「青木氏の伝統 71」-「青木氏の歴史観-44」
「青木氏の伝統 70」-「青木氏の歴史観-43」の末尾。
参考として人間も同然であって、その「人の背の高さの電位力・地球から離れている距離」を持っているのだ。
この「自然の原理」に従い、故に物質には「多すぎる」と互いに「イオン力差」で弾き合い、少なすぎると「イオン力差」での「結合力が弱く分離すると云う「欠点」を生み出すのだし、この「原理の例外」はない。
従って、「鉄の結晶間中」に「炭素等の含有物」が浸透して行ってこの力で結合するので、「量と質の差」で「この力の範囲で存在する事」に成る。
そこで、過剰になれば逆に欠点が生まれる事にも成り得るのだし、この上記した様に「自然の摂理での適量値が存在する事」に成るのだ。
故に、「鉄鉱石に含まれる上記の特殊元素」も、その「地球形成時のバラツキ」で「其の産地」に依って生まれる「量と質の差」で「変化」が起こる事に成るのだ。
この“「良い味」”には「高度な技術」が潜んでいたのだ。
故に、この「難しい原理」に於いて当時には不解明であったが、「地球形成時の地質学的構造」で起こった「近江鉄」は、この段階では未だ[匠」にとっては、“何か良い”と云う概念だけと成っていた筈なのだ。
他にも最も影響している「イオン力差・電位力差以外」にも「物理学的な差異」はあるがここでは論外とするが、求めてめている処は学問的な処は別としても世間と比べて相当に高度な技術であった事に成る。
そこで、前段で論じた様に、これ等の「知識」を「試行錯誤の結果の経験」から来る「超高度に克服した匠の技・青木氏部」で以て、この事が「額田青木氏の銃に対して要求されていたと云う事・超近代銃にすると根拠」なのだ。
恐らくは、故につまりこの事は前段でも論じたが、密かに「見本を入手」してから「約20年・1540年前から1560年頃・1565年南下国衆」に成る前の間に、前もってこの「超高度な銃の技・近代銃」を会得していた事に成るのだ。
それだけに世間に対して「銃の目的」が達成された時点で恣意的に躊躇なく抹消されたのであろう。
この高い殺戮具の世間への普及を技術ともども嫌ったのだがそれは「律宗族」であった事であろう。
「青木氏の伝統 71」-「青木氏の歴史観-44」
さて、戻して、そこで「鉄」に均等に「炭素とマンガン」のこれが“「結晶間に浸透すると云う現象」を上手く利用できていた”のではとする発想が偶然かは別として生まれて来るのだ。
そもそも「進歩」などと云うものはそのキッカケは「偶然」によるものが多い。
参考として、先ずその前に“「結晶とする知識の獲得」”は現実に「技術理論として把握していたのか」の疑問であるが、それは“「貿易か経験」”かで得られていたかは判らないが、それは実は「目視的」に解るのだが、故に外観的には「答え」としては“解っていた”と判断できるのだ。
つまり、それだけの「経験力」とされを基にした「技術力」を周囲に比べて特段に持ち得ていた事に成る。
何故ならば、その「試作の単片」を鏡の様に「砥石・日高砥石」の様な「超仕上げ砥石」で細かく磨き上げ、これに強い日光を当てれば「光の屈折」でうっすらとその「結晶の様子」が浮かび上がり、且つ、その「屈折」で僅かに「色合い・結晶の判別が可」も浮かび上がり観えるものである。
これを更に「うすい2%程度の硝酸塩」に「2分程度浸して」それを拡大鏡で観れば凡その結晶構造まで観える。
当時としては外国から輸入して「ある程度の拡大レンズ」はあつた事は解っているので、ある程度の範囲の「結晶構造」は観えていた事が考えられる。
取り分け、前段でも論じたが「酸」の中でも、この「硝酸塩・硝酸カリウム・黒色火薬」は糞尿などを自然発酵させて変化させる事でも簡単に得られるが、故にその身近なものとして古代から既に「狼煙」などにも使われていて「火薬などの発達」と共に古代からあった。
注釈 因みに 一般に聞きなれないこの「硝酸塩」とは、「硝酸類とアルカリ金属とアルカリ土類金属」との結合体の「塩類」で、古来から糞尿などから造られていたし、肥料にも使われていた最も人類に「身近な化学薬品」とされるものであつた。
故に、「アルカリ金属類・リチウム、ナトリウム、カリウム、ルビジウム、セシウム、フランシウム」と、「アルカリ土類金属類・カルシウム、ストロンチウム、バリウム、ラジウム、 ベリリウム、マグネシウム」であり、取り分け、「リチウムとナトリウムとカリウムとマグネシウム」は炎色の発火性を用いて「火薬等」にも広く多く用いられていて、従って「花火」と云う点では同然に「古代から身近な金属類」として扱われていた古い歴史を持っていたのだ。
だから、上記の通り「鉄」を鍛える為に加えられる金属類としては身近なものであったのだ。
上記で論じた取り分け「遷移元素のマンガン」は、「酸に溶けやすい金属」として有名で、性質は「野菜など採取できる身近な金属の亜鉛」にも性質は類似しいて、この「硝酸塩類」と共に古代から広く用いられている金属である。
この様に後勘から観た「金属の歴史観・学問的知識」を承知すると、「銃の事」に関してにもより理解は深める事が出来るであろう。
筆者は、大和に於いては「金属知識」は「局部」にではあるがそれなりに高くて広まっていたと観ている。
それだけに「最先端の専門的知識」で以てこの様に検証する必要があるのだ。
前段で論じた様に「奈良期から平安期」の「古墳建築や干拓灌漑」を手掛けた「額田部氏」の「土木建築工学的専門知識」は、唐に勝るとも劣らずの知識を持ち得ていたが、「金属」などの「冶金工学的な知識」や「額田部氏」と連携した結果から、「地質学的知識等」も「青木氏部」に依ってその知識は同然で高められて行ったと考えている。
其の連携は、「青木氏部」は明治初期まで続いたとする事からその技量は「日本のトップクラス」にあったと考えられ、故に「近代銃」にまでのものに応用されるものであったのだと考えている。
依って、明治初期の「伊勢屋の解体縮小の政治的圧力」では、「額田部氏の起業化・桑名」と「青木氏部の大工会社・2社・寺社大工」と共に「二つの企業化」を成したと成っている。
然し、この辺の「青木氏部論の研究」も何時かは論じて観たいと考えて準備している。
従って、この程度の事は「砥石の歴史・奈良期チャート」を観れば判るし、その「日高砥石」は技術の発展と供に歩んで来た経緯があって、その経緯は「歴史の技量」を物語る一品として有名で、「古代の何かの特別な技量」を物語るものには必ず「日高砥石」が出て来るのだ。
歴史に使用されたものとして青木氏では長く保有して来た。
これは「刀用だけではないもの」からも判断して技量の判定や確定に利用は出来るのだ。
現在では、この砥石の代わりに「腐食液・2%硝酸ナイタール」を使ってすれば「顕微鏡等・最低で20倍最大で100倍」で万華鏡の様に綺麗に観えるが、故に、「顕微鏡」が無いにしてもこの「結晶らしき概念の概要」は密かに保有していた事が判るのだ。
その事から「鉄と炭素とマンガンの関係の知識」とその「結晶的な概念」は「青木氏部」だけには充分にあったと経緯からすると確定できるだろう。
ただ、この「マンガンに関しての知識」は「概念程度」で相関的な知識は無かった事は解る。
尚且つ、上記したある程度の要領を記したものが、技量を統一する為なのか「要領書的な物」として「技量伝承の為」にか、「密かに氏人の床下に遺されていた形跡・世間に漏れる事を危険として嫌った」があって、「桑名地域の蔵の資料の一部」が読み取れるのだ。
注釈 「明治35年伊勢屋解散・摂津に移籍」と共に「青木氏部」も解散し、一部が「桑名の額田」で工業所を創業、その関係する処の一部から資料が発見されている。
この「多くの遺産物」は「失火消失・口伝・この頃の火事は疑問が多い」したと考えられるが、その様に伝えられている。
それが前段で論じて来た「額田青木氏の銃の処の検証」であって、「古来・8世紀初期頃」には「近江鉄の生産703年と713年」は下記の通り歴史的に確認されている事から、そうすると「10世紀頃」には「伊勢青木氏」の中で密かにも硝煙は生産されていたと考えられる。
その「名残の証」として「近江鉱山」に使う「火薬・焔硝の形」で遺されていたのであろう。
その「名残」が「近江鉱山の近くの村」の「近江の床下・鉱山開発の爆薬」からも発見されていて、それに連動してか前段でも詳細に論じたが、偶然にもこの「要領書的なる物」が、「蔵等」では無く「思い掛けない所・神社の床下」から発見されたこれも「歴史的な由縁」なのであろう。
つまり、この「発見カ所の床下」から考えると、この「要領書的な物の事・メモ的な物」は“何か特別なものとして観られて扱われていた事”を意味するだろう。
そこで前段でも論じたが、歴史的には「天智天皇・大化期」には「朝鮮半島の百済復興」に出向き、それに「中国・唐」が朝鮮半島に進出し「白村江の戦い」で敗戦して急いで帰国し、「中国の大和侵攻」の“いざという時に戦える様に、“「中国道・現在の山陽道」を結城氏等に命じてこの工事を急いで完成させ造られたとする「歴史的史実」”がある。
この時に下関の半島の先端からの「緊急の伝達手段」として「狼煙・焔硝」を使って都に「情報を伝える手段」を「構築・史実」したのだが、この事は既にこの“「焔硝」”は在って常時使われていたが、その為にこれは「皇親族」として唯一の「朝廷の国造の支配頭」をしていた「青木氏・青木氏部」で生産されていた事を示すものだ。
故に、此の頃からの「青木氏部の存在」は、「近江鉄」に始りその時代の「技術的基礎・国の技術的基準」は「青木氏部」にあったと考えられ、当然に上記の事も含めて「硝酸塩の歴史」も「青木氏部」にあったと考えるのが普通であろう。
つまり、この「顕微鏡」が無いにしても、この“「焔硝の存在」”に依って使っていたかは記録が見つからないので実録が見つからないので判らないが、“「結晶らしき概念の概要」”をそれなりに「鉄の表面」から、「より鮮明にして明確に確認できる環境に在った事」には成るだろう。
筆者は完全では無くてもそれなりに使ってたと観ている。
これは「奈良期からの青木氏部」には、「かなりの技術力が在った事」が云え、且つ、「氏族で独自の部・歴史的に確認できるのは四氏程度」を持ち、中でも総合力を持ち得ていたのは「青木氏部」であって、且つ、「朝廷の物造・国造の差配頭であった事」と「令外官・賜姓五役の事」からも裏付けられる事を示しているものだ。
「青木氏部」は、要するに当時は「国の工学院的な立場」にあったと観ているが、「院号の確認」は古い為に資料がなく確定は出来ない。
唯鉱山とその製鉄の技術を保有している限りに於いては技術の総合力を保持していたと考えるのが普通であろうし、青木氏部に比べて他に居なかったとすれば「国の工学院的な立場」の説は認められるであろう。
況してや賜姓五役の令外官であったのだ。
他に代わるべきものは無い事は頷ける。
「青木氏部」の他に確認できる範囲では、記録として残る与えられた「院屋号」は「紙屋院、絵画院、墨具屋院、繪所預院,軍師処、等」が記録に明確に遺されている。
この事から、一部資料からこの「鍛屋・かや」又は「鍛冶院・かぬやいん」と云う号名が出て来るがこれが「院号」では無かったであろうか。
そもそも「青木氏部の位置・朝廷との関わり」づけから、この「青木氏部」の中にも「院や屋や号」に相当するものが必ずあったのでは無いかと観ているのだ。
「近江鉱山を二つも興した青木氏」であれば何も無しはおかしく「院屋号」は少なくとも与えられるであろう。
況してや「院屋号」を与えないと折角の鉱山の鉄もその販売も出来る事は無いだろう。
現実にその「功績」を以て「伊勢」に「二度の大字」を与えられて功績を認められているのだ。
「青木氏」は、自らも「青木氏部」を持ち、且つ、直接には「令外官」として「国造」を支配し、朝廷の「伴造」も「皇親族」として代わって差配下に置いていたとしている。
故に、その名残として「光仁天皇」の以降は 「諱号」を「伴」にする事が多かったのだ。
その関係する「青木氏部」の中の一つに上記した「鍛屋(かや)・鍛屋院では」と出て来る。
この「鍛屋(かや」の号は、「近江鉱山開発の所縁」からの「院号・特区別占有権」を授かった「鍛冶屋(かぬや)の院、又は屋、又は号」では無いか。
「鍛屋(かや)・「鍛冶屋(かぬや)」に「屋」が着いている処をみると、「紙屋院」と同様に「鉱山を掘る事」と共にそれを「売り捌くまでの事」に成っていたと云う事だろう。
さて、再び技術論に戻る。
その「上記の方法」でこの「概要」は少なくとも会得していたと考えられるが、この「炭素」と同様に、「記する処の筆者の読み込み」では、この「要領書的な物の存在」では“「光で映し出された粒の細かさが左右する」”として、その「光具合の技量」を会得していたらしく、それを「青木氏部の匠集団の中」で密かに伝えていたらしい事が解る。
そもそも他と比べて珍しくも「青木氏の家訓10訓」にもある“「技術の重要性に関する事」”を説いているのはこの事に依る所以であろう。
つまり「青木氏」の中にその「立場の関係者」のなかには「技量の伝承の義務」みたいなものが江戸期前までは長くあったのでは無いだろうが。
余談だが、先ず、そもそも「家訓」に「技術の重要性」を説いているものは世間では皆無であろう。
それだけに「商い・殖産」をしながらも、「技術の青木氏部の存在」が「伊勢と信濃の青木氏」の中では大きかった事を意味している。
当時としてはこれでは普通で考えれば、世間からも“不思議な氏族である”と充分に観られていた筈だ。
今で云えば、前段でも論じている事だが、“「販売」”もし、“「物造り」”もし、“「研究所」”も持つ「青木ホールディングス」であったのであろう。
それでいて、一方で“「賜姓族の伝統・賜姓五役・因事管隷」”を重んじ維持し、将又、“「巨万の豪商」”と成りながらも、他方では“「質・施し」を「神明社」で施す”と云う処まで及んでいたのだ。
一方では、“「律宗族」”と呼ばれ扱われていたとするのだから、その「歴史の中」にはその「独特の影響力」は深く「農業の分野」までに及んでいて、信濃と越後から進んだ技術を学び「伊勢の立地」からその「土壌と季節性」に苦手とされる「米の超早場米と酒米の開発・日本初」まで挑んでいたのだ。
どう考えても、“不思議中の不思議の氏族”と普通に考えれば観られていた事には成る。
確かに「奈良期の古来」よりその存在そのものが「普通」では無い事は間違いは無いが、これは前段でも論じた様に、「普通」では成り立つ事の無い「賜姓族の伝統・賜姓五役・因事管隷・院号の伊勢屋」と「賜姓族青木氏」の「二足の草鞋策を使い分けていた事の所以」である事は自明の理であるが、それが余りにも長い歴史を有し続けていた事から、これを世間ではこれが普通の事・当たり前の事と捉えられていた事に成るのでは無いかと考えられし、この事に就いてだけに明確に論じたものはないが、この説論は「流れ」や「状況証拠」から観て先ず間違いはない筈だ。
だから、それらを纏められていたものが「家訓10訓」にも成り得ていた事は、“不思議な事では無い”し、そうでなければ「伊勢と信濃の女系氏族郷士50衆」からも異論は出て、「氏族存続・全ての事」のそのものが成り立たなかった筈だし、然し、「伊勢と信濃での連携」で成り立ってきたのだ。
それ故に、当初、「青木氏の解明の研究」に苦労したが、「技術の重要性に関する事」は「大正14年」まで続いたと云える。
その「科学の片鱗」が未だに「子孫の血液・理数系」の中に色濃くの遺し得ているのだ。
元に戻して、“「結晶らしき概念の概要」”のそれは、「紀州姥め樫の備長炭・墨」では「細かい事」が良い事が解っていたからであり、それで無くては、“「良い品質の墨」からの「炭」を「鉄の結晶間」に「浸・浸透」させて、略して、専門の呼称として「サイアナイド・浸炭効果」とこれを云うが,特殊な技術」が得られていたのだ。
これを、“「浸炭としての効果」が出ない”として「青木氏部の中」では伝えて語られていたらしい事が書かれている。
然し、「一般の技術・主に鈩鉄」では、“「良い品質の墨」からの「炭/炭素」を「鉄の結晶間」に「浸・浸透」させて、「強く硬くすると云う概念」は全く無かったと観ている。
唯、「幾つかの記録の表現」から「総合的」にあったのは、つまりは、「鍛して・叩いて強くする」と云う概念であったらしい。
その証拠に「炭素の量」に「拘りの表現」が全くにして無いのだ。
そもそも「鈩製鉄」では,「内炉の底にたまる鉄・0.10%程度・純鉄」と「炉外の炉低に流れ出た0.28%程度・低炭素」の「二つの鉄の塊」が出来て、それが「鉄表面0.2ミリ付近に侵入した鉄」が二つ出来るのだ。
これを、“何度も加熱して鍛して折り重ねてそれを繰り返しで造った玉鋼」は出来るのだが、元より「炭素の量」に「拘り」が全くにして無かったのだ。
ところが「近江鉄」は鉱山から掘り出した「鉱石」であって「砂鉄の箱型炉」では無く、新しく鉱石様に開発された「竪型炉」から出来る為に“「浸炭としての効果」を強く求めたのだ。
両者の求める「技術の領域」が全く異なっていたとする「大きな技術の経緯」があったのだ。
だから誰も真似は出来なかったと云う事があった。
略して、「専門の呼称」としては「浸炭・サイアナイト」と成るのだが、要するに特別なのだ。
この「一連の銃の研究」では、「約20年の試行錯誤の結果」から、その「温度に依って左右している事」を把握したとしていて、「内部の結晶・結晶の表現」としは、記録に無いが、但し、唯単に“「粗鉄・あら鉄」の「炭差」”の「意味合い」として記している。
これは、況や、「鉄の細かさの温度に依る変化」として捉えていたと云う事に成るだろう。
この様な「専門的な見地から記されている事」を要約すると、先ず「墨」の如くに極めて「粒を均一にして、更に「極めて細微」にして、それを先ず「熱・灼熱」して、「粗鉄・あらてつ・結晶を開いて」にして、これに「繰り返し」で「浸・浸透」させ、「鍛」し、これを以て「繰り返し」、その「技・熱処理」を施し、その後に「冷する」とあり、更に、不思議にその後に“「低く焼する」”と「添え書き」があり、「要領書・メモ形式的・古くて読み難い」に記されている。
但し、この“「鍛」し”、は “「鍛える」”と云う「意味合い」だけでは無く、主に“「繰り返しの過熱」”に等しい「意味合い」で表現しているらしい。
この「加熱を繰り返す事」に依って「墨、又は炭が浸みこむ事を促進させる」と云う意味合いで、“「鍛」し”、の呼称が使われていた事に成る。
但し、この事は鈩鉄とは根本的違っている
つまり、この事は近江鉄では「メインの作業目的」には、「墨、炭の量を微妙に調整していた事」に成るだろう。
正しくは、この「工程」において「炭」では無く、最早、「細墨」を越えてであって、「炭素・Cの意味」を成している。
それは次の理由による。
1 加熱の炭
2 鉄に付着している不純物の除去・還元作用・炉中で炭酸ガスに不純物は酸素に吸着させ、その代わりに炭素は鉄の結晶間に浸み込ませる。
3 鉄にガス程に細かく成った「墨/炭素]を浸み込ませ浸炭する。炭では分子が大きすぎて浸みこまない。
奈良期ではまだ「1の加熱炭」であったが、その平安期中期頃には「2の還元・入替」に気づき、平安期末期には「3の浸炭」へと進化を遂げた。
兎も角も、上記の時期は捉え方で確定は出来ないが工程は次の様に推移して行った。
「近江鉄の進化」=「1の加熱炭」→「2の還元」→「3の浸炭」
つまり、この「20年の試行錯誤の経験」から、この前段でも論じた様に上記の数式の工程から既に「青木氏部」は、「墨の殖産の技術・墨・炭の経験」を持っていて、それを「高温に成る良質の備長炭の加熱材を使用した事」から、“偶然にも“「表面が少し固く成る事」”を知り得たと考えられる。
要するに、「浸炭硬化」であった。
ところが、その“「固さ」”と表現するものが、然し、実質のその特性は、“「硬さ」”であるのだが、これをより得る為に「何度」も上記の通りに、“「鍛する事」”と“「炭で加熱を繰り返す事」”で「得られる事」のこの“「三つの技」”を把握したのであろう。
そして、「注目する事のもう一つ」は、その中には、「鍛する事の意味」が「鈩鉄」と違っていた事が理解した事が解る。
この「鍛する事」で、「加熱によって拡大した結晶」が潰され、且つ、その「エネルギー」で「硬くなるの効能」では無く、「一度に炭素を継続して浸み込ませる技」よりも、「何度も加熱を繰り返す事の技」で、より「炭素を浸み量を増やす改善策」を見出した様であったが、これの進化が主であった様であり、その事によって「最悪の品質」を招く“「結晶の拡大」”を防いでいた様でもあり、その事が知っていたかは別として把握していた様だ。
故に、この結果から、「要領書的な物の事の遺す重要性」があって記され、それにはその得られる性質を“「固さの表現」”と成ったと考えられる。
然し、この「事実」はこの二つは下記の“「特別な現象」”で違うのである。
さてところが、この“「固さと表現」”に付いて其の侭では、折角の“「欠点解消の処置が裏目に出る」”と云う経験をして仕舞ったのだ。
この後で「収縮や変形や亀裂や炸裂等」の好まない「欠点の事・ロ」の顕著の特徴が、恐らくは、「試作中・試撃ち等か」に発生したのだと考えられる。
つまり、文章の行を読み取ると、「何の為の試行錯誤経験か判らない事」が起こって仕舞っていたのであろう。
故に、将又、更に「試行錯誤の経験・やり直しの過程」に入った様だ。
兎も角も、工程を元に戻す為に行った「低く焼している事の過程」で、この「欠点の事・ロ」が何故か「消えて治っている事」に気づいたのだろう。
これが、要するに“全ての熱を掛けて仕上げた物”に、もう一度矛盾するかの様にその「熱の影響を除去する為の熱の処理」が必要とする事に気づいた事に成る。
これは当時としては当に「原理矛盾」である。
ところが、それが,現在で云う「テンパーリング・応力除去の概念」と云う「高度な技術」なのであって、それを知らずか獲得していた事に成るのだ。
抑々も“この世に於いて固くはなるが硬くもなる”という事は、この「自然界」に於いては原理的に無い。
その“「硬くなったもの」”、そのものには、この世に於いて「一般的に得られない事象]であって、その「事象」を知っていて恣意的に人間が造り出さねばならないものである筈だ。
従って、この様に「作り代えたもの」には、“何某かの次元変化を興させねば元には戻らない”筈だ。
それが適用されたのが、この「金属にのみ発生する原理矛盾の熱処理」なのだ。
故に、その上で結果として“「要領書的な物の事」”に示す様に「原理矛盾の技術理論」を纏めて遺し確立させ獲得したと考えられる。
ここで、この“「固さと硬さ”に関する検証・概念では大きく違うのだが、然し、この「概念の解決」が必要と成ったとみられる。
現在から観ると、先ずその概して云えば、その“「硬さの概念」”はこの事で完全とは云えないまでもある程度に掴んでいた様である事は認められる。
然し、これを専門的に観れば未だ「大きな未熟の一点」としてあった事が確認できるのだ。
つまり、それは此処では、当初、何度も「加熱―鍛えー再加熱ー冷しー繰返し」の「五つの工程事で得られた特質」と考えられていた様であるが、実はこの「昔の概念」は大事な処が一つ抜けていて違うのである。
確かに、この「五つの工程事」では、「鉄」がある温度に依って「炭素」が偶然に「結晶」に浸み込み、それが「結晶の縁」に「浸み込み」が起こり、それが「鍛される事」で潰れて「原形」より「薄く」なり、これが「繰り返される事」で要するに「固くなるとする一般概念」として受け取られていたらしい。
ここが違うのだ。
これは降る程度の範囲では確かである事は完全に否定はしないが、然し、実はこれは“「固さ」”の「直接的効果」では無いのだ。
飽く迄も、上記した様に冶金学では此れは、本来は上記した様に“「固さ」”なのであるからだ。
ここには、何故ならば“「本来の硬さ」”から来るものには、必ずこの「自然界」では観られないある“「特別なあり得ない現象」”が起こっているものなのだ。
これが起こっている限りは“「固さ」”では無いのだ。
これでは、この時代では未だ当に「獲得し得ていなかった概念である事」は成る。
それは、これには“「固さと硬さ」”に関係する「大事な結晶理論に伴う事」が起っているからなのだ。
これは、「結晶の概念」に付いては、当時としては未だ“「鉄の細かさの温度に依る変化」”としてしか「概念」が無かった事の所以」なのだが、従って、それをこの「記録」では“「粗鉄・あらてつ」”と記されている所以でもある。
“「粗鉄」”はで飽く迄も「鉄の域」を超えていない。
「鉄」を「粗い」と「細かい」とに分類しているだけであってこれには「結晶の大小の概念」がない。
要は、「鉄」には「粗い」と「細かい」ではなく、“「結晶の大小の概念」”が必要なのである。
“「鉄の粗い」”は、必ずしも「結晶の大きい」に相当するとはならないのだ。
何故ならば、「鉄の粗いの定義]としては、これには「均一性」が無く、この「粗い」の中に「細かい部分」も含んで「粗い」としている。
「鉄」は「使用」に際しては、“ほぼこの「均一と細かい」で無くては使用に際しない”のだ。
従って、「鉄」には「均一と細かい」が必ず求められ、この「均一」に「不均一としての不純物」が介在していればそれが阻害して「均一・又は均一性」は得られないのだ。
故に、「不純物の除去。還元」が求められたのだ。
結局は、「粗い」と「細かい」ではなく、それは「結晶の大小の概念」が必要と成って来たのである。
何故ならば、この「不純物」は、この「結晶間」に存在するからだ。
この「結晶」を小さく求めて行けば結果として「不純物」の「ノロとスラジ」も消えて行くのだ。逆の事も云える。
処で、この「鉄の中]で、この「結晶を小さく求める事」は並大抵の事では無いのだ。
「鉄を加熱する事]はそれは粗くなると云う定義に成るのだ。これを繰り返せば繰り返す程にその粗さはより増すのだ。
「鉄の工程」としてはこれは「論理矛盾」である。
「温度」を上げれば挙げる程に「結晶」は大きく成り、時間も長引けば長引く程に大きく成るし,その分だけ「鉄」は「結晶間の力」が弱く成り脆く成るのだ。
ではどうするかであるが、この「鉄」には「ある特定の限定された温度域」で「適度に加熱する事」で「細かく成ると云う事」が不思議に起こるのだ。
これは「論理矛盾の解決」である。
この神が与えた「特定の温度」を把握する必要があるのだ。
そうでないとそもそも結晶間に存在するものは何であれ「弊害物」と成り得ても脆く成るのである。
これを「無弊害物」にしなければ成らず、同時に強くする物質に換えなければならない。
ではそこでこの「結晶間に浸み込んだ細かい炭素」は、「不純物」として成り「炭素の効果」を発揮しないのだ。
寧ろ、普通の理論では「浸みこんだ炭素」が逆に概して「結晶間の間」に入った「不純物」として「鉄の表面強度」を弱くして仕舞うのだ。
結果として場合に依っては「細かい亀裂」が「亀甲上放射状」に全面に走るのだ。
故に、当時としては「炭素」は「不純物」と観ていた筈だ。
然し、ところが「加熱材」として、又「還元剤」としても使わなくてはならないのだ。
「鈩製鉄」の「玉鋼」は、当に当初よりこの概念の中にあるが、「703年と713年の近江鉄」では「鉄鉱石」であって、ここから原鉱石を溶かして「鉄」を引き出し、「炭素と石灰」を使ってその反応強さで結合させて「各種の鉄を造る事」に成るのだ。
故に、「玉鋼」だけには限定されていない。
「不純物」と観られているこの「炭素」は、「近江鉄」に執つては逆で、つまり、「炭素と石灰」を使う「竪型炉」に執っては「必需品」と成り得るのだ。
但し、この「近江鉄の竪型炉」に執っての必需品には、飽く迄も「不純物」である以上は「難しい限度」があるのだ。
故に、「結晶間の不純物」と観られている「炭素の存在」は「鉄の性質」に大きく左右するのだ。
従って、「鈩鉄」に比べて「近江鉄」ではその特徴を掴めば歓迎されていたと考えられる。
とすると、この歓迎されている以上の「近江鉄」には、「不純物視」されていた「結晶間の炭素」を「コントロール」していた事に成り、逆に「炭素の少ない鉄・やわらかい鉄」から「炭素の多い硬い鉄」を生産する事に進化を遂げて行ったと考えられる。
ところが上記した様に普通で考えれば「不純物」である限りは「近江鉄」には「限度」が存在する事に成る。
この「限度」を掴まなくてはならない。
それも「結晶間」に存在する限りは「破壊」に繋がるからだ。
これを「青木氏部」は絶対に掴む必要があった筈だ。
さて、もう一つこの“「限度」を掴まなくては使え無い”という事が起るのだ。
そこで、それが「鉄」である限りは、先ず「加熱と冷却の熱処理」をすることが求めらる。
「炭素量」が多く成れば成る程に、そもそも「炭素」が基本的に「不純物」である限りは相当に鉄の純度を上げない限りは「熱」に依って存在する「結晶間」で破壊するのだ。
では、この「ノウハウの知識」が進んでいない以上はその限度の数値は「偶然把握」であり、どの様に「偶然の一致」がこの「近江鉄」に起こっていたかである。
学問的に研究調査で後に判った事ではあるが、この「不純物の炭素」の「鉄の結晶間」に浸み込む程度は、「最低で0.02%C」で、「最高で2.14%C」で「偶然の自然の理屈」でこれは定まっている事に必ず気付くのだ。
だと云いながらも、現実にはどの様にその限度を調べるかであってその方法が源るられていた筈だ。
「最低で0.25%程度」、「最高でも1.3%程度」で限度は発生する。
この「高い炭素」の場合は、「炭素の弊害」を無くす為の「特殊金属・マンガン等」を加えなくては使えないのだ。
これは現在で判った知識であって、当時は「採取できる鉱石」に自然に含まれていてるもので、その量も決まってくるのだ。
資料を読み取ると、「炭素」ではある程度の量で、それを「酸化する程度」で把握していたらしい。
「マンガン」では含まれる「自然量」は、「鉄に含まれる金属の量」で「自然と鉄の反射色」が変わって来るので判る。
採掘場所で異なるので、ここの「マンガンを含んだ鉱石」は「錆び難い鉱石の事」で判るし、「還元」を強くすると「炉の入り口に溜まる量」でも判るのだ。
これで「鉱石を選んでいた事」が書かれているが、「炉の入り口に溜まる量」を集めて炉中に入れ直しても使えないのだ。
何故ならば、「マンガンの融点」が高い為に「鉄の中に溶け込まず遊離して存在する事」に成るので、結局は不純物に成り破壊に繋がるのだ。
従っても「マンガン等」は明治期の高炉でやっと使える様に成った事が書かれている。
戻して、「炭素の量」はマンガンなどが除去された後の「酸化程度」で見極めていたらしい。
その証拠に古来では、「箱型炉の炉低外に流れ出た鉄」は、「深い船底の様な穴」に流し、そこで先ず「微粉末の炭」に包んで保護していた事が解っている。
これは「酸化を防ぎ目的」と、「炭素を表面に浸み込ませる目的」で行っていたものであるらしい。
これを「二度目の加熱」で更に「炭素を浸み込ませる目的」であったらしい。
最高で四度も「製鉄加熱」を繰り返していたらしい事が書かれている。
これは当に飽く迄も「酸化防止を目的」とした「炭素の量の浸炭目的であった事」に成る。
この「近江鉄」を「青木氏部」が「鍛冶院・かやいん・かぬいん/鍛冶院/かやいん」として「号」を以て扱う以上は、この「数値」を掴む必要に迫られていた筈だ。
少なくとも、「自然の摂理の概要」に左右されている程度の事を「平安期中期」までにはその歴史的経緯から逆算して観て知っていなければならなかった筈だ。
そうで無ければ当時としては、「結晶間に潜んでいる不純物」として扱われる「炭素の含有量」も「偶然の自然の理屈」で決まっている以上は、つまり「論理的な理屈では導き出せない事」から下記の「温度域・723度」をも把握できていない筈だ。
「近江鉄」は下記の「温度域・723度を使えない事」に成っていた筈だ。
ところがこの「温度域・723度域を使う事」で解決するのだ。
根気いる実験しか無かった筈だ。
然し、結果論から「1540年~1550年頃」には、最早、この「温度域・723度」は「銃の欠点克服の為」に「試行錯誤の上」で掴んでいた事に成る。
この「最低で0.02%C」で、「最高で2.14%C」で「偶然の自然の理屈」に直接影響している“「鉄の理想的な結晶間の炭素量」”の「温度域・723度」であって、此処にだけに“「共析鋼」”と呼ばれる鋼にある事を、概して少なくとも掴んでいた事に成り、逆の事も云える。
完璧な「偶然の自然の理屈」で出来る表の様で無くても「結晶間に潜んでいる不純物」として扱われる「炭素の含有量」では、“それなりの「ポイントの繋がり」”としてを掴んていたと考えられる。
それは「竪型炉の加熱時の備長炭の墨」の「木炭の加え方」と「石灰の投入の仕方と量と質」に「ノウハウの源」を府詰めしていた事に成る。
少なくとも「無秩序な木炭と石灰の加熱と量」では得られないと心得ていた事に成る。
これは「匠の極めた範囲のノウハウ」であったのかも知れない。
これ等の事は「青木氏部」に秘かに引き継がれていた事に成る。
だから、「鎌倉幕府に竪型炉による製鉄方式」を求められて「関東の鉱山}に拡大する事が出来たのだ。
注釈として「伊勢本領安堵」の秘密裏に駆け引きに使われた事が考えられる。
前段でも何度も論じたが、「青木氏部」から廻していた「鍛冶師の日野」の「ノウハウ」を薩摩藩等が秘密裏に「引き抜き事件」が1550年代に起きたが、この時には「伊勢の指示」に従った「日野の職人」の殆どは「伊勢の指示」に従い「伊勢」に逃げ帰って「青木氏部」に戻った事件があった。
それ程に、「青木氏部の保有する銃の生産のみならず製鉄のノウハウ」にも興味が集まっていたのだ。
取り分け、「近江鉄の4つの鉱山の製鉄」には「竪型炉のノウハウ」も含めてこれらは「鍛屋院の青木氏部」しか持ち得ない「製鉄ノウハウのかたまり」であったのだ。
それにはどうするかであるが「以下の事」が同時に考えられていた筈である。
「鉄」には「特徴ある特定の温度域」で突然に細かく成り、同時に不思議に「結晶」は丸く成り、「鉄」は四方からの負荷力が均一化して強くなると云う特徴を持っているのだ。
その「加熱温度」が「600度~650度」と限定されているのだ。この温度域に結晶と炭素に限り起こるのだ。
これも偶然の原理でこの「不思議な温度」なのだが「不思議な温度」だけに色々な名で呼ばれている。
「微細化温度、球状化温度、均一化温度、応力除去温度、安定化温度・・・等」の「全ゆる熱処理」で起こった欠点を克服する温度でもあるのだ。
現在では結晶に限り「再結晶処理温度」とも云うのだが「金属の熱処理」としては、丁度、「中間の温度域帯」に位置するのだ。
然し、この「金属の熱処理」の概念は「近代の新しい目的」から来た見つけられた熱処理で過去に於いては其処まで金属に対しての必要性も無かったであろうし、判らなかったであろう。
では、「額田青木氏に与えた銃の欠点除去」に、ではこの“「特徴ある特定の温度」”で処理すればよいか”と云うと、問題と成るのは、“どの工程で行うか”によりそうでもないのだ。
要はその効果の問題である。
先ずその前に「この概念」はそもそもが未だ把握していなかったであろう。
先ず「処理」が難しすぎるからだし、「額田青木氏に与えた銃の欠点除去」の「目標達成」には意味が大きすぎる。
そこまでしなくても、ほぼ「額田青木氏に与えた銃の欠点除去の目標」は達成できたからだ。
それは「近江鉄」が使った「竪型炉」から得られる「鉄鉱石」には、「特徴ある特定の温度域」は何も必要としないのだ。
従って、下記にその「温度域・723度・共析鋼」を記しているが、偶然にも「細かい亀裂」が「亀甲上放射状」に走る事は起こらなかったのだ。
だから、この「要領書の粗いの表現」からして書いた時のものは「完成時の物」では無い気がする。.
「偶然」にも「凄い温度域」をこの「近江鉄」で見つけ出したと云う事だ。
侭さに上記した「偶然温度」であるのだ。
先ず「鉄の不純物」にはある「物理的な特徴・比重差」があって、これを「攪拌する事」で一か所に集中する性質を有するので、これを「く字型の道具」で取り除く事は「鉄の場合」は比較的に容易であるのだ。
唯、「鉄」に科学的に付着しているものには、「石灰」と「木炭に依る炭酸ガス/加熱材にも成る」で「還元する事」で可能であるのでこれは一般の製鉄の工程通りである。
以上の“「不思議な現象」”では、当時に於いては当然に「この概念に到達する確認できる術も無かった事」も頷けるが、さてだからと云って完全に無かったかと云うとそうでもないのだ。
そもそも放置できない事だからだ。
それは何度も論じている様に、これも“「紀州産備長炭の特徴」”にあったのだ。
これをその「産地の紀州の藤白地区」から運んで来て、この「砂鉄」の「鈩製鉄手法の箱型炉」を、先ず「箱型」を「縦」に向けて、それを改良して、「炉溶温度」を上げられる様にし、それに合わせて改良を重ねた「竪型炉」を態々造って使っているという事なのだ。
「鈩製鉄」の様に、単なる「木材」を「炉」に投入してそこから時間を掛けて「木炭」にしてでは無く、この改良した「竪型炉」では既に先に「備長炭」にして炉中に投入してから使っているのだ。
「木炭」に成るまでの「無駄な時間と工程」を省いて直に「木炭効果」を上げる事で「木炭による還元反応」を高めた事と、「木炭(備長炭・墨)」を「鉄の表面」に浸み込ませて「硬く錆び難くする改良」を重ねたのだ。
それは「鉄の表面層」に「木炭(備長炭・墨)」と称する「微細炭・炭素」が幕の様に成って「浸みこむ事」を掴んだからである。
「木炭(備長炭・墨)」と称する「微細炭の炭素」は、化学組成上は「錆びない物質」であるからで、「錆びる鉄の物質」の表面層上にこの「錆びない物質の侵入」があれば、結果としてそれが「障壁」と成って「錆び難い物質」に代わる筈である。
これで先ず「浸みこんだ微細炭」で「目的の一つ・錆び難い物質に変質」が達成されたのだ。
序でに、他の「二つ目の目的」を先に云うと、この事は同時に“表面が硬く成る事”であり、この「硬く成る事」に依って「二つの原因(炭素が変化して硬化する=炭素が表面硬化を起こす」を起こすのである。
更に他の「三つ目の目的」を先に云うと、この事で“表面が硬く成る事”で「摩耗性」が向上する事である。
そして、この「摩耗性」が向上する事にも「二つの原因」が起こる。
それは「炭素の高い滑り性と高温での結晶が変わり鉄組成の変化」があり「表面」は硬さで強さで改良されるのだ。
注釈 そもそも 「還元反応」とは、「鉄」に外の物質が化学組成上で付着していれば「鉄」からこれを剥がさねばならない。
これには化学組成上の結合である以上は、化学的に剥がさなくてはならない。
この剥がす作業には「二つ」あって「酸化と還元」であるが「酸化」は「相手」も傷つけ壊して剥がす。
相手に傷を着けないで剥がすには、この「還元」で付いている部分の化学組成に反応させてそっくり剥がして自分の方に付着させる手法で、これを使う。
これらの事を科学的に把握していたかは別として何らかの形で使っている以上は古来から把握していたと云う事だ。
一部の資料では「自然界に起こる偶然の結果を見習ったという事」であったらしい。
その証拠に当初は加熱するのに「藁」を使っていた事から獲得したと観られている。
「加熱の藁」は燃えれば「灰」に成り高い還元の効果を発揮する。
これが「石灰石」に匹敵したのであろう。
この手法の「良悪の問題」は、ここにあって「期待する効果」がそれだけなのかである。
つまり、そもそも “何故にこの「細かい紀州備長炭の墨」が良い”と判断していたのであろうかである。
“何かが在ったから良いと判断していた”のであろう。
そしてこの「難しい疑問点・細かい墨」に、言い換えれば “「青木氏部の技術の概念」がここに到達できていなかったのか”である。
その「答え」は、実は当初は青木氏部も“完全には到達できていなかった”のだ。
何故ならば、この“「細墨の疑問」”に就いては、そもそもこの“「自然界」”に存在しない“未来の現象であって難しすぎるから”であった。
これは「当時の事」としては「当然の事」であろう。
そこで、“ではどの様な事の「未来の現象」が起こっていたのか”である。
これを解く事が少し専門的で難しいのだし忘れ去られる可能性が高いが、「青木氏」がこの様な「銃と鍛冶屋院での鉱山開発の事」に関わったのだと云う事の「青木氏の将来の為」に誤解を恐れずにここで出来るだけ判り易く下記に解いて遺して置く。
そもそもこのような立場に置かれていたのは当時としては「910程度の氏族」の中で唯一であったろう。
確かに上記した様に、「五つの工程事」の様に、“「何度も鍛える事」”で「鉄」にはある「一定のエネルギー」が加えられ、その「エネルギー」が「鉄」に「何かの形」で残る筈である。
この事で、この場合は確かに「要領書」に記されていた“「固さ・A」の概念”であって、それは確かに先ずは増すのだ。
そして、「通常の鍛えた鉄物」は、確かにこの“「固さ・A」の概念”は先ず得られる。
ところが、「火縄銃等の殆どの鍛物」のものには、この“「固さ・A」の概念”では済まされない何かが出ているのだ。
然し、此れでは上記した「火縄銃等を含む銃に起こる欠点」を補えていないのだ。
ところが「額田青木氏の超近代銃」に施されていたこの“「硬さ・B」”では、
「紀州備長炭の炭・細かい炭素」と、「数度に鍛える事・加熱の効能」と、
その「事の時間と温度」の“「三つの要因」”で、
この「炭素の量」が“「結晶間に残る量」"としては増えるのだ。
当初は「炭素が結晶間に残ると云う概念」がそもそも無かったであろう。
それも「炭素」であり、この「細かい炭素」が鉄の中に残ると云う概念が無かったと考えられる。
「途中の段階」までは “「鉄に浸み込んだ」”と云う風な程度に思い込んでいたらしい。
でもそうだとすると、「鉄の何処に浸み込んだと思ったのかである。
当然に「結晶の間という事」になろうが、この「結晶の概念」がそもそも低かったのであるからどの様に考えていたかである。
ところがこの段階でも未だ「鉄が結晶の網」で出来ているとは思っていなかったらしい。
「鉄」の何処に浸み込んだと認識していたのかである。
餅の様にところどころに浸み込んだ程度で在ったのだろう。
“水に墨が黒く浸みた如く”と思っていた様な事が書かれている。
初期では「鉄などの鉱物」を「粘土の様な固い物」と同じと考えていたらしい。
ところが、その途中で、「結晶の概念」を“何となく獲得した時」”があったらしいのだ。
それが顕著に考えられる時期が来たらしい。
それは「炭素」が浸みこむと鉄の表面の色が灰色に変化する事に気が着いたらしい。
要するに、“「光の屈折”」で色が変化する事の認識を獲得した時であろう。
この事は当然であり、「浸透した結晶間」の「難しい疑問点・細かい墨」、即ち、「炭素」が「光の邪魔」をして、その「炭素の結晶間での凹凸」で「光の屈折率が違う事」が起るがこの時の様だ。
当にこの時に「結晶と云う概念・網」を「鉱物の鉄」に対して持ち得たのであろう。
この「概念の取得」が「近江鉄の鋼の最も良い使い方」であったのだ。
注釈 「結晶の語源説」には明治からの新しい学問であった為に外国語説が多いが、その言葉は元は「結晶」では無く「クリスタル」であり、ところが日本では違うのだ。
「結晶の字形]から判断してでは,“三方からの「太陽の光」が結んだもの”としてあり、それは「石英・酸化シリコンの結晶」として判断していて、それが昔からある身近にあった「透明の水晶・シリコンの結晶」であったらしい。
この「水晶」に当たる「光の行方」を観て定義したとする説もあるのだ。
当に定義とするには「石英・酸化シリコンの結晶・水晶」は「日本古来から存在する大変多い古来の宝石」として扱われそれの定義は適切である。
筆者は、古来の人は、日本列島は地質学上で「石英列島」であって、山を歩けば直ぐに見つけられる結晶体である。
この身近な何処にでもある「石英・酸化シリコンの結晶・水晶」の「概念・認識」の根底にはあったと考えていて、だから、「鉱物の鉄」に含まれた「結晶間の炭素の屈折光」には、この「石英・酸化シリコンの結晶・水晶」を観たのでは無いかと考えている。
因みに、「ひすい]も「こはく」もこの「シリコンの石英の結晶体の一種」でその中に含まれ「微量のアルミかナトリュウム」かの違い色合いは起こるのである。
この「珍しい事」による「宝石」とさせれる「結晶」は、殆どは「樹液や石や植物等」が地球の地下深くでの圧力で固形化したものでこれを「宝玉」と呼ばれる事と成ったものであり、「石英・酸化シリコンの結晶・水晶」の「鉱物が結晶化して宝玉」となったものは少ない。
況して、故に当初は「鉄と炭素の結晶化の認識」は無かったであろう。
実は、「たたら製鉄の箱型炉」の「炉外底の炉池」には「溶融鉄が流れ出して来るシステム」と成って溜まるシステムとなっているが、この「炉底池」に「炭」が敷き詰められているのだが、これは、「鉄と炭素の結晶化の認識」からではなく、「高温の鉄の酸化を防ぐ目的」で上と下から「炭」を蒔いて覆い「酸化を防いだ事」が解っている。
これ即ち、「炭素は「鉄の結晶に浸み込ませる目的」では無かった事」を物語っている。
「炉中底」にも一部残った「溶融の鉄」もこの炭が敷き詰めた炉外底に最後は流されるのだ。
つまり、「炭」は「酸化を防ぐ目的」にあった事に成る。
だとすると、此れでは「酸化の認識」はあったとしても、その逆の「還元の認識の定義」を高める事の例に突きあたらないのだ。
「箱型炉の鈩製鉄」にしても、「竪型炉の近江製鉄」にしろ「鈩では炭」、「近江製鉄では石灰石と炭」を「還元剤」とする化学反応を明確に意識して使っているのだ。
ところがこれでは「還元の認識の定義」を高める事の例に合わない。
それは「酸化」より「還元」の方が「常識」であったのかであるがそんな事は無いだろう。
「確かに害の無い還元」であったとしても、「何れの製鉄」でも使っている以上は認識はあった筈である。
「鈩製鉄」では、「加熱材」として「藁と木材」を大量に投入し炉の中で熱を籠もらせて投げ込んだ「砂鉄」を溶かす。
その結果として「藁と木材」は、「灰」と成り、この「高温に成った灰成分」は「還元反応」を結果として招く。
これが「メカニズム」である。
飽く迄もこの時は“「加熱材」”であって“還元剤」”では無かった事に認識は成る。
つまり、「還元の認識・概念」は当初は無かった事に成る。
ところが、対比する「近江鉄の竪型炉」では、「加熱」は「木炭」で、「還元剤」として明確に加熱材を兼ねない「石灰石」を投入しているのだ。
勿論、「木炭」であれば高温に於いて加熱中に先ず炉中で「鞴の酸素」と反応して「一酸化炭素」と成り、これが「鉄の表面」に反応して初期には「還元剤」として働くのだ。
これが更に「加熱」が進むに従って、この「石灰石」が「溶融・900度」して「還元反応」を起こし「科学的な還元」を本格的に起こすのだ。
その為には「竪型炉」はより溶融点を挙げる必要があって「改良の必然性」が高くなった一つなのだ。
そこで、何故、突然に「石灰石」に意識が飛んだのかという事である。
それは恐らくは、「鈩製鉄の箱型炉」に使う「加熱の藁や木材の灰」のその「効果」が大きく、その「灰」の「加熱の末路の凝固」の中には「炭酸カルシウム等・白い粉の塊」が多く含まれ冷えると凝固し当初は「邪魔物」として扱われていた。
ところが「鉄鉱石に着いている付着物の撤去・邪魔者」は、結局はこの「白い石の灰の塊」にあると認識し、これが「還元」として働いているのではないかと云う概念を持つに至った筈だ。
だとすると、「白い石の灰の塊」を獲得する為には、「青木氏部と額田部氏の協力」を得てその「専門知識」を生かして、その「山の同じ成分」と観た「山の石灰層の切り崩し」にあると観たのではないだろうか。
「消石灰の原料」は、「石灰石・炭酸カルシウム)」である。
この「石灰石」を砕いて「炉」で加熱した後に、「加水・消化・熟成の過程」を経て「消石灰・水酸化カルシュウム」が出来るのだ。
だとすると、「白い石の灰の塊」は、要するにこの“「消石灰」”である事に成るし、恐らくは「骨粉などの苦土石灰」も使っていたと考えられる。
要するに、「石灰石」=「消石灰」=「白い石の灰の塊」として繰り返し砕いて使えば「還元効果」はより生まれる所以である。
これはこの段階で、これは「竪型炉」に改良してそれに依って「溶融温度が高くなった事」に依る効果であって、その時に「還元と云う概念」をこのでの実績での事で明確に持ったという事であろう。
そもそも、これは「箱型炉では得られない概念」で、「竪型炉で得られた概念」であった事に成る。
つまり、これが年代的に竪型炉の開発と近江鉄の開発の「703年と713年と云う事」に成るのだ。
注釈 「苦土石灰の成分」は、要するに貝粉や骨粉の堆積であり、「炭酸カルシウム}と「炭酸マグネシウム」が主な成分であり、 これに対してこの「消石灰の成分」は、「水酸化カルシウム」が主な成分である。
何れも「日本列島の成り立ち」から無限にあって積極的に使ったと考えられる。
ところが、「石炭」は、これに代わるものでありながら「古来」より列島にはその存在が多く認められて使われていた記録がありなから、それが「最大の加熱材」で、且つ、「最大の還元剤」を兼ねているのに「歴史・青木氏部」は何故か使われていないのだ。
その「原因]は当にその「有毒の硫黄・亜硫酸ガス」であるからだ。
この「石炭の硫黄」も、この「石灰石」を砕いて炉で加熱した後、「加水・消化・熟成の過程」を経て「消石灰・水酸化カルシュウム」が出来る様に、同じ工程で「石炭も石灰」も元は地球上の生物の化石であって、故に「全く同じ工程」を踏めば出来る筈なのだ。
これに依って「無害の石炭・コークスの名称」が得られ、「石灰=コークス」として使えている筈なのだし、「技術が無かった」と云う事では無いのだ。
然し、この処理も知り得ていて敢えて使っていないのだ。
何か「宗教上の掟」に依るものかであるが、それも記録が無く、この「記録}が特段に無いと云う事は他に「有毒の硫黄」の「宗教上の掟」としか考える事は出来ない。
そもそも、その温度は「500度」だが50度+のそれだけの違いであり、これは全く「技術の有無」ではない。
要するに処理後の呼称は「コークス」であり、それでも使わなかったのだ。
「石灰石の処理」を知っていた限りは使えた筈だ。
「明治期の高炉」までこの「コークス」は頑なに使わなかったのだ。
それは「石灰石」などで「還元」は充分であったと云う事かもしれないが、然しながら「還元力」は、兎も角も高い温度が得られる「加熱材」等の「三つの高い効果を持つ」のには、現在もこれに代わる物は無いのだ。
後は「青木氏部」である限りに於いて「積極的に使わなかった事」が原因して後世に於いて後段で論じる「神に捧げる物の定義」に扱われたのかである。
つまりは、これが「鈩鉄と近江鉄の違い」から発生した結果かである。
さて、話を戻す。
「結晶論」の此の“「結晶間に残る墨量・炭素の量」”の「鉄の結晶間の縁だけに増えた量」が、「鉄の量」に対しては、「炭素・0.8%」に達した時に初めて、“「ある変化」”が「鉄の結晶間」で起こるのだ。
理屈ではなく「自然が造り出す原理」である。
何度も経験しなけれは得られないし「自然が成す基準値」である。
これが当時としては、最大限に「難しい疑問点・細かい墨」であった筈なのだ。
それが起こったのだが、「青木氏部」に執っては「何事も驚きの瞬間」であったろう。
そもそも、それが何が起こったのかである。
更にどんなに条件が整ったとしても、唯一つは“「墨・炭素に成る為の細かさ」が細かい”と云う点で、これも「偶然の事」で起こっていたのだ。
唯、「細かい炭」であれば起こるという事ではないが、その“「細かさ」"が得られる「偶然の墨」だったと云う事だ。
その確実に起こり得る「加熱中の偶然温度」が、何と不思議に、どんな条件でも“「723度・変態絶対温度と云う」”と云う点に限定されている事に成っていたのだ。
つまり、この「温度に達した事・723度」で、「鉄と炭素」に、つまり、「細かい事の幾つかの偶然の条件」にある“「不思議な一致の偶然の変化」”が起こったのである。
その“「723度」”は、「温度計」が無く、それも「高温」のものを計る事が出来ない時代に於いて、どの様に確認したのかであるが、この「不思議な偶然の事」が起こる「限定した鉄の温度」を覚えて置く事で可能と成ったのだ。
これは「723度と云う特徴ある温度」である以上は、一度観ると忘れない「鉄の表面」が、「“波打つように輝く橙色”をしている」と云う色の特徴を持っていたのだ。
これは何故起こるかと云うと、“「723度」”の「鉄の内部」では「特別な変化」を興す為に「色判定」には「ある5度程度の範囲温度で安定した特徴」を示したのだ。
概して、先ず上記した持ちづらい概念の「鉄の結晶」には、「高温」に於いて「3つの色々な結晶構造」があり、それは「温度と鉄と炭素量」に左右されているのだ。
そして、この「不思議な723度」がその「全ての鉄と炭素の結合点」であるのだ。
「試し」に加熱して温度を下げて来ると、この「結合点」の「・723度」に於いて再び同じ点に必ず到達する「不思議な点」であるのだ。
この「・723度の結合一致点」ではこの「鉄と炭素の結晶」は「3つの色々な結晶構造」で出来ていて、それが加熱を下げて来ると、「オーステナイト結晶」の「不思議な結合点」に到達するのだ。
これには「物理的な原因」は無く「偶然の摂理」に基づき起こるのだ。
注釈 「4つの色々な結晶構造」とは次の通りである。
オーステナイト結晶
パーライト結晶
フェーライト結晶
セメンタイ結晶(常温)
そこで、 この“「723度と云う限定した特定の偶然の温度」”だからこそ、この世に起こらず存在しない“「トランスホーメイション・変態の温度」”と表現されるのだ。
そこで、 この“「723度と云う限定した特定の偶然の温度」”に「ある特定のエネルギー」を加えると、世にも不思議な事が又起こるのだ。
この「温度以下」でも起こらず、この「温度以上」でも、この「限定した温度以上」に達しない限りは起こらず、その場合は、その「温度の差の分」だけの “「歪み・欠陥を持つ事」”に成るのだ。それは「偶然」であるからだ。
当然に、従って、「近江鉄」に於いて、この“「723度の温度」”を見極める「極めて難しい匠の目視技」が求められたのだ。
云うまでも無く、この“「723度の温度」”の「偶然温度」に達しても「偶然温度である限り」は「幅・ユレ・3から5度程度」を持ち、この「偶然の幅」を獲得しなければ、この“「723度の温度」”の「良好な結果」は得られないのだ。
「青木氏部の匠」はこの「偶然の幅の限界」を習得しなければならなく成っていたのだ。
言って仕舞えば上記した様に、先ず、
第一番目に「0.8%Cを偶然に見つけ出す事」に成功したが、
そこで、次に第二番目に「723度」に「絶対的な偶然温度」がある事を知るに至る。
これに対して「上記する偶然要素」を“「723度の温度」”を獲得するに必要とする「絶対の鉄」に含まれる数多くの要素を組み合わせて、「偶然の要素の影響を観る事」に成ったのであろう。
この工程を踏まなければ「銃の欠点」を解決に至らなかった筈だ。
要するに、これも「偶然の炭素量」が「0.8%C・(0.86C)」であって、この「二つを中心」としてそれぞれの「加熱」に対する「時間」。「細かさ」。「速度」。「質量」。「体積」。「面積」。「墨の素材」。「加熱力」。「融点」。「角度」。以上の「10の組み合わせ」の「夫々の相関関係の把握」が求められた筈である。
当時に「冷却過程」に対する「冷却材」等に対しても以上の「10の組み合わせ」の「夫々の相関関係の把握」が求められた筈だ。
「青木氏部」として「関係表」を完全な形で造る程度に得ていたかは判らないが、大筋でその目的の為の範囲にはできていたであろう。
「処理後に対する把握」を根気よく出来て初めて「銃の欠点が安定よく排除する事」に成功したと考えられるのだそれで無くては「銃の欠点が安定よく排除する事」は出来ていない。のだ
以上の様に、「数えきれない偶然」を「組み合わせ」で見つけ出す事に成った筈である。
上記の「新しい鉄の持つ専門知識」を一度に得て総力を挙げて活気だったと考えられる。
「目視」で凝視していれば一瞬ではあるが目に見えてに伝わって来るものがある。
そして、「その時の鉄」の中では、其の「細かい炭素」と共に“「共析鋼」”と云う「偶然結果」として得られる総合品質の「良質な鉄のもの」に変化するのだ。
そして、“この時、「ある変化」と共に飛びあがるような「不思議な事」が更に起こる”のだ。
上記の“「不思議で偶然なある変化」、即ち、「この世では普通に起こらない特別な変化」、即ち、“「変態」”であって、「鉄の炭素との結晶」”では、結晶の呼称として“「オーステナイト」から「マルテンサイト」”と云う形に変化して起こるのだ。
これを「銃の試作過程」で一度に「鉄の持つ不思議な複数の新しい知識」が関連して「偶然に会得したと云う事」に成ったのだ。
それが言葉で纏めると“「共析鋼」”であって、その「結晶の変化」としては、先ずは「オーステナイト」であって「マルテンサイト」であるのだ。
では、この「不思議な結晶の現象」の“「偶然な変化」”とは、一体何なのかである。
これを何度か繰り返している時に、「ある温度・723度」で「炭素の量・0.8%/鉄」に達した時に、「偶然」に「冷やす工程」と成った時に、ある特別なこの「世では普通では興らない現象」が「炭素と鉄の結晶」を通じて“音を立てて瞬間的に起こったのだ。
これは「可成りの偶然」な事である。
これが、“「変態・不思議な偶然のある変化・鉄と炭素の結晶のオーステナイト」からの「マルテンサイト」”と云うものなのだ。
「超硬く」て、この世のどんな物にも、例えば「ダイヤモント」と互角程度以上の強さを持ち、その強さは「どんな物理的で科学的な強さ硬さ」よりも優れているのだ。
これは、当然に“「前段の銃の欠点」”を性質的に補う事に余りあるのだ。
そこで、この通常では得られない「鉄と炭素の高温での結晶の状態」を専門的には“「オーステナイト」”と云う。
全ての結晶の共通点である共析鋼でありながらも、この偶然にも得た一部の結晶の構造を全て一度「オーステナイトの状態」にして「鉄と炭素」の全てを「必要な時間」を掛けて変えて仕舞う必要が伴うのだ。
その「時間」が長いと、「鉄と炭素の結晶の関係」に長いと「粗大化現象」と云う「取り返しのつかない欠点」を造り出して仕舞うのだ。
当然に短いと、「不完全な鉄と炭素の結晶の関係・不均一現象」を生み出してし割れてしまうのだ。
何れも大きな欠点を持ったものに成って仕舞うのだ。
この上記の「温度・目視で把握・表面の色」も然る事乍ら、「時間・目視で把握・表面の色の流れ」にも「極めて難しい匠の目視の技」が求められるのだ。
要するに、「鉄と炭素の結晶」を仲介して「一種の炭素の結晶に「ある独特の変化が起こるのだ。
それは、「手に伝わる2秒程度の鈍音」と「震動」と「表面色」と「表面模様」と「油の冷却材の表面の踊り具合」でも判るのだがそれは一瞬で起こるのだ。
判り易い近い例として、「マグマの中で溶けた炭素」が火山噴火等で外に放り出される。
それまで「莫大な地球の高圧のエネルギ」が加わった時に「炭素の結晶体に変化」が起こり、それが「冷却等のある工程」を経て、「地球の冷却圧」とで「ダイアモンドと云う結晶体に変化する事」になるが、それはこれに類似する。
そこに「高温に成った鉄が介在する事」で「鉄と炭素の二つの結合体の結晶体」が起こるのだ。
これは、「ダイアモンド」と同じく、その「特異な状態のものが、つまり「・マルテンサイトと云う特異な形」を保つ為に、突然にこの「高温にあるオーステナイトの結晶」から「急激に冷やす事/1S以内」で「変態と云う特殊な現象・トランスフォメーション」が自然発生的にこの世に起こされるのだ。
これで得た「あり得ない二つの結晶体の物体」を「マルテンサイト・鉄と炭素」/「ダイアモンド・炭素」と云うのだ。
その「特別な特質」は「炭素の結晶体のダイヤモンド」に比して「鉄と炭素の結晶体のマルテンサイト」は決して劣らないのだ。
寧ろ、「鉄との結晶の変態の結合体」と成るので「違った優れた特性」が導き出されるのだ。
まあ、一般的に判り易く云えば「ダイヤモンド+鉄を造った」と云っても良いだろう。
然し、此れは、解る様に「通常のこの世の事では無い事」の故に、つまり、その侭では「自然界」に無いものであるので、この“「マルテンサイ」”は、「自然破壊」して仕舞い「応力分散」が出来ずに割れ破裂するのだ。
この「ダイアモンド」も「地中深く高圧の中」で「緩やかに冷やされ」て「ダイヤモンドと云う特別な特質の侭での状態で長く保たれ状た状態で維持された事」で割れないでいるのだが、それと同然で出来た侭の状態では「マルテンサイト」は、間違いなく「破壊」が起こるが、“穏やかに保たれていれば同然のものが得られ道理”であると考えた筈だ。
その地球の“「穏やかさ」”を施してやれば「ダイヤモンド」と同然事と成るは必定である。
その「穏やかさを施こすに替わる事」を考え出せばよい事に成る。
そこで「青木氏部の匠等」は懸命に考えた。
「穏やかさを施こすに替わる事」が、これが「この世に無い変態」である以上は論理的に解る事では無い。
現在でも難しいが、当時でも直ぐには結論は見つからなかったであろう。
つまり、これは簡単に見つかる事では無く、「穏やかさを施こすに替わる事のこの世の有無」も含めて試行錯誤の末に辿り着いたのが、それは思いも依らぬ「低温で加熱する事」で加熱して得たものをもう一度加熱すると云う事はそもそも「・原理矛盾」であったのだ。
然し、「低温で加熱する事」そのものが定義的に変である。
「マルテンサイト」は論理矛盾であっても「ダイヤモンド」はところが「・原理矛盾」では無いのだ。
そもそも、「加熱」と云うのかは問題であるが、少なくとも「常温・20~50度」を越えた「以上の温度である事・イ」には間違いはないが、この「常温以下の温度-40~5度・ロ」に保つ事を「加熱」とはそもそもならない。
然し、論理的には地球環境に似た環境に近い「このイとロ」に於いては、「+圧力」を加えてこの温度域に保てば破壊する事なく保てる筈なのだ。
その「対策」として、初期には「ダイヤモンド」に合わせて何れも「地中深くに埋めた事」が書かれているが失敗している。
それには、この世のものでない変態である以上は「マルテンサイト」の持つ「応力の大きさを解消する力」を持ち得ていなかった事に成る。
論理的には「マルテンサイトに成るに必要としたエネルギー」に相当する「マイナスのエネルギー・打ち消すエネルギー」か必要である。
これを求めるにはところがそれでは時間が掛かる事の欠点がある故に、事前に加熱後の灰配中に居れていた。論理的に「多少の変態の変化」は認められるも、何かで間違って、“「ある温度”に保てた「灰中に落とした侭」として放置して忘れていたいと書かれていて、ところがその結果として「破壊する事なく保てる事」を会得確認したとあり、それ以後は“「灰中・100~150度」で「2日から3日程」に忘れて寝かしていた”とある。
然し、これが結果として取り立ててその「銃の欠点を補う特性」に通常の変化はなかったのであろう。
これは論理的に応力除去では納得できる良好な操作で、現在でも行っている「油中加熱」と共に「一つの方法」と成っているのである。
当時としては「初期の頃」は「経験から獲得した理論」であったのだ。
筆者は、上記した様に「近江鉄の製鉄法」にしてもこの熱処理にしても「日本特有の灰中冷却処理」で「より長く処理」が好ましいと考えている。
其の後、「1540年頃」から始めてから「1560年頃のほぼ銃の欠点除去の完成域・1565年使用後」であった観ているが、「完成期」と考えられる時期の「室町期末期から江戸初期」に掛けては、「西洋」から「貿易に限られて」で「冶金知識」も合わせて「伊勢屋」を通じて入ったと観られる。
然し、“「青木氏部」”ではその前ごろには「経験を通じて獲得している事」が判っていて、「独自の開発」による「竪型炉に依る技術」ではなく、これは「其の後の技術」はより進んだ「高炉の製鉄法との融合技術」であったと結論付けている。
「竪型炉の発展経緯」から観て「外国人の技術導入」では無かったと観ているのだ。
そこで、当時は上記した様に、飽くまでも未だ「何度も鍛する事」での“「固さ・A」”の概念」であったが故に、「硬さの概念」のそのものが無かった筈だが、この「概念のはっきりとした認識」の無い侭に、「額田青木氏の超近代銃の中、つまり「・摂津・青木氏部」では、「硬さの技・技術・処理」が経緯からすると何とか得られていたのだろう。
と云う事は、それはそれまでの「巧みの技」を生かした「20年間の試行錯誤の過程での結果」であって、当初はその概念に付いては、その時は、それは“何か変だな程度の概念”であったろう。
然し、「何度も鍛して緩やかに冷やされるの過程」が在って、そこからこの「硬さの概念」が確実に得られていたのであって、その結果が上記した驚く様な「近江鉄の高度な技術に発展した事」に成る。
注釈 「伊勢青木氏」では「家訓の技術を重んじられる家系の風潮・文化」は、この長い間のこれらの極める概念が色濃く遺された遺伝的な結果のものであろう。
さて、「鉄」は高温に過熱するたびに「鉄の結晶」は粗大化するが、この「何度も鍛して緩やかに冷やされるの過程」では、「高温の鉄の結晶」は逆により潰されて細かく成り、その「より細かく成った結晶」の間に、更に「微細炭素が浸みこむ」と云う過程が起こっている。
そもそも鉄は加熱する事で粗大化するが、この結晶をそれを鍛して細かくすると云う技を駆使していたのだ。
上記した「再結晶化温度の処理・600度~~650度」は全く使っていないのだ。
この代わりに「鍛する事」でこれに換えているのだ。
この「鍛する事」で上記した「変態・マルテンサイトが起こる環境」が整えられて行って、「鉄に対して良循環が起こり続ける事」に成って行ったのだ。
そもそも「再結晶化温度の処理・600度~~650度を使う事で得られる結晶のマルテンサイト」と、「鍛する事」で結果として得られる結晶の上記した「変態・マルテンサイト」とには違いが生まれる。
それは「鍛する事」で「結晶に受ける応力差」の違いである。
「鍛する事」で受けた「大きく成る応力」を計算に入れておく必要がある。
「マルテンサイトに成った時の鉄に対する影響」は無視できないのだ。
これを如何に無くすかである。
然し、この上記の基礎には「青木氏部」が古来より「専門部」として「朝廷に治める飾刀」から得た技がここに培われ続け引き継がれてきていたのだ。
「朝廷に治める飾刀」は、「青木氏部を持った時期・647年頃」からとすると、「703年・713年の近江鉱山開発・近江鉄」を使っての「飾剣」であった筈で、砂鉄に依る玉鋼の「飾剣」では無かった筈である。
注釈 大化の改新までは全て剣は中国からの輸入で朝鮮半島に攻める事に成った時に兵に全て刀剣を与える事と成り、中国と韓から「鍛冶部・かぬちべ」を北九州に迎えて全国がら部人を送り習わせたことが始まりであり、「飾剣・直刀」の製造は700年前後に入ってからの事である。
ではそれは何故なのかであるが、それを下記に論じる。
実は、前段で「駿河青木氏論との額田青木氏論の関係性」で論じた様に、「近江鉄の殖産の過程」で「琵琶湖から淀川」を経由して「原鉱石」を「内船」で「大阪湾」に出して、「摂津青木氏部」に「鉄の原鉱石を運び入れる道中」があって、その「運び込まれ得られた鉄」を「日野等」に先ずは支給して、「伊勢屋」は「鉄製品、最終は銃」を先ず生産していたのだ。
これに薩摩藩などが密かに目を着けた。
前段でも論じたが、そもそも「古代期」に「日野」は、「殖産の四つの近江鉱山」の「鍋窯の日用品等」の「鉄鍛冶屋」としての「鍛冶屋の摂津の影響を受けた有名な職域」にあって、そもそも「青木氏部の商いの範疇」にあった。
その「殖産の背景」で室町期には、「銃の生産・限定期間中」にその後匠等は「全員伊勢に引き取ると云う事件」が興ったのだ。
各地の豪族等は、「銃と云う事」に着目して「銃」よりもその元に成るその“「鍛冶職・かぬち」を摂津と日野で丸ごとに獲得する”と云う直接的な武力行動に出たと云う事に至ったのだ。
この「歴史的経緯」があり、それで「摂津」ではこれ以上は無理であるとして「伊勢に引き取ると云う行動」で対抗したのだ。
それからは前段でも論じたが「伊勢での銃の製作と云う過程」に入ったのだ。
元々は前段でも論じたが、「伊勢の青木氏」では古来より「朝廷」などに納める「日野の飾刀/特定範囲」としても数は少なくも「朝廷用品の実用品物・供納品」として「賜姓五役」の一つとして「青木氏部」で造られていたのだ。
それが前段でも論じたが、一時、戦乱に巻き込まれた時にこの「日野鍛冶匠」は「伊勢青木氏部」に一斉に逃げ込み組み、「伊勢の部」に組入れられた経緯があった。
ところがこの一部が「伊勢」に組しなかった「非組合員の他の匠等」は、薩摩等に侵略され引き連れられていった経緯があった。
この関係で「古来の飾刀鍛冶の技量を有していた匠等・青木氏部・鍛屋院」が「賜姓族の賜姓五役」から多くのいた事が判っている。
恐らくは、当然にこの「賜姓五役の殖産の経緯」から観ても「この時の技量が生かされた事」と考えられる。
そこで、では、“どの様な技量が生かされたか”と云う事に成る。
何度も論じているが、先ず元を質せば、「院号を与えられた施基皇子とその裔系」は、その結果として「伊勢の五つの大字」を与えられた所以と共に、それに伴う「国造差配頭の位置」にもあって、且つ、「鍛屋院・かぬやいん
」の「青木氏部を独自に持つ数少ない氏族」であった。
その「伊勢と信濃の氏族」がそれを総合的に生かすその延長線上にはあって、故に当時の「技術水準の最高位置にいた事・令外官として国造支配」は頷けると共に、更には「それをリードしている青木氏部の立場」にもあった事」に依るこの“「二つの技量」”が生かされていた事に成る。
注釈 筆者は、「天武天皇」が、“朝廷の高官の中には専門の官僚と成り得る優秀な大和人がどれたけいるか”と聞くと云う事件が起こったが、この事に注目している。
“官僚に変わり得る高い技量の持つ部人を持つ氏族がどれだけいるのか”と問われたが、その答えは“いない”と云う「返答」が返って来たとある。
殆どは、後漢の職能集団の帰化人であった。
この時、「令」を発したが、この時の令の「因事菅隷」の通り、殆ど「施基皇子の後裔の伊勢青木氏以外」には専門家は居なかったと観ているのだが然し勿論に[官僚族]では無かった。
この物語るところは百々の詰まりは、「伊勢の施基皇子とその裔系」は「因事菅隷の青木氏部を持つ氏族」を形成している事は既に重々に承知していた事である。
然し、その中でこの発言を発するという事は大きく気にしていた事から発したと観ているのだ。
つまり、「後漢人」に左右されない「青木氏部」の「独自の専門的レベル」が政界を騒がす程に高かったものである事を証明している。
それだけにこの“「因事管隷」”は「青木氏の歴史」を知る上で忘れてはならない「青木氏に大きく影響を与えた事」に成る「史実」と成る。
それには先ず「青木氏に与えられた院号を調べる事」なのだ。
それに「最も有力な院屋号」は、この「伊勢」に最低で四つの大字を功績として与えられ、それを下に莫大な私財を投じた「近江鉱山開発の特別な院屋号」である。
つまり、「近江鉱山開発の青木氏部が持つ院号屋号」であるが無いと云う訳には成らないであろう。
そもそも、本来は、彼等に対して「朝廷の太政官」が「天皇」に代わってこの様な「令」を発するが、「奈良期の皇親族」ではこの「太政官」に代わって「永代の賜姓五役の格式」に於いての「永代令外官」として間違いなく「因事菅隷」を実施した事が書かれている。
「皇親族=太政官=賜姓五役=「令外官」=「浄大一位格式」に依って「因事菅隷」があって、「令外官=永代浄大一位格式」は「太政官の上位」にそもそもあったと記されている。
取り分け、「政治の事」は兎も角除きそれ以外の発言権に関して優先権を有していた事が「佐々木氏の研究資料」等にも記されている。
故に、この事から「青木氏部・因事菅隷」は先ずはその「見本の様な立場」にあって「先導役」として走っていたと観られるのた。
「青木氏部」は、要するに「奈良期から平安期」までは現在の「国立技術院・工学院の様な立場」として活躍をしていたらしい事は判っている。
然し、ところが色々な資料を散見するが、それらしき確実に明記した「院屋号名」が表の記録に出て来ないのだ。
これは「考え方」に依っては、この「因事菅隷」そのものが「青木氏」にある以上は、「工学院」と云う“院が別に存在したと云う事”では無く、「因事菅隷」を持つ「工学院=青木氏部」のそのものの呼称では無かったかと観ている。
要するに「青木氏部」が「因事菅隷」を持つ以上は「青木氏部=院屋号」であったと云う考えも成り立つ。
この「青木氏部に関する事」では、「近江鋼の鍛屋院の号等」の「幾つかの類似の記述」が観られるが、これが「総合の技術院や工学院の号」も得られていた可能性がある事を物語る。
要するに当時は、「工学院=鍛屋院等の号」にあったと観ている。
そうでなければ「日本最初の近江鉱山開発」は、「因事菅隷」として「青木氏」に命じ無かったであろうが命じているのだ。
それが「賜姓五役としての令外官」であったのではないだろうか。
筆者は、その「院屋号の前提にある事」として、因みにその「進んだ技量」の中でも、この「青木氏部の中」に論じている様に、つまり、一つの証明として古くから「朝廷に納める飾刀の工程」のこれが青木氏部の中にあった事を明確に物語る様に、「全ての技術の院屋号の所以の代表品」は、この「朝廷の飾刀・飾剣」にあったのでは無いかと観ているのだ。
だから、「日本最初の近江鉱山開発」にも「工学院=鍛屋院の号・鍛冶院・・かやいん・かぬやいん」は下されていた筈だ。
だとすると、第一に、「鍛屋院の号」が無ければ「鉄」を掘り出してもそれを裁いて「利益」に持ち上げる「商い」もしなければ成らないのであるとすると、これを認めている「占有権・独占権」も無くてはならものであるし、況してや、そもそも「因事菅隷」を出しているのだ。これがある以上は絶対に「占有権・独占権」は成り立っている筈だなのだ。
この事で、故に後に基礎的に「飾刀の工程」が持つこの「青木氏部の基礎技量」が生かされたのであろうと考えられるのだ。
それが「天武天皇の問の前提」にあったのであろう。
その「高度な技量の詳細を語る事」にあるが、実は専門的にこれを論じると、下記の様にそもそもこれは「発想の域」を超えているのだ。
当然に、上記のこの「結晶の変態現象・トランスフォメーション」、即ち、「高温に依って起こるオーステナイトと云う鉄と炭素の結晶体」での「結合体」が、一瞬にして突然に「全く違う「別の結晶体の物に変化してしまう現象」を云うが、これに依って起こる「変態した結晶体・この世では通常で起こる事では無い結晶の現象」、これを別に「マルテンサイト」と云うが、これが「鉄の表面に文様」として何らかの形で出て来るのである。
それを以てこの「マルテンサイト」が起こっているかは、別として、それが「良い飾刀にもそれに近い模様が出て来ている事」に成るのだ。
この「論理的で不思議な高度な現象」が起こっているその事が、この「奈良期からの賜姓五役の目的の青木氏部の高度な技量」に依る「飾刀工程の表れの文様」であるりだ。
つまり、これを専門的に「刀文・刀紋」と云うが、これにこの「マルテンサイト」が相似すると当初では考えられていたのだ。
然し、これに成るには、その前の概念としては先ずは“「奈良期の第一段階の基礎・飾刀」と成っていた”と考えられていたのだ。
「飾刀・直刀」は、未だ奈良期初期までは「中国と韓からの輸入品」であって、殆どの物は「鍛冶物・かぬもの」はそうであったのだ。
その後の事は上記した「天武天皇の因事菅隷による変革」で進められた。
この一翼を背負わされたのは「青木氏部」であり、それが「近江鉱山開発」に始まる「大和の事・大改革事業」に成るのだ。
さこで「銃の欠点の克服」の「技術的な経緯}としては次の様に成る。
この「平安期まで飾刀工程の流れがこの「・第一段階」であった。
更には、上記の「平安期の技量の第二段階の基礎・殖産」と成ったのだ。
次には、上記の通りに相当に難しく成った「室町期の技量の第三段階の基礎・銃」と成った。
その「技量の経緯」は「第四段階の銃の完成期」と成った。
以上と次第に進んだと成るのだ。
「銃の欠点の克服工程」は主にこの「第三段階}からであろう。
そこで、その「概要のメカニズム」は、そもそも「この第四段階までの現象」には、この「奈良期から室町期」までを通しての「歴史的な飾刀の刃文・刃紋の進歩」と相似してそれが「表・銃身」に現れて来るのだが、ところがこの「第四段階までの現象」だけはこれを覆す様な現象が起こっている事に気が着く事に成るのだ。
それが次の様な時に起っている事に成るのだ。
そこで「鉄の製鉄基礎論」から「銃に対する概要論」をここから述べる。
先ず「鉄の製鉄基礎論」に関わっていた時期の「飾刀・直刀期間」の経緯には、上記した論の「鉄の歴史」が伴うが、「初期・江戸期まで」は「砂鉄の玉鋼」と呼ばれる「金属原材料」で原始的に維持して敢えて全てが造られいたが、[青木氏部」では要するに上記した「後の近江鋼鉄の銃に使われた様な進んだ共析鋼」には、これに「近い鋼の原理の事」に相当するのである。
そこで、「刀にする為に鍛える工程」で先ず論じて観るとする。
そもそも、これらを「刀にする為に鍛える工程」とは、そもそも、その「鍛える度ごと」にその「表面」、又は、「断面の光の文様」や、その「板鋼の折重ね具合」を見定めて、その中でその「砂鉄玉鋼の性質」を見極めて重ね合わせて厚くして行く工程なのだが、「刀紋」はその過程の模様である。
その数度の工程を以て幾重にも重ね合わせた状態にして加熱し叩いて鍛えて接着させて強くするが、「刀紋」はその強さを表す模様である。
これ等は「叩く速さの時間と叩く力」に左右されて「刀」に成るかは決まり、それが正常にて出来ていなければ「その鍛えている刀」には「内外部に亀裂と剥離」が起こり「玉鋼の刀」にはならないのだ。
そこで、その欠点を防ぐ為に「複雑に性質の違う幾種の違う玉鋼の鋼片」を折り重ねて、ある「高温加工の熱状態」、但し、「この・温度」を間違えると成らないので何度も鍛えるが、この時に「匠の技量の差」が問われるのだ。
その「違う性質の玉鋼が重ねられる事」で、その「折重具合の断面」は“年輪状”の様に「折り重ねた鋼」と成り得る。
この事が重要であって、「玉鋼の場合」に依って、要するに「折重具合の違う金属特性の複合特性」で「刀の長短の特性」を導き出す「製造方式」であるのだ。
その「炭素の特性の性質が違う砂鉄」、即ち,「玉鋼」では「鉄で炭素との結晶の結合体の事」であって、そこには「表面」もその「断面」にも「折り重ねて鍛えた結果」として、「重ねた平鋼板の良し悪し」を見極める事が出来るのだ。
それには、「重ねた平鋼板の良し悪し」は、その「平板の重ね具合」はこの「刀としての刃先形状」に全てを出す為に、その「刀の長手方向の刃先先端の断面」を「刀形状の三角に削り磨く」が、この時にその「重ね合わせた鋼の色合いの文様」が、この「長手方向の刃先先端の断面の断面模様」に出るのだ。
これが「刃文」と成り共に「先端の刃先文」としても出るのだ。
この「刃文」と「先端の刃先文」で「砂鉄の玉鋼」の「刀の良し悪し」が決まるのだ。
多くは「先端の刃先文」で見極める事が出来る。
要するに、「鋼にしたものを重ねる事」に依って「表層状態」に強度を増す様に成るのだが、「一枚の鋼」であるとその「内部は均一性に欠ける事」の為に、一か所に「応力・力」が掛かり弱いし折れる。
そこで、この様に「玉鋼の日本刀の構造」は、「大樹の年輪」の様に、複雑に特性の違う“「玉鋼」”が造られ重ねられる事で強く成り、それが「外観の色変化」として「刀文・刀紋」と「先端の刃先文」」として二つに現れるてくる事に成るのだ。
この「刃文」と「先端の刃先文」」は、“「適度な急速な冷却効果」”に依ってより現れるものであるのだ。
取り分け、従って、この「刃文と先端の刃先文」を見分ける事、特に「刃先の先端に出る文様」で「匠・刀師の技量の良悪」と「その刀」のみ成らずその「工程の技量の良し悪し」も判る事に成るのだ。
さて、そこでこの「良い刃紋を出す」には、その主に「熱の如何」が問われのが当然である。
この「加熱」を一定の速さで下げる為の“「冷却」に伴う「良し悪し」”も判り、その「鋼の炭素と加熱と冷却」と、その「過程の模様・経緯」も僅か乍らも「刀の表面と破面」にも表れる事に成るのだ。
故に、この「加熱と鍛圧と冷却の三つの如何」に依って上記した「マルテンサイに近い模様」は得られるが上記の工程の「・砂鉄」には結晶は得られない。
然し、それに「近い模様」が「良い刀全体」にも表れて来るのだ。
但し、上記した「近江鉄」に依って得られた「銃の工程」と違って、この「刀の場合」は、実はこの“「マルテンサイト」”は得られていないのだ。
つまり、得られる為に必要な条件に到達していない物が多いのだ。
殆どは、「玉鋼を幾重にも重ねて鍛える事に依って出る粘りと硬さの影響」で成り立っているものである。
何故ならば、この上記した“「マルテンサイト」”が得られたとしても放置すればこの世の「変態」で在る為に「破壊」が必然的に起こるからで、此れを防ぐ「ノウハウ」にも「超高度な技術」に到達ししていなかった事にもあり、且つ、基本的にそもそもこの“「マルテンサイト」”にも、「砂鉄」から得られる「玉鋼」で在る限りは到達していなかったものがあったと考えられる。
つまり、「砂鉄の玉鋼」では、必然的に「0.8%共析鋼」に成り得ていない事に成るからだ。
ここが論理的な大きな違いである。
従って、「銃の欠点」を克服する為には「初期」には先ずは「飾刀の経験・647年から650年頃に開始」から入ったと考えられるが、この「青木氏部」では、「近江鉄」として追及した「0.8%共析鋼・755年頃に完成」とは成るが、此処でこの「近江鉄・703年713年」を使いながらも「初期の初期」に「中国から直刀輸入640年頃していた」ので「初期に直刀・砂鉄玉鋼理論」を「製鉄」に参考にしたが、5年も経たずに直ぐに「近江鋼の開発」に入っているので、先ずは躓いたと考えられ、直ぐに「近江鉄の製法の確立」に入っている以上は「飾刀の経験・647年から650年頃」も「近江鉄」で入り直したであろうし、それが「銃の製法・基礎」に結び付いて行ったのだ。
こと程左様に、平安期の当時は、この「技術としての確立した概念」を持ち得ていたかは定かでは無いが先ずは無かったと考えられる。
この「刀のノウハウ」からは「刀の良し悪し」は、この「上記のマルテンサイト」にする為の「匠の技とその有無」が左右する事なので、だから、少なくともこの「マルテンサイト」を「自然破壊」から救い維持する為には、重要なのは「一定の冷却」と、上記した様に其の侭では「内部応力・自然界ではあり得ない別の物に変化する変態現象」に依り「自然破壊」が起こる。
但し、「マルテンサイトの呼称・英とドイツの呼称」は何処にも記載は無い。
この「変な現象を起す事」は、概念的に「青木氏部」では把握していた様ではあるが、そこで“何と呼称していたのか”を調べたが資料的には何処にも見つからない。
後に「貿易」で「冶金学的な事」を江戸初期前後に把握している事からすると、「貿易」で伝わった何等かの呼称があった筈で、それが何なのかであり、「銃」に対して少し遅いが拘わりの度合いが判る。
それを論じる。
実は、“らすぅ”と云う言葉が一か所に確認できるが、これがその「呼称」として使われていたとも考えられる。
その「根拠」は、そもそも外来語の“らすぅ”とは「トラスの原語」であって、“構造物を意味するもので物理学でもよく使われる。
「呼称」としては、この「らすぅ・ラス」は、「マルテンサイトラス」、又は「らすマルテンサイト・ラスマルテンサイト」としも使われる事が可能な用語である。
筆者は、この「らすぅ・ラス・トラス」と云えば、この「マルテンサイトの様なものの構造体」と訳していたと観ている。
恐らくは、この「らすぅ・ラス」は、当時は輸入された「専門用語」であったと観られ、「マルテンサイト」に限らず「構造体」を指していた呼称であったと考えられる。
その「構造物」とは、“原理的には幾つかの柱の様なもので結合し互いに引き合い強度を保っているもの”であり、例えば、“氷や雪の結晶の様なもの”もそれに当たるだろう。
当にこの「密に成った複合的な構造物」の「マルテンサイト」も、その「元の鉄と炭素の結晶体」もこれに当たるだろう。
“「らすぅ」”は遊園地にあるジャングルジムである。
この記している呼称の“「らすぅ」”は、「一つの構造物」と認識して記していた事は間違いは無いと思うし、「貿易」に依って得た知識であった事が解る。
と云う事は、“「鉄」が別の「一つの構造物」に成った“という事は認識していた事に成るだろう。
そして、それが、“「氷や雪の結晶”の範囲」で観ていた事に成る。
と云う事は、“砥石で磨いて光を当てて腐食させて観ていた”とする行為は頷ける。
唯、この記述は一か所にのみに記されて散見されていたが、この事がどの様な意味を成すのかは色々な意味を持つ。
「特別な言葉」なのか、「汎用的な言葉」なのかは判別が着かないが、少なくとも書いていた事の「らすぅ」は、“「銃の欠点」を補う工程のみ”として書き、それを「匠の範囲」では使われていたのであろう事が予想できる。
依って、「古来よりの技」の「飾剣・飾刀の範囲」では使われていなかった事に成り、故に、日本語に無い言語の「らすぅ」に成っていると考えられる。
何時頃にこの「言葉・呼称」が用いられていたかはその所以は「銃に関わる事」であり、且つ、「銃の欠点」を補完に成功した頃には既に「貿易」に依って入っていた事に成る。
とすると、この記述から観ると、少なくとも前半の「1540年頃以降から1550年頃まで」であるので、そのそれを獲得する為に試行錯誤していた頃の事に成る。
そもそも、筆者は最初は「全体の文書の読み込み」に苦労していたので、この「らすぅ」の「単語の言葉」までに気が着かず素通りであった。
ところが、後に成ってふと気が着き、この“「らすぅ」”の言葉が何を意味するのか意味しないのか気に成って改めて読み直したが、その意味する処が暫くは判らなかった。
つまり、「らすぅ」が“「トラス」に繋がる”と云う発想まで出なかった。
この「トラス」は筆者の専門域の「物理の構造体の専門用語」である事である事が良く判っていたが、「らすぅ」と書かれていたので“ピン”と来なかった。
よく考えて観れば、ある時、「トラス」は「ラス」として単語で使う事がある事を思い出した。
其の使う時が、「ある構造体」の前に着けて「ラス・・・」と使う事がある。
そもそもその「ある構造体」とは、普通は「トラス」は主に“「三角形を基本構造としてそれを組み合わせて正方形にもする構造体」”の事で、ここで議論している「マルテンサイトの様な「変態で起こった構造体」は“「稠密六方晶」”と云う「特殊な方位の構造体」である。
この様な場合は「ラス・・・」として“「三角形を基本構造としてそれを組み合わせて正方形にもする構造体」”として表現する事に成っていて、この「マルテンサイト」は“「稠密六方晶」”なので「ラス・・・」として表現する事は学問上は正しい事に成る。
そこで「らすぅ」は「日本語表現」で、スペイン語やポルトガル語の様な「母韻原語」ではないので、この「英語やドイツ語の場合」は「トラス」の「トのtの発音」は「子音の無音」の発音と成る故に、「青木氏部」では「らすぅ」と聞こえたと考えられるし、又、「ラス・・・」で「らすぅ」と受け取った事になろう。
「らすぅ」の「ぅ」は「日本人特有の耳と口の癖」に依るものであろう。
これを記述した者は「神明社の祐筆」であった事から、尚更に言葉に「韻」を含める使い方と成ったと考えられる。
兎も角も、何れにしてもこの“「らすぅの表現」”は、「銃の欠点」を補完した「0.8%の共析鋼の変態構造」の事であった事に成ろう。
この“「らすぅ」”では、「文献」で会得したものなのか、「指導の外国人技術者」を招聘したかは判らない。
「貿易」をしていた事故に、「指導の外国人技術者の招聘」は充分にその能力は有り得たと考えられる。
故に、この“「らすぅ」”の言葉からも、「銃を成功裏に治めた事」が云えるし、「近江鋼の使用の事」と「0.8%の共析鋼の変態構造の事」も納得できる。
だとすれば、「フリントロック式改良銃の近代銃であった事」も証明できる。
もっと云えば、「三方ヶ原後」に暫くはこの「銃」は保全していたが、その後完全にこの世から遺さずに抹消した事も頷ける。
それは「指導の外国人技術者の存在と招聘」から、その「銃の西洋での殺戮具として使われた事」を耳にし、又、「指導の外国人技術者の進言・条件であった事」も充分に考えられる。
さて、そうすると「指導の外国人技術者の進言・条件であった事」があったとして、“20年間の試行錯誤はの期間は長いのでは無いか”という素朴な事であるが疑問が湧く。
その疑問に答えられる事がある。
それは、前段でも論じた事ではあるが纏めてみると次の様な事が上げられる。
1 「フリントロック式改良銃の近代銃であった事
2 日本人にあった額田青木氏に合わせた銃であった事
3 特別に4発式回転式自動銃にした事
4 持運びの中型銃にした事
5 火縄銃式では無く硝石型(火打式)でした事
6 長距離銃にした事
7 銃の欠点を無くした事
8 量産型にした事
9 近江鉄を使い玉鋼を使わなかった事
10 准高炉型製鉄にした事
11 反動型銃にした事
12 立膝型銃にした事
13 操銃に合せた編成隊を考案した事
これ等の事が解決しなければ「額田青木氏としての銃」とは成らなかったのだがそれだけの[伊勢青木氏の要望]は高かったのだ。
判る範囲で以上と成るが、これ等は「指導の外国人技術者」の「指導」だけで解決し得る範囲では無い事が判る。
現に、「額田青木氏としての銃」の為に、この「銃での戦い方」で「伊勢の秀郷流青木氏」が担当しているという事は「青木氏の要望」が作戦の成功の為に「絶対的な必須条件」であった事を物語り、「銃の仕様」には「相当な要望」があった事が云える。
故に「指導の外国人技術者」が存在していたとしても「20年間と云う期間」を敢えて要したと考えられる。
「銃製作の要領書的な片鱗]のものが密かに遺されていたとしても「指導の外国人技術者」をものがたるものは何も遺されていないのだ。
唯、「青木氏や伊勢屋の状況証拠」から考えれば充分に有り得る事で否定は出来ない。
そもそも全国行脚の「僧侶や絵師や彫刻の匠等の修行者等」の長期宿泊する「特別の厨」がつい最近まであった事も、又、親族や店子や客等が慰安を兼ねて泊る「庵」も各地各所にあった事が確認されていて、筆者も子供の頃にここに宿泊した事がある。
摂津や松阪や桑名には当然の事として外国人如何に拘わらず「指導の技術者」の宿泊はあったと考えられる。
そもそも、これ以外に「神明社や清光寺の宿坊」もあったのだから「指導の外国人技術者」の存在は筆者は在り得たと考えている。
上記した“「らすぅ」の記述の言葉”は間違いなくこれに関わっていただろう。
話を更に戻す。
そこで、この「砂鉄の玉鋼」では無い「近江鉄」での「0.8%C共析鋼」での「変態現象」で得た「稠密六方晶」の“「マルテンサイ」”を「自然界」で存在し得る様にする為に研究されたが、“「少し緩める適度な戻し作業」で、現在では学術的に確立していているが、「ある極めて低い温度範囲でのテンパーと云う処理」が必要に成るのだ。
「近江鉄の銃の欠点の対策」では偶然結果で「灰中の長時間保存」で獲得した。
この「ある極めて低い温度範囲」とは、一般で云えば「テンプラ油の温度」よりも低い「150度程度の温度」であり、[150度程度の低くてゆっくり冷やす程」に、その“「マルテンサイ」”の効能を下げる事なく高い効能で得られる事が解ったのだ。
時間があるのであれば「150度程度」で「2日程度から3日程度・48時間~68時間が良い事が判った。
そうすれば“「完全な稠密六方晶」の「良質なマルテンサイ」”の範疇で得られるのだ。
そして、上限は“「完全な稠密六方晶」の「良質な「マルテンサイ」”を前提とするのであれば「灰中」であるので「150度・4日」と云う処であろう。
後は、“「完全な稠密六方晶」の「良質な「マルテンサイ」”をゆっくりと衝撃無く下げて行く事に成ろう。
故に記録から観て、“「焼灰の中でという事」”であったので、“150度程度の低くて極めてゆっくり冷やす程に「マルテンサイ」の効能を下げる事なく高い効能で得られるの範囲”を使ったと観ている。
これは「灰中150度3日の加熱」は温度のばらつきから難しかった様であった。
当時としては、別の面で「灰中」以上に上記のばらつきを解決させる効果的な「植物油の利用」はあった筈である。
それが高額であった事から食用等に限定してあったが、「青木氏部」も「殖産の工業等」には使っていなかった様だ。
「殖産の関係」からその記録が多くは散見できないが、その僅かな記録を観ると面白い事が起こっていた事が記されている。
それは「関西」からその「油使用」が、「食用類」などにもその関西人の性格から面白半分で積極的に使われ始めたのだが、その前はその絞った「絞粕」の捨てる場所も無かった事から、「ミカン畑等」に無造作に捨てられていたとある。
然し、ある時にこの「和歌山や瀬戸内の周囲」の「害虫に依る田畑の病気」が関西域全域に大流行した。
この時、この捨てていた「みかん畑」にはこの病気が不思議に起こらなかった。
そこで、これをこの「害虫被害」の受けた「田畑」にも蒔き捨てた処、「田畑の病気」は完全に治まりそれと゜ころか大生育して効果がある事を確認した。
その「生産」は、当初はその結果として「油の使用」よりその「絞粕用」として「生産が高まった経緯」があり、当然に其れに連れて「油の使用」が増えた。
結果として「油は安価」に成り「食用」にも研究されて使われる様に成り、その果ては「工業」にも使われる様に発展して行ったのだ。但し、関西域だけであった.
