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賜姓青木氏の弱体 まとめ

桓武天皇の渡来系一族の賜姓により元々あったその実力が更に増してたった5代で朝廷の頂点にまで上りつめた。
これでは朝廷内の摂関家の藤原氏や政治に加わった源氏はせっかく嵯峨天皇が努力した改革が生かされない。しかし、藤原氏も源氏も勢力はもったのだが、余りにも大き過ぎる集団である。

現に、渡来系平氏が著しい台頭を見せた1000から1080年頃は源氏は花山源氏の賜姓があった頃までである。既に12代目の源氏が誕生しているのである。しかし、12代の源氏と8代の藤原氏(秀郷)が結束しても渡来系一族の台頭は止められなかったのである。

この頃源氏は清和源氏が最大勢力を持ち、一族が藤原氏の摂関家に長年仕えて結束は図って居た。この時、摂関家の藤原氏と清和源氏は賜姓5家青木氏の守護地に対して2つの政策を実施している

1 賜姓青木氏の守護地の全てに清和源氏の頼光が守護になってい る。(10年程度の間に5国の歴任し兼任している)
 余りにも早すぎ、普通は25-30年位は必要である
2 賜姓5家の青木氏に対して全てに一族の者が跡目に入っている。 頼光以後地元の青木氏との間に血縁関係を持っち最終は跡目にあ 入ることで結束を図っている。

この二つのことは頼光だけでは出来ないことである。政治的な承認が必要である。頼光とその一族は摂関家に務めている事から可能である。渡来系一族の台頭に対して、生き延びるために、藤原氏と清和源氏と賜姓5家青木氏の3者が結束して固めたのである。余りにも不自然な行動である。

その証拠に清和源氏の一族の妻は殆どが藤原氏である。清和源氏と藤原氏と青木氏との3者の血縁関係を構築したのである。伊勢青木氏や他の青木氏の中には藤原氏との血縁がも見られる。元々は賜姓時には伊勢青木氏を除く4家の青木氏は藤原氏との血縁子孫である。
つまり、準備態勢が出来たこの3者連合で対抗しようとしたことを意味する。

一方、背景3のレポートに記した様に、この時期は朝廷内では内紛が起こっているのである。この3者の動きに対して天皇や法王も藤原氏や源氏も巻き込んで、勢力争いが始まったのである。それが遂には、保元、平治の乱へと火蓋が切られたのである。

この初期の争いが思わぬ方向へと進み、天皇家一族内部の争いが、藤原氏の内部分裂を起し、清和源氏を含む12源氏も内部での意見対立の兄弟や親族や源氏一族の抗争が起こったのである。

この原因で、5家青木氏は連携が外れて、子孫を遺せないまでも衰退した。源氏は12源氏もいたが3源氏に一族は激減した。9源氏の子孫の存在を確認出来ないまでも衰退した。滅亡に近く調査するが明確にならない。それだけではなく、清和源氏内部さえも縮小になった。3大源氏の子孫が残るのみである(清和、村上、醍醐)
この源氏も名乗りを挙げている5氏に引き継がれているが、家紋が違うために疑問である。

このように3者連合は子孫を減らし、思わぬ方向へと進んだのである。賜姓青木氏は伊勢青木氏(本家現存)を除く、4家の青木氏の行方が明確にならない。調査では、2氏の青木氏が関東に移動していることがわかってきているが、この2氏も自己のルーツが確認出来ないでいる様子である。

折角、嵯峨天皇の5つの作と2つの政策で賜姓青木氏は行きを吹き返したが、3者連合が思わぬ方向へと進み、国乱が起こり、再び源氏を含む青木一族は衰退する方向へと進んだ。そして、秀郷流青木氏のように行かず、子孫を多く遺す事ができなかつたのである。
この事が、5家青木氏を弱める結果となり、衰退し子孫を多く遺せなかった原因と見られる。

