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鈴木氏のルーツと青木氏

藤白神社


本文では少し青木氏と離れて鈴木氏の子孫が広がった理由に付いて検証してみたい。
鈴木氏と云えば日本の姓のなかでも非常に子孫を広げた氏の一つですが、この氏に付いてどのような経緯から発祥して広がったかに付いて見てみる。

鈴木氏は今NHKの大河ドラマの義経に家来として本来は出て来るはずである。
多分、ドラマの喜三太とか云う義経の身の回りの仕事をしている家来が鈴木三郎であると思う。

この鈴木氏の発祥は熊野古道の熊野詣で各天皇が詣でたことから興った氏である。
後醍醐天皇は24年で23回も詣でたと云われているが、後白河上皇は33回で年に一回程度である。
この熊野詣で和歌山県海南市藤白に熊野古道の熊野神社の第一の鳥居がある。正式にはここから熊野古道と言われる。
つまり熊野神社の社領の一番最初にある鳥居の事である。
この鳥居から藤白坂を登って1キロ程度上りきったところから、古代の呼び名の「馬の背」という坂道を通り(馬の背中のようになった坂)、200メートルくらいのところに藤白神社がある。熊野系列の第一番目の神社である。(熊野神官5氏の一つ日高氏が宮司)
千年以上の歴史を思わせるような大きな楠木に囲まれて静かに佇む神社である。後ろには静かに流れる谷川がある。この谷川は「紫川」といって非常においしい水が飲めるきれいな川で、万葉の歌にも多く謡われている。

この神社の隣に鈴木屋敷がある。
神社の北東の方向200m海よりの鈴木屋敷から見える所に鈴木氏の菩提寺専修寺(浄土宗)がある。
この神社の宮司は元は日高氏である。(現在は18代目吉田氏 吉田氏は奈良期の朝廷神官官僚)
日高氏は南紀(和歌山の南地域)にある日高川の付近の土豪で熊野神宮の宮司の一族である、この日高氏の宮司がこの藤白神社の宮司になった。
日高川は歌舞伎で有名な庵陳清姫の舞台となったところである。
又、武蔵坊弁慶も日高氏宮司の末裔である。

このり藤白神社は毎年熊野詣で訪れる天皇の一団をもてなしをする。
この藤白神社からは372メータの藤白山の山越えをするのでここで一団は泊まる。
この泊まるところを「王子」と云う。
この付近には熊野詣で尋ねてきた人を留める春日王子、祓戸王子と藤白王子とがある。藤白坂山頂には塔下王子があり、この4つの王子で人々は宿泊する。

この王子や周囲の民家の屋敷に泊まって一団は歌会を催すのが恒例である。

小栗判官や山辺赤人や柿本人麻呂など平安歌人が多く通ったところである。

そして、又この地は習字の墨を日本ではじめて作った場所でもある。(藤白墨)

この墨は後醍醐天皇に命じられて日本各地に探し求められたが見つからず、熊野詣でこの地に来て海南地方から少し南にある湯浅地方に分布している「うばめ樫の木」(通称ばべの木)で地元の炭焼きの者が造っている炭を観て、その煤で作ってみたのである。
ところが、この墨が其れまでは中国から輸入していたが、それに勝るとも劣らず墨が作れる事に気付いたのである。この墨が日本最古の墨で「藤白墨」と云うのである。
他の墨と較べて紫色の色調を示す墨色である。特に植物花鳥にその独特な色合いと柔らかさを深く表す優れた墨である。
この墨は天皇家だけに納入された特別品であつたし、後の代々の将軍家に納入された。そして、最後は徳川家の専売特許とされた。この墨を保存されている天皇家から拝領した最後の墨が個人の家につい最近まで保存されていたが、盗難紛失した。
しかし、使用中の片鱗の幾つかと魚拓ではないが「墨拓」は保存している。天皇家の保存品以外には日本最古の墨の片鱗だろう。
これが現代では多くに使われている備長炭の炭である。
(この藤白墨が取れた場所から50メータも行ったところに鈴木屋敷がある。)

