青木[アオキ] 名字 苗字 家系 家紋 ルーツ 由来

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「青木氏の伝統 51-1」-「青木氏の歴史観-24-1」

> 「青木氏の伝統 50」-「青木氏の歴史観-23」の末尾。


> (注釈 仮に、上記の「注釈の論理」を無視して「源氏」と呼ぶとすれば、それは前段でも論じた様に「縛りの無い状態」の「格式、権威、象徴」の無い「賜姓源氏=天皇家の論理」が生まれ事に成る。
> 結果として「権威失墜」し“「天皇家」は「天皇家」だけで無くてはならない原理”は崩れる事に成る。
> 従って飽く迄も、どんな事があっても「伊勢と信濃」だけは「青木氏族」では無くてはならなかったのであった。
> この“一線を如何なる理由があろうと超えてはならなかった”のである。
> 「賜姓五役の範囲」を超えてはならなかったのである。
> 故に、彼らを入れて「皇子族化」は執らなかったのである。
> 「嵯峨期前の事」であっても「皇子族化」をすればそれは「源氏族化への経緯」を辿ったであろう。
> 故にね「四家制度」や「妻嫁制度」や「嫁家制度」や「四掟制度」や「氏族の範囲」を護って一線を敷いたのであった。
> そして、その上で頑なに「古式の伝統」を護ったのである。
> この「根幹」が、「青木氏の氏是」とそれを補足する「家訓10訓」(行動指針)であった。
> 要するに「女系の妻嫁制度を執る事」に依って「天皇家からの白羽の矢」を受ける事は無く成った。
> 然し、「近江や美濃や甲斐」の様に「自らが崩れる事」はあり得たし、それは「概念の持様」から崩れたであろう。
> それは簡単な事である。要するに「縛り」を護っている以上は「男系に戻す事」では充分にあり得た。
> 然し、この“一線の概念を如何なる理由があろうと超えてはならない”を護ったのであった。)
>
> (注釈 それを物語る様に、そして以後、皇子等は「臣下の賜姓元族」の上記の経緯を持つ由縁の「青木氏」に移るのでは無くて、彼らは「源氏の姓」(朝臣族)の「諡号」に変更されて行ったのである。
> そして11流も発祥している。
> これは見方に依れば明らかに「伊勢と信濃の青木氏族のブロック」ではないか。
> 故に、二度と戻る事の無い様に朝廷もその「源氏の諡号」に「氏」が成り立たない程の”「縛り」””を掛けているではないか。
> この「世間の批判」の高かった「厳しい縛り」は、「皇族」、つまり、「真人族末裔の乱立」により「権威の低下」を防ぐと共に、「権威の確立」を高める為に「源氏族の戻りの防止」を防いだ策の一つと考えられるのである。
> もっと云えば、「孝謙天皇の白羽の矢の再現」を防いだのである。
> 「自らの縛り」を造り「青木氏族」の「伊勢と信濃」はこれを護り通したと云う事である。)


「青木氏の伝統 51-1」-「青木氏の歴史観-24-1」

さて、前段の注釈を前提として、「真人族48氏」を基に論じてきた。
前段でも論じた通り果たして、“これが正しいのか”と云う疑問があるのだ。
上記した「真人族の数の疑問」である。

そこで問題と成るのは「真人族の定義」である。
当時は「大化改新からの定義」が世情では乱れていた。
その為に最終は「嵯峨天皇」はこの定義を明確にして「身分格式」をはっきりさせようとした。
その最初が「孝謙天皇期」であるが、この「孝謙天皇期」と云うよりは「藤原氏の孫」の「淳仁天皇期の事」である。
天皇家に男系継承者が絶えた事を見計らって藤原氏の「外孫王」を「天皇」に仕立てて「政権の奪取」を図った。
そうすれば「天皇家」は「藤原氏」と成ると見込んだのである。
その為にこの「定義」を「藤原氏」に有利に成る様に「姓氏の範囲」を統制する「族系図」を作成しようとしたのである。

その策は成功したかの様に観えた。
然し、女性の「孝謙上皇」はこれに気づき「淳仁天皇」を廃帝にし淡路島に流し、再び「孝謙上皇」は重祚して「称徳天皇」として即位し実権を握った。
この時の「族系図の編者」等は゜政争の恐ろしさ」を恐れてこの「系図の作成」に途中から放棄して「族系図」そのものを不明にした。

この「称徳天皇」(「孝謙天皇」)は今後の「藤原氏の策」に警戒して、この「乱れた定義」を「本系の天智天皇系」に戻そうとした。
この事で定義は安定すると見込んだのである。
ところが、「天武系」は聖武期には男系は断絶していたので、更に一代遡り「敏達天皇春日王系真人四世族」に戻せば本流に戻ると見込んだ。
ところがこの「天智系」は「二人系列・川島皇子系と施基皇子」を遺す事と成っていた。
その一つの「伊勢の施基皇子・716年9月没」も既に賜姓臣下して下俗していた。
ところが「近江の川島皇子・691年没」には「天智系」でありながらも「天武系」に近づき過ぎ、又、「天武崩御後の政争」で「密告者の汚名」と「人格的批判」があり、「称徳天皇770年没」は堅い意思から避けたとされる。
それは「施基皇子の中立性の生き方」に賛同していたと観られている。

当に、この「孝謙天皇・称徳天皇の見方」は前段から論じている様に「人格的評価」も高く「青木氏の生き方(氏是)」に一致している。
「孝謙天皇・称徳天皇764即位」では、下俗し「商い」もしていたにも関わらず「皇子の末裔・二世族」に「孝謙天皇・称徳天皇の見方」は拘り「白羽の矢・765年頃」を放ったのである。
既に「施基皇子没後の48~50年後の事」である。二世三世時代の事であった。
当時としては、「二世代の寿命期間」でもあり「下俗」して相当後の「二世代か三世代」に入っていた事になる。
もっと云えば「四世代目」が生まれていた事が判っている。
既に「商い」も進んでいた時期でもあった。
この「白羽の矢」はこの「二世代目」に当てたのである。

この時の事は前段でも論じている。
当然に、この時、「天武系の自らの血筋」を「天智系に入れると云う策」を執ったと云う事である。
それわより確実にするには「姉の井上内親王・717年~775年」を「施基皇子の二世末裔(青木氏・白壁王・実質の四男)」の「妃・745年」にする事であった。
但し、この「井上内親王」は727年~744年の「17年間」は「伊勢神宮の斎王」であった。
その「伊勢神宮斎王」を退下させて帰京させての「血縁策」であった。

兎も角も、「施基皇子没後」の前段でも論じている様に「女系妻嫁制度等の体制・四家制度」を次々と強化している「最中の事」であった。
社会には「藤原勢力の意」を汲んで、この下俗した「施基皇子の末裔・伊勢青木氏」に対しての批判が高まるのを恐れたのである。
「社会」では「最早50年後の氏」と云うのは「民間人の何物」でも無かったし、「高位族の禁じ手」の「商い」もしている当に「民間人」に観えていた筈である。
この策は明らかに「下俗」と「商い」に対する「世情批判」を躱す目的があった。
兎も角も、これで「政争」を抑え込もうとしたのである。

「白壁王・光仁天皇」も、この「藤原氏の力の低下」を狙うと当時に、依然としてその根幹と成っている「族の定義の安定」が定まらず政争が続いていた。
そして、矢張り、「族系図」を定めて「定義の確定」を施そうとした。
この時は、その「偏纂の目的」は「淳仁期」、つまり「藤原氏系」の「外孫王」を「正統化する目的」に比べてやや異なっていた。

