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大化改新 新説 NHKスペシャルまとめ7-4

NHKの新説大化改新の番組の中で、10項目の新説を唱え、その第7番目の説で”大化の改新は「失政、失敗」”との説を唱えました。
その説が余りにも根拠に基づかない新説であるので、「18改革」の夫々について徹底的に検証して「失政、失敗」の是否を論理的に反論している。


中大兄皇子の大化改新の概要は次の通りである。

「4つの行政方針」を発表した。
「18改革」と「10活動」を実行した。
「13種税」と「3管理システム」を断行した。

(改革1から6は検証済みで、今回は改革10番目より18まで付いて検証する 大化改新7-4)

では、次は続きとして、先ずは中大兄皇子が実行した「第10番目の改革」に付いての検証を進める。

「第10番目の改革」

10 「防人」(さきもり)を定めた。

職業軍人とは別に現代にもある民の「徴兵制度」を敷いたのである。

九州北部の西海の防備を司る兵制度である。
阿多倍の子孫大蔵氏が司る「太宰大監」(遠の朝廷)に支援し、唐の来襲の警戒に当った。
坂上氏や阿倍氏が率いる朝廷の軍隊と青木氏が率いる親衛隊とは別に、一般の民の者で「対外国防軍隊」を編成したのである。(蘇我氏が訴える対外防備とのレベルが違う。)

一部の豪族が国を守るのではなく、国民全てが国を守るという理念に立って編成されたものである。
これは「4つの行政方針」の一つ「公地公民」の理念から発想されたものである。

一部豪族の集合体で急遽編成する寄せ集めの国防意思の統一が成されない国防軍ではなく、それを専門とする軍隊である。これにより、その「目的と指揮命令系統の統一」が成されて本格的な国軍と見なされる。

鎌倉時代以降はこの国軍もなく蒙古襲来のときなどは、博多、門司付近の豪族の集合体がこれを護った程度で、幸いに台風で蒙古は全滅を余儀なくされた事となり、戦いは小さいもので終わったが、もし、「日本列島戦艦」を抜かれて、補給路がつながれ、全面的に攻め込まれていた場合は、国は護れなかった事であろうことは明らかである。

そのことを考えると、その「国軍」に対する配慮思慮は実に適切であった筈である。

明治初期に英国の援助で国軍が編成されて訓練されて、「南下政策」のロシアに対して、傑出の2兄弟秋山参謀がいて陸海のその巧みな用意周到の頭脳的戦略で、(100%勝てないといわれた)国軍を鍛えたことから日露戦争は幸いにも勝利したのである。(詳細は前レポート記述)

因みに、比較する為に現代はどうであろうか。現代に於いてでさえ未だ自衛隊の「隊」であり、第2次大戦の後遺症が残って50年経っても「完全確立」していない。
しかし、その「近代的戦備力」とそれを補う「工業力」では、「陸海空」では段突の世界第2位なのであるから、後は
「4情報衛星網」と「6隻のイージス艦」(米国24隻、スペイン1隻)と「ジェット戦闘機F105」の世界最高性能エンジンは三菱日本製であり、戦艦は明治以降のトップ造船性能のものである。
後は、「国防と言う意識の確立」だけにある。それは「自衛隊」では無い。意識の反映は名実共に「自衛軍」である。

この時代に、それまで無かった「国防」という意識を「防人」と言う「徴兵制」の専門の「国軍」という意識に変換させて民を納得させたのである。
それは真に、皮肉にも「蘇我さまさま」なのである。
何故か、中大兄皇子の「白村江の戦い」は、唐に対しての一つの「先制攻撃」であり、その「目的」は勝利ではなく攻撃そのものが目的とし、達成されていたことでよかったと以前のレポートで書いた。

蘇我氏が「唐」と騒げば騒ぐほどに中大兄皇子には都合はよいのである。
それは、「白村江の戦い」への「先制攻撃戦」の「民の賛同」は得られ、国民の「国防民意」は出来上がり、究極「公地公民」の「豪族達の反動」を潰す事が出来るという目算があつたのである。

だから、むしろ、どちらかというと「華々しく負ける」ことに意味があった。
勝てば、気が緩み油断が出来て民意はまとまらない。
しかし、負ければ、”これではいかん。何とかしなければ”となり、一致団結して、「国防」と言う意識が生まれて、「防人」の「徴兵制度」がやり安くなり、次に述べる「国防施設等の建設」に民意を得て、政治を改革の方向に誘導し振り向けられるのである。

