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Re:「青木氏の伝統 39」-「青木氏の歴史観-12」

[No.358] Re:「青木氏の伝統 39」-「青木氏の歴史観-12」 
投稿者:福管理人 投稿日:2017/12/18(Mon) 16:06:22
> 「伝統シリーズ-38」の末尾

「松阪紬の殖産」の南勢から始まる桑から始まり「玉城-名張-伊賀-射和」の「すべての状況」を把握していなければ務まる役目ではない事が判るし、相当に「知恵と経験のある者」の「重要な役目」であった事が判る。

筆者は、この「重要な役目」は、「紀州門徒衆(C)」の「総元締め」が務めていたと考えている。

これで、「松阪紬の殖産化」での「五仕業」の事は論じたが、上記した様に、後発の天領地の「青木氏定住地の養蚕(御領紬)」もほぼ同じ経緯の歴史観を保有していた事は間違いはない。
元々、何れも「朝廷の天領地」であった処を、豪族に剥奪され、それを「吉宗」がここを「幕府領」として強引に取り戻し、「地権」を与えて取り組ませた。
全く「伊勢青木氏の経緯」(「青木氏X」)とは変わらない「共有する歴史観」が起こっていたのである。


> 「伝統シリーズ 39」に続く


「青木氏の伝統 39」-「青木氏の歴史観-12」

前段の「射和の殖産」の論に加えて、ここでもう一つの「青木氏の歴史観」を作り上げる重要な事があった。
それは「射和の殖産」をリードする為の「青木氏(A)」の「盤石な体制」にあった。
これ無くしては「射和の殖産」は成し得なかったと観ている。
それは、単なる「氏存続」の事だけでは済まされ得ない「青木氏(A)の体制造り」にあった。

前段でも論じたが、「青木氏(A)」には「四家制度」と「家人制度」や「四掟制度」以外にも、この定義を護る為には、“「同族血縁の弊害」”を起こさせないもう一つの課題の制度が必要であった。
これが無いと「大きな殖産」と云う「世の繋がり」と密接したものを維持する有能な架体を持っていなければ成し得ない。
その大きくて堅固な架体の体制を維持させる制度が「青木氏(A)」の中にあった。
それは上記の“「妻嫁制度」”、つまりは「女系族の制度」であった。

そもそも現在の「一夫一妻」とは、「人の目的」を達成させられる「社会性や時代性」が異なることから、この制度では一概に「善悪の評価」は難しい。
前段でも論じたが、これは余り触れられていない、或は、触れない“「影の制度」”と云える制度であった。
当時としては、現在感覚では矛盾する様に考えられるが、一般的に経済的に成り立てば、「人」、つまり、“「女系」を重視する「通常の概念」”であった。
これは現在では否定されている一種の「一夫多妻」に類似するからであろう。

そこで、先に論じておくが、この「現在の人類学」では、「一夫多妻」の「悪の原因」は現在医学で解明されている。
それに付いて理解度を深める為に念の為に少しこの事に先に触れて置く。

そもそも、原始の時代に於いて「人の類」は「類」を増やす為に「四回の変態」を起こしたが、それは他の類からの「捕食に耐える事」の為にあって、遂には「雌の類」で増やしていた変態方法を「雌」から分離させた「雄」という「補完の役」として「人の類」を造り上げて「子孫を増やす方法」の確立に成功した。
そして「雌」と云う「人の類」を「雌」を主体として「雄」を造り上げて継承(遺伝)する事に成った。
つまり、それまで取っていた変態形式の「雌」の子(娘)の「雌の遺伝継承」と、新しく「雌」の「雄」(息子)の子(娘)の持つ「雌の遺伝継承」の二つで「雌」の「人の類」の子孫確立を高めた。
このプロセスが、他の類からの「捕食」から子孫を増やせないと云う「第一の危機回避策」であった。
これはとりあえず成功した。

(注釈 「人の類に関する遺伝継承」は「雌」に依ってのみ継承される。)

ところが、「第二の危機」に襲われた。
「人類の初期」、つまり、四千年前の中国の「華国の創建」の由来、況や、“国と云う概念の創設期”では、「善悪の概念」は別として、この「集団」を形成する為に必要としたのは、「第一の危機」の回避策が進みより子孫を遺そうとして採ったのが「雄」を起点にして「一夫多妻の原理」であった。
この「一夫多妻の原理」に従っていた事から「多妻に依る集団化」が起こり、その互いの集団に「指導者の王」(絶対的指導者)を定め、「国と云う概念の集団」が初めて出来た。
これが人類史上初の国の所謂、中国の“「華国」”であった。
この時、「一夫多妻の原理」で生まれた初の国の「華国」は、夫々の妻の子供の集団化が幾つか集まり、その中での「指導力のある者」が「国家の王」として祀り上げて、「初の国家規則」を作り上げた。
それは、「臣下制度」と云うもので、これを「初の国家規則」として「儀式化したもの」は“「瓶杯」”であった。
「瓶」と云う入れ物に「酒」を入れて、それを「家臣と成る者」に「瓶皿」に注ぎ「家臣と成る者」が飲み干すと云う儀式化であった。
これで「初の国家体制」を造り上げた「華国」は、「血縁のある絶対的な絆」が成立させて行った。
これが最初の「国家の規則」であり、最初の「国家儀式」であった。

この「国家形式の儀式」は、世界の人の類に依って異なるのだが、我が国に限定し論じるとすると次の様に成る。
日本では、最初に、この「儀式化」で出来た「国家形態」は、摂津湾に入った「渡来人の応仁王(蘇我説)」で、関西域を制圧し、「地域の五豪族」(紀族、巨勢族、葛城族、物部族、)を先ずは血縁で結び、上記したこの「儀式化」で「家臣化」して「応仁王」から「応仁大王」による「初の正式な国家」、況や「飛鳥王朝」が出来た。

これは、経済的とか精力的とかは無関係の“「子孫を増やす」”と云う「単純な人間の原理」からの発意であった。
如何なる世であっても、補完役の「雄」が多くても「妻」(人の基礎の雌)が少なければ、尚更、危険の多い原始の自然界では子孫は増えない。
「道義的な感覚」よりこの「集団」を維持する為には、“「子孫」を増やす“と云う命題の方が優先され、その事からの「国家形式」を保つ上でも「一夫多妻の原理」の方が良しとしてこれに従っていたのである。
「雄」が補完役である以上は、「人の類」の「論理的呼称」とすれば、「多妻一夫の原理」が正しいだろう。
何故、この様に逆転したかは別の論として、当然に、「国家」を形成する「臣下の族」も同様の形式に従っていた。

ところが、この「仕組み」(「一夫多妻の原理」)に依って「子孫」は確かに増え多くの「集団」(初期の国形態)が形成されたが、ここで別の“ある思わぬ出来事”が起こった。
そして、その“ある思わぬ出来事”で、「人類」には「捕食」とは新たな別の危機が起こり、“「滅亡に近い事」“が起こったのである。
各大陸全体にこれが蔓延し地球規模で起こって仕舞った。

そこで「人間」(人の類)は、再び色々な「子孫拡大の仕組みの模索」を試みたが、駄目であった。
この“ある思わぬ出来事”とは、それは何と“「菌」”であった。
それは「補完役の雄」を出す事に依り起こった危機であった。
「雄」を造り上げる事に依って、造り上げた生殖の「繁殖の仕組み」に原因があった。
「雄雌」に依る「人類の生殖反応」に依って、この「菌」が「菌」に依る「性病」を蔓延させ「良い子孫」を遺す事のみならず、「子孫拡大」どころか「滅亡の方向」に動いた。

この滅亡過程で、この時、次ぎの「二つの事」が起こった。

一つは、「無制限な生殖」に依る「菌の繁殖拡大」である。
二つは、「同族間血縁の弊害」であった。

然し、この時、「人類」は、この「二つの事」が、これは「生殖反応」に依るものとは到底解っていなかった。
”「神の成せる技」”としか考えなかった。

先ず一つの「菌の繁殖拡大」では、「人類」が住むジャングルに存在するこの「菌」は「人の類」にのみに影響した。
ところが、そこで「人の類」は、これを「場所的な原因」として観て、世界的に大きく大陸移動を開始した。
そこでも、一時、「人類の子孫」は拡大を再び興すが、再びこの「菌」が拡がり、移動先でも滅亡する事も起こった。

ところが、この「人の類」の中でもある大陸に移動して進化させて「知恵」を発達させた「新たな人類」が生まれ、この「菌の発生原因」が「人」に依るものだと云う事を考え着いた。
そこで、”「神の成せる技」”として「知恵の進化」に依って生まれた「原始の神の宗教的概念」を興して、これに基づいて「戒律」を造り、この「戒律」を利用して「一夫多妻」を禁じたところ、この「新たな人の類」は滅亡から徐々に増大へと進んだのである。
この「菌」が「生殖の行為」に依って爆発的に蔓延する事を知ったのである。

このある「人の類の種」は、「原始の宗教的概念」に依っては、次ぎの様な行為を採った。

A 「一夫多妻」を止めた地域、
B 「女系家族制」を採用した地域、
C 場所を決めて「集団生殖行為制」を採用した地域、
D 村で管理する「通夫制度」を採用した地域

以上の様な工夫をした。

どれも「効果」は認められて「菌に依る弊害」の危機は無く成り「子孫拡大」へと繋がった。
これらの制度に「共通する点」は、次ぎの事であった。

“「管理に置く事」”と、“「女系にする事」”であった。

以上の二つであった事を人類は初めて知ったと云う事である。

「国家の集団化」と「原始の宗教的概念」とを合わせて「管理する事」で、「菌」を強制的に除く事が出来て、且つ、「保菌者」を排除できる事となった。

元の「女系にする事」で、「菌」を排除できると同時に「生まれる子供の保菌者」の「排除と奇形」とを除く事が出来た。
「奇形」は「人の類」を危機に追いやる事から逃れ得た。

「無菌の女系」で纏まれば「人の類」は爆発的に拡大できる事となった。

後は、この「二つの管理」、つまり“「管理に置く事」”と、“「女系にする事」”によって「男子の保菌者」を排除出来ればこの「菌」に打ち勝てる事を知ったのである。

結局は、「女系にする事」で「人の類の危機」から逃れられる事を知った事から、ここで「神は雌として崇める原始の宗教概念」が生まれたのである。

ところが、ここで、中には、次ぎの様な制度を採った「国」と云う形式には至らない「集団」があった。
それは、「男子を集団で生活させる事」で、次ぎの方法を採った集団があった。

「女系家族制」
「集団生殖行為制」
「通夫制度」

以上の「三つの制度」を同時に敷いた地域も起こった。
これは、“神は雌として崇める原始の宗教概念”を徹底した事からのもので、「局部の地域(ジャングル居城地域・発生地)」に不思議に終わった。
恐らくは、この制度では大きく集団化が起こらず、「奇形による危機」が起こり、「国」にまで発展せず「混血に依る知恵の進化」は起こらず、「人の類」は「劣化」を興し「村レベル」で終わる結果と成ったのであろう。

少し進んで「島国の日本列島」に於いてもこの上記の「二つの危険性」(菌と奇形)はあった。
海を渡る「移動浮遊族」に依って持ち込まれる「菌に依る問題」もあって、況して、「7つの民族の融合民族」であった事から、島国でありながらも「持ち込まれる」と云う事が起こった。
(注釈 菌には、主に「梅毒と結核菌」の二つがあって「遺跡の骨」からその証拠が発見されている。)
つまり、未だこの頃は「同一融合民族」で無くその過程であった事から、「女系家族制」「集団生殖行為制」「通夫制度」の「三つの制度」は採れてはおらず、結局は、「村単位で管理を強化する」と云う事で徹底的な隔離を含む「排除主義」を採っていた。

ところが、少し進んで「飛鳥期の前期頃」からは、融合しながらこれ、即ち、「村単位の排除主義」(集団も含む)で「国と云う概念」が生まれながらも「純血性」とか「子孫を増やす」とか云う宿命を持った「力のある融合族」は出来なく成っていた。


「人の類」の初期の頃には、次ぎの滅亡の危機があった。
イ 「捕食に耐えうる事」
ロ 「菌に耐えうる事」
ハ 「奇形に耐える事」

以上に耐え得た「人の類」は、「子孫」を増やし、「属」が出来、そして遂には、その「属」で上記の通り「国」と云うものを形成した。
この「国」と云うものを護る為には、その中で今度は国を構成する「属」では困難と成り、更に細分化して、「族」を形成させて「国の形態の正当性(血縁性)」を護る為に生まれた。

