築したのである。
「嵯峨期の詔勅」に基づき、源氏が青木氏を、青木氏が源氏を名乗る事には問題は無くなった事に成る。
向後に誰も異論の口は挟まない事に成る。当然に「朝廷と天皇」も異論は出さない。
況して、一度、征夷大将軍に成れない「藤原氏」を名乗って置いて、今度は「征夷大将軍」を名乗ると矛盾が生まれるし、「民の信用」が無くなる。
しかし、これで、一切の異論が出なくなる事に成ったのである。
「調停工作」は大成功である。

恐らくは、徳川氏宗家は、この「本流立葵紋の青木氏」と「徳川葵紋の青木氏」を保護したと観られる。
伊勢と江戸の末裔に対して、その返礼として青木一族に対して「本領安堵」(「伊勢一帯の大地主」と上記した商いの利権保護)したのである。
そして、その「裏の意」には「賜姓族青木氏」が徳川氏の中に遺されている事に成る。
しかし、この儀礼も現実を調べると、将軍3代までの事であった様である。
将軍4代目では、伊勢神宮参詣時に、青木氏と「格式の違い事件」を起こしている。
(将軍になった家筋が原因している。吉宗に成ったと時には又戻っている。)

ともあれ、つまり、家紋から観ると、上記の「ABCの総合族」と考えた方が良いのである。
(この立葵の家紋に付いては既に投稿している家紋研究の論文にある。)

注釈
この方式は、上記の「高知の青木氏」の「名義札方式」と同じで、「名義札の売り買い」と「青木氏が現存」するところがその点が異なるが、、”身分家柄を合法的に変える方式”として室町末期からよく使われた血縁方式である。
室町末期から生き延びた”身分家柄の低い立身出世族”は、何とか獲得して次の出世に結び付ける為に特に目立って江戸初期からこの方式を採用された。一種のブームの時期であった。
江戸初期には、上記した様に、「調停工作」が成功し、「最高の権威」を家康が獲得する事に成り、人々は安心して社会が安定化し、その結果、「家柄身分官位官職」等の「権威」が出世に大きく影響する社会体制に成って行ったからである。
徳川氏は名実ともに、現実に「搾取から名実」の「身分家柄の最高権威」を獲得し、1614年を以って以降は、社会は、”最早戦いは無い”として安定し変化したのである。
この”キッカケ”を作ったのは、当に「上記した一連の調停工作」の「青木氏」にあって、引き続き、”安定化に向けた社会構築”の為に、影で吉宗を育て押し出し、家康や青木氏等が夢とした「改革の完成」を目指したのである。

恐らくは、この背景から、「注釈の方式の要領」から考えると、徳川氏のみならず青木氏も積極的に、この後、直ぐにもう一人の子供に「本流立葵紋の徳川氏」か、少なくとも、宗家の三つ葉の「徳川葵紋の青木氏」を発祥させたのである。
将来の「青木氏と家康の夢実現」に向けての「準備作業」として完成させなければならない事は、”身分家柄を合法的に変える方式”として、目的は「本流立葵紋の徳川氏」か「徳川葵紋の青木氏」を段取りとして発祥させる事にあった筈である。
(上記した様に、徳川氏の別人を以って「本流立葵紋の徳川氏」を発祥させる事は出来ない。)

それは「家康」のみならず、「夢の計画」の戦略上は、次ぎの「頼宣の育成」を完成させる事であった筈である。

その前には、徳川氏の何らかの女系の子供(上記)で、「名義・権威の家」を「自分の家」に興し、最後に、”「名義・権威先」の家を別の子供で興す要領”では、先ずは「自分の家」(藤原秀郷流青木氏)に興す必要があった。
これ無しでは「名義・権威先の家」を興す事は掟に依り出来ない。

歴史のこの場合の資料を観ると、次ぎの様な事が主流であった。
現状に子供が居る居ないは別にして、取り敢えず、「形式的に事前に家を興す習慣」も現実にあった。
出世の為の「身分家柄の確実な確保」の為に、末裔が出来ない前にも、既に確定させておいて、より早く確実にする為に「事前発祥を裏の手」として使っていた。
この様に、早くて平安期末期頃から、既に「身分家柄を合法的に変える方式」として採用されていた。
何はともあれ、形式を先ず整えて、後で子供が出来た時点で、その子供に正式に継がせる方法もあった。
この場合は、子供が適齢期に達しておらずとも、”幼女の時”から嫁がせる方法を好く採った。
そして、その子供は、男子では、嫡子、嗣子、妾子、養子、貰子の如何は問わなかった場合が多かった。
女子では、適齢期の年齢は関係なく、妾子、養女、縁者から貰女が多く使われた。

