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「青木氏の伝統 32」-「青木氏の歴史観-5」

「青木氏の伝統 32」-「青木氏の歴史観-5」 
投稿者:福管理人 投稿日:2017/03/18(Sat) 09:42:15


「伝統シリーズ 31」の末尾

> (注釈 もう一つその理屈があった。
> 「青木氏の三つ発祥源」を継承した「武家貴族」の「賜姓源氏や桓武平氏」に与えた。
> 「徳川氏」は「姓族」である為にこの「資格継承」を有していない。
> それは「開幕の資格」の「武家の頭領」を、「征夷大将軍」だけは渋々認めたが、「朝廷」は頑として絶対に認めなかった。
> 朝廷は、徳川氏が「姓族」であり、且つ「武家の資格」も持たない事も含めて、「朝廷の伝統」を護った。
> 然し、その事で「朝廷の生活源」を押えられた事からその圧力に屈して、「武家の頭領」では無く、「武家の長者」として代替した。
> 「征夷大将軍」は平安期には既に全国統一を果たしているので、既に「有名無実」であり「飾り」にしか過ぎない。
> 要は「武家の頭領」である事が「開幕の根拠」である事に成る。
> 重要な事は、上記の様にこれを朝廷は認めなかったので、徳川幕府は「西の政権の認証」が無い事から、「正規の藩政制度」が採れなかったのである。
> 従って、そこで「朝廷の官位」で呼ぶ「何々氏・・之守の家来・・である」とさせていれば、例えば「松平伊豆守の家臣」であれば”「伊豆守」”とする「国の守護」の「家臣」で理屈は通る。
> 「66国の肩書」を朝廷より金品を渡して貰って「正当な家臣」と成れるようにした。
> 従って、江戸期には権威の無い金品で決まる為に何重にも重複する「・・守」が沢山出た。
> 中には、江戸中期以降は、「国主並み」でもないのに金品で「・・守」が生まれ乱立した。  
> これが、 「金品有無のステイタス」にも成った。)
>
>

「伝統シリーズ 32」

注釈として、ここで疑問が一つ残る。
それは、何故、紀州藩の大半の家臣が「伊勢藤氏」であったにも関わらず、この「四つの奇策」を実行したのかと云う事である。
この事は「青木氏の重要な歴史観」に通ずる。

本来であればしない。決して一族を裏切る事はしない筈である。
況してや、「解雇」の様な状態の「1/10俸禄策」である。
それどころの話ではなく、依って、一部の「上層部の家臣(家老職)」ではあるが、この「四つの奇策」を考え出し実行したが、これを証拠付ける確かな資料が何故か見つけられない。
然し乍ら、検証すれば判る筈である。

さて、この問題の「紀州藩」には、家老は「附家老」と「連綿家老」が居た。
「附家老」は、幕府から派遣された家老で、「旗本の身分」を持ち、「幕府の威光」を背景に権力を握っていた。
これには「安藤氏(3.8万石) 田辺藩」と「水野氏(3.5万石) 新宮」があった。
「安藤氏」は「幕府の高級官僚族」で、「御家人の武蔵藤氏」と、「水野氏」は老中にも成る「将軍家の縁籍族の末裔」である。
ところが、この「附家老二氏」は幕末に奇策の分散策一つに上手く乗じて事前に元々あった「田辺藩」と「新宮藩」を敢えて独立させて、そこに逃げ込んだのでこの策には参加していない。
仮に参加して居れば、「江戸」がこの策に関わっていた事に成り拙い。
「維新政府」からの「悶着」が必ずに出るし、むしろ、表に出ない方が「四つの奇策」の戦略上は「得策」である。
況して、そうでなければ「田辺藩」と「新宮藩」に独立した意味が無く成る。

次ぎに、紀州藩の「連綿族の家老」として、「三浦氏」「久野氏」「渡辺氏」「水野氏分家」が居た。
「三浦氏」と「久野氏」を除いて、「1/10俸禄」では300石に成り、且つ、「青木氏の殖産」にも参加できない立場であり、それどころの話ではない。
其れ故か、「連綿」を引き継ぐ「氏跡目の主系子孫」を明治期以降に遺していない。
「連綿族」であるので「跡目」が無ければ家老には成れないし、相当苦しかった筈である。

一方、「三浦氏 1.5万石」と「久野氏 1.0万石」は「伊勢藤氏」ではなく、「連綿族」で1/10俸禄策でも問題は無い。

後は、「城代家老、或は、その身分」としては、「8氏 (3000石」」いたが、その中に「津田氏(津田出)3000石」が居た。
これ等の身分の者は、「1/10俸禄策」では、「300石程度」と成って、生きる事の限界(250石)にあった。
この8氏の内、「伊勢藤氏」は「加納氏(吉宗の御側用人の家筋)」が一人である。
唯、この「加納氏」は、前段でも論じたが、「青木氏」と共に「二足の草鞋策」を執っている。
「青木氏の縁籍筋」でもあり、並びに「伊勢藤氏」であり、先ず裏切りは出来ないだろうし、「二足の草鞋策」に力を注いだことが判っている。
筆者の祖父の母親」はこの「伊勢加納氏」から来ている。

そうなると、恐らくは、「合議の原則」があるのでその指揮を執っていたのは、「三浦氏」と「久野氏」の二人であったが、此処で異変が起こった。
それは、室町期末期に「紀州根来衆(河内)」で、「楠木正成の末裔」で「津田城の城主」の「末裔津田氏 8氏」の「後裔 津田出」が「藩主の茂承」に登用された。
この「連綿族の二氏」を差し置いて「執政」と成って仕舞ったのである。

(注釈 津田氏は紀州藩の「布衣の頭」の家柄)

この「連綿族の二家の系譜」では、明治期以降に少なくとも四代にわたり子孫を遺しているし、「連綿族のトップ」ではあるが「伊勢藤氏」ではない。
唯、この「連綿族の二氏」が意見の違いから「藩主の茂承」から一時外されたが、津田出が「徴兵制の創設と世襲制の廃止」を敷いた後に、結局は「政争」で「永久追放」を受けて仕舞った。
ところが、「紀州藩」の出方に反対していた「維新政府」は、この「津田の考え方」に賛同した。
「維新政府」は、「津田出」を政府の陸軍省に招いて「軍制改革」を実行させたのである。

「四つの奇策」を実行したのは、結局、「伊勢藤氏」では無く、三河から連れて来た「連綿族」でもあり、この「連綿族の二氏」以外には考えにくいと云う事に成る。

以上の検証から、これで、「伊勢藤氏」が、仮に「四つの奇策」に関わっていれば、「青木氏」も「殖産救済策の対象」にはしなかった筈であり、“「青木氏の殖産策」で救助した”とある事と一致している。

「伊勢藤氏」が関わっていないとなると、これで「青木氏の心」は決まったと観られる。
流石に「青木氏の心魂」は「妥協の心魂」では収まりが着かなく成ったのである。
つまり、1200年もの間、護って来た「青木氏の氏是」を破る覚悟をした事に成る。
そもそも、相手が「誠意」で応じてこそ「青木氏の心魂」であって、これ程の騙す様な「四つの奇策」が仕掛けられたのでは黙っていられなかった。
「伊勢郷氏」としての立場が無く成る。
果たして、「立場」を無くしての「青木氏の氏是」か。
その程度の「青木氏の氏是」では無い。

況してや、前段でも論じた様に、徳川氏に積極的に協力し、「吉宗育て親」で「享保の改革」や「紀州藩の殖産」等の「最大の立役者」に対しての「仕打ち」である。
「紀州藩の勘定方指導」で「紀州藩」を「二度」に渡り建て直した「青木氏」に対してである。
「青木氏」には、最早、一矢を報いる「強かな青木氏の心魂」が芽を興した。
ところが、一矢を報いる以上は「青木氏等」も実に強かであった。
それが放って置けなかった“「伊勢暴動」”と成ったのである。

「紀州徳川氏、紀州家臣団」に執っては、この「青木氏の行動」は「青天霹靂」であった筈である。
「吉宗育て親」で「享保の改革」や「紀州藩の殖産」等の「最大の立役者」の「青木氏」が“「伊勢暴動」”を背後で操るとは思いも依らない事であった。

ところが、この時、「紀州藩」は、他にも「二つの民の不満」が起こる事を政策上執ったのである。

それは「藩士の1/10俸禄」は、不満に成ることは勿論の事であろうが、「藩軍の指揮権」と「藩士の解雇」と「藩士の副職容認」への「民の不満」であった。

注釈として、先ず「藩士俸禄の不満」の「不満の解消手段」として、“1/10”にした代わりに“「副職」”を認めたのである。
(認めなくても“「副職」“をしなければ生きて行けなかった。これも「制度上の奇策」である。)

副職を藩士に認めると云う事はそうすると何が起こるかである。

「1/10俸禄」で「副職」を認めれば、到底、「1/10俸禄」で生活は無理であり、家臣は必然的に「副職」に重点が傾く。
「副職」があれば良いが、無ければ、「餓死」である。

ここで、家臣には次ぎの事が起こる。
「紀州藩」は「1/10俸禄」にすれば残りの「藩収の石高は確かに「借金」に向けられるが向けなかった。

どうしたかと云うと、経理と藩から切り離された「元藩主の徳川氏」の「個人の土地と成った地権分」に廻されたのである。
確かに「自分の俸禄も1/10」にはしたが、それは「パフホーマンス」であって法で認める「地権分」には文句は着けようがない。
要は「私腹を肥やした事」に成る。
この事に対する不満が起こった。

次ぎは、「藩軍の指揮権」に付いては、「維新政府の忠告」を聞かず、上記した様に、「津田氏の執政」で「徴兵制の創設と世襲制の廃止」を敷いたのである。
従って、藩軍から何時かは県軍とは成るが、この時、「維新政府の指揮権」が、一時及ば無い事が起こった。

この時に、この「徴兵制の創設と世襲制の廃止」は、「士族」に限らずに、民から一家の跡目や親や長男など主に成る者を除いて、20歳以上の者の義務として、兵を集めた。
約7320人程度の兵が集まり、その内、「士族」は400人程度とされた。
後は、農民市民などから構成される「ドイツ式の軍」を作った。

これを聞いた「維新政府」は士族以外を兵にする事の禁止令を直ちに出した。
ところがこの「紀州藩」は令に従わなかった。
これは何か相当な理由があった事を意味する。

ここでも、元武士の「士族」は「職」を奪われる事が起こったのである。
「職」を奪われる事のみならず、「世襲制の廃止」で「身分」も「生活の基盤」も失った。
「徴兵制の創設と世襲制の廃止」は大混乱を紀州で招いて仕舞った。
況してや、「維新政府の反対の軍」であれば、軍政も違う事もあり「指揮権」も「維新政府」には無かった。

これ等の事で元藩士の「士族」と成った者等が、「職や身分を奪われる事の不満」、市民の「徴兵の義務への不満」が起こった事や、「農業への働き手の影響」が少なく成ったり、「税制も極端に変わった事」もあって、幕末からの積り積もった不満は頂点に達していた。
「世襲制の廃止」で「能力のない者」は「藩士の解雇」も受けたのである。

ここで、この「四つの奇策」は、兎も角もとしても、「徴兵制の創設と世襲制の廃止」は何故したのかと云う疑問が湧く。
其の侭でも済んでいた筈である。
それには、「茂承」には「恐怖」から来る「思惑」があった。
上記した様に、江戸期末期からの「武士と農民や庶民の不満」が「絶頂期」にあった事なのである。
この様に成れば、「維新」で「徳川氏」が弱っている中で、「全ての民(百姓)の暴動」が起これば、「徳川氏だけを相手にした暴動」が起こり、「紀州徳川氏」のみならず、全国に飛び火して「全徳川氏系列族」が「完全滅亡する恐怖」である。

そこで、この火元と成る「種火」を先ず防ぐ必要があり「独自の近代的な軍」が必要と成る。
それも藩士ではない庶民の編成軍にしなければ成らない。
従って、「維新政府の軍」には頼っていられない。
むしろ、頼れば「一氏への暴動(私闘)」としてあしらわれ放置される事は充分に考えられる。
「維新政府」にとっては、云う事の聞かない相手でもあるから、戦略的に「徳川氏」が無く成る事はむしろそれの方が都合がよい。
又、手を煩わせる事もなく潰せることに成ると、自分で護る以外には無い。

この様な目的を持った策だからこそこの「組頭の家柄」から引き揚げた「津田氏の人事」なのである。

もう一つの策は、「徴兵制の創設と世襲制の廃止」に依って、「元家臣の士族」が藩軍に入れない事が起こったのである。
藩軍は7320人、この内、士族は400人であったとすると、6920人は庶民と成った。
これはたった5%強である。

「幕府末の基準」では、500石以上に課せられたのは、一人/1000石で3人、3000石で10人とし、500以下は金納とするとしていた。
紀州藩全体では、55万石であるので、「兵賦」は約1900人-2000人であった。
これは「通常時の半数」であるので、3500人-4000人と成る。
戦時は、これに「500石以下の者の参加」と「500石以上の家臣の媒臣」の4人-5人が付くと成る。
そうすると「紀州藩」は「10000人程度の兵力」が求められた事に成る。

そうすると、「4000人/7320人」は、維新では逆にほぼ「倍の兵力」を持ったことに成る。
これは異常であり、本来であれば、少なくても「財政負担を少なくする手立て」に入る筈である。
ところが、そもそもこの「3500人-4000人」の兵力は、「武士」であるので、「400人の維新兵力」:「3500人-4000人の幕末兵力」と成り得る。
何と「維新兵力 1:幕末兵力 10」が成り立っていた
つまり、ほぼ「兵力」は倍に成りながらも、「士族の兵力10%」は逆に極端に削減されて仕舞った事に成る。

これは何を意味するかである。何かとんでもない理由がない限りこんなことはしないだろう。
それも「明治維新」で他藩から攻めて来ることなどはしないし、「維新政府」に近代的な軍隊がある。
「維新政府」に対抗しようとしたのかは兵力差で無理である。
明かに、これは紀州の「市民の暴動」を押えようとしたとしか考えられない。
仮に「全武士」が失職で暴動を起こして4000人:6000人では無理であろう。
仮に出来たとしてもその「軍資金の財源」をどうするかである。一時的なものに終わる。
それには、「武士を支援する豪商」が居るかである。
確かに居る。
其れは「伊勢藤氏」との関連を持つ「青木氏」である。
此処で、「青木氏の歴史観」に二つ目の左右する事が出て来るのである。

然し、この「青木氏」は、丁度、「伊勢暴動 1876年」に成る直前で不満を押えようとして関わっていた。
況して、あくまでも「伊勢の範囲」である。
紀州全域には「青木氏の氏是」で「戦い」には絶対に手を出さない。

さて、そうすると「士族の3000人」は「武士の本来の立場」を失った事に成る。
つまり、「士族」は「失職」であり、逆に「庶民」は「就職」に成る。
それも庶民は「7000人程度の者」が職に就けた。

和歌山の人口の中で、 明治初期の市民は 60000人(明治4年の65000人の1割は士族4000人-5500人)相当に成る。
仮に、上記の通り7000人/60000人が兵士に就職できたとして、「15%の庶民就職」が出来た事が凄い事である。
況して、「徴兵制」なので「市民60000人」が全員が対象者である訳ではないし、対象外の男女子供年寄りなどの人口があり、年齢制限47歳と成っている事をも差し引くと、「約30%から40%が対象」の「義務の男」である。
この内、失業は済状況が悪化期であったとしても、(60000/2)/3=10000人-7000人が「徴兵制の対象者」と成る。

丁度、計算通りの紀州の市民の者が「徴兵制」に成って「兵」と成ったのである。

これは何を意味するかである。
市中に若者が居ないと云う事である。
先ず、「市民暴動」は「若者が原動力」と成って起こすとすると、これを「兵で囲い込んだ」と云う事に成る。

幕末は「一地一作の令」で、次男三男が就職難であった事から、この不満も解消される事は確かである。
暴動の原因の一つはこれで消せた。

この「紀州での市民暴動」が起こると、全国に波及し徳川氏は末端まで滅亡する事を恐れた。
ところが、唯、これには「莫大な財源」が必要に成る。
無理してでもこれに財源を廻す必要が出て来る。
況してや、この時期は「財源処」の話しでは無い。
前段でも論じたし、上記する様に、念の為に「青木氏等への借財」は「建前上は4万5000両」(「4万両は借財」 「5千両は殖産の出資金」)とされている。
然し、これを払わずにこの紀州の一藩が「近代的なドイツ式の徴兵制」に注ぎ込んだ。
市中に若者が居ないと云う事に成るまでに注ぎ込んだのである。
「青木氏側」から観れば、確かに「異常」である。

