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:「青木氏の伝統 27」-「伝統と青木氏の変化」

[No.346] Re:「青木氏の伝統 27」-「伝統と青木氏の変化」 
投稿者:福管理人 投稿日:2016/10/23(Sun) 07:57:18


「伝統シリーズ-26」の末尾。

> これらの事から検証すると、後勘として、「如来の意志」にはこの上記の疑問に対して次ぎの様な答を出している。
>
> 果たして、後勘から観て、1760年以降の「如来の意志」は何だったのであろうか。
> 恐らくは、“「善悪の条理相対の理」”に勝る何かが発生したと考えられる。
>
> そもそも「青木氏」が伝統として引き継いでいる「青木氏の慣習仕来り掟」の類は、「祖先神から来る概念」と古代仏教の「浄土密教」から来る概念」であって、この「掟」も当然に「青木氏だけに存在する概念」である。
> この「青木氏の概念」が受け入れられる土壌に何か変化を興したと云う事に成る。
> つまり、“「善悪の条理相対の理」”の「青木氏の密教掟」の「如来の意志」が、正統に果たされる「社会構造」が変化したと云う事であろう。
>
> 上記の注釈の中にその答と成る「共通の傾向」が潜んでいる。
>
> では、“「善悪の条理相対の理」”の「青木氏の密教掟」が,況や「如来の意志」が正統に働く社会とはどの様な社会であろうか。
> それは、より深く繋がる“「絆社会」”である筈である。
> “「絆社会」”であるからこそ「青木氏の密教掟」を護り、「人の上に立つ者」は「人」に「善」を尽くす、「力量等のある者」は「下の者」に「施し」を成す。
> これに対して「下の者」は「上の者」に「信頼と尊敬の念」で返す。
> 「上の者」は、この「信頼と尊敬」を得てこれで「組織や役」を果たす事が出来る。
> この「相乗関係」が成立して社会は成り立つ。
> 故に、それには「青木氏の密教掟」を護ろうとして自らを律する。
> 自らを律する為に「青木氏の密教掟」の類を護る。
> 自らを律しない者には、「人」は“「善悪の条理相対の理」”の中で“「信頼と尊敬」”を獲得は出来得ない。
> 「下の者」と「上の者」共に“「絆」”と云う“「信頼と尊敬」”の上に成り立ち、その“「絆」”は“「個々の利」”では無く、“「組織と云う利」”に叶う事で“「個々の利」”を得ようとする社会である事に成る。
> 最低限に於いて、この社会は、「組織の利」>「個々の利」の関係が成立している事に成る。
> これを観て“「善悪の条理相対の理」”による「如来の意志」は定まる。
> つまり、これには「個々の意志」をより尊重する「より強い自由社会」には成り立ちにくい条理にある。
> 従って、「組織の利」<「個々の利」の関係が進むと「如来の意志」は変わる。
>
> では、上記の通り「如来の意志」が変化し出した「享保の改革」の後半は、「イロハの商業組合」で改革を進めた。
> 況や、これは“「絆社会」”が減退している中での、更に「江戸の社会」の「自由の先取り」である。
> 「江戸の民」は「青木氏」等が行う「仏施の質」に対しても「伊勢の仏施の質」では最早なく、そこに「生まれる絆」は云わずとも減退していた。
> その「江戸の絆」は、「組織の利」<「個々の利」の関係にあったからこそ成り立っていたのである。
> 密かに「自由の先取り」が進んでいた事に成る。
>
> 「自由の先取り」=「組織の利」=<「個々の利」の関係=「江戸の絆」
>
> この関係をより江戸で成したのは皮肉にも「青木氏」である事に成る。
> 故に、「如来の意志」は「青木氏」に働いたのである。
>
> この進化と観られる“「自由の先取り」”が、幕末に掛け江戸から全国に伝播し、享保期より「自由の先取り」はより進んで次ぎの様な関係が拡がったのである。
> 「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係=「江戸の絆」
>
> 故に、「組織の利」>「個々の利」の関係にて成り立つ「江戸幕府」は弱体化して、遂には、「自由の先取り」を政治方針とする「維新政府」と成り得たのである。
> 「自由の先取り」を政治方針とする「維新政府」が進むと、必然的に「絆社会」は減退する。
>
> 後勘として検証して見るならば、明治初期から明治9年に掛けて維新政府に対して「伊勢動乱」(裏で青木氏は経済的支援)で反動したが、その後、逆に「地権放棄」に観られる様に「青木氏」自らもこの方針に積極的に賛同した。
> 明治初期の青木氏の「地権放棄」は、当に、農民の「個々の利」を認める行為である。
> それを自らが「伊勢動乱の経済的支援」をすると云う事は「自由の先取り」を進めた事に成り、「組織の利」>「個々の利」の関係を保ちながら、「矛盾」を進めた事に成る。
>
> 当然の結果として、「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係が進んで、「如来の意志」は正統に反映しなくなったと後勘としては解釈できる。
> これは「青木氏」自らが興した、或は、招いた現象とも云える。
>
> 故に、「西洋文化の概念」が益々導入され、その為にその傾向が強く成った明治20年頃から「衰退」が起こったと云う事であったと考えられる。
> そして、どんどん進む“「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係”は、戦後、更に昭和20年の敗戦と占領下で「欧米の自由文化」が入り進み、遂には、「福家」は「倒産」の憂き目を受けた。
>
> “「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係”が進む中では別の道を選択するべきであった事が考えられる。
> つまり、享保期では「仏施の質」にあり、明治期には「伊勢動乱」(裏で青木氏は経済的支援)の「対応」が間違えていた事に成る。
>
> 上記の様に、「二足の草鞋」で商いをする多くの「全国の青木氏」には、この昭和20年頃を境に「如来の意志」は、“「善悪の条理相対の理の概念」”を果たすも正統に享受され得なく成ったと「後勘の評価」はできる。
>
> “「自由の先取り」=「組織の利」>「個々の利」の関係” - A
> “「善悪の条理相対の理」”の概念“ - B
>
> この「ABの二つの関係」は崩れ、Aは変化してBだけが残る結果と成ったと考えられ、そのBも「組織の概念」では無く、「個人の概念」の範囲に留まったと成る。
> つまり、「Bにまつわる伝統の一つ」は消えたのである。
> そもそも「古式伝統」が消える過程とはこの様なものである。
> 従って、「祖父の代」までを以って「氏としての掟」(多くの「伝統」。即ち、奈良期からの慣習仕来り掟)は霧消に期した。
>
> 後勘として「享保期後半」からの「伊勢と信濃と甲斐と讃岐の状況」の「青木氏」を以って論じたが、多くの「全国の青木氏」は、「賜姓族」として置かれている「悠久の伝統ある環境や立場」などがほぼ同じであった事から、これに類する様な「憂き目」を受けていた事が間違いは無い事が云える。
> 故に、後勘の現在で観れば、多くの「青木氏にあるべき古式伝統」が上記で論じた同様の過程を経て完全に近い程に霧消しているのである。
>
> その中で「伊勢と信濃と伊豆の青木氏」には、「伝統の形跡」が記録としても何とか遺されていたのである。
>
> (注釈 本サイトに何とか「伝統の記録」を投稿し論じて遺しているが、「自由の先取り」=「組織の利」<「個々の利」の関係が、ますます進み「青木氏の密教掟」(古式伝統)も無く成る。
> 従って、「如来の意志」も働かず「伊勢」も含めてこれからは「全国の個々の青木氏」には「伝統維持と習慣仕来り掟の解明」は相当に難しい事が判る。)
>
> その「古式伝統」の「維持管理の難点」の一つは、その「伝統」が「周囲の伝統」と比べて「違和感」を感ずるほどに「古式豊かである事」が難点である。
> この「難点」を克服し維持するには、「それ相当の経済力」と「勇気やる気」を必要とする。
> 先ず、その特異な「古式伝統」を継承し得る「環境・場所」が確保し得ないであろう。
> この「周囲の伝統」と違う為に、周囲からは気宇の目で見られ「伝統の特異性の周囲の理解」が得にくい。
> 筆者もこの二点に苦労した。
>
> この状況は現在に於いても変わる事は無く益々難しく成るであろうが、筆者は内家で行っていても家の者にも理解が得にくい事がある。
> 合理的に考えて「周囲の伝統」と違う為に何でそこまでやらなくてはと云う疑問もあるらしい。
> そもそも「伝統」とは「合理的に」とはいかないところがあるのだが。
> 良い悪いは別として、最早、“悠久の歴史を持つ日本でも「数少ない氏族の青木氏」である“と云う感覚は、明治から戦後の昭和の混乱期の間に親族には消えているのである。
> 「口伝」さえも受け付けない。「時代」と云うものはそう云うものであろう。
> 故に、中々読んで貰えないが「文書」に遺して何時しか「子孫にロマンを与える事」としている。
>
> 幸いサイトのカウンターで観れば、現在では、“年間で全国の5割近い青木さん”に読んでもらえている事には成る。
> ヤフーHPとサイトHPで観ると、延べ「約老若220万人の青木さん」に読んでもらっていた事に成る。
> これは「全国の青木さん」には充分に洩れなく読んでもらえている事に成る数字だろう。
>
> 「伝統維持」は難しく成るも、「ロマンとしての青木氏歴史観」には、なんと「青木氏」のみならず読者は「青木氏族」にまでに広がっている。



「伝統シリーズ-27」に続く。


「伊勢の民」は上記の殖産で潤っていたのに、江戸末期から明治初期(14年に終わる)に掛けて、「農民の不満」が拡大し、有名な「伊勢一揆」(内容としては暴動)が起こっていた。
つまり、「殖産の潤い」では無く、「政府の農民に対する税の掛け方」に「農民の不満」を持ったのである。
「明治初期の地租改正」で「農地に対する税率と納税方式(地価税と金納)」が変更された。
この時、「自作農」を目的として「地主である青木氏の米農地」を「氏人の農民」に下げ渡した。
維新政府が提案した「農地解放」である。

注釈として、「伊勢の青木氏」では、この米策の「農地解放」に対して「一戸」に対して最低「二反(600坪)」をベースに無償下げ渡しを行ったと記されている。
実際は「三反程度(約1000坪)以内」であったらしい。
「全国の青木氏」では、ほぼこれに沿っていたとされる。
生活最低の農地面積は「二反(副業含む)」であって、この事から明治期から“「二反百姓」”と云う「揶揄の言葉」が生まれた。

これでは生活に潤いが無い為に副業をしていた。
この「副業」は「青木氏」が興す「殖産の手小」で賄ったと記されている。
一戸はこの「二反」を耕作し得る家族構成であった事からも「二反」と成った。
この中から、「殖産の副業」で蓄えを造り、「廃農の土地」を買い取り「5反百姓(1500坪)」と呼ばれ、「農業」で何とか生きて行ける「農家」と成ったと記されている。
最大で「一戸10反(3000坪)農家」が生まれたらしい。
中には、この「一戸10反(3000坪)農家」は、前段でも論じた様に、「青木氏」が興した第二次の「早酒米」と「醸造技術」を継承し、「酒米」に切り換えて「酒造業」でも成功した者も居たらしい。
(豪農の基準として最低「2町分」)

この様に「米価の安定化」の為にも、「紙屋」が金融をしてこの「酒米と酒造」を伊勢で広めて殖産した事が書かれている。
又、「小作農」では「青木氏」と共に生きて行けたが、矢張り、「自立農家」と成ると「税」等を始めとして問題も多く「廃農」する者が増え、この「廃農者」は「青木氏の殖産」の「職人」で生きる事に成ったとも記されている。
この「農家と職人」の仲介は「青木氏」が取り持った。

因みに、「伊勢青木氏」の場合の譲渡した小作地は、大正期の前の明治期(45年)の範囲では「小作地の約9割」に達した。
「農地」に対して占める「小作地の1割合」は、「青木氏の作地」で、この「作人」は「青木氏の雇人」か「作人」(畑やその他が在った為)を選んだ事と成った。
従って、全体の畑などを含む耕作地は10%に激減した。(殖産用は別)
畑地も含めると、「全耕地面積の半分以上」(残りは殖産地など)が「小作地」であったが、この農家の割合も約半数から1割程度まで漸減して減少した。
と云うのも、この「約半数の農家」が、“「小作農」を選ぶか”は直ぐには態度を示さずに時間がかかった。
つまり、「自作農」となると「多くの負担」が圧し掛かるからである。
取り分け、世間でも問題と成っていた「税」に対する不安が強く在り、「青木氏」を頼った方が良いとする選択もあったからである。
故に、「自作農」や「小作人」の侭や「雇人」や「作人」の「四つの選択肢」を「伊勢青木氏」は用意した事に成る。
直ぐに急激に何時からと区切り「自作農」にしたという事では無かった。
この為に、この様に環境が次第に変化して行く事から、迫り来る「概念の崩壊」(伝統の崩壊)には、“無頓着と成っていた事”が祖父や曾祖父には起こっていたのではないかとも考えられる。
故に、この結果、これを評価して「地権者や地主と云う概念」は崩壊に近かったと「青木氏に関係する資料類」では幾つか明記してあるのであろう。
これは「痛恨の極み」としての反省の意味なのかは判断が付かない。
曾祖父は別として、世の成行きを判断するのに卓越した祖父には“反省”とは考えにくいし、その様な口伝は無い。

つまり、「氏人との地主制度」は、完全に崩壊し、明治後、「伊勢の青木村」は「自作農」が殆どと成った。
江戸期からの全国の「農地の地権者(地主)」は、昭和20年までの「正式な農地解放」まで殆どが「地権者の侭」であったとされている。
後継者や飢饉等の問題で「自然放棄」の理由で、「地権」を止む無く維持出来ず後退して行った者もあるが、明治期に、これらを除いて自発的に農地解放した江戸期までの地権者は数件しか見当たらない。
(但し、豪商などが権利だけを持つ地主は除く。)

江戸期中期から勃興した豪商等は「自然放棄の農地」や「経営難に成った農地」の「買い取り」を「商いの手段」として積極的に買い取った。
つまり幕末から明治期に起こった「名義だけの地権者」である。
結局は、明治期の「農地解放策の地権放棄」は「小作農」から「自作農」に変化しても、状況の変化に対応できずに結局は「地主が変わった事」と、「絆」の無い別の者の「雇人に成った事」の違いで、「税」は豪商が治めるという事に成っただけの事である。
はっきりと云えることは「青木氏」の様な「氏上-氏人の絆社会」は消え単なる「地主と小作人」と成り、そこには“「絆」は消えた”であろう。

明治期の「農地解放策の地権放棄」は、時間がかかったのは確かに「青木氏の判断」の事もあったが、「氏子の判断」もあった事も云える。
上記の理由もあったが、「氏子(小作人)の根底」には“「絆」は消える。”の心配があったのではないか。
悠久の歴史を持っている「親子兄弟の様な関係」を持っていた「氏上―氏人の絆社会」を消える事を恐れていた。
これでは「氏が構成する地域の大きい伝統」は消え、最後には「氏が持つ小さい伝統」さえも消え去ると云う事に成る。

そもそも、前段でも論じたが、”「伝統」”と云うものは「周囲の氏人との関係」が深かった事を論じたが、この比率関係では、最早、どう考えても「伝統維持」は困難である。
この時、「福家」は「伝統維持」と「農地解放」の「二者択一の苦しい選択」をした事に成る。
この「伝統崩壊」が、どの様な事に結び付くかは租借できなかったとは後勘として到底思えない。
然し、明治初期には「農地解放」を率先して選んだのである。
恐らくは、“農民の幸せの為だ”と「国策の矛盾の解消」の為と信じてである。
前段で論じた様に、一時的には、初期には公的には「伊勢一揆ー伊勢暴動ー伊勢騒動」として扱われるような「伊勢暴動」が起こるが、“「農民の幸せの為」と「国策の矛盾の解消」”で進んだ。
勿論、諸新貫徹で、この「一揆」を「暴動」にし、最後には「デモ」にし、遂には伊勢に貢献したとして「朝廷」から「感謝状」を二度も賜る仕儀と成っている。
(詳細は下記 「国策の矛盾の解消」は享保期からの取り組み政策であった。)

