天智、天武天皇の皇子皇女の系譜
天智天皇、天武天皇の皇子皇女の系譜
皇族賜姓青木氏5家5流24氏の始祖と成り、初代の伊勢青木氏の発祥の環境史料にも成る。
その始祖となる天智天皇、天武天皇の皇子皇女の血縁一族を次に示す。
この系譜から、多くの史実が読み取れる。特に、当時の「大化改新」の模様の一つが読み取れる。
又、この系譜から日本書紀を始めとして多くの資料と付き合わせることで、その当時のドラマが見えてくる。
その意味で、この史料を単独に提供する。(研究室レポート中にも記述)
A 中大兄皇子(天智天皇)の子孫
系譜元 妻 娘 子供 順 備考
石川麻呂大臣ー遠智娘 ー大日皇女 1 蘇我氏分家 石川麻呂は大化改新で中臣鎌足の説得を受けて味方となる。
石川麻呂大臣ー遠智娘 ー宇野皇女 2
石川麻呂大臣ー遠智娘 ー建皇子 3 8歳で死亡
石川麻呂大臣ー芽淳娘 ー太田皇女 4
石川麻呂大臣ー芽淳娘 ー沙羅皇女 5
石川麻呂大臣ー姪娘 ー御名部皇女 6
石川麻呂大臣ー姪娘 ー阿倍皇女 7
阿倍倉悌麻呂ー橘娘 ー飛鳥皇女 8 阿倍麻呂は中大兄皇子の補佐役を演じる。阿多倍の裔の阿倍氏
阿倍倉悌麻呂ー橘娘 ー新田部皇女 9 天武天皇の皇后になる。
蘇我赤兄 ー常陸娘 ー山辺皇女 10 中大兄皇子に味方、政敵の有間皇子を熊野古道の藤白で暗殺
地方豪族 ー後宮女官ー 男 2 11 地方豪族の娘 人質奴隷の妥女(女官)4階級の妻外
地方豪族 ー後宮女官 12
地方豪族 ー後宮女官ー 女 2 13
地方豪族 ー後宮女官 14
忍海造小竜 ー色夫古娘ー大江皇女 15 地方豪族の娘 人質奴隷の妥女(女官)4階級の妻外
忍海造小竜 ー色夫古娘ー川島皇子 16 第3皇子 近江王 近江国の佐々木氏を賜姓 ?ー692没
忍海造小竜 ー色夫古娘ー泉皇女 17
栗隅首徳万 ー黒媛娘 ー水主皇女 18 第5世王
栗隅首徳万 ー黒媛娘 ー ? 19
越道君 ー伊羅都女ー施基皇子 20 越後越前の地方豪族の娘 人質で奴隷の妥女(女官) 4階級の妻外 第2皇子 伊勢王 伊勢国の青木氏賜姓 643?ー689没
伊賀君 ー宅子娘 ー伊賀皇子 21 地方豪族の娘 人質奴隷の妥女(女官)4階級の妻外 第1皇子 皇位継承者大友皇子 648ー672没
以上 中大兄皇子(天智天皇)の子供である。
大海人皇子(天武天皇)の子供
NO 子供 順位 出生順 備考
1 草壁皇子 1 3 皇太子 668ー689
2 大津皇子 2 2 ? ー684
3 舎人皇子 3 7 日本書紀の偏纂 歌人 多くの皇子に信頼された。
4 長皇子 4 5 ? ー693
5 弓削皇子 5 6 ? ー693
6 新田部皇子 6 8
7 穂積皇子 7 9
8 高市皇子 8 1 653ー696 武勇に優れる
9 忍壁皇子 9 4
10 磯城皇子 10 10
11 大来皇女
12 新田部皇女
13 但馬皇女
14 紀皇女
15 田形皇女
16 十市皇女
17 泊瀬部皇女
18 話基皇女
19 阿閉皇女
以上が大海人皇子(天武天皇)の子孫である。
皇子の各国の守護として確認出来る王
伊勢王、近江王、甲斐王、山部王、石川王、高坂王、雅狭王、美濃王、栗隅王、三野王(信濃王)、武家王、
広瀬王、竹田王、桑田王、春日王、(難波王、宮処王、泊瀬王、弥努王) 以上19人/66国
