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「青木氏の伝統 42」-「青木氏の歴史観-15」


◆ [No.361] Re:「青木氏の伝統 42」-「青木氏の歴史観-15」 
投稿者:副管理人 投稿日:2018/07/31(Tue) 10:36:01
> 「青木氏の伝統 41」-「青木氏の歴史観-14日」 末尾


> 上記の「権威の話」に戻して、「武士の媒臣の末端」まで求めた「真偽は別としての偏纂」に等しい根拠ある「黒印状の発行」を求めた。
> 殆どは「系譜の搾取偏纂」である。
> つまりは、前記はこの論に入る為の説明であったが、さて、そこで次に続ける。
>
> さて、「青木氏の歴史観」を更に高める「史観」が更に他にもある。
> それは、「青木氏族の個人情報」に関わる事であり、この資料を表には出せない。
> そこで、他の「青木氏族「」もほぼ同じ経緯にある事を前提に、筆者の「伊勢青木氏」を例に以って考察してみると、上記した様な」「殖産「」に纏わる事件などには「伊賀郷士を含む伊勢郷士との絆」が「青木氏の存在」を大きく左右させていたのである。
>
> 従って、それがどの程度のものであったかをこれを「論理的な歴史観」で考察して置きたい。
>
> この「地元郷士との絆」が、どこの「青木氏族」にも働いていて、「青木氏族」のみならず「近江佐々木氏族」にも働いていた事が「近江佐々木氏の研究資料」からも解り興味深くい。
> 矢張り、「近江佐々木氏」も「氏存続の為」には「絶対条件の歴史観」としてこの点に着目していて研究されている。
>
> 余談ではあるが、興味深いのは、前段でも何度も論じているが、その「絆の関係氏」として「青木氏族」を広範に研究されている点である。
> これは「施基皇子」の弟の「川島皇子」、つまり、「近江佐々木氏の始祖」で「妾子(忍海造古娘)」であり、共に「大化期の賜姓族で臣下朝臣族」で、同じ役務など「氏存続のシステム」を共にすると云う事も「初期の段階」ではあった。
> 然し、何はともあれ、平安末期に平家に討伐されるまでは存在した「近江青木氏」と血縁した「近江佐々木氏系青木氏」が存在した。
>
> この関係から「青木氏族の詳細な研究」に至ったと考えられるが、「四掟の範囲」として「出の嫁」から「女系」でも平安期から江戸期初期まで「近江佐々木氏」や「佐々木氏系青木氏」と何度も繋がっていた事が考えられる。
> これは史実にもある。


「青木氏の伝統 42」-「青木氏の歴史観-15」
「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

上記の「権威の話」に戻して、「武士の媒臣の末端」まで求めた「真偽は別としての偏纂」に等しく根拠ある「黒印状の発行」を求めた。諡号の持たない姓族(第二姓族)は、結局は殆どは「系譜の搾取偏纂」である。
つまりは、前記はこの論に入る為の説明であったが、さて、次に続ける。

さて、「青木氏の歴史観」を更に高める「史観」が更に他にもある。
それは、「青木氏族の個人情報」に関わる事であり、この資料を表には出せない。
そこで、他の「青木氏族」もほぼ同じ経緯にある事を前提に、筆者の「伊勢青木氏」を例にして考察してみる。
そうすると、上記した様な「殖産に纏わる事件」などには「伊賀郷士を含む伊勢郷士との絆」が「、「青木氏の存在」を大きく左右させていたのである。
従って、それがどの程度のものであったかをこれを「論理的な歴史観」で考察して置きたい。
この「地元郷士との絆」が、どこの「青木氏族」にも働いていて、「青木氏族」のみならず「近江佐々木氏族」にも働いていた事が「近江佐々木氏の研究資料」からも解り興味深くい。
矢張り、「近江佐々木氏」も「氏存続の為」には「絶対条件の歴史観」としてこの点に着目していて研究されている。

余談ではあるが、興味深いのは、前段でも何度も論じているが、その「絆の関係氏」として「青木氏族」を広範に研究されている点である。
これは「施基皇子」の、異母弟の「川島皇子」、つまり、「近江佐々木氏の始祖」で「妾子」であり、共に「大化期の賜姓族で臣下朝臣族」で、同じ役務など「氏存続のシステム」を共にすると云う事も「初期の段階」ではあった。
然し、何はともあれ、平安末期に平家に討伐されるまでは存在した「近江青木氏」と血縁した「近江佐々木氏系青木氏」が存在した。
この関係から「青木氏族の詳細な研究」に至ったと考えられるが、「四掟の範囲」として「出の嫁」から「女系」でも平安期から江戸期初期まで「近江佐々木氏」や「佐々木氏系青木氏」と何度も繋がっていた事が考えられる。

(注釈 前段でも論じたが、{近江佐々木氏」は、近江蒲生郡安土佐々木荘 沙沙貴の地名を天智天皇の賜姓、 「近江青木氏」は近江犬上郡青木村、「近江佐々木氏系青木氏」は近江の南近江甲賀郡青木村、「滋賀青木氏」は滋賀の右京区大秦、「伊賀分裂の甲賀青木氏」は「甲賀郡青木村」の伊賀寄りを出自の地とし在所であった。)

前段でも論じたが、「伊勢秀郷流青木氏」と「跡目縁戚の関係(叔父)」にある「蒲生氏郷」が「近江商人」を松阪に呼び寄せたが、この中には「近江佐々木氏系青木氏族」の「商人」は居なかった事が「佐々木氏の記録」や「青木氏の記録」からも解る。
「女系で血縁関係があった事」は解っているが、「近江佐々木氏」が「研究記録の青木氏族」として定義する関係にあったかは、江戸期前の「近江商人」の中に「近江佐々木氏系青木氏の商人」が居なかったという事から疑問でもある。
「松阪」に差し向けると云う事からすれば、まず最初に「松阪の青木氏と伊勢秀郷流青木氏」がいると成れば、最初に優先して選ばれる筈だと考えられ、戦略的にはその方が上手く行く筈である。
現実に前段で論じた様に、「伊勢の青木氏族」の「二つの青木氏」とは「犬猿の仲に近い状況」であった。
つまり、「近江商人の近江佐々木氏系青木氏」は居なかった事に成る。

「近江佐々木氏の研究資料」の中に「近江佐々木氏系青木氏の商人」は灘域に「酒蔵商人」がいた事は書かれている。
要するにこの事は「氏郷の呼び込み」に参加しなかった事に成ろう。
それは、「伊勢の二つの青木氏族」との「不必要な競合」が起こる事への配慮かとも考えられる。
現実に、前段で論じた様に、「信濃と福井と越前」から「青木氏の酒蔵の杜人」を呼び寄せて「酒米と松阪酒」を造っている。
従って、「近江佐々木氏」が「青木氏族」として記録として遺している以上は、上記で定義する「氏族の関係」までは至っていなかった事が考えられるが、「別の形」では繋がっていた事は大いにある。
筆者の考えとして、確定は出来ないが、上記する「嫁の出の女系」も然る事ながら、「四家の中」から「嫡子外の嗣子」が出て、「近江佐々木氏」はもとより「近江佐々木氏系青木氏」の跡目に何度か入るという事があったのではと推測している。

(注釈 「四家20家」に男子20家の男子の嫡子を切れ目なくそれぞれに世代交代をしながら宛がう事は可成り難しい事で、「近江佐々木氏族」まで跡目を入れる契機を持ち得ていたかは疑問である。)

それは、平安末期に「近江佐々木氏」と「摂津源氏(伊勢の京綱、信濃の国友とも青木氏の跡目)」とも同時に繋がりがあった事から起こり得る事ではないかと考えられる。
確かに親密な関係にあった事は下記の事でも解る。


唯、江戸時代に「近江佐々木氏」とは「伊勢青木氏」の「江戸屋敷」が近隣であった事、脩行系を含む「近江秀郷流一族」と「伊勢秀郷流青木氏」とは同門同族にあった事、この「伊勢秀郷流青木氏」とは「四家」の「四日市殿」とは縁戚関係にあった事、などを含めて少なくとも「近江佐々木氏」や「近江佐々木氏系青木氏」は本家に於いては「四家制度や妻嫁制度」を敷き「氏存続」を図っていた。
この事からも「近江佐々木氏」の「研究幅」が「青木氏族」にまで広がったと考えられる。
「近江佐々木氏」の「青木氏族の定義」は、補完役の「秀郷流青木氏116氏」までとしている。
問題は、「近江佐々木」は「傍系族」が拡大し、「姓族」を広げて「氏族としての存続」に失敗している。
全国的に広がったのは、矢張り、「補完役の宇多佐々木氏(近江蒲生郡西湖面より出自元)」である。
ところが、この「青木氏族」の「五家五流の青木氏」は、「五氏」から「三氏」には成ったが「姓族」は出してはいない。
当然に、「補完役の秀郷流青木氏」は、確かには「皇族系」では無く諡号が「「朝臣族」にある為に縛られないので、「姓族」を出してはいるが、「24地域に116氏の子孫」を広げている。
違うところは、この遺った「三氏」は互いに連携を執り、取り分け、甲斐を除く「伊勢と信濃と伊豆」は、飽く迄も「氏族の範囲の血縁関係」を保持し貫いている事にある。
つまり、基本的には「氏族」とは、「新撰姓氏禄」にある様に「朝廷が認めた族」となるが、認める以上は当然に“「ある範囲にある事」”を前提とする。
無暗には認定はしない。この課せられた「血縁的な条件」が「氏族の定義」にある。

これを守ってきた「伊勢や信濃や伊豆」で云えば、上記、下記で論じるように「郷士衆との血縁の関係性」にあり、上記した様に、「単なる血縁関係」には無く「一定のルール」、つまりは「血縁的な条件」に従っている。
「女系」と云えども前段の“「四六の古式概念」”に依って「妻嫁制度と四家制度と四掟」の範囲で、この“「条件的な血縁」”を結び、決してその血縁は「傍系の縁戚範囲」のものでは決して無い。
確かに一見して“「女系という範囲」”という傾向にはあるが、“「条件的な血縁」”は「出と入りの範囲」で「両軸」で「相互」に繋がっていて「単なる女系」ではない。
「青木氏」の「福家と四家20家」は、先ず「嗣子の男子」で繋げ、前段でも論じたこの「三つの血縁の源流」を「両軸相互の血縁範囲」で繋がる族なのである。

先ずはこれが「条件的な血縁」の一つ(A)である。

当然に、「青木氏」に務める「家人」も単なる「無縁の家人(家臣)」では無く、「家の中の人」、即ち、「族人」(「氏人」)であり、要するに「臣」ではない。
つまり、これを支えるのが「妻嫁制度と四家制度と四掟」の範囲で、「条件的な血縁(B)」をした族を「氏」と云う。

つまり、「出と入の両軸相互の血縁関係(C)」にある「一族」で構成されているものが「氏」なのである。

論理的に云えば、(A)は(B)に依って支えられ、(B)は(C)に依って支えられ、(C)は(A)に依って支えられ、「氏族」は構築されると云う事に成る。

要するに、片方だけでは「氏」としての「条件的な血縁」として成り立たず、上記の「(A)-(B)-(C)-(A)」が成り立たない血縁では、「氏の定義」の中に無い。

その時、「出と入の両軸相互の血縁関係」の「血縁」の「時間的間隔」には問題はない事に成ろう。

「青木氏」との間に何時か「入り」があって、何時か「出」がある事で成り立つ事で「氏」が成り立つ事を意味する。

「四掟」の説明の中に、「氏」とはこれを”「両軸相互の血縁関係にある事」”と定義されている。
それが、要するに下記にも論じる”「四定以成異性不養之固掟也」”の意味するところと成ろう。
「両軸相互の血縁関係にある事」が”「絆の関係」を構築する事”と成りこれを指すだろう。

問題と成る”「時間的間隔(a)」”は、「青木氏」に於いては「大化期」からと成り、一重二重にも「出と入の両軸相互の血縁関係(C)」が成立していた事に成ろう。

この「氏」を構成する以上は、短時間では難しく、且つ、「妻嫁先」が血縁的にある程度安定している必要がある。
(短期間でない方が好ましいだろう。)
つまり、「出の嫁家先」が「豪族」であるかどうかは別として、小さくてもある程度の”「族としての力(b)」”を保持している事が必要に成る。
簡単に云えば、「力」は持っていても「武力」を持たない「名主や庄屋や豪農」などを含む「郷士程度」も含むという事に成るだろう。
そして、無くなったり飛散したりする事なく、”「定まった地域(c)」”に長く定住している環境にある事が必要であろう。

「氏」としての「血縁の(構成)条件」の(A)(B)(C)が成立させるには、この「(a)(b)(c)の条件」が成立している事が必要と成る。
この「血縁の条件」、即ち、「氏の構成条件」の「(A)(B)(C)」と「(a)(b)(c)」が成立するとなると、この条件を成り立っている地域は限られて来る。
考察すると、「京、伊勢、信濃、伊豆」だけと成るだろう。

(平安末期に美濃と甲斐は「青木氏の氏是」を破った事からこの例から漏れる事と成った。)

何故ならば、この「地域以外」は「郷士衆の数」が250から400と云う地域ばかりで、且つ、その「郷士」には“「国衆」”と云って、占有割拠にて移動し「力」によって日和見的に一時的にその一部の地域を占有して存在し、更には「郷士の数(姓族)」が多いと生存競争により「戦い」が起こり地域は安定はしない。
従って、到底、「(A)(B)(C)」と「(a)(b)(c)」の関係は成立しないし、根本的にはつまりは「姓族」である。

故に、この視点から観ると、「大化期」は勿論ではあるが「平安期末期前」と、「鎌倉期中期」までは対象とする「氏族」がそれなりに存在し得た事にも成る。
それ以外の時代は、唯単に「戦乱で滅びたという事」のみならず、そもそもこの「血縁の条件」の「(A)(B)(C)」と「(a)(b)(c)」とを構築できる環境下には無かった事が云える。
然し、これが江戸期の末期までは「青木氏族」は「氏族」を「奇跡的に続けられた由縁」でもあり、これを「力(「青木氏の強味)」にして「殖産」と云うものが成し得たと云えるのだ。
当に「奇跡の氏」であろう。
この「奇跡の氏」の下には、(A)(B)(C)と(a)(b)(c)を構成する古式豊かでありながらも前段や上記に論じた“「合理的な改善」”を加えた“「青木氏の制度」”が続けられていたと云う事だ。

(注釈 この概念的と云うか「精神的な歯止め」は「青木氏の氏是」にあった事は云うまでも無い。)

そこで、上記のこの(A)(B)(C)と(a)(b)(c)を更に詳しく論じるとして、故に、多くの位階の保持者が存在する「近江」を始めとして次の様に成る。

「近江、伊勢、信濃、美濃、甲斐」などの“古くから土地に住するこの「氏人の郷士衆」(イ)”
その土地には常に定住でき得る能力を備えていて、且つ、その「官位官職の程度」は別として、土地の“「官位族」(ロ)”

以上が、「妻嫁制度」の「入りの相手」と成り得る事に成るだろう。
況や、簡単に云えば、これは「妻嫁制度」の“「妻」、即ち「入り」”は原則としては「官位族(ロ)」であって、“「嫁」、即ち「出」の先は、「郷士衆(イ)」と成っているのだ。

注釈として、唯、「郷士衆(イ)」は、“「出の先」”となるが、“「入の先」”とも成り得ていた。
上記で論じた様に、(A)(B)(C)と(a)(b)(c)とで成り立つも、兎も角も「土地の官位族(ロ)」と云っても、室町期の「下剋上と戦国状態」のこの状態の中で、地方で「官位を持つ族」は激減し衰退し、殆ど「入り妻」としての「形態」は無くなっていた事は事実である。

ここに行き成りそもそも「女系の妻嫁制度」の「入りの先」を求めたかの「疑問」が残る。

然し、現実には求めているのである。
では、“どのようにして「入」を求めたのか”という事である。

そこで、この疑問解決に執ったのが、その「位階」は低いが「官位を持つ家人と氏人」からの「入り」とする以外に、主には「入りの先」は室町期全般には概して無くなっていた筈である。
然し、「家人や氏人」にだけ求めたとしても「四掟の条件」を満たす「低い官位」を元から持っていたとは考え難い。

そこで、研究すると「家人の家の資料(尾鷲の家人)」の中の文節によると、“「従六位下」”と云う文節が出て来る。

そこで、左右の大臣などの「政治にかかわる特別職」(4段階で正従で8位階)を除き、当時の官職に関わるこの「朝臣族の武家」に与えられる「官位の位階」は「10位階」あって、それを上下に分け、一番下は「従八位下の位階」である。
「家人」に与えられた“「従六位下」”は下から三番目と云う事に成る。
「青木氏族の氏人・家人」の位階は、朝廷が認めた範囲は相当に高かった事を意味する。
これは、 「(A)(B)(C)と(a)(b)(c)」の関係を朝廷は認めていた事を示す。

(注釈 ここで云うこの「武家」とは、「公家」に対しての「武家の呼称」であって、「江戸期の姓族」に与えた武家は、「本来は武家の呼称」では無く「武士の呼称」と成り、且つ、安易に朝廷の財政保持の為にそれに与えたその「安易な位階」でもない。)

とすると、この「資料の家人」に与えられていたのは「従六位下」であるので、つまりは、「青木氏族の家人」に与えられる「位階」としては「妥当な位階」である。
氏人と成る」「家人、又は、差配頭」が何かの理由で授与されたと成るのだが、果たして、何人が授与されていたかであろう。

「家人」が「六人居た」とする一部の資料があるが、「差配頭」は「青木氏部等(詳細後談)」も入るので少なくとも「朝廷貢献」と云う事から勘案すると「15人程度」は居たであろう事が判る。
然し、これら全てが授与されたとはならないし、時代の経過もあるし、授与される理由の有無も伴うので特定は難しいが、「10人程度の家人や差配頭」が常時に授与されていた事は考えられる。
時代的には、「身分格式や和紙等の殖産の貢献(詳細は前段と後段)」から、嵯峨期を除いて「光仁期から仁明期・円融期」までが最も多く、そして、「室町期から江戸初期」では「献納金(前段)」で助けた事の理由が考えられる。

(注釈 これらの関係の資料は三度の松阪大火の消失で遺されていない。)

参考として、「伊勢王の施基皇子」に与えられた「宗家の青木氏の位階」は大化期に与えられたのは「天皇」に継ぐ身分を示す「冠位」は、「永代浄大一位」で、位階は「永代正二位」で最上級である。
因みに「清和摂津源氏四家の頼政」は「正三位」である。
従って、この事から勘案すると、「青木氏族の家人」に与える「位階」としては相当なもので、与えられた理由と云うかその背景には“「相当な実質の評価」”があった事を示す。

そもそも、江戸期の様に「金で買える位階」では無く、つまり、唯単に与える評価では無かった事を意味する。

そこで、「高級官僚」や「公家の末端」の「貴族」として扱われる為には、最低限に「従四位下」から上位が基準と成るので、これから考えると妥当である。
この「従四位下」の「位階」を持たない限りは「上級官僚」には成れない。
その意味で、「官僚的貢献」ではなく、「社会的貢献(朝廷の財源)」であった事が云える。

従って、何で「青木氏の家人」が、「青木氏家人と云う格式」も含めて、この「位階」を持っているかの理由は、前段でも論じたが、恐らくは、「格式・殖産・献納での貢献」のこの三つにより与えられたものであろう。

そうすると、何で「青木氏の福家」が授与されなかったのかと云う疑問が起こるが、それは無い。
それは、既に、「冠位と位階」等は永代としての最高位を持ち得ている。
従って、「貢献」に寄与した場合は、「氏族の氏人」の「青木氏の家人や差配頭」と云う事に成る。

という事は、「献納」は「和紙墨等の余剰品」を裁いた時期の奈良期の末から始まり、明治9年までの期間を持続的に続けていた事から考察すると、これを理由とするならば「相当な人数」が居た事に成る。
取り分け、「余剰品」から始まった「献納」であるとするならば、天皇家に執って一番苦しい時期の「室町期の乱世」の中で、「巨万の富」を築けたその「恩義」からは「巨額の献納」を続けていた。
その事からすると、「相当数の家人の位階者」は居た事に成ろう。
「従六位下の位階」は兎も角も一人では無かった筈であり、「家人」は時代、世代ごとに代わるとすると、この260年間に「家人の数(5人程度・5)」やそれに「相当する氏人の数(3人程度・5)」としてこれを鑑みると、最低でも、“「15人から25人」”は居た事に成ろう。
「永代」であるかは「従六位下の献納」とすると「永代」を授かるは普通ではあろう。

「青木氏族」に中の「家人」にこの「従六位下程度の位階」を持っていた者が何人居たかは残念ながらポイントで在り乍らも「資料」が見つからないので史実としての研究は前に進まない。
従って、「女系の妻嫁制度」の対象としては、鎌倉期頃迄にはこの関係は崩れていないので、「近江」を始めとする「五地域」からの「出と入」の「四掟の条件を持った血縁の関係」は相当成り立っていたと考えられる。
つまり、室町期は上記の論理性からも「伊勢の郷士衆」との「出と入りの関係」はそう問題は無かったと成る。

今では推論は着くが、それが「永代での官位の位階」であったかも、確実にする事は、最早、できない。
だとすると、この論理的な考察から、江戸初期までは少なくとも乱世を超えて”「家人」”を含む「伊勢郷士衆」の「氏人」との「氏」としての「出と入」の「血縁条件」は成り立っていた事に成る。
故に、「伊勢と信濃」は、当然の事として「三つの源流説」は成立する。

そうすると、そこで戻って「四掟の範囲」で「入り」をどの様に求めたのかが疑問と成る。
「京や近江や信濃や甲斐」などに「四掟の範囲」で持っていた「氏族」や、都で「政治的な問題」で行き詰まり、この「三つの地域」に「逃亡や避難した真人族」や「高位の公家族・貴族」が居て、生き残りの為にも、彼らの「貴族」から多少は「入り」として入った事は充分に考えられ否定はできないし、一部記録に残るところもある。
その「国是」に近い形で保障されていた「安定した地域」の一つが「伊勢」であった事は云うまでも無い。

「時の政権」が「伊勢」には公然と権力を振りかざして捜索が出来なかった事が「入りの形」を偶然にも保全したのである。
これは前段や上記した様に、「大化期の不入不倫の権」から始まり「江戸期末期」まで引き継がれ、「家康発行」の“伊勢の事 お構いなしの「お定め書」”でも解る。

ところが、何度も論じるがもう一つ「同じ地域」があった。
「伊勢」も然る事ながら、「青木氏」が定住する「信濃の一部(唯一の天領地)」と、「西諏訪(諏訪大社 大化期に保障された)」もこれに近いものがあった。
江戸期中期までは少なくとも保障された。

