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:「青木氏の伝統 34」-「青木氏の歴史観-7」 


[No.353] Re:「青木氏の伝統 34」-「青木氏の歴史観-7」 
投稿者:福管理人 投稿日:2017/05/18(Thu) 09:44:31


「伝統シリーズ-33」の末尾

>「嵯峨期の詔勅」で、何度も論じたが、「真人族の氏名」は「青木氏」を名乗る事と成っていた為であり、彼らに独自に「青木氏を興す力」は全く無く、これ等は「五家五流の跡目」に入った。)

>前段でも論じたが、この時に採った政策の一つの例として、「青木氏の氏名」を農民から身を興した下級武士階級の「姓族」が、「嵯峨期禁令」を破って江戸初期に名乗ったので、この者等に対して「姓の青木」を「別の姓名」に変更する様に江戸幕府は命じて「青城氏等の姓名」が生まれた。

>この事と同時に江戸幕府は「系譜由来等を作る事」をも命じて、「武士」であると云う事を証明する為に「黒印状発行の条件」としたのであるが、この時、江戸幕府は「搾取偏纂の系譜」には無視し容認の姿勢を採った。

>(注釈 農民から伸し上がった者には系譜などは元より無い。そこで地元の神社や寺社などに地域の氏族や郷氏等の「古豪の系譜」に脚色を加えて系譜を搾取偏纂して「黒印状」を獲得して武士と成った。これだけは幕府は容認した。)

>従って、現在に於いて「系譜からルーツ」を辿ると、前段でも論じた様に、「氏族」の「郷氏青木氏の歴史観」と対照するとあり得ない矛盾する事が生まれるのである。




「伝統シリーズ-34」

そこで、更に、論じて置かなければならない事が「青木氏の歴史観」としてある。
それは、取り分け、“「家人」”に関わる「歴史観」である。

この事を認知して置けば、この「矛盾」を見抜く事が出来るし、自らのルーツの「正しいロマン」を醸成できる事に成るだろう。
この明治期まで「青木氏」に仕えた「小郷氏」等の事を「青木氏」では、「四家制度」の中で“「家人」”と呼んでいた。
この“「家人」”には、「青木氏」の「職能部の頭」(青木氏部)には娘を嫁がせて、その生まれた嗣子の一人に今度は実家の「青木氏」を名乗らせて、「四家制度」の一員とする“「家人の青木氏」”が在った。
又、この「職能部の頭」にも「青木氏」を「縁続き」(嫁ぎ先)で名乗らせる“「家人の青木氏」(「職能家紋の目結紋類で変化を付けた)”も在った。

(注釈 前段でも詳細に論じてはいるが改めて概要を記すと、「四家制度」では「男系女系」の差が無く「孫域」までを、「孫」と云う概念が無く、「青木氏嗣子の子供」として定められていて「福家」で「共同」で育てた。)

奈良期からの「賜姓族の臣下族の慣習」では、この“「家人」“に付いては「家来」と呼ばず「氏族」としての護らなくてはならない理由があって、その為に“「家人」”と呼んでいたのである。
これは、幾つかの「血縁と所縁」で結ばれた“「同族の家」”が集まり、一つの“「氏」”と云う大きい「集団形体」で「枝葉の姓」を作らず構成する事からの手段であった。
そこでの何らかの「薄い血縁」や「所縁のある者」で厳しく言えば「主従関係」、或は、緩く言えば「統率関係」が構築されていたのである。

従って、一種の「契約」に依る「無血縁の臣」(無縁 後の家来/家臣)で構成されているのでは無く、「血縁族・所縁族の人」で構成される事を意味する事から“「家人」”と呼ばれたのである。
つまりは、これが「氏」と云う形で構成される「下支えの構成族」(家)の「一つの族」の事である。
そして、この「主従の者」を「氏と云う形の人」として、朝廷はこれを維持している「統一した氏族」として「公認する仕組み」であった。
それでなくては「氏族」として認めなかった。
これが、「姓族」と異なる「氏族」の所以もである。

