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青木氏の分布と子孫力-4

[No.308] Re:青木氏の分布と子孫力-4
投稿者:takao 投稿日:2014/04/06(Sun) 07:51:53


>特に商人として参画した経緯から「米ー財政」に重点を置いていた事が判る。
>(安土桃山時代は1603年で終り、1614年で江戸時代に入る。この期間は徳川家康に実権が移っていた。)
>まさに、享保期までの「蝦夷地開拓」は「青木氏の政策指導」(質素倹約の中での政策として「蝦夷地開拓」での献納金で幕府財政立直策)であった事に成る。
>上記した様に、「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」は、古来より深い親交があった事から上記した事が起こっていたと考えている。.
>つまり、この一連の「瀬戸内族」の「入植政策」では、状況証拠から「両青木氏」の「裏での合意」があったのではないだろうか。
>この「裏での合意」が無ければ「瀬戸内族の一族」ごっそりこの「弘前から松前」(旧蝦夷地)までの「蝦夷地入植計画」に注ぎ込んでいる事はない。
>先ずこの計画を進められるには「普通の豪商」では成し得ない。「総合力」を持ち得ている「特別な豪商」でなくては成し得ない事である。
>仮に「讃岐青木氏」に不足するところがあるとするならば「伊勢青木氏」がこれを補填する事が出来る。
>この”悠久な歴史を持つ二つの特別な豪商”があってこそ「蝦夷地入植と開墾の計画」は進む事はなかったと考えられる。故に、幕府はその「進行具合」を観つつ、100年後の「享保の改革」で直接、「伊勢青木氏」を幕政に取り込み、この計画を成功裏に収めようとしたのである。
>結果として、「幕府財政の改善」が可能であると考えていたのである。





青木氏の分布と子孫力-4



・「青木氏ー吉宗」の関係
実は、”吉宗が将軍に成った経緯”の中にこの事が隠されている。
そもそも、徳川宗家外の御三家の紀州藩の吉宗が将軍に成り得る立場に本来は無かった。
ところが、全く逆に「御三家」でも将軍に成り得る全ての条件が揃っていた尾張藩の第6代藩主の「継友」が成る予定であった。
この部屋住みの身分にあった「継友」は優秀で節約家で経済観念の特別に強いものがあった。
それを将軍からも信頼されていて、次期将軍に適材であるとして指名されていた程の人物であった。
「紀州藩の吉宗」は2人の兄が居た。兄は公家の血筋、吉宗は湯殿女との間に出来た子供で「紀州巨勢族」の血筋であった。

(巨勢とは、飛鳥期のヤマト政権を支えた5大豪族の一つで紀族、葛城族、平群族等と共に「巨勢族」があった。その末裔)

吉宗は幼少の頃はその血筋から排斥されて紀州藩の飛地領の伊勢に密かに匿われた。
この時、お付き番として下級家臣であった加納氏を吉宗に付けられ養子の様にして預けられた。
この時、紀州藩主より密かに依頼されて「伊勢青木氏」は一切の経済的な事を含めて加納氏と共に親代わりに成って育てた。
この時、伊勢青木氏の息子の「六左衛門」は「吉宗の稚友」と成って育てられた。
経済的に低かった「加納氏」は、吉宗を一人前に育てる為に経済的な自立を目指し、この時、「二足の草鞋策」を青木氏から手解きを受けて「加納屋」を開いた。

「伊勢青木氏」と「加納氏」は明治35年までの200年間に数度の血縁関係を持った。
(直近では筆者の曾祖母も伊勢加納氏)
飢饉続きの「藩財政悪化」の中で「紀州藩主世継ぎ問題」で藩内が荒れたが、二人の兄にはこの見識と後見人の背後は無かった。
「伊勢青木氏の経済の見識と財政力」を以てする「藩財政立て直し派」が有利を納め、「伊勢青木氏」が後見人と成って不遇の吉宗を藩主に押し上げた。
「吉宗の紀州藩」は、「伊勢青木氏」の指導の下、「財政改革」を押し進め藩財政が改善に向かっていた。
この時、幕府でも「世継ぎ問題」と、上記した「4度の飢饉」と、「幕臣のマンネリ化」で幕政が乱れ、「幕府財政立て直し」の問題が急務として出ていた。

その中で殆ど将軍としては尾張藩(継友)と決まっていた。
ところが、この「世継ぎ問題」が、「幕政建て直し」と「幕府財政改革」に対して考え方に切り替わってしまったのである。

”この二つの問題解決には誰が適任なのか”と云う経緯に成ってしまったのである。
(伊勢青木氏等に依って、「経済学の教育」を受けていた「極めて優秀な吉宗」を将軍にして改革実行を推進させる様に、裏で「世継ぎ問題」を「幕政改革問題」に「切替える戦略」を展開した)

その結果、「尾張藩の考え方」と「紀州藩の考え方」とが異なり真っ向から対立した。
確かに何れの藩も藩内は「財政改革」が進んでいて自信があった。
その考え方をまとめると次ぎの様であった。

尾張藩は「緊縮蓄積財政派」ー蓄積で消費を抑え経済を安定化させ、蓄積収入増を図り民間投資を呼び込み進める方式
                    財政を安定維持する方式
                   「デフレ政策」ー江戸豪商越後屋の「三井家」

紀州藩は「均衡財政改革派」ー質素倹約で消費を抑え財源改革で収入増加を図り収支差を最大に高める方式
                   物米貨等を管理統制する方式
                   「リフレ政策」ー伊勢豪商紙屋の「青木家」

紀州藩が説いた「財源改革」とは、”「3価政策」”と呼ばれる政策で、「物価、米価、貨価」の安定策に「殖産政策と新田開発」を連動させる改革案であった。
         
これは「伊勢青木氏」の平安期から採って来た「商法」で、「殖産を中心とする農政政策」と交易を連動させる商法でもあった。

(実は、「吉宗」は「紙屋長兵衛の商売」の現場に来て「六左衛門」と共に働いていたと記録されているので、そこで得た「実践経験論」を持っていたのである。)

俗説では、「天英院」が「紀州藩の吉宗」を感情的に推奨して決まったと成っているが、実際は「幕府財政改革」の争いであって、その背後には、「江戸の三井家」と「伊勢の青木家」が「経済力」を背景に論陣を張っていたのである。
そもそも、この「天英院説」は、紀州藩の「均衡財政改革」が自分たちに都合が良く、専門的な教育を受けていて「不遇から身を起こした優秀な吉宗」に感情的信頼を置いた結果、推奨した事が将軍に成ったとする説であるが、内容をよく調べない愚説である。


・「伊勢青木氏と徳川家康の関係」
ところが、この論戦のその「勝負の基」は江戸初期に遡るのである。
実は、「伊勢青木氏」と「徳川家康」との「最初の出会い」は「関ヶ原の戦い」の時にあった。

(但し、信長の「三つの伊勢攻め」の一つ「丸山城の戦い」で「伊勢青木氏」が勝利した事は有名で、岐阜城での信長烈火の叱責で「信雄蟄居の事件」でも「家康」もその場に同座していて知っている。
又、「伊勢伊賀の戦い」で名張城から突然に側面を付いて信長軍を一時敗走させた事件も知っているし、「伊勢長嶋の戦い」でも「山岳部ゲリラ戦」で食糧調達を混乱させた事も知っている。
依って、この「3つの事」から「青木氏の印象」(影の力)は「家康」に事前にあった事が判る。)

「家康」は大阪に攻込む為に江戸の秀忠の本陣を名古屋城で待った。
大阪に攻込む為には「伊勢路-大阪路」(旧国道ー「畿内道」)を通らなくてはならないが、「畿内道の確保」が出来ていなかった。
そこで、困った家康は、この「」畿内道の確保」」の為に「伊勢青木氏」に合力する様に話を持ち込んだのである。
「伊勢青木氏」が「3つの発祥源」として「賜姓族の戒律」と「不入不倫の権」の「3つ立場」からも、この「関ヶ原の戦い」に合力する事は無い事は家康は充分に承知していた。
そもそも、「有形の軍」を持たないこの「伊勢青木氏」に対しての ”敢えての家康の「合力要請」”である。
家康は、既に、織田軍の傘下にあって観ていた経験から、「信長の伊勢攻めの戦い」で上記した様に「伊勢青木氏の実力」をよく知っていた。
つまり、「伊勢ー信濃シンジケート」と「青木氏と連携している瀬戸内族」との「連携勢力」を知っていたのである。
”敢えて”である以上、これを暗に敵にする事は今後の意味で得策ではないと考えた事になる。
この時、「家康の申し出」に対し3日で「250の要員配置」と「伊勢ー信濃シンジケート」と「瀬戸内族への連絡」を取って「伊勢路の安全」に合力する事に応じたと記録されている。
この時も「家康」と「伊勢青木氏」は名古屋で「合力要請」で面会している。
この中で「讃岐青木氏」への「家康の期待」は、最悪の場合は、海路で抜け出す手立てと、勝利した場合には「毛利水軍に対する圧力」をと考えていたと観られる。

もう一つは、天下に名高い「毛利水軍」に対して、その勢力を「讃岐青木氏」を味方に引き入れる事で壁にして削いだと観られる。
(「瀬戸内族」と「毛利水軍の村上水軍」は元は同じ海部族と塩飽族から成っている。)
「毛利水軍の動き」を防いで置かないと堺や河内や紀州の湾から上陸して背後に廻割られると戦略上四面楚歌を招く事と成り拙い。
その為にも、「海の守壁として讃岐青木氏」(壁)、「上陸時の背後の陸の守り」(シンジケート)と「海陸の情報収集力」を整える必要が家康にはあった。
特に「家康の守備軍」に対して「側面と背後」を護る必要があったのである。
それと「畿内道のシンジケートによる掃討作戦」を期待した。
これは「畿内道の戦略」であったが、もう一つ「伊勢路ー大阪路」の「伊勢路の護り」は畿内道の進軍中に「紀州九度山付近」から「真田軍」が側面を突かれる事は充分にあった。
「軍事的防御」と云うよりは、「真田軍の動きの情報収集」と「シンジケートの攪乱作戦」を目的としていた。

現実に、この意味を持った「合力要請」は青木氏等に依って完全に実行された。(しかし、正面は不用意であった。)
この結果、”戦後、「家康」から讃岐ー紀州ー伊勢ー奈良ー信濃一帯の「一切安堵」(権利保全)を得た”と記されている。
この地域の「環境保全」と「権利保全」をして置いて安定させ、その中心に速やかに「御三家の紀州徳川藩」を置いた意味は良く判る。

大阪の堺などで得た事前知識で、この「一帯一連の環境」を「将来の戦略上の計画」で保全したかったのであろう。
この時、「3つの青木氏」等が主張する「3価政策と新地開拓と殖産開拓」の論を聞いていて、開幕後に、その最大のプロジェクトの「蝦夷地開拓」を進める為にも、この「政策の中心」をこの地域に置きたかったと判断される。
故に、ここに「御三家」を置き、家康自身で駿府で育てた最も信頼していた「優秀な頼宣」に、この計画実行を託した。
家康没後3年、「秀忠」は この「遺訓・遺命」を実行する為に、わざわざ「紀州浅野家」を転付させて、そこに「紀州藩」(1619年)を置いて初代藩主としたのである。


注釈
(紀州に定めた理由は、「瀬戸内族」と「伊勢青木氏」と「商い大阪」の地の中間の地域、伊勢は皇祖神の神聖の地で、為政地に不適切な地であり、計画実行の後ろ盾と成る「伊勢青木氏」の地を「保全安堵の約束地」、大阪は「商いの地」の専用の地域として作り上げる為に為政地に不向きの地、瀬戸内は海路の地であり要衝地として不適切、この中間に位置させる事で計画は可能と家康は判断して遺命として秀忠に遺訓したのである。その人物を”10男の頼宣”に託し、わざわざ水戸藩主から外して自ら駿府に連れて来て育てて計画実行するに値する人物に育て上げた。「遺訓・遺命」として秀忠に引き渡したのである。)

注釈
(”頼宣”は家康から託された「遺訓・遺命実現」の為に、紀州では多くの改革を次ぎから次ぎへと実行して善政を敷いた藩主として有名で、優秀な家臣を育てたとしても有名である。 
その為に ”名声を奪われた”として家光に妬まれ疎まれ、遂には”謀反を企てた”として10年間も紀州に帰れなくなった経緯を持つ。
その有名さは、「頼宣」が「紀州の領民」から「最高の藩主」として崇められ、「伊勢菩提寺」のみならず、紀州には「頼宣単独の菩提寺」が建立され現在も祭祀されている程であり、この事は江戸にも聞こえていた筈である。
「駿府」から「紀州」に、秀忠による「遺命の転封」も、家光は「将軍」に在位した後に、”頼宣をも自由に出来る”として、「10年間謀反嫌疑」は「家光の威光の誇示」と史実、家光自身が発言しているのだ。
家康に可愛がられ信頼され「家康の遺訓」を直接受けていた”頼宣”を許さなかった。
「将軍家光の威光」を誇示するのであれば、「御三家」から外し、適当な理由を付けて紀州には配置しないで他藩遠東に転封する事が出来る筈である。
現実にもっと厳しい頼宣の命に係わる「謀反嫌疑」を掛けている。
其れに依って「頼宣」が無くなれば託された周囲家臣が承知していた「神君の家康遺訓・遺命」が消滅して、自らも”遺命を無視した”として「将軍位」どころか命さえ危なかった筈である。
だから、腹いせに「謀反嫌疑」を掛けて置いていながら「有名無実の形」を採ったのである。
それが出来ずに、むしろ「紀州栄転」をさせていなければならない「御三家と計画実行」の「家康遺訓・遺命」への嫉妬である。
それを実行できる「頼宣の優秀さ」にも嫉妬したのである。
要するに、この「紀州藩転封」は「家康の計画実行の夢」の「家康遺訓・遺命」であったから出来なかったのである。)

注釈
(藩主に成る前に浅野家の内情、紀州藩の領民の不満、政治経済軍事の面、等の綿密な事前調査、城改築建設などの問題でも良く聞きよく調べて即断し、「優秀有能多才」をモデルにする様な人物で、温和でよく頭の廻る権威を振り回さない人物であった事が青木氏に伝わっている。
「青木氏の口伝」には多く伝わっているが、紀州地元でも、領民の治水や地形や農政の要望をよく聞き優秀な家臣を差し向けて解決した藩主であった事が云い伝えとして伝わっている。紀州にある「頼宣菩提寺」もその一つの表れであろうことが判るし、その地域では多くの藩士が残っている。形式的な言い伝えでは無く、頼宣が自ら指導した堀や堤防や開墾地や産物等の形として遺されている。
この「頼宣の姿勢」が「孫の吉宗」に引き継がれ、将軍の時に汚職捜査や事故飢饉の現場指揮を直接の現場で行った等の記録がある。
祖父の性格を継いで徹底した「現場指揮主義」であった。)

(家康駿府隠居 1616年没 頼宣1602年生 2歳水戸藩主 4歳駿府藩主 17歳紀州藩主 家光1623年着位)


・「家康と青木氏の関係」
更には、「家康との関係」は、次ぎの時にも起こった。
「幕府樹立」に対して「征夷大将軍の称号」(1603年)を獲得する時、「賜姓源氏の棟梁」(「武家の棟梁」か「賜姓族宗家」の「称号」)か、「正二位以上の官位」”が「故事の慣例」に従い必要であった。
この時の「朝廷と天皇」は、徳川氏がこの「二つの地位」を取得するに「適合する氏」では無い事で、”先例を破る事が出来ない”としてこの「二つの授与」を渋った。
この何れかを獲得しなければ「征夷大将軍」には成れず、権威ある幕府は開けず、頼朝以後の「賜姓武家源氏」では無く、只の源氏(摂家源氏・公家源氏とも云う)の鎌倉幕府の様に「執権」となる。
そこで、窮地に陥った「家康」は、室町末期の南北朝の皇室の中から、「南北朝の乱れ」を利用して「第16代の源氏」を強引に作り出した。
”故事に従って引っ張り出した者の末裔である” と主張して、朝廷に対して圧力をかけた。
その「搾取ストリー」とは、その皇子が比叡山門跡僧から下族して三河に流れ着いて松平家に逗留して子供生まれたとして、本来の「賜姓武家源氏」では無い「源氏」だと勝手に搾取して名乗った。
「朝廷と天皇」は搾取である事を承知していて更に拒んだ。

