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青木氏の分布と子孫力-12

[No.316] Re:青木氏の分布と子孫力-12
投稿者:福管理人 投稿日:2014/07/19(Sat) 10:50:22


> > 青木氏の分布と子孫力-11の末尾

>この守られたステイタスから、「青木氏の身分呼称」は他氏とは異なり、一定の「ステイタスの呼称」が付く事に成る。
>(これが他氏とは、当然に青木氏内でも判別方法は異なる事になり、それが判別条件にもなる。
>上記にも記述した様に、青木氏の最高のステイタスは次ぎの様に成る。、


以下12



「青木氏ステイタス」
身分は皇族朝臣族、
家柄では浄大一位、 (下位では浄高二位)
官位では正二位、  (下位では従五位) 
職位では左衛門上佐、(下位では右衛門下尉:右衛門尉) 
担当職では民部上尉 (下位では民部下尉:民部尉)
以上の「氏の格式の立場」を持っていた。

この「格式の立場」は、「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」以外には名乗れない。
これは永代に朝廷から認められたものである。
因みに、この「格式の立場」はどの程度かと云うと、例を挙げて次の様に成る。

格式立場の例
「征夷大将軍の徳川家康」が「青木氏」と面会したとすると、「徳川家康」が下位の儀礼の立場を採らなければならない立場なのである。
殿様が座る上段の場では、家康は席を譲って下段に座り、座布団などの敷物は外す作法の慣例の立場にある。馬に乗っていれば下馬する立場なのである。
(現実にこの慣例に則り家康と対面している。)
因みに、この事を物語る事件が歴史上に起こっている。
この「二つの事件」は有名な歌舞伎にもなっている。

例1
一つは、信長が甲斐武田氏を滅ぼした。そして、甲斐視察を実行している時、甲斐の賜姓族源氏と青木氏が白の布衣を着て、白の馬に乗ったままに信長を迎えたのである。
これを観たこの格式の慣例の知らない信長が、怒ってこの白装束で白馬の者を自分で引き釣り降ろし殴る蹴る乱行に及んだである。極めて有名な歴史上の事件である。

例2
次ぎは、4代将軍が伊勢神宮参詣に至った時に、「伊勢青木氏」がこの慣例に従って迎えた。
それを観た将軍は怒って家臣に命じて罰する様に命じたが、家臣がこの「古式の慣例」を知っていて、将軍を咎めて難無くを得るが、江戸に帰ってから将軍は収まらず、「伊勢青木氏」に対して嫌がらせをした。この事は「青木氏の口伝」にも伝えられている。これも有名な歴史上の事件である。

事ほど左様に、現実には、筆者の祖父の代まで、紀州藩とはその慣例に原則従ったと伝えられている。現実にその儀礼に従った徳川氏の手紙の記録もある。

正式に名乗る時には、”正二位青木朝臣左衛門上佐信定”と云う事になる。
少なくとも、どんなに「格式の立場」が低くても、「青木氏」であった場合は、必ず最高で「左衛門上佐」か「左衛門尉」か「右衛門尉」が付く筈である。
通称、「兵衛」、「衛門」に左右、或は、「摂津青木氏の情報状提供」の様に、理や市等の呼称名がつけられる。(左が上位 衛門が上位)
これに依って、室町期中期前では、その者がその氏の嫡子か嗣子の判別が出来、且つ、「正規の青木氏」かの証拠にも成るである。

参考
情報提供の青木理兵衛、青木市左衛門、共に付いている。
この事でも、「福岡の3氏」か「近隣の3氏」かは判別できるし、その氏の違いが判る。
青木理兵衛は、摂津青木氏系、青木市左衛門は日向青木氏の伊勢青木氏系と成る。
ただ、室町期末期から江戸期には大名や上級家幕臣は、衰退した朝廷の財政を賄う為に、一代限りの官位と職位を金品で買って名乗る事が起こった。

参考
例えば、よく知るところでは”遠山の金さん”の”遠山左衛門尉景元”と名乗る等、これは朝廷に金品を出して、幕府の許可を得て授かった一代限りの官位である。
殆どの武士はこの「一代限り」の官位呼称である。「・・守」も殆どこの一代限りの名義上の官位呼称で中には重複が多い。
幕末中期頃から末期には、武士はこの左衛門、右衛門を勝手に付けて名前にした。
明治期には遂には庶民も名前にするほどに成った。
鎌倉期から室町期中期まではこの格式の慣例はまだ守られていた。


以上の事柄から「利仁流藤原氏の青樹氏」の呼称が「第3の青木氏」である証拠となる。
依って、福岡のパラメータには論処の一つは「日向青木氏」、一つは「摂津青木氏」としてカウントし、「利仁流藤原氏の青樹氏」には「第3の青木氏」としては別途とした。
何れも「青木村の形成範囲」の条件では無かった。

しかし、パラメータとしては、「字」の領域である事から、パラメータは単独では平均パラメータ4として観ると、「村」で2とすると、「字」である事からパラメータは1に留まる範囲と成る。

これは、明らかに、「江戸期の歴史書」の通説通り、福岡の「第3の青木氏」である事を物語っているが、これを更に証明するものがある。
合わせて、江戸期の「第3の青木氏」の可能性が無いのかを検証する必要がある。

それは「利仁流藤原氏の青木氏」の持つステイタスの「家紋」と「宗派」と「菩提寺」と「過去帳」と「戒名」でも判る。
上記した様に、「利仁流藤原氏」が持つステイタスとして、「家紋群」、「密教浄土宗」か「真言宗密教」か、「菩提寺か檀家寺」か、「過去帳か人別帳」か、「院殿居士の有無とその内容」、等で区別されている。この確認をする事でも判る。

「利仁流藤原氏族青木氏」のステイタスは次ぎの通りである。
・家紋群
上藤 檜扇 隻雁 五三桐 丸に三引 
・宗派
密教浄土宗、或は、密教天台宗
・寺
菩提寺 (達親方式)
・系譜
過去帳(一族一門系譜伝承)
・戒名
院殿居士(釈優位名付帯)

以上のステイタスを持つが、ところが「北家筋利仁流藤原氏族」には、「北家筋秀郷流藤原氏族の文行系」の「長谷川氏」と「進藤氏」との血縁族は発祥させている。
又、この「北家筋利仁流藤原氏」と血縁した「青木氏族」の2氏は、更に同族血縁にて「長谷川氏族進藤氏」、「進藤氏族長谷川氏」、の「複合融合族」を発祥させている。
しかしながら、「北家筋秀郷流藤原氏族の兼行系の青木氏族」の3氏(青木氏、永嶋氏、長沼氏)とは、「北家筋利仁流藤原氏」とは同族血縁を一切していない。
重要な史実の一点である。ここが大きなポイントで、本来なら在り得る同族血縁でもある。
しかし、それも一切無いのである。
従って、博多に赴任した「利仁流藤原氏族」のこの事で「九州の青木氏」は一切無いのである。
ある事が、元来おかしいのである。
その証拠に九州の「福岡糸島」から「太宰府域」までの流域の青木氏の上記の家紋群は無いのである。

当然に、重要な事として次ぎの地域にもない。
「黒田藩の日向青木氏」の在所域の福岡県 三潴郡 城島町 大字青木島、
「黒田藩の摂津青木氏」の在所域の福岡県 福岡市 西区 今宿青木
以上の2地域にも、この家紋群は無い。

従って、上記の「福岡の3氏」のこの3地域には「利仁流藤原氏」が、ステイタスとする「菩提寺」(寺名は個人情報にて不記載)は無い事に成る。

つまり、この事は、九州の「利仁流藤原氏の青木氏」は、鎌倉期間の3代の赴任中には「正規の青木氏」の呼称は無かった事を示すものである。
従って、合わせて、”室町期中期頃の「青樹氏」の名乗り”であった事を物語る。
当然に、これは”「利仁流藤原氏の宗家」からの許可を得ての名乗り”では無かった事に成る。
独自に現地に遺した土豪との血縁族の末裔が勝手に名乗った事を意味している。
許可を得ていれば、上記のステイタスの使用を許可され、且つ、経済的な庇護もあった事に成るがそうでもなかった事に成る。
朝廷も無法治に許可を出す事はしない。

a 氏の家紋群の使用、
b 氏の巨額の菩提寺の建立、
c それに伴って氏の系譜過去帳の作成、
d ステイタスに見合った戒名
以上の氏のステイタスは無い事に成る。

「九州の青樹氏」は、ここに赴任した「利仁流藤原氏」が、正規に「青樹氏」と名乗った事には成らない事を物語る。

つまり、現地に遺した「傍系支流」の「末裔」(未勘氏族とも観られる)が、「秀郷流青木氏の権威」に準えて名乗ったものと成る。

結局、「江戸初期の系譜作成の令」に基づき「青木氏」と変更した事からの「第3の青木氏」と成った。
筆者の検証では以上と成るが、これは江戸期の史書の「第3の青木氏」の説に合致する。

その上記のステイタスの最たるものは「家紋」である。
その家紋には次の様な権威を表している。

・「上り藤紋」
「北家筋藤原氏」が本来の総紋が「下がり藤紋」であるが、”下がる”を忌み嫌い、秀郷一門9氏を除いて藤原氏は全て”上り”に変更した。
「利仁流藤原氏」は、この北家筋として「総紋」をこの「上り藤紋」としているが、秀郷流とは一線を画していた事がこれで判る。当然に、そのステイタスの順守度も異なってくる。
中でも、秀郷一門の「兼行流」の「青木氏」と「永嶋氏」と「長沼氏」とは血縁族がない事もこの事で証明している。

・「檜扇」
この家紋は、当に「公家紋」として有名で、北家筋の藤原氏の「公家族」を象徴している家紋である。
ここでも差違がでていて、秀郷流一門に無い家紋である。
「秀郷流一門」も「平の将門乱」で「貴族」に成ったが、「公家族」との違いを鑑みれば、「行動規範」の違いを「上り藤紋」と共に表している。

・「五三の桐紋」
これは「天皇家の式紋」で「最高の権威紋」である。
これに似せて天皇家より秀吉に送った「五七の桐紋」があり、この「五七の桐紋」を「黒田氏」から送られた「日向青木氏」がある。
この「五三の桐紋」は、天皇家から公家藤原氏に使用を認められたものである。その藤原氏の守護神の「春日社」の「神紋」に用いられた「公家族象徴紋」であり、一門が特別に使用できる事を許可した「神社権威紋」である。

・「丸に三引紋」
「引き両紋」は「花房氏」を始祖とする「足利氏の家紋類」である。
足利将軍の「二引両紋」との血縁族で、「利仁流藤原氏」と「信濃足利氏」との血縁族が用いた「丸に三引両紋」である。室町幕府との繋がりを表す「権威紋」である。

・「隻雁」
これは室町期末期に勃興した真田氏の家紋である。
この基紋は、頼朝より高知の土佐ノ坊昌俊に送った雁文様で、「利仁流藤原氏」が関東で花房氏も用いていて足利氏との繋がり示すもので血縁を結んだ事による類似家紋である事が判る。

この家紋群の持つ意味は、「上り藤紋、檜扇紋、五三の桐紋 丸に三引両紋、隻雁紋」の5紋全体は、「藤原氏」を象徴し、”権威を誇示する家紋群”である。
「隻雁紋」は”関東の豪族足利氏”との血縁を示すものである。
この”象徴と権威の最高家紋”を持つ氏は福岡にはない。
同族血縁を戒律とした「利仁流藤原氏」が持つ「象徴と権威」に匹敵する「家柄身分の豪族」は福岡には大蔵氏を除いて無い。
何故ならば、「遠の朝廷」と呼ばれ、「錦の御旗」を与えられ、「天皇家」と血縁し、「賜姓族の唯一の氏」で「太宰大監」として「九州域の自治」を仕切っていた「大蔵氏」が居た事から、福岡には他のステイタスが入る余地が無かった事がむしろ原因と云える。
”関東や関西の勢力”が、この”筑前”のみならず”九州地域”に入り、”子孫の裾野”を拡げられる情勢下には無かったのである。
まして、「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」が赴任同行の現地の末裔を遺す事はあるとしても、その「役目柄と戒律」から無かった。
「丹治氏系青木氏」も子孫を大きく遺すだけのその勢力を保持していなかった。
鎌倉期ー室町期まで大蔵氏族系のその勢力は保持され、”枝葉末孫の裾野”を拡げ、室町期末期頃から江戸期に入って、その勢力は”分散化”した経緯なのである。
この事でも、「利仁流藤原氏族」の末裔(「あおき氏」等)が ”3代の赴任中”には発祥している事は先ずあり得ないのである。

上記した様に、”独自に現地に遺した土豪との「血縁族の末裔」が、室町期末期以降に勝手に名乗った事”を重ねて意味している。

この”「氏の末裔」だ”と主張する内容を簡単に検証する。
主張の相違点
1 産土神
「青木氏」はそもそも”「産土神」”ではなく、”「祖先神」”である。
「青木氏の守護神」は「皇祖神の子神の祖先神の神明社」である。
「藤原秀郷流青木氏」も、「神明社」と「春日社」である。
「産土神」は「九州域の大蔵氏系族の守護神」である。
「第3の青木氏」である事を物語る確実な証拠である。

2 「氏名」を「神社の社名」
「嵯峨期の詔勅」と「禁令」に反し、「青木氏」にはこの慣習はない。
「社名」は統一して「神明社」である事。他の社名を附ける事は「禁令」である。
「氏名」を社名とする慣習は「禁令」である為に無い。
通説通りの「第3の青木氏」である事を物語る。

3 「氏名」と「呼称」
当初は「青樹」を使い、呼称も「ウォーキ」であった史実がある事。
それを「江戸初期の令」により「青木」に変更した。(各地でも起こった)
通説通り「第3の青木氏」である事を物語る。

4 「宗派」・「寺名」・「菩提寺」
「青木氏」は「密教浄土宗」であるが、「真言宗」である事は疑問である。
「氏独自」に寺を創建して、自らの氏の中から住職を出す仕来りである事。他氏の住職は無い。
「菩提寺」では無く、情報の寺は「檀家寺」である事。根本的に違っていて「時代性」も違う。
「青木氏」は「独自独善の菩提寺」は「寺名」も統一されている事。その「寺名」も違っている。
通説通り「第3の青木氏」である事を物語る。

5 「禁令と慣習慣例」
「青木の氏名」を山名に使っている事。「禁令」で「氏名」は使えない。
「青木氏」は「嵯峨期の詔勅と禁令」に従って、勝手な所に「青木」を使う事は禁じられている事。
通説通り「第3の青木氏」である事を物語る。

6 「住職氏名」
「青木氏の菩提寺」の「住職」は、「密教」であり全て「青木氏」である事。他氏名はない。
(同族の近江佐々木氏が代行している)
他の上人が建立することはない。
通説通り「第3の青木氏」である事を物語る。

7 「達親方式」
「自らの氏」が「自らの力」で「自らの住職」が「自らの僧侶」を揃えて建て、自ら”で運営する。
”青木氏の仕来りの「達親方式」が、「布施方式」である事。全く「宗教の慣習」は違っている。
通説通り「第3の青木氏」である事を物語る。

8 「時代性」
「布施方式」は、真言宗も密教方式で、この時代は「布施方式」は正式には採用していない。
まして、青木氏の浄土宗の「浄土密教」と異なる。「真言密教」の「布施方式」はあり得ない。
その「真言密教」が「密教」を解いて「布施方式」と「檀家方式」に変えたのは、江戸初期に家康が全ての宗派に対して、「密教方式」を解き、「菩提寺方式」を解いて、全て「檀家方式」に変え、「達親方式」を止めさせて「布施方式」に変えさせた時からに成る事。
通説通り「第3の青木氏」である事を物語る。

9 「神職住職の姓」
住職と神職共に青木氏であったとしても、この福岡地域には「3つの青木氏」と、近隣には「3つの青木氏」が存在して居るし、「明治期の第3の青木氏」は発祥している。不確定の事柄である。
「青木氏」の「真言宗住職」は「戒律と禁令」で有り得ない。
通説通り「第3の青木氏」である事を物語る。
そもそも、既に、「達親方式」では無く、上記で「布施方式」で、「檀家寺方式」である。

(秀郷流と利仁流は、秀郷の祖祖父の藤成と、利仁の祖祖父の鷲取は兄弟)


ここで上記の様な検証をする際に、配慮しなければならない問題と成る事柄に付いて述べて置く。

「郷土史の心得」
特に、ルーツを調べる多くの場合は「郷土史」を参考にする事がある。
ところが、この「郷土史」は果たして「史書」として全て正しいのかと云う問題である。
多くの人の場合は「郷土史」に「万来の信頼」を無条件で、感情的に「正」としての前提で使っている場合が多い。

何故上記の様に、余りにもの”違い”が起こるのは、次ぎの事から起こっている。
1 郷土等が持つ「古文書資料の検証」が、「総合的な知識」によって成されていない書を使用した事による間違いである。
2 特に青木氏には「悠久の歴史」とその「慣習仕来り掟」とそれを構成する「特別の戒律」がある為に、この様に、間違いを起こしてしまったものである。
3 「青木氏」が「他氏」或は「姓族」と同じ様にあるとして、現代風に考えてしまうので間違いを起こすのである。
しかし、この様に何度も研究室や掲示板でも論じている様に、その”「郷土史の論処」は何辺にあるのだろうか”を先ず考えないと大変な間違いを起こす。
”間違いだらけのルーツ青木氏”であるのは「自己満足の領域」である。
それならば、極端に云えば天皇家との系譜と自由にくっければ良い訳で、まあ、それで良いのであれば吝かでは無い。
「自己満足の領域」のそれは、最早、「ルーツ」では無い。歴史の「小説の領域」に成るだろう。

筆者も初期の頃は、多くの正しい研究の手続きを採った資料などを読み続けると、ある処で大きな矛盾に行き詰まる事が起こった。そこからは、全く矛盾だらけの意味の無いレポートが出来上がり前に全く進まなかった。10年位経った頃であった。原因はよく判らなかった。
ところが、ある時、歴史マニアの先輩に何気なくアドバイスを受けた事があった。
暫くは判らなかった。ある時、ある「郷土史」と別県の「郷土史」に同じ事が書かれていた。
ハット気付いた。次ぎの3つの事に気が付いた。

A 「郷土史」の書いている基本前提となった書籍の真偽の事。
B 「郷土史」は「自らの郷土」の宣伝目的が潜在して優先として真偽だけを優先していない事。
C 「郷土史」の論処の殆どは、江戸初期に幕府が命じた「家譜作成の令」が前提である事。

「家系」や「由来書」や「歴史書」や「宗派」や「家紋」等の”一切の格式に関する家譜書籍”の「作成令」で出来たものが前提と成って居ることであった。
それを”正しいとする前提”で書かれている事に気が付いた。これが「先輩の忠告」であった。

「郷土史」の編者自らが「歴史の研究」をして、その「論処の是非」を研究して、つくり上げたものとは言い難いもので、多くはこの「江戸初期の書籍」を基に「写し書き」で作成されている事であった。
現実には、上記した様に、「搾取偏纂の権威の構築」の政情下にあった為に、江戸期前のまともな資料は少なく、又信頼度が低いし、この時期のものを使って史書を作る事は至難の業である。
特に「青木氏」に関しては、室町期からの「勃興氏姓族の慣習」等に社会の多勢が従っている為に、「違いのある慣習仕来り掟」に従っている為にこの様な事に成るのである。