この馬の背の坂から昔は万葉の唄で知られる和歌の浦も見渡せる位置にあり、この景色や藤白の浜の藤白の歌を謡った万葉の歌は多く残されている。

和歌の裏 潮満ちくれば 片男波 芦辺をさして 鶴鳴きわたる。(山辺の赤人)

後醍醐天皇は此処に毎年の様に泊まり歌会を催した。この時、この宮司が天皇にもてなしといつもの様に献歌を披露した。
この藤白山から流れる谷川(紫川)の歌を披露した。
この歌を聞いた天皇は大変に感心して、褒美としてこの日高氏の宮司に「鈴木」という氏と名を「瑞穂」(ほずみ)として与えた。所謂賜姓である。
(鈴木姓は穂積と言う言葉から来ていると言う説もある。瑞穂の襲名の名は穂積から来ているものと思われる。)
大変に喜んだ宮司だか、この宮司には子供がいなかった。
そこで、神社より15メーターほど坂を登ったところにある農家の氏子(後に亀井姓)の三男を養子に貰い、鈴木姓を継いだ。これが最初のルーツの鈴木氏である。

丁度、その時、鞍馬山の牛若丸が僧侶になる事を迫られて、これを拒否して平氏より追われていた。
この時、五条の橋で家来になった弁慶が居た。この弁慶は日高地方の田辺郷地方の熊野神社別社の宮司の日高氏の息子であった。(藤白神社も縁者日高氏である)
この弁慶は大変に乱暴であり、土地で問題をよく起していた。
そこで困り果てた宮司の父親は比叡山の僧兵として送り込んだ。
しかし、ここでも問題を起して追い出される始末である。
この後、五条の橋での弁慶と牛若の言い伝えである。
この主従は平泉に逃れる前に、熊野神社の本宮の宮司に牛若丸の庇護を願い出るために旅をしてこの藤白神社まで辿りついた。
此処で、弁慶はこの藤白神社の縁者鈴木氏に主を預けて熊野神社に交渉に出かけた。
この時、この牛若丸の面倒をこの鈴木氏の養子の三郎に委ねた。ほぼ3月滞在することになるが、この時、この三郎の弟の六郎も牛若丸の下働きをするようになった。
その後に兄の鈴木氏は牛若丸の家来になつた。このせいもあり、六郎も牛若の家来になった。
六郎はこの神社の天皇から褒められた紫川の美味い水の井戸の蓋の形が亀の甲羅の形に似ているので「亀の井」と呼ばれていて、この亀の形の蓋を採って「亀井」と称した。
今でもこの井戸と蓋は藤白神社に祭られている。
つまり、このような経緯から、鈴木氏と亀井氏とはルーツは兄弟である。そして、弁慶と養子であるが鈴木三郎も縁者である。
この二人の鈴木氏と亀井氏との兄弟は弁慶の帰りを待った。
弁慶は熊野神宮の拒否された答えを持って帰ってきた。
熊野神宮は牛若丸を庇護を拒否することで、平家との摩擦を避けたのである。この頃は熊野神宮は平家側に味方していた。

天皇もまだこの頃は平家にたいして対抗していなかったことから、天皇から保護されている熊野神宮の立場であったから、断わったのである。
鈴木の三郎と亀井の六郎の兄弟の家来と弁慶は、牛若丸に付き従い京に戻り平泉に旅立つのである。

NHKのドラマは史実と若干異なる。小説なのでやむ終えないことであるが。他にも2、3史実と異なる事があったので実は私はNHKに意見を申し上げた。
このはっきりした史実の家来の構成も異なっているのであるが、上記した喜三太の役柄は鈴木三郎と亀井六郎の牛若丸の家来としての役目である。
この二人の兄弟は義経の最後までつき従ったのである。
そこで、義経の生存説は、この二人の兄弟の逃亡のための段取りをつけて寺の句里の後ろがわから逃亡したのである。