三者連合によって、息を吹き返した。そして渡来系に対抗したが如何ともし難く結局は内部分裂や同族争いがおこり結局は敗退して三者ともに衰退する。特に賜姓青木はその影響を大きく受けた。元々、嵯峨天皇期に青木氏の姓を名乗ることを禁止したこともあり、子孫は大きく遺せないというジレンマに落ち至る。そこえこの始末である。しかし、このままでは三者は済まないのである。今までの結合は勢力の結合であった。そこで、この三者は血縁の連合を反省から実行したのである。分裂や同族争いを無くすために。

5家の賜姓青木氏とは次の様な血縁を清和源氏との間で結んでいる。
甲斐国の賜姓青木氏
源の頼光の守護先になつたこの甲斐の国は今度は血縁で確実に結んだ。
源頼信(頼光の末の弟)の孫の「義光(1055)」から8代目の「源光(げんこう)」が「甲斐青木氏」の跡目に入って居る。
更に、「義光」から15代目の「義虎(時光系)」が「甲斐青木氏」の跡目に入っている。

これは2度も跡目に入ったことは、この跡目に入ったことで5家5流に子孫は分流した一派にもより固めるために一族を跡目に入れたのである。
従って、「甲斐青木氏」は「頼信」の孫たちの関東への進出に同行移動している。横浜神奈川付近にこの甲斐一族の子孫が青木村を形成して残っている。

甲斐の国は元々は「頼光」の守護地であったが、分家を作る弟の為に、この甲斐の国の守護を摂関家に勤める「頼光」は承認を貰い、弟の頼信に渡して、ここを足場にして関東を切り取る拠点にしたのである。
そうすることで清和源氏の勢力範囲を伸ばす事ができるし、同時に「藤原秀郷」らの共同作戦で坂東八平氏を掃討すれば勢力を関西と関東に広げることが出来る。

ここで注目は「清和源氏」と「賜姓青木氏」の血縁一族が、今度は摂関家の「藤原氏」と武蔵の国の「藤原秀郷」との間にも結びつきが出来ている事である。基はといえば全て、「藤原氏」の血縁の結びつきである。
甲斐ではこの様な戦略が実行されて、成功した。
そして、この連合で、第2の拠点を神奈川と鎌倉付近においた。

信濃国の賜姓青木氏
「頼信」の2代目の「義康」が足利氏に跡目に入っている。(足利氏初代である)これが前レポートに云う家紋違いの支流源氏なのです。武田も同じ。

「義康」より3代目の「実国」が「信濃青木氏」に跡目に入っている。再び、「義光」より16代目(不明)が信濃青木氏の跡目に愛っている。結局は末裔は4流に分流して子孫は繁栄している。
この信濃青木氏はもとより家紋は笹竜胆(ささりんどう)であり、皇族系の同族であるので、源氏と同紋。足利氏と違う所である。
(不明部は「義康」であろう)
この国は甲斐の国と違い清和源氏直系の「頼光」系の守護地である。大きい戦略的な移動は無いとみられる。

美濃国の賜姓青木氏
「義光」より8代目「時光」(1195)から11代目(不明)が美濃青木氏を継承し跡目に入っている。
「義光」より19代目が(不明)跡目に入っている。
この末裔も繁栄し5流に分流している。
ここも「頼光」系の守護地であるが、大きい戦略的移動は無い。

伊勢国の賜姓青木氏
「頼光」の4代目子孫「頼政」(以仁王の乱の首謀者)の子の「仲綱」の子の「京綱」が青木氏の跡目には入っている。
この地も「頼光」系の元からの守護地で不可侵の天領地である
戦略的移動は全くない。甲斐と信濃と美濃と伊勢の青木氏は同紋である。理由があり末裔は少ない。
以上の様に、血縁的連合を何重にも行いそして勢力地の幅を関東に広げているし、関西は尚固めている。渡来系の以西32/66に対抗して。  続きは近江佐々木氏と藤原秀郷との血縁関係を記する。

賜姓青木氏の守護地の甲斐、信濃、美濃、伊勢の4つ国には清和源氏の頼光系と頼信系の子孫から賜姓青木氏に対して、期を同じくして跡目に入っている。これらには、一つのパターンがある。