(注釈 前段の殖産でも論じたが、「江戸期」には「幕府」がこの「天領地」を「幕府領」として奪い「優秀な殖産地」として取った。)

故に、「四掟の範囲」の「位階を持つ者」が、平安期までにはここに逃げ込んだのではあるが、この末裔が「血縁条件の対象」と成り得たのである。(後段記載)
従って、「信濃の一部(唯一の天領地)」と、「西諏訪(諏訪大社 大化期に保障された)」は「伊勢」とほぼ同じ環境にあったのである。

残るは、「青木氏の逃避地の越前(神明社が保護)」がある。
ここは前段でも何度も論じたところであるが、要するに、何らかの問題を起こし「青木氏族の逃げ込む場所」で江戸期初期まで「神明社の質」で維持されていた。
前段で論じた「神明社」が、江戸幕府に引き渡すまでの江戸初期まで、「神明社組織」が保護して「質」を施す地域であった。
依って、室町期全般は「四掟の範囲にある末裔」が「現地孫」を作り「血縁条件の対象」と成り得ていた。
この「越前青木氏の末裔(酒造商人)」が成功して、「青木氏族の入り」と成って戻ると云う事とが起こっていたのである。

前段でも論じたが、「越前」は「信濃」と共に、「伊勢」の「酒米と酒造りの杜師」として働き「入り末裔」を遺している。
これは一度のみならずこの地域との「同じ族」のこの「入」の「血縁の証拠」である。
元より新たに成った訳ではない「家人、氏人の氏族」にあった。

次は思い掛けないところの“「善光寺」”がある。
ここは、元来、天台宗のここは「門跡や皇位継承に外れた高位の官位位階」を持つ「真人族や貴族」が僧侶と成って入山し、或いは、その貴族の門外嗣子が入山するところでもあった。
そこから、この「善光寺」に移籍する「還俗僧侶の定留地」と成っていた。
又、同じく「浄土宗密教」に帰依する「高位の位階を持つ皇位の門外嗣子」がこの「善光寺」に入山した。
この「善光寺」は、史実にある通り、従って「天台宗密教派」と「浄土宗密教派」に分かれ「別院」を作り「勢力争い」を繰り返していたところでもある。
この「二つの派」の「高位の位階を持つ僧侶」が再び還俗して信濃に子孫を遺して根付いた。
この中の「浄土宗密教の子孫」が「四掟の対象」と成り得ていた事は解っている。

現実に、前段でも論じた様に、「伊勢青木氏」の「六人の嗣子(実質には9人と女子は7人)」には「京の貴族」から入っている。
現実に前段で論じた様に、「白壁王、光仁天皇」の后は「井上内親王」である。
少なくとも「850年頃の仁明天皇期頃迄」は「直系の青木氏族」であった事から「四掟の範囲」で「入り」は最低限で保てていたと考えられる。

「福家と四家20家」を保つ為には、「京や近江や信濃や甲斐」の「四掟の範囲」を満たす最低の「官位を持つ青木氏族」が、その縁戚関係と成っていた事は否めない。
とすると、この「氏族」が現実に存在したのは、「摂津源氏四家の頼政」による「以仁王の乱」の以前の”「1100年前頃(詳細後段)」”までと先ずは大まかに絞れる。
そして、流石に「平家の専横時代」を除くと、「女系の妻嫁制度」の「高位の血縁(四掟)」という事では「1050年頃まで」と成るだろう。

論理的には、最も「青木氏族」と「四掟の範囲」で近いのは各地に分散していた「源氏族の直系尊属」と成るのだが、この「氏族」が、然し、「源氏族」の殆どは「傍系尊属で姓化した姓族」であったとすると、「四掟の範囲」の対象から外れる。
だから、「摂津源氏の四家」以外は「姓族化していた事」から、「11流の源氏族」とは「男系継承が禁じ手」と成り得ていたが、その「摂津源氏の頼光系四家で頼政の孫(仲綱の子)京綱」を除いて、故に「入りの女系」で「源氏族」とは血縁を示すものが無いのであろう。

結局は、「入り」の「四掟の範囲」を満たす「氏族」は、位階の多くを持つ「秀郷一門一族」であって、その「目的の為」に「補完役」として任命された「賜姓族の秀郷流青木氏」が「血縁の源流」と成って引き継がれた事に成る。
当にその象徴が「四日市殿」である。

故に、「近江佐々木氏の研究記録」の「青木氏族の定義」が、前段でも論じた様に「秀郷流青木氏」とその一門一族の「永嶋氏、長沼氏」と「長谷川氏と進藤氏」までと定義されているのである。
残念ながら、「伊勢」では永嶋氏の一門の「長嶋氏」と繋がっている資料があるとしても、「伊勢」では「長沼氏と長谷川氏と進藤氏」との資料は見つからない。
筆者の持つ「青木氏族の資料」の中には無いが、「近江佐々木氏の研究記録」に詳しく論じられている以上は、「佐々木氏の持つ資料」の中にはあったと考えられる。

従って、明治期までは「入りの源流」は勿論の事で、「出の源流」も絶えなかったとする結論に成る。

そこで「入り」は、主に「三つ」と成るが、それは次の通りと成る。

一つは、「京」を始めとする「四つの地域」の「位階の保持家」
二つは、「秀郷流青木氏」を始めとする「秀郷一門の青木氏族の五氏」
三つは、「位階を持つ家人衆」で、「嫁ぎ先の地元郷士衆の氏人」

以上の「三つの入り先」と成る。

これを「女系の妻嫁制度」では、「四つの地域からの位階保持者」と「秀郷流青木氏族」を中心に、その位階を基準に次の様に成っていた。

先ず一つは「妃」である。
そして、「位階を持つ氏人の家人衆」を「(嬪、妾の中の「嬪」)としていた。
最後には「氏人の無階の地元郷士衆」から「入り」と成れば「妾」としていた。

以上の「入り」の「三つの妻の立場・階級」に成るだろう。
(下記の「女墓」にその例がある)

そこで問題なのは、「后」は基本的に室町期以降には資料からは見つからない。
これは、室町期には「四掟」に叶う「入りの対象者」が無かったという事では無く、「青木氏族側」からの「入り」を執らなかったという事が正しいだろう。

何故ならば、次の事が云える。
「下剋上の混乱期」の世情の中で「皇位から入りを執る事」は政治的に好ましくない事。
つまりは、「政敵」とみなされる事もあり得る事。
「青木氏族」としては、兎も角も、奈良期から「御用商人的商い」を避け「均等性」を堅持してきた「商い」に影響する事。
「四掟」に基づき「四家制度や妻嫁制度」を執る以上は、「后」に相当する「入りの先」は他の「入りの先」との「身分や冠位や位階」に基づく官位等が、他の「三つの入りの先」とはその差があり過ぎる事。

以上四つのこれが「妻嫁制度を崩す事」に成り得て、結果として”「四家制度の争い」”を招いて成立しないと判断したのである。

そもそも、前段や上記で論じた様に、「中国の歴史」を見ても「独自の改善」を加えてこの制度が成り立っているのだ。
つまり、后を入れた形の其の侭では成り立たなかったという事である。
中国は次々と政権が代わるがその「政権の寿命」は50年程度と短いのである。これが所以であると中国は説いている。
これが最も、その「知識」から編み出した”「入り」”で起こる”避けなければならない「氏の最大の戒め」”であるという事に成る。

「白壁王の井上内親王」の様に、「特別枠とする考え方」の為にあった事も考えられるが、「皇親族」や「令外官」から外れた「青木氏族」には、最早、その「機会」は起こり得ない。

では何故、この「妃、嬪、妾」の「入りの三階級」を定めたかと云う疑問が湧く。

それは、「入りの階級」を無くす制度とする事は、当時としては無理であっただろう事は疑う余地はない。
それは、未だ、全ては「階級社会」で決められる「封建的な氏家制度」の中にあったからである。

上記の「三つの入りの先」では、言わずもがな、”この掟を求める事”は必定と成る。
況してや、「婚姻」である。
「世間の目」はあり、今後の事を考えれば無視する事は絶対に出来ない。
だとすると、最も合理的な方法は、「官位に基づく官職の如何」は別として”「朝廷が授与する位階」”であろう。
その「家の官職」の「有り無し」に関わらず、持つ「位階」に応じて「入り」の「受け側」も対応する事で収まる。

然し、「入りの受け側」、つまり、「青木氏族」では、人の世情の常、あまりの身分格式の差のある「后の差」の様に、”「階級による見栄の争い」”が起こるは必定である。
そこで、「青木氏族」が考えたのが、前段で論じたような制度を敷いた。

「青木氏族の女(むすめ)養育制度」
「福家の統制」
「寺での養育所」
「違反による罰則掟」
「出から入りに戻す制度」

以上の制度(掟)で、この階級による差を削除させたのである。

この事から、ほかの「入り先」が決して持ち得ない「后の冠位を持つ特別差」は、当然の事として避けられる事に成るだろう。

そもそも戦略的に観て、「冠位の入り先」は恣意的に絶対に避けれるべきものであった事に成る。
この「冠位の差」は「上記の掟」では無理と成るだろう。

それは推して知るべしで、前段から論じた様に、「孝謙天皇期」の「白壁王の井上内親王の経緯(期待しない白羽の矢)」に繋がる事に成り得るからだ。
つまり、この事で「青木氏族」は「青木氏族で無くなる所以」とも成る。

そもそも、唯一の「最高位の冠位と位階」と、「職務の官位」と、「賜姓と志紀真人族、朝臣族」などの全てを持つ「氏族の青木氏族」である。
「高位族」は「孝謙天皇」の様に「入り」の「白羽の矢」を立てたい相手である。
況してや、「孝謙天皇」でなくても「朝廷」を安定させるには、「巨万の富を持つ青木氏族」(15地域の青木氏族)ともなれば喉から手が出る程であったろう事が解る。
これは何も「入りの位階の相手」だけではない。いずれの「豪商等(武家)」も婚姻の相手としては同じであったろう。

然し、「青木氏族」はこれに絶対に載れないのである。
従って、「后」は元より、他の「三つの差」も「入り」を受けた後は制度と掟に依って無くす事が「絶対的な戦略」と成っていたと云う事である。

但し、この「出と入り」から生まれる「嗣子の出入り」は、兎も角も、「福家と四家20家」に全て入り、「嗣子の出」は「禁じ手」と成っていたし、当然に、「入りの養子(養嗣)」は当然の事として、「義子(義嗣)」は厳禁の手であった。

従って、「男系の禁じ手の原則」が守られれば、「四掟」によって入る「妻」の「妃、嬪、妾」には、下記の「良い一族性」、即ち、「血縁性の連携」が永続的に生まれる。
「出」の「娘、孫,玄孫」などの要するに「青木氏族」で云う”「女(むすめ)」”は、「妃、嬪、妾」の「福家」で養育を受けた「実の女(むすめ)の概念」である事から、そこから再び、「福家」に戻される「実の女(むすめ)」の二代目、或いは三代目の「女(むすめ)」は、「愛児」として繋がる完全な血縁下にある。(ここで疑問(女)がある。)

それは「妻」を「妃、嬪、妾」に分けている以上は、それぞれの「女(むすめ)」の「立場の差」等の「関係性の差」が左右するが、これを「福家で養育する事」の「女(むすめ)」の「掟」にその差は一切削除され、全て「女(むすめ)」である以上は“「平等とする掟」”に成る。
「妃、嬪、妾」の子は、勿論の事、「長女次女」などの区別する差さえない掟であった。
依ってこの「関係性の差」は解消されていた。

これには「福家の威厳」と、「寺などに隣接した養育所」に、「幼児より入れる事」で、この「養育所」に余計な「差し出口を入れる事」などの「行為の弊害」を防ぎ、この「関係性の差」を排除していた事が解っている。
一切、「親の手」を離れた事を意味し、この「掟」を破った妻は処罰されることに成っていたらしい。
飽く迄も、「青木氏の女(むすめ)」であって、最早、「妃、嬪、妾」の「子や孫や玄孫」ではない事に成っていた。
簡単に云えば「青木氏の支配権」を持つ「福家の女(むすめ)」であった。
同様に、「四家を引き継ぐ嗣子」にもこの掟は採用されていた。

そこで、上記の疑問の「女(むすめ)」である。
その疑問は「嫁家先の娘」を強引に戻すと云う訳には行かないだろう。
ではどんな「方法」と云うか「掟」と云うか、何か問題を起こさない様な方法でなくてはならない。
いくら「家人」であろうと「氏人」であろうと「嫁家先」にも事情があり無視できない。

この解明に時間がかかり難しかった。
「郷士衆の差配頭」に遺された「手紙の一節」にこの事が書かれていた。
それによると、「我が尾鷲小林の幣家・・の方の娘の妃児・・は三歳にして優秀賢美にて育ち・・に依存無く・・・に依れば福家のお定めによりこの娘を‥寺の養育所にお預け致しく候故御差配宜しくお願い申し上げ・・・云々」とある。

この経緯から読み取れる事は次の事に成る。
「福家のお定め」である。
 これに依れば「要領書」の様な「定書き」を配布していた事に成るが、果たして、「定書き」が出ていたかは他に調査したが明確ではない。
恐らくは、嫁いで来た「女(むすめ)」は「福家」でその「嫁としての教育」を受けているから、その必要性はあったかは甚だ疑問で、「氏人の家」がこの要領を「既成の事」として周知して“「定書き」”として捉えて書き込んだものと読み取れる。

 「優秀にて賢く美しい児」である事が条件の様に成っていた事を意味する。
福家から「氏人の愛児」に対して三歳の誕生日祝いが出た。
これは「福家が行う慣例」で準備を寺の執事が行い「福家」が「氏族」に出していた事は解っている。
この事は「福家の女(むすめ)」として如何であるかを暗に問い質している事を意味する。
そして、「相手の意思」を尊重している事に成る。強制は無い。
要は、「嫁家の判断」に委ね、「福家との繋がり」を重んじて「女(むすめ)」として入れた方が得策と判断した場合は「入り」と成り、「嫁家の存続の事情」も鑑みて「嫁家」が判断していた事に成るだろう。
「福家の女(むすめ)」の事情が貧し急務を要した場合は、後は「嫁家と福家の話し合い」であったらしい。
それが、現代感覚では、「福家」側では、「女(むすめ)」を「孫」までは解るが、「玄孫」までに「女(むすめ)」として求めている史実は、明らかに「出」に対して貧し急務と成っていた時期があった事を示す。
故に、依って、「話し合い」が原則であった事に成る。
更には、「玄孫」とすれば「嫁家側」でも他家に嫁がせていた事が判るし、娘が多ければ「優秀賢美の娘」を「福家」に入れて、他は嫁がせる事と成り、嫡子が居なければ養子を執る成りした事は解る。
「養子」という事に成れば、二代続きで「氏人」からは離れる事に成り、其の侭では保護などは受け難く成る事から、是非にも「福家」に優先的に入れて置こうと云う計算が嫁家側に生まれるは必定である。
そうすれば、男子を「氏内の郷士」の家から迎えれば離れる事は無くなる。
その手筈も安易に成り立つ。
彼らには、氏外の「他家からの養子」は「氏存続」のみならず、前段でも論じた様に殖産などの枠から外されて「生活の糧」を失いかねない問題でもある。
上記の「三つの入り」から入る中で、「家人と氏人」はこの逃れざるを得ない「絶対的な宿命」を負っていたのである。
「秀郷流青木氏一門」からの「出と入り」にしても、「青木氏族」の「青木氏の氏」を別に構成している。
「四掟」に適合した「京」などからの「高位の位階を持つ貴族」からの「出と入り」も単族の「族」を持ち得ている。
小さく成ったが「近江の氏」や「甲斐の氏」、「伊勢の氏」、「信濃の氏」、伊勢と信濃の融合族の「伊豆の氏」、越前の「全青木氏融合族の氏」は、それぞれに再び結合して「青木氏の氏」を構成しながらも、且つ、これらの「五氏の連合体の青木氏族」と、「秀郷一門と秀郷流青木氏の氏」の、これら全てを「女系」で血縁し合した「青木氏族連合体」を形成しているのである。
従って、例えば「伊勢の氏」からは出る事は出来ない前提に成り、当然に「氏存続」として安全は全く保障され得ない事に成る。
「乱世の中」でそんな選択は絶対にできない事は自明の事実である。
前段でも論じたが、「諏訪族青木氏」が「神奈川横浜の秀郷流青木氏」の中に逃げ込んだのも、この「女系の血縁の関係」が奈良期から深く続いていた所以でもある。
越後も同然である。

故にも、手紙の中の一節の「定書き」の「発想の概念」が染みついているのである。

従って、「定書きの有無」に関わらず「子孫存続」とも成れば、先ずは「嫁家の事情」を優先する事が必要に成り、「定書き」に拘る事は「氏存続」という点で好ましくない。
故に、「定書き」は先ずは無かったと云う判断に成ろう。
大化期からの「嫁家制度の長い仕来り」の結果から、重ねて「氏人全員の自然の概念」と成っていたと観ている。

何れ在ったとしても、「福家」に無いからこそ「氏人や家人」が「重大な間違い」を起こさない様に「家の掟」(氏人の掟)としてこの「定書き」を子孫に伝える為に遺したとも論理づけられる。
然し、実は、下記に記すが、可能性が高いとして「執事を務めた菩提寺」の「養育時の指導書的なもの」としては必ず遺されているとして調べたが、資料は「三度の消失」と、最終は「江戸期初期の顕教令の撤収」で「伊勢松阪の菩提寺」には遺されていず発見は出来ていない。

さて、続けて論理的に考えれば、「嫁家」側としては、結果として「福家」に「女(むすめ)」として入れて「出」の「嫁ぎ先」が定まれば同じ事であって「損得」で云えば「得」はあっても「損」はない事に成る。
「福家の女(むすめ)」である以上は、「出」の婚姻に関する準備一切は「福家」で持つ事に成るのであるから、後は「心情の問題」だけと成ろう。
然し、これさえも元を質せば「出自先の実家」であるし、他家から「氏」に入った者でもない。
この「心情」は「掟」にて大きく表に出せないが、何れにしてもその範囲を弁えれば其れなりの事は認められる状況ではなかつたかと考えられる。

後の「嫁家の判断」は、抜き差し成らぬ「嫁家と他家との事情」と成ろう。
それ以外は寧ろ「嫁家の嗣子」に重点を置いた存続方法が、「氏人」として維持して行く上で優先的に嫁家側には求められよう。

「福家」から「女(むすめ)」の「出(嫁ぐ)」の際には、古来より「元の血筋」と重らない様に「執事」を住職が務め、且つ、「養育所」を寺で管理していた「菩提寺の管理下」に置かれていた様で、遺された資料の一部から読み取れる。
当然に、「女墓」を管理していた事からもこの事は頷ける。故に「女墓」が創れるのであろう。
更には、合わせて上記の「妻嫁制度」を敷いているからこそ、前段で論じたが、その「青木氏族の住職」の「執事の役目」も「最も重要な要」と成っていた事に成る。

では、この「出と入りの血縁先」を「適時」、「適格」に「選出してくる仕組み」はどの様なものであったのかが疑問(仕組み)と成る。

これは、この「執事の役目」(身内の青木氏の住職)に大方はあったと観ていて、確かには、「福家と四家20家」の多くの「付き合い」と「紙問屋の伊勢屋」から情報もある事は解っているが、各「近江や信濃や伊豆や甲斐や越前」の地に存在する「青木氏独自の菩提寺からの情報」、24地域の「秀郷流青木氏の菩提寺からの情報」の相互交換、5百数社に上る「守護神の神明社からの相互の情報」を互いにやり取りしていた事が解る。
これを基に「出と入りの妻嫁制度」を網の目の様に構築していたのである。
これが無くては「青木氏族の子孫存続」はそもそも論理的に無理であったろう。
これらは「完全な詳細な情報源」であり、誰が考えてもこれを維持するには「経済的な裏付け」が無くては出来ない事は明白である。

論理を敢えてひっくり返す様ではあるが、「出と入りの四掟などの概念」や「無形の権威や位階」やそんなものでは決して得られない。
故に源氏族の様に衰退し滅亡する所以となっていた。
注釈として、然し、この情報の二つが抹消された時期があった。

それは上記にも記したが、前段でも論じた江戸初期に出された「宗教に関わる事柄の独自保有の禁止令」である。
つまり、「神明社の幕府帰属令」と「菩提寺の顕教令」である。
そして、幕府は財政難からこれらを放置し荒廃させた。

この「二つの令」は上記の通り「絶対的な情報源」である故に。「青木氏族」に執って片手をもぎ取られたものであった。
この時、「遺されている情報源」は唯一「紙問屋の伊勢屋」の情報源だけであった。
「青木氏の情報源」は上記の「二つの令」で論理的には消えている。
この儘では、「源氏族」に成り得る。

ところが、そこで、より「青木氏族の力」をつけたのが「殖産」であって、室町期末期から始めて江戸初期に完成させた「15地域の商いの組合での構築」であった。
これに依って、「殖産」「商い」は元より「青木氏族存続」に絶対的に関わる「重要な情報源」も再構築され戻ったのである。

それでも上記した様に「青木氏族の存続」に関わる事である事からは「氏」を纏めて行く上で、「菩提寺」は絶対的に必要不可欠である。
そこで、何をしたかという事である。
それは規模を縮小して目立たない様に密かに建立した。
「神明社」は、内部の内容は同じにして幕府令に違えない様に一般性を装い、守護神を表す「社」から「神社」にして「神明神社」と変名する事と、「青木神社」として何れも密かに「小さな山祠」を建立して守ったし、元の位置からずらして「大鳥居」をそのままに遺した。。
これらは現在も遺されて「青木氏族の氏人」らに依って祭られている。
ところが不思議に幕府はこれを黙認した。

(注釈 「神明社」はそもそも「伊勢神宮の皇祖神」の「子神の祖先神の社」である。
全国に五百数社もある「民の社」でもあった。民からは「道祖神」と同じに親しまれ信仰されていた。更には、「紀州藩との繋がりの事」も含めて、「朝廷への献納の事」もあり、厳しく当たれなかった事が考えられる。)

(注釈 「残りの神明社の荒廃」については流石に見かねた元甲斐の青木氏族の柳沢吉保は、武蔵深谷に「民の反発」も恐れて古来より存在した歴史ある「神明社と寺」を自費で公然と再建した。
そしてその周囲には青木氏族の神職や住職が現在手も定住している。
如何にその「荒廃の影響」は大きかったかを物語る。
従って、上記で論じた様に本来は菩提寺と神明社に資料と成るものが遺されている筈なのであるが、結果として無い。)