(注釈 江戸期に「家臣」の下に「媒臣」があって、この者を「家人」と呼んでいた事もあり、下級武士の下に働く「農民の奴」を「家人」と呼ぶ様に成ったが、これ等には血縁の何物も無かった。)

要するに、「氏族」の「家人」は、「朝廷の認証族(氏族)」の「准認証族」(准氏族)とも云える。
この形が形成されていなければ、それは「氏族」とは認証はされない「仕組み」でもあった。
これは前段で論じた嵯峨期に偏纂された「新撰姓氏録」の記載する処でもある。

そこで、「青木氏の氏族」を理解する為にも「青木氏と関わり」のあり、この事を明確にしているこの「嵯峨天皇と新撰姓氏録の事」を先ずは論じる事とする。

(注釈 そもそも、何故、「山部王の桓武天皇」の平安初期の直ぐ後に子供の「嵯峨天皇」が、このここに至って「新撰姓氏録」を編集したかが判る。
「聖武天皇」の「直系族」に「男系族」が無く成り「皇位不継承」と成り、唯一人の皇女の「井上内親王」のみと成った事から、唯一遺されていた「春日真人族の第四世族の志紀真人族」の「白壁王 光仁天皇」と婚姻させて「正統性」を何とか確保した。
本来は「真人族」でありながらも、「第六位皇子」である事から「第四世族までの王族」をも捨て「皇族賜姓臣下族」と成り、「皇親族」として「賜姓五役」(令外官)を務める事に成ったのである。
つまり、「格式の継承」から観れば、「継承権」があって「継承権」を捨てた立場に成った「唯一の氏族」であった。
依って、「継承権」では“「准の立場」”にはあった。
これで、「青木氏の准の使用許可」の意味合いが良く判る事でもある。)

この「家人制度」(「朝臣族の臣下族」でありながらも「真人族」の特別の「賜姓の氏族」)を維持している事に依る「准の立場」から、「白壁王の光仁天皇」と「施基皇子の追尊 春日宮天皇」の子が「山部王」の「桓武天皇」と成り、「施基皇子」からは曾孫の「嵯峨天皇の継承」と成ったのである。
そこで、「嵯峨天皇」は、「天皇家の正統性」を整理する意味からも複雑化した「真人族」と「朝臣族」を系譜化しようと試みた。
もっと云えば、複雑化していた「皇族系の系譜」を見直して「格式」を明確にし、主に「継承権のない朝臣族」、並びに元は「真人族でない朝臣族」との「系譜上の区分け」を試みたと考えられる。
この「区分け」で、それは「正統性」を意味する事に成り、「志紀真人族の青木氏」の”「三司」(平安期の官位の呼称)”の「准の使用根拠」にも成り得ると考えたのではないか。
つまり、これは「家人制度」を維持していない正当でない「朝臣族の臣下族」が増えていた事を物語り、この朝臣族でも真人族で無い朝臣族は勿論の事、更には血縁性の無い朝臣族まで発祥していた。
「嵯峨天皇」は、これを改める為にも「天智天皇」が定めたものを、「嵯峨期の詔勅」を改めて出し直した事に伴って、正統に系統化するとともに、合わせてその“今は「准の立場」であるが、本来は「准」でないとする「先祖の正統性」を100年後の今に明確にしたい”と云う考え方の下にその「証明書」を作ろうとしたと考えられる。

そこで、その基準を「家人制度の有無」と「四家制度の有無」に於いたと考えられ、これで或る処までは「系譜化」は出来たが、さらに整理に至るまでには未だ期間と難しさが掛かることから一度は頓挫した。
しかし、何としても形の上でこの「証明書」を作り上げたいとして、所謂、「新撰」として「未整理状態」で“「広布」“をしたと云う処ではないかと云える。
この「新撰の意味」は、この「未整理の範囲」でも、所謂、「証明書」には何とか成り得るとして、改めて「広布する範囲」として認めた処にそこに意味(ある種の思惑)があったと考えられる。
従って、「新撰の意味」と「准の意味」は、判り易く云うと“「公布」”では無く、“「広布」”であった事に成る。