その時期が室町期中期から始まり、可成り遅れた江戸期に入っても「江戸・関東」でもこの「病気」は広まったが当初は「江戸気質]で毛嫌いして使われずにいたが、背に腹は代えられないとして使われる様に成ったと記されているのだ。
要は、「窒素リン酸カリの有機剤」であり、「土中の微生物」を増やし、これで害虫と病原菌を減らすとともに、主に「チッ素肥料」として植物の栄養を多く供給すると共に、「害虫を遠ざける働き」も多く強くあり、この「絞粕」の中には「アブラムシ、ハダニ、コガネムシ等」を、取り分け当時の「椿油かす」には「ナメクジ、カタツムリ、バッタ」等を撃退する効果があるし、「もと枯れ病」や「バッタやイナゴ」もこの頃に大発生したとあり、このところから「窒素不足」が原因していたと考えられた。
この時の記述はこの「微生物の増加」と「虫の撃退」の効能が働いたものと考えられる。
「植物油の使用」は、人類起原にほぼ一致するが、「鉱物油」に関しては発見は江戸期初期の1690年代に発見されているが、「限定的な使用」はエジプトの古来に「アスファルト」として「接着剤」として工業的に使われていた古い記録がある。
人類に多く利用され始めたのは「1855年」からで、生活に密着して使われたのは「1890年代」の「アメリカ」と成っている。
従って、室町期中期頃には未だ「鉱物油での使用」は未だ無く、況してや「冶金的な物への利用」は「1890年代の事」で、勿論の事無く直接に冶金的な物への使用も無かった。
従って、「冶金的な冷却材としての使用」は「植物油」に限られていたが、極めて高価で使用は困難であった。
又、使えたとしても「冷却時」に「熱」に耐えられずに「油」が分解して「炭化してしまうと云う事」が起こり、「冷却材の使用」には耐えられなかった筈だ。
つまり、「上記のマルテンサイト」を獲得する事は、元来、「砂鉄の玉鋼」は、勿論の事、「近江鉄」の場合にも難しい事であって、元より原理的に使っていない。
後は冷却としては「水の冷却」と成るが、「砂鉄の玉鋼」は「マルテンサイト/変態」が起こらない為に、「ある技能の範囲」で使用は可能であった事が記録から解っている。
では、その“「ある技能の範囲」”とは、どの様なものであったかを過去の資料の経緯を辿りその論理を考え合わせて考察した場合には次の様であった。
先ず「水の冷却」には、その「冷却と云う点では大きな効能」はあるが、逆に逃れ得ない欠点もあるのだ。
それは先ずは「一つ目」としては“冷えすぎると云う欠点”である。
物理・冶金学では、“何でも冷えればよい”と云うものでは決して無い。
「ある一定の冷える遅い速度」が必要であるが、それ以上に速いと「上記のマルテンサイト」のみならず、その「本体の鉄と炭素の結合体」に、更には、その「結晶」に異常を起こし、破壊するか、又はそれの破壊に相当する近い事が興るのだ。
先ずは、それには少なくとも「約5S以上」に「緩やかに冷却する事」が必要で、これ以上に速く冷却すると、先ず間違いなく「強烈な破壊濁音を出して破壊」が起こる。
この「季節変化」に伴うこの“「水の温度の冷却」”が、この「約5S以上」に保つ必要があり、そもそも極めて難しいのだ。
何故ならば、ここにはもう「一つの理由」がある。
それは、「春夏秋冬」には“「水の温度の冷却」”がかわり一定に保つ事には困難が伴う。
夏の様に高ければ氷などで冷やさなくてはならないし、或いは「一定の冷温」を保つ「井戸水」が求められる。
然し、“「水の温度」”が高いと水分中に含まれる「空気」が膨張して「大量の泡」を発生させてその「泡」が品の表面に密着し極端に「冷却能力」を著しく低下させ、“「水の温度の冷却」”に合わないのだ。
最も嫌う事がこの“「水の温度の冷却」”で起こって仕舞う事に成るのだ。
夏場で「水温」が高くなると、では冷やす為に「冷たい水を足す事」はこの「空気の量」が逆に増えて出来ないのだ。
「冬」もこの逆であり、「暖かい水を足す事」はこの「空気の量」が逆に増えて出来ないのだ。
秋と春も同然の事が起る。
兎も角も、「水の温度の冷却」”の三つ目では、「焼入・冷却」の為に新たに水槽に水を入れると「焼入物・冷却物」の「強烈な熱」で「水槽の温度」は急激に上がるので「適切な温度・約20度・約5S以上・それだけの広さの水槽要」まで到達するのを待つしかない事に成る。
出来得る事ならば“「使い古しの水・濾過」”が“「空気と不純物が少ない事」”から水が“「軟化・アルカリ成分が少ない軟水」”にして最も好ましいのだ。
「上記の事」が「春夏秋冬に「水の温度管理」ができるかに関わるのだ。
「砂鉄の玉鋼などの刀の処理等」では論理的に難しい事になるのだ。
逆の事として、「近江鉄の0.8%C共析鋼」に於いては「青木氏部」では此れを克服する必要があった事に成る。
その意味でも、「植物油」にしろ「鉱物油」にしろ「水」より好ましい事が解るし、冷却速度の比熱でも良い。
因みに、「セルシウス温度」で、水1gあたり1気圧で1度の温度を上げるために必要な熱量の事で、水の比熱は1とすると、これに対する「油の比熱」は「0.5」である。
結局は「油/水=1/2」であるので、「温度管理」では現実的には「油の方」が優れている。
物質1gを1度上昇させる為に必要な熱量がこの「比熱」で、 この値が大きいほど温まりに難く成り、 水の比熱が1に対して、油は0.5である為、水に比べて早く温まる事に成る。
然し、水と油を比べれば、水の方が温まり難く、冷め難いが、油の方が温まり易いが冷め易いのでこの2倍で冷め易く、「冶金的な冷却と云う点」では逆である。
云い換えれば、「冷やされる方」に執っては「水は表面を早く冷やす」/「油は表面を遅く冷やす」の原理が働く。
この事から“「室町期の中程頃」”では、「高価の件」は別として、「冷却能力」では油の可能性が出ていた事が解るし、「水の泡等の欠点」の少ない「油の使用」が検討されたのだ。
上記した「油粕の事件の記述」は、丁度、この頃の事で、「氏族」の一部の中には遺したこの資料では、何故に記述して遺したのかは判らないが、「冶金的な冷却と云う点」では逆である事が解っていて、「殖産」として「油増産」に入った事が考えられる。
「みかん畑」としていたので、「伊勢から紀州」の「みかん畑」に「油粕」を捨てていた事に成るので、未だあまり広まっていなかった。
ところがこの突然の事は次の様な経緯を辿ったのだ。
この「植物油の使い出だし」は、遺された資料より古来より細々と「食用への使用」であって、未だ「現在の様なテンプラ等の概念」は無かった。
ところが、関西では室町室町期中期に成って「下記の経緯」で突然に広まったのだ。
「植物絞り油の経緯」
「植物絞り油の使用の経緯」 =「食用への使用」→・「害虫除去剤への使用」→「肥料への使用」→「冶金的な冷却材への使用」→「食用への大使用」
その「切っ掛け」は上記した様に、関西で起こった・「害虫大発生の事件」からで思い掛けない事からその「除去剤」として急遽,“「大増産」”と成ったのだ。
更には、それが「肥料」にも良いと成って、「絞り粕と云う事」の“「大増産」”と云う事だけでは無く、「植物油」そのものの“「大増産」”と成って行ったらしい。
そこに、「食用油の使用」は、又、「比熱の点」で劣る「水」よりも、又、「焼灰」よりも、その中間にあり「目的」に適している事が解った「青木氏部」では、そこで、この“「大増産」”を切っ掛けに悩んでいたこの「冷却剤への使用」に、この「話題中の植物油」に「発想」を切り替えたと考えられる。
「学実的な冷却理論」もあまりはっきりとしなかった「本論の経緯」の中では、それは「試し」に切り替えて観るしか無かったのではないだろうか。
それは「伊勢の青木氏」としては「伊勢」に居るか限りは「長い伝統も立場」もあり、これは「世間へ義理を破る事に等しい事」であり、然しも世の中は、既にそれを迫る「鉄の汎用」と「油の汎用」と「肥料の汎用」との「切り替え転換期」に入っていたのでは無いか。
筆者は、この「時期」がこれ以外に「神に対する3つの正義・「神饌」<「薬用」<「禊用」」、つまり、「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用・冶金的な冷却と云う点」<「食用」の関係性がこの時期に変わって来たと観ているのだ。
それだけに関西で起こった害虫被害の解決事件が社会に与えた影響は大きかったと観られる。
それは、“何故この様な「資料の記述」が「南勢の家人の家」に遺されていたのか”に対するこの疑問であった。
普通なら「神明社か清光寺の祐筆の係の者」が記し、その「書」が当然に其れが何れかの「青木氏の蔵・3回消失」に遺されていた筈であるのに、「南勢の蔵であった事」に疑問点があるのだ。
当然に、「植物油の原料の生産」とその「絞り工程」は、「南勢と南紀の殖産」として行われていて、その「粕の捨て所のみかん端」も「南勢と南紀」とすれば、「神明社か清光寺の祐筆の係の者」が関わる書では無いだろうか。
だからこの「植物絞り油の使用の経緯」は、記録に遺す程の相当な出来事であった事を物語るだろう。
ではここからは「植物絞り油の使用の経緯」は“どの程度の期間で進んだのであろうか。”で論じる。
次段でもこの論の続きを行う。
上記に記した“「室町期の中程頃」”である事には間違いは無いのだか、もう少し詳しく論じる。
そもそも室町時代中期頃までは、主に「作物]を育てるために使われていた「肥料」としては草木灰や刈敷等のアルカリ農法で焼き畑もその一つでこれを蒔く事が中心であったが、これでは害虫等を駆除できないでいた。
この「室町時代中期頃の害虫事件」で「肥料三要素の窒素リン酸カリ」を多く含む「油粕事件・バッタ事件・銃開発期に一致」で、一度に関西では変化を来したのだ。
ところが、「江戸・九州の方に先に伝わる」では「下肥」で済ませていたが何と「享保期飢饉・故に米も育たず害虫も大発生」まで使われなかったのだ。
結局は、この「関西農法」を採用し、その結果として「食用油文化」と「果物農業」も関東に広まったのだ。
最終、次段で論じるが、この貴重な食用油を殖産の銃開発に使ったのだ。
その「経緯」を前段で論じたが、もう一度殖産の経緯を辿って観るとする。
上記した様に「1540年頃」が実質の活用段階に入った事は解るが、では、それが「本論の銃での開始点」であるとすると、「植物油の殖産」は、「日本書紀」にも記されている様に「716年頃の前からの事・施基皇子没の2年後」で、「伊勢の裔系」は「令外官」として「部の国造(朝廷の命)支配」として働いていた。
「近江鉱の二つ鉱山開発」もその一つで、この時期と当時に命じられて行われていた。
この「大功績」に依って、“「伊勢の大字と民200」を「4回」に渡り「合計では民500・実質では民800」を得て、「土地・領地」ともに“「実質の伊勢の王」”と成って行ったのだ。
この上記した“「殖産が自由に出来る領地」”としては、当時の「伊勢の有効面積の80%以上を獲得・地権域含む」し、「実質の伊勢の土地を殖産等で実行支配する伊勢王」と成っていた”と記されいる。
注釈 ここで何か事件が興っていた様だ。
実はそれまでは、“これだけの功績を掲げながら何故か朝廷から「初代伊勢王」とは認められていなかった”のだ。
それまでは「第七位王位」であって「第四世族内の真人族」であり「冠位」は「天皇」に継ぐ「浄大壱位」で、「賜姓臣下族」と成っていたが他にこれ以上の冠位と官位を持つ者は例え皇族の皇子であっても存在しなかったのだ。
この「大功績」も含めても「伊勢王」として認められていなかったのだ。
つまり、「施基皇子」は「伊勢の王」とされながらも何か政治的なものがあって「初代の伊勢の王位」では無かったのだ。 来敵の孝徳天皇の第二第三皇子が一代限りの伊勢王に任じられていた。
ところが任じられて直ぐに毒殺されていて,第三皇子がこれに代わろうとした。
要するに「伊勢王」であるが「伊勢王」と成ろうとはしなかった。
つまり、従って「朝廷からの国司」が「伊勢」を官吏して、その者が「初代の伊勢王」と一時呼ばれていたとされていて、「伊勢王」とは認められていなかったが、然し、この「近江鉱山開発等の功績」で「実質王」として、「伊勢への遙任」から、それ以降は、施基皇子は領国に「赴任・着任・647年」からが初めて認められたのだ。
つまり、“「初代の伊勢王」が存在しながら「領国の伊勢の国」を管理し始めた”としているのだ。
「遙任中」は「三宅連岩床の国司代」の配置の前に、この様に「初代伊勢王」がいたが「伊勢への遙任」に“「ある事件」”が起こり、それでその遙任の地位を「天皇」から解かれ、その「都の一族裔系」と共に「伊勢」に赴任し「着任」が許されたとしているのだ。
実は“この伊勢に関わる「ある事件」”とは何なのかである。
気に成る事なのでここで先に検証する。
つまり、「初代伊勢王」とは、「施基皇子」の前は「空席」と成る事無く、“「一代限り」”で「中大兄皇子の政敵」で、「叔父の孝徳天皇の子供」が「伊勢王」と成っていたのだ。
この「孝徳天皇・在645年~654年」の「失脚」と共に、この「その2人皇子・伊勢王の子供2人」の「突然の病死(政争)・伊勢王」で、「天智天皇の施基皇子」がら「領国の伊勢の国」の「伊勢王を勤める事」に史実は成ったのである。
(注 斉明天皇・661年没~中大兄皇子662年)
「孝徳天皇の皇子の伊勢王」は“「一代限り」”で任命されていた。
「一代限り」である事と云う事でありながらも、「政治的な意味合い」で「初代伊勢王」と呼称されていたのだ。
「天智天皇・在662年~672年」の「第7位皇子の施基皇子・716年没」は「青木氏の賜姓」を受けたのは「飛鳥期の難波宮の都」で「647年の事」である。
先ず、「皇極天皇期」に「中大兄皇子・後の天智天皇」から「645年の大化の改新後の2年後に「賜姓・647年・臣下族」をして「伊勢青木氏」で受けていながら、政治的には次の様に成っている。
645年から「賜姓・647年」までの2年間
654年までの7年間
661年までの7年間
以上の「16年間」である。
一族が「天武期初期に移住したとする説」に従うと、「672年~686年の初期」の約11年間の以上の後期の2期を合わせて、「賜姓時」より「27年間」は「天智天皇即位の662年」までの“「16年間」”は都にいた事に成る。
表向きは遙任である。
これは「伊勢青木氏」ではあって「伊勢王・第四世族内真人族の王位」ではあったが「伊勢」にいなかった計算に成る。
これが、上記した「初代伊勢王」とは、「施基皇子」の前は「空席」と成る事無く、“「一代限り」”で、「中大兄皇子の政敵」で、「叔父の孝徳天皇の子供」が「伊勢王・2人」と成っていたとするのが「理由」と成るのだ。
但し、「伊勢青木氏の記述」を借りると、「叔父の孝徳天皇の子供」が「伊勢王・2人」の内の一人が死んだが、“もう一人が伊勢王”として続けたとしての事であり、記述はこの“もう一人が伊勢王”を“「施基皇子の中」”に組み入れて施基皇子「初代伊勢王」と成ったとしている。
これは“「施基皇子の中」とは、“もう一人の孝徳天皇の皇子”を“「父親・天智天皇の政敵」でありながらも保護した”と云う意味であろう。
そうする事で何事も無かった事にして、次は実質の「領国の伊勢の国」の「施基皇子が初代伊勢王」と成ったと云う事にしたのではないだろうか。
と云うのは、最早、この“もう一人の伊勢王”と成った者は、「孝徳天皇の皇子」であるとすると、「天武天皇期」では、既に、この間に「3人の天皇」が即位しているとすると、「大化の改新・645年」で定められた「王位の定義」は、「第四世族外の第五世族位か第六世族位の皇子」が成る者として決められていて、この“もう一人の伊勢王と成る者”は、既に「王位」に無く、既にこの時は「平族・ひらぞく」に成る「第六世族以上に居た筈なのだ。
「大化改新の詔」では「平族・ひらぞく」に成る「第六世族以上に成った者」は「関東・坂東」に配置される掟である。
所謂、「大化改新後」は「初代の坂東八平氏の始祖」と成る筈であった。
ところが「孝徳天皇の皇子」は「坂東」に流される前に政争で殺戮されたし、多くは自ら進んで政争を避けて「栗隈王の様」に一族挙って九州に臨んで配置されている。
此れを取り分け「第六世族」と成った「中大兄皇子の政敵の孝徳天皇」の「元皇子」を“伊勢の中で囲い救ったと云う事”に成るのである。
つまり、これ自体は大問題であるが「父の政敵の子」をこの「伊勢」で「施基皇子は匿った形」に成るが、“この時、何故か問題は起こらなかった”のだ。
既にこれは「脅威と成る皇子」では無く成っている事もあり、「政敵の脅威」とはならないし、「伊勢」の中に囲い込む事で他の勢力も含めて抑え込む狙いもあったと考えられる。
何れにせよ、これは今後の事を含めて丸く治めたと云う事であろう。
この記述から読み取れる範囲は、「北部」、つまり「伊賀」に配置したとある事から観てこの者は密かに「伊賀の氏人の一人」として後に「伊賀青木氏と融合させたと云う事」に成ろう。
さて、「伊勢」がいよいよ「施基皇子の第二世族王・真人族伊勢王」に成ったのは何時か”であるが、前段でも簡単に触れているがこの考察を序でにここでする。
「施基皇子とその裔系」は、「伊勢」に「正式に移住できた年」は、「孝徳天皇失脚の654年・歴史経緯説」か、「天武天皇即位の672年・青木氏の記述」の「二時期の二つの説」が成り立つ事に成る。
先ず、前者は、「天智期初期・654年」に“「遙任」”として「真人族王位の伊勢王」と成った。
つまり、都に居て「伊勢」には国司代を置いたがこれが「三宅連岩床」である。
“「遙任期間」”は“「18年間」”と成る。
次に、後者は、「天武天皇初期・672年」に願い出て「一族」ともども「伊勢」に“「赴任」”をした。
朝廷から派遣されていた「国司代」の「三宅連岩床」を都に帰した。
「前者の前期」は、「孝徳天皇の皇子・二人・一代限りの真人族伊勢王」で記述から読み解くと、“後に伊勢で匿った”とする記述からすると、「遙任」では無く既に「赴任」であったと考えられる。
この「赴任期間」は、「孝徳天皇・在645年~654年」の「失脚」とすると、「真人族伊勢王の赴任期間9年間」である。
仮に、前者と後者であるとすると、“何故、天皇の権限下で赴任にて一族を移住させられなかったのか”の大きな疑問が湧く。
この「赴任期間」は、「嵯峨天皇期弘仁二年・811年詔勅」までとある。
この「関係する詔勅」は、続けて「五年と七年と最後の十年の四詔勅」まで少なくとも「賜姓族」であって、“「伊勢王であった」”ので、“「139年間」”であり“「伊勢王」”であり続けた事に成る。
然し、「施基皇子没・632年~716年没・84歳」に依って「伊勢王」を解かれたのでは無く、これらの「四詔勅」に従えば、その内(湯原王、榎井王、白壁王、他三人)が「四家」を構成し補佐し、「後裔の福家嫡子・春日王」が「形式上811年」の「95年の間」までは“「伊勢王」”を続けていた事に成る。
但し、ところが「嵯峨期」に成って「出自元を擁護する派」の「桓武派」と、「皇親族・青木氏」であった「出自元の勢力」を弱めようとする「嵯峨派」との間で“「同族の政争」”が起こる。
つまり「桓武派」を推し進めていた「薬子の変」が起こった結果として「嵯峨派」が先手を打って勝つが、明らかにこれを“一族内の争い”と見做されていた「世間の評価・不評」で、「反発を受けてた嵯峨派」は、結局は譲り、「桓武派の代表の平城上皇」が、元の「信賞必罰の大権」を古巣の飛鳥の宮で握る事の「折衷案」で、「一族内の争い」は治まる。
従って、「形式上811年・95年間」」のまで続けていた事は、「信賞必罰の大権」を握った事の「折衷案」で、つまり、「平城天皇806年~824年」の「形式上824年」まで、この“「伊勢王」”は、更に“「13年間」”を延長され続けられる事と成ったのだ。
「遙任期間・18年」+「赴任期間・三期の」=“「139年間」”+“98年間”+“13年間”
=250年間
では、「時系列に歴史的経緯」を観ると、以上と成るが果たして、「現実の事態」と云うと「時系列の歴史的経緯」では治まっていないのが世の常である。
つまり、「824年以後」は、確かに「賜姓族」を外され「嵯峨天皇」から令外官の一部の立場を弱められ結果として、「伊勢王」では無く成っているが、本当にそうなったのかで在る。
実はそう成ってはいないのである。
確かに[250年の伊勢王」としては正式には終わらせられたが、唯の昨日今日と「朝廷から派遣された三等官の官僚族達」が「国司・伊勢王」と成っていた訳では無く、「伊勢郷士50人衆」を「氏族」として女系で血縁し、況してや「四掟」で「藤原秀郷流一門族316氏」と結ばれている「青木氏族の伊勢王」を外したからと云って、そう簡単に外れる訳ではない。
当然に「嵯峨天皇」に依って「伊勢国司の官僚」が朝廷から一時廻されたが務まらず、僅かの地に「出自元擁護の仁明天皇」に依って「天智天皇の奈良期からの不入不倫の権」に基づき「出自元の伊勢王」は復されたのだ。
その結果、「伊勢」には国司を置かず、「250年以降」は、南北に分け “「無足村主100人衆・郷士衆」”として「古来からの神域の伊勢」である事を以て自然発生的に「自治体の合議制」で治められる様に成ったのだ。
この“「無足村主百人衆・郷士衆」”には「氏族の伊勢郷士50人衆」も含んでいるのだ。
当然に「南勢」も「青木氏の旧領地」でもあり「北勢」と同然に“「無足村主百人衆・郷士衆」”は組まれたし、「氏族の伊勢郷士南勢50人衆」がこれに参加した。
要するに「村主衆」であるので「郷士衆の者」が代々務めた。
室町期には中には「府の役人」も務めていた者がいる。
「青木氏の記録」を観ると、その“「無足村主百人衆・郷士衆」”の「財政的な支援」を影で「伊勢青木氏」はしていた事が書かれている。
“「無足村主百人衆・郷士衆」”が「中央の政治圧力」に屈せない様に「独自性」を持たしていて「河川の修理等の工事」等にも「経済支援」や「技術支援」していた事が「商記録」等からにも書かれている。
中には史実として「中央政府」に対して「犯罪者などの引き渡しなどの交渉」にも強く関わっていた事が書かれている。
それは「鎌倉幕府や室町幕府」や「紀州藩との殖産等」で良好な関係が維持されていた事からの結果からであろう。
現実に、幕末に起こした「南勢」からの“「無足村主100人衆・郷士衆」の「伊勢騒動」に対して「紀州藩」と交渉して罪人を出さずに済ませた事もあった。
ところが、これに呼応して「北勢」の“「無足村主百人衆・郷士衆」”が動いたが「明治政府・薩摩藩等」が介入して「大伊勢騒動」に発展した。
これに対して、「薩摩藩主体の維新政府」とは、蔵等を焼かれる等の「犬猿の仲」であったが、「先導者全員斬罪の条件」に対して、古来より「献納をしていた伊勢青木氏」が裏交渉してこれを取り下げさせ「一人の先導者」が責任を取る形で事を納めたのだ。
これが「伊勢青木氏」が直接的に関わった「明治9年まで13年間の伊勢騒動・信濃を巻き込んでいる」であった。
当に、これは「伊勢王」であろう。
「250年後/272年」も間接的に「伊勢の事」に関わり、その「鎌倉期」からの伊勢の“「無足村主百人衆・郷士衆」の「自主の政治体制」は江戸末期まで続いたが、結局は、間接的であるか直接的であるかの「関わりの具合」であって、「支援」に関しては「政治」も[経済」でも「実質上の伊勢王」として勤めていた事に成るのだ。
ここに第一に奈良時代から取り組んでいる「殖産の伊勢青木氏」があって女系で何度も深く繋がっていたとすれば、“「無足村主百人衆・郷士衆」は、勿論の事、「伊勢の民」も誰一人漏れなく「潤い」と「治政の恩恵」を得ていたのであるから、伊勢王期間の250年、又は272年後」に、突然に「伊勢王」で無く成ったからと云って“「無足村主百人衆・郷士衆」は、勿論の事、「殖産」で「伊勢の民」等は誰一人左を向くような事は無かったと考えられる。
ハッキリ言えば、「伊勢の民の指導者」の“「無足村主百人衆・郷士衆」は「女系の血縁族の伊勢青木氏の氏族」であるのだ。
とりわけ、「純粋に氏族で形成している氏」は、日本に於いて「伊勢と信濃と秀郷流の青木氏」だけであるとすると、“「無足村主百人衆・郷士衆」は、最早、「250年後/272年」以上の「何度も血縁を重ねた親族の一族」であった筈である。
取り分け、「男系血縁族」では「親族でも主権争い」をするが、これは無く、「女系の血縁族」は「血の繋がり」を強くする。
これは前段でも何度も論じたが「人類」は、「女系のみの継承」による「女性の遺伝子的繋がり」から出来ている。
後勘から観てもどんな面から捉えてもこの“「伊勢王を外した”と云う「嵯峨天皇の判断」には「疑問」が残るが、そんな「伊勢王」の「伊勢」であった。
其の侭に「伊勢王」であり続けていた場合に何か拙い事が起っている要素があったのかと云う疑問がある。
「272年間」までが“「現実の伊勢王」”であって、それ「以後の明治9年」までは“「実質の伊勢王」”であり続けたと観ている。
注釈 前段でもになども引用する処はあるがこれを前提にこれ等の論を続けて読んで頂きたい。
確かに「伊勢青木氏]は「皇親族」として力を持ちすぎて「天皇の地位を脅かす力」はあったが、既にこの時はこの政治的争いに巻き込まれない為に徹底した「女系化」をして「青木氏側」から防いでいる。
これで「天皇の地位を脅かす事」は出来ないしないし、寧ろ、「桓武天皇や平城天皇や仁明天皇」の様にその力を利用して「地位の安定・財源」を図っても何の不思議は無かった筈だ。
突然に「天武系から天智系」で血の繋がる一族」と成ったとしても、そこは力を借りて安定を図るべきでは無かったか。
要は、「嵯峨天皇」が一般的に嫌ったとする「皇親族」としてその度を過ぎなければ良い訳だ。
それを既に見抜いて「施基皇子」が「氏是」にしているでは無いか。
寧ろ、「天皇家の方」から近づいてきているのだ。
それを信用するかしないかであって、「施基皇子」は歴史に遺る程に表の行動は「歌人」に徹しているのだ。
後は「院号」を以て「殖産」を続けていれば良い訳であるし、それを続けているし「献納・内蔵」もしているし「院号代/大蔵」を納めている。
要するに、現実には「天皇家の内蔵の方」が潤っていたのだ。
「青木氏」を「皇親族で地位を保っている」として「社会」に「諂い」し見せたくないとする態度を採ったとも思っていたのか。
然し、「施基皇子」は「歌人」として振る舞っている以上はこの説は当たらないだろう。
寧ろ、「嵯峨天皇」は「伊勢青木氏」に卑下したかであるが、何故ならば「後裔の春日王」も歌人であり全てに優れていたとされる。
「嵯峨天皇」に似て「初代の白壁王の光仁天皇」もその性質の傾向があった事が伝えられている。
然し、この奈良期からの「伊勢」に「250年後/272年」もの間に、「伊勢氏族50人衆」で「強固な基盤」が既に築かれていて、そこに「朝廷国司」が来たからと云って務まるかの疑問が残る。
現実には「経済基盤」と「支配の勢力基盤」と「軍事等の統治の政治基盤」が築かれているのだ。
これ等の協力なしでは何も出来ないのが現実である。
「朝廷としての税」にしても「伊勢弁財使」としても「税を都に送るだけの運搬の役目の官吏」であったろう。
それ故に「250年間」で「伊勢郷士衆50衆の氏族・北部」で構成されている国では、最早、「押領使の役目や弁財使の役目」は唯、無かったであろう。
従って、「824年」からは実質は「伊勢北部」は「伊勢国司不在」であったのだ。
其の後、この“「738年間の国司不在の伊勢国」”は、元より「郷土史・無足村主100人衆由緒等」に依れば、“「無足村主百人衆以上の村主構成人・郷士衆」で保たれていた事が記録から判っていて、取り分け「伊勢南部」も「伊勢南部郷士衆50衆の氏族」で保たれていたのだ。
この「伊勢南部」も云うまでもなく「奈良期からの伊勢青木氏の旧領地」であった。
ところが「奈良期からの不入不倫の権」を破って「戦国期」に成って突然に「1562年から1576年」の「8年間」に渡りに「朝廷の学問処官吏・公家」だった「北畠氏」が「貴族の武力」を以て「伊勢・1415年」に強引に入り込み南北朝期に「伊勢国司」として振る舞い、最終は「信長」に1576年に潰されたのだ。
約長くても「150年間」であるが、「伊勢国司としての役割」を果たした期間は実質無いのだ。
矢張りは、古来から「伊勢一国惣国者国衆」として有名な「伊勢の200余りの南北の無足村主百人衆の郷士衆」であったのだ。
彼等が参加しなかった後から甲斐と信濃から入って来た「工藤氏や神田氏や川久保氏等」との「伊勢の戦乱」であったのだ。
唯、秀吉はこれを見抜いていたのだ。
注釈 前段でも論じた様に、余談として、この「奈良期からの不入不倫の権」を自ら先鞭を切らずに「特殊な伊勢」に対して自ら手を下さず「北畠」に遣らせた「信長の策」に嵌まったのだと筆者は観ている。
この注目の「伊勢の200余りの南北の無足村主郷士衆」は北畠氏に着いて行かなかったのだ。
筆者は、古来から“「伊勢一国惣国者国衆」”として有名な「伊勢の200余りの南北の無足村主郷士衆」が従うと思ったところに問題があって、この「村上源氏を押し出した北畠」は余計な事をしたものだと思う。
「村上源氏以上の格式」を有する「伊勢一国惣国者国衆」に対して{武力」では護れはしない「伊勢]である事を読み切らずに馬鹿な事をしたと思うし、「伊勢」は其の様に一定期間振る舞ったのだ。
注釈 この“「伊勢惣国者」”で成り立つ「南北部の村主郷士の自治組織」は、江戸時代に成ってから政治的に利用され、「津藩の郷士の軍役の家臣」として利用され「政治の安定・取り込み政策」を図ったのだ。
ところが「南北部の村主郷士の自治組織」の彼等には、元より「経済的」に安定する「擁護の支援者・伊勢青木氏」がいた為に、「津藩の働き掛け」に必要以上に靡かなかったのだ。
中にはこの柵から抜け出せずに「軍役の役」を持ちながらも「無足村主百人衆」を捨てなかったのだ。
「典型的な事件」として「伊勢騒動の指導者」の様に、「津藩の役人」でありながらも主張する処は主張し自ら責任を取った指導者もいたくらいで「無足村主百人衆」を守ったのだ。
明治5年までの歴史が残っている。
ところが江戸期に入って「伊勢」は、「多くの支藩・紀州藩」が乱立したが、どの藩の家臣にも成らず「無足の立場」で「自治組織」を形勢していた。
又、この「土壌」を利用したのが「信長の楽市楽座」である。
更には「伊勢秀郷流青木氏の梵純」の「甥の蒲生氏郷」が、この「伊勢の組織」を利用して「伊勢」を上手く治め「信長」より特別の褒章を得た史実があるほどの忘れてはならない「伊勢の事を左右する程の自治組織」であったのだ。
況してや、「帝紀」で少なくとも「嵯峨天皇」は、「天智天武天皇の青木氏に下した命」は覆せないし、それを覆せない以上は「伊勢出自の光仁天皇・白壁王」と云えどこれを黙認したが、「桓武天皇と平城天皇」は帝紀を追認している。
従って、この「帝紀の現状」は「絶対的帝紀」として覆せなかったのだ。
つまり、「伊勢の領地と民」はこの「帝紀」に従う決定として「施基皇子の後裔地」として例え「天皇」であっても覆せなかったのだ。
つまり、「伊勢王の国司事件」によりその後は“伊勢国司を置く事は絶対に出来ないと云う定め”に成っていたのだ。
唯、累代の中で「嵯峨天皇」だけがこの「流れ」を嫌って「賜姓族と皇親族を外す事」で、「帝紀」に逆らったのだが、但し、晩年にこれに反省して自らが「賜姓族青木氏の制度」を甲斐に復活して「甲斐青木氏・税を司る役人の甲斐冠者」にしてから自らが復して「甲斐青木氏」として「青木氏の賜姓制度」に戻しているのだ。
その後に「円融天皇」により既に「四掟」で「母方」であった「秀郷一門の嗣子第三子」に「秀郷流賜姓青木氏」に復する事を永代に命じているのだ。
依って、この「考え方」に依れば一時的には成るが、「賜姓族」では無く成ってる時期もあった事に成り、同然に「伊勢王では無く成る時期」も起こったと云う事に成るのだ。
「甲斐青木氏」として「賜姓」を復しているが、「制度」として復しているかは復したと明記している命が無い限り疑問であるのだ。
天皇が正式に賜姓をするかは別として条件が揃えば名乗っても良いとしたのだ。
これが「左大臣の島氏の青木氏」であったり「時光系回青木氏」であったり[橘氏系青木氏」等があったり証券の疑義はあるとしても「丹治彦流丹治氏系青木氏」がある。
「秀郷流青木氏}は「円融天皇]より正式に条件に拘わらずに「賜姓」を永代で受けて別格である事は女系で云う迄も無い。
まあ、「円融天皇」が「青木氏に依る賜姓制度」を正式に復した事にも成ると観ている。
これは「賜姓族」を外したのは一時的にせよ「賜姓族と皇親族」ではあったとしても、“「伊勢王を外した」”と云う記録は何処にもないのだ。
但し、「皇親族」では“外した”と云う記録はあるが、「仁明天皇」がこれを“復した”とする記録は「五つの朝廷史書」にもないし、これ等の「史書」から明らかに「賜姓」で「臣下」している限りに於いてだけでは「皇親族」は必然的には生まれてない。
この“「伊勢王を外した」”と云う記録は何処にもないのだが、“無いと云う事”は外していないという事にも成る。
つまり、「伊勢王」でありながら“「皇親族」では無い”と云う矛盾は生まれるのだ。
又、同時に「伊勢王」である以上は「賜姓族」である事に成る。
だとすると、「伊勢王」の「賜姓族」は、否定できない事実であるのなら、「皇親族」と成り得る事は否定できない。
「記録の有無」は、兎も角も、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係は成立していなければならない理屈である。
これを脅かした「嵯峨天皇の行為」は、矛盾するか否かではなく、「帝紀」に触れるか否かではなく、記録にあるか無いかではなく、この「出自元」でありながらこの「三つの関係」にある事をそれぞれを否定したのだ。
そこで「特別令外官」だけに就いては、「3等官以上の官吏」であれば成り得るので「令外官」であった事は否めないし、況してや「浄大壱位の冠位」を持つ「永代賜姓五役」であった事は否定できないので、「永代令外官」は否定できずその侭の状態で放置した事にも成るのだ。
つまり、「浄大壱位の冠位」=「永代賜姓五役」=「永代令外官」でありながら、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係を否定してしまって「百々の顛末・始末」は矛盾した結果と成ったのだ。
然し、結局は、この「嵯峨天皇の矛盾」を放置できずに「仁明天皇」が遂にはこれを修正したと成るのだ。
この「歴史段階の結論としての証明」は、何はともあれは、“武力を前提としない氏族の青木氏”に対して、“「鎌倉幕府」は、「仁明天皇の修正部分」に基づいて、「鎌倉幕府」は「安堵策」を以てこれを認めているのだ。
ところが、「歴史」では此れを正しく評価していて、この「伊勢」の「商いも営む二足草鞋策の裔系青木氏」に対しては、「伊賀域」を除いて、「伊勢全土本領安堵している史実・上記の関係式を認めた証拠」”があるのだ。
「鎌倉幕府」は、「伊賀域を除いたとする事・地頭」からすると、「奈良期から平安期初期に掛けての詔」に従ったと云う事であり、又、「帝紀の有様」に従ったと云う事に成るのだ。
「室町幕府」は、これを「伊勢北部」と「伊勢南部一部の旧領地」を二つに分けて本領安堵して全体を減らしたのだ。
更に、その上でこの「地権策を多く用いたこの安堵策」は「奈良期の最も初期の状態」に限定した事を意味する。
然し、この時は、限定と云う事は減らしたのかと思いきや「別の形」で処置して復しているのだ。
それは、「青木氏の財力」を生かして優先的に「地権獲得・幕府には都合がよい」で本領を復して解決しているのだ。
恐らくは、この「地権獲得」から得られる「大財源」を狙ったものである事は明白である。
これ等の史実は、「伊勢王」では無く成った「824年」からも、“「武力を持たない豪族・秀郷流一門の抑止力」”を背景に「伊勢」を「実質に支配をしていた事」を示すものだ。
次に、「伊勢王であった時期」としては、「賜姓前の“647年以前」はどうであったか”という事に成る。
当時の「施基皇子15歳」で「成人」と成り、その為に「賜姓」を賜り、当然に独立した証として「姓」を持つ以上はそれなりの位に応じて「国・地域」も賜るのが「当時の真人族の者の仕来り」であった。
この時に確かに「孝徳天皇の二人の皇子」の「伊勢王]として「一代限りの王」が居ながらも、「施基皇子」はその「伊勢の一部域・賜姓地は指定されていた」を賜っているのが通常と成っていた。
然し、未だこの時は初代の「孝徳天皇の皇子の伊勢王・毒殺」が居た事から、「全域」では無かった事には成るが、そこで、この時、「伊勢」は果たして、「施基皇子の賜姓地」が決まっているのに、「初代の孝徳天皇の皇子の伊勢王」が存在し得ていた事に成り得るのかである。
これは矛盾する。
これは「孝徳天皇の皇子の伊勢王」に執っては「100%伊勢王としての立場」には無かった筈である。
それでも「伊勢王・一定期」にしたと云う事だが、これは「中大兄皇子の政治策」であった事は明白であった。
「歴史の経緯」からして、この状況の中では「伊勢王」は確かに「孝徳天皇の皇子」であった史実かも知れないが、現実は考え難い。
「施基皇子」は、「賜姓」を「伊勢」に受け、且つ、「功績」に依って「伊勢の領国・4つの大字/80%」を受けながら、「伊勢王では無いと云う矛盾」が「一時期に続いていた事」に成るのだ。
ところが、この「状態下]で、「中大兄皇子」は、「大化改新・645年6月12日」を実行しているのだ。
「政権」を掌握した「中大兄皇子と中臣鎌足」は、「皇極天皇」を退位にし、「皇極天皇の弟」の「孝徳天皇」を即位させた。
そして、その直後から「新たな時代の始まり」として、それまで正式に無かった「元号」をも「大化」と定めた年でもあって、「王位」も「第世族」までと決めた年でもあり、「日本」と「天皇」の「呼称」をも正式にこの時に定めた年でもあった。
それまで「王位であった者」が「王位で無く成った者」が多く出て混乱し、これ等の者は坂東に配置されて「ひら族]と名付けられて流されたのだ。
これが「後の鎌倉幕府を支えた坂東八平氏の始り・熊谷氏等」である。
この「孝徳天皇の皇子の伊勢王」は「斉明天皇」からは「第三世王」であり「天智天皇」となると「第四世族」と成り「施基皇子」が匿ったとしても必然的に「伊勢王ぎりぎりの位置」にあった事に成る。
所謂、この「皇極天皇・在642年~645年」と「孝徳天皇・在645年~654年」の「中間・即位前」の中での起こった「改新劇」であって、「母親の重祚」の「斉明天皇・在594年~661年」と「天智天皇・在668年~671年」から「天武天皇・在673年3月20日~86年10月1日」と繋いだ歳でもあった。
当に「日本の社会状況」を含めて「状況」が大きく変わる「大化の経緯」であった。
現実に、この時は「天智天皇」が「伊勢」に「紀州日前宮」から「最終地の遷宮地」として定め移した年でもあり、これを「伊勢神宮」と定めた歳でもあり、此れを「天武天皇」が正式に整えて最終決定して仕上げたのだ。
だとすると、この「経緯」では、「伊の勢の国」は、「施基皇子」が15歳で成人し「賜姓」を受け、且つ、其の位から地を賜っている筈である。
つまり、「年・647年の前」の「645年前頃前・皇極天皇期」の「伊の勢の国」は誰の支配下にあったかと云う事に成る。
母親に代わって「中大兄皇子」が摂政を執っていた年の「伊の勢の国」は当然に神宮の事等もあって、「中大兄皇子」の支配下にあった事に成り、「15歳の賜姓を受けた施基皇子」には、「伊の勢の国の全域」とは云わずとも「ある域の領地]を与えた事に成る。
でなければ「15歳での賜姓」は無い。
ここが、“「旧領地」”と呼ばれていた「南勢域の尾鷲の域」ではないか。
此れであれば、他は安堵され無く成っても、つまり「江戸時代」になっても「此処・南勢尾鷲域」は安堵されていた事から符号一致するのだ。
つまり、「647年の前」の「642年の5年間」は、実質は「施基皇子の支配下」にあって「647年」に「正式に領地」と成ったとする経緯である事に成るのだ。
つまり、この以上に検証した上記の「疑問」は、この状況の中で「中大兄皇子」がその「裔系」を以て「伊勢」を一時的に支配していたのではないかという事だ。
「伊勢王の本領地の250年間」に、この“「5年間」”が加算される事を意味し、それは「255年間」と先ずは訂正される所以と成る。
ところが、疑問としては、もめた「嵯峨天皇後」の「伊勢王の期間」は、果たして、上記した様に「賜姓族」を外された事で、要するに検証する“「伊勢王の期間」が此処で途切れたとする論”で良いのかである。
つまり、これは「全ゆる殖産」は終わったとする事に成るが、この「殖産」は「伊勢王」であったかは別として「伊勢を代表する殖産の青木氏」として「紀州徳川氏」と共に明治期まで続けているのだ。
これは何を意味するのかである。
他に伊勢に同じ様な立場を保全している者があるのなら続けてはいない筈だ。
「坂本竜馬の船沈没の事件の問題」も「伊勢の青木氏」が「勘定方指導役」として代わって解決しているのだ。
本当にこれも何を意味するのかである。
「伊勢」に「それなりの替わる者」が居れば出て来ている筈では無いか。
要するに自ら伊勢松阪から摂津に身を引くまでの「明治期初め」まで「施基皇子の裔系の伊勢青木氏」は「実力のある実質の伊勢王」であったのだ。
兎も角も、「時代経緯」がこれだけの事を示しているのに、それにしても「嵯峨天皇の出自元の行為」に対しては「純和天皇」も「中間の立場」を保ち無関心を装ったが、「仁明天皇」だけは、「嵯峨天皇時代の施政」に反して「反意の態度」を執って「出自元を擁護し復した」と幾つかの史書にある。
「鎌倉期の史書」にも「伊勢青木氏の血縁筋の最後」は、「仁明天皇」が最後として記していて、ここまでの史実には「否定者」は、「嵯峨天皇以外」に無く、多くの者が良い「関与人物」として記している。
この事から観れば「天皇」としては、後勘からみれば、「伊勢での青木氏の立場」を立ち直らせたのは「仁明天皇と円融天皇]であったろう。
淳和天皇・在823年5月29日~833年3月22日 10年間 嵯峨天皇の異母弟
仁明天皇・在833年3月22日~850年5月4日 17年間 嵯峨天皇第二皇子
円融天皇・在969年9月27日~989年9月24日 20年間
とすると、「嵯峨天皇での青木氏賜姓の中止」で、その後は「伊勢王」は結果として停止し、「伊勢無足村主百人衆」の「伊勢郷士の村主衆で治める国」と成ったとあるが、「仁明天皇の復政」で「伊勢王の立場保全・実質は伊勢村主百人衆の上に立っていた」は戻ったとする説論が成り立つ。
そうすると「伊勢王」が復されたのであれば「賜姓族」も復したと成るだろう。
上記した「浄大壱位の冠位」=「永代賜姓五役」=「永代令外官」であり、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係である以上は、復する事は理窟の上では間違いは無いであろう。
取り分け、この「説論」は「北勢」に於いては「青木氏の氏族」である「伊勢郷士50人衆の村主衆の氏人」で成り立っていた事を考察し、「旧領地の南部の伊勢郷士50人衆の村主衆」もこれに従ったと考えられている。
とすると、少なくとも「北勢の伊勢王」であり続けた事が間違いは無い事が云える。
そこでそもそも「南勢」は上記した様に「奈良期からの旧領地」であった。
「北勢+南勢」に於いて、この関係が成立しているにも関わらず、そこで「実質伊勢王」を、「朝廷」は「嵯峨天皇の乱政」で掻き廻され、「帝紀を覆す事」は出来ない為に矛盾の進言もをせず“「積極的黙認」を続けた事”に成るのだ。
取り分け、「南勢」に於いては明確に認められるのだが。
その「証拠」に於いて「江戸期の伊勢での一揆反乱騒動・前段・伊勢騒動で論じた」は何とこの「伊勢無足村主百人衆」の「伊勢郷士の村主衆で治める国」での「南勢」から起こっているのだ。
そして、「北勢衆・経済的な補完は伊勢青木がした」がこれを補佐したと記録にある。
従って、江戸期まで働いていたとするならば、「北勢」は少なくとも「仁明期]までは充分に「実質伊勢王の威光」は働いていたと考えられる。
従って、筆者は、250年間+5年間+17年間=“272年間” が“「伊勢王の期間」”としているのだ。
後は、守護等を置かない「南北の無足村主百人衆の自治組織」が治めていた事に成る。
「戦乱期の中」で「1415年」の「国司の格式」を得て「公家貴族の北畠氏」がこの「自治組織」を其の侭に「伊勢」に強引に入る事に成ったのだ。
然し、この時も「公家貴族の北畠氏」の資格は「3等官以上が成り得る国司」であって「伊勢王」ではないのである。
この事は、「浄大壱位の冠位」=「永代賜姓五役」=「永代令外官」であり、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係である事が現実に認められる以上は否定は出来ず、“「積極的黙認」を続けた事”に依って「伊勢王の存在」を影乍ら認めていた証拠であろう。
現実に「朝廷に執っては最大の献納・献納そのものが伊勢王の証拠」が行われているのだ。
況して、「地頭と守護」のいない「南北の無足村主百人衆の自治組織」と「伊勢青木氏の支援」で治めていた「伊勢」の中で「国司」であったとすれば、「公家貴族の北畠氏の国司」は何の意味を成すかである。
「南北朝の指金」に過ぎなかったと観ていて「朝廷を救うものでは無かった」のだ。
況してや 「戦国時代1467年から1690年を戦国時代」とすると、「50年前の南北朝の朝廷」にあっては「公家貴族の北畠氏の国司」をこれをその格式とすれば「伊勢国司の意味」の成す処等はないのだ。
実質は、この段階でも「伊勢王」は、伝統的にも実績でも功績でもどれを執っても“「伊勢青木氏に代わり得る者」が「伊勢」には存在していなかった”という事であって、「献納等の行為」も含めて公私ともに演じていたと見做せるのだ。
その状態を再び室町幕府の公が形式的に時代に合わせて認めたのが「律宗族の青木氏」であったのでは無いか。
平安期で“「積極的黙認」を続けた事”に対して、室町期では「正親町天皇」も巻き込んでの事であったと観ている。そうでなければ「正親町天皇・朝廷」を引き込まなかったであろう。
“「積極的黙認」はこの時点で終わりを告げ実質伊勢王を認めた形を執ったのでは無いか.
