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Re:「青木氏の伝統 47」-「青木氏の歴史観-20

[No.366] Re:「青木氏の伝統 47」-「青木氏の歴史観-20 
投稿者:副管理人 投稿日:2019/02/03(Sun) 17:08:40
> 「青木氏の伝統 46」-「青木氏の歴史観-19」の末尾
> 「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

>
> それが最初の“「後家」の呼称”であった。
> 正式名は、「光仁期」では、一応、天皇家の「後宮」として呼称されていたが、同じ出自の「青木氏族」では、「家を興す謂れ」から「後家」であった。
> そもそも、「四家内の妻嫁制度」、又は、「四家内の嫁家先制度」として、あり得ない「叔父や兄」の二親等、三親等の「妻」として入る事はあり得ない「救済策(逃避の便宜策)」である。
> これで一応は「醜い政争」から逃れられ、その後は、再び「妻嫁制度」と「嫁家先制度」に依って嫁ぐ事が出来る。
> 将又、「女系の妻嫁制度」の上記の「尼僧、比丘尼僧、斎王、物忌、支女、斎王、斎院、斎宮」と、“「十二女司役」の「女官と采女(上記)」“として生きて行く事か、この「三つの選択肢」が広げられて行った。
> 「朝廷の制度」に見習い「青木氏」には当初から「十二女司(じよし)」と云う「女官」がいた事が判っている。
> 「女系の妻嫁制度」の「全体の事務や雑務」を支える「女官の事」である。
> これには「女(むすめ)」と成らなかった「氏人の郷士」の「他の女」の多くが務めたらしい。
> ここから「福家の支援」に依って「郷士」に嫁に向かったのであろう。
> 恐らくは、「氏人の郷士の娘の救済策」として、「十二女司」を務める事でここで同じく「女(むすめ)」としての「教養」を身に着けさせたのであろう。
> これは「氏人の底上げ策」であろうし、強力な絆構築であったし、「第二の女(むすめ)策」でもあったと観られる。
> これも男系では無く「女系の妻嫁制度」で「堅い絆」が構築されていた事が判る。
> 故に、この経緯の中の制度の「後の家」なのであり、それなりの「青木氏族」の「意味」を持っているのである。
> この「後家の言葉」の「構成と表現」が如何に「青木氏族の所以」であったかが判る。




「青木氏の伝統 47」-「青木氏の歴史観-20」
「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

更に「青木氏の歴史観」に関係する「呼称」について更に論じる。
先ず、前段の「後家の呼称」に関係する「比丘尼」に付いてである

「紀州藩」の代々の藩主の「比丘尼寺」が筆者の家の近くにあって、それをサポートしていたお家があった。
これは恐らくは「伊勢青木氏との付き合い」から「初期の紀州藩」はこの制度を敷いたと考える。
この「比丘尼の寺」は小山の西の下は直ぐ海岸沿いに面し、東と北の下は小さい湖で、南は急な山手にあり、この小山を「比丘尼山・びくにやま」と呼称していて、その南の山手に世話をする「農家の人」が住んでいた。
そして、この寺に通ずる道は狭い道一本であって、子供の頃の昭和20年初期の頃は未だこの「古びた寺」に「老女の比丘尼僧」の二人が住んでいた。
この農家の息子と友人であった為に見学をした事がある。
祖父と父からこの時の「経験」を話し、「伊勢青木氏の比丘尼寺の事(松阪の寺名は匿名にする)」を聞いて不思議に思った事がある。
その後に「伊勢の歴史」に興味を持ち勉強し始めた。)

(注釈「祖父・先祖」は、「紀州藩の14代の方」までの「初代からの長い付き合い」が続いていて、「歌や俳句や詩吟や茶道や禅問や南画や書道等」の「素養の師匠」もしていた。
この故あって、「代々徳川氏からの贈り物の遺品」が多くある。
「比丘尼寺の事」もその後に「松阪の寺」と合わせて良く理解が出来た。
前段でも論じた様に、「女墓の慣習」が無い限り「姓族」には「比丘尼寺」は普通は無い。)

(注釈 当時の江戸初期の慣習では普通は“「分寺」”を持つと云う「仕来り」は「氏族の菩提寺」があっても少ない。先ず経済的に持ち得ないだろう。)

筆者は、「後家の比丘尼」が起こる原因の一つは、前段でも検証した様に婚姻の可能な年齢差のこの「10歳」が婚姻の際の「仕来り」か「掟」と成っていたと観ているので、これが原因であろう。
これは、「入り妻側」に執っては「四掟の範囲」では「厳しい掟(10歳)」に有ったと考えられる。
「無制限の入妻」に執っては、「10歳の年齢差」が合っても「有制限の嗣子(48歳引退)」に比べれば、「40年間」は「長い事」に成り、又、直ぐに婚姻できない「煩わしい入妻の掟」があったとしても、間尺に合い「比丘尼僧」として「下界から隔離される掟」は「苦しい掟」とは成り得なかった筈である。
故に、「比丘尼」が起こる原因と観ている。
殆どは、「継承者」と「母と成る入妻(義母)」との間には「親子関係」の制度は、多少の「母性の情愛」が合ったとしても「女系の妻嫁制度」の「掟と仕来り」での原則は無いのであるから、それはそれとして「氏族の定め」の「当然の享受」として理解すれば「40年」と合わせれば「比丘尼」には「寺に入る事」への理解が出来ていたと観られる。

何故ならば、上記した様に「掟に反する母性の情状」が働き、「好ましくない結果」を招きかねないし、「掟」そのものが根底から崩れる事を知っていたし、その様に「入妻」として教育されて来た筈である。
「四掟の氏族での血縁ある事」を前段でも論じた様に「女系の妻嫁制度」が浸透していてこれを知っていて「入妻」として入って「妻嫁制度の伝統」があった筈である。
「嫁家先制度」で「祖母(出妻の先祖)」からも充分に教育されていた事は確実である。
故に、云うまでも無いが「女系の妻嫁制度を壊す不理解」が起こらない様にする「四掟」を前提する血縁なのである。
「四掟」を合わせれば「不必要な不理解」は起こらいは必定である。
この事を理解していた上で「後家」や「比丘尼」に成るとするならば「入妻」に成るとする「当然の心構え」が必要と成ろう。