(注釈 故に、そもそも、その証拠として、例えば、「源氏」には「賜姓源氏 11流」と「賜姓で無い源氏 5流」がいて、「家人制度」を敷いている「賜姓源氏」と、「敷いていない源氏」もあり、更には、「四家制度をしている源氏」と、「敷いていない源氏」があるのはこの事に依る。)

と云う事は、何故、この「新撰姓氏録」を、態々、この時期に一度「頓挫しかけたもの」を、又、「未整理のもの」を出そうとしたのかである。
「頓挫や未整理」であるのなら慌てずにそのままに後に引き継いでも良かった筈である。

ところが実は、この時期に朝廷内では、この「継承権の議論」と云うか、「藤原氏の勢力拡大」も狙ってこの「継承権の話」が出ていたのである。

(注釈 これ等を整理するには、そもそもその原因と成っているはっきりしない「継承権の問題」があった。後の「新撰姓氏録」を整備する上でも「この基準の一つ」を造り上げて置くことが必要であったと考えられる。)

それは、父である「桓武天皇」と兄で先代天皇の「平城天皇」を向こうに廻して「ある種の軋轢(皇位継承)」があった事が記録(「続日本記の削除問題」)として伝えられている。
これが「大事件」まで発展した。

注釈として、本来は、「実子」の「平城天皇の子供」が「継承権」を持つが、「嵯峨天皇」は”「直系」”の「志紀真人族の血筋」を引く自分にあるとしたのである。
つまり、況や、”「直系」”と云う意味の捉え方である。
前天皇の弟を最も”「直系」(A)”と考えるか、前天皇の子供を最も”「直系」(B)”と考えるかにある。
前天皇を前提としては、血筋は(A)であり、現天皇としては血筋は(B)と成る。

桓武天皇から観れば、「直系」は(A)であり、皇子の平城天皇から観れば、「直系」は(B)である。
同じ立場の弟の皇子の「嵯峨天皇」にすれば、血筋で濃い「直系」は自分であるとしたのである。
つまり、「縦の継承」を続けると、(A)の直系論理が生まれ、前天皇に皇子が居ないと「横の継承」が起こる。
その後は、(B)の論理が生まれ、この時に(A)か(B)の何れかを「直系」と定める必要が起こる理屈と成る。

この直系の事が、「皇位継承」のみならず、「青木氏の歴史観」にも大きく左右した「施政の事(問題に成った「監察使」等の事)」でもあって、この「処置の仕方」に付いての「軋轢」もあった。
結局は、この事を整理しようとして、”「監察使」”までを「嵯峨天皇」(令外官)は廃止した為に更に軋轢は拡大したのである。
この事等を含めて「父と兄と藤原氏」とで対立して「薬子の変・平城上皇の変」が起ったのである。

つまりは、「志紀真人族の後裔の氏族である青木氏」に執っては「氏存続」を一部否定されたと同然の扱いに同族の嵯峨天皇からされた事に成る。
又、「賜姓五役」を持つ「青木氏」に執っては、この「皇親族の令外官」であった事からこれは拙い。

つまりは、注釈として この”「監察使」”とは、「天皇直属の参議」で、「桓武天皇の勘解由使」から「平城天皇の監察使」、そして、「嵯峨天皇の参議」と変化した。
元々は、「天皇の代官」として「天皇の直接の意向」を背景に、「政治と軍事と経済」の施策に直接に力を発揮する「令外官の事」で、これを元は「参議官」が務めていた。
然し、親と兄の「二人の天皇」は、更に詳細に渡り強化する為に「勘解由使と監察使」のこの制度を設けた。
つまり、これが天智期から引き継いだ”「皇親政治の制度」”であり、この時は「青木氏」等が「賜姓五役」(令外官)として務めていた。
ところが、然し、これを「嵯峨天皇」は「直系の(A)」を根拠にして廃止したのである。