さて、話を基に戻して、これらの「入り」の「伊勢」での「青木氏の証明」となるのは、残るは「女墓」と「菩提寺の曼陀羅帳」等に成る。又、「家人や氏人」や「庄屋、豪農、名主、村主」の資料の中に読み取れる範囲のものでしかない。
これには、「俗名と戒名」があり、「俗名」にはその大まかな「出自元」、又は、「系譜、戒名」には「四段階の戒名」があって「生前身分と位階程度」が判別できる。
恐らくは、「信濃」にしても「伊豆」にしても「甲斐」にしても、将又、「秀郷一門の主要八氏」は判別できる。
彼らの密教であるので゜菩提寺」は統一していて、「信濃、伊豆、甲斐」などと「秀郷一門と秀郷流青木氏」の「菩提寺」はその定住地の主要地に必ず「同一名の菩提寺」で存在する。
(注釈 「二つの青木氏」のそれぞれの二つの統一した菩提寺名は匿名とする。)
比較的簡単にその「血縁元の内容分析」が可能である。

後は「青木氏の福家と四家の資料」、「家人と主要の郷士の氏人の資料」の中に求められ、これらを紐解いて行けば年月が掛かるが判明する。
どの様に繋がっているかも分かってくる。

不思議な事ではあるが、「大化期から平安期の縁戚族」の「近江佐々木氏の研究記録」が「青木氏族」の証明と成りよりの大きな証拠と成っている。

さて、これらの上記に論じた「血縁関係のシステム」が「四六の概念」に依って論理的な基準づけられている。それは次のように成る。

これが、概要的に観て、「時代の変化」で、当初の平安期末期までは「官位族」9>「郷士衆」1であったが、江戸期前後頃には「官位族」1<「郷士衆」9と変化して行った事に成るだろう。
前段でも何度も論じたが、下剋上戦国時代の乱世に於いての「室町期中期頃」の「数式のバランス」では、「官位族」5><「郷士衆」5の関係性が成立していたことが判る。
「青木氏族」が「巨万の富」を獲得し、これを使って925年頃から正式に始まったより「殖産」を拡大させ始めたころと成り、その理屈は「官位族」5><「郷士衆」5の関係性からもよく解る。
矢張り、「殖産」は「氏族」と成っていた「郷士衆」である事が明々白々である。
上記で論じている「殖産」が拡大するにつれて「官位族」5><「郷士衆」5の関係性は急激に右辺寄りに変わっていった事に成る。
「時代の変化」と共に、「青木氏族の概念」も「妻嫁制度」を盛んに使って変化した事が解る。

(注釈 前段でも論じたが、江戸末期に於いて「筆者の父方祖母」は京公家からであるので、「官位族」の1は未だ成り立っていた事が解り、筆者の母方祖父は「伊勢郷士衆」である。
筆者父方の縁戚筋は全て「伊勢郷士衆」であり、明治期直前まで「郷士衆」の9は成り立っていた事でも解る。明治9年でこの関係性は中断し、明治35年で終了し、大正14年で解消し、平成10年で「福家」は「宗家」に戻る。「四家20家」は各地に分散して商いは続くが詳細不詳。)



> 「青木氏の伝統 43」-「青木氏の歴史観-16」に続く。


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Re:「青木氏の伝統 41」-「青木氏の歴史観-14」

[No.360] Re:「青木氏の伝統 41」-「青木氏の歴史観-14」 
投稿者:副管理人 投稿日:2018/06/10(Sun) 14:18:49

「青木氏の伝統 40」-「青木氏の歴史観-13」の末尾
>(注釈 近江佐々木氏の「青木氏族の段」でもその様に定義され「青木氏族」として認めて論じている。と云う事は同じ「青木氏族」も然る事ながら「天智天皇」の「賜姓臣下族」の「川島皇子」を始祖とする「近江佐々木氏」もその「掟」を大方で採用していた事を意味する。)


「青木氏の伝統 41」-「青木氏の歴史観-14」
「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

では、本論の続きの問題であるが、上記の注釈を前提とすると、室町期に成ってこの「掟」を何時緩めたのか、どこまでを緩めたのか、何で緩めたのか、等の「理由目的手段」、と「人時場所」を明確にしなければ前段の「江戸初期の殖産」の論は不充分になるだろう。

(注釈 これが本段の江戸期前から江戸中期までの殖産を進める上での後に於ける採った手段であった。
そろそろ、その務めとしては「有名無実の状況」とは成り得ていた事は解り、自己満足の「青木氏の独自のステイタス」に近いものと成り得ていたであろう。
これが”「伝統」”というものの本質であろう。
つまりは、「賜姓五役」としての「務めの転換期」と成っていた。)

しかし、現実には、「天皇家への献納金」の形で明治初期まで密かに、或いは、「幕府黙認」の形で貢献していた事は事実である。
ここでも「青木氏の歴史観」として認識して置く事がある。

これは、前段でも論じたが、「家康」が「伊勢青木氏」に執った ”伊勢の事お構いなし”の「お定め書」でも理解は出来る。
つまり、「家康」は、「表向き」には、”宮廷の外壁が崩れても放置する程”に「天皇家」を締め付けたが、裏では行き過ぎて「信長」の」様に「民の反発」を招かない様に「青木氏族」に遣らせていたという事でもある。
これも「青木氏族」にしか判り得ないてい「重要な歴史観」である。

その前に一言、この「青木氏の歴史観」を以ってして更に悪く云えば、この為にも江戸初期には「商いの面」で本論と成っている”「殖産」”を進めなければならない破目に陥っていた事にもなり得るだろう。
この事から云えば、この時代に成っても未だ、形は変わっていただろうが、”「賜姓五役」”は明らかに存在していた事にも成る。
否、社会的にさせられていた事もあり得る。

更には、江戸幕府は、「権威の象徴である天皇家」に「圧力」を掛けながらも、一方では「権威」を重視し「天皇家」を体よく利用し、”「二極両面」”を利用する態度を執っていた事に成る。
結局は、その「幕府の矛盾」を「青木氏族」で補っていた事にも成る。

「室町期の紙文化」のおかげで、「青木氏族」が、「紙文化の遺産」と「殖産」で「巨万の財」を成していたから良かったが、これを「青木氏の歴史観」から観れば、仮に無かったら如何していただろうかと、場合に依っては「天皇家の存在」も危うかった可能性もある。
つまり、「青木氏」に執っては、この期待もしない「時代ずれ」のある”「賜姓五役」”を都合よく使われたと云う事も云える。
唯、云える事は、「青木氏族」のその「殖産を含む商い」は、、何時の時代にも”「幕府の御用商人」”では無かったという事である。

だからこそ”「伊勢の事 お構いなし」”の「お定め書」を公に「家康」が出せたという事でもあろう。

「青木氏の歴史感」を想像しているこの「お定め書」が、果たしてどれ程に「青木氏族」に執って効いていたかは甚だ疑問ではある。
前段で論じたが、「江戸初期の殖産」では、確かに効いていた事は確かであるが、「前段の殖産」を進める為に「紀州藩」が「山田奉行所」に申請した件では、つまり、「七割株」を持つ「伊勢水軍」による「伊勢紀伊周り」の「瀬戸内廻船の認可の件」では、「山田奉行所」の奉行時代の「大岡忠相」には、これを否定された事は有名である。

この事に付いて一族内や関係族の内に「遺されている書物」を読み取るには、その「存在」は認めているが、その「お定め書の効能」を大きく特記する記述は特に目立たない。
故に、この事では「青木氏族」の内には、取り分け”「影響」”はなかった事になるだろう。

これは大化期からの「永代不入不倫の権の存在」を族内で代々認識していた事を物語るものとして判断できるし、その「認識」と云うか「概念化した知識」と云うものが、「お定め書」を当然の事として捉えていた事に成ろう。
判りやすく云えば、”何を今更”であったのであろう。
「青木氏」に執っては、この「概念「」と云う意識と云うものが無いにしても、合ったとしても”表には出せない”が、周囲はそうでは無かった筈である。
つまり、「青木氏」に執っては、故に「時代のずれ」を感じながらも、更にはこれも「時代のずれ」のある「永代不入不倫の権」の出処の「賜姓五役」であり、且つ、それを表す一つとして「献納」を続けていた事になるのではないかと考えられる。

はっきり云えば、「伊勢郷氏」であっても、、傍らで「商いや殖産」を生業とする以上は「永代不入不倫の権」も今と成っては「青木氏」には「何の効能」も無かったであろう。
「商いや殖産」は、「権威や象徴」に頼っていては成り立つ話ではないのは当然であろう。
唯、何度も云うが、上記の資料からも左程に記述が無いし、「青木氏の氏是」もあり、「権威や象徴」を振りかざす程の「氏のすさみ」も無く、「青木氏側」にはその「意識」はそれほどでも無かったであろう事が解る。
要は、、”周囲の目が違った”という事に成ろう。
この事に就いては、確かに読み取れる。

つまり、故に、これも「青木氏の歴史観」から観れば、「山田奉行所」は意固地に「青木氏族」に対して「意地(妬嫉に似たもの)」に成っていた可能性もある。
「下剋上」は進み「下級武士の、姓の時代」に成ったこの江戸の初期に未だ「青木氏族」のような「氏族」が残されている事の事態が気宇であったので、その様に観られるのも不思議では無かった。
むしろ、「意地(妬嫉に似たもの)」は「普通の事」であったであろう。

何故ならば、況してや、この時期は「将軍吉宗」と「伊勢青木氏」は、江戸では「江戸伊勢屋」を置いて「享保の改革」を推し進め初めていた時期でもあり、前段でも論じたが、、養育元として幼少期より「吉宗とは蜜月の関係」を維持していた筈であり、「家臣」ではないが「重臣」か、「仲間」「かそれ以上の”「布衣着用の身分」”でもあった。
「大岡忠相」は、「高石の旗本の身分」とは云え、不必要に強い「本旗本の武士意地」の”「三河者の大岡」”に執っては、”目の上のタンコブ”、”何するものぞ”の「裏の感覚」は持っていた筈である。
唯、表に出さない程度の事であったであろうと推測する。

大化期から平安期にかけて「志紀真人族」であり、「直系の四人の天皇」を出した「郷氏」でもあり、その果ては「家康」も「お定め書」で一目を置き、「吉宗育ての親」で、裏で経済的な支えとして「将軍」に仕立てたのも、「享保の改革」を進めたのも、江戸市中で200店舗以上の「伊勢屋」を営み、永代の「お定め書」を持ち、紀州藩を「勘定方指導」で経済的に支えているその「伊勢青木氏」に対しては、これほどの自然が創り上げた「権威を持つ氏族」に対して、人間である以上は表に出せない「屈折心」も否定はできないであろう。
兎に角、「大岡」の様な「有名な人物」にはありがちな「作られた評価」、つまり「公的な記録」では「美化」されているが、「青木氏の歴史観」からすると、この「美化」を取り除くと「上記の事」や「下記の事」はこの様に観えてしまう。

(注釈 前段でも論じたが、ここで「青木氏の歴史観」の一つである」世間で云う「質屋」は、そもそも、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」が庶民に対して、生活に困る者に「施し」をし、そして「職」を紹介」し、「厚生の道」に導く功徳を行っていた。
これを奈良期から「質」と呼んでいた。
中国の金山寺が行っていた習慣を持ち込み「朝廷」に代わって全国500社に及ぶ「神明社「」が行った。
これが、江戸享保期のこの「伊勢屋200店舗」でも行った。
そして、それが「無償の施し」から「低利の施し」として「享保の経済」を活性化させた。
これが、「質屋」の呼称として広まった。
享保末期に「江戸伊勢屋と青木氏」は、「吉宗との不調和」が起こり、200店舗の権利を放棄して店子に譲って伊勢に引き上げた。
これが、「質屋」の始まりで、江戸に「伊勢屋の質屋」が多いのはこの事から来ている。)

そもそも、この筆者は研究を進める中で分かってきた事で、この”「美化」で固められた歴史”等には、”何の値打ちも無い”と信じている。
故に、「青木氏の歴史観」として当然にこの説を採っている。
恐らくは、「青木氏族」に執っては、幕臣の家臣ではないが「布衣着用の身分」には、彼らには「相当な軋轢」が「人の世」である以上はこの時期からあった事が伺える。
これは「人の世の常」であり無い方がおかしい。
どこでも起こる事ではあるが、”伊勢者 何するものぞ”であろう。

前段でも論じたが、それが「享保期末」に周囲から強く噴出して仕舞い「吉宗との折り合い」も着かなくなって、”「伊勢」に帰るという結末に成った事”でも解るし、そもそも、この時代に成っても、これだけの事の「権威性」を未だ持っていたとすれば、世の中は利用し放って置く事はないから、だから未だ「青木氏の氏是」にも成っている事でも解る。
普通は何れに於いても意味の無い「氏是」は消えるは必定である。
然し、明治九年まで消えていなかったのである。

後勘から観れば、“「伊勢水軍」による「伊勢紀伊周り」の「瀬戸内廻船の認可の件」”は、特段に「当たり前の申請」であろうし、況してや、”誰もできない「紀州藩の殖産」を推し進めていたのに”である。
そもそも「否定される謂れ」は無かった筈である。
あるとすれば前段でも論じたが、「青木氏の資料」より読み取れる「讃岐青木氏」の「瀬戸内の廻船問屋の利権」に重なる事だけであろう。
或いは、当時、綱吉が執っていた「御三家への牽制策」から引き継がれて、享保に成っても吉宗の出自元の「紀州藩」を富ませる事への「幕臣の反発」とも執れる。
「二万両の借財体質」を維持させる事で「政治的な圧力」を掛けていた事からも分る事である。

末梢とすれば、この「伊勢水軍」を始めとして「熊野水軍」「紀伊水軍」「鳴門水軍」に「瀬戸内水軍」と海域を分け合ってバランスよくその利権を守っていた。
何れも共通する事は、保守的に成ってこの「利権を壊す事への不安感」が否めない。
「伊勢水軍」に、「青木氏族」に、つまり、「紀州藩に認可の裁定」を下せば、「利権域」は乱れるは必定であり、紀州藩を富ませる事が起こり、「政治的な圧力策」は霧消する。
筆者は、「山田奉行所」は、つまり、「乱れる事への責任」を問われ、「大岡」は裏では「保身」を狙ったと観ている。

そもそも、”「廻船」”と云う点から観れば、「紀州藩」は「熊野水軍」や「紀伊水軍」でも良かった筈で、でもそうしなかった。
それは、何故かである。

そもそも、「紀州藩」には常態的に前段でも論じた様に「毎年二万両の借金体質」があり、其の侭だと潰れる。
それを解決するには何かを興さねばならない。
それには「殖産」とその「資金」の課題があり、然し、それを興させるには「熊野水軍との軋轢」「紀伊水軍の素行」が問題と成っていて出来なかったからでもある。
又、「七割株の青木氏の伊勢水軍」と「讃岐青木氏の瀬戸内水軍」には、「古来より強い絆」がある。
当然に、「松阪経由で瀬戸内」までの「廻船」ができ得れば、「松阪」で「四日市殿」と「秀郷流青木氏」と縁戚関係にある「駿河水軍」と繋げれば、関東、中部から中国域先端までの「大プロジェクトの廻船路」が出来る。
筆者は、「青木氏の進言」で「吉宗」は初代からのこの「計画の推進」を進めようとしていたと考えられる。
これは「紀州藩と青木氏族」に執っては「経済的波及効果」は測り知れなかった筈であった。
(幕府御蔵金は300両しかなかった。)
況して、「紀州藩の家臣団」は「伊勢秀郷流青木氏」である。
これを当初から「初代からの殖産」をより大きくする為に狙っていた事は間違いはないだろう。
「紀州家臣団」としては計画を進めない方がおかしい。

そもそも、「讃岐青木氏(伊勢水軍)」と「瀬戸内水軍」を単独として見做しているが、「伊勢水軍の廻船」と繋ぐとする思惑があれば、横浜から防府の先まで一廻船が成立するのである。
こんな「大廻船」が出来れば「大岡」が警戒するのは当然であろう。
将軍と成った「吉宗」は承知していたというよりは密かに「目論んでいた事」であろう。

その証拠として、そもそも後に、「讃岐青木氏の瀬戸内廻船」は、「三陸より駿河」までの「東周り廻船」が認可されている。
そこで、吉宗は「大岡」に否定されたので、この「当初の計画」を示現する為に、何の関係も無い圏外の遠い「瀬戸内廻船」に態々これを認めたと観られる。

そもそも、「圏外の廻船問屋」に認可するというのは不思議で恣意的としか考えられない。
そこで、つまり、否定された「切れたルート」の「伊勢水軍の域」を「青木氏族の大船四隻」と足りない便域を「伊勢水軍域」で繋ぎ完成させたと観られる。
否定された以上は、そこでそれをいきなり繋ぐと違反と取られかねない。
そこで、飽く迄も,”「青木氏族単独の商船」”であるかの様に見せかける必要があった。
その為に、密かに執ったのが「摂津港」に「大船二隻」を係留して松阪まで「ピストン配船」させ、松阪からも矢張り、「大船二隻」を同じく「ピストン配船」させ、それをカモフラージュに「伊勢水軍」を「摂津」までの「往復回路」を作れば、「完全な廻船」は出来上がる。
「紀州藩」はこれで「関わり」が無くなる。
解ったとしても「山田奉行所」は文句の着けようがない。

筆者説はこれに基づいているが、これほどに「史実としての戦略」が出来上がっている事そのものが不思議で、恣意的であるとしか考えられない。
明らかに「神奈川」から「讃岐」までの「青木氏族」が力を合わせて”一致して仕組んだ事だ”と観ている。
思い思いにはこれだけ「統一した戦略」は出来ないだろう。
そもそも、この「戦略」には「日本の経済の発展」と云う「次元の高い思惑」が課せられていた。
「大岡の否定」は、”次元は低すぎる”と観ていて、筆者説のみならず「青木氏族の共通の認識」であった様に資料から読み取れ、故に「青木氏族の戦略」と成り得ているのだ。
故に、「大岡」に次元低く否定された以上は、「讃岐青木氏の瀬戸内廻船」を態々持ってこなければならない事に成ったと成る。

江戸に出た「伊勢屋の伊勢青木氏」を始めとする「青木氏族」は、前段でも論じたが、これらの「対応策」を幕臣を交えずに密かに”「吉宗と談合した」”と考えられる

(注釈 「佐々木氏族の江戸下屋敷」の直ぐ近隣に幕府より屋敷を与えられていた事は解っていて、ここで吉宗と談合を重ねた事が解っている。
「伊勢屋の屋敷」と「青木氏の自邸の屋敷」は前段でも論じたが、主な伊勢屋の屋敷は「問屋街の小伝馬町」と「日本橋界隈」や「横山馬喰町等」にも複数あった。
「江戸伊勢屋店舗」は200か所以上に上る)

確かに何れも其れは云えるが、然し、この「否定された案件」には、細かく観るとそもそも「往路廻船と復路廻船の違い差」が出ているだろう。
それは、「伊勢水軍」は別として、「熊野水軍」には「熊野宮司六氏」が背景として絡み「通行」には「利権」を主張する「海賊的水軍」であったとされる。
これを守らないものには容赦なく鉄拳を加えたとする資料もあり、その「海賊の村」とされる所の資料説もある位である。
然し、どちらかと云うと”「海族」”と云うところかと考えられる。

又、次に「紀伊水軍」は、平安期から”「海賊」”そのもので、「利権」がどうのこうのでは無く、海を荒らす純然たる要は”「海賊」”なのであって、その記録は「義経の壇ノ浦の戦い」の時にこの「海賊の存在」が最強を誇った「平家水軍」との「海戦の勝敗」を決めるとして、義経は執拗にコンタクトをとった記録が遺されている。
つまり、この背景には「雑賀一族」と「根来一族」の「海の族説」があって、それを「背景」に勢力を持っていた”「海賊」”でもあった。

「鳴門の荒波」を制する「鳴門水軍」は、淡路島を根拠地とする「海洋民族」と、その「土豪」であった「淡路島の鳴門族(後の蜂須賀族)」を背景としてその勢力を張っていた。
この様に何れも一癖のある単なる水軍では無かった。

(注釈 「義経の海戦」の時に”「摂津水軍」”と書かれている資料がある。
この「摂津水軍」は源氏方であったと書かれている事から、「嵯峨源氏」を含む「摂津清和源氏」を主体とした「青木氏族」や「近江佐々木氏族」等の「混合隊の水軍」で「小水軍」であったと書かれていて、「義経の海戦」が始まった段階で直ぐに「摂津港」に引き上げた事が書かれている。
恐らくは、「荷駄を搬送する役目」と戦略上の「船団のダミー的役割」を負っていて事であったらしい。)

兎も角も、当時の「暗黙のルール」は、この「三つの海域」を通行する廻船は「通行料」を払い”「堺会所」”で認可を取らなければならなかったとある。
“「堺会所」”には「支配頭」がいてこれらの「全水軍」に渡りをつけての事であって、「山田奉行所」とは云え、「実質の実力的差配権」はこの「堺会所」にあって、「山田奉行所支配」の「自由横行の運航」ではそもそも無かった。
従って、然しながら「紀州藩」としては「幕府の支配下」にある以上は「山田奉行所」であって、且つ、紀州海域にあるとは云え、「一種海賊的水軍」を「紀州藩」としては使う事は出来ない状況でもあった。
飽く迄も「政治的な支配権」でのその様な「山田奉行所」であって、それに基づいた申請であったと云える。

本音を云うと、故に「上記の低次元の裁定」と成ったのである。
だから、「青木氏族」は”馬鹿らしい”と云う感覚に成っていたのであり、「紀州藩」から出された申請である限りはこれに従わざるを得ない事に成る。
当初から「青木氏族」にとっては、大化期から定住する「氏族」で「摂津」に店舗を持っていた関係からも「堺会所」は知っていたし、「宋貿易」をしていた事からもこの「堺会所との付き合い」は当然にあつた。
又、「伊勢屋」で「伊勢水軍」を統括していた事から考えても、この事は事前に間違いなく”計算済みの想定内”にあったと考えられる。
故に、時間の掛かる”「大船建造」”を事前に進めて「殖産計画」に間に合わしたのである。
それで無くては「運搬問題」が発生し前段で論じた「殖産計画」は成功しなかった筈である。
大掛かりな「船の建造」を伴う時間の掛かる「讃岐青木氏の東周り廻船の設定」も間に合わなかった筈でもある。

江戸初期の紀州藩初代から始まったこの「江戸殖産(創業平安期より)」は、当初は伊勢域は「伊勢水軍」で行い、「商品」を売り裁く為の摂津大阪などへの搬送は主に陸路に頼っていた。
ところが、この「殖産」は大きく進み、「墨と硯」、「和紙と製品」、「綿と布」、「漆と漆器類」、「海産物と加工品」、「菜種油」、「海産物加工」、「白粉」等々の「殖産」は発展し、「陸路の量的な搬送」は無理と成った。
この間、「搬送先」、つまり、「販売先」は拡大し、「大量」で「遠距離輸送」は日本全国と成っていった。
この時期が、丁度、100年後の享保期初期に当たり、「殖産」は、紀州藩初代頼信から吉宗まで「勘定方指導」で「紀州藩の借財体質」を改革し、最終的に上記するこの輸送問題が勃発したのである。