ではこれを如何していたのかである。

そこで注釈として、考えられる事として、「四掟の範囲の青木氏族間」では、“「入妻の決定(許嫁)」”は定まりやすい“と上記した。
然し、そうすると、”「早熟」“と成るならば、この「早熟」に対して何もせずに座視するは得策ではない。
その為に「何らかの策」を構築したと筆者は観ている。
“「入妻」として{待つ期間}”を「相手先」は“「許嫁」“と云う「制度」で早期に補完していたと考えられる。
然し、例えば、「伊勢や信濃の青木氏側」ではその「許嫁の制度」があったかは疑問である。
唯、だとしても「全ての相手先」が「許嫁の制度」を持ち得ていたかも疑問である。

奈良期に執った数々の制度から観て、取り分け「妻嫁制度と嫁家先制度」から奈良期に「入妻」が成立している事から考えると、必然的に“「許嫁」”もこれに「連動する制度」として「特定の階級」には合ったとは考えられる。

上記の検証から考えても、「入妻」と「許嫁」は「対の物」として咀嚼しなければ成り立たない。
故に、これは「青木氏の歴史観」として考えられる。
これが後に「青木氏」から世間に広まったと観ているが、ところが、この“「許嫁の文字」”が存在する資料からは何故か散見出来ないのである。
これも何故なのか大いに疑問である。

その事に就いて先に考えて観た。

「青木氏」からの「許嫁」は「出妻」に関わる事であるが、次の事が考えられる。

1 「四掟の相手の血縁源」への「出妻」には「許嫁の制度(公家族)」が無かった事。
2 「青木氏側」に文書の中で「許嫁に代わる呼称」が無く別の呼称があった事。
3 「若年婚姻(女性)」の概念」が浸透し、元々、「許嫁の呼称」がなかった事。
4 「許嫁の概念」が実質は「武家貴族」には格式から低く考えられていた事。
5 「賜姓五役と云う役目」に「呼称」が沿わなかった事。

以上の事が考えられるが、「青木氏」にはこれが全て適用される。

そもそも、そこで「青木氏」から離れて、「公的に成っている記録」から観て使用された時期は”「平安期中期頃」”からと成っている。
その理由は「政争」から「摂関家」が「天皇家」に対してその「勢力」を伸ばす目的から「天皇家」に対して「后妃嬪妾」として「事前に送り込んだ政略」から起こったとされている。
その「許嫁の呼称」の記録は、その少し後の”「平安期末期」”に観られると成っている。
その後は、「摂関家」も”「平安期末期(三条天皇以後から後三条天皇で隔絶)」”には「天皇家との血縁関係」が無く成り、「摂関家の許嫁の制度」は一時衰退したとされる。
その後の”「室町期」”には、「姓族の豪族(室町期)」が政略結婚で勢力拡大に使われたとされる。
”「江戸期の中期」”に成って「力のある民(庄屋、豪商)の領域」まで広く使われたとされる。
然し、ところが「許嫁の意味合い」は違って使われる様に成って行ったとある。

これが許嫁の歴史的経緯であるとしている。

従って、最初の「許嫁の言葉と制度」としては「平安期中期」から使用される事に成った事に成るので「青木氏族」には無いのであろう。

ところが、時系列として観て「青木氏族」に於いては、「光仁天皇期頃以降」に「女系の妻嫁制度」等を敷いた事に成るので、「許嫁システム」としては存在するも「許嫁の呼称」を使用していなかった事にも成る。

では、“どの様な言葉が使われていたのか”と云えば、「青木氏側」からすると、”「女(むすめ)」”という制度の字句で記録されていたと考えられる。
そうすると前段でも論じた様に、その「実際の呼称」は、「青木氏」では「比売さま(ひうぃさま)」であった事に成る。
つまり、この「女(むすめ)」と「比売さま(ひうぃさま)」の「二つ」が「青木氏」に存在するのに「許嫁」の「制度と呼称」が存在する事は「制度的な論理的矛盾」が起こり合わない。

そもそも、「比売さま(ひうぃさま)」には、元より「許嫁の意味」も含んでの呼称であった筈である。
何故ならば、「女(むすめ)」の「比売さま(ひうぃさま)」は、元々は「その立場」に合って「福家」で養育を受けていたのである。
従って、「養育を受ける」と云う事は、何時かは相手は兎も角も「嫁ぐ事」には間違いはないからであり、そのための準備期間であった。
そこで、“個々に相手が既に決まっていたか”は確定する資料がないので定まらない。

然し、筆者は大方は定まっていたと考えている。
その根拠は、「青木氏族」である「補完役の秀郷流青木氏116氏(960年頃)」と「秀郷流一門主要五氏の血縁源361氏」の「大血縁源数」を考えれば、「補完役の掟」として「四掟制度」を敷いている限りは、少なくともその都度では間に合わない事は明々白々の事である。
この為には「相互の執事役」は「相互調整」を常時執っていた事が制度の一環として伺える。
そうでなければ、「女(むすめ)」の「養育制度」と「女系の妻嫁制度」と「嫁家制度」は成り立つ話ではない。
これは、「女(むすめ)」の養育制度を敷いている限り「氏族の絆」を固める「氏人への血縁制度」も同然である。
従って、「四掟の制度」を大前提にする限りは、「許嫁の呼称」は、兎も角も「大方の嫁家先」は「執事間の間」で「調整」が「公然の事実」として行われ出来ていなければならない。

つまり、前段でも論じた様に、「女(むすめ)」の「数」が“氏族の中に少ない”という事もあり得た事もあるが、ここに「4」の「玄孫域」とか、「5、6、7」域までの「女(むすめ)」の養育をする必要は無い筈である。
明らかにこの「4~7の域」は「執事間の調整」のその「結果の表れ」が原因していると観ている。
唯、「女(むすめ)」の「数」が“氏族の中に少ない”と云う事に関しては、その可能性は低い。
何故ならば、下記の事が理由として云える。

上記の「性に依る発育過程」から“少ないと云う事”は補える事。
平安末期までは「五家五流賜姓青木氏」から、鎌倉期からは信濃と一部近江からも補える事。
「伊勢の50の氏人」と「信濃の50の氏人」と、未だ「四掟の範疇」に遺っていた「近江佐々木氏と近江青木氏の宗家」から補える事。