この「江戸初期の大名」やそれに「準ずる豪族」と、その「上級家臣」等の主だった「武士」達、要するに、「系譜偏纂」を江戸幕府に命じられた者達は、平安期からの「悠久の歴史の持つ者達」であったのであろうか。そうではなかった。
室町期の下剋上、戦国時代で、殆どの歴史や由来を持つものは11代の源氏を始めとして豪族と云う豪族は悉く例外なくすべて滅亡している。
そして、それらと入れ替わって、歴史由来の「慣習と概念」の持っていなかった”立身出世した有能な農民や庶民”が伸し上がったのである。
「主君」に例外が無いのであるから、「家臣」の領域までも例外がない。
”作れ”と成れば、例外なく ”搾取偏纂の虚偽の書籍しか作り様がない。
作らなかった場合は「藩の存続の保証」「俸禄の保証」はない。
江戸初期の幕府は、それでもよかったのであって、「権威つくりの政治体制」を作らねば、政治に「権威」を無くし、世は又乱れる。その「権威づくり」に幕府は躍起となった。
「過去の権威」と繋がった様に書いていなければ受け付けなかった。
当然に「領主」階級がそうであったように、幕府が求めていなかった下級家臣クラスにもこの影響が及んだのである。
そうして、社会全体が、”「家柄 身分の格式」を重んじる社会”となって行ったのであるが、結局は徹底した封建社会が確立した。
この”作られた搾取の書籍”は、事態と時代が進む程に、「真偽化」していくことに成る。
この「虚偽」を打ち消す「資料と人」は、無くなって行くことが「搾取資料」を正当化する。
これが世の中の条理である。
さて、そうなると、この「虚偽の書籍類」を信じて以外に「郷土史」を作る方法は無くなる。
それが「郷土史の実態」で、上記の様に、文章などに「時代考証」や「慣習考証」などに各所に矛盾が生まれるのである。
肝心な事は。「ルーツ探究」には、この様な背景のそれを取り除いてから採用する必要があるのだ。
それには、上記のA、B、Cを取り除く事を実行する事になる。
筆者は、矛盾だらけの内容の原因である事にその事に気づいた。
実に仕事量は増えたが、研究の中で「矛盾と疑問」は少なくなったし、研究は高速で進んだ。
何よりも、この為に「推論立て」が良くなり、その「推論」の「的中の確率」が高くなったのであった。

幸い、その中でも、最も「悠久の歴史と由来や慣習や仕来り掟」などが、消えずに残していて、悠久の中で生き残った「青木氏」が存在していた。
その生き残った以上は「青木氏が持つ資料」も遺されるので、この様な「郷土史」に対しては、この遺された資料は、”是非を判定する比較対象”に成り得る。
この為に、「搾取偏纂虚偽の削除」と「真偽の判別」が可能と成るのである。
「青木氏」に限ってこそ、可能と成る「真偽の判別」である。佐々木氏や藤原氏等を除いては、「他氏」や「姓族」では無理であろう。
「慣習や仕来りや掟」や「戒律」の違う「他氏」と同じ扱いで探究すると、この様な”矛盾だらけのルーツ探究”と成るである。
それだけに、サイトは、この「青木氏」だけの「慣習・仕来り・掟」と「戒律」のありとあらゆる事を研究してそれを論文として遺そうともしている。
是非、この論文を使って、「青木氏」の「ルーツ探究」をして頂きたい。
歴史を研究する者は、確かに「郷土史」も一応は資料対象とするが、その「真偽」から先ず調査して「研究の資料」とする。
殆どは、「郷土史」は、必ずしも”虚偽搾取偏纂”とは言わずとも、「矛盾」を持っているのが現状と考える。
これを”推論を建てて取り除いた上で”の資料として使うのが普通である。
そもそも、この世の中の事はその条理の手続きの中にあると信じるし、「仏説」もその様に説いている。

典型的な例がある。
それは、「家の格式や立場」を表すステイタスの”「家紋」”である。
1つの権威ある「家紋」に対して、判りにくいところを少し変えて「類似家紋」に作り変えているのである。
大抵は、”1つの権威を有する家紋”に対して、100から200位は類似家紋がある。
「類似家紋」、そのものの存在が、「権威の搾取偏纂」に外ならない。
「江戸期の作成令」のこの数字の示す事は、如何に”捏造”が凄かったかで、それが判る。

現に、そこで、徳川幕府は、「家紋」に対する「権威の保全」を徹底させる為に、無断使用と類似家紋の使用等の一切のステイタスの模倣と無断使用を禁じていて、極めて厳しい厳罰で臨んでいる。

特に、「福岡の青木氏」の検証には、「7つの氏姓」が上記の事に複雑に絡んでいて「真偽」を見つけるのに苦労した最大の要因であった。
言い換えれば、”「真偽の追及」=「搾取偏纂の除去」”の末の「パラメータの決定」であった。

本論を終わるに付いて、”上記の事”を実行しての「青木氏の分布と子孫力」の長い間の研究であった。
是非、本論をご覧に成って、研究に「郷土史」類などを利用される場合は、上記「40年前の経験」を忠告して終わりたい。


参考
「現在の福岡の青木の地名」

福岡県福岡市博多区大字青木
福岡県福岡市博多区青木1丁目
福岡県福岡市博多区青木2丁目
福岡県福岡市西区今宿青木
福岡県久留米市城島町青木島
福岡県久留米市城島町上青木
福岡県久留米市城島町下青木
福岡県久留米市城島町西青木
福岡県大川市大字下青木

以上、9地域に青木の地名がある。


所感「伝統 3」
さて、終わる前に、「青木氏の伝統」に関わる事が「福岡の青木さん」の検証に大きく関わっていたので、追記としてここで今後の参考に論じて置く。

家の家紋には、一般に使われない「女紋」「女墓」等の”女系に関する「慣習や仕来り」”があって、「青木氏」は、この「女紋」や「女墓」等の「女系のステイタス」も継承する慣習を持っていて、それに多くの「慣習仕来りや掟」が付随していた。
この「女紋」や「女墓」の事を知識として持ち配慮して検証しないと、ルーツなどには判明しない事が度々に起こるし、間違える事が出る。
そこで、今回の「摂津青木氏の検証」には、次ぎの「女紋」として家紋が大きく左右した。
以下は、この情報提供を受けて、「摂津青木氏の判定」がより確実となった。
なかなか、現在では、この「女紋」「女墓」等の習慣を継承している青木氏でさえ少なくなった。
「青木氏の慣習」に習って、勃興した上級武家もこの慣習に習って継承した経緯がある。
この「女の慣習」と云うべき「慣習仕来りや掟」は、主に江戸初期まで維持されたもので、江戸期に入って「女性の立場」は社会の中で抑え込まれた様な環境に成って行った。
その為に、これらの慣習は、「特定な家柄筋」の中で維持されてきた。
特に、青木氏には、「女紋」は主に「儀式祭祀」の中で昭和の中頃まで遺されていた。

そもそも、「皇族賜姓青木氏」は、家紋は「象徴紋」の扱いである事から、支流傍系等の事を表す手段として「丸付き紋」は一切使用していない。
但し、「象徴紋=総紋=家紋」となるが、この為に、「副紋」は使わず「女紋」を慣習として用いた。
他氏には観られない「女墓」も同じ考え方である。
この事は本論の上記でも論じたが、「特別賜姓族青木氏」は次ぎの様なこの慣習を家紋に直接反映させる方法採っていた。
特別賜姓族は「副紋」を使う代わりに、原則として、「丸付き紋」は使用しない仕来りと成っていた。
文様が元より「丸付き」の文様として出来た家紋の場合は例外とした。

先ず、大別すると次の様に成る。
A 氏一族一門全体を示す「総紋」がある。
B 家のルーツを個々に示す「家紋」がある。
C 家の副ルーツを示す「副紋」がある。
D 家の女系ルーツを示す「女紋」がある。
F CとDを兼ねた「副紋」=「女紋」がある。

Aは、「下がり藤紋」となるが、「総紋」をそのものを「家紋」とする事は、「総宗本家」と、それぞれの「流れ」の「宗家」「本家」までが「家紋」として継承する仕来りである。
従って、「総紋」を「分家」は家紋とは出来ない。同様に同じ目的の「藤原氏の氏名」もこの「仕来りの内容」に従っている。

Bは、「総紋」だけではその子細なルーツを示す事が出来ない為に、先ず「家紋」を用いて判別させる仕組みで「流れ」を示す仕来りである。
この場合は「総紋」の中に文様として組み込んで使う手法と別に分けて使う場合がある。
特に、枝葉から観て、判別要領は次ぎの様に成る。
イ ”「幹部」に位置する独立性の高い「流れ」の「青木氏」の場合”は、「組み込み方式」を採用する仕来りである。(本家筋)
ロ 逆に、”「抹枝」に位置する流れの青木氏の場合”は、別に分けて使う「分離併用方式」を採用する仕来りである。「併用紋」である。

特に、イの「組み込み方式」の家紋は、”独立性の高い「宗家筋」(本家筋)の流れの家柄”を示す。
例えば、「組み込み方式」では
「讃岐藤氏の青木氏」の「下り藤紋に雁金紋」
「武蔵藤氏の加藤氏」の「下り藤紋に巴紋」
「尾張藤氏の柴田氏」の「下り藤紋に一文字紋」
「結城藤氏の結城氏」の「下り藤紋に左三巴紋」
等がある。
「分離併用方式」では、
「下り藤紋 違鷹羽紋」がある。
「下り藤紋 州浜紋」
等がある。

Cは、藤原氏の様に全体で361氏にも枝葉末孫が拡大している場合、その青木氏が116氏にも拡大している場合は、B方式では未だ子細は充分でない。
そこで、更に、この「流れ」を更に判別する方法として、Cの「副紋」を用いた。

例えば、次ぎの様なものがある。
秀郷一門の「主要家紋8氏」の中の家紋で「家紋主要8氏」が用いたものである
「違鷹羽紋に一文字と開き蛤紋」の様に、「一文字紋」と「開き蛤紋」を「副紋」として用いた。
これは、「分離併用方式」の”併用する方法”とは違い、これは、別の「第二家紋」扱いで使用した。
「左三巴紋に釘抜紋」「左三巴紋に三角藤」
「左三巴紋に上藤丸紋」「左三巴紋に蛇目紋」
「檜扇紋に隻雁と五三の桐と丸に三引紋」
以上等が「第二家紋」扱いの副紋である。

依って、「一般の氏」には、この「Cの副紋」(第二家紋)は原則的に用いられていない。

a 「北家藤原秀郷一門一族」の361氏に成る様な「子孫力・子孫拡大」を起こしていない事
b 「高い格式」と「同族血縁」が無い事
c 「青木村」の様な「権威村」を構築出来ない事
以上等が原因して「Cの副紋」は用いていないし、用いられない。

(「氏族」では無理に誇示する為に用いたものもあるが、「姓族」そもそもない。)

このBの「分離方式併用方式」の「副紋」は、「家紋掟」に依って、「跡目継承の問題」で「変紋」を余儀なくされた”本家筋が用いた手法”である。
従って、”分家、支流、傍系”には、この「Bの副紋」の「分離併用方式」の「副紋」は原則ない。
そもそも、重要な事は、”「副紋」を持つと云う事”は、その「流れ」の”「本家筋」以上の格式の家筋を示す事”を意味する事に成る。
要するに、「Cの副紋」は「第二家紋扱い」の家紋である。
AとBとCの家紋方式を以って秀郷流青木氏の家筋は解明できるのである。

Dは、AとBとCの家紋に対しての「男系ルーツ」に対して、「女系ルーツ」を明示して、その「ルーツの正統性」を誇示する慣習である。
一見して、「Cの副紋」と間違いやすいが、違う所は、この家紋は「女が使う家紋」で、跡目と成る嫡子嗣子は用いない。
この「女系のルーツ」を誇示する為に、「女系側の家紋」を用いる。
しかし、これにはある「一定の仕来り」があって、”どの段階の女系のルーツの家紋”を「女紋」にするかの要領がある。

「女紋要領」を下記に説明する。
「女紋」は先ず、その家の跡目の「嫁のルーツ」の家紋を、その嫁が「実家先の家紋」を用いる。
跡目を譲った後のその家の姑には、下記の「2通りの慣習」がある。
要するに「女紋掟」と呼ばれるものである。

「女紋掟」
1の方法は、その姑の実家先の家紋を用い続ける。
2の方法は、その姑は夫の家紋に戻る。この場合は、孫の跡目が出来た事が条件と成る。

「2の方法」
これには、重要な「青木氏族の賜姓族の役の考え方」が存在する。
それは、”子孫を遺す”と云う定義が、”「孫」の跡目が出来た事”を以って、”子孫を遺した”とされる。
「息子の段階」では、”子孫を遺した”と云う考え方を採らないのである。
息子の跡目の段階では、まだ ”子孫を遺した”とは云わない考え方である。
何故ならば、これは、”子孫を遺した”とする「考え方の根拠」は、「分身説」を採っているからである。
これは、「古代密教浄土宗」の考え方にあり、「過去ー現在ー未来」の「3世」を「一つの世界」として捉えている。
この「三世の考え方」では、この「3つの完成」を成し得て、初めて”分身を遺した”とする考え方なのである。
つまり、子供が出来た段階で、「自分の位置」は、「現在の位置」に居て、子供は「未来の位置」にいる事に成り、「現在ー未来」のプロセスが完成する。
しかし、更にその子供に「孫」が出来たとすると、「自分の位置」は、「過去の位置」に移動して、子供は「現在の位置」に、孫が「未来の位置」になり、遂に「過去ー現在ー未来」の「三世の形」が出来上がる事に成る。
この時、初めて、”子孫を遺した”、”分身を遺した”、とする考え方である。
「三世慣習」と呼ばれるもので、「青木氏」に於いては全て、この「世の事」はこの「三世慣習」に沿って考えられる。

この「三世慣習」の根拠は次ぎの様に成る。
例えば、「自分の子供」が結婚して、「孫」が出来たとすると、「自分の子供」は「嫁」に引き渡して、「子供」を引き続き ”次ぎの段階の養育の役”をこの「嫁」に任す事を意味する。
息子の「第一段階の養育」は終わり、次ぎの「第二段階の養育」に移る。
この息子の「第二段階の養育」を「嫁」が引き継ぐ。
「孫」が出来れば、「未来の子供」(孫)と「現在の子供」(息子)の”二つの子供”を「嫁」に育ててもらうと云う考え方をする。
従って、「孫」は「嫁の者」では無く、未だ「姑の者」として考えて、”「育てて貰う」”と云う考え方をする。
従って、「嫁」の位置づけは、「嫁」では無く、「娘」の考え方に位置する。
これは、上記した様に、「同族血縁の仕来り」から来る考え方に成る。
「家の子供」は「氏の子供」であって、「同族」であるが為に、取り分け、「嫁の位置」づけは「外者の感覚」より「内者の感覚」「同族の感覚」「縁者の感覚」の方が強かった事に依る。
「娘の感覚」の方が強かった事になるのである。
結局は、つまり、「子供の養育」の「バトンタッチ方式」である。
「親の姑」から「娘の嫁」へのバトンタッチである。
当然に、故に、この「バトンタッチ」は”「段階の変化」を来した事”だけを意味する。
「自分の子供」の段階では、「子供」の「基礎養育段階」(第一段階)であり、「嫁」に引き渡した「子供の養育」は、子供を遺す為の「成長養育段階」(第二段階)と考える。
この時、「孫」が出来れば、その「孫」と子供(息子)とは、「嫁」に依って「家の子供」として育てられる。
そして、その「孫」に子供が出来れば、「嫁」は「人の目的」、即ち、「2つの養育段階」の目的は、”果たした”と云われる事に成る。
この時、祖祖母に成った自分は、”「人生の目的」を果たした”と云われることに成る。
「家」の取り仕切りは、「姑」から「嫁」に一切引き渡されるのである。
「嫁」は、「人の目的、」「2つの養育段階」の達成を以って、「家の人」と成った事に成り、「氏の家紋」を引き継ぐ事に成る。
この時、「姑の自分」と「嫁」は「氏の家紋」を使う。
その前は「嫁の段階」では、未だ「実家の家紋」なのである。
「嫁」は「過去の位置」に成った時、「2つの養育段階の役目」を果たした事を以って、「氏の人」と成ったと評価される。故に「氏の家紋」の使用を許される。

これは、「孫」もその「家の子供」とする考え方であり、「嫁」もその「家の娘」に成ったとする考え方である。従って、「青木氏」には、「嫁」という概念が低いのである。
この「嫁の概念」の低さは、「同族血縁」を主体としていた為である。
他氏から来た「嫁」でないからで、その差から来て来るのである。
子供は、同族の「氏の子供」の感覚であるから、「嫁」も「氏の一族一門や縁者」から来ているので、「姑」にとっては「嫁」と云うよりは「子供」の域の感覚にある。
「嫁」は、”「家の娘」化の感覚”が起こるのである。
「青木氏」では、「子供」(現在の子供)も「孫」(未来の子供)も含めた「子供の定義」の中にあり、要するに「子供」と成る。
「孫」の位置は、あるにしても「子供」の概念の中にある。
従って、「青木氏」では、「跡目」や「嫡子」は、この孫も含めた「子供」の中から選ばれる事に成る。
更には、「青木氏の賜姓族」は、子供は「家の子供」では無く、「氏の子供」として考える。
「各家の跡目」は、「各家の子供」を直接に「跡目」とする考え方では無く、「氏の跡目」として「跡目」が無い家には、「氏」の「他の子供」を「別の家」に廻して「跡目を継承する方式」を採用する考え方である。
「氏の子供」は、「自分の家の子供」であるとする考え方を採る。
これは「血筋の純血度」を一定に高めて、それを広域な範囲にして置く「血縁戦略」である。
こうする事で、「家の断絶」や「氏の衰退」は無くなるとしたのである。
この様にして、如何なる事由が在ろうとも、絶対に、「氏の継承」と、「氏の純血の血筋」と、「氏の名の継承」と、「氏の役の継承」とを守り通す為に、「古代密教浄土宗の考え方」を「青木氏子孫存続」の「システムの考え方」に取り入れたのである。
これには、「3つの発祥源の立場」を守り通さなければならない「絶対的な役の戒律」があった事に由来する。
この「跡目となる子供」は、上記の「三世慣習」の考え方に従ったのである。
この「三世慣習」から、氏の「家間の差」が無く成り、「分家、支流、傍流」の感覚は無く成ったのである。
当然、その「家間の差」が無い為に「家紋」は無く、「家紋」の元と成った「象徴紋」の侭にあるのである。
ここには、その「システムの維持」に絶対的に不可欠な事は、「女系の血縁維持」も同じ様に保つことが必要と成る。「男系」だけでは成し得ない。
この「三世慣習」は、むしろ「女系システム」と云っても良い。
「青木氏の家訓10訓」の「家訓1」と「家訓2」にある様に、これを重視している。
「女系」が「三世慣習」を作り出しているから「女紋」が生まれているのである。
「三世慣習」からすると、つまり「家訓1」「家訓2」からすると、「男系」はあくまでも「あらゆる面に使われる一種の道具」である。
それを使っているのは「姑ー嫁ー娘」の「女系」であり、「2つの養育段階」は「女系」によって左右される。
「氏の発展如何」は「三世慣習」の「女系」によって決まる。
故に、「女」への考え方も異なるが、「女紋の存在」そのものが他氏とは違って存在する。

もう一つの「女紋の存在」を決定付ける慣習がある。

「家紋の存在」の慣習
「娘」が藤原氏等の同族の他氏に嫁ぐが、「同族血縁」で嫁ぐかの如何に関わらず、その娘の「第一嫡子」は、「実家の跡目継承の資格」を有している。
これは、天皇家や皇族の継承の仕来りと同じである。
「女系天皇」があるのはこの「仕来り」に従っている。
つまり、これは当時の「血縁の概念」は、”「娘」は男子と同様に「半分の血筋」を有している”と考えられていたからである。