注釈
現在の晩婚化と違って、一般的に明治期でも14から15歳程度が適齢期とされいた。
上層階級では更に早い年齢で婚姻関係を結んだ。
これは適齢期の年齢であって、平安期では、適齢期に達する前の5から7歳くらいで先ずは嫁ぐ慣習であった。
当時の平均年齢は50歳前後であった事から、子孫を遺すと成れば、現在で80歳-15歳とすると、40歳-7歳と成る。
(平均年齢が低ければ、人は本能的に子孫を遺そうとして、生理現象を自然に下げる本能がある。)
この本能とは別に、知恵を使った子孫を遺す方法を考え出す。(許婚制度)
確実に子孫を遺すと成り、更に「家興し」等の政略上の事情など伴えば、7歳を待たずして、1歳での慣習も当然に生まれる事と成る。
生まれる前の0歳でも「政略上の婚姻」ともなれば、「通常の事」としてあり得た事は資料を観ずとも納得できる慣習である。
つまり、今はこの概念としては無くなっているが、明治期まで確実に遺されていた「許嫁制度」は、これを物語る。

従って、室町期の戦乱後の人口減少の最中の江戸初期であって、徳川氏の家興しの政略上の婚姻であって、「調停工作」の条件としても、家康の年齢としても、「許婚制度」を待つ以前の問題であった。
ここに、3年の期間の中で解決しなくてはならないとすると、この「許婚制度」の0婚が要求されていた事に成る。
それにしても、10年は待てずともせいぜい2年から3年と云った期間内に血縁の関係の形は持っておく必要があった筈である。
継承する子供が、次ぎの問題で、1年程度内に出来る見込まれていれば、先行して血縁を早く結んで置くことには「許婚制度の慣習」の中の事と成る。

徳川氏と青木氏等はこの「許婚制度の慣習」の中でのぎりぎりのところで進めた事が判る。
この事から割り出せば、”家康の女子と男系の女孫”の中で、この対象の中に入る「姫娘」を調べ上げることをすれば必ず見つかる事に成る。
それには、青木氏のこの場合の条件で、「不記載、不記録」がある筈である。
その姫娘を見つけ出す事に成る。対象者は凡そ150人程度となった。


「本流立葵紋の徳川氏」は、頼宣が長保寺の件で先ずは一つ目の要領は成立している。
問題は、次ぎの2つ目の最後の要領と成る。
宗家の三つ葉の「徳川葵紋の青木氏」である。
これを成立させて、初めて「朝廷と天皇」が求める故事に従った「調停工作」であって 青木氏の故事の”長者”の求める完成した条件であった筈であった。
この「徳川葵紋の青木氏」が伊勢ー紀州か、関東(東京ー茨木-千葉)の何れかに上記の経緯から大きくは子孫を広げてはいないと考えられるが、他に存在して居ると観ていて末裔調査している。
上記した様に、「立葵紋の青木氏」は伊勢と千葉で確認できている。
参勤交代等によって、「伊勢ー紀州」には定住していない事は調査で判明しているので、現在も東京か千葉に定住したと考えている。

そこで、「徳川葵紋の青木氏」がお膝元の江戸定住は果たして可能か”と云う問題を検討して、”江戸の青木さん”を調べたが発見できなかった。


・「徳川葵紋の青木氏」の検証

参考
次の様に「江戸時代の青木氏の住居」を調べるとその家筋が観えて来る。

青木新五兵衛 新御番頭 二千十石 1460坪
現代の場所  東京都文京区後楽1丁目の周辺
現代の建物  日中友好会館 後楽国際ビル

青木2軒
現代の場所 東京都新宿区市谷薬王寺町の周辺

摂津麻田藩 青木甲斐守一成 一万石 2000坪
現代の場所 東京都港区三田2丁目の周辺 三つ盛州浜紋

青木与右衛門
現代の場所 東京都千代田区九段北3丁目の周辺
現代の建物 靖国神社

青木鉄之助 御書院番 650石 943坪
現代の場所 東京都千代田区一番町の周辺

青木又四郎
現代の場所 東京都文京区水道1丁目の周辺

青木一軒
現代の場所 東京都文京区関口2丁目の周辺

青木一軒
現代の場所 東京都千代田区三番町の周辺
現代の建物 千鳥ヶ淵 戦没者墓苑

青木一軒
現代の場所 東京都千代田区神田神保町1丁目の周辺

青木一軒
現代の場所 東京都文京区千石3丁目の周辺
現代の建物 東福寺、東洋女子学園校近く

青木半蔵
現代の場所 東京都千代田区九段北2丁目
現代の建物 白百合学園

青木一軒
現代の場所 東京都新宿区北町の周辺

青木左京
現代の場所 東京都新宿区神楽坂5丁目
現代の建物 牛込署

青木孫太郎 寄合 五千石 1400坪
現代の場所 東京都港区南麻布4丁目の周辺 ホーマットアンバサダー フランス大使館近く
         東京都港区東麻布2丁目の周辺
現代の建物 出光ガソリンスタンド

