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先祖と宗教(キリスト教の教え 8 主題5)

次は⑧番目の事です。(特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事)

5「仏教とキリスト経の妥協の余地」
⑥ 中間的考え(柔軟性)は無い事。
⑦ 全体が闘争的な発想に成っている事。
⑧ 特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。
⑨ 先祖に対する考えは全体として希薄である事。
⑩ 「民族的」と言う考えを認めていない事

本論の事の始めとなった投稿者のご設問の主要部を引用します。

先ず、”罪と悪は違う”の件”と、次は、”私は:人間は肉体を持った魂である。と解釈しています。肉体は朽ちて死にますが、魂は霊の存在に関わります。霊は人間ではありません。霊魂は様々です。悪霊もあり神様もいます。魂は霊に影響を受けます。聖霊は悪霊を近づけません。
人の魂は聖霊に導かれる時に真理を悟ります。---悟り--すなわち理解と解釈しますかな!”の2件です。

宗教論議は多分答えは出ないと思いますが、信ずる所であればよいと思います。

そこで、この説が、仏教とキリスト教の違いのところと考えます。

先ず、1番目の件では、汝 罪深き悪の子よ、信じよ さらば救われん。より、
”罪と悪は違う”の件”のこの分け方が問題です。
合理的ですね。
多分、日本では、仏教でも、罪は悪の中の一つの性(ごう)です。

仏教では、前レポートでも記述しました仏教の人の性(さが、ごう)即ち「大意の悪」としての「4つのみ」から生まれる「罪」は「悪」の所業の一つの形ですが、仏教では、人が持ち得る「4つのみ」は「罪」とはせず、それは、「性」(ごう、さが)で有るとしています。
キリスト教はこれを「悪」としていると考えます。
仏教では、本来、だれでもが持ち得ている「性」だから、故に罪では無いとしています。
つまり、これは「人としての有りの侭の姿」ではないでしょうか。
これを、仏教では、”殊更に「罪」「罪」とするな”としているのです。
この教えの影響を受けて、日本人は「悪の形」として分けないのではありませんか。私も罪は総意の悪の所業の所以の一つだと思います。
更に、進めると、仏教問答では、”仮に罪なるものがあるとするならば、それは日頃の所業の成す精進で消えうせる”としています。”故に拘るな”で有ります。
真実、実生活では、「ごう」(性)を成し、それを精進で消しているのでは有りませんか。すいません。ごめんなさいとして。そして、日々、仏壇の先祖の前で、正座するのではありませんか。
ただ「正座する」と言う姿は「座る事」の意味だけですかね
この正座と合掌は、「ごう」(性)の姿を「正す基本姿勢」ではありませんか。
神社参り、お寺参り、墓参り、法事、命日、日々の仏壇の前で、「先祖の仏様」に謝意、感謝の心を表現しているのですよね。

一度、我々は、特に還暦を過ぎた者は、先ず率先して、心静かに、日頃の自分の「生活の所作」の意味を見つめてみる必要がありませんかね。その一歩から社会と環境が変わり始めるのではありませんか。

キリスト教徒の彼らもクロスを切るのと同じでは有りませんか。既に、それで「罪」的なものを洗い清めている姿ですよね。
しかし、まだ、キリスト教では罪と悪を分けるとするのでしょう。合理的な教義の所以からですね。
しかし、どちらでも良いと思いますが。「人としての差」を無視するのであれば好みの範囲でしょう。

次には、キリスト教の”人間は、肉体を持った魂”に対して、仏教では”肉体と魂を持った”と成ります。
これも本レポートで記述しています。

”霊魂”の霊の設定ですが、仏教では魂は仏と成りますので、仏教では原則ありません。
これは、仏教では戒めのために霊を悪と聖に分けることがあるとするならば、それは「迷信の世界」の設定でここでは取り上げない別次元の事です。

先ずは、論議はこの「ご利益宗教」と「迷信宗教」とは別にする必要があります。

確かにキリスト教はこの霊を用いての法話をしてよく導く事をしました。若いときは納得でした。
しかし、歳をとり経験が進み世の中が見えるようになると、”変だな?”となります。

次のこの行のところですが、
”他次元に於いて、物質=エネルギーと相対の原理が成り立つ”
”霊は人間ではありません。霊魂は様々です。悪霊もあり神様もいます。”
”魂は霊に影響を受けます。聖霊は悪霊を近づけません。”
”人の魂は聖霊に導かれる時に真理を悟ります。---悟り--すなわち理解と解釈しますか”

