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:青木氏の分布と子孫力-9


[No.313] Re:青木氏の分布と子孫力-9
投稿者:福管理人 投稿日:2014/05/24(Sat) 07:43:10


> 青木氏の分布と子孫力-8の末尾

> 事ほど左様に、大阪に集まる「青木氏」は次ぎの様に成る。
>
> 「伊勢青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」を始めとして、
> 「香川青木氏」、「高知青木氏」、「徳島青木氏」、
> 「福井青木氏」、「長野青木氏」、
> 「愛知青木氏」、「岐阜青木氏」、
> 「近江青木氏」、「兵庫青木氏」、「滋賀青木氏」、「鳥取青木氏」、
> その他地域の青木氏
>
> 以上の地域に、「大阪の14」が分散して「子孫力」として各地域に加算される。
> 全体の20%程度が大阪に集まっているのだが、上記の14地域から、1地域に「パラメータは1」を配分できる。
>
> 比較対象として、「都会」の「東京18」は「武蔵国」で「秀郷一門の定住地」であるので、「パラメータ」の持つ意味は若干異なる。
> 「大阪の14」は、その意味で、「伝統の継承」は、「東京の18」に比べて、関西域は、これからは低く成る事を物語る。
>
> その事から、「伊勢青木氏」の「遺された伝統」の意味は実に大きい。
>
>
> そもそも、「伝統」とは、その「伝統」を維持している「氏の思考の基準」となるものである。
> 「氏の思考基準から外れた考え方」はその氏は排除する。
> 要するに、「伝統」=「思考基準」(行動規範)である。
> 況して、「氏の独善の宗教」=「密教」であるとすれば、「宗教的な作法」の「伝統」は”自らの氏が決めた作法”である。
> 「氏の思考基準」である。
> 次ぎの”「青木氏だけの伝統」”は、”「青木氏の思考基準」”となる。
> 「青木氏」は、”この様なものの考え方をしていた”と云う事で理解するべきである。




青木氏の分布と子孫力-9


・「東京の18の内訳」
「東京の18」には「江戸時代の六左兵衛門ルーツ」(吉宗に同行 享保改革)として1が見込まれるので、伊勢のパラメータは総合12と成る。
筆者の縁者が東京に「昭和の移動」として既に4家族移動しているので、更に、その子孫力は12以上に伸びると考えられる。
東京は関東域と北陸東北域と中部域からの移動として算出する。
東京は大阪に比べて「ルーツ情報」は無くなっている可能性が高く、在ったとしても、且つ、政治の場であった事から、一層、情報は錯綜し搾取偏纂され矛盾に満ちた情報と成っている。
家紋分析などいろいろ駆使したがまとめられなかった。
「浄土宗」なのに「日蓮宗」、「菩提寺」が何処かにある筈なのに「檀家寺」、「氏」であるべきなのに姓名等の矛盾が多すぎる。
「東京」に定住移動し易い地域となれば次の通り、関東域を中心として定住移動すると見込まれる。
青木氏の定住している地域を区切るとした場合、次の様な地域から移動が起こる。

「埼玉、千葉」、「栃木、群馬、山梨」、
「新潟、秋田、青森」、「岩手、福島、宮城」、
「山形、群馬、茨木」、「神奈川、静岡」、
「信濃、富山、石川」、その他

「大阪」の「都会移動」の出来得る「6定住地域」:

「高知香川徳島」 「和歌山三重愛知」
「兵庫岡山広島」 「福井長野岐阜」
「滋賀鳥取島根」「その他」

・「滋賀」
この「滋賀」であるが、一見して「近江青木氏」と考えがちであるが、実は違うのである。
「滋賀」に付いて、ここには少し歴史的に違った経緯を持っている。
ここには確かに、「青木氏」は平安期から存在する。
ところが、ここで思いもよらない事件が起こった。
「嵯峨期の詔勅」の禁令を破ったのである。

先ず、「近江青木氏」は、そもそも「5家5流の皇族賜姓族」の一つである。
ところが、この「近江」には、「天智天皇」の「第7位皇子」の「川島皇子」の定住地でもあった。
この「川島皇子」は、「第4世族」であったが、賜姓を受けられる「第6位皇子」では無かった。
そこで、”その勲功が高い”として、特別に「近江佐々木」の地名を採って「近江佐々木氏」を賜姓した。
この「近江佐々木」は「第6位皇子の施基皇子」(伊勢の青木氏の賜姓を受ける)の弟ではあって、近江一帯の守護に任じられた。
(日本書紀にもよく出て来る人物である)
ところが、その後、「文武天皇期」に「第4世族の皇子」に対して「近江青木氏」を賜姓した。
この「近江」には「賜姓族」が2氏発祥した。
ところが、この2氏が「慣習掟」を破って平安期初期に勢力争いをした。
そこで、「近江青木氏」は争いを避ける為に、滋賀地域に一族一門が揃って移動して引き下がった。
「全青木氏」は、族毎に棲み分けを基本としていた。
ところが、この「近江」には同族血縁による仕来りから、「賜姓族佐々木氏」と血縁した「近江青木氏」との「佐々木氏系青木氏」が発祥していた。
(始祖川島皇子の佐々木氏の方が永代で二段上位)
結局、「佐々木氏系青木氏」はこの「近江」に残ったが、「近江青木氏」は、「滋賀」で平安末期頃まで定住していた。
しかし、「滋賀」での政治的な混乱を避ける為に、再び、元の「近江」に戻った。
この時、この「滋賀」に家を断絶してしまった「娘一人の家」と成った支流家がただ一つ残った。
(青木氏側の記録では娘も無くなったとされてい「完全断絶」と成っている。)
そこに、伊勢北部上田郷から農兵として出て来ていた者が、「滋賀」で力を着けて山賊の様な形で周囲を圧迫していた。
ところが、この者がこの「支流の娘」を取り込み強引に「近江青木氏」を名乗った。
ところが、この者は能力に優れ多くの配下(山賊・軍事力)を従える事と成った。
この「青木の娘」を前面に押し出して「正規の賜姓族青木氏」として朝廷に入り込み、その結果、11の守護代に10の役職を務めて信頼を勝ち得た。
ところが、逆にこの「近江青木氏」の方は役職から遠のくように成ってしまった。
そこで、この「近江青木氏」は「賜姓族の禁令」を破って、この「近江青木氏」を実質上乗っ取った「上田氏」と戦ったが敗退した。
この勝利した上田氏は「滋賀青木氏」として拡大し続け、その後、「滋賀」で「氏族」として完全定住し子孫を大きく拡大させた。
その後、鎌倉期には、この「末裔子孫」の内の一族が失職して、静岡ー千葉と流れて行き、遂に、下総にまで移動して落ち着いた。
下総には、平安中期から「秀郷流青木氏の定住地」でもあった。
この「下総青木氏」と千葉に辿り着いた「上田氏の嗣子」の「滋賀青木氏」を名乗るこの一族との間に血縁族が生まれた。
遂には、上田氏の搾取の「滋賀青木氏」が信頼されて「下総青木氏」と同化してしまった。
挙句は徳川氏の家臣とも成ってしまった。(「家興要領」)
一方で、戦いに敗れて一門が失墜してしまった事で、「近江」には居られなくなり、結局は、「兵庫」にこの正当な「近江青木氏」は一族全ては移動した。
そして、ここに定住していた「清和源氏の宗家」の「頼光系の源氏」に助けられた。
再び、新たに「兵庫の青木氏」としてある程度の勢力を持ち得た。
「伊勢ー信濃ー甲斐の青木氏」が行う「古代和紙の殖産と販売」の「二足の草鞋策」の指導の支援を受けた。
その内、財力を高めて「衰退していた近江青木氏」を遂には「兵庫摂津」で元の勢力に戻した。
ところが、ここで「源平の戦い」が始まり、世話を受けた「清和源氏」に対して恩義を果たすために「嵯峨期の禁令」を破って合力した。
そして、「近江佐々木氏」と「佐々木氏系青木氏」ら共に、「源氏」に合力して共に敗退して、再び、「美濃青木氏」を頼って移動した。
この「美濃」も「古代和紙」での財力を背景に「源氏」に味方して、「近江青木氏」と「美濃青木氏」は一族一門末裔に至るまで厳しい平家の掃討作戦で完全に滅亡した。
この時、近江源氏」、「美濃源氏」、「駿河源氏」、「木曽源氏」等の周囲の「源氏一統」は完全に絶えた。
ただ、この中の「近江青木氏」の「末端末裔」が、何とか「越前福井の逃避地」に逃げ込んで保護を受けて生き残った。
この「支流末裔の者」が、越前福井で「伊勢青木氏と信濃青木氏」らの「影の支援(和紙の生産)」の下に「近江青木氏」を兵庫で遺した。

従って、この「兵庫の3」は、「皇族賜姓族の5家5流」の一つであるにも関わらず、「近江青木氏」である。
そして、この「越前福井の末裔」である。
この為に「伊勢青木氏 12」や、「信濃青木氏 9」の様に、「全国平均4のパラメータ」を得ていないのである。

従って、この「滋賀の1」は上記した様に、「皇族賜姓族」ではない「第三の青木氏」の上田氏の「滋賀青木氏」である。
その「第三の青木氏」のパラメータに出た「唯一の青木氏」である。
上記した様に、この「滋賀青木氏」は、平安期では勢力を持ったが、鎌倉期に成って失職し土地を奪われ、完全に衰退した。
千葉下総の「滋賀青木氏」が「千葉青木氏の融合族」と成って生き残っている。
この千葉下総の「滋賀青木氏」は「宗派と家紋で判別」できる。
「千葉の11」の1程度であろうから、合わせて「滋賀青木氏」の「第三の青木氏」は結局は2と成る。

結局は、「滋賀青木氏」のパラメータは「2」と成る。

(そもそも、「第三の青木氏」は、元よりその「ルーツの系統性の概念」が元より無かった事から、「青木氏」としてのデータが採り難いのである。
この「滋賀青木氏」にしても、青木氏とは成ったとが、滋賀のみの系統性しか確認できず、その後の確実なデータは、流れとしては確認できるが、確定できない。)


・「第三の青木氏」
そこで、この「「第三の青木氏」に付いて追記して置く。
そもそも、この「寛政の史書」にも記載されている様に、確かに「第三の青木氏」は4期に発生している。

その4期とは次の通りである。
平安末期  上田氏の「滋賀の青木氏」で「近江青木氏の末裔」を名乗った。
室町末期  下剋上で「主家の青木氏」を名乗った。主に「美濃青木氏」、「甲斐青木氏」を名乗った。
江戸初期  立身出世には家柄身分を必要として社会と成った。「郷氏や郷士の名義札」の売買が行われ、合法的に青木氏をなのった。「女系の青木氏」を名乗る事も起こった。
明治初期  苗字令に基づき「全国24地域の藤原秀郷流青木氏」と、「伊勢青木氏」、「信濃青木氏」、「甲斐青木氏」、「近江青木氏」を名乗った。

「嵯峨期詔勅」に基づく禁令であった為に、「明治初期」を除き、「平安末期」と「室町末期」と「江戸期」は、それなりに「理由づけした青木氏」である。
「流れ」としての内容は把握できる。
しかし、「明治初期の第三の青木氏」は、先祖の「過去帳」を持たない事と、「年期」が無い事の為に、パラメータに出て来ない。
「家紋分析」などでも「家紋の系統性と正統性」が無い為に、明治期前の「ルーツの内容」が残念ながら捉えられないのである。
恐らくは、これからも、よほどの事が無い限りは、その宗派の作法からも、「姓としての系統性」が依然として無い為に難しいと観られる。
明治期以降の「自己の家の管理」にしか方法はない。
その意味で、「過去帳」と「年期」の「二つの条件」を持った平安期の「上田氏の滋賀青木氏」のみがパラメータを持った事に成った。
従って、この鎌倉期ー室町期中期頃までの資料は遺されている。

「室町末期の甲斐青木氏」(武田氏系青木氏:皇族青木氏)の中に、この血縁性の無い「第三の青木氏」が発祥した。
「賜姓族」ではない「皇族青木氏」は、「清和源氏の傍系支流」である事を前面に押し出して名乗り、それを理由に「青木氏」を名乗った。
(「嵯峨期の詔勅」に「第4世族の皇族出出自者」は、下族する際に「青木氏」を名乗れる。)

