「青木氏の伝統 48」-「青木氏の歴史観-21」
[No.368] 「青木氏の伝統 48」-「青木氏の歴史観-21」
投稿者:副管理人 投稿日:2019/04/21(Sun) 14:47:28
「青木氏の伝統 47」-「青木氏の歴史観-20」の末尾
「青木氏と云う立場」から敢えて”記録が残せない仕儀”であるから論じえないのであって、「表」を論じれば、「裏」も論じる事で「表」が明らかに成る。
然し、これが出来ない。
だから、上記の様に「読み取る事」の以外にないのだ。
如何に「生き遺る事」や、「呼称」一つ採っても「希釈な伝統の維持」が世間に晒されて来たかが判る。
故に、「青木氏の氏是」の所以なのであり、「商い」を表にした所以の一つでもある。
この「氏是」は時代が変わろうと人の世である限りは生きていると信じる。
これが、遺品の額にされて漢詩で書かれた書の意味の所以であろう。
「青木氏の伝統 48」-「青木氏の歴史観-21」
「女系族」の「四六の古式の概念の続き」
「時系列」から観ても、「資料の一節に遺る言葉」から観ても、「言葉の事件性」から観ても、この「歴史に遺る言葉の後家」も、寧ろ、「青木氏族」から出たとも云える呼称や制度であった事に成ろう。
そして、不幸にしてか、この「後家」を始めとして、「比丘尼や支女や物忌や馬爪や入妻や出妻や斎女や斎院や比売さまや妃御さま」等も、本論で論じている多くの「歴史的な呼称用語」は無念にも消されて行った。
これを証明する言葉としての注釈は、最も古い言語として「斎」の字は、その読み方は、「青木氏族」では“「さい」”では無く、「いつき」と呼称していた記録がある。
つまり、「斎王」は、「公の記録」の「さいおう」では無く、「青木氏」では「いつきのおう」と「いつきのきみ」の「二つの呼称」が出て来る。
恐らくは、これは「青木氏」が「神明社に依る影響」から独自に使っていた「古来読み」と観られるが、事程左様に、前段からの「女系の妻嫁制度」などに始り、全ての「制度」や「慣習仕来り掟」に至るまでは、兎も角も、「呼称」も斯くの如しで「重要な歴史観」なのである。
(注釈 そもそも、これは「家人や執事」が「青木氏の伝記」として遺したものであるが故に、「漢文形式の内容」でもあり、全部の「古来読み」を解明する事は筆者の能力では最早難しい。
関東の「宗家筋の秀郷流青木氏」にも「資料関係」が多く遺されていないのは「大戦の火災」よりも明治期から昭和期までの“「攻撃」”が主因と観ている。
これは「首都の関東」であるが故の「伊勢信濃等以上の災禍」と云える。)
ところで「光仁期の中期頃」から、「未婚を押し通した女性」を「行ず後家 イ」と呼んだ。
「嫁家先」から戻された「後家」の事を「戻り後家 ロ」と呼んでいたと論じたが、時代と共に世間にも都合が良かったのか広まって意味が少し異なって行った。
この「行ず後家 イ」は、この「後家制度」の「本来の意味」と成るが、実際は、室町期以降では上記した様に「青木氏族の制度」では、「物忌、支女」か「尼僧」に成るのが「掟」であって、問題は無く必ずこの務めに入った。
ところが注釈として、この「後家」に対しては青木氏の中では「分別する呼称」は無かった。
依って、江戸期の「行ず後家 ハ」とは少し違い、「青木氏制度」では一度、形式上で嫁ぎ「生女」で戻る「女(むすめ)」の事を云っていた。
確かに上記の「イとロの後家」は、「仕来り」では「後家の範疇」であるが、ところが、「イの後家」は解るが、この「戻り後家 ロとハ」は「女(むすめ)」では制度上では最早ない。
結果として、「尼僧として扱う事」には成るが、「周囲の尼僧」は「女(むすめ)」の「イの後家」であるので、「尼僧」として生きて行くには、元は「女(むすめ)」であったとしても、生きて「人を説き」、「導きをする事」は至難であったらしい事が読み取れる。
然し、この様な事も当然にあり得る事として、「尼僧の中に組み込む制度」として何らかの方法で確立させて置く事が「青木氏」では必要であったらしい。
取り分け、室町期は「乱世」で、室町期初期から「下剋上」が起こり、そもそも、「位階の持つ上位との血縁」である以上、「嫁家先の家」が滅亡する事は充分に予測され、事前に返される事は一般的な事として充分にあった。
そして、「嫁家の子孫」を「伊勢青木氏」に保護し遺す為にも「子連れでの事」が多かったらしい。
「四掟範疇の公家」などの「嫁家先」では、「家を遺す武力や充分な抑止力」が無かった為に「滅亡の憂き目」は予想でき、「後家と成る事」は充分に予想できた筈である。
従って、自らが「青木氏」に戻り、敢えて「後家」と成って保護下に入った事もあり得た。
例えば、衰退した「近江佐々木氏」、「近江青木氏」、「美濃青木氏」、「美濃土岐氏系青木氏」、や「四掟の青木氏に近い公家」の「後家」を引き取る事は充分にあった筈である。
云うまでも無いが「青木氏」には恐れられる「強大な影の抑止力」があって「嫁家先の子孫」を護る意味でも戻る事があったらしいが、但し、「秀郷一門の嫁家先」には「361氏と云う日本一の武力集団」があって、「馬爪後家」はあってもこのパターンによる「後家」は無かった。
そこで、「女子」に就いては、「後家」と成り得ても「青木氏の「女(むすめ)」のこの「制度の範疇」にあり、「女系の妻嫁制度の概念」がある限り戻し得る事には何の問題も無かった。
然し、問題は「後家」とその「後家」が引き連れて来る「連れ子の女子」には「女(むすめ)の範疇」にはあるが、ところが「男子」にはこの「制度の範疇」には原則無い。
そこで、「後家」は「子供の有無」は別として、「女(むすめ)の範疇」に合ったとしても其処には“「生女」”ではないと云う基準がある。
従って、「尼僧」としての「受け入れの態勢」に入る事に成るのだ。
前段でも論じた様に、「嫁家先制度」に依って、「優秀な男子」の場合は、一度、「青木氏」を興し、「四家」の「嗣子」に戻す「特例の制度」があった。
この制度を使って、「後家」が引き連れて来た「男子の場合」には、前段で論じた「嫁家先制度」を適用されたらしいが、この範疇は、そもそも、「四家20家」に入るのではなく「氏人の範疇」と決められていた。
従って、元々、「嫁家先」の多くは、「四掟」に基づく「高位の位階」の持つ「秀郷流青木氏」を含む「青木氏族」であるので問題は少ないが、「位階の先」が「四掟の範囲」として、取り分け、「下剋上の危険」に於いて「お家乗っ取り」等に強く晒された「青木氏族外」であった場合も多くあった。
この場合の処置が難しかった事が読み取れる。
それは「相手」がこの「連れ子の男子」を潰しにかかる危険は絶対であったからである。
この「男子を連れ戻すと云う事」は、「保護」を「四家」に求めている事に成る。
「嫁家先」もそのつもりの行為であった。
資料の僅かに記録から読み取れる範囲では、「四家」に入れずに、「菩提寺」に「小坊主」として保護し、その行く末は「僧侶」として匿ったと読み取れる。
これであれば、「当時の青木氏族の慣習」では、「寺に入る事」はその意味を持ち、例えその事が露見したとしても「社会的慣習」で下俗した「僧侶」には「相手」は手を出せない。
この「社会慣習」のみならず、例え手を出したとして「青木氏族のシンジケート」に護られている故に、むしろ「相手」は手を出せば逆に「自分の身」が危ない事に陥る。
「影の抑止力」に依って「影の世界」(青木氏の名が外に出ない事)の中で手を出した一族が潰されてしまう事が発生する。
(注釈 これは前段でも何度も例を以て論じた様に、世間から観れば「記録」から垣間見れる「恐怖の青木氏の抑止力」であった。
それ程に恐れられていたのだ。
故に、「政争やお家政争」に巻き込まれない“「保護」”が絶対に可能と成っていた。
尚、「室町期」までは「神明社」も「伊勢神宮に繋がる祖先神」であるので「保護の隠れ蓑策」であった筈だが記録が見つからない。無かったと云う事は少なくとも無いだろう。
「恐怖の抑止力」もあるが、“「不吉」”として記録しなかったと観られる。
但し、「江戸期」は「神明社」を全社を幕府に託した為に無い。それ故に幕府に依って消されたと観ている。)
況して、最後には「伊勢」であれば、「不入不倫の権」、「信濃」であれば「菩提寺」は勿論の事、「高い位階を持つ事」である故に、前段でも論じた「善光寺」の「浄土宗系院内」にも「保護施設」として入れる事も出来た。この施設は江戸期末期まで続いた。
従って、資料よりの「読み取り」では、「女子、男子」共に「四家の制度内」に保護できた事に成る。
そこで問題なのは、“「戻り後家の本人」”である。
「子供」がいなければ、「氏人の出生先」に戻す事は出来たが、そもそも“「戻り」”は“「子連れ」”のその「意味」を強く含んでいた。
多くは、戦乱などや下剋上などで武力を持たない故の衰退と潰されての仕儀であって、「嫁家先の子孫存続」の「子供連れ」であった。(四掟の一族で秀郷流青木氏は別)
然れば、少なくとも「手出し」の出来ない処に「匿う事」が前提と成る。
「確実に匿う事」が出来るのは、後は唯一つである。
それは、「斎王の里の館」にである。
そこには、「斎王」等の生活を看る「支女」に近い“「女人(女官)制度」”があった。
凡そ、光仁期後の平安期初期の最盛期には、「約200人程度の女官(青木氏の歴史観 下記)」が「伊勢青木氏」に居た事が記録にある。
この里は「青木氏族の経済的支え」の中で成り立っていた。
況して、そもそも、「平安期」には「皇族の経費」を極力軽減する為に、「嵯峨期の詔勅と禁令の文面」の通り「源氏賜姓」にもある様に保護せずに突き放した。
「四掟の範疇」の「四家の家」にも「朝廷の保護」は無く同然であった。
更には、元より、「武家社会」と成った「鎌倉期」から始まり、「室町期」には、最早、「朝廷」には「伊勢神宮」に関わるこの里の様な「設備等」をも支える「その力」が既に無かった。
当然に、「膨大な費用」が掛かる「斎王制度」も「衰退」を余儀なくせざるを得ず、細々とそれに近い「祭司」が行われるに伴って衰退した。
(注釈 「天智系青木氏」の「直系尊属の仁明期後」は「斎王に関わる事」の「祭司」さえも無く成った。)
前段でも論じた様に「嵯峨期」からは、「皇親族、令外官」(表向きは、「賜姓」を外れた事で「賜姓五役」等も)を外される結果と成るに従い、「青木氏族」に執つては対抗として「献納」もある程度抑えた。
(注釈 これが「嵯峨期の詔勅」の文面の元と成った。)
これを最低限にして、「女系の妻嫁制度」の所以を以って、一族の「女(むすめ)」の多くがいる「多気の里」の「館や分寺」で保護した。
「斎王」と云うよりは、寧ろ、「青木氏族」に執っては「女系の妻嫁制度の一環」、つまり、「斎宮、斎院、物忌、支女、女官」としての「多気の里の設備」と捉えていた事に成るだろう。
この“「多気の里(青木氏の呼称)」”は、“「斎王の里(郷土史の呼称)」”と云うよりは「青木氏族」に執っては無くてはならない「青木氏族の有効な設備」と成り得ていたのである。
この段階(嵯峨期以降)では、最早、“「斎王」の云々”では全く無かった。
(注釈 「斎王」を強調するは「郷土歴史」によくある「後付けの美化」であろう。)
だから、「家人」がこの「戻り後家の始末」を担当していたと観るのが正しいと考えられる。
「青木氏族」からは、故に、上記のこの経緯から、「斎王」では無くこの「斎王」に成るに近い、或いは、「斎王」に代わって「祭司王の女官(後家等、采女ではない)」を出していた。
従って、「青木氏の概念」としては「光仁期から仁明期前の斎王」は「祭司王」(後家)に切り替わっていた事に成ろう。
(注釈 そもそも、「斎王」は、「王族」やそれに準ずる者から嫌われて「仁明期以降(青木氏の直系尊属)」から成る者は少なく成っていた。
筆者は、故に、「光仁期前後から桓武期-嵯峨期」までの“「政争没」”と成っている「内親王」(後宮)や「王女」や「宣下外の女」、「采女の女」の多く「女(むすめ)」は、“「斎王逃れ」”からこの“「後家」”に成ったと観ている。
記録的にも、この「政争没」は「光仁期から仁明期(伊勢青木氏出自の四代目)」の「四家」の「女(むすめ)」に実に多い。
そもそも、「政争没の記録」は、一度、「後家(後宮)」として扱われ、政争の中の世俗から外された「斎王や祭司王や物忌」等と成った事から、“「世にでない記録」”として遺さない様にする為の「奇策」であったらしい。)
(注釈 此処で云う「後宮」とは「后妃の事」を指すが、「后妃が住む宮」を云う事もある。
皇室では、「后妃」と「嬪妾」には「ある身分格差」があり、「嬪」は「ひ」と「ひん」と「ひめ」の「三つの呼称」で分けられる「格差」があり、「ひ」と「ひめ」は皇族内の「「女(むすめ)」:娘の位置」にあった。
「ひん」は「純潔制度の同族血縁」の中で生まれた中間の位置にあった。)
従って、これらの「斎王逃れ」からその「世俗の役目」の終わった「四家」の「女(むすめ)」(後家を含む)から派遣された“「祭司王(いつきつかさのきみ)」”は、「青木氏族」の定められた「一定の過程」を経て、この「慣例」に従い「斎王の里の館」に住まわせて保護していたのである。
当然に、これは最早、「青木氏族の女系の妻嫁制度」の「保護一環策(奇策)」であった事に成る。
つまり、ここに、この「戻り後家」を匿い、“「女官(呼称:十二女司)・「女(むすめ)」ではない)」”として働かせていたらしい。(「青木氏の歴史観」)
松阪の「家人の家」に「遺された手紙の資料」の一節に、次の様な「行」が遺されている。
“「・・・の御手配・・小夜の仕儀の事・・多気に使わさせ、此の故を以って・・済ませ候の段・・」”とあるは、この「行の経緯」から読み取ればこの意味であろう。
「小夜」とは、この「戻り後家」の幼名で隠したのであろう。
「福家」からこの件が表に出ない様に・・・と云う「隠語」(暗号)を使って、この隠語の「細かい指示」があって、「小夜の保護」を頼みその結果の報告と観られる。
ここで、上記の「後家」に於いては、“「青木氏族の女系の妻嫁制度の一環策」だった”と論じたが、実は、これを証明する言語があるのだ。
それは、この“「後家」”そのものなのである。
前段までに、論じてきた事を、一度、思い起こして頂きたい。
この“「言葉(後家)」”が最初に出て来るのは、「光仁期の青木氏族」が執った“皇族から逃れようとする事件”が「青木氏族」に多く起こった。
この事は「伝統―14等」にも詳しく論じてはいるが、そもそも、“「家」”と云う言葉にある。
その前に当時として、“「家」”とは、「公家(公の家)」に対して「武家(武の家)」に使う事を許された「家の言語(格式の言語)」である。
当時は“「家」”は「高い格式を持っていた言語」であった。
要するに「氏族」に与えられた「格式を表現する言語」であった。
ところが、江戸期に「姓族」が「武家」と間違えて呼称される資料が多いが、「姓族」は「氏族」ではないので、正しくは「武士」である。
唯、現実には、「氏族(武の家)」と成り得る“「家」”とは、江戸初期には最早、「数族」に限られる社会と成り得た事から無視して、「江戸幕府」は、「姓族の武の集団」を遠慮なく「武家」と呼称して「権威付け」として鼓舞した。
その「発端」と成ったのが、「公家諸法度」に対して「武士」に課せた「武家諸法度」として決めつけた事にある。
(注釈 「西の政権」、即ち、「冠位や位階」などを与え「歴史的な慣習仕来り掟」を改めさせる役を負っていた「京の朝廷(西の政権)」は、この事に異議を申し立てたが無視された経緯がある。)
“「家」”とは、そもそも「青木氏族等」や「近江佐々木氏族等」の「皇位の冠位や位階を持つ氏族」に限定されて使われる「家柄の格式を示す用語」であった。
当然に「家」に着く“「侍」”も同然である。
「藤原氏」の「斎蔵」を担う「官僚族の公家」とは、元より、当に「斎(いつき)に関わる族の家」を云う。
「公・きみ」の「斎・いつき」の「立場や役務を表現する言語」である。
前段でも何度も論じた様に、「斎」は、朝廷を構成する「三つの政治体制」の「三蔵」の「大蔵・内蔵・斎蔵」の「斎」であって「祭事」を意味し、即ち、「政治」の位置にあった。
この「政治の位置」を司る「朝廷の集団」を「公(く・きみ)」として「公」の「集団(家)」で「公家」と称した。
この奈良期に於いては、「軍事を司る集団」は「政治体制」の「三つの中」に無かった。
「大化の改新」で信頼できる「皇族」より「賜姓」され「臣下」して「近衛の親衛隊」を構築した。これを「朝臣族」と称した。
この「武」を以て「近衛」の「賜姓臣下朝臣の族の集団」を「武の家」と称し、「公家」に対して「武家」とした。
後に、「大蔵氏」から出自した「坂上田村麻呂(桓武天皇)」の「征夷大将軍」と「近衛軍団」を「三つの政治体制」に加えて、「三蔵」に「武家」の「軍事集団」を加えた。
この時、「斎蔵の家の公家」には「蘇我氏の事」を顧みて安全を期する為に個々にこの「軍事集団を持つ事」を厳禁した。
この「近衛軍団(武家)」と共に「軍事集団」を「天皇」に帰属させて互いに牽制させて「政治の安定」を図った。
これが「武の家」の由来であり、「武の家」とはその「立場の格式」を意味する。
「家」とはその意味で使われたが、「姓化」が進んだ室町期中期から江戸期ではこれを無視した。
「施基皇子」を始めに「賜姓臣下朝臣族」と新たに成った族に許した「朝臣族の武」を以って「朝廷」に仕える「貴族」を「武家貴族」として呼称を許し、これを「氏族」とした。
そして、この「呼称の許される範囲」を、「宿禰以上の冠位」があり、且つ、ある一定の以上の位階、つまり、「従四位下の以上を持つ者」の「族」を「家」とされた。
この「氏の構成を許された族」には、“「家」”を興す事を許した。
「幾つかの家」を興し構成してこの「家の全体」を「氏の族」の「集団」として認めたのが、要するに“「武家」”なのであり、「伊勢の青木氏族」は、それが「四家」、即ち「20家」と「郷士族50(氏族)」で構成していたと云う事に成る。
従って、ここには論理的に上記の様な「姓の論理」は働かないのである。
「近江佐々木氏」を含む「近江から甲斐」までが、この「家」を興して「血縁族の郷士集団
(氏人)」を持つ「氏族」として朝廷に認められた事に成るのである。
唯、ここで「武家貴族」を認められながらも「家」を興す以上は「公家の禁令」に従って「武の朝臣族」であっても「賜姓族臣下族」ある事を前提に「表向き」には「武」を持たなかった。
但し、「影の抑止力」を持った。
ここが「補完役との違い」(「姓」と「武力」の「保有の容認」と、「身分格式の同格扱い」を)としたと成る。
そうでなければ「補完役」は務まらないであろうし「当然の朝廷の認知」である。
当然に、これは「四六の古式概念」の中にいて「20家の四家」と成る所以でもある。
従って、「家」の無い「氏族」は存在しない理屈と成り同然に「姓族イ」と成る。
当然に、同様に「氏人」が存在しなければ「氏」とは云えない事に成る。
つまり、「氏人」が「氏族」を構成するからである。この逆の論理も成り立つ。
「氏族」=「家」=「武家」=「氏上」=「氏人」=「郷士」=「家人」
以上の関係式が出来る事に成る。
(注釈「嵯峨天皇の新撰姓氏禄」に依れば、「嵯峨源氏」は「単なる朝臣族」の「姓族イ」に所属し「皇別」の中でも「皇別の真人系48氏」に組み込まれていない事は興味深い。
「嵯峨期の詔勅の文言」を厳しく実直に反映している事に成る。
この「嵯峨源氏」を含む「賜姓源氏族11流」はこれに従う以外になかった。
従って、この厳しさから「源氏」には「賜姓を受けない源氏」が多かった事に留意が必要である。
つまり、「上記皇別の48氏」に組み込まれるには相当厳しいものがあって、「賜姓」を受けられない侭に「源氏」を名乗つても「賜姓源氏」に成っても全て滅亡した。
「清和源氏の満仲-頼信系河内源氏」だけが「一切の朝臣族の柵」を排除し、「姓」と「武力」の「保有」と、「身分格式の同格扱い」の「欲望」を捨てて「姓と武力で生きる事」を選択したと成る。
上記の関係式を捨てたのである。)
「秀郷流青木氏」は、「青木氏の補完役の策」として「特別賜姓」を受け「武家貴族」として認められたが、これを以って「氏族」としても認められた。
その「氏族」には、「永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏、遠藤氏、結城氏、工藤氏等の「361氏」の“「家」“が認められた。
そして、尚且つ「冠位と官位」でそれを補填して証明するに至り、「補完役」である以上は、これを前提に、「摂関家の公家」ではないが、「青木氏族」に近い「氏族」に等しい「高位の位階(貴族)」と「格式身分」とを与えられたのである。
つまりは、「賜姓源氏」を超えた扱いを受けた事に成りその意味は大きいし、「補完役」と云う「意味合い」も大きいし、「賜姓青木氏五家五流への配慮」が高かった事に成る。
(注釈 然し、結果として観方に依れば平安末期には「近江」「美濃」「甲斐」はこれを裏切り源氏化した事に成るのである。)
従って、「氏人構成」の無い「姓族」には、「氏族」でない限りは、この「氏人と家の論理」は成り立たないのである。
「氏族」の「氏上―氏人」の「血縁の関係」とで構成される集団と、「姓族」の主君と「無縁の契約関係」で構成され集団とは、根本的には全くその「構成条件」が異なるのである。
つまり、上記の「氏族」=「家」=「武家」=「氏上」=「氏人」=「郷士」=「家人」の「関係式」が姓族には成り立たないのである。
そもそも、そこで「姓族」には、前段でも論じたが、次の「二つ」がある事を知って於く必要がある。
(a)平安期初期の「新撰姓氏禄」に記されている「姓族(新別に分類)」
(b)「室町期中期から「下剋上で勃興した姓族(諸潘)」
(a)は、正式に「四段階の格式の姓」の位を表す「姓族」として認められているので、「姓族=分家=武家=家臣」となる。
天武期の「八色の姓制度」に基づく「格式位の姓の意」である。
但し、「本家―分家」は、「縦の関係」にある。
この「家臣」は、「主従」の「縦の契約関係」にある。
「氏族」の「福家と四家の関係」は、「横の関係」にあり、「氏上、氏人、家人の関係」も上記の関係数式の通り「横の関係」にあって、「契約の関係」では無く「血縁の関係」にあった事である。
故に、「横の関係」と「血縁の関係」にあったからこそ、「青木氏族」に起こった「後家」は、「氏族」にのみ適用される「言語」と成り得ていたのである。
これがその論理的証拠である。
つまり、上記の「氏族」の「家」に起こる「血縁制度」であるからこそ「後の宮(高位の人)」の「家」であるのだ。
前段でも何度も論じてはいるが、「嵯峨期」の「新撰姓氏禄」に記載の「48氏の氏族」がこれに当たる。
この論理的には「48氏」が「家を興す権利」を朝廷から認められていた事に成る。
注釈として、結局は「bの姓」は、朝廷から「家を興す権利(氏族)」のそのものを認められていないから、従って、残るは「分家」として発展せざるを得ず、つまりは、「一つの家」を“「分身の様」に分ける“と云う理屈と成る。
故に「分ける家」なのであって「家・氏」を別段に興していない理屈に成る。
“「分家」”ではない「独立した四つの家」の独立する「20家」も「横の関係」として成立する故なのである。
依って、「分家」にしろ、「家臣」にしろ、「縦の関係」で成り立つ以外には無く、「縦の関係」である以上は「主従の雇用契約の関係」に成るは必定である。
「主君-家臣」を何れが「契約関係」を破棄すれば「主君-家臣」では無く成るが、「血縁関係」が存在する以上は「氏人・家人・郷士」から離れる事は永遠に出来ない所以である。
「氏族」=「家」=「武家」=「氏上」=「氏人」=「郷士」=「家人」の関係数式は付いて廻る事に成るのだ。
従って、この独立した「四つの家」の独立する「20家」も「横の関係」に起こる「後家」は「姓族」には論理的には「起こらない言葉」と成るのだ。
そもそも、“「後家」”は、皇室の“「後宮」”に通ずる言葉であり、皇室の「宮(高位の人)」、即ち、「皇別の氏族」の“「家」”であり、この“「家」”は「青木氏族」の様な「氏族」のみに“「後家の言葉」”(後の家)と同じく使われる切っても切れない言葉であった。
(注釈 「公家」は「斎に位置する家」であるので「政治的」には力はあっても「経済的」にも「武力的」にも力は無く、「斎に関わる権威を貸す荘園制」に頼っていた為に本質は弱体であった。
「氏族」としてでは生きて行けない為にこの「公家」には「姓族化する傾向」は大変に多かった。
「荘園」を下に「姓化」して禁に反して「武」を持って生きた「公家」は殆どは100年未満で潰された。)
この結果として「姓」を興している事は、「氏族」では無い事に成り、「朝廷の宣下に反する事」に成る。
この場合は、上記の関係数式は無く成り「氏族」を朝廷より外される事に成った。公家も同然であった。
(注釈 但し、例外はあった。それは「補完役」であり、「特別賜姓族」で「円融天皇の賜姓」あると云う「高位の特別の格式」を有する事により「公家の関係族」にありながらも「北家藤原氏」と云う「氏族(秀郷流)」が成り立つのである。
そして「361氏」と云う「姓化した族(現地孫末裔)」には「分家」が特別に認められた。
依って、「家紋」も「総紋」を「下り藤紋」とし乍らも”「二つ副紋方式」”と云う「姓族」には無い「特別な方式」を採用する事を許されたのである。)
従って、「五家の青木氏族」には「分家」は無いのであって、「四家の構成」なのであって「姓」は無いのである。
当然に「家紋」は無く、「氏族」を示す一つの「象徴紋(笹竜胆の文様:特別に「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の「青木氏の神職」には「神紋の柏紋」の使用を許された)」だけなのである。
(注釈 現実に、「皇族」と多少の「血縁関係」を有する「嵯峨期の姓族(新撰姓氏禄)」とは異なる。
庶民から興した「姓族現象(b 最初は安芸国の渡来系海部氏)」が本格的に起こった「室町期」には、この力を借りる事が多く起こったのである。
庶民から興した「姓族(b)」も、主従の間には懸命に「氏族の様な血縁関係」を構築しようとしたが、これは「血縁の歴史の期間」が異なるし、元より前段でも論じた「数々の氏」と「家を構成する制度」が異なっている。)
故に、「乱世の戦乱」や「下剋上」での事のみならず、「生き残りの為」に「氏族の条件」を外して「姓族(a)」に頼って生きた為に「氏族」を外された例も多く、結局は、「20氏位」から室町期末期には滅亡して仕舞い、遂には「正規の氏族」は「5氏程度」/「4000家紋」に成り得たのである。
この“「家」”とは、そもそもこの様な「構成条件の意味」を持っていたのである。
当然に“「後家」”もである。
(注釈 決して「江戸期の武家」との混同は留意されて間違われる事の無いように「本伝統」では理解して頂きたい。
少なくとも本サイトでは理解に苦しむ事が起こる事を避けたい。
明治期には家紋と称される文様は8000と成った。)
「光仁期」で、初めて、「朝臣族の武家(施基皇子の伊勢青木氏)」の「天皇家」が出た事に依る謂れから、「青木氏族」がその時、「救済策」として「四家制度」の中に、この「政争」の多い「王族」から逃れられる制度を敷いて護った。
これが“「四つ」の「家」”、即ち、「四家」の「空き」のある「母」と成っている「家」に、その「後目」の「家」に入る「王女」(「女(むすめ)」:無理やり宣下)として、「皇室の後宮」に因んで、皇室は「宮を興す事」に相当する「家を興す」の故を以て“「後家」“と云う呼称を使って「皇室」に対して「公然」とした「逃避の救済の制度化」を施したのである。
(注釈 記録の一部に、全ての「青木氏族」に対して「神明社」(巫女役として)を通じて越前域にても行った事も散見できる。
「青木氏の守護神の神明社」では「皇祖神の子神」である事から「朝廷の仕来り」を引き継いで「穢れ」を「お祓いする役」として「巫女の事」を”「巫・かんなぎ」“と呼んでいた事が判っている。
この役は「女(むすめ)」であってもよいし婚姻後も務められる役でもあった。
当然に「後家」も務められた。
どの程度の「後家」や「女(むすめ)」が務めたかは判っていない。)
そこで、上記の注釈に関して、だとすると、「500社弱の神明社」等に対して「女(むすめ)」の数では賄いきれる数ではない。
「斎院、斎宮、物忌、支女」等に成る「女(むすめ)」であり、「神明社のかんなぎ」までは果たして全てを賄えていたかは疑問である。
この注釈に関して「五家五流青木氏」は、勿論の事、24地域に分布する「116氏の秀郷流青木氏」の「補完役の力」も借りていた可能性が充分にある。
「116氏の秀郷流青木氏」にも「宗家筋(四掟の範囲)」では「同様の制度」を敷いていた以上は、一族一門の「女(むすめ)に対する処置」も同様に起こっていた事があり補完されていた事は解るが、この事に就いての補完は“どの程度のレベルでの補完であったか”は定かではない。
唯、「116氏の秀郷流青木氏の24地域」にも「宗家筋(四掟の範囲)」で「春日社」が「守護神」であった事も考えると、「かんなぎ」は存在し得ていたので、実質は「協力関係の程度」かと観られる。
筆者は、「361氏の秀郷一門」が当初は「春日社」を主幹していたので、「第二の宗家」としては算数的表現とすれば「361/116の義務範囲」であったと観ている。
後に、前段でも論じたが、「興福寺事件以来」は「361氏の守護神」は「春日神社」に変革したので、「116氏の「宗家筋(四掟の範囲)」(宗家筋(四掟の範囲)」は「春日社」を主幹する経緯と成った。
それでも何しろ、「平安期」では、「家的」には「116/5」と観れば、「地域的」には「24/5」と観れば、「500の神明社」だけでも運営するには難しい事は歴然としていた。
「室町期」では、殆どは「伊勢と信濃」と成り得ていたので「宗家筋(四掟の範囲)」の補完無くしては無理であった筈である。
但し、「伊豆」は独自運営し、衰退した「近江と甲斐(美濃は暫くは伊勢と信濃青木氏が支援を出来なかった)」ではその力を無くし停止していた。
(注釈 「美濃青木氏」は室町期末期に「別の形」で「伊勢と信濃の力」が隠れていた「美濃青木氏」を引き興した。
「一色域」に隠れていた「美濃青木氏の末裔一族」を「経済力」と「強力な武力」の支援で引き興して「蒲郡青木氏」として、「伊川津七党の青木氏」の「田原青木氏」として興す事に支援し「徳川氏の国衆」として成功した。)
「江戸期初期」には、「幕府へ神明社の引き渡し」と「菩提寺の顕教令」で全て「青木氏」からの「かんなぎ」等は停止したとある故に、「116氏の秀郷流青木氏」からの「補完の必要性」は無く成った事が判っている。
注釈から話を戻して、それが最初の“「後家」の呼称”であった。
正式名は、「光仁期」では、一応、天皇家の中にいた場合に於いては“「後宮」”として呼称されていたが、同じ出自の「青木氏族」では、「家を興す謂れ」から“「後家」”であった。
(言語的に「宮」と「家」は同意で格式的意味合いが異なる。)
そもそも、「四家内の妻嫁制度」、又は、「四家内の嫁家先制度」として、あり得ない「叔父や兄」の二親等、三親等の「妻」として入る事はあり得ない事で、明らかに「救済策(逃避の便宜策)」であった事が判る。
これで一応は「醜い政争」から逃れられ、その後は、再び「妻嫁制度」と「嫁家先制度」に依って嫁ぐ事が出来て、「青木氏族」の中で生きる事は出来たのである。
将又、「女系の妻嫁制度」の上記の「尼僧、比丘尼僧、斎王、物忌、支女、斎王、斎院、斎宮」と、“「十二女司役」の「女官」”とそれを支える“「采女(上記)」“として生きて行く事かの、この“「三つの選択肢」”が広げられて行った。
奈良期の「朝廷の制度」に見習い「青木氏」には当初の頃から「十二女司(じよし)」と云う「女官」がいた事も”「後家」“と伴ってその存在は判っている。
「女系の妻嫁制度」の「全体の事務や雑務」を支える「女官の事」である。
これには「女(むすめ)」と成らなかった「氏人の郷士」の「他の女」の多くが務めたらしい。
そして、ここから「福家の支援」に依って「郷士・氏人」に「嫁」に向かったのであろう。
これらの「独特の青木氏の呼称」から観ても「四家の政所の制度」の多くは「女系」で占められていた事が明らかに判る。「女系族」であった事が判る。
恐らくは、「氏人の郷士の娘の救済策」として、「十二女司」を務める事でここでも同じく「女(むすめ)」としての「教養」を身に着けさせたのであろう。
これは「氏人の底上げ策」であろうし、「強力な絆構築策」であったし、「第二の女(むすめ)策」でもあったと観られる。
上記の通りの氏族全体の「数多くの女の力」で以て、これも「男系」では成し得ない「女系の妻嫁制度」ならではの「堅い絆」が構築されていた事が判る。
注釈 青木氏の中での「十二女司(十二司女と書かれているのもある)」は、次の様な役目であった。
「内司」、「蔵司」、「書司」、「薬司」、「侍司」、「単司」、「殿司」、「掃司」、「水司」、「膳司」、「酒司」、「縫司」の「12の役目」を指し、「青木氏の保護施設」の「日常の雑務・庶務」を12に分けていた。
「意味」は読んで字の如くであり、「奈良期の天皇家の伝統の継承」であったと観られるが、取り分け、「伝統」と云うよりは「雑務」を分ければこの様に成るのは当然で、そもそも「皇室の伝統継承」と云う感覚は無かったと考えられる。
「斎王の館」などでのこの様に分けていたと考えられる。
「多気の家人の家の資料」に遺された損傷激しい読み難い資料から公的資料と査照して再現した。
これを要約すると、次の様に成る。
1「内司」は「妃嬪妾」の「入妻や後家」等の女系制度の人の「内回り」の仕事、
2「蔵司」は「金銭の財務関係」の仕事、
3「書司」は「手紙代筆」や「文書の保管管理」の仕事、
4「薬司」は「薬医回り」の仕事、
5「侍司」は「身辺警護」の仕事、
6「単司」は「簡単な雑務」や「外回り」の仕事、
7「殿司」は「寝所回り」や「便所回り」の仕事、
8「掃司」は「掃除」などの「清掃」に関わる仕事、
9「水司」は「水回り」の仕事、
10「膳司」は「食事の準備」とその手配の仕事、
11「酒司」は「酒宴」やその手配の仕事、
12「縫司」は「衣服回り」の仕事
以上と成る。
この「十二の役務」には、更に「実務の下働き」をする者がいて、例えば、記録に遺る者としては、6には「下働き」の「仕女(しめ・かがりめ)」と、10には「下働き」の「炊女(かしきめ)」が別にあった事判っていて、これには「階級」は無く、「青木氏」と関係する「地域の民」がこれを務めていたらしい。
この「二つ」は、“務めていた”と云うよりは「通いのパート」の様な契約にあったらしい。
必ずしも、「女」に限らず中には「男」も居た様な表現である。
前段でも論じたが、総じて彼等を「男子衆:おとごし」と「女子衆:おなごし」と呼ばれていた様である。
この「呼称の語源」は、「男子:おとこ」の「おとこ衆(おとこしゅう)」から変化して「おとこし」、「女子:おなこ」の「おなこ衆(おんなしゅう)」から変化して「おなこし」と成り、これが昭和の頃まで「伊勢」から「奈良や紀州」に遺る方言として紀州では「こし」が「ごし」と呼称した。
筆者の子供頃には使われていた方言で、筆者の家にも二人の「おとごし」と「おなごし」と呼ばれる人が雑務全般を担っていた。
