藤原秀郷一族の生き方-10
4つ巴の戦略を採っている藤原秀郷の一族であるが、此処で、史実をよく見ると2つの不思議なことが判明する。
その一つは、秀郷の第3子系の4氏の青木氏の一族は家紋は「揚羽蝶か丸に揚羽蝶」の副紋つきである事。
その二つは、秀郷の兼光流の子孫の一系列が「永嶋姓」を名乗っている事。
この二つの共通するキーポイントは京平氏である。
揚羽蝶紋は京平氏の「綜紋」である。
「永嶋氏」は京平氏の祖の阿多倍一族の「遠の朝廷」として九州を統治していた「大蔵氏」(阿多倍の次男の賜姓氏である)の末裔の種秀より変名した氏である。
永嶋氏の家紋は「左三つ巴」紋である。
先ず、秀郷流青木氏は116氏中の主流の直系1氏と直流4氏と支流4氏に分流している。直系と直流の5氏のうち3氏が「揚羽蝶の関係紋」である。
更に、支流の1氏が「揚羽蝶紋」である。あわせて主流4氏が「同紋か丸付き支流紋」である。
ほぼ同時期に平氏と同紋を使用しているのである。
明らかに家紋掟から見て、又、当時の慣習から見て同系列である。
これはどう云う意味を持つのか藤原氏の生き方を解明する上で解く必要がある。
ここには、時代性が働いていると考えられる。
それは、秀郷は「平の将門の乱」を京平氏の平の貞盛と共に、935-940年の5年間を協力して平定した。
つまり、無二の戦友である。
その後、貞盛の歴史は子供の維衡が伊勢北部伊賀国(朝廷より阿多倍にこの地を特別に与えられていたが、)を改めて正式に国司に任じられ、4代の後には太政大臣清盛の時代になる。
秀郷も、元は下野の押領使であつたが、この後に下野と武蔵の国を領国として与えられて、第3子(千国)を親衛隊として青木姓を与えて武門化させた。
この時、貞盛も父国香の領国の上総の国の守護を維持していた関係から、戦友として政略関係と血縁関係を持つ為に、貞盛の娘をこの秀郷の第3子に嫁がせたのではないか。
そして、誕生した嫡子に「下がり藤紋」ではなく、外父の家紋を継がせたのではないか。
その理由は、秀郷は恩賞により、貴族の仲間入りした事で、武門になった青木氏を名乗った孫には継げない家紋であるから、家紋掟により、母方の家紋を使用したものとされる。
秀郷側や貞盛側にも異論は無い筈である。
この結果、直系はもとより、直流の内の2氏が、直系の者がこの「揚羽蝶紋」を継ぎ、直流の者は分流したために「丸付き紋に揚羽蝶紋」と「丸付き紋に揚羽蝶紋に副紋付き」としたのではないか。
そして、此処で、これを証明する一族が出て来るのである。
「揚羽蝶紋」を使用しているもう一つの支流の1氏がポイントになる。
「平の正命」なる者の一族は、当初は祖先は、「嶋崎」を名乗り、又、岡田と名乗っていた。
しかし、江戸初期の頃に、兵右衛門利澄の時に旧縁の「藤原氏」と名乗り換えをし、「青木氏」を名乗った一族がある。平家血縁の藤原系青木一族である。
この一族の家紋は「丸に一文字、稲丸の内一文字、丸に揚羽蝶」の副紋付き家紋である。
時代性から見て、この一族の系譜は、貞盛の上記の青木氏に嫁いだ娘方の末裔一族と見られ、平の嶋崎、岡田と名乗り継ぎ、後に、それ故に、直ぐに縁者藤原氏に族換えして、同血筋から嫁ぎ先の青木氏を名乗ったものと見られる。
「平氏」が「藤原氏」に名乗りが換えするには「血縁」が無ければ当時の慣習として「平氏」を捨てて勝手には出来ない。
藤原秀郷は平氏とも血縁を持ち、子孫にはその家紋ところを継がせて、自らの親衛隊を務めさせている。
前レポートとあわせて考えると、主な種族と血縁を結び、小さくは各地に一族を定住させ、地方の豪族と血縁関係を持たせて文句のつけようのない戦略を敷いているのである。これでは、この一族は滅び去る事は無い。次は永嶋氏の関係について記する。
続く。
青木研究員[副管理人]
名前 名字 苗字 由来 ルーツ 家系 家紋 歴史ブログ⇒
その一つは、秀郷の第3子系の4氏の青木氏の一族は家紋は「揚羽蝶か丸に揚羽蝶」の副紋つきである事。