伊勢以外の3つの国では頼信系のものが跡目になっている。
頼信より3代目の義光系の一族である。嫡男の義家ではない。
分家で甲斐は弟の源光、美濃は兄の時光、の嫡子外の者が跡目に。
甲斐の土着豪族の武田氏にも跡目に。
信濃には土着豪族の足利氏にも跡目に。
美濃には土着豪族の土岐氏にも跡目に。
これ等は分家で嫡子外であり、家紋は笹竜胆ではない。支流源氏である。娘の婚姻ではなく、男子の跡目の血縁をえらんでいる。
当時は男系家系であるのでより固めを強くする狙いがあり、源氏の支流となる事で一族を広めたと見られる。

賜姓3氏の青木氏と清和源氏の血縁作戦、土着豪族3氏と清和源氏の血縁作戦である。
そして、驚く事は、賜姓青木氏3氏と土着豪族の3氏との間でも血縁が結ばれている。つまり、土着豪族3氏系青木氏が生まれているのである。
(家紋違いの賜姓青木氏流青木氏となる。3氏の家来として系列下にはっているが)
完全な三つ巴の形である。この3つの国を完全に清和源氏を中心に固めたことを意味し、そして、同時期の1060頃と1160頃の2回に分けて実施されている。
3つ巴と云い、時期といい、明らかに戦略である。

そして、この時期は、源平の戦いの始まる前と始まる時期の二つにわけられる。
ここで、遂に、藤原秀郷流5氏とのつながりが出てくるのである。
上記の戦略が実行された時期を同じくして、清和源氏は藤原流丹治氏との間に血縁を結んでいるのである。
藤原秀郷流丹治氏系青木氏があるが、。この青木氏は皇族左大臣の島(真人姓)の末裔により皇族氏より臣下した場合は青木姓を名乗ると嵯峨期より令によって定められているので、丹治氏から分岐して青木氏を継承したものである。
中部を固め、藤原秀郷氏とも連携しながら、関東にも血縁を伸ばしたのである。

さて次は、5国の一つ近江国である。
ここは少し事情がある。天智天武期の第7位皇子の川島皇子が第6位皇子に準じて地名を採って特別に賜姓佐々木氏を授けた。
これが初代の佐々木氏である。この後に、1160年頃に清和源氏の源頼憲の子の盛綱がこの佐々木氏の跡目を継承して、初代となつている。そして、ここに光仁天皇(聖武天皇か)のときに賜姓青木氏を配置して守護としている。

つまり、初代佐々木氏の後に100年位たってここに賜姓青木氏を入れたと見られる。
この経過は次の通りである。
盛綱を初代とすると、賜姓佐々木氏は絶えた可能性があり、故にここに賜姓青木氏を置いたのではないか、そしてこの青木氏も一度近江を出ている。そこで盛綱を跡目に入れて継がせたものと見る。
戻った賜姓青木一族はこの佐々木氏との血縁を結び、佐々木流青木氏を作ったものであろう。

結論は、近江の国は清和源氏の盛綱が近江の賜姓青木氏の佐々木氏との同化により、佐々木氏の跡目を継いだことになる。時期は以仁王の乱の前の1160-1170年頃である。これで、全ての5国の血縁関係を結んで再び結束を強化して出直したのである。血縁体制が整ったところで、源氏の宗家の源の頼政(伊勢青木氏の元祖)が遂にたちあがり、源平の戦いの前哨戦となる「以仁王の乱」へと突入して行った。仲綱の子を跡目に入れた宗家の血筋を青木氏に移したとは云え、賜姓伊勢青木氏の最大の危機である。敗退し、伊勢青木氏は衰退する。しかし、4年後に頼朝が平家に勝利して、「関東管領」となり、「本領安堵策」を実施し、天領地としての伊勢領は再び戻る。しかし、150位後に「下克上の戦乱」が起こるのである。
5家賜姓青木氏はどなるのか。

血縁的に3つ巴に連合を作り上げた5家の青木氏と清和源氏と土着豪族3氏(武田、足利、土岐)は関東には藤原秀郷との連携しながら坂東平氏の動向を押さえ込み、朝廷内では摂関家が監視して、以仁王の乱(1180)へと突入して行く。これに頼朝の背景となつている坂東八平氏は京平氏に味方せず源氏側に着いた。これは頼朝というよりは藤原秀郷一族のにらみが効いていたのではないか。