(注釈 現実に「異常」であるとして、執政の津田出は、一年経過後に永久追放されたが、性懲りもなく「茂承」はその一年後には又呼び戻した。
然し、又、二年後に追放された。)


(注釈 「青木氏の当時の商い資料」では、「6万両の貸付契約」があって、その内の「4万両が貸付不良見込み」で、「2万5000両」がこの時期の「不当り」と成っていたらしい。
結果として、返納が無かったので「4万両」が「不当り」に成った事に成るらしい。)

その金が何と無謀にも「1/10俸禄の策(「無益高制 1873年)」で浮き出た金を全額注ぎ込んだのである。
今まで紀州藩に尽くして来た武士は不満爆発寸前に成った。その動きを見せていた。

普通なら「伊勢暴動」と同じ様に、他国でも「武士の暴動」が起こっていた様に、「伊勢藤氏の家臣団の反乱」も起こる筈である。
ところが不思議にここでも「家臣団の反乱」は起こらなかった。
ここに「青木氏に関わる意味」があって「青木氏の歴史観」の何故かである。

この「家臣の不満解消」と成ったのは、「藩士」の多くが、元は「伊勢藤氏の郷士衆」で、「伊勢青木氏」が行う「殖産」の「大きな担い手」と成っていたからである。

例えば、藩士の一族を集めて、又、中には周辺の民までも雇い、屋敷に「殖産の仕事場」を作って、俸禄より数段高い収入を得ていた事に依るのである。
それを知った上で見込んで騒がないだろうとして「俸禄1/10(無益高制)」と出来たのであろうことが判る。

ここでも、「伊勢青木氏」は騙されていた。
然し、「俸禄1/10(無益高制)」には、大きな「意味」を持っていた。
最早、「俸禄」が保障されないのであるから、これでは「家臣の領域」では無いが、紀州藩は「武士の暴動」は起こさないと云う事を読み込めていたのかもしれない。

筆者は、そうでは無かったと観ていて、この“「俸禄1/10(無益高制)」で「伊勢藤氏」は騒ぐ”と観て執って「青木氏」は素早く手を打った。
それは、彼等を「説得」と「新たな殖産」に誘い込む事にあった。
それには「青木氏側」に出来る根拠があった。

そもそも、9/10が「内職」ともなれば、最早、「意識」では「藩主」では無く、そちらの「殖産の主」が「雇用主」と成ろう。

この「雇用主」は「殖産」を興した「青木氏」であった。
ここに意味がある。

それは、その時には「青木氏」には、「不穏な動き」を見せていた「農民の暴動への支援」をする覚悟が既に出来ていた事だ。
そこで、「藩主以上」の「武士の雇用主」と成った以上は、「片方の武士」の方は「殖産」で対処して、「農民や庶民」の方は「騒ぎ」とする以上は、その後の始末策として「賜姓族」である限りは、「汚名の払拭策」と「暴動の名目策」に通じて思慮を深めていたのである。

そもそも、「雇用主」として、前段でも論じたが、上記の“「徳宗家」の「古式呼称」”は、「殖産と副職」が合致して“「伊勢の民」の生活を救った”とした事にあって、明治期に成っても「伊勢の全郷士衆や民」の中からより強く再び湧き出て来た事ではないかと観ている。
「郷土史や郷士の家の記録」に記載されている位である事からこの時の事が良く判る。

兎にも角にも、前段でも論じた様に、新たな「明治期の殖産」でより彼等を救う事に腹を決めたのである。

上記の「紀州藩との5千両の殖産投資分」に付いては「藩への貸付金」の一部を名目として引き取り、「全額出資の殖産」として「伊勢」に引き取ったのである。
別経理にして「藩」も「徳川氏」も成ったとしても、「殖産の資産は藩の資産」である以上は変わらないので、この分の「担保の返却」は可能であった事が判る。
其れが、享保期から始めた「薬剤用菜種」と、江戸期中期から幕末期に爆発的に進んだ食用文化が「食用菜種油」の需要を飛躍的に高めた事にあった。

この為に「担保貸付金の不当り」を理由に、「青木氏」は「紀州の蜜柑畑」でも行える様に認可を「取り付け」して、つまり、「殖産契約の条項」にし、大当たりの「菜種油の殖産」となったのである。
これが「貸付」に対する責めてもの「担保の返却」と成った。

(注釈 5千両の「殖産出資金の確保」と共に、「蜜柑畑の使用認可」で得られた効果と、「藩士の副職にする事の認可」と「菜種油の莫大な利益」とで「貸付不当り」は何とか一部を軽減された事が考えられる。
後に、上記した様に、「紙パッキンの殖産」も手掛けた。
「蜜柑畑の使用認可」は、「田方勝手作仕法」に準じた強かな賢い「青木氏の策」であった。)

これに彼等家臣団を「殖産の働き手」として新たに引き込んだのである。
何はともあれ、こうなれば「紀州家臣団」は何も「暴動」を起こす必要が無く成ると共に、彼等を支援し「青木氏側」も「殖産」をタイミングよく広げる事が出来るし、結果は市中は納まる。
騒げば、「罪人」を出し「殖産」どころの話では無く成るし、上記した様に飛び火して全国に広がる危険性を大きく現実味を帯びて持っていた。
然し、これも防げるし、「支援金」を出す限界にもあった。

「土地を提供する者」、「種まきから収穫までの労働力を提供する者」、「搬送等に従事する者」、「販売等を担当する者」、「搾りなどの生産に従事する者」は、「青木氏」が大阪堺に工場を立てて其処に「家臣の内子の奴等」が「働き手」として働いたとしている。
「営業」は「伊勢紙問屋の伊勢屋」が行う事に成ったと記されている。


実は、この結果として、反して「四つもの奇策」を講じて民を欺いた「紀州徳川氏」は、紀州伊勢では庶民から“「徳宗家」の称号等”は遂に得られなかった。
(注釈 最近では「町おこし」で美化して喧伝されている。)

「後勘の評価」では、現在も評判は、取り分け優れたものとは云えない。
特に南に下がる程に良くない。

この結果、潰れずに「紀州徳川氏(西条藩松平氏より養子)」は「侯爵」とも成り東京に移り乃がける。
(その後、企業倒産を繰り返し伊豆にて直系の子孫は絶える)
今後の人の上に立つ身分の者でありながらも「四つの秘策」の「斯くの如」であり、「青木氏」からすれば、“一矢を報いた”のであり、「青木氏の掟」として“上に立つ者は斯くあるべし”と観える様に忠告示唆した事に成るのである。

青木氏36代と37代の先祖は「善悪の条理相対の理」を身を以って忠告したのである。

(注釈 「青木氏の資料」によると、1871年頃前後から紀州藩の採った態度などから上記の農民不満で燻り始めている。
そして、決定的に農民や郷士衆が行動に移したのは、1874年後半の頃に集会などを重ねているのである。)

(注釈 紀州武士団の暴動はどうしても留める必要が戦略的にあった。
従って、これには「経済政策の殖産」で以て支援して留めた。
然し、一方、農民や市民の不満の爆発は「青木氏」に原因の一端があり、留める事は難しい状況にあった。
徳川氏に一矢報いる為にも「認めて支援して留める」には「上記した深謀」が必要であった。
「汚名の払拭」と「暴動の名目」の策は成功した。)

結局、「地租改正」を理由に本格的には「飯能郡」、現在の松阪市で立ち上がったのが1876年12月頃に始まった。
その勢いは松阪から一度南勢にも広がり北勢に向かって行進は進んだ。
この一部の「伊勢郷士衆」を巻き込んだ「農民暴動」は、「歴史上の記録」として始めて“成功した唯一の暴動”であった。
この時の事を多くの川柳に詠まれている。

前段でも論じた事ではあるが、その後に、「紀州徳川氏」とは大正14年まで親交を深めたが、この時の事を認めた多くの手紙が遺されている。
「紀州徳川氏」は、後に、これを恥じて東京に移動して「訳有の財産」を投入して民の為に成るとして日本で初めて「私設の職業紹介所(「職業安定所」」を設立した。

(注釈 後に、国に依ってこの制度は「職業安定所」として「公」のものと成るが、「徳川氏の私設」は潰れる。)

結局は、紀州徳川氏は第16代まで続くが、再び「借財」は嵩み「企業倒産」を繰り返す様に成り、最後は家系譜上では「空白断絶」の「憂き目」を伊豆で受けた。(ここでも奇策)

「青木氏側」で云えば「四つの奇策」に対して「如来の意志」が降りたと云う事であろう。
唯、第16代は、多くの「青木氏への手紙」の行から観て、この事を“「心得ていた」“と観られる。

その証拠に、そもそも「祖父の代の青木氏」を朝廷に進言して「天皇の感謝状」を「左大臣の祐筆」で「天皇家の菊紋入りの桐の文箱」に収められて「伊勢の青木氏」に送られている。

この時、「日本最古の藤白墨」等も「菊紋入り桐箱」に収められて「賜物」として授かっている。
「青木氏」からは「彩色南画の和歌浦の絵」を「返納品」として献上している。

この「賜物」と「返納品」のやり取りに重要な「青木氏の意味」がある。
前段でも論じて来たが、詳細はそちらを参照されたとして、「日本最古の藤白墨」と「紫石硯」は江戸初期までは「天皇家の専売品」で、紀州名産で全て天皇家に納入される貴重な特産品であった。
(江戸初期に徳川氏に占有される。)
従って、「天皇家の宝物」として扱われ、これが特定の格式ある家筋で無ければ賜らない。
何の趣味も持たない者に与えても猫に小判で決して与えられるものでは無い。
この「天皇家の宝物」をこの時に与えられると云う事は、それ相当の安定した評価の事で無くては賜るものでは無い。

奈良期から「朝廷の「紙屋院」であって、絵画等を扱う「文化院」でもあって、平安期には「春日真人族」として「志紀真人族」として「軍略処」を務めた事もある「賜姓臣下族の青木氏」の「伊勢の紙屋」を「二足の草鞋」で営む「氏」であったからこそ、それを知っての「与えられる賜物」と成る。
「華族制度」が敷かれたとしても、その家筋の者に誰彼なく無暗に与えられる宝物では決して無い。

そもそも、普通は「天皇家」に対しては「返納品」は行わないのが「臣下の仕来り」であったが、昔、「朝臣族の伊勢賜姓臣下族」と云う事もあって「返納品」は受けられた。
この間の明治維新期まで「献納金」を献上していた事もあって「返納品」が受けられたと考えられる。
況や、紀州松平氏に執っては、“「紀州に於ける功績」は、「青木氏」に在って自らの功績の所以では無い事”を暗示している行為である。
其れも一度では無く“二度”も受けている。

「紀州藩前貸金」+「維新政府献納金」+「暴動支援金」>=「青木氏の宿命金」
“「献納金者」”+“「協力推進者」”>=“「暴動の立役者」”

上記の数式論から来る「二度の褒賞」に成るものと考えられる。
それは「明治維新前の功績」と「明治維新後の功績」に分けられたと考えられる。

この事で重要な事は、“「伊勢暴動」”に付いての事があれば、朝廷から「感謝状」など出る事は絶対に無い。
然し、この「二度の事」は、「伊勢暴動」に対しては、朝廷に執って「伊勢」は格別のものとして扱われ、“伊勢の民の生活を護った”とする「考え方」に至っていて、それは「皇族賜姓臣下族の賜姓五役」を貫いたとする評価に至り、「当然の役」として認めていた事を示すものである。

恐らくは、「五年の長期間の伊勢暴動」が、“歴史上の初めての成功例であった”とすることが、「朝廷」を容易に思惑通りに動かせたと考えられる。

唯、未だ身分や格式を重んじる風潮が遺されている時期でもあり、これが一般の豪商や家筋であれば、この様には成らず、「二度の褒賞」とは成らなかった事と成ろう。
躊躇なく成り得たのは、「皇族賜姓臣下族」であったとする事が大きく影響していたと考えられる。
「二つの感謝状」を観れば明確に判るし、「祖父の口伝」でも解る。

況や、重要な事は、“「伊勢暴動」は「暴動」であって、「暴動」で無い「政治の悪弊」を改めた”と朝廷は決め付ける「大義」を得られたのであろう。
「伊勢暴動」を“伊勢の民の生活を護った”とするだけでは無く、「四つの秘策」の「家臣団の殖産の就職」で“「武士等の生活」も護った“として、合わせて評価した事に成る。

もし、そうでなければ、「郷士衆と農民の伊勢暴動」と「家臣団の暴動」が合わせて起こっていた事に成り得る。
事と次第では、「紀州藩」が「凡例の起点」と成って全国に暴動が拡がった事に成り、場合によっては「維新政府の存立」さえも危ぶまれた事をも意味している。

その証拠に、「紀州藩の四つの奇策」に対して反対していた「維新政府」が、2年後を以って全国に紀州藩と同じ「四つの奇策」を適合して、「暴動」を抑え込んだ。
従って、この全国展開で明治13年から14年を以って政情は収まりが着いた。

「藩軍の指揮権」の問題は、「紀州藩」は明治2年に全県民の「徴兵制度」を敷いて「武士」だけの「藩軍」は無くした。

この後、当初、この「紀州藩の提案」の「徴兵制」に反対していた「維新政府」は、明治4年に「紀州藩」に追随して「徴兵制」を採用したのである。
紀州藩の藩軍」は「国軍」に編入して問題は解消した。

上記して様に、「市民暴動と武士団の暴動」の危険性が無く成った事からも、「異常な策」とも観られる「藩軍」は必要無く成ったのである。

況や、これも「青木氏の歴史観」に遺すべき「青木氏の功績」の御蔭である。

(注釈 ところがこの県民から成る「編入の国軍」が皮肉にも直ぐに「伊勢暴動」に投入されたのである。)

これが他県からも派遣された事に依って「伊勢暴動の捕縛者」が多く成った原因でもある。
「捕縛者を開放する手立て」として「献納金の必要性」が増した原因とも考えられる。
暴動史上、最高数で釈放も含めて58000人(青木氏の情報)と云う「捕縛者」が出た。
前段でも論じたが、「青木氏」は釈放に必死に成った。

それでも「伊勢暴動」は収束しなかったので、直接に“「説得」“に当たらせる為に「国軍」では説得には成らない難しい面もあったので、懐柔策として「警視庁の警察」まで派遣投入した。
然し、逆に、この一部の警察までが暴動理由を租借して、この「暴動」を挑発すると云う事態と成って、更に拡大したのである。

「国軍」にしろ「警察」にしろ「農民や市民」から「徴兵や募集」により構成されてた組織である。
「同じ仲間」を武力制圧するのは、未だこの時期では心情的に難しい面があったし、背後に「青木氏」が暗躍していた事もあった。
「暴動」は、当初は「松阪」から南勢に移り、そこから北勢に移動中に一部に「火付け打ちこわし」(自首)が有った。

この時は、未だ江戸期の「一揆」の性格的判断や概念の領域にあった。
ところが、「青木氏」は、“時代は維新である事”を説き、「殖産」で藩主では無く、生き延びたのは「雇い主」でもあったこの“「青木氏の説得」”で「整然とした行動」とり始め、且つ、「理路整然とした訴状文の提出」の状態に変わった。

この「行動と訴状の状態」で、西には「摂津堺域」に、北勢域は美濃から信濃・甲斐まで伝播して行った。
この結果、正式な維新政府との交渉が可能に成り、「理路整然とした訴状文」にて理解を固めた維新政府は、税率を3%から2.5%に変更する事に導いて決着は着いた。

この初期の過程の「火付け打ちこわし」(自首)は「戸長」との交渉中に起こった。
実は、この「戸長」は農民の中からの選抜制で選ばれた者であった事から平穏を保とうとする「戸長」との間での一時的な「感情からの結末」であって、「経済援助をする青木氏」は指揮を執っていた「伊勢郷士衆」を説得した。
この「戸長との直接交渉」は止めさせて「正しい行動と論理づけた訴状の状態」を作り出して「維新政府との交渉」に入ったのである。

この様に“暴動を正常な行動に導いた”とする事も評価に成っていたと考えられる。
“「汚名の払拭」と「暴動の名目」の策”の上記で云う「手品」であった。
つまり、今で云う“「デモストレーション」”に導いたのであった。