「真人族」とそれを「補完する臣下族と成った賜姓族」の二つで「特別な慣習仕来り掟」を創造して定め、「国の正当性」を護った事に成る。

然し、ここで、「国家」と成った事に依っての「国」の「王(後に天皇の呼称に成る。)の権威」を保つ意味から「高い純潔性」を求め継承しようとする形態が生まれた。
これが、「飛鳥王権」「飛鳥王朝」「奈良王朝」と変化し、遂には「奈良朝廷」に成り、「八色の姓」や「冠位十二階制度」(後に天武天皇が四十八階にする)等を定めて「継承族の立場と役目」とその「慣習仕来り掟」等について定めてその「権威性」を確立させた。
然し、この時は「ロとハのリスク」は未だ充分には解決には至っていなかった。

そこで、ロ 「菌に耐えうる事」と、ハ 「奇形に耐える事」に付いて「国レベル」で「見直し」が行われた。

「ロとハのリスク」の面から観ると、次ぎの様に成る。

「ロのリスク」は、「属」では出来ない事から「族」の中で、「生殖の範囲」を限定して、「族」を細分化して制度化してブロック化したのである。
然し、これには「ハのリスク」が伴う。
「ハのリスク」は、「ロのリスク」に依って生まれる「ハのリスク」を「排除主義」を取り入れて制度化して、況や「廃嫡制度」を敷いた。

これを制度化した事で、「人の善悪を越えた思考」が生まれ、リスクに対する「ブロック制度」と「排除制度」は正統化させてその事に依って徹底した。
この事が資料からも判っている。

その根拠は「国と云う概念」の下にあった。
この「国と云う概念」を護る「上位の族」に執っては大きく課せられた「ブロック制度」と「排除制度」は「族の宿命」と成った。
これが、飛鳥期の「国の成立過程」を経て奈良期から敷かれた「確定した国の制度」(骨格)であった。

「聖徳太子」が採った制度は、「政治の構成」と離れて、「族で構成する国」が起こす「ロとハのリスク」と云う別の面からのもので、その面から観た検証の結果であったと云える。
つまり、「冠位十二階制度」は「属」を超えたその「族の縛り」であると観える。
その意味で飛鳥期では、未だ「属」による「ロとハのリスク」を持つ「不完全な国の構成」とも云えるのだ。

この「幾つかの制度」を更に見直した事に依って「初めての国家」と見做されたもので、それが「大化改新」であろう。
その「大化期の終息期」(647年)に生まれたのが、所謂、我等の「青木氏族」であるが、それなりにこの「ロとハのリスク」の期に所以があるのである。

従って「初めての国家」の期に出自した「国家の族」を構成する「賜姓臣下族で朝臣族」の「血筋と云う視点」では見逃す事の出来ない論点であるのだ。

故に、そもそも前段より論じている様に、「冠位十二階制」から始まった「冠位十八階制度」と「八色姓制度」であり、この時に生まれたのが「真人族」から離れ「朝臣族」の「賜姓臣下族の五家五流青木氏」であり、同じく「近江佐々木氏」であった事に成る。

論理的に場合に依っては、「天皇家」を始めとして「青木氏族等」の「王族の朝臣族」の様に「ロとハのリスクの侵入」を周囲に「壁」を張って「血筋を中に閉じ込める政策」では無く、むしろ外に放出して「ロのリスク」は兎も角も「ハのリスク」をも無くすものとして観れば、「第七世族」である「坂東八平氏」も「ロとハのリスク」を大きく開放した制度であった事も云える。
「ハのリスク」はこの「壁」が無い為に「新しい血筋」が入るが、反面では「ロのリスク」は、「第七世族に任す事」に成り得る。

從って、その意味では「青木氏族や佐々木氏族等の第四世族」は、「ロとハのリスク」を責任を以って「リスクの壁」を「制度や慣習仕来り掟」と云うもので造り護ったという事に成り得る。
つまりは、見方を「人の類と云う視点」に変えれば、これが「両氏族に課せられた賜姓五役」であった事にも成る。

然れども、「天皇家」は、「ロとハのリスク」は、あまりの「純潔性」を「権威を保つ手段」に特化したが、これを「国家」と云う事に使った事で、「ロのリスク」は防げたとしても「ハのリスク」が逆に大きく成った。
そして、この「ハのリスク」を何とか除く為に止む無く「廃嫡制度」を「系譜に載らない形」で密かに採らざるを得なくなったのである。

(注釈 この「廃嫡制度」では、「ロとハのリスク」の記録上では、多くは「出自不祥」等と云う形でも処理されている。)

従って、この「天皇家の廃嫡」が進むと、これを緊急時に補完する為に、この両者(「青木氏族」と「近江佐々木氏族」)には「朝臣族」でありながらも、「最低限に準継承族」としての「条件」が求められていた事に成る。
この「準継承族」は、「最悪の場合の事に対処する族」と成るのだが、これも原則的には「令外官」と「皇親族」の時までの事で、「形式上の族」に成り得ていたのである。(嵯峨期には正式に外れた)
この「条件」が、「ロとハのリスク」を持たない族として、最低限に於いて「賜姓五役の役目」を維持する「男系嗣子」に限られた「純潔性の保持」であった。

さて、ところが、これが思いの他で問題を起こしたのである。
そして、それが、当時では理解できない思いがけないところに起こった。
これが「三つ目」に起こった「存亡の危機の事」には成った。

これが大和に出来た「初の国家形態」を揺るがす “「ハの遺伝障害の事」”であった。
つまり、突然に表れる「純潔性の悪弊」(同族血縁に依る弊害)であった。
当時では、この原因が殆ど理解されていなかった。

「天皇家族の系譜の記録」を読み解くと、この時(改新後)は、飛鳥初期頃に比べて既にこの「遺伝障害の事」の原因は、“「神の成せる業」”として理解されある程度に認識されていた様である。
その証拠が、「伝統の論」の前段でも論じた様に、「嗣子」だけであれば数的に「后妃嬪の妻」の「制度の範囲」でも「継承」は成立する。

これに対して、態々、“「妾」”が組み入れられている事が、「政治的な事」のみならず間違いなくそれに当たるだろう。

ここで、“「神の成せる業」”としての認識が、この“「妾を組み入れる事」”にどう繋がり、“何故に「神」に関わる事に成るのか”と云う疑問がある。
それは、“「純潔族(四世族)」”の中に持ち込まれた「人の悪行」が、“「因果」”として「神が指し示す行為」と見做され、「神殿」に於いて「御払い」をする事のみならず、現実的にこの「因果」を「薄める行為」として持ち込まれた「神義」に近いものであった。
故に必ず、「后妃嬪の妻」の正式な制度に「妾」を加えて大化期からは「后妃嬪妾の妻」とする制度としたのである。
「后妃嬪妾の妻」は、正式に「身分制度」にも用いられたが、その「皇位継承者」はこの順に従うものとして、「后妃嬪の妻」までに「継承者」がある場合は、「皇子族」から外れ「賜姓臣下族」として「天皇」の「近衛族役や皇親族役」を新設して「下俗する事」になったものである。

これが「前段までの論調」であり、これには上記する「血筋に関わるリスク」と云う視点からの「国家形成過程」に関わる経緯があった。
つまり、「青木氏族」は、当にこの「国家形成期の出自」に当たり、必然的に「氏族の意思」に拘わらずこの「ロとハのリスク」を持ち込んだ事に成るである。

そもそも、「青木氏族」は、当にその「神の成せる業」の「因果の解消策」の最初の「妾の出自族」に当たる。
「準継承族」の「賜姓臣下族の朝臣族」として「準継承氏の立場」にある二氏も、「施基皇子」(青木氏 越道伊羅都売 越は福井山形域)も、「川島皇子」(近江佐々木氏 忍海造小竜の女色夫古娘 四国域)も何れも「地方の豪族の女」のこの「妾子」である。
「青木氏族の歴史的価値」はここにもあるのだ。

(注釈 但し、「妾子族」には「ロとハのリスク」を持ち込む恐れは充分にあったが、何れもよく調べた上での「妾」であれば“問題はなかろう“と云う事に成る。
「ロのリスク」は目で直ぐに判るが、「ハのリスク」は目では判らず「隔世遺伝的に持ち込まれる事」はあり得る。
「地方の豪族」であるので、何とか系譜などで調べれば判るが、密かに廃嫡をしている事から、当時としては、廃嫡以外に確実などの様な調査方法があったのかは分からない。
恐らくは、「隔世遺伝のリスク」そのものが理解されていなかったと考える。
「何時か出ると云う感覚」では諦めていた事で、その為の「廃嫡制度」は是非に持っていなければ成らない事でもあった。
そもそも、「七つの民族」が融合し1400年経てもこの「隔世遺伝のリスク」だけはあるだろう。
ところが、「青木氏族」は前段でも論じている「四家制度と云うシステム」、つまり「福家で養育する制度」で、この「隔世遺伝のリスク」(男系女系に拘わらず)も見抜く事が出来ていたのである。)

(注釈 記録に見れば、「唖子」は別として「優秀でない嗣子」は廃嫡せずに傍系に出して外している。)

況や、この「天皇家」を含む「賜姓臣下族の朝臣族」の「后妃嬪妾の仕来り定義」が無ければ、この「同族血縁の弊害」は、“「隔世遺伝的に起こり得る大弊害」”の可能性が有った。
恐らくは、もっと云えばこの「妾子」に依る「優性保護の仕来り」が無ければ、「国家」を維持する「主の権威」を保つ上での「劣性嗣子」が頻繁に起こり、結局は、「国主の権威」は保て無く成り、「国家」は失墜し混乱に陥り維持は出来なかった事が起こった筈であった。

現実には、飛鳥から奈良期に於いて「皇子」と成っているにも関わらずその「皇子の半数」は少なくとも「国家の権威」を維持するに値する「優性嗣子」では無かったとする説もあり、現実には「日本書紀」などにも「天智天皇の皇子」の「建皇子の劣性の記」等が認められる。
本来は、「唖子」の場合は、「帝紀と上古諸事」に見られる様に「廃嫡制度」によりそもそも「皇子」には成れない筈であり、然し、「建皇子」の様に「皇子」に成っている。
これには、「唖子や廃嫡」の場合は、系譜の中に入らないが、現実にその一例が「天皇家の系譜」に出た。
この理由には「日本書紀」に書かれていて、「建皇子の祖母」が「皇位」を主張して「皇子」とは一時は成ったものの、直ぐに廃嫡死亡した例がある。

そして、この「四世族内の血縁」における「劣性遺伝」を防ぐ為に「嵯峨天皇」が慌てて態々、未完の「新撰姓氏禄」を世に出した目的にもこれを防ぐ基準としたと観ている。

筆者は、前段で論じた「天皇家のルーツを確定させる」という事よりこの「目的の方」が強かったと観ている。
その意味では、況や、「青木氏族」に執っては厳しい仕打ちともとれるが、この「ロとハのリスク」を断ち切ったと云う視点から観ると、これのは「嵯峨天皇の功績」とも云える。

ここで、この「ロとハのリスク」を排除した視点から、「青木氏族の事」を理解する為に前段でも論じている事ではあるが念の為に「注釈論」を論じる。

(注釈 そもそも、「四世族の基準」は、それまでの「第六世族」を変更して「天智天皇の大化改新」で「王位」とすると決めた。
この「四世族基準」からすると、平安期中期以降は原則として「青木氏族」は本来は「王位」は持たない。
つまり、「聖武天皇」からは「第七世族外」であり本来は「王位」は無い。
この「聖武天皇期」のこの時には、「天皇家の真人族」には「四世族」は元より「六世族」までも含めても、「唖子と廃嫡族」を除いて「皇子」も含めて「王位」に成り得る「嫡嗣」は無かったし、「義嗣」も無かった。
「永代浄大一位の身分」を持つ「施基皇子」の「四男・六男説もある」が、「聖武天皇の皇女」の「二人の姉」がいて長女が「女系天皇(孝謙天皇)」と成ったが、「女系天皇」と成らなかった三女の「井上内親王」との血縁で、「天皇」と成った事(下記に論じる)で、「施基皇子の男子」はその時点で「個人の意思」に拘わらず「王位」を獲得した事を意味する。
更に「施基皇子」が「追尊・後付け」の「春日宮天皇」と成った事も「王位」と成った理由でもある。)