では、以上の3つのことですが、「悪と聖」を分ける論法はキリストの説法方式ですが、仏教では「拘り」と成り、「人のなせる業」ですので区別せず同格です。

最後のお話ですが、
”物質=エネルギー”のお話が⑦-1のところにありました。
”相対の原理”に付いては、他次元世界の範囲内では論外であります。物理学は未確定の論域までの定理と定義ではありません。
「相対の原理」の範囲は「現世と彼世」との範囲では成立するものですが、現世の世界では論理的確認は出来ますが、一方の彼世の世界の中では、更に、この「相対の原理」は未確定の領域ゆえに誰もそれを論理的に証明する事は出来ません。ここまでの域まで「相対の原理」を持ち込んでの説法は飛躍があり理解が出来ません。

多分、論理性を教義に強める手段として、これの論法をキリスト教が説話する際に用いたことだと思います。確か、私も聞いた事があります。物理系の学生であったので、宣教師と大議論になった事です。

しかし、「相対の原理」は+と-の両極の原理を説いたもので、+の質があればその表裏一体として-の質があり、その質の当量は等しいとする定理です。(例 オス、メス)
「相対の原理」では、キリスト教が言う消滅は、物質を+とすると相対の-は消滅するところまでを意味しません。
ただ、しかし、論理的、物理的には、「エネルギー保存の法則」に従うと言う前提では-側をエネルギーに変換とすると消滅します。
つまり、-側をエネルギーとすると「物質=エネルギー」での式が成り立ち、逆に「相対の原理」は成り立ちません。

つまり、エネルギーとするならば、「相対の原理」ではなく、エネルギーは「エネルギー保存の法則」の定理によります。
この場合、この定理は「位置に関するエネルギー」と「運動に関するエネルギー」の2つの定理で成立し、この二つは等しいと成ります。この時、そのものの質の「質量」が「介在物」と成ると言う前提になります。

つまり、この「エネルギー保存の法則」の定理をキリスト教の教義では何処から見出すとするのでしょうか。
多分、「相対の原理」と「エネルギー保存の法則」と混在していたのではと考えます。この説法手段を用いたときには、まだこの定理が存在することが解明されていなかったと見られます。故に、この「時代錯誤の矛盾」が現在でも残っているのです。
(「時代錯誤の矛盾」とは、以下「時代変化による教義の矛盾」とします)

お説の「物質が消滅」する時、最終の形では、現代の物理学では、「エネルギー」では無く、全ての物質は「固有の波長」を出します。「波長」は「介在物」が存在しない限りエネルギーを出しません。
多分、この事も解明されていなかったところでしょう。
ここでも説法手段として「時代錯誤の矛盾」が遺されたままに成っている事に成ります。

無形のところから発した「波長」とは、太陽の表面の6000ケルビン以上の燃焼爆発で核分裂(物質の消滅)が起こり、その時に発する核の振動(波長)であり、これがこの地球上に届いているのです。
その時の波長が、物質に依って固有の波長を持ちます。(前論で記述)
人間に見える範囲では、色で見える範囲の可視光線であります。(400-700n)
「自然現象の無味無形の不思議さ」を以って説法手段としている事も「波長」として既に解明されています。これも「時代錯誤の矛盾」です。

仮に、更に進めて、この可視光線が空気中の浮遊物質と衝突の時に出す熱量をエネルギーとするとしているのでしょうか。
しかし、もし、そうだとするとこのエネルギーは「-の質」では有りません。
波長は振動です。故に質量を持ちません。この仮設も無理と成ります。

ただ、人間と言う物質が死したときに何らかのエネルギーを出すのかはまだ解りませんが、波長をフラッシュバックとして「波長」を出す事は前レポートに書きました。(センサーとしての「2つの器官」と波長としての「2つの脳波」)
しかし、この「波長」がエネルギーとするかは今後の解析に期待する以外にありませんね。多分ないと論理的に考えられます。多くの物理的定理は変更を余儀なくされるでしょう。

論理的に無い事ですが、ただし、波長、即ち、振動が、エネルギーを持つ事とすると、他の物体を「介在」しての条件で持つという定理になります。(他の物体とは例えば、質の質量です。つまり、波長に質量をもたすという事に成ります。)
簡単に言えば、波長がものに衝突するときには質量があるが為にエネルギーに変換するという論理に成ります。
しかし、これも(F=NCV)という定理があり、解明されており、他に二つの要素(CとV)が関係しての事です。
この仮設も含めてどの仮設から検討してもキリスト教のこの種の説法手段は「時代錯誤の矛盾」からは逃げられません。