これが前段でも論じた「嵯峨天皇の詔勅」(「皇親族」でなく、且つ、「役目の無い賜姓族」 「賜姓源氏」)と云う形で正式に表に出たのである。

況や、つまり、自分が所属する「志紀真人族」の「皇親族の青木氏」を廃止し、その為に、「単なる役目の無い、且つ、権威の無い賜姓族」として、”「賜姓源氏」”と云う「氏族」に換えた。
そして、その代わり「妥協案」として、以後、「皇位継承」から外れ排出される「真人族」には、「青木氏」を名乗る事を許したのである。
然し、「青木氏」を増やす事禁じたのである。
この「志紀真人族系の血筋を持つ氏族」には、これが「賜姓臣下族」として自活する「五家五流青木氏の跡目」などに入る事を認めたのである。
「賜姓五役の五家五流」に入れない者は自活する路しかなく、地方の豪族の中に入った。

(注釈 正式には18皇子、15皇女が排出されたが、殆どは僧位か斎王に成った。武蔵の丹族に遺した「配流王」の「多治彦王」の「地方の後裔」の「丹治氏流青木氏の1氏」と、「清和源氏からの1氏」か生き残れなかった。)

(注釈 財政難から源氏を名乗る賜姓臣下族には生活保障を打ち切った。詔勅に明確に記されている。
故に、自活する賜姓臣下族の「五家五流青木氏」に何らかの形で入る事を認めた。)

この”「監察使」”は、「勅命」を受けて「皇位継承の問題等の整理」にも関わったのである。
親と兄の「二人の天皇派」は、”「監察使」”からの整理した報告から“「実子制度」”を主張したが、これを嫌った「嵯峨天皇」は「天智天皇と天武天皇」が定めた「第四世族内」の「第四位皇子内の継承権」を“「直系制度」”として理解して、これを主張した。
「天智天皇」から「弟の天武天皇」、「天武天皇」から「妹の持統天皇」の様に「第四世族内の第四位皇子内の継承権」を原則に、“「最優先の二世族」の「直系族」が存在した場合は、「皇位継承権」を保持する“と主張したのである。
要するに、“「内」”と云う語句を優先したのである。

つまり、“「第四位皇子・皇女」で、「第四位皇子」までならだれでも良い”という論調を採用しなかった。

「平城天皇」は、これ等の事を暗黙の「約束の下」に弟を「皇太子」として次期天皇として指名した。
ところが、「退位」の後、弟の「嵯峨天皇」が、約束通りに「皇太子」を甥に指名しなかった。
そこで、「復位」しようとして「薬子の変・平城上皇の変」が起こり失敗に至る。
「平城上皇派」は立場を失って旧都に戻る。
そこで、「嵯峨天皇」は異母弟を皇太子(淳和天皇)に指名した経緯なのである。

この上記の「注釈の複雑な経緯」を観ても、この時、全ゆる面から「皇位継承」を巡る「宮廷内部の論争とそれに伴う紛争」が起こったのである。
その「論争と紛争の一つ」と成ったのは、「聖武天皇の時」に起こった様に、又、「直系性の継承問題」であった。

“継承者が不在と成った時に、「准」の「第四世族の春日真人族」と、その系列の「志紀真人族、第六位皇子」 「浄大一位の格式の持つ氏」の「直系」の我にある”としたのである。

「敏達天皇系(春日真人族)」から「第四世族の志紀真人族」の直系の自分に「継承権」があるとし、「平城天皇の子供」には、「天智天皇」が定めた「四世族内制」に従えば、“「平城天皇の子供」には無い”と結論付けたのであろう。
故に、「直系族の第四世族」の“より「直系」”である異母弟を皇太子(淳和天皇)に指名したし、自分も「直系制」を用いた。