その二つは、秀郷の兼光流の子孫の一系列が「永嶋姓」を名乗っている事。
この二つの共通するキーポイントは京平氏である。
揚羽蝶紋は京平氏の「綜紋」である。
「永嶋氏」は京平氏の祖の阿多倍一族の「遠の朝廷」として九州を統治していた「大蔵氏」(阿多倍の次男の賜姓氏である)の末裔の種秀より変名した氏である。
永嶋氏の家紋は「左三つ巴」紋である。
先ず、秀郷流青木氏は116氏中の主流の直系1氏と直流4氏と支流4氏に分流している。直系と直流の5氏のうち3氏が「揚羽蝶の関係紋」である。
更に、支流の1氏が「揚羽蝶紋」である。あわせて主流4氏が「同紋か丸付き支流紋」である。
ほぼ同時期に平氏と同紋を使用しているのである。
明らかに家紋掟から見て、又、当時の慣習から見て同系列である。
これはどう云う意味を持つのか藤原氏の生き方を解明する上で解く必要がある。
ここには、時代性が働いていると考えられる。
それは、秀郷は「平の将門の乱」を京平氏の平の貞盛と共に、935-940年の5年間を協力して平定した。
つまり、無二の戦友である。
その後、貞盛の歴史は子供の維衡が伊勢北部伊賀国(朝廷より阿多倍にこの地を特別に与えられていたが、)を改めて正式に国司に任じられ、4代の後には太政大臣清盛の時代になる。
秀郷も、元は下野の押領使であつたが、この後に下野と武蔵の国を領国として与えられて、第3子(千国)を親衛隊として青木姓を与えて武門化させた。
この時、貞盛も父国香の領国の上総の国の守護を維持していた関係から、戦友として政略関係と血縁関係を持つ為に、貞盛の娘をこの秀郷の第3子に嫁がせたのではないか。
そして、誕生した嫡子に「下がり藤紋」ではなく、外父の家紋を継がせたのではないか。
その理由は、秀郷は恩賞により、貴族の仲間入りした事で、武門になった青木氏を名乗った孫には継げない家紋であるから、家紋掟により、母方の家紋を使用したものとされる。
秀郷側や貞盛側にも異論は無い筈である。
この結果、直系はもとより、直流の内の2氏が、直系の者がこの「揚羽蝶紋」を継ぎ、直流の者は分流したために「丸付き紋に揚羽蝶紋」と「丸付き紋に揚羽蝶紋に副紋付き」としたのではないか。
そして、此処で、これを証明する一族が出て来るのである。
「揚羽蝶紋」を使用しているもう一つの支流の1氏がポイントになる。
「平の正命」なる者の一族は、当初は祖先は、「嶋崎」を名乗り、又、岡田と名乗っていた。
しかし、江戸初期の頃に、兵右衛門利澄の時に旧縁の「藤原氏」と名乗り換えをし、「青木氏」を名乗った一族がある。平家血縁の藤原系青木一族である。
この一族の家紋は「丸に一文字、稲丸の内一文字、丸に揚羽蝶」の副紋付き家紋である。
時代性から見て、この一族の系譜は、貞盛の上記の青木氏に嫁いだ娘方の末裔一族と見られ、平の嶋崎、岡田と名乗り継ぎ、後に、それ故に、直ぐに縁者藤原氏に族換えして、同血筋から嫁ぎ先の青木氏を名乗ったものと見られる。
「平氏」が「藤原氏」に名乗りが換えするには「血縁」が無ければ当時の慣習として「平氏」を捨てて勝手には出来ない。
藤原秀郷は平氏とも血縁を持ち、子孫にはその家紋ところを継がせて、自らの親衛隊を務めさせている。
前レポートとあわせて考えると、主な種族と血縁を結び、小さくは各地に一族を定住させ、地方の豪族と血縁関係を持たせて文句のつけようのない戦略を敷いているのである。これでは、この一族は滅び去る事は無い。次は永嶋氏の関係について記する。
続く。
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【押領使】について
押領使押領使(おうりょうし)とは、平安時代の律令に規定をもたない令外官で軍事的官職。延暦14年(795年)、防人の移動に携わっていた任務が文献に初めて登場している。このときの職務は兵を率いたのみで、実際の戦闘には服役していないが、やがて押領使の職務内容は、移