ところが、この「甲斐の皇族青木氏」には、「一族争い」が起こり、この時、この「分家側」が、”跡目が得られない”として初期より家臣からの「貰子」を「養子」にし、「分家の跡目」を継がした。
しかし、その後に「妾子」の子供ができ、その子供が「分家の跡目」を継いで、「2つの青木氏」が出来て仕舞ってた。
親子の「主家の争い」を起こして「同族争い」が起こった。
ところが、この親が「貰子ー養子」を「分家の跡目」として頑固に立てた。
妾子の「3人の子供」らは、怒って反旗を親に対して翻した。
遂には、その「親の行動」は、本家に対して無断で「宗派変え」の異常行動にでた。
貰子ー養子」の立場が、「曹洞宗」であった事から、本家の”本筋を通す様に”の圧力に反発したのである。
結局、本家筋は、この「貰子-養子」を「安岐の武田氏」に移動させた。
ところが、この「貰子-養子」は力を発揮して、安岐で財力を蓄えて、甲斐に戻って来た。
この「本家-分家争い」から共に衰退し、一族の自らの菩提寺も衰退させてしまって放置の状態と成っていた。
そこに、この貰子-養子」の青木氏は、その財力を使ってこの「青木氏の立て直し」を図った。
結局は、「妾子の青木氏」は、武田氏から排斥されて、甲斐の山奥山間部の巨摩郡に追いやられ、その日暮らしの生活を送っていた。
結局は、この争いは「4派」に分かれて、この様に、同族の「跡目騒動」の争いが続いた。
ところが、経済的に優れて、且つ、武力等の面で優れていた「貰子」の「養子の青木氏」が、各地に転戦して勢力を付けて「子孫拡大」をさせたのである。
最終は、この血縁の無い「養子の青木氏」が、本家の衰退していた「菩提寺の常光寺」を復興させたのである。
そして、その後にこの同族4氏が話し合ったが、話は就かなかった。
(甲斐には奈良期より「甲斐賜姓族青木氏」が別に存在して居た。)

しかし、この「貰子ー養子」のこのルーツの「過去帳」が、「曹洞宗」であったので、寺では「人別帳」である事から、「年期」があってもパラメータが採れないのである。
ところが、結局は、”復興した常光寺”も「曹洞宗」に改宗してしまった為に、ある室町期の中期の時期までのルーツは確認できるが、それ以後は判らない。
「明治期の苗字令」で「青木氏」から、「表記変更」か「家紋掟」に依って元の「別姓」に変更した可能性の証拠が観られる。

「秀郷流一門の24地域」や「近江と兵庫と甲斐」等には色々な「青樹氏、葵木氏、蒼樹氏、仰木氏、青城氏」があるのはこの事による。
中には「ウォーキ」と呼称するものもある。
「藤原利仁流の青樹氏」のみならず、一夫多妻から妾子には、「甲斐の皇族青木氏」の様に、「青木氏の呼称」の跡目は取らさずにこの呼称を用いたのも原因の一つである。
明治期の呼称では、遠慮なく「青木氏」を名乗る者もあり、憚って、上記の「青木氏」を名乗った者もあった。
これはその「地元の青木氏」との「関わり具合」や「地元の青木氏」の「考え方」にも左右された。
ただ、「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」の様な場合は、一族の血縁制度(「養子縁組の絆制度」)により、その絆の関係の「長」には、女系での「青木氏」を当初から制度として用いてた。
この為に、この「あおき」の各種の呼称の「姓名」は生まれなかった。

(この「絆青木氏」の「長」から更にはその配下へと養子や女系などで血縁を進めて「青木氏」を護っていた。
明治期にはそれでも、紀州では、無縁ではないが、「第三の青木氏」が生まれた。)

因みに、実は、強ち、「ウォーキ」の呼称の仕方は間違いではないのだ。
「守護神の神明社」では「青木氏」を「ウォーキ」と古来から呼称する慣習があった。
恐らくは、上記の様な状況に陥っていた「養子の青木氏族」の多くは、この「ウォーキ・あおき」の呼称を室町期か明治期に憚って使った呼称の一つである。
(江戸初期にもこれらの「ウォーキ・あおき」は、「青木氏の権威性」を社会に誇張する為に、恣意的に「幕府」によって「青木氏」に変更する様に命じられた経緯がある。)

この事と、「家紋」と「宗派」と「守護神」が相当しない為にパラメータに成る為の数値が低くなる事が原因である。上記した90~150年が限界点であるので、各地でそろそろパラメータが採れる時期に来ている。


・「京都」
「京都の5」は3流の「近江の青木氏」の総合である。
この3流の「近江青木氏」は、鎌倉幕府の「2度の本領安堵策」で近江に戻った。
頼朝はこれらの同族と賜姓族の「本領安堵策」を優先した。
しかし、この事に依って頼朝は、北条氏に身の危険が迫るほどに反対反発された。
しかし、これを押し切って2度も土地以外にも色々な安堵策を実行した。
この為に頼朝は”トリカブトで毒殺”される始末と成った。

この兵庫の「近江青木氏」の一部(1)と、近江の「佐々木氏系青木氏」(2)と「佐々木氏」が、源平合戦後に逃げ延びた。
この為に、「日向青木氏」の様に、逃亡の為に「佐々木氏」から「青木氏」に名乗り替えした「青木氏」(3)である。

この「3流の青木氏」は、その後、平家の追手を逃れる為に、越前福井から「神明社の神職」として「伊勢青木氏と信濃青木氏の支援」で各地に「神職」として配置移動した。

(「佐々木氏」も同じ神職として以北の「神明社の神職」と成っていて、各地、取り分け、東北地方に「佐々木氏の神職」が多いのはこの事に依る。)

「佐々木氏系青木氏」は、隣の越前福井に逃げ込んだ末裔が、「伊勢青木氏や信濃青木氏の支援」(古代和紙の殖産)を受けて、再び「青木氏」を盛り返し、平家滅亡で鎌倉幕府から「本領安堵策」で何れも元の近江に戻った「近江佐々木氏系青木氏」である。
そして、「嵯峨期の詔勅」を利用して「青木氏の不入不倫の権」で名乗り替えした。
「神明社の神職」はこの意味で保護された。
「越前福井の逃避地」とは別に、「神明社の神職」に成る事は同じ「皇族賜姓族の慣習」として周囲から認められていた。

「越前福井」
この様に、「青木氏の逃避地の越前福井」は「青木氏存続」に大きく貢献していた事が良く判る。
そこで、この「越前福井」の逃避地の「子孫力」が果たしてどの程度であったのかを論じてみる。
当然に、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」が主導して、それが原因しているのであるが、その効果の基に成っていたのは「二足の草鞋策」である。
「保護」や「情報の収集」や「生活の糧の準備の手伝い」をするのが「伊勢と信濃のシンジケート」で、それを匿うのは「神明社」であった。
上記の様に、「近江青木氏」等が絶滅に瀕している時に、情報を集めて救いだし保護して越前に運び、そこで「近江青木氏」等の世話する事は相当の力を必要とする。
平家などは掃討作戦を厳しく実施した事は有名で、それを救い出す事は並大抵の事ではない。
幾ら、「不入不倫の権」で保護されているとしても、それを護るかどうかは相手次第である。
公然と出来る事では決してない。少なくとも、”文句のつけようのないある範囲”までは持ち込む必要がある。
”それ以上に攻撃すると「朝敵」となる”までは、”隠密裏に救出を進める事”が肝心だ。
その”安全な領域に持ち込む限界点”は、まさに”神明社”にあったと考えられる。

「安全の限界点=神明社」

以上の数式が最低に成り立っていたのである。

其の上で、次ぎの数式が成り立っていた。

「神明社」=「青木氏」=「皇族賜姓族」 

以上の「2つの数式」が世の中の人々に「仕来り」として成りたっていたのである。

この「守護神の神明社」は、古来3世紀より「自然神ー皇祖神ー祖先神」の流れの中にあった。
「不入不倫の権」で護られた”「青木氏」を犯す事”の前に、この”「神明社」を犯す事”が何人も出来なかった事に成る。
要するに、「神明社の神通力」であった。
その社会の認識の構図は次ぎの様であった。

「神通力」=「2つの数式」

以上として認識されていたのであって、それが”「御師様、氏上様」”と呼ばれていた所以であった。

ところが、この「神明社の神通力」に頼る事は無かった。
のみならず、「軍事戦略的」として「神明社」をある戦略的な領域に配置して「テリトリー」を作った。
その「テリトリー」の中に入れば、「神明社の力」で排除できる様に成って居た。
要するに、”袋のねずみ”に成る様にもしていた事が「神明社の分布」でも判る。
では、「神明社」に”「軍事的な構え」を備えていたのか”を調べたが違った。
「シンジケート」が敵を”袋の中の鼠”にして、これを殲滅できる様にしていたのである。
「伊勢ー信濃シンジケート」と他のシンジケートとの「経済力」を使った連携であった。
更には、「神明社」の信心する周囲の民の”「氏子衆」”もがこれを補完的に護ったのである。

要するに、不用意に入り込めば、どこから攻めて来るのか、誰が敵なのかは分らない「見えない敵」との「ゲリラ戦」と成る。
つまり、ここに入れば”袋の中の鼠”に成るよと云う認識が「青木氏の抑止力」と成って、殺傷力を使わずして入り口で留めるものであった。
これは、上記の数式の認識が、「悠久の歴史」の中で培われていたのであって、それが社会全体にも浸透していたのである。
その代名詞が、”御師様”であって、”氏上様”の呼称で呼ばれていたのである。
全国に、”500社にも及ぶ神明社”の「青木氏の神職」は、”御師様”と呼ばれていて、室町期の資料からも読み取れる事として次ぎの様な役目を持っていた。
それは、次ぎの事柄が書かれている。

1 「情報能力」     政治、経済、軍事の領域までもの「情報収集」の内容であった。
2 「医術能力」     当時の医術の「漢方医の知識」を持ち合わせていた。
3 「薬師」        当然に、2に付随して「漢方薬」の「薬師の役」も担っていた。
4 「歴史学」      1の事から氏の菩提寺とも伴って情報がまとめられて過去の「歴史収集源」であった。 

全国の主要地に存在する「神明社の情報連絡網」が相互間に出来上がっていて、氏子などの活躍もあって、相当な情報収集能力を持っていた事が伺える。
更には、これには、3の事が大きく働いていて、全国に氏子と共に、「薬草の捜索や収集」で全国を探索した事が書かれている。
この時に、得られた情報を「神明社」に集めていたと観られる。
その「御師の副業」として、「薬師」として「薬」を手広く販売していた事も書かれている。
この「薬師の役割」は、その1の「情報収集力」も含めて、「青木氏の二足の草鞋策」の「商い」に大きく貢献していたのである。
当時、未だ医療組織が出来ていない社会の中では、「薬師の役目」は「薬」のみならず、当時の「医術の担い手」でもあったのである。
当然に、これらを4つを一つにまとめ上げて整理すれば、「歴史学」は生まれる。
江戸時代は識字率は低かったが、江戸の寺子屋と同じく、室町期から寺と共に社殿を使っての氏子等の教育にも関わっていたのである。
一種のコミニュケイションの場の役目も果たしていたのである。
中でも「薬師の役目」は、1、2、4と共に大きかった事が多くの資料に観られる。
即ち、「御師」は「薬師」とも云える活躍であったのであろう。
これは「青木氏の神職」より多くの医師が生まれた所以でもある。

筆者は、次の様に考えている。
社会組織が未だ未完成な古代の時代には、誰がこの役目を担っていたのであろうか。
間違いなく「伊勢神宮」から発祥した「御師」にあって、その「呼称の根源」はここにあったと考えている。
故に、「御」であって、「師」であったのではないかと観ている。
そもそも、「伊勢青木氏」の「御師頭」から観ても、「伊勢神宮」の「自然神」から来る「鬼道」-「神道」は、そもそも「神の職」のみならず、この「4つの役目」も担っていたと観ている。
「巫女の占い」を始めとして「五穀豊穣」と、「命を有り様」(家内安全)を占いと祈願する行為は、2と3に関わる事でもある。
それらを維持する「情報と識力」(1と4)を高めてこそ、2と3は生きて来る。
元よりこの「4つの役目」を当初からその呼称の根源は来ていて、その「4つの役目」を担っていたと考えている。
故に、それを「伊勢神宮」の「皇祖神」の役目のみならず、”「子神」”の「祖先神=神明社」にもその役目を担わしたのであろう。
恣意的に「神明社」が、この「4つの役目」を突然に持ったと云う事より、元より、「神明社の主務」であったのである。
「神明社」が、1、2、3、4の力を持てば、上記した数式論は、自然発生的に起こるは常道である。
民衆から、「青木氏」を「御師様」や「氏上様」と呼称され、崇め慕われる立場にあったのは、この事に依る。
「祖先神」+「神明社」=「4つの役目」
依って以上の数式は充分には頷ける。

