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Re:「青木氏の伝統 41」-「青木氏の歴史観-14」

[No.360] Re:「青木氏の伝統 41」-「青木氏の歴史観-14」 
投稿者:副管理人 投稿日:2018/06/10(Sun) 14:18:49

「青木氏の伝統 40」-「青木氏の歴史観-13」の末尾
>(注釈 近江佐々木氏の「青木氏族の段」でもその様に定義され「青木氏族」として認めて論じている。と云う事は同じ「青木氏族」も然る事ながら「天智天皇」の「賜姓臣下族」の「川島皇子」を始祖とする「近江佐々木氏」もその「掟」を大方で採用していた事を意味する。)


「青木氏の伝統 41」-「青木氏の歴史観-14」
「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

では、本論の続きの問題であるが、上記の注釈を前提とすると、室町期に成ってこの「掟」を何時緩めたのか、どこまでを緩めたのか、何で緩めたのか、等の「理由目的手段」、と「人時場所」を明確にしなければ前段の「江戸初期の殖産」の論は不充分になるだろう。

(注釈 これが本段の江戸期前から江戸中期までの殖産を進める上での後に於ける採った手段であった。
そろそろ、その務めとしては「有名無実の状況」とは成り得ていた事は解り、自己満足の「青木氏の独自のステイタス」に近いものと成り得ていたであろう。
これが”「伝統」”というものの本質であろう。
つまりは、「賜姓五役」としての「務めの転換期」と成っていた。)

しかし、現実には、「天皇家への献納金」の形で明治初期まで密かに、或いは、「幕府黙認」の形で貢献していた事は事実である。
ここでも「青木氏の歴史観」として認識して置く事がある。

これは、前段でも論じたが、「家康」が「伊勢青木氏」に執った ”伊勢の事お構いなし”の「お定め書」でも理解は出来る。
つまり、「家康」は、「表向き」には、”宮廷の外壁が崩れても放置する程”に「天皇家」を締め付けたが、裏では行き過ぎて「信長」の」様に「民の反発」を招かない様に「青木氏族」に遣らせていたという事でもある。
これも「青木氏族」にしか判り得ないてい「重要な歴史観」である。

その前に一言、この「青木氏の歴史観」を以ってして更に悪く云えば、この為にも江戸初期には「商いの面」で本論と成っている”「殖産」”を進めなければならない破目に陥っていた事にもなり得るだろう。
この事から云えば、この時代に成っても未だ、形は変わっていただろうが、”「賜姓五役」”は明らかに存在していた事にも成る。
否、社会的にさせられていた事もあり得る。

更には、江戸幕府は、「権威の象徴である天皇家」に「圧力」を掛けながらも、一方では「権威」を重視し「天皇家」を体よく利用し、”「二極両面」”を利用する態度を執っていた事に成る。
結局は、その「幕府の矛盾」を「青木氏族」で補っていた事にも成る。

「室町期の紙文化」のおかげで、「青木氏族」が、「紙文化の遺産」と「殖産」で「巨万の財」を成していたから良かったが、これを「青木氏の歴史観」から観れば、仮に無かったら如何していただろうかと、場合に依っては「天皇家の存在」も危うかった可能性もある。
つまり、「青木氏」に執っては、この期待もしない「時代ずれ」のある”「賜姓五役」”を都合よく使われたと云う事も云える。
唯、云える事は、「青木氏族」のその「殖産を含む商い」は、、何時の時代にも”「幕府の御用商人」”では無かったという事である。

だからこそ”「伊勢の事 お構いなし」”の「お定め書」を公に「家康」が出せたという事でもあろう。

「青木氏の歴史感」を想像しているこの「お定め書」が、果たしてどれ程に「青木氏族」に執って効いていたかは甚だ疑問ではある。
前段で論じたが、「江戸初期の殖産」では、確かに効いていた事は確かであるが、「前段の殖産」を進める為に「紀州藩」が「山田奉行所」に申請した件では、つまり、「七割株」を持つ「伊勢水軍」による「伊勢紀伊周り」の「瀬戸内廻船の認可の件」では、「山田奉行所」の奉行時代の「大岡忠相」には、これを否定された事は有名である。

この事に付いて一族内や関係族の内に「遺されている書物」を読み取るには、その「存在」は認めているが、その「お定め書の効能」を大きく特記する記述は特に目立たない。
故に、この事では「青木氏族」の内には、取り分け”「影響」”はなかった事になるだろう。