後勘としては、「伝統」は衰退したが、少なくとも“農民の幸せの為だ”は正しかったと云う事に成る。
故に、「氏存続」を左右する事の「大犠牲」を敢えて選んだ「青木氏」であるからこそ、「氏上さま」とか「御師様」に、そして、明治期の「農地解放策の地権放棄」では、最早、「氏上さま」でも無く成り、「御師様」でも無く成ったにも関わらず、今度は新たな尊敬の呼称の“「徳宗家」”に成ったのであろう。
「小作農の人」から「自作農の人」を選んだ「元氏人達」は、本来なら放置されても良い関係に成っていたにも関わらず、続けて「明治期の殖産で受ける恩」に対して「徳宗家の呼称」で返したのである。

(注釈 明治期の「農地解放策の地権放棄」(明治7年)は、大地主である貴族院の反対を受け廃案には成ったが、「明治期の青木氏」は政府に同調して「農地権」を農民に放棄し続けた。)
(明治2-明治35年の期間)

そもそも、明治期の「農地解放策の地権放棄」にはこの「貴族院」に問題があった。
「貴族院」(1890年-1947年)とは、「明治初期の社会」を権威付けする必要に迫られ、それまで公家族であった者と大名であった諸侯に対して「華族制度」(1869年 明治2年-1947年)という「権威組織」を作った。
(実質は1927年頃で崩壊した。)
それらの「貴族院」に対して、後に、「議会の特権(拒否権等)」を与えたものである。
これは「伊藤博文の策」であったが、明治15年頃(1882年)からこの「華族の範囲」を不満分子を押える為にも安易に広げすぎ、又、「財産の特権」などを与え過ぎた事から、庶民の反発を招き、昭和2年頃で破綻して長続きはしなかった。)

ここで、考えてみると、何か変である。
この時に執った「維新政府」の政策には「矛盾」があった。
明治期の「農地解放策の地権放棄」(1869年 地租改正に伴う策)を要求しながら、一方で大地権者であった者を持ち上げて階級制度の復活の「華族制度(1869年)」を創設した。
この「華族制度」を作り「議会の拒否権」と「特権(財産権の保全)」を与えて仕舞えば、明治期の「農地解放策の地権放棄」は地主である以上はしなくなる事は必定である。
(現実に貴族院の地権者たちは議会で拒否、現地で「農民の反発」を恐れてより厳しく対応した。
「地権放棄」などは100%しなかった。)
一方で「農地解放策の地権放棄」を叫び、一方では「議会の拒否権」と「特権(財産権の保全)」を与えて仕舞えば、“遣らない”と云っている事に過ぎない。
この事は当然に農民にも判る。
少なくとも「青木氏」の「青木村の農民」は、「自作農」を躊躇した。
しかし、「青木氏」は「自作農」ではないが、「小作人」と云う「古い体質の関係性」を改善しようとして、政府に関係なく”「雇人」や「作人」”と云う対応で積極的に進めた。
そこで、「自作農」を選ばず「青木氏」に残った「氏人の侭の小作人」には、「青木氏」に残る上は、「会社組織的な関係性」に近づけたのである。

何れも「自作農」にしても、「雇人や作人」にしても、共通して「近代的な関係性」にある。
これは「享保の改革」の「江戸の伊勢屋」が採った「仏施の質」と同じであった事が書かれた行があってある意味で認識している。
この事から、この時の「伊勢の青木氏」は、「商業組合」と同じの“「自由性」”をやはり追い求めていた事が判る。
つまり、「氏人」には次第に「自由性の高い自作農」に近づけて行く「次善策」であった事に成る。
もっと云えば、上記の「維新政府の矛盾」から観て、最早、維新政府とは関係なく、前段で論じた「青木氏独自の信念」に基づき“「自由性」”を確保する“「氏人の自作農」”を進めた事に成る。
そもそも、前段で論じた様に確かに維新政府に青木氏は協力し同調した。
(果たして「協力同調」か気になる。)
ところが、上記の「維新政府の矛盾の政策」の「貴族院制度」を打ち出した。
「維新政府の仕打ち」はこれだけでは無かった。
それは、つまり、前段で論じた「税の変更」であった。
それまでの変動制の高い「米価」から、変動制の低い「金価」に変更した上で、地価に基づき更に「税率」をも変えたのである。

思いの侭である。
これでは急激に変化する体制に驚き、且つ、増え始めた「自作農の農民」と「元郷士で小さい地主」であった田畑を持つ者等は、不満を募らせていた。
要するに、「税収入の安定策と高値安定策」の「税二策」を同時に打ち出したのである。
「自作農」を推し進める「青木氏」に執っては、「小作人」の「自作農」を選んだ「氏人」を騙した形に成った。
堪えがたき仕儀と成った。
幾ら協力や同調したと云っても「矛盾政策と税二策」には、「裏切り感、或は、怒り感」は強く成った。
これには暫くは抑えていたが、遂には「自作農の不満」は爆発した。
この「維新政府」の「矛盾政策と税二策」に対して「青木氏」は、この「裏切り感、或は、怒り感」から「自作農の不満」に同調した。
それが、「伊勢暴動」で「暴動の経済面の支援」に出た。(詳細は下記)
「裏切り感、或は、怒り感」の表れとして「維新政府」に対する「矛盾政策に対する警告」であった。

ここで、念の為に、最早、「天皇」を中心とするも「薩長土肥の維新政府」であり、且つ、「体制」は異なり「賜姓五役」は、「献納金」を納めるも形式上からは、“終わっていた”とする「認識感覚」は排除出来なかった事を追伸しておく必要がある。

そこに、「矛盾政策と税二策」と「自作農の不満爆発」と「伊勢暴動」である。
「伊勢暴動」で「暴動の経済面の支援」をする以上は、「青木氏」としての「理路整然とした信念の支援」であるべきとの姿勢を貫かねばならない。
それが上記した「伊勢暴動の経緯」と成って表れたのである。
この「薩長土肥の維新政府」の「矛盾政策」を除いて、明治期には解決は出来たとすれば、最早、「維新政府」とも「離縁の仕儀」と成ろう。
ここで、明治期の「農地解放策の地権放棄」も進み「永代の青木氏の賜姓五役」は完全に終わった。
況や、「氏上と氏人の関係」は終わって、「雇人と作人の関係」の「自由性のある関係」へと変化させたのである。

(注釈 「青木氏での呼称」では、”「雇人」”とは、「雇用契約」で「社員」であり、”「作人」”とは、「受注契約」で「契約社員」か「外注」であろう。)

筆者は,この明治期の「農地解放策の地権放棄」を進めるには、何も無い土壌の処に「自由性の強い策」を「青木氏単独」で打ち出すには政府の批判を免れられない。
そこで、その策のタイミングを見計らっていたのではないかと観ている。
「維新政府前の政策綱領」が洩れて来て「大方の策」を読み込めていたと観られる。
そこで、悠久の歴史を持つ「氏上と氏人の関係」を、この際に「雇人と作人の関係」の「自由性のある関係」へと改善する機会にしたと云う事であったと観ている。
その証拠に、農業ではない「職能集団の青木氏部」も「雇人と作人の関係」の「自由性のある関係」へと改善している。

当然に、「雇人と作人の関係」には賛否両論が起こった筈である。
「残りたい者」の中には「雇人や作人の選択」が出来て完全に残りたい者は雇人に、少し離れたくて自由の効く状態にしたい者には「作人」で最低限に形は変わるが残れる。
完全に青木氏から離れたいとする者には「自作農」を選べば良い事に成る。
この「地権放棄」に関係する者には「郷士」も居たし「農民」も居た。
当然に「各々の立場」も異なる事や、「青木氏との関係性」の強弱の者も居た事だし、稀に見る「悠久の歴史」を持つ以上は「多種多様」であろう。

従って、この多種多様の中で、この「雇人と作人の関係」の「自由性のある関係」へと「体制の改善」から「自作農」へと、止む無く一歩進めたと云う処ではないかと観ていて、それには未だ「封建制の概念」の強かった「農民社会」では行き成り「自作農」と云う事は難しかった。
そこで、「伊勢の青木氏」は維新政府の「地租改正の成行き」を観て、“「協力と同調」“をしている様に実行したと云う事では無いか。
この時、「伊勢」では地権放棄に関わらず「農民等の不穏」な「不満の動き」があって、「伊勢青木氏」としては、「伊勢の民」を“いざ”と云う時には「救う手立て」の為に「協力と同調」の「戦略上の姿勢」を採ったと観ていて、「献納金」もその手立ての一環であったのであろうと観ている。

この様に「青木氏に関わった資料の行」とは少し違う見方をしている。
だとすると、何故、直近の事であるのにこの「行」に成ったのかと云う事に成る。
余談ではあるが、追記して置く。
それは、「伊勢暴動から感謝状を受けるまで経緯」の「大義」を採ったと云う事ではないか。
「大義」としては決して間違ってはいない。
確かに、筆者の上記の説にも「現実観の小議」はあるし、「伊勢暴動から感謝状を受けるまでの経緯」の「流れの経緯」にも「大義」が存在する。
だとすると、「遺す資料」には当然に名誉と成った「大義の方」を書き込む事に成る仕儀であろう。

さて、話を戻して、何故ならば、「雇人と作人の関係」の「自由性のある関係」は悠久の歴史を持つ「氏上と氏人の関係」は依然として保たれるが、ところが「自作農への関係性」は保てなくなる。
この保てなく成る事や消える事へのリスクは大きく成る。
それが、現実のものと成って「矛盾政策と税二策」と「自作農の不満爆発」と「伊勢暴動」に発展してしまったとする経緯であり、躍起になって「火消しに努めた」とする経緯である。
「祖父からの口伝」では聞こえて来ないが、前段でも長く論じたが、「古式伝統の仏施の質」がそれを物語っている。

つまり、筆者は「イロハの商業組合」と云う事も然ることながら、「古式伝統の仏施の質」の範囲を概念としては超えていないと観る。
筆者の目からは、この時の「自作農」はこの範囲を超えていて、俗に言い換えれば、周囲を壊す“「やけくそ」”である。
「青木氏」と「祖父と曾祖父」はその様な人物ではそもそも無かった。

この事は、「伊勢での事」ではあるが、「全国の青木氏」にも言える経緯であり、取り分け、前段で述べた関東北陸地域の六地域や、関西・中国圏の「三地域の青木氏」には間違いなく起こっていた経緯であった筈である。
ただ、伊勢の様に暴動までに至っていたかの違いであろう。
その証拠に昭和20年前後を境にこれらの「青木氏」は間違いなく衰退している特有「特有の歴史観」を共有している。

前段でも論じたが、「讃岐青木氏」や「安芸の青木氏」や「米子青木氏」(阿波の青木氏)は大豪商であったにも拘らず、焦って明治期の蝦夷地開発等に手を出した末に失敗し衰退した経緯の証拠を持っている。
明らかに、「幕末の組合の締め付け策」と「矛盾政策と税二策」と「自作農の不満爆発」と「地域の騒動」から来る「歴史的な事象」の「四つの原因」である事が良く判る。

後勘からすると、これらの直近の事を捉えても、「古式伝統」を維持しながらも、一方では「自由性の強い氏」であったと観える。

そもそも、明治期の「農地解放策の地権放棄」は、これは“「自由性の強い氏」”であったからこそ彼等農民に執っては「莫大な財産」が無償で獲得できたのである。
「地権放棄」にしても、「自由性の強い氏」にしても、必ずしも「無条件放棄」とするかは別問題である。
そもそも、上記した様に、「雇人や作人」が基本として「自作農の選択肢」を出した経緯を持っているとすると、「自作農」を無償とすると「雇人や作人」との間には不平等が生まれる。
本来であれば、それ相当の「条件を付けると云う事」が普通である。
しかし、「無償であった」とすると、「雇人や作人」との間の契約には「補正する手続き」以外には無く成る。
それは、「小作人契約(関係)」を一度破棄し、その上で「雇人や作人」の契約を交わすと云う事に成る。
この時の「契約破棄の退職金」か「再契約の契約金」かで補填する事で「不平等」は無くせる。
「自作農」の選択肢を選んだ者には、「無償財産権」を分与による譲渡契約した事に成る。

さて、そうすると「自作農」と成った者には、普通なら「不満」など起こる筈がないであろう。
何せ「青木氏の地権放棄」で無償獲得しているのである。
そもそも、「自作農の人」には、「氏上と氏人の関係」を完全破棄するので「断腸の決断」をしたのは、「氏人」の「自作農を選んだ農民」では無く「青木氏」の方であるだろう。
然し、ところが「青木氏の方」が、むしろ「向後の農民」の行く末に、上記の「四つの原因」が絡んでこないか心配を寄せていたのである。
(この「青木氏の心配」は的中した。)
それの根拠に成ったのが、「自作農」の人には、“無償での獲得なのだから、「税比率」程度は、我慢するであろう”と政府は踏んでいたのを「氏上の青木氏」は読み込めていたからである。
前段で論じた事と上記した「維新政府の矛盾策」が聞こえて来ていたからである。
ところが、“いざ納める”と成ると「自作農の農民」は我慢しなかった。

そこで「自作農」はどの様な「税負担」を追っていたかを知る必要がある。
その前に先ずは「過去の伊勢」での「地権者の青木氏」では、「地権の青木氏」は「7の内4、農民は3、政府は3」が基本で、「青木氏」が「地権者」として税納していた制度であった。
各地域の藩では、前段で論じた様に、「税制度」、取り分け「税率」は異なっていたし、又、「地権者」に依っても「藩の税率」での中で地主、或は「地権者」と「小作人」との分ける比率も異なっていた。

兎も角も、多くの農民は「小作農」(6割)が主体で、そもそも直接、農民に当たる制度の中では無かった。

そもそも前段でも論じた様に、「自作農」が増えたのには、不純な訳があった。
前段でも論じた様に、享保前からの「田畑の売買禁止令」や「質地流の売買禁止令」等に対する抜け道が横行、所謂、「質」に関する「抜け道」が元禄の頃から茶飯事の様に横行していたのである。

(注釈 「地権者」、又は、「自作農の者」は、不況から土地を担保に質融を受け、期限内に返納できない場合に「土地の質流れ」を起こした。
この「江戸社会の根幹」である「米作地」の「土地の売買」を禁止して混乱を避けようとした。
これに対して「売買」は可能にしても「返却期限」を過ぎても「地権者の移動」は禁止し、無期限に返納出来た時点で「地権」を戻すと云う応急策を敷いた。
ところが、これでは「質屋」と「買い取りの豪商等」にはメリットは無かった。
そこで、彼らは「裏策」を使って「禁令逃れ」が横行させたので、政治の根幹と成る土地の混乱を招き、経済はますます疲弊した。
そこで、享保の改革では、幕府は「発想の転換」を遣って退け「土地に関する三策」の「緩和策」を講じたのである。

つまり、経済活性化の為に「売買」そのものを許可した。
その為に「農地」は「商品」として売買され、その結果、売買によって「商品の土地」は細分化され金のある農民は金額に応じて「農地」を購入する傾向が起こった。
所謂、「不動産投資(不動産バブル策)」である。
そして、商品化の為に地権者が変わり、その結果、細分化に依って「自作農」が増え始めた。
これを「吉宗の享保期」に依って「土地に関する質流れ等の利権と保護」の「土地改革」から豪商等に依って買い取られた「放棄されていた農地」には、「転売」などが起こり豪農等が細分化して買い取りをした。

そもそも、「秀吉検地」からの「一地一作の原則の制」が緩和された事から、又、「長男の農地継承権」から、「自作農」としての次男三男が「商品と成った農地」を何らかの形で獲得して持てる様に成って行った。

(注釈 それまでは「一地一作の制」に従って、農家の次男三男は農業を継承出来ず「武家の奴役」や「農家の手伝い」などで生き延びていた現状であった。)

最初には、形体としては、この農地を耕作する「半自作農」が多く起こり、幕末の直近期から上記に論じた「青木氏の策」と同様に、大地権者の小作農[小作人]の待遇変換(随時受注契約方式)が起こった。
この頃から「商品の土地の細分化」と上記の「小作農の待遇変換」が進み徐々に「完全自作農」が増えて行ったのである。