そして、蒙古に逃げ延びたとするジンギスカン説が生まれたのである。
この説の根拠として、ジンギスカンの紋章は真さに「笹竜胆」の源氏の紋と非常に似ていてそっくりである事と、ジンギスカンだけこの生い立ちは、かの放牧民の中で不詳であり、記録には”天から舞い降りてきた救世主”として記録されているのである。(疑問)
そして、このジンギスカンの後ろに何時も影の様につき従う二人の家来が居たと記録されているのである。
このジンギスカンが現れる前はこの集団を率いる一族の子孫は居たが、この突然天から現れた者に統率力があり、周囲の各豪族の集団はこのジンギスカンに任す事を決めて、本来成るべき元の子孫を掟により抹殺したと記録されているのである。蒙古の掟として実力のある者を長とする定めに従いジンギスカンを主としたとするのである。
(この蒙古では各豪族の集団指導体制でこのなかから戦いにより武勇実力に優れた者を首長として決める掟があり、絶対に出生がわからないと言うことはないのである)
ジンギスカンの顔かたちと義経の顔かたちとは非常に良く似ている。
そして、弓と馬の操作が上手く機敏であり、恒に戦いの先頭にたち突き進んだと記録されている。平家との戦いと類似し物語る。

他国のジンギスカンの紋章が源氏の紋章とが類似一致することは偶然を超えている事と2度の蒙古襲来もこの説を説明する要素に成り得る。
句里の中に入った義経の遺骨は発見されなかった事と、弁慶の仁王立ちの理由もこの時間を稼ぎ、縁者の鈴木三郎と亀井六郎を伴なわせて逃す手立てであった筈ずである。突然に攻められたわけでもないので十分に検討する時間はあった筈である。
また、北陸地方には逃亡中にこの主従を一時匿ったとされる別名で「判官さん」と言う一族がある事も突き止められているのである。
十分に考えられる内容である。

さて、この二人の兄弟の鈴木氏と亀井氏が何故に子孫を増やしたかという事であるが、義経には初期に付き従う土豪集団はなかった。”いざ源氏”という時に源氏の味方として従う一団をつくらねば成らない。
そこで、各地を移動するときに、必ず当時の慣習として、「戦地妻」といって土地の豪族との血縁関係を持ち生まれた子供は源氏の支流一族の者との朱印状を受けて、土豪側は一族の安全を図り、義経側はいざと云うときには駆けつける味方とする目的があり、盛んに此れを行ったのである。時には娘を、場合に依っては妻を出すということまで行ったとされている。
このことは現代の常識では異常であるが当時としては氏家制度の中で特別な社会慣習であつた。

特に、この兄弟は義経の直の家来としてこの役目を負っていたのである。
義経は清和天皇の第6位皇子(経基王)の孫(満仲の子)三男頼信の末裔である。故にこの戦地妻行為は出来ない。
従って、この兄弟の二人には、地元記録によると紀州にもこの「一族造り」の応援団が出来て、「熊野詣宣伝隊」と称して密かにこの二人を追って手伝いをして地域毎に鈴木氏と亀井氏の子孫を多く残してくる旅をして応援をしたと記録されている。
名目は「熊野宣伝隊」であるが、この宣伝隊は既に、天皇が一年に一度以上も熊野詣でする位で、「別名、蟻の熊野詣で」と称されるくらいであった。何もいまさら宣伝隊ではない。
仮りにするとしても、新宮の熊野神社の膝元から始まればよいものを一番熊野神社から遠い神社の藤白からその宣伝隊が興るのはおかしい。
平家の目をくらます藤白の鈴木氏と亀井氏の一族の応援であったのであろう。
その証拠に義経が一の谷の戦いの時は義経の12000の直属の一族の兵が各地から集まったと記録されている。「ひよどりの崖落」の1200は直近の武者たちであったとされる記録から観ても納得できる。つまり、各地の鈴木氏と亀井氏の血縁者、伊勢の三郎の血縁者等が集まったことである。だから義経は強かったのである。
義経に頼朝から監視役としてつけられた坂東平氏の熊谷氏、梶原氏の主軍を使わずに義経自らの軍で行動を起す軍力があったからこそ成し得た単独行動であった。
全く直属の家来の無い頼朝と違う所である。

義経の”源氏一族で幕府を”とする考えと、坂東八平氏の裏打ちされた頼朝の考えとの食い違いによる兄弟の摩擦である。結局は幕府3年以内には頼朝と頼朝の子孫は全て抹殺されてしまい、坂東平氏の幕府となってしまうのである。
この義経を裏から支えたのは鈴木氏と亀井氏の二人のであり、その貢献は実に大きいのである。しかし、このことは余り歴史上には出てこない。今回の大河ドラマにも出て来ないのである。