今度は「下俗していた50年後」の「施基皇子族系」を天皇家として「正統化する目的」で纏められようとしていた。
然し、又、この「族系図」は「編者等の反発」により矢張り失敗するのである。

この事から観ると「世情」は「青木氏」に対して完全には肯定的ではなかった事に成る。
正統な「井上内親王・717年~775年」が「青木氏」に入ったとしても充分に認めていなかった事に成る。

その主因は次の事が考えられる。

1 「貴族」が「商い」をすると云う「禁じ手」が大きく働いていたのでは無いかと考えられる。
2 「50年~54年と云う期間」が「施基皇子の記憶」に戻せなかった事も考えられる。
3 「世情の感覚」は「施基皇子」では無く「伊勢郷氏の青木氏と云う感覚」の方が強く働いた事もあり得る。
4 「族系図」の「最高位が青木氏である事」で「定義の確定」は成らなかったのかも知れない。

「1~4の事」を勘案すると、それ故に、「追尊の春日宮天皇」の策を歴史的に始めて打ち出したのであろう。

この「追尊」に付いて幾つかの説があるので触れて置く。
その内の「主な二つ」に付いてである。
抑々、「追尊」とは“亡父に対して贈る尊の号”であると定義されていて利用されていた。

(注釈 念の為に「光仁期以前の過去(淳仁天皇期)」には「一人の追尊天皇の事例(父の舎人親王)」があり、桓武期には実弟の「相良親王」があるだけである。
平安期以降は「准・・」が着けられて「追尊である事」を明確にする「天皇家の仕来り」とした。)

「施基皇子没後716年」に「追尊」と成っている説もあるが、この説では「白壁王・709年~775年」は54年後に「天皇770年即位・61歳」に成っていて論理的に「追尊」に成る事は無い。

仮に「追尊期」が「716年没」とすると、この期間は「元明天皇・715年10月~724年3月期」の以外には無いのである。
「元明天皇」との間には「追尊の定義」に関わる事は何も無く、当に「追尊する程の高いもの」は無くそもそも「無縁」であるし、既に「臣下している者」でもある。
定義の「追尊の権利を持つ天皇」としては「光仁天皇」だけであり「父を追尊した説」が正しい。

恐らくは、この「716年追尊説」は「称徳天皇・764即位」時の「白羽の矢」の「根拠付」の「後付け説」である事が明白である。
この前に「注釈の通り」の「追尊の舎人親王の事(正式系図には無い)」があってこれを「後付け」で利用したと考えられる。
この「後付け説」で以て「伊勢系列」に繋がる様にした「江戸初期の搾取偏纂の可能性」が高く、大体予想が着く。

「追尊」から戻して、「世の族系の定義」を質す為に「族系図偏纂」に取り組んだ「三度目」は「嵯峨天皇」であるが、前段でも論じた通りである。
「族系図」は「編者等の反発」も同じようにあったが、その内容に対して周囲が反発をした。
今度はこの「族系図」に依って「身分格式が定まる事」への反発であった。
然し、「嵯峨天皇」は一策を講じて強引に押し通した。

この為に過去の二度とは違う処で造り始めていたのが、それが“「族系の縛り策」”であった。
この「族系の縛り策」でも、“「皇位継承」に問題を興すのではないか”と云う「光仁期」と同様に「疑念」が出た。
これが「政争の元」と成ったのである。
この様に「族系図」の実現の為に三度挑戦された。
これが「嵯峨期」の最終の「新撰姓氏禄」の基になるものであった。

つまり、それが「皇位継承の定義」が原因であった。
当時の政権は「孝謙天皇期」までは、“男系継承者が絶えた”とする主因と観ていたのは「皇位継承の定義」であって、その基の議論と成っていた。
何方かと云うと「族系図」では無く、引き継がれてきた「大化期の改新の定義」に在ったと観ていたのである。

それを検証して観る。

そこで、先ず「皇位継承の成す為の数」としては、そもそも「内蔵の財力」が問題であった。
「皇位継承族者」を「存在させる範囲」として、仮に「その財力」で出来るとしても「半分程度(家族 100人)」の「20氏の真人姓諡号」の程度の範囲であったろう。

その為に、「新撰姓氏禄」の基で「9つの縛り」を掛けた。
現実に最終的に「11流の賜姓源氏」も結局は、この「9つの縛り」に耐えられず「姓」に成ったそもそもの族であろう。
依って、「近江佐々木氏の研究記録」も正しいと観ている。

故に、当時としては、「編集」に当たって「三代天皇」の「編者等」そのものから「その矛盾(9つ縛り)」を突かれた事も「反対の一つ」であったのであろう。
つまり、「数と質の範囲」に「天皇家の誇張」の問題が興ったのである。
「純仁期の記録」では、世間だけでは無く「表向きの理由」として「編集者に選ばれた者」等から、“これでは編集しても意味が無い”と訴えたとする記録が遺されている。

(注釈 故に、「三回」ともに「編者」に指名されながら「編集途中」の侭で放置された等の事が起こった。
この「三回の放棄」は上記の通りに夫々理由が多少異なっていた。)

これは、つまり「嵯峨源氏」が生まれる前から「族系」の「縛り等に対する矛盾」が潜んでいた事に成る。
「嵯峨天皇」はこの為にもこの「縛りをより強化した事」と成ったと観られる。
それが遂には「詔勅の結果」とも成ったと観られる。

(注釈 これ等が記されているこの「類聚三代格」にしても「新撰姓氏禄」にしても、この後に弄られた書である事に留意する必要がある。
つまり、「公表されている記録」が全て史実とは限らないからで、その当時の政治環境に大きく忖度されている事が多いのである。)

筆者は「淳仁天皇、光仁天皇、嵯峨天皇」、取り分け、「嵯峨天皇」はこの「皇子皇女の数と質等の矛盾」に対して「皇族の反発」や「世間の反発」等に忖度して「数や質の格式身分」を合わしたのではないかと観ている。

つまり、そもそもの共通点は「天皇家の血縁範囲(真人族の範囲)」を「9つの縛り」で改めなくては「数と質」は変わらず「継承は不可能」であるとしているのである。
「編者の理由」は論理的で現実的であったと考えられる。

そこでこれを検証して観る。

「文徳系13」+「光孝系40」=「皇族15」
「嵯峨系9」+「淳和系9」+「仁明系9」=「皇族27」

以上から「842年没の嵯峨天皇」の間までには「正式な数」として“「42人の皇族」”が生まれた事に成る。

そうすると「新撰姓氏禄」の(a-1)の「真人族48」にはこの「皇族42」が少なくとも含まれている事に成る。
然し、この「5人の天皇」には公式に全て“「源氏族」”を「皇子皇女」に関わらず「賜姓」か「無賜姓」かで「朝臣の姓」で臣下させている。
従って、「(a-1)の真人族」は、計算上ではこの段階で(48-42)=「6人」だけと成っていた事に成る。

「光仁系13」+「桓武系22」+「平城系5」=「皇族40」
以上と成る。

「施基皇子の後」にでも「真人族の皇子皇女の数」は「82(42+40)」であったと史実として記されている。
然し、「新撰姓氏禄」は「真人族48氏」なのである。

「大化改新」で「施基皇子の前」は「第四世族内の第四位」までを「真人族の皇子皇女」としての「縛り」を掛けていた。それ以外の「第六世族」までは「王」、順次起こる「第七世族」は「王位」は無く成り、無位無冠で「坂東(坂東八平氏・ひら族)」に配置される。
従って、この「仕来り」から「天智天皇」からの「真人族」で「子孫」を遺していたのは次の通りである。