それまでは、そもそも農業は人口的に「自作農」(2割)(小作農6割)は、庄屋や名主の村主などの「郷士身分の者」が多かった。
そして、「青木氏の様な大地主の地権者」は「1割強」であった。
この下に働く「小作農」は「6割強」の分と合わせると、「伊勢」では地権的には全体の「8割」を占めていた事に成る。
その「地権の8割分」の内で、「青木氏の分」は、「5万石の郷氏」と呼ばれた所以から、「全体の2割強」を占めていたされていた。
「伊勢青木氏の分」としては、これ以外に多くの「殖産」を興していた事の分と、それに伴う利用地の「殖産地や畑地」など作地等も含めると、南勢から北勢までの「4割程度の地権者」であったと云う事に成る。

故に、元より「伊勢郷氏」として南勢の旧領地から員弁桑名の北勢までの広範囲に地権を持っていた所以なのである。

つまり、「地権者の伊勢青木氏」は、これを「伊勢11万石(海産物なども含む・享保期の紀州藩領分)」の内の4割程度を占めていたとされていた。
この中の「伊勢の小作人」では、伊勢人口は当時約49万人(明治6年:58万)と成っている事から、「2割」は10万人と云う事に成る。
従って、この内の4割分の「4万人の氏人の小作人」が「青木氏の氏人」であったと云える。

(注釈 つまり、今風に云えば、「4万人の青木農業ホールディング」であった事に成る。
つまり、「雇人や作人」に変換した事は、明治期の初期では、江戸期の「青木の氏上と氏人」の侭で「青木氏部」以外には、「固有名詞」の呼称は特に記載はなく、後の「伊勢暴動」が解決した4年後に「雇人や作人の関係」の「青木農業法人」とした資料の記載が見つかっている。
注釈として、前段でも論じたが、この時、「水運部」「職能部」「警備部・シンジケート」等の多くが独立して会社を設立した。)

さて、記録が見付からない事から正確には判らないが、上記の「伊勢の小作人の変化」(伊勢一般)では、「5割の小作農」が「1割に成った」とする資料から推測すると次ぎの様に成る、

この内の「青木氏」の中で、この「自作農の選択肢」を選んだ「青木氏の氏人の数」は、「青木氏」では9割近い「氏人」が「小作農の雇人や作人」を選んだ。
この事も含めて、1割程度弱以下と考えられる。
これは「殖産地等の耕作地分」も含んでいるので、少なくとも「400人程度弱の半分以下」ではなかったと推測できる。

唯、この記録は、明治35年の出火で人別帳類消失しているが、この「自作農に成った氏人の多くは、「名張-松阪」より始まって「以北の地域」で主に起こっていた事が資料の行で判る。
これが「伊勢暴動の経緯」に一致している。

従って、この事から、何故、この「以北の地域」で「氏人」が強いて「自作農の選択肢」を選んだのかと云う事である。

これでは「青木氏側」から観る判断としては、次の様に成る。

先ずは、「福家領域」から離れた「四家領域」であった事であろう。
次には、「米作面積が大きい平野部域」であった事であろう。
更には、「南勢」の旧領地との強い関係性」より「北勢」は「自由性」が強かった事であろう。
最後には、「隣国性の影響」が働いて旧来より美濃や信濃からの「情報性」が強かった事であろう。

これ等、“四つの事が連動して総合的に働いた”と云うことであろう。

ところで、注釈として、「作付面積の収穫量」に応じての「地権下げ渡し」で、上記の事柄が働き、最低反を上記の「2反 600坪」として計算され行われた様であるが、何故、この様に実に「小さい小作農」が多かったのかと云う事である。
実は、この事に付いて「伊勢青木氏」には「大きな意味」があった。

恐らくは、「伊勢青木氏」は、「一地一作の令」に従わず、次男三男にも「小作農」をさせる策を確実に採っていた事が云える。
この事に付いてあらゆる資料には明確に記載は流石にないが、「伊勢」には、前段でも論じた様に、他国に比べて周囲には武家や郷士(1/10以下)が極めて少なかった事が、次男三男の就職先と成る「武家の奴役などの職」が全体を賄える程に無かった。

この事から、伊勢青木氏は「殖産」を手広く行っていた事から「殖産地の新規開墾」などの「便宜的な理由」を使って「土地」を細分化してでも「氏人」を救わなければならない。
そこで、これらの理由を使って「青木村の中の次男三男の小作届」を出していたと考えられる。
当然に、「殖産」に依って「彼等の生活」をある程度賄えるようにはしてはいたが、それだけでは充分ではなく、「小作農」が出来る様に、「殖産地などの土地開墾の必要性」に絡めていた。
この事から「米作も含んだ土地の新規開墾」もあって賄えるようにしていたのである。
「米作」としての「届出」であるかは別で、「一部の資料の行」には“「混作地」”の用語が出て来る。
「畑地」としても主に使うが収穫によっては「米作地」としても使う事があると云う「便宜的な方便」であった。
この“「畑地混作地」”として「小作農」を新規に作り出し「届出」すれば事は済む。
兎も角も、先ずは上記の「2反 600坪」の「次男三男の小作農地」を正式に確保できることである。
後は、生活を賄える為にはどうするかである。
それは、「殖産」であり、長男の「手伝い」、「商い」の手伝い等の間口は何とか賄える。
その為には享保期前まで引き継がれた「一地一作の令」が障害であった。
その意味で「伊勢青木氏」としては、容易に土地の事情などから「小さい小作人」を作る事が出来たのである。
むしろ、“「小さい小作人」が増えた“と云う事の方が正しいだろう。

これの証拠と成る「行」は、上記の「雇人と作人の選択肢」である。
「雇人」は兎も角も、「作人」が法人化の要素の一つに成っている事である。
つまり、「随時雇用契約」である。
他に仕事を持ちながらも、耕作地の管理維持や農繁期などの必要時に専属的に「青木氏の雇人」に成って農業に従事してもらう契約である。
米納や金納も各種あった様で、中には「仏施の質」の「代替労働」としても使われていた様である。
次男三男が、「青木氏の殖産の雇人」のみならず、「紙屋の雇人」に成る者や、「農業」を捨て「青木氏の商い」に見習いに入り、その後に「商い」を始めると云う「氏人」もいた様である。
この関係が相当量にあったと云う事は、上記の策の為に「小さい小作農」が起こっていたと云う事にも成る。

「青木氏」としては「氏上さま」と崇められる立場である以上は、“「二反農家の小作人」”でも「随時雇用契約」で生活が何とか賄える様な仕組みを「一地一作の令」に反してでも親として作り上げていたのである。
これらの「小さい小作農の人」の多くが、実は「200人程度弱」の「自作農の選択肢」を選んだのである。

(注釈 この「小さい小作農 2反 600坪」の正確な比率が「自作農の選択肢」の中で占めていたかは消失で判らないが、上記の「一地一作の令」を無視して迄の戦略上から考えて、氏人農家の次男三男の家族構成の数が青木村地域では、前段で論じた様に、地域の就職環境(郷士衆が少ない)が良く無かった事から無視できなかった事に成る。
従って、「郷氏」として「氏人」を護る必要があったので、比率としては「200人程度弱」の過半数は遥かに超えていたと考えられる。)

先ずは、小さくても“「自作農」に成れる”と云う人間の本来持っている「独立心」が芽を興したのである。
誰しも「独立心」を興しても生活が成り立たなければ、「行動」を起こさない。
それには、「自作農」に成ると確かに「大事な絆」が切れ、「氏人」とは無縁に成る事にはなるが、関係性が低下しても「青木氏」の中で生きていられれば、“「随時雇用契約」で生活が何とか賄える様な仕組み“があった事に依り「行動」に移したのである。
彼等の多くには、「小さい小作農」として、「税」など出来る限り自分の事は自分でやり、これ以上は「氏上さま」には迷惑はかけられないとする「独立心の発露」であった。
(累代の口伝の言分からによる。)
これは「青木氏への信頼と尊敬の概念」の所以であろう。

ここに「青木氏の所以」の大きな意味が観える。

(注釈 「太閤検地」と「江戸(正保・元禄・天保)三期の検地」との四度の検地が行われ、これにより「一地一作の令」を基本にされた。一つの土地に一人の作人が継承するとし、「土地の細分化」を避ける事を目的とし、且つ、「転売」を避ける事を目的として長男が継承権を持った制度である。

「一地一作の令」を廃止して「自作農」などの「土地に関する継承権」を自由に持たす必要からの「明治6年の検地」とで、5度にわたり全国的に正確に行われたが、「享保の改革」ではこの制度は緩和され後に一部廃止された。
この「享保改革の過程」が、伊勢では「長年の小作農対策の苦労」が反映して「大きな引き金」になっているのである。
どの様な事であったのかと云うと、次の様な経緯である。
「繰り返される災害」や「低廉な政治政策」によって極度に疲弊している「国内経済」を発展させなければならない「緊急の課題」が「吉宗等」に課せられていた。
(上記の底をついた「御蔵米」)

「緊急の課題」のこれには、「国体の米本位の基幹」による政治制度に矛盾が社会に露出していた。
これを解決するには、“「自由な経済構造」”が必要であって、それに執っては、最も解決しなければならない「一地一作の令」が、明らかに“「弊害」”であると認識していた事を意味する。
江戸幕府開幕以来、人口は増加し、その元としていた「米による基幹政治制度」の米の使用量も増大する。
当然に、この「米」に纏わる豪商が生まれ、これらが既得権力を握る。政治を握る幕府では無かった「矛盾の1」である。

ところが、社会は人口増加に伴い貨幣経済が起こり、社会は「米本位の体制」でありながら「貨幣本位」が主役を握ると云う「矛盾の2」が生まれる。

政治は「米本位」と経済は「金銀」による「貨幣本位」と云う事である。
尚、更に、この「矛盾の2」に輪を掛けたのは、「矛盾の3」の「税」は「米」であって貨幣では無かった。

更に、相乗の「矛盾の4」は、「貨幣本位」にしている「大口」は、「藩の米の貨幣への換算」であった。


これだけの矛盾を孕んでしまった政治は成り立たない。益々、傷を大きくする。
幕府は戦わずして倒幕と成る。(御蔵米は113両で既に享保前は破綻)

この「四つの矛盾の認識」を持っていた「伊勢青木氏」からすれば、「享保の改革」で先ず最初に手を付けた“「米相場制」”に対して「経済論」から攻めた上で、並行してやらなくてはならない「社会の変革の策」があった。

とすれば、それは上記した「三つの質策の金融緩和令」であった。
伊勢での経験とその認識を通して、その結果として、先ず出て来るのが“「小作農対策」”であると認識していた。
「享保の改革」としてそれを押し進めるには、前段でも論じた様に、「三つの質策の金融緩和令(1722年-1730年)」であってそれを採用して実行したのである。

(注釈 「三つの質策の金融緩和令(1722年-1730年)」は、「伝統シリーズ-21,22を参照」の事。
「質取扱い覚の令」や「質流れの禁止令」や「質流地の売買禁止令」である。)

それは、前段で論じた様に、「享保の改革」で「吉宗―青木氏」が始めた「米相場制(1696年淀屋開設-1730年堂島公認 )」に持ち込み、安定させたその上で「米価制による税」であった。
それまでは収穫が低い場合の高騰、豊作で米価が低い場合の低価では、その“「差額」”は、「伊勢の伊勢地権者であった青木氏」がその時の決められた「米価」に換算して「金納」で補填していた。

「地権者」としても「伊勢青木氏」としては、兼ねがね、この何れにしても起こる“「差額分」”の「金納に対する経済システム」に疑問を持っていたのではないかと考えられる。
ところが、当然に享保前の幕府としても、この「矛盾」を抱え先ず解決する必要に迫られていたにも関わらず放置し、更には上記の「四つの矛盾」の認識にも欠けていた。

「米価」を基幹(米本位)としての政治体制である以上、幕府の収納米(金)は、収穫の高い時は高く、低い時は最低額は確保する体制で無ければ、「基幹」は、「じり貧」と成るは必定である。

実際には、この不足分を補う為の「幕府御蔵米の金額」は、記録によると、“113両まで落ち込んだ”と云われている。
つまり、「幕府御蔵米」で考えれば、経済的には「江戸幕府」は破綻したと云う事に成る。
記録では、“引き継いだ「吉宗」はこの事に焦った”と記録にあり、周囲の全ての高級官僚と激論に成ったとされる。
この「反対派の老中職」の官僚を全て排除して、自らブレーン(青木六兵衛とその息子)と共にこの「政治体制の四つの矛盾」に取り組み始めたのである。
そして、老中職には身内(水野忠之)を置きながらも、後は実務は殆ど自らが「激務の執務」を採ったと記録されている。
そりが故に、彼の周りには書類や資料の山であったと記されている。

つまり、前段でも論じている様に、この時の「経済ブレーン」が「布衣着用の伊勢と信濃の青木氏」等であったと云う事である。
「伊勢・信濃」から呼び寄せた経済知識のある者等と、伊勢で共に育った「青木六兵衛」等を呼び寄せて密かに会議を開いていたと記録されている。

さて、その時に執った策(「米価八策」)は次ぎの通りである。

「米を使う酒造業」
「空米取引(先物信用取引)の容認」
「米価高値引き上げ」
「一定価格の米相場の買米令」
「飢饉に備えた囲米」
「特定地域に集中を防止する廻米制限令」
「米引上令」
「定免法」

以上の「米価八策」等を行った。

これを伊勢の資料では“「米価八策」”と呼んだと記録されている。

この“「米価八策」”を実行するに当たり“「ある事情」”があって、その事を「伊勢青木氏」は、「紙問屋長兵衛の商人」としての顔で、この淀屋や堂島の「米操作の裏事情(ある事情)」を充分に把握していた。

(注釈 この「淀屋と堂島の裏事情」は「伊勢の紙問屋」で育った関係上で充分に吉宗も承知していた。自分で“「米価八策」”の直接の実行の指揮を執った。)

その当時まで「米」は、先ず「大阪の淀屋市場」(f藩が発行する米札)に集まり、「十数人の仲買人」に依って差配されていて、幕府は口出しが出来なかった。

(注釈 淀屋は米相場の初期 堂島は幕府公認後の後期)

そこで、堂島に開設所を開き、そこに「相場令」を出して「口出し」をする事にし、江戸からも「八人の仲買人(札差)」を入れて「米相場」を開くようにした。
ここで、予想通りに大阪と江戸の仲買人の権力争いが起こった。
そこで、「大阪の堂島の仲買人」が、「大きな権力」を握っていた事を知っていた「吉宗等」は、知っている「彼らの弱点」を突いて黙らせた。

注釈 「堂島の開設所の米取引の仕組み」
当時、大坂の淀屋には全国の年貢米が集まっていた。
この米の取引の会所では、「土地の地権」と同じく「米の所有権」を表す「藩札」が発行されていた。
この取引には、「正米取引」(現物取引 本年分)という取引があった。
それが進み、「帳合米取引」があって「帳簿上の米の取引」(先物取引 来年分)も行えるようにした。
これには、「藩札」を「金貨」で決済する様にし,「銀」も使われる様にして「敷銀」と呼称される「銀貨」を使えるようにして「先物」を取引させ「米取引」を活発化させた。

この「敷銀」とは、一定の予測銀貨を預ける。
そこで、その「先物の米」が出来た時の「現物の米」との「差額分」を決済する様にした。
「藩」は、この「米取引」を中心に一挙に「貨幣経済」が進んだために、「現物支給」から「貨幣に換える必要」が起こった。
これを「幕府の令」で徹底させる事に出た。

そこで、「藩米倉」に収める米を、この「堂島の取引所」に「上記の注釈の方法」で出して「税」として扱われた「米」を「金銀に兌換させる仕組み」を1730年に堂島に開設したのである。
それまでは、「藩の米倉」から出して金貨の必要に応じて淀屋で「競り」にかけて直接販売していた。