「皇族賜姓族」で「3つの発祥源」の氏が、公然と武力を使う事は出来ない。
その事からすると、1から4の役目を担う事で、「神明社」のみならず周囲からの防御が働き自然的に「抑止力」は働く。
よくも考えたものだと思われる。故に、「神明社」は氏の守護神」であり「匿う場所」のみならず「安全の限界点」であった。
この様に「神明社」は、”神を祭祀する形式的な場所”のなみならず、”実質的な護りの場所”であったのである。

従って、故意的に「越前福井」に「守護神の神明社」を多く集めたのである。
その相互間で連携をすることが必要であった。
「越前福井」に限らず、「隣国2国」と、この前提にある全国の500社ある「神明社の緊密な連携」と成ろう。

その最も分布させている地域が、「富山ー石川ー福井」の日本海の沿岸上にあった事に成る。

当然に、この”「3つの地域の子孫力」がどの様であったのか”が問題になる。
ここには世話をする「神明社の神職」(青木氏)や、逃避地した一族の統一した「菩提寺の住職」(青木氏)もあったので、「商いなどの指導をする者」も必ず定住していた事に成る。
それを実行する「子孫力」は少なくとも「パラメータの1」は必要であろう。
それが「富山1」「石川2」「福井1」と成っている。
この「3つの地域」には、平均的な全く妥当な「パラメータ 4」が得られている。
この「越前福井」に逃避した「青木氏」は、全て「商い」をしていた事が判っている。
「賜姓族の武家」ではなく「商人」を選んでいた。「子孫力」と云うよりは「生きる為」であった。
ここには意味があった。
「伊勢ー信濃の古代和紙の殖産と販売」(末期には総合産業)が背景にあった。
従って、「子孫力」を高めて「子孫拡大」に至るまでの勢いは無かった筈で目的でも無かった。
この事から、パラーメータは「平均の4」を決して超えるものでは無かった事に成る。
故に、「富山1ー石川2ー福井1」と成り得ているのである。
上記の「1、2、3、4の神明社の護り」が在ったからこそ「バラメータ 4」で済んだのである。
それだけに、ここ「越前福井」では、「三つの条件」や「時代性」の影響を受けずに、「自然な子孫力」を保った事が判る。
それの割には「家紋分析論」や「守護神論」から観て、「伝統」の「家紋」と云う点では、「虚偽家紋」などはここには少ない。

これには、「二つの条件」があった。
他の賜姓族の「厳しい戒律や伝統」に縛られた「賜姓族の子孫力」では無かったのである。

「石川の2」は、福井の北域の越前よりに拠点があった事から、その後の分布は石川よりに成った。
後の「加賀」と「越前」と「美濃」と「飛騨」の「四国の国境」に分布していた。

「富山の1」は、「岐阜と富山と信濃と新潟」の「3つの国境」の三角体は「足利氏系青木氏の定住地」であった。
その定住地の岐阜の国境沿いに分布していた。要するに、越中ー飛騨の国境である。

「福井の1」は、越前と美濃の国境の美濃側に国境沿いがへこんだ地帯に沿って分布していた。
要するに、この「3つの定住地」は”「北陸道」の国境沿いに繋がって一線条”にあった。

以上3国は、極めて「機動的な位置」を確保していた事に成る。

上記の「匿う場所」を補完する”うーん”と唸る程の「理想的な分布域」と成っていた。

この地域の「青木氏」の「子孫拡大」は、兎も角としても「子孫力」を現在まで維持し続けられた事は、この「地形の好条件」から「商い」をベースとしている限り頷ける。
又、”「商い」でなくてはならなかったのではないか”と考えられる。
それは、「賜姓族」として集中していれば、また”政治的に利用される危険性”があった。
下手をすれば滅亡と成り得た筈である。現実に、豊臣秀吉に利用された史実がある。
従って、「商い」を中心に据える限りは声高に子孫拡大の策は採り得ない。
それは、「個人」ではなく一つの「集団」としての「掟」であった。
それを「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」が、「商い」と「神明社」を通じて統制していた事に成る。
依って、”「子孫拡大」”と云うよりは、”維持した”と考えられ、「パラメータ4」を超さない範囲で維持していた事に成る。
「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」等が、持っていた「慣習仕来り掟」と云う戒律は、適用しなかったと考えられる。
その最たるものとしての「血縁」は、”本家筋を除いて適用せずに「青木氏」外に子孫を横に広げて ”「拡大」ではなく「維持」としたのである。
これは「商人」と云う事であったからこそ出来得た事である。
元来、「青木氏」では「家紋」とするものは「象徴紋」としての考え方であった。
この「3つの地域」の「青木氏」には、「笹竜胆紋」以外の青木氏は極めて少ないのはこの事から来ている。

恐らくは、継承する家紋があったとすると、それは「商標」として扱われていたことが判る。
この地域では、恣意的に「笹竜胆紋」は表には出ずに「総紋」としての扱いであった事が伺える。
秀吉の家臣と成って家康に除封された青木伊豆守と青木伊賀守の福井での青木氏末裔は、現在も「笹竜胆紋」を継承しているが、「本家の総紋」としている事でも判る。


・> 青木氏の分布と子孫力
>
> [地域別分布力]
> 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> 地域      異変の県        分布力
> 九州地方   長崎、大分       5%
> 四国地方   高知           2.5% 
> 中国地方   山口、岡山       2.5%
> 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
> 東北地方   秋田           7%
> 中部地方                 15%
> 関東地方                 45%
> 北海道・沖縄               6%
> その他                   3%
>
> 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> 九州地方  1.3
> 四国地方  1.3
> 中国地方  1.3
> 関西地方  4.7
> 中部地方  4.3
> 関東地方  11.3
> 東北地方  2.0
> その他   11.0

> 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
>
> 修正地域(表ー3)
> 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1-7 三重 12 福井 4 愛知 13-7
> 秋田 1
>
> 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> 福岡  2      山口  0   愛媛  3     兵庫   3    三重  1
> 長崎  0      島根  2   香川  1     大阪  14    石川  2
> 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都   5    福井  1
> 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良   1    岐阜  3
> 熊本  4                        和歌山 4     愛知  13   
> 宮崎  2                        滋賀   1    長野  9
> 鹿児島 1                                   山梨  1

> 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        

> 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
> 静岡   5   青森  1      沖縄   1
> 神奈川 21   山形  2      北海道 11
> 東京  18    岩手  1
> 埼玉  17    新潟  4
> 群馬   6   秋田  0
> 千葉  11   福島  4
> 茨木   4   宮城  2
> 栃木   8                                     

> 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  

>  青木氏の分布と子孫力-10に続く。



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青木氏の分布と子孫力-8

[No.312] Re:青木氏の分布と子孫力-8
投稿者:takao 投稿日:2014/05/07(Wed) 16:25:40


青木氏の分布と子孫力-8

・「讃岐青木氏」
さて、ここからは改めて歴史論をお読み頂くとする。
話を中国地方の「讃岐青木氏」に戻す。もう少し「讃岐青木氏」を考察する必要がある。
従って、中国地方のパラメータは、次ぎの通りである。

「讃岐青木氏」=「島根2+広島3+岡山0ー1」=5-6である。

(移動と入植定住は入れない)
(本来、秀郷一門には、赴任による定住はあるが、各地域の単純移動の定住は原則ない)

「陸奥青木氏」は、室町末期に「結城陸奥永嶋氏」と合力して、「秀吉と戦い」で敗戦して北海道に移動逃亡した。
「伊勢秀郷流青木氏」も陸奥で合力し敗戦した。
この「陸奥青木氏」と共に、越後域からも「越後青木氏」が明治期に入植移動した。

「瀬戸内の讃岐秀郷流青木氏」以外に入植定住したとする記録には、次の記録が観られる。
1 「信濃青木氏の神職(:明治期)」
2 「陸奥青木氏(秋田 青森: 室町末期 明治期)」
3 「越後秀郷流青木氏(明治期)」
4 「甲斐の武田氏系青木氏(花菱紋と抱き角紋: 越後移動 明治期)」
5 「越後の諏訪族青木氏(抱き角紋 :室町末期 明治期」
以上は「家紋分析」からも納得できる。

そもそも、「陸奥青木氏」は、「陸奥結城永嶋氏」が滅んだ「天正17年」と「明治期」にも入植定住した。
この五家の「明治期の入植定住」が、記録と家紋分析論と守護神論の調査で判るが、現在までとしてその期間は”150年”に成る。

上記の「子孫拡大」は、最速で150/90年、で約1.5倍と成る。 

「讃岐青木氏」は、パラメータの「埼玉武蔵の17の子孫力」と同じ程度の「子孫力」を持っている筈である。
これを基準に、この「瀬戸内からの子孫拡大」(讃岐青木氏)の「パラメータが8」として吟味して観ると、次ぎの様なパラメータが出る。

(但し、”「子孫力」”は拡大して行く力を除いたもので「静の定義」、”「子孫拡大力」”は推し進める力として「動の定義」として区別して使う。)

1-「長野 9」の内の「神職の子孫力」は、パラメータとしては1に満たない。

「神職」と云う職業柄で、その為に大きく「子孫拡大」を図れない職業に起因する。
一応、パラメータは0ではないので・ 0.3とする。(家紋分析数の比)

2-「秋田 0」である事からパラメータを持たないが、少なくとも歴史上記録がある事から0ではないので、これも・ 0.2とする。

問題のパラメータ0域の「秋田」は、少なくとも天正期までその子孫を保っていた事から完全滅亡ではない。
少なくとも 「越後4」や「福島4」 に匹敵する以上の「子孫力」を持っていた。
或は、「山形2」や「宮城2」 の2倍から3倍に匹敵する「子孫力」を元来持っていた。
この事からは、「家紋分析数の比」からも明治期までには、その「子孫力」は持っていた。
天正期に滅んだ事に依って、確かに「子孫力」は明らかに低下している事は否めない。
しかし、決して0域ではない。

3-「越後 4」ではあるが、この4には、武田氏滅亡時の「武田氏系 諏訪族系の2氏」の分も含む事から得られる。

逃亡域には、神奈川・横浜域の逃亡と新潟域の逃亡と土佐行の逃亡がある。
この新潟の越後域にはこの2氏が逃亡した。
この事からは、「家紋分析数の比」から1/8なのでパラメータは凡そ・ 0.5と見込む。


4-「甲斐青木氏」は越後に定住後に明治期に移動している。

甲斐の「子孫力」が、「越後の青木氏」(家紋分析数の比)から1/5として、・ 0.2と見込む。
(逃亡外としては、「埼玉の鉢形」と「武蔵の八王子」に、「武田氏の皇族青木氏」の強制疎開がある。)
この事からは、「家紋分析数の比」から1/8なのでパラメータは凡そ・ 0.5と見込む。

5-「信濃の賜姓族の諏訪族青木氏」が、武田氏滅亡で巻き込まれて越後に逃亡した。

その後に室町末期と明治期に入植移動した。
以上は史実であるが、「家紋分析数の比」から観て小規模でパラメータに出ない程度で・0.01とする。

これで1から5の総計は、パラメータは1.7である。

これに仮に年数を比例的に観て、上記最速で 「150/90年」、で約1.5倍の「倍数1.5」を乗じるとパラメータは2.5と成る。

そこで、「北海道の11」 「讃岐青木氏の7」である。
計算して11-7=4の内、2.5を占める。
そうすると、4-2.5=1.5のパラメータが残る。

北海道の「パラメータの11」の内の「1.5のパラメータ」の分が残る事に成る。

さて、この1.5は何なのかである。この余りとも観られる1.5を検証する必要がある。

「北海道の残1.5の吟味」
さて、「北海道の入植移動」を更に考察する。
「パラメータの11」の内、明治期までに入植移動した「青木氏のパラメータ分」を加算して評価する。
そうすると、「パラメータの11」に満たない事が判る。