「天智系0/16」+「天武系4皇子」+「文武系1皇子」=「皇族5皇子」

但し、「天智天皇の皇子」は「4人」であるが、2人は没で「施基皇子と川島皇子」は「賜姓臣下族」として「真人族」から外れた。

3回の「新撰姓氏禄の編集」に選ばれた編者から観れば、要するに“これは明らかに多い”と観たと考えられ「継承者」は絶えて“「質」も低下した”と判断していたと観たのであろう。

従って、結局は、この「真人族48」の中には上記の「5人」が含まれている事に成る。
然し、「文武」で絶え「女系」が続き、又、子供の「聖武天皇(文武の子)」から「皇子の真人族」は「女系」と成り絶えているので、継承のカウントはこの期では0である。

故に、ここでも検証の結果は、(82-48)=34(皇子皇女)が少なくとも「真人族の受け入れ口」であった「五家五流」に入っている事に成る。

この「34の内」、「青木氏の直系尊属」であった(「文徳系」+「光孝系」)+「嵯峨系」+「淳和系」+「仁明系」)は、「賜姓の有無」は別として何れも「賜姓5源氏族」と成ってはいる。
つまり、「(34-5)=29」が「真人族」であった事に成る。

然し、これも「(a-2)の清和源氏」に組み込まれた「嵯峨源氏(縛りから外れた)」を除いて子孫を遺していない。

(注釈 殆どは傍系支流か搾取偏纂である。)

又、この「賜姓5源氏族」は「縛り」から外れているために「真人族」でもない。
もっと云えば、「縛り」から外れていて「格式」は低く成り、本来は唯の「武力集団」に過ぎず「朝臣族」の定義の中にでもない。

ここでも、従って、殆どはこの「真人皇女族の34」であって、これが「五家五流」に入っている事に成る。
「青木氏と近江佐々木氏の資料論文(皇子17皇子15の説)」は正しくその通りに検証されている。

念の為に「青木氏の歴史観」として、「平安期の応仁の乱(1467-1477)」の前までには「近江、美濃、甲斐」は滅亡しているので、ここでも「真人皇女族の最大で34(最低で28)」は「伊勢と信濃」に遺ったと云う事に成るのだ。

故に、「新撰姓氏禄」の「(a-1)真人族48」は、計算が合わず少なくともこの時は上記の「真人族 6」以上には無かった筈である。

そこで仮にあったとすれば、理屈上は何も「孝謙天皇の白羽の矢」は、「臣下族、朝臣族」に成って仕舞っている「施基皇子の子孫」に、飛んで来なかった事に成る。
その「48」もあるのであれば、「真人族48」の所に「白羽の矢」を飛ばす事にすればよかった事に成り、これは矛盾する。

又、伊勢に「白羽の矢・770年」を向ける前に、この時期は「川島皇子族(近江佐々木氏)・657年~691年」とは、「春日王皇子四世族」と「安貴王の孫族」を共通とするほどの「完全な同族」であった。
だとすると、こちらに「白羽の矢」を向けても良かった筈である。
これも矛盾する。

(注釈 他に「川島皇子族(近江佐々木氏)」には、追尊王の「名張王女や尾張王女」等も伊勢から嫁している。)

抑々、この理屈からすれば「真人族48」も有るのなら「聖武天皇」の後の女性の「孝謙天皇」が即位しなかった事にも成るだろう。
つまり、この「論理矛盾している「(a-1)真人族48」はおかしいのである。
これが「3回ともの編者の反抗」と成った所以の一つであろう。

他の「三史書」も同様であろうし、要するにこれを認めた天皇家に対する「忖度書」である事に成る。

(注釈 但し、“「第二姓族」”は、これらの「諡号の規則(格式)」に一切関わりの無い「身分秩序の単位」の単なる「名」として室町期中期に発祥したものである。
この「応仁の乱」を契機に「(a-1)(a-2)の族・第一の姓」は衰退し、「第二姓族」が生まれるきっかけと成った。
それが「安芸地方域」に発祥した「渡来系海部氏」が記録に遺る最初の「第二姓族」であるとされる。

(注釈 逆にこれが契機に「末裔子孫」を引き出し「美濃額田青木氏」等を再興させた。)

では、この様に“明白な真人族の無い史実”もありながら、又、「編者の反発」も受けながらも、何故、「(a-1)真人族48」と成って仕舞っていたのであろうか。

これも「疑問」であるので検証して観る。

基本は、次の通りである。
一つは、「桓武天皇と嵯峨天皇の青木氏の扱い論争」にベースがあった。
二つは、「第1回目編集」は主に「質」に対する反発が興った。
三つは、「第2回目編集」は主に「質と数」に対する反発が興った。
四つは、「第3回目編集」は主に「数」に対する反発が興った。
五つは、「910の族柄と格式が確定してしまう反発が興った。

「第1回目編集(淳仁天皇)」では、次の通りである。
「絶えた朝臣族」を補う方法を「藤原氏の外孫王」に基本軸を求めて「真人族」を構築しようとした。
それには「数と質」には問題が無かった。
然し、ルート外での「藤原王朝」が出来る事に成る。
「指名された編者等」はこれを放置し、遂には問題を噴出させると云う行為(政争)に出た。
ところがこの議論に気づいた「孝謙天皇(上皇)」は、「外孫王の淳仁天皇」を「淡路廃帝」とした。
そして、「政争の後」に自らが「称徳天皇764即位」と成って実施実権を再び握り、上記の「白羽の矢」で事は治まった。

「第2回目編集(光仁天皇)」では、「第1回目編集」で纏まらなかった事を“「青木氏の追尊王」”を巻き込んだ「光仁天皇族・50年後」で「真人族」を構築しようとした。
「白羽の矢」で急に「光仁天皇」と成った為に周囲を固めるその「真人族」は無かった。
既に、「臣下族」で一族は治まっていた。

(注釈 この時、「皇親族」として「紙屋院の令外官」の「商い」に力を注いでいた。
「出自元」と成った「伊勢青木氏の四世族」までは何とか政争から逃げようとした。
「白壁王等」も必死に成って「闇愚」を装い「白羽の矢」から、その後の「追尊扱い」からも逃げようとした事が判っている。
「白壁王」は「王位」と成っているが、賜姓を受け臣下した「施基皇子の子」は「大化期の規則」でそもそも「王位」では無い。
それを「四家全体」の「三世族」までもが追尊で「王位」と成って仕舞ったのである。)

そこで、上記注釈の通りに、この「出自元(青木氏)」を追尊し再び格上げして、「大化改新の規則」に従い「第四世族」の一部まで無理に「王位」を与えて「真人族」を構築しようとしたのである。

「皇女」として扱われたのは正式には4人/5人である。
正式には「妾子」を入れると「9人」であった。
然し、実質は「妾子」を入れて「二世族9人」と「三世族まで13人」は「追尊族」、つまり、これらは「青木氏の女(むすめ)」であり、「皇族」では決してない。

この様に「彼女等」に依って「真人族」を強引に構築したが、これを権威づける為に「孝謙天皇」の姉の「井上内親王」を組み込んだ。
この「井上内親王」の反発(光仁天皇の后)・聖武天皇の子」を受けて「青木氏・実家」に「17人」は殆ど密かに保護を受けて逃げ込んできたとある。
つまり、この様に「内示の真人族」の内容に「数と質」に問題が興って反発が興った。
この為に編者は編集をサボタージュして放置した。