この「伊勢青木氏の伝統」が強く地域に根付いていた為に「方言」と成って遺されている所以である。
(注釈 筆者はこの「おとごし」の人から「植木の手解き」を受けた記憶が事がある。
明治期の鎌倉の縁者の家では「支女」に当たる人が10人いた事が判っていて、この頃までこの「伝統」は何とか引き継がれていた事が判る。)
上記で論じている様に、“「皇室の後宮」”に仕える「女官」に対して、これに相当するのが“「青木氏の後家」”等であって、従ってそれに仕える「青木氏の女」に関わる「役目柄」である事に成る。
訳して、“「皇室の後宮」”≒“「青木氏の後家」”の関係式が成立する。
故に、「皇室の十二女司」≒「青木氏の十二司女」と成る。
元々、「中国の王朝」の「宦官制度(男子の官僚)」に対しての制度を、「奈良期の朝廷」に持ち込み天「皇家の後宮」の制度として敷いた。
この制度は変化して、「平安中期」から「後宮制度」の「身分格式の立場」を持たして「内の政所」の「女性の発言権」が整い、「外の斎蔵(政治)」に対しても「発言力」を増した。
更に「10世紀初期頃」から整理され充実した「後宮制度」が出来た事に依り改めて「後宮以外」にも「女官」にもこの制度を敷いて力を発揮させた。
ところが、ここに目を着けたのが「摂関家」であって、この「摂関家」が「斎蔵の外政」に対して「勢力拡大」の為に「内の政所」を掌握する事で「内外の両方」に触手を伸ばした。
「内の政所」と成った「後宮」を引き受けて「政治の斎蔵」の「一つの仕事」して掌握し「内外の政治の権力」を広げた。
この為には、「内の政所」の内容を「摂関家」に都合の良い様に変更し、「内の政所」の「格式や身分」を下げて「内の発言力」を弱めて「摂関家の発言力」をより完全に確立させたのである。
この為にも「天皇家」に対して「内の政所の発言力」に及ばず“「血縁」”を入れて「摂関家の血縁の浸透(例えば、上記の許嫁等)」を図った。
この段階で、「十二女司の内容」は「原型」を留めない程に完全に権力に浸潤する様に変化したのである。
この「歴史的経緯」から観ると、「青木氏側」は「光仁期の前頃」からの事であるので「青木氏の十二司女」の方が早く「原型」を保持していた事が判る。
「青木氏」では、この「原型」が上記した様に「五家五流青木氏」に「妻嫁制度」や「後家制度」が確立して行く過程で生まれた時期に採用されていた事が判っている。
この「古い制度」の「采女・うねめの呼称」が「多気」に遺っていた事がこれを証明している。
青木氏の資料の一部に「十二女司の内容」の変化に伴って“「十二司女」”の違いの呼称があるのはこの事の証明に成る。
この事から「青木氏」は「十二女司の内容の変化」で敢えて変更したのでは無いかと考えられる。
注釈として、前段で「支女(ささえめ)」が「多気」にあったと記したが、これは「十二女司の内容の変化」に依って、「青木氏の制度」では「内容の変化」と共に概念上も異なり「司女」では無く成る。
故に、“「司女」”を「青木氏の概念」に沿った“「支女」”として“「采女・うねめ」”と共に関連付けた「資料の記載」であったのではないかと観ている。
そうすれば確認が取れないが、論理的に「合理性」が認められる。
そうするとこの「合理性」から「司女」=「支女」の位置にある事は勿論の事、「支女」は「采女」との間には、「十二女司」の様に「階級的立場」の概念、或いは、「格式位置付け」の概念が強く存在しなかった事を意味する。
これは「単なる職務の概念」であって「女系の妻嫁制度」の所以と観る事が出来、“「共生を旨とする氏族」”ならではの事と考えられる。
時代的には、「摂関家の十二女司」>「青木氏の十二司女」=「古式制度の原型」
内容的には、「摂関家の十二女司」≠「青木氏の十二司女」
∴ “「皇室の後宮」”>“「青木氏の後家」”=「真の古式伝統」
以上の論理が成り立つと観ている。
更に、論じると、「摂関家の十二女司の制度」は次第に権力に侵され「自然疲労劣化」して、その「劣化」は「三条天皇」から始まり、遂には「後三条天皇期」では「天皇家の血筋」の中には制度の崩壊に依って「摂関家の血縁」が無く成ったのである。
この結果、「摂関家の衰退」と共に「十二女司」=「後宮」の「摂関家の伝統」が「天皇家」の中に薄れ、結果として「青木氏の後家制度」が「古式伝統」として遺されたと云う事に成るのだ。
云うまでも無いが、「摂関家」が衰退すれば同じ「藤原氏北家の秀郷流一門」は勢力を依り拡大させる事に成る。
当然に「第二の宗家」であった「秀郷流青木氏族の補完役」はより勢力を伸ばした事に成る。
この「女系の妻嫁制度」と「嫁家制度の血縁」で繋がる「二つの青木氏」にはこれらの「古式伝統」は上記の論調により遺る所以と成って行った事を意味する。
故に、この「経緯の中」の制度の“「後の家」“なのであって、この様に歴史に関わったそれなりの「青木氏族」の「意味」を持っているのである。
この「後家等の言葉」の「構成と表現」が如何に「青木氏族の所以」を示すものであって独自の「青木氏の歴史観」であったかが判る。
故に、添えて「同族」で「四掟」で繋がる「近江佐々木氏」も敢えて「縁者の青木氏族」を「青木氏の研究」と共に研究して遺す事に努力していたかもこれで判る。
これだけの「歴史観」を有する「縁者の青木氏の伝統」を放置して消す事の無い様に共に努力した事と成る。
これも「青木氏族」であるからこそ解明できる遺すべき「日本の古来の歴史観」であるからだ。
> 「青木氏の伝統 49」-「青木氏の歴史観-23」に続く。
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
投稿者:副管理人 投稿日:2019/04/21(Sun) 14:47:28
「青木氏の伝統 47」-「青木氏の歴史観-20」の末尾
「青木氏と云う立場」から敢えて”記録が残せない仕儀”であるから論じえないのであって、「表」を論じれば、「裏」も論じる事で「表」が明らかに成る。
然し、これが出来ない。
だから、上記の様に「読み取る事」の以外にないのだ。
如何に「生き遺る事」や、「呼称」一つ採っても「希釈な伝統の維持」が世間に晒されて来たかが判る。
故に、「青木氏の氏是」の所以なのであり、「商い」を表にした所以の一つでもある。
この「氏是」は時代が変わろうと人の世である限りは生きていると信じる。
これが、遺品の額にされて漢詩で書かれた書の意味の所以であろう。
「青木氏の伝統 48」-「青木氏の歴史観-21」
「女系族」の「四六の古式の概念の続き」
「時系列」から観ても、「資料の一節に遺る言葉」から観ても、「言葉の事件性」から観ても、この「歴史に遺る言葉の後家」も、寧ろ、「青木氏族」から出たとも云える呼称や制度であった事に成ろう。
そして、不幸にしてか、この「後家」を始めとして、「比丘尼や支女や物忌や馬爪や入妻や出妻や斎女や斎院や比売さまや妃御さま」等も、本論で論じている多くの「歴史的な呼称用語」は無念にも消されて行った。
これを証明する言葉としての注釈は、最も古い言語として「斎」の字は、その読み方は、「青木氏族」では“「さい」”では無く、「いつき」と呼称していた記録がある。
つまり、「斎王」は、「公の記録」の「さいおう」では無く、「青木氏」では「いつきのおう」と「いつきのきみ」の「二つの呼称」が出て来る。
恐らくは、これは「青木氏」が「神明社に依る影響」から独自に使っていた「古来読み」と観られるが、事程左様に、前段からの「女系の妻嫁制度」などに始り、全ての「制度」や「慣習仕来り掟」に至るまでは、兎も角も、「呼称」も斯くの如しで「重要な歴史観」なのである。
(注釈 そもそも、これは「家人や執事」が「青木氏の伝記」として遺したものであるが故に、「漢文形式の内容」でもあり、全部の「古来読み」を解明する事は筆者の能力では最早難しい。
関東の「宗家筋の秀郷流青木氏」にも「資料関係」が多く遺されていないのは「大戦の火災」よりも明治期から昭和期までの“「攻撃」”が主因と観ている。
これは「首都の関東」であるが故の「伊勢信濃等以上の災禍」と云える。)
ところで「光仁期の中期頃」から、「未婚を押し通した女性」を「行ず後家 イ」と呼んだ。
「嫁家先」から戻された「後家」の事を「戻り後家 ロ」と呼んでいたと論じたが、時代と共に世間にも都合が良かったのか広まって意味が少し異なって行った。
この「行ず後家 イ」は、この「後家制度」の「本来の意味」と成るが、実際は、室町期以降では上記した様に「青木氏族の制度」では、「物忌、支女」か「尼僧」に成るのが「掟」であって、問題は無く必ずこの務めに入った。
ところが注釈として、この「後家」に対しては青木氏の中では「分別する呼称」は無かった。
依って、江戸期の「行ず後家 ハ」とは少し違い、「青木氏制度」では一度、形式上で嫁ぎ「生女」で戻る「女(むすめ)」の事を云っていた。
確かに上記の「イとロの後家」は、「仕来り」では「後家の範疇」であるが、ところが、「イの後家」は解るが、この「戻り後家 ロとハ」は「女(むすめ)」では制度上では最早ない。
結果として、「尼僧として扱う事」には成るが、「周囲の尼僧」は「女(むすめ)」の「イの後家」であるので、「尼僧」として生きて行くには、元は「女(むすめ)」であったとしても、生きて「人を説き」、「導きをする事」は至難であったらしい事が読み取れる。
然し、この様な事も当然にあり得る事として、「尼僧の中に組み込む制度」として何らかの方法で確立させて置く事が「青木氏」では必要であったらしい。
取り分け、室町期は「乱世」で、室町期初期から「下剋上」が起こり、そもそも、「位階の持つ上位との血縁」である以上、「嫁家先の家」が滅亡する事は充分に予測され、事前に返される事は一般的な事として充分にあった。
そして、「嫁家の子孫」を「伊勢青木氏」に保護し遺す為にも「子連れでの事」が多かったらしい。
「四掟範疇の公家」などの「嫁家先」では、「家を遺す武力や充分な抑止力」が無かった為に「滅亡の憂き目」は予想でき、「後家と成る事」は充分に予想できた筈である。
従って、自らが「青木氏」に戻り、敢えて「後家」と成って保護下に入った事もあり得た。
例えば、衰退した「近江佐々木氏」、「近江青木氏」、「美濃青木氏」、「美濃土岐氏系青木氏」、や「四掟の青木氏に近い公家」の「後家」を引き取る事は充分にあった筈である。
云うまでも無いが「青木氏」には恐れられる「強大な影の抑止力」があって「嫁家先の子孫」を護る意味でも戻る事があったらしいが、但し、「秀郷一門の嫁家先」には「361氏と云う日本一の武力集団」があって、「馬爪後家」はあってもこのパターンによる「後家」は無かった。
そこで、「女子」に就いては、「後家」と成り得ても「青木氏の「女(むすめ)」のこの「制度の範疇」にあり、「女系の妻嫁制度の概念」がある限り戻し得る事には何の問題も無かった。
然し、問題は「後家」とその「後家」が引き連れて来る「連れ子の女子」には「女(むすめ)の範疇」にはあるが、ところが「男子」にはこの「制度の範疇」には原則無い。
そこで、「後家」は「子供の有無」は別として、「女(むすめ)の範疇」に合ったとしても其処には“「生女」”ではないと云う基準がある。
従って、「尼僧」としての「受け入れの態勢」に入る事に成るのだ。
前段でも論じた様に、「嫁家先制度」に依って、「優秀な男子」の場合は、一度、「青木氏」を興し、「四家」の「嗣子」に戻す「特例の制度」があった。
この制度を使って、「後家」が引き連れて来た「男子の場合」には、前段で論じた「嫁家先制度」を適用されたらしいが、この範疇は、そもそも、「四家20家」に入るのではなく「氏人の範疇」と決められていた。
従って、元々、「嫁家先」の多くは、「四掟」に基づく「高位の位階」の持つ「秀郷流青木氏」を含む「青木氏族」であるので問題は少ないが、「位階の先」が「四掟の範囲」として、取り分け、「下剋上の危険」に於いて「お家乗っ取り」等に強く晒された「青木氏族外」であった場合も多くあった。
この場合の処置が難しかった事が読み取れる。
それは「相手」がこの「連れ子の男子」を潰しにかかる危険は絶対であったからである。
この「男子を連れ戻すと云う事」は、「保護」を「四家」に求めている事に成る。
「嫁家先」もそのつもりの行為であった。
資料の僅かに記録から読み取れる範囲では、「四家」に入れずに、「菩提寺」に「小坊主」として保護し、その行く末は「僧侶」として匿ったと読み取れる。
これであれば、「当時の青木氏族の慣習」では、「寺に入る事」はその意味を持ち、例えその事が露見したとしても「社会的慣習」で下俗した「僧侶」には「相手」は手を出せない。
この「社会慣習」のみならず、例え手を出したとして「青木氏族のシンジケート」に護られている故に、むしろ「相手」は手を出せば逆に「自分の身」が危ない事に陥る。
「影の抑止力」に依って「影の世界」(青木氏の名が外に出ない事)の中で手を出した一族が潰されてしまう事が発生する。
(注釈 これは前段でも何度も例を以て論じた様に、世間から観れば「記録」から垣間見れる「恐怖の青木氏の抑止力」であった。
それ程に恐れられていたのだ。
故に、「政争やお家政争」に巻き込まれない“「保護」”が絶対に可能と成っていた。
尚、「室町期」までは「神明社」も「伊勢神宮に繋がる祖先神」であるので「保護の隠れ蓑策」であった筈だが記録が見つからない。無かったと云う事は少なくとも無いだろう。
「恐怖の抑止力」もあるが、“「不吉」”として記録しなかったと観られる。
但し、「江戸期」は「神明社」を全社を幕府に託した為に無い。それ故に幕府に依って消されたと観ている。)
況して、最後には「伊勢」であれば、「不入不倫の権」、「信濃」であれば「菩提寺」は勿論の事、「高い位階を持つ事」である故に、前段でも論じた「善光寺」の「浄土宗系院内」にも「保護施設」として入れる事も出来た。この施設は江戸期末期まで続いた。
従って、資料よりの「読み取り」では、「女子、男子」共に「四家の制度内」に保護できた事に成る。
そこで問題なのは、“「戻り後家の本人」”である。
「子供」がいなければ、「氏人の出生先」に戻す事は出来たが、そもそも“「戻り」”は“「子連れ」”のその「意味」を強く含んでいた。
多くは、戦乱などや下剋上などで武力を持たない故の衰退と潰されての仕儀であって、「嫁家先の子孫存続」の「子供連れ」であった。(四掟の一族で秀郷流青木氏は別)
然れば、少なくとも「手出し」の出来ない処に「匿う事」が前提と成る。
「確実に匿う事」が出来るのは、後は唯一つである。
それは、「斎王の里の館」にである。
そこには、「斎王」等の生活を看る「支女」に近い“「女人(女官)制度」”があった。
凡そ、光仁期後の平安期初期の最盛期には、「約200人程度の女官(青木氏の歴史観 下記)」が「伊勢青木氏」に居た事が記録にある。
この里は「青木氏族の経済的支え」の中で成り立っていた。
況して、そもそも、「平安期」には「皇族の経費」を極力軽減する為に、「嵯峨期の詔勅と禁令の文面」の通り「源氏賜姓」にもある様に保護せずに突き放した。
「四掟の範疇」の「四家の家」にも「朝廷の保護」は無く同然であった。
更には、元より、「武家社会」と成った「鎌倉期」から始まり、「室町期」には、最早、「朝廷」には「伊勢神宮」に関わるこの里の様な「設備等」をも支える「その力」が既に無かった。
当然に、「膨大な費用」が掛かる「斎王制度」も「衰退」を余儀なくせざるを得ず、細々とそれに近い「祭司」が行われるに伴って衰退した。
(注釈 「天智系青木氏」の「直系尊属の仁明期後」は「斎王に関わる事」の「祭司」さえも無く成った。)
前段でも論じた様に「嵯峨期」からは、「皇親族、令外官」(表向きは、「賜姓」を外れた事で「賜姓五役」等も)を外される結果と成るに従い、「青木氏族」に執つては対抗として「献納」もある程度抑えた。
(注釈 これが「嵯峨期の詔勅」の文面の元と成った。)
これを最低限にして、「女系の妻嫁制度」の所以を以って、一族の「女(むすめ)」の多くがいる「多気の里」の「館や分寺」で保護した。
「斎王」と云うよりは、寧ろ、「青木氏族」に執っては「女系の妻嫁制度の一環」、つまり、「斎宮、斎院、物忌、支女、女官」としての「多気の里の設備」と捉えていた事に成るだろう。
この“「多気の里(青木氏の呼称)」”は、“「斎王の里(郷土史の呼称)」”と云うよりは「青木氏族」に執っては無くてはならない「青木氏族の有効な設備」と成り得ていたのである。
この段階(嵯峨期以降)では、最早、“「斎王」の云々”では全く無かった。
(注釈 「斎王」を強調するは「郷土歴史」によくある「後付けの美化」であろう。)
だから、「家人」がこの「戻り後家の始末」を担当していたと観るのが正しいと考えられる。
「青木氏族」からは、故に、上記のこの経緯から、「斎王」では無くこの「斎王」に成るに近い、或いは、「斎王」に代わって「祭司王の女官(後家等、采女ではない)」を出していた。
従って、「青木氏の概念」としては「光仁期から仁明期前の斎王」は「祭司王」(後家)に切り替わっていた事に成ろう。
(注釈 そもそも、「斎王」は、「王族」やそれに準ずる者から嫌われて「仁明期以降(青木氏の直系尊属)」から成る者は少なく成っていた。
筆者は、故に、「光仁期前後から桓武期-嵯峨期」までの“「政争没」”と成っている「内親王」(後宮)や「王女」や「宣下外の女」、「采女の女」の多く「女(むすめ)」は、“「斎王逃れ」”からこの“「後家」”に成ったと観ている。
記録的にも、この「政争没」は「光仁期から仁明期(伊勢青木氏出自の四代目)」の「四家」の「女(むすめ)」に実に多い。
そもそも、「政争没の記録」は、一度、「後家(後宮)」として扱われ、政争の中の世俗から外された「斎王や祭司王や物忌」等と成った事から、“「世にでない記録」”として遺さない様にする為の「奇策」であったらしい。)
(注釈 此処で云う「後宮」とは「后妃の事」を指すが、「后妃が住む宮」を云う事もある。
皇室では、「后妃」と「嬪妾」には「ある身分格差」があり、「嬪」は「ひ」と「ひん」と「ひめ」の「三つの呼称」で分けられる「格差」があり、「ひ」と「ひめ」は皇族内の「「女(むすめ)」:娘の位置」にあった。
「ひん」は「純潔制度の同族血縁」の中で生まれた中間の位置にあった。)
従って、これらの「斎王逃れ」からその「世俗の役目」の終わった「四家」の「女(むすめ)」(後家を含む)から派遣された“「祭司王(いつきつかさのきみ)」”は、「青木氏族」の定められた「一定の過程」を経て、この「慣例」に従い「斎王の里の館」に住まわせて保護していたのである。
当然に、これは最早、「青木氏族の女系の妻嫁制度」の「保護一環策(奇策)」であった事に成る。
つまり、ここに、この「戻り後家」を匿い、“「女官(呼称:十二女司)・「女(むすめ)」ではない)」”として働かせていたらしい。(「青木氏の歴史観」)
松阪の「家人の家」に「遺された手紙の資料」の一節に、次の様な「行」が遺されている。
“「・・・の御手配・・小夜の仕儀の事・・多気に使わさせ、此の故を以って・・済ませ候の段・・」”とあるは、この「行の経緯」から読み取ればこの意味であろう。
「小夜」とは、この「戻り後家」の幼名で隠したのであろう。
「福家」からこの件が表に出ない様に・・・と云う「隠語」(暗号)を使って、この隠語の「細かい指示」があって、「小夜の保護」を頼みその結果の報告と観られる。
ここで、上記の「後家」に於いては、“「青木氏族の女系の妻嫁制度の一環策」だった”と論じたが、実は、これを証明する言語があるのだ。
それは、この“「後家」”そのものなのである。
前段までに、論じてきた事を、一度、思い起こして頂きたい。
この“「言葉(後家)」”が最初に出て来るのは、「光仁期の青木氏族」が執った“皇族から逃れようとする事件”が「青木氏族」に多く起こった。
この事は「伝統―14等」にも詳しく論じてはいるが、そもそも、“「家」”と云う言葉にある。
その前に当時として、“「家」”とは、「公家(公の家)」に対して「武家(武の家)」に使う事を許された「家の言語(格式の言語)」である。
当時は“「家」”は「高い格式を持っていた言語」であった。
要するに「氏族」に与えられた「格式を表現する言語」であった。
ところが、江戸期に「姓族」が「武家」と間違えて呼称される資料が多いが、「姓族」は「氏族」ではないので、正しくは「武士」である。
唯、現実には、「氏族(武の家)」と成り得る“「家」”とは、江戸初期には最早、「数族」に限られる社会と成り得た事から無視して、「江戸幕府」は、「姓族の武の集団」を遠慮なく「武家」と呼称して「権威付け」として鼓舞した。
その「発端」と成ったのが、「公家諸法度」に対して「武士」に課せた「武家諸法度」として決めつけた事にある。
(注釈 「西の政権」、即ち、「冠位や位階」などを与え「歴史的な慣習仕来り掟」を改めさせる役を負っていた「京の朝廷(西の政権)」は、この事に異議を申し立てたが無視された経緯がある。)
“「家」”とは、そもそも「青木氏族等」や「近江佐々木氏族等」の「皇位の冠位や位階を持つ氏族」に限定されて使われる「家柄の格式を示す用語」であった。
当然に「家」に着く“「侍」”も同然である。
「藤原氏」の「斎蔵」を担う「官僚族の公家」とは、元より、当に「斎(いつき)に関わる族の家」を云う。
「公・きみ」の「斎・いつき」の「立場や役務を表現する言語」である。
前段でも何度も論じた様に、「斎」は、朝廷を構成する「三つの政治体制」の「三蔵」の「大蔵・内蔵・斎蔵」の「斎」であって「祭事」を意味し、即ち、「政治」の位置にあった。
この「政治の位置」を司る「朝廷の集団」を「公(く・きみ)」として「公」の「集団(家)」で「公家」と称した。
この奈良期に於いては、「軍事を司る集団」は「政治体制」の「三つの中」に無かった。
「大化の改新」で信頼できる「皇族」より「賜姓」され「臣下」して「近衛の親衛隊」を構築した。これを「朝臣族」と称した。
この「武」を以て「近衛」の「賜姓臣下朝臣の族の集団」を「武の家」と称し、「公家」に対して「武家」とした。
後に、「大蔵氏」から出自した「坂上田村麻呂(桓武天皇)」の「征夷大将軍」と「近衛軍団」を「三つの政治体制」に加えて、「三蔵」に「武家」の「軍事集団」を加えた。
この時、「斎蔵の家の公家」には「蘇我氏の事」を顧みて安全を期する為に個々にこの「軍事集団を持つ事」を厳禁した。
この「近衛軍団(武家)」と共に「軍事集団」を「天皇」に帰属させて互いに牽制させて「政治の安定」を図った。
これが「武の家」の由来であり、「武の家」とはその「立場の格式」を意味する。
「家」とはその意味で使われたが、「姓化」が進んだ室町期中期から江戸期ではこれを無視した。
「施基皇子」を始めに「賜姓臣下朝臣族」と新たに成った族に許した「朝臣族の武」を以って「朝廷」に仕える「貴族」を「武家貴族」として呼称を許し、これを「氏族」とした。
そして、この「呼称の許される範囲」を、「宿禰以上の冠位」があり、且つ、ある一定の以上の位階、つまり、「従四位下の以上を持つ者」の「族」を「家」とされた。
この「氏の構成を許された族」には、“「家」”を興す事を許した。
「幾つかの家」を興し構成してこの「家の全体」を「氏の族」の「集団」として認めたのが、要するに“「武家」”なのであり、「伊勢の青木氏族」は、それが「四家」、即ち「20家」と「郷士族50(氏族)」で構成していたと云う事に成る。
従って、ここには論理的に上記の様な「姓の論理」は働かないのである。
「近江佐々木氏」を含む「近江から甲斐」までが、この「家」を興して「血縁族の郷士集団
(氏人)」を持つ「氏族」として朝廷に認められた事に成るのである。
唯、ここで「武家貴族」を認められながらも「家」を興す以上は「公家の禁令」に従って「武の朝臣族」であっても「賜姓族臣下族」ある事を前提に「表向き」には「武」を持たなかった。
但し、「影の抑止力」を持った。
ここが「補完役との違い」(「姓」と「武力」の「保有の容認」と、「身分格式の同格扱い」を)としたと成る。
そうでなければ「補完役」は務まらないであろうし「当然の朝廷の認知」である。
当然に、これは「四六の古式概念」の中にいて「20家の四家」と成る所以でもある。
従って、「家」の無い「氏族」は存在しない理屈と成り同然に「姓族イ」と成る。
当然に、同様に「氏人」が存在しなければ「氏」とは云えない事に成る。
つまり、「氏人」が「氏族」を構成するからである。この逆の論理も成り立つ。
「氏族」=「家」=「武家」=「氏上」=「氏人」=「郷士」=「家人」
以上の関係式が出来る事に成る。
(注釈「嵯峨天皇の新撰姓氏禄」に依れば、「嵯峨源氏」は「単なる朝臣族」の「姓族イ」に所属し「皇別」の中でも「皇別の真人系48氏」に組み込まれていない事は興味深い。
「嵯峨期の詔勅の文言」を厳しく実直に反映している事に成る。
この「嵯峨源氏」を含む「賜姓源氏族11流」はこれに従う以外になかった。
従って、この厳しさから「源氏」には「賜姓を受けない源氏」が多かった事に留意が必要である。
つまり、「上記皇別の48氏」に組み込まれるには相当厳しいものがあって、「賜姓」を受けられない侭に「源氏」を名乗つても「賜姓源氏」に成っても全て滅亡した。
「清和源氏の満仲-頼信系河内源氏」だけが「一切の朝臣族の柵」を排除し、「姓」と「武力」の「保有」と、「身分格式の同格扱い」の「欲望」を捨てて「姓と武力で生きる事」を選択したと成る。
上記の関係式を捨てたのである。)
「秀郷流青木氏」は、「青木氏の補完役の策」として「特別賜姓」を受け「武家貴族」として認められたが、これを以って「氏族」としても認められた。
その「氏族」には、「永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏、遠藤氏、結城氏、工藤氏等の「361氏」の“「家」“が認められた。
そして、尚且つ「冠位と官位」でそれを補填して証明するに至り、「補完役」である以上は、これを前提に、「摂関家の公家」ではないが、「青木氏族」に近い「氏族」に等しい「高位の位階(貴族)」と「格式身分」とを与えられたのである。
つまりは、「賜姓源氏」を超えた扱いを受けた事に成りその意味は大きいし、「補完役」と云う「意味合い」も大きいし、「賜姓青木氏五家五流への配慮」が高かった事に成る。
(注釈 然し、結果として観方に依れば平安末期には「近江」「美濃」「甲斐」はこれを裏切り源氏化した事に成るのである。)
従って、「氏人構成」の無い「姓族」には、「氏族」でない限りは、この「氏人と家の論理」は成り立たないのである。
「氏族」の「氏上―氏人」の「血縁の関係」とで構成される集団と、「姓族」の主君と「無縁の契約関係」で構成され集団とは、根本的には全くその「構成条件」が異なるのである。
つまり、上記の「氏族」=「家」=「武家」=「氏上」=「氏人」=「郷士」=「家人」の「関係式」が姓族には成り立たないのである。
そもそも、そこで「姓族」には、前段でも論じたが、次の「二つ」がある事を知って於く必要がある。
(a)平安期初期の「新撰姓氏禄」に記されている「姓族(新別に分類)」
(b)「室町期中期から「下剋上で勃興した姓族(諸潘)」
(a)は、正式に「四段階の格式の姓」の位を表す「姓族」として認められているので、「姓族=分家=武家=家臣」となる。
天武期の「八色の姓制度」に基づく「格式位の姓の意」である。
但し、「本家―分家」は、「縦の関係」にある。
この「家臣」は、「主従」の「縦の契約関係」にある。
「氏族」の「福家と四家の関係」は、「横の関係」にあり、「氏上、氏人、家人の関係」も上記の関係数式の通り「横の関係」にあって、「契約の関係」では無く「血縁の関係」にあった事である。
故に、「横の関係」と「血縁の関係」にあったからこそ、「青木氏族」に起こった「後家」は、「氏族」にのみ適用される「言語」と成り得ていたのである。
これがその論理的証拠である。
つまり、上記の「氏族」の「家」に起こる「血縁制度」であるからこそ「後の宮(高位の人)」の「家」であるのだ。
前段でも何度も論じてはいるが、「嵯峨期」の「新撰姓氏禄」に記載の「48氏の氏族」がこれに当たる。
この論理的には「48氏」が「家を興す権利」を朝廷から認められていた事に成る。
注釈として、結局は「bの姓」は、朝廷から「家を興す権利(氏族)」のそのものを認められていないから、従って、残るは「分家」として発展せざるを得ず、つまりは、「一つの家」を“「分身の様」に分ける“と云う理屈と成る。
故に「分ける家」なのであって「家・氏」を別段に興していない理屈に成る。
“「分家」”ではない「独立した四つの家」の独立する「20家」も「横の関係」として成立する故なのである。
依って、「分家」にしろ、「家臣」にしろ、「縦の関係」で成り立つ以外には無く、「縦の関係」である以上は「主従の雇用契約の関係」に成るは必定である。
「主君-家臣」を何れが「契約関係」を破棄すれば「主君-家臣」では無く成るが、「血縁関係」が存在する以上は「氏人・家人・郷士」から離れる事は永遠に出来ない所以である。
「氏族」=「家」=「武家」=「氏上」=「氏人」=「郷士」=「家人」の関係数式は付いて廻る事に成るのだ。
従って、この独立した「四つの家」の独立する「20家」も「横の関係」に起こる「後家」は「姓族」には論理的には「起こらない言葉」と成るのだ。
そもそも、“「後家」”は、皇室の“「後宮」”に通ずる言葉であり、皇室の「宮(高位の人)」、即ち、「皇別の氏族」の“「家」”であり、この“「家」”は「青木氏族」の様な「氏族」のみに“「後家の言葉」”(後の家)と同じく使われる切っても切れない言葉であった。
(注釈 「公家」は「斎に位置する家」であるので「政治的」には力はあっても「経済的」にも「武力的」にも力は無く、「斎に関わる権威を貸す荘園制」に頼っていた為に本質は弱体であった。
「氏族」としてでは生きて行けない為にこの「公家」には「姓族化する傾向」は大変に多かった。
「荘園」を下に「姓化」して禁に反して「武」を持って生きた「公家」は殆どは100年未満で潰された。)
この結果として「姓」を興している事は、「氏族」では無い事に成り、「朝廷の宣下に反する事」に成る。
この場合は、上記の関係数式は無く成り「氏族」を朝廷より外される事に成った。公家も同然であった。
(注釈 但し、例外はあった。それは「補完役」であり、「特別賜姓族」で「円融天皇の賜姓」あると云う「高位の特別の格式」を有する事により「公家の関係族」にありながらも「北家藤原氏」と云う「氏族(秀郷流)」が成り立つのである。
そして「361氏」と云う「姓化した族(現地孫末裔)」には「分家」が特別に認められた。
依って、「家紋」も「総紋」を「下り藤紋」とし乍らも”「二つ副紋方式」”と云う「姓族」には無い「特別な方式」を採用する事を許されたのである。)
従って、「五家の青木氏族」には「分家」は無いのであって、「四家の構成」なのであって「姓」は無いのである。
当然に「家紋」は無く、「氏族」を示す一つの「象徴紋(笹竜胆の文様:特別に「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の「青木氏の神職」には「神紋の柏紋」の使用を許された)」だけなのである。
(注釈 現実に、「皇族」と多少の「血縁関係」を有する「嵯峨期の姓族(新撰姓氏禄)」とは異なる。
庶民から興した「姓族現象(b 最初は安芸国の渡来系海部氏)」が本格的に起こった「室町期」には、この力を借りる事が多く起こったのである。
庶民から興した「姓族(b)」も、主従の間には懸命に「氏族の様な血縁関係」を構築しようとしたが、これは「血縁の歴史の期間」が異なるし、元より前段でも論じた「数々の氏」と「家を構成する制度」が異なっている。)
故に、「乱世の戦乱」や「下剋上」での事のみならず、「生き残りの為」に「氏族の条件」を外して「姓族(a)」に頼って生きた為に「氏族」を外された例も多く、結局は、「20氏位」から室町期末期には滅亡して仕舞い、遂には「正規の氏族」は「5氏程度」/「4000家紋」に成り得たのである。
この“「家」”とは、そもそもこの様な「構成条件の意味」を持っていたのである。
当然に“「後家」”もである。
(注釈 決して「江戸期の武家」との混同は留意されて間違われる事の無いように「本伝統」では理解して頂きたい。
少なくとも本サイトでは理解に苦しむ事が起こる事を避けたい。
明治期には家紋と称される文様は8000と成った。)
「光仁期」で、初めて、「朝臣族の武家(施基皇子の伊勢青木氏)」の「天皇家」が出た事に依る謂れから、「青木氏族」がその時、「救済策」として「四家制度」の中に、この「政争」の多い「王族」から逃れられる制度を敷いて護った。
これが“「四つ」の「家」”、即ち、「四家」の「空き」のある「母」と成っている「家」に、その「後目」の「家」に入る「王女」(「女(むすめ)」:無理やり宣下)として、「皇室の後宮」に因んで、皇室は「宮を興す事」に相当する「家を興す」の故を以て“「後家」“と云う呼称を使って「皇室」に対して「公然」とした「逃避の救済の制度化」を施したのである。
(注釈 記録の一部に、全ての「青木氏族」に対して「神明社」(巫女役として)を通じて越前域にても行った事も散見できる。
「青木氏の守護神の神明社」では「皇祖神の子神」である事から「朝廷の仕来り」を引き継いで「穢れ」を「お祓いする役」として「巫女の事」を”「巫・かんなぎ」“と呼んでいた事が判っている。
この役は「女(むすめ)」であってもよいし婚姻後も務められる役でもあった。
当然に「後家」も務められた。
どの程度の「後家」や「女(むすめ)」が務めたかは判っていない。)
そこで、上記の注釈に関して、だとすると、「500社弱の神明社」等に対して「女(むすめ)」の数では賄いきれる数ではない。
「斎院、斎宮、物忌、支女」等に成る「女(むすめ)」であり、「神明社のかんなぎ」までは果たして全てを賄えていたかは疑問である。
この注釈に関して「五家五流青木氏」は、勿論の事、24地域に分布する「116氏の秀郷流青木氏」の「補完役の力」も借りていた可能性が充分にある。
「116氏の秀郷流青木氏」にも「宗家筋(四掟の範囲)」では「同様の制度」を敷いていた以上は、一族一門の「女(むすめ)に対する処置」も同様に起こっていた事があり補完されていた事は解るが、この事に就いての補完は“どの程度のレベルでの補完であったか”は定かではない。
唯、「116氏の秀郷流青木氏の24地域」にも「宗家筋(四掟の範囲)」で「春日社」が「守護神」であった事も考えると、「かんなぎ」は存在し得ていたので、実質は「協力関係の程度」かと観られる。
筆者は、「361氏の秀郷一門」が当初は「春日社」を主幹していたので、「第二の宗家」としては算数的表現とすれば「361/116の義務範囲」であったと観ている。
後に、前段でも論じたが、「興福寺事件以来」は「361氏の守護神」は「春日神社」に変革したので、「116氏の「宗家筋(四掟の範囲)」(宗家筋(四掟の範囲)」は「春日社」を主幹する経緯と成った。
それでも何しろ、「平安期」では、「家的」には「116/5」と観れば、「地域的」には「24/5」と観れば、「500の神明社」だけでも運営するには難しい事は歴然としていた。
