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皇族賜姓青木氏の背景

皇族賜姓族の青木氏は5家5流ある事は前レポートで述べましたが、この背景についてもう少し詳しく検証してみます。
大化改新によって青木氏は誕生したその背景のことは以前のレポートで書きましたが、その後の背景について述べたいと思います。
天智天皇の最終の皇子は2人で、施基皇子と川島皇子ですが、弟の天武天皇はこの2人を皇子として扱い、12人中第6位と7位の皇子としました。この二人の母は施基皇子は越の道君伊羅都女、川島皇子は忍海造小篭色夫古娘です。母の身分は采女(うねめ)か宮人で地方の小豪族の娘で、人質として扱われていた身分は低かつた。この理由は天智天皇は后、妃、夫人、みめ、の妻(妻は20人)の4階級の子供は避けて、一般の女官(采女、宮人)を妻として扱い、その子供を皇子とした。この理由は上位3階級の妻は全て血縁関係にありこれを特に避けたのである。天智天皇の12人の皇女の内の4人は天武天皇の上位2までの妻である。
この状況の中、第6位の施基皇子を伊勢の守護として配置した。伊勢は天皇家の天領地で伊勢神宮は守護神で、交通の要衝地で、主要穀倉地でもある。伊勢王として配置についたが、日本書紀に出て来る事14回で、天武天皇は自分の皇子たち全ての者より身分を高位にして頼った。浄大一位。草壁皇太子は浄広位一位で1ランク差
そして、伊勢王の身分のままに伊勢には代理として三宅連石床を国司として送った。日本書紀では伊勢王は天武天皇の代理として行動して、大和の国に起こる領地争いや、政治施策の実行等の状況やもめごとを解決するために全国を回っている。
この伊勢王の青木氏は賜姓を受けるときにステイタスとして、当時、日本初の仏師 鞍作止利の作った30センチ大の仏像を与えられた。この後、子孫は桓武天皇まで伊勢の守護として勤めた。しかし、ここで青木氏の衰退となる大問題が起こった。(後述)
この間には、近江滋賀、美濃、信濃、甲斐に天智天皇より後の4人の天皇(天武]、文武、聖武、光仁)もこの規則に則り、配置した。どの国も伊勢と同様の重要な領地である。そして、伊勢青木氏を中心に5家がまとまり、大化の目的を果たした。(前記)
朝廷内で侍所として、その親衛隊としての役割を果たしていた。この時、伊勢青木氏は天武期の伊勢王の役所の「軍略所」(天皇の相談役)として勤めていた。
嵯峨天皇は皇位継承制度は第4位まで継承権を保持、第6位を賜姓し臣下した。第7位は地名を採って臣下した。
大化期の目的から財政上の改善目的のために第6世方式に準じず第6、7の皇子は王となって臣籍とした。
((第7位の川島皇子は近江滋賀青木氏を名乗ったとされる)
嵯峨天皇は財政上の理由で弘仁5年の詔で正式に第6位方式に変更した。
天武期の王は山部、高坂、石川、若狭、栗隈、三野、武富、広瀬、竹田、桑田、伊勢である。王には高位王と低位王(5世)がある。
次レポートへ

追記と訂正
天武期の王には春日王と信濃の三野王と美濃王と近江王と追加します。
訂正は武富王と記していますが武家王です。
天武期の皇子は継ぎの通りです。先頭数字は誕生順 末尾は皇位順
1高市8、2大津2、3草壁1、4忍壁9、5長4、6弓削5、
7舎人3、8新田部6、9穂積7、10磯城10、11施基6、12川島7
建皇子と大友皇子は死亡
11と12は天智天皇の皇子で、5と6は天智天皇の娘(大江皇女)の子供、7は天智天皇の娘(新田部皇女)の子供で、日本書紀の編者です。
伊勢王と美濃王と信濃の三野王と竹田王と近江王の5家青木氏の守護先の王、
初代の青木氏の元祖の伊勢王は天武期朝廷の仕事が忙しく国司を置く。国司(くにつかさ)は朝廷より派遣された守護代理の役人
本来は天武天皇の葬儀は皇太子が行う慣例でありながら、絶大なる信頼があり、天智天皇の子供でありながら伊勢の王施基皇子が行うほどであた。
王には皇位の高い皇子の王(6,7位)と5世以下の王とがあつた。
当時は令で4世まで皇位継承権ありとして、6世は臣下し、5世は王にあれど王にあらずとされた。天智天武期は改革のために2世6位以下を臣籍にした。嵯峨天皇は弘仁5年に正式に4世6位以下を臣籍に改めた。このことにより、青木氏より変名して源氏が誕生した。途中の桓武天皇だけはある4つの理由でこの2つの氏の賜姓の臣籍をしなかつた。これが後に特に青木氏を含む源氏と藤原氏に大きな難題が降りかかるのです。そして。保元平治の乱などの多くの乱に繋がるのです。次の背景2のレポートに続く。