注釈
(況して「摂家源氏」では”「征夷大将軍」”にはなれない。ところが、その前は家康は、秀吉による「関東転封」後、秀郷一門を配下にした事から「藤原氏の朝臣」を名乗っていた。
しかし、突然に「秀吉」が家柄をよく見せる為に搾取偏纂で、「賜姓藤原氏朝臣」を名乗ったので、今度は「源氏」を上記の様に名乗ったのである。
そもそも「姓族の松平氏」は、「源氏」では誰が観ても明確な搾取である。
(長は賜姓平氏を名乗った事は納得できる。)

しかし、賜姓であろうが無かろうが、「源氏」は既に11代の「花山源氏」で終わっている。
既に、室町期末期まで残った唯一の「村上源氏」の支流族の「北畠氏」も、信長等の「権威族の掃討作戦」で完全に滅亡している史実があった。
(信雄を強引に北畠跡目に入れて最後に城内内部で皆殺しで潰した)
この「搾取の源氏」を持ち出して認めさせようとしたが、「朝廷と天皇」は認めなかった。
結局、各地にある「天領地接収」等の「経済封鎖」を受けながらも、「朝廷と天皇」の「朝廷の粘り強い抵抗」でこの二つは受け入れられなかった。

注釈
(「天領地接収」の主な地は全て「皇族賜姓族の5地」に関わる地であるが、「伊勢」と「信濃」と「甲斐」を「徳川氏直轄の地」とした。
この為に、「天領地」の本来の意味は、「天皇家直轄地」であるが、この全てを「徳川氏直轄地」とした為に、「天領地」とは「徳川氏の直轄地」の意味と成ってしまっていて、文献でも間違って使っている。
この間違いはこの時の事変が原因で間違われてしまった。)
(その結果、宮廷は塀も壁も家もボロボロで生活は困窮していたと記されている)

・「二つの故事」
そこで、見兼ねたこの接収地に住んでいる「皇族賜姓族」一統流の末裔の「伊勢ー信濃の青木氏」が商業記録から読み取れるが裏で援助工作をした模様である。
(資料文意から「秀郷流青木氏等」の「両賜姓族」も加わった形跡がある)
「朝廷への援助」を裏で行いながら、徳川氏とは裏で「調停工作」をした模様である。
(家康に遠慮してか明確には記述していないが文意の流れで理解できる。)
そこで、”「棟梁」”では無く、「青木氏等」が持つ ”故事に習って古来の「賜姓族」に対する呼称”として使われたことがあるものを出した。
それは ”「長者」”と云う称号と、頼朝に与えた官位の同じ「正二位」を与える事で解決した経緯と成った。

「伊勢青木氏と信濃青木氏」等(甲斐は衰退)は、「皇族方氏一統」としての立場上、「二束の草鞋策」で「子孫力」を充分に蓄えている中では、経済的に救える事が出来る事から、立場上は絶対に放置できなかった筈である。
「皇族賜姓族」とは本来「3つの発祥源」としてその立場にあった。
援助するとしても、公には、大平には、「家康との親交」が出来た関係上、「裏切り」と成り無理には出来ず、苦慮したと考えられたが、”影で目立たない様に支援していた”のである。
この事が決まるまでには、元和の家康没の直前のまる3年を要したのである。
この間、「天皇の恥」に成る記録と成るので、その文意は柔らかな表現を使っていて、その文意から観ても「支援」をした模様である。

注釈
(筆者の判断では、青木氏等のこの行為は、家康が、天皇家に経済的圧力をかけて、裏では知古と成った皇族方一統の「伊勢青木氏」等に「最低限の経済的援助」を恣意的に「暗黙の了解」でさせて置いて「天皇家崩壊」を避けた模様である。
そもそも、「天皇家崩壊」ともなれば、幾ら「徳川氏の天下」と成っても、家康に「朝敵」としてそのツケが廻る事は承知していた筈で、諸大名や民から「為政者」としての信頼を失う事になり兼ねない。
それが「幕府崩壊」に繋がる事に成り苦慮して、「青木氏等の裏行為」に期待した模様である。
しかし、誰彼なしに「裏行為」をしても「天皇家の権威」がこれを許さないし、その人物との問題が天皇家と幕府の間に生まれ好ましくない。
先ず「賜姓族青木氏」以外には引き受けられる者も居ないであろうし、又、現実に引き受けないであろう。
わざわざ”渦中の栗は拾わない”は常道である。
この「裏行為」が出来るのは「天領地」から「直轄領」とも成った地に住む「天皇家」と共に同じ「悠久の歴史」を持つ「子孫力」の高い「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」の日本広しと云えどもただこの3家であろう。
「讃岐青木氏」は古来に「天皇家との蟠り」を持ち無理である。
まあ、上記する「経済的な見識」も信頼された事は事実としても、「別の戦略」としても、「家康」も「頼宣」もこの立場にある事も一つの大きな利用価値を見出して付き合ったのであろう。
それは、「秀吉」が「二人の青木氏」を親族として祭り上げて利用した。
しかし、「信長」はこの「権威を潰し」、「秀吉」はこの”「権威威光」を自分の中に取り込み「親族」とし、「家康」は「親交」と云う形で利用した事に成る。
 
自らの出自にそれが無ければ、「為政者」はそれを何らかの形で持とうとするは、”人族は「屯・みやけ」を形成する”性を持つ以上は、この”世の成り立ちの条理”である。
その「最高の権威」は「力の有無」は別として「天皇」であり、「青木氏」はその「最高の権威」への「繋ぎの道」と成る立場にあった。)

ここにも通説歴史の記録外で、個人資料の文意や文脈や経緯から「伊勢青木氏」等が「徳川氏」と深く関わっていた事が「裏の行為」として働いていたのである。

・「頼宣と青木氏の関係」              
実は、その経緯を証明するものが「伊勢青木氏」にある。
この数年後に、「紀州徳川氏」(頼宣)が仲介して天皇家に対して「伊勢青木氏」と「正式な謁見」の面会を実現させている。
これは上記の経緯からの「徳川氏の返礼行為」と考えられる。
「伊勢青木氏」は「南画の絵画」を献納した。その複製画が遺されている。
これに対して、その時に、「天皇家」から拝領した天皇家にしかない「日本最古の墨(藤白墨)」と他物品数点を拝領し、現在も家宝として遺されている。
この時の「紀州徳川氏」から「数通の手紙」も遺されている。

更に、紀州藩が出来た時までは、上記した様に、「伊勢」には唯一の「天皇家の天領地」があった。
ここを接収して「紀州藩飛地領」とした時、「伊勢青木氏」と「初代藩主の頼宣」が面会して「伊勢の土地」と「青木氏の守護神ー神明社」等の取り扱いについて話し合った。
この結果、「全国の神明社」は幕府に引き渡し、幕府が「神明社修復令」を発する事で話が着いた。
更には、「伊勢青木氏」等が管理する「古代密教浄土宗」は「密教性」を解いて「菩提寺性」を排除して、限定した特定の上級武士の「檀家方式」に変更することで解決した。
そこで、「浄土宗督奨令」を発し「全国の青木氏が管理する浄土宗寺」を幕府に引き渡した。
「家康」がこの事を行ったと公式資料では成っているが、遺命を受けたの秀忠の政令とも考えられる。
実行された年代が1610年頃から1622年のまでの期間の中で在るために判断が難しい。
何れにしても「家康の命」である事には変わりはない。
「青木氏の資料」では「頼宣の経緯」の中に記されているので、成否は別として、資料を信じて「遺命実行」として「1619年頃説」としている。
これも「遺命」でなければ「頼宣ー家光」と成る筈である。
その結果、伊勢の「青木氏の菩提寺」は、「紀州徳川氏の菩提寺」となり、元の菩提寺の敷地横に建立して寺名も同じとし、その一角に「青木氏一族の墓所」を与えられた。

ところが、ここで解明しなければならない事がある。
それは「頼宣の菩提寺」は地元和歌山にもある。
「和歌山県海南市の長保寺」(頼宣の菩提寺)である。
ここは「頼宣の藩主としての名声」から”頼宣だけの菩提寺”である。

・「頼宣の菩提寺」
ここには、大きな「一つの意味」が隠されている。
そもそも、「紀州徳川氏の菩提寺」であれば、紀州に作るべきが本来であり、現実に他の徳川氏の菩提寺は地元に建立されている。
しかし、「伊勢松阪」にあるのだ。
何故、「伊勢松阪」なのか
何故、「青木氏の菩提寺」跡にあるのか
何故、「青木氏の菩提寺の寺名」なのか
何故、「頼宣」だけが紀州なのか
一連の疑問が次から次へと湧く。
何かがあったからこの様に成っているのだから、この一連の疑問をこれを解けば、「青木氏と紀州徳川氏」の関係等、”上記した内容の裏付け”と成る。

先ず、紀州の「頼宣菩提寺の長保寺」は「頼宣」の後の者が、”始祖の秀明を馳せた事”に対する領民や家臣や子孫の「感謝と尊厳」の「心の反映」として建立されたものである事は「寺の由緒」と周囲の「領民の口伝」から読み取れる。
依って、先ず、藩主・始祖に対する”形式的な行為では無かった事”が判る。
そこで、重要な次の二つの事が解決の糸口に成る。
それは、”「寺紋」は「笹竜胆紋」で、宗派は「密教浄土宗」”である。
「寺紋」は本来は「三つ葉葵紋」である。「宗派」は室町期中期の「三河の姓族」であるので、本来は門徒ではない「真宗」である筈である。
上記した様に、江戸に成って家康の「浄土宗督奨令」で上級武士は「檀家方式」の「浄土宗」に変えた。
しかし、この「二つの事」は「皇族賜姓族」だけが持つ「二つの故事」(慣習仕来り掟)の慣習と成っているのだ。

この事から、領民だけの祭祀ではない事が判る。領民単独で勝手な事でこの「二つの故事」を使う事は無い。
当然に家臣だけでも無い。末裔だけでもない事が判る。
この「二つの故事」を公然と使うにはそれなりの「了解」を必要とする。
特に、「密教浄土宗」は上記三者でも無理であり、ただ1氏しか江戸期には無かった。
徳川氏は、本来「姓族」であり、上記した様に全く「源氏」では無い。搾取偏纂である事は明明白白である。
源氏の「未勘氏族」でもない。
明治期まで守られた「嵯峨期の詔勅の禁令」を守れば、本来は出来ない事である。
徳川氏に「摂家の源氏の搾取偏纂」があったとしても、これ以外は「幕府為政者」として公然と破る事は出来ない。
取り分け、家紋は兎も角も「密教系」は難しい。
但し、上記の一連の「疑問の事」と「二つの故事」を一挙に同時に解決する事が出来るものがある。
それは、上記の疑問の中に答えが出ている。

・「青木氏と紀州藩」
「松阪」「青木氏菩提寺跡」「菩提寺の寺名」の3つである。
つまり、この3つは「伊勢青木氏との繋がり」を持つ事で解決する。

その「繋がり具合」に問題が移る。
A 「血縁」を誇示するのか
B 「悠久の古」と認定するのか
C 「一族性」「関係族性」を誇示するのか
以上の3つに関わる事に少なくとも成る。

先ずは、Aに付いては、「伊勢青木氏」とは「直接の血縁」は明確に記載が無いが、一族四家の中に江戸初期に何らかの直系か間接かの女系の血かはわからないが、一部には入っている可能性がある。
ただ、「松阪の宗家」には確認出来ない。しかし、「信濃青木氏や甲斐青木氏」には「直轄地」と成った関係上、家康が「将軍権威」を作り出す過程で、女系で血縁している事も充分に考えられる。
「伊勢青木氏」には確認できる記載がない。
しかし、上記した様に、「吉宗育ての付き人加納氏」とは、「伊勢青木氏」は数度の直接の血縁関係にある。
この加納氏には紀州徳川氏の何がしかの直間の血流がある可能性が高いが、この「血縁」で説明は無理である。


次ぎに、Bに付いては、当にこの「悠久の知古関係」があるかの様に、「親密に付き合い」を構築している事でもあり、肯定するも否定はできない。
ただ、周囲が誤解する程の付き合いであった事は、「12人扶持の礼米」でも判るし、「藩勘定方」を家臣でもないのに代々無給で指導しているともなれば、普通は「親族関係者」しかない事になる。
先ず家臣を含む周囲の人は、100%「悠久の知古関係」にあったと観るであろう。
「悠久の知古」には、当然に「女系の血縁関係」を持ったとする発想はあり得る。
「徳川氏」側に取ってみれば、上記した様に「青木氏との利点」は、「秀吉」が使った手と同じである。
ここにも”伊勢と信濃の青木氏との付き合い”は「本来の目的の利点」があった筈である。
それ故に、「皇族賜姓族の青木氏の故事」に習う「”長者”の呼称」と「正二位官位」が天皇から授与されたと当事者以外は思う筈である。
現実に、「賜姓族」でもないのに ”棟梁”であろうが、”長者”であろうが、”棟梁”で拒んでいるのであるから、”長者”でも拒む筈である。
しかし、「調停工作」では拒まなかった。
”何故に拒まなかったか”は、この”調停”に意味を持っている。
それには、「朝廷と天皇」が了解するには、ただ一つ解決策がある。
それは「伊勢、信濃、甲斐の青木氏と秀郷流伊勢青木氏(融合血縁族)」の4氏の何れか一つが男系女系の妥協し得る何らかの形で血縁する事であろう。

記録から「男系」はないので、少なくとも「女系」であった筈で、この事で「朝廷と天皇」は妥協できる筈である。

且つ、この「調停」は、「他の無縁の族の調停」では無く、「賜姓族の調停」である。
直に、”調停”の「話し合い」が忌憚なく出来得る。
確定できないが、筆者は四氏の内の「藤原秀郷流伊勢青木氏」であったと観ていた。

それは、何故かである。
もし「信濃か甲斐」にあったとすれば、「伊勢の記録」のどこかに何がしかの記載があっても良い筈である。記載はの類は無い。
そうすると、そもそも「融合族」であって、且つ、「秀郷流青木氏119氏」は、「特別賜姓族」で「秀郷流伊勢青木氏」はそのリード役を演じていた。
且つ、「家康」も御家人旗本の家臣として「藤原氏」を上記した様に多く迎え、且つ、それを利用して「藤原氏」を名乗った事から、ここに血縁をすれば疑う事は無くなる。
要するに、”全てが辻褄が合う。”と云う事である。
これであれば、「朝廷と天皇」は 「青木氏の故事」の”長者”で納得する筈である。

更に、Cに付いては、「悠久の知古関係」でなくても、むしろ、「藤原秀郷流一門」との様に母方筋を通じての「関係族性」か、「秀郷流伊勢青木氏」との「一族性」と観られる事は充分にある。

況して、「搾取の”「源氏」”の前は、「搾取の”藤原氏」”を名乗っていたのであるから、辻褄が合う。
そうすれば、この関連から ”「皇族賜姓族青木氏」との関係を持っている”と万人は思う筈である。
当事者以外は間違いなく思う。
少なくとも、「賜姓族地」の「伊勢と信濃と甲斐」までもが「直轄領」ともなれば、思う以外に疑う者はまず居ない事に成ろう。
其処に「伊勢青木氏ー信濃青木氏ー讃岐青木氏」との「深い関係」を持ったともなれば、疑うどころか信用してしまう事に成ろう。
筆者は、「皇族賜姓族の青木氏」の「二つの故事」(「長者の呼称」「正二位官位」)が天皇から授与されたものである。
しかし、”Cは勿論の事、AとBとも連動させて全てを当事者以外は信じた”と観ている。

・「調停工作の3年の意味」
「調停工作開始(1600年)」からに「まる3年」を要したが、この”3年の持つ意味”は奈辺にあるのか。何か意味が在りそうである。

ところで、その「解決策の血縁」の対象と成る姫は、家康直系で子供3人と秀忠の適齢期の子孫の4人の計7人に成る。
しかし、全て対象外である。
「外孫」としては調べ切れない数であるが、この「外孫」の中から適切な対象者を選び出すのにも時間が掛かったと観られる。(下記)
当時の「賜姓族」は未だ遠縁を含む「同族血縁」を主体としていた。
ところが、「系譜や添書」を観ると、「特別賜姓族」の「秀郷流伊勢青木氏」は「賜姓族」の様には徹底した戒律の中には無かった模様である。

従って、血縁するとしても、それ相当の「氏族の家柄」から求める慣習に成る。
徳川氏は確かに「権力」は持ったが、元来「姓族」である。
「権力」を欲するものとしてはそれは大変な血縁と成ろう。
しかし、「賜姓青木氏」の様に、「権力」には「無縁の氏」である。
「権力の背景」には「権威」を求めなければならない。
「権力側」からすれば「青木氏」は無縁である以上、極めて動し難い。
そもそも、媚も平伏す事もしないものには何も効かない。
政治、経済、軍事や金や脅しでも抑え込む事も出来ないが、ただ一つ動かす事が出来るものがある。
それは、”信頼を勝ち得ること”以外にない。
では、”どの様して信頼を勝ち得るのか”と云う事に成る。
ここに「鍵」がある。