以上の「三つの事」を鑑みれば、“氏族の中に少ない”という事は無かったと観られる。

これを検証して観ると、「361氏の全て」を「嫁家先」とするのは別として、「同族補完役の青木氏族」の「116氏」の「嫁家先」に対して次の様に成る。

仮に氏=1として、116氏/(50伊勢+50信濃+10近江)≒1

以上の関係式が成り立つ。

上記の計算は、「子供=1とした前提」であるから、つまり、この「嫁家先=1の数式」が成り立つ様に、「女(むすめ)」の養育範囲を「4の玄孫域」までを基本とすれば充分に成り立つ事に成る。

この数式論から、次の関係式が導かれる。

「116氏+公家範囲(20)」+(361氏/5氏:主要五氏限定)≒208

「玄孫域」までとして「4の倍数」と成るが、この「3地域」のその「子孫力」が「4の均一倍数」とは成らず、それを見込んで観ると次の様に成る。

「伊勢4+信濃2+近江0,5」/3≒2

以上の関係式で平均=2と成る。

従って、平均の子孫力=110・2≒220

「全体の子孫力」の相互バランスは、∴ 208/220≒1

以上でほぼ成立する事に成る。

これが「青木氏族の氏族としての血縁力」に成り、上記の数は“少ないと云う事”は無かったと考える事は出来る。
そうでなければ「玄孫域の理屈」は成り立たない。

この検証の関係式から観れば、「女(むすめ)」の養育域は「孫域」でも充分に良い筈であった。

もっと云えば、「伊勢と信濃」の域で、「孫域:2」≒「平均子孫力:2」の数式論で何とか成り立っていた事に成る。

仮に「曾孫域」までならば、「曾孫:3」で、次の数式が充分に成立する。

(伊勢の50+信濃の50)・「孫域:3」=300

故に、300>208が成立し、“少ないと云う事”という事のみならず、「許嫁の制度」のみならず、その「呼称の必要性」は、「比売さま(ひうぃさま)」の「呼称に持つ意味合い」で充分であった事が証明できる。

但し、そこで「玄孫域」までの制度を現実に採った事は資料からも明らかであるので、これは「近江域10」と「信濃域50」に、“ある事”で賄えなくなった事を意味する。

では、同時にこの“ある事”が起こった事に成るので、それは何かである。
それは、室町期の「下剋上と戦乱」にあったと観られる。

「平安期末期の近江域と美濃域の青木氏の参戦後の衰退」が長く続き、「衰退」は室町期末期まで持ち込んだ事、
それと同時に室町期の「信濃域の国衆の侵入による弱体化」が「信濃青木氏」を弱めた事、

以上の「二つの事」が起こって仕舞った。

そして、「伊勢青木氏」だけが無傷で生き残り、逆に、「室町期の紙文化」に依って「巨万の富」の勢力を確保した。
その「巨万の富の事」で以て、「信濃域」を引き上げ助け「青木村」に独立させ、「近江域」は「末家の分家」を引き出し「近江域」と「摂津域」とに蘇らせた。

(注釈 この「美濃域」では、「伊勢」と持ち直した「信濃の青木氏の勢力」が「青木氏の旧領地の一色イ」から「塩尻の山間域ロ」にかけて隠れていた「美濃青木氏の主家の末裔イ・蒲郡青木氏」と「美濃の土岐氏系青木氏ロ・伊川津七党の田原青木氏」を引き出して「国衆」に仕立てて「経済力の支援」と「生きる為の近代武力:鉄砲」を与えて成功している。)

前段でも論じたが、「秀郷流青木氏との関係」を継続させる為にも、この間の「伊勢域だけの子孫力」に頼らざるを得なかったと云う事である。
これが「4の玄孫域」であり、非常時の「5、6、7域の顛末」にあったのである。

参考 特別の範囲
5 来孫(らいそん)
6 昆孫(こんそん)
7 じゃく孫(じゃくそん)

以上と成る。

そうすると、上記の検証から「相手」を固定して「許嫁」までして「女系の妻嫁制度」を敷く必要性がなかった事に成る。

従って、後はその相手に応じてどの「比売さま(ひうぃさま)」を嫁がせるかに依ると考えられ、その「養育具合」を見定めながら「許嫁先・執事の差配」が凡そ決まって行くシステムに成っていたと考えている。

注釈として、そもそも「比売さま(ひうぃさま)」が大きく関わっていた事に成るとすると、この“「比売さま(ひうぃさま)」の「語源」が何処から来たのか”と云う事を知る必要がある。

そこで、これを紐解く。
先ず、古代の“「売る」“の「韻の語源」は、“「自分」を「相手」に「認知」に至らしめる“と云うものであって、貨幣経済が深化するに従ってその結果から「対価の有無」は別にして、”物を相手に渡す行為として使われる言葉“にも成って使われて行った。
決して「売り買い」が主の語源では無かった。
それは「市場経済」が未だ成立していない世界の中でこの意味合いは無かった。
飽く迄も、“「自分」を「相手」に「認知」に至らしめる“と云う単なる単語であった。

更に、「比」の「敬いの言語」も、“「ある物」に対して「別の物」の方が良い”とする行為が「別の物」を「優位に至らしめる言葉」として用いられる様に成った。
これがある物に対しての差を以てして「敬いの言語」と成った。
この「比」の源は、前段でも論じた様に、人間に言葉が生まれた「母音(アオウエ):母韻」に対して「イ」が含まれていない。
これは「イの音韻」は「父音(チイキミシリヒニ):父韻」に含まれ「ヒとイ」は「父韻」に所読する別格の韻音なのである。
つまり、「イ」と共に「ヒの父韻」は「父の尊厳」の「語意」を持った「初期の語源」なのであって、「優位に至らしめる言葉」=「敬いの言語」として用いられていた。
後に、この「二つの意味を持たせた造語」の「韻音」が「青木氏」にだけ遺された“「比売」”と成り、「父韻側」を強め「後側」の「母韻」を添えて「売」を「韻」にして弱め「比」を「主」にして出来た「祖先神」に伝える「神への言語」と成った。
従って、この「二つの意味を持たせた造語」には、“「相手」に「優位」に至らしめ「認知」に至らしめる“と云う「意味合い」を持った言語であった。
つまり、元よりこの「造語の語源(比売)」には、「許嫁の様な意味合い」を含んだ「古来の呼称用語」であったのだ。