上記のように青木氏には基本的な事柄の背景を持つていることを前提に次に記述を進めます。
645年の大化の改新で誕生した青木氏であるが、正式には668年に伊勢王となり、臣下して賜姓を受け、次第に勢力をつけて天智天皇や天武天皇の所期の目的を達成しながら、他の4地方までに4代の天皇に引き継がれて青木氏を広げていきました。
朝廷の軍事舞台の渡来系の坂上氏には達しないまでも、天皇家の親衛隊としての力をつけてきました。しかし、阿多倍一族との武装集団としての対抗が芽生えた。これがまた、青木氏の発展の障害となつたのです。世の常といえばそのとおりで、出る釘は打たれるのたとえ通りで、780年頃桓武天皇期にはこの荒波が押し寄せることとなりました。806
桓武天皇はそれまで続けていた第6位の皇子の臣籍と賜姓青木氏を変更し、突然、次の様な4つの理由で賜姓を渡来系一族におこないました。では、その理由ですが、
1 大化から引き継がれて拡大した4家青木氏の朝廷に対する勢力を律令体制を完成させた天皇としてはそぐ必要に迫られた。
2 渡来系阿多倍王の一族の九州から始まり、関西まで及んだその
32/66国の勢力。
3 阿田倍王一族が持ち込んだ国内へ部制度による産業基盤の技能と彼等による国内の軍事平定と律令体制への完成作業など、過去にだれにも成しえなかったその超貢献度。それによる朝廷の経済的財政力と政治的安定性の獲得。平安遷都はこれにより成し得たのである事。
4 慣例外の渡来人の豪族からの世間の風当たりなどの中で、桓武天皇の渡来系の母(高野新仁)とその義祖父への思い。

桓武天皇前の各天皇はこの超大勢力の阿多倍王一族との融和策だけではすまない政治的な決断に迫られていた。
皇族との結婚、子孫の朝廷内への主要役務の取立て、賜姓、特別地の支給と不輪と不入の権での保護を最大限に行ってきた。
桓武期にはそれまでの伊勢王などの貢献に比して、更には引き立てを実行せざるを得ない政治状況に落ち至る。
桓武天皇は次の施策を実行した。
1 伊勢北部伊賀国の容認と国司の任命扱い800頃
2 伝統ある伊勢の守護の青木氏からの剥奪と藤原藤成の任命820
3 青木氏に対抗する阿多倍一族の賜姓(後の平氏)797
4 藤原一族氏の重用(鎌足から4代目783頃から北家の台頭引上)
5 青木氏を政治から遠去ける。806
 (天皇の相談相手としての軍略所の軽視)
特に、青木氏の中心としての伊勢青木氏に対する締め付けは大で
4家の青木氏は衰退の一途を辿る。
伊勢松阪付近に集中して生き残る。そして、源氏との連携が始まる
この桓武天皇の賜姓と渡来族の台頭に警戒感を持った次の子供の嵯峨天皇はこの動きを止めようとした。そして、詔を出した。
次レポートへ