それが「浄大壱位の冠位」=「永代賜姓五役」=「永代令外官」であり、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係であり続けたが、「伊勢青木氏」に執ってはそれがあるか無いかは別として大した意味を持たず、「南北の無足村主百人衆の自治組織」に囲まれた「奈良期からの伝統とその形を護る青木氏・律宗族」であったのでは無いか。
最早、軌道に載った「殖産の青木氏」であったのであろう。
要するに、[近江鉄の殖産」は「伊勢王の在り様」に大きく関わっていたのだ。
それだけにその伊勢王の期間が問題に成る。
「伊勢の国」の「伊勢王としての殖産」に関する事件は以上
注釈 「伊勢の資料」には、恐らくは“「250余年間」”とするものもあるのはこの事に依るものであろう。
要するに、“実質の限界値を何処に定めるか”にある。
それにしても「奈良期初期の曖昧期の5年間」と、「平安期初期の曖昧期の17年間」を除けば、前段でも記述した様に、確実には、“「250年間」は「伊勢王」であった事”が認められる。
注釈 そして、その後は、上記した様に鎌倉期には「御家人の地頭職・足利氏」を置いたが「鎌倉幕府の伊勢本領安堵策」を受けた様に、「平安期末期・1192年」までの“「368年間」”も、下記の政治体制としての「伊勢郷士衆南北百人衆」でまとめていた期間も、“「実質の伊勢王」”であった事に成る。
この時の「伊賀域」は、伊勢松阪に代わって「足利氏の地頭職」を置いて外したが、「鎌倉幕府の伊勢本領安堵策」で、「鎌倉期初期・1220年」までは、「平安期の伊勢王」に相当する特殊な伊勢氏族」として保たれていた。
然し、「鎌倉中期頃」からは「伊勢の態勢」は替わり「執権北条氏の政治策」で「伊勢の主な本領地」は無く成り、その代わりを「裏の形」では“「買い取る形・地権者」”としての「地位」を築いていたのだ。
その古来から「立場格式を特別に有する“「郷氏」”、即ち、「豪族に相当する財力と抑止力を有している事」を前提として、「地頭」に相当する“「守護族・郷氏族・伊勢王」”として務めたとなる。
注釈 「鎌倉幕府」の「頼朝」は、前段でも論じたが、天皇宣下が降りず「征夷代将軍」”とは直ぐには成れず、「頼政の以仁王の令旨」を以て引き継いだとして一段格下の「鎮守府将軍」に甘んじていた。
従って、正しくは「鎌倉幕府」は、開けずに、「鎌倉の府」として振る舞っていた。
この「鎌倉の府」の下では、「守護職」に代わって「地頭職の官僚」を前提として置く事を定めて「朝廷」に申請したがこれも直ぐには認めなかった。
そこで、この樹立したばかりの「鎌倉の府」は、強引に「御家人」から成る「地頭職」を主要地に置き始め、「既成事実」で府の管理体制を造り上げたのだ。
その為に前の「守護」と「地頭」との間で「争い」が続いた。
その「地頭の最初の設置」が、「天智天皇の詔」がある為に「伊勢松阪」に直接に置けず、その代わりに「伊勢伊賀」に置いた。
そして「美濃一色」にも置けず「美濃沼田」の二か所に先ず置いたのだ。これが最初であった。
そもそも「一色の呼称」は「伊勢」於ける「伊勢王・施基皇子の大字の総称」として使われていたもので、「伊勢」から主要三か国・近江・美濃・信濃」に嫁いだ者等が故郷を懐かしんで住んでいる地域を「一色」と呼んだものであって、それが周囲から格式と見做され、乱れた室町期には無断で格式を高く見せる手段として使われる様に成ったものだ。
要するに、第の氏名姓と云われるもので、足利氏や徳川氏は時と場所に依って足利氏、徳川氏以外に「名乗り名」を四つも使っている。
この「名乗り名」を使う事には幕府の追認があったのだ。
そこで、足利氏等の「名乗り名」に付いては次の通りである。
例 足利氏・土岐氏等の「第三の名乗り名」 (一色に付いて)
1 美濃国の戦国大名の「斎藤義龍」が「美濃一色氏」を称する。
2 土岐頼益の養孫である「土岐成頼」の裔の「土岐頼栄の子孫」が「土岐一色氏」を称する。
3 足利氏支流の「吉良有義の裔孫」が「吉良一色氏」を称する。
4 足利氏支流の「吉良定堅の裔孫」が「吉良一色氏」を称する。
5 藤原北家良門流の「犬懸上杉憲藤の裔孫の上杉教朝の子孫」が「上杉一色氏」を称する。
6 足利義昭より偏諱の授与で「菅原流一色昭孝」を称する。
7 足利在種の裔孫が「足利一色氏」を称する。
要するに、これも「社会と周囲と朝廷と幕府」はその格式を認めていた事を示すものである。
所謂、「施基皇子とそその裔系」に対して「伊勢王の権威」を認めていた事を示すものである。
それは合わせて「格式を保つ為の古き伝統」をも維持していた事にも依る。
注釈 そもそも、“「大兄」”とは、同母兄弟の中の長男に与えられた「大王位継承資格」を示す称号で、「中大兄」はその「2番目の大兄・皇子」を意味する語である。
「大化の改新」とは、母の「皇極天皇期の645年に「乙巳の変」での国政改革の事で、その2年後に賜姓を授かり、「中大兄皇子」から「第7位の第四世族内の施基皇子」として臣下している。
「孝徳天皇の子供の初代伊勢王」が、“「施基皇子の配下に入った」”とするは、“この二人の内の次に成り得るもう「一人の子供・皇子」が身を引き「施基皇子の配下に入った」”と成ったと考えられる。
この事に就いて「施基皇子の功績」を以て、「天武天皇・在672年~686年」も流石に放置できず、この時に「施基皇子の大功績」が有無を言わさずに「匿う事と赴任の事の容認」に踏み切る事に左右した事に成ろう。
注釈 さて、“この「注釈に関わった時はと云うと,そうでは無かった”のだ。
つまり、「初代伊勢王」は実は「施基皇子」であった。
ところが、その「中大兄皇子の政敵」の“「一代限りの初代の伊勢王・孝徳天皇の皇子」”は「伊勢王の施基皇子の配下の国司」として入って着任した形を執って「伊勢」に匿ったのだ。
この為に政敵の「一人目の一代限りの初代の伊勢王・兄の皇子」は毒殺された。
この為に、「一代限り」である事から次の「二人目の伊勢王・二人目の弟の皇子」に引き継がせる為には、この「二人目の皇子」には、飽く迄も、“「初代の伊勢王・孝徳天皇の皇子」”の呼称としては引き継がせ様としたが、「実質の形」は「政治的立場」から「伊勢国司の形」として辻褄を合わせたのだ。
この不思議な時系列を読み解けば、この「二人目の孝徳天皇の皇子」を救い匿う口実を造り上げていたとすれば理解は出来るのだ。
そして、故に“「実質の形」”では、「朝廷」は飽く迄も“「初代伊勢王」と当初は呼んでいだ”の経緯と成るが、実の処は“呼んでいたと云うよりは呼ばしていた”のでは無いか。
ところがこの「政争]とは別に、「施基皇子」が「朝廷」で「賜姓臣下族」として振る舞っていたが、それでいて余りの高い功績を積み重ねた為に、その侭では「朝廷」も無視し続ける事はできなくなったのだ。
前段でも論じた様に、「賜姓五役」としての「功績」が誰よりも高く上げながらも、その様に振る舞わなかった原因である。
注釈 「真人族」の中では「有名な歌人」として振る舞い「政治的立場」に敢えて出ず隠した形でおとなしくしていた。
その為に上記した様に「冠位と官位と伊勢領地」とを「皇子真人族」の他の誰よりも獲得していたが、それ故に上記の様に「伊勢王呼称」には拘りを示さなかったのだろう。
その「真人族」が何と初めての「第七位の第四世族内の真人族」が、最初の「臣下族」と成り、且つ、それが「賜姓族・647年」と成り、「天皇の親衛隊」と成った事で、その事象は過去に事例が無く、“「前例のない扱い」”であった事から、「天武天皇」とその「后・姉・持統天皇」は、その「扱い」に対して勿論の事で「朝廷」も困ったのでは無いかと観ている。
此れは「父の天智天皇の大化の改新」で起こった初めての事であって、何事にもその「扱い」に極めて慎重に成ったと云う事ではないか。
古来より上記している様に「帝紀」があって、“天皇が一度詔として定めた事はどんな事が有っても覆してはならない”とする掟があった。
これに対する「三等官以上の官僚族」がこれに関われない“「政治的迷い」”があったからであろう。
つまり、「浄大壱位と云う冠位」を持っていた事で、「兄の皇子」に対して“「天皇も裁けない出来事」”と成っていたと考えられる。
その「最大の要素」は、「天皇に継ぐ冠位」と「真人族で賜姓族のその前例のない功績」であったと考えられる。
これに「天武天皇」も「兄・天智天皇」で、その「后」も「天智天皇の娘」であり、「大化の改新の詔」と「帝紀の尊重」であるとすると、このそれ相当の“施基皇子の処遇に迷う”のは「自明で理」であるだろう。
注釈 「施基皇子の功績に伴う処遇」に対して、「兄の川島皇子の処遇」は礎それ相当に評価されていないのは不思議で、「皇子順位」は川島の皇子の方が確かに上であるが、「近江への褒章の処遇」は同じと成っている。
冠位と官位は施基皇子の方が上であるし、「領国の価値としては施基皇子の方が間違いなく上である。
「賜姓」も「施基皇子」は「神木の青木」から当時の慣例から上で、「普通の当時の賜姓」の最低は「地名」であり、「川島皇子の賜姓」は単なる「近江の地名・神社名」であって「真人族の賜姓」の扱いではない。
然し、以上の様に「青木氏のの氏是」にもある様に上位にありながら目立たない様にしていたのだ。
注釈 以上の様に、前例の無い程に「伊勢国全域の大領地」と「院号を特別に与えられる事」等をしても「朝廷の印象」を極力抑える様にしていたのだ。
それ故に、「初代の伊勢王の呼称」は、その侭で、かと云って「施基皇子」は一時期は「二代目伊勢王」と呼ばれて扱われていなかった所以でもあるのだ。
その「実績・功績」に基づく「冠位」から“二代目”と云う扱いには出来なかった所以でもあろうか
その“「伊勢王呼称事件」”が、“「扱い」”の「最大の事例」であろう。
前段で論じた様に、「施基皇子」の上位に位置していた「兄・第六位皇子/第二皇子説もある」で、「浄大参位」であった「川島皇子・近江佐々木氏の賜姓族との扱い」を観れば浄の事でも判る。
そもそも「上位」であれば、通常は「賜姓」は、神木等の神に関わる名で「賜名・氏名」を着けたが、「佐々木・斎斎木」の場合は、「通常の臣下に授ける賜名」の「地名・「佐々木・斎斎木」を採って賜姓したのだ。
「青木の場合」は「あおき・神木」からである。
この「賜姓の事」からも「功績とそれに基づく冠位」に基づいて「全ての扱い」が変わっていたのだ。
この事に然し乍ら「川島皇子とその裔系」も一切争いを起こさず寧ろ全くの同化を試みたのだ。
そもそも「異母兄弟」でありながらも更に[血縁的」にも[政治的」にも「完全同化・融合・事件を起こす程に安寧を互いに「平安中期・源氏化真まで」は図っていたのだ。
唯、「施基皇子」は[政争」から逃れる為に終生に於いて「文化人・青木氏氏是」を装った。
この“「文化人扱い」”が、逆に故に後に問題とした「嵯峨天皇」が嫌った「前例の無い皇親族」と「その特権」にあった事を示してる。
注記 平安中期までには「近江佐々木氏」は「信濃青木氏」と並び「完全同化・融合の族」で在ったが、「時代の波」に逆らえず「近江族は源氏化」を興し「完全な決別状態」と成った。
これも後勘から観て「嵯峨天皇の失政」にあるとしている。。
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
参考として人間も同然であって、その「人の背の高さの電位力・地球から離れている距離」を持っているのだ。
この「自然の原理」に従い、故に物質には「多すぎる」と互いに「イオン力差」で弾き合い、少なすぎると「イオン力差」での「結合力が弱く分離すると云う「欠点」を生み出すのだし、この「原理の例外」はない。
従って、「鉄の結晶間中」に「炭素等の含有物」が浸透して行ってこの力で結合するので、「量と質の差」で「この力の範囲で存在する事」に成る。
そこで、過剰になれば逆に欠点が生まれる事にも成り得るのだし、この上記した様に「自然の摂理での適量値が存在する事」に成るのだ。
故に、「鉄鉱石に含まれる上記の特殊元素」も、その「地球形成時のバラツキ」で「其の産地」に依って生まれる「量と質の差」で「変化」が起こる事に成るのだ。
この“「良い味」”には「高度な技術」が潜んでいたのだ。
故に、この「難しい原理」に於いて当時には不解明であったが、「地球形成時の地質学的構造」で起こった「近江鉄」は、この段階では未だ[匠」にとっては、“何か良い”と云う概念だけと成っていた筈なのだ。
他にも最も影響している「イオン力差・電位力差以外」にも「物理学的な差異」はあるがここでは論外とするが、求めてめている処は学問的な処は別としても世間と比べて相当に高度な技術であった事に成る。
そこで、前段で論じた様に、これ等の「知識」を「試行錯誤の結果の経験」から来る「超高度に克服した匠の技・青木氏部」で以て、この事が「額田青木氏の銃に対して要求されていたと云う事・超近代銃にすると根拠」なのだ。
恐らくは、故につまりこの事は前段でも論じたが、密かに「見本を入手」してから「約20年・1540年前から1560年頃・1565年南下国衆」に成る前の間に、前もってこの「超高度な銃の技・近代銃」を会得していた事に成るのだ。
それだけに世間に対して「銃の目的」が達成された時点で恣意的に躊躇なく抹消されたのであろう。
この高い殺戮具の世間への普及を技術ともども嫌ったのだがそれは「律宗族」であった事であろう。
「青木氏の伝統 71」-「青木氏の歴史観-44」
さて、戻して、そこで「鉄」に均等に「炭素とマンガン」のこれが“「結晶間に浸透すると云う現象」を上手く利用できていた”のではとする発想が偶然かは別として生まれて来るのだ。
そもそも「進歩」などと云うものはそのキッカケは「偶然」によるものが多い。
参考として、先ずその前に“「結晶とする知識の獲得」”は現実に「技術理論として把握していたのか」の疑問であるが、それは“「貿易か経験」”かで得られていたかは判らないが、それは実は「目視的」に解るのだが、故に外観的には「答え」としては“解っていた”と判断できるのだ。
つまり、それだけの「経験力」とされを基にした「技術力」を周囲に比べて特段に持ち得ていた事に成る。
何故ならば、その「試作の単片」を鏡の様に「砥石・日高砥石」の様な「超仕上げ砥石」で細かく磨き上げ、これに強い日光を当てれば「光の屈折」でうっすらとその「結晶の様子」が浮かび上がり、且つ、その「屈折」で僅かに「色合い・結晶の判別が可」も浮かび上がり観えるものである。
これを更に「うすい2%程度の硝酸塩」に「2分程度浸して」それを拡大鏡で観れば凡その結晶構造まで観える。
当時としては外国から輸入して「ある程度の拡大レンズ」はあつた事は解っているので、ある程度の範囲の「結晶構造」は観えていた事が考えられる。
取り分け、前段でも論じたが「酸」の中でも、この「硝酸塩・硝酸カリウム・黒色火薬」は糞尿などを自然発酵させて変化させる事でも簡単に得られるが、故にその身近なものとして古代から既に「狼煙」などにも使われていて「火薬などの発達」と共に古代からあった。
注釈 因みに 一般に聞きなれないこの「硝酸塩」とは、「硝酸類とアルカリ金属とアルカリ土類金属」との結合体の「塩類」で、古来から糞尿などから造られていたし、肥料にも使われていた最も人類に「身近な化学薬品」とされるものであつた。
故に、「アルカリ金属類・リチウム、ナトリウム、カリウム、ルビジウム、セシウム、フランシウム」と、「アルカリ土類金属類・カルシウム、ストロンチウム、バリウム、ラジウム、 ベリリウム、マグネシウム」であり、取り分け、「リチウムとナトリウムとカリウムとマグネシウム」は炎色の発火性を用いて「火薬等」にも広く多く用いられていて、従って「花火」と云う点では同然に「古代から身近な金属類」として扱われていた古い歴史を持っていたのだ。
だから、上記の通り「鉄」を鍛える為に加えられる金属類としては身近なものであったのだ。
上記で論じた取り分け「遷移元素のマンガン」は、「酸に溶けやすい金属」として有名で、性質は「野菜など採取できる身近な金属の亜鉛」にも性質は類似しいて、この「硝酸塩類」と共に古代から広く用いられている金属である。
この様に後勘から観た「金属の歴史観・学問的知識」を承知すると、「銃の事」に関してにもより理解は深める事が出来るであろう。
筆者は、大和に於いては「金属知識」は「局部」にではあるがそれなりに高くて広まっていたと観ている。
それだけに「最先端の専門的知識」で以てこの様に検証する必要があるのだ。
前段で論じた様に「奈良期から平安期」の「古墳建築や干拓灌漑」を手掛けた「額田部氏」の「土木建築工学的専門知識」は、唐に勝るとも劣らずの知識を持ち得ていたが、「金属」などの「冶金工学的な知識」や「額田部氏」と連携した結果から、「地質学的知識等」も「青木氏部」に依ってその知識は同然で高められて行ったと考えている。
其の連携は、「青木氏部」は明治初期まで続いたとする事からその技量は「日本のトップクラス」にあったと考えられ、故に「近代銃」にまでのものに応用されるものであったのだと考えている。
依って、明治初期の「伊勢屋の解体縮小の政治的圧力」では、「額田部氏の起業化・桑名」と「青木氏部の大工会社・2社・寺社大工」と共に「二つの企業化」を成したと成っている。
然し、この辺の「青木氏部論の研究」も何時かは論じて観たいと考えて準備している。
従って、この程度の事は「砥石の歴史・奈良期チャート」を観れば判るし、その「日高砥石」は技術の発展と供に歩んで来た経緯があって、その経緯は「歴史の技量」を物語る一品として有名で、「古代の何かの特別な技量」を物語るものには必ず「日高砥石」が出て来るのだ。
歴史に使用されたものとして青木氏では長く保有して来た。
これは「刀用だけではないもの」からも判断して技量の判定や確定に利用は出来るのだ。
現在では、この砥石の代わりに「腐食液・2%硝酸ナイタール」を使ってすれば「顕微鏡等・最低で20倍最大で100倍」で万華鏡の様に綺麗に観えるが、故に、「顕微鏡」が無いにしてもこの「結晶らしき概念の概要」は密かに保有していた事が判るのだ。
その事から「鉄と炭素とマンガンの関係の知識」とその「結晶的な概念」は「青木氏部」だけには充分にあったと経緯からすると確定できるだろう。
ただ、この「マンガンに関しての知識」は「概念程度」で相関的な知識は無かった事は解る。
尚且つ、上記したある程度の要領を記したものが、技量を統一する為なのか「要領書的な物」として「技量伝承の為」にか、「密かに氏人の床下に遺されていた形跡・世間に漏れる事を危険として嫌った」があって、「桑名地域の蔵の資料の一部」が読み取れるのだ。
注釈 「明治35年伊勢屋解散・摂津に移籍」と共に「青木氏部」も解散し、一部が「桑名の額田」で工業所を創業、その関係する処の一部から資料が発見されている。
この「多くの遺産物」は「失火消失・口伝・この頃の火事は疑問が多い」したと考えられるが、その様に伝えられている。
それが前段で論じて来た「額田青木氏の銃の処の検証」であって、「古来・8世紀初期頃」には「近江鉄の生産703年と713年」は下記の通り歴史的に確認されている事から、そうすると「10世紀頃」には「伊勢青木氏」の中で密かにも硝煙は生産されていたと考えられる。
その「名残の証」として「近江鉱山」に使う「火薬・焔硝の形」で遺されていたのであろう。
その「名残」が「近江鉱山の近くの村」の「近江の床下・鉱山開発の爆薬」からも発見されていて、それに連動してか前段でも詳細に論じたが、偶然にもこの「要領書的なる物」が、「蔵等」では無く「思い掛けない所・神社の床下」から発見されたこれも「歴史的な由縁」なのであろう。
つまり、この「発見カ所の床下」から考えると、この「要領書的な物の事・メモ的な物」は“何か特別なものとして観られて扱われていた事”を意味するだろう。
そこで前段でも論じたが、歴史的には「天智天皇・大化期」には「朝鮮半島の百済復興」に出向き、それに「中国・唐」が朝鮮半島に進出し「白村江の戦い」で敗戦して急いで帰国し、「中国の大和侵攻」の“いざという時に戦える様に、“「中国道・現在の山陽道」を結城氏等に命じてこの工事を急いで完成させ造られたとする「歴史的史実」”がある。
この時に下関の半島の先端からの「緊急の伝達手段」として「狼煙・焔硝」を使って都に「情報を伝える手段」を「構築・史実」したのだが、この事は既にこの“「焔硝」”は在って常時使われていたが、その為にこれは「皇親族」として唯一の「朝廷の国造の支配頭」をしていた「青木氏・青木氏部」で生産されていた事を示すものだ。
故に、此の頃からの「青木氏部の存在」は、「近江鉄」に始りその時代の「技術的基礎・国の技術的基準」は「青木氏部」にあったと考えられ、当然に上記の事も含めて「硝酸塩の歴史」も「青木氏部」にあったと考えるのが普通であろう。
つまり、この「顕微鏡」が無いにしても、この“「焔硝の存在」”に依って使っていたかは記録が見つからないので実録が見つからないので判らないが、“「結晶らしき概念の概要」”をそれなりに「鉄の表面」から、「より鮮明にして明確に確認できる環境に在った事」には成るだろう。
筆者は完全では無くてもそれなりに使ってたと観ている。
これは「奈良期からの青木氏部」には、「かなりの技術力が在った事」が云え、且つ、「氏族で独自の部・歴史的に確認できるのは四氏程度」を持ち、中でも総合力を持ち得ていたのは「青木氏部」であって、且つ、「朝廷の物造・国造の差配頭であった事」と「令外官・賜姓五役の事」からも裏付けられる事を示しているものだ。
「青木氏部」は、要するに当時は「国の工学院的な立場」にあったと観ているが、「院号の確認」は古い為に資料がなく確定は出来ない。
唯鉱山とその製鉄の技術を保有している限りに於いては技術の総合力を保持していたと考えるのが普通であろうし、青木氏部に比べて他に居なかったとすれば「国の工学院的な立場」の説は認められるであろう。
況してや賜姓五役の令外官であったのだ。
他に代わるべきものは無い事は頷ける。
「青木氏部」の他に確認できる範囲では、記録として残る与えられた「院屋号」は「紙屋院、絵画院、墨具屋院、繪所預院,軍師処、等」が記録に明確に遺されている。
この事から、一部資料からこの「鍛屋・かや」又は「鍛冶院・かぬやいん」と云う号名が出て来るがこれが「院号」では無かったであろうか。
そもそも「青木氏部の位置・朝廷との関わり」づけから、この「青木氏部」の中にも「院や屋や号」に相当するものが必ずあったのでは無いかと観ているのだ。
「近江鉱山を二つも興した青木氏」であれば何も無しはおかしく「院屋号」は少なくとも与えられるであろう。
況してや「院屋号」を与えないと折角の鉱山の鉄もその販売も出来る事は無いだろう。
現実にその「功績」を以て「伊勢」に「二度の大字」を与えられて功績を認められているのだ。
「青木氏」は、自らも「青木氏部」を持ち、且つ、直接には「令外官」として「国造」を支配し、朝廷の「伴造」も「皇親族」として代わって差配下に置いていたとしている。
故に、その名残として「光仁天皇」の以降は 「諱号」を「伴」にする事が多かったのだ。
その関係する「青木氏部」の中の一つに上記した「鍛屋(かや)・鍛屋院では」と出て来る。
この「鍛屋(かや」の号は、「近江鉱山開発の所縁」からの「院号・特区別占有権」を授かった「鍛冶屋(かぬや)の院、又は屋、又は号」では無いか。
「鍛屋(かや)・「鍛冶屋(かぬや)」に「屋」が着いている処をみると、「紙屋院」と同様に「鉱山を掘る事」と共にそれを「売り捌くまでの事」に成っていたと云う事だろう。
さて、再び技術論に戻る。
その「上記の方法」でこの「概要」は少なくとも会得していたと考えられるが、この「炭素」と同様に、「記する処の筆者の読み込み」では、この「要領書的な物の存在」では“「光で映し出された粒の細かさが左右する」”として、その「光具合の技量」を会得していたらしく、それを「青木氏部の匠集団の中」で密かに伝えていたらしい事が解る。
そもそも他と比べて珍しくも「青木氏の家訓10訓」にもある“「技術の重要性に関する事」”を説いているのはこの事に依る所以であろう。
つまり「青木氏」の中にその「立場の関係者」のなかには「技量の伝承の義務」みたいなものが江戸期前までは長くあったのでは無いだろうが。
余談だが、先ず、そもそも「家訓」に「技術の重要性」を説いているものは世間では皆無であろう。
それだけに「商い・殖産」をしながらも、「技術の青木氏部の存在」が「伊勢と信濃の青木氏」の中では大きかった事を意味している。
当時としてはこれでは普通で考えれば、世間からも“不思議な氏族である”と充分に観られていた筈だ。
今で云えば、前段でも論じている事だが、“「販売」”もし、“「物造り」”もし、“「研究所」”も持つ「青木ホールディングス」であったのであろう。
それでいて、一方で“「賜姓族の伝統・賜姓五役・因事管隷」”を重んじ維持し、将又、“「巨万の豪商」”と成りながらも、他方では“「質・施し」を「神明社」で施す”と云う処まで及んでいたのだ。
一方では、“「律宗族」”と呼ばれ扱われていたとするのだから、その「歴史の中」にはその「独特の影響力」は深く「農業の分野」までに及んでいて、信濃と越後から進んだ技術を学び「伊勢の立地」からその「土壌と季節性」に苦手とされる「米の超早場米と酒米の開発・日本初」まで挑んでいたのだ。
どう考えても、“不思議中の不思議の氏族”と普通に考えれば観られていた事には成る。
確かに「奈良期の古来」よりその存在そのものが「普通」では無い事は間違いは無いが、これは前段でも論じた様に、「普通」では成り立つ事の無い「賜姓族の伝統・賜姓五役・因事管隷・院号の伊勢屋」と「賜姓族青木氏」の「二足の草鞋策を使い分けていた事の所以」である事は自明の理であるが、それが余りにも長い歴史を有し続けていた事から、これを世間ではこれが普通の事・当たり前の事と捉えられていた事に成るのでは無いかと考えられし、この事に就いてだけに明確に論じたものはないが、この説論は「流れ」や「状況証拠」から観て先ず間違いはない筈だ。
だから、それらを纏められていたものが「家訓10訓」にも成り得ていた事は、“不思議な事では無い”し、そうでなければ「伊勢と信濃の女系氏族郷士50衆」からも異論は出て、「氏族存続・全ての事」のそのものが成り立たなかった筈だし、然し、「伊勢と信濃での連携」で成り立ってきたのだ。
それ故に、当初、「青木氏の解明の研究」に苦労したが、「技術の重要性に関する事」は「大正14年」まで続いたと云える。
その「科学の片鱗」が未だに「子孫の血液・理数系」の中に色濃くの遺し得ているのだ。
元に戻して、“「結晶らしき概念の概要」”のそれは、「紀州姥め樫の備長炭・墨」では「細かい事」が良い事が解っていたからであり、それで無くては、“「良い品質の墨」からの「炭」を「鉄の結晶間」に「浸・浸透」させて、略して、専門の呼称として「サイアナイド・浸炭効果」とこれを云うが,特殊な技術」が得られていたのだ。
これを、“「浸炭としての効果」が出ない”として「青木氏部の中」では伝えて語られていたらしい事が書かれている。
然し、「一般の技術・主に鈩鉄」では、“「良い品質の墨」からの「炭/炭素」を「鉄の結晶間」に「浸・浸透」させて、「強く硬くすると云う概念」は全く無かったと観ている。
唯、「幾つかの記録の表現」から「総合的」にあったのは、つまりは、「鍛して・叩いて強くする」と云う概念であったらしい。
その証拠に「炭素の量」に「拘りの表現」が全くにして無いのだ。
そもそも「鈩製鉄」では,「内炉の底にたまる鉄・0.10%程度・純鉄」と「炉外の炉低に流れ出た0.28%程度・低炭素」の「二つの鉄の塊」が出来て、それが「鉄表面0.2ミリ付近に侵入した鉄」が二つ出来るのだ。
これを、“何度も加熱して鍛して折り重ねてそれを繰り返しで造った玉鋼」は出来るのだが、元より「炭素の量」に「拘り」が全くにして無かったのだ。
ところが「近江鉄」は鉱山から掘り出した「鉱石」であって「砂鉄の箱型炉」では無く、新しく鉱石様に開発された「竪型炉」から出来る為に“「浸炭としての効果」を強く求めたのだ。
両者の求める「技術の領域」が全く異なっていたとする「大きな技術の経緯」があったのだ。
だから誰も真似は出来なかったと云う事があった。
略して、「専門の呼称」としては「浸炭・サイアナイト」と成るのだが、要するに特別なのだ。
この「一連の銃の研究」では、「約20年の試行錯誤の結果」から、その「温度に依って左右している事」を把握したとしていて、「内部の結晶・結晶の表現」としは、記録に無いが、但し、唯単に“「粗鉄・あら鉄」の「炭差」”の「意味合い」として記している。
これは、況や、「鉄の細かさの温度に依る変化」として捉えていたと云う事に成るだろう。
この様な「専門的な見地から記されている事」を要約すると、先ず「墨」の如くに極めて「粒を均一にして、更に「極めて細微」にして、それを先ず「熱・灼熱」して、「粗鉄・あらてつ・結晶を開いて」にして、これに「繰り返し」で「浸・浸透」させ、「鍛」し、これを以て「繰り返し」、その「技・熱処理」を施し、その後に「冷する」とあり、更に、不思議にその後に“「低く焼する」”と「添え書き」があり、「要領書・メモ形式的・古くて読み難い」に記されている。
但し、この“「鍛」し”、は “「鍛える」”と云う「意味合い」だけでは無く、主に“「繰り返しの過熱」”に等しい「意味合い」で表現しているらしい。
この「加熱を繰り返す事」に依って「墨、又は炭が浸みこむ事を促進させる」と云う意味合いで、“「鍛」し”、の呼称が使われていた事に成る。
但し、この事は鈩鉄とは根本的違っている
つまり、この事は近江鉄では「メインの作業目的」には、「墨、炭の量を微妙に調整していた事」に成るだろう。
正しくは、この「工程」において「炭」では無く、最早、「細墨」を越えてであって、「炭素・Cの意味」を成している。
それは次の理由による。
1 加熱の炭
2 鉄に付着している不純物の除去・還元作用・炉中で炭酸ガスに不純物は酸素に吸着させ、その代わりに炭素は鉄の結晶間に浸み込ませる。
3 鉄にガス程に細かく成った「墨/炭素]を浸み込ませ浸炭する。炭では分子が大きすぎて浸みこまない。
奈良期ではまだ「1の加熱炭」であったが、その平安期中期頃には「2の還元・入替」に気づき、平安期末期には「3の浸炭」へと進化を遂げた。
兎も角も、上記の時期は捉え方で確定は出来ないが工程は次の様に推移して行った。
「近江鉄の進化」=「1の加熱炭」→「2の還元」→「3の浸炭」
つまり、この「20年の試行錯誤の経験」から、この前段でも論じた様に上記の数式の工程から既に「青木氏部」は、「墨の殖産の技術・墨・炭の経験」を持っていて、それを「高温に成る良質の備長炭の加熱材を使用した事」から、“偶然にも“「表面が少し固く成る事」”を知り得たと考えられる。
要するに、「浸炭硬化」であった。
ところが、その“「固さ」”と表現するものが、然し、実質のその特性は、“「硬さ」”であるのだが、これをより得る為に「何度」も上記の通りに、“「鍛する事」”と“「炭で加熱を繰り返す事」”で「得られる事」のこの“「三つの技」”を把握したのであろう。
そして、「注目する事のもう一つ」は、その中には、「鍛する事の意味」が「鈩鉄」と違っていた事が理解した事が解る。
この「鍛する事」で、「加熱によって拡大した結晶」が潰され、且つ、その「エネルギー」で「硬くなるの効能」では無く、「一度に炭素を継続して浸み込ませる技」よりも、「何度も加熱を繰り返す事の技」で、より「炭素を浸み量を増やす改善策」を見出した様であったが、これの進化が主であった様であり、その事によって「最悪の品質」を招く“「結晶の拡大」”を防いでいた様でもあり、その事が知っていたかは別として把握していた様だ。
故に、この結果から、「要領書的な物の事の遺す重要性」があって記され、それにはその得られる性質を“「固さの表現」”と成ったと考えられる。
然し、この「事実」はこの二つは下記の“「特別な現象」”で違うのである。
さてところが、この“「固さと表現」”に付いて其の侭では、折角の“「欠点解消の処置が裏目に出る」”と云う経験をして仕舞ったのだ。
この後で「収縮や変形や亀裂や炸裂等」の好まない「欠点の事・ロ」の顕著の特徴が、恐らくは、「試作中・試撃ち等か」に発生したのだと考えられる。
つまり、文章の行を読み取ると、「何の為の試行錯誤経験か判らない事」が起こって仕舞っていたのであろう。
故に、将又、更に「試行錯誤の経験・やり直しの過程」に入った様だ。
兎も角も、工程を元に戻す為に行った「低く焼している事の過程」で、この「欠点の事・ロ」が何故か「消えて治っている事」に気づいたのだろう。
これが、要するに“全ての熱を掛けて仕上げた物”に、もう一度矛盾するかの様にその「熱の影響を除去する為の熱の処理」が必要とする事に気づいた事に成る。
これは当時としては当に「原理矛盾」である。
ところが、それが,現在で云う「テンパーリング・応力除去の概念」と云う「高度な技術」なのであって、それを知らずか獲得していた事に成るのだ。
抑々も“この世に於いて固くはなるが硬くもなる”という事は、この「自然界」に於いては原理的に無い。
その“「硬くなったもの」”、そのものには、この世に於いて「一般的に得られない事象]であって、その「事象」を知っていて恣意的に人間が造り出さねばならないものである筈だ。
従って、この様に「作り代えたもの」には、“何某かの次元変化を興させねば元には戻らない”筈だ。
それが適用されたのが、この「金属にのみ発生する原理矛盾の熱処理」なのだ。
故に、その上で結果として“「要領書的な物の事」”に示す様に「原理矛盾の技術理論」を纏めて遺し確立させ獲得したと考えられる。
ここで、この“「固さと硬さ”に関する検証・概念では大きく違うのだが、然し、この「概念の解決」が必要と成ったとみられる。
現在から観ると、先ずその概して云えば、その“「硬さの概念」”はこの事で完全とは云えないまでもある程度に掴んでいた様である事は認められる。
然し、これを専門的に観れば未だ「大きな未熟の一点」としてあった事が確認できるのだ。
つまり、それは此処では、当初、何度も「加熱―鍛えー再加熱ー冷しー繰返し」の「五つの工程事で得られた特質」と考えられていた様であるが、実はこの「昔の概念」は大事な処が一つ抜けていて違うのである。
確かに、この「五つの工程事」では、「鉄」がある温度に依って「炭素」が偶然に「結晶」に浸み込み、それが「結晶の縁」に「浸み込み」が起こり、それが「鍛される事」で潰れて「原形」より「薄く」なり、これが「繰り返される事」で要するに「固くなるとする一般概念」として受け取られていたらしい。
ここが違うのだ。
これは降る程度の範囲では確かである事は完全に否定はしないが、然し、実はこれは“「固さ」”の「直接的効果」では無いのだ。
飽く迄も、上記した様に冶金学では此れは、本来は上記した様に“「固さ」”なのであるからだ。
ここには、何故ならば“「本来の硬さ」”から来るものには、必ずこの「自然界」では観られないある“「特別なあり得ない現象」”が起こっているものなのだ。
これが起こっている限りは“「固さ」”では無いのだ。
これでは、この時代では未だ当に「獲得し得ていなかった概念である事」は成る。
それは、これには“「固さと硬さ」”に関係する「大事な結晶理論に伴う事」が起っているからなのだ。
これは、「結晶の概念」に付いては、当時としては未だ“「鉄の細かさの温度に依る変化」”としてしか「概念」が無かった事の所以」なのだが、従って、それをこの「記録」では“「粗鉄・あらてつ」”と記されている所以でもある。
“「粗鉄」”はで飽く迄も「鉄の域」を超えていない。
「鉄」を「粗い」と「細かい」とに分類しているだけであってこれには「結晶の大小の概念」がない。
要は、「鉄」には「粗い」と「細かい」ではなく、“「結晶の大小の概念」”が必要なのである。
“「鉄の粗い」”は、必ずしも「結晶の大きい」に相当するとはならないのだ。
何故ならば、「鉄の粗いの定義]としては、これには「均一性」が無く、この「粗い」の中に「細かい部分」も含んで「粗い」としている。
「鉄」は「使用」に際しては、“ほぼこの「均一と細かい」で無くては使用に際しない”のだ。
従って、「鉄」には「均一と細かい」が必ず求められ、この「均一」に「不均一としての不純物」が介在していればそれが阻害して「均一・又は均一性」は得られないのだ。
故に、「不純物の除去。還元」が求められたのだ。
結局は、「粗い」と「細かい」ではなく、それは「結晶の大小の概念」が必要と成って来たのである。
何故ならば、この「不純物」は、この「結晶間」に存在するからだ。
この「結晶」を小さく求めて行けば結果として「不純物」の「ノロとスラジ」も消えて行くのだ。逆の事も云える。
処で、この「鉄の中]で、この「結晶を小さく求める事」は並大抵の事では無いのだ。
「鉄を加熱する事]はそれは粗くなると云う定義に成るのだ。これを繰り返せば繰り返す程にその粗さはより増すのだ。
「鉄の工程」としてはこれは「論理矛盾」である。
「温度」を上げれば挙げる程に「結晶」は大きく成り、時間も長引けば長引く程に大きく成るし,その分だけ「鉄」は「結晶間の力」が弱く成り脆く成るのだ。
ではどうするかであるが、この「鉄」には「ある特定の限定された温度域」で「適度に加熱する事」で「細かく成ると云う事」が不思議に起こるのだ。
これは「論理矛盾の解決」である。
この神が与えた「特定の温度」を把握する必要があるのだ。
そうでないとそもそも結晶間に存在するものは何であれ「弊害物」と成り得ても脆く成るのである。
これを「無弊害物」にしなければ成らず、同時に強くする物質に換えなければならない。
ではそこでこの「結晶間に浸み込んだ細かい炭素」は、「不純物」として成り「炭素の効果」を発揮しないのだ。
寧ろ、普通の理論では「浸みこんだ炭素」が逆に概して「結晶間の間」に入った「不純物」として「鉄の表面強度」を弱くして仕舞うのだ。
結果として場合に依っては「細かい亀裂」が「亀甲上放射状」に全面に走るのだ。
故に、当時としては「炭素」は「不純物」と観ていた筈だ。
然し、ところが「加熱材」として、又「還元剤」としても使わなくてはならないのだ。
「鈩製鉄」の「玉鋼」は、当に当初よりこの概念の中にあるが、「703年と713年の近江鉄」では「鉄鉱石」であって、ここから原鉱石を溶かして「鉄」を引き出し、「炭素と石灰」を使ってその反応強さで結合させて「各種の鉄を造る事」に成るのだ。
故に、「玉鋼」だけには限定されていない。
「不純物」と観られているこの「炭素」は、「近江鉄」に執つては逆で、つまり、「炭素と石灰」を使う「竪型炉」に執っては「必需品」と成り得るのだ。
但し、この「近江鉄の竪型炉」に執っての必需品には、飽く迄も「不純物」である以上は「難しい限度」があるのだ。
故に、「結晶間の不純物」と観られている「炭素の存在」は「鉄の性質」に大きく左右するのだ。
従って、「鈩鉄」に比べて「近江鉄」ではその特徴を掴めば歓迎されていたと考えられる。
とすると、この歓迎されている以上の「近江鉄」には、「不純物視」されていた「結晶間の炭素」を「コントロール」していた事に成り、逆に「炭素の少ない鉄・やわらかい鉄」から「炭素の多い硬い鉄」を生産する事に進化を遂げて行ったと考えられる。
ところが上記した様に普通で考えれば「不純物」である限りは「近江鉄」には「限度」が存在する事に成る。
この「限度」を掴まなくてはならない。
それも「結晶間」に存在する限りは「破壊」に繋がるからだ。
これを「青木氏部」は絶対に掴む必要があった筈だ。
さて、もう一つこの“「限度」を掴まなくては使え無い”という事が起るのだ。
そこで、それが「鉄」である限りは、先ず「加熱と冷却の熱処理」をすることが求めらる。
「炭素量」が多く成れば成る程に、そもそも「炭素」が基本的に「不純物」である限りは相当に鉄の純度を上げない限りは「熱」に依って存在する「結晶間」で破壊するのだ。
では、この「ノウハウの知識」が進んでいない以上はその限度の数値は「偶然把握」であり、どの様に「偶然の一致」がこの「近江鉄」に起こっていたかである。
学問的に研究調査で後に判った事ではあるが、この「不純物の炭素」の「鉄の結晶間」に浸み込む程度は、「最低で0.02%C」で、「最高で2.14%C」で「偶然の自然の理屈」でこれは定まっている事に必ず気付くのだ。
だと云いながらも、現実にはどの様にその限度を調べるかであってその方法が源るられていた筈だ。
「最低で0.25%程度」、「最高でも1.3%程度」で限度は発生する。
この「高い炭素」の場合は、「炭素の弊害」を無くす為の「特殊金属・マンガン等」を加えなくては使えないのだ。
これは現在で判った知識であって、当時は「採取できる鉱石」に自然に含まれていてるもので、その量も決まってくるのだ。
資料を読み取ると、「炭素」ではある程度の量で、それを「酸化する程度」で把握していたらしい。
「マンガン」では含まれる「自然量」は、「鉄に含まれる金属の量」で「自然と鉄の反射色」が変わって来るので判る。
採掘場所で異なるので、ここの「マンガンを含んだ鉱石」は「錆び難い鉱石の事」で判るし、「還元」を強くすると「炉の入り口に溜まる量」でも判るのだ。
これで「鉱石を選んでいた事」が書かれているが、「炉の入り口に溜まる量」を集めて炉中に入れ直しても使えないのだ。
何故ならば、「マンガンの融点」が高い為に「鉄の中に溶け込まず遊離して存在する事」に成るので、結局は不純物に成り破壊に繋がるのだ。
従っても「マンガン等」は明治期の高炉でやっと使える様に成った事が書かれている。
戻して、「炭素の量」はマンガンなどが除去された後の「酸化程度」で見極めていたらしい。
その証拠に古来では、「箱型炉の炉低外に流れ出た鉄」は、「深い船底の様な穴」に流し、そこで先ず「微粉末の炭」に包んで保護していた事が解っている。
これは「酸化を防ぎ目的」と、「炭素を表面に浸み込ませる目的」で行っていたものであるらしい。
これを「二度目の加熱」で更に「炭素を浸み込ませる目的」であったらしい。
最高で四度も「製鉄加熱」を繰り返していたらしい事が書かれている。
これは当に飽く迄も「酸化防止を目的」とした「炭素の量の浸炭目的であった事」に成る。
この「近江鉄」を「青木氏部」が「鍛冶院・かやいん・かぬいん/鍛冶院/かやいん」として「号」を以て扱う以上は、この「数値」を掴む必要に迫られていた筈だ。
少なくとも、「自然の摂理の概要」に左右されている程度の事を「平安期中期」までにはその歴史的経緯から逆算して観て知っていなければならなかった筈だ。
そうで無ければ当時としては、「結晶間に潜んでいる不純物」として扱われる「炭素の含有量」も「偶然の自然の理屈」で決まっている以上は、つまり「論理的な理屈では導き出せない事」から下記の「温度域・723度」をも把握できていない筈だ。
「近江鉄」は下記の「温度域・723度を使えない事」に成っていた筈だ。
ところがこの「温度域・723度域を使う事」で解決するのだ。
根気いる実験しか無かった筈だ。
然し、結果論から「1540年~1550年頃」には、最早、この「温度域・723度」は「銃の欠点克服の為」に「試行錯誤の上」で掴んでいた事に成る。
この「最低で0.02%C」で、「最高で2.14%C」で「偶然の自然の理屈」に直接影響している“「鉄の理想的な結晶間の炭素量」”の「温度域・723度」であって、此処にだけに“「共析鋼」”と呼ばれる鋼にある事を、概して少なくとも掴んでいた事に成り、逆の事も云える。
完璧な「偶然の自然の理屈」で出来る表の様で無くても「結晶間に潜んでいる不純物」として扱われる「炭素の含有量」では、“それなりの「ポイントの繋がり」”としてを掴んていたと考えられる。
それは「竪型炉の加熱時の備長炭の墨」の「木炭の加え方」と「石灰の投入の仕方と量と質」に「ノウハウの源」を府詰めしていた事に成る。
少なくとも「無秩序な木炭と石灰の加熱と量」では得られないと心得ていた事に成る。
これは「匠の極めた範囲のノウハウ」であったのかも知れない。
これ等の事は「青木氏部」に秘かに引き継がれていた事に成る。
だから、「鎌倉幕府に竪型炉による製鉄方式」を求められて「関東の鉱山}に拡大する事が出来たのだ。
注釈として「伊勢本領安堵」の秘密裏に駆け引きに使われた事が考えられる。
前段でも何度も論じたが、「青木氏部」から廻していた「鍛冶師の日野」の「ノウハウ」を薩摩藩等が秘密裏に「引き抜き事件」が1550年代に起きたが、この時には「伊勢の指示」に従った「日野の職人」の殆どは「伊勢の指示」に従い「伊勢」に逃げ帰って「青木氏部」に戻った事件があった。
それ程に、「青木氏部の保有する銃の生産のみならず製鉄のノウハウ」にも興味が集まっていたのだ。
取り分け、「近江鉄の4つの鉱山の製鉄」には「竪型炉のノウハウ」も含めてこれらは「鍛屋院の青木氏部」しか持ち得ない「製鉄ノウハウのかたまり」であったのだ。
それにはどうするかであるが「以下の事」が同時に考えられていた筈である。
「鉄」には「特徴ある特定の温度域」で突然に細かく成り、同時に不思議に「結晶」は丸く成り、「鉄」は四方からの負荷力が均一化して強くなると云う特徴を持っているのだ。
その「加熱温度」が「600度~650度」と限定されているのだ。この温度域に結晶と炭素に限り起こるのだ。
これも偶然の原理でこの「不思議な温度」なのだが「不思議な温度」だけに色々な名で呼ばれている。
「微細化温度、球状化温度、均一化温度、応力除去温度、安定化温度・・・等」の「全ゆる熱処理」で起こった欠点を克服する温度でもあるのだ。
現在では結晶に限り「再結晶処理温度」とも云うのだが「金属の熱処理」としては、丁度、「中間の温度域帯」に位置するのだ。
然し、この「金属の熱処理」の概念は「近代の新しい目的」から来た見つけられた熱処理で過去に於いては其処まで金属に対しての必要性も無かったであろうし、判らなかったであろう。
では、「額田青木氏に与えた銃の欠点除去」に、ではこの“「特徴ある特定の温度」”で処理すればよいか”と云うと、問題と成るのは、“どの工程で行うか”によりそうでもないのだ。
要はその効果の問題である。
先ずその前に「この概念」はそもそもが未だ把握していなかったであろう。
先ず「処理」が難しすぎるからだし、「額田青木氏に与えた銃の欠点除去」の「目標達成」には意味が大きすぎる。
そこまでしなくても、ほぼ「額田青木氏に与えた銃の欠点除去の目標」は達成できたからだ。
それは「近江鉄」が使った「竪型炉」から得られる「鉄鉱石」には、「特徴ある特定の温度域」は何も必要としないのだ。
従って、下記にその「温度域・723度・共析鋼」を記しているが、偶然にも「細かい亀裂」が「亀甲上放射状」に走る事は起こらなかったのだ。
だから、この「要領書の粗いの表現」からして書いた時のものは「完成時の物」では無い気がする。.
「偶然」にも「凄い温度域」をこの「近江鉄」で見つけ出したと云う事だ。
侭さに上記した「偶然温度」であるのだ。
先ず「鉄の不純物」にはある「物理的な特徴・比重差」があって、これを「攪拌する事」で一か所に集中する性質を有するので、これを「く字型の道具」で取り除く事は「鉄の場合」は比較的に容易であるのだ。
唯、「鉄」に科学的に付着しているものには、「石灰」と「木炭に依る炭酸ガス/加熱材にも成る」で「還元する事」で可能であるのでこれは一般の製鉄の工程通りである。
以上の“「不思議な現象」”では、当時に於いては当然に「この概念に到達する確認できる術も無かった事」も頷けるが、さてだからと云って完全に無かったかと云うとそうでもないのだ。
そもそも放置できない事だからだ。
それは何度も論じている様に、これも“「紀州産備長炭の特徴」”にあったのだ。
これをその「産地の紀州の藤白地区」から運んで来て、この「砂鉄」の「鈩製鉄手法の箱型炉」を、先ず「箱型」を「縦」に向けて、それを改良して、「炉溶温度」を上げられる様にし、それに合わせて改良を重ねた「竪型炉」を態々造って使っているという事なのだ。
「鈩製鉄」の様に、単なる「木材」を「炉」に投入してそこから時間を掛けて「木炭」にしてでは無く、この改良した「竪型炉」では既に先に「備長炭」にして炉中に投入してから使っているのだ。
「木炭」に成るまでの「無駄な時間と工程」を省いて直に「木炭効果」を上げる事で「木炭による還元反応」を高めた事と、「木炭(備長炭・墨)」を「鉄の表面」に浸み込ませて「硬く錆び難くする改良」を重ねたのだ。
それは「鉄の表面層」に「木炭(備長炭・墨)」と称する「微細炭・炭素」が幕の様に成って「浸みこむ事」を掴んだからである。
「木炭(備長炭・墨)」と称する「微細炭の炭素」は、化学組成上は「錆びない物質」であるからで、「錆びる鉄の物質」の表面層上にこの「錆びない物質の侵入」があれば、結果としてそれが「障壁」と成って「錆び難い物質」に代わる筈である。
これで先ず「浸みこんだ微細炭」で「目的の一つ・錆び難い物質に変質」が達成されたのだ。
序でに、他の「二つ目の目的」を先に云うと、この事は同時に“表面が硬く成る事”であり、この「硬く成る事」に依って「二つの原因(炭素が変化して硬化する=炭素が表面硬化を起こす」を起こすのである。
更に他の「三つ目の目的」を先に云うと、この事で“表面が硬く成る事”で「摩耗性」が向上する事である。
そして、この「摩耗性」が向上する事にも「二つの原因」が起こる。
それは「炭素の高い滑り性と高温での結晶が変わり鉄組成の変化」があり「表面」は硬さで強さで改良されるのだ。
注釈 そもそも 「還元反応」とは、「鉄」に外の物質が化学組成上で付着していれば「鉄」からこれを剥がさねばならない。
これには化学組成上の結合である以上は、化学的に剥がさなくてはならない。
この剥がす作業には「二つ」あって「酸化と還元」であるが「酸化」は「相手」も傷つけ壊して剥がす。
相手に傷を着けないで剥がすには、この「還元」で付いている部分の化学組成に反応させてそっくり剥がして自分の方に付着させる手法で、これを使う。
これらの事を科学的に把握していたかは別として何らかの形で使っている以上は古来から把握していたと云う事だ。
一部の資料では「自然界に起こる偶然の結果を見習ったという事」であったらしい。
その証拠に当初は加熱するのに「藁」を使っていた事から獲得したと観られている。
「加熱の藁」は燃えれば「灰」に成り高い還元の効果を発揮する。
これが「石灰石」に匹敵したのであろう。
この手法の「良悪の問題」は、ここにあって「期待する効果」がそれだけなのかである。
つまり、そもそも “何故にこの「細かい紀州備長炭の墨」が良い”と判断していたのであろうかである。
“何かが在ったから良いと判断していた”のであろう。
そしてこの「難しい疑問点・細かい墨」に、言い換えれば “「青木氏部の技術の概念」がここに到達できていなかったのか”である。
その「答え」は、実は当初は青木氏部も“完全には到達できていなかった”のだ。
何故ならば、この“「細墨の疑問」”に就いては、そもそもこの“「自然界」”に存在しない“未来の現象であって難しすぎるから”であった。
これは「当時の事」としては「当然の事」であろう。
そこで、“ではどの様な事の「未来の現象」が起こっていたのか”である。
これを解く事が少し専門的で難しいのだし忘れ去られる可能性が高いが、「青木氏」がこの様な「銃と鍛冶屋院での鉱山開発の事」に関わったのだと云う事の「青木氏の将来の為」に誤解を恐れずにここで出来るだけ判り易く下記に解いて遺して置く。
そもそもこのような立場に置かれていたのは当時としては「910程度の氏族」の中で唯一であったろう。
確かに上記した様に、「五つの工程事」の様に、“「何度も鍛える事」”で「鉄」にはある「一定のエネルギー」が加えられ、その「エネルギー」が「鉄」に「何かの形」で残る筈である。
この事で、この場合は確かに「要領書」に記されていた“「固さ・A」の概念”であって、それは確かに先ずは増すのだ。
そして、「通常の鍛えた鉄物」は、確かにこの“「固さ・A」の概念”は先ず得られる。
ところが、「火縄銃等の殆どの鍛物」のものには、この“「固さ・A」の概念”では済まされない何かが出ているのだ。
然し、此れでは上記した「火縄銃等を含む銃に起こる欠点」を補えていないのだ。
ところが「額田青木氏の超近代銃」に施されていたこの“「硬さ・B」”では、
「紀州備長炭の炭・細かい炭素」と、「数度に鍛える事・加熱の効能」と、
その「事の時間と温度」の“「三つの要因」”で、
この「炭素の量」が“「結晶間に残る量」"としては増えるのだ。
当初は「炭素が結晶間に残ると云う概念」がそもそも無かったであろう。
それも「炭素」であり、この「細かい炭素」が鉄の中に残ると云う概念が無かったと考えられる。
「途中の段階」までは “「鉄に浸み込んだ」”と云う風な程度に思い込んでいたらしい。
でもそうだとすると、「鉄の何処に浸み込んだと思ったのかである。
当然に「結晶の間という事」になろうが、この「結晶の概念」がそもそも低かったのであるからどの様に考えていたかである。
ところがこの段階でも未だ「鉄が結晶の網」で出来ているとは思っていなかったらしい。
「鉄」の何処に浸み込んだと認識していたのかである。
餅の様にところどころに浸み込んだ程度で在ったのだろう。
“水に墨が黒く浸みた如く”と思っていた様な事が書かれている。
初期では「鉄などの鉱物」を「粘土の様な固い物」と同じと考えていたらしい。
ところが、その途中で、「結晶の概念」を“何となく獲得した時」”があったらしいのだ。
それが顕著に考えられる時期が来たらしい。
それは「炭素」が浸みこむと鉄の表面の色が灰色に変化する事に気が着いたらしい。
要するに、“「光の屈折”」で色が変化する事の認識を獲得した時であろう。
この事は当然であり、「浸透した結晶間」の「難しい疑問点・細かい墨」、即ち、「炭素」が「光の邪魔」をして、その「炭素の結晶間での凹凸」で「光の屈折率が違う事」が起るがこの時の様だ。
当にこの時に「結晶と云う概念・網」を「鉱物の鉄」に対して持ち得たのであろう。
この「概念の取得」が「近江鉄の鋼の最も良い使い方」であったのだ。
注釈 「結晶の語源説」には明治からの新しい学問であった為に外国語説が多いが、その言葉は元は「結晶」では無く「クリスタル」であり、ところが日本では違うのだ。
「結晶の字形]から判断してでは,“三方からの「太陽の光」が結んだもの”としてあり、それは「石英・酸化シリコンの結晶」として判断していて、それが昔からある身近にあった「透明の水晶・シリコンの結晶」であったらしい。
この「水晶」に当たる「光の行方」を観て定義したとする説もあるのだ。
当に定義とするには「石英・酸化シリコンの結晶・水晶」は「日本古来から存在する大変多い古来の宝石」として扱われそれの定義は適切である。
筆者は、古来の人は、日本列島は地質学上で「石英列島」であって、山を歩けば直ぐに見つけられる結晶体である。
この身近な何処にでもある「石英・酸化シリコンの結晶・水晶」の「概念・認識」の根底にはあったと考えていて、だから、「鉱物の鉄」に含まれた「結晶間の炭素の屈折光」には、この「石英・酸化シリコンの結晶・水晶」を観たのでは無いかと考えている。
因みに、「ひすい]も「こはく」もこの「シリコンの石英の結晶体の一種」でその中に含まれ「微量のアルミかナトリュウム」かの違い色合いは起こるのである。
この「珍しい事」による「宝石」とさせれる「結晶」は、殆どは「樹液や石や植物等」が地球の地下深くでの圧力で固形化したものでこれを「宝玉」と呼ばれる事と成ったものであり、「石英・酸化シリコンの結晶・水晶」の「鉱物が結晶化して宝玉」となったものは少ない。
況して、故に当初は「鉄と炭素の結晶化の認識」は無かったであろう。
実は、「たたら製鉄の箱型炉」の「炉外底の炉池」には「溶融鉄が流れ出して来るシステム」と成って溜まるシステムとなっているが、この「炉底池」に「炭」が敷き詰められているのだが、これは、「鉄と炭素の結晶化の認識」からではなく、「高温の鉄の酸化を防ぐ目的」で上と下から「炭」を蒔いて覆い「酸化を防いだ事」が解っている。
これ即ち、「炭素は「鉄の結晶に浸み込ませる目的」では無かった事」を物語っている。
「炉中底」にも一部残った「溶融の鉄」もこの炭が敷き詰めた炉外底に最後は流されるのだ。
つまり、「炭」は「酸化を防ぐ目的」にあった事に成る。
だとすると、此れでは「酸化の認識」はあったとしても、その逆の「還元の認識の定義」を高める事の例に突きあたらないのだ。
「箱型炉の鈩製鉄」にしても、「竪型炉の近江製鉄」にしろ「鈩では炭」、「近江製鉄では石灰石と炭」を「還元剤」とする化学反応を明確に意識して使っているのだ。
ところがこれでは「還元の認識の定義」を高める事の例に合わない。
それは「酸化」より「還元」の方が「常識」であったのかであるがそんな事は無いだろう。
「確かに害の無い還元」であったとしても、「何れの製鉄」でも使っている以上は認識はあった筈である。
「鈩製鉄」では、「加熱材」として「藁と木材」を大量に投入し炉の中で熱を籠もらせて投げ込んだ「砂鉄」を溶かす。
その結果として「藁と木材」は、「灰」と成り、この「高温に成った灰成分」は「還元反応」を結果として招く。
これが「メカニズム」である。
飽く迄もこの時は“「加熱材」”であって“還元剤」”では無かった事に認識は成る。
つまり、「還元の認識・概念」は当初は無かった事に成る。
ところが、対比する「近江鉄の竪型炉」では、「加熱」は「木炭」で、「還元剤」として明確に加熱材を兼ねない「石灰石」を投入しているのだ。
勿論、「木炭」であれば高温に於いて加熱中に先ず炉中で「鞴の酸素」と反応して「一酸化炭素」と成り、これが「鉄の表面」に反応して初期には「還元剤」として働くのだ。
これが更に「加熱」が進むに従って、この「石灰石」が「溶融・900度」して「還元反応」を起こし「科学的な還元」を本格的に起こすのだ。
その為には「竪型炉」はより溶融点を挙げる必要があって「改良の必然性」が高くなった一つなのだ。
そこで、何故、突然に「石灰石」に意識が飛んだのかという事である。
それは恐らくは、「鈩製鉄の箱型炉」に使う「加熱の藁や木材の灰」のその「効果」が大きく、その「灰」の「加熱の末路の凝固」の中には「炭酸カルシウム等・白い粉の塊」が多く含まれ冷えると凝固し当初は「邪魔物」として扱われていた。
ところが「鉄鉱石に着いている付着物の撤去・邪魔者」は、結局はこの「白い石の灰の塊」にあると認識し、これが「還元」として働いているのではないかと云う概念を持つに至った筈だ。
だとすると、「白い石の灰の塊」を獲得する為には、「青木氏部と額田部氏の協力」を得てその「専門知識」を生かして、その「山の同じ成分」と観た「山の石灰層の切り崩し」にあると観たのではないだろうか。
「消石灰の原料」は、「石灰石・炭酸カルシウム)」である。
この「石灰石」を砕いて「炉」で加熱した後に、「加水・消化・熟成の過程」を経て「消石灰・水酸化カルシュウム」が出来るのだ。
だとすると、「白い石の灰の塊」は、要するにこの“「消石灰」”である事に成るし、恐らくは「骨粉などの苦土石灰」も使っていたと考えられる。
要するに、「石灰石」=「消石灰」=「白い石の灰の塊」として繰り返し砕いて使えば「還元効果」はより生まれる所以である。
これはこの段階で、これは「竪型炉」に改良してそれに依って「溶融温度が高くなった事」に依る効果であって、その時に「還元と云う概念」をこのでの実績での事で明確に持ったという事であろう。
そもそも、これは「箱型炉では得られない概念」で、「竪型炉で得られた概念」であった事に成る。
つまり、これが年代的に竪型炉の開発と近江鉄の開発の「703年と713年と云う事」に成るのだ。
注釈 「苦土石灰の成分」は、要するに貝粉や骨粉の堆積であり、「炭酸カルシウム}と「炭酸マグネシウム」が主な成分であり、 これに対してこの「消石灰の成分」は、「水酸化カルシウム」が主な成分である。
何れも「日本列島の成り立ち」から無限にあって積極的に使ったと考えられる。
ところが、「石炭」は、これに代わるものでありながら「古来」より列島にはその存在が多く認められて使われていた記録がありなから、それが「最大の加熱材」で、且つ、「最大の還元剤」を兼ねているのに「歴史・青木氏部」は何故か使われていないのだ。
その「原因]は当にその「有毒の硫黄・亜硫酸ガス」であるからだ。
この「石炭の硫黄」も、この「石灰石」を砕いて炉で加熱した後、「加水・消化・熟成の過程」を経て「消石灰・水酸化カルシュウム」が出来る様に、同じ工程で「石炭も石灰」も元は地球上の生物の化石であって、故に「全く同じ工程」を踏めば出来る筈なのだ。
これに依って「無害の石炭・コークスの名称」が得られ、「石灰=コークス」として使えている筈なのだし、「技術が無かった」と云う事では無いのだ。
然し、この処理も知り得ていて敢えて使っていないのだ。
何か「宗教上の掟」に依るものかであるが、それも記録が無く、この「記録}が特段に無いと云う事は他に「有毒の硫黄」の「宗教上の掟」としか考える事は出来ない。
そもそも、その温度は「500度」だが50度+のそれだけの違いであり、これは全く「技術の有無」ではない。
要するに処理後の呼称は「コークス」であり、それでも使わなかったのだ。
「石灰石の処理」を知っていた限りは使えた筈だ。
「明治期の高炉」までこの「コークス」は頑なに使わなかったのだ。
それは「石灰石」などで「還元」は充分であったと云う事かもしれないが、然しながら「還元力」は、兎も角も高い温度が得られる「加熱材」等の「三つの高い効果を持つ」のには、現在もこれに代わる物は無いのだ。
後は「青木氏部」である限りに於いて「積極的に使わなかった事」が原因して後世に於いて後段で論じる「神に捧げる物の定義」に扱われたのかである。
つまりは、これが「鈩鉄と近江鉄の違い」から発生した結果かである。
さて、話を戻す。
「結晶論」の此の“「結晶間に残る墨量・炭素の量」”の「鉄の結晶間の縁だけに増えた量」が、「鉄の量」に対しては、「炭素・0.8%」に達した時に初めて、“「ある変化」”が「鉄の結晶間」で起こるのだ。
理屈ではなく「自然が造り出す原理」である。
何度も経験しなけれは得られないし「自然が成す基準値」である。
これが当時としては、最大限に「難しい疑問点・細かい墨」であった筈なのだ。
それが起こったのだが、「青木氏部」に執っては「何事も驚きの瞬間」であったろう。
そもそも、それが何が起こったのかである。
更にどんなに条件が整ったとしても、唯一つは“「墨・炭素に成る為の細かさ」が細かい”と云う点で、これも「偶然の事」で起こっていたのだ。
唯、「細かい炭」であれば起こるという事ではないが、その“「細かさ」"が得られる「偶然の墨」だったと云う事だ。
その確実に起こり得る「加熱中の偶然温度」が、何と不思議に、どんな条件でも“「723度・変態絶対温度と云う」”と云う点に限定されている事に成っていたのだ。
つまり、この「温度に達した事・723度」で、「鉄と炭素」に、つまり、「細かい事の幾つかの偶然の条件」にある“「不思議な一致の偶然の変化」”が起こったのである。
その“「723度」”は、「温度計」が無く、それも「高温」のものを計る事が出来ない時代に於いて、どの様に確認したのかであるが、この「不思議な偶然の事」が起こる「限定した鉄の温度」を覚えて置く事で可能と成ったのだ。
これは「723度と云う特徴ある温度」である以上は、一度観ると忘れない「鉄の表面」が、「“波打つように輝く橙色”をしている」と云う色の特徴を持っていたのだ。
これは何故起こるかと云うと、“「723度」”の「鉄の内部」では「特別な変化」を興す為に「色判定」には「ある5度程度の範囲温度で安定した特徴」を示したのだ。
概して、先ず上記した持ちづらい概念の「鉄の結晶」には、「高温」に於いて「3つの色々な結晶構造」があり、それは「温度と鉄と炭素量」に左右されているのだ。
そして、この「不思議な723度」がその「全ての鉄と炭素の結合点」であるのだ。
「試し」に加熱して温度を下げて来ると、この「結合点」の「・723度」に於いて再び同じ点に必ず到達する「不思議な点」であるのだ。
この「・723度の結合一致点」ではこの「鉄と炭素の結晶」は「3つの色々な結晶構造」で出来ていて、それが加熱を下げて来ると、「オーステナイト結晶」の「不思議な結合点」に到達するのだ。
これには「物理的な原因」は無く「偶然の摂理」に基づき起こるのだ。
注釈 「4つの色々な結晶構造」とは次の通りである。
オーステナイト結晶
パーライト結晶
フェーライト結晶
セメンタイ結晶(常温)
そこで、 この“「723度と云う限定した特定の偶然の温度」”だからこそ、この世に起こらず存在しない“「トランスホーメイション・変態の温度」”と表現されるのだ。
そこで、 この“「723度と云う限定した特定の偶然の温度」”に「ある特定のエネルギー」を加えると、世にも不思議な事が又起こるのだ。
この「温度以下」でも起こらず、この「温度以上」でも、この「限定した温度以上」に達しない限りは起こらず、その場合は、その「温度の差の分」だけの “「歪み・欠陥を持つ事」”に成るのだ。それは「偶然」であるからだ。
当然に、従って、「近江鉄」に於いて、この“「723度の温度」”を見極める「極めて難しい匠の目視技」が求められたのだ。
云うまでも無く、この“「723度の温度」”の「偶然温度」に達しても「偶然温度である限り」は「幅・ユレ・3から5度程度」を持ち、この「偶然の幅」を獲得しなければ、この“「723度の温度」”の「良好な結果」は得られないのだ。
「青木氏部の匠」はこの「偶然の幅の限界」を習得しなければならなく成っていたのだ。
言って仕舞えば上記した様に、先ず、
第一番目に「0.8%Cを偶然に見つけ出す事」に成功したが、
そこで、次に第二番目に「723度」に「絶対的な偶然温度」がある事を知るに至る。
これに対して「上記する偶然要素」を“「723度の温度」”を獲得するに必要とする「絶対の鉄」に含まれる数多くの要素を組み合わせて、「偶然の要素の影響を観る事」に成ったのであろう。
この工程を踏まなければ「銃の欠点」を解決に至らなかった筈だ。
要するに、これも「偶然の炭素量」が「0.8%C・(0.86C)」であって、この「二つを中心」としてそれぞれの「加熱」に対する「時間」。「細かさ」。「速度」。「質量」。「体積」。「面積」。「墨の素材」。「加熱力」。「融点」。「角度」。以上の「10の組み合わせ」の「夫々の相関関係の把握」が求められた筈である。
当時に「冷却過程」に対する「冷却材」等に対しても以上の「10の組み合わせ」の「夫々の相関関係の把握」が求められた筈だ。
「青木氏部」として「関係表」を完全な形で造る程度に得ていたかは判らないが、大筋でその目的の為の範囲にはできていたであろう。
「処理後に対する把握」を根気よく出来て初めて「銃の欠点が安定よく排除する事」に成功したと考えられるのだそれで無くては「銃の欠点が安定よく排除する事」は出来ていない。のだ
以上の様に、「数えきれない偶然」を「組み合わせ」で見つけ出す事に成った筈である。
上記の「新しい鉄の持つ専門知識」を一度に得て総力を挙げて活気だったと考えられる。
「目視」で凝視していれば一瞬ではあるが目に見えてに伝わって来るものがある。
そして、「その時の鉄」の中では、其の「細かい炭素」と共に“「共析鋼」”と云う「偶然結果」として得られる総合品質の「良質な鉄のもの」に変化するのだ。
そして、“この時、「ある変化」と共に飛びあがるような「不思議な事」が更に起こる”のだ。
上記の“「不思議で偶然なある変化」、即ち、「この世では普通に起こらない特別な変化」、即ち、“「変態」”であって、「鉄の炭素との結晶」”では、結晶の呼称として“「オーステナイト」から「マルテンサイト」”と云う形に変化して起こるのだ。
これを「銃の試作過程」で一度に「鉄の持つ不思議な複数の新しい知識」が関連して「偶然に会得したと云う事」に成ったのだ。
それが言葉で纏めると“「共析鋼」”であって、その「結晶の変化」としては、先ずは「オーステナイト」であって「マルテンサイト」であるのだ。
では、この「不思議な結晶の現象」の“「偶然な変化」”とは、一体何なのかである。
これを何度か繰り返している時に、「ある温度・723度」で「炭素の量・0.8%/鉄」に達した時に、「偶然」に「冷やす工程」と成った時に、ある特別なこの「世では普通では興らない現象」が「炭素と鉄の結晶」を通じて“音を立てて瞬間的に起こったのだ。
これは「可成りの偶然」な事である。
これが、“「変態・不思議な偶然のある変化・鉄と炭素の結晶のオーステナイト」からの「マルテンサイト」”と云うものなのだ。
「超硬く」て、この世のどんな物にも、例えば「ダイヤモント」と互角程度以上の強さを持ち、その強さは「どんな物理的で科学的な強さ硬さ」よりも優れているのだ。
これは、当然に“「前段の銃の欠点」”を性質的に補う事に余りあるのだ。
そこで、この通常では得られない「鉄と炭素の高温での結晶の状態」を専門的には“「オーステナイト」”と云う。
全ての結晶の共通点である共析鋼でありながらも、この偶然にも得た一部の結晶の構造を全て一度「オーステナイトの状態」にして「鉄と炭素」の全てを「必要な時間」を掛けて変えて仕舞う必要が伴うのだ。
その「時間」が長いと、「鉄と炭素の結晶の関係」に長いと「粗大化現象」と云う「取り返しのつかない欠点」を造り出して仕舞うのだ。
当然に短いと、「不完全な鉄と炭素の結晶の関係・不均一現象」を生み出してし割れてしまうのだ。
何れも大きな欠点を持ったものに成って仕舞うのだ。
この上記の「温度・目視で把握・表面の色」も然る事乍ら、「時間・目視で把握・表面の色の流れ」にも「極めて難しい匠の目視の技」が求められるのだ。
要するに、「鉄と炭素の結晶」を仲介して「一種の炭素の結晶に「ある独特の変化が起こるのだ。
それは、「手に伝わる2秒程度の鈍音」と「震動」と「表面色」と「表面模様」と「油の冷却材の表面の踊り具合」でも判るのだがそれは一瞬で起こるのだ。
判り易い近い例として、「マグマの中で溶けた炭素」が火山噴火等で外に放り出される。
それまで「莫大な地球の高圧のエネルギ」が加わった時に「炭素の結晶体に変化」が起こり、それが「冷却等のある工程」を経て、「地球の冷却圧」とで「ダイアモンドと云う結晶体に変化する事」になるが、それはこれに類似する。
そこに「高温に成った鉄が介在する事」で「鉄と炭素の二つの結合体の結晶体」が起こるのだ。
これは、「ダイアモンド」と同じく、その「特異な状態のものが、つまり「・マルテンサイトと云う特異な形」を保つ為に、突然にこの「高温にあるオーステナイトの結晶」から「急激に冷やす事/1S以内」で「変態と云う特殊な現象・トランスフォメーション」が自然発生的にこの世に起こされるのだ。
これで得た「あり得ない二つの結晶体の物体」を「マルテンサイト・鉄と炭素」/「ダイアモンド・炭素」と云うのだ。
その「特別な特質」は「炭素の結晶体のダイヤモンド」に比して「鉄と炭素の結晶体のマルテンサイト」は決して劣らないのだ。
寧ろ、「鉄との結晶の変態の結合体」と成るので「違った優れた特性」が導き出されるのだ。
まあ、一般的に判り易く云えば「ダイヤモンド+鉄を造った」と云っても良いだろう。
然し、此れは、解る様に「通常のこの世の事では無い事」の故に、つまり、その侭では「自然界」に無いものであるので、この“「マルテンサイ」”は、「自然破壊」して仕舞い「応力分散」が出来ずに割れ破裂するのだ。
この「ダイアモンド」も「地中深く高圧の中」で「緩やかに冷やされ」て「ダイヤモンドと云う特別な特質の侭での状態で長く保たれ状た状態で維持された事」で割れないでいるのだが、それと同然で出来た侭の状態では「マルテンサイト」は、間違いなく「破壊」が起こるが、“穏やかに保たれていれば同然のものが得られ道理”であると考えた筈だ。
その地球の“「穏やかさ」”を施してやれば「ダイヤモンド」と同然事と成るは必定である。
その「穏やかさを施こすに替わる事」を考え出せばよい事に成る。
そこで「青木氏部の匠等」は懸命に考えた。
「穏やかさを施こすに替わる事」が、これが「この世に無い変態」である以上は論理的に解る事では無い。
現在でも難しいが、当時でも直ぐには結論は見つからなかったであろう。
つまり、これは簡単に見つかる事では無く、「穏やかさを施こすに替わる事のこの世の有無」も含めて試行錯誤の末に辿り着いたのが、それは思いも依らぬ「低温で加熱する事」で加熱して得たものをもう一度加熱すると云う事はそもそも「・原理矛盾」であったのだ。
然し、「低温で加熱する事」そのものが定義的に変である。
「マルテンサイト」は論理矛盾であっても「ダイヤモンド」はところが「・原理矛盾」では無いのだ。
そもそも、「加熱」と云うのかは問題であるが、少なくとも「常温・20~50度」を越えた「以上の温度である事・イ」には間違いはないが、この「常温以下の温度-40~5度・ロ」に保つ事を「加熱」とはそもそもならない。
然し、論理的には地球環境に似た環境に近い「このイとロ」に於いては、「+圧力」を加えてこの温度域に保てば破壊する事なく保てる筈なのだ。
その「対策」として、初期には「ダイヤモンド」に合わせて何れも「地中深くに埋めた事」が書かれているが失敗している。
それには、この世のものでない変態である以上は「マルテンサイト」の持つ「応力の大きさを解消する力」を持ち得ていなかった事に成る。
論理的には「マルテンサイトに成るに必要としたエネルギー」に相当する「マイナスのエネルギー・打ち消すエネルギー」か必要である。
これを求めるにはところがそれでは時間が掛かる事の欠点がある故に、事前に加熱後の灰配中に居れていた。論理的に「多少の変態の変化」は認められるも、何かで間違って、“「ある温度”に保てた「灰中に落とした侭」として放置して忘れていたいと書かれていて、ところがその結果として「破壊する事なく保てる事」を会得確認したとあり、それ以後は“「灰中・100~150度」で「2日から3日程」に忘れて寝かしていた”とある。
然し、これが結果として取り立ててその「銃の欠点を補う特性」に通常の変化はなかったのであろう。
これは論理的に応力除去では納得できる良好な操作で、現在でも行っている「油中加熱」と共に「一つの方法」と成っているのである。
当時としては「初期の頃」は「経験から獲得した理論」であったのだ。
筆者は、上記した様に「近江鉄の製鉄法」にしてもこの熱処理にしても「日本特有の灰中冷却処理」で「より長く処理」が好ましいと考えている。
其の後、「1540年頃」から始めてから「1560年頃のほぼ銃の欠点除去の完成域・1565年使用後」であった観ているが、「完成期」と考えられる時期の「室町期末期から江戸初期」に掛けては、「西洋」から「貿易に限られて」で「冶金知識」も合わせて「伊勢屋」を通じて入ったと観られる。
然し、“「青木氏部」”ではその前ごろには「経験を通じて獲得している事」が判っていて、「独自の開発」による「竪型炉に依る技術」ではなく、これは「其の後の技術」はより進んだ「高炉の製鉄法との融合技術」であったと結論付けている。
「竪型炉の発展経緯」から観て「外国人の技術導入」では無かったと観ているのだ。
そこで、当時は上記した様に、飽くまでも未だ「何度も鍛する事」での“「固さ・A」”の概念」であったが故に、「硬さの概念」のそのものが無かった筈だが、この「概念のはっきりとした認識」の無い侭に、「額田青木氏の超近代銃の中、つまり「・摂津・青木氏部」では、「硬さの技・技術・処理」が経緯からすると何とか得られていたのだろう。
と云う事は、それはそれまでの「巧みの技」を生かした「20年間の試行錯誤の過程での結果」であって、当初はその概念に付いては、その時は、それは“何か変だな程度の概念”であったろう。
然し、「何度も鍛して緩やかに冷やされるの過程」が在って、そこからこの「硬さの概念」が確実に得られていたのであって、その結果が上記した驚く様な「近江鉄の高度な技術に発展した事」に成る。
注釈 「伊勢青木氏」では「家訓の技術を重んじられる家系の風潮・文化」は、この長い間のこれらの極める概念が色濃く遺された遺伝的な結果のものであろう。
さて、「鉄」は高温に過熱するたびに「鉄の結晶」は粗大化するが、この「何度も鍛して緩やかに冷やされるの過程」では、「高温の鉄の結晶」は逆により潰されて細かく成り、その「より細かく成った結晶」の間に、更に「微細炭素が浸みこむ」と云う過程が起こっている。
そもそも鉄は加熱する事で粗大化するが、この結晶をそれを鍛して細かくすると云う技を駆使していたのだ。
上記した「再結晶化温度の処理・600度~~650度」は全く使っていないのだ。
この代わりに「鍛する事」でこれに換えているのだ。
この「鍛する事」で上記した「変態・マルテンサイトが起こる環境」が整えられて行って、「鉄に対して良循環が起こり続ける事」に成って行ったのだ。
そもそも「再結晶化温度の処理・600度~~650度を使う事で得られる結晶のマルテンサイト」と、「鍛する事」で結果として得られる結晶の上記した「変態・マルテンサイト」とには違いが生まれる。
それは「鍛する事」で「結晶に受ける応力差」の違いである。
「鍛する事」で受けた「大きく成る応力」を計算に入れておく必要がある。
「マルテンサイトに成った時の鉄に対する影響」は無視できないのだ。
これを如何に無くすかである。
然し、この上記の基礎には「青木氏部」が古来より「専門部」として「朝廷に治める飾刀」から得た技がここに培われ続け引き継がれてきていたのだ。
「朝廷に治める飾刀」は、「青木氏部を持った時期・647年頃」からとすると、「703年・713年の近江鉱山開発・近江鉄」を使っての「飾剣」であった筈で、砂鉄に依る玉鋼の「飾剣」では無かった筈である。
注釈 大化の改新までは全て剣は中国からの輸入で朝鮮半島に攻める事に成った時に兵に全て刀剣を与える事と成り、中国と韓から「鍛冶部・かぬちべ」を北九州に迎えて全国がら部人を送り習わせたことが始まりであり、「飾剣・直刀」の製造は700年前後に入ってからの事である。
ではそれは何故なのかであるが、それを下記に論じる。
実は、前段で「駿河青木氏論との額田青木氏論の関係性」で論じた様に、「近江鉄の殖産の過程」で「琵琶湖から淀川」を経由して「原鉱石」を「内船」で「大阪湾」に出して、「摂津青木氏部」に「鉄の原鉱石を運び入れる道中」があって、その「運び込まれ得られた鉄」を「日野等」に先ずは支給して、「伊勢屋」は「鉄製品、最終は銃」を先ず生産していたのだ。
これに薩摩藩などが密かに目を着けた。
前段でも論じたが、そもそも「古代期」に「日野」は、「殖産の四つの近江鉱山」の「鍋窯の日用品等」の「鉄鍛冶屋」としての「鍛冶屋の摂津の影響を受けた有名な職域」にあって、そもそも「青木氏部の商いの範疇」にあった。
その「殖産の背景」で室町期には、「銃の生産・限定期間中」にその後匠等は「全員伊勢に引き取ると云う事件」が興ったのだ。
各地の豪族等は、「銃と云う事」に着目して「銃」よりもその元に成るその“「鍛冶職・かぬち」を摂津と日野で丸ごとに獲得する”と云う直接的な武力行動に出たと云う事に至ったのだ。
この「歴史的経緯」があり、それで「摂津」ではこれ以上は無理であるとして「伊勢に引き取ると云う行動」で対抗したのだ。
それからは前段でも論じたが「伊勢での銃の製作と云う過程」に入ったのだ。
元々は前段でも論じたが、「伊勢の青木氏」では古来より「朝廷」などに納める「日野の飾刀/特定範囲」としても数は少なくも「朝廷用品の実用品物・供納品」として「賜姓五役」の一つとして「青木氏部」で造られていたのだ。
それが前段でも論じたが、一時、戦乱に巻き込まれた時にこの「日野鍛冶匠」は「伊勢青木氏部」に一斉に逃げ込み組み、「伊勢の部」に組入れられた経緯があった。
ところがこの一部が「伊勢」に組しなかった「非組合員の他の匠等」は、薩摩等に侵略され引き連れられていった経緯があった。
この関係で「古来の飾刀鍛冶の技量を有していた匠等・青木氏部・鍛屋院」が「賜姓族の賜姓五役」から多くのいた事が判っている。
恐らくは、当然にこの「賜姓五役の殖産の経緯」から観ても「この時の技量が生かされた事」と考えられる。
そこで、では、“どの様な技量が生かされたか”と云う事に成る。
何度も論じているが、先ず元を質せば、「院号を与えられた施基皇子とその裔系」は、その結果として「伊勢の五つの大字」を与えられた所以と共に、それに伴う「国造差配頭の位置」にもあって、且つ、「鍛屋院・かぬやいん
」の「青木氏部を独自に持つ数少ない氏族」であった。
その「伊勢と信濃の氏族」がそれを総合的に生かすその延長線上にはあって、故に当時の「技術水準の最高位置にいた事・令外官として国造支配」は頷けると共に、更には「それをリードしている青木氏部の立場」にもあった事」に依るこの“「二つの技量」”が生かされていた事に成る。
注釈 筆者は、「天武天皇」が、“朝廷の高官の中には専門の官僚と成り得る優秀な大和人がどれたけいるか”と聞くと云う事件が起こったが、この事に注目している。
“官僚に変わり得る高い技量の持つ部人を持つ氏族がどれだけいるのか”と問われたが、その答えは“いない”と云う「返答」が返って来たとある。
殆どは、後漢の職能集団の帰化人であった。
この時、「令」を発したが、この時の令の「因事菅隷」の通り、殆ど「施基皇子の後裔の伊勢青木氏以外」には専門家は居なかったと観ているのだが然し勿論に[官僚族]では無かった。
この物語るところは百々の詰まりは、「伊勢の施基皇子とその裔系」は「因事菅隷の青木氏部を持つ氏族」を形成している事は既に重々に承知していた事である。
然し、その中でこの発言を発するという事は大きく気にしていた事から発したと観ているのだ。
つまり、「後漢人」に左右されない「青木氏部」の「独自の専門的レベル」が政界を騒がす程に高かったものである事を証明している。
それだけにこの“「因事管隷」”は「青木氏の歴史」を知る上で忘れてはならない「青木氏に大きく影響を与えた事」に成る「史実」と成る。
それには先ず「青木氏に与えられた院号を調べる事」なのだ。
それに「最も有力な院屋号」は、この「伊勢」に最低で四つの大字を功績として与えられ、それを下に莫大な私財を投じた「近江鉱山開発の特別な院屋号」である。
つまり、「近江鉱山開発の青木氏部が持つ院号屋号」であるが無いと云う訳には成らないであろう。
そもそも、本来は、彼等に対して「朝廷の太政官」が「天皇」に代わってこの様な「令」を発するが、「奈良期の皇親族」ではこの「太政官」に代わって「永代の賜姓五役の格式」に於いての「永代令外官」として間違いなく「因事菅隷」を実施した事が書かれている。
「皇親族=太政官=賜姓五役=「令外官」=「浄大一位格式」に依って「因事菅隷」があって、「令外官=永代浄大一位格式」は「太政官の上位」にそもそもあったと記されている。
取り分け、「政治の事」は兎も角除きそれ以外の発言権に関して優先権を有していた事が「佐々木氏の研究資料」等にも記されている。
故に、この事から「青木氏部・因事菅隷」は先ずはその「見本の様な立場」にあって「先導役」として走っていたと観られるのた。
「青木氏部」は、要するに「奈良期から平安期」までは現在の「国立技術院・工学院の様な立場」として活躍をしていたらしい事は判っている。
然し、ところが色々な資料を散見するが、それらしき確実に明記した「院屋号名」が表の記録に出て来ないのだ。
これは「考え方」に依っては、この「因事菅隷」そのものが「青木氏」にある以上は、「工学院」と云う“院が別に存在したと云う事”では無く、「因事菅隷」を持つ「工学院=青木氏部」のそのものの呼称では無かったかと観ている。
要するに「青木氏部」が「因事菅隷」を持つ以上は「青木氏部=院屋号」であったと云う考えも成り立つ。
この「青木氏部に関する事」では、「近江鋼の鍛屋院の号等」の「幾つかの類似の記述」が観られるが、これが「総合の技術院や工学院の号」も得られていた可能性がある事を物語る。
要するに当時は、「工学院=鍛屋院等の号」にあったと観ている。
そうでなければ「日本最初の近江鉱山開発」は、「因事菅隷」として「青木氏」に命じ無かったであろうが命じているのだ。
それが「賜姓五役としての令外官」であったのではないだろうか。
筆者は、その「院屋号の前提にある事」として、因みにその「進んだ技量」の中でも、この「青木氏部の中」に論じている様に、つまり、一つの証明として古くから「朝廷に納める飾刀の工程」のこれが青木氏部の中にあった事を明確に物語る様に、「全ての技術の院屋号の所以の代表品」は、この「朝廷の飾刀・飾剣」にあったのでは無いかと観ているのだ。
だから、「日本最初の近江鉱山開発」にも「工学院=鍛屋院の号・鍛冶院・・かやいん・かぬやいん」は下されていた筈だ。
だとすると、第一に、「鍛屋院の号」が無ければ「鉄」を掘り出してもそれを裁いて「利益」に持ち上げる「商い」もしなければ成らないのであるとすると、これを認めている「占有権・独占権」も無くてはならものであるし、況してや、そもそも「因事菅隷」を出しているのだ。これがある以上は絶対に「占有権・独占権」は成り立っている筈だなのだ。
この事で、故に後に基礎的に「飾刀の工程」が持つこの「青木氏部の基礎技量」が生かされたのであろうと考えられるのだ。
それが「天武天皇の問の前提」にあったのであろう。
その「高度な技量の詳細を語る事」にあるが、実は専門的にこれを論じると、下記の様にそもそもこれは「発想の域」を超えているのだ。
当然に、上記のこの「結晶の変態現象・トランスフォメーション」、即ち、「高温に依って起こるオーステナイトと云う鉄と炭素の結晶体」での「結合体」が、一瞬にして突然に「全く違う「別の結晶体の物に変化してしまう現象」を云うが、これに依って起こる「変態した結晶体・この世では通常で起こる事では無い結晶の現象」、これを別に「マルテンサイト」と云うが、これが「鉄の表面に文様」として何らかの形で出て来るのである。
それを以てこの「マルテンサイト」が起こっているかは、別として、それが「良い飾刀にもそれに近い模様が出て来ている事」に成るのだ。
この「論理的で不思議な高度な現象」が起こっているその事が、この「奈良期からの賜姓五役の目的の青木氏部の高度な技量」に依る「飾刀工程の表れの文様」であるりだ。
つまり、これを専門的に「刀文・刀紋」と云うが、これにこの「マルテンサイト」が相似すると当初では考えられていたのだ。
然し、これに成るには、その前の概念としては先ずは“「奈良期の第一段階の基礎・飾刀」と成っていた”と考えられていたのだ。
「飾刀・直刀」は、未だ奈良期初期までは「中国と韓からの輸入品」であって、殆どの物は「鍛冶物・かぬもの」はそうであったのだ。
その後の事は上記した「天武天皇の因事菅隷による変革」で進められた。
この一翼を背負わされたのは「青木氏部」であり、それが「近江鉱山開発」に始まる「大和の事・大改革事業」に成るのだ。
さこで「銃の欠点の克服」の「技術的な経緯}としては次の様に成る。
この「平安期まで飾刀工程の流れがこの「・第一段階」であった。
更には、上記の「平安期の技量の第二段階の基礎・殖産」と成ったのだ。
次には、上記の通りに相当に難しく成った「室町期の技量の第三段階の基礎・銃」と成った。
その「技量の経緯」は「第四段階の銃の完成期」と成った。
以上と次第に進んだと成るのだ。
「銃の欠点の克服工程」は主にこの「第三段階}からであろう。
そこで、その「概要のメカニズム」は、そもそも「この第四段階までの現象」には、この「奈良期から室町期」までを通しての「歴史的な飾刀の刃文・刃紋の進歩」と相似してそれが「表・銃身」に現れて来るのだが、ところがこの「第四段階までの現象」だけはこれを覆す様な現象が起こっている事に気が着く事に成るのだ。
それが次の様な時に起っている事に成るのだ。
そこで「鉄の製鉄基礎論」から「銃に対する概要論」をここから述べる。
先ず「鉄の製鉄基礎論」に関わっていた時期の「飾刀・直刀期間」の経緯には、上記した論の「鉄の歴史」が伴うが、「初期・江戸期まで」は「砂鉄の玉鋼」と呼ばれる「金属原材料」で原始的に維持して敢えて全てが造られいたが、[青木氏部」では要するに上記した「後の近江鋼鉄の銃に使われた様な進んだ共析鋼」には、これに「近い鋼の原理の事」に相当するのである。
そこで、「刀にする為に鍛える工程」で先ず論じて観るとする。
そもそも、これらを「刀にする為に鍛える工程」とは、そもそも、その「鍛える度ごと」にその「表面」、又は、「断面の光の文様」や、その「板鋼の折重ね具合」を見定めて、その中でその「砂鉄玉鋼の性質」を見極めて重ね合わせて厚くして行く工程なのだが、「刀紋」はその過程の模様である。
その数度の工程を以て幾重にも重ね合わせた状態にして加熱し叩いて鍛えて接着させて強くするが、「刀紋」はその強さを表す模様である。
これ等は「叩く速さの時間と叩く力」に左右されて「刀」に成るかは決まり、それが正常にて出来ていなければ「その鍛えている刀」には「内外部に亀裂と剥離」が起こり「玉鋼の刀」にはならないのだ。
そこで、その欠点を防ぐ為に「複雑に性質の違う幾種の違う玉鋼の鋼片」を折り重ねて、ある「高温加工の熱状態」、但し、「この・温度」を間違えると成らないので何度も鍛えるが、この時に「匠の技量の差」が問われるのだ。
その「違う性質の玉鋼が重ねられる事」で、その「折重具合の断面」は“年輪状”の様に「折り重ねた鋼」と成り得る。
この事が重要であって、「玉鋼の場合」に依って、要するに「折重具合の違う金属特性の複合特性」で「刀の長短の特性」を導き出す「製造方式」であるのだ。
その「炭素の特性の性質が違う砂鉄」、即ち,「玉鋼」では「鉄で炭素との結晶の結合体の事」であって、そこには「表面」もその「断面」にも「折り重ねて鍛えた結果」として、「重ねた平鋼板の良し悪し」を見極める事が出来るのだ。
それには、「重ねた平鋼板の良し悪し」は、その「平板の重ね具合」はこの「刀としての刃先形状」に全てを出す為に、その「刀の長手方向の刃先先端の断面」を「刀形状の三角に削り磨く」が、この時にその「重ね合わせた鋼の色合いの文様」が、この「長手方向の刃先先端の断面の断面模様」に出るのだ。
これが「刃文」と成り共に「先端の刃先文」としても出るのだ。
この「刃文」と「先端の刃先文」で「砂鉄の玉鋼」の「刀の良し悪し」が決まるのだ。
多くは「先端の刃先文」で見極める事が出来る。
要するに、「鋼にしたものを重ねる事」に依って「表層状態」に強度を増す様に成るのだが、「一枚の鋼」であるとその「内部は均一性に欠ける事」の為に、一か所に「応力・力」が掛かり弱いし折れる。
そこで、この様に「玉鋼の日本刀の構造」は、「大樹の年輪」の様に、複雑に特性の違う“「玉鋼」”が造られ重ねられる事で強く成り、それが「外観の色変化」として「刀文・刀紋」と「先端の刃先文」」として二つに現れるてくる事に成るのだ。
この「刃文」と「先端の刃先文」」は、“「適度な急速な冷却効果」”に依ってより現れるものであるのだ。
取り分け、従って、この「刃文と先端の刃先文」を見分ける事、特に「刃先の先端に出る文様」で「匠・刀師の技量の良悪」と「その刀」のみ成らずその「工程の技量の良し悪し」も判る事に成るのだ。
さて、そこでこの「良い刃紋を出す」には、その主に「熱の如何」が問われのが当然である。
この「加熱」を一定の速さで下げる為の“「冷却」に伴う「良し悪し」”も判り、その「鋼の炭素と加熱と冷却」と、その「過程の模様・経緯」も僅か乍らも「刀の表面と破面」にも表れる事に成るのだ。
故に、この「加熱と鍛圧と冷却の三つの如何」に依って上記した「マルテンサイに近い模様」は得られるが上記の工程の「・砂鉄」には結晶は得られない。
然し、それに「近い模様」が「良い刀全体」にも表れて来るのだ。
但し、上記した「近江鉄」に依って得られた「銃の工程」と違って、この「刀の場合」は、実はこの“「マルテンサイト」”は得られていないのだ。
つまり、得られる為に必要な条件に到達していない物が多いのだ。
殆どは、「玉鋼を幾重にも重ねて鍛える事に依って出る粘りと硬さの影響」で成り立っているものである。
何故ならば、この上記した“「マルテンサイト」”が得られたとしても放置すればこの世の「変態」で在る為に「破壊」が必然的に起こるからで、此れを防ぐ「ノウハウ」にも「超高度な技術」に到達ししていなかった事にもあり、且つ、基本的にそもそもこの“「マルテンサイト」”にも、「砂鉄」から得られる「玉鋼」で在る限りは到達していなかったものがあったと考えられる。
つまり、「砂鉄の玉鋼」では、必然的に「0.8%共析鋼」に成り得ていない事に成るからだ。
ここが論理的な大きな違いである。
従って、「銃の欠点」を克服する為には「初期」には先ずは「飾刀の経験・647年から650年頃に開始」から入ったと考えられるが、この「青木氏部」では、「近江鉄」として追及した「0.8%共析鋼・755年頃に完成」とは成るが、此処でこの「近江鉄・703年713年」を使いながらも「初期の初期」に「中国から直刀輸入640年頃していた」ので「初期に直刀・砂鉄玉鋼理論」を「製鉄」に参考にしたが、5年も経たずに直ぐに「近江鋼の開発」に入っているので、先ずは躓いたと考えられ、直ぐに「近江鉄の製法の確立」に入っている以上は「飾刀の経験・647年から650年頃」も「近江鉄」で入り直したであろうし、それが「銃の製法・基礎」に結び付いて行ったのだ。
こと程左様に、平安期の当時は、この「技術としての確立した概念」を持ち得ていたかは定かでは無いが先ずは無かったと考えられる。
この「刀のノウハウ」からは「刀の良し悪し」は、この「上記のマルテンサイト」にする為の「匠の技とその有無」が左右する事なので、だから、少なくともこの「マルテンサイト」を「自然破壊」から救い維持する為には、重要なのは「一定の冷却」と、上記した様に其の侭では「内部応力・自然界ではあり得ない別の物に変化する変態現象」に依り「自然破壊」が起こる。
但し、「マルテンサイトの呼称・英とドイツの呼称」は何処にも記載は無い。
この「変な現象を起す事」は、概念的に「青木氏部」では把握していた様ではあるが、そこで“何と呼称していたのか”を調べたが資料的には何処にも見つからない。
後に「貿易」で「冶金学的な事」を江戸初期前後に把握している事からすると、「貿易」で伝わった何等かの呼称があった筈で、それが何なのかであり、「銃」に対して少し遅いが拘わりの度合いが判る。
それを論じる。
実は、“らすぅ”と云う言葉が一か所に確認できるが、これがその「呼称」として使われていたとも考えられる。
その「根拠」は、そもそも外来語の“らすぅ”とは「トラスの原語」であって、“構造物を意味するもので物理学でもよく使われる。
「呼称」としては、この「らすぅ・ラス」は、「マルテンサイトラス」、又は「らすマルテンサイト・ラスマルテンサイト」としも使われる事が可能な用語である。
筆者は、この「らすぅ・ラス・トラス」と云えば、この「マルテンサイトの様なものの構造体」と訳していたと観ている。
恐らくは、この「らすぅ・ラス」は、当時は輸入された「専門用語」であったと観られ、「マルテンサイト」に限らず「構造体」を指していた呼称であったと考えられる。
その「構造物」とは、“原理的には幾つかの柱の様なもので結合し互いに引き合い強度を保っているもの”であり、例えば、“氷や雪の結晶の様なもの”もそれに当たるだろう。
当にこの「密に成った複合的な構造物」の「マルテンサイト」も、その「元の鉄と炭素の結晶体」もこれに当たるだろう。
“「らすぅ」”は遊園地にあるジャングルジムである。
この記している呼称の“「らすぅ」”は、「一つの構造物」と認識して記していた事は間違いは無いと思うし、「貿易」に依って得た知識であった事が解る。
と云う事は、“「鉄」が別の「一つの構造物」に成った“という事は認識していた事に成るだろう。
そして、それが、“「氷や雪の結晶”の範囲」で観ていた事に成る。
と云う事は、“砥石で磨いて光を当てて腐食させて観ていた”とする行為は頷ける。
唯、この記述は一か所にのみに記されて散見されていたが、この事がどの様な意味を成すのかは色々な意味を持つ。
「特別な言葉」なのか、「汎用的な言葉」なのかは判別が着かないが、少なくとも書いていた事の「らすぅ」は、“「銃の欠点」を補う工程のみ”として書き、それを「匠の範囲」では使われていたのであろう事が予想できる。
依って、「古来よりの技」の「飾剣・飾刀の範囲」では使われていなかった事に成り、故に、日本語に無い言語の「らすぅ」に成っていると考えられる。
何時頃にこの「言葉・呼称」が用いられていたかはその所以は「銃に関わる事」であり、且つ、「銃の欠点」を補完に成功した頃には既に「貿易」に依って入っていた事に成る。
とすると、この記述から観ると、少なくとも前半の「1540年頃以降から1550年頃まで」であるので、そのそれを獲得する為に試行錯誤していた頃の事に成る。
そもそも、筆者は最初は「全体の文書の読み込み」に苦労していたので、この「らすぅ」の「単語の言葉」までに気が着かず素通りであった。
ところが、後に成ってふと気が着き、この“「らすぅ」”の言葉が何を意味するのか意味しないのか気に成って改めて読み直したが、その意味する処が暫くは判らなかった。
つまり、「らすぅ」が“「トラス」に繋がる”と云う発想まで出なかった。
この「トラス」は筆者の専門域の「物理の構造体の専門用語」である事である事が良く判っていたが、「らすぅ」と書かれていたので“ピン”と来なかった。
よく考えて観れば、ある時、「トラス」は「ラス」として単語で使う事がある事を思い出した。
其の使う時が、「ある構造体」の前に着けて「ラス・・・」と使う事がある。
そもそもその「ある構造体」とは、普通は「トラス」は主に“「三角形を基本構造としてそれを組み合わせて正方形にもする構造体」”の事で、ここで議論している「マルテンサイトの様な「変態で起こった構造体」は“「稠密六方晶」”と云う「特殊な方位の構造体」である。
この様な場合は「ラス・・・」として“「三角形を基本構造としてそれを組み合わせて正方形にもする構造体」”として表現する事に成っていて、この「マルテンサイト」は“「稠密六方晶」”なので「ラス・・・」として表現する事は学問上は正しい事に成る。
そこで「らすぅ」は「日本語表現」で、スペイン語やポルトガル語の様な「母韻原語」ではないので、この「英語やドイツ語の場合」は「トラス」の「トのtの発音」は「子音の無音」の発音と成る故に、「青木氏部」では「らすぅ」と聞こえたと考えられるし、又、「ラス・・・」で「らすぅ」と受け取った事になろう。
「らすぅ」の「ぅ」は「日本人特有の耳と口の癖」に依るものであろう。
これを記述した者は「神明社の祐筆」であった事から、尚更に言葉に「韻」を含める使い方と成ったと考えられる。
兎も角も、何れにしてもこの“「らすぅの表現」”は、「銃の欠点」を補完した「0.8%の共析鋼の変態構造」の事であった事に成ろう。
この“「らすぅ」”では、「文献」で会得したものなのか、「指導の外国人技術者」を招聘したかは判らない。
「貿易」をしていた事故に、「指導の外国人技術者の招聘」は充分にその能力は有り得たと考えられる。
故に、この“「らすぅ」”の言葉からも、「銃を成功裏に治めた事」が云えるし、「近江鋼の使用の事」と「0.8%の共析鋼の変態構造の事」も納得できる。
だとすれば、「フリントロック式改良銃の近代銃であった事」も証明できる。
もっと云えば、「三方ヶ原後」に暫くはこの「銃」は保全していたが、その後完全にこの世から遺さずに抹消した事も頷ける。
それは「指導の外国人技術者の存在と招聘」から、その「銃の西洋での殺戮具として使われた事」を耳にし、又、「指導の外国人技術者の進言・条件であった事」も充分に考えられる。
さて、そうすると「指導の外国人技術者の進言・条件であった事」があったとして、“20年間の試行錯誤はの期間は長いのでは無いか”という素朴な事であるが疑問が湧く。
その疑問に答えられる事がある。
それは、前段でも論じた事ではあるが纏めてみると次の様な事が上げられる。
1 「フリントロック式改良銃の近代銃であった事
2 日本人にあった額田青木氏に合わせた銃であった事
3 特別に4発式回転式自動銃にした事
4 持運びの中型銃にした事
5 火縄銃式では無く硝石型(火打式)でした事
6 長距離銃にした事
7 銃の欠点を無くした事
8 量産型にした事
9 近江鉄を使い玉鋼を使わなかった事
10 准高炉型製鉄にした事
11 反動型銃にした事
12 立膝型銃にした事
13 操銃に合せた編成隊を考案した事
これ等の事が解決しなければ「額田青木氏としての銃」とは成らなかったのだがそれだけの[伊勢青木氏の要望]は高かったのだ。
判る範囲で以上と成るが、これ等は「指導の外国人技術者」の「指導」だけで解決し得る範囲では無い事が判る。
現に、「額田青木氏としての銃」の為に、この「銃での戦い方」で「伊勢の秀郷流青木氏」が担当しているという事は「青木氏の要望」が作戦の成功の為に「絶対的な必須条件」であった事を物語り、「銃の仕様」には「相当な要望」があった事が云える。
故に「指導の外国人技術者」が存在していたとしても「20年間と云う期間」を敢えて要したと考えられる。
「銃製作の要領書的な片鱗]のものが密かに遺されていたとしても「指導の外国人技術者」をものがたるものは何も遺されていないのだ。
唯、「青木氏や伊勢屋の状況証拠」から考えれば充分に有り得る事で否定は出来ない。
そもそも全国行脚の「僧侶や絵師や彫刻の匠等の修行者等」の長期宿泊する「特別の厨」がつい最近まであった事も、又、親族や店子や客等が慰安を兼ねて泊る「庵」も各地各所にあった事が確認されていて、筆者も子供の頃にここに宿泊した事がある。
摂津や松阪や桑名には当然の事として外国人如何に拘わらず「指導の技術者」の宿泊はあったと考えられる。
そもそも、これ以外に「神明社や清光寺の宿坊」もあったのだから「指導の外国人技術者」の存在は筆者は在り得たと考えている。
上記した“「らすぅ」の記述の言葉”は間違いなくこれに関わっていただろう。
話を更に戻す。
そこで、この「砂鉄の玉鋼」では無い「近江鉄」での「0.8%C共析鋼」での「変態現象」で得た「稠密六方晶」の“「マルテンサイ」”を「自然界」で存在し得る様にする為に研究されたが、“「少し緩める適度な戻し作業」で、現在では学術的に確立していているが、「ある極めて低い温度範囲でのテンパーと云う処理」が必要に成るのだ。
「近江鉄の銃の欠点の対策」では偶然結果で「灰中の長時間保存」で獲得した。
この「ある極めて低い温度範囲」とは、一般で云えば「テンプラ油の温度」よりも低い「150度程度の温度」であり、[150度程度の低くてゆっくり冷やす程」に、その“「マルテンサイ」”の効能を下げる事なく高い効能で得られる事が解ったのだ。
時間があるのであれば「150度程度」で「2日程度から3日程度・48時間~68時間が良い事が判った。
そうすれば“「完全な稠密六方晶」の「良質なマルテンサイ」”の範疇で得られるのだ。
そして、上限は“「完全な稠密六方晶」の「良質な「マルテンサイ」”を前提とするのであれば「灰中」であるので「150度・4日」と云う処であろう。
後は、“「完全な稠密六方晶」の「良質な「マルテンサイ」”をゆっくりと衝撃無く下げて行く事に成ろう。
故に記録から観て、“「焼灰の中でという事」”であったので、“150度程度の低くて極めてゆっくり冷やす程に「マルテンサイ」の効能を下げる事なく高い効能で得られるの範囲”を使ったと観ている。
これは「灰中150度3日の加熱」は温度のばらつきから難しかった様であった。
当時としては、別の面で「灰中」以上に上記のばらつきを解決させる効果的な「植物油の利用」はあった筈である。
それが高額であった事から食用等に限定してあったが、「青木氏部」も「殖産の工業等」には使っていなかった様だ。
「殖産の関係」からその記録が多くは散見できないが、その僅かな記録を観ると面白い事が起こっていた事が記されている。
それは「関西」からその「油使用」が、「食用類」などにもその関西人の性格から面白半分で積極的に使われ始めたのだが、その前はその絞った「絞粕」の捨てる場所も無かった事から、「ミカン畑等」に無造作に捨てられていたとある。
然し、ある時にこの「和歌山や瀬戸内の周囲」の「害虫に依る田畑の病気」が関西域全域に大流行した。
この時、この捨てていた「みかん畑」にはこの病気が不思議に起こらなかった。
そこで、これをこの「害虫被害」の受けた「田畑」にも蒔き捨てた処、「田畑の病気」は完全に治まりそれと゜ころか大生育して効果がある事を確認した。
その「生産」は、当初はその結果として「油の使用」よりその「絞粕用」として「生産が高まった経緯」があり、当然に其れに連れて「油の使用」が増えた。
結果として「油は安価」に成り「食用」にも研究されて使われる様に成り、その果ては「工業」にも使われる様に発展して行ったのだ。但し、関西域だけであった.