その「鍵」とは、「青木氏」等が主張している上記した「蝦夷地開拓」を含む「リフレ経済政策」である。
その「主張」を聞き、納得し、自ら堺や摂津や河内を見学をした。
その見学の見識から、次ぎの事を矢継ぎ早に行っている。

1 「松前氏」に「蝦夷地交易権」を与えた。
2 「讃岐青木氏」に蝦夷寄りの外回りの廻船を認可」した。
3 「松前氏」に蝦夷地一部を領させて、瀬戸内族を蝦夷に移した。
4 「家臣と民間の豪商」にも特典を与え、「場所請負制」を敷いた。
5 「地域外の民間参入」にも一部を運送販売などの商業行為の便宜を図った。
6 「港の拡張」とその割り当てする等の可能な限りの「準備の政策」を採用した。

以上を家康は同時期に着実に実行したのである。
先ず、これだけの事をすれば本腰を入れたと人は思う。少なくともこの事を主張していた伊勢青木氏と讃岐青木氏は信用する。

その為に、家康の代だけでは無く、”身内に優秀な才能を持った後に続く者”が無くてはならない。
この計画の「家康の夢の実現」の「次期継承者」を作る為に、一度、2歳の時に水戸に配置したものの、直ぐに変更して駿府に6歳の「頼宣」を呼び寄せ鍛え上げて計画を託したのである。
そして、その為には、この「頼宣」を、”特別に力の持った「御三家」”にし、紀州に「計画実行の拠点」を作り、秀忠にこの「計画の遺命」を伝えたのである。
そうする事で、「伊勢青木氏等」は、”家康を信頼し”その姿勢を観て、裏で調停工作に応じたのである。
「家康」は、これらの”「準備計画」で「信頼」を勝ち得るための「期間」が3年”必要なのであった。

筆者は、実務的な事は上記の事として、”信頼を勝ち得た暁”には、上記ABCを何とかして是が非でも作り出したと考えている。
それでなくては「Bの形」と成り、「Aの形」が不足する弱いものに成るし、意味が無く、それ故に必ず実行した。

ところがこの青木氏が持つ資料や系譜などからは「Aの形」が全く確認出来ない。

それには”確認できない事”には問題がある。
そもそも、系譜は男系を中心としての譜である。
「女系」の場合、系譜上には直接出ないので「添書」に記載されているものから調べださなくてはならない。
なかなか「添書」は実態が書いてあるので公開されないので実は判らないと成る。

「伊勢青木氏」等には、”世に晒す事成らず 一利無し”の戒律があって絶対に表にしない筈である。
当に、「伊勢青木氏」に取っては、この「最高権力者との繋がり」は、”晒す事”そのものであるからだ。
青木氏には、家康と云えども、”「悠久の戒律」を破らなくてはならない理由”は何も無かった。
破っているのであれば、悠久の歴史の1000年を超える時の権力者に破っている。
そうなると、家康は、”世に憚る事ならず”の「伊勢秀郷流青木氏」との「何らかの形」の「血縁関係」を構築した可能性が高い。

そもそも、この世の「事の流れ」は、その緩やかな方向に何人も向かうだろう。

同じ時期に、上記した様な経緯から、「家康の家臣」と成った「秀郷一門」は、当然に「伊勢秀郷流青木氏」に圧力を掛けて来る筈である。
同じく家康も圧力をかけた筈で、受け入れなければ、上記の経緯から「秀郷一門」も立場は無い。
しかし「賜姓族」にはかけられないし掛けてもかからない。
間違いなく、”女系で「秀郷流青木氏」が圧力を受けた”と考えられる。
中でも、”より都合のよい「血縁の形」”は、「融合族」の「四日市殿の家」ではないかと観ている。
それは、何より「長者の要件」に近づくからだ。しかし、徳川氏がこの「融合族」を指定して臨んだかは疑問である。
家康に「融合族」の認識感覚は無かったのではないだろうか。
要するに「融合族」は「秀郷流伊勢青木氏」が「受ける側」としての判断材料である筈だ。
一族的な形で観れば、「融合族」は、「皇族賜姓族」をも巻き込んだ総合的な無理のない血縁策に成る。
家康がこれを知ったとしてもより「賜姓族」により近づく”文句のない血縁策”と受け取ると考えられる。
兎も角も、「秀郷流伊勢青木氏」は、まず「女系」で受けて、その子供に「徳川氏」のどこかに入れて継がせる等の事をすれ良い筈である。
そうすれば、「故事の賜姓族」としての”「象徴と笹竜胆紋と密教浄土宗」”は完全に継承出来るし、”「長者と正二位」”も継承して獲得できる。
結局、結果としては、故事の”長者”は可能に成り、「朝廷と天皇」が拒む理由は無くなる。
そう成ると、これに要する期間としても3年は絶対に必要である。
「説得のそのものの時間」と云うよりは、その為の「準備時間」が必要である。
むしろ、1年とかでは疑う。最低でも3年と成ろう。
これが「3年の意味」である。


・> 青木氏の分布と子孫力
>
>
>
> > > [地域別分布力]
> > > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > > 地域      異変の県        分布力
> > > 九州地方   長崎、大分       5%
> > > 四国地方   高知           2.5% 
> > > 中国地方   山口、岡山       2.5%
> > > 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
> > > 東北地方   秋田           7%
> > > 中部地方                 15%
> > > 関東地方                 45%
> > > 北海道・沖縄               6%
> > > その他                   3%
> > >
> > > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> > > 九州地方  1.3
> > > 四国地方  1.3
> > > 中国地方  1.3
> > > 関西地方  4.7
> > > 中部地方  4.3
> > > 関東地方  11.3
> > > 東北地方  2.0
> > > その他   11.0
> > >
> > > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
> > >
> > > 修正地域(表ー3)
> > > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1-7 三重 12 福井 4 愛知 13-7
> > > 秋田 1
> > >
> > > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> > > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> > > 福岡  2   山口  0   愛媛  3     兵庫  3    三重  1
> > > 長崎  0     島根  2   香川  1     大阪  14   石川  2
> > > 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都  5    福井  1
> > > 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良  1    岐阜  3
> > > 熊本  4                        和歌山 4    愛知  13   
> > > 宮崎  2                        滋賀  1    長野  9
> > > 鹿児島 1                                  山梨  1
> > >
> > > 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
> > >
> > > 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
> > > 静岡  5    青森  1      沖縄  1
> > > 神奈川 21   山形  2      北海道 11
> > > 東京  18   岩手  1
> > > 埼玉  17   新潟  4
> > > 群馬  6    秋田  0
> > > 千葉  11   福島  4
> > > 茨木  4    宮城  2
> > > 栃木  8                                     
> > >
> > > 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  
> > >
>
青木氏の分布と子孫力-5に続く
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青木氏の分布と子孫力-3

[No.307] Re:青木氏の分布と子孫力-3
投稿者:takao 投稿日:2014/03/30(Sun) 08:20:33



>従って、「岡山の0」は讃岐地域に匹敵する地域ではあるが、パラメータが採れなかったし、10年間の間に「記帳」や「ルーツ掲示板」からデータが採れなかったのが不思議中の不思議であったが調査で判った。
>「瀬戸内」で「子孫拡大」が成された事から、岡山=香川とすると、上記の通り「岡山」は0から1に修正される。
>全国に分布する事からパラメータが、「三つの条件」で成り立ち、そこから「岡山」は2以上を超える事はなく、「瀬戸内」の中では「三つの条件」が同一である香川と同等と見込まれる。

青木氏の分布と子孫力-3


・「香川と岡山」の原因
そこで、これを根拠付ける為に、この原因には具体的な何かある事が考えられる。それを考察して観る。
その先ずは大きな原因の一つには、ここに定住移動した「讃岐青木氏」は、「瀬戸内の歴史」の上に出てくるくらいに大勢力を張り、”廻船などの商い”に従事していて、昭和20年までこの商いは盛大に行われていた。
その後、昭和の「戦後の混乱の影響」と、「大地主の地租改正」の「二つの影響」を受けて「廻船業」などが圧迫されて衰退させて、関東や北海道やブラジルなどへの移動定住を起こしている。
その証拠に、入植地の北海道のパラメータは何と11である。
そもそも、「北海道」は、鎌倉期までは「未開の蝦夷地」(下記)であった。
「秀郷流青木氏」は「陸奥広域」に大勢力を張ったが、ところが、この「北海道」には歴史の史実を観ると、「青木氏の定住地」ではなかった。
そもそも「陸奥の鎮守府将軍」までであったし、室町期末期まで永嶋氏が「陸奥広域」を支配していた事の勢力を以てすれば、北海道はその範疇に充分にあった。しかし、手を出さなかった。
その理由は、そもそも「賜姓族」の「古来からの戒律」で、平安初期(806年頃)には「陸奥広域」を征討した時には、「神明社」を建立したのに従って「皇族賜姓族の神職(信濃青木氏)」(神明社 20社 桓武天皇建立)を「陸奥広域」(平安初期の陸奥は福島までの広域)に配置した。
この北海道が改めて”「蝦夷の地」”(醜い族の地の意)として認定された為に、特別の理由を以って敢えて子孫を配置しなかった。

・「蝦夷地の考察」
(「蝦夷地」は正式には「1599年」にアイヌ族との間で行う正式な交易権を松前藩に与えた。
その前からは非公式でのものであったが、この後に2度の激しい戦いが起こりアイヌを追放した。
これを機に「松前藩」は家臣を正式に送り、「交易船」を仕立て各大名との交易を開始した。
「豪商」にも交易の権利を許し販売した。「家臣」にも独自に交易船を作らせてでも交易をする事を奨励許可した。この結果、急速に各藩も北海道に正式に「貿易拠点」を設けて家臣を配置した。
幕府は「松前藩」から上がるこの「交易権」と「独占権」の莫大な利益を享受した)
(「広域陸奥域」も平安初期は”「蝦夷の地」”として扱われていた。)

「子孫拡大」は、「三つの条件」のみならずパラメータとして表れるには、少なくとも「時代性」が必ず伴う。この「時代性」は、「賜姓族」としては「平安期末期」が「限界点」と見込まれる。
(青木氏は1025年頃から「二足の草鞋策」の「古代和紙の殖産と販売」の商いを正式に開始した。それまでは「税納の処分」の範囲の行為であった。大々的に総合商社産業としては100年後の1125年頃と成っている。)
それは「子孫拡大の慣習、仕来り、掟」の「厳しい戒律」が”自由なもの”でなかった事から、この「時代の限界点」を超えないと「青木氏のパラメータ」が2を超える事はない。
「皇族賜姓族」はこの「二つの限界点」の間で、「子孫力」「子孫拡大力」は著しく伸びた。

そもそも、「子孫」を「孫」或は「曾孫」にまでするには、「三つの条件」以外にある期間を必要とする。ある「限界点」があって突然に出来ると云うものではない。
当時の50歳を寿命とすると、当時は「皇族・賜姓族系」の族は男子15歳を以て成人し、「婚姻の対象」とする慣習であった。そして、女子はもっと早く「妊娠の条件」が整わなくても形式上の嫁入り(10歳程度 当時は妊娠条件は早期であった。子孫拡大は純潔性を重んじた為)をした。
中には記録から観ると7歳と云う者もいた。殆どは「純潔血制度の慣習」から「養女ー嫁の経過」を辿った。そうすると曾孫域までに達するには、約36年程度最速で掛かる。
仮に「ねずみ算」で観ると、子供4人として「2の二乗」で子孫は拡大して行くとして、「青木村」を形成できる範囲(4代ー1000人)では、4代か5代と成る。
しかし、「寿命50歳」は「ねずみ算」ではなかった事を意味するから、最低でも5代と成る。
5代世は最低で75年で最大でも90年と成る。

鎌倉期に頼朝が得た官職は、それまでの平安期の陸奥の「鎮守府将軍」から、鎌倉期の蝦夷地の「征夷大将軍」に切り替わった事の意味から、仮にこの時点から「青木氏」が移動定住したとしても1300年代に「青木村」が形成される事に成る。
しかし、この1300年代には北海道には、上記した様に、記録の経緯から観て非公式に未だ何れの「青木氏」も移動定住していない。

「許可制の定住移動」では何れの「青木氏」にとっては他氏に比べて「別の制約」があった。
イ 「皇族賜姓族」としての「慣習や仕来りや掟」などの戒律の制約
ロ 氏家制度の中で一族一門の了解の制約
ハ 守護神や菩提寺の保全の制約
ニ 御師、氏上様の社会的立場な制約
ホ 「二足の草鞋策」和紙殖産の制約

以上の様な制約があり、先ず「定住移動」、尚更、「入植移動」はあり得ない。
あるとするならば、ただ一つある。
それは、上記の制約が全て「廃棄」になった時にある。
これには、平安期のみならず江戸期までこの制約は続いたが、何れの時代にも「入植の定住移動」にはこの「制約の廃棄」が必要であった。
要するに、「皇族賜姓族」には少なくともこの「廃棄」はあり得ない事から不可能である。
上記した時代に「入植移動」を起こしたのは、「何らかの事由、事変」がお起こった事に依る移動であった。
「皇族賜姓族の青木氏」にはただ一つの許された公然とした要件があった。これ以外にはない。

それは次ぎの通りである。
A 皇祖神の子神祖先神の守護神の建立に伴う青木氏の神職
B 古代密教浄土宗の菩提寺住職
この二つに付いては”赴任による移動”と成る。

これには「最低条件」として「青木村」が形成されている事が必要条件である。
「皇族賜姓族」の「青木氏」が「イからホの制約」によって移動定住は出来ない訳であるから、「特別賜姓族」の「秀郷流青木氏」にはこの「制約」に強くは拘束されていなかった。
(但し、例外があった。それは「伊勢秀郷流青木氏」と「武蔵入間の宗家」であった。)
上記した様に、各地の「秀郷流青木氏」が定住移動し、「青木村」を形成した時に、AとBの「皇族賜姓族青木氏」は移動出来る事となる。
現実に「神職と住職」の「移動と定住」が起こっている。

例外がある。戦いに巻き込まれて各地に逃亡した「皇族賜姓族」即ち「制約の廃棄」が起こった「青木氏」には移動定住は可能である。
兎に角、逃亡先に「青木村」が形成された時点で、AとBの「皇族賜姓青木氏」が移動し、必要に応じて定住が許される事になる。自発的な「移動と定住」は矢張り認められていなかった。
特に、「特別賜姓族」の中でも、「伊勢秀郷流青木氏」と武蔵入間の「主要8氏の青木氏の本家筋」は「イからホの制約」に縛られていた。
何れにしても、116氏の宗家のみならず本家筋は「イからホの制約」から無理であったと考えられる。
この範囲外で「北海道の入植移動」は可能であった。「他氏の移動」とは違い大いに制約に縛られていた事に成る。

・「入植の時期の考察」
そこで、「室町末期」には「結城永嶋氏」が陸奥域に戻っていることから、秀郷一門の「護衛同行」を基本とする「青木氏」にとっては未だ北海道には定住移動していない事に成る。
そうすると、1575年から1590年代に未だ正式の定住移動はしていない。
この「秀郷一門の青木氏族」の「永嶋氏」は豊臣秀吉に依って「天正17年」に「陸奥の結城永嶋氏」は滅ぼされた。
(この時、「皇族賜姓族青木氏」と血縁もある「伊勢秀郷流青木氏」も禁令の戒律を反故にして「陸奥」に馳せ参じ定住しないで敗退して逃げ帰っている。)
この直後に「陸奥の青木氏」、特に「青森ー秋田の青木氏」は「生活の糧」を含む「三つの条件」を失った事から、逃亡先も含めて最短で日本中から「蝦夷の地」として敬遠されていた北海道に逃亡した。逃亡地としては「北海道蝦夷の地」が追手の事も含めて最適地であった。