そこで「将軍と成った吉宗」は、紀州藩のみならず「三陸」から始まり、「防府」までの「一廻船体制」を確立して「経済の発展」を支え様として、この為に上記の「旧態依然の利権体質」を改善すべく途切れている「松阪から摂津」までの「統一廻船」を作ろうとしたのである。
つまり、「駿河と瀬戸内」は何れも「青木氏族との絆」のある廻船である。
そして、「三陸部」から駿河までに「瀬戸内廻船」を持ってくれば、「一つの絆廻船」が出来上がれば「利権」に振り回されない「安定した廻船」が出来上がる算段であった。
100年目にして仕上げる「頼信ー吉宗」の”「思い」”であったのである。
然し、低次元の「大岡の裁定」を無視してまでも「幕府命」で「押し通すべき算段」では無かったかと思われてならない。
恐らくは、「幕府命」と「幕府機関」の裁定が異なる事は、「権威の低下」を招く為に執れなかった事は解る。
そして、「将軍」に成りたての頃である以上は未だそこまでは「幕臣」を統括出来ていなかったであろうし、次元が低いが出自元でもあり裁定に口を出せば「要らぬ誤解」を招く事にも成り兼ねず、遠慮した事も考えられる。

江戸に「吉宗」に同行して「江戸出向」していた「青木六兵衛等や青木氏族等」には、「江戸屋敷での談合」では「大岡裁定」には「吉宗」は「猛反発」を受けていた事が伺える。

(注釈 「青木六兵衛とその息子一族」は、「吉宗」と享保期末には「折り合い」が悪くなり、「江戸商い」は「店子」に譲り「江戸伊勢屋・青木氏」を「伊勢(伊勢秀郷流青木氏や信濃等の青木氏族関係者含む)に引き上げるが、この時の始末に「青木六兵衛とその息子」は、「六兵衛は病死」でその「息子は江戸で跡目が絶えた」と成っているが、「青木氏の資料」では確実に引き上げている。
「兄の長兵衛」の「四家の福家の跡」を継ぎ、「享保期の重責」を全うしたことが判っていて、逸話まで遺されている。
この事に付いて、「近江佐々木氏の資料」にも記載があり、江戸での「六兵衛とその息子の所在」は不詳としている。
これには「吉宗と幕府」に警戒されない様に仕組む位に「関係悪化」があった事が伺える。)

注釈の通り、これは「吉宗との関係悪化」は否定できない「青木氏の歴史観」ではあるが、「大岡裁定」に観られる様に「江戸の幕臣の反発」は間違いなく、この「青木氏族」や「江戸伊勢屋」に向けられてあった事は間違いはない。
それは「江戸屋敷」を隣接する「近江佐々木氏」の「青木氏族の研究記録」にも確認出来る事で、目に見えてあった事に成るだろう。
記録に遺す程であるから、「享保の改革」を裏で支えてきただけにその落差は大きく映り、相当のものがあった事は「間違い」は無い。

つまり、この「一つの絆廻船」を「青木氏の戦略」で押し切った事が、「幕臣の執拗な反発」を増幅させていって、「吉宗」も「最大の味方」との「蜜月の関係」を続ける事は出来なく成ったと考えられる。

さて結局は、「青木氏族」から観ると「最悪のシナリオ」の「切欠」と成った「大岡裁定」だが、この「一事不再理の原則」から「吉宗」も動かしに難く成ったが、この様な「事前承知の背景」から「青木氏族」は力を合わせて「摂津」に「千石大船二隻、松阪に大船一隻」を追加建造して名目は”「商船」”として、自ら「四隻の運用態勢」を整えて対処した事にある。
虚を突かれた幕臣側は色々と裏で画策を試みた事であろう。
それは、「陸路運送」と「江戸販売の認可」にあったと観ている。
(「陸路運送」は「伊勢シンジケート」が秘密裏に「横の関係」を使って安全に輸送した。)

「青木氏の伊勢屋」の「商い」の細部に普通ではない「事件記録」が遺されている。
この「陸路運送」では、「青木氏の資料や商い記録」に遺されている事件としては、一例として前段でも論じたが「鈴鹿峠部の通過事件」がある。
ここは「四日市殿の地権域」にあったが、「支配権」は鈴鹿関所として幕府に統治され、「京、大阪、摂津」に出るルートを地元地権者でありながら「関所の大義」を理由に厳しく抑えられたとあり、これで、「陸路搬送の輸送量」が遅退したとある。

「大船建造」は「上記の経緯」と「輸送利用の増大」からもあるが、この「鈴鹿通過事件の件」も大きく影響していたと考えられる。
故に「資料から読み取る史実」や「商記録」に、放念できずに態々記載されているのであろう。

享保の時代中には、「江戸販売の認可」の件では、「菜種油」と「海産物加工品」と「海産物を利用した飼料」を殖産していたが、これを江戸に卸そうとしたが、すぐには認可が下りなかったとある。
中には他の「商人」には下りても、「早出しの伊勢屋」には「認可」そのものが下りなかったものがあったとある。
当時、「害虫被害」が関西で起こったが、これに効く薬が無い事から、「菜種油」を薄めて散布したところ被害が納まった。
ところが、この被害が関東にも及び急拠関東にこの菜種油を送ろうとしたが「認可」は下りなかったとされる商記録もある。

「海の干物、(ほしか)」を粉状にして畑に蒔く事でみかん畑や綿畑などで大収穫が得られた。
当初は使用の出来なくなった「乾物」をみかん畑に廃棄したが、この「廃棄」が効いたか旨くて大収穫が得られたとある。
そこで粉状にして蒔いたところ効果覿面で、それ以後、畑にも蒔いたとあり、商品として関西域に販売して好評を得たとある。
そこで、、江戸伊勢屋にて販売しようとしたが認可はすぐに下ろさなかったらしいことが書かれている。
認可後も、「伊勢の殖産」が広がり各地の漁場の「ほしか」を買おうとしても嫌がらせを受けてなかなか要求量が入らなかったと記載されている。
又、それまでは食物として使用されなかった海藻類を煮出してその液を凝固させて作る寒天などを開発し、これが関西で大流行と成り関東にも送ろうとした。
ところが、これも認可が直ぐには下りなかったとあり、50年以上も後に成ったとある。
事程左様に、「伊勢の射和殖産」も含めて「江戸を含む伊勢屋」には厳しかったとある。

これらには、「圧力という表現」は流石に使ってはいないが、恐らくは、「大岡裁定後の幕臣圧力」であろう。
このような事が積み重なり「青木氏族側」では、「莫大な資金」を投じて「享保の改革資金」を調達しながら「吉宗の優柔不断さ」に対しての「「不満」が沸々と募って行ったと観られる。

さて、上記の事から”「伊勢屋」”を使っての「関東への陸路販売」は流石に難しかった事は否めない。
然し、それでも前段でも論じた様に「質屋」を含む200店舗以上」(チェーンストア)で営業を営んでいた。
「江戸」への「海路の運送」は、「伊勢水軍」を使っていたかは資料が無いので定かではない。
恐らくは、享保期の「伊勢水軍の規模」から考えて「関西域で海路輸送」が限界で難しかった事が充分に予想できる。

然し、依って「江戸の伊勢屋」では、「商品の入荷」は「伊勢シンジケートの陸路運送」で行っていた事から充分では無かった事が予想できる。
然し、一方、享保期前後の「伊勢の伊勢屋」の「殖産」の「製品の販売体制」を瀬戸内までの間を三日毎の「四隻態勢往路復路の入れ替え方式」で行った事は解っている。
中には「人の運搬」も影では行っていたと読み取れる。
史実として”「商船」”としての実績を証明するものとして「浅野家取り潰し」の「蔵出し買い取り」をこの「商船」で一手(大船三隻)に引き受けた事が書かれている。
関西域での「伊勢水軍と四隻態勢」が暫くは続いていた事が解る。(船数は増加)

享保期前後には「駿河水軍との連携」は未だ成立していなかった事が解るし、これからも「伊勢水軍」は「関西域の専用廻船」であった事が証明出来て「江戸」に廻していなかった事に成る。
「陸路運送」は、「陸路の縄張り」と云うか「権域」と云うか海路と同じくグレーの体質があって、これを「シンジケートで通す場合」はその「縄張り」に「渡り」をつけて搬送する必要があった。

結局は「伊勢シンジケート」に執っては適任であり、その「警備と運輸と渡り」に全面的に頼っていた事に成る。
「青木氏族」に執っては、「海路運送」の「伊勢水軍」も「七割株の契約関係(血縁関係もあった)」にあり、「陸路運送」の「伊勢シンジケート(信濃含む)」の「経済の契約関係」にあり、何れも「警備力と渡り力」を持った「運輸力」にあった。
「他の商人」にこれほどの「運輸力」を持った「古い関係」を持ち続けている「犯しがたい氏」での「商人」は全く無いであろう。

これの事実を知れば恐れられる程の「脅威に近い運輸力」に「幕臣」には観えた筈である。

一度、事が起これば「戦力にも成り得る運輸力」である。
室町期までは現実にそうであった。
そこに、「郷氏としての象徴力や権威」があり、「一絆廻船の戦略」を敷かれ、「大船四隻」を持たれれば、最早、「幕臣の政治的権力」の及ぶ範囲には無かった筈である。
そして、況して、幕臣が裏の手を使って「脅迫」などを「伊勢屋や青木氏族」にするものなら逆襲を受ける。

つまり、「伊賀者」には”「郷士の縁戚者」がいる”と成り、室町期初期に「二万の軍」を餓死させた戦績を持つ「関西中部域」に及ぶ「シンジケートの力」と、関東北陸までその勢力を保持する旗本御家人の「秀郷流青木氏の縁戚族」の存在ともなれば、「山田奉行所等の幕臣」には既に「危険域」を超えていた事になろう。
下手に幕府の中で口を開けば、情報は洩れる事に成り、気の休まるところはなかったであろう。
そうすれば、後は「世は必定」で”嫌がらせ”しかない事に成る。

従って、上記の背景から観ても、そもそも、「三日毎の四隻態勢の往路復路の入れ替え方式」で行うのであれば、初めから何も上記の「紀州藩の案件」は煩い「山田奉行所」に出さなかった筈であろう。
決まって「嫌がらせの裁定」が下りる事は必定なのであって、然し、「青木氏族」として出していなく「紀州藩」としては出したのである。
「紀州藩」として出したから「山田奉行の否定の大岡裁定」が出せたと観ている。
それも「御三家」と「将軍吉宗」に対してである。
普通に考えれば「認可」と成ろう。
従って、普通に考えれば、上記した様に、「紀州藩」「御三家」「将軍吉宗」でありながらも、裏には”「三河者」”に執っては、「家康のお定め書」も然る事乍ら、”腹に据えかねる「羨望嫉妬の青木氏族」”が居た事に成ろう。
何度も云うが、「青木氏族」であり乍らも大化期からの「伊勢屋の商人」である以上、上記の様な「高飛車な意識」は毛頭無かったのであって、そもそも其れであれば「商い」は出来ないだろうし、「相手方の持つ否定できない自然の意識」と成ろうし、問題はその「意識の大小」と成るだろう。

従って、「青木氏族=伊勢屋」が執るべき手順としては、戦略上、先ずは、”「紀州藩の申請(ダミー策)」”~”「大船建造(事前建造)」”~”「東周り廻船の申請(事前交渉)」”の過程を踏んだと観られる。
この「戦略の手順と過程の差配」を違える事は、「幕臣の反発」をより喰らい「殖産計画全体」が成り立ち難く成り得ていたとも考えている。
何故ならば、この「大岡裁定」は、「殖産」に執ってはそれなりの影響は否定できないが、「次元の低い裁定」と観ているからで、その「低い思考能力」からすると、「船の建造」を進めていたとしても「影響」だけではなく「運搬」で円滑に全体を動かせなくなる可能性があった。

依って、筆者は奉行所が「案件」を否定したのは、上記の「周囲の意識説」は間違いは無いと観ている。
“伊勢の事 お構いなし"の”「お定め書の事」を気にせず「正しい裁定」を「山田奉行所の大岡」が下した”とあるは大いなる疑問である。

「伊勢のお定め書」の原型は、元々は、「伊勢の国の守護王」であった「施基皇子」に対してもので、「日本書紀」にも記載のある「不入不倫の件」の「伊勢」に下した「大化期のお墨付き」のコピーでもある。
つまりは、「美化の典型」の「大岡裁定」を左右させなかったとある”「お定め書」”は、恐らくは「献納」に対する「見返りの追認」ではないかと考えられる。

これは「家康」が、“バランスをとった”云う事であって、記録めいたものが事更にないと云う事は、「青木氏族」に執っては、”「今更の件でもない」”の程度であっただろう。
つまり、これを「根拠としての裁定」とは、「青木氏の歴史観」からすると、当時としては”何をか況や で馬鹿らしい”であっただろう。

この様に「大岡の一件」を捉えても、「青木氏の歴史観」から観ればこの様に変わり、そもそも、先ずはこの様な事は、普通は「一氏」からの”「史観」”で見る事はしない。
故に、少なくとも「青木氏族」の周囲に起こっていて、或いは関わっていて、「公の史実」と成っている「史観」にはこの様に大きく変わる為に、一度、「遺された史実」を調べ疑問を持つ必要があるのだ。

そもそも、「青木氏族」と云うのは、その様な「特異な立場」(青木氏の歴史観)にあったと云う事である。
少なく遺されている「氏族」の中でも「史実、史観」として掴んでいるのは、「青木氏族と近江佐々木氏族」くらいではないだろうか。
この「二氏に関わる事の歴史観」は大きく変わる事を知る必要があるが、「藤原氏の場合」は各所に遺されている資料が多すぎて、その結果、他説が多すぎて散在し過ぎている気がする。
「氏族」のみならず、「下剋上」で勃興した「姓族」のこれをうまく使われて、それには「搾取偏纂」が多すぎて又論じ難い。
それはそれなりに楽しめば良いとされる論法もあろうが、「姓族の場合」は「氏族」の様な「歴史観」は無い事でもあるが、「最低限の歴史観の辻褄」を合わしてもらいたい。
筆者はあまり採用したくない論法でもある。


上記の「権威の話」に戻して、「武士の媒臣の末端」まで求めた「真偽は別としての偏纂」に等しい根拠ある「黒印状の発行」を求めた。
殆どは「系譜の搾取偏纂」である。
つまりは、前記はこの論に入る為の説明であったが、さて、そこで次に続ける。

さて、「青木氏の歴史観」を更に高める「史観」が更に他にもある。
それは、「青木氏族の個人情報」に関わる事であり、この資料を表には出せない。
そこで、他の「青木氏族「」もほぼ同じ経緯にある事を前提に、筆者の「伊勢青木氏」を例に以って考察してみると、上記した様な」「殖産「」に纏わる事件などには「伊賀郷士を含む伊勢郷士との絆」が「青木氏の存在」を大きく左右させていたのである。

従って、それがどの程度のものであったかをこれを「論理的な歴史観」で考察して置きたい。

この「地元郷士との絆」が、どこの「青木氏族」にも働いていて、「青木氏族」のみならず「近江佐々木氏族」にも働いていた事が「近江佐々木氏の研究資料」からも解り興味深くい。
矢張り、「近江佐々木氏」も「氏存続の為」には「絶対条件の歴史観」としてこの点に着目していて研究されている。

余談ではあるが、興味深いのは、前段でも何度も論じているが、その「絆の関係氏」として「青木氏族」を広範に研究されている点である。
これは「施基皇子」の弟の「川島皇子」、つまり、「近江佐々木氏の始祖」で「妾子(忍海造古娘)」であり、共に「大化期の賜姓族で臣下朝臣族」で、同じ役務など「氏存続のシステム」を共にすると云う事も「初期の段階」ではあった。
然し、何はともあれ、平安末期に平家に討伐されるまでは存在した「近江青木氏」と血縁した「近江佐々木氏系青木氏」が存在した。

この関係から「青木氏族の詳細な研究」に至ったと考えられるが、「四掟の範囲」として「出の嫁」から「女系」でも平安期から江戸期初期まで「近江佐々木氏」や「佐々木氏系青木氏」と何度も繋がっていた事が考えられる。
これは史実にもある。



> 「青木氏の伝統 42」-「青木氏の歴史観-1え4日」に続く。
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[No.359] Re:「青木氏の伝統 40」-「青木氏の歴史観-13」 



◆ [No.359] Re:「青木氏の伝統 40」-「青木氏の歴史観-13」 
投稿者:福管理人 投稿日:2018/02/19(Mon) 10:06:17
>「青木氏の伝統 39」-「青木氏の歴史観-12」の末尾


当然に、室町期末期の「商業組合」の「15地域の青木氏族」との相互に「女系族」で繋がったは必然の事であろう。
云うまでも無いが、この「血縁の繋がり」を無くして「商業組合も殖産」も、江戸期の「氏家制度と封建制度」の「閉鎖的社会」の中では成し得なかった事であって、その事があって「商業組合の15地域」には「秀郷流青木氏族の商人」も含んでいる所以と成っているのである。
これにて「何らかの血縁」に依って「商業組合と殖産」は成し得たと観ている。
そして、それが、況や、“「女系族」”であったと説いている。

その最たる見本が、前段で論じた「射和商人の殖産」であったのである。
逆に言えば、「射和商人の殖産」は「女系族」を完成させたという事にも成る。

次の段では、この「女系族」を完成させた“「四六の古式の概念」”と云うものが「青木氏族」にあった。
「記録と関係族の口伝」でこの概要があった事を知り、これを時間をかけて解明した。
これに付いて次段で論じる。




「青木氏の伝統 40」-「青木氏の歴史観-13」

「女系族」の「四六の古式の概念」

さて、話を少し戻す事に成るが、「上記の女系族」の「清らかな血縁性の源流」の為にそこでより考えられたのが、これが前段で論じた「四六の古式の概念」であった。

つまりは、“四を保ち六を入れる”とすれば論理的には「純血性」は保てる事に成ると云う考え方である。
それには、この「四六の古式の概念」で得た“「純血性」”、つまりは、「青木氏族」ではその「歯止め」と云うか「指針」と云うか「基準」とするかそれを定めたのが“「四掟」の事”に成る。

然し、「現在の概念」で考えてみれば、「六」が「四掟(六掟か)」で縛り、「四」が「入り」に成っての以上程度が、「完全純血」が無い以上は、始めて“「純血性」”と云える論理だとも考えられる。
然し、これでは前段で論じた様に「血縁性の弊害(唖子等)」を出す所以と成っていたと云う事であろう。

(注釈 これが「六四の概念」以上を保とうとする「天皇家の理屈」であろう。)

筆者は、「青木氏族」はこの時期の頃から既に「血縁性の弊害」のこの「経験値」を獲得していたと観ている。
そして、そのより「弊害を薄める方法」を今までの「男系」に頼るのではなく、前段の論理性で“「女系」で行う”と云う方向に舵を切っていたと云う事なのであろう。
当時としては、「皇族朝臣族」とは云え未だ「妾子族」への「社会の見方」はそれほどでも無く、より「妾子族」であるが故に「血縁性の弊害」には神経をとがらせ「経験値」を得ようとする姿勢が強かったと考えられる。
現在医学から考えて、当時としては充分な医学的根拠なくしても、「経験値」で「雄」があくまでも「補完役」であって、主は「女系(雌)」が「人の類」の「遺伝情報」を引き継いでいるという事を知っていた事にも成る。
そうすると「男系の継承」を逆の前提としている「社会の中」で、或いは、もっと限定すれば「皇族系の中」では、この「考え方」は明らかに「異端」であった事に成る。
これは、恐らくは「宋貿易」をしていた事に依る「知識の吸収」の影響ではないかと観られる。
そして、「宋貿易以外の知識」を補完するものとして、それは「経験値」のみならず「人の類」(雄雌)の「外見上」からの「雄」が持つ身体上の「四つの不要な差異(前段で論じた)」を分析して見抜いていた事にも成る。

「歴史観的」にもっと云うと、その「分析の知識」、或いは、「確たる鋭利な感覚」が強く「青木氏族の中」にだけあったという事にも成る。
そんな「異端の考え方」が果たして「志紀真人族」の中にだけ許されたのであろうか疑問に成る。
然し、何故か現実には成り立っていたのであった。
そうすると、“何かがあった”から「賜姓五役の立場」の「志紀真人族」には許されていた事に成る。
その“何かがあった“とするものが何なのかである。

そこで、更に云うと、「宋貿易の知識吸収」のみならず、中国の紀元前の「華国の時代」の「国王の歴史」を始めとして、そこで起こった「知識」を獲得していた事にも成り、大和では「天皇家」が「権威と象徴」を保つ事の為にだけ「純血と云う事」で、この“「六四の掟」”に拘っていたからこそ「青木氏族等」はこの”危険性”を感じ取っていたのではないかと考えられる。
そして、「志紀真人族」はこの”「危険性」”から鑑みて、「孝謙天皇期」では、最早、“「純血性」が保てなく成った”と云う事を事前に読み解いて知っていた事にも成ろう。
それは、「華国」を始めとして中国に興った国々の歴史期間を見れば約50年程度で滅びている事の知識であった。
この様に「純血性」に拘り過ぎると「国王、或いは、天皇」の「権威の象徴」を消失する事にも成り得る「世の掟」であろう。
つまりは、この「経緯」から観ればすぐ近くで“滅びる”と云う前提にあった事に成る。

(注釈 この時期迄に百済を経由して「王仁等の渡来人」の「中国人の学者」が多く渡来して大和に「中国文化と歴史」を伝えていて知り得ていた筈であり、「国家体制」を確立した大化期では是非に知り得なければならない進んだ国の情報であった筈である。)

それなのにでは何故に、「国王や天皇」は「権威と象徴」の為に例外は無く「純血性」に拘ったのであろうか。
それは、それ以外に方法が無いからであって、「武力と云う方法」もあるが、それでは「武力」によって潰された者の「恨みの輪廻」が増幅する事に成り、「人」を束ねる事は何時かは出来ない事を「経験値と情報」で知っていた事に過ぎない。
故に、「蘇我氏」等を危険を顧みず苦労してこの「周囲の力」を集めて「武力」で取敢えず抑えたからこそ、「天智天皇の大化の改新」では、研究書では「天皇を凌ぐ蘇我氏の専横」と結論付けられてはいるが、確かにその事(武力の脅威の心)もあった事は否めないが、「武力」に頼らない「制度的な対応策」を考えた事に成る。