その時期が室町期中期から始まり、可成り遅れた江戸期に入っても「江戸・関東」でもこの「病気」は広まったが当初は「江戸気質]で毛嫌いして使われずにいたが、背に腹は代えられないとして使われる様に成ったと記されているのだ。
要は、「窒素リン酸カリの有機剤」であり、「土中の微生物」を増やし、これで害虫と病原菌を減らすとともに、主に「チッ素肥料」として植物の栄養を多く供給すると共に、「害虫を遠ざける働き」も多く強くあり、この「絞粕」の中には「アブラムシ、ハダニ、コガネムシ等」を、取り分け当時の「椿油かす」には「ナメクジ、カタツムリ、バッタ」等を撃退する効果があるし、「もと枯れ病」や「バッタやイナゴ」もこの頃に大発生したとあり、このところから「窒素不足」が原因していたと考えられた。
この時の記述はこの「微生物の増加」と「虫の撃退」の効能が働いたものと考えられる。
「植物油の使用」は、人類起原にほぼ一致するが、「鉱物油」に関しては発見は江戸期初期の1690年代に発見されているが、「限定的な使用」はエジプトの古来に「アスファルト」として「接着剤」として工業的に使われていた古い記録がある。
人類に多く利用され始めたのは「1855年」からで、生活に密着して使われたのは「1890年代」の「アメリカ」と成っている。
従って、室町期中期頃には未だ「鉱物油での使用」は未だ無く、況してや「冶金的な物への利用」は「1890年代の事」で、勿論の事無く直接に冶金的な物への使用も無かった。
従って、「冶金的な冷却材としての使用」は「植物油」に限られていたが、極めて高価で使用は困難であった。
又、使えたとしても「冷却時」に「熱」に耐えられずに「油」が分解して「炭化してしまうと云う事」が起こり、「冷却材の使用」には耐えられなかった筈だ。
つまり、「上記のマルテンサイト」を獲得する事は、元来、「砂鉄の玉鋼」は、勿論の事、「近江鉄」の場合にも難しい事であって、元より原理的に使っていない。
後は冷却としては「水の冷却」と成るが、「砂鉄の玉鋼」は「マルテンサイト/変態」が起こらない為に、「ある技能の範囲」で使用は可能であった事が記録から解っている。
では、その“「ある技能の範囲」”とは、どの様なものであったかを過去の資料の経緯を辿りその論理を考え合わせて考察した場合には次の様であった。
先ず「水の冷却」には、その「冷却と云う点では大きな効能」はあるが、逆に逃れ得ない欠点もあるのだ。
それは先ずは「一つ目」としては“冷えすぎると云う欠点”である。
物理・冶金学では、“何でも冷えればよい”と云うものでは決して無い。
「ある一定の冷える遅い速度」が必要であるが、それ以上に速いと「上記のマルテンサイト」のみならず、その「本体の鉄と炭素の結合体」に、更には、その「結晶」に異常を起こし、破壊するか、又はそれの破壊に相当する近い事が興るのだ。
先ずは、それには少なくとも「約5S以上」に「緩やかに冷却する事」が必要で、これ以上に速く冷却すると、先ず間違いなく「強烈な破壊濁音を出して破壊」が起こる。
この「季節変化」に伴うこの“「水の温度の冷却」”が、この「約5S以上」に保つ必要があり、そもそも極めて難しいのだ。
何故ならば、ここにはもう「一つの理由」がある。
それは、「春夏秋冬」には“「水の温度の冷却」”がかわり一定に保つ事には困難が伴う。
夏の様に高ければ氷などで冷やさなくてはならないし、或いは「一定の冷温」を保つ「井戸水」が求められる。
然し、“「水の温度」”が高いと水分中に含まれる「空気」が膨張して「大量の泡」を発生させてその「泡」が品の表面に密着し極端に「冷却能力」を著しく低下させ、“「水の温度の冷却」”に合わないのだ。
最も嫌う事がこの“「水の温度の冷却」”で起こって仕舞う事に成るのだ。
夏場で「水温」が高くなると、では冷やす為に「冷たい水を足す事」はこの「空気の量」が逆に増えて出来ないのだ。
「冬」もこの逆であり、「暖かい水を足す事」はこの「空気の量」が逆に増えて出来ないのだ。
秋と春も同然の事が起る。
兎も角も、「水の温度の冷却」”の三つ目では、「焼入・冷却」の為に新たに水槽に水を入れると「焼入物・冷却物」の「強烈な熱」で「水槽の温度」は急激に上がるので「適切な温度・約20度・約5S以上・それだけの広さの水槽要」まで到達するのを待つしかない事に成る。
出来得る事ならば“「使い古しの水・濾過」”が“「空気と不純物が少ない事」”から水が“「軟化・アルカリ成分が少ない軟水」”にして最も好ましいのだ。
「上記の事」が「春夏秋冬に「水の温度管理」ができるかに関わるのだ。
「砂鉄の玉鋼などの刀の処理等」では論理的に難しい事になるのだ。
逆の事として、「近江鉄の0.8%C共析鋼」に於いては「青木氏部」では此れを克服する必要があった事に成る。
その意味でも、「植物油」にしろ「鉱物油」にしろ「水」より好ましい事が解るし、冷却速度の比熱でも良い。
因みに、「セルシウス温度」で、水1gあたり1気圧で1度の温度を上げるために必要な熱量の事で、水の比熱は1とすると、これに対する「油の比熱」は「0.5」である。
結局は「油/水=1/2」であるので、「温度管理」では現実的には「油の方」が優れている。
物質1gを1度上昇させる為に必要な熱量がこの「比熱」で、 この値が大きいほど温まりに難く成り、 水の比熱が1に対して、油は0.5である為、水に比べて早く温まる事に成る。
然し、水と油を比べれば、水の方が温まり難く、冷め難いが、油の方が温まり易いが冷め易いのでこの2倍で冷め易く、「冶金的な冷却と云う点」では逆である。
云い換えれば、「冷やされる方」に執っては「水は表面を早く冷やす」/「油は表面を遅く冷やす」の原理が働く。
この事から“「室町期の中程頃」”では、「高価の件」は別として、「冷却能力」では油の可能性が出ていた事が解るし、「水の泡等の欠点」の少ない「油の使用」が検討されたのだ。
上記した「油粕の事件の記述」は、丁度、この頃の事で、「氏族」の一部の中には遺したこの資料では、何故に記述して遺したのかは判らないが、「冶金的な冷却と云う点」では逆である事が解っていて、「殖産」として「油増産」に入った事が考えられる。
「みかん畑」としていたので、「伊勢から紀州」の「みかん畑」に「油粕」を捨てていた事に成るので、未だあまり広まっていなかった。
ところがこの突然の事は次の様な経緯を辿ったのだ。
この「植物油の使い出だし」は、遺された資料より古来より細々と「食用への使用」であって、未だ「現在の様なテンプラ等の概念」は無かった。
ところが、関西では室町室町期中期に成って「下記の経緯」で突然に広まったのだ。
「植物絞り油の経緯」
「植物絞り油の使用の経緯」 =「食用への使用」→・「害虫除去剤への使用」→「肥料への使用」→「冶金的な冷却材への使用」→「食用への大使用」
その「切っ掛け」は上記した様に、関西で起こった・「害虫大発生の事件」からで思い掛けない事からその「除去剤」として急遽,“「大増産」”と成ったのだ。
更には、それが「肥料」にも良いと成って、「絞り粕と云う事」の“「大増産」”と云う事だけでは無く、「植物油」そのものの“「大増産」”と成って行ったらしい。
そこに、「食用油の使用」は、又、「比熱の点」で劣る「水」よりも、又、「焼灰」よりも、その中間にあり「目的」に適している事が解った「青木氏部」では、そこで、この“「大増産」”を切っ掛けに悩んでいたこの「冷却剤への使用」に、この「話題中の植物油」に「発想」を切り替えたと考えられる。
「学実的な冷却理論」もあまりはっきりとしなかった「本論の経緯」の中では、それは「試し」に切り替えて観るしか無かったのではないだろうか。
それは「伊勢の青木氏」としては「伊勢」に居るか限りは「長い伝統も立場」もあり、これは「世間へ義理を破る事に等しい事」であり、然しも世の中は、既にそれを迫る「鉄の汎用」と「油の汎用」と「肥料の汎用」との「切り替え転換期」に入っていたのでは無いか。
筆者は、この「時期」がこれ以外に「神に対する3つの正義・「神饌」<「薬用」<「禊用」」、つまり、「神饌」<「薬用」<「禊用」<「工業用・冶金的な冷却と云う点」<「食用」の関係性がこの時期に変わって来たと観ているのだ。
それだけに関西で起こった害虫被害の解決事件が社会に与えた影響は大きかったと観られる。
それは、“何故この様な「資料の記述」が「南勢の家人の家」に遺されていたのか”に対するこの疑問であった。
普通なら「神明社か清光寺の祐筆の係の者」が記し、その「書」が当然に其れが何れかの「青木氏の蔵・3回消失」に遺されていた筈であるのに、「南勢の蔵であった事」に疑問点があるのだ。
当然に、「植物油の原料の生産」とその「絞り工程」は、「南勢と南紀の殖産」として行われていて、その「粕の捨て所のみかん端」も「南勢と南紀」とすれば、「神明社か清光寺の祐筆の係の者」が関わる書では無いだろうか。
だからこの「植物絞り油の使用の経緯」は、記録に遺す程の相当な出来事であった事を物語るだろう。
ではここからは「植物絞り油の使用の経緯」は“どの程度の期間で進んだのであろうか。”で論じる。
次段でもこの論の続きを行う。
上記に記した“「室町期の中程頃」”である事には間違いは無いのだか、もう少し詳しく論じる。
そもそも室町時代中期頃までは、主に「作物]を育てるために使われていた「肥料」としては草木灰や刈敷等のアルカリ農法で焼き畑もその一つでこれを蒔く事が中心であったが、これでは害虫等を駆除できないでいた。
この「室町時代中期頃の害虫事件」で「肥料三要素の窒素リン酸カリ」を多く含む「油粕事件・バッタ事件・銃開発期に一致」で、一度に関西では変化を来したのだ。
ところが、「江戸・九州の方に先に伝わる」では「下肥」で済ませていたが何と「享保期飢饉・故に米も育たず害虫も大発生」まで使われなかったのだ。
結局は、この「関西農法」を採用し、その結果として「食用油文化」と「果物農業」も関東に広まったのだ。
最終、次段で論じるが、この貴重な食用油を殖産の銃開発に使ったのだ。
その「経緯」を前段で論じたが、もう一度殖産の経緯を辿って観るとする。
上記した様に「1540年頃」が実質の活用段階に入った事は解るが、では、それが「本論の銃での開始点」であるとすると、「植物油の殖産」は、「日本書紀」にも記されている様に「716年頃の前からの事・施基皇子没の2年後」で、「伊勢の裔系」は「令外官」として「部の国造(朝廷の命)支配」として働いていた。
「近江鉱の二つ鉱山開発」もその一つで、この時期と当時に命じられて行われていた。
この「大功績」に依って、“「伊勢の大字と民200」を「4回」に渡り「合計では民500・実質では民800」を得て、「土地・領地」ともに“「実質の伊勢の王」”と成って行ったのだ。
この上記した“「殖産が自由に出来る領地」”としては、当時の「伊勢の有効面積の80%以上を獲得・地権域含む」し、「実質の伊勢の土地を殖産等で実行支配する伊勢王」と成っていた”と記されいる。
注釈 ここで何か事件が興っていた様だ。
実はそれまでは、“これだけの功績を掲げながら何故か朝廷から「初代伊勢王」とは認められていなかった”のだ。
それまでは「第七位王位」であって「第四世族内の真人族」であり「冠位」は「天皇」に継ぐ「浄大壱位」で、「賜姓臣下族」と成っていたが他にこれ以上の冠位と官位を持つ者は例え皇族の皇子であっても存在しなかったのだ。
この「大功績」も含めても「伊勢王」として認められていなかったのだ。
つまり、「施基皇子」は「伊勢の王」とされながらも何か政治的なものがあって「初代の伊勢の王位」では無かったのだ。 来敵の孝徳天皇の第二第三皇子が一代限りの伊勢王に任じられていた。
ところが任じられて直ぐに毒殺されていて,第三皇子がこれに代わろうとした。
要するに「伊勢王」であるが「伊勢王」と成ろうとはしなかった。
つまり、従って「朝廷からの国司」が「伊勢」を官吏して、その者が「初代の伊勢王」と一時呼ばれていたとされていて、「伊勢王」とは認められていなかったが、然し、この「近江鉱山開発等の功績」で「実質王」として、「伊勢への遙任」から、それ以降は、施基皇子は領国に「赴任・着任・647年」からが初めて認められたのだ。
つまり、“「初代の伊勢王」が存在しながら「領国の伊勢の国」を管理し始めた”としているのだ。
「遙任中」は「三宅連岩床の国司代」の配置の前に、この様に「初代伊勢王」がいたが「伊勢への遙任」に“「ある事件」”が起こり、それでその遙任の地位を「天皇」から解かれ、その「都の一族裔系」と共に「伊勢」に赴任し「着任」が許されたとしているのだ。
実は“この伊勢に関わる「ある事件」”とは何なのかである。
気に成る事なのでここで先に検証する。
つまり、「初代伊勢王」とは、「施基皇子」の前は「空席」と成る事無く、“「一代限り」”で「中大兄皇子の政敵」で、「叔父の孝徳天皇の子供」が「伊勢王」と成っていたのだ。
この「孝徳天皇・在645年~654年」の「失脚」と共に、この「その2人皇子・伊勢王の子供2人」の「突然の病死(政争)・伊勢王」で、「天智天皇の施基皇子」がら「領国の伊勢の国」の「伊勢王を勤める事」に史実は成ったのである。
(注 斉明天皇・661年没~中大兄皇子662年)
「孝徳天皇の皇子の伊勢王」は“「一代限り」”で任命されていた。
「一代限り」である事と云う事でありながらも、「政治的な意味合い」で「初代伊勢王」と呼称されていたのだ。
「天智天皇・在662年~672年」の「第7位皇子の施基皇子・716年没」は「青木氏の賜姓」を受けたのは「飛鳥期の難波宮の都」で「647年の事」である。
先ず、「皇極天皇期」に「中大兄皇子・後の天智天皇」から「645年の大化の改新後の2年後に「賜姓・647年・臣下族」をして「伊勢青木氏」で受けていながら、政治的には次の様に成っている。
645年から「賜姓・647年」までの2年間
654年までの7年間
661年までの7年間
以上の「16年間」である。
一族が「天武期初期に移住したとする説」に従うと、「672年~686年の初期」の約11年間の以上の後期の2期を合わせて、「賜姓時」より「27年間」は「天智天皇即位の662年」までの“「16年間」”は都にいた事に成る。
表向きは遙任である。
これは「伊勢青木氏」ではあって「伊勢王・第四世族内真人族の王位」ではあったが「伊勢」にいなかった計算に成る。
これが、上記した「初代伊勢王」とは、「施基皇子」の前は「空席」と成る事無く、“「一代限り」”で、「中大兄皇子の政敵」で、「叔父の孝徳天皇の子供」が「伊勢王・2人」と成っていたとするのが「理由」と成るのだ。
但し、「伊勢青木氏の記述」を借りると、「叔父の孝徳天皇の子供」が「伊勢王・2人」の内の一人が死んだが、“もう一人が伊勢王”として続けたとしての事であり、記述はこの“もう一人が伊勢王”を“「施基皇子の中」”に組み入れて施基皇子「初代伊勢王」と成ったとしている。
これは“「施基皇子の中」とは、“もう一人の孝徳天皇の皇子”を“「父親・天智天皇の政敵」でありながらも保護した”と云う意味であろう。
そうする事で何事も無かった事にして、次は実質の「領国の伊勢の国」の「施基皇子が初代伊勢王」と成ったと云う事にしたのではないだろうか。
と云うのは、最早、この“もう一人の伊勢王”と成った者は、「孝徳天皇の皇子」であるとすると、「天武天皇期」では、既に、この間に「3人の天皇」が即位しているとすると、「大化の改新・645年」で定められた「王位の定義」は、「第四世族外の第五世族位か第六世族位の皇子」が成る者として決められていて、この“もう一人の伊勢王と成る者”は、既に「王位」に無く、既にこの時は「平族・ひらぞく」に成る「第六世族以上に居た筈なのだ。
「大化改新の詔」では「平族・ひらぞく」に成る「第六世族以上に成った者」は「関東・坂東」に配置される掟である。
所謂、「大化改新後」は「初代の坂東八平氏の始祖」と成る筈であった。
ところが「孝徳天皇の皇子」は「坂東」に流される前に政争で殺戮されたし、多くは自ら進んで政争を避けて「栗隈王の様」に一族挙って九州に臨んで配置されている。
此れを取り分け「第六世族」と成った「中大兄皇子の政敵の孝徳天皇」の「元皇子」を“伊勢の中で囲い救ったと云う事”に成るのである。
つまり、これ自体は大問題であるが「父の政敵の子」をこの「伊勢」で「施基皇子は匿った形」に成るが、“この時、何故か問題は起こらなかった”のだ。
既にこれは「脅威と成る皇子」では無く成っている事もあり、「政敵の脅威」とはならないし、「伊勢」の中に囲い込む事で他の勢力も含めて抑え込む狙いもあったと考えられる。
何れにせよ、これは今後の事を含めて丸く治めたと云う事であろう。
この記述から読み取れる範囲は、「北部」、つまり「伊賀」に配置したとある事から観てこの者は密かに「伊賀の氏人の一人」として後に「伊賀青木氏と融合させたと云う事」に成ろう。
さて、「伊勢」がいよいよ「施基皇子の第二世族王・真人族伊勢王」に成ったのは何時か”であるが、前段でも簡単に触れているがこの考察を序でにここでする。
「施基皇子とその裔系」は、「伊勢」に「正式に移住できた年」は、「孝徳天皇失脚の654年・歴史経緯説」か、「天武天皇即位の672年・青木氏の記述」の「二時期の二つの説」が成り立つ事に成る。
先ず、前者は、「天智期初期・654年」に“「遙任」”として「真人族王位の伊勢王」と成った。
つまり、都に居て「伊勢」には国司代を置いたがこれが「三宅連岩床」である。
“「遙任期間」”は“「18年間」”と成る。
次に、後者は、「天武天皇初期・672年」に願い出て「一族」ともども「伊勢」に“「赴任」”をした。
朝廷から派遣されていた「国司代」の「三宅連岩床」を都に帰した。
「前者の前期」は、「孝徳天皇の皇子・二人・一代限りの真人族伊勢王」で記述から読み解くと、“後に伊勢で匿った”とする記述からすると、「遙任」では無く既に「赴任」であったと考えられる。
この「赴任期間」は、「孝徳天皇・在645年~654年」の「失脚」とすると、「真人族伊勢王の赴任期間9年間」である。
仮に、前者と後者であるとすると、“何故、天皇の権限下で赴任にて一族を移住させられなかったのか”の大きな疑問が湧く。
この「赴任期間」は、「嵯峨天皇期弘仁二年・811年詔勅」までとある。
この「関係する詔勅」は、続けて「五年と七年と最後の十年の四詔勅」まで少なくとも「賜姓族」であって、“「伊勢王であった」”ので、“「139年間」”であり“「伊勢王」”であり続けた事に成る。
然し、「施基皇子没・632年~716年没・84歳」に依って「伊勢王」を解かれたのでは無く、これらの「四詔勅」に従えば、その内(湯原王、榎井王、白壁王、他三人)が「四家」を構成し補佐し、「後裔の福家嫡子・春日王」が「形式上811年」の「95年の間」までは“「伊勢王」”を続けていた事に成る。
但し、ところが「嵯峨期」に成って「出自元を擁護する派」の「桓武派」と、「皇親族・青木氏」であった「出自元の勢力」を弱めようとする「嵯峨派」との間で“「同族の政争」”が起こる。
つまり「桓武派」を推し進めていた「薬子の変」が起こった結果として「嵯峨派」が先手を打って勝つが、明らかにこれを“一族内の争い”と見做されていた「世間の評価・不評」で、「反発を受けてた嵯峨派」は、結局は譲り、「桓武派の代表の平城上皇」が、元の「信賞必罰の大権」を古巣の飛鳥の宮で握る事の「折衷案」で、「一族内の争い」は治まる。
従って、「形式上811年・95年間」」のまで続けていた事は、「信賞必罰の大権」を握った事の「折衷案」で、つまり、「平城天皇806年~824年」の「形式上824年」まで、この“「伊勢王」”は、更に“「13年間」”を延長され続けられる事と成ったのだ。
「遙任期間・18年」+「赴任期間・三期の」=“「139年間」”+“98年間”+“13年間”
=250年間
では、「時系列に歴史的経緯」を観ると、以上と成るが果たして、「現実の事態」と云うと「時系列の歴史的経緯」では治まっていないのが世の常である。
つまり、「824年以後」は、確かに「賜姓族」を外され「嵯峨天皇」から令外官の一部の立場を弱められ結果として、「伊勢王」では無く成っているが、本当にそうなったのかで在る。
実はそう成ってはいないのである。
確かに[250年の伊勢王」としては正式には終わらせられたが、唯の昨日今日と「朝廷から派遣された三等官の官僚族達」が「国司・伊勢王」と成っていた訳では無く、「伊勢郷士50人衆」を「氏族」として女系で血縁し、況してや「四掟」で「藤原秀郷流一門族316氏」と結ばれている「青木氏族の伊勢王」を外したからと云って、そう簡単に外れる訳ではない。
当然に「嵯峨天皇」に依って「伊勢国司の官僚」が朝廷から一時廻されたが務まらず、僅かの地に「出自元擁護の仁明天皇」に依って「天智天皇の奈良期からの不入不倫の権」に基づき「出自元の伊勢王」は復されたのだ。
その結果、「伊勢」には国司を置かず、「250年以降」は、南北に分け “「無足村主100人衆・郷士衆」”として「古来からの神域の伊勢」である事を以て自然発生的に「自治体の合議制」で治められる様に成ったのだ。
この“「無足村主百人衆・郷士衆」”には「氏族の伊勢郷士50人衆」も含んでいるのだ。
当然に「南勢」も「青木氏の旧領地」でもあり「北勢」と同然に“「無足村主百人衆・郷士衆」”は組まれたし、「氏族の伊勢郷士南勢50人衆」がこれに参加した。
要するに「村主衆」であるので「郷士衆の者」が代々務めた。
室町期には中には「府の役人」も務めていた者がいる。
「青木氏の記録」を観ると、その“「無足村主百人衆・郷士衆」”の「財政的な支援」を影で「伊勢青木氏」はしていた事が書かれている。
“「無足村主百人衆・郷士衆」”が「中央の政治圧力」に屈せない様に「独自性」を持たしていて「河川の修理等の工事」等にも「経済支援」や「技術支援」していた事が「商記録」等からにも書かれている。
中には史実として「中央政府」に対して「犯罪者などの引き渡しなどの交渉」にも強く関わっていた事が書かれている。
それは「鎌倉幕府や室町幕府」や「紀州藩との殖産等」で良好な関係が維持されていた事からの結果からであろう。
現実に、幕末に起こした「南勢」からの“「無足村主100人衆・郷士衆」の「伊勢騒動」に対して「紀州藩」と交渉して罪人を出さずに済ませた事もあった。
ところが、これに呼応して「北勢」の“「無足村主百人衆・郷士衆」”が動いたが「明治政府・薩摩藩等」が介入して「大伊勢騒動」に発展した。
これに対して、「薩摩藩主体の維新政府」とは、蔵等を焼かれる等の「犬猿の仲」であったが、「先導者全員斬罪の条件」に対して、古来より「献納をしていた伊勢青木氏」が裏交渉してこれを取り下げさせ「一人の先導者」が責任を取る形で事を納めたのだ。
これが「伊勢青木氏」が直接的に関わった「明治9年まで13年間の伊勢騒動・信濃を巻き込んでいる」であった。
当に、これは「伊勢王」であろう。
「250年後/272年」も間接的に「伊勢の事」に関わり、その「鎌倉期」からの伊勢の“「無足村主百人衆・郷士衆」の「自主の政治体制」は江戸末期まで続いたが、結局は、間接的であるか直接的であるかの「関わりの具合」であって、「支援」に関しては「政治」も[経済」でも「実質上の伊勢王」として勤めていた事に成るのだ。
ここに第一に奈良時代から取り組んでいる「殖産の伊勢青木氏」があって女系で何度も深く繋がっていたとすれば、“「無足村主百人衆・郷士衆」は、勿論の事、「伊勢の民」も誰一人漏れなく「潤い」と「治政の恩恵」を得ていたのであるから、伊勢王期間の250年、又は272年後」に、突然に「伊勢王」で無く成ったからと云って“「無足村主百人衆・郷士衆」は、勿論の事、「殖産」で「伊勢の民」等は誰一人左を向くような事は無かったと考えられる。
ハッキリ言えば、「伊勢の民の指導者」の“「無足村主百人衆・郷士衆」は「女系の血縁族の伊勢青木氏の氏族」であるのだ。
とりわけ、「純粋に氏族で形成している氏」は、日本に於いて「伊勢と信濃と秀郷流の青木氏」だけであるとすると、“「無足村主百人衆・郷士衆」は、最早、「250年後/272年」以上の「何度も血縁を重ねた親族の一族」であった筈である。
取り分け、「男系血縁族」では「親族でも主権争い」をするが、これは無く、「女系の血縁族」は「血の繋がり」を強くする。
これは前段でも何度も論じたが「人類」は、「女系のみの継承」による「女性の遺伝子的繋がり」から出来ている。
後勘から観てもどんな面から捉えてもこの“「伊勢王を外した”と云う「嵯峨天皇の判断」には「疑問」が残るが、そんな「伊勢王」の「伊勢」であった。
其の侭に「伊勢王」であり続けていた場合に何か拙い事が起っている要素があったのかと云う疑問がある。
「272年間」までが“「現実の伊勢王」”であって、それ「以後の明治9年」までは“「実質の伊勢王」”であり続けたと観ている。
注釈 前段でもになども引用する処はあるがこれを前提にこれ等の論を続けて読んで頂きたい。
確かに「伊勢青木氏]は「皇親族」として力を持ちすぎて「天皇の地位を脅かす力」はあったが、既にこの時はこの政治的争いに巻き込まれない為に徹底した「女系化」をして「青木氏側」から防いでいる。
これで「天皇の地位を脅かす事」は出来ないしないし、寧ろ、「桓武天皇や平城天皇や仁明天皇」の様にその力を利用して「地位の安定・財源」を図っても何の不思議は無かった筈だ。
突然に「天武系から天智系」で血の繋がる一族」と成ったとしても、そこは力を借りて安定を図るべきでは無かったか。
要は、「嵯峨天皇」が一般的に嫌ったとする「皇親族」としてその度を過ぎなければ良い訳だ。
それを既に見抜いて「施基皇子」が「氏是」にしているでは無いか。
寧ろ、「天皇家の方」から近づいてきているのだ。
それを信用するかしないかであって、「施基皇子」は歴史に遺る程に表の行動は「歌人」に徹しているのだ。
後は「院号」を以て「殖産」を続けていれば良い訳であるし、それを続けているし「献納・内蔵」もしているし「院号代/大蔵」を納めている。
要するに、現実には「天皇家の内蔵の方」が潤っていたのだ。
「青木氏」を「皇親族で地位を保っている」として「社会」に「諂い」し見せたくないとする態度を採ったとも思っていたのか。
然し、「施基皇子」は「歌人」として振る舞っている以上はこの説は当たらないだろう。
寧ろ、「嵯峨天皇」は「伊勢青木氏」に卑下したかであるが、何故ならば「後裔の春日王」も歌人であり全てに優れていたとされる。
「嵯峨天皇」に似て「初代の白壁王の光仁天皇」もその性質の傾向があった事が伝えられている。
然し、この奈良期からの「伊勢」に「250年後/272年」もの間に、「伊勢氏族50人衆」で「強固な基盤」が既に築かれていて、そこに「朝廷国司」が来たからと云って務まるかの疑問が残る。
現実には「経済基盤」と「支配の勢力基盤」と「軍事等の統治の政治基盤」が築かれているのだ。
これ等の協力なしでは何も出来ないのが現実である。
「朝廷としての税」にしても「伊勢弁財使」としても「税を都に送るだけの運搬の役目の官吏」であったろう。
それ故に「250年間」で「伊勢郷士衆50衆の氏族・北部」で構成されている国では、最早、「押領使の役目や弁財使の役目」は唯、無かったであろう。
従って、「824年」からは実質は「伊勢北部」は「伊勢国司不在」であったのだ。
其の後、この“「738年間の国司不在の伊勢国」”は、元より「郷土史・無足村主100人衆由緒等」に依れば、“「無足村主百人衆以上の村主構成人・郷士衆」で保たれていた事が記録から判っていて、取り分け「伊勢南部」も「伊勢南部郷士衆50衆の氏族」で保たれていたのだ。
この「伊勢南部」も云うまでもなく「奈良期からの伊勢青木氏の旧領地」であった。
ところが「奈良期からの不入不倫の権」を破って「戦国期」に成って突然に「1562年から1576年」の「8年間」に渡りに「朝廷の学問処官吏・公家」だった「北畠氏」が「貴族の武力」を以て「伊勢・1415年」に強引に入り込み南北朝期に「伊勢国司」として振る舞い、最終は「信長」に1576年に潰されたのだ。
約長くても「150年間」であるが、「伊勢国司としての役割」を果たした期間は実質無いのだ。
矢張りは、古来から「伊勢一国惣国者国衆」として有名な「伊勢の200余りの南北の無足村主百人衆の郷士衆」であったのだ。
彼等が参加しなかった後から甲斐と信濃から入って来た「工藤氏や神田氏や川久保氏等」との「伊勢の戦乱」であったのだ。
唯、秀吉はこれを見抜いていたのだ。
注釈 前段でも論じた様に、余談として、この「奈良期からの不入不倫の権」を自ら先鞭を切らずに「特殊な伊勢」に対して自ら手を下さず「北畠」に遣らせた「信長の策」に嵌まったのだと筆者は観ている。
この注目の「伊勢の200余りの南北の無足村主郷士衆」は北畠氏に着いて行かなかったのだ。
筆者は、古来から“「伊勢一国惣国者国衆」”として有名な「伊勢の200余りの南北の無足村主郷士衆」が従うと思ったところに問題があって、この「村上源氏を押し出した北畠」は余計な事をしたものだと思う。
「村上源氏以上の格式」を有する「伊勢一国惣国者国衆」に対して{武力」では護れはしない「伊勢]である事を読み切らずに馬鹿な事をしたと思うし、「伊勢」は其の様に一定期間振る舞ったのだ。
注釈 この“「伊勢惣国者」”で成り立つ「南北部の村主郷士の自治組織」は、江戸時代に成ってから政治的に利用され、「津藩の郷士の軍役の家臣」として利用され「政治の安定・取り込み政策」を図ったのだ。
ところが「南北部の村主郷士の自治組織」の彼等には、元より「経済的」に安定する「擁護の支援者・伊勢青木氏」がいた為に、「津藩の働き掛け」に必要以上に靡かなかったのだ。
中にはこの柵から抜け出せずに「軍役の役」を持ちながらも「無足村主百人衆」を捨てなかったのだ。
「典型的な事件」として「伊勢騒動の指導者」の様に、「津藩の役人」でありながらも主張する処は主張し自ら責任を取った指導者もいたくらいで「無足村主百人衆」を守ったのだ。
明治5年までの歴史が残っている。
ところが江戸期に入って「伊勢」は、「多くの支藩・紀州藩」が乱立したが、どの藩の家臣にも成らず「無足の立場」で「自治組織」を形勢していた。
又、この「土壌」を利用したのが「信長の楽市楽座」である。
更には「伊勢秀郷流青木氏の梵純」の「甥の蒲生氏郷」が、この「伊勢の組織」を利用して「伊勢」を上手く治め「信長」より特別の褒章を得た史実があるほどの忘れてはならない「伊勢の事を左右する程の自治組織」であったのだ。
況してや、「帝紀」で少なくとも「嵯峨天皇」は、「天智天武天皇の青木氏に下した命」は覆せないし、それを覆せない以上は「伊勢出自の光仁天皇・白壁王」と云えどこれを黙認したが、「桓武天皇と平城天皇」は帝紀を追認している。
従って、この「帝紀の現状」は「絶対的帝紀」として覆せなかったのだ。
つまり、「伊勢の領地と民」はこの「帝紀」に従う決定として「施基皇子の後裔地」として例え「天皇」であっても覆せなかったのだ。
つまり、「伊勢王の国司事件」によりその後は“伊勢国司を置く事は絶対に出来ないと云う定め”に成っていたのだ。
唯、累代の中で「嵯峨天皇」だけがこの「流れ」を嫌って「賜姓族と皇親族を外す事」で、「帝紀」に逆らったのだが、但し、晩年にこれに反省して自らが「賜姓族青木氏の制度」を甲斐に復活して「甲斐青木氏・税を司る役人の甲斐冠者」にしてから自らが復して「甲斐青木氏」として「青木氏の賜姓制度」に戻しているのだ。
その後に「円融天皇」により既に「四掟」で「母方」であった「秀郷一門の嗣子第三子」に「秀郷流賜姓青木氏」に復する事を永代に命じているのだ。
依って、この「考え方」に依れば一時的には成るが、「賜姓族」では無く成ってる時期もあった事に成り、同然に「伊勢王では無く成る時期」も起こったと云う事に成るのだ。
「甲斐青木氏」として「賜姓」を復しているが、「制度」として復しているかは復したと明記している命が無い限り疑問であるのだ。
天皇が正式に賜姓をするかは別として条件が揃えば名乗っても良いとしたのだ。
これが「左大臣の島氏の青木氏」であったり「時光系回青木氏」であったり[橘氏系青木氏」等があったり証券の疑義はあるとしても「丹治彦流丹治氏系青木氏」がある。
「秀郷流青木氏}は「円融天皇]より正式に条件に拘わらずに「賜姓」を永代で受けて別格である事は女系で云う迄も無い。
まあ、「円融天皇」が「青木氏に依る賜姓制度」を正式に復した事にも成ると観ている。
これは「賜姓族」を外したのは一時的にせよ「賜姓族と皇親族」ではあったとしても、“「伊勢王を外した」”と云う記録は何処にもないのだ。
但し、「皇親族」では“外した”と云う記録はあるが、「仁明天皇」がこれを“復した”とする記録は「五つの朝廷史書」にもないし、これ等の「史書」から明らかに「賜姓」で「臣下」している限りに於いてだけでは「皇親族」は必然的には生まれてない。
この“「伊勢王を外した」”と云う記録は何処にもないのだが、“無いと云う事”は外していないという事にも成る。
つまり、「伊勢王」でありながら“「皇親族」では無い”と云う矛盾は生まれるのだ。
又、同時に「伊勢王」である以上は「賜姓族」である事に成る。
だとすると、「伊勢王」の「賜姓族」は、否定できない事実であるのなら、「皇親族」と成り得る事は否定できない。
「記録の有無」は、兎も角も、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係は成立していなければならない理屈である。
これを脅かした「嵯峨天皇の行為」は、矛盾するか否かではなく、「帝紀」に触れるか否かではなく、記録にあるか無いかではなく、この「出自元」でありながらこの「三つの関係」にある事をそれぞれを否定したのだ。
そこで「特別令外官」だけに就いては、「3等官以上の官吏」であれば成り得るので「令外官」であった事は否めないし、況してや「浄大壱位の冠位」を持つ「永代賜姓五役」であった事は否定できないので、「永代令外官」は否定できずその侭の状態で放置した事にも成るのだ。
つまり、「浄大壱位の冠位」=「永代賜姓五役」=「永代令外官」でありながら、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係を否定してしまって「百々の顛末・始末」は矛盾した結果と成ったのだ。
然し、結局は、この「嵯峨天皇の矛盾」を放置できずに「仁明天皇」が遂にはこれを修正したと成るのだ。
この「歴史段階の結論としての証明」は、何はともあれは、“武力を前提としない氏族の青木氏”に対して、“「鎌倉幕府」は、「仁明天皇の修正部分」に基づいて、「鎌倉幕府」は「安堵策」を以てこれを認めているのだ。
ところが、「歴史」では此れを正しく評価していて、この「伊勢」の「商いも営む二足草鞋策の裔系青木氏」に対しては、「伊賀域」を除いて、「伊勢全土本領安堵している史実・上記の関係式を認めた証拠」”があるのだ。
「鎌倉幕府」は、「伊賀域を除いたとする事・地頭」からすると、「奈良期から平安期初期に掛けての詔」に従ったと云う事であり、又、「帝紀の有様」に従ったと云う事に成るのだ。
「室町幕府」は、これを「伊勢北部」と「伊勢南部一部の旧領地」を二つに分けて本領安堵して全体を減らしたのだ。
更に、その上でこの「地権策を多く用いたこの安堵策」は「奈良期の最も初期の状態」に限定した事を意味する。
然し、この時は、限定と云う事は減らしたのかと思いきや「別の形」で処置して復しているのだ。
それは、「青木氏の財力」を生かして優先的に「地権獲得・幕府には都合がよい」で本領を復して解決しているのだ。
恐らくは、この「地権獲得」から得られる「大財源」を狙ったものである事は明白である。
これ等の史実は、「伊勢王」では無く成った「824年」からも、“「武力を持たない豪族・秀郷流一門の抑止力」”を背景に「伊勢」を「実質に支配をしていた事」を示すものだ。
次に、「伊勢王であった時期」としては、「賜姓前の“647年以前」はどうであったか”という事に成る。
当時の「施基皇子15歳」で「成人」と成り、その為に「賜姓」を賜り、当然に独立した証として「姓」を持つ以上はそれなりの位に応じて「国・地域」も賜るのが「当時の真人族の者の仕来り」であった。
この時に確かに「孝徳天皇の二人の皇子」の「伊勢王]として「一代限りの王」が居ながらも、「施基皇子」はその「伊勢の一部域・賜姓地は指定されていた」を賜っているのが通常と成っていた。
然し、未だこの時は初代の「孝徳天皇の皇子の伊勢王・毒殺」が居た事から、「全域」では無かった事には成るが、そこで、この時、「伊勢」は果たして、「施基皇子の賜姓地」が決まっているのに、「初代の孝徳天皇の皇子の伊勢王」が存在し得ていた事に成り得るのかである。
これは矛盾する。
これは「孝徳天皇の皇子の伊勢王」に執っては「100%伊勢王としての立場」には無かった筈である。
それでも「伊勢王・一定期」にしたと云う事だが、これは「中大兄皇子の政治策」であった事は明白であった。
「歴史の経緯」からして、この状況の中では「伊勢王」は確かに「孝徳天皇の皇子」であった史実かも知れないが、現実は考え難い。
「施基皇子」は、「賜姓」を「伊勢」に受け、且つ、「功績」に依って「伊勢の領国・4つの大字/80%」を受けながら、「伊勢王では無いと云う矛盾」が「一時期に続いていた事」に成るのだ。
ところが、この「状態下]で、「中大兄皇子」は、「大化改新・645年6月12日」を実行しているのだ。
「政権」を掌握した「中大兄皇子と中臣鎌足」は、「皇極天皇」を退位にし、「皇極天皇の弟」の「孝徳天皇」を即位させた。
そして、その直後から「新たな時代の始まり」として、それまで正式に無かった「元号」をも「大化」と定めた年でもあって、「王位」も「第世族」までと決めた年でもあり、「日本」と「天皇」の「呼称」をも正式にこの時に定めた年でもあった。
それまで「王位であった者」が「王位で無く成った者」が多く出て混乱し、これ等の者は坂東に配置されて「ひら族]と名付けられて流されたのだ。
これが「後の鎌倉幕府を支えた坂東八平氏の始り・熊谷氏等」である。
この「孝徳天皇の皇子の伊勢王」は「斉明天皇」からは「第三世王」であり「天智天皇」となると「第四世族」と成り「施基皇子」が匿ったとしても必然的に「伊勢王ぎりぎりの位置」にあった事に成る。
所謂、この「皇極天皇・在642年~645年」と「孝徳天皇・在645年~654年」の「中間・即位前」の中での起こった「改新劇」であって、「母親の重祚」の「斉明天皇・在594年~661年」と「天智天皇・在668年~671年」から「天武天皇・在673年3月20日~86年10月1日」と繋いだ歳でもあった。
当に「日本の社会状況」を含めて「状況」が大きく変わる「大化の経緯」であった。
現実に、この時は「天智天皇」が「伊勢」に「紀州日前宮」から「最終地の遷宮地」として定め移した年でもあり、これを「伊勢神宮」と定めた歳でもあり、此れを「天武天皇」が正式に整えて最終決定して仕上げたのだ。
だとすると、この「経緯」では、「伊の勢の国」は、「施基皇子」が15歳で成人し「賜姓」を受け、且つ、其の位から地を賜っている筈である。
つまり、「年・647年の前」の「645年前頃前・皇極天皇期」の「伊の勢の国」は誰の支配下にあったかと云う事に成る。
母親に代わって「中大兄皇子」が摂政を執っていた年の「伊の勢の国」は当然に神宮の事等もあって、「中大兄皇子」の支配下にあった事に成り、「15歳の賜姓を受けた施基皇子」には、「伊の勢の国の全域」とは云わずとも「ある域の領地]を与えた事に成る。
でなければ「15歳での賜姓」は無い。
ここが、“「旧領地」”と呼ばれていた「南勢域の尾鷲の域」ではないか。
此れであれば、他は安堵され無く成っても、つまり「江戸時代」になっても「此処・南勢尾鷲域」は安堵されていた事から符号一致するのだ。
つまり、「647年の前」の「642年の5年間」は、実質は「施基皇子の支配下」にあって「647年」に「正式に領地」と成ったとする経緯である事に成るのだ。
つまり、この以上に検証した上記の「疑問」は、この状況の中で「中大兄皇子」がその「裔系」を以て「伊勢」を一時的に支配していたのではないかという事だ。
「伊勢王の本領地の250年間」に、この“「5年間」”が加算される事を意味し、それは「255年間」と先ずは訂正される所以と成る。
ところが、疑問としては、もめた「嵯峨天皇後」の「伊勢王の期間」は、果たして、上記した様に「賜姓族」を外された事で、要するに検証する“「伊勢王の期間」が此処で途切れたとする論”で良いのかである。
つまり、これは「全ゆる殖産」は終わったとする事に成るが、この「殖産」は「伊勢王」であったかは別として「伊勢を代表する殖産の青木氏」として「紀州徳川氏」と共に明治期まで続けているのだ。
これは何を意味するのかである。
他に伊勢に同じ様な立場を保全している者があるのなら続けてはいない筈だ。
「坂本竜馬の船沈没の事件の問題」も「伊勢の青木氏」が「勘定方指導役」として代わって解決しているのだ。
本当にこれも何を意味するのかである。
「伊勢」に「それなりの替わる者」が居れば出て来ている筈では無いか。
要するに自ら伊勢松阪から摂津に身を引くまでの「明治期初め」まで「施基皇子の裔系の伊勢青木氏」は「実力のある実質の伊勢王」であったのだ。
兎も角も、「時代経緯」がこれだけの事を示しているのに、それにしても「嵯峨天皇の出自元の行為」に対しては「純和天皇」も「中間の立場」を保ち無関心を装ったが、「仁明天皇」だけは、「嵯峨天皇時代の施政」に反して「反意の態度」を執って「出自元を擁護し復した」と幾つかの史書にある。
「鎌倉期の史書」にも「伊勢青木氏の血縁筋の最後」は、「仁明天皇」が最後として記していて、ここまでの史実には「否定者」は、「嵯峨天皇以外」に無く、多くの者が良い「関与人物」として記している。
この事から観れば「天皇」としては、後勘からみれば、「伊勢での青木氏の立場」を立ち直らせたのは「仁明天皇と円融天皇]であったろう。
淳和天皇・在823年5月29日~833年3月22日 10年間 嵯峨天皇の異母弟
仁明天皇・在833年3月22日~850年5月4日 17年間 嵯峨天皇第二皇子
円融天皇・在969年9月27日~989年9月24日 20年間
とすると、「嵯峨天皇での青木氏賜姓の中止」で、その後は「伊勢王」は結果として停止し、「伊勢無足村主百人衆」の「伊勢郷士の村主衆で治める国」と成ったとあるが、「仁明天皇の復政」で「伊勢王の立場保全・実質は伊勢村主百人衆の上に立っていた」は戻ったとする説論が成り立つ。
そうすると「伊勢王」が復されたのであれば「賜姓族」も復したと成るだろう。
上記した「浄大壱位の冠位」=「永代賜姓五役」=「永代令外官」であり、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係である以上は、復する事は理窟の上では間違いは無いであろう。
取り分け、この「説論」は「北勢」に於いては「青木氏の氏族」である「伊勢郷士50人衆の村主衆の氏人」で成り立っていた事を考察し、「旧領地の南部の伊勢郷士50人衆の村主衆」もこれに従ったと考えられている。
とすると、少なくとも「北勢の伊勢王」であり続けた事が間違いは無い事が云える。
そこでそもそも「南勢」は上記した様に「奈良期からの旧領地」であった。
「北勢+南勢」に於いて、この関係が成立しているにも関わらず、そこで「実質伊勢王」を、「朝廷」は「嵯峨天皇の乱政」で掻き廻され、「帝紀を覆す事」は出来ない為に矛盾の進言もをせず“「積極的黙認」を続けた事”に成るのだ。
取り分け、「南勢」に於いては明確に認められるのだが。
その「証拠」に於いて「江戸期の伊勢での一揆反乱騒動・前段・伊勢騒動で論じた」は何とこの「伊勢無足村主百人衆」の「伊勢郷士の村主衆で治める国」での「南勢」から起こっているのだ。
そして、「北勢衆・経済的な補完は伊勢青木がした」がこれを補佐したと記録にある。
従って、江戸期まで働いていたとするならば、「北勢」は少なくとも「仁明期]までは充分に「実質伊勢王の威光」は働いていたと考えられる。
従って、筆者は、250年間+5年間+17年間=“272年間” が“「伊勢王の期間」”としているのだ。
後は、守護等を置かない「南北の無足村主百人衆の自治組織」が治めていた事に成る。
「戦乱期の中」で「1415年」の「国司の格式」を得て「公家貴族の北畠氏」がこの「自治組織」を其の侭に「伊勢」に強引に入る事に成ったのだ。
然し、この時も「公家貴族の北畠氏」の資格は「3等官以上が成り得る国司」であって「伊勢王」ではないのである。
この事は、「浄大壱位の冠位」=「永代賜姓五役」=「永代令外官」であり、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係である事が現実に認められる以上は否定は出来ず、“「積極的黙認」を続けた事”に依って「伊勢王の存在」を影乍ら認めていた証拠であろう。
現実に「朝廷に執っては最大の献納・献納そのものが伊勢王の証拠」が行われているのだ。
況して、「地頭と守護」のいない「南北の無足村主百人衆の自治組織」と「伊勢青木氏の支援」で治めていた「伊勢」の中で「国司」であったとすれば、「公家貴族の北畠氏の国司」は何の意味を成すかである。
「南北朝の指金」に過ぎなかったと観ていて「朝廷を救うものでは無かった」のだ。
況してや 「戦国時代1467年から1690年を戦国時代」とすると、「50年前の南北朝の朝廷」にあっては「公家貴族の北畠氏の国司」をこれをその格式とすれば「伊勢国司の意味」の成す処等はないのだ。
実質は、この段階でも「伊勢王」は、伝統的にも実績でも功績でもどれを執っても“「伊勢青木氏に代わり得る者」が「伊勢」には存在していなかった”という事であって、「献納等の行為」も含めて公私ともに演じていたと見做せるのだ。
その状態を再び室町幕府の公が形式的に時代に合わせて認めたのが「律宗族の青木氏」であったのでは無いか。
平安期で“「積極的黙認」を続けた事”に対して、室町期では「正親町天皇」も巻き込んでの事であったと観ている。そうでなければ「正親町天皇・朝廷」を引き込まなかったであろう。
“「積極的黙認」はこの時点で終わりを告げ実質伊勢王を認めた形を執ったのでは無いか.