青木甲斐守
摂津麻田藩
現代の場所 東京都新宿区神楽坂5丁目
現代の建物 フランス大使館邸

青木一軒
現代の場所 東京都渋谷区千駄ケ谷6丁目の周辺
現代の建物 新宿御苑 上池

青木一軒
現代の場所 東京都渋谷区代々木1丁目の周辺
現代の建物 JR代々木駅

青木一軒
現代の場所 東京都文京区白山4丁目の周辺
現代の建物 寂円寺近く

以上が江戸時代に住居していた青木氏である。

筆者が持っている「江戸の上級武士」(藤原氏秀郷流青木氏らの御家人・旗本や5家5流の青木氏等)の記載はない。
これには慣習があって、江戸には幕府から与えられた住居は仮屋敷として、本拠は神奈川や千葉や埼玉の江戸近隣に居を構えていた。
筆者の先祖の吉宗に同行した伊勢の青木六左衛門は伊豆を本居としして家族を置き、江戸はお勤めの仮居として家人が居た。
これは家柄身分上からの「古来の仕来り」を護ったと考えられる。

同様の仕来りを護ったとした場合、「徳川葵紋の青木氏」ともなれば、本居は伊豆か千葉ー茨木の何れかに成る。
子孫を遺していると成れば、”どちらが融合して生活出来得る方にあるか”の選択をしたと考えられる。
「伊勢の秀郷流青木氏」との「融合族の末裔」(四日市殿)ともなれば、「同族血縁の融合族」の父方を先ず選ぶ事に成るだろう。
「徳川葵紋」は、「秀郷流青木氏」に「徳川氏」から嫁取りをして、その子孫の一人が「徳川氏方」の母方の「本流立葵紋」を継承させ、もう一人が「徳川葵紋」を継承させた形である。
「父方の融合族」の「笹竜胆紋」の継承は、形式上としては紀州藩主の徳川頼宣が継承した形を採ったのである。

上記の凡そ150人程度を調べ上げた結果、たった一人の家康の息子で、条件中の条件の持ち主の条件に完全合致する「姫娘」が下記の通り居た。
それも、見事に「青木氏の不記録」の条件に合致する事も符合していた。

この要領では、母方は江戸か茨木(水戸)と成るが、江戸は慣習上は無いとなれば、茨木(水戸)と成る。
この”1600年前の頃には水戸に徳川氏が子孫を多く輩出する程に定住していたか”の問題であるが、この年代には水戸に徳川氏は多く存在した。
「頼宣」は8歳まで藩主ではあったが、実質上は駿府の家康の下で育てられていた。
その後は、家康11男の「頼房」が水戸の藩祖と成る。
150人中の第一対象者は、何とこの「水戸の頼房」だけとなった。後全ては他氏との血縁している。
そして、その頼房には、これも驚くべきか他の家康の息子の中でもある事情があって早婚であった。
「姫娘」たけでも、嫡子の跡目男子も多いが、何と「女系の姫娘」は記録から観ると正規の記録に載る姫娘は18人も居た。
この頼房の”有名な素行”から、ただ記録に載らない「姫娘」は他にも多くいた事が記録されている。

さて、この記録の中でも、長女次女あたりに成る「姫娘」で、詳細記録が故意に消されている姫娘が二人いる。名は一人は判っている。

後は、家康の娘を始めとして、孫姫娘で、この「調停工作」の「対象者」と成り得る者の「姫娘」の直系性、時代性等を調べた。
結局、最終の対象者と成り得る「姫娘」は合わせて4人いた。
(頼宣には子供が少ない。「頼房」以外に「姫娘の対象者」はいなかった。


中でも、「頼宣」の跡目に入った「頼房の姫娘」の記録抹消の二人の内の一人姫娘(A)に注目している。
後3人に若干の考察疑問点があった。
(うち二人は時代性が大きく異なり、後での詳細調査では家臣に嫁いでいるので除外。)

二人の内のこの一人の姫娘(A)を伊勢秀郷流青木氏に嫁入りさせたと観られる。

「本流立葵紋」の不記録と不記載と共に、この姫娘(A)の履歴を ”恣意的に記録抹消された” と資料の流れから観て取れる。
それは、その側室(勝)の母と兄弟等は全てはっきりとしているのに、この「姫娘」(A)の名前だけが遺されて、他は履歴も ”敢えて”消されている。

注釈
二人の内のもう一人姫娘(B)は詳細は矢張り消されているが、生誕日とも観られるものが記録。
この姫娘(B)の生誕日とも観られる年代が、他と5年ほどずれている。年代的にずれている。
(不合理の検証は下記 他は「破棄」の「棄」と記載あり。生誕日の意味に不合理の疑問あり。)
しかし、上記した当時の「許婚制度」等の慣習から、今回の場合は、当にこの慣習に適合している。