もし、キリスト教が、物質=振動のエネルギー説とするならば、この「介在物」(質量)は何なのかという事に成ります。
これが第1の疑問の点です。
ここで注意する事は、+のエネルギーを持つものは上記の定理で消滅するという事です。
第2は「消滅する」の疑問の点です。

キリスト教の教義ではこの二つの疑問の仮設を解明しなければなりませんね。

では論理的に科学的に解明してみます。
人間という+の物質が死するとき、介在物が無いとしても、仮に-のエネルギーが霊(魂)とすると、介在物には永久エネルギー(エンタルピーとエントロピーの定理)はありませんので、霊は消滅する事に成ります。よってこの自然の摂理の事実からもキリスト教の霊は存在しないと言う説に成ります。
これも又、「永久エネルギー」の「時代錯誤の矛盾」で物理的解明が成されていない時に教義を裏付けて信用させたものであろう事が想像できます。

仏教では、エネルギー論は兎も角も、前レポート論でも私の不思議なエピソードとして記述しましたように、この魂の存在期間は7日としています。(初七日の法事です。)
現世での-のエネルギーがあるとして、消滅期間、即ち、エネルギー保存の定理は7日という論に成りますね。

この事は次ぎの論処に成ります
私は人間にはフラッシュバックとしては存在するのではと考えます。(前論で述べている)
センサーとしての「2つの器官」の解明もすすんでいると聞きますし、最近の脳波の研究も更に進んで、言葉の如く出る脳波の強弱と波種で、コンピーターとメカとを連動させると、人間の意思に添って脳から出る脳波を利用して物を自由自在に動かす事が出来る様に既に成っていますからね。つまり、これは現世のーエネルギーの存在が解明されつつあると言う事です。
前論の仏説の「2つの器官」と「2つの脳波」の解明では近い将来答えが出ると思います。

この点から見ても、仏教のこの種の教義が、「時代錯誤の矛盾」だらけのキリスト教より、比較にならない古い宗教の教義でありながら、「自然摂理」に叶っていることを意味するのです。
言い換えれば、仏教のその優秀さが科学的面からも証明されている事を意味します。

次ぎにエネルギーで空間を歪ませることが出来るというキリスト教の説法論のお話ですが、

確かに、歪ませることが出来ます。だから、キリスト教では、この歪ませるのが霊であるとして、その存在を信じさせるトリックとしていると思いますが。
しかしながら、但し、この場合の理論は、電位現象です。既に物理学では解明されている理論です。

そこで、再び、科学論です。

空間に存在する「チリや水分」などの遊離物質が存在する時に起こります。真空では起こりません。
つまり、エネルギーの+物質とその空間の間に存在する-の遊離物質との間で超電位が発生すると、この時、波長(電磁波)を発生させ、その波長の「周期差」で歪むのです。

地球の上空は3つの成層圏(0-95、95-500、500-1000)に分けられていますが、95キロ内の成層圏に存在する「チリや水分」には地球の-の電位(電圧の差)に対して、その上にある全ての物質には電圧がかかります。
この時、地球に対して個々の電圧が異なります。この時の生まれる電圧の差を電位と言います。
この物質「チリや水分」の集合体に対して、このエネルギー源が大きければ大きいほど電位差が出来て、結論として大きな歪みの電位帯が出ます。

この歪みはバランスを取ろうとして動き、プラスからマイナス方向の左方向に渦が出来始めます。
電位帯があるので当然に浮遊物質の渦が出来ると、回転方向に電流が流れ、回転方向の反対側には電子が流れ、そしてその時、電子が他のものを引き付けるために、回転体の中央に磁場がうまれ、その磁場の束として垂直方向に磁力線が出来ます。この時、この流れる電気の周波数を高めればより高い磁力線が生まれます。この磁力線に対して、この磁力線に抗して、物質を入れますと入れまいとして抵抗が生じてその物質に起電流が流れてエネルギーが高まります。つまり、電流電子の運動により衝突が発生し熱に変わることを意味します。簡単には台所のIH器機ですね。
(参考 V=AR W=VA J=0.24Wから力と熱量を計算できる:ジュールの法則)
大きくは宇宙のブラックボックスも概してこの現象ですね。(IH現象)
他の宇宙の星の物質が核分裂の末に死滅し、フラッシュバックが起こり周囲にその星の死滅物質が飛散します。
そのチリと飛散物質が上記の現象を起こしてブラックボックスが出来ます。そして、再びこのエネルギーで遊離物質が解けて物体と成り新しい新星が出来る事に成ります。