これは大化期からの「永代不入不倫の権の存在」を族内で代々認識していた事を物語るものとして判断できるし、その「認識」と云うか「概念化した知識」と云うものが、「お定め書」を当然の事として捉えていた事に成ろう。
判りやすく云えば、”何を今更”であったのであろう。
「青木氏」に執っては、この「概念「」と云う意識と云うものが無いにしても、合ったとしても”表には出せない”が、周囲はそうでは無かった筈である。
つまり、「青木氏」に執っては、故に「時代のずれ」を感じながらも、更にはこれも「時代のずれ」のある「永代不入不倫の権」の出処の「賜姓五役」であり、且つ、それを表す一つとして「献納」を続けていた事になるのではないかと考えられる。

はっきり云えば、「伊勢郷氏」であっても、、傍らで「商いや殖産」を生業とする以上は「永代不入不倫の権」も今と成っては「青木氏」には「何の効能」も無かったであろう。
「商いや殖産」は、「権威や象徴」に頼っていては成り立つ話ではないのは当然であろう。
唯、何度も云うが、上記の資料からも左程に記述が無いし、「青木氏の氏是」もあり、「権威や象徴」を振りかざす程の「氏のすさみ」も無く、「青木氏側」にはその「意識」はそれほどでも無かったであろう事が解る。
要は、、”周囲の目が違った”という事に成ろう。
この事に就いては、確かに読み取れる。

つまり、故に、これも「青木氏の歴史観」から観れば、「山田奉行所」は意固地に「青木氏族」に対して「意地(妬嫉に似たもの)」に成っていた可能性もある。
「下剋上」は進み「下級武士の、姓の時代」に成ったこの江戸の初期に未だ「青木氏族」のような「氏族」が残されている事の事態が気宇であったので、その様に観られるのも不思議では無かった。
むしろ、「意地(妬嫉に似たもの)」は「普通の事」であったであろう。

何故ならば、況してや、この時期は「将軍吉宗」と「伊勢青木氏」は、江戸では「江戸伊勢屋」を置いて「享保の改革」を推し進め初めていた時期でもあり、前段でも論じたが、、養育元として幼少期より「吉宗とは蜜月の関係」を維持していた筈であり、「家臣」ではないが「重臣」か、「仲間」「かそれ以上の”「布衣着用の身分」”でもあった。
「大岡忠相」は、「高石の旗本の身分」とは云え、不必要に強い「本旗本の武士意地」の”「三河者の大岡」”に執っては、”目の上のタンコブ”、”何するものぞ”の「裏の感覚」は持っていた筈である。
唯、表に出さない程度の事であったであろうと推測する。

大化期から平安期にかけて「志紀真人族」であり、「直系の四人の天皇」を出した「郷氏」でもあり、その果ては「家康」も「お定め書」で一目を置き、「吉宗育ての親」で、裏で経済的な支えとして「将軍」に仕立てたのも、「享保の改革」を進めたのも、江戸市中で200店舗以上の「伊勢屋」を営み、永代の「お定め書」を持ち、紀州藩を「勘定方指導」で経済的に支えているその「伊勢青木氏」に対しては、これほどの自然が創り上げた「権威を持つ氏族」に対して、人間である以上は表に出せない「屈折心」も否定はできないであろう。
兎に角、「大岡」の様な「有名な人物」にはありがちな「作られた評価」、つまり「公的な記録」では「美化」されているが、「青木氏の歴史観」からすると、この「美化」を取り除くと「上記の事」や「下記の事」はこの様に観えてしまう。

(注釈 前段でも論じたが、ここで「青木氏の歴史観」の一つである」世間で云う「質屋」は、そもそも、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」が庶民に対して、生活に困る者に「施し」をし、そして「職」を紹介」し、「厚生の道」に導く功徳を行っていた。
これを奈良期から「質」と呼んでいた。
中国の金山寺が行っていた習慣を持ち込み「朝廷」に代わって全国500社に及ぶ「神明社「」が行った。
これが、江戸享保期のこの「伊勢屋200店舗」でも行った。
そして、それが「無償の施し」から「低利の施し」として「享保の経済」を活性化させた。
これが、「質屋」の呼称として広まった。
享保末期に「江戸伊勢屋と青木氏」は、「吉宗との不調和」が起こり、200店舗の権利を放棄して店子に譲って伊勢に引き上げた。
これが、「質屋」の始まりで、江戸に「伊勢屋の質屋」が多いのはこの事から来ている。)

そもそも、この筆者は研究を進める中で分かってきた事で、この”「美化」で固められた歴史”等には、”何の値打ちも無い”と信じている。
故に、「青木氏の歴史観」として当然にこの説を採っている。
恐らくは、「青木氏族」に執っては、幕臣の家臣ではないが「布衣着用の身分」には、彼らには「相当な軋轢」が「人の世」である以上はこの時期からあった事が伺える。
これは「人の世の常」であり無い方がおかしい。
どこでも起こる事ではあるが、”伊勢者 何するものぞ”であろう。