その意味で堂島は、現在の取引経済と類似する取引所ではあったが、何処にでも利の生まれる処には利権の組織が生まれる。
此処に発生する「裏事情」、つまり、「仲買」と「米価の決定」の「仲買の裏」があった。
これを「二足の草鞋策」で「紙等の問屋」と「総合貿易商」と「殖産組織の経営者」で、且つ、「5万石の地権者」でもあった事からも充分に裏事情は掌握していたのである。
むしろ、「摂津堺と伊勢松阪」では「米仲買人に対する発言力」も持っていた。

(注釈 この事は、堂島での大船廻送についての遺手紙の文章の行から読み取れるし、淀屋での金銀の不足から仲買人に対する金融のやり取りの行の記録もある。)

そこで、「開設した堂島」に対してのその一策は、具体的には次ぎの通りである。

先ずは、「江戸米札差八人衆」に「米回収の権限」(買米権・買占権)を与えた。(裏作-1)
幕府のある江戸に「大量の米」が集まり「米の取引」を堂島とは別に起こさせた。(裏作-2)
次に、各藩に米の取引を金銀の兌換に換えさせる「通用令」を出した(裏作-3)
更に、各藩にこの「江戸八人衆」に依頼する様に「買米令」を出した。(裏作-4)

(注釈 江戸の「札差八人衆」とは、各藩の税米を金銀に換える為に販売や運搬などの作業を藩に代わって細部の作業を一手に引き受ける事をし、「仲買権」も持つ公認の米の総合代理業者である。)

大阪に対して打った「四つの打開策の裏作」に依って、これで幕府のある「江戸」に米に依る金銀の金銭が集まり始め、「大阪」には金銀が無く成って仕舞う経緯が此れで起こった。

この「四つの打開策」(裏作-1)(裏作-2)(裏作-3)(裏作-4)を打ち出した結果、「大阪の仲買人」は力を削がれ勢いを無くし、結局は妥協して江戸と幕府の云う事を聞くように成った。
取り敢えず、「米相場」は「二極体制」を吉宗等は敷いたが、結局は、大阪には金銀の貨幣が無く成り、取引は縮小し、江戸は逆に江戸に金銀が集まり拡大した。

恐らくは、“金銀の貨幣の扱い量を大阪から江戸に移す大戦略“の事が、「吉宗と青木氏」の「裏策の目的」(幕府の本来の姿)であったと云う事が資料から読み取れる。

そこで、この「吉宗等」は、次ぎの策として「米相場制」を上記の如く敷いた事に依って進んだ「貨幣経済」に対して、引き続いて「享保の貨幣改鋳」(1718年)に取り掛かった。
当初、この改鋳は不評で、「正徳の改鋳」(1711年-1715年)との差があって効果は上がらなかった。
然し、市場は吉宗の幕府を信頼して次第に流通し始め次ぎの様に変化していった。

中頃には米価 1石=銀35匁が、米価 1石=銀45匁に、更には、1796年の頃には、 米価 1石=銀60匁まで上昇した。

これで「米価の高め誘導」が常態化し、「物価の安定化」を起こし、この良好な期間が何と経済的に観ると、稀に見る「約80年間以上」も果たし「裏策の目的」は大成功した。
世界的に観ても、「物価安定」が80年以上続いた記録は少ない。

これで、基幹は「米本位」ではあるが、この上記の「四つの矛盾」を和らげるためにも、兎に角も「米相場制」を利用して「半本貨制」を敷いた。
そして、それを「幕府」が存在する江戸に引き寄せたのである。

決して「米相場の創設」そのものが目的では無かったのであって、この事に依って「米本位の年貢」の「米」は「高値安定」と成り、幕府の財政は1735年頃には立ち直った。
何と、「御蔵米」にして「113両」から「100万両」に成ったのである。

そこで、この「裏策の目的」の実行の為のタイミングを見計らって、「上記の米価八策の政策」を矢継ぎ早に何とか打ち出して敷いたのである。

つまりは、各藩は「米」で年貢を取り、それを大阪(淀屋-堂島)で金銭(金銀)に換えると云う「体制矛盾」が生まれ始めていた事を、この“「米価八策」と「四つの打開策」”に依って「吉宗と青木氏」は何とか進む「体制矛盾」を平準化させたのである。

それならば、「取引所」が出来て「貨幣経済」に成ったとすれば、「米」を「年貢」として「標準米価」で先ず査定して、その分を先ず年貢として受け取り、それを堂島でタイミングを見て売り捌き、その「米相場>標準価格」の差額で利益を獲得する様にすれば、更に「利益」が上がる。
そうすれば、少なくとも「貨幣経済」に合致している事に成り、「藩の矛盾」は最低限に軽減される筈である。
「変動相場」にせずに「固定年貢」にした侭で、それさえもしなかった為に「体制矛盾」は大きく成る。
然し、「標準米価」にすれば双方に利益が起こるがそれをもしなかった。
「豊作の時」も「不作の時」も「固定年貢」に拘ったのである。
「豊作の時」は「豊作分}を取り込み、「不作の時」は「不足分」を「年貢」を上げて賄うでは、「堂島の相場取引」=「貨幣経済」の「時代の流れ」に対応できていなく無策であった。
「不作時」や「災害時」に「標準差額分の取り崩し」と「相場から得た差額分」の「二つ利益分」で補填せずに「年貢」を上げたのでは不満が募るは必定である。


そこで、この事に付いて、これを認識していた「吉宗」等が如何に苦労していたかの様子が判るが、これを物語る「青木氏等」には興味ある資料が江戸で見つかった。
吉宗死後の遺品の中には、夜も眠らずに「資料まとめ」をしていて、「米価八策の資料・まとめの原案」等が「本人の自筆」で大量に遺されていたのである。
「青木氏等のブレーン」と共に、激務の中で一切の側近を交えずに、このデータを下に夜中でも密談していた事がこの発見された資料からも判っている。
「青木氏側」にも「六兵衛とその息子等」が住んでいた当時の「江戸屋敷の資料」からもこの傾向は読み取れる事が出来る。
又、前段でも何度も論じたが、この事が「近江佐々木氏」の「宗家の研究資料」の「青木氏族の段」の中からも見つかっている。

この事が重要で、「近江佐々木氏の資料」の中にあると云うこの事は、果たして何を意味するかと云う事である。

“「近江佐々木氏」も、なかなか外に洩れないこの「秘密情報の事」を知っていた“と云う事である。
と云う事は、「近江佐々木氏」(始祖は川島皇子)は、親族の「近江佐々木氏系青木氏」が「二足の草鞋策」を敷いていた事から知っていたと云うことである。
前段でも「商業組合」で論じた様に、「伊勢や信濃や越前や越後」の「二足の草鞋策」を敷いていた「六地域の青木氏」と共に、「吉宗の経済ブレーン」に参加していた事を示す事に成る。
大阪の「淀屋-堂島」の「裏事情」に熟知していた「佐々木氏系青木氏」等も、「吉宗等」と共にこの「牙城」を崩すのに「あらゆる人脈」を使って動員して何とか崩そうとしていた事が判る。
これは当に「奈良期ー平安期初期」の「青木氏の皇親政治」に似ている。

基幹の「米本位の政治体制」の進む「矛盾」を少しでも「修正」して「経済活動を活発(商い)」にする必要があると認識していた事に成る。
其れには、何としても先ずは、“「淀屋-堂島」を変える“と云う事に「佐々木氏共々一族」は突き進んだと云う事に成る。

(注釈 「近江佐々木氏系青木氏」は、“「江戸出店」”をしていた事から、「布衣着用の伊勢青木氏」が「調整役」と成り、「江戸相談」は可能だった。
唯、「近江佐々木氏系青木氏」の“「江戸出店」”は、「伊勢青木氏の資料」では「享保の後期」と成っているが、この「佐々木氏の資料」では「享保初期」と成っている。
果たして、“「江戸出店」”であったのかは疑問の残る処である。
これは「佐々木氏の資料」と「青木氏の資料」の「記録目的」が異なっている事から、差が出ていると観られる。
「近江佐々木氏系青木氏」は、この「吉宗経済顧問の依頼[ブレーン]の為に「近江佐々木氏宗家」の「江戸屋敷出仕」であった可能性がある。)

(注釈 ここで、「青木氏の歴史観」として前段でも何度も論じたが注意して置くことがある。
「佐々木氏」は、そもそも「近江蒲生の土豪の出自」で「宇多源氏説」を唱える説が多い。
先ず一つは、この「宇多天皇」の皇子数は確かに嗣子や妾子を含めて多いとされ、現実に近江に一人の皇子が流れた事は史実である。
然し、数えると近江源氏を唱える者が「383氏」にまで成る事は100%ない。
これだけもあればそもそも「天皇家の財政」が持たないし、況してや、「嵯峨期の詔勅」で”皇子数を減らせ”と云う「詔勅」が下っている中で、そんな事をすれば「天皇の立場」が無く成る。
前段でも論じたが、「天皇家や皇族の妻」は、格式とで身分で「四階級」に分かれていて、これに格式身分に合わない者の子は「妾子」となり、厳格に護られて朝廷に入れないしきたりであった。
又、ある程度の身分の「妾」でも簡単には天皇家の中に入れない仕組みであった。
依って、現実には、認められている「四階級の四妻」に最大でも子供が5人程度いる範囲で留まる。)

(注釈 そうなると、その否認定の王等も含めて「皇位継承の真人族」か「賜姓臣下族に成れない者」等は、「嵯峨期の詔勅令」を使って「賜姓臣下族」に成るか「門跡者」に成るか「比叡山僧侶」に成るしかない。
前段でも論じたが、「第二世第七位皇子族」や「四世族か五世族以上}は坂東に各地に散る事に成っていた。
その為にその裔数は増えるが、又、その末端の支流傍系族が出来るが、「朝廷の認証」が無ければ名乗れないし「源氏」は名乗れない。
「源氏」は「青木氏」と同様に「姓」を持たない掟であるので「姓名」を名乗る源氏は偽称である。
従って、「川島皇子の佐々木氏」の末裔を除き、「宇多源氏」は矛盾のある偽偏纂の他説も極めて多い氏族で殆ど「偽呼称」である。
依って、正式な天皇に依る「賜姓族」では無く、勝手に皇子であると名乗って本来の「近江佐々木氏」を搾取した者が殆どである。
本来は、そもそも、「賜姓族の朝臣族」は、つまり、「皇子の臣下族」は、その格式を汚す事から「分家や支流」を作らないし、「氏名」を名乗って「姓名」を名乗らないのが掟であり、当然に「家紋」や「副紋」なども無く、「変紋」もしないのが掟である。
あくまでも、「賜姓族朝臣の臣下族」の「高貴な格式」を示す天皇より賜った「象徴紋」だけを一族は保つ掟と成っているのである。)

(注釈 次ぎに、「宇多源氏説」も疑問で、「近江佐々木氏」は、そもそも天智天皇の「第二世ぞ第七位の皇子の川島皇子」が「始祖」であって、「天智天皇の賜姓」と「天武天皇の追認」より特例を以って「近江佐々木」の地名の「佐々木」の「賜姓」を受けた正式な「皇族賜姓臣下族」であり、「日本書紀」にもこの事が書かれている。
「宇多天皇」が始祖ではない。
「宇多源氏説」は、「嵯峨期の詔勅」に依って、直接に「賜姓」を受けずに「朝臣の臣下族」を名乗った氏族」で、「宇多源氏」の「皇子」は確かにいたが、「賜姓源氏」と成るには通説程にそんなに簡単に成れる訳でもなく、一人の天皇に一人皇子の賜姓が原則である。
従って、その天皇の源氏を名乗るとすると、「賜姓」では嵯峨期詔勅を使った賜姓の無い源氏が殆どで、依って、正しくは源氏では無い。
従って、又、源氏は源平合戦などで殆ど滅亡したし、そもそも近江説も別ルーツであり、通説の殆どはこの事を混同している。
この様に「源氏」を名乗る中でも「賜姓を受けた源氏」と「賜姓の無い源氏」もある。
殆どはこの賜姓の無い勝手に名乗った「妾子の皇子の源氏」か、室町期と江戸期に起こった土豪等が名乗った「格式詐称の偽源氏」である。
その殆どは、妾子の皇子が流れ着いたとか、旅の途中で現地孫を遺したとかの記録的保証のない事を理由にした詐称である。
「皇子」でも賜姓を受けるには相当な者でなくては受けられなかった。
因みに、「清和源氏の経基」は、「清和天皇」の子供でなく「清和天皇」は祖父に当たる嗣子で、父より賜姓が受けられないので、祖父に賜姓を受けられるように何度も懇願して無理やり賜姓を受けられた経緯を以っている。
この「賜姓源氏」に成れない「源氏になりたい皇子」は、「嵯峨期の詔勅」を使って勝手に名乗る以外には無く、この場合は経済的保証は詔勅の言に依って何も無い。
従って、殆どは比叡山の門跡院の僧侶や善光寺の僧侶に成った。
「賜姓ではない源氏」を名乗った皇子も末路は殆どは僧侶であった。
通説はこの辺の判別は殆ど出来ていない。)

(注釈 この様に「源氏」を名乗れるほどに皇子には自力で生きて行く「生活・経済力」は全く無く、殆どは「偽者」で周囲の土豪等の「土豪」がこれを上手く使って家柄をよく見せる為に搾取したものである。
この様に偽称や偽偏纂は、主に江戸初期の権威政策の「黒印状」を獲得するための策偽称であったのである。
その系譜を作る裏の専門家も横行したのである。
だから、「正式な賜姓族」が持つ「慣習仕来り掟格式」とに矛盾が生まれるのである。
取り分け、訳と事情があって、宇多と清和の源氏説はこの偽者が多い。
「賜姓源氏」として認められたものには「11流11家」があるが、この賜姓源氏は「賜姓臣下族青木氏」との血縁で「青木氏族」が形成されていて「5流5家」があって合わせて、「16流16家」と成る。
この11家の内の生き延びた「正規の賜姓源氏」は、室町末期までには絶滅している。
多くは門跡院の僧侶に成って子孫を遺さず絶滅した。)

(注釈 この「正式な近江佐々木氏」の「室町期末期の家康との繋がり」から「江戸期の旗本説」も中にはあるが、この正式な本流の「近江の宗家」は、「始祖川島皇子」の「近江佐々木氏系青木氏」の「二足の草鞋策」で助けられた。
この頃には、やっと江戸に屋敷を構えられ程までに再興を果たして、「極度の弱体」を抜け出していた事が判っている。
前段でも論じたが、この「近江佐々木氏一族一門」は、源平合戦で近江と美濃で二度の痛手を受けていて、室町期中期には「始祖川島皇子の近江佐々木氏」の「近江宗家」は研究論文より相当に衰退していた事が判っている。)

前段でも論じたが、近江には二流の「秀郷流近江藤原氏」がある事から、その後に何らかの「血縁の繋がり」から「家康との接点」を持ったと観られる。

(注釈 伊勢の「二つの青木氏」(四日市殿)が持った様に。恐らくは徳川氏は「権威確立策」から、この格式が「最高の近江佐々木氏宗家(浄広一位)」を江戸に呼び寄せて、家康か吉宗が「縁続き策」か何かで「権威創設策」に利用した可能性がある。)

(注釈 権威としては、前段でも論じたが、「日本書紀」も然ることながら、「嵯峨朝」が作成した「新撰姓氏緑」には「49 川島皇子の氏」と「38 青木氏の春日王[施基皇子の子]の氏」が記載されている。 
注意として、「敏達天皇の春日皇子」のルーツの記載もあり、これは「光仁天皇」の父の「施基皇子」が後刻に「春日宮天皇」として追尊され祀られた事から、作者の「嵯峨天皇」が曾祖父を権威付ける為に別ルートで「敏達皇子の春日皇子系」を作り上げ、これを「施基皇子の子の春日王」のルーツと“「同祖」”として態々追記した上で掲載したものである。
「敏達天皇の直系の第四世族」が「天智天皇」である。この「天智天皇の皇子」が「志貴皇子」である。)

その為に、この「近江佐々木氏」の「江戸の住い」が、この「家康の接点」からの「武家屋敷」なのか「近江佐々木氏系青木氏」の「商家屋敷」であったかは詳細は判らないが、あった事ははっきりしている。
故に、「近江佐々木氏宗家」は、この「吉宗密談の裏事情」を把握していたのであろう。