「第3回目編集(嵯峨天皇)」では、「第1回目編集」と「第2回目編集」で纏まらなかった。
この事から、「光仁期から仁明期」と「嵯峨天皇の目(光仁天皇の孫・施基皇子の曾孫 生存中であった)」の届く「文徳と光孝系」までを組み込んで、要するに「嵯峨一族」を以て「真人族48」とした事に成る。
この事に「編者の抵抗」を受けたが強引に「縛りの策」の一つとして発行した。

この時、「祖父の光仁期」では「青木氏」を組み入れたのに、「嵯峨期」では入れなかった。
この所以は上記の「基本の論争」にあったからである。
つまり、この時、「嵯峨天皇」は「政治路線の事」で「父兄」との間で激しい政争を起こしていた。

それが次の事であった。
「桓武論説(平城天皇派)」と「嵯峨論説」であった。
結局、「薬子の変(現在は薬子は間違いと訂正)」を起こした。

「桓武論説」で「真人族」を構築すれば「青木氏」がベースに成る事から、上記の検証から「真人族48氏」は成立していた事は確実である。
「五家五流青木氏(天智期からの皇子皇女族の集約系)」で「真人族(敏達天皇第四世族春日皇子系一門)」は確実に確立する。
「孝謙天皇の白羽の矢」も「天智系春日皇子系真人族」の「四世族」で繋がり「大化期の規則」にも従う事に成り、何の問題も無く成る。

(注釈 「四掟一門の近江佐々木氏」も含む。 要するに「青木氏族」で構築する考え方であった。)

然し、「嵯峨天皇」は我節を曲げずこの論説を執らなかったのである。
「幸い血筋(嵯峨天皇系)」としては、その後は「青木氏外の文徳と光孝」で「天皇家」は「男系」で繋がった事になった。
これにより、「青木氏族等の反発」を受けながらもこの議論は消えた。

つまり、「桓武論説と嵯峨論説の争い」は消え、「新撰姓氏禄の論争」も消えて治まったかに見えたのである。
この時を境に、更に「氏族としての制度改革」を進め「青木氏族(伊勢と信濃)」も上記に論じている様に「女系」で二度と「白羽の矢」を受けない様に「天皇家との乖離策」で一線を敷いたのである。

(注釈 「青木氏」から云えば、つまり「血縁的」に云えば「光孝系」であるが、その前の「女系的」に「仁明天皇」で直系的な尊属は終わっている。
「女系」に依らずとも「男系の天皇家との血筋」は切れた事に成る。
「青木氏(伊勢と信濃)」は、この時、既に「女系」に切り替えているので、既に論外と成っている。
「追尊の影響」を受けた「信濃青木氏」も「女系」を採りながらこれで乖離は可能に成った。
これも「商い」を含む「同じ路線を採る事」で「伊勢と信濃の結びつき」が更に強く成った原因である。)

「筆者」も「近江佐々木氏の研究記録」も、“「桓武天皇論説」の手前で、「論争の集結」を狙って「嵯峨天皇」は「折衷案」として最悪の場合は、「苦し紛れの真人族48(実質6)」で逃げようとした“と観ているのである。
故に「矛盾」が出るのである。
然し、「伊勢と信濃の青木氏族」では期待していなかった。
「近江、美濃、甲斐」は「9つの縛り」を護らないのに「源氏化」で「天皇家」に近づこうとしたのである。
つまり、「伊勢と信濃」は「女系」で「天皇家」から絶対的に離れて行き魅力は無かったのである。
彼等の「三氏の青木氏」は、“「氏の権威と象徴の力」を獲得する為に「源氏化」で近づこうとした”と云えるのである。
然し、「三氏の青木氏」の実体は「9つの縛り」から離れていたのである。
「嵯峨天皇」が定めた「皇族系」では皮肉にもなく成っていたのである。

これらは上記の検証の通りで証明できるのである。

そこで、そもそも「桓武天皇論説(兼平城天皇説)」とはどの様なものであったのかである。
それは次の通りである。

始祖の「施基皇子」は、「没716年」でその「二世族の子」は「女7人 男9人」を遺した。
「白壁王」を除き先ずは「四家」を形成し「四掟」を設けた。
これが「氏族」に統一した基本概念の「四六の概念の設置」である。

前段でも論じたが、「春日皇子系の真人族」は、青木氏の資料から次の通りである。
「春日王(745年没)」
「湯原王」
「榎井王」
「桑原王」(生没不詳)

以上の「四家」で先ずは構成していた。

これに次の二人が四家の下に加わっていた。
「壱志濃王」
「光仁天皇」(白壁王)

以上の「6人」とである。

(注釈 歳の順位から「四男」の「61歳の白壁」は、「四家」から外れている事から「白羽の矢」が当たった事に成るだろう。
「青木氏との鍔迫り合い」が在った事に成るだろう。
本来なら、「伊勢の四家の四人」に「白羽の矢」は行くであろう。
又、「近江や美濃や甲斐」にも「白羽の矢」が向けられても不思議では無い。

ところが「近江」は「始祖川島皇子」で天智系あるが問題があった。
又、「美濃」は「始祖三野王」で天智系では無い。
「甲斐王」も天智系では無い。

「日本書紀」等にも盛んに出て来る「三野王」は冠位が「浄広肆位」である事からそもそも「皇子並み・王位」である。
とすると「天武系」と成るが不詳で、可成り「有能な妾子」であった事が伺える。)

ところが、後にこれに「伊勢の三世族」が加わっていた。
「鴨王」
「神王」
以上の二人(父母不詳)であったとされている。

更にこれに妾子と観られる「1人・不明」があり、更に同じくこれに妾子外の「4人・宮人子」が続くとある。
計5人と成る。

合わせて”「男子合計13人」”が「青木氏の四家の継承者」が居たとしている(青木氏の資料)。

「青木氏の四家」を形成していた上記の「春日王(745年没)」「湯原王」「榎井王」「桑原王」(生没不詳)
「「壱志濃王」「鴨王」「神王」「不詳王」の「四人の二・三世族」は、議論の分かれるところではある。
然し、最早、この時には「春日真人族系四世族」からは当に外れていた。
「七世族」か「八世族」に成るだろう。

つまり、「皇族」の中から外れている「青木氏」の「氏族」である事から、「生没等の記録」はそもそも「公」には無い事に成る。
あるは「伊勢青木氏の記録」だけと成り、他の「四家四流青木氏」も同じ扱いと成ったと観られる。

上記に論じた様に公的に成っている系譜には次の四説がある。
A 敏達天皇-春日皇子-舒明天皇の敏達天皇の子供説
B 敏達天皇-・-舒明天皇-春日皇子の敏達天皇の曾孫説
C 敏達天皇―・―芽淳王-春日皇子の敏達天皇の曾孫説
D 敏達天皇―・―芽淳王=春日皇子の敏達天皇の孫説

これでは「施基皇子(伊勢王)」は、「敏達天皇」からは「五世族」である。
然し、「春日皇子の真人族」としてはでは「四世族」に入る。
「大化改新」に依って「天智天皇」から観て、「四世族内の皇子」の「近江王、美濃王、信濃王、甲斐王」も「天智天皇二世族の施基皇子」と同様に「春日皇子の真人族」として扱われたと古書にある。

注釈として、これには「二つの事由」があった。
この様に「皇位系諸族」から外れていた。

イ 「多くの皇子皇女(34)」が逃避先として「五家五流青木氏」に入った事に依り「春日皇子の真人族」として扱われた事が云える。

ロ 「五家五流の相互間の血縁」にてその差が無く成り、「天智天皇四世族内」として認められた事が云える。

以上の「二つの事由」があった。

唯、問題は、「春日王(745年没・施基皇子の子)」「湯原王」「榎井王」「桑原王」(生没不詳)の「伊勢青木氏の四人」は「敏達天皇」の「春日皇子の真人族」からは原則外れる。