(注釈 論理的には、「施基皇子の男子」であった時には、「天智天皇期」、「天武天皇期」では「第三世族」、「第四世族内」にあって、「王位」にあった事に成り、「持統天皇期」でも「天智天皇の第二皇女」で「天武天皇の皇后」であるので、「四世族内」にあって「王位の座」は保たれていた事に成る。
然し、「文武天皇期」に「第五世族」と成った事で「王位」はこの時点で外れた事に成り得る。)

(注釈 一説によれば「施基皇子の六人の男子継承者・四人説もある」は、現実に「父の生き方」を見習い「王位」を好まなかった事が内資料も含めて書かれた資料があり、取り分け、「湯原王」と「榎井王」は敢えて「無冠」と成り、「冠位」も含めて嫌った事とが判っている。
従って、論理的にはこの二人は「王位」には成っていない筈である。
そもそも、「王」としての「冠位」が無く、「冠位」の無い「王」は、そもそも存在しない。
「相当の冠位」(第二品 従四位下以上)があるから「王」であり、「王」であるから「相当の冠位」があるのであるとすると、「本人の意思如何」を問わず「湯原王」と「榎井王」は「王」では無かった筈である。
つまり、これも「後付けの追尊王」である事が判る。
「光仁天皇」と「後付け天皇」の追尊の「春日宮天皇」の「権威の辻褄合わせ」で、「後付け王」と成った事が判る。
これは「施基皇子の生き方」であってそれは「青木氏の氏是」に表れている。
恐らくは、「白壁王」を除いて他の五人の子供は、この「青木氏の氏是」を護った事がよく判る事に成る。
強い圧力の上で「白壁王」も止む無く応じるしか無かったと考えられる。)

(注釈 つまり、最も純潔の血縁性の深い一族から止む無く、「帝紀や上古諸事」外に成るが例外として「中国の古典」に見習って「白壁王」として条件を整え「義嗣方式」を採ったという事にも形上はした事に成る。)

(注釈 「青木氏族」の 「・湯原王、・春日王、・榎井王、白壁王、桑原王、壱志王」で王位を追尊で得た事が判る。 
「榎井王、桑原王、壱志王」の三人は「妾子」で、四人の女子の内三人は光仁天皇期には内親王と成る。
そして、更に、「光仁天皇期」の「二世族」、つまり、「施基皇子」からは「第三世族」としても、「*壱志濃王、市師王、 安貴王、高田王、香久王、 神王、榎本王、鴨王、*桑原王二世」がそれぞれに「王位」に着いた。
ところが、「賜姓臣下族の朝臣族」に課せられた「慣習仕来り掟」に従わず「姓」を「・印の二世王の*印の後裔」が興したとする説がある。
然し、「桑原王・妾子」と「壱志王・妾子」等の「二世族」は「青木氏族」を護り拒んだ。
「桑原王は二世族の子」で、然し、「三世族」では「・印の二世族」を親とする「*印の三世族」の後裔に「姓」を興したとされるが定かではないし、その「後裔」を興した時期も判らない。
唯、「・印」と「*印」には矛盾が多くあり「江戸期の搾取偏纂」ではと観られる。)

(注釈 世間に出ている「一般説」では、この「後裔」としているが、殆どは、「江戸期初期の諸版説」を論処として論じているので総合的に見た歴史観から見れば「搾取偏纂の矛盾」が生まれる。
唯、その内の「*印」の「一つの姓族」に付いては、「傍系卑属の末裔」の可能性があるが、これもその主張は「施基皇子」を始祖とする「川島皇子」とすると成っていて矛盾し疑問がある。
確かに、「新選姓氏禄」や「他の二大歴史書・三大累代格」から観ると、平安初期にその「姓の名」を持つ「臣連の朝臣族」は存在した事は認められるが、「・・朝臣族」の「・・名」を「姓名」にするは「朝臣族」として課せられていた「慣習仕来り掟」から観ても疑問でもある。
そもそも、本来は、「皇別の真人族の朝臣族」の課せられた「掟」から観て、「・・朝臣族」の「・・」は「氏名」に成るものであって、「姓名」にするものではない。(嵯峨期で禁じられている)
但し、「新撰姓氏禄」には、これを明確にする為に全体を「皇別」と「神別」(地方豪族)と「諸審」(渡来人)に先ず分けられ、その「皇別」には「真人族」(高位)の他に「真人族}ではない特別に「縁戚関係族」、つまり「傍系尊属 傍系卑属」を主体とした「皇親別」(低位・縁戚)に分けられている。
この「皇別の朝臣族」の「皇親族」だけは「姓」を持つことが出来る事に成っている。
従って、上記の「*印」の「一つの姓族」とは、この「朝臣族の皇親族」に成り、つまり、「傍系卑属」と成る。
「傍系尊属」からは「姓」を興すと成ると、「傍系」とは云え「氏家制度」の中で課せられている「慣習仕来り掟」を護らせる立場にありながら、自らがその立場を失う様な事をするは先ずあり得ない。
又、仮に「姓」を発祥させたとすると、「氏家制度」から「宗家」から「慣習仕来り」に反したとして「氏族」より外される事は「尊属の立場」である以上必定である。
その点から観ても、条件的に観て「後裔の可能性」が強いとするならばそれに縛られない「傍系卑属」である事は頷けるが、「施基皇子」と「川島皇子」の「絶対的な矛盾点」だけは解明できない。
その「姓」の「近江の出自」から「近江佐々木氏」の「始祖の川島皇子の後裔」と云う点が取られ、どこかで「系譜作成」で間違えてしまった可能性もある。)

(注釈 その「姓の始祖」とする「施基皇子」の「ある第二世王の在所」は近江に関係していないので、だとすると、この「第二世王の後裔青木氏」の「女系」が血縁で、「青木氏側」には記録は無いが、「第四世族内血縁」を「賜姓五役の前提」としている事から、又、「・・朝臣族」の「・・」を「姓名」とする事から観ると、「佐々木氏系青木氏」に嫁いだ可能性があると観られこの視点から観ればこの「矛盾点」は解消出来る。
この「・・朝臣族」は「新選姓氏禄」から観て確かに「四世族内」にはある。
然し、この時期は、「近江佐々木氏系青木氏」の「傍系卑属」までを含む一族一門は、「二つの源平合戦」で敗退し平家に依る厳しい掃討作戦に依って滅亡しているので、平安末期直前の事と考えられ本来は「後裔の姓」は生まれない筈である。
その為に、江戸期初期に作成した「系譜作成」が錯綜したと観られる。
恐らくは、検証をすると、その「姓族の在所」からも一部に密かに生き延びた末孫の「佐々木氏系近江青木氏の傍系卑属」の説の可能性もあるが生き延びたとする確定検証は出来ない。)

(注釈 残りの「一つの姓」は、典型的な拭い切れない矛盾の疑問が残り、論じるに値しない「江戸期初期の搾取偏纂」と観られる。
更に、上記した様に「賜姓五役」の「青木氏族の慣習仕来り掟」に合致せず「姓」を持ったとする説の「・印の二世族」は三人いるが、「*印」の「もう一つの姓」は「・湯原王、・春日王、・榎井王」には確認できないが、恐らくは、「・湯原王、・春日王、・榎井王」の「無冠位」を主張した「・湯原王、・春日王、・榎井王」の「三人の内」の「春日王の姓族」としている事にも成り、「矛盾の姓」に成る。
つまり、明らかに、この「二つの姓の件」に付いては、「嵯峨期の詔勅と禁令」がありながら、この様な間隙を狙って、江戸期初期に矛盾する「姓」をねじ込んで来た事を意味する。
従って、「重要な歴史観」として矢張り「青木氏族」は、「賜姓五役」を保持するが故に、結局は「江戸期初期の前後頃」までは少なくとも「姓」を持たない「原則四世族内」の「青木氏族内」にあった事を意味している。
唯、「優性の後裔を遺す」という点では、鎌倉末期から江戸初期前後頃まで「四家制度」等を敷きながらも、次第に難しい状況に陥って行った事は事実であり頷ける。
取り分け、室町期には「下克上や戦国時代」と成り、歴史書に記載されている「朝臣族の氏族」は「姓族」に依って悉く一掃され潰され、又、「下克上」により「傍系卑属」に乗っ取られたりして「数氏」にまで落ち込んだ歴史的経緯を持つ。)

(注釈 幸いにして、「紙文化の発展」に依って「巨万の富」を獲得し、それを以って先ずは「抑止力」を高め、「女系族」を推進して「周囲の姓族との絆作戦」を展開して生き延びてきた。
此処が、「第二の分岐点・ターニングポイント」であろう。
室町期初期からじわじわと始まる「危機」がこの分岐点で、これでは拙いとして大きく「四家制度の考え方」について舵を切った時期と考えられる。)

以上、「注釈論」を前提に次に「血筋の論」を進める。

「直系尊属と直系卑属」は、「賜姓臣下族の慣習仕来り」を護りながらも「四世族血縁」を貫いた。恐らくは、この事から「室町期初期」からは、「四家制度」に依って上記した「玄孫までの女系族」にシフトし始めた事が判る。
この鎌倉末期から室町期初期が「第一の分岐点・ターニングポイント」であると考えられる。

本論のテーマである「江戸初期の殖産」に依る「体制造りの主眼」は、「玄孫までに依る女系族」に徹底して切り替えたと考えられる。
この江戸初期前後頃が「第三の分岐点・ターニングポイント」であると考えられる。
それが、「女墓」(伊勢・信濃)に表れているし、「甲斐青木氏と信濃青木氏の動き」にも出ている。

先ず、そこで生き残った室町期初期の「甲斐青木氏」では、「賜姓臣下族の正統族」の「源光系甲斐青木氏」と、「源光」の兄の「時光」が「傍系の源氏族」であるとして「嵯峨期の詔勅」で「時光系青木氏」を発祥させた。
ところが、この「時光系青木氏」には内部抗争が起こった。
この為に、「武田氏系」の「時光系青木氏」は弱体化し、結局、生き残るために武田氏に組した為に「第三の分岐点・ターニングポイント」では、「慣習仕来り掟」を全て金ぎり捨てて完全に姓化した。
そして、「傍系源氏族の武田氏」が滅びると共に、掃討作戦にも何とか生き残り一族郎党全て「武蔵鉢形」に移封され「徳川氏の家臣化」をした。

(注釈 この時、この武田氏を滅ぼした勝者の信長は出迎える為に列の中に「白馬に乗った者」がいてその侭に信長を出迎えたとして,引きずり降ろし滅多打ちにした。
これは古来からの「賜姓臣下族の朝臣族」の「高位の者」の儀礼の「立場の仕来り」であるとして迎えたのであるが、信長はこれを否定する行動に出た。
信長はこの「仕来り」を知らなかったとする説もあるが、「平家傍系の末裔」でもあり伊勢信濃に近く、且つ、足利将軍などとも謁見している事から知らなかったという事は無いだろう。
恐らくは、「賜姓臣下族の朝臣族と云う立場」を自分の「覇者の権威」を保つ為には認めたくなかった事を意味する。
この「白馬の者」は中立を保った甲斐の「源光系青木氏の後裔」であると云われている。
現実に、この「白馬の者・源光系青木氏」は信長より所領の剥奪等の圧迫を受け滅亡に近い衰退をし行方は分からなくなったとされている。
然し、「傍系卑属の後裔」とされる一族は江戸期にも生き残ったと成っている。
そして、武田氏に味方した「武田氏族の時光系青木氏」は、家康に救われて潰れる事無く、「信長の圧迫」を受けない様に家康は即座に一族郎党を鉢形に移した。
この一人が「柳沢吉保」の父である。)

元々、源氏傍系の「時光系青木氏」は、そもそも、傍系族(傍系卑属の可能性)であって、「賜姓族」では無い為に「慣習仕来り掟」には大きくは縛られず姓化に成れた経緯もある。
弟の「賜姓臣下族の源光系青木氏」は、「郷氏」を続けながら「和紙」等を殖産生産して、「賜姓族」としての「慣習仕来り掟」を護りながらも、より「女系化」を採用して後裔に「姓」を置き「姓化の絆」で一部が「商人」として何とか生き延びたとされいる。
その「存亡の有無」も判らないほどに「子孫力」は三氏(伊勢、信濃、甲斐)の中で最も低下した。
甲斐」に於いては「時光系」のみならず「本流の源光系」も「直系族の甲斐青木氏」は遺されていないのである。