そもそも、現在では、「遺伝学」が発達して、父と血液型を同じくする場合は、その父の遺伝子の85%も子供は維持している事になる。明らかに殆ど”分身”である。
「青木氏」は、上記する様に、早くからこの「分身説」を採用している。
但し、「女子」である事から、父の「男子の遺伝部分」は無いので、80%前後には下がるが、血液型を同じくとする場合は、「息子の血液型」が「母型」に成っていた時よりも、遺伝部分は多く遺伝している事になる。
古来は、半分と考えられていて、男女同じと考えられていた。
そして、血筋として、特に娘の「第一嫡子」が高い継承率を持っていると考えられていた。
この為に、この嫁ぎ先の娘の「第一嫡子」は「実家の跡目継承の資格」を持っていると考えられていた。これは「遺伝学的には合理性」を持っていた慣習である。
この場合、正当な男子の「実家の跡目継承」が成立出来ないとした場合に、「嫁ぎ先の娘の第一嫡子」を「実家の跡目」に入れる事は可能としていたのである。
この場合には、「第一嫡子」は「嫁ぎ先の跡目」でもある。
これでは、「嫁ぎ先」の方でも「跡目の問題」も生まれる。
そこで、室町期までは、嗣子の中から跡目にするには、「優秀な嗣子」を選んで継がせる事が優先されていた。

しかし、江戸期では、「血筋」と云うよりは、「跡目騒動」を無くす目的から「長男が跡目」を優先する事に成る事が決められていた。
これを「家康」が「家光の跡目騒動」で決めたことである。その後、これに習って社会は長男が跡目を継ぐ仕来りと成った。
「嗣子」の中から、優秀な者を「嫡子」にする制度は次第に消えて行った。
これは、
1 江戸期の安定した社会変化で、「同族血縁」を制度として取り入れている氏が少なく成った事。
2 戦乱の世に嗣子が戦いなどで減少する中、嫡子を長男とすると跡目が無く成り騒動の下になる   が、この必要性が無く成った事。
3 戦乱で家を維持する為には、嗣子の中から沈着冷静、勇猛果敢、剛勇豪胆な人物を選ぶ必要が   あったが、安定社会ではその必要性は無く成った事。
4 安定した社会では寿命が延びて嗣子を多く設ける必要性が低下した事。
5 特定階級を除き「妾」による嗣子の必要性が低下し一夫多妻の制度は衰退した事。
6 俸禄制度に代わって、嗣子を多く設ける事の負担が増した事。
7 30年に一度の大飢饉多発発生で経済が疲弊し、嗣子を多くする事が出来なくなった。

ところが、「青木氏」は、「二足の草鞋策」で経済的に潤い、この「江戸慣習」に従わずに、上記の「独自の伝承」をまだ護っていた。
それは、むしろ、「商いと殖産」を手広くし、前段に論じた様に、江戸幕府に貢献し、交易を盛んにした為に、むしろ、嗣子を多く必要としていたのである。
前段-5、6で論じた「青木氏」の「2つの新しい氏の発祥」もこの辺の事も影響していたのではとも考えられる。
これらを維持する為には、氏の家間の差をより無くし、跡目を確実に家間に振り分けて、「氏の跡目」を確実にしなくてはならない状況と成っていた。
つまり、江戸期に於いても、社会とは「逆の現象」が起こっていたのである。
上記の様な、「同族血縁」や「慣習仕来り掟」をより厳しく護る必要が出ていたのである。

「青木氏」は、「男系」のみならず「女系」に於いても、可能な限りに「同族内の血縁」を「従兄弟の段階」まで優先させていた。
依って、”他氏に嫁ぐ”と云うよりは”「遠縁に嫁ぐ」”を優先していた。
その意味では、娘の「第一嫡子」には、抵抗感は少なく、「同族血縁の範囲」として「氏の子供」を前提として、盛んに用いられていた。

そもそも、現代の生物学では、人間の元は、「男女の一対」が存在した訳では無く、「ミトコンドリヤ」から、4回の進化を遂げたが、元は「雌」であった。
「4回目の進化」の最終は、「雌の機能」の中の「雄の機能」を分離して、「雌の存続」を優先して図る為に、天敵から身を護る役割として「雄機能」を分離させた進化を遂げた。
より多くの「雌」を遺す事に依って、「雄」が仮に1でも子孫は繁殖してより多く遺せるのである。
しかし、この逆は成り立たない。
(この事も「雌」であった事を示す証拠である。「雄雌一対論」では同じ「生存能力」を持たした筈である。)
この方式が最も子孫を多く遺せる事と成って、「人族」が最も繁殖したのである。
当然に、故に「人遺伝情報」はオスには無くメスに持っているのである。
そのオスが元メスであったとする「名残」がオスには、4か所遺されている。
それは「乳首」と「へそ」である。
この二つは在っても全く機能していない。(後二つは不適切用語になるのでここで論じない。)
当然に、逆にメスにはあるが、オスには無いものが多くある。
ところが、逆に、オスには有るが、メスには無いとするものは無い。
オスだけには確かに有る様に見えるが、それは「雌の生理機能具」が全て「オスの能力」を充分に発揮させる為に、「オス様」に変化させたものなのである。
元の原型は全て「雌の機能」なのである。

因みに、「雄」が「雌」から分離したとする典型的な例を敢えて述べるとして、子孫を遺そうとする「人間族の性欲・生理機能」がある。
「雄の性欲」は、”元の「雌」の母体に戻ろうとする本能の変化”であると云われていて、その「性欲の行動」の全ては、この元の雌の体の中に戻ろうとする行動パターンに分類される表現である。
ところが、「雌の性欲」は、あくまでも、”子孫を遺そうとする本能の変化”であると云われ、分離させた雄機能を雌の中に戻そうとする本能の変化である。
この「行動パターン」の全ては分類される表現であって、この原理から外れる行為は一切無い。
つまり、この「性欲の原理機能」からも、元は「雌」なのであって、「雄」は、雌のその”分身”で、「子孫存続の道具」である事にすぎない事に成る。
これは「体の機能」のみならず「脳の機能」に於いても云える事である。
因みに、「人族」に必要とする同時に二つの事を考えられる能力の「女性の連想能力」(子孫存続に必要とする母性本能に由来する)は男性には無い。元は雌であった事を物語る機能である。
右脳を積極的に使う機能を持ち、「ベータ波」を高めて察知する機能は雌に持っているが、雄は低い。これも元は「雌」であった事を物語る機能である。
又、「複眼機能」は女子には遺されているが、訓練すればこの機能を復元できる状況にある。
しかし、男子には僅かに遺されてはいるが、最早、乳首やへそに類していて訓練如何に関わらず働かない。
これも元は「雌」であった事を物語る機能である。
他にも多く説明できるものがある。ただ、これでは人族の男子は生き残れない。そこで、これらの女子が持つ機能に匹敵する様な「脳」を”脳の一部””を変化させて進化させたのである。
例えば、「左脳の情報脳」の一部を進化させて、複眼機能と連想機能に匹敵する様に、「左脳の情報」を基に「予知する能力」の脳を作り上げたのである。これを左耳の上に「中紀帯」と云う「進化脳」を作り上げたのである。

ここでも、「青木氏」の「子供の分身説」「三世慣習説」は合理性を持っている。

とするとなれば、「雄の機能」と「雌の機能」を保全した形の上で、”「雌」が跡目を継承して行く事”が道理であろう。
その意味で、上記した様に、「女系の第一嫡子」が”実家の跡目の有資格”は、実に合理性が高い事に成る。
「人族」の発祥地の「アフリカの民族」には、「女系家族」を主体とした民族が未だ多く存在するのは、上記した原理に従っている。自然摂理に従った合理形態とも云える。
しかし、余り近代化の進んでいない社会の中で成り立つ制度である事は間違いない。
「人の社会」が進むにつれて、「雌」から分離した「雄の機能」を使わなくては「子孫存続」が難しくなった。
「雄の力」「雄の知恵」でなくては維持されない社会構造と成ってしまった。
必然的に「雄」が主体と成る社会が出来上がったのである。
故に、人間社会の中では、「男系の跡目」として引き継がなければ成らない社会構造が出来上がったのである。
これはあくまで「社会構造維持の範疇」であり、事「子孫存続の世界」とも成れば、「力」「知恵」は無用で「女系の範疇」と成る。(「戦乱の社会」ともなれば尚更の事である。)

「子孫存続の世界」の「跡目」ともなれば、況して、「青木氏」の様に「3つの発祥源」の役目を「賜姓族」として守り通そうとすれば、「純血性を維持する同族血縁」は「古代の条理」とは云え、必然的に絶対的に「必要な条理」と成る。
「屯」(みやけ)を形成した時代からの「古代の条理」ではあっても、古来の一部の社会の中では全てこの「青木氏の慣習仕来り掟」に類していたと考えれる。
それを「古代密教と云う概念」の中で維持されて来たものであると観られる。

そうすると、そこで問題が生まれる。
「同族血縁の弊害」である。
血縁すると成れば、先ずは「第一段階」として「跡目の家紋」でそのルーツを判別し、更に重ねて詳しく判別する為に、当代の「女系」の家紋、即ち、「嫁の実家先」の家紋を知る必要がある。
その為に、「嫁の実家先の家紋」を「嫁ぎ先の慣習」に出過ぎない範囲で何らかの形で表示する必要が出て来る。
これが、「女紋」で、祭祀などの正式行事には羽織の袖や背中や、箪笥や長持ち高級食器などの正式な諸具には表示したのである。
この「二つの家紋」で、「同族血縁の濃さの度合い」を判断する術とした。
この「類似の慣習」として、「祭祀」などに先祖の墓所には参るが、ここに「累代の女系」を碑にして連ねて「俗名、戒名」と共に「出自」を表記して「女墓」として用いた。
この「女紋の表示の仕方」が、上記した要領に基づいたのである。
この「二つの家紋」をみて「同族血縁」を進めた。
基本は、「3親等」(従兄弟等)からであった。
奈良期から平安期頃までは2親等の範囲(叔父、叔母等)でも積極的に行われていた。

一般の他氏は、本家筋は兎も角も、分家筋は大いに「他族血縁」を積極的にすすめた為に、むしろそのルーツの確認が必要無く成ったので、「女紋」「女墓」等の習慣は必然的に生まれなかった。
本家筋は、この混血の分家筋から抹消の同族血縁をした事で、「新しい血」が入って行った。
依って、この慣習は一切生まれなかったのである。
ただ、この場合は、「本家ー分家の関係」では、その「習慣や仕来りや掟」の縛りは大きな差があった。
従って、「自分の家」が、 ”「本家筋の末梢」に当たるのか”、”「分家筋に当たるのか”で、判定は大いに異なってくるのである。
しかし、「皇族賜姓族青木氏5家5流」のみは、上記した様に、この「本家ー分家の関係」を「同族血縁」を「仕来り」としていた為に採らなかった。
(ただ、「3つの発祥源の役」を護る為に「厳しい戒律」が伴った。)
その見極めとして、上記したAからFの「家紋システム」を採用して表示したのである。
これは、「格式の誇示」と「血筋の如何」に関わっていたのである。

さて、果たして、この「3つの発祥源の役」が無ければ、どうなったのか疑問である。
何故、上記の「家紋の要領」を採らなかったのか、何故、「本家ー分家等の方法」を採らなかったのか、と云う点は、これらの要領は「古代密教浄土宗」の影響であった事が大きく、必ずしも「3つの発祥源の役」だけでは無かったと考えられる。

1の方法
1の方法は、その「姑」の実家先の家紋を用い続ける方法である。
通常は「2の方法」を採用する。
しかし、この「仕来り」は「地域」によって異なる。
その異なる理由は、「地域の環境」にあり、大まかに分けるとすると、「田舎」か「都会」の環境下によって分けられる。
何故ならば、「都会」であれば血縁関係が多様化しているが、「田舎」は縁者関係で繋がっているし多くは面識がある。
「都会」は、従って、この「面識」が薄らいでいるから「2の方法」で「確実性」を求めて判別する。
都会は何れにしても、”多様化している”から、「家の誇示」も強くなるが、「田舎」ではよく似た家柄である事から必要以上の誇示は無く成る。
結局は、「1の方法」と「2の方法」は、この差に従って使用された。
元々は「仕来り」としては、「1の方法」であったが、「多様化」が進むに連れて「2の方法」に成ったのである。
基本的には、「都会」であろうが「田舎」であろうが「2の方法」であれば確実性は高まる。
「1の方法」は、”「封建制」が強い仕来り”である。
これは”「田舎」”と云う事から来ている。
後は、その使用の選択は ”時代性が働く”と云う事に成る。
”時代性が働く”ことは、「多様化」が進む条理に従う訳であるから「2の方法」に収斂されて行く。
では、どの様な方法かを説明する。
「家」は「家族制度」があって、「家長」が存在する。
その「家長」は「伝統の家」の「ステイタス」を「家紋」として引き継ぐ事に成る。
この「家紋」は、上記した「家紋制度」の中で保たれる。
しかし、ここに「格式」と云うものが働くと、”よりステイタスを強調する事”に成る。
そうすると、「2の方法」の様に、その「家長の妻」の「実家先の家紋」をも用いる事に成る。
つまり、これが「女紋」である。
さて、そうすると、「家長」は、「家族制度」の中で、”どの位置の者が成るか”の問題で、「祖祖父ー祖父ー父ー子ー孫」であるとすると、「祖父」が成っているとすれば、「姑」の「実家先の家紋」を「女紋」として用いられる事に成る。
当然に、この「女紋」を使うのは、「祭祀と儀式」の時等に用いられる。
当然に、そうなると、「家」の「姑」が「家内の実権」を握っている事に成る。
その「姑」も「夫の家長」が亡く成れば、「家長」は「息子」に移る事に成り、「家の実権」は「息子の妻」の「嫁」に移る。
この時に、「姑の女紋」は消え、「嫁の実家先の家紋」が用いられる事に成る。
従って、「姑」が用いる「紋」は「家長の家紋」と成る。
これを「世代交代」、「跡目相続」毎に変化して繰り返される。
しかし、血縁対象は「娘子」であるから、相手側からすると、「娘子」の「母親の女紋」は判らない事に成る。
これでは、「同族血縁の度合い」の判断は低くなる。
しかし、ここがポイントで、「田舎」と云う環境であるのだから、「母親ー嫁」の出自は、未だ人の面識の中で知り得ている。
依って、「人の記憶」に薄らいだ「姑の実家先の家紋」、即ち「女紋」で判断しても問題は無く成る。
ここに、”1の方法と2の方法の「仕来り」の違い”が、「面識」と云う点で生まれているし、「家長制度」に従っている。
結局、「1の方法」か「2の方法」かの使い方で、その「氏」のその「女紋」を観れば、出自は凡そ判る事に成り、更には「女紋」で完全に判別する事が出来るのである。

ただ、「賜姓族の青木氏」は、「同族血縁」を主体としている事から、「女紋の範囲」も限られて来るので、判別は「家紋」と「女紋」で充分に判るが、「家紋」は「象徴紋」である為に変わらない事になる傾向が強いので、「女紋」の判別の意味合いは強くなる。

ただ、同じ格式の範囲で行われる「母方の血縁」では、「家紋」も重要な意味を持って来る事に成る。
例えば、「母方」で繋がる「特別賜姓族の秀郷流青木氏」とは全く格式は同じである。
「116氏」にも成ると、家紋は116もの数に成ると、当然に判別は困難であるので、「家紋」と「女紋」とで判別が必要と成る。
ここに「秀郷宗家361氏」との血縁ともなれば、「格式」は多少の変化を来す。
益々、「家紋と女紋」の重要性は高まるし、「家紋」だけでは不足と成り、「副紋」も用いての判別と成るので必要と成る。
他氏では、「同族血縁」が成されない事から、結局は、「家柄」と「家のステイタス」の「誇示」に利用される。
「より低い氏姓」は「より高い氏姓」との血縁を望む事に成り、「家紋」一つに「判断の重要性」は高まる事に成る。
依って、「青木氏」は、「皇族賜姓族」にしろ、「特別賜姓族」にしろ、「同族血縁」をする為に「氏の地域性」は明確に成って居るし、「地方性(田舎)」は「青木村」を構成する事を許されている為に「1の方法」が主体と成る。
しかし、「夫々の賜姓族内」では、「1の方法」で、「賜姓族」が跨げば「2の方法」に従う事と成る。

この「慣習仕来り掟」の範囲で同族は護られる事に成る。
兎も角も、以上の事全ては、”「氏家制度」”の中での「慣習仕来り掟」である。
なので、この様な「血縁関係」は「氏全体」で管理されている事に成る。
つまり、その作業が「密教の菩提寺」に求められ、その「菩提寺」の「過去帳」に記される事に成るのである。
これが、何度も論じている「菩提寺と過去帳」の位置づけなのである。
上記に論じた「青木氏の家紋に関する事」や「青木氏の考え方の如何」は、この「密教の菩提寺」と「過去帳」の所に繋がる事に成るのである。


上記の事を承知した上で、情報提供のあった下記の例を検証してみる。

そこで、「福岡の第3氏」を入れた「7組の青木氏」が、入り組んだこの「特殊な地域」で、且つ、「青木氏」を判別する場合は、次の様な事に成る。
「特殊性」が出て来て、この「青木氏」が持つ「家紋」などを含む全ての「慣習仕来り掟」の「熟知の度合い」が大きく左右する事に成る。
情報提供の下記の例は次ぎの様に成る。


先ず、「女紋」は「五瓜に唐花紋」である。
そもそも、この「家紋」には次の様な情報を持っているのである。
「家紋」には、全国8000の家紋があるが、その内で豪族として大きなルーツを持つ”「主要家紋200選」”と云うものがあり、この家紋はその中の一つである。
歴史的に日本の「主要氏の家紋」と云う事に成る。
この「家紋の文様」は、元は、「唐の官僚の階級」を示す袖に記した「官僚階級紋」である。
これを「大和朝廷の官僚」の「象徴の印」としたのである。
専門家ではこれを「官僚紋」と通称は云う。
そして、この「官僚紋」の「文様紋」を使えるのが、「大和朝廷」の当時の「五大官僚」と云われる「氏」が独占したのである。
「瓜の切口」とか「ボケの花の断面」とも言われているが、これは大きな間違いである。

注釈
この辺のところが「郷土史」では間違いを起こす。
「俗説」を用いてしまった事からこの説が全国に広まった。間違いの大きな事例である。

この「五大官僚」の「高級官僚」は、「唐花の文様」を少しつずつ変えたものを「象徴紋」とし、誇示する為に牛車などの道具に使用した。
室町期末期から江戸初期の後に多くの「姓」が使ったこの文様の「類似家紋」は190程度もある。

そこで、何故この家紋が「九州福岡」と云う地域にあるのかと云う疑問を考えると、ここには「明確な根拠」がある。
ここには、奈良期には、その「五大官僚」の一つの「伴氏」が、この「九州地域一帯」を任されていた。
その「伴氏の職務」は、主に「弁済使」であった。
つまり、この「伴氏」は「税務監」を主務としていたのである。
そうすれば、「税」であるので多くの豪族などとの親交が生まれる。
この結果、「九州一帯」の殆どの「豪族」はこの「血縁関係の血筋」を受けている。
「北九州の豪族」では例外は殆どない。
最も大きい氏で、殆ど「大蔵氏」に依って制圧されるまでは、九州全土を支配下にしていた有名な「肝付氏」がある。
後に「大隅の肝付氏」は、薩摩藩の勢いに押されて敗戦して薩摩藩の家老と成った。
ところが、この「伴氏と肝付氏」の勢力の中に「大蔵氏」と云う別の大勢力が入って来た。

そこで、その「大蔵氏」の事に付いて少し説明して置く。(研究室などに何度も論じている。)
大化期に中国の「後漢国」が亡び、その国の17県民の200万人の「職能集団」が、福岡に難民として上陸してきて、瞬く間に九州全土を無戦で制圧してしまった。
日本の第一次産業の基礎は、この「技能集団」の進んだ技能によってもたらされ築かれたものである。
在来民も挙ってその配下に入って生活程度をあげた。
この時、この集団を首魁として率いていたのが「光武帝」より21代献帝の孫子の「阿智使王」とその子の「阿多倍王」であった。
(”阿多”の地名は鹿児島にある。大隅の隼人に居を構えた。)
更に、この集団は中国地方も無戦制圧し、”いざ都の制圧”と云う所で立ち止まり、朝廷と和睦を選び争いを避けて帰化する。大化期である。
この中国地方には、首魁の「阿多倍王」が引き連れて来た多くの部の職能集団が定住して在来民の生活を豊かにした。
その「部の職能集団」の中で、「陶器を作る技能集団」が勢力を持ち、室町末期まで中国地方の全土を制圧して勢力下に治めた。
その中には多くの「部の職能集団」がこの同じ部の勢力を持った「陶族」に従ったのである。