この“「デモ」”は、“万機公論に決すべし”とする事から、最終は維新政府は“「暴動」”と云う定義では無く、「デモストレーション」と評価した事にある。
“「正当な市民の行為」であった“と評価したのである。
そもそも、「維新政府」が紀州から「国軍」が引いて「警察」が介入したのは“「正当な市民の行為」として扱う様に仕向けたこの事に依る。

一方で解放され楽に成った「紀州徳川氏」は、「伊勢青木氏の口伝情報」では、後に明治20年頃以降に、結局は「流浪の身」に成った下級武士の為に流石に責任を執ってか、「維新政府」から与えられた「莫大な地権」と「貴族院」と云う「特権の立場」を利用して「職業の斡旋組織」(職業安定所の前身)を立ち上げた様である。
紀州徳川氏は、東京で「数々の事業」を起こしたが失敗し、再び「財政上の影響(借財の負担)」を受けて、「跡目の系譜上」にも「空白断絶部」があるところから考えると再び「奇策?」で逃げたと観られる。
現実には伊豆に引きこもって断絶状態と成っている。

この時は、既に一切の「維新騒ぎ」は収まっていた。
藩主は完全に廃止され、政府から派遣された知事が政務を執った。

「青木氏の末裔」から観ると、「激動期の仕儀」としては仕方がないが、納得のいかない皮肉なものである。
維新期に於いても、この様な“危機存亡の際どい歴史観”も「青木氏」にはあったのである。

其れは殆どの藩は「酷い借財」に喘いでいた為に、「維新政府」は、御三家であった「紀州藩」が敢えて上記の様に先行して体現したのを観て、反対していたにも関わらず、これは見本中の見本として2年後にこれを全国的に見本として利用した。
これを上手く利用して「借財棒引きの理由」にして「地方自治の安定した体制(中央集権国家体制)」に持ち込む必要に迫られていたのである。

「改革」とは、そもそも四方八方悉く上手く納める事は至難の業で難しい。
取り分け、「国家体制」を変えなければならない時には、何処かに犠牲を負う事が必要であった。

つまりは、「享保の改革」にしても、「維新の改革」にしても、何れも「青木氏」はこの「犠牲を負う宿命」と成っていたのであろう。
これは「伊勢信濃」のみならず、「青木氏の定住地」では、大なり小なり「二足の草鞋策」で「殖産」を興し、「古式伝統」を維持し、「土地の地権者」で、「郷氏と云う身分の立場」にあれば、この「二つの改革の犠牲」を負っていた事は間違いがない。

取り分け、前段で論じた「六地域」では、この「犠牲を負う宿命」の状態にあった事が判っている。

幸か不幸かこの「六地域」には例外ではない大きな大名が居た。
それは、「青木氏」が大きく「二足の草鞋策」を敷いていた所以でもある。
この「二つの改革の犠牲」で、「伊勢、信濃」と同様に弱っていた事は否めない。
その証拠に、未だそんなに時代が過ぎていないにも関わらず、「資料の有無」のみならず「古式伝統」、「口伝の伝達」、「伝統品の保存」、「縁籍関係の情報」も完全な消失状態に近く減退している事は何よりの証拠である。

これは「第二次大戦の戦後の混乱期」も原因としてはあるが、「二つの改革の犠牲」の影響は無視できない。

結局は、「紀州藩の事例」を観て(動乱が起こらないかを見極めた。)、2年後に「維新政府」も正式に廃止してこれを認めた。

(注釈 この「紀州藩の解決の仕方」は、後に成って「維新政府」は反対していたにも関わらず「全国の模範」としたが、ところが九州域を始めとして「殖産」の進まない各地では「武士階級の不満」が、矢張り、爆発して「藩軍」が独立して反乱軍に成る等異なっていた。)

この事は、「伊勢暴動」と全く同じ時期なのであって、伊勢域は「庶民の暴動」で幸いにも終わったが、九州域等の殆どは、「武士階級の暴動」を超えて「反乱・戦争」となった。

この差は、紀州藩の「武士の副職」を認めた事と、「青木氏の殖産」と「青木氏の心魂」が上手く連動させた事の差に在った。

云い換えれば、「副職 殖産 心魂」の共通項、その基は、況や「悠久の歴史を持つ郷氏」(氏上と氏人の関係)に在ったと考えられる。

その意味で、「氏の存続」が危ぶまれる程の「金銭の犠牲」はあったが、「無駄な戦いの損出」を最低限で抑えた事の「社会的功績」が認められた様に、「伊勢と紀州」等の「立ち上がり」は流石に早かった。

この「青木氏での同族一族郎党」で「路線争い」を起こしたほどの「金銭の犠牲」と云う事は、この「立ち上がりの速さ」がもたらす効果を期待した「青木氏の戦略的展望の心魂」であったかも知れない。
所謂、此処でも“「青木氏の氏是」”が働いた気がする。

「青木氏の氏是」
”世に晒す事無かれ、何れ一利無し、然ども、世に憚る事無かれ、何れ一利無し”の意に通じ、就中ば、”「共生氏族」であれ”

この「氏是の概念」と上記の「心魂と成る掟」から来る行動であったのであろう。

(注釈 前段でも論じたが、「殖産の功績」や「献納金」や「前貸金の放棄」等で社会に貢献したとして、「維新・・年の天皇家からの感謝状 一木氏」と「徳川侯爵(徳川茂承 14代と16代)の仲介役による感謝状(大正初期)」とで、「天皇家」より「二度の拝謁と賜物」を受けている。
何れも「二つの感謝状」に付いては、「仏壇の引き出し」に保存していた為に[虫食い]による問題があって、「四年」か「九年」かの判別は尽き難いが資料の経緯から「九年」と判断している。

唯、仮に、これが「四年」とすると、そうすると、享保期に緩めていた「田畑勝手作仕法」から維新から「土地開放」を目的として「田畑勝手作の廃止 四年九月」を出したが、これに関する事に成るので、前段で論じた様に、「税制改革の地租改正」に伴って事前にも「土地開放の改革」が成されたが、この時の「青木氏」が率先して執った「自作農」の為の「土地の解放」に関する謝礼と云う事に成る。

実は、更に、「三つ目」もあって、「宮内庁からの文面 橘氏」は保存状態が酷く、現在解読中ではあるが、「維新初期頃の献納金」に対する「内大臣」からの「礼状」と判断しいる。

(注釈 「青木氏写真館」の8Pにこれらの一部ではあるが、墨の一部や硯等を掲示している。)

(注釈 上記した様に「青木氏の氏是」にも関わらず、この時の「書状と返礼品の現物」はあるが、何れもこの「献納金の返礼」や「殖産の功績」で、「宮内大臣(左大臣) 一木氏の祐筆の筆」で受けていて、「桐箱」に「菊紋の花文様」が「手書きで描かれた文箱)に収められている現物はある。
可成り丁重な扱いであった事は一目瞭然に判る。)

これが「青木氏の1200年の青木氏の心魂」と云われるもので、これも「青木氏の伝統」なのであった。

40代目の筆者からすれば、流石、「始祖祭り」は継承しても、「偏諱の論」からは「伝統の違和感」を感じ、先代たちは“度が過ぎている”と云う感覚にしかならない。
仮にこれ(古式伝統)で行けば、「信義と道義」が可成り廃れていて、且つ、「伝統」の少なく無く成った現在では生きて行けないであろうと考えるし、「氏存続」は「氏内に歪」が生まれて不可能であろう。

(注釈 何度も理解を頂く際にはお願いしている事ではあるが、幸いにして「伊勢」と云う特別で「古い環境」であった事から比較的幸いにして遺されていたので、「伊勢の伝統」を基にして論じてはいるが、全国の「青木氏」には、残念ながら「青木氏の伝統」を書き記す程の記録が遺されていないのが現状である。
又、昭和の終わり頃までは、兎も角も、「個人情報の保護」が壁とも成り資料を見出す事が難しい。
これが原因して残念ながら充分に各地の詳細を立体的に書き記せない。
然し、概しては、各なくとも「全国の青木氏」には、この様な類似の「古式伝統と由来」を持ち得ていた事を是非ともに知って頂きたい。
「近江の佐々木氏の記録」にも全国に多くの「佐々木氏」(二流)がおられるが同様の様であるらしい。)

明治期に成っても、「福家」は“走りに走った上に未ださらに走った”が、疲労困憊しながらも平成期にも分家に当たる「四家」は大阪と神戸で大いに走り続けている。
然し、流石に筆者の代では、「福家」の「青木氏の伝統」を引き継いで“走るのを止めて休息したい”と思い、「先祖への尊敬と誉」に対して応える為にも、又、「青木氏の伝統」を「未来のロマン」として伝える為に貢献したい。
故に、「青木氏の奈良期からの経緯」を記す“「由来書の復活」”にせめて取り組んだのである。

(注釈 管理人さんの絶大なご理解に依り「青木氏の歴史観」を知ってもらう為にこれをサイトに投稿している。)

「古い関係者」には大いに協力して貰えた。
その「きっかけ」は、親から渡された「青木氏だけの古い蔵書本」等と過去の関係者の家の資料等、それを更に研究して頂いて同じ事をした「佐々木氏の由来書」を観た事であった。



以下 「伝統シリーズ-33」に続く。

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:「青木氏の伝統 31」-「青木氏の歴史観-4」 


[No.350] Re:「青木氏の伝統 31」-「青木氏の歴史観-4」 
投稿者:福管理人 投稿日:2017/02/18(Sat) 14:44:16


> 「伝統シリーズー30」の末尾


> (注釈 本論で論じている「弥生祭りや五月祭り」や「祭祀偶像」、「氏上」、「御師」、「偏諱」、「達親」、「組合」等に至るまでの「青木氏の古来の慣習仕来り掟の意味合い」が、世間に伝わる事に依って、その「意味合い」のみならず「呼称」までもそっくり換わっている。
>
> これを物語るものは何と云っても、「伊勢」で「青木氏心魂」としての”「准の立場」”であった。
>これに基づく「氏上と氏人の関係」が維持されたものあった。
> それの代表、つまり”「准の立場」”を物語るものが”「仏施の質」”であった。
>これは同時に「氏上と氏人の関係」を「証明する行為」であって、「青木氏以外」には行っていなかったものであった。

> この「青木氏の習慣」が、「伊勢」から「江戸」に持ち込まれて”「伊勢屋の質」”と呼ばれる様には成ったが、「質に対する語源の変化」で、「伊勢の行為」は理解できてはいたか、然し、「江戸の質」には、一時、”「准の立場」”と同様に”「青木氏の歴史観の知恵」”にまでは及ばなかった。
> 然し、「江戸の質」に至るまでの意味としては、普通の「品質を意味する質」や「質屋の質」としてしか考えず、当初、“まさか江戸までは“の「先入観」が強く理解ができていなかった。
> この「准の立場」も「単なる准の意味」(次の格)としてか理解が無かったし同様であった。
>
> 果たして、“「改革と質屋」にはどの様な関係があるのかな“と疑問であったが、「享保雛の研究」からの事で、「雛の語源の意味」が「青木氏の古式慣習」の一つであるので、調べた処、中国の書にも「質」と「准」のこの「基の意味合い」があった。
> この事から「青木氏」だけが伊勢で行って来た奈良期からの「准の立場」の「氏上と氏人」の関係には、「仏施の質」が介在していた事を資料の一つの行にある事を知った事に依る。
> だとすると、“「江戸の質」にもあり得る“と「発想の転換」で、これで「奈良期の疑問」と「江戸の疑問」が同時に解けた所以でもあるが、時代に依って「語源」がそもそも変わるのは、「青木氏の歴史観」を論じる上では実に「苦労の種」でもある。
>
> この事で、うっかり其の侭で論じると「矛盾する様な論調」と成る事が多いのには苦労している。
> これが「古式性の伝統」を論じる難しさにあり、「モニター」を受けて頂いている方からも指摘の多い処でもある。
> 筆者本人はつい判った感覚で書いて仕舞っている処に問題がある。
> この「准の立場」や「質」や「青木氏心魂」等は典型的なテーマでもある。
>

「伝統シリーズ31」に続く


さて、前段に続けて、「青木氏に関わた伊勢衆」の「商業組合」の「商人等の指導役」(伊勢)の「御師(おんし)」(”おし”では無い)は、「組合札」(金券 現在の紙幣)を発効するまでに成長するして事に成った。
(現在でも一部伊勢では、「独特の金券制度」として残っている。そこで、これらの「予備知識」として明治初期までの「青木氏の独特の伝統」で以て「青木氏の歴史観」としてそもそも重要な事を述べて来た。

これが「青木氏の古式慣習」の”「仏施の質」”に現れているので「青木氏の心魂」に付いて更に論じる。

この「青木氏の心魂」がよく表れている最後のものは、明治初期におこった「伊勢暴動」であった。
この「伊勢暴動」は、急に起こった訳では無く、当然に、政治的な変化も然る事乍ら、上記で論じた江戸期の「政治矛盾」に耐えきれなくなっての「最後の破裂」であった。
「青木氏と吉宗」が何とか少しでもこの「四つの政治矛盾」を正そうとして頑張って来た。
然し、その後の為政者には、この「四つの政治矛盾」に付いての認識が全く無かった。

「維新政府」のその後もその「矛盾の認識」はあって正そうとして動き始めたが、ところが終局は「貴族院と云う勢力組織」がこれを阻んだ。
そして、「維新政府」もこの「貴族院」に諂うという「矛盾」を見せた。
結局は、「江戸幕府」も「維新政府」も、この「四つの矛盾」と云う点では変わりはなかった。

そこで起こしたのが、矢張り、「伊勢松阪」からでの「伊勢暴動」であった。

この「伊勢暴動」は、「青木氏の奮闘」の努力で、歴史上で政府が「一揆の主張」を認めたのは初めてである。
この変革には終局は成功したが、この「伊勢暴動」で疲弊した農民を救う為に、「青木氏」は、率先して「農地権」(北勢)の多くを手放した。

それにも拘らず、更には、農地外の「地権、株権の放出」をも放出したにも関わらず、それでは再興せずに、限界に踏ん張って「伊勢」を救おうとした。

それが成し得たのは、前段に論じた様に、「明治三大殖産事業」(A)(B)(C)を「全財産」を投げ打って「興業化」した事なのであった。

これを後勘から観ると、この時の「北勢」の農地外の「他の株権や地権の放出」は、この時期としては必要性が無かったと理解できる。
然し、現実には積極的に放出している。
確かに、「北勢の米農地の地権の放出」は、「明治政府の強い方針」でもあったし、当時の「政治話題」にも成っていた事でもあり、時代性も変わった事でもあったから理解できる。
そもそも、奈良期からの「氏上と氏人の関係」から土地は、「氏人に戻すと云う理念」は理解できるし、「正しかった措置」だったと理解できる。

然し、「株権と他の地権」(水軍等)では、上記する様な「氏上と氏人の関係」は無かった事が「資料の存在」からも伺える。
確かに、「1025年の総合商社」への「商い転換」から室町期頃までの「社会の混乱」から「氏上と氏人の関係」の関係性はより強化された事は否めない。
然し、“「信頼と尊敬」の「1200歳の人間の同志の関係性」”までは「僅かな資料の行」からも判断して無かったと考えられる。

故に、「他の株権や他の地権」の「放出」には、“放出に至る何かがあった”としか筆者には思えないのである。
それを次ぎに検証して観る。

その前に、1800年頃から幕末までの間で、「伊勢水軍の海運業」や「シンジケートの陸運業」等の「7割利権株」を放出して「海陸の運輸業」として独立させていた事は認める。
それ以上の「地権と利権の放出」(主に南勢と東勢)は理解できない。
この「放出」は、「青木氏の心魂」での発露では無かった事は確実である。
何故なら、戦略上、時期的にも好ましくない。

この「原因の研究」には、そもそもその元に成る資料の発見に苦労した。
「南勢域」からは資料は、「旧領地」であった事もあって「本領安堵」の地域とされていた事からも資料は遺されているのだが、「東勢域」には資料は殆どないのである。
取り分け、この明治初期の「伊勢暴動」では、主に「北勢の事」であり、それが「員弁、桑田」と広がり、遂には「美濃」に移り「信濃」に拡がったものである。
全て「青木氏の古来の定住地」の「所縁の地」であった。