次に、そこで気に成るのは周囲が多くの国衆で囲まれている「信濃青木氏」であるが同じ道を採らず、「甲斐」とは別の選択を採った。

それは、前段でも何度も論じたが、”「伊勢青木氏との絆」”を徹底して強化して一体化を目指す”「同化戦略」”を採った。

伊勢と同様に「四家制度等の各種の制度」を採りつつも、且つ、「伊勢との同化」の為に「女系」のみならず、「男系の同化」も図った事が判っている。
「信濃」は「伊勢からの優性の血筋」、「伊勢」は「信濃からの優性の血筋」を入れて共に「劣性の弊害」を排除し「四世族態勢」を堅持した。
これは、「氏族堅持」の為に「血筋」に関わらず「商い」に関しても「同化戦略」を採ったのである。
唯一つ信濃は「違う筋道」を採った事があった。

それは、「伊勢との同化」を進める中で、それは「四世族系」の「直系族」のみの範囲に留め、「尊属と卑属」に拘わらずある程度に「傍系族」には「姓化」を認めている。
故に、現在に於いても「直系族の宗家」の「信濃青木氏」が存続し、伊勢、信濃共に「直系族の宗家」は明治期(明治9年)まで存続した事が確認できる。
現在も「笹竜胆紋の後裔」は、その「ある程度の伝統」と共に遺されている事が判っている。
この様に一定の規律、つまり、「慣習仕来り掟」を「直系族」が柔軟にして護りながらも「姓化の弊害」を乗り越えて生き遺った「青木氏族」もいた事にも成る。

唯、「伊勢と信濃」に於いては血縁に於いて更に「面白い事」があるので追記する。
それは平安期末期に京にて遥任していた「源頼政」が朝廷より得ていた「領国」の「警備」として「伊勢青木氏と信濃青木氏」を合体させて「伊豆」に送り込んだ。
これは「賜姓の氏族の血縁」と云う視点では「面白い戦略」である。

本来であれば、「領国の伊豆」に警備として送るのであれば、普通は「源氏族」であろう。
何故なんだろうか。それは何か「血縁を含む氏存続」に関わる何があって、この様な「不思議な戦略」を執った事は先ず判る。

そもそも、「摂津源氏の頼光系の四家一族」は、前段や上段でも何度も論じたが「武家貴族」と云う立場を護る為に「武力」を大きくは持たなかった。
「武力」を持つ事で「武家貴族」として「祖父満仲」の様に朝廷から疎まれたが、その事では「摂津四家」の「頼政」は三位まで登り詰める事は出来なかった筈である。
当然に、「直系族の宗家」として「じり貧の運命」を辿り「賜姓源氏族の生き残り策」を果たせなかった筈である。
然し、「満仲の作った武力集団」を引き継いだ「頼信系」は一時は伸長したが、然し、この結果は逆に平家に敵対され衰退化を招いた。


そこで、「頼政」が目を付けたのが同じ「皇族系賜姓臣下族」の「伊勢と信濃の青木氏族」が持つ”「影の勢力の抑止力」”であった。
「武力集団」として公に成っていないこの「影の勢力の抑止力」を「平家の勢力拡大」の中で「伊豆」に送り込んで何とか「領国」を護る事に着目したと考えられる。
そうすれば、朝廷より武家貴族としての非難は免れる。

そもそも、「頼信系」と同じく「武力集団」を形成して送り込めば、一族の”「血筋」”は乱れ、且つ、”「姓化」”が起こり、何もしなければ「ロとハのリスク」を抱え「族の形成」は危うくなる。
「朝廷が認めた領国」である以上は、そう簡単に「武力」が無ければ手を出せないし、従って、最大勢力の「平家」に潰される事が先ず起こらない。

(注釈 「伊勢青木氏」は「平家の始祖の阿多倍王(孫の高野新笠・光仁天皇の后)」とは古来より隣国として繋がっている。)

そこで、「武力集団」に相当する「影の勢力の抑止力(経済的繋がり)」をこの「伊豆」に成すには「伊勢と信濃」を「合体させる手」を打つ事が必要であった。
そうでなければ「ロとハのリスク」が起こると共に衰退し「賜姓源氏族」を遺せ無い筈で、そこで「伊勢」には血縁的に「妾子の京綱」と、「信濃」には「妾子の国友」に跡目として送り込み、そして、この「融合した合体一族」を「伊豆」に送り込む「奇策の戦略」を執ったのである。
これでいずれも「宗家」の「源氏族の血筋」と「青木氏族の血筋」の合体で、「血筋リスク」はより解消され圧迫を受けている「摂津の宗家の源氏族」を安定して遺せると考えた筈である。

そもそも、「青木氏族」の「直系血筋の四世族」は「仁明天皇」までであり、「ロとハのリスク」は系譜上は無い。
「摂津源氏族」は、他説が多いが、「貞純親王説」としては「7世族」に当たり「姓族の外子王」である。
「四世族」までとすれば完全にルーツを変えた「賜姓族」であるが、そもそも、「貞純親王説」は「傍系尊属」に相当するので、好ましくないと観たのではないか。
然し、「親王」ではないが「陽成天皇説」であれば、この「天皇」は「ロとハのリスク」を持った記録に残る程の「暴君」として有名であった事からも、この「二つの説」からも「清和源氏」にはこの「血縁のリスクの危険性」を持っていた。

これを当然に認識にしていた「頼政」は、「青木氏族と賜姓源氏族との血縁戦略」とすれば「ロとハノリスク」は解消されると考えたと観られる。
「清和天皇」は、上記の通り何れの説も「皇子」ではない孫(王位)であり、例外であり、且つ、「ロとハのリスク」を引き継いだ王を賜姓する事に成り、これを頑として拒んだ。
本来は、「清和源氏」では無く、「賜姓源氏族」と成るには「陽成源氏」と成るが、「ロとハのリスク」を持つ「天皇」としては「賜姓」は困難と扱われていた。
そこで、止む無く、「純友の乱」を「経基王」は企て「祖父(清和上皇)」に頼んでその勲功で「賜姓」を願い出たは経緯を持っていたのである。

つまり、これらの「三つの汚名」を払拭し「正統な源氏族」として遺す為には、「跡目」を両氏に入れる事は血縁上は問題はまずなく「ロとハのリスク」は殆どない「賜姓族」と成り得る。
これは、当に、下記に論じる「政争」とも成った「孝謙天皇の正統説」と全く同じである。
筆者は、重要な事は、「青木氏の歴史観」に執ってみれば、「孝謙天皇期の政争」も「清和源氏頼政の戦略」も要は「施基皇子のルーツ原理説」に起因していると捉えている。

(注釈 「親王」と「皇子」の違いは、「大宝律令」を境に漠然としていた「四世族内の皇子」の「皇子の位階」が正式に決まり、呼称が「皇子」から「親王」と成り、宣下を受けた者は「親王」に、受けなかった者の四世族までの者を「王」と呼称する事に成った。
但し、平安期の初期当時は「外子王」の場合には、未だ「皇子の呼称」が残り、宣下を受けた「外子王」を「親王」とする区別する呼称が一時期続いた。
当時としては、「貞純親王の母」は「妾」であり、「貞純親王」は「妾子」となり、「親王」とあるが「母の経緯」から「傍系族尊属」に相当する「外子王」に成る。
この使い方に付いての説には「歴史的経緯の間違い」が多い。)

そして、「跡目を入れた融合合体族」と「女系で繋がる抑止力団」で周囲を固め、更にこの血筋は隣国に存在する「補完族の秀郷流青木氏」とも血縁関係を持ち、その「秀郷流青木氏の勢力」を以って「伊豆の入り口」を防御しすれば、「完全無傷の形」で源氏族は正常に遺せる。
(その後に、「以仁王の乱」を起こす。現在も「青木村」を形成し生き残っている。伊勢と信濃以上であろう。)
本来であれば、「伊豆」には「血縁の劣性の弊害」が起こっている筈であるが、資料によれば何某かのそれと思しき内容は元々出て来るものであるがそれも発見できない。

更にこれは、何故であろうか疑問である。

これは、矢張り、「青木氏族以外」からの「源氏族」の「頼光の生き残り戦略」の通りに、この中に116氏に及ぶ「秀郷流青木氏との繋がり」を持つ事で「血縁の劣性の弊害」は消されていった事以外に無いだろう。
「青木氏の歴史観」から観れば、これが、「血縁」に依る「補完役としての役割」として「頼光の戦略」は考えていた事に成る。
これは同時に、つまり、このこれに依る”「姓化」”が入れば、「源氏族」では「正統な血筋の範囲」では最早遺せ無いと観ていた事にも成る。
この「焦り」が「頼政」にはあったと観ている。
故に、「劣性の弊害」が出る可能性の高い「同族血縁性の高い融合族」の中でも「四世族制」を護り、「賜姓臣下族としての慣習仕来り掟」と「血縁の弊害」を無く現在まで護り通し得た戦略であったと考えられる。
その意味では、「伊勢や信濃」を凌ぐものが「伊豆」にはあったと考えられ、現在に於いても現実に目の当たりにして、その「慣習仕来り掟や祭祀」等の「伝統」は遥かに凌いでいる。
この侭では、「融合族と云う定義」はそもそもおかしいが、「融合族の伊豆青木氏」が最後までその「伝統」とその「血縁性」をより高く護り通す可能性が高いと観ている。
その意味で、「冠位官職」を同じくする「補完役」で、且つ、「賜姓族(藤原朝臣族)」で当初は「四世族」では無かった「秀郷流青木氏の存在」は実に大きい。

これは”「血縁」と云う事”のみならず、「姓族勃興」に依って「慣習仕来り掟」が護れなくなり「衰退逃亡」に追いやられた四地域の「賜姓臣下族の青木氏族」を救った事も見逃せない事である。

そこで、その「秀郷流青木氏」を「劣性の弊害を無くす血縁」と云う意味で検証する事に成るのだか、それは次ぎの様に成るだろう。
更に、平安期の「青木氏族の補完役」、つまり、「第二の宗家」と呼ばれた「藤原秀郷流青木氏」は武蔵域を始めとして「全国24の地域」に根を下ろし、何と116氏まで広げたが、「劣性に依る弊害」は「青木氏の中」では最も生まれなかった。

注釈として、唯、「秀郷流一門」の中での「青木氏族」の中に入る「主要五氏の進藤氏」だけには、「秀郷流一門」のこの「劣性の弊害」は出ていた様で、それは「一族一門を取りまとめる立場」にあった事から、「一門の血縁性」で固め「発言力」を保持していた事に依るのであろう。

この事に付いては、「秀郷流一門」の資料にも遺され、更には、「進藤氏」と親密な関係のあった「近江佐々木氏の資料」の中にも垣間見られ、「武蔵北部域」を護っていた「進藤氏直系の系譜」を観ても「継承者の事」で苦労している様子がよく判る。
それを観ると、「血縁の弊害」が強く出て、実に「廃嫡性」が高く、「嫡嗣と義嗣の入れ替わり」が激しいのが判る。
宗家分家に拘わらず、「秀郷流青木氏族の秀郷流進藤氏」は、「義嗣」が多い事から「血縁の弊害防止」に先ず「廃嫡」をしてその上で「義嗣」に入れ替えて何とか「血縁の弊害」を無くそうとしたと観られる。
これは「直系嫡嗣」に恵まれなかったという事では無く、家筋を保つに堪え得ない「唖子や劣子」が多かった事を示していて、それ故に「系譜に観る内紛」が起こっているのである。

この様に「秀郷一門の青木氏族」の中でも、「血縁戦略」を一つ間違うとこの様な「宿命的な運命の道を辿る事」に成る事を意味している。
実に狭い道筋と云える。

その中で取り分け、「伊勢の秀郷流青木氏」は、「伊勢と信濃の賜姓臣下族」の「青木氏との女系」を基本とする血縁を積極的に進め、「青木氏族の氏族」を形成し、殆どは「同化に近い状況」と成り得ていた。
その象徴は、「賜姓臣下族の一員」として認められていた「四日市殿」である。
つまり、前段でも論じた事ではあるが、「女系」で繋がりを強化して、その子の「二世族の嗣子一人」に「実家の青木氏」を「嫁ぎ先」で一つ先ず興させて、「嫡嗣の男子」を「実家の四家制度」の中に組み込ませ、且つ、「女子の二世族の範囲」では、実家の「四家制度の養育の娘」として送り込んだのである。
これを室町期から明治初期まで相互にこの制度を推し進め強固なこの基盤を作り上げたのである。