(注釈 この「皇族」は勿論の事、或いは、「公家族」や「武家貴族」の考え方には、”「武」を持たない”とする「ステイタス」が、江戸末期まで保たれた所以でもある。
”「武」を持つ事はその位格を傷つける”事とする「暗黙のステイタス」があった。
表向きの理由は別として、”「衰退と滅亡の恐怖」に喘ぐ事”と成ると考えていた筈である。
現実には、”「衰退と滅亡の恐怖」に喘ぐ事”から逃れようとして室町期にはこれを破った平安期の「源氏」を始めとして室町期の公家族の「北畠氏」、「西園寺氏」、「一条氏」等は結局は滅亡した。)

唯、元々、「武力だけへの対応」は、「ある条件」を除いて何時の世も論理的に無理であろう。
「武力を持たす姓」が今度は蘇我氏の様に成れば元の木阿弥である。

では、この”「ある条件」”とは、一体何か。それが次ぎの事に関わるだろう。
然し、そこで「天智天皇」は、不思議に、それも唐突にも突然に「后妃嬪妾の制度」を「国の制度」に取り入れて実行した。
この事は、先ずは「権威と象徴」の為の「純血性の維持」に依って、“「天皇家を弱めると云う危惧」”を抱いていた事に他ならないと考えられる。
この侭では「蘇我氏」の様な「象徴と権威」だけに拘らない「自由な血縁性を持つ豪族」にその「天皇の立場」を奪われると危惧したのである。
そして、その上で目の前に起こっていたその「きっかけ」と成ったのが、”「純血性」から起こる「唖子(軽皇子の事)」に象徴される事にもあった”と認識していたと云う推論である。
つまり、「数多くの唖子の現出」が「天皇家の権威性」が低下させると認識していた事に成る。
故に、”外からの脅威の「武力」”と、”内からの象徴を脅かす「純血性の弊害」”から逃れられ、且つ、これらに頼らないで「権威と象徴」を樹立する事にあり、この為にはこの”「ある条件」”を確立させる事に気が着いたのである。

そこで、この”「ある条件(妾子を利用する事)」”を確立させるに必要とする事の為には、「国家成立」後初めての「政治の大改革」、つまり、「大化の改新と云う制度の創設」などに依る改革を決断したのである。
何としても「激しい抵抗」を受けながらも断行し推し進めるしか無かったという事に成る。
故に、先ずその為には、”先ず隗より始めよ”であって、”「妾」”を”隗”と見立てて制度として唐突にも「公」に取り入れたのである。
これが先ずは”「ある条件の対策(妾子の環境造り)」”としたと読み取れる。

これは勿論の事、「純血性(イ)」を緩和し、且つ、「豪族との繋がり(ロ)」をより一層強化する事に意味があった事は云うまでも無い。
ところが当時の「貴族社会」としては、そもそも“「妾」を制度化して採り入れる事”のそもそもが極めて“「異端」”であった。
確かに「青木氏族等」も「四六の掟」で、“「異端」”のところがはあるが、親元の「天智天皇」も元より「異端」を演じていたのである。
これでは「四六の概念」を持った、或いは、「四六の概念」を持たされたとしても「非難される筋合い」は必然的に無く成る事と成る。

それが、(イ)や(ロ)だけであるのならば、「后、妃、嬪」と「妾」の系譜や「三つの身分制度」から観ると、そもそも、何も、「后、妃、嬪」の階級だけでも済む筈であり、これは判るとしても、態々、“「妾」”を制度に明記する必要性は何も無くそもそも一見してこの制度としては「変」である。
普通では、“「妾」を持った”としても補助的に「子孫を遺す目的の為」として「高位の者」が持つ事は「何処でもあり得る仕儀」で放置して置くものであり、それを態々制度して書き込んだとする事には、そこの“「異端」”には“「何らかの意図」”があった事を示すものであると観る。
そもそも、その環境として、つまり「天皇家の基礎環境」としては、それ以前は「六四の掟」ではなく「七三の掟」位以上であった事が判る。
然し、後勘として観ても、この何も対策を採らない侭の「純血性」であるとするならば「七三の掟」にしても「六四の掟」でも、どう考えても「血縁性の弊害」を防ぐにはこれでは無理である事は明々白々である事が判る。
結果としては、その「権威と象徴」は低下してその行く末は目に見えている。
だから、この上記の様な切羽詰まった「天皇家の中の基礎環境」があり、そもそも「制度」として「妾を制度化」し、その上で“「妾子を賜姓」”して、且つ、「臣籍降下族」としたと成るだろう。
「妾子族」では無く、「后、妃、嬪」の「嗣氏族」ではこの周りには「姓族の傍系尊属」が付き纏いその「天皇の立場」を侵されるは必定である。
そこで、この「遠隔の地方の土豪を外縁」とする事で心配は無く成り、その上で”「妾子族」”とする事にすれば、これ成らばある程度に納得できる。
然し、それだけでは済まい事は明らかである。

つまり、この為には「后、妃、嬪」の族から護る為には、”「周囲の策」”を固める必要がある事に成る。
この経緯を先ず「お膳立て」をして、そこで生まれるその「施基皇子族」や「川島皇子族」の様に、その「経緯の最終」はこの“「妾子ルーツ」”に頼る事にする、或いは、頼らなければならない事にして行くその様に運んだと考えられる。
然し、故に、この「二つの欠陥」をあまり持たない「四六の概念」を持つ”「妾子族」”であるがこそ「頼る事」としたと観られる。
”「周囲の策」”を凝らした上で頼る以上は、この「四六の概念」が「必須の条件」と成ったと云えるのである。
これが「青木氏の歴史観」から観れば、”「大化の改新」の「大きな背景」”ともしたとも又云える。

注釈として、現実に、そこに至るまでには”「周囲の策」”、即ち、多くの”「成すべき手立て」”が必要であった。
そこで、先ずはそれまでは「真人族の皇子」は、「第六世族迄」であったがこれを先ず「四世族迄」とし、「真人族」は「第四位迄」として制限して、これから外れた四世族までの元皇子を王位に下げて遠隔の主要各地に遥任を認めない「守護王」(a)として配置し固め、そして「第六世族」以降は例え元は「嗣子族」であっても無冠の「ひら族・(坂東八平氏)・(たいら族では無い)」(b)として下げて「坂東の警護」に廻した。
当然に”「遥任」”でない以上は土地に根ずき「末裔」を遺す以外に無く成ったのである。

つまりは、これが「天皇家が恐れる姓化」であったが、「姓化に成る事」を事前に承知した上での「恣意的な配置」をした事を意味する。
遠からず「嗣子族」が必然的に姓化に成るとするならば、「都付近の姓化」よりも、「遠隔地の姓化」と成る方が”より安全である”と判断した事に成る。
そして、その代わりに「四世族内の第六位皇子の妾子族」には、「都の天皇の警護」と「都を囲む主要五天領地の遥任の守護王」として配置して固めたのである。
例え、「遠隔地」に配置され、”「ひら族扱い」”に成った「第六世族以降の嗣氏族」から観れば、”何が妾子族ぞ”とする「蔑視の感覚」はあったであろうが、「妾子族」であっても「第六位皇子とする制度化」に依って抗う事が出来なく成った、或いはその様にしたのである。

この状況は以降、「天皇」が変わる度に起こる事には成るが、その度に全ての「姓化に成る嗣子族」が都近くにいる事はそれだけで危険であり、これを避ける為には先ずは「遠隔地」に追いやり身を護る策を採った事に成ろう。
普通ならば「嗣子族]だから「身の周り」に置いて固めるとする策と成ろうが、然し、この「常識的な一般策」を採らなかったのである。
そこには歴史が教える”「嗣子族」”の”「外縁族の影響」”での”「姓化」”が必ず起こる事を学習した結果の対策であった。
当然に、外縁族が都の周りに増え続ければ、その発言力は増し、天皇の立場を侵される事にも成るは必定で、そこで嗣子族を遠ざけた事に成る。
これらから観ても、明らかに「四世族内で第六位皇子(妾を制度化する事で皇子に成る)」の”「妾子族」”で身を護り、且つ、それに必要とする第二弾の「順次改革」を進めたのである。
これで、その後裔が広範に広がり「姓族化」に成り安い”「嗣子族」”で固めずに”「妾子族の身内」で固め頼った事はよく判るし妥当だと考えられるのである。

そこで、「青木氏族」を客観的に観れば、この経緯から観ても避ける事の出来ない”「嗣子族の姓化」”で、次第にこれに対抗する「青木氏族等の妾子族に掛かる負担」は難しく大きく成った事は充分に予想できる。
要するに、ここには「第六位皇子の妾子族」が持つ「四六の概念の有無の基準」が存在したという事に成る。
この「四六の概念」を持たない「自然発生的な姓族化」は防ぎきれ無い定めに有っても、そこで、「四六の概念」を敷きながらも「賜姓五役」を務めるという事は至難の業であった事に成ろう。
普通なら、”そんな「面倒な四六の概念」なんか捨てよ。「妾子族」であろう。”と成るだろう。
然し、「青木氏族や佐々木氏族」は捨てなかった。
つまりは、「姓化」はしなかったという事に成る。
そこには、「大化の制度化」に依って、本来であれば”「妾子」”で終焉する筈であったが、「天皇の意」に顧みて「第六位皇子と云うプライド」がそれをさせ占めた事に成る。

(注釈 然し、後には「aとb」は、姓族化した事で、矢張り、遂には「逆の事」と成り失敗に終わる。
その「失敗の終焉」は、見事に「鎌倉幕府」の後ろ盾に成った「姓化した坂東八平氏の勃興」であった。
即ち、「四六の概念」を捨てた「第六世王族の末裔の姓族化」であった。
つまり、この姓化で結局はその「招いた事」は「蘇我氏の専横以上の事」と成ったのである。この姓化の結末は矢張り「世の定め」と捉えられた。
所謂、「武に頼る嗣子系の姓族」と「四六の概念を済に求めた妾子族」とには、その「生き方の差異」は生まれていた。
然し乍らその最終の経緯は、室町期終焉では”「姓の武」と「氏の済」の勝負”と成って行き「四六の概念」を敷く「氏の済」が勝利を得たのである。)

(注釈 然し、さて、これだけの「改新の改革」を立て続けに実行する事は現在でも難しい。
これを「取り巻く勢力(蘇我氏など姓族と姓化の姓族)」が黙っていない事は直ぐに判る。
況や、「世の定め」として大きな「立場上の利害」は生まれる。
それだけに「世の定め」とは云え「天皇の身辺」は元よりその膝元の「要害と成る都を護る事」は高まり、この”「妾子族」(氏上と氏人の族)”で護る必要性は高く成り、「主要五天領地の警護」も「妾子族の青木氏族」等に委ねたと成る根拠である。
「姓族」では無く「妾子族」に任した発想は、「三相」を得て戦略的にはよく考えられているだろう。
唯、「妾子族の四六の概念」に護られた「氏上と氏人」に依るこれの「防護態勢」には、「姓族化の進捗」が大きく影響する事と成り、そこに限界が生まれるは必然であろう。
そこで、平安期中期前頃から室町期末期までにかけては、「妾子族」は「四六の概念の縛り」から、敢えて逆の手を使って「戦国で滅びた姓族」を集めて「経済的契約に依る防護体制」、即ち、「影の武力組織」の「シンジケート体制」を構築して、「氏上と氏人に依る防護体制」の「自らの補完策」を採った。
当然に「藤原秀郷流青木氏の補完役」の上により強固にする事で対抗した。
従って、「妾子族」の「自らの武」は「四六の概念」の上で絶対に執らなかった。
つまり、「直接威力」では無く、”「抑止力」”であった。
この意味で「四六の概念」=「抑止力」の関係が成立していた。
「氏人の関係」は兎も角も「四六の概念」の中の「補完役の青木氏との関係」は「青木氏族全般」を形成する上で絶対的条件の中にあった。
この「二つの抑止力」は”「姓族」”に執ってはこの上ない”恐怖”であった事は予想できる。
況してや、この「二つの抑止力」の上に「上記の済」が伴うのである。
済に依る持久力があり、且つ、何時、何処から攻め込まれるかもしれない”「お化けの様な影の力」”を持ったものに襲われるかも知れない「抑止力の勢力」にこれに適う「姓族」はいないだろう。
そして、「天皇のお墨付き」を持つ「妾子族と云う権威」が着いている。
逆らえば、例え姓化した「嗣子族」でも「逆賊の汚名」を着る事に成る。
この「恐ろしい勢力」が「天皇を護る」とした場合は、当時としてはこれらは”考えられない発想”であったと考えられ、周囲は唖然とした事の様子が目に映る。
これらの事の一切は、「妾子族の四六の概念の所以」と成り得るのである。)

(注釈 「姓族」では無い「補完役」の「藤原秀郷流青木氏の補完役」を作っただけではその「抑止力の効果」はない。
そこで、「天皇」、即ち、「朝廷」は、「秀郷流宗家」以上に「藤原秀郷流青木氏」を広く「24地域」に広げ、且つ、多く「116氏」にしてこの「抑止力」を高めた所以であると観ている。
普通ならば、賜姓して補完役を命じたとしても、その秀郷流宗家以上に力を持たす事は無かった筈である。これが前段でも論じている「第二の宗家」と呼ばれた所以でもある。
所謂、これが「永嶋氏」や「長沼氏」や、将又、広く「長谷川氏」や「進藤氏」を含む「青木氏族」である。
ここまで「補完役」が広がれば「外縁族の北家藤原一門」を含むどの様な勢力であっても「妾子族」には手を出せないであろう。)

(注釈 「佐々木氏族」が「補完役佐々木氏」とどの様な関係を構築していたかは良く判らない。
唯、「近江宗家佐々木氏」が出している研究書から観ると、「宇多源氏佐々木氏の補完役」との関係が観えず、むしろ、「青木氏族」に関する「秀郷流青木氏族との関係の研究」が目立つ。
これが歴史的にどの様な意味を持っているのかは研究は行き届いていない。
不思議な疑問の一点である。
これに付いては予想の域を脱しないが、各地に余りに姓族化して散在する「補完役との関係性」が良くなかったのではと考えられる。
それはあまりの「補完役の姓化」で「近江宗家が持つ四六の概念の域」を超えていたからであろうか。
それは、研究書によく出て来る「近江佐々木氏系青木氏」に表れている事であって、「四六の概念」を敷く「青木氏族」の「近江青木氏との連携」を執っていた事からも凡そは読み取れる。
「補完役の宇多佐々木氏」よりも近くにある「近江青木氏との関係性」を重視したと云う事に成るだろう。
それは、「近江宗家佐々木氏」と「近江青木氏」とには、固い”「共通する点」”があって、”「天智天皇の妾子族」で「同祖」として、同じ「四六の概念」を敷く一族と観ていた”と云う事に成るのではないか。)

だが、この「妾子の賜姓」には、「天皇家の基礎環境」の中では、要するに「目的」が上記の二つ(イとロ)、言い換えれば「天皇家の保護」と、「純血性の維持」にあって、その“二つが上記の”「妾子の事の目的」”とも深く連動していた事”に成る。
況や、これが発祥時から「青木氏族や佐々木氏族」の中には、この「連動目的」から逃れられない”「宿命があった(「四六の概念」)」”のではある。
だが、そこで「天智天皇」は「大化の改新」で「青木氏族」と「佐々木氏族」を”「妾子族」”でありながらも、この”「宿命」”を持たす為にも、前段でも論じたが“「直系尊属(皇族の朝臣族)」”として発祥させた事の所以にも成るだろう。
当時としては、本来であれば、”「系譜」にも抹消される立場”にもあった筈である。

(注釈 「嵯峨天皇の詔勅」に依って「青木氏」に代わって賜姓を受ける様に成った「源氏」には賜姓を受けない源氏も実に多かった。
歴史的な記録からに観て、全源氏22源氏と称される内のこの「賜姓有無の基準」は、「皇位に残れる事の差」、即ち、大枠で「嗣子と妾子との差」にあってその約半分に当たる。
嵯峨期以降で、「嗣子族」を含み「妾子族」として遺れた族は「姓族」や「氏族]としても皆無である。
正式に「源氏族」としては、「花山源氏までの11流」を最後にその”「正式な目的」”は終えている。
「各地の源氏土豪」とする説は、この「正式な目的」から逸脱していて、到底、「源氏」とは云えず「江戸期の後付けの偏纂(黒印状)」であって、殆ど”「僧侶」”としてその族を遺さず一生を終焉している。
その「食」に苦しみ「天台宗寺院、門跡院、善光寺、真言宗」の記録を観れば、その「源氏と成り得た人数」からも数は合わない。
それは、前段でも論じたが「善光寺の内部の組織」を観れば一目瞭然である。)

この「注釈の事」を配慮すると、外から観れば、同じ運命にあった「妾子族」の「青木氏族や佐々木氏族の妾子族」は、これはまさしく世に示す特別な”「妾子の権威付け」”であった事に成るだろう。
つまり、「天皇家の基礎環境」には、「妾子を権威づける絶対的必要性」があったと云う事である。
「嵯峨期以降の賜姓族」は、その「四六の概念」等を始めとする”「正式な目的」”は霧消している事である事から比較すると、その大化期の「妾子族の位置づけ」は比較に成らないものとして証明できる。
その「決定的な所以」として位置付けた上で、その上で「四六の概念」等を敷く事を前提して”「賜姓五役」”を与え、”「皇位の准継承族」”と更に位置付けたものでもあろう。
これで、後の「源氏族」の様に「無役」では無く、”「妾子族」”であってもこれで「絶対的存在価値」を世に示した事を意味する。
ここから「大化期の妾子族」は、”世にその存在を認められる様に成った”のである。

その最たる経緯が、「妾子族の青木氏族」は嫌ってはいたが、「孝謙天皇期の白羽の矢」”という事に成る。
その意に反する「経緯の状況」は、同じ「青木氏族の嵯峨天皇」に依って「打ち止め」された。
長く云えば、その経緯は「仁明天皇」迄と成ろう。
「四六の概念の論」を結論付けてしまうが、「始祖と後裔」の”意に反していた”とする処から観れば、「青木氏族」に執っては一時は「嵯峨天皇」に苦しめられたが「子孫繁栄」では縛られることも無く却って良かったかも知れないとも考えられる。
前段でも、論じたが「嵯峨天皇」の「隠された真意」はどこにあったかは今と成っては判らないが、「青木氏の歴史観」からすると後裔としてはここにあったのかも知れないと思いたい。


(注釈 「妾子族」を系譜から外す慣習は武家社会に成っても長く存続する概念でもあった。
因みに、「清和摂津源氏宗家の源の頼政」の孫、「仲綱の子の系譜」には、「伊勢青木氏の跡目」として入った「妾子の京綱」を一部で記載しない古書籍もあるくらいである。)

(注釈 前段でも述べたが、”「妾子族」の「青木氏氏是」”は、この「権威付け」で「施基皇子の青木氏族」と「川島皇子の佐々木氏族」に限っては「妾子族」は世に強く認められる様には成ったが、「天皇家を護る族の範囲」を超える事無くこれを前提として、”頭に載って前に出過ぎるな”とする”「絶対的戒め」”である。
「物語る事」はこの「氏是」に尽きると筆者は観る。
唯、「佐々木氏族」にはこの「佐々木氏氏是」になるものがあったかは、「佐々木氏の宗家の研究書」を観る限りに於いて明確ではない。
然し、研究書から読み取れる範囲では当初はあったとも採れる。
唯、「補完役」として出自の「宇多源氏の佐々木氏」の出現で消えてしまったのではないかと考えられる。
「近江佐々木氏の宗家末裔」の「剣豪佐々木小次郎の書」を観ると、衰退していた「近江家宗家の御家再興の行」から「氏是の様な行動規範」で動いていた事が読み取れる。
この事から「青木氏族」と同じ境遇にあった事から、当初は、つまり、平安初期頃(中期頃か)迄は「宗家」だけには確定は出来ないが受け継がれていたのではないかと想像できる。
何をか況や、「近江宗家の佐々木氏族」には、仮に「佐々木氏氏是」が細々と宗家だけに受け継がれてあったとすれば、江戸期頃までは「四六の概念」も受け継がれていたするパロメータにも成り得る。
筆者は、「宇多源氏佐々木氏の姓(890年代頃)」が出自の段階で、単独の「総宗本家」だけは別としても、「佐々木氏族全体」として霧消したと観ている。
少なくとも「青木氏族」も大きなダメージを受けた「嵯峨期の詔勅頃迄」はあった事は充分に頷け「四六の概念」の形を変えて江戸期直前まで維持していた事は前段でも論じ事である。
その「佐々木氏氏是」、将又、「四六の概念」の存在の証拠は、「佐々木氏系青木氏の出現」にあると観る。
そうでなければ、「四六の概念」の基となる「四掟による血縁」は起こり得ず、「佐々木氏系青木氏の出現」も成し得ないからである。
つまりは、「佐々木氏氏是」、「四六の概念」、「四掟」も「佐々木氏系青木氏の出現」迄は存在していた事を意味するものであるからだ。)

(注釈 そもそも、追記するが”「源氏の呼称」”の原点は、中国の「魏」の皇帝が他国を滅ぼし、その国の王を上記した儀式で家臣にした時に、その「祖」は同じとして、その者に「源」と名乗らせた。
この「中国の経緯」から「天智天皇の妾子族の青木氏族」と同じとして「源」の氏名を「嵯峨天皇(志紀真人族・青木氏族)」は与えた事に依る。
この「源の意味」を知った上で、その「生き方」は上記や下記に論じている様に違ったが、「青木氏族と源氏族の関係」を理解する必要がある。
尚、「源の呼称」として、目的から観れは「花山源氏」、ルーツ的にみれば「仁明源氏」迄であろう。
後は、その「目的とルーツ」から正確には”「源」”とは言い難い。「慣例に依る呼称」であろう。
「青木氏の歴史観」から観れば、「青木氏族」と繋がる「源」が「源」なのである。
故に、「嵯峨天皇の親元の青木氏族の象徴紋」の「笹竜胆の継承」と成った。
つまり、「目的とルーツ」からは「仁明源氏」迄は正しい事に成り「笹竜胆紋」は納得できる。
唯、「清和摂津源氏」の「宗家の四家」の「頼政との繋がり」を「青木氏族・伊勢と信濃」が持った事では、「目的とルーツ」では「源氏と笹竜胆紋」は納得できる。故に使ったのであろう。)


さて、そこで「華国」の様に、“初めて執った「国家形式」”の、“初めての「妾子族」に対する「酒瓶に基づく家臣儀式」”だけでこの事が済むのであればいざ知らず、その侭では必然的に生まれてくる「家臣力(官僚族)の拡大」は防ぎきれ無い。
そこで、「中国の華国」等の「滅亡に至る結果」を観る様に、これを「事前知識」として知っていた「天智天皇」はこれを避ける為にも、「大和」でも「家臣の蘇我氏等」に対抗できる“「直系尊属」を「天皇家の外に造り上げる事」”で対応したと観る。