以上が皇子で配置されていた。
注釈
これ等の施基皇子を始めとして皇子と王は「日本書紀」によく出て来る。
皇子順位は直系順位ではなく、天皇家一族の天皇に対して純血順を主とし母身分と合わせて順位を決める。
古人、有馬、軽、大海人、建、伊賀、施基、川島、草壁、...と続き24人等が居たとされるが、大海人皇子を遺し、皇位争いで上位3人と不明2人(孝徳天皇の皇子2人同日病死)と建皇子は病死で19人となり、大海人皇子と伊賀皇子との争いで18人となる。
天智天皇の後は大海人皇子が順位1位であるが、天智天皇は慣例を破り、直系の伊賀皇子(大友皇子)を大海人皇子の了解を得て後継者と定めた。しかし、天智天皇の死後皇位争い(高市皇子が中心になった)が起こる。
施基皇子と川島皇子は中間の立場を採った。戦い後、施基皇子と川島皇子が中心になって天武天皇に代わって政務の実務をこなした。(後日レポートする)
施基皇子は天武天皇死後も持統天皇に依頼されて葬儀を含めて皇太子の草壁皇子に代わって政務を代行した。
当時は、天皇家の純血を守る為に、同族血族結婚を主体としていた。
中大兄皇子(天智天皇)の多くの皇女(新田部皇女など)は大海人皇子(天武天皇)の妻となる。
天智天武天皇の不詳不明の皇子皇女をあわせると40人となり、確実な所は34人と言われているが、皇子皇女の不明があるので確認記録は30人である。
中大兄皇子と大海人皇子の皇子達は別々に記しているが、当時は、皇族合わせての皇位順である。
慣例で行くと、天智天皇の施基皇子(伊勢青木氏)と川島皇子(近江佐々木氏)は全体からみると第6位と第7位皇子と成る。後に、宇多天皇の滋賀の佐々木氏が発祥した。
これ等の3氏の象徴紋(後の綜紋)は笹竜胆紋である。
天智天皇はこの時、第4位皇子までを皇位継承権を与え、第4世まで王位を与え、第6位皇子には賜姓して親衛隊の任務を与え臣下させる方式に変更した。
第6世以降はひら族にし、坂東に配置した。後の坂東八平氏である。
第5位皇子と第5世皇子はその中間として、皇子が少なくなった場合は上位に上がる方式である。
光仁天皇まで女性の天皇が続いて起こるくらいに皇子が少なくなり、光仁天皇は施基皇子の子供である。
(伊勢青木氏の勢力が強くなる。次ぎの桓武天皇はこれを嫌い母方の阿多倍一族のたいら族を賜姓する。5代後の平氏:このため青木氏勢力が低下)
この反省から、嵯峨天皇(桓武天皇の子供 光仁天皇の孫)期から上記の方式を緩めた。
4世を6世に変更した。
嵯峨天皇は、第6位皇子の賜姓臣下は継続し、青木氏より再び源氏と変名し同族を強化し、平氏に対抗した。皇親政治の基礎を築いた。
第6位の施基皇子(伊勢王 賜姓青木氏)と、特別に、川島皇子の第7位皇子も賜姓(近江王 近江の地名を採り佐々木氏)を受けた。
(施基皇子は芝基皇子 川島皇子は河島皇子とも書く)
この他に、第4(5)世皇子(王)まで(親族の有間皇子、軽皇子、古人皇子等)を加えると50人程度と成る。5世王を入れると65人程度と見られる。
大化の改新の実施理由の一つの皇子皇女への財政的負担が逼迫する程度に、内蔵大蔵に大きく担っていたことが確かに明白である。