前段でも論じたが、それが「享保期末」に周囲から強く噴出して仕舞い「吉宗との折り合い」も着かなくなって、”「伊勢」に帰るという結末に成った事”でも解るし、そもそも、この時代に成っても、これだけの事の「権威性」を未だ持っていたとすれば、世の中は利用し放って置く事はないから、だから未だ「青木氏の氏是」にも成っている事でも解る。
普通は何れに於いても意味の無い「氏是」は消えるは必定である。
然し、明治九年まで消えていなかったのである。

後勘から観れば、“「伊勢水軍」による「伊勢紀伊周り」の「瀬戸内廻船の認可の件」”は、特段に「当たり前の申請」であろうし、況してや、”誰もできない「紀州藩の殖産」を推し進めていたのに”である。
そもそも「否定される謂れ」は無かった筈である。
あるとすれば前段でも論じたが、「青木氏の資料」より読み取れる「讃岐青木氏」の「瀬戸内の廻船問屋の利権」に重なる事だけであろう。
或いは、当時、綱吉が執っていた「御三家への牽制策」から引き継がれて、享保に成っても吉宗の出自元の「紀州藩」を富ませる事への「幕臣の反発」とも執れる。
「二万両の借財体質」を維持させる事で「政治的な圧力」を掛けていた事からも分る事である。

末梢とすれば、この「伊勢水軍」を始めとして「熊野水軍」「紀伊水軍」「鳴門水軍」に「瀬戸内水軍」と海域を分け合ってバランスよくその利権を守っていた。
何れも共通する事は、保守的に成ってこの「利権を壊す事への不安感」が否めない。
「伊勢水軍」に、「青木氏族」に、つまり、「紀州藩に認可の裁定」を下せば、「利権域」は乱れるは必定であり、紀州藩を富ませる事が起こり、「政治的な圧力策」は霧消する。
筆者は、「山田奉行所」は、つまり、「乱れる事への責任」を問われ、「大岡」は裏では「保身」を狙ったと観ている。

そもそも、”「廻船」”と云う点から観れば、「紀州藩」は「熊野水軍」や「紀伊水軍」でも良かった筈で、でもそうしなかった。
それは、何故かである。

そもそも、「紀州藩」には常態的に前段でも論じた様に「毎年二万両の借金体質」があり、其の侭だと潰れる。
それを解決するには何かを興さねばならない。
それには「殖産」とその「資金」の課題があり、然し、それを興させるには「熊野水軍との軋轢」「紀伊水軍の素行」が問題と成っていて出来なかったからでもある。
又、「七割株の青木氏の伊勢水軍」と「讃岐青木氏の瀬戸内水軍」には、「古来より強い絆」がある。
当然に、「松阪経由で瀬戸内」までの「廻船」ができ得れば、「松阪」で「四日市殿」と「秀郷流青木氏」と縁戚関係にある「駿河水軍」と繋げれば、関東、中部から中国域先端までの「大プロジェクトの廻船路」が出来る。
筆者は、「青木氏の進言」で「吉宗」は初代からのこの「計画の推進」を進めようとしていたと考えられる。
これは「紀州藩と青木氏族」に執っては「経済的波及効果」は測り知れなかった筈であった。
(幕府御蔵金は300両しかなかった。)
況して、「紀州藩の家臣団」は「伊勢秀郷流青木氏」である。
これを当初から「初代からの殖産」をより大きくする為に狙っていた事は間違いはないだろう。
「紀州家臣団」としては計画を進めない方がおかしい。

そもそも、「讃岐青木氏(伊勢水軍)」と「瀬戸内水軍」を単独として見做しているが、「伊勢水軍の廻船」と繋ぐとする思惑があれば、横浜から防府の先まで一廻船が成立するのである。
こんな「大廻船」が出来れば「大岡」が警戒するのは当然であろう。
将軍と成った「吉宗」は承知していたというよりは密かに「目論んでいた事」であろう。

その証拠として、そもそも後に、「讃岐青木氏の瀬戸内廻船」は、「三陸より駿河」までの「東周り廻船」が認可されている。
そこで、吉宗は「大岡」に否定されたので、この「当初の計画」を示現する為に、何の関係も無い圏外の遠い「瀬戸内廻船」に態々これを認めたと観られる。