だから、次の関連の改革が引き続いて出来たのである。
これは、この成功のポイントは「白村江の戦い」に始まり「負けて勝つ」の戦略にあったのである。

この様なことを「無から有」のシステムを生じさせた宰相はそうざらに無い。数えても浮かばない程である。
それが一つではなく、前記、上記から述べてきた「無から有」の「9改革」も実行したとなると、中大兄皇子以外にない。
「失政、失敗」どころの話ではない。政治的には右翼ではないが、実のところ書いていると余りにもNHKの「無根拠」に憤りを覚える。

では、上記の戦略からその国防策のもう一つの内容(改革11)を見てみるとする。

「第11番目の改革」

11 「水城、山城、大野城、さい城、高安城」等の防備要塞を築いて防衛拠点を作った。

唐の来襲を警戒して全国各地と都の周辺に防壁と城を築いた。

「負けて勝つ」の戦略の後に、民の心理作用が覚めないうちに、唐が攻めてくるルーツ上を想定して、そこに防備を効果的に整えたのである。上記した真に日露戦争と類似するのである。
大国唐に立ち向かう中大兄皇子という頭脳(日露では秋山兄弟)と、これから下記する戦略(海はT字作戦と近代砲の開発:陸は騎馬軍団の逆ハ作戦と大砲機関銃)とが一致するのである。

この防塞処置を築くにはその戦略の分析が必要である。先ずその分析に取り掛かったのである。

そのルーツとは、先ずは唐は陸を利用して朝鮮半島から海峡を隔てて門司又は博多付近に襲来する。
当然に戦隊は戦艦でも襲来する。陸は少なくとも補給を前提としてのルーツを使う筈である。
唐から来るには距離的に戦艦ではあり過ぎる。
このためには補給路を開く必要がある。それが朝鮮半島の先端である。
そうなると、この地点から戦艦が日本に向けて移動し始める。
都は奈良となると門司か博多を先ず制圧する必要があり、ここを通過して四国九州の間の沖を通過するには距離的に問題である。
だとすると、瀬戸内海を通過する以外に無い。左右の四国と中国地方の陸を控えて間を通過するには「挟撃」という戦略的に「最も弱い戦術」を覚悟しなければならない。
まして、周囲に島が多いと成ると「ゲリラ戦」を覚悟しなければならない。小回り利かない大きい船隊には弱点である。
更にここは、「潮の流れ」が強いし゜操船術も土地の海に「慣れた優れた者」がいるが全く居ない。
ここで手間取れば、食料や水の補給に欠く事になる。船隊が大きい故の欠点ともい言える。
しかし、ここを抜かれた場合は次は港である。大船隊が泊まれる港という事になる。摂津か堺港であろう。
ここに処点を築き、先ず周囲を征圧する事になる。
征圧する事で水と食料を調達する。
その上で奈良の都に登る事になろう。
直線的に激戦を覚悟で奈良に入るか、紀州から入り各個攻撃で食料と水を確保しながら、南から侵入する背後を突くルーツを使うかに決断を迫られる。
前者は開けたところと狭いところがある。つまり「挟撃と背後襲撃」を受ける可能性が高い。
ダメージが大きいが勝てば短期間で済む利点がある。失敗は全滅である。
紀州周りは船隊の背後を残る無傷の四国中国の軍に突かれる危険がある。

日本側の戦略は、この様に想定した「水理と地理」の必要とするところに兵を貯めて攻撃諸点と築き、見張台を作り、烽火による情報砦を置く。
水軍と地上軍を配備して「ゲリラ戦」を展開する事で防げる可能性はあり地理的、水理的に有利な事が多い。
主な戦術は、「水と食料」を消耗させる事で完全に勝てる。
それには被害の少ない「持久戦」に持ち込む事が必要である。
こちらは水と食料は問題ない。こちらの被害が少なくて相手の弱いところを突けば良いのであるから、当然に夜昼を問わず人馬の豊富なところを利用する「不断ゲリラ戦法」である。
「白村江の戦い」での「先制攻撃」で日本人の強さを知っている。
相手を眠らさないで、精神を弱らせて叩く戦術で、この「先制攻撃の印象」は生きて、相手に「厭戦気分」が芽生えてくれば、迎えれば勝てる。

ただ、欠点がある。持久戦の「兵の戦意」である。
国や家族を護ろうとする「熱意」である。
日本人には”パッと燃えてパッと咲く”という「根強い美的心理反応」がある。「融合単一民族」の欠点でもある。

