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Re:「青木氏の伝統 39」-「青木氏の歴史観-12」

[No.358] Re:「青木氏の伝統 39」-「青木氏の歴史観-12」 
投稿者:福管理人 投稿日:2017/12/18(Mon) 16:06:22
> 「伝統シリーズ-38」の末尾

「松阪紬の殖産」の南勢から始まる桑から始まり「玉城-名張-伊賀-射和」の「すべての状況」を把握していなければ務まる役目ではない事が判るし、相当に「知恵と経験のある者」の「重要な役目」であった事が判る。

筆者は、この「重要な役目」は、「紀州門徒衆(C)」の「総元締め」が務めていたと考えている。

これで、「松阪紬の殖産化」での「五仕業」の事は論じたが、上記した様に、後発の天領地の「青木氏定住地の養蚕(御領紬)」もほぼ同じ経緯の歴史観を保有していた事は間違いはない。
元々、何れも「朝廷の天領地」であった処を、豪族に剥奪され、それを「吉宗」がここを「幕府領」として強引に取り戻し、「地権」を与えて取り組ませた。
全く「伊勢青木氏の経緯」(「青木氏X」)とは変わらない「共有する歴史観」が起こっていたのである。


> 「伝統シリーズ 39」に続く


「青木氏の伝統 39」-「青木氏の歴史観-12」

前段の「射和の殖産」の論に加えて、ここでもう一つの「青木氏の歴史観」を作り上げる重要な事があった。
それは「射和の殖産」をリードする為の「青木氏(A)」の「盤石な体制」にあった。
これ無くしては「射和の殖産」は成し得なかったと観ている。
それは、単なる「氏存続」の事だけでは済まされ得ない「青木氏(A)の体制造り」にあった。

前段でも論じたが、「青木氏(A)」には「四家制度」と「家人制度」や「四掟制度」以外にも、この定義を護る為には、“「同族血縁の弊害」”を起こさせないもう一つの課題の制度が必要であった。
これが無いと「大きな殖産」と云う「世の繋がり」と密接したものを維持する有能な架体を持っていなければ成し得ない。
その大きくて堅固な架体の体制を維持させる制度が「青木氏(A)」の中にあった。
それは上記の“「妻嫁制度」”、つまりは「女系族の制度」であった。

そもそも現在の「一夫一妻」とは、「人の目的」を達成させられる「社会性や時代性」が異なることから、この制度では一概に「善悪の評価」は難しい。
前段でも論じたが、これは余り触れられていない、或は、触れない“「影の制度」”と云える制度であった。
当時としては、現在感覚では矛盾する様に考えられるが、一般的に経済的に成り立てば、「人」、つまり、“「女系」を重視する「通常の概念」”であった。
これは現在では否定されている一種の「一夫多妻」に類似するからであろう。

そこで、先に論じておくが、この「現在の人類学」では、「一夫多妻」の「悪の原因」は現在医学で解明されている。
それに付いて理解度を深める為に念の為に少しこの事に先に触れて置く。

そもそも、原始の時代に於いて「人の類」は「類」を増やす為に「四回の変態」を起こしたが、それは他の類からの「捕食に耐える事」の為にあって、遂には「雌の類」で増やしていた変態方法を「雌」から分離させた「雄」という「補完の役」として「人の類」を造り上げて「子孫を増やす方法」の確立に成功した。
そして「雌」と云う「人の類」を「雌」を主体として「雄」を造り上げて継承(遺伝)する事に成った。
つまり、それまで取っていた変態形式の「雌」の子(娘)の「雌の遺伝継承」と、新しく「雌」の「雄」(息子)の子(娘)の持つ「雌の遺伝継承」の二つで「雌」の「人の類」の子孫確立を高めた。
このプロセスが、他の類からの「捕食」から子孫を増やせないと云う「第一の危機回避策」であった。
これはとりあえず成功した。

(注釈 「人の類に関する遺伝継承」は「雌」に依ってのみ継承される。)

ところが、「第二の危機」に襲われた。
「人類の初期」、つまり、四千年前の中国の「華国の創建」の由来、況や、“国と云う概念の創設期”では、「善悪の概念」は別として、この「集団」を形成する為に必要としたのは、「第一の危機」の回避策が進みより子孫を遺そうとして採ったのが「雄」を起点にして「一夫多妻の原理」であった。
この「一夫多妻の原理」に従っていた事から「多妻に依る集団化」が起こり、その互いの集団に「指導者の王」(絶対的指導者)を定め、「国と云う概念の集団」が初めて出来た。
これが人類史上初の国の所謂、中国の“「華国」”であった。
この時、「一夫多妻の原理」で生まれた初の国の「華国」は、夫々の妻の子供の集団化が幾つか集まり、その中での「指導力のある者」が「国家の王」として祀り上げて、「初の国家規則」を作り上げた。
それは、「臣下制度」と云うもので、これを「初の国家規則」として「儀式化したもの」は“「瓶杯」”であった。
「瓶」と云う入れ物に「酒」を入れて、それを「家臣と成る者」に「瓶皿」に注ぎ「家臣と成る者」が飲み干すと云う儀式化であった。
これで「初の国家体制」を造り上げた「華国」は、「血縁のある絶対的な絆」が成立させて行った。
これが最初の「国家の規則」であり、最初の「国家儀式」であった。

この「国家形式の儀式」は、世界の人の類に依って異なるのだが、我が国に限定し論じるとすると次の様に成る。
日本では、最初に、この「儀式化」で出来た「国家形態」は、摂津湾に入った「渡来人の応仁王(蘇我説)」で、関西域を制圧し、「地域の五豪族」(紀族、巨勢族、葛城族、物部族、)を先ずは血縁で結び、上記したこの「儀式化」で「家臣化」して「応仁王」から「応仁大王」による「初の正式な国家」、況や「飛鳥王朝」が出来た。

これは、経済的とか精力的とかは無関係の“「子孫を増やす」”と云う「単純な人間の原理」からの発意であった。
如何なる世であっても、補完役の「雄」が多くても「妻」(人の基礎の雌)が少なければ、尚更、危険の多い原始の自然界では子孫は増えない。
「道義的な感覚」よりこの「集団」を維持する為には、“「子孫」を増やす“と云う命題の方が優先され、その事からの「国家形式」を保つ上でも「一夫多妻の原理」の方が良しとしてこれに従っていたのである。
「雄」が補完役である以上は、「人の類」の「論理的呼称」とすれば、「多妻一夫の原理」が正しいだろう。
何故、この様に逆転したかは別の論として、当然に、「国家」を形成する「臣下の族」も同様の形式に従っていた。

ところが、この「仕組み」(「一夫多妻の原理」)に依って「子孫」は確かに増え多くの「集団」(初期の国形態)が形成されたが、ここで別の“ある思わぬ出来事”が起こった。
そして、その“ある思わぬ出来事”で、「人類」には「捕食」とは新たな別の危機が起こり、“「滅亡に近い事」“が起こったのである。
各大陸全体にこれが蔓延し地球規模で起こって仕舞った。

そこで「人間」(人の類)は、再び色々な「子孫拡大の仕組みの模索」を試みたが、駄目であった。
この“ある思わぬ出来事”とは、それは何と“「菌」”であった。
それは「補完役の雄」を出す事に依り起こった危機であった。
「雄」を造り上げる事に依って、造り上げた生殖の「繁殖の仕組み」に原因があった。
「雄雌」に依る「人類の生殖反応」に依って、この「菌」が「菌」に依る「性病」を蔓延させ「良い子孫」を遺す事のみならず、「子孫拡大」どころか「滅亡の方向」に動いた。

この滅亡過程で、この時、次ぎの「二つの事」が起こった。

一つは、「無制限な生殖」に依る「菌の繁殖拡大」である。
二つは、「同族間血縁の弊害」であった。

然し、この時、「人類」は、この「二つの事」が、これは「生殖反応」に依るものとは到底解っていなかった。
”「神の成せる技」”としか考えなかった。

先ず一つの「菌の繁殖拡大」では、「人類」が住むジャングルに存在するこの「菌」は「人の類」にのみに影響した。
ところが、そこで「人の類」は、これを「場所的な原因」として観て、世界的に大きく大陸移動を開始した。
そこでも、一時、「人類の子孫」は拡大を再び興すが、再びこの「菌」が拡がり、移動先でも滅亡する事も起こった。

ところが、この「人の類」の中でもある大陸に移動して進化させて「知恵」を発達させた「新たな人類」が生まれ、この「菌の発生原因」が「人」に依るものだと云う事を考え着いた。
そこで、”「神の成せる技」”として「知恵の進化」に依って生まれた「原始の神の宗教的概念」を興して、これに基づいて「戒律」を造り、この「戒律」を利用して「一夫多妻」を禁じたところ、この「新たな人の類」は滅亡から徐々に増大へと進んだのである。
この「菌」が「生殖の行為」に依って爆発的に蔓延する事を知ったのである。

このある「人の類の種」は、「原始の宗教的概念」に依っては、次ぎの様な行為を採った。

A 「一夫多妻」を止めた地域、
B 「女系家族制」を採用した地域、
C 場所を決めて「集団生殖行為制」を採用した地域、
D 村で管理する「通夫制度」を採用した地域

以上の様な工夫をした。

どれも「効果」は認められて「菌に依る弊害」の危機は無く成り「子孫拡大」へと繋がった。
これらの制度に「共通する点」は、次ぎの事であった。

“「管理に置く事」”と、“「女系にする事」”であった。

以上の二つであった事を人類は初めて知ったと云う事である。

「国家の集団化」と「原始の宗教的概念」とを合わせて「管理する事」で、「菌」を強制的に除く事が出来て、且つ、「保菌者」を排除できる事となった。

元の「女系にする事」で、「菌」を排除できると同時に「生まれる子供の保菌者」の「排除と奇形」とを除く事が出来た。
「奇形」は「人の類」を危機に追いやる事から逃れ得た。

「無菌の女系」で纏まれば「人の類」は爆発的に拡大できる事となった。

後は、この「二つの管理」、つまり“「管理に置く事」”と、“「女系にする事」”によって「男子の保菌者」を排除出来ればこの「菌」に打ち勝てる事を知ったのである。

結局は、「女系にする事」で「人の類の危機」から逃れられる事を知った事から、ここで「神は雌として崇める原始の宗教概念」が生まれたのである。

ところが、ここで、中には、次ぎの様な制度を採った「国」と云う形式には至らない「集団」があった。
それは、「男子を集団で生活させる事」で、次ぎの方法を採った集団があった。

「女系家族制」
「集団生殖行為制」
「通夫制度」

以上の「三つの制度」を同時に敷いた地域も起こった。
これは、“神は雌として崇める原始の宗教概念”を徹底した事からのもので、「局部の地域(ジャングル居城地域・発生地)」に不思議に終わった。
恐らくは、この制度では大きく集団化が起こらず、「奇形による危機」が起こり、「国」にまで発展せず「混血に依る知恵の進化」は起こらず、「人の類」は「劣化」を興し「村レベル」で終わる結果と成ったのであろう。

少し進んで「島国の日本列島」に於いてもこの上記の「二つの危険性」(菌と奇形)はあった。
海を渡る「移動浮遊族」に依って持ち込まれる「菌に依る問題」もあって、況して、「7つの民族の融合民族」であった事から、島国でありながらも「持ち込まれる」と云う事が起こった。
(注釈 菌には、主に「梅毒と結核菌」の二つがあって「遺跡の骨」からその証拠が発見されている。)
つまり、未だこの頃は「同一融合民族」で無くその過程であった事から、「女系家族制」「集団生殖行為制」「通夫制度」の「三つの制度」は採れてはおらず、結局は、「村単位で管理を強化する」と云う事で徹底的な隔離を含む「排除主義」を採っていた。

ところが、少し進んで「飛鳥期の前期頃」からは、融合しながらこれ、即ち、「村単位の排除主義」(集団も含む)で「国と云う概念」が生まれながらも「純血性」とか「子孫を増やす」とか云う宿命を持った「力のある融合族」は出来なく成っていた。


「人の類」の初期の頃には、次ぎの滅亡の危機があった。
イ 「捕食に耐えうる事」
ロ 「菌に耐えうる事」
ハ 「奇形に耐える事」

以上に耐え得た「人の類」は、「子孫」を増やし、「属」が出来、そして遂には、その「属」で上記の通り「国」と云うものを形成した。
この「国」と云うものを護る為には、その中で今度は国を構成する「属」では困難と成り、更に細分化して、「族」を形成させて「国の形態の正当性(血縁性)」を護る為に生まれた。

「真人族」とそれを「補完する臣下族と成った賜姓族」の二つで「特別な慣習仕来り掟」を創造して定め、「国の正当性」を護った事に成る。

然し、ここで、「国家」と成った事に依っての「国」の「王(後に天皇の呼称に成る。)の権威」を保つ意味から「高い純潔性」を求め継承しようとする形態が生まれた。
これが、「飛鳥王権」「飛鳥王朝」「奈良王朝」と変化し、遂には「奈良朝廷」に成り、「八色の姓」や「冠位十二階制度」(後に天武天皇が四十八階にする)等を定めて「継承族の立場と役目」とその「慣習仕来り掟」等について定めてその「権威性」を確立させた。
然し、この時は「ロとハのリスク」は未だ充分には解決には至っていなかった。

そこで、ロ 「菌に耐えうる事」と、ハ 「奇形に耐える事」に付いて「国レベル」で「見直し」が行われた。

「ロとハのリスク」の面から観ると、次ぎの様に成る。

「ロのリスク」は、「属」では出来ない事から「族」の中で、「生殖の範囲」を限定して、「族」を細分化して制度化してブロック化したのである。
然し、これには「ハのリスク」が伴う。
「ハのリスク」は、「ロのリスク」に依って生まれる「ハのリスク」を「排除主義」を取り入れて制度化して、況や「廃嫡制度」を敷いた。

これを制度化した事で、「人の善悪を越えた思考」が生まれ、リスクに対する「ブロック制度」と「排除制度」は正統化させてその事に依って徹底した。
この事が資料からも判っている。

その根拠は「国と云う概念」の下にあった。
この「国と云う概念」を護る「上位の族」に執っては大きく課せられた「ブロック制度」と「排除制度」は「族の宿命」と成った。
これが、飛鳥期の「国の成立過程」を経て奈良期から敷かれた「確定した国の制度」(骨格)であった。

「聖徳太子」が採った制度は、「政治の構成」と離れて、「族で構成する国」が起こす「ロとハのリスク」と云う別の面からのもので、その面から観た検証の結果であったと云える。
つまり、「冠位十二階制度」は「属」を超えたその「族の縛り」であると観える。
その意味で飛鳥期では、未だ「属」による「ロとハのリスク」を持つ「不完全な国の構成」とも云えるのだ。

この「幾つかの制度」を更に見直した事に依って「初めての国家」と見做されたもので、それが「大化改新」であろう。
その「大化期の終息期」(647年)に生まれたのが、所謂、我等の「青木氏族」であるが、それなりにこの「ロとハのリスク」の期に所以があるのである。

従って「初めての国家」の期に出自した「国家の族」を構成する「賜姓臣下族で朝臣族」の「血筋と云う視点」では見逃す事の出来ない論点であるのだ。

故に、そもそも前段より論じている様に、「冠位十二階制」から始まった「冠位十八階制度」と「八色姓制度」であり、この時に生まれたのが「真人族」から離れ「朝臣族」の「賜姓臣下族の五家五流青木氏」であり、同じく「近江佐々木氏」であった事に成る。

論理的に場合に依っては、「天皇家」を始めとして「青木氏族等」の「王族の朝臣族」の様に「ロとハのリスクの侵入」を周囲に「壁」を張って「血筋を中に閉じ込める政策」では無く、むしろ外に放出して「ロのリスク」は兎も角も「ハのリスク」をも無くすものとして観れば、「第七世族」である「坂東八平氏」も「ロとハのリスク」を大きく開放した制度であった事も云える。
「ハのリスク」はこの「壁」が無い為に「新しい血筋」が入るが、反面では「ロのリスク」は、「第七世族に任す事」に成り得る。

從って、その意味では「青木氏族や佐々木氏族等の第四世族」は、「ロとハのリスク」を責任を以って「リスクの壁」を「制度や慣習仕来り掟」と云うもので造り護ったという事に成り得る。
つまりは、見方を「人の類と云う視点」に変えれば、これが「両氏族に課せられた賜姓五役」であった事にも成る。

然れども、「天皇家」は、「ロとハのリスク」は、あまりの「純潔性」を「権威を保つ手段」に特化したが、これを「国家」と云う事に使った事で、「ロのリスク」は防げたとしても「ハのリスク」が逆に大きく成った。
そして、この「ハのリスク」を何とか除く為に止む無く「廃嫡制度」を「系譜に載らない形」で密かに採らざるを得なくなったのである。

(注釈 この「廃嫡制度」では、「ロとハのリスク」の記録上では、多くは「出自不祥」等と云う形でも処理されている。)

従って、この「天皇家の廃嫡」が進むと、これを緊急時に補完する為に、この両者(「青木氏族」と「近江佐々木氏族」)には「朝臣族」でありながらも、「最低限に準継承族」としての「条件」が求められていた事に成る。
この「準継承族」は、「最悪の場合の事に対処する族」と成るのだが、これも原則的には「令外官」と「皇親族」の時までの事で、「形式上の族」に成り得ていたのである。(嵯峨期には正式に外れた)
この「条件」が、「ロとハのリスク」を持たない族として、最低限に於いて「賜姓五役の役目」を維持する「男系嗣子」に限られた「純潔性の保持」であった。

さて、ところが、これが思いの他で問題を起こしたのである。
そして、それが、当時では理解できない思いがけないところに起こった。
これが「三つ目」に起こった「存亡の危機の事」には成った。

これが大和に出来た「初の国家形態」を揺るがす “「ハの遺伝障害の事」”であった。
つまり、突然に表れる「純潔性の悪弊」(同族血縁に依る弊害)であった。
当時では、この原因が殆ど理解されていなかった。

「天皇家族の系譜の記録」を読み解くと、この時(改新後)は、飛鳥初期頃に比べて既にこの「遺伝障害の事」の原因は、“「神の成せる業」”として理解されある程度に認識されていた様である。
その証拠が、「伝統の論」の前段でも論じた様に、「嗣子」だけであれば数的に「后妃嬪の妻」の「制度の範囲」でも「継承」は成立する。

これに対して、態々、“「妾」”が組み入れられている事が、「政治的な事」のみならず間違いなくそれに当たるだろう。

ここで、“「神の成せる業」”としての認識が、この“「妾を組み入れる事」”にどう繋がり、“何故に「神」に関わる事に成るのか”と云う疑問がある。
それは、“「純潔族(四世族)」”の中に持ち込まれた「人の悪行」が、“「因果」”として「神が指し示す行為」と見做され、「神殿」に於いて「御払い」をする事のみならず、現実的にこの「因果」を「薄める行為」として持ち込まれた「神義」に近いものであった。
故に必ず、「后妃嬪の妻」の正式な制度に「妾」を加えて大化期からは「后妃嬪妾の妻」とする制度としたのである。
「后妃嬪妾の妻」は、正式に「身分制度」にも用いられたが、その「皇位継承者」はこの順に従うものとして、「后妃嬪の妻」までに「継承者」がある場合は、「皇子族」から外れ「賜姓臣下族」として「天皇」の「近衛族役や皇親族役」を新設して「下俗する事」になったものである。

これが「前段までの論調」であり、これには上記する「血筋に関わるリスク」と云う視点からの「国家形成過程」に関わる経緯があった。
つまり、「青木氏族」は、当にこの「国家形成期の出自」に当たり、必然的に「氏族の意思」に拘わらずこの「ロとハのリスク」を持ち込んだ事に成るである。

そもそも、「青木氏族」は、当にその「神の成せる業」の「因果の解消策」の最初の「妾の出自族」に当たる。
「準継承族」の「賜姓臣下族の朝臣族」として「準継承氏の立場」にある二氏も、「施基皇子」(青木氏 越道伊羅都売 越は福井山形域)も、「川島皇子」(近江佐々木氏 忍海造小竜の女色夫古娘 四国域)も何れも「地方の豪族の女」のこの「妾子」である。
「青木氏族の歴史的価値」はここにもあるのだ。

(注釈 但し、「妾子族」には「ロとハのリスク」を持ち込む恐れは充分にあったが、何れもよく調べた上での「妾」であれば“問題はなかろう“と云う事に成る。
「ロのリスク」は目で直ぐに判るが、「ハのリスク」は目では判らず「隔世遺伝的に持ち込まれる事」はあり得る。
「地方の豪族」であるので、何とか系譜などで調べれば判るが、密かに廃嫡をしている事から、当時としては、廃嫡以外に確実などの様な調査方法があったのかは分からない。
恐らくは、「隔世遺伝のリスク」そのものが理解されていなかったと考える。
「何時か出ると云う感覚」では諦めていた事で、その為の「廃嫡制度」は是非に持っていなければ成らない事でもあった。
そもそも、「七つの民族」が融合し1400年経てもこの「隔世遺伝のリスク」だけはあるだろう。
ところが、「青木氏族」は前段でも論じている「四家制度と云うシステム」、つまり「福家で養育する制度」で、この「隔世遺伝のリスク」(男系女系に拘わらず)も見抜く事が出来ていたのである。)

(注釈 記録に見れば、「唖子」は別として「優秀でない嗣子」は廃嫡せずに傍系に出して外している。)

況や、この「天皇家」を含む「賜姓臣下族の朝臣族」の「后妃嬪妾の仕来り定義」が無ければ、この「同族血縁の弊害」は、“「隔世遺伝的に起こり得る大弊害」”の可能性が有った。
恐らくは、もっと云えばこの「妾子」に依る「優性保護の仕来り」が無ければ、「国家」を維持する「主の権威」を保つ上での「劣性嗣子」が頻繁に起こり、結局は、「国主の権威」は保て無く成り、「国家」は失墜し混乱に陥り維持は出来なかった事が起こった筈であった。

現実には、飛鳥から奈良期に於いて「皇子」と成っているにも関わらずその「皇子の半数」は少なくとも「国家の権威」を維持するに値する「優性嗣子」では無かったとする説もあり、現実には「日本書紀」などにも「天智天皇の皇子」の「建皇子の劣性の記」等が認められる。
本来は、「唖子」の場合は、「帝紀と上古諸事」に見られる様に「廃嫡制度」によりそもそも「皇子」には成れない筈であり、然し、「建皇子」の様に「皇子」に成っている。
これには、「唖子や廃嫡」の場合は、系譜の中に入らないが、現実にその一例が「天皇家の系譜」に出た。
この理由には「日本書紀」に書かれていて、「建皇子の祖母」が「皇位」を主張して「皇子」とは一時は成ったものの、直ぐに廃嫡死亡した例がある。

そして、この「四世族内の血縁」における「劣性遺伝」を防ぐ為に「嵯峨天皇」が慌てて態々、未完の「新撰姓氏禄」を世に出した目的にもこれを防ぐ基準としたと観ている。

筆者は、前段で論じた「天皇家のルーツを確定させる」という事よりこの「目的の方」が強かったと観ている。
その意味では、況や、「青木氏族」に執っては厳しい仕打ちともとれるが、この「ロとハのリスク」を断ち切ったと云う視点から観ると、これのは「嵯峨天皇の功績」とも云える。

ここで、この「ロとハのリスク」を排除した視点から、「青木氏族の事」を理解する為に前段でも論じている事ではあるが念の為に「注釈論」を論じる。

(注釈 そもそも、「四世族の基準」は、それまでの「第六世族」を変更して「天智天皇の大化改新」で「王位」とすると決めた。
この「四世族基準」からすると、平安期中期以降は原則として「青木氏族」は本来は「王位」は持たない。
つまり、「聖武天皇」からは「第七世族外」であり本来は「王位」は無い。
この「聖武天皇期」のこの時には、「天皇家の真人族」には「四世族」は元より「六世族」までも含めても、「唖子と廃嫡族」を除いて「皇子」も含めて「王位」に成り得る「嫡嗣」は無かったし、「義嗣」も無かった。
「永代浄大一位の身分」を持つ「施基皇子」の「四男・六男説もある」が、「聖武天皇の皇女」の「二人の姉」がいて長女が「女系天皇(孝謙天皇)」と成ったが、「女系天皇」と成らなかった三女の「井上内親王」との血縁で、「天皇」と成った事(下記に論じる)で、「施基皇子の男子」はその時点で「個人の意思」に拘わらず「王位」を獲得した事を意味する。
更に「施基皇子」が「追尊・後付け」の「春日宮天皇」と成った事も「王位」と成った理由でもある。)

(注釈 論理的には、「施基皇子の男子」であった時には、「天智天皇期」、「天武天皇期」では「第三世族」、「第四世族内」にあって、「王位」にあった事に成り、「持統天皇期」でも「天智天皇の第二皇女」で「天武天皇の皇后」であるので、「四世族内」にあって「王位の座」は保たれていた事に成る。
然し、「文武天皇期」に「第五世族」と成った事で「王位」はこの時点で外れた事に成り得る。)

(注釈 一説によれば「施基皇子の六人の男子継承者・四人説もある」は、現実に「父の生き方」を見習い「王位」を好まなかった事が内資料も含めて書かれた資料があり、取り分け、「湯原王」と「榎井王」は敢えて「無冠」と成り、「冠位」も含めて嫌った事とが判っている。
従って、論理的にはこの二人は「王位」には成っていない筈である。
そもそも、「王」としての「冠位」が無く、「冠位」の無い「王」は、そもそも存在しない。
「相当の冠位」(第二品 従四位下以上)があるから「王」であり、「王」であるから「相当の冠位」があるのであるとすると、「本人の意思如何」を問わず「湯原王」と「榎井王」は「王」では無かった筈である。
つまり、これも「後付けの追尊王」である事が判る。
「光仁天皇」と「後付け天皇」の追尊の「春日宮天皇」の「権威の辻褄合わせ」で、「後付け王」と成った事が判る。
これは「施基皇子の生き方」であってそれは「青木氏の氏是」に表れている。
恐らくは、「白壁王」を除いて他の五人の子供は、この「青木氏の氏是」を護った事がよく判る事に成る。
強い圧力の上で「白壁王」も止む無く応じるしか無かったと考えられる。)

(注釈 つまり、最も純潔の血縁性の深い一族から止む無く、「帝紀や上古諸事」外に成るが例外として「中国の古典」に見習って「白壁王」として条件を整え「義嗣方式」を採ったという事にも形上はした事に成る。)

(注釈 「青木氏族」の 「・湯原王、・春日王、・榎井王、白壁王、桑原王、壱志王」で王位を追尊で得た事が判る。 
「榎井王、桑原王、壱志王」の三人は「妾子」で、四人の女子の内三人は光仁天皇期には内親王と成る。
そして、更に、「光仁天皇期」の「二世族」、つまり、「施基皇子」からは「第三世族」としても、「*壱志濃王、市師王、 安貴王、高田王、香久王、 神王、榎本王、鴨王、*桑原王二世」がそれぞれに「王位」に着いた。
ところが、「賜姓臣下族の朝臣族」に課せられた「慣習仕来り掟」に従わず「姓」を「・印の二世王の*印の後裔」が興したとする説がある。
然し、「桑原王・妾子」と「壱志王・妾子」等の「二世族」は「青木氏族」を護り拒んだ。
「桑原王は二世族の子」で、然し、「三世族」では「・印の二世族」を親とする「*印の三世族」の後裔に「姓」を興したとされるが定かではないし、その「後裔」を興した時期も判らない。
唯、「・印」と「*印」には矛盾が多くあり「江戸期の搾取偏纂」ではと観られる。)

(注釈 世間に出ている「一般説」では、この「後裔」としているが、殆どは、「江戸期初期の諸版説」を論処として論じているので総合的に見た歴史観から見れば「搾取偏纂の矛盾」が生まれる。
唯、その内の「*印」の「一つの姓族」に付いては、「傍系卑属の末裔」の可能性があるが、これもその主張は「施基皇子」を始祖とする「川島皇子」とすると成っていて矛盾し疑問がある。
確かに、「新選姓氏禄」や「他の二大歴史書・三大累代格」から観ると、平安初期にその「姓の名」を持つ「臣連の朝臣族」は存在した事は認められるが、「・・朝臣族」の「・・名」を「姓名」にするは「朝臣族」として課せられていた「慣習仕来り掟」から観ても疑問でもある。
そもそも、本来は、「皇別の真人族の朝臣族」の課せられた「掟」から観て、「・・朝臣族」の「・・」は「氏名」に成るものであって、「姓名」にするものではない。(嵯峨期で禁じられている)
但し、「新撰姓氏禄」には、これを明確にする為に全体を「皇別」と「神別」(地方豪族)と「諸審」(渡来人)に先ず分けられ、その「皇別」には「真人族」(高位)の他に「真人族}ではない特別に「縁戚関係族」、つまり「傍系尊属 傍系卑属」を主体とした「皇親別」(低位・縁戚)に分けられている。
この「皇別の朝臣族」の「皇親族」だけは「姓」を持つことが出来る事に成っている。
従って、上記の「*印」の「一つの姓族」とは、この「朝臣族の皇親族」に成り、つまり、「傍系卑属」と成る。
「傍系尊属」からは「姓」を興すと成ると、「傍系」とは云え「氏家制度」の中で課せられている「慣習仕来り掟」を護らせる立場にありながら、自らがその立場を失う様な事をするは先ずあり得ない。
又、仮に「姓」を発祥させたとすると、「氏家制度」から「宗家」から「慣習仕来り」に反したとして「氏族」より外される事は「尊属の立場」である以上必定である。
その点から観ても、条件的に観て「後裔の可能性」が強いとするならばそれに縛られない「傍系卑属」である事は頷けるが、「施基皇子」と「川島皇子」の「絶対的な矛盾点」だけは解明できない。
その「姓」の「近江の出自」から「近江佐々木氏」の「始祖の川島皇子の後裔」と云う点が取られ、どこかで「系譜作成」で間違えてしまった可能性もある。)

(注釈 その「姓の始祖」とする「施基皇子」の「ある第二世王の在所」は近江に関係していないので、だとすると、この「第二世王の後裔青木氏」の「女系」が血縁で、「青木氏側」には記録は無いが、「第四世族内血縁」を「賜姓五役の前提」としている事から、又、「・・朝臣族」の「・・」を「姓名」とする事から観ると、「佐々木氏系青木氏」に嫁いだ可能性があると観られこの視点から観ればこの「矛盾点」は解消出来る。
この「・・朝臣族」は「新選姓氏禄」から観て確かに「四世族内」にはある。
然し、この時期は、「近江佐々木氏系青木氏」の「傍系卑属」までを含む一族一門は、「二つの源平合戦」で敗退し平家に依る厳しい掃討作戦に依って滅亡しているので、平安末期直前の事と考えられ本来は「後裔の姓」は生まれない筈である。
その為に、江戸期初期に作成した「系譜作成」が錯綜したと観られる。
恐らくは、検証をすると、その「姓族の在所」からも一部に密かに生き延びた末孫の「佐々木氏系近江青木氏の傍系卑属」の説の可能性もあるが生き延びたとする確定検証は出来ない。)

