大化改新 新説 NHKスペシャルまとめ3
NHK大化改新の新説の第3番目の説である「蘇我氏館は実は兵舎と武器庫であつた」の問題である。
結論から言うと、大化改新1と大化改新2-1と2-2でもレポートした様にお判りと思うが、「兵舎と武器庫」で妥当なのである。
中国の軍略書には明確にこのことを明記しているのであり、正しいのである。
蘇我氏館の大豪邸は聖徳太子の頃から既にあり、その権威を示す館は2つも要らないし、私ならばむしろ、大御殿の館に武器庫や兵舎は似合わない事から、別の戦略上の土地に造営し、そこに適当な館を作り指揮する環境を設定する。
其れの方が「御殿館と兵舎」の目的を合理的に効率よく使えて当然のことである。
御殿は権威の象徴としての「行政所」として、兵舎武器庫は「軍事所」としての目的を果たす方が臨機応変に対応できる。
現に、現在に置いてまでも行政所と軍事所が一つに成っているところなどない。江戸時代までの城でも城を行政拠点にし周囲に山城や櫓を築き防衛網を設けている。
この軍略書に付いてのこの場合の一角を述べる。
昔から戦いの基本を体系的に分けると、「六稲三略」(6つの戦術と3つの戦略)と言うものがあるが、この基本を実行する前提として「行政」と「防衛」の拠点に分けることを基本としている。
夫々個々に重要に成るのがこの2つを繋ぐ手段がポイントになるが、この「行政」と「防衛」の連絡方法を「烽火」と言う手段で行う事を定義されている。
現に、この大化期の時代には、「烽火」(とぶひ)と言う方式の情報伝達法が確立していた。
つまり、「行政拠点」からの指示を「防衛拠点」に伝える方法として、「煙火」により敵の襲来や命令を伝達する緊急通信施設(烽火所)を作るのが「戦いの構え」の「常道」とされていた。
「行政拠点」と幾つかの「防衛拠点」と幾つかの「烽火諸点」の設備を築き、そして、この3つの点から行動を起こす「六稲三略」を「三相」で「臨機応変」に行うと定義されているのである。
「三相」とは「人、時、場所」を適時適切に判断して指揮する事と説いている。
この時代の戦い方と言うか防衛システムというかは上記のシステムで行われていたが、これは江戸時代までも引き継がれたのである。そして、これ等のことを掌握していた者としてその国の将や軍師(軍略師、軍略所と呼ばれていた)が把握していた。
前記した「烽火」方式は「意思伝達」を充分に伝う行えるだけの「発信方法」と器具が完成していたのである。「のろし」は「煙火」と書く。
多分、NHKの大化改新を解説していた教授がこのことの知識を把握していなかつたのであろう。
考古学と歴史学とは専門域が異なるが、考古学者であつた事によるのではないか。
私は、この都の宮廷が地形の一番下の窪地にあり、臣下の館が前後左右の山手に4つ存在していたのであるので、少なくとも上記の定義から見ると、兵舎や武器庫や櫓や烽火の設備が無い事の方が不思議であった。
そこで未だ、発見されていないと見ると、定義から「兵舎、武器庫群」が周囲のどこかにあると見ていた。
都を作るのに、当時は全てこの軍略書を把握した上で専門的に造営されているはずである。
飛鳥、難波、近江、京の全ての都はこのシステムが働くように造営されている。
江戸時代までの主な城も同様である。
戦い方もその歴史書を見るとこの「六稲三略」に全てかなっているし、勝利した城より負けた方の城がこのシステムが弱い傾向があるのである。
歴史家やマニアは、この飛鳥の都のこれらの点の欠けている事象点を疑問視し、発掘は必ずこの「防衛拠点」の何らかのものが出ると予想されていた。
何故ならば、大化の改新には、この「防衛拠点」を飛鳥から博多までの瀬戸内を通る一線上に設けているし、「烽火」設備が設けられている。
また、前記の大化改新2-1、2-2の所でレポートした様に「防人や軍事設備」が定義通りに築城されている。このことから、この知識があった事が充分に解るのである。
だとすると、必ず、窪地にある宮廷であれば、周囲の山手には必ずこの防衛設備の兵舎や武器庫があるはずであると見ていたのである。(戦略上、窪地にある事が疑問だが)
歴史家までも行かずとも、マニア程度であればこのことは理解していたはずの程度ことである。
発掘の結果は矢張り「兵舎と武器庫程度」と指揮所の様な小さい館のものであった。
これでよいのである。
大して驚く程度の結果でなかったとの感想であった。
ただ、2つ疑問がある。
その一つ目は宮廷が下にある事(本来は上にある筈)
蘇我氏の牛耳る為の策と見られている
その二つ目は「改新」のキーの阿多倍(指揮下にある東漢氏)とのやり取りの事
(東漢氏が中大兄皇子に抵抗しない旨の木管端が見つかっているが、蘇我石川麻呂の様に「説得」の証拠が見つからない事。つまり、この「無抵抗」とした「根拠」が見つからない)
(その三つ目は蘇我氏分家の出方に付いては、分家の長の蘇我石川麻呂が鎌足に説得されていた事が判明していた)
この二つの証が出てくれば完璧である。
実はあとはこの2つの何物かが出るのではとの期待をしていた。
その証拠が何か出るか?未だでない。
しかし、一つは確かに出た。しかし、未だ発掘すれば出て来るのではとの期待がある。
これで、第3番目の説は当然との結論が出る。
続く。
青木研究員