太陽から飛んでくる核分裂の固有振動が地球に届くのは、この空間に遊離物質が無い事から起こっています。遊離物質(チリと水分と空気)があると、遮られて弱くなり、衝突と歪みのエネルギーが発生して消滅してしまいます。

例えば、遠く他の宇宙から飛んできているフラッシュバックの時の振動のニュートリノは、地球などを貫く超波のこの現象で飛んできています。
地中深くにピュア-ウオーターの池に超感度光センサーを取り付けて、ここをニュートリノが通ると水分子(H)と衝突して歪みが出ると同時に、衝突するときに衝突の運動エネルギーが発生して蛍のような光が出ます。可視光線でも空中では同じ原理で色として見えています。

空間を歪ますのは「霊」のエネルギーの仕業であるとする証拠説のキリスト教説は、上記の「2つの疑問」と、第3の「振動であるか」の説明がつかなければ(尽く事は論理的に既に現在では無い)、昔はこれで騙し得たが、既に上記の物理的に解明されている現象ですので、これも時代遅れの説法(「時代錯誤の矛盾」)と成ります。
全てこの現象は科学的には証明されているのですから。今だ家庭の中にその原理を使ったものが入り込んでいる時代なのに、この事を知らない人は兎も角も、昔の未解明のままの論理で人を説得する事は騙した行為と等しくなり無理と成ります。

ここまでが、科学的根拠に基づく答えです。

ところで、これは私の論文の次の⑧のところで論じるテーマでしたが、いみじくも真さにこのキリスト教の設論の方法です。

以降、⑧番目の設問の説明とします。
(特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。)

キリスト教ではこの様な全体として比例式のように論理的です。わかりやすい説き方です。
若者には、論理的に受け入れやすい人には、好まれるものと思います。
仏教では、「色即是空、空即是色」ですから、何のことと成ります。
キリスト教では、悪と聖(善)とに分けると言う数理的合理的な説法です。
仏教では、「悪善」と分けずに、これも人の成し得た性(ごう、さが)として「拘るな」としています。

人間は、知恵を出し、社会に付加価値を大きく生み出しました。この結果、付加価値の少ない時代の事と較べて、物事の始末と結末が、合理的、数理的、論理的に判断できない環境と成ってしまったのではないでしようか。それだけに世の中は考える様には行かずに行き詰まり、うつ病やこれ等に絡む犯罪が増えているのだと思います。
多分、原始社会やローマ時代まで当りの社会では殆どの物事はこの定理で納まったと考えます。しかし、産業革命から以後、付加価値が増え続け現代に至って定理だけでは納まらない社会になったと考えます。勿論、自然の物理現象も解明が進み、人間が自然に考える思考の殆ど、80%程度はこの通常の社会定理(通念)が納まらない社会成っているのであると見ています。そして、社会通念はこの辺のところまでとし、次ぎは未経験の宇宙通念成るものが生まれて来る事もそろそろ始まる時代へと進むのではないでしょうか。
多分、化石資源を中心とするエネルギー源の枯渇と、中国、インド、ロシアなどの経済成長により鉱物資源の枯渇等の現象から、ソーラーやレザーによる衛星からの太陽熱源の活用と、月世界の鉱物資源の活用対策となる事は明らかですので、これからもどんどんと宇宙社会の新しい定理が生まれて、観念論だけの思考では生きていけないほどになると見ています。
既に現在のソフト科学に付いていけない人が多く成っているのではありませんか。

そこで、その完成社会は特にその中でも女性に影響を与える事になると考えられます。それは女性の生まれながらの「性」(さが、ごう)に大きく影響すると考えます。
前論でも書きました様に、女性は無意識下の深層思考(感情、勘定、妥協)に大きく影響してくると予想しています。
時代進歩の付加価値が増えれば増える程に、「感情」で処理できない現象が増え、「勘定」で数式的に評価が出来ない事態が出来て、「妥協」で処理し切れない始末が出て来ると思えるのです。
つまり、本来のあるべき自然の人間の姿(性善説的)ではない否人間的(性悪説)に近い思考が増えると思えるのです。
言い換えれば、「時代の進歩の付加価値」はある面でこの性善説を壊す事を求められるという事です。
男性にしても、社会の数理、合理、論理の社会の思考が先鋭化して、本来の性(さが:理想、合理、現実)であるにしても究極の思考原理が要求される事から脱落者も増える事と成ろうと考られます。