(注釈 「四日市殿」は「青木氏族」と「伊勢籐氏」と「徳川氏」とも直接に血縁関係を持った「パイプ役」を果たした。)

当然に、複合的にも「伊勢籐氏の血筋」も「伊勢秀郷流青木氏」を経由して融合される事にも成り、何れに於いてもその「結果の絆」は相互に高まり、それは前段でも論じた様に室町期末期の混乱期の「信定と忠貞の連携」にも表れている。
元より、前段でも、「射和商人の段」でも論じた様に、「伊勢秀郷流青木氏」は「伊勢籐氏」と共に「紀州藩」にそっくり抱えられ家臣(姓化)と成り、「青木氏族」を側面から護った。

武蔵域に於いても「秀郷流青木氏」のみならず「秀郷流一門」は、そっくり「御家人や旗本」として「家臣化」し、「幕府の官僚族」を席巻したのである。
この事で、全国に散在する「現地孫」や「傍系族」を含む「秀郷流一門」の「横の血縁の連絡」は充分に取れ、それが「血流」と成って「伊勢や信濃」にも及んで居た事にも成り得る。
つまりは、これは「血筋の源流の大きさ」を物語る。
これ程に「血縁の大きい源流」は日本には無い。
「血縁と云う正統な伝統」に護られた形の上では日本最大と考えられる。
「宗家」は「四家制度」を採りながらも「秀郷一族一門の361氏」と云う途方もない「勢力」と、それを使った「吸い上げた血縁性」により、「血縁性に関する弊害」は認められなかったのである。

「姓化」は「青木氏族」に執っては、一面では「氏族存続の弊害」とも成り得るが、全国に分布する「傍系尊属卑属」までの「姓族」を含めれば、ここからの「血筋」の無限に出続ける「源流」と成り得て、且つ、その「源流の流れ」からその「血筋の流れ」を引き込む事は、「無限の新鮮な血筋の井戸」を示す様なもので、「血筋の劣性弊害」は無く成る事は必定である。
「青木氏族」に執っては、この”「源流制度論」”であれば、最早、この事では「血縁弊害」は秀郷一門に関する事ではこの論外であろうと考える。

そこで戻って、「伊勢」は、「四世族制」に関わらずに「伊勢郷士」との間にも幅広く徹底した「女系族造り」に切り替えた。
そして、地元に根付いた「絆造り」に切れ変えた事が示されている。
であり、重要な事は”その本質に戻した”という事に成り得る。

(注釈 江戸期前後に於いて、上記した様に「女系族論」は、そもそも「人の類」の「本筋論」であり、これに依り、「劣性遺伝の弊害」を無くした事のみならず、「信濃」を含み「青木氏族存続の輪」を広げたと考えられる。
この事は遺伝学的にも補完役として裏付けられている事である。
これは、現在に於いては「特別な事」では無く、「孝謙天皇期の政争」と「頼政の戦略」も「江戸初期の女系族化策」も本筋を得た先祖の行為であると論評している。)

これに関わった「秀郷流青木氏の116氏一門」は、「子孫繁栄の補完役」を完全にを果たした事に成り、「実務上の補完役」に拘わらず「氏の根底の補完役」をも先を見据えて戦略した「円融天皇の判断」は実に正しかった事に成る。
秀郷一門の「宗家の第三子」を「補完役の秀郷流青木氏」を断絶する事無く「継承を義務付けた事」がこの「天皇の決意」を物語るものであるとされる。
そうでなければ、「実務の補完役」で終わっていただろうし、「天皇」は赴任地を多く与えて116氏まで広げなかった事に成る。

上記の論調に関して言えば、この「土台作りの影響」が「前段の射和郷士の件」に表れていると云う事なのである。
つまり、「直系族の男系」は、論理的には「四世族制」を保ちながらも、「女系族」から「優性遺伝の血筋」を入れていた事に成る。
これでの「重要な事」は「男系に依る血筋源」では無く、「女系の血筋源」とした事を意味する。
よく似た対策としの「優性対策」として「平安期に採った妾子制度」と違って、江戸期初期の「女系の血筋源」の方が幅を持つ事ではむしろ「優性遺伝」に繋がる事に成った。
「混血に依る優性遺伝」は、「劣性遺伝による弊害の防止」のみならず「特別に優秀な嫡嗣」を生み出すという特徴をも持っている。
江戸期の第三の分岐点・ターニングポイントはここに決定的な違いがあった。


そこで、上記の事を認識したとして、話を戻して、「奈良期の後半」に入り、この原則的な対応策(賜姓五役の宿命)を採っていた「志紀真人族」には、「劣性遺伝の弊害」のこれが「四家」の「四家20家」の何処かに出ると認識し、「賜姓臣下族の朝臣族」を保つ上では、つまり、「青木氏族」を保つ上では、「四家制度」と「家人制度」では防ぎ切れない事に成っていた事を認識していた。

(注釈 「志紀真人族」とは、「施基皇子族」で後の「春日宮御宇天皇」の後裔の事であるが、つまり、「皇族真人族」に「男子後継者」が不在と成り、結局、「聖武天皇」の内親王の「井上内親王」と「準継承族の賜姓臣下族で朝臣族」と成った「施基皇子」の「四男の白壁王」との婚姻をして「皇位」を継承した「光仁天皇」と成る。
依って、その父である「施基皇子」を後付けで天皇としたが、「施基皇子の崩御後」の54年後に出来たこの「四世族までの一族」を云う。
つまり、「敏達天皇の春日真人族」の「四世族の施基皇子」の「青木氏族」を云う。)

上記の注釈の通り、この事を読みこめば、「聖武天皇期」は「別の意味」で当にこの危機に入っていた事を示す。
「続日本紀」にもある様に「皇子族」(真人族の親王)が無い為に「皇族内部」に「後継者」をめぐり「抗争」が起こり、結局は、「外子王」までを持ち込み「勢力争い(藤原氏や橘氏)」が起こった。
「聖武天皇の真人族」の「四世族内」にも、「皇位継承族に値する優性の男系の継承者」が無く成り、唯一、「真人族」の「二人の内親王」の一人が「孝謙天皇」と成りその後上皇と成るが、“「外子王」“の「純仁天皇」が皇位を続けが、「上皇」との軋轢から廃位されて止む無く「上皇」自ら「天皇」に戻り、「称徳天皇」として戻り二代続きの「女系天皇」と成った。
然し、結局は、「正統な男系継承者」は無く成り、一説では「潔癖性の強い嫉質」(原理主義・正統主義と観る)があったとされるが、それ故に「時間稼ぎ」をした事に成るのだろう。
遂には、その妹の「天皇」と成る事を拒んだ「井上内親王」(天皇に成る事避けていた白壁王)を持ち出し、周囲が掃討されたその結果で、「苦肉の策」として「準継承族(敏達天皇より9世族)」の「賜姓臣下族で朝臣族」と成っていた「施基皇子族(青木氏族)」までに手を伸ばして来た事に成る。

結局は、「孝謙上皇」は「純潔性」を守る為に、「原理主義・正統主義」に基づいて一度、「天智・天武期の状況の血筋」に戻して、その「準継承族」として遺っていた「志紀真人族」に「白羽の矢」を立てて納めたのが本事件であった。
つまりは、「施基皇子」や「川島皇子」が自らが編纂した「天皇家の慣習仕来り掟の規則」を定めた「帝紀」や「上古諸事」を持ち出して、無理に「皇位継承者」を造り、それに「天皇の継続性」のある「井上内親王」と血縁させて辻褄を合わせたと云う事に成る。

この「二つの根拠」には、「外子王」(四世族の傍系卑属)を入れて「皇族の血筋」を外すよりは、「原理主義・正統主義」に基づいて戻す事の方が「より良し」とする判断には、「外縁」(傍系卑属・中には四世族を外れる外子王をも持ち出した)は抗する事が出来なく成った。
これは、つまりは、「孝謙上皇」は候補と成る「四世族内」の「傍系卑属の外子王の人格」、況や「劣性の弊害」等を認め悉くクレームをつけた。
この「劣性の外子王」を操り「天皇家」を乗っ取らんとする企てにも気付いていた事にも成る。

(注釈 一説ではこの事が誤解されて孝謙天皇の「嫉質説」が生まれた。)

更に、この「四世族内」に「男系」が無く成ったという事だけでは無く、有ったとしても廃嫡せざるを得ない状況が強かった事に成り、想起外の「志紀真人族」に「白羽の矢」を向けた。
この決定は普通ではあり得ず、明らかにこの「天皇家」は「ロとハのリスク」のこの危機に入っていた事を示す。

さて、ここで一つ疑問なのは、何故、同じ立場にあった「近江佐々木氏」や「四家四流青木氏族」にも向けられる可能性はあった筈であるが、然し向けられなかった。
資料は全くないが、その理由として次の事が挙げられる。

短所
「朝臣の近江川島族」は争いの下に成る政争であった「天武期の吉野盟約」に参加した事。
「近江佐々木氏」は「青木氏族」より「四世族制」を充分な制度化をして護らなかった事。
「賜姓臣下族の朝臣族」としての「務め」に比較的に疎かった事。
「施基皇子の二世族」に比べて「良き男系継承者」が少なかった事。
「近江佐々木氏」や「近江青木氏」は「政争の元」と成る「公家族との繋がり」が強かった事。
以上のリスクが考えられる。

長所
1 「志紀真人族」には「高野新笠(渡来人の後漢阿多倍王の孫)の背景」があった事。
2 「施基皇子」は「敏達天皇の四世族」であり「正統性」があった事。
3 「青木氏族」は、既にそれまでの「皇族血筋」(継承外と成った真人族王)を頻繁に入れて「五家五流族」を形成していた事。

幾つかの「遺されている資料」を咀嚼すると、つまりは「孝謙上皇」は、「周囲の強力な反発」を振り切ってこの「長短の比較」をした結果と考えられる。

その「決め手」は「長所重視」に及んだ事と考えられ、取り分け、“「天皇家の本筋」に戻す”という事から考えると明らかに「長所の3」であったと考えられる。

そうと成れば、上記した厳密な計算された「規則や制度」に依って「外部血筋」を入れて徹底して「姓化」を敷かなかった「伊勢青木氏」を選ぶ事に成る。
例え、「臣連族」であったとしても「姓化のリスク」は、より「外部勢力」を呼び込んで仕舞い、女性である「孝謙上皇」が嫌った、“「政争」”が朝廷内に蔓延る危険性が大いにあった。
そもそも、この「皇位継承の縁組」を申し渡された時でも、「白壁王」を始めとして女子を入れた「十人の子供」等は、「施基皇子の遺言」の「青木氏の氏是」があったとしても、徹底して個人で「無冠を主張した事」でも歴史上の事実として判る。

(注釈 然し、現実には最後は「無冠」であったのは「男子の二人」と「女子の一人」と成った。)

この時期は未だ表向きは「皇親族」であった。
つまり、前段でも論じたが、天皇に困った事が起こった場合に、天皇の前で意見を述べられる立場で、且つ、場合によっては「天皇の秘意」の有無の事も含めて、その困った「懸案事項の解決」に直接務めるという役目の「令外官役」を負っていた。

(注釈 この「皇親族」の「令外官の役目」は、「嵯峨期の詔勅」で外された事のみならず「賜姓族の対象」からも外された。
そして「賜姓」は、「令外官の役」の持たない「無役の源氏族」と変名して賜姓した。
源氏族には財政的にも保障しなかった。)

筆者は恐らくは、「孝謙上皇」は、「和紙」などの「二足の草鞋策」の「豪商も兼ねた令外官」の「世間に明るい伊勢青木氏」に密かに諮問していたと観ている。
結局は、それが「孝謙天皇の信頼」の元と成って「白羽の矢」を立てたと考えられる。
この説で観ると、「青木氏の二世族」は、何で「無冠」を主張したのかと云う事に辿り着く。
この事で、表沙汰に成れば、「世間の批判」を受けかねない事にも成り得て、「青木氏の氏是」の事もあり、敢えて「無冠」を主張した事に成る。
この根拠は、その後の「青木氏族の執った姿勢」、又は、その「立場」にあったと観ている。

つまり、次ぎの事である。
「二足の草鞋策」を通じて朝廷に対して明治初期まで「献納」を行っている事。
「嵯峨期の詔勅」で無く成った筈の「賜姓五役の立場」を堅持し、江戸初期まで堅持した事。