然し、「春日皇子の春日真人族」からは「青木氏」は次の様に成る。
上記のA~Dは次の様に成る。
A-五世族
B-四世族
C-四世族
D-五世族

(注釈 前段でも論じたが、実質、「春日皇子の真人族」としての「奈良期の継承族」は、直接に「身分保障(a)」も無く、且つ、「生活の保障(b)」の得られない事だし、元より「生活力(c)」等が無いから、「賜姓臣籍降下」せずに其の侭に全て「五家五流青木氏」に入った。
依って、彼らはこの(a)~(c)が基本的に無い事から「三世族扱い」とされた。
然し、この奈良期の時は未だこれも“「賜姓五役の務め」”であった。当然の務めであった。)

然し、平安期では、「17皇子15皇女 32(検証 34)」が降下したが,全ての「皇女」は「青木氏」に入った。
そして、「17の皇子」の多くは「賜姓源姓」を求めたが、叶わず「姓」を遺せずに没落して「近江美濃甲斐」を頼った。
これが「源氏化の元」に成る。

(注釈 この「没落皇子」を使って「系譜継合わせ」に依る「搾取編纂」に多く使われた。
又、「没落皇子」の名を「姓」にして「搾取偏纂」にも使われた。
この「二つパターン」がネット上の説明の「姓」に良く出て来る。
そして、「酷いもの」では「嵯峨期」の「新撰姓氏禄」には、何と室町期の時代の異なるこの「姓名(第二の姓)」が記載されている。
そもそも、その理由は「新撰姓氏禄」の存在は、一時不明の時期があり、その為にあり得ない事を書き添えられた形跡があるのである。現在も内部は不明
現在も全てが網羅されていず「出自元」である事から「伊勢青木氏」では遺された資料より関係する様な「行」を読み取って研究して論じている。)

恐らくは、あるとすれば元は「神明社関係」のどこかに“「関係する資料・写本」”があった筈であるが、筆者もそれを基に調べていた。
「神明社」は「江戸初期」に全社を幕府に引き渡し、その後に「幕府の財政不足」から著しく荒廃している。
この時に「神明社」から「何処か」に持って行かれた可能性が高い。

そもそも、一般に判らない筈の「没落皇子」の名を「姓」にして江戸初期の「国印状の取得」の為に利用され「搾取偏纂」にも使われた位である。
筆者は「青木氏」の「神明社」にしか与えていない「神職の柏紋」を「神紋」としている「神明社」から流失していると観ている。
何故ならば、“「関係する資料・写本」”は「神紋」を与えられた「格式の高い神職」にしか扱えないものであった筈である。
それも「古く格式高い神明社」と成り、且つ、「伊勢域」と「信濃域」と奈良期初期からある「神明社(武蔵)」の「三つ域」である筈である。
且つ、その「神明社」は「大きな聖域」を持っていた「天領地の神明社」と云う事に成る。
元より「伊勢」では、「江戸初期」には無かった事が、「幕府引き渡し」で資料より「相当な騒動」が幕府とあった事から解っている。

その時の経緯ではね次の様に記されている。
「派遣された官僚(山田奉行所)」との間で「争いと裁判」までした事が書かれている。
結局は、「一切合切引き渡し」であった事が書かれている。
“「関係する資料・写本」”はこの時に「引き取る事」が出来なかったのである。
この時の「争い」で前段でも論じたが、紛争を治める為に”「家康のお定め書」”が伊勢に出された位であった。
これで「立場」は保たれたが、山田奉行はこれに従わず、「一切合切引き渡しの裁定」は変わらなかったとあるのである。

後は前段で論じている様に、又、「青木氏の掲示板」に論じている様に「信濃」と「武蔵」の“「四社の神明社」”で何れも奈良期からの代々の高格式の柏紋神職であった。
ここに“「関係する資料・写本」”があったと考えられる。
ここも「伊勢」と同然以上の「一切合切引き渡し」であったらしい事が判っている。
後に柳沢吉保・甲斐青木吉保が自費で再建したと記録がある。

「信濃」では相当に厳しいもので「幕府不満」が高かったらしく、「伊勢」は裁判で終わったが「信濃」では「一揆(宗教性の無い郷士階級らの騒動)」を起こしているのだ。
だとすると、幕府膝下の「武蔵の神明社・四社」から「旗本家臣」等に「国印状」の為に「ある官僚」が漏らしたと未だ証拠は無いが筆者は観ている。

(注釈 伝統36を参照 「甲斐の時光系青木氏」の「分家の次男の柳沢の青木氏」の「柳沢吉保」か、抑々、彼は「武蔵四社の内」の最も古い一つを「守護神」であるとして「自費」で修復している。
二度に渡り移封している地に「神明社」を創建修復しているのである。)


この事から「紛失」は江戸初期と観られる。
従って、このはっきりしている「搾取偏纂」なので、正しく世に出て来る見込みは無いだろう。

前段でも論じたが、もともと、「淳仁天皇」、「光仁天皇」の二代でも「編集化失敗」に終わっている。
これを更に「未完成」の侭で「嵯峨天皇」は、「縛り策の一環」を目的としていた事からも嵯峨期の「偏纂者の反対」を押し切って慌てて世に出した記録である。
ここの「不備」を不明期に狙われたのである。

これらの事(賜姓朝臣の姓化)が「類聚三代格の記載の詔勅内容」に“突然に無封降下させた事”が記載されている。
「嵯峨期の詔勅」はそのものは正しいが「内容」に忖度と観られる傾向があり疑問である。
何故ならば、「天皇と成り得た者」でさえ、単族で「諡号」としては何処にも属さない最高位の“「すめら真人族」”を形成し、退位後門跡したとある。

従って、「信頼性の高いBとC説」から観ても、「青木氏」は「春日王系(皇子)の四世族内」の「同祖同門同族同宗同位であった族」と位置付けられている。
前段でも論じたが、A~Dの何れにしても「光仁期前」では明確に「真人族め50年後」から外れている。
その延長期として観ていて、その様な「生活(賜姓五役・令外官・市場放出権)」をしていたと考えられる。
然し、「孝謙天皇・称徳天皇の白羽の矢」が「生活」を大きく変えてしまった。
「孝謙天皇・称徳天皇の白羽の矢」は、これに依って前段でも論じた様に、「青木氏の縁戚族」と「皇女の逃亡先」としても公然と可能にさせて仕舞った。
且つ、奈良期では「近江、美濃、信濃、甲斐」も含めて、“「同族」”として「追尊の志紀真人族」の「間連族」に仕立て上げられた。

(注釈 平安期からは、彼らは「伊勢信濃」とは全く別の路線に入り、「近江、美濃、甲斐(「皇子引入策」で「源氏化・皇尊族の確保・男系」が起こり、結局は上記した様に「考え方の違い差」が出て分離して行った。
「近江、美濃、甲斐」に「源氏化と姓化」が起こるという事は、光仁天皇期で50年後、「源氏化」が深刻化した900年頃代から190年頃後には、「青木氏族」に対する「世間の目」が「真人族や賜姓族」としては既に低く成っていた事にも成る。
低く成っていたからこそ「近江、美濃、甲斐」は「過去の栄光」を取り戻そうとして躍起に成っていた事に成る。
「9つの縛り」を護らない人気絶頂の「単なる武力化勢力の河内源氏」に憧れた事に成るのであろう。)