だから、中大兄皇子は改革10で行った「遠慮深謀の戦略」があったのである。
彼の改革の内容を今まで検証してきてその能力はずば抜けている事を証明してきた。
凡人奇人では成し得ない能力をこの2年という短期間で「7つの改革」を政治的矛盾もなしに指揮して成し遂げているのである。
充分にその「遠慮深謀の戦略」の思考準備は、彼なら出来ると考えると頷けるはずである。

この3つの要素、即ち、「白村江の戦い」の「先制攻撃」と、「侵略経路」上に「防備要塞」を構築し、戦術はルート上での「ゲリラ攻撃の持久戦」の3段構えで待機すれば勝てると見ていたのである。

その根拠に、[過去の経験]から得られた重要な知識が実はあるのである。

日本の初代天皇とされている応仁(応神)大王(天皇)出来事である。(前レポートに記述)
4世紀後半に、朝鮮半島より、不意を突いて、この応仁王が率いる軍隊を含む大船団を組んだ戦隊が、瀬戸内から大阪湾の堺港に入った。
上陸戦は当初、直接飛鳥に入る作戦であったが、周囲の平群族、葛城族、巨勢族らの持久戦のゲリラ戦と挟撃戦に阻まれて食料も絶えつつ矢張り失敗したのである。
そこで、各個攻撃に出た。南端の紀伊半島の豪族「紀族」である。紀族は負けた。そして、ここから水と食料を確保して、案内人を作り、南紀から奈良に入る戦法を採った。

当時、未だ奈良盆地は中央に琵琶湖に匹敵する湖がありその周辺に民は生活圏を作っていたのである。
(後に湖は地盤沈下で無くなる)
そこを南から進入して各個攻撃で襲撃した。この場合は奈良盆地は地理的地形が最の弱点である。
周囲から潰されてきた。慌てた4族の連合軍が奈良飛鳥に集中し、湖を挟んで持久戦に持ち込んだ。
こうなると、応仁王の戦隊は「水と食料と疲労の厭戦気分」の問題が起こる。弱点が生まれた。
港にある船隊との連絡が取れなくなる。紀族が息を吹き返し背後を突かれる可能性もある。勝利に近いが急がなくては全滅の危険もある。
止む無く、停戦し、和合策に出た。
話し合いが始まった。結局、4族と応仁王族の帰化で決着し、その5族による「連合政府」を作り上げて、その「連合王」を「大王」として呼び、初代の大王にこの「応仁大王」が着いたのである。
後に、この5族との血縁関係を結び融合政策が成功した。そして、ここより応仁大王系の百済を始めとする朝鮮系の物部氏や蘇我氏の豪族が生まれたのである。続いて女性の仁徳天皇が誕生する事となったのである。

この歴史を中大兄皇子は150年程度後であるが学んで知っている。
この知識から「不意」を突かれ無くして「防備」をすれば、侵略は難しいことであると考えているのである。

しかし、現実は危険はあるが、前レポートでも書いたが、先ず来る事は無いと見ていたはずである。
これ程のリスクを覆う「侵略攻撃」は避けると見ていたと見る。

その証拠に、同時期に直ぐに遣唐使を合わせて中国に派遣している事が何よりの証拠である。

来ると見ていたなら、敵に派遣する事態が無駄である。
派遣した事は、来ないと見て遣唐使を出したのである。
つまり、「硬軟両面からの政策」である事が判り、これまた「改革実行」の上で都合がよいのである。
民には”来るぞ”と心理を働かせて緊張感を持たせて置き、前代未聞の「18改革」に移ることこそ、その目的に沿っているのであるから。そうでなくては18もの改革が成し得ない筈である。

現代まで、「無から有」の「政治的改革」で「18改革」も実行した宰相は居たか。否全く居ない。

このことから見ても「失政、失敗」の糸口すら見出せない。”よくもまあ”と感嘆そのものである。

次はその背景下での国造りの本題である。

国の中が、やるべき事はやって準備整えて掛からないとこの法令は法令で終わる。そうでなければ民は安心して法令を護れないであろう。法令というシステムにまったく未知の政治に慣れていない民にとっては”それどころの話か”となるは必定である。