そもそも、「圏外の廻船問屋」に認可するというのは不思議で恣意的としか考えられない。
そこで、つまり、否定された「切れたルート」の「伊勢水軍の域」を「青木氏族の大船四隻」と足りない便域を「伊勢水軍域」で繋ぎ完成させたと観られる。
否定された以上は、そこでそれをいきなり繋ぐと違反と取られかねない。
そこで、飽く迄も,”「青木氏族単独の商船」”であるかの様に見せかける必要があった。
その為に、密かに執ったのが「摂津港」に「大船二隻」を係留して松阪まで「ピストン配船」させ、松阪からも矢張り、「大船二隻」を同じく「ピストン配船」させ、それをカモフラージュに「伊勢水軍」を「摂津」までの「往復回路」を作れば、「完全な廻船」は出来上がる。
「紀州藩」はこれで「関わり」が無くなる。
解ったとしても「山田奉行所」は文句の着けようがない。

筆者説はこれに基づいているが、これほどに「史実としての戦略」が出来上がっている事そのものが不思議で、恣意的であるとしか考えられない。
明らかに「神奈川」から「讃岐」までの「青木氏族」が力を合わせて”一致して仕組んだ事だ”と観ている。
思い思いにはこれだけ「統一した戦略」は出来ないだろう。
そもそも、この「戦略」には「日本の経済の発展」と云う「次元の高い思惑」が課せられていた。
「大岡の否定」は、”次元は低すぎる”と観ていて、筆者説のみならず「青木氏族の共通の認識」であった様に資料から読み取れ、故に「青木氏族の戦略」と成り得ているのだ。
故に、「大岡」に次元低く否定された以上は、「讃岐青木氏の瀬戸内廻船」を態々持ってこなければならない事に成ったと成る。

江戸に出た「伊勢屋の伊勢青木氏」を始めとする「青木氏族」は、前段でも論じたが、これらの「対応策」を幕臣を交えずに密かに”「吉宗と談合した」”と考えられる

(注釈 「佐々木氏族の江戸下屋敷」の直ぐ近隣に幕府より屋敷を与えられていた事は解っていて、ここで吉宗と談合を重ねた事が解っている。
「伊勢屋の屋敷」と「青木氏の自邸の屋敷」は前段でも論じたが、主な伊勢屋の屋敷は「問屋街の小伝馬町」と「日本橋界隈」や「横山馬喰町等」にも複数あった。
「江戸伊勢屋店舗」は200か所以上に上る)

確かに何れも其れは云えるが、然し、この「否定された案件」には、細かく観るとそもそも「往路廻船と復路廻船の違い差」が出ているだろう。
それは、「伊勢水軍」は別として、「熊野水軍」には「熊野宮司六氏」が背景として絡み「通行」には「利権」を主張する「海賊的水軍」であったとされる。
これを守らないものには容赦なく鉄拳を加えたとする資料もあり、その「海賊の村」とされる所の資料説もある位である。
然し、どちらかと云うと”「海族」”と云うところかと考えられる。

又、次に「紀伊水軍」は、平安期から”「海賊」”そのもので、「利権」がどうのこうのでは無く、海を荒らす純然たる要は”「海賊」”なのであって、その記録は「義経の壇ノ浦の戦い」の時にこの「海賊の存在」が最強を誇った「平家水軍」との「海戦の勝敗」を決めるとして、義経は執拗にコンタクトをとった記録が遺されている。
つまり、この背景には「雑賀一族」と「根来一族」の「海の族説」があって、それを「背景」に勢力を持っていた”「海賊」”でもあった。

「鳴門の荒波」を制する「鳴門水軍」は、淡路島を根拠地とする「海洋民族」と、その「土豪」であった「淡路島の鳴門族(後の蜂須賀族)」を背景としてその勢力を張っていた。
この様に何れも一癖のある単なる水軍では無かった。

(注釈 「義経の海戦」の時に”「摂津水軍」”と書かれている資料がある。
この「摂津水軍」は源氏方であったと書かれている事から、「嵯峨源氏」を含む「摂津清和源氏」を主体とした「青木氏族」や「近江佐々木氏族」等の「混合隊の水軍」で「小水軍」であったと書かれていて、「義経の海戦」が始まった段階で直ぐに「摂津港」に引き上げた事が書かれている。
恐らくは、「荷駄を搬送する役目」と戦略上の「船団のダミー的役割」を負っていて事であったらしい。)

兎も角も、当時の「暗黙のルール」は、この「三つの海域」を通行する廻船は「通行料」を払い”「堺会所」”で認可を取らなければならなかったとある。
“「堺会所」”には「支配頭」がいてこれらの「全水軍」に渡りをつけての事であって、「山田奉行所」とは云え、「実質の実力的差配権」はこの「堺会所」にあって、「山田奉行所支配」の「自由横行の運航」ではそもそも無かった。
従って、然しながら「紀州藩」としては「幕府の支配下」にある以上は「山田奉行所」であって、且つ、紀州海域にあるとは云え、「一種海賊的水軍」を「紀州藩」としては使う事は出来ない状況でもあった。
飽く迄も「政治的な支配権」でのその様な「山田奉行所」であって、それに基づいた申請であったと云える。