(注釈 これは「青木氏の歴史観」であるので、この事を知るか知らぬかで大きく意味が異なり、「真の史実」を見逃す事に成るのだ。)

(注釈 「青木氏」はそもそも「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」を「守護神」とする“日本広し“と云へど「唯一の氏族である事」を知り、これを「前提とする事」を知る必要があり、全ての解釈はこれに依って変わる。
全ての歴史的事項に関して「神明社の概念」が左右している。
「青木氏に存在する言葉」の語源はそれだけに難しいのだ。)

つまり、「女系の妻嫁制度」の如く“「女性」”が司る「神」への「呼称用語」であって、その役目の「皇祖神の斎王」と同じく「祖先神」の「比売(ひうぃさま)」も同じ位置にあったのだ。
従って、前段から論じている「女系の妻嫁制度」は必然で同然に「神明社(神仏同源)の概念」なのであり、突然に「女系の妻嫁制度」を敷いた訳では無く、「氏族」として存在する以上は「男系」は論理的にあり得ないのである。
何れにしても「氏族」としては特異なのである。

要するに「光仁期から仁明期」までは「斎王・いつきのきみ」も「比売・ひいぅさま」も「青木氏」から出ている所以である。
「王・きみ」は「様・さま」と「同源の意」である。

つまり、「許嫁」に関する論議は、「神明社の概念」を思考の中に入れれば、「女系の妻嫁制度(=「女(むすめ)」)」と連動していた「嫁家先制度(=許嫁=比売さま・ひいぅさま)」であった事に成る。
従って、「連動するシステム」はあっても、“態々、「許嫁」と云う呼称は無かった”とする結論であって、且つ、“その必要性はなかった”と云う事に成るのだ。
もっと云えば、「神明社の概念」を思考すれば「許嫁」と成る制度は、本来、「品格を落とす所以」と考えられていた事に成る。
「賜姓五役」からも「許嫁の意」はあり得ない理屈であり同然であるのだ。

唯、「藤原北家一族」の主幹の「補完役側の青木氏族(主要五氏)」には「許嫁の呼称」は、「三条天皇期(976年)」~「後三条天皇(1034年)」から無いとする。
「秀郷流青木氏(960年)」にも、「犬猿の仲であった摂関家」にはその「公的な資料」の「許嫁の呼称」が「摂関家に合ったとする研究記録」がある。
この説と照合すれば、「許嫁の呼称」は「補完役側の青木氏族(主要五氏)」にはあった事が考えられる。
「神明社」では無く、「賜姓五役」ので役務は無く、強いて「許嫁の呼称」を排除する必要があったかは疑問である。
然し、前段でも論じた「神明社=春日社(摂関家菩提寺の「興福寺事件」のきっかけ:神仏同源の採用事件)」の関係からすると、充分に避けた事もあり得る。
「神仏同源の事件」である以上は先ず避けるであろう。
唯、「妻嫁制度での概念」が「嫁家先に浸透」が起これば必然的に消えた事もあり得るが、確認できない。

筆者は「消えた説」である。
敢えて、「後宮制度」の様に「摂関家の衰退の原因」と成った「摂関家の真似」はしないであろう。
仮に「許嫁の呼称の有無」が、「北家秀郷一門」にあったとすればそれは「近江」に赴任していた「秀郷流近江一門」と「秀郷流脩行系青木氏」の「二つの氏」にはあった事が伺える。
取り分け、「摂関家」と大きく繋がっていた「秀郷流脩行系青木氏」にはその可能性が高い。

(注釈 後の平安期末期に「摂関家」と「秀郷流青木氏の主要五氏との血縁」を考えれば、その影響から考えればある筈の「証明する資料」が見つからないが,“無かった”とは云い難い。)

それは何故なのかである。
「秀郷流青木氏」には、特別に「116氏に繋がる姓族の存在」が「現地孫」としてある以上はこの「現地孫の姓族」を一門として引き付けて置くには、又、組織を維持するには「姓族」に向ける「嫁」は必然的に必要に成る。
但し、「宗家筋」には、「純潔性を保持する義務:高位の立場」があった事から考えると、「現地孫を設けない掟」があった事から“「許嫁制度」は無かった”と考えられる。
この為に、「分家筋の傍系尊属族」の中では「許嫁の制度」は「室町期の資料」の中には認められるがそれ以前は判らない。

では、「秀郷一門」の「青木氏側との血縁時」には「許嫁の呼称」は使っていたかは疑問で、「四掟の範囲」での血縁であった事から筆者は使っていなかったと考えている。
「物理的な視点」で考えれば、「女系の妻嫁制度(=「女(むすめ)」)」と連動していた「嫁家先制度(=許嫁)」の“「システム」”が別の形で相互に敷けている以上は、「比売さま(ひいぅさま・下記)」で充分に成り立って行けていたと観ている。
つまり、「妻嫁制度」と「嫁家先制度」がある以上は論理的に矛盾が生まれる為に「入」と「出」も重複するような「許嫁制度」としては無かったと云う事に成る。

「ひうぃさま」の意味に含まれる「許嫁の考え方」が「氏族」としては「初めての事」であって、「呼称」とその「制度」は「青木氏族」には無かったと云う事に成る。

「妻嫁制度」と「嫁家先制度」のこれは「奈良期の末期(770年前頃:記録から第四世族が認められていた)」から始まった事で、「公的な記録」にある「藤原氏摂関家」の「許嫁制度」は「平安中期の頃(890年頃)」である。
そうすると時系列的に観れば、これには「約100年の差」があり、「四掟の範囲の公家族」と「青木氏」との間で盛んに行われた「慣習仕来り掟」が、「摂関家」の中にも「許嫁の制度」として取り込まれて行った事に成る。
これが「960年以降」に「補完役の秀郷流青木氏」との血縁にも採用されたと云う事に成る。

(注釈 「公的に示されている記録」には、“「許嫁」”と云う文字は出て来ないで、説はあやふやな表現と成っている。
「青木氏」と同じく「血縁の基本概念」(神明社の概念)として採用されていたと観るのが正しいと観られる。)