ただ、考えられるのは、「宗家徳川葵紋の青木氏」は、上記の「家興要領」と「調停工作」上から考えて、”ずれてても良い”のではと考えられる。
仮にそうだとしたら、”この「姫娘」(B)を続けて「水戸」から嫁がせた” とも考えられる。
同じ様に、この姫娘(A)にも嫁ぎ先などの詳細記録が消されている。

平安期では「通常の慣習」で、江戸期には徳川氏の初期の政略結婚では、5歳程度でも「許婚」として嫁がせる慣習と成っていた。
従って、「徳川政権」を早期に安定させる為には、養女的形でも政略させいる。(例 秀頼の千姫)
「調停工作」の「家興要領」では、生まれたらすぐに、”養女的形で政略”を行った事が考えられる。
この事から、この姫娘(B)の場合は記録が抹消されたのである。
そして、何と資料には、廃棄の「棄」とわざわざ表示している。

そもそも、子の「頼房」も家康の下で育てられ経歴は「頼宣」と殆ど同じである。
ただ、優秀で落ち着いた堅実型の「頼宣」に比べて、この「頼房」には「素行問題」の性癖を持っていた。

参考A
水戸藩主は1609年、 元服は1611年、就藩は1609年の2年間 1619年水戸詰め
生没は1603ー1661年 婚姻可能な年齢は、1619年の前後頃
記録上の長女誕生では、側室 勝の子 1623年頃
記録上の第一嫡子では、側室 の子  1622年

参考Aから、この対象者の姫娘(A)の生誕は、頼房元服後の1616年から1619年頃と推計出来る。

対象者の姫娘(A)の幼名は「松」(詳細履歴抹消) 側室 勝 (近江佐々木氏)

対象者の姫娘(B)の生誕は、1617年頃(下記) 側室 那那 (公家藤原氏)

「頼房」は水戸ー江戸往復した藩主である。
参勤交代」を採らなかった唯一の藩主で、家光からの「江戸詰めの命」があった。
その為に、就藩は1年に一回で在藩は最低1月から4月であった。短期間であった。
それも、水戸藩主(1609年)を命じられてから以来、就藩は1627年からであった。
以後、1年間隔の就藩であった。
全ての側室は水戸住まいであった。
側室のこの二人は、勝は7人 那那は6人を出産 側室10人中二人は段突に出産した。

その状況は、以上で不合理な疑問がある。
先ず那那は毎年一人を5年間も出産し続けている。
これは体力的な期間的、生理的な期間、就藩と済藩の期間的に不合理(不可能)。
論理的に出産期間1年とすると、資料記載の「年」が合わず不合理(不可能)。
那那の第1子の姫娘(B)の生誕年と目されるものは特に合わない。
水戸住まいの側室の那那は、頼房の就藩期間の中では無く、頼房江戸詰めであったので不合理。
就藩は1627年からで、資料の記載期間では、江戸詰めの時で就藩の時ではないので不合理。
つまり、資料の「生誕日」らしきデータには、子供の作れない不合理が存在する。

この「生誕日データ?」には、必ずしも「生誕日」のみならず、”何かの意味を持たした数字”であることが判る。

特に、この”那那の第1子の姫娘(B)の不合理”から、その他一切は不記載である。
しかし、この”期間だけ表示”の不合理の意味は異なっている。

上記した「許婚制度」に依って、”伊勢からの姫娘(B)の第1子誕生を記載した”とすれば、破棄の「棄」は意味が合う。
又、「調整工作」の「家興要領」からも年数的にも符合一致する。
姫娘(A)では、”「一切不記載」”と成っている事から、この姫娘(B)の「廃棄」も同じであった事に成る。
敢えて、全てのデータを「棄」としていながら、この「年数の事」だけが追記されているのである。

依って、棄とした姫娘(B)のところに、”第1子誕生の事”を態々記載したのである。

姫娘(A)と姫娘(B)の側室の「勝」と「那那」の「13人の子供」の「生誕日らしき記載日」は照合するとほぼ一致している。
この「記載日」は、上記の不合理があって、必ずしも「出産日」とは成らない事を意味している。
厳密な生誕日だけでは無く ”備考的な意味合い”でも記したと考えられる。
特に、姫娘(A)は「不記載」、姫娘(B)は「破棄」としながらも、姫娘(B)には伊勢からの連絡などがあり、敢えて記載したと考えられる。
姫娘(A)は伊勢からの何の連絡も無く、不記載や不記録の強い要求もあって、何もかかなかったと判断できる。

これに他の側室の記載日もが1627年からのものと一致しているのは、「江戸詰めー水戸就藩」の関係からも成り立たたずこれも不合理である。
要するに、上記の不合理は、、”何かの意味を持たした数字” で理解できる。
筆者は、この原因は、”頼房の素行”から来るもので、事務方は正確なものとして扱えず、、”何かの意味を持たした数字”で処理したと成る。