この事は、前段でも論じた「六地域の商業組合の青木氏」は、「商業組合」だけではなく、密かに「吉宗の経済顧問(ブレーン)」にも積極的に参加して「意見」を述べ「行動」を起こしていた事を示すものである。
「近江の佐々木氏系青木氏」から「近江の佐々木氏宗家」にもこの「裏の情報」が密かに入っていた事に成る。
「近江の佐々木氏宗家」が、「吉宗」等が行うこの「裏事情」を研究資料に載せる程に把握していたとすると、「商家の屋敷」では無かった事に成る。

「商家の屋敷」であれば知る事は出来ても研究資料としての記録に載せる事が出来るかと云う疑問が残る。

恐らくは、「近江佐々木氏」が「青木氏族の事」をここまで研究して詳しく書き込む事は無いだろうから、「江戸期にまで生き遺る珍しい氏族」である。
その「皇族系朝臣の賜姓臣下族」として「新撰姓氏緑」にも記載されている“格式高い「武家の屋敷」”であった事が頷ける。
「家康か吉宗」かの選択であるが、急激に江戸屋敷が設けられる程には急激すぎる事から考えて、「吉宗」であったと考えていて、「青木氏との関係性」を考えても「江戸」に「宗家」も招いたと考えている。
恐らくは、「吉宗の行う改革の権威付け」に「青木氏」と共に、周囲の権力をひけらかせて「吉宗」を否定する「煩い高級官僚」を黙らせる為にも利用したと観られる。

現実に、江戸では老中等は「巨勢の湯殿女の子」と「蔑みの発言」をした記録が乗っていて、この「蔑み」と云うレッテルを張られていた「吉宗」は、意識していて「煩い高級官僚」を黙らせたと考えられる。
格式の無い者を周囲に集めれば、それこそ蜂の巣を突いた様に成るだろうが、これ以上の格式が無い程の「古い生き遺りの二つの氏族」の「佐々木氏と青木氏」が、“将軍の俺にはブレーンと成る程に繋がっているのだ”と宣言して「改革の邪魔」を排除したのである。

通説は、「経済的な高い知識の持った顧問の存在」を明確に認めているが、明確に認めている事はその顧問名も知っている筈で、それを態々明示しないのも「通説の吉宗批判説」から来ている。
ところが中の一説には、「江戸の伊勢屋と伊勢の紙屋の二つの明示」がある。
これには「本拠の伊勢」から指示に従って遠隔に動いたと記されている。確実である。
この説の論者は知らないが、「近江佐々木氏の資料」を何らかの関係で持ち得ていたと考えられる。
実は、「近江佐々木氏」の宗家の方は東京大学(1877年)の教授に成ってこの研究を進めた方がいる。

(注釈 但し、「武士屋敷」ではない。そもそも「武家」は「公家」に対する「氏族」を形成する「格式用語」で、江戸期には、最早、この呼称の垣根が崩れ、この「姓族の武士」までを「武家」と呼称している。)

“「武家の屋敷」”であったとする事は、「近江佐々木氏」が苦しい状況の中で何とかより大きく再興して生き残ろうとして、「時の動き」を読み込み「吉宗等が行う裏事情」をより深く獲得していた事に成る。
「商家の屋敷」であれば、主体は「近江佐々木氏系の青木氏」である以上は、「二足の草鞋策」から「経済的な発展」を期待しての「享保の改革」に臨んでいた事に成る。

「吉宗」は、「伊勢の紙問屋」で育った関係から知る範囲の経済知識を経験豊かに持ち、且つ、その「裏の事情」と「裏の発言力」を最大に利用していた事を示すものである。
故に、老中などの側近の世間に疎い者の経済論を聞くに値しない発言に苦々しく思っていた為に、一切(11人)の老中等の者を排除しているが、「吉宗との論戦」で勝つ者はいなかったと伝わっている位である。
故に、自分より優れた「経済知識」と「世間知識」をもった者(青木氏等の顧問 ブレーン)を周囲に置いて、自らが「激務の実務」を執ったのである。
それだけに「御蔵米の113両」は、経済的に既に破綻していたのである。
悠著な事をいっていられない状況であった事は否めないし、豊富な知識を以っているが故に「疎い者の経済論」を聞くに堪えられなかったであろう。

(注釈 実務を執っていた事は記録からはっきりしている。夜にも密談した事が「伊勢青木氏」の「江戸伊勢屋の記録」の行でも判る。)

「近江佐々木氏系青木氏」を含めて「六地域の商業組合の青木氏」を直かに随時呼び出して談合し、「淀屋と堂島」を裏から操っていたと考えられる。
「淀屋と堂島」の「仲買人に依る影の権力」は、「全ゆる弱点」を隅々から突かれれば従う以外には無く成る。(可成り抵抗した事が書かれている。)
この「攻撃役の顧問(ブレーン)」との「調整連絡役」を「吉宗」と直接面談できる立場の「布衣着用の伊勢青木氏」が背負っていたと云う事に成る。
「攻撃役の顧問(ブレーン)」には意見だけを述べる事のみならず、「経済界の米の牙城」を崩す事が「四つの矛盾」を解く事に成り、それが「経済界を活性化する事」にも成り、「商人」の彼等は“相当に熱を入れていた事”が「伊勢青木氏の江戸伊勢屋の残記録」からも読み取れる。
唯単に、「吉宗や伊勢青木氏」の「調整役」に呼ばれて意見だけを述べると云う事では無かったのである。

「青木氏側」から観ると、上記の事は、世間の通説は確かにこの「顧問・ブレーン説(不詳にしている)」を容認しているが、「享保の改革の全体の通説」と成っている説は単純でそんなに簡単な事では無かった筈で、その意味で大きく異なる。

だから、「四つの矛盾」に無頓着な周囲の固定観念に拘った「疎い官僚」を排除してまで直接に無理しても実務を執ったのであろう。
そして、その他の「一般の執務」は、家康の縁続きの「老中水野忠之」に任したのである。
この結果、「幕府の御蔵米」は、113両から再び100万両(1730年頃)にたった14年間で成ったのである。

(注釈 開幕400万両 宝永期37万両 享保初期113両 享保期中期100万両)

これでは、最早、「吉宗の経済論」に直接に論戦で食い付ける者はいなかった事に成る。
ところがその反面、吉宗没後に世の常とは言え、次第に「吉宗の経済論」に反論する者が出て来た。
英雄が功績を上げれば上げる程に、没後には否定論が出るのは仕方の無い事ではあるが、世間の「吉宗の通説」も“馬鹿呼ばわりしている通説”は幾つもある。
その論説を聞き取ると、共通する点は、その通説には「リフレーション経済論」に対する「知識と理解」が無かった事に依る。
唯、その中でも「二つの通説」は、この「吉宗のリフレーション経済論」を認めている。
全て「インフレ論」と「デフレ論」に類する策で、これが前段で論じた様に、結局は、その論調からすれば「商業組合」は当然に否定される。
これが「江戸伊勢屋」の「引き上げの原因」と成った。

これは「米相場」だけのものではなく、「青木氏の資料」から読み取れる「裏の目的」とされる“金銀の貨幣の扱い量を大阪から江戸に移す大戦略“の事で無ければ、「破綻」に勢いづいた財政を、逆に上向けて、且つ、「100万両御蔵」(14年間)までにはそもそもならない。

(注釈 殆どの通説はこの辺の論調は無い。「ちまちま経済論」では誰が考えても到底無理である。)

しかし、そこで、上記の事も踏まえてもう一つ「青木氏の歴史観」としてとしては論じておかねばならない事がある。
この「享保の時」には、「体制矛盾」の一つでもある“「自作農」”にも未だ「自作農」を進める“「農地解放策」”には手が届いていなかった。
幕府の記録には、“「自作農」を進める開墾を進める土地が無かった”とか記されている。
そもそも“無かった”は、後勘からしても、何を根拠に云っているのか不思議でおかしい。
“無かった“のではなく、”財政的に開墾を進めなかった“が正しい。
もっと云えば、“進められなかった”のである。
当然に“財政破綻であった”からである。

又、合わせて「殖産」も進まなかったと記されているが、これも何を根拠に云っているのか不思議でおかしい。
然し、享保期には御蔵米が回復した時点(1730年)で、現実には「新田開発令」は出している。
吉宗は「見立新田十分一の法」と云う令を出して進めた。

新田開発には「巨額投資」が伴い、且つ、「自然災害の影響に左右」され、「測量の進歩」が無ければ「水の確保」も出来ない。
却って、逆に経済を悪化させる要因とも成って「大きなリスク」(水害などの自然災害)を伴うものであった。
殆どの主体は、「民間投資の開発」であって、幕府や藩の主導の開発は、指導者が変わる度に金がかかる為に途中で開発を中止したりして悉く失敗している。
何とか進めようとして「幕府主導の新田開発(豪農・村)」の代官と成った者には、成功率を上げさせる目的から「利益の1割」を保証すると云うものであったが、却って農民に負担をかけ無計画なものや汚職が生まれ、公的な開発は中止した。
止む無く「豪商等の財力」に委ねたが興す開発には「小作人」を雇い開発をさせた。
ところが、江戸期の大阪や江戸の殆どの豪商は、この開発に手を出し失敗しているが倒産する者も多く居た。
結局は、“「新田開発」をして農民をこれに従事させることで農業を豊かに出来る“と見込んだ策であった。
これで進む矛盾の一角は解けると観たのである。
然し、結局は民間の「豪商の小作農」が増えてしまった。

注釈として、江戸初期から150年間で観れば、50%増しである。
唯、8万石/年であるが、「農民の過重労働」が増え、「水利の灌漑事業」が遅れ「自然災害」が増え「一地一作の令」の体制を変えない侭にした為に「開発放棄」が殆どであった。
だとすれば、“「自作農」”を増やし、“きめ細かな管理体制”を敷けば解決する筈なのに、「享保の改革」でも敢えてこの策を取らなかった。
そこに問題があった。
享保の改革は、この事で「顧問と吉宗」の間で「大激論」に成った事が他の青木氏や佐々木氏の「民間の資料」からも伺える。
「体制維持」か「矛盾解決」かの選択であったが、「享保の改革」は大激論の末に次ぎの様な「次善策」を執った。

上記した「米価八策」にでもその「自作農」を進めるべき「手立て策」は直接に採られていない。

これは何故なのかである。
そもそも、当然に「顧問(ブレーン)等」はこの事に充分に承知していた筈である。
(むしろ、紀州の有能な家臣も含めて、この事を主眼として改革に協力している可能性は否定できない。)
勿論、“「体制矛盾」”である事のみならず、この“「自作農」”が進む事に依って「農民の裁量性」が増え、それだけに「経済」は根本から活性化する筈である。
「消費活動」が高まり、「米価の安定」が起こり、「地権の細分化」が起こり、例外の「土地の商品化」が起こり、経済は活性化する。
当然に、この事で「農業作物の増産」と「作物の多様化」が進む事が考えられる。

筆者は、顧問等は、この事の“「先取り」”目論んだと観ている。
それは、「自作農の推進」は、幕府体制としては上記の様に危険を孕む大きな問題を持っている。
だとすると、それとほぼ同じ程度の経済効果を示す事を考えて、取り敢えず、やれば「体制矛盾」の「緩衝策」には成り得るものを選択した。
そこで、金のかかる「新田開発」は、結局は多少の収穫が増える事で、社会は先行投資の兆しで人口を逆に増やしてしまい、「小作農」を増やし、且つ、米価は上がり「インフレ」を逆に助長してしまう事に成った。
遂には諦めて、上記した様に「大激論の次善策」に出た。

(注釈 結果的には「新田開発」は昭和20年頃まで大きく進まなかった。
明治期に成っても試みたが、結局は、財源とリスクの狭間で成功しなかった。
その最大の原因は、「水利に関する灌漑施設の稚拙」により進まなかった。
何故かと云うと、日本の地形は、そもそも「山間部と平地」と「河川敷と干拓地」で出来ている。
この為に「山間部と平地」は“「棚田」”と成り、「河川敷と干拓地」は「水害と塩害」の障害を持っていた。
従って、この「地形の欠点」に打ち勝つための「水利に関する灌漑」が非常に難しかった。
これは現在でも同じであるが、この問題を昭和20年頃以降に解決したのは“「科学技術の進歩」”により「灌漑技術」が飛躍的に進んだ事に依るものであった。)

そこで「吉宗等」は、寛永20年に出された「田畑勝手作禁止令」を緩めて、そこで、次善策が講じられた。
それが享保20年に出した“「田畑勝手作仕法」”である。
議論の末の「次善策」として、つまり、「米作地」に「外の農産物」を植え付ける事を許したのである。
これもやって見なければ判らない「大きな賭け」であった。
これは、「米の収穫量」が低下する事への懸念であり、一種大きな危険であった。
然し、ところが、既に、「民間の地権者」の間では「米作」では生きて行けないので、既成事実化していた。
現実に、人口が増えるのに逆に主食の「米の収穫量」は低下し始め、餓死者も出る程であって農民や庶民には幕府と藩に対して不満が溜まっていた。

それは、農産物によっては、「他の農産物の価格」が人口増加に依って「米」より上回った事に依り、その分を「儲け分」から支払う事が起こっていた。
各藩も危険を承知で黙認した。
最早、「米本位の体制」は、他の農産物の販売による金銭化で「金納システム」が大きく汎用化して黙認されていたのである。
(矛盾の進行から体制崩壊は近づいていた。)
そこで、激論と成った「自作農」には、この状況では危険が大きい事、否、むしろ、この状況だからこそ「自作農」を進めるべきだとする意見の衝突が起こった。
この事から、当面、「体制の崩壊」だけは避ける事で一致し、兎も角も、慌てた「吉宗等」は、上記した「田畑勝手作仕法」で「金納システム」の“「先取り」”したのである。
こうする事で、「次善策」として「自作農とよく似た体制」を考え出した。

つまり、これが「米の耕作地」に「他の農産物」を作ると云う事は、「地権」は除き「農民の土地に対する裁量権」を最低限に保証し確保すると云う事に成る。
当然に、何でも良いと云う事では無く「儲かる物」の「作付け」を行う事に成った。
これを市場に出す事で金銭が獲得できる。
後の問題は、「地権者(地主)」が「作付け」を認めるかにあり、「米納」で不足する分は「金納」で補える事であれば認める事は自明の事である。

何と、これは「青木氏」に執っては、上記した様に、「殖産地の名目」を「混合作」で「自作農」を増やしていた奇策と一致する。
激論はここに納まったのである。
注釈として、この「伊勢の経験策」を提案したのである。
そこで、これを「矛盾の解決の次善策」として全国に法令として発した。

そこで、「他の農産物」と云っても、「儲かる物」でなければ帳尻は合わない。
思い思いに別のもの作物を作っては「儲け」には成り難い。
当然に、地権者は「儲かる殖産品」を通して、「作付け」を推奨する事に成り易い。
何はさておき、“売る、裁くと成り儲けを出す“と成るとそう簡単ではない。
何時の世も当然の如く「販売、運送、営業、警護」等の経費が掛かる。
この「中間管理費の経費」までを含めれば、これを一人で行う事は不可能であり、且つ,儲ける事は到底無理である。
況して、当時の「仲買システムの社会」では、先ず「農業」をし、一方で販売は片手間には出来ない事である。
この「仲買システム」を農民一人が崩す事は出来る訳がない。

但し、崩す事が出来る者がいる。
それは「地権者の地主、氏上さま」で吉宗の顧問衆の「青木氏等」である。
ただ単なる地権者に成った「投機的な商人」でも無理であった。

(注釈 この江戸期の事例が記録として残っている。現在も存在する「日本最大の豪商」は「新田開発」も行い、「地権者」に成って「田畑勝手作仕法」も手掛けて、これを投機として扱いこれに大失敗している。)