(注釈 残りの「一つの姓」は、典型的な拭い切れない矛盾の疑問が残り、論じるに値しない「江戸期初期の搾取偏纂」と観られる。
更に、上記した様に「賜姓五役」の「青木氏族の慣習仕来り掟」に合致せず「姓」を持ったとする説の「・印の二世族」は三人いるが、「*印」の「もう一つの姓」は「・湯原王、・春日王、・榎井王」には確認できないが、恐らくは、「・湯原王、・春日王、・榎井王」の「無冠位」を主張した「・湯原王、・春日王、・榎井王」の「三人の内」の「春日王の姓族」としている事にも成り、「矛盾の姓」に成る。
つまり、明らかに、この「二つの姓の件」に付いては、「嵯峨期の詔勅と禁令」がありながら、この様な間隙を狙って、江戸期初期に矛盾する「姓」をねじ込んで来た事を意味する。
従って、「重要な歴史観」として矢張り「青木氏族」は、「賜姓五役」を保持するが故に、結局は「江戸期初期の前後頃」までは少なくとも「姓」を持たない「原則四世族内」の「青木氏族内」にあった事を意味している。
唯、「優性の後裔を遺す」という点では、鎌倉末期から江戸初期前後頃まで「四家制度」等を敷きながらも、次第に難しい状況に陥って行った事は事実であり頷ける。
取り分け、室町期には「下克上や戦国時代」と成り、歴史書に記載されている「朝臣族の氏族」は「姓族」に依って悉く一掃され潰され、又、「下克上」により「傍系卑属」に乗っ取られたりして「数氏」にまで落ち込んだ歴史的経緯を持つ。)

(注釈 幸いにして、「紙文化の発展」に依って「巨万の富」を獲得し、それを以って先ずは「抑止力」を高め、「女系族」を推進して「周囲の姓族との絆作戦」を展開して生き延びてきた。
此処が、「第二の分岐点・ターニングポイント」であろう。
室町期初期からじわじわと始まる「危機」がこの分岐点で、これでは拙いとして大きく「四家制度の考え方」について舵を切った時期と考えられる。)

以上、「注釈論」を前提に次に「血筋の論」を進める。

「直系尊属と直系卑属」は、「賜姓臣下族の慣習仕来り」を護りながらも「四世族血縁」を貫いた。恐らくは、この事から「室町期初期」からは、「四家制度」に依って上記した「玄孫までの女系族」にシフトし始めた事が判る。
この鎌倉末期から室町期初期が「第一の分岐点・ターニングポイント」であると考えられる。

本論のテーマである「江戸初期の殖産」に依る「体制造りの主眼」は、「玄孫までに依る女系族」に徹底して切り替えたと考えられる。
この江戸初期前後頃が「第三の分岐点・ターニングポイント」であると考えられる。
それが、「女墓」(伊勢・信濃)に表れているし、「甲斐青木氏と信濃青木氏の動き」にも出ている。

先ず、そこで生き残った室町期初期の「甲斐青木氏」では、「賜姓臣下族の正統族」の「源光系甲斐青木氏」と、「源光」の兄の「時光」が「傍系の源氏族」であるとして「嵯峨期の詔勅」で「時光系青木氏」を発祥させた。
ところが、この「時光系青木氏」には内部抗争が起こった。
この為に、「武田氏系」の「時光系青木氏」は弱体化し、結局、生き残るために武田氏に組した為に「第三の分岐点・ターニングポイント」では、「慣習仕来り掟」を全て金ぎり捨てて完全に姓化した。
そして、「傍系源氏族の武田氏」が滅びると共に、掃討作戦にも何とか生き残り一族郎党全て「武蔵鉢形」に移封され「徳川氏の家臣化」をした。

(注釈 この時、この武田氏を滅ぼした勝者の信長は出迎える為に列の中に「白馬に乗った者」がいてその侭に信長を出迎えたとして,引きずり降ろし滅多打ちにした。
これは古来からの「賜姓臣下族の朝臣族」の「高位の者」の儀礼の「立場の仕来り」であるとして迎えたのであるが、信長はこれを否定する行動に出た。
信長はこの「仕来り」を知らなかったとする説もあるが、「平家傍系の末裔」でもあり伊勢信濃に近く、且つ、足利将軍などとも謁見している事から知らなかったという事は無いだろう。
恐らくは、「賜姓臣下族の朝臣族と云う立場」を自分の「覇者の権威」を保つ為には認めたくなかった事を意味する。
この「白馬の者」は中立を保った甲斐の「源光系青木氏の後裔」であると云われている。
現実に、この「白馬の者・源光系青木氏」は信長より所領の剥奪等の圧迫を受け滅亡に近い衰退をし行方は分からなくなったとされている。
然し、「傍系卑属の後裔」とされる一族は江戸期にも生き残ったと成っている。
そして、武田氏に味方した「武田氏族の時光系青木氏」は、家康に救われて潰れる事無く、「信長の圧迫」を受けない様に家康は即座に一族郎党を鉢形に移した。
この一人が「柳沢吉保」の父である。)

元々、源氏傍系の「時光系青木氏」は、そもそも、傍系族(傍系卑属の可能性)であって、「賜姓族」では無い為に「慣習仕来り掟」には大きくは縛られず姓化に成れた経緯もある。
弟の「賜姓臣下族の源光系青木氏」は、「郷氏」を続けながら「和紙」等を殖産生産して、「賜姓族」としての「慣習仕来り掟」を護りながらも、より「女系化」を採用して後裔に「姓」を置き「姓化の絆」で一部が「商人」として何とか生き延びたとされいる。
その「存亡の有無」も判らないほどに「子孫力」は三氏(伊勢、信濃、甲斐)の中で最も低下した。
甲斐」に於いては「時光系」のみならず「本流の源光系」も「直系族の甲斐青木氏」は遺されていないのである。

次に、そこで気に成るのは周囲が多くの国衆で囲まれている「信濃青木氏」であるが同じ道を採らず、「甲斐」とは別の選択を採った。

それは、前段でも何度も論じたが、”「伊勢青木氏との絆」”を徹底して強化して一体化を目指す”「同化戦略」”を採った。

伊勢と同様に「四家制度等の各種の制度」を採りつつも、且つ、「伊勢との同化」の為に「女系」のみならず、「男系の同化」も図った事が判っている。
「信濃」は「伊勢からの優性の血筋」、「伊勢」は「信濃からの優性の血筋」を入れて共に「劣性の弊害」を排除し「四世族態勢」を堅持した。
これは、「氏族堅持」の為に「血筋」に関わらず「商い」に関しても「同化戦略」を採ったのである。
唯一つ信濃は「違う筋道」を採った事があった。

それは、「伊勢との同化」を進める中で、それは「四世族系」の「直系族」のみの範囲に留め、「尊属と卑属」に拘わらずある程度に「傍系族」には「姓化」を認めている。
故に、現在に於いても「直系族の宗家」の「信濃青木氏」が存続し、伊勢、信濃共に「直系族の宗家」は明治期(明治9年)まで存続した事が確認できる。
現在も「笹竜胆紋の後裔」は、その「ある程度の伝統」と共に遺されている事が判っている。
この様に一定の規律、つまり、「慣習仕来り掟」を「直系族」が柔軟にして護りながらも「姓化の弊害」を乗り越えて生き遺った「青木氏族」もいた事にも成る。

唯、「伊勢と信濃」に於いては血縁に於いて更に「面白い事」があるので追記する。
それは平安期末期に京にて遥任していた「源頼政」が朝廷より得ていた「領国」の「警備」として「伊勢青木氏と信濃青木氏」を合体させて「伊豆」に送り込んだ。
これは「賜姓の氏族の血縁」と云う視点では「面白い戦略」である。

本来であれば、「領国の伊豆」に警備として送るのであれば、普通は「源氏族」であろう。
何故なんだろうか。それは何か「血縁を含む氏存続」に関わる何があって、この様な「不思議な戦略」を執った事は先ず判る。

そもそも、「摂津源氏の頼光系の四家一族」は、前段や上段でも何度も論じたが「武家貴族」と云う立場を護る為に「武力」を大きくは持たなかった。
「武力」を持つ事で「武家貴族」として「祖父満仲」の様に朝廷から疎まれたが、その事では「摂津四家」の「頼政」は三位まで登り詰める事は出来なかった筈である。
当然に、「直系族の宗家」として「じり貧の運命」を辿り「賜姓源氏族の生き残り策」を果たせなかった筈である。
然し、「満仲の作った武力集団」を引き継いだ「頼信系」は一時は伸長したが、然し、この結果は逆に平家に敵対され衰退化を招いた。


そこで、「頼政」が目を付けたのが同じ「皇族系賜姓臣下族」の「伊勢と信濃の青木氏族」が持つ”「影の勢力の抑止力」”であった。
「武力集団」として公に成っていないこの「影の勢力の抑止力」を「平家の勢力拡大」の中で「伊豆」に送り込んで何とか「領国」を護る事に着目したと考えられる。
そうすれば、朝廷より武家貴族としての非難は免れる。

そもそも、「頼信系」と同じく「武力集団」を形成して送り込めば、一族の”「血筋」”は乱れ、且つ、”「姓化」”が起こり、何もしなければ「ロとハのリスク」を抱え「族の形成」は危うくなる。
「朝廷が認めた領国」である以上は、そう簡単に「武力」が無ければ手を出せないし、従って、最大勢力の「平家」に潰される事が先ず起こらない。

(注釈 「伊勢青木氏」は「平家の始祖の阿多倍王(孫の高野新笠・光仁天皇の后)」とは古来より隣国として繋がっている。)

そこで、「武力集団」に相当する「影の勢力の抑止力(経済的繋がり)」をこの「伊豆」に成すには「伊勢と信濃」を「合体させる手」を打つ事が必要であった。
そうでなければ「ロとハのリスク」が起こると共に衰退し「賜姓源氏族」を遺せ無い筈で、そこで「伊勢」には血縁的に「妾子の京綱」と、「信濃」には「妾子の国友」に跡目として送り込み、そして、この「融合した合体一族」を「伊豆」に送り込む「奇策の戦略」を執ったのである。
これでいずれも「宗家」の「源氏族の血筋」と「青木氏族の血筋」の合体で、「血筋リスク」はより解消され圧迫を受けている「摂津の宗家の源氏族」を安定して遺せると考えた筈である。

そもそも、「青木氏族」の「直系血筋の四世族」は「仁明天皇」までであり、「ロとハのリスク」は系譜上は無い。
「摂津源氏族」は、他説が多いが、「貞純親王説」としては「7世族」に当たり「姓族の外子王」である。
「四世族」までとすれば完全にルーツを変えた「賜姓族」であるが、そもそも、「貞純親王説」は「傍系尊属」に相当するので、好ましくないと観たのではないか。
然し、「親王」ではないが「陽成天皇説」であれば、この「天皇」は「ロとハのリスク」を持った記録に残る程の「暴君」として有名であった事からも、この「二つの説」からも「清和源氏」にはこの「血縁のリスクの危険性」を持っていた。

これを当然に認識にしていた「頼政」は、「青木氏族と賜姓源氏族との血縁戦略」とすれば「ロとハノリスク」は解消されると考えたと観られる。
「清和天皇」は、上記の通り何れの説も「皇子」ではない孫(王位)であり、例外であり、且つ、「ロとハのリスク」を引き継いだ王を賜姓する事に成り、これを頑として拒んだ。
本来は、「清和源氏」では無く、「賜姓源氏族」と成るには「陽成源氏」と成るが、「ロとハのリスク」を持つ「天皇」としては「賜姓」は困難と扱われていた。
そこで、止む無く、「純友の乱」を「経基王」は企て「祖父(清和上皇)」に頼んでその勲功で「賜姓」を願い出たは経緯を持っていたのである。

つまり、これらの「三つの汚名」を払拭し「正統な源氏族」として遺す為には、「跡目」を両氏に入れる事は血縁上は問題はまずなく「ロとハのリスク」は殆どない「賜姓族」と成り得る。
これは、当に、下記に論じる「政争」とも成った「孝謙天皇の正統説」と全く同じである。
筆者は、重要な事は、「青木氏の歴史観」に執ってみれば、「孝謙天皇期の政争」も「清和源氏頼政の戦略」も要は「施基皇子のルーツ原理説」に起因していると捉えている。

(注釈 「親王」と「皇子」の違いは、「大宝律令」を境に漠然としていた「四世族内の皇子」の「皇子の位階」が正式に決まり、呼称が「皇子」から「親王」と成り、宣下を受けた者は「親王」に、受けなかった者の四世族までの者を「王」と呼称する事に成った。
但し、平安期の初期当時は「外子王」の場合には、未だ「皇子の呼称」が残り、宣下を受けた「外子王」を「親王」とする区別する呼称が一時期続いた。
当時としては、「貞純親王の母」は「妾」であり、「貞純親王」は「妾子」となり、「親王」とあるが「母の経緯」から「傍系族尊属」に相当する「外子王」に成る。
この使い方に付いての説には「歴史的経緯の間違い」が多い。)

そして、「跡目を入れた融合合体族」と「女系で繋がる抑止力団」で周囲を固め、更にこの血筋は隣国に存在する「補完族の秀郷流青木氏」とも血縁関係を持ち、その「秀郷流青木氏の勢力」を以って「伊豆の入り口」を防御しすれば、「完全無傷の形」で源氏族は正常に遺せる。
(その後に、「以仁王の乱」を起こす。現在も「青木村」を形成し生き残っている。伊勢と信濃以上であろう。)
本来であれば、「伊豆」には「血縁の劣性の弊害」が起こっている筈であるが、資料によれば何某かのそれと思しき内容は元々出て来るものであるがそれも発見できない。

更にこれは、何故であろうか疑問である。

これは、矢張り、「青木氏族以外」からの「源氏族」の「頼光の生き残り戦略」の通りに、この中に116氏に及ぶ「秀郷流青木氏との繋がり」を持つ事で「血縁の劣性の弊害」は消されていった事以外に無いだろう。
「青木氏の歴史観」から観れば、これが、「血縁」に依る「補完役としての役割」として「頼光の戦略」は考えていた事に成る。
これは同時に、つまり、このこれに依る”「姓化」”が入れば、「源氏族」では「正統な血筋の範囲」では最早遺せ無いと観ていた事にも成る。
この「焦り」が「頼政」にはあったと観ている。
故に、「劣性の弊害」が出る可能性の高い「同族血縁性の高い融合族」の中でも「四世族制」を護り、「賜姓臣下族としての慣習仕来り掟」と「血縁の弊害」を無く現在まで護り通し得た戦略であったと考えられる。
その意味では、「伊勢や信濃」を凌ぐものが「伊豆」にはあったと考えられ、現在に於いても現実に目の当たりにして、その「慣習仕来り掟や祭祀」等の「伝統」は遥かに凌いでいる。
この侭では、「融合族と云う定義」はそもそもおかしいが、「融合族の伊豆青木氏」が最後までその「伝統」とその「血縁性」をより高く護り通す可能性が高いと観ている。
その意味で、「冠位官職」を同じくする「補完役」で、且つ、「賜姓族(藤原朝臣族)」で当初は「四世族」では無かった「秀郷流青木氏の存在」は実に大きい。

これは”「血縁」と云う事”のみならず、「姓族勃興」に依って「慣習仕来り掟」が護れなくなり「衰退逃亡」に追いやられた四地域の「賜姓臣下族の青木氏族」を救った事も見逃せない事である。

そこで、その「秀郷流青木氏」を「劣性の弊害を無くす血縁」と云う意味で検証する事に成るのだか、それは次ぎの様に成るだろう。
更に、平安期の「青木氏族の補完役」、つまり、「第二の宗家」と呼ばれた「藤原秀郷流青木氏」は武蔵域を始めとして「全国24の地域」に根を下ろし、何と116氏まで広げたが、「劣性に依る弊害」は「青木氏の中」では最も生まれなかった。

注釈として、唯、「秀郷流一門」の中での「青木氏族」の中に入る「主要五氏の進藤氏」だけには、「秀郷流一門」のこの「劣性の弊害」は出ていた様で、それは「一族一門を取りまとめる立場」にあった事から、「一門の血縁性」で固め「発言力」を保持していた事に依るのであろう。

この事に付いては、「秀郷流一門」の資料にも遺され、更には、「進藤氏」と親密な関係のあった「近江佐々木氏の資料」の中にも垣間見られ、「武蔵北部域」を護っていた「進藤氏直系の系譜」を観ても「継承者の事」で苦労している様子がよく判る。
それを観ると、「血縁の弊害」が強く出て、実に「廃嫡性」が高く、「嫡嗣と義嗣の入れ替わり」が激しいのが判る。
宗家分家に拘わらず、「秀郷流青木氏族の秀郷流進藤氏」は、「義嗣」が多い事から「血縁の弊害防止」に先ず「廃嫡」をしてその上で「義嗣」に入れ替えて何とか「血縁の弊害」を無くそうとしたと観られる。
これは「直系嫡嗣」に恵まれなかったという事では無く、家筋を保つに堪え得ない「唖子や劣子」が多かった事を示していて、それ故に「系譜に観る内紛」が起こっているのである。

この様に「秀郷一門の青木氏族」の中でも、「血縁戦略」を一つ間違うとこの様な「宿命的な運命の道を辿る事」に成る事を意味している。
実に狭い道筋と云える。

その中で取り分け、「伊勢の秀郷流青木氏」は、「伊勢と信濃の賜姓臣下族」の「青木氏との女系」を基本とする血縁を積極的に進め、「青木氏族の氏族」を形成し、殆どは「同化に近い状況」と成り得ていた。
その象徴は、「賜姓臣下族の一員」として認められていた「四日市殿」である。
つまり、前段でも論じた事ではあるが、「女系」で繋がりを強化して、その子の「二世族の嗣子一人」に「実家の青木氏」を「嫁ぎ先」で一つ先ず興させて、「嫡嗣の男子」を「実家の四家制度」の中に組み込ませ、且つ、「女子の二世族の範囲」では、実家の「四家制度の養育の娘」として送り込んだのである。
これを室町期から明治初期まで相互にこの制度を推し進め強固なこの基盤を作り上げたのである。

(注釈 「四日市殿」は「青木氏族」と「伊勢籐氏」と「徳川氏」とも直接に血縁関係を持った「パイプ役」を果たした。)

当然に、複合的にも「伊勢籐氏の血筋」も「伊勢秀郷流青木氏」を経由して融合される事にも成り、何れに於いてもその「結果の絆」は相互に高まり、それは前段でも論じた様に室町期末期の混乱期の「信定と忠貞の連携」にも表れている。
元より、前段でも、「射和商人の段」でも論じた様に、「伊勢秀郷流青木氏」は「伊勢籐氏」と共に「紀州藩」にそっくり抱えられ家臣(姓化)と成り、「青木氏族」を側面から護った。

武蔵域に於いても「秀郷流青木氏」のみならず「秀郷流一門」は、そっくり「御家人や旗本」として「家臣化」し、「幕府の官僚族」を席巻したのである。
この事で、全国に散在する「現地孫」や「傍系族」を含む「秀郷流一門」の「横の血縁の連絡」は充分に取れ、それが「血流」と成って「伊勢や信濃」にも及んで居た事にも成り得る。
つまりは、これは「血筋の源流の大きさ」を物語る。
これ程に「血縁の大きい源流」は日本には無い。
「血縁と云う正統な伝統」に護られた形の上では日本最大と考えられる。
「宗家」は「四家制度」を採りながらも「秀郷一族一門の361氏」と云う途方もない「勢力」と、それを使った「吸い上げた血縁性」により、「血縁性に関する弊害」は認められなかったのである。

「姓化」は「青木氏族」に執っては、一面では「氏族存続の弊害」とも成り得るが、全国に分布する「傍系尊属卑属」までの「姓族」を含めれば、ここからの「血筋」の無限に出続ける「源流」と成り得て、且つ、その「源流の流れ」からその「血筋の流れ」を引き込む事は、「無限の新鮮な血筋の井戸」を示す様なもので、「血筋の劣性弊害」は無く成る事は必定である。
「青木氏族」に執っては、この”「源流制度論」”であれば、最早、この事では「血縁弊害」は秀郷一門に関する事ではこの論外であろうと考える。

そこで戻って、「伊勢」は、「四世族制」に関わらずに「伊勢郷士」との間にも幅広く徹底した「女系族造り」に切り替えた。
そして、地元に根付いた「絆造り」に切れ変えた事が示されている。
であり、重要な事は”その本質に戻した”という事に成り得る。

(注釈 江戸期前後に於いて、上記した様に「女系族論」は、そもそも「人の類」の「本筋論」であり、これに依り、「劣性遺伝の弊害」を無くした事のみならず、「信濃」を含み「青木氏族存続の輪」を広げたと考えられる。
この事は遺伝学的にも補完役として裏付けられている事である。
これは、現在に於いては「特別な事」では無く、「孝謙天皇期の政争」と「頼政の戦略」も「江戸初期の女系族化策」も本筋を得た先祖の行為であると論評している。)

これに関わった「秀郷流青木氏の116氏一門」は、「子孫繁栄の補完役」を完全にを果たした事に成り、「実務上の補完役」に拘わらず「氏の根底の補完役」をも先を見据えて戦略した「円融天皇の判断」は実に正しかった事に成る。
秀郷一門の「宗家の第三子」を「補完役の秀郷流青木氏」を断絶する事無く「継承を義務付けた事」がこの「天皇の決意」を物語るものであるとされる。
そうでなければ、「実務の補完役」で終わっていただろうし、「天皇」は赴任地を多く与えて116氏まで広げなかった事に成る。

上記の論調に関して言えば、この「土台作りの影響」が「前段の射和郷士の件」に表れていると云う事なのである。
つまり、「直系族の男系」は、論理的には「四世族制」を保ちながらも、「女系族」から「優性遺伝の血筋」を入れていた事に成る。
これでの「重要な事」は「男系に依る血筋源」では無く、「女系の血筋源」とした事を意味する。
よく似た対策としの「優性対策」として「平安期に採った妾子制度」と違って、江戸期初期の「女系の血筋源」の方が幅を持つ事ではむしろ「優性遺伝」に繋がる事に成った。
「混血に依る優性遺伝」は、「劣性遺伝による弊害の防止」のみならず「特別に優秀な嫡嗣」を生み出すという特徴をも持っている。
江戸期の第三の分岐点・ターニングポイントはここに決定的な違いがあった。


そこで、上記の事を認識したとして、話を戻して、「奈良期の後半」に入り、この原則的な対応策(賜姓五役の宿命)を採っていた「志紀真人族」には、「劣性遺伝の弊害」のこれが「四家」の「四家20家」の何処かに出ると認識し、「賜姓臣下族の朝臣族」を保つ上では、つまり、「青木氏族」を保つ上では、「四家制度」と「家人制度」では防ぎ切れない事に成っていた事を認識していた。

(注釈 「志紀真人族」とは、「施基皇子族」で後の「春日宮御宇天皇」の後裔の事であるが、つまり、「皇族真人族」に「男子後継者」が不在と成り、結局、「聖武天皇」の内親王の「井上内親王」と「準継承族の賜姓臣下族で朝臣族」と成った「施基皇子」の「四男の白壁王」との婚姻をして「皇位」を継承した「光仁天皇」と成る。
依って、その父である「施基皇子」を後付けで天皇としたが、「施基皇子の崩御後」の54年後に出来たこの「四世族までの一族」を云う。
つまり、「敏達天皇の春日真人族」の「四世族の施基皇子」の「青木氏族」を云う。)

上記の注釈の通り、この事を読みこめば、「聖武天皇期」は「別の意味」で当にこの危機に入っていた事を示す。
「続日本紀」にもある様に「皇子族」(真人族の親王)が無い為に「皇族内部」に「後継者」をめぐり「抗争」が起こり、結局は、「外子王」までを持ち込み「勢力争い(藤原氏や橘氏)」が起こった。
「聖武天皇の真人族」の「四世族内」にも、「皇位継承族に値する優性の男系の継承者」が無く成り、唯一、「真人族」の「二人の内親王」の一人が「孝謙天皇」と成りその後上皇と成るが、“「外子王」“の「純仁天皇」が皇位を続けが、「上皇」との軋轢から廃位されて止む無く「上皇」自ら「天皇」に戻り、「称徳天皇」として戻り二代続きの「女系天皇」と成った。
然し、結局は、「正統な男系継承者」は無く成り、一説では「潔癖性の強い嫉質」(原理主義・正統主義と観る)があったとされるが、それ故に「時間稼ぎ」をした事に成るのだろう。
遂には、その妹の「天皇」と成る事を拒んだ「井上内親王」(天皇に成る事避けていた白壁王)を持ち出し、周囲が掃討されたその結果で、「苦肉の策」として「準継承族(敏達天皇より9世族)」の「賜姓臣下族で朝臣族」と成っていた「施基皇子族(青木氏族)」までに手を伸ばして来た事に成る。

結局は、「孝謙上皇」は「純潔性」を守る為に、「原理主義・正統主義」に基づいて一度、「天智・天武期の状況の血筋」に戻して、その「準継承族」として遺っていた「志紀真人族」に「白羽の矢」を立てて納めたのが本事件であった。
つまりは、「施基皇子」や「川島皇子」が自らが編纂した「天皇家の慣習仕来り掟の規則」を定めた「帝紀」や「上古諸事」を持ち出して、無理に「皇位継承者」を造り、それに「天皇の継続性」のある「井上内親王」と血縁させて辻褄を合わせたと云う事に成る。

この「二つの根拠」には、「外子王」(四世族の傍系卑属)を入れて「皇族の血筋」を外すよりは、「原理主義・正統主義」に基づいて戻す事の方が「より良し」とする判断には、「外縁」(傍系卑属・中には四世族を外れる外子王をも持ち出した)は抗する事が出来なく成った。
これは、つまりは、「孝謙上皇」は候補と成る「四世族内」の「傍系卑属の外子王の人格」、況や「劣性の弊害」等を認め悉くクレームをつけた。
この「劣性の外子王」を操り「天皇家」を乗っ取らんとする企てにも気付いていた事にも成る。

(注釈 一説ではこの事が誤解されて孝謙天皇の「嫉質説」が生まれた。)

更に、この「四世族内」に「男系」が無く成ったという事だけでは無く、有ったとしても廃嫡せざるを得ない状況が強かった事に成り、想起外の「志紀真人族」に「白羽の矢」を向けた。
この決定は普通ではあり得ず、明らかにこの「天皇家」は「ロとハのリスク」のこの危機に入っていた事を示す。

さて、ここで一つ疑問なのは、何故、同じ立場にあった「近江佐々木氏」や「四家四流青木氏族」にも向けられる可能性はあった筈であるが、然し向けられなかった。
資料は全くないが、その理由として次の事が挙げられる。

短所
「朝臣の近江川島族」は争いの下に成る政争であった「天武期の吉野盟約」に参加した事。
「近江佐々木氏」は「青木氏族」より「四世族制」を充分な制度化をして護らなかった事。
「賜姓臣下族の朝臣族」としての「務め」に比較的に疎かった事。
「施基皇子の二世族」に比べて「良き男系継承者」が少なかった事。
「近江佐々木氏」や「近江青木氏」は「政争の元」と成る「公家族との繋がり」が強かった事。
以上のリスクが考えられる。

長所
1 「志紀真人族」には「高野新笠(渡来人の後漢阿多倍王の孫)の背景」があった事。
2 「施基皇子」は「敏達天皇の四世族」であり「正統性」があった事。
3 「青木氏族」は、既にそれまでの「皇族血筋」(継承外と成った真人族王)を頻繁に入れて「五家五流族」を形成していた事。

幾つかの「遺されている資料」を咀嚼すると、つまりは「孝謙上皇」は、「周囲の強力な反発」を振り切ってこの「長短の比較」をした結果と考えられる。

その「決め手」は「長所重視」に及んだ事と考えられ、取り分け、“「天皇家の本筋」に戻す”という事から考えると明らかに「長所の3」であったと考えられる。

そうと成れば、上記した厳密な計算された「規則や制度」に依って「外部血筋」を入れて徹底して「姓化」を敷かなかった「伊勢青木氏」を選ぶ事に成る。
例え、「臣連族」であったとしても「姓化のリスク」は、より「外部勢力」を呼び込んで仕舞い、女性である「孝謙上皇」が嫌った、“「政争」”が朝廷内に蔓延る危険性が大いにあった。
そもそも、この「皇位継承の縁組」を申し渡された時でも、「白壁王」を始めとして女子を入れた「十人の子供」等は、「施基皇子の遺言」の「青木氏の氏是」があったとしても、徹底して個人で「無冠を主張した事」でも歴史上の事実として判る。

(注釈 然し、現実には最後は「無冠」であったのは「男子の二人」と「女子の一人」と成った。)

この時期は未だ表向きは「皇親族」であった。
つまり、前段でも論じたが、天皇に困った事が起こった場合に、天皇の前で意見を述べられる立場で、且つ、場合によっては「天皇の秘意」の有無の事も含めて、その困った「懸案事項の解決」に直接務めるという役目の「令外官役」を負っていた。

(注釈 この「皇親族」の「令外官の役目」は、「嵯峨期の詔勅」で外された事のみならず「賜姓族の対象」からも外された。
そして「賜姓」は、「令外官の役」の持たない「無役の源氏族」と変名して賜姓した。
源氏族には財政的にも保障しなかった。)

筆者は恐らくは、「孝謙上皇」は、「和紙」などの「二足の草鞋策」の「豪商も兼ねた令外官」の「世間に明るい伊勢青木氏」に密かに諮問していたと観ている。
結局は、それが「孝謙天皇の信頼」の元と成って「白羽の矢」を立てたと考えられる。
この説で観ると、「青木氏の二世族」は、何で「無冠」を主張したのかと云う事に辿り着く。
この事で、表沙汰に成れば、「世間の批判」を受けかねない事にも成り得て、「青木氏の氏是」の事もあり、敢えて「無冠」を主張した事に成る。
この根拠は、その後の「青木氏族の執った姿勢」、又は、その「立場」にあったと観ている。

つまり、次ぎの事である。
「二足の草鞋策」を通じて朝廷に対して明治初期まで「献納」を行っている事。
「嵯峨期の詔勅」で無く成った筈の「賜姓五役の立場」を堅持し、江戸初期まで堅持した事。

つまり、この事は「諮問に対する答えの責任」を執ったという事であろう。

それでなければ、鎌倉期からその「役目の意味」が殆ど亡くなっているのに、更には「準継承族」では全く無く成っているのに「賜姓五役の役目」を依然として続けた事に疑問が残る。

既に、上記した様に「青木氏族」から光仁期に「天皇」を出した以上は、最早、「準継承族」では無く成っている筈である。
その「天皇」は、「青木氏族の直系族」としては、血縁的に考えても、丁度、「第四世族」の「54代 仁明天皇」までである。
その後は、「高見王」は、即ち、「桓武平氏」: 「阿多倍王・高望王・平望王」の「後裔の血筋」が入る結果と成るのであるが、この祖と成る「光仁天皇の后」の「高野新笠」はこの「阿多倍の孫」でもある。
従って、この「青木氏族」と傍系で繋がる血縁を持つ「高見王」に、「賜姓源氏族(賜姓でない源氏も多い)」と「藤原氏系族」がこの血筋に組み込まれた。
然し、この状況は「後一条天皇」の直前まで続いて、「外縁」と成る「賜姓源氏や藤原氏」等の血筋の範囲は一端この時では終わっている。