この事で、「志紀真人族」の「直系族」が「天皇家の系譜」として、以後、引き継がれて行く事に成るが、「嵯峨期以降から鎌倉期後期(38代から95代の57代)」までの「天皇家の系譜」を観てみると、「大化期に定めた考え方」に沿い、ほぼ「半分」はこの“「内」の「直系制」“を重視する原則に従っている。
57代中20代が「直系制」であるが、但し、「実子制」では、(57-20)から「女系や后妃嬪や四世族」等の「本来の実子」ではない歴代を除くと、丁度、「半分」と成る。

然し、「実子制」では、「実子」が存在しても、「実子の条件(若輩、能力、意思、血縁、格式、嫡子順、后妃嬪、妾子、人格)」が附添されていて、この事が左右して必ずしも「天皇」に成り得ていない。
この事から考えると、「本来の嗣子」とされる「実子」では無く「実子制」は半分以下に成る。

これには、上記の様に、上記の条件が叶えば、一度は「実子族」で継承しても必ず「直系族」がいると「継承権」を戻して「天皇」と成り得ている。
この様に「直系族」「直系制」が「考え方の主導」と成っていた事から、平安初期の“「内」の「直系制」“を打ち砕く事で、有利に「藤原氏の勢力拡大」を目論み、この「薬子の変」とも云われる様に、「薬子の実家先」の「藤原氏の台頭」(仲成)が絡んでいたのである。

(注釈 「直系制」であれば横に「継承権」を移動させる。ここではいろいろな「后妃嬪妾」の氏族から血縁が入る。然し、この「直系制」は延々には続かせることは兄弟の数が不足すれば一度、縦、つまり、「実子」に移動させねばならない。そして、又、「直系制」に戻す事が基本と成る。これを繰り返す。(血流の点では都合がよい。)
この事では「摂関家の藤原氏の勢力」は強く成らない。ところが「実子制」であればこそ外戚は強く成り得る。
ここに「勢力争い」が起こった。「摂関家の力」が強く成れば「天皇の力」は外戚から牽制されて弱く成るは道理である。
一種、「実子制の継続」は「藤原氏の娘嗣子」を次ぎ込み続ける事に成る。
従って、形の上からは「天皇の地位」を乗っ取った事にも成り得る。
基本的にはこの「争い」である。)

つまりは、この「直系制」があると、「八色の姓制」で「藤原氏外の婚姻([新撰姓氏録]の真人族)」が成立する事が起こり、「斎蔵の摂関家の藤原氏」は、「外戚」であっても「永代の朝臣族」である限りは、常に「継続する勢力拡大」は成し得ない事に成る。
下手をすると、「斎蔵の勢力」もこれらの「真人族(后妃嬪)」に奪われる危険性を孕んでいたのである。
(宇多天皇(59代 890年代)から藤原氏外戚が170年間続く)

「嵯峨天皇」が、何とか「新撰姓氏録」を出す事で、「准の立場」も含めて「継承権のある真人族」を明確にし、「外戚」は兎も角も「朝臣族である藤原氏の立場」を明確にして、ブロックして「天皇家の保全」を保とうとしたとも考えられる。
「外戚」で堀を埋め、今度は「本丸」の「天皇の立場」も奪われる可能性を危惧したのではないかと考えられる。
それは、「嵯峨天皇」の祖父と曾祖父(志紀真人族で賜姓族; 光仁天皇と施基皇子)が、「准の立場」で、且つ、「臣下族の立場」でも「天皇」に成り得たとすれば、「外戚(摂関家)」も「准」と「公家の立場」であるとする理屈を付ければ「天皇」に成り得るとする考えが争いの中に充分にあったと考えられる。
これは上記した様に、まさしく「真人族の確定」と「新撰姓氏録の広布」と「准の使用」と「直系族の掟」と「皇親族の廃止」の施策は筋が通っている事に成る。