本音を云うと、故に「上記の低次元の裁定」と成ったのである。
だから、「青木氏族」は”馬鹿らしい”と云う感覚に成っていたのであり、「紀州藩」から出された申請である限りはこれに従わざるを得ない事に成る。
当初から「青木氏族」にとっては、大化期から定住する「氏族」で「摂津」に店舗を持っていた関係からも「堺会所」は知っていたし、「宋貿易」をしていた事からもこの「堺会所との付き合い」は当然にあつた。
又、「伊勢屋」で「伊勢水軍」を統括していた事から考えても、この事は事前に間違いなく”計算済みの想定内”にあったと考えられる。
故に、時間の掛かる”「大船建造」”を事前に進めて「殖産計画」に間に合わしたのである。
それで無くては「運搬問題」が発生し前段で論じた「殖産計画」は成功しなかった筈である。
大掛かりな「船の建造」を伴う時間の掛かる「讃岐青木氏の東周り廻船の設定」も間に合わなかった筈でもある。

江戸初期の紀州藩初代から始まったこの「江戸殖産(創業平安期より)」は、当初は伊勢域は「伊勢水軍」で行い、「商品」を売り裁く為の摂津大阪などへの搬送は主に陸路に頼っていた。
ところが、この「殖産」は大きく進み、「墨と硯」、「和紙と製品」、「綿と布」、「漆と漆器類」、「海産物と加工品」、「菜種油」、「海産物加工」、「白粉」等々の「殖産」は発展し、「陸路の量的な搬送」は無理と成った。
この間、「搬送先」、つまり、「販売先」は拡大し、「大量」で「遠距離輸送」は日本全国と成っていった。
この時期が、丁度、100年後の享保期初期に当たり、「殖産」は、紀州藩初代頼信から吉宗まで「勘定方指導」で「紀州藩の借財体質」を改革し、最終的に上記するこの輸送問題が勃発したのである。

そこで「将軍と成った吉宗」は、紀州藩のみならず「三陸」から始まり、「防府」までの「一廻船体制」を確立して「経済の発展」を支え様として、この為に上記の「旧態依然の利権体質」を改善すべく途切れている「松阪から摂津」までの「統一廻船」を作ろうとしたのである。
つまり、「駿河と瀬戸内」は何れも「青木氏族との絆」のある廻船である。
そして、「三陸部」から駿河までに「瀬戸内廻船」を持ってくれば、「一つの絆廻船」が出来上がれば「利権」に振り回されない「安定した廻船」が出来上がる算段であった。
100年目にして仕上げる「頼信ー吉宗」の”「思い」”であったのである。
然し、低次元の「大岡の裁定」を無視してまでも「幕府命」で「押し通すべき算段」では無かったかと思われてならない。
恐らくは、「幕府命」と「幕府機関」の裁定が異なる事は、「権威の低下」を招く為に執れなかった事は解る。
そして、「将軍」に成りたての頃である以上は未だそこまでは「幕臣」を統括出来ていなかったであろうし、次元が低いが出自元でもあり裁定に口を出せば「要らぬ誤解」を招く事にも成り兼ねず、遠慮した事も考えられる。

江戸に「吉宗」に同行して「江戸出向」していた「青木六兵衛等や青木氏族等」には、「江戸屋敷での談合」では「大岡裁定」には「吉宗」は「猛反発」を受けていた事が伺える。

(注釈 「青木六兵衛とその息子一族」は、「吉宗」と享保期末には「折り合い」が悪くなり、「江戸商い」は「店子」に譲り「江戸伊勢屋・青木氏」を「伊勢(伊勢秀郷流青木氏や信濃等の青木氏族関係者含む)に引き上げるが、この時の始末に「青木六兵衛とその息子」は、「六兵衛は病死」でその「息子は江戸で跡目が絶えた」と成っているが、「青木氏の資料」では確実に引き上げている。
「兄の長兵衛」の「四家の福家の跡」を継ぎ、「享保期の重責」を全うしたことが判っていて、逸話まで遺されている。
この事に付いて、「近江佐々木氏の資料」にも記載があり、江戸での「六兵衛とその息子の所在」は不詳としている。
これには「吉宗と幕府」に警戒されない様に仕組む位に「関係悪化」があった事が伺える。)

注釈の通り、これは「吉宗との関係悪化」は否定できない「青木氏の歴史観」ではあるが、「大岡裁定」に観られる様に「江戸の幕臣の反発」は間違いなく、この「青木氏族」や「江戸伊勢屋」に向けられてあった事は間違いはない。
それは「江戸屋敷」を隣接する「近江佐々木氏」の「青木氏族の研究記録」にも確認出来る事で、目に見えてあった事に成るだろう。
記録に遺す程であるから、「享保の改革」を裏で支えてきただけにその落差は大きく映り、相当のものがあった事は「間違い」は無い。