そこで残ったこの「パラメータの1.5」をどの様に評価するかである。
これは無視できる範囲ではない。
家紋分析論や守護神論やルーツ掲示板のお便りなどのいろいろな記録を調査した。
するとこの過程でこのパラメータを説明出来る答えが出た。

その答えは次ぎの通りである。
上記のこの様な変化が、「讃岐青木氏の子孫拡大」に影響を与えたのは「室町末期 江戸末期 明治期」の3期となる。
ところが、実は、「前段-7」で論じた様に、・「昭和期の20年代」にも大きく「子孫力」を阻害した事が起こっている事が判った。

(讃岐ー弘前ー松前)
つまり、「讃岐青木氏」の昭和20年代の「三つの条件」の内の「経済的背景」が崩壊したのである。
この原因は、「戦後の混乱」による”古い体質の廻船業の衰退”であった。
その内なる原因には、古来より、ここには、「讃岐藤氏」と呼ばれて、発祥期より「藤原氏北家一族」とは一線を画くしていた。
そして、”「讃岐藤氏」”として呼称される様に、独立して存在し続けて来た。
しかし、「社会の新風」を素直に受け入れる良い体質の「独立性」ならば良いが、この「排他的な独立性」が弊害して、「社会の新風」を拒んだのである。
戦後の大きな変化の ”うねり” に「体質改善」が遅れて対応する能力を失っていたのである。
これは、”悠久の歴史”を持つ全ての「賜姓族」に取って起こり得る体質でもある。
その「独立性」を頑なに保った事も原因していて、「戦後の子孫力」に大きな影響を与えた可能性がある。
それ故に、「経済的背景」の消滅によって、第二次大戦後には、「政治的背景」と「軍事的背景」をも無くした。
三つ要件を急激に失ったのである。漸次の変化ならばいざ知らず、余りにも急激な変化であった為に殆ど絶える事は出来なかったのである。
外なる原因として、この戦後の「経済構造の変化」は、”過去の「造船力の発展」”から、”昭和の「鉄道の発達」”に変わったのである。
その為に、「造船力の発展」に主軸を置いた廻船業の事業は、急激に傾き、更には衰退した上に、その結果、「子孫力の根底」さえも無くしたのである。

古来より江戸期まで「独立性」を「伝統」として、それを前面に歴史的に押し出していた事から、経済的悪化を来したのである。
氏の「独立性」を強調するあまり、「支援する背景」(藤原北家一門)をも遠ざかり無くした事から、急激に元からの「存立基盤」を失ったのである。
歴史上には、常時に出て来る「瀬戸内の経済力」を背景としていたが、それが故に、脆くも崩れたのである。
最早、”瀬戸内を制するものは国を制する”の神話は、脆くも戦後には体制が変わった事から崩れ去ったのである。
この時には、記録からも明らかに北海道に入植している。
況や、”蝦夷を制する者は国を制する。”の神話に変化したのである
それが故に、”瀬戸内族”であった為に、今度は ”蝦夷”を求めたのである。
つまり、これが、一攫値千金の、”蝦夷を制する者は国を制する。”に値する「1.5」であって、この時の「入植移動」の1.5のパラメータである。

注釈
同じ環境にあった「伊勢青木氏」も出火消失に成る明治35年まではその子孫力は維持されていた。
この調子で行けば、「基本の商い」は「紙と殖産」であるが故に、昭和まで充分に存続していた筈である。
その意味からすると、「讃岐青木氏」も時代変革の起こり始めた昭和初期頃までは廻船業も充分な存続が可能であったと考えられる。
ただ、近代化の「産業革命の波」が押し寄せていた事は否めない。
「讃岐青木氏の船」は、その意味で「伊勢青木氏の紙」と異なり、影響を大きく受けていた筈である。
恐らくは、この”20年間”の大波に、「体質改善」が遅れたと観ている。

「紙」は1500年来、何時の世も”革命や文化の発達”に欠かせないものとして位置づけられて来た。
「室町文化」、「元禄文化」の時も「巨万の富」を獲得した。その分、「子孫力」を伸ばして来た。
しかし、現在、「PC」成る物が「紙」に取って代わろうとしている。
恐らくは、ここで、「伊勢青木氏」も、「廻船業」は「産業の革命」には弱い事が在ったにせよ「讃岐青木氏」と同じ事が起こっていた筈である。
下記に論じるが、「伊勢青木氏の子孫力」も、「平成」(筆者の代)では、極度に低下していたと考えられる。

この「戦後移動」の「1.5のパラメータ」には、上記した様に、「陸奥青木氏」の中の「弘前ー松前の讃岐青木氏」の「入植の分」も入っていると観ている。
これが「1.5」の内の「0.5のパラメータ」程度であろう。
「家紋分析数の比」から観ても、明らかに「讃岐青木氏」の関西域に分布する「下り藤紋に雁金紋」が陸奥と北海道にも分布している証拠でもある。

故に、「北海道のパラメータ11」は、この「戦後」の「讃岐青木氏」の「入植移動」の「パラメータの1.5」で完済する。

これだけに「陸奥と北海道」に移動定住すれば、「香川と岡山」のパラメータは、当然に上がらないのは当然である。
逆にその分、「北海道のパラメータ」は上がる事に成る。
依って、「北海道の入植移動」の「パラメータ11」は、「讃岐青木氏関係比は75%台」が占める事に成ったのである。

「北海道の開拓」は、この上記した論調面から観てみると、「讃岐青木氏」即ち、「瀬戸内族」に成し遂げられたと云っても過言では無い。
「青木氏に関係する家紋数」から観ても、かなりの率(60%程度)である事は否めず、大半を占めている事が頷ける。

(広島の3は「弘前ー松前藩の移動」には組した記録は現在も見つからない。)

つまり、題して、”「讃岐青木氏の北海道大移動」”と云う事に成る。

結局、「讃岐青木氏」の子孫力の総計のパラメータは、結局、上記の13に、この北海道の余り分の1.5を加えると14.5と成る。

「讃岐青木氏」=14.5/ 「武蔵青木氏」=17
以上の様に比較すれば、充分に納得できる。


・「鳥取」
ところで、「鳥取のパラメータ」は「讃岐青木氏のデータ」では無い。
一見して、その「讃岐青木氏の活動範囲」から、「鳥取」はその様に観える。
しかし、中国地方の「鳥取」は、上記した様に、「足利氏系青木氏の逃避地」で、「米子、八頭」に定住したもので「讃岐青木氏」とは異なる。
「鳥取の青木氏」はその歴史性と地理性から観て、「地味」である。逃避に依る移動定住であるからだ。
この「鳥取のパラメータ」はその経緯から納得出来る。

その後、ある程度の勢力を得て、西の宍道湖際の東側まで、無戦でじわじわと「子孫拡大」をさせている。
日本海側に沿って東から西域に「子孫拡大」を図っている。
北から南域への「子孫拡大」は、間に中国山脈もあり、山越えはその「子孫力」から難しかったのであろう。
「先制的な武力」に頼らない「米子の青木氏」に取っては、戦略的に、「平野部」の山間部を開墾しながら西に進んだ。
同時に、それに沿って伸びている「海岸線」に、その「子孫力」を伸ばす方が、身の丈に合った生き方であった。
「平野部海岸線」ともなれば、他の豪族との摩擦が生じる。
ところが、「武力」を使わなく、「村主」の「米子青木氏」に取っては、唯一「子孫力」を拡げる方法がある。
それは、沿岸部に存在する土豪との「血縁関係」を結びながら、その「子孫力」を拡大させる事が「最高の戦略」である。
それには、「青木氏」と云う「ステイタス」が大きく働いたと考える。
その証拠に、「家紋分析」などからも判るが、宍道湖手前でピッタとその「子孫拡大」を止めている。
それには、二つの理由があった。
一つは、宍道湖西域には、「讃岐青木氏」が、その廻船業と殖産業の勢いを以って伸長してきている事。
二つは、宍道湖西域は、「出雲族の豪族集団」が「亀甲族連合体」を作り、古来より他勢をブロックする排他的な壁を構築していた事。
この”二つを押し崩す力”は、その「村主としての生き様」から全く無かった。
では、何故、「讃岐青木氏」が伸長できたのかの疑問であるが、それははっきりしている。
この「亀甲族との血縁」を成し得ているのである。
「亀甲族側の連合体」にとって、排他的壁を護る上で、瀬戸内を制する「軍事力と経済力」は、この上ない防衛同盟戦略である。
一種の「血縁同盟」を結んだ事に成る。「讃岐青木氏」にとっても廻船、殖産、子孫拡大、防衛力にしても実に得策である。
これは「米子青木氏」の「村主」では成し得ない事であった。
依って、この「村主」としての「生き様」から観ると、「パラメータの2」は納得できる。

この「鳥取」は、”逃避に依る移動定住”では、「土佐」と同じである。
しかし、「高知の土佐青木氏」の逃亡では、「武田氏の滅亡」による原因である。
確かに、よく似た「逃亡の経緯」として見込まれる。
そもそも、「長野の信濃青木氏」には、”藤原秀郷一門との本家争い”で「秀郷一門」が「後押しをした事件」に巻き込まれた事件が原因していた。

その経緯として、その「分家筋」が「本家筋の跡目」を乗っ取ろうとして、古くから居た「本家足利氏」を、分家と成る「秀郷流の跡目血縁」の家を本家とした事から起こる。
その「後押し」したのが秀郷一門の宗家であり、その目的は「本家」としての「発言力」を持ち「信濃の支配」を目論んだ。
結局、戦いの結果、秀郷一門の血筋の無い、従来より土地にいた「本家の足利氏」が敗退して、これに一部同調した「賜姓族の信濃青木氏」が「越前福井」に逃亡した。
「本家足利氏」と共に、この時に「護衛」を名目として同行した。
その縁で、「福井越前」の「皇族賜姓族」の「奈良期からの逃避地」に逃亡したが、相手も同じ「皇族賜姓族」であった為に「不入不倫の権」の例外と成った。
そして、同族の強い追跡を受けて、結局、日本海沿岸部を経由して鳥取の東にやっと辿り着いた。
ここで「山岳部の未開地の開墾」をして生き延びた。
その後、宍道湖の東端まで「子孫拡大」を無戦で単純に果たした。

この「信濃青木氏」の一部は、福井越前から結局は、「信濃足利氏の護衛同行」を続ける事を決めた。
当然に、この逃避行で「三つの条件」の全てを失っていた。
しかし、ここで米子の「地元の豪族」の援助を受けて「信濃足利氏」に代わって、「信濃青木氏」が主導したのである。

本来は、「福井越前の逃避地」までの「護衛同行」であったが、この「護衛同行の青木氏」は「青木村」を形成した。
そして、地域の人から崇められて、”「村主」(すぐり)”として争いを避けて生き延びた。
その「先制的な武力」の持たない”「村主」”として、この地域をリードして、宍道湖まで沿岸沿いの山岳部の開墾と血縁で生き延びた。

これはむしろ、土佐の「武力を背景とした生き様」よりも、前段でも論じたが、「日向青木氏の経緯」と類似する。
ここで「青木村」を形成して「村主」として伝統を守り、「普通の農民・郷氏」として生き延びた。

「傭兵」で「生活の糧」を確保して、海と山岳部の開墾での「子孫存続と拡大」を図り、郷士に成った「宮崎の日向青木氏」が一方であった。
「讃岐青木氏」の背景を基に武力で勢力図を広めた甲斐の「土佐青木氏」とがあった。
これには大きな「子孫力」の違いがあった。

「村主」として単純に当面の「生活の糧」は得られたとしても勢いをつける力はそもそも無かった。
その中で、「子孫存続と拡大」を図った「鳥取の米子青木氏」であった。
しかし、「日向青木氏」と「因幡青木氏」の、この「二つの青木氏」には「伝統」は保たれていた。
本来であれば、「土佐青木氏」の様に「武力的背景」に主軸を置く事を「生き様」とすれば、その「権威の伝統の継承」は積極的に求める筈である。
しかし、その「伝統」が消えている。
況や、「伝統の継承」とは、「武力的背景の権威の継承」だけでは遺し得ない事が判る。
これは ”「動の定義」による子孫力”と、”「静の定義」による子孫力”とでは、明らかに「静の定義の子孫力」が「伝統」を維持させ、継承させるものであると考えられる。
その意味で、”世に晒す事無かれ 何れ一利無し。 世に憚る事無かれ、何れ一利無し。” の「2つの血縁賜姓青木氏」の「戒律」は正しかった事が云える。
その「代表的な青木氏」は、総合的に観た「伝統」を継承しているのは、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の融合族の「伊豆の青木氏」ではないかと観られる。
次ぎに、厳しい戦乱の中で「村主」として生き延びて来た「米子青木氏」ではないかと考えられる。
それは、「米子の青木氏」(因幡青木氏)には、「家紋分析」で、「象徴紋の笹竜胆の家紋」が維持されている事が確認できる。
これはあらゆる「悠久の伝統」が、ある程度の面で総合的に伝承されていた事を示すからである。