そこで「筆者の論」では、次ぎの二つの事が考えられる。

先ずは、「5年間の伊勢暴動」には「農民の糧」と成る「経済的裏付け」が無ければ成り立つ話では決して無い。
当然に不満があれば“何でも騒げばよい“と云う事では無い。
騒ぐ以上はその「経済的な裏付け」が無くてはならない。
その「糧の裏付け」を頼むには「氏上」以上には無い筈である。
「青木氏」が否とすれば出来る話では決して無い。

さて、「青木氏」としては「北勢の農地権」を無償放出して、「氏人の物」としたところには「氏人」に当然に「直接の租税」が掛かる事に成る。
然し、それが「地租改正」で、今までの「米の収穫量」に対する「租税」では無く、「農地権」を無償放出した地価(3%)に掛かる税と成った。
つまり、氏人の農民には何より、「地権放出」と「租税の変更」が重なった事にある。
そして、それが悪しくも「一種の増税」であった。

今までは「青木氏」が、「地権者」として納税して対応していたが、「地権者」を変えた事で農民、つまり、「氏人の直接の難題」と成って仕舞ったのである。
「伊勢と信濃の青木氏」としては放置できない仕儀と成った。
そして不幸か「騒ぎ」が大きく成って仕舞った。長く続く事に成った。
「地権」を放出する事で、“自分たちの事は自分達で”の「自作農」と成って、「氏上と氏人の関係」も薄らぐ事にも必然的に成る。
「氏上と氏人の関係」で護られて来た“「伝統」”は薄らぐ事も間違いは無いだろう。

然し、今までは「氏上さま」であった「青木氏」が壁に成っていたが、「氏人の農民」が「地権者」に成った以上は、「氏人」であった農民は、「暴動」「騒ぎ」を興す事で、主張し「先行きの糧の補償」を何処かに求めねばならない事に成る。

では、「青木氏側」には、この「暴動」が長引けば、果たして、この「北勢の氏人」の「全員の生活の補償」を出来るのかと云う疑問があった。
江戸末期の「商業組合の解散」と「7割利権放出」(水軍)等をしたばかりの状況の中では、果たして、「適切な手立て」はあるかである。

「北勢の氏人(うじと)」の「全員の生活の補償」から「信濃域までの補償」は到底に無理である事は顕である。
だとすると、どうするかであろう。
出来る事は只一つ、「青木氏」としては「地権と利権の放出(売却)」をして「資金源の確保」に走る以外にはない。
そうすると「売却」と成れば、主に「南勢と東勢」の「地権と利権の放出」と成る。
「西勢域」と「中央域」は奔域であり「殖産上」から放出は出来ない。

丁度、「南紀の郷士頭の家の記録」には、この時期に「青木氏」が江戸期末期まで持っていた「殖産の利権」の行の事が特段に書かれている。
其れに依れば、恐らくは、「伊勢暴動の事態」の為に「南勢の郷士頭」に「説明」か「同意」を求めたのではないかと考えられる。
この後に「売却された」と観られる。

(注釈 祖父が興した仮名の「忘備録」に口伝方式で詳細に記述がある。
その時の「経緯の立場」を後世に明記したものと考えられる。)

この時のものは、前段の「商業組合」で論じた「江戸期の殖産の利権」が対象であったと観られる。
「地権と利権の放出」(主に南勢と東勢)で、「氏人(うじと)」であった「彼等の経済的な裏付け」(上記疑問の「全員の生活の補償」)をこれで採ったと考えられる。

然し、時期的に「地権と利権の放出」(主に南勢と東勢)が同じであると云う事と、「南勢の郷士頭」の資料の土地に関する行からその状況証拠と、祖父が書き記した忘備録だけであるが、確定するその証拠は何も見つからない。

この明治初期から明治15年頃までの代は、「曾祖父と祖父の代」であって「青木氏の由来書の復元」に取り組み始めた「忘備録(未完成:由来書の復元)」は信用出来る。

この時期の少し前に、実は曾祖父の長兄と次兄との間で「青木氏で路線争い」(四家の中で)が起こり、「意見の違い」から長兄が「福家の跡目」は自分であるとして、「大日如来坐像」を「鎌倉の菩提寺」より「伊勢の菩提寺」に戻した。
(これは「青木氏の禁じ手」であった。)

(注釈 「大日如来坐像」は「伊勢」が「幕末の戦乱と混乱」に巻き込まれる事が予測され、一時、同族の「伊豆の青木氏の菩提寺」に預けた。
当時、「維新軍」と「幕府軍」は伊勢か名古屋付近で衝突すると予測されていたし、「維新軍」は丁度、伊勢付近で偽の「錦の御旗」を作成して「討幕の形」をやっと出来上がったと云う経緯もあった。
それには「維新軍」として、「紀州藩と尾張藩の壁」を突破しなければならない「戦略上の宿命」があった。)

(注釈 「鳥羽伏見の戦い」の三日目に「幕府軍」は「伊勢」に駐留していたが「維新軍」との衝突は何とか西に向けて動いて難を逃れた。尾張藩は7日目に恭順)

何れにしても、この戦略に打ち勝つには、「錦の御旗」を掲げる事で、「維新政府」>「幕府」の勢力図を決定着ける伊勢域は重要な地域でもあった。
「伊勢」は、この様に「不入不倫の権の聖域」が危ぶまれていたのである。

更には、「伊勢暴動」も「不満」が溜まりに溜まっていて爆発は予測されていた事でもあって、大事を取って「青木氏の象徴」の「大日如来坐像」等は、「青木氏の禁じ手」を破って、“鎌倉に移す”と云う事に決定したと云う事である。
それと、「打つ手」は打っていたが、下記に論じるが、「討幕派」の中で、“「献納金者」”+“「協力推進者」”>=“「伊勢暴動の立役者」”の関係で、逆転してどの様に転ぶかは「青木氏側」では不透明であった。
その時の「万全の手立て」ではあったらしい。
それは、「維新政府の出方」のみならず、「青木氏側の路線争いの成行き」も懸念されていたのである。
然し、この様な状況の中で、結局、長兄は病死した後、次兄が「福家の跡目者」である事の証として、「伊豆菩提寺」より「大日如来坐像」を基の伊勢の「福家の母屋」に移した。
(現在は依ってある所に祭祀して厳重に保管している。)

ところが、この次兄も病死し、結局、三男であった筆者の曾祖父が幕末に「福家の跡目」に納まってこれを若い祖父が補佐して「青木氏で路線争い」は収拾した事が祖父の筆字で明確に書かれている。

矢張り、「青木氏の心魂」の「氏人への最後の絆」に付いて、「地権と利権の放出」(主に南勢と東勢)を成すべきかの「意見の違い」が興った事を如実に示す証拠でもある。
これは、「伊勢の郷士衆」以上の一族郎党で議論と成った証拠であり、「南勢の郷士頭」の家に遺された「手紙資料」がその時の「福家の路線争いの結末」が書かれたものであった。
「伊勢郷士衆」には「伊勢暴動」に加担する事に対して、矢張り、反対が多かった事が記されている。

(注釈 この資料の書主は「福家」では無い。「祖父の忘備録」に依れば反対したのは次兄であったが、曾祖父の三男は、「青木氏」として長兄が押し進めた以上、最早、この段階で中止できないとして腹を決め路線を継承したのである。
父は大きく成って祖父からこの時の経緯を聞いたとの事で、そこの詳細は口伝で筆者に伝わっている。)

「祖父の口伝」の趣旨は、“「青木氏の象徴」の「大日如来坐像」に対して必要以上に関わるな“と云う「戒め」だけであった。
“納める処に収めて置くことが必要で動かしてはならぬ。”、“動かすと「氏」には災いが及ぶ”とする「固い戒め」であり、これは当に「青木氏の氏是」である。

そもそも、前段で論じた様に、「春日真人族―志紀真人族」の「青木氏の象徴物」を「動かす」と云う事は、「何かの事」で「世に憚る事」から「動かす事」に成っている。
「何も無い所」に「青木氏の象徴物」の「大日如来坐像」を態々、「動かす根拠」は生まれ得ない。
恐らくは、この「戒め」は「青木氏の象徴物」に限って「戒め」ているのではなく、「世に憚る事」つまりは、“「維新軍」と「幕府軍」との何れにも加担してはならない“と云う事であったと筈である。

ところが、決着の着いた維新には、“「献納金者」”+“「協力推進者」”>=“「伊勢暴動の立役者」”の関係で関わっている。
これが果たして、「青木氏の氏是」を破った事に成るのであろうか。

この時の幕末から明治初期の最後の経緯が克明に判る事件で、これが「青木氏の心魂」の「氏人への最後の絆」であった。

結局は、「北勢と南勢と東勢」の「青木氏の地権」はこれで消え、残すは「西勢と中央域の地権」だけと成った。

(注釈 「四家の摂津堺店」の堺域でも「摂津青木村」があり、「可成りの農地権」も持っていた事で「暴動」が飛び火した。)

(注釈 「北勢と南勢と東勢」の関係が変えた事で、それまで「氏人や郷士」が南勢や北勢から荷車を引き山を越え谷を越えて来た「運動会」とか、一か月に及ぶ「始祖祭り」とかに松阪を訪れた事は次第に消えたと記されていて、「青木氏の古式伝統」は「四家の範囲」で護られる様に成った。)

もう一つの事は、上記した“「献納金者」”+“「協力推進者」”>=“「伊勢暴動の立役者」”の関係で関わっているとして、これが果たして、「青木氏の氏是」を破った事に成るのであろうか。
この事を後勘の為に検証しておく必要がある。

それは何に於いても”「維新政府への献納金」”である。
これが「青木氏」に執ってどの様なものであったかと云う事に成る。

「維新政府への献納金」は、この時期、多くの「豪商」に求めていた有名な「維新政府の施政」であった。
前段の様な立場を持つ「青木氏」もいの一番に例外なく求められた筈である。
この苦しい時期の「献納金の工面」であろう。

幕末には、紀州藩の二度目の「勘定方指導」を務めたが、この時に「藩財政の立て直し」の為に“「前貸金」(引当金)”として拠出していた。
これが上記の様に「幕府」が無く成り、「紀州藩」も無く成り、「伊勢支藩」も無く成り、「不当金」と成って仕舞った事が「商記録」と「忘備録」にある。
実にダメージが大きかった事が克明に描かれている。

其処に“「維新政府の献納金」”である。
「青木氏」としては、立場上、「賜姓族」であると云う事から「献納金」は是非の事無く納める事しか無く成る。
況して、「伊勢暴動の裏の影役者」である事は、周知の事で「矛盾の行為」であった。
何とかこれをうまく納めないと、それこそ「青木氏の氏是」を出自以来で始めて破り、且つ、「暴動の裏の煽動指導者」の「汚名」を残す事に成り得る。
お恐らくは、「氏」を遺す事も儘ならなかった筈である。(結果として見事に納める。下記)

「地租改正」と連動して「維新政府」が断行しようとした“「農地解放の協力推進者」”であって、それを進めた事に依って、その結果として、「自作農」にした「農民」が、不得意な「金納の納税者」と成って仕舞って、「状況の理解」が浅い事から「租税の不満」が表に出る事に成って仕舞った問題でもあった。
前段でも論じたが、「米納」から「金納」に切り換える事は、前段で論じた様に、「政治体制の四つの矛盾」の「幕府解決策」の一つであった。
享保期から積極的に「青木氏」が取り組んで来た「政治課題」と「経済課題」であった。
しかし、明治期初期にこの時期を得て「自作農」を率先して進めてきたが、「氏人の農民」には「充分な説得」が成されていなかった事が露出したと云う事であった。

ここでは、“「献納金者」”であって“「協力推進者」”であって“「暴動の立役者」”でもあると云う「二律背反」の隠す事の出来ない事実が起こって仕舞っていたのでもある。
難しい「綱渡り」である。
「綱渡り」と云うよりは当に「手品」であろう。
然し、かっと云って「青木氏」としては、何れ上記の「三つの者」は、“「避ける事の出来ない役」”であった。
「避けられない宿命」、或は、「時代のうねりの流れ」に引っ張られていたと云う事であった。
最早、「青木氏の意志」に依るものでは無かった筈で「逃れる事の出来ない宿命」であった。

この「宿命」は、次ぎの様な数式論の様に「金子に代わる不思議な流れ」であった。
今までは無かった「時代の流れ」であった。

「紀州藩前貸金」+「維新政府献納金」+「暴動支援金」>=「青木氏の宿命金」

以上の様に、何れもが「宿命金の返納」とはならない「金子」(帰ってこない金)が、一度に用立てる必要性に迫られていて、これは「青木氏の浮沈」を左右する事でもあった。
これの「意見の違い」で、「信濃の青木氏」も巻き込んで豪商と成っていた「六つ青木氏全体」での議論の渦中にあった。

「維新政府」としては「青木氏」のこの動きを次ぎの様な数式論として観ていたと考えられる。

“「献納金者」”+“「協力推進者」”>=“「暴動の立役者」”

この「二つの数式論」が「二足の草鞋策」を敷く「豪商の六つの青木氏」を苦しめていたのである。

確かに、この数式論から“「暴動の立役者」”は、「地租改正の障害」と成る事であって、「維新政府」にとっては、本来であれば、間違いなく「青木氏の捕縛」であろう。
然し、「青木氏の捕縛」は記録では無かった。
其れは、上記の数式の中にあったからである。

「紀州藩前貸金」+「維新政府献納金」+「暴動支援金」>=「青木氏の宿命金」

この数式論が「青木氏の捕縛」を救った。
これだけの「宿命の負荷」が掛かれば、「地権と利権の放出」(主に南勢と東勢)は逃れられない。
然し、この「三つの金」は「商い」で取り戻せる事が出来ない金でもある。
この時、「伊勢の福家」では「倒産」を覚悟した事らしい。
或は、「汚名」を被り「氏の滅亡」を覚悟したらしい。

注釈として、この時、現実に「氏人であった捕縛者」がどうなったか気に成るが、「青木氏の記録」に依れば、次ぎの様であった。

「伊勢北部」での全体は8000人程度以下で、その内、直接の「氏人であった捕縛者」は150人、関係者では400人程度で、「南勢の氏人の捕縛者」を入れると合計600人程度と記されている。
そして、「重要な事」は、この「600人弱の捕縛者」は、「青木氏」が保証人と成って直ぐに解放されている。
(公的な記録にもある。)
「伊勢」での全関係者は800人程度と記載されている。
祖父の文章の「行」から、「600人の氏人の解放交渉」を裏で行った様子である。
全体の暴動の捕縛者は5万人であった。

「青木氏」としては、“今のやるだけの事はやった”と云う表現である。

そこで、重要な「青木氏の歴史観」は、注釈の「600人の氏人の解放交渉」の「行の意味」である。
ところが、「北勢と南勢の氏人の数」からすると、少ない。
別の記録から正式な「氏人」は全戸主1000人強居たと記されている。
当時の「青木村」にして見ると、「5村から6村」に相当するが少ない。

参加した「北勢域の員弁と桑名」の「氏人の村の数」と、後追いで参加した「南勢の尾鷲域」の「氏人の村の数」からすると何故か少ない。

そうとすると、「人数」から考察すると、「捕縛されなかった氏人」と「暴動に参加しなかった氏人」が400人-35%もいた事に成る。
参加したが「捕縛されなかった氏人」は、「村集団」で行動していたので居なかった事に成る。
記録から、“状況が新たに変化して、50人が再び新たに参加した”とあるので、「解放された人」は「保証人の立場」を崩す事に成るから先ず「再参加」は無いだろう。

これが「暴動に参加しなかった氏人」の内の50/400人と成ると、合わせて「250人の参加」と云う事に成る。
(「捕縛されなかった氏人」は150人)
丁度、「全氏人数(戸主)」の「40%-250人」が参加した事に成る。

全て農地解放前は、地権の持たない「小作農」で有ったので、これは「参加しなかった人」、つまり、「意見の違う人がいた事」に成る。
然し、況や、“新たに”「地権者」に成る事を拒んだ人”が居た事に成る。”
即ち、“「氏人」で居たいとする人”が、「6割」も居た事に成る。
この事が重要である。
これが、「氏人の村数」の少なさに繋がっている事に成り数理的に納得出来る。

唯、「行」では「村単位での行動」と成っているので、「村全体」が参加しなかったのか、又は、「村の氏人の一部」が参加しなかったのかは判らない。

要は「維新の地権」を新たに持った「氏人の数」が、「地権」を持った事は良かったが、突然に「米価」から「税」が慣れない「地価」に変換されて、「貨幣」に疎かった事で「金納」に成った事の「戸惑い」が「不満」を持った事である。
その為で、依って「維新の新たな地権」を持った「氏人」が全て参加している事に成る。