その「伊勢と信濃」は、光仁期から完全に「A~Dの何れの説」からも既に外れていたのにその「二世族、一部は三世族」までも含めて「追尊の志紀真人族」に巻き込巻き込まれる事に成って仕舞ったのである。

この事から逃れる為に、「近江、美濃、甲斐」とは全く反対の行動を執っていた。
つまり、「皇子引入策」で「源氏化・皇尊族の名誉・男系」を導く方針の“「反対策」”である。
況や、“「皇女引入策」”で「臣下族・商い・女系」で「氏族」を形成して生きようとした。

(重要な注釈 全てを捨てるのでは無く、「朝廷、天皇家」との「完全決別」を目論み乍ら、本来の「賜姓五役」の「令外官役」だけは「商いの為」に護ろうとしたと云う事である。(後に論じる)
この「氏族としての生きる概念」で考えれば、明治期までの「一切の行動」はこれに符号一致する。
筆者は、これを“「共生共存共栄の概念」”と判断している。
「青木氏の氏是」や「家訓10訓」をこの「共生共存共栄の概念」で考えれば外れている事は全くない。
恐らくは、「光仁期の混乱期」の時に「信濃」を含む「福家と四家と氏人」等は、一族を一同に集めて協議したと観ている。
この時に再確認し決めたの事が「青木氏の氏是」や「家訓10訓」であった。
そして、「総合的な考え方」として新たに「氏族の生き方」として、この“「共生共存共栄の概念」”であったと観ているのである。
そもそも「皇親族と賜姓族」を外されたとしても、「氏族の伝統」である「本来の消すことの出来ない役目」、即ち、“「賜姓五役」と「令外官役」”も護ろうと合わせて議論されて決められたと云う事である。)

「上記の注釈」から後勘からすると、「伊勢、信濃」と「近江、信濃、甲斐」の「生きる方向」は真逆であった事に成る。


そこで、この「真逆」であるとすると次の事はどの様に解釈するのかである。

然し、平安期の「近江の和紙殖産」の為に手を差し伸べた「額田部氏の干拓灌漑工事」と、「室町期末期の美濃を三河に引き出して復興させた事」の二つは、果たして「共生共存共栄の概念」によるものであったのかである。
筆者は違ったと観ている。後に詳細に論じる。
「8割程度」は「商いによる戦略」から来ていると観ている。
大まかには“「過去の繋がり」を利用したと云う事”であって、それが「彼らの利益」にも成るとしていたと観られる。

「美濃」に関しては元々「シンジケート」で繋がっていた事も働いたのが2割であろう。
結果から先に云えば、現実に、「室町期末期」に「徳川氏の国衆」から離れて彼らは「シンジケートの経験」を生かして「大運送業(伊勢と信濃の商いと連携)」を営んで自立している。
(後段で論じるが明らかに突き詰めれば「商い」である。
氏是を破って戦闘的な戦いで道を切り開こうとします。)

「近江」は平安期末期に滅亡している事から「傍系族」を引き出して「伊勢の支店」の「摂津」に定住させたとある。
然し、その「近江の行動」は「傍系」であるが故に、且つ、「美濃の様な連携」の中に無かった事で、生き方に落ち着きが無く、過激であって手を焼いた事が判っている。
これ等の「二つの救済策」は、当に、「共生共存共栄の概念」に合致している。


ここで再び検証に戻す。

この結果として、結局は、「初期の(a-1)」は「伊勢」は「18氏・皇女族」、「信濃」では「4氏・皇女族」が「郷士・家人」に入ったと観られる。

(注釈 前段でも論じたが、平安期初期までは「伊勢と信濃」の「避難してきた皇女族」は「女(むすめ)」として先ず入り、その後に「郷士・氏人」に嫁すか、「伊勢の多気の館」などに収容された。
又、先ずは「女(むすめ)」で養育された後に、「四掟」により「公家一門」に嫁している事もあり得る。
その後には、どの「郷士・家人」に入ったかは判らないが、「家人」に成っている「氏人」に入ったと観られる。)

それが、何れでも「子孫拡大」を興し、「伊勢」は「不入不倫の権」で保護された事で最終は減る事は無く、遂には最大の「50士(氏人)の郷士」に成った。
「信濃」では、前段でも何度も論じたが、江戸期まで「時代の変貌」に大きく振り回された。
それでもこの「避難族の4氏・皇女族」が「実質の関係郷士・家人・氏人」に入り、そして、それが拡大して「24士程度(氏人)」の「郷士・家人・氏人」の「氏族」と成ったと云う事である。

つまりは、少なくとも「(a)(a-1)」と、多くしても「(a-2)の一部」が「何れの郷士」もこの中に入る事と成ったものである。
元を質せば、この「24士程度(氏人)」の「郷士・家人・氏人」は上記で論じている様に「(a)(a-1)」で“「真人族の由縁」を持つ”という事には成る。
これが元の所で「血縁根拠」と成り、「信濃」では「郷氏と郷士の関係」が出来上がった事に成る。
「伊勢」とは少し異なるが、「信濃」にはこの形で「氏人と氏上の関係」や「郷氏と郷士の関係」が出来上がったのである。

要するに、上記でも検証した様に「最低でも82以上」の「皇子皇女」が「青木氏の氏族の設着剤」と成ったのである。

(注釈 奈良期から平安中期(仁明期)までの間に、その可能性はあったと観られるが「234程度の皇子皇女」が入ったとする一説もある。
「234と82の違い」は「正式記録と実体との3倍差」であろう。
これは「妾子」や「宮人子」は実際には「朝廷の古書の記録」には載らない。)

この注釈の事は「青木氏の歴史観」に繋がる事なので論じるが注釈のその証拠がある。

「光仁天皇の族」とされた「正式記録」の中には、「青木氏族の追尊皇女」が記録の上でも「4人」は居る。
そして、更にそれには「妾」にも含まない“「宮人」”の子とする「子女の扱い(数は不明)」で多く含まれている。
つまり、ところが「天智期」からの他の天皇にはこの“「宮人・十二女司」”は含まれていないのである。
「光仁期」では主に「青木氏の三世族」までが「追尊王女」であった事が判っているが、この“「宮人子」”は記録には記載しないのが慣例である。
「大化の規則」では「第四世族~第六世族の元王女族」、それと「お手付き」の「十二女司」の「女(むすめ)」の身分のその「女」が記録には入らない。(慣例)

つまり、「上記の検証に入らない女」が「234」にも及んでいた事を証明しているのである。
「后妃嬪妾」の子供、つまり「女(むすめ)」と、この記録外の“「宮人」”と記載されている「お手付き」の「女(むすめ)」の子供があるのだ。
数字的には、実質/記録=2.5倍であった事を認識する必要がある。

「五家五流の青木氏族」には「32(34)」では無く、「第四世族内」を前提としていた検証数字 34・2.5=85(82)でも解る。
この差が記録外の“「宮人子」”が入っていた事に成る。

(注釈 立場上は、この記録外の“「宮人子」”は「天皇家内」には居られる事は無い。
当然に「逃避受入口」が必要に成り、それを「伊勢と信濃」が務めていた事に成る。
「古書の一節」にもこの事が記載されている。
「中国の古書」にも“「宮人子」”の悲劇が遺されている。)

これを「第六世族」までとした場合は、「二世族」が増えるとすれば、凡そは、85(82)・2≒170はあり得る。
更に、これに上記の「妾と宮人」の「皇女扱い」されない“「宮人子」”を入れると、「234」はあり得る。
これが「青木氏の中での実態・皇女数」であったのであろう。