この当時の政治体制は3蔵制 大蔵:朝廷の財政で阿多倍の次男担当 内蔵:天皇家の財政で阿多倍の三男担当 斎蔵:政事を含む祭祀で藤原氏担当、これが後に摂関家となる。)
阿多倍は敏達天皇の曾孫の芽淳王の娘を娶り、准大臣に任じられる。
九州大隈国を半分割し、更に、伊勢青木氏の守護地の伊勢伊賀地方北部を分割して阿多倍に「不入不倫の権」をつけて与える。
皇位順は出世順ではなく母の身分(4階級:皇后、后、妃、賓と妥女)と父の皇位順の身分で異なる。(賓:みめ 妥女:うねめ)
皇后、后程度までは身内であり、子供は避けている。政の立場である。
多くは大豪族の大臣や、中豪族の連や、小豪族の臣の娘で、妃か賓からである。
妥女は階級外で、地方の豪族の娘で、扱いは人質に近く女官奴隷であった。
妥女の子供が多いのは近親婚の弊害を避けていた。
この時代は妥女が多い。
「妥女」(うねめ)とは全ての地方豪族から人質をとり、後宮の女官として入り、一種の奴隷扱いである。(現在の奴隷感の意味ではない)
当時の皇位は子供ではなく血族結婚である為に、血縁純血順の兄弟順の組み合わせとなる。
叔父叔母兄弟と従兄弟の関係は親近婚の血族結婚であるので、判別がつかない。故に上記の皇位順の方式が用いられた。
参考、天武天皇の末の皇子の磯城皇子(しきのみこ)は別人である。
この時代の唯一の史書の日本書紀との組み合わせて検証するとドラマが見えてくる。
「大化改新」のレポートを参照して見るとその活躍が浮き出て来る。
皇子皇女名は地名から来ている故に、その土地の子孫の存在も読み取れる。地方の豪族も判る。
以上の史料を参考にして頂きたい。
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
皇族賜姓青木氏5家5流24氏の始祖と成り、初代の伊勢青木氏の発祥の環境史料にも成る。
その始祖となる天智天皇、天武天皇の皇子皇女の血縁一族を次に示す。
この系譜から、多くの史実が読み取れる。特に、当時の「大化改新」の模様の一つが読み取れる。
又、この系譜から日本書紀を始めとして多くの資料と付き合わせることで、その当時のドラマが見えてくる。
その意味で、この史料を単独に提供する。(研究室レポート中にも記述)
A 中大兄皇子(天智天皇)の子孫
系譜元 妻 娘 子供 順 備考
石川麻呂大臣ー遠智娘 ー大日皇女 1 蘇我氏分家 石川麻呂は大化改新で中臣鎌足の説得を受けて味方となる。
石川麻呂大臣ー遠智娘 ー宇野皇女 2
石川麻呂大臣ー遠智娘 ー建皇子 3 8歳で死亡
石川麻呂大臣ー芽淳娘 ー太田皇女 4
石川麻呂大臣ー芽淳娘 ー沙羅皇女 5
石川麻呂大臣ー姪娘 ー御名部皇女 6
石川麻呂大臣ー姪娘 ー阿倍皇女 7
阿倍倉悌麻呂ー橘娘 ー飛鳥皇女 8 阿倍麻呂は中大兄皇子の補佐役を演じる。阿多倍の裔の阿倍氏
阿倍倉悌麻呂ー橘娘 ー新田部皇女 9 天武天皇の皇后になる。
蘇我赤兄 ー常陸娘 ー山辺皇女 10 中大兄皇子に味方、政敵の有間皇子を熊野古道の藤白で暗殺
地方豪族 ー後宮女官ー 男 2 11 地方豪族の娘 人質奴隷の妥女(女官)4階級の妻外
地方豪族 ー後宮女官 12
地方豪族 ー後宮女官ー 女 2 13
地方豪族 ー後宮女官 14
忍海造小竜 ー色夫古娘ー大江皇女 15 地方豪族の娘 人質奴隷の妥女(女官)4階級の妻外