それが「浄大壱位の冠位」=「永代賜姓五役」=「永代令外官」であり、「伊勢王」=「賜姓族」=「皇親族」の関係であり続けたが、「伊勢青木氏」に執ってはそれがあるか無いかは別として大した意味を持たず、「南北の無足村主百人衆の自治組織」に囲まれた「奈良期からの伝統とその形を護る青木氏・律宗族」であったのでは無いか。
最早、軌道に載った「殖産の青木氏」であったのであろう。
要するに、[近江鉄の殖産」は「伊勢王の在り様」に大きく関わっていたのだ。
それだけにその伊勢王の期間が問題に成る。
「伊勢の国」の「伊勢王としての殖産」に関する事件は以上
注釈 「伊勢の資料」には、恐らくは“「250余年間」”とするものもあるのはこの事に依るものであろう。
要するに、“実質の限界値を何処に定めるか”にある。
それにしても「奈良期初期の曖昧期の5年間」と、「平安期初期の曖昧期の17年間」を除けば、前段でも記述した様に、確実には、“「250年間」は「伊勢王」であった事”が認められる。
注釈 そして、その後は、上記した様に鎌倉期には「御家人の地頭職・足利氏」を置いたが「鎌倉幕府の伊勢本領安堵策」を受けた様に、「平安期末期・1192年」までの“「368年間」”も、下記の政治体制としての「伊勢郷士衆南北百人衆」でまとめていた期間も、“「実質の伊勢王」”であった事に成る。
この時の「伊賀域」は、伊勢松阪に代わって「足利氏の地頭職」を置いて外したが、「鎌倉幕府の伊勢本領安堵策」で、「鎌倉期初期・1220年」までは、「平安期の伊勢王」に相当する特殊な伊勢氏族」として保たれていた。
然し、「鎌倉中期頃」からは「伊勢の態勢」は替わり「執権北条氏の政治策」で「伊勢の主な本領地」は無く成り、その代わりを「裏の形」では“「買い取る形・地権者」”としての「地位」を築いていたのだ。
その古来から「立場格式を特別に有する“「郷氏」”、即ち、「豪族に相当する財力と抑止力を有している事」を前提として、「地頭」に相当する“「守護族・郷氏族・伊勢王」”として務めたとなる。
注釈 「鎌倉幕府」の「頼朝」は、前段でも論じたが、天皇宣下が降りず「征夷代将軍」”とは直ぐには成れず、「頼政の以仁王の令旨」を以て引き継いだとして一段格下の「鎮守府将軍」に甘んじていた。
従って、正しくは「鎌倉幕府」は、開けずに、「鎌倉の府」として振る舞っていた。
この「鎌倉の府」の下では、「守護職」に代わって「地頭職の官僚」を前提として置く事を定めて「朝廷」に申請したがこれも直ぐには認めなかった。
そこで、この樹立したばかりの「鎌倉の府」は、強引に「御家人」から成る「地頭職」を主要地に置き始め、「既成事実」で府の管理体制を造り上げたのだ。
その為に前の「守護」と「地頭」との間で「争い」が続いた。
その「地頭の最初の設置」が、「天智天皇の詔」がある為に「伊勢松阪」に直接に置けず、その代わりに「伊勢伊賀」に置いた。
そして「美濃一色」にも置けず「美濃沼田」の二か所に先ず置いたのだ。これが最初であった。
そもそも「一色の呼称」は「伊勢」於ける「伊勢王・施基皇子の大字の総称」として使われていたもので、「伊勢」から主要三か国・近江・美濃・信濃」に嫁いだ者等が故郷を懐かしんで住んでいる地域を「一色」と呼んだものであって、それが周囲から格式と見做され、乱れた室町期には無断で格式を高く見せる手段として使われる様に成ったものだ。
要するに、第の氏名姓と云われるもので、足利氏や徳川氏は時と場所に依って足利氏、徳川氏以外に「名乗り名」を四つも使っている。
この「名乗り名」を使う事には幕府の追認があったのだ。
そこで、足利氏等の「名乗り名」に付いては次の通りである。
例 足利氏・土岐氏等の「第三の名乗り名」 (一色に付いて)
1 美濃国の戦国大名の「斎藤義龍」が「美濃一色氏」を称する。
2 土岐頼益の養孫である「土岐成頼」の裔の「土岐頼栄の子孫」が「土岐一色氏」を称する。
3 足利氏支流の「吉良有義の裔孫」が「吉良一色氏」を称する。
4 足利氏支流の「吉良定堅の裔孫」が「吉良一色氏」を称する。
5 藤原北家良門流の「犬懸上杉憲藤の裔孫の上杉教朝の子孫」が「上杉一色氏」を称する。
6 足利義昭より偏諱の授与で「菅原流一色昭孝」を称する。
7 足利在種の裔孫が「足利一色氏」を称する。
要するに、これも「社会と周囲と朝廷と幕府」はその格式を認めていた事を示すものである。
所謂、「施基皇子とそその裔系」に対して「伊勢王の権威」を認めていた事を示すものである。
それは合わせて「格式を保つ為の古き伝統」をも維持していた事にも依る。
注釈 そもそも、“「大兄」”とは、同母兄弟の中の長男に与えられた「大王位継承資格」を示す称号で、「中大兄」はその「2番目の大兄・皇子」を意味する語である。
「大化の改新」とは、母の「皇極天皇期の645年に「乙巳の変」での国政改革の事で、その2年後に賜姓を授かり、「中大兄皇子」から「第7位の第四世族内の施基皇子」として臣下している。
「孝徳天皇の子供の初代伊勢王」が、“「施基皇子の配下に入った」”とするは、“この二人の内の次に成り得るもう「一人の子供・皇子」が身を引き「施基皇子の配下に入った」”と成ったと考えられる。
この事に就いて「施基皇子の功績」を以て、「天武天皇・在672年~686年」も流石に放置できず、この時に「施基皇子の大功績」が有無を言わさずに「匿う事と赴任の事の容認」に踏み切る事に左右した事に成ろう。
注釈 さて、“この「注釈に関わった時はと云うと,そうでは無かった”のだ。
つまり、「初代伊勢王」は実は「施基皇子」であった。
ところが、その「中大兄皇子の政敵」の“「一代限りの初代の伊勢王・孝徳天皇の皇子」”は「伊勢王の施基皇子の配下の国司」として入って着任した形を執って「伊勢」に匿ったのだ。
この為に政敵の「一人目の一代限りの初代の伊勢王・兄の皇子」は毒殺された。
この為に、「一代限り」である事から次の「二人目の伊勢王・二人目の弟の皇子」に引き継がせる為には、この「二人目の皇子」には、飽く迄も、“「初代の伊勢王・孝徳天皇の皇子」”の呼称としては引き継がせ様としたが、「実質の形」は「政治的立場」から「伊勢国司の形」として辻褄を合わせたのだ。
この不思議な時系列を読み解けば、この「二人目の孝徳天皇の皇子」を救い匿う口実を造り上げていたとすれば理解は出来るのだ。
そして、故に“「実質の形」”では、「朝廷」は飽く迄も“「初代伊勢王」と当初は呼んでいだ”の経緯と成るが、実の処は“呼んでいたと云うよりは呼ばしていた”のでは無いか。
ところがこの「政争]とは別に、「施基皇子」が「朝廷」で「賜姓臣下族」として振る舞っていたが、それでいて余りの高い功績を積み重ねた為に、その侭では「朝廷」も無視し続ける事はできなくなったのだ。
前段でも論じた様に、「賜姓五役」としての「功績」が誰よりも高く上げながらも、その様に振る舞わなかった原因である。
注釈 「真人族」の中では「有名な歌人」として振る舞い「政治的立場」に敢えて出ず隠した形でおとなしくしていた。
その為に上記した様に「冠位と官位と伊勢領地」とを「皇子真人族」の他の誰よりも獲得していたが、それ故に上記の様に「伊勢王呼称」には拘りを示さなかったのだろう。
その「真人族」が何と初めての「第七位の第四世族内の真人族」が、最初の「臣下族」と成り、且つ、それが「賜姓族・647年」と成り、「天皇の親衛隊」と成った事で、その事象は過去に事例が無く、“「前例のない扱い」”であった事から、「天武天皇」とその「后・姉・持統天皇」は、その「扱い」に対して勿論の事で「朝廷」も困ったのでは無いかと観ている。
此れは「父の天智天皇の大化の改新」で起こった初めての事であって、何事にもその「扱い」に極めて慎重に成ったと云う事ではないか。
古来より上記している様に「帝紀」があって、“天皇が一度詔として定めた事はどんな事が有っても覆してはならない”とする掟があった。
これに対する「三等官以上の官僚族」がこれに関われない“「政治的迷い」”があったからであろう。
つまり、「浄大壱位と云う冠位」を持っていた事で、「兄の皇子」に対して“「天皇も裁けない出来事」”と成っていたと考えられる。
その「最大の要素」は、「天皇に継ぐ冠位」と「真人族で賜姓族のその前例のない功績」であったと考えられる。
これに「天武天皇」も「兄・天智天皇」で、その「后」も「天智天皇の娘」であり、「大化の改新の詔」と「帝紀の尊重」であるとすると、このそれ相当の“施基皇子の処遇に迷う”のは「自明で理」であるだろう。
注釈 「施基皇子の功績に伴う処遇」に対して、「兄の川島皇子の処遇」は礎それ相当に評価されていないのは不思議で、「皇子順位」は川島の皇子の方が確かに上であるが、「近江への褒章の処遇」は同じと成っている。
冠位と官位は施基皇子の方が上であるし、「領国の価値としては施基皇子の方が間違いなく上である。
「賜姓」も「施基皇子」は「神木の青木」から当時の慣例から上で、「普通の当時の賜姓」の最低は「地名」であり、「川島皇子の賜姓」は単なる「近江の地名・神社名」であって「真人族の賜姓」の扱いではない。
然し、以上の様に「青木氏のの氏是」にもある様に上位にありながら目立たない様にしていたのだ。
注釈 以上の様に、前例の無い程に「伊勢国全域の大領地」と「院号を特別に与えられる事」等をしても「朝廷の印象」を極力抑える様にしていたのだ。
それ故に、「初代の伊勢王の呼称」は、その侭で、かと云って「施基皇子」は一時期は「二代目伊勢王」と呼ばれて扱われていなかった所以でもあるのだ。
その「実績・功績」に基づく「冠位」から“二代目”と云う扱いには出来なかった所以でもあろうか
その“「伊勢王呼称事件」”が、“「扱い」”の「最大の事例」であろう。
前段で論じた様に、「施基皇子」の上位に位置していた「兄・第六位皇子/第二皇子説もある」で、「浄大参位」であった「川島皇子・近江佐々木氏の賜姓族との扱い」を観れば浄の事でも判る。
そもそも「上位」であれば、通常は「賜姓」は、神木等の神に関わる名で「賜名・氏名」を着けたが、「佐々木・斎斎木」の場合は、「通常の臣下に授ける賜名」の「地名・「佐々木・斎斎木」を採って賜姓したのだ。
「青木の場合」は「あおき・神木」からである。
この「賜姓の事」からも「功績とそれに基づく冠位」に基づいて「全ての扱い」が変わっていたのだ。
この事に然し乍ら「川島皇子とその裔系」も一切争いを起こさず寧ろ全くの同化を試みたのだ。
そもそも「異母兄弟」でありながらも更に[血縁的」にも[政治的」にも「完全同化・融合・事件を起こす程に安寧を互いに「平安中期・源氏化真まで」は図っていたのだ。
唯、「施基皇子」は[政争」から逃れる為に終生に於いて「文化人・青木氏氏是」を装った。
この“「文化人扱い」”が、逆に故に後に問題とした「嵯峨天皇」が嫌った「前例の無い皇親族」と「その特権」にあった事を示してる。
注記 平安中期までには「近江佐々木氏」は「信濃青木氏」と並び「完全同化・融合の族」で在ったが、「時代の波」に逆らえず「近江族は源氏化」を興し「完全な決別状態」と成った。
これも後勘から観て「嵯峨天皇の失政」にあるとしている。。
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「青木氏の伝統 70」-「青木氏の歴史観-43」
「青木氏の伝統 69」-「青木氏の歴史観-42」の末尾
> 要するに短期間で“この得た「財力」で「膨大な戦費」を松平氏は賄い”、「長篠」へと向かったのだ。
> 「信長」はその後の経緯の戦歴を観れば、東には手を出していないし、故にこの「三河国の背後の経済力・伊勢青木氏・伊勢屋と東の秀郷一門の勢力」を恐れていたと考えられる。
> それは「間接効果」を狙っていたと考えられ、「三河の松平氏」を通じて「最低の犠牲」で抑えたと観られ、それ故に「徳川氏の伸長・難癖程度」を“我慢ぎりぎりで見守った”と云う事では無いか。
> それ故に、「三河国の背後の経済力・伊勢青木氏・伊勢屋と東の秀郷一門の勢力」が存在する限りに「本能寺の変まで長期間」の“我慢ぎりぎりで見守った”と成るだろう。
>
> この「大きい流れ」は「江戸期」まで続き、「江戸幕府」を「秀郷流一族一門とその青木氏族とその関係一族」は、「幕府官僚族・御家人旗本・家人旗本衆」として支えるまでに至るのだ。
> 当然に、「伊勢の二つの青木氏」も「紀州藩・全伊勢藤氏が家臣」とは「殖産業」で栄えさせ、「伊勢の事お構いなしのお定め書・天智天皇の不入不倫の権の追認」と「浄土宗の律宗族の追認」を得て、且つ、「紀州藩勘定奉行の指導の役目」までも担い、挙句は「吉宗育て親」まで熟し、「将軍」に「裏・朝廷への働き掛け等」で押し立てるに至る「親密な関係・幕府との関係」は、その皮肉にもその「吉宗で終わる」を維持したのだ。
> 筆者が論じているのは、この“「基点」”は、「三方ヶ原の戦後の伊川津の行動」にあったと云う事なのだ。
> 「筆者の見立て」は、それ故に「家康」は、「戦闘戦略家」では無く、「経済戦略家」であったと観ているのだ。
> だから、「伊勢青木氏・伊勢屋」と「秀郷流青木氏・長嶋屋」は、上記が物語る様に存命中に於いて、“家康と馬が合った”のだ。
> 家康の「伊勢の事お構いなしのお定め書の効力」も同時期に低下した事に観られるように、これの「最高潮は吉宗・前段」までであって「最悪期も吉宗・前段」で終わったのだ。
> 筆者は「三河旗本の執拗に続く羨望」に将又押され、且つ、「吉宗自身」も「奈良期の皇親族・青木貞治に観られるような幕府官僚族」の様な「二つの一族」に警戒したと考えられる。
> それ故に、一方で「四掟で女系族で繋がる伊勢藤氏」をそっくりと家臣とした「紀州藩との関係性・紀州殖産業の確立で」を更に「強化・大正14年まで継続・幕末には藩の財政難から旧領地の返還を求められるも・2万両以上債権保有」したものだ。
> 「額田青木氏と駿河青木氏の前段論」に「三方ヶ原と長篠の二つの戦い」の「環境問題」を中心にどの様な位置に置かれていたかを論じて観た。
> この以上の「四つの詳細経緯・前段の追記論」のどの一つを以てしてもでも、流石に「女系で繋がる青木氏族」は、「1千年の歴史」を持つ「女性の持つ鋭い先を観る遺伝子的洞察眼を以て立ち回った氏族であった事」が良く判る。
> 上記の様に何時巻き込まれていてもおかしくない厳しい環境の中で、取り分け、この室町期末期に於いて生き遺った事が判る。
> それは「青木氏族の商い」と「青木氏族の氏力」を最大限に出してそれを利用した「自己開発の銃の保持」とそれを上手く利用しての所以であろう。
> この事は「奈良期の親族の佐々木氏族」が「単独で青木氏の一族論」を論じている所以と成っているのであろう。
> 「お返し」として何時か「佐々木一族論」を論じたいとも思うが。
>
> 「青木氏の伝統 70」-「青木氏の歴史観-43」
さて、再び元に戻して、この様に「予定の籠城」をせずに再び「野戦」を選んだ処から「家康の判断」が「狂い始めた事」に成る。
そこで「額田青木氏の銃隊」は「青木貞治の軍議の内部情報」を得て慌てて武田軍後尾を追尾するのを止めて「青木貞治隊の救出」の為に「三方ヶ原に走る事」と成ったのである。
「籠城」は「吉田城」で観る様に、それの方が「銃隊の効果」が出ると考えていたし、「武田軍の本隊」もこの「銃の脅威」に対して、一度は、「第一次吉田城攻め・籠城」で経験しているし、二度目は「一言坂下の遭遇戦」で経験しているし、この「銃の威力」を生かすには“「籠城作戦」”が効果的作戦である事」を「両軍」ともに充分に認識している筈であった。
それ故に「南下国衆の銃隊」を急遽、「吉田城」から呼び寄せたのだ。
ところが先に論じた様に「軍議」では、初めから「援軍を送る心算」の無い「織田氏の軍目付・軍監達」は、飽く迄も「籠城とその為に依って起こる時間稼ぎ」を主張していた事が判る。
「籠城戦を決定する」の為の「命令・三つの命」を駆け付けた「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に対して命じたが、「軍議」では「額田青木氏の本来の目的」では無かった事でこれを蹴ったのだ。
「松平氏の旗本」は勿論の事、命令を「勘違い・国衆約定を忘却」して受けるものとして観ていたし、「織田氏の軍目付・軍艦」もその様に聞いていて驚いたであろうし、内に秘めた「思惑・時間稼ぎの計画」は内心狂ったと思っただろう。
と云う「事前の論筋」から呼び出す前に「事前の軍議」で検討され、決定してそれを伝えたと云う事に成る。
「松平軍」としては「命令」を受け入れるものとして考えていたがその立場を軍監の前で失ったのだ。
其れは「条件付きの伊川津国衆・約定」であって、それを「家康」が契約を破った以上は「額田青木氏」は断る以外には無かったし、この「危険リスクを負う事」は当初よりその「命令破りのリスク」はあったが、どう出るかは「指揮官の伊勢秀郷流青木氏・貞秀」と「額田青木氏の差配頭・貞重」は城から出て様子を見たが、「秀郷流駿河青木氏一族の青木貞治等」はどの様な行動に出るが緊迫して、外の行動を案じていた。
「松平軍」は果たして「額田青木氏の銃隊」に対して攻撃に出て来るのかを観ていたが、答えは「時間稼ぎ・偵察隊・遭遇戦の命」であったのである。
故に、外の「額田青木氏」にこの「命」を伝えに来たのは間違いなく、それは「秀郷流駿河青木氏・貞治」で在ったろう。
そもそも、この時点で、最早、「額田青木氏」に執つては「松平軍の命」に従う必要があったかは疑問であるが、此処で「戦いを興す事」より「伊川津に戻っての事の方」が「リスク」は少なく都合が良くそのタイミングを計っていて我慢していたと云う事ではないか。
何故ならば、そもそもこの「命」には「軍議の密かな思惑」があったのだ。
「反発して来た旗本等」が直前に経験している“「一言坂に在る強い武田軍の本隊」に飲み込まれて滅するであろう”とする「読みの命」であったのだ。
これは「自ら手を施す事」なく罰する事は出来るしと同時に、時間を稼げると観ていた。
ところが、この“読みは見事に崩れた”のだ。
この「詳細な経緯」を「城」から観ていた「松平軍」は、「額田青木氏の銃隊」は時間を経て見事に勝利し、故に、先に「西の坂下」に降りて再び「武田軍の本隊の浜松城通過の出方」を待ったのだ。
その上で先ずは“「浜松城の右横小丘」”に着き、「両軍の出方を観る為に監視していた事」が資料から解る。
では、この「詳細経緯」としては“これは何故か”である。
最早、「命令を拒んだ以上」は「浜松城に留まる必要性」は全く無く成り、且つ、「伊川津国衆」として存在する理由は無くなったのだ。
そこで、この行動はそれは“伊川津に戻るタイミングを計っていた”のだと成るだろう。
「額田青木氏の銃隊の南下国衆」はそもそも「防御の銃隊」であって、「武田軍」に対して背後を突いて潰すのが戦略で無かった筈で、では「武田軍の前」を伊川津に引くのは「背後を突かれる危険」があり、故に「武田軍の本隊」が「浜松城通過の後」を「追尾する事」にして堀江城の手前のここで待っていたのだ。
然し、兎も角も「額田青木氏の南下国衆の銃隊として」の形上は「軍議の命」を果たす様子を見せながらも待ったが、処が「松平軍は違った行動」を採ったのだ。
それは、そこで、追尾中の「額田青木氏の銃隊」は普通なら得られる事の無い「軍議の密議の結果・野戦を選んだの情報」を、「後勘の経緯」を積み上げた事から観て、“間一髪に逸早く獲得した”のだ。
それは「旗本からの非難」を受けながらも何とかこの「軍議」に残った「駿河青木氏の青木貞治隊」は、「追尾中の額田青木氏の南下国衆の銃隊」に対して“「重要な連絡」”を密かに採った事に成るのだ。
そこで慌てて、「青木氏の資料記録から分析」では、「北の三方ヶ原」に向けて「額田青木氏の銃隊」は、「執るべき方針・目的」を定め直して「青木貞治の一族隊200」を護り救出する為にも、又、その後を見守る為にも、“「三方ヶ原に向けて懸命に走った”と成るのだ。
“「三方ヶ原」に向けて懸命に走った”とする必要は、「伊川津」に戻る為の「様子見」をする為に、「タイミング・武田軍から伊川津に戻る背後を突かれない為にも」を計っていたので、「情報の必要性は元より無かった筈」でこれが初めての詳細結果だったのだ。
ところが、然し、ここで「駿河青木氏」を救出せんが為の情報が入ったのだ。
幸いにしてこの時に、ほぼ同時に「武田軍側」にも“「異変」”が起こったのだ。
それは「堀江城の攻略」に手間取った事と、「別動隊の二俣城の手間取り」で、相互に「タイムラグ」が起こった事の情報である。
「武田軍本隊」は、そこで「山県軍の別動隊」より先に三方ヶ原に来て「魚鱗・行軍中に」で陣取り、これに加わる様に成っていた。
然し「別動隊との間」に何と「約1h~0.5h時間の差」が発生して仕舞った経緯と成っていたのだ。
既に救出の為に「魚鱗の陣形」を整えてしまつた「武田軍の本隊」には、最早、北の山際に着いた「山県具の別動隊」は西の本体に合流出来ず、更には「松平軍の野戦と陣形の形」を観てでも、予定より手間取る事となった。
山際に到着し隊形を整える為に、そして「戦う為」には直ぐに「補給拠点の構築隊」を邪魔に成るので後ろに廻しながらも、「山県軍の別動隊」は「松平軍の鶴翼の陣形」の「右側面の山際」に到着した事と成ったのだ。
「山県軍の別動隊の位置」が左右の軍の北側に位置する事と成って参戦する事はこの形では「異常な形の陣形の開戦」と成ったのだ。
そもそも、「山県軍の別動隊」は「補給拠点構築隊とその守備兵」で構成されている事から参戦は無いと「武田軍本隊と松平軍の両軍」が観ていただろう。
普通はそうなるだろう。
そして、一方、此の両軍の態勢に対して、鶴翼の南側の右側に急いで到達した時には「額田青木氏の銃隊・目的」は、「貞治隊の救出に替わる」のだが、更にそれ以上に驚いた事が興ったのだ。
それは何故か右の松平軍は「鶴翼陣形」が整っていたが、この「鶴翼面の左側面」の「翼面の隊」に「額田青木氏の銃隊」が仕方なく着いた事に成ったと「資料の一行」を想像するに断片的には解る。
此処で、つまり、そうすると「青木貞治隊から秘密裏に得た情報」には「鶴翼陣形と云う情報」には無かった事に成る。
これは「野戦」と決めた以上は、「陣形」も決める筈だが、決めていなかったか、得られなかったか、「家康」は「秘密にしていたかであり、「下記の時系列論」では「秘密にしていた事に成る」であろう。
「普通」であれば、「野戦」と伝えたとすれば「陣形」も伝えたであろうと成る。
「普通の陣形」は、「武田軍」に対して完全な無勢であるので「魚鱗の陣形」と成る。
そうすると、「指揮官の青木貞治」は、「野戦=魚鱗の陣形」として伝えていた可能性が高い。
この事に就いてもう一度、「時系列論」でここを考察して観る。
況して、「松平軍」は半月程前に「二俣城の支援」で「無謀な野戦」を仕掛け、そして負けて「浜松城」を目がけて退避中に「武田軍の本隊」に「一言坂付近・11/3・三方ヶ原の1月19日前」で追いつかれ「野戦し酷い敗戦した」とする「歴史上の史実」がある。
然し、この事に就いては、「松平軍に有利な他説・戦いを有利に進めたとする説」も多くあり、この日の事に付いては「大きく経緯と時系列」に食い違いがあって、「三河側の戦記の三記等・江戸期に脚色」にはあまりにも違いがあり信用できない。
この「野戦」でも“「浜松城から出て野戦した”とする良い印象を与える説もあるのだ。
この事に就いては「青木氏の歴史観」に直接に関係ない気がするが果たしてどうであったのであろうかこの「時系列」を追って観ると判る。
此処で、「武田軍の本隊」は「軍の態勢」を立て直す為に、且つ、同時に周囲の「3つの出城」を落とした上で、何事も無かった様に12/21に西に向けて発進している。
この「武田軍の本隊」には「赤兜の騎馬隊」が行軍中後尾に着いていたとある。
つまり、この説では「松平軍と戦う態勢ではない行軍」であった事が判る。
史実で「一言坂の野戦・松平軍は魚鱗」で「松平軍は完敗で負けている」のだとすると、そもそもこの事で“「魚鱗の陣形」では到底勝てる事は出来ない”と云う「先入観」が強く残ったのであろう。
そこで、経緯としては、急遽、早く「浜松城」を出て「三方ヶ原」に到着して、そこで「独断・軍監の了解を得ず」で「魚鱗から鶴翼の陣形に突然に変更した事」に成る。
何故ならば、この「陣形」にするのであれば「城」を出る前に「鶴翼」にしていた方が「戦術」としては「常道手段」である筈で、この事は、「三方ヶ原到着で突然に変更した事」を意味している。
それは、将又、全面に押し出して来るだろう「同勢の「額田青木氏の銃隊」にも意識があったのだろうか。
これに「打ち勝つ」には、両者が「魚鱗」で対戦すれば「松平軍」は「陣形の数」の上から観て、これに間違いなく負けるとして、そこで、“「鶴翼で包み込んで勝利する」”と云う「作戦」に切り替えれば“「陣形の上」では何とかなる”とした事が明確に判る。
そうすれば、仮に勝てたとして、後はほぼ「同勢」と成った“「残りの武田氏の本隊・1万」との対戦する事が出来る”と急遽家康の中で成ったのだ。
「堅固な堀江城を攻めていた武田軍の本隊」が、遅れて「三方ヶ原に到着する・情報を得ていた筈」と成れば、「武田軍の本隊」は時間の掛かる「多勢型の鶴翼とする陣形」は理窟的にも時間的にも執れない事に成る。
恐らくは、「家康」にはこの思考でこの「勝つ為のシナリオ」を自らの頭の中でだけで密かに考えていた事が判る。
何故ならば、それは「武田軍の本隊が鶴翼陣形を整えている間」を「松平軍に突かれる理由」からである。
そうなれば「赤兜の騎馬隊・6000」の“得意の突撃型軍勢を生かす事は出来ない”と観ていた事に成る。
普通の戦術では、“「鶴翼の翼部分を閉めたり開けたりして敵を弱らせた処で背後に控えた突撃型の騎馬隊が突撃して殲滅する”と云う「武田軍の本来の戦術」と成るであろう。
故に、「鶴翼」さえ採らさなければ何とか勝てるとまでは云えないが、「それなりの見込み」は出て「互角並みに戦える」と踏んだ事に成る。
それには、こちらが、先に“先ず何とか鶴翼にする事だ”と考えた事に成るのだ。
それには、何故ならば「陣形の特徴」を生かす為には「鶴翼陣形を組む充分な時間」と「配置の為の良好な位置取り」が必要であったのだ。
だから、“夜明け早くに「浜松城」の「北の三方ヶ原・+60mで南北平坦地」に向かった”の史実と成り符号一致するのだ。
つまり、そして「武田軍の本隊」が未だ三方ヶ原に到着していないのを観て、故に、“これは戦略的に可能だ”として、「鶴翼の陣形」も「三方ヶ原」に「着いた時・直前に独断で決めたと云う事」に成るだろう。
とすると、「家康」は「秘密が漏れる事」を恐れて“軍議にこの事を計らなかった”と成る。
その「漏れて困る相手」は、そもそも「武田軍の本隊」では無く、その前に「織田軍の軍監・三人」であって、そもそも“負けて得をする”のは「織田氏」であって、「西三河の獲得・過去に清康が奪う」、果ては「南三河の獲得」に繋がる訳で、「西三河と南三河は織田氏」、「北三河と西駿河」は「武田氏」と「暗黙の色分け」をして「勢力を広げる信長の算段・目論見」で“「武田氏と戦わずして決着を着ける算段」”で在った筈である。
それを顕著に物語る足る理由として、「肝心のこの三軍監」は「三方ヶ原の戦い寸前・3日前」に城を出て戦わずして戻っている史実があるのだ。
唯、「軍監」ではない「軍監の守備隊の平手汎秀」だけは、この誰でも判る図面を読み取れ切れなかった事で、この為に“家康に馬鹿にされた態度を取られた”とした「通説の史実」が遺されている事に成るのだ。
これは「家康自身」が、この「事・軍監の態度を事前に察知していた事」を意味し、故に「三方ヶ原の真の陣形」は「史実」として「口外」しなかったのだ。
そして、何と「三方ヶ原の戦い後」にこの「勢力を広げる信長の算段・目論見」は実行されているのだ。
この「家康の息子・信康に謀反の難癖」を着けて切腹に追い込み「二俣城」を実質は奪取する事の史実の経緯と進むのだ。
唯、この時にこの「目論見を隠す為」に「見せかけの処罰」を「軍監の三人」に与え、此の「処罰の見せかけの理由」を、“「平手汎秀を見殺しにした」”として「追放の罰」を受けたかの様に見せたかけた。
だが、現実には「軍監頭の佐久間信盛」は、“京都で諜報活動をしていたとする史実とする説”が遺されている。
現実には、これだけの「理由・見殺しにした」では、そもそも“「古くからの重臣」を処罰はしない”であろう。
そもそも「戦国時代」に「家臣」に対して「見殺しを理由」にすれば「武士団」は成立しないし、自らが「同じに近い事・佐久間を罰する事」をすれば「見殺しをした事」とに相当するではないか。
そもそも以上の様に、ここには「信長が罰したとする論理の矛盾」が生まれているのだ。
依って筆者はこの説には賛成しない。
恐らくは、江戸期に入って作り上げた「物語風の戦記もの・江戸期に流行した」から「史実」かの様に引用したものであろうし、それが長く語り継がれる事で「史実」と成り得て行くのが歴史の常である。
余談だが「歴史の研究」は一々確かめずして信じていると「矛盾だらけの歴史観」が生まれるが、これを「資料等の読み込み」で「見抜く確かな歴史勘の事」が必要で在るのだ。
だから「家康」はこれを読み取っていたのだし、「京での情報」は得ていたであろうし、後に「家康」も「三人の家臣に同じ手・信康と本多氏と榊原氏等」を使っているのだ。
そもそも、そんな「歴史の史実」は無いのであり、あったとしても多くは「ある目的を持たせた見せかけの策略・隠密行動」が殆どであった。
これは「西国攻めをしていた信長」は、「そんな事」は「当初の目論見」が在る以上は、「そんな馬鹿げた罰」はしない事は「指揮官」たるものは誰でも判るので、この説は「史実」ではないであろう。
故に、この事を「家康も見抜いていた行動」であり、「報復としての平手に・他の三人が引き上げた以上」は「無言で接した扱い」で挑んだが、「三方ヶ原の戦い」で“これが「どの様に出るか・戦死」をはっきりとさせた”のだ。
そうなれば必要以上に「自ら声を掛ける事等」は決してないであろうし、放置するのが「最大の得策」であろうし、指揮官たる者の器の“始末は成り行きに任す”であろう。
それよりも、筆者は“「他の三軍監に無視された事」”を恥じて「自滅の手段」を採ったのだろうと考える。
それは、「前日の通り軍議」の中で「平手汎秀」だけが「時間稼ぎの籠城戦」では無く「三方ヶ原主戦論を強く唱えた事・史実」から「引き下がれ無く成った立場」に「置かれて仕舞った末の結末」なのだ。
仮に馬鹿にされたとしても、この“「読みの無さ・判断力の低さ」”に対して“「軍監補佐として値しない」”とこの世に自然にあり得る事として見下されていたのだろう。
そもそも、通説とする論に対しても、“「主君でもない者」に馬鹿にされた”からと云って、猪突猛進に武田軍に突っ込んで行く事の事態そのものに“「戦国期の者」”としての「酷い未熟さ」がある。
筆者は、これはよくある江戸期に流行した「物語風歴史観の美化論」には同意せずこの様に観ている。
「戦国の世の掟」として普通ならば「立場上」は「他の三軍監とその差配頭の佐久間信盛に従うが絶対上の立場」にあった筈である。
要するに“「三軍監」と云うものをどの様に見るか”であってこれで決まる。
時代と共にその「役目」は変化するものだが、そもそもは「室町期の古来の軍監・軍目付」とは、「同盟」に於いてその「同盟国の軍隊内での出来事」を「味方の主君」に報告し伝える将、又はそれに「近い役の上位者」が、「戦場の敵の情勢」を具に調査して自らの主君に報告する役目を主務としていたし、主君の為にどの様に有利に立ち回るかの役目であるのだ。
決して「戦う役目」を負っていた訳では無く、「戦う直前・3日前」に引き上げて報告して「自らの軍に有利に成る様に前後策を講じるのが役目」である。
その為には、「軍の三等官」、つまり、「副将軍の一つ下位に準ずる者」を派遣するのが「鉄則の常道」であって、要するに「自軍」に於いても「軍師役を務められるだけの能力のある立場の者」であった。
この「派遣で同盟の強さの意味」が解るのだ。
この場合は、「佐久間信盛・織田家旧来の重臣」と「その他の二人・主君の縁者」とその「警備役の者・平手」で構成されていた。
決して、「同盟」であっても「援軍」ではないのだし、飽く迄も「援軍」は「援軍として派遣する習わし」であって其の場合は必ず「陣取り」をしたのだ。
故に、この様に「織田氏の軍監・軍目付」はこの「当時の習わし」から一歩も外れてはいなかったのだ。
故に、「平手」はこの「習わしの役目」のみならず「軍議の目的」とその「織田氏の目論見」をも全く理解していなかった事に成る。
だから「戦国の世に生きる者としての知識の無さ・愚者」に「松平氏・家康と旗本・寧ろ旗本から」から「酷く馬鹿にされた事・常識の無さが特に低く見られたのだし、「氏家制度の武家風潮が強く求められた」は必然の事であり、のみならず、寧ろ、「織田氏からも強く疎んじられた筈」である。
故に、両者から愚者にされた以上は「恥を解消する事」が出来ないので、当時としては「武士の立場・屈辱の作法」からすると、「面目なく生きて行く事」が出来ず、「切腹か自殺行為・武田軍に突っ込んだとする通説」はほぼ「史実であろう事」が判るし、「間違い」を悟って気が着いた時には「武士の作法で解決する事」しか無く成っていた筈なのだが“それであれば「切腹」が妥当"で、「主君に恥をかかせた事」からすると「より妥当な作法」であったと考えられ、その持つ意味も違って来るし、「織田氏の方」でもより良きように扱い方が違っていた事に出来る。
そして「後世に別の意味として伝わった筈」であろうが、それもせずに唯単に「突っ込むの行為」は別の意味を持ち、其れさえも弁えていなかった事は相当に愚者で在った事が判る。
「他の三人の軍監・軍目付」は、“無事に尾張に帰り着いている事”は「堀江城陥落の前日に脱出している事」に成り、その間の「3日間」に何とか出来た筈なのにそれもしていないと云う事は、「主君に面目に成る様な妥当な理由付け」をして脱出は出来ていた筈であろう。
そして、結局は「脱出の説得にも応じなかったと云う事」に話の結末は成ろう。
後勘から観ても、そもそも「自殺や切腹は主君の前での其の後の事」であろう。
「平手」は「江戸期の通説通り」であれば、「戦国武士の主君・軽んじている事に成る」に対しての「最悪の手段を選んだ事」を意味している。
歴史上でも言われている当に「・・・者」によくある“カーと成って仕舞ってやり過ぎて取り返しのつかない所まで陥った”という事であろう。
それでも「主君の命を待つ事」が「家臣と成る者の掟」であって、況してや「織田軍の軍監の一員の守備者」とも成れば尚更の事であろう。
とすれば筆者は「江戸期の通説通り」は疑問だと観ている。
少なくとも「駿河青木氏の貞治」はこの「経緯と詳細」に就いてこの事を当然に知っていた筈であるとするとその後の行動に慎重に成るであろう。
この「慎重さ」が未だ「織田氏軍監のいる中・3日前」で更に「額田青木氏の銃隊・貞秀」にこれだけの騒ぎが起こっている中では「情報提供の必要性を強く認識していた事」に成るだろう
つまり、少なくとも「浜松城到着後の3日前頃から連絡のタイミングを計っていた事」に成り、それが「最後の詳細な情報提供」と、「上記の最終局面と成った段階」で、遂には「事態急変・負けると読み込み」で「救出依頼の打ち合わせまで」に至り、それが“「三方ヶ原戦いの直前の朝」に成って仕舞った”と云う「経緯」がここでも生まれる。
つまり、このこの重要な経緯から「額田青木氏の銃隊」が「吉田城」を出て「浜松城到着後の直後」から「駿河青木氏の貞治」と密かに「打ち合わせに入っていた事・伊賀者の活動」に成り、それが“「三方ヶ原戦いの直前の朝」まで続いていた事を意味する。
筆者は、「3日前」としたのは、「呼び出し命令を受けた吉田城出発前」から「到着まで浜松城到着」とその後の「三方ヶ原戦い後の戦線離脱後」と、「盤田見附の西光寺に回避の確認」と「最終の伊川津到着」に至るまでの間は、「伊賀青木氏の者」と「伊勢水軍」等の多くの者を駆使して同時に早く「警護と事前の情報提供に働いていた事」が解っている。
この事から「呼び出し命令」から始まり「3日前頃・吉田城から三方ヶ原の間」とした。
これは要するに、「青木氏の歴史観」から観れば、この「経緯論」は「他の三人の軍監・軍目付」の「時間稼ぎの籠城戦」に対して、「平手」は「軍監・軍目付」でも無いのに出過ぎて「三河旗本」と同じ「額田青木氏を用いた主戦論者」で在った事が云える経緯と成る。
その相手が、丁度、「武田氏の軍であったという事」であろう。
「織田氏の戦況の状況」の中で、既に「これ等の情報」を充分に承知していた「額田青木氏を用いた銃隊」を用いた主戦論は,好ましいものでは無かった筈であって、その証拠に詳細に上記した「2年後の長篠の戦い方」でそれが当に物語っているのだ。
当に戦国の世間に対して、「氏家制度」の中で、これ程の「愚かさを露出した者」は「織田氏の恥・主君の顔に大泥を塗った・人材不足が低く見られた」と成るが、この時期の「歴史上のどの戦記類」を観てもこの事は珍しく他に余り散見できない。
それ故に、これに影響を受けた「額田青木氏と駿河青木氏の行動」は、今後に、又、「伊勢や藤沢にも影響する行動」が求められていて、「実に適切で慎重であった事」に成るし、「伊川津に戻った後の旗本との関係」も「後世に泥を塗る事」とは成らず、寧ろ、「青木氏の歴史観」からしても「後世に見本と成る遺すべき行為」であって「重要と成る行為」で在ったのだ。
故に、「後世に比較対象」と成る為にこれらに関わる史実の事を用いて詳細に論じて観た。
さて、唯、更にこの「検証」を深めると、これにはもう一つ“「重要な事」”として、その「陣形の向きに欠点があった事」が読み取れる。
要するに、ここにも「・・・者のカーの癖」が働いたのか、不思議にもより有利に成る筈の“「浜松城を背にしての陣形・北向き」では無かった”事なのだ。
ここで念の為に「江戸期の脚色偏纂の定説」とされているものでは、“「武田軍の本隊」が先にこの「三方ヶ原」に到着して「魚鱗」で構えていた”としているので、故に、“松平軍の陣形はそれに合わして「鶴翼」とした”として、何時もの様に「後付けの美化」をしいるが、「江戸期前の記録」での「時系列の検証」でも、「堀江城の落城の経緯・延べ4日」から考えても、“此処までも「後付けするか」”と思われる様な程に全てこれ等には「辻褄」が合わず100%あり得ないので注釈する。
そこでこれも「長篠の実戦」にも出ていてこれに付いて念の為に参考として論じるが、仮に「野戦」であっても、「武田軍が採用した移動型の魚鱗の陣形」であれば、「額田青木氏の銃隊」が仮に「松平軍の頭の部分の先頭に着く事」があって、それが出来ていれば、「赤兜の騎馬隊・突撃隊」が前面に居たとしても、又、「山県軍の別動隊」が「北の山際・右側面の北に着いていた」としても、慌てる事は無かった筈だ。
つまり、何故ならば近づいて戦う事の無い「勝てる見込みの銃」は充分に有ったし、間違いなく勝てたであろう陣形と成り得ていたと成る。
ここが「額田青木氏の銃隊の南下国衆が断った所以の重要な処」であって、上記の「三方ヶ原の平手の事」に比しても「慎重な伊勢の裔系額田者の行動」、つまりは、“ゆったりとした伊勢者の性格」を採った事”なのである。
前期で論じた様に、そもそもその前に交わした「実戦と成る事に対する約定の違い」も確かにあったが、次の事も又大きく左右し「青木氏の氏是に反する事に成る可能性」があったからである。
それは、上記の様に「陣形」にも依るが、「銃の在り方」にもあった。
つまり、前段でも論じた様に、この“「銃の威力・10~20倍以上の戦力・超新型銃・フリントロック式改良銃」”を持っていたからである。
恐らくは、間違いなく後の「長篠での信長軍・雑賀根来銃傭兵軍団」が実戦で示した通りの“「兵力・20倍以上」”には成るだろう。
「古来中国の兵法」より、“味方の軍の犠牲が無く相手の軍を殲滅するに必要とする兵数は10倍とするのが常識とされていた。
従って、戦記上では世にその威力を示し実戦としてこの「銃」を大掛かりに使ったのは「信長の長篠」であって、その「2年前の三方ヶ原」でも「額田青木氏の超近代銃」は使われたのではあるが、「銃」で在る以上は「古来中国の兵法」の更に2倍と観られるだろうし、「火縄銃」での「銃弾の充填の回数」と「熱などの使用欠点のロス」を持つ「火縄銃」を克服した「フリントロック式銃」ではその更に4倍と観るとして、最大では80倍と成り得る。
然し、このロスを考えた場合には最小では少なくとも20倍は確実に保証できるだろうとして前段でもその様に論じた。
この論の「一言坂の結果」はそれを証明するのであったと信じて論じているのだ。
つまり、その「事前の銃の威力の情報を得ていた武田軍」に執っては、この「80倍」は「驚きの範囲」を超えていたと観ていて、それ故に、「伊勢」は前段でも学問的にも論じた通りに当時としては想像を絶する「超近代銃の開発」に密かに取り組み、「高投資で20年の開発」を掛けて完成させたとされるその意図がこれでも判るのだ。
「青木氏族」は「これ・歴史上の戦歴」を避けたのである。
これは当に「武田軍」と「額田青木氏の銃の戦い」に成り得るからだ。
又もや、「第一次の吉田城籠城戦」に続いて「一言坂」でも、将又、「松平軍」は“楽して無傷で勝つの戦略”であった事に成り得て、「他の伊川津の国衆・伊川津国衆以外も」と違って「契約の伊川津の国衆の限定国衆・家臣として伸し上がる目的を持ってなかった」で在ったのに利用され続けていたのだ。
「青木氏の氏是の前」に「額田青木氏の南下国衆の指揮官・貞秀」はそれを見抜いていたのだ。
つまり、この「利用される事・300丁の近代銃の20倍の兵力・最低」で、その「兵力的・松平軍」には「銃隊の相当兵力の6000+松平軍の正味兵力の5000=11000」と成っていたのである。
これで「武田軍の本隊」にほぼ近づく事で「左右の鶴翼」は必要無くなるので、「兵の温存」が働き、この「他の兵」は「本陣守備」か、又は「銃隊の後ろ」に控えさせて、“いざという時”の「銃隊への補足が効く事」に成るとしていた戦略の事に成っていたのであろう。
これは要するに当に「魚鱗の陣形」であり、「馬や弓矢の代わり」に「銃弾」が相手の前面に次々と飛び交う事に成るのだ。
要するにその「要求する根本」は、そもそも全く“「国衆契約」”とは違っていて、“「危険極まりの無い主戦隊の役」であった”のだ。
経緯的には、それを「軍目付の関係者の主張・籠城戦」に反して「平手・野戦主戦論」が「軍目付警備の立場」を忘れて「酷く掻き乱された事」で、「伊勢青木氏」と「二つの青木氏の額田と駿河」に対して挑戦して来た事に成るのだ。
そこで、当にこれは「百々の詰まり」は、当に「2年後の後の長篠の織田軍の戦い方と同じ事」に成るのだが、これは“「三方ヶ原の分析研究」を「信長」がしていたのではないか”と云う事を物語るものだろう。
そこで「信長」は、先ず“出来たら「鶴翼陣形」が其の侭でも「鶴翼」を留めて「左右に弓矢」を持たせば「20000の兵」に無傷で対応できる”と考えた事に成る。
これを数少なくしてするには“「火縄銃に替えたらどうなるか・新しい発想」”であったと観るのだ。
そもそも、“「弓矢」には、「飛距離と間隔と命中率と殺傷力」が左右するが、「銃」に置き換えれば」とすると、この「欠点」を克服できる”と考えたに違いない。
これは「勝負が着くまでの間」の「突撃型の騎馬隊からの犠牲・信長は非常に警戒していた史実」は、これで最低限で無くなるからなのだ。
つまり、“「弾と硝煙が無くなるまで」”は無傷なのである。
唯、「二つの郷土史が遺した研究」からこの行を読み込むと、ここには“「信長」が気にしていた「一つの欠点」”があった様だ。
それは、史実として「戦場」と成った「長篠の戦後の江戸期の郷土史に残るこの研究」で注目したのは、“「弾丸が激しく変形して潰れ飛散している弾が多かったとしている事」”と、その“「弾の向きや変形弾が違うものが馬柵やその下の地面にあったとしている事」”のこの二つなのだ。
これは「戦況を物語る重要な考察点」である。
つまり、この事は、先ずその「物語る一つ」は、“余りの連続的な発射で銃身が熱を持ち爆発したのだ”とする事を用いた「柔らかく成った事での変形の説」があり、その「物語る二つ」は、“何か相当に固い物に近距離で当たった”と云う事であると云う説だ。
この「物語る二つ」は充分に納得できる説論である。
従って、この「物語る一つ目の経緯」からすると、「火縄銃の傭兵力・織田軍」は、「銃力と銃兵の力」が“「途中」”で激減した可能性があると云う事が読み取れるのだ。
次の「物語る二つ目」は、「物語る一つ目」に続いて、「無理にも突っ込む武田軍の将兵・固いもので武装していた」に対して「近距離連射」を仕掛けたと云う事に成る。
所謂、その「物語る一つ目」では、この“「途中」”が問題であって、それは「武田軍の兵力」が「織田軍の銃力」で激減した「後」のなのか「前」なのかである。
「戦後に、直ぐの戦場調査をしたとする口伝からの郷土史研究」では、殆ど「武田軍の戦死者」は「銃」によるものだったとしている。
時間的な処は具には判らないが、この事の「物語る決定点」は、「急激に落ちた銃力」と「武田軍の総攻撃攻防」の「何とかぎりぎりの処」の間で、“「勝敗が着いたと云う事」”に成る。
つまり、前段の「弱点」を突いた「馬周りの北側際の場所・秀吉軍との間」から「武田軍」は、“銃撃間を狙って断続的に無防備にも銃弾の中に突撃して行った”とする「理由付け」はこれで読み執れる。
「織田軍」には、所謂、この“「途中」がもっと早く訪れる”と観ていた可能性がある。
それはどういう事かと云うと、「銃撃間の間柵を開閉」してそこから「徒士の兵」が討って出てまた引き上げ、これを繰り返しながらをしていた事に成る。
つまり、これは当然に、「銃身に熱を持ち使えなくなる事」を知っていて「織田軍」もこの“「途中」”に賭けていた可能性があると云う事だ。
次に「物語る二つ目」では、「武田軍側」でも「銃に対する策」として「鎧防御」では無く、「将兵の前に薄い鉄板の様なもの」を持たせ、それを「200の銃の突撃兵・勝頼守備隊」に事前に装着させていた事に成るか、将又、「弾薬等を運ぶ荷車」に「装甲車」の様に「薄鉄板」を張り、それを前にして隠れるようして速度を上げながら銃撃しながら突撃する決死隊としたのでは無いかという「証明され得ない仮設・状況証拠」があがる。
何故ならば、上記した様に重視したいのはこの「館壁に銃弾痕があった事・重視」は、唯単に「銃で突っ込むだけ」では無く、この装着した「薄鉄板の装甲車の効果」で「銃弾痕が跳ねて当たった事」に成ったのではないか。
それで無くては「200の銃兵の数/3000銃」では「銃弾痕があった処」まで届くのは先ず無理であろうし、大きく穴が開くまでに銃弾が壁まで届く距離に近づくには「銃兵」は一度に激減していた筈だ。
そこで前段でも論じたが、これをもう一度念の為に「検証の角度」を少し変えて検証して観る。
「銃の学術論」であり、どれだけ「青木氏部の学術的なレベル」が進んでいたのかが気に成る。
「家訓10訓」の一つにも成っている位である。
「鉄の比熱」は、水の1/5であり、加熱で使えなく成る温度は70℃とすると、連射すると、約1h程度で遂に[銃身の弾道管」は膨張して破裂するか、弾が飛散する事が理科学的に間違いなく起こる。
「資料記録と実験記録」が遺されていて、では「1発撃つ」のに「最低で10~15sec・単発動作」、「冷やしながらの撃ち方」で「最大で記録から5~15min・連射動作」と諸条件と成りある程度ので幅があった事に成る。
郷土史に依ると後に、この説を証明する為にこの実験記録が成されている。
その結果として、この「間隔」が次第に拡がり、最後は「薬倉破裂と銃身破裂」が起こり最後は使えなく成ったとしている。
この実証実験の結果は論理的に納得できる。
何故ならば、理論的に「鉄の特性」には熱に対して「300度付近」に達すると“「300脆性と云う現象」”が結晶間で起こるのだ。
1度目か、又は冷やしながらも何度もこの温度に達するとより「300脆性と云う現象」で「鍛えた鉄」であってもあればある程に「鉄組織」が破壊されて亀裂が起こるのだ。
そして、最終はこの亀裂で爆発的な破壊が結晶間で起こるのだ。
この為に、実際使うには絶対に「300度より低い温度」で冷やす間隔を置いていた事」に問答無用で成り得る。
そうすると、仮に「三段構え」としていたとしても、この間は銃は使えなく成り、更にこの間には何も出来ないので、「銃撃間の間柵」から柵を開いて「徒士の兵が討って出た事」は資料に書いている様に間違いは無い事に成るのだ。
一部の「実戦記録・戦記物」では「棚解放説」の此れを史実として記している。
恐らくは、間違いなく「4回程度/h」では「全ての射撃」が先ず1回止まり、「徒士の兵」が柵から出て戦い、又引き上げる作戦を繰り返した事が判る。
「戦い」では実際に4回起こっていた事に成る。
そうすると、論理的にはこの熱を発生させない様にすれば何度も使えるがそれは論理的に絶対不可能であり、それでは「敵の進撃」に絶えられない事になる。
間違いなく「戦い」で使う際は、この理化学的な逃れ得ない「300脆性と云う現象を興した銃」と成り得ているのだ。
従って、「銃の寿命」は何時か来るのだ。
「粗製乱造の銃・素材や造方如何」ではこれがより早く起こるのだ。
「鍛え方の悪い火縄銃」は、“より危険と云う事に成る”と云う専門的な知識があるのだ。
室町期の資料にも、「悪徳闇商人」がこの「粗製乱造の銃」を売りつけて問題に成っていた事が記されている。
注釈として、「専門的な研究」によると、そこで前段でも論じた様に「額田青木氏の近代銃・摂津で密かに製作」によると、「西洋」では「新しい冶金技術・ドイツ」が高められ、上記するこれらの「銃の欠点を克服した進歩」でより「銃の威力」を高められたのだ。
且つ、それが「携帯可能な銃」と成ったとしていて、且つ一段と「飛距離」を高めた「飛ぶ銃」で「強い銃」の「研究開発」が成されていたとしている。
結局、軍隊で使っていた不要と成った「古い火縄銃」を買い集めそれをポルトガル人が「高額・2000両」で中国と日本の種子島に先ず持ち込んだと「経緯」となり、それを紀州根来と雑賀の鍛冶職が種子島に渡り学び持ち帰り類似品を開発した経緯と成っている。
「青木氏の銃」ものはこの「西洋技術」を密かに取り入れたもので「試作」を繰り返し「額田青木氏用に取り入れた」とする史実のだ。
但し、この史実とは別に「摂津」では「貿易」でこの冶金学が進んだ「ドイツの新型銃」を入手し密かに開発を進めていたのだ。
そして、それを「近代銃としての根拠」としていたのだが、故に、西洋ではそれまでの銃は旧式と成り、それを「種子島」に持ち込んで高く売りつけて利益を上げ、「雑賀族と根来族」はこれを日本で広めたのが、未だこの「銃の欠点」を克服していない「種子島式の旧式火縄銃」なのである。
要するに、この“「摂津銃」”と呼ばれる「非公式の近代銃」では、「最大の欠点」の「300脆性と云う現象」と「繰り返される事で起こる疲労破壊」のこの「二つの欠点」を起し難い様に「超高度な熱処理・3つ進んだ高度処理・下記の専門的な学説論参考」にこれに付いて下記に論じる「・額田青木氏の近代銃との比較」が施されているので「連射」が出来る様に開発されたのだが、そこで先ず、因みにこの「三つの進んだ高度処理」とは次の通りで在った事が「専門的見地の分析」から解るのだ。
因みにそれを論じて置く。
「学説論」
「一つ目」は、鍛えなくても起こる傾向は元来鉱物で在る限りは特性として持っていて、尚更、外部から自然の状態に力を加えるのであるから「鍛えた鉱物」には必ず「欠点」が起こるのである。
これを防ぐには、「300脆性と云う現象」では、次の技術が用いられる。
それは「鍛えた後」で一度、「550℃から600℃付近・過熱する事だ。
「加熱し過ぎると鍛えた意味が無くなる」で、“緩やかに過熱して緩やかに冷却する熱処理”を施す事で、この厄介な「現象」を止める事、又は緩める事が出来るのだ。
これを「焼鈍処理・アニーリング」と云う。
次に、「二つ目」では、「鍛える前の鉄」にはある「内部の特殊な結晶構造」を持っているがその温度でそれの「結晶構造」がそれぞれに異なるのだ。
それが、上記した「300度の脆性の破壊の原因」に響いて繋がる傾向を増すのだ。
そこで、「鍛える前」にこの現象を「起し難くする結晶構造にして置く事」が必要に成る。
それが、その「結晶が起こる温度」が特定されていて、それが「600度付近」だけにあり、これは「元来の持っている特有な結晶・パーライト結晶と云う」を「球状化と均一化」にして「ゆっくりと冷却する事」で「球状化と均一化の結晶・元来この結晶構造は自然界に無い」を無理に造り出して維持されるのだ。
故に、超高度な知識として「どんな鉱物」でも「近代的な構造物」に使われる際にはこの「処理」は絶対に必要と成るのだ。
そうする事で、この「300度の脆性の破壊の原因」が、「繰り返される銃撃の熱」とその「銃に加わる衝撃力」が「球状化・均一化」で「分散される現象」が起こり極めて軽減されるのだ。
「三つ目」では、「鉄を鍛える」には「加熱」して「約1000度以上の温度・オーステナイト結晶」にして、その温度中に叩いて鍛え、これを繰り返すが、この時、欠点が生まれるのだ。
先ず、「850度から1000度・1025限界」では、この「内部の結晶」が「粗大化・一つ一つの結晶が大きく成り過ぎて仕舞う事」が起こるのだ。
何事も「鉱物」は「結晶」は「小さくて均一で丸くある低温時の結晶に成っている事」が一番良いが、「鍛える事・ある形状に仕上げる事」には、どうしてもこの「逆を行く事」に成るのだ。
「銃」は「常温」であるのに「1000度の高温での結晶の構造」と成っているのだから、そもそも「鍛えると云う処理」には「結晶と云う点」ではそもそも「無理」が伴っているのだ。
だから、これを「常温」でも保てる様にしないと、その内に「時間の経過」と共に「自然破壊・自然に戻ろうとしてオーステナイトがパーライトに変化」して仕舞うのだ。
つまりは変形してしまうとして仕舞うと云う事なので重は使えないと云う事に成る。
更に困るのは、この「パーライト」にも「723度以下」では、「723度付近のパーライト」と「常温までの色々なパーライト類」があり、これに何とかして「自然の状態」に近づこうとして「自然変化・自然劣化に繋がる経緯」を繰り返して行くのだ。
この事で使わなくても「脆く成ったり」や「銃身が変化したり」やして使えなく成るか、無理に使えば要するに「熱」に寄らずとも「銃身爆破・自然劣化の進行・疲労破壊の進行」が起こるのだ。
使えば使う程に「鉄の結晶体」に「使用した衝撃などの応力」が吸収し残留し、この「自然による銃身破壊の現象」はより「進行」は速まるのだ。
これを無くするには「特殊な処理」が必要と成る。
それが「新しい技術」として「焼凖処理・ノルマライジング」が必要に成るのだ。
上記した「大欠点」を無くす為に「鍛える鉄の場合」には、要するに「ノルマライジング・自然に戻す事の処理」を施す必要があるのだ。
「自然に戻す事の処理」のこれには「色々な種類の処理方法」があり、どれにはどれとして専用的に適用されて効果を発揮する。
従って、「銃身とする場合」は、表面にそれなりの耐え得る薄い層を造る事であり、それには「サアナイド」や「タフニング」や「メッキ・無数にある」もその代表であろうが、かなり「専門的理論」として「銅又は真鍮と組み合して造る事・応力を逃がす」もある。
然し、これ等の冶金学は未だ発達していなかったと考えられる。
そこで「額田青木氏の近代銃」には、何らかな形でこの「三つが組み合わされて使われていた事」が継続していた「後の研究・四つ目対策」で判っていて、「サイアナイド」や「タフニング」等、当時としても現在としても「超近代的な専門的な技術」が使われていた様である。
取り分け、「サイアナイド・炭化処理」や「タフニング・窒化処理」は加熱の際に知らず知らずの内に使っていたと云う事がある。
“何かいい味が出る"の程度の感覚で使っていたのでは無いか。
それが敢えて「備長炭」を使ったと云う処が齎す効果であったのだ。
これは外国に於いても最初は同じ使い道から得た技術であったとされ、それは「ドイツ」で開発されて「戦い」を通じて「ヨーロッパ全域」に広がり主に「銃兵器」に使用されたのだ。
それがもとで「銃の鉄に起こる欠点」を緩和させて「西洋の戦い」は急速に変化して「殺戮性の高い近代兵器」として利用されていた事が歴史的に判っているのだ。
これを「額田青木氏の伊川津国衆として南下する為の護身用武器」として「伊勢青木氏の指示」で「摂津青木氏」が「貿易から得た情報」で「銃見本を密かに入手していた事」が歴史的経緯と合致して解っている。
これは見本の分解等をそれなりにしたと考えられる。
更にその少し後に、この“「五つ目の対策」”として、更に西洋で開発された「超新技術の合金処理技術・真鍮化も」が施されたが、この「見本の二つの銃」として密かに入手していた様だ。
この「五つ目の対策」の「超新技術の合金処理技術・真鍮化の実用把握」に相当に時間と苦労を要した事が記されているが、この技術は室町期には成功したかは判らないし、使っていない様だ。
そこで最も最初に“「銃対策」”として取り入れたこの「四つ目の対策の超新技術」は、「摂津」では「サイアナイド」であった事が判っていて、それが「銃の欠点の原因対策効果」としては良い事が判って直ぐに取り入れていた事に成っている。
判り易く云えば「備長炭効果」であったのであろう。
開発して会得したと云うよりは、研究の過程で偶然に会得したと云う方が正しいだろう。
何故ならば、その土壌とする基盤が「伊勢」にはあって、それは前段でも論じた「日本初の墨の開発」を朝廷から命じられて「紀州姥め樫の備長炭を用いた事・墨」を論じたが、この「墨の技術・炭素の細かさ」をこの「サイアナイド」に一番に用いた事が解っている。
どういう「技術的な理論」が在るかと云うと簡単で端的に述べると次の様に成る。
上記の通り「鉄の欠点」が生まれ銃として使う場合は、これが銃に耐え得る範囲を超えて破壊が起こる。
そこで「鍛える際に加熱する火」をこの「炭の材・備長炭」で行い、この加熱時にこの「炭の細かさ」から上記した「加熱時の鉄の結晶と結晶の隙間」が拡大して、この細かい「炭の材・備長炭」が「鉄の中・表面部0.5m程度まで浸透させて行くのだ。
させて行くと云うよりは加熱で自然にそうなったと云う事だ。これには但し「古い紀州備長炭である事」が前提である。
「・過剰深さ」にならない様に「逆の欠点が出るまで」に浸透させて行くのだが先ず其処までに浸透は無理である。
これを「適度の温度・723度以下」に下げて、再び「鍛える過熱温度」まで何度もこれを繰り返す。
つまりこれは鍛えると云う行為である。
ところがこれを一度にして加熱してこの一度に「備長炭の細かい炭素」を浸み込ませると、逆に結晶が粗大拡大して抑々使えなく成るのだ。
ここには「理論的」な「難しい鉄と炭素の相関関係図」が存在していて「相当に会得した匠」で無いとこの「サイアナイドはする事」は出来ないのだ。
この事を最低限に会得する技術で在ったろう。
そうすると、この時、何度も加熱し鍛えられ何度も結晶間に「浸みこませた炭素」は「鉄の周り」に「0.5m程度の丁度良い厚みの層」が隙間なく出来上がる。
「鍛えた最後」にはこれを「垂直方向」に向けて「水又は油」の中に「0.5S内」に素早く冷やし常温程度に成るまで「冷却」をするか、灰などの中に自然冷却の速度で放置しても良いが昔は現実はこの方法であったろう。
この時に、この「鍛えた鉄と冷却を受けた炭の炭素」との間ではこの自然界に存在しない「特殊な途轍もない堅い結晶構造・マルテンサイト・ダイヤに近いもの」に「変化・別の物に替わるので正確には変態」するのだ。
「これ・マルテンサイト」が「鉄の周りに薄い幕の様にして出来る事」に成る。
そうすると、結果としてこの「鉄の周りの固い膜」は上記した「鉄の銃の欠点」の「防護用の干渉幕」が出来上がるのだ。
つまり、ここで「銃の欠点」が「吸収幕で抑えられる事」に成るのだ。
但し、この侭では未だ完ぺきでは無く未だ駄目なのである。
「無理で急激」に「マルテンサイトと云う膜」を造った以上は、これにもある問題を持っていてこれを解決させなくては上記した欠点を完全には克服して使えないのだ。
それで無くてはこの「マルテンサイトと云う膜」にも「無理で急激」で「鉄の結晶・鉄の細胞」の中に起こっている以上は拒絶反応が出るは必定で、この為に、これを更に克服する処理が矢張り伴うのだ。
完璧と云う事であって施さなくても一定期間は持つ程度であろう。
然し、この「マルテンサイトと云う膜」は「硬い・衝撃や亀裂や摩耗に猛烈に強い」、「滑り・摩擦にも強い」の性質を持つていて「上記の銃の欠点」を消してくれるのだ。
然し、完璧にするのであればこの「拒絶反応」」だけは消しておく必要があるが、その為には更に「テンパーと云う処理」と云う処理を施すのだ。
現実に弾丸を撃つ事で熱を持つので問題はない。
論理的には上記の「マルテンサイトと云う膜を造った鉄」を少し「自然界に無い別の新しい結晶体」に換えて存在させる事をやらねばならないのだ。
それは現在では「鉱物油」に「約180度から250度までの温度・テンパー」に穏やかに長く保つ事で「ツルースタイトと云う結晶構造・マルテンサイトの更に変態物」が得られるのだ。
昔は色々な種類の灰を用いていたらしい。
この「テンパー処理」を施さなくても問題なく「全ての特性」は一応は得られるが、これは「上記のマルテンサイト」よりももっとより良い「硬い・衝撃や亀裂に強い」、「滑り・摩擦に強い」等の「全ての特性」が得られ、それが「銃に対しても良い性質を持って仕舞うのだ。
但し、この時に上記した様に「300度脆性」では「厳禁温度手前である」ので注意をしなくてはならないので、「極めて注意を払う温度調節」が必要に成るのだが、然し、それだけに意味を持つが「300度脆性」が一度程度起したと云ってもびくともしない。
この「マルテンサイト」を獲得するには、「鉄と炭素と温度の相関関係」が微妙に働く。
昔はこの相関図は得られて無く「匠の感覚の領域」であった様だ。
現在では関係図的に解明され、「横軸に加熱温度」、「縦軸に炭素量」、「横と縦には鉄の状態・結晶」の相関を採ると、この「三つの要素の相関図」が生まれる事が学問的に判っている。
図の横軸に「鉄に対して0.8%の炭素量」を中心に「723度」を上に超えて左に動くと、この「マルテンサイト」は「正常なマルテンサイト」は得られず欠陥の持った「マルテンサイト」と成り得て、ここでは通常は使えない。
それが左に「0.6%の炭素ポイント」では、「正常な充分なマルテンサイト」は得られず、右に「1.0%の炭素ポイント」では、「マルテンサイト」は「特別な金属・主にNiで微小化して」を混入させない限りは即座に強烈な爆発的な破壊が起こる。
同時に、左では「マルテンサイトが獲得できる温度」が「高温」と成り過ぎて「鉄の結晶体・処理温度が高くなりすぎて、先ず「結晶が粗大化」して別の意味で脆く「0.6%付近」ではその「硬さ等の特性」が得られない。
そこで「上記の合金五元素を低率で混入させる事の効果」でそもそもの「処理温度」を下げて、それに従って「マルテンサイトの変態点」を下げて「少ない硬さなどの特性」を補完してその上で「獲得出来る様にする。
其の侭ではこの「結晶の粗大化」と「マルテンサイトの破壊」を招き「熱処理」は成さない。
図右では「723度・上下に限界値」にあっても「鉄だけの金属・合金では無い」であれば「変態時のエネルギー・応力」が過大と成り過ぎて間違いなく破壊が起こり、一般的には「熱処理に依るマルテンサイト」は獲得できない。
そこで、現代では「求める物理特性」を得る為に「上記の五合金元素」を少量加えて溶かし「マルテンサイト」を獲得する事無く使える様にし、この為に鍛する方法があるのだ。
「炭素8%」より左側の要するに「中炭素鋼」には、「充分なマルテンサイト」は得られないが、その代わりに「マルテンサイトと異なる近い変態組織」が得られるが、これを其の侭では上記した様に「破壊」に達する為に「特別な熱処理」を加える事で、それは鍛する事なく「ソルバイト」と云う「特異な組織」と成り得る。
要するに、「硬さ」は少し不足するが「鉄と炭素の結合体・セメンタイト」の単独でも「バネ組織・耐摩耗性・耐衝撃性・耐熱性等」を獲得で出来るし、これに「熱処理の補完」の為に「加えた五合金元素の特性」が共析して来てよりこの特性は向上する事と成るが、勿論に室町期ではこの「高度な処理」は当然に無理であったのだ。
然し、上記の「額田青木氏の超近代銃の欠点を補完する充分な特性」がこの処理でも得られるのだ。
調査すると、「額田の銃」はこの左側から得られる「中炭素鋼」では無かった。
「右側・高炭素鋼・通常お茶を煎じた様に炭素の濃度が高いので煎鉄とも云われる鋼」は、「高炭素・右側」に成るに従って「オーステナイトと変態点723度の間が狭くなる現象」を起し、「焼き入れ」では無くてもそれなり温度を加える事でその「変態エネルギー」を与えれば其れなりの「マルテンサイト」は得られるのだ。
従って、「右側の高炭素鋼・現在ではSKS・SKD等の合金鋼で焼き入れは可能」は「マルテンサイの破壊」をできるだけ防ぐ為に、「鍛造で鍛える程度・鍛いて得られる」でも「それ相当の硬さが得られる事」に成り現代ではよく用いられているのだ。
つまり、故に「古来の砂鉄にも原鉱石」の中に上記の「五合金元素」が僅かに自然で含んでいて、それが「鍛造の差・鍛え方」で、その「品質特性」はバラックのだが、この概念は昔は“味と云う表現”で持ち得ていた可能性はあったらしい。
「数多くあった鉱山の原鉱石の名」が記されている事は、その差が無ければ何処の原鉱石でも同じと成るので、“味と云う表現”のそれを用いて意味しているのだろう。
但し、何れにせよ「凄い変化である変態・焼き入れ時に吊るした具を通じてグァーンと云う鈍音とガクンとする衝撃が耳と手に伝わる程度」で、その「破壊の危険」は伴うので、その「破壊」を起させない為の「結晶の粗大化の防止策にNi加える」か、或いは「五合金元素」を少量に加える必要があるのだが個人では出来ない。
実は、「各種各地の鉄鉱石」にはその「自然界のNi・ニッケル」を多く含む物もあり、“あそこの原鉱石の鉄は割れない”等の「破壊」に対する“味と云う表現”での概念で、「秘密裏のノウハウ」として匠等に生まれていた事に成ろうし,現実にもそうであった事が記されている。
然し、ところが「近江鉄・大倉鉱山や高倉鉱山・最終は奈良期710年から1560年代まで」には、この「Niと五合金元素の存在の記述」は古い為か強くは散見出来ないのだ。
然し、前段でも論じたが「近江地域の地質学的な成り立ち」からは充分に存在は考えられるが無かった様だ。
そこで少しここで地質学を論じる。
そもそも,「滋賀県地域の地盤」の成り立ちは、「二つの時代の陸盤」から成り立っていて、それは「中生代」と「新生代」からである。
この「中生代」では、「丹波帯付加複合体」と「花崗岩類」と「湖東流紋岩類」との「三つ岩類」で成り立っている。
其の後に出来た「新生代」では、この上に「第一瀬戸内累層群」と「古琵琶湖層群」と「段丘堆積物沖積層」の「三つの層」から構成されている。
参考資料より要約
・「中生代」とは、定義では初期の地質時代の一区分で、化石に残りやすい生物が出現した以降の顕生累代を三分したのが「第2の地質時代」という。
これを放射性同位体による絶対年代の推定としては、「約2億4800万年前から約6500万年前まで」の「約1億8300万年の期間」に相当するとしている。
・「新生代」とは、定義では中期の地質時代の一つで、「顕生代」の大きな区分の一つである。
「約6,500万年前から現代まで」に相当し、陸上では恐竜が絶滅し、海中ではアンモナイトと海生爬虫類が絶滅した後、哺乳類が繁栄した事で特徴づけられている。
この「新生代」は、「第四紀・新第三紀・古第三紀」の「3つの紀」に区分される。
この「新第三紀」と「古第三紀」の「二つを合わせた地質」を特徴づける「地質時代」を云うとしている。
・「丹波帯構成岩類」とは、そもそも「チャート・石灰岩・砂岩・泥岩・礫岩」などの「海底に堆積した堆積岩類」と「海底に噴出した緑色岩(玄武岩質火山岩類)」で主に構成されている。
「海洋プレート」の上に噴出した「玄武岩質火山岩類」は「海底や火山島(海山)」を形成して、その上に「チャートや石灰岩・珪質泥岩」などを徐々に堆積させながら大陸へ向かって年間数cmほどの速さで移動していくが、これが「丹波帯構成岩類」を構成している。
・「超丹波帯」とは、近畿地方において「丹波帯・中部地方に美濃帯もある」とその北側にある「舞鶴帯」と呼ばれる「3構造帯」との間に存在し、この「丹波帯」が「中生代・ジュラ紀」に「付加作用」を受けて形成された「付加体堆積物」で構成されている。
これに対して、主に「古生代ペルム紀」に「付加作用」を受けて形成されたのが「付加体堆積物」で構成されている「古生代地質帯」である。
・「海洋プレート」では、「海溝部」で大陸の下へ沈み込んでいくが、この「堆積物」は一緒に沈み込む事ができず剥ぎ取られ、「大陸側」から運び込まれた「砂岩・泥岩」等と共に大陸側へ押し付けられ、これが混じり合って「付加体堆積物の複合体」を作りあげて行く。
この作用を「付加作用」といい、それにより形成された「堆積物」は「付加体堆積物」と呼ばれるがこの堆積物には「鉄分」を多く含むが、その結果として「五合金元素の存在」が認められる鉱物体」は「高比熱、高耐熱性、高比重」から付加体堆積物とその複合体には残り難く分離されて行き「深い堆積層中に巻き込まれて含まれる事と成り易い。
故に、この「丹波付加体堆積物と複合体」には「鉄分」だけは多く含む事に成るのだ。
だから無いのであろう。
この主体と成るこの“「丹波帯付加複合体」”とは、要するに「石灰岩等の海洋底起源に依って起こった岩石」と、元からあった「泥岩・砂岩等の陸源破砕岩」が圧迫されて陸に隆起し「混合した地質形成性体」で形成させた。
つまり、結局は「琵琶湖」を挟んで「東~西~北部の三つの基盤」から圧迫して形成しているのだが、その「経緯」としては、次の通りである。
・「中生代」に「ユーラシアプレート」から「日本列島全体」が南東に向かって先ず分離して、其処に横に海水が侵入して日本海が出来、その「分離した地形地質」が今度は「糸魚川構造線」を東西を境にして分裂し、其処の海峡に土がが重なり海峡は埋まり「原形日本列島」が生まれる。
その「原形日本列島」も「三方からの圧力・現在でも掛かる」が掛かり、ここを中心に当初は「西と東と北」の「三つの島」で構成された。
その時に「中央の位置」に対して「左右からの圧迫」が加わり、先ず西側に浮き上がって事に依って出来た「島の窪み」に山水が流れ込みここに「元琵琶湖」が先ず出来た。
更に、これが常に圧迫を受け続けている「北側・現日本海陸」からの突き上げを受けていた「原形日本列島の南陸側」は「南海」に繋がる事に成ったのだ。
この時に突き上げられた結果として、「中国陸・神戸層」に繋がっていた「淡路陸」が突起し分離し、更に続く突き上げは「西側と南側」に陸が移動させて縞が出来たがその「縞の窪み」に「瀬戸内湖」が形成された。
西に押されていた「瀬戸内湖底」が右側に下がり、南からの海水の侵入して分断されて「淡路島」と成った。
然し、更にこの「圧迫」は動き「東~西~北部の3基盤」に圧迫された事で、「西側の陸」が「西」に更に押しやられて移動して「四国陸」が隆起し、其処に更に「窪み」が出来てこれに「瀬戸内湖の南の水」が流れ込んで「段差のある瀬戸内湖」が出来た。
然し、これがに更に続く圧迫で、「中国陸」がより浮き上がりその結果として「西側の西端」が下がり、ここに「北域と南域」と「瀬戸湖」からの海水が流れ込んでそれが「下関の開門海峡溝」まで到達して「内海」が発生して西に広がり突き抜け続けた。
これ等の「地質の形成経緯」から導き出せた結論は、奈良期に「施基皇子の裔系の青木氏」が「院号」を与えられて「鉱山開発の殖産業・奈良期の大倉鉱山と高倉鉱山」の「近江鉄」は、上記の通り、「丹波帯付加複合体」と「花崗岩類」と「湖東流紋岩類」との「三つ岩類」に含まれる「鉄類」であった。
この「丹波帯構成岩類」の中でも、「鳥取砂鉄」とは当時から「有名な古来の奥日野地域」と連動している所以もあって、取り分け、「酸化シリコン系」の「花崗岩類によく含まれる鉄・砂鉄系」と「地形的」に「丹波帯と丹波帯付加複合体」とは連動している為に、「五合金元素・主に糸魚川構造線の以北に多く含まれる傾向」を余り多く含まない「同質の鉄鉱石が産出された事」に成るのである。
要するに、この意味する処は「額田青木氏の超近代銃」はその「鉄」を使ったのは「0.8%の共析鋼」であったと云う事なのだ。
勿論、上記した「刀の様な玉鋼・原鉱石の酸化鉄に葉や木材等を加えて一酸化炭素を発生させて還元して、その「還元鉄」だけを取り出して玉の様に砕いて「塊にする鉄」だけにする事でも無かった事に成る。
何故ならば「五合金元素の存在」が認められる「鉱物体層」では「砂鉄の平炉・箱型と竪型」では、溶融しない為に「炉口」が詰まり使え無く成る。
つまり、上記の様な工程を経る玉鋼にはする事は出来なかった事を意味するのであり、「砂鉄の平炉・箱型と竪型」は使え無かった事に成るのだ。
故に、「糸魚川線」を「東西」にその「鉄の種類とその炉の違いの発達過程」が起こったのだ。
つまり、上記の「青木氏の地質技術論」から考察すれば、「砂鉄の平炉・箱型と竪型」では無くて「近江鉄の高炉」から得られたものであって、「備長炭の微細な炭」を浸み込ませて加えて「五合金元素」の少ない「共析の炭素鋼を造り出した事」である。
「鉄と炭素と温度の関係」では、丁度良い結晶的バランスを保つ位置」に成るのだ。
この「高倉鉱山と大倉鉱山の院号に依る殖産業・青木氏部」と「その近江鉄の使用」から始まった「額田青木氏の超近代銃」の「経緯論」からすると、この「高炉の通説の開発使用時期」は、「炉の開発と使用」に関してはそれが「青木氏部」で密かに行われていたので、公式とは云えないが速まる事に成り得て、それだけの意味を持っていた事に成る。
その事は、「摂津での殖産炉」は、「西洋の近代銃」と共に密かに持ち込んだ「西洋からの高炉・世間では未だ専ら砂鉄のタタラ炉」に成る前は、それに近い「古来からの竪型炉の応用炉」を「摂津」で既に使っていた事に成る事が予想出来る。
それは「限定した300丁の生産に必要とする炉であった事」に成り、且つ、「難しい技」ではあるが「0.8%の理想的な鋼の前提を求めたものであった事」に成り、「銃だけの欠点を補う理想的な物理特性を求めたものであった事」に成る。
さて、では「Niと五合金元素の存在とその知識」を全く知らなかったのかと云う事であるが、筆者はその「基礎的な知識」としては充分に知り得ていたと考えている。
それは、全て前段でも論じたが、次の事から導き出されるだろう。
イ 「貿易」を営むほぼ「有史来の伊勢屋の925年の商社化と伊勢屋の総合商社・1025年頃」であった事
「部経済」から特別に授かった占有権と専売権の院号を獲得した事で「全ゆる詳細な情報」を容易に掴む事が出来ていた。
ロ 「青木氏部・摂津と松阪」を有している事
朝廷の国造の技術の総支配権を持ち、且つ、独自にも青木氏部を有していた事から鉱山開発の知識もそれなのにあつた。
ハ 各地の「山・鉱脈」で「特殊な岩絵具の開発等」を「額田部氏と共に殖産開発」をしていた事
「岩絵具」は「七色の着いた岩石」からは掘り出され粉にするが、これは当にそれが「Niと五合金元素の存在」を証明している証拠から成り立つものであり、この知識なしでは何処の鉱脈に何があるかは獲得出来ないのだ。
ニ 「伊豆青木氏、額田青木氏、日向青木氏」で論じた事
糸魚川構造線より東の伊豆、糸魚川構造線の上に在る美濃、西のチャート域帯を泊としていた「日向青木氏の阿久根泊」は、「七色のチャート」と呼ばれる上記した「地球の変動」に依って起こる有名な「全ゆる堆積層岩帯」にある。
これ等は「白鉱石のSi」を始めとして、そもそも極めて固く、これ等の「チャート」には、「白色、赤色、緑色、淡緑灰色、淡青灰色、灰色、黒色等」の様々な色のものがあり、「明るい色系」のものには、酸化鉄鉱物等の鉱石に起因している。
又、暗色系のものには、鉱石の硫化系や炭素系の化合物に起因して黒く発色している。
「緑色」のものには、「緑色の粘土性鉱物」を含む為に発色する。
これ等は、「堆積した環境」によって「色・鉱物を粉状にして燃やし酸化の炎色反応」で見分けられるが、これは上記した「五合金元素の鉱物」に所以する見分け方の方法と成るのだ。
要するに、「岩絵具」もこの所以であって充分に専門的にも知り得ていた事に成るのだ
故に、取り分け、「阿久根との関わり」と「上記の青木氏部の知識の伊勢青木氏との関わり」で「日向青木氏の黒田藩の水軍傭兵の役目」の一つには密かにこの「鉄の闇商い・銃商いの有無不明」が秘密裏に関わっていた事が顕著で明らかである。
ホ 「日本全国各地での廻船・水運業の商い」で「鉄を始めとした情報」を堺で獲得していた事
ヘ 「玉鋼の鉄」を伊勢屋が「直接商い」にしていたかは確定は出来ないが、「砂鉄の販売の記録」では、江戸初期の頃の「摂津や大阪」に集められて「鉄商い」が成された事が解っているが、それまでは「土豪の所有物の占有権」で扱われ、その「所有物」を「各地の豪族」に「横流し」で商われていた「僅かな記録」が遺されていて、この「僅かに遺された資料」から読み取ると、「砂鉄のボール位の塊」を単位としてそれを単位にして幾つかを纏めて「秘密裏の売買」で引き渡していたらしい。
この「鉄を扱う小さい土豪」でも「莫大な財産と影の利権」を確保していたらしく、それだけに秘密が漏れるとそれを狙って「侵略される事の危険・記録」が起こっていたのだ。
故に、その「鉄塊」は「莫大な財産」として扱われ、これを隠し持ち、その「所有」そのものが危険であったらしく、「商人の顔」も隠されての「闇商い」であって、「市場商い」とは成らなかったらしい。
つまり、これは「奈良期からの部経済」の「名残」を引き継い来たもので、古来からの長い歴史の中であっても、「江戸直前」までの「玉鋼の鉄」は「闇商い」で行われていたのもその証拠である。
“鉄を制する者は天下を制する”の例えの通りで「秀吉と家康」もこの「利権獲得に動いた事」は記録からも明らかである。
その意味で「額田青木氏の三方ヶ原の戦い後」に「伊川津で家康に協力する事」で「渥美半島の制海権・利用権の見返り」として「鉄の利権獲得」は容易と成ったのであるが、反面、この秀吉からは「蔵の焼き討ち等の仕打ち・記録」を受けた。
「伊勢青木氏の商記録」でも考察すると、「鉄の取引」の其れに関する「詳細記録」が敢えて無い事は古くから「摂津店・鉄は秘密裏での商い・記録消失」で行われ、これは「鳥取日野の砂鉄」と「近江鉱山の鉱鉄」に近い「摂津域」で扱われていた事を物語っている様だ。
「淀川を使っての運搬」と「近江日野・近江鉄の製鉄工場・ここが額田青木氏の松井氏に関わる処」は、この所以を以て「鳥取の砂鉄の工人等」が移住しての「近江日野」と成ったとされている。
これ等に関して「資料と記録」が多く遺されていないのは、この「闇商いの所以」であったろうし、当初は「近江日野の事」と「摂津の事」とは、「室町期の中期・額田青木氏の銃」を造り上げるまでの間は「隠されたものであった事」に成る。
ところがその「日野の情報」が室町期末期直前に漏れて「薩摩等の豪族・記録」が密かに「日野の匠・工人等」に対して「引き抜き・略奪」が行われた事が記録に遺されていて、前段で論じた様に「他の日野の匠・工人等」の「青木氏部」は、この事から「出自元の伊勢松阪に大量に逃げ込んだ事」は「記録」からも判っている。
この段階で時系列から前段でも論じた様に「摂津・鉄に関しての闇製鉄と闇商い」だけにし、危険性の増した「近江」から引き上げた事に成ったのだ。
この「摂津と伊勢」だけで、「上記の所以」を以てして前段と上記する様に時系列は上記の通りであるが、その「鉄と銃の取り巻く環境」も難しいものがあったのだ。
然し、それでも続けて「難しい近代銃の試作銃に取り組んだ事」に成るのだ。
これ等の事を専門的見地から勘案すると、この「鉄鉱石」と共に、「五合金元素の鉱石に関する知識」、即ち上記した様に、「五合金元素の鉱石は「地球のプレートの変動」に伴って「日本列島」の「海底深部か地下深部の堆積鉱床」に在するものであり、これ等は従って「地球の熱や圧力の影響」で変成するが、この事で「特徴的な岩石の色・専門的知識が在れば判定できる」を示すのだ。
これらの「鉱物」、例えば、一般的な「Mn・マンガン・主に赤紫」に例えると「バラ輝石やテフロ石やハウスマン鉱石」や、変成に依って変化した「緑マンガン石」等があり「鉱石色」で判別できるのだ。
そこで「山を見る目・石を見る目・土を見る目」の「熟練した知識」があれば可能となっていたのであり、故に奈良期の古くから「紙屋院」と「繪所院」と「繪所預」の「朝廷の院号・専売権と専業権」を授かっていたのであり、その事から、「国産和紙」とそれに纏わる「墨や岩絵具開発」に携わり「青木氏部」を有していたのだ。
それと共に、これ等の「山に関する知識」は、前段で論じた通りで「山師」であり「土木師」であった「親交の深かった額田部氏との関係」で充分に補完されていたことが判る。
故に、その「基礎的な知識としては無かったと云う事」は先ずあり得ず「青木氏部としての保有」は充分に考えられる。
筆者は、「伊勢」は「院号」を有して「額田部氏との日本産の岩絵具の開発殖産」に関わっていた事は、この「全ての知識」が無ければ無し得なかった筈であると観ている。
唯、知り得ていてそれを敢えて「銃に使わなかったという事」では無かったかと考えている。
つまり、専門的に観れば上記した様に「近江鉄による銃」には「共析鋼の特徴」を充分に生かし使ったと云う事であろう。
余談だが、偶然にも筆者が先祖の血筋を引くのか専門職にあって、「施基皇子とその裔系の高倉大倉鉱山の殖産業の歴史」から始まり百々はその「銃の所以」までを調べるに至ったのだ。
他にも専門的にも関係性を幅広く調べたがここではこの程度として置く。
最後にその一つを下記に付随して論じて置く。
次に「四つ目」の「第二のタフニング」である。
これも上記の「結晶と炭素との処理・サイアナイド」とよく似ている。
要するに「炭素」の代わりに「鉄の結晶の表面に窒素を浸み込ませる処理」である。
この事で若干に「サイアナイド」とは出来る特質は違う。
上記した様に此れには全く「マルテンサイト等の結晶構造の変化・変態」は伴わない。
形成されるのは「鉄とチッソの結合体・窒化・低温処理と高温処理の二つがある」のみである。
要するに、「鉄とチッソが結合」すると、「鉄」は「窒素」に依って安定化を施され、表面に「窒化物」が形成されて上記の「サイアナイド」よりは固くは無いが、それなりの固さと柔軟性を有し極めて摩耗にも強く、衝撃にも強く、さびなく自然に対して安定している。
そもそも何よりも「銃の欠点の熱」にもその「全ての有した特性」が変化しない程に強く、「処理に必要とする加熱工程」は変わらないが、「炭素の場合の様にその「効果を導き出す」には「加熱と後処理」は働くが窒化は働かない。
より大きく採るとすれば兎も角も必要だが、其れなりの効果としてのものであれば、「窒素の場合」は全く不要と成るのだし、「窒素の特徴」は上記した「変態」を起こして「特性を導き出す」と云う事は原則的にない為に「油などの急冷却・割れと変形」は不要と成るのだ。
これで「銃が起す欠点」が克服できるのだ。
但し、ところがこの「窒素」を浸み込ます「窒素材の選択」に関わるのだ。
何故ならば、「この世に存在する窒素材」は、「備長炭の炭の炭素」の様に「自然界」では「窒素を持つ合成物質」としては、「高温熱処理に絶えられる程の物質」が少なく、「窒素そのもの」は「無害」であるが、「人工的な形成物・劇薬品・リン酸カリ」からしか得られないとする「処理欠点」があり、全ゆる生物を瞬間に殺傷する毒性を出す「シアン化窒素の様な有害物」が多い傾向にある。
この「化学物質」を上記の様に「鉄と炭素」の様に加熱するが、冷却時は「ゆっくりと冷却」すれば「炭素と同じ上記の特性・耐酸や耐熱も伴う」を出す「窒化物・安定化する」が僅かに表面の層に得られるのだ。
全ゆる物に「適用度が高い」がその反面で「リスクは非常に高く危険」である。
但し、「銃の場合」には「サイアナイド」の高温の中でもこの「窒化現象」も同時に多少なりとも起こっている事もあり得るのだ。
それは「加熱炉の土中に自然物として浸み込んだ場合」や「備長炭等に浸み込んだ窒素の加熱材の場合」で起こつている事が学問的探究で確認できている。
当時は学問的追及が出来ていずに、“あそこの土は良い味を出す”、“あそこの加熱材は良い味を出す”などの言葉で知らず知らずに使われていた事があって、その資料の表現にも出ている。
「加熱材の紀州の乳母女樫の備長炭」だけは「合言葉」の様に知られていて、その炭の効果は知られていたのだが、では、“鉄はどうであったか”は記録にもはっきりしていて、前段でも論じた「伊勢青木氏の天皇から命じられた最初の殖産」は「鉄の国内生産」であって、それを「近江」で発見したとしてその「功績」で「院号と伊勢の領地」を賜った経緯を論じたが、その当にその“「近江鉄」”が未だ「室町期」でも広く認識されていたのだ。
それ故に、「摂津での銃の試作」は都合が良かったのだ。
窒化も知らず知らずの内に加熱の過程で近江鉄の場合には起こっていた可能性がある。
さて、この「近江鉄の優れている所以」は、「六つ目の対策」にあったのだ。
それを一応解いて置く。
「炭素」に依って「銃の欠点」を補う為に基本的に「鉄を炭素で強化する」が、これも当時としては矢張り、上記の“あそこの土は良い味を出す”、“あそこの加熱材は良い味を出す”などの言葉で知らず知らずに使われていた事にあって、今では学問的には解明されているがそれは「鉄鉱石の中に含まれる不純物の鉱物」に在ったのだ。
「鉄の中に含まれる不純物の鉱物・当時の資料では」としているが、とんでも無い事で「希少合金元素」が含まれていた事なのだ。
それは、「マンガン、マグネシウム、モリブデン、タングステン、クロム」、「五大合金元素」と「部枠の銅とNi」であった。
これを含まれている「原鉱石の鉄」にあったのだ。
何れもこの「五大合金元素」は、「鉄」を全ゆる物理的強度を非常に高め強くする「不変の元素」で、何ら熱処理を加えずとも、唯単に含む事でその「全ゆる物理的特性を高める効果」を「自然に生み出す」のだ。
但し、その量に関わり多く含んでいれば良いという事では無く、多いと「逆効果と成り得る物質・量的な事は其の物質と特殊元素の関係相関図は判っている・専門的高度な知識必要」なのだ。
取り分け、その中でも「マンガン」は、その「鉄の特性効果を一番に高める」のだが、前段でも論じた「近江鉄・4鉱山の総称」には、この地質学的に「マンガンが多く含まれていた事」があって、前段でも「詳細に論じた淀川を使っての運送」と、その「近代銃の開発に好んで銃生産に使用した可能性の所以」を以て観ると理解出る。
然し、実際は使用していない様でその形跡は観られない。
現在では含有していなければ「製錬中に加えるという事・そう云う特殊鋼材もある。・マンガン鉱」をするが当時では未だそこまでは無かった。
さて、そこで因みにこの認識されていなかったと思われるこの「マンガン」では、どの様な事が「近代銃」に生まれて来るのかである。
これを現在に於いて、このマンガンの効能に於いて“いい味を出す”として翻訳して解いて置く。
結論は上記した「銃に起こる全ての欠点と成る原因対策」に成るという事だ。
これを「適時適量に加える事」で「耐高度性、耐摩耗性、耐経時性、耐衝撃性、耐腐食性、耐酸化性、耐疲労性、耐イオン性、等」の挙げればきりがない程である。
故に、「銃の製作中の鉄に加える事・自然に鉄鉱石に含まれている場合もある」で、「銃に起こる全ての欠点と成る原因対策」が「製錬中、加熱中、製作中、使用中の欠点」を防げるのだ。
「額田青木氏の近代銃」は、「近江鉄」に限定し「共析鋼」にしそれに伴う加熱過程で表面層に偶然に「サイアナイド化・炭化」を施し、時には「窒化・タフニング」が興していたと云う過程で出来きあがっていた。
此れで「銃の熱の欠点」をクリヤーしていたのだ。
現代の冶金学から観てほぼ「マンガン効果に似た現象」を起していた事に成るのだ。
注意として、最後の「耐イオン性」に付いては、専門的で理論的ある為に深く理解でき難いが、その要点だけの概要を下記に述べて置く。