注釈であるが、「逃避受入口」の「青木氏」では「妾子」と“「宮人子」”は、「青木氏の中の呼称表現」では 、「記載」では「女(むすめ)」であって、「呼称」は「ひぅいさま」であったとされていた所以であろう。
「234皇女」が「氏人を含む青木氏族」の中に入り込み、その「青木氏の女(むすめ)」の「子孫」が「氏族全体に増えた事」による「体質」と成った所以と理解される。
故に、これが「女系による妻嫁制度」の「所以」とも成ったし、これらの「システム」に「氏族全体」が何の疑問も持っていなかった所以でもある。

この様に、“「皇子皇女」が「青木氏の氏族の設着剤」”の論は、結局は故に「女系の妻嫁制度」、「女(むすめ)」の制度を構築したとする「青木氏の資料の一説」に成っている。
取り分け、「伊勢」と「信濃」に執つては「234皇女」は「青木氏に深く関わった皇女事件」であって、その関連しない「別の出来事」では無かった。

(注釈 「皇女」は上記の通りとして、念の為に論じると「皇子の受入れ」は「美濃や甲斐」のそれと大きく異なっていた。
上記で論じた様に、「近江、美濃、甲斐」は積極的な「皇子引入策」では「源氏化・皇尊族の名誉・男系」を導く寧ろ方針・方策であった。
この反対策、況や、「伊勢と信濃」は「皇女引入策」で「臣下族・商い・女系」で「氏族」を形成して生きようとした。
「伊勢と信濃」の「皇子の受入れ」は、“「神木の柏紋の使用」を許された「神明社の神職」と「菩提寺の住職」で受け入れた“とする資料の説もある。
筆者はこの説に大いに賛成である。
「資料の説」がある位であるので当時は観えぬ処で受け入れたのであろう。
故に、「皇女族(皇子)」が「伊勢と信濃」の全体に組み込まれた組織体、況や「氏族」であったからこそ、「一氏族の血縁族」の「氏人の郷士や家人」までが、「青木氏の氏是や家訓10訓」は勿論の事、「四六の古式概念の制度(共生族の氏族)」等を護り、それが明治期半ばまでの長く護られたのであろう。)

(注釈 明治期に「伊勢と信濃」の「青木氏」に掛けられた“「社会や政治の圧力」”が無ければもっと長く維持していた可能性がある。
明治9年まで続いた「伊勢と信濃の青木氏」を影とした「氏人の伊勢騒動」はそれを顕著に物語る。)

(注釈 この「青木氏族」に向けられた「政治や社会の反動」は強く昭和の初期まで「密教」であった事さえも「敵視の目」で見られたのである。
明治期3年頃まで「献納」で朝廷を支えていたにも関わらず「青木氏」から観れば「天皇家」は「道義」を通さなかったと観える。
この時から「献納」は終わったとある。)

そして、更に、そこに、前段でも論じた様に、この「234人の皇女の入籍」を「女(むすめ)」として、又、年齢に依っては「多気の里館」等にも「青木氏」が受け入れた事が判っている。
それが上記で検証した様に、「複数回の女系の妻嫁制度」で「郷士」と繋がり、「氏人と氏上の輪」は更に広がりを見せたのである。
「伊勢と信濃の青木氏」はこの様な「特別条件」を成し得ていた「氏族」で長く形成されていたのである。

(注釈 これを「奈良期末期の朝廷」は、「真人の姓諡号」とは別に、「氏族」として特別に認定したと云う事に成ったのである。)

ここに、平安中期から「補完役」として「秀郷流青木氏」が「真人族」と同じ「冠位位階と賜姓臣下朝臣等」を一切同じとして与えて、この「氏族」と血縁的に結合させ、「青木氏族」の「氏族」として認定したのである。
「神明社」を守護神とし、「賜姓五役と令外官」を護り、この「二つの前提」で、「縛り」を護り「姓化せず源氏化せず」の態勢にいた。
この「伊勢と信濃」の二つに成った「原理主義族」を「天皇」は「補完役」で護ろうとしたのである。
元々、補完役は母系族であった。

(注釈 「補完役」に成る前から元から「母方血縁族」であった。)


此処からは、上記の「天皇家」に大きく関わる「234の立場」と「神明社」と「賜姓五役と令外官」を護ろうとしていた「伊勢と信濃の青木氏族」の「原理主義族」と、それを何とか維持させ様とした「補完役・秀郷流青木氏」に付いて論じる。

これには前段でも色々な面から論じたが、要するに「原理主義」であった事に成る。
この”「原理主義」”を利用しょうとする充分な”「朝廷(天皇)の計算」”があった。

敢えてこれに追加するとすれば、この時期は既に“「女系化が進んでいる」”ので「白羽の矢」の役は無く成っている。
とすれば、此処での「原理主義族の補完役」も排除できないのでは無いか。
そもそも、この「原理主義」とは「朝廷・天皇家」に執っては無くてはならない「基本概念」である。
これが崩れれば当然に「原理主義」で成り立っている「朝廷・天皇家」は崩れる。

つまり、「伊勢と信濃」の「皇女引入策」と「臣下族・商い・女系」で「氏族」を形成して生きようとした“「原理主義族」”を一応認めてこれを補完させようとしたとも考えられる。
この「補完役」は寧ろ「朝廷」から接近してきた事に成る。
元々、「補完役」に成る前から元から「母方血縁族」であった。
何も「補完役」とする必要が「青木氏側」には無かった筈である。
つまり、従って、「青木氏側」から観て「過去の経緯」からこれには充分な「朝廷(天皇)の計算」であったと考えられる。

(注釈 「青木氏」の「氏族を形成する制度」や「神明社の社」や「古代浄土密教の概念・白旗派」等の何を執っても全て“「原理主義」”に基づいている。
これから外れているものは無い。
「780年頃」の「光仁期」から「円融期」の「960年代の頃」までには、「氏族としての制度」が確立し、周囲から観ても完全に「原理主義族」と観られていたと考えられる。
そもそも、何時に成っても「原理主義の原点」の「神明社族」である事は変わらない。)

”「神明社族」”とは別に、それを物語るものが「青木氏族」だけが帰依する「古代浄土密教の概念・白旗派」であった。
前段でも何度も論じてはいるが、「14もの法然宗派」の中の「超最小派」であって、それも“「原理主義派」”として“「無視される立場」”にあった事が記録として判っている。
つまり、「円融期」の「960年代頃の以降」には、この「原理主義族」は「社会」はその存在さえも認めない風潮の中にあった事が云える。
取り分け、「原理主義族」を貫いている「伊勢と信濃」はその渦中にあったのである。
相当に世情は厳しいものが在ったと考えられる。

前段でも「特異な伝統」と説いたが、これが当に「原理主義族」と結びついているのである。
筆者は「円融期の補完役」の一面には「朝廷(天皇)の計算」があったにせよこの「原理主義族」を護ろうとしたものがあったと観ているのだ。

ここで「青木氏の総括的な生き方」、況や、敢えて“「原理主義族」“で考えて論じるとする。
この事を理解する事で「青木氏の歴史観」は大きく違って来る筈である。
何時の世も「原理主義」は良し悪しは別として融通性が無い為に排他される。