頼朝といえども御家人制度で結んでいるといってもあくまで平氏の集団である。「利のある方」に味方する筈。「利のある方」は渡来系の京平氏である。しかし、彼等には歴史が証明する一つの夢があつた。それは、皇族第7世のを子孫とする一族でありながら、しいたげられていた一族は坂東に独立国家を作ると言う夢である。

皮肉にも、藤原秀郷が乱を収めた平の将門の乱はこの夢の実現の戦いであり、同じく平の忠常の乱なども同じである。しかし、彼等にはこの夢の実現を成す大儀とその頭となる人物がない。勿論、源氏である。
しかし、そのチャンスが訪れた。「頼朝」である。
京平氏に味方するより、ここで頼政を中心とする「以仁王の乱」の勃発を利用することで夢が実現すると見たのです。

また、京平氏に味方するには大きなハンデイがあったのである。
それは、清和源氏と結んだ藤原秀郷の一族の押さえである。皮肉にも夢を潰された相手である。武蔵国と下野国の背後からの攻撃を受ける危険がある。勢力を拡大した藤原秀郷の一族では難しい。京平氏に味方したとしても夢は実現しない。そこで頼朝を旗頭にして源氏側に味方する方が利があると見た。そして、その後に、担いだ頼朝を倒す事で夢は実現すると考えた。

その証拠に1195年に頼朝は鷹狩の帰りに反吐を吐き、落馬して死んだと歴史は成っている。
薬草による毒殺である。その発端は「頼朝」が坂東平氏の反対を押し切って「本領安堵策」(旧来の領土を元の一族に戻す政策)を実行したことが反発の発端となつている。
何故反発したのか。
幕府を開いたが頼朝が自分たちの操作のうちに入らず、自分で勢いを得て政策を実行し始めたから。
弱く成っていた源氏の一族はこの「本領安堵策」で息を吹き返したので坂東平氏としては夢は遠のく。

更にこの一年後に二人の子供は暗殺される。歴史的に有名な事件である。これで利用した頼朝一族は無くなる事で執権として夢の実現が可能になつた。12年間の源平の乱の間に、これを証明するものがある。
義経は源氏の力を結集して平氏を倒すと言う考えに対して、頼朝はそれでは自分は危ない。しかし、全ての戦いは殆ど義経の源氏の力で勝利している。

更に、大島の源氏が頼朝軍が背後の三浦湾から平家水軍に攻められそうになった時、4日の所を2日で三浦湾にたどり着き平家軍を殲滅した。又も源氏軍が勝利した。この大島源氏と義経が坂東平氏と激論した。源氏主力で戦うかどうかでの議論である。夜間に大島源氏は襲われて逃げた。まだある。義経軍の監視役としていた坂東平氏の二人(梶原景時ら)が頼朝に送った讒言の手紙が発見されている。これ等は全て歴史事実である。結局は北条はじめ坂東八平氏が1196年以降政治の実権をにぎる。

このことで、又も、賜姓青木氏5家は極めて衰退する。伊勢青木氏は伊勢の守護を奪われる事になった。中立を守った北家藤原氏の藤原秀郷一族の9代目の基景が伊勢守護(1275年頃)に収まる。
「以仁王の乱」で敗退で衰退し、本領安堵で戻り、再び北条執権で
不可侵の伊勢も無視され、守護が又奪われた。伊勢青木氏はこれで遂に、生き延びるために「2足の草鞋」を実行したのである。

賜姓青木氏は歴史的には大まかに次の様な子孫を遺そうとする葛藤をしている。今までの1-3までの経過をまとめる。

① 天智天武期から5家青木氏は大化の改新の目的を果たし、勢力を高めて、朝廷の不輪の権と不入の権の保護のもとに光仁天皇の頃には大きな集団となつた。795年頃

② しかし、桓武天皇はこの賜姓青木氏に対して、幾つかの事情により、この5家青木氏を牽制した。母の実家の一族の集団の渡来系一族を賜姓して朝廷の中央に据えた。そして、親衛隊の賜姓青木氏の守護職を剥奪した。この為に青木氏は衰退した。806年頃