ここは、次ぎの豪族が治めていた。
戦国時代、
因幡の国には、山名氏、亀井氏、草刈氏の3氏
伯耆の国には、庄氏、南条氏の2氏

江戸時代
因幡の国には、池田氏の3藩

この藩に家臣として仕官しているかの調査と「家紋分析」とをした。
戦国時代には、「米子青木氏」(信濃青木氏の賜姓族系足利氏系青木氏)は5氏の家臣に観られなかった。
江戸時代には、「池田氏」は平家末裔である。青木氏はあったが、「家紋分析」から「米子青木氏」のものは無かった。
この青木氏は、どの青木氏かは判らないが、秀郷流青木氏の家紋の類似紋を持っていた。

この事から、矢張り、郷氏の「村主」として勤めた事が判る。

鳥取(因幡と伯耆)には、「子孫存続」の「三つの条件」が全く認められない範囲である事から、鳥取の「平均の4」のパラメータが得られない事は理解できる。
「鳥取青木氏」は、その意味で「青木氏伝統」の「堅実型の子孫力」と云える。

その”「経緯」と「村主」” としての「子孫力・生存力」から、鳥取の「パラメータは2」は納得出来る。

下記に論じる「伊勢青木氏」もこの「堅実型の子孫力」を護って来た。
むしろ、「子孫」そのものの「遺伝子」がその様に成ってしまっている。
明らかに先々代までの「同族血縁の影響」を引き継いだか、突然変異の型の「血液型AB」で、筆者の代までそれで引き継いでいる事でも判る。

(血液型ABは、3代前までにO型が存在すると、「隔世遺伝」に依りA型、B型に分離する事が起こる。
如何に便利な血液型でもあり、況や、「堅実型の子孫力」を示している。他の親族を調べると矢張り、この現象が起こしているし、現実に筆者の3人の子孫にこの現象を起こしている。)
その伊勢に付いて次ぎに論じる。


・「三重 和歌山」
さて、「2つの血縁賜姓族青木氏」の中心的存在と成った「関西域」、取り分け、「伊勢域」の「青木氏」に付いて論じる。
「伊勢域」とは、古来より、「奈良の都」の東に隣接する伊勢国と、西域に隣接する紀州国を以て伊勢域と呼ばれていた。

「奈良期の大和朝廷」の前の「ヤマト政権」の頃には、「五大豪族の連合体」で治められていた。
その内、「紀州」の豪族には、 奈良盆地の「猿沢の池」を中心にそれを源泉として流れる大和川域に存在した。
この「東南部の三輪山麓一帯」に次の様な五大豪族が勢力を張っていた。

「紀氏」   現在の和歌山県の西部域 西海側域
「巨勢氏」  現在の和歌山県の北部域 東山側域
以上2氏が存在した。

「葛城氏」 和歌山県と大阪府の南部河内域 南平野側域
以下の大阪域との中間に位置していた。

「平群氏」 
「物部氏」
以上2氏が大阪府の南部の大和川沿域
以上が五氏が奈良域ー和歌山側ー大阪南部と東部域に存在した。

現在の「奈良」とは違い、古来の奈良盆地は、「猿沢の池」は広大で、周囲山岳部の1/2は「広大な湖」で、そこから流れる大和川域にこれらの豪族が存在し、「連合国家」を作っていた。
その為に、奈良期に入っても、「伊勢域」とは、未だ以上の2氏が存在した名残から「紀州域」までを以って呼ばれていた。
現に、「伊勢路」とは、太湖に沿っての紀伊山脈の「山岳道」であった為に、そもそも「紀州熊野域」までの領域を「伊勢路」と呼ばれている。

参考
紀州の2氏の末裔は現存し、地名も残っている。
奈良盆地の太湖は地盤沈下で次第にひえ上がり、現在の「猿沢の池」のところの底まで曳けた。
この為に、「地形と地名」が混乱して変化してしまったのである。

奈良期の大化期に発祥した時期には、現在の「伊勢」のみならず「紀州域」までを以て「”伊勢”の範疇」として考えられていた。
故に、「青木氏の守護神神明社」で論じた様に、「伊勢ー紀州」域には、「伊勢神宮」の「90社」にも及ぶ「遷宮社」の内、この域では41社があり最も多いのである。
「日本書紀」の記述にも、”「吉野」”をも含んだものとしての”伊勢”の表現があり、”神域の行動範囲”は、この様に広域に捉えられていた。
従って、歴史を正しく考える場合は、「行政区分の伊勢域」と、「神域範囲の”伊勢域”」とは区別して考える必要がある。
「分布と子孫力の領域」は、この「神域範囲の伊勢域」を考える事が必須の条件である。
この様な事は、他にもあり、”陸奥域”や”武蔵域”や”近江域”なども、「行政区分の領域」とは異なっている。

これは、「国の括り」とは別に、古来は、”意識(神域)”の中の「”伊勢”の範疇」であった事を示すものであった。
故に、”「伊勢」”を正しく論じる場合は、”行政区分を外す事”が必要である。
依って、「紀州」を外して論じる事は出来ないのである。
中でも、「紀州」は、「地形の変化」と「伊勢の神域」と「大和の政権」が大きく影響している為に、例外中の例外扱いと成る。

関西地域では、「三重」と「和歌山」は、「伝統の国」と云われている様に、ここに問題がある。
この二つには、大きく連動している史実があるので、同時に論じる事が必要なのである。
故に、「伊勢」のみならず「奈良」を研究する場合は、「紀州」を絶対的に研究する事が必要に成る。
「伊勢時代のあらゆる面の伝統」が、未だ、この「紀州」には少なくなったとは云え、他の県に比べて多く遺されている。

ここは「伊勢ー紀州」は「筆者の地域」であり、「子孫拡大」は「伝統の国」である以上は、「パラメータ」も大きいのである。


上記で論じた様に、その「伊勢青木一族」の「経済的な根拠」になっていた「大商い」は、明治35年にて「松阪大火」(出火元)で破産した。
依って、「子孫拡大」のその根拠を一時失った。

その為に、次ぎの事が起こっている。
イ 「経済的背景」を急激に失って、大きく「子孫拡大」に至っていない事、
ロ 「子孫拡大の根拠」と成っていた歴史的な安定した血縁関係にも、明治後、消滅した事

以上の事などから、「大正ー昭和の子孫拡大」は、それ以前の「150万石から200万石」と云われた勢力が、賠償に使い極端に小さくなった。
結局、「福家・(宗家)」は「商い」から手を引き、分家に当たる「作左衛門の家」が、「摂津大阪の支店」で「紙屋」を再開した。

「三つの条件」の「経済的背景」は、「二足の草鞋策」で、「政治的背景」は「不入不倫の権」で、「軍事的背景」はシンジケートで補完されていた。
しかし、この「三つの条件」の最大の「経済的背景」(超大地主)をも失ったのである。
後の二つも明治維新での「地租改正」でも、紀州域まで含むかなりの範囲で、「絆青木氏」を含む「青木氏関係族」に引き渡し、福家(宗家)は極度に衰退した。

現在も一族一門は主に「三重」を中心に関西域の8地域に存続している。
そもそも記帳がないのはその「家柄の体質」(慎重な性質)にあると考えられる。

a 平安期から室町期初期の「初期の移動期」
b 江戸享保期と末期の「後期の移動期」

以上のこの2つには、各地の「青木氏の定住地」としての地域には大小移動定住している。
「移動定住地」は次ぎの通りである。
「大阪」に、「兵庫」に、
「愛知」に、「長野「に、
「伊豆」に、「神奈川」に
「福井」に、「新潟」に、「陸奥」に、
「東京」に、「千葉」に、「茨木」に、
(和歌山)

以上の12地域に定住移動」している。
(5家地域と神職関係と小移動は除く。 「伊勢秀郷流青木氏」は除く。)

この各地の「子孫拡大」に大小はあるが、その中でも、「移動定住」で、大きく「子孫拡大」した「伊豆青木氏」は特別である。
一国以上の定住地である。

ここ「伊豆の青木氏」は、「伊勢青木氏と信濃青木氏」の「融合族」で、「青木村」全体で「笹竜胆紋」を現在でも護っている。
ここは、「清和源氏の摂津源氏」 「宗家頼光」の「四家の長老」4代目正三位頼政の領国である。
この「頼政」の孫の「京綱」は、「伊勢青木氏の跡目」に入ったのだが、それまでに、同族としての「男系女系の血縁」を含む「親族的な付き合い」が高かった。
ただ、それは、清和源氏の分家「頼信の河内源氏」との「生き様」が異なっていた為に、永来に親交は無かった。
この為に、「伊勢青木氏」と、「信濃青木氏」は、宗家四家の棟梁「頼政」を盛り立てた。
それが「伊豆の青木氏」なのである。
(「信濃青木氏」も伊勢青木氏と同様に「摂津源氏」との血縁親交を持ち続けたことが記録にある。)
そもそも、この「伊豆地域」は、”「青木氏の伝統国」”と呼ばれる地域でもある。
ここに行けば、現在も、上記する様な、「笹竜胆紋」のステイタスを「青木村」の全域で継承している。
「青木氏の伝統」を調べようとすれば先ずは「伊豆」である。

その証拠の最大のパラメータを持つ「神奈川の21」には、次ぎの様な、パラーメータが見込まれる。
「伊豆の4」と、「東京の18」には「2」と、「兵庫の3」には「摂津の1」としての「伊勢青木氏のパラメータ 7」が合わせて見込まれる。

筆者の福家・(宗家)は、その後、子孫を拡大させて各地に大きく分布している。
数字的には、極めて深い親交のあった長野の「信濃青木氏」の「パラメータが9」とすると、明治期まで「不入不倫の権」で守られて来た。
このことから、「三重」は少なくとも「平均の4」以上の ”7” には相当していると観られる。
次ぎの事で、「伊勢青木氏」は、少なくとも、実質「パラメータ 7」以上である事が判る。

ところが、上記する「伊勢域」の、この「三重」に隣接する和歌山には、「パラメータが4」と成っている。
ここには、本来は、何れの青木氏も歴史的に定住地ではない。
しかし、定住地論ではないが、”「青木」”と云う地名が、”和歌山有田郡”に存在する。
ここには、平安末期に、確かに「藤原氏」が守護として赴任している。
しかし、この「藤原氏」は「脩行系の藤原氏」で、「秀郷流青木氏」とは無関係である。

この「藤原氏」が赴任移動した地域は、有田郡の”「明恵」”と云う地名に成っている。
”「藤原明恵」の赴任先末孫だ”と云う一族がこの「明恵」地域に住んでいる。(家紋が疑問)
そこから離れた地域に、「青木」と云う地名があるが、ここには歴史的に村の形成は無い。
恐らくは、明治期初期に地名として、「第3の青木氏」の「青木村」が多く作られたが、その時に名づけられたものである。
周囲に、最早、その「第3の青木氏」は全く存在しない。
ところが、上記した様に、「紀州」は「神域の伊勢域」であった。
この事から、長い歴史の中で「伊勢青木氏」は”「紀州」”の方向に「子孫拡大」で伸長して行った。

伸長の経緯
(1) 実は、この和歌山の「有田郡」には、明治初期から筆者の「伊勢青木氏」の「絆青木氏」が存在する (1)。
(2) 祖父の代に「伊勢青木氏」に所属していた「職能団」の中から、「絆青木氏」を発祥させた (2)。
   この「絆青木氏」が明治期から定住している。
   この「絆青木氏」には、(1)と(2)と、以下の「二流の青木氏」がある。
(3) 一つは、伊勢での「家臣団の絆青木氏」が伊勢青木氏倒産で和歌山に移動定住した (3)。
(4) もう一つは、「伊勢青木氏」の「職能集団の絆青木氏」も和歌山に移動定住した (4)。
   合わせて、先ず、「4つの絆青木氏」がある。