そして、首魁の「阿多倍王」は「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王」の娘を娶り、准大臣に任じられ、3人の子供を作った。
そして、この「部の職能集団」は、「大和朝廷の官僚組織」の6割を占めて大勢力を握った。
上記の「五大官僚」もこの勢力に飲み込まれた。
この「部の職能集団」が進んだ中国の政治手法を大和朝廷の中に導入した。
この職能集団を「・・・部」と呼び、例えば「服部」や「織部」等180程度の「部」から成り立つ組織を作り上げた。
依って、大和朝廷から政治と経済システムとしてこの「部制度」を採用しました。
この政治機構の改善を主導したのが、首魁の阿多倍王の父の「阿智使王」であった。
「史部」と呼ばれた。
この時に作り上げた「政治機構」の「官僚の象徴紋」として、この「五瓜に唐花紋」を使用したのである。
この3人の子供の長男は「坂上氏」の賜姓を受け朝廷軍を担う。
次男は、当時の政治機構は「三蔵」と云われ、朝廷の財政を担う「大蔵」を担当し、「大蔵氏」の賜姓を受ける。
三男は天皇家の財政を担当する「内蔵」を担当し、「内蔵氏」の賜姓を受る。
この次男の「大蔵氏」が九州全土の自治を任されたである。900年から940年頃の事である。
「遠の朝廷」と呼ばれ「錦の御旗」を与えられ「太宰府の大監」と成る。
首魁「阿多倍王」は、大隅国にも半国割譲を受け、更には伊勢北部伊賀地方の国を半国割譲を受けて実家はここに住み着いたのである。
この時、半国割譲したのは伊勢守護王の伊勢青木氏である。
この隣の伊賀の阿多倍(高尊王 平望王)の実家は「たいら族」の賜姓を受ける。
この「たいら族」の「伊勢平氏」が五代後の「平清盛」である。
この支流の血筋を受けたのが「織田氏」である。
この織田信長の家紋も「五瓜に唐花紋」の「織田木瓜紋」である。
つまり、「伊勢平氏」と「大蔵氏」、「内蔵氏」、「坂上氏」の「3氏」の同族で「官僚の6割」を占める事から、この傍系末裔と観られる織田氏(可能性がある)も、この末裔だとして由緒ある「官僚紋」を採用したのである。
これが、有名な類似家紋として、「織田木瓜紋」である。
この「伴氏」と「大蔵氏」は血縁して、「2つの官僚氏」が九州全土を血縁の輪で固めたのである。
従って、「九州の大蔵氏系豪族」と「九州の鎮守神の神官族」はこの家紋を使用しているのである。

さて、「福岡の青木氏」の1氏が、この家紋である事から、「大蔵氏」の血筋を持つ「伴氏系の姓族」である事になる。
恐らくは、早くて室町中期、遅くて室町期末期に、「姓の家」を福岡筑前のこの地域で興している事に成る。
これを「女紋」としている事は、このルーツから出自した”歴史性の持った家柄”である事を示す。
当然に、この「五瓜に唐花紋」を上記した末裔と成る「家柄筋」が保持しているとすると、この「家筋との血縁相手」は、「家柄と格式」を重んじた社会の中では、必然と決まってくる。
この「五瓜に唐花文様」が「女紋」である事から、「嫁ぎ先の家柄格式」は、「同位」かわずかに「上位の家柄筋」に成る。
そうなると、この地域に、それに相当する氏ともなれば、歴史上から確認できる「青木氏」は、次ぎの様に成る。
平安期から鎌倉期までに筑前に遺した青木氏の末裔氏は、「筑前では2氏」と成り、江戸初期には「筑前の1氏」の青木氏と成る。
先ずは、この「3氏」で、他の要素を組み入れて検証を進めれば、その青木氏は判別できる事に成る。
「検証の櫛田神社」
ここで、「検証の要素」として、筑前にある”「櫛田神社」”が出て来る。
この「神社の由来」を調べれば、この「五瓜に唐花紋」に絡んで来る事に成る筈である。
そこで、更に検証を続けると、次ぎの様に成る。
そもそも、「櫛田神社」は「鎮守系の神社」(大蔵氏の守護神)であるから、「九州神官族の家紋」の「五瓜に唐花紋」となる。先ずここで繋がる。

その家紋の分布は、神社のある地元(内原)でよく使われている。
その背景から、この「神官族の末裔」が、後に地名を採って「内原姓」と名乗った。
この「鎮守系の櫛田神社」の元の「神官族名」は、何であったかが判れば更にはっきりする。

そこで、櫛田神社の由来を調査する。
そもそも、この「櫛田神社」の「大幡大神(大幡主命)」は、「伊勢国松坂」の「櫛田神社」から霊位を勧請した事は有名である。
この事から、この「鎮守系神社」と云っても、その「祭神」は、「皇祖神」の子神の「神明社系神社」とは同じ事に成る。
つまり”兄弟社の様な社格”を持っている事に成る。
実際にも祭祀している「大幡大神」はその格式にある。
櫛田神社がどんな理由で移したのかが問題に成る。
「伊勢松阪」の「櫛田神社」から「大蔵氏」が、”ある事情”で「霊位」を移している事から、初代は松坂の「伊勢青木氏の神官」であった可能性極めて高い。
しかし、あくまでも「筑前の櫛田神社」は「大蔵氏の鎮守神」であるので、「神明社の青木氏」を移したからと云って其の儘に続ける事は出来ない筈である。
何時か変更しなければならない筈であるし、この時の「伊勢青木氏の神官」が筑前に末裔を遺した可能性も否定できない。
しかし、遺したとすると、この場合は、「笹竜胆紋」を維持している「青木氏」と成る。
「源為朝の配流孫の笹竜胆紋」は別として、この「笹竜胆の家紋の青木氏」は1氏が江戸期に移動定住している事が確認できる。
即ち、黒田氏の家臣と成った「摂津青木氏」である。
ところで、「神社の格式」には、”「霊位の有無」”が大きな意味を持つ事に成る。
要するに、「神明社」は「青木氏の守護神」であるから櫛田神社は、所謂「兄弟社」と成る。
故に、祭祀する櫛田神社の「大幡大神」は、「伊勢神宮」の「天照大御神」に仕える「一族神」と成る。

従って、この「博多の櫛田神社」だけは、「大蔵氏の鎮守神」と云いながらも、全国にある「櫛田神社」とは、その「祭神の格式」のレベルが元々違うのである。
それは「筑前の櫛田神社の由来」に関わる。

その「由来、ある事情」とは、次ぎの様に成る。
平安末期に「瀬戸内」で起こった「讃岐藤氏」の「藤原純友の乱」を鎮めるために「伊勢松阪の伊勢神宮」の「皇祖神」の子神の「櫛田神社」と「京都八坂神社」に「乱の鎮静」を命じられた。
朝廷より鎮圧を命じられたのは九州最大豪族の大蔵氏である。大蔵氏はこの二つの神社に祈願をした。
そして、鎮静のその結果を以って、その時に祈願した大蔵氏が、その礼に応じて、筑前に”松阪の櫛田神社の霊位”を遷移して「筑前櫛田神社」を建立したのである。
要するに「分霊」をしたのである。
そして、この「純友の乱」を鎮圧したのは、「阿多倍王」より10代目の「九州太宰府大監」の「大蔵春実」である。
「分霊の筑前櫛田神社」と「本霊の伊勢櫛田神社」も「伊勢青木氏」とこの様に思いがけないところで繋がっている。
更に「青木氏」と繋がった事から、最早、筑前には「青木氏の存在」は否定できない。

そうすると、「櫛田神社」の要素から次の「2つの青木氏」が浮かび上がる。
この「櫛田神社」の位置する地域性から、次ぎの事が判る。
(イ) 黒田氏の家臣と成って移動定住した「摂津青木氏」の末裔
(ロ) 櫛田神社の初代の神官の「伊勢青木氏」の末裔

そうすると、この「女紋側」の「五瓜に唐花紋」を「女紋」として使っているとすると、九州地域では、この文様は「鎮守神の神官族」が使用している文様である事から、この「地域性」が出ている。
この「神官」が、”地域の地名を名乗った”と成る訳であるから、「女紋側」(神官側)に地名の「内原姓」の要素があるので、(イ)の「摂津青木氏」の説に成る。

「五瓜に唐花紋」(女紋)を持つ「鎮守神の神官」の末裔(内原姓)が(イ)の「摂津青木氏」に嫁いだ事に成る。

何故ならば、(ロ)の「初代神官の伊勢青木氏」は、そもそも「笹竜胆紋」で、「神官」であっても「五瓜に唐花紋」では無い。
そして、尚更、神社在所の地名の「内原姓」を、「青木氏」であるにも関わらず、態々と名乗る事が無い訳で、そもそも「青木氏の戒律」から不可能である。
依って「伊勢青木氏」の説は消えるので、「摂津青木氏の説」と成る。

これで、「九州の鎮守神の神官族」の「五瓜に唐花紋」を「女紋」としている筑前の内原地域に定住している「青木氏」は、結局、「黒田藩家臣の摂津青木氏」であった事に成る。

さても、問題は、この「黒田藩家臣の摂津青木氏」の家紋が、「笹竜胆紋」を維持出来ていたかは検証しなければならない疑問である。
そもそも、「摂津青木氏」は、「源平の争い」で、近江で、滋賀で、美濃で滅亡している。

福井に逃避して庇護され僅かに遺した支流の末裔が、摂津に移り「伊勢青木氏」の大店に庇護されて再興を遂げた賜姓族の一族である。
元々、「近江青木氏」の一団の「摂津水軍」の名残を持つ事から、「伊勢青木氏」等の大船に従事して糧を得て来て生き延びて来た。
従って、「笹竜胆紋」を維持するだけの「血縁力」「子孫力」は持ち得ていなかった筈で、「家紋掟」に依り「変紋」を余儀なく成って居た可能性が高い事が充分に考えられる。
実際に、現在の「摂津域の青木氏」には「笹竜胆紋」は1家しか確認できない。
しかし、調査でこの1家は、「伊勢青木氏」の大店を維持した「絆青木氏」(養子縁組制度)ではないかと考えられる。
「黒田藩家臣の摂津青木氏」の家紋が、情報提供によると ”何であったか”は「現在の末裔」は掴み切れていないのが現状である。

情報提供の内容
「黒田藩家臣の摂津青木氏」の再興後、筑前の祖は「青木氏理兵衛」である事。
この家に別のルーツの「青木市左衛門」が跡目に入った事。
この「青木市左衛門」は「日向青木氏」で遠祖は「伊勢青木氏」である事。
「摂津青木氏の近江青木氏」と「伊勢青木氏」は「皇族賜姓族5家5流青木氏」の「同族血縁族」と成る。

そこで、「青木市左衛門」のルーツに関する検証は必要となる。
その内容を下記に記述する。
つまり、この血縁の意味する事は、「青木理兵衛側」は、「青木市左衛門の青木氏」とは、”「同族の青木氏」である”と認識していた事に成る。
「青木氏の慣習仕来り掟」に従い、且つ、当時の「氏家制度」の中で、「同族血縁」を戒律とする「跡目継承」には、「青木理兵衛側」が、「青木市左衛門側」から「跡目養子」を求め入れて、「青木氏」を守ろうとした事が判る。

尚、「青木氏」には、「藤原秀郷流青木氏の特別賜姓族の青木氏」が、隣の長崎に「青木村」を形成して住んでいた。

(「氏名」を「村名」にして村を構築する事は、正式には「嵯峨期の詔勅」で禁じられていて、許可なく構築できない。依って、正式な「村名」があると云う事はそれなりに意味が大きいのである。
「日向青木氏」には、「正式な青木村」を鹿児島の大口市に構築しているし、筑前南国境にも青木字が構築されている。)

「5家5流の賜姓族青木氏」と母方で繋がる「特別賜姓族の秀郷流青木氏」とは「純血性」を守る為に盛んに「同族血縁」を主体としていた。
当時は、この「二つの賜姓族青木氏」にはこの「厳しい戒律」があった。
どんな事があろうとも、跡目は絶対に守ると云う「絶対的な氏の戒律」があった。
それには、「11家11流」の「賜姓源氏一族」を含む「皇族系一族一門29氏」と「特別賜姓族の秀郷流青木氏116氏」と、その「女系の縁者一門」のどこからでも持って来てでも継承すると云う「青木氏」を継ぐべき厳しい「同族血縁の戒律」があった。

つまり、「近江青木氏ー摂津青木氏」の「青木理兵衛」はこの戒律を守ったという事である。

念の為に、「摂津青木氏」は「総紋」は、「笹竜胆紋」(変紋している可能性が高い)、「日向青木氏」は「五七の桐紋」と、配流孫の為に「丸に笹竜胆紋」が家紋と成る。
ところが下記に記する事があって「日向青木氏」は「五七の桐紋」を使用している。

次ぎは「女紋」の事で検証する。
さて、「青木市左衛門」ルーツの「女紋」は「三連鎧揚羽蝶紋」である。
この家紋は、信長に贈られた「池田氏の家紋」で有名である。
この「池田氏」は「岡山ー鳥取」地域と、「福岡ー豊後」地域に分布する「氏の家紋」である。
同時に、この文様は、「平家末裔の織田氏」も上記するCの「副紋」(第二家紋)として使っていた家紋である。
これを織田氏が同じ「平氏末裔族」の「池田氏」に送った家紋である。(一部を変更した)
結局、「青木市左衛門」の家の「女系」の方に「九州池田氏」の流れを持っている事を示している事に成る。

「黒田藩の家臣」で「摂津青木氏」の「女系」(「鎮守神の神官職」)の内原姓は「五瓜に唐花紋」、更にその女系には「三連鎧揚羽蝶紋」、この何れもが「平氏系の主要家紋群」である。
「黒田藩の摂津青木氏」の「女系側」には、何れも「平家一門の血筋」で維持されて来た事が判る。
上記した様に九州の「大蔵氏」も平氏とは同族である。
「平家一門の血筋の中」に、「黒田藩の摂津青木氏」が存在して居た事を物語る。
そうなると、「黒田藩の摂津青木氏」は、「同族血縁の戒律」もある事も含めて、「平家一門の女系血筋」に対抗して、何とかして九州にある「青木氏一門との血縁」を求めようとしていた事が判る。
それを物語るのが、つまり「青木市左衛門」である。
この「青木市左衛門」は、周囲の「筑前近隣の青木氏」か、「筑前外の周囲の青木氏3氏」かの何れかから血縁を求めた事に成る。
後は、「青木理兵衛」の「青木氏の家紋」と、「青木市左衛門の青木氏の家紋」が、”何であるか”が判ればルーツは明確になるが、この検証には答えは出る。

その前に、「上記の平家一門の血筋」の「女系側」に付いて検証をする。
何かが観えて来る筈である。

平安末期、「大蔵氏」に代わって、一時、同族の「伊勢平氏の清盛」が「太宰府大監尉」(大監の上司)に成ります。
ここに「平清盛の所領」が、この「肥前国神埼」にあり、そして、上記の「櫛田神社」を、「日宋貿易の拠点」とした事は有名である。
一時、「平清盛」がこの「太宰大監」の上司にも成った事がある。
従って、同族の大蔵氏の居る所に、ここにも平氏は「九州護衛平氏軍団」を送った。
この平氏で九州域を守っていた「平氏軍団」である。
故に、「青木氏の女系側」には、この「平氏の血筋」が流れていて、その「九州池田氏」の流れを持っている事に成る。


この「平氏軍団」が北九州の地域の氏構成に大きな影響を与えた。
「日向廻氏」に守られた「日向青木氏」と成った「宗綱ー有綱」の”清和源氏の配流軍”と、この九州の「平氏軍団」とが再興を期して戦いました。
平氏に配流された「宗綱ー有綱」等が、周囲の小豪族を集めて、再びこの「平氏軍団」と戦ったのである。
結局は、再び敗退して薩摩大口村まで南下して落ち延びて、最後は追撃に窮して大口村の寺で「伊勢の青木氏」を名乗ったのです。(寺の住職の勧めにて名乗る。)
何故ならば、「宗綱と有綱と京綱」は3兄弟で、その「三男の京綱」は「伊勢青木氏の跡目」に入り戦いで一族が亡びる事の無い様に「摂津源氏の安泰」を「伊勢青木氏」の中に図ったのである。
「伊勢青木氏」は、「不入不倫の大権」で護られていた為に、この「京綱の伊勢青木氏」を名乗ったのである。

「日向青木氏」は、況して、「以仁王の乱」の敗退で「助命嘆願」をしたのが、この「伊勢青木氏の京綱」ですので、「日向青木氏」と成って生き延びる為にも、その「伊勢青木氏」を名乗ったのである。
「伊勢青木氏」は、上記する様に、朝廷より特別に「不入不倫の権」で護られ、且つ、隣の伊賀に住む「清盛の実家」とは、「伊勢和紙の殖産と販売」で共に利を得ていた深い付き合いの関係もあり、討ち滅ぼす事が「九州の平氏軍団」は出来なかったのである。
それが「日向青木氏」の発祥の由来なのである。
それが「黒田藩の家臣の摂津青木氏の「青木市左衛門」のルーツに成る。(市左衛門の棲み分け地域から判別)
ここでも、「青木市左衛門」も「伊勢青木氏」と思いがけないところで繋がっているのです。
そもそも、この「青木市左衛門」の出所は、「筑後と筑前の国境」に住していた事が判っている。
上記に記した様に、「7つの青木氏」の内、「第3の青木氏」を除いて、「近隣の青木氏」も含めて「6つの青木氏」は、上記した青木氏の慣習から「棲み分け」をする慣習があった。
従って、その「棲み分け」でどの「青木氏」であるかは判るのである。
依って、「青木市左衛門」は「日向青木氏」と判定できるのである。
「黒田藩の家臣の摂津青木氏」は、「日向青木氏」の「養子跡目」に入った事を物語る。

そこで、「家紋掟」から、「摂津青木氏」は、上記した様に、「家紋の変紋」は起こっている筈である。
更には、「日向青木氏」は、本来は「笹竜胆紋」ですが、「配流孫」であるので、「丸に笹竜胆紋」と成る。
しかし、この「日向青木氏」も「丸に笹竜胆紋」では無く、長い間の「半農と傭兵の生活」から家紋を失った。
「黒田藩の傭兵」の下記の勲功で与えられた「家紋使用の特別許可」で、「五七の桐紋」を使用していた。
「青木市左衛門」の段階では、「五七の桐紋」が使われていた事が判断できる。
問題は、「同族血縁」をこの九州域で続けられたかは疑問である。
そもそも、「跡目養子の事」が2度続けば家紋は変紋する。
但し、この「五七の桐紋」は「跡目継承」に依って起こった家紋では無い事から、この勲功の「五七の桐紋」は江戸初期前から永続的に継承されていた事に成る。
「大口郷の青木村」の家紋は、従って、「五七の桐紋」を継承している。
(一族の明治初期の墓所の紋と形式で判明する。)
幕末から現在までの間の150年に市民化して、”伝統不継承の状態”が起こっていない限りは、「五七の桐紋」と「丸に笹竜胆紋」の「2つの家紋継承」が可能に成って居た筈であるが、現在までこの「二つの伝統」は明確に継承されている事が確認された。
この「青木市左衛門」の時までは、家紋から観て、前回の「跡目継承の原則」が守られていた事を物語る。