③ この政策に疑問をもった嵯峨天皇は幾つかの戦略と政策を実行し、台頭してきた超万能集団の渡来系一族に再び、改新前の状況に戻ると危惧し、賜姓青木氏を戻した。そして、賜姓の氏名を源氏と変名して、再び皇族の親衛隊を色々な力を付けさせて構築し直した。825年頃

④ 次第に16源氏もの一族は拡大したが、依然渡来系一族は勢力を拡大し、32/66の国を領するに至る。朝廷内には3蔵の内の2蔵まで独占する勢力に膨れ上がった。しかし、ここで源氏は同族の賜姓青木氏と政治的連合を結び、摂関家とも連携して対抗した。1000年頃

⑤ この連合体で渡来系一族に対抗しようとしたが、矢張り力が及ばず、身内や朝廷内で混乱して、乱に突入するが敗退し、源氏は衰退し5家青木氏も衰退する。1160年頃

⑥ しかし、源氏一族は3源氏になりながらも、過去の反省を繰り返さないために、今度は5家の青木氏と跡目の血縁関係を短期間で構築し、更に、5地の土着豪族とも跡目の血縁を結び支流の源氏一族を増やし、裾野を広く固めた。5家青木氏と3地の土着豪族との血縁も成立し、3つ巴の作戦が成立した。武蔵国の藤原氏とも連携が出来た。源平の戦いの前哨戦へと突入し、宗家の頼政は戦いを開始した。しかし、初戦は敗退した。頼政の孫が跡目に入った伊勢青木氏は当然又も衰退した。1180年頃

⑦ 今度は源氏一族は諦めない。頼朝は坂東八平氏の土台の上に立ち義経の奮戦にて勝利する。頼朝の本領安堵策にて、伊勢の青木氏を始めとする5家とや源氏は息をふきかえした。1185年頃

⑧ しかし、坂東八平氏の目的は違った。反対を押し切って政治を行う頼朝に対して本音が出て頼朝はじめ一族を4年以内に抹殺する。北条氏と坂東八平氏は政権を奪いとり、夢を実現した。
伊勢青木氏と4家の青木氏は共に守護職を再び奪われ衰退した。
伊勢青木氏はやむなく2足の草鞋策を採った。1280年頃

⑨ しかし、ここで⑥の跡目による血縁関係の連合策はまだ生きていた。足利氏、武田氏、土岐市の3氏である。この時、主流の源氏一族は耐えた。しかし、跡目を受けた青木氏はかろうじて生き延びていた。京平氏から坂東平氏に移った政権に、再び支流の源氏は挑戦した。そして1333年に支流の源氏の手で取り戻した。

⑩ 足利政権は伊勢青木氏に対して、守護地を1/3にして戻した。
伊勢北部伊賀国地方は融和策として矢張り生き残りの坂東平氏に渡した。東部は村上源氏の畠山氏に。他に連携する同族の源氏は無くなり軍略所の伊勢青木氏は学問所の伊勢の北畠氏との連携をこれより図り互いに守りあった。1340年頃

此処から伊勢青木氏は小さい範囲の守護であるが権力に頼らず生き延びることに戦術を転換した。室町時代は文化の花開いた時期である。伊勢青木氏は紙屋を手広く営みつつ一族を守り続けた。過去の歴史的な財産を元に「伊勢松阪の紙屋長兵衛」として全国的な豪商となった。他の賜姓青木氏は関東の藤原秀郷流青木氏と違い賜姓青木氏と言う宿命で時代の変化に振り回されて子孫を大きく伸ばす事は出来なかった。⑥の時の子孫はどこに。

これからは下克上の時代と突入して行く。
伊勢青木氏も2足の草鞋で生き抜いたが、兎も角も、4家の青木氏はこの下克上で壊滅したのではないか。確認できない。
元々、藤原秀郷流青木氏との生き延びる戦略が違ったのである。(後述)
伊勢青木氏は2つの面を持つがこのままでは済まない。
北畠氏と共に連携して伊勢に攻め込んだ織田信長と戦うのである。