はっきり云うと、本来であれば、理屈上は「賜姓五役の役」は、三世族の「嵯峨天皇期の詔勅」で正式に終わっているが、伸ばしたとしてどう考えても最早、四世族の「仁明天皇」のここまであろう。

ここからは、論理的には「純潔性を含む賜姓五役の責任」は完全に無く成っていて、後は「青木氏の勝手」という事に成る。
取り分け、「純潔性」に付いては「賜姓源氏族に渡っている事」にも成る。
然し、実態は違っている。

つまり、「第一の分岐点・ターニングポイント」の前に、平安期末期にも「ある種の分岐点」があった事に成る。

筆者は、これがそもそも”「基点」”であったと考えていて、直ぐに「第一の分岐点」には成らなかったのであり、敢えて云うならば、「仁明天皇期」が「0の分岐点」と成ろう。
ここから「青木氏族のエネルギー」を貯めて徐々に変化していって「第一の分岐点」に達した事に成ると考えている。

況や、直ぐに「仁明天皇期」に「分岐点」として成らなかったのには、それには「分岐点」には成らない「(-)のエネルギー」が働いたからである。

それは前段でも論じている960年頃に令外官的な「補完役」としての「秀郷流青木氏の出現」であった。
この「補完役」を作り出さなければ、世の中に「政治的に困った事」が起こっていたと云う事に成る。
「補完役」のこれは「藤原秀郷一門」がそもそも自発的に求めたものではない。
「朝廷(円融天皇)」が「社会情勢の乱れ(青木氏族が皇親族から引いた事)」から「令外官」としての意味も込めて「秀郷一門宗家の組織」に「宗家から第三子」をこの「補完役の青木氏」を名乗らせる事を命じた。


(注釈 これは「令外官」としての「実務と血縁」の「補完役」でもあって、この始祖が「千国」と成ったのだが、その後は二流に分流し秀郷一門の「主要五氏」として「青木氏族」を形成するまでに成った。
この結果として、秀郷一門361氏の内、116氏を占め「第二の宗家」と呼ばれるに至った。
ここでは、そもそも「青木氏の歴史観」として観れば、「全国24地域と116氏」と云う要素には大きな意味を持っていると考えられる。
平安期中期から室町期中期までの間にどんなに考えても、「時の政権」が「実務的」には桁外れの「24地域」にまで「補完役」として赴任させる事は先ずは無い。
更に、「血縁的」には「116氏」と云う膨大な子孫拡大を認める事は無い。
これは明らかに「実務と血筋」の「補完役の令外官」としての「恣意的意味合い」を持たせたと考えられる。
他の「氏族」にこれだけの事をさせる事は「政治的に好ましい事」ではない。
「藤原氏北家族」の「秀郷一門の勢力」の土台の上に更にこれだけの勢力を持たす事は「政治的発言力」は強大と成り得て警戒される。
現実に、瀬戸内で勢力を伸ばしていた「讃岐藤氏の一豪族」でさえ「純友の乱」としてこの「警戒心」から潰された経緯を持っている。
この逆の政策を執っているのである。
「純友の乱」と「秀郷流青木氏」とは根本的には違うが、「純友」は「一族の単なる勢力拡大」で、「青木氏」は「実務と血筋の補完役」であり、根本的に「立場の有利性」は違う。
「実務と血筋と云う令外官の補完役」は、「実務」は「血筋」無くして成し得ないし、「血筋」は「実務」無くして成し得ない「相関の関係」にある。
故に、時の政権は「実務の24地域と血筋の116氏」と云う拡大を認めたのであり、ここからは「政治への発言権の拡大」はあり得ない。)

そこで、上記の「政治的に困った事」とは、「賜姓五役」として手を曳いた事に依って「民の安寧」を願う「祖先神の神明社の荒廃」と「献納」が途絶えて「財政的な困窮」にあった事である。

(注釈 「政治的に困った事」は政治的に二度あった。一つ目は、この平安期から室町期で、二つ目はと前段での江戸初期である。)

これで観ると、一つ目は明らかに、「準継承族」としての「純潔性の義務の保持」は外れたとしても、「民の安寧」を願う「祖先神の神明社の役目」までを放棄した事に成る。
これは「青木氏族」としては「相当な覚悟であった事」に成る。

ところが、この「秀郷一門」に「青木氏族」と成って「令外官の補完役」を命じる前に、一つの大きな出来事があった。

それは、朝廷は「賜姓臣下族の青木氏族」に代わった「賜姓源氏」にこの「神明社の修復」を命じている。
これは、「嵯峨期の詔勅の文言」の”賜姓してやる代わりに財政的に保障しないから自由に生きよ”に反する。
その「賜姓源氏」に「青木氏の守護神」の”「皇祖神の子神の祖先神の神明社」を修復せよ”はどう考えても不合理である。

然し、元々、「嵯峨期の詔勅」に明記されている様に、「財政的能力のない武家貴族の源氏」にこれを成す能力は無かった。
そこで中でも、「武家貴族の清和源氏」が各地に飛散している「源氏族の有力な傍系族」を集めて「武家」に課せられていた「禁じ手の武力集団」を構築し、各地の荘園を奪い勢力を蓄えた。
然し、そもそも「修復」はその「勢力下での財政的裏付け」にあるにも関わらず、これにも「朝廷から非難」を受けた。
確かに理不尽そのものである事は否めない。

(注釈 「清和源氏の二代目満仲」は「武力集団の創設」のこれを行ったが、この「路線争い」で三代目で意見が分かれ、「嫡子の頼光派・官僚族派・摂津源氏」と、「三男の頼信派・武力集団派・河内源氏」に分かれた。
「摂津源氏(頼光派)」は「四家制度」を敷き「青木氏族」と同じ務めを引き継ごうとしていた。)

「朝廷」は、以上での経緯があるにも拘らず「財政的な補償」をしなかった「宗家の摂津源氏」にこの「修復命」を出したのである。
ところが、「摂津源氏」には元より全ての源氏には、「神明社を修復する財力」は元より、技術技能を司る「青木氏部」の様な「技能部の力」は持ち得ていなかった。
そこで「朝廷の命」の「体面」を保つ為に「摂津源氏宗家」は一社のみを修復して、後は言い逃れて「引延策」を演じた。
業を煮やした「天皇」は、遂には、直ぐに「将門の乱」にて功績が認められ「貴族と位冠と武蔵国」の三つを与えられ発祥した直後の「藤原秀郷」に、上記の「補完役命(秀郷三男の千国)」を出したという事に成った。

余談として、以上の事でも”如何に「青木氏族」が「嵯峨期の詔勅」に対して反抗したか”の例として考察され、この「政治的に困った事の経緯」とはこの様な事であった。

話を戻して、注釈として、「四世族の範囲」での独自の血縁制度で「純潔性」を保ち、且つ「天皇家の権威」を保つ上で「帝紀」等を運用して「大義」を造り上げた。
「純潔性の血縁制度」に依って出る「唖子や劣子に対する誕生」に対しては早期に済ます系譜には出ない「廃嫡制度」を採用して、記録にも出ない制度を敷いていた。

この様に上記の経緯は、何時、又、「準継承族としての立場」を課せられるかも知れない「掟」があって、「四世族の血縁を婚姻の前提(四掟)」としていたが、この事がそれは何時か一挙に「青木氏の滅亡」をも意味するか認識していた証でもあり、戦々恐々としていた事を物語る。

それが「孝謙天皇期」に遂に再び訪れたという事に成ったのであろう。
故に、「志紀真人族」の「第二世族」は全員が「無冠」を主張し、「施基皇子」が定めた「青木氏族の氏是」を「第二世族」に依ってより強化されたものと理解する。

恐らくは、そもそも、多くの皇子の中で「施基皇子」だけが「天武期の吉野盟約」にも、「あらゆる政争」にもただ一人だけ参加しなかった事から観ても判り、従って、この「青木氏の氏是」は「施基皇子の生き様」を示す「施基皇子の遺言」と捉えてられている。
これは、「撰善言司」に成っていた事でも云える。
つまり、筆者は、当初から、つまり、「施基皇子の代」から持っていた「戦々恐々論説」であり、「準継承族」としての「名誉的な自惚れ」は無かったと観ている。
だから、「嵯峨期」には一族の出自元・実家先でありながら、この様な場合に依っては潰される可能性もある「反抗態度」に出たと考えている。

故に、裏を返せば、「天武天皇期」には、「草壁皇太子」や「高市皇太子」より三段階も上位にある程に信頼され、「天武天皇崩御」の「葬儀人」にも選ばれた所以でもあろう。
更には、「葬儀人」に相当する「持統天皇の造御陵長官」、「文武天皇の嬪宮」も務めた人物でもある。
この様に全ての人からその「人格や品格」を信頼されていたからこそ「法律の骨格」と成る調査をも任され「撰善言司」にも成っている。
「吉野盟約の不参加」が指し示している。
ところが、この様に「立場」を不安定にしない為にも執っていた”「準継承族」としての「四世族の血縁を婚姻の前提(四掟)」”が逆に痣と成ったのである。

これは、「孝謙天皇の行為」や「続日本紀の編集の経緯」にも表れている。

その事に付いて「血筋」、即ち、「血筋が起こす悲劇」として論じる。

そこでそもそも、この「続日本紀」とは、「六国史」の内の一つ「日本書紀」に続く「史書」でもあり、文武期の697年間から始まり最後は791年までの事を編纂したもので、その多くは「桓武天皇期」に完成されたものであるが、「撰善言収書」はこの「編集の資料」にも成ったとされ、且つ、「日本初の完全法令書」の「大宝律令(701年)の参考書」にも成ったとされている。


さて、ここ迄の議論で、何で「伊勢青木氏」が「天皇家」も含むどの「氏族」よりも早く完全に近い形で「劣性遺伝による弊害の防止」の「血縁制度」を驚く速さで敷けたのかと云う“「疑問A」”がある。

そもそも、これは「賜姓族」であった為に「慣習仕来り掟」に縛られた中ではそう簡単に進む話ではない。
そして、もう一つの「疑問」は、何で「信濃青木氏」は血縁を含む「伊勢との繋がり」を迷うことなく即座に強く持ったかと云う“「疑問B」”のこの事である。

筆者は、この上記の「二つの疑問AB」は連動していたと観ている。

それには、つまり、上記の通り「史書」や「律令」に影響を与えたくらいのものであったとすれば“「撰善言司」“が大きく関わっていたと観ているのである。

全国地方を歩き廻り得た「善治」の中には、「家族を構成する血縁の事」も含まれていて、「天武天皇」を含む「三人の葬儀人」を務めたとする驚くべき「長寿と名誉」を得た「施基皇子」と、その全ての「二世族」は、この「施基皇子の知識」と「考え方」を反故にする事は先ず無かったと観ている。
その上で或いは、その「撰善言司の資料」は、或いは、「撰善言収書」の「写し」が後々まで遺されていた可能性があって、それを「二世族」が観てよいところを引き出し採用し、骨格化して作り上げたものであると観る。
それが「短期で反映された根拠」であって、且つ「血縁組織制度」であったと観ている。

(注釈 口伝に依れば、古書の殆どは「消失」としているので、自宅か菩提寺の何れかに保管されていて、これらの関係する資料は二度の火災の何れかで焼失したと観られる。
本来は、「青木氏族」に関わる執事役は「菩提寺」・「撰善言収書」の「写し」か、神明社の「守護神」・「撰善言収書」の「本書」の保管であるから何れかにあったと観られるが、「本書」は可能性が低いと観られる。)

故に、「施基皇子」の「白壁王(光仁天皇)」の子供の「山部王(桓武天皇)」、つまり、「孫」がその環境に育った事もあって、この「祖父の事」と「祖父の青木氏の事」を書いた「日本書紀」に続く歴史書の「続日本紀」を強い熱意を以って完全に仕上げたと観ている。

そもそも、「青木氏の歴史観」に関わるこの「続日本紀の編集経緯の件」ではあるが、これは、年数にすれば約95年も掛かったものであり、この経緯からすると放置していれば完成は出来ない事でもあった。
敢えて“仕上げた”とするからには、“それなりの強い意”があった事を示す。
何故ならば、この「続日本紀」は、当初は、「文武期以降の事から孝謙天皇期までの事」を偏纂しようとしたものである。

然し、編纂開始の時期の「第一期」は、「淳仁天皇(760年頃)」からでその間に政争等色々な出来事などに依って「中止」と成る等の経緯と成った。
この「外部勢力」を巻き込んだ「天皇家内部の政争」は、「外子王の淳仁天皇の正統性」を作り上げる事への「孝謙上皇(称徳天皇)の反発」にあったと観られる。
然し、この「反発」がその事に依る「中止の原因」と成った。

ところが、「第二期」としては、「光仁天皇」が「続日本紀の編集」を再度に命じたが、ところが、更には「編集者の反抗」を受け、更には「編集した資料」が「編者らの懐疑的な行為」により「紛失する等の事」が起こり、矢張り、未だ「孝謙天皇期の事」を引きずる論調が強く編集途中で有耶無耶にされ「停止」してしまった。

然し、「第三期」としては、「桓武天皇」が「父の意」を受けて「桓武期の途中までの内容」として再編纂する様に命じ、それも在位中の「天皇の権威」を背景に、遂には、「編集」に対する「紆余曲折」の末に完成させたものである。

最早、この段階では「血筋の正統性」の議論は霧消し、編集は加速したのである。

これらの「三つの期」を観ても、一つには明らかに「光仁天皇と桓武天皇」は「施基皇子族の天皇期」の「孝謙天皇の真意」を継承して「歴史的な証明」を成し遂げようとしたと観ている。

第一期は、「外子王の淳仁天皇」の「文武期からの正統性」を「歴史書」にして遺そうとした事でもある。
然し、「青木氏族」としても、且つ後勘としても、「四世族の傍系の外子王」である限りは「血縁の正統性」には無理があった事は否めないと考える。

「第二期」と「第三期」は、「孝謙天皇の意」を得て「血筋」を「天智期からの施基皇子族」の原点に戻して「天皇の正統性」を主張とした「歴史書の編纂」でもあった。

当時は、急激に100年程度も戻った「正統な血筋に戻す事」への「抵抗」があったと観られる。
それが「賜姓臣下族」で「朝臣族」の最高位にあった「施基皇子」でありながらも、「四世族外」の「王位」を持たない「二世族の血筋への疑問」にあったと観られ、その「抵抗」を大きく受けたと観える。

然し、「別の視点」では、「孝謙天皇期」に於いては、他に正統な後継者の皇子が居ない限りは“「外子王」(四世族)”である限りに於いては、「四世族」は「大化期の王位の条件」である以上は、最早、「最高の正統性」を持っていた事も否めない。
「大化改新」の「四世族王位制」からの論調とすれば、「外子王の淳仁天皇」としては「正統性」があるとの主張である。

それは、「四世族制の王位」の論調にあった。
然し、“「外子王」”は、「直系族」では無い「四世族内の傍系族」であるとすると、「血筋論」としては「直系族」では無い事から外れる。

この”「四世族の定義」”が明確では無かった事から起こった問題であって、原則論からすると先ずは「直系族論」であろう。
然し、この時は、最早、この「直系族」は全く無かったのであるから、「四世族王位論」を以って主張される事にも一理はある。
(「青木氏の氏是」がある限りは「青木氏族」としてはそうで合って欲しかった。現実に一族は皆その様に動いた。)

そうすると、「孝謙天皇」は、この「直系族論」を採ったとすると、そうすれば「天智・天武期」に戻す以外には無く成る。
故に、「施基皇子の族 青木氏族」か「川島皇子の族 佐々木氏族」かと云う事に成り、「井上内親王の嫁ぎ先」に「白羽の矢」が立て優先するは必然の事と成る。
況してや、何れの派にも属さない「天下の人格者」でもあった「施基皇子族」を選ぶであろう事は間違いはない。
この事を事前に察知していた「施基皇子族の二世族」は、この「醜い政争」に巻き込まれない様に警戒して「無冠」を望んでいた事は判る。

(注釈 氏是の説明と共に口伝でも伝わる事である。)

それが、「施基皇子」と「井上内親王」と云う「キーワード」に左右されたのである。
これが、その中でも「井上内親王」を「后」とした「四男の白壁王」は、「歴史書や書物」でも見られる様に「無能者」を装う程に、この「血筋の正統性の政争」に巻き込まれる事を大いに嫌っていた。
然し、「彼らの意」に反してこれが「最高手段」とした「孝謙天皇の主張」であった。

第三期は、当然に「光仁天皇の意」を下に「桓武期までの歴史書」にする事で「天皇の正統性」を完成させたものである。
「多くの説」があるにしても、当の「青木氏族」からの論調としては、「孝謙天皇の意」を完成さる事で「正統な天皇制」と云う「国体の有様」を完成させたという事であろう。
それは、況や、百々の詰りは本論のこの「血筋という事」に成り得る。
更に況や、「血筋優先論」であり、「直系族論」であった。

故に、何れも「天皇の正統性の主張」であり、「日本書紀の文武期までの歴史書」に繋いで、「続日本紀」とした事でも判る。
「孝謙天皇」は、この事に拘り「男系継承者」が無く成った事から、最早、「外子王の系統」にせずに「施基皇子」のところまでの「正統な処に戻そうとする葛藤行為」であった事が判る。

そこで、初めて、“何で「直近の文武期」には敢えて戻さなかったか”という事でも理解できる。
通常的には考えれば、正統な「血筋優先論」であり、「直系族論」であれば戻せた筈であろう。
然し、直ぐには「抵抗」を受け戻せなかったのである。

それは、次ぎの事に関わる。
一つ目は、本書の「編纂目的」は「日本書紀」に書かれた内容に繋ぐ「歴史書の編纂」にあり文武期からの編纂と成る事
二つ目は、「四世族」ではあるが「文武天皇」は、「天皇の子」ではなく「草壁皇子の子」で「王位」である事

(注釈 「草壁皇太子」は早没である事から「王位」であるが「持統天皇の引上げ」で「天皇」と成る。
第二皇太子の高市皇子も続けて没する。)

以上とすると、この論理からすると、文武期に戻す事は、「皇子の子」でない「外子王」の「舎人親王の子」の「淳仁天皇系」でも好いという事にも成り得る。

これでは、論理的に矛盾して「孝謙天皇の主張」に反する事に成る。
故に、その「施基皇子の志紀真人族」と云われる「氏族の経緯」を「歴史文書」に仕上げ「正統性の証」を建てたかったと観ている。

況や、「施基皇子族」に戻す事で「二つの懸案事項」は解消される事に成り得るし、「聖武天皇の皇女」の「井上内親王」と云う「切り札」でより「継承性」は成立する事に成る。
これにて、「孝謙天皇の主張」を押し通したと観ているのである。

(注釈 平安期は全ての天皇には自分の皇子としての「出自の正統性の確立」を成すその傾向があった。)

そもそも、「続日本紀の編集」を始めたのは「淳仁天皇」(47代)の本人であったが、「中止」と成った原因は「論争を含む政争」のここにあって、それを「書紀化する事」で成立する。
注釈としてつまりは、「自らの正統性」を御世に作り上げようとした「淳仁天皇」はこの行為は「背任行為」と観られ犯罪と捉えられて、何と「廃帝」と成り、「子孫」を一切を遺させずに「淡路配流罪の刑」を受ける事と成り失敗する。

この事でも「外子王の四世族制」は排除し抹殺し、「直系族性の四世族制」を成立させた事にも成る。
つまりは、”基本は直系族である”と云う合わせて「定義の成立劇」でもあった。

そもそも、「二世族」は「青木氏の氏是」を護り通し、「無冠」でなければ、「天皇家の醜い政争」に巻き込まれ「氏の滅亡」を覚悟しなければ成らなくなり、遂にはその為には“「厳しい廃嫡」”を常に実行しなければならなく成る。
そうすると、この事、即ち「純潔」だけを護り通す事を避けねばならない事に成る。
簡単に云えば、そこで、「表向き」は「四世族」に縛られながらも何とかして「常に外の血を入れる事の制度」が「青木氏族」の中に絶対的に必要に成り求められた事に成る。
そうでなければ、「優性の血縁維持」は成し得ない。
(但し、本論の意味合いは敢えて「優生」としない。)

「続日本紀の編纂」に依って、この結果、「青木氏族に課せられた事」と云えば、「直系族性の四世族制」を成立した以上は、その「基盤と成った青木氏族(所謂、氏元)」は、「青木氏族の氏是」(施基皇子の遺言説)に反しても、体面上でもその「血縁性を確立させる必要に迫られた事」に成る。
それが、上記した「純潔性の血縁に関する論調」であった。
嫌々ながらも今まで以上にその「責任」に攻め立てられた事に成った。
これは当に、「二律背反」であった。
「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」は背反する。

そこで「逃れ得ない背反」にどの様に対処するかに掛かっていた。
「青木氏族」に執っては「有史来の極めて苦しい立場」に置かれていた事が判る。

況してや、この時期は、「二足の草鞋策」で自ら「和紙」を開発し「部制度」による「余剰品の市場放出の役務」を朝廷より請負い「商いの基礎」が始まった時期でもありながら、「財政的負担」もより起こった。
「天皇家の氏元の責任」としても「賜姓五役」もより課せられた事に成った。

「青木氏族の存続」としては是非に逃れたい時期ではあった筈で、「天皇家の氏元の責任」だけでは「氏の存続」は成し得ず何の利益にもならない。
あるは「名誉と権威」であろうが、「氏存続」と「商いの基礎」には邪魔であろう。

つまりは、そもそも、「商い」無くしては次の事は成し得ない事が起こった。
「青木氏の氏是の順守」
「天皇家の氏元の責任」
「賜姓五役の遂行」

以上のこの三つは何事も成し得ないのである。
これが「唯一の解決策」であった事に成る。
況してや、上記した様に、更にこの後に一族の「嵯峨期」に於いては「皇親族や賜姓族」も外されたのであるから、「唯一の解決策」があったとしても、「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」は、「氏族存続」の為には「放棄する事」以外には無く成る。

その結果、「青木氏族の財力」を背景とした「天皇家の財政的能力」は低下し、「直系族」としての「四世族の仁明天皇」で終わる結果と成ったのであろう。

余談ではあるが、論じておく必要がここである。
これは一面では「嵯峨天皇の失敗」とも観える。
筆者は、この説を採っているが、何故に、「二足の草鞋策」を採っていた事は、「嵯峨天皇」は子供頃から観ていた筈でありながら、且つ、「権威」は「天皇」にそもそもあり、残るは「権威を強める財源の裏打ち」で、成せるものであると判らなかったのかである。

筆者は、戦略的に観てこれを「嵯峨天皇」は見落とした事と観ている。
何時の世も「権威」は「権威」だけで保てるものではない。
「朝廷」より敢えて「二足の草鞋策」が、「部制度の処理」として「天智天武期」から「青木氏族」だけに許されている事を鑑みれば、何故にこの「特権」を認可したかは容易に判る。
「嵯峨天皇」はこんな「簡単な事」を理解できなかったのかと云う疑問である。
これは特別に利発な者でなくても誰でも判る事であろう。

「桓武天皇と平城天皇」に対抗して「政治路線」の「政争」をしてまで「青木氏族」を外した事は理解が出来ない。

注釈として、他面で見れば、「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」のこの三つに苦しんでいるのを観て、外した事も考えられるが、そうだとするとこの「判断」は感情的で論理性に欠ける。
結果として、「財政力」が無く成り、「朝廷の財政的な負担」から、「皇子族」は「真人族四人」まで残して、後は「賜姓源氏族」にして「権威も財政も武力」も無しに世に放り出したのかであり、あるのは「真人族であったとする名誉」のみに成って仕舞った。
これでは「賜姓源氏族」は生きて行くことは到底に無理であり、「賜姓源氏族」は全国に飛散して「傍系族」に成って「不祥な姓族」を多く作って仕舞った原因と成った。
つまり、「青木氏族や佐々木氏族」の様には成らず子孫を全く遺せ無かった原因とも成ったのである。
遺せていれば「外縁族」に左右されずに、「天皇家の裾野」は強く成り、「継承者を廻る争い」を興さずに「繁栄の道」を辿っていた筈であると観る。

(注釈 その結果、何が起こったかと云うと、「11家11流の賜姓源氏」の内、四氏(嵯峨源氏、清和源氏、宇多源氏、村上源氏)を除いて地方に散り、又、僧侶に成るなどして家を興して子孫を遺す事は出来なかった。
主に、彼らは天智期の「坂東八平氏」を頼ったし、各地の「門跡院」や「比叡山]や「善光寺」に入山してしまった。
主に何とか遺された近江の土豪と成っていた「嵯峨源氏」は「清和源氏」に吸収され、「宇多源氏」は東北域にて「佐々木氏(神職住職系)」を名乗り、「村上源氏」は平家に吸収されるに至る。)


「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」のこの三つに確かに苦しんだが、然し、これを糧に「仁明天皇期」では、「二足の草鞋策」に完全に傾倒して「生き残り策」を推進し、「氏存続を目的」として朝廷より一時手を引いた。

この事に付いて「青木氏の資料」によれば、「嵯峨天皇期(809-823年頃)」には「余剰品払い出し業」の「商い」より離反し独立し、「仁明天皇期(833-850年頃)」には、「五家五流の青木氏族」と共に「和紙殖産」で何とか「氏族」を更に強化して興したとある。
そして、950年頃には、「和紙以外」にも「商い」を成立させ拡げ、「補完族の青木氏」の助けも受けて1025年頃には「総合商社」にて「宋貿易」を行う等して拡大を続けている。
遂には、「青木氏族の安定期」の「鎌倉期」を経て、「室町期(1360年頃以降)」には、戦乱期の中でも「紙文化の発展」で「巨万の富」を「二つの青木氏族」は獲得し、遂には、これを元手に「各種の殖産」による「商い」を本格化させて前段の江戸期に入る。

この「商いの経緯の事」から、70年-100年位で何度かの「商いの変革期」を迎えている。
筆者は、この「商いの変革期」は同時に「青木氏族の変革期」にも重複し、合わせて「血縁性の変革期」にも符合していると「青木氏の歴史観」として観ている。

結局は、「大きな変革期」の「嵯峨天皇」の「青木氏に対する仕打ち」が逆に「青木氏族」を奮い立たせ成功裏に導いていたとも解く。

故に、「上記の事の経緯」を敢えて論じたのには,「血縁の道筋」が「単なる優劣の弊害」だけでの事で収まると云うものでは無いと解いている。
これが同時に、「血縁の筋道」を作ったと考えているのである。
幾ら「血縁の筋道」と唱えても、上記の経緯に示す様に「財政的裏打ち」が無ければ成し得なかった筈であるし、将又、逆の事も云える。

上記の論説の通り、つまりは、この「商いの変革期」を無くしては「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」のこの「三つの事」は何事も成し得なかったのである。
つまり、少なくとも「前段の論説」の「江戸初期前の前後」までは、最低限に於いてこの「三つの事」は成し得ていた事に成る。

ところが、前段の江戸初期の前後の「商業組合の創設」や「地産の殖産」が始まると、その「血縁性」や「優性の血筋」の課題は、上記の「三つの事」の目的では最早無く成っていたと云う事である。

それは、この「三つの事」、即ち、「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」の目的は薄らいでいたという事にも成っていたのである。
これは当然と云えば当然ではあるが、取り分け、残るは「青木氏の氏是の順守」だけであった。
これは「青木氏の先祖からの口伝や遺資料」等をある程度伝え遺していた「曽祖父(江戸期)」や、これを受け継いだ「祖父の忘備録」等にも書かれている事でもある。
この「先祖の口伝や忘備録や遺資料」等に依れば、後は、「家柄を示す事」だけであって、それを使い分けていた事が良く判る。

(注釈 「祖父の忘備録」は明治35年の火災で多くの先祖を物語る資料関係を焼失して、それを何とか再現せんとして記録に残した資料で、次いで筆者が歴史好きの幼少の頃から再現を試みてここまで遺せた。70年以上は所要した。
そもそも、「伊勢青木氏」には、古来からの「青木氏族に関する古書」等を所蔵する「専用の蔵」があって、この蔵の事を「かせ蔵・架世蔵」と呼んでいたらしい。
奈良期からの「商い等に関わる古書」は「かせ蔵」に、「青木氏族に関わる古書や遺品」は「菩提寺蔵」に、「青木氏の伝統に関する古書」は「神明社蔵」に夫々分けて保管されていた事が判っている。)

唯、周囲が「商いの伊勢屋」><「郷氏の青木氏族」の関係をどの様に観るか、どう扱うかに依るとしていると「先祖の口伝を伝える祖父」等は云う。
“事を殊更に拘るな。粛々と青木氏の中で行えばよい”としている。
つまりは、唯一つの「伝統の先祖の遺言」の“「青木氏族の氏是」に従え“であろう。

それ等の意味からすると、“時代に従い、「商い」に重点が移りつつある事から「商いの伊勢屋」と「郷氏の青木氏族」との「使い分け」”に代わって行った事らしい。
それだけに、「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」の「役柄」の「三つの課せられた事」も次第に色あせて来たらしい。

(注釈 唯、“「朝廷への献納金」をどの様に評価するか“は、「青木氏族」に関わる事であって、「朝廷の献納金」は「明治3年」に終わった事が判る。
これの完全終結は「伊勢騒乱」終了後であったらしい。
始まりは、「江戸初期」と「室町期中期」と「鎌倉期末期」で、「平安期」は末期に中止している。
この「四つの期」がどのくらいの期間続いたかは「商記録」には無いが、「開始した期の意味」は判る。

江戸期初期は、朝廷が幕府に締め上げられていた時期と享保の改革期までの範囲
室町期中期は、紙文化と朝廷の荒廃時期までの範囲
鎌倉期末期は、元寇の役の朝廷の荒廃期までの範囲
平安期末期は、頼政の朝廷に関わった時期までの範囲

そもそも、「青木氏族」に執っては、最早、継続的に献納する意味が無く、その都度に献納するという体制を敷いていた事が判る。
恐らくは、最早、嵯峨期からは、「青木氏族の認識」は下記の理由に従っていた事から、「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」の昔の「役柄」等を持ち出され頼ってきて、密かに「献納」を依頼されたと観られる。故に断続的であったのであろう。
「頼政の乱」と「明治期の伊勢騒乱」ではこの「献納の効果」は確かにあった。)

その上に、江戸初期に「祖先神の神明社」も「密教の菩提寺」も江戸幕府に引き渡した事からも「権威性」は更に低下し、最早、「名誉」のみのものと成っていた事からも判る。
残るは、上記の“この名誉も周りが認めるものであって「青木氏族」自らが認めるものではない”とし、何度も云うがあくまでも“「青木氏族の氏是」に従え“が物語るものであって、依って「商い」が江戸期前後には、「名誉に頼らない体質」が、最早、大きく占めていた事に成る。
前段で論じた「享保の改革」の「伊勢屋の貢献の経緯」からも、「青木氏族」と云うよりは実質は“「伊勢屋」”であったろう。