現在の様に「農業組合」が在って何もかもやってくれると云う環境ではない。
況してや「小作農」と成ると、そこまでは「裁量権」は無い。
必然的に「よく売れる農産物の殖産品」と成り、結果としては、財力と販売力等を持つ「豪商の地権者」や「郷氏等の大地主」に成る。
「自作農」にしろ「小作農」にしろばらばらに自分が勝手に作って直接の路地販売で売ると云う事もあろうが、この程度の事は前法令(「田畑勝手作禁止令」)を破棄して逆の法令を作る目的の計算の中には入らない。
「田畑勝手作仕法」の「裏の目的」は、上記の「新田開発」が進まない以上は、後は「殖産を高める事」が目的以外には無かったのであった。
米作以外には江戸時代には、「殖産品」としては「綿や菜種や楮や黍粟や甘薯や甘蔗」があり、畑作の農産品の「野菜類」(人口増加の為の増産)であった。


筆者は、この「体制矛盾」の「自作農」を進めると、以上の事から、“幕府体制が危うくなるとの危惧”を持っていて結論に至っていなかったと考えているのである。

それは、「地権」である。
「地権」を広く認めると「藩の独立性」が保てなくなると危惧していたのである。
藩は「領主さま」である。
その「藩国の最大の地権者」で在るからで、「地権」に対する「税」としては「対価」は獲得は出来るが、「地権」を認めている以上は、「土地」に対する「細部の支配権」は及び難く、ある程度の任してしまう以外にはない。
「強権」を発動して「地権」を停止させれば、「税に対する見返り」と「領民の反発」は免れない。
彼らの「裁量権」があるから、「税」が増える訳で、「強権」を発動すれば、税は下がる。
歴史の中で、この「強権」を発動して成功した例はない。
典型的な例は土佐山内氏であり、末代まで悪評が残った大名である。
何より「細分化」と「商品化」に依って、「地権の細分化」が誘発されると「領主の裁量権」が低下する事は明らかで、「認可制」にせざるを得ない。
自らの「裁量権の低下」と、経済効果による「税収の増加」を天秤にかける事に成る。
難しい「舵取り」と成ろう。
それだけの危険性を領主は担保するかであり、上記した様に固定観念の高い領主はしない。
「吉宗」も躊躇して「顧問の勧め」に結局は応じなかった事に成る。議論は白熱した。

そこで、この様な「享保の経緯」を持った侭に「自作農策」については、前段で論じた様に、結局は、明治期に成って維新政府と共に、正式に実行したという過程を持っているのである。
「伊勢青木氏」は、“「地租改正」”と共に、“「農地解放策」”は連動させる「維新政府の方針」でもあったが、然し、“「何かの理由」“を以って同調し協力した。

(注釈 上記した様に、「享保期の議論」の経緯もあり「持論」でもあったが、それ以上の「何かの理由」があった。)

然し、これは当然に「貴族院等の大地主」に猛反対されていた“「農地解放策」”であった。
ところが「維新政府」に従い、率先して積極的に「賛成の立場」を執り、同調し協力して「自作農の選択肢」を選んだ者等に対して「農地の地権放出」をした形となっている。

(注釈 これも上記の「新田開発」と同じ様に、その後に、この殆どの「地主らの反対」を押し切って、第二次大戦後(昭和20年)に、連合軍の意向を受けた議会は、「国民の自由性」を拘束しているとして、「農地解放:自作農創設特別処置法」を強行した。)

(注釈 「新田開発」には殆どの「青木氏」は積極的態度を採っていない。
それは「殖産」と云う事で“殖産地を造成する”と云う方針で臨んでいた。
「新田開発」は主に「米作」であって「自作農」と云う方針には一致せず、「小作農」を増やす事に成る。
あくまでも「体制矛盾」に成らない「殖産」に主眼を置いていた。)

従って、「農地の地権放出」をした形を採った「伊勢」では、「農地権」を持った「自作農の郷士衆」のみならず、「小作農」から多くの「自作農」に成った農民にも「地租改正」で「税の直接の納入義務」が発生したのである。
それを「維新政府」は、最初、「地価の3%の金納」として「平均反の収穫」を前提として全農民に政府は申し渡したのである。
つまり、「維新政府の思惑」は、当然の様に「より安定した租税収入」を期待したのである。
その理由は、地域や年度で「固定に近い地価」と、収穫量で「変動する米価」とのズレが大きかった事が所以していたのである。

享保期から設定された“「米相場制」”で云えば、旧来の概して農民が6、政府が4の「獲得比率」であったが、「米相場制」を採ったにも関わらず、未だ「金納方式」ではこの比率を維持されていなかったのであった。

注釈として、「享保期の米相場制策」に対して、上記と前段でも論じた様に、「布衣着用の勘定方指導の青木氏等」と「吉宗」が採った政策措置にはここに論理性が若干欠けていた。
“欠けていた”と云う事は無いと思うが、「米相場制の創設策」は米量を介入操作しての「米価の安定」が図られる事から良いとしても、これをやる以上は少なくとも「対の政策」として、「米納制」から「米価制の金納制」に切り替えて「貨幣価値」の「貨幣流通性などの事」が経済論としては必要であった。
然し、当時の他の体制(米基幹経済)では、この「米価制の金納制」に切り換えて耐えられる事は出来なかった筈である。

(注釈 前段でも論じた様に、幕府は財政的に困窮していて暴動が起こった場合に抑え込む軍事力を維持出来ずに崩壊するは必定で、その上に飢饉が連発し庶民は喘いでいた。
実際に「矛盾解決の必要性」は感じていても到底出来なかった筈である。
然し、「「青木氏等の顧問(ブレーン)」は、この経済効果の大きいこれを「主改革」と位置付けて実行してほしい政策であった事に成る。
「ブレーン」の中には、「吉宗」とお目見えできない紀州藩家臣の「伊勢藤氏の家柄の優秀な者」も居た事が書かれているので、相当に「二足の草鞋策」を敷く「青木氏等」と激論に成ったと考えられる。
恐らくは、この「激論」は、「青木氏の屋敷」で開催されていた様で、それを「吉宗」に報告していたと考えられる。)

従って、取り敢えず「事前の策」としては、「米相場制策」に留めて「時間的猶予」を待ったと云う事であろう。
依って、出来なかったと云う事ではないかと判断される。
つまり、過去の「青木氏との小作比率関係」が維持されない事と成って仕舞った

維新政府が「安定した財源確保」を狙った事から、出来る限り「農民」では無い「青木氏等の地権者」からでは無く、「農地権」を農民に引き渡す様にして政府は安定性を確保しようとしたのである。
ところが、「地価」を低く見積る事は当然の事ではあるが、「自作農」の「地価の申告率」が「相場の地価」に達しない場合が多く、その場合は「政府が示す地価」を以って強制とした。

これに反動する者等は、元は「納税者」では無かった「小作農」であった「農民」等は、これに対して「変動する収穫量」とのズレが大きかった地域では「大騒ぎ」と成った。
そこで維新政府は、「妥協策」として「地価の申告制」のみならず、「税」そのものも「農民の地権者の申告制」を導入した。
それに依って、「租税制度」に“「申告制」”が加えられる様に成り、一時納まりを見せた。

然し、ここで、この「収穫量の申告制」に「政府の見立て」との間に大きな差違が生じ、上手く行か無かった。
そこで「維新政府」は、再び「政府指定制」に変更した。

「政府指定額」と「申告制」の誤差の「租税の不足分」は、「労働」などに依り「代納制」を採用し、「労働か金銭で補う仕組み」に変えた。
「租税制度」=「申告制」(地価・指定税)+「代納制」(金納 労働)
以上の図式が敷かれたのである。

この図式が、更に「不満の火に油」と成り、「伊勢暴動」が起こり、何と完全解決までには約5年間(明治14年終結)も続いたのである。

これ、即ち、この「伊勢暴動」を経済的に精神的に支えたのが、何と「元地権者」であった「伊勢と信濃の賜姓青木氏」であった。

(注釈 「享保期の議論」の「体制矛盾の解決」や「自作農策の経緯」もあり、何故、支えたのかは判る。)

さて、ここで伊勢を始として顧問と成った「青木氏」が、どの様にこれらの事を内部的に取り扱っていたのかを知っておく必要がある。
それは答えから先に、「青木氏の心魂」と云うものがあったと云う事である。
「青木氏」に関わる者の「統一した行動指針」と云うものがあったと云う事である。
それは、次に論じる「三つの事」にあった。

そもそも、明治期に成ってその「農地権」を率先して放出した「青木氏の心魂」としては、前段と上記した様に、経済的には「仏施の質」に代表されれる「商業組合」であり、政治的には「米価八策」や「田畑勝手作仕法」であり、これらが「江戸の改革」を成し遂げられた所以でもあった。
これは全て「悠久の固い絆」で結ばれた「青木氏の氏族の民」にあるとして、「未来の事」を考えて、これ即ち「農地権の放出」が「本来の採るべき姿」と考えた事にある。

これは、「商業組合」や「江戸の伊勢屋の仏施の質」等や「政治に関する吉宗の顧問役」にも、その「前段の掟」に依って生まれる概念にも、“「青木氏の心魂」”と云うものが現れている。
手紙等の資料の行に観ると、これを敢えて、“「青木氏の心魂」(前段の掟)”と名付けていた様である。
「青木氏の氏是」や「青木氏の家訓10訓」と共に、幾つかの資料の一部の「行」にこの表現が観られる。

所謂、一部、この「三つ」は、今で云う“「青木氏の憲法」”の様に捉えられていた様である。

「青木氏の憲法」=「青木氏の心魂」(前段の掟)+「青木氏の氏是」+「青木氏の家訓10訓」

「青木氏の根幹に関わる四家制度」は、この「青木氏の憲法」(「青木氏の心魂 前段の掟」、「青木氏の氏是」、「青木氏の家訓10訓」)を基に「意志と行動」が統一されていた様で、「命令と罰則」は「四家制度の福家」が差配していた様である。
その時の根拠は、「50程度に成る慣習仕来り掟」は別として、それらしきものは何故か見つかっていない。
ただ、発祥から1200年以上も経っているが、「氏の律と令」と成るものを作るには無理であったのか、将又、敢えて作る事をしなかったのかは判らない。

然し、注釈として、筆者は、“敢えて作らなかった”とする説を採っている。
「行動指針となる基本概念」は氏族一門や氏人には定め求めるが、詳細な「律や令」の法で固く縛る事を避けたと観ている。

ではどうしていたかと云うと、「御師制度」と云うものがあった事から、これに依って夫々の「職能頭の差配(郷士衆頭)」が働き、これを「四家制度の福家」が「最高裁の判事の様な役割」の差配をしていたと観られる。
兎にも角にも、「四家制度」は、悠久の時を維持された完成された制度であったのだろう。

(注釈 これ等の事を書き記す「祐筆役」は、前段でも論じたが、「達親制度」であった事からも「菩提寺の住職」が務めていた為に、判例に成る様な事が書かれた“「古書」“が見付かる筈であるが、焼失した菩提寺に一切保存されていた可能性がある。
「青木氏」に関する殆どの事の行節は、今まで「郷士衆頭の家」には見つかるが、この件では見つからないのは「菩提寺保存」が原因していると観られる。)

では、一概に“「青木氏の心魂 前段の掟」」“とは云えども、そう簡単に成せる精神では無い。
これには、相手のある事で、相手も何がしかの「青木氏」に対する「太い絆」の様なものが無ければ成り立つ話では無い。
前段でも論じたが、「氏上と氏人の関係」がこの「青木氏の心魂」と成る「太い絆」を作り上げていた。

青木氏福家40代の筆者には、「青木氏の氏是」と「家訓10訓」は大いに理解され、これが何時の世にも生きる「真理」で「筋目」である事は納得出来るし、それで生きて来た。
然し乍ら、最早、この「青木氏の心魂 前段の掟」」は無い。

では、何故、累代の先代は、この「青木氏の心魂」に成り得たのかと云う疑問である。
これは何も「青木氏の偽善的行為」の論を展開する心算では無い。
そんな事をしても意味が無い。これこそ、「青木氏の氏是」である。

それは次ぎの事にそれが表れている。
先ず、上記の「農地権」の時の取り分の配分は長く「4:3:3」であった。
この事からも「青木氏の心魂 前段の掟」が理解できる。
「農民の3」に対して「地権分の取り分」は「4」であって、「3」が生活に必要とする絶対分量分であるとすると、4-3=1は脱穀や苗分や水路などの管理費などの「諸経費分」であるので、取り過ぎでは無く、明らかに「3の均等配分 (3分の利)」の考え方に成る。
もし、「利」を上げようとすれば、世間並みの「5:2:3」と云う事に成るだろうが、然し、明治初期まで1200年以上はこの比「4:3:3」の“「3分の利」”であった。
「青木氏の心魂」を数字的に表すとすれば、この様に成り、この“「三分の利」”は前段から論じる「青木氏」を見事に物語っている。

記録から推測すると、「青木氏」では殆どこの“「三分の利」”の概念で統一されていた様である。

そこで、「享保期に議論」の末に定めた「五公五民の場合の青木氏」の扱い方は、次の様に成る。
「一公」増える事に対して、「青木氏の氏人の負担」を極力軽減する策として、上記で論じた様に旧来から採用していたが、今度は大手を拡げて「田畑勝手作仕法(1735年)」を利用して「殖産」で対応した事が資料から判る。

つまり、紙箱や楮和紙や菜種油や木綿の「生産の内職」と、他の農産物で儲けるられる「砂糖にする甘薯」や「酒にする甘蔗」などの「農産物の作付け殖産」であった。
これ等の「殖産」で「一公以上の利益」が上がったと記されている。


注釈として、享保期に「吉宗」は、それまでの「四公六民」から「五公五民」に変更した所以も、顧問と成っている「青木氏」等のこの「三分の利の考え方」を採用したと観ている。

そもそも、「四公六民」は「自作農」の場合であって、「小作農」の場合の普通は、「六民」を「4:2」であった。
つまり、「4:4:2の取り分」であった。
然し、当時、生きる為には最低「3」が必要であった。
その為に内職や粟などの穀物類で「生活の質」を落として維持されていたとしている。
ところが「青木氏」では「小作農」は、旧来よりの「三分の利」を基に「3」を「取り分」としていた。
そもそも、「青木氏の小作農」は、他の豪商などの「勝手方地権者の小作農」と異なり、「絆のある氏人」であって、単なる「小作人」では無かった。

(注釈 江戸期からの「多くの諺」にこの「三分の理」を唱えるものがある。
これは「青木氏」等が持つ「三分の利の概念」が「享保の改革」の過程を通じて世間に広まったのではないかと考えられる。)

其れは、封建社会の中で平等性の高い「三分の利の概念」を基に、「身分や立場」を大きく「二つ割」にするとすれば、「五公五民の概念」が生まれる。

この概念を以ってすれば、「公の立場 (三)」に「民の主立場 (三)」と「民の従の立場 (三)」の様に「三つ割」にするとしては、“「三分の理」”が生まれる。
残りの「一理」は”「賄いの理」”である。

この”「賄いの理」”は、この「三者」の何れに所属させるかは、その事の内容にも依るが、「税」としは「賄い」は「公」に所属する。
この意味で、“「四公六民」”の「六民」をこの「三分の理」で解釈すれば、「民の主立場 (三)」と「民の従の立場 (三)」で、「公」は「賄い分」とで四分と成る。
後は「三分の理」を原則としながらも、「六民の分け方」に従う事に成り、これは「民の主立場」の者の「考え方」に左右する。

「五公五民」と「四公六民」とには、「六民」とすると「民の主立場」の者が、享保期前の様に経済状況が悪化した場合には、多くが「地権だけの商人」の「小作農」と成った事で、この「三分の理」に従わず「四分」、又は、「五分」の取り分を強行した。
これが「農民の生活」を極度に圧迫させる事と成った。
農業に無関係な「地権だけの商人」、況や「勝手方地権者」にこの行為を抑制させる策であった。

「勝手方地権者の行為」のこれを観ていた顧問等は、この「三分の理」を「幕府の考え方」であるとして衆知に至らしめ、先ずは、護らせる事が「五公五民とする策」を成功させる事に在った。
且つ、これが「自作農」に成らない「第一に解決しなければならない障害」と成っていると理解していたのである。