故に、その為に「絶対信頼できる身内」の「妾子族の皇子」に「一定の規則(四世族内第六位皇子)」を宛がい、その「皇子」に“「賜姓」”と云う手段を始めて使ったのであり、「家臣の豪族の朝臣族(高位の官僚族)」に、「皇族の朝臣族」を加えて創設し、「華国の習わし」を用いて“「酒瓶」”を交わし与え、権威付けの「象徴紋」を与え、「氏神木」を定めてその行事を神格化し、「賜姓五役」の「令外官の役目」までを与えると云う事までは行わなかった筈であると観ている。
明らかに、これは正式で完全な「二つの目的(イとロ)の為の儀式」である。
この“正式で完全な儀式(賜氏の儀式)を世に見せる事”で、「妾子族」であってもこれは明らかに蘇我氏等の様な「豪族に対抗し得るだけの権威のある力」を着けさせた事を世に示した事に外ならない。

そこで、この上記の通りに、この様な「天皇家」の中にも、この様な“「下環境(基礎環境)」”があり、「異端(四六の概念の保持)」な「皇族賜姓臣下族」だけに文句をつける筋合いは、「天皇家」は元より“「周囲の官僚族」”にも無かった事に成る。
この“「異端」”とも観られる「四六の概念」を敷く事には、そもそも“「異端」”どころか、「違和感」そのものが無かったと観られる。
百々のつまり、この「青木氏族や佐々木氏族」の“「四六の概念」”は、「皇族賜姓臣下族」として「当然の事」として認められていた事にも成り得る。

(注釈 これらの「賜姓時の儀式」に授与された「遺習物品」のものは「記録」を含めて「伊勢青木氏族」に現存保管されている。
「近江宗家の佐々木氏の研究記録」に、この「遺習物品」に付いての記載がないので「佐々木氏族の近江宗家」に存在するかは確認が取れていない。)

(注釈 そこで飛鳥期から始まり奈良期の当時は、そもそも、歴史的に“「賜姓」とはどのような位置づけに成っていたか”に成るのだが、その「日本書紀の記録」に最初に観られるものとしては、つまり、先ず“「賜姓」”に付いての「最初の歴史」に観られるものとしては、「垂仁天皇期」にあり、“敦く湯河板挙(ゆかわたな)に賞す。則ち、「姓」を賜ひて「鳥取造」と曰ふ”とある。
これは「中国の華国」に観られる様に「家臣(官僚族)」に成る儀式に対しての「姓の賜姓」によるものであって、且つ、「氏名の賜姓(皇族)」の最初は、同じ「日本書紀」にも見られる様に「天智天皇期」にあり、これら「家臣(官僚族)」に対する「姓名」と、「皇族から臣籍降下した皇子」に対する「氏名」を二つに分けて正式に制度化した事に成る。
この意味は「青木氏族」や「佐々木氏族」に執って大きい。)

「姓名(官僚族)」と「氏名(皇族系朝臣族)」との違いと、その「目的の違い」からすると、前者は当に「賜姓」で、後者は明らかに「賜氏」である筈である。
然し、「日本書紀」では、「賜姓「の「二つの事例」で「賜姓の言語」を使っている。
この事は、且つ、「天智天皇の意」を引き継いで上記で論じた様に「二つの目的」で制度化したのは、「八色姓制度等の政策」にある様に「天武天皇期」にある。
つまりは、「姓族の賜姓(官僚族)」と、「氏族の賜姓(皇族朝臣族)」とは、「考え方」を別にしていた事に成る。
これが後に、上記の“「周囲の官僚族」“として記した「朝廷内を構成する姓族」に対するものを、その「目的」はさて置き、兎に角はその違いを明確にしようとした「嵯峨天皇の新撰姓氏禄」(下記に論じる)に繋がって行くのである。

(注釈 然し、ここで考察として、その前に、記したいのは「垂仁天皇期」のそれを“「姓(かばね)」”としている以上は、「中国の華国」に見習って「家臣・官僚に対する制度」を前提としていて、「賜姓」は「酒瓶の儀式制度」と連動した制度あった。
従って、当初は「家臣(官僚)」に対する「儀式の一環」で、少なくとも「氏名」とする「皇子」に対する「臣籍降下の賜姓」では無かった事に成る。
「天皇の立場」から観れば、儀式化に依って、「姓」は、他人の「家臣又は官僚」、「氏」は、「身内の同族」と見極めていた事に成る。
「他人の姓」は元より、この「身内の同族」にも、”二つに分けて観ていた”という事に成る。
その「判断基準」が、「姓化の有無」、即ち、「四六の概念の有無」、将又、「嗣氏族と妾子族の差異」との三つにあったと観られる。
この「天皇の三つの判断基準」からすると、残るは妾子族という事に成ったと云う事である。)

そもそも、その「賜姓の目的」は異なる。
上記した様に「本来の意味」、又は、その「目的」からすると「賜姓」では無く「賜氏」であるのだが、それを明確にしている証拠が「日本書紀の天武天皇の発言」(前段でも記したが改めて記す。)にある。
後に、「ある種の問題」が出て、敢えて、ここでこの「官僚族に成る賜姓」、つまり、「姓族に成る賜姓」と、「皇族の臣籍降下の賜姓」とを明確に分けようとした、或いは、分けて違いを明確にしたものである。
然し、判る範囲では、この「違い(「ある種の問題」)」から始まって、「三代の天皇」が正式に手掛け、遂には「新撰姓氏禄」たるものがまがり乍らも編纂されたと考えられる。

筆者は、この計画は正式には「最初の淳仁天皇」の前の“「持統天皇期」”から既に企画されていたと観ている。
「官僚族に成り得る姓族の賜姓」とは別にして、この新しい「皇族賜姓臣下族の賜姓」、つまり、「臣籍降下の賜姓」を始めた「天智天武の意向」を継承した「持統天皇期」にあると観ている。
その「根拠」と成るのは、「日本書紀」にも記されている“「天武天皇の発言」”にある。
それまでは、「朝廷内の高度な専門性の持った官僚族」は、殆どが「蕃別」に記された「後漢からの渡来人」であった。

(注釈 改革を進める上で、「天武天皇」は「進む改革」に対してのその進捗状況を官僚から聞き、「家臣・官僚」に厳しく問いただしていて、その「問題点」を指摘され、その事に対する「命令」を下している行である。)

つまり、前段でも何度も論じられた「阿多倍王」に率いられた「後漢の部の族」と云う族で、その専門域を「・・部」と云う呼称で括り、「極めて優秀な官僚族」で占められていた。
“「大和の民の官僚族」が育っていない“と云うその事を憂いた「天武天皇」は、官僚の部下に”「大和の民」にも「優秀な民」を選んで早く「姓(官僚族)」にしなくてはならない”と命じている。
「後漢の部の民」は、「高級官僚」としてその能力を発揮し、「朝廷の三務」、つまり、「大蔵、内蔵、斎蔵」の「部造(べのみやつこ)」として「賜姓を受けた姓名の持つ官僚族」が殆どを占めていた。
最たるものは「伴氏]や「秦氏」や「物部氏」や「鞍作氏」等多くいる。

(注釈 これが「新撰姓氏禄」の「蕃別」に所属する「姓族」の事であるが、「斎蔵」が「神別」に所属する「藤原氏等の姓族」の事である。)

「後漢の渡来人」の「阿多倍王」の長男はこの「蕃別」に所属し、且つ、「賜姓族」でもある「征夷大将軍の坂上田村麻呂」もそうであるし、三男の「賜姓族」の「安倍氏に繋がる内務大臣・財政の内蔵氏」、次男の「賜姓族」の「九州域の後裔に繋がる全政務と財政の大蔵氏」は、最たる「渡来系の姓の官僚族」である。

この「日本書紀」にある「天武天皇の命」より、「大和の民の官僚族」に成る為の「姓の賜姓(本来の姓族の賜姓)」を受けていたのである。 
中国では「華国」のそれに見習い、「官僚」と成り得る「宦官制度」と云うものを敷いた。

(注釈 中国のそれに見習い「官僚試験」に受かり「賜姓」を受け「官僚」に成る過程を経る。)

この「天武天皇の命」を受けてから発祥した「大和の姓族」に対して「持統天皇」は、「華国の失敗」を招かない様に、その多く成り「勢力」を持ち始めた「官僚族の姓族」を整理していたのである。
この証拠は、「新撰姓氏禄」に記されている「蕃別族 404」と「神別族 326」と云われる間違いなく「姓族の官僚族」のその多さがそれを示している。

(注釈 「数値の信頼度」は別として、但し、分けて問題のある「皇別の姓族の多さ 335」は下記で論じる。)

故に、「垂仁天皇期」には、未だ「四六の概念」を敷く「氏名の賜姓の概念」はそもそも無かった事を示す。

故に、この「四六の概念」のそのものが、当時では”「氏族を表す象徴」”と成っていたのである。
況や、同じ「朝臣族」でも「四六の概念を持つ氏族」と、「持たない姓族」との「大きな違い」と成っていた。
従って、「四六の概念」を論じる上では、これを編纂した「新撰姓氏禄」と「氏姓制度」とは避けて通れない「青木氏族の歴史観」としては論点と成るのである。

(注釈 更に進めてそもそも、そこで「日本書紀」にある“「鳥取造」”とは、「鳥取の守護王(遥任)」の代わりに「鳥取」の国に赴任する「国司」の事であり、“「姓」を賜ひて「鳥取造」と曰ふ”のこれを「姓の賜姓の原型」とする「後期の研究論説」には少し無理があると考える。
それは先ず「姓」に「官僚の役職」の「造(みやつこ)」を着けるのは当時の「官僚の慣習、又は掟」からしておかしい。
況して、一般の会話の中で使うのは吝かではないが、官僚が作る「日本書紀」と云う正式な公的な書物の中では疑問である。
先ずあり得ない事である。単に「姓」なら“「鳥取」”で良い筈である。)

(注釈 筆者は、次ぎの様に「守護王の施基皇子」の「伊勢の国司代」であった「伊勢造三宅連岩床」と同じ様に、“「鳥取造」”は、「赴任先の役職名」であり、依って「朝廷」が出す「赴任命令」であって、本来の正式なものであるのなら「三宅連」の様に「鳥取造・・・・」とし、冠位の後ろの「姓」の後に「連」か「宿禰」等の「八色の制等の官職位」を着けて「名」を入れる事に成ると観る。
依って、単なる「赴任命令」であったと考えている。
従って、“「姓」を賜いて“の文言は、「姓名」の「賜姓」を受けた上での”鳥取の国司に任じられた“とする表現であろう。
この研究論文では、例え、「垂仁天皇期」であっても既に完成していた「中国の冠位制度」に習い「賜姓」には、必ず「冠位」が伴う事の知識が欠落している。)

(注釈 少なくとも当時には、「家臣」、つまり、「姓の官僚(家臣)」に対しての「厳格な朝廷の掟」であったとするならば、上記の「慣例」に依って「鳥取の国司並み」に成るには、「賜姓を授かった事」と同じ結果を意味するのであるから、その「姓」は「湯河(ゆかわ)」であって、その「名」は「板挙(たな)」とすれば上記の例に観る様に、唯、「八色等の冠位」は無いが「伊勢造三宅連岩床」と同じ事に成る。
つまり、「鳥取造湯河・板挙」と成り得る。)

(注釈 何故ならば、国司、又は国司代に成るには、そもそも、既に、先に「姓」を持っていた位にいて、「連」か「宿禰」等程度の冠位を獲得していなければ、且つ、無冠であっては、成れない掟の朝廷の「官僚の役職」であった。
つまりは、「姓」を持たない「官僚の者」には”「造」”は無いという事である。
そもそも、「官僚」である限りは「姓」が無いという事は無い。
先ずは先に「姓」なのである。中国の「華国の家臣に対する儀式」も同じである。)

(注釈 「聖徳太子」の「冠位十二階制度」、「七色十三階冠制度」、「八色の姓制度」等の施行は「聖徳太子前の政権」や「王朝や朝廷」から引き継がれてきたものを纏めて「律令の下」で正式により確実に制度化したもので、これらの元は急に出来たものでは無い。
「垂仁天皇期の記録」にも「・・宿禰等の冠位」が散見できるが「造」は上記の冠位では無くその「官僚族の下位の階級」を示す。
そして、その「造等の役務」とは別に、「冠位」としての始まりは「聖徳太子期」にあり、これに「律令」を加えて完全に正式化したのは「天智天武期」にある。
その中で「それまでになかった概念」の「特別な意味(「賜姓五役)・「四六の掟」・「四掟」)を持つ「臣籍降下の賜姓族」の発祥であった。)

以上の「注釈」に依って“「賜姓と云う前提」”と“「新撰姓氏禄」”の「予備知識」を持った上で、更には論じる。
そうでなくては「下記の論の意味合い」の理解に差異が生まれるだろう。

さて、これならば「天皇家」自らが「権威と象徴」を保つ為に「武力や純血性」を充分に保持しなくても、“「臣籍降下の賜姓族」がこれを裏打ちしてくれる”と云う手段(安心の“保障手段”)を用いた事に成るだろう。

逆に言えば、「中国の華国」より始まった「家臣に成る姓の賜姓の儀式制度」には、「中国の史実(50年経緯)」の事を学んではいたが、ところが「大和」ではその「高位の家臣(官僚族」」に対しては中国に比べてそれ程に「信頼」を持っていなかった事にも成る。
故に、「青木氏族や佐々木氏族」の様な「身内の皇族」より「臣籍降下」で「賜姓」して信頼のおける「家臣(官僚)の儀式制度の確立」を特別に図った事にも成る。
これが「天皇家の権威と象徴」を裏付ける「純血性の保持」にも繋がるものと成ったが、それを「天皇家」の”「六四の掟」”より下げて「臣籍降下の賜姓族」として”「四六の掟”」とした事は、裏を返せば、ある程度の「純血性の保持」を、或いは、引き継がせていた事にも成る。
そして、天皇家自らが「賜姓する事」だけでは無く、「権威性を保させる事」の為にも近い「純血性の掟(四六の概念)」を「引き継がせる強い意志」を持っていた事にも成る。

だから、この結果として「青木氏族や佐々木氏族」が引き継いでいたのであるから、「権威と象徴」を保てる「天皇家の純血性」は、「孝謙天皇期」の「直前」までは何とか「六四の掟」以上のその程度には保てていた事にも成る。
唯単に、「現在の定説」、即ち、これは“「皇位継承者」が「直系尊属内」に居なかったという事”では済まされない事態に成っていた事なのである。
「純血性の保持」の「自体」が、形式上は「傍系尊属の外孫王」の中にあったとしても「天皇家」の中には、最早、出来ていなかった事に成る。

注釈として、重ねて云うと、「孝謙天皇期」には、「中国の歴史」の例に漏れず「外孫王の背景」、即ち、「傍系尊属(家臣)」、或いは、「傍系卑属(家臣)」、将又、「姓族」が、「天皇家」より力を持ち過ぎた結果の所以でもある。
「孝謙天皇期」では、最早、それを続ける事が出来なく成った事をも意味する。

結局は、「中国の歴史の経緯」とは違い、既に「四六の概念」を敷く「四世族」を遥かに離れ「直系尊属」では無く成っているにも関わらず、依然として「過去の経緯」から頑なに「四六の概念」を敷いている「青木氏族」に「白羽の矢」が立てられた所以とも成る。
それと共に、その「特別な意味」を持つ「臣籍降下の賜姓」の「キー」は「四六の概念」とも成ったのである。
然る事乍ら、それよりも、「四六の概念」を敷く「妾子族」のそれに裏打ちされた“「絶対信頼」”にあった事を意味する。

「青木氏族からの歴史観」として観れば、この様に考える事が出来る。

然し乍ら「白羽の矢」の当たる「青木氏族等」に執ってみれば、それは単に、“「賜姓」と云う事”だけでは済まない事なのである。
つまり、そこで授かった「賜姓」に何かを持たせる事に成らないと“「裏打ちの手段」”とは成らないからだ。
その事が「青木氏族や佐々木氏族」にそっくり任されていた事に成る。
この「何かを持たせる事」の如何に依っては「妾子族の行く末」が決まる事にも成り得る。

(注釈 況や、「佐々木氏族」にはこの”「何かを持たせる事」”の如何に狂いが生まれたと観られる。)

もし、仮に唯単に、その「出自」が「直系尊属」と云う事だけであれば、「嵯峨期の詔勅」に見られる様に「源氏族」の様に「賜姓」だけで済む筈である。
これが無い「源氏族」と「その経緯」がそれを証明している。
上記した様に、「妾子族」に与えられた”「権威付け」”などに代表される「天智天皇や天武天皇等の行動」があったからこそ与えられる「象徴紋」等であって、全くこれが無い「源氏族」に「象徴紋」等の「権威付け」を与えられる訳けが無い。
所謂、「冠位役職」=「権威付け」=「象徴紋」であって、「詔勅の文章」を観ても判る様に「権威付けの行」は全くない。
何時の世も「権威」の無いものに「権威を象徴する象徴紋」等は論理的にあり得ないし、そんな政治は自らが「権威」を否定している事に成り出来ないだろう。行く末は判る。

故に、「令外官の様な役職」は元より「象徴紋」も与えられなかった「源氏族」は、結局は、他の「慣習仕来り掟」は別としても「嵯峨期の詔勅と慣習の禁令」に依って「青木氏の象徴紋(笹竜胆紋)」だけを上記した「源の呼称由来」の言葉通りに理由づけて用いた事に過ぎない事が判る。
ところで、そもそも、「理由付け」したこの「用い方」に問題があったと筆者は観る。

先ず、この「青木氏族」の様に「源氏族」にはこれらの「権威付け・習わし」が、“「天皇」に依って与えられた“とする記録はどこにも無いのである。
むしろ、上記した様に「嵯峨期の詔勅とその慣習の禁令」の中の文章がそもそもそれを証明している。
つまり、「妾子族の権威性」を高める為に“「青木氏族の慣習仕来り掟」を何人も真似てはならない”とする「禁令」が記載されている。
“何人も”とある以上は、当然、「賜姓」を授かった「源氏族」であっても例外ではない。

注釈としてこの事は何度も論じている事ではあるが、唯、論理的には、「志紀真人族の青木氏族」の血筋を引き継ぐ「嵯峨源氏」だけには「慣習仕来り掟」の中でも「笹竜胆の象徴紋」だけは最低では使用は認められるだろう。
然し、その「嵯峨天皇の自らの詔勅」がこれを否定している事には間尺が合わない。
少なくとも「目的と血筋」として観ても、「仁明源氏」までと成ろう。
後の源氏は「目的と血筋」からもそもそも論理性が無い。

同じく「笹竜胆紋」を「象徴紋」としている「近江佐々木氏」は勿論の事、嵯峨期以前の「賜姓の妾子族」であった「伊勢青木氏、近江青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏、伊豆青木氏」は当然に「嵯峨期の前の賜姓の妾子族」である以上は、「象徴紋の笹竜胆紋」を使えるし、その間も使ってはいるが、「佐々木氏の補完役の宇多源氏等」は「嵯峨期の詔勅」以降の源氏であり、且つ、「目的性や血筋性」からも論理的には使えない事は明白と成る。
これは筆者から観れば、これは明らかに”こじつけ”以外の何物でもない。

この「注釈」として、「笹竜胆紋」はある説では「源氏の家紋」としている説もあるが、仮に「源氏の家紋」とするならば、それ以前の発祥の「伊勢青木氏」を始めとする「近江佐々木氏、近江青木氏、伊勢青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏、伊勢と信濃の融合の末裔の伊豆青木氏」が「源氏族」でないので「無紋族の賜姓の妾子族」であった事に成り得て、「笹竜胆紋」では無い事に成る。
又、「源氏族発祥の以前」は、これらの「天智天武期の賜姓族の妾子族」には、上記した様な「確実な形の賜姓」が有り乍ら「象徴紋」が無かった事に成り得て矛盾であり、「日本書紀の記述」等を否定する事に成る。
そんな事はあり得ず、「青木氏族や佐々木氏族の存在」そのものが否定される事に成る。
「嵯峨期以前の歴史の氏族 妾子族」から観ても、「日本書紀」もその後の「累代三代格等の書籍」にも記述があり、「青木氏族」が持つ記録や遺賜品などにも証明するものが有って、現実に使って来ているのであるのだから、これらから観ても、「笹竜胆紋の使用」は「源氏族のこじつけの使用」と成り、「歴史の識見の高い多くの歴史家」も筆者と同じこの説も取っているのだ。

まあ、無理に論理性を持たせば、「象徴紋と家紋の差」とも云えない事も無いが、「嵯峨源氏と仁明源氏」が使っていたので、”我々も使ってもよいとする発想であった”のであろう。
「家紋」であれば「姓族」である事に成る故に、「新撰姓氏禄」では「源氏」は「姓族」に分類されている事からもそれなりの妥当性は出るだろう。
となると、「同紋使用」は「禁じ手」であった当時の慣習からは逸脱しているし、「嵯峨期の禁令」にも触れる行為と成る。

だから、「目的とルーツ」から「嵯峨源氏と仁明源氏」までとする説とし、後は「摂津源氏」を除いたとして「成り行きのこじつけ説」に成るのだ。
唯、注釈として上記で論じた「清和摂津源氏の四家」が使用しているのは、「伊勢青木氏」を始めとして「近江青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏、伊豆青木氏」と血縁を結んでいる事から「象徴紋」にしろ「家紋」にしろ「笹竜胆紋」は使えるし、場合に依っては禁令の「慣習仕来り掟」も使えるとする論理は成立つ。
「摂津源氏宗家」が「四家制度」を採用していた事は判っているが、「准皇位継承権」などの「権威付けの四六の概念の採用」は無い。
然し、「分家の河内の清和源氏」は少なくとも「源氏族のこじつけの使用」の範囲であろう。
何にしても、「嵯峨天皇以降の源氏の笹竜胆紋」の使用以前には、「五家五流の青木氏の象徴紋」として、且つ、「賜紋」として「笹竜胆紋」は使っていた証拠があり、将又、「青木氏の平安初期の古記録」や「賜物の遺習物の刻印紋」にも観られ、「日本書紀」にも記載がある以上は「源氏族のこじつけの使用」と成り得るのだ。

そもそも、何をか云わんとするは、”「四六の概念」を敷くか”は、この「象徴紋の使用の前提」とも成っている事なのである。
「象徴紋」などは”「四六の概念」”がその「数少ない氏族」に無ければ使えないとする前提であって、「嵯峨天皇の禁令の前提」と成っているのである。
依って、”「四六の概念」”の敷かない「源氏族」はどんな理由があろうが原則使えないのである。