「室町期」では、殆どは「伊勢と信濃」と成り得ていたので「宗家筋(四掟の範囲)」の補完無くしては無理であった筈である。
但し、「伊豆」は独自運営し、衰退した「近江と甲斐(美濃は暫くは伊勢と信濃青木氏が支援を出来なかった)」ではその力を無くし停止していた。
(注釈 「美濃青木氏」は室町期末期に「別の形」で「伊勢と信濃の力」が隠れていた「美濃青木氏」を引き興した。
「一色域」に隠れていた「美濃青木氏の末裔一族」を「経済力」と「強力な武力」の支援で引き興して「蒲郡青木氏」として、「伊川津七党の青木氏」の「田原青木氏」として興す事に支援し「徳川氏の国衆」として成功した。)
「江戸期初期」には、「幕府へ神明社の引き渡し」と「菩提寺の顕教令」で全て「青木氏」からの「かんなぎ」等は停止したとある故に、「116氏の秀郷流青木氏」からの「補完の必要性」は無く成った事が判っている。
注釈から話を戻して、それが最初の“「後家」の呼称”であった。
正式名は、「光仁期」では、一応、天皇家の中にいた場合に於いては“「後宮」”として呼称されていたが、同じ出自の「青木氏族」では、「家を興す謂れ」から“「後家」”であった。
(言語的に「宮」と「家」は同意で格式的意味合いが異なる。)
そもそも、「四家内の妻嫁制度」、又は、「四家内の嫁家先制度」として、あり得ない「叔父や兄」の二親等、三親等の「妻」として入る事はあり得ない事で、明らかに「救済策(逃避の便宜策)」であった事が判る。
これで一応は「醜い政争」から逃れられ、その後は、再び「妻嫁制度」と「嫁家先制度」に依って嫁ぐ事が出来て、「青木氏族」の中で生きる事は出来たのである。
将又、「女系の妻嫁制度」の上記の「尼僧、比丘尼僧、斎王、物忌、支女、斎王、斎院、斎宮」と、“「十二女司役」の「女官」”とそれを支える“「采女(上記)」“として生きて行く事かの、この“「三つの選択肢」”が広げられて行った。
奈良期の「朝廷の制度」に見習い「青木氏」には当初の頃から「十二女司(じよし)」と云う「女官」がいた事も”「後家」“と伴ってその存在は判っている。
「女系の妻嫁制度」の「全体の事務や雑務」を支える「女官の事」である。
これには「女(むすめ)」と成らなかった「氏人の郷士」の「他の女」の多くが務めたらしい。
そして、ここから「福家の支援」に依って「郷士・氏人」に「嫁」に向かったのであろう。
これらの「独特の青木氏の呼称」から観ても「四家の政所の制度」の多くは「女系」で占められていた事が明らかに判る。「女系族」であった事が判る。
恐らくは、「氏人の郷士の娘の救済策」として、「十二女司」を務める事でここでも同じく「女(むすめ)」としての「教養」を身に着けさせたのであろう。
これは「氏人の底上げ策」であろうし、「強力な絆構築策」であったし、「第二の女(むすめ)策」でもあったと観られる。
上記の通りの氏族全体の「数多くの女の力」で以て、これも「男系」では成し得ない「女系の妻嫁制度」ならではの「堅い絆」が構築されていた事が判る。
注釈 青木氏の中での「十二女司(十二司女と書かれているのもある)」は、次の様な役目であった。
「内司」、「蔵司」、「書司」、「薬司」、「侍司」、「単司」、「殿司」、「掃司」、「水司」、「膳司」、「酒司」、「縫司」の「12の役目」を指し、「青木氏の保護施設」の「日常の雑務・庶務」を12に分けていた。
「意味」は読んで字の如くであり、「奈良期の天皇家の伝統の継承」であったと観られるが、取り分け、「伝統」と云うよりは「雑務」を分ければこの様に成るのは当然で、そもそも「皇室の伝統継承」と云う感覚は無かったと考えられる。
「斎王の館」などでのこの様に分けていたと考えられる。
「多気の家人の家の資料」に遺された損傷激しい読み難い資料から公的資料と査照して再現した。
これを要約すると、次の様に成る。
1「内司」は「妃嬪妾」の「入妻や後家」等の女系制度の人の「内回り」の仕事、
2「蔵司」は「金銭の財務関係」の仕事、
3「書司」は「手紙代筆」や「文書の保管管理」の仕事、
4「薬司」は「薬医回り」の仕事、
5「侍司」は「身辺警護」の仕事、
6「単司」は「簡単な雑務」や「外回り」の仕事、
7「殿司」は「寝所回り」や「便所回り」の仕事、
8「掃司」は「掃除」などの「清掃」に関わる仕事、
9「水司」は「水回り」の仕事、
10「膳司」は「食事の準備」とその手配の仕事、
11「酒司」は「酒宴」やその手配の仕事、
12「縫司」は「衣服回り」の仕事
以上と成る。
この「十二の役務」には、更に「実務の下働き」をする者がいて、例えば、記録に遺る者としては、6には「下働き」の「仕女(しめ・かがりめ)」と、10には「下働き」の「炊女(かしきめ)」が別にあった事判っていて、これには「階級」は無く、「青木氏」と関係する「地域の民」がこれを務めていたらしい。
この「二つ」は、“務めていた”と云うよりは「通いのパート」の様な契約にあったらしい。
必ずしも、「女」に限らず中には「男」も居た様な表現である。
前段でも論じたが、総じて彼等を「男子衆:おとごし」と「女子衆:おなごし」と呼ばれていた様である。
この「呼称の語源」は、「男子:おとこ」の「おとこ衆(おとこしゅう)」から変化して「おとこし」、「女子:おなこ」の「おなこ衆(おんなしゅう)」から変化して「おなこし」と成り、これが昭和の頃まで「伊勢」から「奈良や紀州」に遺る方言として紀州では「こし」が「ごし」と呼称した。
筆者の子供頃には使われていた方言で、筆者の家にも二人の「おとごし」と「おなごし」と呼ばれる人が雑務全般を担っていた。
この「伊勢青木氏の伝統」が強く地域に根付いていた為に「方言」と成って遺されている所以である。
(注釈 筆者はこの「おとごし」の人から「植木の手解き」を受けた記憶が事がある。
明治期の鎌倉の縁者の家では「支女」に当たる人が10人いた事が判っていて、この頃までこの「伝統」は何とか引き継がれていた事が判る。)
上記で論じている様に、“「皇室の後宮」”に仕える「女官」に対して、これに相当するのが“「青木氏の後家」”等であって、従ってそれに仕える「青木氏の女」に関わる「役目柄」である事に成る。
訳して、“「皇室の後宮」”≒“「青木氏の後家」”の関係式が成立する。
故に、「皇室の十二女司」≒「青木氏の十二司女」と成る。
元々、「中国の王朝」の「宦官制度(男子の官僚)」に対しての制度を、「奈良期の朝廷」に持ち込み天「皇家の後宮」の制度として敷いた。
この制度は変化して、「平安中期」から「後宮制度」の「身分格式の立場」を持たして「内の政所」の「女性の発言権」が整い、「外の斎蔵(政治)」に対しても「発言力」を増した。
更に「10世紀初期頃」から整理され充実した「後宮制度」が出来た事に依り改めて「後宮以外」にも「女官」にもこの制度を敷いて力を発揮させた。
ところが、ここに目を着けたのが「摂関家」であって、この「摂関家」が「斎蔵の外政」に対して「勢力拡大」の為に「内の政所」を掌握する事で「内外の両方」に触手を伸ばした。
「内の政所」と成った「後宮」を引き受けて「政治の斎蔵」の「一つの仕事」して掌握し「内外の政治の権力」を広げた。
この為には、「内の政所」の内容を「摂関家」に都合の良い様に変更し、「内の政所」の「格式や身分」を下げて「内の発言力」を弱めて「摂関家の発言力」をより完全に確立させたのである。
この為にも「天皇家」に対して「内の政所の発言力」に及ばず“「血縁」”を入れて「摂関家の血縁の浸透(例えば、上記の許嫁等)」を図った。
この段階で、「十二女司の内容」は「原型」を留めない程に完全に権力に浸潤する様に変化したのである。
この「歴史的経緯」から観ると、「青木氏側」は「光仁期の前頃」からの事であるので「青木氏の十二司女」の方が早く「原型」を保持していた事が判る。
「青木氏」では、この「原型」が上記した様に「五家五流青木氏」に「妻嫁制度」や「後家制度」が確立して行く過程で生まれた時期に採用されていた事が判っている。
この「古い制度」の「采女・うねめの呼称」が「多気」に遺っていた事がこれを証明している。
青木氏の資料の一部に「十二女司の内容」の変化に伴って“「十二司女」”の違いの呼称があるのはこの事の証明に成る。
この事から「青木氏」は「十二女司の内容の変化」で敢えて変更したのでは無いかと考えられる。
注釈として、前段で「支女(ささえめ)」が「多気」にあったと記したが、これは「十二女司の内容の変化」に依って、「青木氏の制度」では「内容の変化」と共に概念上も異なり「司女」では無く成る。
故に、“「司女」”を「青木氏の概念」に沿った“「支女」”として“「采女・うねめ」”と共に関連付けた「資料の記載」であったのではないかと観ている。
そうすれば確認が取れないが、論理的に「合理性」が認められる。
そうするとこの「合理性」から「司女」=「支女」の位置にある事は勿論の事、「支女」は「采女」との間には、「十二女司」の様に「階級的立場」の概念、或いは、「格式位置付け」の概念が強く存在しなかった事を意味する。
これは「単なる職務の概念」であって「女系の妻嫁制度」の所以と観る事が出来、“「共生を旨とする氏族」”ならではの事と考えられる。
時代的には、「摂関家の十二女司」>「青木氏の十二司女」=「古式制度の原型」
内容的には、「摂関家の十二女司」≠「青木氏の十二司女」
∴ “「皇室の後宮」”>“「青木氏の後家」”=「真の古式伝統」
以上の論理が成り立つと観ている。
更に、論じると、「摂関家の十二女司の制度」は次第に権力に侵され「自然疲労劣化」して、その「劣化」は「三条天皇」から始まり、遂には「後三条天皇期」では「天皇家の血筋」の中には制度の崩壊に依って「摂関家の血縁」が無く成ったのである。
この結果、「摂関家の衰退」と共に「十二女司」=「後宮」の「摂関家の伝統」が「天皇家」の中に薄れ、結果として「青木氏の後家制度」が「古式伝統」として遺されたと云う事に成るのだ。
云うまでも無いが、「摂関家」が衰退すれば同じ「藤原氏北家の秀郷流一門」は勢力を依り拡大させる事に成る。
当然に「第二の宗家」であった「秀郷流青木氏族の補完役」はより勢力を伸ばした事に成る。
この「女系の妻嫁制度」と「嫁家制度の血縁」で繋がる「二つの青木氏」にはこれらの「古式伝統」は上記の論調により遺る所以と成って行った事を意味する。
故に、この「経緯の中」の制度の“「後の家」“なのであって、この様に歴史に関わったそれなりの「青木氏族」の「意味」を持っているのである。
この「後家等の言葉」の「構成と表現」が如何に「青木氏族の所以」を示すものであって独自の「青木氏の歴史観」であったかが判る。
故に、添えて「同族」で「四掟」で繋がる「近江佐々木氏」も敢えて「縁者の青木氏族」を「青木氏の研究」と共に研究して遺す事に努力していたかもこれで判る。
これだけの「歴史観」を有する「縁者の青木氏の伝統」を放置して消す事の無い様に共に努力した事と成る。
これも「青木氏族」であるからこそ解明できる遺すべき「日本の古来の歴史観」であるからだ。
> 「青木氏の伝統 49」-「青木氏の歴史観-23」に続く。
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Re:「青木氏の伝統 47」-「青木氏の歴史観-20
[No.366] Re:「青木氏の伝統 47」-「青木氏の歴史観-20
投稿者:副管理人 投稿日:2019/02/03(Sun) 17:08:40
> 「青木氏の伝統 46」-「青木氏の歴史観-19」の末尾
> 「女系族」の「四六の古式の概念の続き」
>
> それが最初の“「後家」の呼称”であった。
> 正式名は、「光仁期」では、一応、天皇家の「後宮」として呼称されていたが、同じ出自の「青木氏族」では、「家を興す謂れ」から「後家」であった。
> そもそも、「四家内の妻嫁制度」、又は、「四家内の嫁家先制度」として、あり得ない「叔父や兄」の二親等、三親等の「妻」として入る事はあり得ない「救済策(逃避の便宜策)」である。
> これで一応は「醜い政争」から逃れられ、その後は、再び「妻嫁制度」と「嫁家先制度」に依って嫁ぐ事が出来る。
> 将又、「女系の妻嫁制度」の上記の「尼僧、比丘尼僧、斎王、物忌、支女、斎王、斎院、斎宮」と、“「十二女司役」の「女官と采女(上記)」“として生きて行く事か、この「三つの選択肢」が広げられて行った。
> 「朝廷の制度」に見習い「青木氏」には当初から「十二女司(じよし)」と云う「女官」がいた事が判っている。
> 「女系の妻嫁制度」の「全体の事務や雑務」を支える「女官の事」である。
> これには「女(むすめ)」と成らなかった「氏人の郷士」の「他の女」の多くが務めたらしい。
> ここから「福家の支援」に依って「郷士」に嫁に向かったのであろう。
> 恐らくは、「氏人の郷士の娘の救済策」として、「十二女司」を務める事でここで同じく「女(むすめ)」としての「教養」を身に着けさせたのであろう。
> これは「氏人の底上げ策」であろうし、強力な絆構築であったし、「第二の女(むすめ)策」でもあったと観られる。
> これも男系では無く「女系の妻嫁制度」で「堅い絆」が構築されていた事が判る。
> 故に、この経緯の中の制度の「後の家」なのであり、それなりの「青木氏族」の「意味」を持っているのである。
> この「後家の言葉」の「構成と表現」が如何に「青木氏族の所以」であったかが判る。
「青木氏の伝統 47」-「青木氏の歴史観-20」
「女系族」の「四六の古式の概念の続き」
更に「青木氏の歴史観」に関係する「呼称」について更に論じる。
先ず、前段の「後家の呼称」に関係する「比丘尼」に付いてである
「紀州藩」の代々の藩主の「比丘尼寺」が筆者の家の近くにあって、それをサポートしていたお家があった。
これは恐らくは「伊勢青木氏との付き合い」から「初期の紀州藩」はこの制度を敷いたと考える。
この「比丘尼の寺」は小山の西の下は直ぐ海岸沿いに面し、東と北の下は小さい湖で、南は急な山手にあり、この小山を「比丘尼山・びくにやま」と呼称していて、その南の山手に世話をする「農家の人」が住んでいた。
そして、この寺に通ずる道は狭い道一本であって、子供の頃の昭和20年初期の頃は未だこの「古びた寺」に「老女の比丘尼僧」の二人が住んでいた。
この農家の息子と友人であった為に見学をした事がある。
祖父と父からこの時の「経験」を話し、「伊勢青木氏の比丘尼寺の事(松阪の寺名は匿名にする)」を聞いて不思議に思った事がある。
その後に「伊勢の歴史」に興味を持ち勉強し始めた。)
(注釈「祖父・先祖」は、「紀州藩の14代の方」までの「初代からの長い付き合い」が続いていて、「歌や俳句や詩吟や茶道や禅問や南画や書道等」の「素養の師匠」もしていた。
この故あって、「代々徳川氏からの贈り物の遺品」が多くある。
「比丘尼寺の事」もその後に「松阪の寺」と合わせて良く理解が出来た。
前段でも論じた様に、「女墓の慣習」が無い限り「姓族」には「比丘尼寺」は普通は無い。)
(注釈 当時の江戸初期の慣習では普通は“「分寺」”を持つと云う「仕来り」は「氏族の菩提寺」があっても少ない。先ず経済的に持ち得ないだろう。)
筆者は、「後家の比丘尼」が起こる原因の一つは、前段でも検証した様に婚姻の可能な年齢差のこの「10歳」が婚姻の際の「仕来り」か「掟」と成っていたと観ているので、これが原因であろう。
これは、「入り妻側」に執っては「四掟の範囲」では「厳しい掟(10歳)」に有ったと考えられる。
「無制限の入妻」に執っては、「10歳の年齢差」が合っても「有制限の嗣子(48歳引退)」に比べれば、「40年間」は「長い事」に成り、又、直ぐに婚姻できない「煩わしい入妻の掟」があったとしても、間尺に合い「比丘尼僧」として「下界から隔離される掟」は「苦しい掟」とは成り得なかった筈である。
故に、「比丘尼」が起こる原因と観ている。
殆どは、「継承者」と「母と成る入妻(義母)」との間には「親子関係」の制度は、多少の「母性の情愛」が合ったとしても「女系の妻嫁制度」の「掟と仕来り」での原則は無いのであるから、それはそれとして「氏族の定め」の「当然の享受」として理解すれば「40年」と合わせれば「比丘尼」には「寺に入る事」への理解が出来ていたと観られる。
何故ならば、上記した様に「掟に反する母性の情状」が働き、「好ましくない結果」を招きかねないし、「掟」そのものが根底から崩れる事を知っていたし、その様に「入妻」として教育されて来た筈である。
「四掟の氏族での血縁ある事」を前段でも論じた様に「女系の妻嫁制度」が浸透していてこれを知っていて「入妻」として入って「妻嫁制度の伝統」があった筈である。
「嫁家先制度」で「祖母(出妻の先祖)」からも充分に教育されていた事は確実である。
故に、云うまでも無いが「女系の妻嫁制度を壊す不理解」が起こらない様にする「四掟」を前提する血縁なのである。
「四掟」を合わせれば「不必要な不理解」は起こらいは必定である。
この事を理解していた上で「後家」や「比丘尼」に成るとするならば「入妻」に成るとする「当然の心構え」が必要と成ろう。
ではこれを如何していたのかである。
そこで注釈として、考えられる事として、「四掟の範囲の青木氏族間」では、“「入妻の決定(許嫁)」”は定まりやすい“と上記した。
然し、そうすると、”「早熟」“と成るならば、この「早熟」に対して何もせずに座視するは得策ではない。
その為に「何らかの策」を構築したと筆者は観ている。
“「入妻」として{待つ期間}”を「相手先」は“「許嫁」“と云う「制度」で早期に補完していたと考えられる。
然し、例えば、「伊勢や信濃の青木氏側」ではその「許嫁の制度」があったかは疑問である。
唯、だとしても「全ての相手先」が「許嫁の制度」を持ち得ていたかも疑問である。
奈良期に執った数々の制度から観て、取り分け「妻嫁制度と嫁家先制度」から奈良期に「入妻」が成立している事から考えると、必然的に“「許嫁」”もこれに「連動する制度」として「特定の階級」には合ったとは考えられる。
上記の検証から考えても、「入妻」と「許嫁」は「対の物」として咀嚼しなければ成り立たない。
故に、これは「青木氏の歴史観」として考えられる。
これが後に「青木氏」から世間に広まったと観ているが、ところが、この“「許嫁の文字」”が存在する資料からは何故か散見出来ないのである。
これも何故なのか大いに疑問である。
その事に就いて先に考えて観た。
「青木氏」からの「許嫁」は「出妻」に関わる事であるが、次の事が考えられる。
1 「四掟の相手の血縁源」への「出妻」には「許嫁の制度(公家族)」が無かった事。
2 「青木氏側」に文書の中で「許嫁に代わる呼称」が無く別の呼称があった事。
3 「若年婚姻(女性)」の概念」が浸透し、元々、「許嫁の呼称」がなかった事。
4 「許嫁の概念」が実質は「武家貴族」には格式から低く考えられていた事。
5 「賜姓五役と云う役目」に「呼称」が沿わなかった事。
以上の事が考えられるが、「青木氏」にはこれが全て適用される。
そもそも、そこで「青木氏」から離れて、「公的に成っている記録」から観て使用された時期は”「平安期中期頃」”からと成っている。
その理由は「政争」から「摂関家」が「天皇家」に対してその「勢力」を伸ばす目的から「天皇家」に対して「后妃嬪妾」として「事前に送り込んだ政略」から起こったとされている。
その「許嫁の呼称」の記録は、その少し後の”「平安期末期」”に観られると成っている。
その後は、「摂関家」も”「平安期末期(三条天皇以後から後三条天皇で隔絶)」”には「天皇家との血縁関係」が無く成り、「摂関家の許嫁の制度」は一時衰退したとされる。
その後の”「室町期」”には、「姓族の豪族(室町期)」が政略結婚で勢力拡大に使われたとされる。
”「江戸期の中期」”に成って「力のある民(庄屋、豪商)の領域」まで広く使われたとされる。
然し、ところが「許嫁の意味合い」は違って使われる様に成って行ったとある。
これが許嫁の歴史的経緯であるとしている。
従って、最初の「許嫁の言葉と制度」としては「平安期中期」から使用される事に成った事に成るので「青木氏族」には無いのであろう。
ところが、時系列として観て「青木氏族」に於いては、「光仁天皇期頃以降」に「女系の妻嫁制度」等を敷いた事に成るので、「許嫁システム」としては存在するも「許嫁の呼称」を使用していなかった事にも成る。
では、“どの様な言葉が使われていたのか”と云えば、「青木氏側」からすると、”「女(むすめ)」”という制度の字句で記録されていたと考えられる。
そうすると前段でも論じた様に、その「実際の呼称」は、「青木氏」では「比売さま(ひうぃさま)」であった事に成る。
つまり、この「女(むすめ)」と「比売さま(ひうぃさま)」の「二つ」が「青木氏」に存在するのに「許嫁」の「制度と呼称」が存在する事は「制度的な論理的矛盾」が起こり合わない。
そもそも、「比売さま(ひうぃさま)」には、元より「許嫁の意味」も含んでの呼称であった筈である。
何故ならば、「女(むすめ)」の「比売さま(ひうぃさま)」は、元々は「その立場」に合って「福家」で養育を受けていたのである。
従って、「養育を受ける」と云う事は、何時かは相手は兎も角も「嫁ぐ事」には間違いはないからであり、そのための準備期間であった。
そこで、“個々に相手が既に決まっていたか”は確定する資料がないので定まらない。
然し、筆者は大方は定まっていたと考えている。
その根拠は、「青木氏族」である「補完役の秀郷流青木氏116氏(960年頃)」と「秀郷流一門主要五氏の血縁源361氏」の「大血縁源数」を考えれば、「補完役の掟」として「四掟制度」を敷いている限りは、少なくともその都度では間に合わない事は明々白々の事である。
この為には「相互の執事役」は「相互調整」を常時執っていた事が制度の一環として伺える。
そうでなければ、「女(むすめ)」の「養育制度」と「女系の妻嫁制度」と「嫁家制度」は成り立つ話ではない。
これは、「女(むすめ)」の養育制度を敷いている限り「氏族の絆」を固める「氏人への血縁制度」も同然である。
従って、「四掟の制度」を大前提にする限りは、「許嫁の呼称」は、兎も角も「大方の嫁家先」は「執事間の間」で「調整」が「公然の事実」として行われ出来ていなければならない。
つまり、前段でも論じた様に、「女(むすめ)」の「数」が“氏族の中に少ない”という事もあり得た事もあるが、ここに「4」の「玄孫域」とか、「5、6、7」域までの「女(むすめ)」の養育をする必要は無い筈である。
明らかにこの「4~7の域」は「執事間の調整」のその「結果の表れ」が原因していると観ている。
唯、「女(むすめ)」の「数」が“氏族の中に少ない”と云う事に関しては、その可能性は低い。
何故ならば、下記の事が理由として云える。
上記の「性に依る発育過程」から“少ないと云う事”は補える事。
平安末期までは「五家五流賜姓青木氏」から、鎌倉期からは信濃と一部近江からも補える事。
「伊勢の50の氏人」と「信濃の50の氏人」と、未だ「四掟の範疇」に遺っていた「近江佐々木氏と近江青木氏の宗家」から補える事。
以上の「三つの事」を鑑みれば、“氏族の中に少ない”という事は無かったと観られる。
これを検証して観ると、「361氏の全て」を「嫁家先」とするのは別として、「同族補完役の青木氏族」の「116氏」の「嫁家先」に対して次の様に成る。
仮に氏=1として、116氏/(50伊勢+50信濃+10近江)≒1
以上の関係式が成り立つ。
上記の計算は、「子供=1とした前提」であるから、つまり、この「嫁家先=1の数式」が成り立つ様に、「女(むすめ)」の養育範囲を「4の玄孫域」までを基本とすれば充分に成り立つ事に成る。
この数式論から、次の関係式が導かれる。
「116氏+公家範囲(20)」+(361氏/5氏:主要五氏限定)≒208
「玄孫域」までとして「4の倍数」と成るが、この「3地域」のその「子孫力」が「4の均一倍数」とは成らず、それを見込んで観ると次の様に成る。
「伊勢4+信濃2+近江0,5」/3≒2
以上の関係式で平均=2と成る。
従って、平均の子孫力=110・2≒220
「全体の子孫力」の相互バランスは、∴ 208/220≒1
以上でほぼ成立する事に成る。
これが「青木氏族の氏族としての血縁力」に成り、上記の数は“少ないと云う事”は無かったと考える事は出来る。
そうでなければ「玄孫域の理屈」は成り立たない。
この検証の関係式から観れば、「女(むすめ)」の養育域は「孫域」でも充分に良い筈であった。
もっと云えば、「伊勢と信濃」の域で、「孫域:2」≒「平均子孫力:2」の数式論で何とか成り立っていた事に成る。
仮に「曾孫域」までならば、「曾孫:3」で、次の数式が充分に成立する。
(伊勢の50+信濃の50)・「孫域:3」=300
故に、300>208が成立し、“少ないと云う事”という事のみならず、「許嫁の制度」のみならず、その「呼称の必要性」は、「比売さま(ひうぃさま)」の「呼称に持つ意味合い」で充分であった事が証明できる。
但し、そこで「玄孫域」までの制度を現実に採った事は資料からも明らかであるので、これは「近江域10」と「信濃域50」に、“ある事”で賄えなくなった事を意味する。
では、同時にこの“ある事”が起こった事に成るので、それは何かである。
それは、室町期の「下剋上と戦乱」にあったと観られる。
「平安期末期の近江域と美濃域の青木氏の参戦後の衰退」が長く続き、「衰退」は室町期末期まで持ち込んだ事、
それと同時に室町期の「信濃域の国衆の侵入による弱体化」が「信濃青木氏」を弱めた事、
以上の「二つの事」が起こって仕舞った。
そして、「伊勢青木氏」だけが無傷で生き残り、逆に、「室町期の紙文化」に依って「巨万の富」の勢力を確保した。
その「巨万の富の事」で以て、「信濃域」を引き上げ助け「青木村」に独立させ、「近江域」は「末家の分家」を引き出し「近江域」と「摂津域」とに蘇らせた。
(注釈 この「美濃域」では、「伊勢」と持ち直した「信濃の青木氏の勢力」が「青木氏の旧領地の一色イ」から「塩尻の山間域ロ」にかけて隠れていた「美濃青木氏の主家の末裔イ・蒲郡青木氏」と「美濃の土岐氏系青木氏ロ・伊川津七党の田原青木氏」を引き出して「国衆」に仕立てて「経済力の支援」と「生きる為の近代武力:鉄砲」を与えて成功している。)
前段でも論じたが、「秀郷流青木氏との関係」を継続させる為にも、この間の「伊勢域だけの子孫力」に頼らざるを得なかったと云う事である。
これが「4の玄孫域」であり、非常時の「5、6、7域の顛末」にあったのである。
参考 特別の範囲
5 来孫(らいそん)
6 昆孫(こんそん)
7 じゃく孫(じゃくそん)
以上と成る。
そうすると、上記の検証から「相手」を固定して「許嫁」までして「女系の妻嫁制度」を敷く必要性がなかった事に成る。
従って、後はその相手に応じてどの「比売さま(ひうぃさま)」を嫁がせるかに依ると考えられ、その「養育具合」を見定めながら「許嫁先・執事の差配」が凡そ決まって行くシステムに成っていたと考えている。
注釈として、そもそも「比売さま(ひうぃさま)」が大きく関わっていた事に成るとすると、この“「比売さま(ひうぃさま)」の「語源」が何処から来たのか”と云う事を知る必要がある。
そこで、これを紐解く。
先ず、古代の“「売る」“の「韻の語源」は、“「自分」を「相手」に「認知」に至らしめる“と云うものであって、貨幣経済が深化するに従ってその結果から「対価の有無」は別にして、”物を相手に渡す行為として使われる言葉“にも成って使われて行った。
決して「売り買い」が主の語源では無かった。
それは「市場経済」が未だ成立していない世界の中でこの意味合いは無かった。
飽く迄も、“「自分」を「相手」に「認知」に至らしめる“と云う単なる単語であった。
更に、「比」の「敬いの言語」も、“「ある物」に対して「別の物」の方が良い”とする行為が「別の物」を「優位に至らしめる言葉」として用いられる様に成った。
これがある物に対しての差を以てして「敬いの言語」と成った。
この「比」の源は、前段でも論じた様に、人間に言葉が生まれた「母音(アオウエ):母韻」に対して「イ」が含まれていない。
これは「イの音韻」は「父音(チイキミシリヒニ):父韻」に含まれ「ヒとイ」は「父韻」に所読する別格の韻音なのである。
つまり、「イ」と共に「ヒの父韻」は「父の尊厳」の「語意」を持った「初期の語源」なのであって、「優位に至らしめる言葉」=「敬いの言語」として用いられていた。
後に、この「二つの意味を持たせた造語」の「韻音」が「青木氏」にだけ遺された“「比売」”と成り、「父韻側」を強め「後側」の「母韻」を添えて「売」を「韻」にして弱め「比」を「主」にして出来た「祖先神」に伝える「神への言語」と成った。
従って、この「二つの意味を持たせた造語」には、“「相手」に「優位」に至らしめ「認知」に至らしめる“と云う「意味合い」を持った言語であった。
つまり、元よりこの「造語の語源(比売)」には、「許嫁の様な意味合い」を含んだ「古来の呼称用語」であったのだ。
(注釈 これは「青木氏の歴史観」であるので、この事を知るか知らぬかで大きく意味が異なり、「真の史実」を見逃す事に成るのだ。)
(注釈 「青木氏」はそもそも「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」を「守護神」とする“日本広し“と云へど「唯一の氏族である事」を知り、これを「前提とする事」を知る必要があり、全ての解釈はこれに依って変わる。
全ての歴史的事項に関して「神明社の概念」が左右している。
「青木氏に存在する言葉」の語源はそれだけに難しいのだ。)
つまり、「女系の妻嫁制度」の如く“「女性」”が司る「神」への「呼称用語」であって、その役目の「皇祖神の斎王」と同じく「祖先神」の「比売(ひうぃさま)」も同じ位置にあったのだ。
従って、前段から論じている「女系の妻嫁制度」は必然で同然に「神明社(神仏同源)の概念」なのであり、突然に「女系の妻嫁制度」を敷いた訳では無く、「氏族」として存在する以上は「男系」は論理的にあり得ないのである。
何れにしても「氏族」としては特異なのである。
要するに「光仁期から仁明期」までは「斎王・いつきのきみ」も「比売・ひいぅさま」も「青木氏」から出ている所以である。
「王・きみ」は「様・さま」と「同源の意」である。
つまり、「許嫁」に関する論議は、「神明社の概念」を思考の中に入れれば、「女系の妻嫁制度(=「女(むすめ)」)」と連動していた「嫁家先制度(=許嫁=比売さま・ひいぅさま)」であった事に成る。
従って、「連動するシステム」はあっても、“態々、「許嫁」と云う呼称は無かった”とする結論であって、且つ、“その必要性はなかった”と云う事に成るのだ。
もっと云えば、「神明社の概念」を思考すれば「許嫁」と成る制度は、本来、「品格を落とす所以」と考えられていた事に成る。
「賜姓五役」からも「許嫁の意」はあり得ない理屈であり同然であるのだ。
唯、「藤原北家一族」の主幹の「補完役側の青木氏族(主要五氏)」には「許嫁の呼称」は、「三条天皇期(976年)」~「後三条天皇(1034年)」から無いとする。
「秀郷流青木氏(960年)」にも、「犬猿の仲であった摂関家」にはその「公的な資料」の「許嫁の呼称」が「摂関家に合ったとする研究記録」がある。
この説と照合すれば、「許嫁の呼称」は「補完役側の青木氏族(主要五氏)」にはあった事が考えられる。
「神明社」では無く、「賜姓五役」ので役務は無く、強いて「許嫁の呼称」を排除する必要があったかは疑問である。
然し、前段でも論じた「神明社=春日社(摂関家菩提寺の「興福寺事件」のきっかけ:神仏同源の採用事件)」の関係からすると、充分に避けた事もあり得る。
「神仏同源の事件」である以上は先ず避けるであろう。
唯、「妻嫁制度での概念」が「嫁家先に浸透」が起これば必然的に消えた事もあり得るが、確認できない。
筆者は「消えた説」である。
敢えて、「後宮制度」の様に「摂関家の衰退の原因」と成った「摂関家の真似」はしないであろう。
仮に「許嫁の呼称の有無」が、「北家秀郷一門」にあったとすればそれは「近江」に赴任していた「秀郷流近江一門」と「秀郷流脩行系青木氏」の「二つの氏」にはあった事が伺える。
取り分け、「摂関家」と大きく繋がっていた「秀郷流脩行系青木氏」にはその可能性が高い。
(注釈 後の平安期末期に「摂関家」と「秀郷流青木氏の主要五氏との血縁」を考えれば、その影響から考えればある筈の「証明する資料」が見つからないが,“無かった”とは云い難い。)
それは何故なのかである。
「秀郷流青木氏」には、特別に「116氏に繋がる姓族の存在」が「現地孫」としてある以上はこの「現地孫の姓族」を一門として引き付けて置くには、又、組織を維持するには「姓族」に向ける「嫁」は必然的に必要に成る。
但し、「宗家筋」には、「純潔性を保持する義務:高位の立場」があった事から考えると、「現地孫を設けない掟」があった事から“「許嫁制度」は無かった”と考えられる。
この為に、「分家筋の傍系尊属族」の中では「許嫁の制度」は「室町期の資料」の中には認められるがそれ以前は判らない。
では、「秀郷一門」の「青木氏側との血縁時」には「許嫁の呼称」は使っていたかは疑問で、「四掟の範囲」での血縁であった事から筆者は使っていなかったと考えている。
「物理的な視点」で考えれば、「女系の妻嫁制度(=「女(むすめ)」)」と連動していた「嫁家先制度(=許嫁)」の“「システム」”が別の形で相互に敷けている以上は、「比売さま(ひいぅさま・下記)」で充分に成り立って行けていたと観ている。
つまり、「妻嫁制度」と「嫁家先制度」がある以上は論理的に矛盾が生まれる為に「入」と「出」も重複するような「許嫁制度」としては無かったと云う事に成る。
「ひうぃさま」の意味に含まれる「許嫁の考え方」が「氏族」としては「初めての事」であって、「呼称」とその「制度」は「青木氏族」には無かったと云う事に成る。
「妻嫁制度」と「嫁家先制度」のこれは「奈良期の末期(770年前頃:記録から第四世族が認められていた)」から始まった事で、「公的な記録」にある「藤原氏摂関家」の「許嫁制度」は「平安中期の頃(890年頃)」である。
そうすると時系列的に観れば、これには「約100年の差」があり、「四掟の範囲の公家族」と「青木氏」との間で盛んに行われた「慣習仕来り掟」が、「摂関家」の中にも「許嫁の制度」として取り込まれて行った事に成る。
これが「960年以降」に「補完役の秀郷流青木氏」との血縁にも採用されたと云う事に成る。
(注釈 「公的に示されている記録」には、“「許嫁」”と云う文字は出て来ないで、説はあやふやな表現と成っている。
「青木氏」と同じく「血縁の基本概念」(神明社の概念)として採用されていたと観るのが正しいと観られる。)
この記録には、“「天皇家の后」に対して「摂関家の権勢」で先に決めていた“とする「摂関家の中の記録」に依るもので、”「摂関家」の中でも「家」と「家」の間で「男系」の基で「女子」を「政治と権勢の具」として用いられて行われていた“とする記録である。
「青木氏」の「賜姓臣下朝臣族の五家五流の間」と「公家との間」の「四掟」にて「女系の妻嫁制度」の基で行われていたとする事と制度的に少し異なる。
つまり、”「100年後」”に「青木氏の基本概念」だけを用いたと観ている。