つまりは、それまでは、それなりに「商いの伊勢屋」<「郷氏の青木氏族」の関係を維持していたが、室町期中期頃からは、「商いの伊勢屋」>「郷氏の青木氏族」の関係に変わって行った事の経緯に成る。
大概は「紙文化の発展」を起点に依って「変革」を遂げていったのであろう。

「殖産」を、況や、「巨万の富」を獲得した上で、これをどの様に使うかの問いに対して「商いで答える方法」を模索し拡大させる方法を導き出したのである。
それを基盤として「今後を作る事」が「青木氏族」に求められていたのである。

それは、「四世族制」、つまり「四掟」(「ロとハのリスク」を無くす血縁の掟)を護りながらも、それから離れた「女系族」に重点を置いて江戸前後期には、「地元と信濃」との「郷士衆との繋がり」に重点を置いたのである。
これで、「大殖産」を進める「青木氏族の地盤」が、「伊勢秀郷流一門の力」を借りて「伊勢全域」は元より「信濃域」までに広げて固めたという事に成る。
これで上段の「姓制」を置かずとも「清らかな血縁性」は「源流の如し」に成ったのである。

云わずと知れた同じ課題、即ち、「三つの事」を抱えていた「信濃青木氏族」が「殖産の商い」と共に「伊勢青木氏族」との「血縁の繋がり」を無制限にして一体化したという事に成る所以である。

当然に、室町期末期の「商業組合」の「15地域の青木氏族」との相互に「女系族」で繋がったは必然の事であろう。
云うまでも無いが、この「女系族の血縁の繋がり」を無くして「商業組合も殖産」も、江戸期の「氏家制度と封建制度」の「閉鎖的社会」の中では成し得なかった事であって、その事があって「商業組合の15地域」には「秀郷流青木氏族の商人」も含んでいる所以と成っているのである。
これにて「何らかの女系族の血縁」に依って「商業組合と殖産」は成し得たと観ている。
そして、それが、上段で論じた「女系を基本とする人の類」に従った事にあって、況や、「二つの青木氏族」の「生き残り策」は“「女系族策」”であったと説いている。

(注釈 「秀郷流青木氏」はこの「女系族策と姓族策」で生き残り、「賜姓臣下族青木氏」は「女系族策」だけにあった事が云え、それだけに「直系族」は伊勢と信濃だけ、「傍系族」は近江と甲斐と成って仕舞ったと云える。
「姓族策」は幕府や御三家の家臣化に依る。
「賜姓臣下族」は「姓族策」を採らない以上は「郷氏」を継続した。)

その最たる見本が、前段で論じた「射和商人の殖産」であったのである。
逆に言えば、「射和商人の殖産」は「女系族」を完成させたという事にも成る。

(注釈 その「女系族」を物語るものとして、「四家制度の女墓」(20家)がある。
これに依ると、ある程度、主流としては「秀郷流青木氏」と「地元郷士」と「信濃青木氏」との「女系の入」が判る。
「女系の出」は、「菩提寺の資料消失」で判り難いが、この女墓の「女系の入」があると云う事は、同じ範囲で「女系の出」があったと云う事を示す。
後は、「女墓や関係族の手紙や遺資料」から読み取ると、「伊勢近域の国」を中心に摂津、近江、駿河、伊豆、越前、越後、武蔵、常陸、下総などの「女系の入」が判る。
唯、どの様な理由なのか「甲斐と美濃」だけが「女系の出入」がよく判っていない。
「美濃」は早期に滅亡した事、「甲斐」は「独自性」が強く「付き合い」が少なかった事かも知れない。)


奈良期の施基皇子期から何度も紆余曲折しながら「四家制度の範囲」で「相互に女系の出入」が頻繁にあった事は概にして判る。
殆ど、「出入の女系血縁」に於いては「一体化に近い形」にあったと観られる「秀郷流青木氏」の「遺産伝の伝統資料」が多く世に出ていれば更に判るとも考えられるが、最早、無理であろう。)

(注釈 「近江佐々木氏」は早い段階で「秀郷流青木氏の血縁関係の事(青木氏族)」を研究されていて、この資料が非常に参考に成った。
と云う事は、「近江佐々木氏」の「賜姓臣下族青木氏と賜姓秀郷流青木氏」との「血縁関係」も把握していた事に成る。
個人情報に関わるので現存する「近江佐々木氏関係の血縁関係」からのものはここで網羅できない。
「近江佐々木氏の古書の研究書」が当家にある事は「女系に於いて充分な血縁関係」があった事を裏付ける。)

次の段では論じるが、この「女系族」を完成させた“「四六の古式の概念」”と云うものが「青木氏族」にあった。
「記録と関係族の口伝」でこの概要があった事を知り、これを時間をかけて解明した。
これに付いて次段で論じる。


> 「伝統シリーズ 40」に続く
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「青木氏の伝統 38」-「青木氏の歴史観-11」

[No.357] Re:「青木氏の伝統 38」-「青木氏の歴史観-11」 
投稿者:福管理人 投稿日:2017/10/13(Fri) 12:10:57
> 「伝統シリーズ-37」の末尾


>さて、この「青木氏の概念」で以って、「殖産の射和」を観た場合、どのような役割を果たしていたのかが疑問に成る。
>そして、この「殖産」で、上記の「生産力」は兎も角も、”その「松阪の販売力」(経営力)は足りていたのか”と云う疑問が沸くが、これが射和と青木氏の経済的な関係で大きく影響していたので「射和と殖産の関係」で次ぎに先に論じる。
>実は大いに影響していたのである。


> 「伝統シリーズ 38」に続く

そもそも、「射和」と云う松阪の一部の地域には、商いを前提とする地域では無かった。
前段でも論じたが「伊勢郷士」、取り分け、「松阪郷士」(A)が住む普通の土地柄であった。
ところが、この「射和郷士」は、「青木氏の女系」の「縁者関係の郷士」であった為に無力であった。
そこで室町末期に織田氏の支配下に入り、次ぎに秀吉の豊臣氏の支配下に入った。
この時、織田氏から伊勢制圧に功績のあった事から、ここを「近江の秀郷流藤原氏」の「蒲生氏郷」に任せ、彼らは「信長の楽市楽座の思想」を受け継ぎ「ヨーロッパ風の商業都市」を構築した。
この「商業都市の構築」に倣って「近江武士」から転身した「近江商人」(B)を呼び寄せて「伊勢商人」と共に発展させようとした
然し、織田氏が倒れ秀吉の代に成ると「浄土真宗の顕如一派」が秀吉に反抗し、「紀州征伐」として、この「門徒宗」を徹底掃討した。
追われた紀州の「門徒衆の下級武士」の一部が「不入の権」に守られた「伊勢」に逃げ込んできた。
見かねた「青木氏と松阪郷士(A)」は紀州の「異教の彼ら門徒衆(C)」を密かに「射和地域」に匿った。
そして、彼らに生きて行く為に“「商い」”を教え「青木氏の仏施」で導いた。

然し、ここには「青木氏の苦労」があった。
ところが、その最中、「日野城主」から「松阪城」を築城しその藩主に成った「蒲生氏郷」は、再び秀郷一族一門の多い事を背景に「陸奥黒川藩藩主」として秀吉に依って「北の固め」を強化する為に移封された。
この事で「蒲生氏郷の故郷」の「近江」から呼び寄せた「伊勢の近江商人(B)」は「強い背景」を失い困窮を極めた。
そこで、困窮の中で無謀にも江戸期に入り「江戸」に出て一旗を挙げようとした。
ところが、享保期前は相続く飢饉や震災などで経済は著しく疲弊し最悪と成り、彼ら「伊勢の近江商人(B)」は、再び故郷の援護の得られる「近江」には戻らずに不思議(1 下記)に「松阪」に戻った。
この間の約60年後には、その結果、彼らは多くは衰退したが、その一部は「名と意地」を捨て「青木氏X)」と「射和郷士(A)」等の庇護の下で何とか息を繋ぎ、「射和地域」の中で「住み分け」(2)をして「商い」(近江商人(B))に関わった。

享保期に入り「享保の改革」に依って「江戸の景気」は回復したところで、「青木氏の庇護(江戸の伊勢屋)」の中で、貧困に喘いでいた「資本力(財力)」の無い彼ら「近江商人(B)」は、「江戸の伊勢屋」を辿って再挑戦のために「射和」から「江戸」に出た。

(注釈 その「松阪」での「貧困の状況」が資料として遺されていて、代表する資料として最初に江戸に出て失敗した親は老いて病気と成り、「その日暮らしの事」が書かれている。
多くはこの様であった様である。)

又、「射和」で保護された「紀州門徒衆(C)」は江戸期には解放され、「商い」を覚えた彼らも同じく一部は「伊勢」の「近江商人(B)」の「商人」と共に江戸に出た。
(注釈 結果は成功しなかった。「射和」に戻ったかは判らない。)

これら(A)と(B)と(C)の「射和郷士(A」)の「商人」は、室町期に築いた巨万のその財力で伊勢全体を「殖産と商業組合」で固めた「青木氏(X)」の庇護の下にあった。
そして、二度目には江戸での「近江商人(B)」の「子供等の成功」で“「松阪商人」”と享保期以降に呼ばれる様に成った。

(注釈 吉宗の「享保の改革」に完全補完した「青木氏(X) (伊勢屋)」が下地と成り「松阪商人」(AとBとC)がこの様な経緯で生まれた。
「江戸での仏施」の「質の江戸伊勢屋(青木氏の商業組合組織)」が低利で「彼らの出店」を促した。)

つまり、「伊勢商人」の中の一つの“「松阪商人」”とは、「松阪商人(青木氏)」と「射和商人」と更に区分けされているが、そのルーツは、享保期末期以降に「江戸」で「商い」に成功したその他の商人も含めて「伊勢商人(享保期の後半期)」と「松阪商人(享保期の前半期)」と区分けして呼ばれる様に成った。

ところが、この状況の中で「青木氏」に執って「近江商人(B)の反目(意地と誇り)」と共に、更に次の様な困った事があった。

そもそも、「紀州門徒衆の(C)」は、その元は「紀州の郷士武士」でもあり、「商人」として必要な「柔軟性」に欠け、「肩肘」を張った者等であった。
又、その「心情の元」と成る「彼らの宗派」の影響もあって、考え方にも異なる事もあったが、実に反目に近い形で閉鎖的で「松阪郷士・射和郷士の(A)」と「近江商人の(B)」とも融合しようとしなかった。
勿論、「松阪」を仕切っている「青木氏(X)」とも大きく距離を置いた。
又、「近江商人(B)」も「紀州門徒衆(C)(異教と異郷)」程ではないが閉鎖的で、取り分け、「青木氏(X)」とは「彼らの家柄の誇り」もあるのか、「紀州門徒宗(C)(異教と異郷)」との距離感と違って、殆ど、「親しみの無い冷めた距離観」を取っていた。

注釈として そもそも、「松阪」に来た「近江商人」のそのルーツは、「近江佐々木氏(始祖 川島皇子)」や「近江の藤原氏北家秀郷一門」の傍系ではあるが、その“「末裔」”とも云われ、かなりの高い「誇り」は持っていた。
この「北伊勢」には、「北家近江藤原秀郷一門」の血筋と、「藤原氏北家宗家の血筋」もを引く「伊勢秀郷流青木氏」が存在していた。
この近江の「出自の氏郷」の「蒲生氏の血筋」が、「伊勢秀郷流青木氏の跡目」に入る等の事もあって、「青木氏(X)」は勿論の事、同じ家柄家筋を持つ「射和郷士(A)」、つまり、「青木氏の女系族」にも肩を活からせた「誇り」を持っていたのではないかと考えられる。
今は「商人」と成り得ていたとしても、“武士は食わねど爪楊枝”であったのであろう。

(注釈 「紀州門徒衆(C)」も紀州郷士として貧困の中で生きて行く為に、紀州城下門前町の装飾や漆職人としても働いていた。)

「青木氏(X)」として援護するにしても何れも「難しい相手」であった筈である。
何か「適格な対応」が必要であった。
現実に、彼ら「近江商人(B)」は、「江戸」で成功後は、「青木氏(X)」の「殖産の商い」を物語る資料関係には「近江の一字」も全く出て来ない。

この事から検証すると、最初の「江戸での失敗」で「近江に帰らなかった理由」(不思議 1)は読み取れる。
それは、次ぎの心理(計算された維持)が働いたのではないか。

近江に帰れば、「氏家制度」の中で家柄家筋の良い「二足の草鞋策」を敷く「本家筋の庇護」を受けて生活を余儀なくされる。
恐らくは、彼らの下である程度の生活は維持されたとしも次ぎのチャンスは最早ない。
彼らの天下に誇る「宗家筋」、或いは、「本家筋」は、世間に対して「その立場」を失うとして絶対認めないであろう。
それよりは「貧困」を得ても「青木氏(X)の庇護下」の中でも「自由の利く松阪」で生き残りを選んだ事に成るだろ。
だから、より「青木氏(X)」に対して「意地を張った誇り」の為にも縛られることのない範囲の「距離感」を置くことで「自由度」を高めようとしたのではないか。
況や、故に、「二度目の成功裏」には、「武士」でありながらも「商人」であるとし、「道理や仁義」の欠くこの「不思議な距離感」を「最大限」にしたと考えられ、この「諸行無常の道」を選んだのであろう。


さて、「近江商人」は兎も角も、「松阪商人の本題」に戻るが、この「松阪商人」の(AとBとC)に前段の「殖産に依って増えて行く販売(営業力)」を担わしたのである。
そして、この「難しい環境」の中で「青木氏(X)」は、それぞれに適した「殖産の販売力の役割」を与えようとした。(適格な対応)

当然に「近江商人(B)」の「意地と誇り」と「紀州門徒宗(C)の「異教と異郷」にあった「営業の役割」を考えて割り振らねばならない事に成った。

その役割は、次ぎの通りであった。

「伊勢和紙(松阪紙型含む)」
「松阪木綿(綿油含む)」
「松阪絹布(松阪紬)」

以上の三つであった。

ところが、更には彼らはこの時期は未だ「商い」に充分に馴染んでいなかった。
貧困に喘いでいた近江から来た「近江商人(B)」を除いては、「青木氏」と繋がりのある「(A)の射和郷士衆」も、又、救った「門徒衆の郷士(C)」の「紀州の下級武士」にも「商い」のそのものには無縁であった。

唯、「(A)の射和郷士衆」には、江戸期前からの「青木氏部の関係」もあって生産する事に対する経験は深く持っていた。
唯、生産は作業場などを作り「人」を雇いする事で可能であったが「販売」はどうかとするとそこまではそもそも「身分家柄上」は無理であった。
取り分け、奈良期より伊勢の「楮和紙の生産」には開発段階から「青木氏(X)」と共に関わっていた何事にも変え難い経緯を持っている。
どちらかと云うと、今で云う「生産技術者」であった。

当然に、彼らに、「殖産」の「伊勢和紙(松阪紙型含む)」、「松阪木綿(綿油含む)」、「松阪絹布(松阪紬)」の販売に携わらせたという事に成るが、必然的に「伊勢和紙」の主は「(A)の射和郷士衆」と成る。
でも、“それで済むか”と云う話には成る。
「(A)の射和郷士衆」は、「青木氏(X)」が「近江商人(B)」の「意地と誇り」と「紀州門徒宗(C)の「異教と異郷」を支援をする以上は、「青木氏(X)」に代わってかなり「難しい事」ではあるが、「近江商人(B)」と「紀州門徒衆(C)」の面倒も看る事にも成る。

従って、後勘からの観ても、他の二つの「松阪木綿(綿油含む)」、「松阪絹布(松阪紬)」も観ていただろう事は当然に解る。

取り分け、「紀州門徒衆(C)」には、その「難しい性格や信条」から「商い」は疎か、将又、「生産のイロハ」から教える必要に迫られた筈で、説得から始まり教える事は「苦難の技」であったろう事は判る。
助けられたとは云え「松阪郷士(A)」や「近江商人(B)」とは、当時の封建社会の社会慣習からして三者ともに同じ「郷士の身分」(「松阪郷士、近江郷士、紀州郷士」)であったとしても、そのルーツの「家柄家筋」には違いがあり過ぎる。
「彼らの立場」からすると、これは全て「負い目」であり、委縮して僻んでも至し方は無いであろう。
この事は逃れ得ない事であり間違いは無いであろう。

そこで、兎も角も(A)と(B)と(C)の「商人」と成った彼らには「商記録等の内容」や「松阪に遺された資料」からも「状況証拠」として判る。

では、問題はこの「三つの役割」をどの様に彼らに割り振ったに掛かってくる。
無茶に割り振る事は出来なかった筈で、その「性格や信条」と「射和地域」の「住み分けの地域」や「地理条件」や「水利条件」などが働いた筈である。
余り資料には成っていないのだが、大方は判る。

そもそも、「松阪の射和地域」は次の様に極めて良好な位置にあった。
当然にそれは「殖産と云う点」でも云える事でもある。

先ず、資料関係から読み取ると、次ぎの様に成っていた。

そもそも、「射和地域」は東の海側より「12Kmの位置(3里)」に存在する。
「射和地区の範囲」は南北左右の「2Kmの範囲」である。
「櫛田川」の川沿いの北側に位置し、櫛田川の入口よりも「12Kmの位置」にある。
東側の港の荷上場や漁村から「西の位置」に存在する。
南側に位置し、「宮川」とに接する「青木氏の生産の殖産地」の「玉城地域」とは、丁度、櫛田川と宮川を挟んで隣接する「南北の位置」に存在する。
西隣には「名張地区」、その上の北側には「伊賀地区」の「生産線状」にあり、当然に、この「射和」の北隣は「司令塔」の「松阪地区」である。
つまり、地形上は「鶴翼の陣形」で、鶴の翼に囲まれた中央には「射和」の「販売地区」が「三つの範囲」で存在する。
これは「青木氏の殖産」の「コンビナート」であったと云える。

既に、江戸初期には、「殖産の商いの戦略」として「近代的な体系」が「青木氏」等に依って確立していた事を示す。

その「射和地域」は、「櫛田川の川洲」より「北側の平地」のほぼ中央(イとハの左右に村)には低い山があり、東西に伸びていて、そこから盆地の様に東西に横切る様に「平地の畑地」がある。
そこから、北に山が東西に続く。
この「山地の谷部」の「左右2か所」に明らかに「開発されたと観られる平地」が山際に存在し、そこに「村(ニ)」がある。
そして、欠かせない「交通運輸の道」として南北のほぼ中央右寄りを縦に「熊野古道」が横切る。
「住み分け」のみならず「交通の便」も含み「販売拠点」としては申し分ない位置にある。

明らかに「鶴翼の陣形」にして「地形と水利」を利用して「殖産の販売拠点」として開発されたものである事が容易に判る。

そこで、「鶴翼の販売拠点」の「射和地域」の「住み分け」は次の様に成っていた。

(イ) 「松阪郷士(A)」は、左右、つまり、「東西2Kmの東側」に定住していた。
(ハ) 「近江商人(B)」は、「東西2Kmの西側」に定住していた。
(ニ) 「紀州門徒衆(C)」は、「西側の上の地域(山間地)」を東に向きに配置されていた。

“「住み分け」”には、その地区には「菩提寺」、或いは「檀家寺」が伴う。

この点で観てみると次の様に成る。

(イ)の「松阪郷士(C)」は、古来より「松阪出自」であり「浄土宗」で密教の「菩提寺」
(ロ)の「近江商人(B)」は、「近江出自の郷士」であり「天台宗」で密教の「菩提寺」
(ハ)の「紀州門徒衆(C)」は、「紀州出自の郷士」で「浄土真宗」で顕教の「檀家寺」

(イ)には、江戸期には「射和」の直ぐ東側に「青木氏の分寺」と「浄土宗寺」が存在している。

恐らくは、ここが「青木氏系に近い縁戚関係」の「氏人」の「松阪郷士」がこの「分寺」に、その「他の郷士衆」は「浄土宗(A)」に帰依したと考えられる。

(ロ)には、「松阪の南 射和寄り」には珍しく「天台宗の寺」が数寺存在していた。

「明治期の寺分布」で観てみると、「天台宗」は松阪地区南には「数寺(四寺か)」が存在している。
そもそも、江戸期以前の「松阪」は、古来より「密教浄土宗の聖域」で「不入の権」と共に「不可侵の地域」とされた。
「伊勢神宮」が存在する為に混乱を避けるためにも「宗教的」にも保護され「浄土宗密教」のみが許されていた地域であった。

(注釈 ここで「歴史観イ」として重要なのは、「浄土宗密教」とは、「古来の浄土観念」を「密教」として引き継いだ「古来宗教」であり、「神仏融合」の「宗教的概念」を指す。
これを「法然」が「神仏」を分離し仏教の「浄土宗」として概念を「密教」としながらも一般化した。
その前身とも云える。
「五家五流の青木氏」や「近江系佐々木氏」がこれを引き継いだ。
故に、両氏には「氏内の者」で「神職と住職」が共に多い所以でもある。
従って、この「概念」で「伊勢神宮域」は少なくとも護られていた為に「伊勢松坂」には他宗派は原則は存在し得えない事に成る。)

(注釈 「歴史観ロ」として重要なのは、唯、「朝廷の学問処」を務めていた武家貴族の「北畠氏」が室町期の世の乱れに乗じて「不入不倫の権」の禁令を破り、無防備な「伊勢」に侵入した。
「北畠氏」にしてみれば、「侵入の大義」は表向きにはあった。
それは、「戦国の世」に成り、流石に「伊勢」も「不入と不可侵の権」だけの名目では弱体化した「朝廷の威信」では守り切れなくなった。
流石、「伊勢」を護る「青木氏」は「シンジケート」を「抑止力」として待ちながらも、この衰退の“勢いに勝ち得るのか”と云う事を心配に成った「北畠氏」は「伊勢(四日市の左域に御所設置)」に入ったと主張した。
そして、建前上、伊勢に“「御所」”と銘打って支配して伊勢以外にも勢力を拡大した。)

(注釈 「歴史観ハ」として重要なのは、この「北畠氏」は、戦国で敗れた武田氏の浪人等や秀郷一門の傍系の溢れた武士等を雇い家臣として「強固な武力集団」を構築した。
その財源を平安末期からの各地の「名義貸しの荘園」に置き、その「名義荘園」を武力で奪い取った。
全国各地で主な「武家貴族」のこの現象が起こった。
この時、存立をかけて止む無く「青木氏」は「北畠氏」に合力したが本意ではなかった。
ところが、流石、「信長」はこの現象を見逃さなかった。
武力を背景に「信雄」を養子にして「北畠氏」を奪い、挙句は「北畠氏」を乗っ取った上で武力で伊勢等を攻め取った。
建前上、「青木氏」は「北畠氏」に合力したと見せかけ、裏で「伊勢信濃シンジケート」と近隣の「今井氏の支配下」にある「神社系シンジケート」を使って「織田信雄」を敗戦に追い込んだ。
「織田氏」は、この後に「信雄」に代わって「青木氏」と関わりのある「蒲生氏郷」が入り「伊勢」は「酷い戦乱」とはならず穏便に収まりを見せた。
そして「青木氏」は「シンジケート」を引いた。)


所謂、この「歴史観イ、歴史観ロ、歴史観ハ」があってこそ、ここに他の「密教の天台宗寺」が少なくとも「松阪」に存在する事は本来は難しい事と成ったのである。
然し、「織田信長」はこの禁を無視した事になるのだが、その倣いに従い「蒲生氏郷」が上記した様に“「近江商人」”を呼び寄せた。
この結果、彼らの「天台宗の菩提寺」を「松阪の南」、つまり、「射和の北」に建立したが、「蒲生氏郷」が「陸奥」に移封と成った事で、最早、余りにも遠い「陸奥」までに同行せずにいた事でその「勢い」は落ち「松阪」に残った事に成った。

ところが、結果として当然に「勢い」を失い「射和の北」(松阪の南)で定住していた地域は、その「地権」を放棄して、この地域の「本来の地権者」の「青木氏(X)」に譲り、その後の「住み分け」が進み、上記した「射和の西側」に「近江商人(B)」は移った。

この為に、本来は「射和地域」にも後に幾つも建立した筈の「天台宗の寺」が「一寺」しかなく無いのである。
逆に「元の定住地」には、「菩提寺」は維持が出来なく成り、海側より西の山手に向かって「顕教の檀家寺」と成った「天台宗の寺」が数寺が存在する所以でもある。

(注釈 彼らの「天台宗寺」は「松阪の南」、つまり、「射和の北側」には天台種の寺は三寺「一寺は派が異なる」があったが、江戸期初期には、その派流から「菩提寺」はこの海側にある一つであると観られ、その他は明治期に建立されたものと考えられる。(寺名は秘匿)
「天台宗」は、本来は「密教」であるが、{平安期の宗教論争}で「顕教」も並立させて「武家貴族の信者」を獲得させた。これが派流の生まれた原因である。)

注釈として、「歴史観ニ」として重要な事は、彼らの「地権の放棄」には、次ぎの経緯があった事が伺える。

上記の「殖産の販売力」を拡大させるには、絶対に彼らの持つ高い優れた近江からの伝統に基づく「商い術」は見逃せない。
又、「青木氏(X)」に執っては、上記の「維持と誇り」を適え、且つ、進んで積極的に取り組んで貰うためには、彼らにもう一度の「再起力」を与える必要があった。
それは「再起の資金力」であった。
それが、上記の「地権の買戻し」であり、その条件として「青木氏(X)の地権」の多く持つ「射和郷士(A)」の定住地であった「射和の西」に土地を与えた。
当然、「地権売却の資金 近江商人(B)」だけではジリ貧で、「殖産の販売の仕事」を与える事で生き続ける事が可能と成る。

況や、「青木氏の逃避地」の「越前の神明社」にて大いに行っていた「仏施」を、当に伊勢松坂でも行った「歴史的な青木氏の大仏施」であった。

(注釈 この「仏施」は彼らの享保後の江戸出店までに続いた。)

さて、これで「近江商人(B)」の関りは述べたが、次は「紀州門徒衆(C)」の事に成る。

上記した様に、次ぎの問題があった。

何はともあれ政権や仲間の門徒衆から暫くは匿う必要があった事
当時、世間を騒がして警戒されていた「門徒宗」である事
彼らの「異教と異郷」、更には彼らの持つ「頑な性質」がある事

いくら何でも、これだけの事があれば、「射和郷士(A)」「近江商人(B)」と同調させて生活させる事は至難の業である。
何か「緩衝材の策」が必要であろう。

「縁戚の氏人衆」の「射和郷士(A)」にそれを任すとしても「何らかの手」を打たねば、それこそ縁者関係の「射和郷士(A)」からは「青木氏(X)」は完全に信頼を失うは必至である。

当然に、事前に充分に打ち合わせはした。
一つは、それを証明するのが彼らが定住していた「地域の地形」(a)から判る。
もう一つは、「彼等の衆徒」には「寺」を建立するに必要な「財力」は未だ当然に全く無かった。

そこで、「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」は、落ち着いて定住させる為にも”「信心する寺の建立」”を一寺(浄土真宗 東本願寺)を匿っている居住区に敢えて建てて「手(b)」を打っている。

これは、「地権」を持ち、「縁戚の松阪郷士」の「伝統ある定住地」に勝手に他宗の寺を建立する事は許す事は無い。(あ)
又、「氏人」を含む「青木氏等の浄土宗密教の地」に「常識や慣習仕来り掟」から観ても100%あり得ない事であったし、これは世間からも蔑視される危険性もあった。(い)
況してや、当時の閉鎖的で不審者を排除する「村体制」の中の世間から危険性を以って視られていた「門徒衆」でもある。(う)
紀州や関西域で大騒動を起こした「門徒衆」が「村」に入り、又、同じ事を起こされるのではないかと云う恐怖心もあった。(え)

この(あ)から(え)までの事があっても「異教の寺」を射和に建てるという事は相当な決断が居る。

建てれば匿った紀州郷士衆の存在が公に成る。
密かに匿ったとした「青木氏(X)」と「松阪郷士(A)」は、紀州藩は敢えて殖産の為に黙認していても事も水の泡と成り公に匿ったと成って仕舞う。
その事を覚悟で建てるのである。

そこまでして「青木氏(X)」と「松阪郷士(A)」には、「販売力の強化」以外に他に得るべきメリットがあったのであろうか疑問である。
後から紀州で肩身の狭い思いをして生きていた門徒衆と彼らの家族は押し寄せてくる事も予想出来た。
匿うだけでその侭にしていても好かった筈である。
唯、困る事があった。それは「紀州門徒衆(C)」が、「紀州の門徒衆」が押し寄せてくる事は販売力強化の点でも好い事ではある。
然し、彼らが「射和」に居つくにしても恥を我慢しなければならない。
その結果、紀州にじわじわと逃げ帰る事だけは、紀州藩が期待する「丸投げの殖産」の意味からも、避けねばならない事であった。
それには、“「彼らの心の拠り所」”を作り上げる事であった。
そうすれば、「紀州門徒衆」が押し寄せる事も更に起こり、当然に逃げ帰る事も防げる。

後は、結局は、前段でも論じた様に最も「伝統」を重んじて来た、むしろ、「伝統の氏族」の様な「青木氏(X)と松阪郷士(A)の伝統」がこれをどの様に扱うかに係る重要な事に成る。
当然に「紀州藩」は「殖産に依る税の利益」を先んじて、それは「青木氏族」に任せば良いとして完全に黙認している。

結局は、奈良期からの一度も破らなかった「禁断の伝統」の一部を「浄土真宗寺」を建てる事に踏み切り破る事にしたのである。
同時に「伊賀郷士の全国から呼び寄せ」も行っている時期でもあり、「議論百質」であった事は充分に判る。

(注釈 伊賀には縁戚筋関係のつながりはあったとしても「青木氏の地権」は多く及んで居ないことから「内部の治世」には深く組み込めなかった。)

注釈として、「浄土真宗寺の建立時期」は異宗である事と、「伝統を破った事」からも資料的なものは見つからず「寺の由来」も記録には無い。恣意的に不記載とした可能性もある。
「彼らの財力」では、「江戸期後半の成功期」にしても遺されたあらゆる資料からはそれほどの財力は無かった事が伺い知れる。
彼らの財力有り無しに関わらず、結局は「青木氏(X)と松阪郷士(A)」の「地権のある射和」では、況して「他宗禁令の松阪」では無理な事であり、「定住地の開拓開墾」を含めて「青木氏(X)と松阪郷士(A)」の「財力に頼る事」以外には無かった事に成る。
状況証拠から割と早期の1630年から1650年頃に「浄土真宗寺の建立」に踏み切ったと考えられる。