この事から、側室の勝と側室の那那の全ての出産内容が、ほぼ一致している。
この事から考えて、”姫娘(A)と姫娘(B)の生誕日と許婚期” はほぼ一致している事に成る。

この時期の出産可能年齢を10歳頃とすると、姫娘(A)と姫娘(B)は生誕1616年から1617年と成る。
「調整工作」の「家興要領」の「許婚制度」の0歳、又は2歳から3歳は可能と成る。
これは上記 参考A に合致する。

これには次の事も大きく関わっていたと考えられる。
「頼宣と家光の確執」に対して、「頼房は家光の友」であった。
ところが、家康の肝いりで、頼宣側の伊勢で、この「調停工作」と「家興要領」が動いていた。
頼房の性格は「素行不良 乱暴者」(有名な家臣の換言事件 歌舞伎にも成る。
(特に、女御への手付けが有名。)
家康と幕府は警戒して、この為に、「頼房」には徳川姓を27年も遅れて1636年に授与した経緯を持つ。 
「頼宣」-「家光」ー「頼房」の関係で、「綱引」が行われていた関係にもあった。
「頼房」には、この為に「不明の遺子」が居た事が判っている。

この環境の中で、次ぎの事が起こった。
この「頼房の姫娘2人(A)(B)」が150人中の中で対象上に入る唯一の姫娘である。
姫娘(A)は、「本流立葵紋の青木氏」 (賜姓族   近江佐々木氏)
姫娘(B)は、「徳川葵紋の青木氏」  (特別賜姓族 北家筋秀郷流藤原氏 公家)

姫娘(A)は、母方の血筋 「皇族賜姓族近江佐々木氏」は、「調停工作」の同族血縁の条件に完全に一致する。
姫娘(B)は、母方の血筋 「北家秀郷流藤原氏」は、「調停工作」の同族血縁の条件に完全に一致する。

「頼房」の正室と側室の記録上の11人の中の二人以外には、この「格式」の持つ家柄は一切ない。
他の9人の出自は、「無位無官」「無名姓族」で、侍女・女御である。中には「某」とした側室もある。
この二人が正式に”格式氏族の側室”として迎えた事が判る。
その子供姫娘(A)と姫娘(B)であり、且つ、この「二人の側室」の「二人の子供」の記録を恣意的に消しているのである。
故意的に、「棄」と記したところに意味を持っている。

頼房の子供のこの姫娘(A)と姫娘(B)を除いては、16人の嫁ぎ先は全て家臣である。
この事は大きな意味を持っている。
「頼房」としては、「頼宣側」で進められている「調停工作と家興要領」に対して、その「基」を「水戸の頼房」のところで行われていると云う間尺に合わない感情があったと観られる。

その「基」とは、この「調停工作」の為に、敢えて勝と那那の側室二人を「頼房の側室」として迎えたことは全体を観ると間違いない。

(その他の側室全員の子供は全て家臣に嫁いでいるし、その他の全側室の出自は姓族で無官位無格式である。)
(”何かの意味を持たした数字”の記録と「姫娘(A)と姫娘(B)の二人の記録にも影響をもたらした事の原因となった。)

そして、この「姫娘(A)と姫娘(B)の二人を、「伊勢秀郷流青木氏の四日市殿」の末裔との同族血縁をさせる事で、「調停工作の完全性」を狙ったと考える。
これに依って、「朝廷と天皇」は、どんなに”無理な横槍”を入れようとしても、これでは文句の附けようがない。
まして、「四日市殿」である。偶然に、符合一致しすぎる位である。

藤原氏を直接の氏姓名として記載し、名乗る事が出来るのは、宗家又は本家のみである。
この慣習の事から、充分な格式を持った血縁工作であった。
依って、筆者は、この説を自信を持って採っている。


・「家興要領」から、先ずは、絶対的な対応として、「本流立葵紋の青木氏」の発祥が必要である。
姫娘(A) 「松」が、「許婚制度」の0歳児か、2から3歳に嫁入りした事に成る。

・「家興要領」から、次ぎは、現実的な対応として、「宗家徳川葵紋の青木氏」の発祥が必要であった。
姫娘(B) 「・・」が、「許婚制度」の0歳児から1歳で嫁入りした事に成る。(上記検証と ”棄”の記載で判断)

(注記 上記の「姫娘(A)と姫娘(B)の検証」は不記載の計画で論じていたが、指摘により追記する事にした。)


当の「頼宣」が、1602年に2歳で水戸藩主(6歳で駿府転封 この間水戸には居ない)と成った。
その後に「頼房」が水戸藩主に成った。この「所縁の地域」である事からすると、経緯からしても間違いなく水戸と成る。