(注釈 「嵯峨天皇」が編纂した「新撰姓氏禄」やその他の「三代格史書」には、「敏達天皇第四世族春日真人族」の「四掟の真人族」として位置づけされているのに対して、「藤原氏摂関家」は「神別格」に位置付けられている。
この事から、少なくとも「血縁に関する慣習仕来り掟」に於いては「皇別格」の「青木氏の慣習仕来り掟」が優先され、「神別格の摂関家」は「平安期初期の嵯峨期の詔勅禁令」に依って「家の制度」として用いる事が出来なかった筈である。
故に、「青木氏の直系尊属」の最後と成る「仁明期:850年」の後の頃からこの「禁令」が緩み「血縁の基本概念」を使用するように成ったと考えられ、時系列の検証と一致する。
依って、その少し後の「平安中期の記録:890年頃」に採用したと成っていると観られる。)
(注釈 元に戻して、「青木氏族」には上記の検証は、「継承年齢」や「停年年齢等」を「要領化とした本」があった筈であるが、恐らくは、この「要領本」なるものは「二度の出火」や「伊勢攻め」等の事から消失したと考えられいる。
一番最後の「明治35年の松阪大火」のこの時の「戒め」として「口伝」でも、重要な記録等を一度外に出したが他の類焼した「他家」が「丸焼け」に成っているのに「失火元」が「資産」を遺す事は「道義」に反するとして、再び火の中に入れさしたとある。
「曾祖父」はこの時、改めて「青木氏の由来書・伝記」を“復元せよ”と云い残したとある。
それを最終、筆者が何とか復元した事に成るが、解明できない事は筆者の伊勢も含めて多い。
遺るは「伊勢の氏人や家人の家の遺された資料」や、「信濃青木氏の資料」や、「近江佐々木氏の研究資料」から割り出したものを集めて「読み込み」をしその中での散見で紐解いた事であった。
そこに「論理的な計算」を加えて導き出して確定に及んだもので、まず間違いは無いと考えられる。)
そこで「注釈」を更に検証するとして次の事が挙げられる。
この「妻嫁制度」で「母」と成り、上記の要領で「継承者」が決まると、呼称は、「母」は「全体の母」であって、ある「四家」に居るその「義母(ひごさまの呼称)」は“「後家様」”と云う呼称で呼ばれたとある。
この「重要な呼称」と成る“「義母(ひごさまの呼称)」と「後家」”に付いては、「青木氏族の資料」等にも多く散見できる。
次に、「光仁天皇の后」と成った「井上内親王」は、「妃嬪妾」と「二世族や三世族」に対して「厳しい軋轢(怨念説)」を起こしていたらしく、これを恐れて「後家」等に成る等の「人生の選択」をして「上記の保護支援の施設」に入る等の策を選んだとする資料も一部の資料からも読み取れる。
その後のこの「怨念事件」の「公に成っている記録」、つまり、「政争から来る怨念説」には、この事からの影響に依る「後家の類似の論説」が記載されている。
「光仁期」の「朝廷で起こった政争事件」と「青木氏で起こった影響・後家等」が一致している事から「前者の朝廷の怨念説」と「後者の青木氏の軋轢説」の事は否定は出来ない史実と成る。
更に次に「青木氏の歴史観」として「義母(ひごさまの呼称)」と「後家の呼称」と同じくもう一つ「下記の呼称の事」が重要であるので特記する。
筆者の研究では、奈良期の古代は、「義母(ひごさまの呼称)」も「女(むすめ)」も「元の発韻」は同じで”「ひいぅさま」”であったと考えている。
そして、何れも「家の女」に対する「ひの{敬いの意}」で用いていたと考えられる。
ところが、奈良期末期から平安初期に「女系の妻嫁制度」が確立されて行き、そこで、「女(むすめ)制度」の「養育制度」の過程で、「義母(ひごさまの呼称)」」と「女(むすめ)の呼称」を分ける必要が生まれ、「ひ」に対して「「義母(ひごさまの呼称)」には「妃か嬪」の字を宛がい、更に敬語をつけ備えて「韻」で「御のごぅ」で“「妃・嬪御さま」”で対応した。
そして、「女(むすめ)」に対しては「ひうぃさま」の呼称で遺した。
「売」は「韻」で「うぃ」として「ひうぃさま」で「ひいさま」と呼称されていた。
「神仏同源の立場」からであると考えられるが、「扱い等の差異」は左程なく、従って、その呼称は「比(ひ)」に対して「義母(ひごさまの呼称)」が俗世から離れて成る”「比丘尼」”の「丘」は「韻」を踏んで「きゅぅ」と成り、「比丘」は「ひきゅぅ」と呼称していた。
つまり、「比売さま」は「ひうぃさま」に対して、「比丘さま」は「ひきゅうさま」と呼称されていた事に成る。
「女(むすめ)」の「比売さま」が務める「巫女」も「比丘」も同源であり、次の様な「同格の位置」にあった。
「女(むすめ)」=「比売さま」=「巫女さま」=「比丘さま」=「神仏同源」=「神明社」
何故、この様に成るかは同然の事で、「皇祖神」の「内宮の天照大神」と「外宮の豊受大神」は「女性」である。
この「子神」である「祖先神の神明社」である限りは「神仏同源」とすれば、「義母(ひごさまの呼称)」の“「比丘」”は「女性」と成るは「同然の事」である。
(注釈 ここに平安期末期頃から「世間との隔離」が生まれ、「特異性が際立つ事」と成って行ったし、「賜姓五役の務め」も「青木氏の慣習仕来り掟の伝統」も一切に「世間との隔離」が出て来た。
これは、“「青木氏が興した」“と云うよりは、「世間の変化」が「青木氏の世間との隔離」を起こさせたと考えられる。)
注釈として、因みにその「世間の変化」が顕著に成り、結局は“「青木氏の氏是」と「家訓」”をより強硬にして「世間に出る事」に対して護ろうとしたのである。(A)
「世間」に出れば益々起こるこの「差異の特異性」から「潰される」が落ちである。
これが「室町期(姓化)」にはそれが「最大」と成った。
幸いにして「紙文化」が起こり「商い」を前面に押し出し「巨万の富」を獲得し「青木氏」を影にして生きた。)(B)
「結論的な説」としては、「世間」とは逆に「有形の氏」を極力抑え、「無形の商い」の「伊勢屋」を前面に押し出した。
この「二つのAB」が「伝統の青木氏」を救ったと云う事であろう。
それだけに江戸時代初期頃には未だ世間にも僅かにその「存在と権威(“伊勢の事お構いなしの家康の「お定め書」”)」は知られていた。
然し、現在に至っても世間には歴史に相当に見識のある人以外は「青木氏とその歴史」は知られない所以である。
「江戸期」に出した「歴史学者の近江佐々木氏」の「自らの氏族の研究記録」と共に「近江佐々木氏の青木氏の研究記録」も世間には出さずに「非売品」としていた意味合いが良く判る。
この「非売品」は少なくとも「二つの青木氏族の宗家筋」には存在していた筈であるが消えている。
(注釈 「近江佐々木家宗家」に遺されていた書籍を1690年頃に一度見直したとあり、その後に明治期(明治10年)に「近江宋家の佐々木氏(東大教授)」が「過去の研究記録」を更に復元したとある。
これが「国の史書」として保管されている筈である。)
この「佐々木氏」の「江戸期の研究記録」には遺されている事から「入間の遺品」も空襲で殆ど焼失したと観られる。
兎も角も「サイトの意味合い」はここにある。
上記の「青木氏の各種の呼称」は、これは「嵯峨期の詔勅禁令」に依って「同じ語意」のものの使用が許されなかった所以である。
そこで室町期から使われた誤解を招いている“「姫」”の基は、「中国南北朝」の頃(440年頃~590年頃の間)の「王朝の姓」で、その後も専ら「中国」で使われていたものである。
それが「大和」では「ひめに類する言語」としては皇室内では一般に“「嬪・ひめ」“が長く用いられていた。
「皇別(真人族)」に類する「祖先神」を有する「青木氏」では、上記している様に「比売・ひうぃ」が用いられていた。
ところが「武家社会」と成った「鎌倉期頃」からその「慣習仕来り掟」が踏襲する事は出来ず、況して、「姓族イ(主に神別)」には「比売さまの呼称」は到底に無理であり、結局、「中国の王朝の姓」を用いて「権威性」を持たせて「姫」を使う様に成った。
「室町期」に入り規制の無い「民」から身を興した「姓族ロ」もこの「姫」を盛んに使用した。
それは、どの様な根拠に基づいて使われたかは、初期の頃の「姓族ロ」の元は、「後漢の第21代献帝の孫の阿多倍王(589)年」が引き連れて来た「職能集団の渡来人の末裔(姓の初代は「海部氏・陶部氏」である)」であった事に依る。
この「中国の王朝伝統」を引き継いで来た「帰化民族(姓族ロ)」が、初期に使い始め「姓族イ」もこれに準じて「姫の呼称」を踏襲した。
要するに、「姓族イ」は「嬪」と「比売」を「嵯峨期の詔勅禁令」で使えなかった事に依り「姓族ロ(主に諸蕃別)」に準じたのである。
つまり、それまでは前段でも論じたが「青木氏の女・女(むすめ)」は、そもそも、「伊勢神宮の斎王」の例に観られる様に、“「神に仕える」”の位置にして「臣とする立場」にはそもそもなかった。
同然に「特別賜姓族」で「補完役の秀郷流青木氏の主要五氏」も「春日社」を守護神とする為に「宗家筋」に於いては「姫・ひめ」は無い。
(「現地孫の姓」は認められている「分家筋」にはあった。「春日社」は「春日神社」ではない。)
これらの「青木氏族の独特の呼称」を咀嚼して、注釈の前の「後家の話」に戻す。
そして、何故ならば、この「斎王と斎院(斎宮)」は、結果として務めが終われば、「青木氏族の管理下」にある“「伊勢多気郡明和」”の“「斎王の里」の館”と呼ばれていた処に入る事に成る。
結果としてその「プロセス」は同じ事に成るからである。
上記の注釈の「姫」では無い事の二つとして、この「斎王の館の存在」がそれを証明し、「姫」が「斎王の館」に入る事はどの様な「仕儀の変化」があったとしてもあり得ない。
依って、「姫」は「後家」に成り得ないのであって、「後家と姫」との間には論理的矛盾が起こる事に成る。
形式上、“「後家」”に成ったとしても、その「後の扱い」は、「女(むすめ)」の「掟」の中に依然としてある。
「姫」は「女(むすめ)」の定義の中に無く、且つ、「神明社の概念」に沿わない。
それは「伊勢」とは異なり「信濃の周囲」は、「姓族の土豪」がひしめいていて「小県の信濃青木村」も全国を武力を使って「弱い処」を狙って渡り歩く“「国衆」”の多い地域として知られる程に安全では無かった。
「信濃」は、平安期はそれなりに「天領地」であった事から一時は「不入不倫の権」で護られていたが、室町期の「下剋上」と「戦乱」では「抑止力」で押し返す程の完全の力も無く無視された。
この時の「伊勢からの援護」は「経済的なもの」に留まり、鎌倉期からは前段でも論じたが「伊勢と信濃間」の間には「衰退した美濃域」があり「抑止力の完全な援護」は低下していた。
室町期では「美濃域の神明社などの中継点」が排除されていたことが原因している。
室町期末期にこの為の対策を採った。
(注釈 それは一色域で隠れ潜む「美濃青木氏」を「経済力と武力」を持たせて引き出し「蒲郡青木氏」を置き、同様に対岸の田原に「伊川津七党」として再興させて「美濃土岐氏系青木氏」の「田原青木氏」を「国衆」として置いて再興させ、「伊勢」からの「海運の要所」として湾内を占有した。
そして、「近代銃」で「国衆の傭兵」で完全武装させた。この「銃」で三河の松平氏は拡大する。)
この上記の「後家」が、その後に直ぐに慣習化して「制度」、つまり、「後家制度」として成り立ち、この”「後家」”を利用した「斎王の里の館の道筋」の「慣習制度」は「仁明天皇期(850年頃):青木氏の直系尊属」まで続けられた事が「青木氏族の資料」から読み取れる。
その後は「清和期」に「1件の記録」が読み取れるが、その後の「後家としての言語」は資料からは何故か出てこない。
これは恐らくは、「天皇家からの四世族の条件」と「仁明期後の直系尊属」から外れた「二つの事」が大きく原因していると観られる。
つまりは、「後家の隠れ蓑策」が、「天皇家」に於いて「男系の皇位継承」が順調に進み「喫緊の問題」とは成ら無く成ったと云う事であろう。
「青木氏族」から「天皇家に関わると云う事」が無く成ったと云う事にある。
ところが、然し、「伊勢青木氏」の中では、この「後家制度」と「ひいさま」の呼称の二つは、「口伝」で伝えられる範囲では“「ある程度の形」“を変えて明治35年まであった事が書かれている。
この「ある程度の形」とは、次の二つにあった。
先ず一つは、「継承者」が先に死亡して遺された「入妻」が「義母」と成り、その後に成って、「四家の全体の母」と成った時に使われる呼称の「後家さん イ」。
次の二つは、一度、「出の嫁家先制度」で何らかの理由(「馬爪」か「不祥事))で「実家の四家」に戻った者の事を云い、この呼称の「後家さん ロ」。
以上の「イとロ」の「後家さん」で、後は「尼僧」に成るかして通すかにあった。
この「ロの後家」に付いては、一度、「後家の身分」に成ってから、「出産可能な年齢20歳」までの「若い者(上記検証の範囲)」であれば、「出生の氏人の家」に戻される事が慣例として多かった様である。
但し、そこからの「嫁ぎ」は「青木氏の福家の指図範囲」には無かったのであろう。
これには“「無い」”と云うよりは、一度は「女(むすめ)」と成った以上は「合った」のではあるが、「後家」である以上、その「後の人生」を良くする為に「余計な口出し」を避けたのであろう。
つまり、「戻す事の方」が両者に執って何かと都合が良かったのであろう。
それには「尼僧」や「斎王の館」に「采女(うねめ)」として入る事を選択した者も多く居た事が記されている。
但し、更に、“他家に嫁ぐと云う事“は無かった様である。
これは「女系の妻嫁制度」の「信頼と品格」を崩す恐れがあった事に依る。
この二つの「後家のイとロ」を、最初に制度として確立した「青木氏族」では、“「後家」”と呼称した。
この「後家」の呼称は、歴史的には江戸期に一般化して広く拡大して、昭和の中頃まで使われていたが、唯、それでも「後家の呼称」の「使われる範囲」は限定されていて、主に、「庄屋や名主や村主や豪農等の特定階級」の家筋で起こった事に対して、“「後家」”が「便利な呼称」として使われていた。
それには、資料の読み取る範囲で咀嚼すると、「主家」へのある種の「尊敬と親しみと興味」を示す言葉として使われていたと観られる。
つまり、「青木氏族の呼称」であった事に依る「社会の憚り」であったと考えられる。
然し、明治期(13年頃を境に急激に変化)の「地租改正や農地解放等の政策」で、この「主家との関係」が壊されて、この「後家の意味合い」は「平等主義」に託けて「揶揄」へと変化して行った。
「主家の存在」と云うものそのものが次第に“庶民”から敵視されて行ったのである。
「明治政府の方針」であった事は否定できない。
この時、「青木氏」でも、最早、この「憚り」は無く成って、同様であったらしく「社会の勢い」に押されて「形見の狭い思い」をした様で記録にもある。
当然にこの“「後家の呼称」”も青木氏の資料の中の記録から消えている。
その消えている中でも、但し、「殖産の恩恵」と「氏人との過去の関係」から、更には、元を質せば「血縁関係」が「氏人の郷士」に広まっていた事からも、もっと云えば“「地権」”を無償で払い下げられたと云う「恩義」もあって、寧ろ、「御師様」や「氏上様」から「徳宗家・徳農家」等と呼ばれていたと「伊勢青木氏の記録」に遺る。
又、この事に就いては「松阪郷士の氏人」であった方からの「お便り」にもある。
端的に云えば、「地租改正や農地解放等の政策」に依って「氏上様」や「御師様」からの関係が消えて、「徳宗家」や「徳農家」に変化したのである。
この様に、「呼称に関する伝統」は歴史的に大きく関わっている事が判る。
然し、その「呼称の伝統」も「青木氏」の中で維持するにはそう簡単な事では無かった。
「世間の影響」が大きかった様であるが、その「苦労の実記録」は残念ながら遺されていない。
資料から「読み取る事」以外にはないのが現実である。
取り分け、「伊勢」以外には「伝統の史実」でも乏しい現実の中では尚の事である。
戦乱等の「消失や紛失」の事で「乏しい事」は判るが、「伊勢」と共に「目に見えない苦労」が現実に合ったのだ。
この事に一度触れて置きたい。
注釈として、幸いに「伊勢青木氏」に「明治35年頃の変化の記録」が詳細に遺されている。
恐らくは、「他の青木氏族」にも合ったとする証明に成ろう。
それは次の通りである。
口伝で伝えられたのであろう「信濃の青木氏宗家の方」からの「お便り」にも「以下の事」に似た事があってこの所以を明確に記載されている。
「酒造」や「早場米」の「殖産」を新たに興した事が「徳宗家」や「徳農家」の変化に力を添えたと考えられる。
筆者の祖父の叔父に当たる人がこれを成した。
その後の、昭和の中頃以降は、「人権」を叫ばれる時代と成り、そこで、例え「社会制度」の異なる「歴史的な呼称」であっても、容赦なく現在に強引に合して「差別用語」として決めつけられた。
そして、「台頭する社会主義的勢力」の「政治的な思惑」に使われて消えて行った。
これに付いては、「伊勢青木氏と信濃青木氏」では、この「勢力の制裁」は驚くべきか“「攻撃」”を意味するものであったらしい
この「攻撃」は「それまでの経緯」からかなり手厳しく遣られた事が判っている。
それを物語る証拠として、次の事があった。
筆者は、「明治35年(祖父の代)に起こった「伊勢屋の大失火」は「失火の原因」と「その後の処置」に疑問を持ちこの「攻撃」によるものでは無いかと観ている。
その「後の処置」には、その「後の処置と失火の原因」には、疑問がある。
父や祖父らは敢えて、昭和の初期まで「紀州徳川氏」等との付き合いがあり、「伊勢青木氏の立場」もあって、要するに「知名人」であった故に「周囲との関係」を悪化させる事のない様に配慮したものと聞いている。
その様にするのが、「攻撃」たるものがあっても、「何事も無い様に振る舞う事」が「青木氏の品格であり宿命」と信じていた様がある。
然し、敢えて、最早、筆者にはそま「柵」は全く無く成っている故にこれを公表する。
そもそも、本サイトの公開の意思はここにある。
「記録」に遺され得ない「伝統を誇る青木氏族」には「目に見えない軋轢」があったのだ。
そこで、この分析を述べる。
本来は「失火類焼」は「貰い損」が原則であるが「全面損害賠償」をしている事、
「商い」の全てを摂津に移している事、
「松阪」にはその後に「二つの大プロジェクトの殖産・酒造と早場米」を施している事、
必要以上の「地権の放出」をしている事、
「青木氏の福家」を「四家」に移して「福家」は「尾鷲」に引き上げている事、
この事から、この”「攻撃」”を何とか逸らしたと観られる。
父からは飽く迄も「オムツの乾燥」とする「失火」として伝えられているが、「土蔵の蔵群」の中で外に失火しない事、
その後の「遺品の隠し方」が異常である事、
「明治9年で政府への献納金」を中止している事、
「伊勢神宮への支援」等は打ち切っている事、
「明治9年の伊勢騒動」を裏で支援していた事、
「権威性を持つ氏族の存在」を政府が否定し一掃した事、
「大名・華族等への貸付金」を返還無効にしょうとした事、
「生活苦では無い」のに「生活の拠点」を恣意的に移動させている事、
敢えて、態々「福家の見せかけの副業」を前面に押し出した事、
「信濃」も失火に関わらず影響を受けている事、
前段よりの「青木氏の制度」の一切を突然これを契機に打ち切った事、
河を隔てた「燃える事の無い地権地」の「玉城域の南側」も一部類焼している事、
「関東の秀郷流青木氏との関係」も不自然に以後打ち切っている事、
「華族制度への誘い・紀州徳川氏の内示」に対して「青木氏」ではなく「伊勢屋」を前面に押し出し断っている事、
これに対して「名目」を変えて謝罪してその「返答」を右大臣から直筆で受けている事、
政府は「一応の手続き」を採ったと観られ、それに依って「献納金」を中止し、その後の失火事である事。
以上等が挙げられ明らかに「不自然の失火」である。
以上の事で、筆者は「社会的反動の徒」を煽った「政府の仕掛け」であって、「見せしめの攻撃説」を採っている。
簡単には「青木氏の存在否定の所以」であろう事がこれだけの「不自然な事」で証明できる。
先ず間違いは無いだろう。
唯一「権威と象徴」を有していた「氏族の存在」は「政府」と「天皇家」に執つて、好ましくなかった事に成ろう。
落ち着いて考えて観れば、少なくとも明治期の祖父の代までは「四掟」をそれなりに何とか維持していたのである。
これを見方に依れば”「正規の天智系」を維持していた”と成れば、「政治的な国体」からも「排除」と成るは必定であろう。
これは今でも云えるだろうし、「孝謙天皇の白羽の矢」で騒いだ事の逆であろう。
この様な事は、歴史的に他にもあった。
江戸初期の「伊勢の事 お構いなし」のお定め書」である。
これは裏を返せば、「伊勢の権威と象徴族」に対して周囲が文句をつけた事に他ならない。
そうでなければ「お定め書」を出す必要は無かった筈である。
「信長の伊勢攻め」である。
信長に対して、「伊勢」は反抗していない。
なのに「無防備な庶民」への「焼き討ちと虐殺6000人」を繰り返した。
同じく裏を返せば、「伊勢の権威と象徴族」の壊滅にあった。
「室町期初期の下剋上」である。
「姓族の支配下」に置かれ、鎌倉期の「旧領地の本領安堵の地」に対して「地権」が壊滅状態に成った。
これを「巨万の富の獲得」で「商いの力」で「地権」を買い戻した。
なにも青木氏側は土岐の政府に対して反抗した訳では無いし、不入不倫の権で護られた伊勢であるのに。
幕府はこれを無視した。
これも裏を返せば、「伊勢の権威と象徴族」の壊滅にあった。
前段で論じた様に、平安期初期に於いても、鎌倉期中期に於いても同然である。
典型的な事象は云うまでも無く「嵯峨期の事件」である。
「嵯峨期の詔勅と禁令」が出されると云う事は何もなければ出す事はない。
出すと云う事は、裏を返せば「青木氏の存在」が「当時の政治体制」に問題に成ったと云うことであろう。
突き詰めれば周囲から「存在の異論」が出て「源氏」で逃げたと云う事にも成る。
鎌倉期でも、「青木氏」に対して「周囲の反対」を押し切ってでも「本領安堵」を出した。
”反対を押し切ると云う事”は、そもそも、「権威と象徴性」を兼ね備えた「氏族」に必要以上に「力」を与えず「本領」を与えない方が良いとする意見が合った事である。
恐らくは、「頼朝」はこれらの「反対を押し切った事」で暗殺されたのであるから、「青木氏の存在否定」である。
それが、語るも面倒、「第七世族の坂東八平氏」の反対である。
「義経の件」も「頼朝」を悪くしているが孤立無援の中で親族を抹殺する事は自らの存在を弱くする事に成り「頼朝の意思」では決してない。
つまりは、良く似た事であろう。
要するに、全て「時代の変遷期」に、この「攻撃」が全て起こっている。
「青木氏と云う立場」から敢えて”記録が残せない仕儀”であるから論じえないのであって、「表」を論じれば、「裏」も論じる事で「表」が明らかに成る。
然し、これが出来ない。
だから、上記の様に「読み取る事」の以外にないのだ。
如何に「生き遺る事」や、「呼称」一つ採っても「希釈な伝統の維持」が世間に晒されて来たかが判る。
故に、「青木氏の氏是」の所以なのであり、「商い」を表にした所以の一つでもある。
この「氏是」は時代が変わろうと人の世である限りは生きていると信じる。
これが、遺品の額にされて漢詩で書かれた書の意味の所以であろう。
> 「青木氏の伝統 48」-「青木氏の歴史観-21」に続く。
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
投稿者:副管理人 投稿日:2019/02/03(Sun) 17:08:40
> 「青木氏の伝統 46」-「青木氏の歴史観-19」の末尾
> 「女系族」の「四六の古式の概念の続き」
>
> それが最初の“「後家」の呼称”であった。
> 正式名は、「光仁期」では、一応、天皇家の「後宮」として呼称されていたが、同じ出自の「青木氏族」では、「家を興す謂れ」から「後家」であった。
> そもそも、「四家内の妻嫁制度」、又は、「四家内の嫁家先制度」として、あり得ない「叔父や兄」の二親等、三親等の「妻」として入る事はあり得ない「救済策(逃避の便宜策)」である。
> これで一応は「醜い政争」から逃れられ、その後は、再び「妻嫁制度」と「嫁家先制度」に依って嫁ぐ事が出来る。
> 将又、「女系の妻嫁制度」の上記の「尼僧、比丘尼僧、斎王、物忌、支女、斎王、斎院、斎宮」と、“「十二女司役」の「女官と采女(上記)」“として生きて行く事か、この「三つの選択肢」が広げられて行った。
> 「朝廷の制度」に見習い「青木氏」には当初から「十二女司(じよし)」と云う「女官」がいた事が判っている。
> 「女系の妻嫁制度」の「全体の事務や雑務」を支える「女官の事」である。
> これには「女(むすめ)」と成らなかった「氏人の郷士」の「他の女」の多くが務めたらしい。
> ここから「福家の支援」に依って「郷士」に嫁に向かったのであろう。
> 恐らくは、「氏人の郷士の娘の救済策」として、「十二女司」を務める事でここで同じく「女(むすめ)」としての「教養」を身に着けさせたのであろう。
> これは「氏人の底上げ策」であろうし、強力な絆構築であったし、「第二の女(むすめ)策」でもあったと観られる。
> これも男系では無く「女系の妻嫁制度」で「堅い絆」が構築されていた事が判る。
> 故に、この経緯の中の制度の「後の家」なのであり、それなりの「青木氏族」の「意味」を持っているのである。
> この「後家の言葉」の「構成と表現」が如何に「青木氏族の所以」であったかが判る。
「青木氏の伝統 47」-「青木氏の歴史観-20」
「女系族」の「四六の古式の概念の続き」
更に「青木氏の歴史観」に関係する「呼称」について更に論じる。
先ず、前段の「後家の呼称」に関係する「比丘尼」に付いてである
「紀州藩」の代々の藩主の「比丘尼寺」が筆者の家の近くにあって、それをサポートしていたお家があった。
これは恐らくは「伊勢青木氏との付き合い」から「初期の紀州藩」はこの制度を敷いたと考える。
この「比丘尼の寺」は小山の西の下は直ぐ海岸沿いに面し、東と北の下は小さい湖で、南は急な山手にあり、この小山を「比丘尼山・びくにやま」と呼称していて、その南の山手に世話をする「農家の人」が住んでいた。
そして、この寺に通ずる道は狭い道一本であって、子供の頃の昭和20年初期の頃は未だこの「古びた寺」に「老女の比丘尼僧」の二人が住んでいた。
この農家の息子と友人であった為に見学をした事がある。
祖父と父からこの時の「経験」を話し、「伊勢青木氏の比丘尼寺の事(松阪の寺名は匿名にする)」を聞いて不思議に思った事がある。
その後に「伊勢の歴史」に興味を持ち勉強し始めた。)
(注釈「祖父・先祖」は、「紀州藩の14代の方」までの「初代からの長い付き合い」が続いていて、「歌や俳句や詩吟や茶道や禅問や南画や書道等」の「素養の師匠」もしていた。
この故あって、「代々徳川氏からの贈り物の遺品」が多くある。
「比丘尼寺の事」もその後に「松阪の寺」と合わせて良く理解が出来た。
前段でも論じた様に、「女墓の慣習」が無い限り「姓族」には「比丘尼寺」は普通は無い。)
(注釈 当時の江戸初期の慣習では普通は“「分寺」”を持つと云う「仕来り」は「氏族の菩提寺」があっても少ない。先ず経済的に持ち得ないだろう。)
筆者は、「後家の比丘尼」が起こる原因の一つは、前段でも検証した様に婚姻の可能な年齢差のこの「10歳」が婚姻の際の「仕来り」か「掟」と成っていたと観ているので、これが原因であろう。
これは、「入り妻側」に執っては「四掟の範囲」では「厳しい掟(10歳)」に有ったと考えられる。
「無制限の入妻」に執っては、「10歳の年齢差」が合っても「有制限の嗣子(48歳引退)」に比べれば、「40年間」は「長い事」に成り、又、直ぐに婚姻できない「煩わしい入妻の掟」があったとしても、間尺に合い「比丘尼僧」として「下界から隔離される掟」は「苦しい掟」とは成り得なかった筈である。
故に、「比丘尼」が起こる原因と観ている。
殆どは、「継承者」と「母と成る入妻(義母)」との間には「親子関係」の制度は、多少の「母性の情愛」が合ったとしても「女系の妻嫁制度」の「掟と仕来り」での原則は無いのであるから、それはそれとして「氏族の定め」の「当然の享受」として理解すれば「40年」と合わせれば「比丘尼」には「寺に入る事」への理解が出来ていたと観られる。
何故ならば、上記した様に「掟に反する母性の情状」が働き、「好ましくない結果」を招きかねないし、「掟」そのものが根底から崩れる事を知っていたし、その様に「入妻」として教育されて来た筈である。
「四掟の氏族での血縁ある事」を前段でも論じた様に「女系の妻嫁制度」が浸透していてこれを知っていて「入妻」として入って「妻嫁制度の伝統」があった筈である。
「嫁家先制度」で「祖母(出妻の先祖)」からも充分に教育されていた事は確実である。
故に、云うまでも無いが「女系の妻嫁制度を壊す不理解」が起こらない様にする「四掟」を前提する血縁なのである。
「四掟」を合わせれば「不必要な不理解」は起こらいは必定である。
この事を理解していた上で「後家」や「比丘尼」に成るとするならば「入妻」に成るとする「当然の心構え」が必要と成ろう。
ではこれを如何していたのかである。
そこで注釈として、考えられる事として、「四掟の範囲の青木氏族間」では、“「入妻の決定(許嫁)」”は定まりやすい“と上記した。
然し、そうすると、”「早熟」“と成るならば、この「早熟」に対して何もせずに座視するは得策ではない。
その為に「何らかの策」を構築したと筆者は観ている。
“「入妻」として{待つ期間}”を「相手先」は“「許嫁」“と云う「制度」で早期に補完していたと考えられる。
然し、例えば、「伊勢や信濃の青木氏側」ではその「許嫁の制度」があったかは疑問である。
唯、だとしても「全ての相手先」が「許嫁の制度」を持ち得ていたかも疑問である。
奈良期に執った数々の制度から観て、取り分け「妻嫁制度と嫁家先制度」から奈良期に「入妻」が成立している事から考えると、必然的に“「許嫁」”もこれに「連動する制度」として「特定の階級」には合ったとは考えられる。
上記の検証から考えても、「入妻」と「許嫁」は「対の物」として咀嚼しなければ成り立たない。
故に、これは「青木氏の歴史観」として考えられる。
これが後に「青木氏」から世間に広まったと観ているが、ところが、この“「許嫁の文字」”が存在する資料からは何故か散見出来ないのである。
これも何故なのか大いに疑問である。
その事に就いて先に考えて観た。
「青木氏」からの「許嫁」は「出妻」に関わる事であるが、次の事が考えられる。
1 「四掟の相手の血縁源」への「出妻」には「許嫁の制度(公家族)」が無かった事。
2 「青木氏側」に文書の中で「許嫁に代わる呼称」が無く別の呼称があった事。
3 「若年婚姻(女性)」の概念」が浸透し、元々、「許嫁の呼称」がなかった事。
4 「許嫁の概念」が実質は「武家貴族」には格式から低く考えられていた事。
5 「賜姓五役と云う役目」に「呼称」が沿わなかった事。
以上の事が考えられるが、「青木氏」にはこれが全て適用される。
そもそも、そこで「青木氏」から離れて、「公的に成っている記録」から観て使用された時期は”「平安期中期頃」”からと成っている。
その理由は「政争」から「摂関家」が「天皇家」に対してその「勢力」を伸ばす目的から「天皇家」に対して「后妃嬪妾」として「事前に送り込んだ政略」から起こったとされている。
その「許嫁の呼称」の記録は、その少し後の”「平安期末期」”に観られると成っている。
その後は、「摂関家」も”「平安期末期(三条天皇以後から後三条天皇で隔絶)」”には「天皇家との血縁関係」が無く成り、「摂関家の許嫁の制度」は一時衰退したとされる。
その後の”「室町期」”には、「姓族の豪族(室町期)」が政略結婚で勢力拡大に使われたとされる。
”「江戸期の中期」”に成って「力のある民(庄屋、豪商)の領域」まで広く使われたとされる。
然し、ところが「許嫁の意味合い」は違って使われる様に成って行ったとある。
これが許嫁の歴史的経緯であるとしている。
従って、最初の「許嫁の言葉と制度」としては「平安期中期」から使用される事に成った事に成るので「青木氏族」には無いのであろう。
ところが、時系列として観て「青木氏族」に於いては、「光仁天皇期頃以降」に「女系の妻嫁制度」等を敷いた事に成るので、「許嫁システム」としては存在するも「許嫁の呼称」を使用していなかった事にも成る。
では、“どの様な言葉が使われていたのか”と云えば、「青木氏側」からすると、”「女(むすめ)」”という制度の字句で記録されていたと考えられる。
そうすると前段でも論じた様に、その「実際の呼称」は、「青木氏」では「比売さま(ひうぃさま)」であった事に成る。
つまり、この「女(むすめ)」と「比売さま(ひうぃさま)」の「二つ」が「青木氏」に存在するのに「許嫁」の「制度と呼称」が存在する事は「制度的な論理的矛盾」が起こり合わない。
そもそも、「比売さま(ひうぃさま)」には、元より「許嫁の意味」も含んでの呼称であった筈である。
何故ならば、「女(むすめ)」の「比売さま(ひうぃさま)」は、元々は「その立場」に合って「福家」で養育を受けていたのである。
従って、「養育を受ける」と云う事は、何時かは相手は兎も角も「嫁ぐ事」には間違いはないからであり、そのための準備期間であった。
そこで、“個々に相手が既に決まっていたか”は確定する資料がないので定まらない。
然し、筆者は大方は定まっていたと考えている。
その根拠は、「青木氏族」である「補完役の秀郷流青木氏116氏(960年頃)」と「秀郷流一門主要五氏の血縁源361氏」の「大血縁源数」を考えれば、「補完役の掟」として「四掟制度」を敷いている限りは、少なくともその都度では間に合わない事は明々白々の事である。
この為には「相互の執事役」は「相互調整」を常時執っていた事が制度の一環として伺える。
そうでなければ、「女(むすめ)」の「養育制度」と「女系の妻嫁制度」と「嫁家制度」は成り立つ話ではない。
これは、「女(むすめ)」の養育制度を敷いている限り「氏族の絆」を固める「氏人への血縁制度」も同然である。
従って、「四掟の制度」を大前提にする限りは、「許嫁の呼称」は、兎も角も「大方の嫁家先」は「執事間の間」で「調整」が「公然の事実」として行われ出来ていなければならない。
つまり、前段でも論じた様に、「女(むすめ)」の「数」が“氏族の中に少ない”という事もあり得た事もあるが、ここに「4」の「玄孫域」とか、「5、6、7」域までの「女(むすめ)」の養育をする必要は無い筈である。
明らかにこの「4~7の域」は「執事間の調整」のその「結果の表れ」が原因していると観ている。
唯、「女(むすめ)」の「数」が“氏族の中に少ない”と云う事に関しては、その可能性は低い。
何故ならば、下記の事が理由として云える。
上記の「性に依る発育過程」から“少ないと云う事”は補える事。
平安末期までは「五家五流賜姓青木氏」から、鎌倉期からは信濃と一部近江からも補える事。
「伊勢の50の氏人」と「信濃の50の氏人」と、未だ「四掟の範疇」に遺っていた「近江佐々木氏と近江青木氏の宗家」から補える事。
以上の「三つの事」を鑑みれば、“氏族の中に少ない”という事は無かったと観られる。