筆者の持つ商業記録の一部からと、「讃岐青木氏」の江戸初期(1616年)の「太平洋周りの廻船の許可」が認可が下りている事からも考え合わせると、この「北海道」が出て来る時代は「慶長」の前後と成る。
「商業取引」と「廻船許可」はここに多くの人が移植した事を物語る。それでなくては経営が成り立たないし許可しない。
そうすると、1616年の少し前、1595年頃と範囲が限定されて来る。
北海道に、「青木村」を形成出来る程度としては、この1595年に90年を加算した1685年頃と限定される。好景気になった元禄文化の元禄年間前後と成る。
この元禄年間から100年間後には「享保の改革」が吉宗によって実行された。
この享保の時、「紀州藩の勘定方」を指導し、且つ、吉宗に同行して幕府の「享保の改革実行」(布衣着用を認められた勘定方:大名扱い 家臣ではなかった。青木六左衛門)を任された。
その「吉宗」を育てたのは「伊勢加納氏」と「伊勢青木氏」(主に経済面で後押しをした)である。
この時に江戸には「6家12流の青木氏」が存在している事が江戸の記録から読み取れる。
筆者のルーツは記録から伊勢から同行した6つの一つ「六左衛門ルーツ」(伊勢青木氏)と成っている。 12流もの青木氏が江戸に移動して定住している事は、この「蝦夷地」にも各大名の家臣などに成って赴任的にもかなり移動する理由があった事を物語る。

・「瀬戸内族の入植の考察」
「大蔵氏と塩飽族の資料」の中にもこの事が掛かれている。大型輸送を必要とする北海道の入植は、「海運」を主にしていた事からこの状況が一部に書き込まれていて、大蔵氏は「海産物の責任者」と「廻船の責任者」をそれぞれ一族の中で決めている。
「責任者」を決めるその必要性が特にあった事から決めた事であるから、この時頃に「交易拠点」を北海道に設けた事が明らかである。これは上記した「松前藩の資料」の中の文章と一致する。
この様に最も南の「九州の豪族」が決めている事から、全国の主だった豪族は競って交易に走った事を物語るものである。
「伊勢青木氏」は「二足の草鞋策」で「古代和紙の殖産」を通じて「総合商社の商い」をしていた事から、この北海道にも支店を設けていた筈で、出火でこの部分の詳細な記録は無いが、「千石船」を3艘持っていた事があって、それが「日本海周り」と「太平洋周り」に寄港していた事が判っていますので、「3艘の大船」をやり繰りして日本海と太平洋周りに廻す事などが起こっていた事を示す。
この時の記録から観て、「蝦夷地」には、「青木氏」は次ぎの様な経緯を経た事に成る。

「移動入植」1595ー「定住村」1685ー「活動期」1715と成る。

つまり、享保の時期1715年代には、各地の「青木氏」はその正式な「定住移動の根拠」を示しながらも、「賜姓族」としてはかなりの「自由度」で移動定住している事に成る。
言い換えれば、この「享保の状況」のこの「青木氏の移動活動」(幕府に質素倹約を進め財政再建として大船を使って交易利潤:「伊勢青木氏の大船」を使った可能性がある)から観て、逆算して1715年代の記録から90年を引くと、矢張り、上記の通り、「慶長期」と成る。

従って、「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」とは「商い」で深い長い親交があった事が商業記録で判っていて、その事から「瀬戸内族」の居る「岡山」もやや早いこの時期には可能に成っていた筈である。
(「伊勢青木氏」は「讃岐青木氏の要請」で「浅野藩取り潰し」(1703年)の際に「財産買取」に”3艘の大船を廻した”等が書かれている。「総合商社」を営んでいた事が理由で要請された。
弾薬や火薬も扱っていた。その13年後に「伊勢青木氏の主導」で「享保改革」を開始している。)

「移動入植」1590ー「定住村」1680ー「活動期」1710の経緯

上記の経緯を経て、日本の「初代の姓族」と成った「瀬戸内族の海部族や塩飽族」の「姓族」と共に移動定住した「讃岐青木氏」は瀬戸内から北海道に定住移動していた事に成る。

(青木氏主導の「享保改革」は、”「質素倹約」で「出」を抑え、「蝦夷地開拓」で「入り」を強化した政策)

・「北海道の11の吟味」
これが北海道の「パラメータは11」の中味である。
しかし、この「パラメータ11」では、この時期、つまり「慶長から享保の時代」の「入植定住と子孫拡大」だけではない事が判る。

この「北海道のパラメータ11」は「千葉の11」と一致する。
そもそも、「千葉」は、平安の古来より「藤原秀郷流青木氏」(朝光系)の定住地である。
ここは、「結城」を初めとして1000年以上の土地柄である。
上記の瀬戸内からの「入植定住の90年」とは訳が違う。
他の青木氏家からの入植定住があったとしても、「瀬戸内5県」からの「パラメータ7」とすると、残りの4を埋めるとすると、問題がある。
11-7=4は全国平均のパラメータである。バイアスとしては無視できない。
「他氏の青木家」の北海道に入植定住した「青木氏」は判っている。
その内容から観ても難しい。
つまり、「岡山」等の瀬戸内だけではこの経緯からでは、上記の計算から観ても11は得られない。

その前に、この「岡山」について吟味して観る必要がある。何かが観えて来る筈だ。
先ず「岡山」は、せいぜいパラメータは「全国平均の4」は超える事はなく、パラメータは1ー2程度と成る。
「全瀬戸内族の青木氏」として観ると、次ぎの様に成る。
「岡山1」と「香川2」と「広島2」と「島根1」と支店の「青森1」と「秋田」
これらを全部移したとしても、以上からパラメータは7/11程度と成る。

これは、他の地域から移動定住した「青木氏」が大きかった事を示すし、「ルーツ掲示板」でも明確に確認でき、且つ、筆者の家にも僅かに残る商業記録としてそれを物語る記録が遺されている。
それは、この「讃岐青木氏の廻船問屋」(総合商社であった)との関係である。
1 「廻船問屋」で「北海道産の海産物」の搬送と販売
2 「北海道と東北」から「太平洋周り」(外周り廻船)の「江戸向け」の「廻船の定期便の許可」
以上が「讃岐青木氏」に江戸初期に幕府から特別に認可されている史実がある。

「日本海周りの廻船」(内回り廻船)も平安期より持っていた事があって、その為に「岡山」から宍道湖の西寄りに平安期から定住地を認められていた。
これは「廻船による寄港地」として各港域に条件付きで定住が認められていた事を物語る。

(西には讃岐青木氏が、東には「足利氏系青木氏」が信濃から秀郷一門との争いで逃亡して「米子や八頭」に定住した賜姓族の「足利氏系青木氏」が存在して居て、それが宍道湖を境に東寄りに住み分けていた。)

・「讃岐青木氏の入植の吟味」
平安期から、”瀬戸内を制する者は国を制する”と云われ、それを「純友の乱」が物語るが、その後、衰退した「讃岐藤氏の青木氏」は、再び鎌倉期には、ここを制していた大蔵氏の勢力低下と同族の平氏の滅亡等により、再び、これを機に息を吹き返した。
再び、以前の支配下にあった「姓族」の初代と云われた「海部族」や「塩飽族」の「瀬戸内海族」をまとめて上げて「廻船問屋」を「2足の草鞋策」で再び勢力を盛り返した事が判っている。

(「海族」と「海賊」は異なる。明治期にはこの「海族」のこの「操船技術」が「日本海軍の操船技術」と成った。それだけに群を超えて優れている事を意味する。この「操船技術」を以って子孫拡大は進んだ。支配下にあった「海部族と塩飽族」等の「海族」も「姓族」として経済的にも一人立ち出来る様になった事が何よりの証拠である。)

この「讃岐青木氏と姓族の勢力」が、元々「蝦夷地の支店」として配置していたところに「讃岐藤氏一門の青木氏」が定住し、更に、戦後が上記した経緯の北海道に、衰退を防ぐ為に瀬戸内から定住移動をした事の2件が商業記録から読み取れる。

ただ、「香川の1」と「岡山の0」がその勢力に比してパラメータは余りにも低過ぎる。
これは、上記の北海道への「入植定住」が「個人単位」ではなく「一族の範囲の単位」で起こった事によるもので、現在のパラメータの数字は残った子孫が其処から拡大させたものであろう。


・「高松藩」と「弘前藩」の関係
それを物語るものがある。この記録の中には、次ぎの様な経緯が書かれている。
資料を取りまとめて観ると次ぎの様に成る。
「瀬戸内の本家」の「首魁」(頭領)が、「海部族」と「塩飽族」と共に「廻船の指導」を名目で、江戸時代に「弘前藩」から依頼されて、「江戸幕府」に特別に認められて移動定住している。
この「特別許可」とは、「弘前藩」の有名な「お家騒動」に関わりがある。

「弘前藩のお家騒動」(財政難と跡目問題が絡んだ数度の勢力争い)とは、積極的財政改革を主張する家老が、「讃岐の松平氏」(高松藩)に逃げ込んだ。幕府は当面この家老を罰する事で裁定を下し、「配流先」に高松藩を指定した。(内情は逃げ込んだ形)そして、「廃藩」にして幕府直轄の領地とする経緯を持っていた。
ところが、「高松藩」はより幕府に取って有利なシナリオを推奨し幕府を説得していた。
その間、「高松藩」は「讃岐藤氏の讃岐青木氏」とその「支配下の海族」に事前に話を通した。
その話とは、「瀬戸内の廻船業と海産物の販売」を「弘前藩」に指導させる事と、その事による利益の確保を幕府に収める事で「弘前藩の財政」を立て直し、「お家騒動の争い」を積極的財政改革を主張する一派に委ね、他派を排除し、納める事にして渋る幕府を納得させた。

そこで、「高松藩」は「讃岐青木氏」を説得し、「弘前藩」にこの「瀬戸内の廻船業と海産物の販売」の一切のノウハウとそのプラントの殖産を敷く事を任した。
この「瀬戸内の廻船業」を「弘前藩」に取り入れて「財政再建」を果たす事で立て直し、その事に依って得られた「利益」を幕府に献納金とし収める事で、お家騒動に決着を付けて「廃藩の憂き目」から生き延びた経緯があった。
(弘前藩はたびたび「お家騒動の事件」を起こしていた藩で有名)

この時、「高松藩の領主」(徳川氏)が乗り出したこの話は、瀬戸内に関係する族に取っては大変な事であった。
そこで、「讃岐青木氏」(香川と岡山)は一族の多く「弘前藩」に配置し、操船を担当する塩飽族は一族の本家の頭領を「4年の期間」を定めて「弘前藩」に配置しする事に成った。
この直前この頭領は倒れた。そこで、縁者から当主を迎えて「塩飽族の頭領」とした。
「海部族」もこれに倣って「海産物の殖産」を指導する事で主だった者を「弘前藩」に配置した。
「高松藩」との協議で4年を計画期間と定めて戻る事が決められていた。
ところが、4年経っても「塩飽族の頭領」等は帰らなかった。そこで、その頭領を廃嫡して新たに塩飽族の頭領を定めた。「海部族」も「讃岐青木氏」(香川と岡山から赴任した)でも同じ事が起こった。
恐らくは、資料の文章の言語の使い方が、”恣意的で敵対的な表現”が採られている事からある意味が出て来る。
端的に読み取れる「塩飽族の内容」を観ると、”廃嫡の言葉””絶縁””頭領に迎えてやったのに””待ったが遂に帰って来なかった””一族の危機的表現”と云う様な意味合いが書かれている。後で書き記したもので、跡目を引き継いだ者が、”一族の非常事態の不満”からこのような表現に成ったのではないかと観られる。
三者の資料を通して云える事は、恐らくは ”約束と違う 騙された”であったと観られる。
三者とも、”大きな打撃で、”相当な陣容”で取り組んだのに”一族存亡”であった事が判る。
幕府は、「幕府の財政的な窮地」を救える大きなこの「計画の利益確保 献納金」に重点を置いて、”4年で帰らすこと”は、”利益確保に支障を来す事”が懸念された為に帰還を一切許さなかった事が判る。「政治的な配慮」が読み取れる。
瀬戸内の現地では、その事の不満(子孫存続が危うくなる)を後世に遺す為にわざわざ書き残す事にしたのではないかと考えられる。
この様に”何らかの事変”が起こって帰れなくなったと観られる。
(幕府や為政者側からは”返さなかった”と成る。「高松藩」の幕府への斡旋 「莫大な利益」が幕府に入ることで「お家騒動」に決着 お家騒動を幕府は上手く利用した。)
この時の「瀬戸内から来た末裔」が青木氏等と共に、「職能集団の塩飽族」の一団が禁令にも関わらず特例を以って”現地に定住する事”も認められた。
”認められた”と云うよりは”定住を命じられた””帰る事を許さなかった。”が正しい。

・「松前藩」
この時の「讃岐青木氏」の末裔が、明治期に北海道に入植で定住した記録があるが、江戸期には「弘前藩」の事もあって優先的に入植を認めたし、明治期にもこの「海運業と廻船業と海鮮殖産」とによる改革に効果がある事を承知の上で、特に「瀬戸内族の入植」を幕府は推し進めた経緯である。
(「讃岐青木氏」と「伊勢青木氏」が裏で動いたと考えられる。)
筆者は、幕府が「弘前藩」に廻った瀬戸内族全員を蝦夷地にそっくり廻したと観ている。
「松前藩」にその特権を与えて置いて、それにこの「弘前藩の者と成った瀬戸内族」を今度は「松前藩」に廻したと観ている。
”「松前藩」の資料では、場所を限定して「交易権」を「家臣」にも与え「船」を作らした”と記載されている。これはおかしい。
本来は「松前藩」が「藩」として取り扱う所に意味があり、それでこそ「特権の利益を確保」が出来るものである。「黒印状」からも幕府は「松前藩」に与えていて付帯条件はない。

そもそも、「家臣」が「船」を作り「交易」をする行為は、最早、「家臣の力量」を遥かに超えてのもので「家臣」では無い。それだけの「家臣の財力」を超えた「力量」はそもそも簡単に持ち得る事は、家臣の仕事の中で出来得ないし、多くのノウハウを必要とするし、それが可能であれば「弘前藩」に対して行った”「高松藩の過酷な行政指導」は何だったのか”と云う事に成る。矛盾している。
況して、1万石の大名の家臣が1万石以上の家臣がある訳がない。
そのノウハウを持っている「瀬戸内族」を「家臣扱い」として、これに対して「場所請負制」をわざわざ敷いて場所を限定して交易を任したのである。
この「場所請負制」では「民間の商人」にもこの「割り当て」を行っている。「場所請負」はこの3種の場所限定で分けられていたのだ。
その証拠に「松前藩」が、”独自に行う交易場所”もあった。
松前藩の場所は「瀬戸内族の指導」を受けての交易であった事が判る。この様にすれば藩も直ぐに交易が出来切る体制が採り得る事と成る。

この「松前藩の経緯」は、1599年に家康から見いだされ「客臣」ー「寄合旗本」ー「享保4年」に「柳間1万石外様大名」、その後にこの「入植政策」が認められて「3万石大名」となった。
「享保4年」には「1万人の都市」と成った事で大名に任じられた。
(1万石は3万石に対して「後付格式」であった。)
(「享保改革」は「伊勢青木氏」が主導している。その享保4年である。「質素倹約の出と蝦夷地開拓の入りの政策」)

A 上記した様に、元禄時1703年の「讃岐青木氏」と「伊勢青木氏」の付き合い
B 17年後(享保4年 1720年)に「1万石の大名 1万人都市の入植」
C 1716年から「伊勢青木氏の享保の改革実行」

つまり、Aの事があって、Cの事があった。当然にAの付き合いの上で、Bの事が実行されたと観るのが妥当であろう。
要するに、「蝦夷地の入植開墾計画」は、「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」とが「幕府財政改革」の為に組んで主導した政策であった事が裏付けられる。
(「信濃青木氏」も「伊勢青木氏」とは「二足の草鞋策」を敷いて一心同体であった事から参画していた可能性がある。)
それは、享保に入ってからこの計画が両青木氏によって進められたのではなく、上記した様に、「讃岐青木氏」が”蝦夷地から外回りの廻船業”が江戸初期に認可された時期(1600年)には既に進められていた事に成る。
「松前藩」が家康から「蝦夷交易権の黒印状」を与えられた1599年と、「讃岐青木氏」の蝦夷地からの外回り廻船を認められた時期1600年はそもそも同じである。

・「弘前藩と松前藩の関係」
兎も角も、”家臣にも与えて船を作らした”というのは、幕府に対して申し開きが出来ない筈でありこれは「瀬戸内族」を「弘前藩」から「松前藩」に家臣として移した事を物語るものである。