そして、どの様な社会が生まれるかと言うと、例えば、付加価値に依って”正しい事は正しい”と出来る社会は益々と低下してしまうと思うのです。
むしろ、”正しい事は正しくない事、又は最悪の場合は悪い事”の現象がその社会情勢の変化が先鋭化して評価基準が変わる時代となると考えます。
現代でも、、”正しい事は正しくない事、で処理した方が上手く行く”と言うそれが多く成っているのではありませんか。
少なくとも、精神面の思考では「正しい事は正しくない事」が起こり、「善と悪」の中間的な思考の”正しい事は必ずしも正しくない”という数理性、合理性、論理性の少ない評価基準の社会が出来上がるのではないでしょうか。

このことから、男女の若い者はこの状況に悩み、求めるものとしてキリスト教的な教義に向かうことが考えられ、中年者は思い悩み、老年者は上記した教義の特長から仏教に向かうと考えられます。
つまり、その社会現象に対して、「抗する派」と「同調する派」とに2分化する事になるでしょう。そして、それは「若年齢者」と「高年齢者」の2分化の観念の面に於ける社会が出来ると見ています。
観念以外は全て先鋭化した究極の「数理、合理、論理」の社会となると考えられます。既に高年齢者はPCや電子化の波に乗れなくなっている現実です。
更に、ICがソフトチップの量子チップかカーボンチップのハードチップのダイヤモンドチップが完成すれば、先鋭化の科学社会が出来あがるでしょう。つまり、そのチップで宇宙社会の科学が出来る事になり、この付加価値が増大して、高年齢者の脳の能力をはるかに超える社会環境が生まれると見られます。
それはコンピーターが人間の脳の能力と等しくなる程度かそれ以上になる事を意味するのです。同サイズと同量での量子チップの記憶量は人間の脳細胞と同じ記憶量だからです。
これは予想の域を超えて、日本では太陽熱を衛星で集めてレーザーでピンポイントで地球に送り、数年前までは永久エネルギーがないという定理だった事も、今では定理を打ち壊し太陽がある限りの前提で、永久エネルギーを作りだす事も既にプラントテスト域に入っているのです。

上記の社会進化の中では、キリスト教の⑧番目の設問とする”特定者(若い者)には受け入れられ易い合理的な教えに成っている事。”で、この方向に向かうと一般的に思われます。
しかし、本論の説でもある様に、日本人には、比較対比して来た内容のようにキリスト教の「時代錯誤の矛盾」などの多くの矛盾から、合理的な教義ではなく、仏教の教義に理解を示す方向に向かうべき方向ではないかと考えています。

だから、少なくとも日本人にはアメリカナイズされた数理的、合理的思考の現状社会から、野性的な感性から日本人は静かな心を呼び戻し、最近、山地水明の自然に戻ろうとしているのだと思います。
そして、それは今や、田舎にしか残らない上記の日々の謝意と感謝の社会へと帰ろうとし、今意識せずに国民全体が徐々に動き始めているのではありませんか。
況や、あのキリスト教全盛のアメリカでも仏教とその文化が見直されている皮肉な華頂現象が起こっています。信徒も増えていると聞きます。
同じ程度の科学の時代進歩を共有している日本では仏教の国である事から、ややその影響は鈍ることが予想できますが、大事なキーポイントは仏教のキーポイントを忘れない事であると考えます。
これさえ持ち得ていれば、何とか非常時代は避けられると考えます。ではそれは何なのかです。
言うまでもなく、私はキリスト教に少ない「先祖意識」がキーポイントであると考えているのです。
これが、科学進歩による数理的、合理的、論理的な要求に対抗できる概念であると信じています。