然し、そもそも、「郷士衆」を除き、「青木氏の村」には元より「地権」の持った「青木氏の氏人(地主・地権者)」は居なかったので、結論は「村全体の行動」では無かった事が判る。
それぞれの「村の一部の参加」は、つまりは、「維新の地権」を持った全ての「氏人」」であった事に成る。
云い換えれば、「維新の地権を持つ事を拒んだ氏人」が多く居た事に成る。
(つまり、これを”「6割組」”と書かれている。)

従って、「北勢と南勢の一部の青木村」には、維新に依って、有史来、初めて「地権者の氏人」(「4割組 a」)と「地権者では無い氏人」(「6割組 b」)が混在した事を意味する。
これでは全ての「青木村」には、ややこしい関係が新たに生まれていた事に成る。
「地権者に成った氏人」は、最早、基本的には「氏人」では無く成る。

つまり、「青木村」には「氏人を続ける者」と「氏人を続けない者」の「混在状況」が発生した事に成り、「複雑な人間関係」が生まれていた事を意味する。

「青木村」でありながら、「維新の地権者」に成った者は、果たして「青木村」に居られるかの疑問が残る。

然し、「村の土地の地権者」と成った以上は、「青木村」に住む事に成る矛盾が生まれる。
「4割組のa」と「6割組のb」が上手くやれるのかの問題である。
これは「氏人との意志の選択」から生まれた「村の難題」であった。

然し、「6割組のb」が存在しながら「青木氏」は、「4割組のa」の暴動の「経済的背景」と成っている。
そして、彼等を救出している。

道義上(「人」の行うべき「正道」)は、「維新の地権者」にしたが、「悠久の氏人」であったとする事から「青木氏」には「4割組のa」に対する責任もある。
然し、信義上(「真心」で「約束」を守り、「相手」に「役」を果たす事)では、最早、「氏人」で無く成った者等であって、「悠久の静かな村」に問題を持ち込んだのである事からも、“自分の事は自分でせよ”として、「6割組のb」は釈然としないであろう。

「6割組のb」と「4割組のa」は全くの他人では無く何らかの縁者関係にあった。
この様な時には、“「4割組のa」を見放すのか、支援するのか“は、最終的には、「氏上の青木氏」の「福家の判断」に任される事には成るだろう。
「救出している」のであるから、「青木氏の心魂」が働いた事に成る。

「祖父の筆」では、「救出と云う事」と「暴動の円満解決」を自慢話に成らない様に、この事を暗示していたのである。

結局は、上記の「金の数式論」と「者の数式論」が効を奏して、先ず「参加者の600人」を救い出したのである。
然し、次ぎは「汚名の払拭」と「暴動の円満解決」の為の「手立て」であった。
この「二つの手立て」は関連していた。

それには「汚名の払拭」は、「暴動の名目」を変えて行く事でもある。
この為に「参加者400人」(「4割組のa」)を「ある方向 下記」に説得する事にあった。

ここで、「青木氏の歴史観」として「汚名の払拭」と「暴動の名目」のこれを理解する為に「青木氏」の独特な「事務的な伝統」を記して置く。

(注釈 「汚名の払拭」と「暴動の名目」の策は、「参加者400人」(「4割組のa」)の「説得策」を始めとして「名目策」等は、「時代の先取り」としても「政府の面目」も建てた見事なものであった。
それは下記に論じる。)

その前に、この“祖父の暗示”に関して、“何故に暗示したのか“と云うと云う事であるが、それは「青木氏の古式伝統」にあった。
普通なら、“記録に遺すのだからはっきりと書けばよい”と成る。
ところが、此処に「青木氏の慣習仕来り掟」の「古式豊かな配慮の伝統」があった。
祖父もこの「古式慣習」で育った事もあって、「忘備録」などにはこの「暗示」が好く使われている。

そもそも、この「古式伝統」には、先ず、手紙等の文章は、“「祐筆」”が居て、素案・原案を作成し、それを「認める作法」である。

(注釈 “文章を認める“と云う言葉が有るが、この”認める(したためる)”は下記の「仕来り」から「語源」が来ている。)

一つ目は、「青木氏」には、「神明社の柏紋の禰宜」と、「氏の菩提寺の達親」の「二つの役職」があった。
この“「祐筆の役目」”を古来より“「青木氏の仕来りの伝統」”として務めていた。

二つ目は、上記の様な詳細な機微に関する内容は、直接的に書き込むと云う事は行わず、機微を匂わせるものと成る。
これを「美徳とする慣習」が古来より在った。

この慣習は、「志紀真人族」としての「賜姓五役の格式」を汚さない為にこの「祐筆の制」を執ったと観られる。
“「春日真人族の後裔」で「志紀真人族」とはあの程度か“と云われない為の「氏の防備」であって、それが「慣習仕来り掟の伝統」と成ったものであろう。
むしろ、「氏族の範」としての「朝廷」が求めるものであったとも考えられる。

書き記す証拠はないが、他の古式伝統から租借して「格式と範とする概念」が強かった事は否めない。

この「格式と範」としては、直接的に書き込む事は「無粋」として、その「人間力」や「人格」を疑われ軽蔑されたのである。
少なくとも、「四家制度」の「福家を務める者」は、この概念を強く持ち得ていなければならない事を求められた。

さて、この「祐筆」を務めた原案に対して、「福家」はそれ以上に「チェック能力」を要求され、「原案訂正の能力」を要求された。
その為に、「朝廷や上位」に出すものは、「禰宜」が、「四家や郷士衆や縁籍」に出すには、「達親」が務めた。

中でも、朝廷から「神紋の柏紋」を特別に有する「青木氏」の「身内の禰宜」は、「青木氏の顔」として観られ、「禰宜」が作成する文面は、「青木氏の品格」を評価されるものとして扱われた。
この為に「四家制度」の中で育てられた中から“「優等生」”が成ると云う「仕来り」であった。
従って、「柏紋の禰宜」に成れるには「極めて名誉な事」であって、「青木氏」の中だけでは無く世間に対しても名誉であった。

朝廷などに出向く際には、この「笹竜胆紋」を「総紋」として「柏紋の禰宜の青木氏」は、「福家」に同行して朝廷などでもトップクラスの扱い(従三位)を受けた。

(注釈 朝廷で天皇に控えて拝謁できるが発言は出来ない格式で、発言が叶うのは正三位からである。)

従って、この「祐筆を務める禰宜」は、「青木氏」は元より「故事伝来の知識」に長じていなければならないし、「書体の良悪」も重要であった。

「四家制度」の「祐筆を務める達親」は、「氏人の事の詳細」や「氏全体の古式の慣習仕来り掟」に長じ、一種の「歴史官僚の様な役目」でもあった。
従って、「祐筆を務める禰宜」と共に、「青木氏の祭祀等の準備」も進める役目を負っていたのである。

(注釈 古い資料を読み取ると云う事は、この“文面から租借する能力”を要求される事で、当然に「青木氏の古式歴史観」も把握していなければ、なかなか理解が難しいのである。
筆者が本論中でよく「・・・の行・・」と表現するはこの事にある。
「禰宜」と「達親」の仕事は目が廻る程に忙しかったと記されている。)

歴史的には、「祐筆」は、朝廷や公家や武家などが使う呼称であった。
一方、同じ「右筆」は、室町幕府から使われた呼称で、後の大大名はこの「右筆」を使った。
ただ、小公家は自筆を専らとしたが、「祐筆」と「右筆」とには時代性もあるが、前者は「歴史・慣例・慣習・仕来り等の知識能力」、後者は主に「識字能力」に重点が置かれていた。

これは「発行する相手」に左右されていた事から、「祐筆(書籍官)」と「右筆」(代筆者)」との呼称の呼び方と意味が多少異なっていた。

これは奈良期から「識字能力と歴史や慣例の知識の能力」の程度に左右した為に起こったが、取り分け、「皇族賜姓臣下族」であった事に依り「青木氏」に執っては「歴史・慣例・慣習・仕来りの知識能力」に重点が置かれていて、自筆もするが、その意味で明治期まで“「祐筆」・(「執筆務」)”の呼称が使われていた。

これ等の祐筆に付いての歴史は重要な「青木氏の歴史観」である。

前段で論じた様に、これは「志紀真人族」の「賜姓臣下族」を構成する数少なく生き残った「氏族」であった事もあって、「青木氏」の「郷士から氏人」までの長い歴史の持つ「氏」を構成するには、「歴史・慣例・慣習・仕来りの知識能力」が重要であって、「賜姓五役」に大きく左右していた事を物語っている。

従って、この上記した「見放しか支援か」の差配と、「汚名の払拭」と「暴動の名目」の差配を間違うと大変な事に成っていた事を物語っている。
この「歴史・慣例・慣習・仕来りの知識能力」を間違いなく持ち続けるには、「祐筆」を「禰宜と達親」に分けて、この時には「執筆務」を採って居た事が判る。

「歴史・慣例・慣習・仕来りの知識能力」、即ち、「書籍役」(1)のみならず、「催事役」(2)の祭祀祝事の「催事全般」も担っていた事が書かれている。
時には、「郷士から氏人」までの「調整役」(3)も担っていた事が判る。

前段で論じた神明社の「御師役」(4)や、シンジケートとの「連絡役」(5)や各地との「情報伝達役」(6)中には、「神明社」を通じて「氏人」の「薬師役(医務役)」(7)も演じた事が書かれている。
上記した様に「仏施の質役」(8)も務めていたのである。

「書籍役」(1)
「催事役」(2)
「調整役」(3)
「御師役」(4)
「連絡役」(5)
「情報伝達役」(6)
「薬師役(医務役)」(7)
「仏施の質役」(8)


(注釈 これでは確かに飛びぬけて優秀で無くては「役」は成し得ないだろう。
各地の「笹竜胆紋と柏紋の青木氏末裔」は伝統的にこの知識を持つ末裔であった。
従って、4年か5年に一度赴任地から帰勢する仕組みで、その後また別の赴任地の神明社に出向く制度を執っていて、「豊かな情報と高い経験」とを収得して全役目を全うさせる仕組みであった。)

(注釈 黒田藩の始祖父は、近江佐々木の支流末裔にして、「近江系の摂津青木氏」との血縁を持ちその所縁あって「神明社の7」を務め、5と6も務めていた。
その事が出世の糸口と成った。)

注釈として、一時、この“「執筆務・(秘書役)」(4)”の呼称を使っていた事があるらしい。
正しい呼称かは判らないが、「執筆務・(秘書役)」を「しっぴつむ」とし乍らも、「祐筆」にかけて「しゅうひつ」(衆筆)と呼んでいたとする記録もある。

「氏人側」からの呼び名であった可能性が有るので、“「衆筆」”の意味は大変その「役目柄」が良く判る。

さて、この「6割の氏人」は、昭和20年の「進駐軍の命令」で「農地解放」が日本全国一斉に行われたが、この時にこの「6割の氏人」が「地権者」に成ったとすれば、父の口伝に一致する。
記録と口伝が一致する事に成る。

故に、前記した「曾祖父の長兄と次兄の意見の違い」が、「伊勢郷士衆」までを巻き込んで起こったが、その「原因の背景」は、これで完全に理解が着く。
「全国の青木氏」、取り分け、「六地域の青木氏」ではこの様な事が起こっていた。
前段で論じた様に、その例として、瀬戸内で全国的に「廻船業」を営んでいた「青木氏の記録」を見ると、分家筋の「安芸の青木氏」との間で「路線騒動」が起こっていたが書かれている。

「伊勢の暴動」は、「信濃青木氏」が「伊勢青木氏」と同じ行動を採った事で「信濃」まで広まったが、「信濃青木氏」も同じ苦労をした事が良く判る。

(注釈 記録を見ると、飛び火的に貰い火の様に「青木氏の六地域」にも広がったが、伊勢信濃程には大きくはならなかった。)

尚、この「地租改正の暴動」は、「秀郷流青木氏の定住地」である「茨城や千葉」まで飛火した。
然し、「鎌倉伊豆域」や「神奈川横浜域」では不思議に起こっていない。
この地域は、「二つの青木氏」が存在する地域でもある。

この事は、明治期には、「秀郷流青木氏」も「氏子への地権の移動」を「青木氏の定住地」の「茨城や千葉」では行っていた事が判る。

ところが、「本家本元の武蔵」や「鎌倉伊豆域」や「神奈川横浜域」のこの地域の「青木氏」は積極的では無く、「貴族院の方針」に従った事に成るのだろう。
「享保の改革」の時も積極的では無く、一時反目し合った事もあった。
不思議な原因はまたもや判らない。

「武蔵藤氏」が一族こぞって「幕府の官僚族」に成った事が原因しているのかもしれない。

故に、この事も在って、安定した「伊豆(鎌倉)」に伊勢から「大日如来坐像」を移した事も一つの要素と成る事が判る。

前段でも論じたが、「享保の改革」で「犬猿の仲」と成っていたが、「伊豆青木氏の宗家」は「鎌倉」に別荘を持っていた事から、密かに「伊豆青木氏宗家の判断」ではその後に「鎌倉」に安置したと記されている。

この事では、次ぎの事が読み取れる。
先ず、一つ目には、「維新の時期」には、既に、「伊勢との関係」が修復されていた事を示す事に成る。
更に二つ目には、「秀郷流青木氏116氏」の殆どは、「維新の地権の放出」に応じずに「氏人を地権者」にはしなかった事に成る。
又、三つ目には、事前に「鎌倉伊豆域」や「神奈川横浜域」の態度も把握できていた事に成る。

「幕府軍」と「維新軍」の「衝突の可能性」から、「神奈川横浜域」との中間地でもあって「鎌倉の方」が“いざ”という時には守備の点で両方から護れると観て安全と考えたとしている。

(注釈 現在も鎌倉には「伊豆宗家」が「大きな屋敷」を構えて定住している。)


そこで、何故、「秀郷流青木氏116氏」の殆どは、「維新の地権の放出」をしなかったのかの疑問である。
それは、「武蔵藤氏の官僚族」の事もあるが、更にこれを突き詰めると、「青木氏の心魂」の所以に依るものとも考えられる。
何れも、「氏人との関係」は平安期から長い。
唯、異なる事は「伊勢と信濃域」は「朝廷との歴史性」に依る所が大きい。
云い換えれば、良し悪しは別として「賜姓臣下族としての感覚」の差にあった事に成る。
矢張り、「朝廷との繋がり」の強い「伊勢域信濃域と云う地理性」に依る事がこの感覚から逃れ得なかった事に成る。
つまりは、この「地理性」から来る自然に構築される“「氏人との絆の差」“であろう。
それが、上記した「6割の氏人」と「4割の地権者」との“「選択差」”に表れたと考えられる。
この「選択差」=「絆の差」と成ったと考えられる。

それは、“氏人が地権者に成る事を好まなかったのか、”将又、“地権者にする事を好まなかったのか”は判らない。
「絆の差」を強く持つ「伊勢域や信濃域」では、「6割の氏人」:「4割の地権者」を「6:4」であったとすると、「6割の氏人」:「4割の地権者」は「8:2」位以上の関係性を維持していたと考えられる。
とすると、“「氏人」を「地権者」にする事を好まなかった” と“「氏人」が地権者に成る事を好まなかった”の「両方の決断」であった事が考えられる。

これは「地価制」や「金納制」に成る事に依る「リスク」を「先読み」しての事であったかも知れない。

そうすると、「武蔵」はさて置き、「茨城と千葉」は、「秀郷流一族一門」や「青木氏族」の中でも「結城氏の永嶋氏の地域」である。
この本家本元の秀郷流一門の最大名門の「結城永嶋氏」は、「伊勢藤氏の伊勢長嶋氏」を含む「伊勢秀郷流青木氏」との血縁性も高い処であり、「秀吉の時」の「陸奥攻め」と「結城攻め」に救ってくれた恩を認識して「伊勢の影響」を強く受けていたとも考えられる。

その根拠は次の事にある。
注釈として、前段でも論じたが、「秀吉の陸奥攻め」の時に、「伊勢秀郷流青木氏」は伊勢から出て「秀吉の背後」を襲った事で「陸奥結城氏系永嶋氏」を救い、その後、「結城氏一族」を護る為に軍を結城に廻し救った経緯がある。

又、朝廷「京近江の公家」との血縁性を強く持つ「伊勢秀郷流青木氏」でもあって、「青木氏族の永嶋氏」も同様であった。
秀郷一門の中でも同族意識が高かった。
恐らくは、これらの所以が強く働いたものと考えられる。