「第12番目の改革」

12 「近江令」を定め律令政治の完成を目指して律令を発した。

668年に中臣鎌足等が作ったとされる22巻から成る法令集であるが、体系的な法典マニュアルとして作ったものとされている。つまり、いきなり法を作っても慣れていない官僚の執政施行は難しい。
そこで、急劇に増えた官僚の種類と数のためにその行動マニュアル的な心得を書き印したものであった。

律令の解説書である。
前レポートでも書いたが、律は刑法、令は民法、他に格は政令、式は律と格の細則規定で条例である。
これ等の施行細則で、施行する時の要領書である。
施行が疑問視されているが、要領書であるので施工は無い。

つまり、豪族の主観を主体として刑罰を科していたが、これを無くして律令政治に慣れていない社会にいきなり施行するのではなく緩衝的に導入しょうとしていたのである。
当然、施行する者、裁く者、裁かれる者、刑を実行する者など全てこれに関わる者は経験がないのである。
必然的に混乱は起こる。これを沈めるためのマニアル的な要領書である。
これも、用意周到で失敗のリスクを将来に於いて大きいことを計算の上で、この書を定めたのである。

特に天武天皇はこの辺の完成を目指した事が判っている。つまり、矢張り当然に問題が多くあったのであろう。

遂には、近江令から文武天皇に引き継がれて33年後の701年には修正して、本格的な「大宝律令」が完成して、30年で民は慣れたことを物語る。
これで民主政治の基幹が根付いたのである。
そして、120年後の桓武天皇の時に「皇親政治」による本格的な「中央集権的民主政治」が完成したのである。
6代の天皇に引き継がれて完成したのである。
(この間に5家5流の青木氏は最大の勢力を誇ったのであるが、これが災いして桓武天皇期には圧迫されて衰退した。)

以上のような目的をもって、この後に引き継がせるこの書の配慮も見事である。
「失政、失敗」を何とか無くす配慮であるからNHKの指摘は当らない。

軍事、経済、政治の3権を改革して行くのであるから、太政大臣だけでは繁忙すぎてそれこそ失敗を起こす。
それを、天皇の補佐役の「内臣」とあわせて、実務の大臣には次の補佐役が設けられたのである。
これが、次の改革である。

「第13番目の改革」

13 「御史太夫」を定めて「太政大臣」などの補佐として特別に補佐役を設けた。

「改新」の大きさと繁忙さから補佐役を特別にこの天智期に特別に作ったものである。
天皇の「2つの補佐役」や「重臣の補佐役」を設けるなど如何に大改革であったかを物語るし、その思考が柔軟である事が覗える。

これは直接の改革ではないが、「行政形態」としては大きな意味を持っている。
これだけの短期間で、且つ未経験の改革施行をするのであるから指揮指導は一人に限定する事は無理である。
別の意味でこの改革の位置付けが「戦略上極めて重要」な意味を持っている事に気付くのである。

つまり、初めての改革であり、失敗は次に行う改革の推進に大きな影響を持つ。民は懐疑的になり賛同を得られ無い事が起こり、むしろ過去の豪族支配の原始的政治形態の方に向かう事が、民に心理的に起こる。
これは場合に依っては、未来の日本の「政治形態の良悪」に関わる問題でもある。

その意味で、この「補佐役」は「忙しいから設ける」という問題だけではない重要な「政治形態」の「補佐役改革」である。
ここにも、「失政、失敗」の歯止め策が働いているのである。
確かに、「失政、失敗」の懸念があって、ただ改革を強引に導入すると言う手法では無かったのである。

この意味でNHKの新説「失政、失敗」の説は当らないのである。


次の改革は大化改新7-3で説明した「7色の姓制度」を、更に追加して進化した社会情勢に即応したのである。
天武天皇が即応してこれを定めたことは、天智天皇の「7色の姓」は成功して地に着いていたことを物語る。

「第14番目の改革」

14 「八色の姓制度」を定めて身分を8つに分けて氏姓制度の充実を図った。

皇族とその重臣の身分を定めた。真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置である。
そして、その身分にあった「行動と責任の所在」を明確にしたのである。
「社会の構造」を7つから8つに分けた「役割分担」でもある。

例えば、賜姓青木氏や賜姓源氏は「天皇」や「天領地」や「国体」を「保全する主要幹線国」を護る「親衛隊」の「護衛役」である。(伊勢、近江、信濃、美濃、甲斐の国等)他には、藤原秀郷一門の役割は「朝臣、宿禰」などの身分で24国地方に対する国司役や守護役を担ったのである。
(「青木氏の官位官職と職位の研究」を参照)