この記録には、“「天皇家の后」に対して「摂関家の権勢」で先に決めていた“とする「摂関家の中の記録」に依るもので、”「摂関家」の中でも「家」と「家」の間で「男系」の基で「女子」を「政治と権勢の具」として用いられて行われていた“とする記録である。
「青木氏」の「賜姓臣下朝臣族の五家五流の間」と「公家との間」の「四掟」にて「女系の妻嫁制度」の基で行われていたとする事と制度的に少し異なる。
つまり、”「100年後」”に「青木氏の基本概念」だけを用いたと観ている。

(注釈 「嵯峨天皇」が編纂した「新撰姓氏禄」やその他の「三代格史書」には、「敏達天皇第四世族春日真人族」の「四掟の真人族」として位置づけされているのに対して、「藤原氏摂関家」は「神別格」に位置付けられている。
この事から、少なくとも「血縁に関する慣習仕来り掟」に於いては「皇別格」の「青木氏の慣習仕来り掟」が優先され、「神別格の摂関家」は「平安期初期の嵯峨期の詔勅禁令」に依って「家の制度」として用いる事が出来なかった筈である。
故に、「青木氏の直系尊属」の最後と成る「仁明期:850年」の後の頃からこの「禁令」が緩み「血縁の基本概念」を使用するように成ったと考えられ、時系列の検証と一致する。
依って、その少し後の「平安中期の記録:890年頃」に採用したと成っていると観られる。)

(注釈 元に戻して、「青木氏族」には上記の検証は、「継承年齢」や「停年年齢等」を「要領化とした本」があった筈であるが、恐らくは、この「要領本」なるものは「二度の出火」や「伊勢攻め」等の事から消失したと考えられいる。
一番最後の「明治35年の松阪大火」のこの時の「戒め」として「口伝」でも、重要な記録等を一度外に出したが他の類焼した「他家」が「丸焼け」に成っているのに「失火元」が「資産」を遺す事は「道義」に反するとして、再び火の中に入れさしたとある。
「曾祖父」はこの時、改めて「青木氏の由来書・伝記」を“復元せよ”と云い残したとある。
それを最終、筆者が何とか復元した事に成るが、解明できない事は筆者の伊勢も含めて多い。
遺るは「伊勢の氏人や家人の家の遺された資料」や、「信濃青木氏の資料」や、「近江佐々木氏の研究資料」から割り出したものを集めて「読み込み」をしその中での散見で紐解いた事であった。
そこに「論理的な計算」を加えて導き出して確定に及んだもので、まず間違いは無いと考えられる。)

そこで「注釈」を更に検証するとして次の事が挙げられる。

この「妻嫁制度」で「母」と成り、上記の要領で「継承者」が決まると、呼称は、「母」は「全体の母」であって、ある「四家」に居るその「義母(ひごさまの呼称)」は“「後家様」”と云う呼称で呼ばれたとある。
この「重要な呼称」と成る“「義母(ひごさまの呼称)」と「後家」”に付いては、「青木氏族の資料」等にも多く散見できる。

次に、「光仁天皇の后」と成った「井上内親王」は、「妃嬪妾」と「二世族や三世族」に対して「厳しい軋轢(怨念説)」を起こしていたらしく、これを恐れて「後家」等に成る等の「人生の選択」をして「上記の保護支援の施設」に入る等の策を選んだとする資料も一部の資料からも読み取れる。
その後のこの「怨念事件」の「公に成っている記録」、つまり、「政争から来る怨念説」には、この事からの影響に依る「後家の類似の論説」が記載されている。
「光仁期」の「朝廷で起こった政争事件」と「青木氏で起こった影響・後家等」が一致している事から「前者の朝廷の怨念説」と「後者の青木氏の軋轢説」の事は否定は出来ない史実と成る。

更に次に「青木氏の歴史観」として「義母(ひごさまの呼称)」と「後家の呼称」と同じくもう一つ「下記の呼称の事」が重要であるので特記する。

筆者の研究では、奈良期の古代は、「義母(ひごさまの呼称)」も「女(むすめ)」も「元の発韻」は同じで”「ひいぅさま」”であったと考えている。
そして、何れも「家の女」に対する「ひの{敬いの意}」で用いていたと考えられる。

ところが、奈良期末期から平安初期に「女系の妻嫁制度」が確立されて行き、そこで、「女(むすめ)制度」の「養育制度」の過程で、「義母(ひごさまの呼称)」」と「女(むすめ)の呼称」を分ける必要が生まれ、「ひ」に対して「「義母(ひごさまの呼称)」には「妃か嬪」の字を宛がい、更に敬語をつけ備えて「韻」で「御のごぅ」で“「妃・嬪御さま」”で対応した。
そして、「女(むすめ)」に対しては「ひうぃさま」の呼称で遺した。
「売」は「韻」で「うぃ」として「ひうぃさま」で「ひいさま」と呼称されていた。

「神仏同源の立場」からであると考えられるが、「扱い等の差異」は左程なく、従って、その呼称は「比(ひ)」に対して「義母(ひごさまの呼称)」が俗世から離れて成る”「比丘尼」”の「丘」は「韻」を踏んで「きゅぅ」と成り、「比丘」は「ひきゅぅ」と呼称していた。
つまり、「比売さま」は「ひうぃさま」に対して、「比丘さま」は「ひきゅうさま」と呼称されていた事に成る。

「女(むすめ)」の「比売さま」が務める「巫女」も「比丘」も同源であり、次の様な「同格の位置」にあった。

「女(むすめ)」=「比売さま」=「巫女さま」=「比丘さま」=「神仏同源」=「神明社」

何故、この様に成るかは同然の事で、「皇祖神」の「内宮の天照大神」と「外宮の豊受大神」は「女性」である。
この「子神」である「祖先神の神明社」である限りは「神仏同源」とすれば、「義母(ひごさまの呼称)」の“「比丘」”は「女性」と成るは「同然の事」である。

(注釈 ここに平安期末期頃から「世間との隔離」が生まれ、「特異性が際立つ事」と成って行ったし、「賜姓五役の務め」も「青木氏の慣習仕来り掟の伝統」も一切に「世間との隔離」が出て来た。
これは、“「青木氏が興した」“と云うよりは、「世間の変化」が「青木氏の世間との隔離」を起こさせたと考えられる。)

注釈として、因みにその「世間の変化」が顕著に成り、結局は“「青木氏の氏是」と「家訓」”をより強硬にして「世間に出る事」に対して護ろうとしたのである。(A)
「世間」に出れば益々起こるこの「差異の特異性」から「潰される」が落ちである。
これが「室町期(姓化)」にはそれが「最大」と成った。
幸いにして「紙文化」が起こり「商い」を前面に押し出し「巨万の富」を獲得し「青木氏」を影にして生きた。)(B)