現実に、「嵯峨期」より「皇女引入策」は、そもそも「青木氏」が「皇親族」から外された以上は「皇室内」では何処も「救済制度」としての「皇子皇女受入口」は無く成っている。
この現状は「天皇家」では遷都を二度もした現状であるしその「財政の面」では「皇子皇女の存在」は無視できないでは無いか。
それまでは「234人」もの「皇女引入策」であった筈である。
この数は「天皇家」では大変な事であり、それは「莫大な財力」と、その吸収し得る「組織力」に関わっている。
誰でも出来る事で無い。
「藤原氏北家」でもその立場からも却って政争の問題が興る。
どんな条件を執っても「青木氏」だけであろう。
だから全ての関係者が同じ立場であったからこの事で「政争」が起こらなかった事が云える。
「救済制度」としての「皇子皇女受入口」があったからに過ぎない。

これは「嵯峨期以降」であっても「234人」程度の「皇女」が出る事は間違いない。
この「救済制度」を急に無く成っては困るのは「天皇家」である筈だ。決して「青木氏」では無い。
幾ら「賜姓の有無」は別としても「賜姓源氏」で臣下させたとしても「皇女」である事には変わりはない。
「皇女」は「自活力」は無く、「皇子の様」に「源氏化」で救済してくれる訳には成らない。
「嵯峨期(820年頃)から円融期(960年頃)までの間の「140年間~160年間」には仮に「234人」程度の「皇女」が出ていたとすると、その処置に問題が興っていたと考えられる。
しかし、ところがこの「140年間~160年間」はこの「原理主義族」はこれをブロックしていたのだ。
それは「嵯峨論説」の影響であった。
「嵯峨論説」が世情にある以上は「青木氏」としても「血縁性」の無い「皇子皇女受入口」と成る根拠も必要性も義務も無い。

注釈として、「青木氏」での「234人の皇女、王女、宮人」の「扱い差」に於いての記録が相当探したが見つからない。

そこで、これを「青木氏の歴史観」で以て検証して観る。

「氏族」としては「234人の皇女、王女、宮人」を受け入れる以上は、そこに起こり得る「支障」と成る「仕来り」とも思えるものが無い。
これは「女系の妻嫁制度の概念」の「成り立ちの所以」かとも考えられるがそれにしても変である。
「支障」があってもおかしくはない筈である。
何処かの資料の一節の「行」に出てもよい筈である。
前段でも論じてきたが、それの答えは、“「女(むすめ)」”の「養育扱い(格式身分)」には“一切差はない”とする「掟」として存在していたではないか。
「光仁期」から「仁明期」までは少なくとも「青木氏の直系尊属・血縁族」である。

そこで、要は「皇女、王女、宮人」は「宮廷内の格式身分差」である。
それがその「尊属ルート」から「青木氏の氏族」に入る以上は論理的には「皇女、王女、宮人」の扱いでは無い。
全ては「青木氏」に執っては「四世族内(最大で六世族内)」の「女、又は「女(むすめ)」までに過ぎない。
つまり、これは言い換えれば、例えば“「子と曾孫」に格式身分として差をつけるのか”と云う理屈に成る。
当然に、「格式身分差」を着けないであろうし、着けるとしたらそもそも「女系の妻嫁制度」は崩れる。

「施基皇子前後」の事に就いては、「五家五流」では、次の様に成っている。

上記の検証で、「天智系0/16」+「天武系4皇子」+「文武系1皇子」=「皇族5皇子」であった。

この記録に載る「皇女、王女」は出ていない。
そして、そもそもこれは「青木氏」では無く、出自元は全て“「藤原氏」”である。
「救済制度」としての「皇子皇女受入口」は青木氏にはそもそも無い。

そうすると、「藤原氏」に関わりの無い「宮人(十二女司)」の「女」は、原則、地元(地方)に帰る事に成る。
ところが、この「宮人(十二女司)」の「女」に付いては、実は「伊勢と信濃以外の三家三流」は、積極的に「宮人(十二女司)」に関わっていた可能性があるのだ。
寧ろ、“出していた”とする事が「資料記録」から読み取れるのだ。
従って、「公的記録」に載らない「宮人(十二女司)」の「女」を「伊勢と信濃以外の三家三流」は引き取っていた事に成ろう。

「伊勢と信濃」は、家柄として「永代浄大一位・天皇次位」で「賜姓五役」である以上、皇室には“「皇女、王女」も「宮人(十二女司)」も出していない”と考えられる。

と云うよりは、「伊勢と信濃の二家」はどの「天皇」よりも「身分、格式、官位、位階」は上位であった為に出さないし出せない。
朝廷側からすると「面倒な氏族」である。
“「原理主義の概念」”が働いていた筈あるし、「天皇家の方」もその様に観ていた筈である。

従って、これを「救済する概念」の”「比丘尼制度」”が確立しておらず未だない時代でもあった事から、恐らくは、前段でも論じた様に引き取るとした場合は、「斎王や祭司王」等を多気の「斎王の館」を通して引き取る事に「務め」として成っていた筈である。
一種の「救済制度」としての「皇女受入口」(「多気の斎王館」)であった。
然し、この「管理維持」は伊勢青木氏であった。
「伊勢青木氏」は釈然としなかった筈である。

(注釈 「比丘尼の仏教戒律」が完全に世間に広まったのは「大乗仏教の宗派・法華経」が広まった同時期と成る。
従って、「最澄や法然の死後」の10世紀半ばであろう。
最低限は、この範囲であった事は納得できるが、この時期では「制度」として造り始めていた「女系の妻嫁制度」には[関わり]は無かったであろう。
「施基皇子没前後716年頃」の事に就いては、その「扱い」は単なる「神明社の巫女」の“「比丘尼という女」”に成っていた。
「光仁期」頃からは、精々、「仁明天皇」、或いは、「仁明天皇の皇子」の「文徳・光孝期 32(34)」までは、「神明社比丘尼」から「仏教比丘尼」への過渡期であったであろう。
それ以後は、“「9つの縛り」”があって「三家三流」にも“「源氏化」”で生きようとしていた為に「血縁性の無い者」までも受け入れて生き残りを図ったと考えられる。
これが平安期末にはこの「源氏化策(皇子の受け入れをした)」で「近江、美濃、甲斐」は「氏族」としては連なって共に平家に淘汰されて滅亡した。)

注釈から、最早、「原理主義」で「源氏化」に応じなかった「伊勢と信濃」の範囲で留まったが、平安期末の「皇女、王女、宮人」の「受入口」は、「血縁性」も「役務」も含めても当然に無く成っていた事に成る。
それ「以後の事」は「正しい資料」が見つからないので判らない。
そもそも「受入口」をしていれば「原理主義」は崩れる。
つまり、原理主義を貫いてきた「青木氏族」は潰れると云う事に成る。
この事が「生き残り」に繋がったのである。

(注釈 「斎王」は、「嵯峨期前」に既に終わっていた。
その後、前段でも詳細に論じたが「嵯峨期後」からはその格式は「斎院」等であった。
「巫女的なもの」で何とか鎌倉期までは形式的に続いた。
この事でもその後の「受入口」は「234」で終わっており判る。
「嵯峨期以降」は記録から受け入れている証拠は「伊勢と信濃」には無い。
「信濃」にも前段で論じているが、「伊勢神宮」に近い様な「大聖域」なるものを持っていて、「伊勢」と同様に「何らかの祭司制度」を持っていた事が最近判っている。
同様に、「234の受け入れ」は連携で行われていた事が証明されている。
「信濃青木氏」として「原理主義族」である以上、明らかに「伊勢」と同様に「祭司王」や「物忌」等の「役務」を果たしていた事が予想が着く。
そして、最近その研究と記録が発見されている。)

「信濃の聖域の詳細」は今後の研究に成る。

取り敢えず「伝統46や伝統48等」を参照。


> 「青木氏の伝統 51-2」-「青木氏の歴史観-24-2」に続く。
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