(5) この「職能集団の絆青木氏」には、更に、和歌山で祖父の代で「絆青木氏」として発祥させた元は「藤田姓(明治期の農民)」の「絆青木氏」が有田郡域に定住した (5)。
   (この藤田の「絆青木氏」は明治の終わり頃に「絆の養子縁組」を破棄した。)
(6) これと別に、「伊勢秀郷流青木氏」の一部が明治期に、和歌山ー有田域に定住移動した (6)。

(7) これに同行した職能集団が、「主家の氏名」を「明治期の苗字令」に基づき名乗った「第三の青木氏」がある (7)。
(8) 当然に、倒産時に「福家(宗家)の伊勢青木氏」は、伊勢に子供を一人残して跡を引き継がせて、福家(宗家)の「伊勢青木氏」の地の新宮と云う地域に移動した (8)。

この時、福家(宗家)以外は伊勢に残る。「三家の青木氏」が伊勢の地に残った。

現在も、この”伊勢域”の古来からの「8地域」に存続し、拡大している。

従って、和歌山には以上の「8つの青木氏」が存在する。
これらが「子孫拡大」をしていった「伊勢青木氏の経緯」である。

この全ての「青木氏」が大阪(摂津域)にも移動して子孫を現在も拡大させている。

和歌山には、従って、「パラメータ 4」が出たのである。

更に、この4の内訳は次ぎの様に成る。
「伊勢青木氏」は1、
「秀郷流青木氏」が1
女系血縁性の「絆青木氏」の1
「第三の青木氏」の1
以上がこれに相当する。

但し、祖父の代の「絆青木氏」は血縁性を持っていないので「第三の青木氏」の中に入れる。
従って、「伊勢青木氏」は次ぎの様に成る。
「伊豆の青木氏の「3」
「三重ー和歌山の青木氏の「4」
合わせて、「伊勢青木氏の子孫力」の「パラメータ」は”7”と成る。

しかし、「信濃 9」に対しては、「伊勢青木氏 7」は少なくとも9かそれ以上と成り得る。
その答えが「奈良 1」である。
この「奈良の1」は「名張の伊勢青木氏」である。

小計としては、「伊勢青木氏」は、7+1で、「パラメータ 8」と成る。

そもそも、「伊勢青木氏」は、次ぎの様に成る。

・松坂、名張、員弁、桑名、四日市
(伊勢青木氏と伊勢秀郷流青木氏と青木氏融合族)
(四日市は融合族)

・伊賀、脇坂、上田
(「2つの絆青木氏」 「職能集団」)

・玉城
(「2つの絆青木氏」 「家人集団」)
「青木氏の絆青木氏の本流筋」、

「絆青木氏」には、次ぎの2流がある。
「家人」と呼ばれる家臣に相当する一門
「職能集団」の一門

参考
「家人集団」も「職能集団」も、その本家筋は「女系の血縁関係」を構築していた。
現在の「玉城市の全域」は、明治35年以前は、「2つの絆青木氏」の住人と蔵群であった。(明治35年)
「名張」はこの「奈良の1」である。

以上から成り立っていた。

結局は、これで「伊勢青木氏」の「パラメータ 8」と成るが、これに「都会流失分」が加味される。

これに、下記の「大阪の都会移動分」を加味すれば、「パラメータ 11」以上程度と成ろう。
(「和歌山の移動分 2」ー絆、「兵庫摂津の移動分 1」ー支店が加算される。)

以上は、「賜姓族伊勢青木氏」のカウントである。
従って、殆ど親族関係にあった「伊勢秀郷流青木氏」の分が「伊勢域」の中に組み込まれている。
「皇族賜姓族5家5流の青木氏」の”古来からの定住地”に、直接、平安中期から定住しているところはこの「伊勢域」だけである。
それだけに、「伊勢秀郷流青木氏」の「特別賜姓族」は、前段-5でも論じたが、「全くの同族」なのである。

ここで、それを加味すれば、次ぎの様に成る。

「パラメータ 11」+「伊勢秀郷流青木氏分の3」=「パラメータ 14」

前段-5、6、7で論じた様に、「伊勢青木氏」のバラメータ は次ぎの様に成るだろう。

「伊勢青木氏」は、最大「パラメータ 14」と成ろう。 


上記した様に、「明治後の都会移動分」として「大阪14」と「東京18」の分の幾らかが加算される。


「大阪」には、「関西域の青木氏」の定住地から「都会移動」が明治後に起こっている。
「伊勢青木氏」が、この「大阪」にどの程度のパラメータで食い込んでいるかは判らない。
ただ、筆者の分家に相当する「伊勢青木一族」は、明治35年倒産の後、大阪に移動定住して平安期からの「和紙の問屋」を今も続けている。
これは「ルーツ掲示板」と「家紋分析」から観察する事が出来る。
何れのデータでも信頼度は、「都会」と云う事もあって、過去からの伝統的なデータが維持されていない。
裏付けるものがないので、「虚偽」のものとで渾然としていて低下する事から、正確なデータが採れない。

・「大阪の14の内訳吟味」
「大阪の14」の全てが、「集合パラメータ」である事から、関西と中国と中部域の周辺の定住地の総合が14-15である。
従って、全て「パラメータ 1」で、均等に集合したとして考えると、下記の様に、丁度14ー15と成る。
現在も「集合域」なので、「家紋分析」などではそのルーツが判らない。
又、この地域の「青木氏自身」が、その「ルーツの情報」を持ち得ていない場合が多い。
これは「移動定住の所以」であろう。

これでも、「都会の青木氏」の「ルーツの情報」は、この現象から消えるのみである。
大阪の「都会」も然ることながら、「田舎」に於いては、老化して継承出来なくなった現象が起こっているので、「ルーツ情報」は最早、まじかに消える。
仮に、遺されたとしても問題は、「正しいルーツ情報」が遺されたかとうかの問題である。
この様な状況の中では、「遺される情報」は、「慣習仕来り掟」の伴わない環境の中では正しく遺されずに湾曲されるが世の常である。


とすれば、「大阪周辺地域」の「伊勢青木氏」の場合は、周辺の「伊勢青木氏」が、関係する定住地は「3地域」と成る。
従って、「大阪の14」の内の「3」は獲得できる。

依って、「伊勢青木氏の定住地」の「パラメータとして 「14」、これに「都会移動分」を加えて、その「総合の子孫力」の「パラメータ」は14と3で「15」と成る。

結局は、「伊勢青木氏」の合計「パラメータ」 15」(実質12)である。

事ほど左様に、大阪に集まる「青木氏」は次ぎの様に成る。

「伊勢青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」を始めとして、
「香川青木氏」、「高知青木氏」、「徳島青木氏」、
「福井青木氏」、「長野青木氏」、
「愛知青木氏」、「岐阜青木氏」、
「近江青木氏」、「兵庫青木氏」、「滋賀青木氏」、「鳥取青木氏」、
その他地域の青木氏

以上の地域に、「大阪の14」が分散して「子孫力」として各地域に加算される。
全体の20%程度が大阪に集まっているのだが、上記の14地域から、1地域に「パラメータは1」を配分できる。

比較対象として、「都会」の「東京18」は「武蔵国」で「秀郷一門の定住地」であるので、「パラメータ」の持つ意味は若干異なる。
「大阪の14」は、その意味で、「伝統の継承」は、「東京の18」に比べて、関西域は、これからは低く成る事を物語る。

その事から、「伊勢青木氏」の「遺された伝統」の意味は実に大きい。


そもそも、「伝統」とは、その「伝統」を維持している「氏の思考の基準」となるものである。
「氏の思考基準から外れた考え方」はその氏は排除する。
要するに、「伝統」=「思考基準」(行動規範)である。
況して、「氏の独善の宗教」=「密教」であるとすれば、「宗教的な作法」の「伝統」は”自らの氏が決めた作法”である。
「氏の思考基準」である。
次ぎの”「青木氏だけの伝統」”は、”「青木氏の思考基準」”となる。
「青木氏」は、”この様なものの考え方をしていた”と云う事で理解するべきである。


所感(伝統 2)
筆者の「伊勢青木氏」の生活の中にも、何気なく行ってる「慣習仕来り掟」は、外から観れば、”古来のもの”と観られる。
筆者はそれを当たり前だと「無意識」に受け取っていた。
子供の頃から、”何か違うな”と思いながらも、その「無意識の感覚」が強く打ち消していた傾向があった。
今、思えば、「部屋の間取り」や「構え」や「大きさ」や「家具」や「調度品」や「装飾品」や「作法」等は確かに違う事が判る。
例えば、「達親の論文」で論じた様に、「祭祀の作法」の”「達親」”等はよく調べると、「古代慣習の継承」であったりする。
この様な事が、未だ、沢山ある筈で、「無意識」を「有意識」にして、これから「伝統」を掘り起こして行く計画である。
何せ、相当伝授されたが、その”有意識の持った人”が居なくなっている現状である。
何とか「違い差」を見つける事と認識している。

そこから検証を進めて投稿する。

後に、詳しく伝統の論文として、投稿する予定だが、「無意識」を「有意識」にして、因みに一つ簡単な例を挙げる。

祭祀で、仏様に、線香を捧げる。
この時の”「仏法作法」”が異なっていて、”「古来の密教浄土宗の作法」”が遺り継承されている事がある。

「仏説作法」
それは、先ず「仏」に向かって挨拶をする。
「数珠」は、親指に賭ける。ところが一般は親指以外の4本の手に賭ける。
そして、「粉の線香」を、先ず、一摘みして、一般では香炉に入れる。
ところが、この時、その一摘みの線香を、香炉に入れずに、「額中央」に当てる。
その後、に香炉に入れる。
これを、3度繰り返す。

これを他の宗派では日蓮宗は一度で、真宗は2度にして、額に当てずに、直ぐに香炉に入れる作法である。
ここで、重要な異なる作法が2つある。

”「親指に数珠」”を掛けるのは、「親指」の持つ意味から来ている。
この”「数珠作法」”は、他の宗派にもあり、「自然神」をも崇め、「神仏合体」で信仰する「修験道師」にも、一部作法として遺されている。
これも「古来の作法」であったと観られる。
古来は「現在の数珠のサイズ」の様では無く、現在は小さくなかった。
古来は「108の球」を連ねた「長い数珠繋ぎ」であったのです。それを両方の親指に賭ける。
そして、その「長い数珠」を両手で擦り合わせて、”「擬音」”を出す作法であった。
この”「擬音」”で、「仏への合図」とした。
これは現在では無く成って居る。
青木氏の中でも無く成って居るが、”親指に賭ける作法”だけは遺されている。
ところが次の作法では異なっている。

「作法の相違点」
A 一つは、回数が3度にする作法
B 二つは、額に当てる作法

これらには、2つの作法には、「古代密教浄土宗」のみ「本来古来の姿」が「仏説根拠」を伴って遺されている。

先に、Bに付いて、この「額に当てる」とは、何なのかである。
それは、古来より、「額中央」に、人間には、「瘤」の様に膨らんだ「複眼機能」と云うものがあった。
現在は、その機能は退化して、大脳の下に10ミリ程度の大きさで押し込まれている。
これは「前頭葉」が進化して大きく成った事により退化して、更に、存在場所が圧迫されて奥に引きこもった様に成って居る。

ここで、この「複眼機能」は、ここに「無我無心」にして「全神経」を集中させると、右脳より「ベータ波」を飛ばす事が出来る。
これは、「未来」を予見し、「過去」を悟り、「現在」を見据える事、の出来る「予知機能」を有している。
この「予知機能」を使って、「過去の人」と成った「仏」に対して、「未来」に生まれ変わってくる「仏」に対して、「現在」の世に未だ居る「仏」に対して、「信号」を送る事が出来る。
(現在、中国では、現実性を以って研究が進んでいる。「中国山岳民族」に、未だ、この「複眼機能」を有している「少数民族」がある。)
この「信号」の「ベータ波」で、「三世の仏」に対して、”「会話」をする事が出来る、”と信じられている仏説である。
この「仏との会話」は、例えば、”生前中は大変にお世話に成りました。ありがとうございます。”との事が出来るとして、この「仏説作法」が遺されているのである。