「結論的な説」としては、「世間」とは逆に「有形の氏」を極力抑え、「無形の商い」の「伊勢屋」を前面に押し出した。
この「二つのAB」が「伝統の青木氏」を救ったと云う事であろう。

それだけに江戸時代初期頃には未だ世間にも僅かにその「存在と権威(“伊勢の事お構いなしの家康の「お定め書」”)」は知られていた。
然し、現在に至っても世間には歴史に相当に見識のある人以外は「青木氏とその歴史」は知られない所以である。
「江戸期」に出した「歴史学者の近江佐々木氏」の「自らの氏族の研究記録」と共に「近江佐々木氏の青木氏の研究記録」も世間には出さずに「非売品」としていた意味合いが良く判る。
この「非売品」は少なくとも「二つの青木氏族の宗家筋」には存在していた筈であるが消えている。

(注釈 「近江佐々木家宗家」に遺されていた書籍を1690年頃に一度見直したとあり、その後に明治期(明治10年)に「近江宋家の佐々木氏(東大教授)」が「過去の研究記録」を更に復元したとある。
これが「国の史書」として保管されている筈である。)

この「佐々木氏」の「江戸期の研究記録」には遺されている事から「入間の遺品」も空襲で殆ど焼失したと観られる。
兎も角も「サイトの意味合い」はここにある。

上記の「青木氏の各種の呼称」は、これは「嵯峨期の詔勅禁令」に依って「同じ語意」のものの使用が許されなかった所以である。

そこで室町期から使われた誤解を招いている“「姫」”の基は、「中国南北朝」の頃(440年頃~590年頃の間)の「王朝の姓」で、その後も専ら「中国」で使われていたものである。
それが「大和」では「ひめに類する言語」としては皇室内では一般に“「嬪・ひめ」“が長く用いられていた。
「皇別(真人族)」に類する「祖先神」を有する「青木氏」では、上記している様に「比売・ひうぃ」が用いられていた。
ところが「武家社会」と成った「鎌倉期頃」からその「慣習仕来り掟」が踏襲する事は出来ず、況して、「姓族イ(主に神別)」には「比売さまの呼称」は到底に無理であり、結局、「中国の王朝の姓」を用いて「権威性」を持たせて「姫」を使う様に成った。
「室町期」に入り規制の無い「民」から身を興した「姓族ロ」もこの「姫」を盛んに使用した。

それは、どの様な根拠に基づいて使われたかは、初期の頃の「姓族ロ」の元は、「後漢の第21代献帝の孫の阿多倍王(589)年」が引き連れて来た「職能集団の渡来人の末裔(姓の初代は「海部氏・陶部氏」である)」であった事に依る。
この「中国の王朝伝統」を引き継いで来た「帰化民族(姓族ロ)」が、初期に使い始め「姓族イ」もこれに準じて「姫の呼称」を踏襲した。
要するに、「姓族イ」は「嬪」と「比売」を「嵯峨期の詔勅禁令」で使えなかった事に依り「姓族ロ(主に諸蕃別)」に準じたのである。

つまり、それまでは前段でも論じたが「青木氏の女・女(むすめ)」は、そもそも、「伊勢神宮の斎王」の例に観られる様に、“「神に仕える」”の位置にして「臣とする立場」にはそもそもなかった。

同然に「特別賜姓族」で「補完役の秀郷流青木氏の主要五氏」も「春日社」を守護神とする為に「宗家筋」に於いては「姫・ひめ」は無い。
(「現地孫の姓」は認められている「分家筋」にはあった。「春日社」は「春日神社」ではない。)

これらの「青木氏族の独特の呼称」を咀嚼して、注釈の前の「後家の話」に戻す。
そして、何故ならば、この「斎王と斎院(斎宮)」は、結果として務めが終われば、「青木氏族の管理下」にある“「伊勢多気郡明和」”の“「斎王の里」の館”と呼ばれていた処に入る事に成る。
結果としてその「プロセス」は同じ事に成るからである。

上記の注釈の「姫」では無い事の二つとして、この「斎王の館の存在」がそれを証明し、「姫」が「斎王の館」に入る事はどの様な「仕儀の変化」があったとしてもあり得ない。
依って、「姫」は「後家」に成り得ないのであって、「後家と姫」との間には論理的矛盾が起こる事に成る。
形式上、“「後家」”に成ったとしても、その「後の扱い」は、「女(むすめ)」の「掟」の中に依然としてある。
「姫」は「女(むすめ)」の定義の中に無く、且つ、「神明社の概念」に沿わない。

それは「伊勢」とは異なり「信濃の周囲」は、「姓族の土豪」がひしめいていて「小県の信濃青木村」も全国を武力を使って「弱い処」を狙って渡り歩く“「国衆」”の多い地域として知られる程に安全では無かった。
「信濃」は、平安期はそれなりに「天領地」であった事から一時は「不入不倫の権」で護られていたが、室町期の「下剋上」と「戦乱」では「抑止力」で押し返す程の完全の力も無く無視された。
この時の「伊勢からの援護」は「経済的なもの」に留まり、鎌倉期からは前段でも論じたが「伊勢と信濃間」の間には「衰退した美濃域」があり「抑止力の完全な援護」は低下していた。
室町期では「美濃域の神明社などの中継点」が排除されていたことが原因している。
室町期末期にこの為の対策を採った。

(注釈 それは一色域で隠れ潜む「美濃青木氏」を「経済力と武力」を持たせて引き出し「蒲郡青木氏」を置き、同様に対岸の田原に「伊川津七党」として再興させて「美濃土岐氏系青木氏」の「田原青木氏」を「国衆」として置いて再興させ、「伊勢」からの「海運の要所」として湾内を占有した。
そして、「近代銃」で「国衆の傭兵」で完全武装させた。この「銃」で三河の松平氏は拡大する。)

この上記の「後家」が、その後に直ぐに慣習化して「制度」、つまり、「後家制度」として成り立ち、この”「後家」”を利用した「斎王の里の館の道筋」の「慣習制度」は「仁明天皇期(850年頃):青木氏の直系尊属」まで続けられた事が「青木氏族の資料」から読み取れる。
その後は「清和期」に「1件の記録」が読み取れるが、その後の「後家としての言語」は資料からは何故か出てこない。