賜姓伊勢青木氏は大化改新(645<668)で誕生してから前記したように何度も何度も歴史的な変化(乱)に依ってその宿命的な立場から危機に落ち至った。その度になんらかの救いで子孫は生き延びてきた。
しかし、血縁を結んだ一族(源氏や4家青木氏)はもう居ない。
自らの才覚で生きて行かなければ成らない。そこで、「2足の草鞋」の策を採用した。(1280年頃)

「2足の草鞋」策に付いて、この頃から、「下克上」が起こり始めた時期でもあり、家柄とか名誉とか慣習とかが次第に潰れて行く時期である。伊勢青木氏を始め5家の青木氏はこの3つの上に乗って生きていた事が多くの危機に巻き込まれて来たのである。
その土台が崩れた事を意味する。そこで、1/3に成った領土も維持することが困難になった。そこで、領国を監督すると言う立場から
伊勢青木氏は地場の産物を管理し扱っていたので、この立場を商いに変更する事を決断した。(1315年頃)

伊勢は古代より、伊勢北部から南部に架けて良質の和紙の産地であつた。又、綿も採れた。これは金に換えて税としていたのでこれを全国に売るルートを持っていた。この行政の行為を商いに換えたのである。
この頃から、後の室町文化の花が開き始めていた。この時代の変化の微妙なところを青木氏の長者は見抜いていたのであろう。
なぜなら、上記した「下克上」と言う逆の現象が起こり始めていた。まして、青木氏の土台を覆す上記の3つの現象が起こっている。この文化の前兆を読み取った。

ここで当時の治安状況に付いて、「商い」をする場合、誰でも出来るということではない。何故なら、「商いの品」を運ぶには、それなりの武力が必要であり、これなくしては絶対に出来ない。
これは守護と云う立場から十分な経験と実績がある。

当時は、戦いで潰された豪族が連携をとってシンジケートを作り上げていた。そして、この潰れた豪族の武士の生き延びる道はこのシンジケートに入る事で生き延びる事がで出来たのである。
例えば、後に起こる「南北朝の戦い」の主役の「楠木正成」はこのシンジケートの一人である。だから10万の軍に負けなかったのです。このシンジケートの撹乱戦法で敵を飢えさせ、多数の犠牲を払ったのである。
織田信長は周囲の国との戦いに勝つには鉄砲を入手しようとした。しかし、出来なかった。秀吉に話した。秀吉は蜂須賀小六の仲間に入って居た時にこのシンジケートの事を知っていた。信長はこのシンジケートに話を就けた。この時のシンジケートは神社の宮司であつた。堺の商人が秀吉をてこずらしたのは後ろに巨大なシンジケートがあったからである。家康もこの堺商人のシンジケートを知っていた。大きな経済活動はこのシンジケートとの繋がりを持たなければ絶対に「商い」はできない事が当時の事情であつた。

当時は山賊や海賊は全てこのシンジケートに入っていたのである。
土着の豪族であつた一族が潰されて生き延びる手段は「郷氏」(郷士は小さい族)に成って(村の長、庄屋、長者、名主に)表向きは「郷氏」裏はシンジケートの一員である。村全員が一員なのです。安全に物を作り、物を運び、物を売る経済活動にはこのシンジケートの力が無くては成らないのである。
伊勢青木氏は松阪商人として伊勢松阪で紙等を扱う豪商として片方で力を持った。
(NHKの4度の大河ドラマに伊勢松阪豪商紙屋長兵衛が登場した)
衰退した他の賜姓青木氏はこの「郷氏」になった筈である。又、潰れて行った豪族は「シンジケート」に入った。

2足の草鞋」策で伊勢青木氏は生き残りにかけた。そして、伊勢松阪の豪商紙屋長兵衛としてスタートした。
当時の豪商は元は武士であり、それなりに力のある者でなければ、大きな「商い」はできない。当時の世相の不安定な中では、4つの条件を備わっていなければならない。