例えば、上記した様に先ず「地形」であるが、櫛田川の中州の後ろの小高い山続きの中ほどに山に囲まれて「開拓された畑地」が現在もあり、その後ろ側の山の角の様に山に囲まれた谷部に開発された狭い居住用の様な「窪地」が二つ存在する。
明らかに、これは“「作られた地形」”であって恣意的には周囲からは判らない様にしての開拓と成っている。
そして、その「居住用の窪地」の前に開拓されたと観られる「生活用の畑地」が存在する。
明らかに「造られた秘境」である。
中州からは全く見えない小山の中に存在する造られた「天然の隠家」の様である。
近くを「熊野古道」が縦断するが、ここからも見えない山手の奥方の隠れた地形にある。
然し、「熊野古道」には山伝に1Km強程度で簡単に出られる。
この「居住地の窪み」の「西寄り」にこの「問題の寺」が存在する。
「戦略的な位置関係」にあり、且つ、「恣意的な位置関係」にあり、“いざ”と云う時には「防御の拠点」とも成り得る。
山を越えれば櫛田川であり「生活用品の調達」は容易である。

ここに「門徒衆(C)」を匿って、「殖産の仕事」を与えた。

では、問題は上記した「三つの営業力(販売力)」をどの様に配分したかに関わってくる。

その「配分の内容」は、次ぎの通りである。

「伊勢和紙(松阪紙型含む)」
「松阪木綿(綿油含む)」
「松阪絹布(松阪紬)」

以上の三つであった。

「松阪郷士(A)」は、「和紙の開発から生産」まで朝廷の命で「紙屋院」として日本最初に手掛けた「青木氏の氏人」である事は云うまでも無い。
そして、それを「近江と信濃と甲斐の青木氏」に広め、「志紀真人族」の彼らの「生きて行く基盤」を作り上げた。
「松阪郷士」、取り分け、「射和郷士」はこの「第一の貢献者」でもあった。
従って、「射和郷士(A)」は、当然に「伊勢和紙(松阪紙型含む)」を担当した。
然し、他の「近江商人(B)」と「紀州門徒衆(C)」の「殖産に関わる事」に「青木氏(X)」に代わって面倒を見なければならない。
他の二つの「松阪木綿(綿油含む)」と「松阪絹布(松阪紬)」の面倒は知らないという行為はあり得え無い。
「商記録」に依れば、どのような形かは明確ではないが、全体の状況証拠から観て、「監視や管理」も含めて「販売状況の把握」と「工程管理の進捗」を観ていた事が判る。
何故ならば、「工程管理」では、所詮、彼らは「外者」であり、「生産工程」まで「督促などの発言力」を持ち得ていなかった。
故に、「発言力」のある誰かがこの「パイプ役の実務」を演じなければならない。
必然的にそうなれば、「松阪郷士」の「射和郷士(A)」と成る。

商記録には、「・・射和・・・・入り」とあり、「玉城」から「松阪木綿の製品」が入った事を記したと考えられる。

注釈として、 ・・・は虫食いで充分に読み取れず、・・・は、“射和・・木綿入り”と記されていた事が判る。
ここで云う「射和」と「木綿」との間の「・・の欠損部」には、「・反」とし「数字」が、「射和の地名」の前の「・・の欠損部」には販売全体を取り仕切る「射和郷士(A)」の総称を“射和”としていた事が判る。

これで、「綿布」は「射和郷士(A)」の「差配頭」に届けられ、それが「青木氏(X)の商記録」に「情報」として伝えられていた事に成る。

この事から「差配頭」から「松阪木綿」は「近江商人(B)」の各店に分配されていた事に成る。
上記した様に、「監視や管理」も含めて「販売状況の把握」と「工程管理の進捗」を観ていた事に成る。
「商記録全体」を通して観るとこの事がよく判る。

これでも「射和郷士(A)」が関わっていたと成ると、「松阪木綿」が「販売営業力」に経験のある「近江商人(B)」の「専属の販売担当」であった事が判る。
「江戸出店」して成功した「近江商人(B)の事」に付いて書かれた内容を読むとこの事は明らかで“「木綿商人」”と表現するまでにあり、これを扱っていた事は明白なのだ。
唯、彼らが江戸にて成功を遂げたのは「享保期の後半以降」であり、この時は既に“「伊勢木綿」”も津域で生産されていて、これも“「木綿商人の表現」“の中に入っていたと考えられる。
故に、最終は、「近江商人(B)」は、温情を受けた「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」とを裏切り「反目する態度」を取ったと考えられる。

彼らから観れば、「温情」という考え方より「根っからの近江商人」である事から、「運用資金」を「借金」で調達し返したとし、「原資」は「地権売却」であったとすれば、「青木氏(X)」等には“恩義はさらさらない”とする考え方が成立する。
「射和郷士の差配頭」の手紙の中を観ると、更には、江戸で成功を納めた「近江商人(B)」は、中には「吉宗の享保の改革」に貢献した「青木氏(X)」の「江戸の伊勢屋」の名を使って喧伝し「商い」を有利に導いた事があったと記されている。
合わせて、「青木氏の名」を上手く使った事も併記されている。
この手紙は「射和」がこの情報を掴み「福家」に報告した事への返信であろう。
然し、「青木氏の氏是」から“取り立てて騒がない事”が書かれている。

「歴史の後勘」から観ると、「彼らの立場」からすると、そうなるのかも知れない。
「射和」で「殖産の販売力」として「青木氏(X):青木氏と伊勢屋」の中で「松阪木綿」を扱い働いた。
そして「松阪木綿」で独立したとすると、それを紀州藩を背後に「殖産」として一手に扱った事は、まさしく「伊勢屋」であり「青木氏」である事を広義的に意味する。
“我々は、「江戸の伊勢屋」の出店だ”と主張しても「著作権」など無い時代におかしくは無いであろう。

この享保期後半の時期は、吉宗との路線の行き違いから「青木氏(X):青木氏と伊勢屋」は松阪に引き上げている。
故に、この事件は、尚更らの事であって、「氏是の事」もあり騒ぐことは得策ではないとして「射和郷士(A)」を宥めたと考えられる。

従って、彼らの精神は、彼らに執ってみれば「射和」は、“その一時の話”と成ろう。
故に、「射和」には一寺の「檀家寺」(顕教寺)があったとしても「菩提寺」がない事に成る。
つまり、“敢えて作る必要はなかった事”等が読み解ける事に成るし、更には「射和郷士(A)」も「寺」は許さなかったであろうことが判る。
この両方が一致すれば、「寺」を潰す事も充分にあったと考えられ、事を納めるには潰すしかなかったとし、「青木氏(X)」も「射和郷士(A)」の意見を入れて許して丸く納めたと観る。
筆者はこの「潰した説」を採っている。

これで、「射和郷士(A)」と「近江商人(B)」の担当領域は読み解けたが、難しいのは「紀州門徒衆(C)」の事であり、且つ、「松阪絹布・松阪紬」の事である。
何せ参考と成る資料が殆ど残っていないのである。
これには次の理由があった。

「絹」は古来からの物で、朝廷に部制度に依って納められる「朝廷の専売品」で、「余剰品」を除いて「絹物」は一般市場に出回らない。
これが高貴族に“「松阪紬」”と呼ばれた所以である。
当時は、「伊勢和紙」も「信濃和紙」も「甲斐和紙」も「近江和紙」も同じく「部制度」による「専売品」で、これを「四家四流の青木氏」が「青木氏部」を持ち「朝廷」に収めていた。
しかし、「青木氏部の努力」により「余剰品」が出て925年頃に市場に卸す事を許され、直ぐ後に「商い」をする事で朝廷の大きい財源と成る事から、特別に「四家四流の青木氏」に対して「朝廷」より「賜姓五役」以外に「氏族の商い」を「二足の草鞋策」を前提に特別に慣例を破って許された。

(注釈 この時から「武家貴族の青木氏」と「商人の青木氏」の「二面性を持つ青木氏」が生まれた。)

ところが、細々と「絹物」を「朝廷用」として生産していたが、江戸期に入り「徳川氏の後押し」もあり「殖産品」として「松阪紬」を生産し始めた。

これには注釈として、 「5千石以上の幕臣武士」を対象として許可を得て「絹衣着用」を許された為にその需要が増したが、貴重な「絹紬」は幕府が身分に応じてその着用を禁じた。
そして、「商人」などの「裕福な庶民」が使う「絹物」と、「高級武士」など身分の高い身分の者が着用する「絹物」との「品質」に差をつけた。
更に、「質素倹約令」に基づき「城」で着用する「紋付羽織や袴や裃」の絹物の使用は将軍からの特別な許可が必要と成っていた。
これを「絹衣着用のお定め」としていた。

(注釈 「青木氏(X)」は、この姿で享保期に将軍御座の前面で意見を述べる権利を所有していた。本来は格式か上座にある。)

厳しい「身分仕様の絹物」には、更に厳しい「括り」があり、取り分け、その中でも“「松阪紬」”は「古来からの超高級品」である事から「徳川氏の専売品」として納める事に成っていた。

(注釈 「秀郷一門の結城地区」で生産される「結城紬」も「松阪紬」と同じ立場に置かれ同じ事であった。)

(注釈 「青木氏(X)」が手掛けていた「古来からの藤白墨」も「朝廷の専売品」から時の「政権の専売品」と成り、一部は「朝廷」に流され、取り分け、明治期まで「徳川氏の専売品」(紀州藩総括)で市場には出回らなかった。)

注釈のこれと同じく「松阪紬」は殖産する事で何とか市場に出回るほどの「生産力」を保持し高めたが、「超高級品」として「紀州藩の専売品」と成っていた。
つまり、「青木氏(X)の殖産」により労せずして入る「紀州藩の超財源」と成った事に成る。
故に、前期した様に「本領安堵並みの地権」を「青木氏(X)」に惜しみなく与えたのである。

注釈として、徳川氏の幕府は、「紀州藩の成功」に真似て、「青木氏の定住地」にも「幕府領(「信濃 36村・甲斐 315村」)を確保して一部に「地権」を与え「二家二流青木氏」にも「和紙の殖産」と「養蚕の殖産」を命じた。

この様な背景があって、「絹の扱い」には「木綿」などとは雲泥の差にあった。

この差の面倒な「仕分け作業」を「紀州門徒衆(C)」に担当させたのである。

では、問題は、“どのような作業であったのか”である。この時代では不思議な作業であった。

それは、「検品、仕分け、仕立て、荷造り、搬送」とあり、これを“「五仕業」”と記されている。

つまり、上記の通り、「販売拡充の努力」は不必要で、「五つの定められた仕事」をすればよい事に成っていたのであり、むしろ、してはならない「仕業」であった。
「伝統ある松阪紬の殖産」には、「特別な伝統」と云う事に縛られて目的は「販売」には無く、主に「増産」そのものにあったのである。
当然に必然的に、「伝統に基づく増産」には、完全に近い「五仕業」が要求された。
粗製乱造では済まされない宿命が「松阪紬」にはあった。

つまり、これが”「五仕業」”と書かれている所以であっては、現在で云う「トレサビリティー」の事を表現しているのである。

「検品、仕分け、仕立て、荷造り、搬送」とは、「殖産の製造」を除いて、この「絹物の松阪紬」の「五つの工程」の間に起こるあらゆる問題を治めながら最終の「松阪紬」まで持ち込む作業なのである。
そして、「紀州門徒衆(C)」はこの「松阪紬を保証する役務」を負っていたという事に成る。
唯、最早、これは単に「松阪紬」を作れば良いと云う事では無く成っていた。
つまり、「権威」の“「保証と云う事の責任」”が伴っていたのである。

この時代の事であるので、この「トレサビリティー」には、首がかかる事もあった。
これを「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」に代わって「紀州門徒衆(C)」が務めるのである。
つまりは、「和紙」や「木綿」などと違い「絹衣を着用する相手」が先ずは違っていた。

彼等には、上記する様に「生産量」は兎も角も、主に“「禁令」”と云うものが大きく左右し、その結果、何せこの「絹衣」には「武士や貴族」の「名誉や地位や格式や家柄」と云うものが絡んでいたのである。
「青木氏も同じ立場」にありながらも、これは「絹衣殖産」に依って生まれた「厄介な事」ではあった。
記録を観ると、「五仕業」の文字が出てくるのは、この「殖産」が始まって暫く経った頃(1635年前半の頃)の事である。

この事から、当初、室町期では、この仕業は「荷造り」、「搬送」程度であった様で、「直接販売」は無いので「納所」に届ける程度の事であったらしい。
ところが、「殖産「を始めた事が、「江戸期の禁令」に合った様に「検品の品質」に強い要求が高まりる様に成った。
暫くして「仕分け」の「絵柄や色合いや染め具合の要望」が増え、遂には、事前に「金糸銀糸」等の柄入れ、挙句は「絵柄」や「紋入れ」の特注等を含めた「着衣の仕立てまでの要望」が出されて来た様である。

これは、「絹衣着用」が「名誉な許可制」に成った事で、「許可」を獲得した「高位の武士間」の「ファション競争」に火が付いたと考えられ、金に糸目も付けずに高額なものと成って行った事を示す。
これは、古来から朝廷に納めていた”「松阪紬」”と云う「超高級品」を着ける事で「ステイタス」を示したかったのであろう。

(注釈 この意味で細かく規制した「節約禁止令」は「絹物」では逆に成って行った。)

この「厄介な作業」の「検品、仕分け、仕立て、荷造り、搬送」を、反元として「紀州門徒衆(C)」は熟さねばならない事に成った。
元々、「紀州武士」であるし、今も武士は捨てていない。
相当な抵抗があったと思われるが、「紀州郷士」と云えど「武士のステイタス」は理解されている範疇であったであろう。
彼らは懸命に取り組んだ事が手紙資料の中で報告としての形で書かれている。

そこで、先ずこの「五仕業」はどの様なものであったのかを書くと、次のようなもので簡単な「要領書」の様な形で書かれている。

そもそも、「検品」とは、名張や伊賀から届けられた「素地の反物」を先ず「禁令」に合わせて「上中下」の「品格」に目視で検品して分ける。

その「検品項目」は、「傷、巻込、不揃、色別」で判定した。

「傷」は、「傷・噛込み」が入っている事
「巻込」は、「塵・誇り・汚れ」が巻き込んでいる事
「不揃」は、紡ぎ悪い事
「色別」は、「光沢や色合]が悪い事

以上の「四項目」であった。

この「四項目」に全て合格した反物を「上格」であった。
「上格」の中で「色別と不揃い」が格落ちした反物が「中格」であった。
「傷」「巻込」が強く、「四項目」に格落ちした反物が「下格」として分けられていた。

(注釈 但し、「検品制度」を高めればより収入が得られるし、「検品情報」を提供して「伊賀や名張」の「紡ぎの段階の品質」を上げられれば、「紀州藩」、「青木氏(X)」を始めとして「松阪紬全体の工程」は潤う。)

こころから「仕分け」に廻される
「仕分け」とは、「上格」は禁令に基づき先ず「朝廷」や「絹衣着用」を認められた「1万石以上の大名格」の上級武士用に振り向けられる反物である。
「下格」とは、「老舗の絹物大問屋」に、「豪商などの商人用」、或いは、禁令に従い5千石以下の「中級の武士用」としても卸されるのが基本である。
最後に、「中格」とは、「5千石程度の中級武士」の「旗本や御家人」で、何らかのお墨付き(黒印状)のある「格式の家」に充てられる。
この「品格」にして「紀州藩納所」に納められる。(朝廷用は「上格」)

原則は媒臣等は禁止である。唯、原則として、「松阪紬」はその「朝廷品の伝統」であった事から「下格」の品は「商人用」には実質は廻らない事に成るが、密かに「納所」より高額を得る為に廻されていた様である。
これは、「高額な賂を獲得できる手段」として、「納所の紀州藩」は知るか知らぬか「市場」に流されていた事が追筆されている。

(注釈 長い間の話であり、「家臣の私的賄賂」であれば「青木氏との帳簿突合せ」から見つかる事は必定なので知っていたと考えられる。
そうでなければ「青木氏(X)」は「名誉回復の名目」にから指摘していた筈でその記録は無い。)

従って、「青木氏(X)」と「紀州門徒衆(C)」の「元締め」は次の様な事が起こらない様に差配した。

この「仕分け 1」として、次ぎの「仕業」をした。
上記の様な事が起こらない様に「仕分役」は帳簿を確認しながら慎重に行う。

次に「仕分け 2」として、次ぎの「仕業」をした。
「松阪紬」が「殖産」で増産され特定の市場に出ると成ると、より要望が必然的に出てステイタスを高めようと買い手側から「松阪紬」を扱う「役所の納所(なんしょ)」に「家紋」に合わせた「柄、色合」などの要望が「上格」の「買手」から事前に出されてくる様に成った。
又、「青木氏(X)」と「付き合い関係」のある「朝廷や大大名」からは、「ステイタス」の一つであった事から「贈り物」としてのこの様な特別注文が出るし、この為の「特別の仕分け」が必要と成る。

「仕分けの要望内容」に依って、「振り分け」の「仕業」をした。

「仕分け 3」としては、次ぎの「仕業」をした。
何処の「染物屋」に回すかの難しい「仕分け」もあり、その「要望の如何」に依って「仕分けの技量」と合わせて「染め物師の技量」をにらんで振り向けなければならない。
大変な作業で「検品」などの合わせた「総合的な目の技量の経験」が伴う。

これらの「仕分け」(1から3)は、「検品の影響」を大きく受け、相互の工程の「連携」が必要で、これらの「要望(情報)」を前工程に伝えておくなどの手配も必要と成る。
この連携無くして「仕分け」は成り立たない。

この中間工程、つまり、「仕分け」は「五仕業」の中核(主)を占めていた。

次は、「仕立て」は「上格の反物」に対して行ったものである。
「朝廷」が「幕府」を始め大大名の「引出物」、「冠婚祭の祝品」等として、「最高権威」としての名の下に「超最高品」の「絹物」を送るが、多くは古来からの「部制度」による「朝廷専売品」のこの「松阪紬」が用いられた。
これを「受ける者」は「最高の誉れ」(ステイタス)として受け取った事に成る。
取り分け、「婚姻や世継ぎ誕生」などには「仕立て」をして送る事が、「受ける側」には「朝廷の祭事の供納品」でもある「松阪紬」を送られる事は、これ以外に最高の比べ物の無い未来永劫に伝わる栄誉として捉えられていた。

この「伝統のある仕立て」を「青木氏(X)」外の氏素性の判らない「仕立屋」に出すのではなく、全て「青木氏(X)」の中で「完全ステイタス」を作り上げて“「賜物の松阪紬」”として贈られるものであった。
これらの「限られた依頼者」は、「賜姓五役」で勤めていた「朝廷」、「殖産籍」の中にある「紀州藩」、公家と繋がりのある「縁戚の伊勢秀郷流青木氏」、「青木氏同族の信濃青木氏」に限られている。

(注釈 「信濃青木氏」(小県郡)と「甲斐青木氏」(巨摩郡)は、後に強引に「幕府領」とされ「幕府の殖産地の地」とした。
この「江戸期初期前の養蚕地」は、関西中部域では、「伊勢」を始めとして、「信濃、甲斐、美濃、越前、越後、丹後」が記録としてある。
但し、これらは全て「青木氏の居住地」であり、その「青木氏財力」で進められていたが青木氏の滅亡した「美濃」は衰退した。)

この「松阪紬の配分」は、次ぎの通りであった事が書かれている。

「古来からの朝廷分(1割) イ」
「殖産主の紀州藩分(8割) ロ」
「青木氏の割当分(1割程度) ハ」

以上の割り当てに指定されていたらしい。

そもそも、「朝廷の分(1割)」には、江戸期に於いても「青木氏(X)」は、「朝廷の役職」の「紙屋院」と共に、「絵画院の絵処預」を務めていた事もあって、「幕府の目」があっても「手」を抜くことは出来なかった。
この「絵画の絹物分」もあって、「朝廷」は「伊勢和紙」も含めこれを「絵処預の絵師」の「土佐光信派等の絵塾」に「絹絵」を書かせ、これを“「最高賜物品」”として「絹衣や反物」と共に高位族に送っていたのである。

この様な傾向から、「青木氏(X)」は、その「元からの務め」であった立場から「朝廷への納品 イ」は、実際にはこの「1割」とは行かず、「出る限りの割合」を当てたいところであったらしい。
これは資料からも読み取れる。
然し、「青木氏(X)の殖産」であったとしても、今は「紀州藩の専売品 ロ」と成った現状では相当無理であったらしい。
「青木氏(X)」の「自らへの割り当て分(1割程度) ハ」と、少ないが「伊勢秀郷流青木氏等」への「割り当て分 ニ」、つまり、「青木氏(X)」の「割り当て分 イ」からの充当をして「裏の割り当て分 ニ」として調整していた。

その内から秘密裏に殆ど儲けの無い「朝廷分 イ」として工面して廻す事があったらしい。

(注釈 「朝廷分 イ」には朝廷の勢力の拡大を恐れて「幕府の目」が厳しい。)

恐らくは、「古来からの伝統品」という事もあり、且つ、薄利ではあったが、「権威の供納品」とする事で「衰退する朝廷への密かな肩入れ」であった事が容易に判る。
これで「朝廷」への「供納品のお返し」として高位族からの密かな「朝廷への見返り分」が大きく成り、強いては内々に「朝廷援助」が出来たからであろう。
「青木氏(X)」は江戸期に成っても「その務め」は続け、「賜姓五役」としてこれを期待して支えていた。
「紀州藩」はこれを黙認していた模様ではあるが、「朝廷の財力」が高まる事も含めて「幕府の目」もあり気にしていた様である。

この手紙の資料には、事の次第が「幕府の目」もあり明確に書けない様であって、この「松阪紬の状況」を報告した文章がある。
それには急に文章の中に意味不明な、「四家の長」の“「福家様の御仕儀」“の文字が出て来て、”何か“を匂わせている文面であり読んでいても判らない。
これは“何か”を知っていなければ解らないのであろう事が判る。

注釈として、筆者は、「朝廷分 イ」の「割り当て分」に対する「福家の指示」を「射和郷士(A)」の「差配頭」に密かに伝えていたと観ている。
この「福家の指示」とは次の経緯にあった。

そもそも、「殖産前」は、「朝廷と青木氏(伊勢神宮の供物」を含む)」の中で割り当てられていた。
これは、「朝廷と伊勢神宮の財源」に成っていた。
つまり、判り易く言えば、当初は「紀州藩(「伊勢籐氏の家臣団」)」との「打ち合わせ」では、「藩の借財」を返す「最高の手段」として、そもそも「青木氏(X)」と共に、「松阪紬」の「朝廷への献納の利」のここに目を付けていたものであった。

つまり、「松阪紬」を「権威の象徴の産物」として「政策的」に仕立てれば、“これ程の「見返り」は先ず無い”と読んでいたのである。
後は、これに「政策的な禁令」や「質素倹約令」等を添えれば成立する。
その為の「殖産」を「青木氏(X)」に任すとすれば、「紀州藩」は濡れ手で粟である。

これは、注釈として云うならば、今で云う「地域興し」の「松阪紬ブームのプロジェクト」である。

「権威の氏の青木氏(X)」の下で作られる奈良期よりの「伝統の朝廷専売品」を増産して「権威」で固められる「松阪紬」を先ずは世に出す事である。
それも、人が羨む「限定の範囲」での販売とすれば、権威に憧れていた江戸初期に「高級武士」には火が付く事は必定で、金目に糸目を付けない事と成ると観たのである。
「節約の禁令」の「裏の目的」はこれに火をつける「点火材」であったと観られる。
大名格は「黒印状」を授けられたとする「伝統の氏姓の素性の裏打ち」にも成る。
(殆どは詐称であった。)

然し、ここで疑問が残る。
「松阪紬の殖産」を続ける以上は、例え「伝統の物」であったとしても「殖産」である以上は、「利益」を上げる必要がある。
これ無くしては続けられない。
「朝廷の割り当て分(1割) イ」は、もとより続けていた関係上は伝統の「薄利」である。

そもそも、「朝廷」に執っては「殖産」は何の意味も持たないし、「殖産」だからと云って衰退する中で「値上げ」はあり得ない。
そうすると、「殖産の利益」を何処で取って「帳尻を合わすかの戦略」が「青木氏(X)」に必要になる。
当然に、に求める事は「畑方免令による殖産税」である以上は無理である。

恐らくは、この事で「紀州家臣団の伊勢籐氏」との間で、上記の資料の通り“「福家様の御仕儀」“の文字の意味する事から「検討」を繰り返したと読み取れる。
これが、この時の「会議の決定事項」を“「福家様の御仕儀」“と表現したと考えられる。

つまり、「秀郷流青木氏」等に廻す「青木氏(X)の(1割程度)の分 ロ」の「内訳とその内容」であった事が判る。
何故ならば、「秀郷流青木氏」は、この「殖産」に於いて“何の必然性もない”のに文中に書かれているのはこの「戦略の内容」であったと読み取れる。

“どう云う「戦略の戦術」か”と云うと恐らくは次の様に成る。
「秀郷流青木氏(伊勢籐氏含む)」の「広い付き合い関係」(幕府の家臣団も含む)から「高位族の者」が、“密かに「権威と伝統の松阪紬」を何とか獲得しよう“とすると、この「ルーツ」を通じて「依頼」があった筈と観る。
これを相手の「要求や身分」を観て、先ずは「下格」(中格を含む)を密かに振り当てる。
この「名目」を「伊勢神宮(遷宮地の関係諸社含む)」の「献納品」に置く。
「名目」としている「伊勢神宮」は、もとより「春日神社(藤原氏の守護神)」と「古来より関係性」を強く持っている。
つまり、「北家の最大勢力の藤原秀郷一門」とは、「守護神」である以上は疑う余地は完全に無くなり、「紀州藩」や「幕府」に対し「言い訳」(神宮献納品)に成る。

(注釈 「紀州藩」は当然に黙認する。紀州藩の「幕府目付家老」も仮にも知り得ても「幕府官僚集団」も同族の「武蔵藤氏」である。
「幕府目付家老」も紀州に赴任される以上は、恐らくは「藤氏の末裔」である。
そうすれば黙認はするし、「紀州藩の借財」が解消すれば「目付」としての「自らの立場」も成り立つ。
要は“「名目」”さえ成り立っていれば先ず文句をつける事はない。)

この“「名目」”を生かしながら、この「ルーツ」から「莫大な利益」を獲得すれば成り立つ事に成る。
この事前に承知していた「戦略戦術」を「名目」として“「福家様の御仕儀」”として表現したと云う事が判る。

注釈 その後の事として、上記した「信濃と甲斐と近江と越後と越前の幕府領」は、「米の生産石高」が安定して増えた「享保期」(12-16年頃)に「養蚕の殖殖産」が起こっている。
これは、「吉宗」が厳しく採った政策の恐れられた彼の有名な“「無継嗣断絶策」”に依る「公収化策」で、上記の「青木氏の定住地」が何と「幕府領」と成った。
“成った”と云うよりは、“した”である。
ここは「伊勢」と同じく「古来からの養蚕地」で、「青木氏の定住地」で、「青木氏の商業組合の組織」で、「資力」を蓄えたところを「幕府領」として、「地権」を安堵し与え、「養蚕の増産」を命じている事に成る。
これも見事に濡れ手で粟である。

この条件は、「吉宗」が「親代わりの膝元(青木氏)」で直に経験して観て来た権威性を持った「殖産の絹紬」がどれだけの「莫利」を得られるかを詳細に知っていたからの事であろう。
そして、この紀州の「権威と伝統」の「戦略と戦術」を使えば、「300両」しかなくなった当時の「幕府の御蔵埋金」を一挙に埋める事が出来る。
それには、何はともあれ「賜姓臣下族」で「志紀真人族の末裔族の青木氏一族」を利用する事に成る。
実績は紀州で作っていると成れば事は早い。

「信濃紬」、「甲斐紬」、「近江紬」、「越前紬」と「越後紬(「秀郷流青木氏と信濃青木氏))」等の「絹物」の「権威名」を着ければそれで済む。

(注釈 ここは「青木氏」が始めた「15商業組合」の「主要5地域」でもある。
この「無継嗣断絶策」は所領を持つ旗本・御家人までも含む「大小の武士階級」にまで適用され、「無継嗣」と見做された場合は問答無用で没収され「幕府領」とした。
「青木氏の定住地」には、恐らくは難曲を着ける、挙句は「土地の振り替え」で領主を追い出し、そこを「幕府領」とし、本領並みの「青木氏に地権」(元の天領地)を与えた。
然し、上記した様にその「領域の村域」が大きいのはこの理由による。
この為にも「青木氏の権威と資力」を見逃さずこの元の「天領地」を「幕府領」とした上で保護した。)

何せ「幕府領の養蚕の仕掛け人」は、当然に「吉宗と江戸の伊勢屋(青木氏)」とすれば何の問題もない。
つまり、「松阪」から人を送りこめば済む事であるし、呼び寄せればよい事に成る。
「権威と価格」に問題が出れば、「松阪紬」とすれば済む事である。
ある研究の資料には、”「御領紬」の呼称”が出てくるが、これがその事ではないかと考えている。
つまり、どう云う事かと云えば、上記の「幕府領」(徳川氏)は、「伊勢松坂」を含めて、元は天皇家の「天領地」(天皇家)と呼ばれた地域である。

(注釈 「幕府領」は別に「幕領」とも呼ばれ、これを間違えた明治期の研究資料が「幕府領」を「天領地」と呼んだ事から誤解が生まれた。
現在は、過去の資料より学問的にこれを正式に訂正されていて、「幕府領」と「天領地」とは区別されている。
「青木氏」に於いても「近江、松阪、信濃、甲斐」については「天領地」とした資料に成っている。
唯、「近江と甲斐」はその「天領地の範囲」が狭い事から「天領地」と「幕領地」の重複部がある事が観られる。
例えば、「源頼光」が派遣された「信濃国」は「天領地の守護」としてであったとする明確な学問的な資料もある。
当然に、「青木氏の始祖の施基皇子」が「伊勢天領地守護」として「三宅連岩床」を国司代として派遣した事も正式に資料として遺されている。)

この意味でも、”「御領地」”は本来の「天領地の総称」であって、その呼称を使って、江戸期中期には「「松阪紬」も含む「御領紬」として「権威」を持たせる為に意図的に呼称させたと観ている。
この呼称は、一般に出回る事も無く、且つ、「禁令の事」もあって憚って「高級武士の間での呼称」であったとされている。
況や、この呼称は、”「松阪紬」”の「伝統」に基づく「名誉と権威」として利用したと観ている。

これが、「青木氏の松阪紬」が基盤と成った大切な「青木氏」しか知り得ない「歴史観」である。

さて、この歴史観を前提に、この話は「五仕業」に続く。
ここで次ぎの事で、何故、この殖産工程が「仕事」では無く“「仕業」”としたのかが判る。

そして、その「仕業の呼称」から「松阪紬」を”どの様に仕向けるのか”、将又、位置づけるのかの判断をしたのかも判る。


そこで次は、「検品、仕分け、仕立て、荷造り、搬送」の“「荷造り」”の工程である。

普通なら、この「荷造り」は「技職の業」では無いであろう。
ところが資料を読むと単なる工程では無かった。
相当に、「前行程の仕立て」までの「権威性」を計算した恣意的に利用した「技職の業」である。

上記の朝廷の「供納品」や「賜物品」に、「より権威性を持たす方法」が下記の通り二つあった。

一つは、「反物」、或いは「仕立物」の「宝飾荷造り」である。
二つは、「宝飾荷造り」に「権威の影」を染み込ます事である。
この(一)と(二)で一対として、「伊勢神宮」に「神の御霊入れ」を祈願して「御朱印」を授かる事にある。