これを検証して観ると、「361氏の全て」を「嫁家先」とするのは別として、「同族補完役の青木氏族」の「116氏」の「嫁家先」に対して次の様に成る。
仮に氏=1として、116氏/(50伊勢+50信濃+10近江)≒1
以上の関係式が成り立つ。
上記の計算は、「子供=1とした前提」であるから、つまり、この「嫁家先=1の数式」が成り立つ様に、「女(むすめ)」の養育範囲を「4の玄孫域」までを基本とすれば充分に成り立つ事に成る。
この数式論から、次の関係式が導かれる。
「116氏+公家範囲(20)」+(361氏/5氏:主要五氏限定)≒208
「玄孫域」までとして「4の倍数」と成るが、この「3地域」のその「子孫力」が「4の均一倍数」とは成らず、それを見込んで観ると次の様に成る。
「伊勢4+信濃2+近江0,5」/3≒2
以上の関係式で平均=2と成る。
従って、平均の子孫力=110・2≒220
「全体の子孫力」の相互バランスは、∴ 208/220≒1
以上でほぼ成立する事に成る。
これが「青木氏族の氏族としての血縁力」に成り、上記の数は“少ないと云う事”は無かったと考える事は出来る。
そうでなければ「玄孫域の理屈」は成り立たない。
この検証の関係式から観れば、「女(むすめ)」の養育域は「孫域」でも充分に良い筈であった。
もっと云えば、「伊勢と信濃」の域で、「孫域:2」≒「平均子孫力:2」の数式論で何とか成り立っていた事に成る。
仮に「曾孫域」までならば、「曾孫:3」で、次の数式が充分に成立する。
(伊勢の50+信濃の50)・「孫域:3」=300
故に、300>208が成立し、“少ないと云う事”という事のみならず、「許嫁の制度」のみならず、その「呼称の必要性」は、「比売さま(ひうぃさま)」の「呼称に持つ意味合い」で充分であった事が証明できる。
但し、そこで「玄孫域」までの制度を現実に採った事は資料からも明らかであるので、これは「近江域10」と「信濃域50」に、“ある事”で賄えなくなった事を意味する。
では、同時にこの“ある事”が起こった事に成るので、それは何かである。
それは、室町期の「下剋上と戦乱」にあったと観られる。
「平安期末期の近江域と美濃域の青木氏の参戦後の衰退」が長く続き、「衰退」は室町期末期まで持ち込んだ事、
それと同時に室町期の「信濃域の国衆の侵入による弱体化」が「信濃青木氏」を弱めた事、
以上の「二つの事」が起こって仕舞った。
そして、「伊勢青木氏」だけが無傷で生き残り、逆に、「室町期の紙文化」に依って「巨万の富」の勢力を確保した。
その「巨万の富の事」で以て、「信濃域」を引き上げ助け「青木村」に独立させ、「近江域」は「末家の分家」を引き出し「近江域」と「摂津域」とに蘇らせた。
(注釈 この「美濃域」では、「伊勢」と持ち直した「信濃の青木氏の勢力」が「青木氏の旧領地の一色イ」から「塩尻の山間域ロ」にかけて隠れていた「美濃青木氏の主家の末裔イ・蒲郡青木氏」と「美濃の土岐氏系青木氏ロ・伊川津七党の田原青木氏」を引き出して「国衆」に仕立てて「経済力の支援」と「生きる為の近代武力:鉄砲」を与えて成功している。)
前段でも論じたが、「秀郷流青木氏との関係」を継続させる為にも、この間の「伊勢域だけの子孫力」に頼らざるを得なかったと云う事である。
これが「4の玄孫域」であり、非常時の「5、6、7域の顛末」にあったのである。
参考 特別の範囲
5 来孫(らいそん)
6 昆孫(こんそん)
7 じゃく孫(じゃくそん)
以上と成る。
そうすると、上記の検証から「相手」を固定して「許嫁」までして「女系の妻嫁制度」を敷く必要性がなかった事に成る。
従って、後はその相手に応じてどの「比売さま(ひうぃさま)」を嫁がせるかに依ると考えられ、その「養育具合」を見定めながら「許嫁先・執事の差配」が凡そ決まって行くシステムに成っていたと考えている。
注釈として、そもそも「比売さま(ひうぃさま)」が大きく関わっていた事に成るとすると、この“「比売さま(ひうぃさま)」の「語源」が何処から来たのか”と云う事を知る必要がある。
そこで、これを紐解く。
先ず、古代の“「売る」“の「韻の語源」は、“「自分」を「相手」に「認知」に至らしめる“と云うものであって、貨幣経済が深化するに従ってその結果から「対価の有無」は別にして、”物を相手に渡す行為として使われる言葉“にも成って使われて行った。
決して「売り買い」が主の語源では無かった。
それは「市場経済」が未だ成立していない世界の中でこの意味合いは無かった。
飽く迄も、“「自分」を「相手」に「認知」に至らしめる“と云う単なる単語であった。
更に、「比」の「敬いの言語」も、“「ある物」に対して「別の物」の方が良い”とする行為が「別の物」を「優位に至らしめる言葉」として用いられる様に成った。
これがある物に対しての差を以てして「敬いの言語」と成った。
この「比」の源は、前段でも論じた様に、人間に言葉が生まれた「母音(アオウエ):母韻」に対して「イ」が含まれていない。
これは「イの音韻」は「父音(チイキミシリヒニ):父韻」に含まれ「ヒとイ」は「父韻」に所読する別格の韻音なのである。
つまり、「イ」と共に「ヒの父韻」は「父の尊厳」の「語意」を持った「初期の語源」なのであって、「優位に至らしめる言葉」=「敬いの言語」として用いられていた。
後に、この「二つの意味を持たせた造語」の「韻音」が「青木氏」にだけ遺された“「比売」”と成り、「父韻側」を強め「後側」の「母韻」を添えて「売」を「韻」にして弱め「比」を「主」にして出来た「祖先神」に伝える「神への言語」と成った。
従って、この「二つの意味を持たせた造語」には、“「相手」に「優位」に至らしめ「認知」に至らしめる“と云う「意味合い」を持った言語であった。
つまり、元よりこの「造語の語源(比売)」には、「許嫁の様な意味合い」を含んだ「古来の呼称用語」であったのだ。
(注釈 これは「青木氏の歴史観」であるので、この事を知るか知らぬかで大きく意味が異なり、「真の史実」を見逃す事に成るのだ。)
(注釈 「青木氏」はそもそも「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」を「守護神」とする“日本広し“と云へど「唯一の氏族である事」を知り、これを「前提とする事」を知る必要があり、全ての解釈はこれに依って変わる。
全ての歴史的事項に関して「神明社の概念」が左右している。
「青木氏に存在する言葉」の語源はそれだけに難しいのだ。)
つまり、「女系の妻嫁制度」の如く“「女性」”が司る「神」への「呼称用語」であって、その役目の「皇祖神の斎王」と同じく「祖先神」の「比売(ひうぃさま)」も同じ位置にあったのだ。
従って、前段から論じている「女系の妻嫁制度」は必然で同然に「神明社(神仏同源)の概念」なのであり、突然に「女系の妻嫁制度」を敷いた訳では無く、「氏族」として存在する以上は「男系」は論理的にあり得ないのである。
何れにしても「氏族」としては特異なのである。
要するに「光仁期から仁明期」までは「斎王・いつきのきみ」も「比売・ひいぅさま」も「青木氏」から出ている所以である。
「王・きみ」は「様・さま」と「同源の意」である。
つまり、「許嫁」に関する論議は、「神明社の概念」を思考の中に入れれば、「女系の妻嫁制度(=「女(むすめ)」)」と連動していた「嫁家先制度(=許嫁=比売さま・ひいぅさま)」であった事に成る。
従って、「連動するシステム」はあっても、“態々、「許嫁」と云う呼称は無かった”とする結論であって、且つ、“その必要性はなかった”と云う事に成るのだ。
もっと云えば、「神明社の概念」を思考すれば「許嫁」と成る制度は、本来、「品格を落とす所以」と考えられていた事に成る。
「賜姓五役」からも「許嫁の意」はあり得ない理屈であり同然であるのだ。
唯、「藤原北家一族」の主幹の「補完役側の青木氏族(主要五氏)」には「許嫁の呼称」は、「三条天皇期(976年)」~「後三条天皇(1034年)」から無いとする。
「秀郷流青木氏(960年)」にも、「犬猿の仲であった摂関家」にはその「公的な資料」の「許嫁の呼称」が「摂関家に合ったとする研究記録」がある。
この説と照合すれば、「許嫁の呼称」は「補完役側の青木氏族(主要五氏)」にはあった事が考えられる。
「神明社」では無く、「賜姓五役」ので役務は無く、強いて「許嫁の呼称」を排除する必要があったかは疑問である。
然し、前段でも論じた「神明社=春日社(摂関家菩提寺の「興福寺事件」のきっかけ:神仏同源の採用事件)」の関係からすると、充分に避けた事もあり得る。
「神仏同源の事件」である以上は先ず避けるであろう。
唯、「妻嫁制度での概念」が「嫁家先に浸透」が起これば必然的に消えた事もあり得るが、確認できない。
筆者は「消えた説」である。
敢えて、「後宮制度」の様に「摂関家の衰退の原因」と成った「摂関家の真似」はしないであろう。
仮に「許嫁の呼称の有無」が、「北家秀郷一門」にあったとすればそれは「近江」に赴任していた「秀郷流近江一門」と「秀郷流脩行系青木氏」の「二つの氏」にはあった事が伺える。
取り分け、「摂関家」と大きく繋がっていた「秀郷流脩行系青木氏」にはその可能性が高い。
(注釈 後の平安期末期に「摂関家」と「秀郷流青木氏の主要五氏との血縁」を考えれば、その影響から考えればある筈の「証明する資料」が見つからないが,“無かった”とは云い難い。)
それは何故なのかである。
「秀郷流青木氏」には、特別に「116氏に繋がる姓族の存在」が「現地孫」としてある以上はこの「現地孫の姓族」を一門として引き付けて置くには、又、組織を維持するには「姓族」に向ける「嫁」は必然的に必要に成る。
但し、「宗家筋」には、「純潔性を保持する義務:高位の立場」があった事から考えると、「現地孫を設けない掟」があった事から“「許嫁制度」は無かった”と考えられる。
この為に、「分家筋の傍系尊属族」の中では「許嫁の制度」は「室町期の資料」の中には認められるがそれ以前は判らない。
では、「秀郷一門」の「青木氏側との血縁時」には「許嫁の呼称」は使っていたかは疑問で、「四掟の範囲」での血縁であった事から筆者は使っていなかったと考えている。
「物理的な視点」で考えれば、「女系の妻嫁制度(=「女(むすめ)」)」と連動していた「嫁家先制度(=許嫁)」の“「システム」”が別の形で相互に敷けている以上は、「比売さま(ひいぅさま・下記)」で充分に成り立って行けていたと観ている。
つまり、「妻嫁制度」と「嫁家先制度」がある以上は論理的に矛盾が生まれる為に「入」と「出」も重複するような「許嫁制度」としては無かったと云う事に成る。
「ひうぃさま」の意味に含まれる「許嫁の考え方」が「氏族」としては「初めての事」であって、「呼称」とその「制度」は「青木氏族」には無かったと云う事に成る。
「妻嫁制度」と「嫁家先制度」のこれは「奈良期の末期(770年前頃:記録から第四世族が認められていた)」から始まった事で、「公的な記録」にある「藤原氏摂関家」の「許嫁制度」は「平安中期の頃(890年頃)」である。
そうすると時系列的に観れば、これには「約100年の差」があり、「四掟の範囲の公家族」と「青木氏」との間で盛んに行われた「慣習仕来り掟」が、「摂関家」の中にも「許嫁の制度」として取り込まれて行った事に成る。
これが「960年以降」に「補完役の秀郷流青木氏」との血縁にも採用されたと云う事に成る。
(注釈 「公的に示されている記録」には、“「許嫁」”と云う文字は出て来ないで、説はあやふやな表現と成っている。
「青木氏」と同じく「血縁の基本概念」(神明社の概念)として採用されていたと観るのが正しいと観られる。)
この記録には、“「天皇家の后」に対して「摂関家の権勢」で先に決めていた“とする「摂関家の中の記録」に依るもので、”「摂関家」の中でも「家」と「家」の間で「男系」の基で「女子」を「政治と権勢の具」として用いられて行われていた“とする記録である。
「青木氏」の「賜姓臣下朝臣族の五家五流の間」と「公家との間」の「四掟」にて「女系の妻嫁制度」の基で行われていたとする事と制度的に少し異なる。
つまり、”「100年後」”に「青木氏の基本概念」だけを用いたと観ている。
(注釈 「嵯峨天皇」が編纂した「新撰姓氏禄」やその他の「三代格史書」には、「敏達天皇第四世族春日真人族」の「四掟の真人族」として位置づけされているのに対して、「藤原氏摂関家」は「神別格」に位置付けられている。
この事から、少なくとも「血縁に関する慣習仕来り掟」に於いては「皇別格」の「青木氏の慣習仕来り掟」が優先され、「神別格の摂関家」は「平安期初期の嵯峨期の詔勅禁令」に依って「家の制度」として用いる事が出来なかった筈である。
故に、「青木氏の直系尊属」の最後と成る「仁明期:850年」の後の頃からこの「禁令」が緩み「血縁の基本概念」を使用するように成ったと考えられ、時系列の検証と一致する。
依って、その少し後の「平安中期の記録:890年頃」に採用したと成っていると観られる。)
(注釈 元に戻して、「青木氏族」には上記の検証は、「継承年齢」や「停年年齢等」を「要領化とした本」があった筈であるが、恐らくは、この「要領本」なるものは「二度の出火」や「伊勢攻め」等の事から消失したと考えられいる。
一番最後の「明治35年の松阪大火」のこの時の「戒め」として「口伝」でも、重要な記録等を一度外に出したが他の類焼した「他家」が「丸焼け」に成っているのに「失火元」が「資産」を遺す事は「道義」に反するとして、再び火の中に入れさしたとある。
「曾祖父」はこの時、改めて「青木氏の由来書・伝記」を“復元せよ”と云い残したとある。
それを最終、筆者が何とか復元した事に成るが、解明できない事は筆者の伊勢も含めて多い。
遺るは「伊勢の氏人や家人の家の遺された資料」や、「信濃青木氏の資料」や、「近江佐々木氏の研究資料」から割り出したものを集めて「読み込み」をしその中での散見で紐解いた事であった。
そこに「論理的な計算」を加えて導き出して確定に及んだもので、まず間違いは無いと考えられる。)
そこで「注釈」を更に検証するとして次の事が挙げられる。
この「妻嫁制度」で「母」と成り、上記の要領で「継承者」が決まると、呼称は、「母」は「全体の母」であって、ある「四家」に居るその「義母(ひごさまの呼称)」は“「後家様」”と云う呼称で呼ばれたとある。
この「重要な呼称」と成る“「義母(ひごさまの呼称)」と「後家」”に付いては、「青木氏族の資料」等にも多く散見できる。
次に、「光仁天皇の后」と成った「井上内親王」は、「妃嬪妾」と「二世族や三世族」に対して「厳しい軋轢(怨念説)」を起こしていたらしく、これを恐れて「後家」等に成る等の「人生の選択」をして「上記の保護支援の施設」に入る等の策を選んだとする資料も一部の資料からも読み取れる。
その後のこの「怨念事件」の「公に成っている記録」、つまり、「政争から来る怨念説」には、この事からの影響に依る「後家の類似の論説」が記載されている。
「光仁期」の「朝廷で起こった政争事件」と「青木氏で起こった影響・後家等」が一致している事から「前者の朝廷の怨念説」と「後者の青木氏の軋轢説」の事は否定は出来ない史実と成る。
更に次に「青木氏の歴史観」として「義母(ひごさまの呼称)」と「後家の呼称」と同じくもう一つ「下記の呼称の事」が重要であるので特記する。
筆者の研究では、奈良期の古代は、「義母(ひごさまの呼称)」も「女(むすめ)」も「元の発韻」は同じで”「ひいぅさま」”であったと考えている。
そして、何れも「家の女」に対する「ひの{敬いの意}」で用いていたと考えられる。
ところが、奈良期末期から平安初期に「女系の妻嫁制度」が確立されて行き、そこで、「女(むすめ)制度」の「養育制度」の過程で、「義母(ひごさまの呼称)」」と「女(むすめ)の呼称」を分ける必要が生まれ、「ひ」に対して「「義母(ひごさまの呼称)」には「妃か嬪」の字を宛がい、更に敬語をつけ備えて「韻」で「御のごぅ」で“「妃・嬪御さま」”で対応した。
そして、「女(むすめ)」に対しては「ひうぃさま」の呼称で遺した。
「売」は「韻」で「うぃ」として「ひうぃさま」で「ひいさま」と呼称されていた。
「神仏同源の立場」からであると考えられるが、「扱い等の差異」は左程なく、従って、その呼称は「比(ひ)」に対して「義母(ひごさまの呼称)」が俗世から離れて成る”「比丘尼」”の「丘」は「韻」を踏んで「きゅぅ」と成り、「比丘」は「ひきゅぅ」と呼称していた。
つまり、「比売さま」は「ひうぃさま」に対して、「比丘さま」は「ひきゅうさま」と呼称されていた事に成る。
「女(むすめ)」の「比売さま」が務める「巫女」も「比丘」も同源であり、次の様な「同格の位置」にあった。
「女(むすめ)」=「比売さま」=「巫女さま」=「比丘さま」=「神仏同源」=「神明社」
何故、この様に成るかは同然の事で、「皇祖神」の「内宮の天照大神」と「外宮の豊受大神」は「女性」である。
この「子神」である「祖先神の神明社」である限りは「神仏同源」とすれば、「義母(ひごさまの呼称)」の“「比丘」”は「女性」と成るは「同然の事」である。
(注釈 ここに平安期末期頃から「世間との隔離」が生まれ、「特異性が際立つ事」と成って行ったし、「賜姓五役の務め」も「青木氏の慣習仕来り掟の伝統」も一切に「世間との隔離」が出て来た。
これは、“「青木氏が興した」“と云うよりは、「世間の変化」が「青木氏の世間との隔離」を起こさせたと考えられる。)
注釈として、因みにその「世間の変化」が顕著に成り、結局は“「青木氏の氏是」と「家訓」”をより強硬にして「世間に出る事」に対して護ろうとしたのである。(A)
「世間」に出れば益々起こるこの「差異の特異性」から「潰される」が落ちである。
これが「室町期(姓化)」にはそれが「最大」と成った。
幸いにして「紙文化」が起こり「商い」を前面に押し出し「巨万の富」を獲得し「青木氏」を影にして生きた。)(B)
「結論的な説」としては、「世間」とは逆に「有形の氏」を極力抑え、「無形の商い」の「伊勢屋」を前面に押し出した。
この「二つのAB」が「伝統の青木氏」を救ったと云う事であろう。
それだけに江戸時代初期頃には未だ世間にも僅かにその「存在と権威(“伊勢の事お構いなしの家康の「お定め書」”)」は知られていた。
然し、現在に至っても世間には歴史に相当に見識のある人以外は「青木氏とその歴史」は知られない所以である。
「江戸期」に出した「歴史学者の近江佐々木氏」の「自らの氏族の研究記録」と共に「近江佐々木氏の青木氏の研究記録」も世間には出さずに「非売品」としていた意味合いが良く判る。
この「非売品」は少なくとも「二つの青木氏族の宗家筋」には存在していた筈であるが消えている。
(注釈 「近江佐々木家宗家」に遺されていた書籍を1690年頃に一度見直したとあり、その後に明治期(明治10年)に「近江宋家の佐々木氏(東大教授)」が「過去の研究記録」を更に復元したとある。
これが「国の史書」として保管されている筈である。)
この「佐々木氏」の「江戸期の研究記録」には遺されている事から「入間の遺品」も空襲で殆ど焼失したと観られる。
兎も角も「サイトの意味合い」はここにある。
上記の「青木氏の各種の呼称」は、これは「嵯峨期の詔勅禁令」に依って「同じ語意」のものの使用が許されなかった所以である。
そこで室町期から使われた誤解を招いている“「姫」”の基は、「中国南北朝」の頃(440年頃~590年頃の間)の「王朝の姓」で、その後も専ら「中国」で使われていたものである。
それが「大和」では「ひめに類する言語」としては皇室内では一般に“「嬪・ひめ」“が長く用いられていた。
「皇別(真人族)」に類する「祖先神」を有する「青木氏」では、上記している様に「比売・ひうぃ」が用いられていた。
ところが「武家社会」と成った「鎌倉期頃」からその「慣習仕来り掟」が踏襲する事は出来ず、況して、「姓族イ(主に神別)」には「比売さまの呼称」は到底に無理であり、結局、「中国の王朝の姓」を用いて「権威性」を持たせて「姫」を使う様に成った。
「室町期」に入り規制の無い「民」から身を興した「姓族ロ」もこの「姫」を盛んに使用した。
それは、どの様な根拠に基づいて使われたかは、初期の頃の「姓族ロ」の元は、「後漢の第21代献帝の孫の阿多倍王(589)年」が引き連れて来た「職能集団の渡来人の末裔(姓の初代は「海部氏・陶部氏」である)」であった事に依る。
この「中国の王朝伝統」を引き継いで来た「帰化民族(姓族ロ)」が、初期に使い始め「姓族イ」もこれに準じて「姫の呼称」を踏襲した。
要するに、「姓族イ」は「嬪」と「比売」を「嵯峨期の詔勅禁令」で使えなかった事に依り「姓族ロ(主に諸蕃別)」に準じたのである。
つまり、それまでは前段でも論じたが「青木氏の女・女(むすめ)」は、そもそも、「伊勢神宮の斎王」の例に観られる様に、“「神に仕える」”の位置にして「臣とする立場」にはそもそもなかった。
同然に「特別賜姓族」で「補完役の秀郷流青木氏の主要五氏」も「春日社」を守護神とする為に「宗家筋」に於いては「姫・ひめ」は無い。
(「現地孫の姓」は認められている「分家筋」にはあった。「春日社」は「春日神社」ではない。)
これらの「青木氏族の独特の呼称」を咀嚼して、注釈の前の「後家の話」に戻す。
そして、何故ならば、この「斎王と斎院(斎宮)」は、結果として務めが終われば、「青木氏族の管理下」にある“「伊勢多気郡明和」”の“「斎王の里」の館”と呼ばれていた処に入る事に成る。
結果としてその「プロセス」は同じ事に成るからである。
上記の注釈の「姫」では無い事の二つとして、この「斎王の館の存在」がそれを証明し、「姫」が「斎王の館」に入る事はどの様な「仕儀の変化」があったとしてもあり得ない。
依って、「姫」は「後家」に成り得ないのであって、「後家と姫」との間には論理的矛盾が起こる事に成る。
形式上、“「後家」”に成ったとしても、その「後の扱い」は、「女(むすめ)」の「掟」の中に依然としてある。
「姫」は「女(むすめ)」の定義の中に無く、且つ、「神明社の概念」に沿わない。
それは「伊勢」とは異なり「信濃の周囲」は、「姓族の土豪」がひしめいていて「小県の信濃青木村」も全国を武力を使って「弱い処」を狙って渡り歩く“「国衆」”の多い地域として知られる程に安全では無かった。
「信濃」は、平安期はそれなりに「天領地」であった事から一時は「不入不倫の権」で護られていたが、室町期の「下剋上」と「戦乱」では「抑止力」で押し返す程の完全の力も無く無視された。
この時の「伊勢からの援護」は「経済的なもの」に留まり、鎌倉期からは前段でも論じたが「伊勢と信濃間」の間には「衰退した美濃域」があり「抑止力の完全な援護」は低下していた。
室町期では「美濃域の神明社などの中継点」が排除されていたことが原因している。
室町期末期にこの為の対策を採った。
(注釈 それは一色域で隠れ潜む「美濃青木氏」を「経済力と武力」を持たせて引き出し「蒲郡青木氏」を置き、同様に対岸の田原に「伊川津七党」として再興させて「美濃土岐氏系青木氏」の「田原青木氏」を「国衆」として置いて再興させ、「伊勢」からの「海運の要所」として湾内を占有した。
そして、「近代銃」で「国衆の傭兵」で完全武装させた。この「銃」で三河の松平氏は拡大する。)
この上記の「後家」が、その後に直ぐに慣習化して「制度」、つまり、「後家制度」として成り立ち、この”「後家」”を利用した「斎王の里の館の道筋」の「慣習制度」は「仁明天皇期(850年頃):青木氏の直系尊属」まで続けられた事が「青木氏族の資料」から読み取れる。
その後は「清和期」に「1件の記録」が読み取れるが、その後の「後家としての言語」は資料からは何故か出てこない。
これは恐らくは、「天皇家からの四世族の条件」と「仁明期後の直系尊属」から外れた「二つの事」が大きく原因していると観られる。
つまりは、「後家の隠れ蓑策」が、「天皇家」に於いて「男系の皇位継承」が順調に進み「喫緊の問題」とは成ら無く成ったと云う事であろう。
「青木氏族」から「天皇家に関わると云う事」が無く成ったと云う事にある。
ところが、然し、「伊勢青木氏」の中では、この「後家制度」と「ひいさま」の呼称の二つは、「口伝」で伝えられる範囲では“「ある程度の形」“を変えて明治35年まであった事が書かれている。
この「ある程度の形」とは、次の二つにあった。
先ず一つは、「継承者」が先に死亡して遺された「入妻」が「義母」と成り、その後に成って、「四家の全体の母」と成った時に使われる呼称の「後家さん イ」。
次の二つは、一度、「出の嫁家先制度」で何らかの理由(「馬爪」か「不祥事))で「実家の四家」に戻った者の事を云い、この呼称の「後家さん ロ」。
以上の「イとロ」の「後家さん」で、後は「尼僧」に成るかして通すかにあった。
この「ロの後家」に付いては、一度、「後家の身分」に成ってから、「出産可能な年齢20歳」までの「若い者(上記検証の範囲)」であれば、「出生の氏人の家」に戻される事が慣例として多かった様である。
但し、そこからの「嫁ぎ」は「青木氏の福家の指図範囲」には無かったのであろう。
これには“「無い」”と云うよりは、一度は「女(むすめ)」と成った以上は「合った」のではあるが、「後家」である以上、その「後の人生」を良くする為に「余計な口出し」を避けたのであろう。
つまり、「戻す事の方」が両者に執って何かと都合が良かったのであろう。
それには「尼僧」や「斎王の館」に「采女(うねめ)」として入る事を選択した者も多く居た事が記されている。
但し、更に、“他家に嫁ぐと云う事“は無かった様である。
これは「女系の妻嫁制度」の「信頼と品格」を崩す恐れがあった事に依る。
この二つの「後家のイとロ」を、最初に制度として確立した「青木氏族」では、“「後家」”と呼称した。
この「後家」の呼称は、歴史的には江戸期に一般化して広く拡大して、昭和の中頃まで使われていたが、唯、それでも「後家の呼称」の「使われる範囲」は限定されていて、主に、「庄屋や名主や村主や豪農等の特定階級」の家筋で起こった事に対して、“「後家」”が「便利な呼称」として使われていた。
それには、資料の読み取る範囲で咀嚼すると、「主家」へのある種の「尊敬と親しみと興味」を示す言葉として使われていたと観られる。
つまり、「青木氏族の呼称」であった事に依る「社会の憚り」であったと考えられる。
然し、明治期(13年頃を境に急激に変化)の「地租改正や農地解放等の政策」で、この「主家との関係」が壊されて、この「後家の意味合い」は「平等主義」に託けて「揶揄」へと変化して行った。
「主家の存在」と云うものそのものが次第に“庶民”から敵視されて行ったのである。
「明治政府の方針」であった事は否定できない。
この時、「青木氏」でも、最早、この「憚り」は無く成って、同様であったらしく「社会の勢い」に押されて「形見の狭い思い」をした様で記録にもある。
当然にこの“「後家の呼称」”も青木氏の資料の中の記録から消えている。
その消えている中でも、但し、「殖産の恩恵」と「氏人との過去の関係」から、更には、元を質せば「血縁関係」が「氏人の郷士」に広まっていた事からも、もっと云えば“「地権」”を無償で払い下げられたと云う「恩義」もあって、寧ろ、「御師様」や「氏上様」から「徳宗家・徳農家」等と呼ばれていたと「伊勢青木氏の記録」に遺る。
又、この事に就いては「松阪郷士の氏人」であった方からの「お便り」にもある。
端的に云えば、「地租改正や農地解放等の政策」に依って「氏上様」や「御師様」からの関係が消えて、「徳宗家」や「徳農家」に変化したのである。
この様に、「呼称に関する伝統」は歴史的に大きく関わっている事が判る。
然し、その「呼称の伝統」も「青木氏」の中で維持するにはそう簡単な事では無かった。
「世間の影響」が大きかった様であるが、その「苦労の実記録」は残念ながら遺されていない。
資料から「読み取る事」以外にはないのが現実である。
取り分け、「伊勢」以外には「伝統の史実」でも乏しい現実の中では尚の事である。
戦乱等の「消失や紛失」の事で「乏しい事」は判るが、「伊勢」と共に「目に見えない苦労」が現実に合ったのだ。
この事に一度触れて置きたい。
注釈として、幸いに「伊勢青木氏」に「明治35年頃の変化の記録」が詳細に遺されている。
恐らくは、「他の青木氏族」にも合ったとする証明に成ろう。
それは次の通りである。
口伝で伝えられたのであろう「信濃の青木氏宗家の方」からの「お便り」にも「以下の事」に似た事があってこの所以を明確に記載されている。
「酒造」や「早場米」の「殖産」を新たに興した事が「徳宗家」や「徳農家」の変化に力を添えたと考えられる。
筆者の祖父の叔父に当たる人がこれを成した。
その後の、昭和の中頃以降は、「人権」を叫ばれる時代と成り、そこで、例え「社会制度」の異なる「歴史的な呼称」であっても、容赦なく現在に強引に合して「差別用語」として決めつけられた。
そして、「台頭する社会主義的勢力」の「政治的な思惑」に使われて消えて行った。
これに付いては、「伊勢青木氏と信濃青木氏」では、この「勢力の制裁」は驚くべきか“「攻撃」”を意味するものであったらしい
この「攻撃」は「それまでの経緯」からかなり手厳しく遣られた事が判っている。
それを物語る証拠として、次の事があった。
筆者は、「明治35年(祖父の代)に起こった「伊勢屋の大失火」は「失火の原因」と「その後の処置」に疑問を持ちこの「攻撃」によるものでは無いかと観ている。
その「後の処置」には、その「後の処置と失火の原因」には、疑問がある。
父や祖父らは敢えて、昭和の初期まで「紀州徳川氏」等との付き合いがあり、「伊勢青木氏の立場」もあって、要するに「知名人」であった故に「周囲との関係」を悪化させる事のない様に配慮したものと聞いている。
その様にするのが、「攻撃」たるものがあっても、「何事も無い様に振る舞う事」が「青木氏の品格であり宿命」と信じていた様がある。
然し、敢えて、最早、筆者にはそま「柵」は全く無く成っている故にこれを公表する。
そもそも、本サイトの公開の意思はここにある。
「記録」に遺され得ない「伝統を誇る青木氏族」には「目に見えない軋轢」があったのだ。
そこで、この分析を述べる。
本来は「失火類焼」は「貰い損」が原則であるが「全面損害賠償」をしている事、
「商い」の全てを摂津に移している事、
「松阪」にはその後に「二つの大プロジェクトの殖産・酒造と早場米」を施している事、
必要以上の「地権の放出」をしている事、
「青木氏の福家」を「四家」に移して「福家」は「尾鷲」に引き上げている事、
この事から、この”「攻撃」”を何とか逸らしたと観られる。
父からは飽く迄も「オムツの乾燥」とする「失火」として伝えられているが、「土蔵の蔵群」の中で外に失火しない事、
その後の「遺品の隠し方」が異常である事、
「明治9年で政府への献納金」を中止している事、
「伊勢神宮への支援」等は打ち切っている事、
「明治9年の伊勢騒動」を裏で支援していた事、
「権威性を持つ氏族の存在」を政府が否定し一掃した事、
「大名・華族等への貸付金」を返還無効にしょうとした事、
「生活苦では無い」のに「生活の拠点」を恣意的に移動させている事、
敢えて、態々「福家の見せかけの副業」を前面に押し出した事、
「信濃」も失火に関わらず影響を受けている事、
前段よりの「青木氏の制度」の一切を突然これを契機に打ち切った事、
河を隔てた「燃える事の無い地権地」の「玉城域の南側」も一部類焼している事、
「関東の秀郷流青木氏との関係」も不自然に以後打ち切っている事、
「華族制度への誘い・紀州徳川氏の内示」に対して「青木氏」ではなく「伊勢屋」を前面に押し出し断っている事、
これに対して「名目」を変えて謝罪してその「返答」を右大臣から直筆で受けている事、
政府は「一応の手続き」を採ったと観られ、それに依って「献納金」を中止し、その後の失火事である事。
以上等が挙げられ明らかに「不自然の失火」である。
以上の事で、筆者は「社会的反動の徒」を煽った「政府の仕掛け」であって、「見せしめの攻撃説」を採っている。
簡単には「青木氏の存在否定の所以」であろう事がこれだけの「不自然な事」で証明できる。
先ず間違いは無いだろう。
唯一「権威と象徴」を有していた「氏族の存在」は「政府」と「天皇家」に執つて、好ましくなかった事に成ろう。
落ち着いて考えて観れば、少なくとも明治期の祖父の代までは「四掟」をそれなりに何とか維持していたのである。
これを見方に依れば”「正規の天智系」を維持していた”と成れば、「政治的な国体」からも「排除」と成るは必定であろう。
これは今でも云えるだろうし、「孝謙天皇の白羽の矢」で騒いだ事の逆であろう。
この様な事は、歴史的に他にもあった。
江戸初期の「伊勢の事 お構いなし」のお定め書」である。
これは裏を返せば、「伊勢の権威と象徴族」に対して周囲が文句をつけた事に他ならない。
そうでなければ「お定め書」を出す必要は無かった筈である。
「信長の伊勢攻め」である。
信長に対して、「伊勢」は反抗していない。
なのに「無防備な庶民」への「焼き討ちと虐殺6000人」を繰り返した。
同じく裏を返せば、「伊勢の権威と象徴族」の壊滅にあった。
「室町期初期の下剋上」である。
「姓族の支配下」に置かれ、鎌倉期の「旧領地の本領安堵の地」に対して「地権」が壊滅状態に成った。
これを「巨万の富の獲得」で「商いの力」で「地権」を買い戻した。
なにも青木氏側は土岐の政府に対して反抗した訳では無いし、不入不倫の権で護られた伊勢であるのに。
幕府はこれを無視した。
これも裏を返せば、「伊勢の権威と象徴族」の壊滅にあった。
前段で論じた様に、平安期初期に於いても、鎌倉期中期に於いても同然である。
典型的な事象は云うまでも無く「嵯峨期の事件」である。
「嵯峨期の詔勅と禁令」が出されると云う事は何もなければ出す事はない。
出すと云う事は、裏を返せば「青木氏の存在」が「当時の政治体制」に問題に成ったと云うことであろう。
突き詰めれば周囲から「存在の異論」が出て「源氏」で逃げたと云う事にも成る。
鎌倉期でも、「青木氏」に対して「周囲の反対」を押し切ってでも「本領安堵」を出した。
”反対を押し切ると云う事”は、そもそも、「権威と象徴性」を兼ね備えた「氏族」に必要以上に「力」を与えず「本領」を与えない方が良いとする意見が合った事である。
恐らくは、「頼朝」はこれらの「反対を押し切った事」で暗殺されたのであるから、「青木氏の存在否定」である。
それが、語るも面倒、「第七世族の坂東八平氏」の反対である。
「義経の件」も「頼朝」を悪くしているが孤立無援の中で親族を抹殺する事は自らの存在を弱くする事に成り「頼朝の意思」では決してない。
つまりは、良く似た事であろう。
要するに、全て「時代の変遷期」に、この「攻撃」が全て起こっている。
「青木氏と云う立場」から敢えて”記録が残せない仕儀”であるから論じえないのであって、「表」を論じれば、「裏」も論じる事で「表」が明らかに成る。
然し、これが出来ない。
だから、上記の様に「読み取る事」の以外にないのだ。
如何に「生き遺る事」や、「呼称」一つ採っても「希釈な伝統の維持」が世間に晒されて来たかが判る。
故に、「青木氏の氏是」の所以なのであり、「商い」を表にした所以の一つでもある。
この「氏是」は時代が変わろうと人の世である限りは生きていると信じる。
これが、遺品の額にされて漢詩で書かれた書の意味の所以であろう。