忍海造小竜 ー色夫古娘ー川島皇子 16 第3皇子 近江王 近江国の佐々木氏を賜姓 ?ー692没
忍海造小竜 ー色夫古娘ー泉皇女 17
栗隅首徳万 ー黒媛娘 ー水主皇女 18 第5世王
栗隅首徳万 ー黒媛娘 ー ? 19
越道君 ー伊羅都女ー施基皇子 20 越後越前の地方豪族の娘 人質で奴隷の妥女(女官) 4階級の妻外 第2皇子 伊勢王 伊勢国の青木氏賜姓 643?ー689没
伊賀君 ー宅子娘 ー伊賀皇子 21 地方豪族の娘 人質奴隷の妥女(女官)4階級の妻外 第1皇子 皇位継承者大友皇子 648ー672没
以上 中大兄皇子(天智天皇)の子供である。
大海人皇子(天武天皇)の子供
NO 子供 順位 出生順 備考
1 草壁皇子 1 3 皇太子 668ー689
2 大津皇子 2 2 ? ー684
3 舎人皇子 3 7 日本書紀の偏纂 歌人 多くの皇子に信頼された。
4 長皇子 4 5 ? ー693
5 弓削皇子 5 6 ? ー693
6 新田部皇子 6 8
7 穂積皇子 7 9
8 高市皇子 8 1 653ー696 武勇に優れる
9 忍壁皇子 9 4
10 磯城皇子 10 10
11 大来皇女
12 新田部皇女
13 但馬皇女
14 紀皇女
15 田形皇女
16 十市皇女
17 泊瀬部皇女
18 話基皇女
19 阿閉皇女
以上が大海人皇子(天武天皇)の子孫である。
皇子の各国の守護として確認出来る王
伊勢王、近江王、甲斐王、山部王、石川王、高坂王、雅狭王、美濃王、栗隅王、三野王(信濃王)、武家王、
広瀬王、竹田王、桑田王、春日王、(難波王、宮処王、泊瀬王、弥努王) 以上19人/66国
以上が皇子で配置されていた。
注釈
これ等の施基皇子を始めとして皇子と王は「日本書紀」によく出て来る。
皇子順位は直系順位ではなく、天皇家一族の天皇に対して純血順を主とし母身分と合わせて順位を決める。
古人、有馬、軽、大海人、建、伊賀、施基、川島、草壁、...と続き24人等が居たとされるが、大海人皇子を遺し、皇位争いで上位3人と不明2人(孝徳天皇の皇子2人同日病死)と建皇子は病死で19人となり、大海人皇子と伊賀皇子との争いで18人となる。
天智天皇の後は大海人皇子が順位1位であるが、天智天皇は慣例を破り、直系の伊賀皇子(大友皇子)を大海人皇子の了解を得て後継者と定めた。しかし、天智天皇の死後皇位争い(高市皇子が中心になった)が起こる。
施基皇子と川島皇子は中間の立場を採った。戦い後、施基皇子と川島皇子が中心になって天武天皇に代わって政務の実務をこなした。(後日レポートする)
施基皇子は天武天皇死後も持統天皇に依頼されて葬儀を含めて皇太子の草壁皇子に代わって政務を代行した。
当時は、天皇家の純血を守る為に、同族血族結婚を主体としていた。
中大兄皇子(天智天皇)の多くの皇女(新田部皇女など)は大海人皇子(天武天皇)の妻となる。
天智天武天皇の不詳不明の皇子皇女をあわせると40人となり、確実な所は34人と言われているが、皇子皇女の不明があるので確認記録は30人である。
中大兄皇子と大海人皇子の皇子達は別々に記しているが、当時は、皇族合わせての皇位順である。
慣例で行くと、天智天皇の施基皇子(伊勢青木氏)と川島皇子(近江佐々木氏)は全体からみると第6位と第7位皇子と成る。後に、宇多天皇の滋賀の佐々木氏が発祥した。