この「調停工作」の形式上の母方は、「頼房」が継承している事も踏まえて、「本流立葵紋の青木氏」は「「水戸」に本居を構えた極めて可能性が高い。
「本流立葵の青木氏」は、現在、千葉に確認できるとすると、本居は青木氏の経緯から「伊豆」では無い事に成る。

(伊豆は、宗家源頼政の領地で、ここに「笹竜胆紋と古代密教浄土宗」をステイタスとする「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の定住地である。)

更に、「千葉ー茨木」は「秀郷流青木氏の定住地」である事を考え合わせると、「本流立葵紋の青木氏」と「徳川葵紋の青木氏」の2氏は、少なくとも千葉から水戸よりに居た事に成る。
(「頼宣」1609年駿府藩 1616年家康没 1619年紀州藩)

「情報提供の徳川葵の青木さん」の所在地とほぼ一致する。
「本流立葵の青木さん」の千葉に現存しいる。

上記の江戸期の青木さんの一覧の中には、「徳川葵紋の青木氏」の「対象氏」は無い。
江戸時代には、以上の内容を含めて江戸期青木氏6氏の末裔が確認できるが「対象氏」は無い。

結局、情報提供に依る千葉ー茨木の・「徳川葵紋の青木氏」が「対象氏」として特定できる。
従って、現在は茨城ー(千葉)か東京近郊外に定住している筈である。
最近、歴史マニアからの情報提供を得て存在して居る事が判ってきている。

(現在地は移動している可能性もあるが、定住地が情報と高い推論から一致しているので、後は”明治期の「第3の青木氏」であるのか”を確認している。
情報提供に依れば、条件はほぼ揃っているが、何かの経緯を持っているのかある一点確認する必要があって調べている。)

(確認次第にここに追記する)


・「頼宣の長保寺」
それが「頼宣の長保寺」の「笹竜胆紋と密教浄土宗」が使われている証拠である。

これで藤原氏と青木氏の中に「徳川氏の発祥」が興った事を物語っているが、「名義札制度」の「1のタイプ」の最後の仕上げの「名義側の跡目引継ぎ」と同じ事が必ず成されている筈である。
”身分家柄を合法的に変える方式”としては必ず実行されている筈である。
徳川氏のなかでは少なくとも「伊勢の経緯」から「紀州藩側」にあると観られる。
調べたが、一応青木氏側に発祥させている以上は、「故事条件」は充分であるから、この時期と少し後の時期に行われている可能性がある。
徳川氏の中で、この「故事の条件」に合致する出自は当然に、”「起用禁止の最高級権威紋」”であるから見つからなかった。

ところが、”灯台下暗し”であった。明確な事があった。
それは、上記した「頼宣の紀州菩提寺」である。
全ての徳川氏の中で、この「頼宣」だけが「源氏紋と密教浄土宗」とその「故事に習う寺慣習」を持っているのは、この「菩提寺の長保寺」だけである。
それを証明するものがある。
「青木氏」の「故事の慣習」に従って「頼宣」に関わった「采女族」を含む子供を除く一切の「女性家族」は海南市藤白の「比丘尼山」と云う小山に寺屋敷を建立し、周囲と断絶して一生をここで終わっている。
この「戒律の持った寺」があって、その寺の一切の面倒を看る農民がいた。
その農民は代々1家で繋がれて、周囲との関係が寺に入らない様に隔離した。
普通は、せいぜい尼僧に成るのが普通か、元に戻って下族するのが慣習である。
この様な”厳しく現世と完全隔離した寺”は紀州には他に無い。
これは「同族血縁」を主体としていた ”「青木氏の故事」に習った慣習であり仕来り”であった。

下族した「女系族」が下族して又別の子孫を拡大させる事は、「同族の内容」を下げて仕舞う結果と成り、悠久時を維持して来た「賜姓族の立場」は保てなくなる。
この為に、下記の別枠で論じる「女仕来り」があったのである。
この”頼宣の比丘尼山”の仕来りは、「故事の条件」を頼宣が継承した時から、頼宣によってこの「青木氏の仕来り」が引き継がれたのである。
(その後、紀州藩では、この仕来りを厳格に維持されておらず、代々一族に関わった者が、その個人の意志によって「比丘尼僧」に成るかは決められ、この寺を選ぶかは意志に沿った慣習であった。
一旦下族した者が、老いて下界を嫌って、この寺に入る者も居た事から、一種の「逃げ込み寺」の様相を呈していた。)
現在は山と寺跡は遺っているし、その面倒を看た寺元の家は現存している。
その末裔を筆者は知っている。