> 「青木氏の伝統 48」-「青木氏の歴史観-21」に続く。
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:「青木氏の伝統 46」-「青木氏の歴史観-19
[No.365] Re:「青木氏の伝統 46」-「青木氏の歴史観-19
投稿者:副管理人 投稿日:2018/12/31(Mon) 18:15:42
> 「青木氏の伝統 45」-青木氏の歴史観-18」末尾
> 「女系族」の「四六の古式の概念の続き」
前段でも論じていた様に、例えば、「出の嫁家先」が、「位階の持つ氏」や「摂津源氏」や「嵯峨源氏」であるとするならば、そこには「女系の妻嫁制度」や「四家制度」が敷かれて行くか、生まれて行く故と成り得ているのである。
そもそもは、何故ならば「家の政所(まんどころ)」は、「女性に任される事の仕来り」があったからであり、この「政所」の基の語意の「まんどころ」(政)はこの意味であり、「家政婦」とはこの語源を持つ言葉である。
当然に「位階の嫁家先」には、従って、「女(むすめ)」が仕切る「政所」は最低限に於いてもこの「女系の妻嫁制度」が敷かれている所以でもある。
つまり、これは前段から論じている様に、明らかに「四六の古式概念」の「四掟の前提の範囲(血縁の条件)」にある事にも成るのだ。
「青木氏の伝統 46」-「青木氏の歴史観-19」
「女系族」の「四六の古式の概念の続き」
さて、この上記の考察の「年齢」とでは、「入りと出」の「政所(まんどころ)」の「女の性の主張」は左程強くなかったと考えられる。
これを出来るだけ排除する為に、”「妾の子孫(四家20家)」”の死亡時の「代替わりの掟」があった。
この時の「母の処置の掟」(尼僧寺に退く掟)が幾つか定められていた事が判っている。
取り分け、この中でもこの「尼僧寺に退く掟」の「比丘尼寺」ではこれらの下界との一切の繋がりを遮断し切っていた。
例えば、少しの「出入り」も「重罪の厳禁の掟」である。
「福家」と「四家20家」には、多くの“「比丘尼」“が「代替わり」毎に出る。
これが下界(世俗)に出て「不倫不浄」を働けば、「青木氏の沽券」に関わり「四家の信頼を失う事」になり、強いては、「女系の妻嫁制度の信頼を失う事」に成る。
これの「災い」は絶対に避けなければならない。
取り分け、次第に広まって行く「女系の妻嫁制度」ではこの「女の災い」は「伊勢」だけに及ばず「青木氏族以上」に際限なく広がる事に成る。
これは「賜姓五役」の「権威」からも絶対に避けなければならない事であった。
この口伝や資料の一節を観ると、その「厳しさ」から相当な「決意の掟」であった事に成る。
この時の「比丘尼寺」には先ず「小山」に合って「下界」から疎遠であって、その寺との疎通で唯一人も入る事は出来ず、老下男一人が食料等を毎日運ぶ「仕組み」と成っていて周囲は堅く囲まれ、その生活は裕福では無く一生を「継承者の仏(青木氏全体の仏)」のみに念仏を捧げる「厳しい掟」であったらしい。
今から思うと間尺に合わないと感じるが「比丘尼僧の現実」はそうであったらしい。
検証して観ると、「四家の嗣子の寿命」が55歳として、15歳に嫁ぎ55歳の40年間のそれ以上に長生きすると、「菩提寺の分寺の尼僧」か「比丘尼僧」として、生きて行かなければならなかった。
「青木氏族の菩提寺の寺名」、その「分寺の寺名」は、又、「秀郷流青木氏の菩提とその分寺」の寺名は判っている。
そもそも「分寺」があるという事は、「尼僧寺(一族の女)」か「比丘尼僧寺(一族の女)」があったという証に成る。
強いて云えば、この分寺があると云う事は、当然に「女系の妻嫁制度」かそれに近い制度を「嫁家制度の拡大」で敷いていた事をも意味する。
つまり、当時はそれが当たり前の事で、“「女の宿命」”でもあり「武家貴族の社会」に於いては疑問の出る処ではなかった。
そもそも、「尼僧」にも「戒律と掟」があったが、主にその主眼は「戒律」にあって、一族の「菩提寺の分寺」で「人を導いて行く事」に成るのが「分寺の尼僧」の普通だが、然し、「比丘尼僧」は違った。
取り分け、「比丘尼僧」は「四家の継承者」のみの「菩提」だけを弔い、「密教の概念」の許に「氏人」の「仏」と「人」を導かない。
依って、「分寺の尼僧」は役目の無い「比丘尼僧」の程の厳しさの程では無かった。
然し、「比丘尼僧」は優先して「女墓」には刻まれるが、これは「当時の慣習」では「誉」であったのだ。
それだけに、「代替わり」を待つまでも無く、「代替わり」直前で許可を得て自ら進んで「入妻」から「尼僧」に成った「入尼僧」と成る者も多くあった。
これと共に、或いは、「女(むすめ)」から直接、「若尼僧」に成る者と共に、養育する「女(むすめ)」を導く「養育係の役目」に成る事も多かった事が書かれている。
これで「女の性の主張」と「不必要な災い」を防いでいたのだ。
これ程に、長い間に改善を加えられて「女系の妻嫁制度」は、如何なる「氏族や姓族」にも見られない「生き残りの策」を確立していた。
これだけの並々ならぬ「努力」は「普通の氏力」では絶対に出来なかったであろう事が判る。これは「氏族と云う絆」の所以に依る。
更に、付け加えるならば、子供を産めなかった「入妻(いづま)」は、「馬爪」(産まない女・産まず女)、要するに、“馬の爪の様に役に立たない”と揶揄した呼称で呼ばれ、「尼僧寺」に入る厳しい「定めの掟」であった。
(注釈 「生存時の代替わり」の「継承者」は「隠居扱い」と成る。)
そこで、「四家20家の継承」は、“「代替わりの空き」”を待つ事に成るので、その「年齢」には制限が無く、依って基本的に高く成り、これに連れて「母扱いの年齢状況」も高くなる。
即ち、「妻」と逆に成る。
これで継承の「嗣子の数」を調整していたと観られる。(隠居策もあった)
これは上記の「男女の本能の差」もあるが、兎も角も、「嗣子」に「仕事の経験させる目的」もあるが、「嗣子」は継承するまで、“「妃、嬪、妾」の「妻」は持てない。
「嗣子の四家20家」の「仕事の年齢」を若くしても、その「仕事を熟す能力」は若いからと云って、「女性の性の様」にはならないし、「男性ホルモン」を喚起させても女性の「女性ホルモン喚起」の様に早熟する性を持ち得ていない。
飽く迄も、「三段階の体の成長」を遂げないと、その「仕事も性」も「男性の能力」は喚起され得ない。
従って、「嗣子の継承年齢(四家20家)」を敢えて定めていなかったのである。
つまり、「妻を持つ事」は、「四家」を「継承しての権利」である事に成る。
これも「入妻の掟」と成る。
結果としての傾向は、「嗣子」と「入妻」のその差は、次の様になり「女系の妻嫁制度」にはある一定の重要な意味を持つ事に成る。
例えば、「入妻」は、上記の検証の通りの様に「15歳~20.5歳」であるとすると、「嗣子の継承年齢」は、「寿命55歳」とすると、男性は「三段階の成長(初夢)」を遂げるのには、上記で述べた様に、「女性の脳」での反応では無く、「前立腺の成長」が起因しているので「進化の過程」では早くなる事は低い。
現在では、「初夢」は、定まった「三段階の体の成長」が無い限りは最低で「15歳頃以上」と成っている。
ここが「三段階の体の成長」が無いところが「女性」と違うところである。
従って、女性に於いては上記の様に「脳の刺激」に依って、「女性ホルモン分泌」が高く成り、「体の成長以上」に早くなる事は起こるが、男性にはこれが無い。
簡単に云うと、「女性ホルモンの分泌」を「脳の刺激」に依って促せば、その「女性ホルモンの分泌」に沿って「生殖可能な全ての体」がそれに合わせて備わって行く事に成る。
「生殖に関する年齢の分岐点」が無い事を意味する。
判りやすく云えば、「脳の女性ホルモンの分泌」の「刺激方法の強弱」にも依るが、際限なく早く起こる事も云える。
外国資料に依れば、「5歳児」で起こった史実も資料も観られる。
この「初潮の有無」を別にすれば、0歳児からもその意味の理解は別にして、「初期の行為」の発表もある位で、これは内外を問わず一般に認められている事でもある。(体内に於いてもその行為が観られる。)
この「初期の行為」が「初潮」を早める結果とも成る。
因みに、豊臣秀頼の妻、「家康の孫の千姫」は、「初潮の有無」は資料では明確ではないが、政略的意味合いは別にしてその「能力」を保持し「9歳」で嫁ぎ、その後の「妻の役目」を果たしている記録があるは、上記の事斯くの如である。
逆に、男子はこの「生殖に関する年齢の分岐点」があって、「男性ホルモンの脳の刺激」などに依って「生殖能力」は生まれない。
脳に遺伝子的に記載された変化する事が無い「人体プロセス」に依って、即ち、「三段階の決められたプロセス」に従って、これに達しない限りは「生殖能力」(初夢)は起こらないのである。
従って、この「年齢差」は極めて少ない事に成る。
そうすると、この事を前提に、計算すると、「現在の平均寿命(生殖能力の精子の老化限度)」は、男子65歳以下とされ、「栄養分の改善」などに依って、その「体の成長の過程比」に影響され、それは、65歳/55歳=1.2と成る。
当時の寿命の55歳は、「人体プロセス」に従う事より、65歳以下の年齢と成る為に、寿命と成り得ていても、「精子の老化年齢(数は影響)」には無く、この比は成立する。
即ち、15歳*1.2=18歳 と成る。
つまりは、「18歳頃(上限)」が、現実の生殖可能な「初夢」と成る。
そうすると、上記の「女子の初潮年齢」は、「10歳」として「20歳」以上が計算の上では「卵子の老化年齢」であった事に成る。
「卵子の老化年齢」は、男性の「精子の老化年齢」とは少し意味が異なり、確かに、「精子の老化」は多少は起こるが、主に「精子の生産数が激減する事」の意味の方が大きい。
取り分け、男性の場合の「精子の老化」は、「生殖」はあっても「無精子」という事が老化に依って起こり、「三日に一回毎の精子の畜生産」はこの傾向が強いのである。
「夢精の初夢年齢」は「三段階の成長(初夢)」が必要な為には、当時は、「初夢の有無」は別として「大人」として扱われる「元服」は、「15歳」と成っていたので、「生理的な年齢」の計算の上では、この事から「15歳」から「18歳」という事に成る。
然し、「生殖」は可能かどうかは別として、恐らくは、資料から鑑みると、「男性の三段階の体の変化」の内の「二段階くらい」は終わったのが、「15歳頃」として「三段階目」が始まる事があったのであろう。
故に、ここを「元服15歳」としていた事が考えられる。
実際は、計算の通り「18歳頃」にあったと観られる。
この「成人期(大人・一人前・男性)年齢」の計算値の「18歳」は、「四六の古式概念」でどの様に考えられていたかと云うと次の様に成る。
「四の倍数」では「16歳」、「六の倍数」では「18歳」と成り、「基準」としては矢張り、「18歳(~16歳)」であった事に成り合致する。
この「四六の古式概念」を敷いていた事もあって、「15歳」を超えている事から、又、「人の差」にもよる為に、「何らかの理由」があり「確認」の上で、「16歳」も「特例」としてあり得たと観られる。
参考 原則、「精子の老化」は65歳頃とされていて、「性欲の限度年齢」は76歳頃であると成っていて、従って、当時の平均寿命55歳は、未だ65歳には達していないので「男性の生殖能力」は、「寿命」に変化はない事から充分にあった事に成る。
「卵子、精子の老化」の限界年齢は、「亜子の可能性」と、「生殖の成功率」に大きく左右し、「妊娠出産能力の限度年齢」とも成る。
従って、「寿命55歳」として、「四家継承の年齢」は、計算では最低でも「18歳」と成るが、ここからあらゆる「継承」に必要とする“「経験期間」”を「最低5年」と仮定し、「空き」が起こる期間を待つとすると次の様に成る。
当時の寿命の「55歳」が限界で、「停年」が現在では60歳/70歳(活躍年齢)=0.85の比と成る。
つまり、計算値としては、「55歳*0.85」=「47歳」が「停年の限界値」と成る。
この「停年の47歳」に「四六の古式概念」を宛がうと、「4の倍数」では「48歳」、「6の倍数」では「48歳」と成り得る。
従って、恐らくは、「当時の四家の停年年齢」は「48歳」であった筈である。
さて、この継承は、「20家」に分散適用されるので、その確率は、一斉に起こったとして、「係数0.05」と成る。
従って、「47歳」*0.05=2.35年~2.75年と成る。
つまりは、「約2~3年程度の空き」を最短で待つ事に成る。
故に、18歳を基準に、結果として、「修行期間」が5年+3年=「8年」と成り得る。
結果として、遅くても18歳+8年=「26歳の継承年齢」と成る。
さて、そこで「入妻」は、15歳/55歳で、「嗣子の継承者」は、26歳/55歳と云う事に成り、「答えのその差」は、15歳-26歳=「約10歳」の差と成り得る。
故に、「妻と継承者の間」には、「約10歳の差」があった事に成る。
さて、そうすると、この「継承年齢」の「基準」はどこにあったのかと云うと、計算の「26歳」は、「四六の古式概念」を宛がうと、「四の概念」で云うと「24歳」か「28歳」と成り、「六の概念」で云うと、「24歳」か「30歳」かに成り得る。
結局は、当時の「継承年齢の基準」としていたのは“「24歳」”と云う事に成る。
そうすると、「入妻」として「最長で40年間」は「妻」と成り得て、(又は比丘尼僧)、「最低で32年間」は「母」、(又は尼僧)と成り得る。
尚、殆どは、「継承者」と「母と成る入妻(義母)」との間には「親子関係」の制度は原則は無い。(女系の妻嫁制度の掟と仕来り)
何故ならば、上記した様に「掟に反する母性の情状」が働き、「好ましくない結果」を招きかねないし、「掟」そのものが根底から崩れる。
飽く迄も、つまりは、「女(むすめ)」も「義母」も、「四家20家の全体」の“「母」”であって、特定の「四家20家の個々の母の扱い」ではないのである。
(注釈 上記の継承年齢や停年年齢等を要領化とした本があった筈であるが、恐らくは、「二度の出火」や「伊勢攻め」等の事から消失したと考えられる。
残るは「伊勢の氏人や家人の家の遺された資料」や、「信濃青木氏の資料」や、「近江佐々木氏の研究資料」から割り出したものを集めて、その中での散見で紐解いた事であった。
そこに論理的な計算を加えて導き出して確定に及んだもので、まず間違いは無いと考えられる。)
この「母」と成り、上記の要領で「継承者」が決まると、呼称は、「母」は「全体の母」であって、ある「四家」に居るその「義母(ひごさまの呼称)」は“「後家様」”と云う呼称で呼ばれた。
この「重要な呼称」と成る“「後家」”に付いては、「青木氏族の資料」等にも多く散見できる。
同様に、「公的な記録」としては、例えば、「光仁天皇期」の「斎王」や「王女」等に成る事を拒んで、故意に「伊勢青木氏の四家」の”「後家」”に成ったとする事が公に二件記録されていて、一人は「叔父の後家」、もう一人は「兄の後家」に入ったとされている。
そもそも、幾ら血縁性を重んじていたとしても、「叔父」や「兄弟」との”「後家」”による「近親血縁」はあり得ないが、これは明らかに「政略結婚」や「その政争」、又、その「斎王や王女の人生」を拒んで“「後家」”を「隠れ蓑」にしていた事を意味する。
「青木氏の資料」には、逆に「女(むすめ)・ひいさま」の段階で、「斎王」、或いは「斎院(斎宮)」を積極的に希望して逃れた記録もある。
ここで注釈として、先ず、この「後家の表現」がこの「公的な記録」として出て来るのは「伊勢青木氏の光仁期の事件」が最初であり、「伊勢青木氏の資料」ともほぼ一致する。
これは重要な「青木氏の歴史観」である。
次に「青木氏の歴史観」として「下記の呼称の事」が重要であるので特記する。
「青木氏の資料」で垣間見ると、本来は、「公的な記録」では「ひいさま」ではあるが、“「ひさま」”であり、「い」は「青木氏の守護神」は「神明社」である事から呼称は「韻の発声」として使われる「慣習仕来り掟」があった。
依って、「主韻」の「ひ{敬いの意}」と、「韻」の「い」とで「ひいぅ」となる。
次に“「ひごさま」“に付いては、上記の「ひ{敬いの意}」と、「ご」は矢張り「韻」で「御・こぅ」としている。
「御」の「ごの濁音」は「韻」に連動して「言葉の品格」がないとして、「こぅ的か、おぅ的」に「韻音」とする発音で「ひこぅさま」か「ひおぅさま」と成るとある。
依って、「ひ御」は、要するに「御母の漢文的表現」となる。
但し、そこで「ひ」の漢字は、古代では“「ひ」”の語源は“「妃、又は嬪」”から来ていて、“「御」”の語源は“「后」“から来ている。
何れも「妻嫁制度の后妃嬪妾」の制度から来ているのである。
平安用語では「嬪」は「ひ」、或いは、「ひめ」と呼称する。現在でも同様である。
筆者の研究では、奈良期の古代は「義母」も「女(むすめ)」も元の発音は同じで”「ひいぅさま」”であったと考えていて、何れも「家の女」に対する「ひの{敬いの意}」で用いていたと考えられる。
ところが、奈良期末期から平安初期に「女系の妻嫁制度」が確立されて行き、そこで、「女(むすめ)制度」の「養育制度」の過程で、「義母」と「女(むすめ)」の呼称を「ひ」に対して「義母」には「妃か嬪」の字を宛がい、更に敬語をつけ備えて「韻」で「御のごぅ」で“「妃・嬪御さま」”で対応した。
「女(むすめ)」に対しては「ひぃさま」の呼称で遺した。
そこで漢字の宛がい方では「義母」に対しては「ひ」には「妃か嬪」に「様」を付けるとしていた。
然し、「女(むすめ)」の宛がい方は、古来の漢字表現は“「比売」”としていて“「比売様」”と宛っていたとしている。
「売」は「韻」で「うぃ」として「ひうぃさま」で「ひいさま」と呼称されていた。
注釈として、これに付いては「青木氏」で無くては判らない「重要な青木氏の歴史観」を述べる。
上記の「比丘尼(びくに)」は「サンスクリット語」ではあるが、仏教伝来時はこの「比丘尼の役目」は「巫女の役目」と同じ務めをしていた。
「女(むすめ)」の古来語は、上記の通り”「比売」”で”「ひいさま」”としていたが、この「神明社の巫女役」に近い務めの「仏教の比丘尼僧」も”「比丘(びく)」”と呼称して「比」の「ひ」を使っていた。
前段でも論じたが、「仏教伝来時」は「社も仏」も「同源(神仏同源)」のもので、「皇祖神の子神の祖先神の神明社」は、「巫女(生女)も「比丘(女)」も”「神に仕える役目」”としては区別は無かったし、そもそも「区別の概念」も無かった。
従って、”「比売」”も”「比丘」”も{同源}と考えられていて、そこで「神に仕える身」から「敬いの意」の「比(ひ)」が使われ「韻」の「売」も「丘」も共に使われた。
この「古来の伝統」が「女(むすめ)の意味する伝統(神に仕える身)」としてM「青木氏」に最近まで伝わっていたのである。
但し、この「比丘」に対して「比丘と比丘尼」は「比丘は男性」、「比丘尼は女性」の得度者と云う風に「鎌倉時代」から一般ではその体質を元の差別的な方向に変化させて行った。
元々、{釈迦の比丘尼}の{発祥経緯}から仏教伝来時の奈良期と平安期までは、この「古来の伝統」を引き継いでいる「青木氏の比丘尼・巫女」の様にこの差別的概念は消えていた。
「青木氏」の「女系の妻嫁制度」に依る「基本概念」と、「伊勢神宮の皇祖神」の「子神の祖先神の神明社」からの「基本概念」からと考えられる。
これは「青木氏の概念」に、沿って、寧ろ”消した”と考えるのが妥当と考えられる。
注釈に鑑み、何故に「青木氏」だけが”「韻を踏む」”かと云うと、当然に「賜姓朝臣族」で、「皇族系の伝統」を形を変えながらも引き継いでいる事には間違いは無い。
然し、皇族とは何もかもが同じと云う訳では無かった事が判る。
上記の「妻嫁制度」や「四家」などの制度を特別に構築している事から変わる事が起こる。
然し、この「韻を踏むと云う事」に関しては上記注釈の様に「伝統の継承」をしているのだ。
つまり、そもそも、「韻を踏む」は、前段でも論じたが、「人類の言葉の初期の発声」は「母音の四音・あおうえ」と「父音の八音・ちいきみしりひに(ヰ音の横の段・奇声音」との「32音の組み合わせ」から「初期の言葉」が起こった。
その「初期の言葉」の元は「母性の性交時の発声類音」が「母音の元」と成っている。
「父音」は「猟時の仲間との暗号」としての「奇声音」が発露と成っている。
この「母音と父音」の「組み合わせの音」が「韻音」として成立する故に、「皇祖神の子神の祖先神の神明社」は「民の神の道祖神」と「稲荷社」と共に「最も古い社」であり、「祝詞」はその語源は結局は「韻を踏む発声」と成り得ていたのである。
故に、この「伝統」を色濃く引き継いでいる事から「母音に繋がる呼称・母性系の言葉」には「韻を踏んで発音する仕来り」と成っている。
恐らくは、この「伝統」は最終は「伊勢と信濃の青木氏」だけに遺されたのであろう。{伝統-4と伝統-24に記載)
ところがその後、室町期中期以降に民から身を興して{姓族}の豪族に席巻された。
この時、「姓族の豪族」の「女」に対しては「ひ」の「姫の語」の適用を室町期に成って起こった。
豪族と家臣との間には「契約」に基づく「臣下契約」が果たされ、この事で「主君の女」に対しても「それ成りの礼節」が求められた。
「姫」の字は「女辺」に「臣」が着いているが、「臣」の字体は「人のひれ伏す形」から来ていて、この事から「女と臣」の結合語は室町期初期の字体である。
「姫」に「平安期の慣習」を用いて「ひ」と表現させて「ひさま」と呼称したのである。
つまり、それまでは前段でも論じたが「青木氏の女・女(むすめ)」は、そもそも、「伊勢神宮の斎王」の例に観られる様に、“「神に仕える」”の位置にして「臣とする立場」にはなかった。
これは「賜姓臣下族青木氏」に於いても同様で、その「古代の皇族の慣習仕来り掟」をそれなりに引き継いでいる事により、「女・女(むすめ)」に於いては「女と臣」の位置にはなかった。
「女(むすめ)」の処で論じた様に、その「女と臣の概念」がそのものが無かったと云える。
「女系の妻嫁制度」のシステムを考えれば「郷士、氏人、家人」から「福家の女(むすめ)」に成って養育する事から明らかに「横関係の家族の位置」に合って「家臣の位置」には無い。
従って、「青木氏」には「女(むすめ)の概念」がある以上は、この「姫の用語」は使われる概念ではなかった。
もつと云えば、「女系の妻嫁制度」が敷かれている以上は論理的にも「姫の概念」は「青木氏」には当然に起こらないし、資料や記録からもこの「姫の用語の使用」は発見出来ない。
仮に「姫・ひめ」として観るならば、「青木氏」では「神明社」である為に「姫」では無い事は明らかであり、且つ、必然的に「韻」を用いる事に成り、この為に「き」であり「きさま」と成りあり得ないのである。
注釈の前の「後家の話」に戻して、何故ならば、この「斎王と斎院(斎宮)」は、結果として務めが終われば、「青木氏族の管理下」にある“「伊勢多気郡明和」”の“「斎王の里」の館”と呼ばれていた処に入る事に成り、結果としてそのプロセスは同じ事に成るからである。
上記の注釈の「姫」では無い事の一つとしてこの「斎王の館の存在」がそれを証明し姫が斎王の館に入る事はどの様な仕儀の変化があったとしてもあり得ないが、依って「姫」は「後家」に成り得ないのであって「後家と姫」との間には論理的矛盾が起こる。
形式上、“「後家」”に成ったとしても、その後の扱いは、「女(むすめ)」の「掟」の中に依然としてある。
「姫」は「女(むすめ)」の定義の中に無い。
「姫」との違いはこの程度として「斎王の里の館」の中でも、「福家の養育過程」の中と同じ環境で、且つ、全て一族の「女(むすめ)」の姉妹なのである。
従って、「特別な違和感」が無かったと考えられ、「政争」からの「逃避地」としてはこれ程に都合がよく安全で格好の良い「隠れ蓑」は無かったと考えられる。
一方、上記した様に「斎院、斎宮、物忌、支女」と成る事は、「必然の定まった道」が出来ている事に成る。
この「物忌」を務めれば、多くは最終は「斎院・斎宮」や「支女」として「斎王の里の館」に入るのである。
「青木氏族」に執っては何の問題も無い。
この「制度の状況」は、「四世族」まで適用されるので、平安期初期の前後(770年頃)は、「伊勢」を始めとして賜姓族の範囲の「近江、信濃、美濃、甲斐」まで、適用されていた可能性があった。
現実に近江にもあった研究記録があるのでこの事は云える。
その後、「最盛期の光仁期(770年頃~780年頃)」では、「四家制度」を敷いてその制度が徐々に改善されて行き、「伊勢」を中心としたものと成って行って、「女系の妻嫁制度」が改善され確立するに至った。
そして、先ずは、「位階の持つ青木氏族の嫁家先」に広まって行ったのである。
そして、その当に「光仁期」からは、「青木氏族の子女(「女(むすめ)」」は、「伊勢の範囲」からは「四世族(王女宣下の範囲)」と成るので、当然に「伊勢-信濃間の血縁」のより進んだ「信濃の四家の妻嫁制度」の「女(むすめ)」にも「王女宣下」が適用される事に至り、この後の「政争」から逃れようとして「後家の隠れ蓑策」は「青木氏族全体」に及んでいた事は確実である。
記録からは観る事はできないが、「斎王の館の存在」や「親族である事」からも「女(むすめ)」や「妻嫁制度」の中に組み入れられていた可能性が充分にある。(散見無し)
(注釈 資料を読み解くと、この「信濃」では先ず第一に「数少ない神明社」を「隠れ蓑策の設備」に使った可能性があり、第二は伊勢に逃げる事に成ったと観られる。
それは「伊勢」とは異なり信濃の周囲は「姓族の土豪」がひしめいていて「小県の信濃青木村」も全国を武力を使って弱い処を狙って渡り歩く「国衆」の多い地域として知られる程に安全では無かった。
「信濃」は平安期はそれなりに「不入不倫の権」で護られていたが、「下剋上」と「戦乱」では「抑止力」で押し返す程の完全の力も無く無視された。
「伊勢からの援護」は「経済的なもの」に留まり、鎌倉期からは間には衰退した美濃域があり「抑止力の完全な援護」は低下していた。)
この上記の「後家」が、その後に直ぐに慣習化して「制度」、つまり、「後家制度」として成り立ち、この”「後家」”を利用した「斎王の里の館の道筋」の「慣習制度」は「仁明天皇期(850年頃)」まで続けられた事が「青木氏族の資料」から読み取れる。
その後は「清和期」に「1件の記録」が読み取れるが、その後の「後家としての言語」は資料からは何故か出てこない。
恐らくは、これは「天皇家からの四世族の条件」と「仁明期後の直系尊属」が外れた「二つの事」が原因していると観られる。
「後家の隠れ蓑策」が、「皇位継承」が順調に進み「喫緊の問題」とは成ら無く成ったと云う事であろう。
ところが、然し、「伊勢青木氏」の中ではこの「後家制度」と「ひいさま」の呼称の二つは、口伝で伝えられる範囲ではある程度の形を変えて明治35年まであった事が書かれている。
この「ある程度の形」とは、次の二つにあった。
先ず一つは、「継承者」が先に死亡して遺された「入妻」が「義母」と成って、「四家の全体の母」と成った時に使われる呼称の「後家さん イ」。
次の二つは、一度、「出の嫁家制度」で何らかの理由(「馬爪」か「不祥事))で「実家の四家」に戻った者の事を云い、この者は「尼僧」に成るか、「後家さん ロ」として通すかにあった。
この「ロの後家」は、一度、「後家の身分」に成ってから、「出産可能な年齢20歳」までの若い者であれば、「出生の氏人の家」に戻される事が慣例として多かった様である。
そこからの「嫁ぎ」は「青木氏の福家の指図範囲」には無かったのであろう。
これには「無い」と云うよりは一度、「女(むすめ)」と成った以上は「合った」のではあるが、「後家」である以上その後の人生を良くする為に「余計な口出し」を避けたのであろう。
つまり、「戻す事の方」が両者に執って都合が良かったのであろう。
「尼僧」や「斎王の館」に「采女(うねめ)」として入る事を選択した者もいた事が記されている。
但し、更に、“他家に嫁ぐと云う事“は無かった様で、これは「女系の妻嫁制度の信頼と品格」を崩す恐れがあった事に依る。
この二つの「後家のイとロ」を、最初に制度として確立した「青木氏族」では、“「後家」”と呼称した。
この「後家」の呼称は、歴史的には江戸期に一般化して広く拡大して、昭和の中頃まで使われていたが、唯、それでも使われる範囲は限定されていて、主に、「庄屋や名主や村主や豪農等の特定階級」の家筋で起こった事に対して、“「後家」”が便利な呼称として使われていた。
それには、「主家」へのある種の「尊敬と親しみと興味」を示す言葉として使われていた。
然し、明治期の「地租改正や農地解放等の政策」で、この「主家との関係」が壊されて、この「後家の意味合い」は平等主義に託けて「揶揄」へと変化して行った。
「主家の存在」のそのものが次第に庶民から敵視されて行った。
この時、「青木氏」も同様であったらしく「社会の勢い」に押されて「形見の狭い思い」をした様で、その中でも但し、「殖産の恩恵」と「氏人の過去の関係」から、更には元を質せば「血縁関係」が「氏人の郷士」に広まっていた事からも、「地権」を払い下げられたと云う「恩義」もあって、寧ろ「徳宗家・徳農家」等と呼ばれていた。
端的に云えば、「氏上様」や「御師様」から「徳宗家」や「徳農家」に変化したのである。
(明治35年頃の変化の記録がある。)
その後の、昭和の中頃以降は、「人権」を叫ばれる時代と成り、そこで、例え「社会制度」の異なる「歴史的な呼称」であっても、容赦なく現在に強引に合して「差別用語」として決めつけられて、台頭する社会主義的勢力の「政治的な思惑」に使われて消えて行った。
「伊勢青木氏」ではそれまでの経緯からかなり手厳しく遣られた事が判っている。
(注釈 この様な言葉は、当然に、「四六の古式概念」に基づく古来の「古式概念に依る制度」を確立させる為の「重要な欠かす事の出来ない仕来り」であった。
この様な「歴史的用語」は、この「後家」も含めて「青木氏族の慣習仕来りの掟」の中にも多くあり、その「青木氏族の伝統」そのものが敵視され、その「思惑の対象」と成った事が口伝でも明確に伝えられている。
その一つの例としては「四六の古式概念」等を含む“「密教の概念」”であった。
(注釈 お便りで「信濃青木氏」でも起こった事が伝えられている。
これはまさしく特異としての「氏族」の「青木氏そのものの否定」であって、「後家」から始まった否定は「青木氏の伝統や慣習仕来り掟の否定」でもあった。
極端に云えば、大正期には家の中にある「伝統に関わるもの」は全て隠した事が伝えられ、昭和20年初め頃には筆者も天井に何故か先祖の遺品の骨董品や多くの資料があるのを確認している。)
「時系列」から観ても、「資料の一節に遺る言葉」から観ても、「言葉の事件性」から観ても、この「歴史に遺る言葉の後家」も、寧ろ、「青木氏族」から出たとも云える呼称や制度であった事に成ろう。
そして、不幸にしてか、この「後家」を始めとして、「比丘尼や支女や物忌や馬爪や入妻や出妻や斎女や斎院」等も、本論で論じている「歴史的な呼称用語」は無念にも消されて行った。
これを証明する言葉としての注釈は、 最も古い言語として「斎」の字は、その読み方は、「青木氏族」では“「さい」”では無く、「いつき」と呼称していた記録がある。
つまり、「斎王」は、「公の記録」の「さいおう」では無く、「青木氏」では「いつきのおう」と「いつきのきみ」の「二つの呼称」が出て来る。
恐らくは、これは「青木氏」が独自に使っていた「古来読み」と観られるが、事程左様に、前段からの「女系の妻嫁制度」などに始り、全ての「制度」や「慣習仕来り掟」に至るまでは、兎も角も、「呼称」も斯くの如しで「重要な歴史観」なのである。
又、そもそも、これは「家人や執事」が「青木氏の伝記」として遺したものであるが故に、「漢文形式の内容」でもあり、全部の「古来読み」を解明する事は筆者の能力では最早難しい。
ところで光仁期の中期頃から、「未婚を押し通した女性」を「行ず後家 イ」と呼んだ。
「嫁家先」から戻された「後家」の事を「戻り後家 ロ」と呼んでいた。
この「行ず後家 イ」は、この「後家制度」の「本来の意味」と成るが、実際は、室町期以降では上記した様に「青木氏族」の制度では、「物忌、支女」か「尼僧」に成るのが「掟」であって、問題は無く必ずこの務めに入った。
(注釈 「後家」に対して「分別する呼称」は無かった。
依って、江戸期の「行ず後家 ハ」とは少し違い、「青木氏制度」では一度、形式上で嫁ぎ「生女」で戻る「女(むすめ)」を云う。
上記の「イとロの後家」は、「仕来り」では「後家の範疇」であるが、ところが、「イの後家」は解るが、この「戻り後家」は「女(むすめ)」では制度上では最早ない。
結果として、「尼僧として扱う事」には成るが、「周囲の尼僧」は「女(むすめ)」の「イの後家」であるので、「尼僧」として生きて行くには、元は「女(むすめ)」であったとしても、生きて人を説き、導きをする事は至難であったらしい事が読み取れる。
然し、この様な事も当然にあり得る事として、「尼僧の中に組み込む制度」として何らかの方法で確立させて置く事は必要であったらしい。
取り分け、室町期は「乱世」で、室町期初期から「下剋上」が起こり、そもそも、「位階の持つ上位との血縁」である以上、「嫁家先の家」が滅亡する事は充分に予測され、事前に返される事は一般的な事として充分にあった。
そして、「嫁家の子孫」を「伊勢青木氏」に保護し遺す為にも「子連れでの事」が多かったらしい。
「四掟範疇の公家」などの「嫁家先」では、「家を遺す武力や充分な抑止力」が無かった為に「滅亡の憂き目」は予想でき、「後家と成る事」は充分に予想できた筈である。
従って、自らが「青木氏」に戻り、敢えて「後家」と成って保護下に入った事もあり得た。
云うまでも無いが「青木氏」には恐れられる「強大な影の抑止力」があって「嫁家先の子孫」を護る意味で戻る事があったらしいが、「秀郷一門の嫁家先」には「361氏と云う日本一の武力集団」があって、「馬爪後家」はあってもこのパターンによる「後家」は無かった。
そこで、「女子」に就いては、「後家」と成り得ても「青木氏の「女(むすめ)」のこの「制度の範疇」にあり、「女系の妻嫁制度の概念」がある限り戻し得る事には何の問題も無かった。
然し、問題は「後家」とその「後家」が引き連れて来る「連れ子の女子」には「女(むすめ)の範疇」にはあるが、「男子」にはこの「制度の範疇」には原則無い。
「後家」は「子供の有無」は別として、「女(むすめ)」の範疇に合ったとしても其処には「生女」ではないと云う基準がある。
従って、「尼僧」としての「受け入れの態勢」に入る事に成るのだ。
前段でも論じた様に、「嫁家先制度」に依って、「優秀な男子」の場合は、一度、「青木氏」を興し、「四家」の「嗣子」に戻す「特例の制度」があった。
この制度を使って、「後家」が引き連れて来た「男子の場合」には、前段で論じた「嫁家先制度」を適用されたらしいが、この範疇は、そもそも、「四家20家」に入るのではなく「氏人の範疇」と決められていた。
従って、元々、「嫁家先」の多くは、「四掟」に基づく「高位の位階」の持つ「秀郷流青木氏」を含む「青木氏族」であるので問題は少ないが、「位階の先」が「四掟の範囲」として、取り分け、「下剋上の危険」に於いて「お家乗っ取り」等に強く晒された「青木氏族外」であった場合も多くあった。