「賜姓族」、将又、「妾子族」の前提は、この”「四六の概念」”の中にあって、始めてそれに依ってその「権威」が保てるのであって、その「保てる事」を証明するものが「象徴紋」なのである。
「源氏族」が、この”「四六の概念」”を敷いていたのであればいざ知らず、敷いていなかった限りは「象徴紋」はあり得ない事に成る。
これが「象徴紋」の「笹竜胆紋の前提」であるのだ。

尚更に、「源氏族」には、正式には「花山天皇」までの「11家11流」まであるが、然し、これらの「11家」の「賜姓時」の度に「象徴紋の笹竜胆紋」を与えたとする記録は何処にも一度も無く全くない。
当然に、「四六の概念の記述」も全く無い。
従って、せめて、「嵯峨源氏と仁明源氏」は記述は無いとしても、その「流れ」からは考えられし、「血縁」と四家の「四六の概念」に近い「慣習仕来り掟」を持ち得ていたので、この結果から「摂津源氏」もあり得るだろう。
そもそも、これは「権威のある氏族の妾子族の象徴紋」であり、「姓化した源氏族」には論理的にあり得えず、上記の”こじつけ”の説と成る。

まあ、百歩譲って、”「四六の概念」”の無い「姓化した族」であるから、「笹竜胆紋」を「象徴紋」では無く「家紋」として観れば、我慢は出来る。


そこで、「四六の概念」の理解上もう一つ解き明かさなければならない疑問なのは、この「禁令」には、“「青木氏族と佐々木氏族」“とは書かれていず、”「青木氏」”だけである。

この事は「佐々木氏の研究書」にも明確に記述されている。
上記の「象徴紋の条件」の行に合致し、且つ、「四六の概念」を敷いていた「近江宗家の佐々木氏」の記載があっても不思議ではない。
これは”何故なのか”はよく判らないが、兎も角も、当然に、「青木氏族と佐々木氏族」が敷く「四六の概念」がこの「慣習仕来り掟」の中に含まれている。

つまり、恐らくは上記した様に、“「青木氏族や佐々木氏族」の様な「身内の皇族」より「臣籍降下」で「賜姓」して強引に「信頼のおける朝臣族」を「妾子族」で創設した事は上記した。
この基と成った「臣籍降下の賜姓の儀式制度の確立」を図った事”に従い、そこで態々この「儀式の差 (イ)」を付け、更に「禁令の差 (ロ)」で縛った。
この「二つ(イ)と(ロ)」に護られた「青木氏の慣習仕来り掟の前提」は、”「姓制」の持たないこの「四六の概念」”、つまり、「青木氏の慣習仕来り掟」に影響する事が前提とも成っていたと観る。
この事から考えて、敢えて(イ)と(ロ)を持つ「四六の概念」を敷く「佐々木氏族」を記載する事にしなかった事に由来すると観える。
この(イ)と(ロ)が、”「佐々木氏族」そのものを保証する”と観ていたと成るだろう。
唯、”「佐々木氏族」も記載してはいいではないか”と考える事も出来る。
然し、この「記載有無の差」が、”「志紀真人族の青木氏族の嵯峨天皇」であった”と成るだろう。

「嵯峨期の禁令」が、”「妾子族」の「青木氏族や佐々木氏族」を「権威づける目的」であった事”は云うまでも無いが、(イ)と(ロ)から観て、「四六の概念」を他の「氏族や姓族」に敷かせない目的があった事も強く考えられる。
何故ならば、この「四六の概念」が「他の氏族」に広まる事は、それだけに”権威性が低下する”と云う懸念も持ち得ていたとも考えられる。
「孝謙天皇期の外孫族」に観られるように、”恣意的に権威性を獲得しよう”とする「氏族の勢力」が表れていた事も充分にあり得る。
現に、「嵯峨天皇の嵯峨源氏」でさえも(イ)と(ロ)の適用を受けていない位なのであるから、この事の配慮は充分にあっただろう。
これは、「禁令」では無く「嵯峨期の詔勅」のそのものの文面でも判る。


これには後勘から観ると、唯、気になる事がもう一つあって、「天智期から嵯峨期」までに、それは「近江佐々木氏族の宗家族」は別にして、「傍系尊属」には「佐々木氏族の一門」より「姓族」を多く出した事に関わっていたと考えられる。
嵯峨期の前後には既にその様な「姓化の兆候」が「近江佐々木氏」にあったのではないかとも考えられる。

「青木氏族」の様に、「絶対に姓制を敷かなかった氏族」では無く、「傍系族」とは言え「姓制」を持った「近江佐々木氏族」には“「絶対信頼」を置けなかった事”に成るであろう。
つまり、「近江佐々木氏」は「四六の概念」を敷くが、その「四六の概念の信頼度」を疑問視した事を示している。
「近江佐々木氏宗家」の「四六の概念の統制」が「青木氏族」ほどに十分では無かった事も考えられるし、況して、「青木氏族の後裔の嵯峨天皇」である。
その点では、当然の事として「記載の事」に付いては厳しく考えていたのであろう。
「青木氏族」は「四六の概念」を始めとして、「四家制度」、「妻嫁制度」、「四掟」、「青木氏氏是」等で「姓族」を出さない様にしていたが、取り分け、その「証拠の前提」と成る”「青木氏氏是」”は、その「青木氏族の勢力」を表に出す事を禁じた掟であって、「嵯峨天皇」はこの「青木氏氏是」を始めとした制度を身を以って体現していた人物でもあり、ここに”「信頼」”の基点を置いていた事にも成るだろう。

この様に「佐々木氏族」に対する「見方」とその「信頼度」に付いては間違いなく違っていた筈である。
故に、「詔勅の禁令」までには「佐々木族」を書き込まなかった所以であろう。


さて、そこで次に気になるのは、「光仁天皇の孫」に当たる「青木氏族の嵯峨天皇」が、上記の「詔勅と禁令」と共に、「氏族志」を見本編にした「新撰姓氏禄(妙記)」で周囲の反対を押し切って編纂してこれを態々慌てて書いて公にしたと云う事である。
これは、少なくともこの時期までは「青木氏族」の中には、この”「経緯」と「歴史観(概念)」”が強く伝えられていた事にも成る。
所謂、この“「四六の概念」”が「青木氏族や佐々木氏族」にある事を知った上での事であったと考えられる。

前段に戻ってみて別の面からの「経緯」としては、そこで、妥協して「外縁族(傍系卑属)」を入れる事無く、「四六の概念」に切り替えて最大限に保っていた「青木氏族」に上記の「詔勅の禁令」に至るまでの”「歴史的経緯」”を「青木氏族」の中に持っている事を「孝謙天皇」が知っていて、”「白羽の矢」”がこの「経緯」に従って当てられたと云う事に成るとも考えられる。


さて、然し、そこで”「孝謙天皇の白羽の矢」”が立ったとしても”「四六の概念」”であってもこれの保持を前提とする以上は、無暗に条件を緩める事無く「公家族」と「武家族」、或は、「真人族」(最大48)と「朝臣族」(最大101 30%)からの「数少ない氏族の血筋」から必然的に求めなくてはなら無く成る。
変化の起こる歴史の長い期間の中でこの事が永久に成し得ない事は直ぐに解る。

例えば、注釈として、鎌倉期の末期から戦国時代と下克上の時代に掛けて次第に上記した様に「純粋な賜姓」を受けた「48もの氏族(真人族の15%)」が、「身分や権威」だけに頼っていた結果、「自己を防御する戦力(武力)」を保持し得ない侭で完全に近い形で淘汰されて行った。
之は儘ならない「生存競争の中」では当然と云えば当然である。
「四六の概念」としてはこの侭では成し得ない。

例えば、「逸記」の多い「新撰姓氏禄」の中だけに従えば、「101の関係氏族」では記録では「20程度」に成ったとされていて、「純粋な48の氏族」は筆者の調査では厳密に「慣習仕来り掟」を護っていたとされるのは「5氏」だけに成るのではないかと推測される。
これでは到底、「四六の概念の維持」は無理であった筈である。

注釈として、念の為に、その前に、「嵯峨天皇の編纂」と云われるこの「新撰姓氏禄」の研究書は多くあるが、そもそも「目録」だけに編集された「抄記」であって、且つ、「逸記」であるが故に、そもそも「嵯峨天皇」自らの出自の「春日真人族の四世族後裔」の「施基真人族」や「川島真人族」の直系の後裔「青木氏族や佐々木氏族」は、矢張り「逸記」されて書き込まれていない。
そもそも、これは次の事から来るのかも知れない。

「光仁天皇と春日宮天皇」に成った事で恣意的に「逸記」したのかは分からない事。(A)
「5割の抄記」と云われる事から逸脱したかも判らない事。(B)
「本文」の無い「抄記」「逸記」である事。(C)

以上の事から止むを得ない事も考えられる。

然し、「研究書」に依っては「日本書紀」にも記されているこの「敏達天皇」の「春日真人族の後裔」として「志紀真人族」や「川島真人族」が書き込まれた研究書もある。
唯、脱落している書もあるのは、何故に「逸記」し「脱落」したかは筆者の研究が未だ行き届いていない。
恐らくは、筆者はこれは「研究書のレベル」によると観ている。

筆者は、(A)の説を採っているが、その理由は、現在では、「追尊の春日宮天皇(施基皇子)」と、その四男の「光仁天皇の出自元」とした以上は、編纂に当たって「嵯峨天皇」自らがそれまで「志紀真人族」で「臣籍降下の朝臣族」から「元の真人族」に戻したとする説(A)を採っている。
そうでなければ、「臣籍降下の朝臣族」から「天皇」が出ると云う事はいくら「四六の概念」等を持った「氏族」とは云え、一度外に出た「氏族」である以上は論理的にあり得ない事に成るからである。

その「根拠と裏付け」は、「始祖の施基皇子」は「皇太子」を遥かに跳び超えて「天皇」に継ぐ「永代浄大一位」にあったからと考えられる。
そうなると、「永代浄高二位」で「四六の概念」を持つ「臣籍降下の賜姓」を授かった「近江佐々木氏の始祖の川島真人族」(宗家族・直系尊属)をもその侭にして置く事は論理的に無理が出る。
依って、「歴史研究者」では無く、「嵯峨天皇」が見本にした「中国の氏族志」に拘わらず恣意的に敢えて「逸記の命」を下したと観ている。

(注釈 この「新撰姓氏禄」は815年に「編纂」は取り合えず終了したが、「公表」はその前から編纂者の中に「反対」が多く、遅れて815年に成ったとされ、最初の「嵯峨源氏族」の詔勅は814年であるとすると、「源氏の詔勅」を出したからと云って直ぐには行かない。
当然に「源氏族(皇子23 皇女17)」が出るまでには時間がかかりこの偏纂には間に合っていない筈である。然し、記載されている。
況して、「近畿圏」としながらも、この多くの「嵯峨源氏」は地方に飛散し、その中でも「皇親族」として左大臣として勢力を張った「源融の末裔」でさえ、中国地方の日本海側の米子の東付近に「土豪」として末裔が潜んで生き延びていた。
然し、後に「清和源氏源満仲」が「武力集団」を形成する際にこの「嵯峨源氏の末裔の土豪」を呼び寄せ摂津に住まわせた。
この事で摂津域に「嵯峨源氏の末裔」が多くの「姓」を拡げた。
この事は記録からも知られていて、これに付いても「逸記」である。
従って、そもそも、「朝臣族」の中に「源氏族」が記されている事の事態が、そもそも大いなる疑問なのである。
他にも数多くこの815年代以降の「姓族」が記されていて、これは明らかに後勘での「逸記」(追記)に他ならない。)

(注釈 更には「清和河内源氏の末裔」の「姓」の「室町期の姓」も多く含んでいる。
これが「後付け」の何よりの証拠である。)

著書を出した数人の研究者も「本文」がない事に依る“「江戸期初期の後付け」”と観ている。
つまり、「江戸幕府の権威付け」の「政策の一環」として大名を始めとして「武士」である事を確定する為の「黒印状」を獲得する為に、課せられた条件をクリヤーする必要に迫られた。
この為に、その「ルーツ」を搾取し「不確定な過去の資料」に多くは偏纂を加えた。
この槍玉にあげられたのが、「本文」の無い「不確定な抄記と逸記」を持つこの「新撰姓氏禄」が「格好の的」と成ったのであったとされる。
所謂、これが「後付け説」である。

これを「片識の研究者」が前提として著書とした事が、「新撰姓氏禄」と思われてしまっている事の所以であろう。
筆者もこの意見に賛成であって、嵯峨期の当時の本記の編者の反対は、下記した様な「不確定な理由」で「逸記の多い事」へのここにあったと観ている。)

「新撰姓氏禄」には「抄記」で「逸記」で有り乍らも上記の様に、「青木氏の歴史観」を説明する事に関わる事が多くあり、この「予備知識」を前提に更に論を展開する。

さてそうすると、この「新撰姓氏禄」に、「敏達天皇の一族春日真人族の四世族」としては位置づけされてはいるが、別に、天皇家に継ぐ「四六の概念」を保持していた「志紀真人族」として記載を避けたとしても、「志紀真人族」であるとする以上は否が応でもこれでは「青木氏族や佐々木氏族」が採っていた”「四六の概念」”にも、絶対に「四」をその侭にしても論理的には「六の入り」を変えざるを得ない事が判る。

それにしても、”「六の入り」を変える”と云っても、当然にそれに依って”「四が薄くなる現象」”が必然的に起こる。
つまり、これに依って「青木氏族や佐々木氏族」としての「存在価値」は、必然的に低下する事に成る。
何時かは、結果として“「姓族化する」“に相違ない。
そこで、より長く「姓」を持たない「氏族」を保つ為にも「四」を何とかその侭にして「六の入り」を変えるには、“「入れ方如何」”を変える以外には無いと判断したと成る。

つまり、これが「青木氏族」の執った「四家制度」等での“「女系族の入れ方」”に成る。
但し、これにも前段でも論じたが、無限にこの方法が一定に出来た訳ではない事は判る。
「大化の改新」の様に「上記の改革」を推し進めたとしても、矢張り、何時かはその効果は低下するは必定で、これは止むを得ない事ではある。
然し、「孝謙天皇期」に観られる様に、”「天皇家の権威の前提」と「純血性」”に拘る以上は、同じ様に矢張りそこには”「限界」”が起こり「時代性」に依って“「変化」”が起こっていた事は明らかである。

(注釈 「中国の歴史」に観る様に、中国もこの”「変化」”に対して「貞観氏族志」に依って見える様に何とかしょうとして頓挫した。
この「頓挫の氏族志」を編じたのを学習しての同じく「頓挫の歴史を持つ新撰姓氏禄」である。
依って、態々、“「新撰」”としたのであって、「青木氏族」等の「四」に拘った「四六の概念」であったとしても「純血性の維持」の結末は、どんなにしてもある「一定の時代経過」に左右されてこの”「限界」”が起こる事を知っていた事にも成る。)

(注釈 この「二つの書」の「頓挫の原因」は、況してや「氏族」だけでは無く、主に多く成った「姓族だけの禄記」であった。)

(注釈 その「頓挫の無理の原因」のそれが顕著に出てきたのが、「孝謙天皇期」であって、その”「トバッチリ」”が「自分の出自元」に出た「逃れ得難い因縁」があり、余計に無理にしても「編纂」を試みた事も考えられる一つである。
然し、何れにしても何時の世もこの種のものは“「利害」”が多く「反対」に見舞われる。
前段でも論じたが、正式には「淳仁天皇期」から始めたものとされているが、実際は歴史的には以前にもテーブル上には出て何度も「反対」に合い結局は挫折し、この「新撰姓氏禄」も例外では無く何とか編じる迄には至った。
それだけに「利害に伴う編者の思惑」が出て「酷い逸記」に成り得たと観える。)

(注釈 筆者は、そもそも、正式な「酒瓶と賜姓の儀式」を受けていない「335の姓族(正しいとして)」を”系統的に網羅する事の事態”がおかしいと観ていて、正式な「賜姓族の氏族」が全体の「15%の48氏」しかない中で、自由に「姓」を名乗っていたものを寄せ集めて編じる事は当然に必然に“「利害の温床」”と成り得ると観る。)

(注釈 「嵯峨期の詔勅」で、これに従って「自由」であるが故に「自由な姓名」には「制限」が編纂と同時に掛けられたのである。
「青木氏族や佐々木氏族」などの「賜姓族氏族の慣習仕来り掟に関わる名詞」、勿論に「氏族に似せたもの」等を「姓名」にしては成らないとする歯止めをかけた。
然し、結局は、彼らは「地名」かのである、或いは、「由緒ある土地の特徴」以外を「姓名」にする以外には無く成ったのである。
この「慣習仕来り掟の禁令」は三幕府の保護もあって明治3年まで原則護られた。)

注釈の「新撰姓氏禄」の偏った編纂による”「利害の温床」”の発生に付いては、載せられた「姓の者」には「利」が生まれ、載せられなかった「姓の者」には「利」が著しく損なわれるのは当然の事である。
況してや、「近畿圏内に限られての事」とした場合、大半の圏外の「有力な姓族」は公的に認められなかった事として「利」が著しく損れる事と成る。
ところが、例え圏外と云えども、都より赴任している「姓族」、のみならず「賜姓族」や「四世族の真人族」の「守護王の後裔」や果ては官僚の高官の「国司の後裔」も近畿圏よりも多くむしろ多く存在する。
これらの者には「冠位を持つ上位の者」が多く、且つ、数も近畿圏のそれに比較には成らない。
そもそも、「地域限定」そのもので編纂する事は当初より無理である事は明々白々である。
当然に「反対者」も出るは必定である。
中には、都より赴任していた九州全域を統治していた「賜姓族」で「高位の冠位」を持つ「日本書紀」にも記載される「四世族の大隅王の三代の末裔」等はどうなるのかと云う大問題も生まれる。
例えば、北九州全域にその後裔を拡げ赴任していた「朝廷官僚族五大氏の伴氏」や「南九州域の官僚高位族の市来氏」はどうなるのかと云う大問題も生じさせている。
何も「血縁」は、そもそも何も「近畿圏の中」だけで起こる事では無く、遠く九州からも足を運んで血縁する事も頻繁に起こっている。

(注釈 現に、曾孫である「嵯峨天皇」の祖の「施基皇子」であった「妾の母」は「越の国」から来ているではないか。知らない訳は無い。)

むしろ、「血縁の事」を考えれば「遠い方」が良い事は判るし、「青木氏族」や「佐々木氏族」でも中部域の「五家五流青木氏」、関東や北九州からの「秀郷一門の青木氏」との血縁も現実に起こっている。
そもそも、「純血性の弊害」のみならず「四六の概念の保持」に依る「血縁の格式」を確立させるとしても、その「目的の範囲」で編じるのであれば、次ぎの様に成る。

(1)「正式な酒瓶儀式」を受ける事
(2)「正式な賜姓儀式」を受ける事
(3)冠位を持った「氏族と姓族とその後裔」に限るべき事

以上ではあった。

これならば、朝廷が認証しているから文句は出ない。
自らが文句の着けようもない”「四六の掟」”を敷いていたその「三代目の後裔」であるのに、「血縁の弊害」は、そもそもその範囲での事であり、少なくとも「姓族」には大きくは及ばない事でもあり、「編纂の強行判断」はどの様に考えても普通は“「不思議な事」”ではある。

当初は、前段でも論じた様に、「補完役の秀郷流青木氏族(960年頃)」を始めとして一門からその「源流の元」を得ていたが、「四六の掟」でさえも何時か起こり得る終末期を迎える。
これを防ぐ為に、江戸初期頃には「氏族」を「氏人」として広範囲に構成する「郷士との繋がり」からも「源流の元」とせざるを得なく成っていたのである。
つまりは、「四六の概念」の「青木氏族に起こった限界」は、「江戸初期前後」にもあったという事に成る。

それは前段でも論じたが、「殖産の拡大と云う事の手段」のみならず、「嵯峨期頃」から改善を加えて来た「四六の掟」にも限界に至っていた事にも成っていたのである。

矢張り、最早、「限界」に至りこの「室町期末期」からはより「源流を拡大する手段」に陥っていたと成る。
然し、「四六の概念」が崩れそうに成ってはいたが、ここでも頑なに「姓族」までは広げなかった。

「補完役の秀郷流青木氏族の源流 1」と「青木氏の氏族を構成する郷士の源流 2」に頼る事と成って行った。

そこで、これが百々の詰りは、この「四六の概念の限界」を知り、“「六の入り」の「入れ方如何」”と成ったのである。

(注釈 この傾向から考えても、問題の起こった「孝謙天皇期頃」には、「天皇家」と血縁を結べる「純粋な氏族」は、最早、「48氏族」では無く、問題の持つ「新撰姓氏禄」に関わらず本当は既に「数氏」に陥っていた事に成るだろう。)

(注釈 前段でも論じたが、「青木氏族の光仁天皇(施基皇子の子の白壁王)」の孫の「嵯峨天皇(山部王の子)の新撰姓氏禄」を慌てて未完成のままで世に出すという「編纂の意味」も敢えて云えば一部はここにあった事も否めないと観ている。
つまり、「奈良期からの四六の概念」を弱めた所謂、「青木氏族の四六の掟」を敷かないまでも、“「姓族」”としては、それなりに「ある程度の格式」を維持する為に「何らかの慣習仕来り掟」を持っていた事は否めない。
唯、”「四六の概念」”の様な格式張ったものは無かった筈で、有れば、それに拘れば衰退を余儀なくされるは必定で、「間口を広げて身を護る事」は「姓族」であれば「常套手段」として当然の事であって、その為に“「武力の容認」”が認められていた事にも成る。)

従って、「自由な姓族」にも「社会の血縁の動き」が、「勢力」を獲得すればそれなりに格式化して閉鎖的に成り、「血縁の範囲」が狭まり「弊害」が出始めていた事にも成る。
これが”「別の意味(武力の容認)」”としても読み取れる。
然し、「天皇家」の中では無くて、財政的理由を下に各地に散在した「数多くの真人族」を臣籍降下させ「姓化」した事から、「氏族と姓族」にも夫々の社会にある程度の「格式化」が起こったとする論も考えられる。
現実には「四六の概念」と迄では行かないが起こっていた事は記録でも事実である。
故に、「賜姓氏族」ではない「ある程度の格式化を持つ族」に対して“「姓族の禄」”として出したとも成るが、この「姓族の禄」に「記載された族」には「記載され得なかった族」との間に差異が生まれ却って「格式化」を招く事にも成ったらしい。

(注釈 ここで云う「姓族」とは、「官僚に成る為の儀式を受けた姓族(「平安期からの官僚族の姓族)」と、室町期中期から無制限に出自した海部族等に代表される「自由な姓族」とがある。ここでは前者の「三分類される姓族」を云う。)