現実に、その証拠に「藤原氏外の婚姻」の「後三条天皇(71代 1070年代)」からは明確にこの現象が起こった。
然し、この時期は、「直系族」が居ながらも「実子制」を三代続けて行うが、ところがそこからは「直系制の傾向」がしばらく続く。
つまり、「藤原氏外の血縁」が三代で出来上がり、そこからは「直系制」で行けば完全に「藤原氏外の血縁族」が「天皇家」に続いた事に成る。
言い換えれば、「藤原氏の外戚の勢力」は弱くなったと云う事を意味する。

そこで、しかし、この直前の「円融天皇(64代 970-990年代)」は、「藤原氏の外戚の勢力」は強く成った頃を見計らって、態々、「青木氏」は既に「皇親族」から外されていながらも「青木氏の補完策」として「藤原秀郷流青木氏」を創設したのである。
これは政治的な大決断であった。

これはある意味で“何故なのか不思議”な事でもある。
実は、これには「家人制を採っている氏族の青木氏」に執っての重要な「歴史観の意味」を持っているのである。

つまりは、「実子族」が続く「藤原氏の外戚」とする「天皇」の最中に、そもそも、「藤原氏」を外戚とする「円融天皇」に依って「青木氏の補完策」が取られている事だ。

この“何故なのか”の答えは、これは少なくとも「摂関家の内部勢力争い」に振り回され、「政治の主導権」を握られていて、「天皇が考える政治の遅滞」を恐れて「青木氏の秘書役」を以って密かに「内政の進行」(令外官の監察制度 賜姓五役)を強化したのである。

そこで「青木氏」を元の「皇親族」として「参議にする事」は、「藤原外戚が拒む事」が起こるし、下手をすれば「青木氏との争い」とも成り得るので、「賜姓臣下族」を其の侭に引き出す事を止めて、「東の武蔵の勢力拡大中」の「秀郷流藤原氏」(俵藤太)を利用したと考えられる。

これには、「二つの理由」があった。
それは、一つ目は、東の「将門の乱」の「功績の条件」に貴族(位階従四位下)を要求した事。
二つ目は、「武蔵藤氏」は「西の摂関家」に対して反抗していた事。
実は、この「反抗」を示す事例として、「藤原氏の総紋」の「下がり藤紋」は「下がる」を忌み嫌い「上り藤紋」に変紋したが、「枝葉末端の武家藤原氏」の「武蔵藤氏の秀郷(俵藤太)」はこれに従わなかった。
この「二つの事」に目を付けて、「円融天皇」は「青木氏の格式と同じ扱い」を条件にして「青木氏補完役」を「累代第三子」がその義務を負う事を命じたのである。
これで「家人制を採る氏族の青木氏」は、その「権威の回復」と「賜姓五役の奉修復帰」を再び果たす事が出来る事に成った。
この「権威の回復」と「賜姓五役の奉修復帰」の事が、家人制で成り立つ事が出来、且つ、出来て氏存続の前提は確約された事に成ったのである。

注釈として、その為には「秀郷流青木氏」が絶える事があってはならない。
その為に、改めてこの「秀郷流の青木氏」が絶えることが無い様に「宗家から累代第三子」が「秀郷流青木氏の跡目」を引き継ぐ事を命じた。
「武家貴族」と成った「家人制の氏族」が他に存在する事と成った事で、二つの「家人制を採る氏族の青木氏」はより強固な氏族を造り上げられたのである。
「武家貴族」と成るかどうかが決め手と成った。

藤原氏枝葉末孫の「関東の姓族の俵藤太」では幾ら補完を命じられてもそれは意味が無かった。
当時の慣習としては、「賜姓臣下族」として「四家制度と家人制」で「氏族」を護る以上は血縁性には発展させる事は出来なかったからである。
そこで、更には、「斎蔵」を務める「摂関家」を飛び越えて、且つ、「賜姓臣下族」と「最高級の官位官職」までを同格として扱われる事に成った。
そして、その上で「四家制度と家人制」が強かった、先ずは「伊勢」から血縁は始まり、「近江」「信濃」と深い血縁は進んだ。