つまり、この事は「諮問に対する答えの責任」を執ったという事であろう。

それでなければ、鎌倉期からその「役目の意味」が殆ど亡くなっているのに、更には「準継承族」では全く無く成っているのに「賜姓五役の役目」を依然として続けた事に疑問が残る。

既に、上記した様に「青木氏族」から光仁期に「天皇」を出した以上は、最早、「準継承族」では無く成っている筈である。
その「天皇」は、「青木氏族の直系族」としては、血縁的に考えても、丁度、「第四世族」の「54代 仁明天皇」までである。
その後は、「高見王」は、即ち、「桓武平氏」: 「阿多倍王・高望王・平望王」の「後裔の血筋」が入る結果と成るのであるが、この祖と成る「光仁天皇の后」の「高野新笠」はこの「阿多倍の孫」でもある。
従って、この「青木氏族」と傍系で繋がる血縁を持つ「高見王」に、「賜姓源氏族(賜姓でない源氏も多い)」と「藤原氏系族」がこの血筋に組み込まれた。
然し、この状況は「後一条天皇」の直前まで続いて、「外縁」と成る「賜姓源氏や藤原氏」等の血筋の範囲は一端この時では終わっている。

はっきり云うと、本来であれば、理屈上は「賜姓五役の役」は、三世族の「嵯峨天皇期の詔勅」で正式に終わっているが、伸ばしたとしてどう考えても最早、四世族の「仁明天皇」のここまであろう。

ここからは、論理的には「純潔性を含む賜姓五役の責任」は完全に無く成っていて、後は「青木氏の勝手」という事に成る。
取り分け、「純潔性」に付いては「賜姓源氏族に渡っている事」にも成る。
然し、実態は違っている。

つまり、「第一の分岐点・ターニングポイント」の前に、平安期末期にも「ある種の分岐点」があった事に成る。

筆者は、これがそもそも”「基点」”であったと考えていて、直ぐに「第一の分岐点」には成らなかったのであり、敢えて云うならば、「仁明天皇期」が「0の分岐点」と成ろう。
ここから「青木氏族のエネルギー」を貯めて徐々に変化していって「第一の分岐点」に達した事に成ると考えている。

況や、直ぐに「仁明天皇期」に「分岐点」として成らなかったのには、それには「分岐点」には成らない「(-)のエネルギー」が働いたからである。

それは前段でも論じている960年頃に令外官的な「補完役」としての「秀郷流青木氏の出現」であった。
この「補完役」を作り出さなければ、世の中に「政治的に困った事」が起こっていたと云う事に成る。
「補完役」のこれは「藤原秀郷一門」がそもそも自発的に求めたものではない。
「朝廷(円融天皇)」が「社会情勢の乱れ(青木氏族が皇親族から引いた事)」から「令外官」としての意味も込めて「秀郷一門宗家の組織」に「宗家から第三子」をこの「補完役の青木氏」を名乗らせる事を命じた。


(注釈 これは「令外官」としての「実務と血縁」の「補完役」でもあって、この始祖が「千国」と成ったのだが、その後は二流に分流し秀郷一門の「主要五氏」として「青木氏族」を形成するまでに成った。
この結果として、秀郷一門361氏の内、116氏を占め「第二の宗家」と呼ばれるに至った。
ここでは、そもそも「青木氏の歴史観」として観れば、「全国24地域と116氏」と云う要素には大きな意味を持っていると考えられる。
平安期中期から室町期中期までの間にどんなに考えても、「時の政権」が「実務的」には桁外れの「24地域」にまで「補完役」として赴任させる事は先ずは無い。
更に、「血縁的」には「116氏」と云う膨大な子孫拡大を認める事は無い。
これは明らかに「実務と血筋」の「補完役の令外官」としての「恣意的意味合い」を持たせたと考えられる。
他の「氏族」にこれだけの事をさせる事は「政治的に好ましい事」ではない。
「藤原氏北家族」の「秀郷一門の勢力」の土台の上に更にこれだけの勢力を持たす事は「政治的発言力」は強大と成り得て警戒される。
現実に、瀬戸内で勢力を伸ばしていた「讃岐藤氏の一豪族」でさえ「純友の乱」としてこの「警戒心」から潰された経緯を持っている。
この逆の政策を執っているのである。
「純友の乱」と「秀郷流青木氏」とは根本的には違うが、「純友」は「一族の単なる勢力拡大」で、「青木氏」は「実務と血筋の補完役」であり、根本的に「立場の有利性」は違う。
「実務と血筋と云う令外官の補完役」は、「実務」は「血筋」無くして成し得ないし、「血筋」は「実務」無くして成し得ない「相関の関係」にある。
故に、時の政権は「実務の24地域と血筋の116氏」と云う拡大を認めたのであり、ここからは「政治への発言権の拡大」はあり得ない。)

そこで、上記の「政治的に困った事」とは、「賜姓五役」として手を曳いた事に依って「民の安寧」を願う「祖先神の神明社の荒廃」と「献納」が途絶えて「財政的な困窮」にあった事である。

(注釈 「政治的に困った事」は政治的に二度あった。一つ目は、この平安期から室町期で、二つ目はと前段での江戸初期である。)

これで観ると、一つ目は明らかに、「準継承族」としての「純潔性の義務の保持」は外れたとしても、「民の安寧」を願う「祖先神の神明社の役目」までを放棄した事に成る。
これは「青木氏族」としては「相当な覚悟であった事」に成る。

ところが、この「秀郷一門」に「青木氏族」と成って「令外官の補完役」を命じる前に、一つの大きな出来事があった。

それは、朝廷は「賜姓臣下族の青木氏族」に代わった「賜姓源氏」にこの「神明社の修復」を命じている。
これは、「嵯峨期の詔勅の文言」の”賜姓してやる代わりに財政的に保障しないから自由に生きよ”に反する。
その「賜姓源氏」に「青木氏の守護神」の”「皇祖神の子神の祖先神の神明社」を修復せよ”はどう考えても不合理である。

然し、元々、「嵯峨期の詔勅」に明記されている様に、「財政的能力のない武家貴族の源氏」にこれを成す能力は無かった。
そこで中でも、「武家貴族の清和源氏」が各地に飛散している「源氏族の有力な傍系族」を集めて「武家」に課せられていた「禁じ手の武力集団」を構築し、各地の荘園を奪い勢力を蓄えた。
然し、そもそも「修復」はその「勢力下での財政的裏付け」にあるにも関わらず、これにも「朝廷から非難」を受けた。
確かに理不尽そのものである事は否めない。

(注釈 「清和源氏の二代目満仲」は「武力集団の創設」のこれを行ったが、この「路線争い」で三代目で意見が分かれ、「嫡子の頼光派・官僚族派・摂津源氏」と、「三男の頼信派・武力集団派・河内源氏」に分かれた。
「摂津源氏(頼光派)」は「四家制度」を敷き「青木氏族」と同じ務めを引き継ごうとしていた。)

「朝廷」は、以上での経緯があるにも拘らず「財政的な補償」をしなかった「宗家の摂津源氏」にこの「修復命」を出したのである。
ところが、「摂津源氏」には元より全ての源氏には、「神明社を修復する財力」は元より、技術技能を司る「青木氏部」の様な「技能部の力」は持ち得ていなかった。
そこで「朝廷の命」の「体面」を保つ為に「摂津源氏宗家」は一社のみを修復して、後は言い逃れて「引延策」を演じた。
業を煮やした「天皇」は、遂には、直ぐに「将門の乱」にて功績が認められ「貴族と位冠と武蔵国」の三つを与えられ発祥した直後の「藤原秀郷」に、上記の「補完役命(秀郷三男の千国)」を出したという事に成った。

余談として、以上の事でも”如何に「青木氏族」が「嵯峨期の詔勅」に対して反抗したか”の例として考察され、この「政治的に困った事の経緯」とはこの様な事であった。

話を戻して、注釈として、「四世族の範囲」での独自の血縁制度で「純潔性」を保ち、且つ「天皇家の権威」を保つ上で「帝紀」等を運用して「大義」を造り上げた。
「純潔性の血縁制度」に依って出る「唖子や劣子に対する誕生」に対しては早期に済ます系譜には出ない「廃嫡制度」を採用して、記録にも出ない制度を敷いていた。

この様に上記の経緯は、何時、又、「準継承族としての立場」を課せられるかも知れない「掟」があって、「四世族の血縁を婚姻の前提(四掟)」としていたが、この事がそれは何時か一挙に「青木氏の滅亡」をも意味するか認識していた証でもあり、戦々恐々としていた事を物語る。

それが「孝謙天皇期」に遂に再び訪れたという事に成ったのであろう。
故に、「志紀真人族」の「第二世族」は全員が「無冠」を主張し、「施基皇子」が定めた「青木氏族の氏是」を「第二世族」に依ってより強化されたものと理解する。

恐らくは、そもそも、多くの皇子の中で「施基皇子」だけが「天武期の吉野盟約」にも、「あらゆる政争」にもただ一人だけ参加しなかった事から観ても判り、従って、この「青木氏の氏是」は「施基皇子の生き様」を示す「施基皇子の遺言」と捉えてられている。
これは、「撰善言司」に成っていた事でも云える。
つまり、筆者は、当初から、つまり、「施基皇子の代」から持っていた「戦々恐々論説」であり、「準継承族」としての「名誉的な自惚れ」は無かったと観ている。
だから、「嵯峨期」には一族の出自元・実家先でありながら、この様な場合に依っては潰される可能性もある「反抗態度」に出たと考えている。

故に、裏を返せば、「天武天皇期」には、「草壁皇太子」や「高市皇太子」より三段階も上位にある程に信頼され、「天武天皇崩御」の「葬儀人」にも選ばれた所以でもあろう。
更には、「葬儀人」に相当する「持統天皇の造御陵長官」、「文武天皇の嬪宮」も務めた人物でもある。
この様に全ての人からその「人格や品格」を信頼されていたからこそ「法律の骨格」と成る調査をも任され「撰善言司」にも成っている。
「吉野盟約の不参加」が指し示している。
ところが、この様に「立場」を不安定にしない為にも執っていた”「準継承族」としての「四世族の血縁を婚姻の前提(四掟)」”が逆に痣と成ったのである。

これは、「孝謙天皇の行為」や「続日本紀の編集の経緯」にも表れている。

その事に付いて「血筋」、即ち、「血筋が起こす悲劇」として論じる。

そこでそもそも、この「続日本紀」とは、「六国史」の内の一つ「日本書紀」に続く「史書」でもあり、文武期の697年間から始まり最後は791年までの事を編纂したもので、その多くは「桓武天皇期」に完成されたものであるが、「撰善言収書」はこの「編集の資料」にも成ったとされ、且つ、「日本初の完全法令書」の「大宝律令(701年)の参考書」にも成ったとされている。


さて、ここ迄の議論で、何で「伊勢青木氏」が「天皇家」も含むどの「氏族」よりも早く完全に近い形で「劣性遺伝による弊害の防止」の「血縁制度」を驚く速さで敷けたのかと云う“「疑問A」”がある。

そもそも、これは「賜姓族」であった為に「慣習仕来り掟」に縛られた中ではそう簡単に進む話ではない。
そして、もう一つの「疑問」は、何で「信濃青木氏」は血縁を含む「伊勢との繋がり」を迷うことなく即座に強く持ったかと云う“「疑問B」”のこの事である。

筆者は、この上記の「二つの疑問AB」は連動していたと観ている。

それには、つまり、上記の通り「史書」や「律令」に影響を与えたくらいのものであったとすれば“「撰善言司」“が大きく関わっていたと観ているのである。

全国地方を歩き廻り得た「善治」の中には、「家族を構成する血縁の事」も含まれていて、「天武天皇」を含む「三人の葬儀人」を務めたとする驚くべき「長寿と名誉」を得た「施基皇子」と、その全ての「二世族」は、この「施基皇子の知識」と「考え方」を反故にする事は先ず無かったと観ている。
その上で或いは、その「撰善言司の資料」は、或いは、「撰善言収書」の「写し」が後々まで遺されていた可能性があって、それを「二世族」が観てよいところを引き出し採用し、骨格化して作り上げたものであると観る。
それが「短期で反映された根拠」であって、且つ「血縁組織制度」であったと観ている。

(注釈 口伝に依れば、古書の殆どは「消失」としているので、自宅か菩提寺の何れかに保管されていて、これらの関係する資料は二度の火災の何れかで焼失したと観られる。
本来は、「青木氏族」に関わる執事役は「菩提寺」・「撰善言収書」の「写し」か、神明社の「守護神」・「撰善言収書」の「本書」の保管であるから何れかにあったと観られるが、「本書」は可能性が低いと観られる。)