青木氏は誕生以来、150年程度政治の荒波にもまれることも無く成長を遂げ、青木氏の親衛体として軍略所としての役目を果たしてきた。そして、子孫を増やし、大化期から律令国家が成立する800年ころまでは太平の世であった。しかし、この影で、大きな時代の変化の「うねり」が気がつかぬままに押し寄せていたのである。その「うねり」は時代に伴う必然的なものであった。
一つは渡来系一族がもたらしたの余りにも大きい津波の様な「うね  り」で、軍事、経済、政治の3面の「うねり」があった。
二つは本来あるべき国家の姿が次第に出来つつあった。
三つにはこの状況に上手く対応出来た二つの氏がいた。
一つは云うまでも無く阿多倍一族のもたらしたもので、軍事の近代化や経済の部制度と生産技能の発達、政治では、財政や政治手法の知識の普及である。200万と言われる人民が進んだ後漢のノウハウを一度に持ち込んだのである。近代に於いても例を見ない速さと質と量であった。明治のそれに比較にならないものであったのである。そして、それが近代日本のまだ基幹産業になり、政治体制の基礎に成っていることは不思議である。それが明治以降の植民地時代をくりぬけられた一因ではないか。
このようなものを持ち込んだ一族が動けば5家青木氏などひとたまりもありません。多分青木氏に於いてもこのことには気付いていた筈です。しかし、余りの力の差に手も足も出ない有り様であった事は間違いなく、それが桓武期まで引きずったと見る事ができます。
当然、桓武天皇はこの神にも近い万能超勢力を国体に利用しない手はなく、当然の流れとして。自分もさることながらその勢いを天皇の立場からも利用した。利用せざるを得ずしていた。なぜなら、歴史が物語るように蘇我氏のそれと同じくなり大化期前に戻ることを意味するからである。
当然にして、弱いながらも、天智天武から平安初期の未完の時期の働きから比較して、天皇の相談役の軍略所の役目は時代遅れの感あり、消え行く定めであろう。
二つは聖徳太子の冠位十二階制度など国家の基盤を作ろうとしていた頃から次第に整いつつある律令制度への国体が見えてきた時期でもあり、周囲から青木氏に対する目も異なりつつあったのではないか。それでなければ、阿多倍一族を倒すまでも、何時の世も同じで不満を表す程度の反乱が起きるはずである。
しかし、歴史を調べてもすくない。多分青木氏は政治と言う場面から孤立に近い立場に置かれつつあつたのではと推測する。
そして、5家間も次第に隙間風が吹いていた。結束することで生き延びることも容易であった筈なのに、次第に弱体化していった。
三つは先ず、藤原氏一族である。青木氏と同じくして誕生した藤原一族(4家)である。本来なら、朝廷の役職も阿多倍の子孫に軍事、政治、経済の3面を握られたのである。ただ一つ三蔵の一つは藤原氏が鎌足の頃からの役職であつた「斉蔵」を守った事。それに、2代目の不比等の活躍とその洞察力が生き延びるに一役をなした。
それは天皇家との血縁を結んだことによる。これによる力が藤原氏を支えた。5代目位までは血縁を盛んに結んでいる。そして冠位を獲得し、不動の体制を作っていた。
次レポートのテーマとなるのだが天皇家から外れはじめると15源氏中の10源氏位まで、今度は源氏との盛んな血縁関係を結び、天皇家と源氏と両極から固めている。
それだけではなく、地方の押領使等の役職で一族を配置して地固めを進めているのである。
現に、藤原氏の姓に付いて見ても判る。各地に配置した一族は姓を変えて、藤原の文字の前に土地の名を採って、例えば、伊藤、近藤、尾藤、武藤、加藤、遠藤等はそうである。殆ど全国に配置した。又、朝廷ないでも、役職の文字を付けて、斎藤、工藤、佐藤、左藤、進藤、内藤など小さい役職でも受けて子孫を守っている。
そこで、地方武蔵の押領使であった鎌足から8代目の藤原秀郷である。この一族の青木氏はこのような政治的な行動でその一とその二の荒波から逃げることが出来たのである。むしろ逆手にとって子孫は成長した。賜姓の青木氏とは大違いである。次レポートで記することにするテーマであるが、しかし、810年頃を境として嵯峨天皇期からは逆転していくのである。それは、この頃は藤原氏も例外ではなく、賜姓青木氏との苦肉の策の政治的戦略であり、これが大成功に導き、1185年についに最大の超ライバルの渡来系一族を抹殺するのである。もう一つの氏は言うまでも無く、渡来系一族から名を変えて成長してきた平氏である。 4つ巴の子孫を残す戦いの次レポートに期待ください。

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