伊勢の松阪の「紀州徳川氏の菩提寺」以外に、紀州に別に菩提寺を持っているのは「頼宣」だけである。
それは「故事の条件」を持ったからで、他の一族とは、頼宣はこの「二つの格上の権威」を持った事により青木氏等と同じ「菩提寺」を持ち、別にして格上げしたのである。
「菩提寺」を形式上、別にする事は、「別の皇族賜姓族方の発祥」を「徳川氏の中」で唯一持ったから出来る「格上げの仕来り」である事を物語る。
「紀州徳川氏の始祖」のみならず、形式的には、この”3年の間の紀州藩藩主に成る前”か、更に、”3年後の紀州藩藩主に成った時”の何れかの時に、形式的には「紀州青木氏系徳川氏族」が「頼宣」に依って引き継がれたからである。
「本流立葵紋族」からの発祥の徳川氏である事により、「一代限りの継承」となる。
それでも徳川氏に取っては良かった。徳川に無かった弱かった「権威の創設」が成したのである。
後は青木氏等に依った「調停工作」に依ってその「創設した権威」を継承する事だけである。
それ以上の事は動き始めている以上は戦略的に不必要でむしろ好ましくない。
紀州徳川氏の中で、正式にこの「故事条件」を継承している者は居ないのはこの事による。

結局は、「紀州徳川氏」である事には変わりはないのであるが、将軍家を含む累代の徳川氏の中で「頼宣」だけが、故事に従えば ”最高位の身分と権威”を持った事に成る。
有名な「家光の妬み」もこの辺にもあったのであろう。
「将軍家光」と会う時、「将軍」と「紀州藩主」の身分で会うのか、故事に従う身分で会うのか問題と成る。

注釈
紀州では、徳川氏と会う時は、青木氏が上座に座る慣習であったから、これでは家光は将軍であっても全ての面で下位に置かれている事に成る。
従って、トップで在りながら、トップでは無いとする矛盾に対して耐えられなかったのであろう。
家光には「謀反」等と嫉妬する以外には無かったのだろう。
(由井正雪のご落胤事件の偽判が原因説で謀反を掛けられたとするが、これは調べればわかる事である。
口実に過ぎず裏意はここにあった。)

現実に、「伊勢青木氏」が「伊勢神宮参詣」で2代将軍の秀忠まで守られていたこの「故事に習う慣習」があった。
しかし、「賜姓族の伊勢青木氏」が「4代将軍」と会った時に、この「故事に習う慣習仕来り」の知らない将軍は怒ったが、家臣が窘める事で何とか納まった。
江戸に帰った将軍は「徳川氏の権力」に従わない「権力に勝る権威」の氏が居る事を知って、愕然として青木氏に対して、その後、敵対した態度(商いへの嫌がらせ)を一時採ったと伝えられている。
3代将軍の家光も将軍に成る前から、この「故事に習う慣習」を知って、それどころか、更には身内の兄弟の「頼宣」がこの「故事条件の立場」を持った事で、「権力<権威」が納得出来なかったのである。
何とかして「権力>権威」にしようとして「謀反」と云う感情に走ったが、「謀反」が成り立たなかったのは、「家康の遺命」が「頼宣」に引き継がれていたから手出しが出来なかったという事である。
「謀反」は、「将軍」より「上位の者」で、且つ「家康の遺命」を持ち、家康お墨付きの有能な能力を持つ者が居れば、自分は何時か「将軍の座」を”引き摺り下ろされる”のではと恐怖したのである。
現実にそうなる可能性が充分にあった。
「家康の夢実現」で青木氏等が背景に成っている「頼宣の周囲」が、「家光云々」は別として、「紀州藩ー青木氏」を中心に動いていたのは上記の通り事実である。
現実には、「頼宣」より「3代目の吉宗」の時に現実化したのである。
「尾張の継友」で「将軍後継者」は決まっていたものを途中で覆したのである。
「家康ー頼宣ー吉宗」の「夢の計画実現」が無ければ、何も覆してまで将軍に成らなくても可能である。
紀州藩の範囲で示現すればよいだけで済む。
しかし、それでは「神君家康の夢」の実現にはならない。
時期状況を見極めて幕府で実現で叶えようとするは自然の行動である。
これを家光が「謀反」とするかは判断の仕方見方の如何であろう。
「謀反嫌疑」の「江戸の10年間」はお膝元に置いて監視されていた「頼宣」は、”「徳川一族の重石」と成り、極めて慕われて、何事も相談お伺いを立てていた”と記録されている。
この「重石」が今度は、逆に「家光」には「目障り」と成り紀州に帰したのである。

注釈
(反対に家光は頼房と仲が良かった。ところが、家康はこの「頼房」が謀反を起こす性癖の持ち主として、水戸藩主にはしたが、遺命で27年間徳川氏を名乗らせなかったのである。
ところが頼房は逆にこの気は無かったから、家康からもその性格を信頼されていて、遺命で「朝廷工作」の「家興要領」に組み込まれていた皮肉な事が起こっていた。
故に、家光は頼房との差を隠すために「由井正雪事件の謀反嫌疑」を掛けたのである。)