この場合の処置が難しかった事が読み取れる。
それは「相手」がこの「連れ子の男子」を潰しにかかる危険は絶対であったからである。
この「男子を連れ戻すと云う事」は、「保護」を「四家」に求めている事に成る。
「嫁家先」もそのつもりの行為であった。
資料の僅かに記録から読み取れる範囲では、「四家」に入れずに、「菩提寺」に「小坊主」として保護し、その行く末は「僧侶」として匿ったと読み取れる。
これであれば、「当時の青木氏族の慣習」では、「寺に入る事」はその意味を持ち、例えその事が露見したとしても「社会的慣習」で下俗した「僧侶」には「相手」は手を出せない。
この「社会慣習」のみならず、例え手を出したとして「青木氏族のシンジケート」に護られている故に、むしろ「相手」は手を出せば逆に「自分の身」が危ない事に陥る。
「影の抑止力」に依って「影の世界」(青木氏の名が外に出ない事)の中で手を出した一族が潰されてしまう事が発生する。
(注釈 これは前段でも何度も例を以て論じた様に記録から垣間見れる「恐怖の抑止力」であった。
それ程に恐れられていたのだ。
故に「政争やお家政争」に巻き込まれない“「保護」”が可能と成っていた。
尚、室町期では「神明社」も「伊勢神宮に繋がる祖先神」であるので「保護の隠れ蓑策」であった筈だが記録が見つからない。)
況して、最後には「伊勢」であれば、「不入不倫の権」、「信濃」であれば「菩提寺」は勿論の事、「高い位階を持つ事」である故に、前段でも論じた「善光寺」の「浄土宗系院内」にも保護施設として入れる事も出来た。この施設は江戸期末期まで続いた。
従って、資料よりの「読み取り」では、「女子、男子」共に「四家の制度内」に保護できた事に成る。
そこで問題なのは、“「戻り後家の本人」”である。
「子供」がいなければ、「氏人の出生先」に戻す事は出来たが、そもそも“「戻り」”は“「子連れ」”のその「意味」を強く含んでいた。
多くは、戦乱などや下剋上などで武力を持たない故の衰退と潰されての仕儀であって「嫁家先の子孫存続」の「子供連れ」であった。(四掟の一族で秀郷流青木氏は別)
然れば、少なくとも「手出し」の出来ない処に「匿う事」が前提と成る。
「確実に匿う事」が出来るのは、後は唯一つである。
それは、「斎王の里の館」にである。
そこには、「斎王」等の生活を看る「支女」に近い「女人(女官)制度」があった。
凡そ、光仁期後の平安期初期の最盛期には、「約200人程度の女官(青木氏の歴史観 下記)」が「伊勢青木氏」に居た事が記録にある。
この里は「青木氏族の経済的支え」の中で成り立っていた。
況して、そもそも、「平安期」には「四掟の家」は「皇族の経費」を極力軽減する為に、「嵯峨期の詔勅の源氏賜姓」の禁令文面にもある様に、更には元より、「武家社会」と成った「鎌倉期」、「室町期」には、最早、「朝廷」には「伊勢神宮」に関わるこの里の様な「設備等」を支える「その力」が既に無かった。
当然に、「膨大な費用」が掛かる「斎王制度」も「衰退」を余儀なくせざるを得ず、細々とそれに近い「祭司」が行われるに伴って衰退した。(仁明期頃)
前段でも論じた様に「嵯峨期」からは、「皇親族、令外官」(表向きは賜姓を外れた事で、「賜姓五役等も)」を外される結果と成るに従い、「青木氏族」に執つては対抗として「献納」もある程度抑えた。
(これが「嵯峨期の詔勅」の文面の元と成った。)
これを最低限に、「女系の妻嫁制度」の所以を以って、一族の「女(むすめ)」の多くがいる「多気の里」の「館や分寺」で保護した。
「斎王」と云うよりは、寧ろ、「青木氏族」に執っては「女系の妻嫁制度の一環」、つまり、「斎宮、斎院、物忌、支女、女官」としての「多気の里の設備」と捉えていた事に成るだろう。
この“「多気の里」”は、“「斎王の里」”と云うよりは「青木氏族」に執っては無くてはならない「青木氏族の有効な設備」と成り得ていたのである。
この段階(嵯峨期以降)では、最早、「斎王」の云々では全く無かった。
(注釈 「斎王」を強調するは「郷土歴史」によくある「後付けの美化」であろう。)
だから、「家人」がこの「戻り後家の始末」を担当していたと観るのが正しいと考えられる。
「青木氏族」からは、故に、上記のこの経緯から、「斎王」では無くこの「斎王」に成るに近い、或いは、「斎王」に代わって「祭司王の女官(後家等、采女ではない」を出していた。
「青木氏の概念」としては「祭司王」(後家)に切り替わっていた事に成ろう。
(注釈 そもそも、「斎王」は、王族やそれに準ずる者から嫌われて仁明期以降(青木氏の直系尊属)から成る者は少なく成っていた。
筆者は、故に、「光仁期前後から桓武期-嵯峨期」までの“「政争没」”と成っている「内親王」(後宮)や「王女」や「宣下外の女」、「采女の女」の多く「女(むすめ)」は、“「斎王逃れ」”からこの“「後家」”に成ったと観ている。
記録的にも、「光仁期から仁明期(伊勢青木氏出自の四代目)」の「四家」の「女(むすめ)」に実に多い。
そもそも、「政争没の記録」は、一度、「後家(後宮)」として扱われ、政争の中の世俗から外された「斎王や祭司王や物忌」等と成った事から、「世にでない記録」として遺さない様にする為の奇策であったらしい。)
従って、これらの「斎王逃れ」からその「世俗の役目」の終わった「四家」の「女(むすめ)」(後家を含む)から派遣された“「祭司王(いつきつかさのきみ)」”は、「青木氏族」の定められた「一定の過程」を経て、この「慣例」に従い「斎王の里の館」に住まわせて保護していたのである。
当然に、これは最早、「青木氏族の女系の妻嫁制度」の「保護一環策(奇策)」であった事に成る。
つまり、ここに、この「戻り後家」を匿い、“「女官(十二女司)・「女(むすめ)」ではない)」”として働かせていたらしい。(「青木氏の歴史観」)
松阪の「家人の家」に「遺された手紙の資料」の一節に、次の様な「行」が遺されている。
“「・・・の御手配・・小夜の仕儀の事・・多気に使わせ、此の故を以って・・済ませ候の段・・」”とあるは、この「行の経緯」から読み取ればこの意味であろう。
「小夜」とは、この「戻り後家」の幼名で隠したのであろう。
「福家」からこの件が表に出ない様に・・・と云う「隠語」(暗号)を使って、この隠語の「細かい指示」があって、「小夜の保護」を頼みその結果の報告と観られる。
ここで、上記の「後家」に於いては、“「青木氏族の女系の妻嫁制度の一環策」だった”と論じたが、実は、これを証明する言語があるのだ。
それは、この“「後家」”そのものなのである。
前段までに、論じてきた事を、一度、思い起こして頂きたい。
この「言葉」が最初に出て来るのは、「光仁期の青木氏族」が執った“皇族から逃れようとする事件”が「青木氏族」に多く起こった。
この事は「伝統―14等」にも詳しく論じてはいるが、そもそも、「家」と云う言葉にある。
その前に当時として、“「家」”とは、“「公家」”の「家」に対して「武家(武の家)」に使う事を許された「家の言語」である。
「高い格式を持っていた言語」であった。
要するに「氏族」に与えられた「格式を表現する言語」であった。
ところが、江戸期に「姓族」が、「武家」と間違えて呼称される資料が多いが、「姓族」は「氏族」ではないので、正しくは「武士」である。
唯、現実には、「氏族」と成り得る“「家」”とは、江戸初期には最早、「数族」に限られる社会と成り得た事から無視して、「江戸幕府」は、「姓族の武の集団」を遠慮なく「武家」と呼称して「権威付け」として鼓舞した。
その「発端」と成ったのが、「公家諸法度」に対して「武士」に課せた「武家諸法度」として決めつけた事にある。
(注釈 「西の政権」、即ち、「冠位や位階」などを与え「歴史的な慣習仕来り掟」を改めさせる役を負っていた「京の朝廷(西の政権)」は、この事に異議を申し立てたが無視された経緯がある。)
“「家」”とは、そもそも「青木氏族等」や「近江佐々木氏族」の「皇位の冠位や位階を持つ氏族」に限定されて使われる「家柄を示す用語」であった。当然に「家」に着く「侍」も同然である。
「藤原氏」の「斎蔵」を担う「官僚族の公家」とは、元より、当に「斎(いつき)に関わる族の家」を云う。
「施基皇子の賜姓臣下朝臣族」と新たに成った族に許した「朝臣族の武」を以って「朝廷」に仕える「貴族」を「武家貴族」として呼称を許し、これを「氏族」とした。
そして、この「呼称の許される範囲」を、「宿禰以上の冠位」があり、且つ、ある一定の以上の位階、つまり、「従四位下の以上を持つ者」の「族」(家)とされた。
この「氏の構成を許された族」には、“「家」”を興す事を許した。
「幾つかの家」を興し構成してこの「家の全体」を「氏の族」の「集団」として認めたのが、要するに“「武家」”なのであり、「伊勢の青木氏族」は、それが「四家、即ち20家と郷士族50」で構成していたという事に成る。
従って、ここには論理的に上記の様な「姓の論理」は働かないのである。
「近江佐々木氏」を含む「近江から甲斐」までが、この「家」を興して「氏族」として認められた事に成るのである。
当然に、「四六の古式概念」の中にいて「20家の四家」と成る所以である。
従って、「家」の無い「氏族」は存在しない理屈と成る。
当然に、同様に「氏人」が存在しなければ「氏」とは云えない事に成る。
つまり、「氏人」が「氏族」を構成するからである。この逆の論理も成り立つ。
「氏族」=「家」=「武家」=「氏上」=「氏人」
以上の関係式が出来る事に成る。
「秀郷流青木氏」は「青木氏の補完役の策」として「賜姓」を受け「武家貴族」として認められたが、これを以って「氏族」として認められ、その「氏族」には、「永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏、遠藤氏、結城氏、工藤氏等の「361氏の家」が認められた。
そして、「冠位と官位」でそれを証明するに至り、「補完役」である以上は、これを前提に「摂関家の公家」ではないが、「青木氏族」に近い「氏族」に等しい「高位の位階(貴族)」を与えられたのである。
従って、「氏人構成」の無い「姓族」には、「氏族」でない限りは、この「氏人と家の論理」は成り立たないのである。
「氏族」の「氏上―氏人」の「血縁の関係」とで構成される集団と、「姓族」の主君と「無縁の契約関係」で構成され集団とは、根本的には全くその「構成条件」が異なるのである。
つまり、上記の「氏族=家=武家=氏上=氏人=家人の関係式」が成り立つのである。
そもそも、そこで「姓族」には、次の二つがある。
(a)平安期初期の「新撰姓氏禄」に記されている「姓族」
(b)「室町期中期から「下剋上で勃興した姓族」
(a)は、正式に「四段階の格式の姓」の位を表す「姓族」として認められているので、「姓族=分家=武家=家臣」となる。
天武期の「八色の姓制度」に基づく「格式位の姓の意」である。
但し、「本家―分家」は、「縦の関係」にある。
この「家臣」は、「主従」の「縦の契約関係」にある。
「氏族」の「福家と四家の関係」は、「横の関係」にあり、「氏上、氏人、家人の関係」も上記の数式の通り「横の関係」にあって、「契約の関係」では無く「血縁の関係」にあった事である。
故に、「横の関係」と「血縁の関係」にあったからこそ、「青木氏族」に起こった「後家」は、「氏族」にのみ適用される「言語」と成り得ていたのである。
これがその論理的証拠である。
前段でも何度も論じてはいるが、「嵯峨期」の「新撰姓氏禄」に記載の「48氏の氏族」がこれに当たる。
この論理的には「48氏」が「家を興す権利」を朝廷から認められていた事に成る。
(注釈 「bの姓」は、朝廷から「家を興す権利(氏族)」を認められていないから、従って、「分家」として発展し、つまりは、「一つの家」を「分身の様」に分けると云う理屈と成る。
故に「分ける家」なのであって「家」を別段に興していない理屈に成る。
依って、「分家」にしろ、「家臣」にしろ、「縦の関係」で成り立つ以外には無く、「縦の関係」である以上は「主従の雇用契約の関係」に成るは必定である。)
従って、この「後家」は「姓族」には論理的には起こらない言葉と成る。
そもそも、「後家」は、「後宮」に通ずる言葉であり、皇室の「宮」、即ち、「氏族」の「家」であり、「家」は「青木氏族」の様な「氏族」のみに「後家の言葉」(後の家)と同じく使われる切っても切れない言葉であった。
「姓」を興している事は、「氏族」では無い事に成り、「朝廷の宣下に反する事」に成る。
この場合は、「氏族」を朝廷より外される事に成る。
(注釈 但し、例外はあった。それは「補完役」であり、「特別賜姓族」で「円融天皇の賜姓」あると云う高位の特別の格式を有する事により「北家藤原氏」と云う「氏族(秀郷流)」が成り立つのである。
361氏と云う「分家」が特別に認められた。
依って、「家紋」も「総紋」を「下り藤紋」とし乍ら”「二つ副紋方式」”と云う「姓族」には無い「特別な方式」を採用する事を許されたのである。)
従って、「五家の青木氏族」には「分家」は無いのであって、「四家の構成」なのであって「姓」は無いのである。
当然に「家紋」は無く、「氏族」を示す一つの「象徴紋(笹竜胆の文様)」だけなのである。
(注釈 現実に、「皇族」と多少の「血縁関係」を有する「嵯峨期の姓族(新撰姓氏禄)」とは異なる。
庶民から興した「姓族現象(b 最初は安芸渡来系海部氏)」が本格的に起こった「室町期」には、この力を借りる事が多く起こったのである。
庶民から興した「姓族(b)」も、主従の間には懸命に「氏族の様な血縁関係」を構築しようとしたが、これは「血縁の歴史の期間」が異なるし、元より前段でも論じた数々の氏を構成する制度が異なっている。)
故に、「乱世の戦乱」や「下剋上」での事のみならず、「生き残りの為」に「氏族の条件」を外して「姓族(a)」に頼って生きた為に「氏族」を外された例も多く、結局は、「20氏位」から室町期末期には滅亡して仕舞い、遂には「正規の氏族」は「5氏程度」に成り得たのである。
この“「家」”とは、そもそもこの様な「構成条件の意味」を持っていたのである。
当然に「後家」もである。
(注釈 決して「江戸期の武家」との混同は留意されて間違われる事の無いように「本伝統」では理解して頂きたい。
少なくとも本サイトでは理解に苦しむ事が起こる事を避けたい。)
「光仁期」で、初めて、「朝臣族の武家の天皇家」が出た事に依る謂れから、「青木氏族」がその時、「救済策」として「四家制度」の中に、この「政争」の多い「王族」から逃れられる制度を敷いて護った。
これが“「四つ」の「家」”、即ち、「四家」の「空き」のある「母」と成っている「家」に、その「後目」の「家」に入る「王女」(「女(むすめ)」)として、“「後家」“と云う呼称を使って、公然とした「逃避の救済の制度化」を施したのである。
(注釈 記録の一部に、全ての「青木氏族」に対して「神明社」(巫女役として)を通じて越前域にても行った事も散見できる。
「青木氏の守護神の神明社」では「皇祖神の子神」である事から「朝廷の仕来り」を引き継いで「穢れ」を「お祓いする役」として「巫女の事」を「巫・かんなぎ女」と呼んでいた事が判っている。
この役は「女(むすめ)」であってもよいし婚姻後も務められる役でもあった。
当然に「後家」も務められた。
どの程度の「後家」や「女(むすめ)」が務めたかは判っていない。
だとすると、「500社弱の神明社」に対して「女(むすめ)」の数では賄いきれる数ではない。
「斎院、斎宮、物忌、支女」等に成る「女(むすめ)」であり、「神明社のかんなぎ女」までは果たして全てを賄えていたかは疑問である。
「「五家五流青木氏」は勿論の事、24地域に分布する「116氏の秀郷流青木氏」の「補完役の力」も借りていた可能性が充分にある。
但し、江戸期初期には全て「青木氏」からの「かんなぎ」は停止したとある。)
それが最初の“「後家」の呼称”であった。
正式名は、「光仁期」では、一応、天皇家の「後宮」として呼称されていたが、同じ出自の「青木氏族」では、「家を興す謂れ」から「後家」であった。
そもそも、「四家内の妻嫁制度」、又は、「四家内の嫁家先制度」として、あり得ない「叔父や兄」の二親等、三親等の「妻」として入る事はあり得ない「救済策(逃避の便宜策)」である。
これで一応は「醜い政争」から逃れられ、その後は、再び「妻嫁制度」と「嫁家先制度」に依って嫁ぐ事が出来る。
将又、「女系の妻嫁制度」の上記の「尼僧、比丘尼僧、斎王、物忌、支女、斎王、斎院、斎宮」と、“「十二女司役」の「女官と采女(上記)」“として生きて行く事か、この「三つの選択肢」が広げられて行った。
「朝廷の制度」に見習い「青木氏」には当初から「十二女司(じよし)」と云う「女官」がいた事が判っている。
「女系の妻嫁制度」の「全体の事務や雑務」を支える「女官の事」である。
これには「女(むすめ)」と成らなかった「氏人の郷士」の「他の女」の多くが務めたらしい。
ここから「福家の支援」に依って「郷士」に嫁に向かったのであろう。
恐らくは、「氏人の郷士の娘の救済策」として、「十二女司」を務める事でここで同じく「女(むすめ)」としての「教養」を身に着けさせたのであろう。
これは「氏人の底上げ策」であろうし、強力な絆構築であったし、「第二の女(むすめ)策」でもあったと観られる。
これも男系では無く「女系の妻嫁制度」で「堅い絆」が構築されていた事が判る。
故に、この経緯の中の制度の「後の家」なのであり、それなりの「青木氏族」の「意味」を持っているのである。
この「後家の言葉」の「構成と表現」が如何に「青木氏族の所以」であったかが判る。
> 「青木氏の伝統 47」-「青木氏の歴史観-20」に続く。
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
投稿者:副管理人 投稿日:2018/12/31(Mon) 18:15:42
> 「青木氏の伝統 45」-青木氏の歴史観-18」末尾
> 「女系族」の「四六の古式の概念の続き」
前段でも論じていた様に、例えば、「出の嫁家先」が、「位階の持つ氏」や「摂津源氏」や「嵯峨源氏」であるとするならば、そこには「女系の妻嫁制度」や「四家制度」が敷かれて行くか、生まれて行く故と成り得ているのである。
そもそもは、何故ならば「家の政所(まんどころ)」は、「女性に任される事の仕来り」があったからであり、この「政所」の基の語意の「まんどころ」(政)はこの意味であり、「家政婦」とはこの語源を持つ言葉である。
当然に「位階の嫁家先」には、従って、「女(むすめ)」が仕切る「政所」は最低限に於いてもこの「女系の妻嫁制度」が敷かれている所以でもある。
つまり、これは前段から論じている様に、明らかに「四六の古式概念」の「四掟の前提の範囲(血縁の条件)」にある事にも成るのだ。
「青木氏の伝統 46」-「青木氏の歴史観-19」
「女系族」の「四六の古式の概念の続き」
さて、この上記の考察の「年齢」とでは、「入りと出」の「政所(まんどころ)」の「女の性の主張」は左程強くなかったと考えられる。
これを出来るだけ排除する為に、”「妾の子孫(四家20家)」”の死亡時の「代替わりの掟」があった。
この時の「母の処置の掟」(尼僧寺に退く掟)が幾つか定められていた事が判っている。
取り分け、この中でもこの「尼僧寺に退く掟」の「比丘尼寺」ではこれらの下界との一切の繋がりを遮断し切っていた。
例えば、少しの「出入り」も「重罪の厳禁の掟」である。
「福家」と「四家20家」には、多くの“「比丘尼」“が「代替わり」毎に出る。
これが下界(世俗)に出て「不倫不浄」を働けば、「青木氏の沽券」に関わり「四家の信頼を失う事」になり、強いては、「女系の妻嫁制度の信頼を失う事」に成る。
これの「災い」は絶対に避けなければならない。
取り分け、次第に広まって行く「女系の妻嫁制度」ではこの「女の災い」は「伊勢」だけに及ばず「青木氏族以上」に際限なく広がる事に成る。
これは「賜姓五役」の「権威」からも絶対に避けなければならない事であった。
この口伝や資料の一節を観ると、その「厳しさ」から相当な「決意の掟」であった事に成る。
この時の「比丘尼寺」には先ず「小山」に合って「下界」から疎遠であって、その寺との疎通で唯一人も入る事は出来ず、老下男一人が食料等を毎日運ぶ「仕組み」と成っていて周囲は堅く囲まれ、その生活は裕福では無く一生を「継承者の仏(青木氏全体の仏)」のみに念仏を捧げる「厳しい掟」であったらしい。
今から思うと間尺に合わないと感じるが「比丘尼僧の現実」はそうであったらしい。
検証して観ると、「四家の嗣子の寿命」が55歳として、15歳に嫁ぎ55歳の40年間のそれ以上に長生きすると、「菩提寺の分寺の尼僧」か「比丘尼僧」として、生きて行かなければならなかった。
「青木氏族の菩提寺の寺名」、その「分寺の寺名」は、又、「秀郷流青木氏の菩提とその分寺」の寺名は判っている。
そもそも「分寺」があるという事は、「尼僧寺(一族の女)」か「比丘尼僧寺(一族の女)」があったという証に成る。
強いて云えば、この分寺があると云う事は、当然に「女系の妻嫁制度」かそれに近い制度を「嫁家制度の拡大」で敷いていた事をも意味する。
つまり、当時はそれが当たり前の事で、“「女の宿命」”でもあり「武家貴族の社会」に於いては疑問の出る処ではなかった。
そもそも、「尼僧」にも「戒律と掟」があったが、主にその主眼は「戒律」にあって、一族の「菩提寺の分寺」で「人を導いて行く事」に成るのが「分寺の尼僧」の普通だが、然し、「比丘尼僧」は違った。
取り分け、「比丘尼僧」は「四家の継承者」のみの「菩提」だけを弔い、「密教の概念」の許に「氏人」の「仏」と「人」を導かない。
依って、「分寺の尼僧」は役目の無い「比丘尼僧」の程の厳しさの程では無かった。
然し、「比丘尼僧」は優先して「女墓」には刻まれるが、これは「当時の慣習」では「誉」であったのだ。
それだけに、「代替わり」を待つまでも無く、「代替わり」直前で許可を得て自ら進んで「入妻」から「尼僧」に成った「入尼僧」と成る者も多くあった。
これと共に、或いは、「女(むすめ)」から直接、「若尼僧」に成る者と共に、養育する「女(むすめ)」を導く「養育係の役目」に成る事も多かった事が書かれている。
これで「女の性の主張」と「不必要な災い」を防いでいたのだ。
これ程に、長い間に改善を加えられて「女系の妻嫁制度」は、如何なる「氏族や姓族」にも見られない「生き残りの策」を確立していた。
これだけの並々ならぬ「努力」は「普通の氏力」では絶対に出来なかったであろう事が判る。これは「氏族と云う絆」の所以に依る。
更に、付け加えるならば、子供を産めなかった「入妻(いづま)」は、「馬爪」(産まない女・産まず女)、要するに、“馬の爪の様に役に立たない”と揶揄した呼称で呼ばれ、「尼僧寺」に入る厳しい「定めの掟」であった。
(注釈 「生存時の代替わり」の「継承者」は「隠居扱い」と成る。)
そこで、「四家20家の継承」は、“「代替わりの空き」”を待つ事に成るので、その「年齢」には制限が無く、依って基本的に高く成り、これに連れて「母扱いの年齢状況」も高くなる。
即ち、「妻」と逆に成る。
これで継承の「嗣子の数」を調整していたと観られる。(隠居策もあった)
これは上記の「男女の本能の差」もあるが、兎も角も、「嗣子」に「仕事の経験させる目的」もあるが、「嗣子」は継承するまで、“「妃、嬪、妾」の「妻」は持てない。
「嗣子の四家20家」の「仕事の年齢」を若くしても、その「仕事を熟す能力」は若いからと云って、「女性の性の様」にはならないし、「男性ホルモン」を喚起させても女性の「女性ホルモン喚起」の様に早熟する性を持ち得ていない。
飽く迄も、「三段階の体の成長」を遂げないと、その「仕事も性」も「男性の能力」は喚起され得ない。
従って、「嗣子の継承年齢(四家20家)」を敢えて定めていなかったのである。
つまり、「妻を持つ事」は、「四家」を「継承しての権利」である事に成る。
これも「入妻の掟」と成る。
結果としての傾向は、「嗣子」と「入妻」のその差は、次の様になり「女系の妻嫁制度」にはある一定の重要な意味を持つ事に成る。
例えば、「入妻」は、上記の検証の通りの様に「15歳~20.5歳」であるとすると、「嗣子の継承年齢」は、「寿命55歳」とすると、男性は「三段階の成長(初夢)」を遂げるのには、上記で述べた様に、「女性の脳」での反応では無く、「前立腺の成長」が起因しているので「進化の過程」では早くなる事は低い。
現在では、「初夢」は、定まった「三段階の体の成長」が無い限りは最低で「15歳頃以上」と成っている。
ここが「三段階の体の成長」が無いところが「女性」と違うところである。
従って、女性に於いては上記の様に「脳の刺激」に依って、「女性ホルモン分泌」が高く成り、「体の成長以上」に早くなる事は起こるが、男性にはこれが無い。
簡単に云うと、「女性ホルモンの分泌」を「脳の刺激」に依って促せば、その「女性ホルモンの分泌」に沿って「生殖可能な全ての体」がそれに合わせて備わって行く事に成る。
「生殖に関する年齢の分岐点」が無い事を意味する。
判りやすく云えば、「脳の女性ホルモンの分泌」の「刺激方法の強弱」にも依るが、際限なく早く起こる事も云える。
外国資料に依れば、「5歳児」で起こった史実も資料も観られる。
この「初潮の有無」を別にすれば、0歳児からもその意味の理解は別にして、「初期の行為」の発表もある位で、これは内外を問わず一般に認められている事でもある。(体内に於いてもその行為が観られる。)
この「初期の行為」が「初潮」を早める結果とも成る。
因みに、豊臣秀頼の妻、「家康の孫の千姫」は、「初潮の有無」は資料では明確ではないが、政略的意味合いは別にしてその「能力」を保持し「9歳」で嫁ぎ、その後の「妻の役目」を果たしている記録があるは、上記の事斯くの如である。
逆に、男子はこの「生殖に関する年齢の分岐点」があって、「男性ホルモンの脳の刺激」などに依って「生殖能力」は生まれない。
脳に遺伝子的に記載された変化する事が無い「人体プロセス」に依って、即ち、「三段階の決められたプロセス」に従って、これに達しない限りは「生殖能力」(初夢)は起こらないのである。
従って、この「年齢差」は極めて少ない事に成る。
そうすると、この事を前提に、計算すると、「現在の平均寿命(生殖能力の精子の老化限度)」は、男子65歳以下とされ、「栄養分の改善」などに依って、その「体の成長の過程比」に影響され、それは、65歳/55歳=1.2と成る。
当時の寿命の55歳は、「人体プロセス」に従う事より、65歳以下の年齢と成る為に、寿命と成り得ていても、「精子の老化年齢(数は影響)」には無く、この比は成立する。
即ち、15歳*1.2=18歳 と成る。
つまりは、「18歳頃(上限)」が、現実の生殖可能な「初夢」と成る。
そうすると、上記の「女子の初潮年齢」は、「10歳」として「20歳」以上が計算の上では「卵子の老化年齢」であった事に成る。
「卵子の老化年齢」は、男性の「精子の老化年齢」とは少し意味が異なり、確かに、「精子の老化」は多少は起こるが、主に「精子の生産数が激減する事」の意味の方が大きい。
取り分け、男性の場合の「精子の老化」は、「生殖」はあっても「無精子」という事が老化に依って起こり、「三日に一回毎の精子の畜生産」はこの傾向が強いのである。
「夢精の初夢年齢」は「三段階の成長(初夢)」が必要な為には、当時は、「初夢の有無」は別として「大人」として扱われる「元服」は、「15歳」と成っていたので、「生理的な年齢」の計算の上では、この事から「15歳」から「18歳」という事に成る。
然し、「生殖」は可能かどうかは別として、恐らくは、資料から鑑みると、「男性の三段階の体の変化」の内の「二段階くらい」は終わったのが、「15歳頃」として「三段階目」が始まる事があったのであろう。
故に、ここを「元服15歳」としていた事が考えられる。
実際は、計算の通り「18歳頃」にあったと観られる。
この「成人期(大人・一人前・男性)年齢」の計算値の「18歳」は、「四六の古式概念」でどの様に考えられていたかと云うと次の様に成る。
「四の倍数」では「16歳」、「六の倍数」では「18歳」と成り、「基準」としては矢張り、「18歳(~16歳)」であった事に成り合致する。
この「四六の古式概念」を敷いていた事もあって、「15歳」を超えている事から、又、「人の差」にもよる為に、「何らかの理由」があり「確認」の上で、「16歳」も「特例」としてあり得たと観られる。
参考 原則、「精子の老化」は65歳頃とされていて、「性欲の限度年齢」は76歳頃であると成っていて、従って、当時の平均寿命55歳は、未だ65歳には達していないので「男性の生殖能力」は、「寿命」に変化はない事から充分にあった事に成る。
「卵子、精子の老化」の限界年齢は、「亜子の可能性」と、「生殖の成功率」に大きく左右し、「妊娠出産能力の限度年齢」とも成る。
従って、「寿命55歳」として、「四家継承の年齢」は、計算では最低でも「18歳」と成るが、ここからあらゆる「継承」に必要とする“「経験期間」”を「最低5年」と仮定し、「空き」が起こる期間を待つとすると次の様に成る。
当時の寿命の「55歳」が限界で、「停年」が現在では60歳/70歳(活躍年齢)=0.85の比と成る。
つまり、計算値としては、「55歳*0.85」=「47歳」が「停年の限界値」と成る。
この「停年の47歳」に「四六の古式概念」を宛がうと、「4の倍数」では「48歳」、「6の倍数」では「48歳」と成り得る。
従って、恐らくは、「当時の四家の停年年齢」は「48歳」であった筈である。
さて、この継承は、「20家」に分散適用されるので、その確率は、一斉に起こったとして、「係数0.05」と成る。
従って、「47歳」*0.05=2.35年~2.75年と成る。
つまりは、「約2~3年程度の空き」を最短で待つ事に成る。
故に、18歳を基準に、結果として、「修行期間」が5年+3年=「8年」と成り得る。
結果として、遅くても18歳+8年=「26歳の継承年齢」と成る。
さて、そこで「入妻」は、15歳/55歳で、「嗣子の継承者」は、26歳/55歳と云う事に成り、「答えのその差」は、15歳-26歳=「約10歳」の差と成り得る。
故に、「妻と継承者の間」には、「約10歳の差」があった事に成る。
さて、そうすると、この「継承年齢」の「基準」はどこにあったのかと云うと、計算の「26歳」は、「四六の古式概念」を宛がうと、「四の概念」で云うと「24歳」か「28歳」と成り、「六の概念」で云うと、「24歳」か「30歳」かに成り得る。
結局は、当時の「継承年齢の基準」としていたのは“「24歳」”と云う事に成る。
そうすると、「入妻」として「最長で40年間」は「妻」と成り得て、(又は比丘尼僧)、「最低で32年間」は「母」、(又は尼僧)と成り得る。
尚、殆どは、「継承者」と「母と成る入妻(義母)」との間には「親子関係」の制度は原則は無い。(女系の妻嫁制度の掟と仕来り)
何故ならば、上記した様に「掟に反する母性の情状」が働き、「好ましくない結果」を招きかねないし、「掟」そのものが根底から崩れる。
飽く迄も、つまりは、「女(むすめ)」も「義母」も、「四家20家の全体」の“「母」”であって、特定の「四家20家の個々の母の扱い」ではないのである。
(注釈 上記の継承年齢や停年年齢等を要領化とした本があった筈であるが、恐らくは、「二度の出火」や「伊勢攻め」等の事から消失したと考えられる。
残るは「伊勢の氏人や家人の家の遺された資料」や、「信濃青木氏の資料」や、「近江佐々木氏の研究資料」から割り出したものを集めて、その中での散見で紐解いた事であった。
そこに論理的な計算を加えて導き出して確定に及んだもので、まず間違いは無いと考えられる。)
この「母」と成り、上記の要領で「継承者」が決まると、呼称は、「母」は「全体の母」であって、ある「四家」に居るその「義母(ひごさまの呼称)」は“「後家様」”と云う呼称で呼ばれた。
この「重要な呼称」と成る“「後家」”に付いては、「青木氏族の資料」等にも多く散見できる。
同様に、「公的な記録」としては、例えば、「光仁天皇期」の「斎王」や「王女」等に成る事を拒んで、故意に「伊勢青木氏の四家」の”「後家」”に成ったとする事が公に二件記録されていて、一人は「叔父の後家」、もう一人は「兄の後家」に入ったとされている。
そもそも、幾ら血縁性を重んじていたとしても、「叔父」や「兄弟」との”「後家」”による「近親血縁」はあり得ないが、これは明らかに「政略結婚」や「その政争」、又、その「斎王や王女の人生」を拒んで“「後家」”を「隠れ蓑」にしていた事を意味する。
「青木氏の資料」には、逆に「女(むすめ)・ひいさま」の段階で、「斎王」、或いは「斎院(斎宮)」を積極的に希望して逃れた記録もある。
ここで注釈として、先ず、この「後家の表現」がこの「公的な記録」として出て来るのは「伊勢青木氏の光仁期の事件」が最初であり、「伊勢青木氏の資料」ともほぼ一致する。
これは重要な「青木氏の歴史観」である。
次に「青木氏の歴史観」として「下記の呼称の事」が重要であるので特記する。
「青木氏の資料」で垣間見ると、本来は、「公的な記録」では「ひいさま」ではあるが、“「ひさま」”であり、「い」は「青木氏の守護神」は「神明社」である事から呼称は「韻の発声」として使われる「慣習仕来り掟」があった。
依って、「主韻」の「ひ{敬いの意}」と、「韻」の「い」とで「ひいぅ」となる。
次に“「ひごさま」“に付いては、上記の「ひ{敬いの意}」と、「ご」は矢張り「韻」で「御・こぅ」としている。
「御」の「ごの濁音」は「韻」に連動して「言葉の品格」がないとして、「こぅ的か、おぅ的」に「韻音」とする発音で「ひこぅさま」か「ひおぅさま」と成るとある。
依って、「ひ御」は、要するに「御母の漢文的表現」となる。
但し、そこで「ひ」の漢字は、古代では“「ひ」”の語源は“「妃、又は嬪」”から来ていて、“「御」”の語源は“「后」“から来ている。
何れも「妻嫁制度の后妃嬪妾」の制度から来ているのである。
平安用語では「嬪」は「ひ」、或いは、「ひめ」と呼称する。現在でも同様である。
筆者の研究では、奈良期の古代は「義母」も「女(むすめ)」も元の発音は同じで”「ひいぅさま」”であったと考えていて、何れも「家の女」に対する「ひの{敬いの意}」で用いていたと考えられる。
ところが、奈良期末期から平安初期に「女系の妻嫁制度」が確立されて行き、そこで、「女(むすめ)制度」の「養育制度」の過程で、「義母」と「女(むすめ)」の呼称を「ひ」に対して「義母」には「妃か嬪」の字を宛がい、更に敬語をつけ備えて「韻」で「御のごぅ」で“「妃・嬪御さま」”で対応した。
「女(むすめ)」に対しては「ひぃさま」の呼称で遺した。
そこで漢字の宛がい方では「義母」に対しては「ひ」には「妃か嬪」に「様」を付けるとしていた。
然し、「女(むすめ)」の宛がい方は、古来の漢字表現は“「比売」”としていて“「比売様」”と宛っていたとしている。
「売」は「韻」で「うぃ」として「ひうぃさま」で「ひいさま」と呼称されていた。
注釈として、これに付いては「青木氏」で無くては判らない「重要な青木氏の歴史観」を述べる。