(”廻した”、或は、”廻さなくてはならない”背景があった。「高松藩」から「お家立て直し」で藩を救われながら「弘前藩」は約束通りに「讃岐」に返さなかった事情から、この「弘前」に居た「瀬戸内族」への恩義から、「蝦夷地交易による利権」を彼らに与える為に「松前藩」と話し合い、「松前藩の家臣の身分」で「独占的な交易権」と「破格の特定の場所」までも用意して優先的に与えて約束保護の代償として優遇した。この時、「松前藩」は「弘前藩」から米の供給を受けていた恩義もあり、「弘前藩」の申し出を快く受けた事に成る。
しかし、これには、現実には家臣として特典を受けている事実は、この「弘前藩」に廻した「瀬戸内族」をそっくり「幕府の命令」で「松前藩」に預けたのではないだろうか。彼等を家臣として扱った事から、この表現に成ったと観ている。そうすればすべてが納得できる。
何故、「幕府の命令」とするかは、江戸初期からこの「瀬戸内族の首魁の讃岐青木氏」と平安期から親交のあった「伊勢青木氏主導の享保改革」の「商人としての江戸初期からの計画」が裏ではあって、この計画を実行する為に、「蝦夷地開墾の促進」から「伊勢青木氏」が徳川吉宗に働きかけて内々の「幕府の意向」を両藩に内示していたと考えられるからである。
(「伊勢青木氏」は「伊勢加納家」と共に「徳川吉宗の不遇の時の育ての親」である。)
幕府(伊勢青木氏主導の改革)に取ってみれば、江戸初期から関わって来た「蝦夷地入植開拓」である。「弘前藩の成功」を「松前藩」にもさせて成功させ、その「献納金」を獲得する戦術に出たのは当然の事ではないだろうか。(享保改革:質素倹約の出策、蝦夷地開墾の入策」)
これは、「蝦夷地の入植開拓」の”呼び水”と成る事を狙っていた事を意味する。
(「家康の黒印状」から丁度100年後に享保4年の「1万人の都市化」が成されている。)
みすみすこの様に、幕府自らの「成功体験」があるのに無視する事は、政治家として劣っているし、「享保改革主導の豪商伊勢青木氏」としても利用しなければ商人では無い。
100年前に家康が見込んで松前氏に蝦夷地開拓を任した事であって「当然の事」であったと考えられる。
現実に、各藩は上記した様に交易に走った事は判っているし、「豪商讃岐青木氏」と「豪商伊勢青木氏」も加わっていれば「近江商人」や「駿河商人」や「越前商人」など「各地の商人」も加わらない事は無い。
この背後には、この「瀬戸内族」と「弘前藩」と「松前藩」と「幕府」と「高松藩」が大きく関わっていたのである。(下記の状況証拠から伊勢青木氏も関わっていた)

・「青木氏の役割」
その証拠には、次ぎの事が確認できる。
「無石藩の松前藩」は「弘前藩」から「最初は1万石」(後付)の給付であった。「最終は3万石の藩」に成ったが、都市化に依って「最終は10万石」の「実質の藩力」を持っていた。
この為には、松前藩は無石藩である為に、「10万石の米の支給」が必要に成った。
そこで「弘前藩以外」(1万石)から補足分以上を「松前藩」は求めなくてはならなくなった。
ところが、その途中の「享保の時代」までには「5つの大飢饉」(1619、1642、1675、1680 1732)が起こった。この飢饉で「弘前藩」からも十分に入らなくなった。
しかし、飢饉時のみならず「松前藩」にはこの補足分が「大阪」から供給されているのである。
「米」は「幕府の統制下」にあるのに、「5大飢饉」の特に後ろ「享保前後の3つの飢饉」の時には”「大阪」から供給されている記録”がある。
(享保以後には1782年の天明飢饉、1833年の天保飢饉がある。)

これはそれだけに、”「蝦夷地開墾政策」が重視されていた政策”であった事を示すものではあるが、この「5大飢饉」の以後にも供給されているのである。それも”公然”とである。
そこから、これは「大阪からの供給」の事前了承の下で非公式に「幕府許可」を得て受けていた事になる。
これだけの事をやってのけられる人物、”誰が受けていたのか”と云う事に成る。
「飢饉」とその後の不足から「松前藩」だけに「10万石もの米」を供給する事は暴動が起こる。
現に各地で起こっている。それだけに幕府は公然とは出来ない。しかし、出来ている。
それも”大阪”と記録されている。その「10万石もの米」を何処から、それをどの様にして運ぶのか、そんな要するに「ヤミ米」を集められる人物は誰なのか、等の疑問が次ぎから次ぎへと湧いて来る。この大疑問を解決しなければ「蝦夷地開墾の実態」は見えない。
”これだけの事を何の問題もなく一人でやり遂げられ、且つ、咎められない人物は誰なのか”である。極めて条件が絞られるがそれは確実に居る。
それは”「伊勢青木氏」である”と観ている。

注釈
「伊勢青木氏」は伊勢松坂に2つの本拠点を置いて、愛知までの沿岸部周囲に4大店準拠点、「摂津」と「堺」に大船を停泊させる大店の4店舗の拠点、各地主要都市に産物を仕入れる支店を置いていた。三重県松阪市の2割程度は何らかの関係する土地で、隣の玉城市全域は伊勢青木氏の蔵群と青木氏に関わる全ての職人の長屋であった。享保年間では690年の「豪商の歴史」を持っていた。
日本でも「賜姓族の歴史」のみならず「豪商としての有数歴史」をも持っていた。確認できる範囲で大船3艘以上 小船100隻以上 大小店舗数100程度と成る。

問題はこれらを有効的に利用でき得る能力にある。
それは
1 「大商いを動かす政治力」
2 「大商いを護る防衛力」
3 「商情報を獲得する情報力」
以上のこの3つが必要絶対条件である。これ無くしては成し得ないであろう。

1に付いては、「伊勢青木氏」は、「特別賜姓族藤原秀郷流青木氏116氏」とは平安期からの同族関係にあり、親族の「伊勢秀郷流青木氏」を通じて116氏と繋がっていた。この「特別賜姓族」は、上記した様に、江戸期には大名では無かったが「幕府高級官僚の地位」を多く確保し、この「横の関係」に依って「計り知れない政治的な力」を生み出されていた。
「伊勢青木氏」自らも「紀州藩」とは代々「財政の勘定方」を指導すると云う立場にあり、「紀州藩」を通じての「横の関係の政治力」を最大に保持していた。
上記する様に、「享保時代」では自らが「布衣着用」で「徳川吉宗」を補佐して「享保の改革」を主導した立場もあり、「政治力」はある歴史家の単行本の言葉を引用すれば「豪商の頂点」の位置に居た。
(「布衣着用」:幕臣では無かった事から大大名の地位を持ち将軍に拝謁して意見を述べられる立場 と合わせて、形式上「皇族賜姓族」としては将軍以上の「永代身分」を持っていた。)

2に付いては、「商交渉」は元より「交易品の搬送」の安全が無ければ「大型の搬送」は陸海ともに不可能である。先ずここまでは持ち得ている豪商はまず無い。
1の特別賜姓族の「横の関係」の24地域の「軍事力」を利用すればほぼ可能であるが、伊勢青木氏自らも織田信長の2万の軍を撃破する程の強力な「伊勢シンジケート」を保有している。
これが、「陸海の郵送の安全」を守る事が出来る。
先ず、「縦横の関係」でこれだけの「防衛力」を保持していた豪商は調べた範囲では無い。

3に付いては、1の官僚機構を伴う「横の関係」と、全国500社に及ぶ「守護神 神明社」の組織を使えば、頂点から末端の情報まで早期に掴む事が出来る。
この「情報力」を使って1の「政治力」をも補完出来る。この「情報力」と「政治力」と「防衛力」は相互に連携させれば「相乗的な補完関係」をより大きく生み出す。

ここで、言い方を変えれば「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」の事は「海に面している青木氏」には成っているが、「信濃青木氏」は「陸の青木氏」であるから、その意味で商いと云う面では信濃と云えば「陸の特典」を活かした商いを補完していたのではないかと考えている。
況や、「農産物」の殖産と販売の面で「伊勢青木氏」の足りない面を補っていた関係にあった事から、「一心同体の関係」であったと観ている。
例えば、今回の「1万石の米」と成ると、全国各地から余剰米を集めて来る事に成ったとしても「伊勢青木氏」や「讃岐青木氏」は確かに「穀倉地帯」ではあるが、「穀倉地帯」であるが故に「余剰米」は生活圏としての必要性から出難い。
「米、海産物、農産物」が揃っている地域では、結局は金銭での交渉と成り、集まらないし集めすぎると問題が起こる事が欠点と成るが、しかし、「信濃青木氏」では、上記123の力を使って、「周囲の穀倉地帯」からも「余剰米」を海の「代替品」と交換して集めれば必需品として集め易いし、問題も無く、「問題の10万石」は何とか成り得る。
飢饉などの時にも「暴動の対象」とは成り難く悪評と成り難い。
「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」が集めた「余剰米」に合わせて、それを上記123を使って「堺や摂津の拠点」の「大阪」に集めれば全ての面で安全に「松前藩」に搬送できる。

この様な事は「金銭の売買」だけでの獲得では無く、「信濃青木氏」と「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」との連携での、多少の金銭の兌換があったとしても、主に「陸海の産物の交換」で可能と成るのは「全国数多の豪商」があるとは言え「青木氏」にしか出来得ない事である。

関西在住の歴史家で歴史脚本家で、且つ、「青木氏の事」をよく研究している有名な人の言を捉えれば、「江戸期の豪商の頂点」にあるとして、どのように評価基準であるかはわからないが、「紀伊国屋文左衛門」の類では無いと評価している。筆者もルーツではあるが客観的にも同感で先ず無かったのでは無いかと観ている。色々研究過程で各地の「豪商の記録」に遭遇するが、これだけの「総合力」と「高いレベル」のものは未だ見つけられない。

・「松前藩の10万石問題」
この「松前藩の10万石供給」は、「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」と「信濃青木氏」の連携以外に無いと観ている。
つまり、「蝦夷地の開墾」即ち「入植定住」は「青木氏の行為」が根幹に関わっていた事を物語る。
「北海道の11パラメータ」の説明はこの経緯で可能と成る。

各地の大名としても交易する以上は、これらの「瀬戸内族や青木氏への特典」も”蝦夷地開墾の幕府の政策方針”として承知しこれに従っていた筈である。
(殆どの大藩の譜代大名の記録から観ると、蝦夷地に交易の為に場所を確保し家臣を送っている。)
従って、ここで幕府の政策上、「松前藩」を飢饉で潰す訳にはいかなかった事を意味するから、「暗黙の了解」として、むしろ”影では後押しして ”特に享保期には、「政治力」は当然に「青木氏」には充分にあったが、「松前藩の10万石供給」は飢饉外であったとしても「暗黙の了解」をしていたと考えられる。
ところが、この「暗黙の了解」の裏には次の様な法的な「米に関する取り締まり令」があったのである。
「享保改革」には「買米令」と云うものがあって、大名と堺を含む大阪商人等に限定して「168人」に対して「合計60万石」を限界として「米を買い上げる義務」を与えていたが、この「義務」に対して「蔵屋敷米の売却禁止」を課せている。
更に大名に対して「上米令」を発して1万石に対して100石を返納させて「米を確保する」法を発して極力「闇米」を抑え込んだ。 何れも「米価高値安定政策」である。
更には、米の動きを抑え高値安定化の為に「廻米の禁令」を発し江戸と難波に「米」を廻す事を禁止している。
「堺」と「摂津」に大店を構え「蔵屋敷」を持っていた「伊勢青木氏」もこの168人のトップクラスの中にあり例外では無かった。(この168人は大名を含む大阪に蔵屋敷や店を構える人数で、大名と豪商は大阪に集中して蔵店を持っていた。)

「伊勢青木氏」は、この「米に関する取り締まり令」の中での「松前藩の10万石供給」であった。
普通では、「事前了解」が無ければ「法治外行為」であるし、「幕府の改革の主導者」である者がこの行為は反逆行為と成る。
しかし、「社会からの暗黙の了解」で実行されている。

そこで、果たして、「10万石」なのかを吟味して観る。
「享保4年」で「1万人人口」として考察すると、武士階級で、当時4-6人の家族と2人の雇人での生活費200石(金銭に兌換)程度とされていたとすると、米100石必要であり、1250世帯とすると、「12万5000石程度」が市場には必要と計算上で出て来る。
全て武士では無いのでその分を割愛すると10万石程度と成ろう。記録の10万石は妥当である。
この時、松前藩は、幕府から無石藩ではあるが、「3万石」と認定されて1万石から「3万石大名」に格上げされた。(正式には「1万石」は「後付格付け」である。)
実態は蝦夷地松前には正味10万石が供給されていた。
そもそも「大名の石高」は「米高」に兌換してのもので、他の産物の取れ高を米に兌換して表現して格式を決めていた。「蝦夷地の松前」は「無石藩」であるので「産物の交易額」を「石高」に表現して急遽に格式を決めた経緯である。従って、この吟味の10万石は実質の必要な米料である。
従って、「蝦夷地開拓政策」を成功させるには、「3万石」では無く「正味10万石の影の供給」が確実に必要であった。
しかし、「上記の法令」で縛られている。「蝦夷地開拓政策」とは確実に矛盾している。
この勘定方として自ら進めた「厳しい法令」を護らなくてはならないし、「蝦夷地開拓政策」を遂行しなければならないし、「享保の改革の主導役」の立場もあるし、蔭で「10万石を調達」をしなければならないし、「焼き討ちや暴動」も配慮しなければならないし、下手をすれば反対派から「密告されること」も覚悟しておかなければならないし、上記した「5つの飢饉」の中でも絶対に実行しなければならない苦しい仕事であった。

「子孫力」と云う事から考えると、最も注意しなければならない事は、下手をすれば、”飢饉の中での儲けの買い占め”として庶民から”蔵打ちこわしの暴動”を受けていた事も考えられる。しかし無かった。社会全体が「暗黙の了解」の中にあった事と成る。
(飢饉時には多くの商人は大小この攻撃を受けた。)
これはまさに”世に晒す事無かれ”の「生き様の訓戒」の表れで、だからその「悠久の姿勢」から ”「青木氏」はそのような事をしない”とする「信頼の遡上」が出来上がっていた。
「御師様 氏上様」の尊称が在った様に、これは「青木氏の子孫力」を大いに高めさせたものであった。

・「享保の改革」と「蝦夷地入植」
重要な注釈として、「松前氏」は1599年に家康に見込まれてより「蝦夷地の交易の特典」を受け、その結果100年後の「享保4年」には、「3万石の大名」と成り、何と「1万人の大都市」と成ったが、この時は「吉宗の享保の改革」で「伊勢青木氏」が「吉宗の勘定方」として「青木六左衛門」が「財政政策の顧問」を行っていた時期でもある。
「享保改革」を主導した「伊勢青木氏」から観た事の「六左衛門手記の資料」によると、「享保改革」では ”「質素倹約」で「出」を抑え、「蝦夷地開拓」で「入」を高める政策の財政改革”であったとの主意が記されていて これに対して御三家の一部からは猛烈に反対を受けたとある。
これに対して「改革理論の効果」を証明する為に「紀州藩の財政改革」も「伊勢青木氏」が「紀州勘定方」を同時に指導して行ってこれを証明したとある。
この結果から考察すると、この同時期に反対していた尾張藩主は蟄居させられている経緯があった。
この様に現実に極めて危険な状況に陥っていたのである。
徳川吉宗と伊勢青木氏は懸命に成って対抗した事が判る。
「享保改革」は「三大改革」と呼ばれ他に多くの改革があるが、「青木氏は財政改革」の面の勘定方を主軸に担当していた事がこの手記から読み取れる。
特に商人として参画した経緯から「米ー財政」に重点を置いていた事が判る。
(安土桃山時代は1603年で終り、1614年で江戸時代に入る。この期間は徳川家康に実権が移っていた。)
まさに、享保期までの「蝦夷地開拓」は「青木氏の政策指導」(質素倹約の中での政策として「蝦夷地開拓」での献納金で幕府財政立直策)であった事に成る。
上記した様に、「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」は、古来より深い親交があった事から上記した事が起こっていたと考えている。
つまり、この一連の「瀬戸内族」の「入植政策」では、状況証拠から「両青木氏」の「裏での合意」があったのではないだろうか。
この「裏での合意」が無ければ「瀬戸内族の一族」ごっそりこの「弘前から松前」(旧蝦夷地)までの「蝦夷地入植計画」に注ぎ込んでいる事はない。
先ずこの計画を進められるには「普通の豪商」では成し得ない。「総合力」を持ち得ている「特別な豪商」でなくては成し得ない事である。
仮に「讃岐青木氏」に不足するところがあるとするならば「伊勢青木氏」がこれを補填する事が出来る。
この”悠久な歴史を持つ二つの特別な豪商”があってこそ「蝦夷地入植と開墾の計画」は進む事はなかったと考えられる。故に、幕府はその「進行具合」を観つつ、100年後の「享保の改革」で直接、「伊勢青木氏」を幕政に取り込み、この計画を成功裏に収めようとしたのである。
結果として、「幕府財政の改善」が可能であると考えていたのである。