① 「商い品」を安全に安定して動かすだけの力が必要である。
  つまり、安全に輸送する「大きな武力」である。
② 「商い品」を調達できるだけの経済力と調達する人脈関係
   過去から調達できる産地との「交流関係」
③ 完全市場経済ではない中で、商い品を調達するには権力との   「政治力」が必要である
  「楽市楽座」が次第に広まりつつあるが、まだ1320-1350年頃  は一部の国でしか認めていなく認可制である。
④ 前レポートのシンジケートとの関係保持が必要である。

しかし、伊勢青木氏は天智天武期からの伊勢の政治、軍事、経済を所轄していた家柄である。依ってこの4つの条件は備わっていた。
まして、伊勢の国の産物を他国により以上にさばける間口はこれ以上にない。守護でありながら、他方で「商い」をするというのは誰が見ても歓迎である。伊勢青木氏は生き残り策を経済に求めたのである。2つの顔を持つことで生き様とした。

ちなみに、店即ち商家は松阪に、蔵群は玉城村(村の80%は蔵群であった)に、輸送船は3隻、全国に拡大していたと記録が遺されている。伊勢街道の伊勢路の燈夜塔(灯りと案内の塔)は伊勢青木氏と紙屋の寄付で今まだ据えられている。

この様に大きな経済力を背景に、下克上と戦国時代を生き抜いたのである。1315-1576年までの260年間は経済力を背景に隣国の北畠氏と共に伊勢の国を守ったのである。
しかし、何時までも続かなかった。「下克上」の織田信長である。
彼は、尾張を始めとして美濃、信濃、近江、甲斐、を勢力範囲に収めたが、これ全て、4家賜姓青木氏や賜姓源氏と支流清和源氏の各氏の領国であった。このことからも、3つ巴の跡目策で構築した支流の源氏一族が消えているのであるから、賜姓青木氏と賜姓源氏は跡かたもなく滅亡している可能性が高い。

そして、遂に、伊勢に来た。先ず、第一に伊勢永嶋攻めである(1576年)
朝廷の学問所の村上源氏の支流末裔子孫の北畠氏の伊勢東部永嶋の領国である。全国最後に残った名家の伊勢青木氏と北畠氏に危機が覆いかぶさって来た。有名な戦いである。伊勢青木氏も客員軍師として参戦した。そして、遂に、敗退し北畠氏は滅亡した。
しかし、青木氏はここでは「2足の草鞋」で生き残ったが、1578年豊臣秀吉は蒲生氏郷を伊勢松阪に差し向けた。戦うまでもなく910年も続いた賜姓伊勢青木氏は「下克上」のなかでは250の戦力では戦えず敗退した。そして、一時新宮に移動し直ぐに伊勢松阪に戻った。2足の草鞋の一面をもって。

此処で、過去の危機の時のように、再び救いの神が現れたのである
そりは紛れも無く攻めての蒲生氏郷である。
蒲生氏郷は信長や秀吉や家康に名将、知将と称えられて知られ、藤原秀郷流の蒲生氏であった。そして、この蒲生氏は清和源氏の血筋もある家柄でもあつた。更に、この蒲生氏から藤原秀郷系支流青木氏が出ているのである。なんと、最後の最後に藤原氏秀郷一族に救われたのである。秀吉はこのことを知っていて不可侵の伊勢神宮の天領地とその守護の賜姓青木氏のために蒲生氏郷を廻したのである。

蒲生氏郷は伊勢青木氏を丁重に扱った。氏郷は松阪に城を立てて、城を中心に経済活動を合理的にするため西10町東9町の屋敷町を形成した。ここに主な家来と伊勢の重要な者を住まわさせた。
蒲生氏郷は歴戦の将で数多い彼の戦いの中で一度だけ無理押しの戦いをしたほどで、武力で決して攻めなかった将である。

その様な人柄であり、伊勢青木氏は無償で生き残り、上記の屋敷町を2区画も与えられた。2足の草鞋の「郷氏と紙屋」の青木氏は無償と無傷の形で生残った。この後に夏冬の陣に参加して徳川時代も特別に扱われて明治35年まで2足の草鞋は続いた。伊勢は紀州徳川の飛び地領として徳川氏と大正8年まで親交の交流は続いた。終わり

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