この様に「姓」(かばね)の身分のみを定めている事のみならず、その「姓の役目」を定めているものでもある。
この様にして社会の必要なところの「役目」を果たさせる事で「国の安定」と「民の安寧」を保とうとする政治形態なのである。
5家5流の賜姓青木氏と嵯峨天皇から始まった11家11流の賜姓源氏は、各代の天皇の第6位皇子であるので、この「朝臣」(あそん)に当るが、その中でも青木氏は上位である。

この身分制度は、後には社会の変化に対応して更に細分化されるのである。

この政治形態は江戸幕府まで続いたのである。「失政、失敗」でなかったから1000年も続いたのである。


「第15番目の改革」

15 「皇位継承制度の変更」

皇位継承は大変な財政的負担と成っていた。
(天智天武の子供は34人もいたし、他の皇子も合わせると50人程度にもなる)

天皇家の財政を担う「内蔵」では破綻寸前であつた。(行政単位は斎蔵、大蔵、内蔵の3つに分類されていた)
このため、この原因と成っていた「皇位継承制度」の変更を「経費節減」(天皇の護衛役含む)のために「財政改革」を断行し実行した。

多分、皇族関係者からの第6位皇子以下は、平民化するのであるから反発は大変なものであった筈である。
この「改革」で、第6位皇子から臣下して賜姓を受けて、初代の青木氏(伊勢青木氏 天皇家の守護神の伊勢神宮の守護)が発祥したのである。(伊勢青木氏は左右兵衛府の官位と民部尉官位)

これ等が、「第14改革」の「朝臣」に相当し、その役目を担ったのである。

其れまでは、第4世皇位継承、第7世下族の「世」方式で、第5世はこのどちらにも属するとし、第7世は代替わりにて「ひら族」とし、賜姓して「平氏族」を形成し、坂東の守護として配置した。
これが、「坂東八平氏」族である。
これと比較して阿多倍末裔の渡来人系の「京平氏」の「桓武平氏」(たいら族)とは混同されている。

「第4世」方式から、第2世第4位皇子皇位継承として第6位皇子を臣下させ、賜姓(青木氏)して、親衛隊とした。
この賜姓青木氏であり、伊勢の青木氏(始祖 施基皇子)としたのである。
即ち、「第6位」方式である。
第6位以降は下族(比叡山僧侶、門跡寺院僧、守護神の神社の斎王)した。
この方式は、嵯峨天皇期に一部変更修正されて実質上は花山天皇まで続いた。
(第2世から第4世第6位皇子に変更 青木氏は皇族系の宿禰族まで名乗れる氏とした 実質は室町中期まで護られた)
(青木と源氏の賜姓族は16代 人数17皇子18皇女)

初代の賜姓伊勢青木氏にはそのステイタスとして、「鞍作止利」作の「大日如来坐像」(伊勢青木氏の宗家保有)の仏像与える事とした。そして、王位は4世までとした。(これまでは6世まで王位であった。)

この様に財政的に負担を少なくすると共に、身内を下族させて侍として周囲に配置して、目配りして天皇を護る体制を作ったのである。
これで改革に対する周囲の民や豪族の反動を押さえる仕組みを作って推進していった。
都の付近(伊勢、近江、信濃、美濃、甲斐等)にはより親族(第6位皇子)を王位として、代々天皇の代替わりに発生する7世以降の親族には遠方の坂東地方に配置して国内を固めたのである。
西域は、この改革の中心種族の渡来系の大隈の首魁の阿多倍が率いる200万の集団に任せた。
この西域は32/66国に相当するのである。
九州はこの一族に「錦の御旗」を与え、「太宰大監」として官位を与え、「遠の朝廷」と名付けて3権を任したのである。(後には天皇家と血縁し賜姓を受けた)

改革は「行政」だけでは無く、「治安」という点でも改革したのである。

これで地方の豪族は手が出せない。この環境の中で「18改革」と「10活動」を安心して遂行したのである。

これがNHKの言う「失政、失敗」なのか。それが何処に存在するのかよく判らない。あるとすれば体制そのもの否定する左傾の社会システム以外に無い気がする。

「第16番目の改革」

第15番目の改革に伴って34人もの皇子や皇女がいる。
第6位皇子を含む彼等の処遇をどうするかで不必要な反発が生まれ、それに乗じて改革で利権を奪われた不満を持つ豪族達が騒ぐ可能性は充分にある。
阿多倍らの最大武力を保持している大集団を味方に引き入れての改革なので、豪族達は手が出せないで居るが、間違えれば皇子を味方に引き入れての内乱となり得る。
蘇我石川麻呂が大化より3年後に謀反で自決しているが、この改革は2年後であるとすると、この蘇我石川麻呂の謀反は明らかに成っていないが、上記の内乱の嫌疑を掛けられたのではないかと推測する。