この「3度」とは、「過去、未来、現在」の「仏」に対する「三度」と成っている。
これが、「古代密教浄土宗の仏説作法」である。
これは、一概に、”迷信”では無く、実は、”生態学的に根拠のある現象”なのである。
この「複眼機能」は、現在も「動物の本能」として持っているもので、人間には退化している。
ところが、未だ、人間の元と成る「女性」には、「母性本能」の一輪として遺されている。
そして、この”「機能」”を鍛える事で、「予知能力」は高まる事が判っている。
特に、「男性」は全く働かないが、「女性」には未だ現実に持っている。
現実に、右脳から発する「ベータ波」が「母性本能」の中で高く成ることが判っている。
「女性」が子供を育てる時には、現在も、この機能の一部を使っている。

これが「古代仏説」として、その「作法」が、「三世の仏」に「話しかける手段」として、未だ「青木氏」の中で遺されているのである。
これは、「古来の仏説」では、”「仏」が死する事は、「肉体の消滅」 を意味し、「霊威」は一定期間遺る”とする「仏法」である。
従って、この遺された「霊威」に対して、上記する”「古来の仏説作法」でのみ話しかける事が出来る”とした説法である。
その”「霊威」の存在する期間”が、”「現在過去未来」の何れにか存在する”として、「3度」と成って居るのだ。
その「祭祀の目的」、例えば、「葬式」では、「現在」に存在するとして「現在」を、「法事」であれば、「過去」に存在するとして「過去」をと成る。
「常の祭祀・お勉め」では、「未来」(「仏」が生まれ変わる)に存在するとして「未来」に向かって、「仏との会話」をするとした仏説である。
一切の「祭祀の作法」として、「密教浄土宗」では、総括して「三界の3度の動作」を繰り返す作法と成っている。
これを、この「動作の回数」と「額の所作」を省いて、その「宗派の考え方」で、「過去現在未来」の何れかの「三界」に対して1度、2度とした。
これが、「顕教の浄土宗」では無く、「密教の浄土宗」の中に遺されている「密教の古来作法」の一つである。
以上の事を「根拠」とした、上記した「古来作法」なのである。

以上、「達親」に続き、「伝統」の一つを披露した。
「伊勢青木氏」等の慣習の中には、この「古代仏説の作法」を、未だ遺されたものとして、現在も引き継いでいるのである。
これらの「伝統」は、「先祖の青木氏」を正しく理解する上で、”意味のある事だ”と考えられる。


> ・> 青木氏の分布と子孫力
> >
> > [地域別分布力]
> > > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > > 地域      異変の県        分布力
> >> 九州地方   長崎、大分       5%
> >> 四国地方   高知           2.5% 
> >> 中国地方   山口、岡山       2.5%
> >> 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
> >> 東北地方   秋田           7%
> >> 中部地方                 15%
> >> 関東地方                 45%
> >> 北海道・沖縄               6%
> >> その他                   3%
> >>
> >> 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
> >> 九州地方  1.3
> >> 四国地方  1.3
> >> 中国地方  1.3
> >> 関西地方  4.7
> >> 中部地方  4.3
> >> 関東地方  11.3
> >> 東北地方  2.0
> >> その他   11.0
> >>
> >> 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
> >>
> >> 修正地域(表ー3)
> >> 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1-7 三重 12 福井 4 愛知 13-7
> >> 秋田 1
> >>
> > 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
> >> 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
> >> 福岡  2      山口  0   愛媛  3     兵庫   3    三重  1
> >> 長崎  0      島根  2   香川  1     大阪  14    石川  2
> >> 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都   5    福井  1
> >> 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良   1    岐阜  3
> >> 熊本  4                        和歌山 4     愛知  13   
> >> 宮崎  2                        滋賀   1    長野  9
> >> 鹿児島 1                                   山梨  1
> >>
> >> 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
> >
> >> 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
> >> 静岡   5   青森  1      沖縄   1
> >> 神奈川 21   山形  2      北海道 11
> >> 東京  18    岩手  1
> >> 埼玉  17    新潟  4
> >> 群馬   6   秋田  0
> >> 千葉  11   福島  4
> >> 茨木   4   宮城  2
> >> 栃木   8                                     
> >>
> >> 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  
>
>  青木氏の分布と子孫力-9に続く。
>



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青木氏の分布と子孫力-7


No.311] Re:青木氏の分布と子孫力-7
投稿者:takao 投稿日:2014/04/27(Sun) 14:24:11


> 青木氏の分布と子孫力-6末尾

> 話をもどす。
> 上記の「瀬戸内族等の蝦夷地開拓に関わる変遷の論証」は、出来たと考える。
> そこで、江戸期まで云われていた ”瀬戸内を制する者は国を制する” の言葉の通り、上記した様に「瀬戸内族」は平安期でもそうであった。
> しかし、この様に「伊勢青木氏・信濃青木氏」と共に、「瀬戸内族の生き様」、即ち「瀬戸内族の子孫力」は、「幕府内に浸透した秀郷一門の横の関係力」と連携している。
> 江戸期でも矢張り特別に重視されていたのである。
> そして、上記した様にその子孫力は「幕政改革」にも利用されたのである。
>
> 従って、「瀬戸内族」の地元の「香川1」と「岡山0」の「子孫力のパラメータ」は、この様な「背景の経緯」にあった為に、”一族存亡に成るほどに注ぎ込んだ”のである。
> 依って、その後の地元での「子孫力」や「子孫拡大力」には、当然に支障を来した事を物語るのである。
> しかし、その分、この「子孫力」で「江戸期ー明治期」までで、最低でも北海道の7/11にシフトしている事に成ったのである。
> 衰退していたのでは決して無いのである。
> 普通なら、上記した様な ”波乱に満ちた世の中の荒波”に洗われて、一族を注ぎ込んだが諸共に消えて仕舞う憂き目を受けている。
> しかし、これもこの「現世の条理」であり、普通である。




青木氏の分布と子孫力-7


・「戦後の入植」
更には、これに重ねて「昭和20年後(戦後の混乱期・経済的悪化)」にも同じことが「瀬戸内族」に起こったのである。
この「昭和の瀬戸内族の危機」でも、このパラメータに大きく影響を与えたのである。
「讃岐青木氏」には、上記した「江戸期の経験」があったからこそ、また現地にも一族を廻している。
だから、既に、「受け入れの土壌」も出来上がっている事から、「瀬戸内の廻船業」から「蝦夷地の入植と廻船」に切り換えて、再び盛り返す事を狙ったものである。

従って、逆に、北海道には、この「昭和の入植移動」でも、その分「北海道のパラメータ」(1.5分)が拡大したのである。
上記した様に、「弘前藩」の救援劇に関わった「讃岐の瀬戸内族」、とりわけ「弘前の讃岐青木氏」(陸奥の「香川の移動族」と「岡山の末裔族」)の両方とも「北海道」に入植した。
この入植には、下記した「弘前藩と松前藩の関係」(下記)が大きく影響したのである。
この「陸奥青木氏の入植」には、この「弘前の讃岐青木氏」も含まれていると観ていて、故に、「秋田の分」が「北海道」に引っ張られて、秋田は0と成っているのだ。

ところで、それまでの経緯に付いて重複するが、改めて記述すると次の様に成る。

イ 「北海道の支配権」を家康から1599年に「松前藩」に与えられて正式に認められた。
ロ この「松前藩」は家臣(瀬戸内族)を配置して交易を正式に開始した。
ハ ただ、この元々は「青森に居た松前氏」には、「蝦夷地の支配権」を家康は特別に見込んで任した。
ニ ところが、米が採れない「無石の藩」であったので、「青森の弘前藩」との間で「米の供給」をする契約が交わされていた。
ホ 最初は「1万石相当」を「弘前藩」から供給を受けていたが 次第に交易が拡大し人口が増え、「米の供給」が不足し始めた。
ヘ 享保4年には「1万人人口の都市」と成り、この「基本的な米の供給」のみならず、「10万石」が不足していた。
ト この為に、「弘前藩」に対しては、「蝦夷地の入植」と、その「海産物などの殖産貿易の権利」の優遇を図っていた。
チ この事から、他のどの藩よりも「北海道の入植とその利権」は優位にあったし、積極的に行った。
リ この為に「交易と殖産」の為の「弘前からの入植移動」は「最大の条件下」にあった。
ヌ 「松前藩」も、財政的な面から観て、「弘前藩の北海道の入植」は、”「コメの供給」の対価支払が出来、それと「継続的な供給状態」が維持出来る事の負担面で都合が良かった。
ル 「弘前藩」は、この関係から積極的に「瀬戸内族」をその経験を見込んで「家臣」としての扱いで優遇し北海道に配置した。
ヲ 「松前藩」に対しても「幕府の肝いり」もあり「瀬戸内族」には同様に家臣として扱ったのである。
ワ 記録では、「松前藩」は、江戸時代の「5大飢饉」に起こった ”「米の飢饉」の時も度々に救われた” と記されている。
カ 「松前藩」は、「弘前藩」に対して「恩義」に思っていたのである。
ヨ 「弘前藩」は、「お家騒動の体質」で苦労している事から、「経済的な背景」は「藩政安定」につながる事から、”絶対に崩せない”と云う弱みもあった。
タ その「瀬戸内族」に依って運営されていた ”「海運による海産物の交易の利」”も身に染みて知っていた。
レ この状況から、「幕府の強い意向」もあり、「瀬戸内から来ていた関係者」を全てつぎ込んだ。
ソ 上記した様に、これが「青木氏」の「歴史的な定住地」ではなかったが、これが「北海道の11」の内容の一つに成っているのである。

従って、この数字的には、「北海道」には次ぎの様に成る。
1 「信濃」から「皇族賜姓族の神職系の移動」
2 「陸奥からの秀郷一門の移動」
3 「瀬戸内族の陸奥からの移動」
以上の3件の室町期末期の記録がある。

この事があるので、全国平均の4のパラメータから観ると次の様に成る。

「讃岐青木氏」(瀬戸内族)としての「実質の子孫力」は次ぎの様に成る。、
北海道分 7
香川の分 1
岡山の分 0(X)
広島の分 3
島根の分 2 

岡山の分は0としているが(X)は2以上は見込める。

以上で、最低でも「13のパラメータ以上」が認められる。
(北海道分の7は昭和の最終吟味で異なる。)

この「パラメータ13以上」に付いては、長年同じ行動を採って来た「伊勢青木氏」等の「実質のパラメータ12」に匹敵するものとして納得できる。
以上の様に、実質の「讃岐青木氏」は、「武蔵」と肩を競い合っていたところから、17以上にはならないものの、15程度に匹敵するものを持っていると考えられる。
そこで、この「讃岐のパラメータ」を最終確定させるには、その前に、上記の経緯から、次ぎの「青森ー秋田」の状況を吟味して置く必要がある。

「青森ー秋田」
しかし、「瀬戸内族」が一時、定住したこの陸奥地域の「青木氏の動き」が解明されたとしても、”地元「青森ー秋田」の「秀郷流青木氏」は一体どうしたのか” と云う疑問がある。
そもそも、「青森ー秋田の陸奥青木氏」は、秀郷一門の「鎮守府将軍」の頃から、「青木氏」の「入間の本領地」に継ぐ位の定住地でもあった。
しかし、「青木氏の守護神の神明社建立」と云う面からにしても、データは、「陸奥の秋田」と云う範囲では「青木氏の子孫力」は不思議に低い。
因みに、「青木氏族の永嶋氏」も、関東でも、愛知でも、陸奥でも、「子孫拡大」を室町期末期まで大きく興している。
にも拘らず、この事を考えると、「秋田」では、「同族の青木氏」が、”何故に「子孫拡大」が大きく起こらなかったのか”が疑問である。
この疑問を解決する必要がある。

陸奥域の周囲には同族の一門も居たし、土地の豪族も殆どが「血縁族」であるにも関わらず、「軍事的背景」、「経済的背景」、「周囲の一族」などから観ても「政治的背景の環境」も決して悪くは無かった。
むしろ「子孫拡大」には「三つの条件」が揃い過ぎている。
もう一つの「時代的背景」にしても、確かに、陸奥域には「荘園制」に関わる有名な「子孫力」を低下させる「奴婢事件」等が起こった。
この国を動かすほどの大事件が、平安期末期や室町期末期には大きな事件が多く起こった。
しかし、「青木氏の分布やその子孫力」の「拡大抑制の元凶」と成っていた「荘園制」が、「平安末期の禁止令」に依って無く成った。
依って、その後の「子孫力」は再び盛り返している。