ただ、しかし、この合理主義は完全否定するわけではありません。その根拠を得る為に、生活の糧を得る為に仕事する上で、この部分に於いては、数理的、合理的、論理的な定理の思考を必要とされている傾向が、強く成っていると考えます。又、科学の進歩でこの世の幸せが増幅するわけである事は否めませんから必要ですね。
その様な環境(都会)の中では付加価値が強くなった為に、絶対的に必要です。
然し、これでは人はその様に出来ていませんので疲労して続きませんね。
又、この定理に弱い人(女性)も居るでしょう。そして、うつ病と犯罪が必然的に増えるでしょう。しかし、皮肉にもこれを救う手段は宗教理念のキーポイント「先祖意識」全本論のタイトルだと思うのです。

結局、{思考}と{生活面}共に、「2極化」しなければならなく成っている生活環境と考えます。
「合理と非合理」の思考、「都会と田舎」(仕事と癒し)の場所の二つに益々増える社会の付加価値のために、昔の社会と較べて、2極化しなければならなくなっていると考えます。
そして、この傾向は益々強くなるでしょう。

しかしながら、それだけに、宗教が介在する生活面、特にその精神面では、世の中、現代の世の中は、論理的に始末できれば苦労はしないですよね。出来ないから宗教があるのに。ではその宗教を何に求めるかです。
私は上記の拙論からこれから来る社会の対して、日本人には仏教だと訴えているのです。一見の見えるキリスト教では無いと訴えています。

多分、これは、上記の現象から来る、”論理的に判りやすくあって欲しい”とする人間の願望でしょう。
裏を返せば、願望とすると、世の中は精神面では最近、数理的、合理的、論理的ではなく成っているいと云う事ではないでしょうか。無いから願望するのですよね。
この点で、逆に、キリスト教は排除され、キリスト教圏の中でも、他教、特に仏教が見直されている傾向があるわけですね。そして、この定理が、世界から、紛争地から警戒されている原因の一つだと思います。

仏教の「拘るな」は反意として、精神面では”数理的、合理的、論理的であるな”としている事に成ります。
数理的、合理的、論理的は、”考えるとこうである筈だ”とする人間の判りやすい思考(願望)ですね。ところが、そうでないからな悩むのだと思いますがね。悩んで救いを宗教に頼るのでしょう。
それが、一度ではなく茶飯事だから宗教に頼るのでしょう。
では、宗教は何で存在するのですかね。

つまり、これは人間の「拘り」の典型的な思考ですよね。
「拘り」があるから悩むのではないでしょうか。そして、宗教を頼るのでは。その宗教が数理的、合理的、論理的では、変ですよね。

この理解の方法は、多分にして、民族の持ち得ている遺伝子の違いでしょう。
ネアンデルタールとピネカントロプスの違いでしょうか。

私は何れにも帰依していませんが、年をとるに従い、このキリスト教説法には?です。

それと、理解は年数では有りません。むしろ、短くして如何に要点を突くかにあり、長くはそのとりこに取られて自分を見失う事に成りがちです。何事もそうではありませんか。これは人間のもつ性(ごう、さが)でしょう。我々凡人は。

そもそも、宗教とは良し悪しは別として元々洗脳的行為の目的をもっています。長くすればこのペースにはまるのも人間です。

私の4年は研究の4年です。青木氏の研究をテーマに、そのサブテーマの「先祖」を知るには民族に関する事を知ることにあり、その民族を知るにはその基盤と成っている宗教を調べる事にあると結論付けての事でした。
そして、仏教と他民族の代表キリスト教との対比研究課題としたのでした。
宗教の布教手段としての洗脳から逃れる為に警戒をし、又、頼ろうとする者に対する落ち込みやすい数理的、合理的、論理的な教義に疑義をもつ事として(理解が容易であるが故に)、避ける為に、そして、この「捉われ」を避ける為にも信仰という手段をとりませんでした。その後も英会話習得という名目で長い間付き合いは行いました。

そこで、次ぎに、”キリスト教の布教には植民地政策と連動していた。”と言うところで、”日本も第2次大戦をしたではないか”のご意見でした。

これに付いて、次に異論を提示します。
日本の第2次大戦は仏教国に攻め入ったのですから、宗教を前提とした戦いではありませんでした。念のために。勝てば官軍と言いますが、この世の大儀的な慣習ですが、この言葉には疑問です。

両方が悪いのです。又は両方にも大儀があるのです。

戦いに入る前の状況を無視すれば、それこそ、仏説の「悪も善のときがあり、善も悪のときがある」ですね。
例えば、猛烈な言葉の暴力を浴びせた。相手は殴った。どちらも方法は違えど暴力では有りませんか。何もなしに急に殴るは狂気の沙汰でこれは犯罪です。別の話ですね。
殴った方を悪いとする現在の一方的な慣習には疑問です。悪いのは両方であり、因果関係からすると暴力的暴言を先に吐いた方に6の悪、行動の暴力は4悪位に感じるのですかね。先に言葉の暴力を吐かなければ、行動の暴力は無い筈です。