では、次ぎに、”何時頃からこの正式な伝統を継承し始めたのか”を確認する必要がある。
それには ”何で、この「養子跡目の縁組」が出来たか”の疑問を先に検証する必要がある。

そもそも、実は、この「青木市左衛門」ルーツの「日向青木氏」は、「黒田藩」に「傭兵」として働いていた。
「傭兵」であって家臣ではないながら、黒田藩から特別に「苗字帯刀、家紋、登城権、布衣着用等」を許可され上級家臣(郷氏)なみの資格を与えられていた。
従って、「日向青木氏」は黒田藩から特別に使用を許された「五七の桐紋」を使用していた。

注釈
そもそも、この元「桐紋」は、「天皇家の式紋」で「五三の桐紋」が元紋に成る。
天皇家は、室町期からの極度の財政難から、秀吉にこの由緒ある「五三の桐紋」の使用と変紋の「五七の桐紋」を使わせて財政を賄いました。
秀吉は、今度は勲功のあった大名に対して、変紋してこの「五七の桐紋」にしたこの家紋の使用を「権威紋」として認めました。
出自に対して格式の無かった秀吉には、この「権威」が必要であった。
朝廷に対して、その格式の一つの天皇家で使う祭祀や儀式に使用する「式紋」を金銭を対価にして「五三の桐紋」の使用を要求して得た文様であった。
これをベースに家臣に対して与える「権威を示す褒美」として「五七の桐紋」を与える様にしたのである。
この「特別な勲功」で「権威紋」の「五七の桐紋」の使用を許された大名は、今度は家臣などにもこの「五七の桐紋」の使用を同じ目的で許可したのである。
その与えられた代表的な大名が「黒田藩」なのです。
「黒田藩」は、「傭兵」として「黒田藩に合力した事」を理由に、上記した特権と共に、この「名誉の式紋の桐紋」を永代使用として「日向青木氏」に与えたのである。
「青木理兵衛」が居る黒田藩では、「傭兵」の「日向青木氏」の事は知っていた筈ですし、一族の「青木市左衛門」の事も知っていた筈である。

実は、繋がりはこれだけではないである。
この「日向青木氏」は、平常時は農業や漁業をしながら、「戦い」となると「日向灘での操船戦術」と「陸の山岳戦闘術」の2面から「傭兵」として黒田藩に合力していたのである。
この「青木理兵衛」は、「摂津水軍」時に「操船術」を任務としていたと観られ事から、”仕事”の上でも「青木市左衛門」との付き合いは充分にあったと考えらる。
その上での同族としての認識の上で、「跡目継承」に「青木市左衛門のルーツ」と繋がったと考えられる。

実は、「青木理兵衛」の青木氏は「黒田藩の家臣」、「青木市左衛門」の「日向青木氏」も「黒田藩の家臣扱い」であったのである。
つまり、「青木理兵衛ルーツ」は、この認識に立っていた事と、何れの青木氏も「伊勢青木氏」に繋がった同族であると云う事の認識にあった事を物語っているのである。
この為に、”黒田藩の働き”の中で互いに親睦を深めていた事を充分に物語る。

従って、「青木理兵衛ルーツ」の「摂津青木氏」と「摂津」に大店と大船をもっていた「伊勢青木氏」とには、何かの記録が遺されているのではないかと観ている。調査中。

以上の三つの事を合わせると、このルーツに関係する状況は次の様に成る。
A 黒田氏ー近江佐々木氏系末裔ー摂津青木氏(理兵衛)ー近江青木氏ー伊勢青木氏ー日向青木  氏(市左衛門)
B 九州博多の櫛田神社ー伊勢松阪の櫛田神社ー皇祖神子神の神明社ー伊勢青木氏の守護神
C 鎮守系神社(大蔵氏と平氏の守護神)ー神明社系神社(青木氏の守護神)
D 櫛田神社の神紋(五瓜に唐花紋)ー内原氏の家紋(五瓜に唐花紋)ー伊勢平氏の家紋(織田木瓜  紋)
E 青木氏女系の家紋ー「三連鎧揚羽蝶紋」ー伊勢平氏紋ー九州池田氏

以上の様に関係が不思議に繋がっている。
これは、格式を重んじて「九州の2つの青木氏」は縁組を構築していた事が判る。

移動定住した九州でも「青木氏」を継承する上で、”血縁上で採った考え方”をしていた事が観えて来る。

「独特の慣習」の”「女紋」”を使っているところを観ると、「男紋」も含めて、「紋」即ち、「青木氏ルーツ」と云うものに”拘り”を持っていた事を物語っている。

そもそも、「女紋」を使われている慣習を続けていた事であるのなら、「女墓」の慣習も続けられていたと観られる。
「女墓」も女紋と同様に、「青木氏等の賜姓族」が継承してきた慣習である。
代々の女御の俗名と戒名を記載した大きな墓碑で、系統的に維持し、単独に先祖墓の横に別の墓所を設けているものである。

この事は、「男側の継承」にも「賜姓族青木氏」として、「女側の継承」にも「賜姓族平氏」として、”拘り”があった事を想像出来る。
これらの情報の詳細な事は研究室に全て網羅している。

そうすると、日向青木氏が、”何時頃からこの正式な伝統を継承し始めたのか”の検証であるが、少なくとも、「日向青木氏の青木市左衛門」と「黒田家臣の青木理兵衛」の「跡目の血縁」が成された時期より少なくとも前に成る。
つまり、既に、「青木氏の跡目の伝統」と「女紋」などの慣習を持っていた事に成るのであるから、その前に成る。
と云う事は、「黒田藩の傭兵」と成って、青木市左衛門が黒田藩に関わり、黒田藩の青木理兵衛が博多に来て両者が知り合った時の前に成る。
黒田藩から、”勲功として「特権」を与えられ、「郷氏」に成った時”と云う事に成る。
最終的な勲功と成れば、1615年から1618年の間と成る。
この時に、改めて正式に「家筋の伊勢青木氏系」の「氏族としての条件」を整えた事に成る。
黒田藩から「五七の桐紋」、伊勢青木氏の配流孫としての「丸に笹竜胆」を一族に示した事に成る。
無冠の「土着の民」から、始祖の青木氏の格式を持つ「郷氏」に成った時に、世間に対して「家筋の正統性」を誇示したのである。


参考
「三連鎧揚羽蝶紋」は「揚羽蝶紋」を調べて、その羽の右上の二つの尾びれの様なところが鳥の羽の様に成っている家紋で、羽の筋文様が黒線になり、その上の文様が黒点に成った文様である。
この文様の羽が三つ連なっているところから「三連鎧揚羽蝶紋」と云う。

画して、「福岡の分布と子孫力」に付いては、上記した様に、複雑な経緯を持っている。
それが故に、これを紐解く為に、かなりの調査と検証が必要と成り研究には時間が掛かった。
この「福岡の青木氏」を論じる場合は、他の定住地の事や歴史性などの知識も考慮に入れて読み込まなくてはならない。
それでなくては、正しい理解は進まない。重要な「情報提供」を得て、事例を用いた。
故に、敢えて、最後に論じたものである。
未だ、多くの歴史マニア等にお願いしての「情報提供」を待っている状況でもある。それだけに時間が掛かる。判り次第追記する。

本論を読まれる際には、ルーツ掲示板と研究室などの論文も是非にお読み頂けると、筆者の論じる翻意は誤解なく通ずるのではないかと考える。是非お読み頂く事をお願いしたい。

更に、続けて、「伝統シリーズ」を仕上げる為に、現在、「論文の見直し」を続けている。
ご期待頂きたい。

「青木氏の分布と子孫力」はこれで終わる。



> > ・> 青木氏の分布と子孫力
> >
> > > > [地域別分布力]
> > > > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > > > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > > > 地域      異変の県        分布力
> > > > 九州地方   長崎、大分       5%
> > > > 四国地方   高知           2.5% 
> > > > 中国地方   山口、岡山       2.5%
> > > > 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
> > > > 東北地方   秋田           7%
> > > > 中部地方                 15%
> > > > 関東地方                 45%
> > > > 北海道・沖縄               6%
> > > > その他                   3%
> > > >
> > > > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> > > > 九州地方  1.3
> > > > 四国地方  1.3
> > > > 中国地方  1.3
> > > > 関西地方  4.7
> > > > 中部地方  4.3
> > > > 関東地方  11.3
> > > > 東北地方  2.0
> > > > その他   11.0
> > >
> > > > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
> > > >
> > > > 修正地域(表ー3)
> > > > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1-7 三重 12 福井 4 愛知 13-7
> > > > 秋田 1
> > > >
> > > > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> > > > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> > > > 福岡  2      山口  0   愛媛  3     兵庫   3    三重  1
> > > > 長崎  0      島根  2   香川  1     大阪  14    石川  2
> > > > 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都   5    福井  1
> > > > 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良   1    岐阜  3
> > > > 熊本  4                        和歌山 4     愛知  13   
> > > > 宮崎  2                        滋賀   1    長野  9
> > > > 鹿児島 1                                   山梨  1
> > >
> > > > 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
> > >
> > > > 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
> > > > 静岡   5   青森  1      沖縄   1
> > > > 神奈川 21   山形  2      北海道 11
> > > > 東京  18    岩手  1
> > > > 埼玉  17    新潟  4
> > > > 群馬   6   秋田  0
> > > > 千葉  11   福島  4
> > > > 茨木   4   宮城  2
> > > > 栃木   8                                     
> > >
> > > > 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  
> > >
> > > >  青木氏の分布と子孫力-終わり。
> > >
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青木氏の分布と子孫力-11


[No.315] Re:青木氏の分布と子孫力-11
投稿者:福管理人 投稿日:2014/07/06(Sun) 07:19:52


> 青木氏の分布と子孫力-10の末尾

>因みにこの「記帳の数字」と「ルーツ掲示板」の投稿数字はほぼ同じ傾向をしめすが、この分析は、筆者が過去について調べた「青木氏の分布」と「青木氏の村の分析」とで勘案すると、その後の分布として非常に適切に歴史的な史実を表していて興味深い。

>この数字のバイアスは統計的に1以下で0.5程度と見込まれる。その範囲でパラメータは「青木氏の分布図」として観られ、且つ、同時に「伝統の存在力」としてのパラメータとしても観られる。

>そこで、気に成る事がある。
>それは上記の表や下記の表の様に各地の「青木氏の分布図」(子孫力)を示しているが、これが”面積とどの様な関係にあるのか”と云う事である。
>広いところ広い様に分布し「子孫力」が広がっているのかと云う事である。
>「青木氏」は「青木村」を形成しているのであるから、その”「青木村」が地域に依って大きさが違っているのか”を把握しておく必要がある。
>その答えは出る。
>末尾の2つの表から出る。


福岡
さて、最後に福岡です。
ここは確かに、この地域としては「青木氏」が3氏が定住している事は確認できる。
そして、近隣の肥前と筑後から国境に3氏の「青木氏」が移動して定住している。
しかし、これには長い説明を要する。
当然に、青木氏の分布の確実なパラメータとして「青木村」が確認できる筈なのだが、それがある特別な理由で無いのである。
あるべき「青木村」が確認できない理由がこの福岡の「核心の問題」と成る。

先ず、ここには、筑前域では次ぎの3氏が存在する。
1 播磨国の黒田藩にある理由(下記)があって、「摂津青木氏」が家臣と成って黒田藩の移動に伴い、筑前に移動して博多北側域に定住した子孫が存在する。

2 平安期に「平治の乱」の「源平の勢力争いの戦い」で、「清和源氏」の分家 頼宣の末裔の「河内源氏」の源為朝が九州を転々と逃げ延びて、この筑前に配流孫を遺した。
この末裔が東国境沿いに定住した。

3 鎌倉時代に「藤原利仁」の末裔が3代に渡りこの筑前に赴任した。この時に現地の豪族との間に出来た末裔が、室町期に「嵯峨期の詔勅」と「禁令」に反して、「青樹氏」を名乗り、博多から太宰府域に定住した。

次ぎに、近隣域から国境沿いに次ぎの3氏が存在する。
4 肥前には藤原秀郷一門が赴任して、それに護衛団として同行して「青木村」を形成している。
この末裔が、筑前の1と2の青木氏との同族血縁で遺した末裔が筑前の西国境沿いに定住した。

5 「日向青木氏」が1の「黒田藩の傭兵」として働いて、黒田藩より「特典の権利」を与えられて厚遇された。この「日向青木氏」が筑前に遺した末裔が青木氏として南国境沿いに定住した。

6 「1の摂津青木氏」と「5の日向青木氏」との融合族と成った青木氏が筑前の南域に定住している。

7 江戸初期には苗字の持たない下級武士、及び、明治初期の苗字令、督促令に基づいた庶民が、この2期に、江戸期には1の青木氏、或は、明治期には3の青木氏(青樹氏)に肖った「第3の青木氏」が勃興し、それぞれの地域に定住している。 

福岡は、他の地域と比べて、いろいろな「青木氏の集合地域」であった。
ただ、それぞれの6つの青木氏は「棲み分け」をして、「青木村」の「集合村」を形成しなかった。
”出来無かった”とした方が経緯としては適切である。

参考
3では「正規の青木村」を形成出来ない理由があった。
その他は室町期中期までは既定の大きさの「村」では無く、当時の税制上からの区分けで全て「字」領域であった。
「分離村」ー「散村」ー「路村」の形態を採った。

参考
3は「賜姓族」、「嵯峨期詔勅」の令則に習い「青樹氏」であった事から正式な氏名に基づく「青木村」ではない。(詳細下記)

注意 (本論では平安期の「村の定義」から判断して、福岡は”青木村が無い”とした。)

ところが、1の黒田藩家臣の「摂津青木氏」は、明治期にこの「青木氏」(「情報提供の青木理兵衛」の直系ルーツは絶えた。

そこで、この先ずは、1に付いて詳細を論じる事とする。
1のルーツは、黒田藩の播磨国から始まり、江戸期には筑前に転封となった。
この転封時に「摂津青木氏」の経緯が起こります。
「伊勢青木氏」の商業記録から考察すると、この1560年代の時期に、九州域(豊後ー筑前方面)に対して船を大きく動かした記録が残っている。(黒田藩とは不記載)
更に、それ以前に播磨の豪族(黒田氏と観られる)との交易記録と観られる「配船記録」がかなりの回数で確認できる。
その中の一つにこの「九州方面」の記録がある。
これには、「伊勢青木氏」と「摂津青木氏」と「黒田藩」の間に「時代考証」と「環境考証」をするとある「共通する経緯」が起こっている。

実は、この黒田藩に付き従った「摂津青木氏」にはある事情があった。
そもそも、この「摂津域の瀬戸内」は、「播磨灘」として難所で、この海域に「摂津青木氏」は「水先案内人」として平安末期より生計を立てていた。
この「播磨灘域」は、海流が激しく、その為に、この地域の海域を熟知して、そこを勢域(聖域)として、「能島水軍」(村上水軍)と呼ばれる「海族」がいた。
この能島水軍と呼称される「海族」は、この海域通過時の水先案内の案内料と通行料を徴収して生計を立てていた。
(「海族」とは「海賊」と異なる。 混同して使われている書籍が多い。)
この「海族」が「能島」と云う播磨沖に並ぶ小島群の一つを拠点としていた。

(筑前の青木氏の情報提供によると、この中に、「摂津青木氏」には、この”「理兵衛」”なる優秀な技量の持ち主の人物が居た事に成る。能島を拠点とした「村上水軍」との検証が必要)

そこで、ここで、先に、この”能島水軍の理兵衛”に付いて下記で論じる。
「史実1」
実は、「摂津青木氏」(出自末裔の青木理兵衛)の居た摂津播磨域には、「摂津青木氏」を保護しながら同族の「伊勢青木氏」が、この域を「大商い」で活動する為に「大船三隻」を以って活動していた史実がある。
「史実2」
更には、この「瀬戸内全域」には「伊勢青木氏」と深い繋がりを持っていた「讃岐青木氏」が「大廻船業と海産物殖産業」を営んで大活躍をしていた史実がある。
「史実3」
「伊勢青木氏」も「讃岐青木氏」も「二足の草鞋策」で大活躍していて、武力を直接使わずしてシンジケートに依って信長と3度も戦って勝った歴史記録がある。
「史実4」
「伊勢青木氏」は、伊勢松阪を拠点に、「兵庫の摂津」と「大坂の堺」にも大店を構えていた。
(平安期から明治35年まで続く。)
「史実5」
この大船を持ったこの「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」の庇護を受けていた「摂津青木氏」、つまり「近江青木氏」(「青木理兵衛」ルーツ)は、「富士川の源平の戦い」で滅亡してからは、その僅かに遺された「遺子末裔」は、最終、摂津域で定住し、「能島の水先案内」として「播磨灘域」で働いていた事が商業記録から判る。

「史実6」
「摂津青木氏の経緯」
(残存した「近江青木氏の遺子」は、「青木氏の庇護地福井」に逃げ込んだ。
「伊勢青木氏」等が奈良期から構築していた「皇族系の朝臣族者」が事件に巻き込まれた場合に逃げ込んで子孫を護る為の「庇護地」が福井にあった。
ここに「近江青木氏」の残存した「遺子末裔」が逃げ込んで生き残った。
その後、この「遺子末裔」は「伊勢青木氏」の「摂津の大店」の拠点を頼って、生計を立てる為に摂津に移動した。
そこで、この「摂津青木氏」の一族は、「伊勢青木氏」の船と「讃岐青木氏」の船に乗り、「瀬戸内の操船術」を学び、何時しか、「能島の海族」として成長した。
推測だが、「能島付近の海域」の船頭の「頭領的立場」に成って居たのではないかとも考えられる。
この者が、情報提供によると ”能島の理兵衛さん”と呼ばれ者がいた。
「能島水軍」とは「海の豪族」の「村上水軍族」の事で、播磨灘の極めて小さい小島に館があった。
この「情報提供の青木理兵衛」は、この「村上水軍」との「関わり具合」の有無は不明だが、この「海域の船頭」であった模様で、その同じ「海域船頭」としての「付き合い」を持っていたと観られる。
「史実7」
「瀬戸内」には、平安初期から「讃岐青木氏」として、「村上水軍」より以前から、この海域を元々支配していた。その時は、「海部族」や「塩飽族」の中まであって、その一部の別れが「村上族」となった。
しかし、平安末期には「平家水軍」、室町期には「陶族」の支配下に成った「村上族」で、その後にの「村上水軍の母体」と成った。
商業の廻船分野での「讃岐青木氏」と共に、「海部族と塩飽族」が、「海族の母体」と成って、この水域を利用する「海族の2氏」であった。
「史実8」
「讃岐青木氏」の支配の下で、「瀬戸内族」」(海部族と塩飽族が母体)が「讃岐藤氏」の傘下に成って居た。
そもそも、歴史を辿れば、「海部族と塩飽族」も元をただせば、阿多倍王の引き連れて来た「部の職能軍団の末裔」である。
「平家」と「陶氏」の配下にあった「村上水軍」(瀬戸内族の別れ)は、基を質せば、「阿多倍王」(後の平家)の引き連れて来た「部の職能軍団の末裔」であった。
何れも、「部の職能軍団の仲間」なのであった。
そもそも、室町に中国地方一帯を支配した「陶氏」は「陶部」の「陶器」を作る「部の職能集団」であった。
この全体を支配していたのが、伊勢北部伊賀地方を半国割譲を受けた「阿多倍王」の子孫の「伊勢平氏」なのである。
「史実9」
この「伊勢平氏」と「伊勢青木氏」は、奈良期より隣同志で「古代和紙の殖産」で深く親密的に付き合っていた。
「近江青木氏」の末裔の「摂津青木氏」は、「伊勢青木氏」「讃岐青木氏」等の庇護を受けての一族であった。
そして、この海域の「水先案内」か、「讃岐青木氏」、「伊勢青木氏」の船頭であった可能性が高く、従って、同じ「瀬戸内海域」では、「村上水軍(能島水軍)」とも”同業の協調関係”にあった筈である。
故に、情報提供の「”能島水軍の青木理兵衛”」と呼ばれていたと考えられる。