(注釈 甲斐は平安末期清和源氏との血縁があった。)

(注釈 武家の賜姓源氏や、皇位継承から漏れた「真人族」とも血縁が進み、遂には「秀郷流青木氏」は「摂関家」と「同格の地位」を獲得した。脩行系青木氏等
清和源氏の摂津本流と河内支流は、各地に散在した枝葉の「11家の源氏放浪族」を集めて「武家衆団」を形成した事から「家人制度」は出来ていなかった。)

(注釈 そこで、「賜姓臣下族の五家五流」から「藤原秀郷流青木氏」に、「秀郷流青木氏」から「五家五流青木氏」にどの様に血縁を結んだかを調べると、その要素は、実は「墓所」にある。
「系譜」には「四家」から「娘の嫁家先」の明記が無く、その「添付書」にしか明記は無い。
ところが、その詳細を書いた「添付書」は、一族が先祖の詳しい史実を知る為に書かれたもので、主に秘蔵が「仕来り」で相互の事が解けない。)

そこで、この「二つの青木氏」の慣習には、その「浄土密教の慣習」としては「本墓所」とは別に「女墓」と云うしっかりした慣習があった。
そして、ここに「累代の妃嬪」が刻まれている。
これを相互に付き合わせれば凡よその事は判るのである。(系譜系のものは信頼性に欠ける帰来があり粉飾の偏纂性を排除するには「墓所の女墓」ではないかと考えられる。)
この「女墓」には慣習として「戒名と俗名と享年」等とが刻まれている。
この「俗名」を「相互の突き合せ」で婚姻が判る。

最近ではこの「女墓の慣習」を続ける事は難しいが、出来たとしても「総宗本家」程度しかない。
それを調べた範囲では、次ぎの様である。

概しては、血縁律を10として、「賜姓臣下族からは3」、「秀郷流からは5」の割合程度で、相互に「女系]で血縁関係が成立している。
時期は主に平安期中期頃から下剋上が起こる前の室町期初期にかけてであり、江戸期初期にも血縁官は起こっている。
ピーク時を査定するのは「五家五流青木氏」の源平の争い等があって、その「栄枯盛衰」が血縁を左右させる事があって困難だが、どちらもその栄枯盛衰の最大時とされる1125年頃ではないかと観られる。

格式も同役も同じである事から婚姻は成立しやすいし、その様に「円融期以後の朝廷」はこの「二つの青木氏」に仕向けたと考えられる。
何故ならば、中には「嵯峨源氏」からも、「摂津系清和源氏」からも「跡目血縁」が、「近江佐々木氏」からも「女系血縁」、「近江佐々木氏系青木氏」からも「同祖血縁」、「五家五流間の青木氏」からの「同祖血縁」が起こっている。

これらには必ず「高位の仲人」が立つが、「天皇の意」を汲んだ「朝廷の参議どころ」でなくては「仲人の格式」は成り立たない。
況や、この様にして「朝廷(天皇)」は「青木氏の血縁」を強化して、より強固に「四家制度」と「家人制度」に依って「賜姓五役」(令外官)を維持させて遂行させたと考える。
概して、この女墓から観た流れ図を見ると次ぎの様に成る。

「源氏(嵯峨源氏・摂津源氏)」→「五家五流青木氏(四家)」←→「秀郷流主要五氏」←→「佐々木氏(青木氏)」
←→「五家五流青木氏(四家)」←「徳川氏(江戸期)」


以上の血縁関係が、「施基皇子」を同祖同縁とする「直系制」が取られた平安末期まで出来上がっていった。

(注釈として、これが「四家制度の範囲」と「家人制度の範囲」で行われた。
この二つの相互間に綿密に関連する制度が「血縁関係」に大きく左右させていた事が判る。
「四家制度」と「家人制度」が完全に確立して居なければならない訳であり、上記の事は理解できる。)