つまり、この「一つの絆廻船」を「青木氏の戦略」で押し切った事が、「幕臣の執拗な反発」を増幅させていって、「吉宗」も「最大の味方」との「蜜月の関係」を続ける事は出来なく成ったと考えられる。

さて結局は、「青木氏族」から観ると「最悪のシナリオ」の「切欠」と成った「大岡裁定」だが、この「一事不再理の原則」から「吉宗」も動かしに難く成ったが、この様な「事前承知の背景」から「青木氏族」は力を合わせて「摂津」に「千石大船二隻、松阪に大船一隻」を追加建造して名目は”「商船」”として、自ら「四隻の運用態勢」を整えて対処した事にある。
虚を突かれた幕臣側は色々と裏で画策を試みた事であろう。
それは、「陸路運送」と「江戸販売の認可」にあったと観ている。
(「陸路運送」は「伊勢シンジケート」が秘密裏に「横の関係」を使って安全に輸送した。)

「青木氏の伊勢屋」の「商い」の細部に普通ではない「事件記録」が遺されている。
この「陸路運送」では、「青木氏の資料や商い記録」に遺されている事件としては、一例として前段でも論じたが「鈴鹿峠部の通過事件」がある。
ここは「四日市殿の地権域」にあったが、「支配権」は鈴鹿関所として幕府に統治され、「京、大阪、摂津」に出るルートを地元地権者でありながら「関所の大義」を理由に厳しく抑えられたとあり、これで、「陸路搬送の輸送量」が遅退したとある。

「大船建造」は「上記の経緯」と「輸送利用の増大」からもあるが、この「鈴鹿通過事件の件」も大きく影響していたと考えられる。
故に「資料から読み取る史実」や「商記録」に、放念できずに態々記載されているのであろう。

享保の時代中には、「江戸販売の認可」の件では、「菜種油」と「海産物加工品」と「海産物を利用した飼料」を殖産していたが、これを江戸に卸そうとしたが、すぐには認可が下りなかったとある。
中には他の「商人」には下りても、「早出しの伊勢屋」には「認可」そのものが下りなかったものがあったとある。
当時、「害虫被害」が関西で起こったが、これに効く薬が無い事から、「菜種油」を薄めて散布したところ被害が納まった。
ところが、この被害が関東にも及び急拠関東にこの菜種油を送ろうとしたが「認可」は下りなかったとされる商記録もある。

「海の干物、(ほしか)」を粉状にして畑に蒔く事でみかん畑や綿畑などで大収穫が得られた。
当初は使用の出来なくなった「乾物」をみかん畑に廃棄したが、この「廃棄」が効いたか旨くて大収穫が得られたとある。
そこで粉状にして蒔いたところ効果覿面で、それ以後、畑にも蒔いたとあり、商品として関西域に販売して好評を得たとある。
そこで、、江戸伊勢屋にて販売しようとしたが認可はすぐに下ろさなかったらしいことが書かれている。
認可後も、「伊勢の殖産」が広がり各地の漁場の「ほしか」を買おうとしても嫌がらせを受けてなかなか要求量が入らなかったと記載されている。
又、それまでは食物として使用されなかった海藻類を煮出してその液を凝固させて作る寒天などを開発し、これが関西で大流行と成り関東にも送ろうとした。
ところが、これも認可が直ぐには下りなかったとあり、50年以上も後に成ったとある。
事程左様に、「伊勢の射和殖産」も含めて「江戸を含む伊勢屋」には厳しかったとある。

これらには、「圧力という表現」は流石に使ってはいないが、恐らくは、「大岡裁定後の幕臣圧力」であろう。
このような事が積み重なり「青木氏族側」では、「莫大な資金」を投じて「享保の改革資金」を調達しながら「吉宗の優柔不断さ」に対しての「「不満」が沸々と募って行ったと観られる。

さて、上記の事から”「伊勢屋」”を使っての「関東への陸路販売」は流石に難しかった事は否めない。
然し、それでも前段でも論じた様に「質屋」を含む200店舗以上」(チェーンストア)で営業を営んでいた。
「江戸」への「海路の運送」は、「伊勢水軍」を使っていたかは資料が無いので定かではない。
恐らくは、享保期の「伊勢水軍の規模」から考えて「関西域で海路輸送」が限界で難しかった事が充分に予想できる。