> > [地域別分布力]
> > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > 地域      異変の県        分布力
> > 九州地方   長崎、大分       5%
> > 四国地方   高知          2.5% 
> > 中国地方   山口、岡山      2.5%
> > 関西地方   三重(筆者ルーツ) 14%
> > 東北地方   秋田           7%
> > 中部地方                15%
> > 関東地方                45%
> > 北海道・沖縄               6%
> > その他                   3%
> >
> > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> > 九州地方  1.3
> > 四国地方  1.3
> > 中国地方  1.3
> > 関西地方  4.7
> > 中部地方  4.3
> > 関東地方  11.3
> > 東北地方  2.0
> > その他   11.0
> >
> > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
> >
> > 修正地域(表ー3)
> > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1-7 三重 12 福井 4 愛知 13-7
> > 秋田 1
> >
> > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> > 福岡  2   山口  0   愛媛  3     兵庫  3    三重  1
> > 長崎  0     島根  2   香川  1     大阪  14   石川  2
> > 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都  5    福井  1
> > 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良  1    岐阜  3
> > 熊本  4                        和歌山 4    愛知  13   
> > 宮崎  2                        滋賀  1    長野  9
> > 鹿児島 1                                  山梨  1
> >
> > 域平均 1.25 平均  1.25  平均  1.25  平均  4.7  平均  4.3        
> >
> > 関東地方(45%)東北北陸地方(7%)沖縄、北海道地方(17.5%)
> > 静岡  5    青森  1     沖縄  1
> > 神奈川 21   山形  2     北海道 11
> > 東京  18    岩手  1
> > 埼玉  17    新潟  4
> > 群馬  6    秋田  0
> > 千葉  11   福島  4
> > 茨木  4    宮城  2
> > 栃木  8                                     
> >
> > 域平均 11.3  平均  2.0   平均  11.0  

青木氏の分布と子孫力-4に続く
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青木氏の分布と子孫力-2

> 「青木氏の分布と伝統力」-2



・「長崎の考察」
この「長崎」の「青木氏」は、ここは「太宰大監」として自治を認められた地域であって、元々「大蔵氏族の居住地」で直接に勢力範囲の届く地域であって、藤原氏が大きく入り込む余地はなかった。
(この時は平家の影で藤原氏は衰退していた)
従って、鎌倉末期後の「元寇の役」の「鎌倉期ー室町期」の赴任による定住地である。
そこで「青木村」を形成している事から「平安末期の子孫」とも考えられるが、上記する様に本来の形の定住地でなかった事から、恐らくは、この時の「青木村」は、後からの秀郷宗家一族の赴任に依って、それに護衛団として同行した「秀郷流青木氏」が、その時に「青木村」を形成して定住したと観られる。
「青木村」を形成する以上はそれなりの期間を必要とする。赴任だけでは成し得ない事に成る。
では、形成できた時期となると、「元寇の役」の時の「進藤氏の仲介」で「大蔵氏と青木氏の血縁関係」がなされた時期と成る。
恐らくは、この時の子孫がこの「青木村」を形成したが、「青木氏の氏環境」からこの「青木村」を留守居か、放棄して武蔵入間に一族全員が引き揚げた事に成る。
そこに、再び、鎌倉期に秀郷宗家が赴任して、この時に護衛同行した「青木氏」が、この「青木村」に再び住み着き、その後に「護衛役」を入れ替わった別の家紋の異なる「青木氏」がこの「青木村」の近隣に住んだと観られる。
その証拠に青木村外の近隣に住んでいた家紋の異なる「青木氏」もいた事が史実の記録から読み取れる。そして、ここに「赴任先」とされた事もあり、この地域の事が差配出来る「縁故の理由」として、この「青木村の存在」が左右した事が考えられる。
しかし、記録的には確実に定住移動しているのにパラメータでは0と成っている。
(ルーツ掲示板では長崎からの投稿が多い)
数字的に観ても、「赴任定住の青木村」がある事から、この「長崎」は全国平均の4のパラメータはにあり得る。
(「日向青木氏」から観れば、「青木村」を形成している事から観れば、6までのパラメータは実質得られる。)
「ルーツ掲示板」(1000件)から観て、「長崎」に定住か先祖が「長崎の青木氏」からの関係するお便りは全体の凡そ2割に成る。
「青木氏族外」からのお便りもある事からこれらを差し引きするとパラメータとして直せば、5ー6と成る。
「家紋分析」から観ても、パラメータとして直すことは難しいが、116氏の家紋中に占める「長崎」の青木村付近の家紋群数の%は4.6%であった。これから観ると、子孫は大きく拡大していない事と成る。
「家紋掟」により家紋が増える事は「跡目養子」が多かった事が云え、「子孫拡大」が増えている事にも成るが、「藤原氏秀郷一門の361氏」から観ると、「子孫拡大」は低い方にある。
これは周辺に大豪族が分布していて伸びるチャンスも難しかった事が考えられるが、多くは「神職系」と「大蔵氏系」と云う事に制約されて、「関東の青木氏」として入り込むことは難しかったのではと考えられる。
赴任である以上、戦いに依って周囲の土豪を切従えて土地を獲得する事は出来なかったし、治安を維持する事を任務としている以上は江戸期末期まで出来なかった事に成る。
仮に「子孫拡大」とすると成れば、「赴任地の経済力」だけでは無理であり、「入間宗家の経済的支援」に頼る以外に無かった筈である。これは無理な事で、”それならば帰って来い”と成る。
それは「過去からの伝統」として、”武蔵に帰る”と云う風評が左右したと観られるし、「長谷川氏」や「永嶋氏」の様に、大蔵氏系の中に組み込まれてしまう事も「青木氏の戒律」から避けたのではないかと考えられる。
つまり、「血縁の利点」が青木氏側に九州では無かった事を意味する。
依って、「パラメータは4」であろう。これを超える力は先ずないだろう。
従って、「長崎」の「子孫拡大」は0と観るよりは6以下と観た方が適切である。
九州の地域平均の1.3%と全国平均の5%から観て、関西以北を原則定住地としている中で、殆ど「青木氏疎遠の地」として考えても、「長崎備前青木氏」の4-5と「宮崎日向青木氏」の6はよく「子孫拡大」を果たしたと考えられる。

「高知」
次ぎは、四国地方の「高知青木氏」(土佐青木氏)は、「甲斐の武田氏系青木氏」が、当初、「讃岐青木氏」(香川)に保護されて「庇護地の讃岐」から土佐に移動して定住したものである。
この「高知青木氏」の「子孫拡大」も「讃岐青木氏」の保護の下で「逃亡移動先」で「青木村」を形成して拡大しているくらいでもある。
現在も定住の確認が出来るが、パラメータは0であるが「子孫繁栄」は他の地域で起こしている可能性がある。滅亡した事はない。
それは「讃岐青木氏」(香川)に保護されながら「高知」にその勢力を伸ばして領地を確保してここを「永住の地」として「青木村」を形成したのである。
記録から観ても、「子孫拡大」の「三つの条件」の内、「経済的背景」と「武力的背景」は確保出来ていた。
この「三つの条件」(「政治的背景」 「経済的背景」 「武力的背景」)の経緯順は
一 「讃岐青木氏」のみならず「讃岐藤氏の背景」の「武力的背景」を(1)とした。
二 その「武力的背景」をベースに領地を確保して「経済的背景」を(2)とした。

「讃岐青木氏」の背景とその庇護が無くてはこの「青木氏疎遠の地」「高知土佐」では「子孫拡大」は無かった。
「政治的背景」は「皆無」として伸長した珍しい「皇族の武田氏系青木氏」である。
この「政治的背景」は「讃岐藤氏と讃岐青木氏」が前面に出ていた事から「皇族系族」としての「政治的背景」は必要でなかった。
その代り表に出ていなかった事から「厳しい皇族系族の戒律」に縛られていなかった事、「不入不倫の権」に守られない環境の中では柵が無く「自由」であった事が云える。
それだけに「三つの条件」の欠如があったにせよ、「子孫拡大」は比較的伸びやすかったのではないかと考えられ、その為か研究では半面で比較的に「伝統」は消えている。
調査研究では、家紋や宗派や守護神などの「伝統」は消えていて「青木氏」自らも「ルーツの如何」の認識も薄かった。「甲斐武田氏系青木氏」の家紋に関しても消えている。当然に宗派は別であるし、「守護神の神明社」も少ない。
どちらかと云うと、「讃岐藤氏の藤原氏族の青木氏族」の認識が強かった。
現在、投稿が少ないのもこの影響ではないかとも考えられる。
東側の「阿波青木氏」(徳島)に比べて西域に限り「子孫拡大」、或は「勢力拡大」をさせた事がその原因と成っていて隔離的な形に成っていたと考えられる。

(徳島の青木村  阿南市見能材町青木村  板野郡藍住町青木村)

従って、その意味から、明治後に移動が自由になった事から、その自由さから大阪に移動して行った事が考えられる。
(「ブラジル移植」もあった。土佐には紀州の漁民が「カタカタ漁」を広める為に多く移動した。この為にブラジルにも紀州と高知の漁村の全体が入植した。この時にも入植していると観られる。)

「青木村」があったにも関わらずその「伝統」を守れていないのは、この「都会移動」と「入植移動」を明治後に大きく起こしたと考えられる。
そこで、この「青木氏」の「家紋」は、本来は「家紋掟」から「賜姓族」であるなら「笹竜胆紋」である筈ではあるが、「武田花菱紋」である。「武田氏系青木氏」と成っている。
この事から「本家筋」が消えている事を意味するし、他にありえない一般の家紋も観られる。
要するに、”「武田花菱紋」が残っている”と観られる事は、「家紋掟」はあまりに庶民化して守られていなかった事を物語る。
従って、明治初期の「苗字令と督促令」があったが、”「青木氏の氏名」はどの様に維持してきたのか”と云う疑問がある。
それは「江戸期の間の環境」に左右されていた筈で、「血縁が自由」が決めてでは無かったかと考えられる。これを解明する資料は見つからないが、「青木氏」を遺すには最低でも「身分」が「郷士」であった事になる。
それは、”青木氏でない氏の資料”で証明している。

・「郷氏名義札」
四国と云えば、「紀州」まで「子孫拡大」を起こしていた有名な氏がある。それは「高知の坂本氏」である。
有名な「坂本竜馬」の家で、その坂本氏は高知ー徳島ー和歌山の紀州に子孫を遺していて、紀州では「坂本氏屋敷跡」を「歴史遺跡」として認定されていて、史跡の土地に家を建てる時には、建設前に先ず調査が義務付けられているくらいである。
「坂本竜馬の実家」はこの「坂本氏」の「郷士名義札」を買い取り、商家から「坂本の氏」を名乗った事は有名である。この様な事は江戸期には可能であった。
「青木氏」の様な氏は、この「郷士名義札」のトップ対象の中にあり、経済的に氏を維持できなくなった本家筋が最後の手段としてこの「郷士名義売り」を行った。
ただ、「賜姓族と特別賜姓族の青木氏」は行っていない。
特にこの現象が盛んに行われた時期は次ぎの4期に盛んに起こった。

第1期 下剋上で立身出世した者がこの名義買いを行った室町期末期
第2期 江戸初期に徳川氏の家臣と成り「氏姓」を持たない下級武士の名義買い
第3期 江戸中期末期に起こった豪商などが「商い」をより拡大する為に「郷氏」の家柄の名義買い
第4期 最後には明治期初期の苗字令の名義買い

この「名義札を買った青木氏」は、これを「青木氏の場合」は、「第三の青木氏」と呼ばれた。(寛政の歴史書にこの「第三の氏」として記されている。)
「高知」では、その「青木氏の地域性の低さ」からこの様な現象が起こった。
届けて審査されて認可される正式な仕組みであった。高地では第3期と第4期が主である。
(国や地域により認めていない地域もあった。主に地域の経済的な理由にあった。) 
「山内藩の発祥由緒」からも「高知」ではこれを認めていた。
つまり、この「高知青木氏」にも「青木村」がある様に「郷氏」扱いで売却が起こったと考えられる。
その証拠に、「須崎市青木町」と 、「高岡市青木町」の「二つの青木村」があった。

「二つの青木村」を持つほどにその勢力、即ち、「子孫拡大力」は元々持ち得ていなく、然も、その意識に欠けていた事から、「二つの青木村」は通常ではあり得ない。
「秀郷一門の青木氏」であっても「一地域一青木村」であるのにおかしい事である。
それにはこの様に成る理由が一つあった。
それは上記した「郷氏の名義札の制度」である。
一方の「青木村」が「元々の青木氏」で、他方の「青木村」が「名義買いの青木氏」であった事に成る。
「氏名村」を形成している以上はかなり古い時期からの「名義札」である。
恐らくは新しい方は江戸中期頃と観られる。

そもそも、この「名義札の売却」の中には、いくつかのパターンがあった。
1 「嫁取り」を基本にする方式
2 「氏名と財産売却」を基本にする方式
3 「単純名義札売り」を基本とする方式
4 「一族一門の跡目断絶」を基本とする方式
5 「1から4の複用」を基本とする方式

1 「完全女系」となった「本家筋の青木氏」から「嫁取り」をし、その時に「結納金」とは別に、その「嫁側の名義買い」も行って「縁続きの形」で「氏名」を作った形式が多かった。
  要するに「家紋掟外の行為」である。
2 中には「名義」だけではなく、その「財産」の一切も合わせてその金額の中で買い取ったものもある。
 この方式によれば親族や縁者からの反発を避ける事が出来たのである。
  (本来では「家紋掟」でも「嫁入り」では「氏名と家紋」は変わらない)
  分家筋がこれを行う時は、親族中でも「本家筋の承諾」が必要であった。
3 単純に「名義」の使用を選定とする「名義買い」があった。「名義」を売った方は名義が消滅する。
  農民や漁民や商人に転身した。
4 一族が完全に跡目が断絶し、その「氏名の使用」だけを売却する方式もあった。
  「跡目」とは別に「借金の肩代わり」に「名義売り」に成る場合もあった。

これら全ては、その「郷士や郷氏」の「経済的な背景」が左右していた。
「娘」(女子)が無かった場合は、形式上、縁者や他氏から求めて「養女」を仕立てて、この形に持ち込んだものもある。この方式は最も有利であったからで、「1の方式」に持ち込む事が出来ない場合には2から3と変えて行ったものもあった。
「青木氏の戒律」に縛られないで、「地域性」に左右されて経済的に低かった「高知青木氏」には、「郷士の坂本氏」でも起こっている程から、よりこの現象が起こった可能性が高い。
恐らくは、「本家筋」の範囲ではこの方式で「高知青木氏」を保もたれていた事も考えられる。
依って、その「氏の衰退」と「名義売り」をしてしまった事からも、自由になった明治後の「都会移動」と「入植移動」が起こったと考えられ、それと共に老齢化していた事が考えられるのである。
故に「青木村」を形成しながらパラメータが0と成り得ているのであろう。
つまり、「二つの青木村」に成っている事から、「本家筋の名義売り」になった事に成る。
一方で「青木村」が残り、二つ目の「青木村」を形成した事に成っているので、「1の場合」に限定される。故に「二つの青木村」が形成されたのである。
この場合であると、家紋も何もかも一切「札の条件」に成って居る事から判別が出来ないのである。

この様に、上記した様に「日向青木氏」の様に、現在でも子孫拡大が進んでいる「青木氏」もあれば、「高知青木氏」の様に衰退している地域もある。
況や、この「栄枯盛衰」は「伝統」の「継承有無の如何」に関わっている。
今後、伝統の継承のより強い意識が無ければ、この「高知の青木氏」の「伝統」のみならず「青木氏」も残念ながら消える見込みであろう。

・「徳島の青木村考察」
ところが、この四国に於いて、「二つの青木村」を持っている県がもう一つ珍しくある。それは徳島である。
ここは「高知」とは全く違うのである。
平安期初期からの北家筋の赴任定住地である。藤原秀郷流一門と同じ北家筋の利仁流一門の赴任地である。
ここには「護衛同行団の秀郷流青木氏」が定住の形式を一応採った地域であり特異な地域でもある。
その「子孫拡大」の「高知青木氏」の方向は、「徳島」の南側から西に向かって伸ばしたが、西に伸ばさなければならない理由があった事に成る。東には隆盛を極めたこの「秀郷流青木氏」が定住していたからである。
この東には上記する様に「剣片喰族の秀郷流青木氏」が定住していた。その定住には特異さがあった。パラメータは1である。
しかし、この1は単純な1ではない。高知で上記した様な衰退の様な現象が起こっていた事が思えるが、ところが隣接する東では全く別であった。(下記)
高知から観れば、隣国であった事から東にも青木氏が存在する事は、東にも「青木村」が2か所もあって、この事は高知では、長い間の歴史の中で風評として承知していた筈である。