どうも「伊勢青木氏」の商業記録の一部から判断すると、個人は特定できないが、”能島水軍(青木理兵衛さん”)とは、「伊勢青木氏」(伊勢水軍)の千石船の大船か、「讃岐青木氏」の廻船かに乗っていた”優秀な船頭”で、その経験の持ち主でもあった可能性が高いのである。

ここまでの史実から次の事が判る。
「摂津青木氏の青木理兵衛」と「能島水軍の理兵衛」は同一人物であったと考えられる。
「”能島水軍”の理兵衛」と「村上水軍の”能島水軍”」は共に、同じ播磨灘の海域で働く者達を”「能島水軍」”と呼んでいた事に成る。

「史実10」
そもそも、この事をはっきりさせる事がある。
この「村上水軍」の「能島水軍」母体と、「摂津青木氏の理兵衛」等の、この海域の水先案内の徴収行為とは、秀吉に依って同時期の1586年に廃止と、解散命令が出ている。
「能島水軍」の「村上水軍」は、秀吉に依って1586年に攻め滅ぼされている。
この1年後の1587年に黒田藩は豊前中津城主に転封されている。
1600年には福岡城主に転封されている。
故に、この経緯から、「摂津青木氏の青木理兵衛」は、1586年に秀吉の命で失職した。
そこで、「伊勢青木氏」や「讃岐青木氏」等の下記の”黒田藩の水軍要請”で、水軍の船頭の頭領として就き、豊前中津に従ったと観られる。

そもそも、この「近江青木氏」(摂津青木氏)と「近江佐々木氏」は同族関係(大化期の朝臣族)にあり、「近江佐々木氏系青木氏」と「近江青木氏系佐々木氏」が発祥している。

注釈
その黒田氏は、この「近江佐々木氏」の「傍系支流族」である。
この「近江佐々木氏」は室町期末期頃に衰退し、多くは離散した。
この「黒田氏」も薬売りをして全国各地を廻り、再興のチャンスを狙っていた。
江戸期の有名な剣豪の「佐々木小次郎」もこの「近江佐々木氏」の本流孫であった。
その「近江佐々木氏の黒田氏」の証拠として、「伊勢青木氏」と同じく「皇祖神の子神 神明社の”御師」”の立場にあった。
「黒田氏」は自らも「近江佐々木氏」を名乗り、別のところでは「藤原氏」を名乗っている両説がある。
しかし、伊勢に秀吉から差し向けられた「蒲生氏」は、「伊勢青木氏」との繋がりもあり、「近江青木氏」と同族の「近江佐々木氏」も、「蒲生氏の近江藤原氏」は同じ格式の家柄であった事から、血縁関係もあったと考えられる。
「近江青木氏」と「伊勢青木氏」との同族血縁関係
「伊勢青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」との血縁関係
「伊勢秀郷流青木氏」と「近江藤原氏の蒲生氏」とのは同族血縁関係
「近江藤原氏の蒲生氏」と「伊勢青木氏」との血縁関係
「近江佐々木氏」と「近江青木氏」との同族血縁関係
以上は輪状に血縁関係があった事から、充分に上記の「近江佐々木氏」と「近江藤原氏の蒲生氏」の血縁関係はあったと考えられる。
依って、「黒田氏」の「藤原氏説」には根拠はあり得る。
しかし、本流は「近江佐々木氏系」であり、「藤原氏説」は本流では無い事が見抜ける。

何よりも、証拠として「伊勢青木氏の御師頭」と同じく、”「御師」と「薬師」”を親族に持つ黒田氏である事から、「近江佐々木」が適切な説として捉えている。
(「御師」と「薬師」は藤原氏と秀郷一門にはこの役柄は無かった。)

そこで、「近江佐々木氏の傍系支流の末裔の黒田氏」が、「豊前中津城主」の大名と成った時、「伊勢青木氏」や「摂津青木氏」や「讃岐青木氏」の「青木一族」等は、上記の様に、「同族の黒田氏」に対して、”中津では「藩経営」に付いて、”最早、徳川の時代と成って安定期に入った”として、戦略的に「水軍力」(交易に関する経済力)を付ける事が必要となった”と考えていて、その為に、黒田氏との「話し合い」をした事が資料から読み取れる。
その結果、(情報提供の”青木理兵衛”を「黒田氏の水軍の頭」に付けた。)”同族として協力をした”と「商業記録の流れ」から観て考えられる。

注釈
それが情報提供の、”能島水軍の理兵衛”と呼ばれてた根拠である。
この場合の”水軍”の意味合いは”海に生きる族”、即ち「海族」の意味として表現されたと考えられる。
何故ならば、武力の持たない「伊勢青木氏」の「伊勢水軍」も、「村上水軍」の様に”武力的な背景”のものでは無かった。
要するに”海の豪族”の意味合いでは無く、”海に働く族”の意味合いであった。
この当時、各地に「・・水軍」は多くあった。
その「水軍」の事で書かれた書籍の中では、「水軍」の意味には、「海の豪族」と「海で働く族」の二通りの意味合いとして使われていた。
この情報提供の”能島水軍の理兵衛”は「海の働く族」である。
この「海の豪族」の中で、「海の働く族」が働けるのには、上記注釈の ”「海の豪族」の「村上水軍」と、「海の働く族」の「讃岐青木氏+伊勢青木氏」”の”瀬戸内の協力関係”があったから成り立つ話である。
この「協力関係」がなくては「讃岐青木氏の廻船業」、「伊勢青木氏の交易運送」は成り立たない。もし、「海の豪族」の「村上水軍」とは云え、戦ったとして「讃岐青木氏の海部族と塩飽族」と「伊勢青木氏のシンジケート」で対抗すれば、「村上水軍」を潰す事は簡単であった筈である。
何故ならば、「伊勢青木氏」は「海のシンジケート」の「伊勢水軍」と「駿河水軍」と「熊野水軍」と「紀伊水軍」と働かせて、「村上水軍の領域」を包囲する事で、食糧を絶つ事で、無傷で簡単に潰せる。
この「連合軍」を味方に出来る「讃岐青木氏」と「伊勢青木氏」と「摂津青木氏」とを敵に廻す事は「村上水軍」には元より不可能である。
依って、「能島水軍の理兵衛」は「村上水軍」では無い事が判る。

注釈
「能島水軍」=「村上水軍」の意味だけでは無く、この”「播磨灘海域」を「生活の糧」としている族”の事を以って当時は表現されていたのである。
「武力軍団」で無かった「伊勢水軍」や「駿河水軍」や「熊野水軍」も”「水軍」”と呼称されている。「伊勢青木氏」が自ら持つのも「伊勢水軍」の呼称である。
(「雑賀軍団」の「紀伊水軍」は「武力的背景」を持った”水軍”で「海賊的要素」もあった事が記録から判る。「熊野水軍」は「熊野灘」の「半武力的な水軍」でもあった事が記録から判る。)

現実に、秀吉は「村上水軍の拠点」の周りに船で取り囲み、弱まったところで風のある日に船に火を着けて島方向に走らせた。そして、「島の拠点」は周囲から火が廻り丸焼けで簡単に潰したのである。

ここで、”「摂津水軍」”の事で書かれた書籍がある。
「源義経」が「陶族の村上水軍」を中心とした「平家水軍」と戦った時、義経の軍監の「熊谷直実」が統括する「浪速水軍団」の前で、”同族の「摂津水軍」を義経が自ら編成した「水軍団」の「駿河水軍」、「伊勢水軍」、「熊野水軍」、「紀伊水軍」の軍団に加えた”と記されている。
(軍監の熊谷直実は、作戦通りに「浪速水軍団」を、義経の一人手柄を阻止する為に、動かそうとしなかった。そこで「摂津水軍」だけを戦いの参加させる様に裏工作をしていた。戦いに成った「時摂津水軍」だけは動いた。)
この事から「近江青木氏」には「摂津」に古来より「水軍」を歴史的に持っていた事が判る。
しかし、「近江青木氏」は「富士川の戦い」以降壊滅した。この「摂津水軍」を「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」の援護の下で、何とか立て直し復興に持ち込んだ。
そこで「壇ノ浦の戦い」にわざわざ「義経」は、この同族の「摂津水軍」を無理やりに参戦さしたのだと考えられる。
「坂東八平氏」の「軍監の熊谷氏」は、この海域の水軍の参戦に恣意的に反対したので、止む無く同族の上記の4水軍に頼み込んだ事が書かれている。
中でも、最も「海賊的戦力」を持っていた「紀伊水軍」はなかなか合力しなかったが、実戦に成った時、この「紀伊水軍の海族的働き」で「弓矢の戦い」では無く、”相手の船に乗り移る戦法”で、「村上水軍」の前身とも云える「平家水軍」に勝った。
この後、「摂津水軍」は「近江青木氏」の「母体滅亡」と、「頼朝の義経追討令」の2件が原因して衰退した経緯を持っていた。

「青木一族」は、そもそも”「氏家制度」”の中では、”「単独行動」をしない掟”があって、”一族で助け合う集団”であって、故に、下剋上や戦国時代にここまで生き延びて来て子孫を遺してきた。

摂津の地元には、「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」等が「大商い」で居て、全国の青木氏一族が「古代和紙の殖産と販売」と「守護神の神明社」で生活は完全に繋がっていた。
従って、「情報提供の青木理兵衛」なる人物一人が勝手な行動は採れなかった筈である。
それが他氏と違う立場を持っている特異とも考えられる「3つの発祥源の青木氏」なのである。
「氏家制度」の中では、尚の事、一族全体の中で動く必要があった社会であった。
故に、互いに助け合ってその立場を守っていたのである。
それに奈良期から朝廷より「不入不倫の権」で護られていた「特別な戒律」を持った「唯一の氏」なのである。
この「情報提供の人物(青木理兵衛)」も少なくとも”黒田氏との関係”でもこの範囲で動いていた筈である。
この人物(「青木理兵衛」)が1567年頃に黒田藩に従って豊前と筑前に移動して、”上記1の子孫”を広げた事になる。

(丁度、この直前に秀吉は、この”能島の水軍の解散命令”を発している。
つまり、情報提供の青木理兵衛は失職した事になる。)

実は、この「情報提供の青木理兵衛」を祖とする「筑前青木氏」が明治期に絶えた情報提供もあり、この「青木氏の跡目」を「西原氏」と云う「現地の姓族」が一時継承したが、これも放棄される始末となったとの情報がある。

この「摂津青木氏」と「伊勢青木氏」と「讃岐青木氏」が、以前からの商業の付き合いと同族関係から、「豊前中津」に「黒田藩の荷物」を輸送したと観られる商業記録があった。
この時に、そこで、この「黒田藩との話し合い」の中で決まった「摂津青木氏の人物」(「情報提供の青木理兵衛」)が、結局は「黒田藩の家臣」として移動定住した事に成る。

ここで「福岡の青木氏」との関係に付いて、情報提供によると、後に「青木市左衛門」と云う別のルーツと観られる人物が、「西原氏」の前に、この”理兵衛の青木氏”の跡目を継承しているとの事である。
問題は、この情報提供の”市左衛門なる人物”がどのルーツの青木氏であるかと云う事に成る。
結論は、先に、「福岡の青木氏」は「日向青木氏の配流孫」の末裔孫と成る。

それを検証する。
先ず、福岡は上記した様に「3つの流れの配流孫」の「青木氏」があった地域である。
そこで、上記の5の「日向青木氏」は、「伊勢青木氏系族」で「兄弟族」としてのルーツが明確に成っている。
その更に「配流孫の青木氏」と成ると、情報提供の内原氏が「青木氏」を名乗るには憚られたのではないかと考えられる。
其れよりは、「情報提供の青木市左衛門」は、「父方の青木氏」であるけれども、推測の域を超えないが、「母方の西原姓」を敢えて名乗ったのではないか。(下記)

明治まで続いた父方の「青木理兵衛ルーツ」は上記の通り「摂津青木氏」とほぼ断定できる。
しかし、母方とも観られる「今宿青木のルーツ」としての”「青木市左衛門」の流れを持つ西原氏”に付いて、「青木氏の慣習仕来り掟」から来る問題がある。
其処から糸口を見出い事が出来る。

実は、「皇族賜姓族系の青木氏」には青木氏から「氏分流の別れ」として他の姓を名乗る事を禁じている。
そこで、その前に「青木氏の慣習」を理解する必要がある。
従って、本家ー分家の区別は一切無いし、その為に家紋も変化しない。
当然に、「同族血縁」をして、「男系跡目」を繋ぐ「皇族系の賜姓族」として「青木氏」を絶対に変えてはならないとする戒律があった。
従って、この他氏では「家紋」であって、「家の区別」をする「家紋」では無く、青木氏では「象徴紋」としての扱いであった。
「家紋と氏名」が変わらないことから、「家」としての位置づけは無く「氏」を示す「青木氏の象徴紋」として位置づけられるのである。
当然に、同じ考え方で、「全青木氏族」の「全ての子孫(嗣子・嫡子)」は、単一の「家の子供」では無く、全ての「氏の共通の子供」としての位置づけである。
氏内の「Aの家」の子供は、「Bの家」の子供でもあり、「Aの子供」は「Bの家」の跡目を継ぐ事は当前の「慣習仕来り掟」として認識され、この逆も当然に起こる。
女子も、他氏では跡目には関わらないが、青木氏は、「女の子供」の嫁ぎ先での生まれた「男の嗣子」は、「実家先の跡目」を一代限りで継ぐこともあり得ることに成っていた。
但し、「男の子供」が実家先の「氏の親族関係」に無ければ、この「嫁ぎ先の嗣子の男子」を跡目に入れる事は問題がない。これは「男女の子供」も広い「同族血縁」の仕来りの中にある事に依る。


さて、”今宿青木”の「村」、または「字」を形成している以上は、最低限の「青木氏の慣習や仕来りや掟」を守っていた筈である。
だから、普通は「情報提供の青木市左衛門」のルーツが「西原姓」に成るのは疑問である。
成るには、「女系」か「母方」の「二つの仕来り」による方法しかない事に成る。

では、先ず「女系」の方法である。
青木氏の「同族血縁の掟」を護れず、結局は、「今宿の青木氏」に男系跡目が出来ず、娘に養子を取り、更にその養子婿にも男系跡目が作れず、再び、その養子婿の娘に養子婿を取ったが又嫡子に恵まれずに、二度に渡り完全に女系と成って仕舞った。
そこで、「男系が氏継承の掟」であるから、一番目の養子先の姓を名乗った。
それが、「西原姓」であった事に成り、以後、「西原の姓」を名乗る事に成る。
ここで、次ぎに、三番目の娘の養子婿にも跡目にも嫡子に恵まれなかった場合は、二番目の養子先の姓を名乗る事に成る。
三度目の養子婿に嫡子に恵まれれば、その子の一人に「西原姓」を名乗らせる事は出来る。
但し、この時点では、最早、女系と成った事から「青木氏」を名乗る事は本来は出来ない。
普通は、特に本家筋は絶対にこの様に成らない様にするのが務めである。
それにはあらゆる「青木氏」を名乗る近隣や遠方でも「縁者先」から、「跡目養子」を上記の「氏の子供の掟」に依り、迎え入れて、この様に出来るだけ成らない様にする。
(この時は、青木氏では「養子」の定義は無い)
ここが青木氏の”厳しいところ”で、「本家ー分家」の仕来りが無い「賜姓族」では、「青木氏の子供」は「全体の青木氏の子供」なのである。
(この時は、青木氏では「養子」の定義は無い)

嗣子・嫡子に関わらず、青木氏に生まれた男子は、何処の青木の跡目に入るかは各家の跡目問題に依って変わる事に成る。
これが天皇から”賜姓”された絶対的な”氏の宿命”である。

仮に、「西原姓」が興った事は「今宿の青木氏」には、この縁者先からの方法も採れなかった事を意味する。
或は、「情報提供の市左衛門むは、”賜姓族では無かった青木氏”であった事かも知れない。
「嵯峨期の詔勅」に基づいて名乗った「配流孫」の様な「賜姓族ではない青木氏」には、この掟は適用されない。
そこで、「福岡の今宿青木の市左衛門」の事は、記録からは”「字青木」”である。
依って、7でない事は、クリヤーできている事から、上記の1から6の中で、「日向青木氏」の「配流孫ー末裔孫」となる。
上記のこの掟は適用しなかったと考えられる。

「賜姓族の近江青木氏」(「摂津青木氏の青木理兵衛」黒田氏家臣)の「青木氏」に、男系跡目が取れなかったので、「今宿青木」(情報提供の市左衛門)の「青木氏」から跡目を取って「青木氏」を継承した事に成る。
しかし、結局は、その途中で上記の事が起こって、やむなく女系の「西原姓」を継承したと云う事に成る。

次ぎは母方の方法である。
娘の嫁ぎ先に嗣子・嫡子の子供が大勢生まれた。
「実家の青木氏」に跡目が無かった。縁者関係にも無かった。
そこで、この内の一人に「青木氏」を継がせ嫁取りをした。
しかし、嫡子・嗣子等に恵まれず、嫁ぎ先の西原姓を名乗る事となった。
この場合は、上記の女系の場合の一代限りの範囲で、娘に男子が生まれたと同じ事に成る。
従って、青木氏に戻す事は可能である。
ところが、戻したがその跡目の男子に、又、子供が生まれなければ同じ結果と成る。
要するに一代限りの範囲で終わることに成る。
依って、情報提供の西原姓を継承した事に成る。

結論として、「青木氏」を継承しなかった理由は、「女系」の場合では無かったかと観られる。

昔は、「氏家制度」の中では、現在とは違って、「氏家の継承」には「掟」があった。
特に青木氏には「賜姓族」と云う厳しい掟があった。
未だ、江戸時代では、お金に依る「特別な方法」以外(名義札制度)にはこの様な事は起こらない。

青木氏は「氏族」(うじ)>西原姓は「姓族」(かばね)の関係にあるので、「西原姓」から「青木氏」であれば、「名義札制度」の「お金」で興こり得るが、この逆であるので起こらない。

(ルーツなどの歴史史実を調べる時には、出来るだけ多くの昔の慣習や仕来りや掟の知識を把握し、それを正しく持っていて判断するかに全て関わる。現在風では全く逆の判断が起こる。)


この様に福岡の件については充分な説明をしなくてはなかなか判らない子孫状況となっている。

先ず、”福岡に青木村が無かった”を続ける。
この地域には、上記した様に、福岡には「3つのルーツ」の青木さんが時代は異なって定住していた。
1の青木さんのルーツは判明できた。「青木村」を形成できる大きさでは無く記録では「字」であった。

先ず、この「3つのルーツ」を全て説明すると膨大なものと成るので、「地名地形データーベース」を参考にしたとして、そのルーツと観られる一つに付いて説明する。
この事で、「福岡に青木村は無かった」とする事が判る。

次ぎは3の青木氏の検証である。
福岡北の太宰府付近のここには、鎌倉時代に派遣された(「青木氏」)者が確かにいた。
記録に残っている。この派遣された者には2氏がある。
一つは、鎌倉時代末期に「元寇の役」が起こった。
この時、幕府から防衛軍として、「藤原秀郷流青木氏族の5氏」が派遣された。
この5氏は秀郷の第3子の「千国」を始祖とする「兼行流」の「青木氏」、「永嶋氏」、「長沼氏」の3氏と、「文行流」の「長谷川氏」と「進藤氏」の2氏が派遣された。
そこで、「元寇の役」が終われば、元の関東に戻るのが規則であるが、この5氏は九州の自治をしていた九州全土を支配下に治めていた「大蔵氏」と血縁関係を結んだ。
ところが、「秀郷流」の「青木氏と進藤氏」は、現地で生まれた子孫も引き連れて関東に帰ってしまった。
「秀郷流の長谷川氏」と「秀郷流の永嶋氏」の「青木氏族」は「現地の末裔」を残して本体は関東に戻った。
この残った「現地末裔」の「2氏の子孫」が「大蔵氏の末裔」として子孫を拡大させた。
これが「九州大蔵氏系永嶋氏」と「九州大蔵氏系長谷川氏」である。
この5氏は有名な「藤原秀郷流青木氏族主要一門」である。
この5氏の内、「青木氏」は勿論の事、「永嶋氏」と「長沼氏」は、「青木氏」を名乗ろうとすれば名乗る事は「兼行流」である為に名乗る事は可能である。
しかし、両氏とも名乗っていない。