(注釈 上記注釈について、唯、「新撰姓氏禄」の「姓族の禄」の「分類の仕方」にも問題があって、「皇別、神別、蕃別」の三つに分類され、且つ、研究書によればその「同門後裔」迄に分けられている。
「同門、後裔」まで分ける事には、取り分け問題は無いが、そもそも、「皇別」は兎も角も、「神別」は「天孫降臨期」からのものとして何の証拠もない「姓」が多く書かれている。
「皇別」と「蕃別」には入らず、然し、古くから「高位の官僚族」を形成している組み入れ難い「姓族」を「神別」のここに組み入れたと観られ、これで批判を増幅させたのであろう。
ここに「本文の無い本禄」に「江戸期の後付け」の「醜い戦術」が起こった事を注釈する。)

(注釈 そこで、「新撰姓氏禄」に、“何故にそもそも「本文」が無いのか”と云う疑問がここにある。
普通であれば、「抄記」迄あれば「本文」はあるのが当然であり、「無い」とする処に意味があって、これが江戸期初期の「後付けの根拠を消す目的」があったと観られる。
筆者は、「本文の消失」は「江戸期初期説」と考えており、「後付け説の所以」と考えている。
「純仁天皇期」から勧められ「嵯峨天皇期」で兎も角も終止符を打ったが、この三期でも「紛失」や「放棄」や「停止」等のサボタージュがあった事は記録からも明らかではある。
この研究には、「全体の紛失」はあったとする記載があるが、「本文の消失」迄の事は書かれていない。
従って、「本文の消失」は江戸期初期と見做される。
故に、「嵯峨天皇期後の姓族の名」が多く書き込まれた所以なのである。
後勘で調べれば、”「後付け」”は直ぐに判る筈で、当時の混乱期の中では判らないだろうとする「低意識の余裕」が定着していた事に成る。これは世の常であろう。
現実に、「ある研究書」では、「姓族の説明」として”室町期の中期の発祥”と態々書いたものもある位で、極めて笑止である。)

(注釈 因みにこの「説明の族」の二つは、同族で「関ヶ原の戦い」で功を挙げ「近江の土豪」ではあったが、5千石と一万石を与えられて「伊勢長嶋域」に移封された「近江二宮氏の末裔」であったとされる。
その末裔が江戸期に「伊勢者」と呼ばれある「家紋」を持っている。
「説明の族」が記載されている事は、明らかに「新撰姓氏禄」のそれは逃れられない「黒印状の所以の仕儀」である事は明白である。
そもそも、上記した様に「注釈の姓族」には「室町期中期の前後」を境にして、更に「勃興」は二つに分けられる。
「中期前の最初の姓」は海部氏である事は記録で判っている。
この「伊勢者」と云われていた姓族も中期後の発祥である。)

さて、然し、「青木氏族」には「源流 1と2」があったとしても、この依然として「賜姓を受けた真人族の臣籍降下」の「氏族」が、敢えて「源流」を求めずに「四」に拘り、多少、後に「四六の概念」を弱めたとしても「四六の掟」の程度を敷く以上は、「同族血縁の弊害防止」に対する「情報の提供」は矢張り急務であったとも考えられる。
唯、「本文」が消されている限りはこの情報は無意味であるのだが。

そもそも、「本文の無い情報」は、「血縁弊害が出る慣習仕来り掟」の中に無く、且つ、後の時代には「自由に出来る姓族」には不要であった筈である。
故にも、三代以上も偏纂を試みられて「嵯峨期の前後」ではある程度の「本文的な情報」が既に有ったので、反対のある中で「逸記」の多い筈なのに完成を急いだ事も云える。
それ程に「孝謙天皇期の争い」の混乱期の中で「社会に与えた影響」が大きかった事を物語っているし、「嵯峨天皇」、果ては、「志紀真人族」等に与えた影響は大きかった事を物語る。
「孝謙天皇」に抗した「外孫族」も詳しくは判らないが、この点に「思想論理の原点」があった可能性がある。

(注釈 上記した様に光仁天皇期には偏纂する者等がこの編纂した書を隠してしまうと云う事が起こった。)

「嵯峨天皇期の詔勅」と、”同時期に世に出したという事”は、次ぎの様な事が考えられる。
「青木氏族」や「佐々木氏族」を始めとして、社会の中、取り分け、「335の皇別族(朝臣族)」と云われる「姓族」の中には、「原因」は別として「唖子を含む血縁の弊害」の様なものがある程度に蔓延していて、「国家的問題」に成っていた可能性があったとも観られる。
筆者は、それは「四六の概念」以上の慣習を持った「賜姓の氏族」では無く、「純血性の弊害」と迄ででは無く、「血液型の不適合」(遺伝子障害)か「抗うつ性症候群」(同族血縁障害)が蔓延し、これを「血縁弊害と捉えていた事」が考えられる。
故に、「氏族志」と違い「氏族」では無く「姓族」のそれとしたと考えると間尺が一致する。

(注釈 一部には縄文期に入って来た「結核菌」が蔓延し、これが集団で患う事から「血縁障害」とも捉えられていた事が判っている。
「研究」に依って「骨の状況」から判明していて、この状況は平安期頃迄続き「血縁障害」と捉えられていた事が判っている。
その後、貿易で中国から入った「漢方薬の薬湯」で治る事が解り、「血縁障害」では無い事が認識された事が解っている。
つまり、この様に「結核菌説」もあり考えられる。)

(注釈 そもそも「上記の注釈」のその根拠としては、現在、「日本の姓」は「8000前後」とも云われるが、「嵯峨期の近畿圏の姓数」は「新撰姓氏禄」の総計を前提で「約1200」だとすると、全国域で観れば五地域圏ではこの5倍はあったと観られ、凡そ、「6000の姓数」に成る。
然し、江戸期の「武士階級の姓」を持つ人口は、全人口の1割以下であったので、「8000の姓数」に対して「800程度」と見込まれる。
「江戸期の800の姓数」と「嵯峨期の6000の姓数」には差があり違い過ぎる。
江戸初期には「姓名」を持たない「農民等」から「武士」に成った者が多くを占め、且つ、合わせて「明治維新の苗字令」で9割以上の者が一挙に「姓名の苗字」を持った。
そして、この「二つの経緯」を経て「8000の姓数」と成ったのであり、嵯峨期までの「自然増」だで近畿圏だけで「1200の姓数」は違い過ぎて論理性が逆転している。
この崩せない前提条件の事から考察すると、明らかに「嵯峨期の姓数」は「1200程度」では無かった筈で極めて多すぎる。
これは「後付けの証拠」である
「時代の経年変化」として、「嵯峨期から江戸期」までの「約400年間」からも考えても、「バイアスを持つ自然増」としてこれを「1/4」としても、「300程度の姓数」と観る事が妥当であろう。
そうすると、「嵯峨期」では「全国の姓数は1500の姓数」と成り得て、論理性が出て来る。)

(注釈 上記の注釈から、そうすると「300程度の姓数」での「血縁」には「限界」が生まれ、その「姓族」の「周囲の血縁出来る姓数」は、どう考えても限られて「30程度以下の範囲」と成り得るだろう。
この「30の姓数」に対して血縁を何度も繰り返す事は不可能であり、「純血性の弊害」に含まれない上記した「軽度の遺伝子レベル」の「血液型の不適合」か「抗うつ性症候群」かが起こるし、更に、当時は平均寿命から観て平均年齢から8-15歳が「女性の血縁の適正年齢」で、現在は30歳-35歳でこれを超えると、「卵子は老化する事」は医学的に証明されている。
この「血縁年齢の低下」による「老化卵子に依る弊害(唖子・水頭症)」等の弊害が蔓延していた事にも成り得る。
現在でも依然として起こっていて社会的問題となっている事からも、当時としては尚更に「姓族」にとっては「逃れ得ない弊害」であった事に成る。
この「三つの弊害」は現在でも起こっていて、これを「血縁の弊害」として捉えられていた事に成る。)


再び、嵯峨期前の施基皇子期に敷かれた「氏族の四六の掟」以外の問題、つまり、「血縁の弊害」を克服する「氏族の四六の掟」(四掟基準)の施行、そして、同時期に「姓族に対する姓禄の偏纂」の喚起の二つがあった。

然し、その上記の「注釈の前」に戻って、これは“「氏族の四六の掟」”の維持する元と成る「賜姓五役の務め」としては、これを“「四掟の格式」”を前提としている為に、つまり、“氏族の何処からでも良い”、況してや、“「姓禄に記する姓族」の何処からでも良い”と云う事では無く成る。

そこで、「氏族」にはどうしてもこの「歯止め(「四六の古式の概念」から求めた四掟・基準)」が必要に成る。
その「氏族の歯止め」として、無暗に「姓禄に記する姓族」までに陥らない様にしながらも、厳しい「純血性の掟」を緩めて、例えば「位階」で云えば、「永代の従四位までの家筋」の範囲の血筋とした。
つまりは、「四掟の運用」を見直した事に成るだろう。
この「永代の従四位までの家筋の範囲」とは、記録から観てみると、多くは「四世族内か五世族の範囲」に留まり、ある程度の範囲で”「四掟の原理」”が成立している。

(注釈 「姓族」は、上記の「新撰姓氏禄」で「抄記や逸記」でありながらも、この範囲の中にある「姓の朝臣族」と云われる族を根拠として何とか無理にでもこの為に公表した。これは前段でも論じた)

前段でも論じたが、古い「帝紀や諸事紀」に観る様に、「朝廷の規則」にもその範囲を定めてある限り、その範囲を最低限に逸脱しなければ良い事に成る。
それは、「永代の従四位までの家筋」の範囲の「血縁の掟」は、「公家族」と「武家族」も「四家制度と家人制度」に「近い制度」を少なくとも敷いている訳であるから、多少の「同族血縁の弊害」を持ち込まれる可能性はあるにしても、「性」による役務上からの“「男系」“では無く、これは上記した様に「女系の理」、況や、“「人の理」が根本として成り得ている“と云う理屈が「青木氏族や佐々木氏族」にはあった事に成り得る。

つまり、ところが「佐々木氏族」は、この「四六の概念の維持」は、鎌倉期前頃には崩れ始め、全国に「佐々木氏族」の「氏族の中」に“「四六の掟」や「四掟の掟」”を緩めて「勢力保持」の為に「主従関係」を確立して「姓族」を作らせた。
然し、ところが「青木氏族」では、この為に「女系」を重視した「孫域までの娘」を「子の域部」として“「子の選択」”の範囲を広げる事の方法を選択したのである。
ここに違いが出た。
この「佐々木氏族」を外し「青木氏族」に「白羽の矢」を立てたのは、この「違いの差」を「孝謙天皇」は着目したのである。

(注釈 つまり、頑として「姓」を発祥させなかった。「佐々木氏」とは、この段階で生き延び方、況や、「四六の掟の維持」が異なってしまった。
「佐々木氏が編纂した研究書」にもこの種の事が書き込まれている。
その原因と成ったのは、「補完役」としての「秀郷流青木氏」と同様に、「佐々木氏族」にも「補完役」の「宇多源氏の佐々木氏の発祥」があった。
この「補完役の宇多流佐々木氏族」が「四六の概念」を無視して「佐々木氏系姓」を各地に広げた。
では、唯、「補完役の秀郷流青木氏から出自した姓」と、同じ「補完役の佐々木氏系姓」との違いは、前者には、この「姓」を“「現地孫(傍系卑属)」”として位置づけして、形式上は「氏族内」として認めなかった事にあった。
然し、後者は、「勢力保持」を前提としていた為に「氏族内の勢力」として取り込み認めたところにあった。
何れの方法も方法は違えども「生き残り」には効果は認められた。)

然し、改めていう事には成るが、「賜姓臣下族の青木氏族」には「氏人と云う慣習」が認められていて、「四六の概念」を敷く以上は、次第に「男系が薄れる事」に成り、この「男系の氏人」は薄れる事にも成る。
従って、これを補完して「女系」で繋がるものとしているのであるのだが、但し、だからと云ってこの「女系」の「子の範囲」を広げた事だけでは「本当の解決策」とはならない事は必然である。

それの「解決策」には、”「子としての扱い」”にあって、無制限のものでは無かった。
「第四世族(一説では「第三世族」と書いているものもある)」までの「孫域(2)」までの「子」を一か所に集め、現在の保育園の様に“「共同養育」と「共同教育」と「共同教養」”を施し、「四家制度の範囲」に従って行ったのである。
つまり、制度的(慣習仕来り掟)に「青木氏族」から逸脱しない範囲の「女系」を確立させていた事らしい。
無暗に「女系概念」を拡げていたのではなかった様である。

この「共同と云う範囲」がよく判らないが、資料の各所から読み取れる事として、毎日、親元に返すのではなく「専門の教育と養育掛かり」を置いて「福家管理」の下で「共同生活(菩提寺と分寺の二か所に男女の設備が設けられていた)」を敷いていた事らしい。
現在の「寮生活の学校とホームステイ」を組み合わせた様な形式であったらしい。
但し、注釈として、記録によると、「子供の数」が少ない一時期があって、「玄孫(3)」までとしている事がある。
この方法で「女系に依る四六の掟」を維持していたのである。

注釈として、前段でも何度も論じている事ではあるが、改め理解する上で記する事として、そもそも、「青木氏族」は、「分家支流族制度」を採らない「賜姓族臣下族としての掟」がある事から、「直系族の女系」に限っては、最大で「直系7親等」までの「子の範囲」を云う事としていた様である。
これを「四家制度」に依って、現実には「第四世族内」に留めていたらしい。
これを「福家の世代交代期」に依って、「直系族」と云われる「主家」の「7の孫(じゃくそん)」が連れて変わって行く事に成る。
[世代交代」と云っても、「四家の範囲」の中で、次ぎの「四家の中の長」が「福家」と成る仕組みである事から、「福家の嫡嗣」が引き継ぐのではなく「世」に依る「世代交代」は激しくは起こらない仕組みである。
従って、「四六の概念」の「四」に大きく関わる「福家の嫡嗣の世継ぎ」では無く、普通はせいぜい25年か30年程度と成るが、「四家の範囲」の中で「福家」を「長」で引き継ぐ方式では、「世代交代」は、少なくとも「100年」は見込める事に成る。
これに”「四掟で補う仕組み」”で「四を補う事」であるとするならば、”「世継ぎ」”という事では”「急激な変化を起こさない仕組み」”と成る。

然し、「姓制」を採らない以上は、これは実質上は「女系性」の強い「直系の青木氏族の青木氏」である。

(参考 因みに、「上記の注釈」の解りやすい例として「直近の福家の継承」は、「伊勢青木氏]の紙問屋を主体とする明治期(970年間)以上続いた「総合商社の伊勢屋」では、この「福家の長に依る仕組み」は筆者の祖父の代まで引き継がれて来た。
例えば、次の様に成っている。
曾祖父の兄-曾祖父-曾祖父の弟-・祖父の兄-同祖次男-同祖三男-・祖父-同祖次男-同祖三男=明治35年 これから観ると長寿系であった事から(・)と(・)の間隔は「約100年程度の間隔」で「世代交代」と成っている。
現在もこの「紙屋問屋の伊勢屋」は二か所で継承されている。
多少の他と違う「伝統」は残すも「四家制度」などは最早敷いていない。)

即ち、「六の入り」の子は次ぎの通りである。
1 子、
2 孫・
3 曽孫(ひまご)
4 玄孫(やしゃご)
5 来孫(らいそん)
6 昆孫(こんそん)
7 じゃく孫(じゃくそん)

(注釈追記 以上、上記で「玄孫」までとしていたが、「過去の筆者の研究記録」をもう一度詳しく見直したところでは、「時代性の状況」に応じて、「孫>曾孫>玄孫」をその「女子の範囲」として”「六の入り」”は運用したらしい事が「氏人の遺手紙の記録」からも読み取れる。
それ以降の「来孫>昆孫>じゃく孫」の「女子の範囲」は何か”「特別性」”があったとも考えられる。
「尾鷲の遺手紙」に「7のじゃく孫」が記されている関係から、当時としてはここまでが「青木氏と氏人の女系に依る関係」が「一族の範囲」として確認し認識できていた事を示すものであろう。
現実には、「玄孫」までは筆者の代でも充分に知り得ていたし、普通の「言葉の使用」としても確認できていた。
従って、「村の組織構成」との「繋がり」や、前段で「論じた「部の差配頭」の関係から「来孫>昆孫>じゃく孫」の「来孫」までは普通扱いで、「しゃく孫」までが最大で特別であったろう事が伺える。)


ここまでを「賜姓族臣下族の掟」としてでは、“「直系族」(女系の「六の入り」)”と定めとしてこの範囲までとしている。
後は、「傍系族」に成る。

従って、そもそも、「青木氏族」の「傍系族」としては、次ぎの「三つの属の範囲」に成るとしている。
「傍系尊属」
「傍系卑属」
「傍系同代」

以上の範囲に限定して「青木氏族」としない様にして定めている。

(注釈 「近江佐々木氏」は限定は出来ないが、この「範囲の限定」を無制限に近い状態で緩めていたと観られる。
これを「孝謙天皇」は嫌ったと観るか、将又、これに関連する「四家制度」か「四掟」を緩めてしまったかとも観られる。)

これで極力、”「属の範囲」”を限定し、”「四六の概念」の[保持拡散(概念を緩くする事)」”を防ぎ、且つ、それによって興る「姓発祥」を食い止めていた事が解る。
最後までその「四六の概念」を保持していた「青木氏族」、取り分け、明治維新頃(・明治35年)までその連携を続けた「伊勢と信濃の青木氏族」には厳格なものがあった事が伺える。
「補完役の青木氏族」には、その立場上から「四六の概念の考え方」を変えて維持されていた事が「近江佐々木氏の研究書」からも読み取れる。
これは「当然の事」と考えられ、「両青木氏」のものが「完全一致」とはならないだろうが、伊勢の秀郷流青木氏は「四日市殿」を発祥させている事から見ても相当に近い「四六の概念」を保持していた事が判る。


然し、「賜姓臣下族の志紀真人族」としての「重要な掟」として、この「傍系族」等は鎌倉期までは少なくとも原則としては「青木氏族の内」として認めていなかった事が判る。
所謂、「外孫扱い」であったらしい。
この「鎌倉期までの外孫族」に付いては、調査したが全く判明しない。
本来は「系譜や添書」に記載されている筈なのだが、又、せめて「女墓」に刻まれているかさえも判別し得ない。
これは、「姓化の緩み」のものとして「傍系族」に対して「徹底していた姿勢」とも考えられる。

これについて、強いて云えば、判った範囲で、前段でも論じたが、「宮崎の廻村」と「鹿児島の大口村」の「廻氏の血筋」を持つ「青木氏」が唯一それに当たるだろう。
この「廻氏系青木氏」の「傍系の青木氏」は、「姓族」には成っているが、江戸期には「黒田藩の専属の傭兵」として山や海にその「最大勢力」を拡大させている。
時期は明確ではないが、記録の中に垣間見られる範囲としては、何れか確定は出来ないが、「鎌倉末期頃」、又は、「室町期末期頃」から「丸に笹竜胆(本家筋)」を”家紋”としていたらしい事が判る。

(注釈 唯、筆者はこの判断には、この時、その「薩摩山岳族」と「日向灘の海洋族」として勢力を拡大していた室町期末期から江戸初期前後頃に「黒田藩の専属傭兵」と成った事から、又、確たるルーツを語る家紋を必要と成った事から、その出自経緯から「丸付き紋の笹竜胆」を使用したとする説が納得できる。(イの説)
調査では、それまでは「五七の桐紋(黒田藩より授受)」を使用していた事が判っている。
黒田藩はその彼らの功労により「秀吉」よりこの「家紋の使用」を許されたが、更に黒田藩はこの「専属傭兵の青木氏族」にこの「五七の桐紋」の使用を許したらしい事が判っている。
然し、江戸期初期に成って「黒印状獲得」の為には流石に「秀吉」の「五七の桐紋」は憚って使えず、その出自元と成る「廻氏の血筋」を引く「清和摂津源氏族の笹竜胆紋(上記)」に傍系として「丸付き紋」を着けて「家紋届」を出した事に成るだろう。
或いは、平家により配流された「源宗綱」と兄弟であった「伊勢青木氏の京綱の所縁」を以って「大口村の浄土宗寺住職(寺名は秘匿する)の勧め」で「青木氏」を名乗ったとする記録もあり、この事から宗家筋が「丸付き笹竜胆紋」を使った事も考えられる。(ロの説)
家紋が刻まれている墓所を観ると、両方の墓の家紋があり、凡そその違いは宗家筋とそうでない筋に分類される様でもある。
この事から筆者は、記録のある「後者の説(ロの説)」を採っている。先ず間違いは無いだろう。
何故ならば、「大口村の浄土宗寺(生き残り主従5人)」に逃げ込んだが、間近に「平家の追手」が迫り、緊迫した中で”「名乗り」”として(イ)の説(「嵯峨期の詔勅の青木氏」)を採れば、恐らくは何の所縁の無い「源氏族」としては遠慮会釈なく討ちとられていただろう。
然し、「伊勢青木氏」では、「松阪の隣の伊賀との付き合い」や、「光仁天皇の妃の高野新笠」は「伊賀の平家の里の祖」でもあり、「宗綱の助命嘆願」の親元であり、「伊勢青木氏の所縁の者」とも成れば先ず討つ事は出来ないであろう。)

(注釈 「伊勢青木氏」では、遠い薩摩や宮崎の事でもあり、且つ、「伊勢青木氏」が「直接」に使用、又は「許可」を認めたものでない限りは、「記録」のある限りは事実として「丸付き紋家紋」を逸視していたと考えられる。
「丸付き紋の笹竜胆紋」の記録に残る「確定できる姓」はこの「日向と薩摩出身の廻氏系青木氏」だけと観ている。
筆者は、むしろ「青木氏族」を物語る「確たる物証」のある「所縁のある姓」を敢えて「不問の姿勢」を示し遺そうとしたと観ている。)

注釈として、「近江佐々木氏系の青木氏族」の段でも、その様に定義され”「青木氏族」”として認めて論じている。
と云う事は、同じ「青木氏族」も然る事ながら、「天智天皇」の「賜姓臣下族」の「川島皇子」を始祖とする「近江佐々木氏の直系族」もその範囲のものとして考えていただろうことが判る。
故に「佐々木氏族」も自らの研究記録の中にこの「日向青木氏の歴史」を態々記載している事の「裏の意」は、その「四六の掟」を頑なにある程度までは採っていた事を意味すると観ている。




>「青木氏の伝統 41」-「青木氏の歴史観-14」に続く。
>「女系族」の「四六の古式の概念の続き」


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