それは、「上記するマンガン等の鉄に対する合金元素」に付いては、「昭和期までその特性が解明されていなかった特性であって、そもそも「戦乱期」では「解っていなかった事・何か不思議な事が起こる程度に把握」であった。
それは仮に、「鉄とマンガン」とすると、「鉄の-0.44」に対して「マンガンは-1.18」と成り、この「マンガンのイオン力」は「約4倍」にあり、その差が大きく互いに「イオン力で引き合う力が大きいと云う事」に成る。
普通は、“「約5倍程度の差」"が「物理学的に適正値」とされるが、この数字は何とか「鉄とマンガンの結合状態」には「物理的欠陥の問題」が生まれ得ない程度の範囲にあると云う事なのだ。
この世に存在する「全ての物質」は、この「イオン力・電位力」で結合し「一つの結合体」で形成されているし、この「イオン力・電位力の力」で「地球の持つイオン力・引力」とで引き合い「地球の表面に付着している事」に成るのだ。
参考として人間も同然であって、その「人の背の高さの電位力・地球から離れている距離」を持っているのだ。
この「自然の原理」に従い、故に物質には「多すぎる」と互いに「イオン力差」で弾き合い、少なすぎると「イオン力差」での「結合力が弱く分離すると云う「欠点」を生み出すのだし、この「原理の例外」はない。
従って、「鉄の結晶間中」に「炭素等の含有物」が浸透して行ってこの力で結合するので、「量と質の差」で「この力の範囲で存在する事」に成る。
そこで、過剰になれば逆に欠点が生まれる事にも成り得るのだし、この上記した様に「自然の摂理での適量値が存在する事」に成るのだ。
故に、「鉄鉱石に含まれる上記の特殊元素」も、その「地球形成時のバラツキ」で「其の産地」に依って生まれる「量と質の差」で「変化」が起こる事に成るのだ。
この“「良い味」”には高度な技術が潜んでいたのだ。
故に、この「難しい原理」に於いて当時には不解明で在ったが、「地球形成時の地質学的構造」で起こった「近江鉄」は、この段階では未だ匠にとっては、“何か良い”と云う概念だけと成っていた筈なのだ。
他にも最も影響している「イオン力差・電位力差以外」にも「物理学的な差異」はあるがここでは論外とするが、めている処は学問的な処は別としても世間と比べて相当に高度な技術であった事に成る。
そこで、前段で論じた様に、これ等の「知識」を「試行錯誤の結果の経験」から来る「超高度に克服した匠の技・青木氏部」で以て、この事が「額田青木氏の銃に対して要求されていたと云う事・超近代銃にすると根拠」なのだ。
恐らくは、故につまりこの事は前段でも論じたが、密かに「見本を入手」してから「約20年・1540年前から1560年頃・1565年南下国衆」の間に、前もってこの「超高度な銃の技・近代銃」を会得していた事に成るのだ。
それだけに世間に対して「銃の目的」が達成された時点で恣意的に躊躇なく抹消されたのであろう。
この高い殺戮具の世間への普及を技術ともども嫌ったのだがそれは「律宗族」であった事であろう。
「青木氏の伝統 71」-「青木氏の歴史観-44」に続く。P21に続く。
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> 要するに短期間で“この得た「財力」で「膨大な戦費」を松平氏は賄い”、「長篠」へと向かったのだ。
> 「信長」はその後の経緯の戦歴を観れば、東には手を出していないし、故にこの「三河国の背後の経済力・伊勢青木氏・伊勢屋と東の秀郷一門の勢力」を恐れていたと考えられる。
> それは「間接効果」を狙っていたと考えられ、「三河の松平氏」を通じて「最低の犠牲」で抑えたと観られ、それ故に「徳川氏の伸長・難癖程度」を“我慢ぎりぎりで見守った”と云う事では無いか。
> それ故に、「三河国の背後の経済力・伊勢青木氏・伊勢屋と東の秀郷一門の勢力」が存在する限りに「本能寺の変まで長期間」の“我慢ぎりぎりで見守った”と成るだろう。
>
> この「大きい流れ」は「江戸期」まで続き、「江戸幕府」を「秀郷流一族一門とその青木氏族とその関係一族」は、「幕府官僚族・御家人旗本・家人旗本衆」として支えるまでに至るのだ。
> 当然に、「伊勢の二つの青木氏」も「紀州藩・全伊勢藤氏が家臣」とは「殖産業」で栄えさせ、「伊勢の事お構いなしのお定め書・天智天皇の不入不倫の権の追認」と「浄土宗の律宗族の追認」を得て、且つ、「紀州藩勘定奉行の指導の役目」までも担い、挙句は「吉宗育て親」まで熟し、「将軍」に「裏・朝廷への働き掛け等」で押し立てるに至る「親密な関係・幕府との関係」は、その皮肉にもその「吉宗で終わる」を維持したのだ。
> 筆者が論じているのは、この“「基点」”は、「三方ヶ原の戦後の伊川津の行動」にあったと云う事なのだ。
> 「筆者の見立て」は、それ故に「家康」は、「戦闘戦略家」では無く、「経済戦略家」であったと観ているのだ。
> だから、「伊勢青木氏・伊勢屋」と「秀郷流青木氏・長嶋屋」は、上記が物語る様に存命中に於いて、“家康と馬が合った”のだ。
> 家康の「伊勢の事お構いなしのお定め書の効力」も同時期に低下した事に観られるように、これの「最高潮は吉宗・前段」までであって「最悪期も吉宗・前段」で終わったのだ。
> 筆者は「三河旗本の執拗に続く羨望」に将又押され、且つ、「吉宗自身」も「奈良期の皇親族・青木貞治に観られるような幕府官僚族」の様な「二つの一族」に警戒したと考えられる。
> それ故に、一方で「四掟で女系族で繋がる伊勢藤氏」をそっくりと家臣とした「紀州藩との関係性・紀州殖産業の確立で」を更に「強化・大正14年まで継続・幕末には藩の財政難から旧領地の返還を求められるも・2万両以上債権保有」したものだ。
> 「額田青木氏と駿河青木氏の前段論」に「三方ヶ原と長篠の二つの戦い」の「環境問題」を中心にどの様な位置に置かれていたかを論じて観た。
> この以上の「四つの詳細経緯・前段の追記論」のどの一つを以てしてもでも、流石に「女系で繋がる青木氏族」は、「1千年の歴史」を持つ「女性の持つ鋭い先を観る遺伝子的洞察眼を以て立ち回った氏族であった事」が良く判る。
> 上記の様に何時巻き込まれていてもおかしくない厳しい環境の中で、取り分け、この室町期末期に於いて生き遺った事が判る。
> それは「青木氏族の商い」と「青木氏族の氏力」を最大限に出してそれを利用した「自己開発の銃の保持」とそれを上手く利用しての所以であろう。
> この事は「奈良期の親族の佐々木氏族」が「単独で青木氏の一族論」を論じている所以と成っているのであろう。
> 「お返し」として何時か「佐々木一族論」を論じたいとも思うが。
>
> 「青木氏の伝統 70」-「青木氏の歴史観-43」
さて、再び元に戻して、この様に「予定の籠城」をせずに再び「野戦」を選んだ処から「家康の判断」が「狂い始めた事」に成る。
そこで「額田青木氏の銃隊」は「青木貞治の軍議の内部情報」を得て慌てて武田軍後尾を追尾するのを止めて「青木貞治隊の救出」の為に「三方ヶ原に走る事」と成ったのである。
「籠城」は「吉田城」で観る様に、それの方が「銃隊の効果」が出ると考えていたし、「武田軍の本隊」もこの「銃の脅威」に対して、一度は、「第一次吉田城攻め・籠城」で経験しているし、二度目は「一言坂下の遭遇戦」で経験しているし、この「銃の威力」を生かすには“「籠城作戦」”が効果的作戦である事」を「両軍」ともに充分に認識している筈であった。
それ故に「南下国衆の銃隊」を急遽、「吉田城」から呼び寄せたのだ。
ところが先に論じた様に「軍議」では、初めから「援軍を送る心算」の無い「織田氏の軍目付・軍監達」は、飽く迄も「籠城とその為に依って起こる時間稼ぎ」を主張していた事が判る。
「籠城戦を決定する」の為の「命令・三つの命」を駆け付けた「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に対して命じたが、「軍議」では「額田青木氏の本来の目的」では無かった事でこれを蹴ったのだ。
「松平氏の旗本」は勿論の事、命令を「勘違い・国衆約定を忘却」して受けるものとして観ていたし、「織田氏の軍目付・軍艦」もその様に聞いていて驚いたであろうし、内に秘めた「思惑・時間稼ぎの計画」は内心狂ったと思っただろう。
と云う「事前の論筋」から呼び出す前に「事前の軍議」で検討され、決定してそれを伝えたと云う事に成る。
「松平軍」としては「命令」を受け入れるものとして考えていたがその立場を軍監の前で失ったのだ。
其れは「条件付きの伊川津国衆・約定」であって、それを「家康」が契約を破った以上は「額田青木氏」は断る以外には無かったし、この「危険リスクを負う事」は当初よりその「命令破りのリスク」はあったが、どう出るかは「指揮官の伊勢秀郷流青木氏・貞秀」と「額田青木氏の差配頭・貞重」は城から出て様子を見たが、「秀郷流駿河青木氏一族の青木貞治等」はどの様な行動に出るが緊迫して、外の行動を案じていた。
「松平軍」は果たして「額田青木氏の銃隊」に対して攻撃に出て来るのかを観ていたが、答えは「時間稼ぎ・偵察隊・遭遇戦の命」であったのである。
故に、外の「額田青木氏」にこの「命」を伝えに来たのは間違いなく、それは「秀郷流駿河青木氏・貞治」で在ったろう。
そもそも、この時点で、最早、「額田青木氏」に執つては「松平軍の命」に従う必要があったかは疑問であるが、此処で「戦いを興す事」より「伊川津に戻っての事の方」が「リスク」は少なく都合が良くそのタイミングを計っていて我慢していたと云う事ではないか。
何故ならば、そもそもこの「命」には「軍議の密かな思惑」があったのだ。
「反発して来た旗本等」が直前に経験している“「一言坂に在る強い武田軍の本隊」に飲み込まれて滅するであろう”とする「読みの命」であったのだ。
これは「自ら手を施す事」なく罰する事は出来るしと同時に、時間を稼げると観ていた。
ところが、この“読みは見事に崩れた”のだ。
この「詳細な経緯」を「城」から観ていた「松平軍」は、「額田青木氏の銃隊」は時間を経て見事に勝利し、故に、先に「西の坂下」に降りて再び「武田軍の本隊の浜松城通過の出方」を待ったのだ。
その上で先ずは“「浜松城の右横小丘」”に着き、「両軍の出方を観る為に監視していた事」が資料から解る。
では、この「詳細経緯」としては“これは何故か”である。
最早、「命令を拒んだ以上」は「浜松城に留まる必要性」は全く無く成り、且つ、「伊川津国衆」として存在する理由は無くなったのだ。
そこで、この行動はそれは“伊川津に戻るタイミングを計っていた”のだと成るだろう。
「額田青木氏の銃隊の南下国衆」はそもそも「防御の銃隊」であって、「武田軍」に対して背後を突いて潰すのが戦略で無かった筈で、では「武田軍の前」を伊川津に引くのは「背後を突かれる危険」があり、故に「武田軍の本隊」が「浜松城通過の後」を「追尾する事」にして堀江城の手前のここで待っていたのだ。
然し、兎も角も「額田青木氏の南下国衆の銃隊として」の形上は「軍議の命」を果たす様子を見せながらも待ったが、処が「松平軍は違った行動」を採ったのだ。
それは、そこで、追尾中の「額田青木氏の銃隊」は普通なら得られる事の無い「軍議の密議の結果・野戦を選んだの情報」を、「後勘の経緯」を積み上げた事から観て、“間一髪に逸早く獲得した”のだ。
それは「旗本からの非難」を受けながらも何とかこの「軍議」に残った「駿河青木氏の青木貞治隊」は、「追尾中の額田青木氏の南下国衆の銃隊」に対して“「重要な連絡」”を密かに採った事に成るのだ。
そこで慌てて、「青木氏の資料記録から分析」では、「北の三方ヶ原」に向けて「額田青木氏の銃隊」は、「執るべき方針・目的」を定め直して「青木貞治の一族隊200」を護り救出する為にも、又、その後を見守る為にも、“「三方ヶ原に向けて懸命に走った”と成るのだ。
“「三方ヶ原」に向けて懸命に走った”とする必要は、「伊川津」に戻る為の「様子見」をする為に、「タイミング・武田軍から伊川津に戻る背後を突かれない為にも」を計っていたので、「情報の必要性は元より無かった筈」でこれが初めての詳細結果だったのだ。
ところが、然し、ここで「駿河青木氏」を救出せんが為の情報が入ったのだ。
幸いにしてこの時に、ほぼ同時に「武田軍側」にも“「異変」”が起こったのだ。
それは「堀江城の攻略」に手間取った事と、「別動隊の二俣城の手間取り」で、相互に「タイムラグ」が起こった事の情報である。
「武田軍本隊」は、そこで「山県軍の別動隊」より先に三方ヶ原に来て「魚鱗・行軍中に」で陣取り、これに加わる様に成っていた。
然し「別動隊との間」に何と「約1h~0.5h時間の差」が発生して仕舞った経緯と成っていたのだ。
既に救出の為に「魚鱗の陣形」を整えてしまつた「武田軍の本隊」には、最早、北の山際に着いた「山県具の別動隊」は西の本体に合流出来ず、更には「松平軍の野戦と陣形の形」を観てでも、予定より手間取る事となった。
山際に到着し隊形を整える為に、そして「戦う為」には直ぐに「補給拠点の構築隊」を邪魔に成るので後ろに廻しながらも、「山県軍の別動隊」は「松平軍の鶴翼の陣形」の「右側面の山際」に到着した事と成ったのだ。
「山県軍の別動隊の位置」が左右の軍の北側に位置する事と成って参戦する事はこの形では「異常な形の陣形の開戦」と成ったのだ。
そもそも、「山県軍の別動隊」は「補給拠点構築隊とその守備兵」で構成されている事から参戦は無いと「武田軍本隊と松平軍の両軍」が観ていただろう。
普通はそうなるだろう。
そして、一方、此の両軍の態勢に対して、鶴翼の南側の右側に急いで到達した時には「額田青木氏の銃隊・目的」は、「貞治隊の救出に替わる」のだが、更にそれ以上に驚いた事が興ったのだ。
それは何故か右の松平軍は「鶴翼陣形」が整っていたが、この「鶴翼面の左側面」の「翼面の隊」に「額田青木氏の銃隊」が仕方なく着いた事に成ったと「資料の一行」を想像するに断片的には解る。
此処で、つまり、そうすると「青木貞治隊から秘密裏に得た情報」には「鶴翼陣形と云う情報」には無かった事に成る。
これは「野戦」と決めた以上は、「陣形」も決める筈だが、決めていなかったか、得られなかったか、「家康」は「秘密にしていたかであり、「下記の時系列論」では「秘密にしていた事に成る」であろう。
「普通」であれば、「野戦」と伝えたとすれば「陣形」も伝えたであろうと成る。
「普通の陣形」は、「武田軍」に対して完全な無勢であるので「魚鱗の陣形」と成る。
そうすると、「指揮官の青木貞治」は、「野戦=魚鱗の陣形」として伝えていた可能性が高い。
この事に就いてもう一度、「時系列論」でここを考察して観る。
況して、「松平軍」は半月程前に「二俣城の支援」で「無謀な野戦」を仕掛け、そして負けて「浜松城」を目がけて退避中に「武田軍の本隊」に「一言坂付近・11/3・三方ヶ原の1月19日前」で追いつかれ「野戦し酷い敗戦した」とする「歴史上の史実」がある。
然し、この事に就いては、「松平軍に有利な他説・戦いを有利に進めたとする説」も多くあり、この日の事に付いては「大きく経緯と時系列」に食い違いがあって、「三河側の戦記の三記等・江戸期に脚色」にはあまりにも違いがあり信用できない。
この「野戦」でも“「浜松城から出て野戦した”とする良い印象を与える説もあるのだ。
この事に就いては「青木氏の歴史観」に直接に関係ない気がするが果たしてどうであったのであろうかこの「時系列」を追って観ると判る。
此処で、「武田軍の本隊」は「軍の態勢」を立て直す為に、且つ、同時に周囲の「3つの出城」を落とした上で、何事も無かった様に12/21に西に向けて発進している。
この「武田軍の本隊」には「赤兜の騎馬隊」が行軍中後尾に着いていたとある。
つまり、この説では「松平軍と戦う態勢ではない行軍」であった事が判る。
史実で「一言坂の野戦・松平軍は魚鱗」で「松平軍は完敗で負けている」のだとすると、そもそもこの事で“「魚鱗の陣形」では到底勝てる事は出来ない”と云う「先入観」が強く残ったのであろう。
そこで、経緯としては、急遽、早く「浜松城」を出て「三方ヶ原」に到着して、そこで「独断・軍監の了解を得ず」で「魚鱗から鶴翼の陣形に突然に変更した事」に成る。
何故ならば、この「陣形」にするのであれば「城」を出る前に「鶴翼」にしていた方が「戦術」としては「常道手段」である筈で、この事は、「三方ヶ原到着で突然に変更した事」を意味している。
それは、将又、全面に押し出して来るだろう「同勢の「額田青木氏の銃隊」にも意識があったのだろうか。
これに「打ち勝つ」には、両者が「魚鱗」で対戦すれば「松平軍」は「陣形の数」の上から観て、これに間違いなく負けるとして、そこで、“「鶴翼で包み込んで勝利する」”と云う「作戦」に切り替えれば“「陣形の上」では何とかなる”とした事が明確に判る。
そうすれば、仮に勝てたとして、後はほぼ「同勢」と成った“「残りの武田氏の本隊・1万」との対戦する事が出来る”と急遽家康の中で成ったのだ。
「堅固な堀江城を攻めていた武田軍の本隊」が、遅れて「三方ヶ原に到着する・情報を得ていた筈」と成れば、「武田軍の本隊」は時間の掛かる「多勢型の鶴翼とする陣形」は理窟的にも時間的にも執れない事に成る。
恐らくは、「家康」にはこの思考でこの「勝つ為のシナリオ」を自らの頭の中でだけで密かに考えていた事が判る。
何故ならば、それは「武田軍の本隊が鶴翼陣形を整えている間」を「松平軍に突かれる理由」からである。
そうなれば「赤兜の騎馬隊・6000」の“得意の突撃型軍勢を生かす事は出来ない”と観ていた事に成る。
普通の戦術では、“「鶴翼の翼部分を閉めたり開けたりして敵を弱らせた処で背後に控えた突撃型の騎馬隊が突撃して殲滅する”と云う「武田軍の本来の戦術」と成るであろう。
故に、「鶴翼」さえ採らさなければ何とか勝てるとまでは云えないが、「それなりの見込み」は出て「互角並みに戦える」と踏んだ事に成る。
それには、こちらが、先に“先ず何とか鶴翼にする事だ”と考えた事に成るのだ。
それには、何故ならば「陣形の特徴」を生かす為には「鶴翼陣形を組む充分な時間」と「配置の為の良好な位置取り」が必要であったのだ。
だから、“夜明け早くに「浜松城」の「北の三方ヶ原・+60mで南北平坦地」に向かった”の史実と成り符号一致するのだ。
つまり、そして「武田軍の本隊」が未だ三方ヶ原に到着していないのを観て、故に、“これは戦略的に可能だ”として、「鶴翼の陣形」も「三方ヶ原」に「着いた時・直前に独断で決めたと云う事」に成るだろう。
とすると、「家康」は「秘密が漏れる事」を恐れて“軍議にこの事を計らなかった”と成る。
その「漏れて困る相手」は、そもそも「武田軍の本隊」では無く、その前に「織田軍の軍監・三人」であって、そもそも“負けて得をする”のは「織田氏」であって、「西三河の獲得・過去に清康が奪う」、果ては「南三河の獲得」に繋がる訳で、「西三河と南三河は織田氏」、「北三河と西駿河」は「武田氏」と「暗黙の色分け」をして「勢力を広げる信長の算段・目論見」で“「武田氏と戦わずして決着を着ける算段」”で在った筈である。
それを顕著に物語る足る理由として、「肝心のこの三軍監」は「三方ヶ原の戦い寸前・3日前」に城を出て戦わずして戻っている史実があるのだ。
唯、「軍監」ではない「軍監の守備隊の平手汎秀」だけは、この誰でも判る図面を読み取れ切れなかった事で、この為に“家康に馬鹿にされた態度を取られた”とした「通説の史実」が遺されている事に成るのだ。
これは「家康自身」が、この「事・軍監の態度を事前に察知していた事」を意味し、故に「三方ヶ原の真の陣形」は「史実」として「口外」しなかったのだ。
そして、何と「三方ヶ原の戦い後」にこの「勢力を広げる信長の算段・目論見」は実行されているのだ。
この「家康の息子・信康に謀反の難癖」を着けて切腹に追い込み「二俣城」を実質は奪取する事の史実の経緯と進むのだ。
唯、この時にこの「目論見を隠す為」に「見せかけの処罰」を「軍監の三人」に与え、此の「処罰の見せかけの理由」を、“「平手汎秀を見殺しにした」”として「追放の罰」を受けたかの様に見せたかけた。
だが、現実には「軍監頭の佐久間信盛」は、“京都で諜報活動をしていたとする史実とする説”が遺されている。
現実には、これだけの「理由・見殺しにした」では、そもそも“「古くからの重臣」を処罰はしない”であろう。
そもそも「戦国時代」に「家臣」に対して「見殺しを理由」にすれば「武士団」は成立しないし、自らが「同じに近い事・佐久間を罰する事」をすれば「見殺しをした事」とに相当するではないか。
そもそも以上の様に、ここには「信長が罰したとする論理の矛盾」が生まれているのだ。
依って筆者はこの説には賛成しない。
恐らくは、江戸期に入って作り上げた「物語風の戦記もの・江戸期に流行した」から「史実」かの様に引用したものであろうし、それが長く語り継がれる事で「史実」と成り得て行くのが歴史の常である。
余談だが「歴史の研究」は一々確かめずして信じていると「矛盾だらけの歴史観」が生まれるが、これを「資料等の読み込み」で「見抜く確かな歴史勘の事」が必要で在るのだ。
だから「家康」はこれを読み取っていたのだし、「京での情報」は得ていたであろうし、後に「家康」も「三人の家臣に同じ手・信康と本多氏と榊原氏等」を使っているのだ。
そもそも、そんな「歴史の史実」は無いのであり、あったとしても多くは「ある目的を持たせた見せかけの策略・隠密行動」が殆どであった。
これは「西国攻めをしていた信長」は、「そんな事」は「当初の目論見」が在る以上は、「そんな馬鹿げた罰」はしない事は「指揮官」たるものは誰でも判るので、この説は「史実」ではないであろう。
故に、この事を「家康も見抜いていた行動」であり、「報復としての平手に・他の三人が引き上げた以上」は「無言で接した扱い」で挑んだが、「三方ヶ原の戦い」で“これが「どの様に出るか・戦死」をはっきりとさせた”のだ。
そうなれば必要以上に「自ら声を掛ける事等」は決してないであろうし、放置するのが「最大の得策」であろうし、指揮官たる者の器の“始末は成り行きに任す”であろう。
それよりも、筆者は“「他の三軍監に無視された事」”を恥じて「自滅の手段」を採ったのだろうと考える。
それは、「前日の通り軍議」の中で「平手汎秀」だけが「時間稼ぎの籠城戦」では無く「三方ヶ原主戦論を強く唱えた事・史実」から「引き下がれ無く成った立場」に「置かれて仕舞った末の結末」なのだ。
仮に馬鹿にされたとしても、この“「読みの無さ・判断力の低さ」”に対して“「軍監補佐として値しない」”とこの世に自然にあり得る事として見下されていたのだろう。
そもそも、通説とする論に対しても、“「主君でもない者」に馬鹿にされた”からと云って、猪突猛進に武田軍に突っ込んで行く事の事態そのものに“「戦国期の者」”としての「酷い未熟さ」がある。
筆者は、これはよくある江戸期に流行した「物語風歴史観の美化論」には同意せずこの様に観ている。
「戦国の世の掟」として普通ならば「立場上」は「他の三軍監とその差配頭の佐久間信盛に従うが絶対上の立場」にあった筈である。
要するに“「三軍監」と云うものをどの様に見るか”であってこれで決まる。
時代と共にその「役目」は変化するものだが、そもそもは「室町期の古来の軍監・軍目付」とは、「同盟」に於いてその「同盟国の軍隊内での出来事」を「味方の主君」に報告し伝える将、又はそれに「近い役の上位者」が、「戦場の敵の情勢」を具に調査して自らの主君に報告する役目を主務としていたし、主君の為にどの様に有利に立ち回るかの役目であるのだ。
決して「戦う役目」を負っていた訳では無く、「戦う直前・3日前」に引き上げて報告して「自らの軍に有利に成る様に前後策を講じるのが役目」である。
その為には、「軍の三等官」、つまり、「副将軍の一つ下位に準ずる者」を派遣するのが「鉄則の常道」であって、要するに「自軍」に於いても「軍師役を務められるだけの能力のある立場の者」であった。
この「派遣で同盟の強さの意味」が解るのだ。
この場合は、「佐久間信盛・織田家旧来の重臣」と「その他の二人・主君の縁者」とその「警備役の者・平手」で構成されていた。
決して、「同盟」であっても「援軍」ではないのだし、飽く迄も「援軍」は「援軍として派遣する習わし」であって其の場合は必ず「陣取り」をしたのだ。
故に、この様に「織田氏の軍監・軍目付」はこの「当時の習わし」から一歩も外れてはいなかったのだ。
故に、「平手」はこの「習わしの役目」のみならず「軍議の目的」とその「織田氏の目論見」をも全く理解していなかった事に成る。
だから「戦国の世に生きる者としての知識の無さ・愚者」に「松平氏・家康と旗本・寧ろ旗本から」から「酷く馬鹿にされた事・常識の無さが特に低く見られたのだし、「氏家制度の武家風潮が強く求められた」は必然の事であり、のみならず、寧ろ、「織田氏からも強く疎んじられた筈」である。
故に、両者から愚者にされた以上は「恥を解消する事」が出来ないので、当時としては「武士の立場・屈辱の作法」からすると、「面目なく生きて行く事」が出来ず、「切腹か自殺行為・武田軍に突っ込んだとする通説」はほぼ「史実であろう事」が判るし、「間違い」を悟って気が着いた時には「武士の作法で解決する事」しか無く成っていた筈なのだが“それであれば「切腹」が妥当"で、「主君に恥をかかせた事」からすると「より妥当な作法」であったと考えられ、その持つ意味も違って来るし、「織田氏の方」でもより良きように扱い方が違っていた事に出来る。
そして「後世に別の意味として伝わった筈」であろうが、それもせずに唯単に「突っ込むの行為」は別の意味を持ち、其れさえも弁えていなかった事は相当に愚者で在った事が判る。
「他の三人の軍監・軍目付」は、“無事に尾張に帰り着いている事”は「堀江城陥落の前日に脱出している事」に成り、その間の「3日間」に何とか出来た筈なのにそれもしていないと云う事は、「主君に面目に成る様な妥当な理由付け」をして脱出は出来ていた筈であろう。
そして、結局は「脱出の説得にも応じなかったと云う事」に話の結末は成ろう。
後勘から観ても、そもそも「自殺や切腹は主君の前での其の後の事」であろう。
「平手」は「江戸期の通説通り」であれば、「戦国武士の主君・軽んじている事に成る」に対しての「最悪の手段を選んだ事」を意味している。
歴史上でも言われている当に「・・・者」によくある“カーと成って仕舞ってやり過ぎて取り返しのつかない所まで陥った”という事であろう。
それでも「主君の命を待つ事」が「家臣と成る者の掟」であって、況してや「織田軍の軍監の一員の守備者」とも成れば尚更の事であろう。
とすれば筆者は「江戸期の通説通り」は疑問だと観ている。
少なくとも「駿河青木氏の貞治」はこの「経緯と詳細」に就いてこの事を当然に知っていた筈であるとするとその後の行動に慎重に成るであろう。
この「慎重さ」が未だ「織田氏軍監のいる中・3日前」で更に「額田青木氏の銃隊・貞秀」にこれだけの騒ぎが起こっている中では「情報提供の必要性を強く認識していた事」に成るだろう
つまり、少なくとも「浜松城到着後の3日前頃から連絡のタイミングを計っていた事」に成り、それが「最後の詳細な情報提供」と、「上記の最終局面と成った段階」で、遂には「事態急変・負けると読み込み」で「救出依頼の打ち合わせまで」に至り、それが“「三方ヶ原戦いの直前の朝」に成って仕舞った”と云う「経緯」がここでも生まれる。
つまり、このこの重要な経緯から「額田青木氏の銃隊」が「吉田城」を出て「浜松城到着後の直後」から「駿河青木氏の貞治」と密かに「打ち合わせに入っていた事・伊賀者の活動」に成り、それが“「三方ヶ原戦いの直前の朝」まで続いていた事を意味する。
筆者は、「3日前」としたのは、「呼び出し命令を受けた吉田城出発前」から「到着まで浜松城到着」とその後の「三方ヶ原戦い後の戦線離脱後」と、「盤田見附の西光寺に回避の確認」と「最終の伊川津到着」に至るまでの間は、「伊賀青木氏の者」と「伊勢水軍」等の多くの者を駆使して同時に早く「警護と事前の情報提供に働いていた事」が解っている。
この事から「呼び出し命令」から始まり「3日前頃・吉田城から三方ヶ原の間」とした。
これは要するに、「青木氏の歴史観」から観れば、この「経緯論」は「他の三人の軍監・軍目付」の「時間稼ぎの籠城戦」に対して、「平手」は「軍監・軍目付」でも無いのに出過ぎて「三河旗本」と同じ「額田青木氏を用いた主戦論者」で在った事が云える経緯と成る。
その相手が、丁度、「武田氏の軍であったという事」であろう。
「織田氏の戦況の状況」の中で、既に「これ等の情報」を充分に承知していた「額田青木氏を用いた銃隊」を用いた主戦論は,好ましいものでは無かった筈であって、その証拠に詳細に上記した「2年後の長篠の戦い方」でそれが当に物語っているのだ。
当に戦国の世間に対して、「氏家制度」の中で、これ程の「愚かさを露出した者」は「織田氏の恥・主君の顔に大泥を塗った・人材不足が低く見られた」と成るが、この時期の「歴史上のどの戦記類」を観てもこの事は珍しく他に余り散見できない。
それ故に、これに影響を受けた「額田青木氏と駿河青木氏の行動」は、今後に、又、「伊勢や藤沢にも影響する行動」が求められていて、「実に適切で慎重であった事」に成るし、「伊川津に戻った後の旗本との関係」も「後世に泥を塗る事」とは成らず、寧ろ、「青木氏の歴史観」からしても「後世に見本と成る遺すべき行為」であって「重要と成る行為」で在ったのだ。
故に、「後世に比較対象」と成る為にこれらに関わる史実の事を用いて詳細に論じて観た。
さて、唯、更にこの「検証」を深めると、これにはもう一つ“「重要な事」”として、その「陣形の向きに欠点があった事」が読み取れる。
要するに、ここにも「・・・者のカーの癖」が働いたのか、不思議にもより有利に成る筈の“「浜松城を背にしての陣形・北向き」では無かった”事なのだ。
ここで念の為に「江戸期の脚色偏纂の定説」とされているものでは、“「武田軍の本隊」が先にこの「三方ヶ原」に到着して「魚鱗」で構えていた”としているので、故に、“松平軍の陣形はそれに合わして「鶴翼」とした”として、何時もの様に「後付けの美化」をしいるが、「江戸期前の記録」での「時系列の検証」でも、「堀江城の落城の経緯・延べ4日」から考えても、“此処までも「後付けするか」”と思われる様な程に全てこれ等には「辻褄」が合わず100%あり得ないので注釈する。
そこでこれも「長篠の実戦」にも出ていてこれに付いて念の為に参考として論じるが、仮に「野戦」であっても、「武田軍が採用した移動型の魚鱗の陣形」であれば、「額田青木氏の銃隊」が仮に「松平軍の頭の部分の先頭に着く事」があって、それが出来ていれば、「赤兜の騎馬隊・突撃隊」が前面に居たとしても、又、「山県軍の別動隊」が「北の山際・右側面の北に着いていた」としても、慌てる事は無かった筈だ。
つまり、何故ならば近づいて戦う事の無い「勝てる見込みの銃」は充分に有ったし、間違いなく勝てたであろう陣形と成り得ていたと成る。
ここが「額田青木氏の銃隊の南下国衆が断った所以の重要な処」であって、上記の「三方ヶ原の平手の事」に比しても「慎重な伊勢の裔系額田者の行動」、つまりは、“ゆったりとした伊勢者の性格」を採った事”なのである。
前期で論じた様に、そもそもその前に交わした「実戦と成る事に対する約定の違い」も確かにあったが、次の事も又大きく左右し「青木氏の氏是に反する事に成る可能性」があったからである。
それは、上記の様に「陣形」にも依るが、「銃の在り方」にもあった。
つまり、前段でも論じた様に、この“「銃の威力・10~20倍以上の戦力・超新型銃・フリントロック式改良銃」”を持っていたからである。
恐らくは、間違いなく後の「長篠での信長軍・雑賀根来銃傭兵軍団」が実戦で示した通りの“「兵力・20倍以上」”には成るだろう。
「古来中国の兵法」より、“味方の軍の犠牲が無く相手の軍を殲滅するに必要とする兵数は10倍とするのが常識とされていた。
従って、戦記上では世にその威力を示し実戦としてこの「銃」を大掛かりに使ったのは「信長の長篠」であって、その「2年前の三方ヶ原」でも「額田青木氏の超近代銃」は使われたのではあるが、「銃」で在る以上は「古来中国の兵法」の更に2倍と観られるだろうし、「火縄銃」での「銃弾の充填の回数」と「熱などの使用欠点のロス」を持つ「火縄銃」を克服した「フリントロック式銃」ではその更に4倍と観るとして、最大では80倍と成り得る。
然し、このロスを考えた場合には最小では少なくとも20倍は確実に保証できるだろうとして前段でもその様に論じた。
この論の「一言坂の結果」はそれを証明するのであったと信じて論じているのだ。
つまり、その「事前の銃の威力の情報を得ていた武田軍」に執っては、この「80倍」は「驚きの範囲」を超えていたと観ていて、それ故に、「伊勢」は前段でも学問的にも論じた通りに当時としては想像を絶する「超近代銃の開発」に密かに取り組み、「高投資で20年の開発」を掛けて完成させたとされるその意図がこれでも判るのだ。
「青木氏族」は「これ・歴史上の戦歴」を避けたのである。
これは当に「武田軍」と「額田青木氏の銃の戦い」に成り得るからだ。
又もや、「第一次の吉田城籠城戦」に続いて「一言坂」でも、将又、「松平軍」は“楽して無傷で勝つの戦略”であった事に成り得て、「他の伊川津の国衆・伊川津国衆以外も」と違って「契約の伊川津の国衆の限定国衆・家臣として伸し上がる目的を持ってなかった」で在ったのに利用され続けていたのだ。
「青木氏の氏是の前」に「額田青木氏の南下国衆の指揮官・貞秀」はそれを見抜いていたのだ。
つまり、この「利用される事・300丁の近代銃の20倍の兵力・最低」で、その「兵力的・松平軍」には「銃隊の相当兵力の6000+松平軍の正味兵力の5000=11000」と成っていたのである。
これで「武田軍の本隊」にほぼ近づく事で「左右の鶴翼」は必要無くなるので、「兵の温存」が働き、この「他の兵」は「本陣守備」か、又は「銃隊の後ろ」に控えさせて、“いざという時”の「銃隊への補足が効く事」に成るとしていた戦略の事に成っていたのであろう。
これは要するに当に「魚鱗の陣形」であり、「馬や弓矢の代わり」に「銃弾」が相手の前面に次々と飛び交う事に成るのだ。
要するにその「要求する根本」は、そもそも全く“「国衆契約」”とは違っていて、“「危険極まりの無い主戦隊の役」であった”のだ。
経緯的には、それを「軍目付の関係者の主張・籠城戦」に反して「平手・野戦主戦論」が「軍目付警備の立場」を忘れて「酷く掻き乱された事」で、「伊勢青木氏」と「二つの青木氏の額田と駿河」に対して挑戦して来た事に成るのだ。
そこで、当にこれは「百々の詰まり」は、当に「2年後の後の長篠の織田軍の戦い方と同じ事」に成るのだが、これは“「三方ヶ原の分析研究」を「信長」がしていたのではないか”と云う事を物語るものだろう。
そこで「信長」は、先ず“出来たら「鶴翼陣形」が其の侭でも「鶴翼」を留めて「左右に弓矢」を持たせば「20000の兵」に無傷で対応できる”と考えた事に成る。
これを数少なくしてするには“「火縄銃に替えたらどうなるか・新しい発想」”であったと観るのだ。
そもそも、“「弓矢」には、「飛距離と間隔と命中率と殺傷力」が左右するが、「銃」に置き換えれば」とすると、この「欠点」を克服できる”と考えたに違いない。
これは「勝負が着くまでの間」の「突撃型の騎馬隊からの犠牲・信長は非常に警戒していた史実」は、これで最低限で無くなるからなのだ。
つまり、“「弾と硝煙が無くなるまで」”は無傷なのである。
唯、「二つの郷土史が遺した研究」からこの行を読み込むと、ここには“「信長」が気にしていた「一つの欠点」”があった様だ。
それは、史実として「戦場」と成った「長篠の戦後の江戸期の郷土史に残るこの研究」で注目したのは、“「弾丸が激しく変形して潰れ飛散している弾が多かったとしている事」”と、その“「弾の向きや変形弾が違うものが馬柵やその下の地面にあったとしている事」”のこの二つなのだ。
これは「戦況を物語る重要な考察点」である。
つまり、この事は、先ずその「物語る一つ」は、“余りの連続的な発射で銃身が熱を持ち爆発したのだ”とする事を用いた「柔らかく成った事での変形の説」があり、その「物語る二つ」は、“何か相当に固い物に近距離で当たった”と云う事であると云う説だ。
この「物語る二つ」は充分に納得できる説論である。
従って、この「物語る一つ目の経緯」からすると、「火縄銃の傭兵力・織田軍」は、「銃力と銃兵の力」が“「途中」”で激減した可能性があると云う事が読み取れるのだ。
次の「物語る二つ目」は、「物語る一つ目」に続いて、「無理にも突っ込む武田軍の将兵・固いもので武装していた」に対して「近距離連射」を仕掛けたと云う事に成る。
所謂、その「物語る一つ目」では、この“「途中」”が問題であって、それは「武田軍の兵力」が「織田軍の銃力」で激減した「後」のなのか「前」なのかである。
「戦後に、直ぐの戦場調査をしたとする口伝からの郷土史研究」では、殆ど「武田軍の戦死者」は「銃」によるものだったとしている。
時間的な処は具には判らないが、この事の「物語る決定点」は、「急激に落ちた銃力」と「武田軍の総攻撃攻防」の「何とかぎりぎりの処」の間で、“「勝敗が着いたと云う事」”に成る。
つまり、前段の「弱点」を突いた「馬周りの北側際の場所・秀吉軍との間」から「武田軍」は、“銃撃間を狙って断続的に無防備にも銃弾の中に突撃して行った”とする「理由付け」はこれで読み執れる。
「織田軍」には、所謂、この“「途中」がもっと早く訪れる”と観ていた可能性がある。
それはどういう事かと云うと、「銃撃間の間柵を開閉」してそこから「徒士の兵」が討って出てまた引き上げ、これを繰り返しながらをしていた事に成る。
つまり、これは当然に、「銃身に熱を持ち使えなくなる事」を知っていて「織田軍」もこの“「途中」”に賭けていた可能性があると云う事だ。
次に「物語る二つ目」では、「武田軍側」でも「銃に対する策」として「鎧防御」では無く、「将兵の前に薄い鉄板の様なもの」を持たせ、それを「200の銃の突撃兵・勝頼守備隊」に事前に装着させていた事に成るか、将又、「弾薬等を運ぶ荷車」に「装甲車」の様に「薄鉄板」を張り、それを前にして隠れるようして速度を上げながら銃撃しながら突撃する決死隊としたのでは無いかという「証明され得ない仮設・状況証拠」があがる。
何故ならば、上記した様に重視したいのはこの「館壁に銃弾痕があった事・重視」は、唯単に「銃で突っ込むだけ」では無く、この装着した「薄鉄板の装甲車の効果」で「銃弾痕が跳ねて当たった事」に成ったのではないか。
それで無くては「200の銃兵の数/3000銃」では「銃弾痕があった処」まで届くのは先ず無理であろうし、大きく穴が開くまでに銃弾が壁まで届く距離に近づくには「銃兵」は一度に激減していた筈だ。
そこで前段でも論じたが、これをもう一度念の為に「検証の角度」を少し変えて検証して観る。
「銃の学術論」であり、どれだけ「青木氏部の学術的なレベル」が進んでいたのかが気に成る。
「家訓10訓」の一つにも成っている位である。
「鉄の比熱」は、水の1/5であり、加熱で使えなく成る温度は70℃とすると、連射すると、約1h程度で遂に[銃身の弾道管」は膨張して破裂するか、弾が飛散する事が理科学的に間違いなく起こる。
「資料記録と実験記録」が遺されていて、では「1発撃つ」のに「最低で10~15sec・単発動作」、「冷やしながらの撃ち方」で「最大で記録から5~15min・連射動作」と諸条件と成りある程度ので幅があった事に成る。
郷土史に依ると後に、この説を証明する為にこの実験記録が成されている。
その結果として、この「間隔」が次第に拡がり、最後は「薬倉破裂と銃身破裂」が起こり最後は使えなく成ったとしている。
この実証実験の結果は論理的に納得できる。
何故ならば、理論的に「鉄の特性」には熱に対して「300度付近」に達すると“「300脆性と云う現象」”が結晶間で起こるのだ。
1度目か、又は冷やしながらも何度もこの温度に達するとより「300脆性と云う現象」で「鍛えた鉄」であってもあればある程に「鉄組織」が破壊されて亀裂が起こるのだ。
そして、最終はこの亀裂で爆発的な破壊が結晶間で起こるのだ。
この為に、実際使うには絶対に「300度より低い温度」で冷やす間隔を置いていた事」に問答無用で成り得る。
そうすると、仮に「三段構え」としていたとしても、この間は銃は使えなく成り、更にこの間には何も出来ないので、「銃撃間の間柵」から柵を開いて「徒士の兵が討って出た事」は資料に書いている様に間違いは無い事に成るのだ。
一部の「実戦記録・戦記物」では「棚解放説」の此れを史実として記している。
恐らくは、間違いなく「4回程度/h」では「全ての射撃」が先ず1回止まり、「徒士の兵」が柵から出て戦い、又引き上げる作戦を繰り返した事が判る。
「戦い」では実際に4回起こっていた事に成る。
そうすると、論理的にはこの熱を発生させない様にすれば何度も使えるがそれは論理的に絶対不可能であり、それでは「敵の進撃」に絶えられない事になる。
間違いなく「戦い」で使う際は、この理化学的な逃れ得ない「300脆性と云う現象を興した銃」と成り得ているのだ。
従って、「銃の寿命」は何時か来るのだ。
「粗製乱造の銃・素材や造方如何」ではこれがより早く起こるのだ。
「鍛え方の悪い火縄銃」は、“より危険と云う事に成る”と云う専門的な知識があるのだ。
室町期の資料にも、「悪徳闇商人」がこの「粗製乱造の銃」を売りつけて問題に成っていた事が記されている。
注釈として、「専門的な研究」によると、そこで前段でも論じた様に「額田青木氏の近代銃・摂津で密かに製作」によると、「西洋」では「新しい冶金技術・ドイツ」が高められ、上記するこれらの「銃の欠点を克服した進歩」でより「銃の威力」を高められたのだ。
且つ、それが「携帯可能な銃」と成ったとしていて、且つ一段と「飛距離」を高めた「飛ぶ銃」で「強い銃」の「研究開発」が成されていたとしている。
結局、軍隊で使っていた不要と成った「古い火縄銃」を買い集めそれをポルトガル人が「高額・2000両」で中国と日本の種子島に先ず持ち込んだと「経緯」となり、それを紀州根来と雑賀の鍛冶職が種子島に渡り学び持ち帰り類似品を開発した経緯と成っている。
「青木氏の銃」ものはこの「西洋技術」を密かに取り入れたもので「試作」を繰り返し「額田青木氏用に取り入れた」とする史実のだ。
但し、この史実とは別に「摂津」では「貿易」でこの冶金学が進んだ「ドイツの新型銃」を入手し密かに開発を進めていたのだ。
そして、それを「近代銃としての根拠」としていたのだが、故に、西洋ではそれまでの銃は旧式と成り、それを「種子島」に持ち込んで高く売りつけて利益を上げ、「雑賀族と根来族」はこれを日本で広めたのが、未だこの「銃の欠点」を克服していない「種子島式の旧式火縄銃」なのである。
要するに、この“「摂津銃」”と呼ばれる「非公式の近代銃」では、「最大の欠点」の「300脆性と云う現象」と「繰り返される事で起こる疲労破壊」のこの「二つの欠点」を起し難い様に「超高度な熱処理・3つ進んだ高度処理・下記の専門的な学説論参考」にこれに付いて下記に論じる「・額田青木氏の近代銃との比較」が施されているので「連射」が出来る様に開発されたのだが、そこで先ず、因みにこの「三つの進んだ高度処理」とは次の通りで在った事が「専門的見地の分析」から解るのだ。
因みにそれを論じて置く。
「学説論」
「一つ目」は、鍛えなくても起こる傾向は元来鉱物で在る限りは特性として持っていて、尚更、外部から自然の状態に力を加えるのであるから「鍛えた鉱物」には必ず「欠点」が起こるのである。
これを防ぐには、「300脆性と云う現象」では、次の技術が用いられる。
それは「鍛えた後」で一度、「550℃から600℃付近・過熱する事だ。
「加熱し過ぎると鍛えた意味が無くなる」で、“緩やかに過熱して緩やかに冷却する熱処理”を施す事で、この厄介な「現象」を止める事、又は緩める事が出来るのだ。
これを「焼鈍処理・アニーリング」と云う。
次に、「二つ目」では、「鍛える前の鉄」にはある「内部の特殊な結晶構造」を持っているがその温度でそれの「結晶構造」がそれぞれに異なるのだ。
それが、上記した「300度の脆性の破壊の原因」に響いて繋がる傾向を増すのだ。
そこで、「鍛える前」にこの現象を「起し難くする結晶構造にして置く事」が必要に成る。
それが、その「結晶が起こる温度」が特定されていて、それが「600度付近」だけにあり、これは「元来の持っている特有な結晶・パーライト結晶と云う」を「球状化と均一化」にして「ゆっくりと冷却する事」で「球状化と均一化の結晶・元来この結晶構造は自然界に無い」を無理に造り出して維持されるのだ。
故に、超高度な知識として「どんな鉱物」でも「近代的な構造物」に使われる際にはこの「処理」は絶対に必要と成るのだ。
そうする事で、この「300度の脆性の破壊の原因」が、「繰り返される銃撃の熱」とその「銃に加わる衝撃力」が「球状化・均一化」で「分散される現象」が起こり極めて軽減されるのだ。
「三つ目」では、「鉄を鍛える」には「加熱」して「約1000度以上の温度・オーステナイト結晶」にして、その温度中に叩いて鍛え、これを繰り返すが、この時、欠点が生まれるのだ。
先ず、「850度から1000度・1025限界」では、この「内部の結晶」が「粗大化・一つ一つの結晶が大きく成り過ぎて仕舞う事」が起こるのだ。
何事も「鉱物」は「結晶」は「小さくて均一で丸くある低温時の結晶に成っている事」が一番良いが、「鍛える事・ある形状に仕上げる事」には、どうしてもこの「逆を行く事」に成るのだ。
「銃」は「常温」であるのに「1000度の高温での結晶の構造」と成っているのだから、そもそも「鍛えると云う処理」には「結晶と云う点」ではそもそも「無理」が伴っているのだ。
だから、これを「常温」でも保てる様にしないと、その内に「時間の経過」と共に「自然破壊・自然に戻ろうとしてオーステナイトがパーライトに変化」して仕舞うのだ。
つまりは変形してしまうとして仕舞うと云う事なので重は使えないと云う事に成る。
更に困るのは、この「パーライト」にも「723度以下」では、「723度付近のパーライト」と「常温までの色々なパーライト類」があり、これに何とかして「自然の状態」に近づこうとして「自然変化・自然劣化に繋がる経緯」を繰り返して行くのだ。
この事で使わなくても「脆く成ったり」や「銃身が変化したり」やして使えなく成るか、無理に使えば要するに「熱」に寄らずとも「銃身爆破・自然劣化の進行・疲労破壊の進行」が起こるのだ。
使えば使う程に「鉄の結晶体」に「使用した衝撃などの応力」が吸収し残留し、この「自然による銃身破壊の現象」はより「進行」は速まるのだ。
これを無くするには「特殊な処理」が必要と成る。
それが「新しい技術」として「焼凖処理・ノルマライジング」が必要に成るのだ。
上記した「大欠点」を無くす為に「鍛える鉄の場合」には、要するに「ノルマライジング・自然に戻す事の処理」を施す必要があるのだ。
「自然に戻す事の処理」のこれには「色々な種類の処理方法」があり、どれにはどれとして専用的に適用されて効果を発揮する。
従って、「銃身とする場合」は、表面にそれなりの耐え得る薄い層を造る事であり、それには「サアナイド」や「タフニング」や「メッキ・無数にある」もその代表であろうが、かなり「専門的理論」として「銅又は真鍮と組み合して造る事・応力を逃がす」もある。
然し、これ等の冶金学は未だ発達していなかったと考えられる。
そこで「額田青木氏の近代銃」には、何らかな形でこの「三つが組み合わされて使われていた事」が継続していた「後の研究・四つ目対策」で判っていて、「サイアナイド」や「タフニング」等、当時としても現在としても「超近代的な専門的な技術」が使われていた様である。
取り分け、「サイアナイド・炭化処理」や「タフニング・窒化処理」は加熱の際に知らず知らずの内に使っていたと云う事がある。
“何かいい味が出る"の程度の感覚で使っていたのでは無いか。
それが敢えて「備長炭」を使ったと云う処が齎す効果であったのだ。
これは外国に於いても最初は同じ使い道から得た技術であったとされ、それは「ドイツ」で開発されて「戦い」を通じて「ヨーロッパ全域」に広がり主に「銃兵器」に使用されたのだ。
それがもとで「銃の鉄に起こる欠点」を緩和させて「西洋の戦い」は急速に変化して「殺戮性の高い近代兵器」として利用されていた事が歴史的に判っているのだ。
これを「額田青木氏の伊川津国衆として南下する為の護身用武器」として「伊勢青木氏の指示」で「摂津青木氏」が「貿易から得た情報」で「銃見本を密かに入手していた事」が歴史的経緯と合致して解っている。
これは見本の分解等をそれなりにしたと考えられる。
更にその少し後に、この“「五つ目の対策」”として、更に西洋で開発された「超新技術の合金処理技術・真鍮化も」が施されたが、この「見本の二つの銃」として密かに入手していた様だ。
この「五つ目の対策」の「超新技術の合金処理技術・真鍮化の実用把握」に相当に時間と苦労を要した事が記されているが、この技術は室町期には成功したかは判らないし、使っていない様だ。
そこで最も最初に“「銃対策」”として取り入れたこの「四つ目の対策の超新技術」は、「摂津」では「サイアナイド」であった事が判っていて、それが「銃の欠点の原因対策効果」としては良い事が判って直ぐに取り入れていた事に成っている。
判り易く云えば「備長炭効果」であったのであろう。
開発して会得したと云うよりは、研究の過程で偶然に会得したと云う方が正しいだろう。
何故ならば、その土壌とする基盤が「伊勢」にはあって、それは前段でも論じた「日本初の墨の開発」を朝廷から命じられて「紀州姥め樫の備長炭を用いた事・墨」を論じたが、この「墨の技術・炭素の細かさ」をこの「サイアナイド」に一番に用いた事が解っている。
どういう「技術的な理論」が在るかと云うと簡単で端的に述べると次の様に成る。
上記の通り「鉄の欠点」が生まれ銃として使う場合は、これが銃に耐え得る範囲を超えて破壊が起こる。
そこで「鍛える際に加熱する火」をこの「炭の材・備長炭」で行い、この加熱時にこの「炭の細かさ」から上記した「加熱時の鉄の結晶と結晶の隙間」が拡大して、この細かい「炭の材・備長炭」が「鉄の中・表面部0.5m程度まで浸透させて行くのだ。
させて行くと云うよりは加熱で自然にそうなったと云う事だ。これには但し「古い紀州備長炭である事」が前提である。
「・過剰深さ」にならない様に「逆の欠点が出るまで」に浸透させて行くのだが先ず其処までに浸透は無理である。
これを「適度の温度・723度以下」に下げて、再び「鍛える過熱温度」まで何度もこれを繰り返す。
つまりこれは鍛えると云う行為である。
ところがこれを一度にして加熱してこの一度に「備長炭の細かい炭素」を浸み込ませると、逆に結晶が粗大拡大して抑々使えなく成るのだ。
ここには「理論的」な「難しい鉄と炭素の相関関係図」が存在していて「相当に会得した匠」で無いとこの「サイアナイドはする事」は出来ないのだ。
この事を最低限に会得する技術で在ったろう。
そうすると、この時、何度も加熱し鍛えられ何度も結晶間に「浸みこませた炭素」は「鉄の周り」に「0.5m程度の丁度良い厚みの層」が隙間なく出来上がる。
「鍛えた最後」にはこれを「垂直方向」に向けて「水又は油」の中に「0.5S内」に素早く冷やし常温程度に成るまで「冷却」をするか、灰などの中に自然冷却の速度で放置しても良いが昔は現実はこの方法であったろう。
この時に、この「鍛えた鉄と冷却を受けた炭の炭素」との間ではこの自然界に存在しない「特殊な途轍もない堅い結晶構造・マルテンサイト・ダイヤに近いもの」に「変化・別の物に替わるので正確には変態」するのだ。
「これ・マルテンサイト」が「鉄の周りに薄い幕の様にして出来る事」に成る。
そうすると、結果としてこの「鉄の周りの固い膜」は上記した「鉄の銃の欠点」の「防護用の干渉幕」が出来上がるのだ。
つまり、ここで「銃の欠点」が「吸収幕で抑えられる事」に成るのだ。
但し、この侭では未だ完ぺきでは無く未だ駄目なのである。
「無理で急激」に「マルテンサイトと云う膜」を造った以上は、これにもある問題を持っていてこれを解決させなくては上記した欠点を完全には克服して使えないのだ。
それで無くてはこの「マルテンサイトと云う膜」にも「無理で急激」で「鉄の結晶・鉄の細胞」の中に起こっている以上は拒絶反応が出るは必定で、この為に、これを更に克服する処理が矢張り伴うのだ。
完璧と云う事であって施さなくても一定期間は持つ程度であろう。
然し、この「マルテンサイトと云う膜」は「硬い・衝撃や亀裂や摩耗に猛烈に強い」、「滑り・摩擦にも強い」の性質を持つていて「上記の銃の欠点」を消してくれるのだ。
然し、完璧にするのであればこの「拒絶反応」」だけは消しておく必要があるが、その為には更に「テンパーと云う処理」と云う処理を施すのだ。
現実に弾丸を撃つ事で熱を持つので問題はない。
論理的には上記の「マルテンサイトと云う膜を造った鉄」を少し「自然界に無い別の新しい結晶体」に換えて存在させる事をやらねばならないのだ。
それは現在では「鉱物油」に「約180度から250度までの温度・テンパー」に穏やかに長く保つ事で「ツルースタイトと云う結晶構造・マルテンサイトの更に変態物」が得られるのだ。
昔は色々な種類の灰を用いていたらしい。
この「テンパー処理」を施さなくても問題なく「全ての特性」は一応は得られるが、これは「上記のマルテンサイト」よりももっとより良い「硬い・衝撃や亀裂に強い」、「滑り・摩擦に強い」等の「全ての特性」が得られ、それが「銃に対しても良い性質を持って仕舞うのだ。
但し、この時に上記した様に「300度脆性」では「厳禁温度手前である」ので注意をしなくてはならないので、「極めて注意を払う温度調節」が必要に成るのだが、然し、それだけに意味を持つが「300度脆性」が一度程度起したと云ってもびくともしない。
この「マルテンサイト」を獲得するには、「鉄と炭素と温度の相関関係」が微妙に働く。
昔はこの相関図は得られて無く「匠の感覚の領域」であった様だ。
現在では関係図的に解明され、「横軸に加熱温度」、「縦軸に炭素量」、「横と縦には鉄の状態・結晶」の相関を採ると、この「三つの要素の相関図」が生まれる事が学問的に判っている。
図の横軸に「鉄に対して0.8%の炭素量」を中心に「723度」を上に超えて左に動くと、この「マルテンサイト」は「正常なマルテンサイト」は得られず欠陥の持った「マルテンサイト」と成り得て、ここでは通常は使えない。
それが左に「0.6%の炭素ポイント」では、「正常な充分なマルテンサイト」は得られず、右に「1.0%の炭素ポイント」では、「マルテンサイト」は「特別な金属・主にNiで微小化して」を混入させない限りは即座に強烈な爆発的な破壊が起こる。
同時に、左では「マルテンサイトが獲得できる温度」が「高温」と成り過ぎて「鉄の結晶体・処理温度が高くなりすぎて、先ず「結晶が粗大化」して別の意味で脆く「0.6%付近」ではその「硬さ等の特性」が得られない。
そこで「上記の合金五元素を低率で混入させる事の効果」でそもそもの「処理温度」を下げて、それに従って「マルテンサイトの変態点」を下げて「少ない硬さなどの特性」を補完してその上で「獲得出来る様にする。
其の侭ではこの「結晶の粗大化」と「マルテンサイトの破壊」を招き「熱処理」は成さない。
図右では「723度・上下に限界値」にあっても「鉄だけの金属・合金では無い」であれば「変態時のエネルギー・応力」が過大と成り過ぎて間違いなく破壊が起こり、一般的には「熱処理に依るマルテンサイト」は獲得できない。
そこで、現代では「求める物理特性」を得る為に「上記の五合金元素」を少量加えて溶かし「マルテンサイト」を獲得する事無く使える様にし、この為に鍛する方法があるのだ。
「炭素8%」より左側の要するに「中炭素鋼」には、「充分なマルテンサイト」は得られないが、その代わりに「マルテンサイトと異なる近い変態組織」が得られるが、これを其の侭では上記した様に「破壊」に達する為に「特別な熱処理」を加える事で、それは鍛する事なく「ソルバイト」と云う「特異な組織」と成り得る。
要するに、「硬さ」は少し不足するが「鉄と炭素の結合体・セメンタイト」の単独でも「バネ組織・耐摩耗性・耐衝撃性・耐熱性等」を獲得で出来るし、これに「熱処理の補完」の為に「加えた五合金元素の特性」が共析して来てよりこの特性は向上する事と成るが、勿論に室町期ではこの「高度な処理」は当然に無理であったのだ。
然し、上記の「額田青木氏の超近代銃の欠点を補完する充分な特性」がこの処理でも得られるのだ。
調査すると、「額田の銃」はこの左側から得られる「中炭素鋼」では無かった。
「右側・高炭素鋼・通常お茶を煎じた様に炭素の濃度が高いので煎鉄とも云われる鋼」は、「高炭素・右側」に成るに従って「オーステナイトと変態点723度の間が狭くなる現象」を起し、「焼き入れ」では無くてもそれなり温度を加える事でその「変態エネルギー」を与えれば其れなりの「マルテンサイト」は得られるのだ。
従って、「右側の高炭素鋼・現在ではSKS・SKD等の合金鋼で焼き入れは可能」は「マルテンサイの破壊」をできるだけ防ぐ為に、「鍛造で鍛える程度・鍛いて得られる」でも「それ相当の硬さが得られる事」に成り現代ではよく用いられているのだ。
つまり、故に「古来の砂鉄にも原鉱石」の中に上記の「五合金元素」が僅かに自然で含んでいて、それが「鍛造の差・鍛え方」で、その「品質特性」はバラックのだが、この概念は昔は“味と云う表現”で持ち得ていた可能性はあったらしい。
「数多くあった鉱山の原鉱石の名」が記されている事は、その差が無ければ何処の原鉱石でも同じと成るので、“味と云う表現”のそれを用いて意味しているのだろう。
但し、何れにせよ「凄い変化である変態・焼き入れ時に吊るした具を通じてグァーンと云う鈍音とガクンとする衝撃が耳と手に伝わる程度」で、その「破壊の危険」は伴うので、その「破壊」を起させない為の「結晶の粗大化の防止策にNi加える」か、或いは「五合金元素」を少量に加える必要があるのだが個人では出来ない。
実は、「各種各地の鉄鉱石」にはその「自然界のNi・ニッケル」を多く含む物もあり、“あそこの原鉱石の鉄は割れない”等の「破壊」に対する“味と云う表現”での概念で、「秘密裏のノウハウ」として匠等に生まれていた事に成ろうし,現実にもそうであった事が記されている。
然し、ところが「近江鉄・大倉鉱山や高倉鉱山・最終は奈良期710年から1560年代まで」には、この「Niと五合金元素の存在の記述」は古い為か強くは散見出来ないのだ。
然し、前段でも論じたが「近江地域の地質学的な成り立ち」からは充分に存在は考えられるが無かった様だ。
そこで少しここで地質学を論じる。
そもそも,「滋賀県地域の地盤」の成り立ちは、「二つの時代の陸盤」から成り立っていて、それは「中生代」と「新生代」からである。
この「中生代」では、「丹波帯付加複合体」と「花崗岩類」と「湖東流紋岩類」との「三つ岩類」で成り立っている。
其の後に出来た「新生代」では、この上に「第一瀬戸内累層群」と「古琵琶湖層群」と「段丘堆積物沖積層」の「三つの層」から構成されている。
参考資料より要約
・「中生代」とは、定義では初期の地質時代の一区分で、化石に残りやすい生物が出現した以降の顕生累代を三分したのが「第2の地質時代」という。
これを放射性同位体による絶対年代の推定としては、「約2億4800万年前から約6500万年前まで」の「約1億8300万年の期間」に相当するとしている。
・「新生代」とは、定義では中期の地質時代の一つで、「顕生代」の大きな区分の一つである。
「約6,500万年前から現代まで」に相当し、陸上では恐竜が絶滅し、海中ではアンモナイトと海生爬虫類が絶滅した後、哺乳類が繁栄した事で特徴づけられている。
この「新生代」は、「第四紀・新第三紀・古第三紀」の「3つの紀」に区分される。
この「新第三紀」と「古第三紀」の「二つを合わせた地質」を特徴づける「地質時代」を云うとしている。
・「丹波帯構成岩類」とは、そもそも「チャート・石灰岩・砂岩・泥岩・礫岩」などの「海底に堆積した堆積岩類」と「海底に噴出した緑色岩(玄武岩質火山岩類)」で主に構成されている。
「海洋プレート」の上に噴出した「玄武岩質火山岩類」は「海底や火山島(海山)」を形成して、その上に「チャートや石灰岩・珪質泥岩」などを徐々に堆積させながら大陸へ向かって年間数cmほどの速さで移動していくが、これが「丹波帯構成岩類」を構成している。
・「超丹波帯」とは、近畿地方において「丹波帯・中部地方に美濃帯もある」とその北側にある「舞鶴帯」と呼ばれる「3構造帯」との間に存在し、この「丹波帯」が「中生代・ジュラ紀」に「付加作用」を受けて形成された「付加体堆積物」で構成されている。
これに対して、主に「古生代ペルム紀」に「付加作用」を受けて形成されたのが「付加体堆積物」で構成されている「古生代地質帯」である。
・「海洋プレート」では、「海溝部」で大陸の下へ沈み込んでいくが、この「堆積物」は一緒に沈み込む事ができず剥ぎ取られ、「大陸側」から運び込まれた「砂岩・泥岩」等と共に大陸側へ押し付けられ、これが混じり合って「付加体堆積物の複合体」を作りあげて行く。
この作用を「付加作用」といい、それにより形成された「堆積物」は「付加体堆積物」と呼ばれるがこの堆積物には「鉄分」を多く含むが、その結果として「五合金元素の存在」が認められる鉱物体」は「高比熱、高耐熱性、高比重」から付加体堆積物とその複合体には残り難く分離されて行き「深い堆積層中に巻き込まれて含まれる事と成り易い。
故に、この「丹波付加体堆積物と複合体」には「鉄分」だけは多く含む事に成るのだ。
だから無いのであろう。
この主体と成るこの“「丹波帯付加複合体」”とは、要するに「石灰岩等の海洋底起源に依って起こった岩石」と、元からあった「泥岩・砂岩等の陸源破砕岩」が圧迫されて陸に隆起し「混合した地質形成性体」で形成させた。
つまり、結局は「琵琶湖」を挟んで「東~西~北部の三つの基盤」から圧迫して形成しているのだが、その「経緯」としては、次の通りである。
・「中生代」に「ユーラシアプレート」から「日本列島全体」が南東に向かって先ず分離して、其処に横に海水が侵入して日本海が出来、その「分離した地形地質」が今度は「糸魚川構造線」を東西を境にして分裂し、其処の海峡に土がが重なり海峡は埋まり「原形日本列島」が生まれる。
その「原形日本列島」も「三方からの圧力・現在でも掛かる」が掛かり、ここを中心に当初は「西と東と北」の「三つの島」で構成された。
その時に「中央の位置」に対して「左右からの圧迫」が加わり、先ず西側に浮き上がって事に依って出来た「島の窪み」に山水が流れ込みここに「元琵琶湖」が先ず出来た。
更に、これが常に圧迫を受け続けている「北側・現日本海陸」からの突き上げを受けていた「原形日本列島の南陸側」は「南海」に繋がる事に成ったのだ。
この時に突き上げられた結果として、「中国陸・神戸層」に繋がっていた「淡路陸」が突起し分離し、更に続く突き上げは「西側と南側」に陸が移動させて縞が出来たがその「縞の窪み」に「瀬戸内湖」が形成された。
西に押されていた「瀬戸内湖底」が右側に下がり、南からの海水の侵入して分断されて「淡路島」と成った。
然し、更にこの「圧迫」は動き「東~西~北部の3基盤」に圧迫された事で、「西側の陸」が「西」に更に押しやられて移動して「四国陸」が隆起し、其処に更に「窪み」が出来てこれに「瀬戸内湖の南の水」が流れ込んで「段差のある瀬戸内湖」が出来た。
然し、これがに更に続く圧迫で、「中国陸」がより浮き上がりその結果として「西側の西端」が下がり、ここに「北域と南域」と「瀬戸湖」からの海水が流れ込んでそれが「下関の開門海峡溝」まで到達して「内海」が発生して西に広がり突き抜け続けた。
これ等の「地質の形成経緯」から導き出せた結論は、奈良期に「施基皇子の裔系の青木氏」が「院号」を与えられて「鉱山開発の殖産業・奈良期の大倉鉱山と高倉鉱山」の「近江鉄」は、上記の通り、「丹波帯付加複合体」と「花崗岩類」と「湖東流紋岩類」との「三つ岩類」に含まれる「鉄類」であった。
この「丹波帯構成岩類」の中でも、「鳥取砂鉄」とは当時から「有名な古来の奥日野地域」と連動している所以もあって、取り分け、「酸化シリコン系」の「花崗岩類によく含まれる鉄・砂鉄系」と「地形的」に「丹波帯と丹波帯付加複合体」とは連動している為に、「五合金元素・主に糸魚川構造線の以北に多く含まれる傾向」を余り多く含まない「同質の鉄鉱石が産出された事」に成るのである。
要するに、この意味する処は「額田青木氏の超近代銃」はその「鉄」を使ったのは「0.8%の共析鋼」であったと云う事なのだ。
勿論、上記した「刀の様な玉鋼・原鉱石の酸化鉄に葉や木材等を加えて一酸化炭素を発生させて還元して、その「還元鉄」だけを取り出して玉の様に砕いて「塊にする鉄」だけにする事でも無かった事に成る。
何故ならば「五合金元素の存在」が認められる「鉱物体層」では「砂鉄の平炉・箱型と竪型」では、溶融しない為に「炉口」が詰まり使え無く成る。
つまり、上記の様な工程を経る玉鋼にはする事は出来なかった事を意味するのであり、「砂鉄の平炉・箱型と竪型」は使え無かった事に成るのだ。
故に、「糸魚川線」を「東西」にその「鉄の種類とその炉の違いの発達過程」が起こったのだ。
つまり、上記の「青木氏の地質技術論」から考察すれば、「砂鉄の平炉・箱型と竪型」では無くて「近江鉄の高炉」から得られたものであって、「備長炭の微細な炭」を浸み込ませて加えて「五合金元素」の少ない「共析の炭素鋼を造り出した事」である。
「鉄と炭素と温度の関係」では、丁度良い結晶的バランスを保つ位置」に成るのだ。
この「高倉鉱山と大倉鉱山の院号に依る殖産業・青木氏部」と「その近江鉄の使用」から始まった「額田青木氏の超近代銃」の「経緯論」からすると、この「高炉の通説の開発使用時期」は、「炉の開発と使用」に関してはそれが「青木氏部」で密かに行われていたので、公式とは云えないが速まる事に成り得て、それだけの意味を持っていた事に成る。
その事は、「摂津での殖産炉」は、「西洋の近代銃」と共に密かに持ち込んだ「西洋からの高炉・世間では未だ専ら砂鉄のタタラ炉」に成る前は、それに近い「古来からの竪型炉の応用炉」を「摂津」で既に使っていた事に成る事が予想出来る。
それは「限定した300丁の生産に必要とする炉であった事」に成り、且つ、「難しい技」ではあるが「0.8%の理想的な鋼の前提を求めたものであった事」に成り、「銃だけの欠点を補う理想的な物理特性を求めたものであった事」に成る。
さて、では「Niと五合金元素の存在とその知識」を全く知らなかったのかと云う事であるが、筆者はその「基礎的な知識」としては充分に知り得ていたと考えている。
それは、全て前段でも論じたが、次の事から導き出されるだろう。
イ 「貿易」を営むほぼ「有史来の伊勢屋の925年の商社化と伊勢屋の総合商社・1025年頃」であった事
「部経済」から特別に授かった占有権と専売権の院号を獲得した事で「全ゆる詳細な情報」を容易に掴む事が出来ていた。
ロ 「青木氏部・摂津と松阪」を有している事
朝廷の国造の技術の総支配権を持ち、且つ、独自にも青木氏部を有していた事から鉱山開発の知識もそれなのにあつた。
ハ 各地の「山・鉱脈」で「特殊な岩絵具の開発等」を「額田部氏と共に殖産開発」をしていた事
「岩絵具」は「七色の着いた岩石」からは掘り出され粉にするが、これは当にそれが「Niと五合金元素の存在」を証明している証拠から成り立つものであり、この知識なしでは何処の鉱脈に何があるかは獲得出来ないのだ。
ニ 「伊豆青木氏、額田青木氏、日向青木氏」で論じた事
糸魚川構造線より東の伊豆、糸魚川構造線の上に在る美濃、西のチャート域帯を泊としていた「日向青木氏の阿久根泊」は、「七色のチャート」と呼ばれる上記した「地球の変動」に依って起こる有名な「全ゆる堆積層岩帯」にある。
これ等は「白鉱石のSi」を始めとして、そもそも極めて固く、これ等の「チャート」には、「白色、赤色、緑色、淡緑灰色、淡青灰色、灰色、黒色等」の様々な色のものがあり、「明るい色系」のものには、酸化鉄鉱物等の鉱石に起因している。
又、暗色系のものには、鉱石の硫化系や炭素系の化合物に起因して黒く発色している。
「緑色」のものには、「緑色の粘土性鉱物」を含む為に発色する。
これ等は、「堆積した環境」によって「色・鉱物を粉状にして燃やし酸化の炎色反応」で見分けられるが、これは上記した「五合金元素の鉱物」に所以する見分け方の方法と成るのだ。
要するに、「岩絵具」もこの所以であって充分に専門的にも知り得ていた事に成るのだ
故に、取り分け、「阿久根との関わり」と「上記の青木氏部の知識の伊勢青木氏との関わり」で「日向青木氏の黒田藩の水軍傭兵の役目」の一つには密かにこの「鉄の闇商い・銃商いの有無不明」が秘密裏に関わっていた事が顕著で明らかである。
ホ 「日本全国各地での廻船・水運業の商い」で「鉄を始めとした情報」を堺で獲得していた事
ヘ 「玉鋼の鉄」を伊勢屋が「直接商い」にしていたかは確定は出来ないが、「砂鉄の販売の記録」では、江戸初期の頃の「摂津や大阪」に集められて「鉄商い」が成された事が解っているが、それまでは「土豪の所有物の占有権」で扱われ、その「所有物」を「各地の豪族」に「横流し」で商われていた「僅かな記録」が遺されていて、この「僅かに遺された資料」から読み取ると、「砂鉄のボール位の塊」を単位としてそれを単位にして幾つかを纏めて「秘密裏の売買」で引き渡していたらしい。
この「鉄を扱う小さい土豪」でも「莫大な財産と影の利権」を確保していたらしく、それだけに秘密が漏れるとそれを狙って「侵略される事の危険・記録」が起こっていたのだ。
故に、その「鉄塊」は「莫大な財産」として扱われ、これを隠し持ち、その「所有」そのものが危険であったらしく、「商人の顔」も隠されての「闇商い」であって、「市場商い」とは成らなかったらしい。
つまり、これは「奈良期からの部経済」の「名残」を引き継い来たもので、古来からの長い歴史の中であっても、「江戸直前」までの「玉鋼の鉄」は「闇商い」で行われていたのもその証拠である。
“鉄を制する者は天下を制する”の例えの通りで「秀吉と家康」もこの「利権獲得に動いた事」は記録からも明らかである。
その意味で「額田青木氏の三方ヶ原の戦い後」に「伊川津で家康に協力する事」で「渥美半島の制海権・利用権の見返り」として「鉄の利権獲得」は容易と成ったのであるが、反面、この秀吉からは「蔵の焼き討ち等の仕打ち・記録」を受けた。
「伊勢青木氏の商記録」でも考察すると、「鉄の取引」の其れに関する「詳細記録」が敢えて無い事は古くから「摂津店・鉄は秘密裏での商い・記録消失」で行われ、これは「鳥取日野の砂鉄」と「近江鉱山の鉱鉄」に近い「摂津域」で扱われていた事を物語っている様だ。
「淀川を使っての運搬」と「近江日野・近江鉄の製鉄工場・ここが額田青木氏の松井氏に関わる処」は、この所以を以て「鳥取の砂鉄の工人等」が移住しての「近江日野」と成ったとされている。
これ等に関して「資料と記録」が多く遺されていないのは、この「闇商いの所以」であったろうし、当初は「近江日野の事」と「摂津の事」とは、「室町期の中期・額田青木氏の銃」を造り上げるまでの間は「隠されたものであった事」に成る。
ところがその「日野の情報」が室町期末期直前に漏れて「薩摩等の豪族・記録」が密かに「日野の匠・工人等」に対して「引き抜き・略奪」が行われた事が記録に遺されていて、前段で論じた様に「他の日野の匠・工人等」の「青木氏部」は、この事から「出自元の伊勢松阪に大量に逃げ込んだ事」は「記録」からも判っている。
この段階で時系列から前段でも論じた様に「摂津・鉄に関しての闇製鉄と闇商い」だけにし、危険性の増した「近江」から引き上げた事に成ったのだ。
この「摂津と伊勢」だけで、「上記の所以」を以てして前段と上記する様に時系列は上記の通りであるが、その「鉄と銃の取り巻く環境」も難しいものがあったのだ。
然し、それでも続けて「難しい近代銃の試作銃に取り組んだ事」に成るのだ。
これ等の事を専門的見地から勘案すると、この「鉄鉱石」と共に、「五合金元素の鉱石に関する知識」、即ち上記した様に、「五合金元素の鉱石は「地球のプレートの変動」に伴って「日本列島」の「海底深部か地下深部の堆積鉱床」に在するものであり、これ等は従って「地球の熱や圧力の影響」で変成するが、この事で「特徴的な岩石の色・専門的知識が在れば判定できる」を示すのだ。
これらの「鉱物」、例えば、一般的な「Mn・マンガン・主に赤紫」に例えると「バラ輝石やテフロ石やハウスマン鉱石」や、変成に依って変化した「緑マンガン石」等があり「鉱石色」で判別できるのだ。
そこで「山を見る目・石を見る目・土を見る目」の「熟練した知識」があれば可能となっていたのであり、故に奈良期の古くから「紙屋院」と「繪所院」と「繪所預」の「朝廷の院号・専売権と専業権」を授かっていたのであり、その事から、「国産和紙」とそれに纏わる「墨や岩絵具開発」に携わり「青木氏部」を有していたのだ。
それと共に、これ等の「山に関する知識」は、前段で論じた通りで「山師」であり「土木師」であった「親交の深かった額田部氏との関係」で充分に補完されていたことが判る。
故に、その「基礎的な知識としては無かったと云う事」は先ずあり得ず「青木氏部としての保有」は充分に考えられる。
筆者は、「伊勢」は「院号」を有して「額田部氏との日本産の岩絵具の開発殖産」に関わっていた事は、この「全ての知識」が無ければ無し得なかった筈であると観ている。
唯、知り得ていてそれを敢えて「銃に使わなかったという事」では無かったかと考えている。
つまり、専門的に観れば上記した様に「近江鉄による銃」には「共析鋼の特徴」を充分に生かし使ったと云う事であろう。
余談だが、偶然にも筆者が先祖の血筋を引くのか専門職にあって、「施基皇子とその裔系の高倉大倉鉱山の殖産業の歴史」から始まり百々はその「銃の所以」までを調べるに至ったのだ。
他にも専門的にも関係性を幅広く調べたがここではこの程度として置く。
最後にその一つを下記に付随して論じて置く。
次に「四つ目」の「第二のタフニング」である。
これも上記の「結晶と炭素との処理・サイアナイド」とよく似ている。
要するに「炭素」の代わりに「鉄の結晶の表面に窒素を浸み込ませる処理」である。
この事で若干に「サイアナイド」とは出来る特質は違う。
上記した様に此れには全く「マルテンサイト等の結晶構造の変化・変態」は伴わない。
形成されるのは「鉄とチッソの結合体・窒化・低温処理と高温処理の二つがある」のみである。
要するに、「鉄とチッソが結合」すると、「鉄」は「窒素」に依って安定化を施され、表面に「窒化物」が形成されて上記の「サイアナイド」よりは固くは無いが、それなりの固さと柔軟性を有し極めて摩耗にも強く、衝撃にも強く、さびなく自然に対して安定している。
そもそも何よりも「銃の欠点の熱」にもその「全ての有した特性」が変化しない程に強く、「処理に必要とする加熱工程」は変わらないが、「炭素の場合の様にその「効果を導き出す」には「加熱と後処理」は働くが窒化は働かない。
より大きく採るとすれば兎も角も必要だが、其れなりの効果としてのものであれば、「窒素の場合」は全く不要と成るのだし、「窒素の特徴」は上記した「変態」を起こして「特性を導き出す」と云う事は原則的にない為に「油などの急冷却・割れと変形」は不要と成るのだ。
これで「銃が起す欠点」が克服できるのだ。
但し、ところがこの「窒素」を浸み込ます「窒素材の選択」に関わるのだ。
何故ならば、「この世に存在する窒素材」は、「備長炭の炭の炭素」の様に「自然界」では「窒素を持つ合成物質」としては、「高温熱処理に絶えられる程の物質」が少なく、「窒素そのもの」は「無害」であるが、「人工的な形成物・劇薬品・リン酸カリ」からしか得られないとする「処理欠点」があり、全ゆる生物を瞬間に殺傷する毒性を出す「シアン化窒素の様な有害物」が多い傾向にある。
この「化学物質」を上記の様に「鉄と炭素」の様に加熱するが、冷却時は「ゆっくりと冷却」すれば「炭素と同じ上記の特性・耐酸や耐熱も伴う」を出す「窒化物・安定化する」が僅かに表面の層に得られるのだ。
全ゆる物に「適用度が高い」がその反面で「リスクは非常に高く危険」である。
但し、「銃の場合」には「サイアナイド」の高温の中でもこの「窒化現象」も同時に多少なりとも起こっている事もあり得るのだ。
それは「加熱炉の土中に自然物として浸み込んだ場合」や「備長炭等に浸み込んだ窒素の加熱材の場合」で起こつている事が学問的探究で確認できている。
当時は学問的追及が出来ていずに、“あそこの土は良い味を出す”、“あそこの加熱材は良い味を出す”などの言葉で知らず知らずに使われていた事があって、その資料の表現にも出ている。
「加熱材の紀州の乳母女樫の備長炭」だけは「合言葉」の様に知られていて、その炭の効果は知られていたのだが、では、“鉄はどうであったか”は記録にもはっきりしていて、前段でも論じた「伊勢青木氏の天皇から命じられた最初の殖産」は「鉄の国内生産」であって、それを「近江」で発見したとしてその「功績」で「院号と伊勢の領地」を賜った経緯を論じたが、その当にその“「近江鉄」”が未だ「室町期」でも広く認識されていたのだ。
それ故に、「摂津での銃の試作」は都合が良かったのだ。
窒化も知らず知らずの内に加熱の過程で近江鉄の場合には起こっていた可能性がある。
さて、この「近江鉄の優れている所以」は、「六つ目の対策」にあったのだ。
それを一応解いて置く。
「炭素」に依って「銃の欠点」を補う為に基本的に「鉄を炭素で強化する」が、これも当時としては矢張り、上記の“あそこの土は良い味を出す”、“あそこの加熱材は良い味を出す”などの言葉で知らず知らずに使われていた事にあって、今では学問的には解明されているがそれは「鉄鉱石の中に含まれる不純物の鉱物」に在ったのだ。
「鉄の中に含まれる不純物の鉱物・当時の資料では」としているが、とんでも無い事で「希少合金元素」が含まれていた事なのだ。
それは、「マンガン、マグネシウム、モリブデン、タングステン、クロム」、「五大合金元素」と「部枠の銅とNi」であった。
これを含まれている「原鉱石の鉄」にあったのだ。
何れもこの「五大合金元素」は、「鉄」を全ゆる物理的強度を非常に高め強くする「不変の元素」で、何ら熱処理を加えずとも、唯単に含む事でその「全ゆる物理的特性を高める効果」を「自然に生み出す」のだ。
但し、その量に関わり多く含んでいれば良いという事では無く、多いと「逆効果と成り得る物質・量的な事は其の物質と特殊元素の関係相関図は判っている・専門的高度な知識必要」なのだ。
取り分け、その中でも「マンガン」は、その「鉄の特性効果を一番に高める」のだが、前段でも論じた「近江鉄・4鉱山の総称」には、この地質学的に「マンガンが多く含まれていた事」があって、前段でも「詳細に論じた淀川を使っての運送」と、その「近代銃の開発に好んで銃生産に使用した可能性の所以」を以て観ると理解出る。
然し、実際は使用していない様でその形跡は観られない。
現在では含有していなければ「製錬中に加えるという事・そう云う特殊鋼材もある。・マンガン鉱」をするが当時では未だそこまでは無かった。
さて、そこで因みにこの認識されていなかったと思われるこの「マンガン」では、どの様な事が「近代銃」に生まれて来るのかである。
これを現在に於いて、このマンガンの効能に於いて“いい味を出す”として翻訳して解いて置く。
結論は上記した「銃に起こる全ての欠点と成る原因対策」に成るという事だ。
これを「適時適量に加える事」で「耐高度性、耐摩耗性、耐経時性、耐衝撃性、耐腐食性、耐酸化性、耐疲労性、耐イオン性、等」の挙げればきりがない程である。
故に、「銃の製作中の鉄に加える事・自然に鉄鉱石に含まれている場合もある」で、「銃に起こる全ての欠点と成る原因対策」が「製錬中、加熱中、製作中、使用中の欠点」を防げるのだ。
「額田青木氏の近代銃」は、「近江鉄」に限定し「共析鋼」にしそれに伴う加熱過程で表面層に偶然に「サイアナイド化・炭化」を施し、時には「窒化・タフニング」が興していたと云う過程で出来きあがっていた。
此れで「銃の熱の欠点」をクリヤーしていたのだ。
現代の冶金学から観てほぼ「マンガン効果に似た現象」を起していた事に成るのだ。
注意として、最後の「耐イオン性」に付いては、専門的で理論的ある為に深く理解でき難いが、その要点だけの概要を下記に述べて置く。
それは、「上記するマンガン等の鉄に対する合金元素」に付いては、「昭和期までその特性が解明されていなかった特性であって、そもそも「戦乱期」では「解っていなかった事・何か不思議な事が起こる程度に把握」であった。
それは仮に、「鉄とマンガン」とすると、「鉄の-0.44」に対して「マンガンは-1.18」と成り、この「マンガンのイオン力」は「約4倍」にあり、その差が大きく互いに「イオン力で引き合う力が大きいと云う事」に成る。
普通は、“「約5倍程度の差」"が「物理学的に適正値」とされるが、この数字は何とか「鉄とマンガンの結合状態」には「物理的欠陥の問題」が生まれ得ない程度の範囲にあると云う事なのだ。
この世に存在する「全ての物質」は、この「イオン力・電位力」で結合し「一つの結合体」で形成されているし、この「イオン力・電位力の力」で「地球の持つイオン力・引力」とで引き合い「地球の表面に付着している事」に成るのだ。
参考として人間も同然であって、その「人の背の高さの電位力・地球から離れている距離」を持っているのだ。
この「自然の原理」に従い、故に物質には「多すぎる」と互いに「イオン力差」で弾き合い、少なすぎると「イオン力差」での「結合力が弱く分離すると云う「欠点」を生み出すのだし、この「原理の例外」はない。
従って、「鉄の結晶間中」に「炭素等の含有物」が浸透して行ってこの力で結合するので、「量と質の差」で「この力の範囲で存在する事」に成る。
そこで、過剰になれば逆に欠点が生まれる事にも成り得るのだし、この上記した様に「自然の摂理での適量値が存在する事」に成るのだ。
故に、「鉄鉱石に含まれる上記の特殊元素」も、その「地球形成時のバラツキ」で「其の産地」に依って生まれる「量と質の差」で「変化」が起こる事に成るのだ。
この“「良い味」”には高度な技術が潜んでいたのだ。
故に、この「難しい原理」に於いて当時には不解明で在ったが、「地球形成時の地質学的構造」で起こった「近江鉄」は、この段階では未だ匠にとっては、“何か良い”と云う概念だけと成っていた筈なのだ。
他にも最も影響している「イオン力差・電位力差以外」にも「物理学的な差異」はあるがここでは論外とするが、めている処は学問的な処は別としても世間と比べて相当に高度な技術であった事に成る。
そこで、前段で論じた様に、これ等の「知識」を「試行錯誤の結果の経験」から来る「超高度に克服した匠の技・青木氏部」で以て、この事が「額田青木氏の銃に対して要求されていたと云う事・超近代銃にすると根拠」なのだ。
恐らくは、故につまりこの事は前段でも論じたが、密かに「見本を入手」してから「約20年・1540年前から1560年頃・1565年南下国衆」の間に、前もってこの「超高度な銃の技・近代銃」を会得していた事に成るのだ。
それだけに世間に対して「銃の目的」が達成された時点で恣意的に躊躇なく抹消されたのであろう。
この高い殺戮具の世間への普及を技術ともども嫌ったのだがそれは「律宗族」であった事であろう。
「青木氏の伝統 71」-「青木氏の歴史観-44」に続く。P21に続く。
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「青木氏の伝統 69」-「青木氏の歴史観-42」
[No.394] Re:「青木氏の伝統 69」-「青木氏の歴史観-42」
投稿者:副管理人 投稿日:2022/02/23(Wed) 10:08:32
「青木氏の伝統 68」-「青木氏の歴史観-41」の末尾
> 前段でも論じた事だが、「額田青木氏の一族」が戦乱の世であっても「額田を抜け出す口実」として「伊勢詣を理由」に「簡単・船でも2時間・船を桑名西尾渥美の泊に出していた」に比較的に議論になせない程に簡単に「伊勢に立ち寄っている事」を考えれば、「同時、同時期、同場所、同目的」は充分に有り得て、故にその絆を史実の通りに「三方ヶ原では三者共同作戦が採り得ていた事」に成るのだ。
> 但し、「額田青木氏」は「桑名の浄橋飽波の裔系」であるので「上記した伝統の掟」により「貞」はあり得るかは疑問の遺る処であったが上記の推論が成立する事で問題は無くなるだろう。
> 唯、これも「非常時の直近での事」で成り立つ「一つの説論」であるのだが、「伊勢の総合差配が在った」とすれば、この「非常時の説論」は無くなるし、「伊勢訓練」から「三方ヶ原」とその後の「三河と駿河の殖産業」までの「約80年から100年間の良好な経緯期間」を考えれば先ず間違いは無いだろう。
> 「上記の推論」も含めてそうでなければ「前段の論」も含めて「約80年から100年」は保てない筈である。
> これは「伊勢秀郷流青木氏」の「始祖青木梵純のパターン説から興る」ものであるので、先ず間違いは無いと思うが、更に「研究中・資料発掘と読み込み中」なので深く確実に解明できれば更に「追記」で投稿する。
「青木氏の伝統 69」-「青木氏の歴史観-42」
(注釈 「二つの青木氏に影響した武田軍の時系列の詳細経緯」)
この検証の為に前段より少し話を戻す。
先ず、もう少し「武田軍の詳細経緯」を「青木貞治の行動と額田青木氏の行動」に影響している事があるのでそれに関する重要な歴史観を論じて置く。
実は、ここで「青木氏の歴史観・額田青木氏の貞秀の目と駿河青木氏の目」として注目して置かなければならない事があるのだ。
それは、「堀江城落城後」に、必ずしもこの時点で、「戦後の戦略」として「宿営地・二極化拠点」とするだけで、時系列から調べると、「堀江城の武田軍の本隊」が「三方ヶ原に来る」とはかなずしも決まって居なかったと読み解けれるのである。
先ず、例えば、何故ならば「三方ヶ原の2年後」の「長篠の戦い」でも「織田軍」は“「本陣」”を「長篠の戦場」より「別の所・4k真西・茶臼山」に置き、そこから指揮し、この「野営上の戦場」は別にした経緯の史実があるのだ。
それを研究として見ると次の様に不思議な構えに成るのだ。
そして、先ず「信長の本陣」からここより「南1k横に家康本陣」があった。
「信長の本陣・豪族館」を除いて全て本陣は「寺」であった事が解つている。
そうすると「秀吉の陣」は「信長本陣」より真北に「500mの上の所」に置いて安全を期した事に成る。
つまり、「信長本陣」を中心にして「南北に家康秀吉の二人の本陣」を構えて万が一の安全を期している。
この時、「敵方の勝頼本陣」はこの北部の「長篠の戦場」より「真北1k」に「本陣・寺」と「軍」と共に配置して「秀吉の陣」と何と「500m離れた所」に並行して置いていたのだ。
つまり、この位置より「真西4kの位置」に対峙して「信長本陣」があった事に成るのだ。
この配置は「長篠」を中心に、丁度、「辺1kの三角形の位置形状」で配置されていた事に成る。
これは「いざ徒士での開戦と成った事」を配慮しての事であるだろう。
そして、「信長」はこの「長篠の戦場」には「周囲・北と東」にかけて事前に「固定の馬廻り柵」を「くの字」にして張り巡らして、その後ろに「信長本陣」を背後にして「傭兵の雑賀の火縄銃隊」を配置して「敵の攻撃」を直接に受けない様に保護していたのだ。
つまり、敵方が「三つのどの位置」から崩しに掛かるかを観て、どの位置からでも応戦が叶う様に構えていたと云う事に成り、中央と北か東かどちらの三方からでも「銃撃戦を繰り返す事」が出来る様にしていたのだ。
ところが「勝頼の本軍の陣形」は、この「くの字」の「右上の先端部分の500m右側」に配置したのだ。
不思議な何か意味のある配置で在る。
普通なら左右、つまり「右の秀吉軍」、「左の徳川軍」を睨みながら「くの字」の「弾丸」が届かないぎりぎりの位置の「中央の1km程度離れた位置」に対峙して配置する筈である。
ところがそうでは無く北の「秀吉軍の右500m真横」に位置したのだ。
これから観ると、先ず「一つ目」は明らかに「武田勝頼方の総合軍勢・2万5千説」が少なかった事を意味する。
無勢であるが故に何か戦略的な位置とした事に成る。
「二つ目」は「信長軍の傭兵火縄銃隊3000」を恐れて逸らす位置に配置した事をも意味する.