元陸奥域の「周囲の5県」には、「秀郷一族一門」と「北家利仁流一門」にも囲まれている。
しかし、「唯一の脅威」としては「阿多倍一族」の有名な「内蔵氏系」の「安倍氏や清水氏」などの勢力に囲まれていたことは事実である。
ところが、この「内蔵氏族」の氏とは、歴史的に見て「子孫力」を下げる大きな事件を起こしていない。
その証拠に、「藤原利仁流族」や「秀郷流進藤氏」は、この中間地域に挟まれていながら子孫を伸ばしている。

では、”何が子孫力を下げていたのか”である。後は、「子孫力」を低下させるこの地域の要因は厳しい「気候」しか浮かばない。
では、”「気候的背景」があったのか”、しかし、「青木氏」が ”気候的背景に弱い”という事は聞いた事はない。
とすると、考えられる事は次ぎの事が只一つである。
この「気候的背景」が原因して、「秀郷流青木氏の護衛団」の ”入間との間の交代制”にあった事が考えられる。
そもそも、陸奥の「花房氏」や「小山氏」や「小田氏」などの土豪との「全ての血縁族」が、関東に来て「秀郷一門の勢力」を背景を基にして大豪族と成っている。
この事が物語る事は ”子孫拡大の流れ” が確かに「北から南」にあった事は否めない。
そもそも、「秀郷流青木氏」の「陸奥の定住」は、あくまでも ”「赴任定住」” にあった。
従って、「陸奥土豪の血縁族」等が、関東に出てきて勢力を伸ばしている中で、本家筋の「赴任定住の青木氏」が「逆の行動」を採るかは大いに疑問である。

先ずは採る可能性は無い。
「秀郷流青木氏116氏」の「24地域」では「入間帰還」を前提としたシステムを元より採用している。
確かに「赴任定住」で各地域の赴任地には、「子孫末裔」を遺してきている事は確かである。
そうすると、この「24地域」の中で、「子孫力」「子孫存続拡大」に関わる”異なる条件”とすれば、「環境の影響」である。
この中でも、厳しい「気候的背景」だけが「子孫力差」として出て来る。
この「陸奥域の気候的背景」が、この「子孫力の限界値」として観てみると ”、「赴任定住・交代制」に大きく影響を与えたのではないか” と考えられる。

特に、上記した様に、「讃岐青木氏」などの「瀬戸内族」に依って、江戸期初期には「太平洋周りの廻船」が新たに創設された。
これに依って、四季を通して凡そ二日か三日で赴任地から護衛団が入間に帰還できる様に成った。

江戸初期の「造船力の発展」が原因した。気候の厳しい「蝦夷地等の交易」が「造船技術」を伸ばした。

この「造船力の発展」に依って、”豪雪の中での護衛”と云う役目は、「冬場での役目」としてあまり意味がなくなった事に成る。
それまで、帰還に要する危険や難儀から留守居の形で定住する事に成っていたが、その必要性が一年中無くなった事に成る。
何日もかけて危険を背景に必死に陸送で帰還するよりは、「帰還」と云う点では画期的なものであった。
この”瀬戸内族による外回りの廻船の開設” が、”入間帰還のシステム”が現実のものとして”効果的なシステム”と成ったと考えられる。

「陸奥の瀬戸内族の操船入植貢献」と、「讃岐の瀬戸内族の外回りの廻船開設」と何れも瀬戸内族の貢献であった。
「蝦夷地の開拓」と「陸奥の秀郷一門の帰還」に大きく貢献したのである。
「讃岐の瀬戸内族の外回りの廻船開設」は、「蝦夷地の開拓」にも「人と者」を運送する事でも大いに貢献したのである。

そこで、「陸奥の環境」の「気候的背景」が「限界点」に成ったとしても、これで「入間帰還」は容易に成った。
これで「赴任定住の留守居役」も必要と無くなる程の移動と成った。
この事で、「現地末裔孫」も伴い「全陸奥青木氏」の「入間帰還」と成った。
依って、「陸奥秋田の青木氏」はパラメータが0に成るほどの地域と成った事が考えられる。

現実に「そっくり帰還」(根削ぎ帰還)は、温暖の地の「紀伊国」や「阿波国」や「肥前国」でも起こっていた。下記
何れも、「造船力の発展」で陸送で何日もかけての帰還より、数日で楽に帰還できる様に成ったことからの結果である。
この現象は「陸奥だけの事」では無かったのである。
これは「室町期」のみならず、上記した様に、江戸幕府の「旗本 御家人集団」と成った「土地付き家臣団」の「秀郷一門の青木氏」があった。
江戸時代に成っても、室町期の「縁故の地」に「現地派遣の幕府代官」として派遣されていた。

そこで調べて観ると、「家紋分析論」と「守護神論」でも判るのだが、この「広域陸奥」には「18の大名」が配置されていた。
この18の大名の内の「7の大名」は、何らかの秀郷一門との縁故を持っていた。
その「土地付き家臣団」には3割程度が秀郷一門で占めているのである。
江戸期に成っても、この「秀郷一門の青木氏」は、この様に「24地域の縁故地」に派遣されていた事が判る。
秀吉に依って、家康が関東に転封された時に、この地域一帯を治めていた秀郷一門には、「家康の本領安堵策」に依って関東域は安堵された。
その後、「家康の天下」と成った時も含めて、各地の「24地域の縁故地」もその後、安堵され保証された。
家康の藤原秀郷一門に対する「本領安堵策」で「土地付き家臣団」(准大名扱い:地主:御家人)が生まれたのである。
因みに、「土地付き家臣団」を超えて、江戸時代の全国大名の内の「6大名」に「下り藤紋」の藤原一門が成っている。

A 陸奥、越後、
B 信濃、近江、
C 紀伊、日向
以上が成っている。

この「6つの小大名」の藩士の多くは、「秀郷流青木氏116氏」の一門の家紋群である。

しかし、他の「縁故の地」(24地域)では、凡そ2割から3割が秀郷一門の家紋群である。
ほぼ、他の陸奥域も同じ程度である。地主として名主や豪農や庄屋や郷氏や、土地の藩の家臣として生き延びた。

この地域も家康に依って、「藤原氏の勢力」を維持させる為に、「縁故の地」も「本領安堵の策」が採られたのである。

この様に、「土地付きの家臣(御家人、上級旗本)」と成っている地域は、下記に参考に記す様に、主に「青木氏116氏の主要地域」に成っている。

武蔵、越後、讃岐、備前、
下野、相模、三河、下総、
常陸、紀伊、陸奥、上野、
美作、備後、伊予、豊後

以上16の地域に集中しているのだが、これは二つに分類できる。
一つは、「秀郷流青木氏」の平安期と室町期までの「領地」か「赴任地」
二つは、「松平氏か徳川氏の藩主」と成っている「守護地」

一つ目は、「縁故の地」に対して派遣された幕府の代官、役人等
二つ目は、江戸初期に徳川家臣団と成って藩主が赴任した地域

以上の様に、室町期に引き続いて江戸期にもほぼ同じ勢力で同じ分布域を示している。
これは「子孫力維持」と云う点で重要な事柄である。
そこには、当然に強い「子孫力」が存在する。要するに、”古来より縁故の地”であるからだ。
「室町期」と「江戸期」では、社会の不安定さや混乱差は大きく変化した。
しかし、「縁故の地」に関わる事により「子孫力」は、冒頭でも記したが ”変わらない”として論じる事が出来るのだ。

従って、「陸奥」に於いては、要するに、「基礎的な子孫力」が全く無くなったのではなく、”「子孫力」が出自先の入間に戻った”と成る。
故に、「陸奥」では、「子孫力」が激減していたのであるから、「陸奥」から「北海道」への「入植移動」は、「陸奥青木氏」だけではない事に成る。
更に、上記した様に、各地から「陸奥」に来ていた「青木氏」(瀬戸内族等)も「北海道」に入植移動した事にもなるのである。
後住の「瀬戸内族の入植」とは別に、先住の「陸奥青木氏の入植移動」は、むしろ、どの時代を通しても「入間帰還」を中心とした慣習に従っていたので、極めて少なかった。
この事から、せいぜい「留守居程度」のもの定住と考えられるから、入植移動は無かったと見做される。
依って、パラメータに出て来る範囲ではなかったと考えられる。
(「陸奥域」を始めとして、24地域の「入間帰還」は改善された。)

丁度、上記した”徳島の剣片喰族の愛知への帰還方式”と類似するが、その期間の「土地の生活環境」は大きく異なる。
「肥前の青木村」も同じである。
当初は、「期間限定の定住策」であったと考えられるが、「蝦夷地開拓」に伴う「造船力の発展」が、この「肥前の定住」にも大きな変化をもたらしたのである。
逆に、この「讃岐青木氏」ら「瀬戸内族の入植移動」が「造船力の発展」を促し、その「造船力の発展」が今度は「瀬戸内族の廻船業や殖産業の発展」を促した事に成る。
陸送より「海送の発展」が、質、量、速さ、楽さに於いて優れ社会を大いに変えた時代と成ったのである。

ところが、昭和に成って始まった機械化が、戦後に成って、その代表と成る鉄道の急激な発達によって「陸送の発展」が起こり海運を超える結果と成ったのである。

瀬戸内族の母体と成っていた廻船業と殖産業は、鉄道の陸送の発達で取って代わられたのである。
そこで、「讃岐青木氏」等の「瀬戸内族」は、「北海道開発」に賭けて「戦後入植」と成って表れたのである。
この様に、地域毎にその「子孫力や子孫拡大力」の「有り様」が異なり、それに伴って「青木氏の分布と子孫力」は変化したのである。
しかし、その「分布と子孫力」は、根底を覆すような変化までには至らなかったのである。

恐らくは、1600年経っても”あまり変わっていない”と評価されるが、これからの「時代の変化具合」によっては「青木氏の分布と子孫力」は変化する可能性がある。
どの様に変化するかは判らないが、判る現在の範囲で過去の事を遺しておきたい。
後世の青木氏の末裔にロマンを与えられる。
この異なる「青木氏の歴史」には、「先祖の生き様」がよく見えて来て面白いのである。
その「分布図や伝統の有り様」も面白くなるのだと考える。

従って、「青木氏の子孫力の有り様」を続けて論じる事とする。


・> 青木氏の分布と子孫力
>
> [地域別分布力]
> > 「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
> > 全国平均(全国単位 % 表ー1)
> > 地域      異変の県        分布力
>> 九州地方   長崎、大分       5%
>> 四国地方   高知           2.5% 
>> 中国地方   山口、岡山       2.5%
>> 関西地方   三重(筆者ルーツ)  14%
>> 東北地方   秋田           7%
>> 中部地方                 15%
>> 関東地方                 45%
>> 北海道・沖縄               6%
>> その他                   3%
>>
>> 地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
>> 九州地方  1.3
>> 四国地方  1.3
>> 中国地方  1.3
>> 関西地方  4.7
>> 中部地方  4.3
>> 関東地方  11.3
>> 東北地方  2.0
>> その他   11.0
>>
>> 「青木氏」は現在も以上の様に分布している。
>>
>> 修正地域(表ー3)
>> 長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1-7 三重 12 福井 4 愛知 13-7
>> 秋田 1
>>
> 「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
>> 九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
>> 福岡  2      山口  0   愛媛  3     兵庫   3    三重  1
>> 長崎  0      島根  2   香川  1     大阪  14    石川  2
>> 佐賀  1     広島  3   高知  0     京都   5    福井  1
>> 大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良   1    岐阜  3
>> 熊本  4                        和歌山 4     愛知  13   
>> 宮崎  2                        滋賀   1    長野  9
>> 鹿児島 1                                   山梨  1
>>
>> 域平均 1.25  平均 1.25  平均 1.25    平均 4.7     平均  4.3        
>
>> 関東地方(45%) 東北北陸地方(7%) 沖縄、北海道地方(17.5%)
>> 静岡   5   青森  1      沖縄   1
>> 神奈川 21   山形  2      北海道 11
>> 東京  18    岩手  1
>> 埼玉  17    新潟  4
>> 群馬   6   秋田  0
>> 千葉  11   福島  4
>> 茨木   4   宮城  2
>> 栃木   8                                     
>>
>> 域平均 11.3   平均  2.0      平均  11.0  

 青木氏の分布と子孫力-8に続く。


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