念の為に、下記Aに付いて、この「特別賜姓族」の「藤原秀郷流青木氏」は119氏に広がり、赴任地域の「24地域」に末裔を残している。全て現存している。
この119氏の事は全ての内容が明確に判っている
「武蔵の国」入間の「宗家」を中心に、全国24の地域に認定を受けた「青木村」を形成して定住している。
一方、「皇族賜姓族5家5流青木氏」の14氏も全ての内容が明確に判明している。
更に、「嵯峨期詔勅」に基づく「皇族青木氏」も5氏として全ての内容が明確に判明している。


さて、この氏の内容も殆ど明確に判明している。
鎌倉期に北家筋の「藤原利仁」の一族もこの地に派遣された。(太宰府)
派遣された3人は現地の土豪との「血縁族」を作った。
この「血縁族」が、後に「青木氏」を名乗った。
(但し、江戸期初期に「青樹氏」から「青木氏」に後に変更)
「嵯峨期の詔勅」にて、「青木氏」を名乗れるのは、「皇族の者」と決められていた。
ところが、「皇族賜姓族青木氏5家5流青木氏」を補佐するために、特別に「母方族」の「藤原秀郷」に対して、皇族外から特別に賜姓して「青木氏」を名乗る事を許した。
この「青木氏」を「秀郷の第3子の千国」に対して継承する事を定めた。 

この藤原秀郷は「平の将門の乱」を沈めた勲功から「武蔵と下野」を「領地」とし「貴族の家柄」をも与えられた。
そこで、”貴族は武力を持つ事は出来ない”事から、一族の宗家の「第3子」に、代々この「一族の護衛団の役目」を与えて永続的に役られる事で朝廷の認可が下った。
更に、「皇族賜姓族青木氏」と同じく補佐する「天皇の親衛隊の役目」も与えたのである。
そして、「皇族賜姓族青木氏」と全く同じ「全ての格式と立場」を与えた。

ところが、この秀郷の親族の「利仁なる者の末裔」が筑前に派遣されたが、現地の末裔が室町期の後に青木氏(青樹氏)を名乗った。
(秀郷一門は青木氏を名乗れるが、利仁一門は名乗れない)

北家筋の「藤原利仁流一門」は、「皇族系一門」ではない為に「青木氏」は名乗れる事が出来ない。
そこで、「嵯峨期等の禁令」を破って強引に名乗った。
当然に朝廷からも賜姓は受けられる身分では無い。
勝手に名乗った「あおき氏」である為に、「本流の青木氏」ではない為に、歴史的領域では、「第3の青木氏」と呼ばれている。
室町期から江戸期までの歴史書の全ては、この「福岡の利仁流」で名乗った「青木氏」を「第3の青木氏」と定義されている。筆者も論文としてはその説を採っている。

定義上からは”「第3の青木氏」”と成る。
ところが、この「第3の青木氏」は、記録から、当初のその呼称は「あおき」では無く、「ウォーキ」であった。その漢字も「青樹」であった。
実は、この「ウォーキ」の呼称には根拠がある。

そもそも、「皇族賜姓青木氏」の”青木の氏名”の賜姓は、「青木」と云う木があり、それを基に「天智天皇」は賜姓したのである。
奈良期からこの木は「神の木」として用いられ、その実の真紅は「血」、枝の青さは常緑の青さから「体」と考えられ、又、その木の成長力の強さから「生命」と考えられ、「天皇家の祭祀に用いる皇祖神の神木」として用いられていた。
つまり、この「木の成り立ち」が、この世の「生物の源」として崇められていてたのである。
この「生物の源」として「皇族の者」が、この木に準えて「賜姓」を授かり、下族して臣下として天皇の下に働く事に成る。
この「天皇の末裔」が「下族」で生きる事は、”初めての「民の根源」”の意味を持たして、「賜姓の氏名」とした。
そもそも、”「全ての民」は「天皇の子」であると云う概念”が「古来の概念」であった事から、”その「子の基」と成るのだ”として賜姓したのである。
そして、この「神木のあおきの木」を以って、これが「青木氏の賜姓木」と成ったのである。

しかし、この「青樹氏の呼称」は次ぎの様な由来から来ている。
この「神木」の「あおきの木」の呼び方を「神明社の祭祀」では、「ウォーキの木」と発声していた。
この事を引用して「利仁流藤原氏」は、この「青樹で ウォーキ」と発声したのである。
この事から、「慣例の禁令」を「利仁流藤原氏」は破った事から、「青木氏」だけでは無く、「青樹氏」とし、更には、「あおき」ではなく、「ウォーキ」として発生して、その違いを出して罰を逃れたのである。

ここで「賜姓族の役目」を少し論じて置く。
この事は「青木氏の守護神の神明社」のところで詳細に論じている。
この「皇族賜姓青木氏5家5流」と「特別賜姓秀郷流青木氏116氏」の「2つの青木氏」には「最高級の格式」を与え、「3つの役目」を与えて、「不入不倫の大権」を与えた。
この「青木氏」に「皇祖神」の子神の「祖先神の神明社」を「青木氏守護神」として、”民の安寧を図る事を目的”として全国に建立する事を命じた。
566社に及ぶ建立をした。他にも「皇族の者」が事件などに巻き込まれた場合に庇護するシステムなどの多くの役目を任じられている。
これらを実行する為に、「2つの血縁青木氏」は「経済的自立」を図ったのである。(二足の草鞋策)
その為に「伊勢古代和紙」を他の「四家の青木氏」に広げて、「殖産ー販売のシステム」を構築するなどをした。
中でも徹底した「3つの発祥源の役目」を果たすように命じられ厳しい「特別の戒律」を与えられた。
特に、「侍の根源」(武家の根源等)としての50以上にもなる「慣習仕来り掟」と、「訓」と「戒め」を与えて「民の模範と成る事の役」を果たす様に定められた。
そして、「皇祖神の伊勢神宮」を「守護する氏」として始祖の「施基皇子」に「伊勢王」として命じたのが最初である。
(他の四家にも「守護する氏」としての役目を与えました。)
その為に、「皇位継承の改革」を実行した「天智天皇」と「天武天皇」は、「王の格式と呼称」は、この時、「皇子の第4世族」までとして変更した。(それまでは第6世族までであった。)
この「第4世族」を「5つの地域」に配置したのである。
これが「5家5流の青木氏」と成って、「光仁天皇」まで「5代の天皇」の「皇位継承者」から外れた皇子を、この「5家5流の青木氏」の跡目に入れて護ったのである。
(光仁天皇は施基皇子の長男 女系天皇が続いた為に継承外の第6位皇子の伊勢から天皇に成った)
そして、この臣下した「青木氏」には「天皇と宮廷を護る役目」を与えた。
それが親衛隊の護衛軍トップの「左衛門上佐」として命じたのである。
これを平安期では「北面武士」として呼ばれていた。

この後、「嵯峨天皇」は、更に、この役目を強化して細目の「禁令と詔勅」を発し、その時に、「青木氏の賜姓」から、同じ賜姓の意味を持つ「源」を基にして、以後、「源氏」として賜姓する事に成ったのである。
この「源氏」は「嵯峨源氏」を始めとして、「花山天皇」まで11代の「第6位皇子」で継続された。
参考
(16代とする説もあるが、これは徳川氏の源氏の正統性を戯曲した資料をベースに論じた説で、16代目は正規に賜姓した数から南北朝時代の頃と成り、この頃は既に源氏賜姓の必要性は無かった。徳川氏はこの16代を松平氏発祥の時代性に合わせて偏纂したものである。賜姓は平安期までのものとされる。賜姓された「武家源氏」として発祥した正規に確認できる最後の源氏は11代目の花山天皇である。源氏には「摂家源氏」と呼ばれる賜姓ではない源氏もあり生き延びた実績はない。)

この賜姓の受ける資格の持つ皇子は「真人族と朝臣族」に限定したのである。
そして、この資格は第4世族皇子で第6位皇子に与え、資格から外れた者が下族する際には「青木氏」を名乗る事を定めたのである。
「詔勅と禁令」は、「全ての民」がこの「青木氏」を名乗る事のみならず、この「一切の青木氏の慣例の使用」をも禁じたのである。

この「5家5流の青木氏の跡目」に入れなく成った「下族皇子」と「還俗皇子」は「賜姓族」では無い「皇族青木氏」と呼ばれた。
この「皇族青木氏」を名乗る場合は「朝廷の認証」はなかった。皇族であるとする証を以って自由に名乗る事が出来た。
その「皇族青木氏」には4氏が存在しているが、「自由の呼称」であるが為に、この「青木氏」には厳しい多くの戒律は与えられなかった。
逆に身辺の保護も経済的な保護も何も与えなかった。ただ「呼称権」だけであった。
この「青木氏」から「源氏」に変わった「賜姓」は、11代続き、この間に18人の皇子と7皇女とが対象となった。
しかし、「賜姓」を受けた皇子以外は、殆どは「比叡山門跡院の門跡僧」と、皇女は「皇祖神の斎王」に成った。
この「源氏族」には、「賜姓青木氏の様な役目」を与えない代わりに、生活の糧と成る土地も身分の保護も無かったし、厳しい戒律も無かった。ただ朝臣族とする云う事のみであった。「家の格式」も与えられなかった。
それを「嵯峨天皇」は詔勅に明記して発した。
従って、この事から、「利仁流藤原氏のあおき氏」は、正規の朝廷から認可された「青木氏」でも無く、有資格者でも無かったのである。
「青木氏」でも無い「北家利仁流藤原氏」の「青樹氏」である為に、当然に「氏名の青木村」は認可されなかった。

注釈
ただ、これらの族の「青木村」があるとすると、それは明治初期の「村」である事に成る。
実は、「苗字令と督促令」を発して「農工商の民」に、青木氏等の「賜姓族」、即ち「権威族」の氏名が一夜にして、ある地域全体が「青木氏」を名乗ったのであるが、この為に、この地域を「青木村」と呼称させる様に維新政府は主導した。この「明治期の青木村」がある。この村は判っている。

この「嵯峨期の禁令」で「青木氏」を除く全ての氏は ”地名による氏名”となりました。
つまり、この時から”「氏名」を地名とする事”は出来なくなった。
それだけに「青木村の存在」は、「権威の象徴」として見られていたのである。
ところが、この「青樹氏」は、後に江戸初期に「江戸幕府初期の系譜作成の命」に従って権威のある方の「青木氏」に変更しているのである。
他の地域でも、この令に従って、武士としての旗本や御家人などは、次ぎの様な類似の氏名を名乗った。
この江戸初期と明治初期の「あおき」には次の様なものがあった。
青樹氏 青城氏
仰木氏 葵木氏
蒼樹氏 青城氏
・攣�
以上等があった。

江戸初期には「青樹氏」等の昔の「武士階級の第3氏」に対しては、「条件付き」で「青木氏」に変更さしたのである。

多くは、「利仁流」の様な北家筋の関係豪族が名乗った。
「北家筋藤原氏」は9氏 
「橘氏未勘氏族」は1氏 
「源氏未勘氏族」は2氏 
「佐々木氏未勘氏族」は2氏 
「摂家源氏族」は4氏(”摂家”とは武家族では無い貴族の源氏)
以上等が「あおき」を名乗った事が記録から確認できる。

以上は、全て「2つの血縁の賜姓青木氏」とは、何らかの”間接的な立場”にある「氏族」である。

注釈
そもそも、「未勘氏族」とは、平安期から鎌倉期までに「荘園制」で、「荘園」を創った者が、「権威のある氏族」に「権威の名義」を借りて荘園を護った方式で、「権威族」は「名義貸し」だけで「名義貸し料」として「莫大な利益」を挙げた。この見返りとして、血筋は無いが、「名義」だけを名乗る事を許した制度て、この「借名義族」を「未勘氏族」と歴史上では呼ばれた。
「不明確な族」と云う意味合いである。「青木氏」は権威として最高であったが、立場上でこの「荘園制」に一切組しなかった。

しかし、逆に、室町期に上記の「数々のあおき」の呼称が起こり、これを「青木」に変更させる事態が江戸初期に起こった。
江戸幕府は、”正規の賜姓族の青木氏の権威”に似せて、「権威付け」を社会に浸透させ様としてこれらの数々の「あおき氏」を「青木氏」に変更させたのである。
要するに、「権威付けの対象氏」を増やして「権威」と云うステイタスを社会に浸透させようとしたのである。
この「政治的な目的」の為に、上記の「あおき氏」等に「青木氏」に変更する様に命じた。

注意
この幾つかの「あおき」を使って、「逆の現象」が起こり、江戸初期には「姓」を持たなかった農民から伸し上がった「下級武士」らもこの上記の異なる「あおき」を名乗ったのである。
又、明治初期にも、「苗字令」「督促令」に依って、全ての「農工商の民」は苗字を持つ事に成るが、この時にも、この上記の数々の「あおき」を名乗ると云う現象も起こった。

更に、この「青木氏の権威」は、正式には「平安期までの朝廷の権威」で保障されていたのであり、「鎌倉期の権威」では、最早、「幕府の権威」ではなかった。
ただ、「朝廷の禁令の権威」は遺され、且つ、「社会的慣習」による「権威」は遺った。

従って、「利仁流の藤原氏」の「青樹氏」は、「青木氏」の名乗りも、のみならず「青木村」も認可外のものと成るのである。
「青樹氏」の氏名の「青木村」は、本来であれば「青樹村」に成るが、「氏名」から「村名」にするのは禁令ですから「青木村」は出来なかったのである。

故に、「室町期の青木氏」は存在する事は、当然の事としても、”論調の範囲では無い事”から存在するも”「青木村」は無い”としているのである。
(他の理由もある 下記)
この様な「青木村と青木氏」は、福岡以外の他にも和歌山等の北家筋や橘氏等が定住している数か所でも存在して居る。

この「第3の青木氏」では、室町期初期ー室町期末期ー江戸初期ー明治初期の4期に起こっている。(下記)

「利仁流藤原氏」の場合は、「青木村」は使えないのであるから、禁令を破っている事に成るのである。但し、当時には、この「村」の種類も「3つの種類」があった。

当時の税制上の仕組みからであるが、「村」より少し大きい「しょう 庄・㽵」、「村」より少し小さい「あざ 字」があります。

参考
4郡から5郡で「国」、4村から5村で「こおり 郡」、「しょう 庄(㽵)」は2村程度 、「あざ 字」は0.5村程度、一村は400から500人程度となっていたとされています。

そこで、「青樹氏(青木氏)」の「青木村」とすると、鎌倉期の頃は、税の記録から「字」の範囲であった事が記されていた。
つまり、禁令のみならず、実質的にも元々「青木村」ではなかったのである。
その後、室町期の中頃から末期頃には「大きめの村程度」には成っていた事が確認出来る。
「村の定義」の「青木村」としての記録は発見されない。
従って、ここでも鎌倉期末期から室町初期頃の事では、「字程度」として記録されていて「青木村の定義」からも外れるのである。

何れにしても、以上の様に、全ての「青木氏の条件」からは外れる事に成るので、本論では福岡の青木氏では論じていないのである。

ただ、「第3の青木氏」を論じる場合は、余りにその”多種多様な範囲での青木氏”と成るので、一括して論じる事は難しいのである。

改めて記述すると、千差万別の内容の異なる「青木氏」を名乗った時期は次ぎの4期に成る。
A 奈良期末期から平安期末期(皇族賜姓青木氏 賜姓秀郷流青木氏)
B 鎌倉期末期から室町期初期(源氏から青木氏 皇族から青木氏 北家公家族から青木氏)
C 室町期末期から江戸期初期(武士からの第3の青木氏) 
D 江戸期末期から明治期初期(民衆からの第3の青木氏)

「利仁流のあおき氏」(・太宰府から糸島青木にかけて分布する)は、このBに当たる。
(ここまでの論議範囲)

従って、判っているこの福岡地域の「他の青木氏」は、全て判っている。
一つ目は、「黒田藩の日向青木氏」 (•福岡県 三潴郡 城島町 大字青木島)
二つ目は、「黒田藩の摂津青木氏」 (•福岡県 福岡市 西区 今宿青木)
である事が判っている。
何れも、「青木村」では無い。
この流れの中に、「別の2つの青木氏」が「筑後」と「肥前」から流れ込んできている事も判っている。家紋分析からは判別できる。

そもそも、「別の2つの青木氏」とは次ぎの通りです。
イ この「筑後」は、「源の為朝」が平家に追われてこの地に逃げ込んで出来た「配流孫」が、後に「青木氏」を「為朝書付」(真偽不明)を根拠に名乗った事が判っている。
(•福岡県 下毛郡青木村  「嵯峨期の詔勅」による「正規の青木氏」)

(何故「源氏」を名乗らなかったかには疑問があるが、「社会の圧迫、平家の追跡」などを恐れて名乗らなかった事も考えられる。「青木村」は認可村かは不明)

ロ 
この「肥前」は、ここには「藤原秀郷流青木氏」が平安期から鎌倉期にかけて「秀郷一門宗家」の赴任に同行して「正規の青木村」を形成して「秀郷流青木氏」が護衛団として定住している。

このイロの「2つの青木氏」が、”「筑前の国境」付近の地域に定住”していた事も判っている。
この「肥前の青木氏」の判別も可能で「平安期の詔勅」による「正規の青木氏」である。

(これらは「宗派」と「家紋」と「菩提寺」と「守護神」と「戒名」などの慣習で判別できる)。

当時は、「氏家制度」の社会では、その「家柄や身分」などに依ってこれらの慣習は決められていて、自由には選択できない社会であった。
これらの事がその「氏の絶対的ステイタス」に成っていたのである。

「氏家制度」の社会の中では、「苗字や家紋」は「絶対的なステイタス」として扱われていて、これを護るために「厳しい戒律」として「同族血縁」を繰り返して守ってきたのである。
この”「絶対的ステイタス」”が侵されれば戦いも辞さない時代であった。
現実に、記録から観ると、「青木氏」では事件も含めて10回程度起こっている。(研究室に記載)

当然に、この「絶対的なステイタス」を護るには、「宗派や戒名」等の慣習もそれに準じて分けられていたのである。
自由に、誰でもが、家紋や宗派や寺や神社や戒名等のステイタスを勝手に選ぶ事が出来ない社会であった。(宗派や戒名でも氏のステイタスは判る。)

青木氏の場合は、「賜姓族」として、「武家」のその先頭に立っていたのであるから、絶対にこれを護ったし、故に、「氏の絶対的命題」として「同族血縁」を進めていたのである。

注釈
(明治初期までこの慣習が護られていた。)
(ここで云う「武家」とは、「公家」に類する「武家」であり、江戸時代で云われた武家では無い。「八色の姓の制」に従った「正規の呼称」。
「賜姓族青木氏」はその「武家の頂点」にあり、「武家、侍の発祥源」として位置づけられ、権威付けられていた。)


そもそも、「青木氏」は、社会に対して政治的に”体制の確固たるあるべき姿”を民に示す為にも、”起源を護る事を主務としての賜姓氏”であった。
従って、この為に、それを護ろうとして「必死の同族血縁」が進むために、近隣の「筑後」や「肥前」や「日向」から、「筑前」に同族を求めて血縁し、「棲み分け」の為に両者により近い地域に定住地を構えて近づいて来るのである。
そして、その為に近隣地域には「棲み分け」が起こるのである。
同じ「青木氏」でも「氏」が異なれば、絶対に”棲み分ける当時の慣習”が護られていたのである。
他氏と異なり血縁に依って「混在する村」(「集合村」)は形成されなかった。
(「賜姓族青木氏」でも、「家の格式順位」があって、その格式で棲み分けていた。)
それが「氏名」を「村名」とする「由緒を示す青木村」の持つ意味なのである。