その「高知青木氏の経済的背景」の経緯は次ぎの様な現象であった。
特に、「日向青木氏」の様に無人の山岳部や沿岸部を開墾して「生活の糧」とした訳ではなく、一族逃避時からその力を使って「讃岐青木氏の援護」を受けて領地を拡大した戦乱の室町期の「子孫拡大」であった。「讃岐藤氏」にとっては「背後の憂い」をなくす意味でも都合が良かった。
ところが「高知の青木村」が隣接する東側の地域の阿波徳島一帯には、愛知から来た「剣片喰族」の「秀郷流青木氏」が赴任して土地に絶大な勢力を張っていた。
東には憂いが無かった事が「高知青木氏」(土佐)にも成し得た勢力で「子孫拡大」は成し得た。
しかし、この「子孫拡大」は室町期末期までのもので、「山内氏の領地」となった「江戸期の安定期」と、「明治期の地租改正」などで「生活の基盤」と成る土地は力に頼った「子孫力」であった事から霧消した筈である。
その背景と成っていた「讃岐藤氏」も「四国の勢力争い」の「戦乱の苦境」の中にあっての「高知青木氏」は「讃岐青木氏の庇護」は無くなったと考えられる。
筆者は上記の「高知の名義札問題」は、この時に起こったと考えている。
「高知」では財政的に子孫存続が難しくなった「名義売りの青木氏の方」は衰退し、「名義買いの方」は逆にその財政力を使って隆盛して、この「名義買いの方」の青木氏が残った可能性がある。
多くは「名義買いの方」は「坂本氏の例」に観る様に「商家」であった。
とすると、「一方の青木村」は当然に消滅する筈である。

しかし、残っていると成ると、”一体どのような事が起こっていたのか”と云う問題がある。
だから、上記の2や3や4ではなく1である事に成る。
つまり、「娘」を娶り、「名義買い」もして、「財産」も買い上げて、「家柄」を「郷氏」に一段上に上げて、後に子孫が生まれれば、その一人を元の「名義売りの家」を興し直す事で可能に成る。
こうする事に依って、「名義買いの方」は名実ともに「青木氏と縁続き」と成る。
更に、そこで更に子供が出来れば、完全に「名義買いの方」の「血筋」の「青木氏」に特化してしまうのである。この経緯が本来の目的である。
「商家」が「武家」に特化する身分変更の奥の手であった。
財政的に優位にある「商家」は挙ってこの手を使った。「氏族」に成ると同時に「商い」にも有利と云う事が起こる。「商家 商家」と蔑げすまれる事は無くなる。
「室町期中期からの豪商」と呼ばれる者は殆どが「二足の草鞋策」(室町文化 殖産業)で、「江戸期の豪商」は逆に商家が「郷士や郷氏の札」を買う事で「二足の草鞋策」(元禄文化 販売業)に成った。

従って、4、3、2より1に持ち込もうとして、「名義売りの方」に娘が無くてもどこから女子を連れてきて先ず「養女」にしてこの取引を両者の合意で行った。
要するに、「血筋」と云うよりは「家柄」を重視した。これは「商い」にも役立つ利得からの選択であった。幕府や藩の「認可の便宜」と「公共事業の受注」にあった。今とあまり変わらない。

「弘前藩の事件」もこの「太平洋周りの廻船」の認可と「海産物の殖産海運」が物語っている。

恐らくは「商家の武家への特化」この事が起こったと観られる。
突き詰めれば、「札の買い手」の「家の継承」と云うよりは「利得のための特化現象」である。
故に、「二つの青木村」が残ったのである。
結局は、「名義札」にする側の青木氏は存続が出来なくなった事によって1から4の事が起こったのである。
終局は、断絶か滅亡の憂き目に成る運命であるから、「売る側」も「買う側」にもそれなりの利点があった。それ以外には無理である。
通常の「氏名継承」の「男系継承」の逆の事を起こしたのであり、元に戻す手段としても当時は認められていない「女系継承」が起こった事に成る。それを「正常な形にする手段」として「名義札制度」があったのである。
「氏家制度」が、”下剋上と戦乱の下級武士の勃興”で「社会の組織形態」が崩れて、室町期末期頃から「崩壊の憂き目」が起こった。
そこで考え出されたのがこの「名義札制度」であった。
この制度は江戸期の中期に入る前には「お家を護る」と云う大義名分の名目で盛んに行われた。
全くの他人の子供を「養子や養女」に迎えて家を継がせると云う事が頻繁に行われ、旗本や御家人の家柄を断絶から護ったのである。
当初は武士間だけであったが、それのみにあらず「庶民ー武家」からも「名義札」で取引して「養子や養女」を迎えて「家」を護ったのである。この「慣習の継承の裏」には、必ず「名義札」が動いた。
この「名義札」も社会的に認められたものであっても、「利得」より「家柄」と云うものに重点を置くと、江戸期または室町期に於いても「士農工商の縛り」がある以上は”「商家」が「武家」に”と蔑まれるは必定で、その為には、「名義札」も表にはなかなか出しにくい行為で制度である。
子供が出来るまでの少しの時間をかければ「売り手」の元の家に「再興の子供」を仕立てる事で名実共に「青木氏」には成れるが、そこに「商いの利得」が絡んでいれば密やかに「名義札の売買」は行われなくてはならない柵がある。
これは「武士」もより上の家柄にする事に限らず、「商家」もこれに参画して「武家の家柄」を獲得したのである。

・「高知の山内氏の考察」
この背景と成っていた「讃岐青木氏」は瀬戸内を通じて北に延ばした事から、「高知の青木氏」は「三つの条件」の全てを連鎖的になくして行った事が云える。
尚、合わせて江戸期の四国は大きく勢力図は変わった。
つまり、「姓族の時代」と成って、「氏家制度」の中で「高知の土佐青木氏」は生き延びるための基盤を失った事に成る。
恐らくは、「下級武士」から家を興した「山内氏」は愛知から家臣団を連れての「高知への転封」で、「土地の豪族」や「郷士、郷氏」等の勢力との激しい反発を受けた「有名な転封藩主」であった。
事件では、「話し合い」を前提として城内に入った「郷士団」「土豪団」と「山内氏」との間で城門を閉ざして城内で全滅に至るまで激戦を繰り広げた。この「激しい反乱」(有名な反乱)の末に解決した経緯があり、この「怨念と警戒」があって、「地元の勢力」、「土豪団」取り分け「郷士団」や「郷氏」には、山内氏は警戒していて「厳しい政策」を幕末までを採った事でも特に有名である。
(この事件でも郷氏が少なく成り「子孫力」が低い原因になった。)
その政策は「江戸末期の土佐藩」にもよく出ていて、「坂本龍馬」もこの事が原因で許可なく国元を離れた経緯がある位で、一部懐柔策としてこれらを家臣に加えたが「郷士や郷氏」には特に厳しい軋轢を加えた事でも有名である。
依って、「高知青木氏」も例外ではなく、通称歴史上では「名義買い」で称される上記した様な事が起こり「農民か漁民」(入植移動)に転身して生き延びた事が云える。
その事から土地に居づらい元青木氏は、後に特に明治期の「都会移動」「入植移動」の原因となった。
筆者の研究からも、この地域の「武家の青木氏の強い息遣い」は観られなかった。
「ルーツ掲示板」にも同じく観られない。「ルーツ掲示板」の比率に表現できない数字である。
しかし、「墓所の家紋分析」と「守護神の調査」の研究からまだ存在は確認できる。
数字的には1あるいは2以下のパラメータが得られる程度と考えられる。
しかし、記帳とルーツ掲示板にも無いと云う事は、その原因として「名義買いの青木氏」にも「高知在住の青木氏の老齢化」も起こっているのではないだろか。

下記に示す大阪や東京などの都会に、つまり、パラメータが多過ぎる地域に「移動定住」している事を示すが、外の四国3県のパラメータにはそれなりに妥当なものとして考えられる事から、この3県には高知からの移動の原因は考えられない。
「山内氏事件」「名義札」「入植移動」「都会移動」「戦乱期衰退」が原因して「武田氏系青木氏」の「高知青木氏」はパラメータが得られなかったと観られる。

「徳島」
そこで、比較対象として上記した様に隣接する「徳島の1」に付いて「特異性」があるので論じて置く。
その証拠には「徳島の1」である。(このパラメータの1には意味がある)
「徳島」は上記した様に、「剣片喰族」の「秀郷流青木氏」が愛知より移動して赴任定住していた。この期間は平安期から室町期中期まで赴任している。
この定住には、初期には「秀郷流一門」、その後に「藤原利仁流の藤原氏」も越後から赴任している。
ここには「秀郷流青木氏」が鎌倉期まで赴任していて定住していた事から、「秀郷一門」と「利仁一門」は一族系列である事から深い親交があって、その後に「阿波の秀郷流青木氏」は警護をしている。

(利仁と秀郷の関係 「秀郷」の祖祖父の「藤成」の兄弟の「鷲取」の5代目が「利仁」、「藤成」から4代目が秀郷 従兄弟としての関係程度であった事が記録から観られる。「陸奥の鎮守府将軍」としても「利仁流」も務めているくらいで相互に親交があった。両者を取り持ったのは「進藤氏」で仲介していた。「利仁流進藤氏」が越後と岩代の中間の東北地域には発祥している。)

この為に、「阿波徳島青木氏」はパラメータ1に関わらず江戸期末期まで「郷氏」として生き延びて子孫を確実に拡大させている。
この「パラメータの1」は徳島の南北に「青木村」を「二か所」も形成している事から観ると、”低い”と判断できるが、「高知青木氏」と違い、この”低い”のにはそれなりの理由があった。
この「剣片喰族」は愛知から静岡の沿岸部に分布していて江戸期まで青木氏外にも「片喰族」として大勢力を維持していた。
室町期末期の天正末期まで一門の永嶋氏が、伊勢域まで勢力を拡大させたが、これには「片喰族」と「剣片喰族」が加勢して勢力を維持させた。その為に、「四国阿波青木氏」も勢力を維持させた。
何故ならば、この「剣片喰族」は阿波に定住地二か所を設けながらも、固定定住するのではなく「愛知ー静岡」の地域から”「交代制」で維持する”という制度を採用していた。
本来の「入間帰還」の「青木氏の制度」と違い、これに従い「片喰族」として「子孫拡大」を分散させない様に確実なシステムを独自に敷いていた。

武蔵の前哨地として採用していた為に、本来は武蔵の国に復帰するが、この「片喰族」だけは「愛知ー静岡」に復帰していたのである。
この為に、「阿波」にはその勢力が固定されて、江戸期でも「郷氏」になったとしても「氏力」は保たれたのである。一族の相互間の連携を採っていた事が「家紋分析」でもこの事が裏付けられる。
故に、江戸期でも安定した勢力を保持した為に秀郷一門の主要家紋8氏の一つと成っていた。

高知の青木村の二か所は、「須崎市青木町」ー「高岡市青木町」の隣接市にある。
徳島の青木村の二か所は、「南端域の阿南市青木町」と「北端域の板野郡青木村」に完全に分離している。

つまり、「徳島の青木村」は上記したその制度にあった。
これは、利仁流一門の護衛の時は、「板野郡」に、秀郷一門の時は「阿南市」に分けて赴任住まいしていた事が判る。
両方には留守居を置いていたが、この「二つの青木村」の態勢は「利仁流と秀郷流の距離感」を保っていた事が考えられる。阿波国は紀伊水道に沿って南北に長い土地柄である。
利仁と秀郷の二門の護衛となると「青木村」一つで務める事は、幾ら親交があったとしても問題が生まれる。阿南と板野の中間に置いたとしても縦に長い地形から距離が生まれ初動に時間が掛かる。
そこで別々に「青木村」を置いた。
家紋が別の青木氏であれば「二か所の青木村」も考えられるが、「秀郷流青木氏」としては全国に支障なく護衛の軍団を配置するとなると、阿波の一国に「二つの青木軍団」を置く余裕はなかった。
長崎のところでも論じた様に、定住策を採りながらも入間を防御に支障を来さないためにもに帰還させる体制を採っていた。
特に阿波は秀郷一門ではなく、「北家利仁流一門」も赴任していると云う事から考えると、家紋別の青木氏を配置する事は無理であり、「北家利仁流一門」にも越後からの赴任と成ると、最低限の多少の護衛団を引き連れて来る事に成る。この「二つの北家護衛軍団」が一つのところと云う事は不可能で、「北家利仁流一門」には賜姓族でない為に「青木村の様な村の権利」は許されていない。
護衛団を駐留する場所の確保には土地の豪族との関係もあり難しく、「最小限の軍団」と成る。
「村の形成」は先ず「軍団駐留」と「守護の生活」を維持する「土地確保の許可」と、そこに必要な「農民などの職能集団」を置かなければならない事と成ると簡単には不可能である。
阿波には、平安期で確認できるところで10回程度で年数は3から5年(原則4年)で凡そ交互に務めている。この状況からも、一か所は無理である。
そして、この交代制が出来る条件が阿波にもっとも近い「秀郷流青木氏」でなくてはならないし、越後域からでは無理である。まさに江戸時代の苦痛の参勤交代の様に成ってしまう。
参勤交代の様に成れば「氏力」は低下してしまう。そうなると、秀郷一門の勢力圏の最西域は完全に限定される。 

・「愛知の考察」
「愛知から静岡」に勢力を張る「片喰族の青木氏」と成り、その中でも、愛知側の「剣片喰族」と限定される。だから、最も合理的な「年期制度の交代制」を採る事が出来たのである。
これを本来の「帰還先の入間」と成ると問題が生まれる。
通常では116氏の本家筋は全て入間の護衛に当たるのが「秀郷一門の掟」であり、その例外として「剣片喰族」は許されていて関東にはこの家紋は少ないのはこの事による。
そもそも、「片喰族の分家」の「剣片喰族」の方が勢力が大きかった事が判っていて、そこで、「片喰族」一門としては「本家筋」の片喰族が「入間護衛」に回った事に成っている。
従って、「徳島の1」のパラメータは1で良いのであって、大きい事はあり得ないのである。
それ故に、「愛知ー静岡」域のパラメータは、「愛知の13」、「静岡の5」として大きいのであって、特に、「愛知の13」は一見して入間本領の17から比較すると”大き過ぎる”と見えるが大きくないのである。
「愛知の13」では本領域に近いパラメータと成るが、愛知は確かに勢力はあったが本領並の勢力下にあった事はなかった。
恐らくは、平均以上である事は否めないが、せいぜい本領の半分以下であった筈で、「秀郷一門の「第二の宗家」として勤めていた「秀郷流青木氏」としては統制下の中にあっての事で、「子孫拡大」の「三つの条件」を13にして置くことはあり得ない。
その必要性があるのならば、その元の「三つの条件」を入間に充てる事とする筈で、それほどに無策ではなかったし、余裕は無かった筈である。
「全国24地域」にそれなりの「三つの条件」を配置しなければならないだけではなく、「利仁流一門」にも加勢していた史実から、依って、愛知の実態は13ではなく7であった事が考えられる。
「愛知13ー7」は13から7への変動地であった事に成る。
特に、「経済的背景」に支障を来す事に成った筈で、この残り分は「徳島の1」に充てられた。
従って、「徳島の1」は7になり1に成りする「流動性のあるパラメータ」なのであって、そのパラメータの元は愛知の13の中にあって、全ての青木氏の中では特異な徳島と成る。
逆に、愛知は13に成り7に成りする「分布力」であった。
結局は、現在、愛知が13と成っている事から江戸期末期頃には徳島から多くは愛知に戻った事を示すものである。
どれだけ「徳島の青木氏」が「蜂須賀藩の家臣」に成ったかは不明ではあるが、成ったとしても徳島の本家筋が家臣になった事程度であって、地元の民間所蔵の資料から観ても、家紋分析の内容からも「高知の青木氏」と同じ様に「徳島の青木氏」の多くは「郷氏」に成った事が判っている。
その元主であった「郷氏」と「漁民」が組んで「蜂須賀藩」との間でも「揉め事」を起こした事が書かれている。「徳島」の「郷氏ー漁民団」の場合は、資料では「船を使った戦法」を採ったところがその技術技能の無い蜂須賀藩には堪えたと観られ、彼らに「船の交易の特典」を与えた。この特典を活かして昭和20年代まで「阿波水軍」で有名を馳せた。この事が「徳島青木氏」の「子孫力」を遺した背景でもある。
ただ、「山内氏ー高知青木氏」(甲斐武田氏系青木氏)と「蜂須賀藩ー徳島青木氏」(藤原秀郷流青木氏)のその「元の基盤」が異なっていた事に成る。
この様に、「子孫力」を遺せるかどうかは「生き様の経緯」で決まる。
そして、その「生き様の経緯の流れ」には何人も”人は抗する事は出来ない”のである。