その内乱とは次の事ではないか。
蘇我石川麻呂は3人の娘を中大兄皇子に妃として差し出している。そして、一人の皇子と5人の皇女を産んでいる。
この皇子は建皇子である。8歳で死んだ。(大化改新6で記述)この時点では5-6歳程度である。
この建皇子は祖母の斉明天皇に一番孫として特別に大変に可愛がられており、死んだ時には斉明天皇はうつ病に成った事が日本書紀に詳しく書かれている。蘇我石川麻呂にとっても孫の一番皇子である。
この皇子を担ぎ上げて”内乱を企てた”と嫌疑を掛けられたのではないかと推測している。

そのためには、皇子たちの上位に立ち行動力と指揮力のある有能な二人(施基皇子と川島皇子)に委ねて残りの6人の皇子を掌握させる必要がある。この6人の皇子を取り込んでおけば、豪族達は皇子を旗頭に祭り上げる事が出来ない。
その二人(第6位と第7位)に「権力と武力」を与えて天皇を護ると同時に、皇子達も見張らさせたのである。
それが、次の改革である。

16 「親衛隊の創設」
蘇我氏に牛耳られていた反省から、天皇自ら護る軍隊を創設した。
上記のこれが第6位皇子の青木氏である。
この青木氏は伊勢神宮のある伊勢国の王として守護とした。
伊勢を「不入不倫」の天領地とした。
(後に、天武天皇が伊勢神宮を護り本尊として正式に詔を出して定めた)

この第6位皇子には伊勢王(青木氏)として、天皇家の守護神を伊勢神宮と定めて、この地を任せてこれを護らせた。
第7位の皇子には近江王(佐々木氏)として、近江宮の近江神宮を守護させたのである。
(後には、賜姓源氏の清和源氏の守護神となった。)
大化期の宮廷と守護神があり、交通の要でもあり、天領地のある大事な2つの戦略上の政治ポイントを抑えさせたのである。
ここから6皇子達の動きを見張ったのである。

この二人の事は日本書紀に10-13回も出て来る。
この内容を見てみると、天智天皇や天武天皇は、皇太子を含む第5位皇子までの皇子よりも、この二人に対して実に信用し信頼して度々呼び出して役務を命じている(10活動)。本来は皇太子の役務であるのに。

その内容を分析すると上記の様な全体の思惑が理解できるのである。
舎人親王はこの様な思惑を忍ばせたかったのではないかと私は見ている。

この後、上記15番の改革と共に、天武、聖武、文武、光仁天皇までこの制度は維持された。
伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の国の戦略上の主要地の守護としたのである。
この開拓には阿多倍の支配下の漢民の技能集団(馬部、山部、磯部、鞍部等)を遷して大きい外来馬を飼育し開墾した。(日本書紀に記述)

5代も続いたこの制度が何故に「失政、失敗」なのか。
100年以上も維持しているのである事を考えも「失政、失敗」ではない。
NHKに教えて欲しいと言いたい。


「第17番目の改革」

17 「飛鳥浄御原令」(689)を定めて律令制度を2度にて進めた。(天武期)

701年完成の「大宝律令」の基となった。
天智天皇が没して後に、弟の天武天皇は都を元の飛鳥の浄御原に戻して政治を執り行った。
この説には他説があり、元の位置より違う所に立てたと言う説と、同じ位置に立てたという説の二つがあり現代でも確認出来ていない。天智天皇から4度目に遷宮している事になるが、これは政治上と地形上の考えがあり遷宮した。
しかし、ほぼ政情と律令国家の骨格が出来上がりつつある事から、天武天皇はこの出発点を歴史上の位置に戻して、ここでこの骨格完成の「飛鳥浄御原令」を発布したいと考えての事であろうと推測する。

その後、この「令」は嵯峨天皇から5代に渡り「見直しの改革」が行われて「皇親政治」の全盛期を迎えるのである。
そして、そして、その経緯は(中国の律令制度も参考に)「大宝律令」(701)の基となったのである。そして、「養老律令」(757)と続くが、この律令は一部修正された程度である。