”頼宣の孫の吉宗”が青木氏と強い結びつきを持ったかは云うまでも無く判る。
それは、上記した様に、”何故に「伊勢青木氏」が親代わりに成った”かは、又、その後の”「享保の改革」の事”、”紀州藩の勘定方指導の事”等も含めて、上記したこの経緯の事で充分に判る。
更には、祖父の「頼宣」の「形式上の出自元」と成ったからであり、「ABCの族」即ち、「賜姓族青木氏系藤原氏関係族徳川氏」であるからである。
「伊勢青木氏」からすると「吉宗」は「家康ー頼宣」の繋がりからも、又「一族の縁者」でもあった事に成る。

この上記に論じた「考察の問題」は、この「調停工作」の「権威付け」を「全ての青木氏」取り分け「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「秀郷流伊勢青木氏」の三者がこれを容認するか、どうかである。
容認すれば、上記の”「長保寺」”が物語るものは解明できる。
当然に、密かに「調停工作」をしたのだから、青木氏は容認する以外には無いし容認しなければ意味が無い。
否定すれば「朝廷と天皇」が求める故事の「長者の呼称」「正二位官位」は消える。
そうなれば「徳川氏との軋轢」が決定的に生まれ、当然に「青木氏」は消滅する事に成る。
当然に、青木氏等の背景保護もなくし、天皇家のみならず朝廷は立ち上がれないほどに衰退していたと考えられる。
つまり、上記するこれらの権威を容認したのである。

「権力と権威」を主体とする絶対社会では、「子孫力」を作り出すには、”世に晒す事無かれ、世に憚る事無かれ”であり、「否定」は「自己の主張を世に前面に押し出す事」に成り、これは当に「晒し憚る行為」である。
そんな事は、絶対に青木氏はしない。それが長年の「青木氏の子孫力」の基と成る戒律である。

「長保寺問題」は上記した事の「青木氏ー徳川氏」の関係の度合いを一挙に解析出来得るテーマである。
仮に、「紀州徳川氏の菩提寺」を紀州に置いたとすると、一体”どう様になるか”である。
「伊勢」と云う「二つの故事」を継承している「伊勢青木氏」が、「伊勢」は古来より青木氏が定住している「天領地」であるからで、人は疑いなく信じるのであり、「紀州」では前は「藤原氏」を名乗っていたのが、今度は又「源氏」かと成る。
徳川幕府の様に、”権威を基本とした権力構造”の中では、人は信じないし、「権威」は低下し、「為政力」は低下し、末には、権力を押し付ける無理な構造が出来上がる。
結局は「政治体制の崩壊」に繋がる。
「賜姓族」の様に、この「二つの故事」を「紀州」で使えば、逆に疑う方向に周囲は働くが、折角の「権威獲得」は「水の泡」であり、「徳川政権」は「秀吉政権」と同じ様にそう長く無かった事に成ろう。



> ・> 青木氏の分布と子孫力
> >
> >
> >
> > > > [地域別分布力]
> > > > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > > > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > > > 地域      異変の県        分布力
> > > > 九州地方   長崎、大分        5%
> > > > 四国地方   高知           2.5% 
> > > > 中国地方   山口、岡山        2.5%
> > > > 関西地方   三重(筆者ルーツ)   14%
> > > > 東北地方   秋田           7%
> > > > 中部地方                15%
> > > > 関東地方                45%
> > > > 北海道・沖縄              6%
> > > > その他                 3%
> > > >
> > > > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> > > > 九州地方  1.3
> > > > 四国地方  1.3
> > > > 中国地方  1.3
> > > > 関西地方  4.7
> > > > 中部地方  4.3
> > > > 関東地方  11.3
> > > > 東北地方  2.0
> > > > その他   11.0
> > > >
> > > > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
> > > >
> > > > 修正地域(表ー3)
> > > > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1-7 三重 12 福井 4 愛知 13-7
> > > > 秋田 1
> > > >
> > > > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> > > > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> > > > 福岡  2    山口  0   愛媛  3     兵庫  3    三重  1
> > > > 長崎  0     島根  2   香川  1     大阪  14   石川  2
> > > > 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都  5    福井  1
> > > > 大分  0    岡山  0   徳島  1     奈良  1    岐阜  3
> > > > 熊本                        和歌山 4     愛知  13   
> > > > 宮崎                        滋賀  1    長野  9
> > > > 鹿児                                  山梨  1
> > > >
> > > > 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
> > > >
> > > > 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
> > > > 静岡  5    青森  1      沖縄  1
> > > > 神奈川 21   山形  2      北海道 11
> > > > 東京  18   岩手  1
> > > > 埼玉  17   新潟  4
> > > > 群馬  6    秋田  0
> > > > 千葉  11   福島  4
> > > > 茨木  4    宮城  2
> > > > 栃木  8                                     
> > > >
> > > > 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  
> > > >
> >
> 青木氏の分布と子孫力-6に続く。
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