故に、「施基皇子」の「白壁王(光仁天皇)」の子供の「山部王(桓武天皇)」、つまり、「孫」がその環境に育った事もあって、この「祖父の事」と「祖父の青木氏の事」を書いた「日本書紀」に続く歴史書の「続日本紀」を強い熱意を以って完全に仕上げたと観ている。

そもそも、「青木氏の歴史観」に関わるこの「続日本紀の編集経緯の件」ではあるが、これは、年数にすれば約95年も掛かったものであり、この経緯からすると放置していれば完成は出来ない事でもあった。
敢えて“仕上げた”とするからには、“それなりの強い意”があった事を示す。
何故ならば、この「続日本紀」は、当初は、「文武期以降の事から孝謙天皇期までの事」を偏纂しようとしたものである。

然し、編纂開始の時期の「第一期」は、「淳仁天皇(760年頃)」からでその間に政争等色々な出来事などに依って「中止」と成る等の経緯と成った。
この「外部勢力」を巻き込んだ「天皇家内部の政争」は、「外子王の淳仁天皇の正統性」を作り上げる事への「孝謙上皇(称徳天皇)の反発」にあったと観られる。
然し、この「反発」がその事に依る「中止の原因」と成った。

ところが、「第二期」としては、「光仁天皇」が「続日本紀の編集」を再度に命じたが、ところが、更には「編集者の反抗」を受け、更には「編集した資料」が「編者らの懐疑的な行為」により「紛失する等の事」が起こり、矢張り、未だ「孝謙天皇期の事」を引きずる論調が強く編集途中で有耶無耶にされ「停止」してしまった。

然し、「第三期」としては、「桓武天皇」が「父の意」を受けて「桓武期の途中までの内容」として再編纂する様に命じ、それも在位中の「天皇の権威」を背景に、遂には、「編集」に対する「紆余曲折」の末に完成させたものである。

最早、この段階では「血筋の正統性」の議論は霧消し、編集は加速したのである。

これらの「三つの期」を観ても、一つには明らかに「光仁天皇と桓武天皇」は「施基皇子族の天皇期」の「孝謙天皇の真意」を継承して「歴史的な証明」を成し遂げようとしたと観ている。

第一期は、「外子王の淳仁天皇」の「文武期からの正統性」を「歴史書」にして遺そうとした事でもある。
然し、「青木氏族」としても、且つ後勘としても、「四世族の傍系の外子王」である限りは「血縁の正統性」には無理があった事は否めないと考える。

「第二期」と「第三期」は、「孝謙天皇の意」を得て「血筋」を「天智期からの施基皇子族」の原点に戻して「天皇の正統性」を主張とした「歴史書の編纂」でもあった。

当時は、急激に100年程度も戻った「正統な血筋に戻す事」への「抵抗」があったと観られる。
それが「賜姓臣下族」で「朝臣族」の最高位にあった「施基皇子」でありながらも、「四世族外」の「王位」を持たない「二世族の血筋への疑問」にあったと観られ、その「抵抗」を大きく受けたと観える。

然し、「別の視点」では、「孝謙天皇期」に於いては、他に正統な後継者の皇子が居ない限りは“「外子王」(四世族)”である限りに於いては、「四世族」は「大化期の王位の条件」である以上は、最早、「最高の正統性」を持っていた事も否めない。
「大化改新」の「四世族王位制」からの論調とすれば、「外子王の淳仁天皇」としては「正統性」があるとの主張である。

それは、「四世族制の王位」の論調にあった。
然し、“「外子王」”は、「直系族」では無い「四世族内の傍系族」であるとすると、「血筋論」としては「直系族」では無い事から外れる。

この”「四世族の定義」”が明確では無かった事から起こった問題であって、原則論からすると先ずは「直系族論」であろう。
然し、この時は、最早、この「直系族」は全く無かったのであるから、「四世族王位論」を以って主張される事にも一理はある。
(「青木氏の氏是」がある限りは「青木氏族」としてはそうで合って欲しかった。現実に一族は皆その様に動いた。)

そうすると、「孝謙天皇」は、この「直系族論」を採ったとすると、そうすれば「天智・天武期」に戻す以外には無く成る。
故に、「施基皇子の族 青木氏族」か「川島皇子の族 佐々木氏族」かと云う事に成り、「井上内親王の嫁ぎ先」に「白羽の矢」が立て優先するは必然の事と成る。
況してや、何れの派にも属さない「天下の人格者」でもあった「施基皇子族」を選ぶであろう事は間違いはない。
この事を事前に察知していた「施基皇子族の二世族」は、この「醜い政争」に巻き込まれない様に警戒して「無冠」を望んでいた事は判る。

(注釈 氏是の説明と共に口伝でも伝わる事である。)

それが、「施基皇子」と「井上内親王」と云う「キーワード」に左右されたのである。
これが、その中でも「井上内親王」を「后」とした「四男の白壁王」は、「歴史書や書物」でも見られる様に「無能者」を装う程に、この「血筋の正統性の政争」に巻き込まれる事を大いに嫌っていた。
然し、「彼らの意」に反してこれが「最高手段」とした「孝謙天皇の主張」であった。

第三期は、当然に「光仁天皇の意」を下に「桓武期までの歴史書」にする事で「天皇の正統性」を完成させたものである。
「多くの説」があるにしても、当の「青木氏族」からの論調としては、「孝謙天皇の意」を完成さる事で「正統な天皇制」と云う「国体の有様」を完成させたという事であろう。
それは、況や、百々の詰りは本論のこの「血筋という事」に成り得る。
更に況や、「血筋優先論」であり、「直系族論」であった。

故に、何れも「天皇の正統性の主張」であり、「日本書紀の文武期までの歴史書」に繋いで、「続日本紀」とした事でも判る。
「孝謙天皇」は、この事に拘り「男系継承者」が無く成った事から、最早、「外子王の系統」にせずに「施基皇子」のところまでの「正統な処に戻そうとする葛藤行為」であった事が判る。

そこで、初めて、“何で「直近の文武期」には敢えて戻さなかったか”という事でも理解できる。
通常的には考えれば、正統な「血筋優先論」であり、「直系族論」であれば戻せた筈であろう。
然し、直ぐには「抵抗」を受け戻せなかったのである。

それは、次ぎの事に関わる。
一つ目は、本書の「編纂目的」は「日本書紀」に書かれた内容に繋ぐ「歴史書の編纂」にあり文武期からの編纂と成る事
二つ目は、「四世族」ではあるが「文武天皇」は、「天皇の子」ではなく「草壁皇子の子」で「王位」である事

(注釈 「草壁皇太子」は早没である事から「王位」であるが「持統天皇の引上げ」で「天皇」と成る。
第二皇太子の高市皇子も続けて没する。)

以上とすると、この論理からすると、文武期に戻す事は、「皇子の子」でない「外子王」の「舎人親王の子」の「淳仁天皇系」でも好いという事にも成り得る。

これでは、論理的に矛盾して「孝謙天皇の主張」に反する事に成る。
故に、その「施基皇子の志紀真人族」と云われる「氏族の経緯」を「歴史文書」に仕上げ「正統性の証」を建てたかったと観ている。

況や、「施基皇子族」に戻す事で「二つの懸案事項」は解消される事に成り得るし、「聖武天皇の皇女」の「井上内親王」と云う「切り札」でより「継承性」は成立する事に成る。
これにて、「孝謙天皇の主張」を押し通したと観ているのである。

(注釈 平安期は全ての天皇には自分の皇子としての「出自の正統性の確立」を成すその傾向があった。)

そもそも、「続日本紀の編集」を始めたのは「淳仁天皇」(47代)の本人であったが、「中止」と成った原因は「論争を含む政争」のここにあって、それを「書紀化する事」で成立する。
注釈としてつまりは、「自らの正統性」を御世に作り上げようとした「淳仁天皇」はこの行為は「背任行為」と観られ犯罪と捉えられて、何と「廃帝」と成り、「子孫」を一切を遺させずに「淡路配流罪の刑」を受ける事と成り失敗する。

この事でも「外子王の四世族制」は排除し抹殺し、「直系族性の四世族制」を成立させた事にも成る。
つまりは、”基本は直系族である”と云う合わせて「定義の成立劇」でもあった。

そもそも、「二世族」は「青木氏の氏是」を護り通し、「無冠」でなければ、「天皇家の醜い政争」に巻き込まれ「氏の滅亡」を覚悟しなければ成らなくなり、遂にはその為には“「厳しい廃嫡」”を常に実行しなければならなく成る。
そうすると、この事、即ち「純潔」だけを護り通す事を避けねばならない事に成る。
簡単に云えば、そこで、「表向き」は「四世族」に縛られながらも何とかして「常に外の血を入れる事の制度」が「青木氏族」の中に絶対的に必要に成り求められた事に成る。
そうでなければ、「優性の血縁維持」は成し得ない。
(但し、本論の意味合いは敢えて「優生」としない。)

「続日本紀の編纂」に依って、この結果、「青木氏族に課せられた事」と云えば、「直系族性の四世族制」を成立した以上は、その「基盤と成った青木氏族(所謂、氏元)」は、「青木氏族の氏是」(施基皇子の遺言説)に反しても、体面上でもその「血縁性を確立させる必要に迫られた事」に成る。
それが、上記した「純潔性の血縁に関する論調」であった。
嫌々ながらも今まで以上にその「責任」に攻め立てられた事に成った。
これは当に、「二律背反」であった。
「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」は背反する。

そこで「逃れ得ない背反」にどの様に対処するかに掛かっていた。
「青木氏族」に執っては「有史来の極めて苦しい立場」に置かれていた事が判る。

況してや、この時期は、「二足の草鞋策」で自ら「和紙」を開発し「部制度」による「余剰品の市場放出の役務」を朝廷より請負い「商いの基礎」が始まった時期でもありながら、「財政的負担」もより起こった。
「天皇家の氏元の責任」としても「賜姓五役」もより課せられた事に成った。

「青木氏族の存続」としては是非に逃れたい時期ではあった筈で、「天皇家の氏元の責任」だけでは「氏の存続」は成し得ず何の利益にもならない。
あるは「名誉と権威」であろうが、「氏存続」と「商いの基礎」には邪魔であろう。

つまりは、そもそも、「商い」無くしては次の事は成し得ない事が起こった。
「青木氏の氏是の順守」
「天皇家の氏元の責任」
「賜姓五役の遂行」

以上のこの三つは何事も成し得ないのである。
これが「唯一の解決策」であった事に成る。
況してや、上記した様に、更にこの後に一族の「嵯峨期」に於いては「皇親族や賜姓族」も外されたのであるから、「唯一の解決策」があったとしても、「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」は、「氏族存続」の為には「放棄する事」以外には無く成る。

その結果、「青木氏族の財力」を背景とした「天皇家の財政的能力」は低下し、「直系族」としての「四世族の仁明天皇」で終わる結果と成ったのであろう。

余談ではあるが、論じておく必要がここである。
これは一面では「嵯峨天皇の失敗」とも観える。
筆者は、この説を採っているが、何故に、「二足の草鞋策」を採っていた事は、「嵯峨天皇」は子供頃から観ていた筈でありながら、且つ、「権威」は「天皇」にそもそもあり、残るは「権威を強める財源の裏打ち」で、成せるものであると判らなかったのかである。

筆者は、戦略的に観てこれを「嵯峨天皇」は見落とした事と観ている。
何時の世も「権威」は「権威」だけで保てるものではない。
「朝廷」より敢えて「二足の草鞋策」が、「部制度の処理」として「天智天武期」から「青木氏族」だけに許されている事を鑑みれば、何故にこの「特権」を認可したかは容易に判る。
「嵯峨天皇」はこんな「簡単な事」を理解できなかったのかと云う疑問である。
これは特別に利発な者でなくても誰でも判る事であろう。