更に「時代の変化」と共に、「修正追加」を加えて光仁天皇の子供の桓武天皇が「完全な律令制度」(794)を完成させた。つまり、律令制度の完成は初代の聖徳太子から7代の天皇がその方針を貫き引き継ぎ完成させたのである。(170年)

その後、「嵯峨天皇」から5代に渡り見直しの改革が行われて「皇親政治」の全盛期の基礎を敷いた。
(桓武天皇の母はこの阿多倍の孫に当り、「高野新笠」と言う。光仁天皇の妃である。光仁天皇は第6位皇子の施基皇子の子供である。施基皇子は伊勢青木氏の始祖 この桓武天皇の圧力で伊勢青木氏は衰退する)

この改革もNHKの新説「失政、失敗」の言い分は170間の時代の変化と共に修正追加を加えて更には中国の進んだ律令をも参考にして完成させたもので、何処に「失政、失敗」があると言うのであろうか。この長い期間に多くの人間の知恵が関わり、民と社会の変化に対応して仕上げたものを「失政、失敗」とするは不尊極まり無しである。
中国の律令も参考にし、且つ、阿多倍の子孫等の中国漢民が編成の実務に関わりて完成したのであるから、中国の律令も「失政、失敗」と成るではないか。


「第18番目の改革」

18  「行政単位の設定」

地方の行政の単位を「評」(こおり)と決めて、そこに国司を置き「改革」の浸透の徹底を図った。
「東国国司」の「10活動」の「改革の専門官僚」とは別に、通常の「一般行政の役所」の「単位区域」を定めたのであ る。
日本の「地方行政区域」は、「七道」制として、東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海に分けた。
特に、畿内に対しては、「特別行政区域」として設定し、大和、摂津、河内、山城、(後に和泉)の4区域(5区域)に分けた。「5畿」と呼ばれた。

「国」と」「評(郡)」と「里」の単位であった。
「評(郡)」には「評(郡)司」(こおりつかさ)を置き、「里」には「里長」(さとおさ)を置いた。

これ等は「行政と司法」を担当したのである。
1里は50戸で、2-20里で評(郡)、4-5評(郡)で国を構成するとした。

「国」は大、上、中、下の「4区」に分け「国司」とし「中央官僚」が担当し「国府」を置いた。
「評(郡)」は小を加えた「5区」にして「地方豪族」を「評(郡)司」として「評(郡)家」を置いて任せた。
(地方豪族の権利を奪われた不満はこれで納まる)
「国司」は「守、介、えん、目」の四等官で構成し、任期は4年である。
「評(郡)司」は「大領、少領、主政、主帳」に分けられて四等官で構成し、任期は終身である。
「里長」は地方の「小豪族」で、郡司の監督支配下に於いて郡司の仕事を手伝った。
(これ等の国司、評(郡)司、里長は上記の律令格式で役務を裁いた。)

このことに付いて、「郡評論争」が1950年代に起こった。
この大化改新の時代には「評」は無かったという説である。「郡」はこれより50年程度後に定められた制度であるという説である。
つまり、国はあるが郡は無い。無い所に改革はできない。大化改新は故に「絵に書いた餅」の説である。”その施行する組織体制が確立無くして律令の原案を作っても効果は生ない”と言う説である。
この時代は果たして「郡」であったのか、「評」があったのかである。

結局、木簡が大量に発見されて解明の結果、大宝律令(701)までは「評」であった事が確定した。
この事は、大化改新の「18改革」「10活動」は順次「追加修正」が行われていたことを意味する。更に、改革が続けられていたのであるから「失政、失敗」で無かったことを意味する事になる。

つまり、歴史を否定するグループが唱えた戦術であったが、解明されたのである。
「アイヌ民族原住民説」と同じ歴史否定のグループであつた。これも遺伝子学的に否定された。

改新前は、各国の守護王とその代理の官僚国司との「独断と偏見」で「行政と司法」を行っていたのである。
蘇我氏の下では、この体制「独断と偏見の政治」を維持していた筈である。

この手法の違いが入鹿暗殺という結果として出た。
「蘇我氏」と「中大兄皇子」との「軋轢」の真実の原因は、この「政治手法の違い」でも起こったのである。

これをみても実に緻密である。現代と変わらない。
現代も「道州制」が叫ばれている中で、これでは既に三位一体どころかまだ出来ていない道州制も既に1640年前に実行されていた。
「行政域の分離」も市町村合併が進んでいる現在より昔の方が進んでいる気がする。
ただ違いは、担当官が選挙で選ばれているか否かの違いだけである。
現在の完全民主主義と昔の中央集権の民主主義との違いである。
昔に、この完全民主主義を敷いたらそれこそNHK新説の100%「失敗、失政」であろう。

