青木[アオキ] 名字 苗字 家系 家紋 ルーツ 由来

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青木姓の発祥源

そもそもの青木姓の発祥源は皇族賜姓の青木氏と藤原秀郷流の2流になりますが、この2つの発生源について少し詳しく記述します。

青木氏の発祥木
(木名 青木 古代の神木 青木氏三象徴物の一つ)
青木 (神木)
aoki.jpg


第1の青木氏 皇族賜姓青木氏 天智天皇第6位皇子施基皇子より5代5流 29氏(皇族青木氏含む)
第2の青木氏 藤原秀郷流青木氏 秀郷第3子の千国始祖 嵯峨期の詔勅で発祥 24地方定住116氏
第3の青木氏 室町期末期と江戸初期に禁令外で名乗った氏(未勘氏)
第4の青木氏 明治3年と8年の苗字令の青木氏(第3氏) 

縁戚 賜姓源氏 嵯峨天皇から花山天皇まで11流11家(源氏より皇族青木氏 5氏発祥)
(詳細は関係の各レポート参照)

皇族賜姓族の綜紋
皇族賜姓族の綜紋(笹竜胆紋)

先ず、皇族賜姓の青木氏について、大化改新645年の時に発生しました。
大化改新は多くの問題があって起こりましたが、特に3つの問題、政治的、軍事的、経済的な問題を持っていました。そしてこの3つの問題の解決を図るためには天皇家の体質を変える必要がありました。
その内容として、経済的には中大兄皇子には34人もの皇子皇女がいました(大化期の皇族王は50人)。この子供たちに掛かる費用は莫大な経費でした。そこで経済的負担を軽減する目的で、皇位継承制度をかえました。
第4位皇子まではこれを与え「真人族」とし、第6位皇子以降は臣籍(侍になり臣下になる)にし「朝臣族」にしました。第5位皇子はいずれにも入る中間的立場としました。
第4世までは王位とし各国の守護王とし、第6世以降は皇族を外し臣下させ坂東に配置しました。
この第4世内の第6位の皇子には青木氏の氏を与え賜姓をしました。
第7位皇子以上は土地の名を採って氏としました。そして夫々には朝廷にとって主要な守護地を与えました。これが賜姓族の5つの土地(伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐)ですが、中大兄皇子(天智天皇)は先ず伊勢を第6位の皇子(青木氏)に伊勢王として守護させました。第4世内の守護王は結局19王となりました。後は第5世王と守護代国司として体制を確立しました。
5つの土地の天領地(伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐)に光仁天皇までの5代の男子天皇(天智、天武、文武、聖武、光仁)が天智天皇の大化の詔勅に定めた仕来りに従って守護王として、第6位皇子を青木氏として賜姓して配置しました。
上記の伊勢を始めとする天皇家の天領地で皇祖神の守護地でもあり、主要交通の要所地で主要穀倉地でもありました。これで経済的な軽減と政治的に重要地を身内で守る体制を確立しました。
更に、臣下して侍となって近衛の武装集団を構成し天領地の国を守り天皇を守る親衛隊としての役割(侍所)を果たしました。(近衛軍六衛府軍の指揮官)

この様にした背景については、当時、蘇我入鹿が天皇家を凌ぐ勢力を持っていました。
その背景には次のことがありました。
蘇我氏には自前の特別な武装集団を持っていました。この集団は中国の後漢の光武帝から21代目の献帝の子供の阿知使王とその孫の阿多倍王が後漢民16ヶ国の滅亡で17の県民(200万)で、これを引き連れて大和国に帰化してきました。この集団には専門の武装集団と技能集団と政治集団を引き連れていました。後漢一国が帰化した事になります。この集団が日本の国体の基礎をつくりました。第1期に入国したこの武装集団(漢氏、あや。東漢氏、やまとのあや)と技能集団を蘇我氏が管理管轄していました。技能集団は部(べ)制度として物を作りそれを朝廷が集め売り利益を得ていました。当時は市場経済ではありません。部経済ですからこの権利を取得していた蘇我氏は軍事と経済の全てを握り、政治は婚姻を繰り返して思うがままでした。3権を握られていた天皇家と朝廷は弱体化するばかりでした。
第2期の集団が入国する中で、この状態を打破する目的で、藤原鎌足とともに大化の改新を実行しました。
これが上記した大化の改革で、経済的軽減と自前の親衛隊と政治的に主要地の守護を実行し、更に、公地公民制度にて部制度を天皇家に戻し青木氏らによる親衛政治を敷きました。
これが青木氏と藤原氏の発祥の起源なのです。