「桓武天皇と平城天皇」に対抗して「政治路線」の「政争」をしてまで「青木氏族」を外した事は理解が出来ない。

注釈として、他面で見れば、「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」のこの三つに苦しんでいるのを観て、外した事も考えられるが、そうだとするとこの「判断」は感情的で論理性に欠ける。
結果として、「財政力」が無く成り、「朝廷の財政的な負担」から、「皇子族」は「真人族四人」まで残して、後は「賜姓源氏族」にして「権威も財政も武力」も無しに世に放り出したのかであり、あるのは「真人族であったとする名誉」のみに成って仕舞った。
これでは「賜姓源氏族」は生きて行くことは到底に無理であり、「賜姓源氏族」は全国に飛散して「傍系族」に成って「不祥な姓族」を多く作って仕舞った原因と成った。
つまり、「青木氏族や佐々木氏族」の様には成らず子孫を全く遺せ無かった原因とも成ったのである。
遺せていれば「外縁族」に左右されずに、「天皇家の裾野」は強く成り、「継承者を廻る争い」を興さずに「繁栄の道」を辿っていた筈であると観る。

(注釈 その結果、何が起こったかと云うと、「11家11流の賜姓源氏」の内、四氏(嵯峨源氏、清和源氏、宇多源氏、村上源氏)を除いて地方に散り、又、僧侶に成るなどして家を興して子孫を遺す事は出来なかった。
主に、彼らは天智期の「坂東八平氏」を頼ったし、各地の「門跡院」や「比叡山]や「善光寺」に入山してしまった。
主に何とか遺された近江の土豪と成っていた「嵯峨源氏」は「清和源氏」に吸収され、「宇多源氏」は東北域にて「佐々木氏(神職住職系)」を名乗り、「村上源氏」は平家に吸収されるに至る。)


「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」のこの三つに確かに苦しんだが、然し、これを糧に「仁明天皇期」では、「二足の草鞋策」に完全に傾倒して「生き残り策」を推進し、「氏存続を目的」として朝廷より一時手を引いた。

この事に付いて「青木氏の資料」によれば、「嵯峨天皇期(809-823年頃)」には「余剰品払い出し業」の「商い」より離反し独立し、「仁明天皇期(833-850年頃)」には、「五家五流の青木氏族」と共に「和紙殖産」で何とか「氏族」を更に強化して興したとある。
そして、950年頃には、「和紙以外」にも「商い」を成立させ拡げ、「補完族の青木氏」の助けも受けて1025年頃には「総合商社」にて「宋貿易」を行う等して拡大を続けている。
遂には、「青木氏族の安定期」の「鎌倉期」を経て、「室町期(1360年頃以降)」には、戦乱期の中でも「紙文化の発展」で「巨万の富」を「二つの青木氏族」は獲得し、遂には、これを元手に「各種の殖産」による「商い」を本格化させて前段の江戸期に入る。

この「商いの経緯の事」から、70年-100年位で何度かの「商いの変革期」を迎えている。
筆者は、この「商いの変革期」は同時に「青木氏族の変革期」にも重複し、合わせて「血縁性の変革期」にも符合していると「青木氏の歴史観」として観ている。

結局は、「大きな変革期」の「嵯峨天皇」の「青木氏に対する仕打ち」が逆に「青木氏族」を奮い立たせ成功裏に導いていたとも解く。

故に、「上記の事の経緯」を敢えて論じたのには,「血縁の道筋」が「単なる優劣の弊害」だけでの事で収まると云うものでは無いと解いている。
これが同時に、「血縁の筋道」を作ったと考えているのである。
幾ら「血縁の筋道」と唱えても、上記の経緯に示す様に「財政的裏打ち」が無ければ成し得なかった筈であるし、将又、逆の事も云える。

上記の論説の通り、つまりは、この「商いの変革期」を無くしては「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」のこの「三つの事」は何事も成し得なかったのである。
つまり、少なくとも「前段の論説」の「江戸初期前の前後」までは、最低限に於いてこの「三つの事」は成し得ていた事に成る。

ところが、前段の江戸初期の前後の「商業組合の創設」や「地産の殖産」が始まると、その「血縁性」や「優性の血筋」の課題は、上記の「三つの事」の目的では最早無く成っていたと云う事である。

それは、この「三つの事」、即ち、「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」の目的は薄らいでいたという事にも成っていたのである。
これは当然と云えば当然ではあるが、取り分け、残るは「青木氏の氏是の順守」だけであった。
これは「青木氏の先祖からの口伝や遺資料」等をある程度伝え遺していた「曽祖父(江戸期)」や、これを受け継いだ「祖父の忘備録」等にも書かれている事でもある。
この「先祖の口伝や忘備録や遺資料」等に依れば、後は、「家柄を示す事」だけであって、それを使い分けていた事が良く判る。

(注釈 「祖父の忘備録」は明治35年の火災で多くの先祖を物語る資料関係を焼失して、それを何とか再現せんとして記録に残した資料で、次いで筆者が歴史好きの幼少の頃から再現を試みてここまで遺せた。70年以上は所要した。
そもそも、「伊勢青木氏」には、古来からの「青木氏族に関する古書」等を所蔵する「専用の蔵」があって、この蔵の事を「かせ蔵・架世蔵」と呼んでいたらしい。
奈良期からの「商い等に関わる古書」は「かせ蔵」に、「青木氏族に関わる古書や遺品」は「菩提寺蔵」に、「青木氏の伝統に関する古書」は「神明社蔵」に夫々分けて保管されていた事が判っている。)

唯、周囲が「商いの伊勢屋」><「郷氏の青木氏族」の関係をどの様に観るか、どう扱うかに依るとしていると「先祖の口伝を伝える祖父」等は云う。
“事を殊更に拘るな。粛々と青木氏の中で行えばよい”としている。
つまりは、唯一つの「伝統の先祖の遺言」の“「青木氏族の氏是」に従え“であろう。

それ等の意味からすると、“時代に従い、「商い」に重点が移りつつある事から「商いの伊勢屋」と「郷氏の青木氏族」との「使い分け」”に代わって行った事らしい。
それだけに、「青木氏の氏是の順守」と「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」の「役柄」の「三つの課せられた事」も次第に色あせて来たらしい。

(注釈 唯、“「朝廷への献納金」をどの様に評価するか“は、「青木氏族」に関わる事であって、「朝廷の献納金」は「明治3年」に終わった事が判る。
これの完全終結は「伊勢騒乱」終了後であったらしい。
始まりは、「江戸初期」と「室町期中期」と「鎌倉期末期」で、「平安期」は末期に中止している。
この「四つの期」がどのくらいの期間続いたかは「商記録」には無いが、「開始した期の意味」は判る。

江戸期初期は、朝廷が幕府に締め上げられていた時期と享保の改革期までの範囲
室町期中期は、紙文化と朝廷の荒廃時期までの範囲
鎌倉期末期は、元寇の役の朝廷の荒廃期までの範囲
平安期末期は、頼政の朝廷に関わった時期までの範囲

そもそも、「青木氏族」に執っては、最早、継続的に献納する意味が無く、その都度に献納するという体制を敷いていた事が判る。
恐らくは、最早、嵯峨期からは、「青木氏族の認識」は下記の理由に従っていた事から、「天皇家の氏元の責任」と「賜姓五役の遂行」の昔の「役柄」等を持ち出され頼ってきて、密かに「献納」を依頼されたと観られる。故に断続的であったのであろう。
「頼政の乱」と「明治期の伊勢騒乱」ではこの「献納の効果」は確かにあった。)

その上に、江戸初期に「祖先神の神明社」も「密教の菩提寺」も江戸幕府に引き渡した事からも「権威性」は更に低下し、最早、「名誉」のみのものと成っていた事からも判る。
残るは、上記の“この名誉も周りが認めるものであって「青木氏族」自らが認めるものではない”とし、何度も云うがあくまでも“「青木氏族の氏是」に従え“が物語るものであって、依って「商い」が江戸期前後には、「名誉に頼らない体質」が、最早、大きく占めていた事に成る。
前段で論じた「享保の改革」の「伊勢屋の貢献の経緯」からも、「青木氏族」と云うよりは実質は“「伊勢屋」”であったろう。

つまりは、それまでは、それなりに「商いの伊勢屋」<「郷氏の青木氏族」の関係を維持していたが、室町期中期頃からは、「商いの伊勢屋」>「郷氏の青木氏族」の関係に変わって行った事の経緯に成る。
大概は「紙文化の発展」を起点に依って「変革」を遂げていったのであろう。

「殖産」を、況や、「巨万の富」を獲得した上で、これをどの様に使うかの問いに対して「商いで答える方法」を模索し拡大させる方法を導き出したのである。
それを基盤として「今後を作る事」が「青木氏族」に求められていたのである。

それは、「四世族制」、つまり「四掟」(「ロとハのリスク」を無くす血縁の掟)を護りながらも、それから離れた「女系族」に重点を置いて江戸前後期には、「地元と信濃」との「郷士衆との繋がり」に重点を置いたのである。
これで、「大殖産」を進める「青木氏族の地盤」が、「伊勢秀郷流一門の力」を借りて「伊勢全域」は元より「信濃域」までに広げて固めたという事に成る。
これで上段の「姓制」を置かずとも「清らかな血縁性」は「源流の如し」に成ったのである。

云わずと知れた同じ課題、即ち、「三つの事」を抱えていた「信濃青木氏族」が「殖産の商い」と共に「伊勢青木氏族」との「血縁の繋がり」を無制限にして一体化したという事に成る所以である。

当然に、室町期末期の「商業組合」の「15地域の青木氏族」との相互に「女系族」で繋がったは必然の事であろう。
云うまでも無いが、この「女系族の血縁の繋がり」を無くして「商業組合も殖産」も、江戸期の「氏家制度と封建制度」の「閉鎖的社会」の中では成し得なかった事であって、その事があって「商業組合の15地域」には「秀郷流青木氏族の商人」も含んでいる所以と成っているのである。
これにて「何らかの女系族の血縁」に依って「商業組合と殖産」は成し得たと観ている。
そして、それが、上段で論じた「女系を基本とする人の類」に従った事にあって、況や、「二つの青木氏族」の「生き残り策」は“「女系族策」”であったと説いている。

(注釈 「秀郷流青木氏」はこの「女系族策と姓族策」で生き残り、「賜姓臣下族青木氏」は「女系族策」だけにあった事が云え、それだけに「直系族」は伊勢と信濃だけ、「傍系族」は近江と甲斐と成って仕舞ったと云える。
「姓族策」は幕府や御三家の家臣化に依る。
「賜姓臣下族」は「姓族策」を採らない以上は「郷氏」を継続した。)

その最たる見本が、前段で論じた「射和商人の殖産」であったのである。
逆に言えば、「射和商人の殖産」は「女系族」を完成させたという事にも成る。

(注釈 その「女系族」を物語るものとして、「四家制度の女墓」(20家)がある。
これに依ると、ある程度、主流としては「秀郷流青木氏」と「地元郷士」と「信濃青木氏」との「女系の入」が判る。
「女系の出」は、「菩提寺の資料消失」で判り難いが、この女墓の「女系の入」があると云う事は、同じ範囲で「女系の出」があったと云う事を示す。
後は、「女墓や関係族の手紙や遺資料」から読み取ると、「伊勢近域の国」を中心に摂津、近江、駿河、伊豆、越前、越後、武蔵、常陸、下総などの「女系の入」が判る。
唯、どの様な理由なのか「甲斐と美濃」だけが「女系の出入」がよく判っていない。
「美濃」は早期に滅亡した事、「甲斐」は「独自性」が強く「付き合い」が少なかった事かも知れない。)


奈良期の施基皇子期から何度も紆余曲折しながら「四家制度の範囲」で「相互に女系の出入」が頻繁にあった事は概にして判る。
殆ど、「出入の女系血縁」に於いては「一体化に近い形」にあったと観られる「秀郷流青木氏」の「遺産伝の伝統資料」が多く世に出ていれば更に判るとも考えられるが、最早、無理であろう。)

(注釈 「近江佐々木氏」は早い段階で「秀郷流青木氏の血縁関係の事(青木氏族)」を研究されていて、この資料が非常に参考に成った。
と云う事は、「近江佐々木氏」の「賜姓臣下族青木氏と賜姓秀郷流青木氏」との「血縁関係」も把握していた事に成る。
個人情報に関わるので現存する「近江佐々木氏関係の血縁関係」からのものはここで網羅できない。
「近江佐々木氏の古書の研究書」が当家にある事は「女系に於いて充分な血縁関係」があった事を裏付ける。)

次の段では論じるが、この「女系族」を完成させた“「四六の古式の概念」”と云うものが「青木氏族」にあった。
「記録と関係族の口伝」でこの概要があった事を知り、これを時間をかけて解明した。
これに付いて次段で論じる。


> 「伝統シリーズ 40」に続く
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