そして、「織田軍の傭兵銃隊」に届く前に、「三つ目」は「左右の秀吉軍と徳川軍」に挟撃される可能性があった事を意味する。
この「三つのリスクの事」の事だけを考えた場合でも、この「リスクを出来るだけ下げる配置」とする必要があったと考えられた筈だ。
だとすると、「勝頼軍」は必然的に「くの字」の右上の先端に位置した「秀吉軍の真横の右上」に配置する以外には無かった筈だ。
そして実際にその様に配置したのだ。
だとすると、これでは「戦術」としては普通は「信長本陣を直接に攻撃する戦術」は採れなかった筈だ。
この配置の通り、先ず、戦略的には「直ぐ左に位置する秀吉軍」を崩して様子を見る必要があった事に成る筈である。
なぜならは、「信長軍」の前には「銃の傭兵軍団用の馬周り柵」を前に採っている。
況して「信長軍」は「くの字」に囲んで「本陣」を護っているし、そうすると「徳川軍」はその「織田軍の銃隊の前」を横切って前に出て戦う事は出来ないし,そうすると本来の「徳川軍の戦略の目的」は「織田軍の本陣を護る位置」に在った筈で、この目的は崩す事は出来ないので、先ずこの「二つの軍の配置」は崩さず「秀吉軍」を援護の為の配置するものでは無かった筈だ。
そうすると、この配置から「秀吉軍と徳川軍」が崩されても「織田信長軍」は動かなかった筈だし、「くの字の馬周り柵」が邪魔して自由に動けない位置にいた事にも成る。
それは、「雑賀族を主体としての銃隊の傭兵軍団3000の戦力」は、当時の常識では銃を兵力に換算すると10倍以上に相当すると云われ「恐ろしい戦力」と読まれていて、そう云う常識にあったので、これでも「最低3万の兵力」と成り兵力的にも「勝頼軍2万5千より未だ上」であったと計算していただろう。
「銃隊の傭兵軍団3000の戦力」が仮に破られたとしても、未だ「織田軍独自の軍」が「本陣の周り」を固めていて、これで「無傷の勝頼軍」としても勝負は決まらないだろうし、現実にはその前に「銃隊」に叩かれていて戦える状況では無かった事に成り得る。
仮に「秀吉軍」が真横から攻められて敗退としても「徳川軍」が「1k左」から前面に出て来て既に「傷ついた勝頼軍」と対峙する事に成る。
故に、飽く迄も「信長軍全体の配置を崩す事」は始めからしなかった筈であるは出来なかった事に成る。
要するに、「勝頼軍の戦術」は「織田側の三軍」に対して「確個不抜の攻撃」を仕掛けるべきであったし、其れしかなかった筈だ。
当に上記の「長篠の戦い」では「織田方の三軍」はこの「三方ヶ原の武田軍略」を先取りして「二つの拠点造りの戦略」を採ったと云う事に成るのだ。
要するに、「信長」はこの陣形配置を考えた場合に「信玄の三方ヶ原の戦い」を参考にしたと観ているのだ。
それに「傭兵軍団の雑賀族根来族を主体としての銃隊の傭兵軍団3000の戦力」を本陣が攻撃されない為にもその直前で「圧倒的な戦力向上を目的」として利用して「殲滅作戦を採ったと云う事」に成るのだ。
これは「直前の父の戦略」を事前に理解せずに無視して戦ってしまったと云う事に成る。
あまり「将としての器では先ず無かった事」に成り、要するに戦う前に負けていたのである。
だから余談だが、史実に遺されている様に、“武田方の指揮官達は戦いの前に分かれの宴を躱した”とする史実が遺されているのだ。
唯、何故に「くの字の先端に位置した秀吉軍」の直ぐ「横500mの位置」に位置したかと云う疑問が残る。
此れには上記の位置にいた「苦しい勝頼軍の唯一の勝つ為の唯一つの秘策・信長軍の配置の欠点」が観える。
前段でも論じたが、二つの郷土に遺る逸話を元にした「郷土史の記録」には次の二つの資料が遺されている。
一つは、「信長本陣の館壁」に銃弾痕が無数あったとする事と、「雑賀族の銃隊」の後にも“酷く潰れた弾丸”が"多く畑に遺っていたとしている事である。
そこの処を掘ると、集中して一か所周囲に多数に遺されて出て来た事の記録である。
これは「史実である事」が後の研究で証明されている。
この事は見逃す事の出来ない重要な事である。
これは「通説」と成っている「騎馬隊が先頭切って突っ込んだとする説」を覆す事であり、この事が興るという事は、先ず先頭切ったのは「勝頼軍の数少ない銃隊・200の守備隊説」が「3列」に整列して突っ込んで来た証拠であり、それが「信長本陣の館300m程度・弾丸の飛距離」まで「馬周り柵の北側の右柵・秀吉の陣の際」を破って接近していた証拠と成り、且つ、その後、「信長の傭兵軍団の銃隊」の中の「くの字の右側」から侵入して来た事に成る。
つまり一時的に、この「くの字」の「北外側の右柵が破られていた事」。つまりこれは{秀吉軍と北側柵の間」に成り、それが当に「真西」にある「信長本陣の置いていて館」の近くまで侵入していた事を「壁の弾丸跡」が物語っているのだ。
つまり、「勝頼軍の銃隊による守備隊の決死隊が編成された事」を意味し、これが全滅した事に成り、「戦い」の後を農民などが戦場を整理して兵を軍別に分けて葬った事の記録が遺されているのでこれはそれを纏めたもので史実である。
この時の「記録・1万2千・銃による戦死」から「勝頼の武田全軍の7割近く・2万5千比」が戦死していた事に成り一致する。
但し、「双方の祐筆が遺した公表している戦記」からの数字とは合わないが、当然に何れも極端に少な目であるが、「長篠の戦い後の勝頼逃避行の記録の数」は脱落者や死人や掃討作戦での犠牲者から最後の村に到達したのは「当初200人で最終は100・数人の説もある」にもなら成らない数に成っていたとされている。
その戦場の総合墓地と逃避中の墓所も発見されている。
この時の「農民の口伝」を下に江戸期に入り「数人の郷土史研究家」が取り纏めた資料の書籍が遺されている。
その解説に依れば、その遺された「多くの弾丸の潰れ方・平坦に潰れていた」から「流れ弾」では無く何か固いものに当たっていた事に成る。
「郷土史の説」に依れば暫くは畑から弾丸以外にも「戦歴を物語る物」が出土していたらしい。
つまり、それらの事を読み込むと、一時には「右側の柵に完全に柵の中に入り込んでいた事」に成り、「数は少ないがその弾丸」の「潰れ方」から「銃などの鉄製」に当たっていた事に成るとしているのだ。
「戦場での潰れ方}ではそういう事に成る。
この考察から、上記の陣形から「戦法」に行き詰まり「決死隊」を「勝頼の守備隊の銃隊」で編成した事を意味する。
そしてこの「銃隊」のちょっとしたチャンスを生かそうとして全軍を突破作戦に無理に切り替えた事に成るだろう。
恐らくは、勝頼軍は「信長軍の馬周り柵の中の様子・銃隊の実際の数や三段構えの戦法態勢」が実際に掴めていなかったのだと考えられる。
通常は「武田軍の隠密等」も探っていた筈で「通説」とは違って「信長」はこれらを当初から敢えて「何らかの方法・戦記には車に蓑の表現が出て来る」ので隠していた可能性がある。
「勝頼の陣」からはこの「信長本陣」は、丁度小高い丘を影にしていた事から詳細が観えず、この「勝頼の決死隊の功績」で銃隊の勢力を低く見たのでは無いかと予想できる。
つまり、これはこの「隠していた状態」の時に「決死隊」が比較的に簡単に「右の柵・秀吉軍の左際」に沿って突っ込んで来たと云う経緯と成ろう。
そこで「信長のくの字の馬周り柵を伴った陣形」の「最大の弱点」は「右側のくの字の縁」に沿って「直線的に走れば「信長本陣館」に到達する。
これが「弱点」であるからこそ「くの字」の真ん中では無く、この「右にある秀吉軍」に対して「勝頼本陣」を極めて接近させて「即応態勢」で防ごうとしていた事に成る。
その「弱点」を「勝頼本陣に直接所属していた守備隊」を「決死隊の銃隊」に仕立てて先ず先陣を切らせて攻めさせたと云う事であろう。
これが「信長本陣」の近くまで到達した事を観て、この「くの字の弱点」を確信して「赤兜6000騎馬隊」を次に突破させようと突進させたのであろう事が「郷土史の後の経緯研究史」でも判る。
ところが、そうするとこれに「本来の配置の役目」を持つ「秀吉軍」は阻止する為の即応が出来なかった事の史実と成り得る。
これは何故かである。
それは「勝頼軍の本陣」そのものが「くの字の右際に沿って直線的に移動するとこの「くの字の戦棚」に沿って陣を敷いていた“「秀吉軍」にはどの様な事が興るか”である。
「勝頼軍の本陣」が「秀吉軍の正面に向かって攻めて来る」と開戦前の当初は観ていたが、それが「くの字の隙間」に沿って「200の突撃隊の銃隊」が先ず突っ込み、次に「赤兜6000騎馬隊」が「猛スピードで走った事」で「秀吉軍は軍の向きを柵側の南に変えられず、且つ、仮に攻めたとすると、この行動は「くの字」の「馬周り柵内の傭兵軍団の銃隊の陣形」を壊す結果と成り、右横から向きを変えて秀吉軍に攻められた「赤兜の騎馬隊」が左横に逸れる事で「戦域幅」が広く開き、その事で「くの字の馬周り柵」は壊れ、この結果として「信長本陣の館」は危なく成り、却って「勝頼の赤兜6000騎馬隊の目的に利する事」と成る筈であった。
そして、下手をすると「勝頼軍の4軍の徒士軍」が正面から「秀吉軍」に向かって決戦を仕掛けて来る事と成ると、「秀吉軍」は南側と東の正面側から攻められて壊滅する事に成る。
だから「秀吉軍」は敢えて「史実」は動かなかったのだ。
ところが、ここで「幾つかの史実」を組み合わせると、このタイミングでここで「思わぬ事態が興った事」に成るのだ。
それは「くの字の内側右側」にいた「馬周り柵の傭兵軍団の銃隊」は「赤兜の騎馬隊」の余りの早さの攻撃に態勢が崩れそうに成った。
然り乍らも、これを盛り返し再び「銃弾幕の激しい銃撃」を開始し始めた事に成る。
問題はここに在るのだ。
そこで、「200の銃の突撃隊」で「くの字の北側」を崩して進入路を造った後に、「山型陣形の赤兜の騎馬隊」は、「郷土史の研究記録」などの記録・弾丸と死傷者の集中位置等」から観て、「くの字の馬周り柵」の真ん中より内側の中心よりに押し出して進軍していた事に成りる。
それが、つまり、一時、「くの字の北側」が崩れてその「傭兵軍団の銃隊の立て直し」がその後何とか出来て、その間に「傭兵軍団の北側の銃隊」に犠牲を負っていたのだ。
つまり、この事はその北側に犠牲を負っている「傭兵軍団の味方の銃隊」が未だ居る中に向かって何と「くの字の中心と南」に位置していた「傭兵軍団の射撃」が止む無く突然に開始したのだ。
つまり、「味方の銃隊」が「味方のいる北側}を射撃した事に成るのだ。
当然に「味方の犠牲者」は出るがそうでなければ「くの字の中は総崩れ」になるところであった。
これは同時に「信長本陣」も危なかった事を意味する。
この結果として、これで「山型陣形の赤兜の騎馬隊の先頭」が「くの字の内側横・中心側に広がる結果」と成って仕舞ったのだ。
つまり、この時、敵味方の双方に多数の犠牲を負う事と成ったのだ。
然し、この時、傭兵軍団の銃隊に異変が起こったのだ。
それは織田軍側は「傭兵軍団」だという事だ。
そして織田軍と秀吉軍はこれを救わなかったという事だ。
この二つを合わせれば何が起こったかは判る筈である。
然し、傭兵軍団はこの戦場ではg:yを伴う為に織田軍に対して態度を露わにしなかったのだ。
その頃より、結果として今度は中心より「左のくの字」の「傭兵軍団の銃隊の弾幕の範疇」に入り一時途絶えた弾幕は再び開始された結果、「山型陣形の赤兜の騎馬隊の陣形」が史実の通りに「総崩れ」と成ったのだ。
これを救おうとして「山県軍の徒士軍団4軍」が「くの字の右内側横」に押し出した結果と成って仕舞ったのだ。
「郷土史の研究記録」の「弾丸や死傷者の位置等」から余り犠牲者が出る筈のない「傭兵軍団の右横の銃隊」にも多く犠牲者が出た戦歴と成っていて多く弾丸が残るのは、この経過を物語っているのだ。
結局は、「傭兵軍団のくの字の左横の銃隊」の横からの態勢を整え直した「三段攻撃の総攻撃」を受けて「赤兜の騎馬隊」のみならず「4軍の徒士軍団」も「全滅・1万2千」した事の史実の経緯が「郷土史の研究記録」からも裏付けられて判るのだ。
この様に「勝頼の本陣の位置・秀吉軍の左500mの配置」は「織田軍とその三つの軍」と「馬周りの柵」とその兵力から、その弱点と成るこの位置を採った事が判り、当初よりその「弱点」を突く戦略で在った事に成る。
そして、それを証明する為の「200の銃隊による決死隊・本来の勝頼の守備隊」を敢えて前面に出して崩す配置をした事が判る。
そして、「4軍の家臣団」の全てから「反対・記録」を受けながらも強引に「勝頼の独断」でこの「少数の銃隊・勝頼の守備隊」で「突撃させてしまった事・それなりの戦功はあった」に成る。
要するに、この勝頼は「三方ヶ原の二極拠点化」の「六稲三略から来る常套戦術」を参考にせず「弱点攻撃」に切り替えた事にし、護らなかったのだ。
然し、現実はこれしかなかったのでは無いかと考えられる。
要はその成否の境は、「くの字の馬周り柵」に沿って配置された「傭兵軍団のくの字の北側の味方」を「自らの銃で撃ってしまう」と云う耐え難き悲惨な事の「判断の差」で事は決まったと云う事に成る。
史実はこの悲惨な代償に信長は全く応えなかったのだ。それどころか戦い後直ちに「傭兵軍だの攻撃」を開始したのだ。
故に筆者は勝頼の戦略にはこの「非」は通説と違い無かったと観ている。
然し、これに従えばより良くするには「勝頼」は先ず「秀吉軍の拠点」を打破して「くの字の弱点」を先ず抑えて「二拠点化」にして有利にし、其の上で「くの字が崩れた信長軍」の「次の出方」を先ず観るべきであったのだ。
「信長軍の全軍」はそもそも「傭兵軍の銃隊」が「命綱」である以上は「くの字の陣形」を崩せなかった筈であり、この「信長の採った二拠点化」は痛手で在った筈である。
ここで、注釈として後に事件が興ったのだ。
この「見方が味方を撃つと云う事・助けを出さなかった事」が原因で長篠後に紀州征伐が起こり「信長と犬猿の仲」に成る。
この機微を勝頼は戦場で見抜けなかったという事に成る。
この「銃隊による決死隊・勝頼の守備隊の突撃」で「くの字の外側の右側」が現実に崩されたが、この時、「秀吉軍と織田本軍と徳川軍」はこれを救わずに記録では黙って観ていたのだ。
この時、「主に雑賀傭兵軍団の銃隊」は崩れながらも「自らの力」で「態勢」を立て直し、味方のいる右に銃口を向け直して何とか「応戦態勢」を採り始め、結果として“「味方1200の犠牲・傭兵軍団の半分の犠牲の史実」”を出しながらも盛り返した。
そして、この状況を観て「くの字の南側・左側の銃隊」は弾幕を張って柵から出て自らの力で犠牲を出しながらも味方を救助し開始した。
最早、「長篠の郷土史の伝説」では、この時は「軍団の銃隊の指揮官」は「織田氏の指揮官」に従わず自らの身内を護る為に「雑賀族が指揮を執った」とある。
そして「長篠の戦い後」に、「この事」が元で「雑賀族と信長―秀吉」とは逆に「犬猿の仲」に成って、「銃隊の傭兵軍団」は「信長」に一切味方する事は無かった。
前段でも論じたが、「長篠の戦いの戦後始末後」に、[信長―秀吉軍団」は史実として「大紀州征伐」を長期間で実行し「雑賀・根来傭兵軍団」は「分断」される始末と成り瓦解に到るのだ。
前段で論じたが、改めて「信長の軍」は、この時、「雑賀族三軍団の征伐・鈴木氏族・根来族・土橋族」に矢張り「銃の軍団」に大失敗し、大阪に一時逃げ帰ると云う経緯と成っていて、そこで「信長」はこの「雑賀族三軍団」に対して「調略作戦」を開始したのだ。
「紀州の紀の川」の川を挟んで「北側の土橋氏族」に「調略」を仕掛けて成功するが、「鈴木氏族」は譲らず続けられていた戦いに応戦した。
そして「根来氏族」に対しては、「秀吉に歴史」に大きく残る「焼き払い殲滅作戦」で一族を焼死で殲滅させたのだ。そして「伊勢青木氏」に逃げ込んできて匿う事が興ったのだ。
「孤立した雑賀氏族」は、飽く迄「戦い」ながら子孫を遺す為に「三つの裔系・鈴木氏本家と分家の鈴木氏の雑賀氏と土橋氏との血縁族」に分けて戦う事に成った。
「現海南藤白地域・鈴木氏発祥の地」に在した「鈴木氏本家族」はその支流末裔が存在していた「紀伊山脈の山の中」に「山族」として逃げ込み、「平家の生き残りの龍神族と十津川族」と組んで「織田軍」に「銃のゲリラ戦」で対抗したのだ。
「分家鈴木氏の雑賀族・現雑賀地域」は、「紀の川の南側」の平地でゲリラ戦で死守して譲らなかったのだ。
後に少数でも強い敵に立ち向かう者を「紀州惣国者」と呼ばれた。
信長調略に応じた「土橋の血縁族」は、「一族内・川南との」に内乱が興り、最終は「川北の土橋族」が信長に着いたのだ。
この状況の中で「土橋族の持つ銃を獲得した事」を下にして「秀吉の第二次紀州征伐」が興り、「ゲリラ戦・紀伊山脈の山と紀の川南側の聖地のゲリラ戦の二つ」が続いて起こったが、他の「南紀の紀州土豪達・青木氏の旧領地の家人や氏人」に対して、「子孫存続の為に伊勢青木氏説得」もあって仕方なく「秀吉側」に靡いて一応は平定された。
この後にこの状態で「秀吉の刀狩り」が興り、「彼等が保有していた多数の銃」は。「三つの生産地」も含めて「秀吉の手中・支配下」に入って「秀吉軍」はこれが下で銃を獲得し急速に強く成ったのだ。
この時、合わせてこの「秀吉の奪い取った銃」での「兵力」を高めない様に「伊勢青木氏」は「摂津で管理していた近江の生産地」を即座に廃止し、この「銃工人等」を「伊勢」に呼び寄せて「青木氏部」に入れて保護したのだ。
一部に従わなかった者等がいて「薩摩と秀吉」に密かに吸収されたとある。
この時、これを「薄々見破った秀吉」に「伊勢の蔵を焼かれる事」が興ったが「伊賀」がこれを「ゲリラ戦」で撃退し阻止したが、この様に「雑賀事件の影響を受けた経緯」を持っているのだ。
この時、この「雑賀域・鉄の生産地・現住友金属」に「伊勢の出店・伊勢屋を持った事・現地との調整する連絡事務所」が史実として判っている。
そして江戸期に入ったが、「本家の鈴木族と分家の鈴木族」は「紀州藩の銃を持つ雑賀忍者集団として組する事・歴史的に有名な史実が多く遺る」と成ったのだ。
この事件発生から歴史観を観ると、結局は「くの字の南側に位置した徳川軍・紀州藩」が恨まれずに得をし、「大量の銃と雑賀忍者・元平家族と融合」を得た事に成る。
後々、「伊賀忍者の紀州藩、甲賀忍者の徳川氏等」とその路で競り合うのだ。
「長篠の戦い」には、「三方ヶ原の戦術」により関連する掘り起こせる史実があったのだ。
この様に「今川義元・武田信玄以降の戦術」に習って「歴史上の本陣」を決して「実際上の戦場」には置かつたのであり、「1里・4kから4里・16k」の「位置・当時の活動圏」に配置するのが「当時の歴史的な常道戦術」であったのだ。
つまり、要するに「秀吉の本陣の配置」がいざという時のキーに成っていた事に成る。
「敵方の勝頼本陣」が動けば「秀吉の本陣の配置」で側面を突いて牽制する戦術で在った事に成る。
「固定の馬廻り柵」を攻撃してくる前に「秀吉の本陣軍で攻撃して崩すと考えていた事に成る。
「南1k横に在った家康本陣」は、「信長本陣」とそれを背後にした「傭兵の雑賀の火縄銃隊」が崩されそうに成った時に「勝頼の武田軍本隊の左側面」を突いて攻撃して救うと云う配置形態に在っていた事が判る。
現実には上記の通り「勝頼」は「弱点を見つけた事・銃による守備隊による決死隊で実証」で上記した様にこの様に成らなかったのだし、これが下で「銃の傭兵軍団の雑賀族との事件」に発展して行ったのだし、「伊勢にも影響が出て来る事」に成ったのだ。
「額田青木氏等が関わった三方ヶ原」はその「直前の出来事・2年」であった。
さて、「二拠点化の論の検証」に戻して、其れもが何とか「額田青木氏の新型銃の長距離銃」と違って「火縄銃の銃弾」が本陣から届くと云う「命中率低い・流れ弾程度の距離の500m」の位置に「敵方の勝頼本陣」が存在すると云う事は動けば撃つと云う態勢にあった。
況して「くの字の陣形」を採る織田全軍の配置形態に対して、然し、この常套手段を無視したのだ。
況してや、「馬回り柵の3000の銃隊」に対峙するには無視も良い処で子供でも判る攻撃でもあるのにだ。
ところが、「長篠の戦いの場合」もほぼ同じ配置形態に在り乍らも、「勝頼の銃隊200の守備隊」と共に「武田本軍の赤兜騎馬隊6000」で、先ず「秀吉軍」と「馬周り柵」の間を「側面突破」して直線的に「信長本陣を目指す」と云う「戦術上・六稲三略」ではそんな状況では無かった筈であったが、処がその是非は別として「考えられない行動」を執ったのだ。
「戦う」とすれば「基本の戦術」は先ず「秀吉軍と戦うと云う事」に成るだろう。
何故ならば、誰でも判る事だが「信長の本軍」は自分から先に仕掛ける構えではなく待つ構えであった。
そもそも「銃隊」を前に置いて、且つ、「馬回り柵」で前を「くの字」で囲んでいる以上はそもそも「徒士の本隊」を戦う為には前に出す事は出来ない。
例え「秀吉軍」が突かれ敗退したとしてもこの戦形は物理的に崩せない。
否、崩してまで出る事は100%出来なかった事は自明の理であったしその意思は信長には無かったと云える。
だとすると、この「陣形」から観ると「上記の突破作戦しかない事」に成る。
現実に「くの字の北側・右側・秀吉軍の南側面と馬周り柵の間」は崩されているのだ。
ここで様子を見る事が信長がどの様に出るか待つ必要であったと後勘では観える。
それは、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」に異変か起こっていたのだ。
勝頼もその「異変」を感じていた筈である。
「勝頼軍の突撃」で現実に「北側馬周り柵」が崩れた。
この「総崩れ」になりかけている「くの字の態勢」を護ろうとして、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」は「味方のいる混乱した柵側」に向かって何とか救い出そうとして射撃を開始し始めたのだ。
この為に「味方1200の/3000の味方」を犠牲にしたのだ。
そして「秀吉軍」は救出しなかったのだ。
これが現実に起こったのシナリオだ。
この時、「郷土に残り続けた逸話」では、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」は「信長と秀吉に対しての怒り」を示したのだ。
現実に紀州では伝説としても「信長と秀吉に対しての怒り」の通りに人気は良くないのだ。
この「長篠の戦い」は結果として半日で決着が着いたが、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」は「信長に対しての怒り」を表す為に“「紀州」に向かって直ぐに引き上げて仕舞った”と伝わっているのだ。
この「逸話」が真実だとすると、「勝頼軍の徒士隊4軍」は“一時様子を見る事が必要では無かったか”と云う考えが生まれる。
つまり、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」は「銃先」を信長又は秀吉軍に向けた可能性があったし、「戦線離脱」していた可能性もあり得た。
筆者は、見方が味方を撃つと云う異変のこれだけの事が興れば戦場と云えど普通では無く何かこの時に「異変」が戦場に起こっていたのでは無いかと観ていてこれを敢えて捉えなかったのではないかと観ている。
そしてそれが家臣団の信頼を失うきっかけと成ったのであろう。
これを利用すれば「万が一の勝ち目」が武田側に傾くのだし、それだけの意味のある事件であったのだ。
何故ならは、彼等は「武田軍に対して敵への怒り」は元より無かった筈で、要は「傭兵軍団」であったのだ。
この様に、世情はこの様に「見殺しされるという事」は傭兵軍団に執っては今後も信長の元では次も同じ破目に成り得る。
現実に、その証拠にこれが下で間一髪を置かずして「長篠後」に「歴史に遺る残虐極めた紀州攻め」が実行されているのだ。
「郷土の逸話」の通りに、史実の「間一髪」を考えれば、何もなくしてはいきなりに「紀州攻め」は無いだろう。
確かに、信長の「銃への恐怖」と「自らも銃を持ちたい」とすれど、「史実の間一髪」は無いだろうし、そもそも世間に対して「戦う大儀」が成り立たない。
そもそも「銃」は「市場制」の中に無く飽く迄も「傭兵制」の中にあって銃のシンジケートを形成していたのだ。
後は密かに影ルートで入手する以外には無く必然的に数は護身用程度で数丁単位で在って戦用と云う事には成らず、飽く迄も銃組織のシンジケートを形成していたのだ。
この中の中心に青木氏族は摂津を介して存在していたのだ・
これは「銃」に限らず「砂鉄の玉鋼」そのものがこの範疇にあって、そもそも「商用」と成ったのは「江戸初期の摂津と大阪」であってそれでも寡占であったのだ。
それ故に、この「雑賀根来族のシンジケート」は独立性が強く、そもそも「紀州人」は穏やかな処に根に元来「古来より惣国者」としての気質を持っていたのだ。
故に、この「異変」にはこれには「味方1200の/3000の味方を犠牲」に対して戦場で「銃先を変える可能性」だけの「相当な怒り」が在った事が云えるのだ。
観ていれば戦い中のこれだけの状況では「異変」を読み取れていた筈だ。
筆者は、異変の間隔を待つべきであったとし、利用するべきで在ったし、然し、現実は待つ事は無かったのだが、これが「勝頼軍の徒士隊4軍」の歴史に遺る「家臣の信頼を失った・死の宴とする原因」に成ったのであろうと考察する。
「勝頼軍の徒士隊4軍」の突撃は待つべきで在ったと観ている。
通説の“勝頼は冷静さを失っていたの説”にこの意味では合意する。
「長篠の戦い・陣形論の経緯」と、その「青木氏・伊勢と駿河」までに及んだ「結末論」を例えとして論じたが、そこで再び「拠点化の論」に戻す。
その意味で「三方ヶ原の信玄軍本隊」は「戦術の基本に沿っていたと云う事」に成るのであって「三方ヶ原で決戦すると云う考え」を持っていた訳では無く、そもそも「戦い」は元々自在変化するがそれにしても「三方ヶ原」を「軍の拠点とする事」は無かった事が判るのだ。
飽く迄も、「三方ヶ原を起点・補給拠点」にして、「堀江城、二俣城の二拠点化」とし、その「敵方の浜松城」はこの「戦略の範囲内」にあったのだ。
もっと云えば、「家臣の犠牲」の下で早々の体で逃げ帰った「一言坂の野戦の敗戦・本陣は戦場」としたのも、考えれば、元からこの「範囲内・浜松城より真東11k・二俣城から南16k3里から4里内・浜松城は南向きの三角形の頂点」に置かれていた事からなのだ。
依って「一言坂や三方ヶ原」にしても、この辺では戦略上の位置に置かれてるにも拘わらず「戦い」を無駄に仕掛けた「元々の松平軍の戦略の低さ・家康」が見えていたのだ。
況して勝てる見込みのない「狭い一言坂の野戦・時間稼ぎ家康説もある・江戸期の後付け」の「戦い」を仕掛けた理由も凡はその処は判る。
更に、「三方ヶ原」に於いても「額田青木氏と駿河青木氏」が合力と参戦しているこの「松平側」に「戦略の低さ」が目立ったのだ。
上記した様に「雑賀根来の傭兵軍団の憂き目」と同じ憂き目を「額田青木氏」にも「指揮官の戦略の低さ」から巻き込まれる可能性があったのだが何れにしてもその心もとなさが目立つものであった事に成る。
それが「浜松城軍議の命令拒絶」で「牛族を左右する憂き目」を免れたのだ。
後勘から観れば「長篠の傭兵軍団と同じ流れ」を踏んでいた事に成る。
この「活動圏の範囲」と「陣形の向き・北向き」に依って「陣形」を選ぶのが「戦いの常道」なのであったが、其れを「松平軍」は、何と「南向きの三角形の頂点・自分の城に対しての左向き」で“「西向き」”に執ったのだ。
本来では「浜松城」を背景に「北向きに採るのが常道」であった。
然し、これであれば松平側に執って「長期戦と成った時の補給路を断たれる事」は始めから判っていたのだ。
これを「武田軍側」から観れば、その「補給路」は「二俣城と堀江城」にあって困らないが、速くに「浜松城を攻め落とすと云う点」からは「今後の戦略上」では「最終補給拠点」の「三方ヶ原」は早期に是非に必要であった事に成るが、然し、その意味ではこの「陣形」では都合が良かった事に成る。
「浜松城落城後の西三河攻め」にしても、この「三方ヶ原」はその「補給中継点」としては絶好にいい位置にあったのだし、その為には「補給拠点・三方ヶ原」の近い「堀江城」は「西三河攻めの指揮の拠点の本陣」とする戦略でもあったのだ。
其れは、同時に既に、「3っの別動隊」に依って「背後の北三河」もほぼ手中に収めていたが、それは「足利将軍の信長征伐命」で「西」で引き付けられて苦戦している「織田軍の動向」にもあった。
つまり、この「織田氏の西の戦い」が解決する前に「本陣と補給点」を前提にして先に「東に拠点を構えて置く必要」が「武田軍側の戦略」にはあったのだ。
では、この「不思議な陣形を採った松平軍」は、これに対して薄々の「武田軍のこの行動」を読めていた「家康」は、これをさせまいとして「一言坂の野戦を仕掛ける事」で「武田軍の進軍」を留めて「軍監の織田軍の意思」を入れた“「時間稼ぎの行動」を示す事”で、つまり、「時間稼ぎ」を主張する「軍目付・軍監の圧力」の「賛同」が得られる様に敢えてしてしまった為に、その様に「陣構え」を「山県軍の別動隊の動向」も在りながらも、敢えて北向きでは無く、“「西向き」”にしたと読み取れる事にも成るのだ。
この「西向き」は、「山県軍の別動隊・二俣城の行動の情報から」を「補給実戦隊」と家康等は軽く見ていて計算に入れていなかった事にも成る。
これを計算に入れていれば、この「陣形」は「浜松城を背にして北向き」にする筈であった。
これであれば「武田軍の本隊」のみならず「山県軍の別動隊の動向」も「空の浜松城」をも「戦いの中」に組み込める事と成る。
そもそも、「織田軍」が「援軍」を廻そうとすれば、「都田川の姫街道・8k-2h」を通過しなければならない訳であるから、その「三方ヶ原」の前に織田軍は「堀江城の武田軍の本隊」と「側面」を突かれて決戦をしなければ成らないし、又、下手をすれば「山県軍の別動隊の動向」に「正面を突かれる事」もあり得て、更には「山県軍の別動隊の動向」で「松平軍」は浜松城から出て「織田軍に合力すれる事」にも成れば、「山県軍の別動隊」に「浜松城を取られる事」もあり、「浜松城を出る事」は絶対に戦略上は出来なかった筈である。
従って、史実の通りに「織田軍の援軍」はあり得ないのであるし、無理に「浜松城の援軍」に向かえば「北三河」が落とされている現状では、北から「織田軍の左横腹」を突かれて進む事に成る等で現実は出来ないのだ。
つまり、この「自明の理の戦略状況」から元より「織田軍の援軍説は無かった事」に成り、当初より「信長」は「軍目付・軍監」だけで「南三河と西駿河の事」は治めて「時間稼ぎ」をする「目論み」であった事に成る。
其れも「織田軍」の「浜松城援軍の時間稼ぎ説」では無く、「織田軍」の為の「西三河攻めの時間稼ぎ説・昔からの領地続き争いの西三河」であった筈である。
つまり、これは「家康の思考」の中には「織田氏の援軍は無いもの」として、然る事乍ら、最早、余りにも「西三河」に「視点が行っていたと云う事」であるのだ。
その結果として「額田青木氏」が無理に呼び寄せられた「浜松城軍議で妥協案が出た事」から、これを読み切る事が出来なかった「美濃守備軍の平手軍・汎秀戦死」は、「信長の命に反して合力する事」と成って「平手一族」に対して「信長から強い叱責を受ける事の始末」と成ったのだ。
この「筆者」、即ち「額田青木氏の指揮官の考え」の「経緯の分析説・陣形の分析説」から観ると、故に「武田軍本隊と別動隊の大軍」も「北の三方ヶ原・補給拠点」にして、上記の「二拠点化戦術の常道手段」の通り「浜松城を陣取る事」にして構える事に成っていた筈であると説いている。
唯、確かにここを「本陣とする説」も考えられるが、地理的や地形的に「遠江の入り口の堀江城」を超えて「中に入らせる戦略」は常道ではないし、そもそもそうであった場合は「堀江城攻めは無駄に成る事」に成り、その意味が無くなるだろう。
そもそも既に、「浜松城の周囲全域の出城」を落とされていていれば、自然と「補給路を断たれ事で「浜松城は落ちる事」は「時間の問題」であって、「攻め落とした西駿河の安定の補給路」と「北三河攻めの補給路」を「三方ヶ原」に「大規模な補給拠点を造る事」さえ出来れば「総西攻めの為」にも「無駄な戦い」はしないであろう。
後は、「孤立した松平軍」に執っては密かに「海からの補給支援・南」に頼るしか無くなるのだ。
当然に「信長」も同然にこれを救う「強い水軍も持っていなかった事」の為に「充分な補給路の無い所」に「援軍を出す事は自らの首を絞めるだけ」で当初よりその「心算」は無かったのだ。
注釈として、前段でも論じたが、故に記録にある様に、この時、「伊勢水軍・伊勢衆は調略を受けなかった」が一部の小さい「尾張衆の知多衆」だけは受けたのであり、それと「熊野水軍・調略を受けた」に「調略」を掛けて来たのだ。そして最終は「熊野水軍」は調略に乗ったのだ。
此れには一つ問題があって、当時の水軍にはその「厳しい縄張りの掟」があって果たしてこれを破ってまでも浜松沖まで行くかは不可能な問題であった。
それは他の水軍から掟を破った事で「総攻め」を受ける事に成る。
背後から「伊勢水軍など軍団」から突かれればそれこそ戦わずして壊滅で憂き目を受ける。
何故ならば出過ぎた「熊野水軍の補給路」を接水運組合ので前段で断てばよいだけである。
通説が解いている「熊野水軍説」は100%あり得ず、又その勢力からも「紀伊水軍」や最大勢力を誇っていた「摂津水軍」の「組合連合軍を敵に廻す事」は不可能であった筈である。
当時は「堺に事務所を置いていた水軍組合」は一熊野地方の熊野水軍が幅を利かせる程では無く「絶大な権力とその勢力」を持っていた史実があるのだ。
従って、「熊野水軍の利用」は「信長のデスチャー」で現実的では無かったのだ。
さて、だからところが、「武田軍」には山国であった為に「陸揚げ」を遮るだけで「海での水軍・最大の欠点」は無かったのだが、そもそも“海で戦うその必要性は無かった”のだ。
結局はこの「水軍説」を根拠としている「熊野水軍説の通説」は合わないのだ。
さて、ここで「伊勢水軍の保護」の下で「摂津の水軍組合の一員」と成ったとする「本論」の「駿河水軍の青木貞治」の「キーポイント論」が出て来るのだ。
「駿河水軍の主」として育った「二俣城の副将の青木貞治の存在」は松平軍が求める「海からの支援・南」に執って“最大の重要ポイントの役目”であったのだ。
だとすると、「松平軍」には「駿河水軍の青木貞治の存在」は、「戦略上」では極め大きかった筈であるが、ところが「旗本の羨望」で実際上は「二俣城の副将の扱い」まででそれ以上の「その正統な扱い」を受けていなかった事なのだ。
「副将の青木貞治の存在」のそのものでは無く、その「異様な影の背景・旗本」はこれを敢えて認めようとしなかった事」にあったのだ。
そもそ、海から最も遠い「二俣城」に追い込めていたのだし作戦上からどう考えても変である。
史実の判っている後勘から考えても「軍としての指揮官の能力」を疑っていただろうし、駿河青木氏の貞治は当然の事として、「額田青木氏の指揮官の貞秀」から観ても大きな疑問を持っていただろう。
当然に、この「三河旗本羨望」とも成っていた「背景の一つ目」には、「青木貞治」に繋がる「額田青木氏の南下国衆の銃隊・伊勢の裔系」にもあった。
更に「背景の二つ目」には、「伊勢青木氏の財力」とその「伊勢シンジケート」と「伊勢水軍」は「海からの支援・南」を可能に成ら占めるにもあったし、その「実質の武力行使」では「秀郷流一門の抑止力の存在」が厳然とあった。
次の「背景の三つ目」には、「海」では「青木氏族」として「東は伊豆相模」まで「西は摂津瀬戸」に繋がっているのだ。
この総合力があったとして、この「三つの背景を実現させしめる手段・イ」は次の様に成っていただろう。
その「手段・イ」が果たして可能ならしめるのか検証して観る。
先ず、地形的には「馬込川・最狭川幅60m」より入り北に船で8k遡上し、そこで、陸路の真西に「六間通り」を1.5k経て真っすぐに「浜松城」に入れる。
故に地形的には「補給路」として充分に可能であった。
然し、ところがこの「三方を囲まれている場合」のこれを「可能ならしめる警備・武力」に付いての事も「松平側」には全くなかったのだ。
「武田氏」はこれを抑えれば「補給路の断絶」は可能となるし、奪取する事も容易に可能であった。
ところが、こんなに「重要な事」なのに「商記録」や「資料」や「手紙の行」や脚色編集されていると云えども「三河記録」にも、全くこの事に付いての影も形もが触れている処が全く無く、且つ、そもそも資料記録が遺されていないのだ。
間違いなく、「青木貞治の手」で駿河水軍・伊勢水軍の支援」を使ってこの「補給路作戦、又は計画」を実行していた筈である。
それは「東からの秀郷流一門からの補給路の作戦」も考えられただろうが、それに関わる様な記録や資料とそれを物語るような語句や行等は不思議に全く何もないのだ。
この「松平氏の恥辱と成るような資料一切」が後で消された可能性がある。
つまり、筆者が論じたい事は次の事である。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊・300銃隊+50荷駄隊」を「吉田城の守備隊」から、突然、「当初の国衆約定」と異なり「浜松城」に呼び出した。
そして「軍議」に於いて「二つの事」を命じられそうに成った。
その目的の「一つ目」は、「籠城戦」を止めて野戦と成った場合に、その「陣形・鶴翼」の中心に「南下国衆の銃隊・300+50荷駄隊」を「実戦隊の中心」に据えて「不利な形勢」を変えて勝利出来る様にする事であった。
確かに、これでは「鶴翼の陣形で効果を発揮し勝つ見込み」はあったが、「額田青木氏の南下国衆の銃隊・300+50荷駄隊」にも、「雑賀根来傭兵軍団」と同じくそれなりに無傷では行かずに「大きな犠牲を伴う事」は必然の理であった。
然し、これはそもそも「国衆と成った時の約定」とは違う。
結果は、前段でも論じた通り、これを断り、「城」より放り出され、意味の無い「一言坂偵察」として派遣された経緯と成ったのだ。
目的の「二つ目」は、「籠城戦と成った場合」に本論上記した「伊勢と武蔵の協力」、つまり、「水軍に依る補給路の確保」と「補給の態勢造り」にあった様でこれも断ったのだ。
確かに「水軍を持ち得ない敵である事」から「戦場域」では襲われる危険性は少ない。
然し、既に「武田氏の手中」にあった「同族の信濃と諏訪の安全」と、片脚を掛けていながら「中立」を見せている「伊勢の安全・掟に依り直接侵攻は無い」は保障できない。
取り分け、「信濃と諏訪の安全」は、そもそも既に「武田軍中」にあって侵されている事から、これを盾に脅して来る事は充分にあった。
既に「筆者・額田青木氏の指揮官の考えとしてみる」は「脅しや牽制」に付いては「信濃」を介して事前に有ったと観ている。
筆者は、「松平氏の戦い」に必要以上に肩入れする必要も無い故に即座に断ったと観ているのだ。
目的の「一つ目」を遣らないのであれば、目的の「二つ目」も遣らないのが「理」であって、この逆の事も云える。
ところが次の目的の「三つ目」があった。
それは、「額田青木氏」の「基」に成っている「西」の「伊勢の影の勢力・伊勢シンジケート・伊勢屋を含む」と、「駿河青木氏」の「基」に成っている「東の武蔵の秀郷一門の勢力・地場産を扱う商い・長嶋屋等含む」とを、「背景」にする為には、この「二つの抑止力」を「松平軍が獲得・合力」が成立出来得れば、「浜松城の籠城戦」は充分に勝てると確かに見込める。
そもそも、「軍議の為」に態々三河の「吉田城の任」を解き呼び寄せたのであるのだから、「松平軍の基本戦略」は、その“「二つの象徴を味方にし呼び寄せたいと云う事」”では無かったかと観ているのだ。
そして、そこに「額田青木氏・伊勢青木氏裔系」と同縁族の「駿河青木氏・秀郷流青木氏裔系」を「背景に着ける戦略」であったのではないか。
然し、この「三つの何れ」も断ったのだ。
「結果の答え」は「旗本との軋轢・前段論じた」が在った以上は論じなくても解る。
この「軍議の末」の「籠城戦」は、これで論理的に崩れ、「野戦を選ばなくてはならない事」と成ったのだと考えられる。
その表れが、「補給基地の三方ヶ原」にあって、前段で論じた通り「密かに助け合う額田青木氏と駿河青木氏の行動」と成って現れたのだ。
これ等の「統一した行動」は、「伊勢青木氏裔系」と「秀郷流青木氏裔系」の「女系族の裔系の青木氏存続の氏是の所以」から成したものであったのだ。
ここで余談だが「浜松城の軍議」では、「青木貞秀・指揮官」も「青木貞重・額田青木氏の差配頭」も「青木貞治・額田青木氏」も「青木・・のこの三人の指揮官」も「嫉妬羨望の旗本」からの「相当な身の危険」もあったのではないかとまで観ている。
その最悪の場合には、「額田青木氏の銃弾」は「城」に向かって一斉に炸裂していたであろうし、其の「後の事」として「松平軍」は最早無く成っていた事にも成っていただろう。
そして「額田青木氏」も「駿河青木氏」も「安全な伊勢」に近い「三河伊川津」と「秀郷流一門」に近い「遠江・駿河」に直ちに戻ったであろう。
「三方ヶ原」での「上記の経緯の結果論」は、上記の「三つの何れの結果と同じであった事」を考え合わせると、この「歴史観」は先ず間違いでは無かった事に成るだろう。
そもそも、「武田軍」も「織田軍」もこの場合の方が傷を得ずして何事も無く都合は良かった筈と成る。
ところが結果として、「額田青木氏の銃隊」を呼び寄せたが「思惑」が外れて「額田青木氏」だけは“「城外に出された事に成った・史実」”のだ。
この直前までは「武田軍・早期奪取」にしても「松平軍・時間稼ぎ」にしても両者ともに戦略的に「同じ考え・籠城」であった事に成る。
然し、「額田青木氏」を訓練させて「近代銃」を持たせ「信長の戦略」で消失した「伊勢と伊豆間の中継点」の「再構築」を目論み「伊川津・渥美湾の制海権獲得」で行おうとして、その「権利」を獲得した「伊川津国衆としての約定」にも反して「呼び寄せられた軍議」で決然として断ったのだ。
ところが、当初は「通常の考え方」からすれば「野戦」では無く「籠城」と観ての「時間稼ぎ・松平軍」であったと観ていた。
この為に「紛糾した軍議」から外された「額田青木氏の銃隊」も、最初は「情報」の無い中で作戦的には予想通りに“「浜松城での籠城」”と考えていて、外された「軍議の結果の命令」を受けて、事を荒立てて行き成りに「伊川津・吉田城」に帰る事もせずに駿河青木氏の事もあって「様子見をする事」と成ったのだ。
そこで何れにしても、兎も角も「武田軍の動向を探る・意味無」の為にも「偵察隊としての名目の任」を受けて仕方なく「一言坂・前段の遭遇戦」に向かったのだ。
其の後、その「堀江城の途中」まで後尾に着いてそれを「追尾する形での過程」で、そのつもりで「様子見の追尾」では居たが、その途中で、“其の後の浜松城で軍議に異変が起こっている”のを、「余りの速さ」で「内部機密情報・駿河青木貞治から忍者を通じて」で情報を逸早く獲得し「異変」に気付くのである。
この「意外な展開の経緯」から、一応は「偵察隊としての名目命令」を受けた段階で、それを“断った以上は「籠城戦に成る」と把握していたので、武田軍本隊の追尾途中では、「駿河青木氏の青木貞治隊」を護る為に未だ「浜松城周辺に戻る予定・額田青木氏」ではあった。
然し、そこでこの「情報」を得て「駿河青木氏を救う」のは「三方ヶ原」しかないとしてそれに向けて踵を返したのだ。
この「青木貞治の情報」の中には、「三方ヶ原と指定していた可能性」があるからだ。
何故ならば、「青木氏族の将来の事・子孫存続」を考え合わせれば、“「浜松城・激戦」”よりも、“「三方ヶ原決戦」”を選んでいた可能性があるからだ。
結果として、その様に上手く運んだのは、「この駿河青木氏との情報の打合わせ」に依るだろう。
そうでなければ「戦場で無傷で救い出す事」は出来なかった筈だ。
結果として、「軍議の拒絶反発」での「偵察隊として命令・表向き」を受けていながらも、寧ろ、この「表向き命令」で「自由行動を採れた事」が幸いしたのだ。
そうでなければ、「伊川津国衆」と云えども「軍議の命令」に縛られていた筈である。
だから「三方ヶ原から伊川津」に直接戻った「額田青木氏」は「国衆」を直ちに辞し「開発業と陸運業と殖産業」に勤しんだのだ。
(参考として「上記の経緯」から観て、「絆の貞秀・貞治・貞重の呼称の経緯」は起こらなかった筈だし、「前段の額田青木氏の銃隊の差配頭の貞重の呼称の推論」に付いては、“「貞重の呼称」”がこの「状況証拠の経緯」の中で出て来る事は無く間違いは無いと考えられる。
故に此処では貞重を使う事にする。)
唯、未だ、「陸運業等の形」は整えたとすれど「松平氏の行く末」に依っては「渥美湾の制海権の獲得の行方」は「2年後の長篠結末」までには「既成の事実」としながらも夢中の中にあったのだ。
「名目」は「籠城戦の為の情報収集の偵察隊であった事」に成るが、そもそも「一言坂の武田軍の本隊の動向・城から見えていた」が、その「目的」と成るが、前段の検証でも「海抜300m城の天守閣」からは充分にその行動は観えていたのだ。
だからこの「名目偵察」は「完全な名目で在った事」が解る。
そもそも、この「目的」はそれが「本来の偵察隊」であり、一度、「松平軍」は「野戦・一言坂」に出て戦って敗戦しているので、「本隊を動かす事」は出来ず「吉田城守備隊」にいた「伊川津国衆と成った銃を持つ額田青木氏」を呼び出して、それも「銃力のある南下国衆」にこの「命令」を出したという事に概要の経緯は成る。
其処にこの「重点」があって、そもそも、検証ではその「一言坂・17m上」は「10k先」の「浜松城・天守37.5m」からは「20m下」に障害物無くはっきりと見えていた筈なのだ。
間違いなく「偵察の意味」が違っていたのだ。
「偵察隊を名目」に「城」から放り出されて、その「松平軍」が既に「野戦」で負けていた「武田軍の本隊の存在する一言坂」に先ず向かったと云う事であるのだ。
この「呼び出した後の軍議」では、「三つの命令」に従わなかった「南下国衆の銃隊」に向かって“「意味の無い偵察隊」”としたのは、そもそも“「意味の無い」”に意味があって、「武田軍に殲滅される命令」を「罰として下した事」なのではないかと観ているのだが結果は逆に何とその銃力で勝利するのだ。
一度、家康は「野戦」をしてその実情は命の危険から脱して敗戦し、故にその力は充分に知っているし、「城」からも観えている各所で戦った「武田軍」でもある。
「今更の偵察」では無いだろう。
ところが、その「結果」は逆であって「勝利」してゆっくりと警戒をしながら坂を下りて「浜松城の斜め横の丘」に陣取った「史実」と成るのだがこれも城から観えていたであろう。
「額田青木氏の銃隊の今までに経験してこなかった威力」を知って「武田軍」は追尾して来なかったのだ。
当然に松平軍も「城」からこの「銃撃の状況」も充分に見えていた筈である。
「城から追い出した張本人の旗本ら」は、内心、「南下国衆の銃隊」に対して「初経験の恐怖」を抱いていたのではないか。
「筆者・額田青木氏の指揮官の目」は、これを観て「城の東の丘」に隠れた「南下国衆の銃隊」を、再び「野戦の三方ヶ原の陣形」に加えた時に、旗本達は「やり返し」を受けて“自分たちの命が危ない”としたのではないか。
当然にそうなるだろうしならない方が可笑しい。
これが「軍議の事の出来事・命令拒絶」もあったが、この「恐怖」から初めから「三方ヶ原の不思議な陣形」などに一切に加えなかった理由もここにあったと観ているのだ。
故に、その「陣形」の中で「額田青木氏の銃隊」が「青木貞治隊だけを救い出した事」にも口を出せなかったのだ。
普通なら他も救い出すだろうし、其れもせずに直ちに「戦線離脱」してそれも「吉田城・国衆の本来の役目」では無く「伊川津」に引き上げて仕舞ったのだ。
この意味は大きい。
これは、今後、「松平軍」に「伊川津国衆として関わらない」とする姿勢を示した事と成るだろう。
そうなれば、今度は「伊川津」で「弱った松平軍との戦い」と成るが、それは起絶対に起こらない理屈に成る。
それは次の四つの事だ。
一つ目は「三方ヶ原の敗戦」の後に余力は無い事。
二つ目は「銃隊の威力」に対する恐れがある事。
三つ目は「家康の配慮」でこれを止めた事。
特に、この三つ目が重要で、寧ろ、「国衆としての名目だけの武力」ではなく「周囲」に対して“「敗戦後の三河」には未だ「銃の威力」があるぞ”とするもので、「織田軍と武田軍」に対しても「その誇示をして利用しよう」とし牽制したのでは無いか。
四つ目は「額田青木氏の背後」にある「秀郷流青木氏の武力」と「伊勢青木氏の財力」の「誇示と今後の利用に在った」と観える。
その為にも、「敗戦後」の直ぐにも如何にも「三方ヶ原の功労者」の様に見せつけて「伊川津の国衆・額田青木氏で伊勢をも誇示」をも目的として、そして「渥美湾の制海権の利用」と「三河の開発業と陸運業と殖産業」を許可して、この関係性を松平氏は世間に対して強く見せつけたのだ。
その後の現実には、検証すると「三方ヶ原の敗戦後」にこの様に「四つの経緯」は動いて行くのだ。
「三方ヶ原の戦い前と戦い後」に「三河旗本」などは、“自分たちにも銃口を向けられるのではないか”と、「南下国衆の銃隊」に対して「武田軍以上」に「恐怖」を抱いていたのではないか。
この事は、兎も角も「伊川津」に戻ったが、何と「羨望の先頭を走っていた伊川津国衆」から伸し上がった「下級旗本」が、なんと「田原と豊橋間に住み着いた事」から、尚更の事と成った。
そこで「古神明社」を境にして東西を東に向けて「壁」を造りここ「銃を構えた防衛線」を敷く事に成ったのだ。
これ以上に「無駄な摩擦を避ける意味」でも「額田青木氏の思惑」にもこの感覚は強くあったと観ている。
現実に、その後の「旗本の羨望」は下火と成り、その後の「額田青木氏」の三河に貢献する等でも、この「旗本等」は物が言えなく成り、この「思惑」は非常に効いたのだ。
唯、この「羨望」は「享保期・享保の改革先導」に成って再び噴出する事と成ったのだ。
物を云えば、「主君行動に異議を唱える事」に成るなどの風潮が享保の幕府内に興ったのだ。
その「不満の捌け口」と成ったと云う事だ。
唯、一人だけ恣意的なのか本気なのか「織田領地との係争地の西三河で反発・宗教一揆など興す・額田青木氏が伊川津国衆に成っている時から」をした「旗本」がいた。
この時、一時、家康の不満から「三河から引き下がる事をした者」が居て、其の後にこの「者・本多・蜂屋等」は、「旗本重臣の大久保氏・伊川津元田原」の「計らい・参謀に」で「三方ヶ原後」に「影の活動家の参謀・意味あり」と成って、こっそりと「旗本」に戻った者が居た事が判っている。
筆者は、江戸期に成って再燃するも一時的に通説と違い恣意的に動いたと観ているのだ。
「額田青木氏が伊川津の国衆」に成った事を観て、“これは拙い”としてこれに「圧力」を加える為に「織田領地との係争地の西三河」に、「織田氏」は「宗教戦争・口実は別」に見せかけて「圧力」を掛けて来たと考えられる。
それ程に「伊勢青木氏の財力と水軍力」と「額田青木氏とその銃力」と「秀郷流青木氏の武力勢力」は、無視できない「絶対的な勢力」として「織田氏と松平氏」には浸みこみ、更に「伊川津の国衆と成った事」で無視できない「脅威」と観て一目を置いて数年燻っていたのだ。
それ故に興った「旗本を巻き込んだ関連の一揆」であって、この時の感情が「浜松城の軍議・軍監の意中」の中に在ったと観ていて、始めから「織田氏は援助や大きな犠牲を払らう事」のつもりは無かった筈であったのだ。
その為にも「織田軍」に執っては、先ずは「武田軍の二拠点化」を防ぐ為にも、又「補給の陣形・織田軍」を充分とさせる為にも、「最低限に西三河・最大は南三河」を制しておく必要があったのだ。
だから「松平軍」には、これをさせない為にも「三方ヶ原後」に上記のこの「青木氏の三つの勢力」を「南三河の伊川津に留め置く戦略」が必要であったのだと考察する。
さて話は戻って、だとすると、「額田青木氏の銃隊」は「武田軍」をそもそもの「敵」と観ず、「山県軍の別動隊」は直ぐ横の「鶴翼の側面」から突破して来た事から止む無く、「自らの身を護る為」と「青木貞治隊を救い出す為」にも「額田の近代銃の銃口」を彼等に向けた所以と成り得る。
結果は、再び「一言坂で経験している武田軍」に向かって「弾幕」を張って「無事に救い出す事」は出来たが、「山県軍の別動隊」に仕方なく「大犠牲を負わした事」には成ったと云う詳細結末と成るであろう。
だから、「救い出した後」に「武田軍の本隊」に向けて、更に「銃口を向ける事」も充分にあり得たが、それもせずにすぐさま「戦線離脱」をした所以なのだ。
更には、故に「三方ヶ原後の掃討作戦」でも、逃げ込んだ「駿河青木氏の盤田見附の西光寺の検索」も、又、経験した「銃の危険」を避ける意味でも無事に避けられたのだ。
「銃に対する危険」を考えて深く捜索を敢えて避けたと観ているのだ。
次に更に、ここでも「詳細経緯」として「南下国衆の青木氏からの疑問」があるのだ。
それは「天竜川の圷」に出来た「浜松城」から同じ圷内の「真東11k先の坂下・一言坂―盤田」にいた「武田軍の本隊」を「浜松城」からはハッキリと「敗戦後の動向」は目で観えていた筈である。
この「敗戦した一言坂」から「盤田の西光寺・青木貞治菩提寺」までたった真東1kにあるのだ。
要するに「一言坂の戦場内」である。
其れなのに、経験し観えていたのに、且つ、敗戦しているのに、今更“「偵察隊」とは何なのか”である。
そもそもこれでは「偵察のそもそもの意味」は無い。
つまり、詳細経緯としてこれが疑問を解く最大の解明点なのである。
結局は、結論として、「松平軍」では「兵に依る時間稼ぎは無理」と観て、当初は“「銃隊」で「時間稼ぎ」をする予定”であったとも考えられるが、然しこれも断ったのだ。
上記が「四つ目の軍議の命・時間稼ぎ」である。
果たしてこれもそうであろうか、これも検証する。
確かにこれであれば間尺は合うが、「青木氏側の断片資料」から観た処では、これは「後付けで脚色した事」に成り、この説はあり得ない。
そこで、この時の「詳細の状況」を戻って検証して観た。
つまり、「軍目付・軍監の意見」の通りの「籠城戦」に近い「時間稼ぎ」をして「同意」を得ようとしたとするのは経緯からしても充分に考えられる。
それにしても「家康命拾いの野戦・1度目の一言坂」も、且つ、二度目の“「銃力で押し返した銃隊」”も史実であって、それは当初より危険な事ではあった。
其れなのに、直ぐその後には、「武田軍の本隊」が「山県軍の別動隊」より、先に「松平氏側の補給拠点確保と云う野戦を選んで仕舞った事・上記の三つの行詰」であって、今度は流石に「同意・織田軍軍監の同意・上記の意思無し」は「史実の通り」に得られなかったのだ。
この様に「松平軍」は三度も失敗しているのに「軍目付」としてはそもそもOKは出せないだろう。
要するに「無理な一言坂の時間稼ぎの実行」で、これを主張していた「軍目付・軍監・3氏の援軍・1.5~0.3万説は無理・後付け説」の「安易な興味本位の援軍説」もあるが、そもそも、「軍監」とは「援軍」を以て参加するのではなく「意見の具申」と「謀叛の見張り役」として参加するものである。
この点から考えて、これは「織田軍の軍監の守備隊」としては納得できる充分な程の多すぎる軍勢説であったが、これがそもそも「尾張国元・お膝下」の「尾張と美濃」に遺した「二つの守備隊・記録に記載・この説では国元が空に成る」であった。
然し、ここから果たして「三河・駿河」に「援軍」を割いて「戦記通りの兵数を送る事・1.5~0.3万」は120%無いだろう。
精々、この「100から200程度の守備兵」で当時の世間の原則通りの「1騎2将の兵数」にした筈である。
現実には「三軍監」にもされていない「平手汎秀・意見が違った」だけを残して戦い3日前に去ったのは事前の建前を実行したに過ぎずこの限りにある事に在る。
そもそも、この「援軍」も「美濃・尾張の留守中にする始末」では無く、それこそ名目上とすればこの「通説の数」は勿論の事で、その「援軍」そのものが「本末転倒の援軍」であった筈であり、この通説論は間違いなく「後の脚色論」であるだろう。
筆者が「武田氏」であるのなら、つまり、「浜松城」を牽制しながらも外に誘い出して、其れなら空と成った同然の「背後の尾張と美濃を攻め落とす方」を先にして、戦略上ではその後に「浜松城を攻める方が有利」と考える。
要するに「誘出作戦」である。
「史実」はそれをしなかったのは「軍目付の守備隊を一兵も動かしていなかった事」にも成るのだ。
同盟を結んでいる以上は、「三軍目付・軍監・林秀貞・佐久間信盛・水野信元」として「代理の者」を差し向けた程度であろう。
それが重要な事は「戦死したのは平手汎秀であったと云う事・病弱でこの後父は早々と汎秀を残し撤退し後に信長に追放されるも、本人もその能力で家康から侮辱を受けたが、この後に“汎秀を見殺しにした”とするは「信長の大義の名目理由」に間違いなく成る。
然し、「松平軍」に「本末転倒の援軍を送る事」は出来る事は先ず無く、実際は「軍監」を護る為の「100にも観たない数・一騎の50との説も」だったと考えられるのだ。
現実に多くなれば成る程に、それだけ「援軍」を「浜松城の中に居れる事」は「面積と補給などの点」から考えても無理であって、そう成っていれば「武田軍一言坂母待つの通過時」には「外の野営」では潰されていた筈だが、どの戦記にもこの事は一切触れられていない。
筆者は、故に殆ど「代理の軍目付・軍監」だけの100より少ない「数十名・50」に過ぎなかったと考えている。
殆どはこれは当に江戸期の「軍記戦記・脚色漬け・面白おかしくする為・流行した」の「後付け説」である。
筆者は、「吉田城の守備隊」としていた処を呼び出され、「軍議」で「初期の契約目的」を考え「国衆契約の条件の違約」から、間違いなく「軍勢の中心に据えらる事等の三つの命令」を拒絶したと考えられるのだ。
故に、この事で外に放り出され「半殺し目的の疑問の偵察隊」と成ったのだ。
然し、「額田青木氏の近代銃」で「武田軍の本隊」に完璧に勝ったのだ。
その様を城から観えていたのだし、「旗本」はこれでも「恐怖」を抱いたと考えられる。
上記の「四つ目の軍議の命・時間稼ぎ」は、自分たちが何度も負けている「武田軍の本隊」に対して、この「額田青木氏の南下国衆」の「一言坂の完全勝利」で、「松平軍の時間稼ぎの思惑」は完全に無く成ったのだ。
要するに、「南下国衆の犠牲」で“銃撃戦で時間が稼げる”と観ていた事も潰えたのだ。
これは「命令拒絶」では無く、「独自行動」で解決したのだ。
其の後に「旗本」は、「銃口」を自分たちに向けられた場合の“身の危険と恐怖そのものを間違いなく抱いた”であったろう。
「其の後の行動」も、“記録通りに自由に行動している”のはこの所以であろうし、「戦線離脱」も、そして「伊川津」に戻ったのも、「陸運業・殖産業・開発業」にすぐさま転身したのも、この事による“「自由行動」”に基づいているのだ。
故に、「絆での結ばれた青木貞治」も情報提供し続けたのだ。
そして「誰の命令」でも無く“「命の危険を冒しての自由行動」”として「貞の絆の救出」をしたのだ。
それも、普通なら、戦線からの救出後、盤田見附まで届けて引き下がるが、「三方ヶ原救出」だけで留まり、「盤田の西光寺までの救出」では無かったのだし、更には普通なら、“「青木貞治隊以外」にも救出したらどうか”と云う考えも起こるが、「壊滅混乱の中」でも旗本を救出せずに引き上げたのだ。
「自由行動」であったとすれば、当然に、「三方ヶ原の停戦後の2年間」の間に「青木氏族」は、罰せられるか、「旗本」から「口述攻撃」をされていた筈である。
でも、全くその逆であった。
そもそも、「罰する事」は、「国衆」で無くても「三河」に居る限りに於いては出来た筈だ。
実際には松平軍にはその力は無かったし、筆者は家康の計算が合ったと考えている。
然し、「額田青木氏」に執っては国衆から抜けて「伊川津」に居続ける事は彼等に執つては“「恐怖」”でそもそも出来なかったのであろう。
それは「彼等の脳裏」には、「拭う事の出来ない銃の脅威」と、「弁解の着かない青木氏族の格式」があったからなのだ。
「国衆」から辞しても「護身用として持ち続けた銃」は、この“いざと云う時の「抑止力」”を働かせたのだ。
だから、この「背景」があるからこそ手放さなかったのだし、その後の事にもこの「銃の抑止力」を持たせたのだ。
「三河旗本」に執っては「歯ぎしりの限り」であったろう。
此れらの根底には、「約定」を破り「呼びつけて置いて外に放り出した事」があった事も否めない。
但し、寧ろ、後勘から観れば「青木氏族」に執つてはこれの方が良かったのだ。
先ず、それには「伊川津国衆」を辞めて「陸運業等の商族・企業家」に転身していた事にある。
つまり、「抑止力の強い民間の商人と成った事」で、「表向き」に罰し攻め立てる事は出来なくなった事である。
寧ろ、それには、戦後、「敗戦で弱った松平氏」を「強める効能の方」に「家康自身」は舵を切ったのだ。
寧ろ、「秀郷流一門・青木氏の抑止力」と「伊勢青木氏の財力と抑止力」を味方に着けたかった事であった。
それには、“「青木氏族」にそれ相当の実利を与える必要があった”のだ。
「伊勢青木氏」には、要求通りに「渥美湾の制海権」を認め、「伊勢秀郷流青木氏」には、「三河の開発業の権利」を認め、「東の秀郷流青木氏・駿河青木氏」には、「青木貞治の裔系」を「家臣」にして引き上げると云う「策・御側衆旗本」に出たのだ。
その事で、「三河の民」は富み、「松平氏」には当然の事として「莫大な税と献納金」が入り、「急速に松平氏の復興を遂げさせる事」が出来、結果として他国から「商いの流れを呼び込む事」が出来ると踏んだのだ。
当然に、「青木氏族」にも「同じ事・相互利益」が云えたのだ。
「駿河青木氏」のみならず「一族の相模青木氏等」は「水運と陸運の復元」で「商いの還流・長嶋屋が窓口」を「武蔵・越後まで波及」に呼び込み栄えて富むのだし、現実に富ましたのだ。
「三方ヶ原の軍議の命拒絶」をし「額田青木氏を救った後」に「伊川津に独断で戻った事」が、この時に、弱っていた「三河軍の旗本等が攻めて来ると云うシナリオ」が考えられたが、上記の通りに無かったのだし、寧ろ、「逆のシナリオ」と成ったが。
では何故なかったのかである。
記録が見つからないが、恐らくは、普通のシナリオからは伊川津国衆として命令拒絶の形が出来ている以上はあるが、筆者は次の事で「三河軍の旗本等が攻めて来ると云うシナリオ」は最早無かったのだと考えているのだ。
当然に「事前の銃の恐ろしさ」を経験していて無理だと云う事は判ってし、「家康の命」は違っていて、それ以上は出来なかったと云う事は判るが、その経緯の中には次の事があったと観ているのだ。
それは、一つは[渥美湾に伊勢水軍を配置した事」と、二つは「藤沢まで秀郷流青木氏を主軍として秀郷流一門の軍を廻した事で牽制したと観ている。
これは「伊勢青木氏の資料」の何処かにその中にしか遺されない記録である故に解明は難しい。
其の上で、明治35年まで3度の大火を被っているし、「室町期の2度の紀州攻め」と「江戸期の神明社・春日社と清光寺・西光寺の幕府没収」で記録資料は飛散している現実もある。
これには「伝統の大事な記録」を隠す為に南紀と南勢の「旧領地の家人や氏人の家」に移されていた現実があって、故にこれ等に関する資料と記録は未だ見つけられていないのだ。
然し、筆者はこの時の「青木氏一族」が「非常事態の経緯」として普通に考えれば「上記の二つの事」を採ったと観ているのだ。
「額田青木氏」と「駿河青木氏」を再興して力を持たせ「三方ヶ原と云う災難」に巻き込まれた事態に何もしない訳では無い筈だ。
この詳細は前段を参考にして頂くとして、そもそも「伊川津と云う土地」は「有名な不毛の地」であり、「奈良期からの神明社の関係」で維持していた「伊豆まで補給路」を信長に寄って寸断されたとしても、依然として松平氏との間で「渥美湾の利用権」を獲得し「渥美への糧の補給路・片道2時間」を構築していた。
この事を以てすれば、「非常事態には対処しない事」は100%あり得ないだろう。
急遽、「伊勢水軍」を渥美湾内海田原に廻して補給も含めて態勢を構えたと考えられ、「額田青木氏」は「渥美半島の細長い半島」の「田原と豊橋の境界」にこの「銃隊」を東向き構えて防御策を執った事も判る。
この「田原の古神明社」の内海側には三方ヶ原の前には「3人の土豪・後に旗本・大久保氏等・羨望の主導者」が田原城を築いて入植していたのだ。
従って、この僅か西側に「銃隊の防御策」を東に向けて半島を南北に横切る様に構築し、背後に「東三河の駿河青木氏」と「藤枝の秀郷流青木氏」を「牽制策]として構えたと考えられる。
この「三方ヶ原後の牽制策」は、それもわざとらしく無く、それでいて「見せつけ効果を狙ったもの」であったと考えられる。
これでは「羨望の塊の旗本」は元より「松平軍」もその気であって何も出来なかった筈であり弱体と成っている「三方ヶ原後事」とすれば到底出来る事では無かった筈で、家康は「浮薄な旗本の力」を抑えて、「額田青木氏のこの力・銃力とその背後の財力と東の秀郷流青木氏に繋がる一族一門の勢力」を利用する方向に現実的に舵を切ったと考えられる。
「三方ヶ原の後頃」に「額田青木氏の四家・四神明社」の「渥美半島の西側域」に「居住していた地域」と「古神明社付近」の「御屋敷と云う役所・現地役所・地名」には「これらに関する関係する逸話」が遺されていて、その“「家康」がよく訪ねて来ていた”とあり、これは「奈良期からの青木氏の守護神の古神明社を名目上で訪ねた事・裏意は額田青木氏を訪ねた事に成る」を意味する。
前段でも詳細を論じたがこの様な事もあり、「長篠までの2年間」の経緯ては「驚くほどの復興・信長警戒」を遂げたのだ。
何時の世も「莫大な経済的背景」が無ければこの様な事が興らない事は「自明の理」である。
「三方ヶ原の直後」から「三河」で「開発業と殖産業・前段で詳細」に携わり、この為に「伊川津」とは別に「古神明社が存在する3カ所」を「専属の居住地・前段」として「北側の青木村」を始めとして「11カ所・地権を認められた定住地」までも認められているのだ。
これも「伊勢の事お構いなしのお定め書」に繋がった所以の一つでもあるのだ。
要するに短期間で“この得た「財力」で「膨大な戦費」を松平氏は賄い”、「長篠」へと向かったのだ。
「信長」はその後の経緯の戦歴を観れば、東には手を出していないし、故にこの「三河国の背後の経済力・伊勢青木氏・伊勢屋と東の秀郷一門の勢力」を恐れていたと考えられる。
それは「間接効果」を狙っていたと考えられ、「三河の松平氏」を通じて「最低の犠牲」で抑えたと観られ、それ故に「徳川氏の伸長・難癖程度」を“我慢ぎりぎりで見守った”と云う事では無いか。
それ故に、「三河国の背後の経済力・伊勢青木氏・伊勢屋と東の秀郷一門の勢力」が存在する限りに「本能寺の変まで長期間」の“我慢ぎりぎりで見守った”と成るだろう。
この「大きい流れ」は「江戸期」まで続き、「江戸幕府」を「秀郷流一族一門とその青木氏族とその関係一族」は、「幕府官僚族・御家人旗本・家人旗本衆」として支えるまでに至るのだ。
当然に、「伊勢の二つの青木氏」も「紀州藩・全伊勢藤氏が家臣」とは「殖産業」で栄えさせ、「伊勢の事お構いなしのお定め書・天智天皇の不入不倫の権の追認」と「浄土宗の律宗族の追認」を得て、且つ、「紀州藩勘定奉行の指導の役目」までも担い、挙句は「吉宗育て親」まで熟し、「将軍」に「裏・朝廷への働き掛け等」で押し立てるに至る「親密な関係・幕府との関係」は、その皮肉にもその「吉宗で終わる」を維持したのだ。
筆者が論じているのは、この“「基点」”は、「三方ヶ原の戦後の伊川津の行動」にあったと云う事なのだ。
「筆者の見立て」は、それ故に「家康」は、「戦闘戦略家」では無く、「経済戦略家」であったと観ているのだ。
だから、「伊勢青木氏・伊勢屋」と「秀郷流青木氏・長嶋屋」は、上記が物語る様に存命中に於いて、“家康と馬が合った”のだ。
家康の「伊勢の事お構いなしのお定め書の効力」も同時期に低下した事に観られるように、これが「最高潮は吉宗・前段」までであって「最悪期も吉宗・前段」で終わったのだ。
筆者は「三河旗本の執拗に続く羨望」に将又押され、且つ、「吉宗自身」も「奈良期の皇親族・青木貞治に観られるような幕府官僚族」の様な「二つの一族」に警戒したと考えられる。
それ故に、一方で「四掟で女系族で繋がる伊勢藤氏」をそっくりと家臣とした「紀州藩との関係性・紀州殖産業の確立で」を更に「強化・大正14年まで継続・幕末には藩の財政難から旧領地の返還を求められるも・2万両以上債権保有」したものだ。
「額田青木氏と駿河青木氏の前段論」に「三方ヶ原と長篠の二つの戦い」の「環境問題」を中心にどの様な位置に置かれていたかを論じて観た。
この以上の「四つの詳細経緯・前段の追記論」のどの一つを以てしてもでも、流石に「女系で繋がる青木氏族」は、「1千年の歴史」を持つ「女性の持つ鋭い先を観る遺伝子的洞察眼を持って立ち回った氏族であった事」が良く判る。
上記の様に何時巻き込まれていてもおかしくない厳しい環境の中で、取り分け、この室町期末期に於いて生き遺った事が判る。
それは「青木氏族の商い」と「青木氏族の氏力」を最大限に出してそれを利用した「自己開発の銃の保持」とそれを上手く利用しての所以であろう。
この事は「奈良期の親族の佐々木氏族」が「単独で青木氏の一族論」を論じている所以と成っているのであろう。
「お返し」として何時か「佐々木一族論」を論じたいとも思うが。
「青木氏の伝統 70」-「青木氏の歴史観-43」に続く。(118P)
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
投稿者:副管理人 投稿日:2022/02/23(Wed) 10:08:32
「青木氏の伝統 68」-「青木氏の歴史観-41」の末尾
> 前段でも論じた事だが、「額田青木氏の一族」が戦乱の世であっても「額田を抜け出す口実」として「伊勢詣を理由」に「簡単・船でも2時間・船を桑名西尾渥美の泊に出していた」に比較的に議論になせない程に簡単に「伊勢に立ち寄っている事」を考えれば、「同時、同時期、同場所、同目的」は充分に有り得て、故にその絆を史実の通りに「三方ヶ原では三者共同作戦が採り得ていた事」に成るのだ。
> 但し、「額田青木氏」は「桑名の浄橋飽波の裔系」であるので「上記した伝統の掟」により「貞」はあり得るかは疑問の遺る処であったが上記の推論が成立する事で問題は無くなるだろう。
> 唯、これも「非常時の直近での事」で成り立つ「一つの説論」であるのだが、「伊勢の総合差配が在った」とすれば、この「非常時の説論」は無くなるし、「伊勢訓練」から「三方ヶ原」とその後の「三河と駿河の殖産業」までの「約80年から100年間の良好な経緯期間」を考えれば先ず間違いは無いだろう。
> 「上記の推論」も含めてそうでなければ「前段の論」も含めて「約80年から100年」は保てない筈である。
> これは「伊勢秀郷流青木氏」の「始祖青木梵純のパターン説から興る」ものであるので、先ず間違いは無いと思うが、更に「研究中・資料発掘と読み込み中」なので深く確実に解明できれば更に「追記」で投稿する。
「青木氏の伝統 69」-「青木氏の歴史観-42」
(注釈 「二つの青木氏に影響した武田軍の時系列の詳細経緯」)
この検証の為に前段より少し話を戻す。
先ず、もう少し「武田軍の詳細経緯」を「青木貞治の行動と額田青木氏の行動」に影響している事があるのでそれに関する重要な歴史観を論じて置く。
実は、ここで「青木氏の歴史観・額田青木氏の貞秀の目と駿河青木氏の目」として注目して置かなければならない事があるのだ。
それは、「堀江城落城後」に、必ずしもこの時点で、「戦後の戦略」として「宿営地・二極化拠点」とするだけで、時系列から調べると、「堀江城の武田軍の本隊」が「三方ヶ原に来る」とはかなずしも決まって居なかったと読み解けれるのである。
先ず、例えば、何故ならば「三方ヶ原の2年後」の「長篠の戦い」でも「織田軍」は“「本陣」”を「長篠の戦場」より「別の所・4k真西・茶臼山」に置き、そこから指揮し、この「野営上の戦場」は別にした経緯の史実があるのだ。
それを研究として見ると次の様に不思議な構えに成るのだ。
そして、先ず「信長の本陣」からここより「南1k横に家康本陣」があった。
「信長の本陣・豪族館」を除いて全て本陣は「寺」であった事が解つている。
そうすると「秀吉の陣」は「信長本陣」より真北に「500mの上の所」に置いて安全を期した事に成る。
つまり、「信長本陣」を中心にして「南北に家康秀吉の二人の本陣」を構えて万が一の安全を期している。
この時、「敵方の勝頼本陣」はこの北部の「長篠の戦場」より「真北1k」に「本陣・寺」と「軍」と共に配置して「秀吉の陣」と何と「500m離れた所」に並行して置いていたのだ。
つまり、この位置より「真西4kの位置」に対峙して「信長本陣」があった事に成るのだ。
この配置は「長篠」を中心に、丁度、「辺1kの三角形の位置形状」で配置されていた事に成る。
これは「いざ徒士での開戦と成った事」を配慮しての事であるだろう。
そして、「信長」はこの「長篠の戦場」には「周囲・北と東」にかけて事前に「固定の馬廻り柵」を「くの字」にして張り巡らして、その後ろに「信長本陣」を背後にして「傭兵の雑賀の火縄銃隊」を配置して「敵の攻撃」を直接に受けない様に保護していたのだ。
つまり、敵方が「三つのどの位置」から崩しに掛かるかを観て、どの位置からでも応戦が叶う様に構えていたと云う事に成り、中央と北か東かどちらの三方からでも「銃撃戦を繰り返す事」が出来る様にしていたのだ。
ところが「勝頼の本軍の陣形」は、この「くの字」の「右上の先端部分の500m右側」に配置したのだ。
不思議な何か意味のある配置で在る。
普通なら左右、つまり「右の秀吉軍」、「左の徳川軍」を睨みながら「くの字」の「弾丸」が届かないぎりぎりの位置の「中央の1km程度離れた位置」に対峙して配置する筈である。
ところがそうでは無く北の「秀吉軍の右500m真横」に位置したのだ。
これから観ると、先ず「一つ目」は明らかに「武田勝頼方の総合軍勢・2万5千説」が少なかった事を意味する。
無勢であるが故に何か戦略的な位置とした事に成る。
「二つ目」は「信長軍の傭兵火縄銃隊3000」を恐れて逸らす位置に配置した事をも意味する.