然し、依って「江戸の伊勢屋」では、「商品の入荷」は「伊勢シンジケートの陸路運送」で行っていた事から充分では無かった事が予想できる。
然し、一方、享保期前後の「伊勢の伊勢屋」の「殖産」の「製品の販売体制」を瀬戸内までの間を三日毎の「四隻態勢往路復路の入れ替え方式」で行った事は解っている。
中には「人の運搬」も影では行っていたと読み取れる。
史実として”「商船」”としての実績を証明するものとして「浅野家取り潰し」の「蔵出し買い取り」をこの「商船」で一手(大船三隻)に引き受けた事が書かれている。
関西域での「伊勢水軍と四隻態勢」が暫くは続いていた事が解る。(船数は増加)

享保期前後には「駿河水軍との連携」は未だ成立していなかった事が解るし、これからも「伊勢水軍」は「関西域の専用廻船」であった事が証明出来て「江戸」に廻していなかった事に成る。
「陸路運送」は、「陸路の縄張り」と云うか「権域」と云うか海路と同じくグレーの体質があって、これを「シンジケートで通す場合」はその「縄張り」に「渡り」をつけて搬送する必要があった。

結局は「伊勢シンジケート」に執っては適任であり、その「警備と運輸と渡り」に全面的に頼っていた事に成る。
「青木氏族」に執っては、「海路運送」の「伊勢水軍」も「七割株の契約関係(血縁関係もあった)」にあり、「陸路運送」の「伊勢シンジケート(信濃含む)」の「経済の契約関係」にあり、何れも「警備力と渡り力」を持った「運輸力」にあった。
「他の商人」にこれほどの「運輸力」を持った「古い関係」を持ち続けている「犯しがたい氏」での「商人」は全く無いであろう。

これの事実を知れば恐れられる程の「脅威に近い運輸力」に「幕臣」には観えた筈である。

一度、事が起これば「戦力にも成り得る運輸力」である。
室町期までは現実にそうであった。
そこに、「郷氏としての象徴力や権威」があり、「一絆廻船の戦略」を敷かれ、「大船四隻」を持たれれば、最早、「幕臣の政治的権力」の及ぶ範囲には無かった筈である。
そして、況して、幕臣が裏の手を使って「脅迫」などを「伊勢屋や青木氏族」にするものなら逆襲を受ける。

つまり、「伊賀者」には”「郷士の縁戚者」がいる”と成り、室町期初期に「二万の軍」を餓死させた戦績を持つ「関西中部域」に及ぶ「シンジケートの力」と、関東北陸までその勢力を保持する旗本御家人の「秀郷流青木氏の縁戚族」の存在ともなれば、「山田奉行所等の幕臣」には既に「危険域」を超えていた事になろう。
下手に幕府の中で口を開けば、情報は洩れる事に成り、気の休まるところはなかったであろう。
そうすれば、後は「世は必定」で”嫌がらせ”しかない事に成る。

従って、上記の背景から観ても、そもそも、「三日毎の四隻態勢の往路復路の入れ替え方式」で行うのであれば、初めから何も上記の「紀州藩の案件」は煩い「山田奉行所」に出さなかった筈であろう。
決まって「嫌がらせの裁定」が下りる事は必定なのであって、然し、「青木氏族」として出していなく「紀州藩」としては出したのである。
「紀州藩」として出したから「山田奉行の否定の大岡裁定」が出せたと観ている。
それも「御三家」と「将軍吉宗」に対してである。
普通に考えれば「認可」と成ろう。
従って、普通に考えれば、上記した様に、「紀州藩」「御三家」「将軍吉宗」でありながらも、裏には”「三河者」”に執っては、「家康のお定め書」も然る事乍ら、”腹に据えかねる「羨望嫉妬の青木氏族」”が居た事に成ろう。
何度も云うが、「青木氏族」であり乍らも大化期からの「伊勢屋の商人」である以上、上記の様な「高飛車な意識」は毛頭無かったのであって、そもそも其れであれば「商い」は出来ないだろうし、「相手方の持つ否定できない自然の意識」と成ろうし、問題はその「意識の大小」と成るだろう。

従って、「青木氏族=伊勢屋」が執るべき手順としては、戦略上、先ずは、”「紀州藩の申請(ダミー策)」”~”「大船建造(事前建造)」”~”「東周り廻船の申請(事前交渉)」”の過程を踏んだと観られる。
この「戦略の手順と過程の差配」を違える事は、「幕臣の反発」をより喰らい「殖産計画全体」が成り立ち難く成り得ていたとも考えている。
何故ならば、この「大岡裁定」は、「殖産」に執ってはそれなりの影響は否定できないが、「次元の低い裁定」と観ているからで、その「低い思考能力」からすると、「船の建造」を進めていたとしても「影響」だけではなく「運搬」で円滑に全体を動かせなくなる可能性があった。