情報提供の摂津青木氏の青木理兵衛、日向青木氏の青木市左衛門のルーツも異なっている事に成るのであり、当然に、「格式の違い」によっても「地域」を変えて定住地は上記の様に異なる事に成る。

(故に、上記した様に、その「氏」その「家」に依って異なるところから、「家紋や宗派や過去帳」などの事が判れば判別できる。)

上記する「福岡の3氏」と「近隣の3氏」の青木氏は、故に、他氏が行う「集合村」では無いことから、「氏家制度の棲み分けの慣習」からすべて異なっているのである。
(「集合村」以外に学問的には「村の形」には多くある)
この福岡も従って、「福岡3地域」「近隣3地域」に分かれていて、「家紋、宗派、守護神、菩提寺」等が異なっている事に成る。
この様に、同族であれば、「青木氏」の場合は異ならず、「戒律」に依って「統一したステイタス」を持っているのである。(「集合村」の場合は統一性が低下する)

この守られたステイタスから、「青木氏の身分呼称」は他氏とは異なり、一定の「ステイタスの呼称」が付く事に成る。
(これが他氏とは、当然に青木氏内でも判別方法は異なる事になり、それが判別条件にもなる。
上記にも記述した様に、青木氏の最高のステイタスは次ぎの様に成る。、

「青木氏ステイタス」は12に続く。







>
> ・> 青木氏の分布と子孫力
>
> > > [地域別分布力]
> > > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > > 地域      異変の県        分布力
> > > 九州地方   長崎、大分       5%
> > > 四国地方   高知           2.5% 
> > > 中国地方   山口、岡山       2.5%
> > > 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
> > > 東北地方   秋田           7%
> > > 中部地方                 15%
> > > 関東地方                 45%
> > > 北海道・沖縄               6%
> > > その他                   3%
> > >
> > > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> > > 九州地方  1.3
> > > 四国地方  1.3
> > > 中国地方  1.3
> > > 関西地方  4.7
> > > 中部地方  4.3
> > > 関東地方  11.3
> > > 東北地方  2.0
> > > その他   11.0
> >
> > > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
> > >
> > > 修正地域(表ー3)
> > > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1-7 三重 12 福井 4 愛知 13-7
> > > 秋田 1
> > >
> > > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> > > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> > > 福岡  2      山口  0   愛媛  3     兵庫   3    三重  1
> > > 長崎  0      島根  2   香川  1     大阪  14    石川  2
> > > 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都   5    福井  1
> > > 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良   1    岐阜  3
> > > 熊本  4                        和歌山 4     愛知  13   
> > > 宮崎  2                        滋賀   1    長野  9
> > > 鹿児島 1                                   山梨  1
> >
> > > 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
> >
> > > 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
> > > 静岡   5   青森  1      沖縄   1
> > > 神奈川 21   山形  2      北海道 11
> > > 東京  18    岩手  1
> > > 埼玉  17    新潟  4
> > > 群馬   6   秋田  0
> > > 千葉  11   福島  4
> > > 茨木   4   宮城  2
> > > 栃木   8                                     
> >
> > > 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  
> >
> > >  青木氏の分布と子孫力-12に続く。

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青木氏の分布と子孫力-10


[No.314] Re:青木氏の分布と子孫力-10
投稿者:福管理人 投稿日:2014/06/17(Tue) 14:35:09


> > 青木氏の分布と子孫力-9の末尾
> それは、「個人」ではなく一つの「集団」としての「掟」であった。
>それを「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」が、「商い」と「神明社」を通じて統制していた事に成る。
>依って、”「子孫拡大」”と云うよりは、”維持した”と考えられ、「パラメータ4」を超さない範囲で維持していた事に成る。
>「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」等が、持っていた「慣習仕来り掟」と云う戒律は、適用しなかったと考えられる。
>その最たるものとしての「血縁」は、”本家筋を除いて適用せずに「青木氏」外に子孫を横に広げて ”「拡大」ではなく「維持」としたのである。
>これは「商人」と云う事であったからこそ出来得た事である。
>元来、「青木氏」では「家紋」とするものは「象徴紋」としての考え方であった。
>この「3つの地域」の「青木氏」には、「笹竜胆紋」以外の青木氏は極めて少ないのはこの事から来ている。

>恐らくは、継承する家紋があったとすると、それは「商標」として扱われていたことが判る。
>この地域では、恣意的に「笹竜胆紋」は表には出ずに「総紋」としての扱いであった事が伺える。
>秀吉の家臣と成って家康に除封された青木伊豆守と青木伊賀守の福井での青木氏末裔は、現在も「笹竜胆紋」を継承しているが、「本家の総紋」としている事でも判る。


青木氏の分布と子孫力-10


「秋田」
東北地方の6県についてである。
この中での「秋田」は、「陸奥地域」として「藤原秀郷流青木氏」の古くからの根拠地である。
「青木村」も形成して「越後青木氏」との連携もあり、「陸奥青木氏」の記帳のないのも不思議の一つである。
(北海道入植移動と室町期末期の混乱の影響はある)
少なくとも「関東の青木氏」と同じ程度の「子孫拡大」を持っている筈で、「青木氏」の現代の存在も確認できている。
”何故に記帳やデータのパラメータが採れないのか”は不思議である。
老化が進んでいることも考えられるが、投稿もある事もあり「青木氏氏のサイト情報」が伝わっていないとも考え難い。
「老化」となると「青木氏の今後」のこの地の「子孫拡大」に不安が残る。
しかしながら、その「周囲の分布」(青森1、岩手1、山形2、宮城2、福島4、新潟4)が納得できる件数にあり、「秋田」だけが全族が移動しているとも考えにくい事とを合わせると不思議である。
周囲が採れているのに「秋田」が0に成るのは”何かが青木氏に起こったから1以下に成っているのであろう。

その不思議のヒントは「大阪」と「東京」の「都会」にある。
先ず、上記した様に、「青木氏」に関係が歴史的にない「大阪」である。
「14のパラメータ」で全体の7%もある。
この「大阪の都会」は関西の県の青木氏の定住地からの移動が主体であろう。
つまり、定住地では無かった大阪ー兵庫東域に「皇族青木氏」の「丹治氏系青木氏」が江戸期初期に四万石の大名として摂津域に赴任している。
この事から、パラメータとして2が考えられるが、その他の数字は考えられない数字である。
又、「伊勢青木氏」が堺に長い間、「大店の支店」を持っていた記録もあるが、「伊勢青木氏」の分家が現在も紙問屋を営んでいるが、パラメータに出てくる数字でも無い。
このパラメータの大半は、つまり、これは上記の答えの一つには「都会への定住移動」の事が考えられる。
(秋田は家紋分析から主に東京などから)
何時の世も、この政治、経済でこの「行動パターン」はある。
では、果たして「秋田」が「大阪」かと云う事になるが、矢張り、「地理的環境」から「東京のパラメータ18」になる。
「大阪14」は、関西以西のパラメータの0域の取り分け4県の吸収地となろう。
「関西以北の移動」があったとしても、現在もその比は少ない事からパラメータを構成するには「以西」である。

とすると、「秋田」の0のパラメータは老化は兎も角として、パラメータの過剰を示している「東京」となる。
そこで、次ぎに「過剰地の東京」の吟味とすると、「青木氏」の最大の定住地の東京である。
18のパラメータで全国比の9%もある。
「藤原秀郷流青木氏」と「丹治氏流青木氏」の定住地の121氏の本領地である。
「武蔵」として「埼玉と東京」に成るが、本領地の埼玉入間に17の全国比の9%もあるとすると、全体から観るとこの埼玉で納得できる数字である。
武蔵入間を中心として神奈川横浜を半径とした円状の中に定住していた事を考えると、神奈川は21である事、埼玉の17である事、
神奈川の秀郷流青木氏に保護されて後に、領地を以北に求めた「諏訪族青木氏」で拡大分布した「栃木の8」である事、
「群馬の6」、「千葉の11」、「茨木の4」が妥当なパラメータと考えられる。
この事から、「東京の18」は矢張り大きすぎるパラメータと成る。

しかし、東京にも18とあり、「埼玉の17」では多すぎる。
「秀郷流青木氏」の東京の分が余計な数字とも考えられる。
この東京には、江戸期に「6つの青木氏」が集まった事が判っていて定住移動している。
更には、武田氏滅亡後、「皇族青木氏」の「武田氏系青木氏」が家康の配下に組み込まれて「埼玉鉢形」に移動定住された。
この分を考慮する必要がある。
次ぎに、江戸初期武蔵の「丹治氏系青木氏」が信濃を経由して摂津に移動定住している。
残りの一族があったとしても、これら二つの分を加算しても埼玉17から2を差し引いたとして、その分「秀郷流青木氏」は東京に少なくとも 2を持っている事に成ろう。

武蔵の「秀郷流青木氏」は元より、三重、千葉、越後、越前、越後、「皇族青木氏の武田氏系青木氏の甲斐」と、「丹治氏系青木氏」が江戸期に確認できる。
しかし、これらを全て合わせても江戸期の家臣の移動族であるので赴任を終えての国に帰る事から、無理に定住したとしてもパラメータは最大でも1程度を見込まれる。
そうすると、それにしても大き過ぎる。
「宗家秀郷流青木氏」を「東京の分」として 2としてもせいぜい 9と成る。
そうすると、「国抜け」として「一族斬罪の罰」になる事の江戸期に「青木氏」としては自由に移動定住できなかった事を考え合わせると、結局は「明治後の9」と成る。

つまり、この二つの数字から考えると、上記した7県の内の大分と山口を除いた「5県の分」がこの大阪と東京に集まった形に成っている。
その内の「秋田」は明治後の「都会への定住移動」の東京の方に含まれる事となる。

東京は秀郷流青木氏の分の2
各地域からの移動定住族の1
下記の「第三の青木氏」の8
秋田の秀郷流青木氏の移動分の2
江戸期の6氏12流の定住分の4
その他の各地からの分として1
総計 都会移動分  18
   

この東京と大阪の二つの地域31パラメータの半分17-18は上記の5県の分として計算でき、残りの分は全体からの移動分と成る。
17の8%-9%が「全体移動分」と考えられる。
全体を平均4として、これからの「青木氏の定住の勢力図」として観てみると、これらの周囲は青木氏の分布状況に匹敵する数字を示している。

実は、ここで「明治期の異変」が起こっているのだ。
それは「秀郷流青木氏」には3年の苗字令と8年の督促令で関東周辺の氏姓名を持たない庶民は進まない氏姓名に対して政府の指導の下に、ある日、突然に村全体が「青木氏」を名乗ると云う事が起こった。
中には郡の村の大半が「青木氏」を名乗ったと云うことが関東であった。
「青木氏」では、「寛政の歴史書」に基づきこれらを「第三の青木氏」と呼称された。
これらの一般の人は大小何らかの形で「青木氏の生活」に関わった村人であった。
従って、この人口の数は「青木氏」を超えている。
これは「青木氏」の全国に関わった村で起こっているが、特に、関東は上記した様に、”一夜明ければ青木氏”と云う状況であった。
この事から、青木氏の平均のパラメータを4とすると、この倍は少なくともあった事に成る。
「一夜明けて」の人口は村主一族の10倍程度以上に成らなければ村は維持できない筈だ。
だから、この人口の1/4が子孫力と見做して、この「東京の18」-「全体の移動分」を差し引けば、平均のパラメータ4の倍の8に計算から成る事に成る。

この現象は関西(賜姓族は禁令)よりは主に関東を中心にして集中的に起こったのであるから、この分のパラメータ8を考慮する必要がある。
このパラメータの8の数パーセントは「秋田」の分が含まれているこ事に成る。
この「秋田」も、明治期にこの現象を起こした地域で、その人々は明治期に移動の自由もあって「都会移動」を盛んに起こした地域なのである。

「山梨」
「山梨1」についてであるが、ここで特記して置くと、甲斐から「皇族青木氏」が家康の命で鉢形に移動定住してきた。
「武田氏系青木氏」(時光)として残るは、「本流の青木氏」と「養子筋の分家青木氏」が甲斐に居た。
この内、「養子筋の分家青木氏」は「安芸」などにも移動して定住しているが、最終は甲斐青木氏が衰退した為に戻った。(一部は残った。常光寺を再建した。)
従って、甲斐には「皇族賜姓族青木氏」(源光系 0)が奈良期より定住する。
この「皇族賜姓青木氏」が武田氏から養子を迎えて血縁したが、その養子に跡目が生まれずに家紋掟に依って賜姓族系の「武田氏系青木氏」が発祥した。
依って、この「賜姓族武田氏系青木氏」(1)と「皇族青木氏の武田氏系青木氏」(A)が甲斐にはある。
諏訪族が「武田氏系青木氏」と血縁した「武田氏系諏訪族青木氏」(B)、「賜姓族青木氏」と血縁した「賜姓族の諏訪族系青木氏」(2)がある。「諏訪氏系武田氏族青木氏」(C)
甲斐には、以上、「賜姓族系3氏」 「皇族系3氏」の「6つの青木氏」が存在する。

この様に血縁に依って「青木氏」が多く出ているにも関わらず、「甲斐」は室町期は戦乱の中にあった。この為にどうしても巻き込まれて「子孫力」を落とした経緯がある。
ところがあまり「越前福井の逃避地」に逃げ込んている記録が見つからない。
恐らくは、(0と1)は定住して戦いから極力避けたと考えられる。
(2)は武田信玄の有名な由依姫事件の調略にかかり武田氏に組み込まれた事から、各所に分散して逃げた。
恐らくはこの一部が越前福井に逃げ込んでいる筈で「抱き角紋」がわずかに確認できる。
(0と1)は定住
(2)は神奈川・栃木・越後
(A)埼玉武蔵鉢形と高知土佐に移動
(B)神奈川に移動
(C)越後に移動 

「甲斐の賜姓族」は定住して「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と連携して「古代和紙の殖産」に関わったが、記録から「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の様に積極的に活動した記録が発見できない。
この事から、「山梨の1」は「伊勢や信濃」と違ってパラメータは低い事は納得できる。

「埼玉 神奈川 千葉」「栃木 群馬」
埼玉17、神奈川21、千葉11の3県は、全ての「青木氏の融合定住地」である事から観ると、やや大き目の程度のパラメータであるが納得できる。
「神奈川の21」は上記で論じたがお大きいとは観られるが、そうでもないのである。
ここには「伊勢と信濃」と、「諏訪族系3氏と武田氏系3氏」が室町期末期に定住移動している。
「秀郷流青木氏」の保護もあって、経済的にも恵まれて子孫拡大も何れも実に大きかった。
その内には、この神奈川の地で保護されて子孫拡大が大き過ぎた為に、「秀郷流青木氏の保護」を得て栃木に更に移動して、武力で北方向に領地を獲得する等して「栃木の8」の事が起こるくらいであった。
「群馬の6」も本領地であることから、入間だけではなくこの地域にも子孫を拡大させている。
かなり群馬の北域の国境沿いは争いが起こっていたが、室町期末期の諏訪族の拡大もあって平定に近づいた。
この諏訪族の勢力の「栃木の8」は平均のパラメータ4の2倍である。
異変や単純に子孫拡大しても8までには成らない。
つまり、如何に「神奈川の勢力」がこの「栃木の8」を後押ししていたかが判るし、全国最大であったが大きかった事が云えるのである。
「諏訪神社」を独自に勢力地の各地に数多く建立しているところからもその勢力は頷ける。
その意味で「栃木の8」は頷ける。

(栃木は当初、神奈川に逃げ込んだがその一部が神奈川の勢力を背景に栃木の以北を攻めて安住の地を獲得して守った。)

「明治後の移動」のみを考えても、「移動のパラメータ」は「平均の4」を超える事は論理的にない事から2程度位以上にはならない。
この「神奈川の21」はその意味で妥当性を持っている。

「沖縄」
最後に、「沖縄の1」に付いては全く判らない。家紋分析も守護神からも判らない。
明治後の移動である事は間違いない。
歴史的な経緯が全く無く記録も確認できない。
薩摩藩との関わりが大きかった事から薩摩藩に青木氏が家臣として出仕していた可能性は「日向青木氏」の経緯から観ても低いので、「沖縄の青木氏」が江戸期には定住していた事は先ず無く、明治後の事であろう。
「沖縄の1」を示しているが、パラメータ1は上記した様に、90-150年程度は必要である。
明治期からすると何とか得られるパラメータではある。
大阪や東京の「都会移動」、北海道の「入植移動」、沖縄の「自由移動」等がある中で、パラメータ0の地域もある。
「沖縄」の「自由移動」の青木氏は柵が無いことから今後拡大する事であろう。
「沖縄青木氏」の新しい呼称が出来た事は喜ばしい。

「結」
この様に本来の定住地で無いところの地域に分布の数字を示しているのは、室町期の青木氏の拡大伸長の移動方向も現在にも示している。
本来定住地ではないが、歴史的な室町期の記録からも勢力拡大の経緯として納得できる。
その県として観れば、この「沖縄」を除きその数字は適切に投稿数字に表れている。

因みにこの「記帳の数字」と「ルーツ掲示板」の投稿数字はほぼ同じ傾向をしめすが、この分析は、筆者が過去について調べた「青木氏の分布」と「青木氏の村の分析」とで勘案すると、その後の分布として非常に適切に歴史的な史実を表していて興味深い。

この数字のバイアスは統計的に1以下で0.5程度と見込まれる。その範囲でパラメータは「青木氏の分布図」として観られ、且つ、同時に「伝統の存在力」としてのパラメータとしても観られる。

そこで、気に成る事がある。
それは上記の表や下記の表の様に各地の「青木氏の分布図」(子孫力)を示しているが、これが”面積とどの様な関係にあるのか”と云う事である。
広いところ広い様に分布し「子孫力」が広がっているのかと云う事である。
「青木氏」は「青木村」を形成しているのであるから、その”「青木村」が地域に依って大きさが違っているのか”を把握しておく必要がある。
その答えは出る。
次ぎの2つの表から出る。





・> 青木氏の分布と子孫力

> > [地域別分布力]
> > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > 地域      異変の県        分布力
> > 九州地方   長崎、大分       5%
> > 四国地方   高知           2.5% 
> > 中国地方   山口、岡山       2.5%
> > 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
> > 東北地方   秋田           7%
> > 中部地方                 15%
> > 関東地方                 45%
> > 北海道・沖縄               6%
> > その他                   3%
> >
> > 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> > 九州地方  1.3
> > 四国地方  1.3
> > 中国地方  1.3
> > 関西地方  4.7
> > 中部地方  4.3
> > 関東地方  11.3
> > 東北地方  2.0
> > その他   11.0
>
> > 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
> >
> > 修正地域(表ー3)
> > 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1-7 三重 12 福井 4 愛知 13-7
> > 秋田 1
> >
> > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> > 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> > 福岡  2      山口  0   愛媛  3     兵庫   3    三重  1
> > 長崎  0      島根  2   香川  1     大阪  14    石川  2
> > 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都   5    福井  1
> > 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良   1    岐阜  3
> > 熊本  4                        和歌山 4     愛知  13   
> > 宮崎  2                        滋賀   1    長野  9
> > 鹿児島 1                                   山梨  1
>
> > 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
>
> > 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
> > 静岡   5   青森  1      沖縄   1
> > 神奈川 21   山形  2      北海道 11
> > 東京  18    岩手  1
> > 埼玉  17    新潟  4
> > 群馬   6   秋田  0
> > 千葉  11   福島  4
> > 茨木   4   宮城  2
> > 栃木   8                                     
>
> > 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  
>
> >  青木氏の分布と子孫力-11に続く。
>


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