(注釈 それ故に、男女に関わらず「孫域」までを子供として集めて、此処から「娘」は嫁家させ、上記の範囲で「血縁」を結んでいた。
「男子の嗣子」は、概して「四家20家内」に納まっていた様ではあるが、「跡目」では無く「養子」と云う形で「郷士家」に移動している。
そこで「男子」が多く生まれた場合は、「青木氏」を興し、「四家」に戻すと云う形式を採っていた様である。
更には、「縁者、況や四家20家外での娘や曾孫」は、「郷士関係との血縁」に稼せられていた。)

この様に、「同祖同縁の血縁」と、「家人制度」に依る「四家の血縁」の「二段構え」で「血流」を豊かにしていた様である。

但し、「秀郷流宗家との血縁関係」は、「五家五流青木氏」は「笹竜胆紋(象徴紋)」を変紋しない事から、「家紋分析」では「柏紋類」と「目結紋類」とから、「秀郷宗家」と「佐々木氏」と血縁関係があった事が判るが、資料からは見つからない。
「永嶋氏・長沼氏・進藤氏・長谷川氏の青木氏族」とは「佐々木氏の研究資料」からは充分に確認できる。

これは「枝葉末端の武家藤原氏」の「武蔵藤氏の秀郷(俵藤太)」に執っては「摂関家」と肩を並べる「武家藤氏」として「勢力拡大の最大のチャンス」であった。

この様に「四家制度」と「家人制度」が接着剤の役割を果たし、血縁融合したが、「東の乱」を契機に、この「補完策」に依って「二つの青木氏」に内政の「賜姓五役」は進み、「志紀真人族系」の「皇族賜姓臣下族の青木氏」は、「二足の草鞋策」も相まって「皇親族であった失った部分」をも完全に補足したのである。
注釈 これを得てとも考えられるが、1025年からは「二足の草鞋策」は総合商社化し、その財源を使って四家制度の整備と家人制度の強化を果たし、その事と相まって「二つの青木氏の血縁融合」は進んだ。
「秀郷流青木氏」も「第二の宗家」と呼ばれるまでに至り、「秀郷流青木氏発祥」より100年後(1060年頃)には、一族一門の発展と共に「5氏による青木氏族」を形成する至るのである。

この1050年代の同時期を境に「二つの青木氏」は、更に、100年後には共に最大の隆盛期を迎えるのである。
「賜姓臣下族の青木氏」の「二足の草鞋策の採用の時期」と、「秀郷流青木氏の発祥の時期」とが同一としているのも無関係では無いと考えている。

(注釈 「賜姓臣下族の青木氏の二足の草鞋」は、それまで「朝廷の部制度」の依る「和紙の開発と生産」で朝廷に納入する役で、その「余剰品」を一般の市場に卸す役目であった。
これが奈良期の「部制度経済」であったが、その後、「和紙生産」が本格生産に成り、増加して「朝廷余剰品」が大量になり、これを許可を得て市場に売り捌く役目も担った。
これが「青木氏の二足の草鞋策」の氏族としての正式な始まりであり、これを以って「賜姓五役の財源」とする事を求められたのである。
記録でこの時期が925年頃と成っている。)

「円融天皇」の「青木氏の補完策」としては、「天皇家、賜姓臣下族青木氏,秀郷流青木氏」のこの三者に執っては“「藤原秀郷流青木氏の創設」”は難しい時期に於いても完全に成功したのである。

個人情報保護の観点から、系譜や血縁関係の資料等を公的に出す事が出来ないが、上記のこれも「青木氏」が「生き遺れた重要な歴史観」の一つである。




> 「伝統シリーズ-35」に続く。
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