この作業を一手に引き受ける事に成り、この為に「装飾技能」や「反物、仕立物の漆箱等の技能」が要求された。

そもそも、この「装飾技能」と「漆箱の技能」は、「紀州郷士」の彼らの「元からの特技」であり全く心配はいらない「彼らの本職」(「技職の業))であった。
「装飾技能」と「漆箱の技能」を「技職の業」でないという人はまさか居ないであろう。

それは何故かと云うと、次ぎの様な経緯があった。

注釈 そもそも「紀州」は「南紀」には「熊野神社」と、「北紀」には「伊勢神宮の最後の遷宮地」で多くの「伊勢神宮系の遷宮神社」(4社)が存在する。
この「熊野神社」や「遷宮地」の門前町には「祭祀に関係する技能」が古くから多く広まって集まっていた。

その一つが「装飾技能と漆技能」であり、現在もその伝統は継承されている。

(注釈 「紀州漆器」は、「三大漆器」の「輪島塗」と共に有名で「紀州漆塗」は「古来からの伝統芸能」であった。
現在はこの「漆器伝統」が、江戸中期に分流し二流、つまり、「黒江塗」と「根来塗」に分かれて遺されている。
分流した原因はよくは判らないが、そのきっかけは平安期末期と室町期末期の混乱で「近江の木地師」”が紀州に移り住んで「木地物」を広めた事から、これを「椀物」と「塗」とを組み合わせた事に成っている。
時期的に観ると、「紀州郷士」の「紀州の北紀殖産」を導いた「名手氏や玉置氏の保護」を受けていて、何か「射和との関係性」を持っているかも知れない。)

(注釈 そもそも、「近江木地師」は、「近江関係氏の資料」の「近江の佐々木氏系青木氏」の項の論文によれば、「近江木地師」は「近江佐々木氏系の青木氏部」に所属していた筈である。
ここには、平安末期の「近江の源平戦」で敗退し、更に「美濃の源平戦」でも敗退し、「佐々木氏系青木氏の滅亡」にて分散したとある。
そして、「近江佐々木氏」が一部を囲い、一部は伊勢等に移動したとある。
この時の「木地部」が、「近江佐々木氏」が室町期末期に衰退して「木地師」は「紀州」に移動し、平安末期には「伊勢」に飛散したと読み取れる。
そもそも、「木地師」とは、「仏像」を始めとして「木地に関わる生活用品」を幅広く作る「職人」であり、平安期には「賜姓族」であった「青木氏」には無くてはならない「青木氏部の職人」であった。)

(注釈 論外ではあるが、ここで「二つの疑問」が残る。先ず一つは、「近江木地師」は何故、、紀州紀北に移動したのか。二つは、何故、「紀州漆器」が二つに分流したのか。この「二つに疑問」が残る。
そして、この「二つの疑問」が「射和との関り」にあるのではと考えた。
一つ目は、現在の地元の定説は単に移り住んだとある。当時の掟では許可なく理由なき移動は認められていない。確かに「近江佐々木」は衰退を続けたが、それでは「移動できる条件」にはならない。
ただ「紀州」は、「木の国」であり、「漆の最大産地」でもある。「木地師」に執っては「絶好の定住地」と成るだろう。しかし、それだけで「移動できる事」にはならない。
これには「伊勢の青木氏部」に組み込まれた同族の「一団の木地師」との関係が出ていたのではないかと考えていて、それが「射和」と結びついてると考えている。
これには何か「歴史的キーワード」がある筈である。その「歴史的キーワード」が「分流した原因」でもあると観ている。)

(注釈 この「歴史的キーワード」を解く鍵は、「江戸中期前後」と「秀吉による根来寺荒廃」にあったと観ていて、「秀吉」に依って徹底的に潰された「根来寺」を江戸中期前後に「吉宗」と「紀州藩」が庇護して伽藍を修復したとある。
つまり、「紀州」と「江戸中期前後」とは、”「吉宗に関わる事」”に成る。
「青木氏部」に組み込まれた「近江木地師」を、「漆器職人」を生業としていた「紀州門徒衆(C)」を「射和」に呼び寄せて「養蚕の殖産」を成功させた。
ところが、「吉宗」が引いた後の紀州藩は放漫な藩政に依って再び「借財態勢」に成った。
そこで、「射和の成功体験」をもとに「吉宗」は、「射和の経緯」もあり「青木氏(X)」と相談の上で、「伊勢の青木氏部の近江木地師」を「紀州藩の財政立て直し」と「根来寺の再建」を図る為には逆に「伊勢」より「根来」に差し向けたと考えられる。)

(注釈 「青木氏(X)」は、江戸中期前後、つまり「享保期末期(1751年没)」の直前に表向き理由として「吉宗との意見の違い」にて江戸を引き上げているので、その直前にこの「木地師の配置」を決めたと観られる。
これで、現実に奈良の国境の「根来」は息を吹き返した。
そもそも、「吉宗後の紀州藩」は「借財体質」に再び戻った事からも莫大な金額を要する「根来寺伽藍修復」は「吉宗と青木氏の援護」なくして出来る事で無かった。
この仮説が「上記の疑問条件」を解決する。)

(注釈 「根来寺」は高野山の麓の真言宗寺であり、忍者の里でもある。「雑賀集団」と共に反抗集団として恐れられ五月蠅がられた。
「吉宗」はこの「根来衆」を鎮める為にも「伽藍修復」と根来発展」と云う上記の手を打った。
この「二つの地域」には「木地と云う姓」が多い所以でもある。
これが江戸期に二度行っている「青木氏」の「紀州藩勘定方指導」と云う事に発展していったのではと考えられる。)

その「古来からの伝統ある技能」を家内工業的に彼らの「唯一の収入源」として「紀州郷士」等が継承していたのである。

この「荷造り工程」の前の「三つの工程(検品、仕分け、仕立て)」は、何とこの「荷造り工程」に付き物の工程なのであった。

彼等には身寄りもないこの「伊勢松坂射和」であったが、この難しい「五仕業」は当に“水を得た鯉“であった。
だから、「門徒狩り」のほとぼりが冷めた後も彼らは「射和」を飛び出さなかったのである。
これは「青木氏(X)」と「松阪郷士(B)」の判断であったが、より「松阪紬の権威性」を高められる手段を模索する中で、確かに「扱いに問題」はあったが「天の巡り合わせの様な出来事」であった事が判る。


さて、その「彼らの行動」は、それどころでは終わらなかった様だ。
「天の巡り合わせ」と云っても、そもそも、この「五仕業」には「人手」が多くかかる。
この事は、「青木氏(X)」から高度な仕事(仕業)を与えられた瞬間から判る事であった。
合わせてこの事は、この「五仕業」が「高度な職能」である限りは「射和郷士(A)の手」を、借りられない事は直ぐに判る。
当然に、「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」との間で相談に入った筈(手紙の一説)で、「解決策」は当然に直ぐに提案された事に成る。

それは、「唯一の策」として、“紀州から彼らの縁者一族を呼び寄せる事”にあった。
これには、「国抜けの禁令」が障害に成る。一族郎党の斬首の重刑である。
彼等自身(紀州門徒衆)にはこの事は何とも仕難い事である。

そこで、「青木氏(X)」は動いた。
「紀州藩(伊勢籐氏家臣団)」に隠密裏に掛け合う事であった。
「紀州藩」はこの事を許可しなければ「借財」は疎か「税の収入」も激減する。
それどころかこれらを解消させる「殖産」が成功しない。
況してや、「絹衣」は「他の殖産品の木綿等」と比べても比べ物にならない「高額収入源」であり、「紀州藩」としても「権威の象徴」として広範に利用できる。
更には、藩としての「借財」は返せて、且つ、「権威と名誉」は保て幕府に大きい顔が出来る。
この最大の問題の鍵はこの「国抜け罪」である。

然し、「見事な殖産」を「青木氏(X)」と共に仕立てた「賢明な藩主」は、要は、「国抜け罪」<「殖産」=「借財」と間違いなく考える筈である。
後は、「伊勢」には「南勢と北勢」に幕府の「四つの代官所」を置いているが、この「幕府の目」をどの様に反らし「国抜け罪」をどう繰りぬけるかにあった。

然し、積極的で賢明な「藩主」は、「遷宮神社」の「門前町の職能者」の「彼らの一族一門の郎党」を「射和」に送りこむ事を決定した。
それには、「門前町職能の現能力」を下げずに「門前町職能者」の郷士の「次男三男の部屋住み」を密かに「射和」に送りこむ事にして、そして、彼らに秘密裏に「通過鑑札」を与えた。

(注釈 この「遷宮地門前町」は、城下の直ぐ東側に繋がる様な位置にある。
そして、この紀州藩城下にある「遷宮地」は、真東の奈良五条を経由して、そして、「名張」-「射和」に通ずる「一本道の位置上」にある。
つまり、距離は「射和」まで約130Kmであり、容易にこの計画は、無理なく、即座に、且つ、円滑に、極めて早く実行できる可能性がある。
急がねばならない。人の歩く速度約10Km、一日12時間として昼夜のほぼ一日で着く。
関所は五条の一か所、地形は殆ど平坦で名張まで来れば迎えが入る事で、荷駄と人は早くなり最早安全である。
戦略は当然に「風林火山」である。
「紀州藩の家臣団」は目立たぬ様にそれとなく護衛している事と、一団を「カモフラージュ」する役を演じる事にも成る。

(注釈 実は、呼び寄せの「別の証拠」として、「紀州北紀の郷士」で「射和」に来ている一門の「玉置氏」がある。
この「玉置氏」は、「筆者の母方」の「江戸期の出自先」で、「醤油と酒」を製造し、「搬送業」も兼ねていた。
この「搬送業」での口伝では、「松阪射和」まで運んでいた事が伝わっている。
何を運んでいたかは明らかではないが、恐らくは、当然に「射和の一族」に「醤油と酒」を運んでいた事は判る。)

実は、この彼らの一族郎党を呼び寄せた証拠が記録として二つ残っている。

先ず一つは、「射和地区の北側」は開発をして定住した地域なので「紀州郷士の姓」は多いが、ところが、「西側の近江商人(B)」の定住地域には「紀州郷士の姓」(前段でも論じた)が「住み分け」をしている筈の中でこれまた多いのである。
これは何故かである。
この時代は「争い」を避ける為に「住み分け」を原則としている以上は、西側には無い筈で、「松阪郷士(A)の土地」でもあり、「自由な住み分け」は殖産工程上も当時としては先ず起こらない。

ところが「時系列的」に観ると、「近江商人(B)」が江戸に出始めた享保期後半に集中している。
これは、この時期に「紀州門徒衆(C)の開発定住地」の「射和北側」から「櫛田川の川洲域」の「西側」に向けて降りて来たという事に成る。

これには、記録上で二つ理由がある。(呼び寄せた「二つ目の証拠」)
一つが、「射和北側」では「五仕業」の工程が山間部である為に手狭になった事。
これを解消する為に、その「工程の流れ」を「射和北側」の定住地の中での「横の流れ」から、「射和川洲向き」の「縦の流れ」に変えれば「最終の搬送工程」は直ちに「舟」に乗せての「便利な工程」の流れに成る。
幸い「近江商人(B)」は江戸に出て空き地と成りは始めた。
工程を熟す「住まい」をその方向に建て替えてゆけば成立する。

(注釈 彼等にも「五仕業」の御蔭で「資力」は出来た。「青木氏(X))も援助する。)

二つは、「近江商人(B)」が担っていた「松阪木綿」を扱う者が居なくなった事。
「近江商人(B)」は、結局は、「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」等と反目して一族を「射和」に遺す事は到底出来なく成った。
この結果、「松阪木綿」の「販売」を誰かに委ねなければならない。
そこで、「射和郷士(A)」は、「青木氏(X)」の了解を得て、子孫拡大する「紀州門徒衆(C)」に依頼し、その条件として「西側の使用権利」(地権も含む)を援助の形としても譲った事に成った。

紀州から逃避して来て、「青木氏(X)」に保護された「紀州門徒衆C)」と、その呼び寄せられた一族は、「五仕業」に依って生活は一度に裕福になった。
「子孫」も養えるし、彼らの名誉を回復して郷里にも顔が立った。
この経緯が「紀州郷士の姓」が多くなった理由である。

さて、次は、「搬送」である。
この「搬送」は、”単なる前工程の絹物を特定先(上記)に運べばよい”という事では無かった。

先ず、「一つ目の搬送先」は、松阪にある「紀州藩納所」である。
搬送には領内であるので問題はない。

次ぎの「二つ目の搬送先」は、「朝廷」で京まである。
「高額品」であるのでこれは慎重にしなければならない。
「護衛」を着ける必要があり、「伊勢シンジケート」に「射和郷士(A)差配頭」を通じて手配が必要である。

最後は、「三つ目の搬送先」は、「青木氏の割り当て分(1割相当)」からの「伊勢神宮献納品」である。
これも問題はない。

先ず「搬送品」を筵で包むような事は出来ない。それなりに装飾を加えての「御届け物」に成る。
「朝廷」には、「天皇家」に納めるのではなく、「朝廷の式典」の「供納品」として納める事に成る。
従って、「荷駄」には「式紋の五三の桐紋」の敷物が古来から使用された。
荷駄には旗が立られて運ばれるが、周囲は荷駄に対して最敬礼であった事が書かれている。

「紀州藩」の納所には、徳川氏の「式紋の立葵紋」の敷物が使用されたと書かれているが、これも朝廷荷駄ほどではないが、邪魔や追い越すなどの無礼は無かったらしい。
何れもそれだけに、「搬送」は「権威」を落とさない様に周囲を固めて運んでいたらしい。

後は、「青木氏分の割り当て分(1割相当)」より充当した「秀郷一門への搬送先」は松阪北側の湾寄りの四日市と津の中間位置にあった事から、直納した事が書かれている。
これには余り荷駄を公には出来ず、速やか密かに屋敷に届けた事が判っている。
その内容を書いた「要領書」の様なものがあってそこに書かれていたらしい。

(注釈 「青木氏分の割り当て分(1割相当)」とは、一定の生産計画分より「増えた分」を「青木氏の割り当て分」としてプールし、それを「秀郷流青木氏」を通じて密かに廻していた事に成る。
紀州藩には表向きは「秘密の分」であったらしい。黙認されていたと観られる。
「増えた分の差配」は「青木氏(X)」と「射和郷士(A)」と「紀州門徒衆(C)」の三者で密かに決めていたと観られる。
この三者に対してその増分から得られる「利の配分(利得分・割り増し分)」もあったからだと観られる。)

何れも、四者に届ける「搬送役の要領書」が独自にあったらしいが見つからない。(消失か)

そして、この「要領書」の様な中に、彼らの「搬送の本領」が書かれていた様で、それは、つまり、「実質の営業」であった事らしい。

つまり、「状況証拠」から、先ずは、次ぎの手順を踏んだらしい。

「届け先」に着くと「届けの確認」と、「次ぎの要望」等を取りまとめて聞いてくる事。
場合によって「発注量(納品量)」と詳細な「要望の把握」と「納品期の要望」にあった事。
時には、「厳しい交渉」(苦情含む)が丁々発止で行われていた事

以上の様な事であったらしい。

「松阪紬の殖産」の南勢から始まる桑から始まり「玉城-名張-伊賀-射和」の「すべての状況」を把握していなければ務まる役目ではない事が判るし、相当に「知恵と経験のある者」の「重要な役目」であった事が判る。

筆者は、この「重要な役目」は、「紀州門徒衆(C)」の「総元締め」が務めていたと考えている。

これで、「松阪紬の殖産化」での「五仕業」の事は論じたが、上記した様に、後発の天領地の「青木氏定住地の養蚕(御領紬)」もほぼ同じ経緯の歴史観を保有していた事は間違いはない。
元々、何れも「朝廷の天領地」であった処を、豪族に剥奪され、それを「吉宗」がここを「幕府領」として強引に取り戻し、「地権」を与えて取り組ませた。
全く「伊勢青木氏の経緯」(「青木氏X」)とは変わらない「共有する歴史観」が起こっていたのである。

本段は、著作権と個人情報の縛りの中で「伊勢の事」を少ない資料の分析を以ってそのつもりで論じた。



> 「伝統シリーズ 39」に続く
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「青木氏の伝統 37」-「青木氏の歴史観-10」

Re:「青木氏の伝統 37」-「青木氏の歴史観-10」 
     投稿者:福管理人   投稿日:2017/08/20(Sun) 14:32:06
> 「伝統シリーズ-36」の末尾



>(注釈 「青木氏側」から観れば、「紀州藩」に云われなくしても、“「伊勢の殖産興業」”に無償で邁進したのは、考察結果からも判る様に、上記の血縁で繋がる「同族を互いに救いあう目的」があったからこそ、「明治期の末期」まで続いたのである。
>その意味で、前段の「射和商人の論議」は、「青木氏の中の論議」と捉えられるのである。
>「青木社」と共に必ず論じなくてはならない「青木氏のテーマ」であった。)

>(注釈 「主要15地域」には、最低限、この様な「青木氏の歴史観」が働いていた事が判っていて、一部であるが、合わせて「近江佐々木氏の研究資料」にも「青木氏」のこの事に付いての記載がある。
>「川島皇子」を始祖とする「同宗同門の近江佐々木氏」も「宗家の衰退」もあって苦労した事がよく判る事である。

>(注釈 江戸期には江戸屋敷が近隣にあった様である。
>少なくとも「神明社」の体裁を整え表向きにも「武蔵の四社」の様に「青木社格的要素」を働かせながら維持していた事は確実で、「個人情報の限界」で詳らかには出来ないが明治期まで維持されたことが判っている。


>注釈として 前段でも論じたが、その意味では「伊勢、信濃、伊豆」の「三つの社」は、それぞれ「特徴ある青木社」を構成していたが、「越前の青木社」だけは当に当初から「神明社の目的」は,真の守護神であるが如く「逃げ込んだ氏人」を匿い精神的導きをして立ち直らせ「職」を与えて世に送り出していた役目を果たし主目的としていた。
>これは既に”「青木社」”であった。
>つまりは、「青木社」は前段で論じた所謂、「仏施・社施」であった。
>その意味で「仏施・社施」は、「青木社的要素」に成り易い役務であった。
>つまり江戸期に恣意的に反発して一度に「青木社的要素」を露出させた訳けではなかった。
>それだけに幕府は黙認せざるを得なかった事の一つであろう。

>その意味で「伊勢や信濃」にこの「青木社」を通じて「杜氏」を送り込み「米造り」と「酒造り」を指導して殖産に加勢した。
>「賜姓五役の祖先神の神明社」は、1000年前後からは「賜姓五役」の「皇祖神の子神」である事を表向きにしながらも明らかに外れ「青木社的要素」を強めていた事が判る。
>「四地域」とは言わずとも「15地域の神明社」はその傾向にあった事が判る。




「伝統シリーズ 37」

此処で「青木氏の歴史観」として、「青木社」を成し得るにはそこには「地権と云う権利」があった事になろう。
それ無くして「無理」と考えられる。

この「青木氏の地権」に付いて詳しく論じて置く事がある。
それは「単純なる地権」では無かった筈である。
この「地権」には、「政治的なもの」が働いていて、与える者、与えられる者の双方の「戦略的駆け引き」が読み取れる。

先ずは例として、「伊勢青木氏の地権の状況」が良く判っているので、これを見本として論じるが、全国の「青木氏の地権」も、取り分け、「15地域の青木氏」はほぼ同じであったと考えられ、この事は遺されている資料からも頷ける。

江戸初期の紀州藩から受けた「青木氏の本領安堵」の内容には、“「地権」”と云う点から観ると、その「地権の一部」に異なる事があるのだ。
ところが、その「地権の一部」には“ある意味合いが潜んでいる事”が判る。
それは、むしろ、「伊勢北部の土地」と「南紀の旧領地(遠祖地)」以外は、「紀州藩」から「殖産と興業」の「伊勢復興」の為の「地権の土地」ではあったと観られる。
その「地権の一部」には、紀州藩の「頼宣の差配」で「本領安堵策」で、敢えて「奈良期と平安期初期の旧領の本領」までを付加されているのだ。

先ず、当時の「本領安堵の慣習」として普通ならば、これ程に古い「旧領安堵」までは認めていなかった。
この事は「青木氏」としても当初は考えていなかった筈で、この事から考えると「地権を持つ地主」と云うよりは“「ある目的」”を以って、形式上は“「預け任された」”と云った方が適切であろう。

「青木氏」としても“「ある目的」”を理解するまでは、或は、「紀州藩」から「内々の話」があるまでは驚いたと観られる。
実は、これには「根拠となる資料」があった。
江戸初期の当初は、その年の収穫量から割り出す「検見法」と云う令があって決められていたが、当時の江戸中期前後には、この「検見法」は変動が大きく「定免法」と云う税法に変えた。

(注釈 「検見法」とは、「平均的な収穫高」を設定し、それに都度の「年貢率」を掛けて「年貢高」とする方法である。
一方、「定免法」とは、「平均的な収穫高」を設定し、それに「定税率」を掛けて「年貢高」とする方法である。
その設定方法に依って使い方の時期は判る。)

然し、例外を設けて「収穫量が低い地域」には、“「畑方免令」”と云う特例を発して「畑地の税比率」を変えた。
そこで、この「畑地」として登録されている「殖産地」には、足りない収穫分は「米」を他から買って「米」で納め直す「買納制」が敷かれていた。

ここが「殖産政策を敷く青木氏」に執っては大問題なのである。
そこで、取り分け、上記した本領安堵された「青木氏の地権地域」の「殖産」には、「米」に変換して「金か米」を納める事が起こったが、「青木氏」では主に「金納」であって、一種の別の「買納制の慣習」が敷かれていた。

つまり、「紀州藩」は、“「米納」(「買納制」)”では無く、特別に「青木氏」に対して例外的に原則禁止の“「金納」”のこれを特別に容認していたのである。

さて、これは何故なのかである。
この“「ある目的」”を理解することが出来る「重要な疑問点」であった。
「幕府」は、「紀州藩」の「財政立て直しの目的(安定した借財返済)」を理解して、これを黙認した事が史実として判っている。
これを観ると、「青木氏」の「旧領の本領安堵策」の地域だけには特別視していた事が判る。
実は、この時の事の一部がこの「資料」に書かれていて、「公民比率」が普通の「四六の税」が逆転して、上記の「旧領(古来)の本領分域」の「殖産の地権部分」だけは「六四の税」に成っている内容が書かれている。

そもそも、「一揆」が起こりそうなこの“「厳しい税」(「六四の税))“を考えると、先ずは「紀州藩改革」の為の「一窮策」であったかも知れないが、「青木氏」の「資産投入」に依って”「殖産を興す前提」“として、敢えて紀州藩は「本領安堵する条件」にしていたと考えている。

仮に、この地域を本来の様に「紀州藩直轄領」とすれば、「殖産」を興すとしても全て「紀州藩の財政」から賄わなければならない。
然し、その「投資の財力」が「借財中の紀州藩」に無ければ、取るべき方法は唯一つである。
それは「青木氏」に先ず「慣例」を破って「旧領の本領安堵」をして、“「地権」”を与え、その上で「私財投入」させた上で、その「差配一切の費用」も持たせて、その代わりに「税」だけを「金納」(「六四の税)で、「紀州藩」が獲得出来得れば安定した「六の純利益」が安定して丸々獲得できる事に成る。
それを更に「金納」にすれば、「紀州藩」は大阪で「換金の手間と経費」も省ける。
こんな「濡れ手で粟の策」は無いだろう。

普通は、「四六の税」かせいぜい「五五の税」ではあるが、国に依っては厳しい「七三の税」も在ったが、ここまですると「殖産に注ぎ込む力」はなくなる故に、これはせずに少し緩めて「六」を納め、「四」を「殖産」に注ぎ込ませる政策を採ったと観ている。

そして、「畑方免令」に依って「殖産の利益」を「米換算の納入」にするのではなく、「返還金」で直接納税しているところを観ると、「米換算の納入」では大阪堂島の「米相場の影響」を受けない「藩のメリット」があった事にも成る。

これは、“予期していなかった“と云う事もあって、「紀州藩立て直しの策」として「了解の上の政策」であったと考えられる。

(注釈 それは「青木氏の資料」の文脈から「反動的な文言」は無い事からも判る。)

これで幕府からの「借財10万両の返還」を成し遂げた「紀州藩」の「立て直しの窮策」の効果的な一策であったと観られる。

(注釈 それでもこれを引き受けた事は、「青木氏」に執っても「四」でも”「無形の利」”があった事に成る。
それは「殖産」を興せると云う「利」があって、それが「旧領の氏人」に「潤い」と成り得り「氏人」を救える。
つまり、恐らくは、この「旧領の本領安堵」の地は、「奈良期からの氏人」が住んでいたからであって、“救える”という「無形の利」を敢えて採り、元より「利益」を度外視していた可能性が高い。
「紀州藩」も「腹の底」でそこを見据えていた可能性がある。)

何故ならば、「紀州藩の家臣」は、殆どは縁戚の「伊勢の秀郷流青木氏族」であるからだ。
彼らが“縁戚を裏切る事”は先ず無く、この意味から、事前に説得を受けて内々で承知していた事が伺える。
下記の「紀州藩の勘定方指導」もその「戦略の経緯」の中の一つであった事は間違いはない。
この時の内々の話の中には「この話」が出ていた筈である。

去りとて、幾ら、「頼宣の時」は別としても、更に「殖産」を進めた「吉宗」の時に「勘定方指導」で「紀州藩」を救うと云っても、それまでの「幕府借財2万両の体質」と「10万両の借財返済」の「負の勢い」を押し返し、「立て直し」までに至らすには「相当で効果的な秘策」が無ければ成し得ない。
「吉宗」が唱えた単なる「質素倹約策」だけでは成し得ない事は明白である。
この「質素倹約策」は明らかに「紀州藩の政策上」の「表向きの策」であった事が判る。
”領主はちゃんとやっているよ”と吉宗に対する領民の期待感を先ずこれで維持し、「一揆の動き」を抑え、傍らで”「青木氏の殖産策」”を示すと云う「パフォーマンス」をやってのけたと考えられる。
そもそもこの時期、飢饉や災害が頻発し、その上に「質素倹約の令」は現実的には無理な筈である。
然し、建前上は”「派手」”は推奨出来ない。

筆者は、「領民」には、「吉宗と伊勢屋(伊勢青木氏)」との「育ての親関係」は、「周知の事」であった筈で、「吉宗の裏」には「豪商伊勢屋」、つまり、「伊勢」のみならず「二つの青木氏」があると知っての事で「質素倹約令」を敢えて受け入れたのだと観ている。
これは「一種のサイン」であって、”これから改革して「領民の暮らし」を良くするよ”と云うものであったのだ。
そしてそれは、”「殖産」”を手掛ける「青木氏と伊勢屋」である事は領民の周知の事であったのだ。
況してや、前代未聞の「旧領の本領安堵」の事も充分に伝わっていたのであるから、これから”何か起こるよ”と領民の期待は膨らんでいた事に成る。
だから、「郷氏」としての「旧領安堵の事」を素直に受け入れたと考えられる。

そこで「伊勢屋の紙問屋」の「二足の草鞋」の「青木氏」が、「殖産」と共に「紀州藩の勘定方指導」をする以上は、「質素倹約策」ならば誰でも出来るから何も「青木氏の指導」を受けることの必要はない。
それは「青木氏」ならではの「秘策」とその「実行するノウハウ」を持ち得ていなければならない筈である。

その「秘策」が、次に論じる”「商業組合と殖産」”であって、その「殖産」を前提とした「商業組合」の「殖産」を興す前提が、この“「旧領の本領安堵策」”であった事に成る。

そこで起こる「殖産収益」にその税率を「六四の税」を掛け、「六を金納」にして「四を殖産経費」に廻せば「青木氏と紀州藩」に執っては双方共に「六は純利益」と成り得る仕組みである。
これが「青木氏」の「無形の利」の根拠であろう。
そして、“「殖産」”から生まれる「製品」をより効果的にする為に”「商業組合式」”にして「生産から販売」までを「系統化」すれば、「販売如何」では「六四」以外の”「利益」”は間違い無く起こる。
これを「青木氏等」の「殖産側の取分」とすれば、この「システム」は成り立つ事に成り、「氏人」も確実に潤う。

この「旧領の本領安堵策」以外にも、「伊勢北部の土地」と「南紀の旧領地」の「二つの地権地域」の「殖産」もある事から、「殖産経営」は充分に成り立つ。
従って、「頼宣の要請」(伊勢藤氏家臣団)としても、「吉宗の勘定方指導」(青木氏と伊勢衆)としても、何れにしても「殖産の策」として使えた事に成った。
兎も角も、後は「青木氏と伊勢衆」の「殖産努力の如何」に関わる事に成り、「紀州藩」は「旧領の本領安堵策」だけで事は終わる。
後は”「税納」”を待つばかりに成る。

更には「吉宗」の時は、「勘定方指導」で”「政治」”そのものも任せた事にも成り得て、そこに「伊勢藤氏族の官僚」の体制が整えたと成れば、「伊勢方の主導」で「紀州藩」を動かしたとも云える。
故に、一致結束が出来た事に依って上記の計画、或は、謂わば、”「伊勢戦略」”が「2万両の借財体質の脱却」と「10万両の返済」が可能に成ったのである。

それが「青木氏の歴史観」の「伊勢殖産」であった事は確かではあるが、”「殖産」”をしても「純利益」を高める事が「必要条件」であって、それに「紀州藩」が「伊勢殖産」に直接投資していては「純利益」などあり得ない。
況して、そのノウハウも無いし「必要経費」で毎年の幕府から借財する「2万両の赤字」は更に膨らむ事に成る。
この何もしないで得られる“「純利益」”が、上記した“「負の勢い」の「押し返し」”の”「反力」”と成り得たからだ。

この上記の「金銭」に変換して”「純利益」の「反力」”が「上記の窮策」であったと考えている。


(注釈 何度も記述するが、「紀州藩の家臣団」の殆どは「秀郷流青木氏」を中心とする「伊勢藤氏の集団」であるから、この話を「青木氏」に通して「内諾」を得る事は実に簡単な事であり、この「立場」を生かさない方がむしろおかしい。
むしろ、「青木氏の方」から裏でこの話を持ち込む位の事はあっても不思議ではない。私なら絶対にやる。)

筆者は、この“「反力」”を示す事が何処かに必ずあると観て研究を進めた結果、正式な書類とは考えられないが、「新宮の遠祖地の縁籍筋の家」からこの事に関する資料が発見された。
この資料の上記の一説に、この時の「税の事の経緯」を書いた文章の一説が見付かった。

つまり、「青木氏」が、この「今後の税」の事に付いて、況や「地権地」の事に付いて縁籍関係一族一門に説明をしている一節の行である。
「地権」を持つ各地の「遠祖地の縁籍筋」からの「殖産振興」を進める上での「問い合わせ」の様な事が書かれてあって、これに対する「返信」ではないかと観られる。
そもそも、250年近くも平家をはじめ多氏の支配下にあった「遠祖地の氏人」が、江戸期に成って急に「本領安堵」となれば、”何かあるな”という事は理解していた事は明白で、そこら辺のやり取りではないかと考えられる。
恐らくは、「紀州藩との関係」に付いての「戦略的な事」に付いて懇切丁寧に説明したのではないかと観られる。(青木氏側には消失して資料はない。)