結局は、「氏上と氏人の関係」も、この「選択差」=「絆の差」と成ったと考えられる。


さて況や、この事柄(歴史的情報)を「祐筆・御師」等の働きから適格に読み切った事から、「鎌倉伊豆域」や「神奈川横浜域」の態度も判った事に成る。
「読み切る事の情報」は、上記で論じた「1から8の役」を果たす「祐筆・御師」(神明社)が集めた事に成る。
当然に享保期に起こった「伊豆との蟠りの解決」もこの「神明社の役目」であった事に成る。

さて、これで「伊勢暴動」は、この様に何とか乗り切った。
然し、注釈として、「紀州藩前貸金」+「維新政府献納金」+「暴動支援金」>=「青木氏の宿命金」の環境の中で、この状況でも「四家」は、「パッキン」と呼ばれる「紙箱等の殖産」や「酒造米改良の殖産」は続けている。

この「殖産」を「6割の氏人の副業」として彼等を護ったのであるが、「4割の地権者」の中には、上記の数式論で「氏上の行く末」を見限った「氏人」も多かったとする資料の行もある。

その意味でも頑張った甲斐があって、通称、「パッキン」(紙箱)は、その後、時代と共に爆発的な発展を遂げた。
段ボール等を含む各種の「家内業の紙箱業」ではあったが、「6割の氏人」を何とか護ろうとしたのである。

「青木氏の歴史観」として「各種の紙箱」の発祥は「青木氏の殖産」からである。
これで明治に成っても「氏上と氏人の関係」を何とか保ち、再び力を取り戻したが、「江戸期の力 500万石」は最早無かった。

確かに、この状態は明治35年まで続いたが、ところが「松阪の火事出火元の賠償程度」で「福家」は倒産した。

(注釈 賠償程度で倒産するとは考え難い。財力以外の何かが働いたと観ている。
然し、祖父は「福家」だけの倒産を実行した。
筆者は「祖父の忘備録の行」から下記の事から「責任説」を採っている。)

「紀州藩前貸金」+「維新政府献納金」+「暴動支援金」>=「青木氏の宿命金」

以上の数式論で、結果として兄弟が「路線争い」したが、「火災による災禍」を興した事から充分な継承が出来なかった事に対する「福家の責任」を執ったと観ている。
従って、「福家の資産」のみを処分したと考えられる。

そこで、「郷土史研究家」で元郷士の話では、その後、祖父の弟に当たる分家・即ち、四家は、「松阪、玉城、射和地域」では、“「徳宗家」”として地域の人からも信頼されていた事が伝わっている。
これは明治期に成っても「伊勢の殖産」で多くの人を救ったとしての事であった。

そもそも、“「徳宗家」”とは、専ら平安期以降に良く使われた用語で、「宗家」に代わって人々にその「徳」を果たしたとする浄土宗系宗派に用いられ、取り分け、「徳」を重視する「禅宗」等に使われた「仏教用語」である。

古くから「浄土宗の密教の宗教概念」が浸透している伊勢では、「古式慣習の概念」として未だ明治期までも用いられていた事を物語るものである。
ところが、鎌倉期後半の頃から、この慣習を利用して良く似た意味で、これを用いてその後に、鎌倉幕府の「源氏の権威」を継承しようとして、“「得宗家」”として「総家の執権北条一族の呼称」に使って「一族の権威」を表した。

一般には、この事からこの「得宗家」が使われるが、元来、「古式概念」からすると京、近江、伊勢等で使われていた「浄土宗系の仏教用語」の“「徳宗家」”が語源と成る。
これも「古式慣習の伝統」である。

その“「徳宗家」”と呼ばれていたが、この呼称が「氏上さま」「御師様」等と呼ばれていた中で、何時頃から「伊勢の民」に呼ばれていたか資料が見つからない。
然し、「浄土宗系の仏教用語」である事と、「平安期からの古式慣習」であったとする事は確かである事から、「和紙を始めとする殖産」を通じて「全ての郷士衆」から呼ばれていた事に成る。
故に、「郷土史研究家」の郷士であった家の資料に出ていた事に成る。

一時は、「500万石以上の財力」を誇ったが、「享保期の事」(伊勢屋の質等の出財)も含めて上記の事等で「体力」が極めて弱っていた証拠でもあるが、然し乍ら、「覚悟」は正夢と成ったのである。

(注釈 享保前と幕末期の二度の「紀州藩指導方」の事もあってか、大正14年15代の紀州徳川家の没日まで極めて親密な関係が続いた。
「祖父の忘備録」でも解るが、最後の二代に渡る徳川氏との親交を表す数通の手紙が現在も遺されている。)

この事に付いての「青木氏の歴史観」を遺す経緯が実はあるのだ。
それを下記に論じる。

そもそも、紀州藩は「維新政府の方針」に従わず「廃藩置県」をより先行して、「県郡制の実施」と、「無益高制(藩主や藩士に払う家禄を10分の1に削減)を実施」等を行った。
紀州藩は、これに加えて、更に、「藩政改革」として「藩治制度の三政策」を強引に実行した。
これに驚いた「維新政府」は大反対した。

つまり、この「県郡制と無益高制の二つの政策」と「藩治三政策」を“何故、実行したのか”と云う事が「青木氏の歴史観」に大きく関わってくるのである。

これでは判り難いが、前段でも論じたが、この幕末から「多くの高額借財」を抱えていた「藩主」の経理一切が藩政に大きく影響していた。

そこで「藩主」を含む一切の俸禄を1/10にした上で、更に「藩主」の「徳川氏の経理」を新たにして「藩」とは切り離した。
そして、完全に「藩政」からも分離した。
そして、それを実行した上で、最後に「藩」そのものを廃したのである。
これが「県郡制」なのである。
「藩」は突如無く成ったと云う事である。
そして、「無益高制」で「藩士」であった者の「給与」を殆ど無くして辞めさせる様にした。
続けてこれらの手続きは「2年間」の間に行われたのである。
その上で、「経理問題の処置」を実行した。

この為に、「藩主の借財」は、「個人の新別経理」に成って仕舞った。
「藩主としての責任」を問える「経理の相手」が「新しく別の無関係の経理相手」に成った為に無く成ったのである。
つまり、「藩の借財」は、「藩」が無く成る事」と、「藩主としての借財責任」も無く成る事で、「不当りの棒引き状態」として無く成る仕組みであった。
これで、「貸し手側」は何処にも返済を求める相手が無く成った。
恥も外聞もない明らかに「道義に反する騙し討ち」である。
この事で「江戸期からの一切の借財」等は、「騙し討ち」で「棒引き状態」と成った。
当然に、「青木氏等の商人の前貸金の返済」は霧消に至った。

(注釈 ある「紀州藩に大きく関係した豪商」(伊勢小津)からの借財も同じ事に成った事が、江戸期に豪商と成った紀州藩所縁の「豪商の自家伝」に、この時の心情と経営の苦しさが綴られている。
それには、“元々紀州藩の御蔭を以って「商財」を成したが、「商い」が出来なく成るも「元の無一文の状態」に成るだけで何の変化はない”とした負け惜しみの文面である。
「青木氏」とは少し違うが、「伊勢青木氏」と同じ様に呆れてこの時の「覚悟」を示している。)

「維新政府の処置」では、「棒引き不当りの不満」が、「伊勢暴動の不満」と連動して「全国的な暴動」に発展しないかとの懸念が強く持っていて、取り敢えず「紀州藩の藩治制度の三政策」に反対をして2年間様子を観たのである。
然し、「二人の伊勢商人」等は上記の覚悟を示した事で「伊勢暴動」だけで終わった。
ところが、この「伊勢暴動」には「青木氏の歴史観」を遺すだけの大きな「意味」があった。

当に、何度も重複させるが、次ぎの二つの数式論の状態が「青木氏の破綻」を導いた。

「紀州藩前貸金」+「維新政府献納金」+「暴動支援金」>=「青木氏の宿命金」
“「献納金者」”+“「協力推進者」”>=“「暴動の立役者」”

この状況の中で、同時に、「紀州藩の藩治改革」が進められて、この「数式の状況」が示す様に「青木氏」には「金と者の強力な流れ」が起こっていたのである。
「伊勢青木氏(伊勢の紙問屋)」としては、紀州藩所縁の「豪商の自家伝」の行の「心情」に成り得ていたかは疑問である。
(理由があって口伝と資料では成っていない。)
「享保の改革」後の1780年以降の幕府の「商業組合の締め出し策」と、幕末の「第二次勘定方指導の貸付金不当」が在り、この“「心情」“とは違ったのである。

其れは、上記した「紀州藩所縁の豪商」の抱える「土台」が、「氏上と氏人の関係」などでは無く、単なる「商い上の貸付借財問題」だった。
然し、「青木氏」では比較に成らない程に「人、時、場所」の「三相の意味合い」の「享保の改革」も然り、「勘定方指導」も然り、「吉宗育ての親」も然り、これ等の「関り具合」が「ケタ違い」であった。
そうした中で、「青木氏の心魂」で対応した事は、“「心魂」”と云う意味では「伊勢暴動」も同じではあった。

所謂、最早、ギリギリの処の「心情」<「心魂」で乗り越えたと云う処であろう。

注釈として、何故ならば、「棒引き不当りの不満」は、「心情」<「心魂」と「上記の数式論」から観ても、その思いや不満は「伊勢暴動の経済的支援」にも繋がっていたのではないかと観ているが、「証拠書き」は見つからない。
何かの理由で消されている様である。
唯、「青木氏」としては「妥協の心魂」から、上記する「強かな紀州藩の行動」には止む無く容認して応じたものの、一方の「青木氏の心魂」では、騙された以上は「怒り心頭」で、これでは済まされなかった。

つまり、「伊勢暴動の経済的支援」は、「心情」だけでは済まされず「青木氏」も「強かな心魂」で応じた事を意味する。

重要な注釈
“「強かな心魂」で応じた事“の理由は次ぎの事にあって、「青木氏」は「妥協の心魂」では事を流石に穏便に済ます事が出来なかった。
それは紀州藩が採った次ぎの三策に在った。

そもそも、江戸時代の「独立性の藩政」は、「朝廷」から政権を奪い、朝廷の生活を、土塀が崩れても修復できないまでの困窮に追い込んだ事で、「西の政権の朝廷」と江戸幕府の関係は「犬猿の仲」であった。
従って、幕府がこの藩の「独立性の藩政」を「西の政権」が持つ「国体の認証業務」から意地でも認めなかった。
従って、本来は、250年野間に於いても「正規の制度上」のものでは無かったものである。

(「西の政権」と「江戸幕府」との「犬猿の仲」は、徳川氏が江戸に幕府を開くに当たって、幕府を開く条件の「征夷大将軍」と「武家の棟梁」の「格式授与」を要求した。
室町幕府は、「足利源氏」である事からこの「二つの格式授与」はすんなりと与えた。然し、徳川氏は姓族である事から、慣例上、征夷大将軍は何とか与えたが、「武家の棟梁」は頑として与えなかった。これでは徳川氏の政権は幕府としての格式権威が失墜する。そこで、何とか認めさせるために「天皇家の経済封鎖」をした。然し、認めなかった。そこで底をついた朝廷は「武家の長者」と云う典範には無い「新しい格式権威」を持ち出して授与した。
何とか幕府は開けたが、これ以後、「国家の認証業務」を行う「西の政権」として遺して「犬猿の仲」と成った。
この時、「青木氏」は裏で経済的に「献納金」で支えていたのである。)

従って、驚くべきか250年続いた「独立性の藩政」は、明治期に成って初めて「追認の形」で正式に認めたものである。
ところが、現実には、この江戸期250年間は「独立性した藩政」で行われたが、何とその政治元の御三家であった「紀州藩」だけは「非正規の政治自治体」を理由にした。
従って、江戸期250年間は、この「訳有の独立性藩政」であった事を理由に持ちだして、これを理由にして、「紀州藩」は、「維新政府の反対」を押し切ってでも、“制度上に無い藩”とする事を理由にしてた。

今に成って「追認」を受ける直前(1871年)に「藩政制」を先行して勝手に廃止した。
結局は、「追認」を受けてしまうと「大義」と成る「大きな理由づけ」にはならなくなる。
「紀州藩の独断」の「驚きの手品」であった。

どう云う事かと云うと、これは「ある目的」、つまり、「商人」から借りていた「上記の借財の解消」(藩の借財 徳川氏の借財から逃れる手段)の為に「借財を持つ藩」を廃止する“「口実」”に過ぎなかった。

“「本来は制度上は無かった」”と云う事を理由づけとして、“「追認の形で正式に認めた」”と云う理由づけとするのは、明らかに“「朝廷」が認めていなかった”として、だから“廃止するのだ”として「理由づけにした事」に過ぎない。
何をともあれ、これを「紀州藩」が唱えて実行したところに意味がある。
これで「廃止」できれば、天下に対して“「棒引き不当り」の「正統な理屈」”は生まれるからである。

この“「棒引き不当りの理屈」”が出来れば、先行して「廃藩置県」で済ませれば、紀州では「暴動無し」で済む戦略であったし、「維新後の徳川氏」は「氏の破綻」から逃れられて「借財」からも逃れられ安定する。

つまり、これで上記の通り「四つの奇策」と成った。

先ずは「藩主」を含む一切の俸禄を1/10にした。
その上で、更に「藩主」の「徳川氏の経理」を新たにして「藩」とは切り離した。
そして、完全に「藩政の経理」も新たにして分離した。

「二つの経理」を別にしたのには理由があった。
「幕府」は「藩」に対して「命令」を伝える時、「藩」に対してではなく、「藩主個人宛て」に出していた。

これは、「幕府」が「独立性の藩政」を朝廷から認められていなかった事を意識しての事であって、「領地」を統治する「藩」は、組織上は正式に存在しない事を意味していた。
これを開幕以来、「幕府の徳川氏」はこの事を知っていた事にも成る。

況して、上記する様に「開幕の条件」の一つが欠けていた事もあって、各藩には、“「何々藩の藩士・・・」である。“と云う呼称はしてはならないとする通達を発し慣習にさせた。
つまり、「何々氏・・之守の家来・・である」とさせている。

これも、本来は朝廷の国家体制の認証を得ていない事を知っての事であって「藩」そのものは無い事を意識しての事であった。
先ずこの上で、この上記の「三つの奇策」を実行した。
その上で、最後に「四つ目の奇策」の「不正規な藩」そのものを廃した。
以上の「四つの奇策」を講じたのである。

旧政のものは、最早、無い事に成る事から、「莫大な貸付(最低でも6万両)」は「理窟の通った理由の奇策」が成立して「不当り」に成った。

この事に付いて「紀州藩と紀州徳川氏」には最早、「誠意」は無かった。

(注釈 故に、本来であれば、「藩」の「臣」で”「藩臣」”と成る筈だが、藩主個人の「家」の「家来」であった事から「家臣」とは云う事に成っていた。
つまり、武士たちは皆、この「独立性の藩政」が「朝廷(「西の政権)」が認めた「正式な政治体制」では無い事のこの事をよく知っていた事に成る。)

(注釈 もう一つその理屈があった。
「青木氏の三つ発祥源」を継承した「武家貴族」の「賜姓源氏や桓武平氏」に与えた。
「徳川氏」は「姓族」である為にこの「資格継承」を有していない。
それは「開幕の資格」の「武家の棟梁」を、「征夷大将軍」だけは渋々認めたが、「朝廷」は頑として絶対に認めなかった。
朝廷は、徳川氏が「姓族」であり、且つ「武家の資格」も持たない事も含めて、伝統を護った。
然し、「朝廷の生活源」を押えられた事からその圧力に屈して、「武家の棟梁」では無く、「武家の長者」として代替した。
「征夷大将軍」は平安期には既に全国統一を果たしているので、既に「有名無実」であり「飾り」にしか過ぎない。
要は「武家の棟梁」である事が「開幕の根拠」である事に成る。
重要な事は、上記の様にこれを朝廷は認めなかったので、徳川幕府は「西の政権の認証」が無い事から、「正規の藩政制度」が取れなかったのである。
従って、そこで「朝廷の官位」で呼ぶ「何々氏・・之守の家来・・である」とさせていれば、例えば「松平伊豆守の家臣」であれば”「伊豆守」”とする「国の守護」の「家臣」で理屈は通る。
「66国の肩書」を朝廷より金品を渡して貰って正当な家臣と成れるようにした。
従って、江戸期には権威の無い金品で決まる為に何重にも重複する「・・守」が沢山出た。
中には、江戸中期以降は、「国主並み」でもないのに金品で「・・守」が生まれ乱立した。  
これが、 「金品有無のステイタス」にも成った。)