そこで、「五公五民」の法令(1728年)と、「三分の理(「三分一米納令」1722年)」の概念の「二つの法策」を以って「平均的平等の概念」を幕府は示したのである。

これは封建社会の中で、「政治政策」は、当に「身分格式権威の政策」の中で、「経済政策」だけが”「平均的平等の概念」”を敷くと云う事は、「士農工商の民」は「驚きの事」であったと考えられる。

その「驚き」とは、次の様な事であった。
上記の「諺」から、「士農」は兎も角も、「工商」は理解し直ぐに取り入れたのである。
問題は「士」であった。
「農」は「三分の理」が認められれば問題は無い。
一割にも満たない人口の「工商」は、そもそも無税であり、経済が活性化すればそれに越した事は無いし、むしろ望んでいた事であった。
後は「士」の集団の「藩」は、「三分の理」が認められれば、「四公」、又は「五公」とすれど「三分の理」で「賄い分」が確かに藩に入る計算には成る。
「四公」の時(正徳)までは、この「賄い分」を幕府は藩にあるとして補償していた。
ところが、「五公」の時(享保)は、一見「公」が「一分」を多く「取り分」とした様には観える。
然し、「民」も「五公」である。
これは明らかに「平等の取り分」であり、後は「民の中の問題」であるとすると、「田畑勝手策仕法」を認めれば「民の中の矛盾問題」は明確に解決する。
とすると、後は、「賄い分の扱い」であり、当然に「公」に成る。

ところが、この「賄い分」はその「賄い分」の内容に依る。
「自然災害」が多発すると「農地の復興費高騰」や「生活環境」や「政治環境」が悪化した状況では「農地の放棄」等が起こり、「一分の賄い分」では成り立たない。
又、「悪循環」を繰り返す事に成り好ましくない。
そうすると、結果として「賄い分の引き上げ」を「公の藩」は狙う事に成る。
ここに、「顧問等と吉宗の狙い」があった。

「民の五分」を安定させ、生活と収穫率を安定させる為には、この「賄い分の引き上げ」を阻止する事で、何とか財政を保とうとして「藩の緊縮策」が行われる事に成る。
その阻止策が、「五公五民の策(1728年)」を打ち出す前に、諸藩に「三分の理」を「政治の概念」としても、先ず徹底させる事にあった。

それが、「青木氏等」が悠久の時を経て維持して来た「三分の利の概念」を「三分の理策の周知」と、それを基にした、即ち、法令の「三分一米納令 (1722年)」で統一させて「賄い分の引き上げ」を阻止したのである。

これで、諸藩は、この思いがけない「馴染みのない三分の理」に従う以外には無く、「緊縮財政」に入る以外には無く成って仕舞った。
その策で統一された後に、「諸範の緊縮財政下」で「五公五民の策(1728年)」の「米価の次善策」の本策を打ち出した。
一見すると、諸藩は「五公」の「内部の仕組み」を読み込めず喜んだ筈であり、「五公五民の策」は反対を受けずにすんなりと浸透した。
「青木氏等の顧問」と「吉宗の思惑」の通りの「効果てき面」であった。

次ぎにこの「本策」を打ち出した上で、上記した「田畑勝手作仕法(1735年)」を認めたのである。

(注釈 上記の通り「青木氏」では、既に「殖産」を名目に、「一地一作の令」の「逃れ策」として次男三男の「小作農地の確保」と「就職の救済策」と「生活の補填策」として「米の耕作地の田地」を有効的に活用していた。
これを改革の「矛盾解決の政策」に用いたのである。)

これには、当然に、この「二つの法策」(「三分一米納令」と「五公五民」)を以って「平均的平等の概念」を示した上で、「田畑勝手作仕法」を発令して「二者で一分を補い合う概念」を提示したのである。
 
この「二つの法策」で以て、「民の主立場(「地権だけの商人」の者は、「民の従立場(小作人)」の者に対して「最低限の生活」の“「三分の利」”を認めざるを得なく成った。
これに依って「矛盾の一端」を何とか緩やかにして解こうとしたのである。

決して、通説にある様に“「税」を上げた“と云う事では無かった。
「経済政策での三分の理」であったとすれば「三分の利」と成る。
然し、此処で敢えて経済政策に「三分の理」と明示したのは、”政治も「三分の利」の概念にせよ”として「理」を使って暗示したのである。


「青木氏の資料」では、“「三分の理」”では無く、“「三分の利」”と明記している。
ここに意味があった。
そもそも、この“「三分の利」”には、「平均的平等の概念」として次の様に記載されている。

資料から可成り古い時期(平安末期 925年頃)に定められた概念ではないかと考えられる。
そもそも、それを解釈すると、「理屈」の「理」にある様に全てが理窟の通りに社会は出来ていないとする概念を悠久の時を経て持ち得ていた。
上記した様に、「青木氏の憲法的位置づけ」の「三つの是」に示される様に、「主源」は「理」は認めるものとしても、細部の「従源」は「利」に通ずるものとして理解されると記されている。
これは、「青木氏の氏是」にも「・・・に晒す事無かれ何れ一利なし]「されど・・・にも憚る事無かれ、何れ一利なし・・」と表現されている。
この「青木氏の氏是」の通り、下記の出自を持つ「賜姓臣下族」で「賜姓五役」を役務としながらも「一理」とは決して表現していない。
本来であれば、「一理」とするであろう。

「経済と政治」は、取り分け、突き詰めるとこの「利の原理」に従っているとする説が表現されているのである。

(注釈 「青木氏の憲法」とは、「青木氏の心魂 前段の掟」、「青木氏の氏是」、「青木氏の家訓10訓」)

これは「青木氏」が、この「経済と政治の世界」に身を委ねていて、「軍事」は「シンジケート」に任せている事で生き延びられて来たし、その上での上記の「青木氏憲法」と成るものが成立している所以である。
この「シンジケート」と云えども、突き詰めれば「経済での結び付きと信頼」であった。
故に、この「悠久の歴史」を持つ環境下での「利の概念」であった。

これ等を「顧問」として「吉宗」に主張したものと考えられるし、「吉宗」も「六兵衛」と同じ環境下で育った事から「同じ考え方」を持っていた筈であり、この「三分の理」に基づき「税対策」などは行われた。

(注釈 上記した様に、「定免法」と「買米令」を間に時を得て発して上記の策を勢いづけた。)

この時に、身分や格式や階級や主従の関係制度が最も強かった江戸時代の社会に、この「三分の理」が分け入る様に勢いよく浸透していったのである。
ある意味で、「三分の理」が浸透する社会とすれば、”「平均的な平等論」”や前段で論じた”「商業組合による自由論」”が、元々、「顧問と吉宗等」は、兎も角も、庶民にも基礎的な考え方が強くあったのではないかと考えられる。
故に、「下記の諺」を遺す様に浸透していったのである。

ここに、因みに「青木氏の歴史観」として「青木氏」の悠久の歴史を得た“「三分の利の論」”が生きているのである。

(参考 この時、江戸社会に広まった類似語を提示すると以下の通りとなる)
泥棒にも三分の道理
盗人にも五分の理
乞食にも三つの理屈
盗人にも一理屈
柄の無い所に柄をすげる
藪の頭にも理屈がつく
理窟と軟膏は何処柄でも着く

以上、これだけの事が江戸社会に広まった。

これを観れば、最早、「庶民の常識」と成っていたのであり、身分や格式や階級や主従の関係制度の中で、この「常識化した概念」とうまく折り合いを就けていた事に成る。

”「平均的な平等や自由の概念」”が、「五公五民と三分の理」の「二つの政策」の施行で「吉宗や顧問」らに依って、更に、次ぎの世にも「三分の理の概念」が色濃く潜在化させた事に成るだろう。

(注釈 これは「青木氏の歴史観」として絶対に知っておかなければならないものであり、取り分け、これだけ社会に「基本概念」を植え付けたのにも関わらず知られていないのが、この「三分の理」であって、これを法制化して1722年に発効させたのが「三分一米納令」である。
これは現在の「平等と自由の概念」と成るものであったのだ。)

そこで、「米国の自由と平等の概念」と「日本の自由と平等の概念」が何となく違う感覚を持つのは、この事によると観られる。
況や、この「三分の理」の「平均的な平等や自由の概念」が、この違う感覚の原因と考えられる。
とすると、“米国から持ち込まれた”と云うよりは「日本独自の概念」であるとも云える。
その起源は、下記の注釈に示す様に、奈良期から「氏上と氏人」に依って培われた「春日真人族から志紀真人族」の「後裔」の「氏族の青木氏」に引き継がれて来たものであったのだ。

突き詰めると、「青木氏の心魂」として捉えられる「三分の利の概念」と「前段の掟」と云うものに付いては、これが“何故、続けられたか”と云う事にも成る。

筆者は、「青木氏の考え方」を示す「注釈の数字の概念」を維持したこの“「1200年」”に答えがあると観ている。
この「1200年」が「青木氏の心魂 前段の掟」を「一つの形」に築き上げたのであろう。

「伊勢」は、何度も論じている様に、「不入不倫の権」で、“伊勢の事お構いなし”で護られて来た所以であろう。
確かに、「北畠氏の介入」と「織田氏の浸蝕」の100年間近くは「不入不倫の権」は犯された。
江戸期は有名な「家康の言」の“伊勢の事お構いなし”で再び戻った。

(注釈 「不入」は、「江戸期の本領安堵策」があった事に依って適度にその義務を負った。)

但し、「100年の介入浸蝕」が有ったとしても、「伊勢の民との絆」には傷は流石に着かず、安寧であった。

「1200年の期間」は「地権の農民」との間は、最早、「絆=家族」であった筈である。
「家族以上のもの」があるとすると、それが「青木氏と民」との間には流れていたのではないか。
「家族の絆」でもせいぜい100年以内である。
それが「1200年と云う長い期間の家族」である。
「青木氏」は、莫大な「土地の地権者」として農民等の「民の戸籍簿」を造る義務を負っていた。
その「民の戸籍簿・人別帳」は、苗字を持たない事から、元来、ルーツは無いが「青木氏」がある程度の「繋がり」を帳簿の中から持ち得ていて、これが「1200年間の繋がり」と成ると「青木氏の帳簿」は最早、役所以上でもあった。

「100年の親子」では無く、それを超えて「1200年の子々孫々」の関係以上にあった筈である。
「伊勢の民」の個々の家の「小さい歴史」も承知していたのである。
「1200年の間」は、伊勢はある程度の範囲で護られ、この関係は途切れた事は無かったのである。
“「途切れた事」“が無かった事から得られる「土地の潤い」から、「伊勢の民」の“「生活の面」”は護られた。
としても、世間では当時の「村人」は、野武士等の攻撃や戦乱時の破壊が有って、簡単に安心して居られる環境の状況では無かったし、これに依って家族は破壊された事もあった。

然し、この「伊勢」は、前段でも論じたが「青木氏の経済的支援と信頼関係と商い輸送の職務」とで結ばれた「伊勢シンジケート」で彼等を護っていたのである。
従って、家族の“「安全の面」”はある程度に護られていた。
この“「伊勢家族の絆」”は、1200年間絶える事無く護られていたのである。
そもそも、「伊勢」では「襲う者」はあまり無く、襲うと逆に「伊勢シンジケート」に潰されると云う恐怖があって「ならず者」は避けたとされる。
(注釈 伊勢を護る事は「元伊勢王の施基皇子の志紀真人族」の「賜姓五役の役」でもあった。)
これが、「伊勢神宮の治安の前提」と成っていた。
村人の「生活と安全」がある程度に確保されていれば、後は生まれるものは「家族以上の絆」であり、それは「完全な信頼と尊敬」で構築されていた筈で、その「村人の心根」は“「氏上さま」の呼称”でそれを如実に表している。

その呼称は、「神社」に対して「氏子」が使う「氏神さま」では無いのだ。
恐らくは、この呼称を1200年も使っていた事から、「村人」の「信頼と尊敬」は「神社の聖域」を超えていたと観られる。
然し乍ら、かと言って無神論者達では無かったのであって、「氏上と氏人」が信心する神社はあった。
況や「神明社」である。
それは「氏上の青木氏=神明社・守護神=氏人」の関係にあった。

(全青木氏の出自の注釈) 
(前段でも論じたが、「皇族賜姓臣下族の青木氏」の出自は、「施基皇子(春日宮天皇 追尊)の孫」の「後裔」である。
この「施基皇子の第六子」の「白壁王(光仁天皇)の子」の「山部王」の「桓武天皇」で、この「桓武天皇の子」の「第二子の嵯峨天皇」が発布した「詔勅」に伴い作成した「新撰姓氏緑」には、次の事が記載されている。

「皇族 38」の「伊勢王」の「施基皇子の子」の「春日王一族」の後裔(青木氏)で、「春日真人族の裔」と記載されている。
更に、その血縁にある「敏達天皇の曾孫族」が遺した「末裔の直系氏族」で、「敏達天皇の子の春日皇子」と同縁同祖関係にあると記載されている。
そして、「春日真人族の後裔」に至ると記載されている。
つまり、「敏達天皇の孫が舒明天皇」 「舒明天皇の子」が「天智天皇」 「天智天皇の子」が「施基皇子」であり、[天智天皇の第二世族の第六位皇子 浄大一位]で、「敏達天皇の直系第四世族」である。

所謂、「第四世族」のここまでが「春日真人族」である。
「天智天皇」は「大化改新」で正式に「第六世族」から「第四世族」までを「直系の後裔」と定めて変更した。
つまり、「真人族の皇子」、或は、「朝臣族の王位」の範囲とした。

注釈として、天皇が即位する度に、「第六世族」以降は「皇族の真人族」と「朝臣族と賜姓族と臣下族」の権利を失い都を離れる。
所謂、「坂東八平氏」等がこれに当たる。

但し、「第四世族」までを「皇子や王位の権利」を有し、「第五世族位」は次第に従う事を「天智天皇」は定めた。
それまでは「第六世族」までは王位、第七世族は「皇位」を離れ「民」と成る。
更に、更に厳しく皇子数に依って「第四位皇子迄」を「真人族」とし、「第六位皇子迄」を「賜姓族」と「臣下族」の「朝臣族」と成り得る。
唯、「朝臣族」、「賜姓族」、「臣下族」、「王位族」の「皇族系四族」は、「天皇の意」に従う「天皇家の仕来り」であった。
決して、希望すれば成れる事ではなく、自動的に成れる制度でも無く、「最優秀な適格者」が「指名される仕来り」であった。

そもそも、注釈として、「施基皇子」は「天智天皇の第二世族」(敏達天皇の直系族の春日真人族の第四世族)にして「第七位皇子」であったが、「建皇子」が没して「第六位皇子」と成った。
従って、「天智天皇の第二世族」でありながらも、「第六位皇子」として「賜姓族」と成り「臣下族」の「朝臣族」と成って、「皇親政治」に参画した。
「敏達天皇の第四世族」である事からすると、「春日真人族の皇子」としての権利も有し、「賜姓臣下族」としての「志紀真人族」の「二つの立場」を持ち、且つ、「八色の姓制度」では「皇太子」を超え、前段で論じたが、「天武天皇」に次ぐ「浄大一位」の位に位置して「天武天皇」に代わって皇太子をさて置き「皇親政治」を差配した。
「施基皇子」は「賜姓臣下族」とは成ったが、どの50程ある真人族より格式一切が上位にあった。

(注釈 恐らく、後に追尊の「春日宮天皇」と成った以後、これ程の高い立場を持った皇子は居ない。)

(注釈 この「施基皇子」は、後に「賜姓臣下族 751年」と成る。別名は志紀真人:施基真人:志貴真人である。)

尚、「天智天皇の第八位皇子」の「川島皇子」は、特例を以って「賜姓族」を受け「臣下族」の「朝臣族」に列せられた。
「天智天皇」の代に世族の第七位皇子であった事から「賜姓」は受けたが、「真人族」では無く「49の春原朝臣族」と「53の淡海朝臣族」の「同縁同祖族」である。
「近江佐々木」の地名を採って「後裔の姓」は「近江佐々木氏」とした。全国佐々木氏の始祖である。
この「佐々木氏と青木氏」の「二つの血縁筋の後裔」が上記した「近江佐々木氏系青木氏」である。