この後、青木氏は天武、文武、聖武、光仁の4代の天皇の時にも賜姓(しせい)をしました。近江、美濃、信濃、甲斐に4家の青木氏を配置しました。
光仁天皇(施基皇子の長男)の子供の桓武天皇の時、この皇親政治の青木氏の勢力を嫌い、上記した渡来系の阿多倍王の一族を引き立てて(平貞盛)後の渡来系の京平家が産まれました。ちなみに、桓武天皇の母は高野新笠という上記の渡来系の阿多倍王の子孫の娘です。
参考のために、この帰化し大隈に住していた首魁の阿多倍王は敏達天皇のひ孫の娘を娶り3人の男子を作り、次男は大蔵氏(朝廷の大蔵大臣)、三男は内蔵氏(天皇家の財務大臣)氏、長男は坂上氏(朝廷の軍事大臣)の賜姓を受けました。そして、準大臣の地位を授かりました。大蔵氏は後に九州長嶋氏を発祥しますが、3人とも朝廷内では最大の勢力をほこりました。3蔵というのですが、もう一つは斎蔵でこれが後の秀郷の祖先の北家藤原氏が握っていたのです。

この青木氏と藤原氏の青木氏と源氏とが歴史上で絡んできます。
下がり藤紋
藤原北家秀郷一門の綜紋(下がり藤紋)

次はこの藤原流青木氏の発祥関係を記述します。
青木氏は天皇家の軍事勢力の護衛集団とし宮廷を護り、大隈の首魁の後漢民の阿多倍王の子供の坂上氏や東漢氏等は朝廷の軍隊としました。
更に、この桓武天皇による「たいら族」の賜姓を嫌った次の嵯峨天皇は青木氏とするのをやめて、第6位皇子の賜姓の氏を源氏としました。後15代(事実は11代)の天皇まで続きました。
この青木氏の家紋は笹竜胆(笹リンドウ)です。源氏紋と同じです。
従って、源氏系は16流16家(11家11流)があります。最終的に清和源氏とこの5家青木氏と藤原氏とが一体化します。(青木氏5流と合わせて皇族賜姓族は16流)

後日追記
この内容を理解しておくとルーツを判断するのには大変効果的です。
先ず、大化期には上記の皇子が34人いましたが、内訳は12人が皇子で、22人は皇女です。12人は二人の親からですが、兄の中大兄皇子と弟の大海人皇子です。
中大兄皇子には子供が4人いましたが一人の建皇子は若くして病死、もう一人は大海人皇子との皇位継承で大友皇子は戦い死亡。中大兄皇子の子供は2人となりました。施基皇子と川島皇子です。
残り10人は弟の大海人皇子のこどもですが、この内二人は兄の中大兄皇子の娘との弟の間に出来た皇子です。
この時代は天皇家の純潔を守るために血族結婚は普通なのです。
天智天皇が671年に死亡してから、弟の大海人皇子の天武天皇が即位して天智天皇の2人の皇子は皇位第6位の施基皇子と7位の川島皇子となりました。天武天皇は第6位の施基皇子は伊勢王となりました。守護代国司として官僚の岩床三宅連を配置しました。第7位の川島皇子は特別に佐々木氏の賜姓を受け近江王となりました。
施基皇子は伊勢青木氏の元祖で日本書紀にも14回も出てきます。

上記に「部制度」を記しましたが、渡来系技能集団で、例えば、服部(はつとりべ)とか海部(かいふべ)とか磯部(いそべ)陶部(すえべ)とか綾部(あやべ)と武部(たけべ)とか土師部(しがらきべ)等数えれば限りありません。後日レポートします。
現代ではこれが姓となっていますが、この人たちは孝徳天皇期に帰化した阿多倍王の連れてきた技能集団です。
部の着いた氏は渡来系です。室町末期まで中国地方を統治した陶氏はこの子孫です。現代の各地の第1、2次特産物は殆どこの子孫が持ち込んだものです。
渡来系の武装集団の漢(あや)氏と東漢(やまとあや)氏は蘇我入鹿の命で気に入らぬ崇峻天皇を殺害した。
これほどに蘇我氏は力をもっていました。天皇家は手も足も出ない状況から中大兄皇子の大化の改新となったのです。元の上記で記した様にこれが青木氏や源氏や藤原氏の氏の発祥させた理由です。