>以下 「伝統シリーズ 32」に続く

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名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒

:「青木氏の伝統 30」-「青木氏の歴史観-3」 

[No.349] Re:「青木氏の伝統 30」-「青木氏の歴史観-3」 
投稿者:福管理人 投稿日:2017/01/19(Thu) 14:36:46


>「伝統シリーズー29」の末尾

>この様に、「同祖同縁の血縁」と「四家の血縁」の「二段構え」で「血流」を豊かにしていた様である。

>但し、「秀郷流宗家との血縁関係」は、「五家五流」は「笹竜胆紋(象徴紋)」を変紋しない事から、「家紋分析」では「柏紋」と「目結紋」とから、「秀郷宗家」と「佐々木氏」と血縁関係があった事が判るが、資料からは見つからない。

>「永嶋氏・長沼氏・進藤氏・長谷川氏の青木氏族」とは「佐々木氏の研究資料」からは確認できる。

>これは「枝葉末端の武家藤原氏」の「武蔵藤氏の秀郷(俵藤太)」に執っては「摂関家」と肩を並べる「武家藤氏」として「勢力拡大の最大のチャンス」であった。

>「東の乱」を契機に、この「補完策」に依って「二つの青木氏」に内政の「賜姓五役」は進み、「志紀真人族系」の「皇族賜姓臣下族の青木氏」は、「二足の草鞋策」も相まって「皇親族であった失った部分」を完全に補足したのである。

>「円融天皇」の「青木氏の補完策」としては、「天皇家、賜姓臣下族青木氏,秀郷流青木氏」の三者に執っては“「藤原秀郷流青木氏の創設」”は難しい時期に於いても完全に成功したのである。

>これも「青木氏」が「生き遺れた重要な歴史観」の一つである。


以下に「伝統シリーズー30」続く。


さて、ここで重要な注釈があり、「青木氏の歴史観」として先に論じて置く。

それは、”「准」”と云う用語である。

そもそも、上記した様に、「連動する氏の役」から「青木氏」での「氏上」は、前段でも論じている様に、そもそも「朝廷の格式」を用いる事からも「氏上」として成り得ている。
だが、ところが資料によると、古来より「氏人の差配者」の中には、「氏上」、即ち、「朝廷に仕える官人」に准ずるものとして、「氏上」と「氏人」の間には”「准氏上の人」”と呼称する者が居た様である。

この「使用の傾向」は、「皇族賜姓族」だけには観られるが、それは「朝廷認可」の下にでは無く「青木氏の慣習仕来り掟」の中で以後用いられていた事が考えられる。

つまり、「皇族賜姓臣下族」には、この“「准の使用」”を慣例として朝廷が永代認可していたと考えられる。
それは「皇族賜姓臣下族」に限られて「特別な格式を与える事」を目的としての一代的な個人の呼称手段として“「准」”が用いられていた様なのである。
これは、「氏上」と云う扱いよりは、「青木氏」は「賜姓五役」として朝廷の重要な役目の「紙屋院」(国産の紙等の関係品を開発する役目)を担っていた事から、この「青木氏部」の「職能の長」に対して「格式」を与える為に、”「准の使用」”を朝廷は敢えて「青木氏」の「氏人」に認めたと考えられる。
この事は本来は無い事である。

(注釈 この“「准」”は、「嵯峨期の詔勅」に伴う「青木氏の慣習に関する禁令」の一つであった。
例えば、「坂上氏」の父の「阿多倍王」は「准の使用」を特別に許され、その事から「桓武天皇・山部王」に依って「後付」で「高尊王・平望王」にして「准大臣」と呼称する事を許された経緯が遺されている。)

従って、「紙屋院」として、中国から輸入される悪質の紙では無く、未だ開発されていなかった「良質な和紙」を何とか「国内産」にする事が出来ないかと、「国家的プロジェクト」を試みた。
その成功の可否は単に、それは単に担当した「紙屋院」の「青木氏の氏人」(青木氏部)に掛かっていた事に成る。
それ故に、国家プロジェクトとして”「准」”に「相当する役目」と観られていたからである。

注釈として、前段でも論じたが、そもそも、「阿多倍王」は「後漢の国」の時の呼称であり、「大和王朝の格式」を得るには上記した様に「第四世王の王名」を持つ事が必要に成る。
「後付」で「高尊王・平望王」と授与して大臣に成り得る格式を与えたものである。
それが「青木氏」に使用する事を認めていた同じ「役職の格式」のものを、「坂上氏の始祖」に、「征夷の国家目標」を担う事からも、この”「准大臣」”として「役職の格式」を与えたのである。

そもそも、「山部王・桓武天皇」は、「伊勢王 施基皇子」の「四男白壁王・光仁天皇」と「高野新笠」の子供で、 「高野新笠」は「阿多倍王の孫娘」である。
松阪の「志紀真人族の後裔青木氏」と、伊賀の「阿多倍王の末裔」とは、ここで繋がっていて、両氏にとっての「准の使用」は納得出来る。

(注釈 これは「敏達天皇の孫の芽純王の娘」(四世)との血縁に伴って、「青木氏」と同じ「必要な格式」を得て、この“「准」”を使う事を正式に許されたものであるが、これは「格式上の認可」であって、「准の使用」は本質は「国家目標」の「達成の勲功」にあった事に成る。)

他に「藤原道長との政争」を繰り返した「藤原伊周事件」では、「伊周の復権」にはこの”「准」”を使う事で利用され、後に「朝廷内の人事の便宜上格式」として用いられる「正式制度」の様に成った。

注釈としては、つまり、「皇族賜姓臣下族」では、「氏内の権威付」に「人事手段」として“「准」”を用いることが許されていた事に成る。
この「嵯峨期詔勅に依る禁令」の「青木氏の慣習仕来り掟」として用いられていた“「准の慣習」”が室町期に一般社会に伝わったと考えられる。

そもそも、当初は、この“「准」”を付けての“「三司」”の間の「格式」を表現する方法として用いていたが、元はと云えば「中国の官僚制度」で用いられていたがそれから来ている。
そもそも、この“「三司」”とは、「太政大臣」と「左大臣」と「右大臣」の事である。

正式には、実際には権限としてはこの「三司」等ではないが、この“「准」“は「三司並の格式」を有するとする便宜上の位階等の時に使う「否正式手段の事」であった。
各種の格式や位階の者が持つ権限としては、この「准の呼称」を獲得されれば、”「三司」に関わる立場”として使用する事が出来る様に成った。

平安期には後に、「便利な呼称」として用いられた。
従って、「三司」等に成り得る「真人族」や「朝臣族」や「臣連族」等が、許可を得てこの便利な「准の仕来り」を盛んに使ったのである。

つまり、上記する「春日真人族から志紀真人族」の「志貴皇子とその後裔」は、「賜姓五役」を賜り、天智期や天武期には「皇親族」として「皇太子」に代わって実務を執った「氏」である事から、所謂、その「三司」の“「准」に相当する役務から、「中国の官僚制度の慣例」に従って、この“「准」”を使う事を特例として「氏の中」で許されたのである。

これを許された「青木氏」では、「従四位」以上に相当する「公家族」「官人族」「臣下族」の「三司に准ずる立場」として当にこの”「准」”を使った。
況や、従って、一般の還俗した「真人氏族」にはこの役職の格式の手段は認められていなかった。

「賜姓五役」とその「浄大一位の永代格式」を持つ「青木氏族」にだけ認められていた「准」なのである。


そこで、青木氏にはどのように使われていたのかと云うと、「青木氏の資料」に観られるこの“「准の人」”に任じられたこの「氏人の差配人」とは、実は次の様な人であった。

「四家制度」に依って何らかの理由で「郷士の縁籍筋」と成った「青木氏の者」が、「郷士衆頭」を長年務め功績のあった者であって、縁籍筋では「青木氏」を興している者ではある。
そして、「四家}の「氏上の一員」に服する事が叶わず、「准氏上の人」としてその功績を称えたと考えられる。

(注釈 唯、この「青木氏」を興したこの末裔は後にこの「四家」に組み込まれている。
「青木氏」の「准」は、朝廷の中で使う「青木氏の格式」を示す手段以外に、「青木氏」の「氏上と氏人」の中でも使われていたと云う事であった事に成る。)
この資料の存在期から判断して、「青木氏」の中での「准の使用」は、室町期中期の頃であったと考えられる。

つまりは、その「一つの集団の統率者・差配者」は、「氏上の宗家」が司ったとする地域社会の構成員であった事に成る。
(「家人」・「青木氏部」等)

ところが、平安期中期に成ってからは、荘園制が拡大し開発した荘園を維持する事が「二つの理由」で困難と成った。
それは、荘園経営の「税の負担」と「荘園の防御」では問題が出た。
「高位な氏」で「軍事力と政治力」のある「大きな氏」に頼って名義を借り、いざという時には助けて狙うと云う行動に出て、この「二つの課題」を解決して荘園を維持したのである。
以後、この「名義貸し荘園制」が起こり続けそれが主体と成った。
荘園主等に執っては「自らの氏」を護ってくれるのは、直接、氏と関係の無い「高位の名義名の氏」であった事から、そこには「氏」に「上」が着くと、「単なる身分の上下を示す主従関係」の用語と社会の中で変わって仕舞った。

(注釈 この問題の「荘園制」が起こると、「氏の上」と「氏の人」との間には「絆」に基づく関係は無く成り希薄に成り、主に「上」と「人」との間は「利害に基づく関係」へと変わったのである。
従って、「青木氏」=「神明社・守護神」=「氏人」=「500社の神明社」の構成の様に、問題の荘園には上記する「青木氏の様な関係」が基より無かった関係であった。
この“「名義貸し」”が主体と成って、「上と人との絆の関係」は「平安期末期の高位の社会」には最早、消えた。)

(注釈 平安期末期の前段で論じた様に「三人の天皇」はこの事に憂いていた。)

然し、「伊勢」は聖域であった事から「奈良期の伝統」を「春日真人族と志紀真人族の青木氏」等は「他の真人族」が行う「名義貸しの荘園制」から頑なに護った事で「荘園制の影響」は少なかったのである。)

然し、この期には「青木氏」は、自らの氏の中で「殖産」「商い」を進めた。
この事から、「絆の無い荘園制」を敢えて持たなかった事から、平安期初期までの「氏上と氏人の関係」を「伝統」として持ち続けた。
従って、「青木氏」では、この大化期からの存在(647年発祥)を示す事から、「氏上」は社会が荘園制が進んでも、“「元来の意味」“を持ち続けていたのである。


さて、仮に、青木氏の中に「上下関係」にあるとしたならば、「氏の上」であれば、用語上は決して「氏の人」を「氏の下」として定めていた筈で、“「氏人」の呼称”とは成っていない筈である。
従って、「青木の氏」の中では、「氏の村人(人)」は、語源の通り「氏の人」は「氏の子」の意味をし、平安期以降の「身分上下」を意味するものでは元より無かったのである。
これは前段で論じた「青木氏の概念」の「三分の利の概念」にも一致する。

(注釈として、上記した朝廷の中の事は判るとして、そもそも「青木氏」とはどういうものかである。
前段で論じたが、そもそも、「人」は湖などの「水に関わる場所」に集まり、その周囲で集団で生活する様に成った時、その集団の中に“「屯倉(みやけ)」”と云う「営倉」(「神明造り」の営倉:会議所の様なもの)を造り、そこに「人」は集まって来て、その様な集団が幾つも出来た。
その“「血縁の個体集団」”が、何時しか「氏」と成り、そこに「住む者」を「氏人(うじと)」と云い、その「氏人(うじと)」の中から「秀でた者」を「先導者」として選び、その「先導者」を「氏上(うじのかみ)」と呼称する様に成った。
この「集団の人」は相互に血縁し、幾つかの「血縁集団」が集まって、また一つの大集団が出来た。
この「一つの血縁集団」の集まりが「五つの集団」にと集約して行った。
この「集団」が枝葉化して個々の呼称の単位を「姓」と云う「小集団」へと再び変化していった。
これを奈良期では、この関西地域に於いて「五つの集団」の「連合政権」を構成して、この「連合政権」が「初期の氏」として認め呼称する様に成ったのである。)

(注釈 「七つの民族」に依って構成している以上、各地に「連合政権」が確立した。
これが遂には「融合単一民族」と成った。
この時期が一つのパラメータとして表現できる“「渡来人」”の言葉が書物から消えたのは平安初期からである。
この頃に世界で珍しい「7つの民族の融合化」が完成した事に成る。
この時に、上記の「氏族の枝葉の者」と「支配形態に所属する姓の者」との差別化が起こったのである。)

この「連合政権の指導者(大王家-天皇家)」と「五つの集団の先導者」との「血縁族の末孫」が独立して、初めて「氏姓制度の法」の下で「氏姓」が構成された。
これが「青木氏の原点」でもある。

況や、「准の立場」を認められた「氏の上」として初めて朝廷より法の下で認められた上記の「構成の氏」、所謂、「春日真人―族志紀真人族」と成り、その後の「八色の姓制度」(684年)で「志紀真人族」でありながら「賜姓族」で「朝臣族」として「臣下族」と成り、その「准の立場」を持つ「氏族」の”「伊勢の氏人」”の人に限らず「五家五流」の「青木氏の氏人」として認められた。
此処で、「准の立場」の「氏上」も然ることながら「准の立場」の人として「氏人」の呼称は認められた。)

この「青木氏」の「氏上さま」の呼称に関わらず、同じ関係を示す呼称が奈良期にはもう一つあって、それはこの「准の立場」の「青木氏の立位置」が良く判る呼称でもある。
それは前段でも何度も論じたが、当初、奈良期よりそれは、「准の立場」を持ちながら「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」に携わる「格式呼称」の“「御師様」(おしさま)”と云う呼称でも呼ばれていたのであり、これは「氏上」(うじかみ)と同じ語源を意味するものであった。

この「氏上」は、「氏」に関わる全ての「氏人(青木村)」を含む一族一門郎党の中での呼称であり、「御師(おし)」は、この“「氏人を指導する人」の呼称”でもあった。
取り分け、「氏人」が構成する「青木氏部」からの呼称として多く使われたのであった。
この特別な他氏には決してない「御師様の呼称」は、「准の立場」を併せ持つ事にこそ由来するのである。

前段でも何度も色々な角度から論じているが、この「指導」をより効果的にする為に、「氏上」に代わって、その「指導の範囲」を区分して担当する制度に変えたのである。
その「指導者」は、「青木氏部」に大きく絡む事から「神明社の神職」(准の格式)が担当したが、そもそも「祖先神の神明社の神職」は、「准の格式」、況や「笹竜胆紋」を「象徴紋」とし、朝廷が認める「神木の柏紋」を特別に持つ事を許され、所謂、「准の青木氏」で、従って、「准の立場」を確立させる「四家制度から特に選ばれた者」であった。

この「青木氏部」の必要とする処には、「柏紋の神職の青木氏」が必ず存在し、「柏紋の神職の青木氏」の必要とする処には、必ず「青木氏部」が存在すると云う実に親密な関係にあった。
それだけに、「氏の人々」からも信頼され尊敬されている立場(准の格式)であった。
この様に「青木氏」を代表する「准の格式」を示す由緒ある「柏紋」でもあった。

(注釈 それ故に「青木氏部の人」と「柏紋の神職の人」との「血縁関係」が特に成立していた。
「隅立て目結文様類」(「隅切り文様」含む)や「釘抜き紋様類」等の「職能紋の青木氏」は、主にこの「血縁関係の青木氏」である。)

取り分け、「准の格式」に裏打ちされたこれらの「職能の文様(柏文様 目結文様)」は、「正倉院」にも記録されている「由緒ある職能の文様」であり、これをこの「職能紋の青木氏」(青木氏部)が専門に使う事を許されて、「継承」を義務付けられていたのである。

「賜紋」であって「神木」の「柏文様」の使用は、「神明社の神職」の「御師(おし)」の称号と共に、この時に与えられたものである。

「神紋の柏紋様」と共に、「皇族賜姓臣下族の青木氏」に執っては、本来、「笹竜胆紋」の「象徴紋」以外には、上記の「志紀真人族の氏」を構成する以上は、他の文様を持たず、故に「姓族と姓名」を持たない。