しかし、この鈴木氏と亀井氏との子孫を増やす作戦に出た事が大きな成果を生んだ。この一族最後まで義経に付き従い、北陸への逃亡も付き従ったことが子孫を各地に残す結果となったのである。場合に依っては蒙古にも鈴木氏と亀井氏の子孫がいることにもなる。

実は私は海南市の藤白神社のこの全国に広まった鈴木氏の本家の最後の末裔の人を知っているのである。本家鈴木氏は絶えたが、亀井氏は依然として、この鈴木屋敷の側に本家が現存するのである。地元では遺された氏子の実家が亀井氏を名乗ったところから亀井氏は大変多い氏である。鈴木氏は三郎が移動していたので比較的少ない。
全国の鈴木氏と亀井氏とは元は兄弟である。

このような経緯によって鈴木氏は発祥した。そして同じく亀井氏も同じルーツで発祥したのであるが亀井氏のことは余り知られていない。
亀井氏も鈴木氏と比べて多くの子孫を各地に分散して残した。

この様に子孫の広がりに付いて何が原因しているのかと言うことを青木氏と比較してみる。

皇族賜姓青木氏や源氏一族等の子孫の広がり方は全く異なる。青木氏には家柄と言う当時では絶対視された考え方で、子孫を鈴木氏や亀井氏の「戦地妻的な血縁」で増やしたものに対して「政治的な血縁」で増えて行くのとではその勢いは異なる。

藤原秀郷の青木氏や進藤氏や長沼氏や長谷川氏等は守護などの官職の赴任でその土地に子孫を残してゆく「戦略的な血縁」と阿多倍の一族のような渡来系族の部制度による「経済的な血縁」と「武力的な血縁」で子孫を一時多く遺した京平氏と「集団的な血縁」で子孫を温存した坂東八平氏等色々な形がある。
そして、その形はその氏の宿命的立場に依って関わっていることに気付くのである

この様に、子孫を遺す方式を研究すると、「戦地妻的な血縁」「政治的な血縁」「戦略的な血縁」「経済的な血縁」「武力的な血縁」「集団的な血縁」のパターンがある事に気付くが、現在から考えた場合、どの血縁が一番子孫を遺したかは一概には云えないが、結果としては家紋200選の中では、「戦地妻的血縁」が確実に子孫を多く遺していることになる。

これは、一族に関わる全ての”しがらみ”の大小が原因しているのであろう。
この”しがらみ”のパラメータで並び直すと子孫を多く遺した順に並ぶような気がするのである。
そして、「各地に散在して血縁」していることも原因している。

この点から考えた場合は、賜姓青木氏は少ない事に納得する。
賜姓青木氏はしがらみも多いし、5地方に限定し散在の血縁もしていない。

青木氏を研究していてこの事柄から心配をしていたが、しかし、賜姓青木氏の直流支流分流の24氏の現代においても確認出来たのはすばらしいことである。
又、藤原秀郷流青木氏の直系1氏直流4氏支流4氏分流あわせて116氏は「戦略的な血縁」で拡がった子孫であるが激しい戦乱の時代を潜りぬけて関東地方に確実に根をおろして現存する力強さは他のどの子孫よりも優秀である。

このことは賜姓青木氏のように今は、「パラメータと散在の血縁」では低いが、その歴史が物語る様に子孫を遺そうとする血筋に持つ「粘り強さ」が影響していることに気付いたのである。
少ない子孫を確実に残すことから粘り強さが生まれているのである。逆に、少ない小さいしがらみと散在の血縁タイプでは数を多く遺して確率で遺すタイプは粘りが無い事に気付いたのである。

これは真に「虫の生存原理」である。人間の子孫を残す行為にもこの原理が働いていることに改めて感心したのである。

研究室のレポートの如く、我が2流の青木氏の先祖が子孫を残すことの方法は別にして、全力を尽くしたことを感謝して、今後とも青木氏諸君は大いに良い子孫を育て頂きたいものである。そのためにもこのサイトのレポートが役に立つことを期待する。
以上。

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