これをもって「18改革」が断行されたのであるから、地方の末端まで浸透する筈である。

要は、この「行政域の分離単位」が「明確に細分割」されているかどうかの是非が、この改革の成功を占う最大要素であった。
もし、NHKが新説として唱える「失政、失敗」はこの一点に絞られて、もしこのシステムが出来ていなければ、「18改革」は「絵に描いた餅」となるであろうし、「失政、失敗」の指摘は妥当であろう。しかし、違ったのである。

現代にも勝るとも劣らず完全に近いし、今以上に細分化されている。
ここまで計算されて尽くされている事が「18改革」の内容の優秀さも、兎も角に、その条件は整っている。
何はともあれ、現代以上にその「指揮官と官僚」の「緻密さと実行力」が優れていた気もする。

故に、これをみる事でNHKに自信を持って指摘できるのである。

「第19番目の改革」(補足)

19  「伊勢神宮の守護神」の制定

それまでは聖徳太子時代には、特に固定されていなかった。というよりは、「民の精神」の置き所に対する認識が政治に無かった事による。ただ、仏教だけを導入する事で民を救おうとした事は事実であるし、仏閣を建ててこれに民の祈りを集めたが、朝廷が先導して民を導くシステムを引く程では無かった。
物部氏と蘇我氏との争いはこの神道と仏教の2者択一の選択でもあった。

天智天皇は「民」を治めるには、仏教はもとより「民の精神」即ち「民の心」の「よりどころ」(安寧)に注目したのである。
これは「仏教や神道の普及」による影響である。

天智天皇は「治世」は「衆上」と定めたのである。
「律令格式」の「行政」の上にあるものは、如何としてそれをこの「衆上」と置いたのである。
では、その「衆上」は何によって導けばよいかと問うた。
それは、「神」の導きにあるとした。その為には統一した守護神を定める必要があり、その守護神を奉る適切な人を導かねば成らない。
この二つの課題を解決する必要がある。

守護神としての要件は、”国の中央に位置し、国の主要地であり、豊かさを刻する土地でなくては成らない。
そして、そこを天領地として定め、適切な者に護らせねば成らない。
そこを永代的に侵することを禁ずる事で、その民の神聖な「心のよりどころ」とする事が出来る”とした。

その要件に合わすには、「伊勢の国」であり、それを祭祀する者を「皇族の皇女」として、不浄なき「斎王」と崇め、永代に奉らせて、護る者は「第6位皇子」として「賜姓」(伊勢青木氏)し、臣下させて「侍」とし、そこに、詔で「不入不倫の権」を与える事で可能となる。それを実行した。

「中央集権国家」の「民主主義体制」を「律令政治」で確立した。
その上に「民の心」の「よりどころ」として「伊勢神宮」を守護神とした。
「天皇家」がこれを「祭祀」し守護した。
「政事」を執り行う体制を「優秀な指揮官」と「有能な阿多倍らの進んだ知識の官僚」に委ねた。
この様に、この短い期間に「国家体制の根幹」(18改革と10活動)という形で造り上げたのである。

今まで述べて検証してきた「18改革」と「10活動」に対して論理的で、適時適切で、適材適所で、矛盾点当を見つけ出す事が出来ない程である。

以上を通して、NHKの新説「失政、失敗」の論所を到底見つける事が出来なかったのである。

もし、無理にでもこの「18改革」と「10活動」を「失政、失敗」とせよとの意見があるとするならば、ただ一つある。
それは、「歴史否定」を前提とする「結果平等」の「社会主義」思想であろう。所謂、左傾思想に他ならない。


「視聴料不払い」や「命令放送拒否」や「視聴料20%値下げ」や「不祥事の未改善」などで、現在でも国会で問題視されている現状下で、何故、公共放送のNHKが明らかにこれだけの無理を承知で新説論を放送したかの「背景」が気になる。
「世の中弱身に虫」の例え通りであって欲しくないのである。是非に「悪のスパイラル」から這い出してもらいたい。

次の大化改新の検証テーマは第8番目の新説に対する反論である。
「日本の文化は朝鮮文化」である。
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