阿多倍皇の帰化の経緯は、次に阿多倍王の集団は先ず九州北部に上陸し、余りの力の差で土地の勢力の肝付氏や朝廷は戦うのをやめて同化して土地に根着きました。そして朝廷の伴氏とともに遂には九州全土を制圧しました。九州南部には阿多と言う地名があります。ここに本拠地を置いたのです。大隈の首魁の阿多という名で日本書紀には8回も出てきます。
この後、中国地方へと進出し、ここでは配下の陶氏が勢力を保持します。更に、上記した様に朝廷は関西に拠点を与えます。伊勢北部伊賀地方に住まいします。全国の大蔵氏系肝付氏族長嶋氏の末裔でこの九州長島の地名はこの末裔から生まれました。馬部等の集団は甲斐などの中間地に移して馬などを飼育しました。
元記事での長男の坂上氏は坂上の田村麻呂の歴史で蝦夷や東北部を制圧した将軍がいます。阿多倍王の親族は阿倍(あべ)と言う姓を出しした。阿多倍王の妻は敏達天皇の孫の芽淳王の娘です。

さて、次は第2番目の藤原秀郷流青木氏の事に入ります。
藤原氏は中臣鎌足から始まり、賜姓で藤原氏になります。藤原氏は加藤氏や伊藤氏や、後ろに藤を着いた姓が地方に移った藤原氏が名乗りました。役職の頭文字を付けたのが斎藤氏や佐藤氏や工藤氏です。
そこで藤原秀郷氏は藤原氏は4家に分けられます。北、南、式、京家ですが、秀郷流は最大勢力の北家です。初代は房前(738)、魚名、藤成(826)から3代目の秀郷になります。958年頃です。
秀郷は関東地方の「押領使」(警察軍)で豪族でしたが、関東の坂東八平氏の地域内で「平の将門の乱」がおこります。これを清和源氏の初代源の経基が朝廷に告訴します。しかし、朝廷はこの乱を鎮めることができませんでした。
将門は国司を倒し独立国家を作ろうとしました。そこで、この阿多倍子孫の「たいら族」の将門を倒した者は2つの褒美を賜ると詔をだしました。この時、2人が手をあげました。一人は元記事で書いた桓武天皇の賜姓を受けた伊賀の住人で平氏の貞盛(国香の子)で大隈の首魁であり伊勢伊賀住人の阿多倍王の一族でしたから実力は充分でした。貞盛の父国香が同門の将門(甥)に殺されました。

もう一人は青木氏のルーツになる秀郷でした。結果は乱を制圧します。そして、秀郷は褒美の貴族の身分と武蔵国と下野国の守護として領国とします。「たいら族」の貞盛は伊勢北部伊賀の半国司に任じられ下総を領国とします。子孫は5代後の清盛までますます出世します。
秀郷は大きくなった氏を保つために、(祖父の藤成の時に伊勢の国司に2年間任じられましたが、この時の伊勢青木氏を見習い、秀郷は天皇家の藤原氏母方血縁から、秀郷は朝廷に嵯峨期の詔勅を根拠に第3子の千国に対して青木氏の特別の賜姓を申請し許可を受けました。
第4子以降を藤原直系の護衛団として貴族より臣下させました。
これを代々の慣習として続けました。これが秀郷一族一門361氏中で青木氏は116氏になりました。
同じ加藤氏や佐藤氏や伊藤氏と違い、直系の一族として氏を構成しました。「第2の宗家」と呼ばれて一門を統括しました。念のため、後の時代の氏として、佐野氏流青木氏、青木玄蕃、青木忠英、青木安明、青木正命、青木政之、青木正胤の一族が確認できます。中には平氏(嶋崎氏)の血筋を持つ氏もあります。
皇族賜姓の5家5流の青木氏(家紋笹竜胆)以外として、116家ありますが、この116氏の家紋が家紋200選の中にあり、且つルーツの土地が武蔵国や下野国や元記事追加で明記した土地の者であるとすれば、この秀郷流青木氏です。24の土地に赴任しその地に子孫を定住させ遺して着ました。
領国武蔵国の入間を中心に横浜神奈川を半径とした円状の中に輪状に青木氏116氏が護っていました。これが第2の特別賜姓族青木氏で第1の皇族賜姓青木氏とは母方血縁しています。