もし、この理屈を通せば、第2次大戦は、4の悪となると思うのです。
”何もなしに急に殴るは狂気の沙汰”でしたでしょう。
その経緯は狂気の沙汰ではなかったのです。

「勝てば官軍」で、非難の材料にするは疑問です。
キリスト教では、数理的、合理的、論理的では「勝てば官軍」が成り立つのでしょうが。
アメリカ軍が日本を統治したときにも、このはっきりとした東京裁判という態度をとりましたよね。戦い前のアメリカの態度を批判せずに。

何故なのかです。それは、彼らのキリスト教でもある様に合理思考だからです。
確かに、私の研究中ではこの議論が大きかったのです。
彼らは、「自分達の正しさ」を絶対に譲ることはありませんでした。それは宗教思考と同じくその合理思考から、この「猛烈な言葉の暴力を浴びせた。相手は殴った」の「戦い前の状況・経緯」(植民地政策の両国のアジアでの衝突)を無視と排除したのです。
日本が経済力を上げてきた結果、植民地政策の両国のアジアでの衝突が起こり、その大作として米国をはじめとした国々は日本の成長を押さえるために経済封鎖してきたのです。そして、負けたのです。そして、その後20年後くらいで矢張り再び第2位に成り盛り返しましたよね。

この”「盛り返した」”という「行為と行動」はどのような意味を持つのでしょうか。「善と悪」として。

私は、その「成長」は「善」であったと確信しているのです。
世界の中にアジアの日本民族の優秀さを世界に、特に白色人の国に対して示したことは彼らの優越感を砕いたことでもあり、それが無かったらもっと横暴な植民地戦略をアジアで採り続けたことが間違いなく予想できます。

ところが、そして、彼らは「勝てば官軍」の大儀を全面に押し出したのです。現実に、現在でも、彼らは認めていませんよね。
日本人には「喧嘩両成敗」には理解出来るこのことも。永久にないと思いますが、「価値観」とは異なる「思考原理の違い」です。

例えば、丁度良い例として、技術者とし勤めている時の事で、製品にクレームが出ます。相手に伝えます。そうすると、交渉の彼らの答えは決まって、”それはその程度の製品を貴方は金額を払って買ったのだから、貴方に責任がある”として認めません。
”ここは日本である。それは貴方の国で言え””貴方の製品は日本に売ったのだ。自分の国に売ったのではない””共通の理論で言え””共通の理論とは技術理論である”と反論。

万国共通の技術理論を持つ技術者から見て明らかに設計ミスであるがこの発言です。
設計ミスはその言い分外であると議論するが、一体彼らの責任はどのようなときにあるのか判らなくなってしまう合理主義です。
日本ではこの理屈を述べると「袋たたき」です。これ程に彼らの思考の裏づけとなる宗教に於いても違うのです。外国製エレベータの時も最初の言い分はこの理屈でしたね。

彼らのこの言下には上記の優越感が今だ潜んでいるのである。万国共通の技術でもこれである。まして、宗教では言うまでも無く、押して知るべしである。つまり、上記の矛盾を潜みながらも今だキリスト教には続いていると言うことである。
さすが、現状では、本場のアメリカでGMに打ち勝ったトヨタの実績が、上記の反論と、大きく言えば、第2次大戦の」盛り返しの意味」の答えが出ていると思うのです。

この様な思考の違いを取り除く為にも、そして、肝心なことは、その戦い(宗教)をどの様に捉えれば良いかは「俗説通説」を排除して偏りをなくすべきと心得ます。

何れも、良し悪しの問題ではなく、違いが有るとしても、自分が良しとすれば、先ずは、それでよいと思います。自己責任の範囲として。

大事な事として、思考を偏らせない人としての差を、今に求めないのであれば、今の自分にあったものを、自分のものとして、会得する事だと思います。

今に求めるのであれば、数理的、合理的、論理的過ぎる思考に注意して、「拘り」をより少なくして「人としての差」を縮じめるべきです。

これを⑧番目の設問としますので、了解ください。

まだ、論文⑨⑩と続きますので、又、ご意見をお寄せください。
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