従って、当然に「家紋」と云うものを持たないのだが、この由緒ある「職能の紋様」の「氏人」も「笹竜胆紋」を「氏」の「象徴紋(総紋)」として、数少ない「准の立場」に裏打ちされた由緒ある「副紋扱いの氏紋」として継承しているのである。

(注釈 「皇族賜姓臣下族の青木氏」を補完すると云う立場から一切の格式などが同じとする以上は、「藤原秀郷流青木氏」(下り藤紋)も、本来は正式には「家紋」とは云わず「副紋」と呼称する。
本来は、「秀郷流青木氏」に限り、「姓名」もなく一切「氏名」に本来は従い「姓名」は持たないのである。)

(注釈 「秀郷流青木氏の116氏」は、「総紋」として「下がり藤紋」(総宗家系族紋)があり、その「総紋の中央」に「副紋」を書き込んだ「主紋(宗家系族紋)」を持ち、更に、支流族は「副紋」を個別に持ち、傍系族も「支流紋」を持って表す。
この「総紋-副紋-支流紋」に従うが、但し、「支流紋」は「副紋の格式」を下げない範囲とするとしている。
一般に「総宗本家筋」の「総紋」以外は、「宗家筋」は「総紋」の「下がり藤紋」の中央に「副紋」を入れて使う事を主流とする。

況や、この「文様の構造」は「准の立場」にある為に「下り藤紋」から離れない事を掟としたのである。
然し、更に、本来は無いとする「枝葉族の支流筋」と成ると、「副紋部位の紋」以下の格式の紋は使えない慣習と成っている。

然し、「24地域―116氏」とも成ると、血縁関係上、「枝葉族の支流族」は止む無く出てしまうので、この条件が付帯された。
この慣習も「賜姓補完族の准の格式の立場」を保つ事から来ている。) 

         
(注釈 前段でも論じたが、「柏紋」の「神木の柏」を表す万葉歌があるので紹介する。
“家に居れば筍(け)に盛る飯(いい)の草枕 旅にしあれば柏(椎)の葉に盛る” と詠まれている。
そもそも、 「筍(け)」は「筍の皮葉」の事で、本当は木茶碗の食器だが、馬鹿を装う事を「筍の皮」でその苦しさを現し、「椎」は“しい“と詠み食器であるが、「椎の葉」は細く小さくて食器としては使えない。
矛盾する苦しい環境を表現したのである。
そして、「飯」の“いい”と「椎」の“しい”でかけ読みし、「椎」では無く「柏」を用いて“しい”と仮詠みした。
そこで、実は「椎の実」は「当時の食糧」で、この「椎の実」は食料でもあって、実を蒸して「神に捧げる仕来り」が有った。
細くて小さい葉で以て心寂しさを詠んだものである。
そして、今度はこの“しい”を「柏」として、「柏の大葉」の上に「干した米飯」の“いい(蒸した乾燥米の呼び名」“を載せて旅先では食べた。
「柏の大葉」で以て「朝廷の優雅な生活」を思い出させ、朝廷で使われる「神木の柏」で以て自らの正当性を主張し、信頼する「人を疑う儚さ」と何時か命を絶たなければならない我が身の「旅の苦しさ」を表現した。
この様に「筍、椎、柏,飯」等に意味を載せて詠んだ見事な「奈良期の名歌」である。
「有間皇子」の殿上人がその身上を憂いて呼んだ名歌である。)

この様に「神木」である「柏」(柏紋の神紋で朝廷が容認する文様)の大葉の上に神に捧げる食べ物(乾燥米)を載せて祀る「神明社」の「神への仕来り」にかけた歌が出て来る。 
見事に当時の神木の「柏の意味」の事が書かれている。

ここでは「柏」は朝廷の祭祀で使われる「神木」である。
この様に「柏」には当時は「格式」を持ち「神木」として扱われていた。
これを「准の立場」にある「青木氏の神職の禰宜の特別文様」と指定したのである。
当時は、「笹竜胆紋」に「柏紋」の「青木氏」は、「准の立場」の「最大の格式」を持つ「文様の族」と見られていた。

参考として、この「最高の文様」を持つ「神明社の指導者(神職の禰宜)」の「御師(おし)」に付いては、江戸の「享保の改革」以降は、「吉宗」が「幕府の職能部」を組織化する為に、この「御師制度」(おしせいど)と云うものを敷いた。
(ここでも青木氏だけの制度が用いられた。)

ところが、この時から、本来の「御師制度」は「別の意味」に変化した。
そして、これが更には、「神明社の神職に関わる者」が「情報収集者の役目」も演じた事から、この者を「御師(おし」」と呼ばれる様に成った。

遂には、江戸期1800年代以降には「伊勢の松阪の射和の商人等」に依って、この「制度」が導入され「商人の指導役」として、「御師(おんし)」と呼ばれて、更に「別の意味」に執り変えられる事が起こった。
この「商業組合」の「商人の指導役」の「御師(おんし)」は、「組合札」(金券 現在の紙幣)を発効するまでに成った。
(現在でも一部伊勢では独特の金券制度として残っている。)

そこで、これらの予備知識で以て「青木氏の歴史観」としてそもそも重要な事は、次の事にあった。

最初は平安期の「皇祖神の子神」の「神明社の神職」に「御師制度」は使われたのだが、“「青木氏の神職(柏紋)」(「神仏同源」)“は、その手段の一つとして、前段より論じている“「仏施の質」”(奈良期)を「福家」に代わって執り行っていた。
そして、「青木氏の村人・氏人」を「神職としての役目」から全国にある「500社の神明社」で「食糧」を与え、「職業」に就かせ、「人生の生き方」まで導いた。

この事(“「青木氏の仏施の質」”)から、「仏道を説き人々を正道に導く人」の仏教用語を「導人=導師」と記し、“どうし“から陰陽の呼称で”おうし“」と呼称され、それからは「御師」(おし)と呼ばれる様に成ったとしている。

そこで、この“「青木氏の仏施の質」”は、「春日王」を基に「志紀真人族と後裔」と成った事から、その「賜姓族の役務」として取り入れられ、「五家五流の後裔」(神明社)と「補完族の裔」(春日社)が行ったとされる。
それを催した“「青木氏の仏施の質」”が行われた「神明社の広場」や菩提寺の「清光寺と西光寺の広場」で行われる様に成ったが、この「仏施の質」の「名残」として「各地の祭り」が遺されている。
その一つが、「神明社系」で行われる”「施」”としての”「餅撒き」”等であり、「説」としての「法話講」等であったり、「導き」としての「仕事の斡旋」等があった。
「法話講」では、景品を与えた「氏人」による今でいう親睦を深める運動会や相撲大会などが行われていた。
それらが時代を経て形を変えて「祭りの行事」として遺されている。

(注釈 余り知られていないが、「戦い等の賄人」や「大きな催しなどの手小」や「河川改修工事」や「殖産地造成」や「新田の開墾」など「手小」、挙句は「大工の手伝い」をまとめて積極的に斡旋していたのは人と地理に詳しい「神職や住職」等であった。
「神職や住職」は上記した様に「氏人の人別帳」も作成していた為に「氏人の生活」までを隅々まで掌握していた。)

(注釈 江戸期では、「手配師」は非合法な仕事斡旋人や、「請負師」は大工などの職人を斡旋人、「口入れ屋」は庶民の仕事の斡旋人、閑散期の農民等の一時的な仕事を仲介するのが「神職や住職」であった。)

唯、この時に「御師」(おし)は、“「仏施の質」”を行って導いたが、「仏施の質」とは元はと云えば「仏教の施」であった。
注釈として、前段で論じたが、「中国の金山寺」などの「古寺」で行われていた「施」が日本にも「仏教伝来」と共に伝わった。
「古代密教の浄土宗の青木氏」が「賜姓五役」の一つとして「仏施の質」を採用したもので、その「伝統」は明治初期まで伝統として維持され、「享保の改革」などにも用いられた。
況や、「青木氏」は、「神仏同源の概念」を持ち得ていた事に由来する。

この様な、「賜姓五役」とは云え、「三司」が行う「政治的な施策」までを担うのは、この「准の立場」に依る所以でもある。

上記する様に、「青木氏の憲法」と云われる「概念」にも通じ、「三分の利」の「概念」にも通ずるものである。

然し乍ら、「青木氏」は、これを主に「神明社の神職」の「御師(おし) 柏紋」が行った。
どちらかと云えば、「仏施の質」では無く「神施の質」とも云える。
「仏施の質」ともなれば、各地の定住地にある「氏の菩提寺」(密教)と成る。
これでは、その寺数から「氏人」に充分に「仏施の質」が広まらない。
況や、奈良期からの「氏の構成員」である「氏人」を護れない。
そこで、「氏」は「神明社」と云う下で、「青木氏=神明社・守護神=氏人」である限りは、「仏の導き」よりは「500社の神明社の構成」に依って導かれていた。

そこで、本来からの「神仏同源」(習合)を旨とする概念」から拘る事無く、主に「神明社の神職」の「御師(おし)」が、朝廷より「神木の柏紋」を賜って「神施の質」を「皇祖神の子神」としてその責を負ったのである。
元々、「青木氏」には、従って「神仏同源」である以上は、「神道と仏道」の「区分けの感覚」が少なかったと考えられる。
それは、上記した様に、「青木氏の出自」の基と成る「准の立場」に大きく影響していると考えられる。

「自然神」を基とする「皇祖神の子神の祖先神」は「神道」であり、一方で「密教の古代浄土宗」で「仏道」を保って来た。
そして、この何れもを差配するのは、「福家」であった。
取り分け、「仏道」は「青木氏だけの教え」に基づく「密教」で、その出自から独特の「達親制度」と云うものを敷いていた。
前代でも論じた様に、上記した様に「神道」も「御師制度」と云うものを敷いていた。
従って、「神職」の柏紋の「青木氏」であって、「住職」も笹竜胆紋の「青木氏」から出たものであって、「他の宗教」に全く左右されないものであった。
これ等は、「志紀真人族」で「賜姓臣下族」と云う「出自の格式」がその様な形に導いたものと考えられる。
これに加えて、三司に匹敵する「准の立場」にあった事に由来する。

「神仏同源(習合)」と云うよりは、必然的に「神道」は「仏道」に左右され、「仏道」は「神道」に左右された考え方の「青木氏の概念」として確立したと考えられる。
然し、何れにも偏らないと云うよりは、やや「神道」>「仏道」にあった事は否めないだろう。

その一つの形が、政治職の「三司」に基づく「准の立場」の格式ある「柏紋の神職」があるかと思うと、格式のある「柏紋の住職」もあると云う不思議な事が起こっているのである。
関東にこの「柏紋の住職」が多い。

依って、「仏施の質」は「賜姓五役」と云う役からも「神職の役」と成っていたのである。
「仏道」の「柏紋の住職」のあるところは「仏施の質」は「住職の役」が多い。
「関東と北陸域」は「春日社」が多く、「西光寺」が多い所以でもある。
それは、「500社と云う神明社の分布」に左右されている。


次ぎに、この全国の「青木氏に関わる定住地」にある「神明社の500社(466社)」には、その数だけの意味だけでは無く、この「500社にある地域」に「御師」が居た事を示す数値であって、その数値はそれだけにきめ細やかに「氏の人」に親身に成って「導人=導師」から「御師(おし)」を敷いていた事を物語るものである。
これは明らかに「氏上と氏人」の間には、「上下の関係」では無く、「親子孫の関係」にあった事を示す所以でもある。

前段でも論じたことであるが、時には、「戦乱」等に掻き廻されたり、行き詰った「人生」に「越前の逃避地の神明社」に「青木氏」が多く逃げ込んだが、当に、この時に「神明社の御師(おし)」は「仏施の質」(上記の青木氏の掟にも関係する)として戸惑う「氏の全者」を救う為に大いに働いて食と職を与え世を説き再人生の道に導いた。

上記で論じた「越前商人の酒造家」等はこの典型的な事例である。
「神明社500社」の「数」も然ること乍ら「分布」から観ても、「五家五流賜姓青木氏」のみならず同格式を持つ補完役の「賜姓秀郷流青木氏」を含む全国の「二つの青木氏」には、この「奈良期からの古式の御師制度」が敷かれていた事を示している。
この事は「青木氏の守護神」の「祖先神の神明社」に関わる事から、「氏上と氏人の関係」も「古式の慣習仕来りと掟」として伝統的に敷かれていた事を物語るものである。

(注釈 「藤原秀郷流青木氏」も「春日神社」が守護神であり乍ら、その出自から「神明社」も「副神」の「守護神」として崇めていた。
取り分け、「伊勢秀郷流青木氏」に関わった一門の地域には、「藤原氏の定住地」では無いにも関わらず、「春日神社」がある。
この「春日社」があるにも関わらず「神明社」も存在する。
これは、この事を証明している。)

これは「伊勢秀郷流青木氏」は長い歴史の中で「春日神社<神明社の感覚」、或は、「主神<副神の感覚」にあって、その「末裔の血縁先」もその傾向にあったと考えられる。
従って、よりその「古式に基づく慣習仕来り掟」が尊重されていたと観られる証拠でもある。

元来の大化期からの「氏上の役目」として「村人を導く人の御師」であるとしてこの様に呼ばれていたものである。
従って、「氏上」であって、その「御師の元締め」から「御師様」と呼ばれていたのである。
この様に呼ばれるには100年程度の「絆」では無理であろう。
所謂、互いに「仙人」を超えた「1200歳の人間同士の絆」が構築していたからである。
「1200歳の人間」は、腰の曲がった白髪頭では無く、常に進化した直立の黒髪の「1200歳の人間」として生きて来た者の“同志“なのである。
「信頼と尊敬」の「1200歳の人間の同志」なのである。

これが、「准の立場」を保った“「青木氏心魂」の所以”なのである。
故に、明治の伊勢や信濃や美濃などで起こった一揆にも「青木氏心魂」は我が身の事として支えたのである。
この関係を観ても、「氏上側の災難の連続」に依って祖父の代から途切れた「1200歳の人間」の関係は、「40代目の筆者」には、「青木氏心魂」は最早、無い所以でもある。

(注釈 本論で論じている「弥生祭りや五月祭り」や「祭祀偶像」、「氏上」、「御師」、「偏諱」、「達親」、「組合」等に至るまでの「青木氏の古来の慣習仕来り掟の意味合い」が、世間に伝わる事に依って、その「意味合い」のみならず「呼称」までもそっくり換わっている。

これを物語るものは何と云っても、「伊勢」で「青木氏心魂」としての「准の立場」の「氏上と氏人の関係」であった。
それを物語るものが、「仏施の質」であって、この「氏上と氏人の関係」を証明する行為であって、「青木氏以外」には行っていなかったものであった。
これが「伊勢」から「江戸」に持ち込まれて”「伊勢屋の質」”と呼ばれる様には成ったが、「質に対する語源の変化」で、「伊勢の行為」は理解できていたが「江戸の質」には一時、「准の立場」と同様に「青木氏の歴史観」の知恵は及ばなかった。
然し、「江戸の質」に至るまでの意味としては、普通の「品質を意味する質」や「質屋の質」としてしか、当初、“まさか江戸までは“の先入観から理解ができていなかった。
この「准の立場」も「単なる准の意味」(次の格)としてか理解が無かったし同様であった。

果たして、“「改革と質屋」にはどの様な関係があるのかな“と疑問であったが、「享保雛の研究」からの事で、「雛の語源の意味」が「青木氏の古式慣習」の一つであるので、調べた処、中国の書にも「質」と「准」のこの「基の意味合い」があった。
この事から「青木氏」だけが伊勢で行って来た奈良期からの「准の立場」の「氏上と氏人」の関係には、「仏施の質」が介在していた事を資料の一つの行にある事を知った事に依る。
だとすると、“「江戸の質」にもあり得る“と発想の転換で、これで「奈良期の疑問」と「江戸の疑問」が同時に解けた所以でもあるが、時代に依って「語源」がそもそも変わるのは、「青木氏の歴史観」を論じる上では実に「苦労の種」でもある。

この事で、うっかり其の侭で論じると「矛盾する様な論調」と成る事が多いのには苦労している。
これが「古式性の伝統」を論じる難しさにあり、「モニター」を受けて頂いている方からも指摘の多い処でもある。
筆者本人はつい判った感覚で書いて仕舞っている処に問題がある。
この「准の立場」や「質」や「青木氏心魂」等は典型的なテーマでもある。




「伝統シリーズ 31」に続く
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