それ以外は第3の室町末期と江戸初期の禁令外の「未勘氏」での青木氏で第1と第2の青木氏の家臣団の者が名乗ったものです。

第4の青木氏は明治3年の苗字令に基づく明治以降に付けた青木姓で、第1と第2の青木氏との長い歴史の絆で結ばれた青木村の民が名乗りました。
また、第4の青木氏には「青木氏職能集団」に所属する者らが養子縁組によって青木氏を名乗らせる習慣がありました。
2つの血縁青木氏には、浄土宗古代密教の仕来りから「菩提寺」や「祖先神の神明社」の建立をし、青木氏の自力による管理運営をする為にその「職能集団」を持っていました。この高い技能を維持して行く為に「養子縁組」をして名乗らせる慣習です。また、「古代和紙の殖産」に関してもその技能を維持する為にも同じ慣習がありました。
この2つの職能集団の養子縁組制度から発祥した青木を含んでいます。この職能集団の青木氏はその家紋にて判別する事が出来ます。

第1の注釈の皇族青木氏は「嵯峨期の詔勅」により皇族の者が還俗する際に名乗る氏名として決められましたがこれに該当する青木氏は次の様に成ります。
1 丹治氏流青木氏で多治彦王が関東に配流されて遺した子孫です。この子孫は丹治氏から分かれて青木氏を名乗りました。武蔵を中心に関東に定住しています。(丹党の祖) 
2 左大臣島氏が武蔵に配流されて遺した丹党系島流青木氏があります。
(島氏は真人族で多治彦王の子供の説もある)
3 宿禰族の橘氏から出た敏達天皇の曾孫美努王の子供葛城王から出た青木氏があります。
4 清和源氏嫡流直系の頼光系頼政が源平のきっかけと成った「以仁王の乱」を起こしましたが、その時に頼政子仲綱の子供の長男と次男の宗綱有綱が日向に配流と成ります。土地の廻氏と血縁した子孫が廻氏に護られて薩摩大口まで逃亡してそこで保護された寺の住職の勧めで青木氏を名乗り平氏の追及を逃れます。この子孫が生き延び日向青木氏を名乗ります。日向青木氏は仲綱の三男の京綱が皇族賜姓伊勢青木氏の跡目に入りますので縁戚関係にあります。
5 後は清和源氏として傍流の甲斐武田氏の末裔が青木氏を名乗っています。

これら皇族青木氏の対象者は18人と成りますが殆どは比叡山の門跡寺院僧となり4人が末裔を残しました。これ等の子孫は現存しています。
第1と第2の青木氏はかなり親密な関係を維持し第1の青木氏を助けます。
第2の青木氏は秀郷一門の「第2の宗家」と呼ばれ明治初期まで一門361氏を纏めます。
阿多倍一門の大蔵氏と共に日本一の氏で武蔵入間を根拠地に24地方に分散しています。
第1と第2にはこの二つの「第2の融合氏」が発祥しています。どちらとも判別が困難な融合した氏で5家5流の地域(第1に含む)とその近隣の第2の青木氏が定住している地域(第2に含む)に発祥しています。

家紋については注意してみる事が必要で、わずかに変えているものもあります。
古来より氏姓(うじかばね)制度で社会が構成されていましたので、「家紋掟」というものがありました。
氏家制度の中では家紋は象徴紋ですが、第1の青木氏は「笹竜胆紋」で統一されていますが、第2の青木氏は「下がり藤紋」が綜紋と成っていますので、全ての氏はこの制度の掟に縛られていましたので家紋は116紋に及びます。
明治以降はこの掟は崩れましたので第3と第4の青木氏は116紋外と成りますが、中には家紋の下賜が起こりましたので重なるものがあります。

(以上は関係レポート参照)

わからなければルーツの菩提寺の過去帳を調べると良いと思います。昔はお寺が戸籍簿の役目を司っていました。これだけ調べればで大抵は偏纂は難しいと思います。鎌倉以降の下克上の戦国時代以降は世中が乱れて歴史や慣習が崩れてしまいましたので、殆どは偏纂の様です。
因みに、天下の豊臣秀吉や徳川家康の家系も偏纂しています。この二人の偏纂は後日に。これで2つの青木氏の発祥源は一応停止しますが、御質問があれば可能な限りでお答えします。
次は源氏などとの関係をレポートします。次第にルーツが見えてきます。