(注釈 この「賜姓臣下族」と成った事で、「春日真人族」から系列を離れた為に、「志紀真人族」として列せられた。
その事で、「施基皇子の第二子」が「春日王」。
「春日王の母」は「託紀皇女-天武天皇の皇女」であり、「春日真人族」を同祖とした「青木氏」は「施基皇子の子の春日王の後裔」と成った。
更に,「春日真人族」としての「施基皇子」が、追尊で「春日宮天皇」と成った事でもあって、「施基皇子の後裔の青木氏」は、「志紀真人族」の「春日王の後裔」と変更された。)

(注釈 尚、「施基皇子の第六子」の「賜姓臣下族の末裔」としての「白壁王」は、「聖武天皇の皇子」が絶えた為に「井上内親王」を「后」として「他戸王」を産み、「春日真人族の直系の男系天皇」として「賜姓臣下族」から特例を以って「天皇」と成った。
この「敏達天皇第五世族」の「光仁天皇」は「在位770年-782年」で、「光仁天皇の皇子」の「山部王」が「志紀真人族」(春日真人族の後裔)として「桓武天皇」として即位した。
「施基皇子」は、「春日宮天皇」(後刻 皇位追尊770年 光仁天皇)と追尊され命名された。
この事で、再び、「賜姓臣下族の志紀真人族」から「春日真人族の系列の天皇」と扱われた。
これは「青木氏の記録」とほぼ一致する。

(注釈 「後裔」とは、「枝葉族」を含む「末裔」とは異なり、直系で直ぐ後の裔を表現し「氏族」を表す。
「青木氏が後裔」と成る。
これより枝葉の「氏名の裔」が拡がるが、前段で論じた様に、「青木氏」では、「四家制度」と成り、ある範囲で「氏裔」は留まる仕組みを執っている。)

(注釈 伊勢は上記の事として、古記録に遺るが、「近江、美濃、信濃、甲斐の青木氏」は、「天智天皇期の皇族の改革」と「嵯峨天皇の皇族の改革」の「二つの皇族改革」により発生した「真人族や朝臣族や王位」から外れた「皇子皇女」の内、「志紀真人族」の「春日王の後裔」の「青木氏」として、「青木氏」に入り「跡目」を継承し、「青木氏」を絶やさずに「皇位系五家五流」で継承して行った。(従って「姓名」は無く「氏名」だけの継承と成る。)
この例外として、「真人族や朝臣族や王位」の同皇位資格を持つ「正規の賜姓源氏」からも「五流の青木氏の跡目」に入った記録がある。
又、正規に皇位ではないが、「二つの改革」での同資格を持つ女系で繋がる「藤原秀郷流青木氏116氏」からも「青木氏の跡目」に入った幾つかの記録がある。
「伊勢青木氏」では、前段でも論じたが、この「両流の氏裔」の「青木氏の事」を「四日市殿」と呼んでいた。)

(注釈 但し、「新撰姓氏緑」は「新撰」とある事から、「氏姓禄」としては完成されておらず、原稿状態で頓挫し、取り敢えず、この状態で後日に「表紙目次録」だけをまとめたものである。
従って、「皇子と王との区別」や「同名の判別」も出来ていなく、「真人族、朝臣族 賜姓族、臣下族、王位族、皇族」の要り混じった「縁籍族の区分け」や、「同縁や同祖や区分け」も充分では無く、使うには可成りの努力がいる。)

(注釈 別冊 「新撰姓氏緑」の目次では、「天智天皇系の春日王の末裔」として記録され、「皇族賜姓臣下族」で纏められたものでは、上記の注釈の通り、「志紀真人」として正規に出て来る。
これは「始祖の施基皇子」が「春日宮天皇」と「光仁天皇」により追尊された事に依り、「姓氏緑としては、「施基皇子」の「春日王の後裔」と記されたもの。)

(注釈 この「春日真人族」とは、「敏達天皇から天智天皇期」まで皇族の中で“「春日真人族」”として呼ばれ、当時は最高で最大の権力を誇った族で、そこから引き続き平安期の「嵯峨天皇期」まで“「志紀真人族」”として呼ばれ、“「皇親族」”として「政治の場」でも勢力を誇った。
ところが、「嵯峨期の詔勅」が出され、「真人族」は政治の場からは離れ勢力が衰え、「賜姓族」も「源氏」と呼称する事に成り、「皇族で賜姓族」でありながらも賜姓源氏と成ると皇族の真人族を離れ一段下の「朝臣族」で「完全な臣下族」と成り、「真人族」から「朝臣族」と臣籍した。
「賜姓五役」の様な役目は持たず、「武家」を構成するのみの「臣下族」で、依って職位を巡って源平が争い多くは絶えた。)

(注釈 「嵯峨期の詔勅」で、「志紀真人族系の青木氏族」は、以後、「賜姓」は無く成り、「皇族の皇子皇女」が「氏」では無く「姓」を持ち、「皇族を離れる際」に名乗る「姓名」として用いられる事と定められた。
結局、平安期末期まで「25皇子と18皇女」が「皇族」を離れたが、「嵯峨期詔勅」を使った最終、「賜姓臣下族」ではない「青木氏の姓族名」を遺したのは、僅かに「5姓族」に留まり、証拠を残す事が出来たのは正式には「2姓族」と成る。
この内で、奈良期の高位の系列の立場を持った皇子(妾子は除外された)は「五流の青木氏」の跡目に入った。)(詳細は前段参照)


(注釈 この内の「源氏」は「11家」であったが、室町期末期では、「姓族」は兎も角も、単独で「氏族」を形成したのは全く無く、「氏族」を遺した上記した「皇族賜姓臣下族の青木氏との血縁」で「姓族」と成っているが、恐らくは、「5姓」以上には及ばないだろう。
後は「京の門跡院」と「比叡山寺」と「信濃善光寺」などの「僧侶」と「斎宮」と成って絶えた。
この中で、最も多いのが「嵯峨天皇期」で、系譜に載らない妾子等や源姓も入れて「17皇子13皇女」が臣籍したが、戦乱や政争や経済的困窮や跡目不在で完全に絶えた。)

(注釈 「春日真人族」で「志紀真人族」の「賜姓族臣下族の青木氏」は、前段で論じた様に「五家五流」であるが、ただ「近江と美濃」は「青木氏の氏是」を破り「源平合戦」で敗退して「氏」は衰退させ、江戸期に「氏の末端の傍系」が何とか「氏族」は兎も角も、前段でも論じたが、「青木氏等の援助」に依り、「姓」を何とか興して遺す事に成功した。)

(注釈 藤原秀郷流青木氏は、958年「円融天皇」に依って「春日真人族」で「志紀真人族」の「賜姓族臣下族の青木氏」の「賜姓五役」を補完する目的で、特別に「真人族外」より「賜姓青木氏」を受け、「賜姓族臣下族の青木氏」と格式官位官職一切を同じとして出自し、「全国24地域」に「116氏の氏族」を形成した。
相互に母系族の同縁同族の関係にあり、従って、「慣習仕来り掟」は類似し「同行動」を執った。詳細は前段参照。)



それ故に、判り易く云えば次ぎの様な関係にあった。

「青木氏と信頼と尊敬の関係」=「神明社との信頼と尊敬の関係」

「1200年の親と子と孫の関係」=「青木氏の守護神」=「青木村の民の守護神」

以上の数式にあった。

「1200年の親と子と孫の関係」である限り、「青木氏の守護神」は「青木村の民の守護神」でもあった事に成る。
その関係は、「青木氏=神明社・守護神=氏人」の単なる関係では無かったのである。
その数式の成り立つ「守護神の神明社」は、前段でも論じたが何と全国青木氏の定住地に「500社と云う数の神明社」である。
如何に「氏人」との間に洩れなく「青木氏=神明社・守護神=氏人」の関係を敷いていたかを示す確実な証拠である。

(注釈 「氏族」は藤原氏の様に春日神社、「姓族」は道祖神社、民は稲荷神社等と個々に大なり小なり何等かの「独自の守護神」を持ち得ていた。
取り分け、民と民から興した「姓族の道祖神」では、殊更に社屋を構えず道端の至るところに小さい塑像を据えて花を手向けて祭祀し、蜜社性を採らなかった。)


現実に1200年も生きる人間はいないが、「村人」と「青木氏」の間には、互いに何十代も変わる事無く、「人」で引き継がれて互いの「信頼と尊敬の絆」を護った。
そして、そこには相互に「伝統」と云うものが有った。
これを途切れる事の無い様に「青木氏=神明社・守護神=氏人」=「500社の神明社」が敷かれていたのである。

(参考 正しく青木氏が建設と維持管理に関わったとされる神明系社 合計 564社)

内訳 
神明社 180
神明宮 126
神明神社 143
大神宮 24
神社 29
皇大神社17 
其の他 44

・「青木氏と守護神(神明社)-2参照」

但し、皇大神社 17 其の他 44を除くと合計503社  

後は、江戸期初期以降のものであるが、この「神明社564社」も江戸初期に江戸幕府に引き渡した。その後、江戸幕府の財政難から社屋は荒廃した。)

最早、この段階では「1200年生きた一人の人間」、況や、「1200歳の人間」が構築されていたと同じと考えられる。
最早、これがこの世に現存する「氏上と氏子」であったのであろう。
「青木氏」と云う「氏の親」に護られた「氏の子」であった。
この「氏上」の「上」は意味合いとして「親」であった。
所謂、「親と子」であったと示す呼称なのである。

それが前段で論じた「青木氏の数ある掟」(「善悪の条理 相対の理」や「三分の利」等)の「概念の礎」に成っていた。

そもそも、上記した(注釈)の“「氏の上」”は、「大化の改新」以後は朝廷によって任命され、「宗家」として“「氏人」”を統率して朝廷に仕え、その集団が「氏神の祭祀」、「叙位の推薦」、「処罰」などを司り、一定の「政治上の地位」を世襲したとするのが用語の語源で、この集団の「氏の宗家」を“「氏の上」”として容認した。

依って、この大化期から平安期初期までは「氏上」と「氏人」には、確たる「上下の身分関係」ではそもそも無かったのであって、「氏人」(「家人」や「青木氏部民」含む)も集団の一員として”「朝廷に仕える准人」”であった。
(平安末期からの荘園制で上下関係が生まれた。)
当に「氏上」とは云うが、「姓上」とは云わないのはここから来ている。
況や、「氏上」、或は「氏」には「氏人」がいるが、「姓」には「姓人」はいない。

上記した(注釈)の「春日真人族」や「志紀真人族」の「氏」の「青木氏」には「大勢の氏人」がいるのである。
これ等の「氏人」と共に「賜姓臣下族としての役(賜姓五役)」が求められる。
「賜姓五役」が求められれば「青木氏部」が要る。
「青木氏部」の「氏人」がいるから「固有の氏の村」が要る。
「固有の氏の村」があるからこそ「氏」を護る「守護神」が要る。
「天皇が賜姓した氏」であるから、「守護神」は「皇祖神の子神」の「祖先神」と成る。
「祖先神」と成る以上は祀る「社」が要る。
「社」があれば特定の「子神の神明社」が要る。
「子神の神明社」があれば、「特定の神職」が要る。
「特定の神職」が要れば「格式」を持つ。
「格式」を持つ「神職」には、「志紀真人族」の示す「象徴紋笹竜胆」と「神職の格式紋柏紋」を授かる。
そして「氏」から出す「神職」を出し、これを扱う「氏の方式」が要る。
「氏から神職」を出すから「格式制度の達親」が要る。
「神明社」があれば「氏の菩提寺」が要る。
「氏の菩提寺」があれば「氏」の「大日如来像菩薩」が要る。
「氏の如来像」があれば「密教」が要る。
「密教」があればこの様に「連動する氏の役」が限りなく出る。
全ゆる事に「賜姓の氏としての格式」の「連動する氏の役」が求められる。
この格式にあった「慣習と仕来りと掟」(50程度)が定まる。

この事は「春日真人族」から「志紀真人族」に成り、「賜姓臣下した時」よりその格式と伝統を汚さず護ろうとして「全ての事」が連動して起こり繋がる。
この”「繋がる事」”で一つが欠ければ「全てが崩れ去る運命」にある。

この所謂、「連動の鎖」を護る為に「伝統と云う接着剤」で繋げる。
「氏上と氏人」が、この「接着剤」を「1200年の信頼に基づく絆」と云うもので囲うが、須らく「相互の概念」は同様の事と成り得る。
これが、“「平均的平等と自由」”に基づく“「三分の理」”に通ずる“「伝統的な概念」”なのである。

この様に「志紀真人族の氏」を構成する以上は、上記に連動する様に「氏人の為」にも逃れられない「義務」があり、これを「連動する事柄」が「担保」できない以上は、例え「氏の賜姓」を受けても消える以外には無く成る。

これを「嵯峨期の詔勅と禁令」にこの事を明確に記しているのである。

これを担保するのが、「紙屋院」として朝廷より開発を任された「賜姓族としての役」、即ち、「国産の和紙」を研究開発し、生産する事から始まった「二足の草鞋策」であった。
この「二足の草鞋策」に「氏上と氏人」は懸命に「氏を遺す力」として懸命に取り組んだのである。

室町期まで関連する役処として「朝廷の絵処院」、後の「絵処預」の支配もしていた。
(結果として、この時の選択が「遺す力」と成った。)

(注釈 前段でも論じたが、この「二つの役目柄(紙屋院と絵処院)」から、それまで中国から[苦土参の墨」が滲む質の悪い薄茶色の紙を輸入していた。
これを何とか国産で出来ないかを模索し、「材料の発見」、その「適地の選出」、「栽培方法」、「紙にするまでの生産方法」、「使用に耐えうる紙質の改良」、「紙の色合い」、「墨との兼ね合い」、「保存の方法」、「生産体制の確立」等に、「氏上と氏人」が総出で手分けして懸命に取り組んだ。
「天皇」自らも良い紙材が無いかを手分けして各地に出向いたとする記録が残っている位であった。
結局、何処にもあって「繁殖力と生産力」が良い「楮」に成った。
然し、これだけでは未だ解決には至らなかった。詳細は「伝統」ー4又は7参照)

(注釈 それには、この「和紙に合う墨」とそれに「絶え得る硯石」と「良質の筆」の開発にあった。
取り敢えず、「925年頃」に「和紙」から本格生産に入り、「紙屋院の役職所」を通じて「余剰品」を「賜姓族」としての「資金力」を作り出す為に、「二足の草鞋策」で「市場販売の許可」も出て手掛け、遂には「1025年」には「総合商社」としてこれらを中国に輸出するまでに成った。
次ぎの段階として「墨と硯と筆の開発」に入ったとされている。
此処までに約100年程度かかっている。
更に「良質な理想的な墨硯」は、何と「後醍醐天皇」自らが「熊野詣」の途中で「紀州の藤白地区と日高地区」で発見したと書かれている。「青木氏」は「朝廷専売」でこれらの殖産に取り組んだ。)


それが、前段で論じて来たこれらが“「連動する伝統」”であって、「春日真人族」から引き継いだ「志紀真人族の氏」として生き残った所以でもある。
この「二流から成る氏の伝統」は連動しているのである。
然し、「皇親政治」は廃止され生き残りが難しく成った平安末期からは、前段でも論じている様に、“「二つの青木氏」の「補完関係」”が大きく働いたのである。
そして、「円融天皇」により「賜姓族」「臣下族」「朝臣族」と成った「藤原秀郷流青木氏(始祖 千国)」より「賜姓五役の補完」を受けた事から「二足の草鞋策」は、本格稼働して「氏の生き残り」は果たせる事の基が築かれた。

(注釈 多くの「偽称の氏」には、この上記の様な「氏の担保するべき連動性」、即ち、「伝統」が無く欠ける。判明は簡単である。)

(注釈 「嵯峨期の詔勅の禁令」で「二つの青木氏」だけが「氏名」を「村名」と出来る。
つまり、これは「春日真人族と志紀真人族」だけが「氏名」を「村名」と出来る由来であり、追尊の「春日宮天皇」の後裔とする事を根拠としている。
後は全て地名に由来するべしとする事を「嵯峨天皇」が「天智天皇の禁令」に対して更に追禁した事に由来する。)



> 「伝統シリーズ」-28に続く


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