これは恐らくは、「天皇家からの四世族の条件」と「仁明期後の直系尊属」から外れた「二つの事」が大きく原因していると観られる。
つまりは、「後家の隠れ蓑策」が、「天皇家」に於いて「男系の皇位継承」が順調に進み「喫緊の問題」とは成ら無く成ったと云う事であろう。
「青木氏族」から「天皇家に関わると云う事」が無く成ったと云う事にある。

ところが、然し、「伊勢青木氏」の中では、この「後家制度」と「ひいさま」の呼称の二つは、「口伝」で伝えられる範囲では“「ある程度の形」“を変えて明治35年まであった事が書かれている。

この「ある程度の形」とは、次の二つにあった。

先ず一つは、「継承者」が先に死亡して遺された「入妻」が「義母」と成り、その後に成って、「四家の全体の母」と成った時に使われる呼称の「後家さん イ」。

次の二つは、一度、「出の嫁家先制度」で何らかの理由(「馬爪」か「不祥事))で「実家の四家」に戻った者の事を云い、この呼称の「後家さん ロ」。

以上の「イとロ」の「後家さん」で、後は「尼僧」に成るかして通すかにあった。

この「ロの後家」に付いては、一度、「後家の身分」に成ってから、「出産可能な年齢20歳」までの「若い者(上記検証の範囲)」であれば、「出生の氏人の家」に戻される事が慣例として多かった様である。
但し、そこからの「嫁ぎ」は「青木氏の福家の指図範囲」には無かったのであろう。
これには“「無い」”と云うよりは、一度は「女(むすめ)」と成った以上は「合った」のではあるが、「後家」である以上、その「後の人生」を良くする為に「余計な口出し」を避けたのであろう。

つまり、「戻す事の方」が両者に執って何かと都合が良かったのであろう。
それには「尼僧」や「斎王の館」に「采女(うねめ)」として入る事を選択した者も多く居た事が記されている。
但し、更に、“他家に嫁ぐと云う事“は無かった様である。
これは「女系の妻嫁制度」の「信頼と品格」を崩す恐れがあった事に依る。

この二つの「後家のイとロ」を、最初に制度として確立した「青木氏族」では、“「後家」”と呼称した。

この「後家」の呼称は、歴史的には江戸期に一般化して広く拡大して、昭和の中頃まで使われていたが、唯、それでも「後家の呼称」の「使われる範囲」は限定されていて、主に、「庄屋や名主や村主や豪農等の特定階級」の家筋で起こった事に対して、“「後家」”が「便利な呼称」として使われていた。
それには、資料の読み取る範囲で咀嚼すると、「主家」へのある種の「尊敬と親しみと興味」を示す言葉として使われていたと観られる。
つまり、「青木氏族の呼称」であった事に依る「社会の憚り」であったと考えられる。

然し、明治期(13年頃を境に急激に変化)の「地租改正や農地解放等の政策」で、この「主家との関係」が壊されて、この「後家の意味合い」は「平等主義」に託けて「揶揄」へと変化して行った。
「主家の存在」と云うものそのものが次第に“庶民”から敵視されて行ったのである。
「明治政府の方針」であった事は否定できない。
この時、「青木氏」でも、最早、この「憚り」は無く成って、同様であったらしく「社会の勢い」に押されて「形見の狭い思い」をした様で記録にもある。
当然にこの“「後家の呼称」”も青木氏の資料の中の記録から消えている。

その消えている中でも、但し、「殖産の恩恵」と「氏人との過去の関係」から、更には、元を質せば「血縁関係」が「氏人の郷士」に広まっていた事からも、もっと云えば“「地権」”を無償で払い下げられたと云う「恩義」もあって、寧ろ、「御師様」や「氏上様」から「徳宗家・徳農家」等と呼ばれていたと「伊勢青木氏の記録」に遺る。
又、この事に就いては「松阪郷士の氏人」であった方からの「お便り」にもある。

端的に云えば、「地租改正や農地解放等の政策」に依って「氏上様」や「御師様」からの関係が消えて、「徳宗家」や「徳農家」に変化したのである。


この様に、「呼称に関する伝統」は歴史的に大きく関わっている事が判る。
然し、その「呼称の伝統」も「青木氏」の中で維持するにはそう簡単な事では無かった。
「世間の影響」が大きかった様であるが、その「苦労の実記録」は残念ながら遺されていない。
資料から「読み取る事」以外にはないのが現実である。
取り分け、「伊勢」以外には「伝統の史実」でも乏しい現実の中では尚の事である。
戦乱等の「消失や紛失」の事で「乏しい事」は判るが、「伊勢」と共に「目に見えない苦労」が現実に合ったのだ。


この事に一度触れて置きたい。

注釈として、幸いに「伊勢青木氏」に「明治35年頃の変化の記録」が詳細に遺されている。

恐らくは、「他の青木氏族」にも合ったとする証明に成ろう。

それは次の通りである。

口伝で伝えられたのであろう「信濃の青木氏宗家の方」からの「お便り」にも「以下の事」に似た事があってこの所以を明確に記載されている。

「酒造」や「早場米」の「殖産」を新たに興した事が「徳宗家」や「徳農家」の変化に力を添えたと考えられる。
筆者の祖父の叔父に当たる人がこれを成した。

その後の、昭和の中頃以降は、「人権」を叫ばれる時代と成り、そこで、例え「社会制度」の異なる「歴史的な呼称」であっても、容赦なく現在に強引に合して「差別用語」として決めつけられた。
そして、「台頭する社会主義的勢力」の「政治的な思惑」に使われて消えて行った。
これに付いては、「伊勢青木氏と信濃青木氏」では、この「勢力の制裁」は驚くべきか“「攻撃」”を意味するものであったらしい
この「攻撃」は「それまでの経緯」からかなり手厳しく遣られた事が判っている。

それを物語る証拠として、次の事があった。
筆者は、「明治35年(祖父の代)に起こった「伊勢屋の大失火」は「失火の原因」と「その後の処置」に疑問を持ちこの「攻撃」によるものでは無いかと観ている。