この「徳島ー愛知の現象」は少なくとも「室町末期ー江戸初期」まで続いていた事が、この事は「結城青木氏」の資料の記録の中でも凡その姿が書かれていて判る。

恐らくは、”世に憚る事無かれ”は、上記の「生き様の経緯の流れ」にうまく乗る事の「究極の秘訣」であって、その「身の処し方」はの意は、”必要以上に表に憚る事無く、一歩下がった処に身を置くことの大事さ”を示唆している。そして、その時、「心の持ち様」の意は、”「萎縮」する事無く「卑屈」に成らない事”とある。それを資料の語意から読み取れる。

これが「秀郷流青木氏」が「第二の宗家」として主導する「秀郷一門の掟」と成っていたと考えられる。
これは元々、「皇族賜姓族青木氏の生き方」でもあった。その証拠に「青木氏の掟」 ”世に晒す事無かれ、何れに利無し。”から来ている筈である。現在もこの「訓戒」は伝えられている。
これこそが、「全ての「青木氏の子孫力の根幹」に成っているのだ。
この様に「秀郷一門の青木氏」は、”生き残る為に巧みに処世を読み高望みせずに、丁度良い位置に身柄を置き江戸末期まで泳ぎ切った”のである。
(北家秀郷一門をリードする「第二の宗家」の「青木氏」の伝統的な生き方)

秀郷一門の「定住地域の24地域」の殆どは、これを護って大きな事件を起こさずに江戸期に入ったのである。(意に反して流れの中で巻き込まれて事件と成った事もあった。)
この゜生き様」は、「秀郷一門北家筋9氏」が家紋として用いている「下り藤紋」をはじめとする「主要8家紋の動向」の家紋分析でも判る。
そもそも、”下がる”を忌み嫌い「上る」を由として「上り藤紋」に多くの北家筋は伝統ある家紋を変えたが、敢えて、「秀郷一門の9氏」のみがこの「下がり藤紋」を変えなかった。
何故ならば、人が抗する事の出来ない「生き様の経緯の流れ」に対応するのには、「”世に憚る事無かれ”」の「究極の考え方」であるとしていたからである。

・「藤原秀郷一門の生き様」
その後の江戸初期前後の秀郷一門は、「皇族賜姓族青木氏」を除く、「丹治氏系青木氏」を含む「関東の青木氏」は「幕府または徳川氏の旗本家臣団」に加わり、「江戸幕府の本領安堵策」によりその勢力を保持した。

(例1 大名に充分に成り得る「土地持ちの御家人」でありながら、大名になったのは361氏の中で何とたった1氏の「内藤氏」だけである)

(例2 「丹治彦王の配流孫」の末裔「皇族青木氏」の「丹治氏系青木氏」は当初、豊臣側に着き奈良の地域を拝領する事を約束されていたが、「家康の調略」により徳川方に着き、その勲功で摂津4万石の大名に成った唯一の例がある。)

(例3 豊臣秀吉が家柄をよく見せる為に、豊臣家の「虚偽の系譜」に書き記して「縁者、親族」であるとして利用された「青木紀伊守」は越前北の庄八万石、「青木伊賀守」は越前丸岡四万六千石と成った「伝統ある青木氏の戒律」を破った経緯があるが、何れも徳川家康に依って、結局は除封されて越前福井に逃げ込んで「子孫力」を著しく弱めた。)

・「子孫力」「生き様の形」を作る秀郷一門の戦略
それは、そもそも、その「青木氏」は室町期末期から江戸初期に掛けての「生き様の形」は、「秀吉と家康の駆け引き」の流れの中にもあった。

そこでこの子孫を護る「生き様の形」の端的に物語る歴史上の有名な事件があった。
「秀吉」より「家康」が関東に国換えを命じられ時、即応した家康は、この「藤原氏」の各関東を中心とした各地にある”秀郷一門の絶大な勢力”を取り込むことで、豊臣以上の勢力が確保できる事を目論んだからであった。
「本領安堵」を前提として、最初に旗本の家臣団の傘下に入る事の交渉に入った事は歴史上の有名な史実であった。
「青木氏」を含む「秀郷一門」はそっくり徳川氏の中で「土地付きの上級武士団」(御家人)を形成したが、「大名」は敢えて好まず「青木氏」を含む一族一門は「御家人と旗本」を目指した。

この「子孫力」の「生き様の形」は、平安の時代が終わりの鎌倉時代と成った時も、「秀郷一門の行く末」を決める時も、「秀郷宗家の朝光」が採った戦略と全く同じ戦略を採ったのである。
頼朝はこれを認めた。(「本領安堵」ー「一族の家臣化」ー否大名化」)

又、別の例として、陸奥で秀吉に敵対しながらも「青木氏族」の秀郷流結城永嶋氏の領国 愛知は「関東屋形」として呼ばれていながらも江戸初期まで愛知まで勢力圏を補完した。
徳川氏に対して充分に大名に成り得る勲功を挙げている「永嶋氏」であっていながら、且つ「大名」としては充分な勢力を補完していながら、”絶対に大名と成らない事”で徳川氏との軋轢を避けた事にもあった。
「生き様の形」「生き延びる事」、「子孫力の保全確保」の為に採った一門の歴史的な「究極の選択方針」であった。この考え方が「子孫力」に大きく影響した。何も大名に成る事が「子孫力」を高めると云う前提ではない事を一族一門はよく承知していた。
大名と同じ勢力を保持している事であれば、憚って大名に成る必要性はないとしたのである。
(その「1/361」は、その一門の究極の生き様の掟は完全に守られていたとしても過言ではない。)

つまりは、其の儘では、「秀吉の調略」に乗せられて「徳川氏の基盤」を”江戸の周囲から突き崩す戦略”に”巻き込まれる事の経緯の流れ”を避けたのである。
秀吉は”関東を与える事”の先の事を読み込んでいたのである。
それは「藤原氏」を調略して、最終は「藤原氏の勢力」を使って周囲からせめて潰す計画にあった。
これを読んだ「家康ー関東藤原氏」は、「本領安堵」と「御家人家臣団」として「上級武士団」で解決した。(これに依って却って秀吉は逆に徳川氏を潰す事が難しくなった。)
江戸幕府の上級武士の中に「下り藤紋の藤原氏」が多いのはこの事による。
秀郷一門を家臣団に納めた事で、家康は秀吉との関係で、”鳴く迄待とう不如帰”の家康は、この奈良期から生き残って来た「北家藤原氏」の中でも「秀郷一門」の「生き様の形」、「生き延びる事」、「子孫力」の「究極の選択方針」(”世に憚る事なかれ”)を見習ったのでは無いかと考えられる。

・「江戸時代の秀郷一門の大名」
全北家筋で江戸時代に大名に成ったのは、凡そ280藩中で次ぎの5氏にすぎない。
その5氏も殆どは「内藤氏」である。「下り藤紋」(秀郷一門:361氏)
1 陸奥 湯長谷藩 内藤氏 
2 越後 村上藩 内藤氏 
3 駿河 高遠藩 内藤氏 
4 日向 延岡藩 内藤氏 
5 近江 水口藩 加藤氏
(北家筋の9家がこの家紋を使った。殆どは「上り藤紋」に変えた。)
これでも「究極の選択方針」を貫いた事が判る。

家康は、これと同時に、更にこの藤原氏が抱えていた「神職系の神社集団」と「浄土宗系集団」を取り込むために、幕府開幕前後から、直ちに、全国全ての「神明社(青木氏)」は幕府、徳川氏の管轄下に置き、浄土宗の信者集団も管轄下にして開幕後に直ちに「浄土宗督奨令とその法令」を発した。
そして、「青木氏の守護神」の全国500社にも及ぶ「神明社の全国修復の令」をも同時に発したのである。
これに依って、「皇祖神の子神の祖先神の勢力集団」が徳川氏に入った事で「他の神社集団」もこれに倣ったのである。
(この時点で「青木氏による神明社」と主な「浄土宗寺」は幕府ー維新政府の一級の管理の下に引き継がれた。これも「青木氏の巧みな生き様」である。)

(因みに、限定された歴史の史実であるので例として記述して置くと、筆者の伊勢の「青木氏の菩提寺」も接収されて「紀州徳川氏の菩提寺」と成り、寺も改めて菩提寺後のすぐ横に建て替えられた。そして、そこに「青木氏の墓所の権利」を与えられ、「寺名」も青木氏の時の同じものとなった。
「伊勢青木氏」が管轄していた「神明社」は全て「紀州徳川氏」に「修復前提」として引き渡した事が記録され、且つ、この時の様子を口伝にて伝わっている。)

更に、余談とも成るが、「伝統」云う事では意味があるので、敢えてその時の様子を短く記述する。
この時の伊勢松坂で紀州徳川氏との交渉が行われた事が記録されていて、会談に入った時に、我が家「当主長兵衛」と「徳川頼宣」との座る位置について問題が先ず起こった。
(身分家柄は古来より「青木氏」の方が上 「永代浄大1位」)

”どちらが上座に座るか”の問題で、家臣との談合が行われたが結論が出なかった。
そこで、「徳川頼宣」と青木氏当主の直接の決着で解決する事に成り、その場で自発的に「頼宣」は下座した。
困った当主長兵衛も礼儀から下座したので、結局、上座で同座となった。
しかし、ここでまた問題が起こった。当主長兵衛が座布団を敷かなかったところ頼宣も敷かず、家臣は平伏したままであった。そこで当主長兵衛は敷くと全て平伏を解いた。
この期にこの交渉に入った事が伝えられ、神明社と菩提寺の放棄の変わりの名目で、この時に、青木氏の土地の所有権(地主)を認められた。「吉宗の養父方の親交」、「享保改革の財政方」や、「幕末期の紀州藩の財政悪化をも指導」をして救った。この事が伝えられている。この後、祖父の代の大正14年まで深い親交があった。

”世に晒す事無かれ 一利無し”を護って世の記録としては遺されているが大館で出て来ない。
「二つの賜姓青木氏」は、この様に、表には出ずに”常に裏方に回る「子孫力」”を発揮した。
「子孫力」を作り上げる「青木氏の家訓10訓」はこの考え方にあった。

「岡山」
次ぎは、中国地方の「岡山」である。
この岡山(備前)は、「讃岐青木氏」の活動分布域に匹敵するほどの活動地域であり、更には、藤原氏北家筋からも鎌倉期と室町期に赴任して定住しているが「秀郷流青木氏」に関わりはない。
「瀬戸内」を経由して「讃岐青木氏」の活動領域である。ここには別の京都などの北家筋藤原氏の赴任地でもあった。紀州等もこの藤原氏(脩種ー脩行系の藤原氏)の赴任地であるが、この備前(岡山)の内の美作や備後にはこの系列の藤原氏が赴任している。
しかし、この「讃岐青木氏」が関わる「岡山の地域の沿岸部」の中では「備前ー備中の瀬戸内沿岸部」に定住していた。
況して、その「子孫拡大」の勢いは、この「岡山」を経由して北の宍道湖西域まで貫いて移動定住しているくらいである。
「島根のパラメータ2」はここに移動定住した末裔の「子孫拡大」によるものである。
この「移動定住」は本業の「廻船業」と、それを利用した「瀬戸内海産物の殖産販売」にて支店を開店して住み着いたもので、その末裔の子孫拡大である。
依って、「岡山」と「島根」とは同じ「讃岐青木氏」と同じ「廻船業関連の背景」にて「子孫拡大」に繋がったものである。「岡山の0」は最低でも「岡山の1」が認められる。 
この「讃岐青木氏」の「香川」の「パラメータは1」ではあるが、「愛媛のパラメータの3」も「讃岐青木氏」であり、「讃岐」として地域を限定しているが、「愛媛の3」は「讃岐青木氏の横の分布領域」である。

(讃岐や日向など国を限定しての呼称と成っているが必ずしも限定する分布域ではなく、発祥起点を呼称していて、分布域=発祥域とはならないし、現実に限定の呼称は無理である。)

・「讃岐青木氏」
従って、この「愛媛」には「青木氏の歴史的縁故」は全くない。”無い”と云うよりはここの豪族が毛利系に保護されたの公家系西園寺氏とその配下の隅切り角紋族の土地柄(四国の豪族)であった事が原因していた。
戦国時代は「讃岐藤氏」が横に支配勢力を伸ばす事に制約があったし、「瀬戸内」を制していたとしても、南西域から「長曾我部一族」に侵攻される危険があって、沿岸沿いに西に伸ばすのがいっぱいであった。
従って、「香川」よりの「愛媛の3」のパラメータは「讃岐青木氏の3」であるので、「讃岐青木氏」は四国側では、次ぎの様に成る。
合わせて「パラメータは4」と成る。
中国側では「広島の3」、「島根の2」、「鳥取の2」と「岡山 0から1」を合わせての小計は「パラメータは8」と成る。

これら全て「瀬戸内沿岸部」を制していた「讃岐藤氏」の「讃岐青木氏」であり、四国と中国を合わせると合計「パラメータは12」と成る。
この「讃岐青木氏」の瀬戸内沿岸部の「小計パラメータ12」が、昭和20年代まで維持されていた事である。

(この「讃岐青木氏」の瀬戸内の「小計パラメータ12」は、昭和20年頃に北海道に入植移動定住していて、この内のパラメータは北海道のパラメータ11の中に入っているので、「讃岐青木氏」の「瀬戸内の子孫力」の総計はより大きくなる。下記 総計 パラメータ17)

・「入植地 北海道の関係考察」
これに、入植先の北海道の11の一部(下記 5/11が見込まれる)を加えると、「讃岐青木氏」の総合で「合計パラメータは17」と成る。 
これは、「武蔵の秀郷一門の入間の本領地の17」と同等と成り、秀郷一門でありながら、且つ、「藤原氏北家筋」でありながら、「瀬戸内の財産」(経済的背景)を背景、根拠に「独立性」を高めていた所以である。
この事を考えると納得できる「讃岐青木氏の総合子孫力」は「パラメータの17」であった事に成る。

従って、「岡山の0」は讃岐地域に匹敵する地域ではあるが、パラメータが採れなかったし、10年間の間に「記帳」や「ルーツ掲示板」からデータが採れなかったのが不思議中の不思議であったが調査で判った。
「瀬戸内」で「子孫拡大」が成された事から、岡山=香川とすると、上記の通り「岡山」は0から1に修正される。
全国に分布する事からパラメータが、「三つの条件」で成り立ち、そこから「岡山」は2以上を超える事はなく、「瀬戸内」の中では「三つの条件」が同一である香川と同等と見込まれる。




>
> [地域別分布力]
> 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> 地域      異変の県        分布力
> 九州地方   長崎、大分       5%
> 四国地方   高知          2.5% 
> 中国地方   山口、岡山      2.5%
> 関西地方   三重(筆者ルーツ) 14%
> 東北地方   秋田           7%
> 中部地方                15%
> 関東地方                45%
> 北海道・沖縄               6%
> その他                   3%
>
> 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> 九州地方  1.3
> 四国地方  1.3
> 中国地方  1.3
> 関西地方  4.7
> 中部地方  4.3
> 関東地方  11.3
> 東北地方  2.0
> その他   11.0
>
> 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
>
> 修正地域(表ー3)
> 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1-7 三重 12 福井 4 愛知 13-7
> 秋田 1
>
> 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> 福岡  2   山口  0   愛媛  3     兵庫  3    三重  1
> 長崎  0     島根  2   香川  1     大阪  14   石川  2
> 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都  5    福井  1
> 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良  1    岐阜  3
> 熊本  4                        和歌山 4    愛知  13   
> 宮崎  2                        滋賀  1    長野  9
> 鹿児島 1                                  山梨  1
>
> 域平均 1.25 平均  1.25  平均  1.25  平均  4.7  平均  4.3        
>
> 関東地方(45%)東北北陸地方(7%)沖縄、北海道地方(17.5%)
> 静岡  5    青森  1     沖縄  1
> 神奈川 21   山形  2     北海道 11
> 東京  18    岩手  1
> 埼玉  17    新潟  4
> 群馬  6    秋田  0
> 千葉  11   福島  4
> 茨木  4    宮城  2
> 栃木  8                                     
>
> 域平均 11.3  平均  2.0   平均  11.0  
>




>・「香川と岡山」の原因に続く。
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