依って、筆者は奉行所が「案件」を否定したのは、上記の「周囲の意識説」は間違いは無いと観ている。
“伊勢の事 お構いなし"の”「お定め書の事」を気にせず「正しい裁定」を「山田奉行所の大岡」が下した”とあるは大いなる疑問である。

「伊勢のお定め書」の原型は、元々は、「伊勢の国の守護王」であった「施基皇子」に対してもので、「日本書紀」にも記載のある「不入不倫の件」の「伊勢」に下した「大化期のお墨付き」のコピーでもある。
つまりは、「美化の典型」の「大岡裁定」を左右させなかったとある”「お定め書」”は、恐らくは「献納」に対する「見返りの追認」ではないかと考えられる。

これは「家康」が、“バランスをとった”云う事であって、記録めいたものが事更にないと云う事は、「青木氏族」に執っては、”「今更の件でもない」”の程度であっただろう。
つまり、これを「根拠としての裁定」とは、「青木氏の歴史観」からすると、当時としては”何をか況や で馬鹿らしい”であっただろう。

この様に「大岡の一件」を捉えても、「青木氏の歴史観」から観ればこの様に変わり、そもそも、先ずはこの様な事は、普通は「一氏」からの”「史観」”で見る事はしない。
故に、少なくとも「青木氏族」の周囲に起こっていて、或いは関わっていて、「公の史実」と成っている「史観」にはこの様に大きく変わる為に、一度、「遺された史実」を調べ疑問を持つ必要があるのだ。

そもそも、「青木氏族」と云うのは、その様な「特異な立場」(青木氏の歴史観)にあったと云う事である。
少なく遺されている「氏族」の中でも「史実、史観」として掴んでいるのは、「青木氏族と近江佐々木氏族」くらいではないだろうか。
この「二氏に関わる事の歴史観」は大きく変わる事を知る必要があるが、「藤原氏の場合」は各所に遺されている資料が多すぎて、その結果、他説が多すぎて散在し過ぎている気がする。
「氏族」のみならず、「下剋上」で勃興した「姓族」のこれをうまく使われて、それには「搾取偏纂」が多すぎて又論じ難い。
それはそれなりに楽しめば良いとされる論法もあろうが、「姓族の場合」は「氏族」の様な「歴史観」は無い事でもあるが、「最低限の歴史観の辻褄」を合わしてもらいたい。
筆者はあまり採用したくない論法でもある。


上記の「権威の話」に戻して、「武士の媒臣の末端」まで求めた「真偽は別としての偏纂」に等しい根拠ある「黒印状の発行」を求めた。
殆どは「系譜の搾取偏纂」である。
つまりは、前記はこの論に入る為の説明であったが、さて、そこで次に続ける。

さて、「青木氏の歴史観」を更に高める「史観」が更に他にもある。
それは、「青木氏族の個人情報」に関わる事であり、この資料を表には出せない。
そこで、他の「青木氏族「」もほぼ同じ経緯にある事を前提に、筆者の「伊勢青木氏」を例に以って考察してみると、上記した様な」「殖産「」に纏わる事件などには「伊賀郷士を含む伊勢郷士との絆」が「青木氏の存在」を大きく左右させていたのである。

従って、それがどの程度のものであったかをこれを「論理的な歴史観」で考察して置きたい。

この「地元郷士との絆」が、どこの「青木氏族」にも働いていて、「青木氏族」のみならず「近江佐々木氏族」にも働いていた事が「近江佐々木氏の研究資料」からも解り興味深くい。
矢張り、「近江佐々木氏」も「氏存続の為」には「絶対条件の歴史観」としてこの点に着目していて研究されている。

余談ではあるが、興味深いのは、前段でも何度も論じているが、その「絆の関係氏」として「青木氏族」を広範に研究されている点である。
これは「施基皇子」の弟の「川島皇子」、つまり、「近江佐々木氏の始祖」で「妾子(忍海造古娘)」であり、共に「大化期の賜姓族で臣下朝臣族」で、同じ役務など「氏存続のシステム」を共にすると云う事も「初期の段階」ではあった。
然し、何はともあれ、平安末期に平家に討伐されるまでは存在した「近江青木氏」と血縁した「近江佐々木氏系青木氏」が存在した。

この関係から「青木氏族の詳細な研究」に至ったと考えられるが、「四掟の範囲」として「出の嫁」から「女系」でも平安期から江戸期初期まで「近江佐々木氏」や「佐々木氏系青木氏」と何度も繋がっていた事が考えられる。
これは史実にもある。



> 「青木氏の伝統 42」-「青木氏の歴史観-1え4日」に続く。
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