そこで、この「殖産の土地」には、「畑方免令」を上手く利用して「平安期の旧領(遠祖地)」の「本領安堵策」で解決したとして、次ぎの問題としては「優秀なリードできる人の確保」であった。

「優秀なリードできる人の確保」の問題を語る上で「重要な事」があって、そこで、「伊勢青木氏」等は「歴史上に遺る史実(歴史観)」として次ぎの事を成したのである。

前段でも論じたが、「室町末期の伊勢三乱」で敗退して何とか生き残った「3割程度の郷士衆」と、「全国に飛散していた者(伊勢衆の伊賀衆)」等を先ずは呼び集めたのである。
「伊勢衆」を生き残らせる為にも、江戸初期には、「頼宣肝入れ」で、「青木氏」と共に、「紀州藩公認」の下でこの事に取り組んだのである。

この事に付いては「紀州藩家臣団」が要するに何と云っても「伊勢籐氏」である。
「呼び戻す事」には何の問題もない。
むしろ「人と云う戦略点」では、これ程の「都合の良い事」は無いであろう。
普通なら、”呼び戻せばまた反乱を起こす”という意見も家臣や周囲から出るであろうが、そこは逆であった。
そんな馬鹿は幸いに居なかった。

況して、当時は、「人」は領主の下にあり、”他国から呼び集める”と云う事は「国抜けの法度」でもある。
「理」に合わなければ「時の指導者」でも逆らうと云う「伊勢の骨入りの郷士」とその「家人」である。
”「人」には問題がない”と云うよりはこれ程の理に適った「人」は無かったであろう。

後の事は「青木氏」が「引き受け元」に成れば完全に上手く行く。
この事は「公的資料」として遺されている。
流石、「家康」が目にかけた「頼信の紀州藩」である。
実にうまく利用した。中にはこの”「殖産策」”を利用して「伊賀者を護身団」に仕立てたくらいである。

(注釈 実は「頼信」は将軍からその「才」を嫉妬され「謀反の嫌疑」をかけられる始末で「影の護身団」が必要であった。
これも「伊勢籐氏の家臣団」が「当主」を護る為に「青木氏等」が行う「畑方免令の殖産策」に託けたと考えられ、「青木氏」もそれを導いたものである事は疑う余地は無いだろう。
後は、「青木氏の影のシンジケート」で包み込めば表向きは何の問題もない事に成る。
何時の世も「組織の人」を扱うときは慎重であらねばならない。
これは「青木氏」の「家訓」でもあり「氏是」でもあり、それに従ったという事ではないか。)

注釈として、そもそも、室町末期の「伊勢三乱」の結果、「織田軍や秀吉」に抵抗した「伊勢郷士衆」は、取り分け、「北勢の伊賀衆11氏」や「南勢の北山衆(平家残党末裔)」や「山間部の戸津川衆(平家残党末裔)」や「東勢の長嶋衆」等は家族を残して全国に飛散した。
彼らを「神明社」が託ったのである。
多くは「青木氏の定住地」で、「織田軍や秀吉の勢力」が届かず、且つ、「青木氏の保護力」が強い地域の特に「越前や越後(神明社)」等の北域に逃げ込んだ。

ところが、この「二つの条件」のある「武蔵域」には不思議に逃げ込んでいない。
そもそも、「秀郷流青木氏の膝元」であり、家康の「御家人や旗本と成った家臣団」であり、ここに「家臣」として逃げ込めば助かるのに無い。
何故かという疑問には、「北域」と「武蔵域」の差には「伊勢信濃シンジケートの活動」が届く範囲であったかと云う事が考えられる。

そもそも、史実として前段でも論じたが、“「呼び集めた」”と云う事は「居場所」を承知していて保護していた事を示すものであり、“ほとぼり”が冷める時期を見謀っていた事を示す。

この”呼び集めた”とする記録がある事は、前段でも論じた様に、「伊勢」そのものが「郷士衆」が極端に少ない(全国の1/10程度)上に、この「郷士衆」が元より少なく成った処に飛散している訳であるから、“「殖産」を進める上では、「絶対的な力と成る者」が少ない”と観ていた確実な証拠でもある。
つまりは、「青木氏」等に執っては「必須の課題」であった事を示す。
この「畑方免令を利用した殖産」に必要とする”「人の問題」”はこれで解決された事が判る。


この「必須の課題」(「人」)を解決でき得れば、後は、”「拠点造り」”に成るだろう。

この「紀州藩との取り組み」の”「拠点造り」”のそれが、上記の様に、「伊勢北部の土地」と「南紀の旧領地(遠祖地)」の「二つの地権地域」であった。
その一つでもある「玉城領域の全域」(現在の玉城市)が、物流の「蔵群」と「作業群」と「長屋群」であった所以なのである。

この松阪に近い「宮川沿領域」を「畑方免令の殖産」の「拠点づくり」の地域にした。

「旧領の本領安堵地の殖産地」では無い此処に「殖産の実務拠点」を置いて、「全殖産」の「一切の集積地」としたのである。
”何故、「旧領の本領安堵地」に拠点を置かなかったのか”と云う疑問であるが、この地域は「熊野神社の領域」に近く「熊野六氏の勢力圏」(平家落ち武者の末裔族)でもあった。
この域に「殖産の拠点」は絶対に置けない。
然し、「幕府」が成立したとしても世の中は安定はしていない。
「本領安堵域」と成った以上は、未だ無防備ではいられない。
護るには「青木氏」は「武力集団」は使えない。
「影の伊勢信濃のシンジケートの抑止力」をこの地域に及ぼさねばならない。
然し、「熊野勢力」に執っては南勢に「北勢の影の勢力」が浸出して来る事は、この不安定な時期では最も危険性を孕んでいた。
”ではどうすれはせ良いか”と成る。
何せ250年もの長きに渡り、北勢域に伸びた「青木氏の抑止力」の届く範囲ではなかった。

そこで、「青木氏」は、「商記録」にも観られるように、「7割の株券」を持つ「伊勢水軍」を使った様である。
この「水軍勢力」で「影の伊勢信濃のシンジケートの抑止力」を「動かす姿勢」を見せて「熊野勢力」を牽制していた様である。

どう云う事かと云うと、「伊勢水軍」は「海の上での勢力」で「熊野勢力の牽制」は直接は無理である。
況して、「熊野水軍」もある以上は直接的には戦略上好ましくない。
然し、それは「使い方」である。

それは、次の様であった様で、「遠祖地の本領安堵地」等からの「畑方免令の殖産」の生産品を「伊勢水軍の水路」を使って「松阪の玉城域」に「宮川」を経由して陸内に運び込む戦略をとったのである。
そして、ここ「地権のある玉城域全域」に「蔵群」と「職能長屋」と「加工場群」と「支配拠点」を置いてここを「殖産の拠点」とした。(明治期の35年まで残されていた。)

(注釈 中には、恐らくこれでも足りない為に、「郷士の家の庭」に「小さい拠点の作業場」があって、周囲の「氏人の家人の女子供」までもを呼び集めて「工場」が設営されていた。
如何に「殖産」がうまく動いていたかを物語る。
「呼び集め飛散した郷士」等の「屋敷群」が元の「四家の各地域」にも「新たな設営」があった事が記載されている。)

シンジケートの拠点は流石に明記は無いが、「神明社社領域」に敷設されていたらしい事は判る。
唯、身分は隠しての事である。
例えば、判り易い例として、「南北朝の楠木正成」は「シンジケートの一員」でもあったくらいで、「山間地の土豪の身分」の家柄で生きて行くには「経済支援」とそれに基づく「掟」で結ばれた「裏の存在」が必要であった。
この様に「シンジケートの身分」は、多岐に渡りあくまでも「神明社や寺社」の「影の中に生きる身分」であった。
当然に、これに依って「影の伊勢信濃のシンジケートの抑止力」は、”伊勢から直ぐにでも移動できると云う「印象」を与えていた事”は、「商記録の動き」からも判るし、「旧領地の手紙の文面」からも読み取れる。)

そもそも、「影の伊勢信濃のシンジケートの抑止力」の中には、記録では証は出来ないが「平家末裔」が含まれていた事は否めない。
だとすると、確証はないが「熊野勢力の六氏」とは”「事前の渡り」”は付けられていた筈であろう。

上記で論じた様に、「畑方免令を使った殖産」に「利」を与えるには、いくら”「無形の利」があるから”と云って、あの高く厳しい修験道が登る「南勢の紀伊山脈」を越えて運んでいては「利」どころの話では絶対にない。
この事はむしろ、それ位の「使い道の無い山間地の地域」という事にも成ると云う事は、「紀州藩」も当初から知っていた筈で、「殖産として本領安堵する条件」の一つであった事は云うまでも無いであろう。
普通なら、”その土地をやるよ”と云っても”そんなものいらない”と云うだろうそんなもの「土地」である事は誰でも判る。
素直に”頂きます”と云うのは、「遠祖地」であると云う事から「青木氏」だけである事も判る。

「熊野勢力六氏」は、「社領権域の隣接地」であるので”頂きます”と云うかも知れないが、ところがこれは「紀州藩」に執っては好ましくない。
これ以上、彼らの「宗教勢力と発言力」を拡大させたくないし、「殖産」で何とか借財を償却しようと「苦肉の戦略」を練っているのである。
そんな愚策は無いであろう。

そもそも、「宗教勢力」と云うのはどんなものであるかは知っている。
相当、「厄介な勢力」である事は歴史が物語る。
何時の世もこれに大きく関わり過ぎた「政治圏」は乱れる。

その一つの「青木氏の例」があるが、「守護神の神明社」を、丁度、この時期の「江戸初期の幕府」にすべて無償譲渡した事はこの事に由来する。

「青木氏」と「伊勢籐氏の家臣団」が「愚策」を練る様なそんな馬鹿な事をする訳がない。
そもそも、北勢の「伊勢神宮の宗教勢力」の「旗頭」に執っては、南勢の「熊野神社の宗教勢力」に「利」に成るような事は絶対にあり得ない。
況して、「青木氏の遠祖地」で、且つ、「殖産改革」が成り立つ条件下にあれば尚の事でもある。
むしろ、戦略上は「熊野勢力六氏」を適度に”ちょっかい”を出させない様に抑え込んで置く必要がある。
唯、見栄を切って抑え込む事は好ましくない。相手を刺激するだけである。
この事は、「遠祖地の旧領の本領安堵」に依る”「畑方免令の殖産」”を成功させる「重要なポイント」でもある。

そもそも「遠祖地の氏人」は武力は持たないし、”「殖産」”を上手く進めるには穏やかに護る事が必要で、”静かなる事林の如”である。

さて、その上での事を念頭にしての事である。
それには、「間接的に圧力」をかけての「伊勢水軍を動かせる勢力」(7割株保有)である事が条件であった筈だ。

そして、もう一つは、「旧領地の付近一体」を安定に保たせる事が必要である。
「紀州藩」がこれに「家臣」を費やすれば、そもそも「六四の税」の意味が亡くなる。
当然に、「青木氏」の持つ「伊勢信濃シンジケートの抑止力」を生かせる事が必要である。
然し、幾ら「シンジケート」云えども「南勢」はその「勢力」が届く範囲ではない。
上記した様に「熊野勢力」の思惑が働き”「小競り合い」”等の「いちゃもんの脅威」もある。

つまりは、この「二つの条件」を組み合わせれば解決する。
当然に、更には上記の「搬送の利」も解決する。
(この”「搬送の利」”にはもう一つの意味があった。)
これで「一挙三得」でもある。「殖産」は上手く行くかも知れない戦略であった。

そして、「水利」で運んで「宮川」から「陸内の玉城」に運び込めば解決する。

「人の問題」、「拠点造り」に絡む「三つの条件」、「無形の利」等の事を考えたからと云ってそう簡単にできる訳では無い。
相当に「遠祖地の氏人」や「伊勢郷士の呼び集め」や「伊勢籐氏の家臣団」や「伊勢水軍」や「伊勢信濃シンジケート」の関係者と事前に綿密に「打ち合わせ」ての事でなければ出来ない事である。
「遠祖地の手紙」の一説はそれを物語るものであったと観られる。



投稿時の脱落部の追記


ここで、「伊勢籐氏の家臣団」を大量に雇った事のみならず、全国に飛散していた「伊勢郷士」を呼び戻した事は、勿論の事で、更には「青木氏の歴史観」に大きく関わる事が起こったのである。

この”「幕府の嫌疑」”を余計に増幅させた事が次ぎの三つのこの「殖産の策」にあった。

一つは、上記した「搬送の利」の意味である。
二つは、「本領安堵の遠祖地の旧領地」で、”何を殖産させたのか”と云う事である。
三つは、「伊勢水軍」を係留する「大船の港」があるかである。

一つ目の「搬送の利」の「伊勢水軍と伊勢信濃シンジケート」との扱いの関係であった。
「伊勢水軍と伊勢信濃シンジケート」の組み合わせで「遠祖地の山間地の殖産」は克服できた。
然し、これには、「隠れた問題」があった。

それは、”誰が生産品を搬送して防御するか”である。
「伊勢水軍の人夫」は操船で手はいっぱいで出来ない。
だとすると、「遠祖地の山間部の生産地」から「港までの搬送する役」を誰が担うかであって、これを解決しなければ「絵にかいた餅」である。

これが、「伊勢信濃シンジケート」であった。
「影の武力集団」の実力集団でもある。
過去には、足利軍の「二万の軍」を餓死させた歴史記録を持つ怖い「実戦集団」、織田信雄の軍を半壊に追い込んだ「実践集団」、「伊賀の戦い]で「名張の実力」を示した「実戦集団」、秀吉の「長嶋の戦い」で秀吉を物資不足で苦しめた「実戦集団」、「紀州門徒狩り」で秀吉を苦しめた「実戦集団」、二度の「伊勢動乱」で実力を示した「実戦集団」等、この様に上げれば「有名な歴史記録」はこれ全て「伊勢信濃シンジケート」である事は有名である。
「青木氏」はこの”「抑止力」”に使う「影の武力集団」(陸)と「伊勢水軍」(海)に大きく支えられていた。
そうでなければ、「危険で強大な抑止力」を働かせなければ、この時代は「殖産」などの「大きな商い」は絶対に出来なかった。
この「影の実戦集団」が、「伊勢水軍」の船に「搬送役と護衛役」で乗り込むのである。

「幕府」だけではなく、”誰が見ても何かあるのか”と勘繰るは必定で、その上に「伊勢水軍」と結びつけば「謀反」と決めつけられる要素は充分に持っていた。

「表向き」にはとやかく言われる筋は無いが、「青木氏」は、この「影の実戦集団」を「経済的な支援と掟」で平安期からの「悠久の関係」を保ち得ていたのである。
恐らくは、「影」ではあるが、明治期の半ば頃まで「周知の事実」であった事が判っている。
この「青木氏の経済力」が「殖産と云う大義」で「紀州藩の背景」にあるとすると、黙っている方がおかしい。

だから、「青木氏」は「殖産の大義」もあるし、個人の「謀反の嫌疑」は無いが、「紀州藩」では表に出せない理由がここにあったのであるし、況して証拠と成るものを「目付家老」に見られて「難癖の材料」ともなっては困り当然に記録にも残せない所以でもあった。

然し、「青木氏側」に執っては、何はともあれ、「影の実戦集団」と「伊勢水軍」の「組み合わせ」の上に、船に「搬送役と護衛役」で乗り込むさせる戦略は欠かせない事なのであった。
そして、「遠祖地域の熊野勢力」を牽制する意味でも、船には”「影の実戦集団」を載せている”という事を個人的に「殖産」を進める以上は恣意的に誇張する必要があった。
唯、この「牽制策」に付いて上記した様に「紀州藩の勢力」は期待は全く出来ない事は明らかである。

(注釈 下記の「参考」のところで示す「伊勢での紀州藩領の実態」を観ればよく判る。)

この様にする事で、「影の実戦集団」の「搬送役と護衛役」は、”「殖産の利」”が大きかったのである。

ではそこで、、”何を殖産させたのか”と云う事が重要ではあるが、その「殖産」の内容に依っても事態は変わる。
そもそも奈良期より「紙屋院」で「和紙の開発」を手掛け、「楮の生産」をこの「山間地の遠祖地の地域」で、「生産」をして来た。
ここに江戸期初期に成って「畑方免令」に依る「本領安堵策」で、「山間地の本領」により「殖産」を進めると成ったが、これでは問題は無いであろう。

”では何を以ってこの地で他に「殖産」が可能か”と云う問題が出る。
下手をすると、紀州藩に嫌疑がかかるが「養蚕」であった。ケチをつける程に問題は無い

「楮の増産」は、兎も角も、「畑方免令に適した物」として「利」を上げられる物は先ず考える事は「楮」に似たものと成ろう。
この思考は失敗は少なかった。それは、記録から「桑の木」であった。
つまり、伊勢に「養蚕の殖産」を開発する事であった。
それまでは他国の多くの地域で「養蚕」は手掛けられていた。
然し、世間に未だこれだと云う”「殖産」”の”「養蚕」”は無かった。
つまり、それに「見合う生産」と「それを賄う商い」の形を採っていなかったという事である。
つまり、それまでは”「殖産」”では無かったと云う事である。

ところが「殖産という形」で始めたにしては、”「養蚕」”のそも物の記録は、この「遠祖地の手紙資料」には「養蚕の字」の一字も出て来ない。
ところが実際の記録は、「伊勢の商記録」の「取引の内容」から江戸に”「松阪紬の名」”で江戸期も極めて初期頃に取引された記録が読み取れるのである。

(注釈 「搬送役の伊勢水軍の記録」そのものが発見する事が出来ない。明治期に運送業に転身した事までは判ってはいるが、「青木氏の商記録」には「7割株の保有」までの資料があっても「伊勢水軍側の個別の資料」と成る全てが発見できていない。
これは恐らくは、「養蚕」に関しては「桑葉搬送」であった事と、嫌疑とならない様にする「紀州藩に対する配慮」にあったと考えられる。)

この「青木氏の商記録」には、”「松阪紬」”の「固有名詞」で記録されている。
つまり、「江戸での市場」からその珍しい「殖産」に依る「優れた品質」を観てこの名称が付けられた事に成る。

当時、”「絹」”は各地でも生産はされてはいたが、「青木氏」の様に”「殖産」”として生産された「品質」で、その”「品質」”に対して「江戸の市場」が歓迎した事を物語るもので、全国的にその名が広まった事が公開資料で分かる。
その呼ばれた呼称が、商取引の「青木氏の商記録」にも初めて記載したと云う事であろう。

従って、この”「殖産紬」”としての”「松阪紬」”であった事は、”「殖産」”に適する環境下で紡がれた事を意味する。

この事から考えると、普通は「山間地の遠祖地の地域」では、「養蚕の生産」そのものは適さないという事に成る。
これは「養蚕」そのものでは無くて、「養蚕の殖産」に適さないという事であった。
それは「絹糸・絹布」まで仕上げるには、それなりの「平坦な土地の面積」と「近隣の水利などの生産条件」と「生産に関わる人」が整っていないと出来ないと云う事に成る。

現実に、「商記録」では、この「青木氏の養蚕」は、「伊賀域と名張域と玉城域」での「北勢」の「青木氏の地権域」の「線状域の生産」に成っている。
この”「線状域」”と云う事に「殖産の意味」が含んでいると観られ、地形や土壌や水やその地の環境に合わせて「殖産工程」を繋いだ事が資料で読み取れる。

(注釈 「伊賀」は「織」として有名で、「名張」は「染色」、「玉城」は「布」の役割を主に担っていた事が記録で判る
後に、この技能を生かして「伊賀織」として全部の工程を熟し、「名張紡ぎ」では「水利」を生かして「紡ぎ」と「染色」、「玉城布地」は「布と服」に仕立てる事で名を馳せた。)

つまり、「遠祖地」では”「桑葉」”を生産して荷造りして、急いで「影の実戦集団」の「搬送役と護衛役」で、「伊勢水軍」を使ってここに運んだという事に成っている。

では、それが可能なのか検証してみる。
「伊勢松坂」より紀伊半島東側を志摩半島から周り大船が接岸出来る大港と成れば、古来の貿易港の「尾鷲」か「太地」か「新宮」と成り得る。
そもそも、この「尾鷲」は奈良期の古来より「中国との貿易港」で最も盛んであった。条件に問題は無い。
但し、この「尾鷲」の場合は、「遠祖地」からは港に「陸路」か川沿いに「小舟」で搬送しなければならない。

記録では、そもそも「紀州藩の本領安堵の遠祖地」とは、「尾鷲」から「北山村」と「熊野村」に囲まれた「山間地」(地権)とされ、南紀の「飛び地」(地権)では、現在も縁戚筋が定住する「太地村」と「湯浅村」と「周参見村域」にもあったとされる。

(注釈 平安期にはこの「南紀の地域付近」は、「遠祖地としての支配地」であって、伊勢には「三宅岩床連国造」の「国司」を送って守護国としていた。「飛び地の地域」はこの時の「名残の地域」で江戸期まで細々と「地権」を持っていた。)

この「遠祖地の地域」の中心は、明治期まで「遠縁の親族」が居て「越前の地」と同じく「青木氏の休息地」でもあった事から”「尾鷲」”であった事が判っている。


そこで、この事に関する重要な参考事として、江戸期末期までの「伊勢の国」は、何と小国分離の国で、普通は「5郡程度」が原則で一国の藩主が領有するが、何と「13郡」に分かれ、更に分離され「57か所」に成って支配されていた。
その内訳は、「幕府領」(北勢の平地5か所)と「旗本領」(1か所)と「神宮天領」(3か所)を含めて「藩扱い」で何と「25藩」である。
その内、伊勢の「紀州藩領」は、僅かに「8郡/13郡」に跨り、その一部地域の「8か所/57か所」である。

この「8か所」は1郡全部では無くこの「一部地域の分散した村域」なのである。
そして、地元の伊勢の豪族は無く、「熊野勢力」の一氏の「久志本氏」(現在の串本の豪族)が「南勢」の「小さい地域」を「領国」に任じられていて「支配力」は皆無に近かった。
これは「関ヶ原の戦い」で著しい戦功のあった全国の無名の豪族や旗本に小国に分離して分け与えた結果である。

それだけに「伊勢」は「不入不倫の権」で護られ「強い武力の持たず郷士も少ない国」であった事から、「幕府」に執ってみれば「戦功」に分配する「格好の地」であった事がこの「25藩」が物語る。
当然にここで起こる状況は、火を見るより明らかで「不入不倫の権の悪弊の域」であって、これが「青木氏」に重荷に成って圧し掛かっていた。

その中でも元より「伊勢信濃シンジケート」の「影の支配力」を持つ「青木氏」が、「郷氏」として「地権」の持っていた「北勢」と「松阪」を除いては、上記は殆どは地形は「山間地」であり、「青木氏」が「殖産の地権」として関わった域は、「飯高郡」、「飯野郡」、「多気郡」、「度会郡」の「4郡/13郡」の「南勢」に当たる地域であった。
その内の「4地域/57地域」という事に成る。
主に、「多気郡」と「度会郡」の2郡に集中する。
因みに、「神宮天領」は僅かに「5か所/57か所」である。

この問題の「南勢」には、更に難しい存在があった。
関西域全域の水利を統括する天下にその恐ろしさに名を馳せた「幕府奉行所」が、南勢の度会郡に”「山田奉行所」”があって目を光らせていた。

この状況を観ても、伊勢で「紀州藩の藩領」と成った「小域」はどのようなものであったかは一目瞭然であり、語るも意味がない状況であろう。

ここをそもそも「本領安堵」として、「畑方免令」で、「殖産」とするは、「紀州藩領」でありながら、「本領安堵」とは一体どういう事かと成る。
そもそも、「本領安堵」と云う事なら「遠祖地」でありながらも「郷氏の青木氏の領地」である。
然し、そうでは無く、唯、「遠祖地」である事を理由にして「領地並みの地権」を認めたという事に成る。
そして、「大義」を作る為に「畑方免令」で「領地並みの地権」を与え、その上で「殖産」とするには「裏の命令」を出す事で済む。
そして、「六四の税」で「目的の借財」を返すとしたと執れる。
その為にも、”ほとんど役に立たない誰も欲しがらない細かい分散した土地”を表向きは「藩領の形」を採ったと云う事に成る。
そもそも、「幕府」に対しては、表向きは「藩領」としながらも、内々では「青木氏」に対しては紀州藩独自で「本領安堵の大義の形」を整え与えて”「地権に対する全ての支配権」”を委ねたという事である。

勿論、これは上記した様に、「紀州藩と青木氏」との裏の「合意の上」ではあるが、実に状況を観た戦略を練ったという事が云える。
これは当に幕府に対する「謀反嫌疑の対応」でもあった。

何故ならば、こんな「小さい地域」に「幕府領」が「伊勢領」に何と「5か所」も配置され、江戸期には「海奉行」だけではなく、「紀州と伊勢全域の奉行権」をも命じていた有名で恐れられていた「天下の山田奉行所」が配置され、それも「本殖産の度会郡」にあったのだ。

これが「頼信」を通じ「家康」が「江戸初期」にこの「山田奉行所」に命じた”伊勢の事一切御構い無し”の特権の「御定書」の所以でもある。

(注釈 天智天武天皇が出した「不入不倫の権」に基づく「朝廷の永代令」を追認した。
この時の事例を以って追認したのであり明治初期までこの原則は守られた。それだけに緊迫していた。
参考として、吉宗の時も、この「山田奉行所と青木氏」は、”瀬戸内に大船で搬送する商い”で争う「事変」が再び起こった。)

(注釈「紀州藩の伊勢領」は、「伊勢神宮域の北勢域」に4か所、「熊野神社域の南勢域」に4か所と恣意的に配置されている。)

これは「幕府の差配」に依るもので、これを「紀州藩」が「幕府の意向」を表向き果たし、何とか生かそうとして其処で「青木氏の殖産」を興させる。
それに依って「地権を持つ北勢の伊勢神宮域」は元より、「南勢の熊野神社域」をも「牽制させる策」とすれば、「山田奉行所の監視」の「幕府の意向」は表向きは成し遂げられる。

さて、この事を参考とする状況の中で「伊勢の事態」がよく判る事であるが、そうすると、現在の国道R42かR34の陸路か、又は「中川」で小舟で尾鷲の海まで運んで、そこから海路を通じて運んだことに成るので、「尾鷲」からは150キロ、「新宮」からは「熊野川」で小舟で「新宮港」に運びそこからは海路で約200キロと成り、風向きでは5時間から7時間で運べる。
「陸路の分やその他の時間」を加えれば、7時間から10時間程度と成る。
まあ何だかんだで、「半日程度」で運べる算段である。

これならば、「桑葉の搬送」は可能な事に成る。
但し、ここで上記した様に「新宮」は直ぐ隣が「熊野神社の境界」であるので、「熊野勢力」がおとなしくしていてもらう事が絶対必要である。
「熊野勢力」に騒がれては、それこそ「幕府の思う壺」と成ろう。
資料では「陸路」の表現は書かれていないので、主には「小舟」の「川舟」を使って「港」に出していた事が判る。
これの方が騒ぎにはならないし速い事は誰でも判る。また、「目立つこともない事」から先ずこの状況では「陸路」は採らないであろう。

では、その前に、「北勢」は兎も角も、「南勢」の「川舟」をどのように調達したかの問題を先に解決しておく必要がある。
そもそも、「遠祖地」は「山間地」であり「川舟」は持ち得ていたかの疑問が残る。

「青木氏」がこの「殖産」の為に準備したという事は当然であろうが、それだけの「舟」と「漕ぎ手」を充分に準備出来たかは大いに疑問である。
「舟」は作れても「漕ぎ手」は技能を伴う事から身内で直ぐには無理であろう。

では、現実には調達できているのであるのでどうしたかである。
「尾鷲」は「遠祖地の地元中心地」であり、「港」をもつ事から縁者関係で「舟」さえ調達できれば「漕ぎ手」は”「ある方法」”で簡単に整えられる。
然し、これだけでは不足であるし、「熊野聖域港」の「新宮」と成ればこれは殆ど無理である。
それこそ「熊野勢力」に足元を狙われる。近隣には「久志本氏」が目を光らしている。

これには、唯一つの方法(ある方法)があった。
それは、新宮港の直ぐ西隣の「太地域」と「周参見と湯浅域」は江戸期まで「地権」の残る「青木氏の縁戚地」であった。
ここは地形上は紀伊山脈の全くと言って良い程に「平地の無い鯨業等の黒潮の漁村」であった。
ここから調達をした事が縁戚筋の資料や口伝から判る。

これは「閑散期」とか「繁忙期」とかではなく、口伝や資料の読み方では、長い年月の期間、「松阪」から離れて「青木氏との関係」が途絶えていた事で生活は豊かではなく、又、次男三男を「漁業」で充分に賄える事は無かったとある。
そこで、この次男三男に「青木氏」が舟を与えて「漕ぎ手」として迎え入れた事らしい。
こうすれば「漁業の跡継ぎ」は解決するし、「縁戚筋」は喜んだと口伝にある。

(注釈 筆者も祖父や親からや、又、筆者が訪れた際に老人から「伊勢宗家の事」として詳細に聞き及んでいる。)

唯、この場合には、「紀州藩に対する税」を納めなければならなくなるし、「漁業権」を届け出て許可を得て獲得しなければ成らなくなる。
そして、ここは「伊勢」ではなく「紀州」であり、「紀州藩の関り」が表に出て好ましくは無い。
先ず、「伊勢」であれだけ気を配っての戦略なのにそんな事は絶対にしない。
そこで、この「逃げ策」として、この”「畑方免令」”を使ったのである。
この手は、「遠祖地」だけではなく「玉城、名張、伊賀」でも「働き手」として「同じ手」を使った。
何れもこの手には、「紀州藩」は完全な事前了解の無視であって、「畑方免令」を使えば「青木氏の中での事」に成り、次男三男の「働き手」を自由に生み出す手段と成り得て「利益」が生まれる。

(注釈 この時期は、長男が「働き手」として農家の跡を継ぎ、土地の細分化を避けさせる為にそれ以外は奉公など外に出て働かねばならなかったし、そもそも働き場所は少なかった。
武士も同じ事で「部屋住み」の「冷や飯食い」や「僧」で終わる者が多かった。
ところが、この「畑方免令」を使えば「郷士」や「農民」や「漁民」もそれぞれの元の「身分の立場」を保つ事が出来、且つ、「税」からも逃れられたのである。
幕府は「税の管理」が煩雑化し取り分け「土地の細分化」を嫌った。
これを知りつつも室町期の「紙文化」で得た「莫大な資本」(5百万両)を元手に投資し、「未開の土地」等を「田畑」にして「殖産を興せる者」だけに与えられた「畑方免令」で「無形の利」を挙げ、多くの「氏人や家人」らを救い逃れられたのである。
「無形の利」とは云え「青木氏」に執っては「鎌倉期からの宿願」を果たせるこれ程の事は無かった筈である。)