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
結論から言うと、大化改新1と大化改新2-1と2-2でもレポートした様にお判りと思うが、「兵舎と武器庫」で妥当なのである。
中国の軍略書には明確にこのことを明記しているのであり、正しいのである。
蘇我氏館の大豪邸は聖徳太子の頃から既にあり、その権威を示す館は2つも要らないし、私ならばむしろ、大御殿の館に武器庫や兵舎は似合わない事から、別の戦略上の土地に造営し、そこに適当な館を作り指揮する環境を設定する。
其れの方が「御殿館と兵舎」の目的を合理的に効率よく使えて当然のことである。
御殿は権威の象徴としての「行政所」として、兵舎武器庫は「軍事所」としての目的を果たす方が臨機応変に対応できる。
現に、現在に置いてまでも行政所と軍事所が一つに成っているところなどない。江戸時代までの城でも城を行政拠点にし周囲に山城や櫓を築き防衛網を設けている。
この軍略書に付いてのこの場合の一角を述べる。
昔から戦いの基本を体系的に分けると、「六稲三略」(6つの戦術と3つの戦略)と言うものがあるが、この基本を実行する前提として「行政」と「防衛」の拠点に分けることを基本としている。
夫々個々に重要に成るのがこの2つを繋ぐ手段がポイントになるが、この「行政」と「防衛」の連絡方法を「烽火」と言う手段で行う事を定義されている。
現に、この大化期の時代には、「烽火」(とぶひ)と言う方式の情報伝達法が確立していた。
つまり、「行政拠点」からの指示を「防衛拠点」に伝える方法として、「煙火」により敵の襲来や命令を伝達する緊急通信施設(烽火所)を作るのが「戦いの構え」の「常道」とされていた。
「行政拠点」と幾つかの「防衛拠点」と幾つかの「烽火諸点」の設備を築き、そして、この3つの点から行動を起こす「六稲三略」を「三相」で「臨機応変」に行うと定義されているのである。
「三相」とは「人、時、場所」を適時適切に判断して指揮する事と説いている。
この時代の戦い方と言うか防衛システムというかは上記のシステムで行われていたが、これは江戸時代までも引き継がれたのである。そして、これ等のことを掌握していた者としてその国の将や軍師(軍略師、軍略所と呼ばれていた)が把握していた。
前記した「烽火」方式は「意思伝達」を充分に伝う行えるだけの「発信方法」と器具が完成していたのである。「のろし」は「煙火」と書く。
多分、NHKの大化改新を解説していた教授がこのことの知識を把握していなかつたのであろう。
考古学と歴史学とは専門域が異なるが、考古学者であつた事によるのではないか。
私は、この都の宮廷が地形の一番下の窪地にあり、臣下の館が前後左右の山手に4つ存在していたのであるので、少なくとも上記の定義から見ると、兵舎や武器庫や櫓や烽火の設備が無い事の方が不思議であった。
そこで未だ、発見されていないと見ると、定義から「兵舎、武器庫群」が周囲のどこかにあると見ていた。
都を作るのに、当時は全てこの軍略書を把握した上で専門的に造営されているはずである。
飛鳥、難波、近江、京の全ての都はこのシステムが働くように造営されている。
江戸時代までの主な城も同様である。
戦い方もその歴史書を見るとこの「六稲三略」に全てかなっているし、勝利した城より負けた方の城がこのシステムが弱い傾向があるのである。
歴史家やマニアは、この飛鳥の都のこれらの点の欠けている事象点を疑問視し、発掘は必ずこの「防衛拠点」の何らかのものが出ると予想されていた。
何故ならば、大化の改新には、この「防衛拠点」を飛鳥から博多までの瀬戸内を通る一線上に設けているし、「烽火」設備が設けられている。
また、前記の大化改新2-1、2-2の所でレポートした様に「防人や軍事設備」が定義通りに築城されている。このことから、この知識があった事が充分に解るのである。
だとすると、必ず、窪地にある宮廷であれば、周囲の山手には必ずこの防衛設備の兵舎や武器庫があるはずであると見ていたのである。(戦略上、窪地にある事が疑問だが)
歴史家までも行かずとも、マニア程度であればこのことは理解していたはずの程度ことである。
発掘の結果は矢張り「兵舎と武器庫程度」と指揮所の様な小さい館のものであった。
これでよいのである。
大して驚く程度の結果でなかったとの感想であった。
ただ、2つ疑問がある。
その一つ目は宮廷が下にある事(本来は上にある筈)
蘇我氏の牛耳る為の策と見られている
その二つ目は「改新」のキーの阿多倍(指揮下にある東漢氏)とのやり取りの事
(東漢氏が中大兄皇子に抵抗しない旨の木管端が見つかっているが、蘇我石川麻呂の様に「説得」の証拠が見つからない事。つまり、この「無抵抗」とした「根拠」が見つからない)
(その三つ目は蘇我氏分家の出方に付いては、分家の長の蘇我石川麻呂が鎌足に説得されていた事が判明していた)
この二つの証が出てくれば完璧である。
実はあとはこの2つの何物かが出るのではとの期待をしていた。
その証拠が何か出るか?未だでない。
しかし、一つは確かに出た。しかし、未だ発掘すれば出て来るのではとの期待がある。
これで、第3番目の説は当然との結論が出る。
続く。
青木研究員
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