※後日訂正
レポート見直しをしましたところ2ケに間違いが見られましたので訂正します。

”崇峻天皇を阿多倍王の武装集団、漢氏又は東漢氏か゛蘇我入鹿の命で殺害した”と書いていましたが、蘇我馬子の命で”に訂正します。

”貞盛が平の将門を討った功により、国司に任じられた”と受け取れる文面になっていましたので、勲功の実施がずれて実際は息子の維衡が元々住んでいた伊勢北部伊賀地方の半国司に任じられています。
以上

余談
京平家の平の清盛の元祖の貞盛(渡来人阿多倍王の子孫)の居住地域がこの伊勢北部伊賀でした。日本書紀にもこの地域を阿多倍王に国の産業の発展に寄与した事を理由に朝廷より与えられたものと記しています。

そして、この地域を立ち入り禁止にし、且つ、鳥獣の捕獲禁止地域にも指定して彼等を保護した事が書かれています。不輪の権と不入の権を与えました。そして、朝廷で祝いごと事があると、300人ほどの人たちが天皇の前で度々踊ったと記されています。
賜姓平氏は桓武平氏ともいい、京平氏とも伊勢平氏ともいいます。
貞盛より清盛まで5代で上り詰めたわけですが、この勢力の大きさは大変な者でした。
当時、日本全土は66ケ国ありましたが、このうち32ケ国が平氏のものでした。

以前のレポートでも阿多倍王の一族が九州から中国地方と関西までの殆どを制圧して移動してきてこの伊勢北部の伊賀地方を与えられて住んでいました。皇族の皇女と結婚して3男をもうけて朝廷内に絶大勢力を築き、後には清盛が最高位に昇り詰めました。大蔵氏は九州全土域、坂上氏と内蔵氏や、阿多倍の縁戚子孫の阿倍氏等が北陸以北に子孫を遺しました。32/66の勢力は青木氏や藤原氏や源氏が束になっても勝ち目はありません。
大蔵(長嶋)種材と言うすごい豪傑もいました。朝廷より太宰大監として「錦の御旗」を個人に与えられた最初の人物です。

桓武天皇の母(高野新人 光仁天皇の妻 伊勢伊賀の阿多倍の孫娘 光仁天皇は伊勢の松阪の施基皇子の長男 施基皇子は青木氏の元祖)はこの子孫の孫娘ですが、だから平氏を賜姓した3理由(青木氏の勢力牽制も含み)の一つです。桓武天皇は父方が伊勢松阪の「青木氏」 母方は伊勢伊賀の「たいら族」の関係にあります。
光仁天皇は第6位皇子施基皇子の長男で継承権外でありますが、第4世内の第2世族であり継承権が発祥し対象外王位の男子が居なかったためで女性天皇が続いた事により天皇に成ります。

この勢力の中で藤原秀郷は関東に第7世族の坂東八平氏と戦い勝ったのは第1と第2の親衛隊青木氏の活躍である。この活躍で青木氏は各地に分散して行きます。そして、清和源氏の頼信の関東進出とで坂東八平氏は衰退した。その後の11代の源氏はたいら族に推されて衰退しますが、皮肉にも同じ頼信の子孫の頼朝を旗頭に1185年に再び坂東を取り戻したことになる。表向きは源氏が勝った様に見えているが。
大河ドラマの義経と頼朝との摩擦もこの原因です。
(義経は源氏主力で戦う意見であった)

幕府樹立ご4年で頼朝とその子孫と源氏も第7世族の坂東八平氏に完全抹殺された。
考えてみれば皇族末裔の争いとなる。
平の将門と平の忠常の独立国家の夢は遂に叶った形になったのである。逆に、第1と2の青木氏は衰退に向かうのです。藤原秀郷流青木氏と皇族賜姓青木氏はこのような背景が子孫に掛かっていたのです。
だから、その後、藤原秀郷一門は第1の青木氏の協力の元に助け合い116流にもなる勢力拡大をはかつたのです。
ルーツを知るには先祖の苦労も知ることが大事な気がします。

※さらに訂正
訂正 中大兄皇子の子供に軽皇子と記述していましたが、建皇子(たけるみこ)に訂正しました。
念のために、建皇子は8歳で病死、斎明天皇はこの孫を大変可愛がり、病死後に孫の歌を詠んで、未来にこの歌を残す事を命じたほどの可愛がりでした。

 
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