その「後の処置」には、その「後の処置と失火の原因」には、疑問がある。
父や祖父らは敢えて、昭和の初期まで「紀州徳川氏」等との付き合いがあり、「伊勢青木氏の立場」もあって、要するに「知名人」であった故に「周囲との関係」を悪化させる事のない様に配慮したものと聞いている。
その様にするのが、「攻撃」たるものがあっても、「何事も無い様に振る舞う事」が「青木氏の品格であり宿命」と信じていた様がある。

然し、敢えて、最早、筆者にはそま「柵」は全く無く成っている故にこれを公表する。
そもそも、本サイトの公開の意思はここにある。

「記録」に遺され得ない「伝統を誇る青木氏族」には「目に見えない軋轢」があったのだ。

そこで、この分析を述べる。

本来は「失火類焼」は「貰い損」が原則であるが「全面損害賠償」をしている事、
「商い」の全てを摂津に移している事、
「松阪」にはその後に「二つの大プロジェクトの殖産・酒造と早場米」を施している事、
必要以上の「地権の放出」をしている事、
「青木氏の福家」を「四家」に移して「福家」は「尾鷲」に引き上げている事、

この事から、この”「攻撃」”を何とか逸らしたと観られる。

父からは飽く迄も「オムツの乾燥」とする「失火」として伝えられているが、「土蔵の蔵群」の中で外に失火しない事、
その後の「遺品の隠し方」が異常である事、
「明治9年で政府への献納金」を中止している事、
「伊勢神宮への支援」等は打ち切っている事、
「明治9年の伊勢騒動」を裏で支援していた事、
「権威性を持つ氏族の存在」を政府が否定し一掃した事、
「大名・華族等への貸付金」を返還無効にしょうとした事、
「生活苦では無い」のに「生活の拠点」を恣意的に移動させている事、
敢えて、態々「福家の見せかけの副業」を前面に押し出した事、
「信濃」も失火に関わらず影響を受けている事、
前段よりの「青木氏の制度」の一切を突然これを契機に打ち切った事、
河を隔てた「燃える事の無い地権地」の「玉城域の南側」も一部類焼している事、
「関東の秀郷流青木氏との関係」も不自然に以後打ち切っている事、
「華族制度への誘い・紀州徳川氏の内示」に対して「青木氏」ではなく「伊勢屋」を前面に押し出し断っている事、
これに対して「名目」を変えて謝罪してその「返答」を右大臣から直筆で受けている事、
政府は「一応の手続き」を採ったと観られ、それに依って「献納金」を中止し、その後の失火事である事。

以上等が挙げられ明らかに「不自然の失火」である。

以上の事で、筆者は「社会的反動の徒」を煽った「政府の仕掛け」であって、「見せしめの攻撃説」を採っている。

簡単には「青木氏の存在否定の所以」であろう事がこれだけの「不自然な事」で証明できる。
先ず間違いは無いだろう。

唯一「権威と象徴」を有していた「氏族の存在」は「政府」と「天皇家」に執つて、好ましくなかった事に成ろう。
落ち着いて考えて観れば、少なくとも明治期の祖父の代までは「四掟」をそれなりに何とか維持していたのである。
これを見方に依れば”「正規の天智系」を維持していた”と成れば、「政治的な国体」からも「排除」と成るは必定であろう。
これは今でも云えるだろうし、「孝謙天皇の白羽の矢」で騒いだ事の逆であろう。

この様な事は、歴史的に他にもあった。
江戸初期の「伊勢の事 お構いなし」のお定め書」である。
これは裏を返せば、「伊勢の権威と象徴族」に対して周囲が文句をつけた事に他ならない。
そうでなければ「お定め書」を出す必要は無かった筈である。

「信長の伊勢攻め」である。
信長に対して、「伊勢」は反抗していない。
なのに「無防備な庶民」への「焼き討ちと虐殺6000人」を繰り返した。
同じく裏を返せば、「伊勢の権威と象徴族」の壊滅にあった。

「室町期初期の下剋上」である。
「姓族の支配下」に置かれ、鎌倉期の「旧領地の本領安堵の地」に対して「地権」が壊滅状態に成った。
これを「巨万の富の獲得」で「商いの力」で「地権」を買い戻した。
なにも青木氏側は土岐の政府に対して反抗した訳では無いし、不入不倫の権で護られた伊勢であるのに。
幕府はこれを無視した。
これも裏を返せば、「伊勢の権威と象徴族」の壊滅にあった。

前段で論じた様に、平安期初期に於いても、鎌倉期中期に於いても同然である。
典型的な事象は云うまでも無く「嵯峨期の事件」である。
「嵯峨期の詔勅と禁令」が出されると云う事は何もなければ出す事はない。
出すと云う事は、裏を返せば「青木氏の存在」が「当時の政治体制」に問題に成ったと云うことであろう。
突き詰めれば周囲から「存在の異論」が出て「源氏」で逃げたと云う事にも成る。

鎌倉期でも、「青木氏」に対して「周囲の反対」を押し切ってでも「本領安堵」を出した。
”反対を押し切ると云う事”は、そもそも、「権威と象徴性」を兼ね備えた「氏族」に必要以上に「力」を与えず「本領」を与えない方が良いとする意見が合った事である。
恐らくは、「頼朝」はこれらの「反対を押し切った事」で暗殺されたのであるから、「青木氏の存在否定」である。
それが、語るも面倒、「第七世族の坂東八平氏」の反対である。
「義経の件」も「頼朝」を悪くしているが孤立無援の中で親族を抹殺する事は自らの存在を弱くする事に成り「頼朝の意思」では決してない。
つまりは、良く似た事であろう。

要するに、全て「時代の変遷期」に、この「攻撃」が全て起こっている。

「青木氏と云う立場」から敢えて”記録が残せない仕儀”であるから論じえないのであって、「表」を論じれば、「裏」も論じる事で「表」が明らかに成る。
然し、これが出来ない。
だから、上記の様に「読み取る事」の以外にないのだ。

如何に「生き遺る事」や、「呼称」一つ採っても「希釈な伝統の維持」が世間に晒されて来たかが判る。
故に、「青木氏の氏是」の所以なのであり、「商い」を表にした所以の一つでもある。
この「氏是」は時代が変わろうと人の世である限りは生きていると信じる。
これが、遺品の額にされて漢詩で書かれた書の意味の所以であろう。

> 「青木氏の伝統 48」-「青木氏の歴史観-21」に続く。
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