つまり、上記した様に「本領安堵」とは、「地権と畑方免令」の「組み合わせ」で「領地並み」が成立し、強いては「青木氏の完全裁量の範囲」で出来る事に成る。
この事を充分に双方が理解していた事に成る。
後は、この「縁戚筋の漕ぎ手」と「舟」を何処に所属させ支配下に置くかに関わるだろう。
これに依って事態は変わるし、「紀州藩」は当然の事としても、「熊野勢力の動き」も又変わる。
それは、「伊勢水軍の支配下」に入れたのである。
これでは文句の着けようがどこにも無くなる。
これは、”流石、見事”と云いようがない。
「青木氏の縁戚筋」、つまり「氏人」や「家人」を豊かに出来る。これが「無形の利」の一つであった。

だから、「南勢」でも川、「北勢」でも「川を利用する戦略」を採った。
これには「北勢」では「松阪の玉城」の「宮川か櫛田川の水利」が必要で、生産に関わる「人と面積と条件」が整う「大地権」を持つ「玉城域」であって、その先の「名張域」と「伊賀域」であったという事に成ったのである。

そして、「紀州藩」の「畑方免令の殖産」の当時の江戸初期は、未だ誰も手掛けていなかったこれを”「松阪紬」”として命名して、問屋街が集まる「江戸大伝馬町」に「伊勢屋」として問屋を構え販売して大好評を受けたのである。

江戸期は伊勢領は上記した様に「多くの小国」に支配されていたが、その後、「青木氏」が始めた「養蚕の殖産」は20-30年程度を経て、下記の様な経緯で藤堂藩などの支配下で「津域付近」でも生産されるように成っている。(下記)


さて、「殖産の戦略」は解ったが、「養蚕」のこれで「紀州藩の借財」は返せるかの問題があった。
現実には、藩主吉宗の半ば頃に「蓄財」は別として莫大な12万両(積算10万両と幕府2万両)と云われる「借財」だけは返せたのであるから、「蓄財」までにするには他に「別の物の殖産」をした事に成る。


では、その”「他の物」”とは何かと成る。
全く「養蚕の殖産」と同じ事が云える。
それは、「遠祖地の記録」にも「松阪の商記録」にも記載が観られ、公的資料や郷土誌にも記載がある”「木綿」”であった。

この「遠祖地の山間部の畑地」に”「綿の木」”を植え、その「綿花」までを生産し、その「綿花」を上記の要領で「伊勢玉城」までに運び、そこで「木綿布地」にして、「松阪」で販売すると云う手段をとった。
この事に関する記録は、「青木氏の上記の資料」の中にも出てくるし、「郷土史」や「複数の公的資料」や「個人の研究資料」にも明確に記載されていて、その「製品の呼称」までの記録が明確に明治期まで残されている。

この”「木綿」”は当時の衣類の主な生地であって、これをそれまでの家内工業ではなく大量に「殖産」で「興業する事」で爆発的に販売は論理的には可能であった。
ところが、「青木氏の殖産」と云うか「伊勢での初めての綿の殖産」は、初期は論理的には行かなかった様である。
「養蚕の要領」で「玉城までの搬送」には全く問題がなかった様で、意外なところに「落とし穴」があった事が記録や口伝に残る。

そもそも、家内工業的に生産された「木綿」には、「買い手側」の「品質」に対する「諦め」が長い間の習慣に依って潜在的にあって、”「木綿」とはこんなものだ”とする「妥協の産物」として長く市場で認められていた経緯があった。
ところが、大量に問屋で販売すると成ると、「流通」には「多くの目」が働き、「市場原理」が働き、「市場の値段」が激しく変動し、「間接費」が嵩み「利益」に繋がらないという事が起こったのである。

「青木氏」が最初に始めた”「殖産木綿」”を扱う「松阪の伊勢屋」は実に困った。
実は、当時の木綿は全国各地で生産され市場に多く出回っていた。
この中に「伊勢の殖産木綿」が全国で市場に初めて殴り込みをかけたのであるが、これが戦略的に間違っていた。
”間違っていた”と云うよりは、”戦略に欠けていた”と云う方が正しかった。

それは、当に”「殖産の欠点」”でもあった。
「生産の流れ」に沿って「木綿」を作ると云う事に拘り過ぎたのである。
それは、「木綿の品質」にあった。但し、この「品質」は決して”悪い”という事ではなかった。
「家内工業的木綿の品質」に対する妥協からすれば、そんなに「品質の差」は無かった。
決定的に無いのは、「殖産木綿の品質」を市場から「特別に求められた品質」にあったのである。

”「殖産木綿」”として大量に市場が消費する以上は、「品質」に”「布」”としての「品質」を強く求められたのである。
それはどの様なものであったかは記録にも記載がある。

それは、要約すると、次の様に成る。
「木綿の布地」がザラザラせず「平坦」(1の品質)である事
「繊維の目」(2の品質)がキッチリと揃っている事
「生地の色合い」(3の品質)が整っている事

以上であったらしい。
唯、この「色合い」とは生地として「色ムラ」がない事であったらしい。

この「3つの品質」が”「殖産木綿」”に「市場」から求められたのである。
概して言えば、大量に使う事に依って「使い勝手」と「人目」を要求されていた事に成る。
「麻布」から「木綿」を通常に使う以上は、「絹の様な高級の品質」に近い物を求めた事に成る。
つまり、これは今風で云えば「江戸のファション性」として要求された事に成る。

「伊勢」で初めて”「殖産興業」”に成功した”「松阪木綿」”の「伊勢屋の青木氏」は、これに「青木氏部」に依る「機械化」と「職人の技量の向上」の獲得に励み懸命に対応したと記されている。

(注釈 「青木氏」に執っては「可成りの衝撃」であったらしく、「家訓10訓」に追記して説かれている位である。)

この結果、”「松阪木綿」”の「上品質の称号」が「江戸人」に認められた事が多くの資料で確認できる。
全国的にもこの結果、”「松阪木綿」”は別格で扱われた事が記されている。(下記)

その後、上記した様に小国化した「伊勢」では、殆どの小藩主が「なけなしの資産」を投資して、全国各地から「綿花」を仕入れ「委託生産」(OEM)を行ったとされ「伊勢津域」で生産された。
これが、後に、”伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ”の「伊勢の諺」に成った所以である。
そして、この「伊勢の諺」の結果、何と”「松阪」”は「伊勢」ではなく「松阪」であり、「松阪以外の津以南」は、「伊勢の国」とまで呼称される所以と成った。

これはどういうことかと云うと、そもそも、「松阪」の隣接北域が「津域」であり、更に北域には伊部域や桑名域があり「伊勢」であり、「松阪」より南部域は上記した様に間違いなく「伊勢」である。
何故、中間の「松阪」だけが「伊勢」ではないのか、どちらかと云うと「伊勢神宮の膝元」であって、云うのなら「松阪」が「伊勢」であろう。

この「伊勢」のこの「二つの諺」が、物語る様に、”「松阪」”は「青木氏が興す殖産と商業域」があまりにも特異であって特別視されていたのである。
これが後に、この「本領安堵策(地権)」の「畑方免令による殖産」を大きく物語るものと成った。

「青木氏の殖産」を真似てこの「木綿生産」に関わって「利益」を上げようとしたと記されている。
ところが、この結果、この後口からの「木綿」は、「市場の要求」には充分に対応せずに、「利益」だけを追求する「木綿の生産」に成って、結果としてその品質は、上記の「3つの品質」の低いものが出来たとされた。
その結果で「品質」は、”毛布やタオルの様な物”と成り、使う中に「木綿の毛」が剥がれ触手の悪いものと成ってファッション性の無い直ぐに使えなくなる品質と観られた。

これを、”「松阪木綿」”に対して”「伊勢木綿」”として区分けして呼称された事が記されている。

(注釈 有名と成りその品質が認められた”「松阪紬」”と”「松阪木綿」”は、市場の需要の要求に対して「供給の増産」は必要以上にしなかった事が記されている。
その分、「津域の伊勢木綿」に委ねた結果、”「伊勢木綿」”も繁栄をもたらした事らしい。
ところが「摂津堺店」では、この「綿花」を仕入れているが、これは「松阪への供給」ではなく、その後の「津域の伊勢木綿への供給」であった事が「商記録の一部の表現」で判る。
「津域の伊勢木綿への供給」が「遠祖地の綿花」に影響を及ぼさないようにする為の策であったと観られる。
それは「質素倹約令」に依ってあまりにも「伊勢木綿の需要」が後に高まった事から、”「松阪木綿」”は、兎も角も、先ずは「紀州藩」に影響を与えない様にする為の「手立て」であったのであろう。
それと、況や、これは明らかに「青木氏の氏是」に従った事に成る。
どんなに「需要」があったとしても「本殖産の目的」以上のものを求めなかったのである。
然し、「需要」がある限りは見放す事はせずに、「津域の伊勢木綿の成長」に、「松阪木綿の販売」も手掛ける中で、陸路と海路で「摂津堺店」を動かしたと云う事に成るのであろう。
「津域の伊勢木綿の様な高い成長」は、幾ら「豪商」であっても「青木氏」の様な”殖産を興し得る豊かな財源”を無くしては成し得る事ではない。)


そうすると、”「松阪紬」”は高級品とし、この”「松阪木綿」”や”「伊勢木綿」”に対して、「紀州藩」と幕府は「質素倹約令」を発し、「木綿の使用」を奨励した事の所以と成った「青木氏の歴史的経緯」である。
それまでは多くは庶民の多くは「麻布」であった。
”「松阪紬」”と”「松阪木綿」”は、この様に当に「青木氏のそのものの歴史観」を作ったのである。

(注釈 「綿花」を扱えば、当然に種からの「綿油」の「殖産」も考えられるが、詳しい資料が発見出来ない。
唯、確かに、「殖産に依る綿油の生産」が始められたのは1620年頃の後半の様ではある。
然し、江戸初期に広まった「綿油」は、「遠祖地と松阪」では「充分な殖産」では無かった様で、「摂津堺店」で扱ったと考えられる。
1725年頃には、大阪で「水油の菜種油」と共に広まっているし、前段でも論じた「寒天とてんぷらの消費」が神戸付近で広まった事から、「津域」に供給する「綿花」と共に「摂津堺店」と考えられる。
つまり、最大量の「供給」に追われ「綿油」までに持ち込むだけの充分な「生産量」は回せなかった事が考えられる。)

(注釈 仮に、「綿の種」から「綿油の殖産」を行うとして、この場合は、「水利の条件」が整わは無くてはならない。
この条件には、江戸初期の1620年代前半でも全く問題は無く、「玉城の宮川北岸」は高台の「堆積地の水利の地」としても古来より有名であった。
元々、「松阪」は「元神領地の守護」でもあった事から、「青木氏」は江戸初期の紀州藩からもその「玉城域の大半の地権」が認められ、「自費による整備」を行い、上記の様に「殖産」に関わった。)

(注釈 従って、水車等の「綿油の生産条件」は、この時の「青木氏部の技術」を生かし、「享保改革」では、”「紀州流し」”として有名に成ったほど元々充分にあって、「綿油の殖産」は始めたと考えている。
唯、「商記録の傾向」から「綿種の供給」が、「摂津堺店」の「播磨」から主に陸路で運んだと観ている。
そもそも、「播磨」も栽培目的は違うが「菜種栽培の有名な地」でもあった。)

(注釈 記録によれば、「紀州藩」は1680年代の計画から1720年代に「2万両と云う莫大な費用」を投入して「青木氏の地権外」であった「宮川南岸域の洲域」を「埋め立」てなどの「畑地造成用の護岸工事」に入っている。
恐らくは、紀州は「青木氏の畑方免令」での「税利益」をここに更に投入したと考えられる。
これは当に「青木氏の紀州藩勘定方指導の時期」であろう。)

(注釈 その後に、1820年代に伊賀地区の山間部の庄屋から出された水利を利用する「民間の開発計画案」は「財政不足」から採用されなかった経緯がある。
これは吉宗が将軍と成ったそのあと暫くして「放漫財政の赤字」に戻った事を意味する。)


以上、投稿時の脱落部位

これが「殖産の詳細」を論じた部位である。

(注釈 相互に関係する資料は発見されないが、それぞれの「事の時代性」を組み合わせればこの様に成る。
「青木氏」に「総合的な事」が書かれたものがある筈で、無いのはそれまでの室町期の二度の「消失」に依ることは先ず間違いはないであろう。
唯、「青木氏の氏是」がある事から、「紀州藩に直接に関わる事」は、「青木氏の執事役(神明社の神職や菩提寺の住職)」が敢えて遺さなかったと考えられる。
「紀州藩」にもない事は、「明治初期の混乱」による事もあるが、「末端の事象」は「頼信や吉宗事」の以外は消える事でもあろう。)

(注釈 これは、それ程に、「紀州藩の関わり」が、周囲に刺激を与えない為に”隠密裏に行われた”という事にも成り、且つ、「青木氏の主導」で「隠密裏に行われた事」を意味する事にも成る。
これは「南勢の状況」、主には「熊野勢力の六氏」の動きが「微妙}であった事を示している。
それはそうであろう。250年の間は「熊野勢力」や「土豪勢力」に代わる代わる支配されていたのであるから、「紀州藩の藩領」に成ってからは、彼らに執っては「差配量」は入って来ないという事が起こったのである。
それまでは、「熊野勢力」や「浅野勢力」や「日高勢力」の支配下にある土豪に占所されていた。
表向きは、「伊勢神宮社領域」で「天領地の形」を取っていたが、現実には「実質支配」は出来ていなかった。)

(注釈 「幕末の事」は、「藩主」との「やり取りの一部」等は、本来であれば「借財返済の経緯」等は「名誉の為」にも消される処であるが、「青木氏側」に手紙で一部残されている。
明治初期の混乱に乗じて「青木氏」が徳川氏に裏切られる「借財の揉め事」があった。)

この時の「紀州藩の官吏」等に執ってすれば、伊勢の「秀郷流青木氏」の一族が大量に家臣として仕官したのであるが、強いては、上記の様に「青木氏」と共に「殖産」を導いた。


次は、「殖産」としては上記の様に進められて行ったのではあるが、その結果として、幕府の「嫌疑と嫉妬」が余計に膨らんだ事が起こった。

その子孫の縁籍筋の「紀州藩家臣と成らなかった郷士衆」が、“どう成ったか”の問題が潜んでいたのである。

この「実家先の一門等」もが、「生活の糧」を確実に得る事に成り、彼等の「思惑(戦略)」も成功した事には成った。

そこで「彼等の思惑(戦略)」も成功した事なのだが、この雇った「大量の家臣団」は「幕府」に「謀反」と疑われた位の「大仕官団」であった。
この事からも、余計に幕府は不穏に思ったのであろう。(浅野一門の残留族も雇った。)
唯、「幕府の上層家臣団」も関東域の秀郷一門の「同族同門の秀郷一門」でもある。
(家康が藤原氏を名乗った位のものであった。)
とすると、「上層部の幕閣」と「将軍の取り巻き筋」の「頼宣謀反」を感じる位に「大懸念や恐怖」(嫉妬)と成って居た事を示す位のものであった。

そこで筆者は、前段でも論じたが、更に詳しく云うと、この「謀反」と疑われる根拠には、「伊勢藤氏の家臣の量」だけでは無かったと考えていて、その”「質」”にも「恐怖」を持たれるものがあったと考えている。
此処が「青木氏の歴史観」としては重要である。
これが「本論の殖産」であり絶対に述べておかなければならないものなのである。

この嫌疑と成る「殖産」は、そもそも「青木氏の二足の草鞋策」の「片方の草鞋」でもあって、「左右の草鞋」があって両立して成り立つもので、江戸期に成って始めたものでは決してない。

唯、その「殖産」が上記した様に「戦略的」で少し違っていたので、”「嫉妬に近い嫌疑」”が増幅したのであろう。

慣例外の「旧領までを本領安堵」、そこに「殖産推進」、そして「全国青木氏一団」、「伊勢の紙屋の背景」、「15地域の商業組合の成功」、「伊勢藤氏の結束」、「伊勢信濃シンジケートの影の力」、「西の政権(朝廷)との繋がり」等を総合的に咀嚼すると、何か「東の幕府」に対して”「西の幕府の樹立」”を企んでいるのではないかとする「謀反」に近い「恐怖」を感じ取っていたのではないかと観ている。

考えて観れば、「謀反力」、即ち、「政治力(朝廷の御旗と賜姓族の権威)」、「経済力(豪商と殖産)」、「軍事力(西の大名と地域力)」の「三つ力」は現実には備わっている。
そして、「戦費を賄う豪商」と「朝廷(西の政権)」と繋がりのある少なく成った「権威性を持つ氏族」が揃えば「紀州藩」には「大義」は成立している。
「御三家」とは云え、他の二家にはこの「大義の条件」は揃わない。

更には、「頼宣」対する「家康の亡霊」がある。
そもそも、「頼宣入城」後の「藩主」と地元の「大豪商」や「郷氏」と「藩士」の「郷士」の結束は、前段で論じた様に「土佐山内氏の様な事件」を普通は起こす位であり、当時としては「紀州藩の成り立ち地」は「珍しい現象」であった。
「幕府の見方」としては、「紀州」は、“もう少し乱れるのではないか”と観ていたのではないか。
然し、「御三家」の「尾張」も家臣団との間でごたごたしているのに「紀州」だけはそうでは無かった。

このギャップから、“「家康」に可愛がられた「頼宣」何する者ぞ、“と「江戸の嫉妬」も半分は有ったと観られる。
「謀反」は兎も角も、条件の揃った「紀州藩の発言力」を低くして置く必要があって、「幕府」に執ってはある程度、「名声や信用」を落として置く必要が戦略的にあるとしていた筈である。
これは最高権を持った者の宿命であろう。
最初に採った手(謀反嫌疑)が、「紀州討伐」等をした「秀吉」も手こずった位なのに、「頼宣の紀州」は上記の様に政策上で余りの高い実績が上がり、次第に「恐怖や懸念」に変わって行ったのであろう。

「権謀術数」の世の中、「幕府内の勢力争い」はあり得る中では、公にしないまでも「謀反」に近い考え方は少なくとも幕閣は持っていたとする方が妥当であろう。
現実に、見方を替えれば、丁度、100年後に「紀州藩」は、以上の「五つの勢力」が揃って、遂には前段の通りそれを背景で江戸に持ち込み「謀反」とは云わずとも、将軍家系列ではではない「傍系の吉宗」を「将軍」にしている。

何時しか「東の幕府」を倒してまでとは云わずとも「吉宗の将軍の座」を獲得しているのである。

唯、この為の「殖産」とまでは云わないが、「五つの勢力」が整い、その時の「政権の低質さ」から「御三家」として「将軍の座」を狙ったとする事が「謀反の定義範囲」とすれば納得出来る。
筆者は、紀州藩は「謀反の定義範囲」には有ったと考えている。

この「謀反の定義範囲」の事では、「伊勢の秀郷流青木氏の家臣団」が親族でもある「伊勢屋紙問屋の伊勢青木氏」等と「江戸の秀郷一門の同族の官僚族」と共に、取り組んだ事が考えられる。

つまり、最終は「謀反」と定義されながらも構う事無く、“「頼宣」が敷き、そして「吉宗」が仕上げた“とする見方である。
「伊勢の家臣団」に成らなかった「伊勢郷士集団」と、「伊勢から南紀までの職能集団」(生産集団)と、「射和にそれを取り扱う郷士の商人」(販売集団)を「飛び地領」に殖産と云う名分で配置したのである。

この様に「紀州藩」を側面からサポートした「育ての親の青木氏」としては、「頼宣」までは「謀反の嫌疑」は霧消したかに見せて置いて、そして、その「意志」を継いで50年後には「吉宗」が「謀反の定義範囲」で成し遂げたと考える事が出来るのである。

(注釈 ここが「土佐山内氏」との違いであって、その「政治手腕」に嫉妬と嫌疑が働いた違いであり、更には、”その「殖産と云う戦略」が極めて優れていた”と云う事に成ったのである。)

この意味でも、世間では、これが、“総称「松坂商人」(松阪組 射和組)“と呼ばれる所以でもあり、この中で、“「射和商人」(射和組)”と、特別に(1785年頃から)に世間では呼ばれる様に成った由来でもある。
つまり、「伊勢商人」の「射和商人」の呼称には、この「裏の意味」を持っているのである。

「青木氏」と「生き残った郷士衆」とは、「伊勢信濃シンジケート」の関係で「古くから血縁」があった事が判っているが、「射和衆」に関しては「女系」の為に記録も辿り着けない。
遺された一部の系譜には、「女系の嫁ぎ先の事」は「添書」にしか書かれていないので、単純に確証が採れないのである。



そこで、尚の事なのであって、この「女系の嫁ぎ先の事」の諸事に付いて、「射和衆との絡み」もあるので改めて少し論じて置く。
「青木氏の歴史観」としては持っておいた方が実態は掴めるだろう。

そもそも「青木氏」には、前段で論じた様に、“「四家制度」”と云う組織が古来より在り、この「組織」に依って「四掟」からの「血縁」などが決められていた。
当然に、前段で論じた様に、この間には「門徒衆の秀吉からの救出劇」も在って、そこで新たに「射和地区」でも上記の「新殖産」を興して、旧来の「射和の郷士」(木綿、白粉)と共に「商業」も発展させようとした。
そして、この発展の中で、「確固たる組織」にする為に「青木氏」としては、元々の概念(「四掟」への「女系策の補完策」)を基に「射和の女系の流れ」を創った。

“「創った」”と云うよりは、「射和衆」を救うという役(「賜姓五役」)の為には、「必然性の概念」として“「生まれた」“と云う事であろう。

本来は、「青木氏」としては、“「子孫」はその勢いに任せて無制限に広がれば拡がる程良い”とする概念は元より無かった。
この「四掟」の「四家制度」では、「20家の青木氏」が定められていて、この「限定した家」には、上記した「仕来りと掟」に依って、「定められた範囲の一族の者」が配置される。
それを支える「氏上と氏人の関係」や「伊勢信濃シンジケート」と云う「互いに助け合う影の裏組織」や、「青木氏部と云う職能集団」が有って、そこには、「青木氏の嗣子(男女の養子の嗣子制度)」の場合は、一度立場を「家人」に移して、「女子の嫁家先」と共に「伊勢衆」等に「跡目として入る組織」をも古来より制度として確立していた。

上記した「青木氏部」と、「殖産の職能集団」と、「伊勢シンジケートの郷士集団」の「三つの青木氏の下部組織」に、「青木氏の嗣子(男女)」等は、“「四家の福家」”の指揮で、選ばれてこの“「家人(家臣)の形」”で入っているのである。

(注釈 上記で論じたが、奈良期から敷いている“「四家制度」”に依って、この「三つの青木氏の下部組織」に入る場合は、先ず「男子の嗣子」は、直接に“「青木氏」”で入るのでは無く、一度、“「家人(家臣)」”に成った上で、この「下部組織の家の跡目」に入る「仕組み」と成っている。
然し、慣例としては、この制度は「四家の嗣子の直系男子数」が少ないと云う理由で基本的には少ない。
それは、優先的に「五家五流の跡目に移動」と云う事もあって、基本的には「家人の跡目」に入る事は少なく成るが、慣例外では無かった。)

(注釈 唯、元より「家人の家」(「嫁家先」)で、「四家制度」で育った「養女の女子」が「青木家を興し生まれた「嗣子」(「義嗣」ではない)も「四家の跡目の資格」を同等に「養女の女子」として持っているのであるから、「青木氏側」から「家人側」への「男子の跡目」で無くても、「家人側」からの「青木氏側」への「男子の嗣子」が発生する。
従って、この場合も「氏内の養子」(義嗣ではない)なのであるから同じ事に成り得る。)

更には、上記した様に、「射和衆・射和郷士」との場合は、主に「男系」だけで繋ぐシステムでは無く、「四家制度」の「定義」によって、「射和衆・射和郷士」に「養女の女子」の嫁ぎ、そこで生まれた「嫁家先の嗣子の者」が先ずは「青木氏の家人」として成る。
そして、そこで別の「青木氏の娘(養女の女子・曾孫域)」が「家人と成った嫁ぎ先」に入る「仕来り」が採用されていたのである。
この血縁方法で「射和衆・射和郷士」との関係が広げていった事が良く判る。

つまり、先ずは「青木氏との繋がり」を「青木氏の娘(養女の女子・曾孫域)」を嫁がせ「青木氏の家人」として作り上げた上で、その上で二度目の「青木氏の娘(養女の女子・曾孫域)」を嫁がせる「仕組み」である。
これで「深い女系の血縁関係」が成立する仕組みである。

況や、如何なる場合に於いても何にも「青木氏との関係の無い家筋」には嫁がないと云う事である。
それは前段で論じた“「四定以成異性不養之固掟也」”の掟に伴い、次ぎの旧来の「注釈の掟」(「四掟」、「同祖祭祀」、「同世男系」)が有る事に縛られているからである。

(注釈 「共同養育の制」として、この「家人」に入った「娘」の「嗣子」の一部は、「孫域・曾孫もあり得る」までは「男女」を問わず「青木氏の子」として「四家」に入り共同で育てられる。
養育方法は「氏内」の一種の今の保育園か幼稚園の形体であろう。
此処で「青木氏」として「共通する教育」を受け、「そご」の無い様にその「認識とレベル」を統一させる事に狙いがあったと観られる。)

多くの遺された資料からよく読み取ると、次ぎの様な結論が出る。
年齢は女子では、普通では13歳で最小は10歳で最高で15歳、男子では、普通では15歳で最小で13歳で最高で18歳として、まとめると資料から何とか読み取れる。

つまりは、男子は15歳が成人、「雛人形の論」の処でも論じた様に女子は13歳が成人の儀式が行われたと記されている事から、普通はこの儀式が基準と成っていたのであろう。

(注釈 本来は「仕来り」であり「四掟に関する事」から「御定書」と成るものがあった筈であるがなぜか災禍で消失している。
恐らくは、この「儀式の基準」は、血縁を確定させる為にも男女ともに「初潮の生理」に左右されている事が判る。ょ

況や、その前の血縁関係は、「出産不可」から結果として前段で論じた“「嗣子」“では無く”「義嗣」“の「養子や養女の形」に成り得る為に成立しない。
従って、確実に速やかに「血縁状態」が成立する為には、この「生理に依る年齢基準」が「青木氏」では定められていたと考えられる。

この様に「女系の形」でも入る「四家のシステム」に成っていた事から、間違いなく繋がっている事は判っているのである。
つまり、「四家制度」の「子の定義」に入る範囲の女系の「男女の子」が、「四家の福家」に依って「優秀な子」が選ばれると云う「青木氏の仕来り」が有る以上は、上記した様に「家人」で無かった郷士の場合は、一端“「家人の形」”と成って「血縁関係」を結ぶ制度を持っていた。
これは「奈良期」から積極的に進めていた「四家制度」と「家人制度」を結び付けた制度であった。
これに依って「血縁に依る家人」が増え強化される制度であった。

「青木氏」では「性の差」を基本に「賜姓五役の役目」は「男系」を原則とはするものの、「女系」を問わず“「嗣子」”は平等に扱われ、それを基にした縁籍を繋ぐこれを“「家人制度」”と呼ばれていた。

「重要な歴史観の注釈」として、前段でも論じたが、本来、「青木氏」では「自然神」を基とする「皇祖神の子神」の「祖先神の影響」がある事から、「祖先神の神」は「女神」である。
この事から「青木氏」には、“「人」”は「女」に依って繋がれると云う「固有の概念」が在って、封建的な「男尊女卑の様な考え方」が根本的に無かった。
唯、「男女」には其の「性の差」による単なるその「役目としての違い」があると云うだけの概念であった。

現代の遺伝子学的にもそうなっている事から、この「祖先神の青木氏の概念」は正しい事であった事を意味する。
そして、「青木氏の密教浄土宗」でもこの概念は生きていて、例えば「女墓」(伝統-3)と云う慣習もある。
又、「青木氏の家訓10訓」(家訓1と家訓2)にも「女系」(人)を重視する概念は生きている通りである。

この様に「氏族の賜姓族」の「四家制度」と「家人制度」を考察して観れば、「江戸期初期」の時点で観れば、「郷士の姓族」とは、「姓族」は「室町期中期」から発祥している事を鑑みても、「約350年以上」、「郷士」の前身の「鎌倉期中期の伊勢豪族時代」からでは、「約500年以上の期間の縁組」である事に成る。
数少ない「35程度の伊勢郷士衆」(江戸初期)とは、35族/350年とすると、1/10と成り、10年に1回の血縁と成る。

(注釈 日本の最も早い「姓族」は、瀬戸内から出た「海部氏」と云われている。)

「四家の20家」に生まれる「男女の子」が、「1家-5人」の子供として、「100人」、この内、二人を「家人制度」で「三つの組織」に縁組したとすると、「40人」が対象と成る。
これが、「1代-40年」とすると、「40年-40人」と成り、「10年-10人」と成る。
「10-10」/「10-1」から10倍と成り、40-35族/10倍=「4のパラメータ」と出る。

恐らくは、「全体の青木氏」でも、最低限、この範囲(「4のパラメータ」)で「四家制度」を保っていれば「家人制度」を維持する事が出来て、「最低限の血縁関係」は保てる。

つまり、この「4のパラメータ」(上記計算の検証前提: 「四六の古式の概念」)で行けば、“「青木氏」は正常に維持される”との「基本認識」は持っていた事に成る。
従って、平安期中期にまでに定められたレベルのこの正常に維持される「4のパラメータ」の範囲では、「賜姓族の宿命」の「純血性」を保つ為の「同族血縁の弊害」は起こらないとする定義(「四家制度」には「天動説」から来る「陰陽道」の「四六の古式概念」)があった事に成る。

この「家人制度」を維持されると云う前提を護れば、“「四家制度」を正しく保てる定義”でもあった事に成る。
況や、この「二つの関係」は互いに「補完関係」を維持して居た事に成り、「青木氏の存続の大前提」であった。

つまり、それは、突き詰めると“「人」”であって、故に、“「女系」”であると云う前提に成り、これが「青木氏の家訓」に成っているのである。

この様に「賜姓五役」の「純血性を保つ事」には、「家人制度」と下記に論じる「妻嫁制度」と共に、発祥時の奈良期(647年)から「男系女系の区別ない概念」が絶対的不可欠であった事に成る。
これが他氏の男系に拘る数少ない「氏族」や「賜姓族」や「臣下族」とは異なる所以であって、「青木氏」が生き延びられた「根本原因」であった事が頷ける。

それは現在でも通じる「人の遺伝子学」と「青木氏の人の概念」が一致していた事に由来する。
先祖の凄い「透視力」と云うか「真理力」であったと当に驚き入る。


さて、この「青木氏の概念」で以って、「殖産の射和」を観た場合、どのような役割を果たしていたのが疑問に成る。
そして、この「殖産」で、上記の「生産力」は兎も角も、”その「松阪の販売力」(経営力)は足りていたのか”と云う疑問が沸く。”

それを「射和と殖産」で次ぎに論じる。実は大いに影響していたのである。


> 「伝統シリーズ 38」に続く
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