そして、「織田軍の傭兵銃隊」に届く前に、「三つ目」は「左右の秀吉軍と徳川軍」に挟撃される可能性があった事を意味する。
この「三つのリスクの事」の事だけを考えた場合でも、この「リスクを出来るだけ下げる配置」とする必要があったと考えられた筈だ。
だとすると、「勝頼軍」は必然的に「くの字」の右上の先端に位置した「秀吉軍の真横の右上」に配置する以外には無かった筈だ。
そして実際にその様に配置したのだ。
だとすると、これでは「戦術」としては普通は「信長本陣を直接に攻撃する戦術」は採れなかった筈だ。
この配置の通り、先ず、戦略的には「直ぐ左に位置する秀吉軍」を崩して様子を見る必要があった事に成る筈である。
なぜならは、「信長軍」の前には「銃の傭兵軍団用の馬周り柵」を前に採っている。
況して「信長軍」は「くの字」に囲んで「本陣」を護っているし、そうすると「徳川軍」はその「織田軍の銃隊の前」を横切って前に出て戦う事は出来ないし,そうすると本来の「徳川軍の戦略の目的」は「織田軍の本陣を護る位置」に在った筈で、この目的は崩す事は出来ないので、先ずこの「二つの軍の配置」は崩さず「秀吉軍」を援護の為の配置するものでは無かった筈だ。
そうすると、この配置から「秀吉軍と徳川軍」が崩されても「織田信長軍」は動かなかった筈だし、「くの字の馬周り柵」が邪魔して自由に動けない位置にいた事にも成る。
それは、「雑賀族を主体としての銃隊の傭兵軍団3000の戦力」は、当時の常識では銃を兵力に換算すると10倍以上に相当すると云われ「恐ろしい戦力」と読まれていて、そう云う常識にあったので、これでも「最低3万の兵力」と成り兵力的にも「勝頼軍2万5千より未だ上」であったと計算していただろう。
「銃隊の傭兵軍団3000の戦力」が仮に破られたとしても、未だ「織田軍独自の軍」が「本陣の周り」を固めていて、これで「無傷の勝頼軍」としても勝負は決まらないだろうし、現実にはその前に「銃隊」に叩かれていて戦える状況では無かった事に成り得る。
仮に「秀吉軍」が真横から攻められて敗退としても「徳川軍」が「1k左」から前面に出て来て既に「傷ついた勝頼軍」と対峙する事に成る。
故に、飽く迄も「信長軍全体の配置を崩す事」は始めからしなかった筈であるは出来なかった事に成る。
要するに、「勝頼軍の戦術」は「織田側の三軍」に対して「確個不抜の攻撃」を仕掛けるべきであったし、其れしかなかった筈だ。
当に上記の「長篠の戦い」では「織田方の三軍」はこの「三方ヶ原の武田軍略」を先取りして「二つの拠点造りの戦略」を採ったと云う事に成るのだ。
要するに、「信長」はこの陣形配置を考えた場合に「信玄の三方ヶ原の戦い」を参考にしたと観ているのだ。
それに「傭兵軍団の雑賀族根来族を主体としての銃隊の傭兵軍団3000の戦力」を本陣が攻撃されない為にもその直前で「圧倒的な戦力向上を目的」として利用して「殲滅作戦を採ったと云う事」に成るのだ。
これは「直前の父の戦略」を事前に理解せずに無視して戦ってしまったと云う事に成る。
あまり「将としての器では先ず無かった事」に成り、要するに戦う前に負けていたのである。
だから余談だが、史実に遺されている様に、“武田方の指揮官達は戦いの前に分かれの宴を躱した”とする史実が遺されているのだ。
唯、何故に「くの字の先端に位置した秀吉軍」の直ぐ「横500mの位置」に位置したかと云う疑問が残る。
此れには上記の位置にいた「苦しい勝頼軍の唯一の勝つ為の唯一つの秘策・信長軍の配置の欠点」が観える。
前段でも論じたが、二つの郷土に遺る逸話を元にした「郷土史の記録」には次の二つの資料が遺されている。
一つは、「信長本陣の館壁」に銃弾痕が無数あったとする事と、「雑賀族の銃隊」の後にも“酷く潰れた弾丸”が"多く畑に遺っていたとしている事である。
そこの処を掘ると、集中して一か所周囲に多数に遺されて出て来た事の記録である。
これは「史実である事」が後の研究で証明されている。
この事は見逃す事の出来ない重要な事である。
これは「通説」と成っている「騎馬隊が先頭切って突っ込んだとする説」を覆す事であり、この事が興るという事は、先ず先頭切ったのは「勝頼軍の数少ない銃隊・200の守備隊説」が「3列」に整列して突っ込んで来た証拠であり、それが「信長本陣の館300m程度・弾丸の飛距離」まで「馬周り柵の北側の右柵・秀吉の陣の際」を破って接近していた証拠と成り、且つ、その後、「信長の傭兵軍団の銃隊」の中の「くの字の右側」から侵入して来た事に成る。
つまり一時的に、この「くの字」の「北外側の右柵が破られていた事」。つまりこれは{秀吉軍と北側柵の間」に成り、それが当に「真西」にある「信長本陣の置いていて館」の近くまで侵入していた事を「壁の弾丸跡」が物語っているのだ。
つまり、「勝頼軍の銃隊による守備隊の決死隊が編成された事」を意味し、これが全滅した事に成り、「戦い」の後を農民などが戦場を整理して兵を軍別に分けて葬った事の記録が遺されているのでこれはそれを纏めたもので史実である。
この時の「記録・1万2千・銃による戦死」から「勝頼の武田全軍の7割近く・2万5千比」が戦死していた事に成り一致する。
但し、「双方の祐筆が遺した公表している戦記」からの数字とは合わないが、当然に何れも極端に少な目であるが、「長篠の戦い後の勝頼逃避行の記録の数」は脱落者や死人や掃討作戦での犠牲者から最後の村に到達したのは「当初200人で最終は100・数人の説もある」にもなら成らない数に成っていたとされている。
その戦場の総合墓地と逃避中の墓所も発見されている。
この時の「農民の口伝」を下に江戸期に入り「数人の郷土史研究家」が取り纏めた資料の書籍が遺されている。
その解説に依れば、その遺された「多くの弾丸の潰れ方・平坦に潰れていた」から「流れ弾」では無く何か固いものに当たっていた事に成る。
「郷土史の説」に依れば暫くは畑から弾丸以外にも「戦歴を物語る物」が出土していたらしい。
つまり、それらの事を読み込むと、一時には「右側の柵に完全に柵の中に入り込んでいた事」に成り、「数は少ないがその弾丸」の「潰れ方」から「銃などの鉄製」に当たっていた事に成るとしているのだ。
「戦場での潰れ方}ではそういう事に成る。
この考察から、上記の陣形から「戦法」に行き詰まり「決死隊」を「勝頼の守備隊の銃隊」で編成した事を意味する。
そしてこの「銃隊」のちょっとしたチャンスを生かそうとして全軍を突破作戦に無理に切り替えた事に成るだろう。
恐らくは、勝頼軍は「信長軍の馬周り柵の中の様子・銃隊の実際の数や三段構えの戦法態勢」が実際に掴めていなかったのだと考えられる。
通常は「武田軍の隠密等」も探っていた筈で「通説」とは違って「信長」はこれらを当初から敢えて「何らかの方法・戦記には車に蓑の表現が出て来る」ので隠していた可能性がある。
「勝頼の陣」からはこの「信長本陣」は、丁度小高い丘を影にしていた事から詳細が観えず、この「勝頼の決死隊の功績」で銃隊の勢力を低く見たのでは無いかと予想できる。
つまり、これはこの「隠していた状態」の時に「決死隊」が比較的に簡単に「右の柵・秀吉軍の左際」に沿って突っ込んで来たと云う経緯と成ろう。
そこで「信長のくの字の馬周り柵を伴った陣形」の「最大の弱点」は「右側のくの字の縁」に沿って「直線的に走れば「信長本陣館」に到達する。
これが「弱点」であるからこそ「くの字」の真ん中では無く、この「右にある秀吉軍」に対して「勝頼本陣」を極めて接近させて「即応態勢」で防ごうとしていた事に成る。
その「弱点」を「勝頼本陣に直接所属していた守備隊」を「決死隊の銃隊」に仕立てて先ず先陣を切らせて攻めさせたと云う事であろう。
これが「信長本陣」の近くまで到達した事を観て、この「くの字の弱点」を確信して「赤兜6000騎馬隊」を次に突破させようと突進させたのであろう事が「郷土史の後の経緯研究史」でも判る。
ところが、そうするとこれに「本来の配置の役目」を持つ「秀吉軍」は阻止する為の即応が出来なかった事の史実と成り得る。
これは何故かである。
それは「勝頼軍の本陣」そのものが「くの字の右際に沿って直線的に移動するとこの「くの字の戦棚」に沿って陣を敷いていた“「秀吉軍」にはどの様な事が興るか”である。
「勝頼軍の本陣」が「秀吉軍の正面に向かって攻めて来る」と開戦前の当初は観ていたが、それが「くの字の隙間」に沿って「200の突撃隊の銃隊」が先ず突っ込み、次に「赤兜6000騎馬隊」が「猛スピードで走った事」で「秀吉軍は軍の向きを柵側の南に変えられず、且つ、仮に攻めたとすると、この行動は「くの字」の「馬周り柵内の傭兵軍団の銃隊の陣形」を壊す結果と成り、右横から向きを変えて秀吉軍に攻められた「赤兜の騎馬隊」が左横に逸れる事で「戦域幅」が広く開き、その事で「くの字の馬周り柵」は壊れ、この結果として「信長本陣の館」は危なく成り、却って「勝頼の赤兜6000騎馬隊の目的に利する事」と成る筈であった。
そして、下手をすると「勝頼軍の4軍の徒士軍」が正面から「秀吉軍」に向かって決戦を仕掛けて来る事と成ると、「秀吉軍」は南側と東の正面側から攻められて壊滅する事に成る。
だから「秀吉軍」は敢えて「史実」は動かなかったのだ。
ところが、ここで「幾つかの史実」を組み合わせると、このタイミングでここで「思わぬ事態が興った事」に成るのだ。
それは「くの字の内側右側」にいた「馬周り柵の傭兵軍団の銃隊」は「赤兜の騎馬隊」の余りの早さの攻撃に態勢が崩れそうに成った。
然り乍らも、これを盛り返し再び「銃弾幕の激しい銃撃」を開始し始めた事に成る。
問題はここに在るのだ。
そこで、「200の銃の突撃隊」で「くの字の北側」を崩して進入路を造った後に、「山型陣形の赤兜の騎馬隊」は、「郷土史の研究記録」などの記録・弾丸と死傷者の集中位置等」から観て、「くの字の馬周り柵」の真ん中より内側の中心よりに押し出して進軍していた事に成りる。
それが、つまり、一時、「くの字の北側」が崩れてその「傭兵軍団の銃隊の立て直し」がその後何とか出来て、その間に「傭兵軍団の北側の銃隊」に犠牲を負っていたのだ。
つまり、この事はその北側に犠牲を負っている「傭兵軍団の味方の銃隊」が未だ居る中に向かって何と「くの字の中心と南」に位置していた「傭兵軍団の射撃」が止む無く突然に開始したのだ。
つまり、「味方の銃隊」が「味方のいる北側}を射撃した事に成るのだ。
当然に「味方の犠牲者」は出るがそうでなければ「くの字の中は総崩れ」になるところであった。
これは同時に「信長本陣」も危なかった事を意味する。
この結果として、これで「山型陣形の赤兜の騎馬隊の先頭」が「くの字の内側横・中心側に広がる結果」と成って仕舞ったのだ。
つまり、この時、敵味方の双方に多数の犠牲を負う事と成ったのだ。
然し、この時、傭兵軍団の銃隊に異変が起こったのだ。
それは織田軍側は「傭兵軍団」だという事だ。
そして織田軍と秀吉軍はこれを救わなかったという事だ。
この二つを合わせれば何が起こったかは判る筈である。
然し、傭兵軍団はこの戦場ではg:yを伴う為に織田軍に対して態度を露わにしなかったのだ。
その頃より、結果として今度は中心より「左のくの字」の「傭兵軍団の銃隊の弾幕の範疇」に入り一時途絶えた弾幕は再び開始された結果、「山型陣形の赤兜の騎馬隊の陣形」が史実の通りに「総崩れ」と成ったのだ。
これを救おうとして「山県軍の徒士軍団4軍」が「くの字の右内側横」に押し出した結果と成って仕舞ったのだ。
「郷土史の研究記録」の「弾丸や死傷者の位置等」から余り犠牲者が出る筈のない「傭兵軍団の右横の銃隊」にも多く犠牲者が出た戦歴と成っていて多く弾丸が残るのは、この経過を物語っているのだ。
結局は、「傭兵軍団のくの字の左横の銃隊」の横からの態勢を整え直した「三段攻撃の総攻撃」を受けて「赤兜の騎馬隊」のみならず「4軍の徒士軍団」も「全滅・1万2千」した事の史実の経緯が「郷土史の研究記録」からも裏付けられて判るのだ。
この様に「勝頼の本陣の位置・秀吉軍の左500mの配置」は「織田軍とその三つの軍」と「馬周りの柵」とその兵力から、その弱点と成るこの位置を採った事が判り、当初よりその「弱点」を突く戦略で在った事に成る。
そして、それを証明する為の「200の銃隊による決死隊・本来の勝頼の守備隊」を敢えて前面に出して崩す配置をした事が判る。
そして、「4軍の家臣団」の全てから「反対・記録」を受けながらも強引に「勝頼の独断」でこの「少数の銃隊・勝頼の守備隊」で「突撃させてしまった事・それなりの戦功はあった」に成る。
要するに、この勝頼は「三方ヶ原の二極拠点化」の「六稲三略から来る常套戦術」を参考にせず「弱点攻撃」に切り替えた事にし、護らなかったのだ。
然し、現実はこれしかなかったのでは無いかと考えられる。
要はその成否の境は、「くの字の馬周り柵」に沿って配置された「傭兵軍団のくの字の北側の味方」を「自らの銃で撃ってしまう」と云う耐え難き悲惨な事の「判断の差」で事は決まったと云う事に成る。
史実はこの悲惨な代償に信長は全く応えなかったのだ。それどころか戦い後直ちに「傭兵軍だの攻撃」を開始したのだ。
故に筆者は勝頼の戦略にはこの「非」は通説と違い無かったと観ている。
然し、これに従えばより良くするには「勝頼」は先ず「秀吉軍の拠点」を打破して「くの字の弱点」を先ず抑えて「二拠点化」にして有利にし、其の上で「くの字が崩れた信長軍」の「次の出方」を先ず観るべきであったのだ。
「信長軍の全軍」はそもそも「傭兵軍の銃隊」が「命綱」である以上は「くの字の陣形」を崩せなかった筈であり、この「信長の採った二拠点化」は痛手で在った筈である。
ここで、注釈として後に事件が興ったのだ。
この「見方が味方を撃つと云う事・助けを出さなかった事」が原因で長篠後に紀州征伐が起こり「信長と犬猿の仲」に成る。
この機微を勝頼は戦場で見抜けなかったという事に成る。
この「銃隊による決死隊・勝頼の守備隊の突撃」で「くの字の外側の右側」が現実に崩されたが、この時、「秀吉軍と織田本軍と徳川軍」はこれを救わずに記録では黙って観ていたのだ。
この時、「主に雑賀傭兵軍団の銃隊」は崩れながらも「自らの力」で「態勢」を立て直し、味方のいる右に銃口を向け直して何とか「応戦態勢」を採り始め、結果として“「味方1200の犠牲・傭兵軍団の半分の犠牲の史実」”を出しながらも盛り返した。
そして、この状況を観て「くの字の南側・左側の銃隊」は弾幕を張って柵から出て自らの力で犠牲を出しながらも味方を救助し開始した。
最早、「長篠の郷土史の伝説」では、この時は「軍団の銃隊の指揮官」は「織田氏の指揮官」に従わず自らの身内を護る為に「雑賀族が指揮を執った」とある。
そして「長篠の戦い後」に、「この事」が元で「雑賀族と信長―秀吉」とは逆に「犬猿の仲」に成って、「銃隊の傭兵軍団」は「信長」に一切味方する事は無かった。
前段でも論じたが、「長篠の戦いの戦後始末後」に、[信長―秀吉軍団」は史実として「大紀州征伐」を長期間で実行し「雑賀・根来傭兵軍団」は「分断」される始末と成り瓦解に到るのだ。
前段で論じたが、改めて「信長の軍」は、この時、「雑賀族三軍団の征伐・鈴木氏族・根来族・土橋族」に矢張り「銃の軍団」に大失敗し、大阪に一時逃げ帰ると云う経緯と成っていて、そこで「信長」はこの「雑賀族三軍団」に対して「調略作戦」を開始したのだ。
「紀州の紀の川」の川を挟んで「北側の土橋氏族」に「調略」を仕掛けて成功するが、「鈴木氏族」は譲らず続けられていた戦いに応戦した。
そして「根来氏族」に対しては、「秀吉に歴史」に大きく残る「焼き払い殲滅作戦」で一族を焼死で殲滅させたのだ。そして「伊勢青木氏」に逃げ込んできて匿う事が興ったのだ。
「孤立した雑賀氏族」は、飽く迄「戦い」ながら子孫を遺す為に「三つの裔系・鈴木氏本家と分家の鈴木氏の雑賀氏と土橋氏との血縁族」に分けて戦う事に成った。
「現海南藤白地域・鈴木氏発祥の地」に在した「鈴木氏本家族」はその支流末裔が存在していた「紀伊山脈の山の中」に「山族」として逃げ込み、「平家の生き残りの龍神族と十津川族」と組んで「織田軍」に「銃のゲリラ戦」で対抗したのだ。
「分家鈴木氏の雑賀族・現雑賀地域」は、「紀の川の南側」の平地でゲリラ戦で死守して譲らなかったのだ。
後に少数でも強い敵に立ち向かう者を「紀州惣国者」と呼ばれた。
信長調略に応じた「土橋の血縁族」は、「一族内・川南との」に内乱が興り、最終は「川北の土橋族」が信長に着いたのだ。
この状況の中で「土橋族の持つ銃を獲得した事」を下にして「秀吉の第二次紀州征伐」が興り、「ゲリラ戦・紀伊山脈の山と紀の川南側の聖地のゲリラ戦の二つ」が続いて起こったが、他の「南紀の紀州土豪達・青木氏の旧領地の家人や氏人」に対して、「子孫存続の為に伊勢青木氏説得」もあって仕方なく「秀吉側」に靡いて一応は平定された。
この後にこの状態で「秀吉の刀狩り」が興り、「彼等が保有していた多数の銃」は。「三つの生産地」も含めて「秀吉の手中・支配下」に入って「秀吉軍」はこれが下で銃を獲得し急速に強く成ったのだ。
この時、合わせてこの「秀吉の奪い取った銃」での「兵力」を高めない様に「伊勢青木氏」は「摂津で管理していた近江の生産地」を即座に廃止し、この「銃工人等」を「伊勢」に呼び寄せて「青木氏部」に入れて保護したのだ。
一部に従わなかった者等がいて「薩摩と秀吉」に密かに吸収されたとある。
この時、これを「薄々見破った秀吉」に「伊勢の蔵を焼かれる事」が興ったが「伊賀」がこれを「ゲリラ戦」で撃退し阻止したが、この様に「雑賀事件の影響を受けた経緯」を持っているのだ。
この時、この「雑賀域・鉄の生産地・現住友金属」に「伊勢の出店・伊勢屋を持った事・現地との調整する連絡事務所」が史実として判っている。
そして江戸期に入ったが、「本家の鈴木族と分家の鈴木族」は「紀州藩の銃を持つ雑賀忍者集団として組する事・歴史的に有名な史実が多く遺る」と成ったのだ。
この事件発生から歴史観を観ると、結局は「くの字の南側に位置した徳川軍・紀州藩」が恨まれずに得をし、「大量の銃と雑賀忍者・元平家族と融合」を得た事に成る。
後々、「伊賀忍者の紀州藩、甲賀忍者の徳川氏等」とその路で競り合うのだ。
「長篠の戦い」には、「三方ヶ原の戦術」により関連する掘り起こせる史実があったのだ。
この様に「今川義元・武田信玄以降の戦術」に習って「歴史上の本陣」を決して「実際上の戦場」には置かつたのであり、「1里・4kから4里・16k」の「位置・当時の活動圏」に配置するのが「当時の歴史的な常道戦術」であったのだ。
つまり、要するに「秀吉の本陣の配置」がいざという時のキーに成っていた事に成る。
「敵方の勝頼本陣」が動けば「秀吉の本陣の配置」で側面を突いて牽制する戦術で在った事に成る。
「固定の馬廻り柵」を攻撃してくる前に「秀吉の本陣軍で攻撃して崩すと考えていた事に成る。
「南1k横に在った家康本陣」は、「信長本陣」とそれを背後にした「傭兵の雑賀の火縄銃隊」が崩されそうに成った時に「勝頼の武田軍本隊の左側面」を突いて攻撃して救うと云う配置形態に在っていた事が判る。
現実には上記の通り「勝頼」は「弱点を見つけた事・銃による守備隊による決死隊で実証」で上記した様にこの様に成らなかったのだし、これが下で「銃の傭兵軍団の雑賀族との事件」に発展して行ったのだし、「伊勢にも影響が出て来る事」に成ったのだ。
「額田青木氏等が関わった三方ヶ原」はその「直前の出来事・2年」であった。
さて、「二拠点化の論の検証」に戻して、其れもが何とか「額田青木氏の新型銃の長距離銃」と違って「火縄銃の銃弾」が本陣から届くと云う「命中率低い・流れ弾程度の距離の500m」の位置に「敵方の勝頼本陣」が存在すると云う事は動けば撃つと云う態勢にあった。
況して「くの字の陣形」を採る織田全軍の配置形態に対して、然し、この常套手段を無視したのだ。
況してや、「馬回り柵の3000の銃隊」に対峙するには無視も良い処で子供でも判る攻撃でもあるのにだ。
ところが、「長篠の戦いの場合」もほぼ同じ配置形態に在り乍らも、「勝頼の銃隊200の守備隊」と共に「武田本軍の赤兜騎馬隊6000」で、先ず「秀吉軍」と「馬周り柵」の間を「側面突破」して直線的に「信長本陣を目指す」と云う「戦術上・六稲三略」ではそんな状況では無かった筈であったが、処がその是非は別として「考えられない行動」を執ったのだ。
「戦う」とすれば「基本の戦術」は先ず「秀吉軍と戦うと云う事」に成るだろう。
何故ならば、誰でも判る事だが「信長の本軍」は自分から先に仕掛ける構えではなく待つ構えであった。
そもそも「銃隊」を前に置いて、且つ、「馬回り柵」で前を「くの字」で囲んでいる以上はそもそも「徒士の本隊」を戦う為には前に出す事は出来ない。
例え「秀吉軍」が突かれ敗退したとしてもこの戦形は物理的に崩せない。
否、崩してまで出る事は100%出来なかった事は自明の理であったしその意思は信長には無かったと云える。
だとすると、この「陣形」から観ると「上記の突破作戦しかない事」に成る。
現実に「くの字の北側・右側・秀吉軍の南側面と馬周り柵の間」は崩されているのだ。
ここで様子を見る事が信長がどの様に出るか待つ必要であったと後勘では観える。
それは、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」に異変か起こっていたのだ。
勝頼もその「異変」を感じていた筈である。
「勝頼軍の突撃」で現実に「北側馬周り柵」が崩れた。
この「総崩れ」になりかけている「くの字の態勢」を護ろうとして、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」は「味方のいる混乱した柵側」に向かって何とか救い出そうとして射撃を開始し始めたのだ。
この為に「味方1200の/3000の味方」を犠牲にしたのだ。
そして「秀吉軍」は救出しなかったのだ。
これが現実に起こったのシナリオだ。
この時、「郷土に残り続けた逸話」では、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」は「信長と秀吉に対しての怒り」を示したのだ。
現実に紀州では伝説としても「信長と秀吉に対しての怒り」の通りに人気は良くないのだ。
この「長篠の戦い」は結果として半日で決着が着いたが、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」は「信長に対しての怒り」を表す為に“「紀州」に向かって直ぐに引き上げて仕舞った”と伝わっているのだ。
この「逸話」が真実だとすると、「勝頼軍の徒士隊4軍」は“一時様子を見る事が必要では無かったか”と云う考えが生まれる。
つまり、「雑賀根来の銃の傭兵軍団」は「銃先」を信長又は秀吉軍に向けた可能性があったし、「戦線離脱」していた可能性もあり得た。
筆者は、見方が味方を撃つと云う異変のこれだけの事が興れば戦場と云えど普通では無く何かこの時に「異変」が戦場に起こっていたのでは無いかと観ていてこれを敢えて捉えなかったのではないかと観ている。
そしてそれが家臣団の信頼を失うきっかけと成ったのであろう。
これを利用すれば「万が一の勝ち目」が武田側に傾くのだし、それだけの意味のある事件であったのだ。
何故ならは、彼等は「武田軍に対して敵への怒り」は元より無かった筈で、要は「傭兵軍団」であったのだ。
この様に、世情はこの様に「見殺しされるという事」は傭兵軍団に執っては今後も信長の元では次も同じ破目に成り得る。
現実に、その証拠にこれが下で間一髪を置かずして「長篠後」に「歴史に遺る残虐極めた紀州攻め」が実行されているのだ。
「郷土の逸話」の通りに、史実の「間一髪」を考えれば、何もなくしてはいきなりに「紀州攻め」は無いだろう。
確かに、信長の「銃への恐怖」と「自らも銃を持ちたい」とすれど、「史実の間一髪」は無いだろうし、そもそも世間に対して「戦う大儀」が成り立たない。
そもそも「銃」は「市場制」の中に無く飽く迄も「傭兵制」の中にあって銃のシンジケートを形成していたのだ。
後は密かに影ルートで入手する以外には無く必然的に数は護身用程度で数丁単位で在って戦用と云う事には成らず、飽く迄も銃組織のシンジケートを形成していたのだ。
この中の中心に青木氏族は摂津を介して存在していたのだ・
これは「銃」に限らず「砂鉄の玉鋼」そのものがこの範疇にあって、そもそも「商用」と成ったのは「江戸初期の摂津と大阪」であってそれでも寡占であったのだ。
それ故に、この「雑賀根来族のシンジケート」は独立性が強く、そもそも「紀州人」は穏やかな処に根に元来「古来より惣国者」としての気質を持っていたのだ。
故に、この「異変」にはこれには「味方1200の/3000の味方を犠牲」に対して戦場で「銃先を変える可能性」だけの「相当な怒り」が在った事が云えるのだ。
観ていれば戦い中のこれだけの状況では「異変」を読み取れていた筈だ。
筆者は、異変の間隔を待つべきであったとし、利用するべきで在ったし、然し、現実は待つ事は無かったのだが、これが「勝頼軍の徒士隊4軍」の歴史に遺る「家臣の信頼を失った・死の宴とする原因」に成ったのであろうと考察する。
「勝頼軍の徒士隊4軍」の突撃は待つべきで在ったと観ている。
通説の“勝頼は冷静さを失っていたの説”にこの意味では合意する。
「長篠の戦い・陣形論の経緯」と、その「青木氏・伊勢と駿河」までに及んだ「結末論」を例えとして論じたが、そこで再び「拠点化の論」に戻す。
その意味で「三方ヶ原の信玄軍本隊」は「戦術の基本に沿っていたと云う事」に成るのであって「三方ヶ原で決戦すると云う考え」を持っていた訳では無く、そもそも「戦い」は元々自在変化するがそれにしても「三方ヶ原」を「軍の拠点とする事」は無かった事が判るのだ。
飽く迄も、「三方ヶ原を起点・補給拠点」にして、「堀江城、二俣城の二拠点化」とし、その「敵方の浜松城」はこの「戦略の範囲内」にあったのだ。
もっと云えば、「家臣の犠牲」の下で早々の体で逃げ帰った「一言坂の野戦の敗戦・本陣は戦場」としたのも、考えれば、元からこの「範囲内・浜松城より真東11k・二俣城から南16k3里から4里内・浜松城は南向きの三角形の頂点」に置かれていた事からなのだ。
依って「一言坂や三方ヶ原」にしても、この辺では戦略上の位置に置かれてるにも拘わらず「戦い」を無駄に仕掛けた「元々の松平軍の戦略の低さ・家康」が見えていたのだ。
況して勝てる見込みのない「狭い一言坂の野戦・時間稼ぎ家康説もある・江戸期の後付け」の「戦い」を仕掛けた理由も凡はその処は判る。
更に、「三方ヶ原」に於いても「額田青木氏と駿河青木氏」が合力と参戦しているこの「松平側」に「戦略の低さ」が目立ったのだ。
上記した様に「雑賀根来の傭兵軍団の憂き目」と同じ憂き目を「額田青木氏」にも「指揮官の戦略の低さ」から巻き込まれる可能性があったのだが何れにしてもその心もとなさが目立つものであった事に成る。
それが「浜松城軍議の命令拒絶」で「牛族を左右する憂き目」を免れたのだ。
後勘から観れば「長篠の傭兵軍団と同じ流れ」を踏んでいた事に成る。
この「活動圏の範囲」と「陣形の向き・北向き」に依って「陣形」を選ぶのが「戦いの常道」なのであったが、其れを「松平軍」は、何と「南向きの三角形の頂点・自分の城に対しての左向き」で“「西向き」”に執ったのだ。
本来では「浜松城」を背景に「北向きに採るのが常道」であった。
然し、これであれば松平側に執って「長期戦と成った時の補給路を断たれる事」は始めから判っていたのだ。
これを「武田軍側」から観れば、その「補給路」は「二俣城と堀江城」にあって困らないが、速くに「浜松城を攻め落とすと云う点」からは「今後の戦略上」では「最終補給拠点」の「三方ヶ原」は早期に是非に必要であった事に成るが、然し、その意味ではこの「陣形」では都合が良かった事に成る。
「浜松城落城後の西三河攻め」にしても、この「三方ヶ原」はその「補給中継点」としては絶好にいい位置にあったのだし、その為には「補給拠点・三方ヶ原」の近い「堀江城」は「西三河攻めの指揮の拠点の本陣」とする戦略でもあったのだ。
其れは、同時に既に、「3っの別動隊」に依って「背後の北三河」もほぼ手中に収めていたが、それは「足利将軍の信長征伐命」で「西」で引き付けられて苦戦している「織田軍の動向」にもあった。
つまり、この「織田氏の西の戦い」が解決する前に「本陣と補給点」を前提にして先に「東に拠点を構えて置く必要」が「武田軍側の戦略」にはあったのだ。
では、この「不思議な陣形を採った松平軍」は、これに対して薄々の「武田軍のこの行動」を読めていた「家康」は、これをさせまいとして「一言坂の野戦を仕掛ける事」で「武田軍の進軍」を留めて「軍監の織田軍の意思」を入れた“「時間稼ぎの行動」を示す事”で、つまり、「時間稼ぎ」を主張する「軍目付・軍監の圧力」の「賛同」が得られる様に敢えてしてしまった為に、その様に「陣構え」を「山県軍の別動隊の動向」も在りながらも、敢えて北向きでは無く、“「西向き」”にしたと読み取れる事にも成るのだ。
この「西向き」は、「山県軍の別動隊・二俣城の行動の情報から」を「補給実戦隊」と家康等は軽く見ていて計算に入れていなかった事にも成る。
これを計算に入れていれば、この「陣形」は「浜松城を背にして北向き」にする筈であった。
これであれば「武田軍の本隊」のみならず「山県軍の別動隊の動向」も「空の浜松城」をも「戦いの中」に組み込める事と成る。
そもそも、「織田軍」が「援軍」を廻そうとすれば、「都田川の姫街道・8k-2h」を通過しなければならない訳であるから、その「三方ヶ原」の前に織田軍は「堀江城の武田軍の本隊」と「側面」を突かれて決戦をしなければ成らないし、又、下手をすれば「山県軍の別動隊の動向」に「正面を突かれる事」もあり得て、更には「山県軍の別動隊の動向」で「松平軍」は浜松城から出て「織田軍に合力すれる事」にも成れば、「山県軍の別動隊」に「浜松城を取られる事」もあり、「浜松城を出る事」は絶対に戦略上は出来なかった筈である。
従って、史実の通りに「織田軍の援軍」はあり得ないのであるし、無理に「浜松城の援軍」に向かえば「北三河」が落とされている現状では、北から「織田軍の左横腹」を突かれて進む事に成る等で現実は出来ないのだ。
つまり、この「自明の理の戦略状況」から元より「織田軍の援軍説は無かった事」に成り、当初より「信長」は「軍目付・軍監」だけで「南三河と西駿河の事」は治めて「時間稼ぎ」をする「目論み」であった事に成る。
其れも「織田軍」の「浜松城援軍の時間稼ぎ説」では無く、「織田軍」の為の「西三河攻めの時間稼ぎ説・昔からの領地続き争いの西三河」であった筈である。
つまり、これは「家康の思考」の中には「織田氏の援軍は無いもの」として、然る事乍ら、最早、余りにも「西三河」に「視点が行っていたと云う事」であるのだ。
その結果として「額田青木氏」が無理に呼び寄せられた「浜松城軍議で妥協案が出た事」から、これを読み切る事が出来なかった「美濃守備軍の平手軍・汎秀戦死」は、「信長の命に反して合力する事」と成って「平手一族」に対して「信長から強い叱責を受ける事の始末」と成ったのだ。
この「筆者」、即ち「額田青木氏の指揮官の考え」の「経緯の分析説・陣形の分析説」から観ると、故に「武田軍本隊と別動隊の大軍」も「北の三方ヶ原・補給拠点」にして、上記の「二拠点化戦術の常道手段」の通り「浜松城を陣取る事」にして構える事に成っていた筈であると説いている。
唯、確かにここを「本陣とする説」も考えられるが、地理的や地形的に「遠江の入り口の堀江城」を超えて「中に入らせる戦略」は常道ではないし、そもそもそうであった場合は「堀江城攻めは無駄に成る事」に成り、その意味が無くなるだろう。
そもそも既に、「浜松城の周囲全域の出城」を落とされていていれば、自然と「補給路を断たれ事で「浜松城は落ちる事」は「時間の問題」であって、「攻め落とした西駿河の安定の補給路」と「北三河攻めの補給路」を「三方ヶ原」に「大規模な補給拠点を造る事」さえ出来れば「総西攻めの為」にも「無駄な戦い」はしないであろう。
後は、「孤立した松平軍」に執っては密かに「海からの補給支援・南」に頼るしか無くなるのだ。
当然に「信長」も同然にこれを救う「強い水軍も持っていなかった事」の為に「充分な補給路の無い所」に「援軍を出す事は自らの首を絞めるだけ」で当初よりその「心算」は無かったのだ。
注釈として、前段でも論じたが、故に記録にある様に、この時、「伊勢水軍・伊勢衆は調略を受けなかった」が一部の小さい「尾張衆の知多衆」だけは受けたのであり、それと「熊野水軍・調略を受けた」に「調略」を掛けて来たのだ。そして最終は「熊野水軍」は調略に乗ったのだ。
此れには一つ問題があって、当時の水軍にはその「厳しい縄張りの掟」があって果たしてこれを破ってまでも浜松沖まで行くかは不可能な問題であった。
それは他の水軍から掟を破った事で「総攻め」を受ける事に成る。
背後から「伊勢水軍など軍団」から突かれればそれこそ戦わずして壊滅で憂き目を受ける。
何故ならば出過ぎた「熊野水軍の補給路」を接水運組合ので前段で断てばよいだけである。
通説が解いている「熊野水軍説」は100%あり得ず、又その勢力からも「紀伊水軍」や最大勢力を誇っていた「摂津水軍」の「組合連合軍を敵に廻す事」は不可能であった筈である。
当時は「堺に事務所を置いていた水軍組合」は一熊野地方の熊野水軍が幅を利かせる程では無く「絶大な権力とその勢力」を持っていた史実があるのだ。
従って、「熊野水軍の利用」は「信長のデスチャー」で現実的では無かったのだ。
さて、だからところが、「武田軍」には山国であった為に「陸揚げ」を遮るだけで「海での水軍・最大の欠点」は無かったのだが、そもそも“海で戦うその必要性は無かった”のだ。
結局はこの「水軍説」を根拠としている「熊野水軍説の通説」は合わないのだ。
さて、ここで「伊勢水軍の保護」の下で「摂津の水軍組合の一員」と成ったとする「本論」の「駿河水軍の青木貞治」の「キーポイント論」が出て来るのだ。
「駿河水軍の主」として育った「二俣城の副将の青木貞治の存在」は松平軍が求める「海からの支援・南」に執って“最大の重要ポイントの役目”であったのだ。
だとすると、「松平軍」には「駿河水軍の青木貞治の存在」は、「戦略上」では極め大きかった筈であるが、ところが「旗本の羨望」で実際上は「二俣城の副将の扱い」まででそれ以上の「その正統な扱い」を受けていなかった事なのだ。
「副将の青木貞治の存在」のそのものでは無く、その「異様な影の背景・旗本」はこれを敢えて認めようとしなかった事」にあったのだ。
そもそ、海から最も遠い「二俣城」に追い込めていたのだし作戦上からどう考えても変である。
史実の判っている後勘から考えても「軍としての指揮官の能力」を疑っていただろうし、駿河青木氏の貞治は当然の事として、「額田青木氏の指揮官の貞秀」から観ても大きな疑問を持っていただろう。
当然に、この「三河旗本羨望」とも成っていた「背景の一つ目」には、「青木貞治」に繋がる「額田青木氏の南下国衆の銃隊・伊勢の裔系」にもあった。
更に「背景の二つ目」には、「伊勢青木氏の財力」とその「伊勢シンジケート」と「伊勢水軍」は「海からの支援・南」を可能に成ら占めるにもあったし、その「実質の武力行使」では「秀郷流一門の抑止力の存在」が厳然とあった。
次の「背景の三つ目」には、「海」では「青木氏族」として「東は伊豆相模」まで「西は摂津瀬戸」に繋がっているのだ。
この総合力があったとして、この「三つの背景を実現させしめる手段・イ」は次の様に成っていただろう。
その「手段・イ」が果たして可能ならしめるのか検証して観る。
先ず、地形的には「馬込川・最狭川幅60m」より入り北に船で8k遡上し、そこで、陸路の真西に「六間通り」を1.5k経て真っすぐに「浜松城」に入れる。
故に地形的には「補給路」として充分に可能であった。
然し、ところがこの「三方を囲まれている場合」のこれを「可能ならしめる警備・武力」に付いての事も「松平側」には全くなかったのだ。
「武田氏」はこれを抑えれば「補給路の断絶」は可能となるし、奪取する事も容易に可能であった。
ところが、こんなに「重要な事」なのに「商記録」や「資料」や「手紙の行」や脚色編集されていると云えども「三河記録」にも、全くこの事に付いての影も形もが触れている処が全く無く、且つ、そもそも資料記録が遺されていないのだ。
間違いなく、「青木貞治の手」で駿河水軍・伊勢水軍の支援」を使ってこの「補給路作戦、又は計画」を実行していた筈である。
それは「東からの秀郷流一門からの補給路の作戦」も考えられただろうが、それに関わる様な記録や資料とそれを物語るような語句や行等は不思議に全く何もないのだ。
この「松平氏の恥辱と成るような資料一切」が後で消された可能性がある。
つまり、筆者が論じたい事は次の事である。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊・300銃隊+50荷駄隊」を「吉田城の守備隊」から、突然、「当初の国衆約定」と異なり「浜松城」に呼び出した。
そして「軍議」に於いて「二つの事」を命じられそうに成った。
その目的の「一つ目」は、「籠城戦」を止めて野戦と成った場合に、その「陣形・鶴翼」の中心に「南下国衆の銃隊・300+50荷駄隊」を「実戦隊の中心」に据えて「不利な形勢」を変えて勝利出来る様にする事であった。
確かに、これでは「鶴翼の陣形で効果を発揮し勝つ見込み」はあったが、「額田青木氏の南下国衆の銃隊・300+50荷駄隊」にも、「雑賀根来傭兵軍団」と同じくそれなりに無傷では行かずに「大きな犠牲を伴う事」は必然の理であった。
然し、これはそもそも「国衆と成った時の約定」とは違う。
結果は、前段でも論じた通り、これを断り、「城」より放り出され、意味の無い「一言坂偵察」として派遣された経緯と成ったのだ。
目的の「二つ目」は、「籠城戦と成った場合」に本論上記した「伊勢と武蔵の協力」、つまり、「水軍に依る補給路の確保」と「補給の態勢造り」にあった様でこれも断ったのだ。
確かに「水軍を持ち得ない敵である事」から「戦場域」では襲われる危険性は少ない。
然し、既に「武田氏の手中」にあった「同族の信濃と諏訪の安全」と、片脚を掛けていながら「中立」を見せている「伊勢の安全・掟に依り直接侵攻は無い」は保障できない。
取り分け、「信濃と諏訪の安全」は、そもそも既に「武田軍中」にあって侵されている事から、これを盾に脅して来る事は充分にあった。
既に「筆者・額田青木氏の指揮官の考えとしてみる」は「脅しや牽制」に付いては「信濃」を介して事前に有ったと観ている。
筆者は、「松平氏の戦い」に必要以上に肩入れする必要も無い故に即座に断ったと観ているのだ。
目的の「一つ目」を遣らないのであれば、目的の「二つ目」も遣らないのが「理」であって、この逆の事も云える。
ところが次の目的の「三つ目」があった。
それは、「額田青木氏」の「基」に成っている「西」の「伊勢の影の勢力・伊勢シンジケート・伊勢屋を含む」と、「駿河青木氏」の「基」に成っている「東の武蔵の秀郷一門の勢力・地場産を扱う商い・長嶋屋等含む」とを、「背景」にする為には、この「二つの抑止力」を「松平軍が獲得・合力」が成立出来得れば、「浜松城の籠城戦」は充分に勝てると確かに見込める。
そもそも、「軍議の為」に態々三河の「吉田城の任」を解き呼び寄せたのであるのだから、「松平軍の基本戦略」は、その“「二つの象徴を味方にし呼び寄せたいと云う事」”では無かったかと観ているのだ。
そして、そこに「額田青木氏・伊勢青木氏裔系」と同縁族の「駿河青木氏・秀郷流青木氏裔系」を「背景に着ける戦略」であったのではないか。
然し、この「三つの何れ」も断ったのだ。
「結果の答え」は「旗本との軋轢・前段論じた」が在った以上は論じなくても解る。
この「軍議の末」の「籠城戦」は、これで論理的に崩れ、「野戦を選ばなくてはならない事」と成ったのだと考えられる。
その表れが、「補給基地の三方ヶ原」にあって、前段で論じた通り「密かに助け合う額田青木氏と駿河青木氏の行動」と成って現れたのだ。
これ等の「統一した行動」は、「伊勢青木氏裔系」と「秀郷流青木氏裔系」の「女系族の裔系の青木氏存続の氏是の所以」から成したものであったのだ。
ここで余談だが「浜松城の軍議」では、「青木貞秀・指揮官」も「青木貞重・額田青木氏の差配頭」も「青木貞治・額田青木氏」も「青木・・のこの三人の指揮官」も「嫉妬羨望の旗本」からの「相当な身の危険」もあったのではないかとまで観ている。
その最悪の場合には、「額田青木氏の銃弾」は「城」に向かって一斉に炸裂していたであろうし、其の「後の事」として「松平軍」は最早無く成っていた事にも成っていただろう。
そして「額田青木氏」も「駿河青木氏」も「安全な伊勢」に近い「三河伊川津」と「秀郷流一門」に近い「遠江・駿河」に直ちに戻ったであろう。
「三方ヶ原」での「上記の経緯の結果論」は、上記の「三つの何れの結果と同じであった事」を考え合わせると、この「歴史観」は先ず間違いでは無かった事に成るだろう。
そもそも、「武田軍」も「織田軍」もこの場合の方が傷を得ずして何事も無く都合は良かった筈と成る。
ところが結果として、「額田青木氏の銃隊」を呼び寄せたが「思惑」が外れて「額田青木氏」だけは“「城外に出された事に成った・史実」”のだ。
この直前までは「武田軍・早期奪取」にしても「松平軍・時間稼ぎ」にしても両者ともに戦略的に「同じ考え・籠城」であった事に成る。
然し、「額田青木氏」を訓練させて「近代銃」を持たせ「信長の戦略」で消失した「伊勢と伊豆間の中継点」の「再構築」を目論み「伊川津・渥美湾の制海権獲得」で行おうとして、その「権利」を獲得した「伊川津国衆としての約定」にも反して「呼び寄せられた軍議」で決然として断ったのだ。
ところが、当初は「通常の考え方」からすれば「野戦」では無く「籠城」と観ての「時間稼ぎ・松平軍」であったと観ていた。
この為に「紛糾した軍議」から外された「額田青木氏の銃隊」も、最初は「情報」の無い中で作戦的には予想通りに“「浜松城での籠城」”と考えていて、外された「軍議の結果の命令」を受けて、事を荒立てて行き成りに「伊川津・吉田城」に帰る事もせずに駿河青木氏の事もあって「様子見をする事」と成ったのだ。
そこで何れにしても、兎も角も「武田軍の動向を探る・意味無」の為にも「偵察隊としての名目の任」を受けて仕方なく「一言坂・前段の遭遇戦」に向かったのだ。
其の後、その「堀江城の途中」まで後尾に着いてそれを「追尾する形での過程」で、そのつもりで「様子見の追尾」では居たが、その途中で、“其の後の浜松城で軍議に異変が起こっている”のを、「余りの速さ」で「内部機密情報・駿河青木貞治から忍者を通じて」で情報を逸早く獲得し「異変」に気付くのである。
この「意外な展開の経緯」から、一応は「偵察隊としての名目命令」を受けた段階で、それを“断った以上は「籠城戦に成る」と把握していたので、武田軍本隊の追尾途中では、「駿河青木氏の青木貞治隊」を護る為に未だ「浜松城周辺に戻る予定・額田青木氏」ではあった。
然し、そこでこの「情報」を得て「駿河青木氏を救う」のは「三方ヶ原」しかないとしてそれに向けて踵を返したのだ。
この「青木貞治の情報」の中には、「三方ヶ原と指定していた可能性」があるからだ。
何故ならば、「青木氏族の将来の事・子孫存続」を考え合わせれば、“「浜松城・激戦」”よりも、“「三方ヶ原決戦」”を選んでいた可能性があるからだ。
結果として、その様に上手く運んだのは、「この駿河青木氏との情報の打合わせ」に依るだろう。
そうでなければ「戦場で無傷で救い出す事」は出来なかった筈だ。
結果として、「軍議の拒絶反発」での「偵察隊として命令・表向き」を受けていながらも、寧ろ、この「表向き命令」で「自由行動を採れた事」が幸いしたのだ。
そうでなければ、「伊川津国衆」と云えども「軍議の命令」に縛られていた筈である。
だから「三方ヶ原から伊川津」に直接戻った「額田青木氏」は「国衆」を直ちに辞し「開発業と陸運業と殖産業」に勤しんだのだ。
(参考として「上記の経緯」から観て、「絆の貞秀・貞治・貞重の呼称の経緯」は起こらなかった筈だし、「前段の額田青木氏の銃隊の差配頭の貞重の呼称の推論」に付いては、“「貞重の呼称」”がこの「状況証拠の経緯」の中で出て来る事は無く間違いは無いと考えられる。
故に此処では貞重を使う事にする。)
唯、未だ、「陸運業等の形」は整えたとすれど「松平氏の行く末」に依っては「渥美湾の制海権の獲得の行方」は「2年後の長篠結末」までには「既成の事実」としながらも夢中の中にあったのだ。
「名目」は「籠城戦の為の情報収集の偵察隊であった事」に成るが、そもそも「一言坂の武田軍の本隊の動向・城から見えていた」が、その「目的」と成るが、前段の検証でも「海抜300m城の天守閣」からは充分にその行動は観えていたのだ。
だからこの「名目偵察」は「完全な名目で在った事」が解る。
そもそも、この「目的」はそれが「本来の偵察隊」であり、一度、「松平軍」は「野戦・一言坂」に出て戦って敗戦しているので、「本隊を動かす事」は出来ず「吉田城守備隊」にいた「伊川津国衆と成った銃を持つ額田青木氏」を呼び出して、それも「銃力のある南下国衆」にこの「命令」を出したという事に概要の経緯は成る。
其処にこの「重点」があって、そもそも、検証ではその「一言坂・17m上」は「10k先」の「浜松城・天守37.5m」からは「20m下」に障害物無くはっきりと見えていた筈なのだ。
間違いなく「偵察の意味」が違っていたのだ。
「偵察隊を名目」に「城」から放り出されて、その「松平軍」が既に「野戦」で負けていた「武田軍の本隊の存在する一言坂」に先ず向かったと云う事であるのだ。
この「呼び出した後の軍議」では、「三つの命令」に従わなかった「南下国衆の銃隊」に向かって“「意味の無い偵察隊」”としたのは、そもそも“「意味の無い」”に意味があって、「武田軍に殲滅される命令」を「罰として下した事」なのではないかと観ているのだが結果は逆に何とその銃力で勝利するのだ。
一度、家康は「野戦」をしてその実情は命の危険から脱して敗戦し、故にその力は充分に知っているし、「城」からも観えている各所で戦った「武田軍」でもある。
「今更の偵察」では無いだろう。
ところが、その「結果」は逆であって「勝利」してゆっくりと警戒をしながら坂を下りて「浜松城の斜め横の丘」に陣取った「史実」と成るのだがこれも城から観えていたであろう。
「額田青木氏の銃隊の今までに経験してこなかった威力」を知って「武田軍」は追尾して来なかったのだ。
当然に松平軍も「城」からこの「銃撃の状況」も充分に見えていた筈である。
「城から追い出した張本人の旗本ら」は、内心、「南下国衆の銃隊」に対して「初経験の恐怖」を抱いていたのではないか。
「筆者・額田青木氏の指揮官の目」は、これを観て「城の東の丘」に隠れた「南下国衆の銃隊」を、再び「野戦の三方ヶ原の陣形」に加えた時に、旗本達は「やり返し」を受けて“自分たちの命が危ない”としたのではないか。
当然にそうなるだろうしならない方が可笑しい。
これが「軍議の事の出来事・命令拒絶」もあったが、この「恐怖」から初めから「三方ヶ原の不思議な陣形」などに一切に加えなかった理由もここにあったと観ているのだ。
故に、その「陣形」の中で「額田青木氏の銃隊」が「青木貞治隊だけを救い出した事」にも口を出せなかったのだ。
普通なら他も救い出すだろうし、其れもせずに直ちに「戦線離脱」してそれも「吉田城・国衆の本来の役目」では無く「伊川津」に引き上げて仕舞ったのだ。
この意味は大きい。
これは、今後、「松平軍」に「伊川津国衆として関わらない」とする姿勢を示した事と成るだろう。
そうなれば、今度は「伊川津」で「弱った松平軍との戦い」と成るが、それは起絶対に起こらない理屈に成る。
それは次の四つの事だ。
一つ目は「三方ヶ原の敗戦」の後に余力は無い事。
二つ目は「銃隊の威力」に対する恐れがある事。
三つ目は「家康の配慮」でこれを止めた事。
特に、この三つ目が重要で、寧ろ、「国衆としての名目だけの武力」ではなく「周囲」に対して“「敗戦後の三河」には未だ「銃の威力」があるぞ”とするもので、「織田軍と武田軍」に対しても「その誇示をして利用しよう」とし牽制したのでは無いか。
四つ目は「額田青木氏の背後」にある「秀郷流青木氏の武力」と「伊勢青木氏の財力」の「誇示と今後の利用に在った」と観える。
その為にも、「敗戦後」の直ぐにも如何にも「三方ヶ原の功労者」の様に見せつけて「伊川津の国衆・額田青木氏で伊勢をも誇示」をも目的として、そして「渥美湾の制海権の利用」と「三河の開発業と陸運業と殖産業」を許可して、この関係性を松平氏は世間に対して強く見せつけたのだ。
その後の現実には、検証すると「三方ヶ原の敗戦後」にこの様に「四つの経緯」は動いて行くのだ。
「三方ヶ原の戦い前と戦い後」に「三河旗本」などは、“自分たちにも銃口を向けられるのではないか”と、「南下国衆の銃隊」に対して「武田軍以上」に「恐怖」を抱いていたのではないか。
この事は、兎も角も「伊川津」に戻ったが、何と「羨望の先頭を走っていた伊川津国衆」から伸し上がった「下級旗本」が、なんと「田原と豊橋間に住み着いた事」から、尚更の事と成った。
そこで「古神明社」を境にして東西を東に向けて「壁」を造りここ「銃を構えた防衛線」を敷く事に成ったのだ。
これ以上に「無駄な摩擦を避ける意味」でも「額田青木氏の思惑」にもこの感覚は強くあったと観ている。
現実に、その後の「旗本の羨望」は下火と成り、その後の「額田青木氏」の三河に貢献する等でも、この「旗本等」は物が言えなく成り、この「思惑」は非常に効いたのだ。
唯、この「羨望」は「享保期・享保の改革先導」に成って再び噴出する事と成ったのだ。
物を云えば、「主君行動に異議を唱える事」に成るなどの風潮が享保の幕府内に興ったのだ。
その「不満の捌け口」と成ったと云う事だ。
唯、一人だけ恣意的なのか本気なのか「織田領地との係争地の西三河で反発・宗教一揆など興す・額田青木氏が伊川津国衆に成っている時から」をした「旗本」がいた。
この時、一時、家康の不満から「三河から引き下がる事をした者」が居て、其の後にこの「者・本多・蜂屋等」は、「旗本重臣の大久保氏・伊川津元田原」の「計らい・参謀に」で「三方ヶ原後」に「影の活動家の参謀・意味あり」と成って、こっそりと「旗本」に戻った者が居た事が判っている。
筆者は、江戸期に成って再燃するも一時的に通説と違い恣意的に動いたと観ているのだ。
「額田青木氏が伊川津の国衆」に成った事を観て、“これは拙い”としてこれに「圧力」を加える為に「織田領地との係争地の西三河」に、「織田氏」は「宗教戦争・口実は別」に見せかけて「圧力」を掛けて来たと考えられる。
それ程に「伊勢青木氏の財力と水軍力」と「額田青木氏とその銃力」と「秀郷流青木氏の武力勢力」は、無視できない「絶対的な勢力」として「織田氏と松平氏」には浸みこみ、更に「伊川津の国衆と成った事」で無視できない「脅威」と観て一目を置いて数年燻っていたのだ。
それ故に興った「旗本を巻き込んだ関連の一揆」であって、この時の感情が「浜松城の軍議・軍監の意中」の中に在ったと観ていて、始めから「織田氏は援助や大きな犠牲を払らう事」のつもりは無かった筈であったのだ。
その為にも「織田軍」に執っては、先ずは「武田軍の二拠点化」を防ぐ為にも、又「補給の陣形・織田軍」を充分とさせる為にも、「最低限に西三河・最大は南三河」を制しておく必要があったのだ。
だから「松平軍」には、これをさせない為にも「三方ヶ原後」に上記のこの「青木氏の三つの勢力」を「南三河の伊川津に留め置く戦略」が必要であったのだと考察する。
さて話は戻って、だとすると、「額田青木氏の銃隊」は「武田軍」をそもそもの「敵」と観ず、「山県軍の別動隊」は直ぐ横の「鶴翼の側面」から突破して来た事から止む無く、「自らの身を護る為」と「青木貞治隊を救い出す為」にも「額田の近代銃の銃口」を彼等に向けた所以と成り得る。
結果は、再び「一言坂で経験している武田軍」に向かって「弾幕」を張って「無事に救い出す事」は出来たが、「山県軍の別動隊」に仕方なく「大犠牲を負わした事」には成ったと云う詳細結末と成るであろう。
だから、「救い出した後」に「武田軍の本隊」に向けて、更に「銃口を向ける事」も充分にあり得たが、それもせずにすぐさま「戦線離脱」をした所以なのだ。
更には、故に「三方ヶ原後の掃討作戦」でも、逃げ込んだ「駿河青木氏の盤田見附の西光寺の検索」も、又、経験した「銃の危険」を避ける意味でも無事に避けられたのだ。
「銃に対する危険」を考えて深く捜索を敢えて避けたと観ているのだ。
次に更に、ここでも「詳細経緯」として「南下国衆の青木氏からの疑問」があるのだ。
それは「天竜川の圷」に出来た「浜松城」から同じ圷内の「真東11k先の坂下・一言坂―盤田」にいた「武田軍の本隊」を「浜松城」からはハッキリと「敗戦後の動向」は目で観えていた筈である。
この「敗戦した一言坂」から「盤田の西光寺・青木貞治菩提寺」までたった真東1kにあるのだ。
要するに「一言坂の戦場内」である。
其れなのに、経験し観えていたのに、且つ、敗戦しているのに、今更“「偵察隊」とは何なのか”である。
そもそもこれでは「偵察のそもそもの意味」は無い。
つまり、詳細経緯としてこれが疑問を解く最大の解明点なのである。
結局は、結論として、「松平軍」では「兵に依る時間稼ぎは無理」と観て、当初は“「銃隊」で「時間稼ぎ」をする予定”であったとも考えられるが、然しこれも断ったのだ。
上記が「四つ目の軍議の命・時間稼ぎ」である。
果たしてこれもそうであろうか、これも検証する。
確かにこれであれば間尺は合うが、「青木氏側の断片資料」から観た処では、これは「後付けで脚色した事」に成り、この説はあり得ない。
そこで、この時の「詳細の状況」を戻って検証して観た。
つまり、「軍目付・軍監の意見」の通りの「籠城戦」に近い「時間稼ぎ」をして「同意」を得ようとしたとするのは経緯からしても充分に考えられる。
それにしても「家康命拾いの野戦・1度目の一言坂」も、且つ、二度目の“「銃力で押し返した銃隊」”も史実であって、それは当初より危険な事ではあった。
其れなのに、直ぐその後には、「武田軍の本隊」が「山県軍の別動隊」より、先に「松平氏側の補給拠点確保と云う野戦を選んで仕舞った事・上記の三つの行詰」であって、今度は流石に「同意・織田軍軍監の同意・上記の意思無し」は「史実の通り」に得られなかったのだ。
この様に「松平軍」は三度も失敗しているのに「軍目付」としてはそもそもOKは出せないだろう。
要するに「無理な一言坂の時間稼ぎの実行」で、これを主張していた「軍目付・軍監・3氏の援軍・1.5~0.3万説は無理・後付け説」の「安易な興味本位の援軍説」もあるが、そもそも、「軍監」とは「援軍」を以て参加するのではなく「意見の具申」と「謀叛の見張り役」として参加するものである。
この点から考えて、これは「織田軍の軍監の守備隊」としては納得できる充分な程の多すぎる軍勢説であったが、これがそもそも「尾張国元・お膝下」の「尾張と美濃」に遺した「二つの守備隊・記録に記載・この説では国元が空に成る」であった。
然し、ここから果たして「三河・駿河」に「援軍」を割いて「戦記通りの兵数を送る事・1.5~0.3万」は120%無いだろう。
精々、この「100から200程度の守備兵」で当時の世間の原則通りの「1騎2将の兵数」にした筈である。
現実には「三軍監」にもされていない「平手汎秀・意見が違った」だけを残して戦い3日前に去ったのは事前の建前を実行したに過ぎずこの限りにある事に在る。
そもそも、この「援軍」も「美濃・尾張の留守中にする始末」では無く、それこそ名目上とすればこの「通説の数」は勿論の事で、その「援軍」そのものが「本末転倒の援軍」であった筈であり、この通説論は間違いなく「後の脚色論」であるだろう。
筆者が「武田氏」であるのなら、つまり、「浜松城」を牽制しながらも外に誘い出して、其れなら空と成った同然の「背後の尾張と美濃を攻め落とす方」を先にして、戦略上ではその後に「浜松城を攻める方が有利」と考える。
要するに「誘出作戦」である。
「史実」はそれをしなかったのは「軍目付の守備隊を一兵も動かしていなかった事」にも成るのだ。
同盟を結んでいる以上は、「三軍目付・軍監・林秀貞・佐久間信盛・水野信元」として「代理の者」を差し向けた程度であろう。
それが重要な事は「戦死したのは平手汎秀であったと云う事・病弱でこの後父は早々と汎秀を残し撤退し後に信長に追放されるも、本人もその能力で家康から侮辱を受けたが、この後に“汎秀を見殺しにした”とするは「信長の大義の名目理由」に間違いなく成る。
然し、「松平軍」に「本末転倒の援軍を送る事」は出来る事は先ず無く、実際は「軍監」を護る為の「100にも観たない数・一騎の50との説も」だったと考えられるのだ。
現実に多くなれば成る程に、それだけ「援軍」を「浜松城の中に居れる事」は「面積と補給などの点」から考えても無理であって、そう成っていれば「武田軍一言坂母待つの通過時」には「外の野営」では潰されていた筈だが、どの戦記にもこの事は一切触れられていない。
筆者は、故に殆ど「代理の軍目付・軍監」だけの100より少ない「数十名・50」に過ぎなかったと考えている。
殆どはこれは当に江戸期の「軍記戦記・脚色漬け・面白おかしくする為・流行した」の「後付け説」である。
筆者は、「吉田城の守備隊」としていた処を呼び出され、「軍議」で「初期の契約目的」を考え「国衆契約の条件の違約」から、間違いなく「軍勢の中心に据えらる事等の三つの命令」を拒絶したと考えられるのだ。
故に、この事で外に放り出され「半殺し目的の疑問の偵察隊」と成ったのだ。
然し、「額田青木氏の近代銃」で「武田軍の本隊」に完璧に勝ったのだ。
その様を城から観えていたのだし、「旗本」はこれでも「恐怖」を抱いたと考えられる。
上記の「四つ目の軍議の命・時間稼ぎ」は、自分たちが何度も負けている「武田軍の本隊」に対して、この「額田青木氏の南下国衆」の「一言坂の完全勝利」で、「松平軍の時間稼ぎの思惑」は完全に無く成ったのだ。
要するに、「南下国衆の犠牲」で“銃撃戦で時間が稼げる”と観ていた事も潰えたのだ。
これは「命令拒絶」では無く、「独自行動」で解決したのだ。
其の後に「旗本」は、「銃口」を自分たちに向けられた場合の“身の危険と恐怖そのものを間違いなく抱いた”であったろう。
「其の後の行動」も、“記録通りに自由に行動している”のはこの所以であろうし、「戦線離脱」も、そして「伊川津」に戻ったのも、「陸運業・殖産業・開発業」にすぐさま転身したのも、この事による“「自由行動」”に基づいているのだ。
故に、「絆での結ばれた青木貞治」も情報提供し続けたのだ。
そして「誰の命令」でも無く“「命の危険を冒しての自由行動」”として「貞の絆の救出」をしたのだ。
それも、普通なら、戦線からの救出後、盤田見附まで届けて引き下がるが、「三方ヶ原救出」だけで留まり、「盤田の西光寺までの救出」では無かったのだし、更には普通なら、“「青木貞治隊以外」にも救出したらどうか”と云う考えも起こるが、「壊滅混乱の中」でも旗本を救出せずに引き上げたのだ。
「自由行動」であったとすれば、当然に、「三方ヶ原の停戦後の2年間」の間に「青木氏族」は、罰せられるか、「旗本」から「口述攻撃」をされていた筈である。
でも、全くその逆であった。
そもそも、「罰する事」は、「国衆」で無くても「三河」に居る限りに於いては出来た筈だ。
実際には松平軍にはその力は無かったし、筆者は家康の計算が合ったと考えている。
然し、「額田青木氏」に執っては国衆から抜けて「伊川津」に居続ける事は彼等に執つては“「恐怖」”でそもそも出来なかったのであろう。
それは「彼等の脳裏」には、「拭う事の出来ない銃の脅威」と、「弁解の着かない青木氏族の格式」があったからなのだ。
「国衆」から辞しても「護身用として持ち続けた銃」は、この“いざと云う時の「抑止力」”を働かせたのだ。
だから、この「背景」があるからこそ手放さなかったのだし、その後の事にもこの「銃の抑止力」を持たせたのだ。
「三河旗本」に執っては「歯ぎしりの限り」であったろう。
此れらの根底には、「約定」を破り「呼びつけて置いて外に放り出した事」があった事も否めない。
但し、寧ろ、後勘から観れば「青木氏族」に執つてはこれの方が良かったのだ。
先ず、それには「伊川津国衆」を辞めて「陸運業等の商族・企業家」に転身していた事にある。
つまり、「抑止力の強い民間の商人と成った事」で、「表向き」に罰し攻め立てる事は出来なくなった事である。
寧ろ、それには、戦後、「敗戦で弱った松平氏」を「強める効能の方」に「家康自身」は舵を切ったのだ。
寧ろ、「秀郷流一門・青木氏の抑止力」と「伊勢青木氏の財力と抑止力」を味方に着けたかった事であった。
それには、“「青木氏族」にそれ相当の実利を与える必要があった”のだ。
「伊勢青木氏」には、要求通りに「渥美湾の制海権」を認め、「伊勢秀郷流青木氏」には、「三河の開発業の権利」を認め、「東の秀郷流青木氏・駿河青木氏」には、「青木貞治の裔系」を「家臣」にして引き上げると云う「策・御側衆旗本」に出たのだ。
その事で、「三河の民」は富み、「松平氏」には当然の事として「莫大な税と献納金」が入り、「急速に松平氏の復興を遂げさせる事」が出来、結果として他国から「商いの流れを呼び込む事」が出来ると踏んだのだ。
当然に、「青木氏族」にも「同じ事・相互利益」が云えたのだ。
「駿河青木氏」のみならず「一族の相模青木氏等」は「水運と陸運の復元」で「商いの還流・長嶋屋が窓口」を「武蔵・越後まで波及」に呼び込み栄えて富むのだし、現実に富ましたのだ。
「三方ヶ原の軍議の命拒絶」をし「額田青木氏を救った後」に「伊川津に独断で戻った事」が、この時に、弱っていた「三河軍の旗本等が攻めて来ると云うシナリオ」が考えられたが、上記の通りに無かったのだし、寧ろ、「逆のシナリオ」と成ったが。
では何故なかったのかである。
記録が見つからないが、恐らくは、普通のシナリオからは伊川津国衆として命令拒絶の形が出来ている以上はあるが、筆者は次の事で「三河軍の旗本等が攻めて来ると云うシナリオ」は最早無かったのだと考えているのだ。
当然に「事前の銃の恐ろしさ」を経験していて無理だと云う事は判ってし、「家康の命」は違っていて、それ以上は出来なかったと云う事は判るが、その経緯の中には次の事があったと観ているのだ。
それは、一つは[渥美湾に伊勢水軍を配置した事」と、二つは「藤沢まで秀郷流青木氏を主軍として秀郷流一門の軍を廻した事で牽制したと観ている。
これは「伊勢青木氏の資料」の何処かにその中にしか遺されない記録である故に解明は難しい。
其の上で、明治35年まで3度の大火を被っているし、「室町期の2度の紀州攻め」と「江戸期の神明社・春日社と清光寺・西光寺の幕府没収」で記録資料は飛散している現実もある。
これには「伝統の大事な記録」を隠す為に南紀と南勢の「旧領地の家人や氏人の家」に移されていた現実があって、故にこれ等に関する資料と記録は未だ見つけられていないのだ。
然し、筆者はこの時の「青木氏一族」が「非常事態の経緯」として普通に考えれば「上記の二つの事」を採ったと観ているのだ。
「額田青木氏」と「駿河青木氏」を再興して力を持たせ「三方ヶ原と云う災難」に巻き込まれた事態に何もしない訳では無い筈だ。
この詳細は前段を参考にして頂くとして、そもそも「伊川津と云う土地」は「有名な不毛の地」であり、「奈良期からの神明社の関係」で維持していた「伊豆まで補給路」を信長に寄って寸断されたとしても、依然として松平氏との間で「渥美湾の利用権」を獲得し「渥美への糧の補給路・片道2時間」を構築していた。
この事を以てすれば、「非常事態には対処しない事」は100%あり得ないだろう。
急遽、「伊勢水軍」を渥美湾内海田原に廻して補給も含めて態勢を構えたと考えられ、「額田青木氏」は「渥美半島の細長い半島」の「田原と豊橋の境界」にこの「銃隊」を東向き構えて防御策を執った事も判る。
この「田原の古神明社」の内海側には三方ヶ原の前には「3人の土豪・後に旗本・大久保氏等・羨望の主導者」が田原城を築いて入植していたのだ。
従って、この僅か西側に「銃隊の防御策」を東に向けて半島を南北に横切る様に構築し、背後に「東三河の駿河青木氏」と「藤枝の秀郷流青木氏」を「牽制策]として構えたと考えられる。
この「三方ヶ原後の牽制策」は、それもわざとらしく無く、それでいて「見せつけ効果を狙ったもの」であったと考えられる。
これでは「羨望の塊の旗本」は元より「松平軍」もその気であって何も出来なかった筈であり弱体と成っている「三方ヶ原後事」とすれば到底出来る事では無かった筈で、家康は「浮薄な旗本の力」を抑えて、「額田青木氏のこの力・銃力とその背後の財力と東の秀郷流青木氏に繋がる一族一門の勢力」を利用する方向に現実的に舵を切ったと考えられる。
「三方ヶ原の後頃」に「額田青木氏の四家・四神明社」の「渥美半島の西側域」に「居住していた地域」と「古神明社付近」の「御屋敷と云う役所・現地役所・地名」には「これらに関する関係する逸話」が遺されていて、その“「家康」がよく訪ねて来ていた”とあり、これは「奈良期からの青木氏の守護神の古神明社を名目上で訪ねた事・裏意は額田青木氏を訪ねた事に成る」を意味する。
前段でも詳細を論じたがこの様な事もあり、「長篠までの2年間」の経緯ては「驚くほどの復興・信長警戒」を遂げたのだ。
何時の世も「莫大な経済的背景」が無ければこの様な事が興らない事は「自明の理」である。
「三方ヶ原の直後」から「三河」で「開発業と殖産業・前段で詳細」に携わり、この為に「伊川津」とは別に「古神明社が存在する3カ所」を「専属の居住地・前段」として「北側の青木村」を始めとして「11カ所・地権を認められた定住地」までも認められているのだ。
これも「伊勢の事お構いなしのお定め書」に繋がった所以の一つでもあるのだ。
要するに短期間で“この得た「財力」で「膨大な戦費」を松平氏は賄い”、「長篠」へと向かったのだ。
「信長」はその後の経緯の戦歴を観れば、東には手を出していないし、故にこの「三河国の背後の経済力・伊勢青木氏・伊勢屋と東の秀郷一門の勢力」を恐れていたと考えられる。
それは「間接効果」を狙っていたと考えられ、「三河の松平氏」を通じて「最低の犠牲」で抑えたと観られ、それ故に「徳川氏の伸長・難癖程度」を“我慢ぎりぎりで見守った”と云う事では無いか。
それ故に、「三河国の背後の経済力・伊勢青木氏・伊勢屋と東の秀郷一門の勢力」が存在する限りに「本能寺の変まで長期間」の“我慢ぎりぎりで見守った”と成るだろう。
この「大きい流れ」は「江戸期」まで続き、「江戸幕府」を「秀郷流一族一門とその青木氏族とその関係一族」は、「幕府官僚族・御家人旗本・家人旗本衆」として支えるまでに至るのだ。
当然に、「伊勢の二つの青木氏」も「紀州藩・全伊勢藤氏が家臣」とは「殖産業」で栄えさせ、「伊勢の事お構いなしのお定め書・天智天皇の不入不倫の権の追認」と「浄土宗の律宗族の追認」を得て、且つ、「紀州藩勘定奉行の指導の役目」までも担い、挙句は「吉宗育て親」まで熟し、「将軍」に「裏・朝廷への働き掛け等」で押し立てるに至る「親密な関係・幕府との関係」は、その皮肉にもその「吉宗で終わる」を維持したのだ。
筆者が論じているのは、この“「基点」”は、「三方ヶ原の戦後の伊川津の行動」にあったと云う事なのだ。
「筆者の見立て」は、それ故に「家康」は、「戦闘戦略家」では無く、「経済戦略家」であったと観ているのだ。
だから、「伊勢青木氏・伊勢屋」と「秀郷流青木氏・長嶋屋」は、上記が物語る様に存命中に於いて、“家康と馬が合った”のだ。
家康の「伊勢の事お構いなしのお定め書の効力」も同時期に低下した事に観られるように、これが「最高潮は吉宗・前段」までであって「最悪期も吉宗・前段」で終わったのだ。
筆者は「三河旗本の執拗に続く羨望」に将又押され、且つ、「吉宗自身」も「奈良期の皇親族・青木貞治に観られるような幕府官僚族」の様な「二つの一族」に警戒したと考えられる。
それ故に、一方で「四掟で女系族で繋がる伊勢藤氏」をそっくりと家臣とした「紀州藩との関係性・紀州殖産業の確立で」を更に「強化・大正14年まで継続・幕末には藩の財政難から旧領地の返還を求められるも・2万両以上債権保有」したものだ。
「額田青木氏と駿河青木氏の前段論」に「三方ヶ原と長篠の二つの戦い」の「環境問題」を中心にどの様な位置に置かれていたかを論じて観た。
この以上の「四つの詳細経緯・前段の追記論」のどの一つを以てしてもでも、流石に「女系で繋がる青木氏族」は、「1千年の歴史」を持つ「女性の持つ鋭い先を観る遺伝子的洞察眼を持って立ち回った氏族であった事」が良く判る。
上記の様に何時巻き込まれていてもおかしくない厳しい環境の中で、取り分け、この室町期末期に於いて生き遺った事が判る。
それは「青木氏族の商い」と「青木氏族の氏力」を最大限に出してそれを利用した「自己開発の銃の保持」とそれを上手く利用しての所以であろう。
この事は「奈良期の親族の佐々木氏族」が「単独で青木氏の一族論」を論じている所以と成っているのであろう。
「お返し」として何時か「佐々木一族論」を論じたいとも思うが。
「青木氏の伝統 70」-「青木氏の歴史観-43」に続く。(118P)
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