これ等の3氏の象徴紋(後の綜紋)は笹竜胆紋である。
天智天皇はこの時、第4位皇子までを皇位継承権を与え、第4世まで王位を与え、第6位皇子には賜姓して親衛隊の任務を与え臣下させる方式に変更した。
第6世以降はひら族にし、坂東に配置した。後の坂東八平氏である。
第5位皇子と第5世皇子はその中間として、皇子が少なくなった場合は上位に上がる方式である。
光仁天皇まで女性の天皇が続いて起こるくらいに皇子が少なくなり、光仁天皇は施基皇子の子供である。
(伊勢青木氏の勢力が強くなる。次ぎの桓武天皇はこれを嫌い母方の阿多倍一族のたいら族を賜姓する。5代後の平氏:このため青木氏勢力が低下)
この反省から、嵯峨天皇(桓武天皇の子供 光仁天皇の孫)期から上記の方式を緩めた。
4世を6世に変更した。
嵯峨天皇は、第6位皇子の賜姓臣下は継続し、青木氏より再び源氏と変名し同族を強化し、平氏に対抗した。皇親政治の基礎を築いた。
第6位の施基皇子(伊勢王 賜姓青木氏)と、特別に、川島皇子の第7位皇子も賜姓(近江王 近江の地名を採り佐々木氏)を受けた。
(施基皇子は芝基皇子 川島皇子は河島皇子とも書く)
この他に、第4(5)世皇子(王)まで(親族の有間皇子、軽皇子、古人皇子等)を加えると50人程度と成る。5世王を入れると65人程度と見られる。
大化の改新の実施理由の一つの皇子皇女への財政的負担が逼迫する程度に、内蔵大蔵に大きく担っていたことが確かに明白である。
この当時の政治体制は3蔵制 大蔵:朝廷の財政で阿多倍の次男担当 内蔵:天皇家の財政で阿多倍の三男担当 斎蔵:政事を含む祭祀で藤原氏担当、これが後に摂関家となる。)
阿多倍は敏達天皇の曾孫の芽淳王の娘を娶り、准大臣に任じられる。
九州大隈国を半分割し、更に、伊勢青木氏の守護地の伊勢伊賀地方北部を分割して阿多倍に「不入不倫の権」をつけて与える。
皇位順は出世順ではなく母の身分(4階級:皇后、后、妃、賓と妥女)と父の皇位順の身分で異なる。(賓:みめ 妥女:うねめ)
皇后、后程度までは身内であり、子供は避けている。政の立場である。
多くは大豪族の大臣や、中豪族の連や、小豪族の臣の娘で、妃か賓からである。
妥女は階級外で、地方の豪族の娘で、扱いは人質に近く女官奴隷であった。
妥女の子供が多いのは近親婚の弊害を避けていた。
この時代は妥女が多い。
「妥女」(うねめ)とは全ての地方豪族から人質をとり、後宮の女官として入り、一種の奴隷扱いである。(現在の奴隷感の意味ではない)
当時の皇位は子供ではなく血族結婚である為に、血縁純血順の兄弟順の組み合わせとなる。
叔父叔母兄弟と従兄弟の関係は親近婚の血族結婚であるので、判別がつかない。故に上記の皇位順の方式が用いられた。
参考、天武天皇の末の皇子の磯城皇子(しきのみこ)は別人である。
この時代の唯一の史書の日本書紀との組み合わせて検証するとドラマが見えてくる。
「大化改新」のレポートを参照して見るとその活躍が浮き出て来る。
皇子皇女名は地名から来ている故に、その土地の子孫の存在も読み取れる。地方の豪族も判る。
以上の史料を参考にして頂きたい。
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