上記の「比丘尼(びくに)」は「サンスクリット語」ではあるが、仏教伝来時はこの「比丘尼の役目」は「巫女の役目」と同じ務めをしていた。
「女(むすめ)」の古来語は、上記の通り”「比売」”で”「ひいさま」”としていたが、この「神明社の巫女役」に近い務めの「仏教の比丘尼僧」も”「比丘(びく)」”と呼称して「比」の「ひ」を使っていた。
前段でも論じたが、「仏教伝来時」は「社も仏」も「同源(神仏同源)」のもので、「皇祖神の子神の祖先神の神明社」は、「巫女(生女)も「比丘(女)」も”「神に仕える役目」”としては区別は無かったし、そもそも「区別の概念」も無かった。
従って、”「比売」”も”「比丘」”も{同源}と考えられていて、そこで「神に仕える身」から「敬いの意」の「比(ひ)」が使われ「韻」の「売」も「丘」も共に使われた。
この「古来の伝統」が「女(むすめ)の意味する伝統(神に仕える身)」としてM「青木氏」に最近まで伝わっていたのである。
但し、この「比丘」に対して「比丘と比丘尼」は「比丘は男性」、「比丘尼は女性」の得度者と云う風に「鎌倉時代」から一般ではその体質を元の差別的な方向に変化させて行った。
元々、{釈迦の比丘尼}の{発祥経緯}から仏教伝来時の奈良期と平安期までは、この「古来の伝統」を引き継いでいる「青木氏の比丘尼・巫女」の様にこの差別的概念は消えていた。
「青木氏」の「女系の妻嫁制度」に依る「基本概念」と、「伊勢神宮の皇祖神」の「子神の祖先神の神明社」からの「基本概念」からと考えられる。
これは「青木氏の概念」に、沿って、寧ろ”消した”と考えるのが妥当と考えられる。
注釈に鑑み、何故に「青木氏」だけが”「韻を踏む」”かと云うと、当然に「賜姓朝臣族」で、「皇族系の伝統」を形を変えながらも引き継いでいる事には間違いは無い。
然し、皇族とは何もかもが同じと云う訳では無かった事が判る。
上記の「妻嫁制度」や「四家」などの制度を特別に構築している事から変わる事が起こる。
然し、この「韻を踏むと云う事」に関しては上記注釈の様に「伝統の継承」をしているのだ。
つまり、そもそも、「韻を踏む」は、前段でも論じたが、「人類の言葉の初期の発声」は「母音の四音・あおうえ」と「父音の八音・ちいきみしりひに(ヰ音の横の段・奇声音」との「32音の組み合わせ」から「初期の言葉」が起こった。
その「初期の言葉」の元は「母性の性交時の発声類音」が「母音の元」と成っている。
「父音」は「猟時の仲間との暗号」としての「奇声音」が発露と成っている。
この「母音と父音」の「組み合わせの音」が「韻音」として成立する故に、「皇祖神の子神の祖先神の神明社」は「民の神の道祖神」と「稲荷社」と共に「最も古い社」であり、「祝詞」はその語源は結局は「韻を踏む発声」と成り得ていたのである。
故に、この「伝統」を色濃く引き継いでいる事から「母音に繋がる呼称・母性系の言葉」には「韻を踏んで発音する仕来り」と成っている。
恐らくは、この「伝統」は最終は「伊勢と信濃の青木氏」だけに遺されたのであろう。{伝統-4と伝統-24に記載)
ところがその後、室町期中期以降に民から身を興して{姓族}の豪族に席巻された。
この時、「姓族の豪族」の「女」に対しては「ひ」の「姫の語」の適用を室町期に成って起こった。
豪族と家臣との間には「契約」に基づく「臣下契約」が果たされ、この事で「主君の女」に対しても「それ成りの礼節」が求められた。
「姫」の字は「女辺」に「臣」が着いているが、「臣」の字体は「人のひれ伏す形」から来ていて、この事から「女と臣」の結合語は室町期初期の字体である。
「姫」に「平安期の慣習」を用いて「ひ」と表現させて「ひさま」と呼称したのである。
つまり、それまでは前段でも論じたが「青木氏の女・女(むすめ)」は、そもそも、「伊勢神宮の斎王」の例に観られる様に、“「神に仕える」”の位置にして「臣とする立場」にはなかった。
これは「賜姓臣下族青木氏」に於いても同様で、その「古代の皇族の慣習仕来り掟」をそれなりに引き継いでいる事により、「女・女(むすめ)」に於いては「女と臣」の位置にはなかった。
「女(むすめ)」の処で論じた様に、その「女と臣の概念」がそのものが無かったと云える。
「女系の妻嫁制度」のシステムを考えれば「郷士、氏人、家人」から「福家の女(むすめ)」に成って養育する事から明らかに「横関係の家族の位置」に合って「家臣の位置」には無い。
従って、「青木氏」には「女(むすめ)の概念」がある以上は、この「姫の用語」は使われる概念ではなかった。
もつと云えば、「女系の妻嫁制度」が敷かれている以上は論理的にも「姫の概念」は「青木氏」には当然に起こらないし、資料や記録からもこの「姫の用語の使用」は発見出来ない。
仮に「姫・ひめ」として観るならば、「青木氏」では「神明社」である為に「姫」では無い事は明らかであり、且つ、必然的に「韻」を用いる事に成り、この為に「き」であり「きさま」と成りあり得ないのである。
注釈の前の「後家の話」に戻して、何故ならば、この「斎王と斎院(斎宮)」は、結果として務めが終われば、「青木氏族の管理下」にある“「伊勢多気郡明和」”の“「斎王の里」の館”と呼ばれていた処に入る事に成り、結果としてそのプロセスは同じ事に成るからである。
上記の注釈の「姫」では無い事の一つとしてこの「斎王の館の存在」がそれを証明し姫が斎王の館に入る事はどの様な仕儀の変化があったとしてもあり得ないが、依って「姫」は「後家」に成り得ないのであって「後家と姫」との間には論理的矛盾が起こる。
形式上、“「後家」”に成ったとしても、その後の扱いは、「女(むすめ)」の「掟」の中に依然としてある。
「姫」は「女(むすめ)」の定義の中に無い。
「姫」との違いはこの程度として「斎王の里の館」の中でも、「福家の養育過程」の中と同じ環境で、且つ、全て一族の「女(むすめ)」の姉妹なのである。
従って、「特別な違和感」が無かったと考えられ、「政争」からの「逃避地」としてはこれ程に都合がよく安全で格好の良い「隠れ蓑」は無かったと考えられる。
一方、上記した様に「斎院、斎宮、物忌、支女」と成る事は、「必然の定まった道」が出来ている事に成る。
この「物忌」を務めれば、多くは最終は「斎院・斎宮」や「支女」として「斎王の里の館」に入るのである。
「青木氏族」に執っては何の問題も無い。
この「制度の状況」は、「四世族」まで適用されるので、平安期初期の前後(770年頃)は、「伊勢」を始めとして賜姓族の範囲の「近江、信濃、美濃、甲斐」まで、適用されていた可能性があった。
現実に近江にもあった研究記録があるのでこの事は云える。
その後、「最盛期の光仁期(770年頃~780年頃)」では、「四家制度」を敷いてその制度が徐々に改善されて行き、「伊勢」を中心としたものと成って行って、「女系の妻嫁制度」が改善され確立するに至った。
そして、先ずは、「位階の持つ青木氏族の嫁家先」に広まって行ったのである。
そして、その当に「光仁期」からは、「青木氏族の子女(「女(むすめ)」」は、「伊勢の範囲」からは「四世族(王女宣下の範囲)」と成るので、当然に「伊勢-信濃間の血縁」のより進んだ「信濃の四家の妻嫁制度」の「女(むすめ)」にも「王女宣下」が適用される事に至り、この後の「政争」から逃れようとして「後家の隠れ蓑策」は「青木氏族全体」に及んでいた事は確実である。
記録からは観る事はできないが、「斎王の館の存在」や「親族である事」からも「女(むすめ)」や「妻嫁制度」の中に組み入れられていた可能性が充分にある。(散見無し)
(注釈 資料を読み解くと、この「信濃」では先ず第一に「数少ない神明社」を「隠れ蓑策の設備」に使った可能性があり、第二は伊勢に逃げる事に成ったと観られる。
それは「伊勢」とは異なり信濃の周囲は「姓族の土豪」がひしめいていて「小県の信濃青木村」も全国を武力を使って弱い処を狙って渡り歩く「国衆」の多い地域として知られる程に安全では無かった。
「信濃」は平安期はそれなりに「不入不倫の権」で護られていたが、「下剋上」と「戦乱」では「抑止力」で押し返す程の完全の力も無く無視された。
「伊勢からの援護」は「経済的なもの」に留まり、鎌倉期からは間には衰退した美濃域があり「抑止力の完全な援護」は低下していた。)
この上記の「後家」が、その後に直ぐに慣習化して「制度」、つまり、「後家制度」として成り立ち、この”「後家」”を利用した「斎王の里の館の道筋」の「慣習制度」は「仁明天皇期(850年頃)」まで続けられた事が「青木氏族の資料」から読み取れる。
その後は「清和期」に「1件の記録」が読み取れるが、その後の「後家としての言語」は資料からは何故か出てこない。
恐らくは、これは「天皇家からの四世族の条件」と「仁明期後の直系尊属」が外れた「二つの事」が原因していると観られる。
「後家の隠れ蓑策」が、「皇位継承」が順調に進み「喫緊の問題」とは成ら無く成ったと云う事であろう。
ところが、然し、「伊勢青木氏」の中ではこの「後家制度」と「ひいさま」の呼称の二つは、口伝で伝えられる範囲ではある程度の形を変えて明治35年まであった事が書かれている。
この「ある程度の形」とは、次の二つにあった。
先ず一つは、「継承者」が先に死亡して遺された「入妻」が「義母」と成って、「四家の全体の母」と成った時に使われる呼称の「後家さん イ」。
次の二つは、一度、「出の嫁家制度」で何らかの理由(「馬爪」か「不祥事))で「実家の四家」に戻った者の事を云い、この者は「尼僧」に成るか、「後家さん ロ」として通すかにあった。
この「ロの後家」は、一度、「後家の身分」に成ってから、「出産可能な年齢20歳」までの若い者であれば、「出生の氏人の家」に戻される事が慣例として多かった様である。
そこからの「嫁ぎ」は「青木氏の福家の指図範囲」には無かったのであろう。
これには「無い」と云うよりは一度、「女(むすめ)」と成った以上は「合った」のではあるが、「後家」である以上その後の人生を良くする為に「余計な口出し」を避けたのであろう。
つまり、「戻す事の方」が両者に執って都合が良かったのであろう。
「尼僧」や「斎王の館」に「采女(うねめ)」として入る事を選択した者もいた事が記されている。
但し、更に、“他家に嫁ぐと云う事“は無かった様で、これは「女系の妻嫁制度の信頼と品格」を崩す恐れがあった事に依る。
この二つの「後家のイとロ」を、最初に制度として確立した「青木氏族」では、“「後家」”と呼称した。
この「後家」の呼称は、歴史的には江戸期に一般化して広く拡大して、昭和の中頃まで使われていたが、唯、それでも使われる範囲は限定されていて、主に、「庄屋や名主や村主や豪農等の特定階級」の家筋で起こった事に対して、“「後家」”が便利な呼称として使われていた。
それには、「主家」へのある種の「尊敬と親しみと興味」を示す言葉として使われていた。
然し、明治期の「地租改正や農地解放等の政策」で、この「主家との関係」が壊されて、この「後家の意味合い」は平等主義に託けて「揶揄」へと変化して行った。
「主家の存在」のそのものが次第に庶民から敵視されて行った。
この時、「青木氏」も同様であったらしく「社会の勢い」に押されて「形見の狭い思い」をした様で、その中でも但し、「殖産の恩恵」と「氏人の過去の関係」から、更には元を質せば「血縁関係」が「氏人の郷士」に広まっていた事からも、「地権」を払い下げられたと云う「恩義」もあって、寧ろ「徳宗家・徳農家」等と呼ばれていた。
端的に云えば、「氏上様」や「御師様」から「徳宗家」や「徳農家」に変化したのである。
(明治35年頃の変化の記録がある。)
その後の、昭和の中頃以降は、「人権」を叫ばれる時代と成り、そこで、例え「社会制度」の異なる「歴史的な呼称」であっても、容赦なく現在に強引に合して「差別用語」として決めつけられて、台頭する社会主義的勢力の「政治的な思惑」に使われて消えて行った。
「伊勢青木氏」ではそれまでの経緯からかなり手厳しく遣られた事が判っている。
(注釈 この様な言葉は、当然に、「四六の古式概念」に基づく古来の「古式概念に依る制度」を確立させる為の「重要な欠かす事の出来ない仕来り」であった。
この様な「歴史的用語」は、この「後家」も含めて「青木氏族の慣習仕来りの掟」の中にも多くあり、その「青木氏族の伝統」そのものが敵視され、その「思惑の対象」と成った事が口伝でも明確に伝えられている。
その一つの例としては「四六の古式概念」等を含む“「密教の概念」”であった。
(注釈 お便りで「信濃青木氏」でも起こった事が伝えられている。
これはまさしく特異としての「氏族」の「青木氏そのものの否定」であって、「後家」から始まった否定は「青木氏の伝統や慣習仕来り掟の否定」でもあった。
極端に云えば、大正期には家の中にある「伝統に関わるもの」は全て隠した事が伝えられ、昭和20年初め頃には筆者も天井に何故か先祖の遺品の骨董品や多くの資料があるのを確認している。)
「時系列」から観ても、「資料の一節に遺る言葉」から観ても、「言葉の事件性」から観ても、この「歴史に遺る言葉の後家」も、寧ろ、「青木氏族」から出たとも云える呼称や制度であった事に成ろう。
そして、不幸にしてか、この「後家」を始めとして、「比丘尼や支女や物忌や馬爪や入妻や出妻や斎女や斎院」等も、本論で論じている「歴史的な呼称用語」は無念にも消されて行った。
これを証明する言葉としての注釈は、 最も古い言語として「斎」の字は、その読み方は、「青木氏族」では“「さい」”では無く、「いつき」と呼称していた記録がある。
つまり、「斎王」は、「公の記録」の「さいおう」では無く、「青木氏」では「いつきのおう」と「いつきのきみ」の「二つの呼称」が出て来る。
恐らくは、これは「青木氏」が独自に使っていた「古来読み」と観られるが、事程左様に、前段からの「女系の妻嫁制度」などに始り、全ての「制度」や「慣習仕来り掟」に至るまでは、兎も角も、「呼称」も斯くの如しで「重要な歴史観」なのである。
又、そもそも、これは「家人や執事」が「青木氏の伝記」として遺したものであるが故に、「漢文形式の内容」でもあり、全部の「古来読み」を解明する事は筆者の能力では最早難しい。
ところで光仁期の中期頃から、「未婚を押し通した女性」を「行ず後家 イ」と呼んだ。
「嫁家先」から戻された「後家」の事を「戻り後家 ロ」と呼んでいた。
この「行ず後家 イ」は、この「後家制度」の「本来の意味」と成るが、実際は、室町期以降では上記した様に「青木氏族」の制度では、「物忌、支女」か「尼僧」に成るのが「掟」であって、問題は無く必ずこの務めに入った。
(注釈 「後家」に対して「分別する呼称」は無かった。
依って、江戸期の「行ず後家 ハ」とは少し違い、「青木氏制度」では一度、形式上で嫁ぎ「生女」で戻る「女(むすめ)」を云う。
上記の「イとロの後家」は、「仕来り」では「後家の範疇」であるが、ところが、「イの後家」は解るが、この「戻り後家」は「女(むすめ)」では制度上では最早ない。
結果として、「尼僧として扱う事」には成るが、「周囲の尼僧」は「女(むすめ)」の「イの後家」であるので、「尼僧」として生きて行くには、元は「女(むすめ)」であったとしても、生きて人を説き、導きをする事は至難であったらしい事が読み取れる。
然し、この様な事も当然にあり得る事として、「尼僧の中に組み込む制度」として何らかの方法で確立させて置く事は必要であったらしい。
取り分け、室町期は「乱世」で、室町期初期から「下剋上」が起こり、そもそも、「位階の持つ上位との血縁」である以上、「嫁家先の家」が滅亡する事は充分に予測され、事前に返される事は一般的な事として充分にあった。
そして、「嫁家の子孫」を「伊勢青木氏」に保護し遺す為にも「子連れでの事」が多かったらしい。
「四掟範疇の公家」などの「嫁家先」では、「家を遺す武力や充分な抑止力」が無かった為に「滅亡の憂き目」は予想でき、「後家と成る事」は充分に予想できた筈である。
従って、自らが「青木氏」に戻り、敢えて「後家」と成って保護下に入った事もあり得た。
云うまでも無いが「青木氏」には恐れられる「強大な影の抑止力」があって「嫁家先の子孫」を護る意味で戻る事があったらしいが、「秀郷一門の嫁家先」には「361氏と云う日本一の武力集団」があって、「馬爪後家」はあってもこのパターンによる「後家」は無かった。
そこで、「女子」に就いては、「後家」と成り得ても「青木氏の「女(むすめ)」のこの「制度の範疇」にあり、「女系の妻嫁制度の概念」がある限り戻し得る事には何の問題も無かった。
然し、問題は「後家」とその「後家」が引き連れて来る「連れ子の女子」には「女(むすめ)の範疇」にはあるが、「男子」にはこの「制度の範疇」には原則無い。
「後家」は「子供の有無」は別として、「女(むすめ)」の範疇に合ったとしても其処には「生女」ではないと云う基準がある。
従って、「尼僧」としての「受け入れの態勢」に入る事に成るのだ。
前段でも論じた様に、「嫁家先制度」に依って、「優秀な男子」の場合は、一度、「青木氏」を興し、「四家」の「嗣子」に戻す「特例の制度」があった。
この制度を使って、「後家」が引き連れて来た「男子の場合」には、前段で論じた「嫁家先制度」を適用されたらしいが、この範疇は、そもそも、「四家20家」に入るのではなく「氏人の範疇」と決められていた。
従って、元々、「嫁家先」の多くは、「四掟」に基づく「高位の位階」の持つ「秀郷流青木氏」を含む「青木氏族」であるので問題は少ないが、「位階の先」が「四掟の範囲」として、取り分け、「下剋上の危険」に於いて「お家乗っ取り」等に強く晒された「青木氏族外」であった場合も多くあった。
この場合の処置が難しかった事が読み取れる。
それは「相手」がこの「連れ子の男子」を潰しにかかる危険は絶対であったからである。
この「男子を連れ戻すと云う事」は、「保護」を「四家」に求めている事に成る。
「嫁家先」もそのつもりの行為であった。
資料の僅かに記録から読み取れる範囲では、「四家」に入れずに、「菩提寺」に「小坊主」として保護し、その行く末は「僧侶」として匿ったと読み取れる。
これであれば、「当時の青木氏族の慣習」では、「寺に入る事」はその意味を持ち、例えその事が露見したとしても「社会的慣習」で下俗した「僧侶」には「相手」は手を出せない。
この「社会慣習」のみならず、例え手を出したとして「青木氏族のシンジケート」に護られている故に、むしろ「相手」は手を出せば逆に「自分の身」が危ない事に陥る。
「影の抑止力」に依って「影の世界」(青木氏の名が外に出ない事)の中で手を出した一族が潰されてしまう事が発生する。
(注釈 これは前段でも何度も例を以て論じた様に記録から垣間見れる「恐怖の抑止力」であった。
それ程に恐れられていたのだ。
故に「政争やお家政争」に巻き込まれない“「保護」”が可能と成っていた。
尚、室町期では「神明社」も「伊勢神宮に繋がる祖先神」であるので「保護の隠れ蓑策」であった筈だが記録が見つからない。)
況して、最後には「伊勢」であれば、「不入不倫の権」、「信濃」であれば「菩提寺」は勿論の事、「高い位階を持つ事」である故に、前段でも論じた「善光寺」の「浄土宗系院内」にも保護施設として入れる事も出来た。この施設は江戸期末期まで続いた。
従って、資料よりの「読み取り」では、「女子、男子」共に「四家の制度内」に保護できた事に成る。
そこで問題なのは、“「戻り後家の本人」”である。
「子供」がいなければ、「氏人の出生先」に戻す事は出来たが、そもそも“「戻り」”は“「子連れ」”のその「意味」を強く含んでいた。
多くは、戦乱などや下剋上などで武力を持たない故の衰退と潰されての仕儀であって「嫁家先の子孫存続」の「子供連れ」であった。(四掟の一族で秀郷流青木氏は別)
然れば、少なくとも「手出し」の出来ない処に「匿う事」が前提と成る。
「確実に匿う事」が出来るのは、後は唯一つである。
それは、「斎王の里の館」にである。
そこには、「斎王」等の生活を看る「支女」に近い「女人(女官)制度」があった。
凡そ、光仁期後の平安期初期の最盛期には、「約200人程度の女官(青木氏の歴史観 下記)」が「伊勢青木氏」に居た事が記録にある。
この里は「青木氏族の経済的支え」の中で成り立っていた。
況して、そもそも、「平安期」には「四掟の家」は「皇族の経費」を極力軽減する為に、「嵯峨期の詔勅の源氏賜姓」の禁令文面にもある様に、更には元より、「武家社会」と成った「鎌倉期」、「室町期」には、最早、「朝廷」には「伊勢神宮」に関わるこの里の様な「設備等」を支える「その力」が既に無かった。
当然に、「膨大な費用」が掛かる「斎王制度」も「衰退」を余儀なくせざるを得ず、細々とそれに近い「祭司」が行われるに伴って衰退した。(仁明期頃)
前段でも論じた様に「嵯峨期」からは、「皇親族、令外官」(表向きは賜姓を外れた事で、「賜姓五役等も)」を外される結果と成るに従い、「青木氏族」に執つては対抗として「献納」もある程度抑えた。
(これが「嵯峨期の詔勅」の文面の元と成った。)
これを最低限に、「女系の妻嫁制度」の所以を以って、一族の「女(むすめ)」の多くがいる「多気の里」の「館や分寺」で保護した。
「斎王」と云うよりは、寧ろ、「青木氏族」に執っては「女系の妻嫁制度の一環」、つまり、「斎宮、斎院、物忌、支女、女官」としての「多気の里の設備」と捉えていた事に成るだろう。
この“「多気の里」”は、“「斎王の里」”と云うよりは「青木氏族」に執っては無くてはならない「青木氏族の有効な設備」と成り得ていたのである。
この段階(嵯峨期以降)では、最早、「斎王」の云々では全く無かった。
(注釈 「斎王」を強調するは「郷土歴史」によくある「後付けの美化」であろう。)
だから、「家人」がこの「戻り後家の始末」を担当していたと観るのが正しいと考えられる。
「青木氏族」からは、故に、上記のこの経緯から、「斎王」では無くこの「斎王」に成るに近い、或いは、「斎王」に代わって「祭司王の女官(後家等、采女ではない」を出していた。
「青木氏の概念」としては「祭司王」(後家)に切り替わっていた事に成ろう。
(注釈 そもそも、「斎王」は、王族やそれに準ずる者から嫌われて仁明期以降(青木氏の直系尊属)から成る者は少なく成っていた。
筆者は、故に、「光仁期前後から桓武期-嵯峨期」までの“「政争没」”と成っている「内親王」(後宮)や「王女」や「宣下外の女」、「采女の女」の多く「女(むすめ)」は、“「斎王逃れ」”からこの“「後家」”に成ったと観ている。
記録的にも、「光仁期から仁明期(伊勢青木氏出自の四代目)」の「四家」の「女(むすめ)」に実に多い。
そもそも、「政争没の記録」は、一度、「後家(後宮)」として扱われ、政争の中の世俗から外された「斎王や祭司王や物忌」等と成った事から、「世にでない記録」として遺さない様にする為の奇策であったらしい。)
従って、これらの「斎王逃れ」からその「世俗の役目」の終わった「四家」の「女(むすめ)」(後家を含む)から派遣された“「祭司王(いつきつかさのきみ)」”は、「青木氏族」の定められた「一定の過程」を経て、この「慣例」に従い「斎王の里の館」に住まわせて保護していたのである。
当然に、これは最早、「青木氏族の女系の妻嫁制度」の「保護一環策(奇策)」であった事に成る。
つまり、ここに、この「戻り後家」を匿い、“「女官(十二女司)・「女(むすめ)」ではない)」”として働かせていたらしい。(「青木氏の歴史観」)
松阪の「家人の家」に「遺された手紙の資料」の一節に、次の様な「行」が遺されている。
“「・・・の御手配・・小夜の仕儀の事・・多気に使わせ、此の故を以って・・済ませ候の段・・」”とあるは、この「行の経緯」から読み取ればこの意味であろう。
「小夜」とは、この「戻り後家」の幼名で隠したのであろう。
「福家」からこの件が表に出ない様に・・・と云う「隠語」(暗号)を使って、この隠語の「細かい指示」があって、「小夜の保護」を頼みその結果の報告と観られる。
ここで、上記の「後家」に於いては、“「青木氏族の女系の妻嫁制度の一環策」だった”と論じたが、実は、これを証明する言語があるのだ。
それは、この“「後家」”そのものなのである。
前段までに、論じてきた事を、一度、思い起こして頂きたい。
この「言葉」が最初に出て来るのは、「光仁期の青木氏族」が執った“皇族から逃れようとする事件”が「青木氏族」に多く起こった。
この事は「伝統―14等」にも詳しく論じてはいるが、そもそも、「家」と云う言葉にある。
その前に当時として、“「家」”とは、“「公家」”の「家」に対して「武家(武の家)」に使う事を許された「家の言語」である。
「高い格式を持っていた言語」であった。
要するに「氏族」に与えられた「格式を表現する言語」であった。
ところが、江戸期に「姓族」が、「武家」と間違えて呼称される資料が多いが、「姓族」は「氏族」ではないので、正しくは「武士」である。
唯、現実には、「氏族」と成り得る“「家」”とは、江戸初期には最早、「数族」に限られる社会と成り得た事から無視して、「江戸幕府」は、「姓族の武の集団」を遠慮なく「武家」と呼称して「権威付け」として鼓舞した。
その「発端」と成ったのが、「公家諸法度」に対して「武士」に課せた「武家諸法度」として決めつけた事にある。
(注釈 「西の政権」、即ち、「冠位や位階」などを与え「歴史的な慣習仕来り掟」を改めさせる役を負っていた「京の朝廷(西の政権)」は、この事に異議を申し立てたが無視された経緯がある。)
“「家」”とは、そもそも「青木氏族等」や「近江佐々木氏族」の「皇位の冠位や位階を持つ氏族」に限定されて使われる「家柄を示す用語」であった。当然に「家」に着く「侍」も同然である。
「藤原氏」の「斎蔵」を担う「官僚族の公家」とは、元より、当に「斎(いつき)に関わる族の家」を云う。
「施基皇子の賜姓臣下朝臣族」と新たに成った族に許した「朝臣族の武」を以って「朝廷」に仕える「貴族」を「武家貴族」として呼称を許し、これを「氏族」とした。
そして、この「呼称の許される範囲」を、「宿禰以上の冠位」があり、且つ、ある一定の以上の位階、つまり、「従四位下の以上を持つ者」の「族」(家)とされた。
この「氏の構成を許された族」には、“「家」”を興す事を許した。
「幾つかの家」を興し構成してこの「家の全体」を「氏の族」の「集団」として認めたのが、要するに“「武家」”なのであり、「伊勢の青木氏族」は、それが「四家、即ち20家と郷士族50」で構成していたという事に成る。
従って、ここには論理的に上記の様な「姓の論理」は働かないのである。
「近江佐々木氏」を含む「近江から甲斐」までが、この「家」を興して「氏族」として認められた事に成るのである。
当然に、「四六の古式概念」の中にいて「20家の四家」と成る所以である。
従って、「家」の無い「氏族」は存在しない理屈と成る。
当然に、同様に「氏人」が存在しなければ「氏」とは云えない事に成る。
つまり、「氏人」が「氏族」を構成するからである。この逆の論理も成り立つ。
「氏族」=「家」=「武家」=「氏上」=「氏人」
以上の関係式が出来る事に成る。
「秀郷流青木氏」は「青木氏の補完役の策」として「賜姓」を受け「武家貴族」として認められたが、これを以って「氏族」として認められ、その「氏族」には、「永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏、遠藤氏、結城氏、工藤氏等の「361氏の家」が認められた。
そして、「冠位と官位」でそれを証明するに至り、「補完役」である以上は、これを前提に「摂関家の公家」ではないが、「青木氏族」に近い「氏族」に等しい「高位の位階(貴族)」を与えられたのである。
従って、「氏人構成」の無い「姓族」には、「氏族」でない限りは、この「氏人と家の論理」は成り立たないのである。
「氏族」の「氏上―氏人」の「血縁の関係」とで構成される集団と、「姓族」の主君と「無縁の契約関係」で構成され集団とは、根本的には全くその「構成条件」が異なるのである。
つまり、上記の「氏族=家=武家=氏上=氏人=家人の関係式」が成り立つのである。
そもそも、そこで「姓族」には、次の二つがある。
(a)平安期初期の「新撰姓氏禄」に記されている「姓族」
(b)「室町期中期から「下剋上で勃興した姓族」
(a)は、正式に「四段階の格式の姓」の位を表す「姓族」として認められているので、「姓族=分家=武家=家臣」となる。
天武期の「八色の姓制度」に基づく「格式位の姓の意」である。
但し、「本家―分家」は、「縦の関係」にある。
この「家臣」は、「主従」の「縦の契約関係」にある。
「氏族」の「福家と四家の関係」は、「横の関係」にあり、「氏上、氏人、家人の関係」も上記の数式の通り「横の関係」にあって、「契約の関係」では無く「血縁の関係」にあった事である。
故に、「横の関係」と「血縁の関係」にあったからこそ、「青木氏族」に起こった「後家」は、「氏族」にのみ適用される「言語」と成り得ていたのである。
これがその論理的証拠である。
前段でも何度も論じてはいるが、「嵯峨期」の「新撰姓氏禄」に記載の「48氏の氏族」がこれに当たる。
この論理的には「48氏」が「家を興す権利」を朝廷から認められていた事に成る。
(注釈 「bの姓」は、朝廷から「家を興す権利(氏族)」を認められていないから、従って、「分家」として発展し、つまりは、「一つの家」を「分身の様」に分けると云う理屈と成る。
故に「分ける家」なのであって「家」を別段に興していない理屈に成る。
依って、「分家」にしろ、「家臣」にしろ、「縦の関係」で成り立つ以外には無く、「縦の関係」である以上は「主従の雇用契約の関係」に成るは必定である。)
従って、この「後家」は「姓族」には論理的には起こらない言葉と成る。
そもそも、「後家」は、「後宮」に通ずる言葉であり、皇室の「宮」、即ち、「氏族」の「家」であり、「家」は「青木氏族」の様な「氏族」のみに「後家の言葉」(後の家)と同じく使われる切っても切れない言葉であった。
「姓」を興している事は、「氏族」では無い事に成り、「朝廷の宣下に反する事」に成る。
この場合は、「氏族」を朝廷より外される事に成る。
(注釈 但し、例外はあった。それは「補完役」であり、「特別賜姓族」で「円融天皇の賜姓」あると云う高位の特別の格式を有する事により「北家藤原氏」と云う「氏族(秀郷流)」が成り立つのである。
361氏と云う「分家」が特別に認められた。
依って、「家紋」も「総紋」を「下り藤紋」とし乍ら”「二つ副紋方式」”と云う「姓族」には無い「特別な方式」を採用する事を許されたのである。)
従って、「五家の青木氏族」には「分家」は無いのであって、「四家の構成」なのであって「姓」は無いのである。
当然に「家紋」は無く、「氏族」を示す一つの「象徴紋(笹竜胆の文様)」だけなのである。
(注釈 現実に、「皇族」と多少の「血縁関係」を有する「嵯峨期の姓族(新撰姓氏禄)」とは異なる。
庶民から興した「姓族現象(b 最初は安芸渡来系海部氏)」が本格的に起こった「室町期」には、この力を借りる事が多く起こったのである。
庶民から興した「姓族(b)」も、主従の間には懸命に「氏族の様な血縁関係」を構築しようとしたが、これは「血縁の歴史の期間」が異なるし、元より前段でも論じた数々の氏を構成する制度が異なっている。)
故に、「乱世の戦乱」や「下剋上」での事のみならず、「生き残りの為」に「氏族の条件」を外して「姓族(a)」に頼って生きた為に「氏族」を外された例も多く、結局は、「20氏位」から室町期末期には滅亡して仕舞い、遂には「正規の氏族」は「5氏程度」に成り得たのである。
この“「家」”とは、そもそもこの様な「構成条件の意味」を持っていたのである。
当然に「後家」もである。
(注釈 決して「江戸期の武家」との混同は留意されて間違われる事の無いように「本伝統」では理解して頂きたい。
少なくとも本サイトでは理解に苦しむ事が起こる事を避けたい。)
「光仁期」で、初めて、「朝臣族の武家の天皇家」が出た事に依る謂れから、「青木氏族」がその時、「救済策」として「四家制度」の中に、この「政争」の多い「王族」から逃れられる制度を敷いて護った。
これが“「四つ」の「家」”、即ち、「四家」の「空き」のある「母」と成っている「家」に、その「後目」の「家」に入る「王女」(「女(むすめ)」)として、“「後家」“と云う呼称を使って、公然とした「逃避の救済の制度化」を施したのである。
(注釈 記録の一部に、全ての「青木氏族」に対して「神明社」(巫女役として)を通じて越前域にても行った事も散見できる。
「青木氏の守護神の神明社」では「皇祖神の子神」である事から「朝廷の仕来り」を引き継いで「穢れ」を「お祓いする役」として「巫女の事」を「巫・かんなぎ女」と呼んでいた事が判っている。
この役は「女(むすめ)」であってもよいし婚姻後も務められる役でもあった。
当然に「後家」も務められた。
どの程度の「後家」や「女(むすめ)」が務めたかは判っていない。
だとすると、「500社弱の神明社」に対して「女(むすめ)」の数では賄いきれる数ではない。
「斎院、斎宮、物忌、支女」等に成る「女(むすめ)」であり、「神明社のかんなぎ女」までは果たして全てを賄えていたかは疑問である。
「「五家五流青木氏」は勿論の事、24地域に分布する「116氏の秀郷流青木氏」の「補完役の力」も借りていた可能性が充分にある。
但し、江戸期初期には全て「青木氏」からの「かんなぎ」は停止したとある。)
それが最初の“「後家」の呼称”であった。
正式名は、「光仁期」では、一応、天皇家の「後宮」として呼称されていたが、同じ出自の「青木氏族」では、「家を興す謂れ」から「後家」であった。
そもそも、「四家内の妻嫁制度」、又は、「四家内の嫁家先制度」として、あり得ない「叔父や兄」の二親等、三親等の「妻」として入る事はあり得ない「救済策(逃避の便宜策)」である。
これで一応は「醜い政争」から逃れられ、その後は、再び「妻嫁制度」と「嫁家先制度」に依って嫁ぐ事が出来る。
将又、「女系の妻嫁制度」の上記の「尼僧、比丘尼僧、斎王、物忌、支女、斎王、斎院、斎宮」と、“「十二女司役」の「女官と采女(上記)」“として生きて行く事か、この「三つの選択肢」が広げられて行った。
「朝廷の制度」に見習い「青木氏」には当初から「十二女司(じよし)」と云う「女官」がいた事が判っている。
「女系の妻嫁制度」の「全体の事務や雑務」を支える「女官の事」である。
これには「女(むすめ)」と成らなかった「氏人の郷士」の「他の女」の多くが務めたらしい。
ここから「福家の支援」に依って「郷士」に嫁に向かったのであろう。
恐らくは、「氏人の郷士の娘の救済策」として、「十二女司」を務める事でここで同じく「女(むすめ)」としての「教養」を身に着けさせたのであろう。
これは「氏人の底上げ策」であろうし、強力な絆構築であったし、「第二の女(むすめ)策」でもあったと観られる。
これも男系では無く「女系の妻嫁制度」で「堅い絆」が構築されていた事が判る。
故に、この経緯の中の制度の「後の家」なのであり、それなりの「青木氏族」の「意味」を持っているのである。
この「後家の言葉」の「構成と表現」が如何に「青木氏族の所以」であったかが判る。
> 「青木氏の伝統 47」-「青木氏の歴史観-20」に続く。
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